最近ナチス関連の書物読みふけって、こんな人生を送った人もいたんじゃないかなーと思って書いてみました。

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可能な限り、客観的に書いたつもり。(だけど悪の象徴ナチスだからどうも描写が偏ってる気がしてならない)

なんとなくだけど、あの時代、こんな人生を送った人もいたのかなーって気分で書いてます。


とあるSS隊員の一生

彼と関係があったほとんどの者が口を揃えてそう言う。そしてそれ以上に、正義感と使命感の強い人物であったと。

 

もし生まれる時代と場所が違えば、このような運命を辿るようなことにはならなかったかもしれない。

 

1922年ドイツのハンブルクの中産階級の家庭に生まれたロッツェ・ゲンハルトは、優しく誠実な両親に可愛がられて幸せな幼少期を過ごした。

 

第一次世界大戦後のドイツはヴェルサイユ条約によって定められた天文学的な賠償金や、賠償金の滞納を理由にルール地方占領したフランスの行動により、ハイパーインフレーションが発生して不況の真っただ中にあったが、ロッツェの父は優秀な人物だったし、務めていた仕事も大企業だったので、職を失うことなく働き続けることができたのだ。

 

しかし1929年にアメリカのウォール街で株価の大暴落がきっかけとなって世界恐慌が発生すると、そうも言っていられなくなった。ドイツの経済は、外資つまりアメリカの資金で回っているのが実状だったのである。なのでアメリカが国内の不況を理由にドイツに資金を投下してくれなくなったらドイツの経済は大打撃を受けた。

 

その結果、ドイツの失業者の数は増加の一途を辿り、ロッツェの父も不況の煽りを受けて1930年に勤めていた会社が倒産してしまい、失業者の仲間入りをしてしまった。

 

とはいえ、それでも彼ら一家はまだマシな部類であったといえよう。ルール地方が占領されてから、ドイツ政府が発行する紙幣を信用しなくなっていたロッツェの父は、毎月の給料の一部を貴金属に変えて貯蓄していたからである。貯蓄を切り崩しながらそれなりの生活を暮らすことができたのだ。

 

だが、その頃のロッツェの家族の空気は悲観的になっていた。自分の能力を信じ、自分の仕事に誇りを持っていた父にとって働けなくなったのがよっぽどショックであったらしく、昼間から酒を飲んで泣き言をいうようになり、母はそんな夫を慰めるという状況が多くなった。

 

ロッツェは父が「元はといえば、あんなふざけたヴェルサイユ条約を結んだゾチ(社民党の蔑称)の革命政府とやらが全部悪いんだ。ホーエンツォレルン朝の時代ならこんな屈辱絶対に認めなかったに違いない。最後まで徹底抗戦したはずだ」と泣きながらぼやいているのを何度も聞かされた。

 

第一次世界大戦終戦時、戦線はまだドイツ国外にあった。終戦数か月前ですら、ある戦線でドイツ軍は連合軍から勝利をもぎ取ったりできるくらいには、ドイツはその気になれば、まだまだ戦える状態にあったのだ。

 

それなのにドイツが講和した理由は国内での経済的・社会的な混乱が無視しえないレベルに達していたことに加え、ドイツ首脳部が当時のアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの”十四か条の平和原則”や”無併合・無賠償”などを信じたからでもあった。

 

……知っての通り、この信頼はパリ講和会議での最初からドイツと対峙していた国々、特に主戦場になったフランスの激しい反対をウィルソンは抑えることができず、厳しすぎる講和条約を強制されるという形で裏切られたのだが。

 

とにかく、簡単に説明するとそんな事情があったわけだが、そんな経緯を知らない一般国民にとって、革命政府は売国奴野郎どもの集まりという見方をする者が少なくなかった。そしてその認識は大恐慌の発生によって信じ込む市民たちが急増したのである。

 

そしてそんな状況に後押しされて、1933年1月30日に国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)(通称・蔑称ナチス)党首アドルフ・ヒトラーがドイツ帝国宰相に任命された。そして同年の3月24日に憲法を超えた権力をヒトラーに与える全権委任法が国会に提出され、賛成多数で可決された。唯一の指導者ヒトラー総統が君臨する独裁国家、後の世にいうナチス・ドイツ、第三帝国が成立したのだった。

 

第三帝国首脳部は国民生活を改善するためにあらゆる手段を使って雇用を生み出した。その副作用で国庫の金が減り、将来破綻確定になるほど浪費しようが、気にせずに。なぜならドイツはヴェルサイユ条約によって分断された領土を取り戻し、かつてビスマルクが行ったようにドイツを統一しなければならないというのがNSDAP首脳部の見解であったのだ。

 

いや、あのような小ドイツ主義的統一よりもっと上、大ドイツ主義に従ってオーストリアを含むドイツ民族が暮らす地を統一せねばならないと信じていたのだ。そして国家財政の負担はドイツの領土であるべき地を不当に支配している政府から奪えばいいという考えだったのである。

 

しかしそんなブラックな第三帝国首脳部の思惑など、一般国民にはわからない。彼らは単純に失業者が減ったことを喜び、景気が回復したことを喜び、それを成し遂げた指導者兼帝国宰相アドルフ・ヒトラーを救世主として崇拝した。ロッツェの一家もそのひとつであった。

 

だからこそ、1936年に将来のNSDAPの幹部を育成する専門学校の生徒が募集された時にロッツェは真っ先に志願した。試験は難関であるとされていたが、両親の協力もあって試験に見事合格し、1937年1月15日に開校されたアドルフ・ヒトラー・シューレ(通称AHS)に入学した。

 

ロッツェは優秀な成績をおさめたが、AHSで暮らす中で教官としてやってくる黒衣の親衛隊(シュッツスタッフェル)、通称SSの隊員に強い憧れを持つようになり、積極的にSSの教官と交流し、SSの教官もロッツェを高く評価してあることを約束した。

 

それはユーゲント・パトロール(当時ドイツの青少年は皆ヒトラー・ユーゲントに所属し、街中をパトロールして風紀の取締を行った)の際に、大きな成果をあげれば卒業後すぐに士官としてとりたててやるというものだった。教官は可愛い生徒にちょっとしたリップサービスをしただけのつもりだった。

 

しかしロッツェは持ち前の正義感からパトロールに熱心だった上に、成果次第でSS士官としてとりたてられると約束されたものだから疲れを知らずに働き、小規模だが共産党の残党からなる反ナチ組織の拠点を発見してしまった。

 

これに驚いたのは当然SSの教官である。なにせ本当に大きな成果をロッツェがあげてくるとは思っていなかったからだ。教官はロッツェに対する評価を数段あげ、卒業後すぐにロッツェをSSに所属できるように人事局に圧力をかけた。

 

その結果、1939年にロッツェはAHS卒業すると、すぐに国家保安本部第Ⅲ局、親衛隊情報部(SD)国内諜報局 に配属することが内定したという通知を受け取った。ロッツェは喜びのあまりガッツポーズした。SDと言えばSSの中でもエリートが集まる組織である。そのことを知ったロッツェの両親も大いに喜んだ。

 

そして入隊宣言が行われた。

 

「私はドイツ国首相たるアドルフ・ヒトラーに忠誠と勇気を誓う。私は総統と総統に任命された上官に生涯の服従を誓う。神のご加護のあらんことを」

 

この宣言が終わった後、あこがれの黒衣の隊服が与えられた。しかし自分のだけ周りのと少し違うことを不思議に思いながら隊服を広げると、SS曹長の襟章がついているのが目に飛び込んできた。教官は約束を守ってくれたのである。

 

その隊服に着替え、誇らしく思いながらSDの仕事に従事した。ロッツェは優秀で周りから能力を高く評価された。一部ロッツェが若すぎるが故の妬みから嫌う者もいたがSS自体が若い組織だったので気にする者は少数だった。

 

1939年10月1日に正式入隊するための教義問答が行われた。これはSSの教義を信じ、他の宗教との決別を意味する宣言だった。一応ロッツェはプロテスタント系キリスト教徒だったが、さしたる信仰心はなかったのでためらいはなかった。

 

「何故我らはドイツを信じ、総統を信じるのか?」

 

「我らが神を信じるからである。ドイツは神によって神の地に作られた国家であり、、総統アドルフ・ヒトラーは神が我らにつかわした人だからである」

 

「我らは誰のために働くのか?」

 

「我が国民と総統アドルフ・ヒトラーのためである」

 

「我らは何故服従するのか?」

 

「我らの信念ゆえに。ドイツ・総統・国民社会主義運動・SSを信じるゆえに。また我が忠誠ゆえに」

 

この宣誓は、ロッツェにとって生涯忘れることのない神聖な誓いとなった。他人から何と言われようとも、それを貫き通すことになるのであるが、それはまだ先の事であった。

 

とにかくこれで名実ともにSS隊員になったロッツェだったが、順風満帆に進むというわけにはならなかった。ロッツェの上司がSD長官ラインハルト・ハイドリヒと対立して左遷されてしまったのである。ロッツェはこの人事に対して不満を持ち、人事局に抗議したがそれがハイドリヒの耳に入ってしまった。

 

そのせいで1940年5月に忌避を買ったロッツェも独ソ戦に備えて再び組織されるアインザッツグルッペンに左遷された。ただ、書類上は栄転として処理されたらしく、18歳と言う若さでロッツェはSS少尉に昇格。士官となった。

 

だが、アインザッツグルッペンの一分隊の指揮官として配属されたロッツェにとってそんな昇進はなんの気休めにもならなかった。アインザッツグルッペンは第Ⅲ局のSDだけでなく、第Ⅳ局ゲシュタポ、第Ⅴ局クリポといった他局の人員だけでなく、武装親衛隊やら外国人補助警官とかいった国家保安本部以外の所属の人員も混ざった混成部隊であり、隊を隊として運営するだけでもロッツェには一苦労だった。

 

1941年6月22日、独ソ戦が始まると百二十個師団ものドイツの大軍がソ連領内になだれ込み、アインザッツグルッペンもその後ろからソ連領内に入った。アインザッツグルッペンの任務は戦場後方における不穏分子(パルチザン・共産主義者・ユダヤ人等)を排除するのが彼らの仕事である。

 

ロッツェは現地人とは可能な限り友好的に接触するよう努めた。NSDAPが唱える世界観において、彼らは劣等人種であり支配すべき対象であったが、なればこそ優良人種アーリア人として寛大に接してやるべきと考えたのだ。

 

親身になった彼らの話を聞いたロッツェは憤りを禁じ得なかった。ロシア共産党が彼らにやってきた圧政はとても現実のこととは思えないほど恐ろしいものだったからである。共産主義者が西欧文明の破壊者であるというNSDAPの主張は百パーセント正しい。奴らは倒すべき巨悪である。共産主義者とその元凶であるユダヤ人(NSDAPの宣伝では共産主義はユダヤ人の陰謀の産物とされていた)を根絶やしにせねばならないと強く決意した。

 

正義の心に燃えるロッツェ率いる銃殺分隊は悪と断定した共産主義者とユダヤ人を見つけ次第銃殺していった。彼が率いる部隊は精力的に、あるいは熱狂的に、任務を遂行して行った。

 

だが、問題がなかったわけではない。特に外国人補助警官はソ連に併合された国の出身の人間もいたので復讐の味に酔いしれていたのか、明らかにユダヤ人ではないし共産主義者でもない相手を銃殺することもあったので、ロッツェは彼らにそれなりの処分を下さねばならなかった。

 

「あいつら、絶対にアインザッツグルッペンの任務を履き違えてるだろ」

 

ロッツェの認識ではアインザッツグルッペンは文明の脅威である共産主義とユダヤ人を根絶することが目的であって、東方の現地人を絶滅させることが目的ではないのだ。彼らが復讐に狂う理由はロッツェにも理解できたが、だからといって何の罪もないロシア人にその罪を着せるわけにはいかない。

 

また現地人の間で独立の動きが出ているのも頭痛の種だった。ロッツェらドイツ軍は彼ら劣等人種を悪夢のような共産主義体制から解放して従属させ、長い時間をかけてドイツ化させるために来たのであって、彼ら現地人達が独立国家を建設するのを助けるためにきたのではなかった。なので劣等人種のくせに民族主義を掲げて独立を唱える愚か者どもの処分も担うことになった。

 

1943年にハイドリヒがチェコのパルチザンに暗殺されたという報告が入り、SDに戻ってくるよう左遷されていた元上司から連絡が届いてロッツェは喜んだ。スターリングラードでドイツ軍が敗北してからというもの、悲観論が自分の部隊で囁かれるようになり辟易していたのである。

 

しかし1944年にソ連軍がドイツ本国東部まで進出してくると、ロッツェは武装親衛隊への転属を願い出た。スターリングラードで一敗したからといって、いきなり追い詰められるわけでもあるまいと去年はたかをくくっていたのだが、いきなりソ連軍が強くなったように連勝しだして、まるで逃げるように自分が本国に戻ってきたことが恥ずかしく思えたからである。

 

あるいは昨年にイギリス軍の空襲で、ハンブルクの父と母が死んだという事実が彼を命知らずにさせたのかもしれなかった。

 

武装親衛隊は度重なる激戦で人材を消耗していたのでロッツェの転属は歓迎して受理された。武装親衛隊への転属と同時にSS中尉に昇進した。これはロッツェに臨時編成された大隊を率いらせるための処置であった。用意された大隊は定数の半数程度しかない中隊を集めた大隊とは名ばかりの部隊だったけれども。

 

ロッツェは一人でも民間人を逃がすために、果敢にソ連軍に抵抗した。そのため部隊の損耗率は凄まじいものがあったのだが、圧倒的物量を誇るソ連軍の侵攻を食い止めることはできず、後退を続けた。

 

そして1945年5月にロッツェがベーメン・メーレン保護領(ドイツの保護国時代のチェコスロバキアの名前)の首都プラハで総統の自決の伝える放送をラジオで聞いた時、彼の部隊の残存兵員は二十数人しかいなかった。

 

「自決した? 我が総統(マイン・フューラー)が、ドイツの救世主が‥……」

 

総統の自決を知ったロッツェの衝撃は凄まじいものだった。生涯の忠誠を誓った主君が自決してしまったのである。彼は悲しみを隠すことができなかった。

 

そしてロッツェは翌日の朝には賛同者と共に地下に潜る決意を固めていた。総統亡き今、どれだけ抵抗しても結果は得られないと判断したのだった。かつてソ連の共産主義者どもがパルチザン化してドイツ軍に抵抗してきたように、今度は自分たちSSがそうすると決めたのだった。

 

ロッツェは泣く泣く自分の誇りであるSSの軍服を脱いで地面に埋めると、ソ連軍の砲撃でほぼ廃墟になった民家から服を拝借して一般人に変装し、難民の列の中に紛れ込ん西へ向かった。途中、アメリカ軍の検問に取り掛かったが、あっさりとパスされて拍子抜けし、ついで彼らの間抜けさを嘲笑った。アメリカ軍の兵士達はまだ20前半の青年がSS大尉だとは想像だにしなかったのである。

 

ロッツェたちはイギリス軍占領区のハンブルクへと向かった。自分の生まれ故郷なら拠点としてうってつけであると考えたのだが、イギリス空軍を中心として、終戦までに七十回以上もの空襲を受けたハンブルクはロッツェの記憶の中にあるとそれとまったくの別物になっていた。ハンブルクはただの瓦礫の山がひろがるだけだったのだ。

 

自分の両親を奪い、故郷を灰燼に帰したイギリスへのロッツェの憎悪は、おそらくはこの時に決定的なものとなった。イギリス軍占領区で彼が率いる残党が起こしたイギリス軍への攻撃というか、嫌がらせの数々がそれを物語っている。

 

もちろんイギリス軍もやられてばかりの無能ではなく、何度もロッツェのグループに反撃して打撃を与えていたし、1946年9月にはロッツェに重傷を負わせて捕らえることにも成功している。この時に既にイギリス軍の捕虜の中にロッツェの顔を知っている者がいたので、かつてロッツェがアインザッツグルッペンの分隊指揮をとっていたことがイギリス軍の知るところとなった。

 

アインザッツグルッペンは連合国では絶滅部隊であるという認識であり、来年にニュルベルクでアインザッツグルッペンに所属していた戦争犯罪人の裁判がアメリカ軍主導で行われることになっていた。だからイギリス軍はロッツェの傷が癒え次第、ニュルンベルクへ移送し、アメリカ軍当局へ身柄を引き渡すことを決定した。

 

12月に傷が癒えて意識が回復したロッツェは礼儀正しく振る舞い、イギリス軍士官の警戒感をほぐすことに努めた。そしてニュルンベルクへの移送中に士官の監視の目を巧みにだまして列車から飛び降り、冬の吹雪の中に消えてしまったのである。

 

吹雪の中、生命の危機を感じるほどの寒さを耐え、ロッツェは都市部から少し離れたところにある農村に逃げ込んだ。そしてアンスバッハ州のある街で暮らしたのだが、故郷がアメリカ軍に占領されて仕事を奪われたからここで働かせてほしいと心優しい農民一家を騙して農業に励み、時たま都市部に出て元党員の地下組織と接触したりしながら平穏に暮らした。

 

1949年5月23日に民主主義国家のドイツ連邦共和国(西ドイツ)、10月7日に共産主義国家のドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立すると、ロッツェはドイツに対する忠誠心を捨てた。彼にとってドイツとは国民社会主義国家のドイツであり、その偉大なドイツを否定する新しいドイツなど彼の中ではドイツではなかったのである。

 

1950年になると元党員の地下組織から南米に脱出しないかという声をかけられた。彼らが言うには東西冷戦の勃発により、連合軍を形成していた諸国は彼らが言うところのナチの戦犯追及がおざなりになっている。自国内にいるならともかく、他国にまで逃げた戦犯を追いかける暇は惜しいというのだ。

 

いや、それどころか、国民社会主義は反共産主義でもあるので、西側諸国の一部は尖兵としてナチの戦犯を利用する動きすらあり、大戦中親独的だった反共軍事独裁政権の多い南米諸国に行くのであれば、西側諸国は戦犯の逃亡に気づいても見逃す公算が高いというのだ。

 

ロッツェは悩んだ末、南米に行く決意を固めた。未知の地である場所に行く不安はあったが、戦犯リストに自分の名前が載っている現状では表立って動くことはできず、西ドイツの農村で燻り続けるよりはマシだろうという思いが強かったからであった。

 

こうして南米に渡る決意を固めたロッツェは元SS隊員の為の組織、通称オデッサの援助を受けて秘密裏にイタリア南部の港町へと移動し、アルゼンチンの領事館の職員の助けを借りて船でアルゼンチンへと渡った。アルゼンチンには元NSDAPの党員や元SS隊員が独裁者ファン・ペロン政権の支配に協力しており、ロッツェもそれに倣った。

 

1951年に第三帝国の輝く空の英雄、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐が同胞を支援する為に設立した”ルデル・クラブ”のおかげでドイツ系パラグアイ人という新しい身分証明書を手に入れたロッツェは手に入れて喜んだ。

 

「でも、これで大丈夫なんですかね?」

 

自分と同時に新しい身分証明書を手に入れたSS曹長が不安げに聞いてきた。彼は連合国に戦犯認定されてはいなかったが、1944年の総統暗殺未遂事件の際に、容疑者を処分する銃殺隊の指揮をとっていたので身の安全の為に南米に逃げてきたのであった。

 

「大丈夫だろう。この南米で戦犯が逮捕されたって話は今のところあまり聞かないが」

 

「そうですよね。将官だって大丈夫なわけですし」

 

あくまで噂にすぎないが、強制収容所建築及び新兵器開発の指揮をとったハンス・カムラーSS大将、ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーSS中将、全強制収容所の総監リヒャルト・グリュックスSS中将といった大物もこのクラブを利用して新しい身分を手に入れて南米で暮らしているらしい。彼らより格は劣るがユダヤ人を大量移送したアドルフ・アイヒマンSS中佐、”死の天使”の異名をつけられたヨーゼフ・メンゲレSS大尉なども利用したというのをロッツェは聞いていた。

 

SSからも追われる身だったカムラーSS大将がルデル・クラブを利用するなど信憑性が薄い話も混ざっているが、全部が嘘とは考えにくい。そしてこんな有名なSS隊員の誰かが捕まれば、確実に大きなニュースになる。だが、そんなニュースを聞いたことがないということはたぶん大丈夫なのだろうとロッツェは結論した。

 

とにかくこうして身の安全を確保したロッツェは南米諸国を転々としながら反共闘争に加わった。いまだに国民社会主義の理想を捨てていないロッツェにとって、共産主義者は排除すべき対象だったのである。

 

1959年にロッツェはボリビアのあるドイツ人社会に腰を落ち着かせた。ここには元NSDAP党員による互助組織が存在し、新しい生活を始めるにふさわしい場所であると考えたのである。

 

1960年5月25日、南米でリカルド・クレメントという偽名を名乗っていたアイヒマンが逮捕されたというニュースがイスラエルから飛んできた。このニュースは南米に潜伏しているロッツェ達戦争犯罪人たちに深い衝撃を与えた。具体的にはもっと危機感を持たねばならないと思い込むようになり、元SS隊員同士の団結力が強化された。

 

1961年にロッツェは現地で親しくなったドイツ系ボリビア人の女性と結婚した。ロッツェは39歳、相手は27歳とかなり歳の差がある結婚だったが、相思相愛の彼らの結婚を否定するものをはおらず、華やかな結婚式があげられ、二年後には子宝にも恵まれた。

 

1972年、ボリビアの影の有力者であるという『中佐』とロッツェは互助組織を通じて接触した。聞けば『中佐』は元SS大尉で、当時フランスのある都市の治安責任者で、フランスのレジスタンスや共産主義者、ユダヤ人相手に激しい戦いを繰り広げた猛者で、当然連合国の戦犯リストにも載っている。

 

「あなたの名前なら聞いたことがあります。フランスではかなり有名だったはずです。どうやって助かったのですか?」

 

目の前の『中佐』は間違いなく大物である。内部の情報が謎に包まれているソ連領内でユダヤ人の処分に加担した自分と違って、並大抵のことで逃げ遂せるとはロッツェには思えない。

 

「敗北を認めない同志を集めつつ、連合軍の協力関係が崩れるまで粘り強く潜伏した。イギリス軍とアメリカ軍に何回か捕まったが、脱走するのは簡単だったよ。そして予想通り冷戦がはじまるとアメリカ軍に自分を売り込んで身の安全をはかった」

 

想像以上に危険な橋を渡っていたことにロッツェは驚いた。

 

「大丈夫だったのですか? アメリカなど信じて?」

 

「いや、実に誠実な反共主義者が多かった。彼らと大戦で敵同士だったのは最大の不幸だよ。なにせ共産主義が人類の文明に対する脅威であるという認識において私たちは一致していたのだから。今からでも手を組めると信じて私はアメリカ陸軍情報部(CIC)の工作員として働いたよ。あと今の西ドイツの情報局の前身であるゲーレン機関でも働いた。私の愛する祖国が共産主義の旗の下統一されるなど吐き気がするからね。共産主義者との戦い方を徹底的に教えたよ」

 

『中佐』が事もなげにそう言ってのけた。

 

「で、ですがフランスは文句を言わなかったのですか?」

 

「言えるはずがないさ。新しく成立したフランス政府の高官に私の協力者がいたからな。自分から首を絞めるような真似をあの高官がするはずがないさ」

 

ニヤリと笑いながらそう言う『中佐』に、ロッツェは同じSS大尉なのに自分との格の違いを感じずにはいられなかった。自分がSS大尉になれたのは戦争末期故のことであろうから、それを差し引くとしてもそんな大胆な真似をできる気がしない。

 

「ただ……、民主主義というのはどれだけ非合理な理由でも民衆の意思をいうものを無視できんらしく、しぶしぶと言った感じでアメリカに文句を言い始めてな。だがCICの将校たちは反共闘争の有力な戦士をむざむざ失う選択をすることを拒み、私に偽名の、だが、本物のパスポートを用意して南米に逃がしてくれたのだ。

それからというもの、私はボリビアの国籍を取得して軍人たちと友好関係を構築した。そしてバリエントス大統領が軍事革命政権を成立させてからは私がCIAとの橋渡しを担ったのだ。そしてアメリカ軍と協力してあの調子乗りのチェ・ゲバラを抹殺したのだ」

 

「ゲバラを?!」

 

ロッツェは思わず叫んでしまった。反米で有名な革命家で、キューバ革命の立役者の一人であり、その死は世界的なニュースになったものである。その人物を殺す作戦に参加していた人物が目の前にいるのはちょっと信じがたがった。

 

「そんなに驚くことか? あんな小物、あの大戦に参加していたら大して有名にもならずに戦死していただろう。ゲバラはただの惨めな冒険主義者にすぎん。マスコミがつくりあげた幻想、その幻想を信じた民衆が伝説に奉りあげただけだ。第一、あいつの功績は何だ? なにもないだろう。あんな馬鹿がフランスで散々私を手こずらせてくれたジャン・ムーランより有名になっているとは世も末だ」

 

どこか寂し気に『中佐』はため息をついた。ジャン・ムーランとはフランスのレジスタンスの英雄である。仲間から密告され、ゲシュタポに捕まり、拷問に耐え切れず死亡した英雄。亡骸がパリのパンテオンに葬られている。

 

「あなたはジャン・ムーランになにか思い入れが?」

 

「思い入れというより尊敬の感情があるな。一度自分が設立した海運会社の仕事でフランスのパリに行ったことがあるのだが、その時もパンテオンに行って献花したよ。あのムーランがもう墓の中で動かないのだと思うなぜか悲しみが込上げてきてな……」

 

『中佐』の話をロッツェはうなずきながら聞いていたが、あることに気づいて真顔になった。

 

「待ってください。フランスに行ったんですか? 南米に来てから」

 

「そうだが?」

 

「それであなたを一番追いかけている国がフランスですよね? 今のフランスは自分たちのルーツをヴィシー・フランスではなくレジスタンスにあるって主張してますから、レジスタンスと果敢に戦ったあなたを許しはしないはずです」

 

「その時の写真で、たしか、クラルスフェルトとかいう女のナチ・ハンターに元SS大尉と特定されてね。その報告を聞いて私が移送したユダヤ人の母親と一緒にこのボリビアまで乗り込んできた。まあ、ユダヤ人の方はいい。戦争中、ドイツとユダヤは敵同士だったんだ。憎まれて当然だ。

だが、クラルスフェルトがそいつに協力していたことにショックを受けたよ。同じナチ・ハンターとはいえ、アイヒマン逮捕に協力したヴィーゼンタールとかいう強制収容所の生き残りとは違う。あの女はドイツ人だ。戦争中は子どもだったな。そんな女が西側の洗脳されて私を糾弾しているのかと思うとな」

 

そもそもフランスに行かなければよかったんじゃないかと思ったが、『中佐』の嘆きをロッツェはよく理解できた。SSはドイツの正義を信じ戦ったのである。なのに今のドイツの人間が自分たちを犯罪者扱いし、裁きを求めてくるというのは悲しみを感じずにはいられないのだ。

 

勿論それは『中佐』やロッツェの見解は主観的なものであって、他の視点から見ればまた別なのであろうが、少なくともいまだに国民社会主義の理想を捨てていないナチ残党にとっては疑いの余地がない真実であった。

 

「ところでゲンハルトSS中尉。君にはまだ忠誠心が残っているかね?」

 

この問いに、ロッツェはムッとした。

 

「愚問ですね。忠誠こそ我が名誉。それがSSの信条です。SSに入隊してからもう33年になりますが、それでも10月1日に正式入隊した時の誓いは忘れていませんよ」

 

「では、SS大尉。もしこの地で国民社会主義国家を創設するという計画があるなら参加していいかね?」

 

今度の問いにロッツェは困惑の表情を浮かべたが、内心では感情が高揚してくるのを感じた。

 

「それは……参加したいですね。一部のネオナチのように理念の欠片もない乱暴者がやってるような名ばかりのものであるなら、御免こうむりたいですが」

 

この返答に『中佐』はにっこりと笑みを浮かべた。

 

「それなら安心してくれ。その指導者は私がするつもりだ。無論、我らが総統の足元にも及ばないだろうが、それでも他の奴よりは立派にやってみせる自信はある」

 

「あなたが指導者ならば、協力を惜しまないと約束しましょう」

 

ここまで言われて否やはなかった。話を聞く限り『中佐』の政治センスは確かであり、指導者として仰ぐにたるとロッツェには思えた。少なくとも場当たり的な反共闘争しかしてこなかった自分よりははるかに指導者に向く。

 

「そう言ってくれるなら心強い。期待しているぞ同志(カメラート)

 

それからロッツェはその『中佐』のグループの一員となり、政治工作に没頭した。そして1970年末にボリビアが民政に移行する前後には詳細な計画ができあがっていた。

 

まず極右過激派の軍人たちにクーデターを起こさせる。そのクーデターで自分たち国民社会主義者が協力して発言力を強化し、アンデス山脈に隣接するドイツ系住民多数地域の自治政府を報酬としてドイツ系で独占し、なし崩し的に独立宣言を出して第四帝国を建設するという計画だった。

 

行動部隊を集めるのにさほど手間はかからなかった。南米は治安が悪いので傭兵が多く、彼らを雇うことで優秀な兵士を確保できたし、指揮官も『中佐』がボリビアで基盤を築きながら集めた元SS・国防軍将校を据えた。

 

さらに『中佐』は国民社会主義者世界連合(WUNS)のボリビア支部長でもあったので、第四帝国創設計画があることを仄めかしたら世界中の元NSDAP党員、元SS隊員、国民社会主義者、ネオナチなどといった人材がWUNSが開拓したルートを通ってボリビアへとやってきたので文官の補充も大した苦にはならなかった。

 

おまけに元SS将校が重職を務めているオーストリアの兵器会社から大量の武器を融通してもらっていた。中には最新式の戦車まであった。南米ではまだ旧式戦車が主流だったので、ハッキリ言って過剰な兵器である。

 

これらの人材と兵器に囲まれて『中佐』は行動隊”死神のフィアンセ”を編成した。それは在りし日のSSを彷彿させる部隊であり、ロッツェはその中の一部隊を任され、自分の息子も指揮下に加えた。

 

そして来る1980年7月17日にクーデターを決行。ボリビアの極右政権が成立した。ロッツェ達”死神のフィアンセ”は第四帝国創設が既定の未来であると確信し、高らかにハーケンクロイツの旗を掲げ、ホルスト・ヴェッセル・リートをはじめとしたNSDAPの歌を歌って行進した。

 

「これから第四帝国が始まるんだ……!」

 

「それはよかった、でいいんだよな親父?」

 

17歳の息子デュライが首を傾げながらそう言ったが、ロッツェは気にも止めなかった。

 

しかし第四帝国創設の夢はあっけなく瓦解した。成立した極右政権が国家事業としてコカインの密売に精をだしており、その市場になったアメリカの怒りを買ってしまったのだ。

 

アメリカはソ連率いる東側諸国と対峙する西側諸国の盟主だが、いくらボリビアの極右政権が反共を掲げているとはいえ、自国に害が及ぶとあれば黙ってなどいない。あらゆる手段を使ってボリビアを攻撃し、ボリビアは国際社会から孤立した。

 

そして極右政権は国際的な非難を浴び、国内の反発を抑えきれずに、1982年に崩壊した。”死神のフィアンセ”の構成員のほとんどがボリビアを去ったが『中佐』は留まった。生涯を賭けた理想が敗れた現実に、意気消沈したようであった。

 

そしてロッツェも家で数日間抜け殻のようになって暮らしていたが、やがて決意すると息子を自室に呼んだ。父の部屋に入ったデュライは驚いた。父が頭に拳銃を突きつけていたからである。

 

「なにやってんだ親父!?」

 

「なに、今更だが、主君の後を追う気になっただけさ」

 

「いくら第四帝国だっけ? の創設に失敗したからって思いつめすぎだろ!」

 

デュライがそう叫ぶのに、ロッツェは苦笑する。ロッツェは自分の息子に国民社会主義の理想を叩き込んだりはしなかったのである。なぜかというと国民社会主義の勢力は民主主義や共産主義と比べて絶望的なまでに劣勢であると認識していたからであった。

 

自分は自分の意思で国民社会主義に忠誠を誓った。だが、息子はそうではなく、国民社会主義の理念に従う義理はないと考えたのだ。無論、自らの意思で自分と同じ理想を信じるならばともかく、そうでなければどんなイデオロギーを信じようが、親子の縁を切るだけで止めはしないつもりだった。

 

デュライはそんな父の気持ちも知らず、どんなイデオロギーも信奉せず、ただただ銃の使い方とか世間様との付き合い方とか、要するに自分が生き抜く術を学ぶことしか興味がなかったので、今までずるずると関係が続いていたのだった。

 

だが、もう自決する覚悟を決めているロッツェはそのことを息子に言って聞かせるのが最後の義務であるように思えた。

 

「今回の一件で国民社会主義は敗れた。いや、もしかしたら総統が自決した1945年の春にはもう終わっていて、このボリビアで私が参加したのはその残照にすぎなかったのかもしれん。ドイツ第三帝国、総統、SS、そして国民社会主義運動。私が忠誠を誓ったすべてのものは完璧に潰えた。ならもうこの世に未練などない」

 

「……後悔しているのか? ナチズムを信奉をしたことを」

 

デュライは国民社会主義のことをあえて蔑称のナチズムと言った。今までであれば父は不快な表情を浮かべたものだが、今日は苦笑しただけだった。

 

「後悔? 後悔などしていない。ただ……」

 

ロッツェは視界がぼやけていることに気づいた。

 

「虚しいな。自分が信じた理想の果てが、こんなものとは……。無念だ」

 

デュライは驚いた。父が泣いている。あのいつも堂々としていた父が。

 

「デュライよ。人生の先達として一つ言い残しておく。この先どのような正義や理想を信じようがかまわん。だが、たとえそれを貫いたとしても、私のようになにひとつ後世に残せないこと(になる?)人間も存在するのだと覚えておくがいい」

 

そう言い終わるとロッツェは拳銃の引き金を引いた。父の死を見届けた息子は咄嗟にナチス・ドイツ時代の挙手式敬礼を死体に向けてした。父に対して最大の弔いがそれだと本能的に思ったのである。

 

そしてそれが終わると、デュライはなにかに突き動かされるように身の回りの品を整えて生まれ育ったボリビアから出国した。

 

そして異国の地で新たな住処を見つけた頃、”死神のフィアンセ”で自分の面倒をよく見てくれた『中佐』はあの後、フランスに身柄を引き渡され、裁判にかけられて終身刑を宣告されたことをデュライは知った。

 

父が言ったように、ひとつの時代、ヨーロッパを席巻した思想の残り火が、もう二度と蘇ることなく潰えていくのだと、デュライは理屈ではなく感情の次元でそれを実感した。

 




ロッツェ・ゲンハルトの一生。
1922年 誕生
1937年 アドルフ・ヒトラー・シューレ(AHS)入学
1939年 AHS卒業。親衛隊情報部(SD)入隊。上級分隊指導者(曹長)に。
1940年 ハイドリヒに嫌われてアインザッツグルッペンに所属。下級中隊指導者(少尉)に昇進。
1941年 独ソ戦開始。任務に忠実に取り組む。
1943年 ハイドリヒが死んだので、SDに戻る。
1944年 武装親衛隊に入隊。同時に上級中隊指導者(中尉)に昇進。
1945年 敗戦。地下で抵抗活動開始。
1946年 英軍に捕まるが、移送中に脱走。農村に隠れる。
1950年 南米に逃亡。以後傭兵として南米諸国を転々とする。
  ルデル・クラブの計らいでクロイツェル・カッセルという偽名を得る。
1959年 ボリビアのドイツ人社会に腰を落ち着け、元ナチ党員の互助組織に入る。
1961年 現地のドイツ系女性と結婚。
1963年 息子が産まれる。
1970年代 第四帝国創設を目論む「中佐」の行動隊”死神のフィアンセ”に所属。
1980年  コカイン・クーデター。極右政権樹立。
1082年  極右政権崩壊。失意のあまり自決。享年60歳。

>第一次世界大戦
オーストリアとセルビアの問題だったはずが、周りの国々が口挟みすぎて参加国全てが「どうしてこうなった」と頭をかかえるレベルで巨大化した戦争。
オーストリア「セルビアを倒すだけなら部分動員ですむけど、セルビアの同盟国が参戦してきたら怖いから総動員する」
ロシア「オーストリアに圧力をかけるために部分動員したい。でも軍部がオーストリアの同盟国のドイツが参戦
してきたらやばいからと言って聞かないから総動員する」
ドイツ「ロシア単体ならどうにかなるとは思うが、西に犬猿の仲のフランスがいるからロシアが来る前にフランスの戦闘能力を奪いたい。そしてドイツとの国境を固めているフランスに攻め込むには中立国のベルギーを通るのが一番合理的だ」
ベルギー「俺、なんも関係ねぇぞ?!」

>ヴェルサイユ条約
フランス「天文学的な賠償金を要求だぁ! なに厳しすぎる? ふざけんな! これ全部回収してもフランスの戦争のダメージ回復できねぇんだぞ!」
だいたいこんな理由でやらかしました。というか最初らへんフランスは利益も確保しようとしてたからフランス的にはこれでも譲歩した方らしい。もし全く譲歩せずにフランスの言い分が通ってたらどうなっていたか……

>世界恐慌
ドイツでナチスが台頭してきた大きな要因のひとつ。ちなみに共産主義者もこれを資本主義の終焉が始まりと喧伝して仲間を増やしたそうな。後の冷戦でも共産主義の理想がそれなり以上の求心力を誇った理由のひとつかもしれないと個人的に思っている。

>ウッドロウ・ウィルソン
国際連盟を提唱したアメリカの大統領。帝国主義の時代に無併合・無賠償を唱えられる勇気を持った人だったが、日本の人種差別撤廃提案(理想を謳うだけでのもので採用したところで大した問題があるとは思えない)を参加国過半の賛成をとっていたのに議長国権限で廃棄したので戦前の日本の反米感情に繋がったとか。
そりゃあ、いくら人種差別が普通だった時代とはいえ、「お前らが同じ人間とは思わねぇよ!」と面と向かって言われたらねぇ……

>国民社会主義ドイツ労働者党
ナチスの名前で知られるドイツの政党。党公認の略称はNSDAP(エンエスデーアーペー)、もっと略してNS(エンエス)だったらしい。ナチスは敵対勢力がつけた蔑称(なのに同盟国は日本は戦前からナチス呼びしてた。日本で讃えるならアメリカに「親愛なる同盟国ジャップ!」って言われてたみたいな感じか?)
国家社会主義の名前で習ったけど、名作「フューラーになるようです」スレの記述と2016年から一部の教科書で国民社会主義になったそうなので、こっちにしました。

>アドルフ・ヒトラー
言わずと知れた総統閣下。おそらくは世界で一番有名な独裁者。
よくドイツ出身と誤解されるが、オーストリアの生まれである。(まあ、当時のオーストリアはドイツ民族の割合が大きい多民族国家だから、民族的にはドイツ人であってるけど)
いろんな動画サイトで些細なことを理由にブチ切れているMADがシリーズ化している。
そして最近は1945年からタイムスリップしてきた話が話題。

>ビスマルク
ドイツ帝国を成立させた鉄血宰相。
……正直に言ってこいつの外交手腕はどっかおかしい。

>アドルフ・ヒトラー・シューレ
略称AHS。ナポラと共にナチスのエリート育成機関。
ただAHSの方がナチズム教育が徹底していたらしく、卒業後の進路は党の役職と決められていた。

親衛隊(シュッツスタッフェル)
ハインリヒ・ヒムラー率いるNSDAPの親衛隊。ニュルンベルク裁判で犯罪組織認定を受けた。略称はSS。
”忠誠こそ我が名誉”がモットーなのに、元締めの長官が総統を裏切って連合国に講和を申し込んだりしているなど忠誠心の点でも問題がある部隊。
因みにSSの階級は非常に独特な名称であり、基本的に軍隊式の階級に意訳されるが、翻訳者によってあてはめる階級が違うといううっとおしさ。
おまけにSSは警察機関を飲み込んでるのに、警察の階級も併せて持ってる場合が多く、武装親衛隊の階級も別にあり、国防軍から出向してきてる場合は国防軍の階級も持っていたりとややこしさが半端ではない。

>国家保安本部
略称RSHA。親衛隊に十二個ある本部のひとつ。後述するラインハルト・ハイドリヒのホームグラウンド。警察関連の業務を行う機関を統率していた。
経済管理本部と並び、ホロコーストの主導した機関だが、経済管理本部の方は「ユダヤ人を強制労働させて利益を得る」ことを目的にしているのに対し、国家保安本部は「ユダヤ人の根絶」を目的としていたのでこっちの方が悪名高くて有名である。

>親衛隊情報部
略称SD。設立当初からエリートの集まりで重要視されており、SSの殆どが無給だった時代にもSDには給料を支払われていた。国家保安本部に組み込まれてからは国内担当か国外担当かで、第Ⅲ局と第Ⅵ局に分かれる。ロッツェが所属していたのは第Ⅲ局。
SDの報告は常に客観的な報告を求められたため、党指導部に敗北主義に陥っていないかと疑わるほど批判的な報告も行っていたので”第三帝国唯一の批判組織”と言われることもあるらしいが、その批判組織の主な任務がゲシュタポと似たようなものって時点でアウトだろう。

>ラインハルト・ハイドリヒ
第三帝国の国家保安部長で、味方からも恐れられた恐怖の存在。小さいころ、父親の名前がユダヤっぽいせいでユダヤ人と苛められていたらしく、その反動のせいかナチス入党以前から熱狂的な反ユダヤ主義者だった。
ナチズムの体現者と評されるが、忠誠心は皆無で「ヒトラーがしくじったら暗殺してやる」と同僚に漏らしたりするなど、超がつく危険人物。そのせいかナチスが勝利した歴史IFの物語では他の幹部をさしおいて次代の総統になっていたりすることが多い。
そしてどうも自分の身の安全にあまり関心を払っていなかったそうで、自分の趣味で高官なのに空軍将校として前線で戦ってたりする猛者であり、チェコの総督になった後もボディーガードもつけずにオープンカーで市街を見回るなどしていた。(その警備の薄さのせいでパルチザンに暗殺された)
更に家庭ではかなり真っ当な人間だったらしく、女性関係の酷さを除けば疎遠になってからも母への仕送りを欠かさない孝行息子で、次男が徴兵されないよう手を尽くす子煩悩であり、女性関係の方もブチ切れた妻が報復目的で浮気してから反省したらしく、以後夫婦生活は円満であり、妻は生涯夫を擁護するほどだった。(妻の浮気相手を毒殺しかけたけど)
”金髪の野獣”の異名を持つが、どっかのゲームみたいに魔人で構成された騎士団を率いていたりはしない。

>アインザッツグルッペン
東部戦線で虐殺を行った特務部隊。一応、パルチザン対策の部隊ではあった。
なのだが、報告書にユダヤ人の項目が独立して存在したため言い逃れできない。

>ゲシュタポ
正式名称ゲハイメ・シュターツポリツァイ。
元々プロイセン州の秘密警察でSSとは関係なかった。
だけど色々あってヒムラーが長官代理になったので、国家保安部に統合された。
第三帝国の恐怖の象徴みたいに言われるが、戦争中の第三帝国は常に人材不足であり、人材の補給が武装親衛隊>国防軍>警察諸機関だったので、警察の一部局であるゲシュタポまで回ってくる人材はろくでもないやつが多かったというどうしようもない側面が存在する。
因みにSDと役割が被っている部分が多く、初期のゲシュタポは職業警察官の集まりだったのでSDを捜査の素人集団と馬鹿にしてたこともあり、反目しあってた。
この反目はハイドリヒがSDとゲシュタポの区分命令を出したことで1937年に一応の終結を迎えた。

>クリポ
正式名称クリミナルポリツァイ。普通の警察だったはずなのに、ヒムラーがドイツ中の警察組織のトップになったから、親衛隊の一部に。
職員は親衛隊の階級を与えられたそうだが、大多数は昔の階級のままで呼び合ったという。

>武装親衛隊
国防軍がドイツの軍隊なら、武装親衛隊はナチスが保有する私軍である。基本的に師団のナンバー少ない方が精鋭である可能性が高い。
またナチズムのアーリア人至上主義を体現する軍隊という名目なのに、半分以上の部隊が外国人部隊なのは人員不足のせいです。武装親衛隊は志願制度なので、純正ドイツ人のほとんどは国防軍の徴兵にかかってしまうから。

>独ソ戦(東部戦線)
どっちも捕虜とる気ないだろと思うほど激しい戦闘が行われた絶滅戦争。
この戦争では虐殺が常態化していたという第二次世界大戦の中でたぶん一番恐ろしい戦線である。
ドイツ「共産主義者がいたぞ! 村ごと燃やせ!」
ソ連「逃げるな戦え! 逃げるようなソ連兵は督戦隊が銃殺する!」

>東西冷戦
ソ連を盟主とする共産主義を奉じる東側諸国とアメリカを盟主とする西側諸国との間で発生した相容れないイデオロギーの対立。
両陣営は対立しつつも、双方の盟主が決定的破局を回避する振る舞いができたので全面対決に発展することなく、ソ連を含む東側の大半の国が共産主義体制の矛盾に耐え切れず崩壊したことにより終結。
だけど東アジアにはいまだに一党独裁体制の国との分断国家状態が続いている国も存在する。

>元SS隊員の為の組織
略称はオデッサ。詳細はよくわからないが、戦犯認定されなかったSS隊員が戦犯認定されたSSの同志やナチ党員を逃がすために組織した秘密組織。反共という点で西側諸国と利害が一致していたため、利害関係で物事を考える国とは仲良くやっていたらしい。
フレデリック・フォーサイスの小説によれば世界的な規模を持つ組織だそうだが、そんな大規模な組織ではなかったらしく、むしろSSのエリートの能力を欲した他国の国家機関やイタリアのマフィアとかが身の安全と引き換えにスカウトした割合の方が高いそうな。

>ファン・ペロン
アルゼンチンの独裁者で、ナチス・ドイツとは友好的な関係を持っていた。
だからか、元ナチスの人たちの為に身元を偽造して国民にしてやるといったことをしたらしい。

>ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
アンサイクロペディアに嘘を書かせなかった男。総統閣下でもこいつの暴走は止められない。
こいつのチートぶりを知りたい人は、アンサイクロペディアの当該ページ参照のこと。

>ハンス・カムラー
経済管理本部C部建築総監。
戦争末期に機開発研究施設の関係者64名を銃殺し、軍事機密を盗み出して逃亡したのでSSからも追われる身だった。

>ハインリヒ・ミュラー
国家保安本部第Ⅳ局ゲシュタポ長官。ヒトラー自殺に立ち会った一人。
地下総統官邸を脱出してから生死不明になった。

>リヒャルト・グリュックス
経済管理本部D部強制収容所総監。肩書の通り全強制収容所の管理人。
戦後、青酸カリで服毒自殺したことになっているが、死体が見つかっていない。

>アドルフ・アイヒマン
ゲシュタポのユダヤ人課課長。優秀な官僚で、凡庸な人間と評される。
戦後、モサドに捕まってイスラエルで裁判にかけられたことで有名になった。

>ヨーゼフ・メンゲレ
”死の天使”の異名をとる医者で、人体実験を繰り返した狂気の医者。
しかしナチス全体で見れば多くいた医者の一人に過ぎず、戦犯としてはともかく、第三帝国の要人としては大物ではない。

>『中佐』
一応、実在の人物。ただ雰囲気だそうとして名前を書かなかった。
正体が知りたい人は『リヨンの虐殺者』で検索。

>チェ・ゲバラ
”赤いキリスト”の異名を持つ、共産主義革命家。
旧日本軍と同様、兵站を度外視した戦術をたてるところがあったらしい。

>ジャン・ムーラン
フランスのレジスタンスの英雄。ゲシュタポに捕まり拷問されて死亡。
『中佐』はゲバラは罵倒するのに、ムーランのことは高く評価していたらしい。

>ヴィシー・フランス
ナチス・ドイツと休戦した時代のフランスの呼称。
パリがドイツの占領下だったので、首都機能があったヴィシーの名が冠せられているが、正式名称はフランス国である。成立してから枢軸寄りの中立を終戦まで保ち続けたが、連合国からは傀儡政権扱いされてフランスの黒歴史となっている。

>ヴィーゼンタール
ホロコーストの生存者で、生涯をナチ戦犯追及に捧げたナチ・ハンター。
日本では彼の名を冠したサイモン・ヴィーゼンタール・センターが起こしたマルコポーロ事件が有名。

>ネオナチ
ナチズム再興を標榜する組織。自称する場合もある。オリジナルと比べて国際色豊か。
ドイツ本国よりもなぜかナチスが劣等民族扱いした東欧諸国の勢力が強い。
因みに近年ではイスラエル人によるネオナチというわけのわからない組織も登場した。
まったくもって世界情勢は複雑怪奇である。

>第四帝国
ナチス第三帝国の後継者という意。フィクションで多用された単語。
しかしリアルでも『中佐』率いる残党が創設しようとしていた。

>国民社会主義者世界連合
略称WUNS。1962年に設立された世界のネオナチの国際組織。
アメリカのネオナチがイギリスのネオナチ勢力と接触した結果、成立した。
日本のネオナチ、国家社会主義日本労働者党も参加しているらしい。

>死神のフィアンセ
どこか厨二病染みた部隊名だが、本当にそんな名前だったらしい。
なんで行動隊にそんな名前をつけたのか『中佐』の考えを聞きたいものだ。

>ホルスト・ヴェッセル・リート
有名なナチスの党歌。別名”旗を高く掲げよ”。
因みに作詞者がどんな死に方をしたのかは知らない方がいい。爆笑するから。

>コカイン
麻薬の一種。『中佐』率いる残党の資金源はこれだった。
それどころか極右政権自体がコカインの密売に手を染めていたそうで、1980年のクーデターがコカイン・クーデターと呼ばれるなど、あの頃のボリビアはコカインだらけである。


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