「月はどこだ」第■回聖杯戦争の勝者だったカリギュラは、聖杯の前にたどり着きマスター死亡のため魔力枯渇で昏睡状態へと陥った。聖杯は彼の存在を保ち、休止状態へと移行。それは、百二十年前のこと。
目覚めたカリギュラが町を彷徨って、皇帝特権でシェルターの扉を抜けて荒野へ出ていく話。
神秘は既に絶え、神々は永劫の眠りに落ちた。皇帝カリギュラ、その残滓。母(ディアーナ)に取り残された月の愛し子。

三日間の不審者の噂は、一月もせずに消え失せるだろう。その存在は犯罪予備記録データベースに残るだけ。電子の海を彷徨うだけ。この時代の人間は、理解できぬ物に関わり続けられるほど強くはなかったし、その心にもその時間にも空きなどなかった。


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つきがみえないかりぎゅらのはなし

 十三夜の月の光は、地上に整然と並んだ灯りに紛れて意味をなさなくなっていた。

 

 不意に地の底で鯰が蠢いて──否、断層がずれ、この星の表皮を揺らす。揺れは都市番号45-ONHD-8の建物群に吸収され、中の人間たちが気づくことはない。外壁のほど近く、山中の洞窟が崩れ落ちたことも、彼らは気づいていない。

 

 人のものとは思えない呻きを上げて、紅と黄金に身を包んだ男が瓦礫の中から這い出した。かつて、数千年の昔に栄華を極めた帝国、その第三代皇帝であったと誰が今の世で知るだろう。夜の帳に似た髪と、狂気を映す反転した赤の瞳──ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス。あるいはカリギュラの名で知られた男の亡霊である。

 

「余の、振る舞い、は、運命、で、ある」

 くずおれた木々の合間に立って、月の光を浴びながら黄金の鎧に身を包んだ男が言う。夜風に赤黒い外套を翻し、山の斜面を静かに、静かに降りていく。地にその手を付けて、それは獣が歩くような――あるいは真にそうであるのかもしれない。世界(ローマ)を統べた偉大なる獣、軍靴を履いた子(カリグラ)。

 

 日が昇る。低木の茂みの中に眠る男をこの町は知らない。三十年前には冬木と呼ばれていたこの町は、シェルター化に際して名前を変えた。かつて龍に愛されたことを示したその名も無機質な通し番号へ変貌を遂げたのだ。他のすべてと同じように。

 

 過去の暴君の記録に過ぎない彼は、非存在(0)と存在(1)との間に位置するもの。電子の眼では捉えられぬもの。夜が暴かれ、神秘の失われたこの世でも、そのことだけは変わらなかった。黒々とした夜空と滴る血の赤、その瞳が再び開かれたのは、一番星が出て半時間の後であった。

 まだ辛うじて、地上の光は月と星とを消し去ってはいない。けれどすくなくとも星は、時間の問題であることは容易に見て取れただろう。見て取ることができただろう。彼が狂気に犯されていなかったとして、の話だが。彼が勝者の権利を正当に行使することが叶っていたならば、の話だが。

 

 彼は月の女神に愛された子であった。記録の影とも言うべき今の現し身にもそれは反映されている。彼の嘆きも、彼の叫びも、すべては獣の喚きに同じ。意味を成さない、すり切れたカセットテープ。

 

 ゆらり、ゆうらり、月の子が進む。その歩みは偉大な将軍のようであり、地を這う獣のようであり、広大な地の君主のようであり、白痴の狂人のようであった。それらはすべて、彼を表わすに相応しく、そのどれもが彼を表わすには不足した。

 

「捧げ、よ。命の、すべて、魂、の、すべて」

 酒精と病に冒された喉から絞り出されるその声は、母を亡くした子の悲嘆かはたまた自らを神と名乗ったものの驕傲か、けれどどちらにせよその音も、工場の駆動音と夜霧に吸い込まれていくだけである。

 

 この時代、既に神秘はその大半が失われていた。幻想は幻想に過ぎないと人々が信じるようになってから、宗教すら気休め以上の価値はないと公言するようになってから、竜は死に絶え吸血鬼は白日の下へ晒された。そしてチグリスのほとりから、エルサレムから、オリュンポスから、神々もまた、姿を消した。

 

 ふらり、ふらり、彷徨って──今はもう使われていない古い型の家屋の中、身一つで暖を取ろうとするかのように、カリギュラは身を丸めた。

 

 そして、朝が来る。彼は人の目には映るかもしれない。けれど、計器が何も言わないのにこんな場所まで来る人間などいない。誰もこの皇帝を知らない。たとえ見たとして、彼に、彼らに、何ができただろう。教会は既に名を捨て、時計塔も過去の遺物と化した。その中にはもう誰もいない。亡霊の眠りを妨げるものはどこにもいない。

 

 都市の喧噪に、カリギュラが煩わされることもない。幼い頃は戦場のただ中にいたのだ、減音設備が行き届いたこの時代は静かなものである。

 

 満ちた月が東の空を照らす。

 

 かつて、月は狂気と愚行(lunacy)の原泉であった。カリギュラがまだこの世に生を受けていた頃、彼は月の女神(ディアーナ)の寵愛を受けたのだと噂された。そして彼の死後、時と共にそれは真実となった──英霊の座はあくまで、伝説と伝承を記録するものであるが故に、事実などというものはそれに関わりを持たないのだ。

 

 町を覆う壁に、カリギュラは手をついた。彼の存在を保っていた大聖杯──あるいはかつてそう呼ばれた黄金色の杯からはすでに遠く、彼をこの世界に繋ぎ止める楔(マスター)もない。マントを支える金の鎖はくすみ始め、その中心に輝いた翠玉(エメラルド)も欠け落ちていた。

 

 彼は金の剥がれ始めた靴で、壁づたいに歩く。壁を破壊しなかったのは失われた理性の欠片か、はたまた残された魔力の少なさを感じ取った獣の本能か。

 

 無機質なコンクリートの中に埋め込まれた制御盤(コンソール)にカリギュラが手を触れる。現界に際して与えられた権限(スキル)の一つ、魔術師には「皇帝特権」と呼ばれたそれはまだ有効であったらしい。あらゆる皇帝のなかでも最高クラスの権限を持つ彼は、手慣れた職員のように外界への扉を開き、くぐり抜けた。

 

 身に纏った布地が古び、風と一体になっていく中で、背後の扉が閉じていく。二十八年でその生涯を閉ざしたかつての君主は、そうして無人の地に足を踏み入れた。

 滅んだことを彼だけが知らぬ帝国、その領地を拡げるために。

 

 彼は、暴君だった。それは紛れもない事実である。彼は君主であった。彼はその故に人類史に名を刻んだ。彼の狂気が病でなく女神の愛によるものであるなら、英霊カリギュラのすべては女神ディアーナのものだった。彼の運命は、彼の魂のすべては彼女のものだった。

 しかし、女神は行ってしまった。人類史の向こう側、消失した神秘の側に。カリギュラはここに、一人残された。

 

 彼の知る月はいつだって、彼を愛する女神だった。

 

「月は、どこ、だ」

 

 女神はもういない。彼の知る月は、もう存在しない。これからずっと、記録の中にしか。

「違う。違う、違、う……」

 

 彼の知らない天球が、真円を描いて浮かんでいる。

 

 カリギュラは歩く。彼には見えない月と共に、西へ。西へ、征服すべき地を求めて。仮初めの肉体が消え去るそのときまで。


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