千雨からロマンス   作:IronWorks

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第1話

――0――

 

 

 

 瞼の裏に、光が差し込む。

 やたらと眩しいそれが気にかかり、私は右手で光を遮った。

 

「眩しい」

 

 思わず口から零れたのは、そんな感情をありのままに吐露した、情けない声だった。

 いつもこんなに眩しかっただろうか。いや、いつもはもっと、爽やかな目覚めだ。

 

「なんだよ、ったく」

 

 今日に限って太陽が昇るが早い。

 そんなこと、ある訳がないと解っているから、だるい身体を起こして大きく背を伸ばす。

 

「く、ぁ」

 

 背筋の伸びる心地よい音。

 この一日の始まりを覚えさせる音に、感慨を覚えたりはしない。

 そんな暇があるのなら、一人でも多くの人を、疲労から解放させる。

 

 その方が、私にとってはずっと有意義だ。

 

「はぁ」

 

 息を吐いて、時計を見る。

 無骨なデジタル時計に表示された時間は、午前八時だった。

 まだ朝のニュースを見て、マッサージの指南書を読む時間はあるだろう。

 なにせ、目覚まし時計が鳴っていないのだから、まだ八時前……。

 

「……って、八時?」

 

 勢いよく、時計を手に取る。

 その時丁度私の指が机の端にぶつかって、鈍い音を立てた。

 

「うぬぐっ」

 

 痛む指を押さえながら、まじまじと時計を見る。

 離れても近づいても、裏返しても逆さまにしても、どう見ても八時だった。

 

「ね、寝坊した」

 

 寝坊なんて、冗談じゃない。

 早朝に出発するから、通勤ラッシュの背中に興奮せずにすむのだ。

 それなのにこんな時間に出発したら、自分を抑えられる自信がなかった。

 いや、抑えられるけど、すっごくストレスがたまる。尋常じゃなく。

 

「ちっ、急いで仕度しねーとっ」

 

 思わず悪態をつくのも、仕方がないことだ。

 こうなったら、今日も綾瀬の背中を借りるしかないだろう。

 

 小柄な身体で図書館探検部として頑張っている、私の隣の席の少女――綾瀬夕映。

 難解な哲学書を読んでいるためか、運動のせいだけでなく眼の疲れなども併発している上玉だ。私のクラスにはそんな人間が他にも居るが、彼女が一番質が良い。

 

「ふ、ふふ、待っていろよ、綾瀬」

 

 だから、私の顔に笑みが浮かんでしまうのも――きっと仕方のないことなのだ。

 

 私は綾瀬の背中で踊るツボーズ達を幻視しながら、一生懸命通勤ラッシュに巻き込まれるということに対する現実逃避を始めた。

 

 いいじゃないか。

 目ぐらい、背けさせてくれたって。

 

 

 

 

 

 厄日として始まった。

 そう感じたこの日が――私の“人生”に於ける、大きな分岐点だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千雨からロマンス 第一話 ~子供先生の背中からロマンス~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1――

 

 

 

『ここ、ここが凝ってるよ』

『それよりもこっち』

『こっちも相当やばいよ』

 

 眼鏡を押し上げて、目を擦る。

 ぐいぐいと擦って、目を凝らす。

 擦りすぎて、少しだけ目が痛かった。

 

 私の腰くらいの身長。

 いや、実際はもっと高いのかも知れないが、正直解らない。

 

 理由は簡単だ。

 単純で明快だ。

 

「嘘だろ、おい」

 

 大量のツボーズで、全容が見えないというだけの話しなのだから。

 

「おい、ちょっと来い」

『あうっ』

 

 私は、その集合体からこぼれ落ちたツボーズを掴み取る。

 両手のついたテルテルボーズ。こいつらは、人間の“凝り”が具現化したものだ。

 見る人によってある程度形は変わるが、マッサージ師は誰でも見ることが出来る。

 

「どーしてこいつ、こんなに凝ってんだよ?」

『勉強のしすぎだよ。魔法も頑張ってるから、全身が凝るんだ』

「魔法?」

 

 ツボーズが零した、聞き覚えのない言葉。

 そのどこか不穏な響きに対する感情は、集合体が電車から降りていくことで吹き飛んだ。

 

「しまった!綾瀬を超える上玉がっ!」

 

 ここで逃がしたら、もう逢えないかも知れない。

 人生に一期一会なんてざらにある。逃がした魚に後悔した事なんて、一度や二度ではない。

 

 昔は、私の性根に染みついた人見知りがずいぶんと足を引っ張った。

 声をかける勇気がない。

 人間と話すのが怖い。

 だが、そんなことは言っていられないと思うのに、たいして時間は必要なかった。

 

 私を求める、ツボーズ達が居る限り。

 私は彼らを、救い続けるのだ。

 

「待てッ……なんて速さだ!?」

 

 小柄な影から、子供だと言うことは理解できる。

 だが、その子供は私の常識を大きく越えた速度で走り始めた。

 これだから麻帆良は嫌なんだ。マッサージのために軽く体力をつけている程度じゃ、追いつくことが出来ないヤツらがごろごろしてやがる。

 

「絶対、見つけ出してやる」

 

 姿の見えなくなった、集合体。

 あの子供を見つけるためには、毎日この憂鬱な時間帯に起きる必要があるだろう。

 

「く、はははっ」

 

 そんな私の大きな決意は――すぐに成就する事になるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――2――

 

 

 

 今日の千雨さんは、普段と比べてどこかおかしかった。

 いつも席に着くなり私をじっと見て、それから心配そうに声をかけてくれるのですが、今日は虚ろな目で虚空を見るばかり。

 

 私の方など、見ようともしてくれません。

 

「どうかしましたか?千雨さん」

「綾瀬――」

 

 どこか遠くを見るような、そんな視線。

 その怜悧な瞳が映しているのは、目の前にいる私ではない。

 そのことが、不満に感じてしまうのです。

 

 千雨さんに気にかけて貰えないと、背中が重いのです。

 

「いや、実はな」

――ガラッ

 

 千雨さんが言い出す前に、扉が開きました。

 おそらく先生が来たのでしょう。タイミングの悪い先生です。

 

「失礼しま……」

 

 ですが、入室してきたのは、私の予想に反して子供でした。

 とても女子中等部にいるとは思えない、スーツ姿の少年。

 

 私がだらしなく呆けている間に、少年は沢山の罠にかかりながら教壇にぶつかりました。

 児童虐待にもほどがあります。相手が大人だったら、また別の問題が浮上しそうな、派手な罠です。

 

「今日からこの学校で、まほ……英語を教えることになった、ネギ・スプリングフィールドです。三学期の間だけですが、よろしくおねがいします」

 

 資格とかはどうなっているのでしょう。

 たいがいめちゃくちゃな学校ですが、良いのでしょうか?

 まぁ、三学期の間だけなら、問題はないということなのかも知れませんね。

 

 この学校なら、頷けます。

 

「子供先生ですか……千雨さんはどう思いま……千雨さん?」

 

 千雨さんに意見を求めようと横を向くと、じっとネギ先生を見つめる千雨さんの姿がありました。疲れている人間を前にするとこうなるのはいつものことです。

 

 となると、あの先生もまだ子供なのに苦労人ということなのでしょう。

 まぁ、千雨さんが形振り構わずマッサージをしに行くことなどそうそう無いので、私の至福の時間が邪魔されることもないでしょう。

 

 私はそんな風に――楽観視、していたのです。

 

「きゃー、カワイー!」

「どこからきたのー?」

「ねぇねぇ、いくつ?」

 

 クラスメートに囲まれるネギ先生を見て、私は大きく息を吐きました。

 やれやれと肩を竦めて千雨さんを見ると……千雨さんは、何故か無言で立ち上がりました。

 

「千雨さん?どうしたのですか?」

 

 私の声が届いていないのか、千雨さんは人垣を割ってずんずん進みます。

 

「ま、待ってください!」

 

 私はそんな千雨さんの後ろを、必死で追いかけました。

 ここで離れたら、もう掴むことはできない……そんな気が、したのです。

 

「ちょっとあんた、黒板消しになんかしなかった?!」

「え――」

 

 胸ぐらを掴まれているネギ先生。

 そんなネギ先生を救い出すように、千雨さんは明日菜さんの肩を掴みました。

 

「長谷川さん?」

「先生――」

 

 明日菜さんの言葉すら、千雨さんの耳には入っていないようでした。

 千雨さんは明日菜さんを押しのけてネギ先生の前に立つと、真剣な眼差しでネギ先生を見ました。

 

 顔が近いため、眼鏡で隠された千雨さんの綺麗な顔を見ることが出来たのでしょう。

 ネギ先生は、少しだけ頬に朱を差しています。

 

 ネギ先生に詰め寄った千雨さんは――――。

 

「先生の身体を、一時間貸してください!!」

 

 ――――その衝撃の言葉を、言いました。

 

 教室がざわつくのと、ほぼ同時。

 私は気がついたら、千雨さんの腰にしがみついていました。

 

「そんなっ、私を捨てるのですか!?千雨さん!」

――えぇ、アノ二人ってそーゆー関係だったのっ!?

 

 周囲の声など、私には届きません。

 なんだか、聞いてはならないような気がするのです。

 

「離せ!綾瀬!おまえみたいな上玉、誰が手放すか!……でも今は、あの先生のこと(ツボーズ)が目に焼き付いて離れないんだっ!?」

――三角関係?!……ジュルリ、これはイイスクープだわ。

 

 一気にクラスが沸き上がり、混乱の坩堝と化します。

 呆然と佇むネギ先生をよそに事態は悪化。

 

 結局ネギ先生は授業をすることも叶わず、私たちの混乱は高畑先生が来るまで収まることがなかったのでした……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――3――

 

 

 

 今日から僕は、教師になる。

 この試練を終えたら、立派な魔法使いへ――父さんへ、一歩近づくことが出来る。

 

 おじいちゃんとお姉ちゃん、それにアーニャに連れられてやってきた、麻帆良の地。

 そこは思っていたよりも、ずっと人が多くてびっくりした。

 

 明日菜さんともめ事が起こってしまったけど、それも乗り越えなきゃいけない。

 だって、これは試練なんだ。誰もが憧れる父さんのような魔法使いになるための、試練。

 明日菜さんともどうにかわかり合えるようにしないと、ダメなんだ。こんなところで、立ち止まってなんかいられないんだから。

 

「で、どうなんですか、先生っ!?」

 

 だから、黒板消しと沢山の罠にも引っかかって、なんとか授業を始めようとした。

 だというのに、僕は何故か眼鏡の女の人に、詰め寄られていた。

 

「か、身体なんか貸せませんよっ!?」

 

 僕の身体で何をしようというのだろうか。

 日本人は悪の組織に連れて行かれると、バッタ人間に改造されるとアーニャから聞いたことがある。ここで頷いたら、僕もバッタ人間にされてしまうのだろうか。

 

「一時間だけでいいんですよ?!」

「ダダダ、ダメですっ」

 

 詰め寄られながらも、名簿を開く。

 名前を確認すると、長谷川千雨、と書いてあった。

 その下に、タカミチの字で“人体に詳しい”と書いてある。

 

「大丈夫です、先生」

 

 千雨さんは、変わらない表情のまま、僕の手を掴む。

 その顔が更に近づいて、眼鏡越しの顔がよく見えた。

 氷のように動きがない整った顔。その奥で光る目に灯るのは、情熱だろうか。

 

「痛みは、ほんの一瞬です。いえ、感じないかも知れません――ただ、気持ちよくしてあげます」

「き、気持ち、良く?」

 

 そのよくわからない感情に動かされて、僕は頷きそうになる。

 けれどそれも、他の手によって遮られた。

 

「何を言っているのですか、千雨さん!」

「何って、決まっているだろう?雪広」

 

 割り込んできたのは、このクラスの委員長さんだった。

 委員長さんは、千雨さんと僕の間に身体を割り込ませた。

 

「ネギ先生は、渡しませんっ」

「おまえ“も”先生の身体に、興味があるのか」

「かかか、身体っ?!……はぅっ」

 

 ですが、委員長さんはすぐに倒れてしまった。

 顔が赤いのは、風邪だろうか。心配だなぁ。

 

「い、いいんちょさん!?」

「さぁ、邪魔者はいなくなり――」

「――何をやっているんだい?」

 

 周囲の女の子達も、見守るだけ。

 そんな状況下の中で動いたのは、この場には居ない第三者。

 騒ぎを聞きつけたタカミチだった。

 

 収まりそうになかったから、しずな先生が呼んでくれたのだろう。来てくれて、本当に良かった。

 

 

 

 

 

 

 タカミチのおかげでなんとか騒ぎは収まったけど、僕は結局授業をすることが出来なかった。

 

 一日を終えた、帰り道。

 僕の頭によぎるのは、力強い瞳の女の子だった。

 

「長谷川千雨さん、かぁ」

 

 その目に宿る意志の光が、頭から離れない。

 だって僕は、その光がすごく――“綺麗”だって、思ったんだ。

 忘れられる、訳がない。

 

「明日菜さんとも千雨さんとも、もっとお話をしてみよう」

 

 だって僕は、先生なんだ。

 生徒のことをもっとよく知って――立派な魔法使いに、なるんだ。

 

「よしっ、頑張るぞ~……って、あれは、宮崎のどかさん?」

 

 ――そして、そんな僕の決意は。

 

「危ないっ!」

 

 ――宮崎さんの落下という事態によって。

 

「あ、あんた、今……」

「え?」

 

 ――いきなり壁にぶつかることになった。

 

 まだまだ、立派な魔法使いへの道は、遠いようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――4――

 

 

 

「ちっ、どうにかしねーと」

 

 放課後、私は一人そう悪態をつく。

 綾瀬の涙ながらの“お願い”により、とりあえず今日は綾瀬をマッサージすることになった。

 

 元々“笑顔”が見たくて始めたマッサージだ。

 たとえ極上の身体が目と鼻の先にあっても、他をないがしろにするつもりはない。

 私のマッサージを求めてくれて、私の親指で笑顔になってくれる。

 

 それはきっと、私が求める私の未来への、第一歩だ。

 

 だが、だからといって諦められる身体ではない。

 思い出しただけで、私の身体(主に親指)が熱を持つ。

 それほどまでに、凄まじいツボーズだったのだ。

 

「とにかく今は、綾瀬だな」

 

 綾瀬は今、図書館島にいる。

 マッサージの本が見つかったというので見せて貰うついでに、図書館島でマッサージをやる約束をしておいたのだ。

 

 ちなみに、ツボーズの気配が極端に“薄い”謎の司書に、許可は取ってある。

 どうでもいいが、うさんくさい笑顔のフードの男だった。

 

「うん?あれは……宮崎?」

 

 ふつふつと思い出していると、視線の先に宮崎の姿を確認した。

 宮崎も綾瀬ほどじゃないが凝っているので、たまにマッサージをしている。

 だが、あいつのツボーズは、どうも控えめなのだ。奥手といっても良い。

 

 マッサージをし始めると積極的になり始める、面白いツボーズだ。

 

「おーい、あぶねーぞ……って」

 

 私が声をかけても、届かなかった。

 届く前に、宮崎は足を滑らせた。

 

「ちっ!宮崎!」

 

 急いで走ると、階段の下が見えた。

 その視線の先では――身体が“宙に浮いた”宮崎を支える、ツボーズ集合体……じゃない、ネギ先生の姿があった。

 

「おいおい、嘘だろ」

 

 思わず、腰を落として後ずさる。

 思い出されるのは、ツボーズの言葉。

 アイツらは確かに言ったのだ……魔法の疲れがたまっている、と。

 

「実在する? それじゃあ……」

 

 私の幼少期。

 あの辛い日常は、何だったのか。

 

 取り留めもないことを考えて、目眩がした。

 足下がおぼつかないし、どうしてだか気持ちが悪い。

 

 

 

 

 

 気がついたらネギ先生も宮崎も居なくなって、私はいつの間にか図書館島に来ていた。

 

 

 

 どうやってここに来たのか、知らない。

 どれほど時間が経っているのか、解らない。

 ただ足の赴くままに、ここに来ていたのだ。

 

「千雨さん?どうしました?」

 

 そうやってぼんやりと図書館島を見上げていると、いつものように分厚い本を持った綾瀬が立っていた。

 

 綾瀬にマッサージをする。

 しなければならないはずなのに、身体が動かない。

 

 綾瀬はそんな私の様子を見かねたのか、私の手を引いて図書館島の中へ誘った。

 そして、私を椅子に座らせて、自分も隣に座った。

 

「いつも一方的にマッサージをして貰っているだけですが、悩みを聞くぐらいできますよ」

 

 綾瀬は淡々とした口調で、そう言った。

 その声はどこか私を安心させる、心地よい力に溢れていた。

 

「――小さい頃、私は嘘つきだった」

 

 だから、だろうか。

 気がついたら、私は纏まらない思考を、そのまま綾瀬に吐露していた。

 

「嘘つきって呼ばれることが辛くて、笑顔の浮かべ方がよくわからなくなった。笑うと、嗤われる気がしたんだ、と、思う」

 

 好奇心に溢れた感情で、笑みを浮かべる。

 そして見たままを話すと、嗤われた。

 何時しか私は、日常における自身の“笑み”を、私のとっての“非日常”と認識するようになっていた。

 

「それでも笑顔が欲しくて、マッサージをした。そしたら、私が笑っても、みんなちゃんと“笑って”くれるんだ」

 

 だから私は、マッサージをしている最中しか、笑わなくなった。

 私自身は、マッサージの最中に自分が笑っていることなんて知らないが、みんな“良い笑顔だった”と笑ってくれた。

 

「嘘つきでもいいんだって、心のどこかで思ってた」

 

 嘘じゃない。

 嘘じゃない、けど。

 私は確かに、嘘つきとして過ごしてきたのだ。

 

「でも、嘘じゃなかったって、はっきりと見せられた」

 

 もうずっと目を逸らしていた、現実。

 それを目にして、そう、私は解らなくなったのだ。

 

「結局私は――――現実逃避のためだけに、マッサージをやっていたのかな、って」

 

 そう、思った。

 お婆ちゃんの笑顔に心打たれたなんてもっともらしいことを言って、結局は現実で傷ついていたくないだけの逃避手段だった。

 

 そんな風に、考えた。

 考えて、しまったんだ。

 

 私の話を静かに聞き終えた綾瀬は――大きく、息を吐いた。

 

「アホですね」

「へ?」

 

 そして、短くそう言われて、私は思わず硬直した。

 なんとか反論しようと声を上げるより早く、綾瀬が口を開く。

 早口では、綾瀬に敵う気がしない。

 

「もう、答えは出ているじゃないですか」

「え、と?」

 

 綾瀬の言葉の意味がわからず、首をかしげる。

 綾瀬は、そんな私の顔を覗き込んで、まっすぐと私の目を見た。

 

「“それでも笑顔が欲しくて、マッサージをした”」

「ぁ――――」

 

 混乱しながらも、私が紡いだ言葉。

 それを抜粋して、綾瀬は私に突きつけた。

 

「マッサージをして、笑顔が欲しかった。そうして努力した千雨さんは――“嘘”だったのですか?」

 

 そうだ。

 私は確かに、笑顔が欲しかった。

 私のマッサージで、いろんな人を笑顔にしたかった。

 

 そうして得たマッサージの知識と、技術と、笑顔は――。

 

「――“嘘”なんかじゃ、ない」

 

 簡単なことだった。

 こんな簡単なことに、気がつかなかった。

 

 気がつけなかった私に、綾瀬は気がつかせてくれたんだ。

 

「ありがとう――――綾瀬」

 

 私は今、笑顔を浮かべられている。

 そんな気がした。

 

 気のせいかも知れないけれど、きっと私は、笑顔を浮かべられている。

 

「い、いいのですよ」

「うん?顔、赤くないか?」

「な、ななな、なんでもありませんっ」

 

 顔逸らす綾瀬に、声をかける。

 綾瀬はそんな私の視線から目を逸らすと、立ち上がった。

 

「や、約束のマッサージです!」

「うん?あぁ、そうだったな……今日は、特別にサービスしてやる」

「望むところです」

 

 机の上に、シーツを敷く。

 マッサージ師たるもの、シーツくらいは持ち歩くものなのだ。

 

 綾瀬は靴を脱ぐと、そのシーツに横たわる。

 その背中から沸いて出たツボーズ。私はそのツボーズの白い肢体に、思わず生唾を呑み込んだ。

 

「綺麗だ、綾瀬」

「ふぇっ!?」

 

 姿勢を正して順番待ちをするツボーズ。

 その姿は、本当に綺麗だった。

 

「ち、千雨さん?」

「大丈夫だ――今日はいつもより、激しいぞ」

「何が大丈夫なんですかっ!?」

 

 私が親指を突き立てると、綾瀬はとたんに動きを止めた。

 その隙を見て、責め立てる。

 

「秘技――――千雨スペシャルver2.0!!」

 

 もう迷わない。

 私は私が信じた道を往く。

 

 その先に待つのは幸福である。

 そう信じているから……信じることが、できたから。

 

 私はただひたすらに、前を向こう。

 それが求めてやまない、道なのだから。

 

 

 

 でも今は、とりあえず。

 

「まだまだ行くぞっ!」

「っっっ!?!?!!」

 

 目の前の、獲物(綾瀬)からだ、な。

 

 

 

 

 

 

 

 

――了――


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