▼おそ松さん第15話「チビ太の花のいのち」前提。▼一→→→カラ ▼カラ松への気持ちをこじらせながらもカラ松の幸せを願っている一松が、カラ松と花の精の挙式の話を聞き、うだうだと悩みながらも彼なりの行動を起こす話。 ▼ハッピーエンドでもバッドエンドでもありません。

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咲けども徒花

あぐらをかいて座ったカラ松はいつになく真剣な顔である。おそ松兄さんは競馬新聞を広げたままこちらを向いて座り直してカラ松に背を向け、トド松はスマホをいじる手を止めてカラ松を見上げ、チョロ松兄さんはいつも以上に眉を下げながらページの進んでいなかった求人誌から顔を上げて、床を転がっていた十四松はピタリと動くのをやめた。いつもはカラ松の話を右から左へと流すのに、今回そうならないのは、普段とは異なるカラ松の雰囲気を察しているからだ。

 部屋の隅で膝を抱えて座っていた俺は、腕に顎を埋めながら少し俯き、カラ松の顔から視線をそらす。嫌な予感しかしなかったからだ。恋人を作った兄、に惚れている一卵性の弟の俺は一連の出来事に既に満身創痍だった。

 静まり返った部屋に、カラ松の声が、硬く重たく落ちた。

 

「明日、フラワーと挙式をすることにしたんだ。みんな、時間があるなら来てほしい」

 

その言葉に息が止まった。

 

「結婚!? ちょちょちょ、ちょっと待って、展開速すぎない!?」

「フラワーがどうしてもウェディングドレスを着たいと言うのでな。……ああ、とりあえず式だけ挙げるんだ。花には戸籍がないからな。皆が俺たちのことを良い目で見ていないことは分かっている。だから式も無理には誘わない。祝儀も不要だ」

 

 トド松が大きな声で聞き返すが、それと対照的にカラ松は不思議なくらいに静かだ。派手好きで自分イベント大好きな男が、結婚式なんて盛大なステージだというのに、はしゃぎもせず、事務的な言葉を口にする。兄弟に参加しなくても良いと言うのもおかしい。花の精という恋人が出来たときに、 有頂天になって祝福してくれと言って回った奴と同一人物だとは思えない言動だ。

 俺は膝から顔をあげ、カラ松をそっと盗み見る。あ、と、喉から小さく声が落ちた。カラ松は無表情だった。いつもは表情のどこかに優しさを含んでいる男だから、静かで真面目な顔はとても際立つ。こういう顔のカラ松は一度決めるとテコでも動かないのを、俺は知っている。だからこそトド松やチョロ松兄さんは焦って言葉をまくしたてているのだし、おそ松兄さんは何も言わないのだ。

 息をはく。そして、声が震えないように気をつけながら、いつものように、言葉を吐き捨てる。

 

「止めなよ。ソイツにどれだけ言っても無駄だし」

「一松兄さん! でも!」

「クソ松がこうなったら俺たちが何言っても駄目だって、おまえが一番知ってるだろ」

 

 トド松はグッと押し黙った。ずっとカラ松の隣にいたのはこの末っ子で、だからカラ松の頑固さと情の深さを一番よく知っているのもコイツだ。しかしそんなトド松だからこそ、逆に絶対止めなければなるまいと必死なのだろう。カラ松の頑固さと情の深さがカラ松自身の身を滅ぼすところを、トド松は俺以上に見てきているはずだ。

 カラ松は、一言、すまない、と言った。何に対する謝罪かは分からなかったが、この場には相応しい言葉のように感じられた。

 カラ松は式の場所と時間とを伝えた後、部屋を出て行った。階段を降りる音が止まぬうちに、怒り顔でトド松が言葉をまくしたてた。

 

「いいの、一松兄さん。あんなの、義姉さんって呼ばなきゃいけなくなるんだよ!? ていうか、カラ松兄さん、ボロボロになっちゃうよ!? あんなの絶対不幸転落人生まっしぐらじゃん!」

「本人が決めたんだから、俺たちが口出しするようなことじゃないでしょ」

 

 トド松に言いながら、自分に言い聞かせる。トド松は俺を睨みつけ、どっちがドライモンスターだよ、とトド松は吐き捨てて部屋を出て行ってしまった。俺だって止めたかったよ、と内心で吐き捨てる。けど、でも、おまえと俺とでは止める理由があまりにも違いすぎるんだ、トド松。

 

「おそ松兄さん、どうするの。結婚式」

「行くわけねえだろ」

 

 チョロ松兄さんの戸惑い気味の問いかけに、おそ松兄さんは不機嫌に吐き捨て、パチンコに行ってくると言って部屋を出て行った。俺と十四松とチョロ松兄さんが部屋に残された。

 状況は絶望的だった。兄弟たちがこうでは、俺がカラ松のために動ける理由はなかった。俺は兄弟の多数決に従うスタンスを、カラ松のことに興味がないという態度を、つまらないプライドと臆病な性格のために崩せない。

 俺の中の全ての予想が狂った。カラ松が恋人を作るのは遠い未来のことだと思っていたし、相手は美人ではないかもしれないけれどカラ松のバカで優しいところを愛してくれる女だと信じて止まなかった。一人の相手を全力で愛する男だから、笑顔の絶えない普通の家庭を作るのだという確信すらあった。カラ松が円満な結婚をしたら、俺はカラ松に声の届かない場所で叶わなかった恋をひたすら嘆き、遠いところに行ってしまったカラ松へ呪詛を履き続けるのだと決めていたのだ。

 しかしカラ松が結婚を決めたのは、とんでもなく醜悪で、ワガママで、優しさのかけらもない女だった。俺がカラ松に望んでいた幸福な結婚が果たされる様子はなく、俺の数年分の呪いの言葉は行き先を失ったということになる。

 一人になりたくて、立ち上がる。猫に餌やってくる。俺は財布を引っ掴んでジャージのポケットに突っ込み、部屋を出る。階段を下り、居間を通ると、話し声が聞こえてくる。

 

「カラちゅん、ワガママ言ってごめんね」

「いいさ、愛しいおまえのためなら、俺は何だって出来るんだ」

「一人にしないでね、あたし、本当に死んじゃうんだから」

 

 アイスを買いに行かせたときと打って変わって、花の精の声色は甘えるような調子に変わっていた。カラ松は優しい声でそれに答える。まるで気弱になった病人と、それを労る看護士のようだ。俺が欲しくて、でも諦めたものがそこにあった。カラ松の優しさを一身に受け、すべてのワガママを許されたい、そんな願望の具現。

 フラワー、とカラ松は優しく言う。そろそろ式場を見に行こう、ドレスもサイズを合わせなければならない。花の精は途端にしゃがれた声を明るくした。そうね、あと、指輪も見に行かないと。

 俺はその会話に怒りさえ覚え、歯を軋ませ、拳を強く握りながら、マスクで口元を覆い、パーカーのフードを被って、便所下駄を蹴るように突っかけて家を出た。

  一人にしたら、死ぬから。花の精が呪いのように繰り返す言葉。それはカラ松が欲していた言葉で、俺がついぞ言わなかった言葉。素直で頭の悪い博愛主義者が、命をダシにすればずっとそばにいてくれるであろうと俺は知っていた。だからこそ言わなかったのだ。

 そうやって贅沢にも手段を選び、見守るという選択肢を選び続けてきた結果が、これだ。

 花の精に振り回されてカラ松は見るからに疲弊していたが、それでも満更でもなさそうだ。花の精の自らの命を盾にした脅し文句。カラ松の返答はシンプルだ。アイツは俺がいないと駄目だから。

 俺がもし、今、プライドも臆病さもかなぐり捨てて、一人にしたら死ぬと泣き喚いたら、カラ松は俺のそばにいてくれるのだろうか。勿論、そんな勇気はないのだけれど。

 

 

 

 路地裏の猫にエサをやった帰り、住宅街の路地で花の精に遭遇した。花の精は無愛想にこちらも睨みつけ、俺を無視し、脇を通りすぎようとする。俺たちが良く思っていないのを感じ取っているのか、花の精は最初にウチに来たときから、カラ松以外とは喋ろうとしなかった。俺たちが何かを話しかけようとしてもカラ松を盾にする。おそ松兄さんやトド松の花の精に対する心証の悪さも、この無愛想が発端だった。

 あの、と、俺の喉から言葉が飛び出たことは、俺自身驚いた。花の精が迷惑そうにこちらを振り向き、後悔に襲われながら、慌てて言葉を探す。ブスでも何でも女と真正面から話すのは苦手だ。

 

「その……結婚、オメデトウゴザイマス」

 

 口はなんとか形式的な言葉を探し当てた。花の精は迷惑そうな顔のまま、ありがとう、と言った。カラ松もそうだったが、こちらもやはり明日結婚式を挙げるとは思えぬ雰囲気だ。合意の上での結婚の割に喜びがあまりにも薄い。

 俺は改めて花の精を見る。俺が人生で見た中でも、ダントツでブスだった。正直なところ、平凡な顔立ちの俺の女装のほうがマシだとさえ思ったくらいである。顔立ちが女に見えない。余裕でパイズリができそうな胸と、体を覆う衣服とアクセサリーだけが、辛うじて女の証といった調子だ。

 おそ松兄さんが花の精の容姿に言及したとき、カラ松は「愛に容姿は関係ない」と言っていたから、花の精がブスであることは認識しているのだろう。それでも女に自分が選ばれ求められたということが、カラ松にとっては大きな出来事だったらしかった。

 

「式は来んの?」

「いや……明日は用事が……あって……」

「そうなの」

 

 何で来てくれないのと騒がれるかと思いきや、花の精が案外淡白な反応を返してきたので拍子抜けした。俺たちのことに興味がないのかもしれない。

 それじゃあ、と花の精が背を向けた。あの、と、俺は花の精を再び引き留めていた。

 

「さっきから何よ。あたし、忙しいんだけど」

「あの、その……クソま……カラ松と、本当に結婚するんですか?」

「するよ。さっき式場とドレス合わせてきたし」

「か、考え直した方がいいんじゃないですか」

「なに」

 

 ギロッ、と花の精が目を剥いたので、俺は腰が引けてしまった。おっさんのような顔立ちで睨みを利かせられると迫力がある。いつもの俺だったら、そのままスゴスゴと引き下がるところだっただろう。花の精がとびぬけた美人、それこそイヤ代やチビ美くらいのルックスであってくれれば良かったのだ。あるいは、顔が悪くても平凡に優しい人であってくれれば、俺は何も言わずに帰ったと思う、たぶん。俺が退かなかったのは、相手が、この花の精だったからだ。

 花の精は正直怖かった。俺よりも体格が良いし、俺なんか体当たりをされたら吹っ飛ばされそうだし、何より女という生き物とまともに喋るのが怖い。自分の言動が他人の、特に女の不快を買うのではないかとヒヤヒヤしながら生きてきた俺である。が、しかし今回は、怒りや憎しみや苛立ちや悲しみといったあらゆる感情の集合体が恐れという感情を上回った。

 

「あ、アレのどこがいいんですか。そりゃ、最近は簡単に離婚出来ますけど、もっといい相手がいると思いません? アイツ、大して顔が良くないくせにナルシストだし、ビビりだし、無職で金もないし、おまえには俺が必要だろうとか言ってくるし、足臭いし。アンタを大切にはしてくれるかもしれないけど、見てる方がイライラするくらいカラ回りますよ、アイツ。風邪引いた兄弟の看病のために登山するような奴ですよ」

 

 言い終わる頃には、喉がカラカラだった。 兄弟以外の相手にこんなに喋るのは久しぶりだった。

 花の精は無表情で俺の話を聞いていた。それが酷く怖かった。カラ松のことを悪く言われても眉すら動かず、どっしりと構えている姿は、まるで俺の焦りを見透かしているようだった。

 静まり返ったコンクリートの道に、夜の色が移りつつある。夕日の残り火に照らされながら立っていた花の精が、ゆっくりと口を開き、しゃがれた声で言う。アンタの言う通りよ、あたしだって、もっといい相手が良かった。そう言った花の精は不満げだった。

 

「カラ松は、言うことを聞いてくれるだけが取り柄の能無しバカ。でもね、しょうがないの。あたしに水をくれたのは、アイツだったんだから。あたしだって、水をくれる相手を選べるなら選びたかったっての。でも、選べなかったの。分かる?」

 

 確かに花の精の言う通りだった。水を与えたのはカラ松で、花の精はそれを受け取っただけだ。あくまでも選んだのはカラ松の側であって、花の精ではない。

 

「それにあたし、ブスだしね。カラ松程度がお似合いでしょう」

 

 頭に血がのぼり、唇が震えた。おまえが言ってのけた、その程度の男を、俺は十年も見続けてきたんだよ。口を開いたが、言葉は出なかった。俺の喉は肝心なところで言葉が詰まる。

 花の精は、薄暗くなった住宅街の道を淀みない足取りでのっしのっしと去っていく。俺は空を見上げ、滲む涙を袖で乱暴に拭った。もしもあの花の精が、一言でもカラ松を好いていると言ってくれていたなら、俺だって、今回の結婚を少しはポジティブに捉えることができたのに。仕方がないと言ってカラ松との恋を諦めた俺と、仕方がないと言ってカラ松と結婚を決めた花の精。俺が喉から手が出るほど欲しかった人を、花の精は欲しくもないのに連れて行く。

 選べなかったといえば、俺も同じだ。俺だって恋する相手を選べたなら、実の兄を好きになんてならなかった。

 やるせなさによろけながら家に帰ると、カラ松は不在だった。銭湯も、おでん屋も、五人で行った。おでん屋ではカラ松と花の精の悪口大会になり、俺はそれに耳を傾けながら日本酒を煽っていると、飲み過ぎるなよ、と隣のチョロ松兄さんに嗜められた。カラ松兄さんいないんだから、いつもみたいにおぶってもらえないぞ。

 

 

 酒のせいか、頭がおぼろなのに妙に目が冴えて眠れない。水を飲もうと階段を降りたタイミングで、玄関の硝子戸から漏れてくる街灯の光が影に遮られた。そちらに目を向ければ、見覚えのあるシルエットが、外から鍵をがちゃりと捻っていた。

 

「ああ、一松……起きていたのか」

 

 戸を静かに開けて入って来たカラ松は、暗くても分かるくらいに疲れを残した顔で笑った。戸に鍵をかけ、玄関に腰かけたカラ松の背中もひどく疲れていた。

 

「水飲みに起きただけだよ」

「そうか……って、おまえ、大丈夫か?」

 

 スニーカーを脱ぎ終えてこちらを向いたカラ松が、心配そうな顔をして立ちあがった。

 

「飲み過ぎたんだな。早く水を飲んだほうがいい。ほら」

「いいよ……一人で行ける」

「駄目だ。そう言って前に台所で寝ゲロしただろう」

「おまえ、明日、結婚式だろ。俺の世話焼いてる場合かよ」

「……。世話を焼いている場合だ。ほら、行くぞ」

 

 俺の言葉に虚をつかれた顔をしたカラ松だが、すぐに真顔に戻ると、俺の肩を左腕で抱いて台所に向かった。カラ松は父さんと母さんが普段使っている食卓の椅子に俺を座らせ、水を注いだコップを寄越す。俺は大人しくその水を受け取って、飲む。甘やかされている、と、思う。酔っているときの俺は、俺自身に、カラ松に素直に甘えることを許してしまう。

 カラ松は水場のそばに立ったまま、自分の分の水を一気に飲み干し、低い溜め息をつく。その横顔は疲弊している。しかし俺に振り返るときは、表情を柔らかくする。具合はどうだ。優しく聞いてくるカラ松に、俺は別にと無愛想に答える。

 冷蔵庫の音が、ブーーーーーン、と夜の台所の静寂を震わせる。カラ松は腰元で水場に寄りかかり、ぼんやりとしている。俺を待っているのだ。会話は始まらない。元々兄弟の中でも口数が少ないカラ松だが、俺には特に話しかけない。俺がカラ松を拒絶するからだ。俺とカラ松が二人きりになることは殊更少ないのは、カラ松が俺と二人きりにならないように気を遣っているからだろう。

 

「式場の手配、済んだの」

 

 俺に声をかけられると思わなかったらしいカラ松は驚いた顔をして、それからやわと笑った。

 

「ああ。今日の明日だから、かなり無理を言ってしまったが、なんとかしてくれるそうだ。ドレスも間に合わせてもらえるみたいでな」

「ふーん……」

「神前は嫌だという話だったから、教会での挙式なんだ。日当たりが良くて、街の喧騒に邪魔されることのない、愛を誓うベストプレイスだ。フラワーも気にいったらしい。俺は黒いタキシードで、フラワーは真っ白なウェディングドレスだ。披露宴が出来ないのは残念だが、二人きりの結婚式というのもなかなかロマンチックなものだろう?」

 

 得意気に笑ってカラ松は今日決めた事柄を話す。自分が選んだ黒いタキシード、花の精のウェディングドレス、教会の大きさ、まだ用意できてはいないが予約した婚約指輪。その話の合間にカラ松は影のある笑いを浮かべながら言葉を挟む、俺は幸せ者だ、と。まるでしあわせの綻びを繕うように。

 幸せな家庭を築くんだ、愛ある生活を、とカラ松は薄く笑う。言葉を尽くせば尽くすほどに痛ましくなっていくのが苦しくて、俺は歯を軋ませた。幸せになったカラ松を遠くから恨み続ける俺の計画が全部パァだ。コイツが幸せにならなきゃ、俺は恨むに恨めない。

 

「結婚、やめなよ」

 

 カラ松は水場を前にしたまま動かなかった。

 やめちまえよ、結婚なんか。

 俺は繰り返す。酔っている。本当はこんなことは言いたくなかった。嘘だ。本当にこう言いたかった。酔っている俺は、カラ松に甘える。

 何故、そんなことを言うんだ。やっと口を開いたカラ松は、笑いそこねたような顔で俺を見る。

 

「好きじゃないんでしょ、アイツのこと」

「何を言っているんだ」

「分かるよ」

「俺はフラワーを愛している」

「でも、結婚はしたくないでしょ」

「一松、それ以上は、ノンだ」

 

 カラ松が低い声で言う。ぱた、と水滴がステンレスの水場に落ちる音がした。

 

「俺は責任を取らなければならない。愛する者を欲し、あの花に水を注いだのは俺だ。あの子には、俺しか寄る辺がないんだ。そして、俺には、あの子しか寄る辺がない。二人は結ばれる運命にあるんだ」

「その運命、嫌なんでしょ」

「嫌でも、運命は、運命だ」

 

 ぱた、ぱたた、と、水滴がまばらに落ちる音が、また、した。絶えず冷蔵庫の音が震えている。

 俺は口を開いた。俺じゃあダメなの。あんなのよりも絶対に俺のほうがおまえのこと好きだから。おまえがいなきゃ、俺、死んじゃうよ。そう言おうとして、しかし、言葉は声になることなく、カラ松のほうが先に口を開いた。

 

「一松、そろそろ眠ろう」

「……俺、まだここにいる」

「そうか。俺は先に行く」

 

 カラ松が目元を隠したまま、よろよろと台所を出て行く。俺はその後ろ姿を見送ったあと、椅子の上で膝を抱え、少し、泣いた。

 

 

*

 

 近所の住宅街に、巨大化したラフレシアが現れた。人々に危害を加え始めたラフレシアは、国家権力の要請で出動した自衛隊によって倒された。カラ松の結婚式に参加しなかった俺たちは、好奇心でその跡を見に行った。辺りは悪臭がし、蝿が群れになって舞い飛び、辺りは真っ黒になっていた。ラフレシアの禍々しい肉厚の花弁が欠片となってに四散していた。野次馬も、その中の俺たちも、その不快な空間に耐えきれずに逃げ出した。

 カラ松は青いパーカー姿で一人で家に帰ってきた。フラワーは消えたよ。淡々とした呟きだった。誰もカラ松を茶化したりしなかった。頬に泣いた形跡があったからだ。

 その日からカラ松はすっかり元のテンションに戻り、花の精の話題も日常の喧騒のなかにかき消されて、六人の退屈な日常は戻ってきた。変わったこともある。カラ松の鏡を見る頻度は減ったままだった。

 猫の餌やりから帰ると、家の中が静かだった。靴の数が少ない。居間には誰もいなかったので、部屋への階段をあがり、襖に手をかける。そのとき、襖の向こうから、激しい咳が聞こえてきた。そっと襖を数センチ開き、部屋を覗くと、青いパーカーの丸まった背中が窓の前にある。その肩越しに細い煙が空へ向かっていくのが見える。

 わざと音をたてて襖を開くと、カラ松はあからさまにビクッと肩をすくませ、こちらを振り返った。サングラスをかけているせいで目元は見えないが、鼻が赤くなっている。

 襖を閉め、戸惑うカラ松の隣に並び、一本くれと煙草をねだる。カラ松は驚いたが、すぐに懐から煙草の箱を出し、その隅を窓枠で軽く叩いて、飛び出た一本をそのまま俺に差し出した。俺がそれを咥えると、カラ松は髑髏の彫刻が入ったジッポで火をつけてくれる。久しぶりの煙草の煙を思いっきり肺へ吸い込み、すぐに咳き込んだ。大丈夫かとカラ松が慌てて俺の背中をさする。

 

「にっげェしマッズい」

「なぜ吸ったんだ……」

「付き合い」

 

 カラ松は黙りこんだ。灰皿にはカラ松の吸いさしの煙草が寂しく煙を漂わせている。カラ松も煙草を持ち歩いてはいるが、ほとんど吸わないし、吸っても大体フカすだけだ。

 

「どこまでやったの、結婚式」

 

 聞いてから、マズい煙草を吸う。体に有害でくっそマズいが、それでもその苦味が、僅かな沈黙への焦りと緊張をごまかしてくれる。カラ松は蚊の鳴くような声で、愛を誓えと言われたんだ、と言った。

 

「俺は、愛を誓おうとして、でも、口が動かなくて」

「うん」

「そのうちに、フラワーは消えてしまったんだ」

 

 俺は驚いた。

 カラ松が、花の精を、拒否した。自分に依ってくれる相手をあんなにも欲していた男が、最後の最後で、その相手を拒んだのだ。

 

「アイツは、愛されなければ消えないって、あんなに必死に言っていたのに。そして、実際に、消えてしまっ、……」

 

 カラ松の声に涙の気配がまじり、言葉の最後のほうは形になっていなかった。普段から愛さえあればそれで良しと自信満々に語っていただけに、自分がとってしまった選択肢にショックだったのだろう。

 

「しょうがないでしょ、愛せなかったんだから」

「……約束したんだ……愛し続けるって」

「愛は約束事じゃないよ」

「約束だろう」

「違うよ。おまえの感じてるそれは、義務感。愛じゃないよ」

 

 カラ松は窓枠に肘をつき、 ずっ、と鼻を啜った。サングラスから透明な滴がしたたった。カラ松はサングラスを外し、パーカーの袖で顔を覆う。俺は迷った末に、カラ松の頭を撫でた。俺はこういうときに言う上手い慰め方を知らない。多分、そういう言葉を兄弟たちの誰も知らないから、カラ松を放っておいたのだろう。カラ松はパーカーに顔を埋め、声を殺しながら、泣く。

 

「もう花に水やって彼女作ろうとか、バカなことすんなよ」

「う"ん"」

「もっとイイ女選べ」

「う"ん"」

「嫌だと思ったら断れよ」

「う"ん"」

 

 カラ松は鼻声で素直に頷く。鼻水が垂れていたので、部屋の隅にあったティッシュ箱を取って来て渡してやる。鼻をかみ、カラ松は泣き出した。うぇっ、えっ、と声を出して。カラ松が俺の前でこんな風に泣くのは、たぶん、数年ぶりだ。

 その肩を抱こうとして、やめた。喜びと下心にまみれた手で触るのは躊躇われた。俺は美味くもない煙草を吸う。

 夕焼けの中を烏が飛び始めた頃、やっとカラ松は泣き止んだ。一松、ありがとう。かすれた声で言われたのを、顔洗って来なよとつっけんどんに返す。カラ松は、あのな、と腫らした目を細くして笑う。

 

「俺、おまえに結婚をやめろと言われたときは、本当に嬉しかったんだぜ。おまえが俺のことを案じてくれていると分かったからな」

 

 勿論、おまえが俺のことを常に見ていてくれているとは信じていたがな、とカラ松は慌ててつけ加える。嬉しかっただの、信じていただのという言葉に、俺は嬉しさと後ろめたさを感じて、どう返事をしていいのか分からず、カラ松の足を軽く蹴飛ばした。とっとと顔洗ってこい。蹴られてなおカラ松は嬉しそうに笑い、軽い足取りで部屋を出て行った。

 夕焼けを眺めながら、俺はあの醜悪な花のことを考えた。馬鹿みたいに優しい男にすら愛されなかったラフレシア。俺があえて選ばなかった手段の具現化。ラフレシアが結局カラ松に愛されなかったことを、俺は嬉しく、そして悲しく思った。

 

 

 

 

 

 

 

 


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