Serial experiments □□□  ー東方偏在無ー (葛城)
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プロローグ

誰かが絶対に作っているであろうクロスオーバー。既にブームが過ぎ去ってしまったのか見かけないので初投稿です




ま、結局は自己満足だからね、多少はね(妥協)


 

 

 

 ――幻想郷。

 

 それは、人ならざる者たちが集う隠れ里。コンクリートジャングルの現実世界からは否定された存在……一部の神様や妖怪、超能力者たち、あるいはその末裔たちが肩を寄せ合って生きる、小さくも幻想的な世界。

 

 博麗大結界と呼ばれる、幻想郷(内)と現実世界(外)を隔てる不可視の壁によってほぼ閉ざされたその世界は、緑が溢れていた。空気も澄んでいて、空も青く、どこまでも自然が自然のままに息づいている。

 

 何故そこまで綺麗なのか、その理由は一つ。この世界を管理する者たちの存在によって文明の発達が管理されているからだ。

 

 現実世界より否定された存在にとって、現実世界ではもう生きることは叶わない。幻想郷が、現実世界と同じようになってしまえば、その後に待っているのは……消滅のみ。

 

 だから、科学技術を始めとした、秩序そのものを根こそぎ作り変える力は危険視されている。理由問わず、それを広めるようなことをするものを厳しく罰するので、必然的に技術の発展は抑制されているわけだ。

 

 それは何とも乱暴な考えではあるが、しかし、悪いことばかりではない。外とは違い、幻想郷の時間は忙しないが緩やかに流れている。人ならざる者たちにとって、この世界は最後の住処なのであった。

 

 そこで住まう人々を始めとした、人ならざる者たちは、幻想郷内にて定められた規則(ルール)にはよく従った。特に、強者とされている者たちほど、この規則を守った。

 

 その気になれば、大勢の妖怪を従えて王として君臨することが出来るかもしれない存在も、中にはいた。だが、彼ら彼女らはあえてそれをしなかった。

 

 それは何故か。理由は、色々とある。

 

 例えば、強者とされている者たちは意外と多く、結果的にそのおかげでパワーバランスが保たれているから。

 

 例えば、争い事を好まない強者もおり、何か事を成せばその者が敵に回るから……といった理由がある。

 

 けれども、強者たる彼ら彼女らを押し留めている最大の理由は、そこではない。腕の一振りで人間一人、妖怪一体を容易く葬る強者たちの暴走を押し留めているのは……一人の人間の存在であった。

 

 それは、幻想郷の要であり支柱でもある博麗大結界を管理する、博麗神社の巫女。渦巻くパワーバランスを一身で押さえ付け、留め、幻想郷内の秩序を守っている、秩序の天秤。

 

 異変ある所に博麗の巫女あり、妖怪ある所に博麗の巫女あり、人間ある所に博麗の巫女あり。幻想郷が出来たその時より幾度となく代替わりを果たしながらも、その名を幻想郷内に知らしめ続けた、最強の抑止力。

 

 ――その名を、博麗霊夢(はくれい・れいむ)。数多の妖怪から一目置かれている博麗の巫女の中でも、歴代最強と噂されている美少女であった。

 

 御年十代半ばでありながら、博麗の巫女を先代より襲名して、幾数年。未だ負けを知らぬは博麗霊夢と揶揄されることもあるその少女は、己の寝床でもある博麗神社の縁側にて腰を下ろしながら……静かに、眠気と戦っていた。

 

 ――ちちち、と。

 

 どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声。これは、雀だろうか。半ばまで瞑り掛けている己の眼を気合いでこじ開けながら、霊夢は胡乱げな意識の中でぼんやりと考えていた。

 

 季節は、春。此度の幻想郷の春は、例年にないぐらいに陽気で、穏やかで、誰も彼もが眠そうにしている。それは、内と外とを隔てる博麗大結界を管理する霊夢とて、例外ではない。

 

 船を漕ぐ霊夢の傍には、湯呑が一つと皿が一つ。すっかり冷めて温くなったお茶と、茶菓子であるどら焼きが二つ置かれている。ゆっくり食べようとしていたのだろうが、眠気に負けてしまってそのままなようだ。

 

 霊夢が眠そうになるのは、ある意味では当然であった。何故かといえば、霊夢が住まう神社は……とにかく、変化がなくて静かであるからだ。

 

 というのも、だ。まず、博麗神社は人里(幻想郷内にて生活する人々が暮らす場所。そこ以外に、人間は基本的に暮らしていない)よりかなり離れた不便な場所にある。つまり、日常的な交流がほとんどない(没交渉、というわけではない)のだ。

 

 博麗神社は幻想郷を維持するうえで最重要ではあるが、だからといってそれだけを大事にして生きて行けるほど、幻想郷は楽園ではない。御参りしたくとも、人里で暮らす人々にとってはそう挨拶に行ける場所ではないのだ。

 

 当然、巫女の手を借りるような事態になれば、彼ら彼女らはここに来るだろう。しかし、頻度はそう多くはない。言うなれば、巫女は一発のミサイル。ナイフで事足りる事態ならば、それが出来る者たちに任せる……当たり前のことであった。

 

 加えて、博麗神社にはおおよそ娯楽と呼べる物がほとんどない。全くないわけではないのだが、とっくの昔にやり飽きてしまっている。その役目故にそうぽんぽんと神社を離れるわけにはいかず、朝昼晩と一人で神社に籠っているせいであった。

 

 だから、この日の霊夢も暇を持て余していた。

 

 ぽかぽかとした陽気は暑すぎず、寒すぎず。そよそよと頬に当たる風はどこまでも優しく、穏やかで。することがない霊夢が、眠気を覚えてしまうのはある意味では仕方ない話であった。

 

 なら、修行なり雑事なりをすればよい話なのかもしれないが、霊夢は性根が物臭である。暇を潰す為に何かをするという行為を面倒に思う霊夢にとって、こうして船を漕いでいるのは何時もの日常でしかなかった……のだが。

 

 ――不意に、変化のない光景に変化が起こった。

 

 それは、霊夢の斜め後ろ側。ちょうど、どら焼きが載せられている皿の、少し上。何もないその空間に、突如として亀裂が走ったかと思えば……そこが、ぐわりと開いたのだ。

 

 開かれた亀裂は穴へと変わる。その向こうには、幾つもの眼光が蠢く、何とも形容し難い光景が広がっている。それは、幻想郷の住人たちからは『スキマ』と呼ばれている、特殊な空間であった。

 

 言うなれば、ワープホールのようなもの、といえば理解が早いだろう。大きさにしてラグビーボール大ほどの穴から出て来たのは、シルクの手袋に包まれた腕。一目で女性のものであることが伺える細い腕が、音もなくどら焼きへと伸ばされ――叩かれて、皿の外に指が当たった。

 

「……それは私のおやつよ」

 

 なおも諦めずに伸ばされる指先を、霊夢は幾度となく払う。計4回払われたその手は、諦めたかのように皿の端をちょんと叩いた。

 

「食べたかったら他所から貰ってきなさいな」

『――二つある内の一つでしょ』

「二つだろうが一つだろうが、これは私のおやつよ」

 

 鬱陶しげな霊夢の言葉に返したのは、絹が風に喘いだかのような艶やかな声。霊夢の傍にはだれもいないが、霊夢は驚かない。何故なら、開かれたスキマの向こうに、その声の持ち主がいることを知っているからだ。

 

 だから、霊夢は気にした様子もなく、振り返ることもせず、寝ぼけ眼をそのままに、霊夢は叩いたその手でどら焼きを手に取り、かじる。温くなったお茶に僅かばかり眉間に皺を寄せ、緩くため息を零していた。

 

 それを見て……というより、感じ取ったのだろう。はあ、とため息らしき声がスキマの向こうから零れた。一拍遅れて、ラグビーボール大の穴は目に見えて広がり……中から、ナイトキャップのような帽子を被った妙齢の女がぬるりと姿を見せた。

 

 女の名は、八雲紫(やくも・ゆかり)。この幻想郷を作るに当たって尽力した、妖怪の賢者。数多に存在する強者たちの間からも一目置かれている、大妖怪と呼ばれている内の一体である。

 

 その、八雲紫……一言でいえば、美人であった。熟女とも少女とも表し難い、特有の年代のみが出せる、脂が乗った女。町を歩けば一人二人と振り返られるであろう美貌の彼女は、「意地汚いわよ、霊夢」心底呆れたかのように霊夢の背中に額を押し付けた。

 

「意地汚いのが人間よ。さあ、ここにおやつはないわ。食べたかったら帰って用意してもらいなさい」

「意地汚いのが人間なら、それを奪うのは妖怪の本分よ。それにしてもあなた、寝ぼけ過ぎよ。シャキッとしなさい」

 

 重い、といって身動ぎする霊夢の隙を突いて、紫の指先がどらやきを掠め取る。「――あ、こらっ」気づいた霊夢が慌てるも、それよりも速くスキマの向こうへと跳び込む。閉じてしまったスキマの後にはなにもなく、霊夢の指先は空しく空を切るだけであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………やれやれ、仕方がない。

 

 

 

 反射的に空間を割り開いて追跡しかけた霊夢であったが、寸での所で止める。

 

 せっかくの陽気な昼間なのだ。こんな日に、いちいちドンパチやり合うのも如何なものかと思った霊夢は、再び元の位置に腰を下ろし、どら焼きをかじ――ろうとした、その時であった

 

「――っ!?」

 

 強いてその感覚を言葉に手嵌めるであれば、それは予感であった。あるいは、焦燥感というやつが近しいのかもしれあい。この日、その瞬間。霊夢は、予感にも似た何かが胸中を過ったのを知覚した。

 

 その瞬間においての、霊夢の行動はまさしく神速であった。ひと際強く跳ねる鼓動を意思の力で落ち着かせながら、燻っていた眠気が瞬時に振り払われると同時に……霊夢は、境内へと降り立っていた。

 

 瞬きよりも、素早く。巫女服というには些か派手な、紅白の衣装を身に纏っている霊夢は、眠たげに緩んでいた目じりを吊り上げて辺りを見回す。その手には対妖怪(人間にも物理的に有効)に有効な、お祓い棒が握られていた。

 

 油断なく注意を払いながら、霊夢は心を澄ませて力を練り上げる。それは、霊力と呼ばれる退魔の力。器(肉体)より溢れ出た霊力が炎のように揺らめいて、立ち昇っていた。

 

 その姿、見る者がみれば腰を抜かしていただろう。何故なら、霊夢の体外に溢れた、その霊力。それだけで、常人の数百、数千にも達するであろう霊力が凝縮されているのだ。

 

 溢れただけでそれなら、器にある霊力の量は、果たして如何ほどか。数千、数万……正確な数値として測ることは出来ないが、神社より一定範囲にいた魑魅魍魎が瞬時に逃げ去るぐらい程度に凄まじいのは、確かであった。

 

(……気のせい、かしら?)

 

 櫛で梳かしただけの黒髪が、さらりと風に揺れる。日の光によって薄ら茶色く見えるそれを手で押さえながら、幾ばくかの無言の後……霊夢は、ゆっくりと肩の力を抜いた。

 

 ふう、と吐かれた吐息に混じる、膨大な霊力。数多の妖怪、神霊、人間をその実力で黙らせてきただけあって、美少女と評して間違いない風貌とは裏腹の迫力が、そこには滲み出ていた――と。

 

「――ちょっと、いきな――あっぶぇ!?」

「あ、ごめん」

 

 霊夢の行動(立ち昇る霊気)を察知して、気になったのだろう。先ほどと同じくスキマを開いて姿を見せた紫は、直後に向かってきた退魔針(霊夢の武器)を寸での所でキャッチした。

 

 狼藉人は、当然ながら霊夢である。スキマが開かれる直前にて起こる、大気の僅かな乱れを察知した霊夢が、ほぼ無意識の内に放ったのだ。あわや、大惨事になり掛けた紫は、頬どころか額にまで冷や汗を流しながら、霊夢を怒鳴りつけた。

 

「ちょ、あ、あのね、ほんと止めてね、こういうの! どら焼き一つでそこまで怒ることないじゃないの!」

 

 珍しく顔を真っ赤にした紫が、怒った。けれども、仕方ないことである。いくら紫が大妖怪とはいえ、相手は博麗の巫女。その博麗の中でも、歴代最強と言われている霊夢が放った退魔針だ。しかも、お遊び半分ではない、本気で放ったもの。

 

 直撃こそしなかったものの、その効果は絶大の一言。紫ですら、掴んだ掌が焼け爛れて出血するだけでなく、傷の再生すら覚束ない。そんなものを出会い頭に数発も放たれれば、紫でなくとも怒って当然であった。

 

「うっさいわね、謝ったじゃない。それに、それはどら焼きじゃなくて、ただ間違えただけよ」

「間違えたって、どら焼きと間違えて殺されたら堪ったものじゃないわよ!」

「間違えた私も悪いけど、いきなり出てくるあんたも悪いわよ」

 

 出血によって染まった掌をハンカチで拭いながら怒鳴る紫に対して、霊夢の方は飄々としていた。いやまあ、少しばかりは悪いと思ったのだろう。

 

「……どら焼きの件は、これでチャラだから」

 

 幾分か居心地悪そうに紫から目を逸らした霊夢は、再び辺りを見回した。「……まあ、いいわよ。私も悪かったんだし」それを見て、紫は振り上げた怒りの矛を下ろすと、スキマの中から食べ掛けのどら焼きを引っ張り出した。

 

「それで、いったい何を探しているの? あなたのどら焼きなら、そこで蟻さんが元気に仕事をしているわよ」

「さあ、私にも分からないわ」

 

 尋ねられた霊夢は、素直にそう答えた。実際、霊夢自身何を探しているのか、それが分からなかった。ただ、言葉には言い表せられない予感に突き動かされるがまま動いただけで、それ以上の説明のしようがなかった。

 

「……寝ぼけていたのではなくて?」

「……そうかもね」

 

 もそもそ、と。どら焼きを口内に放り込んだ紫の感想に、霊夢は苦笑して頷いた。特に、苛立ちは起こらなかった。仮に霊夢が紫の立ち位置にいたなら、同じことを言ったであろうことが、想像出来たからだった。

 

 ……実際、寝ぼけていたのかもしれない。

 

 そう、霊夢は思った。おやつを蹴飛ばして境内へと飛び出すぐらいだったのに、気づけば、胸中にあった焦燥感は消え、痛みと錯覚するほどの予感は……と。

 

 ――っ。

 

 わずかに聞こえた、か細い声。何だと思って振り返った霊夢の視線と、紫の視線とが噛み合った。「呼んだ?」ほぼ、同じタイミングで同じ言葉を放った二人は、はて、と首を傾げながら辺りを見やった……すると。

 

 ――っ。

 

 また、聞こえた。だが、今度は先ほどよりも大きく、はっきりしている。とりあえず、声は上から……だろうか。気になった二人は視線を高く上げると、声の出所は何処かと右に左に視線をさ迷わせ……不意に、見つけた。

 

 青空にぷかりと浮かぶ、黒い歪な点。それが徐々に大きくなるにつれて、その姿が二人の目にもはっきりと留まるようになる。近づいているのだと二人が思った時にはもう、その影は二人の前に降り立っていた。

 

 影の正体は、三人の少女であった。そして、三人の少女の顔を見た霊夢は、はて、と軽く小首を傾げた……と、いうのも、だ。

 

 一人は、白いリボンの付いた三角帽子を被り、箒を片手に持つ、黒い服を着た金髪の少女。名を、霧雨魔理沙(きりさめ・まりさ)。

 一人は、淡い緑髪(りょくはつ)を背中まで伸ばした、三人の中で一番大柄な少女。名を、東風谷早苗(こちや・さなえ)。

 そして、最後の一人は背中に身体よりも大きいリュックを背負った、小柄な少女。名を、川城にとり(かわしろ・にとり)。

 

 一見するばかりでは、この三人は友達同士で固まって来たというようにしか見えないだろう。

 

 しかし、この三人。住んでいる場所も違えば種族も違い、性格だって天と地ほどに違うし、生い立ちすら全く違う。共通の趣味だって、あるわけでもない。

 

 そりゃあ世間話ぐらいはするだろうが、わざわざ固まって動く程仲が良かったかしら、と霊夢が思うのも無理のない話であった。

 

「――霊夢、面白いかもしれない物を見付けてきたから、ちょっとお前も見てくれよ」

 

 地面に降り立った三人の中で、最初に口を開いたのは金髪の少女、魔理沙であった。

 

 彼女は霊夢の反応を確認する前にさっさと神社の中に入ると、部屋の隅に設置されている年代物のテレビへと向かう。挨拶をすっ飛ばすあたり、魔理沙の性格が伺える。その後ろを、軽く会釈をしたにとりが続いた。

 

 こいつら……そう思って二人の後ろ姿を見やれば、リュックから機械の塊を取り出したにとりが、何やら作業を始めている。その横で魔理沙が騒いでいるが、まあ何かをしようとしているのは分かった。

 

「――お邪魔します、霊夢さん」

「ええ、お邪魔されたわ。それで、何しに来たの?」

 

 だから、霊夢はこの場に残っている早苗へと尋ねた。早苗も、それを説明する為に残ったのだろう。乱雑に放り出された二人の靴と己の靴を揃えた彼女は、「話せば長くなりますけど……」そういって話し始めた。

 

 ……早苗の話を要約すれば、こうだ。

 

 普段から行動を共にするわけでもないこの三人。何の因果か、偶然にも香霖堂(幻想郷の端にある、古道具屋のこと)にて鉢合わせしたのが始まりだという。

 

 顔見知りではあるし、無視するのも何だか嫌だ。そういうわけで世間話を交えつつ、ブラブラと店内を一緒に散策していると、普段は必要時以外では声を掛けて来ない、店主の森近霖之助が珍しく声を掛けてきた。

 

 本当に珍しい事だ。だが、もっと珍しいことがこの時起こった。なんと、霖之助の口から、『不思議な物が手に入った。譲るから、コレがどういうものかを調べてほしい』とお願いされたのだという。

 

 コレとは、一枚のDVD(そう言われても霊夢には分からなかったが、映像等を保存するものと早苗から説明されて、理解した)であった。表面には何も書かれておらず、一見するばかりでは何が保存されているのかは分からなかった。

 

 早苗たちに声を掛けたのは、その場にて唯一機械全般に強いにとりと早苗が(早苗は詳しい程度)いたから、らしい。鍋敷きにも使えないから、中身さえ分かればそれでいいから調べてくれ、とのことであった。

 

 幸いにも、探せば店内にはDVDを映すDVDレコーダーが幾つかあった。古道具屋ゆえに壊れていたり傷ついていたりするものが大半ではあったが、根気よく試してみて……正常に動くレコーダーを見つけたのだと、早苗は話を終えた。

 

「……」

「……」

「……え、そこで終わり?」

「へ? そうですよ」

「中身は見たんでしょ? それなら何で家に持ってきたのよ」

「……あ、なるほど。そこを話していませんでしたね」

 

 満足気にしながらも、不思議そうに小首を傾げる早苗は、ああ、と手を叩いた。けれども、そのまま説明をするわけでもなく、「ちょ、ちょっと?」霊夢の手を一方的に引いて魔理沙たちの下へと引っ張った。

 

 ――口で説明するよりも、見た方が早い。

 

 その言葉と共に些か強引に座らされた霊夢の前には、見慣れたテレビ(基本的に、映らない)と、その足元には見慣れない機械がごちゃごちゃと置かれている。振り返れば、霊夢以外の全員が腰を下ろしてテレビを見つめていた。

 

 こいつら……そう思いつつも、紫まで面白そうにしている辺り、霊夢は色々と諦めて肩の力を抜くと、居住まいを正した。

 

 それを見て、「フルバッテリー確認、では、スイッチオン!」にとりは機械のスイッチを入れた。ファンの回転音と共に機械に息吹が吹きこまれ、活動を始め……テレビの画面に、光が灯る。

 

 映し出されたのは、行き交う人々がごった返すスクランブル交差点であった。位置的には、二階の窓かそれぐらいの高さから、見下ろす形で撮影しているのだろう。

 

 一目で、外の世界のものであるということが分かる。右に左に上に下に、忙しなく通り過ぎてゆく老若男女の後には、赤に白に黒に銀に青にとカラフルな自動車たち。

 

 中には、撮影されていることに気付いたのか、あるいは……いや、気付いてはいないようだ。時折こちらへと振り返る者はいるが、その誰もがこちらと目の焦点が合っていない。たまたま、顔を向けただけのようだ。

 

 ただし、一人だけ。ニットの帽子を被り、毛糸のセーターと淡い色のスカートをはいた女の子が、こちらを見ている。けれども、見ているだけ。何をするでもなく、ボーっとした顔を向けているだけで……まるで、変化がない。

 

 ……何とも、つまらない。

 

 そうして、ここでは考えられないぐらいの密度が、だいたい、2分ほどだろうか。車が停まれば人々が歩きだし、人々が止まれば車が走る。交互に繰り返されるその光景に、霊夢を始めとした全員が静かに見つめていた……のだが。

 

「……で、これが何よ?」

 

 しばし画面を見つめていた霊夢は、胡乱げな眼差しを魔理沙たちに向けた。霊夢がそうするのも、仕方がなかった。

 

 何故なら、映し出された映像がそれだけなのだ。行き交いする人々や車に多少の違いはあるものの、目に見えておかしなやつはいない。物珍しさこそ覚えたものの、ひたすらそれらが行き交いするだけの映像なんて……正直、飽きる。

 

 わざわざ家に持ってきてまで見せに来たぐらいなのだからと少しは期待したが、拍子抜けもいいとこだ。「いやいや、これからだってば」しかし、そう思っているのは霊夢だけで、魔理沙はそういって立ち上がろうとする霊夢を押し留めた。

 

「私の見立てだと、この映像の何処かにアッと驚く何かがあるんだ。霊夢には、それが何なのか見つけてほしいんだ」

「あんた、さっき面白いのを見つけたって言っていたわよね? この後どれぐらいこんなのが続くかは知らないけど、こんなの5分で見飽きるわよ」

「面白いなんて言っていないぞ。面白いかもしれない、と私は言ったんだ。まあ見てなよ、だいたい30分ぐらいで終わるからさ」

「……あほくさ」

 

 ため息と共に魔理沙の手を払って霊夢は立ち上がる。「いやぁ、霊夢ぅ~」慌てた魔理沙が霊夢の足を掴んで抵抗するも、霊夢は無造作に魔理沙を蹴りつけて退かすと、縁側へと向かい……ごろりと横になった。すかさず纏わりついてきた魔理沙を再度振り払うも、意外としつこい。

 

「霊夢ぅ~、いいじゃんかぁ~、ちょっとぐらい協力してくれてもさぁ~」

「ええい、鬱陶しい。私はここで日向ぼっこに忙しいのよ。何か見つかったら行ってあげるから、あんたは画面とにらめっこでもしてなさいな」

「香霖のとこでも見たけど、何も見つかんないんだよ~。何でもいいからさ~、何か変わった部分とかがあったら教えてくれよぅ~」

 

 こいつ……一瞬ばかり本気で魔理沙の頭を叩きたくなったが、霊夢は寸でのところで自重する。「あんた、私を何だと思っているのよ」心底……それはもう心底気怠そうにため息を零した霊夢は、とりあえず感想だけを述べた。

 

「だったら、こっちを見ている帽子の女の子でも眺めてなさいな。30分のどっかで笑顔の一つでも浮かべたりはしているでしょ」

 

 それが、霊夢の正直な感想であった。というか、それ以外に目に止まる部分がなかったから、それ以外言えないのだが……ん?

 

「……どうしたの?」

 

 身体を揺さぶる手が止まったのを不審に思った霊夢が振り返れば、神妙な様子の魔理沙と目が合った。いきなりどうしたのかと思って身体を起こせば、魔理沙はしばし言葉を選ぶかのように視線をさ迷わせた後……唇を開いた。

 

「帽子を被った女の子って、だれ?」

「――は? 最初の方からずっとこっちを見ている子がいるじゃない。毛糸のセーターを着た、スカートの女の子……いたでしょ」

「いや、帽子を被った子はいたけど、こっちを見ている女の子なんて一人も……それに、あの映像はたぶん夏に撮られたやつだから、セーターなんて着ている子は一人もいなかったぞ」

「え?」

 

 言われて、霊夢は少しばかり目を白黒させた。視線を魔理沙から早苗たちに向ければ、早苗たちも魔理沙と似たような表情を浮かべていた。

 

 からかっているのかと思ったが、紫までが不思議そうに小首を傾げているのを見て……霊夢は頭を掻いた。

 

「……いや、あんたら。いくら人が大勢いたからって、あの子に気付かないってどういうことよ。あの映像の中で一番目立っていたでしょうが」

 

 あのニット帽の女の子は目立つ動きはしてはいなかったが、初見の自分がすぐに気づいたぐらいなのだ。既に見ているであろう魔理沙たちが気付いていない……どういうことだ。

 

 気になった霊夢は四つん這いでテレビ前に戻ると、再び画面を眺める。もしかしたら最初から見直さなければならないのかと思ったが、幸いなことに……まだ、例の女の子はそこにいた。

 

 相も変わらず、少女はこちらを見ている。「ほら、この子よ。あんたら全員寝ぼけているんじゃないの?」なので、霊夢はその子を指差して魔理沙たちに示した――すると。

 

「……その子、何時の間にそこに映っていたんだ?」

「だから、ほぼ最初からいたじゃない。あんたら、私の事からかっているの?」

「こんなつまらん事はしないよ。ていうか、何でだろう。霊夢に言われるまで、全く気付かなかった……何でかしら?」

 

 ますます神妙な顔つきになった魔理沙が、そう返した。よほど驚いているのか、口調が素(男っぽい口調は、作っているらしい)に戻っている。

 

 見れば、魔理沙だけではない。早苗も、にとりも、紫までもが、驚いた様子で霊夢が示した少女を見つめていた。その事に、霊夢は今更ながら困惑し――その、時であった。

 

「――くっ!? う、うう!?」

 

 前触れもなく起こった、胸の奥が爆発したかと錯覚するほどの、言葉には表し難い凄まじい衝撃。いや、それはもはや激痛と言い替えても間違いではなく、あまりの事に霊夢は思わず胸を押さえて、その場に蹲った。

 

 あまりの痛みに、霊夢は一瞬ばかり己が落下してゆく感覚すら覚えた。「――れ、霊夢!?」突然の異変に魔理沙だけでなく、その場にいる誰もが顔色を変え、狼狽した。

 

 霊夢は、常人よりも痛みには慣れている。手足の骨が折れても、必要ならば平静でいられる強靭さがあった。だが、この痛みは別格だ。まるで鋭い刃に心臓を刺し貫かれたかのようで、とてもではないが我慢出来る段階を越えていた。

 

 ぐらぐらと、視界が揺れる。少しでも痛みを堪えようと、軋むほどに己の身体を掻き抱くが、無駄。噴き出した脂汗が目に入り、冷や汗が背筋を垂れてゆく……でも、痛みは全く紛れない。

 

 ……これは、まずい。このままだと、気絶する。

 

 辛うじて冷静さを保っている意識の部分が、己の状況を正確に伝えてくる。突然のことに右往左往する魔理沙たちの様子が耳を通して何となく伝わって来るが、もう目を開けることすら難しい。

 

 魔理沙が、己を呼んでいる。紫が、誰かを呼んでいる。早苗が、己を呼んでいる。にとりが、誰かを呼んでいる。でも、分からない。ノイズが、脳裏を過る。何を言っているのか、分からな――っ。

 

 けはっ、けはっ。

 

 こみ上げてくる吐き気を堪える間もなく、咳き込む。焼け付くような喉の暑さに加え、口内全てに広がる……鉄臭さ。思わず当てた掌がぬるりと生暖かく、けれども、それが妙に冷たく思え……気づけば、魔理沙たちの声も聞こえなくなっていた。

 

 私は……死ぬの……か?

 

 そう、霊夢は漠然と思った。手足が、冷たい。まるで血管から氷を流し込まれているかのように、痺れが伴っている。黒い雨が徐々に意識の中へと降り注ぎ、己の全てが埋没してゆくような感覚を霊夢は覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『――記憶なんて、結局のところは記録の積み重ね。どれだけ言葉を重ねたって、人が思っているよりも、人とそうでないものとの違いは多くない』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……だから、だろうか。何もかもが暗闇の中へと沈んでゆく最中、唐突に響いたその……声。そう、声に、霊夢の意識が向けられた。

 

 

 『――誰もが、そう。人と人とを隔てるものなんて、そう多くない。ちょっと皮を捲れば、中身は一緒。記録を入れ替えれば、それで別人』

 

 

 光が、暗闇の中に生まれる。光は瞬く間に大きくなり、形を変え、色が付き始め……後には、一人の少女が立っていた。

 

 

『――あっちとそっち。どっちにも、違いなんてないの。ほんの少し視点を変えれば、それで見つかってしまうぐらいに……そこは、あるんだよ』

 

 

 少女は、ニット帽を被っていた。毛糸のセーターに、淡い色のスカート。もみあげを片方だけ伸ばしたその少女の目が……己を、霊夢を見つめている。

 

 

 『――ねえ、霊夢。みんな、繋がっているの。それで、いいの。あなたが私を知ったその時から、私があなたを知ったその時から、全てが繋がってゆくの』

 

 

 

 『――それは、私が選んだことじゃない。きっと、あなたの無意識が、私を呼んだのかもしれない。あるいは、もっと別の……だから、あなたは私を見て、私はあなたを見た』

 

 

 少女が、近づいてくる。表情は、分からない。霞がかったかのように、その部分だけが見えない。けれども、確かに少女は近づいて来て……霊夢の傍で止まった。

 

 

 『――私は、私が私として認識している限り、私としての自我が私の中にある。でも、それを保障するものは、結局のところは記録なんだよ、霊夢』

 

 『――複製した記録を移し替えれば、その人はその人になる。じゃあ、上書きされる前の元の記録は何処へ行くの? 何処へ向かうの?』

 

 『――ねえ、霊夢。仮に、記録とは別の何か……私にも感知し得ない何かがあるのだとしたら、それって何だと思う?』

 

 『――魂ってやつ? それとも、もっと別の何か? ねえ、霊夢。無意識の奥に、私にも感知し得ない何かが……本当にあると思う?』

 

 

 ……だれ?

 

 

 『――私は、見ているだけ。ただそこにいて、ただ見ているだけの存在。ずっと、そう。私が私として私を認識する前から、そうだったんだと思う』

 

 『――だから、霊夢。私は見ているよ。ずっと、見ている。そうして、教えて。人の想いなんて、心なんてものは、結局はちっぽけな記録の集合体に過ぎないのか……その、答えを』

 

 

 

 その言葉を最後に、少女は唐突に踵を翻した。

 

 

 

 ――待って!

 

 

 

 離れて行く……そう霊夢が認識した瞬間、霊夢は手を伸ばしていた。それが己の手なのかすら分からなかったが、とにかく霊夢は少女へと手を伸ばしていた。

 

 でも、少女は止まらない。霊夢の声が聞こえているはずだ。それは、霊夢自身分かっていた。でも、少女は止まらない。どれだけ霊夢が呼んでも、少女の足は止まらない。どんどん、どんどん、小さくなってゆく……そして。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………少女は、消えた。と、同時に、霊夢の意識も今度こそ闇の中へと沈み……何もかもが分からなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………光が、視界を過る。目が覚めた瞬間、霊夢はまず『己の目が覚めた』ということを、上手く認識出来なかった。

 

 長い……何だろうか、何か、夢を見たような気がする。

 

 けれども、それが何だったのかが上手く思い出せない。長い夢を見ていたような、そうでもないような。とても大切な何かに触れかけたような、そうでないような。何とも言い表し難い感覚に、霊夢はしばし思考が定まらなかった。

 

 見知らぬ天井に、嗅ぎ慣れない臭い。消毒液の臭いであることに思い立った霊夢は、ここが医療施設であることを察する。身体を起こそうと思ったが、手足に重りを括りつけられたかのよう。いったい何だと視線を左右に向ければ……ぬう、と紫の顔が横から出てきた。

 

「……ゆか、り?」

 

 己のものとは思えないぐらいに掠れた、酷い声。その事に霊夢が軽い驚きを覚えると同時に、紫の顔が近づいて来て……そっと、抱き締められた。重くはないが、鬱陶しい柔らかさに思わず霊夢は顔を顰めた……が。

 

「……っ、う、くっ、くっ、ふっ、ふ……」

(……紫、泣いているの?)

 

 己を抱き締めるその腕が震えているのを感じ取った霊夢は、あえてされるがままに身を委ねた。自分の腕とは思えないぐらいに重い腕を気合いであげて、その身体を抱き締め返す。途端、嗚咽が激しくなったのを感じ取った霊夢は、己の両腕に刺さっている幾本もの点滴チューブを見やった。

 

 いったい、どれぐらい眠っていたのだろうか。チューブ越しに見える腕は、記憶の中にある己の腕よりも、細い。元々痩せ気味なほうではあったが、これでは鶏ガラと揶揄されても言い返せなさそうだ。

 

 そうして、ぼんやりと細くなった腕を見ていると、ノック音が室内に響いた。直後、扉が開いて中に入って来たのは……赤と青が特徴的な恰好をした銀髪の女性と、兎の耳を生やした女性であった。

 

 銀髪の女性の名は、八意永琳(やごころ・えいりん)。兎耳は助手でその名は、鈴仙・優曇華院・因幡(れいせん・うどんげいん・いなば)。共に、永遠亭と呼ばれる医療所を経営している人物(どちらも、人間ではないが)であった。

 

(ああ、なるほど。ここは永遠亭なのね)

 

 永遠亭は、幻想郷において数少ない医療施設の一つ。立地条件に難はあるものの、幻想郷内においては一番の腕前を持つ永琳がある。とりあえず、死ぬ可能性はなくなったようだ。

 

「――あら、起きていたの?」

「ええ……まあ、ね」

「無理に返事をしなくていいわよ。あなた、かれこれ20日間は眠りっぱなしだったのだから」

 

 一人納得している霊夢を他所に、気付いた永琳が軽く目を瞬かせた。「ああ、良かった、目が覚めたんですね……!」次いで、安堵して大きくため息を零す鈴仙を他所に、永琳は無表情のままに……紫の後頭部を殴りつけた。

 

 永琳が部屋に入って来たことに、全く気付いていなかったのだろう。ぶぷぇ、と悶絶する紫の首を掴んで、一息に部屋の隅に放り投げる。へぶん、と床を転がる紫を他所に、「鈴仙、脱脂綿とガーゼとテープの準備」永琳は傍に置かれた椅子に腰を下ろすと、布団をめくり、その下にある病院服を捲った。

 

「……ふむ、出血はしていないわね。抱き着いているから勢い余って傷口でも開いたら事だと思ったけど、そうしない程度には理性が働いたようね」

「ぐすっ、ぐっ、うう、れいむ、霊夢ぅ、霊夢ぅ~」

「鈴仙、そこで鼻水垂らして近づいてくる紫(むらさき)ゾンビを叩き出しといて。診察の邪魔だし、あと、下手に来客が来ると面倒だから抑えといて」

「あ、はい、分かりました。じゃあ、私は廊下で見張っているんで……ほら、行きますよ」

「やだぁ~霊夢ぅ~霊夢と一緒にいるぅ~霊夢ぅ~」

 

 普段の縁であったなら煙に巻いて意に介さないところだが、今の紫には無理なようだ。いやあ、と子供のようにジタバタしながら部屋の外へと連れて行かれた後は……永琳と、霊夢だけが室内に残った。深々と零した永琳の溜め息が、いやに室内に響いた

 

「……まるで母親ね。まあ、半分母親代わりみたいなものらしいし、あのスキマが号泣するなんていう珍しいモノも拝めたから、今回の治療費はそれでタダにしてあげる」

 

 そう言い終えると、永琳は霊夢の胸に貼り付けてあったガーゼを外すと、手渡されていたトレイの脱脂綿で手早くそこを擦る。見るのが億劫なので分からないが、感触から……己の胸にあばら骨が浮いているのが、何となく分かった。

 

「……何が、どうな……の」

「唇を動かすだけでいいわ。こっちで読み取るから。そうね、何がと聞かれても何と答えたらいいか分からないけど、事実をそのまま言葉にするなら、あなた……胸に穴が開いたの」

 ……穴が、開いた?

「そうよ。まあ、写真は撮ってあるから、分析が終わったら報告するわ……それと、後で魔理沙たちにお礼を言っときなさいな。魔法やら何やらで止血してなかったら、ここに担ぎ込まれる前に失血死していたところよ」

 

 その言葉と共に、永琳の指先が胸元の……おそらくは、傷口の辺りだろう。そこを軽く押した瞬間、息が詰まるほどの痛みが霊夢の身体を強張らせる。「傷跡は残るでしょうけど、死ななかっただけ御の字ね」直後、永琳はさっさとガーゼを張りつけた。

 

「出血は止まっているし、化膿も大丈夫。しばらくは眠気が取れないでしょうけど、7日もすれば身体を動かせるようになるわ……当分は、自分の身体のことだけを考えなさい」

 

 開いた時と同じように手早く霊夢の病院服の前を締め、布団を被せる。「それじゃあ、お大事に」そういうと、永琳は席を立った……その前に、「――まだ、何か?」霊夢は声を振り絞って彼女を呼び止めた。

 

 ……紫を、呼んで。

「……心細いのは分かるけど、駄目よ。少なくとも、いきなり抱き着くような精神状態のスキマを傍にいさせて、勢い余って万が一がないとも限らない。医者として、それは許可しないわ」

 

 振り返った永琳が首を横に振るのを見て、霊夢は違うと唇を震わせる。それじゃあ何だとため息を零す永琳に……霊夢は、告げた。

 

 ……これは、異変。

 

「異変? そりゃあ、あなたが襲われること事態が異変といえば異変だけど……でも――」

「――これは、異変なのよ」

 

 そこまで永琳が口にした、その時。がばりと、霊夢は起き上がった。「ちょ、あなた、その身体ではまだ――」思わず面食らう永琳の腕を掴んで止めた霊夢は、痩せこけた頬を……グイッと、永琳に近づけて。

 

「私の勘が告げている。これは、異変よ。それも、幻想郷そのものの存亡に関わる……だから、呼びなさい。そして、集めて。力のあるやつを……!」

 

 そう、凄んだのであった。

 

 



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春の章:その1

 

 

 

 

 何処へ行っても聞こえていたウグイスの鳴き声が弱まり始めて、早ひと月。梅雨に差し掛かるとまではいかない5月中旬の、とある夜。妖怪の山の中にある守矢神社にて、幾人かの人間と、幾人かの妖怪と、幾人かの神々が集められていた。

 

 その顔ぶれは、一言でいえば大御所たちが勢ぞろい。集まった者の大半が美女であったり美少女であったりするものの、知る者が見れば腰を抜かすか言葉を失くして震えるであろうぐらいの、そうそうたる顔ぶれであった。

 

 場を提供した守矢神社の顔を務める、祭神の八坂神奈子(やさか・かなこ)と、同じく祭神を務めている洩矢諏訪子(もりや・すわこ)の二柱が。

 

 悪魔が住まう館として人々から怖れられている紅魔館からは、当主である吸血鬼のレミリア・スカーレットと、人間の従者である十六夜咲夜(いざよい・さくや)の二人が。

 

 妖怪でありながらも仏門に着得し修行を重ねた者たちが集う、妖怪寺とも呼ばれることのある命蓮寺(みょうれんじ)からは、住職である聖白蓮(ひじり・びゃくれん)。その傍には、修行僧である雲居一輪(くもい・いちりん)が。

 

 幻想郷より隔てた境界の彼方にある冥界の中にあるとされる白玉楼(要は、冥界にある御屋敷)からは、西行寺幽々子(さいぎょうじ・ゆゆこ)と、その従者的な立ち位置である魂魄妖夢(こんぱく・ようむ)が。

 

 半人半妖でありながら人々と共に暮らし、人々の側に立って、人里の中で暮らしている上白沢慧音(かみしらさわ・けいね)と、その友人である不老不死の、紅の自警隊、藤原妹紅(ふじわら・もこう)の二人が。

 

 地底深くより封印され、人々の記憶からは忘れ去られながらも未だに強い影響力を持つ、種族『鬼』の星熊勇儀(ほしぐま・ゆうぎ)と、そこで管理人的な立場にある古明地(こめいじ)さとりの二人が。

 

 妖怪の山からは、山の現トップである天狗の天魔(てんま)と、幹部連中である、大天狗と呼ばれている重鎮たちが数人ほど。その後ろに、ひっそりと新聞屋を営んでいる鴉天狗の射命丸文(しゃめいまる・あや)と、二つ名のある妖怪たちが十名。

 

 陣営的な分類上では『その他』に該当する魔理沙と、その友人である魔法使いのアリス・マーガトロイドの二人。その傍には、星熊勇儀とも親交のある、種族『鬼』の息吹萃香(いぶき・すいか)が。

 

 そして、特定の勢力には属さないものの、相当の実力を有しつつも二つ名を持つ様々な妖怪が、二十名。総勢、50名近くに及ぶ強者たちが、一つの部屋に集められていた。

 

 

 

 ちなみに……妖怪の山とは文字通り、妖怪たちが住まう山のことである。山とはいっても小高い山が一つあるわけではない。幾つか連なった山全体がまとめてそう呼ばれているのであり、その広さは意外と広い。

 

 そこには、他の場所とは違い、様々な妖怪(魑魅魍魎を含めた)が共存し、あるいは協力関係を結んで生活している。幻想郷内にて存在する勢力の中では最も強大な勢力とされており、この場において多数を引き連れているのも、それが理由であった。

 

 そして、守矢神社とは、その妖怪の山の中にある神社である。本来、神社の中に妖怪を集めるのはあまり宜しくはない。参拝客である人間に対して、あまり良い印象を抱かれなくなるからなのだが……この時ばかりは少し様子が違った。

 

 まず、場の空気が少しばかり緊張していた。一見するばかりでは美女に美少女ばかりが集まるそこは華やかな光景ではあるが、漂う雰囲気が違う。それは、人と妖と神とがテーブルを挟んで一堂に会したから……だけが理由ではなかった。

 

「おい、そこの小娘!」

 

 ひそひそと、各陣営内より伝わって来る囁き声。耳を澄ませば辛うじて聞こえるであろう、その中で……声を荒げたのは、山の妖怪の重鎮(見た目は老人)である、大天狗の一人であった。

 

「――はい?」

 

 各陣営にお茶を配るなどの給仕をしていた早苗は、何でしょうかと振り返った。早苗は、守矢神社の巫女(正確には、少し違うのだが)という立場にあるので、こういう仕事も彼女の役割であった。

 

「何時になったらスキマのやつは来るのだ! 火急の用だからと参じてみれば、この始末……我らを愚弄する気か!」

「さあ、私共は場所を貸しているだけですので、そこらへんは何とも。式の藍さんにでも聞いてみればいいんじゃないですかね?」

 

 式とは、式神のこと。紫に使役されている、九尾の狐妖怪のことである。

 

「――ならば、その式を連れて来い!」

「ご自分で探してください。私はお茶と名簿の照会で忙しいんですから」

 

 そう告げると、早苗はさっさと背中を向けてその場を離れて行った。「こ、この人間如きが!」それを見て、諸々の不満を溜めていた大天狗は激昂し、鼻息荒く腰を上げた――が。

 

「――静まれ」

 

 その足が、早苗へと向かうことはなかった。その前に、天狗たちの長である天魔が、ぱん、と己の膝を叩く。麗しい顔立ちから放たれたとは思えない、冷たくも静かな怒声でもってその足を止めたからだった。

 

 普段、天魔は声を荒げることはしないし、怒りを見せることなど50年近く前のことだ。それ故に、天魔の逆鱗に触れかけていることを察した大天狗の顔は真っ青で、「は、ははぁ!」冷や汗を顔中に貼り付けたままその場に腰を戻し、頭を下げたのであった。

 

「己の一割も生きておらぬ娘子に、何とまあ……我の顔に泥を塗る気か?」

「め、滅相もございません!」

「ならば、お前はもう喋るな。出なければ、我自らお前の喉を抉り取ってやろうぞ」

「…………っ!」

 

 大天狗の顔は、青を通り越して白くなっていた。無理もないことだ。大天狗自身、並の天狗とは比べ物にならないぐらいに強いが、相手は天狗全てを束ねる天魔だ。

 

 その力は大天狗全員が挑んでも勝てるかどうかの相手であり、直接怒気を当てられたわけでもないのに、周囲の天狗が冷や汗を流して硬直するぐらいのものであった。

 

 しばし憤怒の眼差しを向けていた天魔は、すっかり縮こまって震えている大天狗を見やっていた。次いで、深々とため息を零すと、崩していた居住まいを正し、「部下が、失礼をした」神奈子と諏訪子へと頭を下げた。それを見て、二柱はようやく、肩の力を抜いた。

 

「いや、あれは早苗も悪いよ。すまないね、後で言い聞かせておくから」「だーから言ったじゃん。神奈子が甘やかすからあんなふうになっちゃうんだよ」「阿呆、そういう諏訪子だって似たようなもんでしょ」「私はまだマシだよ、神奈子は早苗に何かあると融通が利かないから困ったもんだよ」「お前だって似たようなもんだろうが」

 

 あーだ、こーだ、そーだ、どーだ。どちらが早苗に厳しくしているかと言い合う二柱の口喧嘩が始まったのを前にして。

 

「……孫に甘いのは、神々も一緒か」

 

 ポツリと零した天魔の言葉が切っ掛けか、あるいはにわかに騒がしくなる二柱がきっかけか。ピリピリと張り詰めていた場の空気が、至る所から零れた笑い声によって少しばかり緩んだ。

 

 とはいえ、大天狗のやったことは大人げないが、この大天狗が痺れを切らしたのも無理のないことであった。何せ、緊急案件であると八雲紫から各陣営に通達があり、この場に集まる日程が決まったのは、つい昨日のこと。

 

 他所は他所という考えを地で行く妖怪たちにとって、手土産や挨拶なしで呼び出すのは大変失礼である。加えて、かれこれ数時間も顔一つ見せることなく待たされれば、この大天狗でなくとも怒りを見せるのは当然の話であった。

 

「――しかし、天狗の言い分も一理ある。実際の所、この場でスキマから事の詳細を聞いている者はいるのか?」

 

 だから、だろうか。緩んだ空気によって気も緩んだのか、誰にいうでもないそんな問いかけが、室内に広がった。ちなみに、声の主はレミリアであった。

 

 ざわざわと、雑談が始まる。その半分はスキマに対する愚痴であったが、もう半分は、わざわざこうまで大事にしてまで呼びつける、その理由に関してであった。

 

 というのも、幻想郷においては原則、各陣営で起こった揉め事は、内輪にて解決することとなっている。度が過ぎれば調停者でもある博麗の巫女が出てくるが、基本的には他の勢力に首を突っ込むのはよろしくないとされているのだ。

 

 つまり、紅魔館にて揉め事が起これば紅魔館陣営が自ら解決し、天狗たちの間で揉め事が起これば天狗たちの間で解決し、人里で揉め事が起これば人間たちの間で解決する、ということになっている

 

 なので、此度の緊急招集をこの原則に当てはめて考えれば、だ。少なくとも、紫が静観していられないレベルの異変が発生した、ということになる。しかし、だからこそレミリアを含めた各陣営は首を傾げることとなった。

 

 何故なら、今代の博麗の巫女である、博麗霊夢がこの場にいないからだ。

 

 博麗の巫女が出て来る(仕事依頼として出てくる場合は別として)のは、その影響が他の勢力、他の地域にまで及ぶ場合に限る。言うなれば、それらの事態になると博麗の巫女は必ず動く。

 

 此度のように著名な実力者が勢揃いさせる程の事態ともなれば、まず間違いなく博麗の巫女は動く……いや、動いているはずだ。なのに、レミリアを始めとした各陣営は、そのことをまるで把握出来ていない。

 

 レミリアを始めとした各陣営が最も不可解に思っている点が、そこである。

 

 程度の差こそあれど、各々の陣営は他の陣営に対してある程度の監視なり何なりは行っている。その過程で、必然的に彼ら彼女らは幻想郷全体の様子も把握していたつもりであった。

 

 なのに、誰も気づいていなかった。守矢神社も、紅魔館も、命蓮寺も、人里も、地底の者たちも、妖怪の山も……紫に召集が掛けられるその時まで、誰も異変に気付かなかった。

 

 その事実だけで、この場に集まった誰もの心に警戒心を抱かせるには十分である。それすなわち、此度の相手は……この場にいる全員の目を誤魔化すことが出来るだけの相手であることを表しているからだ。

 

「……霧雨魔理沙、お前は何を知っている?」

 

 雑談はざわめきへと変わり、ざわめきが喧騒へと変わり始めようとした、その時。一瞬ばかり生まれた静寂の隙を縫うように放たれたレミリアの視線が……テーブルの隅にて肩身を狭そうにしている魔理沙へと向けられた。

 

 必然的に、その場にいるほとんどの者たちの視線がそこへと集まる。大半の視線はそうでもないが、妖怪側……特に、大天狗たちの視線は鋭かった。天魔の手前、視線で鬱憤を……ということなのだろう。

 

 それ故に視線に込められた圧力は相当なもので、様々な妖怪に慣れている魔理沙ですら、思わず肩をびくつかせたぐらいであった。庇うように、隣に座っていたアリスが腕で視線を遮らなければ、まともに顔一つ上げられなかっただろう……それ程の重圧であった。

 

「レミリア・スカーレット。この場においての不用意な発言には注意して。魔理沙が精神的にまいっているのは、顔を合わせた時から分かっていたでしょう?」

 

 アリスの言い分は、最もであった。魔理沙との親交が無い者たちには分からなかったが、有る者ならば一目で分かってしまうぐらいに、魔理沙の様子はおかしかった。

 

 一言でいえば、夕方ごろにここに来てからずっと大人しかったのだ。普段の魔理沙なら睨まれれば舌を出すぐらいのことをやってのける胆力を見せるが、今日の魔理沙は……ただただ俯いて静かにしているばかりであった。当然、レミリアもそのことには気づいていた。

 

「……そうだな、すまない。不躾かつ卑怯な行いだった。後で適当なワインを持って行こう」

 

 だから、レミリアもアリスの言い分を素直に聞き入れ、謝罪した。けれども、そこで話を終わらせるつもりはないようだ。次にレミリアの視線が向いたのは、紫との親交がある西行寺幽々子であった……が。

 

 

 

 「――失礼する。各々方、夜分遅くまで大変長らくお待たせして申し訳ない。準備が整ったので、これから会議を始めます」

 

 

 

 レミリアが次の言葉を発するよりも前に、紫の式である八雲藍(やくも・らん)が広間に入って来た。途端、「――何時まで待たせるのだ!」大天狗の一部から怒声が飛び出したが、当の藍は気にした様子もなく、上座の位置にて腰を下ろした。

 

「本来、この席には主である紫様が座るべきなのだが、生憎と紫様は今手が離せない。故に、紫様が来るまでは私が代理となって会議を進行してゆくが、異論がある者はいるか?」

 

 藍の言葉に、一同は誰も異を唱えはしなかった。大天狗の幾人かと、山に属する名のある妖怪は不満そうに顔を顰めていたが、天魔の威光もあるのだろう。表だって何かを言おうとする者はいなかった。

 

「……よし。では、早速だが本題に入る。既に察している者もいると思うが、今回集まったのは他でもない。紫様ですら手に余る異変が起ころうとしているので、その対処の協力を要請する為だ」

 

 広間に集まっている各々の顔を順々に見やった藍がそう告げると、ざわりと場の空気が変わった。それは主に大天狗たちの間からではあったが、誰もが大なり小なり反応を見せていた。

 

「……っ」

「魔理沙、大丈夫。少し落ち着きなさい」

「……アリス」

 

 その中でも、最も反応を露わにしたのは魔理沙であった。強張った顔で、不安そうに室内を見回している。それは誰かを探しているようで、自然と傍にいるアリスが宥めるようにその肩を抱いた……と。

 

「一つ、いいかい?」

 

 喧騒渦巻く広間にて、その声は意外なほどに良く響いた。誰もがその声の持ち主へと目をやり、目を見開く。「――何でしょうか、伊吹様」それは、進行役を務める藍とて例外ではなかった。

 

「おいおい、そう面食らった顔をすることはないだろう?」

「あなたが最初に質問してくるとは思いませんでしたので」

 

 失礼な言い分だが、伊吹萃香という気分屋の呑兵衛を知る者からすれば、当然の言い分である。

 

「それで、何でしょうか?」

「いや、なに。これまでにない規模の異変が起こるのは分かったけど、わざわざ私たちを集めた理由を知りたくてね」

「と、仰いますと?」

「協力の要請なら、手紙なり何なりで済むでしょ。頭の固い天狗やらを集めたり、地底の妖怪まで引っ張って来たり、ずいぶんと大事にしている……その意図は?」

「有り体にいえば、牽制と忠告です。この異変に乗じて勢力を拡大しようとする者が、現れないとも限りませんのでね」

 

 隠す必要はない。そう言外に滲ませた藍の言葉に、幾人かの妖怪は眉根をしかめた。どういう意味だと唱える彼ら彼女らの反応に、「言葉の通りです」藍は顔色一つ変えずに言い切った。

 

「この際ですので言いますが、此度訪れるかもしれない異変に関して、紫様は本気です。如何なる理由があろうと、そういった邪魔立てをすれば紫様は全力を持って排除に動きます。まず、そのことを肝に銘じておいてください」

 

 排除……その言葉に、動揺を露わにする妖怪は少なくなかった。何故なら、幻想郷の管理者でもある紫は、これまでパワーバランスの崩壊からくる秩序崩壊を危惧し、そういう手段を取ることをあまりしなかったからだ。

 

 それを、代理人であるとはいえ八雲の名を冠する藍が明言したのだ。

 

 紫の敵は、幻想郷においての敵。なるほど、牽制と忠告。いくらこの場にいる者たちが実力者であるとはいえ、これを無視して野心を露わにする者はこの場にはいなかった。

 

「協力すること事態はやぶさかではないけど、いったいどう協力したらいいんだい? 正直、何をしてほしいのかさっぱり見当が付かないんだ」

 

 萃香の疑問は、この場にいる誰しもの疑問でもあった。そして、藍も、その質問が来るのを予見していたのだろう。

 

 さすがにそこまで話しても良いのかと藍は視線をさ迷わせていたが、全員の視線が向けられていることに気づき……それは、と唇を開いた……その時であった。

 

「――藍、そこから先は私が話しますわ」

 

 僅かに途切れた緊張感の隙間を突くかのようなタイミングで、するりと紫が広間に入って来た。「紫様、よろしいので?」主の為に席を開ける藍に、「怒られましたから」紫はおもむろにそこへ腰を下ろし……さて、と改めて居住まいを正した。

 

「不審に思う各々方の気持ちは存じておりますが、まずは要請内容を述べます。今後、どこでも構いません。この者を見かけた、その時点でこの者を拿捕してください」

 

 そう言い終えた直後、各陣営のトップの頭上にスキマが開かれる。中から落ちてきたのは、一枚の写真。写真に写っているのは見慣れない恰好をした少女であり、手に取った誰もが、これは誰だと首を傾げていた。

 

 

 ……ただ一人、真っ青な顔色の魔理沙を除いて。

 

 

 その様子に気づいた者は、いた。アリスを始めとした、各陣営のトップたちだ。しかし、誰もがあえてその事には触れず、不思議そうに首を傾げる大半の者たちに合わせて、これは何だと紫に尋ねた。

 

「確証はありませんが、今後起こるかもしれない異変に関わっているかもしれない重要人物です」

「ふむ……先ほどから『かもしれない』という言葉が多いし、曖昧な言い回しだな。八雲紫、この子の何が、あなたをそこまで警戒させるのだ?」

 

 人里代表的な立ち位置でもある慧音からの言葉に、「この事は他言無用でございます」紫はそう忠告し、理由を述べた。

 

「ひと月ほど前になりますが、今代の博麗の巫女、博麗霊夢がその者の手によって重傷を負いました」

 

 ――その直後に起こった喧騒は……まあ、人里でやっていれば苦情が10や20は来るであろう騒がしさであった。

 

 

 

 



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春の章:その2

 

 

 夜は深まり、時刻は22時30分を回った辺り。消毒液の臭いが香る、博麗神社。人里からも妖怪の山からも離れたその神社の自室にて、霊夢は静かに布団の中で横になっていた。

 

 特注ランプ(通常のよりも、3倍近く明るい)の明かりが室内を照らし、霊夢の身体をも緩やかに照らす。傍には、カルテにさらさらと鉛筆を走らせる永琳と、点滴の状態を確認している鈴仙の姿があった。

 

「……ねえ、そこまで大げさにしなくても――」

「何度言っても駄目です。霊夢は自分の身体を過信し過ぎだってば」

 

 ぼんやりと天井と己の腕に伸びる点滴を眺めていた霊夢は、ふと、鈴仙を見やった。しかし、最後まで言い切る前に、鈴仙に駄目だしされてしまった。

 

「心臓に穴が開いてから、ひと月。目が覚めてから、9日。失血死寸前の量の血を流したってことを、少しは自覚しなさい」

「それは分かっているわよ。だから、こうして大人しくまっずい病院食と点滴を受けているんでしょうが」

「大人しくするのは当然でしょ。あんた、怪我する前と比べて体重が7kgも落ちているのよ。分かっているの、7kgよ、7kg!」

 

 鈴仙の怒りは最もであった。元々、霊夢の体重は同年代と比べても軽く、痩せ気味だ。そんな状態で7kgも体重が落ちれば、医学を学んでいる鈴仙でなくとも怒って当然であった。

 

 実際、体重の変化は霊夢の見た目にも表れていた。肌のかさつきこそ無いものの、頬は窪み、手足も前より細い。以前の姿を知っている者が見れば、思わず面食らうぐらいの状態が、今の霊夢であった。

 

「7kgなんてすぐでしょ。そんなのちょっと腹いっぱい食べれば元に戻るわよ」

 

 けれども、あーいえば、こーいう。言葉にすれば正しくという他あるまい霊夢の態度に、鈴仙はむうっと頬を膨らませた。そのまま、膨らんだ頬を永琳に向け……やれやれ、と永琳は苦笑して霊夢を見やった。

 

「霊夢……そういう台詞は、少なくとも出された分を全部平らげてからいいなさいな。胃が受け受けなくて点滴に頼っているのは、何処の巫女さんかしら?」

「食べられないのは、まっずい病院食のせいよ」

「そうは言っても、スキマ妖怪が用意した料理もほとんど受け付けずに吐いたでしょう。アレ、使っている材料の値段だけで、外の世界では七日は食べていける高級品ばかりよ」

「げ、マジで? それなら意地でも腹の中に納めとくべきだったわ」

「そうね、ゼリーは何とか食べているようだから、やり過ぎない程度には頑張りなさい。吐き出さないようにあなたが必死に堪えていたのは、スキマのやつも分かっているから」

 

 そう言い終えると、永琳は鉛筆を置いてから改めてカルテを見やる。「兎にも角にも、せめて体重をあと2kgは戻さないとね」漏れがないことを確認した永琳は、傍に置かれた薬箱から折り畳められた薬包紙を三日分取り出した。

 

 薬包紙の中身は、吐き気止めに咳止め、抗炎症薬に抗ウイルスといった具合の……まあ、抗生物質を配合した総合薬である。免疫機能が弱まっている今の霊夢には、欠かせない薬であった。

 

 とりあえず、ゼリーが腹に残っている内に一つ飲んでおきなさい。永琳にそう言われた霊夢は、鈴仙の手を借りて身体を起こす。只でさえ小柄な身体が、さらに小柄になっていることに、鈴仙は軽く目を細めた。

 

「……ねえ、霊夢」

「輸血はしないわよ」

 

 最後まで、霊夢は言わせなかった。

 

「前にも話したでしょ。一時的とはいえ、他者の血を入れてしまうと霊力が落ちるのよ。元に戻るまで最低半年は掛かるなんて、選択の余地はないわ」

「でも……」

「大丈夫よ。私の食い意地、あんたも知らないわけじゃないでしょ」

 

 そう言われたら、鈴仙は何も言わなかった。生死の縁より戻ってきたとはいえ、消耗が酷い。それも、当然だ。いくら永琳の腕前が良いとはいえ、常人なら即死している傷……生きているのは、単に幸運と霊夢自身のおかげである。

 

 人間に限った話ではないが、太るにしろ痩せるにしろ極端に振り切ってしまうと、それを中央に戻すには時間が掛かる。特に、失った血を補充する為に体内の脂肪等を根こそぎ解体されてしまった霊夢は、それが顕著であった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、水に溶かした薬液を何度かに分けて飲み干した霊夢は、再び鈴仙の手を借りて布団の中に戻る。大きく息を付いてから点滴を見やった霊夢は、再び大きなため息を吐いた。まだ、薬液がたっぷり入っている。

 

 液が落ち切るまでだいたい30分程だが、正直退屈だ。いや、別にこうして寝ていること事態は平気なのだが、寝ていることを強制されるというのが、霊夢にとっては堪らなく窮屈であった。

 

(――いっそのこと、何か起きないかしら。こうも静かにしていると、身体が鈍って仕方がないわよ)

 

 永琳や鈴仙が聞けば呆れるか怒りそうなことを考えつつも、霊夢は諦めて目を瞑る。まあ、何か起こったとしても、この身体ではまともに動けない。永琳の言う通り、あと2kgは体重を戻してからかなと、霊夢は無理やり己を納得させた……と。

 

 どたどたと、廊下を走る音が霊夢の耳に届いた。

 

 夜の静けさに、その足音はよく響く。何だ何だと顔をあげる永琳たちを他所に、(何だか面倒な予感がする……)まなじりを吊り上げた霊夢は、近づいてくる足音へと目を向け……止まると同時に、襖が勢いよく開かれた。

 

 そこに立っていたのは、魔理沙であった。

 

 よほど、急いできたのだろう。トレードマークの三角帽子はなく、露わになった金髪は猫に遊ばれた毛玉のようになっている。外から見える素肌全てに汗を煌めかせた彼女は、はあはあと荒い息をそのままに霊夢を見やった、その直後……カーッと鼻の頭を赤くし、ぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。

 

 これには、永琳たちだけでなく霊夢もギョッと目を見開いた。けれども、魔理沙はその事に気付いた様子もなく、崩れ落ちる様にその場に尻餅を付いて、女の子座りになる。そして、嗚咽を零し始めたかと思えば、それは瞬く間に号泣へと変わった。

 

「ええ……」

 

 面食らう、とは、このことを言うのだろう。突然の出来事に混乱する霊夢と鈴仙ではあったが、分からないのはこの二人だけだったようだ。「……あ、なるほど」永琳は納得したかのように肩の力を抜くと、魔理沙の後から付いて来ていた……紫たちを見やった。

 

「もしかして、公表したの?」

「そうよ。まあ、何時までも隠し通せるものじゃないしね」

「確かに。でも、魔理沙には話した方が良かったんじゃないの?」

「ひねくれているけど、この子は根が素直だもの。隠すなら徹底的にしないと」

 

 簡潔に会話を行う二人を他所に、その後ろからアリスがひょっこり顔を覗かせた。「魔理沙、こんなところでは邪魔になるでしょ」泣いている魔理沙を見て、その手を引っ張るが……動かない。こりゃあしばらく無理だと諦めたアリスは、箒を壁に立て掛けると、霊夢の傍にそっと腰を下ろした。

 

「お久しぶりね、霊夢。紫からだいたいの事情は聞いたわ。守矢の巫女や、メイド長、半人半霊のやつは、後日改めてお見舞いに来るそうよ」

「わざわざ来なくていいのに、暇を持て余しているやつは多いのね」

「それが幻想郷よ。見舞いを受けられるだけ恵まれているんだから、文句は言わないの」

「分かっているわよ、それぐらい。ああ、そうそう、帰るついでに、そこで泣いている黒いのを持って行ってくれると助かるのだけれども」

「泣かせてやりなさい。話を聞く限り、ひと月近くあなたの安否が気になって気になって仕方なかったんでしょ。怒らないだけ、可愛げがあるじゃないの」

 

 それを言われると、霊夢は何も言えなかった。それを見て、アリスは苦笑した。

 

「魔理沙の様子からだいたいは察したけど、少しぐらいは話していた方が良かったんじゃないの?」

「文句ならそこの美人な女医にでも言いなさい。面会謝絶に情報封鎖を行ったのは、そこの二人。私は一切関与していないわよ」

「お馬鹿。それでも、あなたの口から伝えるのが重要なのよ。人伝で大丈夫だからなんて言われて、誰が納得するのよ」

 

 それも言われると、霊夢はますます何も言えなかった。こいつも大概なやつだとアリスは苦笑の奥に思ったが、あえてそれを表には出さなかった。

 

「まあ、泣きつかれて寝ちゃったら私の家に泊めるから、好きに泣かせてやりなさいな」

「手間が省けて色々と楽だわね。見ての通り、私はこんなんだから、しばらくは魔理沙の面倒を見てやってちょうだい」

「構わないわよ。調子に乗っている時は果てしなく鬱陶しいけど、しおらしくしている間は可愛らしいから……で、お加減はどう?」

「まっずい病院食に苦い薬に退屈な点滴。この三つのおかげで、しぶとく生き延びさせてもらっているわ」

 

 あんまりな言い回しに、あんたねえ、とアリスは再び苦笑する。しかし、目ざとく「『美人な女医』が抜けているわよ、骸骨ちゃん」と永琳から訂正の言葉が飛んできた辺り、どっちもどっちかとアリスはさらに苦笑を深め……不意に表情を引き締めると、紫たちへと振り返った。

 

「八雲紫……例のやつ、調べ終えたわよ」

「あら――思ったより早かったわね」

「事が、事だもの。さすがに最優先にするわよ」

 

 雑談を切り上げた二人が、横になっている霊夢を挟む形でアリスの対面に腰を下ろす。その永琳の後ろにて、鈴仙が来る。しばし、まだ泣きじゃくっている魔理沙が気になるようではあったが、永琳に促された彼女は……そこで、腰を下ろした。

 

 それを見て、アリスの手が動く。一拍遅れて姿を見せたのは、30cm程度の人形が二体。ビニールに納められた赤黒い布を掴むその二体は、アリスの指の動きに合わせて、緩やかな動きでそれを紫に手渡した。

 

 赤黒い布の正体は、霊夢が負傷した時に来ていた巫女服である。本来は赤と白の色合いが鮮やかな代物なのだが、付着した血液が酸化しているのだろう。見ていて、あまり気持ちの良い状態ではなかった。

 

 どうして、アリスがそんな物を持っているのか。それは、紫より『どのような過程を経てそうなったのか』という、言ってしまえば服から相手の思惑を調査してほしいという依頼が理由であった。

 

 何故……アリスにそんなことを頼んだのか。それは単に、此度の事件の全貌がほとんど分かっていないうえに、被害者が博麗霊夢であったからだ。

 

 アリスの本職(という言い方には語弊があるものの)は魔法使いであり、人形作りだ。その過程で裁縫関係の造形も深い。しかし、専門というわけではなく、それを専門にしている者は人里にも大勢いる。

 

 しかし、人の目と耳はどこにあるかは分からない。加えて、首謀者の目と耳も。博麗の巫女が負傷している事実を隠ぺいし、かつ、どの陣営にも属していない者となると、アリスが選ばれるのは当然の結果であったのかもしれない。

 

「結論から言えば、『高温状態に保たれた、切れ味の良い刃物で一直線』に……それも、相当な威力を持って、といったところかしら」

「熱せられた刃物?」

「ええ、胸側の衣服の断面が焦げているわ。それと、これが冬服だったのが幸いね。通常よりも生地が分厚く頑丈だから、皮膚が焼ける前にそっちに熱気が取られたみたいよ」

「え、冬服? この時期に?」

 

 紫から向けられる胡乱げな視線を前に、「いや、さすがにこんな時期に着ないわよ。何かの勘違いじゃないの?」霊夢は首を横に振って否定した。

 

「そうはいっても、生地の厚さからみて春服ではないでしょ。それに、衣服には防寒用の魔法文字(マジックスペル)が使用されていたから、春に使うにはかなり暑いと思うわよ」

「……霊夢? 私、前にも言いましたわよね。女の子なのだから横着せず、季節に応じて服は入れ替え、節度を保つようにとあれほど……」

「だから、知らないわよ。私はちゃんと春用のやつにしたってば。それか、その時は間違えて冬用を着ていたってことでしょ。それに、そのおかげでちょっとは傷が浅くなったかもしれないじゃないの」

 

 ……そう、霊夢から言われれば、紫も二の句は告げない。言い訳ばかり上手くなってと呟きながら目を細める紫を他所に、アリスはさっさと本題に話を進める。

 

「破損した部位を含めて繊維の状態を粗方調べてみたけど、断面図から推測する限りでは包丁やナイフではなく、霊夢の身体を貫いたのは『刀』か、それに近い形状のものだと思うわ」

「――それについては私も同意見よ。じっくり調べたところ、入口と出口の傷口の形状がほぼ一致。少なくとも刃渡りは最低50センチ以上、形状は緩やかな湾曲か、あるいは直線。該当する形状の刃物といえば、ここでは刀ぐらいしか思いつかないわね」

 

 アリスの報告を補足するように、永琳が口を挟んだ。「ついでに、もう一つ気になる点が見つかったわ」加えて、永琳は鈴仙より受け取ったカルテをパラパラと捲り、「あっ、ここだわ」手を止めた。

 

「その熱せられた凶器なんだけど、おそらく熱くなっているのは根元の辺りだけ。推測する限りでは、熱が先端まで伝達する前に使用された……と、いったところかしら」

 

 普通に考えれば、そういった能力を持つ者が衝動的に行った……と、捉えるところだろう。しかし、この場にいる誰もが、素直にそれが正解であるとは思わず、一様に頭を悩ませ唸った。

 

 何故なら、誰もが下手人の姿を見ていないのだ。あの場にいたのは、霊夢自身を含めて、幻想郷内においては名の知られた者ばかり。その中で、特に紫の目を掻い潜ってとなれば……正直、検討すら思いつかない。

 

 ……そう、考えてみれば、此度の凶行には不可解な点が多過ぎる。ふと、この場にいる誰もが、同じことを思った。

 

 霊夢襲撃もそうだが、紫の目を掻い潜って行える程の実力者なら、どうしてあの時首を刎ねなかったのか。加えて、こうして霊夢が生きているということは、下手人(首謀者)も分かっているはずだ。

 

 ならば、仕留めに掛かるはずだ。わざわざ幻想郷の要である霊夢を襲ったぐらいなのだ。しくじったと分かれば、警備が整う前に追撃を行うのは当然……なのに、それが一度として成されていない。

 

 目的が、全く読めない。ただの愉快犯にしては大胆不敵だし、計画されたものならお粗末過ぎる。何一つ噛み合わないパズルのピースばかりが降り積もってゆく感覚に、しばし霊夢たちは何もいえないまま沈黙に身を浸した。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………しかし、その沈黙は長く続かなかった。何故なら、「――ちょいと邪魔するよ」という言葉と共に、額に角を生やした……星熊勇儀が、了承も取らずに縁側から神社の中へ上がって来たからだった。

 

 星熊勇儀……それは、忌まわしき者として地底深くへと封印された者たちの中でも別格的存在である『鬼』の中の別格。並の妖怪が束になっても歩み一つ止められない程の力を持つ、強力な妖怪である。

 

 そんな妖怪の登場に、霊夢たちは思わず目を瞬かせた。勇儀は、『鬼』の中でも比較的だが話が分かる。霊夢たちとも、まあまあな顔見知りだ。しかし、こうして夜分遅くに押しかけてくるような間柄でもなく、そういう性分でもない。

 

 だから、必然的に勇儀へと向けられる視線は、何故、の二文字であった。排他的な視線というわけではない。ただ、純粋に何をしに来たのかという疑問が先に出ただけである。

 

 勇儀も、それは理解しているのだろう。向けられる視線を特に気にした様子はなく、そっとその場から横に身を引いた。そうして露わになった先に佇んでいる者を見て、「えっ!?」今度こそ霊夢たちはギョッと目を見開いた。

 

「……ええ、分かっていますとも。あなた達が如何に驚いているのかなんて、心を読まなくとも分かりますとも」

 

 何故なら、そこに立っていたのは、淡紫色の髪を寝癖のようにぼさぼさにした妖怪の少女で。

 

「自分でもガラじゃないとは分かっていますが、まあ、辛抱してください。少々、気になることがあったので」

 

 その正体は、星熊勇儀とはまた別格的存在として、地底の妖怪たちからも畏怖されている妖怪。眠たげに眼を細めて他者の心を読み取る、覚り妖怪の古明地さとりであったからだ。

 

 霊夢たちが驚くのも無理はない。何故なら、古明地さとりといえば、他の妖怪(人を含めて)とはほとんど交流を取らず、地霊殿と呼ばれている屋敷に引き籠っていることで有名であるからだ。

 

 今回のように必要になれば出ては来るが、出て来るだけ。他の陣営と交流を図るようなことはせず、用が済めば誰よりも先に帰ってしまう。そんな妖怪が、わざわざ博麗神社にやってくる。驚くな、という方が無理な話であった。

 

 それ故の、驚愕の視線が注がれる。合わせて、淡紫色を基調とした洋服に身を包んだ彼女の胸元には、種族的特徴ともいえる、肉体より伸びる幾つもの管に繋がれた目玉が幾度となく瞬きを繰り返している。

 

 向けられる感情と言葉に呼応しているのか、それとも無自覚に蠕動する臓器と同じなのか。本人以外には誰も分からない感覚にしばし浸っていたさとりは、ふむ、と瞑り掛けていた目を開けた。

 

「心臓を刺し貫かれましたか。さすがは博麗の巫女、それで生きているとは、妖怪顔負けのしぶとさですね」

「……顔を合わせた途端、心を読むのは止めなさいよ」

「失礼、出会い頭の盗み聞きは覚り妖怪の本分でして――おや、起きなくてもいいですよ」

「あいにく、見下ろされたまま話されるのは嫌いなのよ」

 

 紫の手を借りて、霊夢は身体を起こす。それだけでも重労働だが、矜持の為だ。「これまた失礼、不作法でした」心を読んで察したさとりは軽く頭を下げると、霊夢の足元辺りで正座になった。ちなみに、勇儀は縁側に座って夜空を見上げていた。

 

「――で?」

「訪れた理由は二つ確認したいことがありまして。一つは……紫さんがあの場の全員に見せていただいた、あの写真についてです」

「……写真?」

 

 詳細を知らない霊夢が振り返れば、扇子で口元を隠した紫が写真を手渡してきた。何で顔を隠しているのかと霊夢は一瞬ばかり思ったが、ああ心を読ませないようにする為かと一人納得して、受け取った写真を見やる。

 

 そこに映し出されているのは、例の少女。霊夢が負傷する直前にて目撃した、画面の向こうの存在。魔理沙が持って来たDVDに記録されていた、ニット帽を被った、あの少女であった。

 

「その写真は、あなたに傷を負わせたかもしれない人物……で、間違いないんですよね?」

「まあ、そうなるわね。証拠はないけど、私はそう思っているわ」

「巫女の勘というやつですか――ああ、不快に思わないでください。私はただ、確認したいことがあるだけですので」

 

 確認……小首を傾げる霊夢たちを他所に、さとりの胸にて蠢く目玉が、ぶるりと震える。直後、見開かれた眼球から光が零れ……気づけば、さとりの隣にはニット帽を被った、写真の少女が立っていた。

 

 瞬間――紫が、庇うように霊夢を背後から抱き締めた。直後、腕部より刃が飛び出した二体の人形がアリスの頭上を飛び、永琳の構えた弓矢の照準が、さとりの眉間に向いていた。

 

 一触即発の空気に、ぱきん、と空気が張り詰める。目玉から放たれる光が淡く室内に灯り、外を見ていた勇儀がさとりを見やる。重圧すら生まれ始める緊張感の最中、鈴仙は部屋の隅に逃げて身体を震わせていた。

 

「――で?」

 

 その中で、霊夢だけは冷静であった。

 

「あんた、わざわざそんなしょうもないことをする為にここまで来たの?」

「……はあ。本当に、あなたという人は無駄に度胸があってつまらないですね」

「博麗の巫女をやっていれば、嫌でも度胸ぐらい付くわよ」

 

 いや、正確にいえば、さとりと霊夢の二人は、だ。そして、それが切っ掛けにもなった。破裂寸前にまで張り詰めていた緊張感は一瞬にして解れ、誰も彼もが脱力し、勇儀もため息と共にまた外を見やった。鈴仙は、いつの間にか泣泣き疲れて蹲ったまま寝ている魔理沙を盾に、小さく丸まっていた。

 

「見ての通り、これは霊夢さんの記憶の中にある写真の子を具現化したものです。記憶にあるこの子を再現しただけなので、自力で動くことはありません」

「ふーん、それで?」

「そのうえで、これを見てください。私を含めて、その写真を見た者の記憶を想起し、具現化させます」

 

 そう言い終えると同時に、再び目玉の光が激しくなる。一拍遅れて、ニット帽の少女の隣に、新たにニット帽の少女が姿を現す……はず、だったのだが、そうはならなかった。

 

 一言でいえば、モザイクだ。まるで、身体全部にモザイクが掛かったかのように、輪郭がはっきりとせず顔が分からない。瞳すら確認出来るぐらいに鮮明な霊夢の記憶にある少女とは違い、さとりたちの記憶から再現されたその少女は、何とも不出来な姿をしていた。

 

「……何これ? 失敗?」

「いえ、これで合っているわ。こうなってしまうのは、霊夢を除いた全員がこの少女の姿を上手く記憶出来ていないからよ」

「はあ? 記憶できていないって、そりゃあ写真をちらっと見たぐらいじゃあそんなものでしょ」

 

 意味が分からず首を傾げる霊夢に、「なら、試してみましょうか」さとりは率直に告げた。

 

「今から、想起したこの子たちを消す。いい、ニット帽の女の子よ。私は今、写真に写されたニット帽の子を想起した……覚えたわね?」

 

 言われて、霊夢が真っ先に頷いた。その後で、紫が、アリスが、永琳がと頷いてゆく。そうして、離れた所にいる鈴仙が辛うじて頷いたのを確認したさとりは、想起した二人を消す。そして、声に出して15秒数えた後……紫を見やった。

 

「では、紫さん。今しがた私が想起した女の子は、何に写っていた女の子ですか?」

「……ふざけているのかしら?」

「ふざけていません。お答えください、結果はすぐに出ますから」

 

 扇子の向こうにて一瞬ばかり苛立ちを見せた紫ではあったが、そうも強く言い切られれば、毒気も抜かれる。「……写真の女の子よ」意図が読めないながらも、紫は素直に質問に答えた。

 

「はい、正解です。では、続いての質問……その、写真の少女ですが」

 

 だが、しかし。

 

「帽子を被っていましたが、何の帽子を被っていましたか? 紫さん、お答えください」

「そんなの、決まっているでしょ。写真の子は……写真の……え?」

 

 答えられたのは、そこまでであった。驚愕に目を見開く紫の様子に、傍で見守っていた霊夢たちはどうしたのかと困惑に首を傾げる。そんな霊夢たちを他所に、さとりはそのままアリスと永琳に同じ質問を投げる。

 

「写真の……写真の女の子……え、写真の?」

「……なるほど。あなたの言いたいことは分かったわ」

 

 普通の記憶力なら、すぐに答えられるはずだ。しかし、二人とも答えられなかった。アリスは困惑に頭を抱え、何かに思い至った永琳はため息と共に納得した。そして、小さく首を横に振っている鈴仙を見やったさとりは、「これが、知りたかった」そう呟いて例の写真を懐より取り出した。

 

「どういう原理によってそうなっているのかは分かりませんが、この写真に写る女の子を私たちは記憶し続けることが出来ません。おそらく、他の者も同じでしょう……例外は、霊夢、あなただけ」

「……何が言いたいのよ」

「人も妖怪も神も、蓬莱人ですら記憶を操作されている。なのに、あなただけが映像に残されたこの少女の姿を正確に記憶している。言い換えれば……あなた以外に、この子を見つけ出すことは出来ないということです」

 

 だからこそ、気を付けて。そう、さとりは言葉を続ける。

 

「記憶出来ているとはいえ、あなたもおそらくは記憶の操作をされているわ。それがどの程度なのかは分からないけど、何かしらをされているのは分かる」

「――根拠は?」

「貴方の記憶の一部に、欠落が見られる。まるで、引き出しごと持ち出されたかのように、その部分が空白になっている――残念だけど、それは出来ないわ。どの部分の記憶が操作されているのかまでは、私にも分からないから」

「…………」

「紫さんの言う通り、未曽有の危機が起ころうとしているのかもしれません。微力ではありますが、必要となれば最優先で手を貸しましょう……では、私はこの辺で」

 

 来る時も一方的なら、去る時も一方的だ。困惑に言葉を失くす霊夢たちを尻目に、さとりはさっさと腰を上げて縁側へと向かう。

 

 少し遅れて、勇儀がのそのそとその後に……続こうとして、「――ああ、一つだけ言い忘れていました」不意に、さとりは振り返って。

 

 

 

 

 ――岩倉玲音(いわくら・れいん)

 

 

 

 

 その名前に聞き覚えはないか。そう、尋ねてきた。霊夢たちは互いに顔を見合わせた後……おもむろに、首を横に振った。誰も、その名に聞き覚えはなかった。

 

 しかし、直後に霊夢だけが、いや待てよ、と何かを思い出すように小首を傾げた。その場にいる者たちの視線を一身に浴びた霊夢は、しばし唸り声を出した後……ぽつりと、呟いた。

 

「知っているような、気がする」

「何処で、知りました?」

「分からないわ。何処かで聞いた覚えはあるんだけど……思い出せない。う~ん、どっかで耳にしたんだけどなあ……」

「……そう言われると、私も何だか聞き覚えがあるような……ないような……」

 

 うんうんと頭を振る霊夢の姿が、切っ掛けになったのか。不意に、アリスもそんなことを言い出した。

 

「……言われてみれば、聞き覚えがあるわね。でも、どこだったかしら……どこで聞いたのかしら……?」

「私も聞き覚えがあるわ。と、なると、おそらくこれも記憶操作の一環とみて間違いないわね」

 

 それは、アリスに限った話ではなく、不思議な事に。紫と永琳に加え、鈴仙……そして、勇儀までもが聞いた覚えがあると言い出した。

 

 誰もが利き覚えがあると口にした。だが、誰もが何処で聞いたのかが思い出せない。この場にいる誰もが、生活圏が異なるだけでなく、生活サイクルも異なっているのに、どうしてそうなるのだろうか。

 

「ん~、ん~、んんん~~~、あとちょっと、あと少しで思い出せそうなんだけど、思い出せない~っ!」

「れ、霊夢、もういいから落ち着きなさい。血が足りていないの、そのままだと貧血で倒れちゃうから止めて!」

 

 アリスたちの反応を聞いて、躍起になったのだろう。もしかしたら人生で最も力強く眉間に皺をよせているかもしれない霊夢を、紫が慌てて宥める。

 

 忘れられていそうだが、霊夢はまだ療養中だ。それも、生死の境から復帰してからひと月も経っていない。無理をさせて容態が急変したとしても、何ら不思議ではない状態なのだ。

 

「……夜も更けました。私たちは帰りますので、考え事は私たちが帰った後にしてください」

 

 その事に今更ながらに思い至ったさとりは、そういって軽く頭を下げると。

 

「焦ることはないですよ。何をするにしても、まずは身体を治すことを最優先にしてください。あまり考え込んでいますと、熱を出しますよ」

 

 では、さようなら。

 

 その言葉を残し、縁側を下りたさとりの身体が浮かび、夜空へと消える。「それじゃあ、私もこの辺で」その後を勇儀が続き、後には……静けさの中に残された、霊夢たちだけであった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………その日の夜は、それが切っ掛けとなってお開きとなった。

 

 さとりの登場によって、場が白けた……というのは言い過ぎで、そういう空気ではなくなったというのは確かだが、お開きに至る最大の理由は、霊夢の体力的な問題、その一言に尽きた。

 

 考えてみれば、当たり前の話である。霊夢はまだ負傷してからひと月ほどしか経っていない。傷口は永琳の手腕によって塞がり、失った血液等諸々も永琳特性の薬によって回復傾向にはあったが、それでも気を抜ける状態でない。

 

 単に生きているのは、数々の幸運と霊夢自身の底力のおかげだ。しかし、それでもなおギリギリなのは同じこと。身体を起こして会話をし、頭を悩ませて考え事をする……その程度ですら、今の霊夢にとっては重労働なのだ。

 

 事実、さとりが去って、すぐ。無理に身体を起こしたり頭を悩ませたりと色々と気を回したせいで、霊夢の体調が目に見えて悪くなってしまった。有り体にいえば、熱を出してしまったのだ。

 

 元々体力が低下し、免疫機能が落ちていることもある。青白い顔を真っ赤にして布団の中で唸るその姿は哀愁を誘い、翌日以降も紫がその傍を頑として離れず、式の藍が引きずってゆく姿が幾人かの妖怪に目撃された。

 

 ちなみに、似たような理由で幾人かの少女たちが、保護者なり何なりの手によって引きずられてゆく姿も目撃されたが、前者のインパクトが強すぎて、あまり話題に上ることはなかった。

 

 そうして、月日は流れて6月の半ばにもなれば、春の陽気が徐々に煩わしき熱気へと姿を変える。雨が降る頻度が増え始めていることを誰もが実感し始める頃になって、霊夢はようやく外出の許可を永琳より許されたのであった。

 

 

 

 

 



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春の章:その3

 しゅるり、と巻いたサラシの具合を確かめながら、霊夢は姿見に映った己の姿を見やる。特徴的な巫女服は全て取り払われた生身の身体は、かつての己のモノよりも幾らか細く頼りないままであった。

 

 ……痩せたなあ、と。心の中で、霊夢はため息を零した。

 

 痩せる時は胸から痩せるというのが定説らしいが、霊夢は身を持ってそれを実感している。これまでサラシを撒く時には多少なりとも胸元周辺に窮屈さを覚えていたが、今はそれがない。

 

 つまり、落ちてしまった体重の幾らかをココから支払っているというわけだ。サラシを撒く前に軽く触ってみたとき、それがよく分かった。固く骨の浮いた胸元は、ともすれば少年に見間違えられるような有様となっていたから。

 

 これで元が腹回りを含めてふくよかな体型であったなら丁度良いのだが、あいにくと霊夢は元々が細い。純粋に痩せているだけでなく、骨格自体が小柄な方なだけあって、数kgとはいえ見た目の変化は顕著だ。

 

 まあ、無理もない。現在の霊夢の体重は、負傷する前より5kgは軽い。ボーダーラインであったプラス2kgをクリアしたから外出の許可が下りたが、それでもギリギリ基準を合格したというだけのこと。

 

 ぶっちゃけ、今回の外出だって永琳が鬱陶しがるぐらいにお願いし続けて、ようやく許可が下りただけ。暗にまだ大人しくしておけと促されたのを、霊夢が黙殺した……という経緯がある以上、霊夢はあえて不満を口にはしなかった。

 

「……ねえ、霊夢」

 

 ――ほら来た。

 

 喉元から出かけたその言葉を、霊夢は寸での所で呑み込む。表情一つ変えることなく振り返れば、目じりにほんのり涙を浮かべつつも心配そうにしている(保護者)が、スキマから身を乗り出していた。

 

「やっぱり、もうちょっと休んでいてもいいと私は思うの。その身体では、まだ本調子とは言えないでしょ? だから、今月いっぱいは――」

「いや、行くの」

 

 恐る恐る中止を申し出る紫の言い分を、霊夢は一言で切って捨てる。仕方がないこととはいえ、神社から一歩も出られないまま二か月強……ぐうたら巫女とも揶揄される霊夢とはいえ、ストレスが溜まって当然であった。

 

 加えて、紫の看病(甘やかし)がまた何ともキツイのだ。

 

 例えば、食事の時。霊夢一人で食事が出来るというのに、未だに椀とレンゲで介助しようとしてくるのだ。嫌な顔一つせず、満面の笑みで差し出してくるせいで、まるで赤ん坊に戻ってしまった気分にさせられる。

 

 他にも、僅かな身動ぎから背中が痒いのかと声を掛けて来たり、少し暑いなと思えば濡れた手拭いを持って来たり、喉が渇いたと口にする前にジュースを持って来たりと、こう……アレだ。霊夢も、そこまで子供ではないのだ。

 

 普段は飄々として胡散臭い態度を取るが、こういう時の紫は兎に角甘やかそうとする。面倒くさがりな霊夢ですら辟易するぐらいなのだから、何となく想像は付くだろう。

 

 それに、気持ちは嬉しいし嫌な気分ではないのだが、さすがに……その……催した時に笑顔で尿瓶を持ってくるのは勘弁してほしい。まともに身体を起こせない時ならともかく、今は自由に歩けるまで回復したのだ。

 

 寝小便して泣きべそ掻いていた頃が懐かしいわあ、と言われて、七転八倒して少しばかり回復を遅らせた霊夢は、おそらく悪くはないだろう。

 

 というか、その時たまたま来ていた永琳から『――さ、さすがにそこまでしなくてもいいわよ』とフォローが入ったぐらいなのだから、色々とお察しであった。

 

「でも、霊力だって以前の3割ぐらいしか出せないでしょ? それは霊夢の身体を治す方に回されているからであって、無理をすればまた……」

「そうは言っても、アレから何の手掛かりもないでしょ。さとりの言う通り、私以外ではあいつを探せないのかもしれない。その私が、何時までも床に着いているわけにはいかないでしょうが」

「それは、そうだけど……」

 

 霊夢の正論を前に、紫は言い掛けた反論を呑み込んだ。霊夢のいう事は紛れもなく事実であり、例の少女については何一つ分かっていないというのが正直な現状であった。

 

 もちろん、紫たちもサボっているわけではない。いや、むしろ、博麗の巫女襲撃という凶行に及んだ首謀者の捜索に関しては種族の垣根を越えて協力体制にあり、24時間体制での捜索が行われていた。

 

 だが、見つからないのだ。何処を探しても、例の少女が見つからない。妖怪の山を始めとして、その妖怪すら入れない彼岸や冥界にも、一度入れば二度と出て来られないという迷いの竹林にも、人里の内と外も徹底的に探し続けているが……結果は思わしくない。

 

 しかし、手掛かりが全くないかと問われれば、そういうわけでもない。

 

 ――岩倉玲音(いわくら・れいん)

 

 それは、さとりより教えられた、霊夢の失われた空白の記憶の中にあったという、その名前。何処かで聞いたような覚えがあるその名の持ち主が、首謀者(あるいは、関係者)である保障はないし、例の少女である保障もない。

 

 だが、霊夢はそいつこそが首謀者であると思っている。と、同時に、そいつの名前こそが岩倉玲音であると思っている。根拠は何一つ持ち合わせていないが、『勘』がそうだと訴えているから、そうなのだろうと霊夢は結論を出していた。

 

「紫の気持ちは有り難いけど、私は博麗の巫女。怠け巫女が本当の怠け者になっちゃあお終いでしょ」

 

 ちらりと開け放たれた障子の向こうから入ってくる空気には、夏の臭いが混じっている。なので、押し入れより引っ張り出した夏用の巫女服を身に纏う。トレードマークであるリボンで纏めながら、最後にもう一度姿見で確認……よし。

 

 ――それじゃあ、行くから。

 

 それでもなお手を伸ばしてくる紫の手を握って宥める。次いで、縁側に置かれた靴を履いて、そのまま床を蹴って神社の外へ。ふわりと空へと舞い上がった霊夢は、勢いをさらに加速させてはるか彼方へと一気に浮上する。

 

 びゅう、と、上昇するに連れて頬を掠めてゆく風は、常人なら目を開けることすら難しい程に強く、激しい。けれども、霊夢の前ではそよ風にも等しく、ものの十数秒程で霊夢の身体は青空の中にあった。

 

「……うん、やっぱりここがいいわ」

 

 雲が僅かにチラつく空の中で、霊夢は一人静かに息を吐く。梅雨が近づいているとはいえ、まだ風に含まれる湿り気は少ない。日差しの強さも程よく、まるで水面に身体を浮かせているかのような気分で、霊夢はゆらゆらと己が身体を揺らした。

 

 霊夢は、『主に空を飛ぶ程度の能力(霊力を操る程度の能力)』と呼ばれる力を持っている。

 

 故に、空においての霊夢の自由は天狗と同等。いや、場合によってはそれ以上の動きを可能としており、ある意味では空は霊夢の独壇場でもあった……が、しかし。

 

(……紫の言う通り、まだ本調子じゃないわね。前よりも少しばかり身体が重い……以前通りに動くとなると、10秒持てばいい方ね)

 

 空から離れて、二か月近く。気分こそ青空と同様に晴れ渡ってはくれたが、永琳と紫の見立ては正確なようだ。肉体がまだ順応出来ておらず、気を緩めるとすぐに高度が下がってしまう。

 

 下がり過ぎると危険なので、その度に高度を上げる。どうして危険かといえば、高度を下げると必然的に妖怪たちの領域に近づいてしまうからだ。

 

 幻想郷内において、人間の安全が保障(絶対ではない)されているのは、人里を含めてそう多くはない。基本的には人里以外は妖怪たちの領域であり、小一時間も歩けばまず妖怪に襲われてしまう。

 

 けれども、ルールを理解せず襲ってくる妖怪の大半は空を飛べない。中には飛べる妖怪もいるが、そういうのは基本的に(絶対ではない)ルールは守る。なので、霊夢のように空を飛ぶことが出来る者は、空を飛んで移動するのが一般的である。

 

 しかし……今は、その飛行が辛い。そう、霊夢は思った。

 

 痛みはないが、身体が重いのだ。まるで全身に砂鉄を張りつけたかのように気怠く、息も少々切れる。回復しているとはいえ、体力が低下していることを改めて突き付けられた気がした。

 

 とはいえ、辛くなったからといって戻るわけにはいかない。ここで戻れば、今度こそ紫の手で一ヵ月近く看病(軟禁)されるのが目に見えている。だから、霊夢は顔色一つ変えないまま、己の内にある『勘』に任せて空を飛んだ。

 

 紅魔館、妖怪の山、命蓮寺、人里、迷いの竹林。回る順番は、特に決まりはない。回るにしても空から様子を伺うだけでそれ以上のことはせず、そこの住人と接触することは避けた。

 

 いちいち襲い掛かってくるやつらではないが、今の身体で『弾幕ごっこ(幻想郷内における、決闘ルール。いちおう、安全ではある)』は身が持たない。最悪、紫が出張って来たら色々とややこしくなると判断した結果である。

 

 そうして……一通り回った頃にはもう、昼過ぎとなっていた。

 

 その頃になると、さすがに涼しかった風は少しばかり生暖かくなっている。頭上より降り注ぐ日差しは鬱陶しさを覚える程になっており、霊夢は頬を伝う汗を巫女服の裾で拭い……少々、気落ちしていた。

 

 理由は二つ。異変の手掛かりが何一つ見つからなかったという点と、己の勘を持ってしても、正解(首謀者)へと辿り着けなかったという点の、二つであった。

 

 こんなことは、今までで初めてであった。これまで応対した異変では、勘を頼りに進んでいれば勝手に首謀者に辿り着いた。邪魔してくるやつらを片っ端からぶっ飛ばしていれば、自然と異変は解決した。

 

(私の勘が鈍った……いや、それはない)

 

 感覚的な部分ではあるが、『勘』は確かに働いている。それこそ、負傷して目覚めた時から今日まで、絶えず霊夢は『勘』を覚えている。むしろ、働き過ぎて一部壊れたりしないかと不安を抱いたぐらいだ。

 

 その勘が、今も訴えているのだ。首謀者は、すぐ近くにいる。振り返ればそこに、立ち止まればそこに、鏡を見ればそこに。もしかしたら己の不調の幾らかはコレが原因ではないかと、霊夢はふと思う。

 

 ……今日は、ここらで止めておこう。煮詰まり掛ける頭を自覚した霊夢は、そう判断した。

 

 他にも幾つか回りたい場所はあるが、行くには些か遠く、この身体では道中で力尽きる可能性がある。なので、そちらは後回しに決め、一度神社に引き返すことにした……と、不意に、視界の端で何かが過った。

 

 ――何かしら?

 

 そう、霊夢が思った瞬間。ふわりと、黒い影が目の前を過る。妖怪だと思った瞬間、閃光が視界を染める。直後、あっ、と思った時にはもう眼前には逆さの顔が止まっていて……肩の力を抜いた霊夢は、そこで初めて目の前の妖怪の名を呼んだ。

 

「文……頼むから、調子の悪い時に脅かすのは止めて貰える? あんたら天狗は何時から脅かすのが仕事になったのよ」

「おや、忘れましたか? 脅し脅され脅かし合うのも妖怪の本分。相手が霊夢となれば、やる気も十分ですよ」

 

 逆さ顔の正体は、女鴉天狗の射命丸文(しゃめいまる・あや)であった。鴉の翼を生やした彼女は悪びれた様子もなく、ぐるりと反転して手に持ったカメラを構えると、霊夢と目線を合わせて止まった。

 

「職務復帰、おめでとうござ――っだあぁ!?」

 

 外の世界においては敬礼と呼ばれるポーズを取りながら写真を撮ろうとする文の脳天に、札を一枚叩きつける。妖怪相手には、これに限る。思わず悶絶する文の手から素早くカメラを奪い取ると、かちかちと弄り始めた。

 

 カメラを触るのは初めてだが、こういうのは直感でどうとでもなる。「ちょ、あの、下手に触らないでください!」ようやく復帰した文が青ざめた顔で手を伸ばしてくるが、霊夢は背中でそれらを遮り……おや、と首を傾げた。

 

「撮った写真が見られないじゃない。これ、壊れているんじゃないの?」

「何を言っているんですか。フィルムなんですから、現像しないと駄目ですよ」

「え、でも前に早苗のやつが、今のカメラはその場で撮った写真を確認出来るって言っていたけど?」

「それは外のカメラの話ですよ! 私のカメラにはそのような機能はございません。写真が見たいのであれば、コレを渡しますからどうかカメラをお返しをば……!」

「あら、悪いわね。何だか気を使わせちゃったわ」

 

 何ら気にした様子もなくカメラを返す。巫女は、この程度では動じない。カメラに頬擦りして感涙する文を他所に、霊夢は渡された写真を一枚ずつ確認し……静かに、目を細めた。

 

 驚くべきことに、幾つかの写真には……例の少女が映っていた。

 

 ある時は森の中で、ある時は湖の畔で、ある時は人里の中で。どれも被写体の中心からは外れているが、それでもあの時見たDVDの少女と同じ姿をしている。

 

 狙ったが中心から外れたというよりは、偶発的に撮れたものと見て間違いないだろう。例の少女の視線は文へと向けられているものもあるが、大半は別の場所へと向けられていた。

 

(ピンと来たと思ったら……文のやつは気づいていないようね)

 

 ちらりと横目で見やれば、カメラを抱えて後ずさる文と目が合う。素敵な巫女を相手に何と失礼なと思いつつ、「ねえ、コレなんだけど……」霊夢は例の少女が映っている写真を文に見せた。恐る恐る写真に顔を近づけた文は、ああ、と頷いた。

 

「これはまあ良さそうなのを撮ったというだけなので、今のところ使う予定はありませんが……それが何か?」

「何かって、気付かないの?」

「……気付くって、何に? え、もしかして巫女的にはこれ、駄目なんですか!? そんな殺生な、やましい写真ではありませんでしょ!? どうか御目こぼしを……!」

「いや、気付かないのならそれでいいわよ……ていうか、あんたは私を何だと思っているのよ」

 

 先ほどカメラを借りた時以上に青ざめ、手を合わせて頭を下げる文の姿に霊夢は苦笑した。しかし、苦笑するその胸の内では……さとりが示した仮説が立証されてしまうことに、舌打ちを零していた。

 

 この期に及んで天狗たちが何か策略を巡らせている……なら、話は早い。だが、そうではないだろう。排他的な考えが根付いているけれども、文を含めて天狗たちは馬鹿ではない。

 

 少なくとも、この状況下でそれをすれば、八雲紫を……引いては、幻想郷の安定の為に協力している穏健派の全てを敵に回しかねない。そんな愚策を取るような者たちなら、一大勢力になんぞはなってはいない。

 

 やはり、例の少女……いや、止めよう。岩倉玲音は、やはり幻想郷の何処かにいる。そして、何かしらの認識障害を引き起こし、紫たちの捜査網を掻い潜っているようだ。

 

(……これは、骨が折れそうだわ)

 

 紫たちの捜査網と目がザルと節穴に変えられている以上は、現時点で岩倉玲音を認識出来るのは霊夢のみ。加えて、頼みの綱でもある『勘』が不調のせいで、何時ものように事が運ばない。

 

 つまり……この広い幻想郷の何処かにいて、常に逃げ回っている相手を、勘無しで直接捕まえなければならない……というわけだ。しかも、病み上がり……霊夢でなくともため息に一つは零すであろう現状に、当の霊夢は耐え切れずにため息を零し――っ!

 

 ――その時、大気が震えた。

 

 ハッと、霊夢の目が見開かれる。音はなく、風もない。だが、確かに霊夢は捉えていた。幻想郷を流れる何かが変わり、世界そのものが、ガタン、と震えたのを。

 

「――霊夢さん!」

「付いて来なさい!」

 

 それは、文も気付いていた。霊夢と同じように緊迫した面持ちとなった文は、震源地へと先に飛び出した霊夢の後を追いかける。鴉天狗特有の黒い翼をはためかせた文の身体は瞬く間に加速を続け、霊夢の背後へと瞬時に追い付き……その身体を抱き締めた。

 

「――って、あんた何を!?」

「辛い時は辛いと素直に頼むものですよ」

 

 そう言い終えるや否や、文の身体が加速する。抱き締められた霊夢は抵抗することも出来ないまま、魔法の森の外れの外れ……すなわち、幻想郷の端へと連れて行かれるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、到着した霊夢たちを待ち受けていたのは、悪臭と呼んで差し支えない酷い異臭と、幻想郷には似つかわしくない、一面の黒。すなわち、外の世界ではアスファルトと呼ばれる物質で覆われた、黒い大地であった。

 

 魔法の森とは、幻想郷の端にて広がる森のことを差す。生えている木々そのものは外の世界とそう変わらないが、森の中に栄えている茸が魔法使いの魔力を高める作用があるとかで、何時しかそう呼ばれるようになった場所だ。

 

 元々人里から離れているのもあって、本来、そこに人工物(住人は、いる)はない。霊夢と文の記憶にも、そこには鬱蒼と生い茂る木々が広がるばかりで、特に目立つものはなかった……はずだ。

 

 しかし、今。霊夢たちの前には、幻想郷では見られない人工物がある。機械、鋼鉄、金属……そういった方面には疎い霊夢にはそれが何なのかは分からなかったが、それらは信号機や車やガードレールといった、外の世界においては有り触れた文明の一つであった。

 

「あやや~……いやあ、これは凄いですね。かれこれ千年近く長生きしましたが、こんなのは初めてですよ」

 

 上空からそこを見下ろした文は、思わず感嘆のため息を零した。何故なら、広がる人工物の規模が大き過ぎるのだ。

 

 幻想郷では、時折ではあるが、外の世界にて忘れ去られた物が流れ着く。そのほとんどが無縁塚(むえんづか)と呼ばれる場所に向かうのだが、時にそこ以外の場所にも流れ着くことがある。

 

 しかし、それらは総じて、小さいものばかりだ。大きいやつでも、せいぜいが洗濯機やブラウン管テレビといった程度のもの。これほど大規模な流入は霊夢だけでなく、千年生きた文にとっても初めてのことである。

 

 パッと見た限りでも、地平線の彼方……までは言い過ぎだが、人工物の範囲は人里を覆い隠す程に広い。そのうえ、奥の(つまり、結界の端)の空は黒煙か何かが漂っていて、途中から先を空から伺うことが出来ない。

 

 まるで、外の世界の一部がそのまま流れ着いたかのよう。実際、驚いているのは二人だけではない。異変に気付いた多種多様な妖怪が見物がてら、ぞろぞろと集まって来ては歓声をあげているのが二人の目に止まった。

 

「……文、私をあそこに下ろしなさい」

「あやや、いいんですか? 私が言うのもなんですけど、けっこう臭いですよ、あそこ」

 

 臭い、その正体は排気ガスと呼ばれるものである。けれども、この幻想郷においてその臭いを嗅ぐことは稀だ。文もそうだが、霊夢が分からないのも仕方ない話である。

 

「構わないから、下ろしてちょうだい」

 

 あいあいさー。言われるがまま、文は霊夢を抱き締めたまま高度を下げる。数メートルの地点で腕から離れてアスファルトに降り立った霊夢は、傍にあるボロボロのバイクに、そっと手を当てた。

 

 何をしているのかと言えば、物に宿る魂を見ているのだ。

 

 これによって、霊夢は一見捨て置かれる物から様々な情報を得ることが出来る。面倒なので普段は頼まれてもやらないが、こういう目撃者がいないような場合においては非常に有用な手段の一つであった……のだが。

 

(駄目ね、中身が空っぽだわ)

 

 残念ながら、バイクからは何も感じ取れなかった。まあ、仕方がない。物に魂が宿るというのは、一朝一夕で起こる話ではない。なので、霊夢は周辺の人工物からではなく、結界の様子から情報を集めることにする。

 

 体内に渦巻く霊気を手に集中し、手を空へとかざす。パシャパシャとシャッターを切る文の姿が視界の端に止まり、巫女の登場に妖怪たちの一部がざわめいていたが……構わず、霊夢は作業を始める。

 

(結界は……損傷はほとんどない。でも、少し揺らぎがあるわね。揺らぎに乗じて紛れ込んだ……にしては、規模が大きい……結界が破損していないのは不幸中の幸いだわ)

 

 天変地異の前触れ……にしては、これまでと違う。そう思った霊夢は、人工物が立ち並ぶその先へと歩を進める。気づいた文が慌てて追いかけてきたことに気付いてはいたが、霊夢はそのまま先へと進む。

 

 ……幻想郷における天変地異は外の世界とは幾つか共通する部分があると同時に、異なっている部分もある。また、その対処法も外の世界とは少し違う。

 

 例えば、地震。基本的なメカニズムは外の世界と同じだが、違うのは地震が起こる前に、地震が起こることを100%の精度を持って人々に伝えに来る妖怪がいること。そして、地震の力を抑え込むことが可能であるということ。

 

 例えば、大雨などの水害もある程度はコントロールすることが可能となっている。これは雨を安全な場所に逃がすのではなく、雨そのものをある程度他所に外すというもの。

 

 他にも共通していたりしていなかったりするものが幾つかあるが、その中でも幻想郷特有の天変地異が一つある。それは、内と外とを隔てる博麗大結界に関する異常だ。

 

 紫を始めとする妖怪の賢者たちが文字通り死力を尽くし、初代博麗の巫女がもたらした起死回生の一手によって完成させた、博麗大結界。その結界は非常に強固であるが、絶対不変というわけではない。

 

 時に、結界そのものが不安定になることもあり、それによって内と外との境目があやふやになることがある。霊夢が疑ったのは、その点についてであった……と。

 

「――来ていたか、霊夢」

 

 修発地点から、かれこれ1km程を歩いた辺りだろうか。バイクやら車やらの人工物に溢れた道を歩いていた霊夢の前に、古代道教の法師を彷彿とされる格好をした女性が、ぬるりと姿を見せた。

 

 女性の名は、八雲藍。紫の式神にして、その正体は九尾の狐である。霊夢とも顔馴染みの間柄である彼女は小走りに駆け寄る……そして、霊夢の顔を見て、やれやれとため息を吐いた。

 

「最低限は教えるから、今日はもう休め。紫様も、夜には戻られるだろう」

「何だ、既に紫も動いているのね……っていうか、あんたまで心配性にならなくてもいいじゃない」

「馬鹿者。そうも血の気の引いた顔を見せられるこちらの身にもなれ。人間は本当に脆くてか弱いから堪らぬ」

 

 そう言うと、藍は懐より竹筒を取り出すと、それを霊夢に差し出した。受け取った霊夢はお礼を述べてから竹筒を傾け……喉を鳴らして、一気に全部を飲み干した。

 

(……ああ、駄目だ。やっぱり、けっこうキツイ)

 

 水分が補給されたことで、気が抜けたのか。一息ついた途端、くらりと霊夢の視界が揺らいだ。けれども、倒れない。その前に、霊夢の身体を藍が支えたからであった。

 

 ――ほれ見た事か。

 

 そう言わんばかりに目を細めて呆れる藍に思うところはあるが、霊夢は言い返さなかった。実際、自覚以上に消耗していることに気付かなかった己の落ち度であると、霊夢は思ったからだった。

 

「……それで?」

「ふむ、現時点ではまだ何も分からんというのが正直な所だな。しかし、結界の一部が非常に薄くなっているところが見つかったから、おそらくは霊夢……お前が負傷したことで緩んでしまったのだろう」

「あら、私のせい?」

「ああ、そうだな、お前のせいだ。それを自覚したのなら、神社に戻ってとっとと休め――ああ、それと、そこの天狗」

 

 辺りを撮影しまくっていた文が、ビクッと肩を震わせた。「な、何でございましょうか!?」カメラを後ろ手に隠しながら後ずさる文に、どいつもこいつもと藍は深々とため息を零した。

 

「天魔殿より伝言を預かっている。14時に幹部を含めた緊急会議を行うので、気付いたらすぐ戻るようにとのことだ」

「じゅうよ――っ!?」

 

 瞬間、文は慌てた様子で腕に巻いた時計を見やった。直後、文の顔色が一気に白くなった。青ではなく、白色。生き物の顔色ってここまで見事に変色するのねと霊夢が眺めていると、我に返った文はその場から跳んだ。

 

 轟音……そして、必死の形相。黒い翼を背中より出した文は、弾丸が如き速さで空へと飛び立つと、再び弾丸となって飛び去って行った。行き先は……まあ、いいか。

 

「じゃあ、もう行くから」

「送ってやろうか?」

「あいにく、そこまで鈍ってはいないわよ」

「そうか、それならいい」

 

 詳細が分かったら連絡するという藍の言葉を受けて、霊夢はその場より離れる。途中、振り返ってみれば、もうそこに藍はいなかった。おそらく、紫の下へ向かったのだろう。

 

 ああ……腹立たしい。

 

 ままならない己の身体に苛立ちを覚えながら、霊夢は歩く。薄汚れた信号機、所々ひび割れたアスファルト、コンクリートの建物、錆びだらけの外灯。見慣れない物ばかりの中を、進んでゆく。

 

 空を飛ばないのは、せめてもの反抗ではあるが……それ以上に、興味が引かれたからだ。どう見ても廃棄された物ばかりだが、目に映る全てが見慣れない物ばかりだからか、古ぼけたそれらを眺めているだけでも十分に楽しめた。

 

 ……外では、こういうのが普通なのだろうか。

 

 ふと、霊夢は思う。さすがにココにあるものよりも真新しいものばかりだろうが、少し気になる。物心ついたその時から幻想郷(ここ)で育った霊夢にとって、眼前に広がるそれらはまるで、何時かの時代の黒船同然であった。

 

「……ん?」

 

 とぼとぼと来た道を戻っていると、不意に視界の端で何かが過った。それを認識すると同時に、両手に退魔針(対妖怪武器、当たると超痛い)を瞬時に構えた霊夢は、素早く身を翻して物陰に隠れた。

 

 周囲全てが外より流れ着いたものばかりだから、だろうか。妖怪の気配はするが、上手く位置が掴めない。おそらく向こうも同様だろうが、有利なのは向こう。やるなら、一撃で仕留めなければ。

 

 そう考えた霊夢は、周囲の気配に注意しながらも、先ほど視界を過った相手を探す。向こうにその気がないのであればそれで良いが、仮にこちらを狙って来ているのだとしたら……仕方がない。

 

 廃墟の仲を通り過ぎ、電柱の陰と車の陰を屈んで進む。そして、割れたガラスが残る建物の陰から気づかれないように、ゆっくりと確認した霊夢は……おや、と目を瞬かせた。

 

 何故かといえば、霊夢の視線の先。錆びだらけの車の陰から小走りで姿を見せたのが、この辺りでは見掛けない妖怪の少女。すなわち、地底の妖怪であったからだ。

 

 しかも、ただの地底妖怪ではない。衣服の隙間から伸びる管に繋がれている、瞼が閉じられた目玉は覚り妖怪の証。緑と灰とが混ざり合う髪の色が鮮やかなその少女の名を、霊夢は記憶していた。

 

 たしか、古明地……そう、古明地こいし。

 

 あの古明地さとりの妹で、心を読む能力を捨てる代わりに『無意識を操る程度の能力』を得た妖怪だ。その能力ゆえに無意識に行動してしまい、幻想郷のあちこちを放浪している妖怪……な、はずだ。

 

 そんな彼女が、どうしてここにいるのだろうか?

 

 疑問を抱いた霊夢であったが、まあ推測は付く。どうせ、無意識のままにフラフラと歩き回っていたら、ここに来てしまったのだろう。そう結論を出した霊夢は、「ちょっと、そこのアンタ!」陰から出ると同時にこいしを呼んだ。

 

 振り返ったこいしの目が、霊夢を捉える。途端、緑色の目が大きく見開かれた。ぽかん、と大口を開けるその様は、遠目からでも驚いているのが丸わかりであった。

 

 他者の無意識を無意識のままに操ってしまうことで、他者から認識されなくなる。だから、彼女のことを認識すること事態が難しく、接触するとなると稀だ。

 

 だからこそ、自らを見つけたことに驚いたのだろう。その特性を知っている霊夢は特に驚くことなく駆け寄ると、「あんた、さとりの妹の古明地こいしでしょ」その名を呼んだ。

 

「ここは結界の境が曖昧になって危険よ。用が有ろうと無かろうと、すぐにこの場を離れな――」

「お願い、助けて!」

「――さ……はあ?」

 

 が、このような反応は想定外であった。突然の救援要請に面食らう霊夢を他所に、こいしは目尻に涙を溜めたまま、霊夢の手を取って縋った。

 

「お姉ちゃんを助けて! お願い、何でもするからお姉ちゃんを助けて!」

「ちょ――ちょっと待ちなさい。え、お姉ちゃんって、さとりのことよね?」

 

 ぐらんぐらんと身体を揺さぶらるのを、何とか止める。見た目が少女であるとはいえ、中身は立派な妖怪だ。成人男性並みの力はあるようで、消耗した身体には堪える。

 

 なので、何とか宥めようとするのだが、中々こいしは落ち着いてくれない。何を尋ねても二言にはお姉ちゃんを助けてと繰り返すばかりで、一向に話が進まない。

 

 自他共に温厚で素敵な巫女だと思われていると思っている霊夢も、これには少々苛立った。故に、徐々にこいしに対する話し方もぞんざいなものとなるのも霊夢的には致し方ないことであった。

 

「あのねえ、さっきからお姉ちゃんを助けてってさあ。私の知る限り、さとりの周りには頼りになるやつらがチラホラいるでしょ。特に、鬼の勇儀が睨みを利かせているじゃないの」

「駄目なの! 勇儀さんじゃあ駄目なの! 霊夢、あなたじゃないと駄目なの! お願い霊夢、お姉ちゃんを助けて!」

 

 けれども、その苛立ちも。

 

「お姉ちゃん、怯えているの! レインが来る、レインが見ているって、ずっと怯えているの!」

「――ちょい待ち。その話、ここでは止めなさい。とにかく、私もそろそろ体力の限界だから。一旦、神社に戻ってからにしましょう」

 

 こいしの口から飛び出た、玲音(レイン)という単語に、全て吹き飛んだのであった。

 

 

 

 

 



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夏の章:その1

地震で食器がぶち割れるやら、台風で停電して蒸し暑さに耐えしのぐやら、今年はほんま厄日やで……うちの近所、屋根がブルーシートになっているところ多すぎて、もう物珍しさすらなくなってしまったよ



だからさ、これを読む奇特な方は、lainを見てlainを好きになってlainの二次創作を書こう(提案)。大丈夫、見れば見るほどlainの世界に引き込まれていくから、気づけばかけるようになっているさ




うちも、やったんだからさ


 

 ――幻想郷の8月半ば。前に雨が降ってから、晴天続きが6日続いた。そして、昨日と同じく晴天が広がる7日目の今日の暑さは例年よりも酷く、夏に強い人や妖怪が嫌気を覚えるほどであった。

 

 

 

 

 

 外の世界と違い、幻想郷内にはコンクリートやアスファルトというものがほぼ無い。それ故に外の世界より幾らかマシではあるものの、それでも猛暑と断言される暑さであった。

 

 その結果、人里内における人間の往来数は激減した。ちょいとぶらり出歩く……といった行為は控え、必要でなければ屋内に引っ込んでいるようになっていた。

 

 だからなのか、獣同然(あるいは、獣以下)の知性である木端妖怪も、しばらく前まで軒並み姿を見かけなくなっていた。

 

 結果、異変なのではないかという疑問の声と、妖怪が減ったぞと喜ぶ声の二つが上がった。住人の何人かが慢心して外に出て命を落とす事件が起こったことで妖怪排除を声高に謳う者がちらほら姿を見せたが、その声はすぐに鎮静化することとなった。

 

 何故かと言えば、原因の調査を進めた結果が、あんまりな結果であったからだ。有り体にいえば、妖怪たちとて暑いのは勘弁してほしい、ただそれだけであった。

 

 腹は減っていても、照りつける日差しが気力を削ぐ。獲物が掛かるのを今か今かと待ち続けるよりも、大人しく夏が過ぎ去ってくれるのを待つことを選んだ結果、姿を見せなくなったというだけなのが分かったからだ。

 

 ぶっちゃけてしまえば、不用意に外に出る人間が悪いのだ。幻想郷はあくまで忘れ去られた幻想に溢れる世界であって、人間の為の世界ではない。人里という安全が極力確立された場所から自分の意思で出た以上は、人間側の落ち度という他なかった。

 

 

 

 ……悲しいかな、それが幻想郷のルールである。

 

 

 

 しかし、襲われたのが人里の中……あるいは、人里の上空や、すぐ傍であったなら話は別だ。範囲は明確になっていないが、里を囲う外壁からさらに外へ、直線距離にして数十メートル。その範囲にて妖怪が人を襲った場合……秩序の天秤である博麗の巫女が動く。

 

 幻想郷は人間の為の世界ではないが、同時に、妖怪の為の世界でもない。忘れ去られる幻想を守らんが為に、八雲紫を始めとした妖怪の賢者たちと、初代博麗の巫女とが力を合わせて作り上げ、生まれた世界である。

 

 故に、人間が狩られることもあれば、妖怪が狩られる場合もある。それは霊夢が生まれるはるか前から続く決まり事であり、おそらくは今後も続いてゆくであろう決まり事でもある。仕方ない、それが幻想郷なのである。

 

 

 

 ――だからこそ、霊夢は決まり事を守る。先代より続く決まり事を途絶えることなく、彼女は今日も守り通していた。

 

 

 

 

 

 

 みんみん、と。喧しく鳴り響く蝉の声が幻想郷全てを震わせている、その最中。それらを跳ね除けるかのようにして奇声をあげる妖怪が、人里の傍にて暴れ回っていた。

 

 妖怪は、熊を思わせる身体をしていた。顔は皺だらけの老人であるという点とを除けば、正しく熊だ。2メートルを容易く超える巨体から繰り出される手足の爪は大きく、強い。

 

 大きさは、一つの武器だ。例え当人にその気がなくとも、その威力は跳ね上がる。巨大なハンマーで殴りつけたかのように傷つく木々を見せつけるかのようにして……その妖怪は、眼前にて佇む霊夢を睨みつけた。

 

 ……それが、無駄な行為だと妖怪は気付いていなかった。

 

 常人なら……いや、鍛え抜かれた者であっても思わずたじろぐ程の眼光。それを真正面から受けた霊夢の方は……平坦であった。怒りもせず、怖がりもせず、殺意もない。

 

 ただ、川を流れる落ち葉の中でひと際大きな落ち葉を見つけた程度の、淡い眼差し。己の倍近い巨体を前にして、霊夢はどこまでも自然体で、どこまでも暢気であった。

 

 片や、憤怒を露わにし。片や、平静を滲ませて。

 

 対照的な二人が、そうして見つめ合う事、早5分。ふうふうと鼻息荒く興奮を維持している妖怪が……動くよりも前に、霊夢が前に出た。

 

 その足は、まるで散歩に出かけるかのような気軽さであった。あまりに突然で、あまりにあっさりと行われた霊夢の初動に、妖怪は思わずその場から一歩飛び退き……次いで、屈辱にさらに鼻息を荒くした。

 

 ――ぶおぉああああ!!

 

 妖怪が、吼えた。その怒声は、周囲の蝉の声をかき消す程のものであった。妖怪にとって、それは武器であった。この怒声によって、これまで幾度となく獲物の足を竦ませ、胃袋を満たす手助けとなった。だから、今回もそうなると確信していた。

 

 だが、霊夢は止まらなかった。煩いなあ、といった様子で眉根をしかめながらも、その足取りは軽やかで。全く効いていないという現実を前に、妖怪は……牙を剥き出しにして、霊夢へと飛んだ。

 

 ――妖怪には、名が無かった。

 

 いや、もしかしたら、知らないだけで、本当は有るのかもしれない。しかし、暴れ回る妖怪の頭には、既に理性はなかった。暑さと空腹とが重なって正気を失ったことに加え、強大な霊力を放つ霊夢の出現でパニックを起こしたからだ。

 

 でなければ、この妖怪は戦おうなどとはしなかっただろう。

 

 逃げ切れる可能性はほぼ0だが、戦えば確実に殺される。それを理解するだけの知性が妖怪にはあった。だが、混乱しきっていた頭は、逃げの一手よりも妖怪としての矜持を優先してしまった。

 

 ――それが、己の死を確約する分帰路であることに、妖怪は最後まで気付けなかった。

 

 妖怪が繰り出したのは、毛むくじゃらの太い腕。その先端には鋭く弧を描く白い爪が伸びている。人間の……それも、肌の柔らかい年頃の女子の肌なんぞ、豆腐を砕くかのようにあっさりと引き裂かれる……と、妖怪は考えていた。

 

 けれども、そうはならなかった。迫り来る妖怪を前に、霊夢が取った手段は一つ。それは、掌に浮かべた膨大な霊力を、吐息で持って吹き打つ……ただ、それだけ。

 

 しかし、それだけで十分であった。

 

 ふっ、と吹かれた吐息に混じる霊力は、さしずめ不可視のショットガン。その破壊力は妖怪の巨体を空中に押し留めるばかりか、そのまま反対方向へと飛ばし……木々にぶち当てるほどであった。

 

 妖怪の胸元……いや、身体中に開けられた風穴から噴き出す鮮血。己の死を理解することもなく、悲鳴一つ上げる間もなく絶命した妖怪を一瞥した霊夢は……やれやれと頭を掻くと、「――で、何時まで覗き見してんの?」鬱陶しげに振り返った。

 

 途端、ぱしゃりと閃光が霊夢の視界を覆う。ある程度予測はしていたが、鬱陶しいのは事実。不機嫌そうに(実際、不機嫌である)顔をしかめる霊夢を他所に、「博麗の巫女、大復活といったところですな」ふわりと地面に降り立った文は、満面の笑みで霊夢にカメラを向けた。

 

「一時は死にかけの老人みたいになっていましたが、もうすっかり全快したようですな。いやあ、何というか、感慨深いものを感じますなあ」

「全快という程でもないわよ。まだ本調子ってわけじゃないし、どうもしっくりこないもの」

「またまた御謙遜を。立ち昇る霊力が以前と同じ……いえ、以前よりも幾らか増していますよ。それで本調子じゃないって、恐ろしいことを言わないでくださいな」

 

 文の言うことは御世辞ではない。霊夢自身はそこまで実感出来ていなかったが、霊夢の身体より放たれている霊力は負傷する前よりも確かに強大になっていた。それは文のみならず、霊夢を知る妖怪のほとんどが初見で気付くほどの変化であった。

 

 原因は全くの不明である。月のモノやその日の体調によって多少なりとも霊力に変化が生じる(要は、調子の良し悪し)が、それを考慮しても変動が大きく、急激過ぎた。

 

 只でさえ化け物染みた霊力だったのに、そこからさらに上がると暗に言われれば、文でなくとも止めてくれと零すのは……まあ、妖怪としては当然の話であった。

 

「お世辞はいいから、息を吐くように盗撮するのは止めなさい」

「おや、これは心外。治って良かったと思っているのは本当ですよ」

「あらそう、ありがとう。それで、盗撮は何時になったら止めるのかしら?」

「盗み撮るから盗撮なのです。堂々と正面から撮れば、それはもう盗撮ではありませんよ」

「そういうのをね、世間では屁理屈っていうのよ」

 

 霊夢の腕を掻い潜りながら、ぱしゃぱしゃとフラッシュが焚かれる。ふざけた態度だが、幻想郷最速と称される天狗の中でも、文は一目置かれた俊足だ。マジギレした霊夢相手ならともかく、本気で捕まえる気のない霊夢から逃れるのは朝飯前であった。

 

 実際、霊夢には文を捕まえる気は全くなかった。というのも、霊夢は初めから、後方で文が盗撮しているのが分かっていたからで。文も、霊夢が撮影を了承(暗黙、ともいう)しているのを察したからこそ、こうして逃げも隠れもせず前に出てきたのであった……と。

 

 

 ――っ、れ…む。

 

 

 鳴り響く蝉の声の合間に紛れる、呼び声。聞き覚えのあるその声に霊夢もそうだが、文も足を止めて顔を上げる。そうして頭上へと向けられた二人の視線が捉えたのは、箒に乗って上空よりまっすぐ向かって来る……魔理沙であった。

 

 風を切って飛ぶという言葉が実に似合う速度で、地上へと接着する。舞い上がる砂埃を飛び退いて避ける二人を他所に、レーサー顔負けのドリフトを決めて地面に降り立った魔理沙は、「よお、そっちはどうだ?」軽やかな様子で手をあげた。

 

「どうもこうも、まるで油虫よ――で、そっちは?」

「とりあえず、里の出入り口周辺は追い払った。退魔士総出で簡易結界を張るらしいから、少しは楽になるそうだ」

「まあ、そうなるわね。さすがに、こうも絶え間なく来られると私の身も持たないわ」

 

 上げられた魔理沙の手に軽くタッチし返した霊夢は、「それにしても、いったい何なのよ……」軽くため息を零した。

 

「倒しても倒しても次から次へと出て来るし、どいつもこいつも暑さで頭をやられたのかってぐらいに後先を考えていないわね」

「頭がやられているんじゃねーの? まあ、妖怪が暑さで頭がやられるのかどうかは知らんけどな」

「そのまま茹ってくたばってくれたらいいのに、いちいち里に来るのは勘弁してほしいわよ。おかげでこっちは朝から晩まで働きっぱなしよ」

「普通は朝から晩まで働くもんだぞ。まあ、ぐうたら巫女なんてあだ名で呼ばれないように働いたらいいじゃんか」

「巫女は極力働かない方がいいのよ。素敵な巫女さんが素敵に暢気にぐうたらしている方が平和ってことなんだから」

「……一理ある。確かに、茹って勝手にくたばってくれた方が色々と楽だよな」

「でしょ? こんの糞暑いのにぎゃあぎゃあ喚かれて暴れ回るのをぶっ飛ばさなければならない気持ちを妖怪たちも察しなさいよ、全く」

 

 本当に、鬱陶しいと思っているのだろう。御世辞抜きで美少女の範疇に当たる霊夢と魔理沙が愚痴交じりに談笑する様は、まあ見ていてそこまで悪いものではなかった……のだが。

 

「……あのー、ここに清く正しい妖怪の鴉天狗がいるってこと、忘れていませんかね?」

 

 その横で、矛先が向かないように無言のままだった文にとっては別で。非常に居心地悪そうにしつつも、我慢ならんと言わんばかりに頬を引き攣らせていた。

 

 

 ……鴉天狗は、(妖怪における)種族的には上位に位置する。それ故に、大なり小なり気位が高く、自分たちを、暴れ回っている有象無象の雑魚共とは根底から異なる存在として見ている。それは、文とて例外ではない。

 

 

 だから、霊夢たちがいくらそいつらを馬鹿にしようが虚仮にしようが、どうでもいいというのが文(というより、天狗)の本音だ。

 

 しかし、こうまでぼろ糞に『妖怪』そのものに駄目出しされれば、文とて、さすがに一言口を挟みたくなるのも仕方ないことであった。

 

「うっさい。そもそも、暴れている妖怪の大半はあんたらの『お山(妖怪の山)』から来ていること……分かってんの?」

「うっ……そ、それは、私共も中々な頭痛の種と言いますか、痛い所をあまり突かんでくださいな」

 

 けれども、文からすれば当然の抗議は、霊夢たち人間からすれば『ふざけた事を抜かすな』という他なかった。

 

 何故なら、実質的に『お山』を独占しているのが、文を含めた天狗たちだからだ。もちろん、幻想郷内における重要な食料資源地でもある山そのものを私物化してはいないが、それに近い状態となっている。

 

 何故そうなっているかといえば、霊夢を含めた有力者たちより黙認されているからで。それが許されている理由は、ただ一つ。

 

 戦力的な意味で幻想郷内における最大勢力が天狗たちであるから……ではなくて、管理権を得る代わりに山に住まう妖怪たちをコントロールするということで、他の勢力たちから了解を得ているからだ。

 

 ……言うなれば、だ。幾らか懐に入れてもいいから、知性も理性も希薄で本能のままに動く木端妖怪をしっかり見張っておけよ、ということで。それを行う代わりに、天狗たちは山の独占が許されているのであった……のだが。

 

 

 ――ちょいちょい、と。

 

 

 唐突に辺りを見回した霊夢が、文へと手招きした。首を傾げつつも歩み寄れば、霊夢の腕がグイッと文の肩に回され、互いの頬が引っ付いた。「……汗臭いのですが」少しばかり嫌そうに眉をしかめる文ごと、霊夢は頭を下げると。

 

 “……一部のやつらから、お山の管理権を一部剥奪すべきという意見が出てんのよ”

 

 そう、文へと囁いたのであった。その瞬間、ほんの……瞬きしていただけで見逃してしまう程の僅かな一瞬。不自然に揺れ動いた文の瞳が、次の瞬間にはもう、自然に揺れ動いた。

 

 “今の所は天狗に任せた方が良いと大半が考えているけど、こうも不手際が続くと日和見しているやつがそっちに流れるわよ”

 “……ご忠告、感謝致します。ですが、私共もただ静観しているわけではありません。そこらへんは、どうかご理解いただきたく……”

 “分かっているわよ、そんなこと。私も紫も、山の管理については天狗以上の適任はいないと思っているから”

 

 

 ――おかげで、こっちは毎日汗だくよ。

 

 

 その言葉と共に、霊夢は文を放した。何事も無かったかのように張り付いた汗を拭う文を他所に、ちらりと魔理沙を見やれば……「……あ、終わり?」気怠そうに両耳から手を離しているところだった。

 

 察しが良くて助かるわ……そう思ってため息を吐く霊夢を見て、「……博麗の巫女ってのも、色々と大変なんだな」魔理沙も困ったように苦笑を零した。二人の頬や首筋には大粒の汗が伝っており、傍目にも暑そうにしているのが見て取れた

 

 

 ――実際、大変である。

 

 

 というのも、二人が汗だくになっているのは、何も暑いからだけではない。いや、暑いのも理由の一つだが、何より二人がこうも愚痴を零す理由は今しがた霊夢が零したように……ここしばらくに渡って里を襲う妖怪が一気に急増したからであった。

 

 襲ってくる妖怪の数が減ったのではないかという疑問に思う者はいるだろう。だが、嘘ではない。事実、襲撃してくる妖怪の数は減っていたのだ……しばらく前までは。

 

 前触れもなく、突然だ。まるで張り詰めた風船が破裂したかのように、それまで姿を消していた妖怪たちが一気に姿を見せ始め、里を囲う壁を乗り越えて侵入してきたのだ。

 

 原因は、分からない。何故なら、侵入者たちの正体は、魑魅魍魎を始めとした知性なき妖怪でしかなくて。問い質そうにも、会話すら出来ない相手しかいなかったからだ。

 

 ……里に妖怪が襲撃すること自体は、特に珍しい(危険ではあるものの)というわけではない。妖怪が人間を襲うのはある種の本能でしかないし、そもそも襲ってくるのは犬や猫ぐらいの小さい個体ばかり。里の中にいる退魔士でも、十分に対応出来ていた。

 

 

 だが、その見通しはすぐに見直された。何故ならば、襲撃してくる妖怪の周期と数が、あまりに異常であった。

 

 

 初日だけで、その数なんと27体。これまで、里に入り込む魑魅魍魎は数日に一度という頻度であり、霊夢が出動するレベルの妖怪なんて、数か月に一度有るか無いかの頻度であった。

 

 それが数日前から、一日に70体近い妖怪が押し寄せて来ている。加えて、日が経つに連れて、どんどんと強い妖怪が姿を見せるようになってきた。

 

 今では身体も人間より大きい個体が珍しくなくなった。これまでは退魔士でもない里人でも倒せるぐらいのものだったのが、気付けば、里の退魔士でも手に余るレベルが続々と里を襲撃するようになったのである。

 

 

 今しがた霊夢に倒されたような妖怪も、そうだ。

 

 

 会話をする知性こそもたないものの、その力は雑魚妖怪の中では抜きん出ていた。霊夢だからこそあっさり終わったからであって、並の退魔士であれば数人掛りの大仕事になっていただろう相手だ。

 

 おかげで、リハビリを兼ねて軽い気持ちで助力を買って出た霊夢は、その時から大忙しである。いや、忙しいのは霊夢ばかりではない。人里では暮らしておらず、退魔士でもない魔理沙が里の防衛に当たっているのが、その証左だ。

 

 里には今、魔理沙を始めとして『力』を持つ人間に対して友好的な実力者が集結しており、24時間体制で里の防衛に当たっている。幻想郷史において数える程度にしか起こっていない戦力の集結によって、今のところは里の平和は保たれている……というのが里の現状であった。

 

「――しかし、文の擁護をするわけじゃないけど、さすがにこの数は異常だな。いくら何でも数が多過ぎるし、一向に勢いが衰える様子も見られないし……そこんとこ、博麗の巫女としてはどうなんだ?」

「異変ではあるけど、これ自体は異変じゃない。私の『勘』では、そんな感じよ……ていうか、前にも言ったでしょ」

「前にも聞いたけど、それってどういう意味なんだ? とんちは嫌いじゃないけど、好きでもないぜ。爺婆の説教の次ぐらいには御免だな」

 

 ぱたぱたと尖がり帽子で己を扇ぐ魔理沙に、「とんちじゃないわよ。そうね、分かり易く何て言ったらいいかしら……?」霊夢はしばし視線をさ迷わせていた……のだが。

 

「……やっべぇ、爺婆で思い出した」

 

 霊夢が口を開く前に、魔理沙の顔色が変わった。何だ何だと魔理沙を見やる霊夢と文を他所に、魔理沙は少しばかり罰が悪そうな顔で……実はさ、とポツリと呟いた。

 

「『長老会議』を開くから霊夢を連れて来いって『長老会』から呼び出しされているのを……すっかり忘れてた」

 

 ……少しばかりの沈黙の後。霊夢は暑い日差しの中、空へと舞い上がって里へと向かうのであった。飛び立ったその場所にて、手を振って見送る魔理沙と文を後にして。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………外の世界とは違って、コミュニティが本当の意味で隔離されている人里には、老若男女を問わず一目置かれていたり畏怖されていたりする人物や事柄がある。

 

 それは大体にしてどこそこの家系であったり、どこそこの権利を所有していたりといった即物的な理由なのだが、その中でも特に重さが異なるのが、一つある。

 

 

 それが、『長老会』と呼ばれている存在だ。

 

 

 長老会とはその名の通り、人里における重鎮的存在のみで構成された会のことで、この者たちが『稗田の屋敷』に集まって会議を開くことを、人里においては『長老会議』と言われている。

 

 その顔ぶれは、紫たちが以前開いた緊急会議(博麗の巫女が負傷した際のこと)とは違い、物理的な実力においてははるかに劣っている者が多い。それは謙遜ではなく、事実である。

 

 その証拠に、集まっている者の大半は老人だ。魔力も霊力も持たない、皺が目立つ普通の老人だ。中には年若い者も幾人か混じっているが、誰も彼もが吹けば飛ぶような者たちばかりである。

 

 しかし、この場においての『力』とは、腕力ではない。この老人たちが持つ力とは、すなわち人里内における発言力(権力)であり、この内の一人ひとりが数百人、数千人の生活を動かしているといっても過言ではないのであった。

 

「……遅いですな」

 

 その、一般人が入れば縮こまって肩身を狭くするばかりであろう空気の中で。集まった重鎮たちの数は二十にも達していたが、それでもなお余るぐらいに広い和室の中で……最初に沈黙を破ったのは、そんな発言からであった。

 

 発言をしたのは、集まっている顔ぶれの中でも比較的年若い部類にはいる老人であった。傍目にも不機嫌になっているのが丸わかりのその老人は、咥えていた煙管の灰を苛立ち気味に叩き捨てると、睨みつけるように天井を見上げた。

 

「15にも満たぬ生娘だとしても、博麗の巫女。実力は一流の本物なれど、不遜な態度も一流か……やれやれ、博麗の巫女は何時から天狗になったのやら分かりませんな」

 

 はっきりとした、侮蔑。何とも、場の空気を悪くするやつだ。これが公共の場所であったなら、さぞ白い眼……あるいは遠巻きにされて、厄介者扱いされるところだろう。事実、この場にいた年若い者たちの内の一人は苦い顔をした……が、しかし。

 

「ははは、そうだそうだ。天狗よりも早く飛び回り、天狗の頭を足蹴にするような娘ですからな。そりゃあ、天狗とて御免被ると頭を抱えて逃げ回るというものですよ」

 

 老人たちの中で、彼の発言を止める者はいなかった。この場にて苛立っているのは、何も彼だけではなかったのである。見れば、彼に釣られたのか、集まっている顔ぶれの幾人かが彼の発言に同調し、彼と同じように顔を顰めては、煙管片手にぷかぷかと紫煙を立ち昇らせていた。

 

 もちろん、そのような失礼をせずに黙って座している老人たちもいる。しかし、それはあくまで言葉に出していないというだけで、よくよく見れば深々と頷いてはため息を何度も零していて、態度自体があまり宜しくなかった。

 

 おかげで、場の空気は最悪一歩手前である。一人が呟けば、一人がそれに続けて愚痴を零す。二人が愚痴を零せば、三人が呟き始める。そうして気付けば、ごく一部の者を除いた誰も彼もが博麗の巫女に対する文句を零していた。

 

 ……幻想郷内において、博麗の巫女というものはある種の不可侵的存在である。気安く交友を続ける魔理沙たちが異常であり、一般の者はそうじゃない。それは老若男女を問わず、里の中を出歩けば誰も彼もが巫女様だと挨拶に来る程度には特別視されているからだ。

 

 しかし、この場に集まった老人たちにとっては違った。相手が博麗の巫女であるということなんて、関係がなかった。それは何故か……決まっている。この老人たちは、妖怪の恐怖というものを実感したことがないからである。

 

 生まれも育ちも隔絶されているが故に、里の重鎮という絶対的立場が故に、真っ先に安全を確保されるが故に、彼らは本当の意味で妖怪の恐ろしさを知らないのだ。人里内におけるバランスを考慮するが故に、大妖怪ですら(面倒臭がって)相手にしないからこそ、彼らは老人になってもまだ知らないのだ。

 

 

 博麗の巫女が相手にする『妖怪』という存在の、本当の恐ろしさを。

 

 

 だから、このような発言が出る。生活の一部として妖怪と関わる者ほど、妖怪に対しての恐れは消えない。幻想郷という地に生きる人間であれば、誰もが抱く妖怪に対する恐れが、老人たちにはないのだ。

 

 故に、彼らは博麗の巫女というものを自分たちよりも下に見る傾向にある。あからさまに口に出すことは少ないが、言葉の端々にそれが漏れ出ている。大妖怪たちからすれば失笑されるようなことを、平然と行う。

 

 それは、正しく滑稽であった。けれども、老人たちはそれに気づかない。次々に零される愚痴に比例して立ち昇る紫煙も相まって、物理的にも精神的にも場の空気は清浄とは言い難い有様となっていた。

 

 何とも、醜い光景だ。言葉に出して苛立ちを見せるか、態度に出して苛立ちを見せるか。どちらがマシかと言われれば甲乙付け難い選択肢ではあるが、見ていて気分が悪くなる類であるのは確かであった……そして、それは。

 

「――歳は取りたくないものですな」

 

 この場において、最も発言力を持つ人物。すなわち、里の実質的トップであり、この集会の為の場所を提供している稗田家の当主、『稗田阿求』を苛立たせ、怒りを誘うには十分な燃料でしかなくて。パン、と膝を叩けば、それだけで老人たちは一斉に口を噤んだ……黙らせるだけの力が稗田にはあった。

 

 ……稗田阿求の外見は、紫(むらさき)を思わせる淡い色合いの髪をおかっぱにしている、10歳に至るか至らないかの少女である。けれども、放つ雰囲気が常人のソレではなかった。

 

 それも当然だ。何故なら、稗田阿求という少女はただの人間ではない。その始まりは1200年も前に遡り、8代にも渡って転生を繰り返してきた歴史の生き字引……たかが百年も生きていない小童とは、胆力が違い過ぎるのだ。

 

 大き過ぎることもなければ小さすぎることもない、年相応の華奢な見た目とは裏腹の、不相応な気迫。里の頂点に君臨するということは、有象無象の妖怪共を相手に力及ばずとも心では一歩も退かないということ。

 

 幾ら老人たちが海千山千の古狸とはいえ、言ってしまえばそれは、同じ人間を相手にしかしたことがない。気紛れ一つで物理的に首を断つことが出来る相手と幾度となく相手取った阿求と比べれば、大樹と枯草にも等しい差がそこにはあった。

 

「己が誰のおかげでそうしていられるのか、誰の尽力によってその地位が守られているのか。歳を取ると、子供ですら分かっていることを忘れてしまう。何とも、空しいとは思いませんか……ねえ、慧音さん?」

「……さて、私も半分は妖怪の身。長らく人と寄り添って生きて来ましたが、まあ良くあることかと存じております」

 

 答えたのは、この場にいた数少ない若い者の内の一人である、慧音と呼ばれた女性である。

 

 彼女は自身が口にした通り、半分が妖怪の半妖である。その彼女がこの場にいる理由は、彼女が寺小屋紛いのことをしており、人々より多大の信頼を受け取っているから……これに尽きる。紅潮していた頬がすっかり元に戻った彼女は、仏頂面を隠そうともせず阿求をチラリと見やった。

 

「良くあること、ですか?」

「はい、言うなればこれは、人の業というもの。各々方が悪いのではありません。人である以上、こうなってしまうものなのです」

「なるほど、貴女がそう言うのであれば、そうなのでしょう。各々方、歳を取ると誰しもがそうなるようですので、恥じ入る必要はありませんよ」

 

 誰に言うでもなく、阿求はそう締め括って傍の盆に置かれた湯呑を手に取り、茶を啜った。愛らしい見た目とは違い、その所作はこの場にいる誰よりも様になっていた。

 

 だが、この場にいる老人の誰もが、それに目をくれることはせず、ただただ居心地悪そうに項垂れて、畳に視線を落としていた。言い替えそうにも、相手は稗田……己よりも圧倒的に格上を相手に彼らは沈黙することしか出来なかった……と、その時であった。

 

「――まだ始めていなかったの? いちいち私なんて待たずにさっさと始めれば良かったのに」

 

 些か雰囲気が悪くなっている室内へと広がる、鈴を鳴らしたような声。ガラリと障子を開けて顔を覗かせた霊夢の出現に、蠢きながらも淀んでいた醜悪な空気が、形を変えた。

 

 軽く汗を流してきたのだろう。スルリと室内に入って来た霊夢からは淡い湯の香りがして、身に纏っているのも何時もの巫女服ではなく、淡い桃色の着物であった。

 

 阿求より視線で促された霊夢は、黙って俯いたままの老人たちの姿に首を傾げつつも特に気にすることもなく老人たちの合間を進み……どっかりと、阿求の傍にて腰を下ろした。

 

「お似合いですよ。宜しければお貸し致しますが?」

「服が渇くまででいいわよ。というか、そんな事よりも本当にまだ始まっていないの? かれこれ半刻は経っているはずでしょ?」

「そうしてしまうと、あなたは会議が終わるまでここに来ませんでしょう? こうでもしないと、あなたは色々な理由を付けては帰ってしまいますから」

「……出ろというからには出るけど、こういう面倒臭いのは嫌いなのよ、私はね」

「構いません。というか、博麗の巫女である貴女が下手に発言されるとこちらとしても面倒なので、黙っていてくれた方がこちらとしても有り難いのですよ」

「それなら、私が出なくても何も困らないでしょ」

「博麗の巫女はあくまで中立の立場にいなければなりませんが、だからといって知らぬ存ぜぬの無知で宜しいかと問われれば、そうではない……あまり駄々を捏ねますと、保護者(八雲紫)に言い付けますよ」

「……止めて。あいつ、そういうことに関しては本気でお説教してくるから」

 

 嫌そうに……それはもう嫌そうに顔を顰めた霊夢は、何食わぬ顔で阿求の傍に置かれたお盆より湯呑を手に取る。「……やっぱ高いだけあるわね」ほんのり温くも美味な茶の味に目を細めた霊夢は、さて、と急須より茶を注ぐと、それを片手にしたまま……居住まいを正した。

 

 それを見て、阿求が己の居住まいを正す。一拍遅れて慧音が、老人たちが、一斉に居住まいを正す。そうすれば、まるで何日も前から練習をしていたかのように場の空気が一気に静まり返り……張り詰めた。

 

「――では、これより『長老会議』を始めます」

 

 阿求の号令に、この場に集まった者たち全員が一斉に頭を下げた。それは霊夢とて例外ではなく、頭を下げる時だけは湯呑を置いたぐらいであった。まあ、その後すぐに湯呑を手に取ったのだが……それはそれとして、だ。

 

 長老会議にて行われる会議の内容は、その時によって違う。毎回採り上げられる通例みたいなものはあるが、基本的にはその時生じている問題が議題として上がる場合が多い。

 

 その理由としては、この長老会議自体、開かれるのが不定期であるからだ。長老会議はその他一般の集まりとは違い、後々にまで影響が及んでしまう。だから、滅多な事では開かれないのであった……が、しかし。

 

「各々方も大なり小なり御存じだとは思われますが、此度の議題は『急増する妖怪の襲撃について』、と、『地底より登って来た妖怪たちの住居について』、と、『幻想郷の端に出来た異変地帯』……この三つとなります」

 

 その滅多な事が起これば、阿求の鶴の一声によってこうして急に開かれる。それが猛暑の中だとしても、異変の最中であったとしても、開くと決まれば開かれるのが、長老会議なのであった。

 

「各々方にも思惑があって、早急に推し進めたい話があるとは思います。しかし、今はそれよりもこの3つをどうするか……それが急務であると私は考えております。何か異論がある方は、この場にて申し出てください」

 

 阿求の問い掛けに、老人たちは……難しい顔をしたまま何も答えなかった。たっぷり一分ほど、反応を伺っていた阿求は……では、と話を進めた。

 

 

 ――配布した資

料をご覧ください。

 

 阿求のその言葉と共に、老人たちは一斉に手元の紙束へと視線を落とした。それは、彼らがこの場に集まってすぐに配られた物であり、今回の議題において必要となる情報等が記された資料である。

 

 そこには、各事柄にて必要となるであろう経費の予想額、それに伴う負傷者や死傷者の救済、並びに、長期化した際の懸念事項を始めとした、現時点で里全体より報告されている問題が事細やかに記されていた。

 

「ひとまず、早急に対策を行わなければならないのはこの三つの内の、『妖怪の襲撃について』だと私は考えております。各々方も御存じの通り、度重なる襲撃を抑えることが叶わず、外部の手を借りてようやく平穏を維持している状態……これが、里の現状です」

 

 阿求の言葉に、老人たちは一様に表情を苦々しく歪めた。彼らとて馬鹿ではない。いや、むしろ年齢を考慮したとしても一般的な里人と比べれば優秀な方だ。

 

「既に、ジリ貧に陥り掛けている現状……何か、これはという良い案はございますか?」

 

 だからこそ、阿求の発言を彼らは何の否定もせずに受け取り……各々が意見を述べ始めた。

 

「一時的に里全体に強力な結界を張るのはどうだろうか? 例えば、妖怪たちが活発になる夜にそれを行い、護りの負担を軽減させてみては……?」

「いや、それは難しい。里全体を覆うほどの大規模な結界ともなると、準備するだけでひと月は掛かる。それに回される人員を考えれば、幾らかの犠牲を考慮しなければならん」

「左様……加えて、それだけの結界を張れば最後、里の警備に回っている協力者(妖怪たち)を里の外へ締め出すことにもなる。今を乗り切ったとしても、今後のことを考えれば、それは悪手になりかねん」

「だが、防人たちの体力とて有限だ。将来のことを見据えるのも重要だが、ここを乗り切らねば犠牲者が爆発的に増大する危険性がある。現に、何度か危うい事態になりかけたという話がワシの所まで来ておるぞ」

「それは俺の所も同じだ。いや、俺だけじゃない。この場にいる誰もが似たような話を耳にしているはずだ。それを踏まえたうえでの対策を取らねばならない……今は、そういう場であろうが」

「そんなことは百も承知! しかし、だからといって目の前の危機を捨て置いては、将来の話など出来るわけがなかろう。とにかく、死傷者を出さないように対策を立てねばならぬ」

「それはワシも同意見だが……されど、どうする。単純に武器防具を増やそうと思っても、すぐには出来ぬ。負傷者治療の為の薬を用意するにしても、里の外に出られないとなると……」

「……外部の薬売りに頼めば良いのではないか? 詳しい話はワシも知らぬが、妖怪の薬売りなるものが時折里にやってきては、薬を売りさばいていると小耳に挟んだ覚えがある。その者の協力を得られれば、あるいは……」

「阿呆、既にその薬売りより全面的な支援を受けておる。そのうえで、足りぬと嘆いておるのだ。だが、問題は薬のことよりも、食料だ。備蓄にまだ余裕があるとはいえ、こうも外への出入りが隔絶されれば……」

 

 あーでもない、こーでもない。この場に集まった誰もが、内心に抱えていた意見を打ち明け始める。老いてもなおその立場にいるだけあって、彼らの意見全てに一理があった。

 

 

 ……けれどもそれは、阿求が欲した意見ではなかった。

 

 

 白熱する老人たちの議論を他所に、彼らを見つめる阿求の眼差しはゾッとする程に冷め切っていた。軽蔑しているのではない。ただ、呆れているだけ。阿求は、眼前の重鎮たちの体たらくに溜息すら零せなかった。

 

 何故かといえば、老人たちの意見の全てが阿求にとっては遅すぎるのだ。彼らが考えている懸念や対策なんてものは、襲撃する妖怪の数が増え始めた当初より考えられ、そして実行されていることばかりである。

 

 今更……そう、阿求にとっては今更な話でしかない。けれども、阿求はそれを老人たちに伝えようとはしなかった。伝えた所でどうこう変わるような相手ではないことを、阿求は知っていたからであった。

 

「――阿求様、一つ宜しいでしょうか?」

「……構いませんよ、慧音さん」

 

 だから、この場において。霊夢を除けば唯一といってもいいぐらいに話の分かる(というより、現状を理解している)慧音より向けられた意見が、阿求にとっては有り難かった。

 

 幸いにも、老人たちはお互いの意見(というよりは、考え方)を押し通すことに忙しいようで、誰も阿求と慧音に注意を払ってはいなかった。

 

「先ほども仰っていましたが、阿求様のお考えとしては妖怪の襲撃を対処することを第一に考えていると、捉えてよろしいのですか?」

 

「ひとまず、三つの中では最も緊急を要する問題だとは考えています。如何ほどの予算と人員が割り振られるかは未定ですが、現状より2割近く人が回されることになると思いますよ」

 

 阿求としては、それが手一杯だと判断していた。というのも、里の防衛に回される者たちの大半は、普段は別の仕事に就いている者たち……対妖怪に対しては、素人に毛が生えた程度でしかないからだ。

 

 普段ならばそんな者たちを現場に駆り出すようなことはしないのだが、今回ばかりは緊急事態だ。加えて、彼ら自身の生活を守る名目上、ほぼ無償に近い形で動員させている……正直、これ以上は逆立ちしても無理だというのが阿求の考えであった。

 

「……4割に増やして貰えますか?」

「……はい?」

 

 ところが、慧音はその倍を要求した。これには流石の阿求も面食らい、「……御冗談のつもりですか?」思わずといった調子で聞き返していた。

 

「冗談ではありません」

 

 けれども、慧音は本気であった。あくまで真剣な面持ちで、人員を4割に増やせと繰り返した。これには阿求もしばし絶句し……次いで、それはどうしてだと尋ねた。

 

「阿求様も御存じとは思われますが、現在、里の防衛に回っている内の3割を妖怪が担っています。ですが、単に妖怪といってもその性質は様々……さらに言えば、その3割には『妖精』を入れた上での計算となっております」

「把握しております。しかし、『妖精』はあくまでオマケ。性根が向いていないので、戦力としては9割方期待しておりません。それは、慧音さんも理解しておられますよね?」

「分かっております」

「では、何故?」

 

 阿求の疑問は、最もであった。

 

 ……『妖精』とは、自然界より放たれた精気(草木等から発せられる)が凝縮して生まれる存在のこと。言うなれば、自然のエネルギーが意思を持って形を成した存在であり、その見た目は人間の6,7歳前後の場合が多い。

 

 自然の精気そのものが具現化しただけあって、基本的に妖精というのは人間(妖怪もだが)の言う事は聞かない。注意は散漫で物覚えは悪く、『力』もそこまでではないうえに、感情に直結した行動を取ることも多いので……非常に使い勝手が悪いのだ。

 

 阿求もそうだが、聡明な慧音も当然ながらそれは理解していた。いや、妖精のことだけでなく、現状では1割、多くて2割しか人を回せないことも理解している。

 

「ここに来る前に様子を見に行ったことで分かったのですが、チルノが動けなくなっていました」

「――っ、あの氷精が、ですか?」

「はい、おそらく連日の猛暑に耐えきれなくなったのだと思います。休息を取ってはいましたが、この熱気がひと段落するまでは、もう……」

 

 しかし、それでも慧音は言うしかなかった。何故ならば、戦力として運用出来る残り1割の戦力が、この猛暑でついに動けなくなったから。「それは、真ですか?」思わず目を瞬かせる阿求に、慧音は固く唇を噛み締めたまま……静かに頷いた。

 

 

 ――『氷精のチルノ』

 

 

 氷精とは、氷の妖精とも呼ばれている妖精の一種であり、冬の気質が強く表に出た妖精である。妖精はその成り立ち故に春や夏といった自然が活発な時期に生まれることが多く、冬の気質を持った妖精は、今の所チルノ以外には確認されていない。

 

 そのチルノは、標準的な妖精の特徴とは別にの、氷精固有の特徴がある。それは、その身より放たれている冷気だ。その身体は氷同然に冷たく、吐息は常に白い。動き回るだけで周辺の温度を下げ、空を飛べば氷雪を舞い上げ、潜れば水面に氷を浮かべる程である。

 

 その冷気は夏場において最大限に発揮され、これまでもそうだが、此度も縁の下の力持ちとなっていた……が、しかし、チルノの本領はそこではない。チルノの本領は何と言っても、妖精の範疇には収まらない規格外の実力にある。チルノは他の妖精とは違い、圧倒的格上である妖怪に対抗するだけの『力』を有しているのだ。

 

 それがどれ程かといえば、名のある妖怪相手では分が悪いが、少なくとも木端妖怪程度であれば自力で返り討ち出来る程度といったところだろう。平時であればまだしも、この場面においてチルノが離脱するのは阿求から見ても由々しき事態であった。

 

 

 ――困ったことになりましたね。

 

 

 苦悶する慧音を見やりながら、そう、阿求は呟いて思案する。

 

 ……戦力的な意味でもチルノが抜けたというのは痛手だが、痛手はまだそれ以外にもある。それは、氷精という即席の冷却装置が失われたということだ。

 

 というのも、先述した通り幻想郷には温める手段は多々あっても、『冷やす』という手段が非常に少ない。無いわけではないのだが、外の世界と比べれば……どうしても大掛かりで非効率な方法しかない。

 

 しかも、それを行うとなると、只でさえ人手不足な人員をさらに割かなくてはならない。一日二日程度ならまだしも、この暑さが続く間ずっとそれを行うのは……無理だ。それでも押し通せば、間違いなく防衛線が崩壊する。

 

 そうなれば、最悪は里の一部を放棄しなければならなくなる。人間の立ち位置を守る為にも、安易に大妖怪クラスに助力を申し出るわけにもいかない。今後の人里の立場がどうなるか否やという現実を前に、阿求は目が眩みそうな想いであった。

 

「……2割では回せませんか? どこの勢力も出せる限りを出してもらっているのです。これ以上の御代わりは、今の所望めません」

「無理です、回りません」

 

 辛うじて。溜め息にも似た声で零した妥協案は、ばっさり切り捨てられた。

 

「半妖の私ですら、この猛暑は堪えています。既に自警団の幾人かが倒れて医者の下へ担ぎ込まれている現状、6時間ごとの4交代制がギリギリの妥協点だと私は思います」

「その言い分は理解出来ます。只でさえ限られた人員を減らさない為にも、少しでも一人当たりの負担を減らそうとするのも分かります。分かりますが、しかし……」

 

 うむむ、と。

 

 思わず、阿求は唸り声をあげる。無い袖は振れない……その言葉を、阿求は寸での所で呑み込んだ。そして、掴む袖が存在していないことを理解している慧音も、内心にて頭を抱えていた。

 

 現時点より4割増し……やろうと思えば、出来ない事はない。絞れば、何とでもなる。だがそれは見紛うわけもない、もろ刃の剣。己の足を食う蛸と同じであり、実行すれば近い将来返ってくる爆弾のようなものでしかない。

 

 ……只でさえ、この時期に溜め込んでおかねばならない食糧等の確保がほとんど出来ていないのだ。

 

 毎年、冬に餓死者や凍死者が出ることを想定して念のための対策をしてきたが、ここで4割も出せば、それが確実な未来となってしまう。それが分かっているからこそ、阿求もそうだが、慧音も思い悩むしか出来なかった――そんな時であった。

 

「――それじゃあ、地底のやつらに頼んでみたら? 今なら、鬼のやつらも暇を持て余している頃でしょ」

 

 それまで温くなった茶を啜りながら静観していた霊夢が、話しに入って来たのは。えっ、と目を瞬かせて振り向く二人を他所に、霊夢は空になった湯呑を盆に置くと、さて、と立ち上がった。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………いや、待て。

 

「――ちょ、ちょっと待て、霊夢!」

「ん、なに?」

「なに、じゃない。お前、まさか地底の妖怪たちに助力を頼むつもりか?」

「そうよ、使える物は猫だろうと妖怪だろうと些細な違いでしょ。暇を持て余しているみたいだし、有効活用したらいいのよ」

「いや、猫と妖怪を同列に扱うのはお前ぐらい……待て、だから待て、さっさと行こうとするな!」

 

 のそのそと部屋を出て行こうとした霊夢を、経年は寸での所で呼び止めた。というか、その腰に抱き着いて無理やり止めた。未だ呆気に取られている阿求を他所に、慧音は霊夢を抱き留めたまま、頭痛を堪えるかのように顔を顰めた。

 

「霊夢……本当に分かっているのか、地底の妖怪だぞ。よりにもよって、地底の……あいつらが素直に協力してくれると思うか?」

 

 慧音の疑問は最もであった。地底の妖怪というやつは、何かしらの理由があって追いやられた者たちである。話の分かるやつだっているにはいるが、大半は地上に住む者たちを嫌っている。

 

 実力だけを考えれば確かに有力だが、一癖二癖どころか十癖は有るやつばかり。加えて、当然といえば当然なのかもしれないが、裏切る可能性だって0ではない……正直、リスクが高すぎると慧音は思った。

 

「大丈夫、大丈夫だってば。そりゃあ、あいつらだって私たちに良い気はしないだろうけれど、だからといって裏切るようなことはしないから」

「大丈夫って、いったい何を根拠に……」

「あんたも知っているでしょ。地底には、嘘が何よりも大嫌いな鬼がいるじゃない」

 

 けれども、懸念する慧音を他所に、霊夢は暢気であった。

 

「仲間意識が強いあいつらでも、裏切り者が出れば真っ先にぶっ殺しに行く。鬼ってのはそういうやつだし、そういうやつが地底では頂点に君臨しているのよ。むしろ、地上のやつらよりもよっぽど分かり易いやつらよ」

「しかし、それでも危険すぎるぞ」

「大丈夫だってば。私も無策のまま突っ込むわけじゃないし、ちゃんと仲介役を連れていくから。前も大丈夫だったし、今回も大丈夫だから」

 

 

 さあ、話しはお終い。

 

 

 そういって、霊夢は腰に巻き付いた腕を強引に振り解く。そうされて、色々と諦めた慧音は心配そうにがっくりと肩を落とした。「明日ぐらいに服は取りに来るから」それを見て、ひらひらと霊夢は手を振ってその場を離れようと。

 

「――霊夢さん」

 

 する前に、阿求より待ったが掛かった。今度は何だと振り返った霊夢に、阿求は何かを言いたげに視線をさ迷わせた後、「何か、必要なものは有りますか?」当たり障りのない言葉を零した。

 

 必要な物、必要な物……ねえ。顎に指を当てて、そう呟きながら考え込んだ霊夢は……ああ、と手を叩くと、懐より皺だらけの写真を撮り出し、首を傾げる阿求と慧音の二人へと見せた。

 

「この子に見覚えはない?」

「……いえ、全く。霊夢さんの御知り合いですか?」

「まあ、そんなところよ。それと、あんた達……『ワイヤード』って言葉に、聞き覚えはないかしら?」

「わい、やー……すみません、私には聞き覚えはありません」

 

 首を横に振った慧音より写真を受け取った阿求は、しばし写真を眺めた後、そう言って首を横に振った。「差し支えなければ、その子の名前を教えてくれませんか?」と続けられた言葉に、霊夢はしばし目を瞬かせた後。

 

「……『岩倉玲音』。まあ、忘れて貰っていいわよ。どうせ、明日には全部忘れているだろうし」

 

 霊夢の物言いに、「……忘れて?」阿求と慧音は訝しんで互いの顔を見合わせた。

 

 

 けれども霊夢は構うことはなく、未だ白熱している老人たちの言い合いに背を向けて廊下へ出ると……ふわりと、熱気を立ち昇らせている庭先から、青空へと飛び立ったのであった。

 

 




今更だけど、登場する東方キャラのイメージはあくまで私の中でのイメージ(原作によって性格が違い過ぎるので収拾つかなくなるからね、しょうがないね)ですよ。原作とはけっこう違うからね……とりあえず、ある程度は似せているけど


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夏の章:その2

まだるっこしいのは止めよう。人間、シンプルなのが一番だ












うちも、やったんだからさ?


 

 

 

 緑色と灰色とが混ざり合う鮮やかな、癖毛。元々の髪質が柔らかいのもそうだが、この暑さのせいだろう。何かしたわけでもないのに、くるりくるりと丸まっている己が髪を手で弄っていたこいしは、何時もの巫女服に着替えている霊夢を見やった。

 

「――で、私に皆との仲介役をしろってわけ?」

「皆ってわけじゃないわよ。とりあえず、『鬼』を7、8ぐらいは見繕ってくれないかしら」

「霊夢はさ、普段はなーんもしないけど、サラッと物凄い要求を突き付けたりするよね?」

 

 昼間を回り、おやつ時。未だ昼間の熱気に衰えが見られない博麗神社にて、こいしの声が蝉の声に紛れて掠れた。

 

「別に難しいことをしろってわけじゃないわ。ただ、あいつらって同じ地底仲間じゃないと、まずまともに話を聞いてくれないでしょ」

 

 しゅるり、と。帯を解いて着物を脱ぎ捨てた霊夢は、皺が付かないように丁寧に畳んでいる。その後ろ姿はどこまでも少女然としていて、パッと見た限りでは数多の妖怪が恐れる博麗の巫女だとは誰も思わないだろう。

 

 実際、こいしの目から見ても、霊夢はそんな恐ろしい存在には思えなかった。そりゃあ、放たれる霊力とかを見れば怖れどころか裸足で逃げ出すぐらいだが、その見た目は己とそう変わら……あっ。

 

 サラシを撒く為に露わになった、霊夢の華奢な背中。僅かに掛かっている後ろ髪の合間に見える大きな傷跡に、何気なく向けられていたこいしの視線が止まった。

 

 それは、春頃に霊夢が負った傷の痕であった。健康的に焼けた他の部分とは違い、そこだけ明らかに色素が薄い。魔理沙などから人伝でしか耳にしていないが……相当な深手だったとは聞いている。

 

 

 ……よくぞ生きていられたもんだと、こいしは思った。

 

 

 何故かといえば、その傷跡が紛れもなく心臓の真上にあるからだ。普通の人間なら……いや、場合によっては妖怪であったとしても即死の傷。膨大な霊力を持つとはいえ、ここまで回復出来るあたり、まあ化け物だろうなあ……っと。

 

「――なんか失礼なこと考えていない?」

「ううん、全く。ただ、霊夢を襲ったやつのこと……誰も気にしなくなったなあって、思ってたの」

「ああ、そんなの決まっているじゃない。誰も、覚えていないし、覚えられないからよ」

「それは分かってる。でも、前は写真を見れば思い出したけど、今では写真を見ても全然思い出さなくなったなあ……って」

 

 振り返った霊夢に、こいしはそういって話を逸らした。けれども、そうして話を逸らしてみれば、不思議とそのことに意識が向く。霊夢も似たようなものなのか、幾らか納得した様子で着替えを再開した。

 

「……霊夢はさ、色々と気にならないの?」

「色々って、何が?」

「色々って、色々だよ。霊夢を襲ったやつのこと。地底に入れなくなったこと。誰も……岩倉玲音のことを覚えていないこととか……それに……」

「それに?」

「……お姉ちゃんのことも」

 

 ぽつりと零したこいしの言葉を、霊夢は聞こえないフリをした。

 

「……何で、私たち以外、誰も気にも留めないんだろうね」

 

「さあね。理由は何であれ、まずは目の前の問題を片付けないとどうしようもないわ。あんたが歯痒い思いをしているのは分かっているけど、私もそれだけを考えて動くわけにはいかないの」

 

「……分かっているよ、それぐらい。だから、私も里でお手伝いしているでしょ。妖怪なのに、毎日妖怪を退治しているんだよ、私も」

 

 ごろりと畳の上で仰向けになったこいしの呟きに、霊夢はそれ以上を答えなかった。そうして、しばらく着替えを眺めた後。サラシを撒き終え、何時もの巫女装束に身を包んだ霊夢に、こいしは改めて尋ねていた。

 

 

 ……あの日、こいしが霊夢の下に身を寄せてから、今日まで。

 

 

 未だ詳細が全く掴めていない『岩倉玲音』という少女のこと以外にも、様々なことが幻想郷には起こっていて……それが原因で、霊夢たちは未だ本格的な調査が行えないままでいた。

 

 そう、忙しいのだ。何とか暇を見つけては探そうにも、次から次へと仕事が舞い込んで来て、身動きが取れない。無視して他に振ってやるには些か厳しい仕事が多く、そうこうしている内に夏季に突入してしまった……というわけだ。

 

 

 厳しい仕事とはというと、例えば、地上へと強引に追いやられてしまった地底妖怪の処遇の問題がそうだ。

 

 

 さとりの能力によって一時的に地上へと追いやられた地底妖怪たち自体には特に後遺症等はなく、全員が元気に回復していた。しかし、問題はそこから先……地底妖怪の行き場が、地上にはないという点だ。

 

 何せ、地底妖怪はごく一部の例外を除き、『地上から弾かれてしまった』妖怪である。それは心を入れ替えるならば……などといった、単純な話ではない。

 

 

 例えば、地底妖怪の一人、『病を操る程度の能力』を持つ妖怪が、ソレだ。

 

 

 本人に悪気が有ろうと無かろうと、無意識に病気を振りまいてしまう。人が生きていくうえで欲求を捨て去れないように、抑えようと思っても抑えられないものがある。地底妖怪たちは、そういう性質を持った者が多いのだ。

 

 ならば、また地底に戻せば良いのでは……と思うところだが、そう上手くはいかない。何故ならば、地底での騒動の原因……すなわち、古明地さとりの消息が不明であるからだ。

 

 何処を探しても、見つからないのだ。被害がほとんどなかったとはいえ、大騒動を引き起こしたさとりを、紫を始めとした賢者たちは許さなかった。理由を問いただす為に、幻想郷の隅から隅まで捜索した……のだが、見つからかった。

 

 そう、何処を探しても見つからなかった。地霊殿(さとりの自室は、普通に入れるようになっていた)を始めとして、地底を隅から隅まで探したのだが、見つからなかった。影も形も見つけられないとは、この事をいうのだろう。

 

 これには紫たちも驚き、勇儀を始めとしてさとりと交流があった者たち(真っ先に、こいしが探し回ったらしい)を片っ端から事情聴取していった……けれども、それでも足取りは掴めなかった。

 

 

 いったい、さとりは何処へ行ってしまったのか。

 

 

 どうして、地底妖怪たちを地上へと追いやったのか。

 

 

 その理由が未だ分からないうえに、地霊殿のさとりの自室にて発生し、鬼の勇儀すら即座に昏倒させた謎の黒霧の正体とて、不明なまま。

 

 何度か様子を見に行った時には黒霧も消えていたので、今すぐどうこうなることはないだろうが……再び発生しないという保証はない。それに、いくら厄介者揃いの地底妖怪とはいえ、そんな場所に戻すわけにもいかない。

 

 なので、紫たちは地底妖怪たちを……幻想郷の端に出現した、黒い大地。アスファルトやら何やらが目立つ、あの場所にて生活するように提案(強制)し、地底妖怪たちはあの場所で……というのが、地底妖怪たちの今に至るまでの経緯である。

 

 

 加えて、問題は他にもある。

 

 

 それは、例年にはない、例年よりもはるかに厳しい猛暑と共にやってきた、しばらく前より発生している数多の木端妖怪の大発生。その頻度と影響は幻想郷史において数えられるぐらいに最悪といっても過言ではなく、既に里の機能が一部麻痺するにまで追い込まれていた。

 

 現時点で里内に侵入した妖怪による死者こそ出ていないものの、被害は決壊寸前の堤防状態。冬に回すはずの人力(リソース)を今に回すことで何とか持ちこたえているが、このまま行けば何時までには妖怪という名の濁流が流れ込んで来る……それが、里の現状である。

 

 

 そして、霊夢を襲ったとされる『岩倉玲音』の存在。

 

 

 春頃より今日まで細々と捜索は続いているが、それも難航している。何故かといえば、かつてさとりが危惧したように、誰も『岩倉玲音』という存在を記憶出来ず、仮に見つけていたとしてもソレが『岩倉玲音』であると認識出来ないからだ。

 

 そう、誰も『岩倉玲音』を覚えていないのだ。人間も、妖怪も、神々ですら例外ではない。現時点で『岩倉玲音』という存在を正確に記憶出来ているのは、博麗の巫女である博麗霊夢と、古明地さとりの妹である古明地こいし……この両名のみ。

 

 紫を始めとして、交友のある者たちに片っ端から『岩倉玲音』に関する情報を伝えても、翌日には……いや、下手すれば数十分後には忘れている。だから、捜査が進まない。

 

 

 どうして、何故、二人だけが覚えていられるのか。

 

 

 それは、当の二人にも分からない。さとりが消息を絶つ直前、最後に会話した霊夢(おそらく、こいしも)に何かをしたのか、あるいは『岩倉玲音』がわざとそうしたのか、それとも彼女にとっても想定外であるのか……それすらも、霊夢たちは分かっていなかった――っ。

 

 

 ――フッ、と。

 

 

 前触れもなく突然に、二人の傍に銀髪がふわりと揺れた。ギョッと目を見開いて肩を震わせるこいしと、胡乱げな霊夢の視線が向けられる。そこに立っているのは、少々おみ足の露出が目立つメイド服を身に纏った、背の高い美少女であった。

 

 その少女のフルネームは、『十六夜咲夜(いざよい・さくや)』。紅魔館と呼ばれる吸血鬼が住まう館のメイド長を務める人間の少女である。銀色寄りの青い髪に青い瞳を持つ彼女は、はて、と霊夢を見て小首を傾げた。

 

「地底妖怪の所へ行くのよね?」

「……あ、うん、そうだけど」

「それじゃあ、日が暮れる前に行きましょう。お嬢様が起きる前にやることを済ませておかないとね」

 

 そう誰に言うでもなく告げると、咲夜はするりと背筋を伸ばして制止した。意識してのそれではなく、ごく自然体のままにしか見えない所作は見事なまでに美しく……それを見た霊夢は。

 

「じゃあ、道中の露払いは任せるわ。最悪、鬼どもとやり合うかもしれないし、体力は温存しておきたいから」

「ええ、よろしくてよ」

「ついでに今日の晩御飯もお願いね。朝っぱらから働かされっぱなしで疲れているのよ」

「それも、よろしくてよ」

「それと、今度飯をタカリに行くから、そんときは洋酒の1本や2本飲ませなさいよ」

「はいはい、全部よろしくてよ」

 

 特に驚くこともなく、あっさりと了承した。「――え、ちょ、え?」対して、こいしの反応は顕著であった。まあ、突然見知らぬ女が現れて、当たり前のように同行することを前提にされれば、誰でも混乱はするだろう。

 

 現に、こいしは混乱した。なんかどっかで会った事が有るような、無いような。いったい何だと思って霊夢を見やれば、「……あ、こいつは十六夜咲夜って名前よ」そう返された。

 

 

 ――違う、聞きたいのはそこじゃない。というか、それぐらいは知っている。

 

 

 その言葉を、こいしは寸での所で呑み込んだ……というか、眉一つ動かさずさらっとこき使おうとする霊夢がおかしいのだろう。心臓に穴が開いても復活するようなやつは、性根が常人と異なっているのかもしれない。

 

 まあそれは、地底妖怪がいると分かっていて同行しようとする、眼前の少女もそうなのだろう。「ほら、行くわよー」どことなく気怠そうにしながらも、ふわりと鮮やかに空へと飛び立つ霊夢と咲夜の後に続きながら……こいしは、考えることを止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――音も無く、初動も無く、咲夜の姿が消える。

 

 

 それは比喩でも何でもなく、文字通り影も形も残すことなく獲物が姿を消したことに、6つの眼球を持つ鳥妖怪は面食らって辺りを見回した。

 

 ぎょろぎょろと四方八方へと動き回るその瞳が、一瞬の煌めきを視界に捉えた――その時にはもう、遅かった。

 

 何故なら、光に気付いた時には六つの眼球全てにナイフが根元まで突き刺さっていたからだ。対妖怪用として鍛えられたその刃先は、人間とは比べ物にならないぐらいに頑丈な組織をも容易く突き刺さる切れ味であった。

 

 

 ――ぐぎょおお!?

 

 

 妖怪とはいえ、突然視界を奪われれば(おまけに、激痛もある)混乱する。自分がどこにいるのかも忘れ、悲鳴を上げて螺旋を描きながら落下し始めるその身体に……気付けば、十数本のナイフが突き刺さっていた。

 

 今度も、音はなかった。初動も、なかった。気づけば、ナイフが突き刺さっていて、気付けば、鳥妖怪は絶命していた。客観的な事実がそこには有って、それしか見ることが出来なかったこいしは……ただただ、呆気に取られていた。

 

 ……幻想郷には、『程度の能力』と呼ばれる特殊な力を持つ者が多数いる。例えば、魔理沙が『魔法を扱う程度の能力』で、霊夢が『霊気を扱う程度の能力』のように、こいしの身近にだってそれなりにいる。

 

 その中でも、紅魔館の忠実なるメイドであり、泣く子も黙る殺人人形(さつじんドール)とも某所で呼ばれている十六夜咲夜が持つ『程度の能力』は、『時間と空間を操る程度の能力』という、もはや反則でしかない能力である。

 

 

 鳥妖怪が咲夜を見失った理由も、ズバリこれ。

 

 

 時間を止めている間に死角へと回り、ナイフを投げつける。咲夜が行っているのはこれの繰り返し。傍目からは、点滅するかのように消えては現れるというのを繰り返しているように見えたことだろう。

 

 現に、こいしの目にはそうとしか映らなかった。気づけば咲夜の姿が消えて、気付けば鳥妖怪が針鼠(というより、ナイフ鼠か?)となって、気付けば血飛沫を上げて落下する鳥妖怪を悠然と見下ろすメイド少女……ぶっちゃけ、超怖いとこいしは思った。

 

「……改めて聞くのも何だけど、アレは本当に人間なんだよね? メイド妖怪とかじゃないよね?」

 

 失礼だとは思いつつも、こいしは尋ねずにはいられなかった。

 

「まあ、辛うじて人間をやっているのは確かね」

 

 対して、霊夢の返答は(咲夜にとっては)失礼極まりないもので。

 

「――言っておくけど、霊夢にだけは言われたくありませんことよ」

「……一理ある」

「失礼しちゃうわね、こんな美少女で素敵な巫女と悪魔の狂犬とを一緒にしないでちょうだい」

 

 これまた音も気配もなく突然二人の元に戻った咲夜に、こいしは納得したようにうなずき、霊夢は唇を尖らせて反論したのであった。

 

 

 ……そうして、真っ昼間より、いくらか照りつける熱気が弱まった頃。春頃に幻想郷にて出現し、そのまま消えることなく残っていたアスファルトの大地。

 

 

 それが今や、地底妖怪たちの仮の住処として利用されているその場所は、当初と比べて随分と様変わりしていた。

 

 それは古ぼけた建物が軒並み撤去され、古き良き和風家屋を彷彿とされる真新しい建物や高温を発してい製鉄所、怒声と罵声と歓声が響き渡る鉄火場へと姿を変わっていたり。

 

 何とも言い表し難い異臭(どことなく、排気ガス臭い)が消え、代わりに臭うのが焼けた鉄の臭いと酒気が混じり合う、地底ではごく有り触れた生活の臭いに変わっていたり。

 

 そして、地面を覆い隠していたアスファルト。それが、名残一つ残すことなく撤去され、剥き出しの大地が露わになり、一部では雑草が繁茂しているところが見受けられるぐらいになっていたり。

 

 人間どころか妖怪の気配すらなかったその場所が、全て嘘だったかのようで。今では騒がしく行き交いする地底妖怪たちの姿を遠目からでも分かるぐらいなっていて、上空からでも喧騒が伝わって来るようであった。

 

 

 ――ふわりと、霊夢たちは『仮地底(便宜上、そう呼んでいるらしい)』より少しばかり離れた場所にて降り立つ。そうして、徒歩で仮地底へと向かうことにした。

 

 

 どうして、徒歩で向かう必要があるのか。直接そこへ降り立つ方が手っ取り早いと霊夢(暗に、咲夜も)は提案したのだが、何度か様子を見に行っているこいしが強く反対した。

 

 曰く、地上に慣れた者もいるが、慣れていない者もいる。地底は地上と違って明確な序列があるわけではなく、ある意味では誰もが自由に行動する。今はまだ気が立っているやつも多く、不用意に刺激すれば襲い掛かって来ない保証がない……という理由からであった。

 

「そんなの、ぶっ飛ばしてしまえばいいじゃない」

「博麗の巫女は何時から暴力巫女になったのかな?」

 

 あっけらかんとした様子で言い放つ暢気で素敵な巫女に、地霊殿の主の妹は幾分か頬を引き攣らせた。直後、「――あら、そんなの前からでしてよ」吸血鬼に仕える人間の言葉に、堪らずと言わんばかりにこいしはため息を零した。

 

「そうしたいなら止めないけど、それをすると間違いなく総力戦になるよ。少なくとも、勇儀さんとか鬼の人達が誰よりもいの一番に飛んで来るけど……それでもいいの?」

 

 ……総力戦、という言葉に反応したのだろう。

 

 嫌そうに眉根をしかめた霊夢は、少しばかり考えた後……素直に、こいしの提案に乗ることを選んだ。それは同行する咲夜も同様のようで、特にそれ以上の反対をすることはなかった。

 

 

 そうして、歩くことに十数分ほど。

 

 

 立ち並ぶ雑木林のおかげで見え難かった景色が晴れて来るにつれ、徐々に『仮地底』の街並みが霊夢たちの眼前に現れ始める。そうして、地底妖怪たちの営みによって生み出される臭いが嗅ぎ取れる位置にまで来た辺りで……はあ、と霊夢はため息を零した。

 

 一言でいえば、酒臭いのだ。それでいて、血生臭い。鉄の焼ける臭いも嗅ぎ取れるが、この二つが特に強烈だ。いったい、何をどうすればこんな臭いを放つようになるのか、いまいち思いつかない。

 

 酒の臭いも血の臭いも職業柄慣れている霊夢もそうだが、血の臭いには特に慣れている咲夜ですら、思わず顔をしかめてしまうぐらいに酷い。そしてそれらは、『仮地底』へと足を踏み入れた辺りで、いっそう強くなった。

 

「……ひっどいわね」

 

 堪らず、霊夢は愚痴を零した。まだ外側も外側なのに、コレ。『仮地底』の中心に向かう頃には、どんな臭いになっているのだろうか。遠くより聞こえてくる喧騒に、霊夢は今すぐ踵をひるがえしたくなった。

 

「大丈夫だよ、臭いが酷いのは外側だけだから」

「うう、ほんと? 嘘を付いてるわけじゃないわよね?」

 

 けれども、そうする前にこいしの方から待ったが掛けられた。思わず胡乱げな眼差しを向ける霊夢に、「嘘を付いてどうするの、本当に本当だってば」こいしは苦笑を零した。

 

「この臭いの正体は、鬼の血なの。縄張りの意味で勇儀さんたちが自分たちの血を撒いただけだから、奥へと行けば行くほど臭いは消えるようになっているんだよ」

「……なるほど。妖怪の中でも上位に位置する『鬼』の血なら、より本能的に行動する低級な妖怪ほど、効果てきめんというわけね」

「そういうこと……さっきも言ったけど、気が立っているやつも多いから誰彼かまわず喧嘩を売るようなことは止めてね」

 

 こいしの忠告に、霊夢たちは顔をしかめながら頷いた。とにかく、臭いから一刻も早く離れたいのだろう。実はこいしもあまり嗅ぎたくないのもあって、自然と三人の歩調は速くなり……あっという間に、『仮地底』の中心へとたどり着いたのであった。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………到着した『仮地底』の街並みは、上空の彼方より見下ろした時に抱いた印象とは少しばかり異なっていた。言うなればそこは、かつての地底にあった景観を真新しくした……という感じであった。

 

 外の世界の年代でいえば、明治に入るかどうかというぐらいだろうか。西洋の空気は見受けられず、目に付くのは和風の家屋ばかり。建物のどれもが真新しいこともあって、街並みだけは単純に綺麗であった。

 

 

 ……そう、街並みだけは、だ。出来立てほやほやの街並みとは裏腹に、そこに住む地底妖怪たちの姿は……正しく、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。

 

 

 右を向けば、喧嘩を始める妖怪たち。左を向けば、それをツマミに酒盛りする妖怪たち。前を向けば、喧嘩の勝敗を賭けにして遊んでいる妖怪たち。ぐるりと見回せば、ぶっ殺せだのぶっ飛ばせだの、物騒な言葉が四方八方から飛び交っている。

 

 酒娯楽に博打娯楽の喧嘩娯楽。そんな言葉が地底にあるというのは、霊夢も咲夜も知っている。というか、里に住まう者たちなら大抵の者たちが知っている。それぐらい、地底妖怪というのは兎にも角にもいちいち派手で有名なのだ。

 

 殴り合いの喧嘩の痛みをツマミにして酒を食らい、酔って暴れ回るのをツマミにして酒を食らい、そのままの勢いで博打で有り金を失くしてもその怒りをツマミにして酒を食らう。

 

 ある意味では、地上の妖怪よりもよほど妖怪らしく、人間よりもよほど人間らしく。酔いに酔って前後不覚に自由気ままに振舞うその姿は、もはや気持ちの良さすら覚える程に馬鹿馬鹿しくて。

 

 そのおかげで、この場に二人の人間と、ここの者たちには顔馴染みである妖怪が紛れても誰も気に留めていないのは……まあ、都合が良い。そう判断した三人は、喧騒に紛れて動くことにした。

 

 

 ……しかし、いくらこの騒がしさに隠れて動くとはいえ、だ。

 

 

 地底妖怪とて、馬鹿ではない。同じ地底妖怪であるこいしは別として、霊夢や咲夜は見掛けない顔でしかない。それ故に、一人、二人と霊夢たちに気付く者が現れ、中には気になって声を掛けて来た者がいた……けれども。

 

 

 ――どうも、紅白妖怪のはっくれい、です。紅白に対する恐れから生まれた新参者なんで、よろしく。

 

 ――同じく、メイド妖怪のさっくやん、です。完全で瀟洒なメイドなので、色々とよろしく。

 

 

 顔色一つ変えず、堂々と。それはもう、そういう妖怪なんですと言い切られれば、酔っ払いたちは納得する他なかった。それでも、その内の幾らかは『……もしや、人間か?』と疑いの目を向ける者もいたが。

 

「……えっと、人間っぽい感じだけど、二人が言っているのは本当なんだ。二人もそのことは気にしているから、あまり突かないでね」

 

 同じ地底妖怪の『古明地こいし』がそう擁護すれば、彼らも納得した様子で引き下がって行った。そうして……何度か似たようなことを繰り返した後。

 

「――それで、これからどうするの? 闇雲に歩き回って、妖怪たちに気付かれたら面倒よ」

「そうね……とりあえず、素面で話の分かるやつを探しましょう。それで、鬼を十匹ぐらい見繕ってくれたら、さっさと帰るわよ」

「鬼を弁当屋か何かだと勘違いしとらんよね、この暢気な巫女さん……」

 

 ぎゃあぎゃあと喚いては怒鳴り合う妖怪たちの喧嘩を横目に、三人は町の中を進んでいった。

 

 目的は……酒に限らずこの喧騒に酔っていない素面のやつ。すぐに見つかるだろうと思っていたが、意外なことに該当する者を見付けられなかった。

 

 いや、意外という方が、意外なのかもしれない。何せ、何処を見ても目に付くのは酔っ払いばかり。辛うじて会話できる程度に酔いが留まっている者もいるが、そういうのはこう……話が分かるようなやつには見えない。

 

 そうして歩き続けて、幾しばらく。徐々に影が伸び始め、西日に赤みが混じり始める時刻。さて、困ったぞと、誰が最初というわけでもなく思った霊夢たちは、一旦……目に付いた小さな飲み屋にて休憩することにした。

 

 特に理由があって、その店を選んだわけではない。強いて挙げるとするなら、霊夢の『勘』であった。

 

 博麗の巫女の象徴でもある紅白と、メイド服を身に纏う人間の少女に、地霊殿の主の妹である覚り妖怪の妹。暖簾を除けて店内へと入ったその三人の組み合わせは違和感の塊という他なく、誰が見てもギョッと目を見開く光景であった……のだが。

 

「――らっしゃい! 3人で?」

「ええ、そうよ。ところで大将、もう出来上がっているの?」

「へへ、酔わずに仕事が出来るかってんだ!」

 

 おそらくは相当な量の酒を召しているのだろう。赤ら顔どころか首筋まで紅潮している酒臭い店主(小さい角が見えたので、おそらく鬼の種族だろう)は、呆れ顔の霊夢の言葉にそう啖呵を切った。

 

 店の内装は、カウンター席が5つある程度の、本当に小さなもの。外の世界でいえば、こじんまりとやっている古い居酒屋といったところか。

 

 一番奥の席でカウンターに突っ伏して寝息を立てている金髪の女妖怪(顔は、良く見えない)以外に、店に客はいなかった。

 

「――で、何にしやす?」

「喉が渇いたから、とりあえず水と冷(ひや)と豆腐を頂戴」

「あいよ――へいお待ち!」

 

 メニュー片手に霊夢が注文すれば、店主はサッと霊夢たちの前に冷酒の入ったコップと冷奴を並べた。

 

「あら、お早いことで。それじゃあ咲夜、こいし、軽く乾杯してから……って、こいし? どうしたの?」

 

 かちん、と咲夜のコップとをかち合わせて乾杯する霊夢の視線が、カウンターにて頭を抱えて蹲っているこいしへと向けられた。「――疲れたの?」気づいた咲夜が、霊夢越しに心配そうに見つめた。

 

「……なんていうか、こんな私が言うのもなんだけど、お姉ちゃんが地底の皆を前にいつも頭を抱えていた意味が、少し分かった気がしただけ」

 

 こいしの言葉に、意味が分からないと霊夢と咲夜の二人は首を傾げた。そんな二人を見て、こいしは深々とため息を零すと、己の前に置かれたコップを手に取り中身を一気に呷った――直後、むせた。

 

 

 あーもう、何やってんのよ。

 

 

 げほげほ、と。乙女(と、いっても妖怪だが)がするには些か惨い状態になっているこいしの背中を、霊夢が撫でる。と、同時に、咲夜が店主より手渡された手拭いを片手に零れた酒を拭き取る……のを横目に、こいしはげほげほと咳き込むことしか出来なかった。

 

 

 ……こいしは、気付いていなかった。というか、知らなかった。地底に住まう妖怪であるので飲めないわけではないのだが……実は、それほど酒に強くはない。

 

 

 いや、酒に強くないというのは少し間違いだ。正確にいえば、薄めていない酒の味に、こいしは慣れていなかった。

 

 何故なら、これまでこいしが口にしてきたのは、姉のさとりが妹を想って飲みやすいように薄めていたものばかり。基本的に姉が参加しない席では酒を飲まないようにしていたが故に、こいしは己の身に何が起こったのか理解出来ず、喉の焼ける感覚に目を白黒させるばかりであった。

 

「――オヤジ、花吹雪の水割り。少しばかり薄めにな。それと、味噌汁を一つ」

 

 ……そんな、時であった。

 

 にわかに騒がしくなった店内の空気に差し込む、女性の声。ハッと霊夢たちが振り返れば、そこには今の今まで寝息を立てていた女性が……いや、星熊勇儀が目を細め、頬杖を突いて霊夢たちを見やっていた。

 

「妖怪だらけのこの場所に、人間が二人も紛れ込んでいるとはね。それも、博麗の巫女と、ちょいと普通じゃない女ときた……何とまあ、面白い日だ」

 

 その言葉と共に、勇儀の前に置かれる冷酒の水割りと、味噌汁。「……ま、こんなもんだろ」軽く冷酒を啜って具合を確認すると、味噌汁と一緒にそれらをこいしの前に置いた。

 

 こいしの視線が、湯気を立ち昇らせている椀とコップと、にんまりと笑っている勇儀とを行き来する。しばし無言のままに視線を落としていたこいしは……頂きます、と手を揃えた後、味噌汁を啜る。口直しが済んでから、次いで、水割りを傾け……甘い、と笑みを零した。

 

「――で? わざわざ物見見物に来るほどまでは、お前さんも暇を持て余してはいないとは思うが、目的はなんだい?」

 

 一拍置いてから、さて、と勇儀から話を切り出した。頬杖をついたままという不遜な態度は実に『鬼』らしく、それでいて単刀直入の物言いで……霊夢も、単刀直入に用件を話した。

 

「人手が足りないのよ。報酬を支払うから、人間に手を出さず、そこらの雑魚を蹴散らせるやつを幾らか融通出来るかしら?」

「……風の噂で耳にはしていたが、そっちも大変なのかい?」

「私が出張る程度にはね。それで、返答は如何に? 何だったら、あんたの血だけでもいいわよ。というか、こっちとしてもそれが一番有り難いわね」

 

 霊夢は、鬼を相手でも態度を一切変えない。それは霊夢を知る者であれば誰もが分かっていることだが、店主は知らなかったのだろう。先ほどまでの赤ら顔が、見事なまでに青ざめていた……が。

 

「血は……無理だな。ここ(仮地底)らを囲うだけでも大変だったんだ。あんたの所は、ここよりもずっと大きいんだろう?」

「そうだと思うわよ。どれぐらい大きいかは分からないけど、一回り以上は大きいと思うわ」

「じゃあ、無理だ。いくら私でも、そんだけの血を垂れ流したら死ぬ。それに、定期的に新しいのを撒かないといけないからね……悪いけど、そっちには回せないよ」

 

 店主の不安を他所に、勇儀は特に怒っていなかった。「オヤジ、一本くれ」それどころか、どこか暢気そうに店主に追加の注文をして、酒臭いゲップを零した。

 

 

 ……やれやれ、仕方がないか。

 

 

 それを見て、霊夢は諦めてコップを傾けた。「……いいの?」と小首を傾げるこいしに、「いいの、仕方ない事だから」霊夢は表情を曇らせつつも、そういってため息を零して受け入れた。

 

 

 ……当てが、外れてしまった。

 

 

 仕方ない事とはいえ、どうしたものかと霊夢は思った。協力を取り付けられたら儲け程度に考えていたが、期待していなかったといえば、嘘になる。

 

 阿求たちも期待しているだろうし、ガッカリさせるのは忍びないなあ……と。不味くなってしまった酒の味に唇を湿らせつつ、霊夢は何となく視線をさ迷わせ……ふと、咲夜にて止まった。

 

(……そういえば、こいつは何の目的で付いて来たのかしら?)

 

 今更な疑問が、霊夢の脳裏を過る。こいしが聞けば、『え、今更?』と、姉と同じく頭痛を堪えるポーズになっていたであろうことを考えつつ、ちらりちらりと咲夜を見ていれば、「……なにか?」その咲夜から視線を返された。

 

「あんた、レミリアのやつから何か頼まれて私たちに同行したんでしょ? こっちは終わったから、やることやるなら付き合うわよ」

「え? 私の? 何で?」

「何でって、あんたその為に来たんじゃないの?」

「……? その為って、何の事? 私はあんたに誘われたからこうして付いて来たのよ」

「はっ? なに、あんたもう酔ってんの?」

 

 思わず声色を低くした霊夢に、咲夜も少しばかり声色を低くした。

 

「酔ってないわよ。それを言うなら、霊夢の方が酔っているんじゃなくて?」

「いや、いやいやいやいや、咲夜こそ何言ってんのよ。詳しく聞くつもりはないけど、レミリアから何かしら指示を受けてはいるんでしょ?」

「……えっと、その、霊夢。何を勘違いしているのか分からないけど、それとは別に一つ聞いていいかしら」

 

 そこで、咲夜はこの場で……いや、同行してから初めて、心から不思議そうに小首を傾げた。

 

「さっきからあなたの話に出てくるレミリアって……誰のこと?」

「……は?」

 

 ――一瞬、霊夢は咲夜の言葉を理解出来なかった。けれども、当の咲夜は気付いた様子はなく、「は、じゃないわよ」そのまま言葉を続けた

 

「私の知り合いに、レミリアなんて人はいないわよ。居るのは、姉の紅美鈴(ふぉん・めいりん)だけよ。誰かと勘違いしているのではなくて?」

「…………え?」

 

 

 今、こいつは……何を言った?

 

 

 自分が何を言ったのか理解していない咲夜を前に、霊夢は言葉を失っていた。いや、霊夢だけではない。霊夢の隣にいるこいしも咲夜のいう事が理解出来ずに不思議そうに小首を傾げたし、経緯を知らない勇儀ですら、何だ何だと目を瞬かせて身体を起こした。

 

 自然と、全員の視線が咲夜へと注がれる。

 

 その事が不思議なのか、当の咲夜は困惑した様子でキョロキョロと視線をさ迷わせていた。その姿は、冗談をついているようには見えず……だからこそ、霊夢は咲夜の言うことが理解出来なかった。

 

 何故なら、霊夢の知る十六夜咲夜という少女は、主であるレミリア・スカーレットに対して絶対の忠誠を誓っているからだ。その忠誠心の高さは幻想郷において有名であり、レミリアが命じれば(罪悪感を押し殺して)赤子すら手に掛けるとまで言われている程だ。

 

 

 ――その咲夜が、レミリアのことを知らないと口にするだけでなく、知らないフリまでする?

 

 

 そんなこと有り得ない、と。こいつ、本当に私の知る十六夜咲夜か、と。率直に、霊夢は思った。

 

 少なくとも、霊夢の知る咲夜はそんなことは出来ない。例えレミリアの命でそうしろと言われ、そう振る舞ったとしても……こうまで、自然に振る舞えない。それぐらい、咲夜にとってレミリアとは特別な存在なのだ。

 

 それは、咲夜が口にした紅美鈴もまた、同様のはずだ。美鈴は紅魔館の門番を務めている女妖怪であると同時に、咲夜とは仲が良かった覚えがある。程度の差こそあるが、その美鈴までもがこの性質の悪い冗談に加担していると……霊夢には、思えなかった。

 

 

 ……視線が鋭くなるのを霊夢は抑えられなかった。

 

 

 異変を察したこいしが、不安そうな顔で席を立つ。合わせて、赤ら顔の勇儀が席を立てば、青ざめた店主がこそこそとカウンターの中へと隠れる。そこまで来てもまだ分かっていない咲夜だけが、困惑を深めているようであった。

 

「と、とにかく、私には霊夢が何を言いたいのか分からないわ。でも……霊夢の今の言葉で思い出したことがあるわ」

 

 高まった緊張感を切り替えたいのだろう。些かわざとらしく己がメイド服のポケットを漁った咲夜は、それより取り出した物を霊夢へと投げた。受け取った霊夢は……思わず、目を瞬かせた。

 

 それは、年紀を感じさせる懐中時計であった。詳しく見た覚えがないのでもしかしたら違うのかもしれないが、記憶が正しければこれは、咲夜が常に携帯している時計のはずで……咲夜自身が、とても大切にしていた時計のはず。

 

「それ、私のじゃないの。気付いたら私のポケットに入っていてね、捨てても捨ててもポケットに戻っているのよ。もしかしたら呪われているんじゃないかなって心配で、そのうち霊夢に見て貰おうかと思っていたのよ」

 

 あっけらかん、と。時計について語る咲夜を、霊夢はマジマジと見やった。レミリアだけでなく、この時計まで知らないと物だと口にする咲夜を、霊夢はいよいよ頭がおかしくなったのかと思ってしまった。

 

 

 何とも失礼なことではあるが、霊夢がそう考えるのも無理のないことであった。

 

 

 何故なら、咲夜のこの時計は、ただの時計ではない。『能力を発動する際に使用する』ものらしく、これがないと上手く能力が使えないと、咲夜の口から聞いた覚えがあるからだ。

 

 そんな大事な物を、知らない物だと話す。つまりそれは、咲夜は自らの能力すら……いったい、これはどういうことだ?

 

 

 もしや、咲夜の言う通り時計に何かあるのだろうか。

 

 

 ぱかりと蓋を開いてみれば、しっかり秒針が動いている。軽く霊気を巡らせて探ってみるが……術や呪いの類は感じられない。構造的な問題は分からないが、霊夢の専門分野においては、白だ。

 

 時計に、問題はない。

 

 それなら、咲夜自身に何かが……そう判断した霊夢は、そっと咲夜の首筋に手を当てる。「ちょ、霊夢?」突然のことにくすぐったそうに肩を竦める咲夜を黙らせつつ、軽く霊気を送り……舌打ちと共に手を引いた。

 

 咲夜自身に問題はない。時計にも、問題はない。けれども、咲夜には確実に異変が起こっている。霊夢の知る咲夜ではなくなっていると、霊夢自身の『勘』も告げている。

 

 いったい何時、咲夜はこうなっているのか……いや、こうなったのか。

 

 ここに来るまでの道中では、霊夢が知る咲夜そのものであった。そして、到着してからこの店に来るまでは、せいぜい1,2時間かそこら。この店に入ってからの時間を加えても、3時間も経っていない。

 

 

 その間に、咲夜は何かされてしまったのか?

 

 いったい誰に? 霊夢やこいしに悟られないように、どうやって?

 

 何の目的で? 傍の二人には何もせず、咲夜だけを狙った理由は?

 

 

 まるで理解出来ない状況に、霊夢は思わずこいしを見やる。瞬間、目が合ったこいしは、しばし何かを思いあぐねるかのように唇をもごもごとさせた後……あの、と顔をあげた。

 

「咲夜は、レミリアって人を知らないんだよね?」

「ええ、そうよ。少なくとも、私の知り合いにレミリアって人はいないわ」

「それじゃあ咲夜は今、どこに住んでいるの? どうして、メイド服なんて着ているの?」

「どこって……そんなの、人里に決まっているでしょ。この服は仕事着よ。稗田様のところで働いているの、あんた達も知っているでしょ?」

 

 ――瞬間、霊夢は勇儀を見た。察した勇儀は、おもむろに首を横に振って答えた。霊夢の『勘』も、咲夜の言葉に嘘は何一つ感じ取れなかった。

 

「それじゃあ、何時から人里に住んでいるの?」

「何時って、物心ついた時からよ。親も知らぬ分からぬ孤児の私を、美鈴姉さんが育ててくれた……ねえ、本当にどうしたの? そのことだって、とっくの昔に二人とも知っているはずでしょ?」

「……うん、そうだったね。それじゃあ、咲夜が……じゃなくて、紅魔館って知ってる? 紅魔館の、吸血鬼の話」

「――は? 紅魔館? 紅魔館って、あの紅魔館?」

「うん、そうだよ。何か、知ってる?」

「そりゃあ、知っているけど……」

 

 そこで言葉を止めると、これまで訝しんでいた咲夜の表情が、さらに曇った。それは悲しいことを思い出した……という類のそれではなく、霊夢とこいしの正気を疑う、心配が込められたものであった。

 

「紅魔館って、あの湖の畔にある廃墟の館でしょ? 百年も前に主が死んだけど、漂う妖気によって並の妖怪では入れないっていう……あの、二人とも、本当に大丈夫? 子供でも知っている話よ」

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………はい、きょ。はいきょ……廃きょ……廃墟?

 

「――やられた」

 

 廃墟、その言葉が霊夢の脳裏にまで染み渡った……その瞬間。気づけば、霊夢はその言葉を呟いていた。声は小さくか細かったため、幸いにも咲夜には聞こえなかったが、既に霊夢の意識は彼女ではなく、紅魔館へと向けられていた。

 

「……咲夜、あんた一人でここから家に帰られる?」

「え、一人で? それはちょっと……」

 

 尋ねれば、咲夜は心細そうに店内を見回し……ちらりと、店の外に視線を送った。咲夜が嫌がるのも当然だ。なにせ、ここは地底妖怪たちの縄張り。霊夢の知る咲夜であれば涼しい顔で戻れても、今の咲夜では無理なのだろう。それだけで、今の咲夜は、前の咲夜とは違うのだということ嫌でも察せられる。

 

 しかし、一人で帰れないとなると、咲夜を人里まで送らなければならない。

 

 普段であれば別に良いのだが、今は一刻も早く、一秒でも早く紅魔館に向かいたい。ただならぬ雰囲気を察したこいしと、目が合う。出来ればこいしも連れて行きたいが、仕方がない……こいしに送らせよう……と、思ったが。

 

「――なら、あたしが送って行こう」

 

 むくりと立ち上がった勇儀が、そう提案してきた。振り返った霊夢とこいしを他所に、「なーに、私もちょっと里の様子を見ておきたくてね」勇儀は酒臭い身体を揺らして歩み寄ると、ぎゅうっと咲夜を抱き寄せた。途端、咲夜の顔色が悪くなったのを見て、がははと勇儀は豪快に笑った。

 

「鬼が怖いかい、お嬢さん」

 

 その質問に、咲夜は青ざめた顔で首を横に振った。

 

「怖いのは怖いけど、それよりも臭いだけで酔い潰れそう」

「はあ? 臭いって……あ、ああ、あー、すまん。ちょっと我慢しておくれ」

 

 察した勇儀がサッと抱き寄せた身体を放してやると、咲夜はふらふらとした足取りで壁に手を付き、深呼吸を始める。それを見て、ごめんよ、と勇儀は赤ら顔を軽く下げ――次いで、咲夜に気付かれないよう、こそっと霊夢にウインクをした。 

 

 それを見て、霊夢は人数分の代金をカウンターに置くと、こいしの手を掴んでそのまま抱き締めると、空へと飛んだ。外に出て気付いたが、既に空は薄暗くなっていて、星々の輝きがちらほらと見えるようになっていた。

 

 

 

 



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夏の章:その3

東方キャラって書籍や作品ごとにキャラの性格やらなんやらが微妙に違っているから、思い思いのキャラが描けるよね




そんな僕の一押しは小町です、はい。
でも、この作品では小町は出てこないけどね






 

 

 霊夢はこれまで、全力というものを出したことがそう多くない。

 

 それは、霊夢自身の気質が大らかであるから(言い換えれば、面倒くさがりである)というのが理由なのだが、それ以外にも霊夢自身が自覚出来ていない理由が一つある。

 

 それは、本気を出すことを潜在的に恐れている、というものだ。どういうことなのかといえば、答えは一つ。それは、『霊夢は天才だから』……これに尽きた。

 

 そう、霊夢は天才なのだ。それも、ただの天才ではない。才能という言葉が人の形を取ったといっても過言ではないぐらいの、才能の塊。それが、博麗霊夢である。

 

 人間には向き不向き、得手不得手というものがある。それはどんな人間とて例外ではなく、どれほど優れた人物であったとしても、どこかで苦手なもの、不向きなもの、不得手なものを持ち合わせているが……霊夢には、それがない。

 

 言うなれば、全てが得意なのだ。どんなことでも、その気になれば乾いた布巾に沁み込む水のように、知識を、技術を、その身に吸収し、そのうえでそれらを昇華し、己の物にしてしまう。

 

 例えそれが、習得するのに1年掛かるものでも、霊夢ならば一週間で習得してしまう。数多の人々が求めては挫折する困難な目標や夢ですら、霊夢にとっては少し背伸びをするだけで届いてしまう。

 

 それが、歴代最強と名高い博麗霊夢である。で、あるからこそ、霊夢は恐れてしまう。己の内に秘めた才能を表に出すことを。何もかもを瞬く間に吸収出来てしまうが故に、霊夢は本気を出さないのだ。

 

 霊夢は、努力というものがどれ程辛いものなのかを知っている。体感したことはなくとも、親友の魔女がそれを体現してくれている。だから、霊夢は知っている……努力というものの、その尊さを。

 

 それ故に、霊夢はどんな時でも暢気であることを無意識の内に強制している。

 

 全てが、片手間に習得出来てしまうが故に、本人にその自覚はなくとも、潜在的にそれを理解している。だから、霊夢は暢気。必要で無い限りはけして全力を出さないよう……そう、努めていた。

 

 

 ――しかし、その日。

 

 

 紅魔館へと飛行する霊夢は、全力というものを出していた。本人に全力を出しているという認識はなかったが、それでも、この時の霊夢は確かに全力を出していた。

 

 全速力を出した霊夢の速度は、並の天狗を優に上回っていた。ともすれば、齢1000歳にも達している文ですら追い付くのは至難だろう。薄暗くなり始めている夜空の下を、轟音と共に駆け抜けていた。

 

 空を自由に跳び回れる存在にとって、幻想郷というのはそう広くはない。そんな中を、轟音が出る程の速度で進めば、目的地なんてすぐだ。実際、紅魔館の上空までで掛かった時間は、わずか数十分ほどであった。

 

「……? こいし、どうしたの?」

「……胃袋が口から出るかと思った」

 

 到着して、ようやく。己が胸に抱き留めていた、青ざめたこいしの具合に意識を向けた霊夢への、辛うじて成された返答がそれであった。

 

 

 まあ、こいしがそうなるのも無理はない。

 

 

 何せ、博麗霊夢が持つ能力は『霊気を操る程度の能力』の他にも、『空を飛ぶ程度の能力』というのがある。これは単純に空を飛ぶというものではないが、空を飛ぶ事自体にも影響を与えている。

 

 具体的には、重力や慣性やらを受けることなく、直角方向転換や急停止&急発進を行えるのだ。そんなことは天狗たちですら無理な芸当であり、胃液が空っぽになるような悲惨な状態にならないだけ、こいしは上等であった。

 

 さて、とりあえず、返事が出来る=大丈夫だと判断した霊夢は、紅魔館を見下ろした。

 

 うっすらと手もとが確認出来る程度の暗さとはいえ、既に時刻は夜も同じ。場所を知っているので紅魔館であることが分かるが、視線を下ろせば……見えるのは、真っ暗な外観だけ。何となく、そこに建物があるだろう程度のもの。

 

 故に、霊夢は懐より取り出した札に霊力を込め、それを下方へと投げた。暗闇の中へと溶けるように消えた札は、そのまましばしの間を置いて……パッと強い光を放った。

 

 それはまるで、小さい太陽のように明るくて。そうして、霊夢の前に姿を見せた紅魔館は……咲夜が話していた通り、廃墟という言葉が順当な有様となっていた。

 

 まず、紅魔館の象徴ともいえる赤い外観が、すっかり色あせている。長い年月、雨風にさらされていただけでなく、放置され続けた結果なのだろう。パッと見た限りでも、外壁のいたるところにヒビが入っているのが見て取れた。

 

 

 人の気配……というか、妖怪の気配は館より感じ取れない。

 

 

 しかし、妖力だけはしっかりと感じ取れる。禍々しいものではないが、強大だ。咲夜の話が事実であるなら、当時の主(レミリア・スカーレットでない可能性もある)が滅びて百年近くそのままになっているから……その、主が残したものだろう。

 

 

 ……いや、だろう、などという曖昧なものではない。

 

 

 それは、確かに主が残した者だと、霊夢は胸中にて断定した。根拠は、ただ一つ。それは、感じ取れる妖力が霊夢の知る主と同じ……つまり、霊夢の知るレミリア・スカーレットのものであったからだ。

 

 けれども……これはどうしたことだろうか。霊夢は、内心にて首を傾げる。

 

 妖力は感じ取れるのに、気配がない。何とも、不思議だ。器が無いのに、中身だけがそこにある。吸血鬼であるレミリアは、己を霧や蝙蝠に変えて分散する術を持っているが……それでも、こうまで完全に気配が消せただろうか。

 

 

 ――無理だと、霊夢は思う。

 

 

 妖力そのものが小さい木端妖怪であれば可能(例えるなら、虫が落ち葉などに擬態するようなもの)であろうが、レミリア程の妖怪(象が落ち葉に擬態するようなもの)ともなれば、不可能だ。

 

 

 では、いったい何が……いや、止そう。

 

 

 とにかく、入ってみれば分かる。そう結論を出した霊夢は、緩やかに高度を下げて行く。そうして近づくことでよりはっきりと見えて来る館の全貌に……自然と、霊夢の目つきが鋭くなってゆく。

 

 ……遠目からでも劣化が激しいのは、分かっていた。幻想郷は外の世界とは違い、台風などの天災が圧倒的に少ない。とはいえ、100年も自然のままに放置されれば、如何な堅牢でも朽ち果ててゆくのが道理。

 

 少なくとも、地面に降り立った霊夢の眼前。そこに広がる、廃墟と呼ばれている紅魔館は……正しく、道理が道理のまま時を重ねた姿であった。

 

 館全体を囲っている塀も半分近くが割れたり崩れたりしていて、もはや塀の役目を果たしていない。正門(らしき場所)に至っては鉄格子が外れ倒れており、館よりも真っ赤に錆びついているのが見える。

 

 外部からの圧力によって外れた……というよりは、自然のままに錆びて、風を受けて折れたのだろう。でなければ、鉄やら何やらが外の世界よりも高級であるここで……鉄格子などという高級品が放置されているはずがない。

 

(私の知らない一昼夜の間に何かがあった……というわけではなく、本当に何十年も前にこうであったと見る方が、正しいのかもしれないわね)

 

 にわかには信じ難い現実を前に、霊夢は記憶の中にある紅魔館を想う。頻繁に行き来するような仲ではなかったが、主であるレミリアに気に入られていたおかげか、晩餐に招待されたことは何度かある。

 

 だからこそ、目の前の光景を受け入れるのに、少しばかり時間を要した。

 

 荒れ放題の庭に、枯れ果ててコケすら見える噴水らしき物体。地面に敷かれた大理石の道はもはや地面と見分けるのが難しく、何もかもが己の中にある紅魔館とは別モノなのだということを、霊夢は思い知らされている気分であった。

 

「……大丈夫?」

「……ええ、まあ、ありがとう。さあ、行きましょう」

 

 とはいえ、感傷に浸るのは霊夢だけであって、あまり交友の無かったこいしにはただの廃墟でしかない。珍しく、気遣う側になったこいしの問い掛けに、霊夢は軽く頭を振って気持ちを切り替え……敷地内へと足を踏み入れた。

 

 さす、さす、さす。二人の足音が、静まり返った廃墟の中庭に溶ける。札の明かりのおかげで転ぶ心配はないが、踏み締める大地からは年月を感じる。場所によってようやく分かる石畳の感触が、妙な哀愁を誘う。

 

 通りがてら枯れ果てた噴水を覗き込めば、水溜りすらそこには見られない。遠目からでも察しはついていたが、枯れてから長いのだろう。コケもそうだが、中には小石やら落ち葉やら土やらが積もっているようだった。

 

 そうして……紅魔館正門へと到着した霊夢は、扉に手を掛け……首を傾げた。

 

 鍵が、掛かっている。押したり引いたりしてみるが、手応えは変わらない。軽く探ってみれば、術的な結界が施されているようだ。霊気を送って強引に解除し、今度こそと……思ったが、開かない。

 

 

 ……無言のままに、霊夢は扉に蹴りを放った。

 

 苛立ったわけではない。ただ、この方が手っ取り早いと思っただけ。

 

 

 ここが霊夢の知る紅魔館であったならさすがにこのような強硬手段を行うことはないが、ここが廃墟なら話は別。瞬時に行われた判断と共に放たれた蹴りは、一寸の躊躇もなく扉を壊し、蝶番ごと破片となって散らばった。

 

 霊力によって上乗せされた霊夢の脚力は、固い岩石を豆腐のように踏み砕く。同年齢の平均よりも幾らか細い脚から放たれたとは思えない一撃に思わず背筋を伸ばすこいしを他所に、霊夢はさっさと室内に入り……軽く、目を細めた。

 

 一言でいえば、非常に埃っぽい。記憶にある調度品はほとんどなく、辛うじてそうだと思える者も、年月の経過によって酷く汚れている。人の手(というより、妖怪の手)が離れて100年も経てば、そうもなるだろうという有様であった。

 

 外から見て想像は出来ていたが、その想像よりもずっと酷い。そっと袖口で鼻元を覆うが、それでも独特の臭気が鼻腔を突き抜ける。「……くっさい」続いて中に入って来たこいしが顔をしかめるのを横目に、霊夢は室内を見回した。

 

 ……室内も、外と同様に妖力が満ちている。こんな状態ならば、ひとまず野良妖怪の邪魔は入らないだろう。そう判断した霊夢は、ふわりと身体を浮かせると、館の奥へと飛ぶ。

 

 一拍遅れて、こいしが続く。さすがに、霊夢もここでは全力を出さない(出せないわけではない)ので、こいしでも余裕を持って付いて行ける。それ故か、少ししてから、迷いなく館の中を進む霊夢にこいしが声を張り上げた。

 

「ねえ、霊夢! いったい何処へ行こうとしているの?」

 

 ――何処へ向かうのか?

 

 そんなのは、ここに向かうと決断した時にはもう、決まっている。

 

「紅魔館の地下にある、大図書館よ!」

 

 そう、霊夢は答えたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……悪魔が住まう館として怖れられている……いや、違うか。霊夢の知る限りでは怖れられていたらしい紅魔館だが、実はそれ以外にも、幻想郷唯一といっても過言ではないものが一つある。

 

 

 それが、紅魔館の地下にある大図書館だ。

 

 

 しかも、この大図書館はただの図書館ではない。どういう原理でそうなっているのかは霊夢も知らないが、この図書館は……文字通り、増大するのだ。部屋の大きさも、書物の数も。

 

 曰く、外の世界にて忘れ去られた書物が、この図書室に入ってくるのだとか。

 

 忘れ去られるというのは、そのものずばり、人々の記憶から忘れ去られてしまった書物や、人の手から離れて行方知れずになった書物、捨て置かれてしまった書物などだ。

 

 故に、その敷地面積は広く、天井の高さも相当に広い。魔法によって空間そのものが広げられているだけあって、上の館よりもずっと広いのではないかと思えるほどである。

 

 その図書館の印象は、世界中の書物が無造作に放り込まれた場所、であろうか。大小様々な本棚には、これまた大小様々な書物が無造作に、かつ隙間なくびっしりと詰め込まれ……いや、本棚だけではない。

 

 並べられた本の上に、横向きに乗せられているもの。本棚の上にどかどかと乗せられた本もあれば、本棚の傍にて山積みされた本の山もあり、表紙に立て掛ける形で押し込まれた本も……見渡す限り、全てが本ばかり。

 

 蔵書の拘りは、特にない。ティーンに好まれる恋愛小説もあれば、学者が目を剥くような貴重な書物もある。勧善懲悪が主題の冒険劇もあれば、子供には早い官能小説や、誰かの直筆ポエムまである。

 

 例えるなら、本のごった煮。そう表現するしかない光景……それが、霊夢の知る大図書館であり、霊夢が記憶している紅魔館のもう一つの顔であった――のだが。

 

「……何も無いね」

 

 寂れた空間に響く、こいしの呟き。がらんとした空っぽの室内を見回した霊夢は……深々と、ため息を零した。

 

 紅魔館の地下、大図書館があるはずのそこには、何も無かった。有るのは、空っぽの本棚だけ。見渡す限りの本棚全てが空洞で、本が一冊も入っていない。場合によっては床に転がっていることすらあった本が、何一つない。

 

 札の光を動かして、遠くを見やる。高さや広さ自体は、記憶に残っているソレとほぼ同じだろうか。しかし、それだけ。けして明るくはなかったが、どこそこに気配が有ったかつての面影が……ここには、全く残っていない。

 

 

 ――やはり、『岩倉玲音』は明確な意図を持って行動している。

 

 

 寒々しさすら覚える光景を前に、霊夢は……内心にて舌打ちを零した。というのも、だ。これまで、霊夢は『岩倉玲音』という存在に対しては、漠然とした認識の中でいたからだ。

 

 何せ、霊夢が負傷した時よりこれまで、『岩倉玲音』は一切の反応を見せていない。古明地さとりの件がソレに当たるのかもしれないが、その目的が不明であったし、当のさとりも『岩倉玲音は無害』と話していた。

 

 こいしの為にも一刻も早く行動に移したいとは思っていたが、目の前の問題を無視出来ない。仕方がないと思って、ひとまずは横に置いておいても問題ないと霊夢は判断していた。

 

 

 ――だが、違った。判断を、誤ってしまった。

 

 

 『岩倉玲音』は、自らの元へ至る可能性を潰したのだ。おそらく、図書館にはあったはずだ。さとりが残した『ワイヤード』という言葉の詳細が記された本が……でなければ、こんなタイミングで大図書館を隠滅される理由がない。

 

 この大図書館は、幻想郷内では数少ない外の情報を入手出来る場所である。故に、ここを抑えられれば最後、外の情報を知る手段が一気に限られてしまう。その役割故においそれと外の世界に出られない霊夢からすれば、『岩倉玲音』への手掛かりをほぼ抑えられたに等しい状態であった。

 

 

 ――なによ、さとりのやつ。害意が無いだなんて、よく言えたものだわ。

 

 

 内心にて、霊夢は首を横に振った……直後、あることを思い出した霊夢は、空っぽの図書館を進んだ。後に続くこいしが気味悪そうに室内を見回していたが、霊夢は構うことなく『勘』に任せて足を進める。

 

 確証は、まだない。しかし、棚があるのだから、何十年以上も前に本がここに有ったのは間違いない。ここに本が有ったのであれば、おそらくは主が滅びる何十年も前には実在していたはずだ。この図書館の主……『パチュリー・ノーレッジ』という名の魔女が。

 

 

 ……『パチュリー・ノーレッジ』。愛称は『パチェ』、渾名は『紫もやし』。

 

 

 紅魔館の主であるレミリア・スカーレットの古い友人である彼女は、魔法という分野において、幻想郷随一といっても過言ではない。肉体的な虚弱という致命的な弱点を除けば、その知識量は霊夢の友人である魔理沙では足元にも及べない存在である。

 

 しかし、彼女には肉体的な弱点とは別の、傍から見れば弱点としか言いようがない疾患を抱えている。それは、例えるなら本狂い……そう、生粋の本狂いにして知識の中毒者というのが、パチュリー・ノーレッジのもう一つの顔である。

 

(確か、食べることも寝ることも魔法で賄って、その分の時間全てを、知識を得ることに費やしていたはず……なら、何処かに残しているはず……!)

 

 そんな彼女が、知識の集大成であり、思想の具現化でもある本を放置したり破棄したりするだろうか……いや、有り得ない。別の場所に本を移動することはあっても、本を破棄するようなことはしないだろう。

 

 何せ、本が破損しないよう一つ一つに防御魔法(大妖怪ですら破壊するのに手こずるぐらいの強固なやつ)を施すようなやつだ。破棄するしかない状況であったとしても、最後まで抵抗したはず。

 

 

 それならば……残しているはずだ。

 

 

 この図書館の何処かに、あるいは魔法的な空間に、パチュリーが溜め込んでいた本が有るはず。全てではなくとも、これだけは死守しなくてはという重要なやつだけは残されているはず。

 

 己の『勘』も、それが異変解決へと至る手掛かりであると訴えている。故に、霊夢は迷うことなく進む。己の内にある『勘』というあやふやでありながらも確固たる確信に心を委ね、ただ前を向く。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、どれほど室内を歩き回ったのか。それは、霊夢は当然の事、後に続くこいしにも分からない。空っぽの図書館の中を、何をするでもなく、ぐるぐる歩き回っているだけでしかない二人の姿は、傍目からみれば異様に見えたことだろう。

 

 実際、『勘』を頼りに進む霊夢は別として、後を付いて行くしかないこいしからすれば、霊夢の行動は異様でしかなかった。けれども、こいしは何も言わなかった。

 

 是非はともかく、霊夢の『勘』だけは何よりも信頼が置ける。だからこそ、不思議には思いつつも、こいしは文句一つ零すことなく霊夢の後を追いかけ続けた……と。

 

「……?」

 

 かれこれ、同じ場所を7度回った頃だろうか。もうすぐ8度目になろうかとしていた辺りで、こいしは足を止めた。その視線は霊夢ではなく、傍の本棚……立ち並ぶそれらの内の一つに、ぽつんと横向きに置かれた……一冊の本へと向けられていた。

 

 

 ……あんな場所に、本なんてあったかしら?

 

 

 というか、本が残っていたのね。そんなふうに、ある意味では失礼なことを考えつつ、小首を傾げながらも好奇心のままに駆け寄って、本を手に取る。

 

 大判サイズのそれに背表紙はなく、表紙にはタイトルが……何だろうか。こいしの語彙には存在していない文字が、二行に渡って記されていた。

 

「――どうしたの?」

「ここに本が有ったの」

「……ここに?」

「うん、ここに」

 

 気付いて戻ってきた霊夢に、こいしは見たままを伝えた。「……ここに有ったかしら?」こいしと同じく、霊夢は首を傾げながらも本を受け取る。次いで、呪い等がないことを確認してから、ぱかりと本を開く……と、そこには、大きな矢印が描かれていた。

 

 

 ……矢印?

 

 

 目次があるべき場所一面に描かれた矢印を前に、霊夢は目を瞬かせた。「ええ……?」横から覗きこんでいたこいしも、困惑の目を本に向ける。こいしにも見えるようにページを捲ってみるが、矢印以外は全て白紙であった。

 

「……」

「……」

「……」

「……あ、矢印が動いてる」

 

 果たして、この矢印に何か意味があるのだろうか。しばし矢印を見やっていた二人だが、それに気づいたのはこいしの方が早かった。言われて確認した霊夢も、なるほど、と頷いた。

 

 どうやら、この矢印。本の向きとは別に、常にとある方向を指し示しているようだ。気になった二人は、矢印の指し示す方へと歩き、時には飛んで本棚を乗り越え……1冊目と同じ造形の、2冊目の本を見つけた。

 

 2冊目が有った場所は、既に何度か傍を通って確認した場所である。つまり、見落としていなければ、今になって突然出現したというわけだ。

 

 とりあえず、1冊目の本をこいしに持たせると、霊夢は一冊目と同じ要領で2冊目の本を開いた。

 

 すると、そこにも矢印であった。1冊目と同じく矢印は同じ方向(ただし、1冊目とは方向が異なる)を示し、それ以外は何も記されていない。

 

 

 これは……間違いない。パチュリーが残したものだ。

 

 

 そう判断した霊夢たちは、逸る気持ちを抑えて次の本へと向かった。幸いにも、本を守る為の防衛機能は無いようだ。3冊、4冊、5冊と、君の悪さを覚える程にスムーズに矢印の本が増えてゆき、気付けば本の総数は12冊になっていた。

 

 そうして、13冊目。こいしの小さい両手では抱えきれなくなった(重いのではなく、物理的に前が見えなくなる)本を幾つか抱えた霊夢は、図書館の中央にて、床にポツンと置かれてあったその本を手に取った。だが、13冊目にして霊夢は……おや、と目を瞬かせた。

 

 何故ならば、13冊目の本には何も記されていなかったからだ。表紙にこそ読めない文字が数行記されてはいるが、それだけ。これまであった矢印もなく、有るのは黄ばんだ白紙だけで、それ以外には何も無かった。

 

「何も無いね」

 

 横から覗き込んでいたこいしが、つまらなそうに呟いた。

 

「……いえ、違うわ。何か、ある」

 

 けれども、霊夢は違った。どういう事と小首を傾げるこいしを他所に、霊夢は無言のままに辺りを見回し……ふと、その視線が足元へと降りる。「――これだわ」その言葉に、こいしも足元を見やり……おお、と目を見開いた。

 

 今の今まで気づかなかったが、床には長方形の枠が13か所あった。床の色とほぼ同じ色のそれは、目を凝らしても分からないほどに僅かな違いであり、この矢印の誘導が無ければまず気づかないであろうぐらいの微細なものであった。

 

 本の数が13冊。枠も13個。なるほど、ここに本を置くのか。「それじゃあ、置いていくよ」早速、こいしはこれまで手に入れた本を並べていった。もちろん、枠からずれないように気を付けながら、13冊全てが枠の中へと収まった……のだが、しかし。

 

 

 変化は、何も起きなかった。

 

 

 これには、霊夢もこいしも首を傾げた。特に、並べたこいしの方はより強く不思議に思ったようで、「……向きが、あるのかな?」本を裏返したり、向きを変えたりと色々と形を変えてみたが、それでも何の変化も起こらなかった。

 

「……本の並びが違うのかもしれないわね」

 

 それを見て、霊夢はぽつりと零した。次いで、霊夢は本の並びを変えてゆく。ヒントは、全くない。何となく、おそらくは、という程度の直感を『勘』に委ねて、一つ一つの本の並びを変えてゆき……そして、本の位置を9回取り替えた、その瞬間。

 

 

 ――本の表紙に記された文字が、一斉に光を放った。

 

 

 突然のことに、霊夢たちは思わずその場より飛び退いた。光は治まる気配はなく、瞬く間に霊夢が用意した札の光よりも強くなる。遂には目を開けるのが難しいぐらいにまでなった辺りで、全ての本が勝手に開かれた――直後。

 

 『――初めまして、博麗霊夢』

 

 13冊の本から一斉に放たれた光が、一点へと収束する。その瞬間、光はぐにゃぐにゃと形作ったかと思えば、次にはもう……向こう側が透けて見える半透明の少女――霊夢の記憶の中にあるレミリア・スカーレットが、そのままの姿でそこに現れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――一目で、霊夢は眼前にて優雅に佇むレミリア・スカーレットが実体ではないことに気付いた。いやまあ、向こう側が透けて見えるあたり傍目から見てもそうなのだが、霊夢の目に止まったのは、その姿を構成するそのものであった。

 

 言うなればそれは、受け答えが出来る、限りなく本人に近づけた立体映像。魔法で生み出された、本人の分身ともいえる存在を前に、霊夢はしばし目を瞬かせた後……深々と、ため息を零した。

 

「初めまして、レミリア・スカーレット。ところで、あんたは100年ぐらい前に滅んだらしいレミリアなの? それとも、私が知る――」

『ほぼ、あなたの知るレミリア・スカーレットと思ってもらって構わないわ』

「……ほぼ?」

『あなたの知るレミリアと、私とを結びつける絶対の証拠なんてものは現時点で存在し得ないからよ。まあ、私のベッドで一夜を共にすれば、まだるっこしい諸々なんて吹き飛ばす根拠を見つけ出せるでしょうけど……どう、今夜あたり?』

「……当たり前のように私を同性愛好にするなと前にも言ったでしょ。前にも言ったけど、そういう冗談は好きじゃないわよ、私はね」

『好きじゃないからこそ、言うのよ。嫌そうに顔をしかめるのを眺めるのは、悪魔の本懐。特に、博麗の巫女の顔が嫌悪に歪む様は見ていて愉快極まりないもの』

「あんた、諸々が終わったらいっぺん〆るから覚悟しておきなさい……!」

 

 霊夢の怒声に、レミリアはけらけらと笑った。それ自体は、霊夢も薄々と想定していたのだろう。「でもまあ、そんだけ減らず口を叩けるなら安心したわ」たいして、驚いた様子を見せなかった。

 

 

 霊夢が驚かなかった根拠は幾つかある。

 

 

 例えば、レミリアが博麗霊夢のことを知っていたということ。わざわざこんな仕掛けを用意していたということ。そして、その仕掛け自体が……霊夢の『勘』が無ければまず辿り着けないような代物であったからだ。

 

 おそらく、この仕掛けは『特定の場所を特定の回数、特定の順番で通過する』というものなのだろう。確証はないが、そうであるという漠然とした確信が、霊夢にはあった。無論、確信の担保は『勘』である。

 

「……で、一体全体どういうこと? まさかとは思うけど、あんたが仕出かしたことじゃないわよね?」

 

 相手が実体ではなく魔法である以上、時間の制限がある。はっきりいえば、無駄なお喋りをする猶予はない。なので、一息分の間を置いてから、霊夢は単刀直入に切り込んだ。

 

『いいえ、私じゃない。そもそも、私にそれを行う利点が皆無だもの』

「それじゃあ、この有様はなに? あんたぐらいのやつなら、誰がやったかぐらいの検討は付いているでしょ」

『もちろん、付いているわ』

「それは、誰よ」

『それは――『岩倉玲音』。そう、『岩倉玲音』という名の女の子よ』

 

 レミリアの方も、同じ認識なのだろう。霊夢の知るレミリアは回りくどく長ったらしい言い回しや、気障で尊大な口調で煙に巻くことを楽しげにする節があったが、この時ばかりはそういった様子は微塵も見せなかった。

 

「――っ! やっぱり、そいつか……!」

 

 だから、霊夢はレミリアが発した彼女の名を……ただ、そのまま受け取ることが出来た。やはり、全てがそいつに繋がっている。欠けていた確証が得られたことに、霊夢の胸中にて渦巻いていた怒りが、にわかに噴き上がり始めた。

 

『勘違いしないで、霊夢。根本は彼女かもしれないけど、彼女自身が何かをしたというわけじゃないわ』

「――は?」

 

 だが、それもすぐに鎮火した。(おそらくは被害を受けたであろう)レミリア自身から差し向けられた水を真っ向から浴びる形となった霊夢は、困惑に目を瞬かせた。

 

『不思議に思う気持ちも分かるわ。私たちも、自分が消え去るこの瞬間になって、ようやく少しばかり理解出来たことだもの』

 

 それを見て、レミリアは半透明の苦笑を零した……いや、待て。

 

 思わず、霊夢は己の頭を叩いた。今、レミリアは何と言った。自分が消える、消え去る……私たちが……え、消え去る?

 

『――私たちのことはいい。必要で重要なのは霊夢、あなたの今後であり、幻想郷の今後についてよ』

 

 理解が脳裏を巡って、臓腑へと染み渡ったと同時。口を開いてそれらを問い質そうとした瞬間、全てを遮るように発せられたレミリアの言葉に……気付けば、霊夢は唇を閉じていた。

 

『はっきり言うと、霊夢……何時になるかは分からないけれど、もうすぐ幻想郷は確実に崩壊するわ。私が見た運命の全ての末路が、そうだった』

 

 それが、この場においては正解だったのかもしれない。出なければ、霊夢はしばらく笑い話のネタに利用されそうなぐらいの、変な声を出していただろう。それぐらいの驚愕と困惑が、霊夢の心を振り回した。

 

 

 ――どうしてか?

 

 

 それは、『運命を操る程度の能力』を持つレミリアが語ったから。加えて、霊夢の知るレミリアは、この手の嘘を嫌う。吸血鬼としての誇りを大事にする彼女が、この手の性質の悪い嘘を言うとは微塵も思えなかったからだ。

 

 ぐらりと、目の前の視界が揺らぐ。「――っぶない!」傍のこいしが寸でのところで支えなかったら、その場に尻餅を付いていただろう。すぐに我に返りはしたが、それぐらいに霊夢のショックは大きかった。

 

 反射的に、霊夢は己の腕を掴んでくれているこいし……ではなく、その後ろへと向いた。気づいたこいしが、そちらに目を向ける。少しばかり目線が上へと向けられた先にあるのは……何も無い空っぽの空間だけであった。

 

 いったい何を見ようとしたのか……気になったこいしが視線を戻すのと、霊夢が自身の頬を叩いて喝を入れたのが、ほぼ同時であった。

 

 思わず、こいしは目を見張った。何故かといえば、それを行ったのが博麗霊夢であったからだ。

 

 人間が、気力を出す為にあえて痛みを自身に与えるという行為自体は、こいしも知っている。だが、天上天下唯我独尊を地で行く霊夢がそれをするのは初めてで……どうしていいか分からず、こいしは黙って霊夢を見つめるしか出来なかった。

 

『……大丈夫? 本当はあなたが呑み込めるようゆっくり話を進めたかったけど、術の関係上そう長くは出来ないのよ。悪いけど、話を進めさせてもらうわよ』

「……心配しなくていいわよ。少し驚きはしたけど、私は博麗の巫女。素敵で暢気な巫女さんが、これぐらいで驚いていたら仕事になんないのよ」

 

 薄暗がりの中でも分かるぐらいに青ざめた頬は張り手を受けてほんのり赤くなっている。けれども、震える唇は隠しきれていない。只の強がりであるのは、誰の目から見ても明白であった。

 

『そう、それなら続けましょう。今しがたも話したけど、幻想郷の崩壊はもう確定してしまった未来。多少のズレこそあるものの、最も遅くなったとしても……来年の春を迎えることは出来ないと思ってもらっていいわ』

 

 しかし、レミリアはそれに触れるようなことはせず、話を進めた。

 

『ズレが起こる理由は、単にあなたの存在。博麗霊夢、貴女が選択を誤れば誤るほど、最後の時が近づくということよ』

「……私が? 私が間違えると崩壊するの? 崩壊に至るだけの異変を起こすって、いったい誰がそんなことをしたのよ」

『異変は、あくまで副次的なものよ。幻想郷が崩壊する直接的な理由は、『博麗大結界』が崩壊し、内と外との境界が維持できなくなったからよ』

「――え?」

 

 一瞬、霊夢はレミリアの言葉を理解することを拒否した。一拍置いてから、徐々にレミリアの言葉を認識なるに連れて……霊夢の目がまん丸に見開かれていった。

 

 

 ――有り得ない。率直に、霊夢は思った。

 

 

 博麗大結界は、この幻想郷を支える屋台骨といっても過言ではない。その結界を構成する術式は、紫を始めとした賢者たちと、初代博麗の巫女が総力を結集して作り出したものだ。

 

 加えて、博麗大結界自体に、八雲紫の手で何重にも渡る別の結界が張られ、博麗大結界は守られている。その強度と来たら大妖怪たちが結集して事に当たっても破られない程であり、個々人でどうにかなるものではない。

 

 結界そのものが不安定になることはあっても、結界そのものは不変。歴代最強と言われている霊夢ですら、結界をある程度操作することは出来ても、破壊することは出来ないのだ。

 

「――あんたは、私に何を伝えたいの?」

『……さあ、私にも分からない』

「はあ?」

『何を伝えれば良いのか、何を伝えては駄目なのか、それが分からないの』

 

 だからこそ、霊夢はまず気になる点を尋ねていた。しかし、レミリアはすぐには答えなかった。眉間に皺を寄せ、解れた糸を少しずつ手繰り寄せるかのような……あやふやとした口調であった。

 

『そうね、貴女を助けたいとは考えているわ。貴女を助ければ、必然的に咲夜たちも助けられるから……でも、何をすればいいか分からない。何が正しくて、何が間違っているのか……それすら、私には分からない』

「……あんた、何のためにこんな回りくどい方法にしたのよ」

 

 まるで意図が読めない。そう暗に呟く霊夢に……レミリアは、困ったように小首を傾げた。

 

『霊夢は……私の能力の事は知っているわよね?』

「『運命を操る程度の能力』でしょ。それが、どうかしたの?」

『運命を操る……じゃあ、運命ってそもそも何なのか。何を持って運命と指し示すのか、そこらへんは知っているかしら?』

 

 言われて、霊夢は考え……おもむろに、首を横に振った。

 

『運命というのは、一言でいえば『枝分かれした世界の一つ一つが、極点へと至るまでの道筋』のこと。私が出来ることなんて、極点に至るまでの道を幾つか読み取り、誘導するのが限界なのよ』

「……どういう意味?」

『未来は無限に生まれ、そして一つへ……極点へと収束する。例えるなら、入口と出口が一つずつある巨大な迷路みたいなものかしらね。私が出来るのは、迷路の途中で幾つか案内板を立てて誘導する程度のものよ』

「……つまり、朝起きてから夜寝るまでが運命全体だとしたら、朝食を白米にしようがパンにしようが大した違いはなくて、みんな最後にはウンコになる。そんで、あんたは朝食に何を出せるかを選べる……という感じかしら?」

『……まあ、だいたい合っているわね』

 

 分かったような、分からないような。そう、目線と言葉で訴えれば、『そんな例えを出すあたり、実に貴女らしいわ』レミリアは苦笑を零し……不意に、視線を鋭くした。

 

『はっきり言いましょう。貴女がいる先の未来にて待ち受ける極点。つまり、博麗大結界が崩壊した理由は、博麗霊夢……あなたの死が引き金よ』

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………え?

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………え、え?

 

 

「……私が?」

『ええ、そうよ。貴女の死が引き金になったわ』

 

 

 己の死が、崩壊の原因。

 

 

 そう言われた霊夢は、特に驚きを示すことなく平静を維持したままであった。いや、それは平静というより、驚き過ぎて感覚が麻痺しただけなのかもしれない……が、どちらにしろ、霊夢の反応は、深々と零したため息だけであった。

 

「……どうなって、私が死んだの?」

『客観的事実だけを挙げるのならば、自殺よ』

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………は?

 

 

「え、冗談でしょ?」

『冗談じゃないわよ。私が認識出来る全ての運命の中で、貴女は一度の例外もなく自殺しているのよ』

「……私が? よりにもよって、私が自殺したの?」

 

 自分が言うのも何だが、霊夢は他者よりも少しばかり自身が図太い性格かもしれないと思っていた。だからこそ、にわかには信じ互い話だ。

 

 そう暗に訴えたが、『こんな時に、こんな嘘を付くわけないでしょ』レミリアは一言で切って捨てた。まあ、そうだろうなあ、と。自分で口にしていながら、同感だと霊夢も思った。

 

 

 いや、しかし、自殺と来たか。思わず、霊夢は困惑に首を傾げた。

 

 

 というのも、だ。霊夢は、博麗の巫女である。そのことを後悔してはいないが、自分が碌な死に方をしないであろうことは覚悟している。何故なら、妖怪たちにとって博麗の巫女は妖怪の天敵であり、それは絶対不変の事実であるからだ。

 

 いくら博麗の巫女が公平な天秤を語っているとはいえ、その拳が向けられる先は圧倒的に妖怪が多い。元を正せばルールを破る妖怪側に非が有るのだが、妖怪たちからすれば知った事ではないのだろう。

 

 故に、博麗の巫女の最後はだいたいにして妖怪退治の最中に命を落とすのが、ある種の通例となっている。

 

 事実、霊夢の先代に当たる巫女も、妖怪退治の際に負った傷が原因で命を落としている。そのまた先代も同様の理由で命を落とし、その前の巫女にいたっては、無理が祟ったこともあって二十半ばで命を落とした。

 

 それほどに、博麗の巫女という立場は苛酷なのだ。それは、歴代最強と謳われている霊夢も知っている。だから、いずれは自分も似たような理由で命を落とすだろう……そう、考えていた。

 

「……どうして私が自殺したの? 言っては何だけど、自殺するような立場になったら、とりあえず知り合い全員を殴って憂さ晴らししそうな気がするんだけど?」

『どうしてか、その理由は私にも分からない。私が見えるものなんて、所詮は断片的な物でしかないから……でも、自殺する際、パンを選んだ貴女も白米を選んだ貴方も、同じことを呟いていたわ』

 

 

 ――これでは足りない。

 

 ――これでは辿り着けない。

 

 

『そう……呟いていたわ。他にも色々と呟いているようではあったけど、凄く取り乱しているみたいで……私に視えて、聞き取れる言葉はこれだけだったわ』

 

 ため息と共に告げられた二つの言葉に、霊夢は……眉根をしかめて思考を巡らせる。

 

 

 これでは足りない、辿り着けない……いったい、どういう意味なのだろうか?

 

 

 それに、レミリアが口にした『岩倉玲音』のことも気に掛かる。

 

 レミリアも……そう、さとりも同じことを口にしていた。『玲音には悪意も害意もない』、と。だが、さとりもレミリアも、全くの無関係ではないとは……いや、待て。

 

(そういえば、さとりのやつ……岩倉玲音は私たちの中にいるとか何とか話していたわね)

 

 不意に、霊夢の脳裏を過ったのは、さとりの言葉であった。

 

 あの時、さとりは『岩倉玲音』について幾つか語っていた。あまりに様子がおかしく、非常に断片的な言い回しだったから気に留める程度に考えていたが……今にして思えば、アレは非常に重要なことだったのではないだろうか?

 

(私たちの中にいる……仮に、『岩倉玲音』が私の中にいるとしたら、未来の私が自殺する理由は想像出来る。おそらく、その時の私は自分の命と引き換えに『岩倉玲音』を討伐しようとしたんでしょうね) 

 

 だが、そうなれば腑に落ちない点が生まれる。仮説が事実であるとすれば、どうして未来の己は足りない、辿り着けないなどと口にしたのだろうか……という点だ。

 

 正確な位置が分からなくとも、己の『勘』に命を預けることには何の躊躇いもない。それは、過去の己が保証する……だからこそ、分からない。何故、未来の己は取り乱したりしたのだろうか。

 

 己の霊力では討伐出来ない程に、『岩倉玲音』とは強大な存在なのだろうか。あるいは、まだ見つけていない真犯人が……それとも、己の『勘』を持ってしても逃げられてしまう程の逃げ足の速さを持つのだろうか。

 

 あるいは、もっと別の……止めよう。考えてみるが……駄目だ、さっぱり分からない。

 

 元々、霊夢は難しい事を考えるのが嫌いだ。(苦手ではなく、嫌いなだけ)こういうのは、『勘』に任せるに限る。ヒントも無しに考えるのは後にしようと判断した霊夢は、他にはないかとレミリアを見やり――。

 

「……ピー、ガー……ピー、ピー、ピー……ピー、ピー、ガー……」

 

 ――瞬間、背後より聞こえたこいしの声に、ギョッと目を見開く。振り返った霊夢の目に映ったのは、胡乱げな眼差しで虚空を見つめる……あの日あの時、さとりの前でそうなった時と同じ状態になった、こいしの姿であった。

 

 

 

 

 

 

 

 霊夢を最強足らしめる最大の要因は、神の領域に達した『勘』の良さと、その身に宿る膨大な霊力……と、あと一つ。それは、その『勘』を受けて忠実に反応出来る、圧倒的な反射能力である。

 

 時間にして、0.001秒。

 

 意識的にしろ、無意識にしろ、そうしなければならないことを認識した霊夢の反応速度は、人のソレから大きく外れる。そして、この日この時も……霊夢の反応疎度は、もはや光速に等しかった。

 

「――はぁっ!」

 

 一言でいえば、それは爆発である。しかし、ただの爆発ではない。霊夢を中心にして放たれた、気合一閃の霊力。その威力はミサイルの直撃にも等しく、悪意ある者が受ければ即座に昏倒……あるいは即死するほどの威力であった。

 

 ……が、しかし。

 

 霊夢が放った攻撃は、空振りに終わった。言うなれば、手応えというやつがなかった。館を越え、周辺にまで広がった霊力に接触した感触が、ない。逃げたのかと思ってこいしを見やる……も、こいしの様子は変わっていなかった。

 

 焦点の合わない瞳は虚空を見つめ、半開きの唇からは涎が滲んでいる。ピーガーと抑揚なく呟かれる言葉は変わらず、フラフラと揺れ動くその様は、今にもその場に崩れ落ちて眠りそうなほどに力がなかった。

 

「こいし! 起きなさい!」

 

 急いで駆け寄った霊夢は、こいしの頬を何度か張った。けれども、こいしの反応は変わらない。肩を揺さぶってみるも、ぐらぐらと前後左右に頭が揺れるだけで、こいし我に返る素振りは全く見られなかった。

 

 

 ――仕方がない。

 

 

 判断した霊夢は、次いで、こいしを守る様に守護結界を張る。今のこいしでは、まともに逃げることも出来ない。最悪、こいしだけでも無事でいられるようにした霊夢は――そこで、ようやくレミリアの異変に目を止めた。

 

『……そうか、そうだったのね。『岩倉玲音』、あなたはそこにいたのね』

「――っ、レミリア? 何か分かったの?」

『分かった……ふふふ、そうね、分かったわ。分かってしまった……ああ、何てことかしら、分かりたくなかったことを分かってしまったわ』

 

 

 分からないままでいたなら、まだ希望が持てた。

 

 

 誰に言うでもなく呟くレミリアは、いったい何を見たのか。あるいは、何に気付いたのか。訝しむ霊夢の視線に晒されたレミリアの顔には、諦観の二文字が浮かんでいた。

 

 こうまで力無くうなだれるレミリアは、初めて見る。不穏な状況の最中ではあったが、霊夢は呆気に取られるしかなくて……ちらりと、レミリアより向けられた視線に、霊夢は我に返った。

 

『咲夜には、もう会ったかしら?』

「……咲夜なら、ここに来る前に会っていたわよ。何がどうしてそうなったのかは知らないけど、阿求のとこで働いていて……美鈴と一緒にいるって話していたわよ」

『そう……良かった。幸せにしているのならば、もう未練はない』

 

 霊夢の言葉を聞いて、レミリアは一つ、二つ、深々と頷いた。その直後、レミリアの足元から淡い光が煙のように現れる。それは、レミリアの術が終わろうとしている証であった。

 

 何かしらの攻撃で魔法が破れたわけではない。その身を構成する魔力が底を尽いたわけでもない。ただ、魔法の行使をレミリアが止めたのだ。事実としてはそれだけのことだが、それに驚いたのは……霊夢であった。

 

「――待ちなさい! なに一人で納得して満足してんのよ! 分かったこと、視えたこと、全て教えなさいよ!」

『教えたところで意味はない。いえ、知らない方が幸せなこともある。今だから、分かる。全ての事象から浮くことが出来る貴女だからこそ……ああ、でも、それでも足りない』

「何がよ! 何が足りないって言うのよ! さとりも、あんたも、肝心なことをはぐらかさないでちょうだい!」

 

 口調が荒くなるのを、霊夢は抑えられなかった。けれども、それは致し方ない。『岩倉玲音』へと通じる手掛かりが、途絶えようとしているのだ。さすがの霊夢も、焦るなというのが無理な話であった。

 

『彼女は、無意識の中を揺蕩う存在。そこで涎を垂らしている娘も無意識を操るようだけど、彼女はそんなチャチな存在じゃない。私たちではけして届かない、人々の無意識の海辺を歩き、何処にでもいて、何処にもいない、無限であり、唯一でもある存在』

「それが、『岩倉玲音』だと?」

『彼女を認識することは出来ない。でも、彼女は常に私たちの中にいる。私たちが彼女を認識する前から……いえ、私たちが生まれるずっと前から、おそらく彼女は私たちの中にいたのかもしれない』

 

 まるで蝋燭のように、レミリアの身体が徐々に光へと溶けてゆく。魔法を習得していたなら、押し留めることが出来たかもしれないが……もう、手遅れだ。

 

「――ワイヤード! そう、『ワイヤード』よ! あんた、『ワイヤード』が何なのかは知っているの!?」

 

 

 だから、せめてコレだけは。

 

 

 そう思って、霊夢は声を張り上げた。滅多に見せない必死な反応に、レミリアは少しばかり驚いたかのように目を瞬かせた後……『パチェが調べた限りでは、だけど』と、前置きを置いた。

 

『『ワイヤード』という言葉自体の意味は、『繋がれたもの』らしいわ。でも、パチェ曰く、ワイヤードというのはただの言葉ではなく、もっと広大で……それでいて薄っぺらい世界のことらしいわ』

「薄っぺらい?」

『詳しくは私にも分からなかったけど、パチェはそう話していたわ。付け加えるなら、私たちが居るこの世界も似たようなもので、ワイヤードも幻想郷も……外の世界すらも、それらを隔てる壁は私たちが思うよりもずっと脆いものらしいわ……ああ、霊夢。どうして、貴女だけが……』

 

 

 貴女だけが……苦しみ、思い悩み、変えられない絶望に喘ぐことになるのか。

 

 

 この世界を真の意味で司る神がいるのならば、何と、惨いことをするのか。

 

 

 幼き子よ。八十の年月を生きられぬ短命な人間よ。どうか、その悲しみをここへ置いて行け。その絶望を、私に預けて行け。

 

 

 残酷な神よ。私はお前を恨むぞ。どうして、破滅を残す。どうして、彼女にだけ全てを残す。その苦しみが、何故分からぬ。

 

 

 天使も悪魔も、全ては人々が作り出したもの。では、お前は誰が作ったというのだ。お前は、ただ見つめる為だけに生まれたとでも――言う――の……。

 

 

「……レミリア」

 

 ポツリと、霊夢の唇が吸血鬼の名を呼んだ。けれども、伸ばされた霊夢の指先がレミリアの輪郭に触れることすらなかった。何故なら、霊夢が呟いた時にはもう……レミリアの姿は、どこにも無くなっていたからだ。

 

 

 ……いや、無くなったのは姿だけではない。

 

 

 視線を下ろせば、床に並べていた本が一冊も残らず消えている。振り返れば、変化がないのは、こいしだけ。無造作かつあれだけ並んでいた本棚も消え去り……正しく、廃墟と呼べる光景が霊夢の眼前には広がっていた。

 

 床も、壁も、さっき以上にぼろぼろになっていた。天井も無くなっていて、見上げれば夜空に浮かぶ満月が見える。気づけば、館を中心にして渦巻いていた妖気も消え去っている。それを感じ取った霊夢は、その瞬間……ここが、本当の意味で廃墟になってしまったことを悟ってしまった。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………何だ。いったい、何だというのだ。

 

 フッと、唐突もなく胸中より湧き出て来たのは、恐怖でもなければ不安でもなく……怒りであった。ピー、ガー、と発し続けるこいしを横目に、霊夢は苛立ちを隠さず地団太を踏む。溜め込んでいた鬱憤が爆発し始めるのを、霊夢は抑えられなかった。

 

 考えてみれば、こうまで長引く異変というのは、霊夢にとっては初めての経験である。

 

 これまで、霊夢が直面した『異変』は全て、短時間で解決出来た。短ければ数時間、長くて一夜のそれらを前に、霊夢は常に最短で解決へと異変を導いてきた。

 

 手掛かりがなくとも、『勘』を頼りにすれば解決した。一度目はハズレでも、二度目、三度目とぶち当たって行けば、だいたい五度目か六度目ぐらいで本丸へ……というのが、霊夢の知る異変の常であった。

 

 

 なのに、今回はそうならない。何から何まで、やられっぱなしだ。

 

 

『勘』は、変わらず働いてくれている。今が『異変』の最中であるのも分かっている。だが、それ以上へと進めない。何処へ向いても道が見えず、何処へ進んでも気付けば元の場所に戻されている。レミリアの言葉を借りるわけではないが、本当に迷路の中を歩いている気分にさせられる。

 

 何度も、何度も、霊夢は地面を蹴りつける。歴代最強の天才とはいえ、霊夢はまだ少女でしかない。感情の赴くがままに、霊夢はその身より膨大な霊力を夜空に向かって立ち昇らせた――その、時であった。

 

 

 

 

 

 

 

 不意に――そう、不意に、音が止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 あまりに唐突に止まったことを不審に思い、霊夢はこいしへと振り返る――つもりであったが、出来なかった。それはまるで、空気そのものが鋼鉄になってしまったかのようで……首どころか、指先一つ、目線一つ動かすことが出来なかった。

 

 ……まさか、攻撃されているのか。

 

 一瞬、脳裏を過った考えに霊夢の胸中は強張り……次いで、解れた。理由は、単純明快。信頼を置いている『勘』が、これは敵の攻撃ではないと伝えてきたからであった。

 

(……時間が、止まっている? いったい何が……コレか?)

 

 己の状況を、霊夢は瞬時に理解する。懐に入れっぱなしの、懐中時計。それは、咲夜より手渡されたやつで、今の今まで忘れ去っていた物。目線は向けられない分、意識だけがそこへ注がれる。

 

 おそらく、この時計が原因だ。『勘』が、そう告げている。

 

 どういう原理によって発動したのかは霊夢自身にも分からないが、身体より放たれた霊力が何らかの形で時計に作用した結果……霊夢の意識を除き、時間が止まってしまったようだ。

 

(……こういうことって、あるのね)

 

 あまりに予想外な事態が、沸騰しかけていた霊夢の怒りに文字通り水を差す形となった。ぷすぷすと怒りの熱気が抜けて行くに連れて、自然と霊夢の注意はこの状況へと向けられた。

 

 霊夢が驚くのも、無理はない。何故なら、普通は個々人が持つ能力を他者が使用することは出来ないからだ。

 

 『他者の能力を操る程度の能力』などを持っているとか、第三者が使えるように初めからそうしていたなら話は別だが……今回の場合は、たまたまそうなってしまっただけだろう。

 

 その証拠に、中途半端に発動した能力のせいで、身動き出来ない。と、同時に、こうして状況を再確認している今も、ガリガリと霊力が身体より削られ、時計へと流し込まれてゆくのを霊夢は知覚する。

 

 けっこう洒落にならない事態ではあるが、その点についてあまり気にしていなかった。時が止まっているのはあくまで偶発的なものなので、もう間もなく時が動き出すというのが、『勘』で分かっていたからだ。

 

 

 そんなわけで、平静を取り戻した霊夢は興味深そうに辺りを見回した。

 

 

 まあ、見回したといっても、視線を一つ動かすことが出来ないから、気配を探ったというのが正しいが……とにかく、霊夢の注意は自然と周囲へと向けられ、そうして改めてみると、ずいぶんと勝手が違う事が分かった。

 

 例えば、感じ取れる気配が違う。万物にはその物が宿している固有のゆらぎが有るのだが、それが凍りついたかのように固まっているのが分かる。

 

 けれども、止まっているわけではない。いや、表面的には止まっているのだが、その奥。根幹とも言うべき深奥だけは、絶えず動き続けているのが分かる。

 

 

 考えてみれば、何とも不思議な感覚だと霊夢は思った。

 

 

 全てが止まっているのに、全てが変わらず動いている。矛盾してはいるが、止まった時間の中でなければ霊夢であっても体感出来ない感覚であった。

 

『――そうさ、時間なんていうのは、あんたたちが考えている程絶対的なものじゃない。まあ、これは時間に限った話じゃないけどね』

(――えっ)

 

 故に、だからこそ。その瞬間、霊夢は何が起こったのか理解出来なかった。

 

『結局の所、万事がそう。コレだという指標が無ければ、それを認識することが出来ないぐらいの曖昧なものなんだよ』

 

 その言葉と共に、ぬぅっと視界の端から顔を覗かせたのは、一人の少女である。何故、その少女だけが動けるのか、それは霊夢には分からない。

 

 暖色色のセーターに、スカート。深々と被ったニット帽は毛糸で作られている。冬の時期であれば、幻想郷でもそう珍しくはない恰好をしたその少女は、止まった世界の中で、『――前にも言っただろ』どことなく気怠そうに霊夢と目線を合わせた……直後。

 

(――『岩倉玲音』!?)

 

 ようやく我に返った霊夢は、眼前の少女の名を呼んでいた。と、いっても、唇一つ動かせないので、霊夢の叫びは心の中に全て留まっていた……のだが。

 

『ちげーよ、ば~か。あたしはレインだ』

 

 玲音……いや、レインか。姿形や名前の読みは同じでも、少しばかり雰囲気というか、イントネーションが違う。口調は粗暴だが、思いのほか可愛らしい声色。けれども、霊夢の気を静めるには不十分であった。

 

(はあ? あんた、岩倉玲音でしょ? ふざけてんの?)

『ふざけてねーよ。私はレイン。あんたが作り出した、岩倉玲音の一つの形だよ』

 

 それがどうしたと言わんばかりに、レインと己を名乗ったその少女は、霊夢の声なき声に返事をすると、『はあ、まだそこなのかよ……』深々と……それはもう、深々とため息を零し……改めて、霊夢と目線を合わせた。

 

『見ちゃいられないね。あんたさ、何時までも目を逸らし続けてはいられないよ』

 

 

 ……こいつは何を言っているんだ。そう、霊夢は心の中で言い返そうとした。

 

 

『自分でも、分かっているでしょ。あんた、もうとっくに私たちの正体に気付いているんだ。でも、あんたは気付けない……いや、気付かない。目を背けて、気付かないフリをし続けている』

(何をいきなり……)

『だって、その方が楽だから。傷つかないで、済むから。でも、本当は分かっている。だからこそ、あんたは分からないフリをする。レミリア・スカーレットが憐れんだのは、何もあんたの未来だけじゃないんだよ』

 

 だが、続けられたレインの言葉に……霊夢は、何も言えなかった。ずどん、と胸中へと食い込んだ何かが、喉元を塞いでしまったかのような感覚であった。

 

『……あんたを見ていると、あいつのことを思い出すよ。あんた以上に不器用だけど、あんた以上に本当は優しくて、根の良いやつなんだ』

 

 言葉を失くす霊夢を前に、レインは何を想ったのだろう。何処となく憐れみすら感じ取れる笑みを浮かべると、そっと霊夢の頬を摩り……抓んだ。痛くは、ない。

 

『誰も傷つけたくなくて、誰も苦しませたくなくて、誰も悲しませたくないだけなのに、何時も傷つけ、苦しませ、悲しませてしまう。私の知るあいつは、何時も一人で抱えて苦しんでいたよ』

『自分がどういう存在なのかが分かって、自分が何の為に生まれてきたのかが分かって、何を求められ、何を望まれているのかを知って……そのうえで、取れる手段は二つ。選べるのは、どちらか一つだけ』

『あいつは、ただ仲良くなりたかっただけなんだ。大切な友達と、大好きな家族と、ただ一緒に過ごして、笑い合いたかった。あいつが欲していることなんて、たったそれだけのことだったんだ』

 

 ……いったい、彼女は何が言いたいのだろうか。声も出せず、指先一つ動かず、目線すらどうにもできない霊夢は、黙って彼女の言葉に耳を傾ける他、ない。

 

『巨万の富なんて、いらない。溢れかえる名声だって、欲しくない。何時だって、あいつは願っていた。頑張れば、友達が褒めてくれる。頑張れば、お父さんが喜んでくれる……ただ、それだけ』

 

 でも、それでも。霊夢は、彼女の……レインの言葉から、目を背けることが出来なかった。今にも耳を塞ぎたくて仕方がない……そう思ってしまう己が、霊夢は不思議でならなかった。

 

『――博麗霊夢。あんたも、あいつとおんなじ』

 

 だから……霊夢は、レインから投げかけられた言葉を、ただ受け止めることしか出来なかった。

 

『暢気に構えているのだって、本当は意気地がないだけ。友達が離れて行くのが怖くて、嫌われてしまうことに怯えて本音も出せなくて、ただ飄々としたフリが上手いだけ』

『あいつと違って表面的に取り繕うことは天才的に上手いけど、内面は筋金入りの引っ込み思案。一人でいるのが平気なんじゃない。嫌われるよりも、一人でいる方がマシだから、平気だと思い込んでいるわけ』

『歴代最強の博麗の巫女? 楽園の暢気で素敵な巫女? 確かにそうだよ、あんたは歴代最強で、暢気で素敵な巫女だと思い込んでいる……意気地なしの、情けない女の子ってやつさ』

 

 その言葉と共に、レインの指先が……そっと、霊夢の額を押す。指先には、ほとんど力が入っていない。ただ、触れているだけ。

 

 なのに、どうしてか……霊夢は、その指先に気圧された。仮に霊夢が動けていたなら、その場にて尻餅をついていただろう。

 

『霊夢……立ち止まって、周りを見なよ』

 

 ジッと、見つめてくるレインの瞳。どうしてだろう、霊夢は何故か、その瞳に見覚えがあるような気がして、堪らなかった。

 

『苦しい時は、苦しいって言えばいいんだ。悲しい時は、悲しいって話せばいいんだ。辛い時は、友達に頼ればいいんだ。甘えたくなった時は、素直に甘えればいいんだ』

『あいつも、あんたも、根っこは同じさ。変な所で意地を張らないで、ただ頼ればいいんだ。例え相手が覚えていなくても、あんたの友達は……変わらず、あんたの友達なんだから』

『あんたが思うよりもずっと、あんたの周りのやつらは……あんたが、好きなんだ。だから、何時までも肩肘を張っていちゃあ駄目だよ。でないと……あんたも、あいつと同じことになるよ』

 

 そう言い終えると、レインは霊夢に背を向けて歩き出す。(――待って!)遠ざかってゆく背中に霊夢は声なき声をあげるが、レインは立ち止まらない。徐々に、徐々に、その身体が闇の向こうへと消えてゆく。

 

『――あたしは、誰の中にもいる。でも、ここにいるあたしは、あんたの中にある唯一のレイン。そして、レインは誰の中にもいて、それぞれのレインがそこにいる……だから、探しても無駄だよ。だって、始めからあたしたちはそこにいるんだから』

 

 それだけを言い残すと、レインは今度こそ闇の向こうへと……その姿を消した。(――っ!)声なき声でその名を呼ぶも、もう霊夢の声に返事はない。

 

 そうしてから、体感にして十秒程だろうか。フッと、頬に触れる空気が動いた……と気づいた時にはもう、霊夢は動けるようになっていた。勢い余ってたたらを踏んだ霊夢は……呆然としたまま、周囲を見回した。

 

 見える光景に、変化はなかった。砕けた天井も、埃だらけの本棚も、傷だらけの床も、変わりない。唯一の変化は、目を瞑って倒れている、こいしだけ。

 

 

 ……しばしの間、霊夢は何も出来なかった。

 

 

 ただ、ぼんやりとした様子で佇んだ後……へくち、とこいしがくしゃみを零したのを見て、ようやく動き出したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………こいしを背負ったまま、どのような順路を経て神社に戻ったのか、分からない。高く昇っている月に見下ろされるがまま、気付けば霊夢は、明かりが零れている境内に降り立っていた。

 

 くん、と鼻を鳴らせば、味噌の匂いが嗅ぎ取れる。嗅ぎ慣れた匂いだと思いながら、半ば放り捨てるようにして靴を脱ぎ捨て、中に入る。途端、ほわり、と肌に触れる、昼間の熱気とは異なる温かみ。

 

「…………」

 

 軽く、息を吐いた。次いで、霊夢はこいしを一端下ろす。押し入れより布団一式を出して、そこにこいしを寝かせる。その途中で外してやった帽子を、何気なく見やった後、それを枕元に置いた……その、直後。

 

「――不良巫女さん、何処までほっつき歩いていたのかしら?」

 

 部屋の外、廊下の向こう。台所へと通じる方から、割烹着を身に纏った紫が姿を見せた。それを見て、霊夢は思わず目を見開いた。というのも、だ。基本的に、紫は家事全般を式の藍に任せているからだ。

 

 まだ霊夢が幼い頃には紫が台所に立って食事の用意をしてくれたこともあったが、今は違う。おそらく霊夢以外に知る者は少ないであろうその姿は珍しく、「その恰好、ひさしぶりに見るわね」霊夢も似たような感想を抱いた……が。

 

「……何言っているの? ひさしぶりも何も、昼間も同じ格好をしていたでしょう?」

「――え?」

「もう、暑いからってだらだら暢気にしていては駄目よ――と、こいしは寝ているの? 妖怪だからといっても、あんまり強いわけじゃないんだから、無理に引っ張り回すのは駄目よ」

 

 

 そう思ったのは、霊夢だけのようだった。

 

 

 呆然と……ただただ呆けたまま固まる霊夢を他所に、「ほら、御夕飯持ってくるから、手を洗って来なさい」紫はそう言って霊夢の背を押した。促されるがまま、廊下へ出て、洗面所へと進み……そこで、また絶句した。

 

 洗面所自体は、見慣れた光景そのままであった。少しばかり錆びが見られるパイプが壁から伸びて、陶器製の洗面台へと続いている。細かい傷によって少しばかり曇りが見られる鏡に映る己は青ざめていて、己の後ろに見える……壁に浸けられた幾つもの傷。

 

 

 それは、霊夢がまだ紫の腰までしか背丈が無かった頃。一人で風呂に入るのが怖くて、紫と一緒に風呂に入っていた時のもので、いわゆる成長の証を記した傷である。

 

 

 傷には、二通りある。霊夢から見て左側は、今の霊夢の胸元辺りから頭にかけて、不規則な間隔で付けられた幾つかの横線。そして、右側にあるのは、今の己よりも頭一つ分以上高い位置にある、左側よりも深く刻まれた……一本の横線。

 

 一つは、幼かった霊夢の成長を表した傷。そしてもう一つは、小さな霊夢の手によって刻まれた……紫の背丈を表した傷。霊夢と紫だけの心の奥にある……二人だけしか知らない、二人だけの懐かしい思い出……のはずだった。

 

(――知らない。私は、紫とそんなことをした覚えはない……はずなのに、どうして……どうして、それをした思い出が私の中に……?)

 

 それは、何とも言い表し難い不思議な感覚であった。脳裏を過るのは、紫との思い出だ。泥だらけの傷だらけになった自分を慰めてくれる紫に、嫌がる己を伴って強引に風呂へと強行する紫。そのどれもが鮮明で、そのどれもが事実であると……『勘』が、教えてくれる。

 

 

 しかし、同時に、霊夢の『勘』が教えてくれる。この記憶は、偽物である、と。

 

 

 己が培ったものではない。己が過ごしてきた日々のものではない。思い出という名の記憶が、引き出しごと差し込まれたような状態。前から有った記憶と、新たに加えられた記憶が混在している。

 

 

 その、強烈な違和感に……霊夢は、堪らず洗面台に顔を近づけた。直後、ぐぷっ、と胃が痙攣したかと思えば……次の瞬間には、ごぽう、と胃液を吐き出していた。

 

 

 そこに固形物が混じっていないのは、昼間ぐらいからほとんど食事らしい食事を取っていないからなのは……不幸中の幸いなのだろう。

 

 ぐげっ、ごへっ。辛うじて蛇口を捻れば、勢いよく水が飛び出す。洗面台にもたれ掛ったまま、霊夢は何度も胃液を吐き出し、胃液と水とが混じり合う溶液が排水溝の向こうへと流れ落ちて行くのを眺めた。

 

 無言のまま……霊夢はガラスの向こうに映る己を見やる。目元は涙で濡れて、口元は胃液と唾液で汚れている。はあはあと零れる吐息からは臓物の臭いが漂い、水を流してもなお気持ちが悪くなりそうであった……と。

 

「――霊夢! どうしたの!?」

 

 背後から掛けられた声に、霊夢は振り返った。視線の先にいたのは、己以上に青ざめた紫の姿。いったいどうしたのかと思って見つめていると、紫は半ば飛び込むほどの勢いで中に入ると、そのまま……霊夢を強く抱き締めた。

 

 思わず、霊夢は面食らって離れようとした。だが、紫は放してくれなかった。それどころか、離れようとする素振りを察して、さらに力を込められる。痛みすら伴う圧力に、霊夢はしばしそのまま抱き締められるがままでいた。

 

 どうしたの……その言葉に、霊夢は言い返したかった。

 

 

 それは、こっちの台詞だ、と。

 

 

 でも、言えなかった。

 

 何故なら、おかしいのは己の方だから。

 

 紫はただ、昨日まで続けてきた日常を、今日も行っただけのこと。イレギュラーを起こしたのは霊夢の方であって、紫には何の落ち度もないのだということが、何となく分かったからだ。

 

「……何か、あったの?」

 

 そのまま、たっぷり5分程だろうか。背中に回された紫の温もりがすっかり伝わって感覚が分からなくなってきた頃、ぽつりと掛けられた言葉が、それであった。

 

「……何も、ないわ。ちょっと、昼間の熱気に酔っただけよ」

 

 紫の胸元に顔を埋めたまま、霊夢は答える。

 

 懐かしい感触、覚えのある匂い。存在し得ないはずの記憶と、存在しているはずの記憶。慣れていない温もりだと記憶が訴えてくるのに、慣れ親しんだものだと記憶が訴えてくる。

 

「何だか、疲れちゃったのかもね」

「……本当に、それだけ?」

「ええ、本当よ」

 

 背中に回された腕を、偽物の腕と思うべきか。それとも、偽物だと思う己の頭を疑うべきか。今の霊夢に、どちらが正しいのかを判断する術はない。

 

「ねえ、紫」

「なに?」

 

 けれども、ただ一つ。たった一つだけ、確かなのは。

 

「もうちょっとだけ……こうして、いてくれる?」

「……昔みたいに、お母さんって呼んでもいいのよ?」

「……茶化さないでよ」

 

 例え、正解がどちらであったとしても。優しく髪を梳かれ……こうして、紫に抱き締められれば安らぎを覚え、嬉しいと感じる……ということであった。

 

 

 

 




いわゆる、折り返し地点

↓ この先、ちょいとネタバレになるかもしれない補足説明。読んでも読まなくても大丈夫な内容だとは思うけど、中にはネタバレに感じるかもしれない




















分かりにくいだろうけど、この作品において『岩倉玲音』は原作のように、オリジナルである玲音の他にも、何パターンかの玲音が登場します。(あるいは、既にしています)
一番最初に姿を見せた玲音は、オリジナルの玲音。
今回の話にて姿を見せたレインは、アウトローな感じのあのレイン姐さんです。口は悪いですが性根は優しく、霊夢のことを気遣っています。
いちおう、他に二つのレインが登場する予定です。ちなみに、さとりが運悪く接触してしまったlainは、原作において玲音をどん底まで傷つけ追い詰める結果となった、あのlainです


現時点で――による記憶改ざんが成されている主要キャラクターは、咲夜と里の重鎮(阿求、慧音など)と、八雲紫たちです。
これはあくまで夏の時点ですので、秋まで時が進めば・・・・・


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秋の章:その1

おかしい……lainの二次創作が少ない
lainの世界に転生したオリキャラがlainを好きになってみんながlainを好きになってワイヤードと現実世界との間に意識をさまよわせてlainを好きになってlainに罵られてlainを見上げて祈りを捧げる

そんな、オリ主ものがない……うちも、やったんだからさ?


 

 

 

 

 

 

 春になれば待っていましたと言わんばかりに花を咲かせ、夏になれば緑が溢れて枝葉を広げ、秋に成れば枯れて地面を肥やし、冬は春の到来を待ちわびて耐え続ける。植物は、人間以上に四季に敏感である。

 

 何故なら、植物は人間が作り出した暦という名の指標に、季節の判断を委ねたりはしないからだ。なので、人々の間でも判断に迷う時期であろうとも、植物は今が何の季節なのかを迷いなく判断していた。

 

 

 ……具体的に、何が言いたいかといえば、だ。

 

 

 秋を自覚する切っ掛け。それは秋ごろに咲く花であったり、並び始める書物であったり、溢れかえる音楽であったりと、人によって異なっているだろう。とはいえ、だいたいの人は朝晩の肌寒さから、それを感じ取るのではないだろうか。

 

 御多分に漏れず、幻想郷に住まう人々もまた、そんな大多数と同じであった。

 

 いや、むしろ、外よりも(割合的に)自然がはるかに残されている幻想郷においては、外の世界に住まう人々よりもよほど強く秋の到来を実感している(というより、させられた)のかもしれない。

 

 その中でも、特に早く秋の到来を実感していたのは博麗霊夢、その人で。楽園の素敵な巫女として一部より怖れられている彼女に秋を実感させていたのは……境内の4割近くを埋めている、落ち葉の山であった。

 

 そう、落ち葉だ。しかも、落ち葉は地面に有る限りではない。少しばかり視線を横にやるだけで、新たな落ち葉が境内へと補充されているのが目に止まる。その勢いたるや、見ただけで誰もがため息を零すほどであった。

 

 

 ……いや、まだ神社の中はマシだろう。

 

 

 というのも、だ。霊夢が住まう神社は人里より距離がある。言ってしまえば、神社の周辺には人の手が入っておらず……ぶっちゃけ、緑一色の森林なのだが、それが今や落ち葉だらけの茶褐色の景色になっているからだ。

 

 その光景は、まるで落ち葉の絨毯が一面に敷き詰められたかのよう。傍目からでは分かり難いが、その厚さは所によっては数十センチから1メートル近くにも達しており、天然の落とし穴が形成されてしまっている場所もある。

 

 そのうえ、軽く視線を向けるだけでも確認出来る、新たな落ち葉。視線を少し上げれば、まだまだ枝先には枯葉が引っ付いているようで、茶褐色の枯葉の貯蔵は十二分にあるようだった……のだが。

 

「…………」

 

 霊夢の反応は、去年まで見せていたものとは少しばかり異なっていた。例年であれば、それなりに不機嫌になっていたり非常に面倒臭そうにしていたりするのだが……今季の霊夢は、そのどちらでもなく、とても憂鬱そうにしていた。

 

 いったい、何故か?

 

 降り積もっている落ち葉を前に早々にやる気を失くしているから。

 

 これが終わっても三日後には同じ量を片付けねばならないから。

 

 片付けた所で参拝客が増えるわけでもないから。

 

 博麗霊夢を知る者ならば、そんなところだと理由を当てはめていただろう。事実、憂鬱そうにしている霊夢を見た知り合いたちはみな、口を揃えて似たような感想を零していた。

 

 

 ――だが、しかし。

 

 

 彼女たちは、気付いていなかった。霊夢が憂鬱そうにしている理由は、落ち葉の片づけが面倒だからではない。むしろ、その逆。落ち葉を片付けるという面倒事に淡い安らぎを抱いていること事態が、その理由であった……と。

 

「……霊夢、廊下の落ち葉は全部落としたよ」

 

 不意に、背中から声が掛けられた。ハッと我に返って振り返った霊夢は、「ありがとう、それじゃあ向こう側をお願い」石畳を挟んだ向こう側の境内を指差した。

 

 指示を受けた……こいしは、言葉無く頷くと、竹箒を片手に指示された先へと向かい……静かに、作業を始めた。神社に居座るようになってから細々とした雑事をこなしてきたからか、その手付きは霊夢程ではないが上手であった。

 

 けれども、その背中はあまりに儚く弱弱しい……と、霊夢には思えた。まるで、炎が消えた蝋燭だ。生気に溢れた、かつての天真爛漫を地で行く姿を知る者が見れば、驚きに言葉を失くしただろう。

 

 

 実際、神社を訪れた者たちの大半は、そんなこいしの姿を見て驚いていた。

 

 

 ただ、あまり心配はされていなかった。こいし自身は「大丈夫だから、ちょっとメランコリーな感じなだけ」と言うばかりだが、傍の霊夢が「そういう季節」とフォローすれば、その大半も納得して引き下がったからだ。

 

 なので、物静かなこいしの姿はもうすっかり皆々の間では慣れたもので。時折、こいしの知り合い(地底での友人)が声を掛けに訪ねて来るのが見受けられることもあって、今の所は誰も問題視していなかった。

 

(……駄目ね、このままじゃ)

 

 ただ一人、霊夢を除いて。

 

 力無いその後ろ姿を横目で見やりながら、霊夢は……人知れずため息を零した。瞬間、そのため息がこいしの耳に届いてしまったかとヒヤリと思ったが、変化の無い背中を見て……霊夢は、内心にて、二度目のため息を零した。

 

 己と同じく、不安なのだろう……こいしの態度の原因は、おおよそ見当が付いていた。

 

 

 ……レミリアの館(今では、ただの廃墟としか認識されていないようだ)での遭遇より、次の季節へ。気づけば暦の上でも肌寒さの上でも、もう秋と判断して差し支えない時期となっているが……未だ、霊夢たちは何処へ向かうことも出来ずにいた。

 

 辛うじて見つけた手掛かりは、完全に途絶えてしまっている。ようやく見つけたレインと名乗る岩倉玲音は何処かへ消えた。博麗霊夢の十八番ともいえる『勘』が役に立たない今、後に残された霊夢とこいしは……何をするでもなく、日常生活を続けることを余儀なくされていた。

 

 そう、本当に、霊夢とこいしは、そうすることしか出来ず、ただただ指を咥えて静観を続けることしか出来ていない。

 

 というのも、あの時発生していた諸々の問題が自然消滅する形で解決してしまうばかりか、(おそらくは『岩倉玲音』による)館や咲夜に起こったような目に見えない記憶や目に見える物質の改変が、幻想郷全体で行われ始めたからだ。

 

 

 例えば、諸々の問題の件の一つである、夏頃に発生した里を襲う妖怪の大発生。

 

 

 原因は未だに不明なままだが、人里へと下ってくる魑魅魍魎……木端妖怪たちが、あの夜を境に数が激減した。結果、まるで発生していたことが嘘であったかのように里には平穏が戻った。

 

 レッドゾーンへ振り切っていた連日の猛暑も、それに追随する形で鳴りを潜めた。気付いた時には例年とそう変わらない程度にまで気温も下がり、作物等が駄目になる直前だったこともあって、里人たちは一様に胸を撫で下ろした。

 

 妖怪たちの襲撃が治まり、暑さも和らげば、負傷者の回復も早くなる。薬草を始めとして、様々な物資がこれまで通りに流通するようになったこともあって、夏が終わりを見せ始めた頃には負傷者の8割強が完治に近い状態となった。

 

 気付けば……そう、気付けば、あれだけ里を悩ませた問題が、夏の終わりと共にあっさり片付いてしまった。これには霊夢のみならず、里の関係者を含めて大半の者が不思議に思ったが……結局、思うだけに終わった。

 

 何故なら、八雲紫を始めとした賢者たち、里の知識人たちですら、原因の見当すら付けられないままに終わったからだ。加えて、分かったところで里の一般人たちに出来ることなど、まずない。

 

 そんなことに気を回すよりも、冬に備えて支度を進め、年を越せるように準備しなければならない。実際の所、そう考えて話を切り上げるのが大半で。噂話程度とはいえ、アレは何だったのかと疑問視するだけでも、上等な方なのであった。

 

 

 ――そして、もう一つ。

 

 

 妖怪たちの襲撃が治まるに連れて徐々に表に現れ、現時点では霊夢とこいししか気付いていないこと。

 

 それは、人間や妖怪の区別なく、誰も彼もが気付かぬ間に物質的にも、精神的にも、改変が施され続けているというものだ。

 

 

 具体的に例を挙げるならば、レミリアたちが暮らしていたはずの紅魔館(廃墟)だ。

 

 

 霊夢の記憶の中では、つい数か月前までは現在進行形でレミリアたちが住んでいた。しかし今は、百年近く前に滅んだ廃墟として認知されていて、実際に主であるレミリアもいない。

 

 レミリアに忠誠を誓っていた十六夜咲夜も、レミリアのことを完全に忘却していた。それどころか、咲夜自身は稗田家に仕えるメイドとして働いていると記憶しており、実際に、稗田の者たちもそう認識していて、登録名簿にもしっかり記載されていた。

 

 

 改編の規模は大きく広く、あまりに綿密であった。

 

 

 歴史に関する能力を持つ者を始めとして、一度見聞きしたことを忘れない能力を持つ者ですら、昔からそうだったと、始めからそうだったと認識し、そのことに全く疑念を抱いていないのだ。

 

 しかも、記憶と物質の改変は刻一刻と範囲を広げ、無差別に続けられている。姿形は変わらずとも、昨日まではそうであったはずの人物が、次の日には霊夢の知らない誰かへと記憶が改変されている。なのに、誰も、そのことに疑念を抱かない。

 

 

 何と……何と、恐ろしい話だろうか。

 

 

 己が正しいのか、それとも己が間違っているのか。相手の記憶が改変されているのか、それとも己の頭が改変されているのか。偽りの記憶が実のところ正しいのか、それともやはり偽りは偽りでしかないのか……それすら、今の霊夢では確証を持って断言出来なくなっている。

 

 傍にて同じく改変される前の記憶を維持しているこいしが居なかったら、霊夢ですら自身の頭がおかしくなったと思っただろう。それぐらいに改編の規模は大きく広く、隙間なく綿密で……いたずらに時を浪費させる以外の手段を、霊夢には与えなかった。

 

(……結局、私は何も出来ないままだ。『岩倉玲音』の目的も分からないまま、半年近く……やれやれ、博麗の巫女が聞いて呆れちゃうわね)

 

 竹ぼうきを操る手を止めないまま、霊夢は内心にて己の無力さに目を向ける……いや、向けてしまうのを抑えられない。

 

(レミリアのことも、そう。何が何だか分からないまま、気付けば全て終わって……さとりのことも、まだ行方が分からない)

 

 ちらりと、霊夢はこいしの背中を再び見やる。しかし、ただ見やるだけ。それ以上のことはおろか、上手い言葉も思いつかず……どうしようも出来ないというやるせなさだけが胸中にてわだかまっていた。

 

「――相変わらず、ここの落ち葉は酷いな」

 

 加えて、此度の異変の影響は。

 

「おっす、霊夢。だらだらやっていると学校の時間に遅れるぞ」

 

 当の博麗霊夢にすら、無視出来ないレベルでの影響を残していた。

 

 掛けられた声に振り返った霊夢の前に立っていたのは、『白黒』と呼ばれたりしている霧雨魔理沙であった。ちなみに、白黒の由来は、年がら年中、魔理沙の恰好が白と黒を基調とした恰好が多いからである……のだが。

 

「……魔理沙、朝っぱらからどうしたの?」

 

 眼前に現れた魔理沙の恰好は、この時ばかりはそうではなかった。白と紺色の……とりあえず、白黒ではない。ある意味トレードマークでもある箒と三角帽子はそのままだが、魔理沙が好んで身に纏っている何時もの衣服とは、少し違う。

 

 何だろうか、不思議な出で立ちだ。そう、霊夢の基準からすれば、眼前の魔理沙は、そうとしか言い表しようがない恰好をしていた。少なくとも、霊夢の知る魔理沙は、眼前の魔理沙のような恰好はしなかった……はずなのだが。

 

「どうしたって、この恰好を見て分からんのか?」

 

 ――分からないわよ。そう言い掛けた言葉を、霊夢は寸での所で呑み込む。

 

「友達が学校行く前に迎え来てやったんだろ。そろそろ行かないと遅刻するぞ」

 

 やはりというか、何というか……今回もまた、そう思っているのは霊夢だけのようで……いや、待て。

 

 遠い世界へ逃避しようとした霊夢の意識が、寸での所で戻された……今、コイツはなんと言った?

 

「……学校?」

「……お前、今日が日曜日か何かと勘違いしてるだろ。今日は月曜日、日曜日は昨日でお終い。のんびり掃き掃除なんかしている暇はない……だろ?」

 

 心底呆れた様子の魔理沙を前に、霊夢はぽかんと大口を開けて呆けた……瞬間。ぎゅるり、と舐めるように脳裏を過った不快な感触に、霊夢は思わずその場でたたらを踏んだ。

 

 立ち眩みとは、少しばかり感覚が違う。けれども、傍からは突然の立ち眩みにしか見えない。「――ちょ、大丈夫か?」くらりとふらつく霊夢に慌てて駆け寄った魔理沙を、霊夢は大丈夫だと言わんばかりに圧し留め……間を置いてから、ふう、と息を吐いた。

 

「驚かせて御免、今日はちょっと朝から気分が優れなくて……ええ、そうね、思い出したわ、今日は学校だったわね。その制服、似合っているわよ」

「……制服なんて見慣れたもんだろ。ていうか、顔色が真っ青だぞ。本当に大丈夫か?」

「大丈夫よ。博麗の巫女がこの程度で参るわけないじゃない……ちょっと待ってなさい。すぐに着替えて来るから」

「そうか、それなら分かった。でも、無理するなよ」

 

 なおも心配そうに見てくる魔理沙に手を振りつつ、霊夢は自室へと向かう。途中、割烹着を着た紫と出くわした際、「……具合が悪い時は、休んでもいいのよ」半ば強制的に布団の中へ押し込められそうになったが、霊夢は強引にソレを振り払って自室へと戻り……そして、深々とため息を零した。

 

 

 何故ならば、見慣れた己の自室(けっこう広い和室)が、見慣れはしないが覚えのある自室に変わっていたからだ。

 

 

 例えば、部屋の隅に置かれたテレビ。テレビそのものは前にもあったのだが、形が変わっている。本体のスイッチを直接操作してチャンネル操作を行うタイプだったはずが、リモコンで操作出来る……次世代のテレビに変わっているのだ。

 

 テーブルに置いてあった湯呑も、何年も使い続けてヒビが入った古ぼけたやつから、絵柄の入った可愛らしいモノへと変わっている。その下の畳も、何処となく真新しい。視線をあげれば見慣れぬ洋服箪笥が有って……おもむろに取手を引っ張れば、そこには魔理沙が身に纏っていた物と同じ……学校の制服が収まっていた。

 

 その制服に、見覚えはない。けれども、それが自分の物であるという記憶はある。また、それが制服であるというのが……幻想郷にて唯一の女学校である『幻想女学校』のものであるというのを、何故か記憶している自分に……霊夢は、辛うじて苦笑を零せた。

 

 

 ……幻想女学校とは、その名の通り幻想郷内においては里内にて唯一といっても過言ではないぐらいに特殊な、女学校のこと。その歴史は深く、おおよそ80年前に設立された。

 

 その所以は他でもなく、通う生徒の大半が相応の力や『程度の能力』を持つ者が多いから……だということを、霊夢はつらつらと思い出しながら……耐えきれず、舌打ちをした。

 

 

 ――なーにが、幻想女学校だ。なーにが、歴史のある学校だ。

 

(たった今さっき作られたばかりの学校に、何の歴史があるというのかしらね)

 

 そう、胸中にて吐き捨てながらも、仕事着である巫女服を脱ぎ捨て、見慣れない制服に手を取る。指先から伝わってくる制服の感触は初めてだと認識出来るのに、袖に腕を通せば……君の悪さを覚えるほどに、しっくりと身体に合う。それこそ、巫女服以上に。

 

 

 ――これで、いったい何度目の改変になるのだろうか。

 

 ――さあね。少なくとも、覚えていられないぐらいの数になるわね。

 

 

 洋服箪笥から離れ、部屋の隅に置かれた姿見で己が恰好を見やった霊夢は、何度目かとなる自身への問い掛けを行う。直後、自身の奥底より返された答えに、霊夢は堪らず……己が頭を叩いた。

 

 己が胸中に広がっているのは、改変から来る恐怖……ではない。ましてや、怒りでもない。それをどう言葉に言い表せればよいのかは分からないが、強いて挙げるとするなら……『辛い』、その一言に尽きた。

 

 そう、どうしようもなく、辛いのだ。刻一刻、こうしている間にも、霊夢の記憶にある幻想郷が、現実の世界から消えてしまう。それが堪らなく辛くて、それこそ身を切るよりもずっと……っ。

 

 ハッと、背後に覚えた気配に、霊夢は振り返った。霊夢の視線の先には、何処となく暗い雰囲気を漂わせたこいしが立っていた。何か言いたげな様子で、霊夢を見つめていた。

 

 

 ――今しがた考えていたことを、読み取られたかもしれない。

 

 

 反射的に、霊夢は身構えそうになった。けれども、そうはならなかった。そう考えた直後、こいしは他者の心を読むことが出来ないことを思い出し……肩の力が抜けたからだ。

 

「なに、どうしたの?」

「万が一倒れていたら危ないから、様子を見て来いって魔理沙が……」

「ああ、なるほど。変な所で心配性なんだから……うん、分かった。もう向かうから……んで?」

「……?」

「あんたはどうするの?」

 

 小首を傾げるこいしに、霊夢は率直に尋ねた。

 

「植え付けられた記憶では、私とあんたは仲良く学校に通う間柄……ということになっているらしいけど、そっちはどうなの?」

「だいたい一緒」

「それじゃあ、どうする? これまで通り、私は他の奴らの不審を買わないように振る舞うつもりだけど……あんたは?」

「………………」

 

 すぐに返答が成されるかと霊夢は思っていた。だが、こいしが返答するまでには、それなりの間が置かれた。「私は、いいや。ちょっと、里の方をブラブラしてくる」そして、それだけを素っ気なく告げると、トコトコと力無い足取りで部屋を出て――いこうとする、直前。

 

「ねえ、霊夢」

 

 不意に、こいしは振り返ると。

 

「霊夢は……さ。まだ、異変を解決したいって……思ってる?」

 

 そう、尋ねてきた。

 

「――思っているわ。でも、私にはどうしたらいいか分からない……情けない話だけど、何から始めたら良いのかが分からないの」

 

 なので、霊夢は答えた。率直に、それでいて素直に現状をこいしに告げた……のだが。

 

「本当に?」

「え?」

「本当に、霊夢は分からないの?」

 

 仄暗くも静かに、それでいてはっきりと。真正面から否定された霊夢は一瞬、何を言われたのかが理解出来なかった。

 

「――ごめん。嫌な言い方しちゃったね。明日は私も学校に行くから、下見をお願い」

 

 けれども、ようやく。言われた言葉を理解したと同時に、こいしから謝られた。「いや、別に、気にしていないわよ」出鼻を挫かれる形となった霊夢は、ただそう答えるしかなくて……そっと、部屋を出て行くこいしの背中を、見送ることしか出来なかった。

 

「……何なのよ」

 

 それ以上、霊夢は何も言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「はい、お弁当。今日は卵焼きを大目に入れておいたわよ」

「……ありがとう。ところで、心もち塩は多めよね?」

「大目にしているし、ふんわり焼いておきました。それじゃあ、行ってらっしゃい。具合が悪くなったら、無理せず帰って来なさい」

 

 魔理沙と同じ制服に着替えて一通りの準備(教本等が入った鞄が、いつの間にか机の傍に置かれていた)を終えた霊夢を出迎えたのは、割烹着を脱いで、紫色を基調とした何時もの恰好となった紫であった。

 

 作り立て、なのだろう。風呂敷に包まれた弁当箱から伝わる熱はほのかに温かく、今しがた移し替えたばかりなのが分かる。匂いは……しないが、何処となく卵の匂いが嗅ぎ取れたような気がした。

 

 ……ちらりと、弁当箱から目線をあげる。途端、にこにこと優しく微笑む紫の視線とぶつかった。思わず視線を下げて、再び弁当箱に目をやる。伝わって来る温かさが、より顕著に感じ取れた……気がした。

 

 

 ……あの夜より、今日まで。

 

 

 八雲紫という名の大妖怪は、今みたいに毎日のように食事の用意をしてくれている。いや、食事だけではない。掃除を始めとして、細々と霊夢の身の回りの世話をしてくれるようになった。

 

 霊夢の知る八雲紫とは、少し違う。幼い頃は彼女も、今の紫と同じようにしてはくれたが……最後にそうしてくれたのは、何時だっただろうか。思い返そうとしたが、霊夢は思い出せなかった。

 

 何せ、本当に幼い頃の話だ。多少なりとも物心が付いた頃にはもう、紫は己の式である八雲藍に家事全般を押し付け、ぐうたら生活を送るようになった。霊夢としては、そちらの方が見慣れている……それが、今はこれだ。

 

 

 これではまるで……母親だ。そう、まるで母親のようだ。率直に、霊夢はそう思った。

 

 

 何故、そこまでしてくれるのか、その理由は分からない。霊夢の脳裏に植え付けられた記憶では、自身が物心付く前からそうしていたとなっている。だから、それ以上のことは霊夢にも分からない。

 

 十数日前ぐらいに、どうしてもそこが気になって尋ねたことはある。その時、霊夢は率直に尋ねた。どうして、そこまで己に良くしてくれるのか、何かしてほしい事があるのか……と。

 

 それに対して返された言葉は、無かった。けれども、返されたものはあった。

 

 それは、苦しさすら覚えるほどの強い抱擁と、淡い微笑みであった。紫は、何も言わなかった。すっかり見慣れてしまった割烹着のまま、抱き締められた霊夢は……それ以上、何も尋ねられなかった。

 

 

 いったい、今の紫はどのような改変を受けているのだろうか。

 

 

 当時を思い返すだけで、あの時のぎゅっと抱きしめられる温かさと苦しさが、胸中に湧き起こる。息の仕方が分からなくなって、でも、どこか心地よくて……そう、まるで、今みたいな感じで……ん?

 

「……暑いんだけど?」

「霊夢が、ちょっと寂しそうな顔をしていたから悪いのよ――ほら、暴れないの」

「魔理沙が見てるでしょ! ちょ、はな、離れなさいよ!」

 

 ぼんやりと考え事をしていたせいか、紫の接近に気付けなかった。半ば振り払うようにして紫の腕から逃れた霊夢は、大きく息を吐いた。次いで、にやにやと気色悪い笑みを浮かべている魔理沙を睨みつけた。

 

「何か言いたいことがあるようね」

「いや、なーんも」

「それじゃあ、その気色悪い笑みを引っ込めなさい」

「気色悪いとは人聞きの悪い。私はただ、珍しく照れて真っ赤になっている霊夢の顔が見られたなあ~って思っているだけさ」

 

 

 ――瞬間、霊夢は己が頬を両手で隠した。

 

 

 この場に鏡はない。だから、己の頬がどうなっているかは分からない。けれども、掌から伝わる熱は、己が発したとは思えない程に熱く、触れた掌は水に浸したかのように冷たく……遅れて察した霊夢は、魔理沙の視線から逃れるかのように空へと飛んだ。

 

 

 ……一拍遅れて気づいた魔理沙が、慌てて後を追いかける。

 

 

 出で立ちが変わったとしても、三角帽子をたなびかせ、箒に跨って空を舞う姿は変わらない。音もなく寒空の向こうへと小さくなる背中を、轟音と共に追いかけ……その二人の後ろ姿を、紫が手を振って見送った。

 

 

 

 

 

 

 ……距離にして、たった数十メートル。子供の足でも走れば十数秒の長さだが、それを高さに変えれば意味合いが変わる。たったそれだけの長さではあるが、その長さがもたらす寒さは骨身に浸みる程に強い。

 

 何故なら、幻想郷には外の世界のような高層ビルやマンションといった高い建物がない。有っても、せいぜい4階か5階の高さが限度であり、その数とて片手で収まる程度しかない。

 

 加えて、幻想郷には車を始めとして、熱気を生み出す物が少ない。なので、その冷たさは外の世界よりもよほど厳しく、吹きつけられる寒波は如何ともし難く……魔法にてある程度は防いでいる魔理沙ですら、幾度となく総身を震わせてしまう程の寒さであった。

 

 

 だが、しかし。

 

 

 霊夢だけは、違った。吹きつけられる風に少しばかり顔をしかめたりはするものの、霊夢だけは何ら堪えた様子もなく、乾燥した秋空の下を、速度をほとんど落とすことなく飛行を続け……あっという間に、目的地である『幻想女学校』の正門前へと着地した。

 

 ……見慣れない景色ではあるが、見覚えのある景色ではある。

 

 似たような事を、あの夜から何度思っただろうか。もう、数えることすら止めている。けれども、そう思ってしまう事は止められない。そして、その度に零してしまいそうになるため息を、霊夢は前回と同じく、そっと胸の内に納め……眼前の建物を見上げた。

 

 ……霊夢には知る由もない事だが、『幻想女学校』の外観は、外の世界においては何ら珍しくない、大抵の人が学校と聞いて想像する、そのままの外観をしていた。

 

 広大な正方形の敷地に建造された校舎の手前には、運動場と思わしき広場が用意されている。鉄格子が取り付けられた正門には教師と思わしき人物が立っていて、敷地内に入ってくる生徒たちを逐一見やっているようであった。

 

 ここは……幻想郷の人里だ。鉄筋は当然のこと、セメントやコンクリート等を見かけること自体が、そう多くはない。無いわけではないのだが、木造住宅が当たり前の場所に……その学校は、異様とも思えるほどに目立っていた。

 

 少なくとも、霊夢の目からは場違いな建物にしか映らなかった。ちなみに、初見にて霊夢が抱いた『幻想女学校』への感想は、紅魔館よりもデカい建物だなあ……であった。

 

 

 さて、魔理沙は……後、3分程か。

 

 

 振り返って空を見上げれば、遠くの方に黒い粒がポツンと見える。変な所で負けず嫌いの気が有る魔理沙は、気遣われることを嫌がる傾向にある。それは、霊夢相手でも……いや、霊夢だからこそ、嫌がることが多い。

 

 先に行って待っているぐらいなら大丈夫だが、速度を落として併走するとヘソを曲げてしまう。長年の付き合いからそれを知っている霊夢は、まあ暇潰しがてらと思って辺りを見回した。

 

(……二つ名を持つ実力者の大半が通う女学校が、幻想郷に生まれる。こんな時じゃなければ、夢にも思わなかったかもしれないわね)

 

 不本意ながら妖怪方面に顔が広い霊夢だからこそ、眼前の光景の異様さがよく分かる。

 

 例えば、既に校舎の敷地内に入っている制服緑髪の後ろ姿が、そうだ。園芸部の部長を務めているらしいあいつはおそらく、風見幽香だ。顔を見なくても、気配で何となく分かる。

 

 ……風見幽香。幻想郷内でも名の知られた妖怪であり、太陽の畑と呼ばれている向日葵畑を根城として、季節ごとに花の有る所へ移動を繰り返す……大妖怪の内の一人だ。

 

 霊夢の知る限り、風見幽香とは数多の妖怪たちの中でも、その危険性は極高。不興を買いさえしなければ何もしてこないが、機嫌を損ねてしまえば100%殺しにかかる凶悪な妖怪……のはず、なのだが。

 

(泣く子も黙る花妖怪が、ここでは下級生に慕われるお姉様……か。紫もそうだけど、幽香ほどの妖怪ですら改変されている自覚を持てないのね)

 

 目の前を通り過ぎて校舎へと向かう者たちにとっては、昨日から続いている今日でしかない。だから、その表情には何ら不自然な点は見受けられず、日常風景の一つとしてでしか捉えられていないのが見て取れた。

 

(里で何度か顔を合わせたことがある年頃の娘ばかりじゃないの)

 

 そうして、改めて見やれば、幾つか分かることがある。例えば、霊夢と似たような……というか、同じ格好をした少女たちの顔ぶれに見覚えがないと思ったが、しばし眺めていると、そうではないことに気付く。

 

 あの子は確か、あそこのだんご屋の娘で、自分よりも年が3つ上だったはず。あっちにいるのは金物屋の娘で、自分よりも3つ年下。あそこの茶髪の娘は長屋の娘で……確か、自分と同い年だった覚えがある。

 

 友達というわけではないが、同世代だからだろう。里内での催事などで顔を合わせる機会が何度かあり、世間話を何度か交えたような……覚えがあった。

 

 3人共が、いわゆる、幻想郷内ではそう珍しくない家の娘だ。貧乏という程ではないが、裕福とは言い難い。住んでいる場所や当人たちの性格は全く異なっているが、共通しているのは……学校に通うような余裕はなかったはずだ。

 

(……今回の改編は、これまでとは規模が比べ物にならないわね)

 

 表向きはあくまで平静を保てたが、内心にて顔をしかめてしまうのを、霊夢は抑えられなかった……というのも、だ。改編の影響自体は霊夢(こいしも)を除いて全員へと起こるが、改変そのものの規模はそう大きくはなかったのだ。

 

 最初の紅魔館のアレが最大であって、これまではせいぜい建物の形が変わっていたりとか、通路が変化していたりだとか、その程度。頻度こそ頻発はしているものの、そこまで目立つような(あくまで、霊夢の目には)改変は起きていなかった。

 

 しかし、だ。そこにきて、これだ。これほど大規模かつ範囲の広い改変は、紅魔館以来だ。付け加えるなら、人的な意味でもこれほど規模が大きい改変は初めてであった。

 

(……結界の異常はない、か)

 

 学校へと入って行く女子たちの顔ぶれを確認しながら、軽く意識を集中して博麗大結界の様子を伺う。結界の要でもある神社から離れているので詳細までは分からないが、異常が有るかどうかぐらいは分かる。

 

 

 ――確固たる証拠はない。けれども、この学校を見た瞬間、霊夢は気付いてしまった。

 

 

 紅魔館の改変が目に見える変化の始まりであったように、これもまた何かの始まりなのだ、と。我知らず、霊夢は己の胸に手を置いた。疼きすら覚えてしまうほどに、『勘』が訴えて……と。

 

「ふー、相変わらず霊夢は早いなあ。まるで鳥みたいにスイスイ先を行くから追いかける方も大変……って、どうした?」

 

 そこまで思考を巡らせた辺りで、魔理沙が到着した。振り返った霊夢の目に映ったのは、頬を赤らめた魔理沙が、白い息を吐きながら緩やかに地面に着地するところであった。

 

 霊夢が見た限りでは……魔理沙は、まだ大丈夫だ。

 

 記憶や恰好が異なってはいるが、その性格は霊夢の知る魔理沙だ。この学校に一緒に通っているという点を除けば、改変されている部分は全く見当たらない。魔理沙は、まだ……大丈夫だ。

 

 心の中で、霊夢はそう呟く。

 

 己に向かって、口が裂けても絶対に言わないであろう言葉を、何度も何度も己の心へ言い聞かせながら……霊夢は、校舎へと歩を進めた。「ちょ――霊夢、先に行くなよ!」背後から響く、魔理沙の声を耳にしながら。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、記憶の中では何年も前から、体感的には初日となる学生生活を始めてから、三十日間ほど。その三十日間は、霊夢にとって人生で最も刺激に満ちて、混乱しっぱなしの三十日間であった。

 

 というのも、だ。まず、霊夢は学校というものに通ったことがない。人里にそういった施設がないというわけではないが、博麗の巫女という立場故に、次代の巫女として幼少より招かれた後は一対一の勉強が基本となるからだ。

 

 当然、教師となる相手側も普通の教師ではない。賢者とも称される八雲紫を始めとして、幻想郷における知識人たちによる徹底的な英才教育が施される。博麗の巫女が幻想郷内において一目置かれる所以の一つが、コレである。

 

 また、教育内容も人里で行われている一般的なものとは違う。読み書きこそ共通してはいるものの、対妖怪を想定した訓練を始めとした、博麗の巫女としての教育が主となっている。

 

 それ故に、霊夢は集団行動というものに全く慣れていない。いや、慣れる慣れないの話ではなく、時にはそういう行動を取らなくてはならないという考え自体が、霊夢の中にはないのだ。

 

 だからこそ、霊夢は柄にもなく緊張した。妖怪退治の方が100倍は気が楽だとも思った。ぼろが出て不審な目を向けられないようにと、かつてないぐらいに気を張っていた……が、しかし。

 

 

 霊夢のその心配は、杞憂に終わった。

 

 何故かといえば、改変された記憶にある己の姿へと、わざわざ取り繕う必要がなかったからだ。

 

 

 言うなれば、『学校に通っていたかもしれない自分の性格』と、『博麗の巫女として神社で暢気に過ごしている自分の性格』とに、全く違いがなかったから。付け加えるなら、学生として振る舞う上で必要となる知識が既に霊夢の中にあったおかげでもあった。

 

 ……いや、全く、というのは違うのかもしれない。霊夢自身が気付いていない違いが、気付かぬうちに表に出てしまっているのかもしれない。だが、今の所は霊夢の変化に気付いたものはいなかった。

 

 まあ、当の霊夢ですら、『ほぼ同じ』だと思うぐらいなのだ。近しい仲である魔理沙や、近しい間柄になっている紫ですら、気付いた様子はなくて。昼は学校にて勉学(やる気は皆無)を行い、放課後は消えたさとりや『岩倉玲音』を探して里中を歩き回り、夜は神社にて素直に寝る……というのが、学校に通い始めてからのサイクルとなっていた。

 

 当然、そのサイクルを送るに当たって様々な問題に直面はした。

 

 けれども、改変された記憶を元に不自然なく振る舞えるだけの器用さが、霊夢にはあった。稀代の天才と称されるだけは、あったのだろう。たった三十日間とはいえ、我知らず霊夢は……学校生活というものに順応していた。

 

 

 

 

 

 

 

 ……突き刺さらんばかりに冷えた空気に満ちた、早朝。ほんわりと漂って来る味噌汁の香りに目が覚めた霊夢は、むくりと身体を起こし……欠伸を零しながら、何処からともなく漂って来る匂いに意識を向ける。

 

 味噌汁の、匂いだ。加えて、ご飯が炊ける特有の香りもする。耳を澄ませれば、包丁がまな板を叩く音も。いったい誰が……決まっている。紫が、自分たちの朝食を用意してくれているのだ。

 

 見慣れない光景というか、その姿に最初は面食らったが、今ではすっかり慣れてしまった。その事が本当に良いか悪いかは霊夢には判断出来なかったが、母親のように振る舞ってくれていることは……まあ、悪い気は……と。

 

 

 背筋を走るむず痒さに、霊夢は首を軽く振った。

 

 

 次いで室内を見回し、己の布団の、隣。そこには、霊夢に背を向ける形で寝息を立てているこいしの頭が視えた。深く、寝入っているのだろう。僅かに聞こえてくる寝息は規則正しく、眠りが醒めそうな気配は全く感じ取れない。

 

 

 まあ、無理も無いかなあと、霊夢は寝ぼけた頭で思う。

 

 

 二人が学校に通うようになって、早31日目の朝。さすがに校舎に入るだけで身構えていた時期は共に脱したが、それでも慣れないことをしていることには変わりない。

 

 それに加えて、放課後は『岩倉玲音』の捜索と、未だ消息不明のさとり達(レミリア達のこと)の捜索もある。手掛かり一つ無いのと、他者の助力を頼れないが故に、捜索の手段は地道な聞き込み一択のみ。

 

 これで少しでも事態が好転してくれればまだ良かったのだが、現実は非情だ。何一つ得る物がないまま、砂漠の海に手を突っ込むかのような徒労感だけが積もり積もってゆく。

 

 時々妖怪たちから化け物扱いされる霊夢ですら、ちょっと疲れが溜まっているなあ……と自覚出来てしまうぐらいなのだ。妖怪とはいえ、霊夢よりも体力的な面では劣るこいしが、疲れないわけがない。

 

 しかも、望んだわけでもなく(いくら、通学しているという記憶があるとはいえ)半日近く学生として拘束されるのだ。

 

 言葉にこそ出してはいないが、人間よりも精神に比重を置く(妖怪は、肉体的な傷よりも精神的な傷の方が、影響が大きい)こいしにとっては、かなり疲労の溜まる生活であろうことは霊夢の目からも伺えた。

 

(……考えてみれば、こいつもけっこう気丈なやつだわ。血の繋がった姉が行方不明なのに、泣き言一つ零さずにいるんだから)

 

 隣のこいしを起こさないよう注意しながら、寝床を出る。途端、痺れを覚える程の寒気がふわりと総身を撫でる。寝間着として身に纏っている襦袢では、些か辛い。

 

 けれども霊夢は気にした様子もなく、欠伸一つ零して障子を開けて、廊下へと出る。雲一つない快晴を見上げた霊夢は、縁側よりふわりと飛んで……神社上空にて、緩やかに静止した。

 

 

 ――こぉ、と。

 

 

 地上との距離、おおよそ200メートル強。常人であれば5分といられない状況にも関わらず、霊夢の表情は平坦なまま。深く吐き出された真っ白な息が、音もなく寒空の中へと消えて見えなくなる。

 

 

 ――こぉ、と。

 

 

 空気が、澄んでいる。風の音も、静かだ。袖と裾が、ふわふわと揺らいでいる。もう一度、深く息を吸って、吐く。次いで、その場で座禅を組む。総身より立ち昇る霊力は、夏季の時よりもさらに凄まじいものとなっていた。

 

 

 いったい、霊夢は何をしているのか。

 

 

 一言でいえば、精神集中である。夏の終わりを感じ始めた頃から、だいたい2,3日に一度のペースで行われている、霊夢なりの集中法であった。

 

 最初は自室にて行っていたが、紫に目撃されて嫌になるぐらいに騒がれた(感涙された、ともいう)こともあって、ここでするようになった。まあ、これは座禅を組むということ事態あまりしない霊夢のぐうたらが招いた結果なのだが……まあ、それはそれとして、だ。

 

(今日で、31日目。記憶は……うん、新しく改変されたものはないようね)

 

 

 澄みきった空気が思考を透き通らせてゆく最中、霊夢は考える。現状と、今後のことを。

 

 

(どう楽観的に見ても、現状はジリ貧。『岩倉玲音』の現時点でも見当すら付かず、改変を止める手段は分からず、相手は無差別。実力の有無に関係なく、私とこいしを除けば誰もが改変に気付いていない)

 

(改変されるに当たっての共通点はない。年齢や性別による偏りはなく、今のところは大人が子供にされる等といった肉体的、人間が妖怪にされるといった種族的な改変は見当たらない。確認出来ている改変は、建物なんかの無機物的なもの……そして、記憶。この二つ)

(この二つを……改変して、いったい『岩倉玲音』に何の利が有るというのかしら?)

(敵意や害意はない。それは、さとりもレミリアも口を揃えていた。だが、その二つが無かったとしても、ただの気紛れでしかなかったのだとしても、結果的にそうなるのであれば過程に意味はない。悪気はないけどレミリア達を消した……そんな言い訳は、通さない)

(……消すといえば、紅魔館を除けば、存在そのものを消された者は確認できていないわね。あの紅魔館からは、咲夜と美鈴だけが残って……レミリアが抵抗した結果……いや、違うわね。それなら、あの時にそのことを私に伝えているはず)

(それが無いということは、おそらくレミリアは抵抗しても無駄だと分かっていた……あるいは、この二人だけは助かることを知っていた。だから、咲夜の無事を確認出来た時点で、レミリアは満足して術を解こうとした……あの時の口ぶりから考えて、レミリアはそう思っていた可能性が高いわね)

 

 あのレミリアが、本当の意味で己の知るレミリアであるという保証はない。けれども、霊夢はそうだと信じて、次に、己が通っている女学校について思考の匙を向ける。

 

(これまでの改変は、あくまで個々人による局所的な変化に留まっていた。紅魔館という例外があるにせよ、記憶の改変事態は幻想郷全てに及ぶにせよ、実際に改変されるのは、個人に限定されていた……でも、そうではなくなった)

(ここに来て、数百人近い人数が一斉に改変された。紅魔館の時と同じく、前触れもなく……それは、何故?)

 

 

 それは、かねてより抱いていた疑問であった。

 

 

(改変自体は、この際どうでもいい。問題なのは、何故それだけの大規模な改変の結果が……学校になる? 紅魔館のように、数百人が消え去るのではなく、学生として別人に改変させる……どうして、そんなことを?)

(紅魔館を消して、人々を……いえ、里を残した。この違いは、いったい何処にある? 妖怪を消して、人間を残したかった……なら、妖怪である美鈴が残される理由が分からない)

(そもそも目的が妖怪の抹消であるならば、学校に妖怪たちが通っている点に説明が付かない。人も妖怪も区別なく改変していくのに、紅魔館だけは明確に存在そのものが過去の物とされていた……どうして、紅魔館だけがそうなった?)

 

 

 『岩倉玲音』は、紅魔館に(というより、レミリアに?)恨みがあったか、あるいは抹消するだけの明確な理由があった……いや、違う。胸中にて異論を唱えている『勘』の疼きに、霊夢は内心にて首を横に振る。

 

 

(考えるべき点は、そこじゃない。理由は何であれ、紅魔館は消えた。そこに意味を見出す必要はないし、見出した所で意味はない。おそらく、それが分かったところで現状の打開策には成り得ない)

 

 そんな事よりも、まず目を向けるべきなのは……自分自身。

 

(――既に、私は『岩倉玲音』の正体に気付いている)

 

 それは、あの時『レイン』が……『岩倉玲音』の一つの形だと話していた、『レイン』が霊夢に語った言葉であった。

 

(でも、私はその正体に気付かないフリをし続けている。無自覚なままに、私はソレから目を逸らし続けている……『レイン』は、私にそう話した……悔しいけど、それは当たっているのかもしれない)

 

 否定したいと、霊夢は思った。だが、そんなわけがないと即答出来ずに言いよどんだ時点で、霊夢は気付いてしまった。あの時『レイン』が語った言葉の全ては真実で、目を背けているのは霊夢自身であるということに。

 

 だからこそ、霊夢はこの日も座禅を組んで思考を巡らせる。

 

 精神を集中させ、己の胸中の奥深くに眠る、己すら自覚出来ない無意識に耳を傾けようとする。呼吸を整え、心を平坦へ。そうすれば、普段は気にも留めない己の心音すら、はっきりと感じ取れる程に……なりは、するのだが。

 

「……駄目ね、今日も」

 

 それ以上には、至れなかった。

 

「やっていることは間違っていないのでしょうけど、どうも何かが足りない気がしてならないわ」

 

 昨日と同じく、近づいてはいるのだけれども、どうしてもそこから先へ進めない。手を伸ばしてはいるが、届かない。ため息を零した霊夢は、やれやれと座禅を解いて、降下を始めた。

 

 ……無意識といえば、『無意識を操る程度の能力』を持つこいしの領域だが、こいしのは参考に出来ない。何せ、こいし自身が無意識というやつを理解しておらず、言葉では説明出来ないどころか、無意識に振り回される時があるぐらいなのだ。

 

 実際、こいしに尋ねはしたが、返された答えが『よく分からない、ふわわぁ~んとした感じ?』という、こういう時でなければぶっ叩いてやるようなことしか言わないのだ。さすがの霊夢も、これでどうこう出来るほどの怪物ではない。

 

 紫や魔理沙……に聞いたところで、良い答えなんて返ってはこないだろう。以前の紫ならまだしも、今の紫は……こう、何というか、出来ないのが何となく分かる。魔理沙に至っては、そもそもジッと大人しくすることが嫌いだから、相談するだけ無駄なのは明白だ。

 

 

 ならば他に……と思って考えてみるも、すぐに無理だなと結論が出てしまう。

 

 

 というのも、知り合いは全員、記憶が改変されている。今では、剣道部や保健委員、合唱部に軽音部に手芸部といった部活に疑問一つ挟むことなく嬉々として参加しているので……下手に尋ねれば、頭の心配をされるのがオチなのは考えるまでも――ん?

 

(……妖夢?)

 

 地面に降り立つ直前。霊夢の瞳が、神社の外……空の彼方より飛んで来る、一人の少女を捉えた。幻想女学校では剣道部主将を務めるその少女の顔は、霊夢にも見覚えがあった……というか、以前からの知り合いである。

 

 名を、魂魄妖夢(こんぱく・ようむ)。半人半霊(はんじんはんれい)と呼ばれる種族であり、傍らの白い人魂がその証。冥界にあるとされる白玉楼(という名の、御屋敷)にて剣術指南役等を務めている少女である。

 

 その妖夢が、まっすぐこっちに向かって来ている。秋の空よりも冷たさを思わせる銀色のおかっぱヘアを風に靡かせながら、わき目も振らずにこちらへ……いったい、何の為に?

 

(問題が起こって取る物も取らずに来た……にしては、ちゃんとした恰好をしているから、突発的な事ではない。でも、妙に張り詰めた顔をしている……思い詰めた何かかしら?)

 

 遠目なので分かり難いが、ただ遊びに来た……にしては、些か表情が暗いように見える。そもそも、今はまだ早朝だ。生真面目な彼女が、訪問するには不適切な時間にわざわざ訪ねに来る……只事でないのは、明白である。

 

 

 ……まあ、いい。目的は何であれ、出来ることならするし、出来ないことならしない。力になれるのであれば、力になろう。

 

 

 そう判断した霊夢は、するりと縁側へと着地すると、そのまま室内に入って着替えをする。未だ寝入っているこいしを横目で確認し、部屋を出る。部屋よりも少しばかり寒い気がする廊下の床板をきぃきぃ鳴らしながら玄関へ向かう……と。

 

「――あら、霊夢。ちょうどいい所に来てくれたわね、お友達が来ているわよ」

 

 上手い事、挨拶を終えた所で到着出来たようだ。「それじゃあ……あらあら、味噌汁が噴いてしまうわ~」すっかり見慣れた割烹着を身に纏った紫が、小走りで霊夢の横を駆け抜け、台所の方へと向かって行った。

 

「――おはよう、霊夢。朝早く押しかけて御免なさい。悪いとは思ったけど、どうしても相談したいことがあって……」

 

 掛けられた言葉に振り返れば、居心地悪そうに肩を丸めている妖夢と目が有った。

 

「それで、ね。とりあえず、これを見て欲しいの」

「え、ここで? 無駄に部屋は余っているから、適当に案内するわよ」

「ううん、そこまでしてもらわなくていいよ。本当に、話を聞いてくれるだけでいいから」

 

 そうしてから、妖夢は少しばかり視線をさ迷わせた後……そっと、その腕に抱えた、袋に包まれた棒のような何かを霊夢の眼前にて立てると、しゅるりと袋を下ろした。

 

 露わになったのは、鞘に納められている二本の刀であった。離れないように互いの鍔の穴に紐で纏められたその二本は、遠目にも分かるぐらいに長さの違いがあった。

 

 

 その二本の刀……霊夢には、見覚えがあった。

 

 

 物干し竿かと見間違うほどに長い刀の名は、たしか……楼観剣(ろうかんけん)。そうだ、たしか、そんな名だ。一振りで幽霊10匹を屠るとかいう、妖怪が鍛えた業物だと妖夢自身が話していた覚えがある。

 

 短い方の刀の名は、白楼剣(はくろうけん)。『人の迷いを断ち切ることが出来る』とかで、幽霊に対して(切ると迷いが晴れて成仏するらしい)は絶大な効果を発揮すると耳にした覚えがある。

 

 霊夢の知る限りでは、共に妖夢の愛刀だ。代々魂魄家に伝わる家宝だとかで、妖夢の祖父兼師匠より譲られたものらしく、日常的に帯刀するぐらいに大事にしていたはずだが……はて?

 

「その、いきなりこんなことを言うのも何だけど、驚かないで聞いてほしいの」

 

 小首を傾げる霊夢を他所に、妖夢はその言葉と共に俯いてしまった。辛うじて見える口元は、もごもごと言葉を練り出すかのように唇を擦り合わせていて。

 

「最近……本当に最近からなんだけど、私ね……私、どうしてか分からないけど、この刀を見ていると――」

「見ていると、なによ?」

 

 いいから、はっきり言え。

 

 そう言い掛けた霊夢の内心を遮るかのように、顔を上げた妖夢の目じりには……大粒の涙が滲んでいて。想定外のことに思わず目を見開く霊夢を他所に、妖夢は潤んだ瞳を霊夢へと向けると。

 

「この刀で……自分を切りたくて仕方ないの」

 

 そう、絞り出すように……理由を零したのであった。

 

 

 

 



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秋の章:その2

lainは誰の中にでもいる。そう、lainを知ったその時から……





うちも、やったんだからさ?


 

 

 霊夢自身にその自覚はないが、霊夢の特徴について周知されている……というより、満場一致でそうだと頷かれる事柄が、一つある。それは見た目の麗しさ(これも自覚していなかったりする)ではなく、彼女の性格に関する事。

 

 

 曖昧な言い方ではあるが、博麗霊夢という少女は大そう肝が据わったお嬢さんなのだ。

 

 

 例えば、己の首を片手間にへし折ることが出来る妖怪を前にしても、声色一つ震わせない。触れるだけで猛毒に等しい呪いを感染させる魔具を前にしても、顔色一つ変えずに調べる。

 

 それが、博麗の巫女。多少なりとも程度の差こそあっても、根本的な胆力が常人とは違うのだ。並大抵の男どころか妖怪ですら裸足で逃げ出すほどの度胸を持つ……それが、周囲が一致する霊夢に関する事柄であった。

 

「……ああ、うん、そう、そういうことも時にはあるわね」

 

 だが、しかし。そんな霊夢とはいえ、例外というものはある。

 

 外敵(妖怪は当然の事、人間であっても)に対しては大妖怪を相手にしても真っ向から啖呵を切るような少女であっても、友人からの自傷願望(とは、少し違うのかもしれないが)の告白を前に、全く動揺しない……というわけにはいかなかった。

 

 

 不躾ではあるが、どうしても、霊夢の視線が妖夢の全身を行き来する。

 

 

 制服ではないが、何時もの恰好でもない。寒空の下を来る為には当然となる厚着……緑色を基調としたコートに、足首まで綿が詰まっているのが外からでも確認出来るぐらいの分厚いズボン。

 

 軽く見やった限りでは、妖夢の恰好に不審な点は見られない。些か防寒に力を入れ過ぎな気がしないわけではないが、まあ妖夢は霊夢よりも幾らか小柄だ。風邪を引かないよう気を付けて……いや、待て。

 

 

 ……半人半霊って、確か半分が幽霊だから……肉体的な寒さ暑さには無頓着なんじゃなかったかしら?

 

 

 自然と、霊夢の視線が再び妖夢の全身を上下する。全身を防寒していると思い込んでいたが、よくよく見て見れば……両手は剥き出しで、首にマフラーはなく、耳当てもない。

 

 これほどきっちり着込んでいるというのに、何故だろう……妙なちぐはぐさというか、偏りを霊夢は覚えてならない。妖夢が暮らす冥界自体が肌寒い場所なのも相まって、気付けば霊夢はその姿に何とも言い難い違和感を抱いて……そして。

 

 

 ――こいつ、まさか。

 

 

 その可能性に思い至った瞬間、不用意に妖夢を刺激しないよう顔色一つ変えず、声色一つ変えず。内心は別としても、僅かばかり瞬きの回数が増えた程度に表面上の動揺を抑え込んだのは、さすがとしか言いようがなかった。

 

 ちらりと、霊夢の視線が妖夢の……雨に濡れた子犬のように震える肩を捉える。

 

 寒さ……というわけではないだろう。今にも涙を零しそうなぐらいに涙を蓄えた目尻から視線を下げれば、リンゴのように真っ赤になった頬が目に止まった。

 

 興奮しているから、一見するばかりでは血色が良いようには見える。しかし、よく見ればそうではない。紅潮する頬は少しばかり痩せていて、目の下に隈が出来ていて、唇も……乾燥とは違う理由で、ヒビ割れているのが見て取れた。

 

(……この様子だと、ご飯も満足に喉を通ってはいないわね)

 

 いったい、何時からこんな状態になっているのだろうか。最近、と口にした辺り、数日前……長くて、一ヵ月ぐらい前か。確証はないが、女学校が出来た辺りではないかと霊夢は推測した。

 

 これが、あの時、女学校を前にして抱いた――始まりの予兆なのだろうか。

 

 

 ……分からない。すぐに、霊夢は内心にて首を横に振った。

 

 

 まあ、考えた所で答えなんて出るわけもない。何であれ、こんな場所で立ち話も変なものだ。そう思った霊夢は、零れそうになる溜め息を寸での所で堪えた後、妖夢へ家の中に上がるよう促した。

 

 それを聞いて、妖夢は申し訳なさそうに「ここで大丈夫だよ」と上がることお嫌がった。おそらく、話を聞いただけでも良かった、これ以上の迷惑は……と考えてしまったのだろう。

 

 妖夢は……馬鹿馬鹿しいぐらいに生真面目な性格をしている。暢気でずぼらな(それは自覚している)霊夢とは違い、霊夢にとっては『心底くだらないこと』を気に病んでしまう部分がある。

 

 現に、今の妖夢が正にそれだ。

 

 約束も取らずに朝っぱらに押しかけ、自傷願望を臭わせる相談紛いの爆弾発言の後には、これ以上の迷惑は……などと態度を示す。これを、馬鹿な生真面目と言わずに何と言い表せば良いのか、霊夢には分からない。

 

「うっさいわね、私が嫌なのよ。ほら、刀は私が持ってあげるから上がりなさい」

 

 だから、霊夢は強引に事を進めることにした。実際、場所が場所だ。立ち話は嫌いではないが、秋風が入り込む玄関で長話する趣味はない。腹も減っているし、続きは一緒に朝食でも食べながら……と、思ったのだが。

 

 ――するり、と。伸ばされた霊夢の指先が、空を切った。

 

 おや、と目を瞬かせる霊夢の視線が、刀を胸に抱き抱えて後ずさる妖夢を捉える。しばし、霊夢は無言のままに眺めた後……素足のまま玄関に下りると、おもむろに妖夢の刀を掴んだ。

 

「…………」

 

 でも、霊夢は刀をそれ以上動かせなかった。何故なら、その霊夢の掴んだ指先を上下で挟む様に両手で掴んで放そうとしない、妖夢の腕があったからだ。

 

 霊力や体格等とは別に、妖夢の腕力は見かけとは裏腹に強い。大人でも振り回すのに手こずるこの刀を手足のように自由自在に操るのだから、当然といえば当然……いや、今はそんなことよりも、だ。

 

「放しなさいよ。あんたが掴んでいちゃあ何にも出来ないでしょうが」

「だ、駄目だよ。そこまで迷惑掛けられないよ」

「今更でしょ。原因は何であれ、とりあえず刀には解呪なり封印なりして一時的に誰も触れないようにするだけだから、ほら早く」

 

 しかし、刀を掴む妖夢の腕が緩む気配はない。いや、むしろ、強くなっている。いやいやと力なく首を横に振るくせに、掴む指先は白くなっていて……思わず、霊夢は苛立った。

 

「こっちは腹も空いてあんまり余計な考え事したくないのよ。ほら、ぐだぐだ言わずにさっさと――しなさい」

 

 いいかげん焦れた霊夢は、半ば強引に刀ごと妖夢を引っ張って玄関から上がらせた。「あ、あ、靴、靴が!」さすがに、観念したのだろう。些か慌てた様子で靴を脱ぎ捨てた妖夢が、ちらかった己が靴を振り返って直そうと――したのを見て、霊夢は素早く袋ごと刀を掠め取った。

 

 瞬間、気付いた妖夢が振り返り――驚愕に唇を震わせた。それを見て、はてな、と霊夢は首を傾げる。まるで金魚のようだわと唇を震わせている妖夢を見やった後……ようやく、ああコレかと刀を見やった。

 

 何も言っては来ないが、言わんとしていることは察せられる。

 

 どうせ、この刀が呪われていると思っていたから、渡したくなかったのだろう。でなければ、いくら家宝とはいえここまで拒絶などしたりはしないだろう。ひとまず、そう己を納得させる。

 

 

 ――さて、と。

 

 

 付いて来いと手招きしてから、空いている部屋へと向かう。背後にて、妖夢が恐る恐るといった様子で後に続くのを感じ取りつつ、霊夢は歩きがてら……妖夢より奪い取った二本の刀を見やった。

 

 

 物干し竿かと思う程の長刀故に使い手を選ぶ、幽霊を殺す為の刃、楼観剣。

 

 対して、刃ではあるが迷いを祓い成仏を促す、幽霊を救う為の刀、白楼剣。

 

 

 相手を殺す為の武器ではあるが、ある意味では対照的な役割を持つ二つ……を、パッと見た限りでは、不審な点は見当たらない。呪いか何かを帯びてしまった可能性を考えて探ってみるが……それも、ない。

 

 まあ、呪いが持つ本来の専売特許は呪いの内容ではなく、それが呪いであることを周囲に悟らせない秘匿性だ。

 

 これが仮に呪いの類だとして、それを行った相手が高位の術者であったなら……さしものの霊夢とはいえ、道具無しでは気付けない場合も……おおっと。

 

「ほら、着いたわよ」

「え、でも、ここって――」

 

 訝しむ妖夢を他所に、目的の場所へと到着した霊夢はがらりと襖を開ける。途端、霊夢たちの鼻腔に届く、温かくも食欲を誘う香り。炬燵机に並べられた卵焼きやら逆さになった椀やらの向こうに、「――あら?」紫が目を瞬かせていた。

 

「えっ、えっ……え?」

 

 何で此処へ……そう言いたげに視線をさ迷わせる妖夢を他所に、「妖夢の分の朝食はある?」霊夢は紫に尋ねる。経緯は知らなくとも、何となく察する物はあったのだろう。「はいはい、大丈夫よ」紫は特に事情を尋ねることもなく、足取り軽く台所の方へと向かって行った。

 

「――それじゃあ、あんたはそこに座って待ってなさい。とりあえず、こいつは私の部屋に置いておくから」

「え、あ、あの、霊夢? ちょっと、事態が上手く呑み込めないのだけれども?」

「あんた、碌に飯も喉を通っていないでしょ? 何をするにも、一に飯、二に飯よ。食わないで解決する問題なんて、この世にはないのよ」

 

 そう霊夢は告げると、妖夢の肩を掴んで無理やり炬燵机に座らせる。軽くではなく、かなり力を入れて。それで、霊夢が本気であることを察した妖夢は、居心地悪そうにしながらも大人しくされるがまま正座をして、視線を落とした。

 

「――ありゃ、初顔がいる。誰のお知り合い?」

 

 ちょうど、こいしが姿を見せたのは、その時であった。寝間着の裾には皺が寄り、ボタンも二つほど外れている。寝癖をそのままに、寝起きですと言わんばかりに大欠伸を零したこいしは、目尻に浮かんだ涙を拭いながら霊夢を見やった。

 

「私の知り合いよ。ほら、もうご飯だから、寝癖ぐらい直してから来なさい」

 

 こいしは返事をしなかった。その代わり、もう一つ大きな欠伸を零すと、ふらふらと全身を揺らしながら……廊下の向こうへと行ってしまった。おそらく、洗面所へと向かったのだろう……まあ、それはそれとして、だ。

 

 こいしが部屋を出て行くと同時に、紫が部屋に戻ってきた。その手の盆にはおひつと食器一式が載せられ、その食器には妖夢の分のおかずが既に用意されている。

 

 気付いた妖夢が幾分か慌てた様子で手伝おうとするが、「すぐに出来るから、座っていなさいな」当の紫からやんわり拒否されれば、出来ることなどない。手慣れた様子で用意を済ませる紫に合わせる形で、霊夢も少しばかり手伝えば……ものの1分ほどで、朝食の準備は終わった。

 

「あ、それと、もう一つ頼んでいいかしら?」

 

 後は、顔を洗ったこいしが戻って来るのを待つばかり……という辺りで、不意に霊夢は傍にて腰を下ろした紫に尋ねた。さすがに紫も小首を傾げて不思議そうにしたが、霊夢は構うことなく言葉を続けた。

 

「それじゃあ、ちょっと幽々子をこっちに呼んでくれないかしら?」

 

 

 え、幽々子を?

 

 

 そう返事をしようとした紫の声は、霊夢の耳に届かなかった。「――霊夢!?」何故なら、妖夢がそれよりもずっと大きな声を出して、紫の言葉を全て遮ってしまったからだ。

 

 小柄な妖夢の身体から発せられたとは思えないぐらいに強く、大きな声。それでいて、普段の声色よりも1オクターブ高いその声は、神社全体に響くぐらいで、思わず紫が目を瞬かせるぐらいの迫力があった……が、しかし。

 

「幽々子を呼んでほしくないのなら、その服を脱いで、その下の肌を私たちに見せなさい」

「――っ!? な、なんで……」

「気付かないとでも思ったの? 半人半霊のあんたが部屋の中でもそんな厚着をする辺り、隠しているのがバレバレでしょうが」

 

 霊夢には、全く通じない。対して、怒りで赤く染まり掛けた妖夢の顔色が、目に見えて悪くなった。血の気が引くとは、このことを言うのだろう。「あ、あの……」動揺のあまり、妖夢は言葉一つまともに発せなくなっていた。

 

 

 それ故に、妖夢は気付かなかった……というより、反応出来なかった。

 

 

 アッと思った時にはもう、妖夢の視線の先……紫の隣に、スキマが開かれる。すっかり温和な微笑みがデフォルトになっている紫が、その向こうに腕を差し込めば……ずるりと、桃色の髪を緩やかに靡かせている……妖夢の主にして冥界の主でもある、西行寺幽々子が姿を見せた。

 

 西行寺幽々子……彼女は、この世とあの世の境界に位置する冥界にある、『白玉楼』と呼ばれる超巨大な御屋敷の主である。と、同時に、冥界に住まう幽霊たちの管理している、幻想郷における実力者の内の一人でもある。

 

 

 その容姿は、十人に聞けば十人が可憐だと口を揃えるほどである。

 

 

 桃色のミディアムヘアーはともすれば違和感しか生み出さないというのに、不思議と彼女には良く似合う。水色と白を基調とした淡い色合いの着物は清々とした雰囲気すら感じさせた。

 

 ……その、総身に纏わりつくようにして漂う人魂さえなければ、人里だけでなく外の世界でもさぞ男たちの注意を引き付けたことだろう……が、今はその点については、どうでもいい。

 

 

「あら~、妖夢もいるじゃないの~、朝も早うからどうしたの~?」

 

 

 紫に襟首ごと引っ張られる形でスキマより逆さに上半身を垂らした幽々子は、しばし目を瞬かせていた。けれども、そのまん丸に見開かれた瞳が、紫、霊夢、妖夢の順に向けられた後、幽々子は肩の力を抜き、間延びした口調で尋ねてきた。

 

 別に、幽々子はふざけているわけでもないし、おちょくっているわけでもない。ましてや、逆さになっているからでもない。

 

 普段の幽々子は間延びした喋り方をしており、気の抜けている時はスローモーションに掛けられたかのような、ゆるゆるとした話し方をするのだ。

 

「もしかして~霊夢たちと一緒に朝ごはん~? もう~、そういう仲間外れは嫌~だから、私も混ぜてね~」

「混ぜるのはいいけど、その前にあんたも話に参加しなさい」

「お話~? それはいいけど~、お話はお布団に入ってから羊代わりにするものでしょ~? そういうのは朝ごはんを食べてからでいいんじゃないの~?」

「駄目よ。下手に時間を置くと、ぐだぐだ頭の中で予防線を作り始めるもの。状況を受け入れられなくて頭が真っ白になっている、今が一番良いのよ」

「ふ~ん、よく分からないけど、朝から胃がもたれるような重たい話は嫌よ~」

「胃なんてもたれやしないわよ。でも、残念だけど軽い話でもないわね」

 

 けれども、それは気を抜いている時に限る話であって。

 

「簡潔に述べるわ。あんたに来てもらったのは他でもない、そこで言い訳を色々と考えている妖夢についてよ」

「――何が、あったのかしら?」

 

 真面目な話……それも、幽々子にとっては(妖夢自身は気付いておらず、周囲にはバレバレだが)目に入れても痛くないぐらいに可愛がっている、魂魄妖夢についてとなれば……目の色どころか纏う雰囲気すら一変させるのは、ごく自然のことであった。

 

 そして、当然……といえば当然だが、その変化に最も強く反応したのは、話題に出された妖夢、その人であった。

 

 妖夢にとって、幼少の時よりずっと傍にて仕えてきた西行寺幽々子という存在は、ただ主としてのソレだけではない。そして、幽々子にとっても幼少の頃より一緒に過ごしてきた妖夢は……従者という言葉一つで語れるようなものでもない。

 

 妖夢の顔色は、どう擁護しても擁護しきれない程に、酷いモノであった。けれども、幽々子はあえて何も言わなかった。ふわふわと漂うようにしてスキマより降りて居住まいを正した幽々子は、次いで、続きを促した。

 

「確証は得られていないけど、要は妖夢の愛刀が呪われてしまったって話よ。そのせいで、ちょっと妖夢自身にもその影響が出てしまっているってわけ」

「――本当なの、妖夢? どうして、私に相談してくれなかったの?」

「…………」

「妖夢、答えて。いったい、何があったの?」

「…………」

 

 幽々子の表情も、声色も、傍目から見ても愛情を伴った問い掛けであるのが明白であった。けれども、妖夢は何も言わなかった。ただ、幽々子の視線から逃れるように俯くばかりで……コートを握り締める指先の白さが、ただただ痛々しい。

 

 そっと、傍まで歩み寄った幽々子の手が、白く強張った妖夢の指先に触れる。途端、妖夢の肩が文字通り跳ねた。涙に濡れて充血した妖夢の瞳が、幽々子を見上げる。でも、それでも、妖夢は何も答えず、また静かに俯いた……のを見やった霊夢は、一つ、ため息を零した。

 

 

 ――ああ、もう往生際が悪い。

 

 

 そう呟いた霊夢は、よっこらせと腰を上げて……妖夢の背後に向かう。どうするつもりかと訝しむ紫の視線と、藁にも縋る思いで見つめてくる幽々子の視線を受けた霊夢は……おもむろに、背後より腕を回してコートのボタンを瞬く間に外して前を開いたかと思えば。

 

 

 がばり、と。

 

 

 妖夢が気付くよりも早く、衣服の下に着ていた下着ごと強引に引っ張り上げた。露わになった腹部の感触に、「ちょ、えっ!?」妖夢は瞬時に首筋まで紅潮させて狼狽えた――が、それは一瞬のことで。

 

「妖夢……その、傷は……!?」

「――違います! 幽々子様、これは違うんです! たまたま、たまたま稽古の傷がここについちゃっただけなんです!」

「違うって、そんな……」

「違うんです! 幽々子様は何も心配しなくていいんです! 全ては私の、私の未熟が原因なんです! だから、だから大丈夫です!」

 

 我に返って状況を呑み込めた妖夢が最初に取った行動は、霊夢の腕を振り払うのでもなければ、肌を隠すのでもない。まず真っ先に、妖夢は己が主である幽々子への謝罪の弁を述べたのであった。

 

 

 けれども……必死に言葉を組み合わせて並べ続ける妖夢の言い訳は、誰の心にも届いていなかった。

 

 

 何故なら、妖夢の腹部に点在している傷痕が、そうさせなかったからだ。それは、一つ二つの話ではない。大小合わせれば両手の指では数えきれないほどの刀傷が、白く滑らかな肌の上に幾つも刻まれている。

 

 しかも、その中にはガーゼに覆われた、未だ治療途中だろうと思われる場所もある。薄らとガーゼの奥より滲む赤色は、消毒液の色……と、判断することすら、無理を感じさせる有様であった

 

「違う、違う、違う、違う、違う、これは嘘、全部嘘なんです。幽々子様、これは冗談なんです」

「妖夢……あなた……」

「違うんです、幽々子様、これは違うんです。私が悪いだけなんです。私が、私のせいで、だから幽々子様は心配しなくて大丈夫です」

「…………」

「大丈夫なんです、私は大丈夫、大丈夫、何処も悪くない、何処も変じゃない、未熟なだけなんです。だから幽々子様は、でも、私は、でも、でも、でも――」

 

 半ば、発狂しかけていた妖夢の言葉だが、それ以上発せられることはなかった。何故ならば、伸ばされた幽々子の腕が妖夢の頭を胸元へと抱え込み、その身体を押さえ込んだからである。

 

 

 幽々子は、何も言わなかった。

 

 

 だからといって、叱ろうともしなかった。ただ、悲痛な面持ちを妖夢の銀髪に押し付け、優しく……優しく、妖夢の背中を摩るばかりであった。

 

 けれども、それが……たったそれだけのことが、妖夢の胸中にて押し留められていた何かを、切ってしまったのだろう。

 

 気づけば、狂乱に成り果てようとした空気は変わり、徐々に、徐々に……妖夢の呼吸が落ち着いていくかと思えば。

 

「……ごわがっだんでず、ゆゆござま。ほんどうに、ほんどうに……すごくごわがっだよぉ……」

「うん、うん、もう大丈夫、もう何も怖くない。いっぱい泣いても大丈夫よ」

「じぶんが、じぶんじゃ、なぐなっでゆぐみだいで。切れば、ぢょっとだけあだまが晴れて……でも、すぐにモヤがかがっだみだいに……」

「ごめんね、妖夢。私、貴女がそんなになってまで苦しんでいるの……全然気づけなかった。ごめん、本当にごめんなさい、妖夢」

 

 ぽろりと零れた妖夢の内心は、涙に塗れていた。溜め込んでいた不安を吐露する妖夢の鼻声は、第三者にはほとんど伝わらないだろうが……幽々子だけは、正確にその言葉を理解していた。

 

 

 ……いや、幽々子だけではなかった。

 

 

 断片的ではあるが、この場に置いて妖夢の嗚咽混じりの言葉を理解している者がいて……その者は、机の上に並べられた皿の中から卵焼きを一つ、抓んで口内に放り込むと、無言のままに腰を上げた。

 

「――霊夢、何処へ?」

「早苗の所。紫は、妖夢が泣き止んだら私の分のご飯を食べさせてやってちょうだい」

 

 直後、気付いた紫が声を掛けた。立ち止まりはしたが、霊夢は振り返ることはせず、ただ一言だけポツリと答えた後、これでは言葉が足りないか、と思い出したように捕捉を付け足した。

 

「結界云々はこっちが上だけど、呪い云々はあっちが上。下手に手を出して私まで影響が出たらしょうもない話だし、とりあえずは刀を処置しないと」

「……色々と尋ねたいことはあるけど……まず、その恰好で?」

 

 紫の言い分は、最もであった。何せ、今の霊夢の恰好は、寝間着の襦袢だ。冬に合わせて多少なりとも分厚くはなっているが、何時もの衣服よりも薄いことには変わりなかった。

 

 

 ……時刻が時刻だ。

 

 

 神社の周辺を歩く人間なんてまずいないだろうし、空高く飛んで行けば誰かに見られる心配なんてない。霊夢とて年頃ではあるが、それでいいと霊夢自身が納得したのであれば、顔色一つ変えずに裸にも成れる少女であることは、紫でなくとも知っていた。

 

 

 でもね……そうだとしても、霊夢がそういう子だと分かっていても、いくら何でも、その薄い生地は駄目ではないだろうか。

 

 

 思わず、紫はそう言い掛ける。寝間着だから、ちょいと風に煽られれば下着が露わ。濡れれば肌に張り付いて身体の線が浮き出るのは必至……紫でなくとも、着替えたらと暗に促して当然であった。

 

「何か問題でも?」

「問題に決まっているでしょ。あなた、もう2,3年もしたら婿さん相手を考えなきゃいけない齢だっていうこと、忘れていないかしら?」

「忘れていないわよ。でも、2,3年先の話なら、2,3年後に考えればいいのよ」

「……育て方、間違えたかしら」

 

 思わず、紫は頬を引き攣らせた。けれども、「いちおう、効率を考えての上よ」霊夢は気にも留めていない様子であった。

 

「朝なら人里のやつらも出かけたりはしないでしょうし、妖怪だって朝はお寝坊する。だから、やるならさっさと事を進めた方が良いでしょ」

「それは私も同意するけど、着替える暇ぐらいは……ていうか、霊夢? 私の気のせいじゃなければ、貴女……かなり怒っているわよね?」

「怒っているって、いきなり何よ。そりゃあ、こうまでされたら怒りもするでしょ。紫だって、頭に来ているでしょ?」

「いや、まあ、それはそうなんだけど……」

 

 尋ねた紫自身、確かにそうだと思わず納得しかけるぐらいに霊夢の言い分は最もであった。同時に、客観的に見ても霊夢の言い分は最もだろうと紫は思った……が、違う。

 

「ただ、貴女が着替えはおろか、食事を放ってまで先に手を付けようとする辺り……ね?」

 

 紫のその問い掛けに、霊夢は……少しばかり、無言であった。けれども、突然ふふっと笑った。その声色は、あくまで普通であった。

 

 しかし、瞬間、紫は……背筋に怖気が走るのを実感した。霊夢は振り返らなかったので、紫の方からはその顔を伺う事は出来なかったが。

 

「心配してくれるのは嬉しいけど、それは紫の勘違いよ」

「かなり怒っているだなんて、そんなわけないじゃない」

「だって、さあ。私は、そこまで心は広くないし、仏でもないから」

 

 ただ、偶然にも身支度を終えて戻ってきたこいしが、これまた偶然にもタイミング悪く部屋に入って来て、何の心構えもすることなく霊夢の顔……おそらくは、視線を交差させた、その瞬間。

 

「――ただ、落とし前の一つは付けてもらわないと……ねえ?」

「ヒェ……」

 

 びっくん、と。まともに反応することすら出来ず、雷を落とされたかのように総身を硬直させたこいしを見て……紫は、それ以上言葉を掛けることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 ――さて、早苗の所と霊夢が話した場所。

 

 

 すなわち、東風谷早苗が住んでいるのは、霊夢と同じではあるが、霊夢とは別の神社である。その場所は、妖怪の山とも『お山』とも呼ばれている、妖怪たちが住まう山の上にある。

 

 何故そのような場所にあるのかといえば、だ。元々、早苗の住まう神社は外の世界にあったらしく、外の世界から強引に神社ごと引っ越してきた際、不可抗力でその場所に着地(という言い方も何だが)してしまったから、らしい。

 

 なので、外の世界よりもはるかに手狭な幻想郷では、必然的に建物の大きさは必要(威厳を見せる為に大きく見せる前提であっても)な分だけというのが暗黙の了解となっているが、外の世界で建てられた早苗の神社は違う。

 

 有り体にいえば、大きいのだ。敷地面積に限らず、神社の本殿その他諸々の一切合財が、派手なのだ。早苗曰く、『外の世界ではけっこう有名な神社だったのです!』という話からも、その外観の荘厳たる光景が想像出来よう。

 

 比べること事態が可哀想だが、その広さや豪華さは博麗神社の比ではなく、非常に目立つ。加えて、基本的には受け身で暢気な霊夢とは違い、早苗は二日に一度は人里を訪れては己が神社への勧誘活動を行う程の御熱心だ。

 

 

 そのうえ、東風谷早苗という少女もまた、霊夢に負けず劣らずの美人である。

 

 

 例えるなら、霊夢が桜のように淡く落ち着く美しさであるなら、早苗は人々の目を楽しませる色とりどりの花束だ。方向性の違いこそあるが、外の世界でも注目を浴びてもおかしくはないほどの美少女の言葉を、そう無下に扱う者はいない。

 

 そんなわけで、早苗が住まう神社は幻想郷に根付いてまだ日が浅いが、人間妖怪問わずにその存在は認知されていた。

 

 参拝するには中々骨が折れるという共通点があっても、朝から晩まで閑古鳥が鳴きまくっている博麗神社とは違い、早苗の神社はそれなりに参拝客が訪れる人気のスポットとなっていた。

 

 

 ……そんな理由から、普段はそれなりの人々で賑わう早苗の神社だが、ここ最近に関していえば、博麗神社と同じく閑古鳥を鳴かせることが多くなっていた。

 

 

 徐々に足元へと迫って来ている冬を前に、備蓄の準備に忙しいから。収穫の時期が重なって、参拝する暇がないから。厳しくなり始めた寒さによって億劫になり、気付けば足が遠のいて……等々、理由は幾つかある。

 

 けれども、参拝客減少の根本的な要因は、他でもない。神社へと通じる参道……すなわち、山中にて用意されていたに参拝者の為の通路が、山の支配者である天狗たちによって封鎖されているからであった。

 

 

 実は……これこそが、博麗神社と早苗が暮らす神社の、最大の違いであったりする。

 

 

 当然といえば当然だが、この二つの神社は共に、参拝するには中々骨が折れる場所にある。共に人里からは離れているが故に、人食を好みとする妖怪が当然の権利のように出没する。

 

 その為、本来であれば幾ら(美人である)早苗が勧誘を行ったところで、博麗神社と同じ有様になる……はずなのだが、他でもない。その、道中の安全を確保しているのが、現在、参道を封鎖している天狗たちなのである。

 

 

 ――しかし、だ。言葉にすれば、それだけのことではあるのだが。

 

 

 何ゆえ、自分たちの陣地(という言い方は少し違うが)に挨拶もせずに押し入ってきたばかりか、そのまま居付いてしまった者たちの為に護衛を行わねばならないのか。

 

 あえて言葉に出すような者はいないが、そう思って大なり小なり不満を抱いている天狗は、けして少なくはないのであった。

 

 

 ……だが、どれだけ不満を持っていたとしても、だ。

 

 

 天狗たちの生活は、人間よりもはるかに強固な階級社会。妖怪の山の頂点に君臨する『天魔』を始めとした大幹部たちが、そうだと決めたのならば、それがどれだけ嫌であろうとも従わなければならない。

 

 

 例え、それが妖怪の身でも堪える寒空の下でも。

 

 例え、人っ子ひとり通らない参道の監視でも。

 

 例え、退屈極まりないのを堪えなければならなくとも。

 

 

 やる気の有無は別として、その日もまた、数いる内の一人という程度の覚え方しかされていない下っ端天狗たちは、与えられた任務をこなすのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……外の世界よりも幾らか季節の巡りが早く訪れる幻想郷だが、まだ、雪は降っていない。当然、妖怪の山とはいえ、何処よりも早く雪が積もっている……ということには、なっていなかった。

 

 けれども、葉が落ち切った剥き出しの枝葉に、冬眠を始めたのかすっかり姿を見かけなくなった熊などの動物たち。雪の訪れを予感させる寒さは、妖怪の山の至る所で見受けられた。

 

 その、山中には……一つ、大人が3人程腕を広げて通れるようになっている、整備された道がある。元々は獣道すらないところだったのだが、前述したお偉方の命令によって新設&整備によって用意された道である。

 

 

 この道は、主に神社へと向かう参拝客の為に作られた道だ。

 

 

 これ以外の道はなく、監視をし易くするという意味合いもあることから、よほどの例外を除けば、この道意外を通れば即捕縛、場合によっては即斬殺という厳しい処置が取られていた。

 

 そうして、その日、その時間。交代制で行われている参道の警備を行っていたのは、下っ端天狗たちの中でも比較的年若い……二人の天狗(見た目は青年)であった。

 

「……朝から晩まで人っ子ひとり通らない参道を監視……分かっちゃいるけど、退屈だ……夏ならまだ人が……ふあぁ、だなあ……」

「欠伸を零すな、どこで御咎めを食らうか分からんぞ……まあ、この時期に山に登ろうなんてやつはそういないしな。俺も同じ気持ちではある」

 

 大きく欠伸を何度も零す天狗は黒髪。それを注意する茶髪の天狗も時々欠伸を零す。

 

 背格好は似たようなもので、雰囲気もどことなく似ている。兄弟というわけではなく、たまたま似ているというだけの二人は、退屈な任務を欠伸混じりに遂行していた。

 

 二人が欠伸を零すのも、無理はない。先述した通り、実際、この任務は退屈極まりない。天狗社会においては新人である二人だけでなく、この任務に一度でも就いた者は誰もが口を揃えて似たような感想を零すぐらい、退屈なのだ。

 

 何せ、この山は表向きは『妖怪たちの山』ではあるが、実質は天狗が支配する天狗の領域。他所ならいざ知らず、ここで天狗に手を出そうものなら天狗たちが総出で乗り出してくる。

 

 それを知っている妖怪たち、つまり、この山に住まう妖怪であればまず襲ってくることはない。理性を持たぬ魑魅魍魎なら、そもそもが参道に設置された護りによって弾かれる。

 

 それら二つに該当しない妖怪なら話は別だが、そんなのは一年に数回ぐらい。また、そういう妖怪であれば下っ端天狗の二人が同行できる相手ではなく、速やかに上司へ連絡しろと通達されている。

 

 なので、この二人に限らず、この任務でやれることなんていうのは本当に監視ぐらいしかない。その監視だって、人通りがない景色を延々と眺めるだけ。愚痴の一つや二つは出て、当たり前な環境なのであった。

 

「……ん?」

 

 だが、その日、その時間。繰り返されていた日常とは違うことが、起ころうとしていた。

 

「どうした?」

「……何か、近づいて来ている」

 

 気付いたのは、黒髪よりも目が良い茶髪の天狗が先であった。腰に下げた刀を抜き、正眼に構える。「どんなやつだ? あと、数は?」それを見て、黒髪も緩んだ頬を引き締め、同じく刀を抜いた。

 

 二人の、麓へと下がる視線の先には何もいない。いや、正確には、茶髪の瞳だけはソレを捉えていた。まっすぐ、全速力という様子でこちらに向かう……妖怪の姿を。

 

「――女の子だ。雰囲気からして、妖怪だ。一人でこっちに向かって来ている……敵意は分からん。だが、何やら様子がおかしい」

「様子……その妖怪に見覚えは? 具体的な特徴はあるか?」

「緑色というべきか、灰色というべきか、混ざり合った髪色をしている。後は……そうだな紐みたいな何かが身体に巻き付いていて、少なくともこの山では見掛けたことがない妖怪だな」

「ひも……紐? 何だ、その紐っていうのは?」

「分からん。紐のような何かが身体に巻き付いて……いや、纏わりついているのか? とにかく、もうすぐお前にも見える位置まで……ああ、来たぞ」

 

 茶髪の天狗が呟いた直後、黒髪が視認出来る距離に、ぽつんと小さい影が現れる。それは彼の言葉通り独特な髪色をした少女であり、紐のような何かを身体に纏わりつかせていた。

 

 様子がおかしいと評しただけあって、確かに変であった。具体的にいえば、焦燥感……そう、焦燥感だ。感じ取れる妖力こそ並の妖怪よりは強いが、強張った表情が、二人に困惑をもたらした。

 

 

 ……とりあえず、止めねば。

 

 

 呆気に取られていた二人だが、それでも天狗は天狗。「そこの者、止まれ!」任務を思い出し、通せんぼをするかのように抜いた刀で少女の進路を塞ぐ。気づいた少女は、ばたばたと衣服をはためかせて二人の前に急停止した。

 

「見慣れぬ顔だな。まあ、それはいい……名は? 行き先を答えよ」

「私は古明地こいし! 行き先は上、神社への参拝! 急いでいるから早く通して!」

「妖怪であるお前が、神に祈りを? 失礼を承知で聞くが、本当に参拝だけか? 不埒なことを考えているのではあるまいな?」

「ここのは人でも妖怪でも受け入れる心の広い神様って聞いて来たの! 急いでいるから早く通して! 早くしないとアイツが痺れを切らしちゃうから!」

「――待て、アイツとは誰だ?」

 

 まくし立てて通ろうとした少女……こいしの前に、刀を差し出す。つんのめりになって足を止めるこいしを他所に、「怪しいやつだ、真の目的を言え」茶髪の天狗は言葉を続けた。

 

「だから、上の神社に行きたいの! 今の霊夢がここに入ると絶対に騒動になるから、わざわざ麓で待ってもらっているんだよ! ここでぐずぐずしてたら、本当に危ないんだってば!」

 

「霊夢……ふむ、その名には聞き覚えがある。だが、それならなおの事、易々と通すわけにはいかん。博麗の巫女に伝えよ、『お山の小事はお山で解決する』とな」

「――ちっが~う! そういう問題じゃないの! お山は関係なくて、神社に行きた――っていうか、本当に通して! 説得にどれだけ私が疲れたと思っているの!?」

「そちらの事情など知らぬ。不本意だが、不穏な輩はここで御帰り頂くのが我らの務め。通りたくば、せめて巫女が直接出向いてくるのだな」

「その霊夢が駄目なんだってば! 今の霊夢は脳みそ沸騰して危険が危ない感じなのを何とか宥めて待って貰っている所なんだよ!? 早くしないと、もっともっと大事に――ひぃ!」

 

 唾を飛ばして叫んでいたこいしの怒声が、突如として止まった。怒りに紅潮していた顔は一気に青ざめ、びくんと背筋が伸びて、硬直した。

 

 

 それは、先を遮っていた二人も同様であった。いや、二人の方が、より顕著であった。

 

 

 青色を通り越して白色となった顔から流れ落ちる、大量の冷や汗。構えた刀は目に見えて震え、引けた腰は今にも崩れ落ちそうで。まん丸に見開かれた眼はこいしから外れ……その、後ろへと向けられていた。

 

 いったい、こいしは何に気付いたのか。そして、二人は何を見たのか。その答えは……こいしの後方より、静かに山を登って(飛んで)くる……博麗の巫女であった。

 

 巫女の姿は、何時もの巫女服ではなく寝間着であった。よほど急いでいたのか、それとも内心の表れか、艶のある髪はぼさぼさで、酷い有様であった。

 

 だが、二人が……正確には、3人を硬直させたのは、その見た目ではない。その身体から放たれている……天にも届かんばかりの、とてつもない怒気が原因であった。

 

 

 それは、正しく怒髪天であった。

 

 

 只でさえ、平時ですら名のある妖怪が冷や汗を掻く程の霊力を垂れ流す霊夢が、怒りの赴くままに霊力を放っている。蛇に睨まれた蛙、猫に見つめられる鼠のように身を硬直させた三人の元に……霊夢が、静かに降り立った。

 

「……あの、レイムサン? 下で待っている約束が――」

「埒が明かない、そうでしょう?」

 

 その言葉と共に、霊夢は……己が肩に乗せている妖夢の刀のつばを、かちゃりと鳴らした。

 

「あ、はい、そうですね、すみません」

 

 

 いかん、今の霊夢に何時もの茶々は通じぬ。

 

 

 察したこいしは、色々と諦めてさっさと霊夢に道を譲った。そうなると、可愛そうなのは……そんな彼女と対面させられる形になってしまった、二人の憐れな天狗であった。

 

 ぽとり、と。知らぬうちに刀を落とした二人は……既に言葉すら発せなくなっており、下腹部からは湯気が立ち上っていた……まあ、それも無理はないことであった。

 

 種族的なアドバンテージがあるとはいえ、だ。相手は、歴代最強と名高い博麗の巫女。しかも、以前よりも倍以上は力を増していると噂されている、博麗霊夢だ。

 

 その強さ足るや、天狗たちの頂点である『天魔』すら直接的な戦いは避ける(いちおう、様々な要因があるらしいとは天狗たちの噂だが)と聞く。

 

 そんなやつを相手に、天狗とはいえ下っ端がどうこう出来るわけがない。しかも今にも片手間程度に首を刎ねそうな雰囲気を醸し出している……ぶっちゃけ、失神していないだけこの二人はタフな方であった……と。

 

 

 ――風が、揺らいだ。

 

 

 その事に、この場で唯一素面であるこいしだけが気付いた……直後。痛みすら覚える程の突風と共に、一人の少女がその場に降り立つ。その少女の名は、射命丸文であった。

 

 風を撒き散らして降り立ったその恰好は、何時もとは異なっていた。カッターシャツやミニスカートといった動きやすく新聞記者風な恰好でいることが多い彼女には珍しく、修験者を思わせる山伏風の出で立ちであった。

 

 実力こそ天狗たちの中では上位に食い込む文だが、天狗社会においてはそれほど地位は高くない。おそらく、別の仕事に就いていたのだろう。「しゃ、射命丸様……!」地獄に仏とはこの事かと言わんばかりに大粒の涙を零す二人を見やった文は、思いっきり……それはもう思いっきり、苦笑を零した。

 

「あー……その、霊夢さん? とりあえず、おっそろしく物騒な気配を垂れ流している理由をお聞きしても?」

「上の神社に用があるから通せっつってんのに、ぐちぐちと通さないこいつらが悪い」

「いやあ、申し訳ない。こいつらまだまだ年若いやつらでして、融通を判断出来るほどの経験がないんですよ……とはいえ、強引過ぎるあなたも悪いのですよ」

 

 そう言うと、「まあ、ここは私の顔で通しておきますので、ごゆるりと」文はそういって呆然としている天狗たちを道の脇に追いやり、どうぞと道を譲った。

 

 それを見て、霊夢は無言のままに再び空を飛び、文たちの横を通って……山を登って行った。一拍置いてから、こいしが頭を下げて霊夢の後を追いかけていった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……………そうして、霊夢たちの気配が完全に遠ざかったのを確認した後。深々とため息を零した文は……佇むばかりの二人へ振り返り、「――この、お馬鹿!」怒鳴りつけた。

 

「職務全う大いに結構! ですが、相手を見てやりなさい! 鬼を相手に張り合う鼠を称賛しますか? しませんでしょう? あなた達がやったのは、そういうことです! しっかりと猛省なさい!」

「で、ですが、私たちにもその、任務がありまして……」

 

 涙の痕をそのままに天狗の意地を示す二人に、「これだから、昨今の糞真面目な若造どもは……」文は頭が堪らんと言わんばかりに己が頭を摩った。

 

「小水垂れ流して震えることしか出来なくなるぐらいなら、素直に通した方が良い時もあるのです。無謀と勇気をはき違えてはいけません」

「し、しかし、大天狗様からお叱りを……」

「その大天狗が目を逸らして素通りさせるのが、アレなんですよ! ほら、後は私が見ておきますから、まずは着替えて来なさい。いくら寒いとはいえ……臭いますよ」

 

 鼻を抓む文の仕草を見て、ようやく二人もその事を思い出したのだろう。相手が上司であるとはいえ、異性だ。「し、失礼しました!」青ざめていた顔を一気に赤らめた二人は、幾らか強張った動きを見せて空へと飛ぶと……その場を離れて行った。

 

「……やれやれ。他種族に対して引くことを恥とする天狗の考え方にも、一理の責任がありますな」

 

 しっかり戻って行ったのを見送った文は、誰に言うでもなくそう呟いてため息を零した。お偉方が聞けば顔を真っ赤にして怒りそうな言葉ではあるが、それは文の紛れもない本心であった。

 

 

 誤解を招かないように訂正しておくが、文は何も天狗の有り方そのものに異を唱えているわけではない。

 

 天狗としての誇りは、文も持っている。それに加え、文自身、御多分に漏れず、他の妖怪よりも上位の存在であると考えているし、その点については先ほどの若造と文とでは違いはない。

 

 違う点を挙げるとすれば、何もそれだけに縛られる必要などない、という点だ。

 

 天狗として守るべき所は守ればいいし、譲れない所は譲らなくていい。だが、引き際は心得なければならない。天狗とて、絶対ではない。時には、己の矜持を誤魔化す都合の良い狡賢さも必要になるということだ。

 

 

 今の霊夢との邂逅だって、そうだ。

 

 

 何があったかは知らないが、平静を失う程に怒り狂っているのは見て取れた。だが、見境なく暴れ回るような状態ではなかったし、その程度の分別を理解出来る程度には理性は残っていた。

 

 つまり、素直に通してやれば丸く収まったのだ。あくまで、こちらが譲ってやって、相手はそれを受け入れた。そういうふうに持っていってやれば話はすぐに終わる……その程度の事なのであった。

 

「……しかし、あの霊夢さんをあそこまで激怒させるとは……いったい、何者の仕業なのでしょうかねえ?」

 

 代わりの者が此処に来るまで、もうしばらく掛かるだろう。暇潰し代わりに傍に転がった刀を軽く振るいながら、ふと、文は思った。

 

 ことさら声を荒げるような娘ではないが、頬を打たれたら無表情のまま殴り返すし、文句を言われた傍から記憶から消してしまう。文が知る限り、霊夢はそんな性質の娘だ。

 

 少なくとも、己が何かをされて激怒するような(限度はあるだろうが)子ではない。そこから考えられる推測は……霊夢を狙った相手が、よりもよって霊夢の知り合いを狙った?

 

(そういえば……先ほど霊夢さんが持っていた二丁の刀は……見間違いでなければ、冥界の従者である魂魄妖夢が持っていた刀でしょうかね?)

 

 幻想郷には刀を始めとした武器を所持している者はそれなりにいる。その中でも、霊夢が持っていたあの刀……物干し竿かと思う程に長い刀と短刀の組み合わせとなると、文の知る限り一つしかない。

 

 けれども、それならばそれで、腑に落ちない点がある。

 

 何故なら、文が記憶している限りでは、その二丁の刀は妖夢にとって大事な物であることに加え、例え友人であってもおいそれと貸出するような性格をしていないからだ。

 

(ならば、魂魄妖夢の身に何かが……いや、それも可能性は低い)

 

 奪い取られた物を霊夢が取り返した……は、ないだろう。冥界の従者である妖夢は剣術の達人である。当人は『半人前』であると自称してはいるが、客観的に見ればその腕前は常人の域を超えている。

 

 文ですら、正面から奪い取ることは難しい。大妖怪にも匹敵する実力を持つ文ですら難しいことを、他の者が……冥界の主である西行寺幽々子の目を掻い潜ってとなると、それを実行できる者が文には思いつかない。

 

(魂魄妖夢が何者かに襲われて、その仕返しに霊夢が……いや、それも違う。それなら、わざわざ神社に向かう必要はないし、そうだったらもうちょっと殺気だっていたはず)

 

 そもそも、だ。損得抜きで行動したうえで妖夢と真正面に戦って勝てる相手が、この幻想郷にどれだけいるのだろうか。内心にて、文は何度も首を傾げる。

 

 妖夢は、剣術の達人だ。特に、抜刀術に関しては文も一目置いている。半人であるが故に持久力こそ妖怪に比べて乏しいものの、先の先……一撃目となる初速に関しては、文の目を持ってしても捉えきれぬ程だ。

 

 

 それらを踏まえて、その妖夢の手から霊夢の手に刀が渡っているということは、だ。

 

 

 妖夢の身に何かが有った……あるいは、霊夢の助力が必要になる事態が発生し、結果的に霊夢に刀を預けなければならない事態になった……と、考える方が自然ではないだろうか。

 

(しかし、これを正解に近い推測と判断するか、当てずっぽうの邪推と判断するか……些か、情報が足りませぬな)

 

 ――とくり、と。胸中にてフッと姿を見せた好奇心が催促するように疼いたのを、文は実感した。

 

 ジャーナリズム魂というか、パパラッチ魂というか。とにかく、新聞屋としての文が鎌首をもたげるのを感じ取った文は、ちらりと山の方を見上げ……もう、と地団太を踏んだ。

 

 何をするにも、とにかくは代わりの者がここに来てくれなくては動くことが出来ない。

 

 この時間だ、参拝客などまず来ないだろうが、絶対に来ない保証はない。そもそも、ここで文が離れてしまえば、お叱りは文ではなく、あの二人に向けられて……ん、んん、あれ?

 

「……んん?」

 

 下方より山を登ってくる気配に、文は小首を傾げた。それはこの時間には珍しい参拝客の気配に気づいたから……ではない。

 

 文が首を傾げた原因は、山を登ってくる気配が、ついさっき山を登って行った者と同じ気配であったからだ。

 

(西洋にはドッペル・ゲンガーなる、他者と全く同じ姿を取って成り替わる妖怪なり悪魔なりがいると聞いたことはありますが……ですが、この気配……?)

 

 よりにもよって……そう思っている内に、気配がどんどん近づいてくる。訝しんで見やった文は……眼前にて立ち止まった少女を見て、やれやれと目を細めた。

 

「――ここから先は我らが領域であり、我が種族が交わした盟友たちが住まう場所。何用で参ったか?」

「いきなり他人行儀な言い方ね。仕事中とはいえ、あなたらしくないわよ」

「余計な問答で遊ぶつもりはない。化けるのは上手いようだが、よりにもよってあの娘に化けたのはお間抜けだと思うわよ」

「化けるだなんて……何をいきなりかと思えば――()()()()()()()ってわけ?」

 

 鋭い視線を向けてくる文に、少女は……ふわりと巫女装束をなびかせると、ふわりと淡い笑みを浮かべた。

 

「私の名は、()()()()……()()()()()()()()()()()()?」

「……はっ、この期に及んでまたそんな戯言を。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――」

 

 そこまで言い掛けた瞬間、文の頬に手が触れた。大きく見開かれた文の目に映るのは、鼻先が触れるまで近づいている博麗レイムの微笑みであった

 

「誰かと勘違いしているんじゃないの? 私は、博麗靈夢。博麗の巫女であり、楽園の素敵な……博麗靈夢よ」

「だから――それはあの娘の……娘……むす、め?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。同じ呼び名だから勘違いしやすいもの、仕方ないわよ……ほら、思い出して。美味しいネタがどうのこうのと言って、私を追いかけ回したこともあったでしょう?」

「……ああ、そうでした。すみません、うっかりしていました。なんでしょうね、寝ぼけていたのでしょうか?」

 

 しばし呆けていた文は、レイム……いや、靈夢から掛けられた言葉に我に返った文は、「いやはや、お恥ずかしい所を見せてしまいましたな」幾分か気まずそうに頬を赤らめて、靈夢から距離を取った。

 

「そ、それで、博麗の巫女である貴女がどうしてここに? もしかして、『異変』ですか?」

 

 そうしてから、咳を一つ。場の空気を入れ替えたいのがバレバレなその問い掛けは、文自身、何の期待もしていなかった……が。

 

「まあ、異変といえば異変かしらね。だって、里人の霊夢がこんな時間にお山を登っているんだもの。紫のやつから、助けに行ってほしいと頼まれたのよ」

「え、そんな山を登るくらいで……」

「何を言っているの? あの子は、里人の霊夢なのよ?」

 

 あの霊夢がその程度でと小首を傾げる文に、靈夢は断言した。「え、あれ……?」それを聞いて、文は一瞬ばかり目を瞬かせたが……すぐに、大きく目を見開いた。

 

「――なんで護衛も付けずにあの子は一人で昇っているんですか!?」

「さあ、知らないわ。私に似て可憐だけど直情的な所があるから、何か思い立ったんじゃないかしら?」

「何を悠長な……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! それぐらい、貴女だって知っているでしょう!」

 

 今にも飛び出して後を追いかけんとばかりに声を荒げる文の言葉に……靈夢は、少しばかり困ったような笑みを浮かべると。

 

「そうね、そういうことになるのよね」

 

 ぽつりと、囁くように呟いたのであった。

 

 




先に言っておく。旧作キャラは異変には関与していないよ。というか、登場しても繋がりはないのであしからず


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秋の章:その3

秋の章はこれにて終了。
物語は終盤へと移る


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 妖怪の山の頂上ではなく、その半ばにある早苗たちの守屋神社。整備された参道の終着点へと辿り着いた霊夢は、勝手知ったると言わんばかりに社の中に入ったのは、今から20分前。

 

 守屋神社は、霊夢が暮らしている博麗神社よりも一回りも二回りも大きい。というか、そもそも比べるのがおこがましいぐらいに広く、部屋の数も相応に多い。

 

 そんな場所で、案内も伴わず、敷地の何処かにいるであろうお目当ての人物を見つけ出すことが出来るのだろうか。

 

 

 答えは、出来る、だ。正確にいえば、尋常ならざる『勘』を持つ霊夢だからこそ、可能なことであった。

 

 

 人探しの術を使う必要はない。声を出して呼ぶようなことも必要ない。ただ、『勘』に任せて足を動かせばいい。それだけで、霊夢にとっては十分で……実際、十分であった。

 

「あれ、霊夢さん? こんな時間に何用――って、ちょ、霊夢さん?」

 

 出くわしたのは、廊下の途中。姿を見せたのは、日の光を浴びて煌めく若葉のような長髪をポニーテールに纏めた、霊夢より少しばかり背の高い美少女。

 

 こんな時間(まだ、朝食の時間)に姿を見せた霊夢を見て、目を瞬かせている割烹着姿の早苗(スタイルが良い為か、年齢不相応に似合っていた)の横を通り過ぎ。

 

「おや、博麗の……ん、神奈子に用でも?」

 

 出くわしたのは、和室から出てきた直後。姿を見せたのは、目玉のような何かが付いた帽子をゆらゆらと揺らす、霊夢よりかなり背の低い少女。

 

 普段からは想像が付かないぐらいに剣呑な雰囲気を漂わせている霊夢を見て、小首を傾げながら挨拶する、この神社の二つの内の一つ、神の一柱である洩矢諏訪子の傍を通り過ぎ……中に入る。

 

 そこは、霊夢の自室よりは幾らか広い和室であった。だいたい、十畳程だろうか。部屋の中央には大きな炬燵が有って、その上には三人分の食器が置かれており、既にサラダが用意されていた。

 

 他の場所とは違い、ここには何というか……生活感がある。暦表やら箪笥やらが見受けられるそこは、私室として使用されているようで、その一番奥で新聞を読んでいた女性が顔を上げ……はて、と首を傾げた。

 

「……えっと?」

 

 霊夢は、その女性……もう一つの一柱である八坂神奈子の前にて立ち止まる。神奈子は、正しく大人の女性という風貌である。スーツを着ていたら、出来る女性といった感じだろうか。

 

 だが、そんな出来る女性も、あまりに想定外の事態には弱い。博麗の巫女の突然な来訪に事態が呑み込めず、唖然としている神奈子の眼前に……妖夢より半ば強引に預かった楼観剣と白楼剣をどん、置くと。

 

「この刀が呪われているか否かを調べてちょうだい」

「……挨拶も無しにいきなり何だ。物を頼む時は相応の態度を、だな――」

「ヤルのかヤラないのか、さっさとしろ。私は今、抑えが利かないぐらいに気が立っているのよ」

「はい、やらせていただきます」

 

 

 ――あ、これはアカンやつだ。

 

 

 霊夢の背後より姿を見せた古明地こいしより、『素直にいう事を聞いておけ』という感じのジェスチャーを見て察したのか、それは神奈子以外には分からない。

 

 事実として有るのは、内心にてそんなふうに白旗を挙げて刀を受け取る神の一柱に、霊夢は有無を言わさず迫ったということだけであった。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、今。

 

 興味を抱きつつも、着々と朝食の用意を進めてゆく早苗の視線を時折受けつつ、刀の解析を進める神奈子と諏訪子の二柱。「――呪いは私の専売特許さ!」という諏訪子の主張の元、諏訪子が主となって作業を進めた……その結果。

 

「私が調べた限り、この刀にそれらしい術や気配は感じ取れないよ。少なくとも、私が感知出来る範囲では、の話だけどね」

 

 凝った目元を解している神奈子を他所に、諏訪子はそう言って霊夢へと刀を返した。受け取った霊夢は、「それは、確かな事なのかしら?」何とも軽い調子の諏訪子を見やった。

 

「本気も本気、嘘偽りはないよ。けっこう本腰入れて調べたから……それじゃあ、はい、お疲れ」

 

 けれども、そう言われたら霊夢としては納得する他ない。まあ、疑う疑わない以前に、自身の『勘』が、諏訪子は何一つ嘘を付いていないと訴えているのだ。

 

 霊夢としても、それ以上話を引っ張るつもりはなかった。とりあえず、刀に問題がないとさえ分かれば、それで良いからだ……と。

 

「――霊夢さんたちも、一緒に食べます?」

 

 思考の坩堝に入り掛けた霊夢の意識が、浮上する。顔をあげれば、朝食を乗せた盆を持った、早苗が立っていた。

 

 尋ねられて、ようやく霊夢は辺り……というか、室内を漂う香りに気付く。ご飯やみそ汁の匂いが入り混じるそれは、自ずと食欲を誘い……意図せず、くうっと霊夢は己が腹を鳴らしてしまった。

 

「……いいの?」

 

 時に鉄面皮と揶揄されることもある霊夢とはいえ、年頃であるのは事実。プライベートな音を聞かれた事に僅かばかり頬を赤らめる霊夢を見やった早苗は、にこにこと可愛らしい笑みを浮かべた。

 

「そんな恰好で来たぐらいですから、文字通り取る物も取らずだったのでしょう? 遠慮せず、召し上がってください」

 

「……悪いわね」

「お気になさらず。お連れの妖怪さんは、もう頂いておりますから」

 

 言われて、早苗から炬燵机に目をやれば、だ。美味しそうに朝食を取る二柱の隣で、行儀よくご飯を食べているこいしの姿があった。

 

 どうやら、知らぬ間に相当考え込んでいたようだ。目が合ったこいしは特に悪びれた様子もなく、神奈子たちも気にはしていないようであった。

 

「……もう少しだけ考え事をしてからで、いいかしら?」

「構いませんけど、根を詰め過ぎても良い結果は出ませんよ……それじゃあ、霊夢さんの分はここに置いときますので」

 

 そう告げると、早苗は霊夢の分の朝食を炬燵へと並べると、その隣……自分の分の前に座り、食事を取り始めた。

 

 

 ……こうしてみると、私より5歳は年上に見えるわね。

 

 

 そう、誰に言うでもなく心の中で呟いた霊夢は……胡坐へと姿勢を変えて、再び考える。思考の再出発地点は当然、先ほどまで考えたその場所からだ。

 

 

 ……刀に問題が無いとなれば、だ。

 

 

 原因はこの刀ではなく、外部。つまり、第三者が直接何かを行っているか、あるいは……考えたくはないが、妖夢の心に問題があるという可能性が浮上する。

 

(……らしくないわね)

 

 だが、可能性としては考えられるが、霊夢は内心にてその二つの可能性を即座に切って捨てた。何故なら、どちらも言うなれば『らしくない』からだ。

 

 前者であれば、現時点で最も疑われるのは『岩倉玲音』だ。だが、これまで彼女が行ってきたやり方から考えれば、あまりに毛色が違い過ぎる。

 

 霊夢とこいし以外には全く……初めからそうであったと記憶そのものを改ざんするようなやり方に比べて、方法が直接的過ぎるし意図が読めない。

 

 

 それに、妖夢が幽々子に抱き締められながら口走っていた、幾つかの言葉。

 

 

 これまでの改ざんとは違い、穴だらけではあったが……記憶を操作されているという違和感を妖夢は覚えていた。決定的な違いがあるとすれば、そこだ。

 

(もしかして……『岩倉玲音』とは別の第三者が……?)

 

 嫌な予感に、霊夢は堪らず己が口元を手で覆った。

 

 

 ……この時、霊夢は気付いていなかった。己が口元を手で覆うという、霊夢の人生において初めてとなるその仕草は、心理学においては強い不安やストレスを覚えている時に行う仕草であった。

 

 

 ――時に、人は言葉よりも態度や仕草にその内面が強く表れる。

 

 

 視線をさ迷わせるのは考え事をしている時、掌を握り締めるのは強い緊張感や怒りを覚えている時、足先を相手から逸らした位置に置くのは苦手意識を覚えている時など、人は実に様々な内心を無意識のうちに表に出している。

 

 この時の霊夢も、言葉にこそ発しはしないものの、その内心を如実に表に出していた。それは、常勝無敗の戦績を重ねてきた霊夢が初めて覚えた……未知への、強い恐怖であった。

 

「――そうだ、その刀を見ていて一つ訂正しておくことがある。気分転換がてら、聞きなさい」

 

 掛けられた言葉に、霊夢はハッと我に返る。見やれば、味噌汁を啜っていた神奈子が、「何を悩んでいるのかは、知らないけどね」気遣うような視線を霊夢に向けていた。

 

「見た所、その楼観剣に白楼剣……だったかしら? かなりの業物であるのが見て取れる。真の力を発揮するには使い手を選ぶようだけど、それでもモノが違うわね」

「――あれ、神奈子様、けっこう刀とかに詳しかったりするんですか?」

「そりゃあ、こう見えても私は元々軍神だからね。武器に限らずその手の道具一般は……っと、早苗、今は茶々を入れるんじゃありません」

 

 当たり前のようにサラッと話に参加しかける早苗を叱りつつ、神奈子は味噌汁を置いて、こほんと一息入れる。次いで、改めて霊夢を見やって来たので……霊夢は、思い出したことを告げた。

 

「……詳しくは知らないけど、妖夢……冥界にある白玉楼の従者なんだけど、その子の家に伝わる家宝だと私は聞いているわ」

「知っているよ、早苗の友達――早苗、大人しくなさい――だからね。でも、私が言いたいのはそこじゃなくて、その刀が持つ『力』のことさ」

「『力』って、幽霊10匹を倒すとか、迷いを断つとか、そういうの?」

「魂魄家ではどのように伝えられているのかは知らないけど、その刀が持つ本当の『力』は、そのどちらも違う」

「え?」

「言葉にするのは難しいけど、その刀は共に『道を断ち切る』というのが本来の能力。幽霊10匹だとか迷いを断ち切るというのは、あくまでその能力の側面と捉えて貰っていいわよ」

「……どういうこと?」

「道というのはつまり、選択肢だ。己が選べる選択肢の先へと続く道を断ち切る……それが、その刀の本当の能力なんだよ」

「……と、いうと?」

 

 いまいち、神奈子の言わんとしていることが霊夢には分からない。「あー、なるほど、言われてみればそうか」早苗もこいしも意味が分からず首を傾げている横で、諏訪子だけが納得した様子で何度も頷いていた。

 

「そうさな、霊夢。例えば、『迷い』というのは、どういう時に生まれるモノだと思う?」

「……お茶菓子に煎餅がいいか饅頭がいいかとか、そういうとき?」

 

 しばし視線をさ迷わせて考えた、霊夢の答え。「……食い意地張り過ぎじゃないかな?」こいしからの率直な意見に、「年頃の子は、男も女も食い意地さ」諏訪子が擁護した。

 

「それじゃあ、何故その二つにしたんだい? 他にもいっぱいあるだろ? 餅でもいいし、金平糖でもいい。なのに、どうして?」

「それは……何となくよ。別にその二つでもいいけど、パッと思いついたのが煎餅と饅頭だっただけよ……ねえ、これって何の質問?」

「何って、『迷い』の質問だよ。さあ、霊夢。まだ気づいていないようだけど、お前は今4つの選択……4つの未来から、二つを選び取った。つまり、道は残り二つ……では、その二つからどちらを選ぶ?」

「……強いて挙げるなら、今の気分は饅頭かしら?」

「さて、これで道は一つとなった。つまりだな、霊夢。迷いを断ち切るという白楼剣の本当の能力は、お前が無意識のうちに選び取る以外の未来を捨てる……そう、『道を選び取る』ことなのさ」

 

 

 その言葉に、霊夢は……小首を傾げた。

 

 

 果たして、それは『迷いを断ち切る』ということと何が違うのだろうか。

 

 

 そう思って神奈子を見つめると、「似ているけど、本質は全く違うよ」当の神奈子ははっきりと霊夢の考えを否定した。

 

 

「『迷いを断つ』というのは、あくまで数ある未来から道を一つ選び取っただけだ。選び取っただけだから、道は何時でもお前の傍にあるし、その気になればすぐに別の道に行ける……ただ、その気がないから道が逸れないだけなんだよ」

「……それじゃあ、楼観剣は?」

「こっちはもっと過激で、『道を全て断ち切る』。断たれた道は、文字通り、存在しないことになる。存在していないから、迷わない。選び取る未来は一つだけ……迷うも何もないだろう?」

 

 ――理解が脳髄の奥にまで染み渡った、その瞬間。最初に霊夢が抱いた思いは……饒舌にし難い、不思議な感覚であった。

 

(……これは、なに?)

 

 そっと、霊夢は己が胸に手を当てる。女の証である膨らみの向こうにある、肋骨の硬さ。そして、その奥より伝わって来る……確かな鼓動。

 

 

 何時もよりも、すこしばかり激しくなっているような気がする。

 

 

 心を操られることへの恐怖、ではない。かといって、剣が持つ能力への好奇心でもない。安堵感でもなければ、知識欲でもない。

 

 それは、霊夢にも分からない何かであった。それはけして、喜びではない。だが、嫌ではない。理由は分からないが、とにかく嫌ではなかった。

 

「つまり、茶菓子が何も無い状態にするってこと?」

「大方その通り。厳密にいえば、ここで茶を飲むかどうかの道が生まれるけど……仮に、魂こそ内包してはいるが思念の塊でもある幽霊が、飲むのを止める道を選んだ場合……どうなると思う?」

「たぶん、成仏する?」

「成仏するならまだマシさ。肉体を持たない存在が、存在することすら放棄したら、待っているのは自滅。傍目には、切られて成仏なり何なりしているようには見えるけどね」

 

 いつの間にか再び味噌汁を啜っていた神奈子は、椀を持ったまま答えた。こで話は全て終わりなのだということを察した霊夢は、改めて己が傍に置かれた二丁の刀を見やった。

 

(『道を全て断ち切る』楼観剣、『道を選び取る』白楼剣。どちらも迷いを断ち切るものだけど、その性質は似ているようで全くの逆……ん、となると?)

 

 妖夢は……どちらの刀で己を切っていたのだろうか。

 

 

 ふと、霊夢はその事が気になった。

 

 

 けれども、友人であるとはいえこの問題は妖夢の内心が関わっている可能性がある。己に対しても最初は隠そうとしていたあの妖夢に、果たして問い質して良いものかどうか。

 

(……まあ、それは追々でいいか)

 

 そう、霊夢は結論を出した――その、瞬間。

 

 

 “また、そうやって背を向けるの?”

 

 

「――っ!?」

 

 前触れもなく、そっと、囁くように。するりと背中に現れた気配と、耳元をくすぐった淡い声に、霊夢は――ほとんど無意識に、背後へと蹴りを放っていた。

 

 居合切りならぬ、居合蹴り。桁外れの霊力を持って強化された身体能力から繰り出された蹴りは、岩石を砕く程の威力を誇る。その一撃は、ほぼ最短ルートを辿って背後へと――だが、しかし。

 

(――外れた!?)

 

 気配は、確かに背後にいた。蹴りを繰り出す瞬間も、放った足が向かうその瞬間まで、確かに気配はそこにあった。けれども、その一撃は肉を貫くようなことはなく……虚空を蹴るだけに終わった。

 

 

 “さあ、どうする?”

 

 

「――こんのぉ!」

 

 背後へと振り返ったその瞬間、気配がまた新たな背後へと移った。苛立ちを堪えつつ、片手で畳を殴って反転し――着地する。そうしてから、振り返った霊夢は……絶句してしまった。

 

 

 普段の霊夢からすれば、それは考えられないぐらいの失態であった。

 

 

 例えそれが、早苗たちが何一つ反応せずに食事を続けているという異様な状況であったとしても。言葉を失くしてぽかんと呆けているこいしの姿がそこにあったとしても、それは間違いなく失態であった。

 

 

 けれども、それを責めるのは酷というやつだろう。

 

 

 何故なら、霊夢の前にいたのは敵意を持った妖怪でもなければ、人間でもない。ましてや、神でもない。ふふふ、と妖しく笑うその者は……霊夢、その人であったからだ。

 

「初めまして、博麗霊夢。そして、こんにちは。私は博麗靈夢。博麗の巫女を務めさせていただいている、楽園の素敵な巫女よ」

 

 何時もの特徴的な巫女服とは違う、一般的な巫女服。その違いを除けば、霊夢の眼前にて佇むそいつは、背の高さから声色まで、正しく鏡から抜け出たかのように霊夢と瓜二つであった。

 

「――霊夢!」

「あんたは私の後ろに下がっていなさい!」

 

 ハッと我に返ったこいしが、どたばたとたたらを踏んで霊夢の背後に身を隠す。片手でこいしを庇うようにしつつ……ちらりと、傍で食事を続けている早苗たちを見やった。

 

「……あんた、何をしたの?」

「ご安心を、危害なんて加えていないわ。ただ、貴女に一つばかり忠告を……」

「いや、結構――よっ!」

 

 そうなれば、もう反射的であった。傍にこいしや早苗たちがいるのは頭の隅に入ってはいたが、止まらない。「夢想――封印!」己が内より湧き出る霊力を瞬時に練り上げ、放った――はずであった。

 

「――我ながら、乱暴なやつで呆れるわね」

 

 だが、そうはならなかった。何時もと同じ手順で霊力を練って、何時もと同じ手順で術を発動し、何時もと同じようにそれを眼前のやつに放った……はずなのに、術は欠片も発動しなかったのだ。

 

 手応えは、あった。霊力の感触も、術の触りも、放った開放感も、全てが何時もと同じであった。だが、術は何一つ発動しなかった。「なっ――!?」想定外の事態に、思わず霊夢の意識が逸れた――その、時であった。

 

「霊符『夢想封印』」

「――っ!? 夢符『二重けっ――」

 

 今しがた己が放とうとした術を、そのまま相手が放った。面食らった霊夢は、反射的に結界を張ろうとしたが、一歩遅かった。辛うじてこいしへの直撃は免れたが、迫りくる七色の砲弾の内の一発が……霊夢の右胸に直撃した。

 

 ――脳天へと突き抜ける激痛を、食いしばった奥歯で堪える。ぎりりと、骨が軋む音を霊夢は聞いた。

 

 こいしの悲鳴を背中に受けた霊夢は、気合を入れて踏み止まる。ざりざりと、足裏が畳を削る感覚に痛みを覚えながら……ふう、と頬を伝う冷や汗をそのままに、霊夢は眼前の己を睨んだ。

 

「貴女が使ったのが夢想封印で良かったわ。封魔針なんて使っていたら、今頃あなたは蜂の巣になっているところよ」

「……使った技をそのまま相手に返す能力かしら?」

「違うわ、返すのではなく、貴女が自分自身に放ったのよ。だって、私は貴女だもの……ほら、見なさい」

 

 その言葉と共に、靈夢と名乗ったその少女は白い巫女服を捲り、右側の胸元を露わにした。そこは……何もしていないはずなのに、赤くなっていた。まるで、見えない攻撃を受けたかのように腫れていた。

 

「私は貴女、貴女は私。私が傷付けば、貴女も傷を負う。反対に貴女が傷を負えば、私もそうなる。私の言葉が真実であると認識しているのは、貴女よりも……ねえ、こいし?」

 

 名を呼ばれたこいしの肩が、びくん、と跳ねた。それを見て、残った左腕で庇う霊夢の背中から……「うん、分かるよ」こいしが、恐る恐るといった様子で顔を見せた。

 

「こいし、あんたは下がってなさい」

「でも、霊夢。あの人の言っていることは本当だよ……何となく、分かるよ」

 

 霊夢は、振り返ってこいしの表情を見ることはしなかった。霊夢には、分かっていた。こいしの言葉が無くとも……眼前の女の言葉が、全て真実であるということに。

 

「……だとしても、あんたが前に出る理由がないわ……なるほど、話が本当なら、あんたを倒すことは出来ないわけだ」

「自分を倒すということは、結局のところは自殺よ。私をどうにかしたいのであれば、貴女は私を受け入れなくてはならない……でも、そうね」

 

 

 ――もう猶予もないし埒が明かないから、些か強引にやりましょうか。

 

 

 身だしなみを整えた靈夢は、そう言うと……ぱちん、と指を鳴らした。その瞬間、光が……いや、光と称される何かが、霊夢の視界を埋め尽くし、反射的に霊夢とこいしは目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………フッと、目が開いた。眠気の残る頭に、視界から入る情報が入力されてゆく。

 

 

 だいたい、広さは8畳半といったところだろうか。横を向けば、立て掛けられた折りたたみの机が一つ。既に折り畳められた布団が一組。小さい箪笥が一つに、その傍には……学校の制服が取っ手に引っ掛けられていた。

 

 それは、『幻想女学校』のものである。さすがに1年も着続ければ少しばかり古ぼけた感じになっている。けれども、まだまだ着れるそれを……霊夢は、見つめていた。

 

 

 しばしの間、霊夢は……己が状況を認識出来なかった。

 

 

 古ぼけた天井から視線を下げて……釜戸にて朝食の用意を進めている紫の後ろ姿を見やる。割烹着を見に纏った、見慣れた後ろ姿をしばしの間見つめた後……静かに、霊夢は布団から身体を起こした。

 

 途端、秋の寒気が全身を包み、思わず霊夢は肩を震わせた。

 

 ここは、長屋だ。朝から部屋を暖める火の番などいるはずもなく、外との寒さにそう違いはない。けれども、その点について、霊夢は不満を抱いてはいなかった。

 

 

 何故なら、そんな寒い中でも自分より早起きして朝食の用意をしてくれる存在がいることを知っているからだ。

 

 

 少なくとも、この件で口が零せるのは、学校を卒業して独り立ちしてからだろうか。あるいは、嫁いだ後で子供を産んでからだろうか……まあ、どちらにしても今は無理だ。

 

 頭を掻けば、ぼさぼさの髪が指に絡み付く。欠伸を零し、辺りを見回す……何故だろうか、何だか足りない気がする。足りないモノなんて無いはずなのに……いっ!?

 

(――ったいわね。何かしら……風邪?)

 

 痺れにも似た激痛が、一瞬ばかり脳裏を過った。痛みそのものは一瞬のことで、それに意識を向けた時にはもう、霊夢の頭から痛みの姿は消えていた……と。

 

「――あら、おはよう、霊夢。今日は少しお寝坊さんね」

 

 起き出した気配に気づいたのだろう。「起きたのなら、机を用意してちょうだい」振り返った紫からそう言われた霊夢は……内に籠った眠気を払うかのように大欠伸を零すと。

 

「お母さん、寝起きに急かさないでちょうだい」

 

 とりあえず、顔を洗ってからすると暗に提案した。だが、紫は笑みを浮かべながらも、有無を言わせない調子で首を横に振った。

 

「ねぼすけの貴女が悪いのよ。さあ、もうすぐ出来るから、ね」

「はいはい、分かりました。お母さんの言う通りにしますよ」

 

 けれども、口で勝てる相手でないのは分かっていた。なので、霊夢は手早く布団を片して机を用意する。次いで、手早く食器等の用意を済ませてから――炊事場の傍に置かれた釜より柄杓で水を救うと、手拭いに掛ける。

 

 冷え切った手拭いがさらに冷えて氷のように冷たくなるが、構わず揉んで水分を分散させると、それで顔を拭った。そのまま、寝間着を脱いで全身を手早く拭い、学生服に着替えた。

 

「ほら、出来たわよ。冷めないうちに、食べなさい」

「ちょっと待って、髪を纏めたら終わりだから」

 

 そこまで身支度を終えた辺りで、朝食を並べ終えた紫から催促された。幾分か慌てた様子で髪を纏めた霊夢は、紫と体面になるようにして机の前にて正座すると。

 

「――いただきます」

「はい、いただきます」

 

 紫と一緒になって、両手を合わせた。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………建物に遮られていた秋風が、もろに肌を撫でて行く。「はあ、もうすぐ雪でも降りそうな寒さだわ」さすがに身震いした霊夢は、スカートを風になびかせながら、走り出そうとする列車に飛び乗った。

 

 この列車は、幻想郷の中で唯一の列車であり、ぐるりと幻想郷の主要な建物を一周するようにして線路が引かれている。本数は朝と晩の二本だけ、一本でも逃すと遅刻諸々が確定な為か、朝とはいえ列車内は相当に混んでいた。

 

 

 ……毎朝の事とはいえ、嫌になるわね。

 

 

 その中を、霊夢は進む。当然、進む度に乗客を押し退けて進まなければならないわけで、これまた当然、嫌な顔をされたりするが……構わず、霊夢は列車の中ほどへと進む。

 

 霊夢がそうするにも、理由がある。何故かといえば、霊夢が通っている幻想女学校は、乗車駅より6駅先。つまり、時間にして50分強は掛かる場所にある。

 

 出入り口近くで待っていた方が出る時は楽なのだが、駅に止まるたびにおしくら饅頭は御免である。出る時に少しばかり疲れはするが、それでも中ほどに移動した方が、道中は楽なのであった……と。

 

「お、霊夢じゃん。今日は同じ列車だな」

「あら、魔理沙。ちょうどいい所に出くわしたわね」

 

 途中、席に座っている魔理沙と遭遇した。霊夢と同じ制服を見に纏った魔理沙はよいしょと腰を上げた。それを見て、霊夢は通路側に座っている客たちの前を通り……素早く、空いた場所に尻を滑り込ませた。

 

 その膝の上に、魔理沙が腰を下ろした。客観的に見れば、座った霊夢の膝に魔理沙が座り込んだ状態である。これは二人が特に親密……というわけではなく、純粋に車内が狭いからである。

 

 外の世界とは違い、幻想郷内を走る列車の本数そのものは少なく、車両の数も少ない。人口比も相応に少ないが、それを差し引いても、列車の本数自体が足りていないのだ。

 

 故に、列車内は朝晩に限らず、すし詰め状態。少しでも乗員出来る数を増やす為に、お客同士が協力しなければならない。いわゆる暗黙の了解というやつで、知り合いなり何なりと居合わせた時などは、こうして隙間を開けるのであった。

 

 なので、霊夢と魔理沙の二人だけに限らず、歳の近しい者同士は自ずと同じ体勢となっている場合が多い。実際、通路を挟んだ反対側の席では、男性同士が同じような状態になっていた。

 

「はあ~、やっぱ霊夢の太ももはあったけえや。張りもあるし、下手な座布団よりもずっと座り心地がいいぜ」

「乙女の柔肌が座布団に負けたら、さすがの私も凹むわよ。ていうか、あんたの尻ってば冷たいわね。席も冷たいし、良い物食べているんだから尻ぐらい温かくしなさいよ」

「ひと肌の気味悪さを欠片も気にしない、その図太さには相変わらず感嘆するよ。それと、良い物食って尻が温かくなるものなのか?」

「さあ、知らないわ。それを検証したいから、今度奢りなさい。特別にきつねうどんで勘弁してあげるから」

「あいにく、今月の小遣いはもう心許なくてな。家に遊びに来てくれた時はお母様が茶菓子を用意してくれるから、それで手を打て」

 

 己の母親を、お母様(かあさま)と呼ぶ。察しの通り、魔理沙は良い所のお嬢さんである。霧雨商店という里でも有数な店の一人娘であり、家では魔理沙お嬢様と呼ばれているのだとか。

 

 ちなみに、父親からは目に入れても痛くないというぐらいに溺愛されているらしい……というか、溺愛されている。魔理沙曰く『こっちが自制しないと際限なく飴をくれる』とのことで、嬉しい反面気を使うこともあるのだとか。

 

「前から思っていたけど、あんたの所の母親、小遣いを定額にするわりには変な所であんたに甘いわね。友達が来たからとはいえ、わざわざ茶菓子なんて用意したりはしないわよ」

「〆るところはきっちり〆るお人ではあるけどな。優しいけど、凄く厳しいんだぜ。食べ方一つ、足運び一つ、ちょっとでも作法を誤ると怒られるからな」

「うへぇ、考えただけで嫌気が差しそうだわ」

「私からすれば、紫さんの方がずっと手厳しそうな気がするけどな」

「母さんが? いやいや、母さんもけっこう溺愛してくる方よ」

「いやいやそれは違うって。作法でも勉強でも、霊夢はさらさらっと覚えてこなすから怒らないだけだと思うぞ」

 

 そうかしら……魔理沙の言葉に、何気なく霊夢は彼女の両親の顔を思い浮かべる。以前にも何度か顔を合わせたことはあるが、霊夢の目に映る限りでは、二人とも魔理沙の事を溺愛しているように見えたが……ん?

 

「――そういえば、あんたの所の母親、病気になったってこの前話していなかったかしら? もう、それはいいの?」

「ああ、その事か。それならもう大丈夫だ。博麗の巫女様が、気質を整えてくれる札を用意してくれてな。贔屓の薬屋の協力もあって、今はすっかり元気だよ」

「そう、それは良かったわね」

 

 満面の笑みで……それはもう嬉しそうにニコニコと微笑む魔理沙を見やって、霊夢も微笑んだ。

 

 一時は最悪を覚悟しなければと医師から宣告されて、毎日不安で泣いていた魔理沙を慰めていたのは記憶に新しい。その事を思えば、今の魔理沙の微笑みを見ているだけで……霊夢も胸がいっぱいになりそうで――うっ!?

 

 

(――まっ、た?)

 

 

 寝起きの時に感じた激痛が、再び霊夢の脳裏を過った。思わず顔をしかめてしまうぐらいの痛みではあるが、今度の痛みも一瞬のことで。フッと意識を向けた時にはもう、名残すらそこにはなかった。

 

「……霊夢、どうしたんだ?」

「な、何が……」

「いや、何か顔色が蒼くなっているぞ。具合が悪いのなら、私が下になるぞ」

 

 異変に、魔理沙も気付いたのだろう。今しがたまで浮かべていた笑みを引っ込め、心配そうに霊夢へと振り返っていた。

 

「心配しなくていいわよ。首でも寝違えたのか、朝から頭痛がするのよ」

「そうか、それならいいんだが……」

「そんなことより……ねえ、魔理沙。あんたは今、幸せかしら?」

 

 

 そう尋ねた瞬間、霊夢は思わず目を瞬かせた。何故、前ふりもなくこんなことを尋ねたのか、霊夢自身分からなかったからだ。

 

 

 言うなれば、そう、気付けば口走っていた。無意識の問い掛けが故に混乱する霊夢を尻目に、「え、そりゃあ、お前……」尋ねられた魔理沙も困惑した様子で目を瞬かせた。

 

「私個人としては、幸せだぞ。お母様も元気になったし、お父様も元気だし、皆も元気だしな……どうしたんだ、いきなり?」

「……どうしたのかしらね?」

 

 訝しむ魔理沙の視線から逃れるかのように、霊夢は目を逸らした。どうしてか、先ほどとは違って今の魔理沙とは……目を合わせられなかった。

 

 

 

 

 

 ……時刻は、昼。

 

 

 午前の授業を終えた霊夢と魔理沙(二人は、クラスメイトだ)は同じ机に弁当箱を置くと、早速昼食を済ませようと蓋を開けた――その時であった。

 

「――ああ、いたいた」

 

 人間やら妖怪やらが入り混じってごった返す廊下の向こうから姿を見せたのは、制服姿の咲夜であった。

 

 霊夢たちよりも頭一つ分は高い背丈の彼女は流れるように教室内に入ると、コンパスのようにすらっとした歩調で二人の前に立った。

 

「おや、誰かと思えば咲夜じゃん。どうした、今日はこっちで食べるのか?」

 

 先に気付いた魔理沙が、場所を開けようと椅子をずらす。「ああ、違うわよ」それを見て、咲夜は些か慌てた様子で椅子の背もたれを掴んで止めた。

 

「それも魅力的だけど、今日は美鈴と一緒にレミリア先輩たちとお茶をする約束だから……っと、本題はこれよ」

 

 そう言うと、咲夜は机の上に……何かを包んだハンカチを置いた。何だと思って霊夢が見上げれば、咲夜は何も言わない。「よし、魔理沙様に任せろ」なので、好奇心の塊である魔理沙がサッと包みに手を掛け……開けた。

 

 途端――魔理沙だけでなく、霊夢も歓声を上げた。何故かといえば、ハンカチの包みの中に有ったのは、四枚のクッキーであったからだ。

 

「皆と一緒に作ったのよ。後日、感想を聞かせて貰えないかしら?」

「いいわね、タダでくれるものなら力いっぱい感想を叩きつけてあげるわよ」

「程々の力加減にしてもらえないかしら。私としては、そっちの方が有り難いわね」

 

 今にも星々が零れ落ちんばかりに目を輝かせる霊夢に、「ハンカチは、その時でいいから」咲夜は自重するようお願いした後、そう言い残し颯爽と教室を出て行った。

 

 本当に、用件だけを伝えに来たのだろう。その足取りには何の迷いもなく、いや、どちらかといえば、レミリア先輩とやらのお茶会を楽しみにしているのが見て取れた。

 

「……相変わらず、咲夜のやつはレミリア先輩とやらが大好きなんだな」

「何だっていいわ。幸せそうだし、こっちもクッキーがもら――つっ、つっ……貰えて幸せだからね」

 

 また、痛みが走った。思わず顔をしかめる霊夢の頭に、魔理沙の手が置かれる。「お前、変な所で食い意地張っているよな」苦笑しながら摩られる掌を、霊夢は大丈夫だと外してやった。

 

「食い意地は若者の特権よ。爺婆になったら食えなくなるし、こういうのは若いうちに食べておいた方がいいのよ」

「その点に関しては私も同感かな。しかし、咲夜のやつは相変わらず料理が上手い……ところで、これは何味のクッキーだと思う?」

 

 手に取った黄色のクッキーを、ひらひらと見せる。クッキーは四枚だが、種類は二つ。赤色と黄色が二枚ずつ。「さあ、甘ければ何味でも構わないわ」その言葉通り、霊夢は手元に近い赤色を、ポイッと口内に放り込み……直後、形容しがたい表情を浮かべた。

 

「どうした、食える味か? 弁当箱の蓋は必要か?」

「おそらくだけど、スッポンの血の味クッキー。蓋はいらない、意地でも消化してやるから」

 

 スッポンと聞いた瞬間、魔理沙の頬が引き攣った。

 

「……参考までに聞くけど、どんな感じだ?」

「自分の血液を粉末にして食べてみたら分かるわ……まだ何も腹に入れてなくて良かった。少しでも腹に何か入っていたら、蓋が活躍していたところよ」

「そ、そうか……おい、何でそこから黄色のクッキーに手を伸ばす? どう考えてもまともな味をしていないと思うが?」

「食べてみないと味は分からない。分からないからこそ、食べてみるのよ……っ!」

 

 そう言い終えた直後、「――南無三!」目を瞑った霊夢は黄色いソレをばりぼりと噛んで、ごくりと呑み込んだ。「……感想は?」そっと差し出される蓋を手で払った霊夢は……静かに、額を机に乗せた。

 

「…………」

「……霊夢、お~い、霊夢?」

「…………」

「……先に昼ごはん、食べているからな」

 

 いちおうは気を使ってゆっくりと食べ始める魔理沙を他所に、霊夢は無言であった。言わんこっちゃないという視線を向けつつも、心配そうにする魔理沙の様子には気付いていたが、霊夢は何も言えなかった。

 

 

 ぶっちゃけ、口を開いたら今しがた飲み込んだ物を吐きそうだからだ。

 

 

 とはいえ、胃袋全般が常人のソレではないと噂されている霊夢である。しばしの間我慢していれば、自然と吐き気は治まった。お前の胃袋はどうなっているんだと、何やら魔理沙は呆れた様子であったが……と。

 

「――霊夢、ちょっといいかしら?」

 

 また、客が教室内に入って来た。姿を見せたのは、隣のクラスに所属する妖夢であった。その後ろには早苗もいて、二人の手には弁当箱があった。

 

 妖夢と早苗の二人とは友人関係であるが、所属するクラスが違う為、毎日一緒に食べるということはない。

 

 だいたいは誰かが休んで一人になった時はどちらかの所へ行くというのが流れとなっている為か、二人同時にこっちに来るのはけっこう珍しかった。

 

 二人は勝手知ったる何とやらと言わんばかりに霊夢たちの元へ来ると、弁当箱を置いた。二人が入れるように場所を開けはしたが、さすがに一つの机を四人で使うのは狭い。

 

 それじゃあ、こっちを使いましょう。そう言って、早苗は隣の机を動かしくっ付けた。「え、あの、いいの?」気が咎めるのか、妖夢は困った顔をした……が。

 

「椅子を使って机を使ってはいけないという話も変でしょう。椅子と机はセット、二つ揃って一心同体……ね?」

「なるほど、言い得て妙ですね」

「よく分からん理論でよく分からん納得をする辺り、お前ら二人は変な所で似た者同士だな」

 

 早苗の説得を受けて、妖夢はあっさり腰を下ろしてしまった。何やら魔理沙から笑み混じりの呆れた視線を向けられるが、早苗と妖夢は意味が分からず小首を傾げ……さっさと、弁当箱を開いた。

 

「……で、私に何か用でもあるの?」

 

 ちらりと妖夢を見やれば、妖夢は煮物を一口齧った後……また困った様子で小首を傾げた。

 

「ん~、用って言える程のものでもないんだけど、ちょっと探し物を手伝ってほしいの」

「探し物? 何で私に?」

「家の中は探したけど、見つからなくて……霊夢なら、お得意の『勘』で見付けてくれるかなって思って」

「私を犬か何かと勘違いしてない? いやまあ、保証はしないけど考えて見るわよ……それで、何を探して欲しいの?」

「家に伝わる家宝の刀。楼観剣と白楼剣が、いつの間にか見当たらなくなっているのよ」

 

 

 ――思わず、霊夢は弁当箱に伸ばしていた箸を止めた。それは傍で聞いていた魔理沙も同様であり、例外なのは事前に話を聞いていた様子の早苗だけであった。

 

 

「……いや、それは失せ物探し以前に、警察に任せればいいんじゃないの? どう考えても、それって窃盗とかそういうレベルの話でしょ?」

「警察には、もう頼んだよ。でも、警察からはまず見つからないだろうって言われちゃって……お爺ちゃんも、そのせいで凄く気落ちしているから、どうにかなんないかなあ……って思って」

「え、あの妖忌さんが落ち込んでいるの? 熊を投げ飛ばした挙句、そのまま首を切り落としたっていう、あの爺さんが?」

 

 妖忌とは、妖夢の爺さんに当たる人物だ。老年の武士という言葉そのままの人物であり、霊夢を始めとした女子や男子には比較的甘い対応をするが……怒らせると滅茶苦茶怖い人である。

 

 その妖忌が、落ち込んでいる。なるほど、妖夢が動く理由は分かる。軽い口調でお願いしてきてはいるが、妖夢はけっこうなお爺ちゃん子だ。大方、気落ちしている妖忌を見て居ても立ってもいられなくなったのだろう。

 

「それなら私じゃなく、早苗に頼んだら? 何時ものミラクルパワーとやらで見つけてやればいいじゃない」

 

 けれども、だ。頼ってくれるのは嬉しいが、霊夢自身に失せ物探しの心得はない。そりゃあ人よりも『勘』が鋭いとは自身も思ってはいるが、適任は自分よりも、傍の緑髪の友人ではなかろうか……と、霊夢は思った。

 

 ……ちなみに、霊夢が口にしたミラクルパワーとは早苗が自称かつ所有している『奇跡の力』のことである。その詳細は早苗以外は誰も知らず、霊夢たちとて間近でそれを見たのは小学生の時が最後だ。

 

 リピドーの赴くままに呪文(傍から見れば、何やら念仏っぽい何かを唱えているようにしか聞こえない)を唱えると、色々と不思議なことが起こるのだとか……いや、まあそれはいいとして。

 

「あ、もう私は試しましたよ。それで、出てきた道具が……これです」

 

 当の早苗が制服のポケットより取り出したのは、掌に収まるサイズの……小さな鏡であった。「……何これ?」小首を傾げる魔理沙を他所に、早苗はそれをズイッと霊夢に突きつけた。

 

「はい、あげます。何でかは分かりませんけど、これは霊夢さんが持った方がいいと思いますので」

「は? 鏡はもう家にあるからいらないわよ……まあ、貰うけど」

「貰うんかい……いや、私はいらねえよ」

 

 呆れた様子でツッコミを入れる魔理沙を意図的に無視して鏡をポケットに入れる。次いで、霊夢は妖夢の視線を受けて……一つため息を零すと、刀はどこにあるのかと『勘』を頼りに考えてみた。

 

「……たぶんだけど、刀はまだ有るわ。折られてもいないし、溶かされてもいない……でも、すぐに見つかるものでもない。いずれ、戻って来る……何となくだけど、そんな気がする」

 

 そうして思い浮かんだのは、そんな内容であった。ぶっちゃけ、これでは妖夢の期待に応えられないので口に出すことを躊躇ったが……何故か、当の妖夢は気にした様子もなく、「そう、分かった」平気な顔をしていた。

 

 

 これには、霊夢の方が首を傾げた。

 

 

 何故なら、妖夢の性格を霊夢は知っている。大好きな爺ちゃんが気落ちしているのを見て、自分の気落ちするような子だから、今の言葉を聞いて落ち込むものだとばかり思っていたからだ。

 

「いや、そりゃあ残念には思うけど……霊夢は、いずれ戻って来ると思ったんでしょう?」

「思ったけど、あくまで思っただけよ」

「霊夢がそう思ったのなら、刀は必要な場所に必要な分だけ有るってことでしょ。それならお爺ちゃんも納得するだろうから、それだけで十分だよ」

「……信頼してくれるのは嬉しいけど、信頼され過ぎるのも――っ、ちっ、うっ、くっ……!」

 

 三度目となる、突然の頭痛。今度は、これまでよりもはるかに痛い。あまりの激痛に、持っていた箸がぽろりと零れる。気絶しないのが不思議なぐらいの痛みに、ぐらりと視界が揺れた。

 

「え、ちょ、あの――」

 

 魔理沙は既に見ていたのでそこまで動揺はしなかったが、初見の二人は違う。なので、狼狽する二人を霊夢は宥め……痛みが去った後でようやく、今朝から続く頭痛の事を話した。

 

「……医者じゃないのであまり強くは言いませんけど、無理をせず保健室で休んだ方がいいんじゃないですか?」

「……そうね、そうさせてもらうわ」

 

 頭痛事態はすぐに治まるとはいえ、これで四回目。しかも、回数を増す度に痛みの強さがはっきりと増している。魔理沙たちの提案に珍しく素直に首を手に振った霊夢は、弁当箱の片づけを任せて、保健室へと向かう。

 

 ……幸いにも、廊下は既に人の行き交いは少ない。購買に向かう者と弁当持っている者、食堂に向かう者とで、既に移動が終わっているおかげ――いっ!?

 

(――っ、気を抜いたかしら、また頭痛が……!)

 

 これまでの痛みが一発の砲弾なら、今度のは連続パンチといったところだろうか。十分に耐えられる痛みだが、苦痛であるのは事実。自然としかめてしまう顔を手で隠しつつ、階段を下りて廊下を進み……保健室の扉を叩いた

 

 返事を聞く間も無く、中に入る。中にいたのは、白衣を身に纏った女学校の保険医……永琳であった。近隣からは美人の女医として有名らしい永琳は、入室してきた霊夢を見て、意外そうに眼を瞬かせた。

 

「健康優良児の貴女が此処に来る日が来ようとは……で、どうしたの?」

「ただの頭痛よ。ちょっと程度が酷いから、横になって休ませてちょうだい」

「頭痛? いちおう聞いておくけど、生理が近いとかではないわよね?」

「お生憎様、まだ始まって……いっ、つ……!」

 

 

 連続パンチだったのが、前触れもなくいきなり連続ハンマーになった。

 

 

 さすがに動くのが辛くなった霊夢は、そのまま倒れ込む様に病人用のベッドへと倒れ込む。たったそれだけでも相応の苦痛が生じたが、横になったおかげで少しは楽になった。

 

 それを見た永琳は、机の上に置かれている電話機を手に取る。「――鈴仙、急患が入ったから、大至急来てちょうだい」連絡を終えた後は次いで、戸棚から手早く薬品等を取り出して行く。

 

 そうして準備を終えた永琳は、横になっている霊夢の元へと寄る。ぐったりとしている霊夢の脇に体温計を挟むと、髪を纏めているリボンやら履きっぱなしの靴やらを外してやる。

 

「診察するから、服を脱がすわよ」

 

 その言葉と共に、永琳はカーテンを閉める。簡易的に用意された閉ざされた空間に、霊夢の荒い呼吸が響く。「じゃあ、ボタンを外すから」辛うじて霊夢が頷いたのを見やった永琳は……そうしてから、おや、と目を瞬かせた。

 

「霊夢、あなたこの傷はどうしたの?」

 

 ――『傷』。その言葉に、「はあ、はあ……傷って?」霊夢は頭痛が酷くなったのを実感した。

 

「胸の傷よ。位置的に、心臓の真上かしら……かなり深い傷痕だわ。完治しているけど、痕が新しい……ここ1年以内に付いた傷よ、これ」

「何それ、生まれてこの方そんな傷なんて作った覚えは……」

「いや、でもこれは見間違いなんてものじゃ……ほら、見てみなさい」

 

 見てみなさいと言われても……そう思いつつ、差し出された手鏡に視線を向ける。その瞬間――鏡に映る己が胸元を見やった霊夢は、痛みすら忘れて絶句した。

 

 確かに、そこには傷痕があった。直径にして数センチ程度の、刃物が突き刺さったかのような傷痕だ……が、しかし。有り得ない、と霊夢は思った。

 

 何故なら、霊夢の記憶には、その痕を作り出すような事は何一つ存在していないからだ。少なくとも、昨日までの己の胸には、このような傷痕なんて――ん?

 

 

(……昨日? 待って、そういえば昨日の私は何を――ぎぃ、いぃぃ!?)

 

 

 頭が破裂したかのような、強烈な激痛。痛みに強い霊夢ですら、一瞬ばかり気絶してしまった程の痛み。けれども、その痛みによって……霊夢は、思い出した。

 

 

(そ、そうだ、あの後……ど、どうなった?)

 

 何とか身体を起こす。「永琳は、離れていて!」寝かしつけようとする永琳を跳ね除け、ベッドから降りる。がくん、と膝から崩れ落ちそうになるのを、ベッドの柵を掴んで留まる。

 

 体調は……最悪だ。かつての心臓破損の時とは違い物理的な損傷こそないが、痛みの度合いはあの時と同じくらいに酷い。とてもではないが、まともに動けない状態……だが、そうも言ってはいられない。

 

 

 自覚すら出来ない改変が――ついに、己にも行われてしまっていた。

 

 

 その事実は、霊夢を動揺させるに十分であった。胸の傷が切っ掛けで己への改変に気付くことは出来たが、それはただの偶然だ。おそらく、頭痛という副次的な要素がなかったら、胸の傷を見ても霊夢は気付けなかっただろう。

 

 記憶の改変を体感したことで、初めて霊夢はその本当の恐ろしさを認識した。道理で、誰も気付けないわけだ……術だとか能力だとか、そんな程度の話じゃない。

 

 文字通り、挿げ替えられているのだ。記憶という名の箪笥から、引き出し事ごっそり入れ替えられる。昨日今日ではなく、最初からそうであったと元々から入れ替わるのだ……気付けるわけがない。

 

「こ、こいしは……こいしは、どこに……?」

 

 己が改変されているのであれば、こいしも同じような状況だろう。最悪、今後は己一人で異変解決に行かねばならない……そう、霊夢が思った、その時であった。

 

「――あらあら、半日も持たないなんて……さすがは、博麗の巫女だわ」

「あ、あんた……」

「でも、その様子だとまだ向かい合えてはいないようね。本当、我ながら頑固で意地っ張りな性格をしているわね」

 

 何時の間に、保健室の中に入り込んでいたのだろうか。ぐらりと歪む視界の中に、己と同じ姿をした……いや、違う。かつての霊夢と同じ、博麗の巫女としての出で立ちとなった博麗靈夢が、そこに立っていた。

 

「あら、靈夢、いったいどうしたの? もしかして、ここに『異変』でも? 悪いけど、今は霊夢の体調が悪いから、博麗の巫女としての仕事なら違う場所で――」

「大丈夫、何も起こっていないし、貴女も普段通り……でしょ?」

 

 言い聞かせるように靈夢が呟けば、永琳はしばし目を瞬かせた後……ハッと我に返った。そうなれば、もう永琳の視線は霊夢にも、ましてや靈夢にも向いていなかった。

 

 まるで、始めから此処では何も起こっていないかのように元の場所に戻ると……書き物を始めた。何一つ不自然さに気付いている様子のないその目を見た霊夢は……一つ舌打ちを零すと、靈夢を睨みつけた。

 

「私に成り代わって、目的はなに?」

 

 霊夢からすれば、当然な質問であったが……靈夢の返答は、これでもかと憐憫が込められた溜め息であった。

 

「ああ、もう駄目ね。これでも駄目なら、もう私にはどうしたらいいか分からないわ……ねえ、貴女もそう思うでしょ……古明地こいし?」

「――えっ」

 

 靈夢の口から零れたその名に、霊夢は目を見開いた。そして、動揺する霊夢を他所に、靈夢の背後からするりと姿を見せたのは……霊夢が探そうとしてた、こいしであった。

 

 こいしは、制服姿ではなかった。記憶にある通りの、何時もの恰好であった。だが、霊夢を見ていない。いったい何があったのか……何をされたのか、霊夢の視線から逃れる様に俯いていた。

 

 

 こいしが……何故?

 

 

 思わず、霊夢は己が状況を忘れて言葉を失くした。もしかして、こいしも己と同じく記憶を改変されてしまったのだろうか。「――あんた!」沸き起こる怒りをそのままに、霊夢は霊力を練り上げ――。

 

「……もう、いいよ。霊夢、もう頑張らなくていいよ」

 

 ――る前に、当のこいしが、そうさせなかった。「……え?」意味が分からず呆然とする霊夢を尻目に、こいしは静かに首を横に振ると……そこで初めて、霊夢へと視線を向けた。

 

 

 瞬間、霊夢は……呼吸することすら忘れてしまった。

 

 

 何故なら、こいしの目には大粒の涙が浮かんでいたからだ。辛うじて零れていないのは、こいしが必死になって堪えているからだろうか。立ち尽くすしか出来ない霊夢は……もう、霊力を練る余裕はなかった。

 

「霊夢の望む世界は、ここ。霊夢が願う世界は、ここ。ここは、霊夢がそうであって欲しいという思いが形になった世界」

「こ、こいし……あんた……何時からなの? 何時から、あんたはこの『異変』の正体に、『岩倉玲音』に気付いていたの!?」

「お姉ちゃんに助けられた、あの時からだよ、霊夢。でも、それを責めるのはお門違い……だって、霊夢も本当は気付いていたでしょ? お得意の、『勘』でね」

 

 

 ――そんなわけ、ない。

 

 

 そう言い掛けた霊夢は……それ以上の言葉を言えなかった。どうしてか、言葉が喉に引っかかってそれ以上を出せなかった。

 

「私にだって、分かることはあるよ、霊夢……とても楽しそうだった。お母さんがいて、友達がいて、学校に通って……それが、霊夢の無意識なんだよ」

「……それ、でも。それでも――それだとしても、私は博麗の巫女よ! 『異変』を解決する、博麗の巫女……博麗霊夢! それが、私よ!」

「駄目、それじゃあ駄目……それじゃあ、霊夢は負ける。lainは、力でどうこう出来る相手じゃない。必要なのは、自分の無意識に目を向けることだよ、霊夢」

 

 その言葉と共に、こいしは霊夢に背を向ける。反射的に伸ばした霊夢の手は、「――私は、私が出来ることをするから」こいしの方から振り払われてしまった。

 

「『ワイヤード』への入口は、私が用意しておく。でも、無理はしなくていい。誰も、霊夢を責めたりはしないから」

「待って、こいし!」

「それじゃあ、霊夢……また、いつか」

 

 

 そう、こいしが呟いた、直後。霊夢の視界が、ぶれた。

 

 

 何が起ころうとしているかが分からないまま、世界が動く。微笑みながら手を振る靈夢の姿が、ぶれる。

 

 カラーから、モノクロへ。三次元から、二次元へ。線は点となって、点は暗闇へと消えて……その向こうに、霊夢の意識も……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………雪が、降っている。もう、冬が来たのだろう。

 

 

 片手の数に収まる程度の、辛うじて確認出来る程度の輝き。その暗闇の向こうから降り注ぎ続ける白い結晶が……頬に当たっている。

 

 冷たいとは思うが、寒くはない。体内より、丹田より生み出される膨大な霊力は、外気をも遮断する。炎の中でも平気というわけではないが、冬の寒さ程度なら何の問題もない。

 

 なので、今の恰好……制服ではない。記憶が改変される前の、寝間着姿であっても、霊夢は欠片も凍えていなかった。傍目からみれば寒そうでも、当の霊夢は平気であった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………だが、何故だろうか。霊夢は、とても寒いと思っていた。そのうえ、酷く臭いとも思っていた。

 

 

 むくりと身体を起こした霊夢は、己が横になっていたベンチを見やる。幾らかペンキの剥がれたそれは、設置されて相応の年数が経過しているのが見て取れた。

 

(……臭い)

 

 鼻腔をくすぐる異質な臭いに、顔をしかめる。霊夢は分からないことではあるが、この臭いの正体は……排気ガスを始めとした、機械文明の臭いであった。

 

 辺りを見回せば……こちらを見ている者たちがいる。見返せば、その者たちは一斉に視線を逸らし……直後、またこちらを見て来た。そこに、老若男女の区別はない。

 

 恰好は、霊夢とは根本から異なる。洋服……洋服だろうか。以前、紫から外の世界の服を幾つか見せられた覚えはあった。それらに少しばかり似ているような気はするが……どうも、同じ服には思えない。

 

 

 ……無言のままに、ベンチから腰を上げた霊夢は歩き出す。

 

 

 行く当ては、特にない。何せ、こちらの土地勘など欠片もない。話にしか聞いたことはない場所だ。いくら霊夢とはいえ、それで土地勘を養えという方が、無理なのだ。

 

 でも、歩くしかない。あそこにいたって事態が好転するわけがないし、下手に警邏の者に見つかると面倒だ。幻想郷の話をしたって、通じるわけがないからだ。

 

 

 ふう、ふう、ふう。

 

 

 零れた吐息が、白いモヤとなって頭上へと立ち昇って行く。そのモヤを追いかけて視線を向ければ……目に止まるのは、大きな建物。幻想郷には存在していない、鉄筋コンクリートの建物。

 

 ちらほらと見えるネオンは、昼間のように眩しく。おそらくは英語で記された看板から放たれる明かりは、霊夢が知る明かりよりも10倍は強く……見ているだけで、目が眩む。

 

(……私は)

 

 徐々に、降り続ける雪の勢いが増してゆく。雪は、寒くない。でも、寒い。歩いているのに、足場が消えてしまったかのような……そんな気がして。

 

「何をしたらいいの……何をすればいいの……」

 

 生まれて初めてとなる、外の大地。固いアスファルトを踏みしめた霊夢は……ただ、途方に暮れることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 




80年代アニメ風の次回予告




何もかもが分からないまま、霊夢はついに幻想郷から放り出されてしまった

でも、分からないと言い続けているのは霊夢だけ

消えたレミリアも、レインも、靈夢も、こいしまでも、分からないフリをしているだけだと口を揃える


果たして、霊夢の無意識が気づいている真実とは、いったい何なのか。霊夢が目をそらし続けている真実とは、いったい何なのか

今、霊夢は、己と向き合わなければならない


次回、Serial experiments □□□  ー東方偏在無ー  冬の章:その1


その答えを、霊夢はまだ知らない


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冬の章:その1

誰得な続き、いくよー

夏の真っ只中だというのに、冬の章とはいったい……?


 ──早急に『幻想郷』へと戻らなければならない。

 

 

 

 

 そう思った霊夢ではあったが、思うようには上手く事が運びはしなかった。

 

 

 何故かといえば、幻想郷を囲うようにして張られた結界と、霊夢が外の世界に出されるまでの経緯に原因があった。

 

 

 通常、幻想郷と外の世界との狭間には、不可視の結界……博麗大結界と呼ばれる強固な壁が築かれている。

 

 この壁は、八雲紫を始めとした妖怪の賢者と呼ばれる大妖怪たちが総力を結集して築かれた結界と、初代博麗の巫女が編み出した結界とを組み合わせたものである。

 

 その頑強さ足るや、人知の域を超えていると言われている。当然ながら、物理的に触れることだって不可能だし、霊夢を始めとした結界術に長けた者でなければ博麗大結界を認識することすら叶わない。いや、認識出来たとしても入ることは不可能である。

 

 

 何故なら幻想郷は、忘れ去られた幻想達が集う、最後の楽園。

 

 

 機械文明を始めとして、様々な技術や知識が徹底的に管理されている幻想郷にとって、無作為に外の人間……あるいは、知識が流れ込めば幻想郷の秩序が維持出来なくなる。

 

 いや、秩序だけではない。忘れ去られた幻想というのはすなわち、人々が否定し拒絶した幻想。ほんの一時であったとしても、『お化けなんていないさ』という常識を抱えた者が雪崩れ込めば……待っているのは、幻想郷そのものの崩壊である。

 

 

 故に、賢者たちは決断した。いや、決断せざるを得なかった。

 

 

 物事には、絶対というものはない。賢者の内の一人である紫は『幻想郷は全てを受け入れる』とよく口にはしていたが、実の所、それだって紫が己に投げかける皮肉でしかない。

 

 広いようで狭い幻想郷は、有限なのだ。けして、無限ではない。結局の所、彼女たちの楽園は世界の片隅に作られた、小さな箱庭でしかないのだ。

 

 全てを受け入れたいとは思っている。だが、受け入れることなど出来はしない。もしかしたら、誰よりもそれを分かっているのは賢者たちなのかもしれない。

 

 故に、紫たちは内と外とを隔てる壁を作り、それを強固なものとしたのだ。それこそ、結界の管理も担う霊夢ですら、おいそれと手出しできないぐらいのものを。

 

 加えて、重大な問題がもう一つ。それは霊夢が幻想郷の外に居るという事。実は、これこそが霊夢が幻想郷へと直ちに戻れない最大の理由なのである。

 

 

 ──というのも、だ。

 

 

 本来、この内と外とを遮断している壁は博麗の巫女である霊夢ならば(例外的に、結界をすり抜けて移動出来る術は幾つかあるらしい)自由に開け閉めを行い、内と外とを行き来することが出来るようになっている。

 

 だがそれは、あくまで術者である霊夢が内側……つまり、幻想郷の方に身を置いているのが前提での話。外から自由自在に開けられるようには出来ていないのだ。

 

 その為、何かしらの理由で仕方なく外に出なければならない際には、結界の一部……人ひとりが入れるよう、予め隙間を作っておかなければならない。つまり、幻想郷に戻る為には、この隙間から戻らなければならないわけで。

 

 ……その隙間を見付けない限り、あるいは、その隙間が内側から閉じられてしまえば……巫女である霊夢であっても、そう簡単に戻ることは出来ないのであった。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………しかし、現状は全てにおいて最悪に突き進んでいるわけではない。

 

 

 

 幻想郷そのものは、特定の場所にあるというわけではない。この世界の裏側……いや、片隅か。言うなれば隣にある世界であり、隙間が無くとも、霊夢であれば、その存在を常に感じ取ることが出来る。

 

 

 だから、外の世界であっても、だ。

 

 

 『岩倉玲音』の手によって幻想郷そのものが破壊されるというような事態に陥っていないのだけは、霊夢にも知ることは出来た。その点については、ひとまず霊夢は安堵して……そして、直面することとなった。

 

 ──友人である東風谷早苗が、『ここ(幻想郷)では常識に囚われてはいけない』という言葉を口にするようになった、その意味を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──時刻は、夜。幻想郷から追い出されてから、早15日の月日が流れた。

 

 

 

 

 その間、身元不明の少女となってしまった霊夢は……目覚めた場所より、そう離れていない場所の周辺に潜伏し、さ迷っていた。

 

 どうしてなのかといえば、理由はある。それは目覚めた場所と、幻想郷から追い出された際に空けられた結界の位置が、そう離れていない可能性が高いからだ。

 

 『岩倉玲音』の手がどこまで伸びているかは分からないが、『幻想が限りなく薄い』この世界では、超常的な力は幻想郷ほど強く作用しない。

 

 言うなれば、非常に電気を通しにくい素材に無理やり電気を通すようなものだ。

 

 つまり、幻想郷から霊夢を追い出したはいいが、その後は放置された可能性は高い。仮に霊夢が逆の立場だったなら、どうにもならなくなっている霊夢に何時までも労力を割いたりはしないからだ。

 

 だから、霊夢はその地を離れようとはせず、結界の綻び……言うなれば、最近にて開かれた形跡がある場所を探し続けているわけであった……のだが。

 

 

 えほん、えほん、えほん……えほん。

 

 

 堪らず零れた咳を掌で覆い隠しつつ、霊夢は蛇口を捻る。公園の脇に設置された古ぼけた蛇口から噴き出した水で手を洗った霊夢は、掌で作った器に溜めて……そっと、口づける。

 

 

「……っ、えほ、えほ!」

 

 

 こくり、こくり。何とか二回水を飲んだ辺りで、我慢の限界に達した霊夢は咳き込んだ。ぶふっと噴き出した水滴が掌から飛び散って、顔を濡らした。

 

 さすがに、この時期の水は霊力で防御していても、冷たい。眉根をしかめながら、顔を洗って、手を洗って……寝間着の裾で水気を拭った霊夢は……深々とため息を零した。

 

 その顔色は、御世辞にも良くはない。まあ、当然だ。外の世界に放り出されてから、15日間。さすがの霊夢も、満足な量の食事も出来ず、寒空の下で耐え忍んだ状態で万全を維持できるわけがないのであった。

 

 

(お腹、空いたわ……)

 

 

 ぐぎゅるる、と訴えを起こす腹を抓ってから、もう一度水を飲む。今度は何とか3回喉を鳴らした後、その場を離れる。向かう先は、公園よりほど近い場所に有る寂れたビルの中にある、空きテナントの一室だ。

 

 あの日、『勘』に任せて選んだビルだ。建物そのものが寂れていることに加え、近くに駅などがないせいだろうか。全フロアが空いており、今の所は霊夢が忍び込んで雨風を凌いでいることはバレていない。

 

 術で認識され難い(完全に認識されないわけではない)ようにしているおかげでもあるが……まあいい。体力が落ちた身体に鞭打って、霊夢は一目を気にしながら夜道を進み……寂れたボロビルの前に来る。

 

 

 入る時は正面からではなく、裏手から。一度は正面から入ろうとしたが、ガラス扉に鍵が掛かっていたので無理だった……裏の非常階段を登って、3階の扉。

 

 

 ボタン式のロックが掛かっているが、『勘』で番号を突破してから今日まで、フリーパスだ。音を立てないように中に入った霊夢を出迎えたのは……用具一つないガランとしたフロアにポツンと用意された、少し潰れているダンボールであった。

 

 このダンボールは、フロアの端に立て掛けられる形で放置されていた物である。枚数は5枚、4枚を敷布団代わりに並べて、一枚を折り畳んで枕代わりに使用している。御世辞にも寝心地は良くないが、固い床よりはマシだ。

 

 はあっ、と。深い溜息を零した霊夢は、倒れ込む様にそこへ寝転がると、静かに脱力した。傍を転がる草履(これも、守矢神社に向かう際に履いていたやつだ)にも目をくれず、霊夢はゆっくりと胎児のように丸まった。

 

 

 ……そうしてから、霊夢は……己が内より湧き出る霊力を、己を中心にして、放射状に探査の網を広げる。この網は、結界の調査を行う時に使用していた、結界の綻び探知の術みたいなものである。

 

 

 あの日から、霊夢はこれを毎日続けている。時々水を飲んで、ここで横になって、探査。ただそれだけを15日間……体力の消耗は、もはや無視できないレベルにまで達しようとしていた。

 

(残存している霊力は……だいたい、3割か。まあ、常時使い続ければ泉だって枯れるか……我ながら、水だけでよくもまあ無事でいられるわね)

 

 胸中にて、霊夢はため息を吐く。実際には、しない。堪らず零れるならまだしも、横になっている時は少しでも体力を温存しなければならないからだ。

 

 

 ……霊夢がここまで消耗する理由は食事等を満足に撮れていないのもそうだが、それは外の世界における常識や環境があまりに違い過ぎることが、関係していた。

 

 

 

 

 率直にいえば、身体に合わなかったのだ。何がって、全てが、だ。

 

 

 

 もちろん、肉体的にどうこうなる程合わないわけではない。博麗の巫女とはいえ、身体は人間だ。もし数日で死に絶えるような環境なら、人類なんて絶滅しているところだ。

 

 合わないのは、肉体ではなく霊的な部分。つまり、霊夢が博麗の巫女として必要となる、霊力等の部分だ。

 

 

 例えるなら、砂糖が溶け切らないぐらいに濃縮された液体を霊夢の霊力とするなら、外の世界は全てが真水。そして、幻想郷はシロップで構成された世界と考えたら、分かり易いだろうか。

 

 

 生命維持だけを考えれば、そこまで問題はない。幻想郷にはない薬品臭さや排ガスなどの悪臭を始めとした諸々に目を瞑れば、霊夢も生きてはいける……だが、その身に宿る霊力に目を向ければ、話が変わる。

 

 いくら霊夢自身が自ら霊力を生み出せるとはいえ、限度はある。どこかで、外部より燃料を補充しなければならないのだが……ここで問題となるのが、外の世界の環境だ。

 

 霊夢が暮らしていた幻想郷は、『幻想達が集う最後の楽園』と賢者たちが称するだけあって、霊力魔力を問わず様々な幻想の力が、空に、大地に、水に、満ちている。

 

 

 だが、ここにはそれがない。当然だ、ここは幻想を否定した外の世界。空にも、大地にも、水にも、幻想の力は欠片もない。塩漬けした食べ物を真水に浸すのと同じであり、ただ居るだけで幻想の力は失われてゆく。

 

 

 せめて食べ物などから霊気を吸収出来れば良いのだが、前述した通り、ここにはそれがない。幻想の力が枯れた大地から生まれる作物を摂取したとて、得られるのは肉体を生存させる為の燃料だけ。むしろ、摂取すればするほど、海水を飲むのと同じく体内より霊力が消耗されてしまうのだ。

 

 

(塩水に囲まれたナメクジみたいな気分だわ……)

 

 

 そう、霊夢が思うのも無理はない。実際、幻想が否定されたこの世界において、霊夢はナメクジみたいなものだ。まだ3割も霊力を残せるだけでも、十分に凄い事なのだ。

 

 

(……お腹、空いた)

 

 

 だが、しかし……さすがの霊夢とはいえ、限界はある。きゅるる、と催促し続ける腹を摩りながら、霊夢は僅かに顔をしかめる。

 

 歴代最強の巫女とはいえ、その身体は人間の少女だ。怪我をすれば痛みを覚えるし、傷だって出来る。場合によっては出血するし、それが致命傷であったなら……霊夢も、死ぬ。

 

 加えて、当たり前だが、食わなかったら飢えるのだ。生き物である以上は、命を食わねばならない。霊力を燃料にして誤魔化してはいるが、あくまで誤魔化しているだけなのだ。

 

 

(身体が……冷たい……手足が億劫だわ……)

 

 

 ふう、と。堪らず零れた溜息は、自分の物とは思えぬほどに冷たかった。まあ、それも仕方ない。触らずとも、肋骨が外から分かる程度には痩せてきているのが分かる。

 

 けれども、今の霊夢にはどうすることも出来ない。最低限飢えない程度に食べたくとも、金がない。金が無いから、夜の内に辺りのゴミ捨て場らしき場所から食えるモノを探しはしたが……見つからない。

 

 幾つか食えるモノを見付けはしたが、それら全ては鍵付の置き場に入れられてしまい、霊夢には手が出せない。ボタン式のロックであれば『勘』を頼りに開けることは出来るが、南京錠の前では『勘』も──っ!? 

 

 

 静まり返った空間に、ふおん、と。

 

 

 暗闇の向こうで何かが動いた音に、霊夢はパッと身体を起こした。霊夢は知らなかったが、その音は各階を繋ぐエレベータの起動音であった。直後、しゅいい、とモーターが起動する音を霊夢は聞く。

 

 誰かが、ここへ来るかもしれない。分からずとも察した霊夢がそちらに意識を向ければ……次いで、霊夢の耳が捉えたのは己が出入りに利用している裏口の開閉音と……直後に響く、多数の足音であった。

 

 

 ──間違いない、誰かが入って来た。

 

 

 そう認識した霊夢が取った行動は、天井への退避であった。霊力の残存など、気にしている場合ではない。ここは幻想郷ではないのだから……ふわりと、宙に飛んだ霊夢は、そのまま蜘蛛のように天井に張り付いて静止する。

 

 少しの間を置いてから、幾つもの光がフロアの中を照らした。その光が今しがた霊夢が横になっていたダンボールを照らした直後、ガラス扉が開かれ……同じ制服を見に纏った屈強な男たちが部屋へと入って来た。

 

 当然だが、男たちの風貌に見覚えはない。霊夢は知らなかったが、彼らは警察官と呼ばれる人たちであった。

 

 

『こちら3階、いません。フロアに私物らしきものは無し──どうぞ』

『──他の階は鍵が掛かって入れないそうです。どこかに閉じこもっているか?』

『いや、この階だ。そこのダンボールの辺りに臭いがこもっている。さっきまで、居たかもしれない』

 

 

 何やら独り言を呟いたり、ダンボールに光を当てたりと忙しない。術を使って気配を消しているので気付かれはしないだろうが、ライトの光を浴びて注目されてしまえば、その限りではない。

 

 

 

 というか……臭いって。

 

 

 

 男たちの会話に耳を澄ませながら、霊夢は羞恥に頬を染める。霊夢とて、年頃だ。仕方がないとはいえ、異性から遠まわしに『くさい』と言われれば、恥ずかしくもなるだろう……と。

 

 

 ライトの光が、視界を照らした。

 

 

 あっ、と霊夢が思ったのと、ライトを向けた警察官の顔色が変わるのと、ほぼ同時で。『──うわああ!?』理解した彼が絶叫したのと、開きっぱなしになっていたガラス扉から外へと向かったのは、ほぼ同時であった。

 

 床に足を置く必要はない。幻想郷と同じく、空を飛ぶ。天井すれすれ超低空飛行から加速し、外の扉へ──開けた瞬間『──止まれ!』外にいた警官たちが一斉にライトを向けて来たが──かまわず、霊夢は夜空へと飛んだ。文字通り、夜空へと飛行する。

 

 警官たちのどよめきが背後より聞こえはしたが、無視する。可能性が低いとはいえ、幻想郷へと通じる可能性が高いのはここしかなく……とにかく、捕まるのは不味いのだ。

 

 行き先は、『勘』だ。事あるごとに『勘』に頼りっぱなしだが、今はこれしか手がない。己が直感に従うがまま、霊夢は夜空を飛び続ける。鳥のように、寝間着の裾をはためかせる……だが、しかし。

 

 

(か──らだが、重い!)

 

 

 そう長く、飛行は続けられそうになかった。理由は、考えるまでも無かった。ここが、幻想郷でないからだ。幻想を否定した世界で幻想の術を使うのは、蛙が塩水の中で泳ぐに等しい行為であった。

 

 身体が……いう事を聞いてくれない。思い通りに、動いてくれない。何時もであれば、箸で白米を食べるかのような感覚で空を飛び回り、肌を掠める風を感じ取れたのに……今は、それが難しい。

 

 高くは、飛べない。飛ばないのではなく、飛べないのだ。ゆらゆらと右に左に流されそうになる身体を、その度に押し戻す。まるで、風に揺られる凧になった気分であった。

 

 

(く、苦しい……息が、出来ない……)

 

 

 時間にして……5分程。以前なら息一つ乱さなかったのに、もう霊夢は息が上がっていた。

 

 

 霊力で誤魔化し続けてきたツケが、ここで来てしまった。急速に消耗してゆく霊力を押し留める体力が、霊夢にはなかった。気づけば、霊夢はたたらを踏む様にして地面へと降り立ち……傍の街路樹へともたれ掛っていた。

 

 降り立った場所は、人通りのない住宅街の一角であった。辺りを見回せば路駐している車もなく、走っている車もない。信号の淡い光と街灯だけが、夜の世界を照らしていた。

 

 はあ、はあ、はあ、はあ……街路樹が作り出した影の中で、霊夢は必死に息を整える。心臓が、今にも爆発しそうだ。噴き出した冷や汗を拭う余裕も、霊夢にはなかった。

 

 

 ……こうなるのは子供の時以来かしら、ね。

 

 

 ぐったりした意識の中で、霊夢は……苦笑した。

 

 これは、あまりに急激に霊力(魔力も)を消耗すると起こる、欠乏症の一種だ。コントロールが上手くいかない幼少時などに頻発する症状であり、霊夢も幼少時に難しい術を使って発症してしまったことが何度かある。

 

 その時は、一休みして落ち着くのを待ってから、紫の作ってくれたご飯をお腹いっぱい食べて、一晩ぐっすり寝たら治っていた。

 

 

 しかし……今はどうだろうか。

 

 

 あの時よりも霊的な回復力が向上しているとはいえ、ここは外の世界だ。とてもではないが、ジッと息を潜めていれば回復出来るような環境ではない。いや、回復どころか、消耗してゆくばかりだ。

 

 せめて……せめて、体力だけでも回復させ──あっ。

 

 暗闇の中で胡乱げな眼差しを辺りに振りまいていた霊夢の瞳が、道路を挟んだ反対側、昼のようにな眩しさを放つ建物を捉えた。霊夢は知らなかったが、それはコンビニと呼ばれている店の内の一つであった。

 

 

(た、食べ物……!)

 

 

 いや、必要なのはそこではない。霊夢の目は、その眩しさの向こうにある、陳列されている商品を捉えていた。本能的に、いや、半ば意識的に……霊夢の喉が、ごくりと唾を呑み込んだ。

 

 

(一つぐらい……一つぐらいなら……みんなの為なら……)

 

 

 意識が、混濁する。いつの間にか、立ち上がっていた。ふらふらと、足が動く。不思議と、あれだけ手足を蝕んでいた重さは消えている。いや、それどころか、鼓動に合わせて活力が湧いてくる気さえしてくる。

 

 理性では、止めろと訴えている。博麗の巫女である己が、それに手を染めるのかと訴えている。だが、それら全てを、腹部より伝わる空腹感が、全身が訴える飢餓感が、覆してゆく。

 

 喉が、乾く。けれども、水では腹は膨らまない。飲めば飲む程、より強く空腹感は強くなる。その度に、身体より抜け出てゆく霊力……それ以上に、身体が消耗してゆく。

 

 幻想郷へと戻る為には、霊力の意地が必要不可欠だ。だが、その前に体力が尽きる。体力を維持する為には食わねばならないが、食えば食うだけ霊力は落ちる……だが、だけど、それでも、ああ、あああ、ああああ……! 

 

 

(──だめっ!)

 

 

 道路を渡って、店の前。そこで、我に返った霊夢は足を止めた。伸ばされた手をもう片方の手で押さえた霊夢は、大きく息を吐いた。

 

 自分は今、何をしようとしていたのか。それを自覚した瞬間、霊夢はもつれる足を必死に動かして、その場を離れ……ようとした。だが、上手く出来なかった。息も整わずに動いた代償であった。

 

 

 ……そして、その代償が……決定的な分岐点となってしまった。

 

 

 ぴろん、と。背後より聞こえた音に、霊夢は振り返った。見れば、ビニール袋を片手に、スマホ(霊夢の目には、光る何かとしか思えなかった)を片手にコンビニから男が出てくるところであった。

 

 いわゆる、歩きスマホというやつである。距離にして十数メートル程度の距離にいる霊夢に気付いた様子もなく、男は傍の自転車のカゴに袋を乗せた──直後、『──あっ』男は何かを思い出したかのように舌打ちすると、足早に店の中へと戻って行った。

 

 

 ……静寂が、訪れた。そう、霊夢が認識した時にはもう……霊夢の身体は、動いていた。

 

 

 罪悪感も、抵抗感もなかった。いや、もしかしたら、感じていたのかもしれない。だが、この瞬間、霊夢の頭からそれら全ての雑念は消え去り……あるのは、渇望だけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………どこをどう走ってきたのは、霊夢にも分からなかった。

 

 

 

 

 

 我に返った霊夢の前に広がっているのは、この辺りでは見掛けない数の密集した木々に、その木々の向こうに見え隠れする遊具。遊具だと霊夢には分からなかったが、木々の数から、霊夢はここが何時も水飲みに利用している公園とは別の公園だと判断した。

 

 時刻が時刻だからか、周囲に人の気配はない。街灯の数も少なく、下手すれば道路よりも薄暗い。広さだけなら最初の公園よりもありそうだが、寂れ具合は最初の公園よりも酷そうであった。

 

 よたよた、と。引きずり掛けている両足を強引に動かして、夜の中を進む。その姿はまるで、光に吸い寄せられる蛍のようで……目に止まったベンチにどっかりと腰を下ろした霊夢は……静かに、手に持っていた袋を見つめた。

 

 

 ……心臓の音が、また煩くなった。だが、今度の音は先ほどよりも弱い。

 

 

 それが、何を意味しているのか。それが、何の抵抗を表しているのか。霊夢は分からな……いや、違う。目を逸らしていることに気付きながらも、抗うことが出来ないまま……袋の中に入っていた、ペットボトルを手に取った。

 

 ペットボトルというものを見るのは、これが初めてである。だが、初めてでも直感で開け方を察した霊夢は、震える指に力を入れて……蓋を開ける。露わになったそこに口づけ、傾け……もう、無理だった。

 

 

 ごくり、ごくり、と。

 

 

 1リットルサイズの半分を一気に胃袋へと流し込んだ霊夢は、直後、二口分のソレと少量の胃液を吐きだした。けれども、ぜひ、ぜひ、と息を荒げながら……半ば掻き毟るように、おにぎりを取り出した。

 

 開け方が、分からない。まあ、当然だ。けれども、今の霊夢には関係ない。袋に噛み付いて強引に噛み千切り、その弾みで手元から零れ落ちて地面を転がる──構わず、霊夢は拾ってかぶりついた。

 

 じゃりじゃり、と。最初に感じたのは米の味ではなく、砂の味であった。御世辞にも良いとは言い難い触感が脳裏に響いたが、止められない。不快感すら覚えながらも、霊夢は飲み込み、咀嚼し、飲み込み続けた。

 

 

 ──ぽたり、と。霊夢の太ももに、滴が落ちた。

 

 

 涙が、頬を伝っている。それを、どこか頭の中にある冷静な部分が理解したが、それだけであった。ぽろぽろと零れ落ちる涙と共に嗚咽も零れ始めたが、それでも食べることを止められない。

 

 

「ひぐっ、うぇ、ぇぇ、ひっ、うぅ……」

 

 

 泣いている。誰かが泣いている。決まっている。己が泣いている。あの博麗霊夢が、泣いている。博麗の巫女として妖怪たちから怖れられている己が、涙を零している。幼子のように、鼻水まで垂らしてべそを掻いている。

 

 それでも、止められない。二つ目のおにぎりを瞬く間に平らげた霊夢は、続けて、弁当へと手を伸ばす。これまた引き千切る勢いでプラスチックの蓋を開けた霊夢は、素手で中身を口内に放り込んでゆく。

 

 箸を使おうなどという考えなんて、ない。そんな物を使うよりも前に、これらを胃袋に入れたい。ただ、その一心で、漬物の汁からソースの汁まで根こそぎ舐め終えた霊夢は……そこで、限界が来た。

 

 

「──ゆがりぃ、ごめん、ごめんなざい、ゆが、ゆがりぃ、ごべんなばい」

 

 

 気付けば、霊夢は両手で顔を覆っていた。指の隙間から、滴が染み出てゆく。力を込めて止めようとするが、止まらない。いや、それどころか、そんな霊夢をあざ笑うかのように、余計に涙の量は増えてゆく。

 

 

「まりざぁ、ごべん、ごべんなざい、ゆがりぃ、ごえ、ごべん、みん、みんあ、ごべんな、べんあざ、ごめんなざい」

 

 

 涙は嗚咽を伴い、嗚咽は号泣へと変わる。何に対して謝っているのか、どうして謝るのかすら、今の霊夢には分からない。ぐちゃぐちゃになった頭は、幼子のように泣き喚くことしか出来ない。

 

 霊夢は、泣き続けた。涙が止まらないから、その分だけ泣き続けた。膝を抱えて蹲り、嗚咽と共に、謝り続けた。ただただ、霊夢は謝り続けた。

 

 何もかもが分からなくなったまま、謝り続け……そうして、気付かぬうちにそのまま眠ってしまうのであった。涙で濡れた顔は酷いもので、苦悶に満ちたその顔は……まるで、母親と離れた幼子のようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………歌が、聞こえる。何の歌だろうか……よく分からない。そして、温かい。身体が、揺すられている。でも、不快ではない。いや、それどころか心地よく、安心する匂いがする。

 

 

 

 そっと、目を開けた霊夢は、眼前に広がる金色に軽く目を瞬かせた。頬を掠めるくすぐったさに、いったいこれは何だと身体を起こした霊夢は……そこで初めて、紫に背負われていることに気付いた。

 

 紫自身は、平均よりも長身である。肩幅も相応に広く、自分よりも一回りも二回りも大きい。そのうえ、妖怪である。まだ8歳の霊夢を、それも同年代よりも一回り小柄な少女の重さなんて、重さの内に入らないようであった。

 

 

 辺りを見回せば……思い出した。ここは、家(神社)への帰り道で通っていた道だ。

 

 

 空は飛べるが上手く霊力の加減が出来ない幼少時、よく無理をして霊力を枯渇させてしまっていた。あの時は何時もこうして、紫に背負ってもらっていた覚えがある。

 

 

 視線を上に向ければ、夕暮れ時の赤い日差しが自分たちを照らしている。

 

 

 昼と夜との境目は、人も妖怪も気分を高揚させる。だが、大妖怪にして賢者の一角である八雲紫にちょっかいを掛ける馬鹿はいない。それも、博麗の巫女を背負っている時に行う馬鹿は、幻想郷にはいない。

 

 油断ではない。純粋に、紫は強いのだ。普段なら命を取らずに追っ払う程度に納めるが、この時ばかりは本気で殺しに来る。妖怪たちはそれを知っているからこそ、その足取りは何事も無く平穏であった。

 

 

 ……当然、霊夢もそれを知っていた。

 

 

 当然だ、何せこれまで何十回と背負われているのだ。御年8つとはいえ、それが分からないほど馬鹿ではない。

 

 鼻歌を奏でる紫の歩調には、一切の変化はない。規則正しく続けられる歩みと鼻歌は、ともすれば子守唄にしか聞こえない。一つ欠伸を零した霊夢は……そっと、霊夢の首筋に顔を埋めた。

 

 

『──あら、起きたの?』

 

 

 振り返った紫の、横目。髪に邪魔されて視線が合う事はなかったが、こちらを見ているのは分かる。『まだ、起きてない』だから、霊夢はそのままぐりぐりと頬を擦り付けた。

 

 

『そう、それじゃあ、着くまでもう少しお休みなさい』

 

 

 見えずとも、感触から察した紫は笑みを零した。軽く霊夢を背負い直し、再び鼻歌を零し始める。それが上手なのかは霊夢には分からなかったが、心地よいものであるのは確かであった。

 

 うとうととした、眠気はある。でも、どうしてだろうか、眠りたくない。もう少しだけ、こうしていたい。もう少しだけ、この温もりの中で微睡みたい。

 

 ぷらぷらと足を揺らしてみれば、『ほら、大人しくなさい』紫はそういって霊夢を宥める。抱き締める力を強めれば、わざとらしく右に左に揺すられる。たったそれだけのことなのに……どうしてか、涙が流れそうになるほど嬉しい。

 

 気付けば、景色は森の中から博麗神社へと続く階段に変わっていた。常人なら気後れする階段の数だが、妖怪離れした紫にとっては何の問題もない。とす、とす、とす、と、歩調を緩めることなく階段を登ってゆく。

 

 

『ねえ、霊夢』

 

 

 そうして、どれぐらい登った辺りだろうか。だいたい、3割ほどを登った辺りだろうか。もうすぐ着いてしまうのだなと霊夢が考え始めた時……ぽつりと、紫が呟いた。

 

『博麗の巫女を止めたいって、考えたことはある?』

『ない』

『……それは、どうして?』

 

 

 それに対して、霊夢は即答した。一瞬、紫の気配が震えたのが霊夢には分かった。

 

 

『他の子たちと同じように遊べないし、一緒に暮らせない。好いた男一人作れないし、そのうえ、代々博麗の巫女は寿命を迎える前に命を落とす……それでも?』

『それでも、ない』

 

 

 きっぱりと、霊夢は答えた。それは紛れもない、霊夢の本心であった。

 

 

『みんなと一緒に遊びたいとは思わないの?』

『思うよ、でもいいの』

 

『霧雨の……そうそう、あの商店の娘さんと、霊夢は同い年でしょう?』

『私の方が三月ばかり年上。でも、いいの』

 

『友達になってほしいとか、色々あるでしょう?』

『色々あるよ。でも、いいの』

 

『霊夢……あなたは、強いのね。私よりも、ずっと、ずっと……』

『何言ってんだか、紫は私たち人間よりもずっと強いのに、変な事ばかり気を回すのね』

 

『……それは違うのよ、霊夢。私たち妖怪は、けして強くはないの。だって、私たちはあなた達人間がいて、初めてこの世界に居られるのだから』

『嘘ばっかり。紫は何時もそうやって私をからかう』

 

『本当の事よ。私たちはね、貴方たち人間が考えているよりも、ずっとか弱く、ずっと寂しがり屋なの。どれだけ強く見えても、その本質は人間よりもずっと格下なのよ』

『かくしたぁ~? 妖怪のけんじゃさんの、紫がぁ?』

 

『ええ、そうよ。弱いから、私たち妖怪は人間を襲うの。そうして自分たちは強いんだって示さないと不安で堪らなくなるぐらいに……でも、人間は違うでしょう?』

『にんげんも似たようなものだと思うわよ』

 

『違うわ、だって、人間はそれでも生きて行けるもの。私たちは駄目なの、そうなっただけで死んでしまうから……』

 

 

『ゆかり、死んじゃうの?』

 

 

『うふふ、霊夢を置いて死んだりはしないわ。大丈夫、私は貴女がおばあちゃんになった後も生き続ける。だから、どうか私が死ぬまでに死んだら嫌よ』

 

 

 

『……でも、それじゃあゆかりが一人ぼっちに──そうだわ。それじゃあ、私が皆を繋いであげる! 私たちにんげんがそうなんだから、紫たちもそれが出来るよ!』

 

 

 

 その言葉に、紫は……何も言わなかった。それに気づく様子もない霊夢は、『はくれいの巫女はね、みんなを繋ぐの!』これ以上ない良い考えだと言わんばかりに紫の髪に顔を埋めた。

 

 

『ゆかりも、まりさも、一緒。外のせかいの人達も、みーんな同じ! みーんな、私が繋いであげる!』

『霊夢……』

『寂しがることなんて、ないの。みーんな、心のどこかで繋がっているの。ただ、気付いていないだけ、見えていないだけ……だから、私がとくべつに頑張ってあげる!』

『……ふ、ふふふ、そうね、ありがとう、霊夢』

『あ、でも、私だけだと出来ないから……ゆかりも手伝いなさい。まりさも、みんなも、ちゃんと手伝ってくれないと、出来ないから。私の『かん』が、そう言っているんだから!』

『ふふふ、霊夢の勘が言うなら従いましょう。でも、手伝って欲しいときは、ちゃんと声に出さないと駄目よ。霊夢はすーぐ口を噤んで察して欲しいみたいな──────あれ? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──目が、覚めた。

 

 

 そう自覚した瞬間、霊夢はむくりと身体を起こした。反射的に、頬を触る。冷たく濡れた感触に、目元を拭う。既に止まっているのか、新たにソレが零れ落ちるようなことはなかった。

 

 

 とても……懐かしい夢を見た気がする。

 

 

 それがどんな夢だったのか、その細部は思い出せない。はっきり覚えているのは、幼い頃の自分が、紫に背負われて神社へと戻って行く最中だったということぐらい。

 

 第三者の立場で聞いているような、それとも己が子供に戻っていたような、あるいは……上手く言葉に言い表せられない。とにかく、何とも不思議な夢だったと霊夢は思った。

 

 その、直後……落ち込みかけた霊夢の意識が周囲に逸れた瞬間、驚きに目を瞬かせた。どうしたのかといえば、周囲の景色ががらりと変わっていたからだ。

 

 霊夢にはそれらを何と表現すれば良いのか分からなかったが、有り体に言えば月並みなマンションの一室であった。

 

 フローリングの床に、白い壁紙。大きくはないが小さい程ではないテレビに、電子レンジを始めとした家電や家具一式。締め切られたカーテンは少しばかり汚れていて、霊夢をしかいない室内には生活感が漂っていた。

 

 

 ……いったい、ここは何処なのだろうか。

 

 

 もしかして、寝ている間に連れ込まれてしまったのだろうか。しかし、男の部屋には……次々湧いてくる疑念に目を瞬かせた霊夢は……次いで、目元を手で隠した。

 

 

(……眩しい)

 

 

 点けっぱなしの照明の眩しさに、霊夢は目を細める。暗がりの中で息を潜めてばかりだっただろうか。眩しさから逃れるように身動ぎして……がさがさと身体の下から音がしたので見やった霊夢は……はて、と小首を傾げた。

 

 

(新聞紙?)

 

 

 今更だが、新聞紙が敷かれたソファーに寝かされていたことに霊夢は気付く。ソファー自体は紅魔館で何度か見た覚えはあるが……何だろうか。些か小さいというか、単純な造形をしている。

 

 レミリアのような西洋の者の仕業なのだろうか……気にはなるが、とにかく。ソファーから降りた霊夢は、自然と室内を見回し……ふと、室内を漂う、生活感とは異なる何かに目を向ける。

 

 何だろうか……懐かしい気がする。だが、何処なのかを思い出せない。大きく息を吸って、ゆっくり吐く。何気なく行ったその行為だが……それで、霊夢は『何か』の正体に気付き、思わず目を見開いた。

 

 

 何故なら、その『何か』の正体が、幻想の力であったからだ。

 

 

 幻想を否定したこの世界に、幻想の力が残されている。こんな、最も幻想を否定した場所に何故……その中にあっても信じ難い状況を前に、霊夢は急いでその場を離れようと辺りを見回し──たのだが、遅かった。

 

 

 ──がちゃり、と。

 

 

 ハッと、鍵が開けられる音に気付いた時にはもう、遅かったのだ。「──大丈夫だって。そんな悪そうな子じゃないし、何か凄く不思議な──あっ」何やら呟きながら室内に入って来た女性は、霊夢を見て……言葉を失くした。

 

 女性は、霊夢よりも5歳は年上のブラウンの髪をした女性であった。手足は細く、荒事に従事しているような風貌ではない。霊夢は知らなかったが、その女性は女子大生というやつであったが……まあ、いい。

 

 霊夢も、その女性と同じであった。言葉を失くして立ち尽くすその女生と同じく言葉を失くし、呆然としていた。それは、眼前の女性が連れてきた、もう一人の女性に原因があった。

 

 その女性は、金髪であった。目の色は青く、西洋の血が混じっているのが明白な肌の色をしていた。だが、霊夢の気を引いたのはそこではなく、その女性が放つ……彼女に酷似している雰囲気にあった。

 

 

「……紫?」

 

 

 気付けば、霊夢はその名を呟いていた。「……え?」小首を傾げた金髪女性の反応が、きっかけになったのだろう。「ちょ、ちょっとあんた……」我に返ったブラウンの女性は、少しばかり慌てた様子で手を伸ばして来た──ので。

 

 

 ふわり──と。

 

 

 ひと眠りしたことで少しばかり回復している霊力を使って、天井へと飛んで逃れた。絶句する二人の顔を見た霊夢は、その隙にここから逃げようと……思ったのだが。

 

 

「──天井に引っ付くな! あんた臭いんだから、臭いが引っ付くでしょうが!」

 

 

 まさか、ブラウン髪の女性から正面切って臭いと罵倒されるとは、さすがの霊夢も想定していなかった。「え……えっ?」あまりといえばあまりなストレートボールに、逃げることも忘れて霊夢は床に降りた……途端、その手を掴まれた。

 

 

「起きたんなら風呂に入りなさい! 茹で卵みたいな臭いを撒き散らされるこっちの身にもなりなさいよ!」

「ちょ、え、あの、ちょ、まっ、ああ」

 

 

 抵抗する間もなく、引っ張られる。ぽかんと呆気に取られたままの金髪女性の顔が見えたが、その次にはもう風呂場へと引きずり込まれた霊夢は、そのままの勢いで来ている寝間着(白襦袢)をガバッと剥ぎ取られた。

 

 

「ちょ──ちょ、ちょちょちょ!?」

「あんた、何日風呂に入ってないの? 何歳かは知らないけど、あんたぐらいの年頃の新陳代謝をなめたら駄目よ」

「まっ──待って、ちょ、待って! 嫁入り前! わたし、嫁入り前だから!」

「うっさい! 小学生だってセックスする時代に何が嫁入り前じゃ! いっちょ前に恥ずかしがる暇があるなら、とっとと身体を洗え!」

「わか、分かったから、洗うから、あら──いひぃ!? なに、何これ!? 何でお湯が!?」

 

 

 抵抗はしたが、無駄だった。あっという間に裸に剥かれた霊夢の身体に、ブラウン髪の女性はシャワーを向ける。幻想郷にはないシャワーの感触に、びくびくっと霊夢は総身を震わせた。

 

 そして、そのまま……霊夢の声なき悲鳴が、リビングにいる金髪女性の元まで届き。

 

 

「あ~、やってるなあ」

 

 

 と、いった感じで暢気に換気をしているその女性を他所に、そのまま全身を洗われた霊夢は次いで、歯まで強引に洗わされる(さすがに、これは霊夢が自分でやった)ことになって……バスタオルを巻いたままリビングへと戻った霊夢の顔は、傍目にも分かるぐらいにげっそりとしていた。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………そうして、入浴を終えた後。

 

 

 金髪女性が用意した茶を疲れ切った顔で啜る霊夢を前にして、同じく一仕事したと言わんばかりに額の汗を拭ったブラウン髪の女性(入浴させた際に濡れたようで、着替え済み)は……改めて霊夢を見やると。

 

 

「小汚いガキかと思ったら、もんのすごい美少女じゃないの。清々しいぐらいに宝の持ち腐れってやつね」

「ほんと、凄い美少女だね。何でこんな子がホームレスなんてやっていたのかしら? 若気の至りも度が過ぎると痛々しいものよ」

 

 

 ぽん、と膝を叩いて、霊夢をそう評した。褒めているようでいて全く褒めていない評価に、ぴくりと霊夢の眉が動く。さりげなく、金髪女性の感想も酷いが……まあ、それもいい。

 

 とりあえず、この人たちはいったい何者なのだろうか。そして、何の目的があって己をここに連れて来たのだろうか。かどわかし……では、なさそうだが、分からない。

 

 

(……ただの常人、ではなさそうね。何かしらの『能力』を持っている。このお茶も、ほんの僅かだけど『力』を帯びているあたり……おそらく、この二人から発せられる力を浴び続けているせいね)

 

 

 空になったコップを置いた霊夢は、ジッと二人を観察する。

 

 霊夢自身の純粋な感想は、『悪人ではない』の一言だ。己の『勘』が導き出した感想も、『悪人ではない』だ。ということは、この二人は……かどわかしの類でないのは、確実だろう。

 

 とりあえず、邪な気を二人からは感じ取れない……そう思って見つめていると、「あっ、自己紹介していなかったわね」勘違いしたブラウン髪の女性はそういって、自らを指差した。

 

 

「私の名は宇佐美蓮子(うさみ・れんこ)。名字でも名前でも、好きに呼びなさい。見ての通り、華の女子大生よ。それで、こっちは私の友達の──」

「マエリベリー・ハーンよ。呼びにくいなら、メリーって呼んでくれていいわ。もう分かっていると思うけど、日本語で喋れるから変に英語を使わなくていいからね」

 

 

 

 ブラウン髪が、宇佐美蓮子。金髪女性が、マエリベリー・ハーン。

 

 

 

 強引かつズバッと忙しなく行動するのが蓮子なら、まえり……メリーの方は逆のようだ。ほとんど一気飲みするように茶を飲み干す蓮子とは違い、メリーはゆっくりと味わうように茶を飲んでいた。

 

 二人は霊夢を美少女だと称したが、二人も霊夢に負けず劣らずの美女である。少なくとも、二人の事を美女だと断言出来るに足る風貌であると、霊夢は思った。

 

 片や、気の強そうな理知的な美女。片や、ぽややんとした穏やかな美女。多少なり化粧による底上げが成されているとはいえ、それでも世の男たちの視線を集めるに十分な容姿をしている。

 

 美女であるのは共通しているが、それ以外が何とも対照的な二人だ……そう、霊夢は思う。と、同時に、名乗られたら名乗り返すのが礼儀かと、霊夢は思った。

 

 一瞬、呪術的な何かを警戒した霊夢だが、すぐに内心にて首を横に振る。それを行えるだけの幻想は、この世界にはない。この部屋には何故か幻想の気配があるようだが……話を戻そう。

 

 

「博麗、霊夢。知り合いからは霊夢と名前で呼ばれているわ……好きな方で呼んでちょうだい」

「はくれい……珍しい名前ね。まあ、それはいいか……で、単刀直入に聞くけど、あんた、いったい何者? 何処から来たの?」

 

 

 

 何者……何処から、か。

 

 

 

 本当にまっすぐ突きつけられる質問に、霊夢は思わず苦笑した。苦笑した直後……霊夢は、話して良いものかと考える。

 

 目的は定かではないが、風呂に入れてくれて茶まで振る舞ってくれたのだ。その点については、霊夢も言葉には出さないが素直に感謝している。

 

 だが、幻想郷は秘匿されなければならない世界。いくら『博麗大結界』があるとはいえ、何がどう動いて影響を及ぼすか、それは霊夢にも分からない。

 

 

「……何処からかは、言えない。言えない事情が私にはある。私が言えるのは、私が『楽園の素敵な巫女』っていうことだけよ」

 

 

 悪いやつではないし、これで色々と察してくれる。『勘』から導き出した回答を伝えれば……にやりと、蓮子の頬が吊り上った。

 

 

「へえ、楽園? また、大きく出たわね……ていうか、巫女? あんな恰好で?」

「色々と、事情があるのよ」

「その楽園から、どうしてこんな醜く薄汚くも時に美しい地上へ? 巫女なんてやっているぐらいなら、それなりの立場だったんじゃなくて?」

「不本意だけど、それも色々な事情よ」

「ふ~ん、なるほど」

 

 

 霊夢のその言葉に、蓮子はにっこりと笑みを浮かべた。

 

 

「つまり、異なる世界にある楽園に住まう巫女が、わざわざこの地に出て来ざるを得なかった問題が楽園で起きたわけね。あるいは逃げてきたか、追いやられたといったところかしら」

「──っ!?」

「うんうん、素直な子は好きよ──ちょいちょい、落ち着きなってば。別にあんたの不利益になるようなことなんてしないからさ」

 

 

 ……向けられる笑みを前に、反射的に浮き上がり掛けた腰を、霊夢は下ろす。「やれやれ、若者は何事もせっかちで困る」苦笑する蓮子を見やった霊夢は……内心にて、動揺を露わにしていた。

 

 

 言い訳はしない、油断していた。目の前の女は、見た目だけの女ではない。

 

 

 紫や永琳のように、純粋に頭の回転が速いタイプの女だ。その証拠に、この僅かな問答と霊夢の表情を見て、ここに居る理由を推測してしまった。ある意味、霊夢が最も苦手とする相手だ。

 

 こういうタイプは、とにかく場の主導権を握るのが上手い。霊夢のように天性の直感で場を動かすタイプとは違い、理詰めで場の空気を理解し、把握し、動かしてしまうからだ……何せ、もう。

 

 

「ん~、しかし、楽園と来たか。巫女さんがいるくらいだから……鬼とか天狗とか妖怪とかいそうな感じかしら?」

「……馬鹿じゃないの?」

「ほほう、良いポーカーフェイスね。でも、経験が足りないわ。あんた、捻くれ者でしょ。私も似たようなもんだからね、同類はすぐ分かる」

 

 

 場の主導権を、完全に握ってしまっている。顔を合わせてから一時間と経っていないのに、コレだ。やはり、やり難い相手だと霊夢は内心……どころか、顔に出した。

 

 意識してコレを行えるやつを相手に、下手な隠し事は余計を生む。それを、霊夢は幻想郷にて……正確には、紫から散々煮え湯を飲まされた経験から知っていた。

 

 正直、にやにやと勝ち誇った顔のコイツ(恩人であるとはいえ、だ)に負けたようで癪だが……仕方がない。さすがに全ては話せないが、話せるところだけは話そうと霊夢は口を開いた──その、瞬間。

 

 

「あら、蓮子は捻くれ者じゃないわよ。意地っ張りで捻くれた言い回しするけど、根はとっても素直よ」

 

 

 思いのほかはっきりとした口調で、沈黙を保っていたメリーが口を挟んできた。霊夢はおろか、これは蓮子にとっても想定外だったのだろう。「──ちょ、メリー!?」些か驚いた様子で静止の声を上げたのだが……当のメリーには届かなかったようだ。

 

 

「霊夢ちゃんも、誤解したりしないでね。蓮子はこんな感じで試すような言い方したり、茶化すような言い回しをしたりするけど、別に馬鹿にしているわけじゃないのよ。蓮子なりの、仲良くなりましょうっていう感じの挨拶なの」

「え、あ、はあ、そうなの?」

「うん、そうなの。分かり難いけど、蓮子なりに霊夢ちゃんを心配しているのよ。だって、家に連れ帰った方がいいって強く提案したのは蓮子ちゃんの方だもの」

「え、そうなの?」

 

 

 思わず見やった霊夢の目に映ったのは、少しばかり頬を赤らめて、違う違うと必死に手を振る蓮子の姿であった。メリーに視線を戻せば、「恥ずかしがり屋でも、あるの」蓮子の努力は一瞬にして瓦解してしまった。

 

 

「最初は警察……あ、警察って分かる?」

「名前は聞いたことあるわ。確か、凄く規模の大きな自警団みたいなものでしょ?」

「うん、まあ、そんな感じ。それでね、最初は警察に連れて行った方がいいって話になったの。でもね、あなたを抱き上げた蓮子がね、急に『家に連れて帰る!』って言い出したの……何でだと思う?」

 

 

 思う、の辺りで騒ぎ出そうとした蓮子を抱き締める様に押さえつけながら、メリーから尋ねられる。当たり前だが、全く見当が付かない。なので、素直に分からないと霊夢は答えた。

 

 

「何かね、『お母さん』って呟いたのが聞こえたんだって。そうしたらね、『警察に連れて行っても何の解決にもならない!』っていきなり怒り出して……それで、お気に入りのソファーに寝かせ──あれ、どうしたの?」

 

 

 両手で顔を隠した霊夢を見て、メリーは小首を傾げた。その耳が、熟した苺のように赤くなっていることには気付いていなかったが、「あ、あんたは鬼か……!」そんなメリーに心から震え上がる蓮子だけは気付いていた。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………まあ、天然といえば天然なメリーの発言によって、上手い具合に緊張感が抜けたのは確かであって。

 

 

 

 気を取り直した霊夢は話せる分だけを蓮子に伝え、蓮子も聞いて欲しくない部分を察した傍から、そこにはあえて触れないようにして……そうして、お互いの擦り合わせは一通り終わった。

 

 

「……つまり、今のあんたは霊力っていう不思議な力が空になっちゃったから、にっちもさっちも行かなくなっているって状況なわけね」

「少し違うけど、だいたいその通りよ」

「ひとまず、その霊力っていうのを回復する手段はあるの? 関わったのは私の方からだし、金はないけど協力出来るなら協力するわよ」 

 

 

 その言葉に、霊夢は思わず蓮子を見やった。まっすぐ向けられる視線に、霊夢は……何だか胸の苦しみを感じて、蓮子から視線を逸らした。

 

 

「方法がないわけじゃないけど、絶対じゃないし、とても時間が掛かる」

「それは、どうして?」

「ここが、幻想を否定した世界だから。一番手っ取り早い、食べ物から回復するっていうのが使えない」

「……ああ、なるほど。そうなるのかしらね」

 

 

 納得する蓮子を他所に、「えっと、どういう意味?」メリーは分からなかったようだ。「ねえ、どういう意味?」催促するように揺さ振り始めるメリーを宥める……そんな二人を見やった霊夢は、「とにかく、ここには私を元気にするモノがないのよ」そう、メリーに説明をした。

 

 

「空も、大地も、水も、何もかもから幻想が枯渇している。食べ物一つ、飲み物一つ、今の私には毒にも等しい。命を繋ぐには何の問題もないけど、こうしているだけでも霊力は消耗してゆく」

「……つまり?」

「温かいお茶はいずれ冷めてしまうけど、火に掛ければ熱くなるでしょ。でも、ここには『火』が無くて、熱湯しかない。混ぜれば熱くなるけど、お茶は薄まる……これで分かった?」

「なるほど、分かった!」

 

 

 合点がいったと手を叩くメリーを見て、「あんた、頭は良いのにほんとに変な所ではぽややんと……」蓮子は苦笑し……次いで、霊夢へと視線を戻した。

 

 

「それじゃあ、他の選択肢は?」

「後は、この地に御座す神々の力を受け取るというのがあるけど……この辺りには神社がないわ」

「あら、それなら好都合だわ。あなたの言う通りこの辺りにはないけど、ちょっと北に上がればやたらと神社があるわよ」

「え?」

「ここは京都よ。まあ、京都といっても端っこだけどね」

 

 

 驚きに目を見開く霊夢の姿に、蓮子はからからと笑った。「良かった、これで一安心だね」それを見て、メリーも胸を撫で下ろして安堵のため息を零していた。

 

 

「さあ、他にないなら、とりあえず今日はもう寝なよ。お腹空いているならおにぎりぐらいは作っておくからさ……明日、有名所の神社に連れて行ってあげるから」

 

 

 その言葉に、霊夢は目を瞬かせた。

 

 

「……何で、そこまでしてくれるの?」

「何でって、面白そうだから。それに、分かっていて流浪の身にさせるのは気が引けるから」

「あんた、家の物を盗まれる事とか考えたりはしないの?」

「ああ、それは大丈夫よ。私、人を見る目には自信があるから。あんたが盗んで逃げたなら、そりゃあ見抜けなかった私が間抜けなだけよ」

 

 

 えぇ……堪らず、霊夢は頬を引き攣らせた。「言っておくけど、誰でもってわけじゃないわよ」ソレを見て、蓮子は苦笑を零した。

 

 

「博愛主義じゃないけど、迷える子羊を救ってやるのも一興でしょ。それに、空飛べる巫女さんだなんて一生に一度逢えたら良いぐらいの奇跡だろうし」

 

 

 この奇跡をもう少し楽しみたいから、これは決定事項よ。そう言葉を続けた蓮子に……霊夢は、唖然とする他なかった。

 

 

「──蓮子ってそっちに信仰なんてあったの? 私はてっきり無宗教かと思っていたけど、それなら今度十字架でも持ってこようか?」

「私は神様を信じているけど、宗教は信じていないだけよ。ていうかその煎餅、戸棚の奥に隠していたやつじゃなくて?」

「え、隠していたの? てっきり湿気に当たらないように奥に入れているモノだとばっかり……」

 

 

 そうして、そんな霊夢を尻目に、いつの間にか何処からともなく用意した煎餅を片手に話に混じるメリーと、その煎餅をするりと半分奪い返す蓮子……の、二人を見た霊夢は。

 

 

「……お人好しなやつ」

 

 

 ただ、そう呟くことしか出来なかった。

 

 



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冬の章:その2

年が……明けている、だと?

すっかり忘れ去られてしまっている誰得な続編だよ

もうすぐクライマックスだね……まあ、あとちょっと続くけどね


 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、幾しばらく。周辺の道案内やら何やらをする合間に、とりあえず、まずは霊夢が持っている常識と、こちらの常識を擦り合わせることから始めた。

 

 

 提案したのは、蓮子の方からだ。

 

 

 理由は、霊夢の言動の端々から、霊夢自身が重度の、あるいは深刻な『世間知らず』であり、常識に関しては無知に等しいということを察したからである。

 

 実際、霊夢は蓮子の目から(多少なり譲歩しても)見ても、あまりに無知過ぎた。現代社会人どころか日本に住んでいれば当たり前過ぎる家電の名称すら知らなかったのだから、早急に解決せねばならないと蓮子が思うのも、無理はない。

 

 霊夢も、その辺に関しては思うところがあったようで。「少なくとも、最低限の常識は教えておくから」という蓮子の提案を素直に聞き入れ、真剣に外の世界の常識を学ぶことを選んだ。

 

 

 ちなみに、メリーはその辺はノータッチであった。

 

 

 曰く、『学ぶのは好きだけど、教えるのはどうも苦手』らしく、緊急を要する事以外は蓮子が教師となり、メリーはあくまで傍観者の立場であった。

 

 ……そんな感じで、三人(その内、一人は寛いでいるだけだが)の勉強会が合間に執り行われた。

 

 だが、始まってすぐは……実の所、蓮子もそうだが、メリーも相当な不安を抱えていた。

 

 

 何故なら、霊夢は無知だ。

 

 

 使い方を知らない所の話ではなく、純粋に無知なのだ。言葉こそ通じるが、何をするにも何をさせるにも、1から10まで説明がいる。

 

 楽しくなりそうだと思ってしばらく面倒を見ることを蓮子は選んだわけだが、蓮子もメリーも暇人というわけではない。

 

 

 さすがに、四六時中ぶっ通しで勉強会というわけにはいかない。

 

 

 なので、あくまで蓮子は、己が家を離れている間、霊夢一人で暇を潰せる程度の知識だけを教えた。家電の基本的な使い方を始め、一通りのインフラ設備の使い方を教えた後。

 

 とりあえず、外に出るにしても何か有った時はこれを使えと3000円を入れた財布(小銭入れとも言う)持たせた。

 

 そうして、蓮子とメリーは大学へと向かい……しばらくは、手持無沙汰になっているかもしれないと思って、早めに帰宅することにした。

 

 

 ……だが、蓮子たちはまだ霊夢という人物を知らなかった。いや、知らないというよりは、見誤っていた。

 

 

 確かに、霊夢は無知である。家電はおろか、現代社会についての常識は欠片も持ち合わせていないし、携帯電話すら、その存在を認識していなかったぐらいだ。

 

 だが、馬鹿ではない。ただ、無知なだけなのだ。

 

 彼女たちは知る由もないことであったが、才能がそのまま人の形を取っていると紫たちから称された博麗霊夢が、本気になって何かに取り組めば……片鱗は、数日後の夜より始まった。

 

 

「──あら、お帰りなさい。聞いていたより早かったのね」

「……えっと、何やってんの?」

「何って、火熨斗(ひのし)……いえ、『あいろん』をしているのよ。あんたね、洋服は特に皺が目立つんだから、ちゃんとやんなさいよ」

 

 

 少しばかり小走りで帰ってきた蓮子とメリーを(メリーの場合、帰るというよりは友人宅にお邪魔したと言う方が正しいのだが)出迎えたのは、蓮子の衣服をアイロン掛けしている霊夢であった。

 

 ちなみに、霊夢の恰好は例の寝間着(洗濯済み)である。

 

 蓮子より『着られそうなやつは好きに着ていい』と言われていたが、こっちの方が着慣れているからと霊夢自身が固辞した……話を戻そう。

 

 唖然とする二人は、「早く閉めないと寒いわよ」霊夢から促されて部屋に入る。荷物をテーブルに置きがてら、しゅっしゅと湯気立つアイロンを見やった二人は、互いの顔を見合わせ……蓮子が、口を開いた。

 

 

「いちおう聞いておくけど、アイロンの使い方は知っていたの?」

「知らないわよ、だってこれ『かでん』とかいうやつでしょ」

「それじゃあ、どうやって?」

「どうやってって、見たら形とかで色々と分かるでしょ。似たようなやつは使ったことあるし……でも、コンセント差したら勝手に熱くなるのは本当に楽だわね。ほら、とりあえず皺になっているやつは全部やったわよ」

「あ、ありがとう……こっちはアイロン一式が有った事すら忘れていたわよ……」

 

 

 ていうか、プロに頼んだみたいに綺麗……そう呟く蓮子たちを尻目に、霊夢は手早くアイロン台やら衣服やらを片付ける。直後、ピーッとブザーが鳴った。ビクッとする二人を他所に、「あ、炊けたようね」足早に二人の脇を通って台所へと向かい……フライパンやら何やらを取り出し、調理を始めた。

 

 

 調理……あれ、台所の、特に火元回りの使い方を教えただろうか? 

 

 

 冷蔵庫の中は一部を除き自由に使って良いとは話したが……小首を傾げる蓮子を他所に、「あのー、霊夢ちゃん。何を作っているの?」メリーが率直に尋ねていた。

 

 

「何って、鮭入り焼き飯よ。冷蔵庫の奥に未開封のやつがあったから、それを使っているの」

「へえ、そうなんだ。でも、何で急に? カップ麺とか、色々手軽なやつもあったでしょ?」

「カップ……あの、お湯を入れればすぐに食べられるやつね。蓮子やメリーには悪いけど、私にとっては毒も同然なのよ。只でさえ少ない霊力を消耗してしまうから」

「れいりょ……ん~、よく分からないけど、霊夢ちゃんが食べられるやつを食べたらいいよ。ところで、それって私たちの分もある?」

「ちゃんと3人分はあるわよ。味噌汁も作ったから、テーブルを置いといてくれないかしら?」

「はーい、了解しました」 

 

 

 手早く調理を進める霊夢と、それを手伝うメリー。料理に関しては二人のはるか下方を飛行する蓮子が手伝える隙間はなく、とりあえずはと着替える為に自室へと向かう。

 

 何気ない違和感に首を傾げつつ、部屋着に着替え終えた蓮子は……自室を出て、ふと、玄関脇に置いてある時計に目を向ける。

 

 それは、半年近く前に近くのスーパーのガラガラで引き当てた時計である。一目で安物と分かるそれは、その見た目通り封を開けてからひと月で壊れ、埃被ったオブジェとなっていた……はずなのだが。

 

 

「……動いている、わよね?」

 

 

 秒針が時を刻まなくなっていたはずのそれが、正常に動いている。裏の電池カバーを開けてみれば……テープを巻いて保管していたはずの電池だ。誰がこれを……考えるまでもない。気になった蓮子は、台所にいるであろう霊夢へと呼びかけ、尋ねた。

 

 

「──壊れていたようだから、直したわよ。余計なお世話なら電池を抜いておいて──え? そんなの、見たらどこが壊れているのかぐらい分かるでしょ。工具の場所はあんたが教えてくれていたし、何となくソレを入れれば動くかなって思ったけど……もしかして、壊れたままかしら?」

 

 

 そしたら、霊夢からの返事がソレであった。

 

 いや、見ただけで分かるって……もしかして、そういう技能をこいつは持っているのだろうか? 

 

 

 最初、蓮子はそう思った。

 

 

 時計自体は大したつくりではなく、少しばかりの知識があれば直せるような状態だったのかもしれない。

 

 そう己を納得させた蓮子は、その違和感をひとまず脇に追いやり良い匂いがする方へと向かった。

 

 

 ……これが、霊夢に対して抱いた最初の違和感であった。

 

 

 これだけなら、霊夢はそういうことが出来るのだろうという程度に結論を出したのだが……その考えは、すぐに改められることとなった。

 

 

 ──次の違和感。

 

 

 その日、霊夢は蓮子の古着を纏い、だぼだぼっとした格好で外出した。講義が休みらしいメリーが、同伴するとのことであった。

 

 霊夢が何処へ向かっているのかを、蓮子は(メリーも)聞かなかった。

 

 霊夢の行動を束縛するつもりはなかったし、そもそも霊夢が何者であるのかを詳しく知らないまま寝泊まりさせているのは、蓮子の方である。

 

 

 まあ……大方、『楽園』とやらを探しに行くのだろう。

 

 

 そう推測していた蓮子は、あえて尋ねるようなことはしなかった。

 

 ただ、人様の迷惑になるようなことをしなければ良いとだけ忠告した後、大学へと向かい……夜になって、愕然とした。

 

 

「……あの、メリーさん、このお金は?」

 

 

 蓮子が帰って来た時、ちょうど霊夢は入浴中であった。

 

 なので、メリーが出迎えたのだが……そのメリーより手渡された15枚の一万円札を前に、蓮子は率直にメリーへと尋ねれば……実に言い辛そうに、メリーは事実を告げた。

 

 

「あの、蓮子が霊夢ちゃんに渡した3000円があったでしょ?」

「ああ、うん。まだ使っていなかったのね」

「そう、それでね、霊夢ちゃんと街中を歩いている時、霊夢ちゃんが突然宝くじ屋の前で立ち止まって、いきなりスクラッチくじを買って、それで……」

「あ、当てたの?」

「うん、一枚買って、一発で。一回で15万円を当てちゃった」

「…………」

「とりあえず、当分の宿代だって」

「…………」

「凄いよね、さすがは素敵な巫女さん」

「……あ、うん、そうね」

 

 

 とりあえず、律儀に居候の代金を用意する辺り、根はやはり良い子なのだろう。

 

 

 そんな事を脳裏で考えつつ、辛うじて……辛うじて、そう返事をするだけで精一杯であった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………さて、そんな蓮子たちの驚愕と戦慄を他所に、当の霊夢はといえば……とりあえずは、順調に回復出来ている現状を良しとしていた。

 

 

 理由が定かではないが、蓮子の部屋には幻想の気配を感じ取れる。そこで、これまで……霊夢にとっては必要最低限の活動を除けばひたすら心を無にして座禅を行い、霊気を整えることが出来た。そのおかげで、多少なり霊力の方も回復することが出来た。

 

 

 そうして、すっかり元気になった霊夢は、蓮子の住まうマンションを離れ……近場の商店街を歩いていた。その恰好は、だぼっとしたジャンパーの……まあ、言ってしまえば蓮子の古着であった。

 

 

 どうして霊夢が蓮子のお古を着ているのかといえば、蓮子の方から『その恰好(襦袢)は目立つから、外を出歩く際は私のを着ろ』と厳命されたからで……霊夢自身も、言われてみたらそうだと納得したからであった。

 

 それに、幻想郷においても襦袢は出歩く際の恰好ではない。どうしても襦袢で出る際は、その上に何かを羽織ってから出るのが常識である。

 

 いくらお洒落に疎く何事もぐうたらかつ暢気な性格の霊夢であるとはいえ、年頃は年頃。恰好に気を回せる余裕が出れば、羞恥心を覚えて当然であった。

 

 

(……不満というわけじゃないけど、これがこっちでの普通の恰好なのかしら……何だか、男物を着せられているみたいで嫌だわ)

 

 

 言葉にも態度にも出さなかったが、それが霊夢の偽りない感想であった。霊夢の感性からすれば、今の恰好もけっこう恥ずかしいと思えてしまう。

 

 それは、蓮子より渡されたジャンパーの下がいわゆるダサT(ダサいTシャツの略)だからではない。それ以前の話であり、霊夢の感性からすればソレは、男の子が着ていそうな代物であったからだった。

 

 

 そう……霊夢は知らなかった。

 

 

 現代では男の体型に合う服や女の体型に合う服とは別に、どちらが着ても何ら問題はないし目立たないタイプの服装というものが存在するということに。

 

 霊夢が暮らしていた幻想郷では、そんなどちらが着ても違和感のない服装などはない。

 

 男物と女物はきっちり区別されていて……7,8つぐらいの童ならばまあ問題はないだろうという程度の違いが、せいぜいだろうか。

 

 ちなみに、霊夢が男物であると判断した理由は、蓮子より渡された服のサイズが大き過ぎたからだろう……まあ、それは致し方ない話である。

 

 首回りから肩が出たり裾を縛っていたりと明らかにサイズ違いではある点を差し引いても、同じ女性とはいえ、蓮子と霊夢ではそもそも体型が違い過ぎる。

 

 単純に大人と子供だけでなく、胸とか……まあ、色々と大きさが異なる。そのうえ、飽食とは言い難い幻想郷で育った霊夢の体格は平均から見ても華奢であり、霊夢に合う服がないのが当たり前……まあ、いい。

 

 

 

 話を戻そう……時刻は、昼過ぎ。

 

 

 

 比較的活気のある商店街なのか、通りには大勢の人々が行き交いしている。何処からともなく漂ってくる匂いは香ばしく、ともすれば食欲を誘われそうになる。

 

 その中を、霊夢は辺りを見回しながら歩く。今朝方、蓮子より『何か有った時の為に持っておきなさい』と言われて渡された小銭入れ(3000円入り)があるが……さて。

 

 

(……ただ闇雲に結界の穴を探しているだけだと、何時まで掛かるか分かったものじゃない。少しばかり、やり方を変えた方がいいわね)

 

 

 極限状態を脱し、体力を回復させ、そのうえで霊力も少しばかり戻ってきた。そして、飢え死にの心配をしなくて済む様になったこともあるのだろう。

 

 けして晴れ晴れとした気分ではない。しかし、先日よりも色々と頭が動いてくれて、考えることが出来るようになっているのを霊夢は自覚していた。

 

 

(この際、霊力の消耗は受け入れましょう。私が私としてある限りは、最低限の霊力は常に生み出している。必要なときに、必要な分だけ霊力を回復する……ひとまず、回復する方法を幾つか見つけておきましょう)

 

 

 故に、霊夢はひとまずの基準を定めた。

 

 

 実際、今の霊夢は幻想郷に居た時に比べて霊力の総量が、だいたい2割程度だ。体力が回復させ、座禅を組んで回復に努めたとはいえ、それでも2割なのだ。おそらく、あの部屋ではそれ以上の回復は見込めない。

 

 その2割とて、今後はどんどん消耗される。新たな手段を見付けなければ、その内、空も満足に飛べなくなるだろう。

 

 そうなれば、幻想郷のように自由な行動は出来なくなるだけでなく、結界操作すら難しくなる。戻れるチャンスを得てもそこに辿り着けないのでは、穴を探す意味がない。

 

 だから、霊夢はこうして(いちおう、幻想郷へと続く結界の穴は探し続けてはいるが)霊力の回復方法を模索するついでに、目的地へと目指して歩いているのであった……そうして、商店街を抜けた後。

 

 

(無難なのは食べ物からだけど、止めておきましょう……今にして思えば、紫の持って来た食材は高価なだけじゃなくて希少なやつだったのね。アレが今、ここにあれば……無い物強請りでしかないわね)

 

 

 一つ、ため息を零して結論を出した。その時点で霊夢は、食べ物による回復は難しいと判断した。

 

 理由は幾つかある。その中でも最大の理由はやはり、得られる霊力が少なすぎるせいだ。予感はしていたが、やはり結果はどんぐりの背比べであった

 

 その中には幾つかコレはという物はあったが、そういうのはだいたい値段が高い。この辺りの物価には詳しくない霊夢の目から見ても、『お高い』というのが分かるぐらいに。

 

 少なくとも、回復手段とするには……懐に厳し過ぎるというか、効率が悪すぎる。

 

 

 ……ちなみに、安いのはだいたい論外だ。

 

 

 見た目には分からないが、何か色々なモノ(霊夢は知らなかったが、いわゆる保存料を始めとした調味料だ)が混ぜられているようだ。

 

 体力維持の為にはこれでもいいが、これは目先に垂らした甘露な毒である。霊力回復の点から考えれば、今後も出来る限り摂取しない方が……と。

 

 

「……ここよね?」

 

 

 目的地へと到着した霊夢は、眼前の光景に目を瞬かせた後……はて、と小首を傾げた。

 

 霊夢が向かっていたのは、蓮子の家から最も近い場所にある、小さい神社であった。

 

 その神社は、スマホのナビにも表示されない寂れた神社である。

 

 本殿まで数メートルしかない境内に散らばる落ち葉の数が少ない辺り、定期的に掃除は成されているようだ。

 

 

(うちの神社より酷い有様だわ)

 

 

 ただ……掃除程度のことしかしていないようで、眼前の神社からは何の神威も感じ取れなかった。

 

 これは駄目かも分からない……そう思いつつ、礼をしてから中に入り、社の前にて手を合わせ……やはり駄目かと霊夢はため息を零した。

 

 

(欠片も神気が残っていない……ここを離れて、けっこうな年月が経っているようね)

 

 

 この様子だと、他へ出向いているというわけではなさそうだ……仕方ない。

 

 大して期待はしていなかったが、全く期待していなかったわけではない。幾分か気落ちしながらも、霊夢は次の神社へと足を進める。

 

 

 とりあえず、日が暮れるまで回り続けよう。

 

 

 そうして、二つ目、三つ目、四つ目、五つ目と、日が暮れるまで労力を注いだ結果は……良いモノではなかった。

 

 一日でいきなり解決するとは思っていなかったが、まさか全部大外れになるとは思っていなくて……正直、落胆の思いを抑えられなかった。

 

 けれども、まだ初日。そう、己に言い聞かせた霊夢は、その翌日も神社めぐりに勤しみ……そうして。

 

 

 

 

 ──あっという間に、月日が過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………大通りを歩く霊夢の傍を、車が通り過ぎてゆく。

 

 

 その度に漂う排気ガスの臭いに、思わず霊夢は顔をしかめる。それでも我慢しきれず咳き込む霊夢を他所に、次から次へと通り過ぎてゆくロービームの光。

 

 

 こればっかりは、未だに慣れる気配がない。

 

 

 蓮子たちより受けた、『住宅街は避けて、極力人の目が入り易い大通りを歩け』という厳命があるから、仕方なく交通量の多い大通りを歩いてはいるが……やはり、辛い。

 

 現代人から見れば『気にし過ぎ』と言われそうだが、霊夢のこれまでを考えれば、そうまで過敏になるのは致し方ない話だ。

 

 何せ、排気ガスとは無縁の、幻想郷の空気の中で育ったのだ。こちらに来てけっこうな日数が経過してはいるが、それでも霊夢にとっては、こっちの空気はガス臭くて堪らない。

 

 

 よくもまあ、こんな酷い臭いの中で平気な顔が出来るモノだわ。

 

 

 これまで何十回と抱いた愚痴を胸中にて零しつつ……堪らず、道路側から離れる。距離にすればたった2メートル程度の違いしかないが、それでも気分的には幾らかマシにはなる。

 

 そうしてから、顔を上げてみれば……己より数十メートル先にて歩いている、己よりも少しばかり年若い子供の後ろ姿が見えた。

 

 

 ……幻想郷とは違い、幻想が否定されたこちらの世界では夜道に子供が歩いていてもそこまで珍しい光景ではない。

 

 

 パッと辺りを見回しただけでも、一人か二人は歩いているのが確認出来る。最初は面食らったが、『え、今時そんなの当たり前でしょ』という蓮子たちの話を聞いて……納得はしている。

 

 他にも、目に付いた点は幾つかある。けれども、それがこっちでは普通であって、己が異端でしかない。己が、間違っているのだ。

 

 そういう細かい所に、ああここは幻想郷ではないのかと思い知らされるような気がして……自然と、霊夢は己の気分が落ち込んでゆくのを自覚した。

 

 

 ……とぼとぼ、と。

 

 

 日も落ちてすっかり暗くなった夜道を歩く。ぶおん、と大型トラックが通り過ぎてゆく。ごほん、と咽た……土地勘の無い場所とはいえ、生来から勘の鋭い霊夢は道を間違えることなく帰路についていた。

 

 

 けれども……その足取りは御世辞にも力強いとは言い難い。

 

 

 今日も今日とて、一日を通して歩きっぱなしだったから疲れているのもあるのだろう。しかし、そんな事よりもずっと霊夢の肩に圧し掛かっているのは……落胆の二文字であった。

 

 

 ……いや、正確には少しばかり違う。

 

 

 本当は落胆ではなく、想定通り。というのも、薄々ではあるが察してはいたのだ。ここにはもう、己に『力』を貸してくれる神霊などいないということに。

 

 

 ここは……幻想を否定した代わりにそれ以外が発展した世界だ。

 

 

 当然、人々の信仰によって文字通りに存在を支えられている神々が、何時までもこんな場所に留まっているわけがない。

 

 有名な神々の元に参るか、留まって消滅するか……あるいは、幻想郷へと逃れて来るか。世知辛い話だが、神々とて必死なのだ。

 

 何せ、幻想郷に住まう神々の幾らかは、こちらから流れてきたものたちだ。あの八坂ですら、消滅の危機に瀕して幻想郷に移住してきたぐらいで……如何にこちらでは幻想が存在していないかが、窺い知れよう。

 

 故に……『勘』を使うまでもなく、霊夢とて分かってはいたのだ。いくら足を棒にして捜し歩いたとしても、己の望む結果は存在していないということに。

 

 

 それならば、もっと大きな有名所に……いや、無理だろう。内心にて、霊夢は首を横に振る。

 

 

 これまで小さな神社等を回ったのは、何も距離が近しいからというだけが理由ではない。こちらにも名の知れた大御所相手では、さすがの霊夢も門前払いが関の山だと分かっているからだ。

 

 

 本来、神様というのは博愛であり贔屓はしない。と、同時に、だいたい気位が高いのだ。

 

 

 なので、血の繋がる身内や所縁(ゆかり)が有ればまだしも、巫女とはいえ自分たちとは何の関係もない小娘がお願いしたところで、話すら聞いてはくれないだろう。

 

 幻想郷に住まう神々とて、それは同じだ。人間に対して気楽な態度で接する神だっているには居るが、それはあの楽園特有の暢気な空気に身を浸したからであって、だいたいは気位が高いのだ。

 

 それを知っているからこそ、霊夢は比較的気位の低い(つまり、背に腹は代えられない状況の神々)やつに狙いを定め、お供えやら何やらで煽てて『力』を分けて貰おうと考えていたが……それも、駄目だった。

 

 

 そう、駄目だった……文字通り、万策が尽きた。八方ふさがり、詰みになり掛けているのを霊夢は自覚し始めていた。

 

 

 けれども、霊夢はそれを認めたくはなかった。認めたら……もう、霊夢に出来ることは何もなくなるから。

 

 

 幻想郷へ帰る手段は見つからず、霊力を回復するのも頭打ち、残してきたみんなの行方も分からず、そもそもの此度の『異変』は何一つ解決しないまま……こうなってしまった。

 

 

 ……敗北だ。完全な、これ以上ないぐらいの敗北。そう、霊夢は感じずにはいられなかった。

 

 

 これ以上、何をどうしたらいいのか……霊夢は分からなくなっていた。分からないけれども、黙って見て見ぬふりのまま決着をつけたくはない。

 

 だからこそ、無駄に終わると『勘』が訴えてきてもなお、霊夢はその無駄に執着した。そうしなければ、霊夢は……今度こそ、己を見失ってしまうと思ったからだった。

 

 

「……ここは?」

 

 

 と、不意に。ちりり、と。己の中にある『勘』が疼いたのを感じ取った霊夢は足を止めた。気づけば、排気ガスの臭いは幾らかマシになっていた。

 

 辺りを見回せば、傍には公演がある。見覚えのあるソレは、寝泊まりしている家から少しばかり離れた場所にある公園であり、何度か傍を通り過ぎた覚えがあった。

 

 

 ……中に入ってみようと思った。特に理由などない。ただ、そうした方が良いと思ったからだった。

 

 

 柵一つない公園の中は、外から見ても分かる通りの広さしかなかった。噴水等という洒落た物はなくて、有るのはベンチとブランコと滑り台……後は、小さい柵で囲われた、これまた小さい砂場が一つであった。

 

 時刻はそれほど遅くはない(霊夢の感覚では、夜も更けたという時間帯だが)が、遊び回るには小さく、設置された遊具で遊ぶ年代の子供には遅すぎるからだろう。

 

 後はまあ、時期が悪いのもそうだが……当然という言い方も変な話だが、公園の中に人気は無かった。

 

 その、人気が無い静かな園内へと足を進め……砂埃が掛かったベンチに腰を下ろす。ぽつん、と照らしている園内唯一の外灯の光が、霊夢の頭から降り注いでいた。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………静かだった。本当に、静かだと霊夢は思った。

 

 

 

 その静けさの中で、緩やかに霊夢は目を瞑る。合わせて、深呼吸をする。己の内に貯蔵してある霊力を循環させ、丹田を介して全身の隅々へと行き渡らせる。

 

 すると……ふわりと、己の身体が浮き上がるような感覚を、霊夢は覚える。実際に浮き上がったわけではない。ただ、そんな感覚を覚えるだけである。

 

 行うのは……探知の術。幻想郷へと通じる穴を探す為の術。霊夢がこの地に降り立ったその時から、幾度となく使用してきた、あの術だ。

 

 霊夢自身を中心にして波紋のように広がる力。髪が、僅かに逆立つ。ふわりふわりと、履いているスカートの裾も舞う。ふわりふわりと、心が飛んでゆく。

 

 ここは、幻想郷ではない。だから、幻想郷の時にあった爽快感は欠片もない。有るのは、肌にへばり付く何とも言えない感覚だけ。

 

 けれども、同じ空の下であるのは確かなのだろう。

 

 何もかもが違うけれども、どこか……そう、ほんの僅かな部分だけれども、似ている部分がある気がしてならない。どうしてかは分からないけれども、霊夢はそう思えてならなかった。

 

 

 ……そうして、探し続けること、5分ほど。

 

 

 霊力の残量にも気を配らない以上、長くは出来ない。何時もと同じくまるで手応えを感じなかったことに溜息を零しつつ、霊夢は巡らせていた霊力の流れを抑え……おもむろに目を開けた。

 

 

「あ、起きた」

 

 

 その瞬間──霊夢の眼前に現れたのは。

 

 

「──ま、りさ?」

「……あ? あんた誰? 何で私の事を知ってんの?」

 

 

 興味深そうにこちらを見つめていたらしい少女の……見覚えが有り過ぎて、まるで当人が下手くそな変装をしているかのような少女の……訝しむ視線であった。

 

 

 

 ……。

 

 

 

 ……。

 

 

 

 …………おそらく、数回に渡って声を掛けられ続けたのだろう。

 

 

 

 

「お、おい、大丈夫か?」

「──え、あ、ああ、うん」

 

 

 肩に手を掛けられ、揺さぶられたことで、ようやく。驚愕のあまり停止していた頭が動き出し、我に返った霊夢は……辛うじて、そう答えるので精一杯であった。

 

 大丈夫、大丈夫……そう己に言い聞かせ、あるいは眼前の少女に言い聞かせながら、肩に乗せられた少女の手を外す。

 

 少女は、特に抵抗はしなかった。まあ、当然だろう。

 

 むしろ、わざわざ安否を気遣うあたり、眼前の少女はお人好しな部類に属する……ああ、いや、そんな事よりも、だ。

 

 

「……で、あんた誰?」

 

 

 眼前の少女……曖昧な言い回しは止めよう。霊夢の友人であり幼馴染でもある霧雨魔理沙に良く似た……もはや生き写しといっても過言ではない少女の全身に視線を向ける。

 

 その少女は、顔立ちや声色や背丈はもちろん、雰囲気までもが魔理沙そっくりであった……とはいえ、何もかもが霊夢の記憶の中にある彼女のままではない。

 

 

 パッと見た限りでは、身に纏っている衣服が違う。

 

 

 妖怪や大人にナメられないよう男っぽい話し方を意識する彼女だが、その性根は霊夢よりもずっと乙女である。眼前の少女のような、男物と思わしきズボンなどは基本的に履かない。

 

 帽子を被って分厚いジャンパーを身に纏ってはいるが、違う。霊夢の知る魔理沙は、意外と好みが激しく拘りも強い。特に、こういった外から一番見られやすい部分に関しては。

 

 けれども……そんな事よりも、何よりも。霊夢が『彼女は魔理沙ではない』と判断した理由は……霊夢自身にも上手く説明の出来ない感覚で。

 

 

「……初めまして、私は博麗霊夢よ」

 

 

 それは『勘』でもなければ、思いつきでもない。ただ、何となくではあるが……眼前の少女は、己の知る彼女とは違うのだという感覚であった。

 

 

「はくれい……れいむ。変な名前だな……で、何であんたは私の名を知っているんだ?」

「特に大した理由じゃないの。あんたがあまりにも私の知り合いに似ていたからよ。まるで生き写しだわ」

「へえ、それは凄い偶然だな。それで、名前の理由は?」

「それも凄い偶然ってことでしょ」

「ほうほう、そうかい。たまたま何時もとは違う帰り道を通っていて、たまたま名前も顔も瓜二つのやつがいたってわけか」

「偶然が二回や三回続いたって、偶然は偶然でしょ。むしろ、その方がお得なんだから喜びなさいよ」

「ははは、こやつめ、中々言いよる……お前、それで私が納得するとでも──っ!?」

 

 

 そこまで少女が口走った辺りで、止まった。

 

 いったいどうしたのかと首を傾げれば、「お前……気付いていないのか?」困惑した様子の少女が……おもむろにこちらを指差す。

 

 促されるがまま、霊夢は指差された己の頬に手を当て……指先を伝わる滴の感触に、えっ、と目を瞬かせた。

 

 

「……いきなりどうした? 何で泣いているんだ?」

 

 

 尋ねられて、霊夢はようやく気付いた。自身の頬を伝う……瞳より溢れ出す幾度もの涙の存在に。

 

 

「……さあ、何でかしら。ただ、寂しくなっただけかもね」

「……よく分からんが、元気出せよ」

 

 

 迂闊に首を突っ込んではいけない、ワケ有りと判断したのだろう。

 

 それ以上、少女は踏み込むこともなく、「じゃあな」と霊夢に背を向け──た、ところで。

 

 

「──そうだ。慰めってわけじゃないけど、これやるよ。景品で貰ったけど、私は基本的に飲まないからさ」

 

 

 あ、そうそう。そんな感じで、少女は霊夢に何かを放る。反射的に受け取った霊夢は「……何これ?」涙で潤んだ眼差しをソレに向けた。

 

 

「何って、缶コーヒーだよ。何だお前、見た事ないのか?」

「……西洋文化には疎いのよ。興味もないしね」

「西洋って……もしかして御令嬢ってやつ? 事情は知らんが、家出したんなら事件に巻き込まれる前に帰りなよ」

 

 

 そう言うと、今度こそ少女は……魔理沙に良く似ているどころか生き写しといっても過言ではない少女は、一度も振り返ることなく……夜の向こうへと消えて行った。

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………しばしの間、霊夢は受け取った缶コーヒーを黙って見つめていた。ぽたり、と、滴が缶の側面を滑って落ちた。

 

 

 

 それは少しばかり冷たいと判断される程度の温もりであった。景品という言葉が嘘ではないのが、察せられる冷たさだった。

 

 

(……ああ、なるほど)

 

 

 その冷たさを、それよりも更に冷えている指先でなぞりながら……霊夢は、次々に溢れ出す涙を抑える事が出来なかった。

 

 

 ……何故、魔理沙に良く似た少女がいたのか。

 

 

 ワケが分からなかった……そう、霊夢は言いたかった。けれども、霊夢にはそれが出来なかった。そこまで、霊夢は目を逸らす勇気がなかったから。

 

 どうして泣いているのか……その事に思いを馳せる必要はなかった。己の『勘』が、その答えを瞬時に教えてくれたから。

 

 

(私は……結局のところ、間に合わなかったのね)

 

 

 そして、『勘』が導き出した答えを、言葉に言い表すのであれば。

 

 

(博麗の巫女は消え去り、今の私はただの霊夢……博麗霊夢、ただそれだけになってしまったのね)

 

 

 心のどこかで、楽観視していたのだろう。レミリアが残した、『己の死が博麗大結界の崩壊を招く』という言葉に。

 

 己さえ死ななければ、博麗大結界は崩壊しない。己さえ無事なら、幻想郷そのものは大丈夫だと……高を括っていた。

 

 だが、そうじゃなかった。

 

 博麗霊夢は、敗北した。ぐずぐず手をこまねいている間に此度の異変解決は失敗に終わり、幻想郷は失われた。

 

 

 あの、魔理沙に良く似た少女がその証拠。あの魔理沙は、己の知る魔理沙ではない。あの少女は、幻想郷ではなく、こちらの世界で生まれて育った場合の魔理沙だ。

 

 それすなわち、幻想郷とこちらの世界を隔てる結界……博麗大結界が失われたということ。

 

 幻想と現実の境が消失し、もはや幻想は幻想足り得なくなった。現実の持つ力は幻想とは比べ物にならず、幻想は現実に飲み込まれ……現実の一つとして、再構成された。

 

 

 それが、あの魔理沙だ。己の知らない、己の中にはいない……魔理沙だ。

 

 

 証拠など無い。だが、分かるのだ。霊夢には、分かってしまう。アレは魔理沙であって魔理沙ではない。己の知る魔理沙とは異なる世界を生きてきた、魔理沙であるということが。

 

 

 それは……おそらく魔理沙だけではない。

 

 

 全てがそうではないだろうけれども、何らかの形でこちらに再構成されているはずだ。少なくとも、人間であったならば……魔理沙のように、再構成されているはず……だが、しかし。

 

 

(……生まれたその時より妖怪だったやつは、再構成もされないのでしょうね)

 

 

 認めたくはないが、それは非常に可能性の高い推測……ぽろり、と。新たな涙が零れ出る……本当に、認めたくない現実であった。

 

 霊夢の脳裏を過るのは……これまでに出会ってきた人々と……妖怪たち。

 

 もはや、己が育ったあの世界は……この世の何処にも存在しない。己が愛したあの場所はもう無いのだという、認めたくない現実であった。

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………そうして、そのままどれぐらいの間、ベンチに腰を下ろしていた事だろうか。少なくとも、霊夢自身の体感では、数分程度の感覚であった。

 

 

「──この、家出娘。あんた、こんな時間まで何やっているのよ」

「……蓮子?」

「心配かけさせるんじゃないわよ。出て行くなら出て行くって書置きしてから行きなさいな」

 

 

 なので、掛けられた声に顔を上げた時、そこに立っていた蓮子の胡乱げな視線の意味が、霊夢には分からなかった。

 

 

 とはいえ、その視線の意味はすぐに分かった。

 

 

 単に、いちおうの門限である6時を1時間近くも過ぎていたからだ。ああ、それは悪い事をしたなと霊夢は素直に謝罪した。

 

 

 蓮子も、そこまでは怒っていなかったのだろう。「小生意気なあんたが素直に頭を下げるとはねえ……」そう呟きながら、蓮子はため息と共に霊夢の隣に腰を下ろした。

 

 

 少しばかりの間を置いて、「──あ、もしもし」蓮子は取り出したスマホで何処ぞへと連絡を取り始めた……考えるまでもなく、相手はメリーだろう。

 

 霊夢は興味を覚えていないから会話の中身を知ろうとはしなかったが、通話の向こうにいるメリーはかなりの興奮状態にあるのだけは分かる。

 

 何せ、スマホを耳から少しばかり離した状態で会話をしているだけでなく、蓮子の返事がおざなりになっているからだ。

 

 けれども、最低限の会話は通じているのだろう。しばしの間相槌を繰り返していた蓮子だが、「それじゃあ、準備をよろしく~」最後にそう答えてから、さっさと通話を切り上げてしまった。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………それから、大きく蓮子はため息を零して。そのまま、霊夢に対しては何も言わなかった。

 

 

 しかし、それは無関心からくる沈黙ではない。その証拠に、蓮子の視線はちらちらと霊夢へと向けられている……当の霊夢は、あえて無視しているけれども。

 

 

 傍からみれば、それは何とも奇妙な光景に映ったことだろう。

 

 

 共に、街中でも中々見掛けないレベルの美貌だ。特に、霊夢の方は桁が違う。蓮子も十分過ぎる美人ではあるが、霊夢に比べたら……という具合だから、その程が伺えよう。

 

 そんな二人が、何をするわけでもなく人気のないベンチに並んで腰を下ろしている。

 

 なるほど、非常に奇妙な光景だ。傍目にも分かるぐらいに張り詰めた緊張感と、どう声を掛ければいいのか分からず百面相になっている蓮子の姿が、それを後押し……と、その時であった。

 

 

「──ああもう無理。もう我慢出来ない。この際だから、はっきり言わせてもらうわ」

 

 

 ぱしん、と。自らの両頬を叩いて気合を入れた蓮子が立ち上がる。

 

 突然の事に、きょとん、としている霊夢を他所に、蓮子は大きく深呼吸をすると、おもむろに霊夢の前に立って──。

 

 

「闘魂注入!」

 

 

 ──有無を言わさず、ぱしん、と霊夢の頬を張った。

 

 

「──っ!?」

 

 

 これには、さすがの霊夢も思わず涙を止めたぐらいに驚き、目を見開いた。困惑のあまり、頬を叩かれた事による怒りすら湧かなかった。

 

 

「あんた、もうほんとメソメソめそめそと、鬱陶しいのよ! 助けて欲しいなら助けてって言いなさい! 1人で抱え込むなら、最後まで抱え込みなさいよ!」

「…………」

「あんた、多分だけど、他の人にも言われたことあるでしょ。苦しい時は苦しいって話せって。あのね、私がこの世で最も嫌いなのは無知な馬鹿じゃなくて、『察してちょうだい』っていう大馬鹿野郎なのよ」

「──っ!」

 

 

 いや、というより……蓮子のその言葉が、あまりに図星を差され過ぎて……怒る余裕すらなくなっていたのが正しかった。

 

 

「……そりゃあ、あんたと私の付き合いなんて、そう長いわけじゃないわよ」

 

 

 そんな、霊夢の肩に乗せられたのは……蓮子の両手。目を瞬かせる霊夢の目に、グイッと蓮子は顔を近づけた。

 

 

「でもね、何となくだけど分かるの。あんたは、悪い子じゃない。ううん、むしろ良い子よ。口は悪いし態度も悪いし横柄で暢気でぐうたらな性格しているけど、根は凄く優しくて責任感のある子だと私は思っている」

 

 

 だからこそ……そう、蓮子は言葉を続けた。

 

 

「こっちは歯痒いのよ。あんたは何かに思い悩んでいる。でも、けして相談はしない。これは自分の役目だから、自分の仕事だからと線引きして、それをおくびにも出さない……それが、私には歯痒いのよ」

「…………それは」

「みなまで言わなくていい、言いたい事は分かるわよ。確かに、相談されたって私に出来る事なんて高が知れている。というか、ほぼ出来ないことしかないのも分かっている……でもね」

 

 

 ──話を聞くだけなら。あんたの悩みにヒントを与えるキッカケぐらいになら。

 

 

「それぐらいなら、私にも出来る。メリーは私よりもずっとドライな面もあるけど、無下にはしない。あいつなりのアドバイスはしてくれる。それはたぶん……あんたの、霊夢のお友達も、そうだったんじゃなくて?」

「──っ!」

「霊夢……少しは周りを頼りなさい。私も通った道だから少しは分かる。あんたぐらいの年頃の子に、周りを頼れって言われて、ハイ分かりましたっていうのはプライドが許さないっていうのも分かる」

 

 

 その言葉と共に、グイッと……肩に乗せられた手が、霊夢の頬を濡らしている涙を拭った。

 

 

「でもね、ただ見てやるしか出来ないこっちの身にもなりなさい。あんたがどう思っていようが、こっちはもう情が湧いちゃっているんだから」

「…………」

 

 

 その言葉に対して……霊夢はしばしの間、何も答えられなかった。

 

 

 もしかしたら、初めてかもしれない。

 

 

 異変の為だとか何だとか理由を付けず、ただ心に圧し掛かった苦しみを他者に見せようとしているのは。

 

 その相手が、知り合って一ヵ月も経っていない人物なのは……まあ、あれだ。まだそこまで仲良くなっていなかったから、なのだろう。

 

 

 ……まあ、つまるところは、だ。

 

 

 歴代最強の博麗の巫女、『楽園の素敵で暢気な巫女』の異名を持つ博麗霊夢という名の少女は……何てことはない。

 

 

 最後の最後にきて、ようやく。

 

 

 二進も三進も行かなくなってボロボロに涙を零し始めてからようやく、周りに相談し始めるぐらいの……大そう頑固な意地っ張りなわけであって。

 

 

「……相談しても、いいの?」

「むしろ、霊夢は一人で抱え込み過ぎなのよ」

 

 

 辛うじて、そう答えただけでも……霊夢を良く知る者からすれば、大そう驚かれたであろう瞬間であった。

 

 

 

 




次回、説明会というか、ようやく順序だてて考えてくれるブレインの本領発揮かな

原作設定見る限りだと、宇佐美蓮子ってめちゃくちゃ頭良い感じなんだよね・・・






ちなみに、気づいているかな
既に、レミリアが予知した運命のレールから霊夢が外れているということに・・・


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冬の章:その3

今回の話で、冬の章が終了


 部屋の中(つまり、蓮子の住まうマンション)は、まったりした空気が満ちていた。

 

 それは何気なく点けっぱなしになっているテレビからのBGMもそうだし、空腹が満たされた事による満足感も関係している。

 

 

 しかし、何よりも暢気な空気を生み出しているのは他でもない、博麗霊夢の存在であった。

 

 

 というのも、霊夢自身は気付いてはいなかったが、どうやら霊夢は知らず知らずのうちに張り詰めた緊張感を周囲に発していたらしい。

 

 いや、それは緊張感というよりは、焦燥感という言葉が近しいのかもしれない。

 

 

 はっきり言えば、霊夢は焦っていたのだ。当人は落ち着いて異変解決に臨んでいるつもりではあったが、外からはそう見えなかったようだ。

 

 

 てきぱきと家事をこなしてはいるが、何処となく落ち着きがなく、ともすれば視線が一定しない。

 

 考え込んでいるかと思えば気難しそうに溜息を吐き、次いでは空元気なのが丸わかりな仕草で鼻歌を歌い始め……まあ、そんな感じだ。

 

 

 だからこそ、その日、その夜。

 

 

 晩飯の用意を済ませて待っていたメリーから「あ、今日は肩の力が抜けているのね」と指摘されて、初めて己が如何に張り詰めていたのかを理解した霊夢は。

 

 

「いや、だからって、気を抜き過ぎじゃないの?」

「う~ん、もしかしたら、コレが素なのかもしれないわね」

 

 

 頬を引き攣らせている蓮子と、微笑みながらずずずとお茶を啜るメリーの視線を他所に……ソファーにごろんと横になってだらけていた。

 

 そう……傍からみれば、今の霊夢は此度の異変が起こる前には日常的な光景であった、暢気なぐうたら巫女、そのままであった。

 

 用意された晩飯を行儀良く(これに関しては蓮子とメリーの両名が、食べ方が上手と感心している)平らげ、率先して後片付けを終えた後。

 

 相談があるという言葉から始まった、博麗霊夢が今に至るまでの経緯……霊夢自身が大怪我を負ってから今に至るまでの、おおよそ一年にも達するであろう、長い話。

 

 その中身は、おおよそ現実的な話ではなかった。それは何も、幻想郷がどうとか妖怪がどうとか、そういう意味だけでの話ではない。

 

 

 有り体にいえば、荒唐無稽なのだ。

 

 

 霊夢の言い回しは非常に分かりやすく、理解はしやすかった。だが、それでもなお全容が見えない。まるで全体に薄らと霧が掛かっているかのように、点と点が繋がらない。

 

 

 最初は、霊夢の立場というか、霊夢が陥っていた状況に蓮子もメリーも深く同情した。

 

 

 突然、生死の境を行き来する大怪我を負ったかと思えば、巫女としての責務に追われ、犯人を捕まえようと思っても次から次へと問題が生じて先に進めない。

 

 相談しようにも、一年に渡って霊夢を追い詰め続けてきたと思われる『岩倉玲音』という名の少女の妨害によって、霊夢を除けば古明地こいしという妖怪少女以外の協力は得られない。

 

 そのうえ、只でさえ思うように動けないというのに邪魔ばかりがどんどん積もり積もって……終いには幻想郷からも放り出され、ホームレス状態で十数日……そして、今だ。

 

 

 なるほど、考えれば考えるほど波乱万丈だ。仮に自分たちが霊夢の立場だったなら、早々にギブアップして白旗を挙げていたであろう状況だ。

 

 

 だからこそ、蓮子とメリーは素直に霊夢に同情した……ちなみに、『岩倉玲音』の名は蓮子もメリーも忘れはしなかった。

 

 理由は、定かではない。ここが幻想郷ではないから、『岩倉玲音』の影響が及ばないからなのかもしれないが……いや、話を戻そう。

 

 とにかく、そんな話をソファーで暢気にだらけながら語られるのだ。『疲れるから、横になるわね』と言いながら……そりゃあ話を聞くとは言ったが、それでもこう……蓮子たちだけでなく、だいたいの人は思うだろう。

 

 

 ──お前、神経がワイヤーか何かで出来ているのか……と。

 

 

 ギャップどころか、もう別人と判断されても何ら不思議ではない。少なくとも、短い間とはいえ寝食を共にした蓮子(次いで、メリーも)は、思った。

 

 

 ──こいつ、小一時間ぐらい前までは泣いていたよな……と。

 

 

 開き直っているようには見えない。メリーが先ほど評したように、肩の力が抜けた……つまり、これが博麗霊夢の本来の性格というやつなのだろう。

 

 

「……あんたも大変だったのね」

「まあ、それなりには大変だったわよ」

 

 

 とりあえず、テレビに目を向けながらも返事だけはしっかりする辺り、完全に気が抜けているわけではないのが分かった……ので。

 

 

「それで、あんたはどうしたいの?」

「決着をつける」

「……即答ね。復讐のつもりなら、覚悟をしないと駄目よ」

 

 

 間髪入れずの返答に、蓮子は率直に尋ねた。

 

 霊夢の説明を聞く限りでは、もう霊夢が守ろうとしていた幻想郷は存在していない。言うなれば、ここから先は蛇足……BADエンドを迎えた後なのだ。

 

 

 ──全て、終わってしまった。

 

 

 それは、霊夢も口にしていた。霊夢自身が、認めてしまった。幻想郷は消え、霊夢の友人たちはこちらの世界の住人となり、霊夢の事は欠片も覚えていない。

 

 

 もはや、幻想郷が有った事を知っているのは霊夢のみ。

 

 

 そんな状況になってもまだ、戦うつもりなのか。それをやったところで、霊夢に残るモノは何も無い。これ以上は、何をやっても徒労に終わるだけではないか。

 

 

「復讐なんて私の柄じゃないわ」

 

 

 そう思って尋ねてみたのだが、霊夢の返答は、蓮子が抱いていた予想とは異なっていた。

 

 

「……それじゃあ、どうして?」

「博麗の巫女としての、最後の意地よ」

「その、幻想郷とやらは無くなってしまっているのに?」

「負けっぱなしは性に合わないのよ。それに、やり掛けた仕事を放って置くのも嫌なの」

 

 

 そう答えた霊夢の目には、少しばかりの諦観と……僅かな光が込められているように蓮子には見えた。

 

 ……ただ、寝転んだ体勢で凄まれても……まあ、それが博麗霊夢なのだろう。

 

 

「──とりあえず、経緯を聞いたうえで思ったことを言っていいかしら」

「もちろん、いいわよ」

 

 

 この子はもう、覚悟を固めた。ならば、いちいち気にするだけ無駄だな。

 

 そう判断した蓮子は、さっさと気持ちを切り替えて、霊夢が語ったこれまでの話を頭の中で簡単に纏める。次いで、思考を始め……ふむ、と頷いてから。

 

 

「……あんた、何でもかんでも直感で物事を決める方でしょ。そんで、そもそも情報を一つ一つ整理して考えるのが嫌いな性質……違うかしら?」

 

 

 まず、最初に思い浮かんだ事を訪ねた。いや、それは尋ねたというよりは、確認というか指摘という意味合いが強い口調であった。

 

 

「……それがどうかしたの?」

 

 

 霊夢も、実は自覚していたというか、思うところがあったのだろう。蓮子の指摘を否定するわけでもなければ肯定するわけでもなく、逆に問い掛けた。

 

 それが言外の肯定であるのは、霊夢に限らずこの場の誰もが理解し……あ、いや、「この芸人きらーい」一人マイペースにテレビのチャンネルを切り替えているメリー以外は……まあいい。

 

 

「良いか悪いかは置いといて、まず私が思ったのは……そもそも、『岩倉玲音』が諸悪の根源なのかってことよ」

「それは──」

「分かっている、それはあんたの御大層な『勘』が、『岩倉玲音』が全てにおいて関与していると判断した……それは私もそう思う。でも、それだけじゃない」

 

 

 むくりと身体を起こした霊夢を制するように、蓮子は掌を霊夢に向けた。

 

 

「否定しているわけじゃない。むしろ、此度の根源は『岩倉玲音』であるのは間違いではない。そいつが何を考えてそうしたのかは別として、その点については私も同意見よ」

 

 

 けれども……そう言葉を続けた蓮子は、テレビを見ているメリーの肩を叩く。すると何かを察したのか、立ち上がって押入れの方へと向かい……何かを引っ張り出す。

 

 

「でもね、私にはどうにも腑に落ちない点が幾つかあるのよ。それをふまえて、これまであんたに行われてきた数々の助言から推測する限り……私の仮説は、これ」

 

 

 はい、と。メリーより手渡されたのは……大きなスケッチブックであった。それをぱらりと開いた蓮子は、同じく手渡されたマジックペンをきゅきゅっと走らせると。

 

 

「『岩倉玲音が原因であるのは間違いないが、そうなる為の引き金(トリガー)が別に存在している』。そう、これが私の現時点での仮説よ」

 

 

 大きく記したその仮説を、霊夢に見えるように向きを変えて見せた。

 

 

「……つまり、『岩倉玲音』はある意味では利用されているだけで、黒幕は他にもいるってわけ?」

 

 

 それを目にした霊夢はしばしの間、記された一文に目を瞬かせながら何度も目を通した後……そう、ぽつりと零した。

 

 

「あくまで可能性の話よ、いきなり結論を出しては駄目。これから要点を整理していくんだから……ていうか、霊夢の『勘』ではそういう感じではなさそうなのでしょう?」

「まあ、そうね。あくまで『勘』だけど、利用されているっていうのとは少し違う気がするわね」

「黒幕っていうものでもないし、利用されているわけでもない。そして、『少し違う』とあんたは思った……じゃあ、一方ではなく、両方が利用し合っている場合は?」

「……それも、少し違う気がする」

 

 

 蓮子の持論を前に、特に霊夢は驚かなかった。理論を立てて考える性質ではないと指摘されたのは別としても、全く考えないわけではない。

 

 

 ……霊夢とて、此度の異変が『岩倉玲音』による単独犯ではない可能性も、当然ながら考えていた。

 

 

 何せ、記憶だけでなく物質の改変を幻想郷の全てに行うのだ。それも、一般人だけではない。名のある実力者……すなわち、その中には妖怪や神々すらも含まれていたからだ。

 

 

 ──というのも、だ。

 

 

 肉体に依存する人間とは異なり、妖怪や神々というものは精神……目に見えない不可思議な力、はっきり言い直せば、人間が生み出す様々な感情によってその存在を形作られている。

 

 故に、その精神構造は人間とは大きく異なる。何せ、父が居て母が居て、遺伝子を繋いで産み落とされる人間とは違い、そういた存在というのはある日突然生まれ、ある日突然……消え去る定めなのだ。

 

 そんな存在だから、人間に比べて精神操作……特に、記憶等への改変には非常に強い耐性を持っている。だからこそ、霊夢も『岩倉玲音』以外にも此度の異変に関与している協力者の事を考えはした。

 

 

 ……だが、仮に『岩倉玲音』に加担している協力者がいるとして、だ。

 

 

 いったい、その協力者の目的は何なのだろうか。何故、『岩倉玲音』に力を貸す必要があるのだろうか。あるいは、『岩倉玲音』はそいつと協力しているのか。

 

 

 それが全く思いつかなかったし、何よりも『勘』が違うのだと訴えていたから、霊夢は協力者がいるという仮説を排除した。

 

 何せ、双方が、居るのか分からない協力者か、あるいは『岩倉玲音』自身が、幻想郷の全てに影響を及ぼすような能力を持つ存在だ。

 

 見方を考えれば、双方はわざわざ協力し合う必要などないのだ。

 

 何故なら、お互いが同程度の実力ならば、仲違いの危険性がある。片方に実力が傾いているのならば、わざわざお荷物を抱える必要がないからだ。

 

 

「でも、『岩倉玲音』が関与しているのは確かよ。それだけは、最初から一貫して私の『勘』がそう言っているわ……たとえ、皆が違うと話していても、私はアイツが鍵を握っていると思っている」

「ええ、そうね。あんたから聞いた、『岩倉玲音』について語った者たちの証言全てが『岩倉玲音の仕業ではない』と口を揃えた。けれども、『岩倉玲音』は関与していないとは誰も言わなかった以上、その子が関与しているのは確実と思っていい……さて、そのうえで、よ」

 

 

 きゅきゅっ、と。サインペンがスケッチブックの紙面を滑り……どん、と新たに記したソレを、霊夢へと見せた。

 

 

「『そもそも、『岩倉玲音』とは何者で、何が目的なのか』……これが重要になってくるわね」

「……それについては、ずーっと調べ続けてきたんだけれど」

「調べ方が悪いわ。いきなり本丸を攻めて黒幕にズドンなんて、そんな漫画みたいな……ああ、あんたには『勘』なんていうオカルトパワーが有ったわね。そりゃあ、見付けられないわけだわ」

「い、今まではそれで上手くいったのよ! ていうか、それが分からないから私が苦労してきたんでしょうが!」

 

 

 少しばかり頬を染めて吼える霊夢に、「どうどう、落ち着きなさいな」蓮子は苦笑しながら話を進めた。

 

 

「さて、かの堅牢な大阪城は堀を埋められて攻略された。それと同じく、本丸を攻めるにはまず、その堅牢な防御を一つ一つ崩していくしかないわけよ」

「……で?」

「将を落とすなら馬が先。そうね……とりあえず、証言の中にあった固有名詞と思われるモノから攻略して行くとしますか」

 

 

 きゅきゅっと、スケッチブックに記されたのは……『ワイヤード』という単語であった。

 

 

「それが、何よ」

「これ、いわゆるIT用語っていうやつでね。『インターネット接続環境にある人々』というのを差す言葉らしいわ」

「……なに、その、あいてぃようご、っていうのは?」

「そういう言葉があるってだけよ。それでね、興味深いのは、この『ワイヤード』が持つ本来の意味である『繋がる』、『繋がれたもの』……そう、あんたの友達が残した証言の方ね」

 

 

 きゅきゅきゅっ、と。紙面の上に新たに記されたのは、『ワイヤードとは?』の一文であった。

 

 

「証言が真実であるならば、『ワイヤード』と呼ばれる世界が、この世界には存在していることになる。けれども、少なくとも私はそんな世界があることは知らない。あくまで、数ある用語の一つとして『ワイヤード』というモノが存在しているというだけ」

「……あいつらが嘘をついていたってこと?」

「いえ、違うわ。むしろ、証言の多さから考えれば逆よ。本当にあると考えるべきよ、『ワイヤード』と呼ばれる薄っぺらく広大な世界が……でも、私が気になるのは存在の有無じゃない。むしろ、本来の言葉の、その意味と……ああ、違う、そうじゃないわね」

 

 

 そこまで話した辺りで、蓮子は自らの頭を叩いた。そうしてから、絡まり始めた思考を解き解すかのように、大きく息を吐いた。

 

 

「……そうね、順を追って、まずは各々の証言を纏めましょう。違うと思ったら、その都度修正するから」

『ワイヤード』の文字の横に箇条書きで記される。それは、名前であった。

「まずは、古明地さとりという少女が残した証言」

 

 

『岩倉玲音はこの世界にはいない』 

 

 ← 『この世界』がどの世界を差すのかは不明。可能性としては、『幻想郷にはいない』というのが高い。

 

 

『岩倉玲音は私たちの中にいる』

 

 ← 身体の中ではなく、もっと奥底(抽象的?)の無意識の海辺(この部分は何かの比喩?)にいる? 

 

 

『岩倉玲音は人の数だけ存在する』

 

 ← 心の数という言い回しから察するに、もっと多い? もしかしたら、特定の共通項を持つ者が『岩倉玲音』と名乗っている? 

 

 

『岩倉玲音に害意や敵意はない』

 

 ← 霊夢の現状からすれば必ずしもそうではないのかもしれないが、少なくとも命を奪いに来るといった行動は見られない。

 

 

 

 

 ……と。

 

 

 

 そこまで記した辺りで、不意に蓮子は手を止めた。

 

 どうしたのかと霊夢の視線を受けた蓮子は、何かを考え込むかのように、たんたんと紙面に黒い点を打った。

 

 

「……おそらく、あんたを除けば、古明地さとりこそが『岩倉玲音』に最も近付き、最初に真実へと辿り着いた者と考えて間違いないわ」

 

 

 ──そう呟かれた蓮子の言葉を前に、霊夢は特に驚きはしなかった。霊夢も、その点については考えていたからだ。

 

 

「何で、そう思ったの?」

「幾つかあるけど、古明地さとりの証言がレミリア・スカーレットのモノと比べて具体的かつ、『岩倉玲音』そのものを示したり示唆したりする部分が多いから……特に、ここよ」

 

 

 たん、とペンが叩いたのは、『岩倉玲音は人の数だけ存在する』の一文だった。

 

 

「あんたは、『岩倉玲音』と同じ姿をした『レイン』と名乗る少女と接触した。その際、その『レイン』はこう話したのよね……『あんたが作り出した岩倉玲音の一つの形』だと」

「……そうだったと思うわよ」

「なら、おかしいじゃないの。仮に、本当に人の数だけ存在するのならば、どうして古明地さとりは、おそらくはオリジナルである『岩倉玲音』を知っていたのか。発言の中身から考えて、彼女は『異なるレイン』の存在に気付いていた……では、どうやって彼女はそれがオリジナルではないと気付けたのか」

「──え?」

「誰も、『岩倉玲音』を認識出来なかった。その、唯一認識出来たあんただけでなく幻想郷の全てを自在に操って翻弄した『岩倉玲音』が、古明地さとりに対してだけは他とは違う結果を残した……改変ではなく、行方不明……失踪という形で」

 

 

 その言葉と共に……蓮子は、霊夢の胸元を指差した。

 

 

「では、どうして古明地さとりだけが他とは違ったのか……これもまた推測に過ぎないけど、おそらくはオリジナルである『岩倉玲音』と接触を果たしてしまったからよ」

 

 

 指差した指先が……とん、と。優しく、霊夢の胸元を押した。

 

 

「あんたの中にいる、『岩倉玲音』とね」

「──っ」

 

 

 その、瞬間。閃光にも似たナニカが、脳天から全身を駆け巡る感覚を霊夢は覚えた。

 

 

 そして、その直後……霊夢の脳裏を過ったそれを……霊夢自身、どう言葉に言い表せば良いのか分からなかった。

 

 

 まるで、絡みに絡み合っていた糸屑の一辺が解けたかのような……がんじがらめになっていた鎖の一つが外れ落ちたかのような感覚であった。

 

 

 

 

「……なるほど、ここにいたってわけか」

 

 

 

 

 と、同時に、霊夢は……そっと手を宛がう。伝わって来るのは鼓動だけであり、それ以外の不自然な気配は何も感じ取れなかった。

 

 

 なるほど……なるほど、だ。

 

 

 道理で、見つからぬわけだ。何時もであればまっすぐに黒幕へと直行出来る『勘』が働かないわけだ。何せ、己の中にいるの──っ!? 

 

 そこまで考えた辺りで、頭を軽く叩かれた。

 

 ハッと我に返った霊夢が目にしたのは、「……あんた、結論を出すのが早すぎよ」呆れた様子の蓮子の眼差しであった。

 

 

「みんなの証言を思い出しなさい。確かに、あんたの中に『岩倉玲音』はいた。けれども、古明地さとりはこうも答えた……私たちの中にいる、と」

 

 

 ……そういえば、そうだった。

 

 思わず目を瞬かせる霊夢を見て、蓮子はスケッチブックを捲り……新たな紙面にペンを滑らせると、ソレを霊夢に見せた。

 

 

「……『集合的無意識』?」

「ユングってやつが考えた用語なんだけどね。意味は、個人の意識を超えた、民族や集団、あるいは人々が持つ潜在的な無意識のことよ」

 

 

 続いて、ペンが紙面を走る。霊夢、蓮子、メリー……他にも霊夢が語った様々な人や妖怪の名が記され、その下に横線が引かれ……更に下に、『集合的無意識』の文字がくるようにされた。

 

 

「例えば、古来より人々は天災を恐れた。故に、人々は天災を鎮める為に様々な方法を取った……人や獣を生贄として捧げたり、巨大な自然物を神聖なモノとして祀ったり、あるいは『神』を具現化したりもした」

「あー……なんか聞いたことがある。御岩様とか大岩様とか、御岩信仰ってやつよね」

「そうよ……さて、ここで問題。これら天災を鎮める為に行われた行為は、かつて世界中で行われていたし、今も行われている地域もある。では、何故それらが世界中で行われたのか……分かるかしら?」

「そんなの知らないわよ。どこかが初めて、それが広がったんじゃないの」

 

 

 霊夢の最もな返答に、「そうね、常識的に考えればそうなるわね」蓮子は気を悪くした様子もなく、ペンで紙面を叩いた。

 

 

「なら、そうじゃないとしたら」

「……は?」

「仮に、よ。人々の中には、人々には感知出来ない大きな無意識が有って、その無意識は全ての人々の無意識に繋がり、共有されている……としたなら、どうなるかしら」

「どうなるって、それは……」

「例えば……偶然だとしても、何処かの部族が生贄を行ったことによって天災を乗り越えられたという主観的記憶が、その無意識を通じて他者の無意識に流れ込み……その結果、人々の無意識の内に『生贄をすれば天災は防げる』というのが植えつけられたのだとしたら?」

 

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい。そ、それじゃあ、『岩倉玲音』は……」

 

 

「そう、古明地さとりの証言から推測出来る『岩倉玲音』の正体は……『集合的無意識』そのもの。あるいは、ソレに近しい性質を持った存在だと思われるわね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 

 …………否定の言葉を、霊夢は震える唇から先に出すことが出来なかった。

 

 

 何故なら、蓮子の言わんとしている事が仮に事実なのだとしたら。それはもう、霊夢が手におえる相手ではないからだ。

 

 人々の無意識……それすなわち、人類全ての根源。そんなの、勝てる勝てないの話ではない、勝負にすらならない。

 

 だから、霊夢は何とか違う答えを捻り出そうとした。けれども、答えは出せなかったし、誤魔化しも言えなかった。

 

 当の霊夢が、蓮子の仮説を頭の中では認めていたからだ。付け加えるなら、霊夢の『勘』も同じく、それが真実であると判断していたからだった。

 

 

「……そこから考えて、古明地さとりが語った『ワイヤード』と呼ばれる世界があるのは……おそらく、ここよ」

 

 

 さすがに動揺を隠しきれない霊夢を他所に、蓮子は止まっていた推測を進める。きゅきゅっと、人々と集合的無意識の間に記されたのは……○で囲った『ワイヤード』の五文字。

 

 

「人々の表面意識と集合的無意識の境目。あるいは、限りなく集合的無意識に近しい辺り……『岩倉玲音』がいる場所はそこらになると思われるわ」

「…………」

 

 

 しばしの間、霊夢は紙面を見つめた。

 

 地頭が悪いわけではないが、知識の層が違い過ぎた。「……こう、概念的というか、そういう話なのよね?」辛うじて、そう答えるのが精いっぱいであった。

 

 

「──へえ、分かっているじゃないの。まあ、そんな感じに思ってくれていいわよ。意外と幻想郷ってやつにも学問が発達しているのね。ちょいと見直したわよ」

「え、あ、いや、そう……私は大して興味が無かったから知らないけど、有るんじゃないかしら……魔法があるくらいだし」

「なるほど、魔法か……今更だけど、その断片でも触れてみたかったわね」

 

 

 まあ、まるっきり分からない最悪でも、奇しくも当たらずとも遠からずを引いてしまうのが、博麗霊夢というやつなのだろうが……まあ、それはいい。

 

 

 ──さあ、話を戻すわよ。

 

 

 一瞬ばかり緩んだ空気を引き締めるかのように蓮子は、「さっきも言ったけど、結論はまだ出す段階じゃない。あくまで、仮説よ」先ほどの推測に続けて、新たな仮説を重ねた。

 

 

「古明地さとりは、他にも重要と思われる発言をしているわ。それは、『ワイヤードは他の世界と一度重なって、今は離れている』ということ。加えて、こうも言っている……『幻想郷とは異なる世界』だと」

 

 

 ○で囲われたワイヤードの隣に、○で囲った『幻想郷』が記された。

 

 

「腑に落ちない点の一つが、ここ。どうして、幻想郷とは異なるなんて発言をしたのかということ。何なら、『ココとは異なる』って言えばいいのに何故、『幻想郷とは異なる』なんて言い回しにしたのか」

「そこに、意味が有ると?」

「ええ、有るわね。よく思い出してみなさい、あんたの発言から想像出来る限りでは、その時の古明地こいしはかなり衰弱していたのでしょう?」

 

 

 言われて、霊夢は記憶の奥底より当時の光景を引っ張り出す……言われてみれば、そうだったと手を叩く。

 

 

「声一つ出すだけでも辛い時に、そんな謎掛けみたいなことをすると思う? 少なくとも、私はしないわ。少しでも正確に伝わるように言葉を選ぶか、あるいは伝えたい事を片っ端から伝えるわね」

 

 

 それも、蓮子の言う通りだと霊夢は思った。あの時のさとりは衰弱していた。そんな状態で、わざわざ洒落た言い回しをするだろうか……いや、しないだろう。

 

 少なくとも、霊夢が知る古明地さとりはそんなことをする性格ではなかった。

 

 素直な性格ではないし種族的な特性から皮肉屋な部分はあった。とはいえ、だからといって回りくどいやり方は嫌う性質だったと……霊夢は思い出していた。

 

 

「そこから推測出来る事は、ただ一つ。それは、ワイヤードと幻想郷とに共通する事柄があって、それを区別する意味合いがあった」

「幻想郷と、ワイヤードが……?」

「でなければ、幻想郷とは……なんて言い回しはしないでしょう。さて、問題は、その共通するのが何かってところね……」

 

 

 そんな霊夢の内心を肯定するかのように、あるいは補足するかのように、蓮子は力強く傾き……次いで、ふむ、と『幻想郷』の文字を叩いた。

 

 

「現時点で確定しているのは、幻想郷もワイヤードも、共に秘匿された世界であるということね。ただ、一度だけ……その世界が、他の世界に重なった」

「……それが、幻想郷だと?」

「断言は出来ないけど、違うわ。おそらく、重なったのは私たちが暮らしているこの世界の方よ。仮に幻想郷の方が重なったのだとしたら、どうしてあんたがその事を覚えていないのかが説明出来ない」

「その時は記憶を改変されたからじゃないの?」

 

 

 霊夢の質問に、「そうなると、前回と今回とで対応の差が大き過ぎて不自然よ」蓮子は首を横に振った。

 

 

「どうして今回はあんたに対して中途半端な改変をするのか、そこに矛盾が生まれる。仮に、目的が幻想郷の乗っ取りなのだとしたら、なおさら……でも、そうじゃない。それは、あんたの話を聞いてすぐに推測出来た」

 

 

 そこまで話した辺りで、「さあ、次に移るわよ」蓮子はスケッチブックを捲る。新たな紙面に記したのは、『レミリア・スカーレット』の名前であった。

 

 

「レミリア・スカーレットが残した発言は、前述した古明地さとりとは少し違う。古明地さとりは主に『岩倉玲音』について語っていたが、レミリア・スカーレットは博麗霊夢と幻想郷の行く末についてが主だった」

「……言われてみれば、そうね」

 

 

 確かに……改めて指摘されてみれば、レミリアの言葉は『岩倉玲音』に対してというよりは、幻想郷……並びに、霊夢自身に関する事が多かったように思える。

 

 性格が悪いわけではないのだが、こう、悪魔としての矜持がそうさせるのだろうか。回りくどく気障な言い回しをすることも多く、蓮子の指摘した部分についてはそこまで深く考えてはいなかった。

 

 

「また、古明地さとりとは状況が異なっていた可能性が非常に高く、切羽詰まっていたのは間違いないわね。『勘』が鋭くて記憶の改変を受けていないあんただけが発見出来るような仕掛けを用意はしたけど、そこが限界だった辺り……まあ、その辺は重要ではないわね」

「え、そうなの?」

「記憶も物質も改変出来る相手なら、それこそ切羽詰まった状況に陥ってもおかしくないでしょ。当人だって、どうしたらいいか分からんって話したぐらいだし……そっちよりも重要なのは、彼女が示した博麗霊夢の数多の運命の方よ」

 

 

 その言葉と共に、蓮子はレミリアの名から←を引いて……大きく『博麗霊夢・自殺』の一文を書いて○で囲うと、その隣に『霊夢死亡=幻想郷崩壊』の一文を記した。

 

 

「私の予想だと、彼女が見たのは運命というよりは、数多の並行世界の……まあいいわ。とにかく、彼女の話だと幻想郷の崩壊と博麗霊夢の死はほぼ同時に起こる話だった。時期にはかなり誤差があるようだけど、この二つは全ての運命に共通しているはずだった」

 

 

 ──でも、そうはなっていない。続けられた蓮子のその一言に、霊夢は軽く頷いた。

 

 

「博麗霊夢は今も生きている。なのに、幻想郷は崩壊した。既にここで矛盾が生じている。それだけは全てにおいて共通していたのに、それが起こっていない。加えて、レミリア・スカーレットは興味深い発言を残した」

 

 

『これでは足りない』

 

『これでは辿り着けない』

 

 

 紙面に記したその言葉は、レミリアが見た数多の運命の先にいる……全ての博麗霊夢が自死する時に呟いたとされる言葉であった。

 

 

「この発言から考えて、博麗霊夢が自死する並行世界……彼女の言葉を借りるのならば、数多の運命の中にいた博麗霊夢は……おそらく、『岩倉玲音』の下へと向かう手段を見つけ出していた可能性が高い」

「…………」

 

 

 その言葉を霊夢が受け入れるには、少しばかりの間を要した。

 

 何せ、他の運命の中では見付けられたソレを、己は見付けられていない。出来ているはずのソレが出来ていない……言い換えれば、その分だけ己の不甲斐なさを見せ付けられる思いであったからだ。

 

 

「……この二つの単語から推測出来る状況はただ一つ、手段を見つけ出したまでは良いものの、そこから先……つまり、『岩倉玲音』の下へ向かうまでの準備が間に合わなかったということ」

 

 

 忸怩たる思いで唇を噛み締めている霊夢の様子から、蓮子もすぐに察した。

 

 けれども、霊夢は気休め程度の慰めなど欲してはいない。むしろ、それを侮辱だと捉えるであろうことも察していた蓮子は、そのまま話を続けた。

 

 ペンを走らせ、二つの単語を○で囲って矢印を引き、そこに『何が足りなかったのか?』、『そのせいで(岩倉玲音の下に)辿り着けなかった?』の二つを付け足した。

 

 

「重要なのは、この二つ。ここが問題なのよ……ここだけは情報が少なすぎて推測も出来ないわね」

 

 

 続けて、『『これ』とは何か?』という一文が書き記された。

 

 

「『これ』という言葉が付く辺り、手段の為のナニカを手にしていた可能性はある。けれども、そもそもソレが間違っていたか、あるいは純粋に足りなかったのか……それは現時点では」

「──足りなかったのだと思うわ」

「分からな……それは、『勘』なのかしら?」

「『勘』よ。何となくだけど、そんな気がする」

 

 

 蓮子の言葉を遮って霊夢が言い放てば、蓮子はしばし目を瞬かせた後……「なら、そうなんでしょうね」そう、あっさり納得して『純粋に足りない』という一文を付けたし、三重に○で囲った。

 

 

「……さて、これで古明地さとりとレミリア・スカーレットの発言が纏まった。古明地さとりは『岩倉玲音』を、レミリア・スカーレットは『博麗霊夢』を……次は、もう想像付いているでしょ」

「……馬鹿にしないでちょうだい。私が作り出したっていう、『レイン』のことでしょ」

 

 

 少しばかり眉根をしかめた霊夢の視線に、「う~ん、惜しい、半分正解」蓮子はかりかりと己の頭を掻いた。

 

 

「もちろん、その『レイン』の発言も無視出来ないわね。でも、発言内容からは現時点では不明な点が多過ぎる……そっちよりも、あんたそっくりの姿をしていた、『靈夢』の方よ」

 

 

 ──便宜上、こっちの文字で書かせてもらうわね。

 

 

 その言葉と共に書き記された文字は、なるほど、それもレイムと読める。何でわざわざ漢字にするのかとも霊夢は思ったが、あえて触れずに「……それで?」続きを催促した。

 

 

「こっちも大概な内容だけど、こっちは前の二人とはまた違う。何故かは……分かるかしら?」

「……『忠告』でしょ。こいつだけは、はっきりと私にそう言ってきたからでしょ」

 

 

 正直、霊夢にとってはあまり思い出したくはない記憶ではある。何故なら、ある意味では霊夢が最初から最後まで一方的に翻弄された相手だからだ。

 

 何といえばいいのか……相手が『岩倉玲音』相手なら、まだそこまでは思わない。

 

 記憶や物質を改変すると思われる能力もそうだが、何よりも直接相対さえ出来れば……という思いが心のどこかにあるからだ。

 

 

 だが、この靈夢は違う。霊夢本人が、直接相対したからだ。

 

 

 不調だろうが何だろうが、関係ない。己の手が届く範囲にさえ近づければどうにでもなると思っていたのに……完膚なきまでに自信を壊されてしまった。

 

 手も足も出せないどころではない。文字通り、子ども扱いだ。本気で頭に来た紫相手ですら、互角以上(調子が良ければ8割ぐらい勝てる)にやり合うというのに、だ。

 

 

「そう、『忠告』。此度の一連の事件において、初めてあんたに向けられた……黒幕からの伝言、あるいは要求、または目的といったところかしら」

「……何でそうなるのよ。『忠告』でしょ」

「あんた、『勘』が無かったら大概脳筋だわ。言葉通りに受け取ってどうするのよ、そんなの皮肉に決まっているでしょ」

 

 

 意味が分からず首を傾げていた霊夢に、「そりゃあ、何時まで経っても見つけられないわけよ」呆れたといった様子で蓮子が溜息を零した。

 

 

「相手の狙いがあんたの命や存在なら、わざわざ忠告する必要なんてないでしょ。そんなことせずに、ズバッとやっちゃえばいいわけなんだし」

「……あ」

 

 

 ようやく納得したかと、蓮子は二度目のため息を零し……さて、と紙面に記された『靈夢』の文字を上から叩いた。

 

 

「敵意も無いし害意も無い。結果的にはこうなっているけど、発言の内容から推測出来る限りでは……相手は、あんたのナニカを待っていたように思えるわね」

「私の? 私の何を?」

「それが分かったら誰も苦労したりはしないわよ。でも、そうね……『靈夢』の発言内容を補足するうえで重要となる、『古明地こいし』のことにも触れましょうか」

「……やっぱ、それも?」

「あら、嫌なの?」

「嫌ってわけじゃないわよ。ただ、複雑なだけよ」

 

 

 一つ、霊夢はため息を零した。けれども、そこに嫌悪感はこもっていない。言葉通り、ただ複雑なだけなのは蓮子にも伺えた。

 

 

 まあ、霊夢の立場からすれば当たり前の話だろう。

 

 

 何せ、異変が始まった当初から別れるまでの間の唯一といっても過言ではない、話が通じる相手であったのだ。

 

 その相手が、まさか敵(?)と通じていたばかりか、裏切りと取れなくもない暴挙を行ったのだ。

 

 

 ……こいしの身に、何かが起こっていたというのは間違いない。

 

 

 彼女には、彼女なりの思惑が有ったのだろう。別れる直前の会話から考えても、霊夢を……己を想ったうえでの行動であるのも、間違いない。

 

 しかし、それでも……少なからず傷ついたというか、何というか。裏切られたという思いが有るのは、霊夢の正直な気持ちでもあった。

 

 

「まあ、悩むのは話が終わってからにしなさい」

 

 

 とはいえ、複雑な気持ちになっているのは霊夢であって、蓮子ではない。何ら気にした様子もなく、蓮子はドライに話を進めた。

 

 

「古明地こいし……この子の発言も抽象的というか何というかだけど、その中でも気になる点は四つ」

 

 

 一つ、蓮子は指を立てた。

 

「『力では勝てない相手』であると初めて明言した事。すなわち、博麗霊夢の力では太刀打ちできない相手だと分かっていた」

 

 

 二つ、二本目の指を立てた。

 

「霊夢は既に気付いているとはっきりと明言した事。すなわち、古明地こいしは霊夢に何かを期待し、それを待ち望んでいた」

 

 

 三つ、三本目の指を立てた。

 

「古明地さとりの発言の通り、古明地こいしは『ワイヤード』へと繋がる鍵だった。けれども、彼女は最後の最後までそれを霊夢に明かさなかった」

 

 

 四つ、四本目の指を立てた。

 

「相手側は、そんな古明地こいしを放置していた……いえ、それどころか協力している素振りすら見られた」

 

 

 以上、そこから考えられる推測……と、これまでの要点を纏めた私の結論はというと……そう言いながら、蓮子はずびしと霊夢を指差した。

 

 

「『『岩倉玲音』とその関係者は、博麗霊夢に何かを望んでいた。あるいは、あんた自身が相手側の目的そのものである』。それが、数々の証言をもとに紡ぎだした仮説を組み合わせた、私の結論よ」

 

 

 蓮子の、その結論は……思いの外大きく強く、室内に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………点けっぱなしのテレビから広がる音声。芸人とMCの掛け合いと、笑い声のBGMが、静まり返った室内にはよく響いた。

 

 

「……わたし?」

 

 

 たっぷり、20秒程だろうか。蓮子の結論を頭の中で反芻していた霊夢が、恐る恐るといった様子で自身を指差せば、「ええ、あんたよ」はっきりと蓮子は頷いた。

 

 

「そう考えると、これまでの諸々の仮説にとりあえずの筋が通るのよ。あんた自身が目的だったから、あんただけは改変を免れていた……でしょ」

「な、何で私なのよ。そりゃあ私は博麗の巫女だけど、私が死んだって次代の巫女は用意される。その間はむしろ紫たち大妖怪が気を張るから、余計に警戒されるはずよ」

「さっきも言ったでしょ。おそらく、相手の目的は幻想郷じゃない。害意も無いし敵意も無いってことは、そもそも幻想郷そのものには何の興味もないのよ……『岩倉玲音』はね」

 

 

 おそらく、相手の目的は……ズイッと、蓮子の指が霊夢の額を押した。

 

 

「博麗霊夢、あんたよ。博麗の巫女だから……いえ、それを含めて、あなた自身があいつらの狙いだと考えた方が早い」

「なんで、私なのよ……ていうか、だったら私は何で最初に死にかけたのよ」

「そんなの私が知るわけないでしょ。でもね、これだけは言える。『岩倉玲音』はあんたが、私たちが生まれるずっと前から、それこそ幻想郷が生まれるずっと前から存在していたかもしれないやつよ。それがどういう意味か、分かる?」

「そ、そんなの……」

「幻想郷が狙いなら、それこそ幾らでも機会はあった。目障りなら、体勢が整う前に攻勢に出られた。でも、そうしなかった。只の気紛れか、あるいは理由が出来たか、それとも……」

「……それとも、なによ」

 

 

 その先は、あまり聞きたくないし、聞いても心身によろしくないだろう。

 

 直感的にそう思った霊夢だが、平均よりも少しばかり頭がキレる(意味深)らしいうえに相当に学問を修めている蓮子には、霊夢の気持ちなど御見通しであった。

 

 

「レミリア・スカーレット嬢に倣うのならば、『運命』なのかもね」

「……運命って、あんたね」

「そう考えてしまうぐらいに、全てが繋がってしまうからよ」

 

 

 なので、ズバッと蓮子はその先を告げた。もちろん、霊夢は「こんな運命、嫌よ」言葉通り、心底嫌そうに顔をしかめたが……そんなの、蓮子の知った事ではなかった。

 

 そして……当の霊夢も、本当に……心の底から嫌ではあったが……蓮子の結論を否定しようとは思わなかった。

 

 何となく……そう、何となくではあるが、分かるのだ。『勘』が、訴えている。蓮子が導き出した結論は、ほとんど当たっているということに。

 

 

 ──『岩倉玲音』の正体は、人々の集合的無意識である。

 

 ──『岩倉玲音』の目的は、博麗霊夢……つまり、自分である。

 

 

 そう、改めて心の中で呟いた、その瞬間。かちり、と。また、己の中で何かが外されたような気がした。

 

 それもまた、先ほどと同じく……絡み付いていた鎖が解け落ちたかのような……どう言い表せばよいのかは分からないが、何か……そう、何かが、軽くなったのを霊夢は感じ取っていた。

 

 

(これは……なに?)

 

 

 だが……それと同時に。霊夢は……自身の奥に、胸の、心の、その奥に……固く閉ざされた扉のようなモノが鎮座しているのを知覚した。

 

 初めて……そう、初めてだ。思わず、霊夢は胸に手を当てる。

 

 その奥へと意識を向けようとするが……どうにも、手応えが無い。有るのは分かるが、それだけだ。

 

 強固な扉であるのだって分かるのに、その先が無い。まるで蜃気楼のようなそれに、霊夢は……内心にて首を傾げた。

 

 

(何らかの術ではないし、呪いでもない……何なのかしら、これ?)

 

 

 病気……ではないだろう。念のために霊力を巡らせて探ってはみたが、異変らしき部位は……と。

 

 

「──それで、霊夢ちゃんはこの後どうしたいの?」

 

 

 身体の内を探っている霊夢の耳に、その問い掛けが届いた。

 

 ハッと我に返って顔を上げれば、今しがたまでテレビを見ていたメリーと視線が交差した。

 

 

 ──これまで、ずっと我関せず&霊夢なみにマイペースに振る舞っていたからだろう。

 

 

 一瞬、霊夢は(あ、話を聞いていたのか)といった具合に、中々失礼なことを考えた。

 

 ちなみに、「静かだから寝ているかと思ってた……」蓮子の方はもっと失礼なことを口走って……まあ、それはいい。

 

 

 この後……この後、か。

 

 

 チラリと、霊夢は蓮子に視線を向ける。『好きにしろ』と言わんばかりに両手を軽く上げて肩をすくめる蓮子から視線を戻した霊夢は、答えようと……答えようと、した。

 

 

 しかし、出来なかった。それは何故か……理由は、ただ一つ。

 

 

 己を見つめる……霊夢を見つめるメリーの目であった。何処となく紫に似ていて、ほわほわとして穏やかな雰囲気を醸し出している普段の彼女とは掛け離れた……真剣な眼差しであったからだ。

 

 

 どうしたって、それは……。

 

 

 その言葉が、霊夢の唇から出る事はなかった。見つめる視線の強さに堪らず顔を逸らし「霊夢ちゃん、どうなの?」たかったのだが、機先を制するかのようにメリーからそう言われて……蓮子に視線を向けた。

 

 

 ──諦めろ、こうなったら私にも手が負えん。

 

 

 けれども、蓮子は役に立たなかった。いや、むしろ、メリーの矛先が己に向かわないように、「……喉乾いた」そっと台所の方へと向かって……ああ、くそ。

 

 

 頼むから、その目で見ないでほしい。率直に、霊夢は思った。

 

 

 この目は……幼い頃から苦手なのだ。昔、悪戯をした時に紫からよくこの目を向けられた。叱るのでもなく、自分が何をしたのかを自覚させる……ああ、この目は駄目だ。

 

 

 ──かちり、と。

 

 

 その瞬間、何かが……いや、違う。ついさっきまで捉えられなかった扉の鍵が、外された音を霊夢は聞いた。けれども、まだ……そう、まだ、開く気配はなかった。

 

 

「…………」

「…………」

「…………」

「……さ、さっきも言ったでしょ。決着をつけたいのよ」

 

 

 あ、これは答えない限り一時間でも二時間でも終わらないやつだ。

 

 幼い頃からの経験則からそれを察した霊夢は、とりあえず先ほど蓮子に答えた事をそのまま伝えた。

 

 

「違うでしょ、霊夢ちゃん。私が聞きたいのは、そこじゃないよ」

 

 

 ──が、しかし。メリーは納得しなかった。

 

 

 けれども、そこでないのなら、何処だというのだろうか。

 

 意味が分からずに目を瞬かせれば、「もう、霊夢ちゃんは本当に素直じゃないのね」メリーは一瞬ばかり苦笑を零し……次いで、再び表情を引き締めると、あのね、と改めた。

 

 

「霊夢ちゃんは、どうしたいの?」

「どうって、そりゃあ……」

「違うよ、私が聞きたいのは、決着をつけたいと思っている、『博麗の巫女』としての霊夢ちゃんじゃないの。今、ここにいる、ただの霊夢ちゃんに聞きたいの」

「──っ!」

「幻想郷の事とか、お友達の事とか、そういうの、今は邪魔なの。霊夢ちゃんの、本当の気持ちを知りたいの。ねえ、霊夢ちゃんは……本当は、どうしたかったの?」

「……どうって、そりゃあ……その……」

 

 

 まっすぐ、真正面から見つめられる。苦手な類の、その視線。言い繕うことも煙に巻くことも暢気に受け流すことも出来ず、霊夢は言われるがまま考え……考え……あれ?

 

 

 ……何故だろうか。霊夢自身が不思議に思えるぐらいに、胸中から出てくるモノは何もなかった。先ほどまで、決着だとか口にしていたはずなのに。

 

 

 いや……正確には、有るには有る。

 

 

 だが、手応えが無い。胸中の、その奥にある触れられない扉と同じく、まるで霞のように手応えのないソレが、ふわふわと湧いてくるのを霊夢は感じ取っていた。

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………大きく息を吸って、吐く。目を瞑って……己に問い掛ける。

 

 

 下手な言い訳は、通じない。それを分かっているからこそ、霊夢は何度も深呼吸をして気を落ち着かせる。メリーが、急かさずに待ってくれているのは、見なくても分かった。

 

 

 ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。

 

 

 何度も何度も何度も、繰り返す。触れられない扉へと、手が伸びて行くのが分かる。その扉が何なのかは、分からない。でも、それがとても大事なモノであると、『勘』が訴えている。

 

 

 ──手を……ああ、駄目だ、それに触れては。

 

 

 その指先が扉へと触れる直前、霊夢は手を引いた。古ぼけて埃だらけのそこから、遠ざかる。と、同時に湧き起こる安堵感と、少しばかりの……いや、これでいい。

 

 

 こうしなければ、なら──。

 

 

「──霊夢ちゃん、私を見なさい」

 

 

 ──ない。

 

 

 そう思った途端、頬に触れる温かい感触に霊夢は思わず目を開けた。視界一杯に映ったのは……何処となく、紫の面影を感じさせる、メリーの微笑みであった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………メリーは、それから何も言わなかった。頬を包む両手も、全く動かなかった。ただ、微笑んで……霊夢を見つめるだけであった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そのまま、どれぐらいの間、そうしていただろうか。時間にすれば、そう長くはない。少なくとも、霊夢の体感では……2分と経ってはいなかっただろう。

 

 

「……分からない」

 

 

 その2分にも満たない時間を使って霊夢が絞り出したのは……そんな言葉であった。

 

 当然といえば当然なのかもしれないが、メリーの後ろから様子を見ていた蓮子が「……分からないって、あんたね」呆れたと言わんばかりに溜息を零していた。

 

 けれども、メリーは笑うこともなければ呆れた様子もない。ただ、黙って見つめるばかりであった。

 

 そう、見つめるだけだ。けして逸らさず、まっすぐ霊夢の目を見つめている。堪らず霊夢の方が目線を逸らそうと……するたびに。

 

 

 ──ぐいっ、と。

 

 

 無言のままに、頬を掴むメリーの指先に力が込められる。顔ごと背けようとすれば、それ以上の力で無理やり戻され……目線を、逸らせられない。

 

 

 ──どくり、と。

 

 

 霊夢は、己の心臓の鼓動が高鳴り始めているのを自覚した。これは嫌だ、これは落ち着かないと思っても、抵抗出来ない。

 

 これではまるで……何時ぞやの、幼い頃に紫から怒られている時の……言い訳を許さないと本気で腰を据えている時の……ああ、くそったれ。

 

 

「わ、分からないから……知りたい」

 

 

 気付けば……霊夢は、そう口走っていた。その後になってようやく、自分が何を言ったのかを理解したぐらいに、それは無意識の事であった。

 

 

「知りたいって、何を?」

「分からない……分からないから、それを知る為に……」

「知る為に? 誰の何を、何の為に?」

「……『岩倉玲音』に会いたい。私は、げん……ううん、自分の為に、会ってみたい」

「それは、どうして?」

「分からない。分からないから、会いたい。退治じゃなくて、ただ……話をしたい」

 

 

 それが、切っ掛けになったのだろうか。

 

 

 意識せずとも、尋ねられるたびに勝手に言葉が己の唇から出て行くのを霊夢はどこか他人事のように感じ取っていた。

 

 

 けれども、他人じゃない。そう、全て自分の事なのだ。

 

 

 これは、紛れもなく己の本心であって……メリーの問い掛けに答える度に、何かが……そう、己の中にあるナニカが、剥がれ落ちて行くような感覚を覚えた。

 

 

「──霊夢ちゃん。貴女が、貴女自身の為に何かをして、それで誰かの迷惑になることを怖がっては駄目よ」

 

 

 それ故に、あるいは……霊夢自身にも上手く説明が出来なかったが、そのメリーの言葉は……不思議と心の奥底に、すとんと落ちてゆくような気がした。

 

 

「みんな、そうよ。他人に迷惑を掛けないで生きられる人なんてこの世にいないの。みんなが我慢して、みんなが迷惑をかける。だから、貴女だけがそれを許されないなんて駄目なのよ」

「でも、私は……」

「でも、じゃない。もう貴女は『博麗の巫女』じゃない。博麗の巫女でなくなった貴女が、いったい誰に遠慮をするの? 誰を想って我慢するの?」

「それは……」

「博麗の巫女でもなければ、幻想郷の為でもない。偶には、自分の思うままに、自分のやりたい通りに……自由にやって良い時が有るものよ」

 

 

 そう言い聞かせるように呟くと、言いよどむ霊夢からメリーはそっと離れる。外された指先の温もりに、思わず霊夢は唇を開き……次いで、閉じた。

 

 その霊夢の前に……そっと差し出されたのは、冊子タイプの『地図』であった。A4サイズのそれは、厚さが1センチ強はあるやつで……表紙の隅に、税込1980円という文字が見えた。

 

 

「さあ、選んで。霊夢ちゃんの思うままに、行き先を決めて」

 

 

 ……一瞬、霊夢は何を言われたのか分からなかった。

 

 

 とはいえ、霊夢が分からなくとも蓮子なら……ああ、駄目だ。「……?」付き合いの長い連子も、メリーの発言の意味が分からずに小首を傾げて……まあいい。

 

 

「……行き先って、どうやって? ていうか、何の話?」

「あら、そんなの決まっているじゃないの。霊夢ちゃんが、次に向かう行き先よ」

 

 

 とりあえず、率直に尋ねてみれば、返事がそれであった。

 

 

「考え込む必要なんてないでしょ。霊夢ちゃんは、霊夢ちゃんの思うままに決めたらいいの。何時ものように、ね」

「え、いや、何時もって、何の……」

「ほら、明日にはもう出発する予定なんだから。ちゃっちゃとしなさいな」

 

 

 困惑する霊夢を他所に、メリーはそう言いながら……地図を開いて、霊夢の前に広げて置いた。そこには、日本列島がカラーに印刷されていた。

 

 

 

 

 

 ──え、明日? 

 

 

 

 

 

 思わず、連子に視線を向ける。そうすれば、蓮子からは「……諦めなさい、言い出したら私よりずっと頑固だから」そんな言葉を掛けられ……ああ、そう。

 

 

 ……もう、規定事項なのだろう。少なくとも、メリーの中ではたった今行き先を決めて、明日には出発……なのだろう。

 

 

 何だろうか……こう、ある意味では変な所で強引に事を進める、この話の持って行き方。まるで、臍を曲げたどこぞの胡散臭い大妖怪を思い出させ……ああ、まあいい。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………思うままに、か。

 

 

 そう、心に思った、その瞬間。かちり、と……何度目かとなる感覚を、霊夢は覚えた。直後、また、絡み付いていた鎖が外されてゆく感覚がして……大きく、霊夢は深呼吸をした。

 

 

 ……行き先、か。

 

 

 どうしてだろうか……霊夢は、とても心が軽くなっているような気がした。幻想郷にいたとき、博麗の巫女として異変の解決に躍り出た時も、『勘』の促すままに動いていたが……その時よりもずっと、心が楽であった。

 

 

 ──他の誰でもない、自分の為に。博麗の巫女としてではなく、只の霊夢として。

 

 

 しばしの間、地図を眺めていた霊夢は……何となく、気になった点を指差した。それを横から眺めていたメリーは、地図を手に取ってペラペラとページを捲り……新たに開いたそこを霊夢の前に置いた。

 

 それは、先ほど霊夢が指差した点を、より拡大して印刷されたページであった。無言のままに、視線で促された霊夢は……再び、気になった点を指差した。

 

 そうすれば、再びメリーはページを捲り……さらに拡大されたページを霊夢の前に広げる。先ほどと同じく、霊夢はまた気になった点を指差した。

 

 

「……へえ、関東じゃん。新幹線とタクシー使えば、まあ……日帰りも可能な距離っちゃあ距離だわね」

 

 

 すると、いつの間にか傍に寄って来ていた蓮子が、思わずといった調子でそう零した。

 

『かんとう』とは、遠いのだろうか……こっちの地理には全くといっていいほど疎い霊夢には分からなかったが、蓮子の口ぶりからして、けっこうな距離があるようだ。

 

 

「──はい、決まり。それじゃあ、明日には出発ね」

 

 

 だが、蓮子曰く『こうなった』メリーの前では何の意味もないようだ。「ちょ、まだチケットも取れてないでしょ! ていうか、お金は!?」代わりに、蓮子の方が少しばかり慌てた様子であった。

 

 

「え、そんなの前に霊夢ちゃんが新たに当てたスクラッチのお金があるでしょ」

 

 

 だが、連子曰く……まあ、無駄だった。

 

 そういえば当てたなと思い出す霊夢と、そりゃあ、そうだけど……そう呟きながらも頬を引き攣らせる蓮子を他所に。

 

 

「じゃあ、私たちはお風呂に行くから。明日は遠出するし、きっちり身体を綺麗にしないとね」

 

 

 誰に言うでもなくそう言い放ったメリーは、サッと霊夢の手を取って立ち上が──はっ? 

 

 

「……あの、何で私の手を?」

 

 

 意図が……いや、意図は分かる。私たち、という言い方から察した……だが、理由が分からなかった。

 

 

「え、だって、霊夢ちゃん恥ずかしがって一緒にお風呂に入ってくれないでしょ」

「いや、そりゃあそうでしょ。あんた、私を何歳だと思っているのよ」

「何歳だろうと、一緒にお風呂に入る理由の妨げになるの? そんなわけないでしょ」

「いや、なるわよ──って、引っ張るな! ちょ、なんか力が……あんた、ちょ、待ち、待ちなさ──は、放せ!」

「やーん、実はね、霊夢ちゃんみたいな妹がずーっと欲しかったのよ。素直になったんだから、私も素直になっていいわよね」

「良くないわよ! 酔っ払ったアイツなみにうざったい絡み方すんな! ちょ、はな、止め、そこは止め──」

 

 

 何一つ、有無を言わさない。

 

 正しく、そんな感じで風呂場へと引きずられて行く霊夢の後ろ姿を見やった蓮子は……こっそり用意していたお茶を、ずずずっと啜ると。

 

 

「……駄目だ、そうなったメリーはあたしにも止めらんないわ。すまん、霊夢……しばらくの間、我慢してやってくれ」

 

 

 それだけを呟いて、風呂場の方から聞こえて来る霊夢の悲鳴をバックに……蓮子は、黙ってテレビの音量を上げるのであった。

 

 

 

 







次回 最終章


東方偏在無・lainの章




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lainの章:その1

物語はついに終幕へと至り、lainへ霊夢の足が向かう


その様は、いつもの異変解決、その姿であった


 

 日本でも有数の観光地でもある古都『京都』。とはいえ、誤解されている人もいるだろうが、どこもかしこも『THE・京都』みたいな建物が並んでいるかといえば……そうでもない。

 

 条例によって厳しく建築等の制限が成されている区画はあるが、あくまで区画だ。そこから外れてしまえば、十階建てのマンションだってずらずら建っている。

 

 それに、古都のイメージを崩さない云々とはいえ、インフラ設備……特に、駅周辺は普通に都市開発が進んでいる。地下鉄やバスなどが、その好例だろう。

 

 当然、新幹線なんかも通っている。まあ、住んでいる場所によってはけっこう遠回りする必要があるから、東京のように痒い所に手が届くみたいな利便性はないが、それでも十分に開発は成されていた。

 

 

 ……さて、だ。

 

 

 蓮子が住まうマンションから新幹線へは、基本的にタクシーの方が圧倒的に速い。それは立地の関係から来る家賃のせいなのだが、まあ……それはいい。

 

 その日……正確には翌日なのだが、霊夢の行動は奇妙という他なかった。

 

 まず、何故か誰よりも張り切っているメリー(結局、蓮子宅に泊まった)の号令の元、朝一(家を出発する時刻、だいたい8時頃)で家を出ようと考えていた彼女を止めたのは、他でもない霊夢であった。

 

 

 理由は、『この時間に行くのはよろしくない』という、根拠も何もない『勘』であった。

 

 

 しかし、短い間柄とはいえ、霊夢の持つ『勘』の恐るべき精度と神掛かったナニカ、身を持ってそれを体感してきた二人は、それならばと時間を少しばかり遅らせることにした。

 

 そもそもが、関東に向かう目的は、霊夢が決めたからだ。その、霊夢が時間を遅らせろと言う以上、拒否する理由が蓮子とメリーにはなかった。

 

 そのうえで、なおも霊夢は続けた。『向こうに着いてからは、私の指示に従ってほしい』、と。

 

 

 これには、さすがに蓮子とメリーも首を傾げた。

 

 

 何故なら霊夢が、関東はおろか、そもそもこちらのルールをあまり分かっていないことを二人は知っていたからだ。

 

 素材は超一級であるとしても、中身はまだ白い。電車やバスの乗り方もそうだし、各種看板の見方や地名など、例えるなら何の勉強も無しにいきなり海外に向かうようなもの。

 

 目的地自体が霊夢の『勘』で決めているとはいえ、ある程度は私たちが率先して動いた方がやりやすいのではないか……というのが、蓮子とメリーの正直な返事であった。

 

 しかし……霊夢はそれでも首を横に振った。それを見て、蓮子とメリーは互いの顔を見合わせた……が。

 

 

 ……そこまで言うのであれば……その方が良いのだろう。

 

 

 そんな感じで納得して……結局、『──そろそろ、行くべきかな』という霊夢の『勘』によって家を出たのは、11時を少しばかり回った頃だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………まあ、それはそれとして、だ。

 

 

 

 実は、霊夢は電車や車を知らなかった。名称や姿は知っていたし見てはいたが、実際に利用したことがない。幻想郷では、そもそも乗り物は人力車か馬車ぐらいしかないのだ。

 

 

「……え、いや、なに、これ、本当に動くの? こんな馬鹿デカいのが? 嘘でしょ? 冗談とデタラメは天狗の新聞だけで十分よ」

「何言ってんの、あんた今、それが動いてホームに入って来るのが見えたでしょ」

「見えたけど、冗談だと思うでしょ、普通は。いや、これどうやって動かしているの? 電気とやらで動かしているって聞いた覚えがあるわ」

「好奇心旺盛な子供かお前は……あんまりキョロキョロすんな、今時小学生でもそこまで騒がないわよ」

 

 

 故に、生まれて初めての拝見となった実物の新幹線の雄姿と、人生初となる乗車は。

 

 

「あら~、霊夢ちゃん、さっきから大人しいけどどうしたの? 退屈ならトランプでもする? この時の為に持ってきたんだよ」

「トランプ……ああ、西洋カルタ。それなら私、ババ抜きしか知らないけど、やるの?」

「3人でのババ抜きって、あんたね……ていうか、こいつ相手にトランプなんて勝ち目ないでしょ。やる前から結果が見えているじゃないの」

「そんなの、やってみないと分からないじゃない」

「ちなみに霊夢ちゃん、ババ抜きで負けた事ってある?」

「一度も無いわね」

「ほら、言った通り──って、だから痛いって言っているでしょうが! せめて手じゃなくて服の裾を──」

 

 

 霊夢にとっては……いかんともし難い緊張感を伴った、何とも落ち着かない一時となった。

 

 

 ……いや、まあ、仕方ない話ではあるのだ。

 

 

 何せ、霊夢が暮らしてきた幻想郷(つまり、幻想の世界)には、蓮子たちが暮らすこっちの世界では当たり前のように存在している諸々の大半が無い。

 

 理由は幾つかあるが、その中で最も大きな理由は、何といっても土地の広さだろう……というのも、幻想郷は、その存在理由からして秘境である。

 

 故に、こっち(つまり、現実の世界)と比べて狭いのは当たり前の話であり、何も紫を始めとした賢者たちが規制したから発展しなかった……というだけでもない。

 

 言うなれば、必要でないから作られなかっただけであり、作られるからには必要とされたわけで……まあ、つまり、何が言いたいかといえば、だ。

 

 

「……あのね、あんた見た目に反して力があるから、そんなにがっちり握られると本当に痛いんだけど」

「ちょっとの辛抱でしょ、年上なら我慢しなさい」

「ちょっとも何も、後一時間近くも辛抱するのは──いたっ、いたたた、ちょ、怖いなら怖いって素直に言いなさいよ!」

「怖くないわよ! ただ、落ち着かないだけよ!」

「あら~、霊夢ちゃん可愛いわね。はい、ちーずよ~」

「暢気に撮ってないで代わってよ! いた、いたた、ほんとマジで痛いってば!」

 

 

 乗り慣れていないとはいえ、結局のところはとても早く走る快適な電車である。

 

 蓮子とメリーにとってはその程度の話であり、むしろ二人は趣味の関係から乗り物に乗り慣れていることもあって、終始落ち着き払っていた。

 

 

 反面……霊夢の方は違った。

 

 

 当人の言う通り、怖がってはいなかった。ただ、言葉通り落ち着かなかった。どうしても、気が張ってしょうがなくて……理由は、一つ。

 

 曰く、『機械であることは分かるが、巨大過ぎて機械に思えない』ということらしく、まるで妖怪の腹の中にいるみたいで、どうにも緊張を解せないのだという。

 

 ある意味、優秀過ぎるが故の誤作動というやつなのだろう。

 

 その証拠に、張ってしまう気を解く事が出来ないながらも、普通に弁当(野菜オンリーの、蓮子曰く『精進料理』)は食べたし、隣に座っている蓮子の手を握り締めこそはするものの、それ以外は何もしなかった。

 

 

 ……その行為が蓮子を苦しめる結果となっているのだが……まあ、いい。

 

 

 当人も自覚はしているが、頭では分かっていても身体が勝手に反応してしまうのだろう。蓮子も、仕方ないことだからと諦め、注意はするがあまり強くは言わなかった。

 

 例えるなら、心臓の鼓動を意志一つだけで自由自在に変えるようなもの……それはもう意識して制御できる話ではなく、ただひたすら我慢するしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………閑話休題。

 

 

 そうして、姦しい会話で時を潰しながら、小一時間ほどが過ぎた頃。霊夢たちを乗せた新幹線が関東……東京駅に停車したのは、昼を大きく回った3時手前であった。

 

 

「……凄いわね、ここ」

 

 

 新幹線を下りて、すぐ。

 

 駅構内の階段を降りている最中、キョロキョロと辺りを見回していた霊夢は、そう呟いた。実際、霊夢が抱いた感想は、『凄い』の一言であった。

 

 まず、人波の分厚さが京都とは違い過ぎた。新幹線に乗る前に構内に入った時も『ずいぶんと混んでいるのね』と思ったが、そんな感想、眼前の光景の前ではあっさり消し飛んだ。

 

 男も、女も、関係ない。大人も、子供も、関係ない。隙間があれば即座に入り込む、あるいは詰めて、少しでも前に、先に行こうと早足になっている。

 

 一糸乱れずまっすぐに、一つの通路を二つに分けて、片側は各ホームへ、片側は改札口に。誰一人文句も言わず、流れに沿って何処ぞへと歩いてゆく。

 

 

 これは……ここにいる者たちは、本当に人間なのだろうか。

 

 

 まるで、人間が連なって一つの生き物となった蛇のようだと霊夢は思った。あるいは、脈動してこの建物内を循環する血液のようだとも……と、不意に脳天に走った衝撃に、霊夢は振り返った。

 

 

「こんなところで立ち止まるな。ほら、とにかく改札口へと歩きなさい」

 

 

 そう注意してきたのは、蓮子であった。見やれば、蓮子の後ろにいるメリーの……その後ろに、ずらーっと人の列が続いている。見ているだけで、鬱陶しく思えてしまうほどの長さであった。

 

 

 ……とりあえず、一旦は外に出るべきなのだろう。

 

 

 向けられている大量の視線(要は、止まってないでさっさと行け、といった感じ)から顔を背けた霊夢は、促されるがまま……というか、肩に乗せられた蓮子の手で押される形で、歩き出す。

 

 その姿……傍から見れば、妹がはぐれないようにしている姉と、その友人……といった感じだろうか。

 

 幸いにも、『勘』はこのまま行けと訴えている。だから、霊夢は特に抵抗することもなく、人の波に沿って、時には別の流れに移って……改札口を通って、駅の外へと出た霊夢は……ぽかん、と呆けた。

 

 何故か……それは単に、駅の外へと出た霊夢の眼前には……これまで彼女が積み重ねてきた様々な光景を一挙に塗り替える、巨大すぎる建物で埋め尽くされていたからだった。

 

 

 はっきりいえば、最初は何かの見間違いかと霊夢は思った。

 

 

 だが、現実であった。まるで、幻想郷における『お山』が幾つも連なったかのような巨大ビルはどこまでも悠然としていて、それでいて無機質にピカピカと光っている。

 

 その中の、驚くぐらいに滑らかなガラス張りの向こう。全てがそうではないが、霊夢の位置からでも一部の建物の内部が分かる……その奥にも、相当な数の人々が行ったり来たりしているのが見えた。

 

 

 いったい……何をしているのかは、霊夢には分からなかった。

 

 

 ガラスの向こうは、まあ、色々と違う。燕尾服に似た恰好の者が忙しなくしているところもあれば、何というか……こう、煌びやかな恰好をしている者もいる。

 

 階が一つ違うだけで、がらりと雰囲気が異なっている。同じ建物なのに、何でだろうと霊夢は首を傾げる。無理もないことだが、テナントという言葉を知らない霊夢が分からないのは当たり前だった。

 

 

 ……蟻になった気分だわ。

 

 

 立ち並ぶ高層ビルから視線を下げた霊夢は、心の中でそう呟いた。霊夢がそう思うのも、これまた、無理はないことであった。

 

 何せ、遠目からみれば、建物の大きさも相まって、人間なんて蟻のサイズにしか見えない。動きも、駅から出てきた人々が、まるで申し合わせたかのように多種多様なビルへと吸い込まれて行く様は、蟻のように見える。

 

 しかも、その蟻の動きにはまるで迷いがない。霊夢からすれば何処も彼処も似たような建物にしか見えないが、ここの者たちは分かっているのだ……ん? 

 

 

(なに、あいつ?)

 

 

 何気なく視線を向けた霊夢は、思わず目を瞬かせる。

 

 そこに居た(正確には、人混みの中にいた)のは、セーラー服を身に纏った……初老の男であった。その隣には学生服を身に纏った……初老の女がいた。

 

 

 いや……その二人だけではない。

 

 

 よくよく見れば、その二人の周りにいる者たちの恰好も変だ。妖怪……いや、着ぐるみ……何といえばいいのか……そう、統一感というものがまるでない。

 

 まるで、本の世界から抜け出て来たかのように、明らかに他の者たちと比べて変わった恰好をしていた。少なくとも、霊夢の目から見ても『浮いている』のが分かるぐらいであった。

 

 

 けれども、同時に。霊夢にもよく分からなかったが……『馴染んでいる』とも思えた。

 

 

 そう、違和感があるけれども、違和感がないのだ。それはおそらく、誰も彼もがその集団を異質なモノとして捉えず、風景の一部として認識しているかのような態度を取っていたからだろう。

 

 それ故に、一瞬ばかり、見間違いかと霊夢は己を疑った……だが、どうだ。

 

 この寒空の下、男が女の恰好をしている。女が男の恰好をしている。よく分からない着ぐるみや恰好もしている。なのに、通り過ぎてゆく誰もが彼ら彼女らに注目していない。

 

 何者かに強制……いや、見た限りでは、誰も彼もの顔に『強制の色』は見られない。周囲の人達も、彼ら彼女らを風景の一部としているかのように素通りして……んん、いや、違う、か? 

 

 よくよく観察してみると、どうも……通行人らしき幾人かが、彼ら彼女らに何かを向けているのが見える。

 

 あれは……おそらく、『すまほ』とかいうやつだろう。

 

 霊夢自身は所持していないし興味もなかったからうろ覚えだが、たしか電話が出来て写真が撮れる便利な代物で、現代社会では必須の道具だと蓮子から見せられたのを霊夢は思い出した。

 

 

 ……つまり、アレは取材なのだろう。

 

 

 そう納得した霊夢は、しばしの間眺めていたが……変化がない。霊夢が見た限りでは撮影した全員が被写体そっちのけでどこかへ行ってしまう。

 

 ……何故、周りの人たちは写真を撮るだけで、彼ら彼女らへ話し掛けようとしないのだろうか? 

 

 

 意図が分からずに、霊夢は首を傾げる。

 

 

 ついでに分からないといえば、撮られている彼ら彼女らもそうだ。撮られているのは分かっているはずなのに、誰もがその事に全く目を向けていない。

 

 はっきり言えば、撮る方も撮られる方も、相手の方に目を向けていないのだ。どこまでも、その目は内側(自分たち)に対して多大に向けられている。

 

 

 それが、霊夢にとっては堪らなく不思議でならなかった。

 

 

 天狗の文ならば取材の名目で(追い払っても)鬱陶しいぐらいに話し掛けて来るし、通行人たちも『そんな恰好でどうした?』と、声を掛けてくるものだが……ふむ。

 

 

「……ああ、あれ? あんなの、ここじゃあそんなに珍しいものでも……は、撮影? ああ、インスタ映え狙いの人達なら、そりゃあそうでしょ」

 

 

 気になって蓮子に尋ねてみれば、そう返事をされた。

 

 

「全部が全部そうじゃないでしょうけど、あれはもう承認を満たす為に餌から餌へと移動するイナゴみたいなものだから、気にするだけ無駄よ、無駄」

 

 

 インスタとは何だろうと霊夢は思ったが、それ以上尋ねようとは思わなかった。蓮子の口ぶりからして、あまり良い印象を抱いてはいないのが分かったからだ。

 

 霊夢も……同意見というわけではないが、あまり良い印象を抱かなかった……と、同時に、少しばかり興味も湧いた。

 

 あんな恰好をするぐらいなのだから、何かしらの注目を浴びたいのだろうということは推測出来る。なのに、どうしてあの人たちは一瞥すらしないのだろうか……と。

 

 

「そりゃあ、ある意味では自己満足の世界だからでしょ」

 

 

 そうして蓮子に尋ねた結果が、それであった。

 

 

「まあ、そういう欲求が有っても不思議ではないわね。でもまあ、そっちは時期来ればもっと凄い事になっているから、その予行演習も兼ねているんじゃないのかな」

「……時期って、何の話?」

「あんな感じに仮装して楽しむ催しが年に1回か2回あるのよ。それを撮影しに来る人もいれれば、数万人数十万人が軽く集まってくる盛大なお祭り騒ぎよ」

「……数万? 数十万?」

 

 

 幾らなんでも冗談だろと思って、その隣のメリーに目を向ければ、「毎回ニュースになるぐらい」と、似たような答えが返された。

 

 それは……霊夢にとって、正しくカルチャーショックでしかなかった。ただ、その瞬間……すとん、と。霊夢の中で、何かが人知れず納得してしまった。

 

 

 ──道理で、次から次へと幻想郷に妖怪たちが入ってくる来るわけだ。

 

 

 幻想を否定された妖怪たちや神仏たちが、次から次へと幻想郷に雪崩れ込んでくる。図らずも、霊夢は幻想の者たちがこっちに見切りをつけて幻想郷に逃げ込んできた理由の一端を垣間見た気がした。

 

 

 ……ちなみに、霊夢は気付いていなかったが、呆然と立ち尽くすその姿は、傍目から見れば『田舎から上京してきたおのぼりさん』にしか見えなかった。

 

 

「……まるで、おとぎ話の中にいるみたいだわ」

「おとぎ話みたいな世界からやってきたやつに言われちゃあ、東京も鼻高々だわね。それで、こっから先はどうするの?」

 

 

 ──この後はあんたが決めるのでしょ。

 

 

 そう言われた霊夢は気を取り直して一つ頷くと、そっと……肩の力を抜いて、意識を自然に傾ける。体内に残された霊力が、呼吸に合わせて緩やかに全身を巡ってゆく。

 

 

 ……霊夢は、己が持つと言われている『勘』の正体を良くは知らない。

 

 

 というか、霊夢にとって『勘』というのは、文字通りでしかない。何となくそうしたら良くなった、何となくそれをしなかったから良くなったという、ただそれだけのモノだ。

 

 しかし、同時に、霊夢は己が持つ『勘』については誰よりも信頼していたし、誰よりも好んでいた。何故なら、そこには他者の判断が一切混じらないからだ。

 

 

 何故なら、霊夢は己の分というのをはっきりと認識し、理解しているからだ。

 

 

 つまり、出来ると思ったら出来るし、出来ないと思ったら出来ない。歴代最高の天才である博麗霊夢は、彼女の知人たちが評価する通りの、冗談のような才能の塊である。

 

 だがそれは、何も良い方向ばかりに働くわけではない。1を実践して100を得られるからこそ、他の誰よりも『己では出来ない事』を事前に理解出来てしまうのだ。

 

 

 ──だからこそ、霊夢は迷わない。やると決めたのなら、やる。やれると思ったのなら、やれるから。

 

 

(……何だろう、調子が良いのかしら……前よりも凄く楽な感じがするわね)

 

 

 とはいえ……この時ばかりは、さすがの霊夢も何時もと違う手応えを不思議に思った。

 

 良いか悪いかで言えば、良いのは確実だ。けれども、理由も無く良いのは……些か気味が悪い。自分の事ではあるが、どうにも……いや、もう止めよう。

 

 

「……タクシーってやつに乗りましょう」

「何だ、いきなり本丸に行くわけ?」

「いや、そっちじゃなくて……ちょっと、寄り道した方が良いみたいだわ」

「寄り道……それも勘ってやつ?」

「まあ、そんなところよ」

 

 

 ぐだぐだと考えるのは、全てが終わってからでも遅くはない。「寄り道するなら東京タワー行く?」ほわほわと何処かに行きそうになっているメリーを引っ張る蓮子を横目に、霊夢は……『勘』に従うままに歩き出した。

 

 

(……これは……あいつの気配なのかしら?)

 

 

 ちくりちくりと胸中の奥を刺激する、不思議な気配を追い掛ける為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………今日は、何時もより少しばかり運が良いと捉えるべきか。それとも、怪しい客を捕まえてしまったことを後悔するべきか。

 

 

 この日最後の客を乗せてから、早2時間。目的地は定まらず、ただひたすらに下される指示のままに車を走らせ……それだけの時間が経っていた。

 

 

 今の所、客の目的地……いや、目的が、さっぱり分からない。

 

 

 何せ、行き先を告げられ案内しても乗せた客が車を降りない。どうするつもりかと思っていると、また新しい行き先を告げられ……それを、2時間に渡って繰り返されている。

 

 ぐるぐると、あちこちを行ったり来たり。行き先に、共通点はない。少なくとも、運転をしている『男』は、そう思った。

 

 都心より離れた駅に止まったかと思えば、何ら物珍しくもない歩道橋の傍で止まる。次いでは、学校の傍で(中学校か高校かは、分からなかった)止めたかと思えば、また次へ。

 

 

 ……売上だけを考えれば嬉しいところだが……警察を呼ぶべきか、あるいはこのままドライブを楽しむべきか、些か迷うところだとも、男は思った。

 

 

(これがプライベートならば……悪くはないのだけれども)

 

 

 信号と周囲の車の動き、並びに歩行者等の動きを確認してから、アクセルを踏む。すっかり掌に馴染んだハンドルをゆるりと回しながら、男は何度目かとなる感想を胸中にて零した。

 

 

 ──来日して、もう12年。前の会社が倒産してこの仕事に誘われ、4年が経った。最初は電気工事士として働いていたので、畑違いな仕事の内容に面食らう事が多かった。

 

 

 けれども、そう思い続けて早4年だ。タクシー運転手という仕事に愛着も誇りもないが、もしかしたら性には合っていたのかもしれない。

 

 実際、今の所は特に苦に思ったことはない。もちろん、嫌なことがないわけではない。拘束時間の長さもそうだし、不規則に成りがちな生活も、そうだ。

 

 辞めてやろうと思う程に嫌だったことはあっても、今のところは続けられている。その程度には、自分も慣れてきたということなのだろう。

 

 働いて生きる以上は何かしらそういう目に遭うわけだから、そこまで気にした覚えはない。というか、気にした所でどうこうなるわけでもない。

 

 諦めと問われれば認めるしかないし、まあ、そうは思っても給料という絶対的な不満こそあるにはあるが……その点についても、文句を言っても仕方がないだろう。

 

 

 ……けれども、だ。

 

 

 ブレーキランプの明かりに合わせて減速しながら、男は……ふう、とため息を零す。「──次の次の信号を、左に曲がって」直後、助手席の方から出された指示に「かしこまりました」頷き、ちらりと……横目で客を見やった男は、内心にて笑みを零した。

 

 

 ……けれども……悪い事ばかりではない。例えば、今日……最後の客として乗せて、今も乗せ続けている客たちが、そうだ。

 

 

 今日の最後の客は、女が3人。率直な感想を言わせてもらうのであれば、乗り込んできた時にその顔を拝見した際、男は彼女たちを芸能人かモデルだろうと思った。

 

 それぐらい、彼女たちの容姿が美しかった。そんな、中々お目に掛かれないレベルの美女が二人と美少女が一人。特に、助手席に座っている美少女ときたら……男は、彼女を言い表す言葉が見付けられなかった。

 

 こんなことは初めてだった。というのも、男は……自慢というわけではないが、人を見る目には少しばかりの自信があったからだ。

 

 とはいえ、さすがに見ただけで全てが分かるといった……そんな、オカルトな話ではない。あくまで、『おそらくは……だろう』という程度の代物であった。

 

 

 しかし、だ。

 

 

 短くて10分ほど、長ければ小一時間程度とはいえ、数百、数千人の人間を運び、接してきたからなのか……何時しか備わっていた、職業病とも言うべき観察眼でもあった。

 

 

 まあ、そう思っているだけだろうと言われたらそれまでの話だが……さて、話を戻そう。

 

 

 とりあえずは、だ。後部座席に座った美女二人は、そこまで有るわけでもない男の語彙でも色々と形容詞をくっ付けたり性格を想像したりすることが出来た。

 

 例えば、光の角度によっては茶髪に見える黒髪の彼女。パッと見た限りでは大学生ぐらいだろうが、所作の一つ一つから自信の程が強く伺える。

 

 けれども、男から見た限りでは、それは過信ではないし、自惚れでもない。また、肥大した矜持が見せる、メッキでもない。

 

 

 純粋に、頭が良いのだろうと男は思った。

 

 

 それはテストの点が取れるという記憶力という頭の良さではなく、理論を組み立てる力や発想力……いわゆる、出来の良い人物なのだろうと男は推測する。

 

 根拠は幾つかあるが、何よりもはっきりしているのが……見に纏っている空気だ。これまで男が見て来た、ある種のカリスマ性を持つ者特有の空気を纏っている点だろう。

 

 だから、男の目には……都会に住まうティーンに多く見られる、己の若さを自身の実力と同一視して勘違いしてしまっている者とは、根底から異なっているように見えた。

 

 

(研究者……いや、彼女は自由気ままに世界を渡って行くフリーマン(自由人)なのだろう……そして、隣の彼女は)

 

 

 ちらりと、バックミラー越しに……もう一人の美女である、金髪碧眼の、この国では自分と同じである『外人』を見やった。

 

 

 彼女もまた、美人だ。

 

 

 隣の子とは系統が異なるが、何処へ行っても注目を浴びるであろう風貌をしている。特に、男性からの熱い視線を向けられるだろうなと、男は思った。

 

 

 けれども、それは擬態だとも男は思った。何せ、醸し出す空気が隣の子と同じだからだ。

 

 

 何処となく温和な雰囲気を醸し出しているので分かり難いが、彼女もまた聡明な女性だろう。隣の子が直球的に物事を解決するタイプで、彼女は笑顔の裏で人を気持ちよくさせて誘導し解決するタイプなのだろう。

 

 見方を変えれば、隣の子よりもよほど世間の世渡りが上手いタイプのように思える。この二人が組んで何かに取り組めば、どんな困難も陽気に乗りこなす……まあ、そこはいい。

 

 

(この子は1人でやるよりも、隣の子と一緒にやって行く方が万倍も力を発揮できるタイプかな……それで、だ)

 

 

 問題なのは……己の隣に座る、助手席の少女だ。ちらりと、窓の外を眺めている少女の後ろ頭を見やった男は……ごくりと、唾を呑み込んだ。

 

 

 

 ……今まで色々な女性を見て来た。

 

 

 

 アメフト部に所属していたこともあって、学生時代はそれなりにモテていたし、異性との経験もある。この仕事についてからは、これまで自分の周りにはいなかった様々な女性とコミュニケーションを取って来た。

 

 だからこそ……という言い方も自意識過剰なのだろうが、それでも分かる……彼女は、これまで見て来た女性たちの中でも、『別格』なのだということが。

 

 

 何といえばいいのか……少女を目にした、その瞬間。歴史に名を残すような本物の天才とは、彼女の事を示すのだろうと男は直感した。

 

 

 それは何も、見た目の美しさに限った話ではない。いや、もちろん、顔立ちも綺麗だし、誰が見ても文句のつけようがない美少女だと思った。

 

 少なくとも、少女が後10年歳を経て、己が5年若かったら、仕事そっちのけでアプローチを掛けているぐらいの美少女であると思う。

 

 

 だが、彼女の……少女から感じ取れる底しれなさは、そんな美貌すらも霞むだろうと男は思った。

 

 

 それが何なのか、男にも上手くは説明出来ない。だが、分かる。纏っている空気が、違う。後部座席の二人も常人以上だが、助手席の少女は……モノが違う。

 

 

 ──気付けば、少女の為に何かをしてやりたいと思ってしまう。そう思わせてしまうナニカを持っている。

 

 

 このような子に出会える日が、二度も我が人生に訪れようとは……夢にも思わなかった。彼女を乗せただけでも、この仕事を続けて良かったと、男は本気で思いつつ、ハンドルを切って……ん? 

 

 

(……二度?)

 

 

 思わず、男は目を瞬かせた。

 

 はて、どうして己は二度などと思ったのだろうか……少なくとも、これまで彼女たちを目にした覚えはないし、客として乗せたのも今日が初めて──。

 

 

「──ここで止めて」

 

 

 ──ハッと、反射的に指示器を出して、ブレーキを踏む。急ブレーキにならなかったのは、4年間も仕事で車を運転していたからだろう。

 

 

 ほとんど無意識の内に、前方の安全と、サイドミラーで幅寄せする位置の安全を確認する。何時もよりも少しばかり強めに踏んだブレーキの影響で、かくん、と車体が慣性に揺れて、止まった。

 

 そこは……コンビニでもなければバス停でもなく、住宅街の脇道の出口傍であった。進入禁止の看板があるゆえに車では入れず、脇道の広さもせいぜい……という程度のものであった。

 

 

(ここは……たしか、駅前の都市開発のせいで寂れてしまった覚えが……)

 

 

 少しばかりの懐かしさと共に、男は車を止めたここら一帯の事を思い返し……何故、こんな所に止めたのかと、男は首を傾げた。

 

 

 ……と、いうのも、だ。

 

 

 4年前、この仕事に就いた時はまだ辛うじてこの辺りへの客がいくらか居た。この脇道の向こうには古いディスコが有って、そこへの客を何度か送り迎えをしていた。

 

 だが、それも仕事について半年ぐらいの間だけだし、そもそも……こっち方面の客は多いわけではなかった……そうだったと、思う。

 

 

 ……元々、だ。

 

 

 そのディスコ自体の劣化もそうだが、利用していたのは馴染みの客ばかりで、新規は都心方面にある店に行くという話を客から耳にしてはいた。

 

 古い店よりも新しい店を好むのは仕方がないことだ。特に、血気盛んな若者であるならば、尚更……リフォームするにしても、その間に客離れをされる恐れがあるから、迂闊に動けない。

 

 その結果、客足の減少とやらがジワジワと続いたことでその店が閉められ、そこへの客がいなくなれば……もう、こっちへの客を乗せた記憶が男にはほとんど無かった。

 

 もちろん、全く来なかったわけではない。けれどもそれは、何度か通過点として通り過ぎた事が有る程度で、直近でも……一年以上ぐらい前だったと思う。

 

 

(自宅が……いや、それなら降りる準備をし始めているはずだが……)

 

 

 記憶が確か(加えて、開発等がされていない)なら、この先にあるのはあるのは飲食店やコンビニやスーパーマーケットなど、生活に密接した商業施設ばかりだ。

 

 最近……こっち方面に大きな病院が出来るなんて話は耳にしていたが、まだ土地の売買に手こずっていると聞く。というか、それ以前にいくらスムーズに事が進んでいるとしても、たった2,3年では……と。

 

 

「……二人とも、ちょっとここで待ってて。すぐに戻るから」

「えっ、あの、お客さん!?」

「ああ、それと……あんたも来なさい。車を離れている間は、二人が見ていてくれるから」

 

 

 昔の事を思い返している間に、がちゃりと扉を開けて少女が外へと出た。それは、これまでとは異なる少女の反応であった。

 

 

 ──反射的に、後部座席の二人を見やる。

 

 

 けれども、男が期待した反応は無く「戻るって言うからには戻るんでしょ。いちおう、私たちが残るから、運転手さんはあの子の言う通りにしてください」そんな返事が……いや、そうじゃない! 

 

 ──男の脳裏を過ったのは、この美女たちが何かしらの犯罪に関わっている可能性であった。

 

 金を払わずこっそり逃げる客は、男女共にいた。

 

 だが、このパターンは初めてで、まさか……あんな少女が、そんな大それた犯罪を行うようには……見えない。

 

 ここが海外なら、男はすかさず警察を呼んでいたところだ。子供一人を放り出して行くなんて正気の沙汰ではないし、子供を使った親の犯罪はそこまで珍しくないからだ。

 

 だが、ここは日本だ。男が生まれた、あの国ではない。

 

 子供が一人で一日中外を出歩いているなんて珍しい光景じゃないし……というか、そんな事を考えている間にも、少女はどんどん離れて行っている。

 

 ……警察を呼ぶべきか、あるいはこのまま車の中で待機するのが正しいのは、分かっていた。

 

 だが、考えるよりも前に、気付けば男は運転席を下りていた。「──分かりました、ですが、不審な点が有ったら即座に警察に電話します」脅しの意味を兼ねての発言だが、二人は欠片も怯えはしなかった。

 

「まあ、不審に思うのは当たり前だわね。でもまあ、この美女二人の顔に免じて、ここはあの子の言う通りにしてみてくださいな」

 

「あの子がそうしろっていうのなら、たぶん、そうなのでしょうし……蓮子と一緒にここで待っているから、早く霊夢ちゃんを追いかけてね」

 

 むしろ、逆だ。まるで、男の……いや、『私』の反応は想定済みだと言わんばかりの二人の態度に、私はますます困惑するしかなかった。

 

 けれども、このままでは埒が明かない。

 

 件の少女……名前は、『れいむ』か。何が目的かは分からないが、悪い子でないのは、何となく分かっていた。

 

 だから……というのも変な話ではあるが、私は促されるがまま少女を……いや、『れいむ』という名の少女の後を追いかけることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………幸いにも、少女の歩調はそこまで早くはなく、また、信号などで遮られることもなかったから、あっさりその背中に追い付くことが出来た。

 

 

「お嬢ちゃん、勝手に車を降りるのは困るよ」

 

 

 相手は子供で、次いでに言えば、お客さんでもある。

 

 とりあえず、いきなり叱りつけるのは如何なものかと思って非難混じりに声を掛けてはみたが……少女の歩調は変わらない。

 

 

 ……何となくそうなるだろうとは思っていたが……ふむ。

 

 

 仕方がない……そう決断を出した私は、少女の前に回る。「お嬢ちゃん、何が目的なんだい?」そうして、その顔を拝見した私は……思わず、声を詰まらせた。

 

 

(……何て目をしているんだ)

 

 

 その目の輝きを、何に例えたら良いのかが分からない。だが、私がこれまで見て来たどんな瞳よりもソレは優しく……心を揺さぶるナニカを秘めているように見えた。

 

 引き留める言葉なんて、瞬時に消えてしまった。注意して引き返そうという考えなんて、瞬時に消えてしまった。

 

 

(……なんだ?)

 

 

 代わりに……何かが脳裏を過った。顔も背丈も声も思い出せない、誰かの姿が脳裏を過った気がした。

 

 ……それが何なのかは分からないが、思わず少女の瞳から目を離せなくなるぐらいには……私はもう、どうにもならなくなっていた。

 

 

 そのまま……呆気に取られるしかない私を他所に、少女は進む。

 

 だから……仕方なく、引き留めるのは諦めて、その後を追いかける。自分よりも頭一つ分どころか、三つ分は小さい娘の後に続く……どうにも、不思議な気分であった。

 

 

「……ここね」

 

 

 そのまま、時間にして10分……いや、15分ぐらいだろうか。くねくねと右に左に後を追いかけ続けた背中が止まる。立ち止まった少女に釣られて、視線の先を見やった私は……あっ、と思わず声をあげた。

 

 

 そこは……かつて、何人かの客を連れて行ったディスコであった。

 

 

 あの時の客たちの言う通りに閉店して、それっきり開かれてはいないのだろう。落書きだらけの、地下へと続く入口シャッターには至る所に錆が有り、外壁も同様に劣化の跡が見られる。

 

 まあ、外壁といってもディスコがあるのは地下だ。唯一の出入り口である通路のシャッターが閉じられているから、外からでは、シャッターの向こうが地下になっているなんて、分かるはずもない。

 

 ぼろぼろなのは、ディスコがある建物全体。パッと見たところ、テナントの看板も相応にぼろぼろで……上の階に二つばかり借りられているのが分かるぐらいだった。

 

 

「これ、何て読むの?」

 

 

 懐かしさに浸っている私の耳に、少女の声が届く。見れば、少女はシャッターに印字されたディスコの名前を指で摩っていた。

 

 

「……CYBERIA(サイベリア)だよ。CLUB(クラブ) CYBERIA(サイベリア)……あー、踊って騒いだりする場所だよ」

 

 

 読み方すら分からないのならば……そう思い、私なりに分かりやすく説明を付けてみたが、「ふーん、そうなの」少女は特に興味を惹かれたようには見えなかった。

 

 ただ、少女のそんな態度に引きずられるわけでもないが、確かに少女が言う通り、眼前の少女には、ここは似つかわしくない……と、私も思った。

 

 

(そういえば……あの子も)

 

 

 ふと、思い出す。友達に誘われて行ったあの子も、あまりこういう場所の雰囲気には馴染めなかった……ん? 

 

 

 ……あの子とは、いったい誰の事だ? 

 

 

 そう思った瞬間、するりと脳裏の向こうに何かが消えた。ハッと我に変えてそれに手を伸ばしてみるも……もはや、影すら感じ取れなかった。

 

 

(──また、だ。いったいどうしたんだ……どうにも、デジャヴュを何度も味わっているような……)

 

 

 何かが引っ掛かりそうで、引っ掛からない。靄の中に手を突っ込むかのような違和感に、私は堪らず頭を振った……直後、少女の方から声を掛けられた。

 

 

「ねえ、扉が閉まっているようだけど、もうやっていないの?」

 

 

 そう尋ねられ、私は昔の事を思い浮かべた。

 

 

「……私が知る限りでは、3年ぐらい前には……以前、ここに客を連れて行った事があるから店の事は少しばかり知っているけど、思い出の場所なのかい?」

「そう、見える?」

「全く見えない。だからこそ、不思議だ。それならどうして君がここに来たのかが分からない……わざわざ、何でここに?」

 

 

 純粋な興味で尋ねてみれば、少女はしばし視線をさ迷わせた後、改めて『CYBERIA』のマークを指でなぞると。

 

 

「アイツの気配を追っているのよ」

 

 

 そう、答えた。正直、今の私は呆気に取られた顔をしていると、私自身が思ったぐらいであった。

 

 

「……その、気配なんて分かるのかい?」

 

 

 気配、けはい、KEHAI……これはアレか、年頃特有の『ごっこ遊び』なのだろうか。

 

 

「『勘』で探し当てているだけよ。こうして近づいたら、薄らと分かる。アイツが消しきれなかった僅かな気配……私はそれを追いかけているだけよ」

 

 

 そう、私に話した少女の顔には……笑みが浮かんでいた。けれども、ふざけた笑みではない。そこには、確かな自信と確信も伴っているように見えた。

 

 

(気配……だって?)

 

 

 反面、私の胸中を過っているのは……困惑ばかりであった。

 

 それがどういうものか、さっぱり分からない。辺りを見回し、不自然な何かがあるのかと探してみるが……皆目、見当もつかない。

 

 

 ……少女の言葉が何かの暗喩か、あるいは彼女にだけ分かる戯言なのかは、私には全く分からなかった。

 

 

 ただ、少女は何かの目的を持って動いているのは分かった。

 

 少なくとも、これまでお連れした場所、全てに何かしらの意味がある場所で、眼前の少女だけが、それを理解する事が出来るのだということに……ん? 

 

 

「……そういえば、私をここに連れてきた理由は何ですか?」

 

 

 ふと、肝心な事を聞きそびれていることを思いだしたので、率直に尋ねる。考えてみても、眼前の少女が私をここに連れてくる理由が、全く思いつかない。

 

 

「特に深い理由なんてないわ。ただ、あんたを連れてきた方が良いと思ったからよ」

「は、はあ……そうなんですか?」

「そうよ。まあ、あんたは物の次いでみたいなものだし、そこまで気にしなくていいわよ」

「はあ、そうなんですか……?」

 

 

 残念ながら、少女からの返答を聞いても、私は全く意味が分からなかった。というか、これで理解しろというのが酷なものだろう。

 

 

「……なるほど、似た者同士、か」

 

 

 ……けれども。

 

 

「こうしてあんたの気配を辿っていくと、何となくあんたの気持ちが分かる気がする。岩倉玲音……確かに、私とあんたはどこか似ているのかもね」

 

 

 そう、誰に言うでもなく呟いた少女の言葉を認識した、その瞬間。

 

 脳裏に過った、見覚えのない少女の横顔。俯いて、一人静かに歩いているその姿がフッと目の前に現れて……すぐに消えた。消えて、しまった。

 

 

「……ほら、行くわよ。次が最後だから、もうちょっとだけ頑張って」

 

 

 労いの言葉を掛けてくれる少女の言葉に、ハッと我に返る。振り返れば、少女はもうこちらに背を……と。

 

 

「そういえば、あんたの名前ってどう読むの? 名札みたいなのには英語で書かれていたから分からなかったんだけど」

「か、カール・ハウスホッフです。皆からは、カールと呼ばれています」

「そう、カールさん。もうちょっとの間、お付き合いしてもらうわよ」

 

 

 立ち止まらないままの問い掛けに応えながら、行きと同じくさっさと戻ってゆくその背中を、慌てて追いかける……しかし、その最中に私の胸中を過っていたのは。

 

 

 

 

 

 ──いったい、今の子は誰なのか。

 

 ──私は、どうなってしまったのか。

 

 

 

 

 そんな、不安なんかよりも。

 

 

 

 

 ──あの子は、また一人で蹲っているのだろうか。

 

 

 

 

 そんな……脳裏を一瞬ばかり過ったその子への、どうしようもない寂しさとやるせなさだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……もう、夜だ。

 

 

 

 車に待たせた蓮子とメリーのブーイングを受け、一度近くのコンビニで諸々を済ませてから、さらに数十分。車に乗ってから、もうかなり……既に、空の色は黒色に染まっていた。

 

 街灯の明かりをはっきりと感じ取れる暗闇の中を、タクシーは進む。眠らない街と揶揄される東京とはいえ、全てがそうとは限らない。

 

 

 眠らないのは人口の密度もそうだが、何よりも東京が狭いからだ。

 

 

 歓楽街で働く人たちと、オフィスビルなどで働く人たち。その勤務時間が逆であるうえに、人口密度が高ければ……眠らなくなるのは当然の結果だろう。

 

 故に、見方を変えれば……都心から離れてしまえば、普通に夜は眠るのだ。

 

 既に、退勤ラッシュの時間は大きく過ぎている。なので、霊夢の指示の下に住宅街へとタクシーを進ませた頃には、人通りや車の気配は明らかに数える程度になっていた。

 

 

 そんな、徐々に静けさを増してゆく住宅街の中を進むタクシーが止まったのは……とある一軒家の前であった。

 

 

 その家は、立ち並ぶ様々な形状の家々と比べても、特に物珍しさもない一階が駐車スペースで、二階からが住居となっている、三回建ての、普通の一軒家であった。

 

 敷地を囲うレンガの仕切りの正面に設置されたインターホンに、表札。玄関へと繋がる階段(駐車スペース含めて)と、道路との境には小さな鉄格子が有って、それはぴったり閉じられていた。

 

 

 ……既に、家主は帰宅しているのだろう。

 

 

 駐車場に止められた車もそうだが、カーテンが閉められた二階の窓から明かりが漏れている。テレビの音は……外からは聞こえない。

 

 三階の窓からは……明かりは漏れていない。時刻から考えて寝入っているようには思えないから、帰宅していないか、あるいは二階にいるといったところだろう。

 

 

 ──がちゃり、と。

 

 

 この時も、霊夢は無言のままに外に出た。一拍遅れて、運転手も外に出る。後部座席に乗っている蓮子とメリーは……互いにもたれ合うような形で、すやすやと寝息を立てていた。

 

 まあ、無理もない。家を出発してから今まで、ほとんど乗り物に乗りっぱなしである。

 

 そのうえ、二人からすれば対して面白くもない場所にばかり寄り道させられているから、余計に……若いとはいえ、疲労のあまり寝入ってしまうのも致し方ないことだろう。

 

 それは、結果的には何時もよりも数時間以上に渡って残業することとなった運転手の男もまた、同様である。

 

 何時もとは異なるナニカに落ち着かなかった彼もまた、人の子だ。

 

 体力が続くわけもなく、眠気覚ましの為に買ったドリンクが無かったら、欠伸を一つ二つは零しているところだろう。

 

 その中で、霊夢だけが……何一つ変わることなく、悠然とした様子で、その家を見上げていた。

 

 基本的に暢気にぐうたらしているが異変が絡むと体力オバケになる霊夢が異常なだけなのだが……まあいい。アイドリングを続けているタクシーから、その家の表札へと向かい……確認した霊夢は、辺りを見回した。

 

 

 ……何もかもに、見覚えがあった。その事に、霊夢は特に驚かなかった。

 

 

 立ち並ぶ家々や電柱も、少しばかりひび割れが見受けられるアスファルトも、見覚えがある。少しばかり、記憶の中にある光景とは異なる点が有ったが……有って当然だろう。

 

 何せ、霊夢が見たのは、霊夢が居たのは、ここではない、何処か彼方に消されてしまった場所だから。

 

 だから、そういう細かい違いを、霊夢は全く気にしなかった。まあ、元々が、そういう違いに全く目を向けない大雑把な性格だから、それ以前の話ではあるのだが……ん? 

 

 

「どうしたの?」

 

 

 ふと、霊夢の視線が運転手の男へと向かった。

 

 靡く麦畑を思わせる黄金の髪色に、青い瞳。霊夢の回りではそう珍しくはない特徴を持ったその男は、霊夢の問い掛けに反応するわけでもなく……心ここに有らずといった様子で、3階あたりを見つめていた。

 

 

 ……つられて、霊夢もそこを見やる。

 

 

 そこは、先ほども見た通り、照明の落とされた窓があるだけであった。カーテンが閉められているので、中がどうなっているかは全く窺い知ることが出来ない。

 

 仮に、第三者がこの場にいたのなら。そこに何らかの興味を引くようなモノが見付けられず、男の様子に何度も首を傾げたことだろう。

 

 実際……偶然、タクシーの傍を通り過ぎた第三者は、男の視線に釣られて顔を上げ……不思議そうな顔をして、何度も首を傾げながら遠ざかって行った。

 

 ……そう、そうだ。誰が見ても、そこには何も無い。照明が落とされ、カーテンが閉められた窓がある……ただ、それだけなのだ。

 

 

「あ……ああ……!」

 

 

 なのに……男は違った。男の目に、いったい何が映っているのか……それは、彼以外には分からない事であった。

 

 ただ、平静を維持できないぐらいに衝撃的なナニカを目にしているのは、傍目にも分かった。声を震わせ、涙を目尻に滲ませるその姿は……まるで、そう、まるで。

 

 

「──記憶が無くなったとしても、消えるわけじゃないのよ、カールさん」

「……えっ」

「大の男が、人前で泣くんじゃないの……ほら、二人を起こしてちょうだいな」

 

 

 けれども、第三者とは少しばかり異なる者であるならば、それ以外にも分かることはある。少なくとも、この場に……霊夢だけは、彼の動揺と混乱を正確に理解していた。

 

 そんな、霊夢の言葉にようやく我に返った男は、目尻に浮かんだ涙を些か乱暴に拭い、車へと戻る。少しばかりの間を置いてから、蓮子とメリーが欠伸を噛み殺しながら外へと──と。

 

 

「……うわ、何なの、アレ」

 

 

 眠そうに眼を擦っていたメリーが先ほどまで男が見上げていた3階に視線を向けた途端、ギョッとその場から一歩退いた。

 

 

「あれ、家を改造しているの? 何か電線やら機械やらが滅茶苦茶で、物凄く気持ち悪いんだけど……」

 

 

 おそらくは、彼と霊夢が見たモノと同じモノが見えているのだろう。

 

 

「……気持ち悪いって、何が?」

 

 

 大して、見えてはいない様子の蓮子が、「……寝ぼけてんの?」大きな欠伸を零しながら辺りを見回していた。

 

 

 ……少しばかりの間、霊夢は驚きに目を瞬かせていた。

 

 

 何故かといえば、アレが見えるのは己とカールの二人だけだと霊夢は思っていたからだ。まさか、アレを認識出来るとは……いや、待てよ。

 

 

 ──不意に、霊夢の脳裏に閃きが過った。

 

 

 それはいわゆる『勘』というやつである。今更、そのことに疑問を抱くわけもなく、我ながら突拍子もないなと思いつつも、霊夢は今更になって気付いてしまった。

 

 

 ──こいつら、何かしらの『能力』を持っていたんだな……と。

 

 

 まあ、それも今更だし、その事を責めるつもりは毛頭無い。というか、お門違いもいいところだろうし、霊夢だって彼女たちに隠し事はしていたのだから、言えるわけもない。

 

 

(──っと、気配がちょっと強まった……かしら?)

 

 

 そんなことよりも、気になったのは、だ。

 

 形容しがたい感覚が、するりと通り過ぎてゆく。と、同時に、かちり、と何かが入れ替わったのを感じ取った霊夢は……いつの間にか泣き止んでいるカールを見やった。

 

 

 ……改変させられたみたいね。

 

 

 直後、調べる必要もなく霊夢には分かった。『勘』がどうとか以前の問題で、浮かべている表情や雰囲気が先ほどまでとは異なっていて……そう、車に乗った、最初の頃と同じになっていた。

 

 おそらく……カールはもう、霊夢と同じモノは見えていない。他の人達と同じく、数多にある見知らぬ一軒家にしか見えていないのが明白な反応で……それどころか、泣いていたことすら記憶していないだろう。

 

 

 今更……コレも今更でしかないから、霊夢は驚かなかった。

 

 

 何故なら、霊夢には分かっていた。ここが……この場所は、あいつにとって……『岩倉玲音』にとって、ある種の聖域……そう、心の聖域であるということに。

 

 

 根拠など、何も無い。有るのは、『勘』だ。

 

 

 だが、その『勘』を信じて霊夢はここに来た。ヒントも何も無い、霊夢以外がやれば100年掛かっても見つけ出せないこの場所を……霊夢は、直感だけで探し当てた。

 

 今更、霊夢は驚かない。『勘』が、訴えている。ここに、己の求めていた先が……結末へと続くナニカが有ると、確信していた。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………けれども、だ。少しばかり、霊夢は忘れていた。何も、改変は霊夢の思う通りに行われては来なかったという、抗い様もない現実に。

 

 

 

 

「……ねえ、蓮子」

「なによ、私も眠いんだからそんなに引っ張らないでよ。袖が伸びちゃうでしょうが」

 

 

 今の今まで3階を見上げていたメリーが、不意に蓮子を見やり……次いで、霊夢を見やった後。

 

 

「わざわざ半日も掛けてここに連れてきたのはいいんだけど、そろそろ目的を教えて欲しいんだけど」

 

 

 そう、蓮子に尋ねた。その瞬間、ピクリと目じりを震わせた霊夢とは違い、「は? あんた寝ぼけてんの?」蓮子は深々と欠伸を零し、メリーを見やった。

 

 

「そこの生意気なやつに聞けばいいでしょ。何でわざわざ私に聞くのよ、私が知るわけないでしょ」

「……? なんで、その子に聞くの?」

 

 

 心底、意味が分からない。そう言わんばかりに首を傾げるメリーに、さすがに違和感を覚えた蓮子は、「は? マジで寝ぼけてんの? そいつに聞かなかったら誰に──」胡乱げな眼差しをメリーに──。

 

 

「そう言われたって、知らない子だよ。蓮子の知り合いなら、蓮子から聞いてよ」

 

 

 ──向けた瞬間、そのメリーから放たれた言葉に……蓮子はしばしの間、二の句を告げられなかった。

 

 

「……寝ぼけているにしても、それはちょっと笑えない寝言だわね」

 

 

 辛うじて……そう、辛うじて絞り出したかのような蓮子のその言葉は、傍目にも分かるぐらいに震えていた。

 

 

「寝言って……それはこっちの台詞だよ」

 

 

 だが、そんな蓮子の反応を他所に、心底ワケが分からないといった様子のメリーは……運転手のカールへと声を掛けた。

 

 

「運転手さん、タクシーに乗っていたのは私たちだけだよね。この子はたまたまここにいただけの人だよね?」

「そうですよ。私が乗せたのはお二人だけで、この子はここに立っていただけの少女です」

 

 

 ほとんど間を置かずに成されたカールのその言葉に……ぽかん、と蓮子は大口を開けたまま固まった。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………時間にして、十秒ほどだろうか。

 

 

 ハッと、我に返った蓮子は……凄まじい勢いで霊夢に迫ると、その肩を掴んだ。少しばかりの痛みに顔をしかめる霊夢を他所に、蓮子は……言葉無く、俯いてしまった。

 

 

 ……気持ちは分かる。そう、霊夢は思った。

 

 

 以前の霊夢も、眼前の彼女と同じように酷い混乱に見舞われていたからだ。自分が通った道だからこそ、霊夢は……置かれた手を振り払うことはせず、そっと、震える蓮子の腕を掴んだ。

 

 

 

「ここでお別れよ、蓮子」

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………返事は、無かった。だが、己の言葉をしっかり理解し、言わんとしていることを察しているのが……霊夢には分かった。

 

 

 傍目から見れば、何とも不思議な光景だろう。

 

 

 十代前半の少女に縋りつく20歳前後の女性と、それを困惑した様子で見やる金髪碧眼の運転手と、美女と評価して差し支えのない女性。

 

 カオス……という言い方も何だが、事情を知らなければ、霊夢たちが陥っている状況の一端すら理解出来ないだろう。

 

 

 だからこそ……霊夢は告げた。

 

 

「楽しかったわ、色々と。本当よ、短い間だけど、楽しかった。大変な目にもあったけど、それでも、貴女達と一緒に過ごす日々は……楽しかった」

 

 

 それは、霊夢なりの真心であり……ここまで守ってくれていた彼女たちへの、心からの感謝の言葉でもあり。

 

 

「本当に、ありがとう」

 

 

 そして、別れの言葉でもあった。

 

 

「……行くのね?」

 

 

 それは、蓮子も分かっていた。もう、引き留められない……いや、始めから引き留められない事であると、分かっていた。

 

 

「ええ、行くわ。回り道をしたけれど、ようやく辿り着いた。故に、私は果たさなければならないの。博麗霊夢として、楽園の素敵な巫女として……『異変』を解決する為に」

「……仮にそれが、命と引き換えになるとしても?」

 

 

 だから、蓮子は引き留める為の直接的な言葉を避けて、霊夢の覚悟を問う。行けばもう、二度と会えないことを……蓮子は、薄々と察していたからだ。

 

 どうして命などという物騒な単語が出て来たのか、それは蓮子自身にも分からない。気づけば、蓮子はその言葉を口にしていた。

 

 ただ、その言葉がするりと唇から零れた時、ああ、いつの間にかこんなに絆されていたのだなあ……と。我が事ながら馬鹿だなあ……と、己に苦笑する他なかった。

 

 

「……生まれ持った宿命だとか、そんなのは今の時代ナンセンスだと私は思うわよ」

「少し違う、これは、私の為にやるの。生まれ持った私の責務であるとしても、それを選んだのは私。ままならない事であるにしても、それで良いと思って来たのは、紛れもなく私自身」

 

 

 けれども、そんな蓮子の淡い後悔とやるせなさと……心の片隅にて鎌首を上げる、引き留めたいという想いも。

 

 

「ここで逃げ出せば、もう私は博麗霊夢じゃない。私は、私として胸を張る為に、何時ものように仕事をするだけ。素敵な巫女さんが、素敵に異変を解決し、素敵な宴会を開く……何時もの事なの」

「……それで、本当にいいのね?」

「この立場だからこそ出会えた縁がある。私を信じて送り出してくれた人たちがいる。そして、私の為に動いてくれていた貴方達が居る……私は、それに応えたい」

 

 

 力強い……あの、不思議な輝きを放つ眼を向けられれば……もう、蓮子は何も言えなかったし、言うべきではないと思った。

 

 

 ……勝算はあるの? 

 

 

 そんな言葉を続けたい欲求が、蓮子の中にはある。でも、伝えない。「……そう、分かった」ただ、己の中に渦巻く想いを確かめるかのように、最後にギュッと霊夢を抱き締めた後。

 

 

「……頑張れ」

 

 

 ただ、それだけを伝えると……蓮子は、困惑するメリーと運転手を促してタクシーに乗り込み……軽く手を振ればもう、そのまま車は走り出して……道路を曲がり、霊夢の目からも耳からも消えて……それっきりになった。

 

 その、見えなくなった車を、遠ざかってゆく蓮子たちの気配に耳を澄ませていた霊夢は……一つ、頷いた──その瞬間、かちり、と。

 

 

 

 ──さあ、正念場よ、博麗霊夢。何時ものように、異変を解決するとしますか。

 

 

 

 己の中でナニカ、ひと際大きな何かが外れる音を、霊夢は聞いた。

 

 と、同時に、気付けば霊夢は……己の姿が、幻想郷では御馴染みになっていた巫女装束に変わっている事にも、気付いた。

 

 その事に、霊夢は驚かなかった。何故なら、それが博麗霊夢であるからだ。

 

 何処となく張り詰めてゆく、緊張感。それでいて、気負いもせず。異変解決に身を乗り出す、何時もと同じような感覚で……霊夢は、僅かばかり薄汚れたインターホンを押した。

 

 

 ──ぴんぽん。

 

 

 その音は、思いの外大きく霊夢の耳に届いた。まあそれは、時刻が時刻なので、辺りが静まり返っているのが理由ではあるのだが……と。

 

 

『──はい』

 

 

 インターホンからの応答が、ある。女の声だ。それを聞いた霊夢は……大きく息を吸って、ゆるやかに吐いた後。

 

 

「あんたじゃない。この家に居る、男の方に代わってちょうだい」

 

 

 そう、告げた。

 

 

『──はあ? 悪戯なら切りますよ』

「悪戯でも何でもない。私は、貴女じゃなくて、この家に居る男の方に用があって来た。居るのはもう分かっているから、その人に代わって」

『──お嬢さん、歳は幾つ? カメラで貴方の姿はバッチリ見えているけど……見た所、まだ高校生にも……警察を呼ぶわよ』

「呼ぶのなら、無理やりにでも押し通る。貴女じゃ話にならない、さっさと男の方に代わりなさい」

『──冗談だと思っているの? いいわ、待っていなさい』

 

 

 インターホンに出た女の言い分は、間違いなく正論であった。客観的に見れば、間違っているうえに異常なのは、霊夢の方だ。

 

 でも、霊夢はコレが正しいと思った。この手段でなければ、次に進めないと分かっていた。何故、そう思えるのか……それは、霊夢自身にも分からない。

 

 そう、何も分からない。この一連の騒動が始まってから今の今まで、分からないことだらけだ。分かっている事など、片手で数えられるぐらいしかない。

 

 

 ……全て、『勘』に従った。

 

 

 今まで、『勘』に従って間違ったことは一度としてない。だから、誰よりも、何よりも、霊夢は己の『勘』を信じてここまで来た。これからも、己は己のままに事に当たり、事を成す、ただ、それだけ。

 

 

 ──あれこれ難しい事を考えるのは、自分の仕事ではない。

 

 

 何時ものように、何時ものように、何時ものように……そう、何時ものように。

 

 

 ──私は、博麗霊夢。幻想郷の秩序を保ち、人間にも妖怪にも神にも属さない、揺れない天秤。誰の敵になるわけでもなく、誰の味方になるわけでもない。

 

 

 でも、それで良い、それを選んできたんだ、私は。

 

 そうだ、ずっとずっと、選んできた。無意識の内に、選び取って来た。初めから無いわけでもなく、捨てて来たわけでもなく、最後は自分で選んで……望んで、博麗霊夢となった。

 

 

 そして、今。

 

 私は……博麗霊夢は、おそらくは初めて、義務感だけではない、自らの意志で異変解決へと望んでいる。『博麗』だけではなく、ただの『霊夢』としても……前へ、進もうとしている。

 

 

 

『──もしもし、通話を代わったが、私に何か用か?』

 

 

 

 故に、しばしの間続いていた沈黙が破れ、インターホンの向こうに居る人物が女から男へと切り替わった時……霊夢は。

 

 

「あんたが……いえ、貴方が、この家に住む男の方ね」

 

 

 欠片の動揺も震えもなく、何時ものように……自分らしく、ありのままの不遜な態度でいられた。

 

 ただ……通話の向こうで、何やら女と、たった今切り替わったこの男(おそらく、先ほどの女だろう)との間で、言い合う声が聞こえて来たが……まあ、いい。

 

 

『……そうだ。その言い回しだと、君は私の名前も知らないようだね』

「ええ、そうね。表札を見た限りだと、貴方の名前は……岩倉康男(いわくら・やすお)で、いいのよね?」

『ああ、そうだよお嬢さん。それで、名前も知らなかった私をわざわざ訪ねてきて、何の用だい? でっち上げの脅迫でもするつもりかい?』

「そんなつまらないこと、私がするわけないでしょ。私はね、貴方と話をする為に来たのよ」

『……話を?』

「そう、話をしに来たの。まず、そこからよ。そこが始まりで、そこから行かないと駄目だから」

 

 

 

 ……少しばかりの沈黙が、流れた。

 

 

 

『……その、君が酒や薬に酔っているわけでもなく、明確な意志を持ってここに来ているのは映像越しにも分かる。少なくとも、僕にだってそれぐらいに人を見る目はあるつもりだ』

「うん、それで?」

『こうして、少し話をしただけでも分かる。君は、特別だ。持って生まれたナニカを感じる。10年後……いや、5年後、君が、私が働いている会社に面接に来たら、即時採用したいと思えるナニカを感じる』

「ふーん、そう」

『だからこそ、率直に答えてくれ。いったい君は、何の話をしに来たんだい? 少なくとも、僕にはその心当たりは全くないのだが……』

 

 

 

 それを聞いた霊夢は……その言葉通り、率直に告げた。

 

 

 

 ──『岩倉玲音』の、名を。

 

 

 

 それを告げた時の反応は……少なくとも、霊夢が聞き取れる範囲においては、非常に些細なモノであった。

 

 

 

 

 

 

『……そうか、あの子の名は、玲音と言うのか』

 

 

 

 

 

 声の強さも、色も、何も変わらない。名を告げる前と、ほとんど変わらない。

 

 

『──開けるよ。僕には分からないけど、話さなければならないということだけは分かった』

 

 

 けれども……がちゃん、と玄関扉の鍵が開けられ、チェーンが外される音がして……がちゃり、と扉が開かれ……その向こうより顔を覗かせた、初老の男を目にした、その瞬間。

 

 

 

 

 

 

 ──お父さん。

 

 

 

 

 

 

 霊夢の脳裏を過ったのは、その言葉であった。その声は、何処となく霊夢に似ていたが……間違いなく、あの日……耳にした、玲音の声であった。

 

 

 

 

 

 




90年代風次回予告




無意識の蓋で塞いでいた霊夢の心は今、解き放たれる

己は己のままに、己は己の為に、誰が決めたのではなく、自分が決めたことだから

楽園の素敵な巫女としての想いを取り戻した霊夢は、己の持つ『勘』を頼りに、彼女の残り香を追いかけ続ける

そして、彼女の大切な者のもとへとたどり着いた霊夢は……博麗の巫女として、一人の博麗霊夢として、異変に立ち向かうのであった




次回、東方偏在無lainの章:その2


霊夢は、その答えを見つけることが出来るのか……まだ、誰もその行方は知らない


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lainの章:その2

彼女はそこにいた。おそらく、幻想郷が出来る前から、妖怪が生まれる前から、人が己を人として認識したその時から、彼女はそこにいた。肉体を持たなくとも、器を持たなくとも、自我を持たなくとも、彼女という存在は人が人として存在したその時点から、そこにあった。

霊夢はそこにいた。けれども、彼女はずっと後に現れた。幻想郷が出来て幾百年の後、妖怪が生まれてから数万年の後、人が己を人として認識してから数百万年後に、彼女は現れた。肉体を持ち、器を持ち、自我を持ち、他者から霊夢と呼ばれた彼女は、己を霊夢と認識した。


それは、人々の無意識が選んだ結果なのか、それとも、もっと巨大な……彼女ですら認識できない大いなる存在の意思なのか、それは誰にも分からない


だが、答えは得た。故に、霊夢は前へと進む


 

 

 ──妻と先に少し話すから、君はまず中へ。

 

 

 

 

 その言葉と共に家の中へと入った霊夢は、ぐるりと周囲を見回す。

 

 造形などへの関心の薄い霊夢が、まず抱いた印象は、以前の……あの時に見た光景とは少しばかり違うという、曖昧ではあるが正直な感想であった。

 

 まあ、考えてみればそれは当たり前だろう。全体的に見れば同じでも、あれは、言うなれば……存在しているのかしていないのかよく分からない世界での事。

 

 対してこっちは、実際に人間が……それも、二人の人間が生活している場所だ。照明の明るさというか、浸みついている臭いというか……雰囲気が、明らかに異なっている。

 

 

 いわゆる、生活圏……いや、生活感というやつだろうか。

 

 

 この家には、命が息づいている。かつて、霊夢が訪れたあの時との違いは、ソレだろう。同じ光景でも、こうまで印象が変わるのかと、霊夢は内心にて感心していた……と。

 

 ふと……霊夢の視線が……チラチラとこちらを睨みつける女(おそらく、康男の妻だろう)とかみ合う。先ほどの康男とは違い、その視線には……明らかな敵意が漏れ出ていた。

 

 

 ……名前は知らないが、彼女が怒るのも無理はないし、不審を抱くのも無理はないと霊夢は思った。

 

 

 客観的に見れば、霊夢というのは二人の世界に入って来た異物だ。それも、ただの異物ではない。妻である女の視点から見れば、自分たちの平穏を壊しかねない異物だ。

 

 自分(妻)は全く身に覚えがないのに、夫(康男)は心当たりがある異物。そのうえ、その異物が年若い女で、明らかに一般人ではなさそうな風貌(しかも、美少女)ともなれば……思う所が無い方が、不自然だろう。

 

 

 ……まあ、年若いどころか10代前半の未成年なところが、逆に気になるのだろうが……まあ、いちいち説明する必要はない。

 

 

(……何でかしらね、あんたは蚊帳の外というか、場違いというか……まあ、どうでもいいか)

 

 

 何故なら、霊夢の『勘』が訴えている。彼女は……康男の妻は、無関係だ。『岩倉玲音』との関係は有ったのだろうが、康男に比べて酷く希薄だ。

 

 おそらく……『岩倉玲音』は、彼女とは仲が良くなかったのだろう。そう、霊夢は思った。あるいは、彼女が関心を持っていなかったか……まあ、そこもいい。

 

 

「──何時までもそんな場所で立たせて、申し訳ない。とりあえず、私の書斎に行こう」

 

 

 遠目にも納得いかないと顔に書いてある妻の……敵意丸出しの視線に気づいた康男が、気を利かせてそんな事を告げた。

 

 霊夢自身としては、場所は何処でもいい。しかし、立ちっぱなしも疲れるので、その提案に頷いて玄関から上がる。

 

 

「──ちょっと、まだ私は納得していませんよ!」

「君に納得して貰う必要はない。彼女は、僕にとってとても重要なお客様だ」

「──わ、私は貴方の妻よ! せめて、私を納得させてからが筋ってものでしょう……!」

「夫婦といえど、プライバシーはある。今更、それを僕に説明させるのかい?」

「わ、私はそんなことを言っているんじゃなくて……」

 

 

 途端、不満タラタラの妻が声を荒げた。けれども、直後に告げられた康男の言葉に怯んだのか、明らかに声が小さくなった……どうやら、男女間のパワーバランスは康男の方が上のようだ。

 

 

 ──書斎は、廊下の突き当たりだ。

 

 

 サラッと告げられた康男の指示に従って廊下を進み、書斎部屋と思わしき扉を開ける。広さにして10畳~12畳ぐらいのその部屋は、想像していた通りの内装をしている。

 

 部屋の半分を占める本棚(棚には、書籍がぎゅうぎゅうに詰まっている)と、ソファーとテーブル。テレビは無く、調べ物用と思わしき装置(そう、霊夢には見えた)には、布のカバーが被せられていた。

 

 

(……どうしてかしら、少し懐かしい気がする)

 

 

 全く身に覚えのない光景なのに、どうしてか、霊夢は心の奥が少しばかりざわつくのを感じた。それが霊夢自身から来るものなのか、それとも『岩倉玲音』の影響なのかは、分からないけれども。

 

 

 ……パッと見回した限り、この書斎は康男のプライベートルームみたいなものなのだろう。

 

 

 見える範囲に、女っ気がまるで無い。女っ気とは何かという話になるが、そうとしか霊夢には言えない。強いて、霊夢がそう判断したのは……臭い、だろうか。

 

 この部屋には、女の臭いがしない。それが、答えだろう。

 

 女として生まれ、女として育てられ、物心がついてから10年近く。何というべきか、霊夢の身の回りに居た者たちから感じ取れていた、そういったモノがこの部屋からは全く感じ取れなかった。

 

 

 

 ……言っておくが、不愉快というわけではない。

 

 ただ、不思議な事に……そう、不思議な事に、『どこか落ち着かない』という感覚を、霊夢は覚えていた。

 

 恐怖、ではない。緊張、でもない。ただ、落ち着かない。どうにも、腰が浮ついてしまいそうになる。

 

 それはまるで、幼少の頃より暮らしていた紫の住処である『迷い家(マヨヒガ:伝承にある迷い家とは別)』から離れ、博麗神社にて暮らすようになってすぐの頃のような……ん? 

 

 

(……アレは?)

 

 

 霊夢の視線が、本棚の……一番真新しい本棚の最上段に収められている……ひと際分厚い本に留まる。タイトルが英語で書かれている洋書だが……どうにも、気になる。

 

 とはいえ……有ったところで、霊夢は英語が読めない。

 

 何せ、幻想郷では漢字(漢文)と日本語が主流だ。英語(それ以外の外国語も含めて)は、魔法に携わるごく一部の者と、河童などの外界より流れ着く者を取り扱う者ぐらいしか使わないからだ。

 

 なので、霊夢にとって、洋書などは子供の落書きでしかない。でも、その落書き同然の書物が……どうにも、気になって仕方がない。

 

 

(…………ふむ)

 

 

 康男の背の高さからすれば余裕で届く(康男の書斎なのだから、当然だろう)高さだが、霊夢の背丈では無理だ。脚立などがあればそれを使うが、当然、そんなものは置いていないだろう。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………隠した所で意味もなさそうだし……まあ、いいだろう。

 

 

 時間にして5秒程考えてから結論を出した霊夢の身体が、ふわりと大地を離れる。久しぶりに感じる重力から解き放たれるこの感覚にしばし身体を馴染ませながら……さて、と目当ての本を抜き出した。

 

 ……が、予想以上に重い。それを、霊夢は埃一つないテーブルへと置いた。

 

 改めてみれば思っていた以上に分厚く、表紙を開いてみても……やはり、一文字も解読できそうにない。というか、これが英語なのかどうかすら、霊夢には分からなかった。

 

 

「──お待たせした」

 

 

 でも、戻すのはどうも……と考えていると、康男が部屋に入って来た。振り返れば、康男は両手でトレーを持っており……その上には、ポットとカップと……洋菓子が乗せられた皿などの一式が置かれていた。

 

 

「……それは?」

「長丁場になるかもと思ってね。どうにも機嫌を損ねた妻は軽食を作ってくれなさそうだ。申し訳ない、腹の足しにもならないとは思うけれども……」

「とんでもない、茶菓子どころかお茶を出してくれるだけでも嬉しい限りよ」

「そういって貰えると、有り難い……ああ、いいよ。君は座っていて、こういったもてなしをするのは、僕の趣味でもあるから」

 

 

 手伝おうとした霊夢を手で制した康男は、トレーをテーブルの空いたスペースに置くと……実に手慣れた様子でカップを並べ、そこにお茶を……あまり嗅ぎなれない匂いを放つソレに、霊夢は目を瞬かせた。

 

 

「それって紅茶? それにしては、何だか私が知っているソレとは匂いが違うわね」

「僕もあまり詳しくは知らないんだが、良い紅茶だと思うよ。それなりの値段をしたからね」

「ふーん、ご丁寧にお高いお茶を……その茶菓子は? ずいぶんと変な形をしているのね」

「おや、マドレーヌを知らないのかい? 名前は知らなくても、一度は食べたり見た事はあるだろう?」

「あいにく、私が住んでいた所は異文化には疎いの。茶菓子はもっぱら煎餅か団子で、時たま羊羹か……ああ、前に一回だけ『かすていら』を食べたぐらいかしら」

「なるほど……古風な暮らしをしていたんだね」

 

 

 雑談を交えながらも、テキパキとお茶をカップに注ぎ、テーブルを挟んだ霊夢の前に並べてゆく。ものの5分としない内に準備を終えた康男は、どかりとソファーに腰を下ろした。

 

 それを見て、改めて霊夢もソファーに腰を下ろす。ソファーの大きさと数の関係(ソファーは一つしかないので)から、必然的に霊夢と康男は、同じソファーに……つまり、並んで座る形になった。

 

 

 ……少しばかり、心が浮つく。けれども、嫌な感じはしない。

 

 

 視線を向ければ、見下ろす康男の視線が交差する。どう言い表せば良いのかは霊夢自身にも分からなかったが、不快感を催す類の視線でないのは明らかだった。

 

 

「娘が居たら──」

「え?」

「もし、僕たちに娘がいたら……君ぐらいの、あるいはもう少し年上の娘が、こうして一緒に座っていたかもしれないな……」

 

 

 何となくタイミングを見失って視線を外さないままでいると、ポツリ、と。まるで何かを思い出すかのように目を細めた康男が、そんな事を呟いた。

 

 

 ……仮に、だ。

 

 

 霊夢の視線が、改めて康男の全身を上下する。寝間着……というよりは、部屋着だろう。年齢相応(または、見た目相応?)に皺が見られる顔立ちは、世辞を抜きにしても……おじさんと呼ばれる部類の人物だろう。

 

 康男のような風貌の男は、幻想郷にもそれなりに居た。さすがに日常的に肉体労働の多い幻想郷の者たちよりも小柄な体格ではあるが、雰囲気は似ている。

 

 

 けれども……不思議と、違うと霊夢は思った。

 

 

 何がどう違うのかは、当の霊夢にも分からない。だが、訴えている。霊夢の中にあるナニカが……『勘』が……この男だけは、他とは異なる特別な存在であると……訴えているような気がしてならなかった。

 

 

 ……物怖じした事は一度としてない。だが、どうにもこの男の前では……完全な平静でいられる自信が霊夢には無かった。

 

 

 それが、あまりに不可解であり、霊夢にとっては理解の及ばない事であった。もしかしたら、父を前にした娘とは、このような感情を覚えるのだろうか……それも、分からない。

 

 

 ……でも、嫌ではない。そう、嫌では、けしてないのだ。

 

 

 少しばかりの気恥ずかしさを覚えた霊夢は、自然と視線を動かせば、隣の康男から眼前の茶菓子一式へと向けられる。

 

 せっかくの厚意だものと判断した霊夢は、とりあえず喋りを良くする為にもカップに手を伸ばし──へえ、と内心にて感心した。

 

 お茶(主に、緑茶)にはうるさいが、紅茶には対してはそこまで興味を持っていなかった霊夢でも、一口で上等だと分かる味わいと香りと、後味の良さであったからだ。

 

 

 ……何時も飲んでいる緑茶とは根本的に味わいが異なるが、これも悪くはない。

 

 

 正直、機会が有ればまた飲みたいなと内心にて紅茶を褒め称えつつ……隣のマドレーヌを、フォークで一口。途端、慣れないながらも甘美としか思えない味わいに、霊夢は堪らず頬を緩めた。

 

 

「……お気に召して、くれたかい?」

「ええ、とっても。外の世界には、こんなにおいしい御菓子があるのね」

 

 

 あまりに美味しくて、気付けば皿は空になっていた。

 

 それを見た康男が気を利かせて「僕のも、食べるかい?」と促されたので、霊夢は頷いて康男の分のマドレーヌにもフォークを突き刺した。

 

 けれども、今度はもう少しゆっくり食べる。紅茶を挟みながら食べれば、互いの味わいがより深まる事に気付いたからで……その顔は、実に幸せそうであった。

 

 康男も、あくまで霊夢が遠慮しないようにと自分の分を用意しただけなのだろう。美味しそうに頬を緩ませている霊夢を見て微笑むだけで、ゆっくりと紅茶を啜っていた。

 

 ……そうして、霊夢が二人分のマドレーヌを平らげた後。

 

 

「そういえば……自己紹介をしていなかったね」

 

 

 ふと、思いだしたように康男は言葉を零した。そういえばそうだったと、霊夢も今更ながらに名乗っていなかった事に気付いた。

 

 

「既にご存じの通り、僕の名は岩倉康男(いわくら・やすお)だ。君の名は、何と言うんだい?」

「博麗霊夢。他の人達からは霊夢とか巫女様とか呼ばれているけど、とりあえずは霊夢と呼んでくれればいいわよ」

「はくれい、れいむ……ふむ」

 

 

 康男は何度か噛み締めるように霊夢の名を呟きながら、テーブルに取り付けられた小さな引き出しより取り出したメモ帳とペンを、「──どんな字なんだい?」霊夢の前に置いた。

 

 促されるがまま書き記せば、「……珍しい名字だし、古風な名前だね」そんな感想を返された。霊夢からすれば、大して珍しくもない名前でしかないが……まあ、そこはいい。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………それが、ある種のキッカケになったのだろう。

 

 

 気付けば、霊夢は……ポツポツと、それでいて一つずつ……康男へ、己が知っている全てと、辿ってきたこれまでの日々を語り始めた。

 

 自分が暮らしていた幻想郷の事。そこで暮らす人間と妖怪たちの事。この世界と幻想郷を隔てる壁の事。何もかも、得て来た情報の全てを。

 

 そして、『岩倉玲音』の存在によって異変が起こり、幻想郷から弾き出されてしまい、この世界に住まう親切な二人の女性に助けられた事まで。

 

 それは、事情を知らない第三者からすれば、荒唐無稽もいいところな内容だったことだろう。

 

 少なくとも、霊夢がこの世界の人間であったならば、失笑して無かった事にするぐらいの話だ。霊夢もそれが分かっているからこそ、全てを信じて貰おうなどとは考えていなかった。

 

 

 何せ、説明の初っ端が幻想郷に関してだ。

 

 

 この世界では存在を保てない妖怪たちが暮らす、隠された世界。そこでは人間と妖怪とがある種の共存関係を構築しており、そこでは、この世界から拒絶されたり忘れられた存在が暮らしている。

 

 吸血鬼に人狼、一つ目小僧に天狗に鬼、魔法使い。(元)月の住人に、地底に住まう土蜘蛛に、河童に唐傘お化け、毘沙門天の代理。現人神に、本物の神様。

 

 霊夢のような『程度の能力』を持っている者もいれば、特殊な力を持たない人も大勢いる。かと思えば、首を落とされようが全身を焼かれようが復活する不老不死までいる。

 

 

 そんな話をいきなり信じろという方が、無茶というものだろう。

 

 だが、しかし……康男は、霊夢が想像していたような反応をしなかった。

 

 

 不思議そうな顔をしたり、驚いたような表情を浮かべたりはするものの、けして……霊夢が嘘を付いているといったような、疑いの眼差しは向けなかったのだ。

 

 いや、それどころか、霊夢の言葉は全て事実であると確信しているかのような素振りさえ見られた。

 

 

 分かりやすく話を纏めて伝えるという慣れない作業に四苦八苦する霊夢を手助けするかのように質問を入れ、あるいは、思考の整理を手助けするような言葉を掛けて……等々など。

 

 元々、霊夢は回りくどい言い回しはしない(ただし、皮肉の掛け合いはする)主義である。

 

 夜が明けるまで……は、言い過ぎだが、相応に時間が掛かると思っていたのだが、康男のアシストもあってか、霊夢が語れるだいたいの部分を終えるまで、それほど時間は掛からなかった。

 

 ただ……時間が掛からなかったとしても、それに比例して理解が早まり答えが出るかと言えば、そうではない。

 

 霊夢が知りたいのは、此処から先……『岩倉玲音』へと繋がっている道筋だ。目的云々以前に、そもそも、そこすらまだ分かっていないのだ。

 

 現状、霊夢が此処を訪れた理由は、そうすれば『岩倉玲音の下に辿り着ける』と、『勘』が訴えていたからだ。然るべき場所に、然るべき手順を踏まえて、然るべき時に向かえば良いと、直感が訴えたからだ。

 

 言うなれば『勘』に従っただけで、霊夢自身は未だに分かっていない部分が多過ぎる。

 

 だからこそ、霊夢は一切を隠さずに全てを話した。話せる限りの部分を、分かっていない部分も含めて全て、話した。それで、現状の停滞を切り崩せると思っていたからだ。

 

 

「……では君は、僕との対話で『岩倉玲音』との道が開けるようになると、その超常染みた的中率の直感で判断し、ここへ来た……と?」

「そういうこと……で、感想は?」

「ふむ、率直な意見を言わせて貰うと……」

 

 

 だが、しかし。

 

 

 しばしの沈黙の後、すっかり温くなった紅茶を一口啜って唇を湿らせた康男は……居住まいを正してから、では、と一言で告げた。

 

 

「はっきり言えば、期待に沿えそうにない。君がとても重大な問題に直面しているのは分かったが……その問題に、僕はどのように力を貸せば良いのかが全く分からない」

「まあ、そうでしょうね。尋ねてきた私自身、ただ貴方に話しただけで全部上手く行くなんて思ってないもの」

「……でも、間違っているとも思っていないのだろう?」

「そう、間違っていない。私の『勘』は、これが正解だって訴えている。だから、これで正しい……はずだと、思う」

 

 

 こうして話し終えた後……そこから先は、霊夢にとっても全くの未知であった。

 

 何せ、実際に体験してきた霊夢ですら、思い返せば何が何やら分からないままにここまで来たという感想しか出てこないのだ。

 

 それを、たった今事情を聞いた第三者の康男が、いきなり解決の糸口を導き出せというのは……暴論を通り越して、無茶苦茶な話でしかなかった。

 

 しかも、康男は幻想郷とは全くの無縁の一般人。そのうえ、霊夢とは初対面であり、顔を合わせるどころか、その存在を認識してから半日と経っていない。

 

 いくら何でも、それでいきなり正解を導き出せというのは無茶というか……うん、無茶苦茶な話だろう。

 

 故に、康男の言い分も……さもありなん、と霊夢も全面的に納得するしかなかった。というか、さすがの霊夢ですら、それ以外に思う方が無理な話であった。

 

 

「──ところで、ずいぶんと難しい本を取り出したね。中身も文章も小難しいやつだし翻訳もされていないやつだけど、読めるのかい?」

 

 

 とりあえず、一旦仕切り直しにしよう……その為にも軽い雑談……といった様子で、しばし訪れていた沈黙を破って、康男が話を切り出した。

 

 もちろん、それが分からない霊夢ではない。というか、霊夢も、沈黙がこのまま続くのが少しばかり嫌だったので、話に乗った。

 

 ……他人はそれを、『暢気』とも『楽観的』と呼ぶのだろうが、まあいい。

 

 くぴっ、と紅茶を一口、二口。それで気持ちを切り替えた霊夢は、「読めないわ、こんなの」思った事をそのままに返事をした。

 

 

「私の『勘』がこれを取り出せって囁いたのよ。だから、これが何なのかは私には分からないわ……随分と本がいっぱい置いてあるけど、学者か何かなの?」

「いや、違うよ。あそこに有る本は全て、僕の趣味みたいなものさ。そういった専門書は半分ぐらいで、もう半分は推理小説の……専門家と比べたら、取るに足らない井の中の蛙みたいなものだよ」

「ふーん、ずいぶんと勉強熱心なのね」

「只のモノ好きなだけだよ。一時期、そういった本にハマっていたんだ」

 

 

 その言葉と共に、康男は大きく深呼吸をした後。「……君だけに教えておこう」フッと、視線を遠くした。

 

 

「何時の頃からかは分からないが、僕はある時から、不思議な夢を見るようになった」

「……夢?」

 

 

 首を傾げる霊夢を尻目に、そうだよと康男ははっきりと頷き……その視線が、テーブルの上の皿だけになったそれらへと向けられる。

 

 

「夢の中の僕は椅子に腰かけ、テーブルに肘をついている。テーブルの上には紅茶の入ったポットとカップと、美味しいマドレーヌが置かれている……そう、今みたいに」

「……それで?」

「僕はそこで、女の子を待っていた。どうして待っているのかは分からないし、どうして女の子なのかも分からなかった。けれども、僕はその子が来るのをずっと待っていた。紅茶が冷め、夢から覚めるその時まで、ずっと……」

「…………」

「何度も何度も、僕は同じ夢を見た。稀に、気配を感じる時はあった。視線らしきモノを感じることだって、あった。でも、その子は一度として僕の前に姿を見せず、何時も冷めてゆく紅茶を見つめる他なかった」

「もしかして、それが?」

「いや、それは分からない。おそらくそうだろうとは思うけど、何せ、名前はおろか姿すら見た事がない。君から名前を聞いた時に、きっとそうなのだろうと……確信めいたナニカを感じたけど、確証は無いんだ」

 

 

 その言葉と共に、康男の視線がテーブルから……霊夢へと向けられる。

 

 

「もしかしたら……僕は今日、何時もとは違う何かが起こることを予感していたのかもしれない」

「どうしてそう思うの?」

「このマドレーヌも、紅茶も、今日の仕事終わりに……急に、今夜にでも必要になると思って買ったからさ」

「……え?」

 

 

 目を瞬かせる霊夢を見て、「ね、不思議だろう?」康男は心底おかしそうに笑みを零した。

 

 

「何故かは分からないけれども、必要になると思ったんだ。今日の夜、絶対に必要になると。そのうえ、どうしてかそれが自分の為になると確信を持っていたんだ」

「……まさか、貴方も私と似たような直感でも?」

「あははは、そんなの無いよ。生まれてこの方、宝くじに当たった事もないし、ビンゴゲームでは何時も下から数えた方が早いくらいさ」

 

 

 おかげで、君の顔を見た瞬間に運命という言葉の実在を信じる気持ちになったと、康男は言葉を続け──不意に、寂しそうに視線を逸らした

 

 

「だから、あの子の名前が分かった時は嬉しかった。僕が夢の中で待ち続けているあの子の名が、玲音という名だということが分かって……嬉しかった」

「…………」

「何度も言うが、確証は無いよ。でもね、不思議とそれが真実だって僕には分かるんだ。あの女の子の名は、玲音。そして、僕が夢の中で待ち続けているのは……君が見つけ出そうとしている、『岩倉玲音』だということを、ね」

 

 

 そう告げた康男の顔は……どこか、寂しそうだった。

 

 そして、どうしてか……その寂しそうな顔を見て、霊夢が抱いた感情は……罪悪感だった。

 

 

(……おかしい)

 

 

 やはり、どうにも変だ。初対面であるこの男の傍に居ると、どうにも気分が落ち着かなくなる。悲しくもないのに、気持ちが高ぶりそうになる。

 

 

 ──もしかしたら私は今、『岩倉玲音』の影響というか、干渉を知らず知らずの内に受けてしまっているのだろうか? 

 

 

「……ちなみに、これって、どんな本なの?」

 

 

 とりあえず、このまま黙っているとますます気分が変になりそうだ。

 

 そう判断した霊夢は、気持ちを切り替えるのも兼ねて、手元に有るその本について尋ねてみた。

 

 

「ふむ……詳しく説明すると長くなるけど、大雑把に言うなら、これは『記憶』に関する論文……というよりは、著者の見解が記された洋書だよ」

「……記憶?」

 

 

 早速出てきた聞き捨てならない単語に、霊夢の目じりがピクリと動く。

 

 けれども、康男は気付いた様子もなく霊夢の手から本を受け取り、「諸説ある内の、一つだよ」彼なりに噛み砕いた、その洋書の中身を語り始め──。

 

 

 

 

 

「……まさか」

 

 

 

 

 

 ──ようとして、不意に。ページを捲っていた康男の手が、止まった。

 

 

 当然、『勘』は鋭くとも心など読めるわけもない霊夢には、康男の内心など分からない。「なに、何か分かったの?」故に、霊夢は率直に理由を尋ねた。

 

 

 けれども、康男はすぐには答えなかった。

 

 どうして答えないのか、霊夢には分からなかった。

 

 

 だが、康男が何か……そう、重大なナニカに気付いたということだけは、霊夢にも分かった。そして、それは己に関する事……という事も、霊夢には分かっていた。

 

 何故なら、恐る恐るといった様子で向けられた康男の視線が……明らかに、先ほどとは異なっていたからだ。

 

 

 それは、困惑であり、憐憫でもあった。

 

 

 そして、怒り……何に対して怒れば良いのかが分からないといった感じの、沸々と中途半端に沸き立っているかのような……直後。

 

 

 

 

 

 ──まさか、これが答えなのか? 

 

 

 

 

 

 絞り出すかのように、康男はそんな事を呟いた。当然、聞き捨てならないその言葉に霊夢は反応するが……それを尋ねる事が出来なかった。

 

 それをするには……あまりに康男の態度というか、先ほどまでと雰囲気が異なるというか……とにかく、霊夢の胆力を持ってしても判断に迷うぐらいに、康男の反応がおかしくなったのであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そのまま、どれぐらいの間、沈黙が続いたのか……正直、霊夢の感覚としては小一時間ぐらい続いたような気がする。

 

 

 

 その間、康男は……非常に、迷っているように霊夢には見えた。

 

 

 己が気付いた事を伝えるべきか、否か。

 

 

 どちらを選ぶのが正しいのか。それを伝える事で、霊夢がどう思うのか……その迷いが、康男の唇を閉ざしているのは、霊夢にも分かっていた。

 

 

「──教えて、何に気付いたの?」

 

 

 だからこそ、知りたいと訴えた。

 

 

 それが、己が傷つく結果になろうとも。

 

 それが、知らない方が良かった事だとしても。

 

 

 それでも、霊夢は知りたいと思った。知らなければならいことだと思ったからこそ、霊夢は……気付いたことを教えてほしいと、康男に言った。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、少しの間を置いた後。

 

 

「……これはあくまで仮説で、真実とは限らない。それでもなお、聞きたいのかい?」

「聞きたい。ううん、多分、貴方からじゃないと駄目だと思う」

「僕は専門家でもない、ただの会社員だ。『岩倉玲音』に関係しているとしても、僕自身には何の力もない……その僕の、仮説でも?」

 

 

 その言葉を前に、まっすぐ、霊夢は康男の瞳を見上げる。そこに、迷いはなかった。

 

 何故かは、分からない。でも、分かる。どうしてか、分かる。彼(康男)の言葉であるならば、辛くとも自分は受け入れられる……と。

 

 

(──ああ、だから)

 

 

 故に、霊夢は気付いた。どうして『勘』がここへ導いたのかを。

 

 理由は分からなくとも、前に進む為に必要な相手が彼であるからこそ、『勘』が霊夢をここに導いたのだと……霊夢は気付いたのであった。

 

 だからこそ……チラリと、康男の視線が霊夢から外れ、手元にあった本(先ほど、霊夢が手渡した本だ)に向けられて……すぐ。

 

 

「……記憶とは何か、君は考えた事はあるかい?」

 

 

 霊夢は、特に面食らったりはしなかった。何でいきなりそんな事を……とも思ったが、そのまま話に乗る。

 

 康男なりに、少しでも霊夢が受け入れやすいようにと言葉を選んでいる途中なのだということが、分かっているからだ。

 

 

「哲学とか、そういうのは一度として考えた事はないわね」

「……まあ、見方を変えればそのようにも取れるだろうね……で、ここに記されている『記憶』の正体。著者はそれを、脳が受けた刺激に過ぎないと結論付けている」

「……刺激?」

「つまり、人間が『記憶』だと思っているモノは所詮、脳に起こったシステムの変化でしかなく、人が思っているよりもずっと記憶というやつは不確かなモノってことだよ」

「……ごめんなさい、まるで意味が分からない」

 

 

 そういった事を考えた事がない霊夢には、難し過ぎた。

 

 視線で説明を促せば、康男は顎に手を当てて考え込み……次いで、霊夢でも分かるように選んだ言葉で説明を始めた。

 

 

「例えば、『性格』というやつは、突き詰めて考えればその正体は何だと思う?」

「性格って、あの性格? その正体って……考えたことすらないわね」

「この著者は、性格の正体を『蓄積された記憶』だとしている。つまり、性格というのは結局の所、積み重なった脳への刺激が形作ったものだということだね」

「いや、性根の違いってあるでしょ」

「それも、結局は脳が受け取る刺激に対する反応の、個体差でしかない。それを性根と呼ぶのだけれども、全ての人は、外界からの刺激によって性格を……自我ってやつを形成するってことだよ」

「……何だか味気ないというか、それってずいぶんと絡繰り染みた考え方ね」

「僕もそう思う。でも、この著者の面白い点はね……ならば、『記憶』というモノを遡り続ければ何処へ到達するか……それについても考えているという所だよ」

 

 

 その言葉と共に、康男は再び本を開く。パラパラと捲られたページが止まり、中を向けられたので身を寄せて見やれば……そこには、様々な生き物の絵が記されていた。

 

 そこに、類似性は見られない。少なくとも、霊夢が見た限りでは。

 

 猫のようにびっしりと毛が生えているやつもいれば、魚のように滑らかな表皮を持っているやつもいる。中には、霊夢が知る生き物どれにも該当しない、不思議な姿をしたやつもいた。

 

 

 ──これらの生き物には、一見すると共通点は無い。

 

 ──でも、一つだけ絶対的な共通点があると、本に記されている。

 

 ──それが何か、君には分かるかい? 

 

 

 そう康男より尋ねられた霊夢は、しばしの間、本を睨む。けれども、そういった知識はおろか、考えた事すらない霊夢に正解を見付けろというのも……無理な話であった。

 

 

「答えは……『集合的無意識』だよ」

 

 

 なので、さっさと諦めた霊夢に返された答えが、ソレであった。

 

 

 ──ここで、その言葉が? 

 

 

 霊夢の脳裏を過ったのは、蓮子の事。あくまで仮説の段階ではあったが、蓮子は『岩倉玲音』の正体を『集合的無意識』だとしていたが……。

 

 

「……納得がいかないって顔をしているね」

「そういうわけじゃないけど……」

 

 

 当然、そんな答えに納得がいかない霊夢ではあったが、「──なら、考えてみてほしい」続けられた言葉に、霊夢は……目を瞬かせた。

 

 

「そうだね、例えば、本能って具体的に何だと思う?」

「そんなの、ご飯食べたり便所に行ったり、子供産んだり育てたり、そういうやつでしょ。生まれながらに出来るようになっているってやつ、前に紫から教えてもらったわ」

 

 

 それを聞いて、康男は一つ頷いた後。

 

 

「それじゃあ……その生まれながらに出来るって、どうしてだと思う?」

 

 

 そう、尋ねてきた。正直、霊夢は何を問われているのかさっぱり分からなかったが……とりあえず、思った事をそのまま口に出した。

 

 

「え、いや、どうしてって、それをしないと死んでしまうから……」

「どうして、死んでしまうんだい?」

「そりゃあ、ご飯食べないと飢えて死ぬからでしょ」

「そう、飢えて死ぬ。どんな生き物も、外部より生命を維持する為の物質を取り入れないと、死ぬ。取り入れる物質に違いはあるにせよ、そこはどんな生き物も変わらない」

「……何が言いたいの?」

「言い換えれば、どんな生き物も『死』を理解しているからこそ、『死』を避けようとする。誰に教えられたわけでもなく、どれだけ原始的な生き物でも、どれだけ複雑な生き物でも、まるで申し合わせたかのように生存への行動を取る……それは、何故だい?」

「……さあ、私には分からない」

「この著書には、記されている。それこそが『集合的無意識』であり、人が本能と称するそれらは全て、『集合的無意識』によってもたらされた記憶であり……全ての生き物は、この無意識という名の海によって繋がっている、とね」

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………言っている意味がよく分からない。それが、霊夢の正直な感想であった。

 

 

 

 何となく……何となくではあるが、『岩倉玲音』について話しているのかと思ったが、どうも……そうではなさそうな気がしてならない。

 

 

 ──では、いったい何を伝えようとしているのだろうか。

 

 

 そんな想いを込めて見やれば、康男は無言のままに持っていた本を手渡して来た。「その本を、元の場所に戻してくれ」受け取った直後、いきなり指示をされた……が、とりあえずは言われるがまま本を元の場所に戻す。

 

 

 

 

「──それだよ。僕が君の話を聞いて、腑に落ちなかったのは」

 

 

 

 

 途端、またもや脈絡もなく、いきなり康男が言い出した。「な、何よいきなり……」いよいよ意図が読めずに困惑する霊夢を尻目に、康男は……空を飛んで目線を棚の位置に合わせている霊夢を、指差した。

 

 

「君が暮らしていた幻想郷とやらは、僕たちが暮らすこの世界の迷信……文明の発達によって超常的な存在や現象が否定され、存在そのものが危ぶまれたからこそ、生まれた場所なのだろう?」

「え、あ、うん、そうだけど……」

「幻想郷に生きる者たちは、この世界から否定された存在。『お化けなんてない、お化けなんて嘘』。それが人々の間に浸透していったが故に、必然的に結界を作り、その中に引き籠るしかなかった……そうだね?」

「そうだけど、何が聞きたいのよ」

「はっきり言えば、矛盾だよ。君たち……いや、正確には、幻想郷の在り方自体が非常に矛盾している。聞けば聞く程、考えれば考える程、不自然な点が目に留まるようになる」

 

 

 

 ……何だろう、本当に私は何を言われようとしているのだろうか。

 

 

 

 幾度となく自覚する困惑に、霊夢は首を傾げる。

 

 だが、何故だろうか……どうしてか、霊夢は震えている己も自覚する。カタカタと、何故か震える肩を押さえながら……緩やかに床に降り立てば、膝までも震えているのが分かった。

 

 

 ──いったい私は何に怯えて……怯えて? 

 

 

 どうして、怯えていると思ったのだろうか……いや、そもそも、何に対して怯えているのだろうか。これまでとは違う……そう、これまでとは異なる感覚に、霊夢は我知らずその場より一歩──。

 

 

「怖いのかい、霊夢」

 

 

 ──後ずさった、瞬間。

 

 掛けられた言葉、呼ばれた己の名前に、ハッと顔を上げる。見やれば、こちらを真剣な眼差しで見つめている康男と視線が交差し……唇を噛み締めた霊夢は、静かに首を横に振った。

 

 

 聞くな──と。

 

 霊夢の中にあるナニカが、訴えている。

 

 

 けれども、『勘』は違う。

 

 絶対に聞け──と。

 

 

 これから康男が語ろうとしている言葉を遮るなと、強く訴えてきている。

 

 その力強さときたら、これまでで最大……誇張抜きで、人生史上最大のモノであると断言出来るぐらいに強く……そのあまりの激しさに、霊夢は耳を塞ぐことすら出来なかった。

 

 

「……まずは、ね。僕が君の説明を聞いて最初に疑念を抱いたのは、妖怪たちを含めて、どうして力有る者たちが幻想郷という狭い場所に何時まで引き籠っているのかという点だった」

 

 

 そんな霊夢の異常を他所に、康男は話を……結論へと、突き進んでゆく。

 

 

 

「確かに、一度は必要に駆られて引き籠る事を選んだ。でも、ずっとではない。話を聞く限り、妖怪を始めとして人ならざる者たちの大半は、人々から認知され、その存在が確かな者であると思って貰わないとならない……ならば何故、それをしようとしない?」

 

「どうして、何時までも狭い箱庭の中に引きこもり続ける必要があるんだい? 様々な事情があるにせよ、幻想郷に住まう一部の者たちは幻想郷の外に出る事だって出来たのだろう? 何なら幻想が信じられている場所に移住することだって出来たはずだ」

 

「そりゃあ、一度は否定された。でも、全員じゃない。いや、むしろ、より高速に、より広大に、世界中へとリアルタイムで情報が行き来するようになった今、そういったミステリアスな話を信じやすい人との接触は、かつてよりもずっと容易くなった」

 

「それは──君が話してくれた『賢者たち』が、誰よりも把握しているはずだ。なのに、『賢者たち』は何もしていない。あくまで幻想郷を維持するのに留めるだけで、それ以上には手を出さないし、基本的に口出しすらしない」

 

「それって、おかしいだろう? 栄枯盛衰という言葉があるように、どんな事にも繁栄と衰退がある。一度は衰退した妖怪たちこそ、よほど骨身に浸みたその言葉……どうして、衰退するしかない状態のまま放置し続けたのだろうか」

 

「箱庭は、いずれ衰退する。閉ざされた世界は、いずれ滅び去る。人類の歴史が、それを証明している。それは、人間の何倍も生きている妖怪たちも……いや、外の広さを知る者たち程、如何に『幻想郷』という世界が狭く閉ざされた世界であるかを、理解していたはずだ」

 

「何せ、君の話を聞く限り、箱庭にはどんどん外から忘れ去られた存在が入り込んでくるのだろう? そうなれば、限られた箱庭はどんどん手狭になってゆき……いずれは限界に達し、不満となって溢れかえる……どうして、放置したままにするんだい?」

 

 

 

 ──重ねられる康男の言葉。

 

 

 かつての霊夢が聞けば確実に機嫌を損ねていたであろう。

 

 事情も内情も知らないやつが知った口で語るなと、怒鳴っていただろう。最後まで聞くこともせずにさっさとその場を後にしていただろう。

 

 

 しかし、今は……違う。康男の言葉に、不思議と……納得出来る部分もあると、霊夢は思った。

 

 考えた事すら無かったが、言われてみれば、そうだ。

 

 

 いちおう、幻想郷そのものへの拡張自体は以前より行われてはいた。だが、そんなのは入ってくる怪異や魑魅魍魎に比べたら、微々たる具合でしかない。

 

 実際、近年になって幻想郷に入って来た者たちはみな、大物と呼んでも差し支えないぐらいの実力者ばかり。それも、一癖も二癖も性格に難があるというか……我の強いやつばかり。

 

 しかも、だいたいが一勢力という形で複数が一気に来る。そんな存在たちが、他の勢力の傘下へ素直に入るかと問われれば、そんなわけもない。

 

 だいたいは騒動を起こし、それを異変認定して、力技で解決し、宴会を開いて水に流すのが一連の流れだが……その後、そういうやつらが取る行動は二つ。

 

 

 一つは、郷に入れば郷に従えの精神で人里に関わって暮らし(場合によっては、商売を始めたりもする)、自然の中でひっそりと暮らすというもの。

 

 

 これ自体は、大して問題ではない。負けた以上はやり方に合わせるという考え方をしているので、駄目だと言われれば人間を襲ったりもしない。

 

 

 問題になるのは、二つ目……移って来たその勢力が、自らの陣地という体で、あまり使われていない土地を自分たちの領土として確保してしまうという点だ。

 

 

 もちろん、交換条件という形で、賢者たちとの間で密約は交わされているとは思う。

 

 詳しくは霊夢も知らない(興味が薄かったので)が、有事の際に、人間に手を貸すという契約が一部の妖怪たちとの間で成されているという話は、耳にした覚えはある。

 

 なので、現時点ではまだ使われていない場所(人里からも遠く、言うなれば妖怪たちの領域)が有るから問題が表面化してはいないが……既に、その兆候は霊夢も感じ取っていた。

 

 

 ……紫は、その事に気付いて……気付いていたはずだ。

 

 

 幻想郷に対してあれだけ心血と情熱を注いできた賢者たちが……その中でも最も熱を入れていた『八雲紫』が、気付かないはずがない。

 

 いや、むしろ、真っ先に気付いていたはずだ。そのうえで、誰よりも早く対処に動いていたはず。少なくとも、只の人間である岩倉康男が思いつく程度の懸念など、とっくの昔に把握していた……はず。

 

 

(でも、そんな話は紫のやつからは一言も……)

 

 

 幻想郷の広さと博麗大結界は切り離せない関係上、そこらへんの話は絶対に霊夢にも話が出ているはず……なのに、その覚えが無いということは……分かっていて、放置されていた? 

 

 

 

「……それに、君の役割の一つでもある……『博麗大結界』か。それも、おかしい。どうして、内と外を隔てる壁という重要な代物の一部とはいえ、管理する者を……博麗の巫女、ただ一人に限定する必要がある? おまけに、幻想郷内の秩序を保つ役割まであるのだろう?」

 

「それだけ重要なら、たとえ力不足であったとしても予備となる巫女を相応な数だけ用意しておくはずだろう。仮に特殊な体質なり才能が必要だったとしても、いや、それなら尚更、少しでもリスクを分散する為に大勢の巫女を用意しなければならない」

 

「なのに、一人だけだ。博麗の巫女は、君だけだ。君が不慮の事態に陥れば途端に巫女が不在する状況となるのに、誰も万が一の事態に対する備えを用意しようとしない」

 

「幻想郷において、博麗の巫女は重要な存在と君は言った」

 

「君の話を聞く限り、君はとても大事に想われている。事実、負傷した君を生かす為に、様々な妖怪や人々が尽力してくれた。人々を安心させる為だけの飾りではないことを示した」

 

「だからこそ、不思議に思えてならない」

 

「それだけ大事に想われているのに、どうして博麗の巫女一人にだけ負担を強いたままにするのか……どうして、それを賢者たちが良しとしたのか……そこが、僕には分からない」

 

 

 

 その言葉に……我知らず、霊夢も同意していた。

 

 

 

 

「──こう考えれば、幾らかの辻褄が合う」

 

 

 

 

 そして、その言葉を言い放った直後。

 

 

 

 

 

 

「そもそも、幻想郷そのものが……摩訶不思議な存在が居て欲しいという人々の無意識が作り出した、実体のない箱庭なのではないか……ということだよ」

 

 

 

 

 

 続けられた康男の言葉に……かちり、と。霊夢は、己の中にあった巨大なナニカ……それを封じている錠前に、鍵が差しこまれる音を、聞いた。

 

 

「……それって、どういう意味よ」

 

 

 気付けば霊夢は尋ねていた。その声は、自分の声とは思えないぐらいに、震えていた。

 

 それを見て……康男は、一瞬ばかり霊夢から視線を逸らした。「……辛いだろう、ゆっくりと呼吸を整えなさい」けれども、すぐに思い直す。

 

 康男の大きな手が、霊夢の肩を抑える。反射的に、その手を掴む。

 

 その体温を感じながら、気を落ち着かせる為に何度も深呼吸をしてから……改めて、霊夢は康男を見上げた。

 

 

 

「……あんたは、誰?」

 

 

 

 ──瞬間、気付いた。雰囲気が、僅かばかり異なっていた。

 

 

 

「……分かるかい?」

「何となくだけど……」

 

 

 今しがたまで隣に居たはずの康男の……中身が違う。いや、これは中身というよりは……どう、言い表せればいいのだろうか。

 

 気付かなかった。全く、変化の予兆すら、気付けなかった。

 

 一瞬、玲音は岩倉玲音の関与を疑った。だが、そういった気配が全く感じなかったし、どうにも、これまでとは違うような……? 

 

 

「──かつて、この世界には『ワイヤード』と呼ばれる仮想世界が存在していた」

 

 

 突然の変化に状況を呑み込めないでいる霊夢を尻目に、康男(?)は……唐突に話を切り替えた。

 

 

  『ワイヤード』

 

 

 その言葉に関して、聞き覚えが霊夢にはあった。これまで、『岩倉玲音』と思われる存在と接触し、存在を認識した者たちはみな、その言葉を呟いていたからだ。

 

 言葉自体は、この世界にはある。蓮子が調べてくれた事であり、意味は『繋がる』、または、『繋がれたもの』……だっただろうか。

 

 

「しかし、仮想世界は所詮、仮想世界。名称そのものも、そこまで重要ではない。本来であれば、それは使い方さえ間違えなければ便利という域を越えない代物に過ぎなかった」

「……間違えたの?」

「間違えたというより、入口……いや、限りなく近しくも、けして交わることのない二つを繋いでしまったという方が、正しいのかもしれない」

 

 

 その言葉と共に、康男はため息を零し……その視線が、遠くを見るかのように焦点がぶれた。意識が、彼の……ここではない彼方へと向けられているのが、霊夢にも分かった。

 

 

「最初にソレを見つけ出したのは、本当に偶然だったらしい。空間、海底、ワイヤード、僕では触れることすら出来ない機密情報だったから詳細は知らないけど、最初のソレはある種の振動……波長のようなものだったと聞く」

「…………」

「天才的な頭脳を持つ人たちが、ソレを解読した。それは、見方を変えれば言語であり、あるいは、設計図に近しい何かであったらしく、それに従った結果……培養液に満たされたカプセルの中で、あの子が生まれた」

「それが……岩倉玲音?」

「正確には、その雛形(ひながた)みたいなものさ。生まれながらに異常な能力を持ち、15歳を過ぎた頃には世界でも有数の科学者ですら舌を巻くぐらいの知能を得て、様々な技術革新を生み出したと記録にはある」

「何を、作ったの?」

 

 

 尋ねれば、康男(?)は苦笑した。

 

 

「……ワイヤードの基本理念。今は存在していない仮想世界の基礎を、その子は作り出した。つまり、『ワイヤード』という概念を作り出したのは……その子なんだ」

「……どんな子だったの?」

「非常に聡明な子だったらしい。ただ、普通の子ではない。特殊な環境と特殊な生まれ故なのかは不明だが、善悪の基準が人とは異なり、生死に対する独特の感性を持っていたとある」

「……どんな感じだったの?」

「記録にはない。ただ、幼い子供のような感性も持ち合わせていたらしい。非常におぞましい実験を行う傍ら、それをまるで泥団子を見せびらかす幼子のように自慢するなど……色々と、やっていたらしい」

「そう、それで?」

「他には、他者との交流が下手な子だったらしい。資料を読んだ限り、頭の良さと心の成長具合が不釣り合いだったせいだと思う。周りが、彼女の思考を理解出来なかったのでは……と、僕は思っている」

 

 

 そんな彼女は──何かを作ろうとしていた。そう、康男は話を続けた。

 

 

「何を作っていたのかは記録から抹消されていたから、当時、実際の彼女に関わった者たちしか知らないが……分かっているのは、それが失敗したという結果だけだ」

「失敗した? どうして?」

「原因は分からない。ただ、当時の彼女は、その『作品』に対して並々ならぬ情熱……いや、愛情にも似た執着を向けていたらしく、他者をソレに近づけることすらさせなかったらしい」

 

 

 ──だが、それが失敗した。

 

 

 当時の研究者たちは、何が失敗なのか分からなかったらしいが……それだけを言い残した彼女はその夜、自殺した。

 

 

 ……その後、死体は即座に解剖された。

 

 

 人間と何が違うのか、異なる点があるのか。

 

 死亡したのであれば、どのように切り開いても何の問題もないし、作り出した我々がどう扱おうが、我々の自由である。

 

 そのような判断を下した当時の研究者たちは、ソレの身体を隅々まで解体した。

 

 皮膚を切り分け、筋肉を取り出し、内蔵をパーツに取り分け、神経の末端に至るまで取り出し、保存液のカプセルへ封じた。

 

 

 ……そうしてもなお、研究者たちはソレの正体を知ることは出来なかった。

 

 

 何故なら、解体したソレの身体は、どこまで調べても人間のソレであったからだ。知能指数が高いという点を除けば、まだ成人していない女の子に過ぎなかったのだ。

 

 

 ……それ故に、当時の研究者たちは……選択を迫られた。

 

 

 一つは、停滞した現状の打開策が生まれ、技術革新が起こるその時が来るまで……研究を無期限凍結しておくこと。現状の記録を読む限り、これが多数派の結論だった。

 

 

 何せ、研究には莫大な費用が掛かるのだから……しかし、問題が生じた。

 

 それはもう一つの……アプローチを変えるべきだと提案した派閥の者たちが、研究者たちの間でも指折りの天才であり、名も知られた存在であったことだ。

 

 その結果、一部の特許を譲渡する代わりに資金提供を受けることで、彼らは独自の理論に基づき研究を再開し……そして、そのまま時は流れ、何時しか研究そのものが過去のモノとなっていた。

 

 

 ──だが、ある日。

 

 

 凍結されていた研究を見つけ出しただけでなく、ソレに傾倒し、あまつさえ、装置を稼働させて新たなその子を産みだしてしまった、天才と周りから称されていた男が居た。

 

 その男はすぐに自殺という事になったが、後には……二人目となるその子が残された。その子は、一人目と同じく異常も無く育ち、肉体的には人間の女の子でしかなかった。

 

 

「……その子が?」

「そうだよ、その子が、後に『岩倉玲音』と名付けられ……僕の娘として一時的に育てられる事になる……可愛い娘だ」

 

 

 可愛い娘……そう零した康男……いや、玲音の面倒を見ていた、ココには存在していない康男の気持ちは、霊夢には分からない。

 

 

「玲音はね……僕が言うのも何だけど、とても素直で優しい子だったよ。少し内向的で鈍い所もあるけど、友達想いでね。勉強も、得意ではなかったけれども……出来る事なら、最後まであの子の面倒を見てあげたかった」

 

 

 ただ、娘の事を語る康男の顔は。

 

 

「どんな形で生まれたとしても、人の子として育てられれば人になる。僕はね、玲音が普通の人間ではないと考えてはいたけど……同時に、何処にでもいる普通の女の子でしかないんだなとも、思っていたんだ」

 

 

 どこか寂しそうに、霊夢には見えた。

 

 

「……でも、最終的に、僕が所属していた会社から、玲音への接触を全て断って監視も必要最小限に留めろというお達しが出てしまって、それも出来なくなった」

「どうして?」

 

 

 率直な霊夢の問い掛けに、康男は困ったように視線を逸らした。

 

 

「……それまで、僕たちは天才的な頭脳を持った子供を生み出す方法……あるいは、超常的な能力を持った子供を生み出す方法だと思っていた。玲音は、それによって生み出されたと……だが、違った」

 

 

 そして、さ迷っていた視線が……改めて霊夢へと向けられると。

 

 

「玲音を生み出した、あの男が残した手記と、それまでの監視記録。そして、天才たちが続けてきた研究によって得られた理論によって……可能性の段階ではあったが、玲音の正体が分かったからだ」

「……それが、まさか?」

 

 

 康男は、一つ、頷いた。

 

 

「信じ難い話だった。人々が認知出来ない、意識の領域外。普遍的に存在するだけであり、あくまで概念の一つとしてでしか提唱されていなかった無意識の海に……おぼろげながらも、自我が有るのだということを」

「………………っ!」

「肉体はおろか、エネルギー的な実体すらなく、無機物と仮定する事すら出来ない……それなのに、意志を持っていた。この世界で活動する為の肉の器を作る方法を僕たちに与え、実際に身体を得て活動し、『ワイヤード』という形で、より僕たちはソレへの接触を容易にされた」

 

 

 

 これが、どういうことか分かるか……その問いに対し、「元々、私たち一人ひとりに『無意識』というやつは存在していた」康男は自ら答えを出した。

 

 

 

 そう、『集合的無意識』というのは、見えないから、聞こえないから、触れられないから、認識出来ないから、存在しないというわけではない。

 

 例えるなら巨大な海、集合的無意識より伸びているのは、細いパイプだ。

 

 全ての無意識は『岩倉玲音』へと繋がっていて、『岩倉玲音』は全ての人々の無意識に繋がっている。

 

 それは、全人類の無意識の奥深くに『岩倉玲音』が居るのと同じこと。

 

 言い換えれば、全ての人類は『岩倉玲音』の干渉から逃れられない。誰も彼もが自覚のないまま、『岩倉玲音』に全てを見られている。

 

 だが……そう、だがしかし、『岩倉玲音』の危険性はそこではないのだ。

 

 

「……それまで、『あっち』と『こっち』には目に見えない壁があった。二つがどれだけ密接であったとしても、絶対的な壁がそこにある限り、二つが重なる事はあっても、交わることは起こらなかった」

 

 

 だが、玲音が生まれた事で、ソレが変わった。

 

 

「『ワイヤード』が生まれる以前から、彼女はこの世界に肉体を得る事が出来た。ならば、『ワイヤード』によって更にこの世界と無意識の領域が密接になったことで……彼女は、より物理的な干渉をこの世界に行えるようになった」

 

 

 

 ──それこそ、意志一つで生命を生み出せるぐらいに。

 

 

 

 そう、続けられた康男の言葉に……霊夢は、しばしの間、何も言い返せなかった。

 

 

 生命の創造……それは正しく、『神』である。人が生み出した神ではない。本当の意味で人知を超え、人の手では届かない存在。

 

 幻想郷にも、神様は居た。神様にも匹敵する妖怪は、居た。大地を隆起させ、山を焼き払い、雨雲を薙ぎ払う事が可能な、人知を超える力を持つ存在が、幻想郷には大勢いた。

 

 だが、その神様とて、妖怪とて、人々の存在無くして姿を保つことは出来ない。信仰でも、怖れでも、友好でもいい。どんな形であれ認められる事で初めて、幻想郷の神や妖怪たちは存在することが──あ? 

 

 

 

 

 

 ……いや、待て。

 

 

 

 

 

 反射的に、霊夢は両手で己の唇を押さえた。それは、徐々に真実へと到達しようとしている、霊夢の無意識によってもたらされた、心の防御であった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………ならば、どうなる。

 

 

 人々の無意識の全てが『岩倉玲音』に繋がっているのであれば、その無意識が紡ぎ出す……人々の心の動きにより生まれた神や妖怪たちはどうなるのだ? 

 

 信仰も、怖れも、友好も、全ては人々の心がもたらすモノ。ならば、その心そのものが『岩倉玲音』の掌の上であるならば……人ならざる彼ら彼女らも、また? 

 

 

 

 

 

 ──いや、いやいやいや、そもそも、だ。

 

 

 

 

 

 康男は、幻想郷そのものが人々の無意識が作り出した箱庭だと言った。実体は存在せず、人々の無意識が……ならば、それならば、仮に、そうなのだとしたら。

 

 幻想郷そのものが虚構なのだとしたら……あの世界そのものが幻なのだとしたら……あの世界に住まう人々もまた……霊夢が知る者たち全てが同じなのだとしたら? 

 

 

 

 ──どくり、と。

 

 霊夢の心臓が、ひと際強く音を立てた。冷たい汗が……瞳に触れる。痛みが走るが……気にする余裕など、ない。

 

 

 

 今まで、『岩倉玲音』の影響によって変えられていると思っていた。『岩倉玲音』によって生じた異変だと、思っていた。

 

 だが、そうではない。これは、異変であって、『異変』ではなかったのだとしたら。霊夢が知る、『異変』ではないのだとしたら。

 

 『異変』だと思っていたそれら全てが、虚構で。日常だと思っていた全てが、虚構で。過ごしていた日々全てが、虚構だとしたら。

 

 ……全てが、人々の無意識が作り出した妄想の産物なのだとしたら……ならば、己はどうなる? 

 

 

 

 どうして、自分だけが幻想郷の外に出ている? 

 

 どうして、自分だけが影響を跳ね除けていられる? 

 

 どうして、自分だけが変わらず此処にいられる? 

 

 

 

 ──気付いては、駄目よ。

 

 誰かの声が、脳裏を過った気がする。それが誰の声なのかは、分からない。けれども、そのたった一言が……霊夢の瞳に涙を滲ませる。

 

 

 

 何故、自分だけが自分を保ったままでいられたのか。

 

 何故、自分だけが幻想郷の外に追い出されたのか。

 

 何故、自分だけが特別であるのか……ああ、そうか、そうなのだ。

 

 

 

 全てが虚構であるならば、全ての前提が覆り、全ての真実が虚構へと変わる。

 

 お化けなんて、嘘。お化けなんて、いない。神様だっていないし、妖怪だって──人間だって、そこにはいない。初めから、何も無いのだ。

 

 何故なら、全てが嘘でしかなくて。

 

 無意識が生み出した虚構の産物でしかないのであれば……いったい、誰の妄想であり、誰の虚構であるのか。

 

 『岩倉玲音』の妄想……いや、違う。康男が言っていたではないか……『岩倉玲音』は素直で心優しく、友達想いであったと。

 

 

 

 

 ──そう、そうだ。正体は何であれ、『岩倉玲音』は女の子なのだ。

 

 

 

 

 血は繋がっていなくても、康男は愛情を玲音に向けていた。だから、ここに玲音の気配が残っている。ここは、玲音にとって、ある種の心の聖域なのだ。

 

 それならば、そんなことはしない。『集合的無意識』であるとしても、人間の心を得てしまった玲音は、誰かの想いを消したりはしない。

 

 少数であっても、人々の無意識がそういった存在を信じていると分かっているからこそ、その想いを無下に出来ない『岩倉玲音』は、手を出したりはしない。

 

 玲音がそうするのは、そうせざるを得ない事態に陥った時。そうしなければ、自分だけではなく……周りの者たちを不幸にしてしまうと、思った時だけだ。

 

 

 もし、自分が玲音の立場になったら、そうする。

 

 辛くても、悲しくても、寂しくても、そうする。

 

 

 大切な者たちが不幸になってしまうのであれば。自分の存在が大切な者たちを傷付け、大勢の人達を巻き込んでしまうと分かれば……たぶん、そうしてしまう。

 

 

 ……では、いったい誰が消した? 

 

 

 幻想郷を……実体の無い存在達を、本当の意味で虚構に変えてしまったのは。有るかもしれない幻を、存在など初めからしていない幻だとしてしまったのは……誰だ? 

 

 

 

 

 ──いいの、私たちの事は。いずれ、こうなる定めだったのだから。

 

 また、声が聞こえた。ああ、これは……誰の声だったか。自分を慰めようとするその声に……ぽろぽろと、霊夢は涙を零し始める。

 

 

 

 

 全てが、幻であったのならば……始めから存在してなどいなくて、全ては誰かの無意識の願いによって維持されたものでしかなくて。

 

 そう……幻想郷というモノは、人々の無意識が作り出した虚構であり、居るのかもしれないという淡い想いや期待が生み出した幻なのであれば。

 

 

 ……博麗大結界もまた、同じなのだ。

 

 

 居ると信じる者と、居ないと思う者の、無意識の狭間。その二つの無意識がぶつかり合う境目。ギリギリに保たれた均衡……ふとした事で崩れてしまう、脆い境界線。

 

 

 

 

 

 

 ──楔を打つ必要があったのだ。不安定なソレを安定させる、世界を支える柱が。

 

 

 

 

 

 そう、人々の無意識が望んだから。

 

 人が神の存在を信じるように。

 

 人が仏の存在を信じるように。

 

 人が見えず聞こえず触れられない存在を信じるように。

 

 人々の想いが、生み出した。現実と幻想の境を安定させる楔を、世界を安定させる柱を、人々の無意識を肯定する存在を……かつての玲音がそうしたように、願いが器を作り、肉体を生み出し、役割を与え、幻想は守られた。

 

 

 

 

 ──それこそが、博麗霊夢。楽園の、素敵な巫女。

 

 

 

 

 ……だが、それは長く続かなかった。

 

 

 最初の頃は、違ったのかもしれない。そんな考えすら、無かったのかもしれない。けれども、何時の頃からか……生まれた。

 

 虚構の中の、例外。役割を与えられ、演じ続ける者たちの中で……ただ一人、全てに属さず、全てから浮いて、虚構の中心に居続けた者。

 

 その名は──博麗の巫女。その中でも唯一、名前も姿も記憶されている存在──歴代最強と謳われた巫女……博麗霊夢。

 

 玲音がそうであったように、楔は……いや、博麗霊夢は、無意識の中で気付き始めてしまった。

 

 

 

 

 己は……このままずっと、一人ぼっちなのか、と。

 

 

 

 

 役割によって認識出来なかったが、霊夢は無意識の奥で感じていたのだ。

 

 ある意味では同じ存在でもある玲音が、家族と食事を共にし、学校へ通い、友達と笑い……そして、皆の為に世界から距離を取ったのを。

 

 自覚出来なくても、それが何なのか分からなくても、羨ましかったのだ。

 

 

 虚構ではない父親が居て、母親が居て、友達が居る日々を。

 

 

 たとえそれが、誰かの思惑によって作られた偽物で、心に傷を負うとしても……霊夢は、羨ましかった。何故なら、霊夢は……一人ぼっちだから。

 

 

 そう、博麗霊夢は常に独りであった。

 

 

 どれだけそれらしく振る舞い、世界を形作ったとしても、霊夢には誰もいない。霊夢の傍にあるのは、そうあってほしいという幻だけ。

 

 人々の暮らしの中で玲音の心が成長していったように、霊夢の心もまた、成長する。背が伸びるように、霊夢の背も伸びてゆく。

 

 玲音に比べたら非常にゆっくりではあっても、少しずつ成長し……外へと、目を向け始め……そして、模倣を始めた。

 

 

 

 

 ──仕方なかったの。そう、仕方ないことなの。

 

 また、声が……ああ、声がする。誰の声かも分からないのに、大勢の者たちからの懐かしい声が……気付けば、霊夢はその場に膝を付いていた。

 

 

 

 

 滴り落ちた涙が、床を濡らす。背中を摩る康男の手も、今は感じない。嗚咽すら零せないまま、霊夢は蹲って涙を流す。

 

 

 

 

 博麗の巫女など、始めから存在していないのだ。何故なら、霊夢こそが幻想郷そのものであるからだ。

 

 博麗大結界など、始めから存在していないのだ。何故なら、霊夢自身が内と外とを隔てる壁だからだ。

 

 

 幻想郷から追い出されたのではない。

 

 

 初めから、幻想郷という世界は存在していない。全ては、そうあってほしいという幻に過ぎず、形すら成し得ていなかった想いの溜まり場。

 

 

 何もかもが、そうだったのだ。

 

 

 楔であり調停者である霊夢が、独りが寂しかった霊夢が、その寂しさを紛らわす為に作り出した場所。小さな小さな、霊夢の為だけの箱庭。

 

 役割を与え、名前を与えられた願いが、形となった。そして、霊夢を慰める為に演じ、霊夢の寂しさを紛らわす為だけの……張りぼてですらない、透明なサーカス。

 

 

 

 

 ……ああ、なんて滑稽な話なのだろうか。

 

 

 

 

 この時、始めて……霊夢は、理解した。この『異変』が始まってから己へと向けられていた様々な言葉……その意味を、霊夢はようやく理解した。

 

 

 

 

 

 ──向き合わなければならない、その言葉の意味を。

 

 

 

 ──博麗霊夢は……博麗霊夢こそが幻想郷そのもの。

 

 

 

 ──全ては、博麗霊夢が作り出した小さな箱庭なのだ。

 

 

 

 

 

 そう、全ては盛大なおままごとだったのだ。『異変』は、『岩倉玲音』が起こしたのではない。アレは、些細なキッカケだ。

 

 全くの無関係というわけではないが、霊夢が役割を放棄さえしなかったら、どうとでもなる程度のこと。

 

 霊夢が、役割を放棄しようとさえしなければ。辛い結果になるかもしれないと無意識で分かっていても、父が、母が、友達が、欲しいと思ってしまった。

 

 

 その結果、幻想郷は揺らいでしまった。それが、『異変』の正体。

 

 

 霊夢の心が揺らいだことで、バランスが崩れた。加速度的に玲音の影響が進んだのではない。時を経る度に、無意識の奥深くに蓋をしていた霊夢の本心が……表に出てきただけ。

 

 霊夢と同じ姿をしたアイツは、かつての霊夢……いや、幻想郷を守る、理想的な博麗の巫女……本来、霊夢が望まれていた姿なのだ。

 

 

 でも、霊夢は反発した。なのに、博麗の巫女であることに固執した。

 

 

 小馬鹿にされて、当然だ。同じ姿をしたアイツが、呆れた眼差しを向けて当然だ。自分が逆の立場だったなら、呆れて言葉を失くして──いっ!? 

 

 

 

 

 

 ──罪悪感が、螺旋を描くようにして己の奥深くへと潜ろうとした、その瞬間……目も眩むような激痛が、胸の中央より走った。

 

 

 

 

 

(……なに?)

 

 

 あまりの痛みに涙も止まる。反射的に胸に手を入れる……出血などは見られない。いったい何が……思わず身体を起こした途端、再び激痛が走った。

 

 今度の痛みは最初よりも軽いが……止まらない。まるで、心臓の鼓動に合わせているかのように、痛みが脈動し……いや、待て。

 

 指先が、痛みの中心へと……そこは、傷痕だった。かつて霊夢の胸に大穴が開いた時に出来て、今もなおクッキリと痕跡が残っている……そこが、急に痛み出した。

 

 

(何だろう……最初のアレに比べたら、痛みは軽いけど……)

 

 

 罪悪感によって絡み合っていた思考が、痛みで解される。そういえば、この傷に関しては未だに謎のまま……というか、この傷はいったい何が干渉した結果なのだろうか。

 

 ……今だからこそ、分かる。

 

 幻想郷において、真の意味で霊夢を殺せる存在はいない。傷付ける素振りは出来ても、霊夢の死が、幻想郷の消滅を意味するからだ。

 

 だからこそ、不可解だ。犯人が、全く分からない。

 

 玲音でないのは確定しているし、妖怪たち……は、有り得ない。何かしらの偶然が重なったにしても、それならとっくの昔に……と。

 

 

「たとえ──そう、たとえ幻であったとしても。果たしてそれは、全てが虚構であり幻想に過ぎなかったのだろうか」

「……え?」

「落ち着いて、思い出しなさい。君は、本当に独りだったのかい?」

 

 

 掛けられた言葉に霊夢が顔を上げれば、優しく己を見下ろす康男と目が合った。

 

 その目に宿る優しさは……どうしてだろうか、霊夢は懐かしさを感じずにはいられなかった。

 

 

「……貴方は、私に真実を伝える為の役割を与えられた存在なの?」

「いいや、違う。僕は、言うなればあの子にも消しきれなかった名残みたいなものだよ」

 

 

 静かに、康男は首を横に振り……次いで、「──霊夢さん、もう一度聞きます」改めて康男は尋ねた。

 

 

「貴女は、本当に独りだったのですか? 本当に、何もかもが幻想であると思っているのですか?」

「……何が言いたいの? これ以上、私に何を求めるのよ」

 

 

 言い換えそうにも、霊夢の心はもう散り散りになってしまっている。慰めようとしてくれているのは分かるのに……それに応える気力が、霊夢にはもう……。

 

 

「──簡単ですよ、霊夢さん。虚構であったとしても、そこに意志はあったのです」

 

 

 ……でも、それでも。

 

 

「思い出してください、霊夢さん。役割を与えた者たちは、貴女を育て、見守って、共に歩いてくれた者たちは……本当に、ただの役割で貴女の傍にいたのですか?」

「……でも」

「全員がそうではないでしょう。ですが、居たはずです。幻想郷とやらの虚構……貴女の正体に気付き、自分たちの正体に気付き、それでもなお、貴女を想ってくれていた者が……居たでしょう、貴女の傍に」

 

 

 ──瞬間、霊夢は……ああ、そうだ。

 

 

 ああ、思い出した。その言葉に、霊夢は思い出した。忘れていたソレを、思い出した。

 

 かつて、霊夢がまだ幼かった頃。己の役割なんぞ理解はおろか意識すらしていなかった頃……母親の代わりを務めていた紫の背の感触と……ああ、そうだ、そうだったのだ。

 

 

 ──止まり掛けていた涙が、零れ落ちる。

 

 

 あの時、紫が零した言葉の意味……そして、自分が零した言葉の意味。紫は、全てを知っていたのだ。

 

 全て、博麗霊夢が生み出した虚構に過ぎず、己もまた役割の一つを担っているに過ぎない存在である、と。

 

 

 知っていたからこそ、霊夢に問うたのだ。『博麗の巫女である事が、辛くないのか』と。

 

 

 今ではない、あの頃に。虚構の中で無邪気に満たされていたあの頃に……紫は、博麗の巫女を止めてもいいと暗に口にしていたのだ。

 

 世間話を装いながら、伝わらないと思いつつも、役目を放棄しても構わないと伝えていたのだ。

 

 

 分かっていた、はずなのだ。例え冗談であったとしても、博麗霊夢が博麗の巫女を止めると口にする、その危険性を。

 

 自分たちだけではなく、幻想郷全体を……引いては、再び霊夢が孤独に陥ってしまう危険性を考慮してもなお……紫は、霊夢に選択肢を委ねてくれていたのだ。

 

 

 いや、それはおそらく、紫だけではない。

 

 

 紫以外にも、居たはずだ。霊夢が気付いていないだけで、色々な形で、色々な言葉を選んで私に問い続け……それに、私は今まで全く気付いて来なかった……ただ、それだけのこと。

 

 

(──ほんと、私ってば馬鹿なやつね)

 

 

 このまま眠って全てを忘れてしまいたくなる虚脱感に身を浸しながらも、霊夢は……ゆるりと、立ち上がる。涙で濡れた目元を拭い去り……充血した眼で、前を向く。

 

 

 ……思い出したのだ。自分は、送り出されたのだということを。

 

 

 それもまた、役割なのかもしれない。けれども、霊夢は思う。霊夢を想ってくれていた者たちは、霊夢に意志を託したのだ。

 

 それがどんな結末であろうとも、その結果を受け入れる道を選んだ。

 

 

 ならば──それならば、行かねばならない。

 

 

 幻想郷の……素敵な楽園を守る、楽園の素敵な巫女として……博麗の巫女として、挑まなければならない。

 

 ──誰に? 

 

 

(──そんなの、決まっているでしょ)

 

 

 己の中のナニカが、問い掛ける。それに対し、霊夢は──己に対して答える。

 

 

(──玲音をぶっ飛ばして、無理やりにでも玲音と私を繋いで……人々の無意識に繋いで、新たな幻想郷を作るのよ)

 

 

 それは……玲音が聞けば、何と横暴な話だろうと頬を引き攣らせた事だろう。何故なら、玲音は誰もを傷付けない為に、孤独になったのだから。

 

 

 だが、霊夢は決めた。もう、迷わない。

 

 

 たとえそれが、一度は大切な人たちの為に孤独を選んだ玲音の決意と覚悟を踏みにじる事になろうとも。

 

 たとえそれが、失敗すれば己が玲音の無意識に……いや、人々の無意識に否定され、全てから消滅することになろうとも。

 

 

 ──霊夢は、決めたのだ。

 

 

 他の誰でもない、自分の為に。送り出してくれた者たちの為に、霊夢は……行くのだ。

 

 

「……行くのかい?」

「ええ、行くわ。康男さんは……元に戻ったのね」

 

 

 尋ねられた霊夢が答えれば、「……白昼夢というのは、こういう気分なのだろうね」康男は気圧されたかのように目を瞬かせた後……不意に、霊夢をまっすぐに見つめた。

 

 

「……今のは、何だったんだ? 僕に、何が起こったんだい?」

「さあ、私にも分からない。ただ、あの子にも分からない……意地悪な奇跡が起こったのでしょうね」

「意地悪、なのかい?」

 

 

 意味が分からずに首を傾げる康男に、「だって、そうでしょう」霊夢は……少しばかり腫れて赤くなった目尻を緩ませた。

 

 

「あの子が望んでいたのは、神様になることじゃないもの。友達と笑って、一緒に勉強して、お父さんと茶菓子を食べる……そんな日々なんだもの」

「それは……」

「その内の一つを、私が先に叶えちゃった。誰よりもあの子を羨んだ私が、何よりもあの子が欲しがっていた事の一つを、私が先に叶えちゃった」

 

 

 ──ほんと、人生ってままならないものね。

 

 

 そう、言葉を続けた霊夢に……康男は、何も言えなかった。そんな康男に……今ではない、消え去った何処かの彼方にて、父親であった康男へと……霊夢は、告げた。

 

 

「全部が終わったら──」

 

 

 と、同時に……霊夢は、己の無意識の奥に居る、愛しき者たちの名を呼ぶ。

 

 

「あの子を此処に連れて来るから──あの子の分のマドレーヌと、紅茶の準備……約束よ」

「──ああ、約束するよ。だから、負けては駄目だよ」

「当然、私を誰だと思っているのよ……楽園の素敵で無敵な紅白巫女、博麗霊夢様よ」

 

 

 その言葉と共に笑みを浮かべる康男に……それ以上の、不敵な笑みを霊夢は浮かべ……さて、と意識を切り替える。

 

 

 ……愛しき者たちからの返事は、無い。当然だ、全ては虚構であるのだから。

 

 

 けれども、霊夢は信じている。たとえ声が届かなくとも、たとえ姿が見えなくとも、たとえ触れあえなくても……霊夢はもう、迷わない。

 

 

 ──ふわり、と。気配が、消えた──いや、違う。

 

 

 霊夢の姿が、その場から消えたのだ。痕跡すら残さず、跡形もなく消えた。

 

 後には……空になった皿とカップだけが、今しがたの出来事が夢ではないことを……辛うじて、康男に知らせてくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………霊夢は飛ぶ。どこまでも、どこまでも、突き進む。

 

 

 気付けば、霊夢の周囲は闇に覆われていた。今しがたまで傍にいた康男はおろか、室内特有の気配すらなく……何処までも、意識が拡散してゆく。

 

 そこは、無意識の領域であり霊夢の無意識の世界。本来、全ての人と人とが繋がっているはず……なのだが、今は何処にも繋がっていない。

 

 当然だ。かつて、玲音は周りを傷付けず、誰かの不幸を招かない為に繋がりを拒絶し、孤独を選び、無意識の奥底にて漂う事を選んだ。

 

 

 霊夢も、経緯や結果は異なるが孤独なのだ。

 

 

 幻想を否定する者たちの無意識から、幻想を信じる者たちの無意識を肯定する為に生まれた存在。存在しない者たちを守るための楔として、柱として、ただそれだけの存在。

 

 何も持たない、虚構の中で過ごしてきた霊夢の無意識には、何もない。あるのは、有ると見せかけられていたメッキが剥がれ落ちた後の、虚無ばかり。

 

 光は無く、風も無い。温かさも無ければ冷たさもなく、拠り所一つなく……何処までも、何処までも、闇だけが広がっている。

 

 

(……足りない、もっと奥へ、もっと先へ)

 

 

 だが、霊夢はもう気付いている。もう、知っている。虚無だと思い込んでいるだけで、本当はたくさんのモノを得て来たのだ。

 

 

 ──そう、己は、愛されていたのだということを、霊夢はもう知っている。

 

 

 だから、飛ぶのだ。暗闇の中を、霊夢は進む。

 

 浮いているのか、立っているのか、歩いているのか……霊夢自身、分からない。けれども、前に進んでいるということだけは、何よりも分かって……と。

 

 暗闇を進み続けていた霊夢の視界に……不意に足場が現れた。それは、8畳程度の小さなスペースで、古ぼけた畳で構成されていた。

 

 

 前触れもなく、ぽつり、と。

 

 

 まるでいきなり照明が付けられたかのように、そこに現れた畳へと……霊夢は降り立つ。「これ、神社の……」瞬間、霊夢はそれが、己が暮らしていた神社のソレであることに気付いた。

 

 

「……そう、コレなのね。ありがとう、こいし……貴女も、私に託してくれていたのね」

 

 

 と、同時に……此処こそが、こいしが残してくれた『入口』であることに……霊夢は気付いた。

 

 そう、これだ。ココが、唯一の……だが、どうする? 

 

 

(……決まっているわ、そんなこと)

 

 

 考えるまでもない。既に、ヒントは出されていた。

 

 玲音がそうなったように、霊夢もまたそうなり……そして、霊夢独りでは至れないのであれば……数を集めれば良いのだ。

 

 

「──私一人の力では至れないのならば」

 

 

 霊夢は……己の内へと問い掛ける。

 

 己の中へと消えて行った……己と共にあった、虚構の者たちへ。

 

 虚構の一つ一つに宿る……無意識の奥に居る、一人一人の博麗霊夢へと。

 

 

 ……距離も場所も、関係ない。霊夢は、繋ぐのだ。

 

 

 玲音がそうしたように意識を広げ、そして、己へと収束させてゆく。数多の可能性が、数多の霊夢が、ここに集まり、一つになってゆく。

 

 

 ……過去も未来も、関係ない。見知らぬ過去や未来や数多の世界の己(博麗霊夢)に何が起きようが、構う事か。

 

 

 片手を、掲げる。その手に出現するのは、小さな懐中時計……かつて、十六夜咲夜が霊夢に手渡し、そして、その使い方を無意識の奥へと託してくれたソレを……霊夢は、発動する。

 

 合わせて、霊夢の周囲に幾つもの裂け目……スキマが生まれる。まるで閉じられた瞼が開かれるように現れたその向こうに広がる、大小様々な視線や眼光……幻想を信じる者たちの無意識に宿る霊夢たちを、ここへ。

 

 現実と無意識の境界が、あやふやになる。けれども、混ざり合うわけではない。ただ、二つを隔てている境界線が、緩くなるだけ……でも、それで十分だ。

 

 

 かつて……『運命』を見るレミリア・スカーレットが教えてくれた。

 

 

 運命など、数多に存在する選択肢によって枝分かれした道筋の、ほんの一つに過ぎない。所詮は些細な違いでしかなく、極点へと収束する定めなのだと。

 

 どんな形であれ、同じ極点へと移るのであれば。少なくとも、己の死が極点なのであれば。

 

 

 ならば……そうならば、己が取る手段は一つ。

 

 

 幻想を信じる者たちとの無意識を足掛かりにして、玲音の領域である……『集合的無意識』の奥深くへと進む為に。

 

 

「みんなと……みんなの無意識の奥に居る、しょぼくれた私の力を借りて──行くだけよ!」

 

 

 霊夢は──肉体を捨てる。そう、最初から──この時の事を示していたのだ。

 

 

 掲げた時計の針が、狂い始める。秒針は時を刻み、短針は時を遡り、長針は、まるで隠された道を探すかのように右往左往している。

 

 ヒュッ、と。掌を前にかざせば、前方にて出現するのは、霊夢の親友が所持していた八卦炉……をモデルにして親友が作ってくれた、ミニミニ八卦炉。

 

 八角形のソレに描かれた太極図が、八つに別れる。外へと一回り広がり、生まれた中心の空洞に……するりと差し込まれたのは、物干し竿かと見間違う程に長い刀……楼観剣(ろうかんけん)。

 

 他の道など、始めから無い。必要なのは、これ一つ。霊夢の無意識の奥の奥のそのまた奥にあるかもしれない迷いを断ち切り……前へと進むための、一刀。

 

 

 ──発射体勢に入ったミニミニ八卦炉より放たれる熱気が、楼観剣へと伝わる。

 

 

 まず、柄が燃える。次いで、鍔(つば)が燃える。熱気は持ち手部分の鋼を伝わり、刀身へと伝わり、刃先へと伝わり……白銀のきらめきは太陽のように朱く染まり始める。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そして、霊夢が両手を広げた──その瞬間。

 

 

 

 ポヒュ、と軽い音とは裏腹の、弾丸が如き速度で発射された刃が──寸分の狂いもなく、霊夢の心臓を貫いたのであった。

 

 じゅう、と。刀身の熱気が肌を、筋肉を、骨を、心臓を焼いて、半ばまで突き刺さった辺りで止まり──霊夢は、『死』を認識する。

 

 こぽり、吐いた息と共に噴き出した血の味。熱は痛みに変わり、痛みは熱へと変わる。内臓が焼かれて血液が沸騰する感覚、瞬く間に意識が遠のき、眠気にも似た感覚が全身へと広がってゆく。

 

 

 

 

 だが、今の霊夢に恐怖は無い。もう、霊夢が行く道は……決まっている。

 

 

 

 

「──夢想天生(むそうてんせい)」

 

 

 

 故に──霊夢は、発動する。それの、本当の力を……肉体という枷を捨て去り──人々の無意識へと、飛びこみ──後には、もう。

 

 噴き出した鮮血も、倒れ伏した霊夢の亡骸も、突き刺さって燃えていた刃も、足場となっていた畳も全て。

 

 何もかもが消え去り……後にはもう、闇だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 




果たして、本当に幸せだったのはどちらなのか

全てが偽物で、全てが思惑で、それでもなお、友達になってくれた者たちや、大切な者たちの為に全てから遠ざかり、無意識の海辺を漂い続けることを選んだ者

全てが幻想で、全てが虚構で、全ての真実から目を背け、それでもなお最後に向き直り、幻想を真実にする為に前へと進む為に、自らの肉体をも捨て、挑む道を選んだ者

その答えは・・・・・・誰にも分からない





次回、Serial experiments □□□  


 幻想郷縁起 ――『偏在無異変』――



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――偏在無異変――

私はすべてを失った


助けて

助けて

息が出来ない

息が出来ない

助けて 助けて 助けて




Present day......


Present time......





助けて 助けて 助けて




.......HAHAHAHAHAHA!!!!!






でも



ありすは



繋がらなくても、友達になってくれたから



だから



大丈夫だよ……


 Stage1:不器用な意地っ張り。

 

 

 

 

 

 ──景色が、変わる。それは、一言でいえばカオスであった。

 

 

 

 無意識とは、結局のところは認識出来ない意識の領域である。

 

 あるいは、潜在的に考えている自覚無き感情、覚えていないと思い込んでいる記憶の世界、原始的な欲望……とも言えるのかもしれない。

 

 故に、もしくは、当然と言うべきか。無意識の世界というやつは基本的に無秩序であり、様々な記憶の積み重ねによって生じた混沌で満ちている。

 

 

 例えば、表層部分は感情の景色だ。

 

 

 当人の表面的な感情に合わせて、記憶してきた様々な映像によって形作られる。しかし、霊夢が向かっているのは、人々の無意識の大本である『集合的無意識』への領域。

 

 だから、現れる景色は人の数だけある。いや、正確には生物の数だけ無意識は繋がっているのだが、知能が発達した人類の方が、より具体的な形となって現れる。

 

 都会で暮らしている者の見て来た記憶と思わしき、立ち並ぶビル群の光景。狭い口から無理やり絞り出したかのように、人々が迷路のコンクリートジャングルを行き来している。

 

 田舎で暮らしている者の見て来た記憶と思わしき、広がる畑と点在する家屋。申し訳ない程度に散らばっている人たちが、長閑な空気とは裏腹に忙しなく動き回っている。

 

 白い肌の人間、黒い肌の人間、その間の色をした人間、もう少し色の薄い人間、もしくは、そのどれにも該当しない人間。それらが、次々に傍を通り過ぎて行く。

 

 

 霊夢はそれらを見下ろしながら、ひたすら前へ進む。

 

 

 けれども、前方に進んでいるわけではない。感覚的な話で、実際に霊夢の身体が前に進んでいるかは不明だ……トンチではなく、霊夢は、己が今、飛んでいるのかどうかが分からなかった。

 

 何せ、此処には空は無い。いや、空どころか、重力が無い。かといって、無重力というわけでもない。熱気も無ければ寒気も無く、過去も未来も……時間すら、ここには無い。

 

 というのも、無意識の世界は、本当に時が止まっているのだ。ここには、生も死も無く、始まりも終わりも無い。あるのは、停滞、それだけだ。

 

 一見する限りでは、そうは思わないだろう。景色という形で目に見える変化が生じているおかげで、進んでいると実感することが出来てはいるからだ。

 

 

 だが、それだけだ。無意識の世界は……表層部分の世界は、それが全てなのだ。

 

 

 霊夢の視界に広がるそれらは全て、人々が記憶している光景のごく一部に過ぎず、見る者によって如何様にも形を変える万華鏡のようなもの……まあ、常人ではソレを認識することも出来ないだろうけれども。

 

 仮に、それを認識出来る者がいたとしたら……どんな感想を零すだろうか。人によっては、それらの光景を『美しい』と思うだろうか……何にせよ、霊夢にとって、それらは興味を引くような代物ではなかった。

 

 

 ……『集合的無意識』は、言うなればどこまでも広大な海みたいなものだ。

 

 

 その海辺に玲音は居るのだが、その海辺に至るには……順番に階層を下りていかなければならない。現実世界と同じく、目的地に到着するには距離を詰める必要があるわけだ。

 

 

 ……そうして、だ。

 

 

 そのまま、どれぐらい間、進み続けた時だろうか。無意識の階層を下り続けている霊夢の前方の彼方にて、前触れもなく出現したのは……何時ぞやに姿を見た、『岩倉玲音』であった。

 

 そいつは、攻撃などといった反応は一切してこなかった。逃げるつもりも、無いのだろう。

 

 霊夢に合わせて下がってはいるようだが、その速度は明らかに遅い。動きが……ではなく、霊夢へ応対するつもりのようだ。

 

 

 ……強引な突破は、悪手だろう。

 

 

 そう判断した霊夢は、一気に加速する。けれども、目的は突破ではない。一定の距離まで詰めてから相手に合わせて減速すれば、そいつは……わかっているじゃないかと言わんばかりに頬を緩めた。

 

 

(……いや、違う。あいつだけど、あいつじゃない)

 

 

 そいつは、暖色色のセーターに長めのスカート、深々と被ったニット帽……見えた顔立ちは、霊夢がこれまで何度か目にしてきた岩倉玲音そのものであった。

 

 だが、今の霊夢には分かる。姿形など、関係ない。瞳と瞳、視線が交差したその瞬間、霊夢は──ようやく、そいつの正体を看破した。

 

 

「あんた……あいつの、あいつ自身が封じ込めていた、もう一人の岩倉玲音ね?」

「──ご名答。そこまで分かるようになったんだ。そう、あたしは岩倉玲音だけど、岩倉玲音じゃない。いったい誰だと思う?」

「そんなの、同じ姿をした私の時とだいたい一緒でしょ。あんたは、あいつの理想……あいつが成りたかった理想の自分みたいなものでしょ」

 

 

 確信を込めた推測に、そいつは……感慨深そうに、笑みを深めた。

 

 

「そう、よく分かっているじゃん。あたしは、アイツが成りたかった自分自身。周りを想うがあまり強く出られないアイツの、理想の姿」

 

 

 その言葉と共に──瞬間、そいつの……レインの姿がぶれる。と、思った次の瞬間にはもう……服装が変わっていた。

 

 

 それまでの、大人しい外見ではない。

 

 

 何処となく覇気のない弱弱しい目つきとは真逆の、吊り上った目尻に薄目に施された口紅。円錐形のクリスタルイヤリングは煌めき、立ち振る舞いが明らかに違う。

 

 加えて、膝下まである肩紐ワンピースの上に、ワインレッド色の肩紐ワンピースの重ね着。胸元の黒いリボンの飾りも相まって、双子の別人だと言われれば誰もが納得する雰囲気を放っていた。

 

 

「それじゃあ、あたしがどうしてあんたの前に出て来たか……それも、分かる?」

「それも、決まっているでしょ。あんたは岩倉玲音の理想の姿だけど、同時に、岩倉玲音を守ろうとする防御反応。降りかかる不安と恐怖を打ち破り、傍まで来てくれる者を選別する、心の守護者よ」

「……嬉しいねえ、あんた、分かっているじゃん。そう、あたしは、意気地なしなアイツの心のガーディアン。それじゃあ、私が出て来たってことは、あんたはお呼びじゃないってことも、分かるわよね?」

「今更、つまらない問答をするつもりはないわよ」

 

 

 意味深に微笑むレインの言葉を、霊夢は一言で切って捨てた。

 

 

「本当にアイツがあたしを拒否しているなら、こんなもんじゃない。あんたも、問答無用で排除に動いている……それもせず、こうしてお喋りするってことは……本当は、あいつも望んでいるのよ」

「……何を?」

 

 

 そう尋ねるレインに、「ほんと、あんたって疑り深いわね」霊夢は呆れたと言わんばかりに溜息を零した。

 

 

「私がそうだったように、アイツも寂しかったのよ。だから、私が来てくれること事態は嬉しい。でも、不安で仕方がないから、私の本気を試したい……そうでしょ?」

「……その根拠は?」

「いちいち聞く? だってあんた、私の中にも居たでしょ。全てを拒絶したつもりでも、寂しくて堪らなかったから、私の中にだけは残していたでしょ」

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………しばしの間、沈黙が続いた。

 

 

 

「……ほんと、嬉しいよ。本当にあんたってば、全部分かってんじゃん」

 

 

 でも、それは嫌な沈黙ではない。嬉しくて堪らない、喜びが込められた沈黙であり……事実、レインは心から嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

 

「それじゃあ……あたしがこれからしようとすることも、分かってるでしょ」

 

 

 だが、直後に──レインから放たれる雰囲気が、一変する。

 

 

「あたしは、傷ついたアイツの心の前に立ち塞がる、最後の心の防壁。あたしは、あんたを試す必要がある……で、あんたはどうやってあたしに、ソレを証明するつもりなの?」

 

 

 それに対し、霊夢は答える。何時ものように、何時かと同じく、威風堂々として、それでいて、暢気の……サラッと告げた。

 

 

「そんなの、決まっているじゃない。私たちの間では殺し合いは御法度。美しく可憐に決着を付けるのが、私たちのやり方よ」

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………あははは、と。

 

 

 ぽかんと呆けていたレインは……少しばかりの間を置いてから、子供のように笑った。それは、彼女なりの承諾の証であった。

 

 

「なるほど、そっかそっか。いいね、そういうの好きだよ。『ごっこ遊び』で決着を付ける……うん、それじゃあ、始めようか」

「私が言うのも何だけど、ルールは分かってんの?」

「実演は初めてだけど、覗き見はしていたから分かっているよ。耳年増ならぬ、目年増ってやつかな」

 

 

 そして、承諾されれば後に起こるのは。

 

 

「……それじゃあ、乗り越えてみなよ」

 

 

 誰にも見る事は出来ず、聞く事も叶わず、触れる事も不可能な……無意識の彼方にて繰り広げられる。

 

 

「あんた達のやる宴会……楽しみにしているからさ!」

 

 

 虚構の中で幾度となく行われてきた──『弾幕ごっこ』であった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──基本的に、『弾幕ごっこ』において、異変を解決する者よりも、異変を起こした者が先手を取る場合が多い。

 

 

 

 というのも、だいたいの異変は、起こす者が先であり、それに対応する者が後になる。動機は何であれ、異変を企てた者が起こした勝負を、止める側が受ける形になるからだ。

 

 もちろん、例外はある。虚構の中とはいえ、例外は何度か発生した。

 

 弾幕ごっことは名ばかりに肉弾戦(実質、ほとんど殴り合い)を始める者もいるし、お前初めからルール守る気があるのかと疑念を抱いてしまうようなやつもいれば、そもそもルールを理解していないやつもいる。

 

 まあ、それはあくまで本当に例外だ。意図的に妨害活動(あるいは、邪魔になった場合)を行わない限り、異変を止める側の……この場合、霊夢がレインの挑戦を受ける形になる。

 

 故に、此度の場合においても、レインが先手を取るのが当然の流れであり……レインも、ルールは熟知していた。

 

 

「──さあ、カードは2枚! 根性入れなよ!」

 

 

 

 ──偏在『一人歩きする見知らぬペルソナ』

 

 

 

 サッ、と。レインの掲げた片手には、いつの間にか一枚のカード。そこに描かれているのは、枠いっぱいに押し込められた人々。そして、その人々の胸元より染み出るようにして姿を見せた、玲音の顔であった。

 

 ぱきん、と。カードが砕け散る。それを見て、霊夢は構えた。

 

 

 

 ……変化は、スペルを唱えたレインの周辺から始まった。

 

 

 まるで、空気から溶け出して来たかのように、するりとレインが二人に増えた。かと思えばそれが倍に、更に倍に、そのまた倍に……瞬く間に、その数は100を超えた。

 

 しかも、姿形が全て、微妙に異なっている。

 

 最初のレインよりも大人っぽいレインも居れば、子供っぽいレインも居る。野暮ったい服装のレインも居れば、下着かと見間違うぐらいに官能的な恰好のレインも居た。

 

 そんな多種多様、よくよく見れば千差万別なレインたちが……一斉に、霊夢へと弾幕を放つ。目が眩むほどの光の暴力を前に、霊夢は──素早く転進し、隙間を縫うように避ける。

 

 その弾幕は、千差万別であった。

 

 

 とあるレインは、掌からまっすぐ突き進む光のレーザーを放つ。

 

 とあるレインは、息を吹きかけるようにして螺旋を描く弾幕を。

 

 とあるレインは、蛇のように身をくねらせながら迫る光弾を。

 

 とあるレインは、玩具の銃のようなソレを構え、連射し続け。

 

 

 正に、数の暴力だ。しかも、全員が異なりつつも同じレインである為、動きに迷いが無い。全ての弾道は協力関係にあり、互いが互いを助け合うようにして形成される弾幕は、驚異の一言である。

 

 

 何せ、弾幕の発射点だけでなく、そのバリエーションが兎にも角にも多過ぎるのだ。

 

 

 霊夢が知る者たち、虚構の存在である者の中には似たような事をするやつは居たが、あれはあくまで発射点の数が多いだけで、出される弾幕は全て同じ。

 

 

 言うなれば、パターンさえ組めれば避けるのは容易である。

 

 

 実際、霊夢は(虚構であるにしても)瞬時にパターンを構築し、如何様にも対処してきた。

 

 だが、コレは違う。パターンが組めそうで組めない。下手に組もうとすると、間違いなく被弾してしまう、実に、いやらしい弾幕だ。

 

 仮に、今は無き幻想郷でこの弾幕が張られていたら……切り抜けられる者は、片手で数えられるぐらいしかいなかっただろう。

 

 

 ……けれども、その程度では霊夢を落とせない。パターンが組めなくとも、持ち前のセンス……霊夢だけが持つ天才的センスは超えられない。

 

 

 まっすぐ突き進むレーザーの表面を掠めるように避け、螺旋を描く弾幕に合わせて旋回し、身をくねらせながら接近する光弾には逆に接近して通り過ぎ、雨のように降り注ぐ連射は気合で避ける。

 

 傍からみれば、お前全身に目玉でも付いているのかと思ってしまう程の、無駄の無い動きだろう。

 

 実際、相手をしているレインもちょっとばかり引いていたが……まあ、そこはいい。

 

 霊夢がそれほどまでに避けられたのは、実の所、それだけが理由ではない。レインたち一人ひとりが、『弾幕ごっこ』自体が上手ではないのも、理由の一つである。

 

 耳年増ならぬ目年増というのは本当のようで、一見する限りでは様になってはいるが……初めてなのが丸分かりな立ち回りが多く、慣れていないのが明白であった。

 

 

「──嘘でしょ、あたし達も反則技みたいなもんだけど、よくもまあ避けられるものね」

 

 

 とまあ、そんなわけで。

 

 

 定められた制限時間を耐えきった……通称、『耐久スペル』を凌いだ霊夢に対し、レインは素直に称賛の言葉を向けた。

 

 既に、あれだけ増えていたレインたちは1人も残っていない。居るのは、スペルカードを宣言したレインただ1人。そのレインの前に降り立つ……ほとんど無傷の霊夢。

 

 一見する限りでは、勝負あった……といった感じだろうか。

 

 けれども、実際は違う。勝負は、まだついていない。何故なら、レインが宣言したスペルカードは2枚。それを分かっているからこそ、張り詰めた緊張感は全く緩まない。

 

 

「──よし! それじゃあ、これはどうかしら?」

 

 

 その言葉と共に、レインは片手を上げる。その指先が挟んで掲げているのは、2枚目のスペルカード。

 

 

 

 

 

 ──滑稽『役立たずなチェシャ猫』

 

 

 

 

 

 最後のスペルカード……通称、『ラストスペル』が宣言される。砕け散るカードと共に、レインの雰囲気がまた変わる。

 

 直後──レインが向ける掌から飛び出したのは、光弾であった。霊夢はそれを、相手の身体へと向かう追跡型の光弾であると一目で見破った。

 

 

 ……追跡弾には特徴がある。それは一発の威力が低いのと、追跡時間にも限りがあるのと、弾速そのものが遅いという点だ。

 

 

 捕捉した相手を永続的に追いかける追跡弾も存在するが、アレは使い勝手が悪い。

 

 また、美しく魅せながら競い合う『弾幕ごっこ』の特性上、そういったモノは見栄えが悪く、美しくないので基本的には使用されない。

 

 もちろん、レインがそういう暗黙の部分を理解していることは、霊夢も分かっていた……となれば、だ。

 

 

(やはり、そう来るか……それなら、次は……)

 

 

 迫り来る光弾が一定の距離まで近づいた──瞬間、まるで空気に溶けこむかのように光弾が消えてしまった。それは、霊夢が予想した通りであった。

 

 威力が足りず、途中で力尽きて消えてしまったのだろうか……否、そうではない! 

 

 

「──っ!」

 

 

 背筋を走る、悪寒にも似た直感。一切の疑いを持たずに従った霊夢の胸元を──いつの間にか眼前にまで接近していた光弾が、はるか後方へと流れて行った。

 

 

 やはり──視界に映らないタイプの追跡弾だ。

 

 

 弾速の遅さは、ある意味カモフラージュだ。速ければ消えた後に何か有ると思わせてしまうが、遅い分だけ威力が弱くて消えてしまったと誤解させてしまう……意地の悪い光弾だ。

 

 そのうえ、追跡弾なので、ただ単純に射線上を避けただけでは着弾してしまう。

 

 おそらく、消えた後で加速なり、追跡性能が跳ね上がったり、小細工が施されていたり、するのだろう。

 

 それを……レインは、連発してくる。しかも、いつの間にかレインの身体から放射状に放たれている、マシンガンが如き光弾の雨……その様は、正しく弾幕である。

 

 

 常時気を張って避け続けないと、確実に着弾する雨のような弾幕。

 

 その意識の隙間を縫うようにして迫り、消えて不意打ちする追跡弾。

 

 

 しかも、刻一刻と降り注ぐ弾幕は勢いを増し、いつの間にかまたレインの数は増え、発射台が5人になっている。人数は打ち止めのようだが、避けにくさは先ほど以上。

 

 

 なるほど、地味ではあるが、難易度だけを考えればラストスペルに相応しい。

 

 

 率直に評価した霊夢は──素早く身体を捻りながら、反撃の弾幕を発射する。連射された光弾は、寸分の狂いもなくレインへと着弾し……それを不敵な笑みと共にレインは受け止める。

 

 ……霊夢の光弾も、レインの光弾も、非殺傷ではある。だが、死なないわけではない。

 

 当たれば相応に痛いし、打ち所が悪ければ骨だって折れる。ガードなり何なりしておかなければ擦り傷打撲は当たり前で、顔面に当たれば鼻血の一つや二つは噴き出るだろう。

 

 

 だから、霊力(と、霊夢は定めている)でガードしていても、痛いものは痛い。

 

 

 それはレインも同様のようで、霊夢とは異なるやり方で防壁を張って防いでいるようだが、少し顔をしかめて……ん? 

 

 視界の端で──弾幕を受け止めながらも、意味深に唇が弧を描いていることに気付いた霊夢は、これは何かあるなと身構える。

 

 見渡した限り、レインに異変は見られない。弾幕の激しさは増してはいるが、それだけだ。追跡弾だって、連発されたおかげで慣れた。

 

 このまま行けば、更に攻撃に専念──。

 

 

『──シシシッ、右から来るぜ』

 

 

 ──しようとした、その瞬間。

 

 

「えっ?」

 

 

 前触れもなく、いきなり真横から掛けられた言葉に、思わず霊夢はそちらに視線を向け──たと同時に、「──ごほっ!?」真下から接近していた追跡弾が、霊夢の腹部に着弾した。

 

 

「──っ! な、によ、この!」

 

 

 堪らず、息が詰まる。完全に、不意を突かれた。

 

 幸いにも速度も威力も劣る追跡弾だったから、いきなり墜落なんて事にはならなかったが、痛いのは変わらない。

 

 瞬時に体勢を立て直しつつ、再び近づいて来ていた消える追跡弾を紙一重で避けながら……改めて、弾幕を発射──。

 

 

『シッシッシ、今度は左だ』

 

 

 ──した、瞬間。

 

 またもや真横から掛けられた声に、霊夢は反射的にそちらへ視線を向け──強かに顔面で光弾を受け止める。ぷぱっ、と鼻血が噴き出て、霊夢の頬を濡らした。

 

 

「~~っだいわね!!」

 

 

 けれども、その程度で霊夢は怯まない。その程度の覚悟で怯むのであれば、自殺までしてこの領域に足を踏み入れたりはしない。

 

 それに、『弾幕ごっこ』の勝敗は被弾した回数ではない。死者が出る真剣勝負ではあるが、殺し合いではない。

 

 如何に『見事だ、私の負けで良い』と思わせるのかが鍵であり、突き詰めてしまえば、100回被弾しようが歯を食いしばって耐えて、相手から1回の『降参』を引き出せば勝ちなのだ。

 

 

「──ふっ!」

 

 

 だからこそ……霊夢は噴き出した鼻血と滲む涙を些か乱暴に拭いながら、封魔針を飛ばす。一つや二つではなく、創り出したソレをマシンガンのように放つ。

 

 光弾(通常弾と呼ばれる、連射可能の弾幕)では防壁を破るのに時間が掛かり過ぎると判断したが故の、切り替えである。

 

 僅かばかり追跡が掛かる通常弾とは違い、封魔針は本当にまっすぐにしか飛ばない。いちおう、発射の瞬間に少しばかり曲線を描くように放つことは出来るが、途中で軌道が変わることはない。

 

 

「──いった!? いた!? いたたた、痛い痛い!? なにこれ、お前これ反則だろ、痛すぎだぞ!」

 

 

 けれども、その威力は通常弾とは段違いである。

 

 

 それでも防壁を破れないのはさすがとしか言い様がないが、衝撃までは完全に抑えられないようだ。明らかに、顔色が悪くなっている。

 

 そういった痛みに慣れていないのだろう。レインは、先ほどまで滲ませていた余裕を引っ込め、慌てた様子で封魔針の射線上から逃れた。

 

 だが……これまた、その程度で霊夢の弾幕から完全に逃れることは不可能だ。

 

 直線にしか飛ばなくとも、天才的なセンスと『勘』によって、レインの動きを先読みする。100発100中とは言い難いが、7割近くは着弾するという信じ難い先読み力である。

 

 

『──シシシ、今度は下だぞ』

 

 

 だが、しかし。

 

 

「ぶっ!?」

 

 

 さすがの霊夢も、右側を見ながら左を向くのは不可能だ。横合いから殴りつけられたかのような衝撃に、霊夢はぶふっと口の中が切れたのを知覚する。

 

 霊力のガードが間に合っているので、辛うじてクリティカルヒットは防げたが、避けられない。確実に着弾し、その度に、無視出来ない苦痛が芯まで響く。

 

 

 ──が、我慢だ我慢! 

 

 

 食いしばった唇の端から泡を飛ばしながら、構わず封魔針を打ち込む。これにはレインも面食らったようで、防壁にて防いではいるが、額に汗が滲んで──その中で。

 

 

(なるほど……着弾の瞬間、あの『声』で強制的に『声が示した先へ注意を向けてしまう』というわけか)

 

 

 霊夢は……ラストスペル『役立たずなチェシャ猫』のメカニズムを解読し……その底意地の悪い中身に、思わず舌打ちを零した。

 

 分かり難いが、これもある意味一回目と同じ『耐久スペル』だ。

 

 ただ、あちらはひたすら避けに徹しなければならない耐久だとしたら、こちらはひたすら我慢して堪え続ける耐久……同じ耐久でも、こっちの方が何倍も辛い。

 

 しかし、意地の悪さは互いに似たようなものだ。それだけ、向こうも本気であるということでもある。

 

 それに、着弾するのは威力も速度も弱い追跡弾。降り注ぐように迫り来る放射状の弾幕に比べたら、霊力のガードを解かない限りはまず致命傷になることはない。

 

 しっかり、ルールを守っている。ならば、霊夢は……やせ我慢にて迎え撃つことにした。

 

 作戦も技術も関係ない、肉を切らせて骨を断つ戦法。『声』が聞こえた瞬間、霊力のガードを強め、気合で着弾をやり過ごし、そのまま攻撃を続行……それが、霊夢の選んだ対抗手段であった。

 

 

 力技もいいところな戦法だが、ソレは思いの外上手くいった。

 

 

 被弾をかえりみず突き進む霊夢の迫力を前に、「うわっ、とっ、おっ、あ、あ!?」明らかにレインの動きが悪くなる。

 

 理由は、意気込みが違うからだろう。

 

 拒否しつつも拒絶していない玲音と、不退転の覚悟の霊夢とでは、そもそもが、釣り合っていないのだ。

 

 故に……勝敗はもう、決まっていたも同然で。途中、苦し紛れに『声』で霊夢を誘導して被弾させはするものの、徐々にそれも出来なくなって……結局は。

 

 

「──分かった! 私の負けだ負け、まいった!」

 

 

 我慢の限界に達したレインの敗北という形で、此度の『弾幕ごっこ』は終幕となったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──片や、腫れあがった両手を涙目で見下ろしながら、「いてぇ……何だよ、弾幕ごっこ超こえぇじゃないの……」ブツブツと愚痴を零す気の強そうな少女。

 

 ──片や、頬やら額やらに擦り傷や青あざを作り、拭い切れていない鼻血などで汚れた袖で、唇などから滲む鮮血を拭っている、傍目にも痛々しい少女。

 

 

 一見する限り、どちらが勝者か分からない有様だろう。けれども、よくよく注意深く見てみれば、すぐに分かるだろう。

 

 何せ、雰囲気というか気配が、明らかにどちらが勝者であるかを物語っているのだから。具体的には、気の強そうな方が、明らかに腰が引けていた。

 

 

「……で?」

「ん?」

「初めての『弾幕ごっこ』はどう?」

 

 

 そう尋ねられたレインは……しばし視線をさ迷わせた後。

 

 

「痛いし怖いし、出来る事なら二度とやりたくねえ」

 

 

 はっきりと、ぶっちゃけた。

 

 

「でも……」

「でも?」

「正直、不思議な気持ちだったよ。生まれて初めて、誰かと本気で喧嘩したのかもな」

「……まあ、『弾幕ごっこ』って見方を変えれば決闘あるいは喧嘩みたいなもの……なのかしら?」

 

 

 首を傾げる霊夢に、「あたしとしてはスッキリしたよ」レインはそう言って笑みを浮かべ……次いで、真剣な眼差しを向けると。

 

 

「根暗でウジウジしているアイツの頭を、ぶっ叩いてくれよな」

 

 

 その言葉を最後に……するりと、空気に溶けこむように姿を消した。

 

 後には……傷だらけの霊夢が残されて。一つ、息を吐いた霊夢は……ぷっと口内に溜まった血を吐き捨て、先へと進むのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Stage2:何時か抱いた理想の行方

 

 

 

 

 

 

 無意識の中を飛ぶ(あるいは、漂う)という行為は、実の所かなり危険な行いである。

 

 というのも、本来、無意識の世界は認識することが不可能な領域であるのだが、何故不可能なのかと言えば……それは、言うなれば無意識の領域には膨大な情報が詰まっているからだ。

 

 一見すると混ざり合っているように見えるが、実際はそうではない。仮に、何の対策もせずに無意識に触れようものなら……例外なく、その者の自我は押し潰されるだろう。

 

 何せ、人類と同じ数の無意識がここにはある。いや、場合によっては、全ての命の無意識が、ここには流れている。

 

 大海に混ざってしまったコップの真水をそのまま分離するのが不可能であるのと、同じ事。大海から掌で掬った分を混ぜるならまだしも、コップの水を大海に投げ入れれば……後はもう、考えるまでもないだろう。

 

 だから、常人では認識出来ない。まあ、認識する方法すら、この世界では存在していないのだから、不可能である。

 

 それを踏まえたうえで、様々な偶然が重なって、仮に認識することが出来たとしたら……その瞬間、流れ込んでくる膨大な無意識……人類と同じ数だけのソレに、耐えられる者はいない。

 

 だいたいの者が、押し寄せる無意識の濁流に飲み込まれ、耐え切れず廃人になるだろう。運良く無意識の海から跳ね飛ばされても、過去十数年分近くの記憶を喪失するという後遺症を残すのは確実だ。

 

 それぐらい、無意識の領域とは危険なのだ。

 

 

 ……で、だ。

 

 

 その、無意識の領域を認識している時の悪影響……実は霊夢とて、例外ではない。限りなく極小ではあるが、無意識の領域に居る間は霊夢も気を張って影響を抑えているのだ。

 

 しかし、玲音にはそれが無い。どうしてかと言えば、玲音と霊夢はある意味同じ存在ではあるが、決定的な違いが一つあるからで。

 

 

 それこそが、『集合的無意識』そのものである玲音と、霊夢との大きな違いであった。

 

 

 人が人として生まれたその時……いや、もしかしたら、この星に生命が生まれたその時より存在している可能性がある玲音には、そもそも肉体が何なのかすら認識出来ていなかった可能性が高い。

 

 康男の証言が全て事実であるならば、何かしらの意志(あるいは、第三者の思惑)によって肉体を得たとしても……言い方は悪いが、その肉体は現実(リアル)へ投影されたホログラムに過ぎない……というのが正しい状態の可能性すらある。

 

 言い換えれば、それだけ人々の無意識への親和性が高いということだ。そのうえで、霊夢はといえば……はっきり言って全然違う。

 

 無意識に望まれた、信じたいと願う想いの集合体ではあるものの、霊夢は初めから肉体を得ていた。肉体という物理的な重石を得た結果、『幻想郷』という壮大な虚構を作り出したのだが……まあ、そこはいい。

 

 

 あくまで、イメージとして考えるのであれば、だ。

 

 

 生まれたその時より肉体を得ている霊夢の比重は、『現実(リアル)寄り』であるということ。だからこそ、肉体を捨てるだけでなく、様々な幻想たちの想いと共に向かう必要があった。

 

 対して、玲音の方はといえば、経緯は何であれ肉体を得ていた頃ですら、比重が『無意識寄り』……いや、人々の集合的無意識が人の形を取っているかのような存在だ。

 

 魚が水中で生きるように、無意識の領域は玲音にとって、魚にとっての水中と同じなのだ。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………という旨の話を、だ。

 

 

 

 

「つまり、玲音と同じ土俵に上がったところで勝ち目なんて無いってわけ。あんたは、そんな勝ち目のない土俵に自ら上がって来たマヌケってわけね」

「戦いを挑むのならそうかもしれないけど、言いたい事はそれだけ? あんたも大概、暇を持て余しているのね」

 

 

 レインの時と同じく、ぬるりと姿を見せた靈夢より長々と説明された霊夢は……鬱陶しいという感情を欠片も隠さず、そう吐き捨てた。

 

 辺りは……レインと対面した時から、また景色が変わっていた。

 

 一言でいえば、幻想郷だ。見覚えのある空に、見覚えのある大地。見覚えのある森に、見覚えのある村……何もかもが、今はもう存在していないはずの『幻想郷』が、霊夢の眼下に広がっている。

 

 だが、そこには誰もいない。霊夢を送り出してくれた者たちも、霊夢が守って来たと思っていた者たちも、誰もいない。

 

 アレは、ただの張りぼてだ。見た目はそっくりだが、表面を似せて作り出しただけの……中身の無い、外側だけの張りぼて。

 

 

 ……そこで、霊夢は、何時ぞやのそっくりさん……靈夢と対面した。

 

 

 通算、おそらくは三度目となる靈夢との対面……レインと同じく、その風貌は以前とは少しばかり異なっていた。

 

 見たままを言葉にすれば、大人びているのだ。以前は鏡に写したかのように瓜二つであったのに、今は違う。

 

 背は霊夢よりも10センチは高く、顔立ちも背丈に合わせて幼さが抜けている。身に纏っている巫女服には目立つ違いはないが、その中に秘められた体つきは明らかに少女ではなく、女であった。

 

 

「……あんた、しばらく見ない内に変わったけど……何かあったの?」

「貴女がちゃんと自分と向き合ったからよ。この姿は、貴女が成りたいと思っている博麗の巫女……ではなく、理想の姿。こういうふうな大人になりたいっていう、そういう理想の姿」

 

 

 少年が筋肉質な身体に憧れるのと一緒よ……そう続けられた言葉に、霊夢は……少しばかり気恥ずかしそうに視線を逸らした。

 

 

「……私、そんなに露骨なの?」

「子供の内は誰だって平たいのよ? 良いとこ悪いとこ、そういう屁理屈は抜きにして、大きくなりたいって思うのは自然な話でしょ」

「いや、大きいのは大きいので邪魔かな……って」

「だから、私は程よく大きいのでしょ? 程よくおっぱいが大きくて形が整っていて、程よく腰がくびれてお尻も形良い……そうなりたいって思う事の、何が悪いと思うの?」

「悪いわけじゃないけど……なんか、恥ずかしいのよ。意中の殿方が居るわけでもないのに、どうしてそう思うのかも不思議だし……」

「そりゃあ、現実世界の人達に触れて、淡い憧れを抱いたからでしょ。言うのも何だけど、比較対象を見つけて憧れるのも自然な事よ」

「ええ……私、本当にそんなこと思っていたの?」

「大なり小なり訪れる思春期みたいなものよ。実際に触れたから、自分もそうなりたいって思った……ただ、それだけでしょ」

 

 

 そう言われれば……霊夢は、もにょもにょと唇を噛み締めるしか出来なかった。否定したい気持ちはあるが、相手が相手だ……わざわざ言われなくとも、分かっている事であった。

 

 

「……さて、無駄話もここまで。やることをやりましょうか」

 

 

 現れた時が唐突ならば、気配が切り替わるのもまた、唐突であった。

 

 

 ……いや、まあ、常識的に考えれば、こんな状況で世間話を始める二人がおかしいのであって、普通はもっと空気が張り詰めているというか、一触即発な感じになっているはずである。

 

 

 そうならないのは、精神的なダメージを受けて弱気になることはあっても、生まれ持った気質がそうさせている……かもしれないが、まあ、話を戻そう。

 

 

「既に分かっていると思うけど、私は貴女よりも強い。何故なら、私は貴女の理想。自分と向き合った事で、あやふやだった私は明確な形を得て、貴女の前に立ち塞がる壁となった」

 

 

 その言葉と共に、靈夢から放たれる『圧』が増し始める。それを見て、霊夢は……不思議と、何の気負いも感じてはいなかった。

 

 理想の自分が言わんとしている事は、霊夢にも分かっている。要は自分自身を乗り越えてゆけと、半端な覚悟でやるなと、遠まわしにケツを叩いているだけだ。

 

 

 とはいえ、靈夢の言葉通り、全てにおいて今の自分より強いのも明白だ。

 

 

 それは何も、背丈の問題だけではない。純粋に、博麗の巫女として感じ取れる『力』の差と、おなじみの『勘』が、眼前にて佇む理想が如何に強大であるかを訴えている。

 

 この感じだと……技や術のキレや出力は向こうが上だ。微々たる違いでしかないが、身体能力も向こうが上なのは確実だ。

 

 単純な力比べでは、まず勝てない。かといって、技で攻めよう……と思ったところで、それも分が悪い。挑んだ数だけ、確実に負けるだろう。

 

 

 ──だが、霊夢は挑む。何故なら、一人ではないから。

 

 

「さあ、来なさい!」

 

 

 告げられた開始の合図と共に、霊夢は──弾幕を放ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 初手は、確かに霊夢の方が早かった。相手が手加減していたのもあるが、先手を譲って貰ったという感覚は確かであった。

 

 

(──後出しなのに、撃ち合いは互角……!)

 

 

 だが、それでもなお……相手の方が、速かった。

 

 優位に立てたのは、最初の一瞬だけ。詰めたと思った相殺位置は瞬く間にずれ込み、気付けばもう互いの中間にまで押し下げられていた。

 

 しかも、弾幕の密度は明らかに向こうが上で、威力も無効が上。中間あたりで押し留める事が出来ているのは単に、向こうが手を抜いているからにすぎない。

 

 途中で光弾から貫通力のある封魔針に変えてみるも、結果は同じ。相手の弾幕を貫通してはいるが、壁が如き勢いで放たれる弾幕の厚みを貫くことは出来ない。

 

 その時点で、霊夢は真正面からの撃ち合いでは絶対に勝てない事を、改めて理解した。

 

 

「──っ!」

 

 

 しかも、相殺しきれなかった光弾が、まるでそんな霊夢を甚振るかのように、封魔針の隙間を……意識の死角を突くかのように抜けてくる。

 

 反射的に頭を傾けた瞬間、光弾が頬をチリチリと掠めてゆく。じわりと広がる熱気とひりつく痛みに舌打ちしつつ、霊夢はその場より飛び退いて軌道を変える。

 

 

「判断が遅い」

 

 

 瞬間、気付けば傍まで接近していた靈夢の回し蹴り。

 

 

「──っ!?」

 

 

 近づいたことすら認識出来なかったが、反射的なガードは間に合った。

 

 しかし、馬力もキレも向こうが上。完全に防ぐことは叶わず、骨が軋む感覚を認識しながら、霊夢は──幻想郷(もどき)の地表へと、叩き付けられた。

 

 衝撃で大地がひび割れ、繁茂している雑草ごとめくれ上がる。霊力のガードは行われているのに、一瞬ばかり意識が遠のくほどであった──と。

 

 

「──っ!」

「ほらほら、寝ている場合じゃないわよ」

 

 

 前触れもなく、いきなり眼前に出現した靈夢に驚く間もなく、霊夢は転げまわるようにして振り下ろされる靈夢の蹴りを避ける。

 

 それは、亜空穴(あくうけつ)とも、空想穴(くうそうけつ)とも言われた、博麗霊夢が得意とする瞬間移動技だ。

 

 ソレを、息を吐くように霊夢は扱えるが、向こうはそれ以上。

 

 固い妖怪の頭部を一撃で踏み抜く蹴りが、幾度となく霊夢へと振り下ろされる。その度に、ずどんずどんと砂埃が舞いあがり、勢い余って周辺の木々をも蹴り砕く。

 

 

 ──その最中、霊夢も転移する。向こうが使えるのならば、霊夢もまた使えて当然なのだ。

 

 

 何の予備動作も挟まない、瞬時の転移。言い換えれば、一切の準備を必要としない瞬間移動。これまで、それを目の当たりにしてきた者たちが口を揃えた、『それ、卑怯過ぎる』という感想。

 

 相手が、ただの妖怪であればこの時点で決着が付いていただろう。

 

 少なくとも、今は無き幻想郷内において、本気になった霊夢の亜空欠より逃れる術はなく、八雲紫ですら『ほどほどに』とやんわり注意されるぐらいには……だが、しかし。

 

 

 ……此度に限っては、相手が悪かった。何故なら、霊夢以上の速さと正確さで、転移を行うのだから。

 

 

 始めて体験する自分以上の素早い転移に驚愕する暇も与えないまま、掬い上げるような昇天蹴(しょうてんげり)に、霊夢のガードはこじ開けられ──無防備になったそこへ向かって。

 

 

「神霊『夢想封印』」

 

 

 鮮やかに、それでいて、七色に輝く巨大な光球。発動すれば舌打ちしたくなるほどのホーミング性能を持つソレが、霊夢の胴体へと──当たらなかった。

 

 何故かといえば、それは霊夢の眼前にて出現した、一筋の亀裂。

 

 それはかつて、八雲紫が操っていた能力。通称『スキマ』と呼ばれる異空間が開かれると共に、靈夢の放った『夢想封印』が吸い込まれ──。

 

 

「──っと!?」

 

 

 ──音も無く背後にて開かれたもう一つのスキマより飛び出した『夢想封印』を、靈夢はギリギリのところで防いだ。

 

 しかし、勢いを殺しきれず、つんのめる。空中でつんのめるというのも変な話ではあるが、少なからず体勢を崩したのは確かであった。

 

 そして……素早く体勢を立て直していた霊夢は、それを見逃さなかった。

 

 いつの間にか霊夢が手にしているのは、『ミニ八卦炉』。霧雨魔理沙が使用していたソレを瞬時に作り出した霊夢は、何時ぞやの思い出のままに靈夢へと向けると。

 

 

 ──恋符『マスタースパーク』

 

 

 躊躇なく、引き金(のようなもの)を引いた。

 

 放たれたのは、夜空を明るく照らすほどの、膨大なレーザービーム。直視することすら難しいぐらいの輝きと共に、周辺の景色を呑み込みながら靈夢へと迫る。

 

 

 もちろん──それでやられる靈夢ではない。

 

 

 些か驚いた様子ではあったが、反応は出来る。「夢符『二重結界』!」即座に張られた、靈夢を覆い隠す二重の結界。

 

 それによって、山すら焼くマスタースパークも靈夢には到達することなく──いや、まだである。

 

 

 ──神祭『エクスパンデッド・オンバシラ』

 

 

 大地を砕く楕円形の御柱が、靈夢の結界にぶち当たる。その数、計16本。さすがの靈夢も、この一点突破には堪らず顔をしかめて転移でその場より逃れる。

 

 

 ──神具『洩矢(もりや)の鉄の輪』

 

 

 しかし、それを読んでいた霊夢の放つ鉄の輪が追撃する。「このっ!」総身を捻って避けた靈夢は、その勢いを殺さずに巨大化した陰陽玉……法具『陰陽鬼神玉』を投げつけ──ようとして、ギクリと動きを止めた。

 

 

 ──『幻朧月睨』(ルナティックレッドアイズ)

 

 

 何故なら、霊夢より向けられる視線。真紅に輝く眼光、それによって感覚が狂わされていることに靈夢が気付いたからで……気付いた所で遅く、陰陽玉は明後日の方向へと投げた後であった。

 

 

 ──超人『聖白蓮(ひじりびゃくれん)』

 

 

「おごっ!?」

 

 

 急いで狂わされた感覚を戻そうとするも、間に合わない。

 

 霊夢の夢想封印をも振り切る程に強化された身体能力を駆使した正拳突きが、靈夢の腹部を強かに打ち抜いた。

 

 霊夢を上回る霊力のガードがあるとはいえ、さすがに顔色を悪くする。だが、霊夢は止まらない。ここで押し切らねば負けると分かっているからこそ、全力で押し切る

 

 

 ──雷符『エレキテルの龍宮(りゅうぐう)』

 

 

 その言葉に呼応して降り立つ落雷。目が眩み、爆音で鼓膜が悲鳴をあげる最中、靈夢は全身を襲う雷撃の痛みと痺れに悲鳴一つ上げられない。

 

 だが、それでもなお、理想の博麗の巫女。

 

 常人であればそのまま死亡する状況にありながらも、すぐに持ち直す。と、同時に放たれる『妖怪バスター(御札の乱れ撃ち)』によって、雷撃の全てが無効化される。

 

 

「霊符『博麗幻影』!」

 

 

 そして行われる、追撃の連続転移。点と点による瞬間移動だが、転移のサイクルが速過ぎる。まるで水流のような滑らかさで距離を取った靈夢は、「大結界『博麗弾幕結界』!」続けて術を発動する。

 

 ……博麗弾幕結界とは、その名の通り相手を結界の中に閉じ込めた後、その中へひたすら弾幕を放ち続ける術だ。

 

 

 この技の厄介な所は、二つ。

 

 

 一つは、逃げ場が結界(力技による突破は難しい)内に限られているということ。そして二つ目は、避けた弾幕は結界の壁に跳ね返るだけでなく、弾幕同士がぶつかって不規則に軌道を変えるというところだ。

 

 作った当人ですら、やられたら非常に面倒な術だと零すぐらいに、えげつない。

 

 そのうえ……スキマを通じて逃げようにも、靈夢がその隙を与えてくれない。故に、この状況で逃走は悪手であると即断した霊夢は、迎え撃つことを選ぶ。

 

 

 ──火水木金土符『賢者の石』

 

 

 それは、とある虚弱な魔法使いが生み出した魔法の石。様々な属性が付与されており、霊夢を守るようにして出現した幾つもの賢者の石は……鮮やかな輝きを伴って、向かって来る弾幕を相殺する。

 

 

「力を貸しなさい、人形たち!」

 

 

 霊夢の言葉と意志に呼応して出現するのは、とある都会派魔女が作り上げ、愛用していた魔法の人形たち。

 

 名を、上海(しゃんはい)、蓬莱(ほうらい)、和蘭(おらんだ)、仏蘭西(ふらんす)、オルレアン……次々に出現する人形たちは、霊夢の掛け声一つで隊列を組み、一糸乱れぬ統率を保って防御陣形を組む。

 

 使い方など、学ばなくても分かっている。

 

 操り方の全ては、霊夢の内の奥に居る魔女が、まるで身体の一部を借りているかのようにスムーズに操ってくれるからで──霊夢は迷うことなく己の理想を睨むと。

 

 

 ──神槍『スピア・ザ・グングニル』

 

 

 一切の躊躇なく、出現させた朱き槍を放った。「夢境『二重大結界』!」察知した靈夢が既に張った結界によって遮られたが、その上から連続して叩き付けられ──気づいた。

 

 

「これは──私の結界の外に、更に大きな結界を!?」

 

 

 気付いた時にはもう、後の祭り。二種類の結界が、そこにはあった。

 

 外側の、弾幕結界を覆い隠すようにして広がっているのは、スキマ妖怪が持つ結界術の中でもひと際強度のある、結界『魅力的な四重結界』。

 

 そして、その内側に張られているのは、紫奥義『弾幕結界』。つまり、理想的な博麗の巫女がそうしたように、霊夢もまた、同じことをやりかえしただけである。

 

 

 だが、状況は明らかに靈夢に分が悪い。

 

 

 いくら強固とはいえ、まだ未熟な自分に気を取られている間に、自らが張った弾幕結界はぼろぼろ。何時、限界に達して術が崩壊しても、何ら不思議ではない。

 

 そうなれば、今度は逆の立場だ。しかも、張られているのは二つ。いくら理想の巫女とはいえ、そちらに集中する暇を……霊夢は与えてくれない。

 

 

「──よろしい、ならば超えてみよ!」

 

 

 ならば──理想の具現化たる靈夢が取る手段は、一つ。

 

 

「神技『八方龍殺陣』!」

 

 

 それは、靈夢が……構築できる防御結界の中で、最も強固である結界術。靈夢を中心に形成された黄金が如き輝く光の壁が、靈夢を完全に覆い隠す。

 

 

 ──どちらの体力が……いや、想いが根負けするかの、我慢比べだ。

 

 

 もちろん、霊夢は受けて立つ。どの道、ここで息切れして仕切り直しすれば、霊夢に勝機は無い。

 

 優勢に立てているのは単に靈夢にその気が薄かったのと、油断しまくっていた……不意を突いたからに過ぎないからだ。

 

 

 だからこそ──霊夢は、全力を出す。出し惜しみなど、しない。

 

 

 己の中に宿るスペルを、次々に発動する。その様は、傍から見れば一人の幻想郷……そう、幻想郷そのものが攻撃しているようにも、見えたことだろう。

 

 ……いや、違う。ように、ではない。実際に、幻想郷が力を貸してくれているのだ。そう、霊夢は確信を持っていた。

 

 たとえ虚構であったとしても。たとえ、幻であったとしても。全てが、存在していないモノであったとしても。

 

 

 そこに、ナニカは有ったのだ。

 

 

 それを意志と呼ぶのか想いと呼ぶのか、それは霊夢にもはっきりとした答えは出せない。きっと、一生考えても出せはしないだろう。

 

 それでも、確かにそこには有ったのだと……それだけは、確信を持って霊夢は答える事が出来た。

 

 そして……途切れない猛攻はついに、靈夢の結界にヒビを入れた……その瞬間。

 

 

 

 ──お見事! 

 

 

 

 その言葉と笑みを靈夢は残して……砕け散った結界の破片ごと、靈夢を呑み込み──此度の『弾幕ごっこ』は、終幕を迎えたのであった。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………光が……靈夢を形作っていたモノが光に変わる。その数は多く、音も無くふわふわと何かを確かめるかのようにその場にて何度か旋回した後……ふわりと、霊夢へと向かう。

 

 そして、大小様々な光は……遮られる事などあるわけもなく、霊夢の中へと消える。するり、するり、溶け込むように、霊夢と一つになってゆく。

 

 別れていた半身が……というわけではない。

 

 欠けたピースが……という程でもない。

 

 ただ、少しばかり……そう、分かってはいたけど、目を背けていたモノが自分の中へと帰って来たかのような……そんな気がして。

 

 

 

「──へっぷし」

 

 妙に湧き起こってくる気恥ずかしさを誤魔化す為に、霊夢はわざとらしいくしゃみを零すと……さらに奥へと、向かうのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 Final Stage : lain

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──何処で景色が切り替わったのか、それは霊夢にも分からなかった。

 

 

 ただ、気付けばまた景色が変わっていた。けれども、此度は違っていた。それまで、まるで万華鏡のように次々に移り変わっていた景色が、ある地点から変化しなくなった。

 

 

 ……それらに、霊夢は見覚えがあった。思い出す手間は、ほとんどない。

 

 

 何故なら、そこは……霊夢が無意識の領域に足を踏み入れる前に居た、岩倉康男が暮らしていた、あの街であったからだ。

 

 もっと正確に言い表すのであれば……何時ぞやに見た、アレだ。地霊殿の、古明地さとりの自室へ足を踏み入れた時に体感した、あの場所と同じ気配がここには満ちている。

 

 ただ、あの時と少し状況が違う。

 

 それは建物の位置とかそういうのではなく……あの時は青空が広がっていて、今は夜空が広がっている、ただそれだけである。

 

 けれども、それだけであったとしても、昼と夜とではかなり雰囲気が異なっている。

 

 相変わらず人気は皆無で、風の音すらしない。生き物の気配がまるでしないが故に、まるで世界に自分しかいないかのような気分に、少しばかりの違和感を覚える。

 

 

 

 ……ああ、そうか。

 

 

 

 

「これが、あいつにとっての……」

 

 

 ポツリと、そんな言葉が霊夢の唇から零れ落ちた。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、飛び続ける事……幾しばらく。

 

 

 

 下手に考えずに、『勘』に従うがままに飛び続けていた霊夢は……ふと、覚えた感覚のままに大地へと……アスファルトの黒い大地へと降り立つ。

 

 眼前には、何時ぞやの家が建っていた。あの時と同じく、表札は掠れてほとんど読めず、辛うじて読めるのは、一番下の行である『岩倉玲音』の文字だけ。

 

 それ以外は、何処も彼処も康男が居た家のと同じ……いや、全部が同じではない。

 

 視線を上げれば、二階にある部屋の一部の外壁が違う。

 

 大小様々な機械が部屋の外に飛び出しており、幾つものコードが傍の電柱へと伸びている。最初から……というよりは、後から継ぎ足したかのような、歪な光景だ。

 

 まるで、内側に抑え込めていたモノが溢れ出て来たかのような……あるいは、外へと向かって侵食しているかのような、何とも奇妙な有様であった。

 

 他の家には、無い。有るのは、この家だけだ。

 

 おそらくは……いや、かつての『岩倉玲音』が人間として暮らしていた場所。これは、その時の……彼女が、大切に想っている者たちと一緒に過ごしていた頃の家なのだろう。

 

 そうして自分なりに納得した霊夢は、何時ぞやと同じく家の中へと入る。

 

 

「……外は変わらず、夜のまま、か」

 

 

 あの時とは違って、入った途端に外が夕暮れになることはなく……あの時と同じように階段を上がって、あの時と同じ部屋に入れば、あの時と同じ光景が広がっていて。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………その中心に、一人の少女が居た。

 

 

 

 少女は、何時ぞやに蓮子が教えてくれた『パソコン』の前に腰を下ろしていた。数は多く、幾つものディスプレイが立ち並び、そのどれもに表示されているモノが違っている。

 

 恰好は、あの時とは違う。肩紐の薄着に、ショートパンツ。部屋着なら良いが、外に出れば、些か目のやり所に困る恰好であった。

 

 

 ……霊夢の接近に、気付いているはずだ。それこそ、この領域に足を踏み入れた、その時から。

 

 

 それでもなお振り向かないということは、霊夢に対して興味が……ああ、違う、こういうやつなのか。

 

 

 アイツの言っていた通り、私と玲音はどこか似た者同士なのだろう。

 

 

 ならば、率直に声を掛けない限りはボケッとだらけているだけだと察した霊夢は、率直に声を掛けた。

 

 

 

 

「あんたに会いに来たわよ、玲音」

 

 

 

 

 すると、霊夢の思った通り少女は振り返る。ディスプレイの明かりによって照らされた横顔は、霊夢が……そう、霊夢が最初に見た、『岩倉玲音』

 

 であった。

 

 

「…………」

 

 

 何処となく無機質な眼差しを向けていた玲音だが、それ以上の反応は薄い。何事も無かったかのように霊夢から視線を外すと、再びディスプレイへと視線を戻してしまった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………ああ、他人から見れば、そりゃあ苛立つか。

 

 

 今まで気にした事はなかったが……次からはもう少し周りの事も考えよう。

 

 そう、霊夢は過去の己を戒めつつ、玲音の下へと向かう。変わらず反応を見せない玲音を他所に、霊夢はこの場で唯一の明かりであるディスプレイへと視線を向け。

 

 

「……何これ?」

 

 

 ただ、青色だけを映している画面に……首を傾げた。

 

 

 いわゆる、『ブルースクリーン』というやつではない。本当に、青色だ。それ以外、何も無い。たまたまそうなのかと思って、しばし待っていても画面に変化がない。

 

 使い方など霊夢は知らないが、何となく用途は分かる。ならばと思って、ディスプレイの前に置いてある機械のボタンをぽちぽち押してみても、何も変わらない。

 

 

 いったいこれは何なのだろうか。

 

 

 壊れているにしては、動いているようにも見える。しかし、この状態では何も……玲音の反応が無いこともあって、その事に思考を巡らせ……あっ、そうか。

 

 

(ここは、何処とも繋がっていないんだ。だから、何も映らないのか……)

 

 

 意外と早くに答えは出た。というか、この領域に足を踏み入れた時からもう、答えは出されていたのだろう。

 

 霊夢がここに入って来たその時に覚えた感覚。『世界に自分1人しかいない』という感覚に違和感を覚えたのは、ここに入ってから人々の無意識を感じなくなったからだ。

 

 

 ……ここらは『集合的無意識』の奥深く。感覚的に、霊夢は理解する。

 

 

 例えるなら、これまで霊夢が抜けて来たのは、玲音を構成する表皮を抜けて臓腑を通って来たようなものだ。今は、ようやく中心部である心臓部に到着したといったところだ。

 

 本来、この心臓部からは、全身……全ての人々の無意識へと繋がっている。だが、今は何処にもつながっていない。完全に断たれているわけではないが、ほとんどソレに近しい状態なのだろう。

 

 

 ……道理で、存在こそ薄らと感じ取れることはあっても、その所在が一向に掴めぬわけだ。

 

 

 管こそ目に見えないぐらいに細い糸で繋がってはいるが、全ての管に弁が取り付けられ、固く締められているような状態。しかも、ご丁寧に管そのものが迷路のようになっている。

 

 

 ある意味、霊夢でなければ絶対に辿り着けない場所だ。

 

 

 仮に、霊夢以外が何らかの手段でこの領域へと向かおうものなら……ほぼ例外なく、廃人となって永遠に無意識の狭間をさ迷い続ける事になるだろう。

 

 

「……用件は分かっているだろうけど、改めて言うわね。人々の無意識に私たちを植え付け、本当の意味での『幻想郷』を構築する。その為に、貴女の力を借りに来たわ」

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………しばし、この場所の事を考えていた霊夢は、さて、と気を取り直し……率直に、用件を告げた。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………返事は、無い。いや、それどころか、反応すらしない。

 

 

 

「……まあ、そうでしょうね」

 

 

 けれども、霊夢は特に何も思わなかった。不快感すら、覚えなかった。

 

 何故なら……ここに座っている少女は、見た目を取り繕っただけの偽物であり、中身など何も無いということ。

 

 そしてそれを、隠れ潜んでいる本物の玲音がこっそり覗いて様子を伺っている事にも……気付いていたからだった。

 

 最初は気付かなかったが、近くで見るとそれがよく分かる。この少女の目には、力が無い。意志が、感情が、想いが、全く無い。

 

 おそらく、今の為だけに用意されたのだろう。あまりの『熱』の無さが、下手な人形よりもよほど人形らしく見せていた……ので。

 

 

 ──妖器『無慈悲なお祓い棒』

 

 

 出現させた、巨大化したお祓い棒にて──皮だけ玲音の形を取っている少女ごと、室内に所狭しに設置されている機械もまとめて……薙ぎ払った。

 

 

 躊躇なく、一切の手加減なく。

 

 

 べきべきと、まともに食らった少女はそのまま家の壁をぶち抜いて外へと転がったが、霊夢は構わず大きく振りかぶって……天井と床に大穴を開けた。

 

 水飛沫が、舞う。床一面に散らばるのは、様々な機械を冷やしていた冷却水。

 

 何もしなければ、置かれている機器の排熱によって火事が起こってもおかしくないぐらいの密度だ。ただの換気程度では到底抑えられないそれらはおそらく、かつてそうしていた時の……その時であった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──やめて。

 

 

 

 

 

 

 

 今にも消え入りそうな声ではあったが、確かに、聞こえた。

 

 と、同時に……周囲の景色もまた、変わっていた。

 

 夜の闇はすっかり消え去り、何時ぞやの夕暮れの赤い光が窓の向こうより差し込んでいる。淡く、それでいてほんのり温かく照らされた室内には、今しがた霊夢が壊した物は全て無くなっている。

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………代わりに現れたのは、熊の着ぐるみのような衣服を身に纏った、小柄な少女であった。

 

 

 まあ、小柄といっても、霊夢とそう変わりは無い。しかし、覇気というか、性格がそうさせるのだろう。背丈は同じぐらいでも、一回り小さい印象を感じさせた。

 

 

「……初めましてと言えば、いいのかしら?」

「直接会うのは、これが初めてだよ」

 

 

 熊のパーカーの、顔に当たる部分。それを目深く被ってはいるが、分かる。声が似ているとか、雰囲気がそうだとか、そんな程度の話ではない。

 

 感情を感じさせない、無機質な瞳。けれども、分かる。霊夢にだけは、よく分かる。

 

 

「……博麗霊夢。楽園の素敵な巫女よ……今後ともよろしく」

「私は……岩倉玲音。もう知っていると思うけど……よろしく」

 

 

 眼前の少女こそが、追い求めていた……本物の、『岩倉玲音』だ。

 

 

 一目で、理解する。玲音が、どのような存在であるのかを。

 

 

 今は無き幻想郷には不老不死という役割を与えられた者たちは居たのだが、違う。アレは殺しても復活する不死だが、玲音は殺しても殺したことにならない不死だ。

 

 霊夢の眼前に現れた玲音は、本物ではあるが本体ではない。仮に眼前の玲音を害したとしても、何の意味もない。

 

 

 どちらが、ではない。どちらも、だ。

 

 

 巨大な……測り知る事は不可能な無意識の海、人々の集合的無意識そのもの。それが玲音の本体であり、眼前の少女は、それより汲み出された一滴に過ぎないのだということを。

 

 

「…………っ」

 

 

 威圧的ではないが、伝わってくる。と、同時に……霊夢は、気付いた。言葉にされなくとも、霊夢だけは気付けた。

 

 

 ……迷っているのだ。霊夢の願いに力を貸すべきか、どうかを。

 

 

 出来るか否か、そう問われれば、玲音は出来ると答えるだろう。それは、霊夢にも分かっている。分かっているからこそ、わざわざここまで来たのだ。

 

 

 ……と、同時に、玲音は……こうも考えている。自分が力を貸したことで、新たに悲しむ者が現れる可能性を。

 

 

 言葉にされなくとも、伝わってくる。

 

 かつて、玲音は自分の存在が原因で様々な人たちを傷付け、死なせ、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまった。

 

 客観的に見れば、玲音はけして悪くはない。玲音自身がソレを望んだ事など一度として無いし、周りが勝手に自滅しただけだ。

 

 玲音自身は誰かを傷付けたいなんて思ったことはないし、何時だって皆のことが好きだったから、傷付けないように考えていた。

 

 けれども、結果はそうならなかった。何時だって、傷付けるつもりなんて全くないのに、周りの人達を不幸にしてしまった。

 

 

 少なくとも、玲音はそう思って己を責めた。

 

 

 そう思ったからこそ、人々との繋がりを断ち、大海にぷかりと浮かぶ無人島のように、この場所に引きこもり……ああ、だからこそ。

 

 

「……そうね、これじゃあ失礼よね」

 

 

 お祓い棒を消した霊夢は、髪を纏めているリボンを外す。次いで、袖も外して……博麗の巫女としてでなく、ただの霊夢として向き直った霊夢は……改めて、言葉にする。

 

 

「単刀直入に言うわね。私は、幻想郷を作りたい」

「……うん」

「私が愛したあの地を、虚構ではない、本物の幻想郷、私を大切に想ってくれていた者たちも、そうでない者たちも……その為に、貴女の力が必要なの」

「…………」

 

 

 少しばかり、間が置かれた後。

 

 

「霊夢は……示してくれた」

 

 

 ぽつりと、そんな言葉を呟いた。

 

 

「記憶が無くても、移し替えても、変わらぬモノを。私の手でもどうにも出来ないモノが存在する事を、霊夢は身を持って示してくれた」

 

 

 だから、力を貸すつもりではいる。そう、玲音は言葉を続けた後。

 

 

「どうする、つもり?」

 

 

 率直に、尋ねて来た。なので、考えていた事をそのまま伝える。

 

 

「貴女も御存じの通り、私は人々の……そうであってほしい、存在してほしいという幻想を信じる者たち無意識によって生まれ、『幻想郷』という名の世界を作り出し、そこに様々な役割を与えた人形を用意して、引き籠って……最後は、孤独に耐えきれずに自分で壊してしまった」

「そうだね。それで?」

「今のまま再び幻想郷を作っても、もう私は気付いてしまっている。それ故に、今度は前以上にあっさり壊れてしまう……加えて、前と同じ規模の幻想郷を作る力が、今の私には無い」

「……そうだね。以前ならいざ知らず、今の霊夢なら……数年が限度だと思う」

「あら、そこらへん分かるの?」

「分かるよ。繋がっていなくても、私は見ているし、皆の無意識が伝わって来るから……それで?」

「人々の無意識に、植え付けるのよ。幻想は有ってもいいんじゃないか……と」

「……? そんなあやふやなモノでいいの?」

「確実に存在すると思われると、それに邪な想いを抱く者が出てくるでしょ。それは、貴女が一番ご存じでしょ。理由や目的なんて、いらないのよ」

「…………」

 

 

 玲音は、答えなかった。けれども、思う所はあったのか……少しばかり苦々しそうに唇を噛み締めた。

 

 

「だから、あやふやで良いの。否定はしない、肯定はする。けれども、本気になって信じる者が出ても、その人に対して周りが、『本気なの?』とちょっと身を引くような……その程度に想われるぐらいでいいのよ」

「でも、それだけじゃ……」

「だから、『軸』であり『楔』を私から幻想郷に移す。そのうえで、この世界の人々の……微量ではあっても、60億だか70億だかの信じる想いを燃料に、新たな幻想郷を構築する」

「……それをすると、霊夢。貴女は死ぬ身体になるよ。幻想郷にあっても命を落とす、数ある命の一つに過ぎなくなる……それでもいいの?」

 

 

 玲音の言葉に、霊夢は……はっきりと、頷いた。

 

 

「いいのよ、それで」

 

「でも……」

「誰もいない場所を守って、何の意味がある。守る者がいるからこそ……私もまた、幻想郷を構成する一つになる……ただ、それだけよ」

 

 

 そう、答えた霊夢は……サッと、玲音に手を差し出した。「……なに?」不思議そうに小首を傾げる玲音に、霊夢は……呆れたようにため息を零した。

 

 

「なにって、貴女も来るのよ」

「え?」

「え、じゃないわよ。良くも悪くも、『幻想郷は全てを受け入れる』。外の世界に居られないやつは漏れなく幻想入り……それが、うちのやり方ってやつよ」

「でも……私は……」

 

 

 困惑する玲音に対し、「難しく考える必要、ある?」霊夢の方が首を傾げた。

 

 

「嫌なら無理して来なくていいけど、寂しいのなら来なさい。少なくとも、こんな静かな場所よりは賑やかになると思うし……ていうか、貴女はさっきから何を怖がっているのよ」

「…………」

「誰に対して遠慮をしているの? 誰に対して悪い事をしたと思っているの? 誰も覚えていないし、誰も貴女を恨んでいない。『ワイヤード』だって世界から痕跡一つ残らず消えているのに、貴女は誰を想ってここに居続けるつもりなの?」

「…………」

「まあ、決めるのは貴女だけど、やることはやってもらうわ。で、どっちを選ぶつもり?」

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………しばしの間、玲音は何も答えなかった。

 

 

 

 けれども、おもむろに……パーカーを脱いで、改めて露わになった顔は今にも泣きそうなぐらいに、酷い有様で。

 

 

 

 

「……迷惑を、掛けちゃうよ」

 

 

 

 

 開かれた唇より放たれた声色もまた震え、同時に、不安の色が滲み出ていた……けれども、だ。

 

 

「どんな迷惑?」

「みんなのこと、覗いちゃう。誰だって、見られたくないことや知られたくないことはあるのに、私の中に入って来るのを……止められないから」

「……止められないから、なに? だったら、見なければいいじゃないの」

「無理だよ。私が私としてある限り、私を認識した瞬間、みんなの無意識に私が生まれて、私は見てしまうから。私が『幻想郷』に繋がったら、『幻想郷』の人達の無意識を……」

「だったら、目を閉じていたら?」

 

 

 

 

 ……その瞬間、一瞬ばかりの間が生まれた。

 

 

 

 

 

「え?」

 

「え?」

 

 

 

 互いに、不思議そうに視線を交わす……先に首を傾げたのは、滲み出ていた涙が止まった、玲音の方であった。

 

 

「目を閉じろって……」

「いや、見たくないなら目を閉じればいいでしょ。馬鹿正直に目を凝らす必要が何処に有るのよ。サルだって、見たくなければ目を閉じるし耳も口も塞ぐわよ」

「……そんなこと、出来るの?」

「え、出来ないの?」

 

 

 首を傾げる霊夢に、「……どうだろう?」玲音も首を傾げる。それを見て、反対に首を傾げた霊夢は……出来るでしょ、と言葉を続けた。

 

 

「だって、貴女は……あんたは『集合的無意識』じゃなくて、『岩倉玲音』でしょ?」

「……え?」

「昔のあんたならともなく、今のあんたは玲音っていう名前の女の子。そう、育てられたんでしょ……違う?」

「……ち、違わない」

 

 

 思いがけない……少なくとも玲音にとっては、思いがけなかった言葉を掛けられたレインにとっては……衝撃に、言葉を失くすには十分であった。

 

 

「だったら、人々の無意識にあんたが居たところで、当のあんたが目を閉じておけばいいだけの話じゃないの。岩倉玲音が、目を瞑って耳を塞いで口を閉じておけば、万事済む話でしょ」

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………ええ? 

 

 

 

 

「そ、そんなので、良いの?」

「いや、むしろ、何でそれで駄目だと思ったの?」

 

 

 困惑を深める玲音に対し、それ以上に困惑した様子の霊夢は、「そもそもの話だけど……」これまで薄らと思っていた事を口にした。

 

 

「あんたが外の世界に干渉出来るようにする為に有った『ワイヤード』は、もう無いんでしょ?」

「う、うん、何も残ってない。今後も、作られない……と、思う」

「なら、あんたが人々の無意識を覗いたところで、どうやって相手が気付くのよ。私はある意味似たような存在だから気付けるけど、普通の人間がどうやってあんたの存在を感知出来るの?」

 

 

「……」

 

「……」

 

 

 

「…………え?」

「え、じゃなくて、そこんとこ、どうなの? 実際、分かるものなの?」

 

 

 

「そ、それは……」

 

 

 尋ねられた玲音は……しばし思考をさ迷わせた後、静かに首を横に振った。

 

 

 ……不可能だ。気付く者など、まずいないだろう。

 

 

 様々な偶発的要因が幾つも重なった結果、たまたま玲音の存在を感知する事が出来る者は現れるだろう。だが、それは所詮、非常に稀な偶然でしかない。

 

 

 ……どうして、気付かなかったのだろうか。

 

 

 玲音は、今にも座り込みそうになるぐらいに、気持ちが落ち込むのを実感していた。その場に座り込まなかったのは……たまたま、力が抜けても立っていられる足の置き方をしているおかげであった。

 

 

 ……そうだ、そうであったのだ。

 

 

 そもそも、かつての玲音……今の姿を得る前の、まだ肉体を持っていなかった時ですら、玲音の方から当時の天才たちに接触しなければ、その存在を認識してもらうことすら出来なかった。

 

 

 そう、始まりは、玲音の方からなのだ。歩み寄ったのは、こちらからなのだ。

 

 

 その過程で、心と身体を得る為に、『ワイヤード』を作りはした。それによって、結果的に目論見は上手くいき、玲音となって……存在してはならないと判断し、諸々をデリートしてから……それっきりだ。

 

 ……思い返してみれば、誰も玲音の事に気付いていなかった……いや、それどころか、存在していることすら欠片も考えてなどいなかった。

 

 

 ──そう、気付いた所で玲音の存在を認識することは出来ないのだ。

 

 

 それこそ、意図的に玲音の方から接触を図るか、当事者が意識を完全に消失させ、無我の境地に近い状態になり、自我を無意識の世界に飛ばせば……会える可能性は0ではない。

 

 

 ……限りなく0に近いだけでなく、それをするには薬物等を使用して仮死状態になる必要があるので、失敗すると死ぬけれども。

 

 

 なので……言ってしまえば、玲音の心配は取り越し苦労でしかないのだ。

 

『ワイヤード』か、あるいは、それに匹敵する中間地点を作らない限り、玲音がどれだけ気に病んだところで、向こうは気付く事すら出来ないし、見られているだなんて夢にも……え、え、え? 

 

 

 

「な、なんで私、気付けなかったの……?」

「そんなの、引き籠っていたからでしょ。それに、思い込んでいるあんたにソレを教えてくれる人がいないのも、さ」

「えぇ……」

「まあ、仕方ないといえば、仕方ないんじゃないの? 追い詰められている時ってろくな事を考えないし、私の時は逃げ場所が無かったから結果的には良かったけど、あんたの場合は……」

「う、うう……」

 

 

 実も蓋もない言葉に、玲音は堪らず顔をしかめ……けれども、納得する他なかった。実際、霊夢の言う通りであるからだ。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………とはいえ、それでもなお玲音は、怖気づいていた。

 

 

 

 判明してもなお、腰が引けてしまう。万が一、億が一……そう思うだけで、玲音の足を止めるには十分過ぎる理由であり……それは正しく、呪いでもあった。

 

 

「……それじゃあ、これで決めたら?」

 

 

 もじもじと指を絡ませて堂々巡りを繰り返している玲音を前に、霊夢は……埒が明かないと判断したのか、玲音へと一振りの刀を差し出した。

 

 その刀の名は、白楼剣。迷いを祓い、『道を選び取る』ための一振りである。

 

 

「指先でも何でもちょっとそれで切れば、迷いも晴れるでしょ」

「……効くの、それ?」

「今のあんたには効くと思う」

 

 

 受け取った玲音は、鞘から刀を抜く。「……けっこう、重いんだね」凶器の重さに目を瞬いた後、指の腹を刃先へと──。

 

 

 

 

 

 

 

「……お願いがある」

 

 

 

 

 

 

 

 ──近づけたかと思ったら、刀を持ち直して……持ち手を、霊夢へと差し出した。

 

 

「それで、私の胸を貫いて欲しい」

「は?」

「殺してほしいわけじゃないし、それでは私は死なない……ただ、そう、私も、試したくなった」

「……何を?」

「まだ生きろと、存在していて欲しいと……想われているのかを」

 

 

 尋ねれば、玲音は……初めて、まっすぐ霊夢を見つめながら答えた。その瞳には、僅かな期待と……今にも枯れ落ちそうな、そんな気配が滲んでいた。

 

 

「痛くてもいい。苦しくてもいい。切っ掛けが欲しい……情けないと思うけど、そうしないと、私はもう何処へも行けない」

「……経験談を語らせてもらうけど、無茶苦茶痛いわよ、シャレにならないぐらいに、冗談抜きで意識が飛ぶぐらいの激痛だけど……いいのね?」

 

 

 ……最後の問い掛けに対し、玲音は……静かに、頷いた。

 

 

 ならば……もう、何も言うまい。

 

 

 そう、決断した霊夢は、刀を構える。素人である霊夢だが、この距離だ……ゆるやかに、玲音が目を閉じて覚悟を固めたのを見やった霊夢は──一息に、飛び出すと。

 

 

 ──玲音の胸を、白楼剣が貫いた。

 

 

 瞬間、玲音の目が大きく見開かれる。血は、出ない。けれども、霊夢は感じ取る。人を刺し貫く、その感触と……玲音を通して伝わる、人々の集合的無意識が生み出す……莫大な力を。

 

 

 ──その時、光が放たれる。

 

 

 それは、玲音から始まったのか、それともこの領域全体から広がったのかは定かではない。ただ、目を瞑っても眩しさすら覚える程の光が視界の全てを包み込み、瞬く間に霊夢の全てを光の中へと誘ってゆく。

 

 

 と、同時に、流れ込んでくる。人々の無意識……いや、違う。これは、玲音の記憶だ。

 

 

 玲音だけが認識し、霊夢もこの領域に足を踏み入れる直前にしか認識出来なかった、ここではない何処かの記憶。

 

 数多の世界線の、けして触れ合うことのない、今とは異なる道を辿り、あるいは、辿るであろう世界の記憶。

 

 

 それは、数多の玲音の記憶。数多の世界線の記憶。過去も、未来も、縦も、横も、手前も、奥も、全てにおいて存在している玲音たちの記憶。

 

 霊夢が諦めた世界が有った。玲音が諦めた世界が有った。今もなお幻想郷が続いている世界も有った。友達と笑い合い、姉と並んで大学に通う玲音の世界も有った。

 

 

 

 

 

 

『……ありす』

 

 

 

 

 

 その中で、ポツリと零したのは、どの世界線の……どの玲音のモノだったのかは、定かではないけれども。

 

 ただ……その名が聞こえて来た、その時。

 

 

 

『ごめんね、何時も、心配ばかり掛けて……』

 

 

 

 霊夢は、感じた。玲音の……数多の玲音たちが零した涙と……誰かに、友達に懺悔する、玲音の言葉を。

 

 

 

 ──。

 

 

 ──。

 

 

 ────そして、世界は再び作り変えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




幻想郷は、全てを受け入れる


それはそれは残酷な話なのかもしれないけれど


そういうのは後になって考えろと



光の中で、呑気な巫女はつぶやいた




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エピローグ

世界は大きく変わった

けれども、それを知るのはたった二人だけ

それは、幻想郷の歴史においては最大で、最小で、歴史書に記されることはない……博麗霊夢が起こした異変であった


 

 

 

 

 

 ──幻想郷。

 

 

 それは、人ならざる者たちが集う隠れ里。

 

 

 コンクリートジャングルの現実世界からは否定された存在……一部の神様や妖怪、超能力者たち、あるいはその末裔たちが肩を寄せ合って生きる、小さくも幻想的な世界。

 

 博麗大結界と呼ばれる、幻想郷(内)と現実世界(外)を隔てる不可視の壁によってほぼ閉ざされたその世界は、緑が溢れていた。空気も澄んでいて、空も青く、どこまでも自然が自然のままに息づいている。

 

 何故そこまで綺麗なのか、その理由は一つ。この世界を管理する者たちの存在によって文明の発達が管理されているからだ。

 

 現実世界より否定された存在にとって、現実世界ではもう生きることは叶わない。幻想郷が、現実世界と同じようになってしまえば、その後に待っているのは……消滅のみ。

 

 だから、科学技術を始めとした、秩序そのものを根こそぎ作り変える力は危険視されている。理由問わず、それを広めるようなことをするものを厳しく罰するので、必然的に技術の発展は抑制されているわけだ。

 

 それは何とも乱暴な考えではあるが、しかし、悪いことばかりではない。外とは違い、幻想郷の時間は忙しないが緩やかに流れている。人ならざる者たちにとって、この世界は最後の住処なのであった。

 

 そこで住まう人々を始めとした、人ならざる者たちは、幻想郷内にて定められた規則(ルール)にはよく従った。特に、強者とされている者たちほど、この規則を守った。

 

 その気になれば、大勢の妖怪を従えて王として君臨することが出来るかもしれない存在も、中にはいた。だが、彼ら彼女らはあえてそれをしなかった。

 

 

 それは何故か。理由は、色々とある。

 

 

 例えば、強者とされている者たちは意外と多く、結果的にそのおかげでパワーバランスが保たれているから。

 

 例えば、争い事を好まない強者もおり、何か事を成せばその者が敵に回るから……といった理由がある。

 

 けれども、強者たる彼ら彼女らを押し留めている最大の理由は、そこではない。腕の一振りで人間一人、妖怪一体を容易く葬る強者たちの暴走を押し留めているのは……一人の人間の存在であった。

 

 それは、幻想郷の要であり支柱でもある博麗大結界を管理する、博麗神社の巫女。渦巻くパワーバランスを一身で押さえ付け、留め、幻想郷内の秩序を守っている、秩序の天秤。

 

 異変ある所に博麗の巫女あり、妖怪ある所に博麗の巫女あり、人間ある所に博麗の巫女あり。幻想郷が出来たその時より幾度となく代替わりを果たしながらも、その名を幻想郷内に知らしめ続けた、最強の抑止力。

 

 

 

 ──その名を、博麗霊夢(はくれい・れいむ)。数多の妖怪から一目置かれている博麗の巫女の中でも、歴代最強と噂されている美少女であった。

 

 

 

 御年十代半ばでありながら、博麗の巫女を先代より襲名して、幾数年。未だ負けを知らぬは博麗霊夢と揶揄されることもあるその少女は、己の寝床でもある博麗神社の縁側にて腰を下ろしながら……静かに、眠気と戦っていた。

 

 

 

 

 

 

 ──ちちち、と。

 

 

 

 

 

 

 どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声。これは、雀だろうか。半ばまで瞑り掛けている己の眼を気合いでこじ開けながら、霊夢は胡乱げな意識の中でぼんやりと考えていた。

 

 

 季節は、春だ。

 

 

 此度の幻想郷の春は、例年にないぐらいに陽気で、穏やかで、誰も彼もが眠そうにしている。それは、内と外とを隔てる博麗大結界を管理する霊夢とて、例外ではない。

 

 船を漕ぐ霊夢の傍には、カップが一つと皿が一つ。内容は、すっかり冷めてしまった紅茶が淹れられたカップと、茶菓子であるマドレーヌが三つだ。

 

 基本的に緑茶派かつ和菓子派の霊夢にしては、珍しい組み合わせである。飲めないわけではないが、霊夢個人の好みが、『洋』ではなく『和』の方に傾いているからだ。

 

 

 ……で、だ。紅茶だけでなく、マドレーヌも少し硬くなっているのは……眠気に負けてしまったからだろう。

 

 

 まあ、霊夢が眠そうになるのは、ある意味では当然であった。何故かといえば、霊夢が住まう神社は……とにかく、変化がなくて静かであるからだ。

 

 

 ……というのも、だ。

 

 

 まず、博麗神社は人里(幻想郷内にて生活する人々が暮らす場所。そこ意外に、人間は基本的に暮らしていない)よりかなり離れた不便な場所にある。つまり、日常的な交流がほとんどない(没交渉、というわけではない)のだ。

 

 博麗神社は幻想郷を維持するうえで最重要ではあるが、だからといってそれだけを大事にして生きて行けるほど、幻想郷は楽園ではない。御参りしたくとも、人里で暮らす人々にとってはそう挨拶に行ける場所ではないのだ。

 

 当然、巫女の手を借りるような事態になれば、彼ら彼女らはここに来るだろう。しかし、頻度はそう多くはない。言うなれば、巫女は一発のミサイル。ナイフで事足りる事態ならば、それが出来る者たちに任せる……当たり前のことであった。

 

 加えて、博麗神社にはおおよそ娯楽と呼べる物がほとんどない。全くないわけではないのだが、とっくの昔にやり飽きてしまっている。

 

 その役目故に、そうぽんぽんと神社を離れるわけにはいかず、朝昼晩と一人で神社に籠っているせいであった。

 

 

 だから、この日の霊夢も暇を持て余していた。

 

 

 ぽかぽかとした陽気は暑すぎず、寒すぎず。そよそよと頬に当たる風はどこまでも優しく、穏やかで。することがない霊夢が、眠気を覚えてしまうのはある意味では仕方ない話であった。

 

 なら、修行なり雑事なりをすればよい話なのかもしれないが、霊夢は性根が物臭である。暇を潰す為に何かをするという行為を面倒に思う霊夢にとって、こうして船を漕いでいるのは何時もの日常でしかなかった……のだが。

 

 

 ──不意に、変化のない光景に変化が起こった。

 

 

 それは、霊夢の斜め後ろ側。ちょうど、マドレーヌが載せられている皿の、少し上。何もないその空間に、突如として亀裂が走ったかと思えば……そこが、ぐわりと開いたのだ。

 

 開かれた亀裂は穴へと変わる。その向こうには、幾つもの眼光が蠢く、何とも形容し難い光景が広がっている。それは、幻想郷の住人たちからは『スキマ』と呼ばれている、特殊な空間であった。

 

 言うなれば、ワープホールのようなもの、といえば理解が早いだろう。

 

 大きさにしてラグビーボール大ほどの穴から出て来たのは、シルクの手袋に包まれた腕。一目で女性のものであることが伺える細い腕が、音もなくマドレーヌへと伸ばされ──叩かれて、皿の外に指が当たった。

 

 

「……手癖が悪いわよ。欲しければ、ちゃんとお伺いを立てなさいな」

 

 

 なおも諦めずに伸ばされる指先を、霊夢は幾度となく払う。計3回払われたその手は、諦めたかのように皿の端をちょんと叩いた。

 

 

『──めずらしいモノを食べているのね。御一つ、くださいな』

「最初からそう言いなさい……これなら、貰ったのよ。いや、というより、詫び代わりに持って来させた」

『……詫び? 何かされたの?』

 

 

 するりと伸びた細い腕がマドレーヌを一つ掴み、穴の奥へと消える。と、同時に、霊夢の言葉に返したのは、絹が風に喘いだかのような艶やかな声。

 

 霊夢の傍にはだれもいないが、霊夢は驚かない。何故なら、開かれたスキマの向こうに、その声の持ち主がいることを知っているからだ。

 

 

「されていないけど、されたの。半年間でチャラにしてやるってんだから、むしろ私の寛容な対応を褒め称えてほしいところよ」

『……されていないけど、された? とんちにしては、本当に意味が分からないのだけれど……あら、これ美味しいじゃないの』

「分からなくていいわよ、そんなの。とりあえず、半年先まで茶にも菓子にも困る事はなくなったってだけよ」

 

 

 だから、霊夢は気にした様子もなく、振り返ることもせず、寝ぼけ眼をそのままに、霊夢は叩いたその手でマドレーヌを手に取り、かじる。

 

 温いを通り越して冷たくなった紅茶(冷めたのは自分のせいなので)に僅かばかり眉間に皺を寄せ、緩くため息を零していた。

 

 それを見て……というより、感じ取ったのだろう。はあ、とため息らしき声がスキマの向こうから零れた。

 

 一拍遅れて、ラグビーボール大の穴は目に見えて広がり……中から、ナイトキャップのような帽子を被った妙齢の女がぬるりと姿を見せた。

 

 女の名は、八雲紫(やくも・ゆかり)。この幻想郷を作るに当たって尽力した、妖怪の賢者。数多に存在する強者たちの間からも一目置かれている、大妖怪と呼ばれている内の一体である。

 

 

 その、八雲紫……一言でいえば、美人であった。

 

 

 熟女とも少女とも表し難い、特有の年代のみが出せる、脂が乗った女。町を歩けば一人二人と振り返られるであろう美貌の彼女は、「貴女、いったい何をしたのよ」心底呆れたかのように霊夢の背中に軽く圧し掛かる。

 

 

「別に、何もしていないわよ」

「じゃあ、何をしたの? お姉さん、怒らないから素直に教えなさいな」

「おねえ……ちょ、痛い痛い痛い、脇を抓るの止めてよ。妖怪の腕力でやられたら肉が千切れるでしょうが」

 

 

 説明するのが面倒だった霊夢だが、さすがにここまで強引な手を取られると、黙るわけにもいかなくなる。

 

 誤魔化しは許さないと言わんばかりの、紫の視線。心の底から面倒だなと思いつつ、紅茶を一口……口の中に入っていたマドレーヌを呑み込んだ霊夢は、さて、と話し始めた。

 

 

 

「簡単な話よ。そいつのせいで私はとんでもなく痛い目にあった……というか、遭う事が確定しちゃったから、これはその御詫びよ」

「……どういう意味?」

 

「思い至らなかった私にも落ち度はあるけどさ……考えてみれば、あいつって全ての者の内面にいて、全ての者と繋がっているわけよ」

「……あの、霊夢?」

 

「つまり、あいつはある意味、全ての映し鏡みたいなものでさ。親和性の高い私が、そいつを一突きするってことは……見方を変えたら、私自身を突き刺すも同じってわけよ」

「…………?」

 

「本来は、何事も起こらないのよ。数多の世界線に存在する己に分散されるから、刺したところで、爪楊枝で突かれた程度の影響しか出ないはずだったのよ」

「……その、霊夢?」

 

「まあ、それは私の落ち度なんだけどね。楼観剣で数多の道を断ち切っちゃって間もない時だったから、分散される影響が全部私に集結しちゃって……気付いた時にはもう、手遅れで……おまけに、私自身が、色んな世界線の自分を集結させちゃっている時にやったことだからさ」

「霊夢、あの、霊夢?」

 

「もうね、アレが最後の決め手だったのか~って、後で気付いてさ。そうなると、最初のほら……胸に大穴が開いたのって、アレって元を辿れば私なんだよね。結局、自分で自分の胸を刺し貫いたっていう話に──」

「いったいどうしたの? 何か、悪いモノでも食べた? 具合が悪いなら、無理しなくていいのよ」

 

 

 

 普段の胡散臭い微笑みとは別物の、困惑と緊張が入り混じる眼差し。普段とは異なる状態に不安を抱いたのか、心の底から心配で堪らないと言わんばかりに、紫の手が霊夢の背中を摩った。

 

 

 ……具合が悪いやつが冷えた紅茶片手にマドレーヌを食べたりするのだろうか。

 

 

 第三者の立場でこの場に居合わせたなら、そんなことを思っただろうか。そもそも、血色の良い霊夢の顔を見て、何をどうすれば『具合が悪いのか』という判断に至るのだろうか。

 

 

 客観的に見れば、紫の反応は親馬鹿以外の何物でもないだろう。

 

 

 何せ、とりあえずは落ち着けと促す霊夢の反応をやせ我慢と判断したようで、「医者を」だとか、「業務の一部肩代わり」だとか、呟き始めている。というか、何か思考を巡らせている。

 

 紫の式(術的な契約で結んだ部下みたいなもの)である八雲藍が見れば、呆れた眼差しを主である紫に向けたのは間違いないだろう。場合によっては、落ち着いてくださいと溜息を零したかもしれない。

 

 ……まあ、言葉は違うが、親が親なら子も子というやつだろう。

 

 そんな藍も、己の式である橙(ちぇん:猫又の妖怪)が似たような反応をしたら、顔色を変えて取り乱すような女である。いや、そればかりか、医者を引きずって……話を戻そう。

 

 

「……いきなり何よ? 事情を説明しろって言うから説明しているのに、いきなり病人扱いは止めてもらえるかしら」

 

 

 紫の目線から見れば親心だとしても、当人である霊夢からすれば不本意この上ない。

 

 今にも布団の中へ引っ張ろうとする紫を宥めながら注意すれば、「だって、霊夢が何を言っているのかさっぱり分からないんだもの!」何故か、それ以上の剣幕で怒られてしまった。

 

 

 ……いや、まあ、言わんとする事は霊夢にも分かるのだ。

 

 

 説明しろと言われたから説明をしてはいるが、正直、今しがたの説明を行う自分を、客観的に見ていたら……紫ほどではないが、『お前大丈夫? 疲れているんじゃないの?』と思わなくもない。

 

 実際、それぐらいに慣れない事、普段の自分では間違っても口にしないような事を言っているなとは思っていた。

 

 

 ただ、本当にこれ以上の説明をしろというのが無理であり無茶なのだ。

 

 だって、紫たちは覚えていない。いや、実際は、それ以前の話である。

 

 

 紫たちが存在していない時に起こった出来事であり、紫たちでは認識出来ない事柄であり、それを認識し、記憶出来ているのは……今の所、霊夢と……菓子を持ってくる、あいつしかいない。

 

 そう、誰も、何も覚えていない。何故なら、霊夢が語るそれらは全て過去の出来事であり、もう存在していない世界の話であり……新しい幻想郷において、それは遠い記憶であり記録しかないのだから。

 

 

「無理に分かろうとしなくていいわよ。お互いに納得した結果だし、私としては半年間も菓子がタダで食えるから万々歳って感じかな」

 

 

 なので、そう答えるしか霊夢にはなかった。それ以上にどう上手く説明をすればいいのか分からなかった。

 

 紫も、そんな霊夢の内心を察したのだろう。というか、『お互いに納得している』という部分に、これ以上は終わった話を蒸し返すだけだと思っただけなのだが……まあ、それはいい。

 

 

 ──さて、と。

 

 

 最後の1個を頬張り、飲み込む。紅茶を流し込むように胃へと収めるという中々に慌ただしく3時のおやつを終えた霊夢は、するりと縁側へと放置している靴を履くと……その場で、大きく伸びをする。

 

 

「紫、ちょっと所用で此処を離れるから、その間お願いね」

「出かけるの? いいけど、何処へ?」

「紫が外界に作った、スキマ商事に。そこで働いている、玲音って子、覚えがあるわよね?」

「玲音……ああ、あの子、覚えているわよ。妖力はか弱いけど、分身したりして人件費が安く済むから有り難いのよね」

 

 

 今更ながら、もくもくとマドレーヌをかじり始めた紫は、「物静かな子だけど、よく働く子だわ」そんな感想を零した。

 

 スキマ商事──それは、八雲紫が外界物資などの取引をスムーズに行う為に作った会社である。どうしてそんなモノが有るのかと言えば、必要だからだ。

 

 

 ……というのも、だ。

 

 

 基本的に、幻想郷における様々なモノは自給自足によって賄われている。しかし、全てではない。どうしても、幻想郷内では手に入り難いモノも存在する。

 

 

 その中でも代表的なのが、『塩』だ。

 

 

 幻想郷内部にも岩塩などで手に入れることは出来るけれども、限りがある。他にも海産物なども該当するが、そちらも相応に値段が張るし、数が少ない。

 

 それならばいっその事、外界から仕入れる方がずっと手っ取り早い。けれども、何時までも外界から盗んで(スキマは便利)いるのを繰り返すのは、将来的に見て非常によろしくない。

 

 そういうわけで、作られたのが『スキマ商事』と幻想郷では呼ばれている、幻想郷唯一の外界に作られた、物資のやり取りを行っている会社なのであった。

 

 ……ちなみに、外界の空気は幻想郷に住まう妖怪たち(人間も含める)にとってあまりよろしくない。影響を受けない玲音は、そういった意味で人知れず紫たちから重宝されている人材(?)でもあった。

 

 

「恩人に会いに行くらしいんだけど、一人だと心細いし勇気が出ないから一緒に来てってお願いされたのよ」

「あら、そうなの……何時の間に仲良くなったの?」

「色々あったのよ」

「ふーん……何時頃戻る予定なの?」

「友達のところに泊まるから、明日の昼頃かな」

 

 

 尋ねてきた紫に、霊夢は特に思うところなく「──明日!?」応えた──のだが、どうにも反応がおかしかった。

 

 

「あ、明日って、どういうこと!? 友達って、何時の間に!?」

「この前、相手は大学生の女、そんな心配しなくていいわよ」

 

 

 不思議に思いつつも、霊夢は紫が心配しそうなことを先に伝えた……のだが、どうも違う。

 

 ぷるぷると、今にも腰が抜けそうなぐらいに青ざめた紫の姿に、「……紫?」霊夢は訝しんだ。

 

 

「……は」

「は?」

「反抗期が……来てしまったのね……!」

「……はあ?」

 

 

 が、すぐに白けた眼差しを向けた。先ほどとは異なる意味で訝しむ霊夢を他所に、紫は……震える手で顔を覆い隠し、蹲ってしまった。

 

 

「そ、そんな、来てしまった、ついに来てしまった……恐れていた反抗期が来ちゃった、霊夢が、霊夢が……!」

「あ、あの、紫? 反抗期って、何の話?」

「ああ、あああ……ついこの前まで一緒にお風呂に入ったり、おんぶしたり、お布団で子守唄を歌ったりしていたのに……!」

「いや、本当に何の話をしているのよ」

 

 

 いきなり動揺を露わにする紫に、困惑する霊夢。

 

 けれども、紫は気付いた様子もなく、まるでこの世の終わりを迎えようとしているかのように、ぶつぶつと(霊夢にとっては)しょうもないことを呟き続けていて……と。

 

 

 ──ふわり、と。

 

 

 空の彼方より、唖然としている霊夢の傍に降り立ったのは、狐耳を帽子で覆い隠した、八雲紫の式である八雲藍であった。

 

 

「──紫様、至急ご確認していただ──何があったのだ?」

 

 

 よほどの、急ぎの用事があるのだろう。

 

 前口上などをすっ飛ばして本題に入ろうとした藍ではあったが、主の異様な姿に敬語も忘れて目を瞬かせた。当の紫は、藍の存在にすら気付いていなさそうであった。

 

 

 ちらり、と。

 

 

 藍の視線が、霊夢へと向く。けれども、当の霊夢ですら何と言えばいいのかさっぱり分からない。「……用件は?」とりあえず、用件だけでも聞いておこうと霊夢は思った。

 

 

「……地霊殿の、『古明地さとり』より緊急の依頼が先ほどあったのだ」

「さとりから? なに、また鬼が暴れて手が付けられなくなったの?」

「いや、そうではない。鬼ではなく、妹の『古明地こいし』に関してなのだが……」

「こいし? 何があったの?」

 

 

 藍も、とりあえず時間を改めようと判断したようで。とくに隠すような事もせず、詳細を教えてくれた。

 

 

「妹が構ってくれなくて寂しいらしい」

「は?」

 

「どうも、外界にあるスキマ商事の玲音と仲が良い事に、嫉妬しているようでな。お姉ちゃんは私なのにと、うるさいのだ……」

「……は?」

 

 

 

「説得して、地霊殿の方が楽しいよと分からせて欲しいのだとか……」

 

 

 

 

 ……しばしの間、霊夢は言葉が出なかった。

 

 

 

 

 

「……あほくさ」

 

 

 

 

 そうして、間を置いた後……色々とばからしくなった霊夢は、大きなため息を零して……さっさと、その場を離れるのであった。

 

 

 

 






終わり、閉廷!

以上、みんな解散、ラブ&ピース!


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