Gloria (そげつ@気まぐれ更新)
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第一話『コロッケ』
日もすっかり沈んでしまった。空が赤かったのは既に一時間も前の話で、今は月が夜を彩っている。
街灯に照らされた街並みをぼんやりと眺めながら、俺は自宅へと足を進めた。
時刻はもう六時過ぎだ。
明かりの灯る家々では、きっと暖かな夕食を家族で囲んでいることだろう。辺りからは、餃子やカレーなどの匂いが漂ってくる。俺のお腹からグゥ、と小さく音が鳴った。
空腹に耐えかねて、手に持ったビニール袋からコロッケを一つ取り出した。このコロッケは絶品だ。その美味しさたるや、味にはうるさいこの俺がかつては週三で買いに行っていたほど。おそらく俺はもう他のコロッケを食べることは出来ないだろう。
取り出した瞬間から漂う香ばしい香り。求めていた匂いにお腹が一層大きな音を立てた。まあ今日は昼を抜いてしまったので、それも仕方のないことだろう。
香りを楽しむのも程々に、俺は大きく口を開けてコロッケにかぶりついた。揚げたてだというコロッケからは白い湯気が立ち上り、至高の味が鼻を突き抜け、俺にこの上ない幸福感を齎す。ああ、この瞬間が幸せ……。
などと考えているうちに、すっかり平らげてしまっていた。ペロリ、である。これはもう残りの一つも食べてしまおうか、という考えが頭にチラつき、慌てて首を振った。今食べてしまっては何のために買ったのかという話になってしまう。
依然として空腹は満たされていない。コロッケの誘惑に負けないうちに早く帰って何か食べなければと、俺はひとり帰路を急いだ。
***
急いだとは言っても、実は先ほどコロッケを食べた場所から家まではそう遠くない。というかむしろ近い。五分と掛からず家の前まで辿り着いた俺は、古めかしい表構えの店の横に併設された扉に手を掛ける。
扉に掛けられた古ぼけた表札はとうの昔に擦り切れていて、今や何と書いてあるのか読み取ることも難しい。ただ、祖母の話によれば、祖父の苗字である『氷川』という文字が、木製の板に彫られていたそうだ。
この家は、かつて俺の祖父母が住んでいた家であり、商店街の一商店として祖父母が営んでいた酒屋でもあった。祖父は俺が生まれる前に他界し、二年前までは祖母と俺との二人で暮らしていたが、祖母が他界してからは実質俺一人で暮らしている。酒屋の方は、祖母が亡くなった時に閉店した。
幸いローンは返済し終えているそうで、本当は祖母が亡くなった時点で俺は両親と姉二人が暮らす実家に帰らなければならなかったのだが、無理を言って何とかそのまま住まわせてもらっていた。
さて、家に入り、手洗い等済ませた俺は即座に冷蔵庫へ直行した。中に昨日炊いたご飯の残りがあったので、冷やご飯のまま口に入れる。冷たい。
少々凍っていたご飯を噛み砕き、お茶で流し込んだりして何とか嚥下すると、ようやく空腹もおさまった。
そこで、食卓の上に置きっぱなしだったコロッケを手に取って皿に盛り付けると、それを仏壇に供える。
今日は、祖母の命日だった。
このコロッケは、生前祖母が好んで食べていたものだ。何かにつけて食べていた気がする。そういえば、俺がこのコロッケを食べ始めたきっかけも、祖母が半分に割ったコロッケを俺にくれたことだったしな。
お供えを終え、一通り拝むと、俺は今度は自分の部屋へと向かった。自室とは言っても、布団が敷いてあるだけで、実際の俺の普段の活動スペースは、主に食卓の置いてある居間だけだ。
では、特に何もないはずの自室に何の用があるのかと言えば、その答えは押入れの中にある。
押入れの中では大小様々な段ボールが積み重ねられていた。その箱のうちいくつかを漁り、ショルダーバッグを引っ張りだすと、広げた箱を片付け、押入れの中に仕舞い戻す。さらに、箪笥の中からスポーツタオルなどを取り出してバッグの中に詰めると、そのバッグを枕元の側に置いた。
俺がしていたのは、明日の準備だった。万端であることを確かめ、不足がないかもう一度確認して、俺は部屋を出る。
その頃になると、時刻は既に七時を回っていた。
居間に戻った俺は、中途半端に終わった夕飯のかたをつけるべく、再び冷蔵庫の前に立ち、中を覗き込んでいた。
冷やご飯がまだ残っている。それと卵もあった。幸いまだ茹でていない。となれば、もはや卵かけご飯しかない。
そう結論付けた俺は素早く冷やご飯を温め、卵をかけ、醤油をぶち込み、ものの一、二分でかっ込んだ。
食事終了。これで俺の胃袋も満足してくれたことだろう。栄養バランス面に多少の問題はあるかもしれないが、まあ一日くらいは大目に見て欲しい。
食べ終えた食器を洗い、片付けた俺は、どっかと畳に座り込んだ。これで今日するべきことはもう何もない。いや、学校の宿題があるにはあるのだが、俺にそれをやる気はない。
それに、今の俺は明日のことで頭がいっぱいだ。例えやる気があったとしても、まともに手がつかないだろう。
……大丈夫、準備も入念にした。万が一バレた時の言い訳も考えてある。後顧の憂いはない。
――よし、今日はもう寝よう。
金曜日の午後八時前、いつもならダラダラとテレビを見るともなく見ている時間だが、今日の俺は早々に寝ることにした。
しっかりと寝て、明日に備えるべきだ。
そう考えて、俺はさっとシャワーで体を流し、歯を磨いて、布団の前に立つ。
寝る直前、通学鞄に丸めて入れておいた紙をそっと広げてまじまじと見た。
それは、とあるライブのフライヤーだった。
ライブステージの写真を背景にしたそのフライヤーには、ライブの日時や場所、出演するバンドなどが記されていた。
ライブの開催時間は明日、九月十七日の午前十時から十二時半まで。場所はライブハウス『CiRCLE』にて。
それらの情報を確認しながら、俺は出演者の欄に目をやる。
出演バンドの名前を指で一つ一つ辿り、やがて俺は探していたあるバンドの名前を見付けた。
『Afterglow』
フライヤーにはそう書かれていた。
思わず体が強張り、唾が喉を通過する音がやけに響いた。
――いや、別に会いに行くわけじゃないんだ。緊張する必要はない。
手の震えを見なかったことにしながら、俺は再びなぞり始める。そして下の方へ行くと、さらに二つのバンド名が目についた。
『Roselia』
『Pastel*Palettes』
その名前が見えたとき、俺の目は自然と箪笥の上に向けられた。
箪笥の上には一枚の写真が飾ってある。俺が幼かった頃の写真だ。二人の姉が俺と一緒に屈託のない笑みを浮かべている、そんな何気ない日常を切り取った一枚。
そのまましばらく写真を眺めていると、ふと我に返った。慌てて視線を無理矢理外し、フライヤーを丸めて傍に置く。
――今更うだうだと考え込んでも仕方ないだろう。そんなことを考えるくらいならさっさと寝るべきだ。さあ、早く寝よう。きっとそれが良い。
そう自分を納得させると、俺は布団を頭から引っ被り、体を縮こまらせる。
そして、未だ冴えている目を押し込むように、ぐいとまぶたで蓋をした。
眠れなかった。
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第二話『僕はライブビギナーです』
翌朝、寝たんだか寝ていないんだかよく分からないくらい短い睡眠を取った後、八時半になるのを待って、俺はバッグを持って家を出た。
ライブ会場が開くのは開始時刻の一時間前らしい。ということは、九時には開場するはずなのだが、今から行けばそれよりも早く着いてしまうことは容易に想像がついた。
……実のところ、あまり長居したくはないのだ。ただ様子を見て帰る。それが今回の目的なのだから。
フライヤーを見る限り、どのバンドがどの順番で演奏するかなんてことは書かれていない。俺はこういったライブに関することには全く疎い。何せ、今までに一度もライブになんて行ったことがないのだから。だから、どうすれば良いのか、何が正解なのかは皆目見当もつかない。
が、開演時間ギリギリに入るのは不味いとは思ったので、とりあえず開演十分前にライブハウスに入ることにした。
つまり、着いてから丸一時間ほど、俺は手持ち無沙汰ということになる。
……まあ良い。近くまで行ってから、その辺で時間を潰せば良いのだ。
そう勝手に納得して、俺はさっさと歩を進める。
九月とはいえ、やはりまだまだ暑さは残っていた。垂れる汗を拭い、帽子を深く被り直して、俺はひたすら歩き続ける。
ふと顔を上げれば、そこには見慣れた商店街があった。当たり前だ。自分が商店街に住んでいるのだから、ちょっと歩いたくらいでその景色が突然変わることはない。
ここの商店街は意外に広い。少なくとも、子供の頃は隠れんぼの舞台に使っていたのだから、それなりに広いはずだ。
場所が広ければ、それだけ商店の数は多いし、種類も多岐に渡る。有名どころで言えば、いつも焼き立てのパンの良い香りが漂っている山吹ベーカリーなどがある。最近はめっきり行かなくなってしまったが、昔はよくあそこのパンを食べたものだ。ソウルフードと言っても良い。
それから、昨日俺が買ったあの絶品コロッケを作っている北沢精肉店。あそこのコロッケを食べるのは久々だったが、変わらない美味しさだった。是非また食べたいものだ。
余談だが、昨日仏壇に供えたコロッケは、朝温めて食べた。やはり美味かった。
そんなことを考えているうちに商店街を出た。
今日も日差しは容赦なく照りつけてくる。あまりの暑さに怯んで、一瞬交通機関を使いそうになったが、そんなことをしたら余計に早く着いてしまうので、なんとか思い止まった。というか、使う必要もないくらいに会場は近場だし、何よりバスを待っている間が苦痛だ。
というわけで、その後も俺は淡々と道を歩く。
未だ夏の気配が抜けない景色を睨みつけながら、ずんずん歩いて行く。
そのうち、背中を伝う汗も気にならなくなっていた。
そうして無心で歩き続けること十数分。ライブ会場である『CiRCLE』付近に到着した。
案の定時間が有り余ってしまったので、俺は暇潰し出来そうな場所を探すべく、辺りを見渡す。
『CiRCLE』のすぐ側にカフェがあるが、ちょっと近過ぎる。そこまで近いと、ライブの出演者と鉢合わせしましまうかもしれない。
それは避けたかった。
というわけで、会場から適度に離れていて、かつ離れすぎていない所がベストだ。そんな所あるんだろうか。
あった。
こじんまりとした本屋だ。ここなら時間も潰せるし、冷房も効いているし、実に最適な場所と言えるだろう。
店に足を踏み入れると、老眼鏡を掛けて今朝の新聞を読んでいた店主らしきおじいさんがチラリとこちらに目を向け、そして無言のまま新聞に目を戻した。
……絵に描いたような“昔ながらの本屋”だな。
そんな感想を抱きつつ、俺は本を物色する。
品揃えとしては、新書が多かった。それから古典文学と、時代小説。ライトノベルや漫画などは置いていないようだったが……まあ店主の趣味なのだろう。ただ、これで上手くやって行けているのかは甚だ疑問だったが。
結局俺はその辺にあった一冊をなんとなく手に取り、パラパラとページを捲った。そして、しばらく流し読みする。
読んで分かった。どうやらこれは宮沢賢治全集のようだ。それも文庫版の。
俺が読んでいたのは『よだかの星』だった。
知ってはいるものの、しっかりとは読んだことはなかったので、読んでみることにした。
すると、十分ほどで読み切ってしまった。
俺は別に文学作品などに造詣が深いわけでもなく、ごくごく一般的な感性の持ち主なので、感想を聞かれても、「はあ、まあ、凄いっすね」くらいしか言えないのだが、名作と言われるだけあって、なかなかに面白かったように思う。
腕時計を見ると、十時まであと五十分もあった。まだまだ時間はあるようだ。せっかくなので、この際『銀河鉄道の夜』も読んでみるかと本を開いたとき、思わぬところから声が掛かった。
「……気に入ったかね?」
「……え?」
先ほどまで新聞を読んでいたおじいさんが、突然声をかけてきたのである。
はじめ、あまりにも唐突だったこともあって反応が遅れてしまったが、俺に話しかけているんだと理解した俺は、慌てて彼に返答をした。
「え、ええ、まあ。それなりに。面白いとは思いましたけど……」
「そうかね、毎度」
「え、え?」
そしてあれよあれよと言ううちに本を買わされ、気が付けば追い出されてしまっていた。
……何だったんだ、一体。
野口が一人消えてしまった財布をポケットに仕舞いつつ、俺はしきりに首を傾げる。
やりきれないものを感じつつも、渋々俺は本屋から離れた。
本屋の手口を知ってしまった気がした。
そして本屋から歩くこと数分。離れたは良いものの、することがない。
やはり早く来すぎたのだ。九時に家を出ればちょうど良かったかもしれない。
時計を見れば、現在九時二十分。九時五十分までは残り三十分もある。
俺は再び適当な場所を探すことを余儀なくされた。
……仕方がない。もう少しだけ会場の近くまで寄っても良いか。
そう考えた俺は、今までいたところより百メートルほどライブハウスに近いところを探索する。交通量がさっきよりも多いためか、本屋の周辺よりはいくらか賑わっているように思えた。
しかし、残念なことに良さそうな場所は見当たらない。こうなると、先ほど本屋を追い出されてしまったことが実に悔やまれる。あそこは、おじいさんの呼びかけを無視して、本に集中している雰囲気を醸し出すのが正解だったのかもしれない。
そんなこんなで、時間は過ぎていった。
暇潰しが出来る場所を求めて十五分が経過した。依然として良い場所は見つからない。
いっそのこと、もうライブ会場に入ってしまおうかと思っていた、その時だった。
「あ! 昨日ライブのフライヤーを受け取ってくれた人だ! ね、ね、有咲。挨拶しにいこうよー♪」
「ちょ、香澄っ!? ま、待てって!」
前から歩いて来ていた二人組が突然こちらに駆け寄ってきた。
帽子のつばを少しあげて二人の顔を見る。
一人は、何だか猫っぽい髪型をした快活そうな女の子だ。なぜか後ろに大きな黒い袋を持っている。あれは……ギターケース、だろうか?
もう一人は綺麗な栗色の髪を左右で束ねた、こちらは雰囲気が猫っぽい女の子だった。物凄い勢いで走って来るもう一人の女の子を止めようとして必死で走ってはいるものの、まるで追いついていない。
……何だろう、アレは。
まるで俺が見知った人であるかのように手をブンブン振りながら走って来ているが、全然知らない人だ。
「おーい! そこのお兄さーん! ライブ、見に来てくれたんですね!」
「ちょっと香澄! お前急に走るなって……!」
「ごめんごめん、でもほら、有紗! 昨日私がフライヤー渡した人が見にきてくれたんだよ? 凄いと思わない!?」
「思わねーよ! ったく、大体お前はいつもいつも――!」
そして、目の前でお小言が始まってしまった。
……何だろうか、コレは。ひょっとして、小言が終わるまで俺も付き合わないといけないのだろうか。
いや、流石にそれは御免被る。いくらなんでもこの暑い日差しの中いつまでも立ち竦んでいなければならないなんて、苦行以外のなにものでもない。
状況が把握できないまま、俺はそっと踵を返し、会場に足を運ぼうとした。
すると――
「あ、お兄さん、『CiRCLE』に行くんですか? じゃあ一緒に行きましょう!」
「あ、香澄、まだ話は終わってな――!」
目敏く気付かれ、付いてこられてしまった。
……どうすれば良いんだろうか、この状況。
困り果てた俺がもう一度彼女たちの顔を見た時、ふと昨日の光景が蘇って来た。
そこで思い出す。
彼女たちは、俺に今日のライブの存在を教えてくれた人だった。
夕暮れの中、ぼんやりと歩いていた俺にフライヤーを差し出し、「明日ライブやりまーす! 見に来てください!」と言って渡してくれたのだ。
そして、何の気なしにそれを受け取ってなんとなく眺めていると、見たことのあるバンド名が視界を掠め、それが俺に深く関わりのある奴らのバンドだと思い当たって、今日のライブを観ることを決めたのだった。
そう思い至った俺は、感謝の意も込めて、思い切って話しかけることにした。
「あの……昨日はありがとうございました」
「いえいえ、むしろ今日来てくれて嬉しいです!ありがとうございます!」
「……あ、昨日の人ですか! あの、その、どうもありがとうございます!」
すると、どういうわけか三者とも礼を言うという異例の事態が起こってしまった。いや、まあそれは良いとして。
「それで、お二人はどうしてこんなところに? ライブ開始まであと二十分ほどですよね。オーディエンスの俺はともかく、お二人は出演なさるのでは……?」
俺がそういうと、悠長に歩いていた二人は顔を見合わせ、次いで顔を真っ青にすると、俺に向き直って言った。
「あの、すみません! 急いでるので先行きます!」
「失礼します!」
「……あ、はい」
慌てた様子で走り去って行く二人。
大体今ので状況を把握した俺は、黙って見送ることにした。
大方、何か用事があって一度ライブ会場から離れたは良いものの、戻る際に俺に話しかけたせいで、急いでいることを忘れてしまったといったところだろう。
猫耳の方の子、ちょっと抜けてそうな子だったし。
用事というのも、おそらく忘れ物を取りに行ったとか、そんなところじゃないだろうか。例えば、背負っていたあのギターケースを忘れていたとか。
……いやでも、それだとここに持って来るときは、ギターは剥き身のまま持ってきたことになってしまうな。流石にそれはないか。となれば、何か別の物を忘れたのだろう。
遠くで走る二人の背中を見送りながら、そんなことを思った。
腕時計を見ると、長針は四十五分を指していた。
さて、そろそろいい頃合いだろう。
そう判断した俺は、二人の後を追ってライブ会場へと向かった。
おまけ
「悪い遅くなった!」
「ごめんね、ちょっと途中で知ってる人に会って――!」
「もー、香澄? 今度はちゃんとギターはケースに入れて持って来てよ?」
「えへへ、ごめんね。弾きながら来ちゃったから」
「弾きながら……? 香澄、もしかして天才?」
「あはは……香澄ちゃんらしいね」
「そう? 照れちゃうなー」
「褒めてねえ!」
とりあえずこれだけ。次回の投稿は未定です。
※12/15 ご指摘がありましたので誤字を修正致しました。
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第三話『見る、見ない、見る、見ない――』
ライブ会場に着くと、そこには多くの人々がひしめきあっていた。
「お、おぉ……」
想像以上の熱気に思わず気圧される。
どこを見渡しても辺りには人、人、人。ここまで人が多い場所には人生で一度も居合わせたことがないかもしれない。記憶にある限り、最後の人混みの記憶は遊園地でのヒーローショーだったように思う。
だが、そんなものとは次元が違った。どうやらこのライブは俺が想定していたよりずっと規模が大きいらしい。
しかし、考えてみればそれもそうだ。フライヤーに書かれていたバンドの数は少なくとも二十以上。三十近くあったかもしれない。それならば、それなりの規模になることは当然と言える。
人でごった返す入場口をなんとか通り抜けて中に入った。そのままライブステージのある会場まで一気に進む。どうやら目の前にある大きな扉がその入り口らしい。
重厚そうな扉は今は開け放されていて、中から会場の熱気が伝わってくる。まだ始まる前にも関わらず、観客は興奮しっぱなしのようだった。
中に入ると、その昂りがより一層強く感じられた。隣にいる友人と談笑する人や、ビール片手に気合十分といった具合で佇んでいる人。雑多な人々が思い思いの格好でこれから始まるライブを楽しみにしている様子が見受けられる。そんな人たちがこの会場を埋め尽くしていた。
心なし外に比べて気温も数度上がった気がする。そこで俺はかばんから水の入ったペットボトルを取り出すと、一息に呷った。途端に体中からとめどなく汗が噴き出してきたので、タオルであちこち拭う。ついでに帽子も取って額の汗を拭いた。
……暑いな。熱中症になりそうだ。
そんなことを思いながら、俺は会場の一番後ろ、その壁際まで進み、もたれるように背を壁につけた。
――ここならステージもよく見えるだろう。
なんとか場所を確保出来たので、ふぅと安堵の息を漏らす。
これで、後は始まるのを待つだけだ。
ステージに置かれたいくつもの機材と、とどまることを知らない観客たちの熱狂を眺めながら、俺は帽子を深く被り直した。
それから数分後、ライブは定刻通りに始まった。
トップバッターはメンバーにクマがいるという異色のバンドで、ボーカルやベースが突然観客席に飛び込んだりバク転をしたりするといった衝撃的な場面があったものの、不思議と笑顔になれる楽しい演奏だった。
バンド名は『ハロー、ハッピーワールド!』だとか。
なかなか濃い面子が揃っているバンドだった。やたら格好良い○塚歌劇団の人みたいなギターだとか、大人しそうな見た目なのに力強いリズムを刻むドラムだとか。クマのDJは言うに及ばず、ボーカルもベースも非常に個性的だった。
ところで、ベースの女の子はもしかして北沢精肉店のお嬢さんじゃないだろうか。いつの間にかバンドを始めていたらしい。全然知らなかった……。
思わぬ場所で思わぬ人物を見たことに俺が軽くショックを受けている間にもイベントは進行する。
次にステージに現れたのは、先ほど会った二人のうちの一人だった。確か「香澄」と呼ばれていた方だ。
……二番手だったのか。
思いのほか切羽詰まっていたんだなぁ、なんて思っていたのだが、彼女がステージに現れたっきり、しばらくしても他のバンドメンバーが一向に現れない。
どうしたことかと不思議に思っていたら、もう一人の女の子――確か「有咲」と呼ばれていた方だ――が出て来た。
まさか二人だけで演奏するのかと驚いていると別にそういうわけではないらしく、有咲さんは香澄さんの腕を取って引っ張ると、そのままステージ上からフェードアウトしていった。
どうやら順番を間違えたらしい。
図らずも観客の笑いを取ってしまった二人だったが、出て行くときに有咲さんの顔が真っ赤だったのは……まあ、うん。
うん。
彼女の「他人のふりしたい!」という心の内が透けて見えるようだった。さっき会った時も思ったけれど……有咲さんはアレだな。苦労人っぽいな。今頃ステージの袖で香澄さんに説教垂れているのだろうと思うと、苦笑を禁じ得ない。
その後、バンドをひとつ挟んだ後、今度こそ彼女たちの番が回って来た。
先ほどのポカなどまるでなかったかのように威勢良く出て来る香澄さんに続き、少し恥ずかしそうな有咲さんと、苦笑いを浮かべるメンバー三人が登場した。
『Poppin'Party』というバンド名らしい。
よく見ると、メンバーのうち一人は知っている人だった。パンでお馴染み、山吹ベーカリーの娘さんである。紗綾さん、だったっけ。
この人もバンドをやっていたのか……何だか、やけに商店街の人を見かける気がする。北沢さんといい、山吹さんといい、あの五人といい……ひょっとして、今うちの商店街ではバンド活動促進キャンペーンでもやっているのだろうか。それとも世間が狭すぎるのだろうか。いや、多分後者だろうけれど。
あの商店街が「バンドストリート」とか言って街を売り出す日もそう遠くないのかもしれないなぁ、などと未来に思いを馳せていると、演奏が始まった。
ライブはまだ始まったばかりだ。
***
その後もイベントはつつがなく進行された。
ヴィジュアル系バンドやデスボイスで観客を湧かせるバンドなど、バンドごとにそれぞれの特色が強く表れた個性豊かなパフォーマンスを見ていると、当初の目的を思って気もそぞろだった俺も、いつしか純粋にライブを楽しむようになっていた。
ステージ上のパフォーマーが音を奏でれば、下のオーディエンスがそれに呼応する。演奏者と観客が一体となってライブを盛り上げて行く様子に言いようもなく心が昂る。その感覚は俺が今まで体験したことのない、何とも奇妙な感覚だった。
……そうか。
あの五人も、姉さんたちも、こういう世界にいたんだな。
今となっては別々の道を歩むことになってしまった人たちを思い浮かべて、俺はそっと目を伏せる。
彼女たちはきっと、今が楽しくて仕方がないのだろう。
音楽がある。仲間がいる。応援してくれる人がいる。
それだけで幸せな気持ちになれるはずだ。
目を開く。ライブが始まってから一時間半ほど。俺の目的である「幼馴染と姉たちの様子を見る」という目的は未だ果たされていない。
だが、それで良いのかもしれない。
彼女たちの輝く姿を見てみたいという思いは確かにある。元々そのつもりで来たのだから当たり前だ。しかし同時に、見てはいけないのではないかという思いも次第に高まってきたのだ。
俺はかつて彼女たちの前から逃げた。
自己勝手に逃げた。そして自ら彼女たちを避け、隠れ続けてきた。それは今も同じだ。
逃げた俺が今更恥じらいもなく彼女たちの前に現れることは本来望ましいことではない。自分の厚顔無恥っぷりにはほとほと嫌気が差している。
だが、どうしても気になったのだ。
二年ほど会っていなかった幼馴染たちは今どうしているのか。バンドはうまくいっているのか。
姉たちは仲良くやっているのか。俺とは違い、音楽という道を選んだ二人はどんな調子でいるのだろうか。
色々なことが気になって仕方がなかった。音楽には無縁だったし、意図的に関わらないようにしていたこともあって、情報もほとんど入ってこなかった。だから尚更気になった。
そんな最中だったのだ。昨日、香澄さんに偶然出会ってこのライブの存在を知ったのは。
ライブなら一観客として大衆の中に紛れることが出来る。直接相対することなく、様子を伺うことが出来る。もし気付かれても、チラシを貰って来てみたら偶然、なんて具合にしらを切り通すことも可能だ。
これだと思った。渡りに船だと考えた。だから俺はここに来たのだ。
知りたいという衝動に駆られて。
でも冷静になって考えてみれば、一見彼女たちに近寄ろうとするこの行為も、結局は一つの逃げでしかなかったのだろう。
逃げて置いてきた罪悪感に駆られて、しかし直接会う勇気はなくて、挙句の果てに取った行動が影からこそこそと嗅ぎ回るという、酷く醜い自己保身。おまけに香澄さんたちまで言い訳に使おうという卑劣っぷりだ。徹底し過ぎていて、呆れて物も言えない。
――もう、帰るべきなのかもしれない。彼女たちをまだ見ていない今のうちに。
見てしまったら最後、きっと俺は今後もこんなことを続けるだろう。この世界はあまりにも居心地が良いから。
だが、それは駄目だ。自分の領分を超えてしまっている。自分が許容した範囲を超え、禁忌とされる領域に足を踏み入れてしまっている。それだけは駄目だ。だから俺は今すぐここから立ち去るべきなのだ。
大丈夫、彼女たちが居た世界は身をもって体感した。素晴らしいものだった。それが分かっただけで十分来た価値があったはずだ。
来て実感した。やはりここは俺が居て良い場所じゃない。俺がいるべき世界じゃない。俺には俺に相応しい世界というものがある。
少なくとも、光輝くこの世界とは似ても似つかない、もっと別の世界だ。
だから、こんな俺が彼女たちの前に再び姿を現して良いはずがないのだ。
ステージを見る。煌々と光るスポットライトに照らされて、ボーカルの男がいきいきと声を伸ばしている。
周りを見る。誰もがステージに釘付けだ。腕を高く上げ、全身でビートを刻んでいる。
……良いよなぁ、やっぱり。
最後までいたいと思う自分を押し殺し、俺はもたれた壁から背を起こした。観客たちの隙間を縫うようにして出口を目指す。
奏でられていた曲が終わり、バンドグループがステージ上から立ち去った時を見計らって、ライブが始まってからずっと閉ざされていた扉に手を掛け、静かに押した。
人ひとりが通れるくらいまで開け、その隙間に体を滑り込ませるようにして外に出ると、音を立てないようにそっと閉めた。すると、さっきまで耳元で鳴り響いていた会場の喧騒は空気がなくなってしまったかように大人しくなった。暑かったはずの外気は酷く冷たい。ついさっきまで昂っていた気持ちも次第に冷めて行く。
後に残ったのはいつもの感覚と、ほんの少しの寂寥感。
……もう二度と来ることはないんだろうな。
そんなことを思いながら、ゆっくりその場を後にする。
外に漏れ聞こえてくる演奏をもう少しだけ聞いていたい。せめて、もう二度と味わうことがないであろうその感覚の余韻に浸っていたい。そんな思いに引き摺られて、もう一度だけ振り返った。
その時だった。
「もう帰るの? まだイベントは終わっていないのに」
「――! あ、ああ、うん。ちょっと用事でね」
声をあげなかったことを褒めてもらいたい。
振り返った先、突然目の前に女の子が現れたのだ。本当に目の前に。その間五十センチくらい。
それはもう驚いたが、何とか声をあげるのだけは堪えて、いつの間にだとか、何の用だとか、頭の中に渦巻く疑問やら苦言やらも全部押さえ込み、辛うじて当たり障りのない受け答えだけを返せた俺は偉いと思う。
「そう、残念ね……途中で帰らなきゃいけないなんて。だからあんなに悲しそうな顔してたのね」
「いや、別に悲しいとかそんな――」
「あ、そうだわ! ライブの映像があれば後で観られるはずよ! あたし黒い服の人に頼んでみるわね!」
そう言うと、少女は金色の髪をはためかせて、あっという間に何処かへ行ってしまった。
嵐のような出来事に暫し呆然とする俺だったが、そこでようやく彼女が『ハロー、ハッピーワールド!』のバク転するボーカルであったことに思い当たった。
……何だったんだろう、本当に。
首を傾げながらも再び歩き始める。
「あの、すみません!」
すると今度は後ろから肩をポンと叩かれて声を掛けられた。
なぜだかわからないけれど、今日はやけに他人に話しかけられる気がする。なぜだろう。
振り返ると、声を掛けた女の子は少し息を乱しながら言った。
「金髪の女の子を見ていませんか? これくらいの背で……」
金髪の女の子。身振り手振りで説明されたが、十中八九その子は先ほどの女の子だろう。というか絶対そうだ。
「それならさっき声を掛けられて、その後向こうに行きましたけど……黒服がどうとか」
金髪の子が去っていった方向を指しながら答える。すると女の子は一瞬ギョッとした顔を浮かべ、次にほっとした表情になると、先ほどよりは落ち着いた様子で俺に礼を言った。
「ありがとうございます。……はあ、全くこころってば、今度は一体何を企んでるんだか。ていうか、はぐみもいないし……」
そしてその子は溜息をつくと、何やらぶつぶつとぼやきながら、俺の教えた方向へ走り去って行った。
大変そうだなぁ、なんて思いながら忙しそうな彼女の背中を見送って、今度こそ俺も家に足を向ける。心にあった感傷は、今の出来事でいつの間にか消えてしまっていた。不思議なことだ。
……そう言えば、金髪の子がライブ中に言っていたな。確か「世界を笑顔に」だったっけ。
案外あの少女は俺を笑顔にするためにわざわざ話し掛けて来たのかもしれない……いや、それはないな。それは考え過ぎ、自意識過剰というものだ。痛い奴め。
浮かんだ考えのアホらしさに自嘲しつつ、俺は足早に会場から遠ざかる。
日は一層高く、夕暮れ時を迎えるにはまだまだ時間が掛かりそうだった。そう思うと、何だか急に疲れやら眠気やらが襲いかかってくる。今すぐにでも体を休めたい気分だ。
ついでに今日はろくに寝られていなかったことを思い出し、これはもう帰ったらすぐに寝ようと決意して、俺は陽炎揺れる道を急いだ。
※12/15 文脈的にしっくりきていなかった部分を加筆、修正。
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第四話『本番まで残り二十分』
今日は、いつもお世話になっているミュージックスタジオ『CiRCLE』で大きなライブイベントが開かれる日だった。
あたしたちのバンドは今日このライブに参加することになっている。開催が決まったときに、オーナーさんに出ないかと誘われたのだ。無論、二つ返事で了承した。
あたしたちもそこそこ有名になったと思う。
『Afterglow』を結成して二年半。放課後には皆で練習をして、数々のライブをこなし、少なくとも「私たちはバンドをやっているんだ」と胸を張って言えるくらいにはなれたんじゃないかと思っている。
勿論それで慢心はしないし、まだまだな部分はあるだろうけれど、それでも皆でバンドをやっているというのは、その……悪くない。
こんなことを言ったらモカに笑われてしまうこと請け合いだ。というか多分口に出さなくても揶揄われる。
その場面が容易に浮かんで、あたしは慌てて首を振り、ニヤついた顔をするモカを頭の中から追い出した。
「蘭ー、いま面白いこと考えてたでしょー」
ほら来た。何で分かるんだろ……。
モカは本当にエスパーなのかと思うくらい的確にあたしの心を読んでくる。あたしは感情が表に出にくい方のはずなんだけどな……それとも、これが幼馴染の力なのだろうか。だとしたら、幼馴染たちは全員あたしの考えを読めるということになってしまうんだけど。
いや、意外とありえるのかも。実際、皆あたしが素直じゃなくても見透かしたようなことを言ってくるし。しかも見透かされてるし。
でももし本当にそうだとしたら、モカにあたしの考えが分かって、あたしにモカの考えていることが分からないのはおかしい。不公平だ。
他の皆もモカの言動は読みにくいとは言ってるけど……モカが特殊なだけなのだろうか。
モカを横目でちらりと見てみる。今あたしたちはライブ会場の準備室で自分たちの番を待っていて、あと二十分後にはステージの上にいるはずなんだけど、そんな中、モカは大量のパンをモリモリ食していた。
いつも通りと言えばいつも通りだけど……よく考えたら普通はおかしいよね、コレ。だって普通の人はライブ本番前にパンを十個も二十個も食べたりはしないし、なんなら本番前じゃなくても食べない。
やっぱりモカが特殊なだけか……なら仕方ないのかも。
そう結論付けようとして、しかしそこでふと思い出す。
ひとりだけいた。モカの考えていることを読める人が、ひとりだけ。
少し前まではあたしたちのそばで笑っていたはずの碧髪の少年。彼はモカの企みすらも容易く看破していた。同時にモカと共謀することも多々あったんだけど。
――そういえば、彼の思考もよくわからなかったな……。
よくわからないまま一緒に過ごして、よくわからなかったまま、彼はあたしたちの前から姿を消した。
モカもよく言っていた気がする。「たーくんは、なんかナゾいんだよねー」とか何とか。モカにそう言わしめるほどだ。きっとあたしでは一生理解できはしないのだろう。
彼が――夕がいなくなってから、二年の時が過ぎた。その間、あたしたちは誰一人として夕に一度も会っていない。
会いに行かなかったわけじゃない。むしろ何回も会いに行った。探したりもした。
でも会うことは叶わなかった。
近所の人の話によれば、夕は今でもあたしたちの商店街に住んでいるらしい。それなのに、二年間一度も邂逅しなかったということは、夕は間違いなくあたしたちを避けているということになる。そうでないとあり得ない。
……どうして急にいなくなってしまったんだろう。どうしてあたしたちを避けるんだろう。どうしてあたしたちは夕を見付けられないんだろう。
そう思わなかった日はない。でもその理由は未だわからないままだ。やっぱり、あたしじゃ夕の考えを理解することは出来ないということなんだろうか。
ぼんやりとモカを見つめながらそんなことを考えていると、モカと目が合った。
「なに〜? あ、もしかしてモカちゃんのパンが欲しいの〜?」
「……いや、別にいらないから」
「え〜」
明らかにパンをあげる気もないのに勧めてくるモカから視線を外し、その隣にいたつぐみに目を向ける。つぐみは緊張しているのか、真剣な表情でしきりに指をタンタカと打ち付けていた。どうやらエアキーボードを弾いているようだ。頑張り屋のつぐみらしい。そしてモカや夕とは違って考えていることが手に取るようようにわかる。
しばらくすると一通り弾き終えたのか、ふぅと息を吐いて微笑を浮かべた。
多分いま心の中では「よし、本番もこの調子でがんばろう!」とか思ってるんだろうな……うん、可愛い。
今日もつぐっているつぐみにちょっとほっこりして、さらに視線を横に向けると、今度はひまりと巴が談笑していた。何の話をしているのかと耳をすますと、何やらひまりが巴に相談をしているらしい。
「うーん、どうやったらみんな『えいえい、おー!』って言ってくれるのかな?」
「……いや、多分どうやったって皆言わないと思うぞ」
「え~何で!? 言った方が絶対気合い入るってー!」
「だから、気合いの入る入らないの問題じゃなくてさ……」
「だって~……」
ひまりは不満気にそう言って、ぐだっと机に突っ伏した。
……そんなに言ってほしいのかな、あの掛け声。
たまには乗ってあげても良いかなとは思ってるけど……でも あたしたちの間では、ひまりは言うけど誰も言わないっていうのが既に様式美として定着しちゃってる感じだし。
それに、あの間の抜けた掛け声のおかげで良い感じに肩の力が抜けるからという理由もある。気張り過ぎてしまうつぐみなんかは特に助けられているはずだ。
まあ当のひまりはそのことに気付いていないんだけど。でもそういうところがひまりらしい。流石、メンバー随一の空気の読めなさだ。
「あーあ、たーくんがいたら多分ノリノリで言ってくれたんだろうなー……」
……そして、こういう空気の読めなさも、ひまりはピカイチだった。
辺りの空気が一瞬にしてぴしりと凍りつくのを感じる。
あのモカでさえパンを食べる手を止めて固まる始末だ。つぐみは忙しなく目を泳がせているし、巴も額に手を当てて「あちゃー」と言わんばかりに天を仰いでいる。
そして、ひまり以外のメンバーが一斉にギギギと首をこちらに向けた。
「……なに?」
そのリアクションに、思っていたより低い声が出てしまう。
「いや、なにっていうか……いやー、何だろうなー! ハハハ――」
「蘭〜、パン食べる〜?」
「ら、蘭ちゃん……! わ、私今日も頑張るね!」
すると彼女たちは三者三様の反応を見せた。
三人ともあたしに気を遣ってなんとか誤魔化そうとしているのが丸わかりだった。全然出来てないけど。
「え、え、何? どうしたの? モカがパンを分け与えるなんてそんな――むぐぅ!」
「ひーちゃんにもあげるよ〜。ほら、しっかり味わってね?」
「んむーーっ!?」
モカは何か言い掛けたひまりの口にパンを突っ込むと、そのまま部屋の端まで連れて行って、ひまりの耳元で何事かを囁いていた。
つぐみと巴はといえば、つぐみは相変わらずあわあわしているし、巴はきまり悪そうにあさっての方向を向いて頭の後ろを掻いている。
「……はぁ」
こうなってしまったら後は自分で収拾をつけるしかない。一つ溜め息をつくと、あたしは宣言する。
「何回も言ってるけど、別にあたしは気にしてないって」
「そ、そうか?」
「うん、全然」
「蘭ちゃん、その……」
「大丈夫」
「ひーちゃんにも悪気があったわけじゃ――」
「わかってるって」
それぞれに返事を返して口元に笑みを浮かべると、三人はようやくほっとした表情を見せた。
はっきり言おう。三人とも過剰に反応し過ぎだ。
どういうわけだか知らないけど、どうにもこの三人はあたしの前で夕の話を出すのはマズいと思っている節がある。
あたしが怒るとでも思っているんだろうか。だとしたら心外だ。あたしは別に怒ったりしない。そりゃ夕が突然いなくなったのはショックだったけど、それで癇癪を起こすほど子供でもないつもりだ。
まだパンをむぐむぐ食べているひまりを見ながら考える。別に皆もあれくらいで良いのに。その方がよっぽど気が楽だと思うけどな……。
「ありゃ、もうそろそろ袖に行かなきゃマズイな」
腕時計を見ながら巴がそう言った。確かに、時計を見ればあたしたちの番まであと十分ほどだ。急がないと。
「そうだね〜。それじゃ、行こっか〜」
「ひまりちゃん、口の中のパンはまだ時間掛かりそう?」
「大丈夫、もう食べたから! モカごちそうさまっ」
「今度奢ってね〜」
「えー!? モカが自分からくれたんじゃん! ていうか食べ掛けだったし……」
「モカちゃんとの間接キスはお高いですよ〜? これは二倍、三倍にしてお返ししてもらわないと〜」
「も〜!」
「ほらほら、モカもひまりもそれくらいにしとけって。今は早く行かなきゃだろ?」
「あ、じゃあちょっと待って! 掛け声やるからっ」
「え〜、また〜?」
「いくよ〜! えい、えい、おー!」
流れるように掛け合いをして、結局いつものように放たれた高らかな掛け声は、果たしてそれに追随するものもなく、所在なさげに空気に紛れて行った。
「だから何で誰も言ってくれないの〜!?」
ガックリと項垂れるひまり。気が付けば、あたしたちを包み込むのは既にいつもの雰囲気だ。
ふっと笑みが溢れた。同時に、なぜか一抹の寂しさが胸によぎる。
舞台袖に近付くにつれて、会場の高揚がはっきりと耳に届くようになって来た。そしてあたしたちが舞台袖に着くと同時に、前のバンドの演奏が終わった。
いよいよ次はあたしたちが演奏する番だ。
「じゃ、みんな行くよ。今日も良い演奏にしよう。『いつも通り』にね」
醸成された最高の空気に感化されて、あたしはみんなの方を振り返ってそう言い放ち、ステージへと足を向けた。
――この『いつも』は、二年前にはなかった『いつも』だ。
足を踏み出した瞬間、そんな言葉が脳裏を掠めた。
本編とは関係ないですが、個人的な嘆きを一つ。
リサ姐の声優さんである遠藤ゆりかさんが引退されるそうです……寂しい。
廃業ということで可能性は低いかもしれませんが、いずれまたお目にかかれる日が来て欲しいものです。
引退まで残り半年、バンドリファンとしても、アニメファンとしても、遠藤さんの声優活動が悔いのないものになるよう応援しています。
うぅ…リサ姐ぇ……。
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