マリア様がみてる~"アポロンの薔薇"~ (穂高)
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序曲 【はじまりの春】
#01 —前編—


初投稿です。
これは祐巳ちゃん至上主義なお話です。

約3年半ぶりに続きを書いているので、矛盾点があればご指摘下さい。
ご迷惑おかけします。




 (1)

 

 大学の入学式の一週間前、この日祐巳は学科のオリエンテーションに参加するため、指定の講堂を探し校内をウロウロしていた。何もかも平均点―――と、言い張る祐巳も、努力の甲斐あり、この春からお姉さまと同じリリアン女子大学に通えることになった。しかも、学科は違うが、由乃と志摩子もリリアンなのだ。

 

「それにしても…ここ…どこ……」

 

 大学の敷地がこんなに広いとは思わなかった。こんなことなら、由乃や志摩子がついてきてくれるというのを断らなければよかったと後悔する。しかし、あの二人は祐巳とはオリエンテーションの日が違うのだ。本来なら休みの日を祐巳のためだけに大学まで連れ出すというのは、気が引ける。

それでも、由乃も志摩子も最後まで譲らなかったため、お姉さまが案内してくれるから大丈夫、と嘘を吐いて説得したのだった。

 ここ最近、祐巳の周りの人たちの祐巳への態度は、過保護すぎると感じていた。お姉さまも本当は、今日、付いて来ようとしていたのだけど、由乃と志摩子がいるから大丈夫、と同じような嘘を吐いて断っていた。いくら歌手としてデビューするからといって、こんな何もかも平均点な私を心配する必要なんかないというのに。祐巳にはみんなの不安が理解できない。今までと同じように接してほしいと願っていた。そんな少し憂鬱な気分でぼうっとしていると―――急に背後に気配を感じ——、振り返る間もなく

 

「祐~~巳ちゃんっっ」

 

「っ!!?~~~っせ、聖さまっっ」

 

 聖さまに抱き着かれた。

 

「…どうして!?」

 

「どうしてって、祐巳ちゃん私と同じ学科でしょ?私はオリエンテーションのお手伝いに来てるの」

 

「あ…あぁ、なるほど。…それは分かりましたが、いい加減っ離してください~」

 

 こんな往来でおもいっきり抱きしめられては、なんだか恥ずかしい。私は、少し力を入れて聖さまを引きはがそうとしてみるが、びくともしなかった。それどころか、余計に力を入れられる。

 

「だぁ~めっ!祐巳ちゃんこそこんなところで何してるの?講堂はあっちだよ!?」

 

 意地の悪い笑みを浮かべながら聖さまが聞いてくる。

 

「っう゛~~~」

 

「ははっ!うそうそ!大学は広いからね。講堂まで案内してあげるよ」

 

「……お願いします」

 

 そうして、やっと解放してくれた聖さまに連れられて、祐巳は無事講堂へたどり着くことができたのだった。

 

 

 

 (2)

 

 春休みだというのに、私は大学に来ていた。今日開かれる学科オリエンテーションの手伝いのためにだ。普段ならそんな面倒なこと絶対に引き受けないのだが、かわいい後輩のことが少し心配で参加していた。私は講堂の入り口付近で案内をする係りなのだが、いつまでたってもあの子が来ない。迷子にでもなったのか、はたまた来る途中に何かあったのかもしれない。考え出すといてもたってもいられなくなって、私は持ち場を離れて走り出していた。

 

 会場の講堂から離れた別の学部の棟の側に祐巳の姿はあった。広い敷地、オリエンテーションのためか、人も多かったが、祐巳はすぐに見つかった。祐巳の周りだけなんというか空気が違うのだ。オーラというのかもしれない。凛とした――それでいて暖かく柔らかいそんな雰囲気を漂わせている。―――きれいだ――と思う。彼女はここ一、二年で遅い成長期を迎えていた。身長は、高二の頃から比べてずいぶんと伸びていたし、顏も元々パーツ自体は整っていたと思うのだけど、丸みを帯びた狸顔がすっきりとし、くりくりとしたおおきな瞳、すっとした小さな鼻、ぷっくりとした唇がより洗練されて、繊細で可憐な美しさを纏っていた。

 周りを歩く人たちもそんな祐巳に目を奪われ、ちらちらと視線をよこしている。かくいう祐巳は、自分が見られていることなどまったく気づいていない様子だ。鈍感というかなんというか。本人は自分のことを未だに子狸だと思っているのだから厄介だ。

 ほんの数瞬、祐巳のことを見つめて突っ立ていたが、何組かのグループが祐巳に近づこうとしているのに気づき、はっとする。あれはサークルの勧誘か何かだろう。祐巳にはサークルに入っている暇なんてないというのに。もうすぐデビューするのだから。それでも気の優しい彼女は丁寧に相手をしてしまうかもしれない。

 

 聖は咄嗟に祐巳に駆け寄り、後ろから抱きしめた。―――周囲から祐巳を守るように。

 

 

 (3)

 

 「ふぅ~。やっと終わったぁ」

 

 なが~い説明も終わり、今はたまたま近い席に座っていた子たちと談笑したりしている。

 

 「ねえねえ、祐巳は履修登録どうする~?」

 

 ずっとリリアンに通っていた祐巳にとって、由乃と志摩子以外の同級生から呼び捨てにされるのは新鮮だった。

 

 「うーん。私は…聖さまに聞いてみようかな」

 

 「えぇっ?様?」

 「誰?何者??」

 「彼氏?!とか?」

 

 私のなんでもない一言にアリサ、優子、玲奈が一斉に反応した。外部の人間にとって、やはりリリアンの制度は驚きらしい。

 

 「ごめんごめん。ただの先輩だよ。聖さまは二個上のリリアンの先輩なの。それに、私に彼氏なんているわけないって」

 

 祐巳はハハハっと苦笑しながら答える。

 

 「な~んだ。リリアンって変わってるね~」

 「でも、祐巳に彼氏いないなんて意外」

 「そうそう。こん~なきれいなのに」

 

 「なっ何言ってるの!アリサたちの方が全然きれいだよ!おしゃれだし!?」

 

 「祐巳にいわれてもね~?」

 「彼氏いないならさ、今度合コン行こうよ!すぐできるって!」

 「あ~アリアリ!」

 

 「ごっ合コンって…私は別に…いいよ」

 

 「まっこの話はまた今度ね!祐巳逃がさないから!」

 

 そう言い残して、三人は帰っていった。これから遊びに行くらしい。祐巳は誘われはしたが、用事があるから、と断った。何しろこれからヴォイストレーニングがあるのだ。一週間後、大学の入学式の日から、祐巳のファーストシングルの曲がCMで流れはじめる。更にその後からは、各種音楽番組への出演や雑誌のインタヴューなどの予定が控えていると聞かされている。今はまだ山百合会の仲間たちしかそのことを知らないし、わざわざ言うものでもないだろう。祐巳も配られた書類をまとめ、席から立ち上がり、出口へと向かう。扉の側には聖さまが立っていて、私に声をかけてくれる。

 

 「祐巳ちゃん、お疲れ!友達できた?」

 

 「お疲れ様です。聖さま。まぁ、たぶん」

 

 「さすがだね。祐巳ちゃんならすぐできると思ってたけど。でも気を付けないとだめだよ、祐巳ちゃん」

 

 何を気をつけろと言うのだろう聖さまは。祐巳は怪訝そうにちょこんと首をかしげる。

 

 「こりゃだめだ。みんなが心配するのも分かるなぁ」

 

 聖はなぜか頭を抱えて唸っていた。

 

 「それじゃあ、聖さま、ごき…」

 

 ごきげんようといいかけて聖さまに阻まれる。

 

 「待って!祐巳ちゃん。これからレッスン?」

 

 「そうですけど?」

 

 「一人で大丈夫?」

 

 「もうっ!大丈夫ですよっ!それに、マネージャーさんが学校のそばに迎えに来てくれているはずなので」

 

 祐巳はふくれながら応える。

 

 「ははっ!ごめんごめん祐巳ちゃん。じゃあ、そこまで一緒に行こう。ね?」

 

 子ども扱いされているようで、少し不満ではあったが、聖さまと久しぶりに話せたのがうれしくて、結局、門を出たところまで二人仲良く並んでゆっくりと歩いたのだった。

 

 

 

 

 




 

かなり自己満足な物語です。今のところ、聖×祐巳みたいになっていますが、メインは祥子×祐巳な祐巳ハーレムです。

では、拙い文章ですが、お付き合いくださりありがとうございました。


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#02 —後編—

(1)

 

 四月八日、福沢家では、朝から家族四人そろって、テレビの前に鎮座し、その時を今か今かと待ちわびていた。マネージャーさんの話では、朝の八時頃のCMからということだったので、もうすぐのはずだ。

 

 「お母さん、録画の準備はできているのか」

 

 お父さんがそわそわしながら、お母さんに聞いている。これで五度目だ。

 

 「もう、お父さん。大丈夫ですよ。何度も言っているでしょう」

 

 お母さんも聞き飽きたのか、呆れた顔で応じる。

 

 「そうだよ。別に祐巳が映るわけじゃないんだから。声だけだろ~」

 

 そんなことを言いながらも祐樹だって落ち着かない様子なのは、突っ込まない方が良いのだろう。私は、ただだまってテレビを見つめる。――――――CMが切り替わる―――今人気の若手女優が、たおやかな髪をなびかせ優雅にほほ笑む映像とともに、祐巳の歌声が流れた。

 

 

 「――――――って!!!?どどど、どうしたの!??」

 

 私は感動のあまり、夢じゃないかと少し呆けてしまっていたが、気になってみんなの様子を窺い見ると―――なんと、両親が涙を流し、祐樹まで瞳を潤ませているのだ。

 

 「どうしたって、感極まって泣いているのよ。当たり前じゃない」

 

 「そうだよ、祐巳ちゃん。うぅ、祐巳ちゃんが芸能人にぃ~。遠くに行かないでくれよ~」

 

 「へぇ~。いい歌じゃん」

 

 よくわからないが、みんなも感動してくれたみたいだった。

 

 「へへへ~。なんか照れるな~」

 

 そんな風に、しばらく家族でわいわいしていたのだが、ふと時計をみれば、もう八時半。

 

 「ああーっお母さーん!もう時間ないよ~っ」

 

 「あら、入学式って何時からだったかしら?ぎりぎりじゃない!!?急いで準備しなさい!!」

 

 そう、今日はもう一つ大きなイベントがあった。祐巳のリリアン女子大学入学式だ。

 

 

 (2)

 

 「なんとか間に合ったわね」

 

 本当にとてもぎりぎりだった。お父さんが車をとばしてくれたおかげで入学式に遅刻という事態はふせげた。が――― 

 

 「二人とも、大学の入学式なんて付いて来なくてもいいのに」

 

 二人が出席するのは予想外だった。座って話を聞いているだけだから、つまらないだろうに。どんなものでも娘の晴れ舞台はしっかりと見届けたいのだという。正直うれしいが、両親同伴というのは少々恥ずかしい。

 

 「祐巳ちゃん、式の後はどうする。何か食べに行くか」

 

 お父さんが、私の照れ隠しの発言を無視して、今後の予定を聞いてきた。これから忙しくなるだろうから、なるべく家族との時間も大切にしたいのだが、今日はだめなのだ。今日は式の後に大事な人との約束が入っていた。

 

 「ごめんなさいっ。今日は祥子さまと約束があるの」

 

 本当に申し訳なく思っているのか怪しいほどの弾んだ声色で答えると、二人もそれならば仕方ないという風に、ほほ笑んで「行ってらっしゃい」といってくれた。

 

 

 

 入学式も終わり、ぞろぞろと帰って行く集団の並にまぎれて、祥子さまとの待ち合わせ場所である〇〇駅の西口へと急いで向かう。手足はきびきびと動かしつつ、頭ではこの後の祥子さまとのデートに思いを馳せていた。今このとき、祐巳のすべての身体機能は祥子さまのために働いている。―――と、聞き覚えのある声に呼ばれ、後ろ髪を引かれる思いで、意識をそちらへ向ける。

 

 「祐巳っ!」

 

 アリサたちだった。よくこんな大勢の並の中で見つけられたものだと感心していると、祐巳は目立つからなんて言われてしまう。また百面相をしていたのだろう。それにしても、目立つとは…まさか急いだせいで身だしなみがぐちゃぐちゃなのか…人目を引くほどに。これからデートなのに祥子さまに申し訳ない。祐巳はがっくりと肩を落として落ち込んだ。

 

 「ねぇ祐巳、聞いてる?もう~だからあ、この後空いてない?私たち、一旦家に帰って着替えてから合流して合コン行くんだけど、祐巳も―――」

 

 アリサたちが何やら話しかけてくれていたが、先ほどからネガティヴな思考が脳を廻っていた祐巳には、まったく内容が届いていない。適当に相槌を打とうとする―――と、突然アリサの声が遮られた。

 

 「祐巳っっ!!」

 

 祐巳にとって、その声は何よりも優先的に耳に届くものだった。祐巳の意識はすっかりクリアになり、瞬時に声の元へ顏を向ける。――――敬愛して止まない、祐巳の大好きな大好きなお姉さま。彼女がすぐそこでほほ笑んでいた。

 

 「お姉さま!!」

 

 アリサたちのことも忘れて、祥子さまに駆け寄る。

 

 「えっちょっ!祐巳!合コンはっ??」

 

 「へっ!?あっ!ごめん。今日は無理!またね、みんなっ」

 

 祐巳は一瞬だけ振り返り、申し訳程度に応えると、そのまま二人でホームへと足早に去って行った。

 

 

 (3)

 

 駅の柱にもたれながら、祥子は祐巳を待っていた。もうすぐ入学式が終わる。祐巳と会うのは本当に久しぶりだ。電話などはけっこう豆にしていたけれど、祐巳は大学の準備やデビューの件で忙しいし、祥子もまた、小笠原グループの一人娘として、パーティに参加したり、仕事を手伝ったりと多忙な日々を送っていた。

―――祐巳は、これからますます忙しくなるのよね…。今日の朝、祐巳の歌う曲が流れるCMを見た。あの子から、今日だと聞いてはいたが、実際、公共の電波で祐巳の声を聴くというのは…、なんだか祐巳が遠くへ行ってしまうように感じて、どうすることもできない焦燥に駆られた。祥子は空を見上げ、頭を左右へふる。嫌な予感を振り切るために。今日のデートは祐巳のお祝いだ。CMと入学二つ合わせた。これから楽しいことが待っているというのに暗くなっていてはいけない。―――とそこに、やっと式が終わったのか、スーツを着た学生がぞろぞろと駅へ向かってくる。祐巳はどこだろう。きょろきょろとスーツの集団を見回す。すると、すぐに彼女は見つかった。祥子は祐巳がどこにいてもどんな姿でも見つけられる自信がある。―――が、祥子でなくても今の祐巳を見つけるのは容易だろう。一人だけきれいな光をまとっているように思える。それは祐巳の素直で純粋な心の表れか―――それとも、容姿の美しさそのものの輝きか―――両方…というのが正解かもしれない。しばらく祐巳を眺めていると、ともだちだろうか、何人かの女の子が祐巳と話している。祐巳が近づいてくるに連れて祥子は待ちきれなくなり、お友達には申し訳ないが、会話の途中であろうとおかまいなく、大きな声で祐巳の名を呼んだ。祐巳はすぐに祥子の声に気づいて駆け寄ってきた。いつものように、あのお日様のような笑顔を向けながら。そんな祐巳の様子に、祥子の心は、ぽっと灯りがともったかのように温かくなった。―――のもつかの間。先ほどまで祐巳と話していた子が、‘合コン’などという単語を発した。祐巳は断ってはいるけれど、そんな言い方では、また誘われてしまうだろう。こんな不愉快な会話が成される場からはすぐさま立ち去りたくて、祐巳の手を少し強引に引き、ホームへと急いだ。

 

 

 (4)

 

 「…お姉さま。どうされたのですか」

 

 祐巳が不安そうに瞳を潤ませ、少し遠慮がちに訊ねてくる。それはそうだろう。あの駅から予約しておいたこのレストランに入るまで祥子は一切口を開かなかったのだから。最もそれは、なにか余計なことを言ってしまわないように祐巳を気遣ってのことなのだが、あまりよくなかったみたいだ。

 

 「なんでもないわ」

 

 祥子はそっけなく答えるが、祐巳が食い下がってくる。

 

 「なんでもないわけありません。私がなにかしてしまったのでしたらおっしゃってください。やっぱり、私の見た目が見苦しいからでしょうか…。急いでいたせいで、髪も乱れちゃいましたし。せっかくのお姉さまとのデートなのに…」

 

 そういうと、祐巳はうつむいてしまった。涙を堪えているのだろうか、肩が少し震えている。この子は、何を勘違いしているのだろう。よりにもよって祐巳の見た目が見苦しいなどと、誰が思うだろうか。そんな祐巳の鈍感なところも愛おしい。

 

 「ごめんなさい、祐巳。あなたは悪くないの。ただ、そうね。心配でたまらないのよ」

 

 「しん…ぱい?」

 

 自分のせいではないことに安心したのか、祐巳は顏をあげ、不思議そうに首を傾ける。

 

 「そう。心配。あなた、絶対に合コンなんて行ってはだめよ。分かっているわよね?」

 

 「なんだ~そのことですかあ~。行く訳ありませんよ。私に合コンって!似合わないと思いません?お笑い要員なんて嫌ですもん」

 

 祐巳は頭をかきながら、ハハハッと笑っている。―――頭が痛い。鈍いにもほどがある。この子は、今まで何人もの男に声をかけられたきたことを何だと思っているのだろうか。

 

 「あなただって、ナンパとかされるでしょう。そういう風に見られているってことよ」

 

 「それは、お姉さまとか瞳子とかが、あっ志摩子や由乃も!一緒にいたからじゃないですか~。私なんておまけですよ」

 

 なるほど…ね。祥子はため息を吐く。

 

 「とにかく、あなたは無防備すぎるのよ。もう少し危機感を持ちなさい!どこでなにが起こるか分からないんだから」

 

 少し、声音を低くして説いてみる。祐巳も心持ち真剣な表情になるが、納得できないという不満が滲み出ている。

 

 「……お姉さまも、他のみんなも、最近心配しすぎではありませんか?~~っ私だってもう大学生です!!お姉さま方には及ばないかもしれませんが、紅薔薇さまとして役目だって、一年間、全うしてきました。自分のことは自分でできます。…私が芸能会に入ることを不安に思っているのでしょうけど…私はっ!何も変わりません。それなのに…今までどおりにみんなと仲良くしたいのに。~~っそれではいけないのですかっ」

 

 祐巳が一気に捲くし立てる。嗚咽をもらしながら…。普段あまり見られない祐巳の様子に、祥子は唖然とした。

 

 「…祐巳。そうじゃないわ。あなたはまだ何もわかっていない。有名になるということがどういうことか……」

 

 「うっ…くっ…そんなこと…っありません」

 

 だめだ。今の祐巳では、何を言っても無駄だろう。それに、祐巳が泣いているのをいつまでも見ていたくない。

 

 「祐巳…。ごめんなさい。今日はいいわ。こんなことで言い争うために誘ったんじゃないんだもの。―――ほら、祐巳泣き止んで。おいしい料理が冷めてしまうわよ。っはい!あ~~~ん」

 

 祥子は、なんとか場の空気をまぎらわせようと、少し恥ずかしいまねをしてみる。

 

 「えっうっちょっっお姉さま!!」

 

 祐巳が驚いてわたわたし始めるが、照れくさそうにしながらも付き合ってくれた。

 

 「ふふっ!一度やってみたかったのよ。いいわね、これ」

 

 祥子は、うれしくなって祐巳に微笑みかける。

 

 「………………はい」

 

 顔を真っ赤にしながらも、祐巳も同意する。本当にころころとよく表情が変わる。さっきまで泣いていたというのに。昔から何も変わらない。―――素直で優しい子。それを好ましく思うし、いつまでもそのままでいてほしい。けれども、あまりにも祐巳は無防備で、誰にでも心を開き、誰でも受け入れる。そんな剥き出しの状態では、祐巳は自分で自分自身を守れない。今までは、リリアンというある種閉鎖的な空間に守られていたし、周りも純粋培養のいい子たちばかりだった。でも、これからは――――――。祥子はその身にうづく不安な想いを押し殺す。せっかく祐巳も元気な様子に戻ったのだし。

 

 「ところで祐巳。入学おめでとう。それから、朝CM見たわよ。―――きれいな歌声だった」

 

 祥子がそういうと、祐巳はうれしそうに、にへらと笑ってお礼をいった。

 

 「それでね。これ、私からのお祝いなのだけれど」

 

 祥子はバックから綺麗にラッピングされた小さな長方形の箱を取り出し、祐巳へと差し出す。

 

 「えっそんな!申し訳ないです!ランチだってご馳走になっているのに」

 

 祐巳はなかなか受取ろうとはしない。そう来ると思っていたけれど。

 

 「いいのよ。私が好きでしているのだから。それに、受け取ってもらえないと悲しいわ」

 

 そういうと、祐巳は、おずおずと祥子の手から箱を受け取り、開けてもいいかと訊ねてきた。祥子がうなずく。祐巳はそっと、丁寧に包みを剥がし、折りたたんでバックに入れてから、再び箱を手に取り、緊張しているのかおそるおそるふたを開ける―――そこには、ロザリオを半分にしたような『ト』のかたちをしたモチーフのネックレスが入っていた。それは、祥子が今しているネックレスの片割れだった。

 

 「お姉さま。これって…」

 

 祐巳は目を見開いて、祥子の首元と自分の手元のそれとを交互に見比べる。

 

 「私のと対なの。…気に入らないかしら?」

 

 「そんなわけありませんっっ!!!すごく!…すごく、うれしいです。お姉さま」

 

 祥子は少し意地の悪い聞き方をすると、祐巳は首をぶんぶんと振ってから、とてもかわいらしい笑顔を見せてくれた。安心したのと同時に祐巳の反応に心が満たされる。

 

 「あのロザリオはもうないけれど、私と祐巳はいつまでも変わらない絆で結ばれている。これはその証」

 

 「いつまでも…変わらない」

 

 祐巳はまるでその言葉を胸に刻みつけるかのように、繰り返しつぶやいた。

 

 

 

 きれいに料理を食べ終えた二人は、最近できたというショッピングビルでウィンドウショッピングをして楽しんだ。店内はとても広く、上の階から順番に全部を見て回るとあっという間に時間が過ぎた。外はもうすぐ日が落ちる。祥子は現在、大学の近くの2LDKの小笠原名義のマンションで一人暮らしをしているため時間をきにしなくても良いが、祐巳は夕食を家族と食べることになっていたため、今日はここまでだ。帰りはそれぞれ反対方向の電車だった。

 

 「お姉さま。今日は本当に楽しかったです。それから、これ、大事にします。」

 

 改札の前、祐巳はさっそくつけてくれていたネックレスをうれしそうに見つめながらいう。祐巳の首元できらりと光る銀のそれが、私が側にいない間も少しでも祐巳を守ってくれるように。ネックレスに込められたもう一つの想い。祥子は祈りを込めて祐巳の視線の先を見つめた。

 

 「それじゃあ、また明日学校で、会えるといいわね」

 

 「はいっ。ごきげんよう。お姉さま」

 

 「ごきげんよう。祐巳――――――」

 

 




 祐巳も祥子さまも今後どうなっていくことやら…



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前奏曲 【はじまりのはじまり】
#03 prologue


今回から過去話(瞳子視点)です。
ロサ・キネンシスとなった祐巳の開花していくカリスマ性や周りで見守る仲間たちの様子などを伝えられれば。
祐巳が歌手としてデビューするに至った経緯がメインです。


 (1)

 

 ―――松平家。その日の朝は、休日ということもあり、いつもより少し遅く起きた瞳子の両親がリビングへ下りていくと、瞳子はすでに朝食を終え、身じたくを済ませて、一人静かにリビングのソファーに座っていた。よく見れば、瞬きもせずテレビを凝視している。

 時刻は八時。いつからそうしていたのだろうか。娘のただならぬ雰囲気に声をかけようにもかけられず妙な時間が過ぎていく―――と、テレビからどことなく聞き覚えのある声が耳に届いた。―――あぁ、そうだ。今日は祐巳さんの…。二人は娘の様子を理解し、ほんの少しの間いっしょになってその心地よい歌声に聴き入った。

 

 瞳子はすぐにでも祐巳さまと話したかったが、今日は彼女の大学の入学式があったし、その後には祥子さまとデートだと聞いていた。昨日電話を差し上げたときに、それはもううれしそうにおっしゃっていたのだ。瞳子もまた、祥子さまと同じように当日にお祝いしようと考えて、入学式の後の予定を聞いてみたのだが、最大のライバルに先を越されてしまった。まったく、祐巳さまも少しは察してくださればよいのに。仕方なく諦めて、とりあえず夜になったら、お祝いの言葉だけでも伝えようと、また電話をかけることにした。

 一日予定を空けてしまっていた瞳子は、夜まで何もすることがなく暇を持て余していたため、そんなに散らかってもいない自室の掃除をしていた。本棚の上を拭き終え、ついでに中もきれいにしようかと、小説やら教科書やらを取り出してゆく。そして、ピンク色のファイルに手をかけようとして―――止めた。それだけは、そっと丁寧に手に取る。慈しむように見つめたそのファイルは、瞳子が自分で作った祐巳スクラップとでも言うべきものだった。祐巳さまの妹になってからのリリアン瓦版の記事は全て保存していたし、祐巳さまの友人である写真部のエース、武島蔦子がことあるごとに撮った彼女の写真の数々はこっそり焼き増ししてもらっていた。数はあまりないが、プライベートで撮った写真も何枚かある。それらがこの一冊のファイルにきちんと日付順に収められているのだ。ついこの間まで学校へ行けば祐巳さまとお会いできたのに。瞳子はファイルを開き、当たり前に一緒にいられた幸福な日々に思いを馳せた――――――。

 

 

 

 

 (2)

 

 ―――あれは、冬も終わりかけの――けれどもまだ寒さの残るそんな時期だった。恒例化したバレンタイン企画で紅色のカードを手に入れた瞳子は、祐巳さまと半日デートをすることになった。私の行きたいところに行こうとおっしゃた祐巳さまに当日まで何も告げず、ミステリーツアーとだけ伝えて、あの方を連れまわした。自分のすべてを知ってもらいたくて。人に打ち明けるには重い話―――。それでも祐巳さまは、文句なんて言わず、ただほほ笑みながら瞳子に付き合ってくれた。そして最後には、まるで自分のことのように瞳子とともに涙を流し、しっかりと抱きしめて受け入れてくれた。帰りは、どちらからともなく手をつないで―――気づくと、二人して寝入ってしまっていた。とても穏やかな時間―――あんなに安らかな気持ちになれたのは、その時の瞳子にとって久しぶりのことだった。まっすぐな祐巳さま。その太陽の光はまぶしくて、向き合えずにいたけれど、祥子さまに言われたように、自分の闇が光の前に曝されるのが怖くて、ただ逃げていただけだった。祐巳さまといることは、自分と向き合うこと。けれどそれはいいことなのかもしれない。だって、太陽はいつだって暖かい光で包み込んでくれる。どんな私も受け入れてくれる。導いてくれる。私はこの方のそばで自分も変わりたいと思っていた。―――次の日、マリア像の前、二人の希望で、何かとお世話になった祥子さまにも立ち会ってもらい私と祐巳さまはついに、姉妹となったのだった。―――――それからはすぐに、三年生を送る会や卒業式の準備があったため、何かと忙しく、感慨に耽る間も新米姉妹独特の甘い時間を過ごす間もなかった。―――これが終われば、もうすぐ春休み。これからいくらでも祐巳さまと楽しい時間を過ごせる。そう思うと、こんなちょっとした不満などなんでもない。―――しかし、瞳子はすっかり忘れていた。新学期になれば新入生が入ってくるということを―――瞳子のライバルは卒業する祥子さまだけではないということを―――。

 

 

 (3)

 

 卒業式当日。祥子さまはリリアン女子大学に行かれるため、会おうと思えば会える、とはいえさすがに祐巳さまもお寂しそうだった。薔薇の館では朝早くから集まり、祐巳さまが読まれる送辞の練習をしているところなのだが、まだ練習だというのに、瞳に涙をため、時々言葉に詰まっている。

 

 「祐巳さん大丈夫?」

 

 「いざとなったら去年の令ちゃんみたいに私が助けに行ってあげるから安心していいわよ!」

 

 「ふふっ!去年の再現ね。私もいくわ。祐巳さん」

 

 志摩子さまと由乃さまが祐巳さまを励まそうと明るく声をかける。祐巳さまは二人につられて笑った。

 

 「あははっ!そんなことしたら祥子さまにびっくりされちゃうよ~!大丈夫、卒業式で泣かないように今のうちに悲しんでいるだけだから」

 

 瞳子と乃梨子は、二人で顏を見合わせた。今の話から推測するに、去年の卒業式ではあの祥子さまが送辞の途中で泣いてしまわれ、それをロサ・フェティダが助けたのだと思われるが、まさか、いつも強気で負けず嫌いな祥子さまが…!と驚きを隠せない。祐巳さまは大丈夫だろうか。瞳子はますます不安になる。

 

 「さっ!そろそろ戻ろうか。もうすぐ始まっちゃう。」

 

 そんな瞳子の不安など気づかぬ祐巳さまの声は能天気なものだった。

 

 

 

 式は案外あっけなく進むもので、卒業証書の授与も終わり、次はとうとう祐巳さまの送辞となる。

 

 「送辞。在校生代表。二年松組、福沢祐巳」

 

 「はいっ」

 

 祐巳さまが席を立つ。ゆっくりと落ち着いた様子で壇上へと向かう姿をじっと目で追う。階段を上がり、そしてステージの真ん中へ―――祐巳さま…。瞳子の心配などよそに祐巳さまは堂々としたものだった。卒業生に敬意を払って一礼し、目を細めてほほ笑んでいらっしゃる。祐巳さまのほほ笑みで体育館が暖かな光で包まれたかのようだった。祐巳さまが口を―――開く

 

 「―――リリアン女学園高等部を巣立って行かれるお姉さま方」

 

 暖かな光の中―――透き通った優しいお声が、体育館全体へと染み渡る。それは小鳥がさえずる春の陽だまりにいるかのようだった。ふと周りを見渡すとみんなが祐巳さまを見つめ、呆っと聞き入っていた。祐巳さまはすごい。前々からその親しみやすさで下級生からの人気は高かったが、今は体育館の全ての人を魅了している。この方はどこまで成長されるのだろううか。瞳子はますます増えたであろうファンをおもい、自分も負けまいと誓うのだった。

 

 「―――――――――、在校生代表、福沢祐巳」

 

 送辞が終わった。しーん。と一瞬の間が開き、感嘆の拍手が送られる。この後は、祥子さまの答辞だが、なんともやり辛いのではないかと余計な心配をする。―――けれど、やはり杞憂となった…。さすが、祐巳さまのお姉さま。妹に負けず劣らず、凛と咲く紅薔薇のごとく堂々とした素敵なあいさつだった。理想の紅薔薇姉妹―――これを見た者たちは誰もが、そう思ったことだろう。祐巳さまと祥子さま、この二人のように誰からも認められる素敵な関係を築くにはまだまだだけれど、祐巳さまとならきっと大丈夫。それだけは確信していた。

 

 

 




あの…よろしければ感想とか…いただけるとうれしいです。やる気が持続するような…




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#04 瞳子の受難

 (1)

 

 吹き抜けるそよ風が瞳子の髪を微かにゆらす。背の高い門をくぐり抜け、スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないように、瞳子はまさにリリアンの生徒のお手本とでもいうべき姿で、ゆっくりと歩いていた。周囲には、真新しい制服に身を包み、少しそわそわとした様子の生徒たちとその保護者たち。ちょうど一年前、瞳子もこんな感じだったのかと思うと懐かしく、つい笑みをこぼしてしまう。

 今日は私立リリアン女学園高等部の入学式だった。山百合会は全校生徒の代表として参加する。といっても、瞳子はただ、教職員席の横に設けられた山百合会の席に座っているだけなのだが。そんな瞳子とは違い祐巳さまは歓迎のあいさつを述べられる。また、ファンが増えてしまいそうだ。「はぁ~」と思わずため息をこぼすが、ふるふると頭をふってなんとか嫌な思考を飛ばす。いくらファンが増えようと関係ない。春休みに入ってすぐ、姉妹になってはじめてのデートをした時だって、とても楽しい時間を過ごせたではないか。そんなことで二人の絆は揺るがない。そして、祐巳さまとデート以来二週間ぶりに会えることを思い、心を弾ませた。

 

 薔薇の館のビスケット扉を開けると、そこにはもう瞳子以外の全員がそろっていた。

 

 「申し訳ありませんっ―――遅くなりました」

 

 まだ、集合時間の三十分前だったが、お姉さま方を差し置いて自分が一番最後に来てしまったことを申し訳なく思い、急いで頭を下げた。

 

 「あっ瞳子!ごきげんよう!まだ全然大丈夫だよ~」

 

 祐巳さまがそう応える。

 

 「ごきげんよう。お姉さま。ですが…」

 

 しかし、瞳子は後悔の思いでいっぱいだった。本当なら、一番にきて雑用を済ませてしまう予定だったのに。

 

 「瞳子ちゃん大丈夫大丈夫。私もほんのちょっと前にきたばかりよ」

 

 「そうね。今日はみんな早かったわよね」

 

 「本当ですね。祐巳さまなんて、私とお姉さまが一緒に来た時にはもういらしてましたし」

 

 「えへへ。気合はいりすぎちゃったかな~。ああ、瞳子荷物おいて座りなよ」

 

 誰も気にしていない様子だったため、いつまでも落ち込むのもどうかと思い、促されるままにとりあえず席へと着いた。

 

 「それじゃあ、みんな集まったことだし、最後の練習付き合ってもらおうかな」

 

 そういうと、祐巳さまは立ち上がった。―――あれ?なんだか見上げる角度がいつもと違うような…。

 

 「祐巳さん、もしかして背、伸びたんじゃないかしら」

 

 「えぇ~~~うそっ!?本当なの?祐巳さん」

 

 「へっ?な、何?急に」

 

 どうやら、私の気のせいではなかったようだ。由乃さまが慌てて立ち上がり、祐巳さまのそばへと寄る。

 

 「あっ!本当ですねえ~。由乃さまより祐巳さまの方が大きいです」

 

 乃梨子がそんなことをいう。由乃さまはというと、ショックで固まってしまわれた。

 

 「……そんな。今まで同じ身長だったのに。私が一番小さいなんて嫌っ」

 

 「あら、乃梨子や瞳子ちゃんも由乃さんとあまりかわらないのではなくて?」

 

 「もうっ!志摩子さんたら、三年生の中でに決まっているじゃない。ていうか、志摩子さんも抜かれているかもしれないわよ?ほらっ早く立って並ぶ!」

 

 由乃さまは少々強引に志摩子さまにも同じことをさせる。

 

 「……どうかしら」

 

 「う~~ん。同じ…くらい?どう思う?瞳子ちゃん」

 

 「…まだ、お姉さまの方が小さいように思います。わずかな差ですけど」

 

 瞳子は思ったままに応える。

 

 「―――もう。みんなぁ。そんな急には伸びないよ~。練習の時間が無くなっちゃう!」

 

 「これも大事なことなの!」

 

 さすが由乃さま。こうだと決めたら周りを見ずに突き進む。結局この後、いつの間に伸びたのだとか何を食べたらいいのかだとか、由乃さまの質問攻めが続き、祐巳さまの練習時間はなくなってしまった。申し訳ありませんお姉さま。妹としてお助けすることができなくて。とは言え、口を挟もうものなら、由乃さまの矛先がこちらに向くのは目に見えていたため、瞳子たち三人は、ただ祐巳を哀れに思うしかなかった。

 

 みんなで揃って体育館へと向かう。私は、祐巳さまの隣を歩いていた。こうして並ぶと、やはり背が高くなられたのを感じる。徐々に伸びていたのだろうが、久しぶりに会うと変化に気づきやすくなるものだ。すると、じっと見ていたためか、祐巳さまが顏をこちらへとむけてほほ笑んだ。

 

 「ん?どうしたの。瞳子」

 

 「な、なんでもありませんわ。お姉さま」

 

 瞳子は一瞬どきっとしてしまった。そのお顔があまりにきれいに見えたから。

 

 「それより、大丈夫なんですの?練習されなくて」

 

 「ああ、そのことー。まぁ一応家でも練習はしたし…最後にみんなにチェックはしてもらいたかったけど…」

 

 「そうですか。すみません…」

 

 「瞳子が謝ることじゃないでしょ。私もなんだかんだのせられてたしね…」

 

 そういって祐巳さまは苦笑する。

 

 「とにかく、がんばるから見守ってて!きっと、新入生の子たちがこれからのことにわくわくできるようなスピーチをしてみせるから!」

 

 「はい。応援しています。お姉さま」

 

 そんなこと、いわれなくてももちろんだ。それに心配はしていない。むしろスピーチがすばらしすぎてしまうことの方が瞳子にとっては不安だった。

 

 

 

 案の定、拍手が鳴りやまない…。祐巳さまの歓迎のあいさつはそれはもう、見事であった。ロサ・キネンシスとなられてからの初仕事は大成功といっていいだろう。新入生たちは羨望と尊敬の眼差しで祐巳さまを見つめ、そのお言葉に感嘆の声をもらす。祐巳さまの信奉者が大量に生まれたのは明白だった。——今までは祐巳さまの親しみやすさや普段の鈍感でおっちょこちょいな言動から目に留まらないでいたが、よくみると、祐巳さまの顔立ちはきれいといえるものだった。それに、祐巳さまは遅い成長期真っ只中―――。これからは、可愛らしいから美しいへと成長していくだろう―――中身は…まあ多々心配な面もあるけれど、そのお心は美しい。

今日の新入生たちは、祐巳さまのことをどう感じたのか。まだ祐巳さまのことをあまり知らない彼女らにとって、壇上でお話しされる様子はみんなを暖かく包み込んで見守るマリアさまのように見えたかもしれない。崇拝の対象がとても親しみやすく接してくれる―――親しみやすい祐巳だから好きというのとは違う。瞳子は、祐巳さまのことをちゃんと見ない、勘違いした者たちが出てこないことを祈るのだった。

 

 

 (2)

 

 週明けから、新学期が始まった。朝から「ごきげんよう。紅薔薇のつぼみ」などと声をかけられ、まだ慣れないそれに瞳子は照れくささを感じる。始業式を終え、教室に戻る廊下を歩いていると、祐巳さまが私を呼び止めた。なにやら由乃さまが報告したいことがあるらしく、お昼は薔薇の館に集まってほしいとのことだった。一限目、二限目…と、午前の授業はたんたんと過ぎてゆき、あっという間にお昼になった。話とは、おそらく菜々ちゃんのことだと思う。薔薇の館に新しい住人が増えるかもしれないうれしい予感に瞳子は目的の場所へと向かう足を早める。

 

 ―――扉を開けると、そこにはすでに菜々ちゃんと由乃さまがいた。やはり、思っていた通りの喜ばしい報告があるようだ。―――あと来ていないのは…祐巳さまだけ。

 

 「ごきげんよう。瞳子ちゃん」

 

 「ごきげんよう。皆さま方。あの…祐巳さまは?」

 

 あいさつを交わすと、同じクラスである由乃さまに向けて訊ねてみる。

 

 「私は、菜々と待ち合わせしていたから、祐巳さんとは一緒に来なかったの。でも、そういえば遅いわね。寄り道した私より早く着いているはずなのに。何してんのかしら」

 

 早く報告したいのに~とぷんぷんする由乃さま。―――と、そこへ

 

 「~~~っごめん。お待たせ!!」

 

 ようやく祐巳さまがやってきた。息を弾ませ、ハァハァ言っている。だいぶん急がれたようだ。

 

 「祐巳さん遅い!!」

 

 「ごめん由乃さん。ちょっとね…っあ!菜々ちゃん!ごきげんよう」

 

 祐巳さまは菜々ちゃんに気付くと、にっこりと笑って喜びを隠せない様子で声をかける。

 

 「ご…ごきげんよう。ロサ・キネンシス」

 

 山百合会のメンバーに囲まれた菜々ちゃんは少し緊張しているみたいだ。

 

 「まぁ、いいわ。それではさっそく!」

 

 菜々こっちいらっしゃいと由乃さまが菜々ちゃんを呼び寄せ、中央に立つ。

 

 「え~~ごほんっ!私、島津由乃は、今朝、有馬菜々にロザリオを渡し、無事に姉妹になりました。今後とも黄薔薇ファミリーをよろしくお願いいたします!」

  

 「有馬菜々ですっ!よろしくお願いします!」

 

 由乃さまが高らかに宣言し、頭を下げると、菜々ちゃんもそれにならって頭を下げる。いい子そうに思えた。

 

 「おめでと~~~う!!ようこそ菜々ちゃん!これからよろしくね。大歓迎だよ!」

 

 そういってから、祐巳さまは自己紹介をし、その後、ロサ・ギガンティア、乃梨子、私の順にあいさつをしていった。

 

 

 「―――それにしても、お姉さまはなぜ遅くなられたのですか」

 

 歓迎ムードが少し落ち着いたところで、菜々ちゃんにも手伝ってもらいながら全員分の紅茶を入れ終え、席に着いた瞳子は、先ほどから気になっていたことを切り出す。

 

 「ん~~私もすぐに教室出て向かってたんだけど、途中でカシャッて音がして、何かと思ったら、遠くから私のこと撮ってる子がいたんだよね。で、蔦子さんみたいにカメラが好きな子なのかなと思って、話しかけたの。カメラ好きなんだねって。そしたら、ごめんなさいって言って逃げられちゃって…」

 

 話しながら、祐巳さまの顏が沈んでくる。その時のことを思い出しているのだろうか。

 

 「私、何か避けられるようなことしたかな~とか、もしかして一年生に嫌われてるのかな~って考えていたら、なんだか時間が経ってたみたいで。いや~~ほんとごめんね」

 

 そういって祐巳さまは無理に笑う。それを見て瞳子も苦しくなるけれど、たぶんそれは逆だということにも気づいていた。

 

 「あの~~お姉さま?」

 

 瞳子が鈍感な祐巳さまに教えて差し上げようとすると、その前に菜々ちゃんが発言した。

 

 「祐巳さま!祐巳さまを嫌っている一年生なんているわけありません。一年生の間では入学式の祐巳さまの話題で持ちきりです!」

 

 「えっ…どど、どんな?」

 

 祐巳さまはまだ勘違いしているようで、びくびくとしている。小動物のようで可愛らしいが、鈍すぎて少々イラッとくる。

 

 「も~~う。そんなのどうせロサ・キネンシス素敵って話でしょ?ここまでくると嫌味に思えるわ」

 

 「そうよね。うらやましいわ。祐巳さん」

 

 お二人もどうやら私と同じ気持ちを抱いたみたいだ。

 

 「もっっもちろん!他の薔薇様方も一年生に大人気ですよ?」

 

 「に、二年生にも人気です!みんな志摩子さんみたいになりたいって言ってるよ!?」

 

 妹たちが慌てて自分のお姉さまをフォローする。乃梨子は敬語を忘れる始末…。祐巳さまはというと、ただただ訳がわからないといった感じだった。

 

 

 後々、この写真の件がけっこう大事になってしまうのだが、この時の瞳子たちには思いもよらないことだった。

 

 



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#05 紅薔薇の開花

 (1)

 

 「えええっっ!!むりっ!むりだよそんなの~~」

 

 早朝の薔薇の館に祐巳さまの叫びがひびく。今日は新入生歓迎会当日。余裕をもって準備していた甲斐もあって、前日の最終確認ではすべて完璧ということだったのだが。

 

 「だって!仕方ないでしょう。乃梨子ちゃんが風邪でお休みしちゃったんだからっ」

 

 「だからって!!なんで私なの??私特技なんてなにもないよぉ」

 

 予定では、新入生歓迎会の催しで、乃梨子が琴を演奏し、それに合わせて志摩子さまが日舞を披露するはずだった。しかし、今朝になって乃梨子から熱が出て動けないと連絡があったのだ。

 

 「ごめんなさいね。乃梨子が迷惑をかけてしまって」

 

 「仕方ないわよ。それにしても、張り切りすぎて倒れるって乃梨子ちゃんもかわいいところあるじゃない。そんな健気な乃梨子ちゃんのためにも頑張ろうって気にならないの?祐巳さん」

 

 由乃さまが祐巳さまを追い詰める。

 

 「…うっ。で、でも…何を…」

 

 「ふふふ。だ~~いじょうぶっ!祐巳さんなら何やったって喜ばれるんだから」

 

 「っそ、そんなぁ~~」

 

 祐巳さまは「助けて」という瞳で瞳子を見つめる。うるうるうるうる…。

 

 「…はぁ~~。それでしたら、お歌を歌ってはいかがでしょうか?」

 

 「えっ!?うた?」

 

 「はい。去年、曾お祖母さまの誕生会で歌われていたでしょう?心がこもっていればいいんです」

 

 「…うーーん。そっかぁ…」

 

 祐巳さまは目をつぶってなにやら考えていた。

 

 「―――っあ!じゃあさ、瞳子が伴奏してよっ!それなら私やるよ!」

 

 そして、楽しいこと思いついたと言わんばかりの無邪気な表情で瞳子を巻き込む。

 

 「ちょっ!お姉さま、何を」

 

 「あら!それいいじゃない?!」

 

 「ありがとう。祐巳さん、瞳子ちゃん。お願いするわ」

 

 「私も楽しみですっ!お二人とも、頑張ってください」

 

 瞳子が反論する間もなく、決まってしまった…。

 

 

 

 お御堂では、三人の薔薇様が新入生ひとりひとりの首におメダイをかけてゆく―――。緊張と期待でドキドキしているのが伝わってくる。ある子は顏を真っ赤に染め上げ、ある子はふるふると震えながら。瞳子は祐巳さまの後ろでアシスタントをしながら、新入生の様子をうかがっていた。薔薇さま方に熱ーーい視線を送る新入生たち。その瞳に浮かぶのは尊敬と憧れ。瞳子はこの後に控えた歓迎会のことを思って少々気が重くなる。大丈夫だとは思うが、はっきり言って歌も演奏もレベルの高いものではない。紅薔薇さまを盲信している子たちが、がっかりしてしまわないのを祈るのみだった。

 ―――最後の子におメダイをかけ終える。いよいよだ。祐巳さまと私以外の山百合会幹部が袖へと下がってゆく。

 

 「それでは、これより新入生歓迎会を始めたいと思います。どうか皆様、紅薔薇姉妹の共演をお楽しみください」

 

 そのあいさつが終わるや否や、新入生たちの歓声と拍手が鳴り、瞳子はピアノへと―――祐巳さまはステージ中央へと向かった。

 祐巳さまが、胸の前で祈るように両手を握り合わせ、「ふぅーーー」と心を落ち着かせるように息を吐いたあと、瞳を閉じる。

瞳子は、祐巳さまの準備が整ったのを確認すると両手を鍵盤へと添える――――――お御堂にピアノの旋律が紡がれる。祐巳さまはゆっくりと瞳を開け、息を吸う―――そして、その口が一音目を発したその瞬間から、二つの音が絶妙なバランスで重なり合い、お御堂に響き渡る。二人が生み出した音楽は、『マリア様のこころ』。

 祐巳さまの最後の一音が空間に溶け込むように消えてゆく―――それに合わせて、瞳子は鍵盤からそっと両手を離す。二人は余韻に浸り、しばらくは無言のままだった。瞳子の胸はいまだ興奮でドキドキとしていた。こんなに気持ちよくピアノを弾いたのは初めてだった。―――それに、と隣のまばゆい存在を見遣る。祐巳さまのお歌はここまで素敵だっただろうか。去年の夏、避暑地のパーティで同じ曲をお歌いになった時も祐巳さまの心のこもったお歌に感動はしたが、それとは次元が違う。何が変わったのだろうと瞳子が思考に没頭していると祐巳さまが、話しかけてきた。

 

 「瞳子。なんかすごく気持ちよかった」

 

 「私もです。お姉さま」

 

心からの返事だった。そのまま二人で見つめ合う…………。

 

 

 「「「「「―――――――っわーーーー!!」」」」」

 

 

——気付けば、止まっていた時が動き出したかのように、鳴りやまない歓声と拍手が二人に送られていたのであった。

 

 

 (2)

 

 あの奇跡のような演奏を披露してから、紅薔薇姉妹の人気はうなぎ上りだった。リリアン瓦版には、『紅薔薇の祝福』なんて題で取り上げられ、祐巳さまの歌声は『天使の歌声』だとまで評されていた。直接聴くことのできなかった二年生と三年生のお姉さま方からは、また別の機会にぜひ披露してほしいという要望が多く山百合会に寄せられていたし、一年生は―――祐巳さまのファンクラブでもできそうな勢いだ。瞳子はあの時のことを思いだす―――あれは、不思議な感覚だった。二人だけの世界―――いや、二人の音で空間を支配していた。でも―――実際には、瞳子も支配された空間の一部だったのだ。祐巳さまに包まれている感覚―――ただただ、その温かさに酔いしれ、自身を委ねていた。―――祐巳さまは…単に歌が上手いとか、そういうことではない。祐巳さまのお口から発せられるのは、器官を通り、義務的に出す音ではなくて、身体の内、いやもっと根本的な祐巳さま自身から生まれ出るもののように思う。やはり、上手くは説明できないのだけど…。瞳子は教室の席で、ぼうっと祐巳さまのことを考えていた。

 

 「…と……さん、と…こさ…、……瞳子さんっ!!」

 

 「~っえ!?あぁ、はい!なんですの」

 

 「あの…紅薔薇さまがいらしてますわよ?」

 

 級友の声で我に返り、慌ててドアの方を見る。すると、先ほどまで思考の中にいた方が身を乗り出し、こちらへ手を振っていた。教室中が彼女の訪問にざわついている。瞳子は急いで祐巳さまのもとへと向かった。

 

 「お姉さま!もう少し、紅薔薇さまらしくして下さい!」

 

 「えへへ。ごめんごめん。怒らないで」

 

 そういって、祐巳さまは瞳子の顏を覗き込むようにしてほほ笑む。……また、背が伸びている…。瞳子は祐巳さまの顏を見上げながら、少しの寂しさを感じつつも見惚れてしまう。廊下や教室の中からは「きゃあ~~~」なんていう黄色い悲鳴が聞こえてくる。

 

 「もう、いいですから。それより、何かご用事がお有りなのでわ?」

 

 そんな状況に恥ずかしくなって、つい、ぶっきらぼうに答える。

 

 「そうそう!あのね、もうすぐ夏休みでしょ?今年もまた、お姉さまと別荘に行くことになったんだけど、瞳子も一緒に行かない?」

 

 「でも…よろしいのですか?祥子さまとお会いするのは久しぶりですのに…二人だけの方が」

 

 「何言ってるの!二人より三人の方が楽しいに決まってるよ!お姉さまとお会いできるのもうれしいけれど、お姉さまと私と瞳子、紅薔薇家三人で夏休みを過ごせるなんて素敵だと思わない?ねっ!」

 

 祐巳さまが瞳子の両手をにぎりしめ、その瞳と瞳がじーーっと合わさる…………。

 

 「~~~そういうことでしたら、ご一緒させていただきますわ」

 

 「ほんとっ??やったぁーー!!あ~楽しみだな~~」

 

 「ちょっ!お姉さま。もう少しお静かに!!」

 

 こうして、夏休みはまたあの別荘へ行くこととなった。今度は三人で。

 

 

 (3)

 

 期末考査も終わり、待望の夏休みに入った。電車がホームへと到着する。もうお二人は来ているだろうか?瞳子は改札を抜けると腕の時計を確認する。まだ待ち合わせまでは時間があったけれど、祐巳さまは兎も角、祥子さまはもういらしているかもしれない。少し急いで駅の外へと出る。

 

 じりじりとした日差しがアスファルトで照り返し、むわっとした暑さが体にまとわりつく。瞳子は目を細めて辺りを見渡した。―――まだ、誰も来ていない…か。そう思った瞳子だったが、視界の端にちらっと何かが揺れた気がして、そちらへ視線を戻す。―――祐巳さまのツインテール。その前に男が立っていた。あれは誰だろう。祐巳さまと何か話しているように見える。少しすると男は祐巳さまに何かを手渡し、去って行った。すると、遮るもののなくなった祐巳さまと瞳子の目が合う。

 

 「瞳子!!」

 

祐巳さまが瞳子を呼ぶ。瞳子は急いでそちらへと駆け寄った。

 

 「祐巳さま!お早いですね」

 

 「な~に?意外だとでも言いたいの?」

 

 「いえ、別に。」

 

 その通りではあったが、はぐらかす。

 

 「ところでお姉さま。さきほどの方はお知り合いですか?」

 

 「ん?ああ。違うよ?なんか『一人だと寂しいでしょ。一緒に遊ばない?』って言われて、でも私はこれから旅行に行くから、そういったの。そしたら、『じゃあ暇なときはいつでも言って、付き合ってあげるから』って電話番号渡されて……世の中そんな親切もあるんだね~」

 

 思わず、唖然とした。あほうなのだろうかこの方は。瞳子は訳のわからない嫉妬に頭がむしゃくしゃとする。

 

 「祐巳さまっ!その紙渡してください!!」

 

 「えっ!?何。別にいいけど…」

 

 その言葉を聞き終えるや否や、彼女から紙を奪い去り、びりびりに破ってゴミ箱へ捨てた。

 

 「あ~~~~~!人の善意をそんな風にしちゃうなんて……」

 

 (イラッ)

 「こんなもの!善意ではありません!本気で言っているのでしたら瞳子は呆れてものも言えません!!」

 

 爆発してしまった。けれど祐巳さまは目を白黒とさせているだけ。もう一言二言いって差し上げようと口を開きかけたところで、祥子さまが来られた。

 

 「あっ!お姉さま!!」

 「……祥子お姉さま。おはようございます」

 

 「おはよう。久しぶりね二人とも」

 

 祥子さまはとても優しいお顔を向けてくる。瞳子も祐巳さまも自然、顏がゆるむ。

 

 「お久しぶりです。会いたかった…お姉さま」

 

 「祐巳…。私もよ」

 

 そういって、祥子さまは祐巳さまへと歩み寄り髪を撫でる。

 

 「―――――あなた。背が伸びたわね。それに、なんだか…きれいになったわ」

 

 「えへへ。でもお姉さまよりは小さいですよ?」

 

 「当たり前よ。少し合わないうちにそんなに大きくなっていたらショックだわ。これでもとても驚いているのに」

 

 祥子さまはしばらくの間、祐巳さまを見つめていた。いつもそばで見ている瞳子でさえ、祐巳さまの成長に驚くことが多々あるのだから祥子さまはよっぽどだったろう。

 

 「……お姉さま?」

 

 「…ふぅ。私が見ていないところで祐巳はどんどん成長していくのね―――――」

 

 「お姉さま…」

 

 「ふふ。そろそろ行きましょうか」

 

 三人は道路脇に待たせてあった小笠原家の車に乗り込むと、別荘へと出発した。

 

 

 (4)

 

 車中では、祥子さまと久しぶりにお会いしたこともあり、会えなかった間のできごとをお互いに話していると、あっという間に避暑地の別荘だった。

 車から降りれば、都会とは違った心地よい風が肌に気持ちいい。強い日差しも木々の葉にさえぎられ、柔らかな木漏れ日となって降り注いでいた。

 玄関で、沢村さんご夫妻が出迎えてくれる。

 

 「お帰りなさいませ。お嬢さま」

 「祐巳さまも瞳子さまも、ようこそいらっしゃいました」

 

 「今年もよろしくね!」

 「お久しぶりです。キヨさん!源助さん!」

 「お世話になります」

 

 軽く挨拶を交わし中へ入る。私たちはとりあえず荷物を置くため二階へと上がった。

 

 「ここはちょうど三部屋あるから、奥から私、祐巳、瞳子ちゃんってなっているのだけれど、何か不都合があったら言ってちょうだい」

 

 「不都合はないですけど、一人で寂しくはありませんか?」

 

 「ふふっ。祐巳ったら。同じ家の中にいるのだから、寂しくなんてないわ」

 

 「そっ、そうですよね~。あはは」

 

 「それじゃあ、また後で」

 

こうして、波乱の一週間の幕が開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 瞳子語りなので祥子さまの心境をダイレクトに描写できないのが残念です。次回からは話が動きます。シリアスな要素が増えてくると思います。


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#06 きっかけの別荘地1

大変ご無沙汰しております。今更ですが、気の向いた時に更新して行くつもりでございます。

待っていて頂いた方(いらっしゃるか分かりませんが…)心よりの謝罪とお礼を申し上げます。いや、本当にありがとうございます。


(1)

自分に割り当てられた部屋の隅。

瞳子は荷物の整理をしながら思案していた。

さて、これからどう過ごそうか。

祥子お姉さまが、到着初日は夕方までお休みになられることは知っていたし、普段ならば瞳子が休暇を別荘地で過ごす際の行動は祥子さまと大して変わらず、読書をしたり、宿題をしたりしつつ、ゆったりとした時間を送るのだがーーーやはり、気になるのは隣の祐巳さまの様子であった。

 

「お姉さま、」

 

瞳子は整理整頓をあらかた終えると、祐巳の部屋の前まで足を運びドアをノックした。

 

「瞳子です。入ってもよろしいでしょうか」

 

「あれ、瞳子どうしたの?」

 

すると、扉はすぐに開かれ、中から祐巳さまがちょこん、と顔を出して尋ねてくる。

扉を押さえていない方の祐巳さまの手には文庫本が収まっていた。

「あ、いや、お姉さまはこの後どう過ごされるのかとおもいまして」

 

「ちょうどテラスで読書でもしようかと思ってたところなの!夏休みの宿題の読書感想文用のね」

 

まあ、手に握られた文庫本を目にした時点で予想は出来たものの、それは瞳子にとって意外だった。祐巳さまなら有名な観光地を巡るか、一緒にゲームでもしようと誘ってくるのではと予想していた。

顔には出していない自信があったのに、どうやらその思いが見透かされてしまったようで、

 

「ふふん。本は宿題用以外にも持ってきているし、英語や数学の課題もあるわ!夏休みの後半は学園祭の準備で忙しくなるから、今のうちにやっておかないといけないのよ!」

 

なぜか得意げに語られる。

 

「…さすがですね。お姉さまのことだから、昨日は楽しみで楽しみであまり寝付けず、宿題のことなんてサッパリ忘れてしまわれていると思っていましたのに、それどころか学園祭への配慮も考えておいでとは!多少なりともお姉さまと観光地を回って遊ぶことを考えていた瞳子は愚か者です。申し訳ありません、紅薔薇さま」

 

調子に乗っているお姉さまに向かって、少々芝居がかった褒め方をして弄る。

途端に、祐巳さまが慌てて弁解しだした。

 

「と、瞳子!ああの、ね、私も実は瞳子と観光地デートしたいなって思ってて!でも、瞳子もお姉さまと同じ様に、休暇中はゆっくり別荘地で過ごす派だと思ってたから、それに!さっきの台詞、実は去年お姉さまがおっしゃったことなの…だから、今年は準備に抜かりがなくて…あの、だから、本当は、一緒に遊……っ」

 

「お姉さま!」「っっえ!!」

 

だんだんと尻すぼみになっていく祐巳さまの言葉を最後まで待たずに、瞳子は思わず彼女に抱きついていた。

恥ずかしさから、しどろもどろになりながらも、頬を赤らめて一生懸命にしゃべる姿が可愛らしくも、焦ったくて我慢が出来なかった。

天然人たらしめ。わざと苛めたくたるのも仕方ない。

 

「ふふ、一人ならば大人しく過ごしますが、お姉さまとでしたら外に観光に出るのも楽しそうですわ。ーーそれに、去年別荘で退屈そうにしているお姉さまを目撃してましたもの。分かっていますわよ」

 

「そういえば、瞳子も去年こっちにいたんだった。見栄を張るだけ無駄ってことね」

 

祐巳さまはバツが悪そうにそうおっしゃると、ふっと微笑んで瞳子の頭を撫でる。

 

「じゃあ、明日は一緒にお出かけしてくれる?」

 

自分より少し高い目線から掛けられる柔らかで少し甘える様な声と優しい眼差しに瞳子の胸は幸福感で満たされる。

 

「もちろんですわ、お姉さま」

 

 

その後は、どうせならと祐巳さまと共にテラスで読書をし、夕方になると起きてこられた祥子お姉さまも共にキヨさん特製の夕食をいただいて、夜には、大勢の方が楽しいから!と祐巳さまにねだられた管理人夫婦も一緒になりゲームに興じる。

めったに見られない祥子お姉さまのリラックスした笑顔、それを向けられてだらしなく顔が緩む祐巳さま。そんな様子を微笑ましく見つめるキヨさんと源助さんーーー。

一日目は、こうして暖かで穏やかに過ぎていった。

 

(2)

二日目。

昨日の夜はゲームに夢中になるあまり就寝時間が遅かったため、いつもの時間になると勝手に身体が目覚めたものの、少しの気だるさと休日だから、という甘えによって、再び目を閉じた瞳子は見事に寝入ってしまった。慌てて飛び起きたのは部屋の外から祐巳さまの声が聞こえたからであった。

 

「ーー姉ーーま!……さま!お姉さま!起きて下さい!!!」

 

瞳子が瞼を擦って体を伸ばし、時計に目をやると、時刻は八時。

なるほど、少々寝過ぎたが許容範囲内だろう。自分で目覚めたのだからーーーと、未だ祥子お姉さまを起こすことに四苦八苦している祐巳さまがこちらに来る前に、服を着替え、部屋を出て、顔を洗う。

そして階下におりて、キヨさんに朝の挨拶をするが、まだ祐巳さまも祥子お姉さまの姿もない。仕方ない瞳子も手伝おう、とまた二階へ上がり祥子お姉さまの部屋のドアを開けて、固まった。

 

「ん?あれ、瞳子起きたの?おはよう」

「あ、もしかして手伝いに来てくれた?ありがとう〜」

「ところでさ、見てわかると思うけど助けてくれる?」

「?ねえ、瞳子どうし「何をやってらっしゃるんですか!!!!」

「!!?ひえっ?」

 

あぁ、わかっている、わかっていますとも!!情けない顔でこちらを見つめる憐れな祐巳さまには何の罪もない。だから、私が怒っているのは、祐巳さまを抱き枕に、我関せずの狸寝入りを決め込む祥子お姉さまの方だ。

 

「ぁ、あのねお姉さまが起きてくれなくてね、気づいたらこんな状態に、、でもあまりに気持ち良さそうな寝顔を見ていたら起こせなくなって…ええーと、ごめんね?」

 

何やら必死で言い訳を始めた祐巳さまを放って、私は祥子お姉さまへと声をかける。

 

「祥子お姉さま?そろそろお戯れはお止めになって下さいませ」

 

「…あら、おはよう。瞳子ちゃん。祐巳?」

 

「え、あ、おはようございますお姉さま?」

 

私の剣呑な眼差しを全く気にした素振りもない祥子お姉さまは、きょとん?とする祐巳さまに極上の微笑みを向けてから、漸くその体を解放した。一応、ハッと気付いた祐巳さまが「起こすだけで一苦労です」とかなんとか言っていたが、全く怖くない、どころかその表情はまんざらでもなさそうだった。

祐巳さまは最終的には祥子お姉さまのなさることならなんでも許してしまうのではないだろうか。

「…ずるいです」朝食の準備を手伝うと言って、先に下に降りていった祐巳さまの後に続こうと部屋を出る前に、小さな声でそう呟くと、返ってきたのは「あら、あなたは今日一日祐巳を独り占めするのだから、これ位は許してちょうだい」といったなんとも開き直った言い分であった。

 

(3)

「んん〜〜おいしー!」

朝食を食べ終え、直ぐさま出掛ける支度を整えた私と祐巳さまは観光地として有名な商店街のメインストリートをぶらぶらしていた。

コーヒー専門店の前を通った時、祐巳さまがソフトクリームを食べようとおっしゃったので、現在いるのは、そこの喫茶店の中であった。

見ているこちらにまで美味しさが伝わる表情でソフトクリームを口に含み、満足げな祐巳さま。

(こんな姿を見られるのは妹の特権ですわね…)

と、いまやリリアンの下級生から熱烈な視線を集める彼女について考える。まあ、式典や行事の際しか触れ合う機会のない方々からしたら祐巳さまは高嶺の存在になるのも分かる。

紅薔薇さまとしての彼女は、凛々しくも可憐で、厳しくも優しい。普段とのギャップに瞳子でさえ見惚れてしまうのだが、それを指摘した時に「気を張っているだけだよ」と慌てて否定された。人を惹きつけるカリスマ性など、気を張っただけで得られるものではない。彼女の本質的なものだと瞳子は思っている。

 

「あ」

 

コーヒーを啜りながら某っと物思いにふけっていると、窓の外にチラッと見覚えのある人物を見つけた。

 

「どうかしたの?瞳子」

 

祐巳さまが首を傾げて尋ねる。

 

「たいしたことではないのですが、お姉さまに声をかけた忌々しいナンパ男を見かけまして、少々驚いたのです」

 

一瞬だけだが、昨日の駅でみた男だったと思う。祐巳さまの視界に入れるのも嫌で、何でもない風に話を切り上げたかったのだが、彼女は思いもよらない発言をした。

 

「ナンパ?あ、あの子!リリアンの一年生の子だ」

 

瞳子は焦る。

 

「え?あの男の隣にいるのはリリアンの生徒なのですか?」

 

「うん。そーいえば隣の人は昨日の駅で会った人だね、知り合いかな〜?」

 

「見逃すわけにはいきませんわ!お姉さまは少々こちらでお待ち下さい」

 

驚く祐巳さまを置いて、瞳子は喫茶店を飛び出した。そして先ほど目にした彼を慌てて追いかける。

普段あまり走ることのない瞳子が全力疾走で追いつくと、息も絶え絶えに叫んだ。

 

「あなた!その子から離れなさい!!」

 

振り返った男と少女は困惑の表情で瞳子に目をやる。

 

「それと、あなたも。リリアンの生徒がこんな男と何をしているの!」

 

「へっ?」

 

応えない男に焦れた瞳子は少女の方へも声をかけるが、その瞬間少女が発した驚きの声は、どちらかといえば瞳子の後方に向けて発せられたものだった。

 

「ごめんなさい」

 

男と少女の視線を追って瞳子も後ろを振り返ると、そこには二人に向かって頭を下げて謝罪する祐巳さまの姿があった。

 

(4)

「申し訳ございませんでした」

 

瞳子は丁寧に彼らと祐巳さまに謝罪した。

「人の行き交うメインストリートでは目立つから」と取り敢えず二人を伴い喫茶店へと戻ることを提案する祐巳さまに従い、男と少女、祐巳さまと瞳子は四人で一つのテーブルを囲んだ。祐巳さまは店の方にも頭を下げて、先程のテーブルに二つ椅子を足してもらった形だ。お姉さまに迷惑をかけたことで、瞳子は己の短慮な行動を後悔していた。

 

「謝罪は結構ですよ。誤解を生む行動をとった俺の責任が大きいですから」

 

そんな瞳子へと男は気まずげに声をかける。

そう、そもそもこの男の昨日の行動が問題だろうと瞳子は思った。

まず、席に着いて初めに行ったのは各々の自己紹介。

この男と少女の関係は年の離れた兄と妹だった。

 

「俺は高岡 涼平。で、こっちが妹の高岡 綾芽」

そして、妹の方は所在なさげに縮こまって俯いているのだが、時々、祐巳さまの方を盗み見ては顔を真っ赤に染めている。祐巳さまが覚えていたのは、新学期早々に写真を撮って逃げた子だったからだそうだ。そういえばそんな事件もあったなと思い出す。

しかし、祐巳さまをナンパしたことには変わりないし、妹の方も盗撮逃亡犯であることを思うと釈然としない気持ちが残る中、男は続けた。

 

「昨日渡した名刺を見て貰えば、俺の簡単なプロフィールは分かると思うんだけど」

 

(「あ」)

(「あ」)

 

その時、瞳子と祐巳さまは同時に顔を見合わせ、同じ表情を浮かべていた。

 

「その頂いた名刺なんですけど、、、あの後風に飛ばされてしまいまして…」

 

祐巳さまが心底申し訳なさそうにバレバレな嘘を吐く。

(ああ、祐巳さま、瞳子のために有り難いですが、顔が真実を語ってしまっています!)

 

「はははっ」

 

すると男が突然笑い出した。

 

「いいよいいよ、捨ててしまったんだろ?まっ!俺の口説き方がナンパ風なのが悪いよな!肩書きがなけりゃただのチャラいナンパ野郎だ」

「じゃあ改めて自己紹介するよ」

 

そう言って男は名刺を差し出した。

今度はしっかりと受け取った名刺を拝見する

『株式会社ユニゾンプロダクション代表取締役社長』

 

「「エッ!!!??」」

 

またも瞳子と祐巳さまは共鳴した。

だって仕方ないだろう。誰が軽いナンパ男を社長だと思おうか?

しかも、ユニゾンプロダクションといえば業界大手の芸能プロダクションだ。誰でも知っている有名な会社。特に瞳子は家の影響で経済や政治にも多少明るいため、その会社の社長が最近交代したことを知っていた。その時、名前と人物写真も見たはずなのに、言われてみるまで全く気づかなかったのだ。

 

「高岡 涼平。若干二十七歳にして高岡グループの芸能部門を任される。その才覚は本物で、これまでは同部門で、放送作家、総合プロデューサー、作曲家etc全てにおいて第一線で活躍してきた……確かに、髪の毛を整えて、スーツを着て、顔付きを引き締めれば写真と同一人物ですわね…私としたことが……」

 

瞳子は自身の不甲斐なさに項垂れるしかなかった。

 

「はははっ!流石!松平家のお嬢ちゃんは詳しいな!」

 

そう言って、男は心底楽しそうに笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 



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#07 きっかけの別荘地2

ハッピーバレンタイン
※内容は特にバレンタイン仕様ではありません。季節も夏です。

お楽しみいただければ幸いです。


(1)

暫くして、目の前の男、高岡の正体の衝撃から立ち直った瞳子の頭に重大な疑問が浮かんだ。

 

「高岡社長、一つ質問してもよろしいでしょうか」

 

「そんな堅苦しい呼び方やめて欲しいな〜」

 

高岡はにこやかな笑顔でそう返すが、目では瞳子をしっかりと見据えていた。

 

「では、高岡さん。はぐらかさないで答えて下さい。お姉さまーー福沢祐巳様にお声をかけた目的は、一体何でしょうか?」

 

ーーフッと高岡の口から小さく息が漏れると、その目つきが先ほどより鋭くなった。

 

「瞳子さん、でいいかな?その質問には答えるよ。ーーーただし、それはきみに、ではなく、」

 

態度や喋り方まで変化し、一瞬呆気にとられていると、瞳子から視線が逸らされ、まるで獲物を射抜くかのような眼差しが祐巳さまへと向けられた。

 

「ーーーあなたにだ。福沢祐巳さん」

 

「は、はい!」

 

祐巳は、男が大きな会社の社長だ、ということに驚きはしたものの、実のところ瞳子と高岡の会話には全く耳を傾けていなかった。

平々凡々な自分とはさして関係のない話が展開されると思っていたし、それよりも、男の隣に座る少女の方に興味があった。この機会に話しかけるタイミングを見計らっていたところ、祐巳にとっては突然、あらぬ方から話しかけられてしまったのだ。

 

「えーーっと?」

(え、え、え、何?なんか睨まれてないかな…?私何かした??瞳子〜〜〜〜)

 

祐巳さまの縋るような視線に応えてあげたい気持ちは山々であったが、とりあえず今は、この男が話し出すのを待つしかなかった。

もう彼は、祐巳さまとしか向かい合う気がないようであったし。

 

「祐巳さん、俺がきみに関心を抱いたのは妹がきっかけなんだ」

 

「どういうことでしょう?」

 

祐巳さまは、彼の妹、綾芽ちゃんが絡んできたことで話に興味を持ったようだった。

 

「綾芽は、高校からの外部受験でリリアンに入ったから、」

 

そう、高岡グループのお嬢様がリリアンに入学した、という情報なら聞き及んでいた。顔と名前が一致したのはつい先ほどだが。

 

「リリアンの特殊な制度は綾芽にとって新鮮で、毎日その日の出来事を俺に報告してくれたんだ。俺も綾芽も育った環境のせいか、変わったことや新しいことが大好きでね、その中でも特に祐巳さんの話は興味深かった」

 

「私??ですか…?」

 

「うん。最初は、綾芽の話に一番登場するし、綾芽が一番興奮して話すから覚えたって程度なんだけど、ある日綾芽が写真を見せてきた」

 

「写真っ」

 

祐巳さまが小さく声を上げる。

「俺が適当な相槌で『見てみたいな〜』て言ったのを間に受けてね、まあ、そのお陰で俺はきみに興味を持ったし、逸材を見逃さずに済んだんだけど。アレ、許可得てないよね、ごめんね」

 

「ほら、綾芽も謝る」「ご、ごめん…なサイ」

 

兄に促された綾芽ちゃんは蚊の鳴くような小さな声で謝罪した。

 

あの盗撮にはそういう経緯があったのか、と瞳子は胸の内で納得する。祐巳さまも消化出来ずにいた疑問が解けて心なしかスッキリしたようだった。

 

「祐巳さん。俺はね、美しい容姿を持つ子や、人より秀でた技術や頭脳を持つ人、そんな人たちをたくさん見てきたし、関わってきた。けれどその中でも抜け出る人っていうのは、圧倒的に他を惹きつけて巻き込む力がある人なんだ。計算じゃなく自然とね」

 

「俺が求めてるのは自然体のままで発せられる魅力がある人。だから、綾芽の盗撮写真は衝撃だったよ」

 

祐巳さまが被写体の写真が魅力的なことは痛いほど分かる。そこに高岡が言わんとする人物のまさにそのままが映し出されていたことも。

祐巳さまは、急な展開に動揺しているようであったが。

 

「で、実際会って、話してみたくなったわけ。声をかけた目的はこんなところ」

 

「これからまた会う機会もあるから、今日はこの辺でいいかな。あーあと昨日のセリフは全部本気だよ。俺と綾芽が焦がれてるもの。多分きみもいずれ自覚する時が来ると思うよ」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「きみからはいつでも連絡していいよ。破いて捨てたりしないでね」

そう言い残して高岡の兄妹は喫茶店を出て行った。

 

高岡の話は、核心には触れていなかった。わざとだろうけれど。瞳子は胸に何かが痞えたような焦燥と不安に駆られていた。

「お姉さま…」

 

「ん?」

 

祐巳さまは先ほどから何かに気を取られているようだった。それがますます瞳子を不安にさせる。

 

「お姉さまは、あの男の話に…芸能界に惹かれましたか?」

 

「うん?芸能界?には興味ないよ。私には遠い世界の人たちだし…………でも、」

 

その後に祐巳さまの言葉が続けられることはなかった。

結局、祐巳さまが胸の内で何を考えているのか分からないまま、けれど瞳子はそれ以上踏み込む勇気もなく、この話は終わった。

 

「ずいぶん長居しちゃったね。そろそろ帰ろうか」

 

「そうですわね」

 

祐巳さまに従って、瞳子も席を立つ。

 

帰り道は言葉数も少なかった。それでも、「瞳子、手繋ごう?」といって差し出された手、それを握り返した時に自分へと向けられるお日様のような笑顔は、瞳子の心を暖かくしてくれる。

(この手は絶対に離さない)

瞳子はその日、強く己に誓ったのであった。

 

(2)

三日目。

昨日は長く外にいたこともあり、今日は皆、屋内でまったりと過ごしていた。

テラスで読書感想文の下書きをしていた祐巳さまは、集中が切れてしまったのか、手を止めて、隣で読書をしておられる祥子さまへと声をかけた。

 

「そういえばお姉さま、今年も従姉妹の方々はいらっしゃるのですか?」

 

「そうねえ、こちらには滞在しているようだから、その内訪ねてくる可能性が高いわね」

 

祥子さまは眉を下げて、申し訳なさそうにしていた。あの子たちの場合、祐巳さまに意地悪をしたり冷たい態度なのは、祥子さまへの憧れや好意からくる嫉妬なので、彼女を慕ってやってくる従姉妹達をあまり邪険には出来ないのだ。

 

「私のことなら心配要りませんよ。あの子たちに嫉妬されるほど、お姉さまと一緒にいられて幸せですし」

「訪ねてこられた時くらい、お姉さまを譲って差し上げます」

 

「祐巳、ありがとう」

 

祐巳さまの言葉に感謝しながらも、祥子さまの瞳には切なさが滲んでいる。恐らく、自分がいなくても一人で立っていられる祐巳さまの成長に寂しさを感じるのだろう。自分も似たようなところがある為、どうも瞳子は祥子さまの気持ちが分かりすぎてしまう。

 

「私も彼女たちには好かれていないですし、その時には瞳子もお姉さまと一緒に退散いたしますわ」

 

そうとは分かっていても、瞳子は祥子さまへ追い打ちをかける。

気にしていられないのだ。瞳子が最も優先させるのは祐巳さまであり、彼女は一番のライバルなのだから。

 

ーーーちょうどそんな話をしていた時、小笠原の別荘にくだんの訪問者たちがやってきた。

 

綾小路菊代、西園寺ゆかり、京極貴恵子の三令嬢だ。

 

私と祐巳さまは、礼儀として軽く挨拶を済ませるとさり気なく場を離れた。さて、どうしようか?と、二人でしばし思案していたところにキヨさんがやって来た。

 

「お二方宛に絵はがきが届いておりましたので」

 

そういって手渡されたのは二枚の絵はがき、宛名を見るまでもなく差出人は予想できたが、案の定、山百合会の面々からだった。

一枚は志摩子さまと乃梨子から。京都の仏像の写真と共に添えられた文面は、

 

『暑中お見舞い申し上げます

私たちは今、京都の仏像を巡る旅行へと来ています

こちらは盆地のため、暑さが少々堪えます

滞在期間は残り二日ですので、葉書が届く頃には手持ち無沙汰にしているでしょう 志摩子、乃梨子』

 

そしてもう一枚は由乃さまと菜々ちゃんから。こっちには支倉家の道場で剣道着姿の令さま、由乃さま、菜々ちゃんの写真。

 

『暑中お見舞い申し上げます

私たちは夏休みだというのに、毎日毎日剣道の練習です

剣道バカの姉妹を持つと大変です

剣道着の中は蒸し暑く、心身ともにリフレッシュしたい所存です

そちらの涼しい気候の中過ごしたいものです

追伸 祥子にもよろしく伝えて下さい

由乃、菜々、令』

 

それぞれ二組の個性が発揮された内容となっており、瞳子と祐巳さまは思わず吹き出してしまった。

 

「まるで示し合わせたかのような内容ですわね」

 

「あははっ!令さままで!この三人の方は露骨だもんね」

 

この葉書は明らかに、皆んなでそちらにお邪魔していいか?と尋ねる内容のものだった。

 

「あとでお姉さまにお見せしよう!」

 

「そうですね」

 

祐巳さまの声はとても弾んでいた。斯く言う瞳子にしても久しぶりに皆で集まれるという期待に、綻ぶ表情を隠しきれてはいなかった。

 

その後の二人は、祐巳さまの部屋でしばらくお喋りをしたりボードゲームをしたりして楽しく過ごしていて、時間の経過を忘れていた。

いつの間にやら三令嬢はお帰りになったらしく、祥子さまが祐巳さまの部屋まで報らせに来てはじめて気づいたのだった。

 

帰り際、祥子さまは、今年も例のごとく、西園寺ゆかり様からパーティの招待状を受け取ったらしいのだが、差出人を見るとなんと西園寺家の曾お祖母様直々のご招待だった。その上、メッセージも直筆で、祥子さまは当然として、祐巳さまに向けてもしたためられていた。

 

「祐巳、あなた曾お祖母様に相当気に入られたみたいね」

 

「懐かしいですね〜、『来年も是非来てね』って言って頂けたのがすごく嬉しくて、今年もお会いしたいなあと思っていたんです」

 

「ふふっ。今年もまた、祐巳の『マリア様の心』を聴くことができるのね」

 

祥子さまはメッセージを覗き込みながら楽しそうにおっしゃった。

 

「うっ。そんな大したものじゃないのに…お姉さまも伴奏でご一緒してくれるんですよね?」

 

「そういえば、瞳子ちゃんも新入生歓迎会で祐巳の伴奏をしたんだったわよね。それも聴いてみたいのだけど、どうしましょうか」

 

さすがの瞳子も祥子さまを差し置いて祐巳さまの伴奏をするのには気が引けたため、反射的に首を横にふってしまう。

 

「きっと曾お祖母様は、去年のようにお二人が共演することを期待しているでしょうし、私は遠慮いたします」

 

そういったのだが、

 

「せっかくなら三人で何かしたいです!」

 

という祐巳さまの一言により、当日までに何か考えるということで落ち着いたのだった。

 

 

「それにしても、今日はよく手紙を受け取る日ですね〜」

 

話がひと段落したところ、祐巳さまがのほほ〜んとおっしゃった言葉は、瞳子に祥子さまに尋ねるべきことがあるのを思い出させた。

 

「お姉さま、その私たちの受け取ったものを祥子お姉さまにお見せするのでしょう?」

 

祐巳さまにそう促すと、途端にあたふたと慌て出す。顔には「忘れてた!!」と思いっきり書いてある。瞳子も人のことは言えないのだが、祐巳さまの焦るさまを観察するのはとても面白かった。

 

「祐巳、私は逃げないから落ち着きなさい」

 

祥子お姉さまはそんな祐巳さまを微笑ましげに見つめている。年々頼もしくなっているとも思うのに、こんなところはいつまでも変わらないのだ。

 

焦っているからだろう、机から葉書を取り出し、祥子さまに渡すという簡単な動作のはずが、やけに無駄が多くせわしない。

ようやく祥子さまへ葉書を渡すことができた時には、少々息が切れているのだから、普通なら呆れるところだ。

だというのに、祐巳さまに限ってはただただ愛おしさが溢れてくるのだからどうしようもない。

 

そんなこんなで葉書に目を通した祥子さまは、

 

「楽しくなりそうね」

 

と、いたずらな微笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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#08 きっかけの別荘地3





(1)

四日目の朝。

瞼を開けても部屋の中は薄暗く、束の間、時がわからなくなった。

起き上がり、カーテンを引くと、静かな雨粒が窓に打ち付けている。

激しさはないものの、これは止まない雨だろう。

瞳子は物憂げな表情で空を見上げた。

雨が嫌いというほどでもないのだが、祐巳さまと祥子さまも一緒にいるためか、瞳子の胸の内には、あの梅雨の日の罪悪感が自然とこみ上げるのであったーーーー。

 

 

 

「へえー!じゃあお兄さんを手伝ってるんだ」

 

「はい…兄は忙しい父に変わって私の面倒をみてくれていましたので、どこへ行くにも一緒だったんです。そしたら自然とお仕事にも関わるようになっていまして、アシスタントみたいなものです」

 

「私より年下なのに、尊敬するよ〜」

 

「そ、そんな大したことないんです!趣味みたいな感じで…、それ以外に楽しいと思えることがなかったですし…」

 

「なかった…てことは今はあるのかな?」

 

「リリアンに通い始めてからは、学園での時間も楽しめています」

 

「そっか、私としてはそう言ってもらえるとすごくうれしいよ」

 

「祐巳さんっあっっ!祐巳さ…まのお陰です!」

 

「ふふっ!リリアンの外では呼びやすいように呼んでいいよ」

 

「あ、あの…では、…祐巳さ…んと」

 

「うん!」

 

瞳子が勝気な瞳で見つめる先には、相好を崩して親しみ溢れる様子の祐巳さまーーーと、頬を赤らめ懸命に祐巳さまに応える少女、綾芽ちゃん。

 

なぜこんな状況になっているかというと、話は数時間前に遡るーーーーー。

 

 

「令たちは明日の昼頃に来るそうよ」

 

朝食を食べ終え、広間で寛いでいる時、祥子さまはそう言って食後の紅茶を口に運んだ。

 

「わー!志摩子さんや由乃さんたちもですかー?」

 

「ええ、令に電話で確認したら、向こうから日時を提案されたわ。

皆の予定を調整済みだなんて、完璧な確信犯よね」

 

「あははっ!令さまにお会いするのは卒業以来ですし、楽しみだな〜」

 

祐巳さまはいかにも嬉しそうに頬を綻ばせている。

 

「そうね、私も志摩子や由乃ちゃんたちと会うのは卒業以来だから、いろんな話を聞きたいわ」

 

「お姉さまは菜々ちゃんに会うのは初めてですよね。きっと由乃さんが張り切って紹介しますよ!」

 

「うふふ、楽しみね」

 

もちろん瞳子にとっても心弾む予定に、自然と気分も上がる。

二人の会話に和かに相槌を打って参加しながら、乃梨子は元気かしら?などと明日に思いを馳せていると、祥子さまが話を切り替えた。

 

「ところで、今日の予定なのだけれどーーー」

 

 

 

ーーーそして、その予定というのが、綾芽ちゃんを一日預かることだった。

高岡の兄妹は、私たちとほぼ同じ日程でこちらの別宅に滞在しているのだという。ただし、こちらを拠点にあちこち飛び回っているそうで休暇と言えるかは怪しいものだ。

普段は綾芽ちゃんも彼に伴うようなのだが、今日は連れて行けない場だとかで、暇を持て余すだろう妹のために小笠原家にお願いしてきたらしい。

あの高岡涼平という男は、祥子さまのお父さまと懇意にしており、祥子さまも面識はあるとおっしゃっていた。高岡と小笠原、ともに日本を支える財閥の人間同士、交流があることに不思議はないけれどーーー。

瞳子は何かの意図を感じずにはいられなかった。

 

ふと祥子さまを見やると、彼女は気にした風もなく相変わらず読書に興じている。

 

「…祥子お姉さま、少しよろしいですか?」

 

「どうしたの?瞳子ちゃん」

 

「つかぬ事をお伺いしますが、」

 

瞳子はどうしても気になって祥子さまへ訊ねることにした。

 

「…高岡さまは、祐巳さまのことで祥子お姉さまに何かおっしゃったりはしていないのですか?」

 

すると祥子さまは不思議そうに頭を傾けた。

 

「祐巳に?彼は祐巳とは面識がないし、お父さまとは違って私自身はお会いした時に挨拶を交わす程度なのよ?どうして?」

 

瞳子は先日の出来事を言うべきか否か迷った。

しかし言うにしても、具体的に何か困ったことがあるわけではないし、高岡が祐巳さまを気に入っているらしいなどと伝えたところで、祥子さまに何をどうしろというのか、瞳子にも分からない。

今はただ徒らに不安を煽るだけだと結論付けて、瞳子は曖昧に返事をした。

 

「いえ、綾芽ちゃんがリリアンですし、お話に上がることもあるのでは、と思っただけですわ」

 

「そう」

 

祥子さまは若干訝しげにしながらも、取り敢えずは納得したようであった。

 

 

気づけば、祐巳さまと綾芽ちゃんは更に会話が弾んでいて、綾芽ちゃんの「祐巳さん」が自然になっていたーーーー。

 

「あははっ!綾芽ちゃんってけっこう変わってるんだね!」

 

「ゆ、祐巳さん、笑わないで下さい」

 

「あは、はっ、ふぅー…。ごめんね!馬鹿にしてるんじゃなくて、感心してるんだよ!」

 

「あっ、えっえーと…私なんて、祐巳さんに比べれば全然面白みのない人間です…」

 

「…綾芽ちゃん。それって私のこと馬鹿にしてるよね」

 

「えっ⁈誤解です!私は祐巳さんのことは敬愛してます!」

 

「けっ敬愛って!あははは大袈裟だな〜もう」

 

楽し気に言葉を交わしながら二人が眺めているのは、綾芽ちゃんが持ってきた写真集だった。写真集とはいっても祐巳さま(盗撮)写真集なのだがーーー。

綾芽ちゃんが盗撮していたのはなんと祐巳さまの気づいた一回のみではなかった。その後はばれないよう細心の注意を払っていたのだという。

写真集が出来上がるほどなのだから大したものである。

 

「あの、私、ちゃんと謝らないとと思って、持ってきたんです…」

 

「本当にごめんなさい」

 

「なるほど、自首しに来んだね、偉い偉い」

 

「許してもらえますか?…あの、もし本当に駄目でしたらこちらは処分いたします…たぶん…うっ…します、」

 

「んーー、恥ずかしいけど、どこかの誰かさんも同じようなことしてるからな〜。黙認します!」

 

「!!っうう〜〜良かったです〜〜〜」

 

「っぷ!あはは…それにしてもコレ凄いねプロの写真集みたいだよ」

 

綾芽ちゃんの祐巳さま(盗撮)写真集はこちらからチラッと垣間見た限りでも相当レベルが高いように見える。

 

「あ、あの一応カメラマンとしてもやっていて…」

 

「えっ?本物のプロなの?」

 

なんと、プロみたいではなく、プロであった。

 

「と、といっても、気の向いた時だけで、そんなちゃんとしたものではないんです」

 

「充分すごいよ!!じゃあこれタダでプロの人に撮ってもらったってことだよね!得した気分〜」

 

祐巳さまは興奮気味に綾芽ちゃんに笑顔を向ける。

 

「祐巳さんならいつでも…。…あの、いつか、盗撮ではない写真集を撮らせて下さい」

 

その言葉に、瞳子は息を飲んだーーー。

 

「え〜恥ずかしいよ〜でもうれしいな、ありがとう」

 

祐巳さまは何にも違和感を感じていないようだったが、瞳子にはその言葉が彼女を絡めとる鎖のように感じられた。ーーー祐巳さまを連れて行かないでーーー。

二人の親しい光景を直視できなくなり、瞳子はひっそりと席を離れたーーー。

 

日が暮れ始めると、高岡家の使用人が綾芽ちゃんを迎えにきた。

綾芽ちゃんは私たちに丁寧にお辞儀をすると、去り際に「これからも仲良くしていただけますか?」と明らかに祐巳さまに向かって問いかけるーーー。それに微笑みと共に頷く祐巳さまを確認して、彼女は溢れる喜びを押し隠すこともなく心底満足気に帰って行った。

 

それを見てまた、瞳子の胸はつきんッと痛んだ。

 

(2)

 

夕食の席。

 

「……はぁ」

 

瞳子は無意識のうちに溜め息を吐いていた。

向かい合って食事をしている祐巳さまがそれに気づかないはずもなく、心配そうな眼差しを向けられる。

 

「瞳子?どうしたの??」

 

「なんでもないですわ!…食事中に申し訳ありません」

 

瞳子はしまった、と内心で焦る。

しかし、祐巳さまは見逃してはくれないーーー。

 

「溜め息をついた理由があるでしょう?何か気になることがあるなら、隠さないで話してほしいの」

 

ーー理由、理由ならある。けれど、己の幼い嫉妬心を本人に直接説明するのは恥ずかしいうえに、言われた方も困ってしまうだろう。

 

「いえ、お姉さま。少々疲れが出てしまっただけですわ」

 

「…瞳子〜〜?そんなので私を誤魔化せると思わないでね?」

 

この方は、普段間の抜けたようなことをなさるのに、どうしてこういう時ばかりは鋭いのだろうかーーー。

 

「勘ぐりすぎですわ。勝手に私を嘘つきにしないで下さいませ」

 

瞳子は少し突き放すかのように口調が強くなる。

 

「瞳子!私を馬鹿にしないでね、これでもあなたの姉なのよ!」

 

何を言ってもなかなか解放してくれない祐巳さまに、なぜ、嫉妬した上に叱られなければならないのだろう、と瞳子は段々と惨めな気分になり、つい鬱屈とした気持ちのままに想いをぶつけてしまうーーー。

 

「そうですわね!祐巳さまには私のことなんてなんでも見抜かれてしまうのでしょう!でしたら、言わずとも、私の嫉妬に気づくはずですわ!ああ、つまり、わざと綾芽ちゃんとの仲を見せつけていたんですわね!」

 

 

 

「瞳子ちゃん」

 

瞳子を冷静に戻したのは、祥子さまの冷えた声だった。

 

ーーーはっ、として祐巳さまを見ると、呆然とこちらを見つめていた。

 

「ごめんなさい…お姉さま…」

 

祐巳さまを傷つけたであろう己の浅はかさに居た堪れなくなり、瞳子は逃げるように席を立ち自室へと駆け上がって行ったーーー。

 

 

(3)

 

トントン、と部屋の戸を叩く音がする。

 

瞳子はハッと身を起こし、慌てて扉を開くーーーしかし、そこに居たのは瞳子の予想した人物ではなく、祥子さまであった。

 

「…祥子お姉さま」

 

「少し、いいかしら?」

 

「はい」

 

「祐巳なら今、お風呂に入っているわ。上がったらこちらに来ると思うわよ」

 

想い人とは違ったことへの落胆が態度に出てしまっていたのだろう。急いで取り繕ったつもりだったが、ふふっと笑われてしまった。

祥子さまの気遣いに瞳子も少しだけ心が軽くなった気がする。

 

瞳子は祥子さまを招き入れると、机の側の椅子を勧め、自分はベッドに座る。落ち着いたところで彼女が話し始めた。

 

「綾芽ちゃんのことを気にしているのなら、それは思い過ごしよ」

 

祥子さまは自信ありげに断言なさるが、瞳子は素直に言葉を受け取ることができない。

 

「ですが、あの子は祐巳さまと知り合って間もないというのに、すでにお互い信頼し合っているように見えましたわ!」

 

瞳子は余裕のなさから少し語義を荒げてしまう。

 

「それがどうしたというの?」

 

「は?」

 

「確かにあの子のことは祐巳も気に入っていると思うわ、」

 

その言葉を聞いた瞬間瞳子は思わず俯いてしまう。

 

「だからといって、あの子が私や瞳子ちゃんに取って代わる存在にはなり得ないのよ」

 

「祐巳にとって、大切な友人が一人増えるってだけよ。あなたは山百合会の皆や祐巳の級友にまで嫉妬するつもり?」

 

まさにその通りだった。瞳子だって、祐巳さまが友人と楽しげにしているところを見て微笑ましいと眺めれど、嫉妬することはない。

では、どうして綾芽ちゃんが相手だと心が締め付けられるのだろう。

 

「…祥子お姉さまの…言う通りですわ」

 

絞り出すようにしてそう答えると、彼女は呆れたように訊ねる。

 

「なぜ、そこまであの子にこだわるの?そういえば、お兄さまのことも気にしていたわよね」

 

ーーーそうだ。瞳子はあの子の兄の言葉が、存在が、恐ろしいのだ。

だから、綾芽ちゃんと祐巳さまが親しくするのを見るとまるであの男と祐巳さまの距離が縮まっているようで、どうしても嫌悪感を抱いてしまう。

瞳子が黙りこくっていると祥子さまは諦めたのか、最後にくぎを刺した。

 

「まあ、いいわ。けれど、この事で祐巳を責めるのは間違いよ。それから、あなたが自分を卑下することも。あなたの穴は私でも埋められないの。もちろんその逆も然りだけれどね」

 

「分かっていますわ」

 

瞳子が僅かに微笑んで了承するのを見ると、祥子さまは気遣わしげに部屋を後にした。

 

暫くして、祐巳さまが瞳子の部屋へと訪れた時には、瞳子はもう彼女に当たる気は起きなかった。

部屋に入った祐巳さまに真っ先に謝られたが、瞳子はそれにも遣る瀬無さを感じた。

祐巳さまは悪くないのだと己の否を謝罪して、瞳子の隣に腰掛けた祐巳さまと軽く談笑を交わす。

何事もなかったかのように振る舞えていたーーーーーはずだった。

 

ふ、と間が空いた瞬間、垣間見た祐巳さまの瞳は、力なく揺れていた。

 







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#09 きっかけの別荘地4

(1)

「あ、おはようー瞳子」

 

「…おはようございます。お姉さま」

 

五日目の朝、祐巳さまの様子はいつもと変わらない。

昨日のあれは見間違いだったのだろうかーーー?瞳子がそう都合良く解釈しようとした時、

 

「祐巳、何かおかしいわね」

 

瞳子の背後から声がした。ーーーバッと振り返ると、祥子さまがシーーー!と口元に指を立てて視線で諭してくる。祐巳さまには聞こえないように、ということらしい。

 

「ちょっと、林を散策しない?」

 

瞳子がそれに頷きで返すと、祥子さまは祐巳さまへと声をかける。

 

「祐巳!少し外に出るわ」

 

「え?私も行きますお姉さま!」

 

「あなたはやらなければならないことがあるでしょう?」

 

「へ?」

 

「宿題。あなた持ってきたはいいけど、全然手を付けてないじゃない。この後は令たちが来るのだし、明日はパーティがあるのよ。いつやるの?」

 

「…今、ですね」

 

祥子さまの圧力に屈し項垂れる祐巳さまを置いて、二人は別荘地周辺の林へとやってきた。

 

「祐巳って優しいでしょう?」

 

唐突に告げられる祥子さまの言葉に瞳子は反応が遅れた。

 

「何でも受け入れるし、滅多に怒らないわ」

 

「それは、そうですわね」

 

瞳子は祥子さまの意図が読めずに、少し警戒する。

 

「けれどそれって、何にも強い関心がないからとも言えるわ。確固とした自分の意志とかね」

 

「これは私たちのせいでもあるけれど、祐巳は自分に自信がないのよ」

 

そう…だろうか、謙遜し過ぎな嫌いはあるし、自身への賞賛へは無頓着であるが、それは鈍感でマイペースな祐巳さまゆえで、そこにネガティヴな思考があるとは思えなかった。

 

「自分には特別なものは何もないと思っている。だから今祐巳が手にしているものは、偶然と奇跡の結果で、いつかそれが失われてしまうことを恐れているわ」

 

「それは違いますわ!」

 

瞳子は我慢ならなかった。彼女が彼女だから皆が惹かれるのだ。

 

「そうね、けれど私たちみたいな特殊な立場と環境の人間がそれを言ったところで、説得力に欠けるのよ」

 

瞳子は言葉に窮してしまう。確かに今祐巳さまの周りにいる人間は少し特殊かもしれない。小さい頃から周りに期待されるのが当たり前で、それに応えるのも当然の義務かのように熟し、人の上に立つことに慣れている。自分が特別と思ったことはないが、恵まれているとか普通とは違うと言われれば納得せざるを得ない。

 

「春休みに会ったときにね、言ったのよ『期待されるのが怖い』って。失望への恐怖からくる言葉だけれど、自覚しただけでも大した進歩だと思ったわ。そのきっかけはたぶんあなたね」

 

瞳子は思わぬ指摘に不意をつかれた。

 

「祐巳が自分から関心を持って、自分の力で掴めたと思える初めての経験が、瞳子ちゃんなのよ」

 

「祐巳にとって瞳子ちゃんからの拒絶は堪えるでしょうね」

 

「私はそんなつもりじゃ…」

 

些か呆然とした状態で答えると、祥子さまがふっと表情を和らげる。

 

「こればかりは、祐巳がもっと自身と向き合って乗り越えなければいけないことだから、気にしていても仕様がないわ」

 

「今は、側で見守ってあげてちょうだい」

 

そう言って慈愛に満ちた微笑みを浮かべた祥子さまはとてもまぶしかった。

 

(2)

 

「ピアノに合わせるなら、フルートかヴァイオリンがいいんじゃないかな」

 

相変わらず、男装の麗人よろしくサラサラのショートヘアを掻き上げ、スラッとした体躯をソファに投げ出して、そう答えたのは卒業式以来の令さま。

 

「でも去年と同じ歌なんて少し趣向が足りないんじゃないの?」

 

そのお隣で、遠慮なく厳しい意見を投げるのは、今となっては見た目だけが薄幸の美少女、由乃さま。

 

「けれど、それが気に入られたのなら変える必要はないのでは?」

 

そんな由乃さまにも物怖じすることなく応えるのは、姉の手綱を握る妹、菜々ちゃん。

 

「二曲披露してはいけないのかしら?」

 

少し遠慮がちに解決策を提案するのは、まるで絵本の中から飛び出してきたお姫さまのような少女、志摩子さま。

 

「そしたら、もう一曲をどうするか考えないといけませんね」

 

そう姉の意見に同調するのは、一見しっかり者の単なる妹バカ、乃梨子。

 

「もう一曲ねえ、あまり難しいのでなければ大丈夫だと思うわ」

 

祥子さまの言葉によって、二曲ということはほぼ決定した。

しかし、三人で頭を抱えていた問題も五人も加わるといろんな意見が出るものであるーーー。

 

昼食後の昼下がり、小笠原家の別荘の広間では、明日のパーティについての作戦会議が行われていた。

つい数ヶ月前までの薔薇の館を彷彿とさせるこの光景ーーー、懐かしさに心が浮き立っているのは瞳子だけではない。…チラッと隣の祐巳さまを窺い見ると、その心底楽しげな表情に、午前中までの瞳子の憂いも晴れていく様であったーーー。

まるでタイムスリップしたかのような錯覚に陥りそうだが、菜々ちゃんの存在が、しっかりと私たちが前に進んでいることを示してくれている。ある意味アウェーなはずの菜々ちゃんが肝の座った子でよかったーー。まあ、そもそも菜々ちゃんを祥子さまに紹介したいという由乃さまの我儘から実現した訪問だと先ほど知ったのだが…。

 

「『アヴェマリア』はいかがでしょうか?」

 

二曲目を皆が思案している中、そう言ったのは志摩子さまであった。

 

「っえ??むりむりむり!無理だよ志摩子さん!」

 

祐巳さまが勢い余ってつんのめりながらも必死に却下する。

 

「伴奏は問題ないけれど、あれはラテン語なのだし、素人が歌うにはレベルが高いでしょうね」

 

祥子さまが冷静に判断して、祐巳さまは安堵の溜息を吐く。

 

「祐巳さんが歌える範囲かあ」

 

うーん、と顎に手を当てて考えていた由乃さまは何か思いついたのか、パッと表情が華やぐ。

 

「リベラの『あなたがいるから』なら、授業でやったから祐巳さんも歌えるわよね?」

 

瞳子の嫌な予感を裏切り、由乃さまの出した意見は至極真っ当なものだった。その時たまたま目に入った乃梨子が目を丸くしているのも失礼だとは責められない。

 

「うーん、それなら覚えてはいるけど」

 

「そう、曲はそれで決まりね!」

 

しかし、祐巳さまはどうも不安そうな顔をしている。

 

「後で練習しましょう。だからそんな顔しないの!祐巳」

 

「…わかりました」

 

そして当然のごとく祥子さまには逆らえないのであった。

 

「じゃあ、伴奏をどうするか決めないとね?」

 

「ピアノは祥子お姉さまの方がお上手ですので、瞳子はバイオリンでお願いいたしますわ」

 

こうして、西園寺家の曾お祖母さまへと贈るプレゼントはつつがなく決まった。

 

 

 

「それにしても、去年敵地に赴いてまんまとボスを篭絡した祐巳さんは流石ね!」

 

「ちょ、由乃!」

 

一息ついたところで、

由乃さまは瞳を爛々と輝かせ、興味津々という風に話を振る。が、あまりにも身も蓋もない言い方に令さまが焦る。それでこそ由乃さまである。

そこで「ブッ!!」と紅茶を吹き出しそうになりながら笑いを堪える菜々ちゃんもやはり大物だと思う。

 

「でも、ボスの意見が浸透していない下っ端には仕返しされる可能性もありますよ?」

 

何を思ったか、乃梨子が由乃さまに乗っかったーー。瞳子は白けた瞳で乃梨子を見遣るが、その内容自体は実は懸念していたことでもある。

 

「乃、乃梨子?」

 

志摩子さまはギョッとして乃梨子を見つめていたが、

「…ふう」とひとつ物憂げに溢された溜息に、皆の視線がそちらへと集中した。

 

「…ええ、相当悔しかったみたいだから、去年より気合の入った仕掛けはあるかもしれないわ。ごめんなさい祐巳」

 

好き勝手に言う二人を咎めることもなくーー、いや、それ以上に祐巳さまのことが心配なのだろう。

祥子さまは途端に憂わしげな表情を見せる。

 

「大丈夫ですよ。私はお姉さまや瞳子さえ側にいてくれれば、何も怖いものはありませんから」

 

そんな顔を曇らせた祥子さまに対し、柔らかく落ち着ききった表情を見せる祐巳さまは、先ほどまでの不安で自信がない様子とは一変していた。

祐巳さまは誰かのためにこそ力を発揮されるのかもしれないーーー。

 

 

「あーあ。私もそのパーティに参加できたらなあ」

 

束の間の清寂な雰囲気をうち破って由乃さまが言い放つ。

 

「お姉さまは、ただ争いに参加したいだけでしょう」

 

すると菜々ちゃんがすげなく切り捨てたーーー。

 

「菜々、あんた最近調子に乗り過ぎじゃない?」

 

そこから始まった黄薔薇姉妹の小競り合い、もといーー痴話喧嘩。

それを見た祥子さまは祐巳さまに顔を寄せて「あの子、なんだか江利子さまみたいだわ」なんて言っている。

 

「それは私も少し思うなあ。三人の演奏を聴いてみたいしね」

 

令さまは慣れているのか、二人を放って会話を再開した。

 

「そういえば、令さまは祐巳さんの歌を聴いたことがないんですね」

 

「そうなんだよ。私だけだから少し寂しくてね」

 

「えええ、そんな寂しがるような代物ではないですよ!」

 

「いやいや、噂は聞いてるよ?いつか私にも聞かせてね」

 

「ていうか、ここにグランドピアノがあるんだから!今歌ってもらえばいいんじゃないの?」

 

こちらの会話は平和ですわね〜、なんて思っていたらいつの間にやら由乃さまが戻ってきた。

 

「いや、由乃。残念だけどそろそろ帰らないといけないから」

 

 

楽しい時間はあっという間、とはまさにその通りでーーー。

「泊まっていってもいいのよ?」という祥子さまに対して、この人数では流石にご迷惑をかけるから、と断りを入れた令さまたちは「じゃあまたね」と、電車の時間に間に合うように別荘を後にしたのであった。

 

 

(3)

 

青く澄み切った大気のどこからか流麗で爽やかな音色が響き渡る。

 

小鳥の囀りもいわんやとばかりの音の共演は、しかして、時折途絶えるのであったーーー。

 

小笠原家の別荘地。

門から林を抜けた先に佇むアンティークのような一軒家。

この建物の一階広間にその音の源があるーーー。

 

『あなたがいるから』

 

その歌詞は英語。歌詞の中では、悩める者を救い給う聖母マリアへの畏敬と信心が暗示され、サビにはラテン語が登場する。

 

「ごめんなさい…お姉さま…瞳子も」

 

先ほどから何度も演奏が中断しているのは、祐巳さまがサビでつまづいてしまうからであった。

酷く落ち込む祐巳さまをなんとか励まそうと瞳子は声をかける。

 

「まだパーティまで十分時間がありますから、大丈夫ですわ」

 

しかし言いながらも、瞳子自身不安が拭えていなかった。

 

昨日の夕食後から、三人で合わせて練習しているのだが、そこからあまり進歩がないのである。

 

「最悪、二曲目は諦めるしかないわね」

 

祥子さまもそんな様子を見て察したのか、負けず嫌いの彼女にはめずらしく、妥協案を提示した。

ーーーそれは、祐巳のためなら己のプライドなどどうでもいいという祥子さまの紛れもない本心ではあるのだが…。

 

「…私のせいで、お姉さまの足を引っ張りたくありません!」

 

瞳子が不味い、と思った通り、祐巳さまはますます頑なに思い詰めてしまう。

 

「元々やる予定ではなかったのだし、気にする必要はないわ」

 

そう言って席を立った祥子さまは祐巳さまの側へと寄り、「一旦休憩にしましょう?」と宥めるようにその頬に触れる。

添えられた手も、かける声も、そそがれる眼差しもーーーー祥子さまが祐巳さまに与えるものは、全てが彼女だけに向けられる格別な愛情に満ちていた。それを素直に受け入れ、祥子さまの前でだけ見せる妹の顔で甘える祐巳さまーーー。

そんな様子を眺める瞳子は、羨ましさは感じるものの、この二人の関係だけは邪魔する気にはなれないのだった。

 

とにかく今日のパーティが無事に楽しく終えれればいい。

祐巳さまに向けられる妬みや僻みの感情が彼女を傷つけることがないように、と瞳子は気合を入れ直した。

 

 

 








リベラの『あなたがいるから』知っている方も多いかと思いますが、ボーイソプラノグループなうえに、祐巳たちの時代には存在しない歌です。けれど、メロディも歌詞もすごく素敵で、特に歌詞はこの話に合うと思ったので選びました。どうか、ご容赦くださいませ。


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#10 きっかけの別荘地5

(1)

ーーー西園寺家の邸宅へと向かう車内。

 

瞳子の隣では、白いフレアのワンピースを見に纏った祐巳さまが絶賛自己嫌悪に落ち入っていた。

せっかくの可憐な出で立ちから放たれるのは、残念な暗いオーラ。

本来ならばその装いに見惚れていたいところなのだが、そうもいかない。

 

「祐巳!潔く諦めなさい!」

 

祥子さまからゲキが飛ぶ。

何を諦めるのかというと、それは歌のことであった。

結局、二曲目の『あなたがいるから』は納得のいく状態にまでは到達せず、『マリア様の心』のみにしようということになったのだ。

まあ、瞳子もバイオリンで加わるのだから去年と全く同じわけではないし、あまり気にすることはない。

しかし、その原因たる祐巳さまはそう簡単に割り切ることも出来ないようでーー。

 

「う…スミマセン」

 

こんな遣り取りは、

住人の性質を表したかのような絢爛な建物の前に車が停まり、玄関の前に立ったところで、

「曾お祖母様に楽しんでいただければそれでいいのよ」という根本を指摘する言葉に祐巳さまがようやく気持ちを切り替えるまで続いたのであったーーー。

 

祥子さまが呼び鈴を鳴らす。

さて、今年はどのように迎え入れられるのだろう?と少し緊張した面持ちで待っていると、中から扉を開けて現れたのは西園寺ゆかりさまとそのお母さまの西園寺夫人。

 

「まあ!祥子お姉さま、瞳子さん、祐巳さま。ようこそいらっしゃいましたわ」

 

「あらあら、祐巳さんは一年ぶりね。今日お会いするのを心待ちにしていたのよ?」

 

「お久しぶりです。お招きいただきありがとうございます」

 

「招待状を送ったのは曾お祖母さまだけれどね。祐巳さんの歌を楽しみにしてらしたから、今年もぜひ歌ってちょうだいね?」

 

「はい。恐縮ですが、披露させていただきます」

 

表面上は一応歓迎の意を表しているものの、彼女たちの言葉にいちいち含みがあるのは気のせいではないだろう。

特に祐巳さまに対する態度は分かりやすい。

 

「まあ!良かったわ。曾お祖母さまが一番楽しみにしておられるものだから、貴女達をトリにしたいのよ!」

 

「いいかしら?」と伺いを立てる形を取っているのだが、立場上、私たちが断れるはずもない。それを分かっていて提案して来るのだから、怪しさ満載である。祥子さまの機嫌もみるみる下降しているのが顔を見ずとも伝わる。

 

「わざわざ、私たちにそんな美味しい立場を与えてくださるなんて、本当によろしいのですか?」

 

「ええ、もちろんよ!」

 

祥子さまは言葉にトゲを含ませるが、西園寺夫人は怯むようすもない。わざとらしいほどニコリと微笑むと余裕の返事を返した。

祥子お姉さまに対してこの態度ーーー。度胸があるのやら、単に鈍いだけなのやら。

 

そうこうしていると、奥から車椅子の老婦人が現れた。

 

「あなたたち、いつまでお客さまを足止めしておくつもりかしら?」

 

老いてはいても、その芯のあるお言葉は、愉しげに私たちと向き合っていたお二方を急速に青ざめさせる。

「失礼いたしましたわ」と申し訳程度に呟くと一瞬、憎々しげにこちらを振り向いて、場を辞していった。

 

「ごめんなさいね。あの人たちのことは気にしないでちょうだい?」

 

そういってこちらに柔らかな微笑みを向けられたのは、西園寺家の曾お祖母さま。約一年ぶりの再会であるが、去年よりお元気そうに見受けられた。

 

「お久しぶりです!お会いできてうれしいです!」

 

祐巳さまが無邪気に喜びを露わすと、曾お祖母様も目を細められ、とても優しい顔つきで声をかけられる。

 

「それは私のセリフよ。あなたにもう一度会えて本当にうれしいわ」

 

「曾お祖母様。今年は初めから参加されるのですね?」

 

祥子さまの質問に「ええ」とうなずきを返すと私たちに真剣な眼差しを向けられる。「こんな私でもいないよりは悪さを防げるかと思ってね、それにーーー」

 

「最近は、こういう場も楽しめるようになったのよ」

 

はっきりと言われたわけではないが、その言葉はたしかに「あなた達のおかげでね」と告げられているような気がした。

 

 

 

そうしてやっとパーティ会場の広間へと足を踏み入れると、去年の倍近くの人数が集まり歓談しているーー。

なぜ、今年は規模が大きくなったのだろうと訝しみながら辺りを観察していると、これが曾お祖母様のお力だろうかーー。

去年のように、根も葉もない噂を囁かれることも、祐巳さまに対して明らさまな蔑視の目を向ける者もなかった。

ーー代わりに、下心のある視線をちらちらと向ける輩は沸いていたのだが。

 

「あ、柏木さん」

 

ーーーと、祐巳さまがよく見知った人物ーーー優お兄さまを発見された。

会場に設置されたバーの側で、こちらからは顔を伺うことができないのだが、どこかの紳士と談笑中のようである。

 

瞳子たちの視線に気づいたのか、優お兄さまがこちらに向かって手を挙げる。そして、お兄さまに吊られるようにしてこちらへと振り返った話相手ーーーその顔を見た瞬間、瞳子は衝撃を受けた。

 

「えっ?高岡さん?!」

 

そう素直に声を上げる祐巳さまを見て、当然のごとく祥子さまが怪訝な顔をする。

 

「祐巳?なぜ、彼を知っているの?」

 

こんなことなら、彼と顔見知りになった事実だけでも祥子さまに伝えておけば良かったーーーと、瞳子が内心後悔しているうちに彼らは近くに寄ってきていた。

 

「やあ、さっちゃん達も来たんだね。こんばんわ」

 

「ええ、優さんもいつこちらに?…高岡さま、お久しぶりですわ。父がいつもお世話になってます」

 

「ああ、久しぶりだね。こちらこそ先日は妹をどうも」

 

祥子さまは、祐巳さまを問い質したいであろう気持ちをグッと堪えて、失礼に当たらないよう直ぐに彼らに対応した。しかし、高岡に向ける視線には少々猜疑の思いが含まれている。

高岡さまはそんな眼差しに気付いているのかいないのか、軽く応じて、祐巳さまへと声をかけた。

 

「祐巳さん、また会ったね。この間は綾芽が喜んでたよ。仲良くしてくれたみたいで、ありがとう」

 

「いえ、そんな!高岡さんも曾お祖母さまをお祝いに?」

 

「まあそんなところ。ここには俺もそれなりにお世話になっている人達が多いからね」

 

高岡ほどの男が祐巳さまと親しげなのが気になるのか、チラチラと好奇の眼差しが集中しているのを感じるーーー。

そのまま祐巳さまと話し込みそうな勢いの高岡を止めたのは祥子さまであった。

 

「高岡さま。いつ私の妹とお知り合いになったのですか?」

 

「ちゃんと知り合ったのは四日前かな、それは偶然。ね、瞳子さん?」

 

ここで私に話を振るのかーー。仕方ないが、思った通り祥子さまから鋭い視線が飛んでくる。伝える機会はあったのにそれをしなかったのは態と隠したように見えるかもしれない。

 

「…ええ。その節は本当に失礼いたしましたわ」

 

祥子さまからの不審の表情に若干背筋が寒くなっていたところ、それは瞳子にとっては天恵のようなタイミングで始まったーーー。

 

「皆さま、お楽しみ頂けていますか?それでは、本日のメインイベント!今年も曾お祖母さまへささやかな音楽祭をお贈りいたしましょう!」

 

その司会の言葉とともに会場は先ほどより照明が落ち、ファンファーレのような太鼓のリズムが刻まれる。

ーーーやはり、今年は些か大仰すぎではなかろうか?

瞳子がそう考えていると、フッと舞台上に光が集まった。

 

「それではまずは、小さな有志たちによる合唱をお楽しみください」

 

そこに立っていたのは、数人の可愛らしい子どもたち。

知らない子もいるが、おそらくは会場のどなたかのお子さまたちなのだろう。

そんな微笑ましい光景に頬が緩んだのもつかの間ーーー。

ピアノから奏でられた前奏は、

 

『マリア様の心』であったーーー。

 

 

「ワァーーーーーー!」

 

あちらこちらから暖かな拍手が送られる。

子どもたちの合唱はとても心がなごむものだった。

あの子たちにはなんら邪な心がないのだから当然だろう。

ーーーしかし、この選曲が明らかにこちらを意識したものなのは疑いようもない。

その証拠に、歌の合間にさえ、私たちを伺い見る嫌な視線を感じたのだから。

 

「当てつけ…ですわね」

 

「祐巳、気にすることないわ。私たちは私たちらしい演奏をすればいいのよ」

 

「…そうですよね」

 

祐巳さまは少し呆気にとられていたものの、祥子さまの励ましになんとか持ち直した様である。

瞳子が憤りながらも内心で焦りと不安が渦巻く中、次々と奏者は変わってゆく。しかし未だ、あの従姉妹殿たちは何もしていない。

 

まだ何かあるかもーー?そう警戒を強めたまさにその時、全くのノーマークだったはずの瞳子の側から声が上がった。

 

「それじゃ、そろそろ俺の番かな」

 

「何を…?」

 

「何って、俺は今日そういう仕事でここにいるからね」

 

そういうと、高岡は呆然とするこちらを意に介す素振りもなく颯爽と舞台へと躍り出たのである。

 

「では皆さん。クラシカルな雰囲気とは多少異なりますが、これより私どもの会社で勢いのある若手歌手のバラードをお楽しみ頂きたいと思います。ーーー莉音」

 

今までどこで待機していたのか、高岡に呼ばれ出てきたのはエンタメに疎い瞳子でさえ認識している人物であった。なぜーー?いくら金を出されたからと言ってこんな場に軽く登場させるものでもない。高岡もそう考えるはずなのにーー。

 

会場が一斉に沸いたーーー。

 

『RION』

どこで?とまでは言えないがその曲はどれも聞き馴染みのあるものだった。

その迫力ある歌唱力と情緒の溢れる表現力、遠くまで響き渡る美声に広い音域ーーー、それに外国の血が入っているのだろうか、彼女の聖像のように美しい容姿も相まって、そこにいる全ての者が彼女の創り出す劇的な雰囲気の中へと飲まれていた。

 

 

三曲歌い終えたところで、『RION』は静かに頭を下げる。

曾お祖母さまと何やら笑顔で言葉を交わすと、忙しいのか、程なく会場から姿を消した。

 

西園寺、京極、綾小路の令嬢方は勝ち誇ったようにこちらに視線を寄越している。

この後に歌え、とーー?

 

 

徹底的に祐巳さまを潰す気か。

 

なんて、愚かで可哀想な人たちーーー。

こんな事をすれば、あの人たちが憧れる祥子さまだって恥を掻く。

しかし彼女たちは祐巳さまを陥れる事に必死で、そんな幼稚な行いの裏に、小笠原を陥れたい大人たちの思惑が隠れていることには気づかない。彼女たちはただの憐れな駒だ。

こちらに同情的な視線を向けるその仮面の下、ほくそ笑んでいるものは一体何人いるのだろうーーー。醜い。浅ましい。

激しい嫌悪感と怒りで、瞳子は我慢の限界であったーーー。

もうこんな茶番に付き合う必要はない、

祐巳さまを連れて帰ろうーーー。

 

 

(ーーーーーーっ!)

 

突然。

視界が遮られ、瞬間、驚きで身体が竦む。

 

ふわ、とあたたかいものが体を包んだーーー。

そのお日様の様な香りーー。

肌に感じる心地よい温度と柔らかな感触ーー。

 

それは瞳子の大好きな人のものだった。

 

荒んだ心が一瞬にして安らいでゆく。

 

「…お…ねえさ…ま」

 

 

 

そっと、仰ぎ見た祐巳さまは、もしかしたら本当に天からの使いなのかもしれないーーー。

瞳子がそんなありえない錯覚を覚えてしまう程、視界に映ったその表情は清らかで美しかった。

なぜ、こんな空間でこんな風に立っていられるのだろう。

 

「瞳子」

 

瞳子が落ち着いたのを確認したのか、祐巳さまは回していた腕をゆっくりと解くと、姿勢を戻して、一旦祥子さまの方へと向き直る。

 

「お姉さま」

 

ーーーそして、その透き通った眼差しで私たち二人を見据えた。

 

「私は、三人の絆を会場中に見せつけられることが嬉しいです。ここにいる誰よりもこの瞬間を楽しみましょう」

 

そうして祐巳さまは迷いなく舞台の方へと歩みだす。

 

私と祥子さまはハッーー、と惚けた状態から慌てて立て直し、祐巳さまの後に続く。

歩みを進めながら祥子さまが訊ねた。

 

「祐巳、曲はどうするの?」

 

「『あなたがいるから』です」

 

 

 

 







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#11 きっかけの別荘地6

(1)

 

———それは、運命か。或いは、偶然か。

 

 

高岡と出逢わなければ——。

綾芽ちゃんと出逢わなければ——。

祐巳さまが歌わなければ——。

 

 

———でも。

 

 

この別荘地に来たのも——、

リリアンでの出会いも——、

祐巳さまが歌ったのも——、

 

 

全ては私たちにも結びつく———。

 

 

私たちとの絆が——、出逢いが——、思い出が——、

 

あって然るべきというのなら、

 

 

 

———それは必然だったのかもしれない。

 

 

 

 

(2)

 

ステージの上で、瞳子は僅かに手が震えていた。

 

負けたくない気持ちはもちろんあるし、あの祐巳さまの力になりたい。足を引っ張りたくない…。

けれど、そんな想いが、瞳子を気負わせてしまう。

 

視線を前に向けると、憐れむ顔。嘲笑う顔。飽きれた顔。

先ほどの余韻に浸っているのか、こちらに気づきもせず興奮気味に会話を弾ませるものたち——。

それは、ザワザワと、一種異様な空間と化していた。

まるで晒し者のように前に出されて、怖気付くのもしかたないではないか——。逃げ出したい。

 

 

 

けれどそんな中、祐巳さまの雰囲気が変わった——。

 

聖堂の壁面に描かれる天使のような清廉さと清潔さを纏い、

今この瞬間、ただ一人、自由な存在としてそこにいる。

 

「瞳子、お姉さま。大丈夫」

 

「ほら」そう言って、二人の手を片方ずつ握る。

自然と促されるように瞳子と祥子さまも手を握った。

———三人で輪になる。

 

あたたかい…。

 

まるで世界が三人だけになったかのように——、

祐巳さまの想いが、祥子さまの気持ちが、握られた手から伝わって体に染み込んでゆく——。

『大好き』だと。『信じている』と。

 

そのいつまでも続くかのような静謐な雰囲気の中———。

 

気づけば会場の空気も変わっていた。

 

祐巳さまに、三人に、充てられたとでも言うように伝染する——。

 

 

瞳子はここが西園寺家の広間であることすら忘れた。

 

ゆっくりと手を離す———。

祐巳さまの微笑みを合図に、心は静かに凪、瞳子は耳を澄ませた。

 

祐巳さまと祥子さまがまるで一つに溶け合うかのように、綺麗に歌い出しが合わさった———。

荘厳さの中にも軽やかさのある神秘的な音色——と

純真な歌声が一対になって響きわたる。

瞳子は、体に溜めていた想いをゆるやかに放つ——。なだらかな弦楽の音色が手元から二人の音と合わさり、会場の隅々にまで広がる。

気持ちいい。

弾きながら、自然と笑顔を溢すほど、気持ちがいい。

「ゾーンに入る」というものを、瞳子は初めて経験した。体がゾクゾクと震える——。

 

今、この時、確かに誰よりも幸福の中にいることを実感していた。

 

 

 

You were there in everything I knew

From the moment I began.

(あなたはいつも私のそばにいてくれた。)

 

Always there in every way I grew -

Saved me falling, held my hand

(ずっと成長を見守ってくれた。)

(私が転ばないように手を差し伸べてくれた。)

 

You were shelter from the storm

The shadows fade away,

All cares pass away.

(あなたは私を嵐から守ってくれた。)

(やがて暗闇は消え、)

(私の憂いも消えた。)

 

————————————詩の情景が、走馬灯のようになだれ込む。

 

As hour by hour and day by day

Your love lightens up the sky

As it shines across the night.

(いつもあなたの愛が)

(夜空を照らしてくれた。)

 

Ave Regina caelorum decora

Virgo gloriosa, Ave

(大いなる空のもと あなたに幸運あれ)

(美しく 素晴らしい 未来をあなたに)

 

————————————————————想いが溢れる。

 

And when the end of day is come,

Stay with me through the dark and bring me home.

(一日の終わりが訪れても)

(暗闇が訪れても、いつも私のそばにいてください。)

 

You are there - whichever way I go,

Keep me safely - night and day

Always there - whenever I am alone,

Hear me calling - show the way.

(私がどこへ行こうと、あなたはそばにいてくれる。)

(昼も夜も、私を守ってください。)

(独りぼっちのときは、いつもそばにいてください。)

——————————————————これは、私の願いだ。

Stay with me through the dark and bring me home

(暗闇が訪れても、いつも私のそばにいてください。)

 

 

———どこからか、息を飲む、音がした。

 

その希望と愛に満ちた歌声は誰もが惹きつけられずにはいられなかった——。

人の魂に呼びかけるかのように優しく、透き通って、沁み渡る——。

心が洗われた。

最初の雰囲気が嘘のように涙を流す者もいる。

それは祐巳さまに導かれるように、祐巳さまによって引き出された感覚だった———。

 

 

 

「想像以上だよ。祐巳さん」

 

 

 

静寂の中、初めに空気を揺らしたのは男のそんな言葉だった。

 

 

 

(3)

 

「きみと、正式に交渉がしたい」

 

未だ続くパーティの喧騒から離れた一室。

客の休憩用にとあてがわれた部屋で、西園寺夫人の趣味であろう華美なソファに腰を下ろした男はそう言った。

 

「いきなり何ですの?」

 

「きみまで呼んだ覚えはないんだけどな?」

 

食ってかかる瞳子に対し、男、高岡は皮肉げに返す。

たしかに、私は呼ばれてはいないが、あの状況で付いて行かない選択はない———。

 

 

瞳子たちの演奏が終わると、一瞬の静寂の後、多くの感嘆の声に迎えられた。あの従姉妹たちも気まずげに目を逸らしたものの、その後は妙に潮らしくしていた。

曾お祖母さまに涙ぐみながらありがとう、と声をかけられ、とても幸福な気持ちに満たされたまま、気持ちよくお暇しようとしていた。

もう用は済んだのだし、あとは別荘に戻って、祐巳さまと祥子さまと三人でゆったりとした時間を過ごしたい。——そう思っていたのに。

 

高岡が祐巳さまを引き留めた。

 

「重要な話があるから少し時間をちょうだい」といって。

「帰りは俺が送るから、君たちは先に帰るといいよ」といって。

 

こんな謎多き男に祐巳さまを預けて、はいそうですか。と帰るわけがないだろう。

祥子さまだって、せっかくこの男の存在を忘れていたのに。一瞬にして出会い頭の会話を思い出してしまわれた。

しかも、祐巳さまが了承したものだから——。

———となると、もちろん「私も残る」となるわけで、二人きりにするはずもない。「どうしても祐巳と話したいのなら、私も同席させること」というのを条件に、瞳子もそれに乗っかる形で、今この状況になっている。

 

「交渉というのは、そちらの芸能プロダクションに関連することでしょうか」

 

祥子さまが警戒も露わに高岡を問い詰める。

 

そもそもこの男が超有名歌手なんか連れてこなければ、余計な気苦労もなかった。どういうつもりかは知らないが、それをおくびにも出さず親しげに話しかけてきたのかと思うと、いい印象はない。

 

「うーん、そんなに急がないでよ。順序ってものがあるんだから」

 

高岡ののらりくらりとした態度は祥子さまを苛立たせる。

 

「順番などどうでも良いのです。最終的な目的をおっしゃって下さい」

 

それは聞きたいようで聞きたくないことでもあった。

おそらく祥子さまの予想通りだから——。

この一週間での様子を見る限り、祐巳さまはこの男のことを嫌っていない。それどころか、興味を持っている。

もし、そのまま高岡の元へと行ってしまったら、行きたいと言われたら、瞳子はどうしたらいいのだろう——?

 

「——高岡さん」

 

今まで大人しくしていた祐巳さまが、静かに会話を遮った。

 

「なんだい?祐巳さん」

 

高岡は祐巳さまに対すると楽しげにほほ笑む。

 

「私のことを試していたんですか?」

 

「うん、そうだよ。と言ったらきみは怒るかい?」

 

少しも悪びれることなく、むしろ挑戦的な瞳で祐巳さまを見つめている。怒らせたいのだろうか——。彼はまるで祐巳さまの一つ一つの反応を観察しているかのようだった。

 

「いいえ、ただ、私の大事なお姉さまと妹を巻き込まないで下さい」

 

祐巳さまは高岡に取り合わなかった。

それでも高岡は、何が楽しいのか、ますます笑みを深める。

祐巳さまの感情は読めない。

高岡に呼び止められた時から、少し眉を顰めたまま無表情に近い。

けれど、何でも顔に出てしまう祐巳さまが感情を隠しているとは思えない。複雑に思考が絡み合い、本人にも分からないのかもしれない。

 

そうして「用は済んだので帰りましょう?」と立ち上がった。

 

———瞳子は不思議に思った。

祐巳さまは高岡の話に興味を持っている。だから、付いてきたのではないのか?だとしたら、こんなシャットダウンするかのように帰ってしまっていいのだろうか?

もしかしたら本当に一言文句を言いたかっただけかもしれない。

けれど、もし、私たちがいるせいで祐巳さまが本音で行動できないのなら?———そうは思うものの、祐巳さまを取られたくない、という想いが結局瞳子の口を噤ませた。

 

 

「きみは今のままで本当にいいの?」

 

扉を出る間際、

祐巳さまがビクッと反応した。

 

———「ごめん。言い換えるね」

 

 

「今の環境に甘えたままで本当にいいの?」

 

 

それは脳によく響く低い声だった。

 

 

 

 

———空気が透き通り、夜空いっぱいに星々が煌めいている。

 

己の存在を主張する数多の星々を眺めながら、シン——、と静まる車内を思う。

言いたいことや聞きたいことが沢山あるはずなのに、誰も言葉を発さない。あんなに幸福な気持ちに満たされた時間は幻だったのだろうか——?

 

けれども、自分の言葉が、何かを壊してしまうのが怖かった。

 

瞳子はふと、隣の祐巳さまを見やる——。

窓の枠に肘をつき、ぼんやりと空を仰いでいる。

 

彼女はその瞳に何を映しているのだろう?

 

同じはずの景色を見ながら瞳子はそんな風に思った。

 

 

 

 




やってた人にしか分からないリアリティってあると思うんですけど、それを素人が表現するのは難しいのと申し訳ないのとで……すみません。
過去編が終わりましたら、オリキャラをまとめます。


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#12 きっかけの別荘地7

(1)

 

「今日はもう疲れたでしょうから、早く休みましょう」

 

別荘に帰り着くなり、祥子さまはそうおっしゃった。

瞳子もそれに異論はなかった。正直、今のこの雰囲気は気まずい…。

一晩ゆっくりと休めば、翌朝にはまたいつもの通りに楽しく過ごせているかもしれない。

気になることは多々あったが、その時に何気なく訊ねればいい——。そうしたら、普段通りの祐巳さまがこちらの不安などなかったかのように笑って返してくれるかもしれない——。

そうだ、これはそんなに深刻になることでもないのではないか。

 

瞳子はそんな風に自分を納得させて安心した気になっていた。

———この時は。

 

 

 

 

「おはよう」

 

………。

 

「おはようございます。お姉さま」

 

なんだろう…。祐巳さまの様子が昨日よりおかしな気がする。

 

「…あの、どうかなさいましたか?」

 

「…ぇ?何もないよ…?」

 

——いや、反応も鈍いし、明らかに声にいつもの元気がない。

それに、瞳がわずかに潤んで焦点も怪しい。目じりも眉尻も下がって…なぜか、頬が少し赤い……

心なしか体がぶれてフラフラと——–ん?ふらふら?

 

そう思った瞬間だった、

 

——ッガターーン

 

 

「ッ——!! お姉さま!!!」

 

祐巳さまが倒れられたのは。

 

 

瞳子は慌てて祐巳に駆け寄り、その体を支え起こす。

熱い…っ!

「お姉さま!聞こえますか?」

ぐったりとして朦朧としているが意識はあるようだ。瞳子の呼びかけに小さく反応が返ってくる。「…ぅぁ」

呼吸は荒く、おでこに手を当てるとさらに熱かった。

…大丈夫…落ち着いてっ…!

瞳子は祐巳が倒れたことに動揺する気持ちをなんとか抑え込み、浅いながらも医者を目指して頭に入れた知識をもとに冷静に対処しようとする。

…たぶん…ただの風邪ですわ…。

急いでこちらへとやってきていたキヨさんに指示を出す。

 

「風邪の症状だと思いますが、一応お医者さまをこちらにお呼びしてください」

 

小笠原家ならば、緊急事態に備えて別荘地付近の医者を抱えているはず。

そうして、電話をかけ始めたキヨさんを確認すると、庭仕事をしていた源助さんを大声で呼ぶ。

 

「源助さん!こちらにお布団を用意してください!!」

 

この顔ぶれで二階の部屋まで運ぶのは不可能だったため、一階の和室に布団を用意させ、そこになんとか祐巳さまを横たえる。

温度計で熱を測ると38度を超えていた。——苦しそう…。

 

酷く汗をかいていたので、キヨさんとともにタオルで体を拭きながら寝間着へと服を着替えさせる。

氷枕を用意して、おでこに冷えたタオルをのせる。

——水分は後で意識がはっきりされたら取らせよう…。

 

そうして漸く一息つこうかというところで祥子さまが起きてこられた。

 

「…?…祐巳——!どうしたの!?」

 

 

ショックを受けている祥子さまに掻い摘んで事情を説明する。

そうこうしている内にお医者さまが到着されたので、すぐさま部屋へとお通しし、キヨさん、源助さん、祥子さま、私の皆んなが集まり診察の様子を見守る。

 

「………。風邪、ですな。…今は眠っているようだが、少ししたら目を覚ますでしょう。処方した薬を飲ませて、あとはこまめな水分補給。このまま安静にしていれば熱もすぐに下がります。……そう心配しなさんな」

 

私たちのあまりにも固唾を呑んで緊張した様子に、——ふっ。と愛好を崩される。昔から小笠原家を見てきた初老のお医者さまは祥子さまの方を見やると感慨深げに話し出した。

 

「お嬢さまがここまで取り乱すのは初めてお目にかけましたぞ!」

 

すると、祥子さまもようやく緊張が解れたのか「はぁー」と息を吐き出してそれに答える。

 

「ええ、祐巳は私にとってかけがえのない妹ですから」

 

お医者さまはそれに「ほぉっほぉっ」と嬉しそうに笑ってから、詳しい説明を始めた。

 

「症状を見る限り、夏のウィルスにやられた訳ではないじゃろう。冷やしすぎや乾燥が原因でも起こるのじゃが、生活習慣は乱れておらんかった様だし、免疫力が下がっておるのは、何か心因的なものが原因かもしれんのう」

 

その言葉に、瞳子と祥子さまの二人は一瞬ギクッとして体が固まった。

心当たりは、ある———。

 

そんな二人を少し訝しんだものの「では、私はこれで失礼いたしますぞ」と言ってお医者さまは立ち上がった。

 

玄関まで見送りに出た私たちを振り返ると、去り際に思い出されたかのように言う———

 

「そうそう。悩み事は口から吐き出すだけでも楽になるものじゃよ」———と。

 

 

 

布団に横たわる祐巳さまを見つめながら瞳子は後悔していた。

自分の感情を優先させて、祐巳さまの気持ちを顧みなかった…。

なんとなく分かってはいたのに見て見ぬ振りをした…。

そんな風に自分の不甲斐なさを恥じていると、隣に座って瞳子と同じ様に祐巳さまを見つめていた祥子さまが口を開く。

 

「明日までに、せめて熱だけでも引けばいいのだけど」

 

「そう、ですわね」

 

今日はこちらに滞在する最終日。

明日の午前中にはここを出る予定だった。あまりにも酷い様なら動かせないが、できれば祐巳さまも自宅でゆっくり療養された方がいいだろう。それに、夏休みといえど祥子さまは忙しい身だ。祐巳さまのためなら多少の無茶は平気でなさるだろうが、それでは祐巳さまが気を使ってしまう。

 

「…私のせいね」

 

祥子さまがポツリとこぼす。

 

「…いえ。私のせいでもありますわ」

 

そんな静かなやりとり。どちらから切り出すのか、今話すべき内容は一つしかない。それはお互いに分かっていたし、このまま避けることはできなかった。それは祐巳さまのためにも——。

 

……ふぅ、そう言って話し始めたのは祥子さまだった。

 

「祐巳は、あの人と契約したいのかしら?」

 

あの人。名前を出さずとも分かりきっている。

 

「それは、どうでしょうか」

 

…でも、否定はできない。

 

「そうね、そこまでは祐巳自身も分からないかもしれないわね」

 

祐巳さまは悩んでいる。だから、その言葉が正しいのだろう。

 

「この前の話、覚えてる?…林での」

 

林…。祐巳さまの話をした時……。

 

「祐巳は何かを掴みたいのかもしれないわね。新たな環境で。自分の力で」

 

………祐巳さまが望んでいること。

 

「これは、祐巳にとってはチャンスなのかしら………」

 

祥子さまは言いながら、お顔はとても寂しそうで——。

本当は認めたくはないだろうに。懸命に祐巳さまの気持ちに寄り添おうとしている。

 

「…祐巳が、今後あの人と関わろうとしても——」

 

けれど、瞳子はまだ祥子さまほどに大人になることはできない。

 

「邪魔はしない、わ」

 

「——祥子お姉さまっ!」

 

瞳子は思わず声を上げてしまった。

 

「もちろん、見張りはするわよ」

 

「あの人が少しでも変な真似をしたり、祐巳を傷つける様なら容赦しないわ」

 

そんな言葉をかけられても、今の瞳子にとっては、一番の味方に裏切られたかのような、一人だけ置いて行かれたかのような、そんな気分に陥ってしまうだけだった。

 

「…ぅ…ン」

 

私たちの話し声が聞こえたのだろうか、祐巳さまが身じろいだ。

 

「祐巳?」

 

祥子さまがすぐさま声をかける。

 

「…ん…ぉ姉…さま…?」

 

祐巳さまはだるそうに目を開けて声の方へと意識を向ける。

喉が渇いているのだろう。声が少し掠れている。

 

「祐巳、あなた風邪で倒れたのよ。心配したわ」

 

そう言いながらそっと祐巳さまの体を支え起こすと水分補給のために用意していた水をコップに注ぎ、祐巳さまの口元へと持ってゆく。

 

「喉が渇いているでしょう?飲んで」

 

祐巳さまは、ぼうーとしながらも祥子さまの言葉に促されるようにして水を口に含む。

祐巳さまがこくりッこくりッと小さく飲み込むのを確認しながら、祥子さまはゆっくり、ゆっくりとコップを傾ける。

祐巳さまが飲みやすいように、丁寧に。

「もう大丈夫」という風に首を横にふったのを見ると、ポケットから白いシルクのハンカチを取り出して、祐巳さまの口もとに優しく当て、ほんの少しだけこぼしてしまった分を拭いてあげる。

 

「祐巳、辛いでしょうけど、薬を飲まないといけないから何かお腹に入れてちょうだい。おかゆでいいかしら?」

 

祐巳さまがこくんっと肯首すると、祥子さまはいったん祐巳さまを寝かして、キヨさんのもとへと向かった。

おかゆを待つ間、部屋には祐巳さまと瞳子の二人きりになる。

 

「…とう…こ。どう…したの?」

 

瞳子はハッ——と思わず目を見開いた。

そこにはまるで瞳子を労わるかのような優しい眼差しを向ける祐巳さま。

自分が辛いときに、この方は私の心配をしている。

瞳子の感情の揺れにどうして気付いてくれるのだろう。

申し訳なく思いながらも、それでもやはりうれしかった。

祐巳さまは何があっても私を蔑ろにはしない——。いつも私のことも考えてくれている——。

 

「お姉さまが心配なのです。早く元気になってくださいませ」

 

自然と心からの笑顔を返すことができた。

この先の不安は確かにある。けれどそれは一人で思い悩んでいても仕方がないことだ。今は祐巳さまとの時間を大切にしよう——。

 

 

夜になる頃には、祐巳さまの熱もだいぶん引いていた。

これならば、明日には問題なく帰路につけるであろう。

瞳子も祥子さまも徹夜で看病しようとしていたのだが、「何かありましたら私がお呼びしますから」とキヨさんにものすごい剣幕で止められ、それでも引き下がらないとみるや

 

「お嬢さま方が体調を崩されれば、祐巳さまはさぞ嘆かれるでしょうね」

 

———と、私たちにとっては、ほぼ脅迫にあたる言葉を投げられ、しぶしぶ部屋へと向かって就寝したのであった。

 

 

(2)

 

翌日の朝は早かった——。

学校のある平日よりも早く目を覚まし、急いで準備を整えると、階下に駆けおりる。

キヨさんと源助さんへの挨拶もそこそこに祐巳さまが休む和室へと向かう。

そこで、まだ寝ているであろう祐巳さまを思い、いったん落ち着く。

そして、そ———っと襖を開いていく、

 

 

————祥子さまがいた。

 

……瞳子はがっくりとうなだれる。負けた、と。

 

というか、なぜこの方がこんなに早く起きているんだ。おかしいでしょう。いつもはわざわざ起こしに行ってもすんなりとは目を覚まさないというのに!

起きてからもしばらくは、ぼけーっとしているというのに!

瞳子の落胆は、だんだんと祥子さまへの怒りへと変わっていた。

 

それなのに祥子さまは、瞳子に気づくとシーーッ!とそれはそれは穏やかな笑顔で迎え入れ、そのまま祐巳さまの方へと顔を戻すと、見ているこちらが恥ずかしくなるほど、深い深〜い愛情のこもった瞳で祐巳さまの寝顔を見つめるのだ。

 

瞳子の毒気も抜かれてしまう。

 

 

その後、しばらくして目覚められた祐巳さまは、目を丸くして瞳子と祥子さまを交互に見やっていた。

かと思うと、飛び起きて——。

 

「い、今何時ですかーーーー!??」

 

と叫ばれた。

おそらく、いや絶対これは瞳子のせいではない。その隣の祥子さまが完璧に朝の身支度を済ませ、低血圧はどこへやら、爽やかな顔を向けているからだ。

 

「祐巳、元気になったようね!良かったわ!」

 

そうしてニッコリと微笑む祥子さまは嫌になる程、清々しかった。

 

 

 

回復したとはいうものの、病み上がりに無理をさせるわけにもいかないので、嫌がる祐巳さまのもろもろの朝の支度を手伝い(ここは祥子さまと以心伝心の協力プレーを発揮した)、荷物も私たちでまとめる。

そして、帰り支度が済んだ時、見事なタイミングで黒塗りの車が別荘の前に停まる。

 

「では、世話になったわ。キヨ、源助」

 

「ええ、私どもも楽しかったですよ、またお待ちしております」

 

「あの、迷惑をおかけしてごめんなさい。今年もありがとうございました」

 

風邪を引いてしまったからだろう、祐巳さまが申し訳なさそうにしている。

 

「いいえ、祐巳さまがいらっしゃると私も元気をもらえますのよ?」

 

「ふふ、祐巳は人に元気を与えすぎて、自分が弱ってしまったのかもしれないわね」

 

「ええ!?」

 

祥子さまのそんな言葉に祐巳さまは驚いた顔をする。けれど、案外的を得ていると瞳子は思った。

 

「そうですわね。ちゃんとご自愛なさって下さい。目が離せなくて大変ですわ」

 

「瞳子まで…」

 

しょげる祐巳さま。

そんな様子に場は和むのだから、やはり間違ってはいない。

 

「瞳子さまも、またいらして下さいね」

 

「はい、ぜひまた。本当にお世話になりましたわ」

 

瞳子も沢村夫妻へと別れのあいさつをする。

この一週間、本当にお世話になった。自分の別荘でもないのに快適に過ごせたのはキヨさんと源助さんの細やかな心配りのおかげだ。少しの寂しさとともにめいいっぱいの感謝を込めた。

 

「いってらっしゃいませ。お気をつけて」

 

最後にかけられた言葉と、見えなくなるまで振り続けられる手。

瞳子も、祐巳さまも、祥子さまもあたたかな気持ちに包まれて別荘地を後にしたのであった——。

 

 

なんだかんだとあったのだが、振り返ればとても充実していた。

祐巳さまと祥子さまとこんなにも時間を共有して、一緒の思い出を作れたのは、幸せなことだった。

———帰りの車内。

通りすぎる緑と澄みきった青空。

そこから溢れるキラキラとまばゆい光。

側には大好きな祐巳さまと祥子さま。

 

外の景色も瞳子の気持ちも晴れ渡っていた——。

 

 

 

 

 

 

「祐巳、気になるのなら高岡さまとお話ししてもいいわよ」

 

 

 

そんな言葉を聞くまでは。

 

 

 





別荘地編ようやく終わりましたね!長かったです…。
次回は過去編祐巳視点が入ります。場面はちゃんと進みます。


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#13 祐巳の結論

(1)

 

その日、祐巳はもう小一時間は自室のベッドの上で唸っていた。

うーん、…うーん、うーーー。

祐巳には分からなかった。『社長』という人物には一体どの時間に電話をかければ適切なのか。何時でもいいとは言われたけれど、何時でもいいはずがあろうか?と。その手にはずっと子機が握り締められている。

お父さんやお母さんには尋ねられなかった。きっと過剰に反応されると思ったから。

——時刻は十時。

…おやつの時間…!今しかない!

考えすぎてショート寸前だった祐巳の頭はとっさに浮かんだその思考に飛びついた。もう半ばやけくそである。

 

…プルルル…プルッ

 

えっ?!

 

予想以上に早い反応に心の準備が追い付かない。

 

『あ、祐巳さん?』

 

しかし、祐巳が混乱し言葉に悩んだのも数瞬。

 

「あ、えと、はい?なんで分かったんですか?」

 

「はは、それはね。俺のプライベート用の携帯番号を知ってる人物は限られてる。その中で俺が知らない番号からかかってくるなんて祐巳さんくらいしかいないからだよ」

 

『社長』の説明に祐巳は納得した。

 

『それで?何か用があるんじゃないの?』

 

その言葉に、ハッと思い出す。電話の目的を——。

『気になるのなら高岡さまとお話ししてもいいわよ』

祥子さまの言葉が脳裏に浮かんだ。

——私は気になっていたから電話をかけたんだ。

高岡と出会ってから祐巳はずっとモヤモヤしたものを抱いていた。けれどそれが何なのか自分でも分からなかったし、祥子さまや瞳子が彼にいい感情を持ってないことには気づいていたから、むやみに関わってはいけないと思っていた。

でも、それでもこうして結局連絡を取ってしまっているのは、祥子さまに後押しされたのも大きいけれど、祐巳が自分の気持ちを無視できなかったから。

今日は確かめるんだ!自分自身を。

 

祐巳は決意のこもった声で答えた。

 

「高岡さんとお話ししたいと思いまして」

 

 

 

 

『じゃあ、明日の十時に俺の会社に来てくれる?あ、本社の方ね』

 

高岡との電話はその言葉で終わった。

正直、祐巳は電話でも良いと考えていた。まあ、会って話せるのならその方がいいかもしれないけれど、それにしても、こんなにすんなり時間が取れるとは思っていなかったのだ。

祐巳が返事をする前に切れたため、言われた日時に会いに行くしかないのだろう——と、決意を固めて翌日に備えたのであった。

 

 

(2)

 

…うあーーー、すごいなーー。

 

『株式会社ユニゾンプロダクション』

 

祐巳が住所を頼りに、なんとか地図で調べ上げ辿り着いた先には27階建てのビル。

名刺を見ると、5•10•21•22•24•25•26階と記されているから、きっとこれらの階のどこかへ行けばいいのだが、こういう場合はまずは受付だと思い案内板を確認する。

 

受付は5階にあった。

 

しかし、ビルの中に一歩踏み入れると自分があまりにも場違いな気がして体が竦んでしまう。周囲にはスーツを着た大人たちが颯爽と行き交っている。こんなところにただの高校生でしかない自分がいていいのだろうか。

 

——どうしよう。

 

そんな風にキョロキョロしていると、背後から肩を叩かれた。

振り返って驚く。

 

「…ッ!高岡さん!」

 

「よく来たね。祐巳さん」

 

26階にあるという社長室まで、その社長自らの案内を受けながら、そして周囲に若干の驚愕を与えながら、祐巳は高岡の説明を聞いていた。彼は祐巳のことをわざわざ待ち構えていたらしい。碌な説明を与えなかった祐巳がどんな様子でここに現れるか見たかったそうだ。

またこの人は、わざとか……。

こういうことをするから、祥子さまと瞳子に嫌われてしまうのに。

祐巳が胡乱な瞳で見ていることに気づいたのか、高岡は笑った。

 

「でも案外時間通りにたどり着いてたから驚いたよ」

 

なんのフォローだ。祐巳はますます不貞腐れる。

 

「はい、ここが社長室!どうぞ?」

 

しかし、目的の場所へと着いたため、祐巳は慌てて表情を引き締める。今日は真剣に話をしに来たのだ。こんなに軽そうに見えても社長である高岡に、ここまで時間を割いてもらえることはそうそうない事だろうから。

 

——さて、と意気込んで重厚な扉の中へと踏み出すと

ジロリッとした視線に刺された。

 

「お帰りなさいませ」

 

「ああ」

 

そこには綺麗なお姉さんが机の上で作業していた。

祐巳は入ってすぐ人がいたことに驚いた。

 

「社長の我儘でスケジュールが押しているんですから、これ以上はやめて下さいよ?」

 

その声は鋭く剣が含まれていた。

言葉は高岡に向けたものだが、その目は祐巳を凝視している。

…こわい。

高岡はハイハイという風に応えると、「この奥だよ」と部屋にあるもう一つの扉へと祐巳を促した。

 

応接用の革張りでゆったりとしたソファに腰を下ろす。

座り慣れていないため、なんだかそわそわとしてしまう。

 

「ははっ!祐巳さんこのソファ似合わないね」

 

また、高岡に笑われてしまった。

でも高岡にだってこのソファはそんなに似合ってないと思う。

 

「高岡さん!笑わないで下さい!今日は真剣なんです!」

 

すると、その言葉を待っていたかのように高岡の表情がゆるやかに変わった。

 

「——うん、分かってる。きみは何を話しに来たの?」

 

…何を。

私は何かを話しに来た。その何かはきっと大切なことだ。けれど祐巳はその何かが分からなくて、だからここに来た。

祐巳が話出せないでいると、高岡が口を開いた。

 

「じゃあ、俺の想像を先に聞いてくれる?」

 

ハッと高岡を見やる。それを合図と取ったのか高岡は語り出した。

 

「祐巳さんにとって今一番大切なものは祥子さんと瞳子さん」

 

だよね?と首を傾げた高岡に祐巳は頷く。

それは迷いようもないことだったから。

 

「でも、このままだと大人になるにつれて二人との距離は離れて行ってしまう」

 

祐巳の心臓がドクんッと脈打つ。

 

「それは環境や立場の話で、あの二人は全く気にしないと思う」

 

——胸が、いたい。

 

「けれど、祐巳さんは違う」

 

——涙腺が、言うことを聞かない。

 

「開いてしまう心の距離はそう簡単には埋められないだろうね」

 

——涙が…溢れた。

 

「きみは二人と胸を張って並びたい。そのための自信がほしい」

 

祐巳は静かにその言葉を受け入れる。

でも、その方法が分からなかった。そこに現れたのが高岡だったのだ。

 

「俺は、好きなものに一途になれる、その姿勢が好きなんだ」

 

「それは人を惹きつける。誰もがそうありたいと願うのに、いつしか失ってしまう気持ち。たいていの奴は今の環境に甘んじる。自分に言い訳してね」

 

高岡の言葉は祐巳の頭にすっと入ってゆく。

今の自分じゃいけない。今のままでは…。

 

「この世界に入れば、私はそうあれますか?」

 

その言葉は自然と口に出していた。

 

「それはきみ次第。俺はチャンスを与えるだけ」

 

…私次第。それは当たり前かもしれない。高岡に頼って流されているようでは意味はない。自分の力で手にしなければ今までと何も変わらないだろう。

 

「けれど祐巳さんは、俺のバックアップなんてなくても祐巳さん自身の力で成功をつかめるよ。そう確信したから誘ったんだ」

 

「それなら、高岡さんの元でなくても良いのですか?」

 

祐巳は頭に浮かんだ疑問を口にする。

 

「いや。俺は一番側でそれを見ていたいし、そこに俺のプロデュースが加わったら無敵だから言ってるんだよ」

 

高岡は大胆不敵にニヤリと笑んだ。

 

「見つけたのは俺だ。今さら他のとこ行きますなんて言わないでくれよ」

 

そんなかなり自分勝手な言葉にも祐巳は嫌な気はしなかった。

 

「分かりました。その時はこちらにお願いします」

 

祐巳の気持ちは、ほとんど定まっていた。けれど、ここですぐに約束することはできない。家族に、それから、祥子さまと瞳子に——祐巳の、大事な人たちに。まずはちゃんと伝えなければ。大切なものを守るために決めた道に、守るべきものの気持ちを置き去りにしてはいけない。

祐巳はしっかりと高岡を見据えた。

その瞳からはもう涙は流れていない。代わりに、強い意志の炎が揺らめいていた。

 

「連絡をまってるよ」

 

最後に見せた高岡の微笑みは、彼の本心からのものだと素直に思えた。

 

 

高岡は、いいと断ったのに帰りもビルの出口まで付いてきた。

そして例のごとく注目を集める。

祐巳はなるべく意識しないようにして、やっと解放されることに安堵した。

 

「高岡さん、今日はありがとうございました」

 

そうして帰ろうとした間際。

高岡がささやく。そっと、祐巳にだけ聞こえるように。

それはなかなか掴めないその男の本質を、少しだけ、垣間見せてくれた気がした。

 

『俺は、高岡の本家の長男としては落ちこぼれなんだよ』

『俺に期待して敷かれてたレールを自分から外れたからね』

 

 

———『でも俺は今の自分が好きなんだ』———

 

 

 

 

 

(3)

 

自宅に戻った祐巳は、真っ先に祥子さまへと連絡を入れた。

 

「お姉さま、聞いていただきたいことがあります」

 

『……そう』

 

些かの間、沈黙が落ちるが、届いた祥子さまの声はひどく落ち着いていた。

 

『わかったわ。今週の日曜日、時間を取れるかしら』

 

「はい」

 

それに了承すると、時間と場所を指定される。

『午後の一時にリリアン女子大学の正門前で』

 

 

高校生活最後の夏休みも後半にさしかかり——。

 

午後の日差しはギラギラと眩しく、

蝉が最後の大合唱とばかりに命の灯火を燃やしている。

もう少しすれば、木々の緑も色褪せて、今度は紅く色づくのだろう。

時折、気づいたかのように木の葉を揺らす風の音——。

祐巳は瞳を閉じる。

すると、頭に浮かぶのは姉と妹の顔ばかり。

驚いたこと、嬉しかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと。

色んな情景が溢れ出す——。

二人との出会いが祐巳の人生を彩っていた。

ああ、こんなにも私の中は二人で満たされているんだ…。

 

「—— 祐巳」

 

その声は祐巳の耳へと真っ直ぐに届いた。

瞳を開けると、先ほどまでより鮮明で美しい祥子さまがいた。

 

「——お姉さま」

 

祐巳は、求めていたその存在へと手を伸ばした——。

 

 

 

「私のマンションへ行きましょう」

 

その言葉に従って、祥子さまについて行く。

二人の手はしっかりと握られていた。

 

「ここよ」と、歩き始めて20分ほどで。

洗練された外観ながら、歴史ある穏やかな風景と美しく調和している建物。それを見ただけで、そこに住む住人の品がうかがえるようだった。

祥子さまが一人暮らしを始められたことは聞いていたが、訪れたのは初めてて、祐巳は少しだけ緊張していた。

 

「祐巳?何を惚けているの。入るわよ」

 

そんな風に促されて、慌てて気を取り直す。

たどり着いた祥子さまのお部屋は、外観同様、やはり洗練されていて、余計なものは置かれていないためか、ただでさえ広い空間がさらに広く感じられた。

けれど、だから、リビングに置かれていた写真立てに、祐巳と祥子さま、二人で写った写真があるのは、とても目立っていた。

それを認めた瞬間、顔が緩むのを止められない。

 

「あら、気づいたのね」

 

「はい、私の部屋にも同じものがあります」

 

「ふふ、それはうれしいわ」

 

和やかな会話を交わしながら、進められた席へとおとなしく座る。

祥子さまはキッチンの方へと向かわれた。

 

「祐巳はミルクティーでいいかしら?」

 

その声にハッとする。

 

「お姉さま!私が淹れます!」

 

「ここは薔薇の館ではなくて私の部屋よ?あなたは今日はお客様」

 

そんな風に止められてしまう。けれどよく考えてみれば、使い勝手も分からない人さまのお家でお茶を淹れようなど、余計に手間を取らせるだけだった。

手際よく二人分を用意して戻ってきた祥子さまは、カップをテーブルに並べると、椅子に腰をかけ、静かに祐巳と向き合った。

 

「祐巳。心の準備は出来ているわ」

 

緊張している祐巳を気遣ってか、祥子さまは穏やかに、安心させるように言う。祥子さまの本心は分からない。本当は反対なのかもしれない。でも、これは祥子さまとずっと一緒にいたいから、いつまでも隣に立って歩いていたいから、決めたこと。だから、ちゃんと伝えて認めてもらわなくちゃ。

 

「お姉さま、私——」

 

「挑戦してみようと思います」

 

祐巳が目を逸らさずに祥子さまに言い切ると、何に?とは問うこともなく、「そう」という呟きのあとで、少し顔を俯けたかと思うと、喉がわずかに上下して——、言われた言葉は———

 

「応援するわ」

 

であった——。

 

 

 



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#14 紅天の霹靂

前半は瞳子視点、後半は祐巳視点となります。


(1)

 

花寺学院高校。

私立リリアン女学園と同じ丘の上に立つ名門男子校。

 

残り五日となった夏の休暇を惜しむいとまもなく、

その門の前に並び立つのは、晩夏の暑さに項垂れる青少年たち。

彼らは健気に待っていた。

薔薇の乙女たちが到着するのを——。

 

 

今年も両校の学園祭を手伝うことになる花寺とリリアンの生徒会メンバーは、先立って行われる花寺のため、余裕を持って話し合いの機会を設けていた。

今回は花寺の生徒会室を借りる形である。

 

山百合会の面々は、リリアンの門の前に集合していた。

由乃さまと菜々ちゃんが連れ立って到着したところで全員が揃い、

別荘地ぶりの再会に皆んなのテンションが上がる。

そんな中でも瞳子の心中は複雑だった。

 

今日の日程を決める際の連絡で、祐巳さまから電話をいただいた時——。

 

『この日に話があるから、その後の予定を開けてほしい』

 

こんなお願いをされたから。

何の話か、というより何の報告か、言われることは分かっていた。

祐巳さまから聞いたわけではない。もちろん祥子さまからも。

けれど、最近の出来事を踏まえても、祐巳さまの声や表情からも、察しはついてしまうのだ。

祐巳さまが決められたのなら、もう受け入れるしかないのかもしれない。きっと祥子さまは反対はしないはずだ。

せめて、自分が祐巳さまの負担にならないように……。

花寺へと向かう道すがら、瞳子は学園祭の打合せよりもその後の予定に意識を飛ばしていた。

 

「瞳子?あんたちょっとおかしいよ、大丈夫?」

 

乃梨子のそんな失礼な言い草も聞こえない。

 

「ねえ瞳子、聞こえてる?」

 

ああ、前を行く祐巳さまは志摩子さまと楽しげに談笑されている。

見る限り、お顔はすっきりとされていて憂いもなさそうだ。

 

「暑さで頭でもやられてんじゃ…「ああっもう!聞こえてますわよ!」

 

何なんですの!人が真剣な思考に没頭している時に!

大方、志摩子さまが祐巳さまに取られてしまって暇なのだろう、そうでしょう!だからと言って、同じく私も暇なのだと思わないでもらいたいですわ!

 

「あ、いつも通りだね」

 

「……ッ」

 

おちゃらけた乃梨子に対して、沸騰した怒りをぶつけると、頭を巡る物寂しい思考も一緒に吹き飛んでいた。

 

「もう、なんなのですか…」

 

そんな風に言いながらも、瞳子は少しだけ乃梨子に感謝する。

この一見冷めていそうな少女は、案外おせっかいで瞳子の機微にも鋭いのだ。紛れもなく瞳子にとって大切な友人となっていた。

 

こうして多少なり前向きに気持ちを立て直せた頃、ちょうど花寺の門が近づいて、生徒会の面々とまみえたのであった。

 

「よ、祐巳」と祐巳さまの弟君である祐麒さんが声をかける。

祐麒さんは現在の花寺の生徒会長である。大好きな祐巳さまと似ているのでつい親しみを持ってしまう。優お兄さまも彼を相当気に入っているし、どうも、私たちの血筋は福沢家に惹かれるらしい…。

瞳子はずらっと並ぶ顔を見渡す。

何人かは薔薇さま方や乃梨子と面識があるようなので、きっと去年から生徒会にいらした方達なのだろう。花寺との合同行事に初めて参加する瞳子にとっては、祐麒以外は初顔合わせであった。

「ようこそ、お越し下さいました。早速、生徒会室へ案内いたします」という言葉とともに、祐麒さんの先導について行く。

 

「なんか祐巳ちゃん変わったね?」

 

メガネをかけた男の方が祐巳さまに親しげに話しかける。

 

「はあ?どこがだよ小林」

 

それに対して祐麒さんが素っ気なく返すが、まるで女の子みたいに可愛らしい男の子が小林さんに追随した。

 

「ユキチは毎日見てるからわからないんじゃないの?祐巳さん可愛さに磨きがかかってるわよ。嫉妬しちゃう」

 

「アリスまで…何言ってんだよ」

 

喋り方も名前も女の子らしかった。けれどとても彼に合っている。

 

「お、俺も思うけどな!」

 

「…おい。高田はそれ以上近づくな…」

 

とても逞ましい筋肉と日に焼けた肌の男性が、急に頬をポッと赤らめて言葉をこぼす。祐麒さんは怪訝な顔をして、祐巳さまに近づけまいとする。

瞳子も瞬時に彼を威嚇したのだが、当人には気づかれていないようであった。

祐巳さまはと言うと。

 

「えへへ、アリスに言われるとうれしいなあ」

 

「祐巳さんは磨けばもっと光ると思うよ。あとでオススメの美容法教えてあげる」

 

「と、ところで…祥子さまはお元気?」

 

「うん!この前も会ったよ!あのね——」

 

アリスさんと仲良くお喋り中である。

 

そうして到着した生徒会室では、改めての自己紹介から始まった。

まずは花寺。

年の順ということで、祐麒さんから。

 

「花寺学院高校三年、生徒会長の福沢祐麒です。もうご存知かとは思いますが、そこにいる福沢祐巳の弟です」

 

「同じく三年、副会長の高田鉄です。身体の鍛錬はあれからも徹底しており、昨年よりもいい仕上がりになっていると実感しております!いかがでしょうか」

 

あ然とした。

そのままいろんなポーズを披露し出した高田に、空気のみならず、その場にいた皆が固まる。

「…え、ええ」耐えかねてか、祐巳さまが応えた。

さすが祐巳さま。よかった。これで次へと進む。

 

「三年、会計の小林正念です。受験のために数学以外もがんばってます」

 

そこで薔薇さまと乃梨子がクスリッと笑う。瞳子にはよく分からなかった。

 

「三年、有栖川金太郎です。書記です。アリスって呼んでください」

 

アリスが本名ではなくあだ名だったことには驚いたが、どちらにしろ覚えやすい。

そしてそこからは、新たに加わったという二年生の面々だった。

緊張しているのか先ほどから会話もなかったのだが、その紹介はそれぞれかなり個性的で、花寺の生徒会に対する瞳子のイメージは、オモシロイで定まったのであった。

 

次はこちらの番。

祐巳さまから順に紹介して行く。

 

「リリアン女学園三年の福沢祐巳です。紅薔薇をやらせていただいています。祐麒の姉です」

 

そう言って、これで終わりと思いきや。

 

「今回はちゃんと」

 

と、瞳子にとっては謎の一言を付け加えた。

ふふん、と得意げな祐巳さま。笑いも起きている。

 

「ふふふ、前回は違ったものね」

 

そんな由乃さまの言葉に菜々ちゃんが驚く。

 

「え?何か複雑な事情があるのですか!あ、、無神経ですね…」

 

そしてしまった!とばかりに顔を青ざめさせたのだ。

 

…っ…ふ…ふふ、ぷっはっ、あはははっ!

 

由乃さまが噴き出した。それをきっかけに、志摩子さまも乃梨子も花寺側からも堪えきれないというふうに声が上がる。

そして、祐巳さまは。

 

「また、もっていかれた」

 

と、それはそれは残念そうに呟いたのである。

 

スムーズに、とはいえないが、和やかな自己紹介は終わり、全体の雰囲気も良い中で、学園祭の話し合いは順調に進んだ。

 

 

「——じゃあ、よろしくお願いします」

 

その言葉とともに解散する。

 

 

門から出ると、皆はそれぞれの家路へと向かう——。

けれど、瞳子にとってはここからが今日の本番だった。

 

「…ん?祐巳。帰るんだろ?何ぼけっとしてんだよ」

 

一向についてくる気配のない祐巳さまに、祐麒さんが振り返って訊ねた。

 

「…ごめん祐麒。用があるから先に帰ってて」

 

私と祐巳さまは門の前で立ち止まり、ただ静かに佇んでいる。

祐麒さんは些か訝しんだものの、祐巳さまが瞳子を見やったのを見てか、すぐに了解した。

 

「…わかった。あんまり遅くなんなよ」

 

そう言って、ぶっきらぼうながらも姉に注意する様子からは、この姉弟の仲の良い関係がうかがえる。

どちらが年上なのか分からないそのやり取りが微笑ましかった。

 

祐麒さんが去ったあと、祐巳さまと共に駅までの道を歩く。

普段は近くのバス停からバスで駅まで向かうのだけど——

大切な話があったから。

 

「瞳子」

 

「…はい」

 

瞳子はそう返すのがやっとだった。

束の間、沈黙が落ちる。

何を話せばいいのか分からない。いつもは側に居られるだけで幸せな気持ちになれるのに。

会話のない時間が気まづかった。

 

「…あなたが反対なのはわかっているけど」

 

瞳子はまだ口を開かない。

祐巳さまも続けない。瞳子の反応を待っている。

でも。

 

また、静寂が訪れる。

 

 

紅い紅い空。

いつもより大きな夕陽から射す光はまぶしい。

日中の暑さはずいぶんと弱まって、気持ちのいい夕暮れだった…。

ざわめく木々。帰路につく、人の雑踏。どこからか漂う食欲をそそる香り。

 

電線にとまる鳥たちが

 

一斉に羽ばたいた時———

 

 

 

「お姉さまは自由です」

 

 

 

何にも縛られることなく、自由に、思うままに、進んでくれればいい。

祐巳さまの選ぶ道は、きっと、光に満ちるはずだから。

まだ、振り切れない思いは残るものの、

瞳子は己の姉を信じる選択をしたのであった。

 

 

(2)

 

お姉さまは、「応援するわ」と言った。

瞳子は、「お姉さまは自由です」と言った。

 

そうして二人とも背中を押してくれた。

私が何も語らなくても、説得する間も与えずに。

どうしてこんなにも理解してくれるのだろう。受け入れてくれるのだろう。

私はそんなに出来た人間ではないのに。

 

だからこそ、新たな一歩を踏み出すんだ。

 

 

 

——そんな決意も胸に、

祐巳が対面するのは、母と父、そして祐麒である。

 

福沢家の一階リビング。

普段は過保護なほどに甘い父親が、厳しい顔つきで祐巳の話を聞いている。そしてそんな父と私を心配気に交互に見やる母。

いつもと逆の光景だ。

祐麒は、顔は真剣そのものだが、何を考えているかまでは分からない。客観的に場の状況を見極めんとしているように見えた。

 

「認めてくださいッお願いします…ッ!」

 

あらかたの経緯と祐巳の気持ちを最後まで言い終えて、深く頭を下げる。

祐巳には緊張が走る。

 

「——だめだ」

 

父親の第一声はそれ。

祐巳はきゅっと膝の上でこぶしを握る。

 

「祐巳ちゃんが思うほど、甘い世界じゃないぞ」

 

「わかってる…それでも…ッ」

 

——必死だった。

 

「これは、私にとっては成長するチャンスなの!逃したくない!」

 

「活躍しているのはほんの一握り。それもいつ、どうなるかわからない」

 

「そうね…」

 

しかし、父は譲らない。

隣で聞いていた母も父の意見へと同意する。

 

「私は、祐巳ちゃんには普通に幸せな生活を送ってもらいたいのよ。わざわざしなくていい苦労を背負いに行かないでちょうだい」

 

茫然と目の前が暗くなる。

どう、すれば、納得してもらえるのか。

祐巳は溢れそうになる涙を口を引き結んで堪えていた。

 

「…ちょっといいかな?」

 

そんな時、ずっと黙っていた祐麒が声を上げる。

 

「父さんたちの意見はもっともだと思う。俺も心配だし」

 

吐き出された言葉に祐巳はますます絶望する。

 

「——けどさ、祐巳がこんなに必死なのは、強い想いがあるからだろ?簡単に諦められるとは思えないんだよね」

 

しかし、祐麒の言葉は祐巳をフォローするものだった。

そこに少し希望が見える。

父も母も不満げにしながらも耳を傾ける。

 

「何度もあるチャンスでもないし、やめることはいつでも出来るんだから、しばらく見守ってやったら?」

 

「最悪、勝手に契約しちゃうかもしれないよ?」最後の文句が強力だった。両親はぎくっと驚きに目を見開き、祐巳も、あ、そういうこともできるのか!と少々まぬけだが感心してしまった。そしてそんな祐巳を見た両親が、マズイと思ったのか、この話はいったん保留ということになる。

賛成でも反対でもない。一応は。

 

「その高岡という男に会わせてくれ」

 

話はそれからだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




男にして祐巳と間違われるほど似ている祐麒って美少年だと思うんです。しかもこの話だと祐巳はかなりの美少女なのでハンパないです。

タイトルは両親の目線からつけたものです。
両親は祐巳の歌ってる姿とか知りませんから
彼らからしたら青天の霹靂です。


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#15 ローズ・オブ・ローズ

(1)

 

両親へと打ち明けた次の週の土曜日。

この日は花寺の学園祭で、祐巳も祐麒も、そして子供たちの勇姿を見届けようと意気込む父と母も、福沢家は朝から一日中忙しなく動いてはいた。

けれど、学園祭を終え、やっと家路に着くときも、家の中でも、今日のあれやこれやに花を咲かせ、漂うのは気持ちのいい疲れだった。

 

問題は、その翌日。

祐麒は学園祭の二日目で、学校へと向かい、今ここにはいない。

前日同様に秋晴れの心地の良い天候である。

しかし、太陽がもう直ぐてっぺんに登ろうかというそんな明るい日差しの中、昨日の陽気は何処へやら、福沢家には重苦しい空気が充満していた。

 

「本日は、わざわざ足をお運びくださってありがとうございます」

 

「いえ、こちらこそ、お招き感謝致します。時間を割いて頂いたことも」

 

「時間でしたら、あなたの方がございませんでしょう」

 

玄関先で交わされるやけに堅い会話に、頭が痛くなる。

 

「あなた、ここでは何ですから早く上がってもらいませんと」

 

見兼ねた母が促して、ようやくリビングのテーブルに腰を下ろせた。

こちら側には父と母、その間に拘束されるように挟まれている私。

肩身がせまい。

そして対面には、一度会ったことのある綺麗なお姉さん——秘書さんらしい。

と、父と母の標的、高岡である。

 

『両親が高岡さんと会いたがっている』

 

言われた次の日に高岡に電話をした。

すると彼は、『わかった、行く』と即答したのである。

え、ここに来るのか?と驚く間もなく、『都合のいい日時を教えてくれる?』と続けざまに言われたものだから、急いで父と母に確認を取った。

——それが、今日、この時間、この状況、なのである。

 

高岡はいつもすぐに時間を作ってくれる。だから案外暇なのか?と思わないでもないのだが、綺麗な秘書さんが時折時計を確認しては眉を寄せるのを見るに、そんなことはないのだろう。

そして「社長」と呼びかけている。それに対して「ああ、分かってる」と軽くあしらったかと思うと、普段より数段まじめな顔つきで口を開いた。祐巳は初めて彼が社長だと実感するのだった。

 

「私は、祐巳さんをぜひ我が社で育てたい、いえ、支援させていただきたいと考えております」

 

男のそんな殊勝な態度も丁寧な言葉遣いも衝撃だった。

 

「祐巳さんには圧倒的な魅力があります。それは得てして得られるものではありません。その可能性を私に広げさせて欲しいのです」

 

その真摯な眼差しが痛いほど、父と母、私に訴えてくる——。

 

高岡の言葉を静かに受けとめていた父が口を開いた。

 

「…私たちの娘に、そこまで言っていただけるのは、本当にありがたいのですが…、それで成功する根拠はどこにあるのです?あなたは、祐巳が傷ついたり、不幸になる責任を取れるのですか?」

 

しかし、そんな高岡に対しても父の言葉は厳しかった。

祐巳は緊張する。高岡は何というのだろう。この父を納得させることができるのだろうか、と。

 

「——根拠は、私の中にあります。それから祐巳さんの心にも」

 

—ふっ、と一瞬の微笑みののちの彼のことば。

 

「信じられないかもしれませんが、結局のところそれが一番大事なことで、私からしてみれば、全てです」

 

父と母は茫然と高岡を見つめている。

 

「もちろん、この世界に入ることで、祐巳さんが傷つき、苦労することもあるでしょう。しかしそれは生きていれば誰しもが味わうものです。どちらがより大変かというのは、祐巳さんの気持ち次第。不幸になるか幸せになるかも」

 

父がおもわず顔をしかめる。

 

「無責任、と思われるかもしれませんが、これが私の嘘偽りのない気持ちです」

 

「…あなたは、我々を説得しにきたのではないのですか?」

 

そこにある事実のままに言い切る高岡に対し、父は困惑を隠せないようだった。

 

「決めるのは祐巳さんですが、祐巳さんの大切にしているものには、私の出来る範囲で誠実に向き合いたいと思っていますので」

 

祐巳は少し驚いた。この男がそんなことを考えているとは思っていなかったから。

そして続けられる言葉にはさらに目を見開く。

 

「ただし、不幸にさせるつもりはありませんが」

 

自信のみなぎる熱くも真剣な表情——。

祐巳は、高岡が自分に期待し信頼してくれていることは常々感じていた。そうでなければ、わざわざ別荘地にまで訪れて、祐巳を見定めるためだけにあのパーティに無駄な労力を注ぐことなどしないはずだから。

けれど、彼は祐巳自信に興味はあっても、彼が関しないところには無頓着だと思っていたのに。

 

その熱に圧され、当惑にすぐさま反応できない両親。

そんな中、隣の女性が焦った様子で高岡をせかしていた。

「これ以上は、無理です」と。

高岡は嫌そうに目をやると、仕方ないとばかりにうなづいた。

「申し訳ありませんが、今日はこれで」

謝罪とともに、しぶしぶと立ち上がる。

 

「結論は急ぎません。何かありましたらまたご連絡ください」

 

そして、最後に綺麗な姿勢で深くお辞儀をし、彼は福沢家を後にしたのだった——。

 

 

「…お父さん…お母さん」

 

祐巳は自分の両脇で、しばらく魂が抜けたように佇んでいた二人に、そっと声をかける。

しばしの沈黙。

気づいてはいるだろうに、今度は硬く腕を組み、俯いた状態で動かない。それは、何かを耐えているようにも見えた。

祐巳はため息が出そうになるのを堪えて、席を立つ。

両親のことは気がかりだが、今、ここにいても何の進展もないと思ったから。

そうして、自室へ向かう階段に足を掛けたとき——

 

「——祐巳ちゃん」

 

ハッと振り向く。

 

「……もう少しだけ、待ってくれ…」

 

そうこぼした父の声は、ずいぶんと頼りなさげで、

そんな絞り出すように紡がれた親の想いに、今はそれで十分だ、と思ったのだった。

 

 

(2)

 

——九月の終盤。

天候はあいにくのくもり空。

気まぐれな秋の空は子羊たちの想いとはうらはらに、

ご機嫌麗しくはないようだった。

だけれども。そんな天気など関係ないとばかりに

瞳子の、いえ、訪れたものたちの気持ちは高揚していた——。

 

私立リリアン女学園学園祭。

 

今年も心浮き立つ出店に展示、イベントが目白押しだった。

部活動の発表会。有志によるバンド演奏。瞳子の演劇部。

そしてもちろん、山百合会主催の劇も。

 

今年の演目は『王子とこじき』。

これまた、去年の『とりかえばや』と同様に、似た二人が入れ替わる話である。

そうなると、主役は祐巳さまと祐麒さんにまわってくるわけで。

というより、祐巳さまと祐麒さんありきで決めたと言った方が正しいのだが——。

 

『とりかえばや』の成功に味をしめた山百合会の面々(特に由乃さま)が、主役が去年と同じ二人では飽きられる、と反対した祐巳さまの孤軍奮闘もむなしく、使えるいい手があるなら使うべきだと有無を言わさず決定してしまったのだ。

自分にお鉢がまわらないために繰り出される、志摩子さま、乃梨子、菜々ちゃんとの連携プレーはすばらしかった。

かくいう瞳子も、演劇部もあるため助けようにも手が回せず、口を出す権限はあまりなかったのだ。

 

 

とにもかくにも、こうして決まった『王子とこじき』。

それは、16世紀のイギリスが舞台の映画や絵本にもなっているストーリー。

英国の王子エドワードとロンドンの貧民街で乞食として生きるトムは、同じ日に生まれる。かといって、血のつながりがあるわけではないけれど。

容姿が良く似ていたことからふとしたことで入れ替わり、トムは憧れの宮廷生活を過ごすこととなり、エドワードは乞食として自国の庶民の生活を垣間見ることとなる。

悪法と無教養に支配された庶民の生活がどんなに苦しいのか身を以て体験したエドワードは大きなショックを受ける。

そして、偶然出会った騎士マイルス・ヘンドンを護衛にさまざまな苦難の生活を送り、やがて、真の王へと成長していくのである。

クライマックスにはエドワードの父王が崩御したことで、トムが国王として戴冠式に臨むことになり、それを知ったエドワードが宮殿へと駆けつける。しかし、エドワードが本物の王子であることはなかなか理解してもらえず、そんな中トムの発言によって、証明に成功し、無事にエドワードが王となってハッピーエンドを迎えるのだ。

 

この物語りは、慈悲や信頼の大切さを説くだけでなく、ところどころに風刺やユーモアがちりばめられた秀逸な作品で、リリアンで披露するにもなかなか適した題材だった。

 

そしてこの結構過酷な試練を与えられる王子エドワード役が祐巳さま。

こじきのトムが祐麒さんとなっている。

祐巳さまは、やたらと男装する機会が多いことにも辟易としていたのだが、祐麒さんは女装しなくていいことに喜んでいた。

まあ、女役の方が少なくはあるのだけれど。

もはや主役をやらされるのはあがいても無駄!と早々に諦めた福沢姉弟は、少々哀れであった。

 

そんな風に数週間前を振り返る瞳子。

今いるのは、自分のクラスの出入り口。そこに設置された受け付け係の席である。

演劇部と山百合会を掛け持ちし、学園祭期間は死ぬほど忙しい瞳子には、クラスの出し物において重要な役割などなかった。

いつでも抜けられて、誰とでも替えのきく、たいそう気楽なポジションで暇を持て余すのも仕方がないではないか。

 

そうして某としていたところ、お待ちかねの人物がやってきた。

 

「とーうーこっ!」

 

祐巳さまである。

 

演劇部の劇が午後一時、山百合会の劇が午後三時。そんな多忙な瞳子には、学園祭を見てまわる時間は限られている。

現在時刻は十一時。

本来なら午前中いっぱいはクラスを手伝うつもりだったのだけど——。

今朝のこと。クラスに顔を出すや否や、

「祐巳さまと周られるのでしょう?」だとか「紅薔薇さまがこちらに迎えにこられるのかしら?」だとか「何時に待ち合わせなの?」だとか…。

「お姉さまも私も忙しくて時間がありませんの」

なんて答えた瞬間にあれよあれよと、まわる時間が作られた。

祐巳さまと同じクラスにお姉さまがいるという子が、すぐさまそちらに相談し、祐巳さまと瞳子、同時に休憩に入れるよう時間が調節された。

その勢いに若干引いたのは否めないが、ありがたく享受している。

 

「お姉さま!」

 

祐巳さまの登場に沸き起こる歓喜の声ももう慣れた。

 

「行こっか!」

 

「はい!」

 

仲良く手を繋いで出発する。頬を染めた乙女たちに見送られながら。

 

写真部、文芸部、美術部。

まずは順番にいろんな部活の展示を見てまわる。

途中で茶道部にも立ち寄って、お茶とお菓子をいただいた。お菓子に祐巳さまが釣られたためである。

それから瞳子が行きたいと言った祐巳さまのクラス。

そのクラスの出し物は『ボードゲームで世界交流』。

名前の通り、世界各国のボードゲームが用意されており、場所さえ空いていればどれでも好きなもので遊んでいい。

そこで初めて出会った人ともゲームを通して和気あいあいとなるのである。

ボードゲームに興味があるとかではなく、単に祐巳さまのクラスだから見たいという理由ではあるけれど。

 

しかし、教室の中へ入った途端、瞳子は後悔した。

 

「ん?」

 

ああ、祐巳さまも見つけてしまった。

 

「あ!やっと来た!ヤッホ〜ー!祐〜巳ちゃんっ」

 

そこには少女たちに囲まれ笑顔を振りまくあのお方。

聖さま。

そして少し離れたところで何やら真剣にチェス盤と向き合う美女。

蓉子さまと江利子さま。こちらは放つオーラが怖すぎて誰も近づけないようである。

というか何をやっているのだろう?

OGなのだから居ても不思議はない、ない、が、とにかく目立ちすぎるのである。彼女たちの代の生徒は今の三年生のみではあるものの、中等部からも人気の高かった方達だから、その辺を意識してほしい。

 

「聖さま…。相変わらず元気そうですね」

 

「うん!祐巳ちゃんもね!…あっ忘れてた——」

 

そういってこちらへとズンズン歩んできた聖さまが、

 

!!!?「ふぎゃっ」

 

祐巳さまへと思い切り抱きついた。

 

「……聖さま。お姉さまが困ってますわ」

 

瞳子は絶対零度の声を出す。

それなのに聖さまは「聞こえな〜い」と聞こえていることを証明しながら否定する。

 

「〜〜っ!聖さまっ!!は・な・し・て・下さいっ!」

 

祐巳さまの必死の抵抗もなんのその。そもそも祐巳さまは本気で拒否してはいないけれど。それもますます瞳子を苛立たせた。

 

「聖。それくらいにしとかないと、瞳子ちゃんが爆発するわよ」

 

本当に爆発しようかというところに、落ち着いた声が届く。

 

「止めなくても良かったのに。私はその方が見たかったわ」

 

こちらは不満そうな声。

いつの間に勝負がついたのやら、蓉子さまと江利子さまも気づけば寄ってきていた。

 

「蓉子さま!江利子さま!お久しぶりです!!」

 

祐巳さまが体に荷物を巻きつけながらもお二人へと向かい合う。

 

「久しぶりね、祐巳ちゃん。祥子からたまに話は聞いていたけれど、あなたずいぶんと成長したわね」

 

「私も驚いたわ。瞳子ちゃんが気が気じゃないのも納得」

 

「えへへ、なんだか身長が伸び始めて」

 

「え〜〜っ!私はちっこい祐巳ちゃんも大好きだけどねっ」

 

この方たちはふつうに会話を交わしているけれど、遠巻きにものすごい注目を集めているのに気づいているだろうか?

祐巳さまも含め、美しい人たちが集まった時の威力は驚異的だった。

 

「ところで、どうしてこちらに?」

 

この人たちが無為に時間を過ごすとはあまり思えない。

 

「あら、瞳子ちゃん。目的がないと来ちゃいけないかしら?」

 

「いえ、そういうわけではないのですけれど」

 

「ふふ、ごめんなさい。目的ね〜、強いていうなら祐巳ちゃんに会いに、かしら?」

 

蓉子さまがそう答える。

 

「私はそれと、あとは、由乃ちゃんと菜々ちゃんね」

 

そう言ったのは江利子さま。

 

「私は暇だったから!あ、でももちろん祐巳ちゃんには会いたかったよ!」

 

聖さまは未だ祐巳さまを抱え込んでいる。そろそろ本気で本当に放していただきたい。

 

「いつまでいらっしゃるんですか?」

 

祐巳さまがやっと瞳子の様子にヤバいと思ったのか、聖さまの腕からスルリと抜け出る。

 

「山百合会の劇は見ていくよ!祐巳ちゃんまた主演なんだって?がんばるね〜」

 

「しかも弟さんとW主演!大方、由乃ちゃんに圧されたんでしょうけど。ダメよ、甘やかしちゃ」

 

祐巳さまは気恥ずかしいのか、申し訳ないのか、少し困った顔をしている。

 

「祥子も、間に合えば見に来るかもしれないわよ」

 

「え!」

 

蓉子さまのその言葉に祐巳さまの瞳がかがやいた。

 

「ふふ、やる気出たかしら?じゃあ私たちはこれで失礼するわ。デート、邪魔してごめんなさいね」

 

そう言って、前々薔薇さま三人衆は去っていった。その間、聖さまが蓉子さまに首根っこを掴まれブーブー言いながら引き摺られていくのは何の感慨もなく眺めた。

 

彼女たちを見送り、祐巳さまが「お腹すいたなー」と言ったのを合図に時刻を確認してみれば、正午を少し過ぎたところ。

桜亭でランチを食べれば、あっという間に演劇部の準備の時間になっていた。

 

「瞳子、最初からちゃんと見てるからね!」

 

祐巳さまのそんな言葉に瞳子はとてもうれしくなる。

祐巳さまが見ていて下さるなら、百人力だ。

 

「はい、しっかり見ていて下さいませね」

 

ニッコリとお互いに笑みを交わし合う。

これで充電も十分。上手く行く気しかしない。

 

よしっ!と気合を入れた演劇部での上演は大盛況のうちに幕を閉じた。もちろん、舞台からしっかり祐巳さまも確認できた。

 

いよいよあとは山百合会の劇を残すのみ!

瞳子はそのまま控え室で待機する。すぐに祐巳さまが駆けつけて、次第に他のメンバーも集まりだす。

衣装にも着替え、髪もセットし終えると、間も無く上演時間。

これさえやり切れば気持ちよく学園祭を終えられる、と皆で気合を入れる。

 

 

盛大に迎える拍手と共に舞台の幕が開いた——。

 

『王子とこじき』

 

王宮で王子として大切にされ、何不自由なく成長するエドワード。

 

それに対して、貧民窟で父の暴力と飢えに耐えながら暮らすトム。

 

ある時王宮に入り込んだトムとエドワードが出会い、お互いに入れ替わることにした。

 

王宮の外、庶民の生活にショックを受けるエドワード。

 

一方のトムも暮らしは裕福なものの、教養の差についていくために神経を擦減らす日々。

 

一切気づかない周りの人々。

 

そんなある日、エドワードは心優しい優秀な騎士と出会う。

 

騎士と共に様々な苦労を経験するエドワード。

 

そんな時、父王が崩御する。

 

それにより、王にされてしまうトム。

 

ロンドンの街中を行進するトムと母との感動的なシーン。

 

心温まるエンディングに向け、物語が佳境を迎える。

 

そして、いよいよクライマックスのとき——、

 

エドワードこと祐巳さまが戴冠式へと駆けつける——

 

そしてトムが—————!!!!!!!?!—————

 

 

———————!!!

 

 

—————!!

 

 

一瞬の明滅と轟く轟音。

 

瞳子の目の前が暗転した。

 

——え。

 

瞬間的にパニックに落ち入る。

 

騒然とする体育館——。

 

どこからともなく上がる小さな子の泣き声——。

 

———!

 

また光る——。

 

……雷。

 

幾分、冷静さを取り戻す。が、自体はあまりよろしくない。

 

停電——、だ。

 

おそらく、3、4分もすれば、すぐに電気は復旧する。

観客も落着きを取り戻すだろう。———でも、

 

 

きっともう、誰も劇には集中できない——。

 

メチャクチャだ——。

 

 

 

 

『…………』

 

(———?)

 

瞳子の鼓膜を…、空気の音…が…ゆらす。

 

 

『………リア…さまの』

 

 

『…こころ…それは…あおぞら——』

 

(…祐巳…さま…だ…———)

 

 

『わたしたちを つつむ ひろい あおぞら』

 

はじめは小さく、次第に鮮明に——。

 

 

『マリアさまの こころ それは かしのき』

 

やわらかく、あたたかく——。

 

 

『わたしたちを まもる つよい かしのき』

 

暗闇に光をともすように——。

 

 

『マリアさまの こころ それは うぐいす』

 

幼な子の泣き声が、止んだ——。

 

 

『わたしたちと うたう もりの うぐいす』

 

雷鳴よりも鮮烈に——。

 

 

『マリアさまの こころ それは やまゆり』

 

心に届く、その歌声——。

 

 

『わたしたちも ほしい しろい やまゆり』

 

祐巳さまの優しさ——。

 

 

『マリアさまの こころ それは サファイヤ』

 

そこにはいつしか、複数の声が重なり——。

 

 

『わたしたちを かざる ひかる サファイヤ』

 

やがて、ホール中を巻き込んでいた——。

 

 

 

 

———ッ……ワアアアァァァ———!!!!!

 

 

体育館を包む歓声と同時に舞台の照明が戻る——。

 

———。

 

そこに立つ祐巳さまは、凛として、

 

咲く、大輪の薔薇だった——。

 

 

 

 

———「ああ、これは間違いなくエドワード王子の歌声!」

 

瞳子は心酔する己を叱咤し、とっさにアドリブを入れる。

これを無駄にしてはいけない。

 

———「エドワード王子!」

 

由乃さまや、志摩子さまもハッとしてそれに続く。

 

———「こうして、エドワードは無事に王に即位し、良き王として国を率いたのでした——」

 

予定にないナレーション。

 

そしてまた、会場からは割れんばかりの拍手。

なんとか、終わった——。

それどころか、大成功といえる。

突然のハプニングもまるで演出かのようにしてしまった。

祐巳さまが——。

 

目の前に広がるのは

興奮と感動に浮き立つ人々の顔。

リリアンの学生、その家族、親せき、友だち、知り合い、お世話になった方々。

ここに集った全ての人たちが、一つになって祝福する。

いま、この時を。

 

 

 

私たちが舞台を降りたあと、体育館の隅で、祐巳さまの両親がこちらを見つめていた。

 

「…お父さん…お母さん」

 

祐巳さまが気づく。

 

「祐巳ちゃん…」

 

祐巳さまのお父さまだ。

瞳子は自分たちがここにいていいのか迷った。

侵してはいけない、雰囲気があったから。

 

「…感動、したよ」

 

「ありがとう…」

 

そして、お父さまの表情が変わる。

 

———。

 

「いいよ」

 

それは決意の瞳で。

 

「祐巳ちゃんを信じる」

 

誓いの言葉だった。

 

 

 

 




過去編、終わりました!
これただの過去なんで、あっさり流すつもりがそうもいかず…。
やっと土台ができました。
なので、本編はより長くなると思われます。
こっちが本筋ですので、過去編よりも丁寧に展開や描写を書いていけたらと思います。

では、過去編お付き合い下さりありがとうございました。
できれば、これからもよろしくお願いいたします。

※前回の話で瞳子が初めて花寺の面々と対面した描写がありましたが、原作によると、瞳子一年の学園祭時に会ってました。
申し訳ありませんが、独自設定ということでそのまま進めさせて頂きます。


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#16 epilogue —子羊たちはかく語りき—

(1)

 

SIDE:—かつて薔薇さまだった者たち—

 

「……圧巻、ね」

 

「…ええ、そうですわね」

 

「そんなこと言って、あなた、全然動じていなかったじゃない」

 

「それは、以前身をもって体験いたしましたから」

 

 

山百合会主催の演劇が盛大な拍手と共に幕を下そうという時。

その舞台上の紅薔薇を見つめながら話すのは、去年と一昨年の紅薔薇さま。

 

「少し前までは、ほんの小さなつぼみだったのに、いつの間にあんなに立派になったのかしら」

 

己の孫の成長に、柄にもなく熱いものがこみ上げる。

 

「…祐巳は、最初から、特別でしたわ」

 

「ふふ、あなたにとってはそうでしょうね」

 

少し拗ねながら、それでも自身の妹へと注ぐまなざしは逸らさない。

 

「…私は、祐巳の姉として、相応しくあれるでしょうか」

 

「あら、あなたらしくない。弱気な発言ね」

 

わざと少し挑発をかける。

けれどそれは、普段強気で負けず嫌いな彼女が

姉の前で見せる彼女なりの甘えだった。

 

そでへと捌けた役者たちが、体育館へと降りてきた。

 

「ほら、行かなくていいの?」

 

「応援するって決めたんでしょう?」

 

妹の背中をそっと押してやる。

 

「いってきます」

 

そう言って駆けていく妹と

それに気づくなり、満開の笑顔を浮かべる孫。

 

二人の行く先が幸せに溢れることを祈った。

 

 

 

(2)

 

SIDE:—写真部エースのその日—

 

その日の忙しさと言ったら、過去に類を見ない。

と、自信を持って言えるだろう。

 

何せ心躍る被写体が次から次へと現れる。

学園祭という行事には必ずどこかで何かが起こるのだ。

あるところには、仲良くデートするスール。

そして、あるところには、今まさにスールにならんとする者たち。

それどころか、思わぬ人物、例えば歴代の薔薇さま方が出現したりする。

写真部エースの名に懸けて、そんな素敵な一瞬を逃すわけにはいくまい。

彼女の脳裏には、悔やんでも悔やみきれない二年前がよぎる。

現在、自身が一番胸高なる被写体の祐巳さんと祥子さまがスールとなった日。

なぜあの時あの場に居合わせなかったのか!

その瞬間を残せなかったのか!

 

その想いを胸に、蔦子はなんぴとも撮り逃すまいと、あっちへ行きこっちへ行き、かと思えば、はたまたあちらへというように、セカセカと動き回っていた。もちろん撮った後は本人にも見せる。許可がなければ公開はしない。

 

——と、ここまでならば例年通り。

 

 

ところが今年は大きくそれを上回る。

 

何が起こったのか。

 

そう、それはもう、すごかった。

 

その時そこにいられたことを、マリア様に感謝した。

 

 

 

リリアンの体育館。

 

雷鳴の轟くその中で、奇跡は起こる。

 

それはまるで天使の祝福。

 

リリアンの誇る紅薔薇が可憐に咲き誇った瞬間。

 

あろうことか、照明が戻っても蔦子は惚けていた。

 

けれども祐巳さんの妹の台詞にハッとして、

 

慌ててシャッターを切った。

 

劇が終わるやいなや、急いでその場を飛び出して、部室に向かう。

 

すごいものが撮れた、と。

 

きっとこれは伝説になる、と。

 

すぐに噂は駆け巡り、週明けのリリアンはこの話題に沸き立つだろう。

 

幸運にも居合わせた者は胸ときめかせて。

 

見られなかった者たちは打ちひしがれて。

 

そしてそんな生徒たちは待ち望んでいる。

 

この写真と、それから、新聞部の号外を。

 

 

(3)

 

SIDE:—新聞部部長の多忙なるその後—

 

——スクープだ!!

 

記事になるネタはたくさんあった。

 

どれを一面にするか悩むほどに。

 

けれど、それは先ほどまでの話。

 

これを見た瞬間、他のすべては吹き飛んだ。

 

真美の頭はフル回転。

 

着実に予定を組み立てる。

 

週明けに間に合わせたい。何としても!

 

そして一番に向かったのは写真部の部室。

 

彼女は持っているから、その決定的瞬間を。

 

彼女に一声かけると急いで新聞部の部室の方へ。

部員たちは招集するまでもなくすでにほとんどが集まっていた。

みんな考えることは同じだったようで。

現像を待つ間に記事を書く。

祐巳さんが帰る前に、許可がいるから。

山百合会の人たちは最後までいる。だから、期限はキャンプファイアーが終わるまで。

それはまるでアシュラのごときだった、だとか、部長が五人いた、だとかはのちに部員たちから言われた言葉である。

 

 

(4)

 

SIDE:—リリアンの乙女たち—

 

山百合会の劇。

それは、彼女たちが最も楽しみにしていたものだった。

誰かがいち早く手にした情報で、今年の演目が伝わる。

『王子とこじき』らしいですわ、と。

そこから導き出されるのは主演の二人が誰であるか。

賢い彼女たちはすぐに気づいた。

紅薔薇さまが主演。しかも男装だ。花寺の弟さんとの共演が見られる。

そんな噂は瞬く間に広がって、用事がない者たちはほとんどが体育館に詰めかけた。

 

舞台上の薔薇さまたち、それと秀逸なストーリーに

見惚れ、入り込んでいた。そんな時——。

ハプニングが起きた。不安と恐怖にかられる。

けれど、それも束の間で。

雷鳴とともに現れたのは——、天使さまだった。

 

劇のあと、皆んなが口にするのは祐巳さまの話題。

『リリアンの奇跡』『マリア様の使い』『紅薔薇の天使』

口々に、様々な通り名で広がっていく。

けれど、それが大げさだとは誰も思わなかった。

いくつもの呼び名があるのは、どの言葉でもあの感動を表現し切れないもどかしさから。

 

そんななか迎えた週明けの『リリアン瓦版号外』

そのタイトルは——、

 

『ロード・オブ・ローズ〜紅薔薇のキセキ〜』

 

一面には劇での写真。これを撮った写真部エースに皆が思ったことだろう。「よく、やった」と。

 

そしてその分厚い号外には

当時、紅薔薇の蕾であった小笠原祥子さまのスールになった頃からの祐巳さまの特集。

始まりは、祥子さまにタイを直されるお姿の写真から——。

祐巳さまのキセキ。

号外は、新聞部が何度も何度も重版しなければならないほどの人気で。

それは、自分の分のみならず、中等部の妹や卒業した姉のため、はたまた保管用、と皆が競って手に入れたがったからであった。

 

そして、いつしかその見出しがもじられて

祐巳さまは、

『ローズ・オブ・ローズ』薔薇のなかの薔薇、とまことしやかに囁かれるようになったのである。

 

 

知らないのは当の本人のみだとか。

 

 

(5)

 

SIDE:—とある日の三薔薇—

 

「ねえ、」と。

それは由乃さんのそんな一言から始まった。

 

「私、前々からずーーっと!言いたかったことがあるの!」

 

学園祭も終え、次は体育祭へと備える話し合いの合間。

妹たちには外への用事を頼んでいた。

だから、いまこの薔薇の館には、由乃さんと祐巳さんと私の三人だけ。

同級生で、同じ薔薇さまで、信頼する仲間、なのだけれど、

クラスが違うこともあって、この三人だけになるという機会は

実はそんなに多くはなかった。

 

「なに?由乃さん」

 

うん?と首を傾けて訊ねる祐巳さん。その仕草は幼くてかわいい。

 

「それっ!」

 

「ええっ?なに?!」

 

応えた祐巳さんに勢いよく指を指して叫ぶ由乃さん。

けれど、私もちょっとよく分からないわ…?

 

「違う!そっちじゃなくて、そのあと!」

 

「はぃ??!」

 

早く!と急かすように迫る由乃さん。

祐巳さんが混乱して、目をぱちくりさせている。

 

「由乃さん。それは私も分からないわ」

 

祐巳さんが少しかわいそうに思えたので、フォローに入る。

けれど、由乃さんは今度は私の方へと身をのりだした。

 

「だーかーらー。それよっ!!」

 

それ、今の会話で祐巳さんと私に共通するそれって何かしら?

と考えて、すぐ気づいた。

 

「もしかして、『由乃さん』?」

 

「そうっ!」

 

うれしそうに正解だという由乃さん。

 

「え?なんで『由乃さん』?』

 

祐巳さんは頭上にはてなマークをたくさん浮かべている。

そんなもの見えるはずがないのだけれど、祐巳さんを見ていると本当にそういう表現がぴったりなのだ。

 

「もう!祐巳さんにぶいっ!」

 

ぷんぷんと怒り出してしまった由乃さん。

たしかに、自分から言い出すのは恥ずかしいかもしれない。

なぜなら私も一度は考えたことがあったから。

けれどその時は、もし二人が気にしていなかったら?

と思って遠慮してしまったのである。

 

「うーん、由乃さん…由乃さん……由乃さん?」

 

「ああああ!だから!それを!直そうって言ってるのに!!

連呼しないでよ!」

 

…由乃さん、直そうとは言ってなかったわ。けれど、ごめんなさい祐巳さん。火に油を注ぐことになるから、私は何も言えない。

 

「由乃さんを…なおす…………!!」

 

あっ!と祐巳さんがやっと気づいたようだった。

ここで気づいてくれてよかった。これ以上とぼけたら由乃さんがどうなるかわからない。

 

「やっと…まあいいわ。気づいたのね!」

 

「うん。呼び方だよね?」

 

「そうよ!令ちゃんも祥子さまも、あとその前の薔薇さまたちも、ついでに瞳子ちゃんと乃梨子ちゃんだって呼び捨てなのよ?」

 

「いいの?私たちはこのままで?」

 

ねえ?と由乃さんの視線がこちらにも飛んでくる。

そう、私たちの学年以外は皆んな呼び捨て。

呼び方で何がどうなるというわけでもないけれど、やっぱりその方が親しいように感じる。

 

「それは、私も考えたことがあったわ」

 

ただ、呼び慣れてしまったものを変えるのは少し勇気がいるけれど。

 

「やっぱり!そう思うわよね?祐巳さんは?」

 

「んー言われてみれば〜」

 

「よし!じゃあ決まり!今日から私たちは呼び捨てよ!」

 

由乃さんが多少、いや、かなり強引に決定を下した。

 

「ええっ急にはムリだよ〜由乃さ「はい!ぶーー」

 

「これから、さん付けには応えません!」

 

「ええーーー!そんな横暴な……ねえ、志摩子さん?」

 

祐巳さんが私に助けを求めている。

由乃さんはまた、さん付けしたことにご立腹のようだ。

 

「まあ、そうねえ…。……………祐巳?」

 

「……へ?」

 

その時の祐巳さんの顔は一生忘れないだろう。

まんまと私に裏切られてしまった彼女はもう逃げられない。

 

「ほら!志摩子も賛成なんだから、あとは祐巳だけね?」

 

「ゔっ」

 

彼女はとても自然に私たちを呼んでみせた。

「ほらほら」と追い詰める由乃さんに窮地に陥る祐巳さん。

 

しかし、そんななか妹たちが帰ってきてしまう。

 

「ただいま戻りましたーー!」

 

どうしたんです?と訊ねる乃梨子に知らぬふりをして。

 

「ふふ、なんでもないわ」

 

祐巳さんはほっとしているけれど、それでは甘い。

きっと由乃さんは逃すつもりわないわよ?

と、少しわくわくとしながら思った通り。

 

その後由乃さんは祐巳さんが話しかけても一向に応じず。

そんな企みに私も乗っかったものだから、

これでは、会議が進まないと悟った祐巳さん。

 

妹たちが不思議な顔で見つめるそんな中。

 

 

 

 

 

 

「…………よ、由乃……し…まこ……」

 

 

それはそれは真っ赤に顔を赤らめて、小さく小さく呟いたのだった。

 

「ふふ」

 

「なーに?祐巳?」

 

二人の声が意図せず重なった。

 

 

 

 

それは、まだ少し気恥ずかしくて、

けれどほんのりと心があたたかくなるものだった。

 

 

 

 




次回、新章『舞い降りた天使の行方』始まります。


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第一楽章 【舞い降りた天使の行方】
#17 prologue


——————

 

yumi ユミ 本名、福沢祐巳。

XXXX年四月八日に1stシングル「You&me」でソロ歌手としてデビュー。所属事務所はユニゾンプロダクション。レーベルもかの会社が兼ねている。

表題曲は大手化粧品メーカーのシャンプーのCMに起用される。

新人としては異例の大抜擢だった。そこには事務所の若きやり手社長高岡氏の影響もあったかもしれない。

この時、本人の公共の場への露出はまだだったものの、その心地好い歌声と音色は評判を呼び、関係各所に問い合わせが殺到する。

しかし、詳しい情報は何処にもない。

ライブハウスやインディーズで活動していたわけでも、タレントとして芸能界に所属していたわけでもなかったから。

少し前まではただの女子高生だった彼女。

その周囲には、既に存在感を示していたとしても。

どこに隠れていたのか、それはまさしくダークホースだった。

 

それは、世間が俄かに沸き立つ前触れ、前兆。

 

そんな彼女の待ちに待ったお披露目の日。

 

 

————————

 

———————

 

—————

 

…………

………

..

 

午後五時。

人の波がうごめき、まるで潮騒のような喧騒が辺りを揺さぶる——

そんな茜色の時刻。

帰宅の途に着く学生や買い物帰りの主婦。

営業帰りのサラリーマンに、飲み会へと向かう若者たち。

行き交う人々は、それぞれの目的へと足を動かし前を向く。

 

東京都心のいつもの風景。

待ち合わせに、動かぬ者は居ても、上を見上げる者はいない。

 

そんな彼らの頭上——

 

商業ビルの壁面にある大型街頭ビジョンが切り替わった。

 

普段は無意識に通り過ぎる『それ』——–。

 

然し、溢れる音はいつになく鮮明で。

 

不思議に思い、ふと振り仰ぐ。

 

表れたのは、純白の少女。

 

その美しさに目を留める。

——誰だ?…と。

 

そして、覚えのある旋律。

 

画面の少女が微笑む。

 

息を吸い込んだ——。

それを見とめた——次の瞬間………

 

パァ と。

 

 

まず届いたのは、透き通った声だった。

 

唐突な出来事に理解が及ぶ前。

 

気がつくと視界も変わっていた。

 

その背景が——

 

すぐそこの、エントランスへと。

 

純真な音。——画面からじゃない…生の…。

 

ハッとする。

 

今、ここに、いる——と。

 

始めに動き出したのは誰だっただろうか。

 

皆が向かっていた。同じ方向へ——。

 

それが自然であるかのように。

 

引き寄せられて——。

 

ユミ。

舞い降りた天使が

 

 

見つかった———、瞬間だった。

 

 

 

 

それは、四月十五日。CDリリースと同日日。

誕生日も間近に控えた、祐巳、若干十八歳、春の出来事である——。





始まりました。
過去編よりシリアス度が増します。
苦手な方には申し訳ありません。

祐巳の誕生日は四月ということ以外わからないのですが、四月一日はありえなかったことに気づいて修正いたしました…。


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#18 静かなる予感

(1)

 

『祐巳の鮮烈なデビュー』

それより時は少々遡る————。

 

それは入学式の翌日。

つまりは、CMの流れ始めた次の日。

 

 

 

「———福沢祐巳………。………」

 

——次の授業にと、サッと荷物をカバンにまとめ、早々に移動しようとした。——そんな時。

よく知った、大事な——。私にとっては初めてできた親友の。その存在を示す言葉に、体が反応した。

それだけならば、そんなに気にすることではなかったかもしれない。

けれど、今ここにはいないはずの彼女の名前は、私が驚きと疑念を持って振り向くに足るものだった。

 

祐巳、の話題。

それはリリアンならば日常茶飯事で、むしろ本人がいない所で為されることなど当たり前。けれどもそれは、『祐巳さまが…』『紅薔薇さまは…』とトキメキに胸高鳴らせた少女たちの声で、親愛と憧れと尊敬の表れだった。

決して、こんな、まるで重大な秘密を暴露するかのような興奮を持って、語られていたわけではない。

だから、由乃は思わず耳を傾けたのだ。

傾けずとも聞こえたかもしれない、と思うほどに、その声は大きかったのだけれども。

 

話の内容は、こう。

——芸能人がこの大学にいるらしい——。

由乃はミーハーな女子たちの情報網をなめていた。

だってまだ、CMが始まったのは昨日で。…それでも彼女の簡単なプロフィールくらいなら調べれば出てくるのだから、不思議はないのかもしれないけれど…。

由乃は急激に祐巳のことが心配になった。…今、彼女は大丈夫だろうか、と。

 

 

 

(2)

 

……「はぁ…」と。

静かな図書館の片隅で。祐巳は思わずため息を吐いていた。

それは、先日出来た友人たちから思わぬ質問攻めを受けたから。

 

『…ねぇ祐巳。あのCMの歌うたってるの、祐巳って本当?』

 

一限目の教室に入って座席に着いた途端、私の前方に陣取っていたアリサたちが振り向いた。

その勢いに驚きはしたものの、「ごきげんよう」と言いかけて、あ、もう違うんだった。と言葉を飲み込んだ隙に放たれた問い。

祐巳は一瞬ビクリと反応して、逡巡した。

どう言ったものか。否定したところで、すぐ分かることだし、嘘はつきたくない。それにしてもこんなに早くバレてしまうとは思わなかったから、戸惑ってしまったのだ。

 

「う、うん…。あの、でもね…」

 

「〜ッきゃあーー!!!ほら!やっぱり本当だった!!」

 

祐巳が、あまり言い触らさないでほしい旨と気にせずにこれからも接してほしいことを伝える間も無く。

彼女たちが興奮して騒ぎ出してしまった。

うるさかったのだろう。他の学生たちもこちらを気にして意識を向ける中での重ねられる質問。祐巳はそのほとんどを曖昧に応えて流すだけだったのだけど、もうきっと広まるのも時間の問題だった。

別にそのことは覚悟していた。でも、せめてあと一週間。本格的に活動するまでの間は平穏に。大学生生活を満喫したかったのである。

最初は、歌手としてのユミではなく、ただの福沢祐巳として知ってもらいたかった。ここでは。

 

「やっぱり、気にしないでっていうのもムリなのかな…」

 

午前中のことを振り返りながら、

ポツリとそんなひとり言をこぼしてしまう。

 

「あら、何を気にしないで欲しいのかしら?」

 

へ?と。

突如、背後から放たれた言葉に細胞が反応した。

 

「ッお姉さま!」

 

すると、一瞬幻かと疑う祐巳を尻目に祥子さまは少し眉を寄せる。

そこでやっと気づいた。ここは図書館なんだった、と。自分は静かに落ち着きたかったからここに避難したというのに失念していた。

 

「祐巳、となりのカフェに行きましょう?」

 

ここではなんだから、と付け足した祥子さまは、図書館と同じ建物に併設されたカフェへと祐巳を促した。

もちろん祐巳は素直に着いて行く。

 

「お姉さま?どうしてこちらに?」

 

道すがら、祐巳は疑問を訊ねた。

 

「ちょっと調べものをしてたのよ、そしたら祐巳がいたものだから」

 

図書館で会うとは思わなかったわ?と少々お顔に笑みを含んで祥子さまが返す。……確かに祐巳は祥子さまのような真面目な理由で図書館に来たわけではない。だからいつもの祐巳なら今日ここで会うこともなかった。それだけで先ほどまでの出来事が全てこのための布石に思えるのだから、現金なものである。

 

そうこう歩いているうちに目的の場所に到着する。

先に席を取っておいてと言われたので、祐巳は自分の分の注文を祥子さまにお願いして席に座っていた。

そんなに待たずに祥子さまもやって来る。

 

「お姉さま、ありがとうございます」

 

そう言って、財布からお金を出そうとしたところ、祥子さまに首を振って止められる。しかも、祐巳がすぐに引かないであろうことが分かっているのか、こういう時は姉を立てるものよ?と言われてしまう。

そんな風に丸め込まれてしまっていいのかと思わなくもないけれど、あまり言うと不機嫌になる可能性もあるため、ここは甘えさせてもらった。

 

「…ところで祐巳?何を悩んでいたの?」

 

ふーっとキャラメルラテを一口、口に運んだところで、祥子さまから質問がきた。

 

「…うーん、悩んでいたというか…少し落ち込んでいたと言いますか…」

 

祐巳は祥子さまに隠し事はできないため、あらかたの経緯と事情を説明した。祥子さまは要領の良いとは言い難い祐巳の言葉にも、途中で話を遮ることなく、全て言い終えるまで静かに聞いてくれていた。

 

「…そう。それで?祐巳は諦めるの?」

 

「——いえ、時間はかかるかもしれませんが、そのうち本当に私を見てくれる人たちが増えるように私は私らしくあろうと思います」

 

——これが結論。

弱気にはなっていたが、諦めたわけではないのである。

ここでもちゃんと自分で自分の居場所を作る。そうでなければ、芸能界で自分を鍛えたいなど言っていられない。

 

「ふふ、心配する必要なんてなかったわね」

 

そう言った祥子さまは一瞬だけ寂しそうに見えたのだけど、祐巳は気にしないように努めた。祥子さまはまだ不安なのだろう。それは自分が頼りないせいでもある。だからこれから示していけばいい、祥子さまが安心して見守れる姿を——。

 

その後、学校や授業のたわいない会話を交わしていたのだけど、そろそろ次の講義に向かおうかというところで祥子さまが切り出した。

「実は話しておきたいことがあるの」と。

その少々気にかかる言い方に祐巳も身がまえたところで、祥子さまが話し始める。

 

「……これから、忙しくなるわ」

 

今までもかなり忙しい身だったとは思うのだけど、祥子さまによるとそんなのは大したことがないらしい。

 

「私も今年で成人を迎えるでしょ?だから、今までより小笠原の仕事に関わらせてもらえるのよ」

 

小笠原グループ。

創業は明治。

主に建築、不動産、貿易、食品の分野で事業を展開している、らしい。

それだけでなく、傘下には様々な業種の企業をも抱え、その全貌は祐巳には到底把握できない。

そんな凄いという言葉では足りないほどの名家。そこの一人娘であらせられる小笠原祥子さま。……本当に。本来ならこうして祐巳が親しく話しているのも不思議なくらい雲の上の存在、だったんだよなぁ〜と自身の境遇と幸運に感謝する。

 

「…では、なかなか会えなくなるのですね…」

 

それは分かっていても、どうしても落胆は隠せない。

それなのに、当の祥子さまは——

 

 

「………それは…、どうかしら——?」

 

不明瞭な言葉と意味深な表情を残して、席を立ったのであった。

 

 

 

 

(3)

 

祥子は自分が特別な立場にあることを自覚している。

 

だから、普段から自分に集まる視線にも、好ましくは思わないものの、慣れたもので、ほとんど気にはならない。

けれど先ほどのカフェ。そこでチラチラと向けられる好奇の目は、祥子だけに捧げられてはいなかった。明らかに祐巳を意識したもの。こうなることは予想の範疇。しかも当人は、直接的なもの以外には気づいていない。

祐巳が落ち込んでいた理由を聞きながら、それなのにこの視線は気にならないのね?とどこか抜けている妹を案じていた。

 

そんな危なっかしい祐巳を次の教室まで送り届けたあと。

私が向かうのは正門近くの駐車場。そこに小笠原家の車を待たせてあるから。今日は午後からの授業は履修していなかった。

 

「待たせたわね、松井——」

 

「いえ、お帰りなさいませ、お嬢さま」

 

「早速なのだけれど、出発してちょうだい」

 

乗り込んで早々に運転手の松井を促し、私が向かった先——。

それは、優さんの実家。柏木家であった。

 

古き良き和風建築と情緒を解した庭の広がる邸宅。

その一室で、わざわざ私を呼び出した男性と向き合う。

 

「待ってたよ、さっちゃん」

 

「…それは、優さんもお忙しいのに、お待たせして失礼いたしましたわ」

 

微笑みとともに私を写す眼差し。なんでも見透かされているみたいなところが気に障って、つい嫌味を返してしまう。

けれど今日ここを訪れたのは、こんな応酬をする為ではなくて。

昨日の夜。優さんが電話で気になることを言ってきたから。

 

『僕を手伝う気はない?』

 

優さんの手伝い。それだけならば特に否も応もない。

私より一つ上の従兄で元婚約者。お父さまが婚約者に選んだことからも分かるように、この男は腹がたつほど優秀で、まだ学生でありながら、任される仕事の重要度も高い。

そんな優さんの誘い…。

 

『さっちゃんの不安が解消できるかもしれないよ?』

 

半信半疑ではあるが、この言葉が気になってしまった。

まだ手伝うとは決めてないけれど、とりあえず話は聞いてみることにしたのである。

 

お手伝いさんがお茶を用意して辞したのを見届けると

優さんが本題を切り出した。「さっちゃんも知ってると思うけど」と。

 

「小笠原グループの関連事業には、広告やサブカルの分野もあるよね。——けれど正直に言うと、まだまだ弱い」

 

そこで頷く。事実だから。

でも、だからと言って、弱点になる程でもないのだけれど。

出来れば膨らませたい分野ではある。

 

「僕は、そこを強化したいと思ってるんだ」

 

優さんが手を出すと言うのなら、反対はない。それくらいには彼のことを信頼している。

 

「…それで?どうして私の手伝いが必要なの?」

 

謙遜でもなんでもなく、己の能力がまだ足りていないことも、勉強中の身であることも分かっている。手伝うと言ったって、大した足しにはならないだろうに。

 

「それはね、さっちゃんがそう望むと思ったからだよ」

 

また、よくわからないことを言う。

焦らさないで早く教えてくれればいいのに。

顔に不満が表れていたのか、ごめんごめんと謝りながら、彼は言葉を続けた。

 

「…広告、サブカル、放送、そこにはもちろん芸能分野も含まれる。別にタレントを自社で所有する必要もないけど、どこかを吸収したり強力なコネを築くのはアリかもね」

 

その言葉に祥子の視界が開けた。

 

「はは、まあそれは気が早いけど、その分野を広げることは、必然的に祐巳ちゃんに関する機会も増える」

 

明確に「祐巳」の話題を出して、一旦話を区切った彼。

どうかな?と。それはもう祥子が了と応えるのを確信した顔で。

一応の確認でしかなかった。

 

………。

 

「喜んで、承りますわ」

 

優さんに心を読まれているのは癪だけれど…。

それは祥子の望みに適った、まさに心から欲する役割。

これからも祐巳の助けになることが出来る。

私には手の出せない世界に行ってしまったと思っていた。

でも違う。離れてしまうなら私から祐巳を追いかければいいのだ。

何かあれば手を差し伸べられる距離にまで——。

 

 

 

 

 

 

 

 




旧財閥の実態など把握はしておりませんが、
小笠原グループは私の中で中堅財閥のイメージで話を進めています。

祐巳は祐巳で祥子さまを思うゆえに必死ですが、祥子さまも余裕があるようでない方なので、必死です。


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#19 無意識の才能と無自覚の日常

(1)

 

「——ユミ」

 

そっと、斜め後ろに立った男が祐巳へと声をかける。

商業ビルのエントランスに簡易的に設置されたステージ。

そのバックヤードで、外のモニターを少し不思議な面持ちで見つめる少女はその声に応えた。

 

「……高岡さん。来たんですね」

 

「ああ、俺が楽しみにしてた瞬間だからね。もちろん立ち会うよ」

 

そう、これは祐巳のために、高岡が念入りに企画し、用意したステージ。期待通り、CMの評判も上々で、世間はこの時を待ちわびている。

モニター越しに見る外の様子は、不自然に存在する簡易ステージに気を取られる者はいても、なんの告知もないためだろう、立ち止まる者は少数。

高岡の口角は自然と上がる。——あと数分後、この景色が一変し、新たなスターの誕生に人々が沸き立つさまを予見して。

 

「緊張してる?」

 

「——いえ、不思議と落ち着いてます」

 

強がりでもなく、祐巳の心は凪いでいた。

ただ、まるで現実感がなくて、今から自分がここで歌うという事実が、どこか夢のように感じていた。

 

「…ユミ、ちゃんと天から地に足を着けてね。これが君の新たな一歩だよ」

 

ぼうとする頭に届いた男の言葉をゆっくりと噛み締め、頷く。

 

「…はい、私の想いを、しっかりと——、」

 

外の大型街頭ビジョンが切り替わる。

 

「———伝えに行きます」

 

決意の言葉と同時に飛び出した少女。

その背中に男の声は届いていたろうか——。

 

「行ってこい。ユミ」

 

 

(2)

 

祐巳は、不思議な高揚感の中にいた——。

 

自分の歌。そこに込めた想い。それを自分自身で世界に表現できる。

溢れる想いのままに身を任せて歌うことが、気持ちよかった。

 

大勢の人たちに囲まれていることを意識したのは、内から溢れくるものを出し切った後のこと——。

 

「ユミーーーーー!!」と己の名前があちらこちらから叫ばれる。

そこでやっとハッとして、辺りを見渡した。

人、人、人———。老若男女問わず。祐巳と初めて顔を会わせる人たち。そんな彼ら彼女らが、一心に自分を見ている。真剣に私の歌に聴き入ってくれていた———。

 

その感動と感謝、もしかしたら安堵もあったかもしれない。

それらの気持ちが無意識に、瞳から溢れていた。

 

祐巳は少しの名残惜しさを感じつつ、深くおじぎをした。

頭を上げるまでに、涙を抑える。——そして、笑顔で。

 

「ユミです。今日は聴いていただいてありがとうございました」

 

 

——ワァァァァアアア——————っっっ!!!!

 

 

そのいつまでも届く暖かい声援に見送られながら、

祐巳は自分の選んだ道に自信を持って進み始めたのである——。

 

 

 

 

(3)

 

ーー翌日。

 

スポーツ紙、雑誌、テレビに『ユミ』の話題が取り上げられる。

同時に始まる、インタビュー、番組への出演依頼、ライブへの問い合わせ。

1stシングルは、その強烈な宣伝効果も影響し、発売初日から売り上げは好調だった。

 

 

「————」

 

「——では、ユミさんは勉学と芸能活動を両立して行くという考えなのですね?」

 

「はい、それが両親との約束でもありますし、私自身、学生生活も楽しみたいと思っています」

 

現在、祐巳は事務所の応接室で雑誌の取材を受けている。

学生生活を楽しみたいと言いながら、今日の講義をやむなく休んでいることに多少の罪悪感を抱きつつ…。せめてもの救いは出席の取らないものだったこと。

 

「———最後の質問ですが、なぜ歌手になりたいと思われたのですか?」

 

———……。

 

「……大切なものを、自分の力で手に入れるためです」

 

大切なものとは?と、最後と言ったのに重ねられた問いには、微笑みで返す。

 

「内緒です」

 

すると、どうしたことか、こちらを見つめたまま固まってしまう記者。

大丈夫か訊ねた祐巳に対し、ハッとしたように慌てて話を締めくくる。

 

「い、いえ、本日はありがとうございました」

 

「こちらこそ、これからよろしくお願いしますね」

 

祐巳はにっこりと丁寧におじぎをして見送る。

その来た時よりも若干挙動不審な背中を不思議に思いながら。

 

「……ユミさん、人たらしですね」

 

午前中は雑誌の撮影、午後からはラジオ、そして今日の最後にまた雑誌、その全てに付き添っていたマネージャーが、祐巳へと一日の総括とも言うべき感想を述べた。

 

「?」

 

きょとんとした表情を向ける祐巳に対し、なぜか呆れた顔をしてから、何でもないですと言って、別の話を切り出した。

 

「ところで、ユミさんって、通学どうしてます?」

 

「え、バスと徒歩ですけど?」

 

そして先ほどと同じ表情の祐巳。

 

「マスクとか…、してないですよね…」

 

マネージャーは「まじかー」と額に手を当てる。

 

「今まで支障とかなかったです?」

 

「なかったです」

 

その表情は変わらない。なぜそんなことを聞くのだろう?と。

 

「今日みたいに仕事の時は私が迎えに行きますけど、もし、朝も学校への送迎が必要なようならすぐ教えてください」

 

「え!?そんな申し訳ないですよ!大丈夫です!」

 

祐巳はそんなことを言い出すマネージャーに焦る。

そこまでお世話してもらう必要はないから。

「本当ですか〜?」と疑いの目を向ける彼女に首をこくこくと振って。

 

「まあ、いいです。それと、来週歌番組の出演が決まりましたので、しっかり体調管理して下さいね」

 

驚くことに、まだ発売二日目なのだが、CMの効果と昨日の話題性からか、早くも有名歌番組への出演が決まったのだ。

実は諸々の番組から出演依頼は来ているものの、高岡がその中から吟味しているだけだというのは、祐巳のあずかり知らぬことである。

 

 

彼女の言葉を真摯に受け止めて、

仕事漬けだった一日を終えた次の日——。

 

家から一歩出ると、昨日は顔をあわせる機会がなかったからか、道行く近所の人たちに呼び止められる。

「テレビみたよ」と。祐巳はそこまで意識していなかったのだけど、歌声だけが流れるのとはワケが違うらしかった。

『ユミ』の存在は、昨日一日で一気に広まり、周知のものとなっていた。

けれど、昔からの顔なじみの人たちが祐巳にかける声は暖かい応援だった。少し興奮しながらも自分のことのように喜んでくれたり、励ましてくれたり。

 

周囲の優しさにほっこりとありがたさを感じながら、バスに乗り、M駅で乗り換え、またバスへ。特に何事もなく大学にたどり着く。

いつも通り。

そのため、やはりマネージャーの疑いは思い過ごしだと再確認して構内を歩いていた。春の気持ちの良い陽気を感じながら。

 

そんな時、前方に見知った顔を発見する。

 

「祐巳!ごき…じゃなかった、おはよう!」

 

「ふふ、おはよう。祐巳」

 

由乃と志摩子。大学生らしい清楚な私服を着こなす二人は、いつ見ても可憐で目を引く。中身も見た目通りかは置いておいて。祐巳の自慢の親友である。

 

「おはよう!わ〜二人に会えて嬉しいよー」

 

この二人は同じ学科。祐巳だけが違うというのも寂しいものだが、学部棟は一緒なので顔をあわせる機会は結構ある。

そのまま三人で目的地へと向かう。

 

「祐巳、あんた凄いことになってるわよ」

 

「そうね、テレビをつけたら祐巳が表れたものだから、なんだか不思議な気持ちになったわ」

 

今日の会話は私のこと。

 

「うーん、でもあんまり実感が沸いてないんだよね」

 

確かにステージで歌った時は高揚したのだけど、夢みたいな時間で、その時の溢れる気持ちは思い出せても、記憶が曖昧だった。

それ以外の仕事に関しても、まだ祐巳自身は受け身でいればいいことが多くて、大変だとか、芸能人になったとかいう意識は薄かった。

 

「ええっ!?!この異常なほどの視線を浴びてて、何も感じないの!??」

 

由乃が、信じられない!と憤慨する。

 

「…祐巳に、それを言ってもムダよ。由乃…」

 

そして志摩子が由乃を宥める。

なんだろう。この二人だけ分かり合えていることが少し悔しい。

 

「なんでそこで悔しがるのよ!私の心配損じゃない!」

 

「なんの心配?」

 

祐巳の真面目な疑問に、由乃は「私はもう知らない」と言って、答えることを放棄した。

 

「ふふ。あのね、祐巳が好奇の目で見られたり、不躾な人たちが寄ってくるんじゃないかって、心配してたのよ…由乃は」

 

代わりに志摩子が答えてくれる。

それに対して「…志摩子も、でしょ」と抗議をする由乃。

二人とも優しいなあとは思うけど、取り越し苦労である。

時々、構内で数人に囲まれることはあっても、祐巳の予想より影響はなかった。

 

「…ありがとう。でも大丈夫だよ!今日ここに来るまでだって、全然いつもと変わらなかったし!」

 

これで安心だろう!と明るく言い放ったのだけど…。

 

「……まぁ…祐巳って高等部の時もそうだったものね……」

 

「……冒しがたいオーラがあるから、むやみに寄ってこられることはないんではないかしら……?」

 

なにやら二人でボソボソと相談を交わし始めたので、一人置いてきぼりを喰らう。

また自分だけ蚊帳の外なことにちょっぴり切なさを感じつつ、一応気をつけなさいよ!と念を押す二人と別れたのであった。

 

 

………

—–—

……

...

 

 

「……祐……祐巳……祐巳!」

 

っえ!?

 

祐巳はガバッと頭を上げた。

状況を把握しようと視線を巡らす。

誰も立っていない教壇、次々と席を立ち、去りゆく学生たち…。

どうやら、寝入ってしまっていたらしい。

不味い、ほとんど聞いていなかった……。

 

「…私、祐巳が『ユミ』だなんていまだに不思議だわ」

 

溜息を零しながらそう呟く祐巳を起こしてくれた人物。

彼女は最近仲良くなった友人。筒井 環。

高等部の頃は接点がなかったのだけど、志摩子とは同じ藤組だったために、交流があったらしい。

たまたま被っている講義が多く、どちらからともなく話しかけ、いつの間にやら行動を共にしていた。

そして、エンタメ情報にあまり関心のないらしい彼女は、昨日まで祐巳を『福沢祐巳』としてしか認識していなかった。

なのだけど、昨日祐巳がいない間にどこからかそれを知ったらしく、黙っていたことを謝る祐巳に放った言葉は、

 

『…へー』のみであった。

 

「……」

 

「…?いつまで寝ぼけてるの?置いてくよ?」

 

「…いや、変わらないな〜とおもって」

 

実は、祐巳が心安らかな学生生活を送れているのは、この友人の存在も大きい。

 

「だって、祐巳は祐巳で変わらないし、私が変わる必要ある?」

 

無意識に溜まっていたのであろう疲れも、彼女の言葉に晴れていく。

きっと彼女のような人も沢山いるはず。祐巳の友人作りの前途は明るかった。

 

「ないよっ!」

 

ぶんぶんと首を振り、顔にありったけの嬉しさを込めて答える。

 

「祐巳うるさい…」

 

そんなつれない態度でそっぽを向くものの、その口角がわずかに上がっているのはしっかりと拝んだ。

 

「ふふっ早く行こー!講義始まっちゃう!」

 

「誰のせいだと…!」

 

軽々と駆ける祐巳———。

 

 

踏み出した世界。動き始める周囲。集める視線。

 

 

それでも祐巳の日常は柔らかな笑顔と共にあった——。

 

 

 

そして、歌手としての『ユミ』

 

一週目から売り上げは好調。

評判が評判を呼び、伸びてゆく数字。

 

数日後に迫る初の歌番組生出演。

奇しくもこの日は祐巳の誕生日。

十九歳の門出を華々しく迎えることだろう。

 

輝かしい滑り出し。

けれどそれはまだほんの始まり。

彼女の瑞々しい感性は、何を吸収し、どんな成長を見せてくれるのか。

『ユミ』はもっと大きくなる。その期待を背に、羽ばたき続けられるのなら。

 

それは、予感、期待、願望。

歌の天使の出現に、業界は俄かに沸いていた。

 

 

 

 

 

 

 




祐巳の新たな友人の名前は、読者さまのご意見をお借りして、筒井環さんになりました。
知らない方のために。
彼女は原作小説『マリア様がみてる 私の巣』の主要登場人物です。
祐巳と同じ学年で、志摩子さんのクラスメイト。
パッとした美人の見た目に反して、中身はとてもユニークで、とても魅力溢れるキャラクターです。

祐巳の日常はそんなに心配しないで下さい、今のところ。というお話でした。


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#20 初めての迷い

(1)

 

「こんにちわー」

 

「おう、ユミちゃん。いよいよ明日だもんな!がんばれよ!」

 

——

 

ここは、一番リリアンから通いやすい位置にあるオフィスのスタジオ。

半年ほど前——、高岡さんのところと本契約を交わした頃から、デビューへ向けて通い詰めた場所。

だから、勝手知ったるなんとやらで…ここの人たちとは大分打ち解けていて、居心地がいい。

 

——

..

 

————ーーー〜〜〜—

 

………♩…。

 

 

「ユミ。お疲れさま!今日はこれで終わりにしましょう?」

 

「でも、まだ…!」

 

私のボイストレーニングにいつも付いてくれている先生。

この方、今では優しく接してくれるけど、初めの頃の厳しさといったら…元々そんなに高くない祐巳の自信を木っ端微塵に撃ち砕いたのだ。まあ、最初は一曲歌い切るだけでも息が続かなくて、声量が足りない!音程がブレてる!と散々に言われ、体力と肺活量を鍛えろ!とトレーニングメニューを出されたものの、腹筋さえ20回と保たなかった私が悪いのであるが……。運動と言ったら授業の体育くらいしかない日頃の怠慢を呪ったものだった…。

 

「もう十分よ。明日に備えて喉を休めないと」

 

明日、歌番組で初めて生歌を披露する日。

だからこそ、少しでも不安を解消したかった。

ユミのシングルは二週目にはオリコンTOP10入りも狙えるほどに伸びている。有り難い、うれしい、でも。そのことが、明日へのプレッシャーとなって祐巳にのしかかっていた。失敗できない、と。

番組を視聴する多くの人たちの目。そんなものを意識してしまったのは初めてだった…。

 

「不安…なんです…」

 

周りには私より経験も実力もある人たちが集まる。

 

「ユミ…あなたもちゃんと上手くなってるわよ。それにね、結局は技術じゃない……私はあなたを見てると特にそれを実感するわ」

 

先生の優しい励まし、それになんとか納得して、これ以上駄々をこねるのも迷惑をかけると思い、練習を切り上げる…。

 

家まで送り届けてくれると言うマネージャーに従って、オフィスの出口へ向かう——と、その途中のレッスンスタジオの扉から、丁度誰かが出てくるところだった。

 

「……?」

 

綺麗な人——。けれど、普段からそんな綺麗な人たちに囲まれている祐巳。だから、目を留めたのはそれが理由じゃなくて、見覚えがあったから。

でも、——なんでここに?今まで一度だってこの場所で会ったことはないし、正式な挨拶もまだなほどなのに。

 

「—?あなた…ユミさん…ね?」

 

すると、目が合った彼女の方から声をかけてきた。

祐巳はハッとして、慌てて応じる。

 

「——っ、はい!初めまして。ご挨拶が遅れて申し訳ありません……莉音さん…」

 

「…あら、初めましてではないわよ?去年の夏に、会ったでしょう?」

 

——去年の夏。別荘地のことだ…。

けれど、その時の彼女は歌ってすぐに帰ってしまったし、見ていたのだって、こちらから一方的にで。祐巳が認識されているとは考えてもみなかった。

 

「——いつもと違う仕事内容だったから、受ける前に社長に聞いたのよ。何かあるんですか?て…」

 

祐巳の疑問が伝わったのか、莉音さんが詳しく教えてくれる。

 

「そしたら楽しそうに笑って、見つけた!だから協力してくれて言うのよ。気になったから参加したのだけど…あなたの歌うところは見そびれちゃった」

 

でもそれでなんでその相手が祐巳だと分かったのだろう?

まだ、祐巳は難しい顔をしている。

 

「ぷくっ。ユミさんて分かりやすいのね。パーティ会場で社長が熱い目で見てたから。ああこの子が目的ねってすぐ気づいたわ」

 

全く、私が歌ってる最中もユミさんしか見てないんだから、失礼よね?と祐巳としてはなんとも答えにくい問いを投げかける。

 

「わ、わたしなんて、そんな…!」

 

「謙遜する必要なんてないわ…既に今年の新人賞の有力候補でしょ、あなた」

 

三年前のあらゆる新人賞を総なめにしたこの人に言われるのは、恐縮だった。

 

「…今日、たまたまこの辺で仕事だったから、寄ってみたんだけど。良かったわ、あなたに会えて。明日の番組、私は出ないけど、見に行くから」

 

祐巳は思わず目を見開く。

 

「期待してるわよ?」

 

 

 

(2)

 

そんな事のあった後の車内。

 

「………ぁ〜〜…ぅ〜〜…」

 

祐巳は窓側に体を預け、どこを見ているのか、うつろな瞳で奇声を発していた。

 

「…。ユミさん、そんな思い詰めなくても…」

 

なんの慰めにもならないマネージャーの言葉。

 

「…莉音、さん…も……見てる……わたし…を…?……」

 

なんで?どうして?どうしよう?と祐巳の頭はパニックだった。

今まで自分はどうやっていたのだろう。

気付いたら歌っていた。ただ願いと思いを込めて。それが周りの人たちに伝わればいい、と。

他人からの評価なんて意識すらしていなかった。表に立てば、それが当然だというのに。

 

「いやいやユミさん。あなたこの前すごく堂々と歌ってたじゃないですか、街中で」

 

…歌ってた。けど、だからアレは、ほとんど覚えてないんだって…。

 

「…ぅ……ぅ…ぅ〜〜……」

 

そして結局、マネージャーの言葉が祐巳を立て直すことはできず、家にまでたどり着き、不安のままに翌日を迎えたのである。

 

 

 

(3)

 

「…おはよう」

 

「あら、早いわね?」

 

考えすぎてろくに寝つけなかった。

そして、そのことに更に後悔するという悪循環。

 

「お、祐巳ちゃん!誕生日おめでとう!」

 

ああ、父のキラキラした顔がまぶしい。

そういえば、今日は誕生日だっけ…。瞳子が昨日電話で予定を聞いてきたのはこの為だとやっと気付いた。週末に会う約束をしたのだけど。

そしてそこで、祥子さまにも思い当たる。

ここ二週間ほど、会うどころか電話もしていない。

お忙しくなるとは聞いていた。……私の誕生日どころじゃない…か、

と。またも新たな負の感情に襲われる。

 

そんななか、二階から下りてきた祐麒が佇む私にギョッとする。

 

「…ッ!?祐巳、お前顔死んでるぞ?大丈夫か?」

 

「大丈夫…」

 

じゃない。

今日は万全のコンディションでいないといけないのに、寝不足だし。

生放送は夜からだから時間はあるけど、それまでに不安が拭えるとは思えなかった。

でも、芸能界入りを反対していた両親の前で弱音を吐くことはできない。

 

「祐巳ちゃん、大学お休みしたら?今日は大事な日でしょう?」

 

けれど何も言わなくても、祐巳の顔は正直で、結局心配をかけてしまっている。

 

「準備の時間を含めたってマネージャーと合流するのは午後からでいいし、午前中はちゃんと講義受けてくるよ」

 

「…そう?無理はしないのよ?」

 

そして、なんだかんだで過保護な親により、車で大学まで送迎されたのであった。

 

 

 

「…ありがとう…じゃあ行ってくるね」

 

「あっ、祐巳ちゃん!帰りは…」

 

「マネージャーさんが迎えに来るよ。そのまま仕事」

 

そう言って別れる。

 

ただ黙々と歩き、教室に入る。一通り見渡すが、環はまだ来ていないようであった。

仕方なく空いていた席に適当に座り、ぼーと窓の外を眺める。

 

(「…どうする…?」)

(「…声かけてみようよ…」)

(「…え、でも緊張する…」)

(「…四人でいけば大丈夫だって…」)

 

祐巳の周囲でヒソヒソと囁かれる会話も、心ここに在らずの本人は全く気づかない。

やっと、気配に振り向いた時には、すでに周りを四、五人に囲まれていた。

 

「あの、祐巳さん、今日のあの番組出るんですよね?」

 

それは今一番聞きたくない話だった。

 

「私、絶対見ます!楽しみにしてるんで」

 

私も私も、と賛同する女の子たち。気が重かった。

 

「…ありがとう」

 

けれど、彼女たちの善意からの言葉であろうから、微笑みを浮かべて返す。

 

「///…」

 

心なしか顔が赤くなったなあ、と思った次の瞬間、

 

「あああの!握手!握手して下さい」

「私、サインが欲しいです!」

「え、ずるい、私も…」

「今度、一緒に写真撮ってもらえませんか!?」

 

一気にまくし立てられる。

声が重なり、どれが誰だか分からない。

握手、サイン、写真…この子たちは、私を学友としては認識してくれないのかな…。元々、落ち込んでいた祐巳の心は、いつもは気にしないことも、ネガティヴに反応してしまう。

 

「え、と」

 

対応に困っていた、そんな時に。

 

「はいはーい!祐巳ー遅くなっちゃった〜」

 

そんな明るい言葉とともに現れたのは環だった。

「ん?」どうしたの?といった顔で、私たちを見回し、そろそろ教授来ちゃうわよ?と不思議そうに女の子たちに言い放つ。

 

「あ、うん…」と呆気にとられた彼女たちは、静々と引き下がっていった。

 

「…タマちゃん、さすがだね」

 

「ん?なにが?」

 

こういうところが。

 

環のおかげでその後は平穏に過ごし、午前中の講義を終えた祐巳は、足早にマネージャーの待つ車へと向かう。

途中出くわした由乃と志摩子に「待って、誕生日…」と声をかけられたのだが、急いでいたため、すれ違いざまに「ありがとー」で済ませてしまった。

時間に余裕がないわけではなかった。元々は。だけども不安に駆られる祐巳は、早く入って練習にあてたかったのである。

 

「お帰りなさい、ユミさん。早かったですね?」

 

「お願いします。早く向かって下さい!」

 

マネージャーの言葉にも、とにかく急かして返す。

彼女は訝しんだ顔を見せるが、とりあえず車を出した。

 

局のスタジオに到着し準備したのちに、リハに入る。

 

「ーーーーー……」

 

「ーーーーー…ーーー」

 

声が出ている気がしなかった。いや、出ている、練習通りに。でもそれはただの音でしかなかった。

自分の想いが、感情が追いつかない——。

 

「ユミさんそろそろ時間です」

 

スタッフに、促されてしまう。次が控えていると。

祐巳は仕方なく、その場のスタッフや関係者の方達に頭を下げ、楽屋へと戻ろうとした——

 

「……これって、ユミさんの本気?」

 

——ハッと顔を向ける。

 

そこに居たのは、莉音さんだった。

今のを、聴かれてしまったのなら仕方がなかった。

けれどその言葉は、祐巳の耳に痛く響く。

 

「…ごめんなさい」

 

「別に謝らなくてもいいわよ。本番がんばってね」

 

そう言って私の隣を通り過ぎた。

 

本番までの待ち時間の間、ユミはレッスンスタジオにいた。

喉はもう十分温まっているし、開いている。けれど、不安で、悶々として、どうしてもここから離れられずにいたのだ。

自分の本気とは何だろう?ずっとその問いと向き合っていた。

 

「ユミさん…そろそろ行かないと」

 

マネージャーが気遣わしげに声をかける。

 

「分かりました」

 

時間切れだった。

気の乗らない足取りで、スタジオの裏へと向かい、スタンバイする。

祐巳の曲順は、一番目。始まってすぐ。

もう本当にあと少し。

周りを見れば、祐巳だって知っている歌手やバンドの面々。

この人たちにも、失望されてしまうのだろうか、そもそも期待されてもいないか、と自分が本当にちっぽけに思えて、萎縮する。

 

———そんな時。

 

 

「…祐巳」

 

 

 

 

 

 

え。

 

 

 

 

 

 

その声は、祐巳の大好きな

 

 

 

 

 

 

 

「お姉さま!?」

 

心細さのあまり祐巳の作り出した幻覚ではないのか。

 

「驚いた?」

 

声が返ってくる…夢じゃ、ない。

 

「…はい、どうして…」

 

祐巳は半ば呆然として訊ねる。

 

「ここの局の番組を提きょ……ふふ、まあ難しいことはいいわ!とにかく、私は観覧できる立場にあるのよ。小笠原のお陰でね?」

 

祐巳が難しい顔をしたためか、祥子さまは説明を省いた。

 

「は、はぁ…」

 

「だって、今日は祐巳の誕生日でしょう?会わないなんてあり得ないわ」

 

そう言って、急に距離が縮まったかと思うと、瞬きの間に祐巳の体は祥子さまの腕のなかにいた。

 

「…お姉…さま」

 

「祐巳、おめでとう。あなたは私の全てよ。生まれてきてくれて、本当にありがとう」

 

祥子さまのお声…心の底から溢れくるような慈愛に満ちている。

祐巳は、胸が締め付けられるほどの幸せを感じた。

目頭がキュッとなる。

 

「祐巳、今泣いてはダメよ。せっかくの綺麗な顔がぐちゃぐちゃになっちゃうわ」

 

そう言って優しく覗き込んでくるお姉さま。

 

「…それと、あなたネックレスはどうしたの?」

 

ネックレス…祥子さまからいただいたお揃いの。

 

「本番では外すように言われたので…バッグのなかです」

 

祐巳は申し訳なく思いながら答える。

すると、祥子さまは祐巳からいったん手を離して、そのままご自身の首の後ろに回したかと思うと、んっという声とともに首元のソレを外した。

それから祐巳の首元に回る手。

くすぐったくて、声が漏れてしまう。「ふふっ」

 

「祐巳、じっとして」

 

祥子さまに怒られ、なんとか動かないように我慢する。

懐かしさが、込み上げる——それは、高等部の時、何度も繰り返された動作…タイを直す祥子さまの手…。

 

「…はい、これでいいわ」

 

その言葉とともに祐巳の首元を見つめる瞳。

祐巳も祥子さまの視線の先を追って顔を下げるーー…祥子さまのネックレス…祐巳の片割れの。

 

「お姉さま…」

 

「終わったらちゃんと返すのよ?だけど今は——」

 

 

——「私がそばにいることを忘れないで」——

 

 

——「はい!」——

 

もう、先ほどまでの不安も焦りも負の気持ちの一切が吹き飛んでいた。

祐巳は、その表情も、佇まいも、見違えていた。

 

 

 

 

首元に手を当て、マイクの前に立つ。

 

スタッフがカウントを取っている——五秒前、四…三…二…

 

 

ズンッ とカメラが寄る

 

 

——それは、どこまでも、無垢で…美しく可憐な少女。

 

イントロが終わり、『ユミ』がそのヴェールを外した——。

 

 

「—————————!」

 

 

 

 

 

その歌声は、聴く者の胸に、切なさと愛しさを運ぶ——。

 

忘れかけたはずの熱い想いが込み上げる——。

 

『ユミ』の歌が、訴えてくる——。

 

この想いはなんだろう——。

 

私はここにいると——。

 

あなたの——そばに、ずっと——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(4)

 

「…うちのスタイリストがあとで怒るよ?」

 

スタジオの隅で、祐巳の姿を見守っていた祥子の隣に、どちらかというと苦手な人物が寄ってきた。

 

「私に、ここに来るよう呼んだのは、あなたではありませんか」

 

祥子も言われずとも来るつもりではあった。

ただ、本番前に声をかけたのは、この男が励ましてやってと言ってきたから。これまでどんな状況も乗り越えてきた祐巳。むしろ励まされたのは自分で。だから、祐巳はきっと大丈夫だろう、と思ってしまっていた。

 

「ユミはさ、今はまだ、不安定なんだよ」

 

男が話す『ユミ』のことを。

 

「レコーディングの時に気付いたんだけど、気持ちが乗るスイッチが必要みたいで」

 

どうしてこの男に教えられなければいけないのか。

 

「特にこんな、業界人に品定めのように観察されてる状況だとさ」

 

私の方が祐巳のことを知っている。

 

「そのスイッチが私ですか?」

 

分かっている。これはただの嫉妬。この男は憎たらしいが悪い人ではない。それでも、言葉に剣が出てしまう。

 

「うん、歌手になった一番の理由が、君とずっと一緒にいたいから。だしね?」

 

その言葉に嬉しいような、切ないような、複雑な感情が込み上げる。

 

「…でも俺は、いずれユミ自身がここにいる意義と楽しさを見出してくれることを願ってるよ」

 

「…そう、ですか」

 

祥子は曖昧に答える。

 

「…君たちは何を企んでるのかな?」

 

一瞬ドキリとする、が、なんとか態度には出していない。

 

「なんのことだか…」

 

高岡は、ふーと息を吐き出した。

 

「君とはいつまでも協力関係にあれることを祈るよ」

 

そんな言葉とともにその場を後にした彼。

 

 

 

祥子はただ無言でその背中を見送るのみだった——。

 

 

 

 

 




当時のオリコンTOP10は今より全然すごいんですよね。


祐巳、今回は祥子さまパワーで乗り切りました。
この話し書きながら、なんだかなと思い、投下しようか迷っていたので、もしかしたら読者さまも同じような感想を抱いていたら…ごめんなさい。
もっと精進いたします。


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#21 それぞれの想い

(1)

 

「リハーサルとは、見違えたわね」

 

生収録をなんとか終えた安堵とともにスタジオの隅、お姉さまの元へと急いで向かおうとしていた——。

正直、出番の直前に祥子さまに励まされた後は、もうほとんど私の意識は祥子さまへと向いていた。それは、身につけた『これ』と、離れた位置から見守るその存在そのものへ。

だから周りが見えていなかったのだと気付いたのは、かけられた声に驚いたあとだった。

 

「…!…莉音…さん…」

 

「あら、見に行くって言ったでしょう?リハも覗いたのは、ついでよ」

 

莉音さんの指摘は、私の驚きの理由とは違っていた。

確かに、聞いたし、覚えていた。それどころか、私がこの収録を殊更に意識したきっかけ……。にも関わらず、本当に忘れたというか、優先順位のはるか彼方へと飛んでしまっていたのである。

なんとなく罪悪感を抱いてしまい、言葉に詰まる。

 

「?…すごいわね。この短時間で何があなたを変えたのかしら?」

 

その表情に浮かぶ不可解。けれどそれは、祐巳の反応がないからであって、放たれた言葉に付随するのは純粋な好奇心。

 

「——それは、」

 

「——祐巳」

 

答えようと、開きかけた口が、問いへの言葉を紡ぐことはなかった。

つい数瞬の間、莉音さんへと向けたその意識は、耳を揺らす心地よい振動とともに、また、彼女だけのものとなった。

 

「っ…お姉さま」

 

ああ、その存在が近づいてくる。その距離が縮まるほどに、神経が、細胞の一つ一つが、歓喜に打ち震えるのが分かる。

祐巳は、待ちきれずに駆け出した——。

 

 

「…なるほど、ね」

 

背後で零された、意表の後の理解。その呟きさえ、祐巳の耳にはもう入ってはこなかった。

 

 

 

「一緒に帰りましょう?」

 

送るから乗って行きなさい?と祥子さまが言う。

祐巳は、即座に頷きかけて、はたと辛うじて思い至った。いつも自分のお世話をしてくれている彼女のことに。

 

「…あ」

 

目線だけで探す。

すると案外すぐに、というより収録後からずっと祐巳のそばにいたのだが…マネージャーは見つかった。

 

「よろしいですよ?その方なら信用出来ますし、社長からも聞いておりますので」

 

祐巳が一応訊ねようと言葉を発する前に、彼女は察してくれたようであった。

三人で楽屋まで戻り、帰り支度を急いで済ませる。

スタジオの出口で、黒塗りの車に乗り込む祥子さまと私を見届けたマネージャーが別れの挨拶の前に来週の予定を確認する。

ホームページ様の写真撮影と今後の活動の打ち合わせが週初めにある、と。

それに了承し、車が動き出したところで、やっと一息ついた。

 

「…ふぅ」

 

吐き出した息とともに、体が弛緩し、開放感と気だるさが同時にやって来る。やはり、緊張していたらしい。

 

「祐巳…」

 

祥子さまが、心配そうに覗き込んでくる。

大丈夫?という言葉とともに、祐巳の顔にかかる髪を掬って耳へかけ、晒された頬に添えられる手。

祐巳の体温よりやや低く、気持ちがいい。

 

「…はい、お姉さまの、おかげです」

 

祐巳は、目をつぶり、その感触を堪能していたのだが、祥子さまに応じるため、ゆっくりと瞼を開き、そのすぐ近くにあったお顔を見つめ返す。真摯な想いが、真っ直ぐに伝わるように。

 

「……無理、していない?」

 

……。祥子さまに、心配をかけてしまった。

確かに、祐巳は祥子さまに救われた。今日、あの場に祥子さまが現れなかったら…、想像するのも恐ろしい。でも違う、本来は、祐巳が、安心させなければいけないはずだった。その絶好の機会だった。その事にたった今まで思い至らなかった不甲斐なさに呆れる。

これでは、本末転倒。

祐巳は、己を鼓舞する。まだ始まったばかり。今はまだまだ頼りないし、それが情けない。……でも、きっと、いつか——!

 

「——お姉さま。私は大丈夫です」

 

不安を拭って差し上げたくて、無理にでも微笑みを浮かべる。

いつかこの言葉が真実となるように。実感を伴って発する事が出来るように。胸には大きな誓いを込めて。

 

「…そう」

 

祥子さまはどう受け止めたのだろう。

鋭い方だから、ただでさえ分かりやすい祐巳の下手な誤魔化しなど見抜いている可能性が高い。

「そう」は肯定でも納得でもなく、私の言葉を聞いている、というただの意思表示。

束の間、落ちた沈黙。

 

一度身を引いて、祥子さまが座席に正しく座り直す。

祐巳は名残惜しく、その横顔を見つめる。

彼女の瞳は、前を見据え——、

けれどそこに写しているのはフロントガラスを隔てて広がる景色ではない気がした。漠然と、ここではない、その先を——

 

 

「祐巳、今すぐには無理だけれど…私が卒業するまでには、」

 

 

 

 

 

『あなたを、迎えに行くわ——』

 

 

 

 

 

 

(2)

 

その週の土曜日。

 

私は正午より一時間ほど前に家を出て、いつもの通りの道順で、いつもの通りバスに乗り、M駅前で乗り換えて、いつものバス停に降りる。そしていつもの通り、向かうのは大学——ではなくて、立ち止まったのは高等部の敷地の前。

背の高い門はくぐり抜けず、そのちょうど境目から、三年間、祐巳の人生において、一番濃密で色鮮やかであった期間。私にとって大切なものとそれを守るための指針をも示してくれた。

——そんな、マリアさまのお庭を見遣る。

まだホームルームか掃除の時間帯、こちらへと向かってくる生徒はいなかった。

——卒業式以来。

懐かしい、と思う。たった一カ月とちょっと。けれどその感覚は、そこがもう祐巳にとっては過去の場所であることを教える。

私の居場所は、今とこれから。

 

 

『あなたを、迎えに行くわ——』

 

 

あの、言葉の意味は、何だったのだろう…。

その時の祥子さまの強すぎる瞳と、放たれる気に圧倒された。

結局、よく分からなかったのだけど、その場面が頭から離れない。

迎えに来ていただけるということは、何処かから祥子さまの元へという事なのだろう。祥子さまのお側にいられるのは望むところだ。

けれど、今までも、そしてこれからも、祐巳はずっと側にいるつもりだった。そのための選択として、歌手にもなっている。

だから、迎えに来ずとも、共に歩いていけるはず……。

もしかして、祥子さまにとっては違ったのか…?

 

サワサワと木の葉を揺らす風の音が、胸に騒めきを呼び寄せる——。

 

それに呼応するように、周囲の気配もざわざわとしたものに変わった気がした——

 

 

 

 

タッタッタッタッ

 

「…っ!お姉さま!」

 

ハッと、思考が霧散し、急激に視界が広がる——。

 

「私が!ご自宅にお迎えに参りますと言っておいたでしょう!」

 

どうやら、それなりの時間が経過していたらしい。

 

気づけば、私の待ち人が、怒ったように…けれどその下に、焦りと心配、不本意とでも言うような隠しきれない嬉しさを潜ませた、そんな様子で、ギリギリ走るまでには至らない、それでもここでの嗜みとして許される最大限のスピードで私の元へと向かってくる。

 

「——ふふっ、ごきげんよう。紅薔薇さま?」

 

私は、その愛しい存在へ。

いたずらが成功した達成感と、予想以上の反応が見られた満足感。それらを含んだ笑みを携えて、ここでの相応しい挨拶をもって迎えた。

 

 

 

(3)

 

「…だって、瞳子にとったら二度手間でしょう?」

 

私の詰問に祐巳さまは毛ほども気にした様子もなく、あっけらかんと応えた。

その二度手間を分かっていながら提案した理由にどうして考えが及ばないのだろうか。

 

「だって、M駅から一駅の商店街に向かうのなら、待ち合わせはM駅でいいじゃない?駅だと見逃す可能性もあったから、高等部まで来ちゃったけど」

 

来ちゃった、ではない。

掃除中、「祐巳さまがいらっしゃる!」なんて耳にした瞳子は、門まですっ飛んできたのだ。

気が気ではなく慌てふためく様子に、同じ担当場所の子たちは、私の分の掃除も引き受けてくれた。後日埋め合わせをしなければならないだろう。

けれどそのおかげで、帰宅のピーク前、祐巳さまがリリアンの生徒に囲まれる前に、連れ出すことに成功した。

まあ、瞳子がその姿を認めた時でさえ、周囲には結構生徒がいて、うっとりとした視線を集めていた。誰もが門をくぐり抜けずに直前で足を止め、にも関わらず誰も彼女に声をかけない。いや、かけられないといった状態。

その物憂げな表情、ここじゃないどこかに想いを馳せる儚さ、それらに魅入られ、見惚れていた。

侵してはいけない、と。

瞳子自身そんな想いに囚われそうになるのを意志の力でねじ伏せ、祐巳さまを呼んだのだ。

 

そんなこんなで、現在は目的地付近の喫茶店。

商店街の裏道のかなり奥まった場所に存在し、レトロで落ち着いた雰囲気の穴場スポットである。

 

しかし、一駅とはいえ、ここに来るまでの電車の中や道中で注がれる視線に、変な輩が近づかぬよう周囲に警戒を発信していた瞳子は、すでに疲れ切っていた。

 

コーヒーを一口啜り、息を吐き出す。

 

 

「いいですか?お姉さま——」

 

「お姉さまがこれまで通学の際や、大学構内である程度平穏な生活を送れていたのは、そこが通い慣れた場所で、見慣れた面々に囲まれていたからです」

 

通学時間に多少のズレこそあれ、大学部は高等部に隣接している。

昔からずっとリリアンに通っておられた祐巳さまにおいて、その通学路で出会う人々というのは見知っている人がほとんどなのだ。

大学構内でだって、その学生の一割ほどは高等部から内部進学の方々。

だから、祐巳さまを知る人たちによって、ある意味守られ、配慮もされていることだろう。騒いでいるのは外部入学の一部の学生たち。

その環境を、世間一般に当てはめてはいけない。

 

だと言うのに、この方といったら、変装もしないは、帽子すら被ってこないは、その上、集まる視線には無頓着。

せっかく、瞳子が自宅へ迎えに行った際に変装の指導をしてから出掛けようとした計画も、この方が無駄に気をまわしたおかげでパー。

 

溜息が出るのも許してもらいたい。

 

「…?でも、今も大丈夫だったじゃない?」

 

「お姉さまが気づいていらっしゃらないだけなのと、私がいたからですわ。…まさか、そのまま一人で出歩いたりしてませんよね?」

 

瞳子は一抹の不安がよぎり、否定が返ることを望んで尋ねた。

 

「…そういえば、最近は忙しくて、学校の往復以外はいつもマネージャーと移動してたなあ〜」

 

つまり、偶々そうだっただけで、機会があれば気にもせずやっていたということか。

瞳子は頭を押さえる。

 

「お姉さま。せめて軽く変装くらいして下さい」

 

その言葉とともに、瞳子は持ってきていた手提げ鞄から、綺麗な袋でラッピングされた物体を取り出す。

 

「…瞳子?」

 

それを両手で丁寧に掲げ、祐巳さまへと差し出す。

先ほどまでの呆れ顔は仕舞い、浮かべるのは、大好きなこの方への純然たる想い。

 

「…お誕生日、おめでとうございます。少し、過ぎてしまいましたけど、受け取っていただけますか?」

 

祐巳さまの反応に対する期待と不安が入り交じる。

 

「——ありがとう瞳子。私も、生まれてこれたこと、そして瞳子に会えたこと、すごく嬉しいよ」

 

パァ と、ふいに向けられるお日様の笑顔。

そしてその台詞にも、思わず赤面してしまう。

そんな瞳子にふふっと声を上げ、そのまま袋を開いてゆく祐巳さま。

 

「あっ。ぼうし」

 

選んだ動機は、祐巳さまの変装のため。

なのだけど、それはつば付きの白いコットン素材のもので。

本当はもっと顔全体をつばが覆って、色も暗めなものを選ぶつもりだった。でも、祐巳さまを思い浮かべながらだったからか、手に取ったのはこれで…ほとんど目的の用途は成さないであろう。

 

「瞳子がくれたものなら、これからちゃんと身につけなくちゃね」

 

けれど、この方に絆されてしまった私は、

どうしても厳しさに徹することは出来ないのだ。

 

「約束ですよ、お姉さま」

 

 

 

それは、とても幸福な時間。

 

学校ではもうどんなに探しても祐巳さまの姿は見られない。

その代わり、というように。

テレビや街中で目にするようになった、手の届かない祐巳さま。

そんな時、どうしても堪えきれない寂しさが溢れ出すけれど

その度に、電話やこうして二人きりでお会いする祐巳さまが瞳子を包み込んでくれる。暖かく、綺麗なその心で。

 

「ずっと、一緒にいて下さいね」

 

 

 

「もちろんだよ。瞳子」

 

 

 

 

 

 

 




なんというか、切ないんです今回。

祐巳の歌手編は、大まかなプロットはあって、最低でも過去編の二倍ほどの分量になると思われます。
しかも、それも第1章で、そこから私の気持ちが持続すれば第2章が始まる予定です。
なので、長い目で行く末を見守っていただければ幸いです。


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#22 とある兄妹の事情

(1)

 

「ふあーーー」

 

朝の日差しが差し込む車内で、祐巳は大きく伸びをした。

 

「ユミさん、寝不足ですか?」

 

私の不摂生を危惧してか、嗜めるように言うのはマネージャー。

 

「ん?違います〜日曜の朝に早く起きるのは慣れてないだけです」

 

祐巳は疑われたことへの不満を表す。

それに。

マネージャーのこの快適な運転も一因にはあると思うのだ。

 

「なら結構です」

 

それなのに、ピシャリと祐巳の不満もシャットダウンされてしまった。彼女が神経質になっているのは、今から撮るのがホームページという名の宣材用の写真だからである。『ユミ』に興味を持った人たち。またはその写真を見て『ユミ』を知る人たちの印象を左右しかねないから、と。

今日に限らず、撮影の度に言われてきたことだから、祐巳も覚えてしまった。…言葉を覚えるのと理解するのとは違うけれど。

写真を撮られる、という事がどうにも苦手なのである。盗撮なら撮られ慣れている(それもどうかという話だが)し、蔦子さんによると良い被写体ならしい。でも、それは祐巳の意識の外で行われていたことで、予め、今から撮るのでよろしく!という状況はどう構えればいいのか分からないのである。

 

「着きましたよ」

 

解決策も浮かばない内に、もう今日の撮影場所。

都内のスタジオに到着してしまったようであった。

四角い倉庫のような建物、とは言っても真っ白でどことなくお洒落な感じは漂っている。

外の階段を登って二階の扉をマネージャーが開ける。

 

「おはようございまーす」

 

祐巳も彼女に倣い、足を踏み入れ、挨拶を

 

「おは————ん?」

 

しようとして、引っかかった。

何に?それは………

 

「あ!祐巳さん!今日はよろしくお願いします!」

 

綾芽ちゃんに。

 

 

 

パシャ…パシャ…パシャパシャパシャ…

 

「……あの、祐巳…さん、えーと、もう少し、あの」

 

「……」

 

うん、私も綾芽ちゃんの言いたい事はなんとなく分かるんだよ?

でも、分かるからって出来るわけじゃないんだ…ごめんなさい。

今までも雑誌の挿画程度の撮影と、なんか色々エフェクトで誤魔化したらしいCDジャケットとかポスターの撮影で、散々見てきた同じ反応。

 

「…分かりました…祐巳さん!いったん休憩しましょう!」

 

綾芽ちゃんがそんな提案をしてくれる。

 

「でも、いいの?…時間とか…」

 

「今日はこの後兄の事務所で打ち合わせって聞きました。それなら全然大丈夫だと思います」

 

祐巳には何がそれなら大丈夫なのか不安なのだが、彼の妹である綾芽ちゃんが自信満々に言い切るので、従うことにした。どうせ続けても変化はないのだし。

 

スタジオの中程にある大きめのテーブルに、綾芽ちゃんと隣り合わせで座る。

 

「…私、おかしいなあって思ってたんです」

 

何が?と問うまでもなく、綾芽ちゃんは続けた。

 

「今までの祐巳さんの世に出た写真…もちろん祐巳さんは綺麗なんですけど…」

 

「被写体の抽象的な部分を表す美っていうか、そういった祐巳さんの魅力が全然伝えられてないって…」

 

さり気無く褒めちぎられている気がして、顔に熱が集まってしまう。

 

「例えば…」

 

パシャ …驚いた。

 

「ふふ。ごめんなさい。…例えば、今みたいな感じです。ほら?この祐巳さん凄く素敵でしょう?」

 

綾芽ちゃんはそう言って撮ったものを見せてくるのだが、同意し難い。

だけど、一つ確かなのは、今までの写真たちに比べると明らかに私らしさが出てはいた。

 

「写真は…私たち写真家が撮っているというより…被写体から与えられるものなんです…」

 

私が…与えるもの…。

私は、ただ受け身で、要求されるものにどう応えればいいのか悩んでいた…。

 

「…だから、変に写真家の要求に応える必要もありません。…祐巳さんのありのまま、今の想い、その写真で伝えたいことを考えてみて下さい」

 

私が伝えたいこと。

これは、私のホームページの写真。一度決めたらしばらく変えることのないもの、誰もが目にする…。たぶん、お姉さまや瞳子…由乃、志摩子、山百合会のみんな、家族…も——。

 

「私の仕事は、その熱を逃さずに捉えること。ただそれだけですから」

 

沸沸と、それは確かに、祐巳の内から湧き上がっていた——。

 

———伝えたい…皆んなに…私は大丈夫だ、と。

私の、決意と意志を…知って、もらいたい———!

 

「——っ」

 

「祐巳さん?」

 

祐巳はスッと立ち上がった。

身から滾る思いのままに。

 

 

「綾芽ちゃん、撮ってくれる?」

 

 

凛として、明らかに変わった、雰囲気。

 

 

周囲を取り囲むスタッフも目を留めた。

 

 

 

『ユミ』近い将来、その人気が爆発するであろうことを

 

 

 

そこにいた人々は予感したのだった。

 

 

 

 

 

 

(2)

 

「わー本当良い写真がいっぱい撮れましたーー祐巳さん素敵です!」

 

不得手な写真撮影も、終える頃には苦手意識はなくなっていた。

むしろ撮影中は、撮って欲しい!と、この想いを写して欲しい!と積極的に取り組んでいたように思う。

今振り返ると、若干恥ずかしさも過るのだけど。

 

現在、事務所に向かう車内では、なんでか綾芽ちゃんも同車している。

ルンルンと先ほどからとても上機嫌である。

 

「綾芽ちゃんは、お兄さんに用事?」

 

祐巳は疑問を口にしてみた。

 

「あっ、特に用事はないんですけど…早くこの写真を見せてあげたくて…ごめんなさい…私、ブラコンなんです…」

 

前々から思ってはいたけど、本当に仲の良い兄妹だ。

私と祐麒も一般的に結構仲の良い方だろうけど、この兄妹の仲の良さとは違う種類な気がする。

 

そんなことを考えている間に車はユニゾンプロダクション本社の駐車場に停められた。

 

地下から、高速エレベーターに乗り二十六階にある会議室へ向かう。

ここで打ち合わせをするのは五回目なので、まあまあ慣れていた。

でも、私の右隣に控えるマネージャーは緊張気味。そして左隣はウキウキと公園にでも遊びに来たかのような綾芽ちゃん。

不可思議な空間であった。

会議室に入り、席に着く。

私のプロデュースに関わる様々な人たちがここには集まっている。

 

それぞれに掛けられる声へと応えている内に、高岡さんが入ってきた。

みんな一斉に立ち上がる。

 

「社長。お疲れさまです」

 

この光景に祐巳は最初、唖然とした。

けれど今では周りに合わせて一応立っている。

高岡さんには、そんなことしなくて良いなんて言われたけれど、他の大人たちが立っているところ祐巳だけが座っているなど出来るはずもない。

綾芽ちゃんは駆け寄っていったのだけど、例外だろう。

 

「兄さん、見て!」なんて可愛らしく…ってカメラ!

 

祐巳は先ほどのものを見られてるのかと思うと、気恥ずかしくて顔を逸らしてしまう。

 

「おっ!なんだユミ。写真は克服したんだな」

 

そしてこちらに向けられる意味ありげな笑み。

写真は。この言葉の意味は、それ以外にもまだ克服しなければいけないことが山積みということ。

この男には、私の弱いところを色々と知られてしまっている。

 

「まっさすが俺の妹ってとこかな」

 

確かに綾芽ちゃんのお陰なのだけど、高岡さんに言われるのはいい気がしない。

 

「ははっ、そんな顔するなよ」

 

祐巳は先ほどから何も話していないのだが、高岡との会話は成立していた。百面相も便利なものである。

 

「じゃあ取り敢えず、まずは、今日集計される二週目のオリコンチャート…発表は二日後だけど、TOP10入りするだろうね」

 

おおー!と周囲から声が上がる。

オリコンTOP10…うれしい。半年前からデビューに向けて準備してきたものがちゃんと報われた、という意味では。

ただ、これは祐巳の実力というより、ここの優秀なスタッフや高岡さんの力だ。だから祐巳は浮かれたりはしない。

それに、数字と順位にイマイチ実感が伴わないというのもある。

 

「…なんだよ、ユミ。こんなんじゃ不満?」

 

高岡さんがニヤッとする。

 

「焦るなよ。ユミがまだまだこんなもんじゃ済まないことくらい分かってるからさ」

 

そしてなんだか嬉しそう。

そういう意味でもないのだけど…分かってからかわれてる気がする。

「おっ頼もしいね」と他からも弄られる。

いつの間に祐巳のこの立ち位置が定着したのか…。

 

「……」

 

高岡は、ふっと吹き出したあと、少し顔を引き締めた。

 

「それで、これからなんだけど——」

 

 

 

 

 

 

 

(3)

 

『高岡 涼平』

その名は、あるところでは持て囃されて。

そしてあるところ、というより俺の親族からは蔑まれる。

 

俺は高岡グループの総本家

高岡家の長男としてこの世に生を享けた。

高岡グループの創業は昭和の初期。俺の曾祖父が創業者である。

いまや日本の電機メーカーとして確固たる地位にあり、

その関係からか、映画・音楽分野にも重点を置いている。

様々な事業を展開しており、芸能プロダクションもその内の一部だ。

 

決して蔑ろにしている分野ではない。

ただ、『高岡 涼平』に求められたのはグループにおけるほんの一部事業のトップなどではなく、中核を支えんとする立場に立つことであった。

俺自身、幼い頃から厳しい教育を受け、なまじ優秀だったものだから、期待も相当高かった。ただ、この頃の俺には圧倒的に欠落しているものがあった。それが、感情。

高岡の教育方針は、合理的、理知的であれ。感情論で動くなど愚か者のすること。となんともまあ冷めたもので、それが徹底されていたのだから、致し方ない。

そんな俺がどこで変わったのか。

きっかけは、俺が十二歳の時。高岡家に第二子、つまり俺の妹である綾芽が産まれた。

父は子供に対し、愛情という意味での関心は薄い人で、特に綾芽は女であったため、それ以外の関心も与えられなかった。

ちなみに、俺の母親は体の弱い人だったらしく幼少期に他界している。だから、綾芽の母は後妻で綾芽が産まれるまで、俺とは殆ど接点がなかった。

妹が産まれた。何か不思議な思いが沸き立った。けれど当時の俺は、すぐにその気持ちを抑え、広い邸宅内、必要最低限でしか顔を合わすことすらなかった。

そんな淡々とした日々が、ある日、それは本当に予期せず、終わりを告げる。

 

その日も俺は学校から帰ると、自室の机に向かっていた。頭に叩き入れるべき知識が数多くあったのだ。この頃は、確か日替わりでいろんな分野の家庭教師が俺についていた。

ただ黙々と、当然こなすべきいつもの作業。

しかし、突如

コンコン とそこにいつもと違うモノが紛れ込んだ。

俺は不審に思いながらも扉を開けた。

 

「あっにいたま、あのね、おたんじょーびおめーとー」

 

一瞬誰もいないのかと思った。

だけど、遥か目線の下から拙く舌ったらずな言葉が聞こえた。

頭だけを下げて、その存在を見下ろした。

 

「これ、ぷれぜんとなの、にいたまに」

 

んーと懸命にその短い腕を伸ばし、俺に何かを差し出すそいつ。

よく見ると、それは四つの葉が付いた草だった。

 

「おかーたまがね、しあわせになれるっていってたの」

 

こんな草ごときで幸せになれるなら誰も苦労しない。

 

「にーたま、いつも、さびしそうだから…」

 

俺が、寂しそう?何を言っているんだ。

そして、ふいにぎゅーと俺の手を握り、その草を押し付けようとする。

 

そいつの手は暖かかった。

 

あまりにも必死なものだから、面倒くさくて、俺はその草をとりあえず受け取った。

後で捨てればいいと。

 

「にーたまがわらえるようになりますよーに」

 

それなのに、そいつは、俺に向かって満面の笑みを見せた。俺は、俺に、そんな顔を向けるやつなど今まで出会ったことがなかった。

俺が笑えるように。そんな言葉を残して、満足そうにたどたどしい足取りで廊下へと駆けて行ったそいつ。

結局俺は、夜になっても、次の日になっても、その草を捨てることは出来なかった。

それを手に取り、眺めていると、胸がむずがゆかった。

それ以来、俺はそいつを見かけると、つい目で追うようになった。

そいつが転ぶと、体が勝手に向かいそうになり、そいつが泣くと、胸が痛んだ。

そして、そいつが笑うと、俺の心は満たされた。

いつの間にか、構いたくなって、そいつも俺の後を付いてくるものだから、ますます目が離せなくなった。

気づけば、俺は、笑っていた。

 

 

迷信だと馬鹿にしたあの草は、確かに俺に幸せをもたらした。

 

俺は愛情というものを知った。

それは俺に全く違う世界を見せた。

今までただ無機質に眺めていたものに生を、キラキラとした輝きを感じるようになった。

 

俺は『人』というものに強く惹かれた。

『人』は人を変えることができる。

合理的には説明できないものが確かにそこにはあった。

心が躍った。胸が高鳴った。俺は『人』と関わりたい。そして見たいのだと。その内に秘めた無限の可能性を。

俺を突き動かしたのは『愛』そしていつしか俺の『夢』になった。

 

俺は求めた。

 

『愛』人でもモノでもなんでもいい。

何かに『愛』をもって懸命に生きるやつを。

人を突き動かす才能のあるやつを。

 

俺と『夢』を追ってくれるやつを。

 

 

だからユミ。

 

君は俺の理想そのものなんだ。

見せてくれ、その未知なる可能性を。

そして知らしめよう、世界に。

 

君なら

君と俺なら

きっとできるから。

 

 




高岡の独白…。私も祐巳ちゃん含めマリみてキャラたちの絡みを書きたいのですが、進行上必要かと思い、入れさせていただきました。
高岡はシスコン+祐巳への想いは重いという…。


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#23 アルタイルの輝き

(1)

 

週初めの打ち合わせ。

まず、告げられたのはこれからの方針だった。

 

『今はこれ以上の露出は控える』

 

高岡さんによると、とりあえずは2ndシングルをリリースするまで。

メディア、特に映像媒体へは出演しなくていいと言われた。

2ndのリリース予定は八月。準備期間を入れれば六月辺りまでは手持ち無沙汰になるのかなと聞きながら思案していた。

周囲からは反対の声が上がる。

 

「なぜこの勢いに乗らないのですか」

 

せっかく念入りに準備して来たものが上手くいき波に乗れそうなこの時期に、ということらしい。

 

皆が口を揃えて言ったこと。

 

でも、高岡さんは譲らなかった。

曰く、この先にもっとでかい波に乗れるのだと。

今も確かにいい流れが来ているけど、乗り手がそのスピードに流されてしまうから…ダメなんだと。

 

つまりは、祐巳の成長が置いてきぼりになるのを防ぐため。

今は我慢の時期。ゆっくりと経験を積んで、確かな実力を備える時期。

そうすれば、無理をせずとも然るべき時に自ずと波に乗ることが出来るから。

 

祐巳はそれを聞いて納得した。成長を待ってくれること、猶予の期間があることに安堵した。そして安堵してしまったことを情けなくも思った。

でもそれが今の自分だということにしっかりと向き合わなければいけない。

 

「それと、今度は映画とのタイアップになるから、その準備はしっかりしておいて」

 

どんな準備をしたらいいのか?と考える仕草をとる祐巳。

そこに、高岡は一冊の本を差し出した。

その本を不思議に眺める。

 

「映画の原作小説。まずはこれをしっかり読んで」

 

そんな祐巳に投げられた答え。

うん、この作品世界に歌という少なくない影響を与える立場で関わらせてもらうのだから当然だと、その本を受け取るために手を伸ばす。

が、高岡の話はそこで終わりではなかった。

 

「それで、ユミが感じたままに歌詞を書いてくれればいいから」

 

祐巳の手が止まる。

ギギギ、とぎこちない動作で高岡に目線を合わせる。

 

「…へ?」

 

祐巳にとっては、まさに寝耳に水。

歌詞など知っての通り今まで一度も書いたことはない。

国語の成績も中の中だった。

とてもではないが、自分にそんなセンスがあるとは思えない。

なぜ?1stシングルは曲も歌詞もプロが書いたのに。

その形で行くのだとなんの疑いもなく信じていた。

それがたった今、高岡の一言で驚愕と共に崩れ去った。

 

「期限は、六月までかな」

 

呆然と縋る祐巳の瞳にも

返されたのは、「じゃあよろしく」というこの話を締める言葉。

一度放たれたものが元の鞘に戻ることはなかったのだった。

 

ただ、そのまま放置された訳ではない。

その打ち合わせの後、今週の予定に山形合宿が入れられた。

理由は山形が原作の主人公が暮らす舞台だから。

作品の世界に触れれば何かが見えるかもしれないのと、静かな自然あふれる土地ならば、周囲を気にせずリラックスできるだろうという私への配慮も込められている。

確かにこのところ、気が張る状況が続いていたけれど。

 

山…形…。

 

沸き立つ困惑の思いはぬぐえない。

しかしこちらも決定事項。

そのため、祐巳の華の大学生生活初のゴールデンウィークの予定は

山形合宿というなんとも青くさいものとなった。

元々、仕事が入るだろうからと空けてはいたのだけど。

 

 

(2)

 

「んー〜!やっぱり空気が澄んでますね!」

 

東京駅を出てからおよそ三時間半。

新幹線を降り、用意されていた車に乗り込み

到着した、目的の場所。

祐巳はマネージャーと数人のスタッフを伴い降り立った。

 

合宿と言っても、高岡系列のどこかしらが所有しているらしい施設なので、祐巳が予想していた「なんとか少年自然の家」的な建物とは全く違った。

二階建てのウッド調のペンションハウス。

パッと見ただけでも祐巳の家より大きい。

その内装は洗練されたモダンな感じ。

中の設備も恐ろしく整っていて、温度湿度ともに快適な室内環境。

広いバスルームにシステムキッチン、二階には天体観測スペースまで設けられていた。

 

もちろん一応歌手としての合宿地。

メインはもっとすごかった。

 

寝食のスペースとは隔てた廊下の先。

そこには日本の電機メーカー高岡の誇る先端の音楽創造環境が用意されていた。

音響特性に優れたスタジオでレコーディングも行うことができる。

 

今回の目的はレコーディングではないため使う必要もないのだけど、

それはそれでもったいなくて、この場所をたった数日とはいえ占有するのは悪い気がした。

 

「ユミさん、部屋に荷物を置いたらまたこちらに集合して下さい」

 

マネージャーに声をかけられる。

それに了承し、簡単に支度を整えて、すぐ戻る。

 

「では、行きますか」

 

時刻はまだお昼前。

こんな早くにここまで来たのは、ちゃんと目的がある。

一日では回りきれないほどの小説ゆかりの地を訪ねるためであった。

 

 

まずは、主人公の生まれ育った街を見て回る。

そこは郷愁の漂う港町で、美しい木造倉庫群とそれらを潮風から守る巨大な欅並木の風景はとても印象的だった。主人公はなにかに悩むたびこの一本道を走り抜けるのだ。

少し行くと、日本海に面した港に辿り着き、そこでは漁師のおじさんが魚の水揚げをしていた。

ここは初めて来たところなのに、ただじっとそこにいたいと思える居心地の良さがあった。

こんな素敵な街で育ったならきっと、純朴で情のある青年に成長することだろう。

 

次に寄ったのは、主人公の通っていた中学校。

休日ではあるけど、運動部の生徒の掛け声がこだましている。

学校には予め連絡を取っていたため、来賓用の入り口から入り、そこで待ち構えていた教員の方に案内を任せる。

祐巳は、少し胸が高鳴っていた。

共学の公立学校。祐巳にとっては未知の世界。

ただ、大型連休に加え時間もそろそろ夕刻というころ。

普段の授業風景や休み時間の光景が見られないことが残念で仕方ない。

 

ふと、思いついたことを言ってみる。

 

「…陸上部の生徒の方と話がしたいです」

 

すると、案内の先生は申し訳なさそうにする。

 

「陸上部は、この近くの競技場で練習することがほとんどなんです。それに、明日大会があるようなので、今日の練習はもう終えていると思います…」

 

すみません、という言葉を添えて。

だけどそれを聞いた祐巳は、期待に胸が膨らんだ。

陸上の大会がある!それこそこの物語の肝。

祐巳の一番目にすべきものだった。

とっさにマネージャーを見やる。想いを込めて。

彼女はやれやれという仕草をしながらも

 

「わかってますよ」

 

やはり信頼すべきパートナーであった。

 

日暮れ前にはペンションに帰り着く。

今日はもう特にやることはなかった。

与えられた一室で、一度読み終えた原作のページを捲る。

主人公の男の子、それとヒロイン。彼らが打ち込む陸上競技。

話の起点であり、肝であり、その疾走シーンの緊張と駆け抜ける爽快感には何度も胸が熱くなった。

 

明日の大会。

それは、物語上でも重要な全国大会の県予選としての役割も持ったもの。これを見ないうちには考えもまとめられない。

 

決して、やりたくない事を明日に回したわけではないのだ。

最良の選択の結果と言っておこう…。

 

 

(3)

 

次の日。

 

「うわ〜すごい!間近で見るとこんな速いんですね!」

 

朝早く。

祐巳はウキウキと支度を済ませてマネージャーに声をかけた。

 

「準備万端です!早く行きましょう!」

 

ところが共有のリビングで寛いでいた彼女は、怪訝な顔をした。

 

「まさか、最初から全部見るつもりですか?」

 

祐巳にはその言葉の意味がよく分からなかった。

普通、見に行くといったら始まりから終わりまでいるものではないのか?頭に浮かぶのは、テレビで見るサッカーとか野球の観戦。

祐巳はキョトンと首を傾げた。

 

「〜〜。ユミさんのその仕草ズルいですよね」

 

そんなことを言ってなぜか溜息を零した後、説明してくれた。

陸上競技の大会は一日でいろんな種目を行っている。

しかも、今日の大会はたった一日で全ての競技の予選決勝まで行うらしく、開始は午前九時半、終わりは午後五時半。

全て見るのなら本当に一日を要する。

それ以外の娯楽も特にない野外で。

 

「見るのは決勝からでいいのでは?」

 

それでも祐巳は見たかった。ちゃんと予選から。

今はとにかく何でもいいからヒントが欲しかったのだ。

歌詞を書くための。

 

「いえ、今から行きます。…一人でも」

 

そう言うと、マネージャーは静々と付いて来て

いまここに至る。

……

..

 

「私!こんなに速いのも、跳ぶのも、投げるのも初めて見ました!」

 

リリアンの体育祭でも、クラスの代表によって行われるリレーには興奮する。でも、全然違うのだ。その熱量が。

ここに賭ける、想い、緊張と熱気と周囲の必死の声援。

心からの喜び、悔しさ、涙。勝者と敗者が同時に生まれ、それでもそこには清々しさが残る。

自分より年下の中学生の彼らに心が動いた。

 

能力や才能だけじゃない。

その無駄のない体からも分かる圧倒的な努力と想い。

 

みんな本気なんだ。

 

本気と本気のぶつかり合い。

 

いくら小説の中の主人公とヒロインが惹かれあっていても

その気持ちだけで、この中で競い合って勝ち抜いて行くなんて出来ない。

二人とも陸上が好きなんだ。

そのことが実感を伴って理解できた。

 

最後のリレー決勝を見届け、その興奮覚めやらぬ中

マネージャーに促され、席を立つ。

客席を抜け、階段からロビーへと出る。

すると、そこに居たジャージ姿の男の子が、急にハッとこちらを見て固まったかと思うと、気づいたように駆け寄ってきた。

 

「あの、『ユミ』さんですよね」

 

少し声を落として尋ねてくる。

正直、こちらに滞在中は全く気づかれることがなかったから

全然知られていないんだと思っていた。

 

「おれ、あ、えと僕、ファンで。いつもCD聴いてます」

 

嬉しかった。初めて訪れた地で初めて会った子にこんな風に言ってもらえるのは。

 

「今日も、朝聴いてきて、励ましてもらって、あの俺、」

 

男の子の様子が変わる。瞳が涙ぐんでいる。

 

 

 

「全国行けるんです!ありがとうございますユミさん!」

 

 

 

続いた言葉は衝撃だった。

 

それだけ伝えると、満足げにどこかへと向かっていった彼。

 

わたしのうたにはげまされて?

そして私に送られた感謝。

でもその歌は、その歌詞は私が書いたんじゃない。

 

喜びと、しかしそれを大きく上回る焦りがよぎった。

1stシングルへの評価。

でも、もし、次。私の歌詞のせいで気に入られなかったら?

 

私は、どうしたら応えられる?

 

 

ペンションに着くやいなや、部屋にこもった。

目の前には真っ白な紙。

その周りには丸めたゴミくず。

 

映画の主題歌。

だから、この映画のこと、その内容の魅力も伝えないと。

考えて考えて考えて、でも全然いいと思えるものが浮かばなかった。

書いているうちに、ただの説明や感想のようになってしまう。

 

「はぁ」と思わず出た溜息。

 

 

これでは埒があかない。

 

 

祐巳は二階のウッドデッキに出た。

煮詰まった考えを新鮮な空気が流してくれる気がして。

その手には、小説を抱えたままだけど。

側にあったイスに腰をかけ、広がる自然に意識を飛ばす。

 

綺麗だった。

遮るもののない空。夜は海との境界が分からない。空と海が繋がり、どこまでも続く世界。雄大で、広く、深く、包み込む。

こんな風景を見て育った主人公なら

その精神の気高さや強さにも納得ができた。

 

一息つくつもりが、手に抱えるもののためか

浮かぶのはやっぱりこの物語のこと。

 

陸上競技を通して描かれる男女の純愛青春ストーリー。

二人が初めて出会ったのは、中学一年生の時。

毎年八月に行われる陸上競技の全国大会。

その一日目、運命の出会いを果たす。

お互いの走る姿に目を奪われて。

主人公の男の子が暮らすのは山形。

ヒロインの女の子は広島。

とても会いに行ける距離ではなかった。

そんなまだ幼い彼らが会えるのは一年に一度。

陸上競技の全国大会の日。

それは二人の約束。

今年もあの場所で待っている、と。

 

競技に真剣に取り組む二人。

日々の苦しい練習も、その約束と競技への熱い想いが支えとなる。

夏のたった三日間。

そこに全てを賭ける二人の想い。

 

 

『織り姫と彦星』みたいだ。

 

こぼれ落ちてきそうなほどの満天の星空を見上げながら、浮かんだのは年に一度の七夕。天の川を越えて巡り合う二人。

 

祐巳は、自身の今を顧みる。

 

自分もこの選んだ道の先に望むものがある。

だけど私は、この主人公たちの様に選んだ道自体も大切な夢として捉えていたろうか……。この子たちにとって、陸上に打ち込むことと二人が会うことは同義だけれど、たとえ望む人にあえなくとも、走ること、陸上への熱い想いは変わらないのだろう。

両方大事にしているからこそ、お互いに切磋琢磨して想いにも夢にもいい影響を与え合っている…。

私は……私の歌うことへの気持ちは…。

歌は手段だった…最初の私の動機だと、そうなってしまう。

でも…。

振り返ると、なぜ歌だったのだろうと思う。

そこに躊躇いはなかった。

芸能界は少し不安だった。なのに歌手になることは自然と受け入れていた。

それは…なぜ?

 

思い出す。

まだ、お姉さまも高等部だったころ。

初めて人前で歌ったのは、あの別荘地のパーティで。なんの気負いもなかった。楽しくて、気持ちよくて。その頃には歌は人の心に想いを届けることが出来ると無意識に信じていたから。人が奏でる音…紡がれるメロディ…祥子さまとの共演は…その時が初——っじゃ…ない…?…。

 

———。

 

引き出された大切な思い出は徐々に鮮明さを取り戻す。

懐かしい風景…ひとりポツンと、その静けさに何か共が欲しかったのか、なんとはなしに鍵盤に触れた…祥子さまとのことに思い悩んでいたから…純粋に憧れだけで見つめていた時の、お御堂で聴いた音色を紡いでいた…

ただ、ぼうと。

それが突然、あの方が現れて、慌てる祐巳を促したんだ。一緒に弾きましょう?と。

重なる音。驚いて、焦って、でも嬉しくて、わくわくした。

グノーのアヴェマリア。——そうだ。あの連弾、ひどく拙くて、それもほんの数小節。それでも、あの時がたぶん初めて祥子さまと何かが通じた瞬間だった。

思考の渦に灯った閃めき。

 

……そっか、だから私は…

——音楽の力を信じているんだ。

 

 

そしてそんな音楽が、歌うことが…好き…なんだ——。

 

 

気づいた想い、祐巳の胸の内に押し込まれていたなにかが

一気に芽生え溢れ出した——。

 

これは、祐巳の想いの欠片たち。

 

身の内では収まらなくて、外に出たいと騒ぎだす熱。

開いた唇から次々とそれらが零れ落ちた……

 

「—————–っ」

 

 

 

高い空 澄んだ空気に始まりの音

 

風を切り 現れたのは まぶしい光

 

初めて見つけた ぼくの気持ち

 

 

そこにある光 追いかけて追いかけて

 

掴もうとするけど まだ届かない

 

ぼくの汗は 夢への架け橋

 

 

上がる鼓動 吐いた息は夜空に溶け行く

 

映るのは 輝く星々 きらめく流星

 

待っていて 必ずぼくも向うから

 

 

そこにある光 追いかけて追いかけて

 

踏み出した一歩目 近づく距離

 

ぼくの夢は 光への架け橋

 

 

駆け抜けるのは 数多のキセキ 銀の河

 

ぼくのキロクは 夢の道筋

 

幾つもの 宙(ソラ)を越えた その先に

 

 

やっとたどり着いたね

 

ぼくらの誓い

 

約束の場所

 

 

 

 

 

 

翌日。

東京に帰ってきた祐巳からほとばしる気。

走り書きした想いの羅列は、合宿の報告とともに高岡に提出された。

 

曲名は『ひこぼし』と記されて。

 

それはその場ですぐに採用される。

目にした高岡は、いつもとは違い分かりやすく顔に喜びを浮かべて。

 

 

 

『ユミ』 彼女は

歌手として大切な何かを掴み始めていた。

 

 

 

 

 

 

 




今回はほぼ祐巳一人の話でしたので、
物足りなさがあったかと思います。
次からはまた他のキャラ達とのやり取りが見られる予定です。


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#24 未完の大器

(1)

 

「祐巳ちゃん、今日は来てくれてありがとう」

 

「いえ、とんでもないです」

 

改まってお礼を述べられた祐巳は、この方にそんな事をされることに恐縮してしまう。

 

「いいえ、言わせてちょうだい。そもそも引き受けてくれたこと自体ものすごく感謝しているのよ」

 

ここはとある大学の広い講堂の中。

そして、先ほどまで私…というより実質的には側に控えるスタッフとマネージャーに対して細かな設備の説明をしていたのは

この大学に通っておられる一学生。とは思えないほど貫禄のあらせられるお方。蓉子さま。

 

「ステージとしては、問題ありませんね。機材はそちらで用意が出来るということでしたが…。私どもの方で提供させていただきます」

 

祐巳と蓉子さまが話す間。何やら真剣な面持ちで室内を見渡し、スタッフと相談を交わし合っていたマネージャーが蓉子さまへと言葉を放つ。

 

「それは、有難いのですが、『ユミさん』の出演以外にもここを使用しますので…」

 

蓉子さまは言いにくそうに答えたのだが、それで察したマネージャーは断りが入る前に言葉を続けた。

 

「ああ、構いません。当日は学園祭前に我々が機材を設置いたしますし、必要でしたらスタッフも配置いたします。こちら側からの提案ですので、ギャラの心配はしないで下さい」

 

ギャラ…。

一応プロとしてお仕事をさせてもらっている立場上、仕方ないのだが、祐巳にとっては身内ともいうべき相手に対して、生々しい話が繰り出されるのは、聞いていて気持ちのいいものではなかった。

私は無償でも良かったのに…。

ただ、祐巳が動くためには、その陰で支えてくれる幾人もの人たちの存在が不可欠で、自分一人のことではない以上、そこに口を出すことは出来なかった。

 

……一週間ほど前。

 

祐巳の家に蓉子さまからの電話がかかってきた。

めずらしいことに少し驚きつつ、何かあったのかもしれないと気を引き締めて伺った用件。

それは、『ユミ』に大学の学園祭にサプライズ出演して貰えないだろうか?というものだった。

蓉子さまの大学は年に二回学園祭を行うらしく

その一回目が六月の中旬に開催される。

そして彼女は、学園祭実行委員で責任者なのだとか。

そのお姿が容易に想像できる当たりさすが蓉子さまである。

元々出演が予定されていたアーティストが、今になってどうしても都合がつかなくなり、ステージに穴ができてしまったらしい。

 

『ごめんなさいね。本人に直接頼むなんてずるい手段だと分かってはいるのだけれど…』

 

祐巳はむしろ頼りにされたことがうれしかったのだけど、一人で決めていいことではないのは確かだったため一度保留にして、翌日マネージャーに相談してみた。

すると、話はすぐに高岡さんにまで上がり

その日のうちに、受ける方向で話が進む。

 

『一度現場を確認して、特に問題なさそうならいいよ』

 

まあ、高岡さんなら許可するだろうとは思っていたけど。

それも楽しそうに、ニヤニヤと。

 

そうして現場の判断を任されていた人たちからも

先ほど許可が下りたようなので、これで決定だ。

 

学園祭ライブ…!

 

久しぶりに人前で歌うことにドキドキする。

でもそれは緊張や不安だけではない胸の昂ぶりだった。

 

ここ最近の祐巳がレッスン以外に何をしていたかというと。

 

主に頭を使うことが多かった。

書き上げた歌詞を元に作曲家と意見を交換し合って

イメージに沿った曲を模索したり、歌詞の微調整を行ったり、

映画の制作サイドとも話し合ったり…

それはそれで、創り上げていく楽しさはあったのだけど

どうしても発散できない想いが溜まっていくのを感じていた。

 

そこに…ライブだ!

 

スタジオでカメラに向かって歌うのにはまだ不安が残るけれど

自覚したばかりの歌へ対する溢れる気持ちを人に伝えたかった。

そしてその喜びを共有したかった。

 

「蓉子さま!こんな機会を与えて下さってありがとうございます!」

 

私に任せてくれたことへの感謝とめいいっぱい頑張りますという決意が伝わるよう、言葉に力を込めた。

 

「ふふっ。いいえ、こちらこそ。学園祭が楽しみね」

 

 

(2)

 

学園祭実行委員。

 

いかにも私らしいと思われるかもしれないが…

いや事実、それを知った聖や江利子に言われたのだけど。

 

「蓉子ってほんと人の世話を焼くのが好きよね」

 

「よくそんな面倒くさいことやろうと思えるね」

 

なんて言葉とともに。

 

一つ言い訳させてもらうなら、なにも自分から進んで参加したわけではないのだ。大学の友人に誘われたのがきっかけで…それで受けてしまったのは私の性と言われてしまえばそれまでなのだけど。

ただ、やる気になったのには理由もある。

 

去年のリリアンの学園祭。

劇で見た祐巳ちゃんと体育館中を一つにした歌。

そこに、山百合会と生徒たちの垣根はなく

私が理想とした、祐巳ちゃんに託した景色が広がっていた。

 

そんな光景を見てしまったからー…。

もちろん嬉しかった。私の孫がちゃんと遺言を守ってくれたこと。

そして同時に熱い思いが蘇った。

私の代では成し遂げられなかったことに、未練があったのかもしれない。

 

だから、またこんな学校行事になんて関わってしまっているのだ。

その上ステージ企画の責任者として。

 

こういう仕事に慣れているというのもあって、企画の準備は順調だった。

そして、さてこれから告知や広報が始まる!という学祭ひと月前になってのアーティストからのキャンセル。

それは今回の企画の目玉といって良かった。

けれど、もう今更他のアーティストを呼ぶには時間がなかった。

何かないのか、代わりではなくちゃんと目玉となれる何か…。

 

浮かんだのは、『ユミ』ちゃん。

彼女の名はこの大学でも耳にした。まだデビュー間もない彼女。

けれど、話題性も印象も抜群だった。

 

ダメでもともと。彼女に連絡をとってみた。

すると予想外に早く返事が来たのである。それも了承の。

 

事務所の関係者だという方々と一度視察に訪れた祐巳ちゃん。

来てもらったのは休日だったけれど、それでも構内にはそれなりの学生たちがいる。実行委員の方からも警備のために数人を用意したのだけど、"芸能人"という響きに敏感な学生たちは、いつの間にやら集まってきて、移動中の私たちを遠巻きに眺めていた。

でも祐巳ちゃんは

 

「やっぱり共学だと雰囲気違いますねー」

 

ほえーと周りを見渡しどこかズレている発言をした。

たぶんこの子は、何かをとらえる時、そこにマイナス感情を挟むということをあまりしないんだろうと思う。

…まあ、姉、私の妹とのことに関しては色々と敏感なのだけど。

 

そんな祐巳ちゃんの変わらない様子に安心した。

 

それでもやはり、社会人の大人たちに囲まれて会話を交わし合う姿やふとした瞬間に見せる真剣な表情に、彼女はまた大きくなろうとしているのだと感じたのだけど。

 

———と。

そんな物思いに耽っている間に、講堂の裏手

 

私の眼の前へとバンが到着したのだった。

 

 

(3)

 

祐巳ちゃんを入り口から楽屋まで案内する。

周囲にバレないよう最新の注意を払って。

 

といっても、すでに先日の目撃情報から、学祭に出るのではないか?

という噂が出回っているためサプライズにはならない。

これは彼女を待ち望む学生たちに取り囲まれないための措置だった。

 

そして、楽屋の扉を開ける——

 

「……!」

「あっ!」

「うわっ!」

 

妙に軽く、その頼りない感覚に思わず体を引いてしまった

——のだけど…後悔した。

 

「祐巳ちゃん!」「ユミさん!」

 

蓉子の目の前を通り過ぎたかたまりが、その勢いのままに

私のすぐ後ろにいた祐巳ちゃんへとぶつかって、倒れゆく……。

 

ゆっくりと、その一連の動きは脳に映るのだけど

体はまったく反応できなかった。

 

どしん。

 

「え!?」

 

え?

扉の奥から幾人かの声が重なる。

蓉子は不審とともに中の光景へと目をやった。

 

「なんで、あなたたちがいるのよ……」

 

けれど、その衝撃とも呆れとも取れない思いをいったん押し込め

急いで祐巳ちゃんの無事を確認する。

 

「大丈夫!?」

 

華奢な祐巳ちゃんへとのしかかる塊は随分と見覚えのある人物で

私より先に咄嗟に助けに入ったマネージャーさんによって退かされようとしていた。

 

「う、う…ん?えっ!?祐巳さん?!大丈夫!??」

 

「だ、大丈夫です。お尻を打っただけなので——って、え!?」

 

祐巳ちゃんの様子に安堵し、心配の代わりに浮かんだ思い。

こういうのはデジャブとは言わないのかしらね……。

 

違うのは、私と志摩子の立ち位置と

—–祥子が…三奈子さんに化けたくらいか。

 

 

 

………

……

 

「…で?あなた達はどうしてここにいるのかしら?」

 

言いたいことは山ほどあったのだけど、ここでは人目につくかもしれないからと、体を起こした祐巳ちゃんを楽屋へと促し椅子に座らせた。

そして、改めて中の面々に顔を向け、説明を求める。

 

「なによ、蓉子が教えてくれたんじゃない。ねぇ?」

 

「うん。だからみんなも呼んで来たんだし」

 

まったく悪びれもせず、私のせいにするこの二人。

他の子たちは、最初から申し訳なさそうにはしていたけれど。

大方、この二人の勢いを抑えきれず…といったところだろう。

 

「…違うわよ。どうして、ここ(楽屋)にいるのかって聞いているの」

 

まったく。どんな手を使ったのだ。ここに許可なく人を通さないようあれだけ警備係に言い含めておいたのに。

 

「祐巳ちゃんに会うため!もう、そんなこと聞くなんて無粋だな〜」

 

ねえ〜?なんて言って、祐巳ちゃんに笑顔を向ける聖。

話をズラさないで欲しい。その隣でギロリと疑惑の目を向ける彼女のことを意識してくれないかしら。

祐巳ちゃんのマネージャー。彼女の信用を失ってしまう。

 

「ふふっ!蓉子さま、別にいいですよ。私はすごく嬉しいですし」

 

けれども、そんな祐巳ちゃんの態度に、彼女はため息をつきつつも

警戒を解いたようであった。

 

ふーー。とやっと話に入れるとでも言う様に、由乃ちゃんが息を吐き出し、緊張を解いた。

 

「祐巳!江利子さまなんかの策に乗ったのは不本意だったけれど、、本番前に会えてよかったわ!」

 

「祐巳、ごめんなさい。止めようと思ったのだけど…やっぱり私も会いたかったものだから」

 

続けて志摩子も祐巳ちゃんへと声をかける。

 

「祐巳ちゃんは学祭回れないし、会えるのは控え室だけだもの。仕方ないわ」

 

自分の行いの正当性を主張する江利子。

 

「申し訳ありません。どうせ止められないのなら近くで見守っていた方がまだマシかと思いまして…」

 

姉と私の板ばさみでオロオロと焦る令。

その反応の正しさに心が安らぐのはなぜだろう。

 

「あはは。ここにお姉さまもいたら本当に三年前の様ですね!」

 

祐巳ちゃんがとても楽しそうに、ニコニコと笑う。

でも…。その言葉からは、やはりいない存在を意識していることが分かる。

 

「…祐巳ちゃん」

 

「?…あっ、心配しないで下さい!お姉さまからは電話で充分励まされましたし!…見て欲しかったといえばそうなんですけど、お忙しいので、仕方ないです」

 

祐巳ちゃんは、皆んなの目線に気づいて、慌ててフォローした。

残念ではあるけれど大丈夫なのだと。その表情からも言葉通りの意味が読み取れるので、思ったほど心配は要らないようであった。

 

「乃梨子も、残念がっていたわ」

 

そこに、思い出したかのように志摩子が言葉を落とす。

 

「まあ、一番悔しいのは瞳子ちゃんでしょうけどね」

 

「土曜日にこれを企画した蓉子が悪いのよ」

 

「ああ、授業か。かわいそうに」

 

そして、また何故か私の責任だという話にもっていく。

 

「ええ、そうね」

 

もうこの二人を改めさせるのは放棄した。

無駄な労力と気づいて。

 

そして、先ほどから意外にも静かにこちらの様子を観察していたもう一人へと向きなおる。

 

「三奈子さんも、祐巳ちゃん目当てなのかしら?」

 

聞くまでもなかったのだが、これ以上何かをやらかすなという念押しも込めて。

 

「ええ、まあ。私の志望は知っての通り記者ですし、今新聞社でバイトもさせて頂いているので、祐巳ちゃんにインタビューを取りたかったんですけど、」

 

この光景を見てる方が楽しくてつい忘れていたのだとか。

 

「ライブの様子はレポートするでしょうけど、今は失礼致します」

 

そう言って、三奈子さんは楽屋を出て行った。

彼女はこの大学の学内新聞も担当しているため、学祭が終わればすぐにでも記事になることだろう。

 

「——すみませんが、そろそろ」

 

祐巳ちゃんのマネージャーがそっと、しかしはっきりとした意思を込めて、退出を促した。

 

腕時計を確認すると、確かにもういい時間だった。

これから着替えやセットを始めなければいけないのだろう。

この人数では、さすがにお邪魔だ。

 

「分かりました。では、時間近くになりましたら、また呼びに参りますので」

 

失礼します、と。私はこの懐かしいメンバーを引き連れて、その場を後にしたのであった。

 

最後に、

祐巳ちゃんの引き締まった表情を目に留めて。

 

 

 

 

 

 

(4)

 

ステージ際の暗幕のなか。

背後に感じる気配。

 

また、いつの間に来たのだこの人は——。

 

「ユミ、緊張してる?」

 

いつかも聞いたようなセリフを言う男。

 

「…はい、しています」

 

少女の応えはあの時とは違い

 

「そう」

 

それを聞いた男は満足そうに頷いた。

 

会場の照明が切り替わり、

その場の期待を煽るような音楽が流れる。

瞬間、どよめく空気。

 

祐巳の瞳はしっかりと観客を見据え

 

「ちゃんと、感じてきます——」

 

その足はステージを捉えていた。

 

「ああ、楽しんでこいユミ」

 

 

ステージの中央。

そこに立った瞬間、暗かった視界が真っ白に覆われる。

刹那——、沸き起こる歓声。

——っ。大丈夫、落ち着いて。祐巳は首元の『それ』にそっと手を当てた。

私の願いはお姉さまや瞳子へのもの、でも——。

 

歌のチカラは、歌を好きなこの気持ちは、

——皆んなへ伝えたいもの——!

 

あの男の子のように、私の歌に何かを感じてくれる人がいるかもしれない。

そのことを、聴いてくれる人たちを今度はちゃんと意識するんだ。

私の想いとここにいる一人一人の想いとが通じ合うように!

 

「———————っ」

 

視える。一人一人の顔、それぞれの表情……。熱い視線を、高まる熱を、感じる——。

私も、返したい。応えたい。

 

学生と目があう…また…あの人も…あの子も…その子も

 

共有する刻と想い——。

楽しい!

鼓動が強く胸を打つ。

 

 

 

 

 

『ユミ』の持ち歌は今はまだ三曲。

 

全然足りない——っ!

 

まだ、歌いたい——。

 

……

 

…………

 

……………

 

…………

 

……

 

 

「——ありがとうございました——!」

 

終えるころには、興奮し、息があがり

 

祐巳の想いはピークに達していた。

 

最後に、ホールの隅々までもう一度見渡して

 

「ユミ——————!!」

 

その余韻を胸に、ステージをあとにした。

 

 

 

言葉では伝えきれない、感情の波が押し寄せていた。

これは歓び。私の心が、身体中がうち震えている。

 

「——っ。……祐巳ちゃん…泣いてるの…?」

 

蓉子さまに言われて、頬に手をあてる。

 

暖かい液体が私の手に触れた。

 

本当だ…涙。

 

でもこれは、歓びのしずく。

 

 

……(ァ…コ……ル)……

 

それは、歓声の波からぽつりと

 

………アンコール………

 

何処かから、声が上がり

 

…ーーアンコーールーー…

 

その声にまた声が重なり

 

———アンコーーール———

 

質量を持って膨れ上がる

 

 

〈〈〈()()()()()()()()()()()()()()》》〉〉〉

 

 

「……。———っ高岡さん!」

 

祐巳は胸がいっぱいだった。泣きそうに叫ぶ。

あの想いに応えたい——と。

 

「…何を歌うの?」

 

もう全部披露してしまった。

でも、ある。一つだけ。———歌えるものが。

 

「ふっ。…その音源は今はないよ」

 

高岡さんの言葉は否定。でも、顔を見れば分かる。

私のやろうとしていることに期待している——。

 

「それなら、大丈夫です」

 

祐巳はそう言って、再びあの場所へ。

その足取りに迷いはなく、その瞳は爛々として。

 

……ーーッワァァァァアアアーーーーー!!!!

 

「——聞いて下さい。『ひこぼし』——」

 

 

 

 

 

 

 

(4)

 

ーーー……。

 

 

祥子も…やっぱり見に来れば良かったのに。

 

目の前の光景を見つめながら、妹を想う。

 

あの子は、祐巳ちゃんのことをとても心配していた。

でも私は、祐巳ちゃんを思う余りに自分自身を追い詰めてしまうきらいのある彼女の方が心配だった。

 

最近はなにやらとても忙しそうなのだけど。

祥子もこれを見れば少しは安心出来ただろうに。

 

「…祥子。祐巳ちゃんはーーー…」

 

その呟きは、会場の歓声のなか

あまりにも儚く、掻き消えたのであった。

 

 

 




三奈子さまは蓉子さまと同じ大学ということになっております。

祥子さまもいて欲しかったですね…。
別にずーと忙しわけでもないのですが、この日は外せない用事があったようです。


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#25 歩みゆく天使

少し長いです。


(1)

 

あの学園祭の興奮も少し落ち着いた七月の初め。

 

「…ミュージックビデオですか?」

 

祐巳は事務所の会議室で高岡さんと向き合っていた。

 

「ああ、ユミの意見も取り入れたものにしようと思ってさ」

 

つまり、プロデュースに関わらせてもらえるらしい。

デビューシングルはその辺のことは全て任せっきりだったのだけど。

まだ、不慣れな自分が口を出していいのだろうか?

 

「いいよ。むしろユミにはその方が合ってるんだと思うし」

 

彼は祐巳の顔を見て言いたいことを理解してしまったようだ。

キョトンと首を傾げた祐巳。

 

「デビューシングルのMV…あの時、酷かったよね」

 

返す言葉もない。

ただ、スタジオで歌えばいいだけ。それなのにあまりにも監督とカメラを意識してしまって、数時間で終わる予定が次の日にまで持ち越した。それに、大分ここのスタッフの優秀な編集技術にも支えられていた。

祐巳は撮影に苦手意識がある。以前、彩芽ちゃんからもらったアドバイスのおかげでちょっとした写真撮影や自分自身で表現していいものなら克服してきているけど。

ミュージックビデオは、監督の世界観というか、要求が多くて上手く応えることが出来ないでいた。

 

「ユミはさ、人に言われるままに動くんじゃなくて、自分の想いに身を任せた方が上手くいくんだよ」

 

でも、いいのだろうか。私には経験のないことなのに。

何年もその仕事に携わっている人の意見を聞いた方がいい気もする。

 

「なんで上手くいくって思うんですか?」

 

そこで高岡さんは、ふっと笑みを浮かべた。

 

「それは、ユミ自身が魅力的な人間だからだよ」

 

……。

過大評価じゃないのかな。

この人は時々こういうことを大真面目に言うから

どう返せばいいのか困ってしまう。

 

「……はぁ」

 

「まあ、ウソだと思ってやってみなって」

 

 

こうして、祐巳はミュージックビデオの会議に加わることになったのであった。

 

大まかにどんな風にしたいのかイメージを練っておいてと言われ、

最初こそ戸惑ったのだけど、この曲と歌詞、それから映画で何を表現したいのか、観る人、聴く人に何を感じてもらいたいのか。

そんなことを思い浮かべると、

魅せたいイメージが視界にパァーと溢れ出した。

やっぱり自分で歌詞を書いて曲と深く向き合ってきたのが大きいのだと思う。デビューシングルとは思いの入れようが全く違っていた。

 

話し合いは順調。

ほぼ一週間ほどで意見がまとまり、撮影は次の週末。

映画の公開が八月一日。プロモーションはそれと同時にスタート。

予定は詰まってはいたけれど、祐巳に任せてもらえたこと、それがいい調子で進んでいることが嬉しくて夢中だった。

 

…………

 

………

 

……

 

...

..

 

祐巳!!

 

「………!!」

 

ビクッと体が反応し、視界に光が射し込む。

徐々に目の前がはっきりとして…。そこにあったのはーー…うどん?

いい匂い。そういえば、お腹も空いている気がする。

 

カチャンと何かが落ちた音。

そして不自然に折り曲げられた私の手…ん?

 

「ちょっと祐巳…しっかりしてよね〜」

 

前方から聞こえる声に顔を上げると、呆れ顔の環がいた。

ああ、またやってしまったのか…。

 

「…うん。ごめん…」

 

そこでやっと今の状況を把握した。

ここは大学の食堂で、今はお昼。いつもは私も環もお弁当なのだが、一度は学食を利用したいからと。ワクワクとここまで来て、うどんを注文し、席につき、さあ食べよう、としていたはずだった。

けれど、気づいたらうたた寝してしまっていた。

今だけじゃなく、授業中も。こんなことが一週間ほど続いている。

 

「ねぇ、祐巳。レポートとかテスト勉強ちゃんとやってる?」

 

「…なんとか…ね」

 

そう、七月は大学の前期末。

祐巳は大学も頑張ると決めたし、両親との約束でもある。

だから、仕事に夢中だからと言って単位を落とすなんてことがあってはならないのだ。

そのおかげで夜更かししなければ間に合わなくて、大学が睡眠不足を補う場となってしまっている。

 

「そんな忙しいの?今」

 

環が不思議に思うのも仕方ない。

最近は、曲がどこかしらで流れることはあっても、祐巳本人のメディアへの露出というのは、せいぜい雑誌と使い回しのPVくらいであった。

それなのに四月より時間に余裕のない状態には疑問が沸くだろう。

 

「うん、いろいろ準備とかがあって…」

 

「そうなの?」

 

環は、まあこなせているのならいいけどと言いながらチャーハンにスプーンを延ばす。が、それを口に運ぶ寸前。

 

「じゃあ、食べ終わったら今日提出のやつ一緒に出しに行こう?」

 

んん?!

祐巳の思考は瞬間フリーズし、背筋も固まった。

胸の奥から焦りがこみ上げ、目を大きく見開く。

 

「今日!!!??」

 

えっ?と。

環もまた、動きを止めた。

彼女のチャーハンはなかなか口に到達することができず

さぞ焦れったいことだろう。

 

「…。え、もしかして」

 

その、もしかしてなのだ。

 

「やって…」

 

「ない………」

 

思わずテーブルに突っ伏した。

 

「いや、でも、たしか!五時までだったはず!!」

 

五時…あと約五時間。優秀な人ならば十分間に合う時間なのかもしれない。でも…要領の悪い私が間に合うかは自信がない。

 

「ぁ〜〜〜〜」

 

忘れていたおバカな自分への失望に涙が出そうだった。

 

「あ!」

 

環がハッとしたように声を上げる。

何か良い方法でも思いついてくれたのだろうか——と

頭を持ち上げようとした時だった——。

 

「祐巳?」

 

祐巳の肩に柔らかい感触。高鳴る鼓動。

バッと振り向くと

 

「〜〜〜!お姉さま!」

 

そこには約一カ月ぶりの生身の祥子さまがいらしたのであった。

 

祥子さまを目にした途端、祐巳の気分は急激に上昇した。

つい先ほどまでの憂いなどあっさりと消し去って。

 

「大丈夫?突っ伏していたから、気分が悪いのかと思ったのだけれど…」

 

「はい!ぜんぜん!むしろ今はすっごく元気です!」

 

それは本当のことだった。

だって!祥子さまが目の前にいるのだ。お声だけは電話で度々聞いていたけれど、会いたくて会いたくてしょうがなかった!

祥子さまは学食になど滅多に立ち寄らないはずなのに。

どうされたのか、と聞こうとして口を開いた、瞬間——

 

「いいえ!祥子さま。祐巳ったら全然大丈夫じゃありません」

 

環から横槍が入った。

しかも言おうとしていることは、祥子さまには特に知られたくないことである。絶対叱られる!

 

「タマちゃん〜っ!」

 

しーーーっ!と瞳と声に念を込めて。

そんなことをしたところで、余計に怪しまれるだけだったのだが。

気づくのが遅かった。

 

「あら、何が大丈夫じゃないのかしら。教えていただける?」

 

祥子さまは祐巳ではなく、進んで報告しようとするタマちゃんへと狙いを定めた。

……。終わった……。

 

 

 

「……祐巳」

 

「はい…」

 

環から話を聞き終えた祥子さま。

祐巳の目線は膝の上。恥ずかしいのと情けないのと、少し恐ろしいのとで顔を上げることができない。

 

「…とりあえず、早くそのお昼ご飯を食べ終えてしまいなさい」

 

ふーぅ。と息を吐き出したものの、祥子さまのお声は意外にも優しい。そして、空いていた祐巳の隣の席へと腰を下ろす。

つまりは、食後にお説教が待っているのだろうか?とまだ少し怯えながらも、急いでうどんをすすった。

 

「…じゃあ、行くわよ!」

 

そして、食べ終えるやいなや、祥子さまに手を握られて何処かへと連行されようとする。祐巳は慌てて環を見遣ったのだが、彼女は気持ちの良い微笑みをその顔にたたえ、手を振って祐巳を見送ったのであった。

 

「時間がないのだから仕方がないわ、今回だけよ」

 

道中の祥子さまのつぶやき。

そして、有無を言わさぬ勢いで連れてこられたのは大学の図書館。

 

「一年生の必修程度ならどうとでもなるのよ。要はテーマさえ決めれば、後は構成と要点を押さえて、筋さえ通せば単位が取れるのだから」

 

「テーマに沿った資料は私が集めてくるから、それを使って、パパッとやっちゃいなさい」

 

祥子さまにとったらパパッでも多いくらいでパッで終わってしまうんだろうけど、祐巳だと例え資料があってもノロノロと時間を費やしてしまうと思う。

 

「あの、お姉さまはお時間は大丈夫なのですか?」

 

「私は今日は祐巳に会うために学校に来たのよ」

 

だから気にしないで、と言って。祥子さまはなかなかテーマも決められない祐巳に対して、こんな感じで良いんじゃないかしらと五つほど案を出し、その中から祐巳が一つを選ぶと、待っていてと言い残して本棚の奥へと消えていった。

祐巳はその勢いに圧され、言われるままに従ったのだけど、良かったのだろうか…。祥子さまが良いというのだからアリなのかもしれないけれど。

そしてそれより気になることもあった。

私に会うために来たっておっしゃっていた。素直にうれしいのだけど、わざわざ来るということは何か用があるのだろう。

気になる……うーむ。

 

祐巳は、待つ間にとりあえず序論を書いておいて、と言われたことも忘れ、祥子さまの用事へと意識を飛ばしていた。

 

「お?あれ?祐巳ちゃん!?」

 

しばらくすると、ぼうとした頭に聞き馴染んだ声が届いたので

くるりとそちらに顔を向ける。

 

「——?…聖さま!どうしてここに?」

 

聖さまとは同じ学部のはずなのだが、この方を学校で見かけるのも週に一、二回ほどだった。

もう単位をほぼ取り終えているのか、それとも単にさぼりなのかは知らないが、留年していないとこを見るに、上手くやっているのだろう。

 

「ん?ああ、ちょっとゼミの関係でね」

 

聖さまでも、調べ物のために図書館に訪れるのか…。

祐巳はそんな結構失礼なことを考える。

 

「祐巳ちゃんは、レポートかな?何の授業の?」

 

うーーん?とこちらを覗き込みながら、聖さまが尋ねる。

祐巳はその質問に答えた。

 

「あ!それ私も一年の時に取ってたな〜懐かし〜」

 

まあそうだろう。必修ですので。

 

「祐巳ちゃんまだレポートまっ白じゃん。提出いつだっけ」

 

「今日の五時までです」

 

聖さまは一瞬言葉に詰まって、私を眺めた。

その後少し考える素振りをしながら「…でも、まあ、間に合うか?」「いや、でも、祐巳ちゃん…要領悪そうなんだよな…」「…全然進んでないし……」と何やらブツブツつぶやく。

 

「よし、わかった!」

 

そして突然ガバッと、こちらに襲い掛かってきた。

 

「ふがっ。…聖さまっ!!?!」

 

顔が聖さまの体に押し付けられているので息が苦しい。

 

「レポートとテスト勉強。期間中は私がみてあげる。祐巳ちゃん、忙しいんでしょう?」

 

何でわかったんだろう?

 

「目が充血してる。うさぎさんみたいで可愛いんだけど、ちゃんと寝ないとダメだぞっ」

 

なるほど。

たしかに聖さまなら、一度やったものがほとんどだろうから、かなり頼りになるだろう…その手をお借りしたい。だけど…今は…。

 

「聖さま、ありがたいのですが…いま…」

 

あっ。

 

「——聖さま。祐巳を離してもらえませんか?」

 

しまった。遅かった。

 

「?え、あれ?祥子じゃん」

 

聖さまは純粋に驚いたらしく、パッと手が離れ背後へと振り向いた。

お姉さまからの視線が痛い。

 

「てことは、もしかして祐巳ちゃんの手伝いは、すでに祥子が引き受けているのかな?」

 

勘のいい聖さまはすぐに状況を理解された。

 

「ごめんごめん。そんな怖い顔しないでよ祥子」

 

そう言って、祥子さまに困ったような微笑みを向ける。

「じゃあ、私はお呼びでないようなので失礼するよ」とその場から離れようとした聖さま。

けれどそれは祥子さまによって止められた。

 

「…いいえ。私は今日しか見てあげられないでしょうし、よろしければ祐巳の力になってあげて下さい…」

 

「…お姉さま…」

 

聖さまへと頭を下げる祥子さま。

そして、先ほどよりもさらに眉を下げる聖さま。

 

「…分かったよ。祐巳ちゃんが単位を落とさない程度にはね。……でも、私は祥子の代わりにはなれないから。それは覚えておいてね」

 

その言葉を最後に、聖さまは今度こそ私たちの元を後にしたのであった。

いささかの沈黙。

なんとなく気まづい思いで祥子さまを見上げる。

目が合って、少し微笑まれたかと思うと、何かを振り切るようにその綺麗なお顔を左右に揺らした。

 

「ごめんなさい。怒ってるわけじゃないのよ。……かっこ悪いのだけど、…嫉妬、なのでしょうね」

 

…嫉妬。その感情は祐巳にも覚えがあるけれど、最近はそんなことも全く感じないくらいに満たされていた。

私の想いはこんなにも祥子さまに向いているのに!ちゃんと伝えなくちゃ。

 

「っ!お姉さま!私はいつもお姉さまを想ってます!お姉さまのことが大好きなんです!!」

 

嫉妬する必要なんてこれっぽっちもないのだと。

少しでもお姉さまの感情を波立たせてしまったことが嫌だった。

 

「ふふ、ええ分かってるわ祐巳。…ただやっぱりあの方の前だとね」

 

そして、思い出すようにぼんやりと遠くを見つめる瞳。

 

「……祐巳にとってはスーパーマンみたいな方でしょう?…私は、あんな風にはなれないから…」

 

祐巳は、まだ言い足りない想いがたくさんあった。

でも、「ほら、レポート進めましょう」とこの話を早々に締めた祥子さまを見て、あまり引きずるのも良くないのかもと、せめて目の前の課題へと集中することにしたのだった。

 

すこぶる優秀であらせられる祥子さまに大いに助けられた祐巳のレポートは、なんとか五時前に完成され、期限ギリギリで提出に間に合う。

 

「ほんとうにありがとうございます!お姉さま!」

 

感無量である。

祥子さまの指導は、これからのレポートも効率よく進められるようにという方針から、結構なスパルタだったものだから、手伝ってもらったとはいえ、頭はフル回転だった。いつもは倍以上かかるものを短時間に凝縮して仕上げたので当たり前かもしれないけど。

 

「ふふっどういたしまして。祐巳」

 

そして、安堵とともに出来た頭の余裕に浮かんだのは、祥子さまがなぜ祐巳に会いに来たのかというそもそもの謎。

 

「…お姉さま?なんで私に会いに来てくださったのですか?」

 

思いついたままに訊ねてみる。

 

「だって祐巳。電話で言ってたでしょう?時間に余裕があるのは今日ぐらいだって」

 

ああ、先週たしかに言ったような気はする。

それで予定を合わせてくれたのだろうか。会うために。

 

「会って、渡したいものもあったのよ」

 

何やら肩にかけていたバッグに手を入れた祥子さま。

取り出したのは……あ、携帯電話だ。

 

「祐巳も持っていた方が便利だと思って」

 

ん?これは祥子さまのものではないのだろうか。

言葉とともに祐巳の方へと差し出されたそれ。

 

「あの、お姉さま?」

 

実は先日、祐巳は高岡からそれを受け取っていた。

ないと不便だと、強制的に。

ただ、通信料は会社が負担してくれているから、プライベートでは使わないと決めていたのだけど。

 

「…まさか、、それを私になんて…」

 

過ぎった考え。

 

「その通りよ?…これがあれば時間も場所もあまり気にする必要はないし、何かあった時に都合がいいでしょう?」

 

いや、その携帯は祥子さまが契約したものなのだろう。だから、祐巳が使えば、もろもろの負担が祥子さまへといってしまう。

 

「…受け取れません」

 

それは祐巳にとっては当然の答えだった。

お姉さまに面倒をかけたいわけじゃない。祥子さまが望むのなら、祐巳は自分で携帯を契約しに行こうとも決めて。

しかし、祥子さまのお顔は哀しそうに顰められてしまう。

祐巳は慌ててフォローする。

 

「あっ!そちらの携帯の契約者を私に代えて下さい!それと代金もお支払いします」

 

「でも、これは私が勝手に望んだことだから」

 

祥子さまはきっと、私に押し付けてしまうのだから当然と思っているのだろうがそれは違う。

 

「いえ!私もお姉さまといつでも連絡を取りたいですし、きっかけがなかっただけで、購入も考えてましたので。…でないとさすがに受け取れません…」

 

そうして、懸命に伝えると不満気ではあれど、なんとかそれで納得してもらうことができた。「祐巳が無理して言っているわけではないのなら、分かったわ」と。

その言葉に祐巳もようやく安堵し、祥子さまと手をつないで小笠原の車まで向かおうとしていた

その時——

 

 

プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル………

 

 

「え?」

 

二人の声が重なった。

 

お姉さまは、パッとご自分のバッグを覗きこまれたのだけど音の元ではないことを確認され、さらに訝しい表情になる。

ということは私か。

 

……ーー。

 

「——はい」

 

電話はマネージャーからだった。

明日の予定の確認。

MV撮影があるから、しっかり寝てコンディションを整えておくようにと。

 

簡単な連絡。それを聞き届けて、通話を切る。

 

……。

 

さすがにタイミングが悪かったことは、祐巳にも分かった。

 

「…祐巳」

 

不審とも悲痛ともとれる祥子さまの声、それと見るのが辛い表情。

 

説明しなければ…。ちゃんと話せば分かってもらえることだ。

 

「…お姉さま、これは——高おかさ…いえ、事務所から支給されたもので、私用ではありません。言う機会を逃していたのは私のせいです。ごめんなさい…」

 

言い直したのは、彼の名前が出た途端、祥子さまの睫毛がか弱く震えた気がしたから。

 

「…そう。いいえ、考えみれば当然のことよね。謝らないで、祐巳は何も悪くないのだから…」

 

さっと、祐巳に向けて微笑みを浮かべた祥子さま。

でも、なんとなく頼りなさげで物足りない。

祥子さまには、堂々とした自信に満ちた表情が似合うのに。

「ごめんなさい」言いたくなるその言葉を飲み込んで、祐巳は歩みを進める祥子さまに付いて行ったのであった。

 

 

 

(2)

 

「おはようございますユミさん」

 

「おはようございます」

 

昨日の祥子さま。祐巳はあれからずーと気になっていた。

 

でも、だからと言って撮影にまで引きずるという体たらくはしない。

こっちはこっちで、祐巳が本気で取り組んで大切にしているものだから。そしてそうすることが、その想いが、祥子さまにも繋がっているから。

 

それに、この曲の歌詞は映画のストーリーだけではなくて、祐巳の想いと願いにも強く重なっている。

祥子さまとのことが、逆に、祐巳の伝えたいという気持ちを引き出して撮影にはプラスに働いていた。

 

監督もスタッフも、取り囲み見守るすべてが

 

ユミの醸し出した雰囲気にのまれた——。

 

穢れなく、純真で無垢な、その想い。

 

まぶしくて、清らかで、真摯な願い。

 

触れると、自らも引き込まれ、引き出される、希望。

 

 

「ユミ…良かったよ」

 

 

2ndシングルの成功は誰もが確信した。

 

 

 

 

(3)

 

「また、ライブができるんですか?」

 

「うん。またリリースと同日にね。仙台の七夕祭りに参加する」

 

 

リリース予定は映画公開の約一週間後、八月七日。

 

これは曲名と歌詞にも掛けている。

なぜ八月七日なのかというと、旧暦の七夕の日を現在に当てはめると八月の方が近く、この時期に七夕を行う地域も多いから。

実際、新暦の七月七日だと梅雨まっただ中なため星空が見られることも少ない。七夕なのに織姫と彦星はいつまでたっても会えないのだ。

 

「ただ、今回はサプライズじゃない。告知は今日から始まる。……つまり、」

 

「つまり、私を目当てに来てくださる方もいる、かもしれないということですよね」

 

祐巳は、言われる前に言葉を引き継いだ。

 

「ああ、たぶん実感すると思うよ。いろいろと」

 

そうして高岡さんはいつもの如く楽しげにニッと笑うのであった。

 

 

 

『ユミ』の2ndシングル。

 

それは、映画が中高生の間でヒットしたこと、それとプロモーションの良さも大いに加わり、発売前から評判が高まっていた。

 

——だから。

 

この光景は必然。

 

驚愕に目を丸くしているのは祐巳だけである。

期末試験期間も終わり、大学に行く必要のない祐巳は、ほとんどを仕事関係の人間と環境の中で過ごしていたため、世間の認知など感じる機会がなかった。

 

仙台七夕祭り。

三日間の祭りの間、無料で行われる野外音楽イベントである『夕涼みコンサート』。

その二日目のラスト、午後八時からが『ユミ』の出番だった。

それは、ギリギリ天の川が見えるかもしれないそんな時刻に合わせたもの。だからと言って、その時間帯に見に来てくれる人やまだ残っていてくれる人は少ないかもしれない、それが祐巳の予想だった。

 

しかし——。

 

 

『『『ユミーーーーーーッ!!!!!』』』

 

 

————ワァァァアアアアアーーーーーー!!!!

 

 

こ…れ…は?

 

会場の公園を埋めつくさんばかりの人。

自分を呼ぶ声。

注がれる眼差し。

 

そして———。何よりも……

 

 

視界に広がるこれは……ーー。

 

 

まさに、煌めく

 

 

『天の川』——だった。

 

 

 

「——————っ」

 

私は、何度、涙を流せばいいのだろう。

 

いつも、励まされるのは、感動させられるのは、私の方だった。

 

歌を通して、こんなにも、暖かい人々と繋がれることが、

 

そんな可能性の塊である音楽に関われることが

 

うれしい——。…この気持ちをずっと、大切にしよう…。

 

 

一曲目はデビュー曲から。

 

皆んなが手に持つ黄色い光が、揺れて、波立つ。

 

空は、次第に夜らしい暗さとなり、輝きを増して行く、上弦の月。

 

二曲目、三曲目…四曲目……

 

時間とともに膨れあがる、熱気、

夜の帳が下りるほどに鮮明さを増して煌めく、天と地、両方の星々。

 

そして、——ラスト。

 

『ひこぼし』

 

『祐巳』の願いが、彦星の願いが、会場の想いが

———呼び寄せたのかもしれない。

 

天上に現れた、光の帯——。

 

彦星は、ちゃんと織り姫と出逢えたようだった。

 

よかった……。

 

 

そんな想いとともに、

 

地上に現れた夜空。そこで歌い立つ『ユミ』の姿は、

 

——光り輝く天の歌姫だった。

 

 



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#26 シャイニーブルー

(1)

 

『ユミ』の2ndシングルはチャート初登場三位を獲得。

 

ラジオでもリクエストされる事が多く、街中で、車内で、テレビで、その歌声を耳にする機会は増えていた。

 

高まる『ユミ』の需要。

 

それに対して、ユミ本人の露出は明らかに少なく

会えるとしたらライブ、そしてそのライブこそが『ユミ』の真髄を最も感じられる場所だった。

目にした者は、例外なく彼女のファンになる。

だがそれも、まだ表題曲が二曲の『ユミ』。

単独で大きなものが行われる可能性は低かった。

 

 

『ユミ』への出演依頼。

それは、テレビなら音楽番組、バラエティ番組、またはドラマ。

それ以外には、CM、ファッション雑誌、少年雑誌…といったように、その容姿の良さも相まってか、各種様々なものがありはした。

しかし、これらのオファーはその殆どが通らない。

 

そんな中、音楽雑誌には毎月何処かしらに『ユミ』が載っている。

数少ない彼女の近況を知れる手段。

『ユミ』が載った雑誌は売れ行きが良かった。

これのお陰でファンの渇望もある程度は満たすことができた。

 

 

だけれども、避けては通れないものもある。

 

それは、『ユミ』の成長のためにも。

 

 

 

 

 

(2)

 

「…ユミ、予想はついてると思うけど、音楽番組、少し出てもらうよ」

 

その言葉を聞いたのは、セカンドのリリース翌日だった。

まだ、なんのランキングも出ていない。

 

「こういうのは、予め人気が予想されてるとオファーが来るんだよ。発売前に映画のヒットもあったしね」

 

「この前の、生放送の番組でしょうか?」

 

「嫌? 今ならもう大丈夫かと思ったんだけど。それで様子見ていけそうなら他の歌番組も出てもいいかもな」

 

嫌、というよりは、苦手というか、なんとなく恐い。

だけど、そんな甘えた理由でいつまでも逃げていたい訳でもなかった。テレビはより多くの人に歌と想いを届けられるいい機会なのは確かだ。…カメラ越しだから繋がりを感じづらいだけで…。

 

「いえ、分かりました」

 

 

そういった経緯で…。

現在は、これで二度目となる都内のスタジオにいる。

リハの順番待ち中。

楽屋でマネージャーと大人しく待っていると、部屋の戸が叩かれた。

予定より少し早かったのだけど、特に気にすることなく立ち上がる。

先に扉を開きに行ったマネージャー。しかし、彼女は驚いたように声を上げた。

 

「え、どうされたのですか?」

 

祐巳はそこにいる人物にマネージャーの態度が改まったことを不思議に思い、ふと彼女の背後から覗き込んでみた。

 

「ああ、少し『ユミ』さんとお話ししたいと思って訪ねたんですよ」

 

その人は、この番組のプロデューサーだった。

以前、番組に出演した際に一度軽く挨拶はしたことがある。

マネージャーの彼女は対応に困っているように見えた。

断りたいけれど相手の立場を考えると気分を害すことはできないという感じで。それを見てとった祐巳は、別に自分が話を聞けばいいだけなんだから、と要求に応えることにした。

 

「プロデューサーさん。今日はお世話になります。『ユミ』です。私にお話とは何でしょうか?」

 

すると、マネージャーは驚いて私を振り返り、プロデューサーの彼はにっこりと私の顔を見つめてきた。

 

「ああ、『ユミ』さん、ありがとう。貴女にはとても期待してますよ」

 

そう言って、部屋へと入ってきた彼とマネージャー、私の三人は楽屋のテーブルを挟んで腰を下ろす。

そして、祐巳が思わず引いてしまうほどの勢いで、彼は話し出した。

話というよりは、熱心な勧誘に近かったけれど。

その内容は、彼が制作統括する他の番組にもぜひ出てくれないかというもの。彼が出した番組名は祐巳も知っていた。毎週一人を特集する人気のドキュメンタリー番組。それと、トークバラエティ番組。

 

「事務所の方にオファーしても相手にされないもんだから、『ユミ』さん本人と直接話したいと思いましてね」

 

祐巳は自分にそんな話が来ていることを初めて知った。

彼が伝えてくるのは、いかに視聴者が『ユミ』を望んでいるか。いかにこの番組に出ることで『ユミ』の知名度が上がるか。いかに『ユミ』と番組、双方にとって有益か。そして、番組の編集も『ユミ』のイメージを良く見せる構成にすると。

気になったのでしたら、おたくの社長に頼み込んでみてくれませんか?———と……。

 

祐巳はいつの間にか気分が悪くなっていた。

胸の内がもやもやとして、少し苦しい。

 

「『ユミ』さんなら、すぐに大人気スターになれますよ!」

 

なんでだろう。この人には笑顔を向けられない。

 

「正直、どうして出し惜しみするのか理解に苦しみますね。私ならもっと上手く『ユミ』さんを使います」

 

————!

 

「すみませんが、そろそろ『ユミ』のリハーサルの時間では?」

 

私の胸が何故だか一際痛みを覚えた時、マネージャーが話を切った。

男は高そうな腕時計に一瞬目をやる。

 

「ああ、そのようですね。まあ、私が言えば少しくらい時間に融通は効きます」

 

しかし、彼はまだいい足らないとばかりにそのまま続けようとした。

 

「実は、ドラマ班のプロデューサーにも頼まれてるんですよ。機会があれば説得してみてくれって」

 

「それは私共に言われても困ります」

 

今度こそ、マネージャーの態度にも遠慮がなくなり、プロデューサーに対してもはっきりと断じた。

けれども、そこで男が浮かべたのは厭らしい不敵な笑みだった。

 

「——いいんですか。『ユミ』さんを出して頂けないのでしたら、そちらの事務所の他のタレントの使用も控えさせて頂くかもしれませんよ」

 

————え?

 

「——それは、我々に対する脅しでしょうか。この件は社長に報告致しますが…あの方があなたの思惑で出し抜けると思わない方が宜しいですよ」

 

しーん、と静まる室内。

重苦しい沈黙の中、男が立ち上がり、椅子の引くギギーという音が妙に耳に障った。

 

「…まあ、いいでしょう。とりあえず、今日は楽しみにしていますよ、『ユミ』さん」

 

部屋を出る間際、私へ向けた声、目線、笑み、その全てが祐巳の心を粟立たせ、薄気味悪くまとわりついてきた。

 

沈んだ気持ちのままにリハーサルへと向かう。

マネージャーが何度も謝ったり励ましたりしてくるのだけど

彼女の責任ではない。

リハーサルのスタジオには、…先に向かったから当たり前なのだが、あのプロデューサーが待ち構えていた。

 

気にしないように、目線を合わせないように。

祐巳はスタジオにセットされたステージの上に立った。

 

「これから『ひこぼし』のリハーサルに入りまーす」

 

「お願いします」

 

スタッフの声に歌へと集中しようと瞳を閉じる。

メロディに耳を澄ませ、曲に自分の気持ちが溶け込むように、息をすって、歌い出しと同時にそっと瞼も開けた。

 

——けれど……やっぱりダメだ…。

誰に向けて、どこに向けて、歌えばいいんだろう。

視界に映るのは、私に向けられる複数のカメラと数十人のスタッフの目。ここの人たちはもしかしたら皆あのプロデューサーと同じように私を見てるのかもしれない。恐い……。

カメラの向こうを意識しようにも、暖かいはずの人々の顔が浮かんでこなかった。

 

「ーーーー………」

 

はぁ、と重い気持ちのままにリハーサルを終える。

マネージャーの元へたどり着く前にあの人が寄ってきた。

 

「『ユミ』さん良かったよ」

 

今のコレのどこが良かったのだろう。

この人はたぶん私の「歌」などどうでもいいんだ。

例えどんなに褒められても、笑顔を向けられても、

彼に対して募っていくのは不信感のみだった。

 

 

本番直前。

祐巳の楽屋に高岡さんが入ってきた。

 

「ユミ、大丈夫か?」

 

マネージャーがあの後すぐに報告を入れたらしい。

 

「…私より、高岡さんは…事務所は、大丈夫ですか?」

 

祐巳はあのプロデューサーに言われたことをとても気にしていた。

自分のせいで、迷惑がかかるかもしれない。

それくらいなら、私が仕事を受けた方がいい気もする。

 

「ははっ!大丈夫だよ。ただの脅しだ。あのプロデューサーが言ってるだけで、局の方針じゃない。あいつの番組に出られなくなったところで痛くも痒くもないさ」

 

高岡さんは少しも気にした風もなく、明るく笑い飛ばした。

祐巳もそれを見てほっと一息つき、少し気持ちが軽くなる。

 

「この番組だって、最近やつがプロデューサーになったけど、スタッフやディレクターの音楽に対する熱い想いは変わらないはずだ。それだけは誤解しないであげて」

 

——そうなんだ。

先入観と恐怖心で、彼らを無意識に見ないようにしたことを恥じた。

 

「ふふっ」

 

祐巳はいつになく優しい言い草の高岡のことが可笑しかった。

 

「何笑ってんだよ、全然大丈夫そうじゃないか」

 

そんなセリフも照れ隠しにしか見えなかった。

あははっと笑う祐巳に対して、マネージャーが時間を告げた。

 

「じゃあ、いつも通り楽しめよ」

 

「はい」

 

そして、生放送が始まる——。

 

高岡さんに言われたからというのも失礼な話だが、自分の曲順を待つ間、真剣に番組作りに取り組むスタッフを見ていると、その熱い想い、良い音楽を視聴者に届けようとする気持ちが、歌手へと向ける眼差しからちゃんと読み取ることが出来た。

 

——『ユミ』の出番。

 

この前は舞い上がっていて全然意識していなかったけれど、スタジオの観覧席には、『ユミ』を熱心に見てくれる人々の姿があった。

ほっとする。

——大丈夫だ。

ここにいるのは、純粋に私の歌を聴いてくれる人たち。そしてそれ以上に、もしかすると祐巳とは一生直接会うことがない人たちとも、心を繋げられるんだ。歌を通して。これはそんな特別な場所。例え誰に何を言われたって、私のこの気持ちさえ変わらなければ、きっと想いは伝わる。それでいいんだ。

 

 

『ユミ』の二度目の歌番組生出演は、彼女の柔らかな微笑みと共に視聴者の目に焼付くことになったのであった。

 

 

この歌番組を境に、音楽番組に限っては、テレビを通しての『ユミ』の露出が増えることとなる。

それは、祐巳の番組に対する意識の変化と大学の夏季休業期間ということもあり、一層歌手活動に力を入れ始めたからであった。

そして、回を増すごとにその姿に自信と輝きが増していく彼女。

 

その影響はCDの売り上げという数字が如実に物語る。

発売二週目にはチャートの二位に。

このまま、一位にまで上り詰めるのか——と思われていた。

 

 

しかし、翌週——。

祐巳は自分の浅慮を悔やみ、己の甘さを思い知る羽目になる。

 

 

 

 

……ーー。

 

「…これ、は」

 

八月も後半。

空は高く澄み渡り、まぶしく力強い日差しが降り注ぐ暑い盛りの日々。それはまるで祐巳の歌への想いと呼応するかのようだった。

——つい、数瞬前、いま、これを、目にするまでは。

 

「今日発売の週刊誌だ」

 

高まる熱に突如として浴びせられた冷水。

——どうして…。

 

「ごめん、ユミ。俺のせいだ」

 

違う。だって、これは、高岡さんが仕組んだ事じゃない。

ただ、どうして、こんなことが記事になっているのかが、ワカラナイ……。

 

『期待の新人歌手ユミの恋人は誰だ?』

 

記事の見出し。

そして、私とその恋人候補として挙げられる有名人の方々。

その根拠は………これが何よりも許せない…ッ!

 

 

そこに映るのは首元のアップ。

祥子さまと祐巳の絆である、ネックレス——だった。

 

「——ユミ、こんな適当な記事はすぐに風化する。けど、しばらくは噂になるし、この事について質問されるかもしれない。無視すれば良い。面倒だろうけど耐えてくれ」

 

事実無根だからといって、祥子さまの名前を出して否定することはできない。お姉さまをこんなくだらない事に巻き込んではいけない。

「これは大切な姉との絆です」こう言えば正しく伝わるだろうか…。

 

「外せとは言わないんですね…」

 

「ああ、今外したところで、余計な憶測を呼ぶしな。堂々としてろ、そこにあるのは祐巳の一番大切な想いだろ」

 

その通りだった。——そうだ、これは祐巳の誇りだ。

 

「はい」

 

応えた祐巳はもう動揺してはいなかった。

凛とした祐巳の眼差しは、むしろより強さを増していた。

 

 

 

『——!祐巳!ごめんなさい!!…』

 

その後すぐにお姉さまから掛かってきた電話。

まだ、早朝なのに情報が早い。

なぜ…悪くない人が謝らなければならないのだろう。

 

「お姉さま、落ち着いてください。こんなのはお姉さまの所為ではありません」

 

『いいえ、私に原因の一端がある以上、私は私を許せないわ』

 

何か寄せ付けない決意を感じるお声。

そう、こんな記事が出てしまうと一番傷つくのは私なんかじゃない。

私のことを大切に想ってくれる、私にとってかけがえのない人たちだ。いくら言っても、優しい彼女は心配と責任を感じてしまうことだろう。

 

『祐巳、今から会えないかしら?』

 

祥子さまからの提案。

私もお姉さまに会って、大丈夫だと安心させてあげたい。

 

『——はい。では…ーーー』

 

 

 

(3)

 

「…………」

 

なんてことを——!

 

それを知ったのは、発売日前日の深夜だった。

けれど、既に配送中のそれを店に並ぶ前に全て差し止めることは、

祥子にもできなかった。

 

——!祐巳!!祐巳…!私のせいで…本当にごめんなさい……

 

私は祐巳を守るために必死になって力をつけようとしているのに。

その私がしでかした事で祐巳を、守りたい存在を追いつめてしまうなんて——。

祥子は、机に両手をつき、腕の間に広げられた雑誌を呆然と眺めた。

……どれくらい、そうしていただろうか。

その深い深い自身への失望へと落ちる中——

それでもハッと意識を浮上させたのもまた、祐巳への強い想いだった。

 

祐巳は——?

 

気づいてすぐさま携帯を手に取った。

しかし、通話を押す前にハタと思い至る。

時刻は、零時を過ぎたところ。

祐巳は——寝てるかもしれない。安らかな休息から無理に起こしてまで知らせるよりも…朝、直接会いに行こう。そもそも電話だけで安心なんて出来ない。

 

私は——、必ず祐巳に償うわ。待っていて、祐巳。

 

 

 

ユニゾンプロダクション、そのビルの一室で祐巳は私を待っていた。

愛しい存在。

目にした途端、安堵と不安と罪悪感が一気に溢れ出して、視界がにじむ。祐巳———。

 

「…っ!お姉さま!泣かないで下さいっ私は本当に大丈夫ですからっ」

 

祐巳が慌てて駆け寄ってくる。

部屋のドアの前で立ち尽くす私に手を伸ばして、懸命に私の顔を見上げる祐巳の濁りのないきれいな瞳。この世のどんな宝石よりも尊くて美しいと本気で思う。私の宝物。——それなのに、私は…私が彼女に傷をつけてしまった。

 

「…祐巳。公表していいわ。どんなメディアでも構わない。私も一緒に映れば、信ぴょう性は高いでしょう。こんなデマはすぐに吹き飛ばすわ」

 

「それはダメです!」

 

祐巳からは即座の否定が返ってきた。

 

「お姉さまは小笠原家のご令嬢で、将来も大いに期待されている身です。こんなゴシップで世間に晒されることなど許されないでしょう」

 

祐巳の言っていることは分かる。私自身が一番良く。

こんなことお祖父様もお父様も、激昂なさるだろう。

安易に世間に姿を晒すなと、ゴシップ記事のネタとしてなど小笠原の品位が疑われる。小笠原内での私の信用、でもそれより大事なものがあるから———祐巳!

 

「その通りよ。許されないわ。だから絶対そのネックレスの片割れが私だなんてことは世間には出ない。例え誰かが気づいても。けれど、私本人が動けば話は別よ」

 

私にとって祐巳以上に大切なものなんて何があるだろう。

小笠原内で信用を得たいのも力をつけたいのも祐巳が原動力なのに。

祐巳、私を頼って。あなたを守りたいのよ。

 

「……ーーーっ」

 

しかし、私を掴んでいた祐巳の手は力なく下された。

 

「…私が、歌手になったのは。お姉さまの足を引っ張りたいからではありません…。その、逆です…」

 

「…祐巳?」

 

祐巳は顔もうつ向けてしまったために、その表情を伺い知ることができない。

 

「…でも、これでは、私の選択は…私のせいで、お姉さまが…」

 

祐巳の様子がおかしい。

肩が小刻みに震え、声も必死に絞り出しているかのようだ。

頼りなくて、今にも崩れ落ちてしまいそうな祐巳の華奢な体。

 

「祐巳!」

 

私は、思わず祐巳を自分の腕の中に収めていた。

そうしないと、彼女が、祐巳が消えてしまいそうだったから…。

 

震える祐巳の体。顔は下を向いたままで、その腕が私に回されることはない。

顔が見たくて、その頬に手を触れようとした。

 

———ッ

 

さっと、それは僅かで、気のせいと言われればそうかもしれない。

けれど、違う。明らかに祐巳が私の手を拒んだ動きだった…。

 

「……ゆ…み…」

 

祐巳は、体の震えを抑え、ゆっくりと私の腕をほどく。

その手つきはとても優しい…。

そして、やっとこちらを見上げたその顔は……。

哀しみに…彩られていた——。

 

「——お姉さま、」

 

「………」

 

何を言われるのだろう。言葉の続きを聞くのが恐ろしい。

 

「——お姉さまは、絶対に何もなさらないで下さい」

 

言い切った後の瞳には、確固たる意志が込められていた——。

それから、お車までお送りしますと言って、私の横を通り過ぎ、扉に手をかけた祐巳。

 

祥子は呆気に取られ、状況の判断ができないでいた。

言われるままに祐巳の背を追う。

サラサラと揺れる亜麻色の髪、高等部の頃より随分と伸びて、もう、二つに括られることもない。

過るのは、一抹の寂しさ。

ぼーと足を義務的に進めるうち、気づけば、小笠原の車の前で止まっていた。

 

「………」

 

「………」

 

漂う静寂。

綺麗な姿勢で立ち、目はあっても、口を開く気配はない祐巳。

祐巳は、私が乗り込むまで、ずっとそうしているつもりのようだった。

 

私は、もうどうしていいのか、あまりもの動揺に分からなくなっていた。

バタンとドアを閉める。

けれど、最後にせめて言葉を交わそうと窓を開ける。

 

「…祐っ」

 

「…お姉さま、しばらく距離を置きましょう——」

 

やっと口を開いた祐巳から落ちた言葉

 

その意味を混乱のなかようやく理解した時には

 

景色が一変し

 

もう、目の前に、祐巳の姿はなかった。

 

 

 




ここで止めてごめんなさい。
祥子さまを苦しめてごめんなさい。
でも、祥子さまも祐巳ちゃんも大好きです。
今は我慢願います…。

ちなみにこれは第一章の一番の山場という訳ではありません。
試練のうちの一つです。


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#27 たまゆらの天花

(1)

 

「社長、先ほどから事務所への問い合わせがすごいようなのですが…」

 

「ああ、そうだろうな」

 

『ユミ』はアイドルとして売り出したい訳ではない。

本人の能力でアーティストとして大成してくれることが高岡と事務所全体の方針だ。

だから、恋人がいようがいまいがそれ自体は特に問題はない。

しかし、記事にあげられている噂の相手が不味かった。

男性アイドルグループのメンバーに人気イケメン歌手、バンドのボーカル。

音楽業界で最近勢いのある若手ばかり。

そうなると、どうしても共演する機会も多くなる。

もちろんどこの事務所も既に否定しているものの、相手方は単なる噂の内の一人なのに対して、こちらは一人で複数の相手。

『ユミ』に恋人がいるかもしれないということへのショックもあるのだろうが、それよりも恋人候補だと噂になった人物たちの熱狂的なファンからの嫉妬がひどかった。

 

「来月までの予定では、誰かしらと共演のある歌番組も複数受けてしまっていますけど…よろしいのですか?」

 

「……。ユミに聞いてみるよ」

 

週刊誌が出ることは事務所側も早々に分かっていたため、早朝に祐巳を呼び出した後、今日はオフィスで大人しくしている様にと指示を出していた。

小笠原のご令嬢がその後すぐにこちらへ訪れたことも報告を受けているし、許可を出したのも自分だ。だが、今祐巳が何をしているかまでは分からない。

と言っても、だいたい居そうな場所は限られるため、高岡は自ら話しに行こうと腰を上げた。

 

朝、見た限りの彼女の様子だと大丈夫そうではあった。

出来るなら、噂なんて気にせず今まで通りにした方がいい。

祐巳の歌う姿は、人の心を動かせる。それを見せ続ければ、すぐにこの話題も沈化することだろう。

 

「ユミは…今どこにいる?」

 

「オフィス内のスタジオだと聞いていますが」

 

「分かった」

 

高岡は、案外楽観視していた。

ただ、一つの不安要素を除いては——。

 

 

……祥子さんとは、ちゃんと話し合えただろうか……?

 

 

 

 

 

「………ユミ」

 

祐巳は高岡の秘書が言っていた通りの場所にいた。

そこに置いてあるキーボードの前に腰を掛け、ぼーっと音を奏でている。

 

ポロン…ポロンポロン…と。

 

「…アヴェ マリア か…」

 

静謐な室内。拙くも神聖な音色…。

祐巳の姿は、まるで幻かのように淡く、儚く、そこに存在していた。

 

このスタジオでキーボードを叩く祐巳の姿。

それ自体はここ最近ではよく目にする光景だった。

祐巳は、歌詞を書いてからというもの意欲的に音楽と向き合っている。頭に浮かぶメロディーやイメージを人づてに創るもどかしさを感じていたようだったから、作曲を勧めてみた。

もちろん今はまだ全然だけど、講師をつけて思うままにやらせていた。悪戦苦闘しながらもその表情は生き生きとしていて、祐巳の未来に大いに期待を抱かせるものだった。

祐巳が音楽を楽しんでいること、自ら成長しようとしていることが嬉しかった。

 

…俺が見たいのは、目の前のこんな消えそうな姿じゃない。

 

——何か、あったんだな祥子さんと。

高岡は、己の嫌な方の予感が当たってしまったことに思わず頭を押さえた。

 

「ユミ!」

 

先ほどより大きな声で呼ぶと、祐巳はやっと手を止めてこちらに顔を向ける。今、気付いたとでもいうように。

 

「…たかおかさん…?」

 

「——何があった?」

 

目があっているはずなのにその瞳はぼんやりと陰り、焦点が合わない。

 

「————」

 

答えない祐巳。

まあ、祥子さんとの間の問題なら、俺なんかを立ち入らせてくれるとも思わないが…。

 

「…しばらく、仕事休むか?」

 

本来こんな事を言うつもりはなかった。

既に受けているものに穴を開けたりしたら、今後の『ユミ』の信用に関わるし、噂が本当だという証明と取られる危険がある。

それでも——、

こんな祐巳は見ていられない。

無理に出せば、壊れてしまいそうだった。

 

——しかし、祐巳はそこでハッと目を見開いた。

 

「———!出ます!お仕事、させて下さい!」

 

それはもう必死に、頼み込む彼女。

予想外の反応に俺は驚いて、一瞬言葉に詰まった。

 

「…わからないんです…いまは、これしかないんです…」

 

祐巳が消え入りそうに小さく溢した声。

だけど、その切実な縋るような様子に、俺は不甲斐なくも頷いてやることしか出来なかったのだった。

 

 

(2)

 

祥子さまを見送った後、しばらくは車が消えた方を見やり、その場から離れられないでいた。

「距離を置きましょう」…。自分から言っておいて、未練がましくも動けない私。きっと、祥子さまを驚かせてしまったであろうその言葉。けれど、今の私が側にいたら、お姉さまは、心配のあまりにご自身を顧みなくなってしまう。それに、祐巳自身も、どうしたらいいのか、何が正しいのか分からなくなってしまっていた。

距離を置いて、冷静になる期間が必要だと思った。

信じたはずのものが脆く崩れ去りそうな感覚に怯えた。恐かった。

だから……答えを、知りたくなくて……。

…逃げたんだ……わたしは……お姉さまから…!

 

気づけば、ポケットに入れた携帯がひっきりなしに鳴っていた。

 

「……瞳…子」

 

表示されていたのは、もう一人の最愛の存在。

彼女も、週刊誌を見てしまったのだろう。

 

画面を見つめる。

 

一度音が止んで、またすぐに、鳴り出す。三度ほど繰り返して、四度目……。

 

「……」

 

「——ッ!お姉さまッ!!」

 

ああ、やっぱり、物凄く心配をしている。

 

「…瞳子、私は大丈夫だから」

 

「——!本当ですか?!」

 

「本当だよ。だから、私のために心を砕かないで…」

 

瞳子はこの時期、学園祭の準備で忙しいはずだ。

こんなことで煩わされないでほしい。

 

「…じゃあ、忙しいから、切るね」

 

まだ追い縋ろうとする瞳子が何かを尋ねる前に、鋭いあの子に余計な負担をかける前に、取り付く島もなく会話を切る。

 

「ッ……分かりました、また、連絡いたしますわ」

 

「…うん、また」

 

ほっと、とりあえずは安堵する。

普通にしてなきゃ、普通でいなきゃ、せめて。

今、あの子に「ほら、見たことか」とこの道を否定でもされたら、私はもう立っていられる自信がない。

 

そして——また、鳴り出す規則的な音。

 

何度も何度も。

 

由乃…志摩子……聖さま…環…蓉子さま…また、由乃…

 

 

私は、無意識にその電源を切ってしまっていた。

 

 

その後、高岡さんに「仕事を休むか」と尋ねられたけれど、

愚問だった。

今、私から歌を取ったら、本当に全てを失ってしまう。

何も得られず、後悔しか残らず、この先に光も見えないのに。

歌から離れるという判断はできなかった。今はまだ。

休んだりなんかしたら、更に心配をかけてしまうことだけは明白だったから、せめて仕事を平然と熟す姿くらい見せないといけないだろう。

 

 

祐巳は、その後も、九月に入ってからも、以前と変わらずテレビや雑誌に出続けた。

出たのは音楽関係のものだけ、仕事中に不躾な質問をされるということは幸いにもない。

けれど、それは、音楽と関わりがないからというよりむしろ

 

祐巳の、纏う空気のためであった—•••。

 

 

その淡く灯る光は、泡沫の夢のように触れると消えるのではないか、束の間の奇跡を侵そうと思える者は錚々いなかったのだ。

 

 

それでも、そんな雰囲気を解さない者も中にはいる。

 

休憩中、移動中、無遠慮に首元のそれに寄せられる視線。

俗っぽい笑みを浮かべて、何か問いたげなその態度。

 

そして、何よりも祐巳を疲弊させたのは、嫉妬による苦情だ。

「見せつけるな」と。

当然、周りの人々は祐巳にそれらを見せないように隠した。

そうまでしても、止むを得ず本人の耳や目に届いてしまうこともあるのだ。

いっそ外してしまおうかとも思った。でも、それだけは、最後まで、本当に耐えられなくなるその時まで、してはいけないことだと祐巳の心が警鐘を鳴らしていた。それは祐巳と祥子さまが繋がっていると感じられる唯一の証だったから。

 

 

そんな日々をなんとか耐え過ごしていたある日。

雑誌の撮影を終え、スタジオから出る移動中だった——。

 

「『ユミ』さん——」

 

その声が届くと同時に胸に湧き上がる嫌悪。

 

「……何のご用でしょうか」

 

固まった祐巳を背に庇い、その男と私の間に立ち塞がるマネージャー。彼女の声は硬く冷たい。

 

「ははは、そんなに警戒される覚えはないのですがね〜」

 

本当に、何の用があって話しかけてきたのだろう。

早くこの場から離れたい。

 

「今日は、そちら方にとって良い話を持ってきたのですが…」

 

その言葉とともに男の口角が厭らしく吊り上がった。

 

「結構です」

 

取り合う気配を微塵も見せず、マネージャーは私の手を引いて男の横を過ぎ去ろうとした——が、

 

ガシッと、横を通る間際反対側の祐巳の腕が掴まれた。

 

「『ユミ』さん。私の番組にさえ出て頂ければ、今の状況からすぐにでも脱することが出来ますよ」

 

「…え?」

 

反応したのは別に男の話に興味を持ったからではない。

腕を掴まれたことに驚いたからだった。

けれど、その人は何か勘違いしてしまったようで。

 

「視聴者の同情を集めれば良いのです。…良い返事をお待ちしておりますよ」

 

祐巳の耳元に顔を寄せ、胡散臭い薄笑いと共に囁いた言葉。

ただでさえ悪かった祐巳の顔色が蒼白に変わった。

 

「いい加減にして下さい!」

 

激怒するマネージャーと、可笑しげに立ち去る男。

……祐巳は、キシキシと軋む心の叫びをどこか、他人事のように聞いていた…。

 

 

 

(3)

 

「…祐巳ッ!あんたどんだけ心配したと思ってんのよ!」

 

訪れたのは、何度目かになる福沢家。

先日やっと連絡のついた祐巳。彼女の休日を聞き出した私は、同じく祐巳を思い憂いていた志摩子とともに、福沢家の祐巳の部屋へとお邪魔している。

興奮して問い詰める私に対して、志摩子は諫めようと顰めた顔を向けてくる。

しかし、止められない。

こっちは死ぬほど気がかりだったのだ。それは志摩子も同様なはず。

 

「ごめんごめん!忙しかったんだって本当に〜!」

 

祐巳は慌てて取り繕うけれど、半分本当で半分嘘と言ったところだろう。

だって、顔に罪悪感が滲み出てしまっている。

 

「いつ電話しても出てくれないし、家にかけても仕事でいない上に出るのは毎回祐麒くんよ…私、ずいぶん彼と親しくなった気がするわ」

 

祐巳を困らせたい訳ではない。彼女には笑顔でいてほしい。

だから、批難の中に冗談もこめる。

 

「私も…祐麒さんと大分打ち解けたと思うのだけれど」

 

志摩子もその意図を汲んだのだろう。

皮肉を織り交ぜた冗談。祐巳に笑ってほしい。想いは共通だ。

 

「…祐麒が毎回家の電話に出るのは…わたしのせいなの…」

 

え?

私たちの期待とは裏腹に、彼女の表情には陰が差し、声音が落ちた。

 

「…たまに、家にかかってきちゃうから…電話、」

 

ハッとした。…そうだ、あの記事のあとかかって来るようになった電話なんて碌なものであるはずがない。祐麒くんはきっと、祐巳や福沢家のご両親を思い遣って、自分が盾になっているのだろう。彼だって、傷つくはずなのに。

言葉を失う私と志摩子…。

 

その様子に気づいて、祐巳が慌てて笑顔をツクル。

 

「あっあのね!大丈夫だよ!今はもうおさまってきているから…」

 

「それより、ごめんね。外に遊びに行けなくて」

 

事務所から止められているらしい。

外に出る際は必ず両親か、事務所の者を同伴するようにと。

当然だろう。私たちもその方が安心できる。

これまでだって、無防備すぎやしないかと心配していたし、

今の話を聞く限り、嫉妬に狂ったバカが何かしでかす危険もあるのだから。

 

「何言ってんのよ!三人でお泊りなんて初めてなんだから!むしろ良い機会になったわ!」

 

「ふふ、そうね。そのまま明日は乃梨子たちの学園祭を見に行けるなんて、とても楽しい二日間だわ」

 

もしかしたら、わざとらしかったかもしれない。

殊更に明るくしようと意識した。けれど、言葉の内容に嘘はない。

 

だいたい、ここ最近私たちが目にしていた祐巳といったら『ユミ』だけだったのだ。寂しさを感じたし、それ以上に心配した。

歌番組や雑誌の際、今までとは雰囲気が一変していた彼女。

魅せるのは、今にも儚く消え入りそうな姿。

歌声に滲むのも切なく悲しく胸を突く痛み。

今までの『ユミ』の愛と希望に満ちた輝きはなく、しかしある種その危うさが人々の意識を絡めとる。嫉妬は受けても『ユミ』の人気が依然高いのはそれが原因だろう。

けれど、そんなものは刹那の輝き、いつその不安定な均衡が崩れてしまってもおかしくはなかった。

 

ゴシップ記事だけで、祐巳がこんなになるとは思えない。

絶対、他に何かがあった。

祐巳にとって根幹を揺るがす何かなんて、——••

祥子さま——か、瞳子ちゃん、もしくはその両方だと簡単に予想がつく。

 

そして、それは恐らく、祥子さまの方に基因しているのだと先日ほぼ確信していた。

祐巳と電話が繋がらないとなった私(というか皆んな同じ行動に出たのかもしれない)は、本人の次に祐巳のことを知っていそうな人物に連絡を取ろうとした。もちろん、祥子さまだ。

 

けれど、電話に出たあの方は、茫然とただ「…ごめんなさい」とつぶやくのみで、とてもではないが、問い詰めたり、話を聞き出したりできる雰囲気ではなかった。

令ちゃんにも「祥子を責めないで」と止められてしまった。

 

それならば、と瞳子ちゃんに連絡を取ってみれば、彼女も困惑を隠せない様子で、何があったのか分からないのだと言う。祐巳には大丈夫だと踏み込ませてもらえず、祥子さまには祐巳をお願いと懇願されたのだとか。

 

瞳子ちゃんは瞳子ちゃんで蚊帳の外な状態に思い悩んでいるようでもあった。

菜々によると、山百合会の仕事はしっかりきっかり熟しているようなのでそこまで心配もしていないけど。

まあ、そうでないと困るのだが。祥子さまにはきっと蓉子さまが世話を焼くだろうし、今一番祐巳の支えになれるのは、悔しいけれど私たちではなくて、瞳子ちゃんだから。

 

祐巳は今日からしばらくは仕事が入っていないのだと言う。

心身を休める良い機会だ。

せめて、明日。

瞳子ちゃんとだけでも、元のように心安らかに過ごせれば祐巳も元気になってくれるだろうか。

祥子さまは…令ちゃんが声をかけても、お忙しくて時間が取れないようだったから。祐巳も来ることは知らせていないから、たぶん意図して避けた訳ではないと信じたい。

 

というか!こんな湿っぽいの私は嫌よ!!

 

「祐巳!!今日はせっかくなんだから、夜更かしして秘密の女子トークよ!」

 

由乃は拳を突き上げて思いっきり叫んだ。嫌な空気は吹き飛ばしてやるという意気込みとともに。

 

「……由乃、そんな大声で叫んでは、秘密でも何でもないわ…」

 

志摩子の的確な指摘にあっと口を押さえる。

 

ふっふふ…ふ。

 

でも、祐巳が笑っている。まだいつもの微笑みには足りないけれど、それでも無理をしていない祐巳の笑い声。

それなら結果オーライだ。

私はふふんとこっそり志摩子に目配せした。

志摩子は眉を寄せて微妙な顔をしたかと思うと、急に吹き出した。

 

ぷっ、ふっは、ふふふ、ふぅ。

 

彼女にしては珍しい。まあ、予期せず親友二人を楽しませたんだから、良くやったというところよ。由乃はそんな自分が誇らしく、思わず顔には笑みが浮かぶのであった。

 

和やかな時間。

これなら、近いうちに祐巳も復活するだろう、そんな予感を感じていた。

電気を茶色にして、そんな祐巳をからかって、ひとしきり笑い合って寝付いたところまでは。

 

——深夜。

 

苦しそうな、呻き声に目が覚めた。

ハッとして起きあがると、志摩子も同じように体を起こしていた。

二人の視線が絡む。

え?——と。

 

「……ぅ…ぅうぁ…ぉ…ねぇ…さま…」

 

愕然と、祐巳の方を見遣った。

胸のあたりを掴んで、苦しげに布団の中で縮こまる祐巳。

急いで枕元により、顔を覗き込む。

苦しげに眉を寄せて、その額には汗が浮かんでいる。

 

「…ゔ…ん…」

 

『祐巳!!』

 

私と志摩子の声が重なっていた。

 

「……ぅ…あ、え……?どうした…の?二人とも」

 

目を覚ました祐巳は、自分がうなされていたことに全く気づいていなかった。もしかして、茶色じゃ寝られない?なんて明後日のことを訊ねてくる。

 

「…祐巳、一緒に寝ましょう?」

 

「…へ?なんで?」

 

「そうね、私たちの布団を二枚寄せれば三人でも狭くはないわ」

 

「祐巳だけベッドなんて狡いわよ!早く降りてきなさい」

 

そんな風に多少強引に、祐巳を私たちのあいだに挟んだ。

これで、祐巳の異変にすぐに気づくことができる。

手をつないで温もりを届けることができる。

 

祐巳はもう、限界なのかもしれない。

彼女の綺麗で無垢な心は、芸能界に軋みをあげている。

 

「祐巳、私たちはどんな祐巳でもずっと側にいるわ…忘れないで」

 

すぐに眠りについた祐巳に言葉が聞こえたかはわからない。

それでも、これは私と志摩子の揺るぎない想いだ。

 

繋いだ手から気持ちだけは伝わるように、

そんな願いとともに、私たちは微睡みのなか意識を手放したのだった。

 

 

(4)

 

……プルル…プルルルルル

 

「…はい」

 

『ああ、祥子さん。君に、伝えたいことがあって』

 

「……はい」

 

『ーーーーーーー…………』

 

「…ええ、私もその件については動いています」

 

『…そう、ありがとう』

 

「いえ、祐巳のためですから…」

 

『……』

 

電話越しの彼は私に対して、何か言いたげだった。

 

「……なんでしょう」

 

『…いや、君に一番のぞむことは…本当は…』

 

「…失礼します——」

 

祥子は通話を切った。

男の言わんとしていることは何となく分かる。

 

けれど。

私には私にしか出来ないことも確かにあるのだ。

今は気にしている暇はなかった。

少しでも向き合うと、固めた決意が崩れてしまいそうだから。

 

 

「——祐巳。もう少しだけ、待っていてね…」

 

 

 




暗さに磨きがかかっております。
祥子さまも言っておられますが、もう少し辛抱下さい。


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#28 とことわの紅花

いつもの倍あります。


(1)

 

「…じゃあ、お母さんありがとう」

 

「みきさん、お世話になりました」

 

祐巳のお母さまの運転により、私たちが送り届けて頂いたのは

私立リリアン女学園高等部の目の前。

今日は学園祭のため、校門付近からは既に人々の賑わいを感じられる。

リリアンは、私たちにとっては内みたいなものなのだから、外出には含まれないだろうといった理屈で私と由乃は祐巳を連れ出している。

 

それに祐巳も瞳子ちゃんから誘いを受けたらしく、どうしたものか悩んでいたのだという。そういう時こそ私達を頼ってくれたらいいのに、水くさいのだからと内心寂しく思ってしまう。けれど、今の祐巳の不安定な精神状態を見てしまうとそれも仕方ないのかもしれない。

 

「なんだか、ドキドキするわね!」

 

由乃が興奮して言う。

その気持ちは私もよく分かる。けれど、私の心情は由乃や祐巳ほどには、分かりやすく表に出ないようだから、あまり悟られることはないのだけど。

 

「…OGとして、高等部の敷地にお邪魔するのは…初めてだものね」

 

背の高い門をくぐり抜ける間際、すぐそこにいた生徒の子にチケットの確認をお願いする。けれどもその子は私たちを見るなり目を大きく見開いて固まってしまった。「…ロ、ローズ…オブ………ローズ…」

ああ、祐巳のファンなのね。

「ど、どど、どうぞ!」と確認もそこそこに通されてしまった。

警備体制が緩すぎると少し小言を言いたくもなるのだけど、私はもう薔薇さまではないのだから、と思い留まる。

それに、祐巳が微笑みを向けるものだから、彼女は舞い上がってしまってそれどころではないようであった。

 

「…やっぱり、少しは祐巳を変装させるべきだったかしら」

 

そんな様子を見て、由乃が呟いた。

確かに、どちらにしろ私たち二人も一緒に居るのだから、バレてはしまいそうなのだけど、今よりは人目を集めなかったかもしれない。

ここで滅多な事が起こるとは思わないけれど、昨日の祐巳を見てしまった後だと、些細なことでも祐巳の負担になるのではないかと警戒してしまうのよね。

 

「…えっ?何言ってるの。私ちゃんと帽子は被ってきてるよ?」

 

……。そうね、瞳子ちゃんが誕生日にプレゼントしてくれたという帽子。朝、福沢家を出る前に祐巳が嬉しそうに教えてくれたから、覚えているわ。それに、白くてふわりとしたその形はとても祐巳に似合っている。けれどね、それは全く変装になっていないのよ祐巳。

歩みを進める度に視線が止まり、あちこちから上がる黄色い歓声。

私や由乃にも声は掛かるのだけど、断トツで多いのは祐巳である。

 

「ごきげんよう、祐巳さま」

「ロサ・キネンシス!これ受け取って下さい!」

 

祐巳は一つ一つに優しく丁寧に応えてしまうから、私も私もと、次々と人が集まってきてしまう。

ただ、ここには祐巳に悪意を抱く子なんて皆無という点では安心なのだけど——、祐巳はたぶん今、結構無理をして笑顔を振りまいている。

それに、様々な屋台や出店からの差し入れは流石にもう両手でも抱えるのが大変そう。

それを見て取った由乃が「ごめんなさい。色々と見て回りたいの。もう差し入れは十分よ」と。

その見た目の可憐さを最大限利用した雰囲気と声音を纏い、少女たちの庇護欲を煽る。それを受けて、申し訳ありませんと颯と進みやすいように距離をとる彼女たち。私は少々呆然と由乃を見てしまったけれど、…流石ね。近寄りがたいオーラを出すのは私も得意であることを思い出した。

意図して、由乃に倣い、外に立ち並ぶ屋台をようやく抜けきった時

 

「——お姉さま!」「志摩子さん!」

 

瞳子ちゃんと乃梨子がこちらへと駆け寄ってくる。

由乃が「菜々はなんで来ないのかしら、全く!」なんて怒っているけれど、担当の仕事があるのだろう。

というより、この子たちは、こちらに来る暇なんてあったのかしら。

 

「…乃梨子」

 

「あっ、違うよ!ちゃんと休憩時間なんだよ、今」

 

心配になって尋ねようとしたら、名を呼んだだけで、乃梨子が答えをくれた。この子は本当に私の考えを読み取るのが上手ね。

 

「お姉さま、来て、頂けたのですね…」

 

瞳子ちゃんが、目を細め優しい眼差しで祐巳を見つめていた。

 

「…瞳子……」

 

けれども祐巳は、眉を下げてどこか気まづげにしている。

いつもなら、祐巳の方から駆け寄って行ってじゃれ合う二人を拝めるのに。

 

——そのまま、清閑な雰囲気に覆われそうになった時……

ぱん、とすぐ側でこぎみのよい音が鳴る。

 

「じゃあ、瞳子ちゃんがいる事だし、しばらく別々に行動しましょうか!」

 

由乃が手を合わせて明るく宣言する。

 

祐巳はなんとなく頼りない目で私と由乃の方を見遣ってきて、気づいてはいたけれど、その方が祐巳のためだからと、縋られる瞳になんとか素知らぬふりをして「そうね」と私も由乃に賛同した。

 

こうして、私たちは一旦別れまた休憩時間が終わる頃に、三年椿組の前で集合ということになったのである。

 

「私は菜々の教室に行ってくるから!」

 

途中まで私と乃梨子と共に歩いていた由乃もそう言って離れて行った。

 

「ふふ、私も乃梨子とのデートを楽しむことにしようかしら」

 

乃梨子を見つめて言うと、彼女の顔は真っ赤に染まる。

乃梨子の妹を差し置いて独り占めできる機会を楽しまなければね、と私は祐巳のことが気掛かりでありながらも、一旦は姉妹水入らずの時間に集中することにしたのであった。

 

 

(2)

 

瞳子は、二人っきりになってからと言うもの黙りと隣を歩くその人に目を向けた。

表情に覇気がなくても、綺麗なことには変わりなくて、翳る瞳の奥に吸い込まれそうになる。

 

「…お姉さま、お会いするのはお久しぶりですわね」

 

「うん、ごめんね瞳子…」

 

週刊誌が出てから今日までの約一ヶ月。

今も、あまり目を合わせようとはして頂けない。

まるで私の一挙手一投足に怯えているかのような祐巳さまのお姿は、それを向けられて哀しいと思うより先に、脆く痛々しくて、見ていられない。

最初こそ、お忙しいと言う祐巳さまに対して、記事への対応もあるし、お仕事も精力的に取り組んでおられるようだったから、瞳子に割く時間もないのかもしれないと遠慮していた。

それが、どうも避けられているようだと気づくのにそんなに時間はかからなかった。祐巳さまは、演技がお下手だから……。

私が傷つかなかったと言ったら嘘になるけれど、そんな事よりも日々目に映る祐巳さまが儚くなっていくことが心配で心配で自分が挫けている場合ではなかったのである。

外に連れ出すのは不安があるけれど、リリアンならば、ここの生徒たち、特に二、三年生は、『ユミ』さま以前から祐巳さまを知っている。みんな祐巳さまのことが大好きなのだ。それを感じてもらいたい。

 

それにーー…。

瞳子が見上げた先にある白色の帽子…。

ちゃんと約束を覚えて下さっている。それならば、私は大丈夫だ。

 

「お姉さま!悪いと思うのでしたら、今日一日、しっかり穴埋めして頂きますよ。仕方ないので、それで許して差し上げます!」

 

多少強引に祐巳さまの腕を引く。

 

「…と、と瞳子!??ちょ、ちょっと待って」

 

突如として飛びついた私に、祐巳さまは慌てふためくけれど、待ってなんてあげられませんわ。私は一刻も早く、お姉さまにあのお日様の笑顔を取り戻してほしい。

 

祐巳さま、見ていて下さい。

瞳子だって、祐巳さまを支えられる存在になりたいのです。

貴女が、私に弱音を吐くことが出来ないのは、私がまだそこまで頼れる姿をお見せしてこなかった所為でしょう。

 

——だから、お見せ致します。

 

——貴女の繋いだ奇跡を。

 

——咲かせ続けている私たちを。

 

 

 

(3)

 

瞳子に腕を引かれ、まず連れて来られた場所。

 

それは、沢山の思い出が詰まっている、薔薇の館だった。

ただ、例年の学園祭時とはこの場所の様相が全く異なっていた。

 

「紅薔薇さま!ごきげんよう」

「まあ!祐巳さまもご一緒ですのね」

「紅薔薇姉妹を拝めるなんて運がいいわ」

「祐巳さまって、あの、伝説の……」

「祐巳さま!瞳子さん!」

 

この日は閑散としているはずのこの場所が…、

人で、溢れていた。

 

「どうですか?今年は学園祭時にも休憩スペースとして開放いたしましたの」

 

瞳子が横から説明を入れてくれる。

 

「もちろん、無人という訳ではありませんわよ。開放時間は山百合会の劇の準備時間まででして、その間は山百合会の内の誰か一人はこちらに滞在しております。……確か、今は…」

 

入り口の扉を開け、木を踏みしめる音の鳴る階段を一歩一歩登る。

下りてくる生徒とすれ違う度、挨拶を交わしながらも、重量に耐えられないのではないかと、内心冷や汗ものだった。

 

ビスケット扉を引く、すると、目の前に広がっていたのは——

 

「あら、ごきげんよう。祐巳ちゃん」

 

「…ロサ・キネンシス…?」

 

そこに優雅に座るお姿に、懐かしい記憶が蘇る。

 

「ふふ、違うわよ。今の紅薔薇さまはあなたの隣にいるでしょう?」

 

「…瞳子」

 

…そうだ。瞳子と、菜々ちゃんの妹だという一年生の子がいる。

それに…、

 

「曾孫まで立派に育っていてくれて、私も鼻が高いわね」

 

蓉子さまの周囲には、楽しそうに談笑を交わし合うリリアンの生徒たち…それだけではなくて…学園祭に訪れた人々の姿もある。

 

とても、嬉しそうに微笑まれる蓉子さま。

 

薔薇の館は、あのバレンタイン企画から、着実に、蓉子さまの描いた場所へと進化を遂げていた。

 

「祐巳ちゃん?何時までそこに立っている気?こっちにいらっしゃいな」

 

蓉子さまが私を手招きする。

呼ばれるに従って、お側の席に腰掛ける。瞳子は、少し離れて、訪れた生徒たちの相手をすることにしたようだった。

 

「蓉子さま…今日はどうして…」

 

しばらく、蓉子さまは、窓の外や室内を見渡しながら静かに紅茶を嗜まれているだけで、私に何かを話しかけるということもなかった。

そこには、穏やかで落ち着いた空気が流れている。

私は自分の問いに思い当たる節があるから、少し緊張していたのだけど……。

 

「……ふふ、毎年毎年、OGが訪れるなんて、そろそろ煙たがられちゃうかしら」

 

彼女は、そっと瞳を閉じたかと思うと、徐ろに口を開いた。

 

「そんなこと…ありませんよ」

 

「そう?…まあ、この薔薇の館なら、どんな人をも受け入れてくれるでしょうね」

 

確かに、蓉子さまも違和感なく馴染んでおられるし、私も居心地の良さは感じている。でも…蓉子さまが今日ここにいる目的は…きっと…。

 

「…祐巳ちゃん」

 

祐巳は、俯いて、ぎゅっと瞳を閉じる。

 

「…ありがとう」

 

責められることを覚悟して。…え?

 

「ふふ、私が、あなたを叱るとでも思った?」

 

…図星だった。…祥子さまとのことがあるから。

 

「私はね、祥子のことも、そしてこの光景にも、あなたに感謝しているのよ」

 

…なぜ?

 

「意味が分からないかしら?…ふふ、貴女達は少々突っ走りすぎてしまう所があるから、心配は尽きないのは確かだけれど…」

 

耳が痛い。やっぱり、この方にまで心労をかけてしまっている。

 

「でも、それは、お互いに本気で向き合っているからでしょう?」

 

それなのに、蓉子さまが向けるのは、慈愛に満ちた笑み。

祐巳は、理解が追いつかなくて、言葉が出ない。

 

「祥子の喜怒哀楽をここまで引き出せるのは、祐巳ちゃんくらいよ」

 

…でも、今の私がやっていることは、祥子さまを煩わせてばかりで、褒められるようなことではない。

 

「できれば、喜と楽の方を目に入れていたいけれど、それだけじゃ…きっと成長はないのでしょうね」

 

「…それは、どういう…」

 

どういう意味か気になった。

祐巳の凡庸な頭では、蓉子さまのお考えは中々飲み込めない。

 

「祐巳ちゃんなら、気づくことが出来ると信じているわ」

 

けれど、蓉子さまから確たる答えは頂けなくて、そのまま微笑みで言葉を躱されてしまった。

 

釈然としないまま、手持ち無沙汰に、目の前のカップに注がれた液体を見つめる。まだ、一つも口をつけていなくて、なみなみと注がれた水面に浮かぶのは、情けなく顰められた自分の顔。

 

「…まあ、なかなか隠居させてくれないのは、ある意味、私に対する孝行なのかしらね…」

 

ポツリと零された言葉、祐巳がえっ?と顔を上げると

 

「お姉さま、そろそろ次に向かいましょう!」

 

ちょうど、瞳子が真横から声をかけてきた。

 

蓉子さまの言葉に思いを残しながらも、瞳子に手を握られ、蓉子さまに手を振られて、薔薇の館を後にする。

 

その後も次々と各部活、同好会、クラスの展示、休む暇もなく、回れるだけ回るのだと言う瞳子の意気込みとともに足を運んだ。

 

各々の滞在時間は短い。

それでも、どこも暖かい雰囲気で私たちを歓迎してくれる。

瞳子が、リリアンの生徒たちと上下関係なく、ここまで打ち解けていたことに驚いた。

 

あの、強がりの仮面を貼り付けがちだった、瞳子がー…。

 

「…瞳子、すごいね。頑張ったんだね…」

 

瞳子は成長している。

私なんていなくても、強く、大きく…。

誇らしさと同時に宿るのは、耐え難い寂しさ。

そんな弱い自分が情けない……。

 

「…お姉さま、何を勘違いなさっているのか知りませんが、」

 

瞳子の眉がつり上がった。怒らせてしまったのだろうか。

 

「私がこうなれたのは、お姉さまの姿を見ていたからです」

 

え?

 

「祐巳さまに追いつきたい。祐巳さまに相応しくありたい。だから、私は必死で祐巳さまの後を追いかけているんですわ」

 

もう、言わなくても分かって頂けると思いましたのに!と瞳子が頬を膨らませて抗議してくる。

 

でも、私は、言われた言葉の衝撃が大きくて…。

 

「…え?わたし…?」

 

瞳子が顔を顰める。

 

「…何度も、言わせないで下さい。私が成長したというのなら、それは祐巳さまのおかげです」

 

そして、ぷいっとそっぽを向いてしまう。

 

……そんな、だって、私なんて平凡で…何も特別なものは持ってなくて……

 

「…そろそろ時間ですわね」

 

茫然としたまま、また彼女に腕を引かれる。

 

 

立ち止まった場所は、椿組の前で由乃と志摩子がすでに私たちを待っていた。

瞳子は演劇部の準備へと行ってしまう。

 

「祐巳、何、ぼけーとしているの?」

 

「演劇部の劇を見るのでしょう?私たちも早めに体育館に向かった方が良いのではないかしら?」

 

未だ放心状態の私は、由乃と志摩子に促され、ほぼ無意識のままに彼女たちの進む方へと着いて行き、気がつけば体育館に到着していた。

 

「あら?あそこにいるのはお姉さまね」

 

「本当ね。令ちゃんと…げ、江利子さままでいる…」

 

そんな二人の声に、ハッと顔を向けると、前方の良い位置に蓉子さま、聖さま、江利子さま、それと、令さまが座っていらした。

 

「というか、あの三薔薇さま毎年いらしてると有り難みがなくならないかしら?」

 

「ふふ、今もあれだけ存在感があるのだから、その心配は不要でしょうね」

 

来ていらしたのは、蓉子さまだけではなかったのか…。

それと…一通り見渡して、お姉さまがいらっしゃらないことに安堵の息を吐く。

ただ、探してしまっている時点で、心の芯の部分では求めてしまっているのだと…祐巳自身も気づいてはいた。だから、ほっとしたはずなのに、胸がチクリと痛むのだ。

 

私たち三人は彼女たちの真後ろ、ちょうど三席空いていたところに腰を下ろした。

 

「や、祐〜巳ちゃん。やっと、驚異の忙しさから解放されたのかな?」

 

「…聖さま」

 

罪悪感が押し寄せる。

忙しいと言ったって、大学がない分時間には余裕もあった。

だけど、なるべくオフィスやスタジオにいる様にして、余計なことを考えないようにしていただけなのだ。

電話に出なかったのもわざとーー…。

 

「ごめん、冗談。なかなか話も出来なかったから、寂しくて、意地悪言っちゃった。でも、今日会えたんだから私はそれでいいよ」

 

そう言って、私の頭をそっと撫でてくれる。

心地いい…。つい、この手に甘えたくなってしまうのだけど、そんな資格はない。今の状況は、自分が招いたことだから。

 

「ふぅ、相変わらず強情だね…」

 

強情?そうだろうか。みんなが、周りが私に優しすぎるのだ。

 

「聖、あんまり祐巳ちゃんばかり構うと、志摩子がやきもちを焼くのではなくて?」

 

江利子さまが、にやりと面白がるように言う。江利子さまの態度からは、本気でそれを案じているようには感じられないけれど、私は少し不安になって志摩子の顔を窺った。

だけど彼女は、拍子抜けするほど、きょとんとする。

 

「はは、志摩子は私と似てるから、祐巳ちゃんに対する想いも言わなくてもなんとなく分かり合えるんだよ。私が志摩子に嫉妬しないように、志摩子もそんなこと微塵も感じてないだろうね」

 

私に対する想いとは何なのか気になるところではあるけれど、言葉を交わさずとも理解し合える域にいる二人は素直に凄いと思う。

 

「あ、始まりますよ」

 

令さまの言葉にハッとして、居ずまいを正す。

それとほぼ同時に、舞台の幕が開かれた。

 

演劇部の上演。主演の瞳子。目にするのは三度目だけれど、一昨年よりも去年よりも、年を得るごとに瞳子の演技には磨きがかかっている。感動した。知らず、舞台の場面に、演じる役に魅せられて、心が動く。周りの観客も物語に惹きこまれ、集中している。

瞳子の才能と努力のなせる技。

でも、この感覚は…どこか、私にも覚えがあるー…。

 

不思議な感覚と共に釘付けになっていると、あっという間に、盛大な拍手と歓声に見送られ、劇はフィナーレを迎えた。

 

「…瞳子ちゃん。…少し、祐巳を見てるようだったわ」

 

「ええ、…私も、思ったのよ…」

 

祐巳の両隣りからそれぞれ放たれた言葉。

由乃と志摩子。長年一緒にいる親友からのそんな感想に、私は間の抜けた声を上げてしまう。

 

「…へ?」

 

「本人には、まだ自覚がないのかしら?」

 

「まあ、そこは…祐巳だから…」

 

些かあきれ気味の二人。

だけど、私と瞳子は似ていないと思う。見た目も、性格も…。

 

山百合会の劇まではまだ一時間ほどあった。

けれど、どこかに移動して、またこんないい席を取れるとも限らないので、私たちはそのまま舞台上の催しを観賞していくことにした。

 

ブラスバンド部による演奏に、社交ダンス部による華麗な舞。

どれもレベルが高くて見ていて飽きない。

学園祭を見て回る内、祐巳はここ最近の憂いが薄れているのも実感していた。今日のこの賑やかで暖かい場所だけの事かもしれないけどとは思いながら。

 

そして、ついにお待ちかねの山百合会の出番。

 

幕が上がる。

 

私は、演目を聞いてはいなかった。

手元のしおりによると、題目は『薔薇姫』

 

「元は人魚姫か、考えたね…」

 

斜め前からの聖さまのつぶやき。

人魚姫……。すぐに見抜けるなんて流石だななんて感心してしまう。

 

でも人魚姫って、最後には愛ゆえに自ら泡となって天国に行ってしまう悲しい話ではなかったかな。たぶん、アレンジはしてるんだろうけど…。

 

そんな要らぬ心配を抱きつつも、劇に意識を向ける。

 

薔薇姫はある森の奥深くにある

「花の民の国」の王女。

 

花の民の国の宮殿には紅白黄様々な種類の薔薇が咲き乱れ

そこには、王とおばあさま

そして、六人の王女が暮らしている。

薔薇姫は六人の王女たちの末娘。

 

王女たちは十五歳になったら、人間の世界を見に行くことを許される。

薔薇姫がその歳になり、背中の羽で空を飛び、森を散策していた時、

人間界の王子が山の中で倒れていた。

それは、とても美しい王子で姫は彼に一目惚れをした。

このままでは誰に見つかることもなく死んでしまう。

姫は王子を抱き抱え、その羽で麓近くの街にまで運んだ。

 

しかし、王子が目を覚ました時

ちょうど通りがかった街の娘が心配そうに介抱していた。

自分を救ったのはこの子だと勘違いした王子。

 

薔薇姫は王子のことが忘れられず、地上で人間として暮らしたいと思うようになる。

そしてついに人間となるべく魔女にお願いしに行く。

その代償は、美しい声。

しかも、王子がほかの女性と結ばれると、その次の朝、

薔薇姫は空気に溶ける光となって消えてしまう。

 

魔女からもらった薬を飲んだ後、街の外れで倒れていた姫を

王子が発見して助ける。

 

王子は姫を妹のように可愛がるが恋愛の相手としては見てくれない。

そしてとうとう、王子の結婚が決まる。

相手はあのとき王子を助けたと思い込まれている娘。

 

薔薇姫は自分が救ったのだと言いたくても言えないことに絶望する。

 

そんな時、姉の薔薇姫たちが表れ、姫たちの髪と引き換えに魔女から預かった短剣を差し出し、朝日の最初の光が差す前に

王子の胸にナイフをつき刺せば、姫は薔薇の精の姿に戻れると伝える。

 

眠っている王子に短剣を構えるものの、姫は愛する王子を殺すことができず、自ら死を選ぶ。

 

部屋の窓を開け放ち、最初の光が差し込む中その身を投げ出した姫。

 

しかし、薔薇姫が空の中に消え行こうとしたその時

あたたかなお日様の光がその体を包み込み

天上から表れた天使たちがその周りを取り囲む。

 

そろそろ幕引きかと、思った、その瞬間——

 

 

『『『 ——— マリアさまの 』』』

 

 

———!!?

 

 

『『『 こころ それは あおぞら—— 』』』

 

 

一斉に、四方八方から響きわたる、声。

 

 

『『『——わたしたちを つつむ ひろい あおぞら——』』』

 

 

愕然と、何が起こったのか、暫し、困惑する。

 

 

え?!……でも、

 

 

これ…は……。

 

 

それでも会場を覆うあたたかさ、自然と心に染み渡る想い。

 

 

———とうこ。

 

 

「——凄いわね。…去年の祐巳ちゃんの想いが……山百合会の積み重ねたバトンが…しっかり、受け継がれているのよ……」

 

 

蓉子さまの重みのある言葉。

 

 

歌声で一つになる体育館。

それだけではなく、会場に入りきらず溢れ出した廊下からも。全校生徒の大合唱…。

 

瞳子が私に見せたかったもの…は、この光景

 

リリアンの少女たち皆んなが、皆んなで、見せてくれたもの……。

 

「私たちも混ざろうよ!傍観者なんて嫌だな」

 

そう言って、歌い出した聖さま。

そうね、と言って続く蓉子さま。いつの間にか、江利子さまや令さまも。

そして、そっと両肩に感じる二つの温もり。

 

「——祐巳」

 

由乃…志摩子——。

 

胸の痞えが、溜まっていた何かがツーーと頬を伝い、流れ落ちて行く。

 

「——うん」

 

息を吸って、それは本当に久しぶりに取り込んだ清らかな空気だった。

 

どこか色褪せて視えていた世界が、今はキラキラと光り輝いている。

澄んでゆく視界に映る、人々の表情、笑顔…。

なぜ、忘れていたのだろう。

歌の暖かさを、心躍る力を、大好きなこの気持ちを——。

 

 

『・・・、————っ』

 

(祐巳…!)

(祐巳ちゃん…!)

(祐巳さま…!)

 

 

『———マリアさまの こーころ それは ———』

 

 

体育館にお日様の光が射す——。

 

更に熱量を増し、あたたかさに包まれる会場。

 

本当に祐巳を愛し、歌声と魅力に惚れた人々が多くいる。

そんな彼ら、ファンが

待ち望んだ、愛と希望の響き。

 

 

それは、本来の『ユミ』がやっと垣間見えた瞬間だった——。

 

 

 

 

 

 

 

(4)

 

『薔薇姫』の結末はというと、姫の清く美しい心に感動した女神さまが、彼女に手を差し伸べ、声も姿も元のように戻して下さる。

その代わり、その美しい声と心で、人々に癒しを与えなさいと。

こうして薔薇姫は毎日、歌を口ずさむようになり、たまたまそれを耳にした隣の花の国の王子と結ばれ、幸せに暮らすのだ。

…めでたく、ハッピーエンドである。

 

 

昂ぶる気持ちと決壊した感情の波。

 

何も言わず、静かにそれを見守ってくれた仲間たち。

 

ようやく、少し落ち着いて

 

瞳子たちを出迎えようと体育館の隅に移動した時

 

「——祐巳ちゃん。会いたかったよ」

 

後ろからかけられた声に、パッと振り返る。

 

「…っ柏木さん!?…来ていたんですか?」

 

いつぶりだろう。

彼とは大学生になってから、まともに会った記憶がない。

 

「うん、ギリギリね。大合唱を拝むことは出来たよ」

 

わざわざリリアンに。

おそらく、彼を誘ったのか、もしくは彼の方から頼んだのかは分からないが、瞳子にチケットを貰ったのは間違いない。

 

——・・どちらにしろ、話しかけてきたということは、私に用があるのかもしれない。……祥子さまの、ことで。

 

それから、ちょっといいかな?と人の喧騒から外れようとする柏木さん。聖さまが彼に突っかかろうと威嚇するけれど、蓉子さまにそっと肩を抑えられ、仕方ないなとこちらを見遣る。

聖さまの私に向ける眼差しはとても優しい。

 

「祐巳ちゃんに、変な手出ししたら…許さないからね…」

 

柏木さんは、ハハッ怖いなあと全く恐れた様子も見せないで、それでも真剣な表情になり

 

「君たちと、さっちゃんに誓って」

 

とはっきりと言い切る。

 

そんなセリフに、祐巳の心臓はドクンと反応する。

——お姉さま・・。

 

柏木さんの後に続き、体育館の裏手、すぐ近くでは騒めく人々の気配を感じるのだけど、ここは死角になっているために気づかれることはない。

さて、と言う言葉と共にくるりと私に向き合った彼の態度は至極真面目で真摯なものだった。

 

「…僕だけじゃなくて、祐巳ちゃんも最近凄く忙しいようだったから、やっと話す機会が出来て良かったよー…」

 

確かに、柏木さんがどれ程時間が取れない状態なのかは分からないけれど、お姉さまの様子から鑑みるに彼がそれ以上の立場にあるのだとしたら、祐巳と時間を合わせる事などほぼ出来なかったであろう。

 

 

「瞳子に、感謝しないとね」

 

 

瞳子——。私を今日ここに誘ってくれたのは瞳子だった。

最初は、事務所の人たちも含めてきっと皆んなに心配をかけるから断ろうと思った。でも、瞳子があまりにも必死にお願いしてきて——。

 

 

「皆んなに率先して声を掛けたのは、瞳子なんだよ」

 

 

薄々、予感はしていたけれど、やっぱり、そうなんだ…。

——瞳子、本当に…ありがとう……。

胸に湧き上がる、愛しい想い。

 

「…瞳子の目的は、ちゃんと果たされたようだから、一先ず安心かな」

 

柏木さんが私に向けて安堵の笑みを浮かべている。

 

「…私は、本当に、視野が狭まっていたみたいですね…」

 

皆んなの気持ちも跳ね除けるほど、自分の世界に囚われてしまっていた。

 

「反省も必要かもしれないけど、それより祐巳ちゃんが前を向いてくれたなら、皆んなそれでいいんだよ」

 

柏木さんは気にするなという。

確かに、もう落ち込む姿を見せて心配させることはしたくない。

 

「…今日はね、もう一つの祐巳ちゃんの懸念をなんとか解いてあげたいと思ってね…」

 

私の懸念。歌手の道への不信以外に

……そんなのは、彼女のことしかない——っ。

 

「…君は、さっちゃんに負担をかけていると思ってるんだろうけど、それは違うよ」

 

やっぱり、お姉さまのこと。

でも、実際に祥子さまは私のために、自らを犠牲にしようとした。

 

「祐巳ちゃんが、さっちゃんや瞳子の存在が力になっているように、さっちゃんだって祐巳ちゃんがいるから頑張れるんだ」

 

それは、本来しなくていい苦労なんじゃないだろうか。

 

「君と出会う前のさっちゃんだったら、きっと今みたいに自らの意思によって、望む方向に成長しようなんてしなかっただろうね」

 

祥子さまの意思?なんの話だろう。

 

「小笠原の一人娘として、ただ言われるままに望まれるままに従って、応えて、いつかは親の決めた相手…昔だったら僕だね…と結婚して家庭に入る。それが、課せられた義務であり責任だと…」

 

財閥の一人娘。祥子さまの背負うものは祐巳には想像がつかなかった。でも……お姉さまに、自由がないなんて、そんなのは、嫌だ。

 

「それが、君のおかげで、今のさっちゃんは存分に自分の能力を発揮しようとしている。義務と責任だけに縛られるんじゃなくて、そこにはちゃんとさっちゃんの想いがある」

 

祥子さまの想い……。私は負担なだけではなかった……?

 

「…たまに、行き過ぎてしまいそうな時もあるけど、その時は周りが教えてあげればいい。さっちゃんは冷静になればちゃんと理解するよ……今回のことも……」

 

確かに、距離を取ったのは、私が逃げたかったからだ。

今なら、もっとしっかり向き合えるかもしれない。

 

「だから、祐巳ちゃんはさっちゃんの枷なんかじゃない。その枷を外す鍵なんだよ。さっちゃんを見放さないで」

 

 

———!!

 

 

祐巳の瞳に力が篭る。

 

 

 

 

「——私が、お姉さまを見放すなんて、あり得ません」

 

 

 

 

 

 





まだ、問題が残ってますが、祐巳ちゃんの心は一応復活しました。

私の中で、マリみては学園祭なんですよね。
だからきっと、学園祭のシチュエーションが好きなんです。
しかし飽きられてないか不安ですね…。


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#29 動く、歯車

(1)

 

祐巳が、貶められた。それも私が原因で。

そんなこと許せなかった。自分も、そしてあの下衆な記事に関わる全てのものが。怒りに我を失っていたと言われればそうかもしれない。

けど、私にとって当然と思った行動は、祐巳の拒絶という結果をもたらした。

 

祐巳に突き放されてから三日ほどは、情けないことにその日々をどう過ごしたのか自分自身覚えていない。

けれど、メディアを通して見た祐巳は、辛そうで、そんなものを目にしておいて自分が腑抜けている場合ではなかった。

優さんにも言われた。「祐巳ちゃんがなぜさっちゃんを頼りたいと思えなかったのか、ちゃんと考えてみなよ」と。

私は、やり方を間違えたのだ。祐巳は、誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなど望むはずがなかったのに。

 

それからは、精力的に動いた。

冷静に私の立場で取れる最良の手段を辿るために。

取り組む課題は山ほどあるから、没頭していれば、幾分か気持ちも楽だった。それでもふと思い出すと哀しみに囚われそうになるけれど。

 

 

小笠原家の邸宅。

 

——高岡からの電話を切った祥子は、いつの間にやら思考の淵に沈んでいた頭を切り替えて、部屋を出る。

 

向かうのは、父の書斎。

 

これから、祥子にとっての第一関門が待っているから——。

 

 

夕方の淡く滲むような長い日差しが窓から差し込む部屋の中。

ニューヨークへの出張からやっと戻った父と数週間ぶりに顔を見える。

彼と話す機会を待ちに待っていた。

 

緊張した面持ちで机を挟んで向かい合う。

父も祥子の様子から何かを察したようで、普段の娘に対する甘い態度はなりを潜めている。

 

「…お父さま、お願いしたいことがあるのです」

 

静寂が支配する中、祥子が話を切り出した。

 

「——言ってみなさい。私が聞ける範囲なら叶えよう」

 

少し考える素振りをしながら、先を促す父。

 

おそらく、許可を得られるかは私の説得次第だろう。

これといった理由がなければ却下されるのがオチである。

 

「テレビ局のスポンサーになっている件なのですが…、あちら側の営業との交渉を私に任せていただけないでしょうか」

 

単刀直入に私の希望を打ち明ける。

下手に焦らすつもりはない。

最短で了承を得て、ことを進めたいのだから。

 

「…何をする気なのかな。交渉といっても、定期的に来るあちらを適当に相手にするだけだよ。継続するかさらに援助をするか手を引くかということは、視聴率や業績を見て、予めこちら側で決めている」

 

それは、分かっている。

今の担当の者も、上からの指示に従って対応しているだけ。

だからこそ、その役割を私が担っても問題がないはず。

ただ、私は自分の意思で動くことも認めてもらいたい。

つまり、ちゃんと実質的な力も得たいのである。

 

「局の改善を促す交渉を考えています。より良い運営によって、番組の質が向上されれば、小笠原の宣伝もより効果的に行えますし、我々の利益に繋がります」

 

小笠原グループのため。そこを強調する。私を使うメリットを。

 

「…具体的な見通しでもあるのか?万が一にもこちらにリスクがあるようなものだと、そう簡単に頷くことはできないよ」

 

何をするかまでは、あまりに私欲に寄っていると取られても困るので、深く追求されない限り、こちらから言うつもりはない。

 

「いえ、目的が果たされない事はあっても、現状維持になるだけでしょう」

 

一方の質問にしか答えていないけれど、これも本当のことである。

損失の懸念もなくリターンを得られるかもとあれば、乗らない手はないだろう。

私の言葉を信用してもらえるなら、なのだけど。

 

「ふっ。どんな要求を提案するつもりか知らないけど、提供もスポンサーもうちだけではない以上、無理な意見は通らないのは分かるよね」

 

もちろん理解している。勝算がなければこうして父に進言もできない。

 

「…ユニゾンプロダクションの社長と協力いたしますので、上手くいく可能性が高いと思われます」

 

本当は自分一人の力量でなんとかしたいところなのだけど、現状では仕方ない。確実性を上げるためにも、彼と手を結ぶのが最善だった。

 

「…高岡くんか。——なるほど、なんとなく意図は分かったよ」

 

「………」

 

気づかれてしまったかしら。彼とその会社そして私。

父ならば、そこから容易に連想できるだろう。

私の彼女への想いの強さを知っているし、父も彼女に好印象を持っている。だから、たとえ思い至ったとしても黙認するのではないかとも期待している。

 

「・・・——まあ、こちらが不利益を被らないなら…いいだろう。最近益々仕事に励んでいるようだし、今回は祥子に任せてみようかな」

 

「感謝いたします。お父さま」

 

 

これで、ようやく動けるわ——。

 

 

 

(2)

 

祐巳にしばらくの休暇を与えてから三日目の朝。

 

「…どうしたんだ?ユミ」

 

祐巳がオフィスに顔を出して、俺との面会を求めてきた。

時間はまだ朝早くて、この後の予定までにも余裕はあったため、こうして社長室で顔を合わせている。

 

「あの、実は今って、休んでる場合じゃないですよね?」

 

祐巳の指摘。それはその通りで、3rdシングルは十二月に出す予定。

だからそろそろ本格的な準備に取り掛かる。本来なら、また祐巳に歌詞をかかせるつもりだったのだが、今の状態では無理だと判断して、その分の時間を彼女の休息に当てた。

 

——やむを得ず。

 

だと言うのに…、

これはいったい何が起きたんだ。

日に日に心が弱り、顔色も悪くなる祐巳、そんな彼女を心配して二週間ほどの長めの休みを与えた…はずだった。

なのになぜ彼女はここに来てるんだ。

 

「…ああ、でも今回は気にしなくていいぞ」

 

「あ、そうじゃないんです。気を使っているんではなくて、私の歌に関わることなら、私にやらせてもらいたくて!今日からまた頑張らせて下さいってお願いに来ました!」

 

手をぶんぶんと降って、慌てて俺の言葉を否定する。

そして、がばっと顔と膝がくっつくのではないかという勢いで頭を下げた彼女。

 

——歌への意欲を取り戻している。

休暇を与えたところで、本人の気持ちが蘇るかは分からなかった。

それが、まだ三日だぞ。ひと月も俺たちが神経をすり減らしたことがたった三日の休みで改善に向かったのか…。

祐巳にはいつも驚かされる。

 

「…3rdシングルのリリースは十二月の予定だけど…十一月に入る頃には完成させる必要があるよ。できる?」

 

「やります」

 

顔を上げて、言い切った瞳は、光を受けて、キラキラと輝いていた。

思わず目を細めて見てしまう。

本当に眩しいな。…祐巳がその気にさえなるのなら、俺は全力で手を貸すよ。

 

「わかった。じゃあ、活動再開だ」

 

 

 

(3)

 

「お待たせ致しました」

 

九月の中旬、祥子は小笠原のビルの応接室で、自分を、というより担当者を待つ男の前に姿を現した。

上質なスーツをキッチリと着こなし、一分の隙も見せぬよう、振る舞う。内心では緊張していようが、それを相手に晒すような失態はしない。

 

「っえ、担当が変わられたのですか?」

 

男が、祥子を目にした途端、多少驚いて尋ねてきた。

テレビ局の営業。毎回小笠原との交渉にはこの男がやってくる。

動揺している今の内に、優位に立てるような第一印象を抱かせたい。

 

「ええ、初めまして、小笠原祥子と申します。これからはより深い付き合いになると思いますので、どうかよろしくお願い致しますね」

 

姿勢を正し、男をしっかりと見据える。

 

「…小笠原…祥子…。まさか…!小笠原家のご息女ですか!!?」

 

紹介を聞いた相手方は驚愕の表情で私を見る。

なぜ、こんなところに社長令嬢が?とでも言いたいのだろう。

 

「まあ、その通りですがあまりお気になさらず。この場でなすべきことは決まっているのですから」

 

とは言いつつ、祥子自身、自分が相手より数段上の立場にいるという風に思われるのは望ましい。例え、今の祥子にそれほどまで自由に出来る権力などないとしても。

 

「で、では、いつも通り。報告と提案をさせて頂きますので、どうか、上の方々によろしくお伝えください」

 

なすべきことはあるが、それはいつも通りとはいかない。

今までは、この場などただの仲介としての役割しか担っていなかった。だけど——。

 

「いえ、その必要はございません。これからは、あなた方との交渉は私に一切を委任して頂いておりますので、私一人で完結出来ますわ」

 

そしてにっこりと微笑む。

 

「というよりも、私の話をしっかりそちらの幹部の方々にお伝え下さい」

 

そう、私が相手をしたいのもこの男ではない。

さっさと上との交渉の場を用意して頂かなくては——。

 

 

 

(4)

 

十月に入り、大学も秋学期が開講した。

 

祐巳の歌に対する想いは前向きで、むしろ揺るぎないものへと昇華しつつある。だけれども、週刊誌が発端の例の噂は未だ健在で、それ故に周囲の警戒と心配も解けていない。

 

「じゃあ、祐巳ちゃん。気をつけてね。いってらっしゃい」

 

「うん、ありがとう。行ってきます」

 

ほとぼりが冷めるまで、行きは母に、帰りはマネージャーにと、送迎による通学が行われることとなった。

その事に祐巳は負い目を感じてしまうのだけど、送迎程度の手間など一人で行動させる事による不安に気を揉むよりは余程マシと言われ大人しく従っている。それに祐巳自身、あれ以来一人で外に出るということがほぼ無かった為に強がってはいても怖いという思いも確かにあったのだ。

 

「——あ!祐巳来た!」

「おはよう。祐巳」

 

車を降りた先の正門付近には由乃と志摩子が私の到着を待ってくれている。

朝、家を出る際には必ず二人にメールすること。先日半ば強制的に二人に押し切られて決まったルール。破ればどうなるのか問うと、志摩子にはにっこりと無言の圧力をかけられ、由乃には、そしたら毎朝福沢家にまで迎えに行くわと言われた。

構内でもなるべく私を一人にしないための二人の配慮。でも…。

 

「おはよう。——あのね、有り難いんだけど、私の時間に無理に合わせたりは本当にしてないよね?」

 

「してないわよ。時間割りを確認したでしょ?初めの授業の開始は毎日一緒なのよ。手間なんて然程ないわ」

 

「そうね。…それに私は、これのおかげで毎朝三人で顔を合わせられるのが嬉しいのよね」

 

取る予定の講義。祐巳は一人で決めたから、二人と時間を合わせようなどとはしていない。まあ、なるべく午後は空けたいということもあって、だいたいは一限開始。それは前期から変わらない。二人もそういう事情は知っている。本当にたまたまだろうか…?

何となく腑に落ちずに歩いていると、すぐに祐巳の授業の教室の前へと到着する。

 

「…離れるのが、心配ね」

 

頬に手を当て首を傾げる志摩子。その瞳は憂いを帯びている。

なんというか…子ども扱いでは…。私はどうやら信用されていないらしい。

 

「もう、大丈夫だよ志摩子」

 

さすがに、構内の、しかも授業中に何かあるとは思えない。

それに、この半年でそれなりに顔を見知った人たちしかいないのだから。

 

「祐巳、何かあったらすぐに教えてね。私たちが駆けつけるんだから!」

 

由乃もかあ…。

この二人は私の保護者だろうか。…ううん違う、同い年の親友…なんなら私が一番生まれが早い。

 

「それと、お昼は一緒に食べましょう!私たちが祐巳の方へ行くから、講義が終わったらそのまま待ってんのよ!」

 

けど、正直に言ってしまえば、二人ほど心強いものはないし、一緒に過ごす時間が増えるのも嬉しいことこの上ない。

今かけてしまっている気苦労は、いずれ必ず近いうちに払って見せなくては。こんなにも私を想ってくれる人たちのためにも。

 

「ふふ、わかってるよ。ありがとう」

 

私は、二人への感謝が少しでも伝わるように、心からの言葉を贈る。

 

「ごめん!ちょっと遅かったかな〜!」

 

二人に目を向けていると、すぐ近くから聞き馴染みの声がした。

この声は、環だ。彼女もどうやら祐巳と同じ講義を受けるみたいだけど、待ち合わせてもないのに何を謝っているんだろう。

 

「あ、来たみたいね」

 

ん?

 

「では環さん、祐巳をお願いするわ」

 

んんん?

 

「うん、任せて!志摩子さん」

 

え。

 

「祐巳、教室の平穏は私が守ってみせるわ!安心してね」

 

……環も、どうやら、私の保護者に加わっていたようだった。

 

 

 

 

こうして私の側には常に人がいて、そのお陰なのかそれとも元々そこまで気にする必要もなかったのか、休み明け一日目の大学は平穏無事に過ぎていった。

それどころか、お昼も四人でわいわいと食べられて楽しかった。こんな毎日が続くなら幸せだなぁと思う。祐巳は、晴れて高く見える空の中ほどを見つめながら、ぼーと気持ち良く歩いていたのだが、そろそろこの時間も終わりかと思い、ぴったりと同じ歩幅で進む隣の友人に声をかけた。

 

「タマちゃん、見送りはここまでで十分だよ」

 

もう、マネージャーが待つ駐車場までは目と鼻の先。

ここまで付き添ってくれているのだって申し訳ないほどなのだ。

環はまだ次の講義も残っている。

けれども、でもな〜となかなか離れようとはしない彼女。

 

「…たしか、次の教授って遅刻者は閉め出すんじゃなかった?」

 

「…ゔ、そうだった……」

 

「ほら、早く…私のせいで講義を受けられないなんてなったら……」

 

「ああっ、分かったから祐巳!そんな悲しそうな顔をしないでよ!」

 

そんなつもりはなかったけど、言いながら現実になる様を想像してしまったから、それが顔に出ていたのかもしれない。

 

「…じゃあ、行くけど、祐巳くれぐれも気をつけてね!ていうか、ここから車までダッシュよ!私も教室まで走って行くわ!いい?——せーの!」

 

へ…は…?

 

「………」

 

「——まーたあーしたーー………」

 

祐巳が呆けている間に、環が行ってしまった。

片手を上げたまま遠くなる姿と声。

…環は、私も一緒に駆け出したと思ってるんだろうけど、さすがに展開が早くてついて行けなかった。

 

「…。ははっ、もうタマちゃんてば。…また明日」

 

祐巳はその小さくなった背中に向かい一言告げると、踵を返して、足早に車の方へと向かう。走りはしないが、彼女の望みに叶うようなるべく急いで。

——そして、マネージャーの車が見えてきた、その時

 

「———祐巳っ!」

 

手前の物かげから急に人が飛び出してきた。

祐巳は予期せぬことだったために驚いて足が止まる。

 

びっ…くりしたぁ。

 

一瞬困惑したもののそこにいたのは、よく見覚えのある顔だった。

三人とも。アリサ…玲奈、優子。とりあえず、ほっとひと息つく。

 

「…どうしたの?三人とも」

 

今日は何度か授業が被っていたし、用があるならその時にでも言ってくれれば良かったのに。こんなところでわざわざ待つなんてどうしたんだろう。

 

「…あなたに、尋ねたいことがあるの」

 

「…うん?」

 

そこで、少し空気が張りついたような気がした。

 

 

 

「……私、〇〇君のことが大好きなの」

 

その言葉に、祐巳は目を見開き、固まる。

まさか…。

 

「あなたの恋人は、彼なの?!」

 

——ああ、週刊誌の…ことだ…。

そして、その鋭く細められた目を見て気づいてしまった。

自分に対し、悪い方に強い感情を向けられていることを。

少し身が竦む。

こんな風に面と向かって言われたのは初めてだから。

それも、関わりのある人に…。

 

「どうなの!?答えて!!」

 

「…誤解だよ。そもそも私に恋人はいないから」

 

なるべく冷静に、事実を端的に述べる。

だってそうとしか言いようがない。

どうして、皆んな、あんな裏のない記事を簡単に信じてしまうんだろう。その内風化する、そう言われた。けれど、どうにか嘘だと分かってもらえる方法はないのかな…。

 

…でも、私の言葉が彼女たちの琴線に触れてしまったようだった。

 

「〜〜!!馬鹿にしないで!!」

 

「じゃあ、あなたのそのネックレスは何なのよ!どうせ分からないと思って、嘘を吐くなんて最低ね!!」

 

ずんっと

大股でこちらに踏み出してきたため、一気に距離がなくなる。

 

「——気に、障るのよ!」

 

——ぶちッ……と……

 

何かが千切れた、感覚。

 

続いて、地面と擦れる微かな音、首元に伸びる人の腕。

 

興奮に上擦る息づかいと、激情に歪む顔。その両脇で青ざめる二つの顔。

分かりやすい三つの表情。それは、本来私の特権なのかもしれない。けれど、今の私はきっと、顔には何も浮かべていない。

ただ、その光景を、静かに、受け止めていた。

無———。でも、次の瞬間には爆ぜそうな何かが身のうちに巣食っているのを感じる。

 

「——っ!ユミさん!!」

 

視界の奥から、私のマネージャーが走ってくるのが見えた。

 

目の前の三人は、急に慌て出してこの場から去ろうとする。

 

祐巳は、それらを全く意に介さず、しゃがみ込み足元の『それ』を優しく掬い上げる。

そっと丁寧に、掌で包み込んで、立ち上がる。

 

そこでようやく、遅ればせながら首に痛みを感じた。

引きちぎられた時に皮膚に負担がかかっていたのだろう。

 

私を見て、なぜか狼狽えた三人。

 

ああ、そういえば、誤解を解かなければね。

 

「——これが、そんな安っぽいものなわけ…ないでしょう?」

 

瞳から頬に止め処なく流れる液体。

それなのに、視界も頭も冴えていて、声も良く通った。

手の中の感覚だけを意識して、その愛しさに悠然と微笑む。

当然の事実、伝わらなければおかしいのだから。

 

 

すると、時間が止まったかのように動かない彼女たちを不思議に思い、目を合わせる。一人一人。ハッとして喉奥から絞り出された「ごめんなさい」という言葉。そのまま、彼女たちは祐巳の視界から消えていった。

 

…思い込みは、解けたのかな…?

 

それなら、良かった。という充足感と安堵とともに、膝から力が抜け落ち、その場にへたり込んでしまう。

 

そこでやっと、祐巳の頭が目まぐるしく動き出す。

先ほどまで溜めていたものが、身体全体に巡り出した。

 

——私は……このまま何もせずに、お姉さまとの絆を汚されたくない。これが原因で人に負の感情を抱かせるなんて、あってはならない。これは…そんな風に扱われるものじゃない。…これは…幸福の象徴なんだから…!

 

「——っユミさん!すみません…私がもっと早く気づいて止めていれば…」

 

マネージャーが祐巳の瞳から溢れる熱い滴を目にして、狼狽えている。…でも違う。これは、込み上げる闘志だから。

祐巳は服の袖で、さっと目元を拭った。溢れる熱気をこれ以上は零さないように。

 

「いえ、おかげでやっと、やるべき事が見えました——」

 

腕を避けた後、そこにある祐巳の顔は凛然として美しく、

一人これを独占したマネージャーは、しばしこの光景にのまれたのであった——。

 






更新が少し遅くなってしまい、待っていて下さった方には申し訳ありませんでした。


話は変わりますが、私、マリみてに限らず逆行ジャンルが大好きなんですよね…。ですので、その内この物語からの逆行ものを書くかもしれません。その場合祐巳が悪オチしますので、そういうものが好きな方は、その際活動報告は致しますので、r18かチラ裏の方をご覧ください。


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#30 マイプレシャス

(1)

 

翌日の大学。

 

二限を終えた後の教室で、環と由乃と志摩子、私の四人で集まりお弁当を広げている。

その見た目も中身もそれぞれ個性的だ。

環のお弁当には、毎回大きなおにぎりとぬか漬けが欠かさず付いている。作っているのは桃ちゃんと言う彼女の自慢の妹さん。

由乃のは、具材のバランスが完璧で、その上彩り鮮やか、くしや仕切りといった細かなところまで気が配られていて可愛らしい。言うまでもなく、これは令さまのお手製である。

そして、志摩子は、相変わらずの和の御膳。

今の時期はギンナンが旬だから、と嬉しそうにそれを口に運ぶ彼女。

昨日も入っていたけど…もしかして、これも学校の敷地で拾い集めたのだろうか……。

 

「祐巳…何かあった?」

 

祐巳が、面白いなあと思って観察しながら、

母の愛情が詰まった自分のお弁当に手を伸ばすと

環が私に話を振ってきた。

 

「…ん、へ?どうして?」

 

「だって、あの何かと祐巳に絡みたがる三人組が、今日はあなたを見るなりなぜだか畏まってたし…」

 

あー言われてみれば、今までに見た事のない態度をとられた気はする。でも、あまり昨日の事は知られたくないなぁ。なんか面倒くさいことになりそうだし。

ネックレスは昨日のうちにマネージャーさんがなおしに出してくれて、今は首元でいつも通りに光を反射している。

 

「…ん〜そうかなぁ〜」

 

祐巳は曖昧に誤魔化した。

 

「それに、なんというか、雰囲気が変わった気がして」

 

ねえ?と、環は他の二人を見やった。

すると志摩子と由乃も首を縦に振る。

 

「ええ、私も今朝からずっと思ってたのよ?」

 

「そうね〜。なんて言うのかしら、凛々しいというか、…絶好調な時の祥子さま?みたいな…」

 

「え?お姉さま!??」

 

それはちょっと言い過ぎである。確かに闘志は漲っているのだけど、祥子さまと比べるなんて畏れ多い。

 

「祐巳、嬉しそうね」

 

あれ、そんな顔をしているだろうか?

志摩子に指摘されて気づく。

 

「…祥子さまの話題に笑顔…もしかしてっ、祥子さまと仲直りした?!」

 

由乃が身を乗り出して尋ねてきた。

…仲直り、か。…あれは喧嘩というか、私が一方的に逃げたという方が正しい。

——それに、その事については、もう気持ちの整理が出来ている。

どうしたいのか、どうするべきか。行動に移すのはこれからだけど。

 

「…まだ、あれから、会っても話してもいないんだけど…」

 

そこで三人の顔が気遣わしげなものに変わったので慌てた。

 

「ち、違うって!…私が言いたかったのは、もう大丈夫ってこと。——離れていても、気持ちは何も揺るがないから」

 

力強く、はっきりと言う。この想いを口にすると無意識に感情が昂ぶってしまうのだ。

みんな些か間抜けにも見えるほど惚けた顔になった。

そして元に戻ったかと思うと、次々と口を開く。

 

「…あら、羨ましいほど強固な絆ね」

 

「あー、熱い。ただの惚気じゃない」

 

「ふふ、そちらの心配は要らないようね」

 

私たち姉妹のことでも随分、気を揉んでくれていたようだから、その懸念だけでも解くことができて良かった。

 

志摩子の「そちらの」という言葉に、まだ彼女達に潜む祐巳への気がかりについて考えてしまう。

 

正直、もう人から批難を向けられることが怖いとは思わない。むしろ直接私にぶつけてほしいとすら思う。そうしたら、私もその人に伝えられるから。誤解を解くにはいい機会だと前向きに捉えるようにもなっていた。

 

という事で、まあ、行き帰りの送迎もこの友人たちの日々の付き添いも、もう必要ないのだけど、今私から切り出したところで、聞き入れてはくれなさそうだし、不安だけを残したままにもしたくない。

だから、みんなが自然と祐巳は平気だと思えるように頑張ろうと心に決めた。必ず、そうなるから、あと少しだけ待っててね。

 

 

 

(2)

 

「高岡さん、今回の曲は、特にタイアップとかはないんですよね」

 

オフィスの会議室で行われる新曲に向けての打ち合わせ。

祐巳は開始一番に質問を投げた。

その表情は、今まで見てきたどれよりも真剣で、周囲も祐巳から溢れる気迫に目を見張った。

 

「——ああ、元々次は特にコンセプトとか決めずに、祐巳の感性を思う存分発揮してもらおうかと思ってたからね」

 

「…じゃあ、歌さえ完成させれば、リリース日を早めることも出来ますか?」

 

重ねられた問いに、高岡はピクリと反応した。

 

「……まあ、全てこちらの都合で日程を組んでるから、曲づくりの日数が縮まれば、その分を早めることは可能だよ」

 

今までの四ヶ月に一度のペース。それは、急ぎすぎず祐巳の成長を促すにも最適の期間と思って決めていたこと。

 

「…そうですか、では…これを皆さんに聴いてもらいたいんです」

 

良かったとつぶやきながら。

祐巳がおもむろにテーブルへと置いたもの。

それは、黒いレコーダーだった。

目線で、いいですか?と高岡の許可を求める祐巳。頷くと、その再生ボタンを押した。

 

意図を読んで、静まる室内。その場の全員の意識がレコーダーの一点に集中する。

 

・・・———————

 

室内に広がる、ただ唯一の音。

 

————————っ

 

———・・・・。

 

 

 

 

やがて、数分間空間を支配した音色は止み、ノイズだけが響いたところで、祐巳が停止を押す。

完全なる静寂。

誰も口を開かない。

言葉もないのは、感想に窮した訳でも、お互いに譲り合った訳でもなかった。

 

————。

 

未だ、漂うその余韻。いつまでも続きそうな留まる空気。

 

「……あ、の〜」

 

そこに遠慮がちに気落ちした小さな声が零れる。

先ほどまで、空間に満ちていた音と源を同じくするそれは、陶然とした人々をハッと引き戻した。

 

そして、バッと瞬時に祐巳へと集まる視線。

 

「…もしかして、、ぜんぜん…でしたか…?」

 

次の瞬間、それらの表情が一様にぽかんとする。

つられて、ぽかんとなる祐巳の顔。

 

そんな異様な室内。

そこにふと、空気の漏れる音がした。

 

ふ、ふっ、

 

「あっははは!ユミ!最高だ!!ふっはっははは!」

 

突如、快活に響き渡った笑い声。

 

「いいよ分かった!次のシングルの発売は、十一月の頭だ!」

 

祐巳の顔がぱぁと華やいだ。

 

「じゃあ!」

 

「うん、後はここに音を乗せれば完成だし、プロモーションのための期間が必要なだけだからね。——ユミ、すごいな。いつから取り掛かってたんだ」

 

「昨日です。…歌詞もメロディも伝えたいものがどんどん溢れてきたので……だめ?…でしょうか」

 

たった一日。祐巳の言葉に、その場が騒然とした。

 

「——は、はっ。…だめなわけないだろ!そっか、ユミは降りてくるタイプなんだな。——よし、これから忙しくなるぞ!」

 

高岡の掛け声を合図に、わっと盛り上がる室内。

みんなの表情が、期待とやる気に生き生きと輝く。

それを見た祐巳は、胸が熱かった。自分が受け入れられている。自分に全力で応えてくれる人たちがいる。だからこそ安心して目の前の壁に立ち向かうことができる。

 

「……っ。よろしくっお願いします!」

 

祐巳にはまだ大した作曲技術なんてない。

ただ、メロディを生み出して紡ぐことは、楽器がなくても、整った設備がなくても、その人の声さえあれば確かに出来る。それこそ自由自在に、趣くままに。——しかし、言うのは簡単でも、実際にそれが、人に聴かせられるものになるだけでなく、心に響く音になるなんて言うのは、間違いなく才能の為せる技であった。

 

だから、誰もが思ったのだ。

この才能を潰させはしない、大きく花開くその日まで支えるのは自分たちだ、と———。

 

 

 

 

(3)

 

——某局の一角にある喫煙スペース

 

ある男が、白いもやの広がる空間で、薄い唇の間に挟んだタバコをパッと離し、うまそうに煙を吐き出した。

天井の換気扇へと立ち上る紫煙を追いながら、目下の関心ごとについて思索する。

 

——ユニゾンプロダクション。

 

あそこは、あの高岡グループ系列の会社だ。

業界大手、有名タレントも多く抱える。

しかし、芸能部門は他の事業とは趣きを画していて、

プロダクションはプロダクションで独立した動きを取っている。

自社タレントのごり押しや、膨大な資金力で圧力をかけるということもしない。一種冷めているというか、そこに無駄に力を入れるということはしない姿勢のようだった。

そんななか、今から二年ほど前に高岡本家直系の長男がそこの社長に就任した。当初は焦った。今のテレビ局と芸能事務所のパワーバランスが崩れ、ユニゾンプロダクションが圧倒的な権力を握るのではないかと。

高岡グループが全面的にバックにつくならばあり得る事態だからだ。

しかし、確かに彼は仕事ができる男ではあったが、親族と不仲であるという噂はどうやら本当らしかった。

その証拠に、彼は高岡グループの権威を一切振りかざそうとしない。

私から言わせれば、理想主義の甘ちゃんだ。

というよりも、タレントは単なるPR戦略の内の一部で、たまに利用はしても、駒に肩入れはしないというのが、グループの総意、そしてかの青年だけが異端児のようであった。

 

だから、私はこれまで通りのやり方で、思うままに成功を手にし続けられることが確定した。込み上がる笑いが抑えられない。

 

なんて愉しい立場なんだ。誰もが私に媚諂い、私の望み通りに動く。

 

だが、あのクソ生意気な高岡の小僧は私の要求に応えなかった。

それと、あの少女…『ユミ』。すぐに折れると思っていたのに、意外と打たれ強い。…しかし、彼女のあの容姿と何とも言い難い清廉なオーラ、アレは必ず人気が出る。歌手としてだけでなく使いようは色々あった。——『ユミ』を私の思うままに動かしたい。

 

 

そして、男は携帯の通話ボタンを押す。

 

『——はい。どうされました?』

 

思わずニヤつくのを止められない。

 

「…ああ、またいいネタを提供してやろうと思ってな」

 

 

思い知ればいい。私に逆らうとどうなるのかを。

従わないなら潰れるまでだ。

 

ホラ、早く私に懇願して見せろ『ユミ』。

 

そしたら良いように扱ってやらないこともない——。

 

 

 

(4)

 

「ユミさん、来週は音楽特番が入ってますけど……いけます?」

 

いつものボイストレーニングと、作曲、編曲の詰めの作業、それから、プロモーションに関する打ち合わせを終え、気持ちの良い疲れとともに、帰路に着く車内で、予定の確認が行われる。

 

けれど、それはもう大分前から聞いていたことで、私も了承している。

にも関わらず、マネージャーはまだ心配が尽きないようだ。

噂の人たちも軒並み出るから、嫌なら断っても良いと、高岡さんにも言われた。でも、出演時間が被っている訳でもないし、そんな事を言っていてはこれからも私の活動に支障が出てしまう。

 

「ふふ。大丈夫ですよ。…それより、歌う曲の変更って出来ませんかね?」

 

番組からのオファーでは、『ひこぼし』をリクエストされている。

でも…私はやりたいことがある。

 

「変更…ですか?…話し合ってみないことには…」

 

「——私の言う条件を付け足してみて下さい。きっとオーケーしてもらえますから」

 

不思議な顔になったマネージャーに向けて、ずっと考えていたことを打ち明ける。

 

「ーーーーー……」

 

「…っちょユミさん!私には判断しかねます!社長に仰ってみて下さい!」

 

普段の彼女らしくなく、大慌てしだしてしまった。

 

「ぷっ。分かりました。そうします」

 

 

 

次の日。

 

毎日重ねられる話し合いがひと段落したところで、

さっそく言われた通りに、高岡さんへと私の希望を伝える。

 

「…まあ、それならむしろ番組側は喜んで食いつくだろうけど…いいのか?許可する以上は、遠慮なく突っ込まれるぞ」

 

「はい、むしろそれが望みですから」

 

「——そうか。……確かに、その方が良い方に転ぶかもな」

 

側に控えているマネージャーが、え?と思わず声を上げたのが聞こえた。彼女は厳しいようで、かなり私に対して過保護なところがあるから、内心承服しかねるといった感じなのかもしれない。

 

「例え、そうでなくても後悔はしません」

 

でも、私の決意は変わらないから——。

 

「分かった。ユミ、話は通しておくから、頑張れよ」

 

「ありがとうございます!」

 

 

 

(5)

 

夜七時から始まる、四時間に渡る生放送の音楽特番。総勢30組のアーティストたちが、順番に楽曲を披露していく。祐巳の出番は八時。第2タームの初っ端だった。すごく良い時間帯だ。

 

「続いては、今年四月にデビューしたばかり!その純真な歌声は老若男女問わず人々を魅了する、今一番注目のアーティスト、ユミさんです!どうぞこちらへ」

 

「こんばんわ。ユミです」

 

「こんばんわー!ところで、ユミさんが披露してくれるのは、十一月八日にリリース予定の新曲なんですよね」

 

「はい。今伝えたいことが全て詰まった楽曲です。ぜひ皆さんに聴いていただきたくて」

 

「かけがえのない人への想いを歌った曲ならしいですが、…それはもしかして、噂のネックレスの相手…に関係してたりします?」

 

 

——少し、会場が騒めいたのを感じる。

 

 

「——はい。まさにその人へ向けて綴った歌です。きっと皆さんが想像している方々ではないのですが、私にとって何ものにも変えがたい大切な人です」

 

一番聴いてもらいたい人には、本番の前にメールを送った。

約二ヶ月ぶりに取った連絡。

お忙しいだろうから、この瞬間に聴いてもらえるかは分からない。

でも——、ここをスタートに伝え続ければ、必ず届くと信じている。

お姉さまだけでなく、聴いてくれたみんなに——!

 

「…恋人との実体験を元に創られたという事でしょうか?」

 

「いえ、恋人とは少し違うんですけど、愛には色んな形があるので、愛する人がいる全ての方に何処か共感できる部分があればいいなと思います」

 

少しも言い淀むことなく、すらすらと想いを口にすることが出来る。

それは、今、祐巳の心には『伝えたい』その一心で、余計な思考も感情も一切入り込む余地がないから。

 

「……分かりました…。…それでは、スタンバイの方お願いします」

 

「はい!」

 

 

視界に、広がるこの景色を——。

 

大勢の観客に囲まれて、ステージに立つこの感覚を——。

 

——久しぶりに感じる。

 

すごくすごくすごく、心が浮き立つ。

 

聴いてくれる、人がいる。伝えられる場所がある。

 

これから、歌える!そう思うだけで、興奮に胸が高鳴っていた。

 

『ユミーーーーー!』

 

どこからか、聞こえた声援を合図に、一際大きく鼓動が脈打つ。

 

どくん——と。

 

 

「それでは!ユミさんで今夜初披露の新曲『長春花』です。どうぞ!」

 

 

すっと熱い空気を取り込んだ——。

 

自然と浮かび上がる、凛とした意志の光。

 

 

『ユミーーーーー!わぁぁあああああ!!!………』

 

 

 

 

……ーーっ

 

 

巡る季節のその中で 変わらず過ぎる朝の庭

 

それはほんの気まぐれで

 

覚えていますか あなたのことば

 

爽やかな青い空の下 四季咲きの花に誘(いざな)われ

 

 

動き始めた私の世界

 

 

薄明り 空に浮かんだ白い月

 

見守る女神 あなたと私

 

繋いだ絆は 燃ゆる紅色

 

 

あなたと巡る花咲く季節

 

 

照れ笑いはにかむその日々も すれ違い泣いたあの時も

 

私を叱るあなたでさえ 幸せが胸に溢れるよ

 

 

包み込み守ってくれるあたたかさ

 

私は 支えになれていますか

 

 

何度季節を巡っても どんな姿のあなたでも

 

私も必ず見つけるよ

 

覚えていますか あなたのことば

 

澄み切った青い空の下 これは四季咲きの花だから

 

 

その顔も 髪も声も指先も

 

あなたの全てが好きだけど

 

外見だけが理由じゃない

 

 

私にとってのあなたもです

 

とびきりの愛しさ満ちるその日々は 特別でないただの一日

 

 

今日も明日も明後日も

 

今までもそしてこれからも

 

 

ずっと一緒にいて下さい

 

私はあなたが大好きです————

 

 

 

 

 

 

最後の一音、紡ぎ終えた『ユミ』は、見たこともないほど

 

美しく、満足そうに、微笑んでいた。

 

 

至福のとき——

 

まるで、愛の女神の祝福を受けたかのように——

 

 

 

「……祐巳ッ…!」

 

「ここまで振り切ってると、何か言う気も失せるよな…」

 

 

 

親愛、友愛、敬愛、慈愛、恋愛、ユミの歌は、そのどれかではなく、いずれをも包含していた。

そんな愛を歌うユミの姿は、清廉で純真で、無垢な光に包まれて、

そこからは、下世話なゴシップの片鱗すら感じることはない。

 

 

———っ!わぁぁぁぁああああああああ!!!!!!———

 

 

それまで、息をするのも忘れて聴き入っていた聴衆から

堰を切ったように送られる歓声と拍手。

 

この日は、『ユミ』が、『歌手』という肩書きのタレントから、

一人のアーティストとして、本人もそして世間も認識を新たにした始まりの一日となったのだった——。

 

 

 




祥子さまひっそり見に来てます。
なので、ここは某局なのですが、かのプロデューサーは特番には絡んでいません。
祥子さまと祐巳ちゃんの邂逅は、もう少々お待ちを。

歌詞ですが、祥子さまと祐巳ちゃんの名場面と名台詞を詰め込んでます。一番初めの言葉は「お待ちなさい」ですね。
「タイが、曲がっていてよ」も入れたかったのですが、泣く泣く削りました。笑


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#31 紅をさして

(1)

 

——時は、九月の終わり頃。

 

「裏のない記事を掲載するほど切羽詰っていたなんて大変だったろう?」

 

「は、はい」

 

「うん、だよね。こんな正義も誇りもかなぐり捨てた記事なんて、余程追い詰められてないと書かないよね〜。これを嬉々として載せるやつとなんて僕は一生関わりたくないからね」

 

つい最近、私の所属する出版社は小笠原グループの成長分野であるIT部門と業務提携、更には資本提携まで行い、経営統合した。

娯楽が増えたためか近頃の出版業界には不況の風が吹き込んできて、我が社も早急の対応が求められていた。そんななか、買収ではなく提携という形で手を差し伸べてきた小笠原グループ。社の未来に光が灯った——が、それ故にあちら側には頭が上がらない。

そして、今回の件に大きな役割を担っていた人物、そんな小笠原側の若きホープがなぜか、イチ週刊誌の編集長でしかない私の元を訪ねてきた。

 

「情報を扱うなら、そこに正確性は不可欠だよね。見る人との間に信頼を築けなければ、終わりだよ」

 

「…え、ええ。ですが、私共も業界に詳しい方から得た情報を元にしておりますので…その点ではそれなりに信憑性もあるのではないかと……」

 

このままでは、どんな処分が下されるか分からない。

苦し紛れの言い訳を試みたものの、それは全くの逆効果となってしまった。向き合う彼の瞳が鋭さを増す。

 

——ヒッ。

 

「…へぇ。それって、誰?」

 

「それはっ…守秘義務が…ありますので」

 

…目の前の青年に気圧される。それでも、簡単に漏らすわけにもいかなかった。どちらにしろ裁かれるならば、せめて、あの人からの報復の可能性だけでも消したかった。

 

「あれ?僕はもう身内でしょ。教えられない理由でもあるのかな?」

 

「……」

 

どうしていいか分からず、沈黙して下を向く。冷や汗が止まらない。

すると、前方からふぅ、と溜息をつく音がする。

 

「僕は身内には甘いんだよ。君には情状の余地もあると思っている。……でもそれは、君がこれからは態度を改めて、誠実に職務を全うするなら、だけどね」

 

「……某局の、プロデューサー…です」

 

思いがけず垂らされた救いの糸に咄嗟に飛びついた。

 

「ふふ、…まあ、予想通りってところかな」

 

青年は、それまでが嘘のように、愛好を崩して私を見る。

 

「僕たちはさ、提携したことによって生まれ変わった姿を見せたいんだよ。……それでさ、提案があるんだけど、聞いてくれる?」

 

しかし、ほっとしたのも束の間だった。

気づけば、目に映るのは、真剣で有無を言わせぬ強い瞳。

これから、私は常にこの目に晒されるのか。仮初めの誠実さなど通用しない。

だが………、

いつしか失っていた仕事への熱い想い、ふと過ぎったのは、記憶の彼方に置き去りにした若かりし頃の自分だった。

 

「…は…い。…もちろんです」

 

 

 

それから間もなく、かの青年の要求に応えられる機会がやってくる。

 

「——はい。どうされました?」

 

『…ああ、またいいネタを提供してやろうと思ってな』

 

不定期にくる連絡。

しかし、電話で情報の交換をすることはない。どこから漏れるか分からないから。

 

「では、いつもの場所でよろしいでしょうか」

 

『ああ、今日の夜十時に』

 

「分かりました」

 

 

 

そして、彼との通話から数時間後、私は目的の場所へと向かった。

胸の内ポケットにはしっかりとレコーダーを潜ませて。

 

 

(2)

 

十月に入り、漸く標的の確たる証拠を得て、祥子は念願の局側との交渉に意欲を燃やしていた。

 

「…一応の確認だけど、これは勝ち負けじゃない。小笠原の権力は大きなカードだけど、相手に強制させるようだと、後々いらない敵を作ることになるよ」

 

現在いるのは、小笠原グループ本社ビルの会議室。

この件において協力関係にある男が幾分真面目な調子で祥子へと話しかけた。

 

「ええ、分かっておりますわ。その為に貴方の協力も必要だったのですし」

 

部屋の中には祥子と男の二人だけ。

 

「まあね、ウチの場合、先にあちら側から脅されてるから、当然の権利を主張するだけだしね」

 

祥子はすぐ先のことにかなり緊張して、立ったままいつでも出迎えの態勢を取れるようにしているのだが、相方である男の方は、椅子に腰掛け余裕の態度だ。

まあ、そんな姿に安心感を抱かない訳でもないが、自分の未熟さを実感させられるため、少々苛立ってしまう。

 

(…やっぱり、私はこの方が苦手だわ)

 

局側の出席者は、代表取締役の社長を始め、常務と編成局長の三人。

交渉の場に用意したのは、小笠原の会議室のうちの一つではあるが、そこまで重厚な造りという訳ではなく、部屋も広すぎず狭すぎず。

話し合いの席となるテーブルと椅子は相手の立場を尊重し見栄えも質も良いものではあるが、全員が均一の距離で対面できるよう、丸テーブルに等間隔で五つの椅子が並べられている。

対等な関係であることを強調して、お互いの信頼を高めるため、部屋の環境においても事前準備に抜かりはない。この話し合いは一方的な要求ではなく、相互にとって良きものであるというポジティブな印象を与えたかった。

 

ドアがノックされ、小笠原の秘書が相手方の到着を知らせる。

 

祥子は身を引き締めた。

今からは、表情、姿勢、動作、声に言葉遣い、あらゆることに注意を払わなければいけない。相手をリラックスさせ、警戒を解いてもらうために。

 

「本日は、お忙しい折、弊社まで足をお運びいただき、誠にありがとうございます。以前の者に替わって御社を担当させていただきます、小笠原グループの小笠原祥子と申します」

 

「いえ、今後は貴女が直接我が社と深くお付き合い頂くとお聞きしましたので、ぜひご挨拶したいと伺ったまでです。こちらこそお時間頂き、感謝しております」

 

お互いに初対面のため、名刺を交換し、挨拶を交わす。

 

そして高岡は面識があるからだろう。それぞれと簡単に挨拶を交わし終えると、席に着いた。

 

「高岡社長も同席なさることは聞いてはおりましたが、何か重大な要件がお有りなのでしょうか?」

 

局側の社長が早速口を開いた。

思い当たる節はあるのだろう。しらばっくれてはいるが、開口一番に尋ねたのは、それが懸念事項という認識があるからだ。

黙認してはいても、厄介の種ではあるようだ。それさえ分かれば話は進めやすい。

 

「はい、今回は今後の双方のために用意した場ではありますが、議題にあげたいことには、高岡さま、ひいてはユニゾンプロダクションの動向に寄るところが大きいですから。どちらかと言えば、私は仲裁の立場とでもお思い下さい」

 

高岡は腕を組み、先程から憮然とした態度を崩さない。

それに対して私は、終始穏やかに、時には身振り手振りを加えて、相手方に語りかける。

もちろん、これらは事前に彼と打ち合わせ済みで、態とやっている。

相手方は、自然、彼に危機感を持ち、まるで自分達を好意的に受け入れているかのような私の方を頼ろうとする。

 

「それは、どういったものなのでしょう。複雑な事情によって譲歩出来ないこともありますが、我々としても円満な解決を望みます」

 

局側のお三方は、一様に私を見ている。

 

「小笠原グループは御社の番組を幾つか提供、または、スポンサードさせて頂いていますが…」

 

ここで小笠原の立場を明確に示しておく。

 

「ええ、ご贔屓頂き、ありがとうございます」

 

相手方の感謝の言葉に、こちらも笑顔で応える。

今後も良好な関係を続けたいという意思表示。

それから、ひっそりと話を切り出す。ここだけの話、この場だから打ち明けるのだとでも言うように。この近い距離感も、このための仕掛けである。

 

「先日…面白い情報を手に入れまして…高岡氏もこの場におられるのは、彼の主張を聞いて頂きたいというのと、これの確認と証人のためでもございます」

 

そこで、少し間を空け、三人が頷き先を促すのを待つ。

強制するものではなく、あくまで善意の情報提供なのだと理解いただくために。

 

「ご存じでしょうが、我々は近頃、某出版社と経営統合いたしました。この機会に内部の刷新にも取り組んでいるのですけど…ある週刊誌に関しては、廃刊、切り捨てを検討中です。その際、世間に公表する理由として……」

 

そこまで言って、急激に局側の三人は、蒼ざめ、慌てだした。

 

「まっ待って下さいっ!!!」

 

「…そ、そんな事をすれば、局の醜聞になります。それに、かのプロデューサーはウチの人気番組を手掛ける優秀な男ではあるのです」

 

「他の…スポンサーの方々も恐らく黙ってはいません」

 

「小笠原グループにとっても…マイナスでしょう?」

 

まだ、何も言っていないのに、向こうから勝手に核心へと触れてくれた。

 

祥子は、不思議だと言わんばかりの表情を造る。

そんな反応が返ってくるとは思いもしなかった、と…。

 

「…皆様のご意見は分かりましたわ。…とりあえず、一旦落ち着いて、これを、聞いていただけないでしょうか?」

 

そう言って、取り出したレコーダー。

そこに録音された音声を再生する。

 

—————。

 

「…っ!…………」

 

聴きながら、増す増す険しくなる高岡の顔と、それを受け、彼に対しては申し開きようがないからだろう、言葉を失うお三方。

 

「 小笠原グループとしては、この様に安易で低劣な行いを放っておくことは出来ないのです。何れバレてしまう前に、自ら告発した方が、今ならばまだ世間にクリーンなイメージを印象づける事が出来ますし、……確かに、彼の番組は視聴率こそ良いようですが、質的に優れているとは思えません」

 

「…そ、れは」

 

「それだけではありません。高岡さま?」

 

「——ええ、我々ユニゾンプロダクションは、今後一切、御局にウチのタレントを出演させないこととします。我々を卑劣な手段で脅かそうとする者がいるところとなど、さっさと手を切りたいですからね」

 

「貴方には、本当に申し訳ないと思っています。しかし、それは我が社の方針ではありません。一個人の勝手な暴走です。埋め合わせは必ず致しますし、今後このような事がないよう十分に言い聞かせますので、どうか今回は目をつぶって頂けないでしょうか!」

 

「…いえ、今後どんな仕返しをされるか気が気じゃありませんし、私もタレントを守る義務がありますので」

 

「…これを聞いて、他のスポンサーの方々はどう思われるでしょうかね。彼の事務所のタレントをCMに起用している企業もございますし、何と言っても、魅力的な人材が多いですから…私共としてもそれは困るのです」

 

「ああ、それと、他の芸能事務所も結構な被害を被ってるみたいでね…うちも加わるならば、彼に対して訴訟を起こすことも検討しているみたいですよ」

 

「これも…我々が今のうちに悪事を暴きたい理由の一つです。局員が訴訟に取り上げられた放送局で、グループの宣伝をしたとして、万が一にでも悪印象を持たれてはかないませんから」

 

「もちろん、黙認して、短期的な利益を追うのも良いでしょう。けれど、放っておいても何れ業界からも顧客である視聴者からも信頼を失い、将来的に御社にとって大きな損益となるのでは?私は、そのことに危機感を覚えているのです」

 

「っ…………!」

 

「我が社としては、今後もそちらと友好的な関係を築いていきたいのです。故に、遠慮のない意見を述べさせて頂きましたが、あなた方のことを信用しての事です。良きご判断をなされること期待しています」

 

「…………」

 

局側の三人は、お互いに顔を見合わせるものの、まだ決めきれないようであった。

 

「——それでは、私はこれにて失礼させてもらいます」

 

そんな様子に、高岡は焦れたように苛立ちを隠さず立ち上がる。

傍目には、この怒りのままに強硬手段に出てしまうのではないかと感じるだろう。

 

「——っ!お待ち下さい!」

 

局の社長が咄嗟に止めに入る。

祥子は内心で笑みを浮かべた。目的の達成を確信して。

 

「ご忠告、感謝いたします」

 

高岡が不承不承、席に戻ったところで、私と彼に向けて、謝辞が述べられる。それは、はっきりと、意志のこもった声音だった。

何をどうするべきか、ようやく決断して頂けたようだ。

天秤にかけるまでもないだろう。たった一つの害を取り除けば、総てが上手く収まるのだから。

 

「いえ、お互いの益のために致したまでですので。これからもよろしくお願いしますね」

 

祥子は心底満足して、その顔に浮かんだのは、極上の微笑みだった。

 

 

 

(3)

 

あれから約二週間が経過していた。

 

その間に、局側から、祥子の望んだ報告も受けた。

 

しかし、多忙な日々は変わらない。

 

祥子は、ここ最近では、寝るためだけに使用していると言っても過言ではないマンションの自室で、珍しくも日の高いうちから寛いでいた。

優さんから強制的に丸一日の休息を言い渡されたため、仕方なく大学のレポートを処理していたのだが、その作業にも終わりが見え、一息ついていた。そこでふと思い出したのだ。そういえば、本当に久方ぶりに笑っていた、と。

 

そして、自然浮かんだのは愛しいあの子のこと。

 

祐巳に少しでも償えたと思ったから。

それによって、離れてしまった祐巳との距離が少しでも縮まった気がしたから。

だけど、祐巳から許してもらえない限り、私からは連絡を取ることが出来なかった。

………違うわね、祐巳は今の状況が私のせいだなんて微塵も思っていない。あの子は優しいから。…でも、私が自分を許せない。自分のせいでまた、祐巳を傷付けるのではないかと、そのことが恐かった。

どんなに…会いたい、と心が訴えていようとも。

 

そんな風に、愛しさと切なさに胸が締め付けられている時、

私の携帯からメールの着信を知らせる音がした。

 

…なんだろう。と、特に感慨もなく、それを開いた瞬間——

 

私は、信じられない思いで、息も止め固まってしまった。

 

だって、あまりにも、タイミングが良すぎたから。

 

私の願望が見せた幻かと、夢ではないかと本気で思ったのだ。

 

——けれど、

 

 

『お久しぶりです。

お姉さまはお変わりないですか?

体調を崩されたりはしていませんか?

 

会いたいですお姉さま。

 

でも、自分から離れておいて都合が良すぎますよね。

それでも、あなたにどうしても聴いていただきたいものがあります。

お時間があったら、今夜の八時に、特別番組を見て下さい。

私の一番大切な想いが、そこに詰まっていますから。

 

祐巳』

 

 

その文面を見て、いてもたってもいられなかった。

 

 

そして、私は祐巳に指定された一時間も前、番組の開始と同時にスタジオにまで足を運んでいた。

 

 

 

———わぁぁぁあああああ!!………

 

 

 

今、耳に届くのは、鳴り止まない暖かな歓声。

それは、祐巳の姿が完全に見えなくなるその瞬間まで贈られていた。

 

(……祐巳っ……)

 

堪えきれず溢れる想いは、涙となって祥子の頬を濡らす。

……言葉にならなかった。

頭に浮かぶのは、今すぐ駆け寄って、彼女を抱きしめたい——という強い願い。

 

 

「ふぅ、一先ずは目下の憂いもなくなったし、一安心ってところかな」

 

 

そんな中、ふと零された言葉。

……すぐ隣に、いつからかこの男がいたのだとようやく思い至った。

 

「君という味方がいてくれて、本当に心強いよ」

 

祥子は急いで涙を止め、平静を取り繕って、高岡に応える。

この人の前で取り乱した姿を見せるのは悔しいから。

 

「…貴方は、私の協力がなくとも、なんとかしてしまえたのではないのですか?」

 

彼は私の様子に気付いていながらも、素知らぬ振りをする。

そんな気遣いにもまた腹が立つのは、もう仕方ない。

祐巳に関して、私は無意識にこの男をライバル視してしまうのだから。

 

「…いや、そんなこともない。今より時間が掛かっただろうし、あまり問題が長引くと、うちのグループが出張ってくる危険もあるから」

 

まあ、一つの目的に集中出来る私と違って、この人はプロダクションの社長としてやらなければならないことが多岐に渡る。

それが予想出来たからこそ私が動かなければと思ったのは確かだ。

それに、理解は出来ても、彼がそれを理由にこの問題を放置するようなら、有無を言わさず、祐巳から手を引かせるところだった。

 

「高岡グループが動くなら、それこそ私の力添えなどいらないでしょう」

 

高岡の言葉に対して、少し怪訝に思う。

この男の実家は小笠原家と比べても遜色のない名家であるし、昨今の業績やグループの急成長をみても、向かうところ敵なしといった感じなのである。

 

「——それは、一番避けたい事態なんだよ。彼らはタレントを道具としか認識していない。やっと俺が社長になって築きつつあるものを壊されたくないんだ」

 

祥子の眉がピクリと動く。

 

「——それを、私に言ってしまって良いのですか?…私は祐巳に対して誠実である限り、あなたにも協力は致しますが、同時に見張ってもいるのですよ。……その話を聞いて、祐巳をそんな場所に預けておきたいと思うはずがないでしょう」

 

聞き捨てならないことだった。

 

「だから、これは保険だよ…。もちろんユミを手放したくなんかないから、俺も今のままいるつもりはない」

 

高岡の表情は一瞬憂いを見せた気がしたが、すぐに表情が引き締まり、挑戦的で気迫に満ちたものになった。

 

「……祐巳は、貴方を信頼しています。裏切るような真似だけはなさらないで下さい」

 

本当は今すぐにでも、祐巳を連れ去りたいところだ。

でも、祐巳の気持ちを無視することは出来ないから。

私が出来るのは、備えること、何があっても大丈夫なように。

あの子を、いつでも包み込んで守れるように——。

 

「ああ、誓うよ」

 

その言葉を聞き届けて、祥子は静かにその場を後にした。

 

 

向かうのは、祐巳のもと。

 

 

もう、我慢が出来なかった。

 

祐巳の想いが、痛いほど胸を突いて。

 

だって、あれは、寸分違わず私の想いでもあるから。

 

 

祐巳———!

 

 

 

(4)

 

出番を終えた後、祐巳は裏からスタジオの客席へ向かって走った。

 

歌っている最中、お姉さまの存在を感じた。

 

目に見える場所にはいなかったけど、あそこには絶対、間違いなく、祥子さまがいたんだ!私が祥子さまに気づかないはずがないから!

 

走る、走る、走る。

 

途中、驚いたように、すれ違う人たちに振り返られるけれど、気にせずにひたすら走る。

 

どくん、どくん、と。

 

歌った時の高揚感は、留まるどころか、更に加速して、祐巳の胸を高く打つ。

 

———お姉さま!

 

祐巳の心が声もなく叫んだとき、

 

「———祐巳っ!」

 

待ち望んだ、その声に、姿に、全身の細胞が歓喜に震えた。

 

祥子さまが、こちらに駆け寄ってくる。

 

祐巳も全力で駆ける。

 

その距離はずんずんと縮まって、目に映るそのお姿も大きくなっていく。

 

それなのに、近付くたびに、祐巳の視界は滲み、後から後から溢れる想いが止まらない。

 

「お姉さまっ」

 

祐巳は、はっきりしない視界がもどかしかった。それでも、大好きなその方が、大きく両手を広げたのを感じて、思いっきり、その腕の中へと飛び込んだ。

そして、ぎゅっと、会いたくて仕方がなかった、その一途な思いを込めて、触れた体を強く抱きしめる。

それと同時に、祐巳の体も、その暖かな腕に包み込まれた。

 

「これは、夢ではないのね」

 

祐巳は、その言葉にハッとする。

夢の中と現実の境がおぼつかなくなるのは、それほど祥子さまが追いつめられていた証拠だ。

舞い上がってしまって、すぐには気づかなかったけれど、腕の中のお身体は、少々痩せられた気がする。それでもあの時程にはやつれていないのは、祥子さまが二年前よりも強くなられたから。

でも、傷ついた心に蓋をして、辛い気持ちを押し殺して、一人で立ち続けるのは苦しかったに違いない。

先ほどから、ポロポロポロポロと、堪えていたのであろう、想いの欠片が降ってくるのだから。

 

「私はここにいます」

 

祐巳は肩口に寄せていた顔をパッとあげて、しっかりと祥子さまのお顔を見つめて、告げる。

すると、祥子さまは震える手で私の頬に触れようとするのだけど、触れ合う寸前で一度ピクリと動きが止まった。

ああ、私のせいで、トラウマになっているんだ。

 

「お姉さま、ごめんなさい」

 

心からの謝罪とともに、祐巳は自分からその手に頬を寄せた。

祥子さまは、少し気恥ずかしげに微笑んで、優しくゆっくりと頬を撫でてくれる。本当に大切そうに、その繊細な指先、柔らかく暖かい手のひらから、祥子さまの愛情が伝わる。

 

「何を謝るの。あなたは何も悪くないじゃない。私が取ろうとした行動はとても独りよがりの自己満足に過ぎないものだったわ。祐巳が止めてくれなければ、間違いを犯すところだったのよ」

 

祥子さまは、そんな風にご自身を責めていたのだろう。

けれど、ネックレスについて否定しなかったのは、私の想いがちゃんと伝わったからだと思って良いのだろうか。

祥子さまの首元でもしっかりと光り輝いているそれは、二人の大切な絆。一点の曇りもない、純真な想いの形だから。

 

「それでも、その場でもっと話し合えば良かったのです。お姉さまから離れようとするなんて、最悪の選択です。あの時にちゃんと学んだはずなのに、また、お姉さまを傷つけました…」

 

今回は、祥子さまのことを信じられなかったわけじゃない。

自分の想いが、選んだ道が信じられなかった。それは祐巳がまだまだ未熟だったから。でも、揺らぐのが恐くて祥子さまから逃げるなんて、祥子さまを信じていないのと同じことだった。

 

「また、というなら私の方だわ。私は自分を犠牲にしようとした、そう思っていた。でも、実際は祐巳の想いを蔑ろにして、祐巳の気持ちを犠牲にしていた」

 

お互いに、反省する点もあの時と一緒。

不謹慎だけれど、少し可笑しくもあった。

 

「ふふ、成長するのって簡単ではありませんね」

 

まあ、祥子さまはさまざまな面において祐巳よりよほど優れているけれど、ご自分に厳しすぎるから。目指すところが高すぎるのではとも思う。

 

「そうね、だって私、またいつか繰り返すんではないかって、もう怯えているんですもの」

 

祥子さまは眉を下げて、少し頼りなさげなお顔をする。

うーむ。二度ある事は三度あるなんていう嫌なことわざを思い出してしまった。

でも、普段の祥子さまなら絶対に言わない弱気な言葉と潤む瞳にキュンときてしまう。

 

「あはは、ぶつかることはあるかも知れませんけど、でも絶対に離れはしません。だって、お姉さまへの想いだけは何があっても変わらないですから」

 

明るく、めいいっぱいの笑顔を顔に浮かべて。確かな気持ちを言葉に替える。

祥子さまの頬が微かに紅く染まっていた。

 

 

「……祐巳。あなたが好きよ」

 

 

そんな素晴らしい言葉に、顔に集まる熱。

祐巳の頬は祥子さま以上に紅潮していることだろう。

 

 

「はい、私も、お姉さまのこと大好きです」

 

 

大切な言葉を伝い合える喜びに満たされて、

二人の涙は、いつの間にか止んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日を境に、ユミに対する悪評は鎮火の一途をたどる。

そしてその後すぐに出た週刊誌では、ユミに関する記事の取り消しとお詫びが掲載されていた。

 

それから、あるプロデューサーが、突如として更迭されたことは、業界内を騒然とさせたものの、それはほんの一時のことで、彼の後任のプロデューサーにより番組も問題なく続けられることとなったのであった。

 

 






一山越えました。
次回は祐巳ちゃんと祥子さまに存分に絡んでいただきたいので、ほのぼのとしたお話になるかと思います。

タイトル、『パラソルをさして』に無理やり掛けてるんですけど、大丈夫ですかね。違和感ございましたらお知らせ下さい。


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