突風が雪煙を巻き上げ、視界が白く染まる。このまま進むのは危険だと判断して足を止めた。ただでさえ慣れない土地だ。この中腹は崖になっている場所も多く、下手に歩けば怪我では済まない。とはいえ、こう何度も足止めをくらうのは煩わしかった。
「そもそもギルドの交通手当が少なすぎるんだよな」
独り言は甲高い風の音に阻まれる。支給されたゼニーが予想外に少なかったせいで、俺はフラヒヤ山脈を徒歩で渡ることを余儀なくされているのだ。
ドンドルマの街でハンター登録を済ませた時、ギルドは村付きハンターの役を受ける者を探していた。ポッケという村の専属ハンターが怪我で引退し、急遽後任が必要になったらしい。ギルドは何人かのハンターに声をかけたが芳しい返事を得られず、登録を済ませたばかりの俺にもチャンスが巡ってきた。
駆け出しが何の役に立つのかは疑問だったが、ギルドによると先代ハンターに教示を受けられるらしい。街で手探りに依頼を受けていくよりは、人に習う方が効率的に腕を上げることができる。そう考えて話を引き受けた俺は、早速ポッケ村に向かうように通告された。かの村が極寒の雪山に抱かれていると知ったのは、その後のことである。
「準備に時間をかけて助かったぜ」
食料は多めに用意したし、防寒対策も完璧だ。このマフモフという衣装は、ポッケ村では普段着として愛用されていると街で聞いた。冷たい風を完全に遮断するのはさすがで、鞄に忍ばせたホットドリンクも、この分だと飲まずに済みそうだ。高価な買い物だったから、なるべく温存したい。
ほどなくして視界が回復した。鞄を背負い直し、一歩また一歩と雪原を進んでいく。そろそろ目的地は近い。
「ん?」
再び足を止めたのは、風鳴りとは違う音が耳に届いたからだ。もっと重く、低く、奥の方から唸るような。周囲を見渡し、上空を見上げ、白い太陽に目が眩んだ。その間隙を突いて、背後に何かが降り立つ。半目で確認できたのは、巨大な生き物の姿。直後、信じられないほどの大音量が場を支配した。
「く、うう……!」
衝撃で雪が舞い上がる。俺は両耳を押さえ、成す術もなく膝を折った。大地が揺れているかのようだ。轟きの中心にいるのは、黄色い甲殻に青のストライプが走る、派手な外見のモンスターだった。開いた口には鋭利な牙が並び、地面を乱暴に踏み締める腕は屈強、その先の爪は研ぎ澄まされている。
このような事態を考えていなかったわけではない。フラヒヤ山脈は危険な狩場として指定されており、ハンターたちの間では雪山と呼ばれる。だが事前に確認した街の掲示板では、狩猟環境は安定していたはずだ。全く当てにならないではないか。
幸い奴の意識は別にあるらしく、俺には見向きもしていない。今なら雪影に隠れて避難できそうだった。姿勢を低くしたまま少しずつ距離を取っていく。そして奴の視線の先にあるものを見て、あっと声を上げた。そこにあるはずのないものを見たのだ。
「離れろッ!!」
ほとんど反射的にペイントボールを投げつけていた。濃い桃色の煙と特徴的な匂いが辺りに充満する。モンスターは何が起こったのか分からず、周囲を窺っている様子だ。その隙に俺は奴が狙っていたものへと駆け寄る。
そこには少女と呼ぶにはまだ幼い女の子が倒れていた。マフモフとは違う防寒着をまとっており、意外なほどに血色は良い。まだ遭難から時間は経っていないようだ。それでも体温は寒風に奪われており、その手は恐ろしく冷たかった。あまり猶予はない。
明確な敵意を感じて顔を上げると、凶悪な相貌が真正面に俺を捉えている。狩れるか。奴と自分の力差など考えずとも分かる。勝機を見出すのは難しかった。逃げるにしても、この子を抱えたままでは至難の業だろう。だが俺が助けなければ、この子はモンスターに喰われるか、じきに凍死体に変わるか、二つに一つだ。
「どうしよう。どうすれば良い」
決断は急がねばならなかった。打つ手を模索している間にも、この子の身体は衰弱していく。もちろん俺自身も生命の危機にあった。ハンター生活が始まる前に終わってしまうなんて笑えない。俺はこんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
先に動いたのはモンスターの方だった。あの太く分厚い爪が地面を抉り、雪の下に隠れていた土さえも巻き上げながら、猛烈な勢いでこちらに向かってくる。あんな爪で引き裂かれたら即死だ。俺は彼女を抱えたまま、奴の直進軌道から外れた。勢い余って背後の壁に激突したモンスターは、牙が刺さり身動きが取れなくなったようだ。今のうちに離れなければ。
奴の突進によって雪煙は濃く、焦りも相まって方向を見定められない。何処へ逃げれば良いのかも分からずに走り続ける。そして右足が地面を踏み抜き、慌てて後ろに倒れ込んだ。この先には道がない。吹き上げる突風から察するに、ここは崖になっているのだ。
その時、あの獰猛な咆哮が響いた。頭を両手で掴んで揺らされているような、轟々たる音の暴力。そして力強い四肢が雪を踏み締めては振り上げる。絶対強者の影が背後まで迫っていた。もはや選択肢は一つしかなかった。
「どうにでもなりやがれ!」
俺は飛んだ。先の見えない真っ白な世界へ飛び込んだ。抱えた小さな命を守るため、両腕で庇うように抱きしめる。沈黙と浮遊感。ひどく現実味のない一瞬を経て、地面に叩きつけられた。
「かはっ」
雪が緩衝材になったとはいえ、飛び降りるには少し高すぎたようだ。いくら力を込めても身体は動かず、上手く呼吸ができない。何度か試行を繰り返し、ようやく冷たい空気を吸い込んだ。
揺らめく視界の奥に、こちらを見下ろして吠える奴の姿があった。ここまで下りてくる気配はない。先ほどよりも小さく聞こえるのは、単に距離が遠いからか、感覚の働きが鈍くなっているからか。瞼は重たく、今にも意識が飛びかけそうだ。
「まだ……俺は……」
最後の力を振り絞り、鞄を手繰り寄せる。無造作にホットドリンクの瓶を掴み取り、震える手で封を開け、彼女の口に流し込んだ。既に身体は冷えきっており、その命は風前の灯に等しい。微かに残った熱を守ろうと抱え込んだ。甲高い風の音が遠ざかっていく――。
* * *
まず視界に映ったのは木造の天井だった。少し考えて、自分が室内で横たわっているのだと理解する。鈍い痛みを耐えながら、腕を目の前まで持ち上げると、白く清潔な包帯が巻かれていた。そして背中には柔らかい感触。俺はベッドに横たわっているのか。
「目が覚めたか。おっと、まだ起き上がらない方が良い。全身の打撲と凍傷が回復していないはずだ」
落ち着いた女性の声だった。素性の知れない相手を警戒し、忠告に逆らって体勢を起こす。やはり見知った顔ではない。細身のボウガンを背負っているが、この人は俺と同じハンターなのか。
「ここはポッケ村。崖下で倒れているキミたちを見つけたのはこの私だ。感謝してくれたまえよ」
恩着せがましい台詞を聞いて、ようやく状況を把握できた。俺は崖から飛び降りて、モンスターの強襲から逃れた。そして意識を失ってしまい、この女ハンターに助けられ、奇しくも目的地であったポッケ村に到着したのだ。
「そうだ、あの子は……俺と一緒に女の子がいたはずだ! あの子は無事なのか!」
「大声を出さないでくれ。心配しなくても、さっきからここにいる」
えっ、と間抜けな声を上げてしまった。すらりと背の高い女ハンターの隣には、たしかに小さな女の子が立っていた。雪山で会った時と違い、マフモフの衣装を身に着けている。あの時は気づかなかったが、街でも滅多に見かけない青紫の髪色をしていた。
俺が大声を上げたせいで、今は少し怯えているように見えた。無理もない。最近歩き始めたばかりかと思われるほどに幼いのだ。
「さて、私も暇ではなくてね。予定より三日も伸びてしまったが、これで街に戻れる」
「街に? 待ってくれ、まだ聞きたいことが」
「部外者の私よりも、村長と話をするべきじゃないか?」
ハンターは女の子に向けて優しい笑みを浮かべると、荷物を持って部屋を出て行ってしまった。後には俺と彼女の二人が残される。明るい光が差し込む窓の外から、村の子供たちの笑い声が聞こえた。外を駆け回って遊んでいるのだろう。ここが平和な場所であることを実感する。
「えっと……その、無事で良かったな」
とりあえず声をかけてみると、女の子は無言で頷いた。目立つ外傷は見当たらない。俺が寝ている間にすっかり回復したのだろう。子供の治癒力は大人より遥かに高い。
「俺はベルク。この村のハンター……になる予定の男だ。君の名前は?」
「……あいね」
たどたどしい返事だが、充分に聞き取れる。幼児の成長については詳しくないが、言葉は既に話せるらしい。ひとまず会話が成立したことに安心した。
「よし、俺は村長と話をしてくるかな。アイネも一緒に来るか?」
再び彼女は頷いた。幸い嫌われてはいないようだ。痛みが残っている右腕に体重をかけないようにして、そっとベッドから下りる。すると彼女は俺の傍までやって来て、小さな手を伸ばした。
「手を繋ぎたい……のか?」
その手を恐る恐る握ると、彼女は初めて笑顔を見せてくれた。どうやら正解だったらしい。アイネを連れて扉を開けると、外は澄みきった空気で満ちていた。雪山の村は気温が低く、余計に小さな手を温かく感じる。
村人とすれ違う度に、ハンターさんと親しげに話しかけられた。俺が眠っている間に、不名誉な遭難は村中に知れ渡っており、すっかり有名人になってしまったようだ。小さな村だけあって、情報が伝わるのも早い。
「ラプラスさんなら、もう村から出て行っちまったよ」
誰のことかと尋ねると、さっきの女性ガンナーの名前らしい。彼女は街を拠点にしている熟練ハンターで、あの日は偶然ポッケ村を訪れていた。俺たちを雪山で回収した後、目が覚めるまで滞在期間を延ばしていたそうだ。そういえば、まだ礼を言えていない。ハンターとして活動していれば、いずれ再会できるだろうか。
「おお、すっかりよくなったようだの」
田舎村の中でも目を引く巨大な鉱石。その傍らに二人の人物が立っていた。一人は俺の腰程度の背丈しかない、竜人族の村長。もう一人は俺よりも体格の良い隻腕の男だ。彼は快活に笑うと、自分が先代のハンターであることを述べた。
「初めまして。ポッケ村の村長と、先代ハンター殿。この度は……」
「堅苦しい挨拶は後にしよう、ベルク。先に話しておきたいことがあるのだよ」
村長は先代ハンターの男に目配せをすると、俺の隣にいたアイネに声をかける。そして彼女を連れて、その場から離れて行った。アイネには聞かせたくない話なのか。
「素直で聞き分けの良い子だな。初めはキミが街から連れてきたのかと思ったんだがね」
村長に代わって、先代ハンターが口を開く。その言葉の意味が分からず、返事には少しの時間を要した。
「どういうことだ? 俺はあの子が雪山で倒れているのを見つけたんだ」
「あの子はポッケ村の子ではないんだ。自分の名前や生まれも覚えていない」
隻腕の先代ハンターは話を続ける。ラプラスさんが見知らぬ遭難者を連れて戻った時、彼らポッケ村の人々は大いに驚いた。荷物に入っていたギルドカードから、男の方が後任のハンターであることは判明した。問題は幼い女の子の方だ。男が連れてきたのかと考えたが、ギルドからそんな話は聞いていない。村長たちは、彼女が全くの外部から雪山に迷い込んでしまったと結論付けた。
「あんな小さな子が一人で雪山に入るわけがない。きっと連れがいたはずだ」
とはいえ、見つかる望みが薄いことは分かっていた。もし彼女と同じ時期に遭難しているとすれば、時間が経ち過ぎていた。あの日は例のモンスターも徘徊していたのだ。
「街には青髪の少女を保護したと伝えてある。今のところ反応はないがね」
彼女の連れが生きていれば、すぐに街の情報を集めてポッケ村に連絡を入れるはずだ。そうでない事実が何を意味するか、想像は容易かった。
たしかに彼女は命を取り留めた。けれど命以外の全てを失ってしまったのだ。あの小さな女の子は、名前も、家族も、故郷も、永遠に取り戻すことはできない。
「……あの子はどうなるんだ」
「安心したまえ。村長が引き取り、育てるそうだよ。私を含む村人たちも同意している」
「アイネという名前も村長が?」
先代ハンターが頷く。村長が引き取ってくれるなら安心はできる。それがアイネにとって幸せなのかは分からないけれど。本当に助けるべきだったのか、俺の行動は正しかったのかと、自責の念は止められなかった。
「キミにも懐いているようだし、たまには遊んでやりたまえ。あの子はキミの命の恩人だしな」
「もちろんだ。……ん、アイネが命の恩人?」
「あの子がおらねば、ヌシは命を散らしておったかもしれぬ。もちろんあの子にも同じことが言えるがの」
いつの間にか村長が戻って来ていた。アイネは他の子供たちと遊んでいる。彼女の姿を遠目に眺めていると、村長たちの言葉の意味に気づくことができた。
もし一人で遭難していたら、ラプラスさんの救助は間に合わなかったのだろう。俺たちは互いの体温で、互いの命を救ったのだ。渦巻いていた後悔や罪悪感が氷解していく。
「さて、ここからは仕事の話をしようかね」
そうだ、俺は一刻も早く村付きハンターとして力を付けなければならない。雪山で遭遇した狂暴なモンスター。あんな奴が麓まで下りて来たらと考えると身がすくむ。正直あまり自信はないが、弱気になってはいられない。
俺はハンターだ。このポッケ村を、アイネの新しい故郷を、守ってみせる。