「浅日クン」
緩やかな口調を向けられて長政はノートから目を離した。前に目を向けると繊弱にも見える白一色の医師がいる。
「お勉強しとるの?」
「はい、午前中の行われた真琴のオペを見せていただけたのでレポートを…」
「ふぅーん」
なるほどなぁとつぶやいた秀吉は長政の隣に座る。寄り添うような位置から長政の手元を眺めては「よう書けとるわ」と微笑む。
まだ学生でしかない長政にとって、豊白秀吉は雲の上の存在だ。もちろん他の医師たちも同様で、だからこそ医局内の派閥というのもよくわからない。
秀吉にレポートを見てもらった後に長政は今河医師から注意を受けた。
それは
「豊白先生に近付くな」
という子供じみたものだった。
ただ「だから豊白先生はいつもひとりなのか」と長政は真相に近付いた気がした。
就業時刻を終える頃に休憩室へ真琴がやってきた。長政は少しいたたまれない気持ちで幼馴染みを見る。
真琴は天才外科医として月城に招かれている立場だ。その強い立場なら派閥や人間関係に悩む必要はないだろう。
「長政、何かあったか?」
他人には鈍感な幼馴染みが長政に目を向けつつ向かい側の椅子に腰を下ろす。
「あの……人間関係…って、難しいね…」
「信長と秀吉のことか?」
曖昧な言葉を向けたはずが、真琴からはっきりと返されてしまう。
そのため長政は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「俺は本当に下っぱだから……難しいね」
「それは長政がそう思っているだけだろう。人と人の関わりはシンプルにできている」
長政は自然と真琴の言葉にうなずく。しかしその反面でやはりそれは真琴が強いからではないかと思えていた。
もちろん他にも強い医師はたくさんいる。豊白秀吉という人もそんな医師のひとりだと、長政も思っている。
「そういえば今夜は雨が酷いな。長政も帰るなら早く帰ったほうがいいぞ」
「うん……ありがとう」
真琴に返事をしながら長政は休憩室を飛び出していく。
そんな長政の背中を眺めていた真琴はややあって首を傾けた。そしてその目を室内にいる政宗と幸村へ移す。
「派閥争いに巻き込まれてるって話だよな?」
真琴の問いかけに幸村が肩をすくめた。
「人と人の関わりはシンプルって話だヨ」
「そういえば豊白はもう帰宅したか?」
幸村と政宗の話を聞きながらも、やはり意図を得ない真琴は首をかしげていた。
長政は学生として月城医大に通っている。そして秀吉は医大では教授という肩書きを持つ。
本来なら個人的な関係も心配も気遣いも向ける相手ではない。
それは長政もよくわかっていた。
それでも
土砂降りの雨の中、傘も指さずに歩く秀吉を見つけて長政は息を飲んでいた。
秀吉の希薄さが、降り注ぐ雨に紛れて消えてしまいそうなほどだったためだ。
「豊白先生っ」
気づけば、長政は傘を放り投げて抱き締めていた。
秀吉がまとっているフードが冷たくその存在感を長政に伝えてくれる。
「どないしたの」
笑うような楽しげな声で秀吉が長政を見る。
長政はそこで慌てて離れると傘を拾って秀吉から雨粒を防いだ。
「フードかぶっとるからそんなに濡れへんのに。浅日クンはほんまエエ子やね」
前髪から滴を落としながら秀吉はいつもより弱々しい笑顔を見せる。
それを見た瞬間、長政は秀吉の手をつかんでいた。ひんやりと冷たい手をつかんだまま雨宿りのできそうな施設を見つけて強引に駆け込む。
それがラブホテルだと気づいた秀吉は慌てて長政の腕をつかんだ。
「浅日クン、ここはさすがにあかんて……」
「こんなに冷たくなってしまって、何を言っているんですか。医大に戻るにしても暖めないと風邪を引きますよ」
何かの使命に取り付かれたように部屋を選んで廊下を突き進む。やがて部屋に入ると長政は傘を隅に置いて自分の服を脱いだ。
「浅日クン……俺はなんもせぇへんから」
「だめですよ。服を脱いでください。先生が風呂で暖まっているうちに服を乾かし……」
言葉は途中で途切れ、長政はゆっくりと秀吉に顔を近づけた。
室内を見回していた秀吉は眼前に迫る長政の顔に気付く。顔を向けると視線がぶつかった。
秀吉が長いまつげを閉ざすと長政は一瞬、唇の端にふれる程度のキスを落とした。
やがてゆっくりと目を開かせた秀吉は年下の学生を見上げる。
するとそこにはいつもと違う真面目な顔がある。
「寂しい時は言ってください。俺はいつでもあなたのそばにいますから」