とある些細な出来事を発端にした恋物語の一頁。天界に暮らす少女達の、呑気な春の日に起きた一コマ。
※稚拙な文章では御座いますが、どうか生暖かい目で見守って下さい。
「総領娘様! 」
雷のような娘の怒号が、麗らかな春の陽気に木霊した。
春だ。図々しいくらいの春だ。仙桃の甘い芳香が一面に香り、まだ三割程蕾を残した桜の枝ぶりがそこかしこに寄り集まっている。白粉を被り、吹き荒ぶ粉雪に身を縮めていた山々も、今では鮮やかな桜色が傾斜を飾っていた。沈丁花は淡い朱と純白を纏い、見渡す限りではまるで極楽のような様相を呈している。
天界。この極楽に付けられた唯一の名だ。地上の巨大な要石を丸ごと繰り抜いて作られた楽園は、穢れ多き地上の民の中でも無念無想の境地へ達した強者でなければ立ち入ることすら許されない。言わば東方のエデンだ。浮世では想像も着かぬような享楽の境地。そこでは、欲無き天人とその使い共が悠々自適に暮らしている。
暮らしている……筈であった。
桜花散る木々の合間を縫い、色彩を飽和させた花畑を抜け、起伏のなだらかな山脈を抜けると、山岳に隔離された一等地が見える。そこには、新緑で囲まれた大きな屋敷が聳え立っていた。
大きさにしておよそ一町四方。中華の面影を残した豪奢な館は、京の平城宮を想起させられる。溜池にせせらぐ小川の中には小魚が光り、庭園の中でも一層目を惹く桜の大樹は、樹齢二千年をゆうに上回る立派な枝垂れ桜であった。
比那名居一族。この中華風大屋敷の家主であり、天界に棲む天人でもある一家だ。
大昔、もう何千年も前の事になる。名居という天人の一族に仕えた比那名居一族は、その功労を認められ天人として召し上げられる事になったのだそうだ。そうして天人となった比那名居の家系は、「欲を捨てなかった天人」として天界で生きていく事になる。人間にとっての天界とはまさしく桃源郷そのものであり、ユートピアでのんべんだらりと快楽を享受して過ごす毎日は、人間にとって如何程のものであるだろうか。
それはそれとして、だ。そんな比那名居一家に、とある女の子がいるのだそうだ。名前は「天子」。元々は別の名であったようだが、天界へ昇る際に改名したらしい。天子の父親……即ち比那名居家当主にとっては大切な一人娘であり、比那名居の名を受け継ぐ後継者でもある。箱入り娘、とでも言おうか。それはそれは可愛がられ、家宝であるかの如く育てられてきた。
……が、彼女はどうやら箱に収まる程の性分ではなかったらしい。幼い頃から無茶ばかりし、使用人やら両親やらの頭痛の種となっていた。
まず彼女は、幼い頃溜池に落ちる事が趣味であった。事ある毎に溜池に落っこちては高価な着物を駄目にし、艶のある蒼穹の長髪を汚してきた。ある日、夏先かそこらにふらっと溜池へ嵌ったかと思うと、天界だけに生息している鮮やかな虹色をした蛙を二三十匹、袂に入れて持って帰って来た事もあったのだそうだ。これには世話係の竜宮の使いもほとほと参ったようで、その日ばかりは一晩中世話係の説教が響いていた。
彼女がある程度成長し、顔立ちも大人の色香が混じるような風貌になった頃。今度は自らの能力を試してみたいと、屋敷の中に大穴を空けたのだ。直径十尺もあろうかと言う大穴。基礎の造りはおろか、ぽっかりと開いた損失の中には地中の様子さえ露出していたのである。しかしそれも、彼女が持ち得る「大地を操る程度の能力」さえあれば容易に成し得てしまう。何、板張りの床を下の地面ごと陥没させれば良いのだ。彼女にとっては赤子の手を捻るより簡単であろう。……しかしそれで、彼女がまたもや大目玉を食らったのは言うまでもあるまい。それが丁度、一週間ばかり前の事であっただろうか。
そして現在はと言えば……。
「全く! 一週間前に言ったばかりじゃありませんか! 」
「いやー……ついうっかり? 」
「屋敷の襖を吹き飛ばすような事は世間一般ではうっかりとは言いません」
八畳程の小部屋。閉め切られた障子から仄かに差し込む陽光は既に茜色を帯び、小ぢんまりと纏められた畳敷きの床には、これまた小ぢんまりと纏められた青い長髪が、顔の立たないといった体で行儀よく縮まっていた。
一方、その縮こまった長髪とは対照的なまでに胸を張り、仁王の如く対峙するは、質の良い青紫の髪を肩上で切り、特徴的な緋色のフリルを惜しみなくあしらった衣を纏う女性。
前者、非想非非想天の娘。比那名居 天子。
後者、美しき緋の衣。永江 衣玖。
前者、全身に冷や汗を浮かべながら縋るような眼差しで従者を見やり、後者、自分の世話する主を冷淡な眼差しで見下す。一見すると、主従関係がひっくり返ったかのような光景。ついに天界でもメーデーが実施されたかと錯覚するような風景は、実は本人達が腹の底で一番理解しているのだ。
突如、天子は上目遣いで衣玖と目を合わせると、少しはにかむような面持ちでちょろっと舌先を出す。無論、眉を八の字に歪める事も忘れずに。するとどうだろう、今の今まで鋼鉄のような仮面を被っていた衣玖が額を押さえて嘆息したかと思うと、照れくさそうな笑みを続ける天子にこう言い放ったのだ。
「……今回だけですからね」
この言葉を聴くが否や天子は
「ありがと衣玖! 」
と言って早々に飛び出してしまうのである。
通称、お説教の間。またの名を衣玖の自室。八畳一間で繰り広げられる問答劇は、最初こそ衣玖が怒鳴り散らすものの、結局このように天子が煙に巻いて終わってしまう。一度とて衣玖が天子を言い負かした事などありはしない。詰まる所、彼女は天子に弄ばれているも同然なのだ。己が総領娘様を甘やかすばかりに、天子は即けあがって悪行を繰り返してしまう、と彼女は憂慮していた。現に今回だけとは言ったが、同じような遣り取りをもう数百年は繰り返しているのだ。流石の衣玖ももう我慢の限界である。
彼女は自室の古ぼけた畳の上に倒れ伏すと、障子越しに眺める夕焼けをふてぶてしく睨んだ。橙の陽溜りが端正な顔立ちへ落ちる。突飛に差し込んだ日光に目を細めると、彼女は吐息とも付かない様な淡い声を漏らした。
「何とかしないとなあ……」
彼女が吐いた呟きは、もう月の出掛かっている紫色の空に溶けていったのだった。
「あ」
彼女がそんな間の抜けた呟きを漏らした時、既にそれはどうしようもないくらいの割れ物として冷たい床に散らばっていたのである。
事の発端は、天子が屋敷内を宛もなく彷徨っていたところまで遡る。昨日、能力の研究と称して屋敷の壁を跡形も無く粉砕し、衣玖に説教された後の話だ。天人とは時に……いや常々、暇を持て余す事がある。理屈は簡素なもので、単に出来うる限りの遊戯を全てやり尽くしたというだけの事なのだ。欲を捨てなかった人間が天界に来たとしても、最終的には仙桃を食べて寝るだけの代わり映えしない毎日が続く。丁度今朝方も何時もの時刻に起床し、何時もの時刻に桃一色の朝食を食べ終え、何時もの時刻に午睡を取り、そして何時もの時刻に起床したのだ。何という事は無い。ただ、その起きた時刻というのが、丁度夕餉の時刻まで半時ばかり暇があったというだけの話である。
さて、それまでは何をしようか。天界の花畑の真ん中で寝直してみようか。はたまた地上に下って、私と同じく暇を持て余していそうな巫女をからかってやろうか、等と思案を重ねる内に、彼女はふと妙案を思いついたのだ。本当の幸運とは、意外と身近な所にありふれているものである。
であるからして、彼女は先ず自分の住んでいるこの館を探索する事にしたのだ。何せ一町四方の敷地面積を誇る屋敷である。館内を這うように通されている回廊に沿って歩けば、ゆっくりと一周するだけでも相当の時間を潰せるであろうと彼女は考えた。事実、彼女の推理は今までになく的中する事になるのである。
回廊を半分程周り、衣玖の自室……ここの所ほぼ毎日連れてこられているお説教部屋の扉へと差し掛かった時だ。扉の前に置かれた木製の台座を眺めやった天子の目には、一つの花瓶の姿が映ったのだ。大きさにしておよそ一尺。無垢な白地に咲いた螺鈿細工の花は絢爛な雰囲気を醸し出し、所々に舞う蝶は皆華々しい色彩を放っている。見慣れない花瓶の花園は、手持ち無沙汰の彼女に丁度いいサイズであったのだろう。
「何かしら、これ」
螺鈿の花は、蝶ばかりではなく未だ幼い天人の興味をも惹き付けたのであった。
「あ」
それは全く以って、彼女の過失による事故に他ならなかった。あるいは、天子の甘過ぎた見当も要因の一つであろう。彼女の思考の網を潜り抜けた花瓶のずっしりとした重さは重力に引き込まれる。見た目とは裏腹に天子のか細い腕に予想以上の負荷をかけた花瓶は彼女の支えを得る事もなく、無慈悲にリノリウムの床へと吸い込まれていった。花園が散り、蝶は引き裂かれる。彼女はその凄惨たる光景を、ただただ呆気に取られて眺める事しか出来なかったのである。
天子が割った花瓶が衣玖の物だと分かったのは、丁度その日の夕餉の時であった。何でもあの花瓶は、衣玖が毎月支払われる給料を溜めに溜めてついに先日購入したものであったらしく、一年程前から目を付けていた骨董品であると、給仕の天女が神妙な面持ちで天子に囁いていたのだ。何でもこの天女、同僚である衣玖が酷く落胆している様子を見て些か居た堪れなくなり、とうとう衣玖に話しかけたのだという。何故にそのように落ち込むのか、貴女をそこまで絶望させたものは一体何者か、と。そうした所、今にも涙が溢れそうになっている目元を必死に拭いながら、割れた骨董品の花瓶を指示された、との事である。成る程そいつは許せない。一体誰がそのような所業をしたのか、と天子が憤慨していた所、つい先程割った螺鈿細工の花瓶の事を思い出し、危うく仙桃の切り身を喉に詰まらせかけたという。
確かに彼女は花瓶を手違いで割ってしまった後、周囲に人がいない事を確認して早々に退散したのは事実である。それは何より叱咤される事への倦怠感と、彼女の中に芽生えた少量の悪心による化学反応の結果生じた行為であった。人目がないのなら謝罪する責務もないし、第一誰が花瓶を割ったかなんて皆目見当も付かないであろう。そんな言葉を盾に取った、自己を騙して己の快楽を求めた末の犯罪であった。実際、この事件は天子本人が自首をしなければ迷宮入りしていた事であろう。度重なる悪行と悪戯、そして我が侭の影響で疑惑を掛けられようとも、その懐疑に証拠が混じる事は決してあり得ないのだ。
しかし、彼女は苦悶した。天人という気質。そして元来持っていた悪戯心の中に仕舞いこんだ優しさ。彼女は、償いと埋め合わせを求めた。例え己を犠牲にしようとも彼女は秘匿する事を嫌悪し、そして苦痛を欲するのである。それは決して、自己犠牲に酔いしれる偽善ではなく、自らの苦痛を悦楽とするマゾヒズムでもなく、ただただ純粋な謝罪の心持が胸中を埋め尽くすのみであった。だがそれは……そう、衣玖だからこそであろう。彼女が一番に負担を掛けたい相手とは、それはどうしようもなく衣玖であったのだ。天子は彼女の顔を眺める度、その形の良い唇と水晶のような美しい瞳を眺める度、天子は突発的な加虐欲に駆られた。やはり己では抑える術もなく、ただただ本能的に彼女へ手を伸ばしたいという欲求のみが膨張し、天子の小さな胸中で破裂音を響かせるのだ。
その一方で、天子の心の根底には衣玖を傷つけたくないと、欲望を抑えるのに奔走している彼女も存在していた。衣玖が頭痛に悩まされる度に天子の心臓は窮屈になり、衣玖が頭を下げる度に耐え難い心労に襲われる……確かに、天子の心にはそう言った二面性が芽生え始めているのであった。故に天子の二面性は、彼女にこう囁くのだ。加虐に喜悦を見出す歪な感情は、即刻排除してしまうのが道理であると。全てを衣玖に打ち明け、許しを乞うのが今の自分にとって最も最良の行為であると。悶々と繰り返す葛藤の中、天子は良心と加虐心の板挟みに悶絶したのである。
そして……。
「……謝らなきゃ」
仙桃を噛み切った天子は、静かに食卓の席を離れたのであった。
悲しみに打ちひしがれる衣玖は、不可逆の破片を抱きながら自室の古臭い畳をなぞっていた。あの時……彼女は天子の父親に用があり、少し花瓶から目を離していたのだ。今思案すると、やはり常時見張っている方が賢明であったかもしれない。私が目を離してさえいなければ……私が花瓶にもっと気を配っていれば……あの花瓶を外に出さなければ……様々な思考が衣玖の中で展開され、圧縮される。が、それも全て無意味な思案だと悟るのに、彼女に長い時間は必要なかった。彼女を後悔の二文字が支配する。先に立たない螺鈿の欠片は、強く抱きしめた彼女の腕の中で小さな鳴き声を漏らした。
「……衣玖? 」
障子の向こうで声がする。澄み切ったカナリアのような女声は、隔てられた空間上で細かく震えていた。
「総領娘……様? 」
そう、衣玖が紛う筈もなし。毎日毎日、飽きる程聞かされている、天子の声であった。人の神経を逆撫でするような、生意気でいて、やはり少女の面影を孕んだ震え声。普段ならば頭痛の種に変化しかねないそれも、今の衣玖にとっては唯一無二の救済であった。救済のカナリアは僅かにトーンを高め、仕切りの奥から投げかける。
「入っても……いいかな? 」
遠慮がちな、消え入りそうな声であった。いつもの威勢はどこへやら、と緩む口元を他所に、衣玖は問いへの返事を投げ返すのであった。
「ええ、お構いなく」
紙の結界を引き、他所他所しく入室してきたのは、やはり紛れもなく天子であった。彼女のシンボルとも言える特徴的なハットこそ被っていないものの、何千年も連れ立っている仲である。この顔が天子であるという事は息をするよりも楽に判別できる。……が、その面持ちはお世辞にも明るいとは言えないものであった。有体に言えば、深刻。八の字に窄められた眉は眉間へと影を落とし、伏せられた目の先にある唇は真一文字に結ばれている。その表情が、束の間の安寧を享受した衣玖に不安として累積するのである。
「……どうかされましたか? 」
訝しむかの如く、衣玖が問いを投げる。しかし返ってくるのは、ただただ不気味な静寂のみである。刹那の静黙の後、僅かに天子の食い縛る奥歯が音を立てた。沈殿した部屋の熱気。淡く滲む灯台の焔は対となる二人の影を襖に投げ、奇妙とも言える揺らめきが衣玖の心を支配していた。そして数拍送れてやって来たのは、彼女にとって痛烈過ぎる程の告白であった。
「……ごめんなさい」
「え? 」
「私……貴女のその花瓶……割ってしまった……」
思考が白で塗り潰されるような錯覚を、衣玖は覚えた。よもや彼女だけは……そう考えて、自分を必死に保とうとしてきたのだ。天子はそのような事はしないだろう。根拠もない。証明も不可能。無言の信頼関係で成り立っている……そう妄信していたのだ。だが、その余りにも脆い楼閣はたった今崩壊を告げる事となる。一つの花瓶で、彼女は『裏切り』とは何たるやを悟ったのだ。
「いや、私もあの花瓶が貴女の物だったなんて分からなかったし、そんなに大切な物だなんて気が付かなかったから……その……」
だから今は、天子の言い訳がましい理由も聞きたくはなかった。
「そうやってまた、『うっかり』で済ますのですか? 」
天子の瞼が、玉の如く見開かれた。
きっと衣玖なら、いつものように叱ってくれると思っていた。きっと衣玖なら、いつものように溜め息を吐いて許してくれると思っていた。……それも結局、私の独りよがりに過ぎなかったのだ。だってその証拠に、ほら。
「貴女だけは……私を悲しませるような事だけはしないと……信じていたのに……」
ああ、違う。違うの。私は、ただ私は、あの綺麗な花瓶に興味があって、それで、誤って割ってしまっただけなの。そう、私は悪くない。だから衣玖……。
信じてよ。
「違うっ! 」
気が付くと私は、今にも泣きそうな衣玖の身体を、荒んだ畳の上へと押し付けていたのである。
「総領娘……様? 」
戌の刻。仄かに揺れる灯台の灯火は、折り重なった二人の影を月光の下へと写し出し、柔らかな春の息吹は、僅かに開いた障子のスキマから両人の前髪を揺らした。上気した拍動が伝わりあう。ややともすれば官能的にまで見え得るこの光景に、天子は奇妙な高揚を覚えていた。
「なっ、総領娘様、離して下さ……」
「私はっ! 」
悲痛なまでの絶叫が、夜風の冷たい軌道に騎乗する。涙を浮かべ、救いを乞うかの如く見上げる衣玖に、天子はせり上がるこの想いが何たるやを悟った。
ああ、そうだ。前々からずっと不可解に思っていた。衣玖の美麗な横顔を眺める度に、幾度と無く襲われたこの感情。サディスティックな悪戯心と言い知れぬ甘味。この二つの名前を、私はもう知っている筈なんだ。これは……
愛。
「私は……衣玖の事が大好きで……だけどどうしようも無かった! この思いに素直になる事が出来なかった! だから……衣玖に迷惑かけるような事ばかりして……だけど! 私は衣玖を悲しませるような事は絶対にしない! それだけは……お願い……信じて……」
驚愕に染まる衣玖の瞳を見詰める天子の顔は、とうに涙で濡れていた。
この人は、私の為に泣いているのだ。
普段から頭痛の種にばかりなってきた総領娘様。だから今回の事も、総領娘様がやったとばかり思い込んでいた。いや、決め付けていたのだろうか。だが実際はどうだろう。この人は、私の事を大好きだと言ってくれた。私の為に泣いてくれた。確証なんてどこにもない。証拠なんてどこにもない。
ただ、私の為に泣いてくれているのだ。折角の愛らしいお顔をぐしゃぐしゃにして泣いてくれているのだ。
信用するには、十分過ぎる理由ではないか。
「……ます」
「え? 」
「貴女の……総領娘様の言う事を信じます」
「……え? 」
「もう、何呆けたような顔してるんですか。早く起こして下さいよ」
「え、でも……どうして……」
「貴女が私の事が好きで、私も貴女の事を愛している。それ以外に理由なんて要るのですか? 」
「あ……ぁ……」
溢れ出す恋情が、雫となって天子の頬を伝う。それは限りなく暖かい、恵みを孕んだ涙であった。そんな時雨を受けて尚、衣玖は慈愛の笑みを湛え、そっと天子を見守ってているのだ。
「いぃくぅぅぅぅぅぅ!! 」
「はいはい、総領娘様は甘えん坊ですね」
泣き顔のまま抱きつく天子に、それを柔らかく受け止める衣玖。柔和な月に照らされた二人の少女の時間は、途切れる事などなかった。
「ねえ衣玖」
天子が衣玖へ思いを告げた、翌日の事である。穏やかな陽光に照らされた枝垂桜は既に鮮やかな桃色を色付かせ、極上の彩色と共に自らの袂でまどろむ少女を見守っていた。何という事はない。ただ衣玖が天子を花見へ誘っただけの事である。その吉報を聞き入れた天子は張り切って弁当を作り、そして見事なまでの練炭を作成していた。今彼女らが広げている弁当は、全て衣玖がこしらえたものである。
「何ですか、総領娘様」
「その総領娘様って言い方やめてよ。天子でいいから。あと敬語も禁止」
「じ……じゃあ……天子……様」
指摘しても未だに語尾が直らない衣玖に、天子は思わず噴き出した。顔を真っ赤にして弁解と反論を呈する衣玖を他所に、天子は話を続ける。
「衣玖はさ、どうしてあの花瓶を大事そうに持っていた訳? 」
「そ、それは……教えられません! 」
その言葉に、天子の中に潜む純然たる加虐心が疼いた。彼女はまるで新しい玩具を見つけた幼児の如く口元を歪ませると、瞬間的に衣玖の懐へと潜り込む。
「ふーん。ならば……そらっ! 」
「きゃあっ!? 」
頑として口を開こうとしない衣玖に、天子は追い討ちをかけた。衣玖の脇にそっと手を回し、力の限りを尽くしてくすぐる。衣玖は素っ頓狂な声を挙げて地に倒れると、元々赤みがかっていた頬をさらに紅潮させて続けた。
「わ、分かりました! 教えますってば! 」
「ほらほらー。早くお姉さんに教えなさーい? 」
息を荒くし、またもや天子に押し倒される恰好となった衣玖。乱れた服装を直す気力もとうに潰え、為されるがままの状態で言葉を紡ぐ。
「天子様、明日誕生日でしたよね? そ、それで……私からも何かプレゼント出来ないかと思いまして……ですね……」
「あ」
天子はすっかり忘れてしまっていた。既に彼女という存在が生れ落ちて何千年もの年月が過ぎた。誕生日という存在の意義は月日を重ねる毎に徐々に薄れ、今では彼女は勿論の事、彼女の両親さえも忘れ去ってしまっていた。それを衣玖は覚えていてくれている。天子は、至上の幸福が胸中にせり上がるのを堪え、噛み締めていた。
「衣玖」
「はい? 」
「ぎゅー! 」
「天子!? 」
堪らず衣玖の豊満な胸元に縋り付いた天子。子供のように無邪気に甘えるその仕草は、さながら見た目相応の少女のようであった。
「あ、やっと敬語解けた」
「あ、いえ、えっと……」
天子は困惑する衣玖の耳に口元を近づけ、吐息に衣玖への想いを乗せる。酷く簡潔で、それでいて複雑な天子の心境。今こうして衣玖と何気ない日常を過ごせる事が、彼女は果てしなく嬉しいのだ。幸せなのだ。
ありがとう?
いや、もっと別の言葉だ。私の中を衣玖に全て伝えるには、まだ何かが決定的に足りない。そう……そうだ。
「衣玖」
ああそうだ、この言葉にしよう。私の、決して多くはない語彙の中から厳選した、とっておきの言葉だ。極上のラブを心して受け取るが良い。
「愛してるよ」
とある少女達が織り成す、騒がしいくらいにのどかな春の日の出来事であった。
如何でしたでしょうか? 誤字報告、指摘、感想等頂ければ作者が泣いて喜びます。次回は芳香×青娥でも書こうかと思案しております。