俺のエルフが、チート魔術師で美少女で、そして元男な件について。 (主(ぬし))
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その1 エルフとの出会い

 元々は、Twitterにて、仮面之人さんという漫画家さんが呟いていた「チートTSエルフ」というツイートから着想を得て、ブログで細々と、かつ殴り書きを積み重ね、少しずつ書き連ねていたものでした。久しぶりに、オリジナルのTS小説を書くために頭を悩ませるという楽しさを味わえています。仮面之人さんに感謝です。
 また、今回、ド直球にはならない程度の、下半身ではなく背筋に来るようなエッチな描写に挑戦しています。なので、R-15のタグを付けさせて頂いています。とにかく、自分が書きたかったものを書いているつもりです。TS好きの同好や、そうではない方々にも、ビビッ!とくるようなものになっていれば幸いです。


 オレは、元は日本人の男子学生で、今はエルフの美少女をしている。

 ……誤解されないように先んじて言っておくが、別に望んでなったわけじゃない。ある日突然、死んだと思ったらこっちのファンタジーな世界に飛ばされていて、身体はエルフの少女となっていた。不可抗力だったんだ。

 転生してわけもわからないままに見知らぬ暗い森を歩いていると、のっけからおぞましい化物に追い掛け回された。言葉はまったく通じないし、それ以前に図体はでかいのに鳩並の知性も無さそうな、ひどい臭いの化物(グール)だった。慣れない身体の小さな歩幅ではあっという間に追い詰められ、あわや頭から丸齧りされそうになったところを急に現れた人間に助けられた。ぶんぶんと振り回す剣の腕は素人目にも下手糞な、くたびれた鎧を着込んだ同年代の少年だった。助かったと思いきや、そいつもやっぱり図体はでかいのに頭の中はすっからかんで、グール以上猿未満みたいな男だった。グール以上猿未満はカルと名乗った。カルには毎晩のように殺されかけた。比喩じゃない。物理的に、生命の危機を感じた。食われるかと思ったのもしばしば。……これは暗喩だ。詳しくは恥ずかしいから言わない。

 漫画のように、最初から異世界人たちと言葉が通じるようなご都合主義は無かったし、こっちの常識も文化も通じない。神様仏様から特別な能力が与えられたわけでもなく、エルフの肉体は非力なばかりで、おまけに人間からは崇められているどころか嫌われているときた。何より、そもそも性別が違う。男の時とは全然身体の作りが異なっているから勝手がわからないのに、一緒にいるカルは相変わらずグール以上猿未満だからちっとも役に立たない。エルフの少女となったオレの異世界転生物語は、チートを貰えるどころかハンデばっかりで、初っ端からひどい始まり方をした。

 それから今までの十数年間も、ろくな目に遭わなかった。ほとんどいい思い出なんてない。生きるために必死だった。逃げたり、追ったり、探したり、戦ったりと世界中を駆けずり回った。この手で、人も、殺してしまった。毛むくじゃらの背中に刃がスルッと吸い込まれていく奇妙で薄ら寒い感覚は未だにこの手と心に残っている。思い起こすだけで怖気が走るその経験は、だけど、カルにとっては珍しくもないものだった。殺人狂だからじゃない。オレを護るために、オレの代わりに、オレが負うべき重荷を背負ってくれていた。そうして日々大きくなっていく背中をオレはずっと見ていた。いつか追いつきたいと願い、いつか並びたいと努力して、今に至る。

 思い返せばあっという間のようで、元の世界で過ごした同じ年月より何倍も何十倍も何百倍も濃密な時間の積み重ねだった。本当に本当に、いろいろなことがあった。

 最近、定住する場所を得て、少し身の回りに余裕が生まれて、ふと思うようになった。もし、この世界に来ること無く元の世界で暮らしていたらどうなっていたのだろう、と。夜闇を恐れる必要もなく、命や身体を狙われる心配もなく、男の目線に怯えてビクつくこともない、明日や来週や来月や来年の予定を不安なく立てられる普通の日常……。それらを想像して、戻りたいかと自問する。

もちろん―――戻りたくなんてない(・・・・・・・・・)

だって、もう求めてないから。もう必要ない。 ()の世界はもうここだ。この温かい人肌の中。

私を腕に抱いて穏やかに眠る、このグール以上猿未満の大きな懐が、私にとって世界のすべて。

本当にひどい目に遭った。人を殺してしまったし、殺させてしまった。

毎晩のように殺されかけているし、食べられそうな思いもしてる。

だけど―――私は、この世界(ひと)を心から愛しています。

 

 

 

 

 

 俺の腕の中で眠るエルフの美少女は、人間に味方する唯一のエルフで、無敵の魔術師で、そしてなんと前世では男だったのだそうだ。彼―――いや、彼女(・・)と出会ったことで、田舎の一兵卒だった俺の人生は劇的に変わった。その顛末を手短にだがまとめておこうと思う。

 

 まず、俺の名はカルという。当時は名字なんて大層なものは持っていなかった。ただの“リヨー村に住むダールの孫でアルの息子のカル”だ。当時の俺は士官したての15歳。前年、俺が生まれる前から続く“人魔戦争”で兵士だった父親が死に、残った母親も病気で死んでしまい、小さな畑も疫病が蔓延して生きていけなくなった。村には食いざかりの男ガキを養う余裕はない。そんなわけで、俺は食うために仕方なく軍に入隊したわけだ。入ってみれば、似たような事情の奴らと型にはまったおざなりな訓練で半年ほどしごかれ、“図体がでかくて丈夫そうだ”という理由で早くも最前線に送られることになった。べっこう飴みたいに大量生産されたお粗末な剣と鎧を渡され、右も左もわからないまま教導基地から馬車に放り込まれた。最悪だった。生きるために軍に入ったのに、早速使い潰されようとしていたのだから。遠征の途中、俺が何日で死ぬかと互いの金属兜を賭ける上官の声を聞きながら、今は亡き父親に悪態をついていた。『“愛する者は死んでも護る”、それが我が家の家訓だ』と遺して去っていったが、アンタが戻らなかったせいでその家も潰えるぞ、と。

 

 山奥に分け入って数日、俺たちの部隊はエルフの死体に遭遇した。美しい顔立ちの男女が、かろうじてその顔立ちがわかる硬い頭部だけ残して食い尽くされていた。死にかけの魔族が死霊化した悪鬼(グール)の仕業だろう。しかし、エルフのために涙を流して墓を掘ってやるような高尚な奴はここにはいなかった。俺たち新兵は凄惨な死体に度肝を抜かれて狼狽えるばかり。「生きてりゃ娼館に売れたのになぁ」と下卑たことを漏らす下衆な兵士もいた。エルフに対する扱いはとても悪い。それもこれも、人間とエルフは互いに嫌い合っているからだ。

 不老長寿のエルフ族は自分たちを特別視していて、高飛車で排他的な種族として有名だ。人間と魔族───エルフからしたらどちらも下賤の者たち───の戦争には中立不干渉を謳っているものの、より自分たちに近い姿をしていて勢力も強い人間を疎んでいる。温厚だった先王の頃、同盟を結ぼうと王の特使が接触したことが何度かあったそうだが、首を横に振るどころか門前払いだったという。自分を嫌う奴を好きになれる物好きはあまりいないだろうし、そんなことが繰り返されれば人間の態度も硬化する。宥和を重んじていた先王が反乱で殺され人魔戦争が始まる頃には、戦争まで行かないまでも人間とエルフの間で小競り合いも何度か生じた。その際も、エルフは神聖の高い種族だから魔法が得意で、遠距離から火球やらなんやらで攻撃してくる。その火の雨を掻い潜って近づかなければならない人間側の被害ばかり当然大きくなるし、接近戦を定石とする人間にはエルフの戦い方が正々堂々としておらず卑怯に見える。そういう理由で、嫌われ者に祈りを捧げてやることもなく、兵士たちはさっさとその場を後にしたのだ。

 エルフの女をチラと見て、その頬に涙の跡が残っているのを見つけてしまい、俺は「気の毒に」と心の中で呟いた。そもそも軍事教練で教えられるまでエルフという種族すら知らなかったど田舎の山奥育ちの俺は、教官らが卑怯者だなんだと口汚く罵って周りが眉を逆ハの字にして頷いてもいまいち共感出来なかった。だから、おそらく死ぬまで手を握りあっていたのだろうこの男女のエルフに少し同情した。俺に力があれば、もしかしたら救ってやれたかもしれないのに、と。

 

 日暮れが訪れると、雨の季節だというのに空気はさらさらと澄み渡り、天高く昇った満月はいつもより大きかった。月光がやけに白く眩しい、不思議な夜だった。今にして思えばあれも特別な兆しだったのだろう。彼女と出会ったのは、まさにその月夜だったのだから。

 

 前線基地という名の死に場所まであと少しというところで日が暮れ、馬の上でふんぞり返る上官が野営地建設を命じた。俺は同じ下っ端たちと泥だらけになりながら、必死こいて穴を掘り木を切り、簡単な拠点を築いた。完成すると、手伝いもしなかった上官や先任兵は早々にエルフの荷物から盗んだ酒瓶を傾けだした。やっと休めるかと一息ついた俺たちに、奴らは意地の悪い目を向けた。嫌な予感は的中し、歯より硬いと揶揄される支給クルミパンと濁った水を胃に掻き込むと休憩も許されず見張りをさせられることになった。疲労困憊の肉体で暗闇に向き合っていると、一人また一人と闇の眼力に負けてその場に崩れ落ちて眠りだした。そういう奴は後で意地の悪い先任兵に陰湿な嫌がらせをされることが身にしみてわかっていた俺は、なんとか踏ん張ってその場に立っていた。しかし、夜も更けてついに俺の気力も限界に差し掛かった時、虫の鳴き声に混じって、かすかな悲鳴が聞こえた。生い茂る木々の隙間から、聞いたこともない言葉で、女の子が叫んでいるようだった。山で昼も夜も狩りをしていた俺だからこそ聞こえた、微かな声だった。慌てて隣の兵士の肩を叩くが誰も信じず、また寝入ってしまう。

俺は少し迷った。だが、どうせ明日戦場で死ぬのなら、今ここで馬鹿をやっても同じことだ。一瞬で意を決し、俺は暗闇の中に突っ込んだ。この時、意を決しなければどうなっていたか―――想像もしたくない。暗闇に飛び込んだ過去の自分を褒めちぎりたい。もしもこの瞬間に立ち返ったとしても、絶対に同じことをするだろう。

 さて、その先で起きた戦いについては、“上手くいった”という結果だけ記そう。“上手くやれた”というわけではない。ただ、俺にとって初めての殺し合いだった。疲労困憊だったし、夜の森を全速力で駆け抜けた直後の戦いだった。そこを汲んでもらえれば、中身の良し悪しはひとまず置いておくべきという懸命な考えに至るはずだ。大事なのは、彼女を助けることができたという、俺とこの世界にとって計り知れないほど大事な事実だ。

 

 それで、最初に覚えた印象は、何よりもまず―――美しい、だった。とにかく、美しかった。

 

 小さな背中を覆う銀髪は満月下の新雪のようにキラキラと輝いている。牛乳みたいに真っ白な肌は触れてもないのに指先に滑らかな肌触りを感じる。大きく輝く瞳は新緑を映す湖のようで思わず飛び込みたくなる。ろくに女を見たことのない俺でも、そんな目の前にいる女の子が唯一無二の美少女だということはわかった。そして、ピンと長い特徴的な耳輪で、エルフ族ということもわかった。それが彼女との出会いだった。

 奇妙なことに、エルフはほとんど全裸で、上着しか着ていなかった。しかもその上着は寸法がまるで合っておらず、裾もかなり余って膝上まで伸びている。国王が典礼式で着るような詰め襟の服は染めムラのない完璧な黒一色で、所々の縁と(ボタン)が曇り一つない高貴な金色(こんじき)に輝いていた。分厚い布地は軍のお偉いさん方も着ていないような素材で、艶々としていて、なのに丈夫そうで、ひと目で高価だとわかる。けれども、それを着る―――着られている(・・・・・・)ともいえる―――エルフは、厳つい黒服に比べてあまりに儚く、弱々しく、手を差し伸べないと今にも空気と薄れて消え入りそうに可憐だった。まだ女らしい肉付きはなく、しかし将来を約束された美貌を引っさげた翠緑眼に白銀髪の乙女は、途方もない宝の原石に見えた。その、絶望に淀んだ瞳と大粒の涙を拭ってれば、だが。

 驚いたことに、出会ったばかりのこの頃、エルフの少女は言葉を話せなかった。いや、話せるのだが、まったく違う(・・)言語だったのだ。方言などとは根本から異なって、どう聞き取ろうとしてもできない。繰り返される言葉はあって、おそらく意味があるらしいが、学のない俺には見当がつかない。自分の言葉が通じないと早々に判断したエルフは、他に知っている様々な言語を手当たり次第に投げかけてきたが、俺の首が一向に縦に振られないのを見てやがて諦めた。何もかもが信じられない、この世の終わりとでも言うような顔だった。そのまま地面にズブズブ沈み込みそうなくらいの落ち込み様に、俺はなんとかしてやろうと身振り手振りで意思疎通を図ろうとした。ここにいたら危険で、魔族に襲われるかもしれない。人間には嫌われているから俺が属する軍隊も頼れないし、お仲間(エルフ)の里も近くにはない。それらを懸命に伝えると、彼女の目からどんどん光が抜け落ちて、ついにその場にへたり込んだ。しまった、これでは逆効果だ。どうすればいいのか……などと考えあぐねていると、ふいに聞き慣れた下卑た声がヤブの向こうから聞こえてきた。エルフの死体を見て欲情していた変態好色士官だ。見つかれば間違いなくこの少女は慰みものにされる。

 その時、俺は迷わなかった。脱走兵になることに躊躇いもしなかったし、迷いを断ち切る必要もなかった。自然と心は決まっていた。ただ覚悟を決めるため、もう一度少女の顔を覗き込んだ。美しい、と思った。護る価値が―――これから兵士として使い潰されるより遥かに命を掛ける価値があると思えるくらいに。俺はかっと燃え上がった激情に任せて少女の手を掴むと力づくで引っ張り上げた。「行くぞ!」という言葉が通じたのではないだろうが、命がけで助けた甲斐があって信頼されたらしく、少女は抵抗すること無く頷くと俺とともに暗い森の中に飛び込んだ。

 

 そうして、俺とエルフの3年間に渡る奇妙な旅が唐突に始まりを告げた。




読んでもらいやすいよう、今回は短く区切っています。こんなに長くなるとは思っていなかったんです……。


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その2 エルフとの契

一人称視点でのTSも好きだけど、第三者視点も好きなんだ。


 当初、今と違ってエルフは何もできなかった。飲水を探すことも食べられる木の実や燃える木枝の選別もできなかった。自然とともに生きるエルフ族にしてはあまりに無知で、一ヶ月くらいは山育ちの俺が子犬子猫のように世話をしてやった。自分の装束を千切って衣服を作ってやったり、飯を取ってきて作ってやったり、毒蛇や野犬から守ってやったりもした。エルフのくせに人間を嫌う様子は一切なく、そこは助かったが、変な奇行が目立った。俺が何か言う度に「ふむふむ」と頷きながら地面に木の枝でガリガリ落書きしたり、俺のやることなすことをじっと睨むように観察する様子は奇妙そのものだった。知恵が未熟だから一族から捨てられてしまった不幸娘なのかもしれないと穿ってみていた。

その認識はすぐに改めることになる。

 

「―――オハヨウ。……コレデアッテルカ?」

 

 起き抜けに投げかけられたカタコトの挨拶に俺は度肝を抜かれて飛び上がった。驚いた顔でなんとか「……おはよう」と返した俺に、エルフは微笑む目元にうっすらと涙を浮かべて「ヨカッタ」と呟いた。驚くべきことに、彼女は必死に俺からこの世界の言葉を学び、わずか一ヶ月で習得したのだ。彼女は恐ろしく頭がよかった。そして、応用力もあった。それからの伸びは尋常ではなかった。日常会話は見る間に上達し、毎朝の「オハヨウ」が「おはよう」になり、「よぉ、起きたか」になるまでさほど時間は掛からなかった。抑揚も完璧になり、生まれながら喋っていたかのように流暢になった。俺が知っている限られた文字の書き方を即座に吸収し、さらに分解して整理して、教科書にあるような網の目みたいな一覧表まで作ってしまった。三ヶ月もすれば読み書きは俺よりずっとうまくなっていた。基礎さえ学んでしまえば、彼女は持ち前の知識と経験に当てはめてあっという間に自分のものにすることが出来た。

 そうして言葉が満足に通じるようになると、彼女は自分の名を名乗り、その奇妙奇天烈な身の上を話してくれた。名はアキリヤ(・・・・)というらしい。不思議な名前は発音が難しく、正しくは微妙に異なるらしいが、アキリヤでほぼ合っているそうだ。名字も持っているというがそちらに至ってはさらに難しいのでお互いに伝達を諦めた。どのみち王侯貴族にでもならない限り必要ない。

 アキリヤは、なんと別の世界から飛ばされてきた人間だという。道理で何も知らないはずだし、何でも知ってるはずだ。だが真に驚くべきことはそこではなく、その別の世界では彼女は―――男、だったというのだ。口調が男っぽいのは俺の影響ではなく、意識的にそうしているらしかった。年の瀬は俺と同じくらいで、学生だったという。受け入れがたい話ではあったが、彼女の知識や、着ていた服の緻密な裁縫技術、見たことのない堅牢で不思議な触り心地の布地、細やかな刺繍や小さなボタン一つ一つに刻まれた正確無比な装飾で納得した。

 どうしてこの世界にやってきたのか、なぜエルフになっていたのかは本人にもわからないらしかった。「死んだと思ったらこうなっていた」という。頭脳明晰で背も高くて顔もそれなりによかったんだぞという自慢話も聞いた。今がとびっきりなんだから、元もそりゃあよかったんだろう。正直にそう言うと、アキリヤは「素直に喜べない」となんとも複雑そうな顔を浮かべた。

 

 この頃、「たった一年ででかい奴がさらにでかくなった」と彼女に言われたが、それはこっちのセリフだと思ったものだ。出会った頃は、どちらかと言えば貧相な体つきだったくせに、一年でみるみる大人の女に近づいていった。地面に尻を置いて潰れた尻肉がふにゃっと左右に広がったり、肉付きのいい太ももの座りを直そうと尻をぐにっとよじったりした時。白い雌鹿のような背中をうんっと伸ばして背伸びしたり、腰のクビレをくねくねとうねらせたりした時。腰を曲げた拍子に衣服の胸元が弛んで双球の膨らみと突起が覗いた時。などなど、ふとした拍子の何気ない仕草や場面を目にするたび、下顎がゾワゾワする欲情が這い上がってきた。それで口調を女っぽくしていたらそれこそ当時の俺の理性は崩壊していただろう。それくらい、どこに出してもいい完璧な美女に近づいていた。もちろんどこにも出す気はないが。あれは俺の女だ。

 

 エルフは不老と聞いていたが、彼女は俺と共に普通に成長していた。身長については緩やかだったが、前述したように、それ以外の部分の成熟は早かった。俺の性への目覚めを喚起させたのは他ならぬ彼女が原因だし、目覚めた欲求が帰結した結果についても、少なからず彼女に責任があると思う。なにしろ無防備すぎるのだ。男友達のように接しはしても、中身が同じ男でも、相手は女で、そして美少女なのだ。日々成長して肉づいてくる身体を堂々と見せつけられては意識をするのは当然だ。アキリヤも、仲が良くなってくると俺に対して男友達の立場で触れ合うようになっていたが、時おり、俺の初心な反応を楽しんで、女っぽく振る舞う風もあった。なのに、俺が思春期の男としては当然の反応であるかのように、じっと着替えを見詰めたり、肩に触れようとしたりすると、途端に不機嫌になって離れていく。そんな調子が続くものだから、処理方法を知らない未熟な俺は理不尽だとへそを曲げ、いろいろ様々な鬱憤が溜まる一方だった。同年代の女が村にいなかった俺は、アキリヤに対して芽生え始めた、人生初めての理解できないモヤモヤとした感情を怒りと錯覚した。それに、アキリヤは歳が近いというくせに、変に大人びた物言いや考え方をするし、かと思えば子供っぽく、気まぐれで、頑固で、生意気なところもあった。違う世界からやってきた彼女と、こちらの世界のしかも田舎者な俺とでは、考え方にも差がありすぎた。

 あらゆることに未成熟なガキだった俺はそんな彼女に不満を覚え、負担に思い、愚かにも助けてやったことを後悔し、鬱陶しげに思って口論を吹っかけてしまうこともあった。彼女がこの世界で頼れるのは俺だけだということを忘れてしまうくらいに。

 

 不和が生じていた俺たちの間柄に一度目の大きな変化が起きたのは、出会って半年ほど経った頃だった。目を離した隙に彼女が野盗に攫われたのだ。口喧嘩して、彼女が飛び出して行った先で野盗と鉢合わせになったらしかった。誘拐を察知した俺が慌てて辺りを探すと、彼女が暴れながら木に付けたらしい傷があり、その痕跡を追って俺は野盗のねぐらまで走った。奴らがねぐらにしていた廃村は、大人ばかりで、中には兵士崩れもいて、何より大勢だった。その広場で彼女は大事にしていた黒服を剥ぎ取られ、下半身を晒す男たちに囲まれ、羽交い締めにされ、今から何をされるのか想像して半狂乱になって泣き叫んでいた。心を刺すその声を聞くまいと耳に手をあてた。正直に白状すると、逃げようと迷ってしまった(一瞬だけとは言え、馬鹿なことを考えた)。

 しかし、半年間の彼女との思い出が蘇り、俺が助けに来るはずだと信じて木に爪を立てた彼女の信頼に胸を締め付けられた。指の隙間を縫って鼓膜を叩いた、アキリヤが俺の名を呼ぶ声が男の矜持をぶん殴った。気迫と勇気に奮い立っていく心が、「なぜそこまでするのか」と自問して、「彼女だからだ」と自答する。その時、もうアキリヤはただの男友達ではなくなっていた。脳裏を過ぎった父親の姿に背を押されながら、剣の柄を力一杯に握り締めて俺は野盗達のねぐらに飛び込んだ。

 自分に生まれながらの剣の才能があるとは思わない。ただ、この戦いで初めて“何か”を掴んだことは確かだ。その時は、まさか将来、身に余る二つ名を与えられるとは思ってもいなかった。本当だ。

 

 とは言え剣を使っていたのは最初の三人までで、中盤終盤になると折れた剣を投げ捨ててその辺の石なんかで戦った。今にして思えば何とも情けない無謀で野蛮な戦いがどう転んだかについては、今の俺が幽霊でないということが結果を知る助けになるだろう。

 俺は言葉のまま死に物狂いで戦った。さすがに御伽噺のように上手くは行かず、最後の一人を生かしたまま満身創痍で動けなくなって倒れ込んでしまったが、あわやと諦めかけたところでその心臓に背中からナイフが突き立ち、絶命して倒れた男の影から半裸のアキリヤが現れた。血だらけの手を呆然と見下ろしたのも束の間、俺の醜態に気づいたアキリヤが顔を真っ青にして駆け寄ってきた。

 彼女は野盗たちが残した物資と高度な知識で必死に看病してくれた。文字通り寝ずの看病のお蔭で、俺はなんとか一命を取り留めた。謝罪と感謝の言葉が大粒の涙と共に頬に降り注いできて、その度に「気にするな。当然だろ」と格好をつけて返した。その涙に神秘的な効果があったのかはさておき、一ヶ月と少し経った頃に俺は奇跡のような回復を遂げた。

 奇しくも俺の誕生月に、一番ひどかった傷の包帯が取れた。雨音が反響する洞窟の中、俺の背中に真一文字に走る深い傷跡を指先で撫でて、彼女はまたもや謝ろうと俺の目を見て唇を震わせた。その瞬間、義務感ではない、もっと熱い衝動に突き動かされ、俺はその先を言わせまいと彼女の唇を自分の唇でそっと塞いだ。彼女は、抵抗しなかった。

 

 

 そして―――その夜、アキリヤは俺を受け入れ、俺は彼女の奥深くに熱い衝動を放った。

 彼女の温もりを抱き締めると、全身の傷の痛みなど気にもならなかった。内側の握りつぶされるような圧力と焼け付くような体温、心も身体も溶けて彼女の中に染み込んでいくような多幸感が、生きているという強い実感を与えてくれた。

 ようやく、俺は腕枕に頭を預けて安らかに眠るエルフの少女が、己にとって掛け替えのない存在になっていることに気付いたのだ。




警告:ちょっとエッチです。


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その3 エルフとの夜

現在、ここまで。TSF支援図書館がなかったらきっと自分はTSに目覚めなかった。この場を借りて感謝。そしてこの話はとてもエッチなので注意。


 よし。ここで話は変わるが、俺の女について少しばかり自慢させてもらおう。

 

 詳しく書き過ぎると非常に長くなるし、現時点での俺自身にも火が灯ってしまいそうなので端的に伝えるが……アキリヤは、本当に、最高だった。何度しても(・・・)飽きることはない。どんな絵画も見続ければ飽きるし、どんな美食美酒も食い続ければ飽きが来るとされるが、それは誤りだとわかった。マンネリというものは神の供物には当て嵌まらない。彼女の味をしめれば、もう他の女に逃れることは不可能だ。死んでも無理だ。では彼女の何が良いかと説明を求められても、やはり無理だ。相性などというありがちな話ではない。誰であろうと彼女に溺れるに違いない。神の食膳に飾られたご馳走がまかり間違って俺の口に入ったようなもの、と言えばいいのか。言葉で表現できる学の重ねがない俺を許してほしい。とにかく、全てが最高だった。

 撫でれば手のひらに吸い付き、力を込めれば沈み込み、同程度の力で押し返してくる張りのある弾力はいつまでも弄んでいられた。組み伏せて至近から見下ろす表情が、こちらの動きに合わせて額に珠の汗を浮かべ、ぽろぽろと涙ぐみ、ぎゅっと歯噛みするのが愛らしい。首筋に鼻を埋めて深呼吸をすると、濃密な花の蜜に似た匂いがして何時までも嗅いでいたくなるし、それを恥ずかしがって嫌がる素振りがまた愛おしい。接合部が水音を弾かせる度に濡れた唇が熱い吐息と甘い悲鳴を奏でるのも心底溜まらない。ほくろ一つない完璧な肢体が汗ばんでじんわりと湿り、腰のくびれが外も中もぐねぐねとうねり、ねじれ、痙攣するのは見ているだけでも心地よいし、実際天にも登るほど心地よい。一際高い悲鳴とともに長い足が伸び切って指先までピンと突っ張り、背中にガリガリと爪を立てられ、肩に八重歯で噛み付かれる時など、途方もない征服感が尻の裏側から一気にせり登ってきて、自身が世界で最も恵まれた男なのだということを再認識させてくれる。汗と涙と鼻水と涎でグチャグチャになった顔、瞳孔が開いて焦点の合わない瞳、ぜえぜえと肺から絞り出される掠れ息、ねっとりと穢された下腹部、こんな風にしてしまったのが自分だという実感を噛み締め、またもやムラムラとした征服欲を刺激される。俺の復活を察した彼女がビクッと下腹部を震わせ、声にならない声で涙を浮かべて拒絶するがすでに遅い。

 俺は骨に残った肉にむしゃぶりつくように、アキリヤに覆いかぶさって再びその瑞々しい肢体を貪り始めた。まるで死肉を啄む禿鷲のように、乱暴に、節操なく。彼女は何も悪くないのに「許して」と謝ってきたりもしたが、許してほしいのはこっちの方だった。その肉体にアップアップと溺れて困っていたのは俺の方なのだから。

 肉体と精神の充血と怒張が収まる気配は微塵もなく、それこそ最初の頃は彼女が涙目を超えて絶叫しながら懇願するか、それを通り超えて気絶するまで……いや、白状するとその後まで続けてしまったものだ。

 アキリヤからは、「激しすぎて男だった頃をもう思い出せなくなった」とも言われた。「女は凄い。お前もなってみればわかる」とうっとりした目で勧められたが、もちろん喜んで辞退した。腕の中にちょうどすっぽりと収まる極上の女を抱ける以上の快楽などあり得ないと、たった今実感したばかりなのだから。それをはっきりと告げると顔を真っ赤にして何を言うんだと小さな手を握って胸板を叩いてきたが、その初々しく可愛らしい表情こそがまさにその証左で、それがまた俺の下半身に火をつけて第二回戦へと突入したことは俺のせいではない。彼女があまりに最高すぎるのが悪いのだ。

 そういえば、いつか、「身体の内側に他人が侵入してくるのはいつになっても慣れない」とも言われた。だからか、いつも夜は緊張で肌から少し血の気が引いてひんやりとしていた。しかし内側は溶けた鉄のようにドロドロに煮えていて、俺としては不思議な感覚だった。それを最中に伝えると、「人をマホウビンみたいに言うな」と文句を返されたが、マホウビンの意味がわからなかったし、やりながら会話をさせてみるという新しい試みを発見したので特に突っ込んで聞かなかった。いや、突っ込みはしていたが。わはは。……なんでもない。

 何の話だった? マホウビンの話だったか? 会話させてみる試みの話だったか? 多分後者だな。あれは俺だけにとっては非常に良い発案だった。意地悪をしてみると、加虐心というか、そういうのがゾクゾク刺激されて、つい調子に乗ってしまった。しかし、ただでさえ俺の動きに振り回されている彼女の呼吸がおぼつかなくなってくると途中から息も絶え絶えになって顔色も青くなるので、さすがにまずいとほどほどにしておいた。

 ……この後記すことになるが、自分の肉欲を抑える術は後々ちゃんと覚えた。繰り返すが、俺も若かったし、何より学が無かった。軍隊の仲間は女の扱い方なんて想像でしか知らなかったし、もしかしたらそういう知識を諭してくれたかもしれない父親はすでにいなかった。だから、彼女に気の毒なことをしていたとわかったのは、後に俺たちの共通の友人となった若い女僧侶から手痛い一撃とそれより苦手な説教を受けてからだ。

 

 俺達より少しだけ年上の女僧侶は、聖神教会の僧侶とは思えないほど破天荒で、どこの教区にも属さず自由奔放に国中を動き回って、なのに白魔法の腕は超一流だった。道中、偶然手助けをしてやったことから懇意になった。女僧侶は面倒見が良くて、手探りの生活をしていた俺たちにとても親切にしてくれた。夜の手探りについては特に厳しく教え込まれた。

『一、女の身体は俺の貧相な頭では想像もつかないほど複雑かつ繊細で壊れやすく大切に触れなければならない』

『二、エルフは特殊な種族であり、今まではなんとか外して(・・・)いたものの、男女である以上いつかは当たる(・・・)可能性も否定できない』

 ……などなどを延々と聞かされた。

 そして、アキリヤが俺の身勝手な欲望に毎晩応えてくれているのは、断ると俺が彼女に愛想を尽かすのではと不安がっているからだとも教わった。「自分のために傷を負ってくれているのに、何の役にも立てていない」という負い目があるから、せめて俺の傷を癒やすことができればと歯を食いしばって毎晩俺を受け入れてくれているのだと。(実際、彼女との行為はつらいこと痛いことを忘れて天国を垣間見せてくれるものだったが)

 そんな思いをさせてしまっているとは言われるまで気づかなかった。さすがに、そこまで言われても自制が働かないのであれば本当に猿かそれ以下のグールだ。それからは二日に一回にしたし、懇願されたり気絶したら即座に辞めた。それを女僧侶に自慢げに報告して、また一撃と説教を受けてからはさらに自分を抑える努力をした。……猿以下グール未満というところか。

 いや、名誉のために断っておくが、彼女は俺からの非道な行いを許してくれたことを明記しておく。「オレも元は男だったから、抑えがたい男の劣情についてはわかるつもりだ。体力をつけてなるべく長く付き合えるようにするので、そちらも可能な限り優しくして欲しい」との旨の許可を得た。可能な限り優しくもした。……あくまでも、可能な限り。




ひとまずここまで。続きはまた明日というか今日にでも。


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その4 エルフの進化

投稿するぜ~超するぜ~。


 どこまで話したか。話が逸れてすまない。なにせ回想録なんて初めて書くから要領がわからない。まあ、最初で最後の取り組みだろうから、大目に見てほしい。

 

 この頃になると、アキリヤも野宿や粗末な宿屋での生活になれて、苦手だった裁縫もできるようになった。元々手先が器用だったんだろう。前の世界の思い出として大事にしている黒い上着―――ガクセイフクというらしい―――を加工して、外套のように肩に羽織るようになった。触らせてくれと頼んでみたが、「お前は乱暴者だからダメだ」と頑として断られた。そんなことはないと抗弁すると、「胸に手を当てて考えてみろ」と言われたので彼女の胸に手を置いて目を閉じてみたが、顔面に引っかき傷を負うだけで「相変わらず柔らかい」という以外に何もわからなかった。ガクセイフクを触らせたがらなかった本当の理由は後になってわかるのだが、その時は理不尽だと悄気たものだ。

 

 そんな絶世の美少女とグール以上猿未満のどこ行くともない二人旅に変化をもたらしたのは、気紛れに寄った怪しげな露店でアキリヤにせがまれて買った魔導書だった。すでに難解な文書も読めるようになっていたアキリヤは、自らのエルフ特有の神和性を戦いに利用できないかと安宿の暖炉で魔導書片手に魔法の練習を始めたのだ。その成長速度は豊かな胸と同じくらい早かった。あっという間に五大元素の精霊と意思疎通を確立すると、今度は応用を考え始めた。火の精霊と風の精霊、大地の精霊、空の精霊、水の精霊等などを同時に使役し、カガク反応(何度説明されても難しすぎて理解できないので諦めた)を再現できないか……とかなんとかブツブツ呟きながら、手元を精霊の光でキラキラと輝かせながら実験していた。彼女がいた元の世界では妖精を介して魔法を使わずとも人工的に色々なことが出来たらしい。熱があり、ジュウリョク(これも理解を諦めた)がある同じ環境なら、同じことが再現出来るかもしれないというのだ。よくわからないが、人の手だけで全て賄える世界というのも味気無いものだと俺は鼻を鳴らした。

 その味気無い世界の恐るべき片鱗を知ったのは、安宿の屋根が大爆発で吹っ飛んでからだった。

 実験の成功を喜んで「エウレーカ!エウレーカ!」と奇天烈な雄叫びをあげる少女の腰に手を回し荷物のように抱えると、俺は大急ぎでその場を立ち去った。ただでさえ脱走兵という後ろ暗い事情があるのに、放火魔として指名手配されてはたまらない。あの後、安宿がどうなったかは知らない。値段に質が伴ってない貧相な安宿だったとはいえ、屋根を丸ごと失うほどの悪徳ではなかった。だが宿屋の主人がアキリヤの風呂を覗こうとしたことを考えれば、どっこいどっこいだろう。屋根を失うくらい価値のあるものを垣間見れたんだ。

 

 アキリヤの魔法はとんでもない威力だった。ただの火炎魔法のはずなのに、彼女が応用を効かせて発展させると激しい爆発を伴うようになった。まるで火山噴火のようだった。「複数の精霊を掛け合わせて効果を増大させる魔法は今までも存在したけど、理屈ではなく経験則で導き出されただけであって、論理的かつカガク的に手法を確立していけば何でも出来るようになる」とかなんとか。全部彼女の受け売りだ。自分で書いていてもほとんどわからないから、後で俺に質問しても無駄だ。俺には子守唄にしかならない。

 そんな強力な武器を手にした彼女の喜びようは、それもまた凄かった。自分の知識をひけらかしたかったわけでも、俺に嫉妬していたわけでもない。俺に護られるだけの立場から、俺と肩を並べる立場になれたからだ。

 

「お前の負担になりたくない。戦うお前の背中を護れるようになりたいんだ」

 

 と胸を張ってみせたが、俺の腕を枕にして起伏を帯びた裸体を晒したままでは説得力はなかったし、胸を張った拍子に漣のようにふるふると震えた双球に目を奪われて半分以上聞き流してしまった。それに、俺はアキリヤを負担になんて思ってもいなかった。そう自負できるだけの修羅場を潜ってきたし、後ろに護る女がいるのは自分がおとぎ話の英雄になった気がして子供じみた快感も覚えていた。だから、アキリヤが俺の背中を脱することに一抹の寂しさを感じたのも事実だ。特に、ある一件で彼女の名声が世に知れ渡ってからは俺のほうがオマケになってしまい、立場が逆転したようになってさらに寂しくなった。

 

 ある一件というのは、今では皆よく知ってる“ナレ村の奇跡”と呼ばれる事件のことだ。魔族の襲撃から人間の村を救ったエルフ族の美少女の噂は、国中に広まった。もちろん俺も必死こいて戦ったのだが、噂話というものは尾ひれがついたかと思えばエラが取れたりする。そういうものだと今では納得している。この件を記すとそれはそれは長くなるので詳しくは割愛するが、尾ひれやら背びれやら胸びれがくっついて、首都に届く頃には“黒衣のエルフ”などと大層なあだ名がついていたらしい。「人間を嫌っているはずのエルフが、見ず知らずの人間たちを助けた。彼女は最強の魔術師だ、救世主だ、人間とエルフとの架け橋だ」などと持て囃されていたのだという。アキリヤは前の世界では人間だったから、当然のように人間を助けたし、分け隔てなく接したが、種族同士が互いに嫌い合っているこちらの世界ではそれが大層珍しく映ったのだ。

 助けを請いに来た人々からその噂を耳にしたアキリヤは、薪を焚べられたように熱意を燃焼させた。負けず嫌いな性分は噂上の自分にも向けられ、“黒衣のエルフ”に追いつこうと試行錯誤を重ね、そのほとんどの試みを達成して行った。威力を倍増させ、調整できるようにし、詠唱時間を可能な限り短縮し、様々な付加効果を加え……。そうしているうちに、俺の後ろで怯えていた少女は、たった3年で“人間に味方する最強のエルフ”となっていた。

 かくいう俺も同じくらいの負け嫌いなタチだから、彼女に負けじと一人で名を上げてやろうと、こっそりアキリヤを宿屋に置いて単独で暴れ小竜退治をしてみたこともある。まさか二匹出てくるとは思わなかった。二匹とも倒したものの危うく死にかけて、宿に帰ると彼女に本気で怒られた。正直、あの時のアキリヤの剣幕は竜より怖かった。火を吹くかと思ったほどだ。彼女には内緒だぞ。

 

 アキリヤの魔法は、その威力に比例して行使に時間を要した。水の妖精と火の妖精を使役してサンソだかスイソだか目に見えない何かを取り出させて、それを風の精霊に包ませて圧縮させ、その間に片手では大地の精霊に尖った鉱石を集めさせて混ぜ込んで、空の妖精に敵まで運ばせて、火の精霊に引っ叩かせる。アクビして背伸びしてもまだお釣りが来るくらいの準備の間、彼女を護ったり、敵の足止めや誘導を担うのは俺だった。俺たちの息はピッタリだった。二人ならどんな相手にも負けないと思えるくらい俺たちは強くなっていた。立ち上がれば家も踏み潰せそうな岩石竜退治に挑んだ時は、アキリヤの魔法が強すぎて森の一部ごと吹き飛ばすことになったが、二人して煤まみれになるくらいですんだ。軍隊ですら尻尾を巻いて逃げ出す岩石竜をたった二人で倒すなんて、聞いたことが無い。戦えない弱者たちを魔族の手から守る―――お伽噺の冒険活劇に登場する英雄そのものだ。俺は悦に浸って、毎日が楽しかった。

 でも、アキリヤは、そうではなかった。

 岩石竜を倒した帰り道、俺はなんとなく、「なあ、元の世界に帰りたいか?」と問い掛けた。竜の牙片手に有頂天になっていた俺は、当然、「いいや、今が楽しい!」と即答を貰えると高をくくっていた。俺と同じように、互いを相棒と信頼して、今に満足していると都合よく思い込んでいた。

 

「……うん、そうだな」

 

 その表情に影が差したように見えたのは、沈みゆく夕日のせいではなかった。未練がないわけがない。彼女は学生だったと言った。その日暮らしの俺とは違い、きっと何かを目指して勉強していたに違いない。夢が、未来があったに違いない。俺は、彼女が違う世界から飛ばされて(・・・・・)きたことを忘れてしまっていた。望んで俺の前に現れてくれたわけじゃない。前の世界の残り香である黒衣を大事に身に付けているのがその証左だ。

 討伐を報告しに村に帰るまでの間、二人とも口を開くことはなく、葉擦れと虫の音色の中を静かに歩いた。月明かりが雲に遮られる度、次の瞬間には彼女は消えているのではないかとたまらなく不安になった。

 アキリヤの心の半分はまだ前の世界を向いていた。ある日唐突に神さまがやってきて「前の世界に帰してやる」と機会を与えたら、彼女はどちらを選ぶのだろう。前の世界とこちらの世界(おれ)のどちらを選ぶのだろう。そう考えると不安は薄れることはなく、彼女をより一層激しく抱いても消えてくれることはなかった。




ちょっと切ない物語が好きやねん。皆も好きやねん?


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その5 エルフとの変化

「待てよ?もっとこうしたらいいんじゃないか?いやいや、しかし……」と悩み始めると途端にスピードが落ちる。長考はいい時もあれば悪い時もあるのですね。


 18歳になろうかという年の初め。普通ならもうガキとは言えなくなる年頃に、俺は自分自身、とりわけ内心と体質に特別な変化が生じていることに気付いた。キッカケは、囚われた女僧侶を黒魔術師から救い出す際の戦いだった。

 

 深夜、四回戦目(・・・・)に差し掛かろうとしていたところに女僧侶の使い魔が突然窓から飛び込んできた。人語を話す猫の使い魔は、“黒衣のエルフ”を頼りに、黒魔術師に捕えられた主人の救出を求めてきた。女僧侶を屋敷の牢に閉じ込めているというその黒魔術師は、優秀な女魔術師を攫っては自身の種を植え付け、魔術師同士の子を孕ませて血筋を強化しようと企む変態ジジイだった。その上、囚えられた女は、子どもを生むことが出来なくなると殺されて食われてしまうという。王国の治世が主要都市以外に及ばなくなってからは残虐な事件も珍しくなくなってきたとはいえ、あまりに聞き捨てならない話だ。それに、相手の気持ちも考えずに犯すとは男の風上にも置けない悪漢に他ならない。拳を握りしめて義憤に燃えると、俺に組み伏せられたまま荒い呼吸をしていたアキリヤが「お前が言うな」とでも言うような半目で睨め上げてきた。俺が不思議そうに見つめ返すと、じとっとした目のまま大きな溜息をついて首を振った。訝しげに思ったが、アキリヤも元は同じ男だからきっと共感してくれたのだろうと疑問を呑み込んだ。

 女僧侶には何度も世話になったし、エルフ族と離れて身寄りのないアキリヤ(女僧侶にはそう説明した)を妹のように気にかけてくれたし、アキリヤも姉のように慕っていた。危機を見過ごすことは絶対に出来なかった。

 使い魔によると、女僧侶が孕ませられる儀式は満月の夜に執り行われるという。即ち当日の晩だった。黒魔術師の屋敷は、早馬を一日駆けさせれば間に合うか間に合わないかという場所にあった。時間が無いと、俺は下袴だけの格好でアキリヤと最低限の荷物を抱えて宿を飛び出した。馬宿に繋がれていた馬の中から、速そうな馬を適当に選んで飛び乗る。「まだ下着しか着てない!」と嫌がるアキリヤを「そんなこと言ってる場合か」と無理やり引っ張り上げて跨がらせ、馬の尻にムチを打つ。深夜で誰にも見られてないんだから気にするなと言ったが、彼女は「そういう問題じゃない」と唇を尖らせて揺れる馬上で懸命に服に袖を通していた。

 

 ……黒魔術師については、正直、こうして書き記すことどころか思い出すことすら不快だ。奴は、今まで戦ってきた敵の中では三本の指に入るほど陰湿で、胸糞悪い奴だった。男どころか人間としても風上に置けない、卑劣な魔術師だった。奴から見て“優秀でない”と判断した己の子供を黒魔術で死霊(グール)化させたり、生きながらに腐食の呪いをかけて歩く死者(ゾンビ)にして、そいつらに襲わせてきた。中にはまだ意識が少し残っていて苦痛に膿の涙を流し掠れた声で母を求める幼子のゾンビもいて、アキリヤは口を押さえて蒼白になっていた。詠唱に集中できなければ魔法は使えないし、屋敷の地下牢には女僧侶がいる。彼女の魔法は今は使えない。何より、彼女の手をこんなことのために汚させたく無かった。彼女には純粋なままでいてほしかった。「ごめんな、ごめんな」と大粒の涙を流すアキリヤを背に護りながら、俺は怒りに突き動かされて屋敷の暗い廊下をまっすぐ地下へと斬り込んでいった。

 石の廊下は、空気をゴクリと飲み込めそうなくらいに湿度が高く、澱んでいた。鼻がもげるような腐臭が充満して、息をすることさえ苦しかった。腐食の呪いのせいで、一閃ごとに剣の刀身にサビが回ってきた。敵が敵だけに殺意も鈍って全力が出せない。オークやトロルの姿をしていればどんなによかったか。切れ味を腕力で補うも、なにせ数が多すぎた。幅も狭く、剣を振り回す空間も少ない。松明の明かりが頼りなく、数歩先の暗闇が見透せない。とにかく戦いづらかった。100体ほど斬ったあたりで疲労が蓄積した腕が重くなり、剣を握る手に力が入らなくなっていた。それこそが黒魔術師の罠だった。

 

「鴨が葱を背負ってくるとはこのことだな、筋肉ばかりの若造が!」

 

 突然、黒魔術の火球が廊下の遙か先から迫ってきた。怒りで突出していたところを狙われた。黒紫の炎に照らしあげられた黒魔術師の邪悪な笑みを見て、しまったと後悔した。墨のようにどす黒い炎が渦を巻いて迫り、生命の危機に肌が泡立つ。喰らえば確実に死ぬ。おそらく、死よりひどい苦痛を味わいながら。しかしそこは狭い一直線の廊下だった。俺が避ければ後ろのアキリヤが犠牲になる。その結論に思い当たった瞬間、俺は打算も計算もなくその場に仁王立ちした。避けようという選択肢すら頭に浮かぶことはなかった。背後で何事か叫ぶアキリヤに首だけで振り返り、安心させようとニッと笑う。彼女のことになると、俺は迷いを捨てて強くなれる。目の前まで迫った呪炎に気合一閃、雄叫びと共に剣を叩き付けた。しかし、見る間に刀身が腐り、赤錆の砂と化して炎に吹き散らされる。

 次の瞬間、全身が黒い炎に呑みこまれた。衝撃が胸を打ち、身体が後方に倒れていく。直撃された顎が激しく揺れ、朦朧として立っていられない。呪いが体表を駆け巡り、吸収されたようにすっと消えた。不思議と苦痛は感じなかった。太刀打ちできない呪いとはそういうものかもしれないと思った。

 やけにゆっくりとした意識の中で、脳裏を過ったのは走馬灯ではなく、必死の形相で俺に駆け寄ってくるアキリヤのことだった。俺が死んで、残された彼女はどうなるのだろう。アキリヤは強い。なにせ“黒衣のエルフ”様だ。この世界についてもかなり詳しくなった。きっと遜色なく生きていけるだろう。生きていくだけなら(・・・・・・・)できるはずだ。

 しかし、想像の中の彼女は少しも幸せそうではなかった。一人孤独に、かつての暗い森で悲しげに俯いている。アキリヤにはそんな顔はしてほしくない。幸せになってほしい。だが、そこで俺の思考は行き止まった。

 彼女の幸せとは、そもそも何だ? 俺はそのために、何をしてやれてる……?

 

 靄のように頭に立ち込めた疑問は、倒れる身体を受け止めた柔らかな感触に遮られた。石畳に後頭部を打ち付ける寸前でアキリヤが俺を抱きとめてくれたのだ。朦朧として見上げる中、彼女の顔から血の気が引き、震える唇までも青く染まっていく。それはまるで、出会った時の、絶望に沈む顔の再現だった。「嘘だ、嘘だ」と現実を否定し、子どものように(かぶり)を振るアキリヤが俺の頭を胸にかき抱く。「エルフに孕ませた子はさぞや優秀だろう」。黒魔術師の下卑た高笑いが廊下に響く。

 そして、俺は、

 

「……痛くねえ」

 

 むくっと、その場に起き上がった。

 アキリヤと黒魔術師が唖然として絶句する間、俺は腕をぶんぶんと振って自身の調子を確かめてみる。自分でもワケがわからなかったが、なぜだかちっとも痛くも痒くもなかった。どうやら顎を強く揺らされたことで少しフラついただけらしい。そんなものは気合いで何とかなるものだった。指先が腐り始めたりするのかと思ったが、ゴツゴツと節くれだった手指には何の変化も見られなかった。

 

「な、な、なぁァ……っっっ!!??」

 

 勝ち誇っていた黒魔術師が態度を一変させて焦燥の奇声を発した。それを聞いて、これが奴の想定外の事態だということがわかった。「ありえない」と金切り声を引き連れた炎の連弾が飛んでくるが、胴体にドスンドスンと重い衝撃が走るだけで一向に身体に不調をきたす気配はこなかった。背丈が倍のオークに思い切りぶん殴られたような、その程度(・・・・)の、踏ん張れば堪えられる痛みだった。首を傾げながら自身を観察すると、呪いは身体に染み込んでいるのではなく、皮膚に届く皮一枚寸前で浄化されているように見えた。身体の表面を薄い泡の皮膜が覆って、その上を黒炎が滑っていくようだった。人肌のような、優しくて温かい何かが俺を包んで護ってくれている感覚が俺の心を平穏に保ってくれた。先程までの疲労すら嘘のようになくなり、むしろ力の漲りが湯水のように滾々と溢れてくる。アキリヤはもう触れてないのに、まるでまだ彼女の胸元に抱き込まれているような温もりを首筋に感じる。

 試しに、そのまま一歩二歩と踏み出してみる。黒魔術師の動揺がさらに大きくなるだけでどんなに近付いても俺の心身に呪いの効果は現れない。いい加減に鬱陶しくなってきた呪炎を腕で払い飛ばし、平然とした足取りで歩く。気づけば、黒魔術師の顔はすぐ目の前にあった。拳を振りおろせば届くくらい、目の前に。

 

「ば、馬鹿な。儂の呪いが効かんなど、竜の化身か貴様は」

 

 ガチガチと歯を鳴らしながら呻いたが、当時はその意味はわからなかった。わかっていても、怒りに身を任せてわかろうとしなかったろう。やせ細った黒魔術師を壁際まで追い詰め、胸倉を掴んで引きずり上げる。ひどく汗だくになって息切れしていた。魔力切れらしく、もう呪いは放てないらしかった。

 

「り、竜の剣士殿よ。類まれなる若武者よ。む、無抵抗の者を殺せるのか? もはや戦うことも出来ぬ、このようなか弱い老いぼれを?」

 

 急に媚びるような目つきになった黒魔術師が問いかける。今さらになってどの口がホザきやがる。足元に転がる人骨が視界に映った。文字通り骨までしゃぶり尽くされた女たちの死体を見て、怒りに目が眩んだ。身体がカッと芯まで熱くなり、理性の手綱が千切れる音がした。こんな奴、もう一秒だって生かしておいてはいけない。今すぐ屋敷から引きずり出して、アキリヤの目の届かないところで片付けてやる。

 しかし、思いがけない声が、それを止めた。

 

「頼む、カル。オレの代わり(・・・・・・)に、そいつを、殺してくれ」

 

 背後から、静かな、でも決然とした声がした。彼女と出会ってから聞いたこともない、怒りと悲しみに冷えた声だった。彼女は、殺人の代行を俺に頼んだ。あんなに人殺しを嫌っていたのに。今まで一度だって、そんなことを頼んできたことはなかったのに。

 俺は振り返らず、黒魔術師の両の目をじっと射抜いたまま、頷きを持って応えた。

 

「わかった。俺たち二人で、こいつを殺そう」

 

 末路を悟った老人が鳥のような悲鳴をあげて、悲鳴をあげられなくなった。断末魔が最期の喘ぎになって、それでも俺は拳を振り下ろした。アキリヤも止めなかった。彼女の頑なな視線を背中に感じながら、俺は拳に骨が食い込むのも構わず殴り続けた。彼女を純粋なままいさせてやれなかった。その不甲斐なさ、情けなさを噛み締め、何度も、何度も、原型がなくなるまで、壁を抉っていると気がつくまで殴り続けた。

 

 使い魔が探すまでもなく、女僧侶はすぐに見つかった。地下室へ降りるとすぐ、「アンタのモノなんか入れさせてやるもんか、噛み千切ってやる」と威勢のある咆哮が聞こえてきたからだ。牢を開けて俺たちが現れると一転して笑みを零し饒舌になりかけたが、夥しい返り血を滴らせる俺と俯き黙すアキリヤを見て何があったのかを察し、一言「ありがとう、辛い思いをさせてごめん」と妹分のエルフを抱き締めた。

 

 アキリヤが屋敷を燃やすために炎熱魔法を唱えている間、俺は女僧侶に事の顛末と、自分を呪いから護った不可思議な現象について説明し、何か知らないかと尋ねた。女僧侶は心底驚いた顔をして、俺を上から下までじろじろ観察すると腕を組んでしばし記憶の沼の底を漁り始めた。左上に視線を放り投げること2、3分、思い当たる節があったというように再び俺に「まさか」というような目を向ける。が、答えを待ち望む俺に反し、いつまでたっても口を開かない。いかにも含むものがあるという態度に変えて、そのまま腕を組んでいる。堪え性のない俺が「黙ってないで教えろよ」と口を尖らせると、女僧侶はまるで駄目な子供に呆れるようにあからさまなため息で「この王国一の幸せ者め」とボヤいてはぐらかした。

 

「アンタに教えると調子づくだけだから教えてやらない。あの娘の苦労が増えるのが目に見えるわ」

 

の一点張りだ。「助けてやったのになんだよそれは」―――などと恩着せがましいことはさすがに口にしないまでも、少し腹が立った。尚も食い下がろうとする俺に対し、突然、女僧侶が「そんなことより!」と強い語気で遮ってきた。

 

「アンタたち、何歳になったの?」

 

 突然の質問に面食らった俺は、再三聞こうとしていた質問を吹き飛ばされて、愚直に宙を見ながら指を折る。

 

「あーっと……たしか、18だ。たぶんアキリヤも」

「出会ってからもうそんなに経つのね。……ねえ、カル。18歳の男なら、もう十分落ち着いていい年齢よ。そう思わないかしら?」

「あ、ああ」

 

 父さんが隣村から母さんを娶ったのも18歳だったと聞かされていた。だから否定はしなかったが、なぜ急にそんな話を始めたのかわからず、目を白黒させて聞き入ることしか出来なかった。

 

「旅もいいけれど、いつまでも続けられるわけじゃない。それよりも、大事な人と結ばれて、どこかの村で小さな家と畑を持って、子ども作って、一家で耕して……。あちこち転々としてる私が言える義理じゃない。でも、だからこそ、素敵なことだとわかる。とても幸福で、冒険並みに難しい身の振り方よ。少なくとも、明日の同じ時間にはもしかしたら死んでるかもしれない、なんて不安に毎日苛まれることはないわ」

 

 そこで台詞を切って、いつに無い真剣な目線を俺から屋敷に向ける。爆発ではない、死者を送るための厳かな炎が屋敷を()べる前で、アキリヤは幼子のゾンビを抱き締めていた。細肩が漣のように揺れ、ゾンビの顔にポタポタと雫が滴る。

 ふと、幼子の唇が震え、ゆっくりと言葉を発した。唇の動きで、「ありがとう、おかあさん」と告げたことがわかった。その表情は、遠目から見ても安らかだった。俺と女僧侶が顔を反らしたくなる苦しさに苛まれる中、アキリヤは幼子に何事か囁き、まるで本当の母のように腐った頭皮を優しく撫でてやった。呪いから解放された幼子はもう反応しなかったが、彼女は背を引くつかせながら髪を撫で付けてずっと抱きしめてやっていた。その仕草に、俺はかつての自分の母親を思い出した。まだ元気だった頃、暖炉の前で、小さかった俺を胸元に抱いて子守唄を聞かせてくれた母さん。その姿と重なり、切なさで目頭がジンと熱くなった。

 

「……あの娘は女の子よ、カル」

 

 真面目な声と表情を貼り付け、目線はアキリヤに向けたまま、女僧侶は押し殺したような声を絞り出す。

 

「例え、全然エルフらしくないエルフでも、私に隠してる秘密の事情があっても、男の子みたいな話し方をしていても―――あの娘は正真正銘の女の子よ。この時代、この世界の者じゃないくらいに情が深くて、人の痛みがわかるほど優しくて、あんたなんかにはもったいないほど最高に可愛くて、旅を続けるにはあんまりにも傷つきやすい、年相応の女の子よ」

 

 女僧侶が何を言いたいのか、察しの悪い俺にはよく分からなかった。それでも年上なりに大事な教訓を伝えようとしているのだと本能で理解して、黙ってその言葉を胸に刻んでいった。だけど、視線はずっとアキリヤから離せなかった。

 燃える屋敷を背景に、彼女が静かに泣いている。熱風に晒されて銀髪と黒衣がはためいても、幼子を抱えて悲しげに涙している。その背中は、初めて出会った時から変わらず、小さいままに見えた。彼女は、あの時から何が変わったのだろう。何を変えてやれたのだろう。

 

「幸せにしてあげなさい、カル」

 

 その言葉にハッとさせられ、俺は女僧侶の横顔を見やった。俺一人では辿り着けない、大事な本質を突かれた気がした。明確な答えを求める俺とは視線を交えず、女僧侶は湿り気を帯びてきた声音で続ける。

 

「あの娘を幸せにしてあげるのよ。大事な人と結ばれて、暖かい我が家で、家族に囲まれながら穏やかな夕日を迎える。そんな、人並みで、至上の幸せを、あの娘に与えるの。それがきっと、あの娘と今まで連れ添ってきたアンタに課せられた、御神の運命(さだめ)よ」

 

 「私が言ってる意味、わかるわよね」。付け足されたその言葉に、「もうガキじゃないんだから」という意味が込められている気がして、俺は思わずムッとして「わかってるさ」と返した。硬化した俺の態度を見て「本当にわかってるの」とさらに念押ししようとする気配を、視線を反らして遮る。本当は何もわかっていないのに。今になってようやく理解できる。女僧侶は不安を煽ろうとしたのではなく、背中を押そうとしてくれていたことを。だが、ガキはガキ扱いされるのを嫌がり、ムキになるものだ。真意を感じ取るには、当時の俺は知恵も余裕も足りなかった。それに、女僧侶もまだ19歳だった。心の内を正確に伝えて、受け取るには、お互いに若かった。

 アキリヤがゆらと立ち上がり、おぼつかない足取りで燃える屋敷に向かう。そうして、幼子の遺体をそっと炎の中に下ろした。幼子は炎に包まれ、穏やかに燃えていく。無念に死んでいった幼子たちが灰となって天に昇る様を、彼女はじっと空を仰いで見送った。幼子たちの魂が、神の御元で本当の母に出逢えるように祈りながら。

 

 もしも、あの遺体が俺だったなら―――?

 

 不意に、縁起でもない考えが脳裏に泡立って、今まで感じたことのないゾッとした悪寒が背筋を貫いた。事実、そうなりかけた。呪いを防いだ奇妙な現象に護られなければ、俺もああなっていた。いや、もっともっと悪い結末に堕ちていた。俺の死体はゾンビとして利用され、アキリヤは無理やり孕ませられて、意思に反した出産を強いられて、やがて殺されて食われていた。そうなった時に彼女が塗れる苦痛と汚辱を想像して、全身に汗が噴き出る。爪が手の平に食い込んで血が滲む。

 

 

『嘘だ、嘘だ』

 

 

 目と鼻の先で絶望に淀んでいくアキリヤの瞳が脳裏にまざまざと蘇る。このまま旅を続けていけば、やがてまた同じ目に遭うかもしれない。取り返しがつかないことになるかもしれない。その時、また奇跡が起きて助かるとは限らない。心中で目を瞑っても、一度顔を出した悪夢と悪寒は消え去ってくれなかった。俺にとって何よりも恐ろしい恐怖は、自分が傷つくことでも死ぬことでもなく、彼女が傷つき、死ぬことだ。

 女僧侶は、最近治安がさらに悪化しているとか、“黒衣のエルフ”の噂が王の耳に届いたらしいとか忠告してくれていたが、正直上の空だった。どうしようもない不安が心に爪を立て、思考が纏まらなかった。

 

 翌日、女僧侶を最寄りの聖神教会に送り届け、俺たちは疲れを癒すこともせずに発つことにした。どちらから言い出すでもなく、黙々と旅支度を始めた。あの屋敷から一秒でも早く離れたかったし、離してやりたかった。口数少なく馬の準備をしながら、俺はふと背後で荷物を纏めるアキリヤを振り見た。

 彼女が、元は違う世界の人間で、男だったということを知っているのは俺だけだ。だから、俺はアキリヤを男友だちの延長のように捉えていた。男の俺と同じように考え、同じように感じていると。だけど、女僧侶の言うとおりだ。アキリヤは、女だ。あの背中を見てみろ。肉体はもう、美しくて華奢な、立派な女そのものだ。俺は彼女よりもそのことをよく知っているはずじゃないか。だったら、内面だって―――もう女になっているのかもしれないと考えるのはごく自然なことだ。考え方も、感じ方も、女のそれに変わっているのかもしれない。成仏していく幼子をあたかも本物の母親がするように慈しむ姿は母性が滲んでいて、尚更にそう思った。

 俺と同じように、二人っきりのどこ行くともない旅を楽しんでくれていると思っていた。何の疑いもなく思い込んでいた。でも、違うのだとしたら? 彼女の願いは違って、俺がむりやり付き合わせてしまっているのだとしたら? 最初に助けてやったという“弱み”に浸け込んで、とんでもなく独り善がりな行為にアキリヤを巻き込んでいるだけだとしたら? まるで地面がなくなったかのような心もとない不安が沸き立ってきて、無性に怖くなった。

 

 その日の夜、川沿いに山を登り、水源に近い上流に差し掛かった時のことだ。それまで無言だったアキリヤが突然「止まって」と俺の腕を引っ張った。その視線の先の川辺では、数え切れないほどの旭光虫が発光して一帯を七色に染めていた。透き通る水面に映り込む無数の煌めきは、まるで天の川のようだ。山奥育ちの自然児()には見慣れてしまった風景の一つは―――だけど、別の世界から来たエルフにとっては、思わず足を止めて見入るほどの絶景だった。

 彼女はまるでセイレーンに誘われるように馬から滑り降り、靴を脱いで素足になると、そのまま冷たい清流に踝まで浸した。旭光虫が麗しい客人を歓迎して音も無く宙を踊り、さらに光を増す。その光を吸い込んで、銀長髪が虹のように煌めき、翠緑色の瞳が一番星のように輝いた。幾重もの光の膜が、彼女を中心にして絹のように風に舞う。女僧侶を届けた教会の飾り窓(ステンドグラス)でそっくりの題材を見た。たしか―――女神、だった。

 

「オレがいた世界より、ずっと綺麗だ」

 

 星が流れる川で、光の中心に佇む彼女がそう囁いた。女神が美しいと感じるのなら、それは間違いなく最高に美しい光景なのだろう。ひどい思いをしても、それでもこっちの世界は美しいのだと……美しいお前に相応しい、お前が留まるだけの価値がある世界だと、伝えたかった。でも、俺にはそんな回りくどく難しいことを伝える頭は無かった。だから俺は、見惚れるアキリヤの傍にそっと寄り添い、彼女が見飽きるまでずっと付き合ってやった。

 『この女を幸せにしてやりたい。今まで一緒にいてくれた彼女に報いたい。それは自分の義務だ』。この時期から、心にそう決めた。でも、決意する度に漠然とした疑問が立ちはだかった。アキリヤにとっての幸せとは何なのだろうか? 旅を続けることなのか。どこかに落ち着いて、誰かと一緒に安らかな日々を送ることなのか。もしそうなら―――その一緒にいる人は、俺でいいのだろうか? “黒衣のエルフ”の隣にいるべきは、馬鹿な脱走兵ではなく、もっと相応しい男ではないのか……?

 今思えば、腹を決めてしまえば答えは手の届くところにあった。だというのに、ガキの俺は物事を斜めに考えて、無意識に遠回りをしてしまった。その所為で彼女を深く傷つけてしまうことになるなんて、想像もしなかった。




眠い。


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その6 エルフとのすれ違い(上)

ぐっちー♪さん、感想コメント感謝です。やる気が出ました。


 さて。この頃になると、ようやく“黒衣のエルフ”の噂にオマケがくっつくようになった。“ドラゴン殺し(キラー)”───つまり俺のことだ。誰が言い出したのかは定かではないが、以降、これが俺の二つ名となった。そして最近、そのまま名字のようなものとなった。脱走兵が大層な出世をしたものだ。たしかに小竜二匹を単独で討伐したりもしたが、二つ名が広まった一番のキッカケは鉄鋼竜の討伐だろう。あの戦いが、まさか俺たちの人生はもちろん世界の命運も変えることになるとは思ってもみなかった。

 

 

 

「剣の材料を探してるんだって?それなら鉄鋼竜の牙がいい。住処の情報を知ってるぜ」

 

 

 

 それなりに賑やかな町のそれなりにひと気の多い情報ギルド。受付前で俺たちにそう話しかけてきたのは、二十代半ばの優男だった。砂色の髪は肩で簡単に切り揃えられている。男にしては少し長いが、高い鼻梁としっくり馴染んでいた。目鼻立ちは整って、スラリと細身で背も高い。でもナヨナヨとはしておらず、手のひらにはまあまあの剣タコ。大勢のゴロツキどもからすれ違いざまに挨拶されるほどには一目置かれている。重心は一本筋が通っていて、動きにも無駄がない。腕っぷしがあるのだろう。それでいて言動の端々に妙な気品があり、下卑たことは言わず、女の扱い方を心得ている。何もかも俺の上位互換といった感じで、初見から気に食わないタイプだと鼻についた優男は、名前をジョーと名乗った。すぐに偽名だとわかった。ありきたりでセンスがないが、場末のゴロツキに慕われてるくらいだからすねに傷があるのだろう。俺も脱走兵ということもあり、特に問いただすことはしなかった。

 

「なんでアンタがそのことを知ってるんだ?」

「おいおい、ここは情報ギルド(・・・・・)だぜ。“ドラゴン殺し”殿」

 

 警戒する俺に、ジョーは肩をすくませてウインクした。自然な仕草で、得物を持たない空の両の手を見せつける。敵意はないという意思表示だった。だが、ジョーの背後に無言の微笑を湛えて控える秘書めいた女は、手首の裾に隠したナイフの柄にいつでも指を掛けられるように警戒を途切れさせない。忠実で腕の立つ手下だ。こういう手合は、これ見よがしに自分の筋肉と武器を見せつけて高圧的に迫る奴より交渉が上手いと相場が決まっている。俺の神経はさらに尖った。

 その時、たしかに俺たちは新しい剣の材料を捜していた。というのも、俺の筋力に耐えられる既製品の剣がもう見つからなくなっていたのだ。手に入るなかで一番頑丈な鋼の大剣も、表皮の硬いモンスターとの戦いを3度ほど重ねると、振り回している最中にポッキリと折れてしまうのだ。切れ味が落ちるのなら研げばいいが、折れてしまっては役に立たない。

 

「アー!?壊した!また壊した!それ高かったんだぞ!!」

 

 などと、剣を壊すたびに会計担当のアキリヤがしっぽを踏まれた猫のような悲鳴をギャアギャアとあげるので、いい加減に頑丈な剣が欲しいと思い始めていた(いつの頃からか財布はアキリヤに預けていた)。この頃には大抵の難しい依頼はこなせるようになって、俺たちは多少の小金持ちになっていた。

 

「何本も予備の重い剣を背負うのは体力の無駄遣いだし、なにより金の無駄遣いだ。懐には余裕があるし、既製品が駄目なら素材を集めてとびっきり強いのを特注してもらうしかない。馬鹿が馬鹿みたいに振り回しても壊れない馬鹿げて頑丈な剣をな!」

 

 アキリヤは収入と支出を管理する紙束と睨みっこをしながらそう提案してくれた。その男じみて当てつけがましい乱暴な言い草が絶世の美少女の美貌から放たれたと知覚すると、そのギャップのせいで無性にムラムラと肉欲が湧き上がった。紙束が空中に舞って、悲鳴と抗議の声がそれに続いて、そして朝になった。窓から差し込む朝日を見上げて、俺は息も絶え絶えなアキリヤに「そういえば剣の素材がどうしたって話だったっけか?」と聞いた。力の入らない脚で腹を何度も蹴られた。

 というわけで、情報ギルドに足を運んだわけだ。なので、状況的にはジョーの話はまさに渡りに船だった。

 

「“黒衣のエルフ”殿、お噂はかねがね。尊貴なるエルフ族の御方が人間族に深く肩入れして下さって感謝しています。我が種族を代表して心から礼を伝えたい。しかし、実物がこんなに可憐だとは。噂以上の美しさですね。思わず見惚れてしまいましたよ」

「あ、えと、はい、どうも」

 

 当時の未熟な俺は、その船の到来を素直に喜べなかった。悶々とした怒りは、自分の上位互換に言い寄られてハッキリと拒絶の態度を取らないアキリヤへも向けられた。アキリヤにしてみれば、礼儀を伴った女扱いをされたことはこの世界に来て初めてのことで驚いていただけなのだが、グール未満猿以上にはそこまで考えられる知性がなかった。一番近くにいた俺はアキリヤが元男であることを知ってるから、今から本物の女扱いをするのも変な話だ。そもそも学がないから女の煽て方なんてまったく知らなかった。自分に出来ないことが出来て、自分の知らないことを知っている、身のこなしが爽やかな年上の男の出現は、グール未満猿以上を焦らせるには十分だった。

 今思えば、ボタンの掛け違いはそこから始まったのだろう。己の未熟さのせいで、アキリヤにもジョーにも申し訳ないことをした。

 

「さて、“ドラゴン殺し”殿。お困りなんだろう?俺たちのパーティーが鉄鋼竜の住処に案内する。腕利きの鍛冶屋も紹介する。なんだったら料金も口利きしよう」

「そりゃあ、ありがたい話だな。んで、その見返りはなんなんだ?」

 

 俺はアキリヤとジョーの間に無理やり身体をねじ込むと敵意丸出しにそう言い放った。少しだけ俺のほうが背が高いことに、頭の隅で優越感よりも安心感を抱いた。ジョーに勝っているところが見つかったからだ。

 俺の硬質な物言いに秘書の女が殺気立つが、それを振り返りもせずに察したジョーは後ろ手をヒラヒラと降ってナイフに指を掛けようとする女の初動を制した。一瞬だけ女と目が合って、瞬時に互いの実力を推し量る。年かさはジョーと同じくらい。タイトな服に身を包んでいるが、ほとんど張り詰めた筋肉だ。気が短いが、かなり腕が立つことまで感じ取れた。広い場所なら圧倒できるが、狭い場所なら押されるのは俺の方だと直感で理解した。そんな直感が働くようになった自分の成長に若干の感動を覚える俺の肩をジョーの手のひらがポンと軽く叩く。

 

「若き“ドラゴン殺し”殿。君の用心はもっともだ。これほど美しい女性と轡を並べているのだから、見知らぬ男に警戒するのはナイトとして当然だ」

 

 目と鼻の先でジョーが俺にウインクし、次いで俺の肩越しにアキリヤに再びウインクする。背後で年頃の女のように照れる気配がして、俺はさらに表情を憮然とさせる。俺には照れたことなんてないくせに。

 

「会ったばかりなのにそこまで好意を受ける理由がねえ。俺たちはアンタらを知らないんだ。一方的に知られてるってのも気分がいいもんじゃねえ。それに鉄鋼竜なんざ軍の小隊を何個か突っ込ませてようやく討伐できるような超高難易度の大物だ。犠牲覚悟で挑んで死人を出しながらも傷を負わせて退散させるのが関の山、なんて話も聞くぜ。裏の目的があると穿って見るのは当たり前だろ」

「カル!失礼だろ、なに熱くなってんだよ」

「いや、“ドラゴン殺し”殿の言う通りだ。実を言うと、これは協力依頼(・・・・)なんだ」

 

 「依頼?」と思わず呆けた顔で聞き返した俺に、ジョーは鷹揚に頷いて背後のテーブルを顎で指し示す。

 

「そうだ。俺たちのパーティーも鉄鋼竜の骨肉が欲しいのさ」

 

 大きなテーブル3つを専有して、鍛え抜いた男女たちがこちらを観察していた。上は60歳近く、下は10代前半の老若男女グループだが、全員がやけに筋肉の肉付きが良くて、目つきも肝が座って鋭かった。軍隊にいた時の経験から培われた直感が、「どいつもこいつも軍人みたいな連中だな」と心中に呟いた。60歳の爺さんも、鍬や鋤より剣を握ってそうな雰囲気だ。これがジョーのパーティーだった。パーティー名は『残響(エコー)』。「どうも」と小さく会釈したアキリヤに、全員がタイミングを測ったように揃って会釈を返す。息ぴったりの様子に、この大所帯パーティーの練度を理解した。こいつらを束ねるジョーが只者ではないことも理解した。もしかしたら、俺よりずっと強いのかもしれない。

 

「見た目は怖いけど、みんな誠実そうじゃん」

 

 軍隊にいたこともなく、前の平和な世界でも荒事と関わったことのないアキリヤの目には、単純に「頼もしい」と映ったらしい。俺の服の裾を指先で引っ張って嬉しそうに言う。

 

「ジョーさんもいい人そうだし、話だけでも聞いてみようよ、カル」

「……好きにしろ」

「な、なに怒ってんだよ」

 

 不安そうな上目遣いで俺を見上げてくるアキリヤを直視できず、俺は目を逸らしてフンと鼻を鳴らした。俺の態度の硬化の理由がわからず、アキリヤが表情を曇らせる。くだらない嫉妬だと自分でもわかっていた。アキリヤは本当に「好人物だ」と評価しただけで他意はないのだ。子供っぽい癇癪であることは痛感していた。痛感しているからこそ余計に態度が硬質になる。自分の上位互換を目の前にしていると、自分が大したことない人間にしか思えなくなった。己の未熟さを突きつけられ、それを一番見てほしくないアキリヤに見られてしまうことでさらに気持ちが沈む。悪循環の堂々巡りだった。

 

「一応、話がまとまったと捉えていいのかな?それでは、食堂に行こうじゃないか。話を詰めよう。今夜は奢らせてくれ。このギルドのブルスト焼きはなかなかのものなんだ」

 

 ジョーは、そんな俺の内心の悶えを持ち前の観察眼ですぐに見抜いた。看破して、しかし嘲笑うことはせずに気づかぬふりをして流してくれた。俺はまたもや恥じ入って目を伏せた。大人の余裕を見せつけられて、感謝より恥ずかしさの方が遥かに勝った。ジョーとの差がぐんぐん開いている気がして、俺の焦りは募る一方だった。

 上の空の状態で耳を傾ける俺に、察しのいいジョーは自分たちの状況と俺たちへの協力依頼について的確に話を噛み砕いて説明してくれた。初対面の相手の気遣いまで出来るなんて、俺には真似できない。

 『残響』の連中は、今までの活動でかなり練度も上がり、パーティーレベルもつい先日、最上級に上がったのだそうだ。これを機に鉄鋼竜を討伐して装備も最高なもので整えたいのだという。今のままでも十分に強そうだが、目的(・・)のためにはもっと強くならないといけないらしい。しかし鉄鋼竜の表皮は文字通り鋼鉄並みの強度を誇り、弱らせることは出来てもとどめを刺す決定打には欠ける。そこで“ドラゴン殺し”と“黒衣のエルフ”に目をつけた……ということだった。『残響』の拠点の一室をただで貸すから、討伐して剣が完成するまでそこで寝泊まりするといい、とも提案してくれた。

 

「カル、どうする?」

「いい人そうなんだろ?受ければいいじゃねえか」

「そんな言い方……」

「俺、ここの飯が口に合わなさそうだ。別の場所で食ってくる。ジョー、そいつ頼んだ」

「お、おい、カル!」

 

 戸惑いの声を置き去りにして俺はギルドを飛び出した。これ以上ここにいると、切羽詰まった胸が苦しくて息が出来なくなりそうだった。大切な女(アキリヤ)に認めてほしいのに、今の自分は真反対の行動をしている。衝動で動く自分が恥ずかしく、情けなく思った。こんな自分と一緒にいるより、自分よりもっとマトモで、頭も良くて、性格も良い男の方がアキリヤに相応しいと思った。例えば───ジョーとか。

 

 

『幸せにしてあげなさい、カル』

 

 

 女僧侶の台詞が耳元で何度も繰り返される。アキリヤの幸せ。普通の家庭を持つ幸せ。普通の男と一緒になる幸せ……。

 それから、俺はアキリヤと普段どおりに接することができなくなっていった。




前回の更新は2017年。今は……2022年ってマ?


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その7 エルフとのすれ違い(下)

日刊ランキング6位、感謝です!


 案内された『残響(エコー)』の拠点は街の外れのさらに外れにあった。川沿いの山の斜面を背に、周囲の風景に溶け込むようにして、分厚い石壁で組み上げられている。傍目にもなかなかデカい建物だった。そこにはギルドにいた連中のほかにも大勢の人間がいた。どうやらパーティーメンバーの家族も総出で属しているらしい。そこかしこで女たちが洗濯をする音や飯を作る匂い、子どもが走り回る喧騒、訓練で汗を流す若者たちの声がして、もはや一つの集落と化していた。拠点の周りにはよくできた堀と穴ぼこが幾つも造られている。軍隊にいた時に散々堀も穴も掘らされたことがあるから、それらが防御戦のためのものだと俺はすぐに見抜いた。

 ざっと拠点の全景を見渡し終えると、ただのパーティーの拠点というより、要塞(・・)のようだという印象が意識のてっぺんに浮かんだ。陣地の組み方もかなり上手い。正直、新兵いびりしか脳のないかつての上官たちよりよっぽど良く指揮して要塞の形が組まれている。この拠点に足を踏み入れてから常に感じている、肌をヒリヒリと刺激する感覚も物々しい印象を補填した。

 

「良く出来てるな。やり過ぎなくらいだ。アンタら、国とでも一戦交えるつもりかよ」

 

 と冗談めかしてせせら笑ったら、その場の全員が一斉に殺気立った。洗濯板を持つ女子どもたちすら手を止めてこちらを睨んでくる。ギョッと肩を跳ね上がらせた俺とアキリヤの様子に何を思ったのか、一瞬だけ観察のために鋭く細めた目をパッとひらいたジョーが「ははは」と軽快に笑った。

 

「お褒めに預かり光栄だね。そう、よく出来てるだろ。最初はここには何もなくて、一から造るのにはけっこう苦労したものさ。なあ、ララ」

「ええ。大変でした。ですが、妥協は出来ません。ここは街の外縁部ということでモンスターや魔族の侵入も考えられるため、防衛戦を考えることはとても大事です。街を護るのも一流パーティーの役目ですから」

 

 “ララ”と呼ばれた女秘書が用意した文章を読むようにスラスラと応える。「すげー!さすが一流!」と感心の声を上げるアキリヤの隣で、俺はもう一度『残響』の拠点を見回した。

 そして気付いた。誰かが俺たちから監視の目をさりげなく逸らしても、他の誰かが必ず引き継いで俺たちの動向から目を離さない。肌をヒリヒリと粟立たせる感覚の正体はこれだったのだ。コイツラは常に警戒を怠らない。“一流の軍人”という印象が再び意識の表層に浮き上がる。そういえば、俺がまだ生まれる前、先王が暗殺される以前は人間の軍隊も規律が行き届いて精強だったと聞いたことがある。堕落して脳のない奴ばかりが出世するような今とは違って、昔はきっとこのパーティーのように引き締まっていたんだろう。その時の俺の思考はそこで止まった。

 

「鉄鋼竜は住処を定期的に変える。それぞれが離れたところにいくつか餌場と巣穴があって、ローテーションで変えているようだが、どこに変えるかは鉄鋼竜の気分次第。あけすけに言えばランダムだな。正直、何度か外れることもあると覚悟してくれ」

 

 俺は「おう」と心ここにあらずといった返事をし、アキリヤは「はい」と素直に頷いた。竜狩りは何度も手掛けたことがあるから、俺たちは大体の生態をすでに知っていた。それを察したジョーが「飛竜(ワイバーン)に飛び方を教えるようなものだったな」と諺を用いてそれ以上の竜についての説明を省いた。

 

「一日に一度、一箇所をトライして、いなければ翌々日に体力と補給品を蓄えて再トライだ。相手は鉄鋼竜だ。慎重に行こう。誰も失うわけにはいかないからな」

 

 そう言って、ジョーは手振りで俺たちを拠点の内側に促した。無作為に付け足した“誰も失うわけにはいかない”という台詞がやけにズッシリと重いものに感じた。気のせいか、その背中の筋肉にピリッと緊張が走ったようにも見えた。今まで何を失ってきたのだろうか。何を背負っているのだろうか。その肩にはパーティーのこと以上の遥かに重い責任が載っかっているように思えた。自分とアキリヤのこと以外を考えたこともなかったガキの俺には想像もできなかった。後で答えがわかった時は飛び上がって驚いたものだ。

 ジョーの姿を見つけた子どもたちがパッとヒマワリのような満面の笑顔を咲かせる。守衛ふたりが心強い頷きを捧げてジョーのために鉄製の門扉を開け放つ。それだけで、ジョーの慕われ具合(カリスマ)が伝わった。

 ジョーが「レディーファーストで」と門扉の手前でアキリヤに道を譲る。“レディー”と呼ばれたアキリヤは耳たぶを朱に染めつつ、「それじゃあ」と歩を進めた。

 

「どうも、お邪魔しま───」

「わあ、母ちゃん、すっごい美人のお姉ちゃんが来たよー!」

「ほ、本当にエルフだ。図鑑以外で初めて見た」

「黒衣だ!カッコいい!」

「なんとまあ、まさか生きてる内に本物のエルフ様をこの目で見られるなんて」

「わっ、わっ!?」

 

 アキリヤが足を踏み入れた途端、わあわあと黄色い声がそこかしこで咲き、あっという間にアキリヤを取り囲んで満開となった。

 

「「「『残響(エコー)』にようこそ、“黒衣のエルフ”様!お待ちしておりました!」」」

 

 歓待の合唱に迎えられ、アキリヤはポカンと口を開けている。元は人間であるアキリヤには、自分がどうしてこんなに珍しげに歓迎されているのか、知識としてはなんとなく理解していても感覚としてはまだ受け入れられていなかったからだ。

 エルフ族という連中は傲慢で排他的で多種族を見下しているから、下等種族と見下している人間の前に姿を現すことは極稀だ。ましてや、分け隔てなく接するエルフなどあり得ない。前述したように、アキリヤは元人間故に人間に対して親近感しか無いし、むしろ同種であるエルフ族に会ったことがないくらいなのだが、これは事態をややこしくするので秘密のままだった。従って、周囲の人間からは“偏見なく人間と関わってくれるとても珍しいエルフ”と捉えられるわけだ。

 熱烈に迎えられた当の“黒衣のエルフ”様は自失からなんとか立ち直ると、照れくさそうに後ろ頭をかいて頬を赤らめる。そして自分を囲む女子どもを見回すと、深々と深すぎるほどのお辞儀をした(これがアキリヤの故国での礼らしい)。

 

「ええっと、皆さんが初めて見るエルフがオレなんかでスンマセン。エルフの端くれのアキリヤです。皆さんの期待に添えられるように頑張ります。これからよろしくです」

 

 その世俗じみた物言いに、今度は『残響』の連中がポカンとする番だった。エルフ族は、遠回りで皮肉っぽい言い回しをする古代方言語を扱うらしい。語尾もえらく間延びして、態度も偉そうで、いかにもお高く止まっている感じなのだそうだ。そんなエルフの口から、事もあろうに少年のような軽々しい言葉選びでお辞儀とともに謙虚な台詞が飛び出てきたものだから、そのギャップで強制的な思考停止に陥ったに違いなかった。

 

「あはは!エルフ様、男の子みたいな喋り方するんだね!」

「うちのお兄ちゃんみたい!ねえねえ、古代方言語ってのは使わないの?」

 

 面食らう大人たちの一方で、子どもたちはアキリヤに興味深々だ。アキリヤが思いの外無害で接しやすいと持ち前の鋭敏な勘で察した子どもたちが、彼女のローブやロングスカートの裾を掴んでぐいぐいと四方八方から引っ張る。「エルフ様に非礼なことを」と顔を青くする大人に親しみのある微笑みを向けて安心させると、アキリヤはスカートの膝裏の布をいっぱしの女のような自然な仕草でたくし込んで子どもたちと同じ視線まで腰をかがめてみせる。

 

「うーんと、その、“郷に入れば郷に従え”って言うしね?それに、長いこと使わなかったから忘れちゃったんだ」

「男の子みたいな話し方をするのはどうしてなの?」

「この話し方が楽なんだ。お上品なのは好きじゃなくて」

「そうなんだー」

「お姉ちゃんのお名前、なんだか難しいね」

「“アキリヤ”って、やっぱり発音が難しいよな。本当はちょっと違うんだ。こっちの言語だとどうしてもアキリヤになっちゃう」

「他のエルフ様たちもそんな名前なの?」

「うーん、どうだろう。オレが一番変わった名前かも」

 

 そう言って、アキリヤは歯を見せて自然体に笑った。彼女を中心に、人々の雰囲気がどんどん和らいでいくのがはっきりと感じ取れた。山賊に襲われたあとは人間不信になって震えていたのに、彼女の成長ぶりに小さな感動を覚えた。同時に、アキリヤが自分の庇護を必要としなくなってきている事実に大きな寂しさを覚えた。日の当たる場所に出ようとするアキリヤと、これからも脱走兵として影に隠れ続けなければならない自分との間にある大きな隔たりが明らかになるに連れて、俺は心臓を締め付けられる痛みに密かに臍を噛んだ。

 

「良い娘じゃないか、“ドラゴン殺し”殿。この大変な時勢に、あの純粋さをよくぞ守り抜いたもんだ。大したもんだよ」

 

 俺の上腕を肘でつつき、ジョーが片眉を意味深に引き上げてニヤリと笑った。アキリヤを褒めつつ、“黒衣のエルフ”の名声にすっかりお株を奪われた俺のフォローも忘れない。一方的なライバルとしてどんなに気に食わなくても、ひどく劣等感を刺激されても、俺はジョーという男を憎めなくなっていた。自分より優れた男として認めざるを得ないと思った。

 

「ああ……俺なんかにはもったいない女だ」

 

 隣でジョーが眉をひそめる気配がしたが、俺は無視をした。“消えてしまいたい”と激しく胸を痛めたのは、後にも先にもこの時だけだった。




短くてすみません。


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その8 エルフとの仲違い

若い男女のすれ違いはベネ。片方がTSっ娘なら尚さらベネ。


「アキリヤお姉ちゃん、ねえ、これ見て、これ!」

「わかった、わかったよ!引っ張るなってば!」

「アキリヤお姉ちゃんとっちゃダメ!私とお料理の練習するんだからぁ!」

 

 子どもたちとじゃれ合う人気者のアキリヤを少し離れたところの陰から眺める。陽の光を浴びる一点の曇りもない白い肌がキラキラと輝いている。まるで内側の魂そのものから神々しい光が漏れ出ているようだ。その光景がたまらなく眩しくて、俺は彼女から暗い目を背けて俯いた。

 

 それまでの宿を引き払って『残響』の拠点に仮の居を構えてから一週間ほど経った。鉄鋼竜狩りの準備のためだ。装備を整えたり、鉄鋼竜について情報を整理したり、前衛や後衛の役割分担と連携を確認したり、作戦を打ち合わせたり。決め手となるアキリヤの魔法についてはもっとも入念に確認された。アキリヤの魔法の威力を実際に目にしたジョーたちは一様に言葉を失っていた。この世界では弱いとされる攻撃魔法も、アキリヤに掛かれば拠点の石灰岩の壁に大穴を穿つ。「さらに強い魔法を打つことは出来るのかな?」と怖いもの見たさを滲ませて問うたジョーに、アキリヤはイタズラを思いついた少年の笑みで「場所を変えましょう」と返した。

 

「───もう少し詠唱に時間を貰えるなら威力をもっと上げられますよ。まだ魔力に余裕はありますし、試してみましょうか?」

「……いえ、もう結構です。十分ですわ。これ以上されると周辺の地形図を書き換えないといけなくなります」

 

 鉄面皮のララも呆然とそう返すことしか出来ず、さしものジョーも開いた口が塞がらなくなっていた。眼前の大地に巨大な地割れを刻んだのが、のほほんとした矮躯の美少女だということが信じられないようだった。

 

「鉄鋼竜は手強いから最悪も覚悟してたが、これは案外、お嬢ちゃんのおかげで楽勝かもな」

「あんまり期待値を上げないでくださいよぉ」

 

 ヒゲの目立つ年かさの冒険者に褒められ、アキリヤが満更でもなさそうに後ろ頭を掻いた。平和な世界からやってきたために人懐っこい性格のアキリヤは、拠点の連中に好意的に迎えられていた。最初は“黒衣のエルフ”という大層な噂のためにおっかなびっくり恐れ慄かれていたものの、寝食を共にするに連れてすっかり恐怖を抜かれ、まるで以前からの住人だったように拠点の面々と馴れ親しむようになっていた。黒魔術師の一件で落ち込み気味だった彼女には平和な日常は良い癒やしとなったようで、笑顔にも屈託の無さが戻っていた。

 

「な、なあ、カル。見てほしいものがあるんだけど───」

「悪い。また今度な」

「あ……」

 

 その頃、俺はアキリヤから意識的にも無意識的にも距離を置くようになっていった。アキリヤは俺の態度を不審に思ってか積極的に話しかけようとしてくるが、俺は敢えて歩速を早めると振り切るようにして拒絶した。そうすれば、少しずつ愛想を尽かして俺への依存が薄れると思ったからだ。彼女は“英雄”だという直感があった。輝かしい表舞台に歩み出ようとする彼女を引き止めるだけの価値は自分には無いと俺は思い込んでいた。

 アキリヤはこの世界に飛ばされてきただけで、何かの罪を背負っているわけじゃない。言葉や文化を知らないというハンデもなくなった今、彼女は自由だ。前の世界で培った豊かな知識を背景に、魔法の腕と威力は天井知らずに上がっていく。アキリヤが本気を出せば、安宿の屋根どころか城一つだって吹き飛ばせるに違いない。他の知識だって、この世界で身を立てるためにいくらでも役に立つに違いない。

 一方、俺は違う。がむしゃらに剣を振るうしか脳のない、腕っぷしだけの男に過ぎない。アキリヤとの実力差は開く一方だ。それに脱走兵ということも尾を引いている。軍隊からの脱走について、この王国の処罰は重い。先王を暗殺で排した現王は寛容さの欠片もなかった。時効などなく、脱走兵の故郷の家族も連座で処罰される。処刑されたあとに見せしめで死体を磔にするほどだ。故郷に家族などいないが、捕まってしまえば俺は間違いなく処刑される。アキリヤに注目が集まれば集まるほど、俺が軍隊に見つかる危険性は高くなる。そんな後ろ暗い枷を足に嵌めた俺がいつまでもくっついていては、アキリヤのせっかくの可能性の足を良くない方向に引っ張ってしまう。俺自身のアキリヤへの依存は薄れる気配すら無かったが、その度に“アキリヤを幸せにするためだ”と思い起こして無理やり執着を振り払おうと努力した。

 もちろん、アキリヤを抱くこともしなくなった。今にして振り返ってみれば、自分の意志で彼女と身体を重ねなかった最長記録はこの時期だろう。健全な思春期(いろぼけ)のガキにはそれが一番キツかったかもしれない。今考えてみれば、もったいないことをしたものだと後悔するばかりだ。

 

 彼女と交わらなかったせいかは定かではないが、俺はいつなんどきでも集中力を欠くようになった。いつもなら考えなくても避けられるゴブリンの棍棒に強かに打ち据えられたり、止まって見えるくらい慣れていたはずのオークの石剣を受けそこねるようになった。不可思議なまでの肉体の頑丈さのおかげでその程度のこと(・・・・・・・)はすべて軽症で済んだが、アキリヤに「お前最近おかしいぞ」と今にも泣きそうな顔で心配された。

 

「俺なんかより自分の心配してろ」

「“俺なんか”ってどういうことだよ?そんな言い方、今までしなかったのに」

「うるせえな。別にいいだろ。死にはしなかったんだから」

「そういう問題じゃ……おい、待てよ!逃げるな!」

 

 乱暴に会話を区切って俺はアキリヤから離れると、ジョーに視線を流す。ジョーは腕組みをして呆れ顔を返してきたものの、説教臭いことは言わずにただララに目配せをした。俺の“アキリヤを任せた”という意思を正確に汲み取ってくれたのだ。

 

「なんなんだよぉ……カル……」

 

 俺は、背後でララに慰められるアキリヤの気配に後ろ髪を引かれながら、ギルド近くの酒場に向かった。当時18歳の俺は酒を呑めるようになったのをいいことに、すっかりそちらに逃げるようになっていた。自棄酒というやつだ。いくら呑んでも酔い潰れることはないくらいには強く、その時はそれが疎ましいと思った。酔い潰れて全てを忘れてしまいたかった。

 自分の調子が悪いことは痛いほど自覚していた。実際、痛い思いもしていた。でも、どうしても集中出来なかった。命を張った戦いのなかでも、気が付いたらアキリヤのことを考えていた。子どもたちと無邪気に遊ぶ彼女の微笑みは女神のようだった。女たちに混じって料理を学び始めた彼女の一生懸命な横顔がたまらなく愛おしかった。彼女の手料理を食べられる男はどんなに幸運か。

 アキリヤの笑い顔、アキリヤの怒り顔、アキリヤの泣き顔。全てに心を奪われる。目を瞑るだけで、月の光を織り込んだような銀の長髪と鮮やかなカラメル色の瞳が瞼の裏に翻る。角度によっては黄金色に光るその双眸に喜びが溢れるとき、俺はかつて経験したことがない満ち足りた気分になれる。学のない俺でも、“美しい”という言葉は彼女のためにあるのだと理解できていた。他のすべてが曖昧でもそれだけは世界で唯一の真実だと理解できていた。彼女との思い出を頭から取り出して、余さず胸のなかに抱きしめたいくらいだった。どんな思考を巡らせるにも、自分のことはまったく意識になく、ただアキリヤにとって良い未来とは何かだけを悩んでいた。その未来像に、彼女に寄り添う自分の姿が見出だせないことに心を痛めていた。“英雄となったアキリヤ”は容易に想像できても、“彼女に相応しくなった自分”がまったく想像できなかった。グール以上猿未満は、そういった“悩む”ことに掛けては絶望的に不向きだった。

 肝心の鉄鋼竜狩りでもそれは証明された。今までで一番の最悪な結果として。

 

 

 

「“ドラゴン殺し”、前に出過ぎだ!フォローしきれないぞ!」

「うるせえ!誰が助けてくれっつった!!」

「まったく、分からず屋め!アキリヤ殿の魔法がもう少しで練り上がる!タイミングを誤るんじゃないぞ!」

 

 ジョーの警告を無視した俺は鉄鋼竜の懐に向かって飛び込んだ。見上げれば、弱点の首がはるか高い。まるで小山だ。人の頭ほどもある鉄鋼竜の目玉がグルリと眼孔でうごめいて俺の視線と交差する。「この首が欲しければかかってこい」という強者の意思を感じた。背筋を流れる多量の冷や汗を知覚しながら、俺は神経をジリジリと灼く戦慄に奥歯を噛み締めた。握りしめた新品の大剣がまるで弱っちい木の枝のように思えた。

 

 何の因果か、鉄鋼竜はわずか2回目の探索で発見できた。「こんなことは初めてだ。エルフ殿に幸運を呼んでもらったかな」と『残響』の精鋭を率いるジョーがニヤリと笑みを浮かべたが、笑顔は目元にまで届いていなかった。俺とアキリヤはおろか、百戦錬磨の冒険者たちも全身に緊張を漲らせていた。

 

「アキリヤ殿、“エルフの寵愛”をよろしく頼みますぜ」

「寵愛ってのはよくわかんないですけど、魔法なら任せてください!ここいら一帯事吹っ飛ばしてやりますよ!」

「おいおい、それじゃあ牙も鱗も手に入らないじゃないか」

「あっ、そうだった」

 

 戦いの前の恐怖に全身を強張らせながらも、アキリヤはあえて笑顔を見せて胸を叩く。健気な様子に勇気づけられた壮年の精鋭たちが緊張をほぐされてわずかに微笑む。保護欲求の滲む目は自分の娘を見ているようだ。『残響』の連中は、冒険者だというのに何故かどいつもこいつも学があって、規律が身についていて、信心深かった。そしてアキリヤに“エルフの寵愛”とやらを求めていた。エルフは神の血を引く最後の種族だから、その寵愛を受ける者には神の加護があるという。そんなものただの迷信だと、経験上、神の存在を信じられない俺はすっぱりと噂を切り捨てた。

 

「なあに、アキリヤ殿の魔法の威力は信用しているさ。各自、肝に銘じておけ。我々はあくまで時間稼ぎと囮だ。アキリヤ殿から意識を逸らし、射程内に誘き寄せることに専念しろ」

 

 「おう!」と押し殺した声で精鋭たちが頷く。その台詞は俺に対しての念押しの意味が含まれているに違いなかった。アキリヤの心配げな視線を頬に感じたが、意固地になった俺は全てを無視してむすっと押し黙っていた。

 茂みに身を隠す俺たちのことを知ってか知らずか、森の木々をバキバキと音を立ててなぎ倒しながら鉄鋼竜が威風堂々と闊歩する。竜種における最強の一角、鉄鋼竜(アイアンドラゴン)。名前の示す通り、その表皮(ウロコ)はまるで鎧のように分厚い。狩ることができればウロコはもちろん、膨大な体重を支える強靭な肉も骨も有用だ。しかし、特に引く手あまたとなるのはその牙だ。何度も焼入れした鋼より遥かに硬いとされるその牙で剣を造れば、岩のような盾すら布のように難なく切り裂く強力無比なものになるという。しかも今回、俺たちが巡り会えたのは、おそらく齢にして100年以上は生きている強者中の強者の鉄鋼竜だった。コイツの牙から造られる剣は世界最強となることは疑いようもない。

 それがあれば俺はもっと強くなれる。もっと強くなれば……脱走兵であることも跳ね除けられるくらい強くなれれば、もしかしたら俺だって、アキリヤとずっと───

 

 

 

「カル!!真上!!」

 

 

 

 アキリヤの切羽詰まった声に、俺は一気に現実に引き戻された。また集中を途切れさせてしまった。ほんの一秒だ。正真正銘の命をかけた戦いの最中ではあまりに長すぎる放心だ。視界の上端から唸りを上げて鉄鋼竜の尾が振り下ろされようとしていた。「真上」というアキリヤの警告に、鞭打たれたように両腕が勝手に跳ね上がった。脳で考えるより先に脊髄反射で鋼の大剣を防御に回す。次の瞬間、全身をズンと貫いた衝撃を俺は一生忘れることはない。両足が地面にめり込み、筋肉の筋がブチブチと音を立てて何本も破断し、噛み締め過ぎた奥歯がビスケットのように欠けるほどの衝撃だった。

 

「……くそッ!」

 

 その程度のダメージ(・・・・・・・・・)よりも問題だったのは、大剣が粉々に大破したことだった。『残響』お抱えの優秀な刀鍛冶が丹精込めて造った新品の大剣が、まるで薄っぺらいガラス細工のようにバラバラになって(みぞれ)のように降り注ぐ。得物をなくし、徒手空拳(がけっぷち)に追い詰められた俺を鉄鋼竜がギロリと睥睨する。歪められた口端から鋭い牙が覗く。「未熟者め」という侮蔑の意思が垣間見えた。

 

「“ドラゴン殺し”、逃げろ!魔法が来るぞ!」

「いけません、殿下!手遅れです!もう止められません!」

「離せ、ララ!主君の命がきけぬのか!あれほどの若武者をむざむざ失うなど───」

「貴方様を失ってはこの王国の未来が───」

 

 後方で、助けに駆けつけようとしてくれているジョーとそれを羽交い締めにして必死に制止するララの押し問答がかすかに聴こえた。命の危機に限界点まで張り詰めた神経が頭蓋を耳鳴りでいっぱいにして、俺はそれどころではなかった。耳鳴りの隙間に「逃げて」というアキリヤの悲鳴が響く。アキリヤの魔法は最終段階まで練り上げると解放するまで止めることは出来ない。レンサ(・・・)反応が継続するリンカイ(・・・・)状態となるのだそうだ。後頭部の髪を灼く恐るべき熱量をうなじで感じながら、俺は心のなかで「自分にお似合いの終わり方だ」と自嘲気味に呟いた。たまたまエルフ(アキリヤ)を助け、運良く今まで死ぬことなく共に過ごせた。どこかで早々に死ぬはずだった田舎者の兵士が、絶世の美少女と巡り合う望外の幸運に恵まれた。その代償はいつか訪れるという予感がしていた。ついに溜まりに溜まったツケを払うことになっただけだ。

 

「───!!!」

 

 だが、簡単に諦めるような潔い性格はしていなかった。勝利を確信して高いところから見下してくる鉄鋼竜への反発心が勝った。生への渇望ではなく単純な怒りに任せて拳を握ると、そのままグンと風を切って思い切り振りかぶった。自分が何を叫んだのかは覚えていない。意味のあるものではなかったろう。蛮声というやつだ。自分を中心として世界全体に波紋が広がった気がした。後で聞いたところによると、俺の雄叫びはまさに“竜”のそれであったそうだ。

 迫りくるアキリヤの魔法の火球に驚いたのか、それとも俺の雄叫びに気圧されたのか、鉄鋼竜の動きがビクリと恐怖を孕んで一秒だけ止まった。その隙を俺は見逃さなかった。ほんの一秒だ。正真正銘の命をかけた戦いの最中ではあまりに長すぎる放心だ。俺の破れかぶれの拳が鉄鋼竜の胸部に深々とめり込むのと、魔法の火球がドラゴンに直撃するのはまったく同時だった。

 

 

 

「このバカ!大バカ!お前なんかグール以下だ!なに考えてんだよ!死ぬところだったんだぞ!!」

 

 

 『残響』の連中は黙して口を挟まない。しかし、非難の目が全身に突き刺さる。だが、俺の胸を殴りつけながら涙を浮かべて怒鳴りつけてくるアキリヤの視線の方が何千倍も痛かった。

 結論から言えば、俺は死ななかった。アキリヤが無理やり火球の軌道をズラしてくれたことで助かったのだ。俺のすぐ背後には、胴体に人の背丈ほどもある鋸歯状の穴を穿たれて絶命する鉄鋼竜が四肢を投げ出して寝そべっていた。『残響』の専門メンバーが家ほどもある巨体をよじ登って検分している。犠牲者ゼロ、見事な討伐大成功だ。とは言え、傍目から見ていた人間にはかなり際どかったらしく、俺が死ななかったのは奇跡以外の何物でもなかったらしい。鉄鋼竜の血飛沫を頭から浴びて冷却されていなければ、今頃は全身大ヤケドで丸焦げになっていたそうだ。アキリヤが罵声激しく俺を責め立てるのはまったくもって理にかなっていた。全員の足を引っ張った。俺は本当に大馬鹿だった。プロフェッショナルたちのなかで自分だけがお荷物になっているという疎外感が背筋を這い登ってきて、途端に自分はここにいるべきではないという劣等感へと変貌を遂げた。胸元へと視線を下ろせば、アキリヤがぐっと食い入るように俺を見ていた。その目に失望の色が浮かんでいるように見えた。自分がこの世で最低の男だと思わされる双眸を直視できず、俺は顔を俯けてアキリヤから目を逸らした。

 

「なあ、本当にどうしたんだよ?お前、最近おかしいって。こんな戦いの最中に油断するようなことなかったじゃんか。何があったんだよ?なんで俺を避けるんだよ?俺たちの仲だろ、せめて理由くらい───」

「“俺たちの仲”っての、もう終わりにしないか」

「───え?」

 

 俺の服を掴むアキリヤの指が凍りついたように動きを止めた。場の雰囲気すら凍りついたような冷たさを耳輪に覚えながら、俺は整理しきれないままの自分の感情を吐き出した。

 

「俺たちは相応しくない。わかるだろ。俺がいなくてもお前はやっていける。俺なんかいらないじゃないか」

「な、なんだよ。どうしたんだよ。悪い冗談はよせよ。今までずっと一緒にやってきたじゃん。あ、もしかしてアレか?魔法で吹っ飛ばしかけたから怒ってるのか?ははは、ガキ臭いなぁ。それだったら謝るからさ、だからそんな……」

 

 声が震え、語尾がか細くなっていく。悲しませたいわけじゃないのに。幸せにしてやりたいのに。だというのに、俺はアキリヤの顔を曇らせてばかりだ。それもこれも、俺なんかが一緒にいるからだ。俺なんかが。

 

「もう、ここで、お別れだ」

 

 呆然として言葉を失ったアキリヤを無理やり引き剥がすと、俺は逃げ出すようにして───いや、実際、逃げ出した。好きな女に醜態を晒し続けるくらいなら女の前から逃げ出すほうが何倍もマシだと勘違いしていた俺は、全身に残る激痛を無視してその場を後にした。

 

 

 

「───拳の一撃が───」

「───心臓を貫いて───」

「───本当の致命傷は───」

 

 

 

 遥か後方へと流れていく鉄鋼竜の遺骸から断片的な声がかすかに聴こえたが、もはや俺の鼓膜より内側には入らなかった。俺は、生きる意味を自ら放棄した。




Pixivでビンゴ脳さんのTS漫画を読んだ。どうしてこの人がもっと評価されていないのかわからない。最高だ。


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その9 エルフとの別れ

大切なものを失うことで、初めて少年は『男』へと成長する。その一連の流れが『青春』なのだ。


 『残響』の拠点にて、俺は鉄鋼竜の返り血を浴びたままの姿で無心になって荷物をまとめた。アキリヤたちが帰ってくる前に準備を終わらせたかった。それからのことについて何か展望があるわけでもなかった。なにより、真っ白な頭では何も考えられなかった。自分が途方も無い間違いをしているのではないかという直感が金切り声を上げても、それを明文化できる理性も自分を制止する冷静さも俺にはなかった。そういう文明人的な面はアキリヤに任せっきりだったことを痛感する。ただただ自分が不甲斐なくて、情けなかった。このままでは未熟な己に対する怒りをアキリヤへぶつけてしまう気がした。そんな自分から逃げるように、アキリヤから逃げるように、俺は不安定な自分をひと目から早く遠のけたいという一心で革の背嚢(バッグ)に荷を詰め込んでいった。

 

「こんなものか……」

 

 驚き半分、虚しさ半分の呟きが自然に漏れ落ちた。俺の持ち物は自分でも意外なほど少なかった。それも最低限の野営道具だけだ。その少なさ、軽さがそのまま自分の積み上げてきたものの浅はかさにも重なって見えて思わず失笑した。もちろん、金には手を付けなかった。予備の武器もそのままにした。これを手に入れるための金を稼いだのは“黒衣のエルフ様”であってチンケな“トカゲ殺し”じゃない。現金を管理する出納帳がバサリと音を立てて床に落ちた。几帳面にギッシリと数字が並んでいて、アキリヤのしっかりした性格を表している。女物の着替えや下着も出てきて、バニラの花のような甘い香りが嗅覚を刺激する。アキリヤの体臭だとすぐにわかった。ムラと反応した節操のない下半身に嫌気が差した。とにかく自分自身に極大の嫌気が差した。

 

「カル!」

 

 拠点を飛び出して馬に跨がろうとしていた俺の背中に、もっとも聞きたくない愛しい声が投げかけられた。首だけで肩越しにそちらを振り返ると、見たこともないほど動揺したアキリヤがこちらに向かって駆けてきていた。ただでさえ体力不足の細い四肢を必死に振り乱している。そんなにまで俺を必要としてくれているのか。一緒にいてもいいのか。「馬鹿なこと言って悪かった」と謝って、また二人で旅を続けられるのか。

 そう期待したのもつかの間、地面から顔を出していた木の根に足を取られてアキリヤがバランスを崩した。あっと思ったときにはもう遅かった。「きゃっ」と悲鳴があがり、彼女の身体が急角度で地面に傾く。しかし、アキリヤが怪我を負うことはなかった。間抜けな俺が手をこまねいているあいだに、「おっと」と韋駄天のような身のこなしでジョーが彼女を受け止めたのだ。日焼けしたたくましい二の腕がアキリヤの腰に回されたかと思いきや、柳のような彼女の身体を軽々と抱き起こす。その光景は、俺には頬への平手打ちさながらに効いて、実際に打たれたように頬が赤く燃えた。

 俺の視線に気づいたジョーが「しまった」というように顔を顰めるも、カッと頭が熱でいっぱいになった俺にはその意味を察する余裕はなかった。アキリヤとジョーの息ぴったりの仲睦まじい様子をあてつけのように見せつけられて、和らぎかけていた俺の頭は再び衝動的に硬化した。これが世にも有名なみっともない男の嫉妬なのだと自覚して、自己嫌悪が最高潮に達した。

 

「二人とも、達者でな!」

 

 捨て台詞を吐き捨てる雑魚のようにそう言うと、俺は踵で馬の腹を思い切り蹴り上げた。非難の嘶きをあげながらも律儀に走り出す馬にさらに踵をくれてやって、俺はその場から遁走した。ドカカッと蹄が地を蹴るやかましい音が好ましかった。

 背後にいるアキリヤの様子が気になって仕方なかった。俺の名を叫んで「戻ってきて」と懇願してほしかった。俺にアキリヤの隣にいてもいいという甘えた許しを与えてほしかった。恥を(すす)ぐ機会を恵んでほしかった。一方で、「ああ、足手まといがいなくなって清々した」と鼻で笑ってほしかった。俺が彼女を護る騎士には値しないという事実を突きつけて、浅ましい未練を断ち切ってほしかった。だがどちらも聞きたくなかった。どちらを聞いても、きっと自分は真正面から受け止められないとわかっていた。振り返りたくても振り返れないジレンマに悶え苦しみながら、俺は馬に拍車をかけ続けた。こんな別れになるなんて想像もしていなかった。

 

『“愛する者は死んでも護る”、それが我が家の家訓だ』

 

 死んだ親父の遺した言葉が耳元で何度も何度も繰り返されていた。追いすがってくる父親の声を振り払うように、俺は無我夢中になって当てもなく馬を走らせた。

 

 

 

 

 

 それから、二ヶ月(ふたつき)ほど経った。三ヶ月(みつき)になっていたかもしれない。もう日にちを数えることすら億劫になっていた。その晩も、俺は治安が良いとはいえない場末の酒場で麦酒(エール)を煽ることにした。『酒場』と打刻された真鍮のプレートをくぐり、汗臭い男たちの間を縫って空いていたカウンター席を見つけると、どっかと気怠そうに腰を落とす。アキリヤがいれば血色の悪い男まみれの酒場になんか絶対に来なかったし、見栄を貼って疲れた様子は意地でも見せなかったが、その必要もなくなった。

 冒険者ギルドの魔物退治で日銭を稼ぐその日暮らしにも慣れて、俺はすっかり落ちぶれていた。奇妙に顔色の悪い給仕の小僧が運んできたやけに苦いエールを味わう間もなく胃にかっこむと、無精ひげに染み付いた泡を指先で乱暴に払う。身だしなみに口うるさいアキリヤに言われて毎朝剃っていたことが嘘のようだ。ふと指を見ると、伸びた爪の間には土や泥が詰まっていかにも不衛生だ。「女を抱くにもせめて作法ってものがあるだろ」と口酸っぱく言われていたことが遠い昔のようだ。注意してくれる人間がいなくなるとこうもいい加減になるのかと、己の自制心の弱さにヒゲの下で苦笑が浮かんだ。今の俺が、ほんの数ヶ月前まで世のなかの男たちが夢に描く極上の美少女を好き放題出来ていたのだと吹聴しても誰も信じやしないだろう。

 

 『残響』の拠点を出て、馬がもう限界だと諸手を挙げて降参するまで俺は走り続けた。自棄に付き合ってくれた良馬に水と食事をたっぷり与えて休ませたあと尻を二度叩いて帰陣を許すと、今度は自分の足で歩みを始めた。目的地などなかった。ただ、アキリヤの活躍が耳に入らないようなところに行きたかった。

 地平の果てまで続く草原を踏破し、沈む夕日を背後に何度も見送った。保存食と水で腹を満たし、たまに猟をして滋養を得るだけの生活がしばらく続いた。煮炊きはしない。というより出来ない。日々の賄いはアキリヤがしてくれていた。

 

『オレに“あうとどあ(・・・・・)”の知識があってよかったな』

 

 細い腰のうえに載っかった豊満な乳房を反らしてアキリヤが自慢げに笑う顔を思い出す。“あうとどあ(・・・・・)”という聞き慣れない言葉について尋ね、解説を聞き終わった俺が「立派な家があるのにわざわざ屋外(そと)で食生活をするなんざ優雅なもんだ。偉そうなお貴族様みたいだぜ」と皮肉ると、「そんなことを言う奴にはやらない」と皿を取り上げられたものだ。アキリヤの作ってくれた料理は、大雑把だが男が好むガツンとした濃い味付けで美味かった。そういうところはやっぱり元は同じ男だったのだなと今さら気付いた。離れてから気付かされることばかりだと焚き火を見つめながら懐かしがった。

 その日は、焚き火の暖かさに包まれてウトウトとする彼女の肩にそっと布を掛けてやる夢を見た。ほっそりとした柔肩にさらさらとした銀髪が掛かっている。「綺麗だ」と自然に呟きが漏れた。自分の寝言で目を覚ますと霧雨が降っていて、焚き火はかき消されていた。煙だけが虚しく灰色の空に昇って散っていく様子を雨に打たれながらぼんやりと眺めた。胸にポッカリと穴が空いたようだった。アキリヤを失った自分がこんなに空っぽなのだとは想像もしていなかった。彼女の存在は俺にとって計り知れないほど重要だったと思い知らされる日々だった。

 

 捨て鉢になって、ただ歩くために歩くような日々が過ぎ、人恋しさが芽生え始めた頃。不意に、土を掘り返しただけの休耕地が見えてきた。種まきを待つ広大な農地に踏み入り、革靴越しに堆肥の熱を感じるようになった。大地と牛糞の臭いが身体と服に染み付き、無表情な目で部外者を見つめる乳牛たちの視線にも慣れた頃、この僻地の街を見つけた。そこまで大きくなく、かといって顔馴染みしかいないというほど小さくもない。いかにも流れ者が住み着いて出来上がったというようなゴチャゴチャとした街並みが落ち込んだ気分に合ったし、周囲には魔物が出没するので腕が立つ冒険者が職に困らないという事情もあって、俺は深く考えるでもなくそこにしばらく腰を据えることにした。

 この時期は、何を見るにも何を思うにもアキリヤを思い出し、自分の至らなさを振り返るばかりだった。己の未練がましさ、不甲斐なさに打ち据えられていた。自分がこんなに女々しいなんて思ってもいなかった。どうすれば彼女とずっと一緒にいられたのかと足りない頭に問いかけてるも、「俺が脱走兵なんかでなかったら」「俺に特別な力や才能が備わっていたら」とないものねだりの堂々巡りに陥って、やがて酒に逃げる。そうして酒に溺れながら、これでよかったんだと無理やり自分を納得させる。納得したつもりになる。その日に稼いだ金はすべて酒となって胃に流し込まれ、安宿に戻って半ば気絶しつつベッドに倒れ伏せ、またその晩の酒のためにゲップを吐きながら力任せに剣を振るう。女を抱こうという想いは、奇妙なことにまったく湧き上がってこなかった。路端で娼婦から招かれたことも度々あったが、そちらになびくことはなかった。グール以上猿未満とは思えない禁欲生活を過ごしていた。とは言え性欲を失ったわけではなく、アキリヤと激しく身体を重ねる夢を見た翌朝に下穿き(ズボン)の前がこれでもかと汚れていて、年甲斐もないみっともなさに顔に手を当てて呆然自失した。

 

「アンタ、酒ばっかり呑んでないでさ、しっかりまともな飯を食べなよ。若いしそれなりに良い顔なのに、そんな生活してちゃ台無しだよ。早死にしちまう」

 

 すっかり顔なじみになった酒場の女主人が陶器の平皿を俺のテーブルにドンと叩きつけた。焼いた黒パンが皿の上で跳ねる。女主人のシルエットそっくりの胴太な黒パンにオリーブとパセリがこれでもかと盛り付けられている。添え物としてローズマリーとタイムとラベンダーの香りがするチーズまであった。いかにも健康に良さそうだ。この酒場に来ると、女主人は頼んでもないのにたまにこうしてまともな食事を持ってきてくれる。以前、酒場に因縁をつけた狼藉者の顔面に煉瓦のように固く握りしめた拳を叩き込んでやってから、恰幅と気前のいいこの女主人にすっかり気に入られていた。何一つ運任せになどしないと言わんばかりの気の強い女主人は、若くして世捨て人のようになった俺を息子のように気にかけて世話を焼いてくれた。

 

「黒パンか」

「黒パンだよ。他の何に見えるってんだい。まさか人様の善意に好き嫌い言おうってんじゃないだろうね」

「いや、違うよ。俺は好きさ。前のツレが苦手だったんだ」

「ふん。さぞかし良いものばっかり食べてきたんだろうね、そのかわい子ちゃんは」

 

 俺は“前のツレ”としか言っていないのに、どうしてか女主人にはバレていた。ヒゲで顔の半分が隠れているのに、存外、俺は見透かしやすい顔をしているらしい。

 アキリヤの世界のパンとこちらの世界のパンはまったく別物であるようだった。「黒パンは顎が割れるほど硬い」と口にするたびに彼女は文句を言っていた。パンとは本来、もちもちとして柔らかくて甘いものでなければならないのだと拳を振るって力説していた。そんな奇跡みたいなパンなど見たことないし、俺にはこれで十分に柔らかいと返すと、アキリヤは顔をくしゃっと顰めた。そうして黒パンの端っこに小さな前歯で健気に立ち向かっていた。小動物のような愛らしい表情を思い出して自然と微笑む。彼女の姿を二度とこの目で見られないのだと思うと、切なさで胸が締め付けられる。こうする他になかったのかと自問してまた酒に逃げるという悪循環に足を突っ込む。

 振られた女との思い出に浸っていることを察したのだろう。経験豊かな女主人はフンと鼻を鳴らすと「ちゃんと食べるんだよ」とだけ言って踵を返した。その気遣いに感謝して俺は陶器のグラスを持ち上げる。背後に目がついているらしい女主人は振り返りもせずにヒラヒラと手を振って応えてくれた。突き放すような気遣いが心地よかった。こういう自堕落な日々を送るうちに、だんだんとこの生活に馴れてきて、いつしかアキリヤとの日々が一夜限りの都合のいい夢だったのだと笑って懐かしめるようになるのだろう。

 だが、今はとにかく一人でいたかった。一人で心の整理をつける時間が必要だった。グラスに注がれたエールの水面を覗き込んで、目を据わらせた自分自身を睨め殺すように鋭く凝視する。一拍置いて、俺は心中に呟いた台詞を実際に口から発する。

 

「失せろ。今は一人でいたいんだ」

「それがそうもいかないんだなぁ、これが」

 

 取り繕うことに慣れた男の声が背後から跳ね返ってきた。軽薄そうなその語尾に重なるように10人分の足音が酒場に雪崩込んでくると、トネリコ材の床を無遠慮に蹴り叩きながら俺を取り囲む。すり減った鉄鎧と簡便な大量生産品の剣盾が打ち鳴らす耳障りな音楽には聞き覚えがあった。カウンターに座っていた他の男たちが血相を変えて席を立ち、酒場のざわめきが突如としてぷっつりと途切れた。鬱陶しげにゆっくりと振り返れば、見慣れた装備に身を包んだ兵士たちが11人、こちらに剣を向けていた。10人ではなくて11人だった。一人分の足音を聞き逃したことに俺が苛立ちを覚えたと同時に、女主人が声を荒らげて一人の兵隊に詰問する。それは最初に俺に話しかけてきた兵士だった。

 

「なんだい、アンタたちは!兵隊なんかがうちになんの用だってんだい!?」

 

 見てくれの良い顔面を囲う鳶色の前髪を革手袋の指先で撫で付け、兵士が厭味ったらしい笑みを浮かべる。他人を見下すことに馴れた笑み。背丈も年かさも俺とさほど変わらない。こいつ一人だけ装備も立ち振舞いも際立っているが、内面から滲み出る腐臭は隠せていなかった。実力ではなく権威でのし上がることしか能のない、何世代もかけて腐ってきた血筋の臭いだ。

 

「兵隊なんか(・・・)とは随分な物言いだな、バアさん。誰がこの国を守ってやってると思ってるんだ?」

「なにが“守ってやってる”だい!守る相手から食い物も金もヒトも搾取しまくって、どの口が偉そうなことを言うってんだい!先王様のときのほうがよっぽど守ってくれてたよ!王子さまが生きていれば今の王様なんか───」

「バアさん、それ以上はやめとけ。不敬罪で手打ちにしてやってもいいんだぞ?」

 

 「出来るものならやってみな」と女主人が威勢よく楯突こうとするのを手を上げて制した。この兵士は本当に殺すという予感があった。他の兵士たちは素人じみた闘志しか纏っていないが、この兵士だけは本物の殺気を放っていた。この一団の兵士長(リーダー)とみて間違いないだろう。自分より弱いものを殺すことに馴れた口ぶりは、軍隊にいた頃に新兵イビリを好んだ上官にそっくりだった。こういう手合が女主人を殺さないのは、規律正しいのではなく、後片付けが面倒くさいというだけの理由に過ぎない。眼前の兵士から目線を逸らさずに皿の黒パンとチーズを掴むと口に無理やり詰め込む。

 

「俺に用があるのか」

「そうだ。貴様に用があるのさ、“ドラゴン殺し”」

 

 パンとチーズをバリバリと乱暴に咀嚼しながら、大層な二つ名を呼ばれたことに複雑な心境を抱いた。“黒衣のエルフ”に並ぶほど有名になりたいとは思っていたが、知られたくない相手に知られてしまうとは。

 

「その二つ名を知っているくせに、ずいぶん舐めて掛かられたもんだな。この程度の人数で俺をどうにか出来ると考えてるわけねえよな?」

 

 おもむろに立ち上がり、背中の大剣を鞘から引き抜いて凄む。刃毀れしてノコギリのようになった大剣がいぶし銀ににぶく輝いて、兵士たちのあいだにあからさまに緊張が走った。脱走兵を捕まえに来たのかと疑ったが、それにしては様子がおかしい。誰も捕縛のためのロープを持っていない。では見せしめに首を()りに来たのかと思いきや、兵士たちはおっかなびっくりといった様子で俺に剣先を向けて威嚇するばかりだ。兜の下の怯えた表情が透けて見えるようだ。まるで人数合わせで無理やり連れてこられたような低い練度に呆れすら覚える。事態を穿って気配を探ってみても、酒場の外に後詰めがいる様子はない。この程度、普通の人間には狼の群れに見えるかもしれないが、俺には豚の群以下でしかない。酒に溺れて耄碌していようと、一瞬で殺せる。だが、面と向かったままの軽薄な兵士長は何故か勝利を確信していて、その態度は一向に揺らぎもしなかった。

 

「私はゾッド。国王陛下直属の部隊の兵士長をしている」

 

 呑気に自己紹介まで始めた。近づきすぎて、俺の間合いに入っていることに気が付いていないのか。二つ名を知っているということは俺の実力に察しもついているだろうに。いったいどこに勝機を見出しているのか、まったくわからなかった。

 合点がいかずに眉をひそめる俺を見て、ゾッド兵士長がほくそ笑む。

 

「“エルフの寵愛を受けた者は不死身となる“。こんな逸話を聞いたことはないか?」

「ある。眉唾ものだ。そんな都合のいい話があるもんか」

「そうかな。貴様を見ているとあながち嘘とも言い切れない。少なくとも現王陛下はそうは思っていない。王家秘蔵の文献曰く、霊的に神に近くとも肉体的に貧弱なエルフは強靭な他種族の庇護を求め、“守護者”とする。その報奨として神代の恩恵を授けるという。それを授けられることで、守護者は長命なエルフと共に生を全うできるだけの寿命を得るのだとか。高慢と偏見に固まったエルフが他種族と契りを結ぶなど滅多にないが、歴史上、たしかにあったことらしい。それを耳にされた陛下は大層興味を抱いておられる」

 

 確信を言わずに小難しく遠回しにする口の聞き方に腹立ちしか覚えない。「だからなんだ」と口を開きかけた俺に、ゾッドは指を一本立てて得意満面にニヤリと笑いかけた。

 

「ところで、だ。たしかに貴様はこの私より強いのかもしれない。ドラゴンを殺すほどだ。腕が立つのだろう。しかし、私には勝てない。私は貴様より上手(うわて)だ。なぜなら、すでに私は勝っているからだ」

「下手くそなお喋りに付き合ってやる暇はねえ。俺に酔いが回るのを待つ時間稼ぎのつもりなら無駄だ───」

 

 そこで、ゾッドの目線が俺から逸れたことに気がついた。注意深くその先を追って、女主人の傍らに行き着く。この酒場で働いている給仕の小僧が肩を小刻みに震わせながら頑なな視線を床に落としていた。たしか名前はルーサー。今日はやけに顔が青ざめていると思ったことを思い出す。ザワザワとした違和感が腹の中で募っていく。いや、いつもの違和感とは様子が違う。胃の腑が痙攣している。痙攣があっという間に肉体の表層にまで伝わってきて指先までガクガクと震えだす。ハッとしてエールのグラスに目をやり、やけに苦いと思ったことを思い出す。頭のてっぺんから血の気が引いていく俺を嘲笑い、兵士長がわかりきったことを囁く。

 

「即効性の劇毒だ。貴様はすでに、あの裏切り者の小僧に殺されたのさ」

 

 瞬間、胃の内側の皮がベリッと剥がれ落ちたような薄ら寒さに貫かれ、全身に鳥肌が立った。取り返しのつかないことになったという悪寒を伴う確信が肌を泡立たせ、冷や汗が頭頂部から一気に噴き出る。真っ赤に焼けた鉄の棒を突き立てられたような激痛を腹の内側に感じて、俺は身体をくの字に曲げて床に倒れ伏した。胃液が逆流する感覚が喉奥からマグマのように這い上がってくるが、派手に飛び散ったのはどす黒い鮮血だった。

 

「“ドラゴン殺し”もこうなっては呆気ないな」

 

床一面に広がっていく血の水たまりを踏みしめて、ゾッドが俺を見下ろしながら嘲笑する。

 

「これで“黒衣のエルフ”の守護者は片付いた。あとは、人間に馴れたエルフを捕まえて陛下に献上するだけだ」

 

 「片付けておけ」と吐き捨ててゾッドの後ろ姿が去っていく。勝ち誇った高笑いが聴こえる。行かせてはならないとわかっているのに、肉体は言うことを聞いてくれなかった。女主人の悲鳴が耳をつんざいたと思いきや、急激に遠のいていく。大洪水のあとの水のように痛みが引いていく。意識を連れて引いていく。沈んだら二度と戻れない水底(みなそこ)に引かれていく。

 

「アキリヤ」

 

 声にもならない呟きが漏れた。それが俺の最期の息吹だった。




ビンゴ脳さん(@VGr6bAPjiL23aph)のTS漫画がマジで最高だからみんな見て。


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その10 エルフへの想い

 薄暮に支配された街外れの墓地区。緩やかな傾斜地に作られたそこのさらに外れで、たった今、間抜けな新顔が収められた棺が簡素な墓に放り込まれた。木と鉛の板で作られた大柄の棺。無言の葬儀のなか、棺の上に土が山盛りに被せられ、そこに男二人がかりで火成岩の墓石が無造作に載せられる。参列者のロウソクの火が墓石の表面に揺れる影を投げかけている。
 全ての儀式が終わったあと、一部始終を見守っていた酒場の女主人が珍しく頬に涙を伝わらせ、顔を手で覆った。その足元では給仕のルーサーが大泣きしながら「ごめんなさい」と土下座している。
 薄っぺらい石板にはこう刻まれている。『ドラゴン殺しのカル(カル・ザ・ドラゴンキラー)、ここに眠る。不死身ではないが、勇敢だった男』

「“愛する者は死んでも護る。それが我が家の家訓だ”。俺はお前にそう教えたはずだ、カル」

 俺はそれを、親父と並び立って、呆然と見下ろしていた。
 俺は、死んだのだ。


 死んだはずの親父が隣にいることに不思議と違和感は抱かなかった。懐かしいという気分すら湧かなかった。肩が触れ合うほど近いのに、まるでいつもそこにいたかのように気配が馴染んでいた。体格は俺と瓜二つで、年齢は今の俺と10も違わず若い。日焼けした浅黒い肌に皺は少ない。最後に見た時からまったく歳をとっていなかった。その目の裏側に熱源はなく、この親父が生者ではないことを暗に物語っていた。

 ふと気がつくと、知らぬ間に景色が墓場からガラリと一変していた。周囲は鬱蒼とした背の高い森林。頭上には天高く昇った純白の満月。足元に転がっているのは殺されたばかりのグールの死体。

 

 

『行くぞ!』

 

 

 ド素人の斬り方で頭をかち割られたそれを大股で跨いで、痩せっぽっちのエルフの手を引いたガキが背後から迫る軍隊を避けて森へと逃げていく。それは俺がアキリヤと初めて会ったときの光景だった。暗闇へと溶けていく俺とアキリヤの後ろ姿をじっと見つめながら、親父が独り言を呟くように平坦な口調で言う。

 

「死ぬはずだった見ず知らずのエルフの娘をお前は助けた。お前が命を救ってやった。お前は、この時の選択は間違っていないと思っている。衝動的な選択だったが、何度生まれ変わって同じ場面に遭遇しても同じことをするに違いない」

 

 俺はすぐに頷いた。

 また景色が変わった。雨音が反響する洞窟だった。一本だけの松明の明かりがゆらゆらと揺れる薄暗い洞窟の奥で、全身傷だらけになった俺とアキリヤが寄り添っている。アキリヤが俺の背中の深い傷跡に指を滑らせて謝罪しようとする。俺は彼女の口から言葉が出て来る前に、その唇を自分のそれで塞いだ。アキリヤは抵抗もせず、俺を受け入れた。そのままアキリヤを押し倒す形で二人はゆっくりと傾いで、そして熱く絡み合い、交わった。

 

「お前はこの娘の全てを欲した。この世界の者でもなく、別世界の者でもない。人間でもなく、エルフでもない。男でもなく、女でもない。存在があやふやだったアキリヤを“この世界に生きるエルフの女”として定義したのはお前だ」

 

 俺は親父の言葉を噛み締めて頷いた。

 また景色が変わった。蝶の鱗粉のような星々と厳かな月明かりに照らされた平原を俺とアキリヤが静かに歩いている。

 

 

『なあ、元の世界に帰りたいか?』

『……うん、そうだな』

 

 

 そこで会話は止まり、葉擦れと虫の音色だけが二人の間に流れる。触れてはいけないものに触れてしまったような気まずさと息苦しさが二人の間に感傷的な狭間を作っている。

 

「前の世界に未練を残すアキリヤを、お前はこの世界に繋ぎ止めたいと思った。自分から離れて欲しくないと願った。お前はアキリヤに縋り付き、依存するようになった」

 

 俺は反射的に抗弁しようと口を開きかけ、すぐに閉じてゆっくりと頷いた。

 また景色が変わった。陰惨な館の地下で、俺とアキリヤが卑劣漢の黒魔術師を壁際に追い詰めている。

 

 

『頼む、カル。オレの代わりに、そいつを、殺してくれ』

『わかった。俺たち二人で、こいつを殺そう』

 

 

 押し殺しても殺しきれない感情を揺らしながら、アキリヤがそう頼んで、俺がそう返した。拳が振りかぶられ、黒魔術師の頭骨を真正面から穿ち砕いた。グシャッと瓜が潰れるような音が地下に響く。アキリヤは目を逸らさなかった。

 

「お前はアキリヤを護りたいと誓った。一方で、護れなかった時のことを考えて不安を覚え始めた。護りきれない自分の弱さを想像し、自分の限界を勝手に規定し、怖気づいた。浅はかなお前は、アキリヤを幸せにすることが───幸せに出来るかもしれない強くて賢い誰かにアキリヤを託すことが自分の使命だと考え始めた。本人の意見も聞かずに」

 

 俺はかなり長いあいだ黙ってから頷いた。反論できなかった。

 また景色が変わった。『残響(エコー)』の拠点で俺とアキリヤが口論している。

 

 

『俺なんかより自分の心配してろ』

『“俺なんか”ってどういうことだよ?そんな言い方、今までしなかったのに』

『うるせえな。別にいいだろ。死にはしなかったんだから』

『そういう問題じゃ……おい、待てよ!逃げるな!』

 

 

 俯向いた顔でアキリヤにそっぽを向く俺を見て、親父が言う。

 

「お前は成長著しいアキリヤに劣等感を感じていた。自分より優れたジョーという男に劣等感を感じていた。その気持ちを直視することを恐れ、お前は彼女を避けるようになった。意気地の無いお前はアキリヤから逃げたんだ」

 

 カッと額が熱を持ち、頭が持ち上がる。血が昇った俺が「逃げてなんかねえ」と牙を剥こうとして、また景色が変わる。鉄鋼竜の死骸の前でアキリヤが俺の胸ぐらを掴んでいる。俺が彼女の手を無理やり払い除ける。

 

 

『俺たちは相応しくない。わかるだろ。俺がいなくてもお前はやっていける。俺なんかいらないじゃないか』

 

 

 親父は変わらず無言だった。だが、その無骨な横顔がより硬質に張り詰めたように見えた。無表情のなかに静かな怒りが滲んでいた。

 俺は何も言えなかった。口を付いて出ようとしていたガキ臭い悪態が掻き消され、地面を見つめて押し黙ることしか出来なかった。消えてしまいたいほどの情けなさに打ちひしがれていた。

 親父が畳み掛ける。

 

「お前が命を救い、お前が存在を定義し、お前がこの世界に繋ぎ止めた。だというのに、お前はアキリヤを置いて逃げ出した。相応しくないと言い訳して、自分自身の劣等感から逃げ出した。他人(ひと)任せにして何もかもを身勝手に放り出した」

 

 一語一句、事実だった。事実だからこそ心を深々と穿った。俺は取り返しのつかない失敗をしでかしたのだとようやく自覚した。岩を丸呑みしたような重みを胃に感じ、死の直前に味わったものより酷い強烈な寒気と吐き気に苛まれた。

 また景色が変わった。宵闇が肩に降り落ちるなか、俺の墓に給仕の小僧(ルーサー)が縋り付いて泣いている。虚しい旅は終わり、最初の景色に戻っていた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……!他にどうしようもなかったんです……!」

 

 涙と鼻水まみれになりながら謝罪を繰り返すルーサーの背中を見下ろして、心にもたげたのは憤怒ではなく申し訳無さだった。少し前の俺なら「意気地無しめ」と怒りに任せて罵っただろう。「よくも殺しやがったな」と乱暴に腕を振り上げただろう。だが、誰よりも意気地無しなのは己だったと思い知った今、そんなことをしようとは露とも頭に登らなかった。

 女主人はルーサーを責めることも慰めることもせずに傍に立つだけだ。情深く経験豊富な女主人はそれが罪悪感に苦しむ者への最善の処置だと知っていた。

 

「ルーサーを許してやっておくれ。この子は母と妹をゾッド兵士長に人質にとられて、仕方なくアンタに毒を盛ったんだ。このことをバラしたら二人とも拷問されて殺されると言われて、仕方なかったんだよ」

 

 そうだったのか。ならば、怒りを向けるべきはルーサーではなくゾッドだ。ルーサーはなにも悪くない。素直にそう思えた。

 日没とともに冷え込む空気のなか、引き締めた唇を怒りと悲しみに震わせながら女主人が墓石にとつとつと語りかける。

 

「アンタの死体はね、本当は今頃、兵隊たちの馬に引きずられて晒し者にされるはずだったんだよ。それを酒場の皆で取り返したんだ。ルーサーの母と妹も皆で取り戻した。荒くれ者ばかりだからね、なんとかなったよ。軍隊に抵抗したせいで大怪我をした奴らもいる。ゾッドの奴に斬られたんだ。でも後悔はしてないって強がってるよ。“街を魔物から守ってくれた英雄を助けられたなら孫の代にも誇れるぜ”ってうそぶいてさ。もう二度と歩けないかもしれないのにね、やせ我慢してるのさ」

 

 そこで一度言葉を区切り、静かに続ける。

 

「アンタが街に来てくれて、魔物から守ってくれて、みんな助かってたんだよ。女にフラレて傷心のアンタは気付いてなかったろうけど、みんなから頼られて好かれてたんだ。アタシも、バカみたいに硬くて誰も食べたがらない黒パンをバクバクよく食べてくれるアンタが好きだったよ。まるで死んだ馬鹿息子にそっくりで……」

 

 「これから寂しくなるねぇ」。それを最後に女主人の独白は終わった。涙が墓土にポタポタと落ちる。

 

「……すまねぇ」

 

 俺は後悔に歯を食いしばり、唇を噛み千切った。口のなかに鉄の味が広がる。握りしめた拳から血が滲む。俺が逃げ出さなければ、善良な人たちにこんな理不尽な苦しみを背負わせることはなかった。生き返って全てをやり直したいと心から望んだ。アキリヤに謝りたいと心から願った。

 今頃、アキリヤはどうしているだろうか。死の直前に耳に滑り込んだ、「エルフを捕まえに行く」というゾッドの台詞を思い出す。おとぎ話を信じた現王が、賜れば不死身になれるという“エルフの加護”を欲してゾッドを遣わせたとも言っていた。人間嫌いのエルフのなかで、珍しく人間好きなエルフであるアキリヤなら自分にも“エルフの加護”を与えるはずと画策したに違いない。

 アキリヤはきっとジョーのパーティーの拠点にまだいるはずだ。あの連中ならアキリヤを放り出したりはしないだろう。ジョーの率いる凄腕ばかりの『残響(エコー)』は軍隊より軍隊らしく精強だが、さすがに本物を相手にできるほどの規模はない。だが、アキリヤの魔法の破壊力があればどんな敵でも跳ね除けられるはずだ。そう結論付けて自分を安心させようとしても、ハラハラとした胸騒ぎは消えてくれなかった。アキリヤの傍に駆けつけたかった。結果がどうであろうと、彼女がどう思おうと、傍にいたかった。

 

「俺は、大馬鹿だ。肝心なときに役立たずだ。猿以下、グール以下だ。こんな奴、死んで当然だ。そうだよな、親父……」

 

 後悔しても遅い。何もかも遅すぎる。なぜなら、俺は死んだのだから。死人には何も出来ない。死後、愚か者の魂は後悔に悶え苦しみながら無力感に浸るしかない。親父はそれを伝えに来たのだと思った。『愛する者は死んでも護る』という家訓を破ったことを咎めるためだと。この一連の記憶の断片を巡る旅は、俺を罰するためのものだったのだと。

 

「いいや、違う。そうじゃないぞ。未来はお前次第なんだ、カル」

 

 その時初めて、親父の声に人間味が宿ったように聴こえた。ハッとして顔を向ければ、親父もまた俺を直視していた。肉親の情に満ちた双眸が俺をじっと見つめている。そこに罰を与えるような意志はなく、むしろ真逆の希望の光があった。

 

「俺次第?」

「そうだ。お前は今この世にただ一人、“エルフの加護”を与えられた守護者で、神の使徒だからだ」

 

 またその話かと思った。しかも神の使徒とは大げさ過ぎる。“エルフの加護を受けた者は不死身になれる”なんて、なぜ現王がそんな眉唾話をすんなり信じる意味がわからなかった。エルフと一緒にいただけで超人になれるなんて都合が良すぎると子どもだってわかる。そもそも、それが本当なら、俺はどうして幽霊(ゴースト)となって自分の墓を見下ろしているのか。そうやって眉をひそめて訝しげる俺の心の声を正確に聞いた親父が応える。

 

「お前の心がアキリヤから離れたからだ」

 

 親父が尚も続ける。

 

「“エルフの加護“とは、エルフが自分にとって便利な単なる護衛を生み出すためのものじゃない。加護を得れば超人になれるというように勘違いされているが、伝承が後世に伝わるなかで改変された結果だ。今ではごく僅かな者にしか正確に把握されていない。当のエルフたちですら種族内に引き篭もるあいだに忘れている。生まれながらのエルフではないアキリヤに至っては知る由もないことだ。だが本来は、神の血を引くエルフが自らの伴侶(・・)となる他種族に与える神の奇跡(・・・・)のことなんだ。長命種のエルフが、生涯共に暮らしたいと心から願う短命種のために、己の内に眠る祖神の力を行使することだ。しかし、それは一方的では駄目なんだ。片思いでは成立しない。お互いの一途な想い(パス)が繋がっていなければ、“エルフの加護”は真の効果を発揮しない」

「は、伴侶って」

「エルフは恋をすることで成長が止まる。それは永遠に変わらないはずの魂の形が想い人に合わせて変質するからだ。高熱に晒された鉄のように、恋の熱によって変形するのだ。エルフがいつまでも若い姿なのはそのためだ。アキリヤの成長がとっくに止まっていたことに気づかなかったのか?もうだいぶ前から背が伸びなくなっていたろう」

 

 即答できない俺に、親父の片眉が跳ね上がる。

 

「この唐変木のエロガキめ。乳と尻ばかり見ているからだ」

「う、うるせえな!いいだろ別に!」

「いいわけがあるか。だから女心が分からずに傷付けるんだ」

「……アイツはもともと男だ」

「それが言い訳になると思ってるのか?」

「………」

 

 むっつりと頬を膨らませて黙った俺に親父はやれやれと腰に手を当ててため息を吐く。父親に呆れられて責められているのに、俺はなんだかくすぐったい心地良さを覚えていた。親子で素直な会話を出来ることが嬉しかった。もしかしたら、親父もそうだったのかもしれない。ふっと鼻息一つ落とすと、「やっぱり俺の子だな」と温かみのある苦笑いを浮かべた。

 

「薄くなっていても神の血をひくことに違いはない。神の末裔といってもいい。その奇跡を得るということは、すなわち“神の使徒”になるということに他ならない。魔物や黒魔術や闇魔法はお前を害することはできない。覚えがあるだろう?」

 

 意識が記憶の棚を探り、すぐに思い当たった。捉えられた女僧侶を救出する際、黒魔術師に呪いを掛けられそうになったことがあるが、奇妙なことに俺にはまったく通用しなかった。魔物による打撃もそうだ。その原因がようやくわかって合点がいったと同時に、その後に女僧侶が俺に伝えようとしてもったいぶった話についても理解できた。女僧侶が「この幸せ者め」と額に手を当てていたのは、俺に“エルフの加護”が備わっているということ───アキリヤが俺を心から想ってくれているということ───を察したからだったのだ。各地を転々として知識豊富な女僧侶は、“エルフの加護”の本当の意味を知っていたのだ。

 目を見開いて、自分の手のひらを見つめる。俺は本当に“エルフの加護”を与えられ、知らないうちにその恩恵に救われていた。アキリヤに、想われていた。

 

「神の使徒が、一度殺されたくらいで死ぬわけがない」

 

 親父が自分のことのように自信を含んだ声で言う。だが、そう言われても現に俺は棺のなかだ。そう口にしようとして、親父に遮られる。

 

「言ったろう、“お互いの想いが繋がっていなければ”と。今は、お前がアキリヤへの想いを無理やり抑えつけたせいで繋がりが弱まってしまっている。もう一度アキリヤと気持ちを通じ合わせれば、再び加護を取り戻せる」

 

 それは確かにその通りかもしれない。親父はこうも言っていたじゃないか。“一方的では駄目だ。片思いでは駄目だ”と。

 

「……俺、アイツにひでえ態度をとったし、放り出したんだぜ」

「愛想を尽かされたんじゃないのかと?」

 

 俺は項垂れ、諦めの言葉をこぼして顔を曇らせる。そんな煮えきらない俺に、親父が頬を掻いて尚も苦笑う。

 

「お前たちがすれ違うのも無理はない。片方の男は、色恋沙汰を教えるはずの父親がさっさとおっ()んじまった。もう片方のエルフは、もともと年若い別世界の少年。お互い、心を素直にぶつける術を知らない。どうせ、“愛してる”の一言も交わしたことがないんだろう?男ってのは総じて不器用だからな。世界が違ってもそれは変わらないんだろう」

 

 今度は記憶の棚のどこを引っ掻き回しても発見できなかった。言われて始めて、俺はアキリヤに“好きだ”と口にしたことがないことに気が付かされた。こんなに好意を抱いているのに、あんなに身体を重ねたのに、言葉にして伝えたことがなかった。それはアキリヤからも同じだった。アキリヤも元は男だったから、自分の感情を言葉にすることが苦手だったのかもしれない。だから俺たちは自分の気持ちをハッキリ口にして相手に伝えたことがなかった。でも、俺に“エルフの加護”が宿っていたということは、俺たちはずっと……。

 

「愛想を尽かされたのかどうかは、生き返ってみればわかる。無事に生き返れたら、今度はちゃんと言葉にして伝えてこい。後悔しないようにな」

「もしも生き返れなかったら?」

「あの世で俺からの説教だ。永遠に」

「冗談じゃねえな」

「ああ、まったくだ。冗談じゃない」

 

 どちらからともなく笑った。ひとしきりくっくっと喉を鳴らした後、親父は俺の肩に手を置いてまっすぐに俺の目を見据える。親父の目は熱っぽく潤んでいた。それで、この旅ももう終わりなのだと悟った。

 

「……恨んでるよな、俺のことを。家族を護れと偉そうなことを言ったくせに、帰らなかった」

「正直、恨んだこともある。けど、今は恨んでねえ。それに、親父の言葉に突き動かされたこともたくさんある。まあ、その、なんつーか、」

 

 素直になろう。気持ちを言葉にするんだ。心を伝えるんだ。俺は親父の手に自分の手を重ね、俺とそっくりの色をした目を見つめ返して、言った。

 

「……ありがとう、親父。何もかも、ありがとう」

 

 親父の唇が小刻みに震え、一筋の涙が角張った顎を伝い落ちた。地面に落ちた涙から波紋が生じ、それを起点として世界に白い光が満ちていく。視界がまたたく間に月下の新雪のような純白に染まっていく。親父の姿が穏やかに掻き消えていく。微笑みが霧がかかるように薄れていく。寂しいとは思わなかった。これからも親父は近くにいてくれるとわかっていた。視界すべてが白くなり、自分が目を開けているのか閉じているのかもわからなくなる。不安を感じることなく、俺は意識を無にして肌に感じる温もりを身のうちに受け入れた。柔らかな暖かさ───人肌の温もり───アキリヤの温もり。永遠に魅入っても飽きない、俺の愛する女。

 

「アキリヤ」

 

 大切な彼女の名をそっと口にした途端、一気に自分が浮き上がる感覚に包まれた。自分が泡となって水底から急浮上していく感覚。目覚めの感覚。覚醒の感覚。真の力を手にした感覚。そうして俺は、

 

 

 

 思い切り突き出した拳が何か重くて硬いものをぶち抜いた。木と鉛の板のようだった。暗闇のなか、穿たれた穴から大量の何かが怒涛のごとく流れ込んでくる。土くれの湿った音と臭いがした。すぐに自分がとても狭い木箱に横たわっているとわかった。このままでは生き埋めになると慌てた俺は、とりあえず脱出しようと力任せに立ち上がった。バキバキメキメキと木板と金属版をへし曲げて、ドサドサと土を跳ね除けて、俺はその場に仁王立ちした。

 

「………」

「………」

 

 目の前で、ルーサーと女主人が呆然と突っ立って俺を凝視していた。ポカンと口を開けたまま二人とも何も言わない。どうやら無事に生き返れたのだとわかった。俺は事情を説明するための言葉を探したが、“エルフの加護”やらなにやらは説明が難しく、短くまとめたり気の利いたセリフが思い浮かばなかった。だから、俺は顔中をグチャグチャに汚したルーサーをキッと睨んでこう言った。

 

「黒パンだ!!」

「……は?」

「バアさんの黒パンがたまたま口に合わなかっただけだ!おおかた、誰も食べたがらねえからちっと腐ってたんだ!誰がてめえなんかのチンケな毒で死ぬもんかよ!!」

 

 言って、さすがにキザ過ぎたかと気恥ずかしくなった俺はフンと鼻息一つ吐いて自分の墓石を蹴っ飛ばすとズンズンと棺の残骸を跨いで歩み出す。ルーサーは相変わらずポカンと呆けたままだったが、ヘナヘナと安堵したようにその場に手足をついた。そんな俺を見て、自失から立ち直った女主人が男のような胴間声で笑った。墓場の死人たちがビックリして一斉に起き上がるかと思うような笑い声だった。

 

「それは悪かったね、今度は新品の黒パンを準備しといてやるよ!」

「そうしてくれ。ガチガチに硬いやつを頼む。それと、」

「連れには柔らかい白パンだね?」

「ああ、頼む。必ず来る」

「待ってるよ。だから、ほら!」

 

 女主人の手のひらが風を切って俺の背中をしたたかに叩いた。図体のでかい俺すらたたらを踏むほどだった。全身にビリビリと心地のいい痺れが走り、呑気に眠りこけて鈍っていた筋肉をバッチリと刺激してくれた。

 

「早く彼女のところに行ってあげな!“カル・ザ・ドラゴンキラー”!!」

 

 俺は力強く頷き、そして勢いよく駆け出した。どこにどうやって帰ればいいのかという当然の疑問は、湧き上がってくる本能にすぐに上書きされた。ただ心の向くままに走ればいいという熱い確信が俺を突き動かした。墓場をひとっ飛びに後にし、街の大通りを全速力で突っ切っていく。ピンピンして颯爽と走る俺を見て街中の人間にどよめきが広がる。

 

「不死身って本当だったのかよ!?」

「軍隊なんかぶっ飛ばしてくれ、カル!」

「行け、カル!行け、ドラゴンキラー!!」

「カル・ザ・ドラゴンキラー!!」

 

 みるみる増えていく声援に俺は拳を突き上げて応えた。わあっと膨れ上がった歓声に背を押され、俺はさらに脚を早めた。疲労の気配は微塵も訪れない。筋肉のなかに爆発寸前の力が満ちている。まだまだ速く走れる気がした。

 あっという間に街を駆け抜けると、休耕地だった広大な畑が一面の小麦畑となっていた。背の高い小麦が海原のようにサワサワと凪いで、そこを地平線に向かって一筋の(わだち)が貫いていた。数ヶ月前に傷心の俺が踏みしめた箇所だけ小麦の生育が阻害され、そのまま並木道となったのだと気が付いた。俺が辿ってきた道が俺の道しるべになってくれていた。

 突然、走り続ける俺の網膜を煌々とした光が差した。日の出だ。小麦畑を覆っていた暗いベールが剥がされ、見る見るうちに黄金の海原と化して煌めいていく。赤く燃え上がっていく地平線から真っ直ぐに伸びたピンク色の眩い陽光が並木道を彩り、俺の行く手を輝かせる。まるで太陽に手招きされているようだと思った。俺は俺の太陽を───アキリヤを目指して休むことなく走り続けた。

 

「アキリヤ!!愛してる!!アキリヤ───!!」

 

 地平線を超えてアキリヤまで届けと、俺は全身で咆哮した。相応しいとか、相応しくないとか、そんなことは関係なかったとようやく気が付いた。ただ傍にいるだけでよかったんだ。アイツは俺の女だ。誰にも渡さない。もうこの手から離さない、もう二度と離れないと硬く誓って、俺はさらに手足を振り乱してどこまでも加速を重ねた。自分の限界は、もう感じなくなっていた。




LINE漫画で『JKドラゴン(著︰ピーナッツさん)』を読んでます。TS要素があるんだけど、そのラブコメが甘酸っぱくて最高なんですよこれが。TSラブコメって……いいよね!!(満面の笑み)


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その11 エルフの喪失

何者でもなかった普通の少年が、恋する女の子を助けて、やがて世界を救う物語。これにTS要素を足したいと思って書き始めたのがこの小説です。


昇る太陽の股下を10回ほどくぐってもまだ俺は走り続けた。疲れや衰えが肉体に忍び寄ることはなく、むしろそれらを振り払ってさらに俺は脚の回転を速める。さらに速く、次の瞬間にはもっと速く。俺が通ったあとには旋じ風が逆巻くほどだった。小峡谷だろうと急勾配だろうと、野兎のように飛び跳ねながら駆け抜けた。

 ひた走っている内に体内に溜まっていた安酒の(おり)が汗となって抜け落ちていった。軽くなっていく身体は春に息吹く若葉が乗り移ったように清々しかった。不摂生の灰汁が抜け落ちていく一方で、革靴は擦り切れて裸足になり、麻の服は破れて風に飛ばされ、いつの間にか下穿き以外何も身につけていない状態になった。腰蓑だけの薄汚れた野蛮人と成り果てても俺はひた走るのをやめなかった。自分の憐れな見た目なんか頭の片隅にも気に留まらなかった。

 

アキリヤ、アキリヤ、アキリヤ!!

 

 頭のなかはアキリヤのことでいっぱいだった。一刻も早く彼女の声を聴きたかった。白百合のように柔らかなあの肢体を潰れるくらい抱きしめて、キラキラと輝く艶やかな銀髪の甘やかな香りに鼻を深く(うず)めたかった。彼女のことを考えるだけで笑顔が溢れ、無限に思える力が湧いた。

 見たような灼熱の砂丘を走った。土砂降りの豪雨をかき分けた。雨雲と晴天の狭間を縫った。見覚えのある山脈の峰々、夜営した枯れた川底、霧雨に濡れた荒野を疾風となって昼夜問わず駆け抜けた。人間への敵意を剥き出しにする大自然の波を堂々と踏破しながら俺はアキリヤの名を何度も何度も叫んだ。

 

 太陽と月を頭上に見送ることさらに10回、周りがよく見知った景色になった。かつて鉄鋼竜を倒した岩山だとすぐにわかった。頭から浴びた鉄鋼竜の血の臭いはまだ鼻の奥に覚えていた。俺は犬のように息を弾ませ、鼻をひくつかせ、頭をキョロキョロと左右に巡らせながら、目的地───アキリヤのいる『残響(エコー)』の拠点を目指した。

 

「なんだ、こりゃ」

 

 拠点の全景がわかるほど手前にたどり着いて、松の梢越しに見えた光景に俺は思わず唖然としてその場に立ち尽くした。鼻を突く煙の臭いと、気を滅入らせる死の悪臭。黒い雑巾のようなカラスが死肉を求めて木立から見下ろしている。

 かつて一つの村のように活気に溢れていた拠点は見る影もなくなっていた。きちんと整備されていた深い堀や高い柵があったはずの外周は、乱暴に埋められ、なぎ倒され、ところどころに人間同士の戦闘の跡が残されていた。近づいてみれば、拠点の外壁は至るところが焼け焦げ、矢じりが突き刺さっていたり、窓板が壊されている。石灰岩の外壁におびただしい血痕が飛び散っているのが生々しい。かつて王族の城のように几帳面に磨かれていたバルコニーの錬鉄の手すりは、高熱にさらされてグニャグニャの鉄くずとなっている。

 

「そっちを持ってくれ───気をつけろ」

「それはもう使えん」

 

 杉材の立派な扉を備えていた入り口はバリケードで半分が塞がれて、残り半分を男たちが額に汗を浮かべて片付けているところだった。建物内への侵入までは防いだようだが、逆を言えばその寸前まで追い詰められるほどの激戦だったということだ。男も女も老人も子どもも、まるで働きアリになったように総出でもって復興作業に勤しんでいた。

 

「この臭い……火矢か」

 

 少し鼻で息を吸っただけで、木と石が燃えるいがらっぽい臭気が大気中に色濃く残っていることがわかる。火矢は人族の軍隊が城攻めをする際に好んで使う武器だ。ここも火攻めをされたのだろう。拠点の建物全体に火が回っていればさらに大惨事になっていただろうが、それは食い止めたようだ。さすがはジョーの率いるパーティーといったところか。ざっと視線を流してわかったのは、これが軍隊による一気呵成の攻略戦で、『残響(エコー)』は辛くもそれを撃退し、戦いが終わってからまだ数日と経っていないということだった。

 

『あとは人間に馴れたエルフを捕まえて陛下に献上するだけだ』

 

 ゾッド兵士長の冷たい声が耳元で再生された。甚大な被害を受けて変わり果てた『残響(エコー)』の拠点を前に、俺の剥き出しの背中を冷や汗が伝い落ちた。ゾッドの手勢がアキリヤの居場所を見つけて襲撃してきたに違いない。

 

「アキリヤは……!?」

 

 ハッとして周囲をあらためて見渡せば、アキリヤによる大規模な破壊魔法が炸裂した痕跡はどこにもなかった。アキリヤが本気を出せば軍隊なんて屁でもないはずだ。それなのに、彼女が得意の魔法を行使した痕跡はったく無い。嫌な予感がひしひしと這い登ってきた。なぜ彼女は抵抗しなかったのか。アキリヤは無事なのか。

 

「どいてくれ───頼む、どいてくれ!通してくれ!」

 

 俺はまだ熱を持った石や尖った鉄を火傷も怪我も怖れず踏みしめると、驚く人々のあいだを掻き分けて拠点の内部へと突っ込んで行った。

 

「アキリヤ!アキリヤはどこだ!?」

「な、なんだ貴様は!?ここは貴様のような小汚い者が入っていいところではないぞ!」

 

 鉄鋼竜討伐の作戦会議に使われた大部屋の扉を叩き壊す勢いで乱入する。その俺の前に、跳躍するガゼルの如き俊敏な動きでララが立ち塞がった。その後ろには闖入者を警戒してさっと腰の短剣に手を伸ばしたジョーがいて、さらにその隣には何故か女僧侶までいた。どうしてそこに女僧侶がいるのかと一瞬だけ疑問が湧いたが、本当に一瞬だった。このメンツにアキリヤが加わっていないことへの不安が俺を突き動かした。殺気を隠さず剣を構えるララとの距離を一気に詰めるとその両肩をガッと握りつぶさんばかりに鷲掴む。

 

「ララ、アキリヤはどこにいる!アキリヤは!?アイツは無事なのか!?」

「な、なにをいきなり……!?」

 

 引き攣った顔と声で仰天するララの瞳には、埃まみれの髪の毛は伸び荒れ、口元は熊のような無精髭で覆われた見事な浮浪者が映り込んでいた。最後にララと会ったときとはまるで別人だ。今さらになって自分のみすぼらしい姿の弊害に気が付き、どうやって証明すればいいかとじれったさを感じた直後、勘のいいジョーがハッとしてララの腕を掴んだ。

 

「ま、待て、ララ。もしかして、お前……“ドラゴン殺し”か?カルなのか!?」

「は───はあっ!?カル!?」

 

 その場の全員が度肝を抜かれて飛び上がった。あらためて自分の姿を見下ろしてみる。靴も履いておらず、腰蓑のみで、ほとんど裸だ。おまけに延々と自然のなかを走り続けたせいで全身に泥色の土埃がこびりついている。なんとも本職の浮浪者からも憐れまれるような粗末な見てくれに成り果てていた。さすがにこれで気付けというのは無理があるだろう。

 しかし、羞恥心なんて贅沢な感情はまったく湧いてこなかった。アキリヤがいないことが気になって仕方がなかった。

 いち早く俺に気付いてくれたジョーが目を見張って俺の眼前まで歩み出てくる。

 

「“ドラゴン殺し”、死んだんじゃなかったのか!?ゾッドの奴がそう言っていたぞ。“毒で殺してやった、エルフの加護も王国最新の毒には太刀打ちできなかった”と。お前の容姿から死に様まではっきりと詳細を口にした。だから、俺たちはてっきり……」

「ああ、死んだ。たしかに毒で殺された。埋葬もされた。でも、アキリヤのおかげで生き返ったんだ。“エルフの加護”ってやつのおかげなんだ。この通りピンピンしてるぜ」

 

 死を乗り越えたことを平然と口にした俺にその場の全員が驚天動地とばかりに目を見開いた。

 

「なんと、“エルフの加護”とは死からの復活まで可能とするのか。それがわかっていればアキリヤ殿をみすみす(・・・・・・・・・・)……くそっ!」

 

 ジョーが額を抑えて唸る。悔しげに噛み締めた奥歯がギシッと音を立てた。もともと暗かった部屋の雰囲気がさらに物憂げに沈んだ。ジョーの表情に、俺が生きていることへの驚き以上の後悔が───取り返しのつかない慙愧の念が色濃く滲んでいて、俺の焦りは頂点に達した。

 

「そんなことはどうでもいいんだよ!ジョー、“みすみす”ってどういうことだよ!?アキリヤはどこに───(いて)ぇっ!?」

 

 女僧侶の杖に頭を思いっきり殴りつけられ、今度は俺が目を白黒させる番だった。オークやゴブリンの棍棒よりずっと弱いが、無視できない感情の重さが載せられている気がして、俺はヒリヒリする側頭部を抑えて女僧侶を見やった。そしてやはり、女僧侶は唇を震わせてふーふーと肩で息をしていた。張り詰めた瞳は悔しさで潤んでいる。

 

「アンタ───アンタねえッ!」

 

 女僧侶の全身に、矢を放つ寸前の弓のような爆発寸前の怒りが形として見えるほどだった。非難の怒り。この非難は正当なものに違いなく、きちんと受け止めなければならないものだ。そう察した俺は、すっと居住まいを正して女僧侶に向かい合った。今までのように殴られたらすぐ反射的に怒ったりしようとはまったく思いつかなかった。

 

「私、言ったわよね?“幸せにしてあげなさい”って。アキリヤを幸せにする義務がアンタにはあるって。それが、それが何をどうすればアキリヤを捨てて出ていくことになるわけ!?アンタに置いていかれたあの娘がどんなに塞ぎ込んだか……!」

 

 胸に刺すような痛みが走った。悲しみに沈むアキリヤの表情を思い浮かべて、みぞおちに重いしこりが生まれる。否定しようのない事実だった。項垂れる俺の隣からジョーの沈んだ声が投げかけられる。

 

「僧侶殿は俺が呼んだんだ。昔、彼女とはちょっとした縁があってな。アキリヤ殿と知り合いだと知って、彼女を元気づけられればと思って呼び寄せたんだ。お前たちに不和の亀裂を走らせた遠因の一つは俺にあると思っている。それに、アキリヤ殿は、ひどく……言葉では表せないほどにひどく落ち込んでしまっていたから」

 

 “元気づける”。ということは、アキリヤは俺が去って悲しんでくれていたということだ。俺を……こんな俺を心から愛してくれていたということだ。死から救ってくれるほどに愛してくれていたということだ。自分に注がれていた彼女の想いをあらためて痛感し、熱くなっていた俺の頭は一気に冷静さを取り戻した。あんなイイ女を放っていくなんて、俺は世界最悪の大馬鹿者に違いなかった。自分の情けなさに寒気すら覚えた。早くアキリヤに会って謝りたかった。土下座だってなんだって、許してもらうためならありとあらゆる全てのことをするつもりだった。そして許しをもらったら三日三晩休む暇なくアキリヤを抱くつもりだった。

 

「すまなかった。迷惑をかけた。俺が馬鹿だった」

「ど、ドラゴン殺し?」

 

 腹の底から迸る申し訳無さを言葉にして、俺はジョーに深く頭を下げた。その場しのぎなんかではなく、本心だった。今までの生意気さから一変した殊勝な態度にジョーとララが目を白黒させる気配がするが、俺は頭を下げたまま口を動かし続けた。

 

「俺は……俺はガキだった。図体ばっかりデカくなって、頭ンなかはガキのままだった。ジョー、俺はアンタが嫌いだった。でもそれはアンタが嫌な奴だからじゃなくて、その逆だからだ。アンタに勝手に嫉妬して、勝手に張り合って、勝手に負けたつもりになってた。アキリヤをアンタに盗られるって思いこんでた。アイツは俺のことをずっと好きでいてくれたのに。疑うなんて本当に馬鹿だ。『残響(エコー)』には迷惑をかけた。アンタたち全員に謝りたい。本当にすまなかった」

 

 謝罪の言葉を発すると、不思議と心が澄んでいくような気がした。他人に謝ることも、頭を下げることも大嫌いだったのに、今は自分の失態を認めることが前進の第一歩なのだと素直に認めることができた。“大人になった”という手応えに指先が触れた気がした。俺はスッキリした面持ちで頭を上げて、部屋を見渡す。

 

「それで、アキリヤはどこに───?」

 

 言い終わる前に、横合いから俺に向かって黒い何かが叩きつけられた。花のように甘い匂いがした。見なくても、匂いと手触りでアキリヤが肌身離さず羽織っていた黒衣だとわかった。黒衣を抱きしめて、それを投げつけてきた相手───女僧侶に顔を向ける。女僧侶は唇をただならぬ憂いにわなわなと震わせていた。

 

「立派よ、カル。あなたは大人になれた。でも、大人になるのが遅すぎたわ。そう、遅すぎたのよ……」

 

 そう言って女僧侶は膝から崩れ落ちてさめざめと泣き出した。俺はゾッと頭の芯が冷める感覚に襲われた。前の世界からアキリヤが持ってきた唯一の品で、絶対に手元から離したりしなかった黒衣。俺にすら触れることを許さなかった黒衣。それが、それだけ(・・)が、ここにある。アキリヤがいなくて、黒衣だけがある。

 

「アキリヤは、もういないわ。ゾッドに連れて行かれたのよ」

 

 強烈な目まいに襲われて、女僧侶の姿があやふやになった。肉体を直立させるための芯が揺らいだ感覚に全身が支配された。自分をこの世界に根付かせるための芯が揺らいだ感覚。口のなかが一瞬で砂のように乾いて、舌が喉に張り付く。現実を認めることを拒む脳みそが世界との繋がりを自ら断ち切り、言葉を失わせた。

 アキリヤが、奪われた。

 俺は、間に合わなかったのだ。




続きもけっこう書き進められてるので、たぶん、すぐに更新できると思います。


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