それは愛にも似た、 (pezo)
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プロローグ もしくは終幕

 

 

 

「総員、撤退せよ!!全速力で駆け抜けろ!!!」

 

前方で班長が叫んだ声が耳の奥でこだました。言われなくても、バカみたいに走っている。鬱蒼とした巨大樹の森の中、奴らの息づかいがすぐ背後で聞こえる気がした。

 

「振り返るな!走れ!!!」

 

斜め前を走っていたイワンが私の顔を鬼の形相で睨み付けながら叫んだ。必死で振り返りたい欲求を抑え込み、恐怖に震える奥歯をかみしめて手綱を握り直した。

薄暗い森の向こうに、平地に広がる木々の切れ目を見つけて、僅かに生きる希望を見いだした気がしたそのとき。

 

「      」

 

何か言ったような。何も聞こえなかった。前方を行くイワンの頭が、その巨大な口に横から飲み込まれて、首が。

真っ赤に染まった視界に目を閉じた瞬間に、私の身体はしたたかに地面に叩きつけられた。

 

ぼたぼたと液体が地面を打つ音と、身の毛のよだつような咀嚼音が耳に入ってきたのと、鼻をつく濃厚な血が香ったのは同時だった。見上げれば、目の前でその巨人が人間の胴体を食んでいたところであった。

 

――ああ、自由の翼が見えない。赤く滲んで、兵服の翼が。

 

巨人がぐるりと首をもたげながら、胴体をかみ切ろうとする音が森のなかに響く。そうか。人間と同じ、平らかな歯しか持っていないから、かみ切れないんだろう。

場違いにそう思った矢先に、その巨大な黒目が私を捕食対象として捉えた。あの、黒くて焦点の合わない瞳は、まるで鮫のような――。

 

「シグリ!!」

 

飛べ。

 

そんな声が聞こえた気がして、はっと我に返る。両脇の立体機動を握りなおしてアンカーを射出しようとするも、装置は間抜けなガス音だけ出して動かない。

 

「故障した?!」

 

目の前でイワンのものだった下半身がぐしゃりと音を立てて地に落ちた。口元から下を真っ赤に染め上げた巨人が、手を伸ばしてきて。私は、迫り来る死の恐怖に凍り付いてしまった。

 

――何を、期待してたんだろう。

 

世界は私を中心には動いていない。この世界のなかでは何もかもが無意味で、主人公になんてなれない私は、物語の始まる前に退場する。無意味に。無惨に。名も無き惨めな一兵卒として。

 

生きる意味も見いだせずに。何も残せずに。

 

 

 

「シグリ!!!」

 

アンカーの射出音と、ガスの噴射音が聞こえる。

 

――シグリ。

 

「勝利」を意味する名を託してきた男の顔が脳裡をよぎった。その期待に答えることも、否と言うことすらできずに。

しかし、一向にその瞬間は訪れない。あれと瞬きをしたのと、巨人がその張り付いた笑顔のまま、ゆっくりと地にひれ伏したのが同時だった。

 

「シグリ!大丈夫か!?」

 

「……ミケ?」

 

巨人のうなじを削いで舞い降りたのは、分隊随一の実力を持つ屈強な兵士だった。

 

 

「飛べるか?」

 

「い、や、故障、して」

 

 

トリガーを握っても、カチカチと音がするだけだ。何度も握ってみていたら、馬たちが走り寄ってくる音がした。

 

「ミケ!シグリ!無事か」

 

「ああ」

 

「すぐ出発する。巨人の群が迫ってきている。まずは本隊に合流だ」

 

 

数体の蹄の音。頭上で男達の声がする。

 

「シグリ」

 

呼ばれて、顔を上げれば、僅かに森に差し込む陽光に、金色の髪を輝かせた碧眼の男が手を伸ばしていた。

 

「乗れ」

 

生きろと言われた気がして手をとれば、あっという間に馬上へと引き込まれた。男の両腕に囲まれるような形のまま、馬が駆けていく。

イワンだったかけらが背後に遠のいていき、進む道の途中に「駆けろ」と号令していた班長の首や、同じ班員の女性兵士のキレイな右手が落ちていたりして、その死体のカケラたちに「自分が生きている」ことを実感した。

 

生きている。生きている。生きている。

 

――生きている。

 

森を抜ければ、草原の緑と、透き通った空の青が広がる。隔たりのない広野に出て、後ろの男を仰ぎ見れば、彼は珍しく眉をひそめて苦渋に満ちた表情をしていた。

 

「――エルヴィン、」

 

手綱を握る大きな右手が、私の身体を少し抱いた。

 

「君が生きていて、よかった」

 

 

 

それが彼の人としての本音だったのか、それとも調査兵としての言葉だったのか。それは今となってはどうでもいいことだ。

それは、私の初めての壁外調査であり、二度目の壁の外の体験だった。

 

 

844年、春のことである。

 

 

 

 

 



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第一章 平穏と不穏

 

 

――兄貴、空が抜けてる。

 

 

初めて「空」なるものを見たときの妹分の声が遠くで聞こえた気がして、リヴァイは振り返った。

壁の上。シガンシナの雑多な家屋群を遥か足元に見下ろしながら、十数名の調査兵たちが立体起動装置をつけた装備のまま、駆け足で行軍していた。

壁付近での戦闘を想定した、壁上訓練の最中であった。リヴァイはその行軍の最後尾を駆けている。振り返った背後には、ただひたすらに広くて大きな青が広がり、遥か彼方で山の緑と溶け合っていた。

 

一月と少し前、あの地平の向こう側に、彼は妹分たちを置いてきた。正確には、妹分たちの遺体を。

 

「リヴァイ!よそ見するな!!」

 

前を走る班員の叱咤に、リヴァイは一度首を振って、前を向く。後ろ髪を引かれるような感覚があったが、死んだ者は語らないと彼は知っている。壁の向こうに置いてきた昔馴染みが呼ぶ声は、己の心の傷の深さ故なのだ。そう、冷めた心地で分析して、行軍に没頭するよう心がけた。

彼の居場所はもう、地下にはないのだと、彼自身が一番よく理解していた。

 

 

数時間に及ぶ壁上訓練の後、彼ら十数名の調査兵は、装置を下ろして各々に休みをとった。

 

「しかし、壁の上はいいな。向こう。あっちがこの前の調査の方向か?」

 

「ああ。こっちの方向は行ったことがないな。そういえば、北の方角への調査はお前行ったことあるか?」

 

 

「あ、あれ見ろ。あんなとこで駐屯兵のやつ、さぼってんじゃねえか?」

 

「駐屯兵団はほとんど働かねぇからな。壁掃除団ってとこだろ」

 

 

首元を通り過ぎる風は穏やかだ。それぞれに会話を楽しむ調査兵の間にも緩やかな空気が流れているのは気のせいではない。それは、まだ次の壁外調査の日程が決まっていないことが大きいのだろう。噂では、まだここから先二月はないだろうと言われていた。

死ぬ日が決まっていなければ、死地へと飛び立つことを任務とする調査兵たちも、少しばかり生きる余裕が出てくるらしい。

 

――それも、束の間の平和だ。

 

腰に下げた水袋に口を付け、喉を潤しながらリヴァイは思った。常に緊張感を漲らせていた兵団の仲間たちが、こうも穏やかに笑いながら訓練を行なう様子は、彼にとっては初めて見るものだった。

 

「リヴァイ。大丈夫かい」

 

ぼんやりと他の兵士たちの様子を見つめながら休憩していたリヴァイに声をかけたのは、短い金髪が特徴的な線の細い兵士だった。

 

「何がだ」

 

「さっき注意されてたろ。珍しいと思ってさ。体調でも悪いんじゃないか?」

 

「問題ない」

 

無愛想に答えるリヴァイの前に、その兵士は腰を下ろした。

 

 

「そうは言ってもね、顔色もあまり良くないよ。熱があるんじゃないか?自覚症状はない?」

 

青い瞳がのぞき込んできたので、リヴァイは鬱陶しそうに身を引いたが、その兵士は構わず彼に触れようと細い手を伸ばしてきた。

 

「おい、ナナバ。やめろ」

 

「ほらやっぱり。身体が熱いし、力も入ってないじゃないか」

 

その女兵士の細い手を払いのけようとしたリヴァイの手が、逆に彼女に押さえられた。握られた右手首が気持ち悪い。

 

放せ。

 

そう呟いたその声は、しかし音の形をとることなく、彼の喉にとどまって消えてしまった。ナナバの声が遠くの方で聞こえた気がして、マズイとリヴァイが気付いたときには、ぐらりと世界が回って、すぐに視界は暗く落ちた。

 

*****

 

 

――ちぐはぐな世界なんだ。まるで、透明の繭の中に隠されている何かがあるような。

 

 

――あの時に見た「道」は、この壁の中にいる人びとの繋がりと何か関係が。

 

 

揺らめく白い意識の中、呟く女の声が僅かに響く。語りかけるというよりかは、ぼそぼそと呟くような声。それが何を述べているのかは曖昧としてよく分からない。その声を辿ろうと、耳をそばだてようとしたとき。

 

は、とリヴァイは目を覚ました。茶色い天上と、視界の隅で風に揺れる白いカーテンが視界に入ってきた。

ひどく身体が熱く、思考が曇っている。全身の気怠さを抱えながらも、己の身を包む白くて清潔な白いシーツを握りしめた。

自室ではない。いつもの、騒々しくて薄汚い相部屋ではなかった。自分に支給されているものよりも遥かに清潔なシーツは、太陽の匂いを抱きしめていて、リヴァイはくぐもった思考のなかで、そのシーツに頬を寄せた。

 

「起きた?私の声、聞こえる?」

 

女の声が、思わぬ近さから語りかけてきて、リヴァイはぎょっとして咄嗟に身を起こした。

 

「ああ、ごめんごめん。警戒しないで。突然声かけて悪かった」

 

落ち着いた、しかし明るい声が笑った。

 

 

「お前、」

 

「シグリだ。シグリ・アーレント。エルヴィン分隊長の副官だから会ったことあるんだけど、覚えてるかな」

 

黒くて大きな瞳が、リヴァイを見つめる。

 

 

「前の調査で一緒の班になっただろう?フラゴン隊が壊滅した後だったから、あまり記憶にないかい?」

 

 

ベッドの脇の椅子に座り微笑む女が少し首を傾げた。

 

前の調査における、リヴァイと彼の馴染みが属したフラゴン分隊と、奇行種の襲撃によるその壊滅。

 

 

雨と血と、腐ったような巨人の臭気が鼻の奥で臭った気がして、リヴァイは思わず顔を伏せた。

 

 

「大丈夫?まだ横になってないと、」

 

「触るな!!」

 

 

伸ばされた手を、今度こそ冷たく払って拒絶した。

 

 

彼にはもう、地下には戻るべき場所はない。それは確かだが、だからといって地上に彼の居場所があることにはならないのだ。

 

 

 

追うと決めた背中はあるが、それを追う自分の立つ場所は未だ独りの戦場だった。

 

 

 

 

 

シグリと名乗った女は、悪かったよ、と静かに言ったものの、その場を去る気はないらしく、立ち上がりながら話を続けた。

 

 

「壁上の訓練中に倒れたのは覚えてる?あれから半日は寝てたんだ。もう夜も明けて朝になったばかりだ。今日の訓練は休めと命令が出てるから、あなたはしっかり眠って回復に勤めるのが今日の仕事だ」

 

 

はい、と水差しからコップに移した水をリヴァイに差し出してきた。

 

 

「昨日から何も口にしてないんだ。飲みたくないかもしれないが、飲まなきゃだめだ」

 

 

柔和な笑みを引っ込めて、厳しく言う女に、リヴァイは舌打ちしながらそのコップを受け取った。あおった水は冷たく喉を潤す。そこでようやく、彼は自分がひどく喉が渇いていたことに気付いた。

 

一気に水をあおったリヴァイに、女は満足そうに笑った後、空になったコップを受け取って再び水差しの水を入れてくれた。冷たいからもう少しゆっくり飲まないと腹を下す、と一言余計に口を出しながら。まるで子供に言い諭すような口調に苛立ち、何か言おうとするも、潤った身体に、熱による倦怠感が再び襲いかかってきて、彼はずるりとそのまま横になった。

 

女はけだるげに倒れたリヴァイの手からさらりとコップをすくい出して、脇の椅子に座った。

 

 

「……一人で大丈夫だ。出て行ってくれ」

 

 

まさか看病する気ではないだろうなと危惧して、それだけ言えば、女はきょとんとした顔をした後、破顔した。

 

 

「ここは私の部屋だ」

 

「は?」

 

 

「熱中症かと思ったけど、どうやら風邪のような症状も出てる。感染病だとまずいから、医務室から移動させたんだ。地下特有の感染病だと、他の兵士にうつればどうなるかわからないからね。逆に、地下にはない病気にかかってしまったのなら、しっかり看ておかなければいけないし」

 

 

だから気にせず寝てていいよ、と笑う女の手元には、何やら分厚い本が開かれていた。うつろになりつつある思考のなかで、周囲に視線を配れば、なるほど、そこは確かに医務室ではなく、一人の兵士の自室のようだった。

 

 

小さな一人部屋は、班長クラスに与えられる部屋である。その小さな部屋のなか、壁面の棚には本がびっしりと詰め込まれており、ベッドの反対側の壁には大きな執務机がある。その上には、何やら書類が積まれていた。本や書類の類が多い殺風景な部屋のなかで、ベッド脇にある小さな出窓に添えられた青い花だけが、人間らしさを演出していた。

 

物の多い部屋だが、しっかりと掃除は行き届いているらしく、リヴァイが寝泊まりする相部屋のようなカビ臭さもなかった。薄汚い、と彼が嫌悪していた調査兵団の兵舎のなかでも、なかなか居心地の良い場所に思えた。

 

 

「また治ったら仕事が待ってるんだ。今は休んだ方がいい」

 

 

ゆったりとした女の声に、意識は鈍化していった。ここで寝るのはまずいと彼の理性は告げるが、久方ぶりのベッドと、身体を侵食する熱に、いつしか意識は遠のいていった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「おや、珍しいな」

 

 

白いベッドの中で眠る新兵の姿に、その男は面白そうに言った。シグリはしい、と人差し指を立てて「やっと眠ったところだから」とそれを諌める。

 

 

「君に懐いたのか。妬けるな」

 

「冗談。起きてた時はまるで警戒心の強い野生動物そのものだったよ。それほど調子が悪いんだ。医者が言うにはおそらくただの風邪らしいけど……。精神的なものもあると思う」

 

 

ふむ、と頷いて男は執務机の椅子に腰かけた。

 

 

「しばらく任せていいか」

 

「いいけど、私はどこで寝ればいいの?」

 

 

声を潜めて、シグリは問うた。さすがに男性兵士を女性兵士の私室にとどめ置くのはまずい、と異を唱える。しかし、彼女の上官である男は「治るまでは隔離しておきたい」とその反論をあっさりと棄却して、簡易ソファを運ばせると妥協案をうってきた。

 

 

「地下街特有の感染病ではないとは言い切れない。感染の可能性が少ない君が適任だ」

 

「……わかった」

 

 

ため息一つ。交渉は成立したらしい。シグリは立ち上がって、リヴァイの額に乗せていたタオルを取って手桶の冷たい水にさらした。

 

 

「ついでに彼と仲良くやってくれ」

 

「……どういう意味?……エルヴィン、私にどう動いてほしいの?」

 

 

呆れたような声が少し上ずったのを、今度は男がしぃ、と人差し指を立てて咎めた。

 

 

「まだ言えない。ただ、数日後にはまた「彼女」に会いに行く。手配しておいてくれ。あと、君とリヴァイにはしばらくの間、組んでもらおうと考えてる」

 

 

碧眼の男――エルヴィン・スミスが言った。副官である女性兵士はしばらくの間、その揺るぎない碧眼を見つめた後、「承知しました」と答えた。

 

 

「でも、彼と組む、というのは?」

 

「しばらくの間だけだ。君の研究の助手にでもすればいい。彼に「世界」を教えてやってくれ」

 

 

言って、エルヴィンは席を立った。そして、「話は変わるが」と執務机の書類をひとつ指さした。

 

 

「シグリ。この件からは手をひけと言ったはずだ。二度はないぞ」

 

「……何もしてない。書類整理してたら出てきただけだよ」

 

 

 

「死ぬことになるぞ」

 

 

 

部屋から出る前に、冷たい視線をひとつシグリに投げて、エルヴィンはするりと部屋から出て行った。

 

 

後に残ったのは、女の溜息と、新兵の規則正しい寝息だけだった。

 

 

 

 

 



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第二章 調査兵団

 森の中を、アンカーの射出音とガスの噴射音が幾重にも響き渡っていた。そのなかで、一際ワイヤーの巻取り音が速い者がいる。風のような滑らかな巻取り音は、徐々に森の出口へと移動していった。

 

「リヴァイ!○九、○三!」

 

森から飛び出してきた黒い影を見て、時計を持っていた記録係が短く叫んだ。一呼吸後、次々に同じような人影が森から飛び出してきて、地面に着地していく。

 

「速いな。兵団史上最速の記録だ」

 

 

入団から半年足らずの新兵を集めての立体起動術の訓練。森の中における飛行訓練を監督していた班長のミケ・ザカリアスはその記録に思わず感嘆の声を漏らした。

 

 

「ミケより?」

 

 

その呟きに驚きの声で返したのは、彼の部下であり同僚でもあるナナバだった。彼女の質問に無言で頷いたミケは、飛行訓練の最速記録の保持者であった。

 

 

「俺より○一は速い」

 

「……流石、エルヴィンの虎の子だね。病み上がりとは思えない」

 

 

入団当初から既に分隊長レベルの立体起動術を身につけていたリヴァイだったが、兵団における正規の訓練を受ける中で、更にその腕を上げてきていることは明らかだった。この調子でいけば、じきにミケが誇る兵団随一の巨人討伐数も軽く超えていくだろう。

 

――そのことに嫉妬がないとは言わないが……。

 

何よりそれは人類の希望だ、とミケは久方ぶりに気分が高揚するのを覚えた。

 

その後、ミケは戻ってきた新兵たちに今日の訓練の終わりを告げ、それぞれに装置の整備を命じて解散とした。

 

「リヴァイ。どうだ?調子は」

 

 

新兵たちが歓談しながら兵舎へと引き上げていくなか、ひとり立ち去ろうとした彼にミケは声をかけた。小柄な割に威圧感のある双眸が、振り返ってミケを見据えた。しかし、その視線もここ最近少し和らいでいるような気がする。いつだったか、ミケが彼の綺麗好きを指摘した日からだろうか。ひとつふたつ、彼らは顔を合わせれば会話をする仲になっていた。

 

「ああ。悪くない」

 

「それはよかった。立体起動も調子がいいみたいだな」

 

「……前に指摘してもらったグリップの握り方。あれを変えてみただけだが。さすが、無駄に巨人を殺してないな」

 

最初は辟易した口の悪さも、ようやく慣れてきたところだ。ミケはうん、と頷いて「役に立てたならよかった」と素直にその心を口にした。リヴァイはその薄氷のような瞳を少し瞬かせた後、「ああ」と頷いて、

 

「ナナバにも、悪かったと伝えてくれ」

 

「うん?」

 

「迷惑をかけた」

 

ああ、と得心する。リヴァイは決して無口な類ではないが、どうにも言葉選びが下手な気がする。数日前、彼が倒れた時にそばにいたナナバが、医務室まで運んだり、世話人として指定されたシグリ副官の部屋まで連れて行ったりしたと聞いていた。それについて言っているのだろう。

 

「それは本人に言ってやれ。あいつは迷惑だとは思ってないから、礼を言ってやれば喜ぶ」

 

「そうか」

 

頷けば、その小柄な男の眉間のしわが少しだけ緩んだ気がした。本当に少しずつだが、彼が警戒心を解き始めていることに、ミケはわずかに喜びを覚える。

 

――まるで猫を懐かせようとしてるみたいだな。

 

警戒心の強い黒猫を、どう懐かせようか苦心するような気分だ。今はさしづめ、冷たい態度をとっていた猫が、己の足元で喉を鳴らしたときのような昂揚感がある。

 

しかし、相手は当然ながら可愛らしい黒猫ではなく、れっきとした成人男性である。それもかなりアクの強い。

 

「今日はもう上がりか?」

 

 

問えば、彼は一気に眉間のしわを深めた。入団当初のような鋭い視線で、大きなため息を一つこぼした。

 

「…………いや。シグリのところだ」

 

「ほう」

 

「今日はあいつ。……なんだ、あのクソメガネだ。名前は覚えていないが、あの汚ねぇやつもいるらしい」

 

「ハンジだな」

 

汚いクソメガネといえば、それしかいない。すん、と鼻を鳴らしてミケが言えば、「それだ」とリヴァイは二度目の溜息を洩らした。綺麗好きな彼からすれば、エルヴィン分隊に所属する班長、ハンジ・ゾエの生活ぶりは目に余るものがあるだろう。ハンジの臭いは、なかなか強烈だ、とミケは頷いた。

 

「それもあるが……。今日はシグリとハンジで巨人発生の起源についての討論を行うそうだ」

 

「……それは、まあ……、すごいな。それで?今回はお前は何を頼まれてるんだ?」

 

「書記だ」

 

「…………」

 

 

思わず黙ったミケに、リヴァイは「お前もどうだ」と自嘲気味に問うてきたので、ミケは丁重にその申し出を断った。思いつく限りの労いの言葉を述べたあと、兵舎の入口の前でリヴァイと別れた。

 

立ち去るリヴァイの後姿に、どこか憂愁を覚えるのは気のせいではないだろう。

 

巨人狂いの狂犬として知られる変人、ハンジ・ゾエ。エルヴィン分隊長公認のもと、最近巨人の研究を開始したというハンジは、確かに優秀な兵士だが、その並々ならぬ熱に、周囲の人間が遠のきつつある、と同期らしいナナバが嘆いていたのはつい先日だ。

 

そしてエルヴィン分隊長の副官であるシグリ・アーレント。一見柔和で人当たりの良い常識人に見えるが、彼女も一癖ある。彼女もまた、分隊長の許可のもと、壁内の歴史や壁以前の文化についての研究を行なっている。最近は主として、調査兵団の歴史や巨人討伐の歴代の方法について洗い直していると聞く。ハンジが巨人を実際の研究対象として物理的な実験を行なうのに対して、シグリは文献資料を主として巨人の謎に迫る研究者だと言えよう。実際、エルヴィンが長距離索敵陣形を考案した陰には、シグリの研究の蓄積があるというのは、エルヴィン本人の言だ。

 

ミケもまた、彼女たちの研究の重要性と、理解されづらい彼女たちの熱意を認めたエルヴィンの采配には頭が下がる思いがある。

 

しかし。

 

巨人のこととなると昼夜を問わず思考し続けるハンジと、資料収集のためなら禁書にも手を出す犯罪ぎりぎりのシグリに、辟易しているのも確かである。種類は違えど、彼女たちは恐ろしく苛烈で、その熱はもはや狂気の域に達している。

 

少なくとも、ミケはそう思っている。

 

もう一度、ミケが振り返った廊下の先には、もうリヴァイの後姿はなかった。彼が倒れてから、シグリの研究の補佐の仕事を追加されたというのは兵団内のもっぱらの噂である。誰もがその美人副官であり兵団内の人気も高いシグリの補佐という配置に羨望を覚えると同時に、彼女の苛烈な熱の餌食とされたリヴァイへの同情を覚えただろう。

 

――あいつは、苦労するな。

 

 

兵舎の窓から差し込む斜光に、夜の訪れを感じたミケは同情の溜息をもらした。リヴァイは今日、寝ることも許されないかもしれない。そう思いながら、彼は彼で自分の仕事へと戻っていった。

 

 

 



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第二章 調査兵団 二





 

 

「したがって、巨人の重量はその見た目に反して異常に軽く、その中身は他のどの生物とも異なる構造でできていると考えるべきである。これは、巨人が死んだ後、跡形もなく蒸発することと無関係でないと私は考えている」

 

 

「巨人の重量に関しては私も同意見です。そもそも、3メートル級ならまだしも、15メートル級の生き物が二足歩行をすることは物理的に不可能なはず。その証拠は別に検証を行なう必要はありますが……。そう考えると、巨人発生の起源は、生物進化の特異的な現れとして考えるよりも……。うん、リヴァイ、記録つけれてる?今、大事なところだから」

 

 

 

「できてない。無理だ」

 

 

 

「それで、シグリはどう考える?私はやはり巨人は人間としてではなく、昆虫のようなものだと考えた方がいいのではと思うんだけど。ほ乳類として考えるにはあまりに無理がある。昆虫の類いなら、」

 

 

「いやいや、待って下さいハンジ。それだと不可思議な点が多すぎる。まず、この100年近く、あの大量の巨人たちはほとんど食事をしていないということになる。壁以降の歴史文献を見る限り、人類が壁外へと出たのは本当に限られた数です。それならば、人類が壁の内側に閉じこもっていれば、自然に巨人は食料が得られずに勝手に数を減らしていくはず。しかし実際はそうではない。これはどう考えるべきです?生物として生きている限り、食料を摂取しないと生き延びることはできない。しかし実際には巨人は生き延び続けている」

 

 

低く起伏に富んだ女の声と、高いながらに透き通った女の声が、そうした言葉の応酬を始めてから、数時間にも及んでいる。

 

夜の帳はすっかり落ち、常ならば就寝時間もとうに過ぎた頃合いだった。夕食もそこそこにシグリの自室で行なわれた「討論会」は、未だその熱を下げない。

 

 

シグリに頼まれて書記を務めていたリヴァイは、もうその仕事を放棄してしまっている。まず、彼女たちは喋るスピードが速すぎる。内容も難解で、リヴァイには意味が分からない部分も多数あった。にもかかわらず、彼女たちは書記に対する配慮は一切持つことなく、バカみたいに議論を続けている。

 

時たまシグリがリヴァイに尋ねてくるものだから、最初は必死にそのつとめを果たそうとしていたが、リヴァイの答えを二人は聞いていないと気付いてから、ばかばかしくなってリヴァイは仕事を放棄した。

 

ただ、無為に過ぎる時間が勿体なく、ところどころリヴァイの中で興味がひかれた部分だけ、メモを取ることは怠っていなかったのは、彼の生真面目さが現れていると言えよう。

 

 

しかし、そろそろ潮時だ。

 

 

「なあ、もう就寝時間が過ぎてる。今日は終わりにしないか」

 

 

「シグリ!では、この仮説は!」

 

 

「いやいや、ハンジ!私はこう仮説している。つまり、巨人は「兵器」であると」

 

 

リヴァイの声は二人に届かない。短い黒髪の女が、メガネの女だけ見つめて、立ち上がって言った。対するハンジも、その黒髪の女の言葉に、ようやくその口をつぐんだ。

 

 

 

否、言葉を失った。

 

 

 

「そ、そんな。では、巨人は、人為的に作られた、ということになるぞ」

 

「そうです。その仮説の通りにいくと、壁の外には人間がいる可能性も出てくると思っています」

 

 

ついにハンジは口を開け放したまま、黙してしまった。そんな馬鹿な、という心情が、そのまま顔に出ていた。

 

 

ようやく止まった時間に、リヴァイはため息をついた。しかし、その仮説はなかなか面白いとも人ごとのように思い、まっすぐな視線を持つ黒目に問うてみた。

 

 

「……シグリ。その仮説の証拠は」

 

「ない。推測の域を出ません」

 

 

即答。ようやくその黒目は、リヴァイの方を見た。しかし、そのまっすぐな視線は迷いがない。まるで、その仮説に確信を置いているかのような。

 

 

「えぇぇえ……。ちょっと待ってくれ。壁外に人間が?ああ……、ちょっと整理しなきゃ、」

 

「メガネ。もう潮時だ。今日はここまでだ」

 

 

「ハンジ、壁外の人間については、」

 

 

 

再開されようとする議論の火ぶたに、ついにリヴァイの堪忍袋の緒が切れた。

 

 

 

「いい加減にしろ!てめえらの頭が良く回ることはわかったが、だからといって限りがないわけじゃないだろう。その証拠にさっきから同じようなことばかりぐるぐる回っていやがる。ねずみでもクソしたくなりゃ、休むだろうが」

 

 

ちりり、とランプの火が揺らめいた。リヴァイの言葉に沈黙が落ちた後、

 

 

「「……?え、どういう意味?」」

 

 

二人の明晰な頭脳が首を傾げた。

 

 

ぶつり、と何かが頭のなかで切れる音がしたのは、決してリヴァイの気のせいではない。

 

 

「あ、眠いのかな、リヴァイ。ごめんよ。もう戻っていいよ!」

 

 

シグリがそうかそうか、と笑った。

 

 

「何ほざいてやがる、どこに戻れと?」

 

「そうだよ、シグリ。リヴァイはまだ今日の朝熱が下がったばかりなんだ。あと二、三日、様子見でシグリの部屋での待機命令が下りてたじゃないか。リヴァイ、私たちのことは気にせず、どうぞ寝てていいよ!」

 

「え?リヴァイ、まだ待機命令解除されてないの?今日、訓練出てなかった?」

 

 

だめだよ~とのんびりとした女の間延びした声がふたつ、部屋に響いた。

 

 

病み上がりの新兵をこきつかい、彼への気遣いを失していたのは、紛れもなく彼女たちに非がある。だから、リヴァイがそれから行なったことについては、決して彼だけに非があったとは言えない。おそらく。

 

 

 

 

翌朝、エルヴィン分隊長に報告された事の顛末だけ述べよう。

 

 

 

その夜、リヴァイは再三たる制止の声を聞かなかった女性上官二名に暴行を加えた。ひとりはエルヴィン分隊のハンジ・ゾエ班長。もう一名はエルヴィン分隊長の副官シグリ・アーレントだった。

 

 

目撃者は深夜、風呂場に立ち寄った女性兵士と男性兵士二名である。彼らが夜中に風呂場に向った理由はさておき、女性用の風呂場の前で、小柄な男性兵士リヴァイが小脇にシグリを、肩にハンジを抱えて突っ立っていた。

 

 

「この汚物等を洗っておいてくれ」

 

 

気を失った二名を女性兵士の前で下ろして、リヴァイは手をハンカチでふきながらその場を立ち去ったという。

 

 

女性兵士と男性兵士二名は、状況が飲み込めないまま、気を失った二名の上官をひとまず医務室へ運び、夜が明けるのを待ってすぐにエルヴィン分隊長へ報告した、ということだ。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

朝一で報告を受けたエルヴィン分隊長は、呆れたように黙して、ため息をついたという。同じく朝一の報告に分隊長の執務室を先に訪れていたミケ班長が、「あいつら、最近風呂に入っていなかったな。ハンジは異臭がしてた」と思いだしたように述べたから、ますますエルヴィン分隊長は大きなため息をついたという。

 

 

「…………シグリとハンジには、午前中の休暇を与えると伝えてくれ。清潔にして、仮眠をとった後、午後に面会に来るように、と。リヴァイは……シグリの部屋だろうか。見つけたらここへ来るように伝えてくれ」

 

 

「はっ。……独房ではなくて良いのですか?」

 

 

「……ミケは、どう思う?」

 

 

報告にきた女性兵士が、暴行を加えた犯人の処遇について問えば、エルヴィンはそれには答えずにミケに問い返した。鼻のきくその班長は肩をすくめて短く。

 

 

「リヴァイに同情する」

 

 

 

と言った。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

新兵が女性兵士二名を暴行した、という由々しきニュースは、あっという間に兵団内に広がった。その懲罰として、暴行を加えた新兵には、五日間の待機命令が下され、上官二名には三日間の兵舎出入り禁止令が下された。

 

 

さらに詳しく言うならば、新兵は病気のための個室での三日間の待機命令が二日延長されただけの処罰で、上官二名には強制的な休暇の取得という処罰であった。ただし、無給かつ兵舎への出入り禁止、ということだった。上官二名とも、故郷へ帰れるほどの休暇ではないということだったから、兵舎への出入り禁止というのは、つまり外で宿をとれ、ということを指す。

 

 

処罰内容もさることながら、明らかに加害者より被害者の方が重い異例の処罰であった。

 

 

ただ、その加害者がリヴァイであり、被害者がシグリとハンジ。そして、その事件の勃発が、二名の討論会の最中であった、ということから、兵団内の全ての兵士は、「ああ、」と得心したという。

 

 

「皆がお前に同情している。まあ、彼女たちはああでもしない限り止まらないからな。やり方は肯定できないが、私も今回の件はお前に同情するよ」

 

 

少し笑いながら、その男は言った。隣を歩くその金髪の男に、リヴァイはふん、と鼻をならした。

 

 

「あいつらはいつもああなのか?シグリも……仕事が終わってからはずっと机にかじりついてやがる。俺が寝込んでいた数日間ずっとだ。休むのは寝ているときだけだ」

 

 

言ったリヴァイに、エルヴィンは帽子を少しずらして、その小柄な男をちらりと見下ろした。黒いジャケットに黒のスラックスを着て、いつものようにシャツとスカーフできっちりと身を固めた男は、まるでどこぞの高貴な貴族のような出で立ちである。まず元地下街のゴロツキとは思えない。知れば知るほど、不思議な男だ、とエルヴィンは思った。彼もまた、茶色のプライベートのスーツに身を包んでいた。

 

 

「彼女たちも仕事が多いからな。研究はプライベートの時間を削って行なっているんだろう。他の兵士たちが飲みに行ったり、故郷に帰ったり、女と遊んだりする時間、彼女たちは実験を行ない、文献を読みあさり、人類の未来に貢献しようともがいている」

 

 

その仕事ぶりには頭が上がらない。エルヴィンは本心でそう言って、少し笑った。彼からすれば、年下で自分に絶対的な信頼を預けてついてきてくれている彼女たちは、さしづめ可愛い妹のようにも思えることがあった。

 

 

「それでも、シグリはまだ余裕がある方だ。娯楽も「視野を広げるため」と楽しもうとするし、睡眠も食事も身体に支障が出ない限りでとっている。彼女はもともと身体が強い方ではないからな。身心の自己管理は他の兵士に比べても出来ている方だな。それに対して、身体も丈夫なハンジの方が無理をしがちだ。ずぼらな性格もあって、衣食住のほとんどを忘れることもある。まあ、そこが可愛らしいところなのかもしれないが」

 

 

「……どっちもただの変態じゃねぇか」

 

 

「まあ、そうとも言うな」

 

 

くつくつと笑うエルヴィンに対し、リヴァイは無表情で黙々と歩を進めるばかりである。まだ警戒心は強いが、その無表情が決して機嫌が悪いからというわけではないとエルヴィンは最近ようやく気付いた。彼のことは、今現在、彼と訓練を同じくする時間が長いミケやナナバがよく理解しているかもしれない。

 

 

――しかし、シグリやハンジもそのうち彼を理解するようになるだろうな。

 

 

面会に来た彼女たちの顔を思い出す。それぞれ、まるで面白いおもちゃを見つけたような表情で、リヴァイに対する感想を述べていた。二人とも、強制的に気絶させられた暴行の件については特に怒っておらず、それどころかそのあまりに極端な方法をとったリヴァイの行動理念に多大なる関心を持っていた。特にハンジは、彼の卓越した戦闘技術と肉体、そして「言語力の乏しさ」なるものにも興味を持っていたから、謹慎から戻ればしばらくは、リヴァイにつきまといそうな気がする。

 

 

「調査兵団はくせ者ぞろいだろう」

 

 

言えば、薄氷の瞳が細められて、「そうだな」と言った。どうやら悪くは思っていないらしい。思いの外、くせ者ぞろいのなかで彼は馴染みつつあるのかもしれない、と思って少し安堵する。

 

シグリやナナバの言では、彼はまだ人との接触への「拒絶」を示すものの、いずれそれも解消されていくだろう。彼がひとりであろうとしても、この兵団のくせ者たちは、きっとそれを許さない。無遠慮に、暖かく、彼を、彼が独り立つ戦場から連れ出すだろうとエルヴィンは確信している。

 

 

――もちろん、連れ出したその場所は、さらなる地獄の戦場だろうが。

 

 

 

「さて、着いたぞ。この店だ」

 

 

シガンシナ区の歓楽街の路地の奥。幾重にも細い路地を曲がったところに、こじんまりとしたその店はあった。

 

 

「ここに、お前に会わせたい女性がいる。これからお前にしてもらう仕事の話はそれからだ」

 

 

ドアを開ける前に振り返れば、薄氷の瞳がしっかりとエルヴィンを見つめて、

 

 

「……了解だ」

 

 

 

少しばかりの逡巡の後、従順に頷いた。

 

 

 

 

 



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第三章 二人の女と、二つの商会

 

 

ひどい酒だ、とリヴァイは独りごちた。

 

 

味の話ではない。場所の話である。

 

 

「お兄さんも「人類」のために戦ってるの?誰も頼んでいないのにすごいですよね」

 

 

甲高い女の声が左耳を打って、リヴァイは舌打ちをするのをこらえるために、酒に口をつけた。

 

 

エルヴィンに連れてこられたその店内は、落ち着いた雰囲気で、重厚な革張りのソファが心地よかった。従業員だという男が店の奥で密やかなピアノの音色を奏でていて、音色にあわせて店中の橙色のランプの灯がゆらめく様子は、リヴァイですらも心地よさを感じた。

 

 

女の抑えた笑い声と、男の誘う声が、店内でむつまじく囁かれる様子を見るに、そこはかなり格式の高い店のようであった。客につく女たちも、地下街にいた娼婦や、シガンシナの酒場で見かける給仕達と比べると、上品な雰囲気をもつ美人ばかりであった。実際、使用している男性陣はどれもこれも高そうなスーツに身を包んでいる。

 

 

「ねえ、お兄さん、お酒のおかわりはどう?」

 

「…………頼む」

 

 

だが、それとこれとは違うだろう、と彼は思う。

 

自分の隣に座した女をちらりと横目で盗み見れば、確かに見目はかなり良い女である。まだ少し幼さの残る頬の丸みに、長くてゆったりとしたブロンドの髪をたらしている様子は、男好きのする愛らしさがある。大きな胸を強調するようにくつろげられたドレスは、下品さはなく、彼女の白い陶器のような肌を魅力的に演出していた。

 

 

が、それとこれとは違うだろう、と再度彼は頭を抱えた。

 

 

「ねえ、壁の外ってどんなところなの?きっと良いところじゃないんでしょうね。地獄みたいな場所なんだわ」

 

 

先ほどから、彼女はその幼さの残る口をまわしながら、そんなことを述べ続けている。壁の外の地獄、調査兵への悪口。女に接待する気持がないことは、すぐに知れた。エルヴィンが店主と話をするために席を立ってから数分。彼は女の攻撃を受け続けている。

 

 

「…………壁の外も、悪くはない」

 

 

言ったのは、それだけだった。

 

「ええ?」と彼女は驚きを隠さず、人が死んでもなお悪くないものとは何なのか、と聞いてくるものだから、リヴァイはすっかり口をつぐんでしまった。女だからといって彼は遠慮をする性質ではない。彼が黙していたのは、ただその女が言う不平が、地下でいた頃に己が調査兵に抱いていた感情そのものであったからだ。

 

 

 

――死に急ぎ。巨人に食われたがる変人ども。

 

 

――誰にも望まれない英雄気取りの勘違い野郎。

 

 

――壁外という地獄を壁の中へと連れ込んでくる厄介者。

 

 

――若者たちを死地へと連れて行く、死神の行軍。

 

 

 

どれもこれも事実だ、と思いながら、茶色い酒を嚥下した。焼くような刺激が喉を刺す。

 

 

「なんでお兄さんは調査兵なんて死ぬだけの仕事をやってるの?」

 

 

素朴な疑問に、リヴァイは息を詰めた。何故。青い女の無垢な瞳が無遠慮にリヴァイをのぞき込んできた。酒がまずい。

 

 

「リザ!お客さんになんて失礼なことを!」

 

 

リヴァイが言葉に詰まったその空気に割って入ったのは、抑えられているものの、よく通る野太い声だった。見上げれば、そこには青いドレスに身を包んだ屈強な、しかし化粧をした小綺麗な男がいた。その後ろで、エルヴィンが柔和に笑って「大丈夫だよ」と彼、いや彼女へと声をかけた。

 

 

「…………お前、そいつか?俺に会わせたいという「彼女」は?」

 

 

「いいや。彼女はここの店主で俺の友人のアリスだ。アリス、彼が新しい仲間の「レヴィ」だ」

 

「よろしく、レヴィ」

 

 

全く隙のない身にこなしで優雅に出された右手に、リヴァイは右手を差し出した。握った手は、女のものより大きかったが、男のものに比べれば柔らかかった。右手首の内側に、深い切り傷がちらりと垣間見えた。

 

 

「アリスは元調査兵で、俺の同期なんだ。誰よりも勇敢な兵士だったが、ケガで、グリップが握れなくなってな」

 

「退役した時のお金で、昔からの夢だったお店を開いたのよ」

 

 

声も低く、ドレスの下の筋肉も見事なものだが、彼女の所作は美しい女性そのもので、話し方も自分の隣にいる「リザ」よりも好感の持てるものだった。屈強な兵士が、店の女主人になるなんて、世の中わからないものだな、とリヴァイは思いながら立ち上がった。

 

 

「レヴィ。どこにいく」

 

「ダグラス。目当ての女はまだなんだろう。ちょっと外で涼んでくる」

 

 

ダグラス――エルヴィン・スミスが、まあいいか、と頷いたのを確認してから、リヴァイはするりとテーブルの合間をぬって店の外へと出た。

 

 

薄い下弦の月が、シガンシナの夜を白く照らしていた。満点の星空を見上げて、リヴァイはようやく大きなため息をもらした。

 

気怠い疲労感に、肩をすくめる。己の生まれを棚上げして、娼婦や商売女たちの生を否定するつもりは毛頭無い。むしろ尊敬を覚える。彼が思うに、娼婦たちは彼の知るなかでも最も懸命に生きている人間の部類に入る。しかし、だからこそだろうか。どうにもリヴァイはその手の女性が得意ではない。

 

 

 

大きく息を吸えば、夜の冷ややだが透き通った空気が身体に滲みていく。夜の空気は、地上と地下では大きく違う。

 

 

 

ぼんやりと物思いにふけりはじめた矢先、

 

 

 

「困ります。それは店を通していただかないと」

 

 

どこからか女の切羽詰まった声が耳に届いた。答える男の声が数人。女一人に、男が何人か求めているのだろうか。そのまま無視していようか、とも思ったが、声のする店横の路地に足が向いたのは、彼の気まぐれではなく、その律儀さ故であった。どうにも面倒事に巻き込まれやすいのは、彼のそうした性質からくるものかもしれない。

 

 

「向こうで少し話をするだけだ。おとなしくしていれば悪くはしない」

 

「ですから、今は勤務時間中ですので、そういったことは店主に確認をとっていただかないと」

 

 

路地の入り口に立てば、その奥で一角獣が三人、黒いドレスの女に向っているのがよく見える。

 

 

「おい、何してる」

 

 

声をかければ、思いの外理知的な目が六つ、振り返った。絡み酒にしては理性のともった鋭い目つきだった。

 

 

「その女は、次は俺につくはずなんだが」

 

 

適当なことを言えば、一角獣を背負った男、憲兵たちは目配せして、しばらくリヴァイを物色するようにじろじろと観察した後、女に「また来るよ」とだけ言いおいてあっさりとその身を引いた。

 

 

路地から憲兵たちの気配が消えたあと、女がすがるように「ありがとうございます。助かりました」と頭を下げてきた。

 

 

「いや」

 

 

どんな三文芝居だ。

 

 

リヴァイは舌打ちした。飲みにきた店で、男に絡まれた女を助ける。そんなありきたりな状況にかえってリヴァイはしらけて、店へ戻ろうとした。

 

が、服の裾をつかまれてその足は戻される。

 

 

 

「あなた、もしかしてダグラスのご友人ではありませんか?」

 

 

 

エルヴィンの偽名を口にした女の暗い色の瞳が、まっすぐにリヴァイを見た。自分より少し高い位置にあるその大きな瞳が、きらきらと夜に輝く星たちの光を抱きしめていて、なんとなく。

 

 

 

本当になんとなく、リヴァイは「ああ、きれいだな」と感じた。

 

 

 

 

 

 



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第三章 二人の女と、二つの商会 二

 

 

女は、シシィと言った。

 

栗色のゆるやかにウェーブした髪を下ろした、上品な女だった。黒いドレスは店の他の女より圧倒的に露出も少なく、店内のランプにさらされている白い肌は、腕と鎖骨ぐらいのものであったが、だからこそだろうか、香り立つような凄まじい色気を持っている。腰のあたりで切り返したドレスは、足首あたりまでその女の肌を隠しているが、胸といい、腰といい、腕といい、痩せていて、豊満なリザとは真逆の薄い身体をしていた。が、一目見て、彼女が店の稼ぎ頭であろうことは、リヴァイにも知れた。

 

 

「ごめんなさい。前のお客さんが長くなってしまって」

 

「いや。シシィは人気だからな。こうして君についてもらえるだけでも幸運だ」

 

 

歯の浮くような口説き文句を一通り吐いたエルヴィンは、彼女の酒を美味そうにあおる。リヴァイの隣についているリザは、すっかり黙ってしまっている。リヴァイはどちらかというと、堅物だと思っていたエルヴィン分隊長の様子に、まじまじと見入ってしまっている。珍しいものを見せてもらった、と少々面白おかしい感情が去来する。

 

 

「それにしても遅かったな」

 

「ちょっと粘るお客さんだったから。絡まれてしまったけど、レヴィが助けてくれたの」

 

「へえ」

 

 

栗色の女の顔に向けられていた碧眼が、ふいに自分に向けられたので、「憲兵団だった」と答えてやる。

 

「あの人たち、しつこいの。最近よく来てたのよ。ずっとシシィに接客してもらいたがってたから」

 

拗ねたように言ったのは、ブロンドの髪のリザだった。「シシィはあんな中央の憲兵なんて相手にするような安い女じゃないわ」と続けて、シシィに咎められた。どうやらリザは彼女に傾倒しているようだった。

 

 

「中央の憲兵?」

 

「ええ。少し年のいった……。確かに、中央からシガンシナまで憲兵が来るのは珍しいわね」

 

 

言いながら、シシィはエルヴィンとリヴァイのグラスに酒をつごうとしたが、エルヴィンはそれを止めて「今日はもうしまいにしよう」と突然立ち上がった。

 

 

驚いたのはシシィだけではない。

 

 

「あら、お気を悪くされたかしら。さっき来て下さったばかりじゃない?」

 

「いや、憲兵と聞いて、急ぎの仕事を思いだしてしまった。明日までに憲兵団に提出する書類があったんだ。レヴィ、戻るぞ」

 

 

いそいそと上着を羽織る碧眼の男に、意味が分からないと不平を言えば、「戻るぞ」と再度急かされる。言外に「命令だ」といつもの台詞が隠されていて、リヴァイは重い腰を上げた。せっかく、少しは楽しめるかと思ったのに、とシシィを見ながら思う。

 

 

「では、外までお送りします」

 

 

男の突然の行動に悪い顔ひとつせず、シシィはリヴァイに笑っていった。くしゃりと無邪気に笑った顔に、見目の割に年を食っているのかもしれない、とぼんやりと思った。

 

 

「またいつでも来て下さい。今日は少しだけだったから寂しいわ」

 

「ああ。近いうちに。くれぐれも身体には気をつけるんだよ」

 

 

まるで恋人同士のように見つめ合って囁いた二人は、ごく自然に頬に唇を寄せ合って別れの挨拶をした。本当に珍しいものを見ている。兵舎の奴らにこのエルヴィンの緩みきった顔を見せてやりたいとリヴァイは少し喉の奥で笑った。

 

 

「レヴィも、どうかまた来て下さいね」

 

す、と差し出された右手の甲には、本来ならキスを贈るべきだろうが、リヴァイは「ああ」とだけ無表情に答えるだけでその手を無視した。

 

 

シシィはそんなリヴァイの不遜な態度にも笑顔を崩さず、すい、と彼の懐へと近づいて、彼女の名刺をジャケットへと忍ばせた。

 

 

「必ずよ。待ってるわ」

 

 

女の甘くも爽やかな匂いが、鼻孔をついた。

 

 

 

*****

 

 

「いい女だろう」

 

 

笑った男の声が石畳の上に響いた。

 

 

「てめぇが鼻の下を伸ばしきってるのを見れたのは良かった」

 

 

揶揄すればエルヴィンは帽子の下で笑った。だが、どこかその声は堅い。

 

 

「おいエルヴィン。これはどういうことだ。書類の話はウソだろう」

 

 

ちらりと碧眼が黒髪の男を見下ろした。ああ、と頷いた顔はもう、分隊長のそれであった。

 

 

「ラング商会。お前も知ってるだろう」

 

「……?ああ。ロヴォフと繋がりのあった商会だな。だがお前のせいで、奴は没落した。大顧客の地下との繋がりが立たれたラング商会も廃業寸前だと聞いたが」

 

「その通りだ」

 

 

エルヴィンが懐から、自由の翼を取出す。それは、兵服にあしらわれた調査兵を表すものだった。どうやら兵服から切り取られたそれは、赤く血のような色に塗れており、その中心にはナイフでえぐったような大きな穴が開いていた。

 

 

「先日、私宛の書簡として送られてきたものだ。書簡のなかでは、これがナイフと一緒に入っていた」

 

 

こう、とえぐられた穴に指を入れて、その様を表す。

 

ナイフで一突きにされた自由の翼。

 

 

「宛名は匿名だったが、探ればどうやらラング商会の関係者から送られたものだった。どうやら私はラング商会に狙われているらしい」

 

 

憲兵団にいる友人が親切に忠告してくれたよ、とため息交じりにエルヴィンは言った。

 

なかなか敵の多い人間だろうということは、出会った瞬間から感じていたリヴァイは特に驚くでもなく、そうか、とだけ返した。

 

 

「それと今回の件との関係は?」

 

「私も命が惜しいからな。探りを入れてやろうと思ったんだが、シシィのもとに憲兵団が来ていたのなら、動きづらいと思って出直すことにした。それだけだ」

 

 

壁外に出る死に急ぎが何を言うか、とか、だからといってすぐに帰ることはなかったんじゃないのか、とか色々と思うところはあったが、何より「シシィ」の名にリヴァイは首をひねる。

 

 

「どういう意味だ。シシィ。あの女、何者だ」

 

 

その策士たる分隊長は、地下で見た時と同じような、狡猾さを滲ませながら笑った。

 

 

「あれは、俺の切り札だ」

 

 

女を情報源として利用する男の姿に、リヴァイは苦々しく舌打ちした。やはり敵の多そうな男である。

 

 

「そういえば、明日にはシグリが戻るな」

 

「あ?ああ」

 

「彼女とは、くれぐれも仲良くやってくれよ。これからも君には補佐についてもらう」

 

 

珍しく話が飛ぶ。

 

怪訝に思いながらも、「明日の夜は自室に戻っていいか」と尋ねる。もう体調も万全である。寝込んでいたときならまだしも、健康な状況のなかでシグリの部屋で寝泊まりするのは避けたい、と素直に異議申し立てをすれば、「ダメだ」とあっけなく却下された。

 

 

「……そうだな。同室は明日が最後だ。それからは、扉一枚くらいは挟んでやろう」

 

 

前を向いたまま呟いた男の言葉の意図を、リヴァイが悟るのはそれから数日後のことである。

 

 

 

 

 




『悔いなき選択』のラング商会ってどんなだっけとか、名前あってたっけとか、思うけど、調べず。まあ適当に。

イメージの中のエルヴィンは、ザ・やばくてやばい男。


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第三章 二人の女と、二つの商会 三

 

 

*****

 

 

防水性の長靴に、肘まで覆った手袋。頭に布を巻いて、同じく白い布を顔にも巻く。ホコリやカビを誤って吸い込まないように。

 

 

兵団支給の割と高価な掃除用具を持ったフル装備で扉を開けようとして。

 

 

「…………」

 

 

ノブを持つ手を引っ込めて、一歩下がった。

 

 

「あれ、リヴァイ?」

 

 

彼が下がったのと、勢いよく扉が開いたのはほぼ同時であった。ほとんど同じ高さにある黒い双眸がくるりと彼を認めて、首を傾げた。

 

 

「ああ、悪かった、シグリ。来客だったか」

 

「……ああ、掃除かい?」

 

 

謹慎四日目。つまり、あの暴行事件から四日目。あの夜以来、久方ぶりに顔を合わせた女性兵士は、目の前に突如現れた小男の完全装備を見て、目を白黒させながら頷いた。

 

 

彼女の後ろを見れば、エルヴィン分隊長とスーツを着た長身痩躯の初老の男性が立っている。

 

 

「おお、もしかして、君が例の?」

 

 

初老の男性が、リヴァイを見て好奇心に満ちた表情で問うた。答えたのは分隊長である。

 

 

「ええ。彼が地下街育ちの者です。リヴァイ、ハロルド商会の会長、クルト・ハロルド氏だ。挨拶しろ」

 

 

硬質な分隊長の指示に、リヴァイは頭と顔の布を取り、「リヴァイだ」とだけ言って、右手の拳を心臓へと置いて敬礼をとった。

 

 

「私のハロルド商会はまだシガンシナ区を中心としている小さな商会だけどね、実は行く行くは地下街へも商売を広げたいと思っているんだ!」

 

 

男はリヴァイに一歩歩み寄って、両手を広げて言った。年の割に妙に希望にきらめいた表情に、リヴァイは思わず後ずさった。

 

 

「この春にローゼとシーナにもそれぞれ店舗を拡大してね。そろそろ地下街にも、と考えている。今は暗黒街化している地下街だが、資金の流入なども明らかにして、正式に商売をすれば、必ず大きな利益が生まれる。地下街出身の商人は非常に優秀だからね。彼らを正式に地上で雇い入れ、地下街をひとつの大きなマーケットにして、その富を再分配すれば、きっともっと大きくて、健康的な市場が、」

 

「ハロルド氏、そろそろお時間が」

 

 

穏やかに笑って制止したエルヴィンに、長身の男はははは、と照れくさそうに笑ってリヴァイにひとつ謝罪した。

 

 

「すまんね、どうにも先走りすぎるクセがあるんだ。君ともまた話がしたいな。覚えておいてくれ」

 

「……ああ」

 

 

目尻の深い皺が、笑顔にあわせてさらに深く刻まれる様は、どうにも人好きのする顔である。「お送りします」と先をうながしたシグリの後を歩きながら、「ごきげんよう」と笑って去って行く姿は、商人というよりかは道化のようにも見えた。

 

 

「…………あれはなんだ」

 

 

「シガンシナ区で最近力をつけてきている商会の会長だ。近々調査兵団にも物資の援助をしてくれると言うので話を聞いていたところだ。地下街に興味があるらしい」

 

 

「地下街に興味のねぇ商人はいないだろうよ」

 

 

「ハロルド氏はなかなか人情家としても有名だ。地下街を市場化させることで、搾取されている地下街出身者の状況改善なども考えているらしい」

 

 

一筋縄ではいかない話だろう。地下街は中央の貴族などの欲望が渦巻く世界だ。「物好きなやつもいるもんだ」と漏らした。

 

 

「話は変わるが、リヴァイ。その格好はなんだ」

 

 

白くて清潔な布を、頭に巻きながら、「何をわかりきったことを聞くのか」と思いながらリヴァイは碧眼の男を見上げた。

 

 

「掃除だ」

 

 

 

「なるほど。掃除か」

 

 

 

「そうだ」

 

 

 

***

 

 

「おい、リヴァイ!!お前、今日は副官と同衾の日だよなぁ~~」

 

 

「ちょっと聞かせろよ、いろいろさあ」

 

 

 

謹慎中の掃除は禁止だと冷たく命令され、掃除道具一式奪い取られたリヴァイが、部屋へ戻る道中、同年代の同僚の男たちが気さくに話しかけてきた。

 

 

「副官、今日謹慎から戻ってくるんだろ?と、いうことは、今日は二人きりの夜!」

 

 

「話すことは何もない」

 

 

冷たく突き放して、機嫌の悪さを示そうとも、その同僚の男二名は、気にせずリヴァイの肩を組んでにやにやと下卑た笑顔を見せてくる。

 

 

「何にもないことないだろ~?あの美人と同室で何もないなんて、お前不能か?」

 

 

右から口汚くツバを飛ばしながら言う男は、短く刈り上げた黒髪を撫でながら「羨ましいなあこのやろう」と笑った。リヴァイを挟んで左側にいる茶髪の長髪の男は、「何もなくてもいいからさ、何か聞かせろよ。あの人、普段部屋でどんな感じなんだ?」と抑えられない好奇心に顔を上気させながら尋ねてくる。

 

 

「アルバン、エーミール。俺にも選ぶ権利はある」

 

 

同じ分隊の仲間である彼らは、先の調査でリヴァイの戦いぶりを見てからというもの、何かと話しかけてくるようになった物好き共である。多くの兵士がリヴァイを遠巻きに見つめることが多い中、真面目さからはほど遠いひょうきんな性格のこの二人には、リヴァイの絶対零度の対応はほとんど効かなかった。

 

 

この時も、無遠慮に肩をばしばしと叩いてくる黒髪短髪のアルバンと、甘いマスクをしながらも下のことしか頭にない長髪のエーミールは、リヴァイの拒絶をものともせず絡んできた。それが鬱陶しく感じる一方で、掃除の禁止を言い渡されたときの苛立ちが徐々に鎮火していくのがわかって、リヴァイは彼らを無碍にすることはやめた。

 

 

「生活感のかけらもねぇ芯からの調査兵に勃つわけねぇ」

 

 

彼女が謹慎を受けて兵舎を出て行くまでの数日。熱にうかされたもうろうとした意識のなかで、目を覚ませば必ずそこにはシグリの姿があった。特段、世話をしてもらった記憶はない。ただ、その女は常にリヴァイに背中を見せて机にかじりついていた。まるで何かにとりつかれたような熱気に、心底辟易したのは事実だが、あの熱は、自分が否定できるものではないとも思い知った。

 

 

彼女の右手首は、治らない炎症を起していると知ったのは、リヴァイが彼女の部屋で寝るようになって二日目の夜だった。壁内の歴史を精査し、彼女の目にうつる物語として再び書きおこしていく途方もない作業。果たして意味があるのかも不明な作業によって、彼女の利き手の首は時折激しい痛みを訴えるのだという。自ら筋肉の炎症をおさえる注射を手首に打つ様子は、今でもリヴァイの目に焼き付いて離れない。

 

 

――動かすのが大事なんだ。だから立体機動は丁度良いリハビリになる。でも、こうして毎日ペンを握っていると、どうしても固まって炎症がひどくなるからね。たまに注射で薬を直接筋肉に打ち込むようにしてるんだ。

 

 

笑いながら女は明るく言っていた。それでも薬を注入されている右手が痛みに震えていたのは見間違いではない。

 

 

「……あれにどう欲情できるんだ」

 

 

アルバンとエーミールは、「言うねえ!」と目を白黒させている。無駄に腹やら肩やらを散々どつかれて、「生活感がねぇのはテメーもだろ。俺はあんな美人だったら、どんな中身でもいいと思うけどなぁ」とアルバンが言えば、「一発だけでもなぁ。それだったらいいじゃねぇか。あの人さ、夜って、もしかして、」とエーミールがさらに鼻の下を伸ばしながらアルバンに妄想を吐いた。息が荒くて気持ち悪い。

 

 

「エーミール。お前、彼女はどうした。あのよく話に出てくるブロンドの女だ」

 

「何言ってんだリヴァイ。あの子はお前、前の調査で食われたよ。なあ、エーミール」

 

「そうだぜ~。だから慰めてくれよリヴァイちゃん」

 

 

突然の真相告白に驚き息を詰めれば、甘いマスクが猫なで声で迫ってくるものだから、思わずリヴァイは彼の顔を手の甲で払った。つれない態度に、エーミールが大げさに鳴き真似すれば、「おお可哀想に。今日はいい女がいる店紹介してやるぜ、このアルバン様が」と二人はゲラゲラ笑いながら、リヴァイに手を振りながら訓練場へと向っていった。

 

 

二人は肩を組みながら、何がおかしいのかまだ笑っている。奴らはいつも笑っている。自分たちの女の話をしながら。兵士や街の女の話をしながら。

 

 

 

 

「賑やかだな」

 

 

二人とは打って変わって、低く落ち着いた声に振り向けば、長身の屈強な兵士の一人、ミケが書類を片手に立っていた。

 

 

「部屋に戻るのか」

 

「ああ……」

 

 

いつから後ろにいたのだろうか。鼻もきくが、耳も良いミケは最初から聞いていたのかもしれない。

 

 

「体調悪そうだな」

 

「そうでもない。昨日、酒を飲んだから少しぶり返してはいるが」

 

「――あいつらのこと、潔癖のお前は軽蔑するか?」

 

 

ミケが、先を歩いて行った兵士の背中を見ながら尋ねた。窓から、風が彼の長い前髪を揺らす。

 

 

「調査兵はいつ死ぬか分からない。エルヴィンやキース団長のように、女や家族を作りたがらない潔癖な者もいるが、あいつらみたいに女でその恐怖を埋めようとする者も多い。調査兵同士でもよくある話だ」

 

 

死へ向うために、怖れをかき消すために、誰かの肌に縋ることは決して悪ではないとミケは言う。その恐怖と孤独を理解し合えるように、調査兵同士で仲良くなる者も少なくないらしい。

 

 

「お前もそうなのか」

 

 

問えば、ミケは少し驚いたようにリヴァイを見下ろして、少し唸った後、「そうかもしれないな」と薄く笑った。

 

 

「エルヴィンのように強くはなれないな」

 

「……あいつも、懇意にしてる商売女はいるようだったが」

 

 

ああ、とミケが頷く。

 

 

「シシィ、だったか?あれは違うだろう。……しかし、お前も、誰かすがれる相手ができればいいな」

 

「冗談やめろ」

 

 

ん?と不思議そうにミケが首を傾げた。この大男は普段はかなり穏やかな性格らしい。地下街にきたときにリヴァイの顔を泥水に伏せた男と同一人物には思えない。

 

 

「シグリなんかいいんじゃないか?」

 

「やめてくれ。聞いてたんだろう?」

 

 

冗談だ、と笑う。

 

 

「でも、あれは「受け容れられない」という意味じゃないんだろう?」

 

 

悪戯っぽくにやけた顔に、ひとつ冗談交じりに蹴り上げたら、今度は大きくミケは笑った後、悪かった、と謝って、

 

 

「これ。シグリがまとめた書類だ。お前とハンジのあの討論会のまとめだ。目を通しておくといい」

 

 

手に持っていた書類を手渡して去って行った。

 

 

 

 

 



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第三章 二人の女と、二つの商会 四

 

 

*******************

 

 

湯浴みからあがって部屋のドアを開けた瞬間、鼻孔に甘く、しかし清々しい花のような香りが少しだけ香った。

 

 

見遣れば、いつの間に戻ったのか、シグリが簡易ソファに横になっていた。ジャケットを脱いではいるが、兵服のまま、ブーツも脱がずにベルトで身体を拘束させたままの姿だった。細い両足は下に下ろされ、両腕に抱えるように書類がおさめられているところを見ると、書類を読んでいる途中に、少し身体を横たえて、寝てしまったというところだろうか。

 

 

タオルでまだしめった髪の毛をふきながら、室内を見回せば、冷たそうな水差しが戻ってきている。リヴァイはそこからガラスのコップに水を入れ、

 

 

「…………」

 

 

口をつけようとしたのをやめて、窓際にそえられた一輪挿しの花瓶に流し込んだ。シグリがいたときは毎日かえていた水が、少し乾いてきていた。青い花が揺れる。

 

 

振り返れば、女はまだ眠っている。疲れているのだろうか。なかなか危機意識の薄い女だ、とリヴァイは人ごとのように思った。印象的な黒くて大きな瞳が閉じられ、長い睫がその影を落としている。

 

 

紅を引いていないにもかかわらず血色の良い唇が、わずかに開いていた。

 

 

 

「…………」

 

 

女の手にある書類が落ちないように、ソファに身を寄せる。リヴァイの体重を乗せたソファが、ぎしりと微かな悲鳴をあげたが、女は規則正しい寝息を崩さない。

 

 

橙色のランプの中の炎が揺らめいた。女の顔に、リヴァイの影が落ちる。その端正な顔に、己の顔を近づけて、

 

 

「……ぇ」

 

 

至近距離で、女と目が合った。黒く丸い瞳がリヴァイの薄氷の瞳を見つめて、しばらく瞬きをした後、

 

 

「ちょ、え?オイオイオイオイオイオイオイ、ちょ、ちょ、リ」

 

 

挙動不審な声がリヴァイを押しとどめようとした。常に冷静な彼女に珍しく、目が泳いでいる。身体を起そうとしたが、リヴァイがそれをしっかりと押さえ込んでいるものだから、さらにシグリは混乱したように奇声を発した。

 

 

「色気ねぇな」

 

 

「いやいやいやいや、は?ちょっと、なんだ、上官にあなた、」

 

 

上官侮辱罪で今度こそ独房行きだろうか、と僅かに思いながら、リヴァイは彼女の首筋に鼻を埋めた。暖かな女の体温が、肌を通して伝わってきて、息を吐けば、女が言葉をなくして身体を強ばらせたのがわかった。

 

 

ばさりと書類が床に落ちる。

 

 

数秒。そのままの状態を維持し、目的を果たしたリヴァイが少し身を起して女の顔をちらりと見れば、シグリが今まで見たことのないほど真っ赤な顔をして黙りこくっていた。

 

 

常に理性の光を宿した瞳が、恐怖か混乱か、抑えきれない感情による涙を湛えていて、リヴァイはこくりと喉を鳴らした。

 

 

うっかりその唇に触れそうになったが、その瞬間に左から右拳の強烈な一撃が迫ってくるのを感じて、瞬時に身体を離した。

 

 

「何!?リヴァイ、どういうつもりで、」

 

 

「お前、ベッドで寝ろ」

 

 

「は?!」

 

 

身を起こしたシグリの隣へ腰掛けて、目の前のベッドを指さした。

 

 

「シーツは洗ってある。俺はここでいい」

 

 

「……」

 

 

顔を赤くしたまま、何か言おうと口を開閉している様は、頭の悪い川魚のようで、間抜けそのものだった。

 

 

「それとも一緒に寝るか」

 

 

「結構だ!!」

 

 

今度こそ怒ったらしく、立ち上がった彼女の顔は、激昂で赤くなっている。ソファの脇に置いていた布鞄を手に部屋を出ようとするので、「どこにいく」と問えば、「風呂だ!」とリヴァイを見ることなく乱暴にドアを閉めて出て行った。

 

 

からかいすぎたことに少しだけ反省しながら、思いの外うぶな反応に、リヴァイは満足してソファに横になった。

 

涙を湛えた瞳を思いだして、常に理知的な瞳を混乱で堕とす愉悦を覚えて、喉を少し鳴らした。

 

 

 




ようやく役者が出そろった。ややこしい。


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第四章 夜の女






 

 

薄く金色が曇ったような色の短い髪が、さらりと風に揺れる様子を、ハンジはうきうきとした気持ちで眺めている。

 

観察されている男性兵士はその視線にいくばくか居心地の悪さを感じているようであったが、そのままハンジの指示通り、対象のスケッチを続けている。

 

 

「どうだい」

 

「はい。もうすぐできあがります」

 

 

ハンジが聞けば、真面目で抑揚の少ない声がすぐさま答える。無駄のなさは、無駄の多いハンジにとってはなかなか好印象のあるものだった。

 

彼、モブリット・バーナーが彼女の下に配属されてから、しばらくが経つ。まだ彼のことはよく知らないが、なかなか使える部下だと、彼女は彼を重宝していた。

 

 

「……はい、ハンジ班長。できました」

 

 

その理由は、彼のスケッチ能力の高さである。

 

 

「おぉ!!これは、空中での方向転換の瞬間かい?」

 

「はい。リヴァイさんの立体機動が優れているのは、この瞬時の方向転換に拠るところが大きいと思いまして……」

 

 

のどかな昼下がりの訓練場。「いいよ、続けて」と上官が発言を許可するのを律儀に待った上で、モブリットはスケッチを元に説明を続けた。

 

「普通、空中での方向転換は身体全体にかなりの負荷がかかります。自分自身の体重と、それに加えて立体機動のスピードが比例してプラスの負荷となります。そのため、最高速度を保ったままの急激な方向転換は危険である。これが、私たちが訓練兵で学んだ基礎ですが、リヴァイさんはそれを踏襲していません」

 

「と、いうと?」

 

「彼は最高速度を保ったまま、ほとんどスピードを緩めずに急激な方向転換、それも90度近い転換を行なっています。その際、このスケッチのこの部分、ですが……。そうです、ここ。身体を回転させることで、その衝撃を分散させているんです。おそらく、これが出来るために、巨人の身体への連続的な回転斬りが可能なのだと思われます」

 

 

冷静な分析を行なう彼の後ろ、立体機動の訓練場で、観測対象が軽やかに地面に降り立ったのがハンジの視界の隅にちらりと見えた。

 

 

「これ、私や君でも真似できる?」

 

「回転自体は……修練を積めば、可能かもしれません。その修練の方法も現実的ではありませんが……。いや、しかし物理的に不可能です」

 

「何故だい?」

 

 

モブリットはスケッチの横に、いくつかの計算式をすらりと書いた。

 

 

「これが、この回転時に身体にかかるであろう負荷をキログラムに変えた数字です。この重さに常人の肉体が耐えられるとは思えません。むしろ、今でもリヴァイさんにこの負荷がかかっているとは考えられないほどですが……」

 

 

モブリットが振り返った先に、リヴァイが立体機動のトリガーをしまう姿がある。

 

 

「あの人の骨と筋肉が、常人離れしている。そうとしか考えられません」

 

「つまり、彼の立体機動術は、真似できるものではない、と」

 

「私はそう判断します。無理に真似すれば、身体がちぎれます」

 

 

彼の肉体と技術を分析すれば、より良い立体機動の技術の発展になるのでは、と思いついたハンジの目論見が外れたことに、モブリットは暗い表情をする。しかし当のハンジは胸にわき上がる興奮を抑えきれずに、「リヴァイ!!」と満面の笑顔で彼のもとへと走り寄っていった。

 

 

「リヴァイ!!あなたはやっぱりすごい人だ!それがさっきの訓練で証明されたよ!ところで、モブリットの分析によれば、あなたの肉体と骨は常人とは一線を画しているようなんだけど、ちょっとそこのあたり、詳しく調べさせてもらってもいいかな!!?いいよね!??」

 

「近寄るな、クソメガネ」

 

 

兵団きっての逸材に走り寄るハンジは、常のごとく脂ぎった髪の毛を振り乱しながら、口からはヨダレもまき散らしている。そんな彼女を近づかせまいと、今にもブレードを抜刀しそうなリヴァイを見て、モブリットが慌ててハンジを「班長、やめてください!」と彼女を抑えにかかっている。

 

 

最近よく見かける光景である。

 

 

「おい、メガネ。それ以上近づけば、どうなるかわかってるな」

 

「……ああ、ああ~……、ごめんよ。悪かったよ。でもなぁ…」

 

 

狂犬ハンジは止まらない。しかし、リヴァイはリヴァイで、その扱いをなんとなく了解しているようで、彼の前ではハンジも少々きれが悪い。

 

 

以前、同僚のナナバにその理由を聞かれたハンジは、「いや、極端だからね、彼」と苦笑いした。一度、シグリと共に夜中に暴走したときは腹に一発入れられて気絶させられたが、ハンジは実は他にも、数回リヴァイには殴られていた。痛みはあまりないのが幸いだが、気付けば厩に放り出されていたり、食堂につるされていたり。一度、掃除中の男風呂に放り投げられたときからは、さすがにハンジも彼への対応を考慮している。

 

 

思いの外、リヴァイは暴力的で、ハンジの弱いところをしっかり突いてくる嫌がらせがうまい。

 

それが、ハンジのリヴァイへの最初の評価だった。

 

恥などほとんど故郷の便所にでも置いてきたようなハンジだが、さすがに「班長」としての役割と責任はしっかり認知している。それを危険にさらすような真似を、リヴァイはあえて他の兵士の前でやるものだから、ハンジは彼の行動を警戒せざるを得ないのだ。

 

何より、リヴァイは地下街出身のくせに、ひどく生真面目で、決してウソは言わないのだから。

 

 

――この人、いつも本気だから厄介なんだよなあ。

 

 

思う顔が、それでもリヴァイという未知の可能性を秘めた兵士への好奇心でにやけてきている。それを見とがめられて、リヴァイの顔がさらに険しくなり、彼女の後ろのモブリットが「ハンジさん、」と情けなく叫んだとき。

 

 

その一種の修羅場を中断させたのは、常識人の皮をかぶった変態とハンジが呼ぶ、副官シグリであった。

 

 

「楽しそうだね。邪魔していいかい?」

 

「シグリ!そうだ。あなたはどう思う?リヴァイの、」

 

「黙れ、メガネ!!」

 

「ハンジさん!!」

 

 

三人三様の反応に、声をかけたシグリは口を大きく開けて笑った。リヴァイがそんな彼女の可愛らしい笑顔に舌打ちして、景気の悪い表情で「何の用だ」と冷たく言えば、彼女は笑顔をそのままに彼に鍵を手渡した。

 

「今日は私は午後から明日まで休みなんだ。これ、研究室の合い鍵。一応渡しとくよ。何かあったら入ってくれていいから。あと、エルヴィンから伝言。この紙を、また例のところへ」

 

数日前から、我等がエルヴィン分隊長の命令により、彼らはひとつの研究室を与えられた。二つの部屋で仕切られたその研究室を私室として彼らは与えられたのだ。

 

ドアをくぐればそこにはリヴァイに与えられた私室が、その私室の奥の扉には、その部屋の倍は広いシグリの研究室兼私室が備えられた部屋があるという。補佐としてのリヴァイが、まるでシグリを外敵から守るような強固な配置と、プライベートも仕事に捧げよ、というかのような部屋に、多くの兵士は哀れみを含んだ顔をした。まるで気にもしていない顔をしたのはリヴァイである。その隣で、笑顔で大きな研究室に喜んだのはシグリ当人とハンジだけであった。

 

 

「明日の午後には戻るけど、それまではゆっくりさせてもらうから。リヴァイもゆっくりしてくれ」

 

 

「休暇である」と言ったシグリをよくよく見れば、彼女は兵服ではなかった。白いシャツは兵団のものだろうが、その上には可愛らしい淡いブルーのエプロンワンピースを着ているではないか。

 

さっきから遠巻きに見ている兵士達がちらちら彼女を見ているのは、こうした理由か、とハンジは微笑んだ。

 

「可愛いねえシグリ。町娘って感じ。また私とデートしてよ。ね、可愛いよね、モブリット?」

 

「え?いや、はあ……」

 

 

しどろもどろするモブリットに、「ね?」と催促すれば、「もちろん、可愛らしいであります」なんて言いながら敬礼するものだから、シグリはお世辞だと解釈して笑ってしまった。お世辞ではないのに、とハンジは口をとがらせる。

 

 

「ねえ、リヴァイ。あなたも可愛いと思うでしょ?」

 

 

賛同を求めても、この朴念仁は鼻を鳴らしただけだった。同室の上官なのだから、少々褒めてもいいだろうに、とハンジは呆れた。

 

 

「うちの男共は相変わらずつまらないね。だからモテないんだ」

 

 

勝手に言えば、下からすごい勢いでにらまれたが、ハンジは気にせず、シグリに問うた。

 

 

「休みはどこに行くの?」

 

「いつものとこ。馬を借りていこうと思って」

 

「なるほどね。じゃあ私の分も皆によろしく言っておいてくれ。気をつけてね」

 

 

うん、といつもの兵士らしい頷きではなく、それこそ町娘のように頷く彼女に、「可愛らしいなあ」とハンジは微笑んだ。

 

ハンジは、可愛らしい格好した女性にはとことん甘い。

 

 

じゃあ、と手をふって訓練場の向こうにある厩へと向かうシグリの後ろ姿を見送る。

 

 

「いつものとこって何処だ」

 

 

リヴァイが尋ねてきた。ハンジが「よろしく」と言ったところから、何か兵団関係の場所だと思ったのだろう。

 

 

 

「墓場だよ。無名兵士の墓さ」

 

 

 

ハンジが笑って返せば、リヴァイは少し驚いたような顔をして黙した。

 

 

 

 

 



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第四章 夜の女 二

 

 

****************

 

 

 

「無名兵士なんてたくさんいるわ。だって調査兵なんて身よりもない人間も多いじゃない」

 

 

甲高い声が耳を突いて、リヴァイは遠慮なく舌打ちをその女に披露した。まだ幼さの残る女――リザは、「やだやだ。気が短くてやだわ」とため息を漏らす。

 

 

「なんで、私があんたなんかの相手しなきゃいけないんだか」

 

「それはこっちの台詞だ。てめぇも客には少しくらい愛想良くしたらどうだ」

 

「調査兵以外には愛想はいいわ。私これでも、No,2だから」

 

「シシィの次じゃねぇか」

 

「シシィはいいのよ。あの人は私のものだから」

 

 

一夜の愛を囁き合うはずの店内の奥で、ひそやかに紡がれていたのは、そんな言葉の応酬だった。

 

その日、休みに出る前のシグリに渡されたエルヴィンからの伝言を持って、リヴァイはシシィの店に来ていた。その店の扉をくぐるのは、あれから数度目である。

 

 

「あなたも最近来すぎなんじゃない?何度来たって、シシィはあなたのものにはならないわよ」

 

「俺は仕事だ」

 

 

ふん、とそっぽを向いたリザは幼い頬を赤く染めながら、「あのダグラスっていうやばそうな奴もそう言ってたわ」と酒を仰いだ。客に注がずに自分で飲む女があるか、とリヴァイは思う。

 

 

「ダグラスはやばい奴よ。それもかなりね。それでもシシィは調査兵には他のお客様より贔屓にするんだもん。最悪よ」

 

 

シシィのもとを訪ねたものの、彼女は接客中だからということで、つけられたのがリザである。なんだかんだ、彼につけられるのはいつも彼女であったから、図らずもお互いに遠慮がなくなりつつある。しかし、常に言い放たれる調査兵団への悪口に辟易して、リヴァイは近くを通りかかった男性給仕に声をかけ、リザをひっこめるように言った。

 

 

「もういい。お前は下がれ」

 

「何よ、私の酒は飲めないっていうの?」

 

「そもそもお前は俺に酒を注いでいない」

 

 

食い下がるのは彼女が幼い証拠だ。ガキはイヤだ、とはき出したリヴァイのため息を拾い上げ、助け船を出したのは店主のアリスだった。

 

 

「リザ。下がりなさい」

 

 

低い、しかし優雅な声。相変わらず優雅な所作でリザの髪をなで、彼女を店の奥へと促せば、リザはしぶしぶそれに従った。

 

 

「ごめんなさいね。いつもいつも。あの子、あれで貴方に懐いているようだから、私もついあなたにつかせてしまうの」

 

 

笑いながらリヴァイの隣に座って、酒を注ぐ。からりと揺れる上質な氷に、リヴァイは礼を言ってその酒を受けとった。

 

 

初見では男性でありながら女性の姿をする彼女に驚きはしたものの、彼女の心遣いと優しさは、リヴァイには心地よく、店の中では数少ない話ができる人間となっていた。

 

 

「調査兵団が嫌いなわけじゃないのよ。もちろん、多くの人がそうなのと同じで良いイメージは持っていないけど、そうじゃなくて、シシィが調査兵にとられると思ってるの」

 

 

わずかに笑う顔は、まるで母親のような慈愛に満ちた表情だ。

 

 

「シシィは調査兵の客が多いのか?」

 

 

問えば、首を横に振った。むしろ、調査兵の客は店にはほとんど来ないという。

 

 

「間違えたわね。調査兵、というより、ダグラス。かしら」

 

「ダグラス?」

 

「ええ。彼に、シシィがとられると思ってるの。シシィは彼に傾倒しているところがあるから」

 

 

言われて、なるほどと頷く。数度しか会ったことはないが、その間に彼の女がダグラス――エルヴィン・スミスに何らかの大きな感情をもてあましていることに、なんとなくリヴァイは気付いていた。

 

 

「あの二人は、そういう関係なのか?」

 

「恋人同士?そういう関係ではないと思うわ。でも……もっと厄介かもしれない」

 

「厄介?」

 

 

そうね、と静かにアリスは細い目をさらに細めてリヴァイを見た。少しだけ彼を観察するように見つめて、「あなたなら」と呟いた。

 

 

「シシィ。あの子は二年ほどまえにこの店に来たの。それからここの子として働いてるんだけど……。あの子を連れてきたのは、ダグラス……エルヴィンだったわ」

 

 

それは、多くの犠牲者を出した壁外調査から一月ほど経った頃だったという。

 

 

冷たい雨が、シガンシナの籠の中に降り注ぐ日だった。朝が近づいていた頃合い、店を閉めようとしていた頃に、エルヴィンが痩せこけた彼女を抱きかかえてやってきたという。

 

 

「彼はあの子がどこから来たのか、何者なのか、なぜ彼が連れてきたのか、何も言わなかった。ただ、しばらく預かってくれとだけ言って置いていったの」

 

「……どこの出身か、それも分からないのか」

 

「ええ。全く記憶がないというわけではないのだけれど、今でも彼女は故郷のことはほとんど話さないわ。ただ、帰るところも頼る人もいないのは事実みたいね」

 

「地下街とか」

 

「私もそう思ったわ。もしくは地下で売られていたとか。でも、その割には肌もキレイで身体もキレイなの。教育も素養もしっかり身についてるし、まるで貴族のお嬢様みたいに上品だし。色々と憶測はできるけど、彼も彼女も何も言わないから、それでいいのだと思ってるわ」

 

 

アリスの長い睫が、少し伏せられて、その影が頬に落ちた。

 

 

「でも、あの二人を見てると、これでいいのかしらって思う事も多いの。二人とも、お互いに色々と思うところがあるみたいなのに、本音で語り合っていない。そんな気がして。私は女性の味方だからね、シシィの……あの子の本当の笑顔を見たいわ。……レヴィ、あなたなら、もしかしてあの二人のこじれた関係に、風穴を開けてくれるんじゃないかって」

 

「俺はただの奴の部下だ」

 

「……そうね。ごめんなさい、余計な願望だわ。忘れてちょうだい」

 

 

店の主人が働く給仕たちを子供のようにかわいがる様子は、地下街でもよく見られた。そんな人情味ある店主の店の女たちは、どいつもこいつも、悪くない表情をしていた。そんなことを言えば、アリスはありがとう、とくしゃりと笑った。

 

 

「シシィ、か。あいつの本当の名前じゃないだろう。あれは、なんていう名前なんだ」

 

 

アリスは、本当の名前かどうかはわからないけど、と言葉を置いて、

 

「ここに初めて来たときの名前は「マリ」。そう言ってたわ」

 

 

――マリ。

 

 

その言葉の響きを口の中で確認したとき、「レヴィ!」と明るい女の声がリヴァイを呼んだ。

 

 

「お待たせしてごめんなさい。ママ、ありがとう。レヴィとお話ししてくれてたのね」

 

 

マリという名前を持っていたその女が、いつもの黒いドレスを身にまとって笑顔で彼らの席へと走ってきた。アリスは「さっきの話はシシィには内緒ね」と笑って、彼女と入れ違いに店の奥へと歩いて行った。シシィはいつものように笑って、リヴァイの横に腰掛ける。

 

 

「ダグラスからの伝言だ」

 

 

彼女の言葉を待たずに早速、シグリから手渡されたメモを渡せば、シシィは静かにそのメモへと視線を落とした後、それをランプの火にかざして静かに燃やした。残ったのは僅かな灰だけである。

 

 

「あなた、中身は見てる?」

 

 

いいや、と首を横に振れば、「見ないの?」と問われたので、「見ろと言われていない限りは見ない」と返した。

 

 

「まあ、単純なことよ。ラング商会と、この前の憲兵団のこと。伝えてくれる?」

 

「ああ」

 

 

彼女の情報網はなかなか優れていた。店に来る連中は商会や兵団の幹部、もしくは貴族など、ある程度金のある連中だった。情報は、そうした連中に集まりやすい。彼女は接客のなかでそうした連中から、様々な情報を収集していた。ラング商会の噂も、シガンシナやマリアの商会の連中のあいだではかなり有名になっているらしい。

 

 

「あなたも当事者だったらしいから知ってると思うけど、ロヴォフはダグラスにはめられて没落したわ。ザックレー総統がロヴォフの不正を暴いたときに、ロヴォフと癒着関係にあったラング商会も告発されたの。癒着の代償は、商会の資金の何割かを兵団へと寄付するということで片がついたけど、それからかなり経営は厳しいようね。それでも最近までは粘っていたようだけど、もう従業員もほとんど解雇されて、事実上の解散状態よ。……つい先日、会長の奥様と一人娘が自殺したそうよ」

 

 

「自殺?」

 

 

「元従業員からかなり悪質な嫌がらせがあったみたい。今はもう、会長ひとりきり、というところ。彼と数人の側近がシガンシナに来ている、という情報もあるけれども真実は分からないわ。どちらにしても、彼がもう調査兵団やダグラスに何かできる力はほとんどないと言っていいんじゃないかしら」

 

 

 

ふう、とシシィは息を漏らした。横顔が、少し疲労の色を宿している。その顔を見ていれば、女はリヴァイにふと笑って、「ダグラス。あの人、とても悪い人よね。あんな生き方じゃ、命がいくつあっても足りないわ」と嘆いた。それは大いにリヴァイも同意する。

 

 

「憲兵団の方は」

 

 

「そちらは、この前の人たちがまた絡んできてないかっていう心配だけだったわ。ダグラスに大丈夫よって伝えておいて」

 

 

「わかった」

 

 

 

仕事は終わった。席を立とうとしたが、それをひきとめられる。

 

 

 

「もう少しゆっくりしていって。いつも早く帰っちゃうから寂しいわ」

 

「仕事がある」

 

「ダグラスみたいなこと言うのね。でも、あまり早く帰ると怪しまれるわ」

 

 

女のきらきらとした大きな瞳を見て、それもそうか、とリヴァイは思いなおした。まだ彼女と話して数分しか経っていない。

 

 

「マリ」

 

 

その名前を呼んだのは、特に何か意味があったわけではない。ただ、彼女と上っ面の甘い言葉を囁き合う気は毛頭無かった。だから、というわけではないが。

 

 

その名前を呼べば、女の本心に触れることができるかもしれない、という身勝手な好奇心だった。

 

 

案の定、彼女は目を丸くして驚きに身を固くした。そして、「ああ、ママが……?」と得心したように頷き、次に切羽詰まったような顔をしてリヴァイの手を握った。

 

 

「レヴィ。その名前、絶対に口にしないで。できることなら、忘れて」

 

「何故だ」

 

「その女はもう死んだのよ。生きていては都合が悪いの」

 

 

 

身を乗り出す女に反して、リヴァイはソファの背もたれに肘をついたままの姿勢で、黙したまま彼女の怯えたような瞳を観察した。

 

 

「何があった」

 

「あなたには言えないわ」

 

「何か力になれるかもしれんぞ」

 

 

何故そんなことを言ったのか、リヴァイ自身もよくわからない。ただ、特に意味もなく、単に彼女の揺れた瞳をさらに揺らしたかっただけなのかもしれない。

 

 

は、と改めてリヴァイを見つめた怯える瞳に、いつかの夜、腕の中に閉じ込めたシグリの混乱した瞳を思いだした。

 

どうやら自分には、感情を押し殺して笑う澄ました女の矜持を崩すことに、いくばくかの愉悦を感じる趣味の悪さがあったらしい、と今更ながらに気付く。

 

 

一瞬、リヴァイを見返した女の濡れた双眸が、きらりと煌めいた、気がした。

 

 

 

「私の叔父の死について、知りたいことがあるの」

 

 

「叔父?」

 

 

女が無表情に言った。

 

 

 

「ええ。レオン・アーレント。私の叔父の名前よ」

 

 

 

 

シグリ・アーレント。彼の副官の名前と同じ。アーレントという姓に、少し、何かが繋がったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 



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第五章 壁外調査

 

――いつか、あの地平線の向こうにある景色を見に行こう。

 

 

両翼のシンボルが翻る。あれは、自由の翼の紋章。壁の中の人類の希望の証。

 

 

――炎の水、氷の大地、そして砂の雪原は本当にあるんだろう?

 

 

世界が、空気が夕焼けに染まる。東の空に沈む大きく滲んだ赤い太陽が。

 

 

――なあ……、「    」。

 

 

 

呼ばれた気がしてふと目を開ければ、見慣れた研究室の本棚が目に入った。明るい光が窓から差し込んでいる。すっかり高い位置から差し込む光に、一瞬寝坊したかと思うが、今日は昼まで休みだったと思い直した。

 

懐かしい夢だった。あれは、調査兵になった頃の……。

 

 

「おい、シグリ!!いい加減に起きろ!!」

 

 

再びまどろみはじめた意識に、無遠慮に分け入ってきたのは、小うるさい隣人の怒声だった。

 

 

「あ、え?」

 

「シグリ!起きろ!掃除だ!!」

 

「あ、起きてる起きてるよ!」

 

 

ドアを乱暴に叩く音にベッドから転げるように起き上がった。部屋に鍵はかけていない。開けないのは、彼なりの配慮なのかもしれないが、いささか隣人の男は小うるさい。

 

着替えもそこそこに部屋から急いで出れば、やはり完全装備の掃除姿のリヴァイが立っていた。彼の初めての壁外調査から三ヶ月近く経とうとしている。早くも彼は兵団に馴染みつつある。少なくとも、自分の生活の中にはかなり浸食してきている、と思う。

 

 

「……なんだ、そのナリは」

 

「え?ああ、掃除?どうぞ、窓開けたよ」

 

 

彼が私の補佐についてから一月あまり。気付いたことがある。それは、彼の潔癖はかなり深刻な病にいたるほどであるということ。そして、その対象は自分の研究室にも及んでいること。そしてそして、その掃除の邪魔をすること、即ちそれは彼の逆鱗に触れるということ。

 

 

「ああ、えっと……」

 

 

黙して動かない彼に、どうしたのかな、と声をかけてみれば、景気の悪い顔をさらにしかめて、ドアを閉められた。

 

 

「支度してから出てこい!」

 

 

朝からあんなに怒鳴って大丈夫だろうか。掃除の件を除けば、彼はどちらかというと気は長いほうだと思うが、どうにも掃除に関しては神経質になっていけない。

 

そう思って部屋の奥の洗面所に向かって、鏡を見て。

 

 

「ああ……確かにこれは……」

 

 

鏡の中には、髪の毛が逆立ち、シャツのボタンも掛け違えて、胸元がはだけただらしない女の姿があった。

 

 

 

******

 

 

 

「リヴァイ、入るぞ。……ん?」

 

 

寝起きのだらしない上官を部屋に押し戻した後、軽いノック音がしたと思えば、廊下からエルヴィンが顔を出してきた。

 

 

「何か用か」

 

「ああ。……ひどい顔だな、リヴァイ」

 

 

何がおかしいのか、金髪の男は少し笑ってそう言った。この男に連れられてこられてから数ヶ月。硬質なだけであった奴の態度も、徐々に軟化してきている。特に、シグリの補佐に回されたり、奴の情報源であるシシィという女との小間使いをさせられるようになってからは、それが顕著だ。

 

 

「何を拗ねてるんだ?シグリとケンカでもしたか」

 

「バカか」

 

 

エルヴィンは今度は声に出して笑いながら部屋へと入ってきた。なにやら機嫌が良いのは気のせいではないだろう。シグリがまだ支度中であることを告げれば、「なるほど。それで」と納得したかのように頷いた。

 

 

「ん?お前、こんな趣味があったのか」

 

 

ふと、部屋の隅に置かれた棚の上のそれに興味がそそられたらしい。確かに自分で言うのもなんだが、らしくはないと思う。

 

 

「もらいものだ。置く場所がないからな」

 

 

小さな木鉢が二つ。そこに、植物がふたつ。名前も種類も知らない。花をつけるのかもしれないし、何も咲かせないのかもしれない。

 

 

「こちらだけ、妙に元気がないな」

 

 

右側の木鉢の葉を手に取って奴は言った。左のそれに比べれば、その広い葉はやや黄みがかっていて、茎の線も細い。

 

 

「……もらったときからだ。元々、右の奴は弱いんだろう」

 

「そういうものか」

 

 

ふむ、と頷いた顔を見れば、物知りなその男も植物には疎いらしいことが知れた。女に花のひとつやふたつ、くれてやったこともあるだろうに、と頭の隅で思ったとき、部屋の奥の扉が元気よく大きな音を立てて開いた。

 

 

「おはよう、エルヴィン!どうしたの?」

 

 

振り返れば、きっちりと短い黒髪を整え、ぱきりとしたシャツを着た女が立っていた。先ほどまで、寝癖をつけていただらしない格好をしていた女とはまるで別人である。その顔もきりりと引き締められ、いつもの優男然とした精悍な表情になっている。

 

ここまで変われば最早別人。イリュージョンの粋に達する。化粧をしているわけでもあるまいに、女は分からない。

 

 

「やあシグリ。もう昼だがね。昼飯を済ませたら、リヴァイと二人で私の部屋に来てくれ。ハンジやミケたちも呼んでいる」

 

「何かあった?」

 

 

女が問えば、その碧眼の男は嬉しそうに微笑んで俺たちを振り返って言った。

 

 

「ああ。壁外調査の日程が決まった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五章 壁外調査 二

 

門扉開放の鐘の音が、シガンシナの街を震わせる。

 

多くの住民の好奇と侮蔑の視線のなか、自由の翼が行軍する。死神の行軍。英雄達の凱旋である。

 

 

――次回の壁外調査は今年最後の調査となるだろう。次は雪解けした後となる。

 

 

「これより、壁外調査をはじめる!!」

 

 

キース団長の声が、兵士たちの捧げたはずの心臓を震わせる。

 

 

――ハロルド商会の援助により、資金が集まった。

 

 

 

死地へと向う兵士達は、それぞれに拳を胸にあて、そのそれぞれの思いを押し殺している。彼らは人類の矛。自由を求める唯一の翼であることを今、己に言い聞かせて進軍している。

 

 

「ハロルド商会からの多額の援助、か。怪しいなあ。タダより高いものはないんだけどね。リヴァイ、何かした?」

 

 

そんな緊迫したなか、馬上で場違いなのんびりとした声を出したのは、エルヴィン分隊の副官、シグリだった。その彼女の隣で、声をかけられたリヴァイは「何の話だ」と前方を見据えて短く答えた。

 

 

――今回も長距離索敵陣形の試験運用を行なう。よって私はキース団長の補佐にまわる。分隊の指揮はミケに頼む。

 

 

「シグリ、集中しろ」

 

「はいはい、了解。ミケ」

 

 

分隊の先頭にいる班長が、鼻を鳴らして忠告する。隣では、ハンジ班長が部下のモブリットになにやら巨人についての愛を語っている。こちらには何を言っても無駄だとミケは判断しているのか、完全に無視している。

 

 

――今回の調査の目的は、長距離索敵陣形の運用だけでなく、壁外にある遺跡の調査も行なう。以前の調査で発見した、集落の跡だ。遺跡到着後の調査は、シグリ。君の班が中心となる。

 

 

「リヴァイ。なんとか遺跡までは生き残ってくれよ。あなたには調査で協力してもらうんだから」

 

 

開門までの時間を知らせる号令が、空をつんざく。門扉に描かれたマリアの肖像を見ながら、シグリは男に言った。

 

 

――シグリとハンジの班は中央後方へ荷馬車班の護衛班として配置する。リヴァイ。移動時、お前は右翼索敵のダリス班と行動しろ。

 

 

男はふん、と鼻を鳴らし、

 

 

「お前もな」

 

 

門扉がゆっくりと開放される。ゆっくりと、壁の向こうの光が調査兵たちをつつんでいく。

 

ひゅるりと吹き上がる風が、耳を切る。兵士たちの髪を揺らしながら、壁外の空がシガンシナへと入り込んでくる。

 

シグリが、とん、と右拳を左胸へと置いた。

 

 

――心臓を捧げよ。

 

 

「前進せよ!!!」

 

 

行進の合図に、馬たちがとどろき、兵士たちが一斉に駆けていく。狭くて暗い二重構造になっている門扉を抜ければそこには、

 

 

 

視界の遮るもののない、広大な大地と空が待っていた。

 

 

 

目の前に、自分を包み込むように広がる世界。この瞬間に心を揺らさない調査兵はいない。それは、リヴァイもまた同様だった。

 

 

 

男にとってのこの二回目の壁外調査は、844年。秋の暮れに行なわれた。

 

 

 

 

******

 

 

 

緑の信煙弾が幾重にもあがり、青い空に弧を描いたのを目視し、手綱をひいて方向を変える。そろそろ、目的の集落跡に着く頃合いであった。

 

 

「リヴァイ、さっきは助かった!ありがとう!」

 

 

配置されたダリス班の班員の男が、リヴァイの近くまで駆けてきて笑った。ヒゲ面だが、まだ若い男だった。

 

 

リヴァイはその礼に手をあげて返事をし、再び前方を見据えた。彼らが配置されている索敵班は、最も巨人との遭遇率が高く、その分死亡率も高いと計算されている班である。

 

この数時間の行軍でリヴァイが遭遇した巨人は六体にも及んだ。そのうち二体を除いて、交戦を免れることができたのは、やはりエルヴィンの考案した陣形のおかげであろう。

 

 

「前方、信煙弾だ!黒!!」

 

 

前方で広がる小さな森の中から、黒い煙が垂直に何本が上がった。

 

 

「奇行種だ!!!急げ!!」

 

 

後方を走る仲間への伝達のために、班員が同じく黒い信煙弾を穏やかな青の空に放つ。確か、森に到達すれば索敵班を周囲に配置したまま、中央のミケ率いる分隊が先んじで森に入る手はずとなっていたはずだ。リヴァイたちの班は索敵班のなかでも後方に位置する。その彼らが森の入り口に接近しているとなれば、先頭の司令班から、後方のシグリたちの班、つまり調査兵団の主力部隊のほとんどは奇行種が出た森の中にいる、ということになる。

 

 

リヴァイは舌打ちをして、最高速度のまま仲間達と森へと入っていった。

 

 

 

 

 

 

 




壁外調査は怖いけどワクワクする。巨人を書きたくて、本当は入れる予定のなかったこの章を導入。わくわく。


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第五章 壁外調査 三

 

「リヴァイ!!後ろをやれ!!」

 

 

前方に迫る15メートル級二体を見据えながら、背後にいたリヴァイに叫んだのは、分隊随一の戦力を誇るミケである。リヴァイの視線の先には、10メートル級二体が笑いながら駆けてきている。周囲には、何体か小さな巨人が群れており、それを調査兵が巧みな連携プレーで応戦している。

 

 

応戦可能なのは、その森の中の遺跡の建物が頑強で城のように高く、立体機動の利点を最大限に発揮できる環境であるからだろう。

 

 

――それにしても数が多い。

 

 

後ろでミケが飛ぶ気配がして、リヴァイは振り返らずにトリガーを調整する。目の前に迫った巨人の足の間にアンカーを放って瞬時に背後に回り、一息の間に二体のうなじを削いだ。

 

 

赤くて独特の臭気を放つ血が視界を染め上げるのを見ながら、家屋の屋根に降り立ったとき、ミケが二体目の巨人のうなじを削いだのが視界の隅に映った。

 

 

「シグリ副官!!」

 

「焦るな!ミリア、援護しろ!ハンス、負傷兵と後方で待機!!」

 

 

聞き慣れた名前に思わず振り向いた先で、女性兵士二名が軽やかに飛ぶ姿が目に入った。15メートル級をものともせずに相手をする勇敢な二人の背後。森の影から、何かが飛び出す。

 

 

「森から三体接近してるぞ!」

 

 

叫んだのはミケだったか。15メートル級をしとめた矢先、討伐補佐にまわっていた女性兵士を頭から食いちぎったのは5メートル級の目のでかい気持ち悪いやつだった。ほとんど間をおかずにシグリがうなじを狙うが、さらにその背後から二体、森を出てシグリめがけて走り寄っている。近くにいる他の兵士には目もくれない。

 

 

――奇行種か。

 

 

思ったときには、リヴァイは動いていた。奥の奇行種の身体にアンカーを放ち、移動する間に手前の奴の足の腱を削いでやる。振り返った奥の奇行種の身体を使ってワイヤーの方向を変えれば、難なく背後に回りこめたので、そのまま勢いを殺さずにうなじを削ぐ。高速で巻き取ったワイヤーが腰元の射出機に戻れば、巨人が身体を地面にひれ伏すまえに、腱をそいで動きを止めていた巨人にアンカーを打ち込んで高所より垂直に切り下ろしてやった。

 

 

そのとき視界の隅に認めた3メートル級は、切り下ろす寸前に近くの建物の壁に放ったもう一本のアンカーを巻き取る移動時に削いだ。

 

 

 

数えること十数秒。リヴァイが削いだ巨人たちが倒れて、あらかたその遺跡にいた巨人たちは倒したらしい。生き残った調査兵達の声が森の中にこだましていた。

 

 

「……すごい。ひとりであの数の奇行種を一瞬で……」

 

 

周囲の兵士がリヴァイを遠巻きに息を呑む。当の本人は厳しい顔をそのままに、手についた巨人の血を白くて清潔なハンカチでぬぐっているところだった。

 

 

「ミリア!ミリア!!」

 

 

リヴァイを見ていなかったのは、その黒髪の兵士だけだった。切羽詰まった叫びにリヴァイが振り向けば、それは同じ分隊のアルバン。リヴァイにも隔たりなく接するひょうきんな男であった。

 

ミリア、とは確かアルバンの恋人だったか。先ほど、シグリの補佐にまわって巨人に頭から食われた女だと思いだし、リヴァイは彼に近づいた。

 

 

「アルバン」

 

 

男は、上半身をなくした死体にすがりついて泣いている。兵服が、その両手が、泣き顔が女の血で塗れて混じり合っている。ちぎれてこぼれ落ちた臓物を拾い上げながら、必死に残った下半身に戻そうとする男に、リヴァイは思わず悪寒を感じて足を止めた。

 

 

「アルバン!死にたくなければ立ちなさい!」

 

 

彼の悲しみを切り捨て、男の傍で言ったのは、シグリだった。見たこともないような冷たい双眸で彼と死体を見下ろす様は、まるで冷酷そのものである。

 

 

「し、しかし」

 

「死体の回収はあとだ。遺跡調査を行なう。お前はその間、周囲の索敵に回るはずだろう」

 

「ミリアはあなたを援護して食われたんですよ!!彼女がいなければ、あなたが食われてた!」

 

 

上官に抗する男に、思わずリヴァイは「おい、」と声をかけようとしたが、シグリにそれを視線でとめられた。

 

 

「だからどうした。彼女はもう死んだ。私が生き残っている以上、調査は続行する」

 

「そ……、そんな言い方……。遺跡の調査なんかが一体何の役に立つんだ!こんなに人が死んでも続行する価値はあるのか!!?」

 

 

アルバンが泣きながら叫んだとき、エルヴィン分隊長がシグリを呼ぶ声が耳に届いた。その声に顔をあげたシグリは、彼に一言、「それを決めるのはお前じゃない」と冷たく言い置いて、踵を返した。

 

凄惨な血の匂いにむせかえりそうになったリヴァイが、臓物を抱きしめる男に歩み寄ろうとすれば、女の厳しい声に咎められる。

 

 

「リヴァイ!来い!そいつは捨て置け!」

 

 

リヴァイは舌打ちして。後ろ髪を引かれる思いを残しながら、仕事へと戻った。

 

 

 

 

 

エルヴィン分隊長の副官、シグリの指揮のもと、ハンジ班とエルヴィン、そしてリヴァイの数人は集落の中心にある礼拝堂のような建物へと入っていった。

 

リヴァイが中を確認し、巨人の有無を確認して、それぞれに機具を持って中に入る。

 

 

「ああぁぁ。本当は古城の方も見たかったんだけどなあ!」

 

「ハンジ班長、時間がありません!早く!」

 

 

モブリットに急かされながら、ハンジたちは礼拝堂のなかで計測器を持って建物内の大きさを測り出す。

 

 

その遺跡の中は、ひどく広い空間であった。

 

 

天井は高く、アーチ状に組まれた柱が強固な城のような屋根を支えているらしい。その天井の一角には、何か、絵が描かれている。ところどころはげ落ちているそれや建物の構造は、王都で見るような頑強で壮麗な建物と似通っている。古来の、「宗教」なるものの名残だろうか、とリヴァイが思っていると、シグリがその礼拝堂の前方中央に配置されている立像へと走り寄っていった。

 

彼女の後ろを、エルヴィンと共についていけば、それは女の像である。子供を抱くその姿は、なよやかで優しい表情を残していた。損傷は激しくないらしい。その女が抱く赤子の胸に、十字のモチーフが添えられていた。

 

女の像は壁内でも珍しくはないが、特定されたモチーフがあるのは初めて見る。ただ、リヴァイに学がないだけかもしれないと思いエルヴィンに尋ねると、彼も厳しい顔のまま首を横に振った。

 

 

「二人とも、これは見たことがないんだね」

 

 

振り返って確認するように言ったのは、シグリである。十字のモチーフも、赤子を抱いた女の立像も見たことはない、と短くエルヴィンが答えれば、シグリは思い詰めたような表情で言った。

 

「リヴァイ。これ、ここから外せる?」

 

 

持ち帰ろうというのか。確かに小柄なリヴァイよりさらに小さな立像は、土台となっている石の台座に載せているような簡単な造りである。台座からはずせば、像だけなら可能だと答えれば、「頼むよ」と女は言った。

 

 

「なるべく傷つけないように」

 

 

無茶なことを言う、と思いながら、ブレードを抜いた。女はその隙に脇にかかえた大きな筒状の紙を広げて、石の台座に綴られた古代文字をうつしとっていった。

 

エルヴィンの手も借りて、なんとかその石像を台座からひっぺがすが、やはり無理があったようで、立像の足が砕けてしまった。「すごい力だな」と呟くエルヴィンに舌打ちしながら、自分でもまさか石の像を壊せると思わなかったリヴァイが、それを支えながらシグリに声をかけようとしたとき。

 

 

「シグリ……」

 

 

女は、台座の文字を書き写しながら、静かにその両目から、大きな涙を流していた。ぬぐう間もなく、ぼたぼたと音が出るのでは、というほど大きな涙の粒が、彼女の頬を伝って紙を濡らしていく。

 

 

「おい」

 

「ああ、ありがとう。今度はそれをこの……布にくるもう」

 

 

立ち上がって彼の持つ像に、彼女は手を添えた。地に下ろしてしまえば、それは思いの外小さく、リヴァイとほとんど同じ身長の彼女が抱えてもまだ小さかった。

 

 

「――……ま、」

 

 

何か、かすれた声で彼女が呟いて。その抱えた像をまるで恋人にするかのように、しっかりと抱擁した。涙を流しながら抱きしめる姿は、まるで死に別れた恋人との再会のようでもあった。

 

部下の死にはその瞳の色ひとつ変えなかった女が、今、かび臭い立像を大事そうに抱きしめて涙している。その異様さに、リヴァイは思わず恐怖を感じて言葉をなくしてしまう。得体の知れないものを見るかのような彼の視線に、エルヴィンがリヴァイの肩に手を置いて首を横に振った。

 

 

「シグリ。そろそろ時間だ」

 

 

碧眼の男は表情を崩さず、言いながら懐から出したハンカチを差し出した。彼女は、は、と我に返ったようで、差し出されたハンカチを断りながら乱暴に兵服で顔をふいた後、手際よく立像を布にくるんでリヴァイへと手渡した。

 

 

「あと少し。先に出てくれ」

 

 

立像の背後の棺桶のようなものへ走りより、彼女はさらにメモに何かを走り書きしていく。放り出した台座の文字を記した紙を拾い上げてまとめたのは、ハンジだった。

 

 

「なあ、私の言ったとおりだろう?彼女は常識人の皮を被った変態だ」

 

 

その言葉に、リヴァイは初めてハンジに同意した。

 

 

 

 

 

その後、いくばくもしない間に、巨人が多数襲来したというミケの報告により、遺跡調査は強制的に終わりを迎えた。

 

当初予定していた古城や周囲の建物群の調査はできず、礼拝堂の調査もかなりわずかな箇所しか行なうことができなかった。

 

収穫は、ハンジ班がはかった礼拝堂の大きさと、シグリがとった立像の台座の古代文字。そして、その十字のモチーフがあしらわれた立像だけだった。

 

 

それらの収穫が、人類の糧になったかどうか。それは、誰にも分からなかった。

 

 

 

そして、その調査で死亡した兵士は、全体の四割にも及んだ。

 

 

 

 

 

 

 



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第五章 壁外調査 四

 

「赤い印をつけてる兵士から看ていけ。青い印の奴はうるさいが最後に回してかまわない」

 

 

 

壁内に戻ってすぐに負傷兵達を衛生室へと運ぶ。医務官たちが口々に赤い印と青い印のことを兵士に指示し、運び込まれる兵士の状態を一目で判断して、印を迅速につけていっていた。負傷兵を運ぶその作業に、無傷のリヴァイは手を貸していた。

 

自分が担ぐ兵士が「痛い痛いよぉ…。なんとかしてくれ、死んじまう」とさっきから悲鳴をあげているが、彼は青い印だ。衛生室の隅の白い布の上に寝かせてやり、「もう少し待て」と慰めておいた。なるほど、赤い印の者は重傷らしく、もう声をあげることもない。壁内の医務官達が優先的に彼らを看ている。

 

 

そこは、さながら壁内の戦場だった。

 

 

多くの負傷兵のなかに、アルバンの姿はなかった。彼の班員に聞けば、遺跡で女の死体にすがっているのを見たのが最後だという。

 

 

壁内に、戻ってはいないということだった。

 

 

 

 

門扉開放の鐘の音はまだとどろいている。最後尾はまだ門をくぐろうとしているところだろう。負傷兵を先頭に戻ってきた調査兵団を迎えたのは、いつも通りの住民の罵倒と侮蔑だった。衛生室がそなえられた門扉近くの建物を出れば、行軍のなかにエーミールの姿を見つけてリヴァイは彼の隣に馬をひいて並んだ。アルバンとよく二人でつるんでいた長髪の甘いマスクが、苦渋に歪められている。

 

 

「おい。エーミール」

 

 

彼は、暗く落ちくぼんだ光のない視線をちらりとリヴァイへ向けて、「ああ」と頷いた。

 

 

「アルバンが戻っていない」

 

「ああ……。あいつ、選んだんだろ。女と死ぬほうがいいって思ったんだ」

 

 

呟く視線は地面にこびりついて離れない。

 

 

「だから俺はいつも言ってたんだ。調査兵を女にするときは、はまりすぎるなって。そうでねぇと自分が死んじまうだろ……。生き残ってなんぼだろ。なあ、お前もそう思うだろ、リヴァイ」

 

「…………エーミール」

 

「怖えよ。死にたくねぇんだ。だから、女は必要なんだ。でも、本気になっちまったら、戦えねぇよ」

 

 

ほら、と少し自嘲気味に笑ったエーミールが肩を下ろした行軍の前をあごで指した。その視線の先に、茶髪の長い髪の女兵士がいた。彼女もボロボロになっているが、両足で歩いている。呆けてはいるが、「生きている方」だった。

 

 

「あいつ、俺の女なんだ。早く帰って、あいつの中にぶち込みてぇなぁ……。ああ、くそ。アルバンめ。俺は生きてるんだ。生き残ってやるんだ」

 

 

呟く男が、ぐりと顔をリヴァイに向けて、大きく見開いた目で縋るように問うてきた。

 

 

 

「なあ、リヴァイ。俺は間違ってるか?俺を軽蔑するか?仲間が死んでも泣けねぇ俺を。女の穴に突っ込むしか考えてねぇ俺を。なあ、お前、軽蔑できるか?」

 

 

 

エーミールの声は、前を歩く上官の叱咤で止められた。彼は事切れたように今度は黙ってうなだれたまま行軍に戻った。

 

 

門扉開放の鐘の音がシガンシナの街を震わせる。

 

 

誰にも歓迎されない英雄達は、まるで決まり事に従うように、顔を伏せて帰路を行軍する。

 

 

エーミールは、その一度前の行軍のとき、自分の女を見殺しにして生き残ったのだと言っていたのは、アルバンだった。リヴァイは女と死ぬことを選んだ男の顔を思いだして思った。

 

 

早くも、そのアルバンという名前の男の顔は、リヴァイの記憶のなかでかすみつつあった。

 

 

 

 

******

 

 

シガンシナの街に門扉開放の鐘が響き、調査兵団の帰還が告げられたとき、リザはいてもたってもいられずに、店から出て大通りへと走って行った。

 

朝方、仕事終わりにいつものように眠りにつこうとしたときに、その鐘の音を聞いたときは驚いたものである。二日前の晩、シシィのもとにあの目つきの悪い小男、レヴィが来ていたから。いつものように女の扱いを知らないような口の利き方で接してきて、いつものように「仕事だ」とうそぶきながらシシィをじいっと見つめていたから、その次の朝に彼が調査に出るなんて思いもよらなかったのだ。

 

シシィには言っていたのかもしれない。そのことを告げにきたのかもしれない。彼と顔を合わせれば口論ばかりのリザに、わざわざそんなことを言うはずないのかもしれない。

 

それでも、何も知らずにその鐘の音を聞いたときは、得たいの知れない怒りが彼女を襲った。

 

拗ねてそのまま布団の中にもぐりこんだものの、眠るに眠れず、昼過ぎに帰路の鐘を聞いたとたんに部屋から飛び出していた。

 

 

こんなときに、シシィはいない。

 

 

――だから他の仕事なんてするもんじゃないのよ。

 

 

 

シシィは売れっ子にもかかわらず、店に出るのは本当に限られた日数だけである。リザは詳しくは知らないが、他の場所で仕事をしているのだと店主のアリスから聞いていた。自分に好意を寄せる男や、自分が大事にしてる男の無事を見に行くこともできないなんて、私には耐えられない、とリザは走る。

 

ダグラスの碧眼と、レヴィの三白眼が脳裡をよぎる。

 

彼らが死ねば、誰より嘆くのはシシィのはずなのに。

 

 

「おい、今回もひどいなこりゃ」

 

「どのくらい減ってる?半分はいなくなってるんじゃないか」

 

 

大通りに抜ける裏道から、人混みの間をくぐりぬけ、行軍を見ようと最前列までなんとか身を乗り出して、リザはひ、と小さく悲鳴をあげた。

 

 

「お嬢さん、わざわざ見にくるもんじゃないよ」

 

 

隣の野次馬の女性が、リザに言った。

 

彼女が見たのは、血に塗れて、落ちくぼんだ顔をした兵士たちだった。自由の翼はしなだれ、どの兵士も伏せた顔に絶望を色濃くのせている。

 

どんな地獄を見ればそんな凄惨な顔になるのか。壁の中から出たことのないリザは知らない。甘く、優しいシガンシナの街に、リザの大好きな街に、死神の臭いがする。

 

 

――だから、調査兵団なんて嫌いなのよ。

 

 

思った矢先に、見慣れた黒髪を見つけて、リザは思わず名を呼んだ。

 

 

「レヴィ!」

 

 

生きている。両足で、歩きながら、しっかりと生きている。

 

 

胸に去来した安堵感に思わず綻んだが、名を呼ばれたはずの彼は、彼女をちらりと視界に認めて、少し目を見開いた後、何も言わずにそのまま立ち去った。

 

 

行軍は止まらない。

 

 

リザから目をそらしたレヴィは生きていた。自分の声にこたえなかったことは最早どうでもいい。それは彼らしいと思えばそうだ、と思い直して行軍の後ろを見遣って、

 

 

「……だ、ダグラス」

 

 

碧眼の男を見つけて、彼女は息をつめた。

 

 

彼は、シシィに見せるような甘い笑顔ではなく、厳しい顔をしたまま、それでも前を見据えて、隣にいる部下らしき女性兵士となにやら話していた。

 

その調査兵たちの姿を見て、

 

 

 

「…………どっか行っちまえ!!この英雄気取りの勘違い野郎!!!」

 

 

 

思いつく限りの罵倒を叫んで、彼らの顔を見ることなく、リザは元来た道を走って帰った。

 

 

 

泣きながら。彼女は、その行軍に裏切られたような思いを抱きながら、彼女の小さな世界に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 



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第六章 拳銃と海

 

 

ひゅるりと風が鳴る。

 

 

兵団本部の中央にある広場にも、風は冷たく吹きすさんでいた。四方を囲む石造りの頑強な建物のなかでは、双翼のシンボルを背負った者たちが慌しく右往左往していた。

 

 

リヴァイは風に捲れた白い布をおさえながら、死体の搬送を続けている。ふと顔を上げれば、高々と掲げられた双翼をあしらった兵団旗が一様に風にはためいていた。

 

 

壁外調査から戻ったころにはまだ空高くあった日の塊も傾き始めている。夕刻に近づくにつれ、風は強くなっていた。空気が橙色へとゆっくりと変わっていくなか、まだ調査兵たちの仕事は終わらない。

 

 

「リヴァイ」

 

 

兵士の遺体を布にくるみ、ゆっくりと広場へと搬送しているとき、彼の背後から声をかけたのは、副官のシグリであった。壁外で見た時とはまた違う、厳しい表情の中に少しの悲哀を混ぜたような女の顔がリヴァイを見つめていた。

 

 

「会議は終わったのか」

 

「ああ。もうすぐ班長以上の会議が始まる。リヴァイ、あなたも出席するようにとのことだ」

 

 

分隊長からのその指示に、リヴァイは死体の搬送を一緒に行なっていた兵士に一声だけかけて、彼女のもとへと歩み寄った。どうにも足が重いのは、死体の搬送を何時間も続けていたからか。ふと、目の前に差し出された清潔そうな白い布に顔を上げれば、その副官はリヴァイの手を見ながら、「血がついている」と言った。

 

 

いつの間についたのか。

 

 

両の手にこびりついた誰のものかもわからぬ赤いそれは、すっかり乾いていて、布でこすってもリヴァイの手から落ちてくれない。

 

 

「手を」

 

 

立ち止まって、シグリは腰から下ろした水袋を取り出して、リヴァイの手をとった。生ぬるい水が、手のひらに落とされるのを見ながら、彼は両手をこすりあわせて布で拭えば、今度こそ赤いそれは落ちていった。

 

代わりに、真っ白の布が鮮やかに赤く滲んでしまった。

 

 

「悪い。また、新しいものを返す」

 

「いいよ。どうせいつか汚れるさ」

 

 

返す女の声は常より硬く、低い。言葉少なに、「執務室へ行こう」と歩き出した女は、リヴァイを振り返りながら、少しだけ躊躇って尋ねてきた。

 

 

「ミリアの死体がない。アルバンは?」

 

 

アルバンの連れ合いであったミリアは、彼女の班員だった。生きていれば、リヴァイと同じく遺跡調査に同行するはずであった兵士である。シグリの班は、死者は彼女だけであった。

 

 

リヴァイは、ミリアの上半身の欠けた死体にすがりつく惨めな兵士の姿を思い出す。

 

 

「戻っていない」

 

 

短く答えれば、その女は黒い瞳を数回瞬かせた後、「そうか」とひとつ頷いただけだった。一瞬震えたように見えた眉も、リヴァイが見やった次の瞬間には、冷静な色を取り戻している。アルバンを「捨て置け」と命じた上官の感情は、表情からは読み取れなかった。

 

 

「今回は死亡者が少ない。陣形の効果が出ている」

 

 

呟いた上官は、それでも哀惜の色が濃い。死者を数に換算した女に少し苛立ち、リヴァイが、

 

 

「あれが少ないのか」

 

 

と広場に一面に並べられた白い布でくるまれた死体を振り返ったが、女は前だけを見て一切死体を見ることはなかった。

 

 

「エルヴィンだ」

 

 

視界の先に、その金色の上官を認める。隣に、ハンジが何やらまくし立てている。先んじて班の状況を報告しているらしい。その二人のもとへ向かうシグリに、リヴァイは思わず声をかけていた。

 

 

「アルバンは連れ戻すべきだった」

 

 

女が振り返る。

 

眩しそうに細められた暗い色の瞳が、夕焼けにきらきらと輝いている。リヴァイはそれを、頭の隅で「きれいだ」と感じた。彼女の瞳は、己にない輝きがある。リヴァイはいつもそう思っている。なぜか、それはとても美しいもののように思えた。

 

 

「あいつは優秀な兵士だった。捨て置くべきではなかった」

 

 

その美しい女が捨て置いた兵士を思う。問われたその女は、何か言おうと口を開いたが、不意にその表情をこわばらせた。

 

その視線は、リヴァイを超えて、さらにその先。本部の塀の向こうへと注がれている。リヴァイがその視線につられて、背後を振り返ったのと、シグリが叫んだのはほとんど同時だった。

 

 

「エルヴィン!伏せろ!!」

 

 

一瞬の後に、空気をつんざくような甲高い銃声がひとつ、広場に響き渡った。音が響いた瞬間に、リヴァイは瞬時に柱の陰へと転がり込んだ。

 

 

「南南西の方向!狙撃だ!!」

 

 

短く叫んだのはシグリである。両手に黒い拳銃をかまえ、ハンジをかばって伏せているエルヴィンの前に立っていた。

 

 

「シグリ!」

 

 

上官の盾とならんとするその兵士を呼べば、彼女は舌打ちをしながら、塀の外へと向けた銃口をゆっくりとおろした。

 

 

「駄目だ。逃げた」

 

 

ぽつりと呟かれた声が、やけにはっきりとリヴァイの耳に届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………シグリ。その拳銃」

 

 

 

ハンジとエルヴィンが狙撃犯の追跡、そして兵団全体への警戒態勢の指示、そして団長への報告について迅速な命令を部下たちに下しているなか。

 

盾として優秀な働きを行なったその副官の持つ拳銃に、リヴァイの視線は釘付けとなっていた。

 

 

「なんだ。その拳銃は。連発式?兵団のものじゃねえな。お前のものか?」

 

 

護身用に、と地下街で拳銃を持ったことは何度かある。地下でやりとりされる密輸品のなかには、拳銃が紛れ込んでいたことも珍しくなかった。だから、リヴァイはそれに対してはいくらか見識はあるはずであった。しかし、彼女が持っていたそれは、今までリヴァイが目にしたことのあるどの種類とも異なっていた。

 

引きあげられた引き金の先。どう見てもそこには、何発かの銃弾が装填されているように見える。彼が今まで見たことのあるものは、単発式のそれである。

 

 

――連発式の拳銃。

 

 

拳銃を持った女は、引き金をおろし、安全装置をかけた後、リヴァイの視線から隠すように兵団のジャケットの中へとそれを仕舞い込んだ。

 

 

 

黒くて底の知れぬ瞳が、夕陽の色に輝いている。その瞳が、リヴァイを見返す。

 

 

 

「シグリ。それは、」

 

「兵団のものじゃない。私物だ」

 

 

 

それは、壁内では見たことのない形をした拳銃であった。

 

 

 

 

 

 



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第六章 拳銃と海 二

調査兵団エルヴィン・スミス分隊長を狙った狙撃事件。すぐさま調査兵達は犯人と思わしき人物を追ったものの、捕縛までにはいたらなかった。

 

その騒動が、まだ冷めやらぬ中。

 

壁外調査の疲れを癒やす間もなく、分隊長たちへの尋問が行なわれた。

 

 

「エルヴィン・スミス分隊長殿。今回の件に関してお心当たりは」

 

 

執務室の中で、初老の男の粘着質な声が詰問する。問われたエルヴィンは、ため息をつきながら、「真面目に仕事をしている調査兵が命を狙われることに心当たりがあるとでも?」と大仰な身振りで答えた。

 

 

執務室のソファに腰掛けたその男の背中には、一角獣があしらわれている。彼の背後には、彼と同年代と見える部下らしき男が二名、控えている。対面のソファに腰掛けるエルヴィンの背後にも、ハンジ班長とシグリ副官、そしてリヴァイの三名が直立不動の姿勢で控えていた。

 

 

「ただ、数ヶ月前に何度か、ラング商会から嫌がらせはあったことは確かです」

 

「ラング商会?」

 

 

エルヴィンの合図により、副官の黒髪の女が執務机から、ローテーブルへとそれらを持ってきた。数本のナイフと切り裂かれた自由の翼の紋章。

 

 

「最近はこんな嫌がらせの書簡も来なくなっていましたので……。今回の件がラング商会かどうかは……」

 

「ああ、君は?」

 

「失礼いたしました。エルヴィン分隊の副官、シグリ・アーレントと申します」

 

「アーレント……?」

 

 

憲兵に説明を始めたシグリに、その初老の兵士は首を傾げた。

 

 

「ギード隊長。それにしても、あなた方中央の憲兵が、こんなに早くシガンシナまで来られるとは……。何か他に別件の用事でも?」

 

 

シグリを下がらせてエルヴィンは問う。執務室のなかには斜陽が深く、差し込んでいる。窓からは、壁の向こうに沈もうとしていた。

 

 

調査兵団の本部へ狙撃があってから、まだそれほど時間は経っていない。シガンシナ区の治安維持も担っている駐屯兵団への報告の後、兵団本部へ来たのは、彼ら王都に配属されている憲兵団であった。

 

 

「ええ。キース団長に。今回の壁外調査とハロルド商会の援助の件について。不正があったという報告を受けたもので」

 

「援助の件で?」

 

 

「まさか!そんなはずはない!ハロルド商会との交渉は、私とリヴァイが担当しましたが、会長とは、」

 

 

「ハンジ」

 

 

エルヴィンの後ろから食らいつくように声を荒げたのはハンジである。身を乗り出して我先にと憲兵へと食いかかる彼女を、隣にいたリヴァイが抑えた。

 

 

「まあ、そちらの調査は後日にすることにしよう。ひとまずは今回の狙撃の件だ。壁に埋まった弾痕と銃弾から、拳銃の持ち主を探ることとなる。あなた方エルヴィン分隊にも協力を仰ぐことこともあるかもしれない。そのときは応じるように」

 

「はい。承知いたしました」

 

 

如才なく答えた分隊長に、ギードという名の初老の男はひとつ頷き、立ち上がって執務室を出ようとしたが、リヴァイの横、最も扉に近い場所で直立している女性の前で立ちどまった。

 

 

「アーレント君といったかな」

 

「はっ」

 

「拳銃を出したまえ」

 

 

男は大きな手のひらを指しだして、彼女を促す。

 

 

「分隊長殿が狙撃された際、副官が拳銃で威嚇して盾になったと言っていたな。副官は君だろう?」

 

 

出せ、と目尻の皺をさらに深めて、男は目を細めながら言った。求めに応じてシグリは懐から、一丁の拳銃を取出して、グリップを男に向けて手渡した。

 

 

グリップを重厚な木で作り上げた、兵団支給の単発式の拳銃だった。憲兵団が持つような大型の拳銃とは異なり、殺傷能力も命中精度も低い代物である。

 

 

「調査兵団は巨人相手ではなかったか?」

 

「私は副官です。分隊長を壁内、壁外問わずお守りすることも任務のひとつです」

 

 

かつりと一つ、男がシグリに近づく。ハンジが少し身じろいだが、リヴァイが静かに制した。

 

 

「君がいた場所から、狙撃犯のいた塀まで、この拳銃では弾が届かんが」

 

「ええ。威嚇の意味しかありませんでした」

 

 

 

対するシグリは、男の執拗な詰問に、強くも丁寧な口調で返している。黒い瞳は、まっすぐに男の眼を睨み付けていた。

 

 

「威嚇のために、身を投げ出して上官を守ったと?」

 

「お言葉ですが」

 

 

黒髪の女は、そのまま一角獣を背負う男を見上げて、己の右拳を心臓へと置いた。敬礼の形をとったまま、

 

 

「我々調査兵団には命の優先順位があります。あの場で最も優先されるべきはエルヴィン・スミス分隊長の命でした。私の行動はその優先順位を守ったまでのこと。壁外での行動と何ら変わることはありません」

 

 

「上官のために死ねると?」

 

 

「人類のために私は死にます」

 

 

 

数秒。

 

部屋の中に差し込む橙色の陽光が、ゆっくりと壁の向こうへと沈みきってしまうほどの時間。男は女性兵士を、女性兵士はその初老の男を見返していた。張り詰めた緊張の糸を先に切ったのは、一角獣の男の方であった。

 

 

「なるほど。さすが壁の外に出る人間はひと味違うというところだな」

 

 

手の中に持った拳銃を彼女へ返し、エルヴィンを振りかえって「長居したな」と挨拶した。

 

 

「そうだ、アーレント君。君、事故には気をつけたまえよ」

 

 

それだけ言って、彼ら中央の憲兵団は執務室を後にした。

 

 

 

 

憲兵団が去って、そのまるで尋問のような調査にまず不平を漏らしたのは、やはりハンジであった。ぼさぼさの頭をさらにかき乱す様は、いつも以上に動作が大きく、錯乱している。彼女はどうにも狙撃があってからかなり機嫌が悪い。

 

 

それは兵団本部への異例の襲撃とそれを許した兵団の甘さに、というよりかは、咄嗟に自分をかばったエルヴィン分隊長その人に向けられているようだった。

 

 

「上官のために死ねるのか、だって?ふざっけんなよあのヒゲ!そんな今更なこと聞いてんじゃねえよ!調査兵団のこと馬鹿にしやがって~~~~」

 

 

エルヴィンはさすがに少し悪いと思っているのか、ハンジをなだめながら、

 

 

「ああ。あの瞬間、私の盾になってくれたシグリには感謝するよ。私を守ろうとしてくれたハンジをおさえてかばってしまった私が、あのとき一番調査兵らしからぬ行動をしたな。反省している」

 

 

と笑った。それぞれへねぎらいの言葉をかけた後、その場を解散とした。壁外調査後の会議は、後日改めて行なうことになった。しかし、

 

 

「リヴァイ。お前は少し残れ」

 

 

シグリとハンジが執務室を出たあとに続こうとしたリヴァイに、そう声をかけた。彼女たちが出て行ったのを確かめてから、リヴァイは扉を閉めて、執務机の前に立つエルヴィンに向う。

 

いつの間にか、部屋の中はすっかりと夜の帳が落ちている。藍色の夜が、窓からしみこんできて、エルヴィンの影を細く伸ばしていた。

 

その金色を夜に染めた男が、机の上のランプにマッチをすって火を入れた。

 

 

「何だ」

 

「いくつか聞きたいことがある。まずひとつは、ハロルド商会の件だ」

 

 

憲兵は「不正があった」と言っていた。それをエルヴィンは問う。ハロルド商会との交渉は、地下街に興味関心を持っていた会長の意向を取り入れて、リヴァイを加わらせていた。それを決めたのはエルヴィンである。キース団長から一任され、人選はエルヴィンが行なっていた。

 

 

「俺が不正を行なったと?」

 

 

やけに薄い色の瞳をさらに細めて、リヴァイが問うた。

 

 

「俺はお前を信頼している。それはないだろう」

 

 

間髪入れずに答えたエルヴィンに、執務室に来てから全く表情を崩さなかったリヴァイが、僅かに驚いたように眼を見開いた。

 

 

「えらい盲信っぷりだな。数ヶ月前に俺を利用してたやつの言葉とは思えねぇな。頭にクソでもつまったか?」

 

 

「信じるさ。そうでなければそもそも仕事を預けたりはしない。しかし、お前が何かしら動いていることは分かっている。聞きたいことはそれだ。……シシィか?」

 

 

ランプの光に、金色の男の横顔が照らされる。リヴァイはそれにうっそりと眼を細めて、「違う」と否定した。エルヴィンは、それにひとつ頷いてから、

 

 

「では、あの設計図については?知っているのだろう?」

 

 

「…………わからない」

 

 

「では、質問を変えよう。あの中身を理解しているか?」

 

 

男は問う。問われた黒髪は、一呼吸置いて、「ああ」と頷いた。

 

 

「さっき、理解した」

 

 

エルヴィンはその答えに満足したようで、何度か一人で頷いた後、「わかった。ありがとう。もう下がって良い」と促した。

 

 

しかし、リヴァイが扉を開けようとしたとき、エルヴィンは思いだしたように声をあげた。男の珍しい感嘆詞のような言葉に、リヴァイが振り向けば、彼は「話しは変わるが」と少し軽い口調で続けた。

 

 

「シシィは元気かい?」

 

 

聞いて、リヴァイは苦々しく舌打ちをした。

 

 

「てめぇも会ってんだろうが。いい加減、その茶番もしめぇにしろハゲが」

 

 

今度こそ、エルヴィンは我が意を得たり、とでもいうかのように頷き、暗い執務室の奥から一本の酒を持ってきた。

 

 

「試して悪かった。今日の調査での君の活躍は素晴らしかった。これは、そのせめてもの礼と詫びだ。シグリとでも飲んでくれ」

 

 

黄色く澄んだ色の葡萄酒であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六章 拳銃と海 三

リヴァイが湯浴みを終えたのは、夜もかなり更けた、就寝時間も近い頃合いであった。

 

たった1日だけでかなり消耗した、とリヴァイは疲労を引きずりながら兵舎の中をひとり歩く。

 

早朝、日の出とともに壁外調査へ出て、戻ってからその処理を行ない、夕刻からは狙撃の件で憲兵団からの取り調べと兵団内の調査。なかなか身心ともに疲労の多い暗鬱たる一日であった。

 

 

 

部屋に戻れば、棚の上に新しくかえられた水差しが置いてあった。シグリが毎日のように入れ替えてくれている水である。リヴァイはその水を棚の上に飾っている木鉢の片方に注ぐ。

 

水が与えられている、向かって右側の植物はもうすっかり元気を失ってしおれてしまっていた。

 

コップから半分ほどの水を注いだ後、リヴァイは残りの水を一気に仰ぎ飲んだ。執務机に置いた酒とグラスを取り、隣の部屋へと続く扉を叩く。

 

隣の部屋にいるであろう主人からは返事はない。ドアノブに手をかければ、鍵はかかっていないようで、その部屋は呆気なく彼の侵入を許した。

 

 

「シグリ。起きてるか」

 

 

部屋の壁という壁にはぎっしりと様々な本が敷き詰められている。部屋の隅には今日の調査で持ち帰った聖母像が黙して佇んでいて、薄気味悪さが漂っていた。

 

中央に配された大きな研究机の上が整理されているのは、ひとえにリヴァイの日頃の掃除の賜物である。ハンジほどの不潔さはないが、この部屋の主人は書類を上に積み上げる癖がある。

 

 

その机の奥。扉から最も遠い壁の脇に備えられたベッドで、女が横になっている。ベッド脇の小さなテーブルの上ではランプの炎がゆらりと揺れている。

 

彼女は本を開いたまま、顔の上に乗せて、黙していた。

 

 

「入るぞ」

 

 

黙ったままの主人を無視して、リヴァイは部屋へと入り、ベッドの脇に立った。女はまだ黙している。

 

 

「エルヴィンから酒をもらった」

 

「寝てる」

 

 

女が言う。起きてるじゃねえか、と思ったが、リヴァイは何も言わずそのまま無遠慮にベッドへと腰掛けた。突然傾いたベッドに驚いたのか、女は怪訝な顔で半身を起こして、

 

 

「勝手に部屋に入るな」

 

 

と抗議してきたが、何を言うか、とリヴァイは無視した。

 

 

「入られたくなけりゃ鍵をかけておけ。警戒心ってもんがねえのかお前は」

 

 

女は珍しくふてくされたような表情をしている。普段、取り繕ったかのように冷静な笑顔を崩さない女の顔に、リヴァイは少々気分を良くした。

 

 

「酒だ。付き合え」

 

「疲れてる」

 

「明日からしばらく休みだろ」

 

「でも明日は会議だ。今日できなかったぶんのね」

 

「夕方からじゃねえか」

 

 

少々の寝過ごしは許される。こんな夜だ。ひとつ付き合え、と女の抗議を無視したまま、リヴァイは瓶のコルクを抜いた。芳醇なアルコールの香りが鼻をくすぐる。

 

二つのグラスにその黄色くも透き通った葡萄酒を注いで、彼はシグリに差し出した。

 

 

彼女は渋々、といった風にそのグラスを受け取った。押しには弱いらしい。

 

 

「乾杯」

 

 

リヴァイが己のグラスを差し出せば、怪訝な顔を隠そうともせずに、それでもシグリはそれに応じた。

 

二つのグラスが、かつりと軽い音色を奏でた。

 

 

「……何か話があるんじゃないのか?」

 

 

 

 

喉をちりりと焼くようなアルコールの味。甘く舌触りの良い割りに、アルコール度数は高いらしい、と一口飲みながらリヴァイがぼんやりと思ったとき、シグリが酒を仰ぎながら言った。

 

ランプの光が黒い瞳に揺れて、褐色に輝いている。膝を抱え、胸に本を抱きながら酒を飲む姿は、怪訝そうにはしているものの、警戒心のカケラも感じられない。

 

ふと見遣れば、部屋着のリヴァイと同じく、彼女もまた寝間着であったようで、長袖のゆったりとしたワンピースに身を包んでいた。

 

常に兵士然として、時折まるで男のようにも見える女の姿に、リヴァイは少々意外に思ってまじまじと見つめた。

 

 

「何?」

 

「いや、お前、女だったんだな」

 

 

はあ?と呆れたような間抜けな声がシグリの喉から漏れた。

 

 

「……まさか、知らなかったの?」

 

「いや。忘れてた」

 

 

言えば、女は今度こそ呆れたように「そりゃ、光栄だ」と言いながら酒を仰いだ。

 

 

「あまり一気に飲むな」

 

「そんなに弱くないよ」

 

 

 

どうやらそれは本当らしく、あっという間に一杯目を空にした女は、リヴァイの手から瓶をとって手酌で注いだ。リヴァイの杯にも入れて、二人は黙々と言葉もなく酒を嚥下し続けた。

 

 

 

言葉がなければ、酒は進む一方である。その沈黙の酒盛りに終止符を打ったのは、瓶の酒も半分以上胃の中に消えた頃だった。

 

ザルのリヴァイは全く酔わないが、シグリもほとんど顔に出ていない。ただ、少しだけ、目尻が微睡み始めていた。

 

 

 

「お前、なぜラング商会と会っている」

 

 

 

その唐突な問いを予想していたのだろうか。シグリは眉ひとつ動かすことなく、「なぜ?」と逆に問い返してきた。

 

 

「数ヶ月前から、お前がラング商会の会長と度々会っているのは知ってる」

 

 

「……エルヴィンの命令?」

 

 

 

黙してリヴァイが頷けば、シグリは否定することなく「そうか」と呟きながら酒を一口仰いだ。

 

 

「俺に飲ませてる毒の水と、何か関係があるのか?」

 

 

脈絡のない問いかけである。しかし、シグリは不思議そうな顔一つせず、グラスを片手に膝の上に顎を乗せた。

 

 

「……何が言いたいの?」

 

 

そこには、兵士然とした雰囲気はなくなり、妙齢の女性らしいとろりと甘い雰囲気を纏った女がいた。

 

酒が入ると随分変わるものだ、とリヴァイは横目でその様子を見ながら思った。

 

 

 

「今回の狙撃。兵団内に内通者がいれば、事は簡単だ」

 

 

「そうだね。兵団内の構造と、調査後の兵士の動きを知っていれば、特別な訓練を受けていない者でも本部に忍び込んでエルヴィンを狙う事は出来ないこともない」

 

 

 

こくり、とシグリはグラスを仰いで、酒を飲み干す。

 

 

 

「つまり、その内通者が私であると。私がエルヴィンを裏切っていると言いたいわけだ」

 

 

「そうだ」

 

 

言いながら、まるで友にするかのように、リヴァイは女の空いたグラスに酒を注いでやる。女もまた、不穏な会話にそぐわない丁寧さで、その酒を両手でうけた。

 

 

「じゃあ、私も聞きたいことがある」

 

 

くふふ、と笑う。まるで、内緒話をするかのような気軽さである。愛らしさまで覚えるほど屈託無く笑ったところをみると、顔には出ていないが、酔いは相当回っているのかもしれない。

 

 

 

「ハロルド商会とあなたの関係は?何をして援助をつかみとったんだ?」

 

 

「俺がハロルドと不正取引をしたと?」

 

 

「そうだ。ついでにネタも上がってる。あなたが引き渡したのは、エルヴィン分隊長の副官が持つ、拳銃の設計図だ」

 

 

 

黙したリヴァイに、ふふ、と笑ったシグリがするりと右手を枕へと伸ばした。リヴァイが反応するより早く。それこそ、まるで酒なぞ飲んでいないかのような素早さで、彼女はそれをリヴァイに突きつけていた。

 

 

「知ってるだろ?これは、壁内では出回っていない新式の拳銃だ」

 

 

 

黒い銃口が、リヴァイの眉間に添えられる。ひやりと硬く冷たい感触を額に感じながら、リヴァイはそのままの姿勢でじっとシグリを見ていた。

 

彼女の右手には、狙撃の時に持っていた、黒くて弾丸がいくつも装填された連発式の拳銃が握られている。憲兵団へと見せたものとは違う、彼女の「私物」だというものであった。

 

 

「俺が、その設計図を盗み、ハロルド商会に引き渡したと言いたいのか」

 

 

「違わないだろ?」

 

 

 

2人の間に、沈黙が落ちる。

 

 

 

女は笑っている。リヴァイもまた、突きつけられた拳銃に恐怖を覚えるより先に、背中を走る愉悦に似た快感を覚えていた。

 

 

「拳銃を下ろせ。酒が注げねえ」

 

 

 

抗議すれば、女はあっけなく銃口を下ろして、代わりにグラスを持ち上げてリヴァイの目の前へずい、と寄せた。現金な女だ、とリヴァイはそれに酒を注いでやる。今度は女もその瓶を取り、リヴァイの空の杯に酒を注いでやった。あっという間に瓶の中身は空である。

 

 

 

二人して酒を仰ぎ、うまい、と零す。さすが、エルヴィンが持っていた酒なだけある。

 

 

「それさ、あなたのその推理。残念だけど違う」

 

 

「そうかよ。お前のそのクソみてえな推理も間違ってるがな」

 

 

うん?と女が首をかしげた。

 

 

 

「じゃあ、あなたがハロルド商会と個人的に会ってる理由は?今日戻ったら私の部屋から設計図が消えてたのは誰の仕業?あなたしか部屋に入れないのに?」

 

 

「そっちこそ、ラング商会と会ってる理由はなんだ。第一、俺に毒を飲ませ続けるなんざ、並大抵の理由じゃねえだろう。何がしたい?」

 

 

 

再び沈黙がおちる。ちりり、とランプの火が一際大きく揺れた。火が、小さくなりつつあった。

 

その沈黙を破ったのは、今度はシグリの方であった。拳銃の安全装置を掛け直し、それをサイドテーブルに置いて、どさりとそのまま仰向けに横になった。

あぁ、と間の抜けた声に、緊迫した空気が一気に緩んだ。

 

 

「疲れたよ。もう今日はこの話はやめよう。もう何も考えたくない」

 

 

 

疲れた、と再び小さく泣くような声で呟く。細い指を額に乗せて、彼女は何かに耐えるように、きつく目を閉じた。

 

 

「リヴァイ」

 

 

 

呼ばれて、彼は少し覗き込むように彼女を見つめる。女は目を伏せたまま。泣いているのだろうか。

 

 

「私はエルヴィンのことは裏切るつもりはないんだ。それだけはウソじゃない」

 

 

いつもは凛と張り詰められた声が、か細く震える。悲しんでいるのか。怯えているのか。

 

彼女の真意は、リヴァイには想像すらできない。

 

ただ、なんとなく。そのきらきらと光を抱く瞳を見たくて、顔に手を添えた。彼女の上に乗りかかるような姿勢に、ぎしりとベッドが軋んだ。

 

ゆっくりと開けられた大きな瞳は、ランプの僅かな光がきらめいていた。どうやら自分はこのきらめきを気に入ったらしい、とリヴァイは他人事のように思う。

 

 

「泣いてるのか」

 

 

ふるふると静かに彼女は首を横に振った。白い首の下に、普段はシャツに隠された鎖骨がある。艶めかしく白く輝く骨に、こくりとリヴァイは喉を鳴らした。

 

 

「泣けよ。澄ました顔してんじゃねえ」

 

「何それ」

 

 

リヴァイはつ、と手で女の頬をなぞった。くすぐったそうに女は首をすくめる。抵抗するしぐさはないが、少しばかり体の筋肉がこわばっているのが、手のひらごしに伝わった。

 

 

「お前がエルヴィンを裏切るつもりがないなら、これ以上は聞かない」

 

 

言えば、女は驚いたように目を丸くした。そもそも、リヴァイがエルヴィンから命じられたのは、シグリの監視と護衛である。相反するようなその命令の目的は判然としないが、リヴァイはそれでいいと考えている。あの金色の考えていることは、己には到底知り得ることはできないのだ、とこの数か月の間でいやというほど理解している。

また、目の前の女も、金色と同じく、自分よりもさらに様々なことを思考しているのだとリヴァイは知っている。ならば、その彼女が「裏切らない」というならば、信じてみるのも一興である。

 

 

「俺もあの男を裏切るつもりはない」

 

 

「信じろって?あなたを?」

 

 

「ああそうだ。信じろ。俺もお前を信じよう」

 

 

今度こそ、女は驚きを顔に出して言葉を失ったようだった。まっすぐに落とされるリヴァイの視線に逡巡した後、小さく、「わかった」と呟いた。

 

お互いに疑問とわだかまりを残しつつも、二人の探り合いはひとまずの終止符となった。

 

副官であるシグリの、ラング商会との関係。そして彼女が毎日のようにリヴァイに用意する水差しに入れられた毒。

 

懐疑の種は多いものの、リヴァイは女を信頼すると決めた。その判断の根拠は、ほとんど彼の地下街で仕込まれた勘によるところが大きい。

 

何を信頼するのか。見極める根拠とするのに、人の言葉と行動はひどく曖昧だ。

 

リヴァイは、彼女の瞳のきらめきを好み、信じることとした。馬鹿らしい根拠だが、こういうときの勘が外れることはそうそうない。リヴァイは、黒曜石のような瞳をたたえた顔を撫でながらそう思う。

 

そんなリヴァイの思考を止めたのは、その黒曜石の持ち主のたじろぎであった。

 

 

 

「あ、あのさ、リヴァイ……」

 

「なんだ」

 

「ちょ、ちょっと、その手、どけてくれないかな」

 

 

おびえるような、少し照れるような表情で、彼女が言ったので、リヴァイは頬を撫でるようにしていた己の右手の行方にようやく気付いた。しかしどうにも滑らかな肌を手放すのが惜しく感じて、

 

 

「なぜだ」

 

 

と問えば、女は「えぇ?」と素っ頓狂な声をあげて、しどろもどろに目を右往左往させた。いつかの夜のように、特段拘束しているわけではないが、彼女は抵抗しない。ただただ少女のように狼狽えるシグリに、リヴァイはその女のことを知りたくなった。

 

 

この女は何を思って行動しているのか。何のためにエルヴィンを裏切らないと誓うのか。

 

なぜ、命をかけて壁外の地獄へ赴くのか。

 

 

 

「……どうしてお前は調査兵団にいるんだ」

 

 

「え?」

 

 

「無駄死にだと思わねぇのか。お前なら、他にもできることがあるだろう」

 

 

女は少したじろいだ後、枕元に放り出された分厚い本に手を伸ばした。開かれたページに、大きな魚が描かれていた。

 

 

 

「……海に住む、巨人より大きな海獣。クジラっていうんだ」

 

 

 

彼女の右手の細い指が、挿絵の大きな魚を愛しそうに撫でる。するりとリヴァイの手から彼女の頬は逃れ、きらりと煌めく瞳をその絵に向けた。リヴァイの視界に彼女の右手首の付け根にくっきりとついた、注射の跡が入った。

 

訓練の後、毎日のように机に向かう彼女の右手を蝕む、炎症を抑えるために、自ら注射を打つ姿は痛々しくリヴァイの瞼の裏に鮮明に焼き付けられている。何度も打たれた薬剤の通る道は、白い肌に赤黒い穴の跡を残したのだ。

 

 

それは、日夜歴史を書き綴る、彼女の痛みの証しだ。

 

 

「壁の中は息がしづらい。でも、壁の外はそうじゃない」

 

 

「巨人がいてもか?」

 

 

「うん。そこは確かに地獄だけど。きっと楽園があるんだと思う」

 

 

語る瞳は、先ほどまでの狼狽を忘れ、外の世界に夢見るきらめきを宿している。リヴァイは身を起こして、その彼女の姿をまじまじと見た。

 

 

「楽園があるのか?」

 

 

「だと、いいなと思ってる」

 

 

女が笑った。それはリヴァイが初めてみた、彼女の偽りない笑顔だった。

 

 

 

 

 



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第七章 父の拳銃

 

 

 

その毒は、ウォールシーナ内地における高山の一角にのみ生息するという花から摂取できる。

毒、といっても大して毒性は強くない。もともとは家畜の屠殺時に飲ませるものとして開発された。死に至らしめることなく、体の自由を奪うだけの毒。それを使えば無駄なく屠殺できると同時に、薬剤による肉の旨味の低下も防ぐことができるという。

麻酔のような役割を果たすものとして、注射液の中に投薬されることもままある。

しかし、人間の口から投薬すれば、最初拒否反応を起こして風邪のような症状を引き起こす。症状はすぐ治るので、投与してもさほど大したことにはならないが、長期間摂取し続ければ、少量であったとしても身体に支障をきたす。

風邪のような症状は抗体ができることですぐに治り、それ以後は摂取していても発症することはないが、数ヶ月ほどすれば、手足のしびれが出始める。その後、さらに継続して摂取し続ければ、神経にまで毒は達し、手足の痛みを常時覚えるほどになるという。そこまで犯されれば、その痛みは投与をやめたあとも後遺症として残る。その後遺症の治療法は、現在の医療では開発されていない。

 

「命を脅かすものでもなければ、手足の痛みも日常生活に大きな支障をきたすものでもない。だが、兵士にとっては死活問題だ。特にお前たちのように立体機動が商売道具のような奴らはな」

 

その白い花を入れた袋を指で示しながら、ナイル・ドークは言った。

 

「高価な薬だ。以前はシーナで名を売っていたラング商会がほぼ独占的に取引していた商品だ」

 

言って、注がれた酒に口をつけて喉を潤す。まだ日は高い位置にあるが、たまの休暇ぐらい、昼間からの少々の酒ぐらい許されるだろう。

ナイルの前で、彼の訓練兵時代の同期は、あの頃と変わらぬ聡明な青い瞳を静かに瞬かせて、ナイルの話に黙って耳を傾けていた。

 

「リヴァイの数ヶ月前の風邪は、これが原因だと考えるのが妥当だろう」

「なるほど。シグリはそれをリヴァイに飲ませていたと考えて間違いなさそうだ」

 

男、エルヴィン・スミスはふむ、と頷いた。酒には手を出していない。堅物のいつもの同期らしく、こんな店に来ても女の一人もつけない。

否。

まだ店は本来なら閉店の時間であろう。

ナイルは、数週間前から調査兵団の分隊長を勤めるエルヴィンから、いくつかの調査を頼まれていた。憲兵団にいるナイルが、内地くんだり最南端のシガンシナ区まで来たのは、その調査報告のためである。

対するエルヴィンも、ナイル同様、兵団服は脱いでいる。私服のシンプルながらに洗練された佇まいも訓練兵時代の頃から変わらない。彼は確か、数日前に壁外から戻って来たばかりであったはずだ。

朗らかに笑って内門でナイルを迎えたエルヴィンは、歓楽街の奥にある小さな酒場に彼を連れて行った。どうやら高級な娼館もかねた店らしいが、女は昼間ゆえにおらず、いたのはエルヴィンと共に調査兵に志願した同期であった。

数年ぶりに再会した同期が退団して店を開いているだけでなく、女になっていたのだから、ナイルは驚きのあまり最初は叫び声を上げたほどである。

しかし。まあ。

エルヴィン・スミスという男はそういう奴だ。

こいつや、こいつの周囲は常にびっくり箱のようなものだ。

 

ナイルはそう思って、ひとしきり叫んだ後は、全て受け入れて同期の女になった男の注いでくれた酒を嚥下したのだ。

「しかしなぁ…この薬は水に溶かせば無色無臭で味もない。リヴァイのやつ、よく気づいたな」

「ああ…そういえば、部屋の木鉢、ひとつだけやけに育ちの悪い草があったな。あいつは勘がいい男だ。草にやることで毒かどうか試していたんだろう」

 

ナイルは表情を変えないエルヴィンを見てため息をついた。

 

「お前の副官がラング商会と組んでリヴァイを兵士として使い物にならないようにしようとしていたのは事実だ。シグリはリヴァイを退団に追い込むことを明確に意図していた。……だがな、それらは全部、お前がまいた種だぞ、エルヴィン」

「ああ。分かっている」

 

以前、壁外調査の中止をもくろんでいた議会の貴族ロヴォフと癒着関係のあったラング商会。エルヴィンの策略により、ロヴォフは不正を告発されて没落。その後ろ盾を失ったラング商会も、時をまたずして廃業へと追い込まれたのはシーナ内地では有名な話しである。リヴァイはそのとき、ロヴォフによってエルヴィン暗殺のために雇われた地下街のゴロツキであったが、今やその彼はエルヴィンの良い飼い犬と成り下がった、とナイルは見ている。どういう手を使ったのが知れないが、この男の口八丁は並大抵のものではない。

しかし、そうして人を駒のように使い、卑劣な手段を問わないこの男のやり方は、その分大きな恨みを生む。

 

その恨みを抱いたラング商会が、エルヴィン・スミスへの暗殺を企てていたことを裏情報で知り、即座に本人に知らせたのもナイルである。

 

調査兵団と憲兵団。対立しているわけではないが、決して相容れぬ兵団に属しているとはいえ、元同期で、いつかの頃には同じく壁外への夢を語り合った男への情を捨てきれぬのは、ナイルの甘さと優しさであった。彼の家庭人としてのそれが、エルヴィンへの情にも繋がっているのかもしれない。

しかし、ラング商会の件については、エルヴィンが動くより前に、副官であるシグリ・アーレントが先に動いた。彼女は単騎、ラング商会へ接近し、エルヴィンの命の代わりにリヴァイの身柄を引き渡すことを交渉したようである。ラング商会の切なる願いは商売の再興である。そのための手駒として、地下街で顔の利くリヴァイの存在は大きい。彼を退団させ、ラング商会で雇い入れれば、それは地下街での商売を展開していたラング商会の大きな再興の礎となるだろう、と。

そしてもう一つ。交換条件としてシグリがラング商会に提示したのが、

 

「ハロルド商会の地下街での違法取引の証拠だ」

「違法取引」

「そうだ。お前の副官はどうにも優秀らしいな。どこで入手したのか、ハロルド商会が地下街の子供たちを雇い入れて、地上で住まわせ、地下街の商人との取引のパイプ役として使っていたようだ。その証拠があれば、ハロルド商会は取り締まりの対象となる。うまくやればラング商会がハロルドを乗っ取ることも可能だろう」

 

ナイルの説明に、エルヴィンは、「ハロルド会長は地下街の子供たちの置かれている劣悪な環境を嘆いていた人道家だったからな」と頷いた。

 

「ああ、そうらしいな。だが人道的であろうと、それは明らかな違法行為だ。王政への反逆行為として厳しく取り締まられるべきだ」

 

王政への忠誠心ゆえに、思わず声を荒げたナイルに、エルヴィンは静かな声で「ナイルらしいな」と呟いた。

 

「それで?どうしてシグリがそれをわざわざラング商会への交渉に使った?俺の命が狙われているにしても、彼女が下手に動くのは事態を悪化させるだけだ。彼女はそれが分からないほど馬鹿ではないはずだ」

「えらくあの女を買ってるな」

 

自分のあずかり知らぬところで暗躍する部下への評価にしては、少し高すぎる気もしてナイルが言えば、エルヴィンは「彼女は賢い。だからこそ、本人には聞かずにお前に調べてもらったんだ」と笑った。ナイルはそんなもんか、と思う。難儀な上司の下には、難儀な部下がつくものらしい。己の副官がそんな勝手な真似をしていれば、ナイルならば即刻退団させるだろう。

 

「シグリ・アーレントはハロルド商会から脅しを受けていたようだ」

「脅し?脅迫か」

 

初めて、碧眼の男がその眉をひそめた。

 

「そうだ。何をネタに脅されていたのか、詳しいことは分からん。ただ、ハロルド商会が欲していたものは、おそらくだがわかった。それをシグリが持っていたことが全ての発端だろう」

「それ、とは?」

「連発式散弾銃の設計図だ」

 

ナイルは言いながら、目の前の男の表情を観察した。頬の筋肉の動き。目線の行方。呼吸音。どんな些細な仕草でも、不審な点があれば、それは見逃してはならない。

 

いくら同期とは言え、いくら夢を語り合った仲であるとはいえ、「連発式散弾銃の設計図」の存在は、明らかに違法的存在である。それを目の前の男が知っているのかどうか。知っていれば、ナイルが背負う一角獣の誇りにかけて、それは尋問の対象となるのだ。それは今が、休暇中であっても、相手が友であっても、揺らいではならない。

しかし、目の前の碧眼の男は眉をひとつ不思議そうにひそめただけだった。

 

「連発式散弾銃?その設計図を、シグリが?」

「ああ。それについては間違いない。ハロルド商会が持っているらしいことは調査済みだ」

「どういうことだ」

 

シグリが持っていた設計図。それは、今、ハロルド商会へとわたっている。それは、全てあの壁外調査後の狙撃事件の時に起きた。

 

「二日前の調査兵団本部への狙撃事件。あれはハロルド商会の仕業だということが判明した。しかしあの狙撃は囮だ。お前が狙われたのか、もしくは再三の脅しにきかないシグリを狙ったのかわからん。だが、本当の狙いはシグリの研究室にあった設計図だ。壁外調査後の狙撃による混乱状態を狙って、完全にもぬけのからになった兵舎にハロルド商会で雇われていた地下街の子供たちが盗みに入った、というのが今日わかった事実だ。ハロルドは連発式散弾銃を大量に生産し、地下街を含んだ裏社会で一儲けしようと考えていたみたいだ」

大きなため息をついたのはエルヴィンである。少し疲れたように瞬きした後、「一つ聞くが」と前置きして、ナイルをその独特の少しばかり狂気じみた双眸で見返してきた。

 

「なぜ、シグリが連発式散弾銃の設計図を?それは事実なのか?なぜナイルはそれを知ることができた?」

「ハロルド商会のことを調べていたら、ある工場都市の技師にたどりついた。ハロルドのお抱えの技師で、兵団向けの散弾銃などを生産していた腕の良い技師だったが、一年半ほど前。工場内での不審火で死亡していた。もともとハロルド商会は、今の商会として独立する前は、シーナ内地で憲兵団相手に商売をしていた小さな商店だった。それが一年半前、その技師の死を境に、彼らはシガンシナ区に来て事業を拡大。地下街との交渉を始めたのも、その頃からだった。妙に思って、調べてみたら、どうやらその技師は王政への反逆罪で憲兵団資料にも名前が載ってたんだ。罪状は、「連発式散弾銃の設計」。つまり、王政で禁止されている拳銃の開発だ」

 

連発式散弾銃。それは王政からは禁止されている開発事項にあたるものであるが、技師や商売人からすればそれは魅力的な存在だろう。技術の発展を求めるのは技師には当然のこと、そして単発しか撃てない拳銃よりもさらに高性能な拳銃があるとするならば、それは商売人にとっては金のなる木そのものになる。ハロルド商会はそれを知り、欲した。技師の死亡後、何らかの方法でそれをシグリが持っていることを知り、シガンシナ区にいる彼女へ脅迫によってその引き渡しを要求。しかしシグリはそれを拒否した。彼女はそのときエルヴィンを狙っていたラング商会の存在を利用し、ハロルドの失墜を狙うと同時に、エルヴィンへのラング商会の攻撃をそらせようとしたのだ。

それが、事の真相だ、とナイルは言う。

ハロルド商会も、ラング商会も、きな臭いところのある商会である。憲兵団の上層部に食らいついているナイルからすれば、彼らの情報を探ることはそれほど難しくはなかった。それより困難であったのは、シグリと技師の関係。そして、設計図のことである。

 

「その情報を知ることができたのはほとんど偶然だ。たまたま憲政室の資料庫のなかで見つけた資料に、技師の名前が載っていて、まさかと思って調べたんだ」

技師の名前。決して多くはない、その名前は。

 

「……レオン・アーレント」

 

名を呼んだのは、エルヴィンだった。

 

「やっぱり知ってたか」

 

「まあな。彼は……シグリの養父だ」

「といっても、彼の戸籍に入ったのは、レオンが工場での不審火で死亡してからだ。彼の戸籍から調べてもシグリには辿り着かない。本当にたまたま、調べてみたら当たりだった。それだけだ」

 

ナイルが見遣れば、常に表情を崩さない碧眼の男は、珍しく額をおさえて悩ましげに顔を歪めていた。

 

「すまない。少し驚いてな。……ナイルの勘はすごいな。それは憲兵団として誇れるものだろう」

 

そうだろう。自分の部下が、まさか王政の反逆となるものを持っていたのだから。

 

「エルヴィン。お前、本当にシグリが設計図を持っていたこと、知らなかったんだな」

 

問えば、エルヴィンは「初めて知ったよ」と憔悴しきって言った。ナイルは言いようもない安堵に胸をなで下ろした。かつての友を告発しないで済んだ安心感だ。彼が直接関与していなくても、エルヴィンがシグリと設計図のことを知っていれば、それは十分罪になることだった。だとすれば、ナイルは黙っているわけにはいかなくなるのだ。

 

「あともうひとつ。お前に頼まれていたリヴァイとハロルドの件だが」

「ああ。それについては本人から聞いた。ハロルドはリヴァイに近づいてきたようだが、それはおそらくその設計図をリヴァイに盗ませようとしたんだろう?しかし狙撃の件からして、リヴァイはそれに応じなかったらしいな」

「その通りだ。お前からラング商会とシグリの件を調査するように言ってたんだろ?だからだろうが、あいつはあいつで探りを入れていたようだが、設計図については全く関与していないようだ。そのまま、あいつにはこれ以上関わるなと言っておけ」

「問題ないだろう。彼は十分その危険性を理解して、身を引いている。あれも馬鹿じゃない」

 

思い詰めた表情の同期に、ナイルは少しばかりの同情心を覚えた。腹心の部下の不祥事は、彼の立場をも危うくさせるだろう。エルヴィン・スミスは今、調査兵団団長の声がかかっているという優秀な兵士だ。調査兵団は変人の巣窟だが、その変人のなかでのし上がろうとするこの男を、ナイルは理解できずとも、応援はしていた。

 

「エルヴィン。今回のハロルド商会の件、駐屯兵団にかけあって憲兵団の管轄にしてもらうつもりだ。今、ハロルドの逮捕状も作成の手配をしている。分かるだろ?お前もあいつを、」

「何言っている。今回の件、最初から憲兵団の管轄じゃないのか?」

 

ナイルの言葉に、エルヴィンがはじけたように顔を上げて問うてきた。その切迫した様子に、ナイルは首を傾げた。

 

「は?シガンシナ区は駐屯兵団の管轄だろう」

「そんなはずはない。狙撃の後、事情聴取に来たのは憲兵団だったぞ」

「俺はそんなこと聞いてない。他の部署のやつが行ったのか?上から何も通達がなかったもんだから、俺はてっきりいつも通り駐屯兵団の管轄だとばかり思っていたが、そうじゃないのか」

 

憲兵団師団長ならまだしも、一介の部隊長クラスのものには、憲兵団の動きを全て知ることは出来ない。情報伝達が遅い憲兵団だ。管轄が特別に憲兵団がうけもっていたのか、とナイルは安堵した。そうだとすれば、ナイルが申請したより早くハロルド商会の逮捕状は通るだろう。

 

「エルヴィン。お前もやることは分かってるだろう?」

「何がだ」

「すっとぼけるな。今回の件で、お前の副官シグリ・アーレントにも王政反逆の嫌疑がかけられるのは必至だ。そうなれば、お前だけでなく調査兵団にも嫌疑の眼は向く。そうなる前に、あの女は退団させておけ」

 

黙して瞬きすらしないエルヴィンに、もう一度ナイルは言う。

 

「分かってるだろ?王政への反逆行為は一番重い罪だ。それを兵団にまでかけられる前に、女は切っておけ」

その金色の男は、そのナイルの忠告にはなにも答えなかった。

 

その後、しばらく会話をした後、その日のうちにマリア内地までは戻りたいと思っていたナイルは、店を出た。店主である同期への挨拶もそこそこに、エルヴィンと店の前で握手を交わす。

 

「ナイル。マリーは元気か?子供も大きくなったんだろう?」

「ああ。今、二人目がお腹にいる」

 

言えば、そうか、と男は目尻を下げて少しだけ微笑んだ。彼が、欲しいものはすべて何をしてでも手に入れてきているこの男が、なぜかマリーだけには何もしなかったことを、ナイルは知っている。エルヴィンがマリーを想っていたことは知っているが、なぜ何も行動にうつさなかったのか。その理由をナイルは知らない。

 

「今度内地に来たときは家に顔見せろ。こんな気が滅入るような話じゃなくて、もっと楽しい話でもしよう」

「楽しい話?」

「そうだ。こんな……子供たちの働き口を地上に作った人道家が、その裏で女を脅したりしているような話じゃなくて。何か他にも楽しいことはあるだろう」

「……俺ができるのは、壁の外の話しくらいだが」

 

そんな地獄の話しじゃない、と言いかけて、ナイルは思わず口をつぐんだ。昔。まだ幼い頃、彼と楽しく話をしたのは。彼が楽しそうに話していたのは、いつも壁の外の世界を語るときだった、と思いだしたのだ。

 

ナイルの同期も、エルヴィンの仲間も、多くが死んだその地獄の壁の外の話だ。

 

「……ま、まあ。内地に来たときは、言えよ」

「ああ。ありがとう」

 

気まずくなりかけた空気を振り払い、ナイルがその場を立ち去ろうとして、エルヴィンに背中を向けたとき、店の方へと歩いてきた女の姿に気付いた。

栗色の長い髪を下ろした女だった。細くて化粧っ気もないが、どこか色気のある女だった。淡い空の色をしたワンピースに、かごを持って歩いてきた女が、ナイルとエルヴィンに気付いて眼を丸くした。

 

「あら、ダグラス?」

「やあ。今から出勤だったか?」

 

どうやらその女は、今し方まで彼らがいた店の従業員らしい。ふとナイルはその女の顔を見た。

 

「ん?あんた、どっかで……?」

「あなたは……」

「シシィ。憲兵団の私の同期、ナイル・ドーク隊長だ。次期師団長の声高き優秀な男だ」

 

エルヴィンの紹介に、女は上品に頭を下げて、ゆったりとした落ちついた声色で、「シシィと申します」と名乗った。ナイルは挨拶もそこそこに、ああ、と頷いた。商売女はあまり彼は得手としない。早々に立ち去ろうとして、エルヴィンに別れの挨拶をした。

 

「またな」

「ああ」

 

彼らの別れはいつも短い。またな、なんて約束できるものではないとナイルは知っている。それでも、いつも、まるで願掛けのように、ナイルはその自由の翼を背負う友たちとの別れ際には決まってそう声をかけていた。

 

ただ、しばらく歩いて、その日は振り返った。傾きかけている陽光に、金色の髪がまぶしく輝くのを見た。

 

「お前、まだここで終わるなよ!女ひとりのために身をほろぼすんじゃねえぞ」

 

そんな情けない姿は見せてくれるなエルヴィン・スミス。お前はその整った容姿に似合った冷徹さで、今まで色んなものを切り捨ててきた。だから悩むな。思い詰めるな。前にすすむために、腹心の女は切り捨てろ。

 

お前の夢のために。

 

ナイル・ドークはそう思いながら、彼の妻の待つ家路へと着いた。

 

 

 

 

 

 

憲兵団の人間だという細身の男の後ろ姿を見送ったあと、シシィはエルヴィンに、「言ってくれたら接待したのに」と困ったように笑った。

 

「いや。今回はよかったんだ。あいつとは同期だったし」

「ママとも会えた?」

「ああ。驚いて叫んでたよ」

 

その様子を想像して、シシィはくすくすと笑う。その女の顔を見ながら、エルヴィンは厳しい顔で言った。

「ハロルド商会に逮捕状がもうすぐ出る。シグリの持っていた設計図のことも憲兵団に露見してしまった。憲兵団が動くのも時間の問題だろう。君も気をつけろ」

 

女は息を呑む。凍り付いたように顔を青くしたのを見て、エルヴィンはその頭を撫でてやった。

 

「シグリ、」

 

「シグリは兵団で守る。調査兵としている限り、憲兵団も身勝手に手を出すことはできないだろう。その点に関しては、君は心配することはない」

 

強く。エルヴィンは断言した。

 

 

 

 

 



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第七章 父の拳銃 二

 

褐色の長い髪に、真っ暗な瞳。人に言わせれば、この眼球は光の加減で黒くも褐色のようにも見えるという。

 

地中深くに眠る宝石のようだ、とのたまったのは、私の後見人でもあるエルヴィン・スミスだったか。

 

鏡の中の女は、まるでつまらなさそうな生意気そうな顔をしている。頬を引き上げてみれば、目尻に少し皺が寄ったような気がする。もうそれほど若いと言える年頃ではなくなってきた。

 

 

鏡台の引き出しから、いつもの化粧道具を取り出して肌を整えていく。眉を切りそろえ、瞼に色を乗せ、唇にも赤を引く。

 

 

そうすれば、いつもの私はいなくなり、夜の女、シシィのお出ましだ。

 

 

今日は特に予約の客もないが、いつもより少しおめかししてみようか、となんとなく髪を持ち上げていると、部屋にリザが入ってきた。

 

ブロンドの髪が美しい彼女は支度はもう既に済んでいるらしく、肩がむき出しになった白のブラウスに赤いフレアの長いスカートを着ていた。

 

女性らしい豊かな曲線と、雪のような真っ白で傷ひとつない肌、そして惜しげなく下ろされた神々しいまでの金色の髪は、まさに神が与えた造形物だと思う。薄くて骨ばかりの体つきの自分とは比べようもないくらい、彼女は本当に愛らしい。

 

 

「新しいドレス、とても素敵ね。リザによく似合ってるわ。可愛い」

 

 

いつも男たちに褒められ慣れてるだろあに、ちょっと顔を赤らめて照れる様子なんかは、思わずぎゅっと抱きしめたくなるほどだ。

 

彼女は店でも人気だし、休日に街に繰り出せば男たちの視線はいつも彼女に集まる。きっといつか、この子にも素敵な男性が現れてこの店を出ていく時が来るのだろうし、その時を見送ってやりたいとも思う。

 

 

「……シシィ」

 

「どうしたの?らしくないわね」

 

 

髪を結いあげながら、いつもはよく回る口が閉ざされているのに首をかしげる。なにやら思いつめたような表情が鏡越しに見えて、思わず振り返れば、「いいの。なんでもないわ」と笑った。

 

 

「シシィ。私が結ってあげる」

 

「ほんと?嬉しい。リザが結ってくれると綺麗になるのよね。お願い」

 

 

自分では結い上げるくらいしかできないが、器用な彼女の手にかかれば、この髪は編み込みなどを施された造形品のように美しく仕上がるのだ。

 

 

「生え際はあまり見えない方がいいわよね」

 

「ええ。自然に見えるようにお願い」

 

 

柔らかな彼女の手が、何やら器用に髪を触る感触にうっとりと目を閉じれば、リザは年頃の女の子らしく、ここ数日にあったことをたくさん話し出した。

 

パンを買い出しに行った時に店の主人からおまけをもらったこと。

ママの髭剃りを新人の男性給仕が間違って使ってしまい、久しぶりにママが凄い声で叫んでいたということ。

昨日の客がしつこくて、もう接客したくないけど、明日も来るから参っているということ。

 

とりとめのないことを、つらつらと話してくれる声はいつものリザだ。あどけなさを残した声に、心が澄み渡るような心地がして、私はその耳心地の良い話に聞き入っていた。

 

 

「……この前、初めて調査兵団が帰還してきたところを見に行ったわ」

 

 

それは、少しだけ、いつもより低い声で語られた。ふと見れば、先ほどまでの笑顔は引っ込んで、何やら思いつめた表情が可愛らしい顔に浮かんでいる。

 

 

「レヴィも見た。あいつ、私が呼んだのに無視したのよ」

 

「彼らしいわね」

 

「ダグラスは、見たことのないくらい怖い顔してたわ」

 

「そう」

 

 

鏡の中を見れば、髪はすっかり整えられて素敵に結いあげられていた。まるで貴族の美しいお嬢さまのように上品だ。

 

 

「私、やっぱり調査兵団なんて嫌いだわ」

 

「そうね。……怖いものね」

 

「シシィも怖いの?あいつらのこと」

 

 

問われて、ダグラス――エルヴィン・スミスの迷いなき双眸が脳裏をよぎる。

 

 

「――そうね。怖いと思うこともあるわ」

 

 

その言葉に何を思ったのか、リザは息を飲んで視線を漂わせた。どうしたのか、と問おうとしたら、不意に後ろから抱きついてきた。

 

いよいよどうかしたのか。やはり何かあったのか。調査兵団がらみだろうか。それとも誰かに虐められでもしたのだろうか。

 

 

「リザ?どうしたの?何かあったの?何でもいいから、辛いなら話してみて」

 

 

抱きつく手をさすって振り返れば、青く、少し緑がかったガラスのような瞳がひそめられて、不意に私に近づいてきた。

 

あ、と思った時には可愛らしい彼女の唇に、キスをひとつもらっていた。

 

彼女とのキスはそれほど珍しいものではない。じゃれるように笑いながら、冗談のように頬にキスを贈られたことは今まで何度もあったが、こんな思いつめた表情で、唇にされたことは初めてで、驚きで言葉を失ってしまった。

 

 

「シシィ。私はあなたが好きよ」

 

「え、ええ。私もリザのこと大好きよ」

 

「違うの、シシィ。私は、」

 

その時、ノック音が響いて、ママがドアから顔を出した。

 

「シシィ。レヴィが来てるわよ」

 

 

今日一番最初の客の到来を告げたママに、リザはするりと私に絡めていた細い腕を解いた。

 

 

「リザ?」

 

 

「さあ、シシィ。何ぼうっとしてるのよ。行かなきゃ。あいつ、シシィにご執心だから、遅くなると機嫌が悪くなるわよ」とちょっとふてくされながらも笑った。

 

 

 

 

 

 

レヴィ――リヴァイは、いつものように黒いジャケットを羽織った姿で店の奥の、いつもの席にいた。

 

店の奥にありながら、店内を一望できるその席は、店の勝手口にも近く、そこを好んで座る彼の警戒心の強さが表れているような座席だ。

 

いつものように、眉間に皺をよせて、まるで世界の終わりの1日のような表情をのせている。目の下のクマも色濃く、「不景気な顔」と彼を指してダグラスが言ったのもあながち間違いじゃない、と失礼ながらに思う。

 

それでも、その表情が決して不機嫌故のものではないということに気づくには、それなりの時間を要した。けれどもまだ、彼の笑う顔はお目にしたことがない。彼はどんな時に笑うのだろうか。

 

 

「レヴィ」

 

 

呼べば、ちらりと薄い灰色の鋭い瞳が私を見つめて、ひとつ頷いた。これも、いつもの彼の仕草だ。

 

でも、今日、彼がそこにいることはいつもと大きく違う。

 

 

「レヴィ。あなたがダグラスの指示なしに来てくれたことって初めてね」

 

「……ああ。今日は仕事は抜きだ」

 

 

隣に腰掛けると、彼が一つ距離を詰めてきた。下から、見上げる灰色が鋭く私を捉える。

 

 

 

「お前に会いにきた。シシィ」

 

「……初めてね。嬉しいわ……」

 

 

 

会いに来た、と彼は言ってくれた。しかし、席についてしばらくしても彼は特に何か話すこともなく、黙々と私の注ぐ酒を飲み干すばかりだった。いつしか、店内も客で賑わいをみせはじめていた。

 

彼がようやく口を開いたのは、それからまた暫く経ってからだった。店内も賑わい、店の奥で弾かれるピアノも、暖かなテンポのある曲を奏でていた。

 

 

「お前の叔父。レオン・アーレントの死についての件だが、悪かった」

 

 

ぽつりと。前を見据えてグラスを傾けながら言った。ガラスのふちを掴む独特の持ち方で、器用に酒を飲む姿からは、彼の真意はよく掴めない。

 

 

「あなたが謝ることじゃないわ。……あんなこと頼んで申し訳なかったと今は思ってるの。あなたが断ってくれてよかった」

 

「叔父の不審死について、真相を知りたいと言っていたのはいいのか」

 

 

一年半前の工場での不審火。あの人はとんでもなく潔癖で、工場の隅から隅まで安全衛生を徹底した人だった。特に火の取り扱いについては、かなり気を配っていた。そんな彼の工場での、あり得ない火事。

 

 

「……いいの。真相は分からなくても、きっと私の予想は当たってるから。確証が得たかっただけ。私では探れない憲兵団の情報をあたなに集めて欲しいだなんて、あなたの立場を危うくさせるお願いだったわ。断ってくれて、本当に良かった」

 

 

そうか、と男は私を見ることなく頷いた。

 

 

「でも、どうして今頃?」

 

「……いや、大した意味はない。ただ、少し聞きたくてな」

 

 

レヴィは、少しだけ躊躇ったあと、身体を起こしてソファに背中を預けた。中空を見ながら、何かを思い出すように、つらつらと話し始めた。

 

 

「俺の母親は娼婦だった。俺がまだクソの捨て方も覚えてない時分に死んだ。それから少しの間、ある男と一緒に暮らしたが……そいつもすぐに俺の前からいなくなった。訓練兵への志願可能年齢より少しガキの頃の話だ。それから、ほとんど一人で生きてきた」

 

 

手を見やる。その手は彼の小柄な体格の割に大きく、骨ばっていて、固そうな男のそれだった。

 

 

「生きるために生きてきた。別に他の奴らみてえに地上に行きたかったわけでもねえし、死ななけりゃそれで十分以上だった。それでも次の瞬間、ナイフで切られてあっけなく死ぬもんだとも思ってた。まあ、そりゃあ今でもそう変わらねえが……そんな生活しか俺は知らねえから、なんだ。その、よく分からないんだが」

 

 

どうやら、彼の生い立ちは前置きだったらしい。少しだけためらって、私を見つめて「叔父ってのは、家族なんだろう?」と尋ねてきた。

 

質問の意図が読めず、首を傾げれば、彼は説明を続けてくれた。

 

 

「俺には親や兄弟なんかもいねえ。仲間はいたが、普通のやつらの言う「家族」なんてもんには縁が薄い。だからよくわからねえんだが……。お前にとって、レオン・アーレントは、家族だったんだろ?」

 

 

その、言葉と視線の意味を悟って、恥ずかしさといたたまれなさが胸を締め付けた。

 

どこまで知り得たのか。彼は、どこまで事実に近づいたのか。

 

 

「ご、ごめんなさい。私、あなたに嘘を…。レオンと私は血のつながりは、」

 

「そんなことはどうでもいい。てめえの嘘は大した問題じゃない。レオン・アーレントがお前の叔父でも父親でも、赤の他人でも何でもいい。お前にとって、レオンはなんだったんだ」

 

「どうしてそんなこと聞くの……?」

 

 

灰色の瞳が、ちらりと私を見遣った。けれどそのまま、すぐにまた中空に視線を戻した。

 

 

「どうしてだろうな……。知りてえのかもな。その男が何者だったのか。お前にとってなんだったのか」

 

 

ひとつ、息を吐きながら、レヴィは自分の膝に肘をのせて頬杖をついて、今度こそ私を正面から見つめてきた。

 

 

「俺を巻き込みやがったくせに、もう一人の女は何も喋りやがらねえ。だがここにいるお前なら、何か話してくれるんじゃねえかと期待したのかもな」

 

「……もうひとりの、」

 

「シグリ・アーレント。いつも澄まして笑ってやがる。どこまで剥いでも澄ました顔しか出てこねえが、中身はえげつねえもん抱えてるあの女だ」

 

 

彼の右手が伸びてきて、私の髪を左耳にかけながら、頬を少し撫ぜた。

 

 

「なあ。お前はどうだ、シシィよ。話す気はあるか。俺に」

 

「あ、あなた、どこまで知ってるの」

 

「エルヴィンに報告を受けたことだけだ。ラング商会のこと、シグリとハロルド商会のこと。それから、レオン・アーレントと設計図のことだけだ」

 

 

彼はさらにその奥の事実を、どこまで気付いているのか。

 

 

「あなたに話せることは少ないわ」

 

「話せ」

 

 

その薄い灰色が、鋭く私を捉えて、まばたきひとつすら許されないような感覚に陥る。凍て付くような視線とは裏腹に、彼の右手は優しく頬を撫でている。

 

 

「レオンは私の叔父でも何でもないわ。ただ、知り合いのお父上だったというだけ。家族でも何でもないの」

 

「赤の他人になぜ執着する」

 

「……わからない。いえ、ただ、彼の技術は……」

 

 

まだはっきりと覚えている。技師としての強い矜持に支えられた、彼の洗練された技術と開発の数々。それらを生み出す両手がまるで神様のようで、それらを生み出すときの彼の瞳が、子供のように輝いていて、私はあれがとても好きだった。

 

 

「壁の中の数少ない希望だと思った……」

 

「希望?なんだそれは」

 

「…………」

 

 

 

どう話せばいいのか。語る言葉を私は持たない。持っていない。

 

喉から出てこない声に気まずくなってうつむけば、左頬から男の暖かな手はするりと引いていった。わずかに彼がため息をつく。

 

 

「お前も話せないのか」

 

「…………ごめんなさい」

 

「シシィ。いや、マリか。それとも……なあ、お前は誰だ。お前は何者なんだ」

 

 

 

レオンとは。シグリとは。アーレントとは。シシィとは誰か。マリとは何者か。

 

 

 

「お前は、なんて呼べば応えてくれる」

 

 

 

彼は、私に向き合っている。それに応えられない己に、吐き気がしそうだった。

 

 

「私のことを、見つけてくれたら……」

 

「何?」

 

「いえ。ごめんなさい。何でもないわ」

 

 

言って、立ち上がった。体調が優れないと言い訳して、逃げるように彼の傍から店の奥へと引き返した。心配して部屋までついてきてくれたママに、レヴィへのお詫びだけを伝えてもらった。

 

リザにレヴィへの接待を頼んだが、彼は断ってすぐに帰ったと、部屋で休んでいればママが教えてくれた。

 

突然仕事を放棄して客を捨て置くような真似をした私にも、ママは優しくそっとしておいてくれた。レヴィも、特に文句も言わずに帰ったと聞いた。

 

 

 

 

 

その夜、ダグラスことエルヴィン・スミスからの早馬で、ハロルド商会のハロルド会長が死亡したとの報せを聞いた。

 

死因は内臓損傷によるものらしかった。顔を含めた全身に、見るも無残な殴打の跡が無数にあったことから、強盗による殺人であろうということだった。

 

 

それが、奴らの仕業であると私は直感した。

 

 

レオン・アーレントもまた、そうやって殺された。

 

 

王政から派遣された憲兵団に。その、設計図を手にしていたという理由によって。

 

 

 



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第八章 異邦人

真新しい白い布で、装置のグリップを磨く。トリガーだけでなく、ワイヤーの射出を調整する部位の隙間もしっかりと丹念に磨き上げる。

実は身体を拘束するベルトも毎度磨き上げていると聞いたときは、さすがの私もどん引いた。しかし、病的すぎる彼の潔癖も、立体機動装置の小さな不具合を見つけるためにはかなりいいように働いているらしい。

その証拠に、彼の装置のガス噴射とワイヤーの巻き取り音は、兵団の誰よりも雑音を交えない美しさがある、と思う。

 

「しっかし、今回は災難だったね」

 

きゅ、と磨き上げる手を止めずに、リヴァイは私にちらりと視線をやって、ふん、と鼻を鳴らした。常に首元まできっちりと締め上げられたシャツは、珍しく寛げられており、装置のベルトも取り外し、ブーツもはいていなかった。代わりに、彼の軸足である左足の足首には、白い包帯が巻かれていた。

 

「あの彼も、今回の件でこりて装置の点検をしっかりするようになるでしょ。あなたのケガがただの捻挫ですんでよかったよ。本当なら、彼の命はなかったんだから」

 

昼間の訓練における事故。とある兵士が、立体起動装置の不具合で訓練中に15メートルもの高所から落下した。近くにいたリヴァイが、機転をきかせて捨て身で彼を助けなければ、あの兵士は間違いなく命がなかった。彼は無傷。そして助けたリヴァイも捻挫ですんだのは、ひとえにリヴァイの技量あってのものだ。これが他の兵士であれば、下手をすれば死人は二名に増えていただろう。

 

「ハンジ」

 

誰もいない食堂のなかで、ようやく彼はその潔癖な手をとめた。

 

「もう就寝時間が過ぎてる。何か用がなければさっさと部屋に戻れ」

 

「大丈夫だよ。もう今日の仕事は終わったし」

 

「……てめえも女だろう」

 

 

ロウソクの炎が揺れて、リヴァイの決して血色の良いとは言えない頬を照らす。言いながらも彼の視線は再び装置へと戻されていた。

 

 

「はは!あなたって本当、案外仲間思いだよね!」

 

 

「あ?何言ってる」

 

 

今度こそ機嫌悪そうに声が低められた。ふふ、と笑いが抑えられずに、「あなたは優しい人だってことだ」と言えば、盛大な舌打ちを頂いた。どうやら、怒らせてしまったのだと気付いて謝る。

 

 

自分を顧みず仲間を助けようとする人。女性とも見えない女性兵士の身を案じる人。そんな人がなぜ仲間思いでないなんて言えるのか。

 

 

この地下街から来たゴロツキは、存外懐に入れた者にはとことん優しいのかもしれない。

 

 

「私はただね、嬉しいんだ」

 

 

淡い灰の三白眼には、自由の翼たちはどんな仲間として映っているのだろうか。

 

 

「あなたがだんだん調査兵らしくなってきていることと、私たちがあなたに許されてきていることが」

 

 

「許す?」

 

 

「そうだ。あなたの仲間として共にあることを許されてきている気がしてね。それがとても嬉しいんだ」

 

 

リヴァイは少し驚いたように目を見開いて瞬かせた。ああ、これは初めて見る表情。

 

 

「許すも何もねえだろう……。それともてめえには俺が目の前の人間を見殺しにするようなやつだと思ってたのか」

 

 

そんなことないさ、と言い返して、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

 

 

この数ヶ月で、彼についてわかったことがいくつかある。

 

ひとつは、病的な潔癖症であるということ。

 

ひとつは、情の深い人間であるということ。

 

ひとつは、無口なようでいて、案外お喋りは嫌いじゃないらしいということ。

 

 

 

「ねえリヴァイ!怪我が治ったらまた立体機動の練習方法教えてくれないかい?今度こそしっかり分析して、兵団内の訓練に還元させてみせるから!!」

 

 

そう。彼の並外れた技術を、単に彼の肉と骨の所以であると片付けるのはあまりに愚鈍な結論だ。

 

 

そこにとどまらず、形を変えて、色を変えて、彼の持つ技術を盗まなければ、我々に先はない。巨人に打ち勝つ希望は、あますところなく、骨の髄までしぼりとらなければならない。

 

 

「……俺の方法がそのまま役に立つとは思えねえが、てめえならなんとか使えるもんにできるだろう」

 

 

承諾を得て思わず歓声を上げれば、三白眼はますます機嫌悪そうに細められる。だってこれが喜ばずにいられるものか。最初は話すことすら許さなかったあなたが、生命線たる技術の解放を他人に委ねたのだ!この私に!

 

 

「おい、メガネ。うるせえ」

 

 

喜々狂乱という言葉があるとすれば、今まさにそのときだ、と騒いでいれば、食堂の扉を開けて人が入ってきた。

 

 

振り返れば、そこには部屋着のゆったりとしたワンピースを身にまとったシグリが、紅茶のポットを片手に立っていた。

 

 

「シグリじゃないか!聞いてくれ!リヴァイの立体機動を明日から徹底的に調べ上げる許可がおりたんだ!!彼の口から!」

 

 

「明日からじゃねえ。怪我が治ってからだ」

 

 

シグリは2秒ほど目を瞬かせたが、ふわりと優しく微笑んで「それはよかった。ハンジの腕の見せ所だね」と喜んでくれた。

 

 

「おい、てめえはいつもそんなだらしねえ格好でうろついてんのか」

 

 

食堂に備えられた炊事場へと向かうシグリに、リヴァイが口を挟む。小言を言われたシグリの方は、「そんなにだらしないか?もう自由時間なんだからいいじゃない」と少しふてくされたように彼の方を見ずに言った。

 

彼らが同室になってからしばらく、こうしたやりとりをたまに見かける。まるでお母さんと成人した子供のような掛け合いだと思う。

 

 

でもね、リヴァイお母さんはそういうことを言いたいんじゃないんだ、シグリ。

 

 

「シグリ。彼はあなたがそんな可愛らしい格好で男性兵士もいる兵舎の中を歩き回るのが心配でたまらないって言ってるんだよ」

 

 

言えば、リヴァイは盛大な舌打ちをしたが、何も言わないので、やはり真意はそうなのだろう。彼の言葉は少し分かりにくいが、分かりにくくなければかなり優しい言葉ばかりなので、彼の顔には似合わない。分かりにくくて口が悪い程度が似合っている。

 

が、いかんせん伝わりにくい。

 

 

「……そう?そうか……。なら、気をつけるよ。書き物しててね、紅茶が欲しくなったんだけど、わざわざ着替えるのもどうかなと思ってそのまま来たんだけど」

 

 

「いちいち面倒くさがってんじゃねえ。目に毒だ」

 

 

「……そんなに毒なら見なきゃいいんだ……」

 

 

「違う違うシグリ。リヴァイはあなたの格好が可愛らしすぎて目のやり場に困るって言ってるんだよ」

 

 

リヴァイは否定しない。

 

胡乱な目つきでリヴァイを振り返るシグリは半信半疑である。この二人、お互い仕事でペアを組ん組んでいるから、それぞれを悪くは思っていないようだが、リヴァイの口の悪さでよく小さないさかいを起こしている。

 

 

リヴァイの感情表現の壊滅的な拙さと、冷静で温厚そうに見えて結構短気で負けず嫌いなシグリの悪いところがしっかりとぶつかり合っているのだ。それでもお互い、粘着質なところはないらしく、尾は引かないところが始末に悪くなくていいのだが、見ていていじらしくもなってくる。

 

 

「かわいいんだもん!仕方ないさ!ね、リヴァイ。かわいいよね!」

 

 

「ああ。可愛いのは可愛いがな」

 

 

「ほらシグリ!って、え!?」

 

 

立体機動装置を磨く手を止めずに放たれた言葉に、思わず目を見開いたのは私だけではなく、当のシグリにいたっては、衝撃のあまり、ポットを机の上に落としていた。

 

 

「明日は、巨人が空から降ってくるかも……」

 

 

シグリは顔を赤くしたり青くしたりと忙しい。言った本人はなぜか我関せずという風に、装置の整備に取り掛かっている。

 

 

なんだかくすぐったい。くすぐったくて、あったかくて、まるで幸せそのものだ。

 

 

「シグリ!私たちにも紅茶、ちょーだい」

 

 

笑ってねだれば、優しいシグリははいはい、と笑って答えてくれる。きっと彼女は、「可愛い」と言った私とリヴァイに、お礼の意味も込めてたっぷりと愛情をかけてお茶を入れてくれる。

 

 

こんな殺伐とした日常で、女性性なんて忘れていくようななかで、彼女ほど女としての楽しみを満喫しようとしている人はそうそういない。

 

 

爪をきっちりと短く切って磨き上げ、髪も短いながらに女性らしく整えて、兵団服に甘んずることなく、それを脱ぐ機会があれば、可愛らしくお洒落をする。

 

男のためではなく、自分の中にいる女の心のために、それをするのだと彼女は言っていた。

 

 

ーー恋人を作る気はないけど。別にお洒落はそんなもののためにあるんじゃないと思うからね。可愛いもの、美しいものを側に置けば、気持ちが豊かになるから。

 

 

その感覚は残念ながら私には一切理解できないが、そうした感覚を大事にしたいと思うことは大いに理解できた。

 

 

常に喪い続ける世界の中で、ほんの少しの幸福を大事に抱きしめるのは、生きのびるために必要なことだ。

 

 

「いずれ喪うんだから、大事にしなきゃね」

 

 

「何のことだ、メガネ」

 

 

「自分の気持ちは大事にってことさ」

 

 

 

シグリはこちらに背中を向けたまま、紅茶の準備をしている。湯を沸かす火がつけられた。暗い夜に、紅く暖かな火が灯る。

 

 

「私も、あなた達もさ。自分の中で持て余す感情があれば、今のうちに吐露しておかなければいけない。私たちは、生き延びていけばいくほどに、それを吐露する権利すら喪っていくだろうからね」

 

 

三白眼が、ようやく手を止めた。白くて清潔な布を几帳面に折りたたみ、私に向かい合った。

 

 

「エルヴィンが団長になるって話のことか」

 

 

察しがいいのは、彼の利点だ。私は頷いた。その話が決定事項になりつつあると聞いたのは今日の夕刻だ。キース団長は、兵団史上初めて、存命のままに団長を辞するという。その後を継ぐのは、我らが分隊長である。

 

 

「半年後には行軍の先頭はエルヴィンさ。それにあわせて、私たちも官位が変わるらしいよ」

 

 

「お前はわかるが、俺やシグリもか?」

 

 

「まだ本決まりじゃないけど、エルヴィンはそのつもりみたいだね。特にリヴァイ。あなたは、特別だ」

 

 

 

誰よりも速く飛び、誰よりも高く飛ぶ。その影が巨人を削ぐ様に、暗鬱としていた兵士の心は希望に染め上げられた。

 

 

これぞ、人類の怒りの体現だ、と。

 

 

これぞ、人類を勝利に導く道しるべである、と。

 

 

それに加えて仲間を抱え込むような器。媚びない態度。潔癖に表れる、彼の常人ならざる生活態度。

 

 

全ては、彼を「英雄」として祭り上げるに相応しい素材ばかりである。

 

 

「あなたは「英雄」だ。その背中に私たちはたくさんの重荷を背負わせるだろう。あなたが潰れそうになっても、私たちはそれを許すわけにはいかない。きっとこれから、あなたが巨人に食われる寸前まで、私たちはあなたを「英雄」として酷使し続けるよ。逃げ場はない」

 

 

「……大層な役割だな」

 

 

「演じてもらわなきゃいけない。私たちには、象徴が必要だ」

 

 

心許せる仲間に。とんでもないことを言っている自覚はあった。だが、彼は私の目をじっと見つめたあと、「何だってやってやる」と一つ、頷いた。

 

 

 

「てめえのことをエルヴィンが重宝するわけがわかった。あいつとそっくりだ」

 

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

 

 

笑えば、彼はふん、と鼻を鳴らす。まるで人を駒のように扱う。そういう男だからこそ、彼はエルヴィンに信頼を寄せる。あたたかな人の集いでは必要ないが、我々のような地獄の淵に立つ者には、エルヴィンの悪魔的な冷徹さは必要な標なのだ。

 

 

エルヴィンは私の知る限り、誰よりも優しい人物の一人である。優しくてクソ真面目故に、彼は冷徹に徹しているようにも思う。

 

でも、リヴァイ。

 

君が来てから。

 

その強さ故に人間性を捨てずにいられる君が来てからは、エルヴィンは僅かに残していた人としての優しさを、捨てることができたように思うよ。

 

 

 

そのおかげで、彼は私たちの標として、立つことが出来ている。そう思うんだよ、リヴァイ。

 

 

 

「お茶、入ったよ」

 

 

振り返れば、シグリが盆の上にポットと3人分のカップをのせて立っていた。芳しい茶葉の香りが心を潤す。彼女の優しい香りだ。

 

机の上に広げた書類を片付けて、深夜のお茶会の準備をする。

 

 

英雄と、巨人狂いと、

 

 

「シグリ。あなたも座ろう」

 

 

異邦人の会合だ。

 

 

 

シグリはリヴァイに視線をやりながら、少しだけ寂しそうに笑った。

 

 

「どうしたの?シグリ」

 

 

「いや。エルヴィンが団長になった調査兵団を想像してね。希望があるな、と思ってさ」

 

 

お茶をすすりながら、彼女は笑う。

 

 

「ハンジとリヴァイ。ミケも。彼はとても才気溢れる仲間に恵まれてる。変革の時代だ。今度こそ、変えられるかもしれない」

 

 

その静かな笑顔の底に湧き上がる熱量が、わずかに声に乗っている。普段の優しい女性らしい笑顔でなくて、まるで獰猛な狼のような、少しばかりの狂気が垣間見える笑顔。いつもは底深くに抑え込まれた熱が、稀に湧き上がるこの表情は、私は大好きだ。

 

 

「あなたもだよ、シグリ。この前の報告書読んだ。とても興味深かった。あれはあなたでしか書けないものだ」

 

 

その獰猛さを矛に変えて、共に壁外へと。まだ見ない世界を見に行こうと約束してから一年ほど経つか。

 

 

あの時と茶を共にする仲間は顔触れを変えたが、それでも彼女は「止まらない」と言った。その決意に、胸の中にうずくまっていた孤独が救われた気がして、心底嬉しかったことは昨日のことのように覚えている。

 

 

しかし、その時シグリは頷かなかった。

 

 

一言だけ、

 

 

「今日の紅茶は特別美味しいね」

 

 

 

と呟いた。

 

 

 

彼女が入れたそのお茶は、確かにとても美味かった。その時、私たちは誰も、それが最後の茶会になるとは予想だにしていなかった。

 

 

 

それは、シグリ・アーレントという女性との、最後の茶会であった。

 

 

 

翌朝、中央から派遣されたという憲兵団が数人、調査兵団本部へとシグリ・アーレントの身柄引き渡しのために訪れた。

 

 

慌てて部下たちが彼女の研究室に飛び込んだものの、そこに部屋の主人はいなかった。

 

 

ただ、同室の男が見つけた、部屋に残っていたという退団届だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八章 異邦人 二

 

リヴァイがその執務室の扉を乱暴に開ければ、部屋の主人はのんびりと茶の用意をしていたところだった。

 

 

「リヴァイ。上官の部屋にはノックしてから入れと何度も言っているはずだが」

 

 

「悠長なこと言ってんじゃねえぞ、エルヴィン。これはどういうことだ」

 

 

執務室の主、エルヴィン・スミスは、鬼気迫る表情のリヴァイには答えず、「お前も飲むだろう」とカップをふたつ取り出し、茶会の用意を続けるばかりである。

 

 

リヴァイは舌打ちして、大股で彼の傍へと近づいて、その大男の胸ぐらをつかんだ。身長差はかなりあるはずだが、リヴァイの右腕はエルヴィンの首元を容赦なく締め付けた。金色の分隊長はされるがまま、その青く冷たい眼をリヴァイに注ぐだけで、何も言わない。

 

 

「シグリの退団が正式に受理されたそうじゃねぇか。おかしいだろう。お前、憲兵団が来ても身柄は引き渡さないと言ってなかったか!?」

 

 

連発式散弾銃の設計図。それを持っていたという事実から、シグリ・アーレントに王政への反逆罪の嫌疑がかけられていると知らせたのは憲兵団のナイル・ドークである。あれからすぐにハロルド商会の会長への逮捕状が正式に許可されるまでに、会長は強盗によって殺害された。それから数日とまたず、調査兵団本部にシグリの身柄拘束に訪れた憲兵団。

 

 

しかし、エルヴィン分隊長その人は、その事実を全て知った上で、彼女の身柄を兵団で保護することを取り決めていたはずである。

 

 

話が違う、とリヴァイは殴りかからんとばかりの勢いでエルヴィンに詰め寄る。いや、返答次第では殴ることも辞さないと彼は拳を握りしめた。

 

 

「……ああ。彼女がいなくなったことには私に責任がある。言い訳はしない」

 

 

彼の予想とは異なり、エルヴィンは厳しい表情で非を認めた。少々驚いたリヴァイが黙して固まっているのを見て、エルヴィンは「手を放してくれ。話をしよう」と彼をなだめるように言った。

 

 

 

「まさか彼女が自ら出て行くとは思っていなかった。彼女は決してここを出て行かないと想定していた私の判断ミスだ」

 

 

 

兵団支給の白いポットから紅茶を注ぎながら、エルヴィンは静かに言った。リヴァイからすれば悠長に茶を飲んでいる暇はない、と言いたいところではあるが、「我々ができることは少ない」とエルヴィンは言った。ならば、と焦る気持ちを抑えて、ひとまず話を聞くことをリヴァイは選んだ。

 

 

 

「シグリはお前や調査兵団に迷惑がかからないように、自ら退団したと。その理解でいいんだな」

 

 

「ああ。彼女の目論見通り、朝に来た憲兵団はそのまま帰ったそうだ。実際、キース団長を含め、ほとんどの調査兵にはその居場所もわからない。追及されても何も出ない」

 

 

「あいつの居場所は?お前なら分かるんだろう」

 

 

問えば、金色の男はきっちりと分けられたその前髪をおさえて、俯きながら言った。

 

 

「分かる。お前も予想しているだろう。だが、そこにも長居はできないはずだ。逃げたとしても、この壁の中だ。逃げ切れるはずがない」

 

 

ならばどうなるのか。憲兵団に捕まればどうなるのか。エルヴィンは、「殺されるだけだ」と言った。

 

 

「反逆罪はそれほど重いのか。設計図の保持だけなら、それほど酷な処罰にはならねえんじゃ、」

 

 

「動いているのは表向きの憲兵団とは異なる可能性が高い」

 

 

「表向き?」

 

 

「分からない。しかし、憲兵団の同期が彼らの動きを知らなかった。王政への反逆について、秘密裏のうちに動いている憲兵がいることは前から知っているが……今回もそれが動いている可能性が高い。彼らが動けば、罪状をかけられた人間はほとんど殺される。ハロルド会長の死も、彼らが関わっていると考えられる」

 

 

大きなため息をついて、エルヴィンは言った。

 

 

 

「……ならば、彼女も間違いなく殺される」

 

 

「……よく知った口だな。その物騒な奴らとお知り合いか?」

 

 

秘密裏に動く奴らだと言う割に、まるでその実態を知っているかのような言いぶりにリヴァイは問うた。エルヴィンは、「シグリの件で一度。その前にも一度、奴らとは縁があってな」と自嘲気味に笑った。珍しく、彼の顔に疲労が色濃く乗っている。

 

 

シグリが消えたことについて、彼なりに堪えているようだ、と察したリヴァイの中で、エルヴィンに対する怒りは徐々に鎮火していった。

 

 

「彼女が自分から出て行ってしまった以上、私にできることは限られている」

 

 

机の上に置かれた書類から一枚、紙を取出して、リヴァイに差し出した。それは、一人の女の名前と人生が書かれた簡素な公的文書であった。

 

 

「マリア内地の学校教諭の戸籍を偽装した。それがあれば、なんとか憲兵の目をごまかして少しでも長く生き延びることができるかもしれない。彼女の教養があれば、実際に教師として働くことも不可能じゃないはずだ」

 

 

「……どうあがいても、あいつが兵士に戻れる道はないってわけか」

 

 

「…………ない、わけではないが」

 

 

躊躇って紡ぎ出された言葉に、一瞬リヴァイは瞬いた。なぜ、それを言わないのか。なぜ、それをすぐに実行にうつさないのか。声をあげかけたとき、エルヴィンは珍しく、本当に珍しらしく。リヴァイに己のなすべきことを問うた。

 

 

「俺は、どうすべきだろうか。彼女にとって、調査兵団に戻すことは幸せなことなのだろうか。リヴァイ。お前なら、どうする?」

 

 

「あ?お前、今さら何を……」

 

 

「リヴァイ。彼女がここに来るまでのことを……聞いてくれないか」

 

 

室内は静かだ。遠く、遥かに馬上訓練をしている兵士達の声と馬の駆ける音が聞こえる。リヴァイには、その沈黙が痛いように感じた。

 

 

 

「彼女と出会ったのは、壁外だ。あの日は、雨のひどい壁外調査だった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八章 異邦人 三

 

 

その日は、ひどく雨の酷い壁外調査だった。早朝から出発した行軍は、昼前から突如降り出した雨によって、その歩みを鈍らせていた。

 

「分隊長!後衛の荷馬車班が遅れています!!」

 

森の中を行軍中、背後から伝達のために駆けてきた兵士が告げてきた。行軍の途中で通過した旧文化の集落の遺跡付近で、ぬかるみにはまった荷馬車がそのまま動けなくなってしまったという。その日の荷馬車班の班長はハンジであった。彼女ならば、荷馬車を捨てて合流するのでは、と思ったが、彼女率いる荷馬車に積載されているのはガスや替刃などの補給物資。部隊全体の生命線とも言える補給物資を、命欲しさに投げ出す兵士ではなかったと思い至り、すぐさま自分の班と、ミケ率いる班を連れて援護に向かった。

 

やはり、想像通りハンジは必死に荷馬車をぬかるみから出そうと試みていたが、まるで桶から水をひっくり返したようなひどい雨の上、彼女の班は朝からの行軍で人数を消費していたため、思うように作業は進んでいなかった。

 

作業中に巨人と遭遇しなかったのは、不幸中の幸いといったところだった。すぐさま数人を荷馬車の援護にまわし、他の者を見張りのため、周囲へと配置した。

 

 

 

その存在にいち早く気付いたのは、ミケだった。

 

「誰かいる」

 

無口な彼が、短くそう言ったときは、さすがに耳を疑った。雨の中で臭いは薄いが、確かに調査兵の者とは思えない人間の臭いがする、と。

 

ミケの鼻がきくのは知っていた。しかし、まさか壁外に調査兵以外の人間がいるはずがない。そうは思ったが、彼の巨人の臭いの察知の能力は目視によるそれよりも数倍も優れている。半信半疑ながら、どこから臭いがするのか問えば、集落の遺跡の中からだ、とミケはその方向を見据えながら言った。

 

「……近くに巨人の気配はするか」

 

「いや。まだ近くには来ていないようだ」

 

ならば。

 

「三分だけだ。様子を見に行こう」

 

ミケと共に、数人の部下を連れて、その建物の中へ足を踏み入れた。石造の家屋とも思しき建物の中は、がらんどうで机のひとつもない。部屋もひとつしかないらしく、家屋というより、物置のようなものだった。

 

その建物の隅に、彼女はいた。

 

「おい、生きてるのか?!」

 

部下のひとりが声をかければ、それは生きているらしく、びくりと肩をふるわせて、振り返った。両腕で肩を抱きしめ、壁に向いてうずくまる様子は、何かに怯えている子供のようにも見えたが、その四肢は細いながらも健康的で、雨に濡れた衣類に透けて見えた身体は薄いながらにも女性らしいまろやかな曲線を描いていた。

 

「女?なぜここに?」

 

「お前、なぜここにいる!?いや、どうやってここに来た?!壁外へ無断で出ることは大罪だぞ!」

 

口々に部下が刃を抜いて彼女に詰問しようとも、その女は怯えて私たちを見上げるばかりである。

 

「エルヴィン。どうする?」

 

「……時間はないな」

 

刃を抜いた部下を下がらせて近づけば、不意に女はその怯えた眼の中に抵抗の光を見せた。脇に転がっていた木の枝を握りしめるその姿は、近づく私に対する敵意に満ちていた。そんな枝でどうにか抵抗できるとも思えなかったし、震える身体にその姿勢が虚勢であることは一見してすぐ知れた。

 

なるべく怖がらせないようにゆっくりと近づき、彼女の手がぎりぎり届かないであろうところで膝をついて目線を合わせた。

 

女はよく見れば、かなり小綺麗な格好をしていた。身につけた薄茶色のワンピースは膝下あたりまでで、少し短い。顔は東洋人のような顔つきにも見えたが、目鼻立ちがはっきりしているので、かなり美人の女性であることはすぐにわかった。化粧はしているものの、雨と涙でぐちゃぐちゃになっている。長い黒髪も、雨でしとどに濡れそぼっていた。しかし、その長い前髪の下では黒い瞳が鋭く光っていた。

 

 

その光に、興味を覚えた。

 

 

「怖がらなくていい。君に危害を加えるつもりはない」

 

彼女は聞こえているのかいないのか。何も答えなかった。

 

 

彼女に手を伸ばせば、咄嗟に枝を私めがけて振り切ってきた。が、その枝はあっけなくミケに奪われ、彼の兵団のマントごと、彼女は身体をミケに抱え上げられた。

 

突然のことに驚き暴れるものの、160センチメートルほどの彼女の小柄な体格では、二メートル級の屈強な兵士であるミケは全く動じなかった。

 

「おい。暴れるな」

 

「君、あまり暴れると下着が見えるぞ」

 

ミケの腕に噛みつこうとする野生味溢れる女に忠告するものの、彼女はなにやら聞き取れない言葉を口に叫ぶだけである。まるで、言葉が通じないようだった。

 

「ミケ。そのまま荷馬車へ。壁内までハンジに監視させる」

 

そのとき唯一の女性兵士であったハンジに彼女への監視を任せ、荷馬車を救出した我々の班はすぐに本隊へと合流するために行軍を再開した。

 

 

彼女の存在はその班の者には守秘義務を課して、なるべく他の者の目に触れないようにした。

 

 

 

 

 

その後、無事に壁内へと戻ってすぐに兵団の地下牢へと彼女を拘束し、キース団長へ報告した。

 

 

団長は最初は驚いたものの、存外冷静に対応した。団長の見立てにより、彼女の処理は私に任されたのだ。その理由として、言葉の通じない彼女を、「精神異常者」として兵団内で判断したのだ。精神を病んだ人間は、特別に罪には問われないという規則を利用したのだろう。

 

 

キース団長は壁内における諍いには事なかれ主義的な一面がある。その時も、彼は駐屯兵との面倒なやり取りや、そこから生じるであろう軋轢を避けようとしたのだと思う。

 

かくして、彼女は調査兵団本部へと連れられてから一月後には、無罪釈放となった。

 

 

しかし。

 

 

その一月の間に、私にはどうしても彼女を「精神異常者」として見ることができなかった。

 

 

彼女は確かに全く未知の言葉を喋る。しかし、その思考は明晰で、優れたもののように思えてならなかったのだ。

 

 

 

その証拠に、彼女は牢に入れられてから数日。毎日顔を見せていた私に対し、自分を指差し「マリ」と、己の名前を述べたのだ。

 

 

「マリ?」

 

 

大きく頷いた顔の輝きは今でもはっきり思い出せる。

 

 

それが彼女の名だと知った時は、私も子供のように喜んだ。そして彼女の身振りを真似て自分の胸を指差して、「エルヴィン・スミス」と何度も言った。

 

 

私の名前をたどたどしく口にした彼女に、思わず鉄格子ごしに手を伸ばしてしまったほど嬉しかった。

 

 

 

それは、彼女が正常な判断のできる人間であることを示すと共に、彼女の話す言葉が、壁内のものとは異なるものであることを示していた。

 

 

 

そして私は仮説を立てた。

 

 

 

彼女、マリが、壁外から来た人間である、と。

 

 

 

残念なことに、彼女は壁外に来るまでの記憶はほとんど抜け落ちていて、壁外の情報は全く得られないと知るのはさらに先の話だが。

 

 

 

私の仮説を知る人間は、兵団内ではキース団長と、ミケ・ザカリアス、そしてハンジ・ゾエだけだった。全員彼女の存在を知るなかで、私が信頼している人間で、そのなかでも口の堅い者たちだった。

 

 

しかし、キース団長はその仮説を一蹴した。ミケは半信半疑だったが、知識欲の深いハンジは興味深さに滾っていた。

 

 

 

兵団の地下牢で彼女を保護していた一ヶ月。彼女はほとんど食べものを口にしなかったから、あっという間にその身体はやせ細っていった。だが、生への欲求を失ったわけではなく、食欲の代わりに知識欲に飢えていた。

 

 

 

 

 

 

「彼女に簡単な子供用の絵本を与えれば、貪るようにそれを読んだ。様子を見に行くたびに何度も読み聞かせをさせられたよ。数日のうちに彼女は必要最低限の単語を習得した。その後は簡単な日常会話の学習にうつった。子供向けの絵付きの本を片手に、何度も何度も読み返していた。一月後、無罪釈放となったときには、たどたどしくはあったが、最低限の意思疎通が出来るまでになっていた」

 

 

紅茶を一口飲みながら、その頃のことを思い出すようにエルヴィンは少し笑った。

 

 

「あの時は大変だった。何度も何度も簡単な単語や文章を朗読させられたからな。団長には尋問だと言いながら、1日の多くの時間を彼女の学習に費やしたよ。彼女と、どうしても意思疎通を図りたい気持ちの一心でね」

 

 

貪欲に文字を貪り、己の声に耳を傾ける女の知識欲に、胸が踊ったのは間違いない。まるでそれは、金の卵を産む雌鶏を、雛から育てるような感覚にも近いと感じた。

 

 

利己的な関心からくる欲と、雛を自分の手の中に入れている庇護欲。

 

 

「……そんなに早く言葉を話せるようになるもんなのか」

 

 

リヴァイが問えば、エルヴィンは少し顔を曇らせた。

 

 

「それが、彼女を「精神異常者」として団長に判断させた所以となった。彼女は何らかの疾患で言語を失っただけで、再学習によって思い出したに過ぎない、とな」

 

 

紅茶を飲み干したカップを置きながら、エルヴィンは窓の外の青い空に視線をやる。

 

 

彼女と出会ってから、2年が経とうとしていた。

 

 

「彼女が壁外にいたことを知る人間もだいぶ少なくなった。その中でも、俺の仮説を信じているのは、ハンジとミケくらいのものだ。彼女自身も、自分自身の存在を信じられずにいる」

 

 

「どういうことだ」

 

 

「彼女の記憶は曖昧だ。しかし、確実に彼女はこの壁内の社会に違和感を覚えている。曰くは、その記憶のために、らしいが、彼女自身、その曖昧な記憶は自分の妄想の産物かもしれないという懐疑を抱き続けている」

 

 

 

その曖昧で、しかし自身の中に確固として存在する違和感。そして自分の正体のわからぬ浮き足立った不安感。

 

 

それらを払拭するためのように、そして彼女自身の存在を証明するかのように、彼女は壁内の知識を貪るように得ようとした。それは、今でも変わらない。

 

 

 

自分の存在の不確かさと異物さに、誰にも理解されない孤独を抱きながら、必死に言葉と知識を吸収する様は、狂気的にも見えた。

 

 

その姿は、エルヴィンに哀れな存在として見えている。

 

 

 

「彼女がどこから来た者なのかは判然としない。壁の外から来たのかどうかもよくわからない。ただ、彼女の視線は壁内にはない感性がある。だから俺は彼女に研究をさせたし、彼女の壁のない世界の記憶を信じている」

 

 

 

それに、とエルヴィンは壁を見ながら言う。生まれた時から、彼の生存域を決めつける遥か高くそびえる壁。

 

 

「俺は彼女に罪を背負わせた。一生消せない罪だ。その俺が、彼女を信じないわけにはいかない」

 

 

 

エルヴィンにしては珍しく、まとまりのない話に、リヴァイは黙して聞くばかりである。何の罪か。彼が問えば、エルヴィンは視線を伏せて言った。

 

 

 

 

「父親殺しだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八章 異邦人 四

いつしか、部屋の中はすっかりと夜の気配に満ちていた。

 

訓練を終えた兵士たちも、それぞれの休息を取る時間となっている。

 

 

ある者は疲れのために眠りにつき、ある者は友と盃を酌み交わし、ある者は肌のぬくもりをわかちあっていた。

 

仕事をしている者もいるかもしれない。シガンシナ区の調査兵団本部では、その日の夜も何も変わらぬ夜が過ぎつつある。

 

 

シグリ・アーレントという一人の女性兵士の突然の退団と、憲兵団の訪問に、それこそ早朝は慌ただしかったものの、夜にはすっかりといつもの落ち着きを取り戻していた。

 

分隊長の副官という、ある程度の役職に就く者の退団にも、組織の根幹は揺らがない。人の消失の多い調査兵団は、決して人一人失っただけでは日常は崩れないのだ。

 

 

彼女に密かな憧れを抱いているエーミールも、彼女とは酒の友であるナナバやミケ・ザカリアスミスも、彼女との研究仲間でもあるハンジ・ゾエも。

 

そして、彼女の信頼を一身に受けていたエルヴィン・スミスも、いつもと変わらぬ1日を過ごした。その心に、何を思うのかは別として。

 

 

リヴァイは、部屋の椅子で空を睨みつけている。エルヴィンは、夜に区長との会合のために団長の付き添いで出かけた。門扉近くの高価なレストランへと、小綺麗なスーツを着て出た男を、「薄情である」と責め立てることはできない。

 

次期団長のエルヴィン・スミスの仕事は多い。

 

 

 

リヴァイの座る椅子の隣のベッドの上には、そのエルヴィンが入手した偽装戸籍の書類が放り出されている。

 

 

――彼女に残された道は三つだ。このまま、憲兵団に捕らえられて殺されるか。この戸籍で内地へ逃げ、身を隠して生きるか。

 

 

「それとも、名前を変えて再び調査兵団へ戻るか、か」

 

 

 

ただ、戸籍を変え、名前を偽っても、果たしてどこまで憲兵団の目を欺けるかは不明だ。彼女の顔はすでに知られている。内地に逃げ延びても、憲兵団が本格的に捜査を展開すれば、素性を隠していけるのは僅かな時間だろう。

 

 

兵団へ戻れたとしても、素性を隠すのは至難の技だ。今回のように引き渡しを要求されれば、調査兵団がそれに応じないということはできない。だとすれば、兵士として戻ることはリスクが高いと言える。内地へ逃げる方が断然、生き延びる確率は上がるはずだ。

 

 

どのみち、リヴァイやエルヴィンたちにできることは限られていた。できるとしても、今夜が最後だろう。一晩以上、シグリがこのシガンシナ区にとどまっているとは思えない。一人で出て行くような女が、周囲を危険にさらしてでも同じ場所に安息することを許さないだろう。

 

 

しかし。

 

 

リヴァイは決めかねていた。どの道が兵団にとって利となるのか。どの選択が、彼女にとって幸となるのか。

 

己が求める選択なのか。

 

 

――俺は利己心だけで彼女を兵団に縛り付けた。彼女は他の兵士とは、その志が違う。もう、自由にしてやってもいいのではないだろうか……。

 

 

 

まるで人を駒のように扱う男の、あれほど憔悴した顔を見たのは、リヴァイは初めてだった。彼はもう、シグリを兵団に戻すよう働きかけるつもりはないらしい。彼女をたぐり寄せることは、シグリの真意をおもんばかれば、リヴァイも躊躇われた。

 

 

彼女が黙って一人消えたのは、エルヴィンや調査兵団へ嫌疑がかけられることを避けたためだ。ならば、彼女の気持ちを尊重すべきか。

 

 

 

リヴァイは思考を振り払うように頭を数度振ったあと、立ち上がって、女がいた部屋へと足を向けた。この数ヶ月の間に、幾度となく叩いた扉。

 

 

あるときは寝汚い彼女を起すために。あるときは掃除をするために。

 

 

そしてあるときは上官に報告をする部下として。

 

 

そしてあるときは、ただのひとりの男として、彼女と酒を飲むために。

 

 

 

扉を開ければ、きぃと音を立てた。もともと立て付けが悪いので、何度も「こまめに油をさせ」と言っていたはずであるが、彼女はまたリヴァイの小言を無視していたらしい。

 

あの女は、自分の潔癖にもある程度順応できるほどキレイ好きではあるが、どこかずぼらなところがある、と一見整理整頓された部屋を見てリヴァイは思った。

 

 

部屋の片隅にある聖母像と目が合った。壁外調査でその聖母像を抱きしめ涙した彼女の姿がまざまざと蘇る。あの姿に、最初は薄気味悪さを覚えたが、その理由も今なら分かる。

 

 

あれは、自分の曖昧模糊とした記憶を裏付けるような証拠に、ただひたすら郷愁を覚えたのであろう、ただの哀れな迷い子の涙だ。

 

 

壁の中に彼女の許された場所はない。ただ、彼女が懐かしく胸を焦がすのは、壁の外の地獄だけだったのだろう。

 

 

 

――壁の外には楽園がある。

 

 

 

この部屋の中で酒を交わした夜に、眼を輝かせて言った彼女の言葉を思い出す。ふと見遣れば、そこには彼女が愛読していた分厚い本があった。手にとって数ページめくれば、やけに手垢のついた汚れたページにいきあたった。

 

 

――くじらっていうんだ。

 

 

壁の外に広がるという広大な塩の湖。その「海」という水たまりの底に泳ぐ、海獣。その、想像上の生き物の絵が描かれたページだった。

 

 

 

なあ。お前、それを見たことがあったのか。

 

 

 

リヴァイの問いに答える人間は、その部屋にはいない。

 

 

 

くじらを、海を、壁のない世界を、お前は見たことがあるのか。お前は、そこでどうやって、何を想って、誰を愛して生きていたんだ。

 

 

 

そして。お前は、何を思ってこの壁の中で生きていたんだ。

 

 

 

 

彼女の雄弁な言葉の数々を思い出す。

 

 

 

この数ヶ月。エルヴィンの命令により、彼女の監視と援護のために傍にいたにもかかわらず、リヴァイが思い出せたのは、仕事の話をする「調査兵シグリ」の言葉ばかりであった。何度も何度も繰り返されて、洗練されてきた言葉たちだ。

 

 

リヴァイは痛烈に、自分が何も知らない、という事実に打ちのめされた。シグリのことも、調査兵団のことも、この世界のことも、彼は何も知らない。まだ地下にいた頃と同じ、眼を曇らせたままの己のふがいなさに、心臓がじくじくと痛んだ。

 

 

リヴァイがその分厚い禁書のページをさらにめくろうとしたとき。

 

 

 

 

平穏な夜の闇を、門扉開放を告げる鐘の音が、不気味につんざいた。

その鐘の音は、いつもとは違い、不規則なリズムを刻み、不意に消えた。鐘の余韻だけが、響いているのを聞いて、リヴァイは勢いよく部屋を出た。

 

 

 

 

「門扉が何者かによって開放された!数体の巨人が侵入!!調査兵団へ出動依頼が出ています!!」

 

 

 

 

夜の静寂に沈んでいた調査兵団本部へ告げたのは、門扉に配属されていた駐屯兵団の兵士だった。

 

 

 

 

 

 

 



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第九章 娼婦

 

 

「……シシィ、本当に店を辞めてしまうの?」

 

 

不安そうに見上げてきたリザの青い目に、シシィは困ったように笑いながら、妹のようにかわいがってきた彼女の髪を撫でた。

 

 

「ごめんなさい、リザ。あなたなら、きっとこのお店でうまくやっていけるわ。私がいなくても大丈夫」

 

「私、あなたのこと好きなのよ」

 

 

胸の中に飛び込んできた可愛い少女を、シシィは迷わず抱きしめた。彼女たち店の従業員が寝泊まりするその部屋は、店の二階にあった。屋根裏を改装した部屋は、少しほこりっぽいものの、シシィにとっては心安まる家のような存在である。

 

 

「私もよ、リザ」

 

「……きっと、私の好きと、シシィの好きは違う。あなた、何も分かってない」

 

「……そうかしら?」

 

 

リザの言う意味がわからず、シシィは首を傾げた。リザは思い詰めたような、今にも泣き出しそうな表情で、シシィの胸から離れようとしない。

 

 

「私、あなたのこと何も知らないわ。でもそれでも、あなたが大切なの。だからね、私」

 

 

リザの青い瞳が、暗い色のシシィの瞳をまっすぐにのぞき込んだ。そこに秘められた大きな熱量に気付き、シシィがは、と息をのんだとき。

 

 

不意に、大きな鐘の音が窓の外で響き渡った。不規則に打ち鳴らされる不気味なそれに、思わず二人は窓に視線をやる。

 

 

「何?何の音?」

 

 

夜も更けたこの時間に鐘がなるのは珍しい。シシィは立ち上がって、部屋の窓を開けた。

 

 

「おかしいわね。これは……門扉開放の鐘?それにしてもリズムが……」

 

 

そして、窓の外の光景に目を疑った。壁の近く。店からは距離のあるものの、シガンシナの街中にあるあの大きな影は。

 

 

「巨人!?」

 

 

驚いて振り返ったとき、階段を駆け上がってきた店主、アリスが部屋の扉を開けて顔を出した。

 

 

「リザ、シシィ!巨人が侵入してるらしいわ!早く、避難の準備をしなさい!」

 

「な、なんで?なんで、巨人なんて、うそ!?」

 

 

突然の事態に狼狽したリザをシシィは立ち上がらせて、アリスに預けたあと、状況を確認するために再度窓の外を見た。店から確認できるだけで、数体の影が確認できる。

 

 

言葉を失ったシシィは、視界の隅にちらりと光る影を見つけて、夜の街に目をこらした。

 

 

人が空を飛んでいる。兵士か、と思ったが、それは近づいてくるように見えた。

 

 

ガスの噴射音と、ワイヤーの巻き取り音が、はっきりと耳に届いた。それがこちらに向っ

ているということを悟って、慌てて振り返って叫んだ。

 

 

「ママ、リザ、伏せて!!」

 

 

その人影は、窓から室内へと大きな音を立てて侵入してきた。三人が、驚いて部屋の奥にうずくまるその影に目をやれば、それは大きな四角いバッグのような荷物をどかりと乱暴に床に下ろしながら、左足をさすってぼやいた。

 

 

「くっそ。まだ痛ぇな」

 

 

耳慣れたその声に、リザが叫んだ。

 

 

「レヴィ!?」

 

 

まるで無遠慮に部屋へ立体起動装置で転がり込んできたのは、調査兵団の兵服に身を包んだリヴァイであった。彼は、脇に抱えた布袋を、床に下ろした四角い大型のバッグの上に置き、室内を見回しシシィを見つけて、彼女の名前を呼んだ。

 

 

「おい、シグリ」

 

 

 

彼はいつもの調子で、

 

 

「いや、マリか。それともシシィでいいのか。面倒臭ぇなお前は」

 

 

「え、り、レヴィ。何を」

 

 

シグリと呼ばれたシシィは狼狽して言葉を失う。いつもの黒いドレスを身にまとい、薄く化粧をした長い栗色の髪の女を見て、リヴァイは状況を報告した。

 

 

何者かが門扉に侵入。駐屯兵の目を盗んで門扉を開放。門扉に配置されていた駐屯兵はわずか三名。そのうち一名は侵入者によって昏倒させられており、残りの二名は深酒によりその異常に気付かなかったという。彼らが目を覚まして事態に気付いたときは、既に数体の巨人が侵入していた。

 

 

 

調査兵団に連絡がまわってきたときは既に巨人侵入からかなりの時間が経っていた。被害状況、駐屯兵の状況など、現時点では不明。調査兵団もまた、緊急時の体勢になかったので、出動が遅れている。

 

 

「各々、出れる人間から出動しているクソみてぇな状況だ。何より討伐と住民の避難が優先事項だ。時間がねぇ。急いで来い」

 

「いや、私は、」

 

「ご託はいい。それとも命令が必要か?エルヴィンは外出中だからな、俺が命令してやる」

 

 

リヴァイは早口でまくしたてる。対する三人は完全に絶句してしまっていた。黙ったままのシシィのドレスをつかみ、リヴァイは座り込んだ彼女を乱暴に立たせた。

 

 

「ちょ、レヴィ、やめ、」

 

 

「いいかシグリ!!よく聞け!!お前が調査兵団にいた理由はなんだ!?自分の夢やエルヴィンの指示だけが理由か!?そうじゃないだろう??!お前は何だ!?兵士は、誰のために存在するんだ!!?」

 

 

「やめて!レヴィ!」

 

 

締め上げられたシシィが哀れにも叫び声をあげたが、かえってそれはリヴァイの怒りの琴線に触れたらしい。凶悪な表情に顔を歪め、つかみあげた彼女をそのまま窓の外へと押し出した。

 

 

上半身を窓の外へと出された彼女は、なんとか踏ん張ろうとするも、リヴァイが容赦なく押し倒したため、床から足が離れてしまう。

 

 

リヴァイが彼女の胸ぐらをはなせば、あっけなく二階から落下するであろう体勢に、部屋の中のリザが叫んだが、それを店主のアリスが止めた。

 

 

「ちょ、と!やめて!!」

 

 

「放してやろうか」

 

 

視界が反転して、シガンシナの街が彼女の視界に入った。遠くに巨人の影が見える。まだ、調査兵は到着していないのか、と頭の隅で思ったときに、リヴァイの冷たい声が降ってきた。

 

 

「シグリ。お前がその名前を否定するなら、ここで放してやろう。晴れてお前は頭から真っ逆さまだ。それがいやなら、今すぐ準備をして出動しろ」

 

 

歯を食いしばりながら、シシィがなんとか頭を持ち上げて彼を見遣れば、男はまるで人を殺してきたような鋭い三白眼を細めて、彼女に迫った。

 

 

「俺は優しいらしいからな。お前に選ばせてやる。どっちだ!!?ここで死ぬか!?それとも、巨人に食われて死ぬか、どっちだ!!!?」

 

 

怒鳴り声に、シシィはそれでも躊躇った。視界の隅に、巨人はまだ蠢いている。

 

 

「で、でも、」

 

 

「時間がない!今すぐ選べ!!」

 

 

さらに下半身の大半も窓からおしやられて、身体を一気に浮遊感が襲う。落ちる、と思った瞬間に、彼女は「準備する!1分で向うから先に行け!」と叫んでいた。

 

 

その返事が部屋のなかに響いた次の瞬間に、リヴァイは乱暴に彼女を室内へと投げ入れた。ようやく開放されたシシィは身体を起しながら、咳き込む。その姿にリヴァイは冷たく視線をやり、ブーツの踵を鳴らしながら彼女の傍にしゃがみこんで、再び襟元をつかみ上げた。

 

リザが近くで悲鳴に近い声を上げるのが聞こえたが、つかみ上げられている本人は、動じずに強い光を宿した大きな瞳で彼を睨み上げていた。娼婦らしからぬ噛みつかんばかりの瞳だった。

 

それでこそだ、とリヴァイは少し口角をあげる。そして、男はその女の唇に、ひとつ唇を落とした。

 

 

ほんの一瞬、まるで思いやりのカケラもない、噛みつくようなキス。

 

 

意表を突かれた驚きにシシィは眼を丸めて抵抗したが、小柄な割に男の力は強く、びくともしない。まるで何分も経ったような、しかしほんの数秒のような口づけ。その最後に、からかうように唇を舌でなめ上げられてシシィが身体を震わせれば、リヴァイは満足したように顔を離した。

 

 

「汚えな」

 

 

己の唇についた赤い紅を乱暴にぬぐいながら、男はまるでつまらなさそうに言う。シシィは意味が分からず、口をあんぐりと開け放して固まってしまった。「汚いならするな」と冷静な理性が頭の隅で言っていたが、言葉にならなかった。

 

 

「唇へのキスは「愛情」だったか?はっ、馬鹿みてぇだな。勘違いするんじゃねえぞ。これはお前のウソに付合い続けてきた駄賃だ」

 

 

ぬぐった手の甲をさらにハンカチでふいて、極めつけにはツバまで部屋の中にはき出すものだから、シシィは怒りを通り越して呆れまでその男に覚える。何のつもりか、と問い返そうとすると、男は再度言った。

 

 

「30秒だ。さっさと準備して合流しろ」

 

 

あ、と思った瞬間には、彼は右足を窓の桟にかけて、あっという間に外へと飛び出していった。シシィが窓へと追いかけてみたときには、兵団随一の速さを誇る男の立体機動は、遥か遠く、街の上を飛んでいた。

 

 

「シ、シシィ……」

 

 

嵐のような男の来訪の後、静けさが戻った部屋の中で、リザが声をかけたときには、シシィは振り返ってドレスを脱ぎだしていた。リヴァイが置いていった布袋のなかの兵団のシャツとスラックスを取出し、すぐさま身につけ、立体機動のベルトを取出した。

 

ベルトをつけていく間に、さらりと頬の上に落ちた長い髪に、思いだしたように彼女はその髪を全て放り出した。

 

「シシィ!」

 

ベッドの上へ投げ出された栗色の長い髪のかつらに、リザはもう泣きそうになっている。しかし彼女はそんな妹分には目もくれず、短い黒髪を少し整えた後、下半身のベルトも素早く身につけていく。

 

 

「シシィ。装置は私がつけるわ」

 

ベルトの調整をしていると、アリスがリヴァイの置いていった大型のバッグの中から立体機動装置を取出していた。腰のベルトを整えて、シシィは無言で頷く。元調査兵のアリスは、手慣れた素早さでガスを噴出する装置を彼女の腰の後ろにつけてやる。

 

全ての準備が整うまで、ほんの一瞬の時間だった。かちかちと装置のトリガーの調整をした彼女は、シャツにスラックス、そして普段の靴という軽装でそのまま窓へと向う。

 

外へ出ようと見遣れば、僅かに雨が降り出していた。最初の鐘の音から、出動にはかなり時間が経っている。それでも行くと決めた彼女は一度振り返って、リザとアリスを見て頷いた。

 

「シシィ!行かないで!!」

 

一瞬、妹分の叫びが耳に届いたが、シシィは構わずアンカーを射出して雨の中へと飛び出していた。

 

 

 

荒らされた室内には、今度こそ静寂が戻る。その静けさの中、嗚咽をこぼしながら崩れ落ちた少女の肩をアリスは支える。そっと両肩を抱きしめて、「シシィのこと、隠していてごめんなさい」と謝れば、リザは首を横に振って泣き叫んだ。

 

 

「知ってたわよ!ダグラスの横で並んでたもの!!血まみれで凱旋してたの見たもの!!どんな格好でも、見間違えるはずないじゃない!!!」

 

 

大きな涙が床を塗らす。シシィが出て行った窓は、既にもう誰もいない。

 

 

「調査兵なんか大嫌い……!勘違い野郎め……!!」

 

 

「リザ?」

 

 

「大嫌いよ!!英雄気取りの勘違い野郎!!!!」

 

 

 

大声で叫んで、まるで子供のように嗚咽をもらすリザを、アリスは我が子にするようにそっと抱きしめた。もう一人の子供が出て行った、窓の外を見ながら。

 



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第十章 収束

 

 

モブリットの補佐を得て、13メートル級の巨人を討伐したときには、ハンジの周囲には目視できる巨人はいなくなっていた。

 

辺り一体では、夜陰に紛れて調査兵たちが忙しなく飛び回るガス噴射の音が聞こえる。

 

十数体ほど最初に確認した大型の巨人は、あらかた処理し終えたようであった。

 

 

なまくらになった刃を取り替えて、夜のシガンシナの街並みに目を凝らす。細かな霧のような雨を降らせる雲の切れ間から、薄く青い空が見える。まるで昼間のように煌々と照る満月に照らされれば、夜の藍色は壁や家の影の中にうずくまるばかりである。影の外は、夜だというのにやけに鮮明に色づいていた。

 

 

「……今夜はやけに明るいな……」

 

 

ハンジは首をひねった。以前、夜通し実施された壁外調査の際は、日が沈んでから動く巨人には遭遇しなかったため、夜は動かないものだと推測していたが、違うのだろうか。

 

 

しかし、何はともあれ巨人が今まさに動いている。ならば、不自然でも明るければその分戦いやすくなる。

 

 

ただ、雲が流れて満月を隠せば、夜は深い暗闇を連れてくる。霧のような雨とはいえ、壁沿いの松明の炎は不安定に揺れている。晴れればこの夜ならば明かりも必要ないが、このまま雨足が強くなれば、状況が一気に悪化するのは目に見えていた。

 

 

 

 

「ハンジ班長、北東の方角にまだ戦っている者がいます!」

 

 

「援護に向かうぞ!!」

 

 

叫んだのは、最近すっかり彼女の腹心となりつつあるモブリット・バーナーである。視力の悪いハンジにはその姿は確認できなかったが、迷わず彼の言葉の示す方向へアンカーを放ち飛んだ。

 

 

「しっかし、団長が不在の時になんてザマだ!」

 

 

ちなみに言うならば、彼女の直属の上官であるエルヴィン・スミス分隊長もまた、団長と共に外出していた。この門扉近くのレストランで、シガンシナ区長と会合のはずだった。

 

 

ハンジはその二人の姿を確認してはいないが、調査兵団の本部へ報告へ来た駐屯兵が言うには、彼らは門扉近くの住民の避難のために奔走しているらしい。

 

 

だが、危機意識の低い駐屯兵たちは未だに統制された動きができていないらしく、門扉解放の鐘の音以降、街全体への避難指示はまだできていないようだった。

 

 

壁内への巨人の群の侵入という100年ぶりの状況にもかかわらず、シガンシナの街全体が静まり返っているのは、駐屯兵による情報の伝達がうまくいっていないことの証左である。

 

 

同時に、調査兵たちの緊急時の働きぶりも影響している。まさか壁内に巨人が出るとは想定しておらず、調査兵とはいえ、戦闘態勢を解いていた。しかし、反応の早い兵士たちが小規模の班を構成して迅速に巨人に対応できたことで、侵入は門扉付近で食い止められているようだった。

 

もちろんそれは、目視しやすい大型の巨人に限るが。

 

 

 

ハンジとモブリットが民家の屋根をこえて一筋奥の道に降り立ったそこには、3メートル級の巨人がゆらりと獲物を求めて歩いていた。

 

 

「リヴァイ!!」

 

 

その巨人と対する地べたの人間を見つけ、ハンジは叫んだ。それは、ハンジやミケたち第一陣としていち早く到着した兵士より少し遅れて合流した男だった。

 

 

合流するやいなや、その人間離れした動きで、数体屠るのを先ほど見たばかりである。

 

 

しかし、そんな彼の様子がおかしく、ハンジとモブリットは一瞬緩ませた気が自然と引き締まった。

 

 

 

巨人が近づいているにもかかわらず、彼は地面に刃を取り落としたまま、動こうとしないのである。

 

 

「まさか、昨日の怪我か!?」

 

 

軸足である左足首を捻挫したのはまだ昨日のことだ。軽い捻挫で、当の本人は一見、いつもと変わらないていで歩いていたものだから、ハンジもすっかり彼の怪我のことなど失念してしまっていた。

 

 

「リヴァイ!」

 

 

ハンジが彼の名を叫んだのと、その黒い影が青い夜空から降って来たのとはほとんど同時だった。

 

 

一歩踏み込んで刃を抜いたときには、リヴァイを捕食しようと蠢いていた巨人はゆっくりと傾き、蒸気を上げながら倒れていた。

 

 

「え?!ウソ?……君、」

 

 

巨人の蒸気の中に立ち上がった黒い影に、ハンジとモブリットは思わず言葉を失った。

 

 

「遅ぇぞ、シグリ」

 

 

「……助けてやったのに、あいさつだねリヴァイ」

 

 

不機嫌そうな顔を隠しもせず、男を見下ろしたのは、早朝に自由の翼を下ろしたはずの元副官であった。ハンジの呼ぶ声に振り向いた小さな顔に、ほんの少しの化粧がのせられている。

 

 

青い夜の中、雲間から差し込む白い月光に、女たちを照らす。

 

 

「ハンジ!この街道沿いには巨人はいなかった!光線弾を!」

 

 

いち早く反応したモブリットが、懐から出した光線弾を右手に、高らかにその光を明るい夜の空に向けて放った。

 

 

チリリと火の玉が焼ける音と共に、4人の頭上に、閃光がきらめき、昼間のような明るさを連れて来る。

 

 

モブリットの合図に呼応するように、壁沿いから、数発、同じような光の弾が上がった。

 

 

雲が流れ、異様な明るさをもつ月と青空を隠して、シガンシナの街に夜の闇が帰って来る。その藍の闇に、仲間たちの合図がきらめく。

 

 

「シグリ」

 

 

ハンジが救援に来た女性の名を呼ぶ。

 

 

彼女は応えず、視線だけハンジに寄越して、少し困ったように笑った。

 

 

 

 

 

 



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第十章 収束 ニ

 

 

50メートルもの壁の上で、薔薇と翼を背負った兵士たちが駆けている。

 

負傷兵は既に搬送され、薔薇の兵士たちが街の被害状況を報告し合い、翼の兵士たちは周囲を警戒しながら薔薇の補佐に回っていた。

 

 

遥か外界の向こうの地平線から、太陽がゆっくりと顔を出している。神々しいばかりの暖かな日差しが、ゆっくりと夜を染め上げていく様子を見ながら、シグリはメモをする手を止めた。

 

 

 

シガンシナ区への巨人の侵入は、住民への被害もなく無事に収束を迎えた。駐屯兵十数名が負傷、二名が行方不明となっていたが、調査兵の被害はなく、巨人十数体の侵入という100年ぶりの危機にしては、人的損耗は少なかったと言える。

 

門扉付近の兵団施設と民家に物的な損傷があったものの、その被害の少なさは人類の快挙とも言えた。

 

 

それは、多くの巨人の動きが鈍く、雲が空を覆い隠してからは、完全に動きを停止してしまったことが要因であると思われた。

 

 

おそらくは、異様に明るい夜のせいで、夜には活動を停止するはずの巨人が動いたのであろうと。そう、結論づけられた。

 

 

 

いくら明るいとは言え、夜の闇で動いた巨人の謎は、一旦保留とされた。

 

 

 

「シグリ副官。立体機動装置を」

 

 

壁の上に座してぼんやりと外界を見つめていたシグリに声をかけたのは、甘いマスクとブロンドの長い髪の色男、エーミールであった。

 

 

「あぁ……」

 

 

立ち上がり、飛ぶための翼をひとつずつ切り離していく。

 

 

「エーミール、私はもう副官ではないから、そうかしこまらなくていいよ」

 

 

「あ、いや、申し訳ございません……」

 

 

装置を全て下ろし、立体機動のベルトもひとつずつ外していくシグリに、その元部下の男は少し驚いたように目を見開いて彼女をまじまじと見つめた。その様子に、シグリは首を傾げる。

 

 

「いえ!まさか、シグリ副官に、いえ、シグリさんに俺の名前を覚えて頂いていると思わなくて……」

 

 

今度はシグリが目を丸める番だった。その表情にエーミールは失言であったと背筋を正して謝罪した。

 

 

「同じ分隊だったでしょ。確かに一緒に仕事をしたことはなかったけど」

 

 

「光栄です」

 

 

全てのベルトを外し終えたシグリが、それをエーミールに手渡しながら、屈託無く笑った。

 

 

「エルヴィンが覚えてるからね。副官が覚えてないわけにはいかなかったからさ」

 

 

 

エルヴィンの名前を口にした時、彼女は妙に嬉しそうな、それでいて少しだけ悲しそうに微笑んだ。その表情にエーミールが口を開きかけたとき、彼女の名を男の抑揚の少ない声が呼んだ。

 

 

「シグリ」

 

 

鋭い三白眼の男、リヴァイである。エーミールより頭ひとつ分小さなその男は、左足の怪我をかばってか、いつもより少しゆっくりと歩み寄ってきた。

 

黒髪の女はその姿をちらりと見て、さらにその男の背後にも目配せした後、エーミールに笑いかけた。

 

 

「エーミール。アルバンのこと、すまなかった」

 

 

「え?」

 

 

アルバン。

 

それは、先の壁外調査で恋人の死体と共に巨人の領域に残った兵士のことである。戻らなかったその兵士は、エーミールの同期であり、そして彼にとって唯一生き残っていた故郷の友人であった。そのことをシグリが知ったのは、アルバンの死亡報告のために彼の故郷へ行ったときだった。

 

 

エーミールが何か言おうとして口を開いたが、シグリは彼から逃れるようにリヴァイのもとへと向かった。

 

 

 

ーー立体機動装置はエーミールへ、調査兵団へと返した。

 

 

 

ーー元部下への自己満足的な謝罪も終えた。

 

 

 

シグリはリヴァイの瞳を見つめながら、彼の傍で立ち止まった。灰色の瞳が朝焼けの光を反射させて、熱を宿している。

 

 

常に冷静を装っているその男が、存外激情家であると、シグリはこの夜に初めて知った。数ヶ月同じ研究室で共にありながら、いかに自分が彼のことを見ようとしていなかったのかを彼女は思い知らされたのだ。

 

 

 

ーーもう少し、仲良くなれたら良かった。

 

 

 

視線をシグリに据えて、一切逸らさないリヴァイに苦笑しながら、シグリは懐から先ほど書きあげたばかりのメモを取り出して、彼に手渡した。

 

 

 

「……何だ」

 

 

「解毒剤の作り方」

 

 

 

手足に痺れがあるんだろう?とシグリが問えば、リヴァイはまだ少しだけだ、と無愛想に返した。

 

 

ラング商会からリヴァイの翼を手折るために仕入れた毒を、シグリは彼に盛っていた。それをエルヴィンを守るためだと彼女は疑わなかった。

 

 

だがどうだ、と彼女は自身に問い返す。

 

 

ある夜。ハンジに「英雄であれ」と要求された彼は、迷わずその役を請け負った。

 

 

金色の男に連れられてきた獰猛な獣は、いつしか翼を得てその誇りのもとで羽ばたいていた。

 

 

彼は、真に調査兵の一員として飛んでいたのだ。

 

 

それを、シグリが手折っていい理由はどこにもなかった。

 

 

ーー私の方が、調査兵失格だな。

 

 

 

自嘲して、シグリはその実直で情け深い男にも笑いかけた。

 

 

「どういう意図で毒だと分かってて摂取してたのか知らないけど、解毒剤を飲めばその痺れもすぐ治るよ。飲まなくても治るけど……、さっきみたいにいざという時、刃が握れなくなるのは困るだろ?」

 

 

「……お前の嘘に付き合った駄賃はもらったはずだが」

 

 

噛み付くような口づけを思い出して、今度こそシグリは笑った。

 

 

「あんなのじゃ足りないでしょ。この代償は大きい。兵団にとってもね」

 

 

リヴァイの手を無造作に握り締めれば、痺れがあるのか、彼は顔を歪める。それでも手を振り払おうとしないリヴァイに、シグリは「ありがとう」と声をかけて、彼の後ろにいる人間の元へとゆっくりと歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

地平線の向こうから、光の塊が大きく顔を出している。

 

 

すっかり夜の雰囲気は朝焼けに照らされて、少しずつシガンシナの雑多な家屋群が色を取り戻していく。

 

 

金色の髪を惜しげなく陽光に輝かせながら、エルヴィン・スミスはシグリが自分のもとへと歩いて来るのを待っていた。

 

彼女はエーミール、リヴァイとそれぞれに会話を済ませた後、穏やかな表情でエルヴィンのもとへと、ゆっくりと歩いてきた。

 

眩しそうに黒曜石のような瞳を細めて、女は彼に微笑んだ。その微笑みにも、彼は鉄壁のように無を崩さない。

 

 

「迷惑をかけます」

 

 

ひとつ、たおやかに言って、彼女は自らその細い両手を彼に差し出した。

 

 

「いや。よく戻ってきてくれた。……君に……敬意を」

 

 

言って、男は枷を課した。

 

 

硬質な金属音が響き、罪人用の鉄枷が彼女の両手首を拘束した。

 

 

「エルヴィン!お前、何故!?」

 

 

「分隊長?!」

 

 

彼女の背後でリヴァイとエーミールがその処置に気付き声を上げたが、彼女はそれが耳に入っていないのか、エルヴィンの青い瞳を見据えて穏やかに微笑むだけだった。

 

 

エルヴィンへと鬼の形相で近づいてきたリヴァイは、横から猛烈な勢いで割って入ったハンジに止められる。

 

 

「あなたが彼女に立体機動装置を貸したんだろう!?民間人の装置の使用は犯罪行為だと知らないわけじゃないだろ!?」

 

 

「離せ!ハンジ!!」

 

 

シグリは、ゆっくりと冷たい枷をはめた両手を下に下ろした。金属音が、朝の風の音色に混じって、やけに響いてエルヴィンの耳に届いた。

 

 

「……いいのか」

 

 

シグリへの処置に怒るリヴァイを振り返りもしない女に、エルヴィンが小さく問えば、彼女は首を縦に振って応えた。

 

 

「リヴァイ!!これが!……これが彼女のために一番最善の道なんだ!わかるだろ?」

 

 

ハンジの声に、リヴァイはようやく歩みを止めた。体を呈してリヴァイに立ちふさがっていたハンジが、安心したようにため息をついたのを確認して、エルヴィンは部下に命令した。

 

 

 

 

「シグリ・アーレントを地下牢へ。今回の門扉解放の犯人であるラング商会への密告容疑のため、審議にかける」

 

 

 

 

冷く硬い罪人の鈍色の枷が、朝焼けに反射して僅かに輝いた。

 

 

 

 

 

 

 



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第十一章 アーレント

 

 

実行犯、ラング商会会長、二週間の治療の後、釈放。

 

密告者、シグリ・アーレント元調査兵、壁外追放。

 

 

 

これが、その審議の末に言い渡された、被告人たちの処遇である。

 

 

 

事の顛末だけを述べよう。

 

 

 

実行犯よりも密告者の方が重い処罰を言い渡されたのは、訳がある。

 

ラング商会の会長は、駐屯兵に捕らえられてから審議に至るまで、ろくに尋問にも答えず、ただひたすらエルヴィン・スミス調査兵への恨みばかりを口にしていた。数日その状態が続いた後は、事切れたように何も喋らなくなり、食事もとらなくなった。まるで壊れた人形のように動かなくなった会長は、時折思い出したように自殺した妻子の名を呼ぶばかりであった。

 

 

医師の診立てにより、彼は精神薄弱であるとされ、責任能力は無いものと判断されて、上記の審議の結果となった。

 

 

シグリ・アーレントにいたっては、公に心臓を捧げた兵士という身分もあって、かなり厳しく尋問が行なわれた。

 

 

駐屯兵の目を盗み門扉を解放した会長へ情報を流していた罪を問われたが、その証拠は駐屯兵の調査では一切出てこなかった。

 

 

彼女への処罰の決め手は、彼女自身の自白であった。門扉解放への直接的関与は肯定しなかったものの、ラング商会との関係は本人の自白により確信的であるとされた。

 

 

「実行犯が事実上の無罪放免になったことで、人びとの怒りがシグリへ向かったんだろう。安全なはずの壁の中へ、巨人が侵攻したんだ。被害が最小限であったとは言え、その代償は誰かが取らなくてはいけなかった」

 

 

そう言ったのは、シグリの友人であり、同僚であったミケ・ザカリアスであった。

 

 

彼の言う通り、処罰が言い渡されてすぐ、シガンシナの街には号外が出され、人びとは皆、一様にシグリを悪し様に罵った。

 

 

巨人襲来の引き金をひいた悪しき女。

 

 

妻子を失った男をたぶらかし、門扉解放という罪を犯させた女。

 

 

壁の中に巨人を誘い込んだ女。

 

 

兵団を裏切った悪女。

 

 

 

街の住人は、記事を見て様々な女性像を思い描きながら、巨人侵攻というセンセーショナルな出来事について思いを馳せた。巨人を実際に見た少数の人びとは、その恐怖を彼女へとぶつけた。

 

 

その街の評判を肯定しなかったのは、彼女の人となりを知る調査兵たちだけだった。

 

 

彼女の処罰が言い渡された日、兵団内は壁外調査から戻った時のように暗鬱な雰囲気に満ちた。

 

その後、街の評判が兵団にも届いた時は、兵士たちもひどく荒れた。

 

 

その筆頭はハンジ・ゾエであった。彼女は上官の分隊長執務室を使い物にならないくらい荒らしまわった。彼女の部下であるモブリット・バーナーは、この時は上官の奇行を止めることをしなかったという。

 

幾人かの調査兵は、物憂いのすえ、酒に頼った。

 

調査兵団へと取材に来た記者たちは、キース団長が徹底的に拒否した。

 

彼女と仲の良かったナナバは、悔し涙を浮かべ、ミケ・ザカリアスは寡黙に怒りをこらえて日常の訓練をこなした。

 

 

その時、何事もなく平常通りに振舞っていたのは、彼女の元部下であったリヴァイと、元上官であったエルヴィン分隊長だけだったという。

 

 

 

 

彼女の壁外追放は、数日後、そのエルヴィン分隊長の指揮の元に行なわれた。

 

 

リヴァイをはじめ、彼女と旧知の兵士はその処罰執行からは外された。

 

 

 

 

「てめえの評判は最悪だったな。悪魔だの、情無しだの散々だった」

 

 

リヴァイが、紅茶をすすりながら言った。窓の外に視線をやれば、白い雪がちらつきはじめている。地下街から来た彼にとって、つい先日生まれて初めて見る雪に驚いたばかりである。

 

 

シグリ・アーレントの処罰ーー事実上の処刑が行なわれてから、数ヶ月が経とうとしていた。

 

 

「だが調査兵団の奴らはお前に同情的だった。腹心の部下を処刑せねばならない可哀想な上官ってな」

 

 

その哀れな上官は、執務机に向かってペンを忙しなく動かしている。今冬から実施される、雪中における対巨人戦を想定した訓練の内容の立案中であった。

 

 

「……何が言いたい?リヴァイ」

 

 

「あの研究室だ。いい加減なんとかしろ。埃がどれだけ溜まってると思ってる」

 

 

シグリが使用していた研究室は、その物の多さと貴重さ故に、捨てるものとそうでないものの分別が非常に難しかった。彼女の処刑が行われた後、エルヴィンとハンジ、そしてリヴァイの三人で部屋を物色したものの、彼女の取りまとめた研究報告書の多くが、彼らにとって未知の文字で書かれていた。そのため、ゴミとそうでないものの違いを判断することができず、エルヴィンの指示のもと、彼女の研究室の整理は一旦保留となったのである。

 

 

しかし、棚上げされた部屋の掃除は、ついにリヴァイの我慢の限界を超えたらしい。むしろ数ヶ月、よくぞもったものと言えるだろう。

 

 

あれから大部屋に戻されたリヴァイは、最近は兵団内の掃除野郎として、その手腕をいかんなく発揮していた。

 

 

「ああ……。そうだな。もうすぐ新兵も数人入団する予定だし、そろそろあの部屋も整理する必要がある、か」

 

 

「そうだ」

 

 

「そうか」

 

 

沈黙。

 

話の間中、エルヴィンは一度も顔を上げず、忙しい手も止めることがなかった。

 

 

この野郎、また聞いてねえ、と苛立ったリヴァイが立ち上がったとき、ようやくエルヴィンは顔を上げた。

 

 

そして、そうだ、いま思い出したとでも言うような顔で、

 

 

「そうだリヴァイ。ちょっと使いを頼まれてくれないか。マリア内地の墓地へ、花を手向けに行きたかったんだが、今月は全く行けなかったんだ。もうあと数日で来月になる。その前に行きたいんだが、見ての通り俺は忙しい。お前、代わりに行ってきてくれ」

 

 

まるで読み上げられた台詞のように、流暢に、しかし棒読みに告げられたその頼みごとに、リヴァイは数秒、目を瞬かせた。

 

 

エルヴィンはにこりと微笑む。新兵の女子を中心に人気のあるこの笑顔が、とんでもなく胡散臭いものだとリヴァイはもう良く良く知ってしまっている。

 

 

何をたくらんでいるのか。

 

 

思いながら、窓の外を見る。曇天の切れ間から、昼下がりのうららかな陽光が差し込んでいる。雪はちらついているが、すぐにひどくなるとも思えなかった。しかし、寒そうだ。

 

 

「……今からか?」

 

 

「今からだ。馬を走らせて1時間もあれば着くだろう。すぐだ」

 

 

胡散臭い貴公子は、滅多にない笑顔をリヴァイに向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

その墓地は、調査兵団設立以来の無名兵士が眠る場所だった。

 

壁外から戻った遺体のなかには、それが誰だったのかまったく分別のつかぬものも少なくない。

 

足や手のカケラなど、身元を特定できる特徴などがなければ、その兵士のカケラはここで弔われる。

 

また、遺体の受け取りを遺族が拒否した場合や、遺族など受け取り手がいない兵士もまた、ここに眠っている。

 

 

そのほか、遺体はなくとも、仲間の調査兵が故人をここに弔うことも、遺族の許可があれば可能である。

 

 

そうして弔われ続けてきた歴代の調査兵たちが、一様に眠るのが、その無名兵士の墓地だった。

 

 

生前、休みのごとにここを訪れていたというシグリ・アーレントもまた、今はここに眠っている。

 

 

リヴァイは墓地の入り口で馬を降り、途中で買った花を片手にその中に入った。

 

 

予想以上に広いその場所には、一面に白い石板がみっしりと等間隔に敷き詰められていた。

 

目の前に広がる墓標の多さに、リヴァイは一度足を止めた。よく見れば真新しい白く輝く石板から、黒っぽく薄汚れて端のかけた石板まで、新旧様々なものがあるのが知れた。

 

リヴァイは冬用の兵団支給の外套の襟を立てて、ひとつ身震いして足を進めた。

 

 

広い墓地の中でも、さらに奥手にあるその石板は、高台にある墓地からマリア領土を見渡せる場所にあった。

 

曇天が風に流れてる隙間から、陽の光があたたかに降り注ぐ穏やかなマリアの向こうに、巨人の領域との境界線の壁が続いている。

 

その外の領域まで、そこからは少しだけ臨めた。

 

 

 

リヴァイが足を止めて息を呑んだのは、その景色のせいではない。

 

目指す石板の前に、人影があった。細く小柄なその人は、紺色のロングコートに身を包んでいた。

 

艶やかな黒髪が、肩にかかるくらいまであるところと、線の細さを見れば女だろうか。

 

 

リヴァイは、高鳴る鼓動を感じながら、一度止めた足を踏み出して、その背中に近づいた。

 

ふ、と足音に気づいた背中が、振り向いて。

 

 

リヴァイは、捧げたはずの心臓が大きく脈打つのを感じた。

 

 

 

「リヴァイ」

 

 

 

黒曜石の瞳が振り向いた。

 

 

その人物が立つ前の石板には、最も新しい死者である、元副官の名前が刻まれている。

 

 

振り向いた女は、その石板の名前、シグリ・アーレントその人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十一章 アーレント 二

「花を持って来てくれたの?嬉しいな」

 

 

女の笑顔が冬の陽光に照らされて、リヴァイは眩しくて目を細めた。

 

 

死んだはずの女が目の前で笑う様に驚きを覚えつつも、数ヶ月ぶりに見たその笑顔に、妙に胸が踊るのを感じる。

 

 

 

ーーそうか。

 

 

 

花を手渡したときに、細い手が革手袋越しに触れた。女は寒空の下、裸のままの両手を真っ赤にしていた。よく見れば、頬も、肩まで伸びた髪の隙間から見える耳も、寒さのために真っ赤に染まっている。

 

その血の通った赤を見ながら、リヴァイは彼女に会いたかったのだ、と己の心を知った。

 

 

最後に言葉を交わしたのは壁の上だった。あれから数ヶ月。

 

 

「彼女の墓前に供えにきてくれたんだろう?」

 

 

シグリ・アーレントの名が刻まれた石板の前で女は振り返った。リヴァイが頷けば、女は隣の石板を指差し、「こちらにもこの花、供えても?」と言った。

 

 

細い指先の指し示す方向へ視線を移して、リヴァイは眉をひそめた。

 

 

 

イワン・アーレント。

 

 

 

 

聞きなれぬ名前の主は、844年の初めに亡くなったことが記されていた。リヴァイが調査兵団に来る、ほんの少し前だ。

 

 

「彼女の夫だよ」

 

 

女が石板に花を供えながら言った。澄み切った空気に、女の声が響く。

 

 

「……どういうことだ」

 

 

「リヴァイ。ここは寒い。街に下りないかい?」

 

 

 

その道中に話すよ。女は振り返って再び笑った。

 

 

 

 

女はどうやら人に連れてきてもらったらしく、馬を持っていなかった。どうやって帰るつもりだったのかと問えば、「あなたを待っていた」と返されて、エルヴィンにしてやられたと、そこでようやくリヴァイは気づいた。

 

リヴァイの黒馬に二人乗りをして帰るしかあるまい。ロングコートの下は長いスカートとブーツを履いていた女の格好は乗馬向きではなかったが、速度を出さなければ問題ないだろう、とリヴァイは馬を撫でた。

 

 

「手を出せ」

 

 

「手?」

 

 

両手のひらを差し出してきた女は、やはり指先も赤く、よく見れば寒さに微かに震えていた。

 

 

リヴァイは呆れたように彼女を見やり、自分のしていた手袋を彼女の手にはめてやった。

 

 

「いいよ!あなたが寒いだろう?」

 

 

「こんな冷え切った状態で何言ってる」

 

 

直に触れた手は、思った以上に冷たく、まるで死体のそれのようだった。薄ら寒く思って、数度さすってやれば、僅かに温度が戻ってくる。

 

 

生きている。

 

 

安堵して、己が首に巻いていた黒いマフラーも外して、女の首に巻いてやる。女が抗議しようとしたのを止めるように、その冷たく赤くなった頬に両手で触れれば、彼女は黒い瞳を大きく見開いて黙った。

 

 

「……生きてるんだな」

 

 

「……うん。帰ってきたよ」

 

 

 

まっすぐ黒曜石の瞳を覗き込めば、そこには微熱を帯びた感情が揺らめいている。

 

僅かな、熱のこもった瞳。

 

頬を少しだけさすり、リヴァイは彼女の額に己のそれを重ねて、瞼を閉じた。

 

 

耳をすませば、すぐそばで彼女の息遣いが聞こえる。

 

 

 

確かに、生きている。

 

 

 

「ーーよかった……」

 

 

 

呟いた言葉に、女が驚いたように目を丸めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

イワン・アーレントは、エルヴィン分隊長の副官を務めていた男だ。その職歴は長く、エルヴィンが班長時代から彼の元で働いていたという。

 

エルヴィンが壁外で出会ったマリという異邦人の世話も、主にイワンが率先して行なっていた。

 

それは、彼女が精神異常者として兵団の監視から解放され、エルヴィンによって彼の友人の娼館へと連れられてからも続いた。

 

娼館とは言え、滅多なことでは身を売ることのないその店で、マリは給仕として仕事をしながら言葉と教養を身につけた。その好奇心に付き合う形で、イワンは様々なことを彼女に教え込んだ。

 

それだけでなく、エルヴィン分隊長の指示で彼女に兵士としての訓練をつけていたのもイワンだった。

 

 

 

貪欲な知識欲を持つマリが最も関心を持ったのが、イワンの父親、レオン・アーレントの工房だった。彼の父親は、内地の工場都市で憲兵団向けの対人武器を製作していた技師であった。工房は小さいながらに、レオンの技術は丁寧かつ高度であったという。

 

イワンはたまの休日は彼女を連れて父親のもとに訪れては、父が女に技術を授けていく様を見ていた。

 

その頃には、彼女はすっかり壁の中の言葉を流暢に話せるようになっていた。何より彼女は非常に器用な類の人間であり、教えたことはほとんど難なくこなすことができた。

 

エルヴィン分隊長は彼女をなんとかして調査兵団に入団させようとしていたし、彼女が住まいとしていた娼館の店主であるアリスは、客に人気の出始めていた彼女を正式な従業員として雇い入れたがっていた。

 

イワンは工房での仕事を彼女に勧めた。

 

 

 

「私は正直決めかねててさ。調査兵団に入って死ぬのも怖かったし、客をとるのも嫌だった。レオンのもとで働くのは魅力的だったけど…、内地へ行って壁外から遠のくのは躊躇われた」

 

 

リヴァイの後ろで、女はとつとつと話していた。ふらふらと揺れている。リヴァイは女の手を引いて自分の腰に回してやった。

 

 

「しっかり掴まっとけ。落ちても知らねぇぞ」

 

 

女は何がおかしいのかくすくすと笑った。

 

 

「エルヴィンを始めとして、皆んな優しかったよ。存分に迷えばいいって言ってくれてさ。特にレオンは、私を実の娘のように思うと言ってくれて。……本当に嬉しかった。私も彼のことを父親のように慕ったんだ」

 

 

自分の技術を貪欲に吸収しようとする若い娘に、彼が実の息子にも秘密にしていた技術を教えるのは自然なことだったのかもしれない。レオンは弟子も持っていなかったから、彼女を弟子としても重宝し出していたのかもしれない。

 

 

「それが、連発式散弾銃だった。彼の設計図をもらったときはひどく興奮したよ。この壁の中の技術は偏っている。巨人殺しの技術は高いが、それ以外はやけに低い基準でとどまっている。まるで誰かに禁止されているかのように、学者も技術者も、誰もが未知の領域への冒険を躊躇っていた。でもレオンはそうじゃなかった。新しい技術の模索を、私は初めて目にして高揚したんだ。それが人殺しの道具だったとしても、私にとっては魅力的だった」

 

 

 

ゆっくりと歩く馬の上で、彼女はひとつ大きなため息をついた。リヴァイは頷きもせず、それを黙して聞いている。

 

 

「興奮して、工房から戻ってまずエルヴィンに話した。そのあと、アリスの店で客相手にその話をしたのが全ての元凶となった。そこに居合わせた中央の憲兵団によって、王政への反逆者としてレオンは不審火を装って殺された。私もまた、憲兵団に追われる身となった」

 

 

 

そのとき、策を弄して彼女の窮地を救ったのはエルヴィン・スミスだった。今のように戸籍を偽装するような力はまだなかったが、彼女はマリという名前を捨てて、彼の名付けた「シグリ」という名を騙った。そして、さらにイワン・アーレントと婚約させ、戸籍を堅実なものとした上で、憲兵団の目をくらませるために、彼女を調査兵団へと入団させた。

 

 

 

それが、843年のことである。

 

 

 

「訓練を受けてはいたものの、訓練兵団を経験してなかったから、実戦に出るまで半年以上もかかったよ。特別待遇の入団だったから、最初はとにかくイビリもひどかった。でも、もう私にはそこしか生きていく場所がなかったし、技術を磨かなければ壁外へも出れなかったから、必死で訓練したんだ。気づけば、訓練では先輩方より良い成績をおさめられるようになってた」

 

 

「……望んで調査兵団に入ったわけでもないのに、壁外へと出たかったのか?」

 

 

リヴァイが問えば、女は少しだけ笑って、「早く死にたかったんだ」と言った。

 

 

「私を娘のように思ってくれてた人を、馬鹿で愚かな知識欲で殺してしまったんだ。こんな壁の中、もう嫌になってたんだ」

 

 

 

彼女が初めて調査兵として壁の外に出たのは844年のはじめ。花が咲き始めた春のことだった。

 

 

彼女と同じ班に配属されたイワンは、そこで班員もろとも、奇行種によって食い殺された。彼女は、ミケ・ザカリアスとエルヴィン・スミスに助けられた。

 

 

 

ーー君が生きていて、よかった。

 

 

 

あのとき。エルヴィン・スミスはそう言った。

 

 

それが、彼個人の感情だったのか、それとも調査兵団の分隊長としてのことだったのか、女には良くわらかない。ただ、生きる意味も見失っていた女に、その言葉はひどく心に響いた。

 

 

 

それから、女はその男のために生きてきた。

 

 

 

「イワンは、私の壁の外での記憶を信じてくれてた人だった。塩の水や氷の大地、炎の水、砂の雪原。それを一緒に見に行こうと言ってくれた。彼がなぜそんなに私を信じてくれてたのかわからなかったけど、私にとって彼が大事だったのだと気付いたのは、壁外から戻ってきてからだった」

 

 

女は自嘲するように笑った。

 

 

「それまでは、自分が助かって良かったとしか考えてなかった。死にたくて外に出たのに笑っちゃうよね。イワンが死んで悲しいとも思わなかった。ただ、私じゃなくて良かったって……それだけしか思わなかった」

 

 

壁の外から戻り、女は自分の汚い人間性に気付かされた。そして、そこからはとにかく生き汚く、長く生きていこうと心に誓ったのだ。

 

 

何度も命を救い、彼女を求めるエルヴィン・スミスのもとで。

 

 

そうこうしているうちに、仲間たちとの絆は勝手に強くなり、いつしか彼女自身、調査兵としての自覚に芽生えていったのだという。

 

 

ハンジ・ゾエとの壁外の語りと誓い。

 

ナナバの優しい心遣い。

 

ミケの寡黙ながらも誠実な兵士の心構え。

 

それらに触れていくなかで、女はエルヴィン・スミスの第二の副官として、兵団の中で急速に地位と信頼を築き上げていったのだ。

 

 

「調査兵として戦えたのは、壁の中に来てからの私の最大の幸運だったんだよ」

 

 

寛大な仲間たちに恵まれた。そう女は言ったが、リヴァイに言わせてみればそれは彼女自身が掴み得たものである。彼女の努力と忍耐は、並大抵のものではない。どうせ入団当初から、訓練後に遅くまで書物を読み漁り、勉強に勉強を重ねていたのだろう。そうした努力家を、調査兵たちは決して無碍にはしない。生きる努力を惜しまない人間は、調査兵団にとっては貴重な人材だからだ。

 

 

 

「……そうか」

 

 

リヴァイは頷いた。

 

 

高台を降りれば、眼前にはマリアの広大な平地が現れる。小さな森の近くを女は指差した。そこに、今身を隠している家があるという。

 

その場所をゆっくりと目指しながら、リヴァイは、シグリの夫となっていたイワンという男に思考を巡らせた。

 

 

聞けば、完全なる偽装結婚のようなもので、それこそ夫婦らしいことなどほとんどなかったという。女はあまり、イワンについて話をしたがらなかった。ただ、「彼は真面目で、奥手で、私には何を考えてるのかわからなかった。エルヴィンの命令とはいえ、こんな女を嫁にとらせたうえに、ろくにそれらしいこともなく死なせてしまった」と声を落として言った。

 

 

リヴァイが思うに、イワンはおそらく、彼女を好いていたのだろう。それも早い段階から。

 

 

男が彼女に想いを伝えていなかった理由も検討はつく。

 

 

 

ーーどうせあの金髪野郎のせいだ。

 

 

 

彼女のそばでうろつくエルヴィン・スミスという男。

 

女は自分では気付いていないが、どうにも彼に固執している。エルヴィンもまた、彼女に対してのみ、いつもは鋭い思考も少々歯切れが悪くなる。おまけにあの風貌と才能。副官であったというイワンが身を引くのも無理はない。

 

そんな男に偽装結婚をさせるとは。やはりエルヴィン・スミスはろくな死に方をしないだろう、とリヴァイは呆れた。

 

 

 

ーーお前はどうだ、リヴァイ。

 

 

 

柄にもなく、問うてみる。あの男からこの不可思議な女をさらってみせる技量はあるか。

 

 

「なあ」

 

 

問えば、女は、ん?と返事をした。

 

 

「エルヴィンは、シグリを壁外追放にするふりをして秘密裏に壁の中へと戻した。シグリは死んで、散弾銃の件でお前を追っていた憲兵団の追跡もまいた。そして、ほとぼりが冷めた頃合いを狙って、また兵団へと戻る。そういう計画だと。それでいいんだな?」

 

 

女は頷いた。

 

 

「なら、お前は今度は誰になったんだ?お前の名前はなんだ?」

 

 

「まだ、決まってない」

 

 

名無しだよ、と女は笑った。

 

 

 

マリ。シシィ。シグリ・アーレント。

 

 

 

どれもこれもこの女の名前だ。名前を変えても、この女であることには変わりはないし、変えられるものでもない。それでも、名前は重要だ。リヴァイはそう思っている。

 

 

 

「なら、次は俺につけさせろ」

 

 

「え?名前?私の?」

 

 

そうだと言えば、女は呆気にとられたように少し黙して、

 

 

「私、犬とか猫じゃないんだけど」

 

 

「知ってる」

 

 

「もうなんか、あんまり人につけられるのこりごりなんだけど。ちょっとなんかもう、重いっていうか……」

 

 

「それくらい背負えよ。情けねえ」

 

 

 

えぇ、と情けない声を出した女に馬が少し驚いてわななく。リヴァイは、そんな馬を少し撫でてやって、足を止めた。

 

 

振り返り、女の黒い瞳を見返してやれば、う、と女は息を飲んだ。

 

 

 

これは、つまらない所有欲のあらわれだとリヴァイは重々知っている。

 

 

 

ただ、なくしていく人生の中で、何かを名付けることがあっても、悪くないと不思議と思えた。

 

 

 

「名前をつけてやる」

 

 

 

ゆっくりと左手を彼女の頬に伸ばせば、女は「危ない」と、リヴァイの手から逃れるように顔を伏せて、リヴァイの腰に回していた手を握りしめて、彼の服をつかんだ。

 

 

別に、リヴァイにしてみれば女がどう思っているかは大して重要なことではない。

 

 

 

だから、逃げようとした女を、優しく逃がしてやるつもりなど毛頭なかった。

 

 

 

女が金色の男しか見ていなくても、リヴァイが彼女の見る夢も過去も理解できなくても、それは理由にならない。

 

 

 

ーー気に入れば手に入れる。

 

 

 

それだけだった。

 

 

かの男のように、優しく身を引く上品な人間性は毛頭持ち合わせていないのだ、とリヴァイは思いながら、彼女の耳に口を寄せた。

 

 

曇天の空から、再び白い雪がちらつきはじめている。

 

 

澄み切った空気のなかで、誰に聞かれるわけでもないのに、リヴァイはその名前を彼女に小さく囁いた。

 

 

女は息を飲んで、彼を見つめ返した。

 

 

「ブサイクな顔だな」

 

 

「なっ!!なに、」

 

 

抗議しようとした白い女の口に、己のそれを重ねて、その先の言葉を奪った。

 

 

 

一瞬、女の体は強張ったが、抵抗はしなかった。それに大きな満足感を得て、リヴァイはその甘さにそっと瞼を閉じた。

 

 

 

 

845年。

 

 

 

その年の初めの冬に降ったその雪は、彼らの心に溶けるように染み入って、暖かな記憶として残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十一章 アーレント 三

R指定をつけるまでもない、ゆるい表現?かもしれませんが、ご注意ください!

お泊まりしているので、苦手な方は回れ右してください!


いや、ウェルカムだぜって方、すみません!ゆるくて大したことありません!!




 

 

 

窓の外はすっかり日が暮れて、夜の帳が下りていた。

 

風のない夜だが、しんしんと降る雪は、一向に止む気配がない。部屋の明るさを写した地面は、もう真っ白になっていた。

 

 

降り出した雪を見て、「無理に兵舎へ帰るのは危ない」とひそやかに言ったのは女の方だ。

 

 

その雪の夜を、リヴァイはおそらく、一生忘れないだろう。

 

 

それは、彼らにとってたった一度きりの、何の役割も持たないただの男女として過ごした夜だった。

 

 

「綺麗にしてるな」

 

 

数ヶ月身を隠していたというその小さな家は、キッチンとリビングが一緒になっている部屋のほか、小さな寝室があるだけの慎ましいものだった。

 

兵舎の研究室同様、物が多い部屋だったが、掃除は行き渡っているらしく、清潔で暖かな雰囲気があった。

 

 

「リヴァイにそう言ってもらえるとは、私も掃除の腕が上がったのかな」

 

 

女が笑いながら暖炉の火鉢に金属製のポットを置いて、湯を沸かす。

 

 

暖炉の前の絨毯は、質素ながらふかふかで肌触りもよく、そこにリヴァイは腰を下ろした。

 

 

物が多いのは変わらないが、研究室とは大きく雰囲気が異なる。その一番の理由は、研究室にはびっちりと置かれていた本が、ここには一冊もなかったことだろう。

 

 

聞けば、憲兵が来た時、本などあれば疑われるから、とのことだった。

 

 

「訓練もせず、本も読まず。そんなお前の姿は想像できねえな」

 

 

率直に言えば、女は食事の用意をしながら、「冬の野菜を育てたり、編み物をしたり、掃除をしたりしてたんだ」と笑った。

 

 

「こんなに穏やかに過ごしたのは生まれて初めてだと思う。貴重な時間だったよ」

 

 

「壁の中に来る前もか?」

 

 

「たぶん。記憶にある限り、本を読んだり調査に出たり、文章を書いたり。そんなことばかりしてた気がするよ。あまり兵団にいた時と変わらないね」

 

 

 

女は振り返って、「嫌いなものはある?好きな食べ物は?」とやけに嬉しそうな顔で尋ねた。

 

 

 

二人が食事を終えた時には、外の雪は止み、静かな静寂だけが満ちていた。暖炉の火の前で、二人は紅茶をすすりながら、何ともない話をしていた。

 

 

女は、育てた野菜や、作った料理のこと。器用な類の人間だと過信していたが、編み物はどうにも才能が壊滅的だということを。

 

 

男は、最近ミケが拾って来た三毛猫のこと。モブリットのハンジへの愚痴のこと。紅茶の上手い店のこと。そして、地下街の話や子供の頃のことを。

 

 

 

どれだけ話したのか。くわ、と小さく欠伸をした女に、リヴァイが「寝るか」と声をかければ、女は「もったいない」と首を横にふった。

 

 

尋ね人のない生活はどうやらつまらないらしい。ここに人が訪ねて来たのは、数回、エルヴィンが様子を見に来たくらいで、あとは行商人がまれに通りかかって野菜と商売品を交換に来たくらいだという。

 

 

「まだ兵団に戻るまでしばらくある。それまでまたひとりだ。あなたとこうしてゆっくり話す時間もそう取れないだろうしね」

 

 

 

「エルヴィンはここに泊まらなかったのか」

 

 

 

リヴァイがどうしても気になっていたことを聞けば、「さすがに泊めないわ」とくすくすと笑った。寒いから、と毛布にくるまった彼女の目尻が、少しまどろんでいる。眠たいからか、それとも気が緩んでいるからか、シシィとして働いていたときのような、女性らしい口調になっていた。

 

 

どうやら、素はこちららしい。

 

 

「リヴァイは私とエルヴィンのこと誤解してるわ」

 

 

「でも特別なんだろう」

 

 

「そうだけど……なんだろう。あなたも特別よ。でも、ちょっと違うな。なんだろう。リヴァイは泊めてもいいけど、エルヴィンはちょっと嫌だなあ」

 

 

そう言って、彼女は悪戯っ子のように笑った。

 

 

ぱちりと暖炉の薪がはぜた。炎の揺らめきが、彼女の白い肌を暖かく照らしている。

 

 

「以前、シシィとして接客してもらった時に、お前は俺に「見つけてくれ」と言ってたな」

 

 

長く伸びた彼女の黒髪を、耳にかけてやりながらリヴァイは言った。

 

 

 

「なあ、どうだ。俺はお前を見つけられてるか?」

 

 

 

一瞬、子どものように目を丸めた女は、しかし次の瞬間、ゆったりと、見すかすように微笑んだ。

 

 

 

「どう、かな……?見つけてくれるの?」

 

 

 

それは、男を誘う女の、娼婦シシィのそれだった。

 

 

ただ、甘いだけではない。

 

 

炎のきらめきを抱いた黒い瞳の奥には、リヴァイに対する狡猾で好奇心に満ちた、シグリを彷彿とさせる輝きが見え隠れしている。

 

 

 

その女の表情に、リヴァイは血がざわめくのを感じた。直裁に言えば、欲情した。

 

 

 

娼婦と兵士、性格の異なる役を器用に演じるものだと思っていたが、それは存外、この女のなかにあるもので、どちらも演技ではなかったのかもしれない。

 

 

リヴァイはそんな女の多面性に、にやりと笑って、彼女の腰に手を回した。細く薄い体を引き寄せて、躊躇いなく、その小さな、手入れの行き届いた唇に口付けた。

 

 

 

艶やかに手慣れた風に誘うくせに、口付けにはいつも体を少女のように強張らせる。そんな女の背中をなだめるように撫でてやりながら、ついばむように何度も角度を変えてその唇を堪能した。

 

 

 

何度も繰り返して、ようやく強張りが溶けてきた頃を見計らって、舌で唇を撫でてやれば、そっと口をあけて彼女はリヴァイの侵入を許した。逃げる舌を追いかけるように深く口付けしながら耳をさすれば、ぴくりと身体が震えた。

 

 

夢中になって思う存分貪った後、唇を離せば、名残惜しそうに眉根を寄せた表情が目に入った。食い散らかしそうになるのをぐっと抑えて、先ほどさすった耳に口付けて舐め上げれば、驚き混じりの甘い声が上がる。

 

 

やはり、と気を良くして敏感なその部分を攻め立てれば、彼女は縋るように男の服を握りしめてきた。

 

 

これがあの副官か。

 

 

常に冷静を装って、すました笑顔をたたえているあの女が、今手の中でただの女に成り果てている。

 

 

首筋に舌を這わせ、吸い付けば、おののくようにそのしなやかな身体を震わせて鳴き声を上げる。

 

 

ひとつひとつの動作に敏感に反応する身体に、思わず舌舐めずりをした。

 

 

 

ーーなんていい女だ。

 

 

 

ふと彼女の光を抱きしめる瞳を見たくなって顔をはなせば、彼女は顔を真っ赤に染め上げて、息も絶え絶えになっている。

 

 

ただのキスごときでどれだけ余裕をなくしているのか、と男は笑ったが、そんな彼もすっかり息は乱れていた。

 

 

 

誘われるように、どちらからともなく再び口付けあえば、ゆったりと女を下に、二人の影が絨毯の上に倒れていく。

 

 

深いエンジ色の絨毯に、黒髪が散る。黒曜石の瞳は、暖炉の炎に揺れている。

 

 

 

ああ、綺麗だ、とリヴァイは思った。

 

 

 

 

「……いいのか」

 

 

 

 

ここにきて問うたのは、彼の弱さだろうか。それとも実直さ故だろうか。女は少し笑って、黙ったまま頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女が目を覚ましたのは、夜明けごろ。うっすらと窓の外から陽光が差し込む時間帯だった。

 

 

兵舎ではきっともう、兵士たちが朝の訓練のために動きだしている頃だ。

 

 

 

暖かな温度にまどろみながら横を見れば、昨日家に泊めた男が深く布団に身体を埋めて眠っていた。

 

 

同じ研究室で寝食を共にしていたが、こうして彼が眠る姿を見るのは初めて見た。眉間のシワがなくなれば、彼が実は童顔なのだと知れて、彼女は思わず微笑んだ。

 

 

不意に、男にしては白い裸の肌に気付き、男も自分も一糸まとわぬ姿であることを思い出して、急に気恥ずかしくなって顔を背けた。

 

 

 

彼には言わなかったが、彼女は記憶の限りでは、男と寝たことはなかった。否、昨夜の感覚からして、おそらくそれなりにあるのだろうが、壁内に来てからは全くなかった。

 

 

シシィとして店で働いていたときも、アリスは彼女のことを思って客はとらせなかった。その身持ちの固さが、彼女の店での人気に繋がったのだが、とにかくこの二年ほど。壁外にいた頃のことははっきり覚えていないが、下手をするともっと長い時間、男日照りであった。

 

 

彼女自身、あまりそのことに興味をそそられなかったから気にしていなかったが、そのツケは今まさに来ていた。

 

 

腰も重く、身体はバカみたいに全身だるい。下腹部にも、まだ受け入れたものの感覚が残っていて、もういっそ息をすることも恥ずかしい。

 

 

その気だるさの一番の要因は、思春期のように何度も彼女を貪り倒したリヴァイにあるのだが、彼女はそこまで考えは至らない。

 

 

意識があればまざまざと昨夜のことを思い出しそうになる甘ったれた思考に、彼女は羞恥に一人もだえた。

 

 

「……何してる」

 

 

 

低い不機嫌な声がすぐ耳元でして、彼女は飛び起きそうになった。だが、男の両腕にとらえらて、引き寄せられてそれは叶わず終わった。

 

 

「朝から百面相……賑やかだなテメェは」

 

 

後ろから抱きすくめられて、密着した身体。尻に違和感を覚えて、彼女は顔を青くして震える声で抗議した。

 

 

「ちょ、あの、お尻。さっきから、あの、」

 

 

「?……ああ、これか。生理現象だ。気にするな」

 

 

男の朝の生理現象など、尻に突きつけられても困る、と彼女は再度抗議しようとしたが、くるりと仰向けにひっくり返されて言葉を飲み込む。

 

 

見上げた先に、昨日の優しい男はどこへやら。ゴロツキらしい、凶悪な顔の男が口角をあげていやらしく笑っていた。

 

 

「勃ったついでに、もう一回ヤルか」

 

 

 

ひい、と息を引きつらせた彼女が解放されたのは、結局、太陽もだいぶ高い位置に来るころだった。

 

 

 

 

 

 

リヴァイが出立の準備をするのを眺めながら、彼女はきっちりとシャツを着込んでその姿を見ていた。

 

 

 

男は別に外着に着替えなくても、と言ったが、昼間は昼間らしく!と女は顔をしかめて抗議した。どうやら、明るい時間の行為に不服を唱えているつもりらしい。

 

 

リヴァイは、己が年甲斐もなくがっついたことは認めていたが、特に悪びれることもなく、いつもの無表情でひらりと馬に乗った。

 

 

 

「また来る」

 

 

「もうここでは会えないよ」

 

 

彼女が神妙な顔で言った。男は、そうか、とだけ答える。

 

 

 

「次会うときは、お互い兵士だ」

 

 

「……そうか。ならもう一回くらいしとくべきだったか」

 

 

「リヴァイ!!」

 

 

女が顔を赤らめて怒鳴ったので、さすがに男も「冗談だ」とその本音を霧にまいた。

 

 

「……まあ、次も別にないわけじゃない」

 

 

男の言葉に、女は顔を赤らめて悔しそうにするだけだったので、彼は拒否されなかったと受け止めて上機嫌に頷いた。

 

 

 

「死ぬなよ。お前の帰還を心待ちにしてる奴は大勢いる」

 

 

「……ああ。待っててくれ。必ず調査兵団に戻るから」

 

 

 

その言葉をしかと耳におさめて、リヴァイは馬を走らせた。

 

 

みるみるうちに、彼女の家は小さく背後に流れ、マリアの壁が眼前に広がっていく。

 

 

 

雪は昼間の太陽でだいぶん溶けており、走るに支障はない。この調子でいけば、太陽が傾く前に本部に着くだろう。

 

 

エルヴィンの指示とは言え、無断外泊と今日一日の無断欠勤は何らかの処罰になるのだろうか、とリヴァイは思う。

 

 

 

しかし雪のせいだと言えばその通りだ。それに嘘はない。

 

 

 

それよりも。

 

 

 

早く、あのスカした金髪に会いたいものだと思った。ついでにミケが一緒だと尚更良い。

 

 

 

あいつのことだ。手の中で守り通してきた女が他の男にとられようとも、特に表情も変えないだろう。

 

 

だから、これは、己のつまらない馬鹿馬鹿しい所有欲の顕示に他ならない。

 

 

 

 

そう思いながらも、リヴァイは兵舎への帰路を急いで駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




エロはダメだ!

ラブもダメだ!


砂吐く!!精一杯がこれとは…!!


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第十二章 平穏な日常・酒宴

その冬の終わりに入団してきた新兵は数人いた。そのなかのひとりの女が皆の前で紹介されたとき、調査兵たちは一様に喜びの咆哮をあげた。

 

 

それは、以前、壁外追放になったエルヴィン分隊長の副官であった。

 

 

 

その後、彼女は他の新兵たちとともに一兵卒として任務に就いていたが、春先の壁外調査からは班長として就任した。

 

 

調査から班員の犠牲を出すことなく帰還した後は、以前と同様にエルヴィン分隊長の副官として採用された。

 

 

 

名前は変わったが、それは半年前と変わらぬ光景であった。が、半年前とは大きく状況は異なりつつあった。

 

 

半年前、新兵であったリヴァイは驚愕のスピードで出世を果たし、現在は班長を勤めていた。兵団内の発言権だけで言えば、かなりあり、それこそ副官の彼女よりも強力であった。

 

 

ミケ・ザカリアスやハンジ・ゾエもまた、幹部候補として分隊長付きの仕事のために、エルヴィン分隊から他の分隊にうつった。

 

 

シグリ副官に淡い想いを抱いていた、女癖の悪いエーミールも、班長になり、エルヴィン分隊で優秀な兵士として頭角をあらわしはじめていた。

 

 

 

春になり、少なくはあるがさらに新兵たちも入団した。

 

 

そしてついに次の壁外調査から、エルヴィン分隊長が団長として全体の指揮をとることが決定した。

 

 

キース団長はその日のうちに内地へと向かい、調査から帰還後、エルヴィン新団長率いる調査兵団への任務交代の式が行なわれることになった。

 

 

 

「ついに!我らがエルヴィン・スミスが団長に!!人類はこのとき初めて前進するだろう!!我々自由の翼の未来に、幸あらんことを!!!」

 

 

 

酒を片手に大声で暑苦しく叫んだハンジは、とうにできあがっている。もうすっかり彼女の隣が定着化したモブリットは、酒を飲みながら「あんた酒溢れてますよ!服汚さないように!」と砕けた口調で、相変わらずのオカンぶりを発揮している。

 

 

「それにしても主役たちはいつ来るっていうのかな?ミケ、エルヴィンたちまだ仕事してるの?」

 

 

白い頬を赤らめて言ったのはナナバである。常に中性的な雰囲気をもつ彼女だが、酒を飲むと年若い女性らしさがにじみ出る。彼女の端正な美貌に、エルヴィン分隊の後輩兵士たちはそわそわとしている。誰がナナバの隣に座るか、そんな話もしているようだった。

 

 

無防備な可愛らしいナナバの横に座ったのは、ガタイのいい兵士、ミケだった。ミケが分隊長となれば、おそらく副官になるのはナナバである。未来の部下であるナナバを、そっと守るように隣を陣取ったミケはまさに漢の中の漢であろう。

 

 

「キース団長との打ち合わせが長引いてるみたいだな。副官殿はもう来てるみたいだが」

 

 

酒を注いでまわっている店主、アリスに目配せしてミケが言えば、アリスは困ったように笑った。

 

 

「あの子なら、うちの子のご機嫌とりに今、上に上がってるわ。ごめんなさいね」

 

 

「リザ、だったか?」

 

 

ミケが問えば、ナナバは「シシィとして働いてた時の後輩でしょ?」と尋ねた。アリスは、

 

 

「リザはあの子のこと、大好きだから、ね。まあ、そんなことは置いといて!今日はお店は貸切なんだから、存分に楽しんでちょうだい!!」

 

 

店主のもてなしに、エルヴィンの部下たち調査兵たちは、うおおおおおおと喜びの雄叫びを上げて喜んだ。

 

 

お店の接待役の女性や男性給仕たちも、調査兵たちと共に飲んで遊んでいた。

 

 

 

「ママ。私にもお酒ちょうだい」

 

 

店の奥から声がしてアリスは笑って振り返った。

 

 

「あら噂をすれば新団長の副官殿!早く来なさい!今日はあなたも主役の一人なんだから!」

 

 

「リザはまだ許してくれないみたい……。今日は少し話もしてくれたけど……」

 

 

「もう!リザったらまだヘソ曲げてるのね!シシィが調査兵だったこと隠してたのは仕事のためだって何度も言ってるのに!もういいわ。あなたは今日は気にしないで楽しんで!あの子には私からよく言っておくから!」

 

 

 

言ったアリスも片手に酒の大瓶を掴んでいる。

 

喉を潤すようにそれを仰ぎ飲む姿を見るに、どうやら彼女は女店主から、昔の屈強な調査兵へと戻っているようである。

 

 

心なしか、いつもより声も野太い。

 

 

「おーっと!!シグリぃ、早くこっち来てくれよぉ!この前見かけたあの奇行種のあの子さあ、やっぱり興味深いと思わなーい?だって、ぐげぇ!!」

 

 

ハンジが大きな声を上げて悲壮な悲鳴をあげた。彼女の首に男の腕が回っている。

 

 

「ちょ!リ、ぅ、」

 

 

「クソメガネ。シグリじゃねえだろう。名前間違えるな」

 

 

「リヴァイ兵長!!ハンジさんが死んでしまいます!!」

 

 

ハンジを遠慮なく締め上げていた小男に、モブリットが叫んだ。一方、呼ばれたリヴァイは眉をひそめる。

 

 

「兵長?」

 

 

不機嫌にも聞こえる声に、酔っても真面目なモブリットは、立ち上がり模範的な正しく美しい敬礼をとった。

 

 

 

「失礼いたしました!リヴァイ兵士長!!」

 

 

 

上ずった声に憐れみさえ覚える。

 

 

 

「リヴァイ。いいじゃないか、兵長。そちらの方が兵士長より呼びやすいな」

 

 

いつもより穏やかな声でそう言ったのは、リヴァイと共に遅れて店に入って来たエルヴィンであった。

 

主役の登場に、店内の十数名の兵士たちが一気に脇立つ。

 

 

「エルヴィン団長!!リヴァイ兵長!!」

 

 

新たな役職を与えられた彼らに、調査兵たちは希望をこめて彼らの名を呼んだ。

 

 

鬼才とも言える指揮官、エルヴィン団長。人類の英雄とも言える兵士、リヴァイ兵士長。

 

 

彼らが先頭に立つ新たな調査兵団は、変革の旗印を掲げる。今までのような食われるばかりの人類ではない。そんな期待と高揚感が、兵士たちのなかにあった。

 

 

「我々人類の反撃は今、この二人のもとから始まる!我々の希望の翼に!」

 

 

 

再び暑苦しい賛美をハンジがとなえて、皆一様にグラスを掲げて二人に酒を手渡して笑った。

 

 

 

「カンパイ!!!!」

 

 

 

 

エルヴィン団長が率いる初めての壁外調査の二日前の夜。エルヴィンを支えていた腹心たちが、その場に集って期待に胸を膨らませながら酒を仰いでいた。

 

ある者は、歌を歌い、ある者は今までしなかった未来の約束を口にしていた。

 

 

その場にいたエーミールは、同じ班員の女性の手を握り「結婚しよう!」と言っていたものだから、新たな兵士長はさすがに呆れて口を挟んだ。だが、エーミールは「エルヴィン団長のもとなら、俺たちは死にに出るだけじゃないだろう!!俺だってアルバンみたいにたった一人の女を思って生きたいよお!」と、女と共に死んだ仲間を思って泣きながら叫んだ。

 

 

鼻水混じりのプロポーズに、周りの調査兵たちは大声で笑いながら祝福し、乞われた女もまた、恥ずかしそうに笑って手を握り返したものだから、エーミールはその男前の顔をぐちゃぐちゃにしながら大声で泣いた。

 

 

祝福と笑いが店内を満たす。

 

 

ナナバは、ほわほわとその様子を嬉しそうに眺めて手を叩き、ミケはそんなナナバの様子にすこし意外そうに、彼女を見つめながら酒を飲み続けていた。

 

 

ハンジはそんな祝福の雰囲気は一切歯牙にかけることなく、新団長をつかまえて、巨人捕獲作戦について意気揚々と語っている。

 

 

モブリットはその隣で、酒瓶を胸に抱きしめながら、ハンジの上官への失礼をぼそぼそとたしなめていた。

 

 

アリスが男性給仕にピアノを弾かせて、野太い声でこぶしをきかせながら歌を歌いだしたので、祝福の言葉は未来への賛歌へと変わっていく。

 

 

 

浮かれまくったその雰囲気を、新たな兵士長となったリヴァイは酒を片手に観察していた。黙りこくっているようで、彼はこういう場は嫌いではなく、むしろ好きな方だった。

 

 

兵舎内での仲間内での酒盛りも、ほとんど参加していた。女がいなければ、地下で鍛え上げた猥談を男兵士たちに披露して英雄たらしめられているぐらい、リヴァイはすっかり調査兵だった。

 

 

「……浮かれやがって」

 

 

「滅多にないことだからね」

 

 

答えたのは、彼の近くで座って酒を飲んでいた、団長付きの副官となった女だった。

 

 

以前、シシィという娼婦として同じ席で互いに飲んだ頃からは、想像もしなかった光景に、彼女は嬉しそうに笑った。

 

 

「未来の約束なんてするもんじゃねえと思うがな。死ぬリスクが消えたわけじゃねえだろう」

 

 

プロポーズの成功に感極まって酒を吐き出した情けないエーミールを見ながら、リヴァイは言った。女はその言葉にひそやかに笑った。

 

 

「同意するよ。でも……、きっと彼女は全部受け止める構えだ」

 

 

醜態をさらしまくって笑われているエーミールを、微笑みながら介抱する女兵士は、いつか、アルバンを亡くした壁外調査の帰りに、エーミールがリヴァイに紹介した女だった。あれから、数度の調査を生き延びたらしい。

 

 

「あんな聖母様みたいな女性なんて私は無理だけどさ。あの子のあの表情は、エーミールを生かすためにプロポーズを受けたって感じだね」

 

 

「どういう意味だ」

 

 

「好いた男に生き延びてもらうために、希望を見せてあげるつもりでいるんだよ。絶望的な調査兵団のなかでも、前を見て生きていけるようにね。そのくせ、彼女はその絶望も全部受け止めるつもりでいるんだ」

 

 

副官殿は、「なんてセクシーで魅力的な女性なんだ!」と大仰に芝居染みた表現で笑った。ハンジの影響か、最近この女は酔うと大仰になる。

 

 

「願わくば、彼より先に彼女が死なないように。願うしかできないけどね」

 

 

女は笑った。リヴァイは問う。

 

 

「お前は、結婚を申し込まれたらどうするんだ」

 

 

「は?」

 

 

「お前は未来を誓うのか?」

 

 

純粋な問いだった。女もまた、訝しむようにしたあと、一瞬金色の男に視線をやり、そしてニヤリと笑った。

 

 

「なあに、リヴァイさん。プロポーズしてくれるの?」

 

 

うひひ、と下卑た笑みを浮かべて近寄ってきた彼女に、リヴァイは少々苛立ち、苛立ちついでにその冗談に乗ってやった。

 

 

「だとしたら、受けてくれるのか。お前は」

 

 

周りの調査兵たちはまだ大声で歌っている。

 

そんななか、やけにリヴァイが放った言葉が真剣味を帯びてしまう。女は少し驚いて目を見開いた。冗談だ、と済ませてしまえばそれでもよかったが、この女がどう答えるのか。リヴァイはその答えを知りたかった。

 

 

 

「……未来の約束は、「最後の一矢になるまで」。それだけでいいと思わないか?」

 

 

女は下卑た笑みを引っ込めて、神妙な顔でそう言った。

 

つまり、命尽きるまで、前進しようと。そう言ったのだ。

 

 

その黒曜石の瞳の誓いに、柄にもなくリヴァイは心臓が高鳴った。

 

 

汚いクソの肥溜めから生まれたと自称するリヴァイにとって、そうした高潔さは心の柔らかいところを締め付ける強さを持っていた。

 

 

 

「……誓おう。俺は最後まで一人きりになっても飛んでやる」

 

 

 

告げた誓いに、女は目をキラキラと輝かせて、その酒臭さを身にまとったまま、リヴァイに抱きついてきた。

 

 

「だからこそリヴァイだよ!あぁ、もうっ!!あなたは本当に男前なんだから!!」

 

 

「!!おい、おま、離せ!クセェ!!」

 

 

 

そんな二人の様子を見て、ナナバを始め、他の兵士たちが野次と歓声をあげて二人を茶化した。

 

 

 

 

そんな様子を穏やかに笑いながら見るエルヴィンに、アリスは少しため息をつく。

 

 

「エルヴィン。あなた、あの子ときちんと話した?」

 

 

「ん?うん……いや、特に話すことはないだろう……?」

 

 

歯切れ悪くエルヴィンは酒を飲みながら言う。絡んでくるハンジをたしなめながら、副官を見る視線は優しい。

 

 

「……もう!あなたたちはきちんと話さなきゃダメよ!あの子がなんで戻ってきたのか!あなたがなんであの子を副官に戻したのか!腹を割って話さなきゃ!!」

 

 

「う〜〜ん……まあ、そうかもしれないが……仕事もうまくいってるしなぁ……今更そんな、」

 

 

「ただの部下ならね!でもあんたにとってもあの子は大切な子でしょう!!?ぼやぼやしてるとリヴァイに取られるわよ!!」

 

 

「いや、それこそ祝福すべきことじゃないのか……?」

 

 

 

アリスが「この朴念仁!」と叫んだ声も、調査兵たちの歓声に消されていく。

 

 

 

その日の夜。エルヴィンの腹心の調査兵たちと、アリスたちは朝方近くまで宴会に浸った。

 

 

新団長と新兵士長の就任祝いを冠した宴会は、途中からエーミールとその恋人の結婚のお祝いに代わり、賑やかながらに穏やかな宴会となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたも降りてくればよかったのに、リザ」

 

 

調査兵たちが皆帰り、店内に静けさが戻ったとき、朝日が差し込む部屋の中にリザがゆっくりと入ってきた。

 

 

「シシィは?」

 

 

「帰ったわよ。また、明日の壁外調査から戻ったら、リザに会いに来るって」

 

 

 

アリスの答えに、リザは幼い顔を歪めて泣きそうな顔でアリスに抱きついた。まだまだ彼女は、庇護の必要な幼子だった。

 

 

「あなたは本当にシシィが大好きね」

 

 

「そうじゃないもの」

 

 

胸の中で涙をこらえる子どもの頭を撫でながら、アリスは言った。

 

 

「わかってるわ。あなたはシシィに恋してるのよね」

 

 

ピクリと震えた背中をさすってやる。遠慮しなくていいのよ、と彼女に諭す。

 

 

「私もね、調査兵団にいたとき、好きな人がいたわ。でも彼は私のことを仲間だと思っていたし、私も男だった。何度も想いは告げたんだけど、彼は仲間同志の好きと勘違いしててね……。結局、私は迷惑になってはいけないと思って、その気持ちは墓場まで持っていこうと思ったの」

 

 

兵団内での同性同士の恋愛はさして珍しくはない。特に命のやり取りが過酷で、かつ女性兵士の少ない調査兵団ならなおさらだった。それでも、決してそれが表立って主流であったとも言えなかった。アリスは、調査兵として、その言葉に蓋をした過去を想う。

 

 

「後悔してるわ。あの日、彼は巨人に食われて死んでしまった。私も、怪我で戦線を離脱せざるを得なくなった。彼の仇を討つために戦うことも、仲間とともに死ぬことももうできなくなった。彼に想いを告げておけばよかった……今でも思うわ。悔しくて仕方がない……。リザ。あなたにはそんな想いをして欲しくないの」

 

 

 

じっとアリスの話に耳を傾けていたリザが、涙に濡れた瞳で見上げた。

 

 

「シシィがもどれば、しっかり話して想いを告げなさい。調査兵団が好きじゃなくても、シシィのことは好きなのでしょう?」

 

 

リザは少し躊躇った後、しっかりとひとつ頷いた。

 

 

アリスはその小さな体をぎゅっと抱きしめてやる。

 

 

アリスがリザを引き取ってからまだ一年と経たない。父子家庭で育ったリザの父親は、調査兵だった。

 

 

幼い頃から英雄としての誇りをリザに説き続けた父親を、彼女はどんな気持ちで送り出していたのか。

 

 

聞かずともその辛さは、彼女の調査兵嫌いに表れている。

 

「英雄気取りの勘違い野郎」。

 

 

リザが罵りに使う調査兵団への悪口である。

 

 

 

どうか。

 

 

どうか、神様。

 

 

 

 

あの子たちに神の加護があらんことを。どうか、この哀れな女の子の想いびとたちが死地から戻ってきますように。

 

 

 

アリスは窓の外の朝日を見ながら、切に彼らの無事を祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十二章 平穏な日常・ふたり

ハンジは人の気持ちの機微に疎い方ではない。むしろ人間観察は得意中の得意であった。

 

 

だから、その三人の微妙な距離感にいち早く気づいていた。

 

 

 

その三人とは、新団長とその副官、そして新たな役職として設けられた兵士長である。副官の名前は変わったが、それでも彼らは既に一年以上を共にしている戦友である。

 

 

そんな彼らの変化に気づいたハンジは、そのことを部下のモブリットに話してみたが、「そういうことには首を突っ込んではいけません」と即座にたしなめなれた。

 

 

ミケにも相談してみたが、彼はお得意の鼻を少し効かせた後、「……俺は何も問題に思わない」と言った。

 

 

よくよく聞いてみると、どうにもミケの鼻曰く、副官と兵士長はそういう関係になっている可能性がある、と。団長の様子がおかしいとすれば、副官と近しい関係にある団長が、兵士長に遠慮しているだけだろうと。

 

 

「え?でもリヴァイ、この前、自分に恋人はいないって飲みの席で言ってなかった?」

 

 

「なにそれ!?じゃあ身体だけの関係だってこと!?」

 

 

ハンジの問いに、それまでだんまりを決め込んでいたナナバが突然声を荒げた。

 

 

「ナナバ……。全て俺の憶測だ。そうと決まったわけじゃない」

 

 

「でも!ミケの鼻の精度は確実だ!そのミケが、あの二人が肉体関係にあるって告げてるんだ。にもかかわらず、男はそれを否定する。なら、それは、そういうことじゃないか!!」

 

 

 

「「肉体関係って……」」

 

 

 

さらに荒ぶったナナバに、思わずミケとハンジは突っ込んだ。

 

 

「まあ、いい年した大人同士だし、そういうのもこの兵団じゃ少なくないでしょう?任務に支障をきたさないかぎり、個人の自由でしょ」

 

 

呆気なく言ったハンジに、ナナバは血相を変えて彼女の顔をぺちぺちと手のひらで叩いた。

 

 

「ハンジ?!まさかあんたもそんな相手がいるとか言わないだろ!?いくら命短し調査兵とは言え、そんな爛れた関係、私は許さないよ!」

 

 

珍しく食い下がるナナバに、ハンジはえー?と首をかしげた。これはハンジがそういう関係を持っているということではなく、ハンジにあまりそういうことに関心がないために生じている誤差であろう、とミケはナナバをとめた。

 

 

「明日は壁外調査だ。ナナバ、あまり余計な詮索はするな。それにリヴァイは真面目で潔癖な男だ。単なる遊びというわけでもないだろう」

 

 

「まあ……そうだろうけど」

 

 

ふぅむ、とハンジはうなる。

 

 

「でもさぁ、団長の副官と、兵団No.2の兵士長がデキてるなんて、結構なスキャンダルだよね。いざという時、お互いのために動くなんて真似、しなきゃいいんだけどさ」

 

 

ハンジはお茶をズズズっとすすった。その感想に、ミケとナナバはうう〜ん、と唸った。

 

 

どちらかというと、そちらの方が問題に感じたのは、皆一致したようだった。

 

 

 

 

 

 

 

「これはエルヴィンに。そっちはリザに」

 

 

シガンシナ区の街の中。数少ない本屋の中で、いくつもの本を手にとっては側の男の手に重ねていっているのは、ハンジたちの話題の中心になっていた副官たる女だった。

 

 

一年前より少し伸びた髪は、女性らしくふわりと踊るものの、その視線は兵士らしく、否、研究者らしく鋭く研ぎ澄まされていた。

 

 

白いシャツにハイウェストの青いロングスカートを翻す姿は、まさに可愛らしい町娘だが、側の男の手に重ねられた本は10冊をゆうにこえている。

 

 

題名も『王都における水路の構造』、『拷問の由来とその方法』、『壁内宗教一覧』、『簡単美味しい3分クッキング』など。町娘らしい本は一冊だけ、リザに、と選ばれたそれだけだった。

 

 

「おい。まだ買うのか」

 

 

「あぁ〜……これもいいな。ハンジ気にいるかな?まあ、私が読んでもいいしな……」

 

 

その手には『巨人と仲良くなる方法』という本が握られている。それは禁書の類ではないのか、と荷物持ちのリヴァイは思うが、女は気にせず、「よし!これも買いで!!」と、リヴァイを見ることもせずに彼の手の中の本の山に積み上げた。

 

 

その視線はさらに他の本へと注がれている。

 

 

 

「お嬢さんは勉強家さんですねえ。この本なんてどうです?古い本ですが、貴重で……」

 

 

「へえ!100年前の王都の話ですか?うーん、どうだろう?中見せて頂いても?」

 

 

 

それからさらに数時間。彼女が満足したときには、すっかり太陽が傾いて夕暮れ時となっていた。

 

 

 

 

リヴァイは大きくため息をついて、隣でほくほくと嬉しそうに笑う女にちらりと視線をやった。

 

 

昔、一緒に暮らしたことのある男が、「女の買い物は無駄に長ぇ。だが、それを乗り越えてやらなけりゃ男としてクソだ。ヤリたきゃ耐えろ。クソになりたくなきゃ耐えろ。それしか男に選べる道はねぇ」と訳のわからぬ持論を展開していたのを、今更ながらに思い出した。

 

まさに、その通りだとげっそりとする。

 

 

「楽しかったか」

 

 

両脇に大量の本を抱えてリヴァイは問うた。女は嬉しそうに振り返り、「こんなにいっぺんに買えたのはあなたが一緒に来てくれたからだ!ほんとにありがとう!!」と無邪気に笑うものだから、まあ、悪くないか、とリヴァイはため息をついた。

 

 

「今日のお礼にご飯でもどう?おごるよ!」

 

 

「いや。今日は帰ろう。明日は早い」

 

 

兵舎で食事を済ませて、今日はなるべく早く身体を休めるべきだというリヴァイの提言に、女も大人しく同意した。

 

 

「お前、いつも調査前の休みは本屋に行くのか」

 

 

調査の一日前は調整日として、休暇が遠征部隊には与えられる。死地へと向かう前日をどう過ごすかは個人によって異なるが、多くの兵士は身内に会ったり、娼館に出向いたり、恋人と過ごす。最後の晩餐とばかりに高価な食事をとるものもいれば、いつも通り仕事をこなす者もいる。

 

 

リヴァイも後者のそれで、残った仕事をするか、もしくはいつもの調整日同様、思う存分、兵舎の掃除を行なっていた。そういえば、シグリとして兵舎にいた頃の女は、いつもどこかに出かけていたが、まさか本屋だったとは想像もしていなかった。

 

 

「だって、せっかくの調整日だから、新しい本を見に行きたいし……。それに、本の続きが気になって、「絶対生きて帰ってやる!」ってなるでしょう?」

 

 

女の言葉を聞いてリヴァイは絶句した。ということはこの女、調査前は休みを取るどころかみっちり読書で夜を過ごしているということだ。本の虫であるエルヴィンやハンジですら調査前は、しっかり休息を取っているというのに。

 

 

「帰るぞ」

 

 

今日はしっかり休息を取らせよう。本の中身に想いを馳せる女を横目に、兵士長は心に誓った。

 

 

 

「おい!お前ら、待てよ!」

 

 

「おい、面倒くせえ!お前ら逃げるぞ!」

 

 

リヴァイが抱える本の束から、一冊特に気になっているのであろう本を掠め取り、読みながら歩き出した女に、リヴァイが声をかけようとしたとき。

 

 

曲がり角の向こうから、子供たちの切羽詰まったような声が聞こえた。リヴァイは女の手を引こうとしたが、いかんせん両手は本に塞がれている。

 

 

危ない、と声をかけたときには遅かった。

 

 

 

彼女は曲がり角から飛び出してきた三人組の少年たちにぶつかり、盛大に本を投げ出して尻餅をついてしまった。

 

 

少年たちはそのまま走り去っていく。

 

 

「おい!待てこの野郎!!」

 

 

「エレン!待って!!」

 

 

 

彼女が立ち上がろうとしたとき、さらに続いて走ってきた少年と少女の影に驚き、二度目の尻餅をつく。

 

 

 

兵士らしからぬ、すっとぼけたこけ方に、リヴァイは呆れた。前から薄々感づいていたが、この女は兵士としての役割を脱ぎ捨てた途端、やけにぼうっとして鈍臭くなる。

 

 

リヴァイが声をかけようと近づいたとき、彼より早く女に手を差し出したのは、走り去った少年たちと同年代の小柄な子どもであった。

 

 

 

「ごめんなさい、お姉さん!お怪我はないですか?!」

 

 

リヴァイと彼女が見やれば、少々汚れた粗末な服を身にまとった、金髪碧眼の10歳くらいの少年であった。彼は困ったような気弱な表情で、彼女に小さな手を差し伸べている。

 

 

女はにこりと笑って、その小さな手をとって立ち上がった。

 

 

 

「いいえ。こちらこそよそ見していたから。ありがとう」

 

 

「いえ……。あ!この本!!」

 

 

「ん?」

 

 

 

少年が彼女の取り落とした本を拾い上げて、思わずといった風に大きな声を出した。

 

彼が大きな青い目を輝かせて見ているのは、その本の題名である。

 

 

 

『壁外調査とその成果』

 

 

 

「……気になるの?」

 

 

「あ、いえ!すみません!ごめんなさい!」

 

 

本を彼女へと差し出した少年の手が、少しだけ震えている。ふむ、と女は少し思案するように頷いた。

 

 

リヴァイは少しだけ、嫌な予感を覚える。

 

 

 

「それ、君にあげるよ」

 

 

「は?!」

 

 

やはり、とリヴァイはそのやり取りを後ろで見ながらため息をついた。

 

 

「いや、今日はたくさん買っちゃったし、全部読み切れるかわかんないからさ。せっかくだし興味があるなら、君に読んでもらった方が本も幸せかな?って……。あぁ……迷惑かな?」

 

 

 

リヴァイは後ろで、迷惑だろう、と間髪入れずに心の中で突っ込んだ。見ず知らずの人間から何かをもらうことほど恐ろしいものはないと、地下街育ちのリヴァイは思う。

 

 

しかし、予想に反してその子どもは期待にその空色の瞳を驚くほど輝かせていた。

 

 

「え、あ、でも!高価なものだし、僕はお金持ってないし」

 

 

「君の名前は?」

 

 

「え?」

 

 

「君の名前を教えてくれよ。未来の研究者?それとも調査兵かな?有望な人材の名前を私に是非教えて!それと交換にこの本をあげるよ」

 

 

 

女は満面の笑みで少しだけ身を屈めて少年に言った。ちらりとリヴァイが女を見れば、やはり。少年と変わらぬほどきらきらと目を輝かせていた。

 

 

 

「あ、アルミン・アルレルトです」

 

 

「アルミン!綺麗な響きの名前だね!よく似合ってる。未来の希望の名前をありがとう。はい。これは貴方に」

 

 

 

少年は、手にした本と女の顔を何度も見比べて、高揚した子どもらしい頬を赤くして頷いた。

 

 

「ありがとうございます!」

 

 

「うん!私の名前はクシェル。また、縁があればその本の感想聞かせてよ」

 

 

 

笑って、彼に手を振って、意気揚々と彼女は兵舎への道を行く。

 

 

 

「名前教えちまったら、交換になんねえだろうが……」

 

 

リヴァイが言ったが、彼女は何も聞いてなかったようで、「ん?」と振り返った。

 

 

シガンシナの街を色付ける夕焼けに、彼女の黒曜石の瞳が赤く反射して、リヴァイを見据える。

 

彼はまあ、いいか、とため息をついて、その女の後ろをついていった。

 

 

 

 

 

 

 

「ハンジ!怪しい本見つけたよ!」

 

 

噂をすればなんとやら。食事をしながら、二人の話をしていたハンジとナナバ、そしてミケのもとに、私服姿の二人が食堂へと入ってきた。

 

 

満面の笑顔のクシェルの手には一冊の本が。後ろから付いてくるリヴァイの両手には大量の本が抱えられていた。

 

 

「おうおう。なあに。今日はデートだったの?」

 

 

ナナバが胡乱げにリヴァイに向かって問えば、女の方が「そうなんだよ。本屋さんの買い出しに付き合ってもらったんだ」と言いながら、本をハンジに差し出した。

 

 

 

『巨人と仲良くなる方法』

 

 

 

その本の題名を一目見て、ハンジはふーう、と奇声を上げた後、「何だいこれ!怪しい!!」と嬉しそうに言った。

 

 

「荷物持ちか」

 

 

「荷物持ちだ」

 

 

ミケが問えば、短くリヴァイは頷いて、本の山を机の上に置いてミケの隣にどかりと座った。厳しい訓練には全く表情を変えない男が、やけに疲れていた。

 

 

 

「おい、ハンジ、クシェル。お前ら今日それ読むなよ。飯食ったらクソして寝ろ」

 

 

クシェルは一日中付き合わせた負い目もあってか、リヴァイの言う通りあっさりと本を諦めてハンジと共に食堂を出た。

 

 

「いいの?」

 

 

ナナバが問えば、リヴァイは疲れたように言った。

 

 

「ハンジのとこには夜になればモブリットが様子を見にいくだろう。さすがに、ハンジも調査前にクシェルと徹夜するバカじゃねえはずだ」

 

 

モブリットは、ハンジのブレーキとしてはなかなか有効だ。

 

 

「……男としては、我慢して付き合ったぶん、見返りを求めたくなるもんだと思うが?」

 

 

スン、と匂いをかいで、今度はミケが仕掛けた。リヴァイは二人の探りにため息をつきながら、嘘をついても仕方がないと素直に答えた。

 

 

「そりゃあな。ヤリたきゃ耐えろと言うしな」

 

 

「おいリヴァイ!」

 

 

「だが、団長付きの副官殿を使い物にならなくするわけにはいかねえだろ」

 

 

 

声を荒げたナナバに、リヴァイが言う。

 

 

 

「あいつにとって何より大事なのはエルヴィンだ。それは俺も同じだ」

 

 

ミケとナナバは、黙ってその続きを促す。

 

 

「要は、俺たちは調査兵だってことだ。エルヴィンが前にいる以上、命の優先順位は決まってる。エルヴィンが優先されるべきた。あいつでも俺でもない。……お前らもそうだろう?」

 

 

「……まあ、それには違いないけどね。クシェルとは……いや、クシェルのこと、あんたはどう思ってるの?」

 

 

 

リヴァイは細い三白眼をさらに細めた。刃の色の瞳は、鋭さを失っていない。

 

 

 

「仲間だろう」

 

 

「肉体関係はあるのに?身体だけの関係?」

 

 

ナナバの明け透けな問いに、ミケはたしなめるように彼女を呼んだが、ナナバは引かない。

 

彼女は彼女なりに、クシェルのことを思っている。それ故に、リヴァイとの関係性には口を挟まずにはいられなかった。ナナバは彼女の情の深さを知っている。今の彼女が、リヴァイを今までとは異なる目で見ていることは、ナナバにとっては明らかだった。

 

だからこそ。

 

こういうとき、傷つくのは圧倒的に女性が多いのだと、ナナバは思っていた。ミケに言わせれば、どちらも傷つくものだが、妊娠のリスクなどを踏まえれば、やはり女性の負担の方が大きいのだろう。

 

 

 

「……お前が言う身体だけの関係ってのがどんなものか俺は知らねえがな。未来を共に生きる約束をするのが恋人関係だとするなら、俺はそんなもんは持てねえだろうな」

 

 

少しだけ思案して、リヴァイはさらに続けた。

 

 

「別にそういう関係になりましょうってなったわけでもねえ。専属契約したわけでもねえ。忙しくなったり、そんな立場でなくなったり、あいつに他の男ができれば関係はなくなる。そんな程度だ」

 

 

「……それを世間一般では身体だけの関係性って言うんだよ」

 

 

「オイオイオイオイ、ナナバよ。俺はあいつを孕ませて捨てるようなことはしねえよ。それは兵団にとっても大損害だろ?責任は負うつもりだ。だが、未来は約束できない。それだけだ」

 

 

「ナナバ。もう辞めろ。リヴァイ。すまなかったな。あいつは……クシェルは俺たちにとっても大事な友人だ。心配だったんだが、杞憂だったな。お前があいつの相手でよかった」

 

 

ミケがしびれを切らしてナナバをとめて、リヴァイに言った。リヴァイは、いや、と首を横に振って、そのまま本を抱えて食堂を出て言った。

 

 

後に残ったのは、少々不服そうな顔をしたナナバと、その表情に思わず笑ったミケの二人だった。

 

 

「笑うことないだろう」

 

 

「いや、すまん。……ナナバ、大丈夫だきっと。心配することはない」

 

 

ナナバは少しだけ思案した後、まあ、と頷いた。

 

 

「なんとなく、リヴァイが言わんとしていることは分かるつもりだよ……」

 

 

うん、とミケも頷く。明日には死んでいるかもしれない。そんな生き方を選んだのだ。それはナナバもミケも、リヴァイと変わらない。

 

 

そういえば、とミケは思い出す。

 

 

「あいつの名前。リヴァイがつけたらしいな」

 

 

「クシェル?」

 

 

「そうだ。確か……リヴァイの幼い頃に亡くなった母親の名前だそうだ」

 

 

 

ミケはその事実を「絶対に誰にも言うな」と睨みつけてきながら口にした男の顔を思い出した。この事実ばかりは、エルヴィンもハンジも、もちろん名付けられた当の本人も知らない。

 

 

マザコンだとか何とか言われるに決まっている、とリヴァイは言っていたが……。

 

 

ナナバは、その秘密を聞いて、驚いたように口を大きく開けて、ついには笑い出した。

 

 

「なあに、それ!リヴァイのやつ……それって、ほんとに……!?」

 

 

「誰にも話すなよ」

 

 

「わかってるよ!ああ、なにリヴァイったら……」

 

 

ナナバは嬉しそうに笑った後、幸せそうに目を細めた。

 

 

「まるで、「愛」みたいだね。身体だけの関係性なんて、酷いこと言っちゃったな」

 

 

 

ふふふ、とナナバは笑った。ミケはその柔らかい笑顔を見ながら、うん、と頷く。

 

 

 

明日をも知れぬ命であることは確かだ。リヴァイもクシェルもまた、これから愛だの恋だの言っていられない立場になっていくことは確かだろう。

 

 

そんな戦場のなかでも、ほんの少し翼を休めるひと時があってもいいとミケは考えている。

 

 

 

どうか願わくば、あの二人が、お互いにそうであるようにと、ミケは不器用な友人の二人を思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次の第十三章の次はエピローグです。

完結までもうあと少し…


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第十三章 シガンシナ陥落

 

マリア内地へと繋がる門扉が音を上げて解放される。

 

 

シガンシナ区の街並みを後ろに、住民たちが遠巻きに見守る中、エルヴィン団長率いる調査兵団は初めての壁外調査から戻ったその足で、内地へと向かっていた。

 

 

壁外調査では決して死者はゼロではなかった。だが、その数は今までの兵団史上最も少なく、初めての壁外拠点も設置することに成功した。その快挙はまさに初めての勝利とも言えた。

 

 

帰還の際に、今までにない期待感と高揚感が兵士たちのなかにしっかりとあった。住人たちの罵倒も、この日ばかりは彼らの心を傷つけなかった。

 

マリア内地へ行軍を進めた際、調査兵団はその兵団旗をいくつか大きく掲げた。

 

 

風になびくその自由の翼に、英雄たちは行軍していく。

 

 

「エルヴィン団長。ガスと刃の補充はどうしましょう」

 

 

先頭を行く金色の団長に、後ろで控えていた黒髪の女が問う。エルヴィンは少し思案した後、前列から順に補給しながら進むことを支持した。内地の兵営へと一旦帰還して、その後、さらに内地へと進むことになるが、限りある補給物資は使うべきと判断した。急を要することはないため、行軍しながらの補給で問題はないだろう。

 

 

「こんな内地で補給の意味はねえと思うがな」

 

 

彼の隣で行軍していたリヴァイの呟きに、エルヴィンは前を見据えたまま、「有事の際のためだ」と言った。

 

 

昨年の門扉解放による巨人の侵入は、エルヴィンを含めた数人の調査兵に危機意識を募らせた。

 

 

壁外ならまだしも、壁の中にいるときの気の緩みや、有事の際の動き方は今までまったく考慮されてこなかった。エルヴィンはそれに危機感を覚え、壁内であってもある程度の緊張感と、備えをするようにと兵団内の教育をし直していたところである。

 

駐屯兵団もそれは同じであったが、調査兵団ほど危機意識は伝達していないらしく、見張りはきつくなったものの、昼間から酒を飲む兵士がいなくなることはなかった。

 

 

 

 

兵団旗を高らかにあげた、気狂いの英雄たちの行軍がマリア内地を進む。

 

 

 

その報せが、駐屯兵の早馬にてエルヴィンへと告げられたのは、もうすぐマリア内地の兵営へと着くという頃合いだった。

 

 

 

 

「シガンシナ区の門扉と、ウォールマリア内地の門扉が巨人によって破壊された!!巨人多数襲来!!ウォールマリアは放棄される!!調査兵団は住民の避難へとまわってくれ!!」

 

 

 

血に塗れた薔薇の紋章のマントが、緊急事態を知らせていた。

 

 

 

 

 

 

「エルヴィン!先遣隊を出せ!」

 

 

いち早く反応したリヴァイが馬の首を返して、短く叫んだ。数人、彼と同様、先遣隊を申し出る。

 

 

エルヴィンはさらにハンジ・ゾエの班も加えて、先遣隊としてシガンシナ区へと向かわせる指示を下した。

 

 

 

「エルヴィン!私も先遣隊へ!!」

 

 

 

言ったのは、彼の副官であった。黒い双眸が不安に揺れている。一瞬、エルヴィンは黙したが、「わかった。リヴァイの指揮に従え」と許可を出す。

 

 

 

その指示が降りるや否や、リヴァイとハンジ率いる先遣隊は全速力で馬を駆けてシガンシナ区へと向かった。

 

 

 

「まさか……壁が破られるなんて……」

 

 

 

 

兵士の呟きは、団長の指示の声にかき消されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

調査兵団の先遣隊がシガンシナ区の壁付近へと近づいた頃、彼らはようやく数体の巨人を目視した。

 

 

川に浮かぶ大型船には、シガンシナ区からの避難民たちが所狭しと乗船しているが、乗り切らない者たちも大勢いた。

 

避難が間に合っていないことは誰の目にも明らかだったが、マリア内地へと続く門扉はぽっかり穴を開けており、そこから何体もの巨人が歩いて来ていた。

 

 

絶望とは、今この時を指すのだろう。副官である女は舌打ちしながら思った。

 

 

「ハンジ!お前は船に向かう巨人を足止めしろ!俺の班はマリア門扉付近に行く!」

 

 

「了解!」

 

 

リヴァイによる短い指示に、ハンジ率いる十名近い兵士たちが逸れて川付近へと猛進していく。

 

 

「クシェル!!」

 

 

 

リヴァイの声が女の、新たな名前を呼んだ。

 

は、と我に返った女は指示を仰ぐ。

 

 

 

「お前らはシガンシナ区へ入って、住民の避難状況を確認しろ!!無理はするな!」

 

 

「了解!!」

 

 

リヴァイ率いる班の援護をうけて、クシェル率いる班員たちは、壁付近まで馬で近づき、アンカーを放って、壁を超えた。

 

 

 

鳶のような速さで50メートルもの壁を飛び越えた彼らの視界には、変わり果てたシガンシナの街並みが入って来た。

 

 

整然と整えられた街並みのなかに、破壊された壁の破片と思わしき岩がそこかしこに家屋を潰している。

 

ざっと目視出来ただけで巨人の数は数十体にも及んでいる。

 

 

「……もう、こんなに……!!」

 

 

地獄とは、このことを言うはずだ。つい数時間前までは平穏を保っていたシガンシナが、今や巨人に占拠されている。

 

 

家屋のところどころに、夥しい血痕の跡がある。

 

 

ぎりり、と唇を噛み締めて、彼女は叫んだ。

 

 

 

「二手に分かれる!三班は東の壁沿いに被害状況を確認しろ!助けられる者は助けろ!指揮はエーミールに任せる!二班は西だ!私に続け!!」

 

 

 

西の壁沿いの歓楽街。そこには、彼女の数少ない居場所がある。

 

 

アリスとリザの店だ。

 

 

壁沿いを飛びながら、班員とともに街並みを目配せする。

 

 

人々の叫び声が聞こえてもおかしくないが、シガンシナの街中は不気味に静まり返っている。聞こえるのは、巨人どもの足音と、時折、ぞっとするような骨を噛み砕く音である。

 

何度も壁の外へ出ているはずの彼女たちにも、生理的な恐怖が襲う。

 

 

クシェルは前方の歓楽街の中に巨人を見つけ、恐怖を追い払うように指示を出した。

 

 

「前方、10メートル級一体!ドミニク!援護しろ!」

 

 

「はっ!!」

 

 

 

背の高い屈強な兵士が一人、髪の長いその巨人の気を引きつける。その隙に、クシェルが背後よりうなじを削いだ。

 

 

 

「お見事です!」

 

 

「周囲に生存者がいないか確認しろ!」

 

 

 

目視出来た範囲ではこの付近に数体の巨人が向かっていた。

 

 

つまり、人間がいる可能性がある。危険はあるが、街中での立体機動は調査兵にとっては幾分有利である。まだ戦えると判断して、クシェルは生存者がいないか声を張り上げた。

 

 

 

「誰か!!生存者はいないか!!誰か!!いないのか!?」

 

 

 

家屋の壁には血がこびりついている。人の気配はない。クシェルは、いつもの見慣れた道を走り、アリスの店へと向かった。

 

 

「アリス!リザ!いないのか!?」

 

 

 

「副官!危ない!!」

 

 

 

ついてきていた部下の声に、思わず飛べば、間一髪5メートル級の巨人が彼女のいた場所に飛び込んで来ていた。家屋をなぎ払いながら倒れるその巨体に、言いようのない怒りがこみ上げて、彼女は飛んだ勢いを生かして、巨人にアンカーを放って、その無防備にさらされたうなじを削いだ。

 

 

が、着地に失敗して、転げ落ちる。遠くで部下の声が聞こえる。早く立ち上がらなくては。

 

 

そう、顔を上げた先に、人間の手首が落ちていて思わず小さな悲鳴を上げた。

 

 

 

男の手首のようで、筋肉質な手が、血の海の中に転がっている。流血量からして、手の持ち主は生きてはいないだろうと思いながら身体を起こして、その手首の傷跡に目を奪われた。

 

 

 

ーー壁外調査のときに怪我をしてね。

 

 

 

記憶の中のアリスの手首の、深い切り傷。

 

そして、その目の前の男の手首には、傷と、そして丁寧に赤く色付けられた爪。

 

 

 

まさか。まさか。そんな。

 

 

 

ガタリと、店の扉の開閉の音がして、クシェルが視線をあげたそこには、3メートル級の巨人が彼女をみつめながら、食事をしている姿があった。

 

 

 

食い散らかして、口から落ちたそれは、人間の胸から上の上半身だった。

 

 

 

その恐怖に引きつった死体の醜い顔には覚えはなかったが、その綺麗なブロンドの長い髪には、嫌という程見覚えがあった。

 

 

 

「リ、ザ…………」

 

 

 

 

その時の記憶は、彼女にはあまりない。

 

 

 

 

気づけば、彼女はうなじを削いだ巨人の上で何度も何度もその刃を蒸発していく体に突きつけていた。

 

 

 

蒸発していくその醜い骨が視界に入った時、ようやく我に返った。

 

 

 

「副官!!この付近には生存者はいませんでした!うっ……!」

 

 

 

部下が言葉に詰まったのは、食いちぎられた死体を目にしたからではない。蒸発しない血を頭から被った上官の鬼気迫る姿に、思わず絶句したのだ。

 

 

 

クシェルは顔を外套で少し拭った後、エーミールの班と合流することを指示した。

 

 

 

 

 

 



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第十三章 シガンシナ陥落 二

彼らが壁の上で数人の駐屯兵を保護しているエーミールの班に合流したのは、それからほんの数分後であった。

 

 

 

「クシェル副官。もう生存者は……絶望的です。我々も、刃もガスも少なくなっています」

 

 

 

エーミールが言う。まさに、目の前で繰り広げられているのは地獄絵図である。撤退を申請する部下であったが、保護された数人の駐屯兵が、まだ負傷した仲間が街の中央で孤立していることを伝えた。

 

 

「皆、ガスの残量は?」

 

 

 

問えば、半数の者が残り半分以下。残りの半数の者はほとんど残っていないと言うことだった。

 

 

クシェルは自分のガスの残量を確認して、

 

 

「ガスが残っている者は私と負傷兵の救援に向かう。それ以外の者はマリア内地へ向かい、護送用の馬車と馬を確保しろ。あちらでは既にエルヴィン団長たちが到着しているはずだ」

 

 

 

「しかし、このままでは、我々も……」

 

 

 

絶望に打ちひしがれる部下たちは、彼女の指示に従おうとしない。

 

 

血まみれのブロンド。食いちぎられた手首のカケラ。

 

 

クシェルもまた、恐怖と怒りとに苛まれて足を動かすことができないでいた。

 

 

ーー怖いのか。

 

 

ああ、怖い。即座に思った。怖い。憎い。

 

憎い。憎い。

 

 

どうして。どうして、私たちは奴らに奪われ続けるのか。

 

 

どうして。

 

 

噛み締めた奥歯から血の味がにじむ。地獄の底で似つかわしくない、穏やかな風が彼女の首をなぜた。

 

 

 

その爽やかな風に振り返れば、壁外の世界が橙色に染まっているのが見えた。

 

 

夕焼けが荘厳なまでに美しい。地平の向こうから、何体もの巨人がこちらにむかっているのが見えた。

 

 

巨人の姿すらちっぽけに見えるほど、外の世界は広く、美しく輝いていた。

 

 

ーーいつか、あの地平線の向こうに広がる景色を見に行こう。

 

 

男の声が、耳の奥で聞こえた気がした。

 

 

そうだ。あれは、イワンが初めての壁外調査前に震える私に、かけてくれた言葉だった。

 

 

地獄ばかりの壁外の向こうに広がる未知の世界。

 

 

それを夢見たのは、自由の翼を冠した者たちだった。

 

 

 

そうだ。自由の翼だ。

 

 

 

「総員!立ち上がれ!!今、我々調査兵団が立ち向かわなければ助かる命も助からない!」

 

 

 

「く、クシェル副官?」

 

 

 

「今こそ我々の命を使うべき時だ!命を賭して住民を守る任務を全うしている駐屯兵を見捨てるな!!」

 

 

 

エーミールたちがはっと表情を変えた。

 

 

 

「今こそだ!!心臓を捧げよ!!」

 

 

 

クシェルの敬礼に、エーミールたちが続く。それを確認して、クシェルは壁から飛び降りた。ガスは半分。まだ飛べる。

 

 

 

落ちるスピードを利用して、街の上を移動していく。街の中央、巨人が集まりつつある場所が、おそらくそうだ。

 

 

 

「前方三体!それぞれに二人つけ!私は右の15メートルをやる!」

 

 

 

広場にいる巨人は三体。目視できるそれを削げば。

 

 

彼女の指示は的確だった。

 

 

 

おまけに広場の周囲にあった塔のおかげで、戦い慣れた彼らにとって、獲物に気を取られた巨人の討伐はさほど難しいものではなかった。

 

 

しかし、これ以上の戦闘は避けなければ。最後の刃が折れたのを見ながら、クシェルは思った。

 

 

広場に降り立てば、そこには十数名の負傷兵が固まっていた。調査兵団5名の姿に、生きる希望を失っていた彼らに喜色が浮かんだ。

 

 

「飛べる者はいない、か。一人ずつ抱えていくしかない。ひとまずは壁の上へ避難させよう。一人は護衛のためにここに残る」

 

 

「副官。俺が残ります」

 

 

言ったのはエーミールだった。勇敢な彼の申し出に、彼女は微笑んだ。

 

 

「いや、私が残る」

 

 

「しかし、ここは危険です」

 

 

「怪我人を抱えて飛ぶのも危険だ。下手をすれば良い餌になる。彼らを抱えて飛ぶには私は力不足だ」

 

 

 

屈強な体つきの負傷兵を見て彼女は言った。負傷兵は男ばかりで、確かに女で細身のクシェルが抱えるには、少々荷が重い。

 

 

「刃を少しわけてくれ。最後の刃が折れたんだ」

 

 

「!!もちろんです!」

 

 

特に重症の兵士を先に抱えて、クシェルを置いて部下達が飛んでいく。

 

 

高台で見張りをすべきか、とクシェルがその場を離れようとしたとき、残存の負傷兵たちが礼を言った。

 

 

 

「ありがとう。あんたら調査兵が、あんなに強いと思わなかった。見捨てないでくれてありがとう」

 

 

 

クシェルは表情を変えず、少し思案するように黙り込んだ。幸運なことにまだ巨人は集まってきてはいない。しかし、数体同時に来れば、クシェル一人では決して対応できないことは明白だった。

 

 

「礼は助かってから言うべきだ。私もあんたたちを絶対に見捨てないとは言い切れない」

 

 

 

言い置いて、辺りを監視するために建物の上へと飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

エルヴィンができる限りの補給を終えて本隊を引き連れたときには、かなり多数の巨人がマリア内地とシガンシナの境界の門扉付近に群がっていた。

 

 

水路における住民の避難は一通り済んだらしい。桟橋には、船は一隻も残っていなかった。

 

 

しかし、陸にはまだ大勢のシガンシナの住民が取り残されている。

 

 

馬車などを使って陸路における避難を推し進めている駐屯兵を守るように、数名の自由の翼が飛翔するのが見えた。

 

 

 

「あれ何だ!?強い!!」

 

 

 

逃げ惑う住民と、駐屯兵が一人の調査兵の姿に釘付けになっている。

 

 

住民たちに群がろうとする巨人数体を、たった一人の男が、凄まじい速さで倒していく。

 

 

 

「なんだあれ、人間か?」

 

 

「人間だ……!あれは英雄だ!人類最強だ!!」

 

 

 

絶望のなか、その男の舞う姿が、人々に希望をもたらす。その様子を、エルヴィンは目の前で見た。

 

 

 

「おい、あれ!!門扉からも調査兵団が来るぞ!!」

 

 

 

駐屯兵の声に、エルヴィンは行軍を止める。

 

 

 

巨人の網を掻い潜って、馬車をひく馬の行軍がエルヴィンたちに向かって猛進していた。

 

 

その先頭を、黒髪の女が、兵団旗を掲げて走っている。

 

 

よくよく見れば、それはクシェル率いる先遣隊と、数人の駐屯兵だった。馬車の上には負傷している駐屯兵と、数人の民間人が乗っていた。

 

 

 

「自由の翼だ!!」

 

 

 

誰かが、叫んだその声は確かに希望に縋ろうとする色に満ちていた。

 

 

そんな声で調査兵が呼ばれるのを、エルヴィンは生まれて初めて耳にした。常に罵倒を浴びていた調査兵が、今まさにその力を求められている。

 

 

希望を体現したかのような動きで、休む暇なく次々に、英雄たる男は巨人を屠っていく。

 

 

その間を、まるで戦の女神のように、自由の翼を高らかにあげて兵士たちを鼓舞しながら行軍する女がいる。

 

 

 

エルヴィンは、その様に身体の血が高揚にざわめくのをはっきりと感じた。

 

 

 

ーー心臓を捧げよ。

 

 

 

その言葉が、彼らの口から聞こえた気がした。

 

 

 

 

「ミケ!先遣隊の援護に回れ!他の者は私に続け!避難は駐屯兵に任せ、我々は巨人の気を引く!!」

 

 

 

囮として、巨人たちの前に躍り出た調査兵団に、駐屯兵団の兵士たちは一様に声を上げた。

 

 

 

「調査兵団の働きを無駄にするな!住民の避難を急げ!!」

 

 

 

 

 

 

シガンシナ陥落。

 

 

それは、人類の敗北を決定づけた日のことを言う。この日を境に、人類はその活動領域をウォールローゼまで後退させた。

 

 

 

調査兵団はその日、住民の避難のために最前線に出たものの、壁外調査から戻ったばかりの、最も設備に乏しい状況下であったため、活動できたのはほんの僅かな時間に過ぎなかった。

 

 

 

皮肉にも、この日を境に、調査兵団への住民からの期待は一気に高まり、エルヴィン団長の果敢なる働きも評価された。

 

 

そしてこの日、一人で何体もの巨人を屠った兵士と、シガンシナに取り残された負傷兵と民間人を救った兵団旗を掲げた女性兵士の姿が、人類の間で英雄として伝説化された。

 

 

その伝説の下で、女兵士の身内が死んだことや、彼女が数人の負傷兵を見捨てたことは、兵団内の記録のみにとどまり、住民の間に知られることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ もしくは序章

エレン・イェーガーが団長室の扉をノックしたとき、中から出てきたのは、部屋の主人ではなく、その副官であった。

 

 

「あ、クシェル副官!!リヴァイ兵長からの報告書を、エルヴィン団長へお持ちいたしました!!」

 

 

短い黒髪の女性は、「ああ」と朗らかにその新兵に笑って、人差し指を口に添えて言った。

 

 

「申し訳ない。今、ちょっと……」

 

 

「リヴァイ兵長から、エルヴィン団長の指示を仰ぐように言われたのですが……出直した方がよろしいでしょうか!?」

 

 

大きな声で尋ねるエレンに、副官はしぃっとたしなめて、「声は落として」と彼を団長室の中へと招き入れた。

 

 

入室して、エレンは副官のその言葉の意図をようやく悟った。

 

 

「最近徹夜続きだったからね。少し休んでもらったんだ。こうなったらしばらくは起きないと思うけど、静かにね」

 

 

常に兵士の範たる厳格な態度のあの団長が、ソファにその逞しい身体を横たえて眠りに落ちていたのだ。

 

 

珍しい光景に、エレンはまじまじと見入ってしまった。

 

 

「報告書を。私で見れるものは見ておこう」

 

 

「はい!」

 

 

差し出された椅子に座り、今度は副官が報告書に目を通すのを見つめる。

 

変人揃いの調査兵団のなかでも、エレンには、この団長と副官の二名は幹部の中でも常識人の類に見えた。

 

調査兵団という厳しい集団をまとめ上げているだけあって、エルヴィン団長は、まさに兵士の中の兵士と、一目見てわかるほどの威厳を持っている。

 

そんな彼のとなりに常に控えているのは、この女性、クシェル副官であった。リヴァイ班の先輩方であるペトラやオルオ曰く、この線の細い一見頼りない風貌の女性兵士は、シガンシナ陥落時の英雄として名高い「戦女神」であるという。

 

 

 

リヴァイ兵長が人類最強として英雄化されたのと同様、彼女は放棄されたシガンシナから、取り残された負傷兵と民間人を救った女神様として神格化されているといっても過言ではない。

 

 

それを揶揄して、エレンの同期の慈悲深いらしい少女が「女神」と呼ばれることがあるが、もとはクシェル副官の通り名である。

 

 

人類最強が、イメージに反して粗暴で潔癖症、そして小柄であったのに対し、戦女神はそのイメージ通りであったとエレンたちは噂した。

 

 

美しく、慈悲深く、そして兵士としても強く優秀な女神。

 

 

審議所の一件の際、リヴァイ兵長にやられた傷を、まず真っ先に手当てしてくれたのはこの副官だった。手当ての最中に、探究心を滲ませていたハンジ分隊長とは異なり、ただ慈しむように触れてくれたこの副官の優しさは、あの時のエレンにはひどく身に染みた。

 

 

「ん?どうしたの?」

 

 

「あ!いえ!失礼いたしました!!」

 

 

咄嗟に敬礼をする。リヴァイ兵長ならば、すぐさま躾と称した拳が飛んできてもおかしくなかった。

 

 

しかし副官は少しだけ笑って、報告書を脇においてエレンに向き合った。

 

 

「エレン、リヴァイ班はもう慣れた?大変なことはない?」

 

 

労わるような笑みに、五年前に亡くした母を一瞬思い出し、エレンは恥ずかしさに少し顔を赤らめた。

 

 

 

「先輩方は優しく教えてくださいますし、問題ありません」

 

 

「……君の上官は厳しいだろう?大丈夫かい?」

 

 

「はっ!!厳しい方ですが、丁寧に教えてくださるので、大丈夫、です……」

 

 

古城での日々を思い出す。まだ配属されてから一週間も経っていないが、いまだあの掃除地獄から逃れられていない。掃除の未熟を、あの圧迫感ある上官に咎められることもまだまだ多い。

 

 

己の不甲斐なさにしゅん、と項垂れてしまったエレンに、クシェル副官は目を丸めて「頑張ってるんだねえ」と労ってくれた。

 

 

審議所の威勢はどこへやら。クシェルに言わせてみれば、「どんな躾をしてあの化け物を手なづけたのか」と彼の上官に呆れが出るばかりである。

 

 

「……あなたに課せることばかりで言えた義理じゃないけど、くれぐれも無理はしないでね」

 

 

「いえ!人類のためなら!これくらいどうってことありません!!」

 

 

 

 

「……ほう。これくらい、とは余裕だな、エレン」

 

 

 

 

元気よく答えたエレンの背後で、ここにはいないはずの上官の声がして、哀れな新兵はきゅう、と妙な声を出して飛び上がった。

 

 

「あれ?リヴァイ兵長。いつの間に」

 

 

「報告書を一枚渡し忘れてな。しかし、あれはなんだ」

 

 

鋭い三白眼が、咎めるようにソファの上の寝こけた団長を顎で指して言った。

 

 

「徹夜続きでお疲れなんです。しばらく休ませてあげてください」

 

 

「…………徹夜続き、か」

 

 

エレンは目の前の生きる伝説二名を前にして、高鳴る鼓動を表に出すまいと直立不動の姿勢を崩さない。

 

 

シガンシナ陥落前から兵団にいるこの二人もまた、何度も死地をくぐった旧知の仲であろうことは、想像に難くないが、こうして二人が話している場面を見るのはエレンは初めてであった。

 

 

団長を間に挟み、この三人が揃う場面は多いものの、両脇の二人が言葉を必要以上にかわすところは、先輩方もあまり見たことがないと言っていたので、てっきり仲があまり良くないのだと、エレンは勝手に想像していた。

 

 

だが、クシェル副官の、丁寧ではあるが、どこか気心知れた話し方からしても、決して仲が悪いというわけではなさそうだった。

 

 

 

「てめえもか、クシェル」

 

 

「はい?」

 

 

突然リヴァイ兵長から投げられた言葉に、副官は黒くて大きな瞳を白黒させた。まるで子どものような飾り気のない反応は、エレンに気安さを感じさせる。

 

 

「お前も徹夜続きなんだろう?そんな腑抜けたツラしやがって。本部はえらく忙しいらいしな」

 

 

「え?あ、そうですか?それは失礼しました」

 

 

己の頬をぶにぶにといじる副官は、エレンが見る限りは疲労の色はかけらも感じられない。

 

 

が、リヴァイ兵長はカツカツと踵を高らかに鳴らして彼女に近づき、その小さな頭をがしりと片手で鷲掴んだ。

 

 

「リヴァイ兵長!?」

 

 

さすがの行為にエレンも驚きを口にしたが、クシェル副官はさらに驚いたらしく、痛みと驚きの感情を妙な悲鳴で訴えていた。

 

 

「そんな状態で、今鎧や超大型が侵攻してきたらどうする?フラフラの状態で戦うってのか?体調管理は兵士の基本だろうが」

 

 

リヴァイ兵長は苛立った声で、みしみしと音がするのではないかと思うほど強く、副官の頭を握りながら、振り返ってソファの団長へ声をかけた。

 

 

「おいエルヴィン!そこどけ!お前は仮眠室で寝ろ!クシェルはそこで仮眠をとらせる」

 

 

その苛立った声に、眠っていたはずの団長は、堪え切れないといった風に、くすくすと笑いながら、ゆっくりと身体を起こした。

 

 

 

「エルヴィン団長?!起きてたんですか?せっかく寝てくれたのに!!」

 

 

 

悲壮な叫びを漏らしたのは頭を握り潰されかけている副官である。団長はソファに座って「いや、途中で起きてしまってね。すまない」と笑った。

 

 

 

「人払いをしておく。テメェらはしっかり休め。新兵に情けねぇところ見せてんじゃねえぞ」

 

 

 

リヴァイ兵長は、クシェルの頭から手を離し、その優しい手から報告書を奪い取り、「行くぞ、エレン」とエレンを連れて団長室を後にした。

 

 

 

どうやら、自分にはわからない関係が彼らにはあるらしい。エレンは上官の背中を見て、ふと思った。

 

 

その絆に、少しだけ羨望を覚えながら、孤独な化け物の子は、訓練へと戻っていった。

 

 

 

 

 

「気を使わせてしまったね、エルヴィン」

 

 

「せっかくの兵士長殿の心遣いだ。存分に休ませてもらおう。彼のいう通り、我々は少し休息が必要だ」

 

 

 

欠伸を噛み殺しながら、エルヴィンは立ち上がった。自分にかけられた毛布を手に取り、彼女へ礼を述べた。

 

 

「君もかなりしんどそうだ。悪いな。全く気づかなかった。ソファで大丈夫かい?気にしなければ、仮眠室のベッドで寝た方がいいと思うが」

 

 

「そんな濃い隈作った人に言われてもね……。ベッドはあなたが使って」

 

 

彼女はそう言いながら、執務室の奥にある仮眠室の扉まで、彼の後をついてきた。

 

 

ん?とエルヴィンが不思議に思って、小さな彼女を振り返ると、彼女は目ざとく、彼の懐の書類をするりと抜き取った。

 

 

「寝付きの悪い人は、一人で寝かせられません。ちゃんと寝るまでしっかり見張っておきますから、観念して仕事のことは一旦忘れて」

 

 

仮眠室で仕事をしようとしたエルヴィンは、困ったように笑って、「子どもじゃないんだが」と頬をかいた。

 

 

「子どもじゃないんだから、さっさと寝てください!」

 

 

叱りつける様は母のようだが、エルヴィンがちらりと見れば、やはり彼女の笑顔もかなり疲労が積もっているようだった。疲れていても笑うものだから、なかなか気づかれにくい。

 

 

しっかり見ておいてやるべきだな、と自分のことは棚上げにしてエルヴィンは、ベッドの中へするりと身を滑らせた。

 

クシェルはそのベッドの脇に椅子を持ってきて腰掛けた。

 

 

「……本当に寝るまで見張るつもりか?」

 

 

「前科があるからね。今日は観念しなさい。団長殿に倒れられたら困るんだから」

 

 

 

はは、とエルヴィンは笑った。こういう掛け合いも、もう幾度となく繰り返してきた。

 

 

「せっかくだから、一緒に寝るか?」

 

 

ちらりと布団を上げて誘えば、額をぺちりと叩かれた。

 

こんなやり取りももう何度目だろう。

 

 

 

「いい加減、リヴァイに嫉妬されるな」

 

 

「まさか。あれが?」

 

 

「あいつはあれで独占欲が強いと思うが。お前は自覚ないのか?」

 

 

さあ、とクシェルは首をかしげた。彼女の目尻が眠たそうに下がっている。

 

 

「リヴァイはあなたのことが大好きだからね。私が怒られることの方が多いよ」

 

 

「ほー。そうか」

 

 

 

答えるエルヴィンも、だいぶん意識が朦朧としている。数日ぶりの布団の威力はすごい。

 

 

 

「私もそう。あなたのこと大好きよ」

 

 

 

エルヴィンがぱちりと目を開けて見れば、彼女はすっかり瞼を閉じている。まだ眠ってはいないが、もう時間の問題だろう。寝ぼけて素が出ているのか。

 

 

言葉遣いも本来の彼女の、女性らしいものになっている。

 

 

 

「忘れないでね、エルヴィン。あなただけじゃないから。私も、この世界の答え合わせがしたいと思ってる、裏切り者だから」

 

 

 

ぼんやりとした思考の中、エルヴィンはその女性の顔を見つめる。

 

 

「人類のためじゃなくて、自分の私利私欲のために部下を死地に向かわせてるって?」

 

 

それは俺のことだ、とエルヴィンは思う。クシェルはそれにうん、と頷いた。

 

 

 

「忘れないでね。私も、あなたと同じよ。同じ、悪魔になるから……」

 

 

 

かくり、と首が傾く。言葉の続きは、要領の得ない音として夢の中へと消えていったようである。

 

 

 

ふぅ、とエルヴィンは大きくため息をついた。

 

 

 

彼女には、自分の力不足で知らずのうちに「父親殺し」の罪を背負わせた。

 

己の浅はかな欲のせいで、大切な人を失いながらも、いまだその欲にとらわれている。

 

 

そんな自分をさらけ出して、エルヴィンの孤独な罪悪感を癒そうとしてくれる彼女に、「まいったな……」とエルヴィンは頭を抱えた。

 

 

 

彼は重たい身体を起こしてベッドから抜け出し、椅子で眠ってしまった副官を抱き上げた。

 

 

そっとベッドに横たえてやる。あどけない無防備な寝顔に「まいったなぁ」と再度呟いた。

 

 

 

こんなに優しいから、どうにも彼女を側から離しがたくなるのだ。彼女がまるで新兵の女性のように、淡い恋心でもエルヴィンに持っていてくれれば、エルヴィンはすぐさま彼女を遠退けることができるのに。

 

 

ただ、妙なあたたかい優しさをたまにくれるだけだから、それに甘えて、ついつい副官の立場を彼女の定位置にしてしまう。

 

 

黒髪を撫でてやって、彼女を想う小男を思い出す。彼らの関係も、いまいちよくわからない。それこそ、惚れた腫れたの甘いだけの関係なら、即刻エルヴィンは二人の立場を考慮して、クシェルを異動させていただろう。

 

 

だが、どうにも殺伐とした雰囲気も、彼らの中にはある。だからこそ、信頼して仕事を頼めるのだが。

 

 

 

エルヴィンは、鈍くなってきた思考のまま、仮眠室のソファをずりずりとベッドの隣へと並べた。

 

 

 

たまに、この愛しい異邦人と眠ることくらい許されるだろう、と寝ぼけた頭で思い、ソファに横になった途端、事切れたように眠りについた。

 

 

 

 

起きてから、彼は再びその愛しい異邦人と、これまた敬愛する地下街の英雄を、無慈悲に死地へと送る算段を立てていく。

 

 

今度の壁外調査ではある程度の仲間が死ぬことになる。クシェルもまた、その頭数に入れる必要が出てきていた。運が良ければ助かる見込みはあるが、悪ければ彼女の命は切り捨てなければいけない。

 

 

そう、考えながら、エルヴィンは己の無慈悲さに失望も覚えながら眠りについた。

 

 

 

優しい風が窓から入り、並んで眠る団長と副官の、わずかな平穏な時間を包んでいく。

 

 

 

 

エルヴィン・スミスは知らない。

 

 

 

その異邦人や、地下街の英雄が、なぜ彼に命を預けて戦うのか。

 

 

殺伐として、命を捨てることも、捨てさせることも厭わないにもかかわらず。

 

 

それはまるで、愛にも似た、信頼ゆえであると。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




本作はこちらで完結です!

ここまで読んでくださった方、お気に入りに登録してくださった方、感想をくださった方、本当にありがとうございます!!


自己満足だけで、初めてこんなカタチで書き始めたので、なかなか読んでもらえることはないだろうと思っていましたが……。読んでくださった方がいれば、本当になみだなみだ!!


設定も原作からあえて変えたところもあったり、至らないところも多数あったかと思います。

今回、これを書こうと思ったのは、あのエルヴィン・スミスの生き方に心を掴まれてしまったから!彼の幸せとは何だろうとか色々考えた結果、彼と同じ罪を犯した人物を側に置いてやりたいと思ったところで、書き始めました。

ただ、彼を幸せにすることは叶わなんだ……!

リヴァイがメインになってしまった…笑


エルヴィンを書こうと思って書き始めたのに、エルヴィン書けなかったことや、シグリがちょっと良い子すぎたことが心残りです。

ただ、うっかり最後まで生き延びたエーミールは、自分の中では素敵な存在になりました。アルミンが出てきてくれたのも嬉しかった。誤算だらけの本作でしたが、この二つの誤算は、書く楽しみを味わわせてくれました。


本来は男性兵士を主人公にして、シグリは脇役にしようと考えていたのですが……。


また、書けたらいいなぁ。。


こんな、自己満足だらけのつまらぬ話にお付き合いくださった方がいらっしゃれば!まっこと感謝します!


では!ありがとうございましたー!!


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