逆位置悪魔は星屑と踊る (大岡 ひじき)
しおりを挟む

序章〜クルセイダース・ゼロ〜
前編


「更科樹里。アンタ、おれの女になれ」

 …いきなり何を言いだすんだこの巨人は。

 一学年上の、言葉を交わしたのは昨日が初めての、よりにもよって『悪霊憑き』と呼ばれている女であるこの私に。

 

 ☆☆☆

 

 母方の曽祖母がロシア人で、その隔世遺伝で日本人とは異なる髪と目の色の私は、この外見で幼い頃から散々な目にあってきた。

 同年代の子供たちからは気持ち悪いと苛められ、年長の男性からは気持ちの悪い接触を受けた。

 後者は珍しい色というよりは、同い年の他の子供達よりも発育が良かったという理由の方が強かったのだろうけど。

 そして後者の最たる出来事は7才の時に、近所の大学生の男に拉致され、10日以上監禁された事だ。

 監禁されている間の私はその男に…挿入以外の、ありとあらゆる辱めを受けたとだけ言っておこう。

 そして最後にそいつが、オイルライターの火を、寝台に両腕をくくりつけられた格好の私の顔に近づけながら、

 

「一緒に死のう」

 と血走った目で告げた時、それは現れた。

 黒いヤギの頭部に人間の男の上半身。

 下半身は…やはり黒ヤギなのだろうか。

 だが私が驚いたのはその存在よりも、目の前に現れた『それ』に対して、男がまったく反応を示さなかった事だ。

『それ』は長い爪の指先をオイルライターに触れ…火が、唐突に消えた。

 

「……!?」

 突然火が消えた事に訝しげな表情を浮かべながらも、別段何事もない仕草で火を点けなおそうとする男の眉間に、『それ』の指先が触れる。

 次の瞬間…その眉間から後頭部までを、()()()()()()()()()

 

「ギィヤアアァァァァア!!!!」

 およそ人間があげるとは思えないような叫び声が男の口から出て、男は後ろ向きに倒れる。

 その後頭部から溢れた火が、倒れた先の畳に燃え移り、たちまち炎が燃え広がった。

 …覚えているのは、そこまでだ。

 気がついた時は、何故か全身ずぶ濡れだったが全くの無傷で、私は母親の腕に抱かれていた。

 その夜から一週間高熱に苦しんだ後、ようやく身体が起こせるようになった時…件の黒ヤギ人間が、私のそばに立っていた。

 それに助けられたのだと、本能的に理解した。

 

 その事があって以来、私は大人の男性が怖くなった。

 父親ですら、その対象だった。

 そして常に私のそばに立つそれは、私が恐怖を感じたものに攻撃した。

 炎はあの日以来出なかったが、鋭い何かで切り裂かれるような幾条もの傷を、私に近づくたびに負わされた父は、次第に私を気味悪がるようになった。

 私にしか見えないその存在は、周囲の人間にとっては、まさに『悪霊』だった。

 それから1年後、両親は離婚して、私は母に引き取られた。

 美人で社交的な母にはそれから何度か恋人ができたが、いつも母の縁は、私と恋人を引き合わせるたびに切れることになった。

 母の恋人として現れた男が、悉くまだ子供の私に興味を示した挙句、『悪霊』の攻撃を受けたからだ。

 私が高校に入学したと同時に、母は私にそれまで二人で暮らしていたマンションを譲り、自身は結婚を決めた恋人の元に移った。

 生活費は毎月口座に振り込まれてきて、大学までの学費もきちんと面倒をみるからと言われれば、それまで母の幸せを悉く潰してきた私としては、わがままなど言える筈もない。

 あれから母とは電話でやり取りをするくらいで会ってはおらず、新しい父は顔も知らない。

 互いの心の平穏の為に、それでいいのだと思っている。

 

 そして、以前よりはマシになったものの、私の男性に対する恐怖心は消えたわけではなく、また、おかしな男を引き寄せてしまう体質も健在で、一人暮らしを始めてから2年半あまりの間、『悪霊憑き』が噂になる程度には、私に近寄る男性に『悪霊』は相変わらず被害を与えていた。

 

 ☆☆☆

 

 昨日のそれは、形の上では単なるナンパだった。

 だが、ただ声をかけてきたなんだかチャラいだけの男を、型通りにあしらってその場を去ろうとしただけなのに、何故か相手が腹を立て、私に掴みかかろうとした。

 いつもならば『悪霊』が攻撃しただろうそのタイミングで、伸びてきた手は『悪霊』のものではなかった。

 それは、私に掴みかかろうとした男の腕を掴んで、更に捻り上げた。

 

「ひィッ!!痛ててッッ!!!」

「無抵抗の女に、男が手なんざ上げるもんじゃあねーぜ」

 …それは、大きな男だった。

 鎖などジャラジャラしたものを下げた、相当改造された学生服は、恐らくはうちの学校のものだ。

 それをボタンも閉めずにさらけ出されたアンダーのTシャツを、分厚い胸筋が押し上げている。

 その学生服の上、女としては背の高いはずの私が見上げる位置にある頭には、これも恐らくは学帽なのであろう、それにしては妙な装飾がつけられた帽子が乗っており、その帽子のツバの下の、強い意志を感じる瞳が、緑色に見えた。

 そいつは捻り上げたナンパ男の手をすぐに離して、私の前まで移動する。

 

「なにしやが……げっ!」

 恐らくはなんらかの攻撃をしようとしたのだろう、こちらに向き直ったナンパ男の顔に、一瞬にして怯えが走った。そして。

 

「しっ、失礼しましたアァァ〜〜!!!」

 こけつまろびつ、ナンパ男が私たちから離れていく。

 

「…アンタ、大丈夫か?」

 私に向けられた大きな背中が振り返り、緑の瞳が私を見下ろした。

 

 …というか、私はこの男を、一応は見知っている。

 同じ学校の私より一学年下、いつも周囲に女の子を侍らしていて、その女の子たちから『ジョジョ』と呼ばれている男だ。

 確か…空条とかいったか。

 母が好きなミュージシャンと同じ姓だから何となく覚えていたが、それ以上の私の興味を引く存在ではなかった。

 そもそも私は男性は苦手だし、その上女の子にチヤホヤされ慣れた男など、近寄るだけで虫唾が走る。

 けど、一応助けられたのだから、礼くらいは言わねばならないだろう。

 

「助けてくれてありがとう。

 けど、危ない真似はしない方がいいわよ。

 むこうが逃げてくれたから良かったものの、喧嘩になればあなただけじゃなく、一緒にいる人にも迷惑がかかるわ」

 そう言って彼の後方に目をやる。

 そこにいたのはやはり女の子の一団。

 まともな感性を持った女の子なら、コイツにこんなふうに助けられたら、次の日からもうあの仲間に加わるんだろうが、そうはいくか。

 

「あんなの、勝手についてきてるだけだ。関係ねえ。

 むしろうるせーから、迷惑だぜ」

「そういうわけにはいかないでしょう。

 …まあ、私には関係ないわね。

 とにかく、ありがとう。それじゃ」

 思わず説教モードに入りかけ、気を取り直して、そそくさとその場を離れる。

 

「……」

 空条は一瞬何か言いかけたようだったが、それ以上追いすがることもなく、私はそのまま歩いて自宅へと帰った。

 

 次の日の放課後。

 帰宅する為、自分の教室から出ようとしたところ、開けた筈の教室の扉に壁ができており、その壁が唐突に、私の名を呼んだ。

 

「おれは、二年の空条承太郎だ。

 更科樹里。アンタ、おれの女になれ」

 そして、冒頭に至る。

 

 ☆☆☆

 

「…で?

 わざわざ三年の教室に押しかけて、血迷った事を言い出した理由は何かしら?」

 とりあえず人目を避けて『空条承太郎』を引っ張ってきた学校の屋上で、私は彼の緑の目を見据えて言った。

 …日本人離れした体格といいこの目といい、私と同じように彼も、純粋な日本人ではないのだろう。

 体格のいい男と二人きりでいる状況に、不安を覚えないといえば嘘だったが、そんな小さな共通点を見つけたせいなのか、不思議とこの男に対しては恐怖を感じなかった。

 

「アンタの噂はあらかた聞いてる。

『悪霊憑き』、『切り裂き樹里』…アンタにちょっかい出す男は、謎のカマイタチに襲われるってな。

 失明したヤツや、脚の腱が切れて立てなくなったヤツもいるって話だな。

 アンタがやったって証明もできなくて、最後には事故で決着したって聞いたが」

 高く丈夫なフェンスに寄りかかり、腕を組みながら空条が言う。

 こうしてみると顔立ちも非常に整っていて、そんな姿が様になっているのが、何故だか腹立たしい。

 

「わかってて近寄ってくるって事は、自分もそうなりたいって事かしらね?」

 今のところ、『悪霊』が暴れる気配はないが、油断はできない。

 身近な人間が傷つくのは避けたいから、私はこれまで友達すらつくらなかった。

 私は父親すら傷つけた女なのだ。なのに。

 

「悪ぶるんじゃあねーよ。ちっとも似合ってねー。

 …おれは、『悪霊』より役に立つぜ」

 空条は帽子をかぶり直しながら、意外な事を口にする。

 

「どういう意味?」

「その『悪霊』は別に、誰彼構わず襲うわけじゃなく、アンタに危害を加えようとしたヤツを切り刻んでるだけだ。

 …おれと居ればアンタには、そもそもそんなヤツは近寄ってすら来ねえ」

 確かにこれまではそうだが、これからもそうだとは限らない。

 しかし彼の言葉に、ストンと腑に落ちてくるものがあった。

 

「…なるほどね。

 そしてあなたにも、って事かしら?」

 昨日言葉を交わすまで、てっきり私はこの空条を、女を侍らせてチャラチャラしている男だと思い込んでいた。

 だが、彼は取り巻きの女の子たちを、勝手に群がってきてむしろ迷惑だと言った。

 その言い草もどうかとは思うが、意図しない接触が迷惑という感情は、私にも理解できなくはない。

 確かに彼と『付き合っている』という事になれば、私に不用意に近づく男は居なくなる。

 そして私の存在があれば、彼にまとわりつく女の子たちも、自然に離れていくという意図があっての事ではなかろうか?

 

「……まあな」

 空条は私の言葉を否定しなかった。ならば。

 

「いいわ、空条。

 そういう事なら、あなたの彼女になってあげる。

 けど、形だけよ。それと、私が卒業するまで」

 お互い、それ以上の時間を拘束し合うのは不毛だろう。

 

「…決まりだな。よろしく頼むぜ…樹里」

 ニヤリと大人びた笑みを浮かべた空条に名前を呼ばれ、ほんの少しだけドキリとした。

 

「ええ、よろしくね、空条」

 うっかり赤くなりそうな頬を誤魔化すように、私は答えながら、彼から目をそらした。




前後編。
もう一話ある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

中編

この話を読む前に言っておくッ!

あ…ありのまま、今起こった事を話すぜ!
『おれは、前後編の後編を書いていたと思ったら、いつのまにか中編を書いていた』
な…()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()…。
頭がどうにかなりそうだった…。
駄文だとか稚筆だとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねえ。
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……

というわけで前中後編になるらしいです。
笑えよフグ田くん(意味不明)


「やかましい!うっおとしいぜっ!!」

「キャー!あたしに言ったのよォ!!」

「あたしよぉ!!」

「……やれやれだぜ」

 今日も通学路に男の怒号と、女の子の黄色い声がこだまして1日が始まる。

 私達の利害は、完全に一致したとは言えなかった。

 私に関して言えば、空条が私の『彼氏』になった事で、変な男に付きまとわれる事はなくなったのだが、空条は私の存在があろうとなかろうと、取り巻きの女の子の数が減る事はなかったのだ。

 まあ、女の子は逞しいってことなんだろう。

 これが私でなければ嫌がらせのひとつもされていたのかもしれないが、彼女たちは『悪霊憑き』にわざわざ話しかけては来ない。

 私がそばに居る時は、一斉に散って遠巻きに見守っているが、居ない時には変わりなく、空条の周りに侍っている。

 

「おはよう、『承太郎』」

「…おはよう、樹里」

 ひとまず自分の仕事を全うすべく、彼と挨拶を交わす。

 周りに誰かが居る時には名前で呼び合うというのも契約のひとつ。

 かつて、私にそんな友達がいたのは7歳以前の話だ。

 

「やっぱ、アンタが居る方が落ち着くぜ」

「居ない時には力が及ばなくて申し訳ないわね」

「なら、おれの家に引っ越してこい。

 部屋なら幾らでも余ってる」

「遠慮しておくわ」

 いつの間にか、こんな軽口も叩き合えるほど気安い仲になれた。

 これならば偽の恋人関係を解消しても、いい友人として付き合っていけそうだと…思っていた。

 この時は、まだ。

 

「帰りは迎えにいくぜ。教室に居ろよ」

「ん?何か用事?」

「本屋に寄る。せっかくだから付き合え」

「あ、ひょっとして、前に言ってた海の写真集?」

「ああ。入荷したって、昨日電話が来た」

「ほんと、好きなのね。わかった。

 …私も、星の本でも探しに行こうかな」

「星?」

「そう。海みたいに千変万化しないけど、それでも常に動いてる。

 私達の目に届いている光は、何億年も前の輝きで、その星自体今はもう存在しないかもしれなくて、もしかしたら明日にはもう見えないかもしれない。

 ならば、それが見えている今を大切にしないといけないって思えるの」

「…海にも、星はあるぜ。しかも生きてる」

「あはは。そうね。

 泳いでる姿はロマンチックじゃあないけど、あれはあれで可愛いわ。

 …そういえば、空条にも星があるのよね」

「ん?」

「ここ。

 これ、痣?結構きっちりした星形よね?」

「ああ、それな。生まれた時からあるらしい。

 おふくろも同じ場所に、同じ形の痣がある」

「マジ?なんかそれ、凄い」

 

 …こんな他愛もない会話が、今思えばとても暗示的だった。

 その星が見える今を大切にすべきと言っておきながら、その星が目の前から消える可能性を、まだ考えていなかった。

 高校生活3年間で、初めて友と呼べる人を得て、きっと私は浮かれていたのだ。

 そして忘れていた。

 自分が『悪霊憑き』であるという事を。

 そして空条が、男であるという事を。

 

 ☆☆☆

 

 その日は夕方から雨が降っていた。

 終わったばかりの試験の答え合わせを頼まれて、二人で図書館へと足を運び、先輩面で教えている間に本降りになった。

 私の折り畳み傘しかなく、空条に持たせて歩いたら、空条は傘の大きさが足りず肩が、私は空条との身長差で全身雨に濡れる羽目になった。

 図書館から一番近いのが空条の家の方だったので、彼を送り届けた後、自分の傘をさして帰ろうと思ったのだが。

 

「一人で帰せるわけねーだろ。

 雨が上がったらおれが送っていくから、上がっていけ」

 と言われて、その大きな邸に普通に入っていく空条に、引っ張られるように上がり込んだ。

 

「まあぁ!

 承太郎が女の子を家に連れてくるなんて、幼稚園以来だわぁ!!

 しかも、なんて綺麗な子!!お名前は!?」

 ずぶ濡れの私を空条から引き剥がしてタオルを差し出して質問責めにし、その後シャワーに放り込み着替えまで貸してくれた(私達は背丈や体格が同じくらいだった)彼のお母さんは、茶に近い金髪と青い瞳の、テンションの高い美人だった。

 しかも日本語超上手い。

 

「樹里ちゃんは三年生なの?

 じゃあ、承太郎よりひとつ年上なのね!?

 キャー!承太郎ったらやるじゃないのぉ!!

 ねえねえ、いつから付き合っているの?

 どっちが先に告白したの!?

 ママすっごく興味あるわぁ!!」

「やかましい!うっとおしいぞ、クソアマ!」

「…お母さんに対して、その言い草はないと思うわよ。

 お母さんに謝んなさい」

「………すまん」

「きゃー!樹里ちゃん優しい!!カッコいい!

 そこにシビレる憧れるゥッ!!

 絶対うちにお嫁さんに来てちょうだいねぇ〜!」

 …終始こんな感じだ。

 気がついたら空条ママのペースに引き込まれて、たくさん話をさせられた。

 勿論7歳の時に起きた事の詳細は話せなかったが、家庭内の不和で両親が離婚した事や、母の恋人と合わなかった事で母との関係も悪化した事、その件から私が高校から一人暮らしだと言ったところで、空条ママは少し驚いたような顔をした後、次の瞬間には眩しいほどの笑顔で、ぱちんと手を打ち合わせた。

 

「それじゃあ、今日は泊まってってちょうだい!」

 何が『それじゃあ』なのかはわからなかったが、直視することが難しいほど眩しい笑顔で申し出たその言葉に、もう逆らう事が私にはできなかった。

 

「今夜は一緒にお夕飯食べて、部屋で夜通しガールズトークね!

 うふふ、寝かせないわよぉ〜♪

 承太郎の秘蔵アルバムも公開しちゃう!」

「……おい」

 あの、奥さん?

 息子さんメッチャ睨んでますけどいいんですか?

 

 …あと、姓が同じだと思っていた母が好きだったミュージシャンは、どうやら彼のお父さんだったらしい。

 ジャズミュージシャン空条貞夫もきっと、この笑顔にメロメロになったに違いない。

 

 ☆☆☆

 

「樹里ちゃん、食べられないもの…好き嫌いやアレルギーはある?」

「いえ、特には…あの、お手伝いします」

「まあ、嬉しいッ!

 息子は息子で可愛いけど、娘とこんな風に一緒にお料理するのも、ちょっと憧れてたのよぉ♪」

 言いながらエプロンを貸してくれる空条ママのそんな言葉に、そういえば、と思う。

 私もまだ幼い頃は、母と台所に立って、お茶碗出して、お皿出してと指示を受けながら、頑張ってお手伝いをしていた気がする。

 そうしているうちに父が仕事から帰ってきて、リビングで新聞広げながら、微笑ましげに私達を見ていて。

 私はパパもママも大好きだった。

 けど今となっては遠い、二度と戻らない光景。

 私の父は離婚した後酒浸りになり、肝臓を患って、どうやら去年亡くなったらしい。

 私にあんな事が起きなければ、もっと生きられたのだろうに。

 とか思っていたら、椅子にやはり新聞広げてどかりと座って、それなのに何故かこちらを見ている空条と一瞬目があったが、すぐに逸らされた。

 

「うふふ。どうやら樹里ちゃんのエプロン姿に興味津々みたいね〜」

 いやそんなんじゃないでしょ…本物の彼女ならともかく、私は単に便宜上の恋人なのだし。

 

 私は材料を切ったりするくらいしか手伝えなかったが、その切り方が上手いと褒められた。くすぐったい。

 生活費が親掛りで一人暮らしをしている関係上、あまり贅沢もできないから、自炊は一応しているし、毎日お弁当も作っているけど、食べるのが自分一人の生活では、どうしても手のかからない献立に偏りがちになる。

 誰かに食べてもらうものという意識は、料理の腕を磨く為に、一番必要なものなのだろう。

 そんなことを思いながら3人分の配膳(お父さんは仕事の関係で不在がちなのだそうだ)を終え、いただきますと両手を合わせる。

 献立は炊き込みご飯、しじみのみそ汁、さばの味噌煮、おからの炒め煮、白菜の漬物といった、純和食。

 どれも美味しく、そしてどこか懐かしい味だった。

 そもそも誰かと食卓を囲む自体が、最後がいつだったか思い出せないくらい久しぶりだ。

 そういえば、初めて空条と屋上で一緒にお弁当を食べた時も、なんだか久しぶりだとか思っていたっけ。

 思えば空条は私に、色々な『久しぶり』を与えてくれている気がする。

 

「……樹里?」

「まあっ!どうしたの樹里ちゃん!?」

 と、なにか目の前の親子が、私を見て驚いた表情を浮かべているのに気づいた。え?なに?

 

「歯でも痛いの?ほっぺたでも噛んだ?

 それとも、泣くほど美味しくなかった!?」

「それはねえ。味はいつも通りだ。問題ねえ」

 言われて、頬がなにか冷たいことに気づく。

 よく考えれば先ほどから、妙に視界がぼやけていた。

 どうしたわけか、私は美味しくご飯を食べながら泣いていたらしい。

 

「違い、ます。全部、美味しいです…。

 なんか…美味しかったから、感動、して」

 味だけじゃなく、誰かが側にいるという事実にも。

 私は、今まで当たり前だと割り切っていた1人の生活を、どうやら自分で思っている以上に、寂しいと感じていたらしい。

 自覚してしまうと止まらなくて、えぐえぐとみっともなくしゃくりあげた。

 

 …ふわり。

 突然、柔らかくていい匂いのするものが、私を包んだ。

 驚いて視線を上げると、空条ママに私は抱きしめられていた。

 

「…いっぱい我慢してきたんだものね。

 偉かったわね。

 ほんとのママの代わりに、あたしがいっぱい褒めてあげちゃう」

 優しい手に頭を撫でられ、背中をぽんぽん叩かれて、私は完全に決壊した。

 

 ・・・

 

「…ヤヴァイ。恥ずかしくて死ぬ。恥ずか死ぬ。

 18にもなって人前で号泣するとか軽く死ねる」

「…少しは意識してんのかと思ったのに、恥ずかしいってそっちかよ」

 いいだけ泣いて泣き止んで、ご飯を食べ終わった後で、私は何故か空条の部屋で、畳の上に座り2人きりで向かい合っていた。

 それはそれとして、こいつは何故家の中でも帽子を被ったままなんだろう。

 まあそんな事はどうでもいい。

 冷静になればなるほど、先ほどの醜態が自身で許容できず、私はずっと『恥ずかしい』を繰り返していた。

 

「おふくろはそんな細かい事気にする性格じゃあねーぜ。

 むしろ頼ってくれたって、喜んでる。

 …寂しいって思うなら、今度からいつでも来りゃいい」

 普段とあまり変わらないが、心なしか優しげに、空条はそう言う。けど。

 

「ひとさまのお家にそんな迷惑はかけられないわよ。

 私が高校を卒業したら、そこで切れる関係でしょう。

 もともと、そういう約束なんだから」

 私が首を横に振ると、空条はため息をひとつついてから、やけに真剣な目をして、言葉を発した。

 

「それなんだが、樹里。

 …おれたちは、本物にはなれねーのか?」

「は?」

「つーか、形だけでも恋人同士って体裁を整えて、外堀を固めていけば、なし崩しに本物になれるだろうとタカをくくってた。

 他の女と比べても意味はねーが、アンタはマジで難敵だ。

 本当に、おれに全く魅力を感じねーのか?」

「…それって…どういう……」

 何を言われているのかわからなかった。

 そんな私に、空条が追撃する。

 

「おれは、本気で樹里に惚れてる。

 …改めて申し込むぜ。おれの女になれ、樹里」

 気がつけば、息がかかるくらいに近くに、空条の顔があった。

 大きな手が、躊躇いながらも頬に触れる。

 高い鼻梁が、私のそれを掠める。

 驚いて思わず距離を取ろうとしてバランスを崩し、私の身体は畳の上に、仰向けに倒れ込んだ。

 そこを更に距離を詰めてくる空条の両掌が、私の倒れている畳の、両肩の上につけられている。

 上からのしかかる体勢で私の身体を囲い込む空条の、やけに熱を持った緑の瞳を見上げた瞬間、それまで彼に対して一度も感じなかった恐怖が、一気に湧き上がってくるのを感じた。

 そして。

 

「………ッ!!?」

 空条の額、左眉の上あたりから、突然に赤いものが飛び散った。

 何かで薄く切りつけたような傷が、そこに一筋、走っていた。

 傍らには、私達を見下ろす、私の『悪霊』。

 それが指先を、驚いて傷を押さえる空条に向けており、やはり空条にはそれが見えていない。

 

「駄目よ!やめてェッ!!」

 私は咄嗟に空条を押しのけると、彼と『悪霊』の間に、両腕を広げて立った。

 こいつが本当はなんなのか知らない。

 けどひとつだけ、絶対と言える事がある。

『悪霊』は決して、私を襲うことはない。

『悪霊』はしばらくそのまま動かずにいたが、やがて現れた時と同じように、スッと消えた。

 

「樹里…」

 後ろから聞こえる空条の声に、ハッとして振り返る。

 その額から流れる赤い血に、自身が浮かれていた事を、嫌という程自覚した。

 

「…わかったでしょう。これが『悪霊』よ。

 私が少しでも『恐怖』を感じた瞬間、『悪霊』は、それを与える者を攻撃するわ。

 それが私の大切な人でも、どんなに好きな相手でも関係ない。

 私と一緒にいることは、こんな危険を常に背負うことよ」

 私はこれ以上、好きなひとを傷つけたくない。

 そう言いかけた自分に今更気がついた。

 私もまた、空条の事を、本気で好きになってしまっていた。

 だからこそ。

 私はこのひとから離れなければいけない。

 

「…帰るわ」

「送ってくって言ったろう」

「心配しなくていい。もう()()()()でしょう?

 あれに勝てる人間はいないと思わない?」

 言いながら、無理矢理笑ってみせる。

 

「…ありがとう。さよなら、『承太郎』」

「樹里ッ……!」

 私は泊まるはずだった部屋に入り、まだ湿ったままの制服に袖を通して、空条ママに急用ができたと謝ってから、その大きな邸を後にした。

 

「残念だわぁ。絶対、また来てね!」

 その約束が果たせない事はわかっていたけど、それを告げる事は出来なかった。

 自宅に戻って、完全に1人になったその瞬間、初めて知った切ない感情に、こみあげた嗚咽が夜中まで止まらなかった。

 

 約束を待たずに空条との恋人関係は解消されたが、それ以降の私は、異性トラブルに巻き込まれる事はもうなくなった。

 彼の顔に少しの間残っていた傷が、「あのジョジョですら」という憶測を生み(いや、事実だけど)、私に近づく男がそれ以降も居なかったからだ。

 彼女でなくなった後もまだ空条に守られて、私はそれから数ヶ月後、無事に高校を卒業した。

 

 ☆☆☆

 

 失恋の傷も癒えて、特筆することもない大学生活にも慣れた頃、寝ぼけまなこで朝一番のコーヒーを淹れていた時、家の電話が鳴った。

 ここに電話をかけてくるのはまず母以外にはおらず、少し躊躇った後、意を決して受話器を取った。

 

「もしもし…」

『樹里……か?』

 聞こえてきたのは母ではない、男の声だった。

 

「…どちら様ですか?」

『…おれは『悪霊』なんて、信じてなかった。

 あの時だって、きっと何かの偶然だと思ってた。

 おまえが何を恐れていたのかわからなかったし、わかろうともしてなかった。

 …今なら、解る。おまえが何に怯えてたのか。

 なんでおれから離れてったのか…』

 聞き覚えのある低い声が、まるで泣きそうに、言葉を紡ぐ。

 その持ち主が誰であるかようやく理解できたのは、電話の向こうのその人の声が、悲痛に訴えてきたのと、同時だった。

 

『助けてくれ……樹里』

「空条ッ!!?」

 思わず呼びかけた瞬間、電話の向こうで相手が、息を呑むのがわかった。

 そして…電話は、そこで切れた。

 

「空条!?………承太郎ッ!!」

 呼んだ名前に答えるのは、ツーツーと響くビジートーンのみだった。

 

 ・・・

 

 私はしばらく呆然としていたが、ふと我に返ると以前使っていた手帳を探し出して、アドレス帳のページを開いた。

 恋人同士のふりをしていた頃、何度かかけた番号を、躊躇なく押す。

 

『…はい、空条でございます』

 柔らかな声音が、どこか震えて聞こえ、嫌な予感に胸が痛む。

 

『……もしもし?』

「あ…失礼いたします。

 私、更科と申しますが、空じょ…承太郎さんは、御在宅で…」

『樹里ちゃん?樹里ちゃんなのね!?

 ねえ樹里ちゃん!大変なの!!

 承太郎が…承太郎が牢屋に入れられちゃったのよォ──ッ!!』

 …受話器の向こうから響く絶叫に、私はまた呆然とその場に立ち尽くした。




せっかくなのでネタ挟みました。
それ見つけながら最終話をお楽しみに。

あと、ジョジョを読み込んでいる方にはもはやこれは常識ですが、ジョジョ界における『何をするだァ──ッ!!』と『うっおとしいぜ!!』は誤字ではありません(爆
念のため。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後編

本当は前回の中編が、そのまんま後編として終わる筈だった。
けどタロットにおける悪魔の逆位置の意味を唐突にぶっ込みたくなって、そうなるとアヴドゥルさん出さないわけにはいかなくて、蛇足のようにこの話を、急遽付け足すことにした。


 電話口で泣き出した空条ママをなだめているうちに、いつの間にか彼女に付き添って、『牢屋に入れられた』という空条に、会いにいく話になっていた。

 というか話をよく聞いてみれば、空条がケンカで複数人を負傷させ、警察のお世話になったのは確かなようだったが、鉄格子の内側に一旦入れられたのを幸いとでも言うかのように、本人がそこから出ないと頑なに言い張っているのだという。

 …彼が牢屋の中だというのなら、先ほどの電話は一体どこからかけてきたものなのだろう?

 そんな疑問もわいたが、考えても意味がないので一旦その疑問はわきに置いておく。

 だが電話の内容は、無視すべきではないと感じた。

 

『助けてくれ…樹里』

 泣きそうな声が紡いだ、恐らくは心からの、懇願。

 私の抱えているものがわかったと、そう言った。

 そして彼の母親が語る、他人の接触を拒む行動。

 一瞬、考えたくない可能性が心をよぎり、思わず首を横に振る。

 

「とにかく…話を聞いてみなきゃ、ね」

 淹れかけたコーヒーはキッチンに押しやり、私はまず身支度を整える事にした。

 

 ☆☆☆

 

 私の意気込みに反して、空条ママに連れていかれたのは警察ではなく空港だった。

 誰かを探しているのか、キョロキョロと周囲を見渡し、すぐに笑顔になって、大きく手を振る。

 

「Daddy!There is me here!」

「Holly!」

 空条ママの呼びかけに応じて、罪もない通行人を突き飛ばしながら歩み寄ってきたのは、背の高い外国人男性だった。

 周囲の目など全く気にせず、空条ママは男性の胸に飛び込み、その腰に抱きついた。

 え!?と一瞬思ったが、先ほど呼びかけた彼女の言葉を思い返して、納得する。

 男性は、空条ママのお父さんなのだろう。

 そう思ってよく見れば、男性は立派な体格をしているが、顔立ちは恐らくは60過ぎくらい。

 そして僅かに黒の混じった銀色の髪と同じ色合いの髭をたくわえている為わかりにくかったが、その顔は、空条がおじいちゃんになったらきっとこうなるに違いないと思えるくらい、特徴的な部分が彼と似通っており、身長も同じくらいだ。

 …あと、空条ママはホリィさんという名前らしい。

 まあ、友達のお母さんの名前とか普通に知らないよな。友達いないから知らないけど。

 ってやかましいわ。

 親子がいちゃついてる光景を見て、若干意識をあさってに飛ばす。

 外人顔をしてはいるが頭の中は純日本人の私に、そのノリは不可解過ぎた。

 …ふと後方から視線を感じ、そちらに目を向ける。

 その先のベンチに腰掛けて足を組む、長い衣を身につけ浅黒い肌をしたアラブ系の外国人男性と、瞬間目が合った。

 …澄んだ綺麗な瞳だと、何故か感じた。

 

「お待たせ、樹里ちゃん」

 いいだけ父親との再会を堪能したらしい空条ママの呼びかけに、ハッとして振り返る。

 さっきまでどこか沈んで、顔色も悪かったのが嘘のようだ。

 お父さんが近くにいる事で、きっと安心したのだろう。

 空条ママはこのお父さんに、ものすごく可愛がられて育ったのだと、ひしひしと伝わってきた。

 

「紹介するわね。

 私のパパ、ジョセフ・ジョースターよ。

 パパ、彼女は承太郎の彼女(girl friend)の更科樹里ちゃん」

『元』です、とつっこもうとした言葉が喉で止まる。

 ジョースターって、世界的に有名な不動産会社の名前じゃないだろうか。

 偶然かもしれないが、空条ママは確かに大金持ちのお嬢さんぽい雰囲気がある。

 

「初めまして、お嬢さん…Can you speak English?」

「耳で聞いて大まかな意味は理解できますけど、話せません。

 母方にロシア人の血が入っていてこんな外見ですが、私は生まれも育ちも日本人です」

「了解した。

 わしは職業柄、世界をあちこち回っとるから、英語もイタリア語もドイツ語も、そしてアラビア語も日本語も得意じゃぞ!」

 …なんか本当にこの人が、有名な不動産王本人じゃないかって気がしてきた。

 いやきっとそうだ。

 

「ところでホリィ…承太郎のことじゃが。

 確かに『悪霊』と言ったのか?」

 その矍鑠とした老人の言葉に、私の心臓がどきりと震えた。

 空条ママの笑顔も曇り、震える手でその美しい顔を覆っている。

 

「そうよ…。

 おまわりさん達には見えなかったらしいけど、あたしには見えたわ…。

 別の腕が見えて、それで拳銃を…」

 その件は合流した際に、私も空条ママから聞いた。

 最初は警察署から連絡を受けて、空条ママが一人で迎えに行ったところ、空条は自分を『悪霊に憑かれた』と言い、喧嘩で負傷させた相手を半殺しにしたのはそれだと言った。

 そして、自分を牢から出すと危険だと示す為に、どのようにしてか警官の拳銃を奪って、自身に向けて発砲したという。

 だがその弾丸は空条の身体のどこにも当たることはなく、空中で止まって落ちた…目の当たりにした警官はそう言ったらしい。

 しかし空条ママの目には、空条の身体から出てきたもう一本の腕が、発射された弾丸をつまんで止めたように見えたのだそうだ。

 …私の想像通りで間違いないのなら、それは私の知るものと同じ存在だ。

 だとしたら、それは空条を守る為なら、他者に躊躇なく攻撃を加える。

 そしてその『守り』は正当防衛の域をはるかに超える苛烈なものだ。

『悪霊』と彼が言ったのは、私の例を知っているからだろう。

 

『おまえが何に怯えてたのか、今なら解る』

 解って欲しくなんかなかった。

 彼には、他人を避けなければならない苦しみも、孤独も、知って欲しくなかった。

 それは温かい家庭で育ち、人に囲まれて生きてきた彼にとっては、どんなにか怖かったことだろう。

 

「他の人の目には見えないのに、おまえには見えたのかい?」

 しかし…そう。私もそこが引っかかっていた。

 私の知る『悪霊』と、空条に取り憑いたそれが同じ種類のものであれば、他人の目には見えない筈なのだ。

 血縁だからなのかとも思ったが、私のそれは両親には見えていなかった。

 

「ええ…」

 ジョースター氏の問いに、空条ママが答えながら、背の高い父親を見上げる。

 その頼り切った表情に、彼女が本当にこの父親を信頼しているのだと感じた。

 というかこんな美人にこの目で見つめられたら、父親でなくても、きっと男は太刀打ちできない。

 空条が母親に対して表面上の態度が冷たいのは、本能的な防御なんじゃないかと、ちょっとだけ思った。

 ジョースター氏は少し考えてから、再び娘に問いかける。

 

「承太郎は最近取り憑かれたと言ってるらしいが…おまえにも何か異状はあるのかい?」

「あたしにはないわ。

 でも承太郎は原因がわかるまで、二度と牢屋から出ないっていうのよ!」

 どうしたらいいの、とまた泣きそうになる空条ママの肩を抱いて、ジョースター氏はニカッと笑って自分の胸を叩いた。

 

「よしよし、可愛い娘よ。

 このジョセフ・ジョースターが来たからには安心しろ!

 …まずは、早く会いたい。我が孫の承太郎に」

 そう言ってジョースター氏が、後ろをチラリと振り返り、何故かパチンと指を鳴らす。

 つられてその視線の向く先に目をやると、先ほどのアラブ系の男性が、椅子から立ち上がるのが見えた。

 どうやら彼は、ジョースター氏の同行者であるようだ。

 

「樹里ちゃん。

 これから承太郎に会いにいくわ。

 心細いから、一緒に居てね?」

 …前言撤回。

 この目で懇願されたら、男じゃなくても逆らえない。

 

 ☆☆☆

 

 留置場に着いて、空条の居る独房の前まで来て、その光景の異様さに、驚くより先に呆れ返った。

 

「またまた、いつの間にか物が増えている…。

 こんな事が外部に知れたら、わたしは即、免職になってしまう」

 どうやらここの責任者らしい男が、泣きそうな声で訴える。

 独房の中は、本だの健康器具だの、更にテーブルや椅子、ラジオといった、生活を豊かにするものであふれていた。

 本人は『悪霊が持ってきてくれるんだ』と言っているそうだが、まあ一般の人には信じられる話ではないだろう。

 って私のと違って、空条の悪霊サービスいいな!

 ジョースター氏は、どうやらこの現象に心当たりがあるようで、臆する事なく独房の前に立つと、中にいる空条に声をかける。

 

「出ろ!わしと帰るぞ」

 その一言で出てくるなら警察も苦労はしていない。

 案の定頑なに拒む空条の反応を予想していたらしく、ジョースター氏は指を鳴らして合図すると、離れたところからずっと同行していた、例のアラブ人男性を呼び寄せた。

 

「三年前に知り合ったエジプトの友人、アヴドゥルだ」

 孫を牢屋から追い出せとジョースター氏に依頼され、アヴドゥルと呼ばれた男は、両手を不思議な形に構えた。

 

「少々、手荒くなりますが」

 ジョースター氏の是の答えに、アヴドゥルが呼吸を整える。

 次の瞬間、彼の身体から、同じくらいの大きさの人影が飛び出した。

 否、『人』ではない。

 それは人の身体を持っているが、鳥のような顔をした、異形。

 

「おまえのいう悪霊を、アヴドゥルも持っている。

 アヴドゥルの意志で自在に動く悪霊!

 悪霊の名は!『魔術師の赤(マジシャンズ・レッド)』!!」

 ジョースター氏の説明と共に、『魔術師の赤(マジシャンズ・レッド)』と呼ばれたそれが、口から炎を吐いた。

  その炎が空条の両手首に、蛇のように巻きつき、腕を焼く。

 

「パパ、承太郎に何をするのッ!!」

 その光景に、今にも飛び出して行きそうになる空条ママを、私は慌てて引き止めた。

 その炎は私達以外には見えていないらしく、警官や責任者の男は、不得要領な顔をするが、私達の周囲の温度は、異常な程上昇している。

 間違いない、あれも『悪霊』だ。

 そして空条ママには間違いなく、私と同じものが見えている。

 と、空条の身体から、やはり人型の何かが飛び出した。

 それはアヴドゥルのものとは違う、人間と同じ姿をしていた。

 それが、現れたと同時に魔術師の赤(マジシャンズ・レッド)の首を掴む。

 途端、アヴドゥルが体勢を崩した。

 見ればその首筋に、指で掴まれているような窪みができて、それがどんどん深まっていく。

 どうやら魔術師の赤(マジシャンズ・レッド)が受けた攻撃が、アヴドゥル自身にダメージを与えているらしい。

 手荒にしても構わないかとジョースターさんに再度確認をとり、アヴドゥルが大きく腕を振ると、魔術師の赤(マジシャンズ・レッド)の手から、ムチのような炎が現れて、空条の顔に巻きついた。

 それは空条の顔を焼きはしなかったが、その周囲の酸素を燃やしているらしく、恐らくは呼吸困難を起こしているのであろう、空条の顔色が血色を失っていった。

 それと共に、空条から現れた『悪霊」が、その身体に戻っていくのが見えた。

 

「熱で呼吸が苦しくなれば、おまえの悪霊は弱まっていく。

 正体を言おう!

 それは『悪霊』であって『悪霊』ではないものじゃ!

 おまえの生命エネルギーが作り出す、パワーある(ヴィジョン)

 そばに現れ立つというところからその(ヴィジョン)を名づけて……

幽波紋(スタンド)』!」

 それの正体を、その呼び名を、ジョースター氏が高らかに呼び上げた。

 

 …けど、正直私は、それどころじゃなかった。

 顔色をなくしていく空条の姿を見ながら、なんだか無性に腹が立っていた。

 なんでそこで意地を張るのよ!

 私に助けてくれって言ったくせに、なんで身内にそれが言えなくて、今そうやって死にそうになってるのよ!

 …お腹の奥の方から、何かがせり上がってくるような感覚をおぼえた。

 次の瞬間、それは、私の身体の一部が引き剥がされるような感覚と共に、目の前に現れた。

 

「オオッ!?」

「な、なんだとッ!?」

 唐突に姿を現した私の『悪霊』に、その場の男たちが驚きの表情を浮かべる。

 けど同時に、私も驚いていた。

 黒ヤギの顔と下半身、首より下から腰までが人間の形をした…けれど。

 

「…あんた、確か前は男だったわよね!?

 なんで女の身体になってるのよッ!?」

 すごくどうでもいい事だとわかってはいたが、ツッコミを入れずにはいられなかった。

 そう、黒ヤギ部分は以前と変わらないのに、人間の身体の部分だけ、それは女になっていたのだ。

 しかも絶対に私より……………大きい。

 い、いや、そんな事は本当に今はどうでもいい。

 そいつは、細いが筋肉質な腕を伸ばすと、指先を空条に向けた。

 一瞬、空条に攻撃するつもりかと思い、制止の声を上げようとしたが、それが狙っていたのは別のものだった。

 その指先に、何か透明の粒子が集まり、それが鋭い、細身の剣のような形をとる。

 それが閃くと同時に、空条に巻きついた炎のムチと、一緒に鉄格子が寸断された。

 瞬間、その場に何故か濃い霧のような水蒸気が発生し、次には固まったそれが水滴となって、一気に雨のように降り注ぐ。

 ありえないほどの水量の雨を屋内で全身に浴びせられた男たちは、呆然とその場に立ち尽くしていた。

 その光景にフッと気が抜けたと同時に、私の身体から出てきたそれが、元の位置に戻っていくのを感じる。

 その慣れない圧迫感に息が詰まり、私はその場に、前のめりに倒れこんだ。

 

「樹里ッ!?」

 全力疾走した後のような呼吸の苦しさに息を荒くする私のそばに、駆け寄ってきた男の腕が、私の身体を抱きおこす。

 見上げたその瞳は、緑色だった。

 

「空条…無事?」

 やっとの事でそれだけ言うと、空条は何も言わずに頷いた。

 

「ジョースターさん。

 見ての通り、彼を牢屋から出しました…が。

 どうやら、これはわたしの仕事ではありませんでしたね」

 そして、やはり全身ずぶ濡れのアヴドゥルが、私達の方を見て、苦笑していた。

 

「樹里ちゃん…?」

 ようやく呼吸が整い、空条の腕を借りながら立ち上がると、か細い声が後ろから聞こえた。

 恐る恐る振り返ったそこには空条ママが、身体を震わせて立ち尽くしている。

 

「今のは…樹里ちゃん、なの……!?」

 そうだ、この人には、()()()いた。

 どうやら完全に怖がらせてしまったようだ。

 彼女はもう以前のように、私に笑いかけてはくれないだろう。

 けど、否定したところで意味はない。

 この人に嘘をつくことなんか、私にはできやしない。

 

「……はい。私も、『悪霊憑き』です。

 今まで黙っていて、申し訳ありませんでした」

 何故か涙が出そうになりながら、空条ママに一礼する。

 そのまま背中を向け…た途端に、その背中に柔らかいものがぶつかってきた。

 私は背中から、空条ママに抱きしめられており、胸元に回されたその手がむにむにと揉……ええっ!?

 

「ダメじゃないのぉ──ッ!

 若い女の子が、こんな大勢の男性の前で肌を晒すだなんてッッ!!」

 えええっ!?

 よりにもよって、一番気にするのそこなの!!?

 しかも私じゃないから!

 私はちゃんと服着てるからっ!!

 だから揉むな──ァア!!!!

 

「やめろこのアマ!

 おれがまだ触ってねーのにテメーが触んじゃあねえ!!」

 よく言った空条!

 …っておまえもつっこむポイントがおかしいわ!!

 だが空条の言葉がかかると同時に、空条ママは嬉しそうな笑顔で、今度は空条の腕にしがみつく。

 

「はぁ──い!ルンルン♪」

 その2人に向かって、今度はジョースター氏が声を荒げる。

 

「母親に向かってアマとはなんだ!

 ホリィもニコニコしてるんじゃあないッ!!」

 …何故だろう。状況がひたすらカオスだ。

 なんとなく打ちひしがれてそこから目をそらすと、びしょ濡れのローブの裾を絞っているアヴドゥルと目が合った。

 彼は軽く肩をすくめると、ひとつ息をついてから、私に向かって笑いかけた。

 

 ☆☆☆

 

「君のスタンドはこれまでは、君を守る為に自分で判断して行動していた。

 だが、君の心がスタンドを、自らの一部として受け入れた今、その自我は君と合一して、これから先は君の意志に従って動くことになる。

 姿が変わったのも、合一化の影響だろう」

 留置場から空条を連れ出し、何やら込み入った話を聞かされて空条邸に戻った後で、私はアヴドゥルさんから『スタンド』の説明を受けていた。

 私の『スタンド』はあの時、私の恐怖に反応したのではなかった。

 アヴドゥルさんによれば、死にそうになっていた空条を私が助けたいと願い、その意志に『スタンド』が応えたのだという。

 …私的にはあの時は無性に腹が立っており、助けたいというよりも、なんか言ってやらなきゃ気が済まないくらいの気持ちだったんだけど。でも。

 

「私の意志…?

 では『悪霊』…いえ、私の『スタンド』は、私がそれと望まない限り、もう誰かを傷つける事はないの?」

 一番の懸念事項を確認する。

 そうでなければ、私はその存在を受け入れるわけにはいかない。

 その私の問いに、アヴドゥルさんは、なんの躊躇いもなく頷いてくれた。

 

「ない。

 君だけではなく、JOJOのスタンドも同様だ。

 そして本体と完全に結びついたスタンドは、本体の成長と共に、より強い能力(ちから)を、振るう事ができるようになる。

 その分、これまでできていたことができなくなるという事もあるがな。

 例えば、JOJOのスタンドは離れたところから、彼のところに物を運んできていたが、彼自身の意志で動かし始めたら、恐らくはそれはできなくなる。

 今まで以上の強い力を得る代わりに、行動可能な範囲が狭くなるからだ。

 一長一短、それが『スタンド』の基本ルールといったところだ。

 おわかりいただけたかな、樹里?」

 一通り説明し終えて、アヴドゥルさんがウインクする。

 空条は彼と最初に会った時、苛立ちまぎれに『ブ男』と暴言を吐いたが、髪型や服装などが日本人の目に奇矯に映るだけで、こうして見ると彫りの深いはっきりとした顔立ちは充分にチャーミングだ。

 加えて大人の男性らしい落ち着いた雰囲気は、今の空条には決して出せそうにない。

 私が頷くとアヴドゥルさんは、腰に付けていた小さなポーチから、カードの束を取り出した。

 

「…さて。それでは占い師のわたしが、君のスタンドに名前をつけてあげよう」

 なるほど、アヴドゥルさんは占い師なのか。

 

「名前?」

「そうだ。名をつけて呼ぶことにより、スタンドは存在がより固定化され、安定する」

 言いながら、一枚のカードを引き出して、絵柄の面を表に出す。

 そのカードを見て、あっと思った。

 示されたそれは上下が逆さまだったが、まさに黒ヤギの頭部を持った、悪魔の絵柄だった。

 

「悪魔の逆位置!

 それは覚醒!呪縛からの解放!

 悪縁を断ち切り、新たな世界へ飛び立つ事を意味する!

 君のスタンドは『リヴァース・デビル』!!」

 …はい、そのまんまですね。了解しました。

 

 ☆☆☆

 

「樹里…おれは、もう諦めねえ」

 アヴドゥルさんの説明を聞いた後、家に帰ろうとしたら、空条に呼び止められた。

 

「……なにを?」

「おれは絶対に、おまえを手に入れる。

 おれの事しか考えられねーくらい、夢中にさせてみせる」

 低い声が熱く紡ぐ言葉に、心臓がどきりと跳ねた。

 

…to be continued

 


 

逆位置の悪魔(リヴァース・デビル)

 

 近距離パワー型スタンド。

 頭部と下半身が黒ヤギ、上半身が人間という、タロットカードの悪魔そのものの姿。

 攻撃能力は風と思われがちだが、フタあけてみたら実は水だった。

 手近にある水分か空気中の水分を固めて作る針状の剣で斬る、または刺し貫く。

(初めて使用した時に炎が出たのは、使用した水分が、火のついたライターのオイルだったから)

 登場時は男性型だったが、樹里の心が完全にその存在を受け入れた事により融合し、女性型になる。

 つまりおっpp(以下判読不能)




そして気づいたらちょっとアヴドゥルさんともフラグ立ててた。
後悔はしているが反省はしていない(爆

樹里がこの後エジプトへの旅に同行するかどうかは、ここでは明記しません。
皆様の心の中に、それぞれの正解があればそれでいいと思ってます。
一応、アタシの妄想の為のアバターだった時の彼女は最終決戦でDIOに殺され、承太郎の怒りによってスタープラチナが覚醒するという、メッチャ悲恋の流れでしたが。
ここより未来の承太郎が子供まで成した奥さんと別れてしまっているのは、妻子を危険に晒したくない考えは勿論あったけど、実は樹里のことを忘れきれておらず、奥さんがそれに気づいていたという理由もあった…という話にまでなりましたが、勿論アタシはそんなもん書きたくありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

世界のどこかで誰かが見た夢
1


 ……人生って、いきなりひっくり返るもんなんだって、その時初めて知った。

 

 ・・・

 

 私の生家であった『パーカー家』が、ほぼ名ばかりの貧乏貴族であったことは、子供だった私にもよくわかっていた。

 だから、家の事業をひとりで切り盛りしてきた祖母が私が11になった年に倒れ、住んでいた邸やそこにあった家具が全て抵当として差し押さえられた事も、亡き母の親戚だという女性に連れ出されて、それまで住んでいた邸のクローゼットより狭い共同アパートの一室で、その人の夫と2人の幼い子供達と共に暮らし始めた事も、仕方ないこととして受け入れた。

 けど4年後にその人が病で亡くなり、春をひさいで生活をしていた彼女と同じことをして、家族を養えとその人の夫に言われた事は、到底受け入れることは出来なかった。

 それまでも、外での日賃仕事や繕い物などで細々と稼いだものを全て取られていた事もあり、私がそれだけは嫌だと言うと、

 

『何のために今まで養ってやったと思ってる』

 と罵られ、傷が残るような折檻はされなかったものの、それから5日間、家に閉じ込められ食事を抜かれた。

 ただでさえ普段からお腹を空かせていた状態からのそれに意識が混濁しながら、このままでは無理矢理客を取らされるか、その前に死んでしまうということだけは理解して、ようやく家を抜け出した、その後のことは覚えていない。

 次に目を覚ました時には、清潔なシーツの敷かれたベッドに横たえられており、品のいい紳士が心配そうに覗き込んでいたのと目があった。

 

「ああ、ジュリア。目を覚ましてくれて良かった」

 その紳士が、優しそうな目にうっすら涙を浮かべたのを、その時の私は不思議な気持ちで見つめていた。

 

「君のお祖母様が亡くなられた後、君の事をずっと探させていたのだよ。

 まさか、あのような場所で暮らしているなんて思わず、見つけるのに3年もかかってしまった。

 だが、もうなにも心配しなくていい。

 あの男は、貴族の令嬢を監禁していた罪で警察に引き渡したし、家にいた子供達は孤児院に保護させたから」

 ああ、祖母は亡くなったのかと、まだ思考力が万全じゃない頭の片隅で、その時の私はぼんやりと思った。

 別に悲しいとも感じなかった筈なのに、何故か目尻から涙が落ちた。

 

 その年で15歳にもなる筈の私は、慢性的な栄養失調がたたって12、3歳程度の体格しかなく、また5日間の監禁と絶食ですっかり体力が損なわれていた為、しばらくはその病院で養生する事となった。

 もっとも、ジョージ・ジョースター卿という名の例の紳士が、手がかりとして持っていた私の11歳時の写真と今の私が、あまり大きくなっていなかったせいでさほど印象が変わらなかった事も、探していた私を私として特定できた一因ではあった。

 少しずつ健康を取り戻していく間、毎日のように訪ねてきてくれた彼は、私が知らなかった事を色々教えてくれた。

 私の祖母は祖父の後妻で、祖父が祖母との間に生まれた私の父の他、前妻との間にも娘をもうけていた事。

 異母姉弟であるその2人が、それぞれの伴侶との間にもうけたのが、ジョースター卿の奥様と私であり、だから私達は従姉妹同士でありながら、親子ほどの年齢差があった事。

 父が伴侶に選んだ女性、つまり私の母が貴族ではなく貧民街出身の使用人で、父は母と結婚する為にかねてから決まっていた婚約を破棄する事となり、その莫大な慰謝料で事業が傾いた事。

 それを立て直している段階で両親が、まだ物心もつかない幼児(おさなご)の私を残して、流行り病であっけなく亡くなった事。

 そんな私に同情したジョースター卿の奥様が、従妹である私を引き取ろうと思っていた矢先、やはり馬車の事故に遭い亡くなられた事。

 奥様を亡くされたジョースター卿は、まだ赤子であった御自分の子をおひとりで育てなければならなくなり、私を引き取るどころではなくなった事。

 祖母が倒れた後、私を連れ出した女性は母の妹で、恐らくは養育費目当てで引き取ったのだろうが、それを請求するつもりだった祖母が、倒れた後意識も戻らないまま1年後に亡くなってしまい、それでも実の姪ゆえに放り出す気にもなれなかったのだろうという事。

 私を見つけたのは本当に偶然で、見も知らぬ男に『貴族の血を引く売春婦(おんな)がいるんだが、あんた、その最初の客になる気はないか。安くしとくぜ』と声をかけられて、名前と年齢、特徴からもしやと思い、ついて行ったその場所に私がいたのだという事。

 

「…見つけるのが遅くなって、本当に済まなかった。

 君は覚えてはいないだろうが、君の従姉であるわたしの亡き妻は、まだ幼かった君を、我が子のように可愛がっていたよ。

 その君は、わたしにとっても娘のようなものだ。

 これまで苦労をかけてしまった分、君を必ず幸せにする。

 これからは我が子同然に、わたしの家で一緒に暮らして欲しい」

 半身を起こした私を、そう言って抱きしめてくれたその分厚い胸の温かさを、私は一生忘れることはないだろう。

 

 …それから一ヶ月も経った頃、それまで見たこともないような上質な生地で仕立てられた外出用のドレスと、つばの大きな揃いの帽子をジョースター卿に与えられ(娘という存在が未知すぎて加減がわからなかった、とは後ほど聞いた言)、それを身につけた私は、彼と共に立派な馬車に乗せられて、大きな邸に連れていかれた。

 ジョースター卿には私より5歳下のジョナサンという名の息子がおり、4年間一緒に暮らしたあの家の子供たち(血統的に、彼らも私の従弟だったらしいが)が学がないせいか癇癪もちで、ある程度大きくなってからはやたらと暴力的になってきていてまったく可愛いと思わなかったので、それと同年代の彼の存在は会う前は不安しかなかった。だが。

 

「ようこそ!初めまして、ジュリア姉さん!!

 来てくれて嬉しいよ!お姉さんができるって父さんから聞いて、すごく楽しみにしてたんだ!!」

 …どうやら物怖じしない、人懐こい性格らしい。

 馬車の扉が開くなり声をかけてきた少年の輝くような笑顔に、私が思わず固まってしまっていたら、その行動をジョースター卿が嗜めた。

 

「ジョジョ。紳士ならばまずは、馬車から降りるレディに手を貸すのが礼儀であろう」

「あ……はい。ごめんなさい」

「お気遣いなく、ジョースター卿。私は平気です」

 少年が叱られるのが心苦しく、私は思わず、馬車から自分で降りようとした。

 だが私のその行動もまた、大きな手に穏やかに制される。

 

「…男子たるもの、立派な紳士になる為に、普段からこういう事は疎かにしてはいけないのだよ。

 君はレディなのだから、素直にエスコートされなさい。

 …それと、わたしの事は今日から父と呼ぶように」

 結局、息子の代わりに私に手を差し伸べながら、そのひとは私の目を、期待に満ちた目で見つめた。

 その眼差しに、ほんの少し躊躇いながら、私はその呼び名を口にする。

 

「……はい、お父様」

 私の答えに、『お父様』は満足げに頷いた。

 それから、やはり何か期待しながら見上げてくる息子に目をやり、もう一度私へと向き直る。

 

「…結構。改めて紹介しよう、ジュリア。

 わたしの息子のジョナサン・ジョースターだ」

「初めまして、ジョナサン様。

 ジュリア・サラ・パーカーと申します」

「様なんて!ジョジョって呼んでよ!

 みんなそう呼んでる……あっ!!

 紹介するよ、姉さん!ぼくの愛犬のダニーだ!」

 先の事などなかったかのようにそう言って私の手を引いて、嬉しげに尻尾を振る大きな犬のそばに連れて行こうとする少年の無邪気さに、その父親は困ったように肩を竦めたが、私はどこか胸の奥に、温かい何かを感じた。

 

 …その日から、私はジョースター家の令嬢として生きる事となった。

 割とマナー的な事について、あまり身についていないらしいジョジョが、それらをあまり重要視していない事に気がついた私は、ある時こんな提案をしてみた。

 

「いいこと、ジョジョ?

 立派な紳士を目指すのであれば、テーブルマナーもレディーファーストも侮る事は許されないの。

 貴族の世界において、それらは己を守る鎧であり武器となるもの。

 裸で戦場に出ては死ぬだけよ。

 しかもそれはさりげなく、自然な形で身につけなくてはいけないわ。

 いかにも『やってます』みたいな形になると、逆に田舎者と侮られるのよ。

 あなたのお父様はとてもカッコいいでしょう?」

「うん……父さんは、本当の紳士なんだ」

「あなただってそうなれるわ。

 その為にまずは私と一緒に、基礎からじっくりとマナーの勉強をしましょう。

 私も本物の淑女を目指すから、あなたもお父様のような、本当の紳士を目指すのよ!」

「わかったよ、姉さん!!」

 …男の子は、『カッコいい』という言葉でやる気を出す生き物だと思う。

 

 優しい父と、可愛い弟。

 使用人の方々も、一度は貧民街に暮らしていた私を見下す事はなく、皆さん親切にしてくれて、この穏やかな日々が、ずっと続くものと、私はいつしか、信じていた。

 

 ──あの子が、この家にやってくるまでは。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2

どうしよう…なんかこの章、思ったより長くなるかもしれん。


 初めて会った『姉さん』は、ぼくより5才も上だと聞いていたのに、とても小さな女の子に見えた。

 実際に身長は、10歳のぼくの方が大きかったし。

 

 …ぼくが赤ちゃんの頃に亡くなった母さんの従妹、つまりぼくにとってはいとこ叔母にあたるジュリアは、思ったほど残っている母さんの写真とは似ていない。

 もっと綺麗だと勝手に想像していたぼくは、正直がっかりしていた。

 その気持ちを誤魔化す為に、ちょっと大袈裟に歓迎してみせたら、ジュリアはぼくの挨拶に、ちょっとびっくりしたみたいに、鳶色の瞳を(みひら)いて、一瞬かちんと固まっていた。

 …だが本当は、その時ぼくは挨拶をする前に、彼女が馬車を降りる為、手を貸さなければならなかったらしい。

 そういえばこの間マナーの先生に、レディーファーストの精神そのものがなっていないと注意されたばかりだった。

 そして、ぼくが叱られそうになったのを見て、慌てて自分で馬車を降りようとしたジュリアを止めて、手を差し伸べた父さんの所作は、ぼくから見てもとてもカッコ良かった。

 そして、それまで冴えなかったジュリアの顔色が、パッと薔薇色に染まる瞬間を、ぼくは確かに見た。

 …その後、改めて挨拶を済ませ、その手を引っ張ってダニーのところに連れていったのはわざとだ。

 だって、何となく面白くなかった。

 同じ子供同士なのに、ぼくを見たら固まってしまったくせに父さんには憧れの目を向け、レディ然とした態度をとる彼女を、こっちに引き寄せたかった。

 けど後日、正式にぼくの『姉さん』になったジュリアの口から、やはりカッコいいのは父さんだと聞かされて、ぼくはもっと勉強を頑張る事にした。

 マナーの勉強は相変わらず嫌いだったけど、ジュリアが『それらは貴族の世界において、己を守る鎧であり武器となるもの』だと言った事には、すごく納得した。

 

『女は、男の知らないところで戦うものなのよ』

 そう言ってウインクしてみせたジュリアが、初めて会った時に比べて身体も頬も丸みを帯び、パサパサだった亜麻色の髪も艶やかになっていて、健康な状態ならばとても綺麗である事に、その時初めて気がついた。

 

 ・・・

 

 ぼくとジュリアが、本当の姉弟のように仲良く暮らし始めて2年が過ぎた日の夕食時、父さんが子どもをもう1人引き取る事にしたと告げた。

 

「わたしの恩人のブランドー氏が、もはや余命幾ばくもなく、その息子を託したいと手紙をくれたのだ。

 名前はディオ。ジョジョと同い年との事だ。

 もう1人きょうだいが増えると思って、仲良くしてあげて欲しい」

 そう聞いたぼくはその時、とても嬉しかったんだ。

 ジュリアの時と同様、仲良くなれることを、欠片も疑っていなかったのだから。

 

 ☆☆☆

 

 ……あの日、学校からの帰り道、町の悪ガキが女の子の人形を取り上げて泣かせていたのを、止めに入ってひどく殴られ、悔しい気持ちを抱えていた。

 その途中、やはり町から帰ってきた姉さんと会ってしまい、痣の残る顔を見られてしまった。

 

「まあ、ジョジョ!この怪我はなに?

 誰にやられたか言いなさい!!

 姉さんがぶちのめしてきてあげるわッ!」

「…それは淑女のセリフじゃあないよ、姉さん」

 いつもなら汚い言葉を使って注意されるのはぼくの方なんだけれど、今日の姉さんはどうやら機嫌が悪いらしい。

 

「何を言うの!女も不当な暴力の前には、時として戦わねばならないのよ!!

 だから私はその為に、外に出る時は、一見そうとは見えない部分で、ありとあらゆる武装をしているわッ!」

「その日傘の軸をわざわざウーツ鋼で作らせたのは、そういう理由だったんだねッ!?

 あと、ブーツの先に鉄のカバーを仕込んでいるのも!?」

 一時期、小さかった背丈が急激に伸びた姉さんは、身に付けるものがドレスや靴、靴下や……その、下着に至るまで全て合わなくなって、一式全てを買い替えなければならなくなった事がある。

(今の姉さんの目線は、ぼくよりも少し上にある。

 追い越された時は悔しかったが『お父様があれほど背の高い方だし、あと2、3年も経てば、女の私はすぐにまた、あなたに追い越されてしまうわ』と言ったのは信じる事にした)

 その時に何故か、外出用の靴や小物に注文をつけて特注していたのだが、その理由が今やっとわかった。

 まずい。確かに喧嘩に負けて殴られたことは悔しいが、誰にやられたか白状してしまったら、今の姉さんはあいつらを殺しかねない。

 

「いや、いいんだ、姉さん!

 …確かに負けはしたけど、これも本当の紳士になる為に、必要な戦いだったんだ。

 だから、姉さんが怒る必要はないよ。

 …それよりも、姉さん。今日は、父さんの友達の医師の先生の家に、お使いに行っていたのだよね?」

 …あの悪童たちの命を救うべく、多少強引ながらもぼくはなんとか話を逸らす。

 だが、ぼくの問いかけは、どうやら姉さんの不機嫌の、核心をついてしまったらしい。

 

「ええ、そうよ…聞いてちょうだい、ジョジョ!

 お父様は近々、私を家から追い出す気だわッ!!」

「ええッ!!?」

 なんだか話が思ってもみない方向に飛んで、ぼくはついおかしな声をあげる。

 …だがしかし、姉さんは一旦気持ちを静めるように深呼吸をすると、その薄い肩を竦めた。

 

「……というか、私はそもそも出る気でいたのだけれど。

 あなた知っていて?スコットランドの大学には、学費が免除になるところがあるのよ。

 私は来年にはそこに通おうと思い、願書を出そうとして、お父様に反対されていたの」

 その事ならば知っている。

 というか、最近よく姉さんと父さんが言い争いになる…というか、姉さんの方が父さんに突っかかっており、父さんは困った顔で流しているだけなのだが、その理由が大体その話なのだ。

 姉さんは将来は通訳の仕事に就いて、父さんを手伝いたいと言い始め、それに父さんが『女の子がそんな事を考えなくてもいい』などと返すものだから、正直最近は2人の間の空気感がギスギスしている。

 

「そして今日、お父様の言い付けで、私がペンドルトン医師(せんせい)のお宅に伺ったら……そこに何が待っていたと思う??」

 一旦は気持ちを落ち着けた姉さんは、話をしているうちにまた、不機嫌が再燃してきたらしい。

 少しずつ吊り上がってくる柳眉に思わず視線を奪われながら、こうなったら聞き終えるまでおさまらないと覚悟して先を促す。

 

「わ……わからないな。なんだい?」

「…ペンドルトン医師(せんせい)の病院に研修に来ている、貴族籍にあるという医学生と引き合わされたの。

 年齢は23歳、名前はクリストファーとかいったかしら。

 姓は覚えていないし、覚えていたくもないわ。

 将来有望だとかなんとか言われていたけど、見れば吹けば飛ぶんじゃあないのってくらいひょろっひょろのモヤシみたいな男で、それがなんだかおためごかしみたいな調子のいい美辞麗句を並べ立てるから何事かと思っていたら、どうやらお父様の差し金の、事実上のお見合いだったようなのよ!

 それに気がついて、私はスコットランドの大学へ行くつもりだから、今は結婚は考えていないとお断りしたらあの男、『女に学歴は必要ないし、大学になんて行っていたら、卒業して戻ってくる頃には君は完全に()き遅れだ』なんてほざいたから、頭にきてお茶ぶっかけて帰ってきたわ!

 ペンドルトン医師(せんせい)には、あとで謝罪のお手紙を書くつもりだけれど、お父様には一言文句を言わなければ気が済まないッ!!

 どうせ家から出すつもりならば、進学に反対などしなければ良いじゃあないの!」

 …そういうことじゃあないんだが、多分ぼくが言ったところで、姉さんの怒りはおさまらないだろう。

 結局、2人とも素直じゃあないだけなのだという事は、ぼくでさえも見ていれば分かる。

 父さんの気持ちとしては、姉さんがうちに引き取られた事を恩義に感じて言っているのだと頭から信じて疑わず、だからそんな事など気にせず自分の幸せを考えるべきだと思うからこそそう言っているのだし、姉さんは……多分だが、父さんの事が好きだ。

 それでずっと一緒にいたくて、役に立ちたくて決めた事を否定された上、他の男と結婚しろなんて言われたら、そりゃあ女の人は怒るだろう。

 まあ、女の子の気持ちとか、ぼくにはわからないけど。

 …不意に、さっき人形を取り返してやった女の子の泣き顔が思い出され、よくわからないけど胸の奥がつんと痛んだ。気がした。

 

 家に戻ったぼくたちを途中から追い抜いていった馬車が、門の前に止まっているのを見て、ぼくと姉さんは顔を見合わせた。

 

「……そういえば近々、お父様の恩人の方の息子さんを引き取ると仰っていたわね。

 あれって今日のことだったの?」

 そう聞かれても、ぼくにはわからない。

 

 …2人で駆け寄った馬車から、トランクがひとつ投げ出され、そのすぐ後に飛び降りるようにして姿を見せた少年は、金色の髪を靡かせながら、僕たちの方を振り返った。

 

 そして…

 

 それまで楽しかったぼくの生活は、その日からとても辛いものに変わった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3

短編クラスの話の中に納める都合上、全てのエピソードは拾わず、書きたい部分のみで構成しております……それでもすでに短編じゃない罠。


 その日現れたディオという少年は、艶やかな黄金色の髪の白皙の美少年だったが、その性格は最悪だった。

 顔を合わせた最初の段階で、ジョジョを出迎えたダニーを蹴飛ばし、それに殴りかかろうとしたジョジョを私が慌てて止めると、多分迎え撃とうとした構えを解いてから、観察するように私の方をじっと見つめてきた。

 

「…知らない犬がいきなり襲いかかってきたから、驚いてしまって」

 …一拍のちに殊勝な態度でそんな事を言ったが、絶対にそんなタマじゃあないことは、ひと目見てわかった。

 だが敢えて私は、とりあえずはそれに乗った形で言葉を返した。

 

「そうなの。それは申し訳なかったわ。

 あなたがディオね?お話は父から聞いています。

 けど、ごめんなさい。

 言い訳になってしまうけれども、私もジョジョもお父様から、あなたが来る事は聞いていたのだけれど、犬が怖いのだとは聞かされていなかったのよ。

 これからは、ダニーを不用意にあなたに近寄せないよう、注意させるわね」

 言いながら、彼の様子をこちらも観察する。

 その表情に変化は見られなかったが、何故だか目線は鋭くなった気がした。

 

「……怖いんじゃあない。嫌いなだけだ」

 私より少し低い目線から、睨むように見上げてきたディオは、その儚げな容姿に似合わぬ、圧し殺すような声で言った。

 

「………え?」

「あの、人間にへーこらする態度に、虫酸が走るんだ。

 ぼくも、君たちの家に厄介になるからって、あんな風に君たちに媚びたりはしないッ!

 ぼくは一番が、ナンバー1が好きなんだからな!

 誰であろうとぼくの前でイバらせはしない!」

 ……恐らくは。

 犬が怖いと思われた事が、彼のプライドに障ったのだろう。

 そういうところを呑み込めないのは、やはりこの年齢の男の子の反応だと、その時は少しだけ安心したのだけれども。

 多分、その気の緩みが良くなかったのだ。

 私はこの時、言葉選びを間違えた。

 

「……それこそ、怯えて噛み付いてくる犬みたいね、あなた」

 …その時の、私を見返したディオの瞳に浮かんだものを、なんと表現すべきだっただろう。

 それまで全く感情を見せなかった青い瞳が、唐突に何かに揺れたのを、私ははっきりと見た。

 

「…人間だって生きるために、下げたくもない頭を下げ、媚びなければならない時もあるんじゃあないかしら。

 譲れないものは、確かにある。

 守るべきものは守りつつ、互いに適度に頭を下げあって暮らすのが、人間の社会だと思うのだけれど?」

 

 

 ……だが、ならば他に何を言えばこの後の事態を回避できたのか、少しでもマシな結果にできたのかは、後から考えてもわからない。

 とにかくこの日から、ディオ・ブランドーは私たちの家族となった。

 

 ひと月ほど一緒に暮らしてみると、ディオは対外的には快活で利発な少年だった。

 その美しい容貌もさることながら、都会的でスマートな物腰と庶民的な気安さとで、瞬く間に地域の同年代の子たちの人気者となっていった。

 そしてそれに反比例するように、天真爛漫で物怖じしない少年だったジョジョは、どこかオドオドしがちになり、勉強にも身が入らなくなった。

 どうやら大人たちの目につかないところでディオに嫌がらせをされており、それまで仲良くしてくれた町の子供達にも悪評を流されて孤立しているらしかった。

 それを口に出せずに萎縮した彼は、私と競ってせっかく身につけた貴族の作法にもどこかボロを出すようになり、お父様が眉を顰めるようになった。

 

 ・・・

 

「ジョジョ!これで6回目だぞ!

 同じ間違いを何度繰り返すのだ!!」

「ディオを見ろ!全問正解だ!!」

 

「いつまでもマナーが身につかんやつだ!

 もう食べんでいい!部屋で反省しなさい!!」

「ディオを見習え!ディオのマナーは完璧だ!!」

 

 ・・・

 

 ……それまで私たちに穏やかに接してきたお父様の小言が多くなるにつれ、ジョジョは沈み込むことが多くなってきた。

 そうして叱り飛ばされるジョジョを庇うでもなく、むしろ見下すような目で見つめるディオの視線は、私をも苛立たせた。

 天使みたいな顔をしているが、この子はとんだ性悪だ。

 だがそれを指摘すれば私たちの立場上、新しく入ってきた(ディオ)に意地悪をする姉弟(私とジョジョ)という図式に、絶対になってしまう事は目に見えていたし、彼がそれを狙っている事もわかっていた。

 ディオはそれくらい、他人の心を掴むのが上手い子だし、私も下町で暮らしていた頃、下の子たちが泣けば私のせいにされて、その度に折檻を受けていた経験があったから、こういう事には敏感だった。

 それを避ける為に私は、なるべく彼との関わりを避けるようにしていたが、後から考えるにそれも、ディオを増長させる要因であったように思う。

 

 お父様に叱られて夕食を抜かれた(私も気分が悪くなり食事を中座した。作ってくれた料理人には申し訳ない事をしたと思う)ジョジョの部屋に、こっそり厨房で作らせたサンドイッチと、彼の好きなチョコレートを持っていったら、ジョジョは寝転がったベッドから跳ねるように飛び上がり、貪るようにしてそれを口にした。

 ……食欲はあるようで安心したが、私の分まで食べられてしまったのはちょっと悲しかった。

 

「…父さんは、ぼくが嫌いなのかな。

 ぼくよりディオの方が好きなのかな」

 お腹が満ちて落ち着いたせいか、ジョジョは私に寄り添いながら、ポツリと呟いた。

 

「そんなことはないわ。

 お父様もディオの手前、あなたに厳しくするしかないことに、心を痛めていらっしゃる筈よ」

「……姉さんは、ぼくがこのまま死んでしまったら泣いてくれる?」

 頬に涙の跡を残したままの顔をあげて、私を見上げて問いかける、その目を敢えて睨みつける。

 

「そんな事を言うものではないわ。

 いいこと?あなた…ジョナサン・ジョースターは、この世に1人しか居ないの。

 ディオがどんなに優れていても、それは変わらない。

 あなたは、あなたであるというだけで大切な人なのだから、誰と比べるのではなく、あなた自身の価値を自覚なさい」

 そう言ってやると、ジョジョはギュッと私にしがみついた。

 

「姉さんと……ダニーは何があっても、ぼくの味方だよね?」

「…勿論よ、ジョジョ」

 抱きしめ返したその温もりは、2年前にその父親から、私が与えられたものと、とてもよく似ていた。

 撫でた後頭部の下、首の後ろに、五芒星のような形をした特徴的な痣が、その襟の下から覗いた。

 以前水遊びをして、私の目の前でシャツを脱いだ時に見つけて指摘したら、お父様にも同じ痣があるのだと教えられ、驚いたものだ。

 なんとなくそれに指先で触れる。

 

「くすぐったいよ、姉さん」

 そう言って、腕の中からこちらを見上げた弟は、洟をすすりながら、少しだけ笑った。

 

 ・・・

 

「わたしは、息子を甘やかしていたのかもしれん」

 ある日、たまたま家の書斎で仕事をされていたお父様に、休憩していただこうとお茶を持っていった際、お父様はふうっとため息をついて言った。

 

「……ディオが出来過ぎなのですわ。

 この間、試しに私が家庭教師から出されていた課題と同じものを彼のものに混ぜておいたら、それすら全問正解していましたもの。

 あの子を基準に判断していたら、貴族子弟の大半は、駄目な子になってしまいます」

 窓から外を見下ろし、そこから見える小道を歩く人たちの姿から、そろそろ町の学校から、子供たちが帰ってくる時間であると推測する。

 

「…私はディオのそれまでいた環境を、ある程度想像する事ができますが、貧民街においては自分で手を伸ばさなければ、知識が勝手に入ってくることなどありませんのよ。

 お父様には当たり前過ぎてぴんと来ないかもしれませんが、あの子はここに来た時点でもう、読み書きが完璧にできていましたし、今も暇さえあれば本を読んでいる印象があります。

 彼は恐らくは、知識が武器になる事を早い段階で自覚して、恵まれない環境の中で最大限、それを得る為の努力をしたのでしょう」

 その精神力は、確かに驚嘆に値するものだ。

 たかだか4年ほどとはいえ、似たような環境で暮らした私が凡人の域を出ない事を考えれば、素直に尊敬の念を抱くべきなのだろう。

 ……けどやはり。

 私はディオが好きになれないし、だからといって表立ってそれを表明するわけにもいかない。

 ディオも恐らくは同様だろう。

 私に対して、必要最低限の用件でしか話しかけてはこないし、ジョジョならば喜んで食べてくれる手作りのおやつも、私が作ったものとわかると絶対に手をつけようとしない。

 そういうところも可愛くないと、どうしても私がジョジョ寄りになってしまうから、これはもう悪循環なのだろうと、理解はしている。

 …そういえばこの間のお詫びだとペンドルトン医師(せんせい)が届けてくださった、彼の所有する農園で採れたという葡萄が、貰ったその日に食べきれなかった分をジャムにしてあった筈だ。

 ジョジョはこの後、いつも通り少し遊んで帰ってくる筈だから、スコーンを焼いて用意しておこう。

 そんな事を考えていたら、メイドの手を借りずに私が淹れたお茶を口にするお父様が、ちょっと困ったように微笑んだ。

 

「…ならば余計に、ジョジョにはしっかりしてもらわねば困る。

 これまで、君が一緒にやってきてくれた結果が、ひとりで頑張っているディオに負けているのは事実なのだから。

 君がついているから大丈夫と、ジョジョが思ってしまう事が問題なのだよ。

 君はいつかはこの家を出て、幸せな結婚をする。

 その時は、それほど遠い未来ではないと、わたしは思っているよ。

 だからそれまでにジョジョは、自分1人で立てる男にならなければいけないのだ。

 いつまでも君に甘えさせておくわけにはいかないのだよ」

 …お父様は自覚なしに、私が一番言って欲しくない事を言い、その言葉とともに多分無意識に、右手の小指の細かい細工の施された指輪に、左手の薬指を、愛おしげにそっと重ね合わせた。

 

 ……なんだか泣きたいような気持ちになって、早々にお父様の書斎を辞した私は、半ば腹立ち紛れに厨房に立った。

 だがその日焼いたスコーンは添えた葡萄のジャムと共に、ジョジョの口に入ることはなかった。

 

「ごめんよ姉さん。今日はお腹が一杯なんだ。

 姉さんのおやつを食べてしまったら、夕食が入らなくなってしまう」

 そう申し訳なさそうに言ったジョジョは、その日は夜までずっと御機嫌だった。

 彼がその日着ていたシャツの袖に、何故か、葡萄色の飛沫の染みが付いていた。

 

 ・・・

 

 ジョジョに食べてもらえなかったスコーンは私の夜のお茶請けにでもしようと、ちょっと沈んだ気持ちでその皿を持って、自分の部屋まで歩いた。

 少し手間取りながらドアを開けようとしたら、後ろから伸びてきた白い手が、私が苦労して開けた筈のドアを押して、バタンと音を立てて閉めた。

 

「…なるほどな。生きるために、媚を売らなきゃいけないってのは、こういう事か」

 聞きたくない声が間近で聞こえ、反射的に振り返る。

 

「……ディオ?」

 その、初めて会った時には僅かに下にあった筈の目線が、いつのまにかほんの少し上になっており、表情の見えないアイスブルーの瞳が、やけに近くから私の顔を、覗き込むように見つめていた。

 …スコーンの皿を手にしたまま、気付けば私は自分の部屋のドアを背に、私の肩越しにドアに付けられたディオの手に、囲い込まれるような体勢で立っていた。

 

「…ただいま、()()()

 ぼくの為には、おやつを作ってくれないのかい?

 寂しいなァ」

「……あなたはいつも私の作ったものなんて、田舎菓子と馬鹿にして食べないじゃあないの。

 それより、今のはどういう意味?」

 息がかかるほどに近いこの距離が苦痛で、腕の下をくぐり抜けて逃げようとしつつ問う。

 だがそんな動きなど予想の範疇とばかりに、まだ子供の筈のディオの腕は、巧みに私の逃走経路を阻んで、掴まれた肩の動きに合わせ、逸らそうとした視線を無理矢理、再び合わせられる。

 

「そのままの意味さ。

 けど、媚びる相手は選んだ方がいいんじゃあないかな?」

「だから、何を言って……」

 ……言いかけた言葉は、ディオの口の中に消え、手から落ちた皿から転がったスコーンが、ディオの靴の裏に踏み潰された。




なお……

ディオ→12歳
ジュリア17歳


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4

……本当のこと言うと、この章の話って『クルセイダース・ゼロ』とは全然別の、独立した話だったんです。
なんとなく一緒にしちゃったけど、多分うまく合体できたと思う。
多分だけど。


「……それこそ、怯えて噛み付いてくる犬みたいね、あなた」

 当主の子供達だろうが下手に出るつもりはないと、この家に来た日に言ってやったら、姉の方が呆れたように返してきた言葉が、それだった。

 

「人間だって生きるために、下げたくもない頭を下げ、媚びなければならない時もあるんじゃないかしら。

 譲れないものは、確かにある。

 守るべきものは守りつつ、互いに適度に頭を下げあって暮らすのが、人間の社会だと思うのだけど?」

 

 ……互いに頭を下げあう…だって?

 それは、どんな事も常に上に立たなければ生きて来れなかったおれにしてみれば、まったく理解できない考え方だった。

 対等でいては、いつ踏み台にされるか判らない。

 他人は蹴落として踏みつけて、手の届かない高みまで立たなければ、いつ足元を掬われるかわからないではないか。

 甘やかされて生きてきた貴族の娘なんぞに何がわかる。

『それが人間の社会』だなどと、人間以下の暮らしを知らない、所詮は女の戯言だ。

 

 ──その、何も知らないお綺麗な顔が、絶望に歪むのを見たい。

 その時、おれの心に広がった漠然とした感情は、分析すればそういう事だったと、後になってから気がついた。

 

 ・・・

 

 ジョースター卿に取り入る事には成功した。

 初日からある程度脅しつけて萎縮させたジョジョが、恐らくは普段ならしないのであろう初歩的なミスを、父親の前で勝手に披露してくれたお陰だ。

 厳格なジョースター卿は、それまで恵まれた環境に居なかった筈のおれが、息子より学力も所作も優れているのは、息子の教育不足であると断じて、奴への対応を厳しくした。

 そして、全てのことがおれには敵わないと判ると、ジョジョはますます萎縮していった。

 賭けボクシングで小遣いを巻き上げ、大切なものを取り上げても、告げ口もできないほどに。

 更におれは、ジョジョの友人たちをこちらに引きつけ、奴の悪評を流した。

 それによりジョジョは心を閉ざして、自分の殻に閉じこもる事で周囲との壁を築いていき、信用できる者をなくした奴は、最終的には空っぽの腑抜けになる筈だった。

 だがジョジョの心はなかなか折れなかった。

 姉のジュリアが、最後には必ず奴を肯定する立場を貫いたからだ。

 正直、邪魔だった。

 あの女が居ては、ジョジョを完全に孤独に追いやる事はできない。

 それでもおれやジョジョより5歳も年上と聞いていたし、貴族の女であれば少しの間一緒に暮らす事になったとしても、すぐにどこかに嫁いでいくだろうと高を括っていた。

 だが本人はスコットランドの大学に進学する事を望み、そこで勉強して通訳の資格を得たら、ジョースター卿の仕事を手伝いたいと希望しているらしい。

 それだと一時的にはこの家を出たとしても、おれがこの家の財産を法的に自由にできる年齢になる頃には、彼女はおれよりもずっと、卿の立場に近いところに居る事になるではないか。

 

 そのジュリアはジョースター卿の実子ではなく、亡くなった夫人の従妹にあたる娘を引き取ったのだと聞かされた。

 保護者だった祖母が病に倒れた時、そのどさくさで一度誘拐され、4年間、市井の末端の暮らしをしてきたのだと。

 言われてみれば、儚げな見た目に反して肝の太いところや、自ら厨房に立っていかにも田舎っぽい菓子作りなんぞしているところを見て、淑女らしからぬところがあると思っていたが、それも所詮田舎貴族の娘だからだと思っていた。

 蓋をあければ世の汚れを何も知らないお嬢様どころか、その汚れに一度は呑み込まれた女だった。

 とどのつまり、目的はおれと同じという事だ。

 女である限り、当主となる事まで考えてはいないだろうが、そこは女には女の登り方がある。

 つまりはそれが本人の言う『生きるために媚を売る』という事なのだろう。

 ならば、その芽を摘み取ってやるまでだ。

 卿は厳格な紳士である。

『息子』の手のついた女を、間違っても後妻に迎える筈がないし、ましてそれをもう1人の息子に与える事もすまい。

 

 彼女の薄い肩を引き寄せ、その唇を奪った瞬間。

 右頬に鋭い感触が走り、生温かい液体が頬を伝うのがわかった。

 反射的に唇を離し、そこに手をやる。

 夕方の薄暗い廊下で、ランプの灯りの下では、その色までは判りにくかったが、その時おれの指に付着した液体から、微かに鉄の匂いがした。

 少しの間隔を置いて、右の頬にじんじんとした痛みを感じる。

 

 頬を打たれた?いや違う。この女は動いていない。

 大体、これは明らかに切り傷だ。

 今起きていることが信じられずに、女の顔を見返す。

 

 ──ジュリアは、おれを見ていなかった。

 おれの右斜め後方あたりの虚空を、何か恐ろしいものでも見たような目で見つめていた。

 その視線の先に反射的におれも目をやり、そこに何も無い事を確認する。

 

「…………なんなの、あれ」

 その、おれの腕の中で恐らくは無意識なのだろうが、縋るようにおれのシャツの胸元を握りしめたジュリアの、その手の温もりにわけもなく優越感を覚えた。

 

「……何が?幽霊でもいたのかい?

 意外と怖がりなんだな、姉さんは」

「見えなかったの、今の!?あれは、まるで……」

 揶揄うようにそう言ってやると、弾かれたように上げられた顔の、鳶色の瞳が、次には瞠かれた。

 

「ディオ?血が出ているわ!」

 …今気がついたのか。

 本当におれを見ていなかったのだと、どこかがっかりしている自分の気持ちに戸惑いつつ、伸びてきた指先を何故だか避けて、おれは首を横に振る。

 

「…多分、皿の破片が飛んできたんだろう。

 そんなことより、ジュリア……」

 有耶無耶にされては堪らないと、おれは話をさっきの事に戻……

 

「そう、それよ!

 何をおいても、食べ物を粗末にするのは許せないわ!

 この床に落ちたスコーンとジャムと、この後掃除してくれる使用人の方と、あと割れたお皿にも謝りなさい、ディオ!!」

「……………は?」

 ……す前に、明後日の方向に飛び火した。

 ええと、この女はこの状況で何を言っている?

 

「私たち人間は、食べる事で命を繋いでいるの!

 あなただって、食うに困った経験くらいあるのでしょう?

 今は困らない生活をしていても、食べ物への感謝を忘れてはいけないわ!!」

 いや待て。

 怒っているのはキスをされた事じゃなく、手作りの田舎菓子を床に落とされた事なのか?

 それは貴族の令嬢としてありなのか!?

 おれが混乱している間に、先ほどの皿の割れた音とジュリアの怒号に、何事かと使用人たちが駆け寄って来るのが、視界の端に映った。

 

「何を呆けているのディオ!?ごめんなさいは?」

「ごめんなさい」

 その勢いに圧されて、つい鸚鵡返しにその言葉を口にするが、決してこの程度のことを悪いと思ったわけじゃない。

 そうこうする間に、おれ達のやり取りを目にして大体の状況を察した年嵩のメイドが、すぐに掃除用具を手にしておれ達の間に入って『坊ちゃん、お嬢様、大丈夫ですよ』などと声をかけててきぱきとその場を片付けていき、そのメイドに労う声をかけてから、ジュリアは再びおれに視線を戻す。

 

「…これに懲りたら廊下でふざけるのは程々になさい。

 ここはヤドリギの下ではないし、今日もクリスマスではなくてよ。

 あと、傷はすぐに手当てなさいね。

 せっかくの綺麗な顔に傷が残ってはいけないわ」

 そう言っておれを見返した鳶色の目には、どこか呆れたような色が浮かんでおり、その後、着替えを促され若いメイドに手を引かれて引っ込んだジュリアの部屋の閉じられたドアを、おれは歯がみをして睨みつけることしか出来なかった。

 ロンドンの貧民街で暮らしていた頃にはもう、大人の女たちから秋波を飛ばされていたおれにとって、それは酷く屈辱的だった。

 

 ──子供扱いするなッ!!

 

 

 

 …後日、ジョジョに仲のいい女友達が居ると判り、半ば八つ当たりで同じ事をしてやったら、泥水で口を洗われ、思わずカッとなって手をあげてしまった。

 ジョジョの周囲には気の強い女しか居ないのか。

 だが結果としてはちゃんと引き離せたので良しとする。

 その際にジョジョの爆発力というか、思いもよらない精神的な強さを見せつけられ、痛く悔しい思いはさせられたが、己の欠点と共にこれらのことも、反省して次に繋げればいいだけの話だ。

 

 ☆☆☆

 

 ……ディオの悪ふざけでジャムが飛んで、汚れてしまったブラウスとスカートをメイドに着替えさせられながら、私はさっき見たもののことを思い返していた。

 人間の上半身と、黒ヤギの頭部と下半身を持った、男の姿。

 その姿は、古い本の挿絵で描かれたような、悪魔の姿そのものだった。

 

 …その翌朝、私は原因不明の高熱を出して朝食の席で倒れ、それから1ヶ月以上もの間、ベッドから起き上がる事すら出来ず寝込むこととなった。

 その間、ジョジョとディオが殴り合いの喧嘩をしたとか、ジョジョの愛犬のダニーが死んだとか(死因は教えてもらえなかった)、色々あった事を後になってから聞かされた。

 ジョジョとディオはなんかいつの間にか仲良くなっており(というかディオが嫌がらせをやめたようだった)、時折2人で顔を見せに来てくれた。

 また私の体調が戻った頃に、ずっと私の主治医でいてくれたペンドルトン医師(せんせい)がインドの病院に行く事になって、多分10年近くイギリスには戻る事ができないから、そちらに奥さんと娘さんも連れていくのだと、一度挨拶に来てくれた。

 

 結局、スコットランドの大学に進学する許可を、私はお父様から得ることは出来なかった。

 こちらから通える大学は女の入学を認めていないから、事実上進学への道は断たれた事になる。

 

「君の学びたいという気持ちは尊重したい。

 だが、女性の進学と社会進出に対して、少しずつ門戸が開けて来てはいるものの、世間一般では未だ否定的である事も事実だ。

 確かに家庭教師の報告でも、そしてわたし自身から見ても君は優秀で、わたしはそれを誇りに思っているが、未だ男社会である世間は、決して同じように見てはくれないのだ。

 男よりも優秀な君に、何らかの悪意が注がれないとも限らない。

 そんな時、ただ支えるだけの手すら届かない距離にいる君を、わたしは親としてどう助けたら良いのだね?

 また今回のように、急な病に倒れないとも限らないし、そんな時にすぐに駆けつけられない距離に、君を置きたくない家族の気持ちを、どうか判ってくれないだろうか。

 わたしは、君を失いたくないのだよ、ジュリア」

 …そんなふうに懇願されてしまっては、私に抗う術はなく、私は語学関係の家庭教師の数を増やす事となったが、ある程度を過ぎると独学で勉強する他なくなった。

 

 そうして時は流れ、弟たちが大学へ進学し、卒業も間近になった頃、お父様が病に倒れた。

 

 気がつけば私がジョースター家にやってきてから9年、ディオが引き取られてから7年の月日が流れていた。

 

 そして…………

 

 ・・・

 

()()()()()()()()()ぞ!ジョジョ──ッ!!

 おれは人間を超越するッ!

 ジョジョ、おまえの血でだァーッ!!」

「ナイフを持っているぞ!やつを射殺しろッ!」

「石仮面!?何故君が持っている!!」

 腕を吊っていた布を破り、その下から現れたナイフよりも、ディオがその腕の下に隠すように持っていた不気味な仮面に、ジョジョは気を取られていた。

 

 ……考える間もなく、私の身体がそこに滑り込めたのは、呆然とするジョジョの大きな身体に抱きつくようにして、お父様がディオの凶刃の前に、その無防備な背中を晒したからだった。

 どこに当てれば、万が一でも助かるかとか、もう少し冷静ならば考えられただろうが、そもそも冷静であればこんな真似はしないなと、呑気な事を考えていた。

 こんなにも間近に見たのは例のキスをされた時以来の、あの頃よりも随分大人びたディオの顔が、驚きに歪むのが見えた。

 こんな顔をしていても綺麗なのはずるいと、余計な事を考えられるくらい、時間がゆっくりと流れていった。

 

 …最初にお腹に衝撃がきて、次に熱。

 それからじわじわと、痛みがそこから全身に広がって、それが耐え難いほどに高まった時、もはや自身の身体も支えきれぬまま、私はゆっくりと仰向けに倒れた。

 

「ジュリア!」

 ……愛しい人の声が、私の名を呼んで、背中が誰かに抱きとめられた。

 

 ☆☆☆

 

 おれの振りかざしたナイフが貫いた感触が、固い筋肉のそれではない、女の柔らかな肉のそれだった事に、おれは少なからず動揺した。だが。

 

「ジュリア──ッ!!」

「ねえさんッッ!!!」

 …虫ケラたちの叫び声が耳を震わして、ナイフを握るおれの手を、そのあたたかな飛沫が濡らし……おれは己の表情が、愉悦に緩むのがわかった。

 

 いつだってそうだ。

 いつもこの女はおれの邪魔をする。

 だが、今日でそれも最後だ。

 まさかこの女が最後の最後に、おれが世界の頂点に立つ、後押しをしてくれる事になるとは。

 ナイフから手を離したおれは、その手を顔の上に持っていき、まだぬくもりの残るその赤い滴を、躊躇う事なく、顔に当てた冷たい仮面に塗りつけた。

 

 …次の瞬間、仮面から飛び出した骨針が頭蓋骨を突き破った、その痛みと感触が、おれの人間としての最後の記憶だ。

 

 おまえの血で、おれは人間を超越する。

 

 ☆☆☆

 

 もはや自身の頭すら持ち上げる事ができず、背中だけを支えられてのけ反った私の視界の中に……異形が立っていた。

 私の視界に逆さまに映るそれは、黒ヤギの頭部と下半身に、人の男の上半身を持っていた。

 間違いない。あの時の悪魔だ。

 それが私を、逆さまに見下ろしている。

 否……あの時からずっとそれは、見えないながらも私のそばにいた。

 何故だかわからないが、本能で私はそれを理解した。

 

 悪魔でもなんでもいい。お願い。

 私の命を全部あげるから。

 だからお願い。

 私の愛する人たちを、助けて。

 あの、本物の悪魔の、思い通りにはさせないで。

 

 心からの叫びに、異形が何故か、泣きそうな目をした気がした。

 そして、全ての光が、私の視界から………消えた。

 

 ☆☆☆

 

 ジョースター邸が炎に包まれ、崩れ落ちる光景を見つめ、涙を流したスピードワゴンが次に見たのは、荒んだ人生を送ってきた彼が生まれて初めて心の底から尊敬した青年が、窓を破って飛び出してくる姿だった。

 

「……生きている!

 生きてるぞッ!この人は勝ったんだッ!!」

 歓喜の叫びを上げながら、負傷した己の身体も忘れ、スピードワゴンが力一杯抱きすくめた青年の大きな身体は、何故か全身水浸しだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・・・

 

「樹里…おれは、もう諦めねえ」

 アヴドゥルさんの説明を聞いた後、家に帰ろうとしたら、空条に呼び止められた。

 

「……なにを?」

「おれは絶対に、おまえを手に入れる。

 おれの事しか考えられねーくらい、夢中にさせてみせる」

 低い声が熱く紡ぐ言葉に、心臓がどきりと跳ねた。

 

 ……空条の緑色の瞳が一瞬、狂おしいほどに懐かしい、誰かの面影と重なって見えた。

 

…to be continued

 


 

 ジョージ・ジョースター卿はこの時点でまだ生存していますが、ウインドナイツロッドの戦いの間は、ずっとペンドルトン医師の病院で静養しておりました。

 ジョナサンとエリナの結婚式には出席し、新婚旅行の見送りにも来ていましたが、彼らの乗った客船が海上で爆発したとの報を聞いた直後、後日のエリナ救助の報を待たずに心不全で亡くなります。

 小指に着けていた筈の夫人の形見の指輪は、亡くなった際の彼の指にはなく、後日ジュリアの墓の前に置かれているのが発見されました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 5~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。