愛する旋律 (プロッター)
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まだ知らない

 うちの学校はとにかく規模が大きい。

 学園艦が大きいのはもちろん、サンダース大学付属高校という学校自体の規模も大きい。何しろ戦車の保有車両数は全国一、校舎の数は2ケタ近く、設置学科もかなりの数があり、学校内の設備も備品も、全てが『そんなに必要?』と聞きたくなるぐらいには揃い過ぎている。

 その中でも2ケタ近くある校舎については、その数の多さ故に卒業するまでに行ったことがない校舎があるという話をよく聞く。それが生徒だけならまだしも教師だって経験するというのだから、可笑しくて仕方がない。

 とはいえ、それぞれの校舎には『ブルドッグ』や『アイアンイーグル』、『コマンドス』などの名称が付けられているあたり、愛着がないわけではないのかもしれない。私個人としては、その名称も響きがカッコいいので好きだった。私が普段授業を受けているクラスがある『アイアンブリッジ』や、『デストロイヤー』や『ハイランダー』などの名称も個人的には気に入っているけど、

 

『行かないんじゃ名称なんて知っていてもねぇ』

 

 と苦笑する子もいる。ちょっとだけ寂しい。

 そんな私が今、普段は行かない『ハイランダー』棟へと足を運んでいるのは、単純に普段行かない棟に興味が湧いたからだ。行ったことがない校舎だからこそ、自分にとっての未開の地には何があるのだろうという純粋な興味がある。

 そして私は3年生だから、来年にはこの学校を卒業してしまう。だから卒業する前に、行ってみよう、行ってみた方が良いという焦燥感にも似た何かに駆られてここまで来た。戦車道の訓練で多少疲れてはいるが、それよりも好奇心の方が勝った。

 そして今実際に来てみたのだが、壁の色が白じゃなくてカラフルだとか、名前も知らない教室があるだとか、そんな“分かりやすい”違いは無かった。

 あるとすれば、

 

(ここにもあるんだ、家庭科室・・・)

 

 普段いる『アイアンブリッジ』にもあった教室がある、とか。

 

(おっ、ここのロッカーは新しいタイプのヤツね)

 

 『アイアンブリッジ』棟よりも性能の良い新しいロッカーがある、とかそのぐらいだ。

 この他にあるとすれば、さっき立ち寄った図書室の方が『アイアンブリッジ』棟よりも品揃えが良いとか、窓から見える景色が違ったりとか、本当にそんな些細な違いしかなかった。

 だけど別に、その程度で凹んだりはしない。これはこれでいい経験になったし、発見と言うものは大きくても小さくても、自分の中にある価値観、見る世界を変えてくれる。だから私にとっては、そのぐらいの変化を見つけられただけでも十分だった。

 さてと、と一息ついて伸びをしたところで窓の外を見ると、いい感じに空が茜色に染まっていた。腕時計を見ると4時半に差し掛かろうとしている。結構時間が過ぎてしまっていたようだ。この時期は、陽が沈むと一気に気温が下がってしまうので、明るいうちに帰るのがベストとされている。

 そろそろ帰ろうかな。

 そう思って私は、この『ハイランダー』棟の構造を思い出す。この廊下を進んでいけば、連絡橋を渡って最短ルートで昇降口まで行くことができるはずだ。なら、その道すがらでもう少しこの棟を見て行くことにしよう。

 そして歩き出してからすぐに、何かの音が聞こえてきた。人の話し声や物音などの雑音ではなく、ちゃんとした音楽だった。

 

(これは、ピアノ・・・?)

 

 私は音楽に関しては素人だがこの音がピアノによるものだということぐらいは分かる。

 そして、このピアノの音は、突然聞こえてきたのではなく、ゆったりと、滑らかに私の耳に入ってきた。そしてこのピアノの旋律は、私でも上手いということが分かる。それぐらいのものだった。

 その音のする方向を見れば、『第5音楽室』と書かれたプレートが掲げられた教室が見えた。普通の学校は音楽室なんて5つもないよね、と途方もないことを思ったけれど、私はその音楽室へと向けて歩を進める。

 これまでも、『ハイランダー』棟に限らず音楽室の傍を通ってそこから音楽が聞こえてくるということは何度もあった。けれど、こうして自分からその音の出どころを目指して近寄るということはこれが初めてだ。

 それは、今聞こえてきているこのピアノの音色が自然と惹かれるぐらい綺麗で、それでいてこの曲は気分が盛り上がるような、聞いていて楽しい曲だったからだ。この曲自体は聴いたことがないので名前も知らないけど、私好みの曲調だ。

 音楽室に近づけば近づくほど、ピアノの音が鮮明に聞こえてくる。ドアを閉めているせいで傍で聞いているのと同じぐらいクリアな音、とまでは行かないが、それでもよく聞こえてくる。

 やがて遂に第5音楽室の前にたどり着くと、扉には『Be Quiet』と書かれた小さなホワイトボードが掛けられている。部活動でも行われているのだろうか?

 さて、このピアノの音色を奏でているのは誰なのかな、という興味を持ってドアの小窓から音楽室の中を覗いてみると。

 

(・・・・・・あれ?)

 

 その音楽室の中の意外な光景に、私も少しばかり驚く。

 まず、学校の音楽室特有のグランドピアノで、今なお聞こえている綺麗な旋律を奏でているのは、赤みがかった黒髪の男子だった。見るからに、私と同い年ぐらいか。

 このサンダース大付属高校で男子の嗜む一般的な楽器は、ギターやドラム、ベースなどの派手で目立ちやすいものというイメージが強い。その理由としては、やはり目立ちたいと思ったり、そう言う楽器が最高にクールだと思っていたり、あるいは女子にモテたいと願ったりと色々だ。

 だからこそ、有名ではあるけれど男子が弾くイメージがあまり強くはない、むしろ逆に落ち着いた雰囲気のあるピアノを男子が弾いているというのが少し意外だった。

 次に、この第5音楽室にはピアノを弾いているその男子以外の人の姿がない。教師の姿さえ見えないので、彼が部活に入っているという可能性は低い。部員が全員休んでいるという可能性もあるが、それならまず活動自体休みになるだろう。

 今のこの音楽室の中の状況が理解できないまま、そのピアノを弾く男子の事を見てみると。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 その男子は、穏やかな柔らかい笑みを浮かべていて、本当に楽しそうに、本当に面白そうにピアノを弾いていた。

 ピアノを弾くのが楽しいのだということが、見ているだけで伝わるようだった。

 彼の楽しいという気持ちは音に乗っているようで、弾むような滑らかな音が私の耳に入ってくる。

 そして、まだ名前も知らない彼が楽しそうにピアノを弾いているのを見ると、自然と私も笑みを浮かべてしまう。人が楽しそうな様子を見ていると自分も楽しくなるのは、一体どうしてだろう?

 なんてことを考えていると。

 

『・・・・・・・・・?』

 

 ピアノを弾いていた男子が、こちらに気付いたようにふと視線を向けてきた。そしてそれが見えたということは、私と彼の目が合ったということになる。

 それに気づいた私は、思わず隠れるように身体を小窓からずらす。

 というか、どうして私は隠れたのだろう。

 

(・・・・・・覗き見なんて、悪い感じしかしないからかな)

 

 覗き見とはあまりいいイメージがしない。だから、悪いことをしていると無意識に思い込んでしまい、バレないようにと隠れたのだろう。しょうがないかと肩をすくめる。

 さて、視線が合ったということは向こうも私の事を見たに違いない。ならば、これ以上ここにいて、楽しくピアノを弾く彼の集中を乱さない方がいいだろう。

 そう思い至り、私はその場を離れることにした。

 けれど、ピアノの音色は今なお聞こえてきている。それと同時に、楽しそうにピアノを弾く彼の姿も頭に浮かんでくる。

 

(・・・・・・また、弾くのかしら)

 

 この楽しそうなピアノの旋律は、聴いていて心地良く楽しいし、聴いているこちらの心が躍り出しそうになる。

 もしも、また彼がここでピアノを弾いているのなら、聴きに来るのもいいかもしれない。

 やはり好奇心に身を委ねてここへきて、新しい発見と楽しみが見つけられたのだから、ここに来てよかったと今は思える。

 このピアノの音色が聞こえる校舎の名称は『ハイランダー』。よし、覚えた。

 校舎の名称を覚えたところで、まだなお聞こえるピアノのリズムに乗るように、昇降口へと私は向かった。

 

 

 楽譜に並ぶ五線譜を目で追い、鍵盤の上で指を絶えず動かし叩き、音を奏でていく。言葉にするのは簡単かもしれないが、これにはものすごい集中力を要するものだ。

 ピアノに限った話ではないが、どんな楽器も楽譜の音符に合わせて音を鳴らすだけならば、使い方さえわかれば誰にでもできる。

 だが、音符だけではない、楽譜の記号はもちろん、さらにその曲の情景を思い浮かべて、奏でる音に感情を乗せて演奏するというのは中々に難しいことだ。これができるようになるには、楽器の使い方をマスターして、その曲の情景を思い浮かべるほどの想像力も持ち合わせていないとできない。俺自身、それが完璧にできているかと聞かれても、迷いなく『うん』と頷くことはできない。それぐらい自信は無かった。

 奏でる曲が最後の1行にやってくる。曲は、これまでの盛り上がるテンポとは違いフィナーレに向けてクールダウンのように音程が下がっていく場面で、テンポは次第にゆっくりになってくる。

 そして最後の行は、音を外すことはなく、リズムを乱す事もなく、無事に曲を弾き終えることができた。

 

「ふぅ~~~~・・・」

 

 俺は曲を弾き終えると、鍵盤に手を置いたまま長く深く息を吐く。やはりピアノを弾く際は集中力を高めるので、曲が終わると一気に疲労感が押し寄せてくる。肩と首を回して凝りを解し、指も動かしておく。

 ただ、俺からすれば楽しく曲を弾けたし、弾いた曲も自分の好きな曲なので、文句はない。この疲れだって心地良ささえ感じられるぐらいだ。

 

(・・・・・・にしても)

 

 落ち着いたところで、俺はさっき音楽室のドアの小窓から中を覗いてた人物の事を思い出す。

 あの人は確か、いや間違いなく、ケイさんだった。

 サンダース戦車隊の隊長を務めている人で、フレンドリーで明朗快活な性格から、隊員たちからの信頼も厚い。また、スポーツマンシップに反する行為を嫌う至極真っ当な人でもある。

 戦車隊に属していない、ケイさんと知り合いでもない男の俺でも、サンダースと言う巨大な枠組みの中で流れる情報だけでそこまで知ることができた。それはつまり、サンダース全体から見てもケイさんが絶大な人気を誇っているということだろう。先に述べた性格はもちろん、容姿端麗、文武両道と来れば非の打ち所がないと評するほかないし、人気なのも頷ける。

 そんな人は正直言って、俺からすれば雲の上の存在だ。手が届くはずもない、どころか話す機会さえ与えられないような、遥かな高みに存在する人だと俺は思っている。

 だからさっき、そんな人と目が合っただけでも随分とレアなケースなんじゃないかと俺は思う。

 だが、たったそれだけのことで運命的なことを感じるほど、俺もお気楽ではない。珍しいこともあるんだな、ぐらいの認識に留めておく。

 ただ、何でこんなところにいるのかな、とだけは思ったが。

 

(さて・・・・・・次はどの曲にしようかな)

 

 別世界に住んでいるようなケイさんのことを考えるのはそれぐらいにして、そろそろ次の曲を弾こう。この場所にいられる時間は限られていて、あと30分もない。

 そう思い、俺はスタンドに開いていた楽譜を閉じて椅子の脇に置いてあるトートバッグにしまい、別の楽譜を選んだ。




どうもこんばんは。
初めて読んでくださった方は、初めまして。
続けて読んでくださっている方は、どうもありがとうございます。

当初は年明けに投稿する予定でしたが、
活動報告にも書いた通り、開示設定を誤ってしまいあらすじだけが先に投稿されてしまう事態になってしまいました。
さらに焦って小説そのものを削除してしまい、読者の皆様には大変ご迷惑をおかけしました。
指摘してくださった方、ありがとうございます。
そして本当に申し訳ございません。

そのお詫びと言っては何ですが、
来年投稿予定だったこのシリーズを少し繰り上げて投稿することにいたしました。

と言うわけで、(筆者の方が)慌ただしいスタートとなってしまいましたが、
ケイの恋物語の始まりです。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。
最後までお付き合いいただければ幸いですので、
どうぞよろしくお願いします。


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聴いたことがない

お気に入り登録、感想、ありがとうございます。
とても励みになります。


 ジリリリリ、というベルの音がスピーカーから鳴り響き、サンダース大学付属高校の昼休みが始まる。

 『デストロイヤー』棟のとある3年生の教室で、数学の授業を乗り越えた英影輔(はなぶさえいすけ)が背伸びをして、授業の疲れを解す。

 そんな英の下へ、ひょこひょこと人影が近づいてきた。入学してからの付き合いがある友達の、山河博之(さんがひろゆき)だ。

 

「英~、ご飯食べに行こう」

「おお、そうだな」

 

 山河に言われ、英は立ち上がり2人で食堂へと向かう。

 

「昼ごはんどうする?」

「あー・・・最近バーガー系が続いたし和食にしようかな」

「そっか。僕はステーキにするよ」

「・・・いつも思うけど、昼からステーキって重くないか」

「ここじゃ普通だと思うけど?」

 

 食堂に行くまでの間に、2人はそんなとりとめのない話を交わす。彼らの周りには、彼らと同じく白いシャツに薄いグレーのブレザーと青のスラックスを履く男子、スラックスではなく赤いプリーツスカートを履く女子が大勢歩いている。そしてそのほぼ全員が、食堂のある方向へと向かっていた。

 ここがサンダースではなく普通の規模の学校であれば、食堂の席数が限られている故に、昼休みの時間になるや否や教室を飛び出して食堂の席を確保しようとするだろう。

 だが、サンダースではその心配はいらない。サンダースはとにかくやたらと規模がデカいのが売りであり、それは食堂も例外ではない。まず食堂は全部で3つ、『メルキオール』『バルタザール』『カスパール』が存在する。そしてその3つの食堂は、どれも全校生徒のおよそ半数が座れるほどの席がある。そんなに席があっても意味無いだろうと思うだろうが、トイレまでもが全校生徒が一度に入れるぐらい数があるので今更と言った感じだ。

 その3つの食堂には、それぞれ2~3の校舎棟の生徒が集まるような流れが形成されている。英と山河が向かう『バルタザール』食堂には、2人が普段授業を受ける『デストロイヤー』棟の他にも『アイアンブリッジ』棟と『コマンドス』棟の生徒も来ているようだ。

 そして食堂に到着すると、案の定多くの生徒たちが訪れていた。

 

「結構いるねぇ」

「いつものことだ。それに、席も空いてるだろ」

 

 券売機に並びながら食堂の中の方を見る。流石に料理を渡すカウンターの近くの席は全滅しているだろうが、贅沢を言わなければ席はまだ十分空いている。

 少しして順番が回ってきた英は、紙幣を挿入してメニューを選ぶ。英の食べたい和食系のメニューは券売機の下の方にあり、上半分以上を占めているのはファストフードとボリューミーな肉料理だ。本場アメリカの学食がどんなものなのかは知らないが、この手の食事を好むアメリカらしいと言えばらしい。

 

(ここまで徹底しなくてもいいものを・・・)

 

 何度目かも分からないことを感じながら英は下の方の焼鮭定食のボタンを押し、半券とお釣りを回収する。この学校がアメリカ風の気質なのは今に始まった事ではないし、数回ほど売り切れになっているのを見た事があるので一定の需要はあるのだろう。ただ、流石に一品4ケタのメニューはどうなんだと思う。しかしこれも売れたのを見たことが何度かあるので、これもまた人気があるのかもしれない。

 別の券売機で券を購入した山河と合流し、料理を受け取る列に並ぶ。そしてそれぞれが料理を受け取ると、窓際の空いている2人掛けの席に座る。英が焼鮭定食を載せたトレーを『コトッ』と机に置き、山河が厚切りステーキが目を引く鉄板プレートの載ったトレーを『ゴトッ』と机に置く。トレーをテーブルに置く音が全然違った。

 

「・・・・・・値段4ケタなだけの価値はあるんだろうな、それ」

「そうだねぇ。これ美味しいもん」

 

 ナイフとフォークを使って肉を切り、そして咀嚼する山河。実に美味しそうに食べている。

 その山河の食べているステーキ定食、1000円札1枚では買えない値段ではある。1000円札2枚以上の値段じゃないだけまだ安い方なのだが、それでも十分高いと英は思う。

 ただ山河も、毎日このような定食を食べていると言うわけではなく、週に1~2回ぐらいしか食べない。こんな食事ばかりだと早死にするだろうし、高校生の懐的にも優しくはないからだ。なので山河も普段は今英の食べているような和食の定食や蕎麦などを食べるのだ。

 そしてお互い雑談を交わしながら食事を進めて少しすると、入口の方から黄色い歓声が聞こえてきた。だが、その歓声が何によるものかというのは英も山河も知っているので、取り立てて騒いだりはしない。

 この歓声は、恐らくサンダースを代表する戦車隊の隊長・ケイが来たからだろう。サンダースで流布している情報によれば、ケイが普段いる校舎は『アイアンブリッジ』棟らしい。なので、そこから一番近いこの『バルタザール』食堂に彼女が来るのも何もおかしくはない。

 そして、彼女は大体決まって、同じく戦車隊に属する2人の副隊長のナオミ、アリサという女子を連れている。特にナオミは、全国屈指の腕を誇る砲手という肩書と、嫌みったらしくはない気障でクールな性格から女子からの人気が非常に高い。もう1人の副隊長であるアリサも、次代のサンダース戦車隊隊長として期待が高まっている、こちらも注目されている存在だ。

 あの黄色い歓声は、そんな人気者たちが来たからだろう。それを知っているから英と山河も特に何も気にせず食事を続けることにした。2人とも、食事は静かに摂りたい派なのだ。

 と、そこで英は思い出す。

 

「ああ、そう言えばさ」

「?」

 

 山河がステーキの一切れを食べ終えたところを見計らって、おもむろに話し出す英。山河も英の方に注目する。

 

「昨日の放課後、いつもの場所でピアノ弾いてたんだけどさ」

「うん」

「あのケイさんと目が合った」

 

 そこで山河も『んん?』と怪訝な表情になる。それは決して、『お前みたいなのが?』という意味ではなくて。

 

「『ハイランダー』棟で?」

「ああ」

「あんなところまでケイさんが?どうして」

「それは分からん」

 

 『ハイランダー』棟は、英たちの普段いる『デストロイヤー』棟からも、ケイのいる『アイアンブリッジ』棟からも少し離れた場所にある。わざわざそん場所まで行ってピアノを弾く英にも理由があるのだが、そこまで行ったケイの意図までは読めない。

 ただ、別に考えたところで答えが分かるわけでもないし、状況が変わるわけでもないので、2人とも『そんなこともあるよな』という結論に落ち着く。そして再び食事を再開した。

 それからまた少しして、2人のテーブルに近づく女子が1人。

 

「英~」

「「?」」

 

 2人にも聞き覚えのある声の聞こえた方向へと振り返ると、長い茶髪の少女が手を振りながらやってきた。

 

「クリスか」

「やあ、どーも」

 

 彼女はクリス。1年生の間だけ英、山河と同じクラスで、今では別のクラスになってしまったがそれでも仲は良い。高彼女はれっきとした日本人であり、『クリス』と言うのも彼女の苗字である栗橋からもじったもので、誰かがそう呼び始めたのがきっかけだ。彼女自身は別に嫌がってはいないので問題ないのだろう。

 

「どうかしたか?」

「いやー、また1曲頼みたいなぁと思ってね」

 

 そう言いながら、クリスは楽譜を差し出す。英はそれを受け取ると、中を流し読み程度で確認する。

 

「今度ランチを奢るからさ」

「乗った」

 

 クリスが提示した交換条件に英が頷くと、『じゃあよろしくね~』と言って手を振りながら自分のテーブルへと戻っていった。

 英は別に、ランチを奢ってくれるから弾くわけではない。特に見返りがなくても英は構わないのだが、押しが強いサンダースではその手の抵抗など意味をなさないことは既に分かっている。それと、食事代が1回分浮くのも悪くはない。

 

「弾けそう?」

 

 ステーキをまた一切れ食べて、山河が楽譜を読む英に問いかける。英は楽譜から目を離さずに、短く答える。

 

「・・・多分いける」

 

 そして楽譜を閉じ、椅子のそばに置いて食事を再開する。

 英は鮭の骨を箸で器用に取り除きながら、今日の放課後の予定を考える。まずはこのクリスから依頼を受けた曲を何度か練習し、自分の好きな曲も数曲ほど弾く。家に帰ったらイメージトレーニングだ。

 大体この曲が完成するのは早くても3日後ぐらいだろう、とおおよその推測をして鮭の身を口に放り込む。美味い。

 

 

 今日は私の好きな体育の授業が無かったので、全体的に授業が気だるく感じてしまった。

 けれども、戦車道の授業については真剣に取り組んでいる。それは私が戦車隊の隊長を務めているからであるし、何よりも私が戦車道を愛しているからこそ、その戦車道では手を抜かないと決めているからだ。手を抜くなどこれ以上ないぐらいの非礼に当たる。

 それはそれとして、私はホームルームが終わるとクラスメイトとの挨拶もほどほどにして、とある場所へと向かっていた。

 それは、昨日気まぐれで私が訪れた『ハイランダー』棟の第5音楽室だ。あの時聞こえた滑らかで、心地よくなるピアノの旋律が気になってまた足を運んでしまっていた。

 ただ、昨日見た彼が今日もまたピアノを弾いているという保証はないし、どうしてたった1人でピアノを弾いていたのかという理由もまた分からない。

 けどそれでも、またあの楽しそうなピアノの曲が聴きたくて、あそこへ行かずにはいられなかった。

 いくつかの角を曲がり、階段を降りて『ハイランダー』棟に続く連絡橋を渡り、何度か知り合いとすれ違って挨拶をしながら『ハイランダー』棟の第5音楽室へと向かう。

 そして、昨日ピアノの音色に気付いた場所と同じところで、またピアノの音が聞こえてきた。

 

(・・・・・・弾いてる、わね)

 

 確証の無かったことが的中していると、なぜか無性に嬉しくて小さく拳を握る。

 そして私は、さらに音楽室へと歩を進めていくが、そこで違和感を抱いた。

 

(・・・・・・あれ?)

 

 今聞こえているピアノの曲が、何度か音がズレたり戻ったりしている。素人の私にも分かるぐらい、あからさまだった。

 昨日と同じく、今聞こえてくるこの曲も私が知らない曲だけど、今日の曲はムラッ気がある。昨日はそんなことはなくスムーズに弾いていたというのに、どうしたのだろう?

 

(もしかして・・・・・・他の誰かが弾いている?)

 

 そんな疑問を抱きながらも、とにかく音楽室へやってきた。ただ、昨日のように小窓からジッと見ていてはあちらの集中力を削いでしまうかもしれないので、小窓からはチラッと見るだけで、後はドアの前で聴くことにしよう。

 中の様子をチラッと見てみると。

 

(・・・・・・やっぱり、彼だ)

 

 ピアノを弾いているのは、昨日と同じ赤みがかった黒髪の男子。顔も同じで他人の空似と言う可能性は限りなく低い、昨日の同一人物だ。

 ではなぜ、昨日とは違って音にムラがあるのだろう。もしかしたら、今日の曲は初めて弾いているのかもしれない。

 

(・・・・・・でも、上手いのよね・・・)

 

 でもそのムラさえも上書きするかのように、彼のピアノは上手だと素人の私には思える。音を外してもすぐにリカバーして、滑らかな旋律を奏でている。少しすればそのミスも気にならなくなるぐらい綺麗なピアノの音色だ。

 聴いていて、まったく苦痛とも、退屈とも思えない。

 正直言って、こんなに聴いていて心地良い、聴くだけで癒されるようなピアノの音色は聴いた事がなかった。

 

 

 その旋律は、ずっと聴いていられるぐらい、美しかった。

 

 

 ドアに背を預けて、そのピアノの音色に意識を委ねること数分。今聴いていた曲が終わりを迎えた。聴いた事がない曲でも、『ああ、ここで終わるのかな』ということは何となくだが分かる。

 さて、今聴いていた曲が終わったので、また別の曲を弾くのかな?

 私は今日この後は特に予定が無いので、中にいる彼がまだ弾くのであればそれを静かに楽しませてもらうことにしよう。

 そんなことを悠長に考えていた矢先。

 すぐそばの音楽室のドアが音を立てて開き、ついさっきまでピアノを弾いていた男子が私の前に姿を現したのだ。

 それがあまりにも不意打ち過ぎて。

 

「えっ・・・!?」

 

 

 

 やはり昨日弾いたような何度も弾いたことがある曲とは違い、1度も弾いた事がない曲だと初めてでミスなく弾き終えることは難しかった。集中していても何度も間違えているのが分かるし、つい音が前後してしまうこともある。

 そしてミスを犯してしまうと、その事実が頭に引っ掛かってしまい集中がどうしても乱れてしまう。それでまた別の所を間違えるという負の連鎖が始まってしまいかねない。

 とにかく、まずは最後まで弾き終えることを第一に考えて、弾いた後でどのあたりを間違えてしまうのかをピックアップしていこう。

 そんなことを絶えず指を動かし鍵盤をたたきながら考えて、改めて楽譜に意識を向けようとしたところで、俺は視界の端で“その人”を捉えた。

 

(また・・・・・・?)

 

 だが、“その人”に意識を取られてしまっては余計にミスが重なってしまう。今は“その人”のことについては置いておき、指を動かしてピアノを弾く事に集中する。

 後半辺りは1番とほぼ同じだったので、なんとなくではあるが感覚がつかめてきた。そして集中した甲斐あってか、その後はミスなく弾くことができ、最後まで間違えることはなく曲を弾き終えることができた。

 しかし改善点は多くあり、これでは今日中に完成することは不可能に近い。ちゃんと録音してクリスに渡すのはまだ先になってしまいそうだ。明日にでもクリスには謝っておくことにしよう。

 

(さて・・・・・・)

 

 俺は一度ピアノから意識を外し、音楽室のドアの方を見る。小窓から、“その人”のウェーブがかった金髪が見えている。どうやら、ドアに寄り掛かっているようだ。

 先ほどピアノを弾いていた時目が合ったあの人は、やはり昨日と同じケイさんだった。そして今ドアに寄り掛かっているのも同じだろう。

 昨日見かけた時も、今日の昼に『バルタザール』食堂でも思ったが、『アイアンブリッジ』棟にいるケイさんがここにいるのが不可解に思えてならない。

 この近くの教室、あるいはこの『ハイランダー』棟のどこかで戦車隊の会合でも行われていたのか、あるいはこの棟にあるどこかのクラスの誰かに用があるのか。

 だが、そのどちらも考えにくかった。戦車隊で会合をするのなら、専用の会議室やホールが設けてあるのだからそこを使えばいいし、『ハイランダー』棟の誰かに用があったとしてもこの階には普通の授業を行う教室はないからここに来る意味はない。他の棟に繋がる連絡橋もこの階にしかないと言うわけではないから、この階を通る理由にもならない。

 これが昨日だけのことなら、単なる偶然と思うことはできた。だが、2日続けてこの事態は起きているし、しかも今なおケイさんはドアの前に立っている。別に俺は自惚れているつもりも、自意識過剰なつもりもないが、相手が相手なだけに気になった。

 そこで、ドアの前で立っているのを見て、もしかしたら彼女も今日はここに何か用があるのではないか、という考えが頭に浮かぶ。

 もしそうだとすれば、長時間待たせるわけにもいかないので、早めに用事を済まさせてあげるべきだ。

 そう思い俺は椅子から立ち上がり、ケイさんが背中を預けているドアとは反対のドアを開き、廊下へと歩み出る。

 そのよりかかっていた人を見れば、やはりそこにいたのはケイさんだった。そして、どうやら俺が出てきたことが予想外だったらしく、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。

 

「えっ・・・!?」

 

 

 

 英とケイの視線が、ぶつかった。

その2人の表情は似て非なるものであり、英は怪訝な表情を、ケイは驚嘆の表情を浮かべている。

 しかし英は疑わしげな表情をしていながらも、今目の前にいる人物が間違いなく“あの”ケイであると確かめて、『まさかこんな機会があるなんて』と頭でチラッと考える。

 だが英はケイの表情を見て、驚かせてしまったということに気付いて謝ることにする。

 

「あ・・・・・・すみません、驚かせてしまいまして」

「あー、ううん、大丈夫。ノープロブレムよ」

 

 確かにケイは驚きはしたが、それで不快な気持ちを抱いてはいない。元々ケイが1人でしていたことなのだから誰も責めることはできない。

 そんなケイと話す英は、無意識に敬語を使っていた。今接しているケイは自分と同じ3年生であるということは知っていたが、相手は雲の上の手の届かないような存在の人だと思っていたせいで、気安い口調で話すのも失礼になるんじゃないかと思ったからだ。

 

「もしかして、この部屋使いますか?」

「え?」

 

 ケイがドアの前に立っていたので、この音楽室で何か約束事でもあるのではないかと思ってそう聞いたのだが、ケイは逆に首をかしげる。

 

「いえ、ドアの前に立っているのが見えたから、この部屋を使うのかなと思ったんです、けど・・・」

「あー、違うわ違う。特に約束とかはしてないわよ」

「はぁ・・・・・・」

 

 ますますもって、なぜケイがここにいるのか分からなくなる英。

 

「ただ、すっごくきれいなピアノの音が聞こえてね。それで誰が弾いてるんだろうって、気になってたの」

「・・・・・・そう言うことですか」

 

 口では何でもないような感じだが、英は内心ではちょっとばかり嬉しかった。

これまでも英のピアノを聴いて『いい曲だった』とか『上手かった』とか言ってくれる人は多くいた。

 だが、サンダースを代表するようなケイから褒められたことはこれまで無かった。だから、屈託のない笑みを浮かべるケイからそう言われたことで、恥ずかしくもあるが少し嬉しくなる。

 

「あ、自己紹介がまだでした。英影輔、3年生です」

「あら、3年生なの?じゃあ私も3年生だし、堅苦しい話し方はナシね」

 

 つまりはタメ口でいいということか。住む世界の違う、手の届かないような人だと思っていたが、フレンドリーな性格だということは聞いていた。気張っていた自分に対して今更笑いが込み上げてくる。

 

「・・・じゃあ、改めてよろしく。ケイ」

「OK!よろしくね、影輔」

 

 さらっと英のことを名前で呼ぶケイ。こうして異性から名前で呼ばれたことなどほとんどなかったから、免疫のない出来事に英も少しドキッとする。

 

「って、あれ?私の名前・・・・・・」

 

 そこでケイは、自分が名乗ってもいないのに、これまで話したことも無いはずの英がケイのことを知っていて名前で呼んだことに引っ掛かりを覚えた。

 だが英は、それはケイが自分がサンダースでどんな存在であるのかを理解していなさすぎじゃないかと逆に思う。

 

「ケイはサンダースじゃいい意味で結構有名だから」

「そうなの?そう言うのはあまり気にしないからねぇ」

 

 確かに、ケイは地位や名声を鼻にかけて偉そうにしている印象はない。食堂で歓声を受けてもアピールをしたりはしていなかったから、本当に彼女は名声や立場などを重要視していないのだろう。それもまた、彼女の魅力なのかもしれない。

 

「それにしても」

 

 ケイが身体を傾けて、音楽室の中の先ほどまで英の弾いていたグランドピアノを見る。

 

「本当に上手だったわよ、あなたのピアノ」

「ああ、ありがとう。趣味で弾いてるだけなんだけどな」

「え、趣味?」

 

 隠すことではないので英が素直に告げるが、それは逆にケイに驚愕と疑問を植え付けることになった。

 

「合唱部とか声楽部とか・・・そう言うのに入ってるんじゃないの?」

「いや?」

 

 サンダース大学付属高校は規模が大きい故、部活動の種類も他の学校と比べると全然違う。その中には楽器を扱う部活だってもちろん存在するが、そのどれにも英は所属してはいない。

 

「ここは・・・まあ先生の厚意で貸してもらってる感じ。それで俺が弾きたいように弾いてるだけ」

「そうなんだ・・・」

 

 あまり深入りはしてこないケイ。それは初対面だからだろうが、それはそれで英にとってもありがたいことだった。

 そしてケイは、少しの間、誰もいない音楽室の中を眺めて、ポツリと呟いた。

 

「・・・今日はもう終わりなの?」

「?いや、5時まで使っていい約束だし、まだ弾くつもりだ」

 

 今の時刻は4時前、まだ約束の時間まで1時間以上もある。時間一杯弾く予定なので、もう終えるつもりはさらさらない。

 その英の答えを聞くと、ケイは『ふーん・・・』と言いながら、また音楽室の中のピアノを見る。そのケイの態度で、英もケイがどうしたいのかがなんとなくだが分かった。

 

「あー・・・・・・あの、ケイ?」

「?」

「もしよかったら・・・中で聴いてく?」

 

 そう誘った英の真意は、ケイがピアノを興味ありげに見ていたので、もしかしたらピアノを弾いてみたいのか、それともピアノを聴きたいのかと思ってのことだった。

 少し図々しい申し出だったかなと英は思わなくも無かったが、それも無駄な心配で済んだ。

 

「いいの?」

「ああ、別に俺は構わないけど」

「じゃあ聴いてく!」

 

 嬉しそうに告げるケイ。それだけピアノに興味があったのかどうかは分からないが、あまり深読みはしないでおいた。

 英は音楽室に戻りケイを招き入れる。そして英はピアノ椅子に、ケイはピアノに一番近い、授業で使う最前列の席に座る。招き入れた身なのでとやかくは言えないが、最前列の一番近い席で聴かれるのは少し緊張する。

 

「ああ、そう言えば」

「ん?」

 

 席に着いたところでケイが訊ねてきた。

 

「さっき弾いてた曲、結構ミスしてなかった?」

「ああ、聞かれてたか・・・・・・」

 

 先ほどの個人的な評価では落第点の曲を聞かれたことを、英は恥ずかしく思う。だが、ミスをしたことは事実なので言い訳もできない。

 

「あれは今日初めて弾く曲だった。だから、流石にノーミスで弾くのは無理だったよ」

「初めて?」

「ああ、友達から弾いてほしいって今日渡された曲」

 

 スタンドに開いたままだった楽譜をケイに見せる。それは、今日の昼休みにクリスから渡された楽譜だ。この曲は英も聴いたことがない、本当に初めて触れる曲だったのでミスなく弾き終えるのは無理だった。

 

「頼まれることもあるんだ?」

「そう。それで完成したら、録音して渡す」

「へぇ~」

 

 サンダースはやはり資金が潤沢なだけあって、音楽の録音設備などは充実している。その録音設備は一般の生徒も使うことが可能だが、基本的には音楽系の部活動の使用が優先される。そして使用するには先生に申請を出す必要があるので、1人で勝手に使えると言うわけでもない。ただその申請も緩いのでとくに仔細ないため、英も何度も使わせてもらっていた。

 そしてピアノの演奏の依頼は、今日頼んできたクリスに限らず同じクラスや他のクラスの友人からも頼まれることがある。それで交友関係が築けたケースもあった。

 

「昨日は綺麗な感じでミスも無かったから、今日はどうしたのかなぁってちょっと不思議に思ってたの」

「昨日の曲は、お気に入りで何度も弾いた曲だったし」

「なるほどねぇ」

 

 ケイを招き入れた以上、ただ雑談で時間を過ごすわけにもいかないし、何か弾くべきだろう。それと、たださっきまで弾いていた曲の練習を聴かせるのも何だか申し訳ないので、別の曲を弾こうと思った。

 そのクリスから渡された楽譜を、持って来ていた楽譜が入っているトートバッグに入れて、別の曲を探す。幸いにも、昨日弾いていた曲が入っていた。その曲をケイが聴いたかどうかは分からないが、とりあえずこれを弾くことにする。

 

「おっ、始めるのかしら?」

「あまり身構えないで、弾きづらいから」

 

 身を乗り出し、ニコニコ笑って英とピアノを見るケイ。そうやって期待の眼差しを向けられると英としては調子が狂うし、緊張感が増す。ただここにケイを誘ったのは英である手前強くは言えない。苦笑しながら英は楽譜を開いてスタンドに置き、鍵盤に指を置く。

 そして一度小さく息を吐く。

 今回は、1人で弾く普段とは違い、ケイと言う、1人だけではあるが自分の演奏をその場で聴く人がいる。だからこそ、普段は抱かない緊張感が英の中に芽生えていた。

 そこで、ちらっとケイの様子を窺う。

 ケイは、これから始まる演奏に対する期待が高まっているようで、先ほどと変わらず笑っている。

 その顔を見ると、失敗することはできないなと英は静かに思う。

 そして同時に、その期待に応えられるように弾きたいとも思う。

 一度目を閉じて、もう一度息を吸って、吐いて、最初の音を鳴らす。

 序盤は低めの音が続き暗い感じがするが、曲が進むにつれて曲調はどんどん明るくなっていく。

 この曲は、海外の有名なジャズバンドの曲だ。調べたところによると、この曲は粛々とした作物の収穫と、その収穫の後に開かれる楽しい収穫祭をイメージして作曲されたものだという。実家は農家でもなく、農業科でもない英は収穫などとは無縁なのだが、それでもこの曲の明るいイメージは好きだった。だからこうして、ピアノの楽譜を取り寄せて弾いているのだ。

 そのピアノを弾いている途中で、暗譜でも弾けるところにやってきた。そこで、少しだけ視線を聴いているであろうケイの方に向ける。ケイは頬杖をついて目を閉じながらも、静かに笑ってリズムに乗って首を左右に小さく動かしている。退屈そうにしているのではなく、ケイもまたこの曲を楽しんでいるのがその動作だけで分かった。

 楽しんでいるのであればそれで十分だ、と英は考えながら再び楽譜に目を向ける。そして鍵盤を叩き音色を奏で続ける。

 やがてもうすぐ曲は終わりへと近づいてきて、最後に盛り上がりを見せる。楽譜に従ってピアノを弾いていて、英も自然と楽しくなってくる。

 そしてその盛り上がりを過ぎれば、クールダウンのように落ち着いた曲調になり、テンポもまたゆっくりになってくる。

 そして、音を外すことなく、曲は終わりを迎えた。

 曲を弾き終えてから少しの間、楽しい曲の余韻に浸るように鍵盤に手を置いたままにする英。

 そして、鍵盤から手を離したところで。

 

「エクセレント!!」

 

 スタンディングオベーションとばかりにケイが立ち上がり、拍手を英に送ってくれる。

 こうして誰かが自分のピアノの演奏を聴いて、どんな感想を抱いたのかを隠すことなく拍手を交えてまで表現してくれたのは初めてだった。そして初めてのことだから、英も少し恥ずかしくなって曖昧に笑う。

 

「最高にクールね!気に入ったわ!」

「・・・それは、どうも」

 

 ケイの褒め言葉を受けて、英も悪い気はしない。褒められるのは嬉しいことだし、容姿・人柄含めてケイの様な人物から褒められることも男としては嬉しかった。

 少しの間拍手を続けたケイは、拍手を終えるとうんうんと頷く。

 

「いいわねぇ、うん。ピアノってこんなに聴いてて楽しいものだったのね」

「あー・・・それは多分曲が明るい感じの曲だったからだな」

 

 当たり前だが、ピアノの曲は全てが先ほど弾いていたような楽しい曲だと言うわけではない。もの悲しげな曲や怒り狂うような荒々しい曲だってあるし、むしろ本来のピアノの曲はそんな感じの曲が多い。

 だから英はそう告げるのだが、ケイは首を横に振った。

 

「それはきっと、あなたが楽しそうに弾いていたからだと思う」

「え・・・・・・」

 

 予想だにしていないケイの言葉に、英も言葉を失う。

 

「だって、ただ傍で聴いていた私にも影輔が楽しそうに弾いてるのが分かったから。だから私も、そんなあなたを見て楽しい気持ちになれたんだと思う」

 

 真っ直ぐな瞳でそう告げられて、英も何も言えなくなるし、反論するという意志がなくなる。

 確かにピアノを弾いている間、英自身でも楽しい気持ちになれたという記憶はある。だが、それが今日初めて出会ったケイにも分かるぐらい表に出ているとは思わなかった。

 そして、決して責められているわけではなく、自分の曲を聴いて楽しかったと言われたこと自体は嬉しかったので正直照れくさい。

 

「・・・ありがとう」

 

 だから、そんな一言を告げるので精いっぱいだった。だが、それだけでもケイは十分だったようで、椅子に座りなおす。

 

「ね、他に何か曲あったりする?」

「え?あー・・・そうだな・・・」

 

 どうやら、先ほどの曲を聴いてよりピアノに興味を持ってくれたらしい。先ほどの『英が楽しそうだったから私も楽しかった』という言葉はともかくとして、ピアノに興味を持ってくれたことに関しては嬉しかったので、リクエストに応じることにした。

 スタンドに開いていた楽譜を閉じて別の楽譜をトートバッグから取り出そうとするが、せっかく『聴いていて楽しい』と言ってくれたので、今度は『楽しい』というよりも『面白い』と思うであろう曲を弾くことにした。

 

「じゃあ、ゲームのBGMを1曲。多分、ケイも知ってる曲だ」

「へぇ~・・・BGMも弾けるんだ。って、楽譜は?」

 

 英が楽譜を広げようともしないで鍵盤に指を置いたのを見て、ケイが問いかける。

 

「ああ、この曲は楽譜無しでも弾ける」

「本当にすごいわね・・・影輔って」

「いやいや、暗譜自体は別に特別なことじゃないし」

 

 謙遜しているわけではなく、本当に暗譜できる人は結構いるのだ。このサンダースでだって、英は暗譜ができる知り合いを何人も知っている。同じピアノを弾く人はその中でも少ないが。

 

「じゃ、始めるぞ」

「YEAH!」

 

 ケイが威勢のいい返事を返し、英も演奏を開始する。

 そのBGMの流れるゲームは何なのか、それは最初のワンフレーズでケイも気づいたらしい。ちらっと様子を窺うと『おおっ』という表情を浮かべている。目が輝いているようにも見えた。

 気付いたということは、このBGMを知っているということだろう。なので英も『知らなかったらどうしよう』という不安を抱くことなく曲に集中することができる。

 軽快なリズムを奏でている最中、視界の端でケイが笑いをこらえているのを捉える。そのケイの気持ちは分からなくもない。

 さて、このBGMには終わり方が2通り存在する。ステージを無事にクリアできたパターンか、途中でミスしてしまうパターンのどちらかだ。どちらの終わり方にしようかは弾く直前までは悩んでいたが、ケイの反応を見て一択に絞られた。

 実際のゲームではBGMは1~2巡程するので、英も同じように少しの間弾き続ける。その間、ケイは笑いを必死でこらえているようにプルプルと震えていた。

 だが、英が途中でそのBGMをぶった切るような低音の和音を鳴らし、そして実際のゲームでも流れるミスした時のBGMを滑らかに奏でたところで、ケイも我慢の限界が来たらしく。

 

「あっはははははははははっ!!」

 

 声を上げて笑い出した。そのケイの様子を見て、英も自然と笑ってしまう。

 だが、こうしたケイの反応は既視感を覚える。というのも、このピアノアレンジを英が初めて聞いた時、英を含めて聞いていた人のほとんどが笑っていたからだ。それこそ、今のケイのように腹がよじれるぐらいに笑ったものだ。

 

「あはははっ・・・そんな音まで、再現できるんだ・・・・・・はははっ」

 

 少し笑いが収まったところで、感心したようにケイがコメントする。ただ、そう言ったところでまた先ほどの音を思い出してしまったようで、再び笑いだすケイ。涙がにじむぐらい面白かったのか。

 とはいえ、これだけ笑って楽しんでくれたのなら弾いた価値は十二分にあったと言える。

 

「まあ、これは最初別の人が弾いてて、それを真似たんだけどな」

「そうだったんだ?」

「ああ。最初にこれ聞いたらすごい笑って、それから教えてもらって」

「すごいわねぇ・・・!」

 

 この曲のピアノアレンジを最初に聴いたのは中学生の時、音楽の授業で先生がデモンストレーションで弾いたものだ。その後英が頼み込んで教えてもらった。

 それから英は、他にもいくつかの曲を披露した。クラシカルな雰囲気の曲やジャズ、有名なアニソンなど手持ちの楽譜で弾ける限りの曲を弾いた。

 そしてケイは、その1曲1曲が終わるたびに、英に拍手を送ってくれた。一般的に見ればそれは普通の反応なのかもしれないが、なまじ相手がこれまで接することがなかった有名な人なだけあって、英は心が躍り出しそうになるぐらい嬉しかった。

 そして、何曲か引き終えたところで、音楽室のスピーカーからベルが鳴り響く。そこで英とケイが時計を見上げると、5時を指していた。

 

「ああ、もうこんな時間か」

「Oh・・・あんまりにも楽しくって、時間を忘れちゃってたわね」

 

 英はピアノの鍵盤にシートを被せて蓋を閉じ、最初の状態に戻し、諸々の後片付けをする。

 ケイは、自分の鞄を肩に提げながら、ピアノを少し寂しそうに見つめていた。どうやら今日のピアノを交えたひと時を楽しんでいたらしい。

 この後英のすることと言えば、音楽室の鍵を閉めて、『ハイランダー』棟の職員室に鍵を返せば帰路に就くだけである。

 だがケイは、英に『途中まで一緒に帰ろう』と提案してきた。てっきり、別々に帰るであろうと思っていた英は少し驚いたが、素直にそれには頷く。

 

「今日はありがとうね。色々楽しい曲を聞かせてくれて」

「いや、お礼を言われることなんて俺は・・・」

 

 まだ完全に日没には至っておらず、紺色と朱色の混じるような空の下で英とケイは並んで道路を歩く。その中でケイが先の言葉をお礼の言葉を告げたのだが、英としては本当にお礼を言われるようなことをしたつもりはなかった。ただ自分が弾きたかった曲を弾いて、そしてケイも楽しめそうだなと思った曲を弾いただけなのだから。

 

「だって、あんな楽しい曲聞いたことがなかったもの。それに、ピアノが楽しいって思えたし」

「あのBGMも?」

「あれは楽しいって言うか面白くって・・・あはははっ」

 

 英の何気ない一言で、ケイはどうやら抱腹絶倒したあの曲を思い出したらしく、また笑ってくれた。どうやら彼女は笑い上戸の気があるらしい。

 ここまで楽しそうに笑ってくれるのを見ると、あの曲を覚えていて本当によかったと思うし、弾いた甲斐もあったと思える。

 

「とにかく、今日あなたの曲が聴けたのはホントによかったと思うわ。ありがとうね」

「・・・どういたしまして」

 

 正面からお礼を告げられるとどうしてもこそばゆく感じる。相手がケイの様な人物で、太陽の様な笑みを浮かべているからなおさらだ。自分が変な顔をしていないかが少し気になる。

 

「ね、影輔」

「何?」

「明日もまた、弾く予定だったりする?」

 

 その問いかけに、英は『まさか』と心の中で推測を立てる。そしてその上で、嘘偽りなく明日の予定を英は明かす。

 

「・・・そうだな、あの音楽室が空いているなら、明日も弾く予定だ」

「じゃあさ、また明日も聴きに行っていい?」

 

 やはりそうか、と英は思う。このケイの『聴きに行く』というのは今日の最初のように教室の外で聴くのではなく、ピアノの傍で聴くという意味だろう。

 だが、英としては特に困るようなことも無いので断る理由がない。

 

「ああ、いいよ」

「やった!」

 

 英が承諾すると、ケイがガッツポーズを取り嬉しいという気持ちをアピールする。

 

「そんなに嬉しいのか?」

「もっちろん。だってあなたのピアノの曲、気に入っちゃったんだから」

 

 二ッと笑いながら嬉しいことを言ってくれる。そう言われると、英も明日またいい曲を弾いてケイを楽しませたいと思うようになれる。

 

「・・・じゃあ、俺も何かいい曲見繕っておくよ」

「OK!期待してるわ!」

 

 そう言って英の肩をポンポン叩くケイ。

 だが、そう言われたからといってハードルが上がったとかプレッシャーをかけられたとは思わない。むしろその期待に応えようという気持ちだけが強くなってくる。不思議とケイの言葉にはそう感じさせるような力があるという風に思うのは、英の気のせいだろうか。

 そんな英の疑問をよそに、ケイが『アドレス交換しましょ!』と言ってスマートフォンを差し出してきた。英も、抵抗せずにスマートフォンを取り出しアドレスを交換する。まさか、出会ったその日にここまで親しくなれるとは思ってもいなかった。いや、それ以前にこのサンダースと言うマンモス校でケイと親しくなれるということ自体が予想だにしていなかったから、現実味が無いように思えてしまう。

 こうして親しくなれたのも、ケイがフレンドリーな性格をしているからだと英自身は思っている。ケイは自分のピアノを気に入ったと言ったが、それも要因の一つなのでは、とはまだ思えなかった。

 

「じゃあまた明日ね。グッナイ!」

「ああ、またな」

 

 一つの十字路にやってきて、ここでお別れとなる。ケイは片手を挙げて英に別れを告げて、英もまた片手を挙げてそれに応える。

 英はケイと背中合わせになるように自分の寮へと向かいながら、明日のことを考える。

 明日もまたケイが聴きに来てくれるのであれば、それなりにいい曲を、そしてケイが楽しめそうな曲を探しておこう。部屋にはまだ楽譜が結構あるし、ネタ切れという事態にはならないはずだ。

 そんなことを考えつつ、英は寮へと戻っていった。




作中に出てきた『ゲームのBGM』は、
キノコで変身する赤と緑の配管工兄弟のゲームのBGMをイメージしていただければと思います。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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縛られたくない

 英とケイが出会いを果たした日の翌日。英は別段変わりなく、いつも通りに授業を受けていた。昨日ケイの様な有名人と知り合って仲良くなれたからと言って、それで浮かれて学生の本分である勉強を疎かにしてはならない。そう英は自分に言い聞かせ、昨日のことは面に出さず授業を受けた。

 そしてベルが鳴り昼休みに突入すると、昨日と同じように英は山河と共に『バルタザール』食堂へ向かい、2人掛けのテーブル席で昼食を開始する。今日のメニューは2人とも、フライドチキンの定食だ。

 

「ああ、ところで英」

「ん?」

 

 お互い食事を始めてから少しして、山河がおもむろに話しかけてきた。英もそれを受けて、かじりついていたフライドチキンを皿に置く。

 

「昨日はどうだったの?」

「どうって、何が」

 

 質問が抽象的過ぎて、何のことを聞いているのか英には全く分からない。だから英もそう聞き返すしかなく、山河も『聞き方が悪かったね』と謝り改めて問う。

 

「ほら、昨日ケイさんがピアノを弾いているのを見てたって言ってたじゃないか。それで、昨日はどうだったのかなって」

「ああ、それか」

 

 ピアノをあの教室で1人で弾いていることは、隠しているわけでも、秘密にしているわけでもない。だから昨日そのことを山河に話したのだし(それ以前からピアノを弾いていること自体は知っているのだが)、クラスメイトの何人か、それと別のクラスのクリスもそれは知っている。でなければ楽譜を渡してきたりはしない。

 

「昨日は・・・ドアの前で聴いてたんだ。小窓から見えてた」

「ほう」

「それでまあ・・・流石に俺も気になったんだよ。それで話しかけて・・・打ち解けて。それで仲良くなれた、と自分では思う」

 

 どんな言葉を交わし、何を言われたのかまでは話さない。山河もどうなったのかという結果を聞きたいのであって、そこまで詳細な情報までは望んでないだろう。そこまで話すと蛇足になりかねないし、あまり多くを話してその話が漏れるとケイが不都合を被るのも避けなければならない。その点英はきっちりしていた。

 

「へぇ~・・・会った日にそこまで」

 

 山河も英の言葉で大体事情を掴んだらしく、感心したように呟く。確かに、英とケイが初めて出会ったのは昨日が初めてなので、その日のうちにそこまで仲良くなれるのが不思議に思えてならないのだろう。

 

「あの人は元々フレンドリーで大らかな人だし。じゃなきゃ会った日に名前で呼び合えるまで打ち解けるなんて無理だ」

「まあ、そうだよね」

 

 おそらくだが、ケイ以外の誰かだったならば、あそこまで仲良くなることはできなかっただろう。多分最初に英が教室から顔を出して曲を聴いていた人を見た時点で関係は終わってしまったと思う。

 

「このことは、他言しないでおくよ」

「助かる」

 

 誰かと仲良くなれたということを得意げに自慢するように無暗に話すと、ろくなことにはならないということは分かる。相手がサンダースのスターのような存在であるケイならなおさらだ。

 だから英も山河も、このことは誰にも言うつもりはなかった。それでも英が昨日今日と山河に話したのは、それだけ英が山河のことを信頼しているからである。

 と、そこでまたしても食堂の入口の方から黄色い歓声が上がる。

 

「噂をすれば影が差すってね」

「ああ、そうだな」

 

 ただ、昨日仲良くなれたからと言って、わざわざ立ち上がって挨拶をするということを英はしない。あくまで普段通りでいようと英は思った。

 食事を再開し、山河と雑談を交えながらフライドチキンを食べていると、英はケイ、ナオミ、アリサの3人がこちらに向かってきているのに気付いた。ピアノを弾いている時は絶えず楽譜を目で追っているからか、英の動体視力は人よりも比較的優れている。だから、例え視界の端で起こるちょっとした変化にも敏感だった。

 だが、別にケイたちがこちらに近づいてきたからといってこちらから特別アクションを起こすつもりも無いので、目の前のフライドチキン定食に目を戻そうとする。

 その直前で。

 

「・・・・・・・・・」

 

 英とケイの視線が合った。それは英が顔を上げていたからであって、向こうが気付いてもおかしくはない。

 そんな風に目が合っただけなら大したことはない。

 だが、ケイは英の方へ明確に顔を向けて笑みを浮かべ、さらにはウィンクまでかましてきた。

 

「・・・・・・・・・」

 

 それでもケイは英に話しかけはせずに、その横を通り過ぎて行った。彼女の傍にいるナオミとアリサもケイの動作には気づかなかったようで、英たちには目もくれずに食堂を進んでいく。そしてその後で英の後ろの方から『ケイ、こっちー!』という女子の声が聞こえてきた。

 

「どうかしたの?」

 

 山河が声をかけてきた。その声で、ケイの仕草を見てぽかんとしていた英の意識が現実に引き戻された。そして声をかけられたということは、山河にも分かるぐらい英が上の空な状態だったということか。

 

「・・・・・・いや、何でもない」

「ふーん・・・?」

 

 山河も一応はそれで納得したようで、フライドチキンにかじりついて食事を再開する。

 そんな山河を見ながらも英は、心の中では動揺していた。

 ケイが先ほどの様なアクションを日常的にする人物だということは、分かっていた。それに英とは親しくなれたのだし、先ほどのウィンクだって別に気にすることも、何か深い意味があるのではと考える意味も無いはずだった。

 

(・・・・・・何考えてるんだ)

 

 それは英自身に言い聞かせたことだ。そういう人だと分かっていたのに、どうしてかあの行為には他意が含まれているように思ってしまったからだ。

 けれどすぐに頭を振って余計な考えを振り払う。

 そう思っているのは英だけで、ケイは別に深い意味を込めてあんなことをしたのではないのだろう。いや、そうに決まっている。彼女の人となりを考えれば何も変ではない。

 昨日少し仲良くなれたからと言って、それだけで英が変に勘違いするのはあまりにもバカバカしい。

 変に思い上がっていた自分に対して失笑すると、英はフライドチキンにかじりつく。

 だが、その正面に座る山河は、その英のいつもとは違う様子に気付いていた。

 

 

 英のクラスのホームルームが終わり、『デストロイヤー』棟から『ハイランダー』棟へと向かう。具体的にはその職員室へ、だ。第5音楽室の鍵は、当然かもしれないがその教室がある『ハイランダー』棟の職員室に保管されている。なので鍵を借りるのはその職員室なのが常だ。

 だが、タイミング悪く公民の教師に捕まり参考教材を運ぶのを手伝う羽目になってしまった。英は特に素行に問題はないごく一般的な高校生なので大人しくその指示に従い資料を運ぶ。

 そして手伝い終えて鍵を借り、音楽室に向かう頃には既に時刻は4時前になってしまっていた。本来ならば既に音楽室でピアノを楽しんでいる時間だったのだが、実に惜しいことだ。

 普段ならば、部活動に入っているわけではなく1人で弾いているので『こういうこともあるか』と思いながらのんびりと音楽室へ向かうはずなのだが、昨日とは事情が変わっている。

 昨日ケイは、今日もピアノを聴きに来ると言っていた。何時に来るとは言ってはいなかったが、先に来ているという可能性もある。もしそうであれば、ケイに待ちぼうけを喰らわせているかもしれなかった。

 だから今、英は急ぎ足で第5音楽室へと向かっていた。せっかく聴きに来てくれるのに、待たせてしまうなど男として立つ瀬がない。

 そして音楽室の前にたどり着くと、ケイが壁に背を預けて立っていた。

 

「Hi!影輔、待ってたわよ!」

 

 そのケイは英の姿を目にすると、片手を挙げて英を迎える。その姿を見て安心感を英は覚えるが、同時に待たせてしまったことに対する申し訳なさも抱く。

 

「悪い、先生の手伝いしてて遅れた」

 

 ケイがどれだけ待っていたのかは知らないが、待たせていたのなら謝らなければならないとだけは決めていた。

 

「謝らなくて大丈夫よ。それに、あなたの曲が聴きたくて、私もつい早く来ちゃったし」

 

 頭を掻きながら少し恥ずかしそうに笑ってケイがそう告げる。好奇心のあまり早く来てしまうことが子供っぽいと自分で思っていたのかもしれない。

 ただその言葉は、それだけケイが自分のピアノの曲を楽しみにしていたのだろうか、と英は思った。

 そう考えると、英は嬉しくなる。誰かにこうして聴きたいと思われたこと、聴きたいと言われたことが、本当に嬉しかった。相手が相手なだけになおさらだ。

 だがそれは心の中にだけ秘めておいて、小さく笑うだけに済ませておく。そして音楽室の鍵を開ける。

 

「・・・じゃあ、どうぞ」

「お邪魔しまーす♪」

 

 別に英の部屋というわけでもないのだが、そんなやり取りを交わして2人は音楽室に入る。電気を点けると、暖かい色合いの電灯が部屋の中を照らす。英はいつものように机に学生鞄を置き、楽譜の入ったトートバッグをピアノ椅子まで持って行こうとする。ケイも英の鞄の横に自分の鞄を置いて、昨日と同じ椅子に座ろうとする。

 

「あ、そうだ、ケイ」

「何?」

 

 昨日見繕ってきた、ケイが気に入るであろう曲の楽譜を取り出そうとして、英は動きを止めた。そして、実に申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 

「友達から頼まれた曲が1曲あるんだけど・・・」

「昨日弾いてたやつ?」

「ああ。それの調整がしたくて、ちょっと楽譜読む時間が欲しいんだけど」

 

 せっかく聴きに来てくれたのに、楽譜を読む時間を貰うというのは少し心苦しいのだが、ここぐらいでしかゆっくりと集中して楽譜を読む場所がない。もとより普段の教室は賑やかなので集中できず、自分の部屋も誘惑が多いのでなかなか集中できない。英もクリスから頼まれた以上は早いところ仕上げて録音して渡したかったし、ケイには申し訳ないがほんの少しだけでも時間が欲しかった。

 

「そう言うことなら、いいわよ」

「悪い、助かる」

「謝らなくて平気よ。元々私はお客なんだし」

「・・・・・・ありがとう」

 

 ケイの厚意に感謝して、昨日クリスから渡された楽譜をトートバッグから取り出して、バッグはピアノ椅子のそばに置いておく。そして授業で使う椅子に座って、机に楽譜を広げてイメージトレーニングの準備に入る。

 その英の隣に、当然のようにケイが座ってきた。集中しようとしていた矢先に、ふわりと妙に甘い匂いがして、さらにケイの存在が近くにいると気付いて緊張感が走る。

こうしたことが初めてだからか、ケイのことを変に意識してしまっていて、自分が少しおかしいと英は思う。今は曲のイメージトレーニングに集中しなければならないというのに。

 改めて楽譜に意識を集中する。

 すでに昨日のうちに、間違えた箇所にだけ付箋は貼っておいた。これが自分の持ち物であればペンで記入するがこれはあくまで借りものなのでそれはできない。ともかく、付箋を貼ったことで自分が間違えやすい箇所がどんな場所なのかは分かった。音の高さが一気に変わるところと、臨時記号がついた音符である。それ以外の場所は難なく弾けるので、この辺りに注意していけばいい。

 楽譜を見て、実際にピアノで弾くように机に指を置く。いつもイメージトレーニングをする時はこうしているので、事情を知らない人が傍から見たら『何をやっているんだ』と思うだろう。

 そして指を動かしだす。ただ楽譜を追って指を机で叩いているだけであるので、当然ながらピアノの音はしない。『トトトト・・・・・・』という音だけが聞こえる。だが、(ミスがあったのとはいえ)既に一度弾いたことがある英には、ピアノの音が鮮明に聞こえていた。

 こうしてイメージをしている間だけは、楽譜と指の動きに集中しているから、隣のケイの存在にも気を取られず、イメージを続ける。

 

 

 その英の、机に楽譜を広げて指だけでピアノを弾く真似をするという、傍から見れば奇妙なイメージトレーニングの様子を、隣に座るケイは腕を組みながらも真剣に見ていた。

 英の楽譜へ向ける視線も、机の上で本物のピアノを弾いているかのように動かしている指の動きも、そして楽譜に載っている五線譜を追う英の表情も、全てが“真剣”と表現するに相応しいぐらいのものだった。

 こうして親しい男の人が、リアルタイムで何かに真剣に取り組んでいる姿を、ケイは今まで見た事がなかった。自分が戦車に乗っている時も同じ戦車の乗組員や隊員たちが真剣に取り組んでいるのは知っているが、彼女たちは何処かしら緊張や怯えのような感情が混じっているように感じた。それ以前に戦車に乗るのは女性だ。

 だが今目の前にいる英は男だし、そして『いいところを見せよう』とか『絶対に成功させる』という、言ってしまえば“雑念”がない。伝わってくるのは純粋な“真剣さ”だけだ。それ以外の余計な感情が一切見られない。

 さらにケイの頭には、英の奏でるピアノの音色が、まるで今聞こえているかのように流れている。机を叩く英の指の動きに合わせて、音が聞こえてくる。

 ピアノには疎いはずなのに、どうしてこうも鮮明にピアノの音色が頭の中で奏でられるのか、ケイにはそれが分からなかった。

 だが、こうも思う。

 英は、これだけ集中しているぐらいなのだから、本当にピアノが好きなのだと。

 

 

 英が指の動きを止める。気がつけば楽譜も一番最後のページになっていて、終わりの部分になっていた。

 

「ふぅ~~~~~~」

 

 随分長い時間集中してイメージトレーニングをしていたものだったので、深呼吸して緊張をほぐす。首を一点から動かしていなかったので、首も少し凝ってしまっていた。おまけに指で勢いよく机を叩いていたものだから、指先が地味に痛い。英は首を左右に動かし、指先を解して少しでも疲れと痛み、凝りを無くそうとする。

 

「・・・・・・すっごい、集中力ね」

 

 ケイが呆けたように英を見てそう言葉を紡ぐ。英も肩を回しながら、苦笑する。

 

「まあ正直・・・普通の授業よりも集中したな」

「あはははっ、私もそんな感じがした」

 

 英の冗談にケイも笑って頷く。授業中でも先ほどのケイのように鬼気迫るような表情で授業に取り組む生徒を、英もケイも見た事がない。

 

「・・・本当に、影輔がピアノが好きなんだってことが伝わってきた」

「え、そんなに?」

「ええ、そんなによ」

 

 ケイは本当のことを伝える。英も傍で見ている人に分かるぐらい集中していたかどうかは分からなかったが、ケイからすればそれが十分に伝わるほど英は真剣に、集中していた。

 

「まあ、俺はピアノが好きなだけだから」

 

 そう言いながら楽譜を持って立ち上がろうとして。

 

「もったいないわねぇ・・・。部活とかに入ってればプロにもなれるかもしれないのに」

 

 英の動きが止まる。

 英の纏う空気がふっと変わったのに、ケイは気付く。

 

「・・・・・・いや、そんな気はない」

 

 そしてそう告げる英の言葉は、少し寂しさを帯びているように聞こえたのは、ケイの気のせいではないと思う。

 

「・・・何かあったの?」

 

 ケイが小さく、試すように問いかける。ここで英が『話したくない』と言えば、もう深入りはしない。

 ケイの問いかけに、英は力なく笑ってケイの方を見る。

 その表情を見て、ケイの心がズキッと痛む。

 だがそんなケイの心のことには気づかず英はまた椅子に座った。

 

「・・・ちょっと、理由があるんだけど、聞いてくれるか?」

「理由?」

 

 訊ねながらも、ケイは頷く。理由が聞きたいということを英は理解し、その理由を話すことにした。と言っても、この理由については別に隠すつもりも無かったし、聞かれれば普通に話すつもりでいた。これまでも、山河やクリス、クラスメイト数人にも話したことはあった。

 しかし、仲良くなれたとはいえ出会った翌日に話したことはない。しかも相手はあのケイだ。どんな言葉をかけられるかは分からない。だがケイが『聞く』という意思表示を示した以上、今更引き返せはしないので話すしかなかった。

 

「・・・俺の母さんは、音楽家なんだよ。ピアニスト」

「へぇ~、すごいじゃない!」

「と言っても、プロじゃない。音大卒だけど、ピアノの家庭教室を開いてた」

「あ、そうだったんだ」

「ああ。それで、俺が物心ついた時も、母さんはピアノを弾いてた」

 

 まだ小学校低学年ぐらいの年齢の時、英は生れて初めてピアノに触れた。

 それまでの英にとっての楽器といえば、トライアングルやカスタネットなどの、特別な技術を必要とはしないが一定の音しか出ない簡素な楽器だった。

 だがピアノは、特別な技術を必要とするかもしれないが、叩く鍵盤によって音が違い、組み合わせによってほぼ無限に異なる音が存在する、とても魅力的な楽器だった。

 親の影響なのか、英はすぐにピアノを覚えて、簡単な曲であればすぐに弾くことができるようになった。英のピアノを聴いた母親も、『上手い』とか『才能がある』と褒めてくれた。

 そして英は、楽器の中でもピアノが一番楽しく演奏することができた。やはり、先に述べた魅力と、ピアノの音色を長く聞いていたからだろう。

 英の母はその英のピアノの才能を見出して、音大時代の同級生だったプロのピアニストに教わると良い、と英に勧めた。その時既にピアノが好きになっていた英はその提案を聞くと喜んで、そのピアニストの指導を受けることが決まった。

 

「・・・けど、俺はまだ子供だった」

「?」

 

 プロのピアニストの指導は、正直言って厳しいに厳しいを重ねたようなものだった。

 それまでの英にとってのピアノとは、自分が楽しく弾ければいいとしか思っていなかった。

 だがその考えは、プロからすれば稚拙極まりない考えだった。そのピアニストは、ちゃんと曲の情景や描写をイメージして、時には楽譜に従うだけではなくアレンジも加えるべきだとまで言ってきた。

 いくらピアノが好きだと言っても、まだ小学校低学年の英にとってはそれは無理難題だった。まだ発想力も想像力も成長過程にある中で、それだけのことをイメージしろと言うのは難しかった。

 

「『そこはもっと優しく』『そうじゃなくて、もっと丁寧に弾きなさい』『なんでできないの』『これぐらいできるようになりなさい』って。もう耳にたこができそうになるぐらい言われた」

「・・・・・・・・・」

 

 ケイは黙って何も言わない。出会って間もない輩にこんな話をされても迷惑だろうに、と英は今更ながら思う。けどここまで言った以上は結論も言わなければ後味が悪いだろうから、続けるしかない。

 

「まあ、結局そのプロの人から教わるのは、1年ちょっとで辞めたんだ。それは覚えてるんだけど、何て言って俺が辞めたのかは、覚えてなかった。というか忘れてた」

「?」

「『もうやだ』って泣きべそかいたのか、『ヤなんだよ』って怒って辞めたのか、忘れてた。でも、中学の時に母さんと電話しててそれを聞いたら・・・」

 

 チラッと英は、壁に掛けられた時計を見る。既に時刻は4時を過ぎていた。

 

「『もっと自由に弾かせてください、って言ったのよ』って」

「・・・・・・!」

 

 ケイの目がわずかに見開かれる。それに英は気付かず話を続ける。

 

「俺は母さんが嘘をついたようには聞こえなかった。俺自身、そんなこと言いそうだなとは思ってた」

「・・・・・・・・・」

「まあ、そんなことがあったから、音楽系の部活には入ってないし、プロを目指そうと思ってない」

「・・・・・・・・・」

「ただ俺は、誰かに縛られたりせずに、自由にピアノを弾きたいだけだ。だからまあ・・・完全な自由じゃない部活に入りたいとは思わないし、あの教わった人のことを考えるとプロにはなりたくないな、とは思う。ただ、一応情景を思い浮かべるとかそういう重要な技術はちゃんと学んだけどな」

 

 そこで英は、苦笑した。相手が明朗快活なケイで、それで少し仲良くなったとはいえこんな話を聞かされても不快な気持ちにしかならないだろう。そう思って英は、せめて場の空気を緩くしようと小さく笑った。

 

「ごめん、変な話して気を落とさせて」

 

 この話を聞いて、ケイは少なからず落ち込んでいるかもしれない。それを紛らわせようと思って、英はピアノを弾こうとした。幸いにも、英の好きな曲は大体明るい曲だし、今日持ってきた曲も明るめの曲だ。

 立ち上がり、先ほどまで開いていた楽譜の曲を弾こうとしたところで、またしても英が動きを止めた。

 だが、それは英自身が意識して動きを止めたのではない。

 

「・・・ケイ?」

 

 ケイが、英の空いている左手を掴んだからだ。女の子に手を握られるという全く経験したことのない事態に直面しても、急なことでそんな的外れな考えが浮かばない。

 もしや、あまりに気分を害したものだから一発ガツンと言ってくるのかもしれない、と英は思った。

 英の話は、捉え方によっては『成長しきれていない未熟な子供が、ワガママを貫いて自分の都合で今を生きている』とも考えられる。英自身でさえそう思っているのだから、周りだってそう考える人がいるだろうと思っていた。

 無論、今英の話を聞いたケイもそういう捉え方をするという可能性だって十分にある。

 せっかく仲良くなれたのに残念だ、と英はもうケイとのつながりが消滅することを考えていた。

 

「・・・1つだけ、言わせてもらっていい?」

 

 そう前置きしたケイの表情は、なぜか笑っていた。なんだ、笑顔で罵倒されるのだろうか。

 

「あなたは、プロみたいに、すっごく立派なピアニストよ」

 

 英の予想の遥か斜め上を行く発言だった。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

 

 今の話を聞いて、何でそんな感想を言えるのか、英の頭では理解できなかった。だから失礼かもしれないがそんな気の抜けた『は?』が英の口から漏れ出した。

 

「そんな小さい時から『自由に弾きたい』って発想が持てるのがすごいと私は思う」

「・・・・・・そうか?俺には子供のワガママとしか思えないんだけど」

「ううん、その型にはまらず自由に弾きたいって考えるのは、あなたがそれだけピアノを弾くのが好きだったからよ」

「・・・大人に向かって偉そうな口利いたなって今でも後悔してる」

「子供は大体そんな感じよ。私にだって似たような経験あるし」

「・・・でも自分勝手な感じとしか俺は」

「ああもう!そんな辛気臭いこと言わないの!」

 

 自嘲気味に英が呟いてもケイがそれを上書きするように訂正してくる。

 だが、いい加減英のジメジメした言い分が気に食わなくなったのか、びしっと英の顔に向けて細い人差し指を突き出してくる。

 

「多分だけど、あなたがそのままそのピアニストの下で教わっていたら、今のあなたはいないと思う」

「?」

 

 そこでケイは、握っていたままの英の左手を離す。

 

「あなたの弾くピアノは、私にとってはどれも素晴らしい曲だと思う。あなたの曲を初めて聴いてからまだ2日ぐらいしか経っていないし、おまけに私はトーシロだけど、そんな私でもあなたの曲はすごいってことが分かる」

 

 真剣な口調と表情で告げられて、英も反論できず黙り込む。

 

「それは多分、あなたがそのピアニストから教わっている時に、もっと自由に、楽しく弾きたいって強く願っていたから。自分の素直な気持ちを誤魔化して、その教わった通りに弾ていたら、今みたいに楽しく弾く影輔の曲も聴けなかったでしょうね」

「・・・・・・」

「その影輔だけが持っている強い意志があったから、今こうして影輔が聴いていて楽しい曲を弾けるぐらいに上手くなったんだと、私は思うわ」

 

 これまで英の過去の確執を聞いた者は、笑ったり、呆れたり、落胆したりしていた。

 随分可愛くない子供だね、と笑われ。

 お前って意外と我儘だったんだな、と呆れられ。

 もったいないことをしたよな、と落胆された。

 だが、今ケイから聞いた言葉はそのどれでもない、称賛だった。

 英の自由に弾きたいという“意思”と、英の選んだ“道”を褒めて、そして認めた。

 それは英にとっても初めてのことだった。そういう見方があったのかと、視界が広くなった気がした。

 英を認めたケイの笑顔は、その言葉に嘘偽りはないと信じさせるぐらいに明るくて、英の中にある黒いモヤモヤとした感情を吹き飛ばすように温かい、そんなものだった。

 そんな笑顔を向けられると、最早反論することもできない。これ以上屁理屈を並べることもできない。

 

「・・・・・・そんなことを言ってくれたのは、ケイが初めてだ」

「ホント?」

「ああ」

 

 英は、先ほどまで浮かべていた諦めたような笑み、失笑とは違う、憑き物が落ちたかのような笑みを浮かべる。

 そして、自分のことを認めてくれたこと、自分の視界を広げてくれたことに対して、ケイを見てこう告げる。

 

「・・・ありがとう」

 

 その笑みは、優しさに満ちていると表現できるような穏やかな笑みだ。

 その英の笑みに、ケイはほんのわずかな間だけ見惚れた。どうしてだかその笑みから、目を逸らせなかった。

 

「よし、じゃあ弾こうかな」

 

 そんなケイには全く気付かずに英は楽譜を持って立ち上がり、ピアノへと足を向ける。英が立ち上がったことで、ケイも現実に引き戻された。

 英は、自分のことを認めてくれたケイに対して先ほど感謝の気持ちを言葉にしたが、それだけではまだ伝えきれていないというのが、英の本音だ。だから英は、自分なりにこの気持ちを伝えることにした。それが、ピアノである。

 ピアノのことで自分を認めてくれたのであれば、そのピアノで感謝の気持ちを伝えたい。それにやはり英はピアノが好きだから、そのピアノの音色で気持ちを伝えるというのもいいのではないか、とは思う。ロマンチストだなという自覚は当然あった。

 けれど、丁度良く今弾こうとしている、クリスから頼まれたその曲の全体的なイメージは、『大切な人に向けて、長い間伝えられていなかった感謝の気持ちを泣きながら伝える』というものだった。ケイとはまだ知り合って2日ぐらいしか経っていないのだが、感謝の気持ちを伝えるという点では通じているところがある。

 小さく息を吐き、鍵盤に指を置く。そこでケイの様子を窺うと、昨日と同じようにこれから始まる曲に向けての期待を隠しきれずに笑っていて、目も輝いているように見えた。

 

「じゃあ、始めるぞ」

「うん!」

 

 指に力を入れて、鍵盤を弾き演奏を始める。

 イメージトレーニングを思い出してそれと同じように鍵盤に指を走らせて音を奏で、横に広がる五線譜を左から目で追っていく。

 曲の全体像、情景を思い浮かべて、まるで自分がそう実体験しているかのように演奏する。これができるまでに随分な時間がかかったものだが、それが十分身についているかどうかまでは分からない。だが、それでも自分の表情が変わっているのが演奏していても分かる。

 と、そこで間違えやすい、付箋を貼ってあるポイントに近づいてきた。気を引き締めて、間違えないように指と鍵盤に意識を注ぐ。

 やがて、その間違えやすいポイントは躓くことなく演奏することができ、無事に突破した。

 そしてそこから最後の小節に至るまでも、ミスは無かった。音を外したり、前後してしまうことも、無かった。

 この曲を、ミス無しで弾き終えることに成功したのだ。

 

「Congratulation!!」

 

 弾き終えて、鍵盤から指を離したところでケイが立ち上がり、拍手をしながら声をかけてくれた。それで英も、やはりミスはしなかったということを改めて自覚し、力の抜けたような笑みを浮かべた。

 そこで英は、少し疲れたような笑みを浮かべながら、ケイに向けてサムズアップする。

 ケイは、笑顔で片手を挙げてこちらを向く。その仕草で、ケイが何をしようとしているのかを理解した英は、椅子から立ち上がりケイの下へと近づく。

 同じように片手を挙げると、勢いよくハイタッチを交わした。

 

「やったじゃない、影輔!パーフェクトよ!」

「ああ、まさかもうノーミスで弾けるとは思わなかった」

 

 口では冷静ぶっているが、英は心の中では踊り出しそうになるぐらい喜んでいた。

 今先ほどのように聞いた事がない、あるいは弾いた事のない1曲を間違えること無く弾けるようになるには、何度も練習を重ねなければできないことだ。

 だのに、このクリスから頼まれた曲は、昨日1回弾いて、その日英の部屋に帰ってから1回イメージトレーニングをして、今日も先ほど弾く前にイメージトレーニングを1回。そしてたった今、完成した。完成してしまった。

 普段であれば、たった2回のイメージトレーニングと1回の実際のピアノを使う練習だけで成功するなどあり得なかった。大体4~5回練習してようやく完成するのだから、はっきり言って新記録だ。

 ではなぜ、この曲に限って2回目で成功したのか。

 それは恐らく―――

 

「いやー、正直私内心ハラハラしてたわよ~?ミスしちゃったらどうしよう、ってね」

「なんでケイが心配するんだ・・・。実際に弾いてたのは俺だぞ?」

 

 我が事のように感動しているケイをみて、英も苦笑する。

 しかし、こうしてケイが笑っている姿を見ると、英も嬉しくなる。明朗快活であるケイは笑っている姿が似合うし、そして自分の弾いた曲でケイを笑顔にすることができたのだと思うと嬉しくなるのだ。

 

「じゃあ、別の曲を弾こうか。今日もいい曲をいくつか見繕ってきたし」

「おっ、いいわねぇ。期待してるわよ?」

 

 クリスに頼まれた曲が完成したから今日はおしまい、と言うわけではない。元々、ケイは英の自由に弾くピアノを聴きに来たのだから。

 そのケイの目的を達成させるべく、スタンドに広げていた楽譜をトートバッグに仕舞い、別の楽譜を選び取り出し、スタンドに開く。

 先ほど考えていた、そのクリスに頼まれた曲がわずか2回で成功した理由には、恐らくケイの存在があるんじゃないかと、英は思っていた。

 この曲を弾く直前で、英は自分にとっての後悔というか失敗と言うべき経験を話した。だが、その話を聞いてもなお、ケイは英の選択を否定したりはせず、むしろ英を『立派なピアニスト』だと称してくれた。

 だからか、英の心の中にあるモヤモヤがピアノを弾く前にほとんど消えてなくなってしまっていたからか、迷うことなくあの曲を完成させることができた、と英は考えている。

 

「・・・・・・行くぞ」

「ええ、お願い」

 

 英は、もう一度だけ、心の中でケイにお礼を告げて、2曲目を弾き始めた。

 

 

 太陽が傾き始め、今日もサンダースの1日が終わるのだということを思い知らされる。

 ピークを過ぎたとはいえまだ多くいる他のサンダースの生徒たちと同じように校門に向かうまでの間に空を見上げて、日の入りが早まっているなと私は思う。

 その空は、夏の終わりの北海道での激闘も、大洗女子学園が廃校の瀬戸際に立たされたことも感じさせないぐらい澄んだ空、私は一つ溜息をこぼす。

 別に憂鬱な気分になったわけではない。少し物足りなさを覚えているだけだ。

 なぜそんな気持ちを抱いているのかと言うと、それは今より数分前のこと。

 私のクラスのホームルームが終わり、いつものようにケイと共に寮へと下校しようと誘うために、彼女のクラスに行ったのだが。

 

「ケイならホームルームが終わってすぐに帰ったぞ」

 

 ケイと同じクラスの男子がそう言ってきた。普段なら、ホームルームが終わっても少しの間クラスメイトと雑談でも交わしているケイが、終わるなりすぐに帰るというのは意外なことだった。何か急用でもできたという話ならばそれまでだったのだが。

 

「あれ?でもさっき『ハイランダー』の方に行ったの見たよ?」

 

 別の女子の情報を聞いて、私の頭の中に疑問符が2つほど増える。『ハイランダー』とはこのサンダースの数ある校舎の1つの愛称だというのは知っているが、その『ハイランダー』に何かあっただろうか?

 図書室は普段いるこの『アイアンブリッジ』にある。他にも調理室や音楽室だってこの棟にもあるのに、『ハイランダー』に何か特別なものがあると聞いたことはないのだが。

 疑問が頭の中で渦巻くが、だからと言ってケイの後を追うような真似はしない。彼女も何らかの理由があって行ったのだろうし、その理由があまり他人に知られたくないようなものだったとしたら、それを追究するのは無粋というものだ。

 疑問は棚上げして、ケイを誘って帰ることは諦める。じゃあと思って誘おうとしたアリサも、何らかの用事があって学校に残るらしくて、私はこうして一人で帰っているわけだ。

 だから、普段は明るくて、サンダース特有とも言えるフレンドリーで賑やかなケイがいないから、物足りなさを覚えていたわけだ。

 寂しいというわけではない。断じて。

 

(・・・・・・ジムにでも、行くか)

 

 その物足りなさを払拭するように、このあとの予定を考える。いつまでも感傷に浸っているのは私の主義ではないし、疑問や物足りなさをいつまでも引きずっていては戦車道に支障をきたしかねない。

 校門を過ぎて敷地から出たところで、ポケットからチューインガムを1個取り出して口に放り込む。

 まずは寮に戻ってトレーニングウェアを用意する。ジムはそれからだ。

 角を曲がって歩く方向が変わり、先ほどまで私の右手に見えた太陽が今は正面に見える。その太陽も、1人で家路を行く私の気持ちを少しでも盛り上げようとしているように見えた、というのは些かロマンが過ぎるか。




年内の投稿はこれで終わりにしたいと思います。
次の話は年明け、三が日の後あとを予定しておりますので、
よろしくお願いします。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。
それでは、読んでくださった皆様、良いお年を。


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同じじゃない

あけましておめでとうございます。


『訓練終了!みんな、お疲れ様!』

「お疲れ様でしたー」

 

 相も変わらず元気そうな隊長の声がスピーカーから聞こえてきて、対照的に私を含めた戦車の乗員全員は疲労が具現化したかのような訓練終了の挨拶を告げる。

 何時間も戦車に乗り続けて、おまけに戦車隊の隊長として戦車の指揮をしていたにも拘わらずケイ隊長はピンピンしているようだ。だが隊長がタフなことは既に知っているから今更驚きはしない。なので『すごいな』程度に思い留めておく。

 ただ、同時に私は小さな不安を抱いていた。

 

「・・・・・・はぁ」

 

 3年生であるケイ隊長と、私と同じ副隊長ではあるものの3年生のナオミも、来年には卒業していなくなってしまう。

 そしてその次は、私がサンダースの戦車隊を率いなければならない。それが私の不安の原因だ。

 いずれ私が隊長になるであろうことは予想できていた。私は度々メンバーにいじられているとはいえ、隊内ではナンバー3の副隊長というかなり上の立場にいる。だから、その自分よりも上にいるナンバー1、2のケイ隊長と副隊長のナオミがいなくなると必然的に私がトップとなってしまうのだから。

 だが、それが元々分かっていたのと、プレッシャーを抱くかどうかというのはまた別の話だ。

 つまり私は、緊張しているのだ。

 何せ、100輌近い戦車と500人ほどいる隊員たちの上に自分が立ち、その全てを自分が束ねていかねばならないからだ。もちろん、正式に他に副隊長も任命してその副隊長と協力していくのだが、それでもトップに立つことによる重圧を考えないというのは無理だろう。

 そして、その『世代交代』が近づいているからか、最近私に対する隊長の指導が心なしか厳しくなってきているように感じている。ただ、こんな大所帯を率いるには生半可な気持ちではいられないのだし、厳しくなるのも当然だ。だがそのせいで、最近の訓練が終わった頃には大体グロッキーだ。

 

「お疲れみたいですね」

 

 そんな私の心情を見抜いてきたのか、1人の隊員が後ろから声をかけてきた。戦車帽の下から赤に近い茶髪が覗く、私と同い年ぐらいのその少女は私の戦車の装填手だ。

 

「疲れないわけないでしょ、メット」

「あはは、ですよねー」

 

 いつも戦車帽を被っているところを見るから、私は彼女のことを『メット』と呼んでいる。もちろん本名も知っているけど、彼女はそのニックネームがお気に入りらしい。嫌がるようなそぶりは見せていない。

 

「あんたは平気そうね・・・。同じ戦車に乗ってるのに」

「まー、私は装填に集中しているんで。家で鍛えてるっていうのもありますし、ちょっとやそっとじゃ疲れませんよ」

「それは頼もしいわねぇ」

 

 さばけた口調で話すメットだが、同じ戦車なのもありなんだかんだで私との交流は多い方だと思う。私の乗るM4A1シャーマンの清涼剤と言うようなポジションだ。

 そしてそんな彼女の課題は、コンマ一秒でも装填速度を上げるのが主だ。だから、課題をクリアするために鍛えているというのも頷ける。

 

「疲れたんなら、熱いシャワーを浴びて、美味しいご飯を食べればどうにかなりますよ」

 

 確かに、季節が秋になったとはいえ戦車の中はまだまだ蒸し暑い。タンクジャケットの中も少し汗ばんでしまっていたので、シャワーを浴びてさっぱりリフレッシュしたい気分だ。

 それと、戦車に乗っていると体力を要するし、それと昼時が近いので空腹感がどっと押し寄せてきているのも事実だ。ここはメットの言う通り、早くシャワーを浴びて、昼ご飯を食べて英気を養うとしよう。

 戦車を降りて、隊の皆と一緒に最寄りのシャワールームへと向かいながら、先の方を歩いているケイ隊長を見る。

 

(・・・・・・最近隊長、随分と元気ねぇ)

 

 今私の目に映るケイ隊長は、訓練での疲労を微塵も感じさせないように元気だ。

 元々、隊長はどれだけハードな訓練の後でもしんどそうに振る舞っていたことはない。それだけ体力があるからか、それとも隊員たちに自分の弱い姿を見せたくはないのか、それとも両方か。ついでに、冬場(特にクリスマス)でも水着同然の布面積の服を着ても風邪一つひかないぐらいタフであるので前者の可能性が大だ。

 しかしそれにしたって、ここ数日の間隊長の調子がいつにも増していいように感じる。訓練中の指示はいつもと同じく厳しくも仲間を気遣いそして鼓舞するようなものだった。だが、よく聞いてみれば指示の声は弾んでいるような気がしていたし、訓練終了時の号令はどこから嬉しさを含んでいるようにも聞こえた。

 

(私の思い過ごしかしら・・・?)

 

 次の隊長を任されたことで緊張し、神経過敏になってしまいっているのかもしれない。

 私はそう考えているのだが、今隊長の隣を歩くナオミはどう思っているのだろう。隊長の様子は普段と変わらないと思うか、それとも私と同じようにその小さな異変に気付いているのだろうか。

 疑問が頭の中で渦巻きながらも、私は他の仲間たちと一緒にシャワールームの方へと歩いていった。

 

 

 昼休み。授業が少し長引いてしまった英は出遅れて、『バルタザール』食堂の4人掛けのテーブルに1人で座り昼食を摂っていた。

 4人掛けのテーブルを使っているのは、見る限り2人掛けのテーブルが埋まってしまっていたからである。また、いつも一緒に昼食を摂る山河がいないのは、彼が所属する部活動の会合に行っているからである。購買で適当に昼食を買い、部室で食べながら話し合いをするそうだ。

 まあ、もうすぐサンダースの一大イベントの日が近いし、仕方ないのかもしれない。

 そんなわけで今日、英は1人でランチタイムを過ごしている。だがたまには1人で食べるのも悪くないとは思う。

 チーズバーガーを食べながら、お気に入りの曲の楽譜を見る。もちろん油で楽譜が汚れるという、端くれではあるがピアニストにあるまじき真似はしない。

 左手でチーズバーガーを持ち、右手で楽譜をめくる。この曲は何度も弾いたことがあるので所々暗譜できる箇所はあるのだが、今は最初から最後までの暗譜を目指している。別に人様に発表するわけでもないのでその必要はあまりないのだが、それでも英の心の根底にある『ピアノが好き』と言う気持ちが挑戦心を焚きつけて、さらに自分の技術を向上させようとしている。

 

(やっぱここだよなぁ)

 

 そう頭の中でぼやくのは、自分が楽譜を見ていないと間違えてしまう箇所だった。そこにはシャープペンで色々とメモが走り書きされている。やはりここを重心的に覚えなければ、全編暗譜は無理だろう。

 と、そこでいつものように食堂の入口辺りがにわかに盛り上がる。

 

(ケイたちか)

 

 英は一瞥もせずに状況を理解する。

 ケイが英のピアノを初めて聴いてから数日が経過するが、英とケイの関係は全くと言っていいほど変わっていない。『最近できた仲のいい友達』の様な感じだし、ケイも多分そう思っているのだろう。

 英はより親密な関係になりたいと強く願っているわけではないので、今の関係を嘆いてなどいないし、今より先の関係もを渇望したりもしていなかった。

 だから、今のようにケイが食堂に来たところで『一緒に食べよう』と誘いはしない。相手はサンダースの人気者であり、他の誰かと約束をしていたなんてことになったら誘った自分が恥ずかしくなる。そしてそれ以前に、男が女に同席を誘うと何かしらあるのではないかと勘繰られやすい。相手が相手ならなおさらだ。

 だから英も、ケイに声をかけるというリスキーな行為は―――

 

「ヘイ、影輔!」

 

 ―――しないつもりだったのに、ケイの方から声をかけてくるというのは完全な予想外だった。まさか、この広い食堂で別に目立った顔立ちでもない英を見つけるとは思わなかったからだ。

 声のした方を見れば、そこにはやはりケイがいた。手には、チーズバーガーとフレンチフライ、そしてコーラのプラスチックカップを載せたトレーを持っている。

 そのケイの両隣にはナオミとアリサがいるが、ケイが突然英に声をかけたことで、少しばかり驚いたような目でケイを見ている。彼女たちの手にはフライドチキンとフレンチフライ、そして同じくコーラの入ったプラスチックカップの載ったトレーがある。

 ケイが突然男の名前を呼んだので周りの生徒は不思議そうな目でケイを見るが、すぐに自分たちの食事に戻る。ケイがフレンドリーなのは周知の事実なので、例えケイが聞いたことのない男の名前を呼んだとしても、どこかで仲良くなったんだなとしか思わないのだ。

 アリサとナオミが驚いているのは、ケイが急に2人の知らない男の名前を呼んで面食らったからだ。

 

「一緒してもいい?」

 

 ケイが英の傍までやってきて、空いているテーブル席を指す。ここで『嫌だ』と言える輩は恐らくいないだろう。

 

「ああ、構わない」

 

 そう言いながら英は、広げていた楽譜を閉じて椅子の脇に置く。そしてケイは、英の前にトレーを置いて正面の椅子に座った。そして英の後ろを『邪魔するよ』と言いながらナオミが通り、英の隣に座る。アリサはケイの隣、ナオミの正面に座った。

 

「まさか、ケイから声をかけられるとは思わなかった」

「たまたま見かけたのと、席が空いてるのを見て、どうせならって」

「ああ、授業が長引いて2人掛けのテーブルが埋まってな。それで仕方なく」

「そういうことね」

 

 英はそこで、自分がまだナオミとアリサの2人に対して名乗っていないことに気付く。英が2人を噂だけでも知っていても、2人は英のことなど知らないのだから。

 今その2人は、英のことを目に見えるほど疑わしい目で見てはいないが、それでも英のことを観察するように目を向けている。その視線には流石に耐えられないので、遅ればせながらでも自己紹介をすることにした。

 

「すみません、自己紹介が遅れました。自分は英、3年生です」

 

 普段、英は初対面の同年代の人物と話す場合は大体タメ口になりがちだった。だが、ケイの時と同じように、ナオミは同じ3年生、アリサは2年生で年下でも、相手の立場を鑑みて敬語で話すことにした。

 自己紹介をしたことで警戒心が薄れたのか、ナオミがふっと小さく笑う。アリサも一度英から視線を逸らして小さく息を吐く。知らない人物を前にして多少なりとも緊張していたのかもしれない。

 

「ありがとう。私はナオミ、サンダース戦車隊の副隊長だ」

「同じく、副隊長のアリサ。一応よろしく」

 

 ナオミは右手を英に差し出して握手をしたのに対し、アリサは言葉だけでの挨拶だった。この辺りは性格の違いだろう。サンダースにいる者は全員が全員フレンドリーと言うわけでもない。

 そして改めて、今このテーブルにサンダースの看板とも言える戦車隊のトップ3がいると思うと気後れするし、そんなところに自分がいるのは場違いじゃないかと英は思った。抱く緊張の度合いは、職員室で生徒が自分1人だけという状況といい勝負になりそうだ。

 

「同じ3年生なら、変に畏まらなくていいさ」

 

 微妙に熱っぽい目を英に向けてそう告げるナオミ。その男性的な口調、風貌、仕草、さらには嫌みったらしくない気障な性格も相まって、女子に人気なのも頷ける。

 

「じゃあ、改めてよろしく。ナオミ」

「ああ」

 

 そこでナオミが、英の椅子の脇に立てかけてある楽譜を見る。

 

「さっきまで読んでいたそれは楽譜か?」

「ああ」

「・・・英は、楽器が弾けるのか」

「ピアノをね」

 

 ピアノと聞いて、アリサが『へぇ、ピアノを。ふーん・・・』と意外なものを見る目で英のことを見る。確かに、男がピアノを弾くというのもあまり主流とは言えない。男性のピアニストだって世には多くいるのだが、ピアノ=女性的なイメージがあるのは否めなかった。

 

「影輔、ホントにピアノが上手なのよ。聴いてるこっちが楽しくなるぐらい」

「そんなにか?」

「そうよ。影輔だって楽しそうに弾いてるじゃない」

「いやー・・・弾いてる最中は分かんないな」

 

 軽い調子で英とケイが話をしていると、アリサがストローを咥えながら2人のことを見てくる。

 

「隊長、随分と仲が良いですねぇ。どこで知り合ったんです?」

 

 アリサの問いかけに、ケイはほんのわずかに英の方を見る。『会ったきっかけを話していいか』ということだろう。

 ケイは、英がなぜ音楽系の部活に入らず『ハイランダー』棟の音楽室で1人でピアノを弾いているのか、その理由を知っている。

 だから、理由までは話さずとも、その場所を言っても平気かという確認の意図を込めた視線なのだと、英は気付く。それに英は頷いて『大丈夫』と伝えて、ケイはそれでアリサとナオミに教える踏ん切りがついた。

 

「たまたま『ハイランダー』の音楽室の前を通りかかってね。それですごくピアノが上手だったから聴き入っちゃって、それがきっかけかな」

 

 そう言えば英は、ケイがなぜあの時あの場所にいたのかをまだ聞いていなかった。だが、その理由は明確が目的があったからではなくて全くの偶然と言うのが、面白くもあり恐ろしくも感じる。

 

「そんなに上手いのか?」

 

 ナオミがケイの話を聞いて少し興味が湧いたのか、英の方を見る。『上手いのか』と聞かれて『上手いよ』と自分で言えるのは相当度胸のある人だと英は思うが、残念なことに英の度胸は並程度だ。

 

「いやぁ・・・自分じゃよく分からんが・・・ケイが上手いって言うぐらいには」

「まあ、私は確かにピアノなんて全く弾いたことない素人だけど、それでも影輔のピアノはすごい上手いっていうのだけは伝わってきたわ」

「ほう」

 

 聞けば、ナオミはよくイヤホンで音楽を聴いているらしい。だから音楽には割と興味があるようだ。英のピアノについても、ケイの話を聞いて気になってきたようだ。

 そこで、アリサが。

 

「・・・・・・まさか、最近隊長が元気なのはそれが理由ですか?」

「え?」

 

 アリサの問いに、ケイはキョトンとした表情を浮かべる。自覚がなかったようなので、アリサは改めて説明することにした。

 

「最近の隊長、訓練中とか終わった時の号令とか、元気そうな声をしていたから」

「そんな声だった?」

「ああ、それは私も思ったな」

 

 ナオミがアリサに賛成する。そこでアリサは心の中で、『ナオミも気づいていたのか』と心の中でホッとする。神経過敏になっていた自分の勘違いではなかったことに安心したのだ。

 

「何かいいことでもあったのかな、と思ったんです。その原因は、彼のピアノですか」

 

 アリサがチラッと英の方を見る。

 英は、まさか、と思っていた。確かにケイは英のピアノを聴いて楽しんでいる風ではあったが、まさか戦車道の訓練にもわずかではあるが影響を与えているとまでは思っていなかった。

 

「あー、でも確かに、影輔の曲って聞いてて楽しくなるし、元気になれるから。だからかな?」

 

 笑みを向けられて英は恥ずかしくなり、コーラを勢いよく啜って逃げる。その反応を見て、アリサとナオミが英の方を見てニヤッと笑っているのに英は気付いたが、気にしない。だがこれ以上この状況のままなのもきついので、話を逸らすことにした。

 

「・・・ところで、3人とも戦車道ではすごい人だって噂で聞いた」

「すごいって?」

 

 ケイが英の言葉に耳を傾ける横で、ナオミが『露骨に話を逸らしたな』とポツリと呟いたのが聞こえたが、英は聞こえないふりをする。

 

「ケイは大隊指揮のプロフェッショナル、ナオミは全国屈指の砲手、アリサはサンダース一の参謀。そう聞いてる」

 

 そう聞いて、ケイは『それほどでも』とニッと笑う。アリサは少し恥ずかしかったのか、目を逸らして何も言わずにちびちびとコーラを啜る。ナオミは『それほどでもないさ』と言いながらも微かに得意げな笑みを浮かべてフレンチフライを1本食べる。

 

「俺は戦車には乗れないけど、ウチの学校が強いっていうのは知ってる」

「そうね。黒森峰、プラウダ、聖グロリアーナ、そしてこのサンダースが戦車道4強校と言われているぐらいには強いわ」

 

 英は男なので、まず戦車には乗れない。そして家族に戦車乗りがいるわけでもなく、サンダースの知り合いで戦車に乗っている女子もそこまでいなかったので、サンダースの戦車道は『強い』ということしか知らなかった。

 だがケイと知り合ったことで、サンダースの戦車道についても少しだけパソコンで調べてみたのだ。専門用語がよく使われていたので全部を理解するのは難しかったが、それでも『強い』ということだけは分かった。

 そしてケイの言ったように、このサンダースが高校戦車道四強校の一角であるということも、調べて分かったのだ。

 

「・・・その四強校も、変わるかもしれないと言われているがな」

「どういうこと?」

 

 神妙な面持ちでナオミが告げた言い回しが、英は少し気になった。その言葉には思うところがあったのか、アリサもコーラを飲むのを止め、ケイも笑みを引っ込める。

 

「今年の全国大会の話なんだけど・・・私たちが1回戦で負けたのは、聞いた?」

「ああ、それは聞いたことがある」

 

 その話は全国大会の期間中に聞いた話だった。その話題を実際に口にしたのではなく、風の便りに聞いたことだ。その時は、そんなこともあるよなとだけ思っていた。

 

「あの時私たちサンダースが戦った大洗女子学園っていう学校が、今年の全国大会で優勝したの。そしてこの前の夏休みでも、大学選抜チームと戦って勝利した。それで今、高校戦車道のパワーバランスが変わり始めているのよ」

 

 ケイの言葉に英は頷くが、全てを理解したとは言い切れない。サンダースの戦車道は少し調べた程度で、やはりまだ戦車道の世界には疎いからだ。

 

「つまり、戦車道四強校が五強校に変わるか、今の四強校のどこかが大洗と変わるかってことよ」

 

 そんな英を見かねてなのか、アリサが手っ取り早く結論を告げる。それでようやく英も、どういうことなのかを理解した。

 だがそれと同時に、ナオミの神妙そうな面持ちの理由にも気づいた。

 

「それじゃ、つまり・・・」

「ああ。このサンダースが、その四強校から外れる可能性もゼロではない、ということさ」

 

 深刻な表情でナオミがそう告げる。

 確かにサンダースは、未だ戦車道の全国大会で優勝したことはなく、準優勝がいっぱいいっぱいだった。それは同じ四強校の一角である聖グロリアーナもそうだが、聖グロリアーナはその今年優勝した大洗女子学園に未だ負けたことがないという。残りのプラウダと黒森峰の強さは、優勝した経験がある以上相当のものだというのが簡単に想像できる。

 とすると、もしこのまま“四強校のまま”だとすれば、サンダースがそこから外れてしまう可能性だってナオミの言う通りゼロではないのだ。

 

「でもそうならないために、私たちは次の世代を育てているのよ」

 

 そう言いながら、ケイは隣に座るアリサの肩を優しく叩く。

 それを受けてアリサも、小さく笑う。そして同時に、この先のサンダースを率いるという強い意志を籠めた目をケイに向けた。

 アリサは先ほどまで訓練に疲れたとか厳しいとか思っていたのだが、一度だってもう嫌だと思ったことはない。それはケイがサンダースの今後のことを考えてのことだというのは分かっているし、それだけケイがアリサに期待しているということだと思っている。

 そして何より、アリサだってサンダースの戦車隊が好きだから、その指導には反発せずに従い、次の世代のサンダースを率いることができるように研鑽を重ねているのだ、

 

「これからのサンダースはアリサの肩にかかってるんだから、期待してるわよ!」

「・・・イエス、マム」

 

 ケイがサムズアップすると、アリサがくすっと笑いコーラを飲む。そのアリサの正面でフライドチキンを齧ったナオミが一言。

 

「隊長になって活躍できれば、タカシも振り返ってくれるんじゃないか」

 

 ゴボッとアリサの飲んでいたコーラが泡立つ。ケイが苦笑してアリサの肩をポンポン叩いていて、英は状況が上手く呑み込めない。

 なので、英はナオミに聞いてみた。

 

「タカシって?」

「ああ。実はアリサには、好きな―――」

「はぁいナオミぃ?今日は私とぉっても気分が良いからフライドチキンを1つプレゼントするわよぉだからその口閉じて!」

 

 何かを言いかけたナオミの皿に、アリサの皿に載っていたフライドチキンが1つ追加される。ついでにアリサは、英に向けてびしっと人差し指を向ける。

 

「あんたも今聞いた事は忘れなさい!」

「あ、はい」

 

 ナオミは『まあそう言うことだ』とだけ英に告げて、アリサからプレゼントされたフライドチキンを食べる。アリサはどかっと椅子に座りなおしてフレンチフライをがつがつと食べ始めて、ケイは口元を抑えて笑いをこらえていた。

 どうやら、乙女の触れてはいけないような問題だったらしいので、英もこれ以上野暮な聞き取りをするのはやめておく。

 しかし、と英は思う。

 ナオミとアリサ、そして英は今日知り合ったばかりである。それでもこうして打ち解けることができたのも、フランクな生徒の多いサンダースだからだろう。

 それと、英が既にケイと仲が良かったという要因もある。だからこうして、ケイと仲が良いアリサ、ナオミと仲良くなれたのかもしれない。

 ケイのおかげだ、と思い英は小さく笑ってチーズバーガーを一口食べた。

 

 

 その日も、英は『ハイランダー』棟の音楽室でピアノを弾いている。そのピアノに一番近い位置にある机には、今日もケイが座っていた。彼女は頬杖を突きながら目を閉じて、英の演奏する曲を静かに聴いている。

 今英の弾いている曲は、昨日までの現代的なジャズやアニソンなどとは違って、『サッキヤルヴェン・ポルカ』と言うフィンランドの民謡だ。曲調は少し暗めで悲しい雰囲気がするのだが、中盤からは盛り上がりを見せる曲だ。こういったしんみりとした曲もどうだろうと思って弾いてみたのだが、ケイの反応を見る限りは良好かと思った。

 なぜこの曲を知っているのかと言うと、前にテレビで民謡を紹介する番組でこの曲が出てきて、1度聴いて英が『これいい曲だな』と思ったから楽譜を探して取り寄せたのだ。

 さて、曲自体はラストスパートに突入し、一番盛り上がる部分に入る。これも何度か聞いた曲なので間違えはしないだろうが、弾き間違えると示しがつかないしカッコ悪すぎるので、細心の注意を払って弾いていく。

 そして、最後の小節まで間違えることはなく弾いていき、無事に曲を終えることができた。

 

「・・・・・・いい曲だったわね・・・」

 

 静かに拍手をするケイ。これまで有名なバンドの曲やBGMを聴いた後は、大きな拍手で曲と英を称え溌剌とした声で賛辞の言葉をかけてくれた。

 だが今ケイは、落ち着いた曲だったからからか、小さな拍手と落ち着いた声で感想を示してくれた。このように曲に合わせて感想の表現の仕方を変えてくれるのは英も見習ところがあるなと思ったし、嬉しくも思う。

 

「これ、何て言う曲?」

「『サッキヤルヴェン・ポルカ』っていう、フィンランドの民謡だ。ポルカってダンス曲を聴いて失われた故郷に思いを馳せるっていう、ちょっと悲しい曲・・・・・・嫌だった?」

 

 昨日まで明るい感じの曲を弾いていたので、先ほどみたいな曲はあまり好きではないかと心配したが、ケイは笑って首を横に振ってくれた。

 

「全然、むしろこういう曲も良いなって思ったわ」

「・・・それはよかった」

 

 気に入ってくれたようで一安心し、楽譜を閉じてトートバッグに仕舞う。その途中でケイが何かに納得したかのようにうんうんと頷きながら口にする。

 

「そっかそっか。ミカが弾いてるのってこの曲だったのね」

「ミカ?」

 

 思わず聞いてしまう英。ミカと名乗る人物はこのサンダースでは聞いたことがない。英が知らないだけで、ケイとは交流があるのかもしれないが。

 

「継続高校の戦車隊の隊長よ。なんかいっつも哲学的な小難しいこと話すんだけど、指揮能力はずば抜けてるの。ただ、いい戦車があまり揃って無くて強いイメージがないんだけど・・・」

「へぇ・・・」

「そのミカは、いつも楽器を弾いてるのよ。確か、カンテレっていうフィンランドの楽器を」

 

 そのミカと言う人物が弾いているのが、先ほど英の弾いた『サッキヤルヴェン・ポルカ』らしい。

 

「継続高校って、確かフィンランドに縁のある学校だっけ?」

「ええ、そうよ。その戦車もフィンランドとソ連製の戦車が多いわ」

 

 継続高校は、全国でもトップレベルに自然が豊かな学園艦で、その構造を生かして動植物の生態系の観察や繁殖・保護・研究を行っている。あの継続高校学園艦そのものが、巨大な自然研究施設と言っても過言ではないような場所だ。ニュースでもよく話題に上がる学校で、そこから英は継続高校がフィンランドと関係がある場所だということは知った。

 だからミカと言う人(恐らく女性)も、フィンランドの楽器を持っていたり、フィンランドの曲を知っているのだろう。

 

「じゃあ、次の曲行くぞ」

「OK!お願いね」

 

 今日持ってきた曲には、何曲か民謡が混じっている。

 民謡とは、その国や地域に住む人の思想や、国柄などが反映されているものが多い。それを歌詞や曲調から推察するのも民謡の楽しみ方の1つだ。

 さらに、純粋に聴いていて楽しくなる曲だって多くある。先ほど弾いた『サッキヤルヴェン・ポルカ』だって、最初は静かで悲しいようなメロディだが、中盤を過ぎたあたりから盛り上がるようになっている。そんな感じの曲をいくつか今日は持ってきたのだ。

 そして、今から弾こうとする曲も明るめの曲だ。

 

「・・・・・・よし」

 

 この曲は最初から明るめの曲調で始まる。世界最古のコマーシャルソングとも言われていて、日本でも多くのCMやレジャー施設のBGMなどで使われている。

 出だしのフレーズでケイもどんな曲なのか気付いたらしく、『おっ』と口を小さく開けていた。

 曲の方だが、最初に盛り上がりを見せてから、嵐の前の静けさとばかりに少し落ち着いた雰囲気になる。

 そして、徐々に曲調が明るくなっていき、また最初のように盛り上がっていく。

 それを繰り返していき、最後は曲全体の明るさを保ったまま、曲は終わりだ。

 

「すっごい聞いたことがある!この曲!」

 

 曲が終わって拍手をしながら、ケイが目を輝かせて言ってくる。自分の知っている曲だったから嬉しかったのかもしれない。

 ケイの言う通り、この曲を聞いたことがあるという人は多くいるかもしれないが、曲の名前はあまり知られてはいないらしい。

 

「『フニクリ・フニクラ』っていう民謡・・・もとい大衆歌謡だ」

「へぇ~・・・そんな名前だったんだ」

「もとはイタリアのケーブルカーの宣伝ソングらしいけどな」

 

 こうして曲を探していると、自然とその曲の出自を知ることができる。全ての曲でそうだというわけではなくて、自分が興味を持った曲だけなのだが。

 

「アンチョビもよく口ずさんでいたわね~」

「あ、アンチョビ?」

 

 アンチョビとは、イタリアの食材の名前だったと英は記憶しているが、まさかそんな名前の人物がいるわけではあるまい。

 

「ああ、アンチョビはアンツィオ高校の戦車隊の隊長で、本名が“安斎千代美”。皆からは“アンチョビ”とか“ドゥーチェ”って呼ばれてるの」

「要はニックネームってこと?」

「そうね。でも、アンツィオの衰退していた戦車隊を再興させて、隊の皆を統率できて、それに皆から慕われてるぐらい人望が厚いわ」

 

 皆から慕われているという点ではケイに通じるところがあるなと、英は思った。そして他の学校の隊長のことを知っているあたり、他の学校ともパイプがあるらしい。

 

「仲が良いのか、他の学校の人とも」

「そうね。試合をした後でよく話をすることはあるから。アドレス持ってる人も何人かいるし、交友関係は広いに越したことはないからね」

 

 他の学校の隊長とのパイプを築くというのは、いざという時心強いだろうが、それは恐らくその人柄がよくなければできない芸当だろう。その人が信頼に足る人物でなければ、相手に取り入って情報を抜き取ろうとしている、と疑われるかもしれないからだ。

 だが、その疑念を植え付けないのがケイの魅力だと思う。

 フェアプレーを重んじている真っ当な人間だからこそ、小賢しい手を使わないからこそ、ケイがフレンドリーな性格だからこそ、相手も信用して話をしてくれるのだろう。そして繋がりを持つことができるに違いない。

 

「・・・・・・ああ、そう言えばさ」

「?」

 

 他の学校の隊長とも面識があるという話と、昼のナオミたちとの会話で、英は1つ思うことがあった。

 

「夏休みの終わりの、大洗女子学園と大学選抜チームの試合に、ケイたちが出たって聞いたけど」

「うん、参加したわよ」

「やっぱりそれは、大洗を助けるために?」

「もちろんよ」

 

 今日の昼休みのナオミたちとの話でもチラッと出てきた、大洗女子学園と大学選抜チームとの試合。それは大洗女子学園の廃校をかけたものだということは、夏休み後のネットのニュースでちらっと見たものだ。

 この試合には、サンダースの他にも聖グロリアーナやプラウダ、黒森峰などの強豪校が大洗の増援として参加したという。そして最終的に大洗が勝利して、廃校は完全に撤回されたという話だ。

 そして、航空科に所属している英の友人から、サンダース最大の輸送機・スーパーギャラクシーを使って大洗の戦車をサンダースに運び一時的に匿ったという話も聞いている。

 つまりサンダースは、大洗女子学園を廃校から守るために他よりも一枚噛んでいるということになる。そしてそれは恐らく、大洗と実際に戦ったことのあるサンダース戦車隊のケイが主導したのだろう。

 

「よく、大洗を助けようと思ったな」

 

 ケイがそういう人間だということは既に知れている。だからこそこの言葉は、分かり切ったことを聞くかのような言葉だった。

 けれどケイは、そこで先ほどまで浮かべていた笑みから、真剣な表情へと変わる。

 

「・・・後悔、したくなかったのよ」

「?」

 

 あの明朗快活なケイにしては、いつになく落ち着いた言葉に英も意識を向けざるを得なくなる。

 

「私たちの学校は知っての通り、戦車も設備も揃ってて・・・ぶっちゃけ資金が豊富よね?」

「ああ、まあそうだな」

 

 戦車の保有数が国内一ということはこの学校の入学案内でも聞いたし、今でもそれを売りにしているので、戦車に乗っていなくてもそれは知っていた。設備面についてはこの学園艦で3年も暮らしていれば嫌でも実感させられる。

 

「大洗を助ける力が、私たちにはあったのよ。流石に廃校を完全に撤回させるほどの力まではないけど、その手助けをすることぐらいはできたの」

 

 その『手助け』こそが、一時的な大洗の戦車の隠蔽、一部パーツの交換、そして大学選抜チームとの試合への参戦か。

 

「その力を持っているからこそ、私たちが力を貸せる場面に立っていても何もできなかったって後悔するのが、嫌だったのよ」

「・・・・・・」

「要するに、私がただ大洗の皆を助けたかっただけなのよ。サンダースのみんなを巻き込んじゃったけど」

 

 大洗を助ける力があったからこそ、その力を発揮できずに何もできないまま、大洗が廃校になるのをみすみす黙って見ていることができなかった。そしてそんな後悔をしたくなかったから、例え文部科学省に目をつけられるようなリスクを負ってでも、大洗に力を貸したのだ。

 そう思ったうえで実際に行動に移すことができる思い切りの良さと行動力も、彼女の持ち味なのではないかと、英は思った。

 

「ただ助けたかったから・・・・・・っていうところは、影輔と似てるかもしれないわね」

「?どうして」

「自分がそうしたかったから、って理由で行動に出たのが同じかなって私は思うわ」

 

 ケイが少し笑って英のことを見る。だが、英はそのケイの言葉には素直に頷くことができなかった。

 

「・・・・・・俺は、同じじゃないと思う」

「え・・・・・・?」

 

 同意が得られると思っていたのか、ケイが意表を突かれたとばかりに呆けたような表情を浮かべる。それでも英は、ケイの表情の変化に気付いても言わせてほしい言葉があった。

 

「確かに俺も『自由にピアノを弾きたい』って理由で教わるのに反発して、自分で自分のためにピアノを弾いてる。ケイも『大洗を助けたい』って理由で、力を貸した。自分がそうしたかったからっていう点では、俺もケイも同じだと思う」

「・・・・・・・・・」

「けど、ケイの『大洗を助けたい』っていう考えは、結果的に大洗のみんなを助けたことに繋がった。つまりそれは大洗のみんなのため、自分以外の誰かのために動いたってことだ。自分のためだけに動いた俺とは違う」

 

 ケイの表情が疑問と驚きの入り混じった表情となってしまっている。

 もしかして、責めていると勘違いさせてしまったのかもしれない。そう思った英はどうにかフォローして、(誤解だが)責めているという誤解を解こうとした。

 

「ケイは俺のことを立派なピアニストだって言ってくれたけど、ケイだって十分立派だ。誰かのためにって決意してそれを行動に移せることが、俺からすればすごいこと、素晴らしいことだって思う」

 

 そこまで言って、英がケイのことを見る。が、ケイはなぜか俯いてしまっていて、ドジを踏んでしまったかと不安になる。

 少しの沈黙を挟んで、ケイは『あはは・・・』と小さく笑いながら、英と目を合わせないように横を向いて頬を掻く。

 

「ゴメンゴメン、そんなこと言われたことが無かったから・・・ビックリしちゃった。ありがとね」

「・・・そうか。悪い、変な話させて」

 

 元はと言えばこの話を引き出したのは英なのだから、それは謝っておく。ケイはそれに『大丈夫よ~・・・』と言いながら手を振って気にしていない風を見せてくれた。顔を合わせてくれなかったのが少し気がかりだったが。

 

「じゃあ・・・・・・次の曲、いくぞ」

「ええ、お願い」

 

 

 

 5時を告げる鐘が鳴り、英のピアノも今日で終わりだ。いつものように後片付けをして音楽室の鍵を閉め、そして職員室に鍵を返却し、帰路に就く。

 ケイが英と知り合ってから今日に至るまで、英とケイは一緒に途中まで下校していた。もちろん黙ったままではなくて授業のこととか戦車のこととか、軽い雑談を交えながらだ。

 だが今日は、なぜかケイの口数が少ない。昨日まではケイが積極的に話しかけてきて話が盛り上がったのに、なぜか今日はあまり話そうとはしない。気まずさに耐えかねて英が話題を振っても生返事を返すだけだ。

 ますますもって、英の中の『責めていると誤解させてしまったか』という疑念が増幅していく。だが、触らぬ神に祟りなしという言葉のように、あまり多くを聞くのはよしておく事にした。

 そして夕日が学園艦を照らす中で、結局会話らしい会話もあまりせず、いつも別れる十字路に着いてしまった。英は、ここまで大人しくなったケイは見たことがないので、この異変が気がかりだったのだが、これ以上何かをするのは駄目だと英の勘が叫んでいたので、追究はしないと決めた。

 そこで英は、別れの挨拶を告げようと思ったのだが、その前にケイが話しかけてきた。

 

「・・・ねえ、影輔」

「ん?」

「明日もまた・・・ピアノ弾く?」

「ああ、空いていればな」

 

 ケイと知り合った日から毎日ピアノは弾いているし、ケイも毎日聴きに来ている。そしていつも、こうして別れる前には次の日のことを聞いてきてくれていた。

 だが、今日の確認はなぜか昨日までとは違うように感じた。わずかながらに不安が入り混じったかのような聞き方と、何かに縋るような瞳。頬がわずかに紅く染まっているように見えたのは、夕日のせいだろうか。

 

「・・・そっか。じゃあまた明日も、聴きに行っていい?」

「ああ、もちろん」

 

 そう答えると、ケイは少し安心したような笑みを浮かべる。

 

「あなたのピアノ・・・本当に素敵だから。また何度も聴きたいって思うの」

「・・・・・・・・・」

「だから、また明日もお願いね」

 

 そう言ってケイは『グッナイ』と優しい口調で告げて手を振り、寮の方へと戻っていった。

 一方で英は、別れ際にケイから告げられた言葉を頭の中で反復していた。

 素敵と言われたこと、また何度も聴きたいと言われたこと。

 それは紛れもなくつい先ほど経験した現実であり、夢ではない。

 だがそれでも、先ほどのケイの別れ際の表情と言葉が、普段の明るいイメージの彼女と微妙に乖離している気がしてならなかった。

 明瞭な答えが見つからないまま、英は自分の寮へと戻っていった。

 

 

 十字路で英と別れてから、ケイはずんずんと自分の寮へと向かっていた。普段はこうして勇み足の早歩きで帰宅したりはしないのだが、そうさせているのは先ほど音楽室で英から言われた言葉である。

 

『ケイだって十分立派だ。誰かのためにって決意してそれを行動に移せることが、俺からすればすごいこと、素晴らしいことだって思う』

 

 これまでケイは、サンダースを率いる隊長として、皆から『すごい』とか『カッコいい』とか『素晴らしい』とか、そんな感じの言葉を幾度となく受けてきた。それが鬱陶しかったということは決してなく、自分のことを評価してくれている点が、ケイにとっては嬉しかった。

 だが、今日英から受けた先の言葉は、これまでに自分が受けたどの賛辞の言葉とも違うと思ったし、それでいてなおかつ心を揺るがすような言葉だった。そして何より、温かい気持ちになれる言葉だった。

 

(なんで、こんな・・・・・・・・・?)

 

 どれだけ考えても、どうしてこんな気持ちになってしまうのかが分からない。

 そしてその言葉を聞いてから、英に顔を合わせるのが難しくなってしまった。英の顔を見るとなぜか恥ずかしいという気持ちが湧いて出てきて、目線を合わせることができなくなってしまった。

 だから、あの話をした後は英のピアノの演奏に耳を傾けながらも英の方は見ないで、そして帰り道でも極力英の顔を見ないようにしていた。

 

(でも・・・・・・)

 

 そこまで思ってなお、ケイの気持ちは悪い方向に傾いてはいない。

 

(全然・・・・・・・・・嫌じゃないのよね・・・・・・・・・)

 

 自分でもそうだということは分かっている。

 英のことが嫌いなわけではないのだ。嫌いじゃないからこそ、明日もまた英のピアノが聴きたいと思って明日の事を聞いて、自分が英のピアノに対して思っている気持ちを素直に伝えた。もし本当に英のことが嫌いなら、もう明日からピアノを聴きに行ったりはしないだろう。

 しかしそれでも、英の顔を直視することが難しくなってしまったし、いざ英と顔を合わせると顔が熱くなってしまう。

 なぜこんな気持ちになるのか、自分がどうしてこうなるのか分からないまま、ケイは家路を急いだ。




あけましておめでとうございます(2回目)
今年も読者の皆様のご期待に添えられるような作品を書くことができるように精進してまいります。


劇場版でウサギさんチームがタカシのことを知っていたのはナオミが教えた説、
割と気に入っています。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。

それでは今年も、どうぞよろしくお願いいたします。


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そんな関係じゃない

 サンダース大学付属高校の学生寮は2種類存在する。

 その内の1つが、アパートメントハウス型―――他の学校でも見られる集合住宅型の寮だ。アパートメントと聞くと少々狭苦しい印象を抱くかもしれないが、やはりここはサンダースで、一部屋当たりの面積が割と広い。他の学園艦の同じタイプの学生寮と比べても広く感じられる。

 その寮の一室で、英は楽譜が多く並べられた棚の前でいくつかの楽譜を探していた。英は漫画や小説などの書籍用の棚と、楽譜用の棚の2つを部屋に置いている。どちらの棚にも、本はぎっしり詰まっていた。

 今探している楽譜は、明日もまた音楽室に聴きに来るケイのためのものだ。今日は楽しげな民謡を中心に弾いたが、彼女の人となりを考えてみればやはりアップテンポの曲や、サビが盛り上がる曲がいいだろう。そんなことを考えながら、楽譜をいくつか見繕っていく。

 

「これとかいいな・・・」

 

 イギリスの有名なジャズバンドの楽譜を引き抜いて、中をパラパラとめくって曲調を確かめる。中々悪くないと思ったので、これも明日持って行くことにしよう。

 そして他の曲を探そうとしたところで、動きを止める。

 

(そう言えば、初めてだな・・・・・・・・・)

 

 初めてと言うのは、英が誰かのためにピアノを弾くことが、だ。

 これまで英は、音楽室で弾くときは自分が弾いていて楽しい曲を、自分のために弾いてきた。クリスをはじめ友人から1曲弾いてほしいと頼まれることもあったが、それは単に頼まれたからである。英自身頼まれたら断れない性分であり、頼まれて悪い気もしないので引き受けている身である。だがそれは、誰かのためとは少し違うと英は思っていた。

 だが今は、明確にケイのために楽譜を選んでいて、ケイと知り合ってからは彼女のために弾いているような感じがしている。

 そしてそれが決して嫌なわけではないし、むしろ楽しいと思えていた。

 

(・・・・・・どうしてかな)

 

 英がケイと知り合ってからまだ1週間も経っていないのだが、もう旧知の仲のような間柄になっている。すぐに打ち解けることができるのもまた、彼女の持つ魅力と言うものなのだろう。

 そして、英のピアノを聴いて、ケイが喜んでいる姿を思い出すと、どうしてだか心が温かくなれる。温かい気持ちを抱くことができる。

 英のことを『プロのように立派なピアニスト』だと認めてくれたことを思い出すと、嬉しさが込み上げてくる。

 最初は、下手の横好きだった英のピアノを『最高にクール』と言ってくれたことが嬉しかったから、だと思っていたのだが、今はそれだけではないということが分かる。

 だが、それがなぜなのかはまだ英には分からなかった。

 分からなかったのだが、不快な気持ちはこれっぽちも無い。けれどこの気持ちの正体は未だつかめていない。

 それが分からないまま、英の夜は更けていく。

 

 

 翌日の放課後、いつものように英が『ハイランダー』棟の職員室へ音楽室の鍵を借りに行ったら。

 

「ああ・・・すまない。さっき別の人に貸したんだった」

「・・・そうですか」

 

 いつも鍵を借りている先生からそう告げられて、英も心の中で落ち込む。ホームルームが終わってすぐに来たのにもう先客がいたということは、その生徒は恐らくこの『ハイランダー』棟の者だろう。ただ、こう言ったことは前に何度もあったので露骨に落ち込んだりはしない。

 本来なら、音楽室が使えないと分かれば学校に長居せずさっさと帰る。だが、昨日ケイには『今日もまた弾く』と言ってしまったのでこのまま帰るわけにはいかなかった。

 急ぎ足で英が音楽室へ向かうと、既にケイが待っていた。だが、腕を組んで少し複雑そうな表情を浮かべている。既に音楽室の中に先客がいるのを見たらしい。

 

「すまん、ケイ」

「影輔、これどういうこと?」

「先に借りてる人がいたんだよ」

 

 ケイが親指で音楽室の中を指して、英がドアの小窓から中を覗き見る。男女数名のグループが屯って机を囲みトランプで遊んでいる。見るからに部活でも同好会でもない、友人程度の付き合いのグループだ。

 大体英が知ってる先客とは、他に楽器が演奏できる人が自主練で使うときや、他の音楽系活動、そして今音楽室の中にいるような特に何でもないような友人グループだ。前2つはともかく、ただの友人グループには遊び場所にするぐらいなら他の教室に行ってくれと切に思う。恐らくは、普段屯う場所が使えないから仕方なく来たと言ったところか。ただ、英も正式に部活動に所属しているわけではなく趣味で弾いているので、他人のことは言えないのだが。

 

「こういう時ってどうするの?」

 

 ケイが英に問いかける。

 だが、その問いが英には、なぜか一抹の不安が混じっているように聞こえてしまった。それは恐らく、英のピアノを楽しみにしていたからだろうというのが、なんとなくではあるが英には分かった。だからこそ、これから英がどうするのかを伝えるのが心苦しかった。

 

「・・・今日はもう帰るしかない。追い払うわけにもいかないし、時間まで動かないだろうから」

 

 探せば空いている音楽室もあるかもしれないが、他の教室も誰かに使われていたら無駄足にしかならない。それに、英はこの第5音楽室で弾くことに慣れてしまっていたので、他の教室だと上手くポテンシャルを発揮できないかもしれなかった。

 だからこういう時は、いつも大人しく家に帰るのだ。

 

「・・・そっか」

 

 わずかにケイの見せたその残念そうな顔は、見ていて英の心が痛むような哀しさを帯びていた。どれだけピアノを楽しみにしていたのか、それが見るだけで分かるようだった。

 英としても、今日はこのままケイと別れるというのが少し寂しかった。知り合ってからケイは毎日ピアノを聴きに来てくれていた。そして、自分のために弾いていた英のピアノを聴いて笑顔を見せてくれた。それでケイが英のピアノを気に入ってくれたことが分かる。

 だからこそ、突然のアクシデントでそのピアノが聴けないことをケイが残念がっているということ、そしてケイが落ち込んでしまったことに英はひどく心を痛めた。

 

「・・・じゃあ、仕方ないわね。帰りましょ?」

 

 そして、先ほど見せた残念そうな表情など微塵も感じさせないような笑みを浮かべて英と共に昇降口へ向かおうとする。

 しかしその笑顔は無理しているようにしか見えなくて、逆に英の心を絞めつけるようなものだった。その笑みの裏にあるだろうケイの気持ちを考えると、自分が悪いわけでもないのに罪悪感が込み上げてくる。

 

「・・・・・・・・・ケイ」

「何?」

 

 だからその罪悪感を拭うように、英はケイに話しかける。心の中では残念がっているであろうケイをどうにかして慰めようと、ある提案をしようと決意する。これでケイの気持ちが上向きになるという保証はないし、単なるその場しのぎにしかならないかもしれなかった。

 だが、それでも英は提案をした。

 

「今から・・・・・・楽譜を買いに行こうと思うんだけど、良かったら一緒にどう?」

「え・・・・・・?」

 

 その言葉は全く予想していなかったのだろう、ケイがぽかんとした表情を浮かべる。

 

「・・・いいの?」

 

 しかしそこは戦車隊隊長、すぐに言葉の意味を理解したようで聞き返してくる。英はそれにこくこくと頷く。ここで断ってしまっては意味がない。

 

「じゃあ・・・・・・ご一緒させてもらおうかしらね?」

 

 ケイは誘いに乗ってくれた。そしてその顔は、先ほどの愁いを帯びたような笑みとは違う、純粋な笑みを浮かべていた。

 その笑顔を見ることができて、英も良かったと思う。

 やはりケイの様な明朗快活な人物は、今のように笑っている顔が一番似合う。何かを抱えているような笑みよりも、その方がケイらしい。

 と、そこで英は自分がケイの笑顔に釘付けになってしまっていることに気付き、ケイに気付かれないように首を横に振って気持ちを切り替える。

 

「それじゃ、早速行こうか」

「OK!」

 

 と言うわけで、早速昇降口へ向かい靴を履き替えて、校門を出ていつもの帰路とは違うルートを歩き出す。

 

「でもよかったの?影輔にも予定があるんじゃ・・・」

「ああ、特になかったし、楽譜買いに行くのも休日に行こうと思ってたから丁度良かった」

 

 住宅街を歩いて、そして大通りへ出る。サンダース学園艦は人口がそれなりに多いので、車の通りも存外多い。そんな大通りの脇に敷かれている歩道を、英とケイは並んで歩く。

 

「楽譜を買いに行くって言ってたけど、どこに?」

「音楽用品を売ってる店があるから、そこに」

「そんなお店があるんだ」

「ああ。楽譜だけじゃなくて、楽器とか小道具とか、後は音楽をイメージしたアクセサリーとかも売ってる」

「へぇ~・・・すっごい気になる!」

「興味があるなら、見てみるといいぞ」

 

 そして10分ほど歩くと、白を基調とした建物の前にやってきた。自動ドアの上にはポップアートの文字が描かれた看板が掛けられているここが、音楽用品店だ。

 

「こんなところにあったんだ」

「まあ、知らなきゃ来る機会も少ないだろうけどね」

 

 自動ドアの前に立ってガラス戸が開くと、まず目に飛び込んでくるのはずらりと並ぶバイオリンやギターだ。店内のスピーカーからは軽快なジャズミュージックが流れている。

 

「これは、グレイトね・・・」

 

 どうやら本当にケイはここを知らなかったらしく、無数に並んでると錯覚しかねないほどの楽器の列を見て驚嘆の声を洩らす。

 そのまま店内を進んでいくと、トランペットやホルンなどの金管楽器、フルートやリコーダーといった木管楽器、他にも多くの楽器が並んでいる。

 どれも値段がそこそこ高いので手は出せないが、こうした楽器は見ているだけで何故だか心が昂るのを感じる。端くれであっても音楽家だからだろうか。

 

「結構種類があるのねぇ」

「一通りの楽器はここに来れば売ってるな」

 

 そうして少しだけ歩くと、ケイがある楽器を見つけた。それは一見小さなピアノだが、鍵盤が2段になっていて、さらにいくつもの小さなスイッチやボタンがついている。足元のペダルもピアノよりも多かった。

 

「これ何?」

「これはオルガン・・・電子オルガンだな」

 

 この電子オルガンは、スイッチやボタンで音質を他の楽器のもののように変えることができるのだ。丁度良く、『試奏可能』という張り紙が貼ってあったので、どんな感じのものかを実演することにした。

 

「例えばこのスイッチを押して弾くと・・・・・・」

「あっ、トランペット?」

「そう。で、こっちのスイッチを入れれば・・・・・・」

「・・・・・・これは?」

「トロンボーン。まあ要するに、これ1台でピアノ以外の楽器も演奏できるってことだ。同時に2つ以上は難しいけど」

「へぇ~・・・すごい!」

 

 ケイは戦車に乗ることが多くても楽器に触れることは少なかったようで、こういった物珍しい楽器には興味があるようだった。

 とはいえ英も、ピアノ以外の楽器についてはあまり詳しくは無いので、他の楽器については基本的な情報と聞きかじった程度の知識しかない。自分で知っている知識だけをケイに教えているので、全てを知った気になる知ったかぶりとは違うと英自身は思っている。

 その後も電子オルガンでいくつかの楽器を疑似的に演奏すると、ケイは英に向けて小さな拍手を送ってくれた。気恥ずかしいが英もお辞儀を返す。流石に店の商品で1曲全部を弾くのは申し訳ないしマナー違反だったのでしなかった。

 その後も、楽器が置いてあるスペースを2人で見て回るが、流石にグランドピアノのように大型の楽器は置いていない。だが、店の人に頼めば業者を通して購入することも可能である。過去に何件かその依頼はあったらしい。

 そして英の本来の目的である楽譜コーナーへ向かうと、ここでもケイは驚きの顔を見せてくれた。

 

「すごい数ね・・・・・・」

 

 天井にまで届くほどの高さを誇る棚に、楽譜が何冊も収められている。その楽譜のほとんどはそれ程厚くはなくむしろ薄いので、見た目以上に多くの楽譜が収められていることになる。

 やはり初めて見る人にとっては、ここは壮観だろう。

 

「有名なバンド、アーティストの曲はそれでまとめられてる。後は大体アルファベットと五十音順だな」

「へぇ~・・・あ、ホントだ」

 

 ケイが見つけたのは、イギリスの有名なジャズバンドのコーナーだ。知っているバンドだったらしく、楽譜を試しにパラパラとめくって読んでいる。楽譜が読めるかどうかは分からないが、それでも知っている曲だから気になったのかもしれない。

 一方で英は、目当ての楽譜を探す。まずは、前々から気になっていた曲の楽譜を探し出して手に取る。さらには新しく入荷された楽譜のコーナーを見ると。

 

「おお、この曲は」

 

 英の持つ音楽プレイヤーにも入っている曲だった。1度聴いただけで気に入ったこの曲は楽譜があればいつかは弾いてみたいと思ったもので、今ここで見つけられるとは思っていなかった。

 だが、楽譜を開いて中を見てみると『うげ』と思わず声が漏れた。原曲を聞いた時から分かっていたが、ものすごくリズムが複雑でなおかつ音符の数が多い。

 だがそれでも弾けるようになりたいと思って、それもまた手に取りキープしておく。

 そこで一度ケイの方を振り返ってみると、ケイは1冊の楽譜を持ったままじっとそれを読んでいた。

 

「何か気になってるのでも?」

 

 気になったので声をかける英。ケイは『ちょっとね』といいながら楽譜の表紙を見せる。そこには曲名とアメリカの歌手の名前が書かれていたが、英はそのどちらも知らなかった。

 

「ナオミに勧められて気に入った曲なの。歌詞もそらで歌えるくらい。だから、気になったのよね」

 

 聞けば、ナオミはイヤホンで音楽を聴いていることが多いらしく、そのナオミから勧められたのだという。

 英がケイの横からその楽譜を見せてもらうと、しっとりとしたバラードの曲だということは分かった。

 

「・・・・・・ちょっと時間がかかるかもしれないけど、今度弾いてあげようか?」

「えっ・・・いいの?」

「ああ」

 

 英自らがそう言ったのは、ケイを楽しませたいと思ったからだ。ケイが興味を持ったその曲を、英の持っている数少ない取り柄であるピアノを使って表現して、ケイを楽しませ、そしてピアノの楽しさをもっと伝えたいと思ったからである。

 その英の具申に対してケイは、すぐに『お願い』とは答えず。

 

「それはつまり・・・私のために、弾いてくれるってこと?」

 

 それは確かにケイの言う通り、そして英の思ったように、ケイを楽しませたいと思うから英が提案したのだ。英が、自分が楽しむために弾くわけではないのだから、ケイの言っていることは正しかった。

 

「ああ、そうだな」

 

 英がそう答えると、ケイは少しだけその手に持つ楽譜に目を落として、そしていつもとは少し違う、愛しさを感じさせるような笑顔を英に向けて、告げた。

 

「・・・じゃあ、お願いしちゃおうかな。この曲、ピアノでも聴いてみたいし」

 

 そして。

 

「ありがとね」

 

 その言葉を聞き、その笑みを見た途端、英の顔が熱くなる。ケイの言葉が頭の中で何度も響き渡り、脳が絶対に忘れるなと英に言い聞かせているように感じる。たまらず、視線を逸らす。

 さらにケイの言葉から、『誰かのために弾く』というぼんやりとしたものではなく、『ケイという女の子のために弾く』という明確なことを意識し出してしまう。自分以外の誰か1人、それも自分と同い年の女の子のために弾くなど初めてだったから、余計変に考えてしまう。

 一体どうしてここまで動揺するのか、自分でも分からなかった。

 

「じゃあ、会計しようかしらね」

 

 ケイの気に入った曲はどうやらその1曲だけだったらしく、それをレジに持って行こうとする。そこで自分の中の説明がつかない感情に困惑していた英が正気を取り戻し、待ったをかけた。

 

「いや、俺も買うのがあるし、まとめて払っとく」

 

 そう言って英は、ケイの持っている楽譜を受け取ろうとする。元々英はこの店にケイを誘った時点で、ケイが何かを買おうとしても自分が払うつもりでいたのだ。何しろこの店に誘ったのは英なのだから。

 だがケイは、その英の善意を拒む。

 

「いいわよ、これは自分で払う」

「いや、でも弾くのは俺だし・・・・・・」

 

 善意を拒まれたのだが、それが忌避感から来るものではないということはすぐにわかった。けれど、その曲を弾くと言ったのも、ピアノを弾くのも英なのだから、払うのは自分が妥当だと英は思った。

 しかしながら、頑なにケイは譲らない。

 

「だって、私が聴きたいって言ったんだもの。それでその曲を影輔に弾いてもらうんだから、この楽譜の代金は私が払うのがフェアだと思うわ」

 

 強くそう言われてしまうと、英も言い返せなくなる。

 ケイは戦車道の試合では常にフェアプレーを何よりも重んじており、自分から相手に対しての恩義についてはとかく譲らない、ということは学内の噂でとうに知っていた。

 だから、ここで英が下手に食い下がってもケイは断固として譲歩しないことが想像に難くなかったので、大人しく自分から引き下がることに決めた。

 

「・・・分かった」

「分かればOK!」

 

 サムズアップするケイを見て、これは何としても完成させないとな、と英は思った。

 そしてお互いにそれぞれ会計をするためにレジへ並ぶのだが、そこで一つアクシデントが発生した。

 

「初めてかなぁ、君が女の子連れてくるのなんて」

「・・・あ、はい。多分そうですね」

 

 レジに立つ中年のおっちゃん店長が親しげに、そして興味ありげに英に話しかけてくる。

 英はサンダースに入学してこの店を見つけて以来、かなりの頻度でこの店を訪れている。毎日とまではいかないが、月に3~4回のペースだから結構多めだ。だから英の顔は、店員ほぼ全員から覚えられていた。今英の目の前に立っている店長だって、英のことを名前は知らずとも顔だけは知っていた。

 そして英もこの店長は、レジ越しではあるが顔を合わせているので知っている。店側から見れば英は、言うなれば『常連』か『お得意さま』だ。

 そして英は、この店を訪れる時は大体1人、もしくは気心知れた仲の山河と一緒だ。女子と来たことなど一度も無かったがために、店長も英が女子を連れていることを物珍しく思ってそう話しかけたのだろう。

 そして店長の口から禁断の質問が飛び出してきた。

 

「もしかして、彼女さん?」

 

 その質問が口を突いて出てくるのも、これまでこの店を訪れていた英を見ていれば自然なものだったのかもしれない。

 楽譜の入った紙袋を受け取ると同時にぶつけられたその質問に対して、英とケイは。

 

「「・・・・・・」」

 

 刹那の沈黙を挟んでから。

 

「・・・違いますよ、新しくできた友達です」

 

 英が愛想笑いを浮かべながらそう返す。ケイもあいまいな笑みを浮かべるだけなので、店長も『そうかそうか。ごめんね』と言ってあまりしつこくは聞いてこなかった。それは英としてはありがたかったし、ケイにとっても助かっただろう。

 そして2人とも会計を終えて店を出て、今度こそ帰路に就く。店から少し歩いたところで、英がケイに話しかける。

 

「なんか・・・ごめんな?店長が変なこと言って・・・」

「あはは・・・大丈夫。気にしてないわ、うん」

 

 店長が言った変なこととは、他ならぬ『彼女さん?』という質問だ。あの質問は別にそんな関係ではない人からすれば不快でしかない質問だっただろうに、ケイは嫌な顔一つ見せていない。元々ポジティブな性格をしているのもあるだろうが、ケイの性格に助けられた。

 しかしながら英自身、あの場で真っ先に否定できなかったことは痛いと思っている。

 そのすぐに否定することができなかった理由は、『否定したくない』という気持ちがわずかに頭をもたげてしまったからなのだが、そもそもなぜそう思ったのかは自分でも分からなかった。

 だが、その考えが芽生えたせいで答えるのにインターバルが生じ、『英はケイをそういう人だと思っている』という誤解をケイに植え付けてしまったかもしれなかった。

 けれどそれでも、なぜ否定したくないと思ってしまったのか、その理由は未だに分からなかった。

 そんな答えの無い悩みで頭の中がパンクしそうになったところで、ケイが話しかけて来てくれた。

 

「初めてミュージックショップなんて行ったけど、エキサイティングだったわ!」

「あ、本当?」

 

 その頭の中の悩みは置いておいて、ケイの話に耳を傾けることにする。

 

「あんなに楽器が並んでるのなんて学校でも見ないし、楽譜がずらっと並んでいるのもグレイトだった!うん、行けてよかったと思う」

「そりゃ良かった」

 

 本当に楽しかったということが伝わってくるケイの言葉を聞いて英も自然と嬉しくなる。そして彼女の今の笑顔は、先ほど音楽室の前で見せた愁いを帯びた笑顔よりもずっと魅力的だ。

 

「・・・楽しんでくれたみたいでよかった。楽しみにしてくれてたのに、ピアノを聴かせられなかったからな」

「それは英が気にすることじゃないわ。何事にもアクシデントはつきものだもの」

 

 英を元気づけるように笑ってくれるケイ。さらに彼女は続ける。

 

「それに今日音楽室が使えなかったから、こうしてそれ以上に楽しいことができたんだから」

 

 楽しみにしていたピアノが聴けなくても、それよりも楽しい出来事を経験できたから、そのピアノに対する未練はもうほとんどなくなっていた。

 だからケイは、今こうして笑っていられるのだ。

 そんなケイを見て、英も小さく笑う。

 

「・・・・・・その方が、やっぱりケイらしい」

「え、どういうこと?」

 

 ケイが聞き返したことで、英はハッとする。頭の中で考えていたつもりが、ついぽろっと呟いてしまっていたのか。

 一度口にした言葉を無かったことにするのは不可能に近い。ましてや英とケイは一緒に並んで歩いていて距離が近かったから、『気のせい』とか『空耳』とかで誤魔化すのも無理だ。

 その言葉の真意が本当に気になるようで、ケイは英の顔をじっと見る。言い逃れも難しそうだった。大人しく白状せざるを得ないだろう。

 

「・・・音楽室が使えないって言った時、ケイが少し落ち込んだ顔してたから」

「・・・・・・そんな顔してた?」

「ああ、ちょっとだけど」

 

 その時のケイの顔を、英は忘れてはいない。普段は明朗快活に笑っているケイには似つかわしくない陰りの差した表情を。

 あの顔を見たからこそ、英は何とか元気づけたいと思ってこうして音楽用品店に誘ったのだから。

 それはつまり。

 

「だから・・・・・・」

 

 根底にある行動原理を言うか言わないかに悩む。

 しかしここまで言ってしまったのだし、全て告げた方が双方にとっても後味が悪くならない。

 だから英は、思っている本当のことを告げた。

 

「・・・・・・落ち込んだ顔を見て、どうにかしてケイに笑ってほしかった。ケイは、明るく笑っている方が似合ってるから」

「・・・・・・」

「だから、楽しんでもらえたみたいで、本当によかった」

 

 結局のところ、英の思うことはただ1つだけ、『ケイに笑ってほしかった』に尽きる。

 だが、そんなカッコつけたことを言うのは元々英の性分ではない。恥ずかしくて仕方がなく、鼻の下を指でこする。気障なことに定評があるナオミが羨ましくなってきた。

 途方もなく空を見上げると、僅かに朱に染まる空に白い飛行機雲が伸びていて、太陽の沈む方向へと向かっている。そんなものが目に入ったからといって恥ずかしくなくなるわけでもないのだが。

 

「・・・・・・あ、ありがと」

 

 ケイから、か細いお礼の言葉が告げられた。それに英は『気にしないでいい』と答えたのだが、恥ずかしくて顔が見れなかった。

 それでも、英にとってはお礼の言葉を言ってくれただけで十分だった。

 

 

 サンダース大学付属高校の学生寮は2種類存在する。

 その内の1つが、本場アメリカ並みに大きい一戸建て住宅型の寮。これは4~5人で1軒をシェアして共同生活をするものである。これもまたアメリカ気質の例に漏れず、部屋が広くて造りも頑丈、しかもプールと庭付きという徹底ぶりだ。プールや庭のメンテナンスは寮でクラス生徒たち自らが行うのだが、それもまた自主独立を目指す学園艦生活の一環となっている。

 生徒たちに一戸建て住宅を貸し出すというのは資金が潤沢なサンダースならではのものである。だが、流石に生徒全員に提供するほどのスペースがこの学園艦には無いので、希望者だけがこの型の寮で暮らすことができる。希望者数が多すぎる場合は抽選となり、まさにこの寮に暮らせるのは選ばれた者だけとなる。

 さて、そんなリッチな一戸建て型学生寮の中の1軒。そのリビングルームで、ナオミがソファに座ってアメリカのSF小説を読んでいた。その顔には、戦車に乗っている時以外で集中する時だけ掛ける伊達眼鏡が掛けられていて、クールな印象とは別に知的な印象が加えられている。

 暖色の照明は肌寒くなってきた最近では気休め程度でもありがたく、シーリングファンが室温を一定に保っている。それに他のルームメイトが皆自室で勉強したり風呂に入っていたりしているので、リビングには今ナオミ一人しかいない。読書をするにはもってこいのシチュエーションだ。

 だが、ナオミの目はページの上の文章を追っていても、頭に本の内容を蓄積していっても、引っ掛かりを覚えていた。その引っ掛かりとは、本の内容に対してのものではない。

 

(・・・・・・随分遅いな)

 

 ページの端まで読んだところで、ナオミがバスルームの方を見る。

 今現在、風呂に入っているのはケイだ。それ自体は別に問題ないのだが、問題は入っている時間だ。かれこれ1時間以上経過している。

 

(まさか倒れたり、していないだろうか・・・?)

 

 その可能性は今から大体20分ほど前に考えたことだ。普段ならケイは2~30分で風呂から上がる。その時刻を10分ほど過ぎたところで『倒れたか』と心配し始め、30分以上過ぎた今ではその可能性が捨てきれなくなった。

 だが、迂闊にバスルームに踏み込むことをナオミは躊躇っていた。

 それはケイのことを全く心配していない、というわけではなく、その逆である。

 ケイのことを気遣ってのことだった。

 

(けど、何か考え事をしているのかもしれないし・・・・・・)

 

 ナオミはサンダース戦車隊の副隊長・ナンバー2となる前からケイと親交があった。

 それでケイの近くにいた時間が長いからこそ、彼女が戦車隊の隊長として苦労を重ねていることは知っていた。極たまにではあるが、ケイが疲れてしまって、だれている姿を何度か見かけたこともあった。

 それとケイは、生徒の間ではサンダースの有名人と知られていて、周囲から絶大な評価と期待、信頼がされている。だからこそ背負うものが、ナオミとは比べ物にならない。

 そんな戦車隊の隊長で、背負うものが多くあるケイだから、心を落ち着かせてゆっくりすることができる場所とは限られている。その心を落ち着かせられる場所の1つが、バスルーム、風呂だ。風呂は入っている者1人だけの空間であり、心を落ち着かせて物思いに耽る絶好の場所である。

 だからこそ、そのケイの立ち位置を知っているナオミは、そんな1人で落ち着ける場所に自分が踏み込んでもいいものかと悩んでいたのだ。

 だがしかし、流石にケイの身に何かあっては大事なので、ケイに対する心配が大きくなっていく。そして心の中で謝りながら、ケイの様子を見に行こうと立ち上がったところで。

 

「・・・・・・お待たせ」

 

 ケイがバスルームから出てきた。タオルで髪を拭いて動きやすい恰好に着替えていて、顔は赤いがそれは温かい風呂に入って上気しただけの様子なので、命に別状はないようだ。そんな彼女がナオミの目の前を通り過ぎようとしたところで、ナオミが話しかける。

 

「随分遅かったね」

「・・・・・・ソーリー。少し考え事をしてね」

 

 ケイはそう答えると、そそくさと階段を上り2階にある自分の部屋へと向かって行ってしまった。

 そのケイの言っていた『考え事』については深入りはしなかったし、する暇もなかったのだが、無事だったようで安心だ。

 いろいろと引っ掛かりはあるが、ナオミも風呂に入ってさっぱりしたかったので、本に栞を挟んでサイドテーブルに置き掛けていた伊達眼鏡を外す。そして着替えとタオルを持ってバスルームへ入った。

 それとは反対に自分の部屋まで戻ったケイは、ばたりとベッドに倒れ込む。枕に顔を押し付けて、大きく息を吐く。

 

(どうしてこうなるかな・・・・・・)

 

 今日のことを思い出す。具体的には放課後、英と一緒に過ごした時間だ。

 別に嫌なことがあったわけではない。それどころか、楽しいこと、いいことばかりだった。音楽用品店という自分の行ったことのない場所に行けたことも、お気に入りの曲の楽譜を見つけられたことも、ケイにとっては嬉しいことこの上ない。

 そしてそれ以上に嬉しい事があった。

 それは、英がケイのためにそのお気に入りの曲を弾いてくれるということ。

 そして、英に『笑ってほしかった』と言われたこと。

 この2つの事象は、どちらも英がケイを思ってのことなのだということは容易に想像できる。

 けれど、自分のことを考えて行動してくれたのだと思うと、胸の奥が温かくなるのを感じる。

 どうしてだろう。そんなことを考えて、そんな風に思ってしまい、そんなことを感じるのは。

 そして、あの音楽用品店で店長らしき人物から『(英の)彼女さん?』と問われた時、どうしてだかケイはすぐに否定することができなかった。言葉で否定することは簡単なことだったのに、なぜなのだろうか。

 おそらくあの時は、動揺していた。でも、どうして動揺していたのか。

 そんなことを悶々と風呂で小一時間ほど考えていたのだが、答えは未だ見つかっていない。

 

(あー・・・・・・なんなんだろう、本当に・・・)

 

 心の中では不貞腐れたように言うが、その実全く嫌な気分はしない。

 むしろ嬉しいような、楽しいような、そんな気持ちだ。




サンダースって何でも揃ってそう。

ここで一つ報告です。
筆者はパソコンのワードで作品を書いているのですが、
これまでは、『アイデアが浮かぶたびに筆を進めて、完成させると投稿する』という手法でした。
ですが今作品からは、『最初にワードで話の全体像を書いた後、それをベースにして改めて一から書き直し、所々加筆修正を重ねてそれを投稿する』という形に変わりました。
そのため、今作品から投稿する間隔が前と比べると少し広くなるかもしれませんので、
予めご了承ください。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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分からない

今回長めですので、ご注意ください。


 ケイの趣味は、ホームパーティだ。

 それは、ケイが誰かと楽しい時間や出来事を共有することが好きだからであり、皆が盛り上がり楽しんで食べる料理は美味しいと感じられるからでもある。

 この趣味は、ケイがまだ小学生ぐらいで実家で暮らしていた頃、自らの誕生日を家族全員が祝ってくれたことに起因する。その時食べたご飯はとても美味しくて、その誕生日パーティはとても楽しかったと今でも覚えている。

 それから時が経つにつれ、友達を誘って食事に行くことが多くなり、今ではホームパーティを定期的に開くまでに至った。

 幸いにも、ケイは設備が多く整っている一戸建て型の学生寮に暮らすことができ、加えてサンダースの生徒が皆アメリカ気質なところがあるので、ケイの友人もそう言ったパーティの類が大好きだった。そして何より、ケイのルームメイトたちもケイの趣味に理解がある上に彼女たちもパーティに全力で乗っかっているので、心おきなくパーティを開くことができているのだ。

 そしてそのパーティが成立するのも、ケイが人を惹きつけるような性格をしているからであるのだが、それにケイ自身は気付いてはいない。

 

「~♪」

 

 さて、今日は休日で学校の授業も戦車隊の訓練も無い、完全なオフの日だった。ケイにとっても、今日のような休日は戦車隊の隊長というプレッシャーから解放される。

 そしてこの日は、ケイの趣味であるホームパーティを開催する日でもあった。

 11時過ぎ、ケイは自分の暮らす寮のリビングで掃除機をかけていた。彼女は白のブラウスに紺の七分丈のスキニージーンズと動きやすい服装で、秋にしては少し爽やかな印象を抱く。

 彼女がこうして掃除機をかけているのは、今日が寮の掃除をする当番の日だからであり、今日のホームパーティのために部屋をきれいにしようと思ったからである。

 

「~♪~♪」

 

 お気に入りの曲を鼻歌で歌いながら掃除機をかけていると、お尻のポケットに入れていたスマートフォンが電話の着信を告げた。相手は今日のパーティに来る予定の、戦車隊の隊員だった。

 

「ハァイ、エマ?」

『ハロー、ケイ。今、大丈夫?』

「うん、大丈夫よ?どうかした?」

 

 掃除機の電源をいったん切り、掃除機を左手で支えて電話に出るケイ。

 

「OK,問題ないわ」

『今夜持ってく予定のフライドチキンバレルなんだけど、何時ごろ持ってけばいいかな?』

「そうねぇ~・・・6時半ぐらいがいいかな?あまり早すぎても遅すぎてもダメだし」

『量は前と同じでいい?』

「ええ、それでいいわ」

『OK!じゃ、今夜のパーティ楽しみにしてるわね!』

 

 エマとの通話が終わり、ケイはスマートフォンを再びポケットに戻す。そして再び掃除機の電源をつけてカーペットの掃除にかかる。

 数分後に、またケイのスマートフォンに電話がかかってきた。今度の相手は、ケイのクラスメイトの男子の友人である。

 

『グッモーニン、ケイ・・・』

「ハイ、ザック?もしかしてさっきまで寝てたのかしら?もう11時過ぎよ?」

『せっかくの休日なんだしいいじゃないか・・・・・・』

 

 電話を取ると聞こえてきたのは眠そうな男子の声。『ザック』と呼ばれた彼はれっきとした日本人であり、ケイの付けたそのニックネームは苗字の『佐久』をもじったものである。ただ、佐久自身は嫌がっていないので、クラスの皆からもそう呼ばれていた。

 

「で、どうかしたの?」

『ああ、そうだそうだ。実はバーベキュー用のいい肉とスパイスを買ったんだけど、バーベキューグリルの炭は足りてる?』

「足りてるわよ。たっぷりあるわ!」

『おお、そうか。足りてないようだったら行く途中で買ってくつもりだったけど、大丈夫みたいだな!』

「ええ、ありがとね」

『よっしゃ。じゃあ、今夜な!』

 

 威勢のいいザックの返事を最後に、電話は切れる。

 そしてケイは、ふっと笑った。先ほどのエマといいザックといい、こうして電話をしてきて、それぞれが今夜のパーティに向けて用意を進めているのを聞くと、彼らもパーティを楽しみにしているのだということが伝わってくる。そして、今夜は楽しいパーティなのだということを改めて思い知らせてくれる。

 そう思うと、ケイも今夜のパーティが待ち遠しくなってしまって、掃除機をかける足取りが軽くなる。

 手際よくリビングの掃除を終えて次はキッチンだと思いそこへ向かうと、ナオミが冷蔵庫を開けて牛乳をコップに注いでいた。ナオミは青のシャツと黒いデニムというシックな色合いの服を着ていて、クールな彼女のイメージに合致している気がする。

 ナオミはケイに気付くと、牛乳パックをほんの少し前に差し出して『飲む?』と無言で問いかけてくる。ケイが掃除機の電源を切って頷くと、ナオミが新しいコップを1つ棚から取り出し注いでくれる。『ありがと』といいながらケイはコップを受け取った。

 

「準備は上々みたいだな」

 

 ケイが受け取ったところで、ナオミが話しかけてきた。先ほどまでのケイのエマとザックの電話は聞こえていたらしい。

 

「うん。エマとザックは準備ができてるし、ピザのデリバリーも大丈夫。ジュースもアリサに任せてるわ」

「アリサはその点、意外としっかりしてるからな」

 

 ナオミのアリサに対する評価を聞いて、ケイもその通りだと頷く。そこでケイは牛乳をグイッと飲む。

 一方でナオミも、心なしか表情が生き生きとしているような感じがする。あまり彼女と親しくない人が今のナオミを見れば、普段と変わらないというかもしれない。だがケイはナオミと親しい仲になってから長い時間を過ごしているので、その小さな違いが分かったのだ。

 ナオミもまた、今夜のパーティを楽しみにしているのだろう。

 

「ああ、ところで」

「?」

「英は誘ったのか?」

 

 ナオミは英と初めて食堂で会った日に自己紹介を交わしている。また、その時の英とケイのやり取りを聞いて2人が親しい仲だということには気づいていた。だから、大体ケイと親しい友達を集めるホームパーティにも呼ぶのだろうか、と思って聞いたのだ。

 だが、ケイは。

 

「えっと・・・・・・呼んだわよ、うん」

「?」

 

 なぜか歯切れの悪い感じがする答えを返すケイ。それが変に思えてナオミがケイの顔を見ると、なぜか彼女の頬はわずかに紅く染まっている。

 

「・・・・・・どうかした?」

「へっ?あ、ううん、何でもないわよ?」

「・・・そうか」

 

 ナオミはケイの反応が若干気になったが、『誘った』という一応の回答は得られたのでそれでいい。ケイと英の人間関係について根掘り葉掘り聞くような野次馬根性をナオミは持ち合わせていないので、それ以上の詮索はやめておいた。

 ケイが牛乳を全て飲み切り、ナオミがそれを受け取って自分のコップと一緒に洗剤で洗う。

 その後ろでケイは、掃除機を省エネモードにして音を下げてキッチンを掃除する。その合間に、ケイは頭の中で考え事をしていた。

 ケイが英を今日のホームパーティに誘ったのは、昨日2人で音楽用品店に行った後だ。別れ際にいつもの交差点でパーティに誘い、英は少し考えてからOKをしてくれた。

 だがあの時のケイの心の状態はといえば、結構いっぱいいっぱいだった。

 というのも、昨日英をパーティに誘う少し前に、英がケイを音楽用品店に誘った理由を聞いたからだ。

 

『どうにかしてケイに笑ってほしかった。ケイは、明るく笑っている方が似合ってるから。だから、楽しんでもらえたみたいで、本当によかった』

 

 あの言葉を聞いてから、ものすごく顔が熱くなってしまって英と言葉を交わすこともなぜか恥ずかしくなってしまった。

 だが別れ際に今日のパーティのことを思い出し、急いで誘ったのだった。

 その時ケイは、『普段はピアノを弾いてもらってるからそのお礼がしたい』と言った。

最初は英もケイの予想通り、英自身は趣味でピアノを弾いているからお礼をされるようなことではない、と断ってきた。それでも最後に英はケイのお誘いに応じ、パーティの参加を決めたのだった。

 だが、本当はその時ケイは、『お礼がしたい』という気持ちの他に、『英とパーティの楽しい時間を過ごしたい』と思っていたのだ。

 そんな気持ちが芽生えたのは誘う直前。つまり、衝動的な気持ちでケイは英を誘ったのだった。

 キッチンの掃除が終わり、電源を切ってリビングの所定の場所に掃除機を片付ける。

 

(本当、どうしてこんな気持ちになっちゃうのかしら・・・?)

 

 その自分自身に対する問いかけは、昨日から何度も考えていることだった。

 なぜだか英のことを考えると、胸が焦がれるような苦しい気持ちになってしまう。だが、そんな気持ちになっても不快な感情は得られずに、むしろ心が幸福感に満ち溢れるような気持ちになれる。

 矛盾しているようなこの感情をケイは未だ抱いたことがなく、自分の気持ちが自分で分からなくなってしまっていた。

 腰に手を当てて大きく息を吐き、一旦気持ちを落ち着かせる。

 兎にも角にも、今日のパーティには英をはじめ多くの友達がここを訪れる。それなのに自分が得体の知れない感情に左右されて落ち込んでしまっていては、ケイを含め皆が楽しい時間を過ごすことなどできない。

 一旦リフレッシュしようと思い、階段を上がって2回の自分の部屋に戻ろうとする。

 ケイの日課はフィットネスクラブに通うことだが、今日はパーティの準備があるのでそれはできない。そんな時のために、部屋にはダンベルやストレッチ用のマットなどの器具が置いてある。つまり今、ケイは身体を動かして気持ちを切り替えようとしているのだった。

 2階に上がると、4つの白いドアが目に入ってくる。この寮で生活しているのはケイを含めて4人。その4人にはそれぞれ1部屋ずつ自分用の部屋が用意されていて、一番手前の南側の部屋がケイの部屋である。反対に、1番奥の北側の部屋がナオミの部屋だ。

 その自分の部屋に入ろうとしたところで、向かい側の部屋を見る。その部屋には、ケイとはクラスが違うし戦車隊にも所属していないが3年の共同生活で親しくなった女子が暮らしている。

 

「まだ起きてないのかしら・・・」

 

 彼女は朝食にも顔を出さなかったので、完全オフの日だからと今の今まで睡眠を決め込んでいるのかもしれない。日々の学生生活で疲れていて休日ぐらいのんびり寝ていたいという気持ちは分かるが、流石にこの時間まで寝ていては健康に影響を及ぼしかねない。それと、明日からまたいつも通りの学生生活に戻るから、明日以降がまた辛くなる。

 そろそろ起こした方が良いと思い、ケイはそのドアをノックした。

 

「シンディ~?もうお昼よー?いい加減起きなさ~い!」

 

 『シンディ』と呼ばれたこの部屋の主もまた純日本人で、そのニックネームは彼女の苗字『新藤』からきている。

 ノックして呼びかけてから少しして、部屋の中からゴソゴソと物音が聞こえてきた。そしてドアが非常にゆっくりと開き、中からシンディが顔をのぞかせる。薄い緑色のパジャマは少しはだけていて、しかも目が半開きで寝起きで眠そうなのを全力でアピールしていた。さらに普段はツインテールの長い髪も所々跳ねているうえに伸ばしてしまっていたので、本当にさっきまで寝ていたのだろう。

 

「たまのホリデーなんだしゆっくり寝かせてよ・・・・・・」

「もうお昼だし、十分寝たでしょ?寝過ぎるのも体に悪いわよ?」

「ふぁ~い・・・・・・」

 

 あくび交じりの返事をして、シンディは首を左右に動かす。そして少ししか開かれていなかったドアが大きく開き、部屋の中が見えるようになる。

 カーテンが閉め切られていて、廊下の明かりが入ってこなければ真っ暗だろうというぐらい薄暗い。だが、物が雑多に置かれているような感じはせず、ある程度整理整頓されているようだ。と言っても薄暗いのでシルエットでしか分からないが。

 そこでケイは、あるものに気がついた。

 

「そのでっかいの、何?」

 

 ケイが指差したのは、横に長い大きな何かのシルエットだ。シンディはようやく目が冴えてきたのか、部屋の電気をつけてケイが指差したものを確かめる。

 

「あー、これ?これはね・・・・・・」

 

 その“何か”の説明を聞いてケイは、ある1つのアイディアを思いついた。

 

 

 英は、昨日ケイから誘われて今日の夜はケイの開くホームパーティに参加する。だが、それまで時間は結構あった。なので英は、自分の部屋の学習机に楽譜を広げ、机を指で叩くイメージトレーニングをしていた。その楽譜は、昨日自分からケイのために弾くと言った、ケイお気に入りの曲である。

 初めて聞く曲なのでリズムに若干の乱れが生じたり、音を外したりすることが多々あるが、楽譜が全然理解できず弾くこともできない、ということにはなっていない。

 最後の小節まで弾き終えて、イメージトレーニングをいったん終了する。小さく長く息を吐いて、首を左右に動かしコリをほぐす。

 

「・・・・・・手強いな」

 

 机を叩いていて地味に痛かった指を解しながら、独り言つ。

 英がこの曲を『手強い』と評価した点はいくつもある。

 まずは、ミスが多くてすぐに完成させるのが難しいという点。この間クリスから頼まれた曲に比べてもミスが多くて、完成までは時間がかかりそうだった。

 次に、この曲はしっとりとしたバラード調であり、普段英の弾くような曲の傾向とは外れている点。英が弾く曲は、大体がアップテンポの曲だったり、明るめの曲である。たまに悲しいような暗いような曲を弾くこともあるが、そういう曲もどこかしらで盛り上がる曲だ。この目の前の曲のように終始落ち着いた雰囲気の曲は弾いていない。

 そして、何よりも懸念すべき最大の障害とも言える点があった。

 

「まさか、ラブソングとはな・・・・・・」

 

 この曲はラブソングだったのだ。アメリカの歌手が作ったこの曲の全体のイメージは、『ふとしたきっかけで抱いた恋心は、相手を想い続けることで色褪せることはなく、最後には結ばれる』と言った感じだ。

 その全体像はさておき、英はラブソングなど弾いたことがなかった。これまで弾いてきた曲でも、明るい曲も暗い曲も、奇跡的なまでにラブソングが存在しなかった。

 英は曲を弾くとき、その曲の情景・描写をイメージすることを重視している。そうすれば曲の完成度がより高まるからだ。だが、ラブソングは弾いたことがないし、恋をしたことさえも無いせいでイメージすること自体が難しかった。

 この3つの点から、英はこの曲を『手強い』と評価したのである。

 それでもケイには自分から『弾いてあげる』と言った以上、途中で匙を投げるわけにはいかなかった。それ以前に諦めるつもりなど微塵も無いので例えどれだけ時間がかかっても完成させる所存でいた。

 

(・・・・・・・・・・・・)

 

 だがそこで、英はふと考える。考えてしまう。

 ケイがこの曲を気に入っているということは、もしかしたらケイにもこの曲に出てくるような『恋心を抱く人』がいるのかもしれない、と。

 だがそう考えたところで、英は頭を振る。

 ケイが誰かを好きになろうが嫌いになろうが、それはケイの自由なのに、ただの1人の友人にしかすぎない自分がそんなことを気にしてどうするんだと。それと、この曲を気に入っているからと言って『そういう人』がいると思う時点でおかしい。

 額を指で何度も叩き、少々乱暴に息を吐いて気持ちを改めようと試みる。慣れないラブソングなど練習して、自分がまだ経験したことも無いような恋の描写や情景を無理矢理思い浮かべようとするから変なことを考えてしまうのだ。

 そこで英が時計を見る。既に昼時に近づいていて、大分集中していたのだなと実感した。

 リフレッシュも兼ねてコーヒーブレイクでも入れようかと思い立ち上がろうとする。そこで脇に置いてあったスマートフォンが電話の着信を告げた。

 この休日に電話をしてくるのは、大体は親か、山河をはじめとした親しい友人だ。あるいは、ピアノを頼んできたクリスと言う可能性もある。

 頭の中で電話の相手を予想しながら画面を開くと。

 

『着信:ケイ』

 

 自分の予想がすべて外れた。そしてここ最近で付き合いが増えて、先ほどまで気になってしまっていた人の名前が表示されていた。初めて挨拶を交わした日にアドレスを交換して以来電話もメールもしなかったから、これが初めての電話となる。

 

「もしもし?」

『ハロー、影輔。今大丈夫?』

「ああ、問題ない。どうかしたか?」

 

 今までやっていたことはイメージトレーニングだし、コーヒーブレイクにしようとしたがまだ準備もしていないので、今は手が離せないという状態ではなかった。

 

『今夜、パーティがあるじゃない?』

「ああ」

『それで、ちょっとしたお願いがあるんだけど・・・』

「お願い?」

 

 パーティの話題を出したうえでのお願い、と聞いて英は若干顔が青くなる。まさか一発芸でも用意しなければならないのだろうか。

 

『私のルームメイトがピアノ・キーボードを持っててね?「使っていい?」って聞いてみたらその子、オッケーだって』

「・・・・・・ん?」

『それで、良かったら影輔に何曲か弾いてもらいたいなー、って』

「・・・・・・ああ、そう言うことか・・・」

 

 一発芸よりは幾分マシだが、それでもハードルが高いことに変わりはない。

 最近音楽室で弾くときにケイがいるように、1人か2人と言った少人数が見ている分には特に問題はない。

だが、ケイの開くパーティとなると、彼女の性格と交友関係の広さを考えればそれ以上の人数がいるのは必至だろう。そんな人数の前でピアノを弾くのは緊張するに決まっている。

 英は幼いころからピアノを続けているが、コンクールなど人前で公的に弾いたことは一度もない。強いて言えば、好きな楽器を使って1曲演奏するという中学の授業でクラスの皆の前でピアノを演奏したことがあるぐらいだ。その時、およそ30人ほどのクラスメイトの前で演奏したのは緊張するものだった。

 あの時はミスがなかったものの、緊張すればするほどミスが目立ち、普段は間違えない弾き慣れた曲さえも間違えてしまうかもしれないということは予想できた。

 そんな失態を多くの人の前で晒すなど御免被りたい。だから丁重に断ろうとしたのだが。

 

『・・・影輔の弾くピアノって、なんだか楽しい気分になれるから。だから、パーティが盛り上がってみんなも楽しめるって思ったんだけど・・・』

「・・・・・・」

 

 ケイの懇願とも取れる言葉は、いつものような溌剌とした調子ではなく、本当に英のピアノを評価しているのが分かるかのような穏やかな口調だ。

 英としても、ケイからそう言われると悪い気がしない。『緊張する』とか『間違えたらどうしよう』という不安をなぜか感じなくなり、そしてケイの『楽しい気分になれるから』という言葉が胸に響いて、期待に応えたいと思うようになった。

 

「・・・・・・分かった」

『?』

「ケイがそこまで言ってくれるのなら・・・やるよ」

 

 英がそう告げると、一瞬の沈黙ののち。

 

『サンキュー!ありがとう!』

 

 さっきとは打って変わって明るい声でそう言ってくれた。ケイが電話越しで満面の笑みを浮かべているのが、見なくても分かる。そしてその笑みを思い浮かべて喜ぶ声を聞くと、英も自然と笑みがこぼれる。

 

「持ってく曲はどれぐらいがいい?」

『そうねぇ・・・3、4曲ぐらいあればいいかな?セレクトは任せるわ!期待してるわね!』

「よし、了解」

 

 それで電話を切ろうとしたところで、肝心なことに気がついた。

 

「あ、そうだ。ケイの寮ってどこ?」

 

 昨日誘われた時には聞くのを忘れてしまった。ホームパーティが開けるということは、恐らく選ばれた者だけが暮らすことができる一戸建て型学生寮だというのは予想できるし、その型の学生寮が点在する区域もあることは知っている。だがそのどこにケイの寮があるのかは当然分かるはずもない。

 それにはケイも今気づいたようで、少しだけ『う~ん』と唸ってからやがて答えた。

 

『じゃあ、6時ぐらいにサンダースの校門で待ち合わせにして、そこから案内するわ』

「ああ、分かった」

『それじゃ、またあとでね!』

 

 電話が切れ、しばしの間スマートフォンを見つめる。

 ケイからは『期待している』と言われたのだし、パーティを楽しみにしている他の人たちをがっかりさせないためにも、いい曲を選んで失敗しないようにしよう。そう思っては英は改めて机から立ち上がり、曲を選ぼうと棚へ向かう。

 だが、その直後に英は気付いてしまった。

 

「・・・・・・俺、チョロくないか・・・?」

 

 ケイに頼まれて悪い気がしなくて引き受けてしまったのだが、それが英自身の言う通り『チョロい』と思えて仕方がない。ケイが戦車隊の隊長と言う上の立場だから逆らえないと無意識に思い込んでしまったのか、それとも本当に英がチョロい性格なのか。できれば前者であってほしいと英は切に願う。

 そして、これで大人数の前でピアノを弾くことが確定してしまった。その事実を思い出して緊張感や恐怖心が今頃になって湧いて出てくる。うっかりすると胃に穴が開きそうだった。

 たった数分で気分がだだ下がりになってしまい泣きそうになるが、泣き言はせめて失敗した後にしようと思い、楽譜を選び始めた。

 

 

 陽がほとんど落ちて空が紺と朱が混じったような色に染まる。そんな空の下で、ケイはサンダース高校の校門へと待ち合わせをしている英を迎えに行くために向かっていた。

 パーティの主催者であるケイ自らが行く必要はないかもしれないのだが、英を誘ったのはケイだし、無茶振りとも取れる急なお願いをしてしまったのだし、せめてものお礼と言うわけでケイが自分から迎えに行っているのだ。今そのパーティをする寮の準備は、ルームメイトのナオミやシンディたちに任せている。

 とはいえ、シンディの部屋でキーボードを見つけて、その場で思いついたアイデアをすぐに英に伝えたのまでは良かったが、急なお願いをして英には申し訳ないことをしたと今は思う。

 何か一つお礼でもしなければと考えながら待ち合わせ場所へと向かう。角を曲がり、大きなサンダースの校舎が見えた。そしてさらに突き当りを曲がれば、校門がすぐそこにある。

 校門の方をよく見てみると、自分と同い年ぐらいの男子が1人佇んでいるのが見えた。だがその人物は英だと、ケイは直感で判断する。

 

「Hey,影輔!」

 

 声をかけると、その人物はケイの方を向いた。やはり、英だったのだ。

 英は薄い水色のシャツにグレーのジャケットを羽織り、薄いブラウンのテーパードパンツを履いている。さらに腕にはいつも見るトートバッグを提げていて、恐らくあの中に楽譜が入っているのだ。

 

「お待たせ」

「いや、ついさっき来たところだ」

 

 持っていたスマートフォンをトートバッグに仕舞いながら英がケイに応える。元々ここには待ち合わせのためだけに集まったので、挨拶もほどほどにして、ケイの案内で寮へと向かうことにする。

 

「ごめんなさい、急なことをお願いしちゃって・・・・・・」

 

 ケイがトートバッグを見ながら謝る。英はトートバッグを提げる手とは逆の手を軽く振って、笑みを浮かべる。だが、その笑みは少し疲れたような笑みだった。

 

「今から不安で仕方ないんだけど、何人ぐらい来るんだ?」

「え?そうねぇ・・・・・・私と、私のルームメイトの友達とか、戦車隊のメンバーとか・・・・・・しめて大体20人ぐらい?」

「20人・・・そりゃまた・・・・・・」

 

 英が予想していた以上の人の多さに、乾いた笑みを浮かべる。英の予想よりも10人ぐらい多くて、ケイたちの交友関係の広さにちょっとばかり驚いた。

 そうなると、英が緊張してしまい曲を間違えてしまう可能性が濃厚となった。

 英の経験したクラスメイト約30人の前で演奏するよりかは幾分かマシだが、それでも緊張することに変わりはない。

 

「・・・まあ、これも一つの経験として頑張るよ」

「あはは、その意気よ?後でお礼もちゃんとするから」

「それは楽しみだ」

 

 それからは持ってきた曲はどんな感じだとか、どんな料理を用意しているとか、どんな人が来るとか、そんな話をしているうちにケイたちの寮へとたどり着いた。

 英はアメリカどころか海外旅行に行ったことすらないので、本物のアメリカの邸宅がどういうものなのかは知らないが、アメリカの映画で見るようなデザインの寮だった。そして日本の標準的な住宅よりも少し大きめである。

 

「ハァイ、お待たせ!」

 

 ケイが戻って来たのを見ると、ルームメイトのナオミやシンディたちが『お帰り』とケイに告げた。そして、カジュアルな私服を着た、明るく短い茶髪の男子と薄い金髪のポニーテールの女子が顔を出してきた。

 

「待ってたわよ、ケイ!」

「来てみたらいなかったんでびっくりしたよ」

「ソーリー!彼を迎えに行っててね」

 

 2人と話をしながら、ケイが英の方を振り返る。2人の男女は英を見るが、怪訝な顔をする。ホームパーティに参加したことはこれが初めてだし、英もその2人には会ったことがないので知らないのは当然だ。

 

「彼は同じ3年の影輔。私の新しい友達よ」

「よろしく」

 

 ケイに紹介されて、英も頭を下げる。その紹介があったからか、2人の男女はパッと表情を明るくし、英に手を差し出してくる。

 

「初めましてだな。僕はオリバーだ」

「私はシャロン。よろしくね、影輔」

「ああ、よろしく」

 

 オリバーと名乗った男子(苗字の折原(おりはら)をもじってケイが名付けた)と、シャロンと名乗った女子(苗字の代谷(しろや)をもじってケイが名付けた)と握手で挨拶を交わす。いきなりファーストネームで呼び合うほどフレンドリーだったが、ケイの例があったのでもはや動じはしない。

 さて、初めて一戸建て型寮に上がるが、アパートメント型寮に住む英からすれば羨ましいぐらい広い。お洒落なシーリングファンや、リビングの大きなソファーなど、英の部屋には設置するほどの広さがない。

 

「ヘイ、影輔」

 

 そこで英が声をかけられた。その主はナオミ。傍にはアリサもいた。しれっと名前で呼ばれたのだが、彼女も本当は気さくなのかもしれないな、と思いながら英は片手を挙げて挨拶をする。

 

「こんばんは、2人とも」

「初めてこの型の寮に上がったって感じだな」

 

 どうやら物珍しくて中をキョロキョロ見ていたことに気付かれていたらしい。ナオミに指摘されて、英は照れ臭そうに笑う。

 

「ああ、本当に広いな」

「まあ、私も最初に上がった時は驚いたけどね」

 

 アリサが用意してきたジュースのペットボトル(コーラのLサイズが多い)をテーブルに並べながら、英に同調する。アリサもアパートメント型の寮で暮らしているらしかった。

 

「・・・・・・影輔が来たってことは、あれは君の役目か」

「あれって?」

「あれよ」

 

 ナオミとアリサが指差した場所には、既にピアノ・キーボードが用意されていた。

 それを見た瞬間に、左腕に提げていたトートバッグが重く感じられてしまう。本当に20人近くいる人の前で演奏するのだと思うと、冷や汗が垂れてきそうだ。

 

「ケイが絶賛したピアノ、楽しみにしてるよ」

「失敗しないことね」

 

 ナオミとアリサから肩を叩かれ、余計にハードルが上がってしまう。

 心の中で英は『助けて・・・・・・』とだけ呟いた。

 そんな英の緊張などお構いなしに、招かれた客たちが続々とやってくる。ケイの言った通り、ケイやルームメイトの友人たちや、戦車隊のメンバーも到着した。各々花や料理など場を盛り上げるためのものを持ってきていて、呼ばれた者たちも全力でパーティを楽しむつもりなのが見るだけで分かる。

 改めて見ると、純粋な黒髪の人物が少ない(英自身も赤みがかった黒髪だ)。大体が茶髪や金髪、色素の薄い黒髪などで、果たしてここは本当に日本国籍の学園艦なのかと錯覚してしまいそうになる。その中には部屋の中でも戦車帽を被る少女もいて、まったくもって不思議でならなかった。

 呼ばれてきた客も、ただパーティが始まるのを待つだけではなくて、ちゃんと準備を手伝っていた。料理を並べるのを手伝ったり、バーベキューグリルの準備をしたりと甲斐甲斐しく動く。もちろん英も突っ立っているだけではなく、キッチンからテーブルへと料理を運ぶのを手伝った。この準備全てをケイが仕切っていて、彼女のリーダーシップ能力を垣間見た気がする。

 やがて全ての準備が整って、いよいよ乾杯に入る。それぞれがグラスにジュース(ほとんどが炭酸飲料)を注いで手に持ち、ケイが皆の前に立つ。

 

「みんなー、飲み物持ったー?」

 

 ケイが聞くと、全員が頷く。それぞれが知り合いの近くにいたので、英はとりあえずナオミの近くにいることにした。

 全員が飲み物の準備ができたことを確認し、ケイが音頭をとる。

 

「今日はこのホームパーティに来てくれてありがとう。みんなそれぞれ、戦車道とか部活とかで大変な日々を過ごしてるかもしれないけど、今だけは忘れて、精いっぱいエンジョイしてね!」

 

 あまり長すぎず、硬すぎもしない言葉に、全員が小さく笑う。

 

「それじゃ、カンパーイ!」

『カンパーイ!!』

 

 そしてそれぞれグラスを掲げ、近くにいる人とグラスを軽くぶつける。あちこちから『キン』と軽い音が聞こえて来て、英も近くにいた人とグラスをぶつけ合う。

 一口コーラを飲んだところで、ケイが傍にやってきた。

 

「好きなものいっぱい食べていいからね!」

 

 そう言ってテーブルを指すと、テーブルの上にはピザやフライドチキンバレル、フライドポテトにハンバーガー、ポテトサラダなどの多くの料理が並べられている。外ではローストビーフとステーキも準備しているという。

 だがそれら全ての量は多くて、ここもアメリカンな感じがした。それと、栄養素を気にしないと寿命が縮まりそうなレベルで料理のジャンルが偏っている。しかし何も食べないでいると夜に空腹感に襲われるので、サラダとピザを少しずつつまんでいくことにする。

 

「演奏、7時半ぐらいからお願いしてもいい?」

 

 皆がワイワイと楽しみながら食べている途中で、ケイが英に話しかけてきた。つまり演奏する時間は今からおよそ30分後ということになる。

 

「・・・・・・分かった」

「OK!じゃ、それまで楽しんでね!」

 

 最後の背中を軽く叩いて、ケイは別の誰かと談笑する。

 その後、演奏をする時間までの間に分かったことだが、このパーティに招かれた人は全員と言っていいほどフレンドリーだった。英が1人寂しく食事を続けるということはなく、男女問わず誰かが大体話しかけてきてくれる。しかも初対面であるはずなのに、気さくに話しかけてきてくれた。

 『類は友を呼ぶ』ということわざの通りかどうかは知らないが、ケイが主催したから似たような性格の人が集まったのかもしれない。

 

「航空科って結構大変だろ?訓練とか資格とか」

「まあねぇ。でも将来は、パイロットになってやるんだ。あのでっかい飛行機を操縦するのなんてワクワクするだろ?」

「あー、確かにそうだな。ああいうでっかいのってロマンがあるよなぁ」

 

 そしてそんな人たちと話しているからか、英はこれからのピアノに対する緊張感も忘れて、初対面の人との会話に花を咲かせる。こうして明るい性格の人と話していると、どうしてだか英自身も楽しくなってくるのだ。

 少し前までは、自分は同年代の男子の中でも比較的落ち着いている方かもしれないと思っていたが、いつの間にかこうなっていたのか。

 それは果たして、時間による成長か、それともケイと出会ったことでほだされたのか。それは考えても意味は無いなと結論付けて疑問を頭の外に放り投げて会話に興じる。

 そしてあっという間に、約束の時間になってしまった。

 

「じゃあ、影輔。そろそろお願い」

「・・・・・・よし」

 

 その数分ほど前に、ケイが英に話しかけて合図を送る。それで英も、一番最初に出会ったオリバーとの話を申し訳なさそうに切って、荷物置き場に置いてあった自分のトートバッグを回収して中の楽譜を確認し、キーボードの近くへと移動する。

 

「みんなー!ちょっといいー?」

 

 ケイがパーティを楽しんでいた皆に声をかけると、全員が静かになってケイの方へと注目する。

 

「今日は私の友達に頼んで、ちょっとしたイベントを用意してもらったの」

「イベント?」

「そ。彼のピアノはすっごい上手で、とっても楽しくなれるから、皆にも楽しんでもらいたいと思って、生演奏を頼んでみたわ!」

 

 皆が『おお~』と声を上げる。一方でシンディのサポートを受けてキーボードの準備を進めている英は、『ハードルを上げてくれやがったな・・・』と小さく呟いた。

 

「準備OK?」

「今終わった」

 

 ケイが聞いてきたので英は答える。持ち主であるシンディから見ても準備が整っていることを確認すると、シンディもケイに向けてサムズアップする。

 

「それじゃあ、お願いね!」

 

 ケイが英にバトンタッチする。それで必然的に、皆の視線が英に移る。シンディも小さく『頑張ってね~』と言って肩をポンポン叩きながら観客側へと移動した。

 これで皆の前に残ったのは英と物言わぬキーボードのみ。押し寄せる緊張感と不安の波に心が押し流されそうだが、もうここまで来ては後戻りなどできない。ここで辞退するなど、それこそ演奏中にミスをするよりも、穴があったら入りたいぐらい恥辱的だ。

 キーボードの前に並んで様子を窺う人の中には、比較的仲の良いナオミとアリサ、最初に挨拶をしたオリバーとシャロン、他少しだけ言葉を交わした人が何人かいる。

 そして、一番目に付くところにはケイがいた。

 ケイが胸の前で小さく親指を立てて、笑っている。

 その笑みを見ると、なぜか緊張感や不安が和らいだような感じがした。

それで英も、『やるしかない』腹をくくって、まずはお辞儀をする。そこで皆から軽く拍手をもらい(この時点で恥ずかしい)、キーボードベンチに腰掛ける。

 

「・・・・・・ふぅ」

 

 楽譜をスタンドに置いて、息を少しだけ吐き、鍵盤に手を置く。鍵盤の配置は当然ながらいつも弾くピアノと同じだが、キーボードとグランドピアノでは鍵盤を叩く感覚が違う。具体的には、グランドピアノの方が重く、キーボードは軽いのだ。それで演奏に支障が出るわけではないが、それだけは留意しておく。

 持ってきた曲は3曲。曲を弾く順番はあらかじめて決めていたが、いきなり弾き始めるのも何だか変だと思い、キーボードの試奏も兼ねて1つ余興を入れることにした。

 鍵盤を叩き、音を鳴らしてく。ピアノを聴く皆の方から小さく『おお』と声が上がる。

 弾いている曲はゲームのBGMである。だが、ケイが聞いて大爆笑したあのBGMとは違い、それと同じシリーズだが別のゲームのBGMだ。ゲームに本物のオーケストラを起用したのと、BGM自体のカッコよさ、壮大さがプレイヤーの間では話題になったものだ。

 英もこのゲームをプレイしてこのBGMを聴いた時、カッコいいと率直に思って楽譜を取り寄せ覚えたのだ。これが今この場にいる皆が楽しんでもらえるかは分からないが、余興にはいいと思って弾いている。

 この曲はちゃんと終わりの部分が決まっていて、最後の小節まではミスをすること無く無事に弾き終えることができた。

 

「エクセレント!」

 

 ケイが、出会ってから最初に弾いた曲を聴いた後のようにそう告げて拍手をする。他の皆もケイと同じように、頷きながら笑って拍手をしてくれた。それが決して『下手だったけど一応拍手ぐらいはしておこう』と言うわけではないのが分かる。

 掴みはばっちりだったようで、英は一礼して、そろそろ本番に移る事にした。余興を1曲弾いたことで緊張感が薄れ、またキーボードで弾く感覚も大体分かった。

 英が鍵盤に指を再び置くと、自然と拍手が収まって聴く態勢に入る。どうやら、真剣に聴いてくれるみたいだ。それで英も絶対成功させようという元々の決意がより固くなって、楽譜と鍵盤を見据えて指を動かし鍵盤を叩き始める。

 

 それから、持ってきた3曲を連続で弾いた。

 最初の曲は、静かに盛り上がる曲で、サビよりも後奏が盛り上がる曲。曲全体のイメージは、『新しい地に来て、目まぐるしい日常に忙殺される日々を過ごしていても、自分を見失わず今を懸命に生きている』と言った感じで歌詞のフレーズが気に入っている曲だ。

 

 次の曲は、ケイから頼まれたようなしっとりとしたバラードではないが、それでも英の好む曲の中では落ち着いた感じの曲。『長い月夜が過ぎて朝日が昇る中を仲間たちと歩いて、夢を語り合う』と言うシーンをイメージしている曲だ。さわやかな印象が持てたので、この曲も好きだった。

 

 最後の曲は、アップテンポで疾走感のある曲である。それゆえにリズムが前2曲と比べると早く、音符も多いがそれも一興だ。『子供から大人へと成長していく中で忘れてしまった大切なことは、ふとした瞬間に思い出すと自分にとっての世界を広げる』というメッセージ性が籠められた曲である。

 

 このホームパーティで弾くこれらの曲は、ケイの言った通り『みんなが楽しめる曲』を選んだつもりだった。曲のイメージは前向きなものだし、曲調も悲しげではないと思う。

 その3曲全てを英は集中して演奏する。ピアノを弾いている間だけは緊張感も不安も忘れることができた。ミスを犯すことも無かった。

 そしてピアノを弾いている間、聴いている人の誰もが声を発さない。息を吐く音さえも聞こえない。物音の1つも聞こえない。それだけ英の曲に集中していたのが、弾いていても分かった。

 最後の曲を弾き終えて、英が小さく息を吐きながら鍵盤から指を離した瞬間。

 

「パーフェクトだ!!」

「すっごーい!」

「初めて聴いた!」

 

 曲を聴いていた皆が笑みを浮かべて大きな拍手をし、口々に賞賛の声を英にかけてくれた。中には指笛を鳴らす人までいて、パーティが始まってから一番の盛り上がりを見せていた。

 英は椅子から立ち上がってお辞儀をして、『ありがとう』と何度も告げる。事前の打ち合わせ通りこれでピアノはこれで終わりであり、またパーティに戻ることになる。

 だが、当然とも言えるような流れで英には多くの人が話しかけてきた。

 

「すっごいピアノ上手いんだな!びっくりしたよ!」

「ケイが認めただけはあるわね」

「あー、こんな逸材に気付けなかったとは・・・!」

 

 少しの間だけ、曲を聴いていた皆と話をして、やっと落ち着いたところでコーラを一杯グラスに注いで飲む。シュワシュワした感覚が口の中で弾け、少し落ち着いた。

 

「お疲れ」

 

 そんな英に声をかけてきたのはナオミだった。コーラの入ったグラスを英に向けて小さく掲げていたので、英もそのグラスに自分のグラスをこつんとぶつける。先ほどまでナオミの傍にいたアリサは、戦車帽を被った少女とベランダの外の庭へと移動していたようだ。

 

「ケイの言った通りだ。本当に上手いんだな」

「・・・・・・そう言ってもらえてよかったよ。不安で仕方がなかった」

 

 失敗するかどうかが不安だったというのもあるし、自分のピアノをケイは『上手』と言ってくれたが他の人から聞くとどうなんだろうという不安もあった。ケイを疑うわけではないが、こうして他の人からも率直な感想を聞けて英は嬉しくもあった。

 

「ピアノを頼まれたのは今日の昼前で、急なことだからどうなることかと思ったけど、何とかなった」

「あまり緊張してるようには見えなかったが・・・」

「そう見えて心の中では緊張してたんだよ」

 

 英が言うと、ナオミがふっと笑う。ナオミは確か、サンダースどころか国内でも屈指の腕前を誇る砲手だから、胆力も自分なんかとは比べ物にはならないんだろうと英は思う。緊張とは無縁のようだ。

 

「ああ、ところで」

「?」

 

 そこで英は一つ気になったことがあった。

 

「今、ケイから1曲頼まれてるんだけど、その曲がナオミに勧められた曲って言っててね」

「・・・ああ、あの曲か。それが?」

 

 ナオミはすぐに、ケイに勧めた曲が何なのかに気付いたらしい。それで少し気になったことが英はあったので、聞いてみる。

 

「ナオミってラブソングとか聴くんだな。結構意外だ」

 

 そこでナオミは、別に恥じらったりも動きを止めたりもせず、『ああ』と小さく言ってから続けた。

 

「私も普段はロックとかジャズとかを聴くけど、たまにああいう曲が聴きたくなることもある」

「あー、それは分かる気がする」

 

 英はピアノを弾くのが好きだが、音楽を聴くこと自体が好きでもある。そして明るめの曲を弾いたり聴いたりするのを好んでいるが、ナオミの言う通りたまに落ち着いた雰囲気の曲を聴きたくなることもある。だからナオミの気持ちはよく分かった。

 

「影輔は、ジャズとかをよく弾くのか?」

「ん、ああ。ジャズも弾くことがあるし・・・と言うよりもジャンルはあまり問わない。明るめの曲が好きだからな」

 

 そんな感じで英とナオミが話をしていると、庭の方からケイが顔を出しているのに気付いた。

 

「みんなー!お肉がいい感じに焼けたから食べましょー!」

 

 ケイの掛け声に、室内で食事を楽しんでいた人たちが『YEAH!』と声を上げてベランダへと向かう。もしかしたらアリサたちはこれを予見して、先に庭の方へと向かったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、英はベランダへと向かう。ナオミが別の友達に呼ばれたので、英はナオミと一旦別れてから、手を振っているケイの方へと歩いて行った。

 

 

 その後はまた楽しくパーティの時間が流れていった。ザックと言う少年が持ってきた肉のステーキが美味かったり、コーラの一気飲みに挑戦した猛者が現れたり、ポッキーゲームを始めるカップルがいたりと、パーティを思いっきり楽しんだ。

 その中で、オリバーが英のピアノがまた聴きたいと言い出し、他の人がそれに乗っかって全員でアンコールを要求してきた。それで結局英は、暗譜している短めの曲をいくつか弾いて、再び場を盛り上げることができた。

 そしてそんな楽しいホームパーティは8時半過ぎ頃にお開きとなる。多めに用意されていた料理も残らず平らげられていて、残り物など1つとしてなかった。

 そして、パーティに来ていた客人たちは、主催したケイと、パーティの最中でピアノを演奏した英にお礼を告げて、それぞれ帰って行く。

 ケイたちと親交のあるアリサ、バーベキューグリルを使ったザック、そして英は残って片づけを手伝っていた。

 

「ごめんね、手伝わせちゃって」

「いや、ただ楽しんだだけで帰るっていうのもなんか後味悪いし」

 

 皿を片付けている英に、飲みかけのジュースのペットボトルを抱えたケイが話しかける。まとめて冷蔵庫に入れる気らしい。

 そこでアリサが、パーティで発生したゴミを纏めると、そのゴミを持ったまま帰って行った。帰りがけにゴミステーションに捨てていくらしい。それとほぼ同じ時間に、庭でグリルの後始末をしていたザックも作業を終えて、帰宅する。その間際に、英と握手を交わして『また会えたら会おう』と約束をしてくれた。

 英が空の皿をキッチンに運ぶと、皿洗いをしていたシンディとナオミが笑いかけてきた。

 

「もう大丈夫だ。後は私たちでやる」

「そうか、ならそろそろお暇するかな」

「うん、サンキューね。それじゃまた~」

 

 シンディが手を振り、英も手を振り返して荷物を回収し、玄関へと向かう。

 そして玄関を出ようとしたところで、ケイに呼び止められた。

 

「今日は本当にありがとね。影輔のピアノのおかげで、皆盛り上がってたし」

「ああ、あれは本当に緊張した」

「でも、皆影輔のピアノが上手だったって言ってたわよ」

「それは良いんだ。ただ、結構疲れた・・・・・・」

 

 実はケイは、先ほどのパーティの時に思った事が一つあった。

 それは英のピアノの演奏が終わった少し後、ザックが持ってきた肉がいい感じに焼けてきて、『そろそろ食べごろだし、皆を呼ぼう』とザックがケイに告げ、中にいる皆に声をかけようとした時だ。

 ケイはベランダから部屋の中を覗き込んだところで、英とナオミが何らかの話をしているのに気付いた。

 何の話をしているのかはケイのいる場所からは聞こえなかったが、2人は楽しそうに話をしているというのだけは分かる。

 そしてそのさまを見ていると、なぜかケイの中でモヤッとした感情が芽生える。

 

(・・・・・・なに、この気持ち・・・?)

 

 だが自分の気持ちに対して自問自答する前に、英がこちらに気付いたようで、視線がぶつかったような気がした。そこで、ザックの持ってきた肉が焼けたのを皆に知らせるというそもそもの目的を思い出して、皆に声を掛けたのだ。

 しかし、今こうして英と普通に会話をしていると、あの時抱いていたモヤッとした感じの気持ちがちっとも湧いてこない。

 むしろ、英と話をしているだけで、どうしてか心が温かくなるような、先ほどとは全く逆の感じがした。

 

「でも・・・今日はこのパーティで参加できてよかった」

「え?」

 

 不意に英が話しかけてきたので、ケイは思わず聞き返してしまう。だがそれでも英は気を悪くしたりなどせずにケイを見ていた。

 

「楽しく他の人と話せたり、自分のピアノで皆を楽しませることができたりして・・・」

「・・・・・・・・・」

「だから今日、ケイが誘ってくれて本当によかった」

「・・・・・・・・・」

 

「ありがとう、ケイ」

 

 いつかと同じように、英は笑ってそう言ってくれた。

 その時ケイの中に、ふわっと、何か温かい、抱いたことのない感情が芽生えたような気がした。

 それと同時に、英のことがなぜだか愛しく思えてくる。

 

「・・・・・・あ、そう言えば影輔」

「ん?」

 

 ケイは、平静を装って英に声をかける。英は帰ろうとしてドアノブに手をかけていたところで、ケイに呼び止められて動きを止めている。

 

 

 そんな英の頬に、ケイはそっとキスをした。

 

 

 

「・・・・・・・・・・・・ぇ」

「今日のピアノの、お礼よ♪」

 

 いたずらっぽく笑うケイを見て、英は言葉を失い、たった今ケイからされた行動を思い出して、頭の中が真っ白になってしまった。

 

「それじゃあ、また明日ね。グッナイ」

 

 ケイが手を振ると、英も脳が最低限の活動を取り戻して、『・・・・・・ああ』とだけ答えてケイの寮を後にする。

 外へ出て空を見上げれば、海を航行する学園艦の特権とも言える満天の星空が広がっている。そして秋の夜特有の冷たい空気が英の身体に纏わりつくようだった。

 だが、それでも英は身体が火照ってしまっているような感じがしてならない。具体的には、自分の左の頬の部分が熱くて仕方がない。もっと言えば、顔全体が熱くなってきてしまった。

 分かってたはずなのに、ケイがああいうことを平然とすることができる性格だというのは分かっていたはずなのに、自分がどうしてここまで。顔が熱くなるぐらい恥ずかしくなってしまうのかが分からなかった。

 その顔の熱気を逃がすかのように、英は気持ち早歩きで自分の寮へと向かって行った。

 

 

 英が去った後、ケイはしばしの間玄関に立ち尽くしていた。

 そして、先ほど自分が英に対してした行動を思い出して、猛烈に恥ずかしくなってきた。

 あの、頬へのキスは、普段のケイからすれば軽い挨拶やお礼のつもりですることが多かった。同性異性を問わず、本当に軽い気持ちで、何度か交わしていた。アリサからは『そう言うことは気安くするもんじゃない』と何度も言われていたが、フレンドリーなケイからすればそこまで深い意味は持たない行為だった。

 

「~~~~~~・・・・・・!」

 

 だが、先ほどの英に対するものだけは、『深い意味はない』とは自分でも言い切れなかった。

 だって、相手に対して愛おしさを覚えることなんて今まで無くて、その愛おしさが抑えられずにあんなことをしたのだって、初めてだったのだ。

 自分の抱いたことのない、そして今自分の中で芽生え始めた感情が何なのか、ケイは掴みかけていた。

 

「ケイ?」

「ホアッツ!?」

 

 そこで突然背後から声をかけられて、思いっきり声を上げてしまう。そして振り返ってみれば、ナオミが立っていた。だが、ケイが予想以上に驚いていたのか、珍しく冷や汗を垂らして動揺しているように見える。

 

「な、なに・・・・・・?」

「いや・・・姿が見えなかったから探してただけだけど・・・」

「そ、そう。ソーリー、すぐ戻るわね」

「ああ・・・・・・」

 

 ナオミがキッチンの方へと戻っていく。ケイは、頬をパシパシと軽く叩いてリビングへと戻る。少しパーティで汚れてしまったかもしれないので、掃除機をかけるのだ。

 だが、その前にケイは立ち止まって、自分の胸に手を置く。

 

「私――――――」

 

 




筆者は海外渡航経験が無いので、
アメリカっぽいホームパーティの様子は想像です。

また作中のゲームのBGMは、
紫のコインを集めるステージのBGMのつもりです。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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抱いたことのない

感想、お気に入り登録ありがとうございます。
とても励みになります。

今回も少し長めですが、
予めご了承ください。
そして、よろしくお願いします。


 ケイのホームパーティから一夜明けた翌日、英は大人しく学校に通っていた。昨日のパーティでいくら印象的な出来事が起こったとしても、悪い素行とは無縁で人並みに真面目な英は学校をサボったりなどしない。普段よりも、授業にはあまり身が入らなかったが。

 その日の英の昼食は、休日を挟んでおよそ3日ぶりに山河と一緒だった。今日は授業が長引いたりせず出遅れることも無かったので、いつものように2人掛けのテーブルに向かい合って座っている。英はコロッケ定食、山河は豚丼だ。

 

「今日はクイズ研の方はいいのか?」

「うん、部長が休みみたいで」

 

 どの部活にも所属していない英と違って、山河はクイズ研究部という部活動に所属している。

 クイズ研究部、通称『クイズ研』は、クイズ好きが集まった部活動である。日々の活動は専ら知識を蓄えるための勉強や部内でのクイズ大会と、他から見れば異質と言える。

 しかし、学内新聞に掲載されている脳を鍛えるトレーニング問題や、クロスワードパズルなどはこのクイズ研が作成したものである。また、テレビで放送されている学生クイズ大会にも何度も出場しているなど、意外と本格的だった。

 

「サンダースフェスタ、もうすぐだろ?」

「だから部長から『なんかいいアイデア出せ』って言われてるんだよね・・・・・・」

 

 英の言う『サンダースフェスタ』とは、言ってしまえば文化祭だ。学校全体が一丸となって行われるこのサンダース大学付属高校の一大イベントであり、この学校自体の規模が大きいために訪問者数はかなりの数を誇り、多彩なイベントを開催することも人気だった。

 そんなサンダースフェスタでの恒例とも言えるイベントは、サンダース戦車隊のシャーマン50輌による総合演習だ。流動的な隊形変化やインパクトのある砲撃演習、模擬戦を行うこの総合演習は、サンダースが多くの戦車と広大な敷地を持っているからこそできる芸当である。こうした大規模な演習を、文化祭という一般公開されている場で行うことは他の学校でも滅多にない。そんな、普段お目にかかれない戦車道の大規模演習ということで、例年人気が高いイベントである。

 そして、山河の所属するクイズ研は、自分たちが主体となって毎年大ホールでクイズ大会を開催している。たかがクイズ大会と思うかもしれないが、サンダースのクイズ研は学生が出場するクイズ番組にもたびたび登場しているしので知名度が高い。加えて、演出やセット、問題型式が毎年本格的で、飛び入り参加が可能なのが話題になっている。さらに回答者には教師陣、戦車隊隊長、OBやOGの他にゲストを招くなど、色々と凝っているところも人気だった。

 そのクイズ研の部長は、どうやら今年のサンダースフェスタでのクイズ大会で、何かひとつ面白いクイズをやりたいと思っているらしい。だが、そのアイデアが浮かばず、山河をはじめとする部員たちも各々知恵を絞ってアイデアを捻りだそうとしているのだ。

 

「あー、なんかないもんかなぁ・・・・・・」

「ま、今は飯でも食ってリラックスするんだな。アイデアなんて自然と浮かんでくる」

 

 山河を元気づけるように英はそう言って、コロッケを齧る。渋々山河も豚丼を食べ始める。

 

「・・・・・・あ、ところでさ」

「ん?」

 

 緑茶を飲んで一息ついた山河が何かを聞こうとした。英はキャベツをつまもうと割り箸を伸ばして。

 

「ケイさんとは最近どうなの?」

 

 割り箸を机に落としてしまった。

 それが動揺しているからなのは、山河の目から見れば明らかだった。しかし、山河としては大事な何かを聞いたつもりは微塵も無い。だから、なぜこの程度のちょっとした質問で英が平静を乱したのかは分からなかった。

 

「どうかした?」

「・・・・・・いや、何でもない」

 

 英は、ケイの名を出された直後に、昨日のことを思い出したのだ。より具体的には、昨日のホームパーティで帰る直前にされたことを。

 だが、そのことを思い出すと顔が熱くなってしまうので、その考えを振り払うように頭を振って水を飲む。それで気を紛らわせて、山河の質問に返す。

 

「それより、“どう”ってなんだよ」

「いや・・・この前みたいにピアノを聴いてる感じ?」

「・・・そうだな。最初に会った日から、毎日来てる」

 

 一昨日のちょっとしたイレギュラーで音楽用品店に行ったのと、昨日のホームパーティについては言わないでおいた。山河に限ってそれは無いと思うが、自慢話と思われて嫌な印象を植え付けたくはなかった。

 そして何より、英が昨日以来ケイのことを考えると、どうしても顔が熱くなってしまって考えがまとまらなくなってしまうのだ。だから、今だけはそのことを考えないようにした。

 

「毎日来てるんだ・・・。じゃあ、今日も来るの?」

 

 山河が興味ありげに聞いてくる。だが英は、首を横に振った。

 

「いや、今日はクリスから頼まれた曲を録音するのと、集中して練習したい曲があるから・・・」

「・・・・・・へぇ」

「だからその曲が完成するまでは・・・呼ばない」

 

 その集中して練習したい曲というのが、ケイのために弾くと言った、彼女のお気に入りのあのラブソングだ。

 イメージトレーニングをしていて思ったが、挑戦したことのないジャンルだったので、クリスから頼まれた曲のように数回練習しただけでクリアするとは到底思えない。だからこの曲は、実際のピアノで何度か練習を重ねないと無理だと判断した。

 さらに、自分から弾くと言い出したのと、あのケイのお気に入りの曲というわけだから下手な出来にすることも許されない(ケイだけの話ではないが)。そう思って、英は1人で集中して練習することに決めたのだ。

 その旨を昨日の夜、ホームパーティから帰った後でケイにメールで伝えると。

 

『Oh・・・それじゃ仕方ないわね。

 完成するのを待ってるわ!XD』

 

 と、同じくメールで返してくれた。英の少々勝手かもしれない意見具申にも特に気分を害してはいないようだったので、ひとまずは安心した。

 だが同時に、英は申し訳ないことをしたと思っている。

 あのホームパーティから帰ってから、英はケイのことを考えると猛烈に顔が熱くなって、恥ずかしくなってしまうのだ。

 考えるだけでこれなのだから、実際にケイと会って自分がどうなるのかは想像がつかない。そしてそれを恐れて、練習を建前にしているつもりはないが、英はケイを遠ざけるような真似をしてしまった。

 

「・・・・・・・・・」

 

 山河が何か言いたげな表情で英の事を見ているのに気付く。『なんだよ』と英が促すと。

 

「いやぁ、ケイさんが可哀想だなぁって思ってね」

 

 コロッケを齧ろうとしたところでそれを止めて、改めて山河の顔を見る。山河はふざけているようにも、茶化しているようにも見えず、至極真面目な表情をしていた。

 無視することなどできようもなく、問い返す。

 

「・・・どうして」

「だって、ケイさんは英のピアノを気に入ってるんでしょ?毎日聴きに来てるぐらいなんだし」

「・・・・・・・・・」

「だから今日、英がいるのにそれが聴けないのが、可哀想だなあってこと」

 

 そうだ。最初にケイが英の傍でピアノを聴いた時、ケイは『気に入った』と言ってくれた。そして英がピアノを弾く日は毎日来て、英の傍でピアノを聴いていた。

 音楽用品店に行った日には、不測の事態で音楽室が使えずピアノも弾けないと知った時、ケイは僅かではあるが暗い顔を見せた。その本当に残念そうな、辛そうな表情を英は覚えている。

 そして今日からは、事前に伝えてあることが違いとはいえ、英のピアノを聴きたいというケイの期待に沿えない形となる。それが可哀想だと、山河は言ったのだ。

 山河の言葉で今さらながら気付き、英の心の奥底から罪悪感が湧き上がってくる。いや、ケイを遠ざけるような真似をしたと自分で気付いた時点で罪悪感は覚えていたのだが、それが一層強くなった。

 

「・・・ああ、そうだな。なるべく早く完成させられるようにするよ」

「それがいいと思うね」

 

 元よりそのつもりだったが、その決意はより強固なものとなった。自然と、英の割り箸を握る手に力がこもる。

 

「・・・・・・そう言えば、今日はケイさん見ないね」

 

 山河が入口の方を見ながら呟く。確かに、今日はケイの姿を見ていないし、ケイが来た時特有の黄色い歓声もまだ聞いていない。

 

「・・・他の食堂に行ったんじゃないか?何かの用事とか、誰かと約束してたとか」

「まー、だろうね」

 

 英は昨日のホームパーティで、ケイの交友関係の広さを改めて思い知った。だから恐らく、他の棟にもケイにとっての親友と言うべき人がいるのだろうし、その人と前もって約束をして、別の食堂で食事を摂っているのかもしれない。

 ケイのことを思うと、どうしても遠ざけたことに対する罪悪感を思い出してしまう。

 同時に、昨日のことも思い出してしまって、顔を抑えて声を上げたくなる。だがここは食堂なのでそんなことをしたら一気に変人に成り下がってしまう。

 水をまた飲んで、コロッケを乱暴に口に放り込んで恥ずかしさを振り払った。

 

 

 終業のベルが学校に鳴り響き、ホームルームの終わったクラスの生徒たちは教室を出て、それぞれの予定に向けて行動を始める。

 ナオミもまた、周りの生徒と同じように荷物を纏めると、教室を出てこの後の予定を思案する。

 ここ最近では、ケイはホームルームが終わるとすぐに『ハイランダー』棟へと向かっている。それはこの前昼食の席で一緒になった英のピアノを聴くためだということは、既に分かっていた。だから、ナオミの中の『ケイはどこへ行ったのか』という疑問は既に晴れている。

 今日も恐らく、ケイはそうするのだろうし、アリサを誘って帰ろうか、と思って早速アリサの教室へと歩を進めようとしたところで。

 

「Hey,ナオミ!」

「?」

 

 聞き慣れた明るい声で名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのは、紛れもなくケイだった。ピアノを聴きに行っているはずだが、なぜここにいるのだろうか。

 

「・・・影輔の所に行ったんじゃなかったのか」

 

 だから思わずそう問いかけると、ケイは少し困ったような笑みを浮かべて頭を掻く。

 

「それが影輔、今日は録音があって・・・。それと、少しの間1人で集中して練習したいって言ったから。だから仕方なく、帰ろうかなって。ナオミは今から帰るとこ?」

「ああ、丁度ね」

「なら一緒に帰りましょ?」

「分かった」

 

 思わぬ事態になったがナオミにとっては困ることなどはなかったので、ケイと一緒に帰ることにする。そしてアリサだが、彼女も別の用事があるようで誘うのは無理だった。少し愛想の無いところが目立つアリサだが、彼女も彼女でそれなりに交友関係が広いのだ。

 校門を抜けて、太陽が照らす晴れた空の下を2人は並んで歩く。その間、ケイはナオミに話しかけてきた。

 

「少し寄り道していこっか。あ、そう言えば74アイスクリームにニューフレーバーが登場したんだって」

「・・・・・・・・・」

「ナオミはどこ行きたいとかリクエストある?今日は時間あるし付き合ってあげるわよ!」

「・・・なあ、ケイ」

「何?」

 

 気さくに話しかけるケイの言葉を聞いた上で、ナオミはあえてケイに話しかける。ケイは歩きながら首をかしげてナオミの方を見て、そんな彼女に対してナオミは。

 

「・・・大丈夫か?」

「え、何が?」

 

 何の脈絡もなくケイの身を案じるナオミの質問に、逆にケイが聞き返す。

 

「今のケイは・・・無理してるようにしか見えないけど」

「・・・・・・え」

 

 ナオミが足を止める。それでケイも、少しナオミの前を行ったところで立ち止まって、ナオミの方を振り返る。

 

「ケイと知り合ってから大分経つから、ケイの小さな変化にも気付くことができるようになった」

「・・・・・・」

「多分今、ケイは普段通りに振る舞ってるつもりなのかもしれない。けど私には、そうは見えない」

「どうして・・・・・・?」

 

 ケイがそう聞くのは、ナオミの言っていることが図星だと言っているも同然だった。サンダースに入学して以来の親友だから隠すことも難しい、と早々に判断した結果である。

 

「いつもみたいな、ケイ本来の性格による素の明るさじゃなくて、無理に作ってる明るさなんだと私は感じてる」

「・・・・・・」

 

 サンダースの生徒たちが、2人の脇を通り過ぎてこそこそと何かを話している。お互いにサンダースでは名の知れた有名人なのだから仕方ないのかもしれないが、今の2人に聞こえているのはお互いの呼吸と言葉だけだった。

 

「多分だけど、ケイには心待ちにしていた“何か”があった。けどその“何か”が無くなって、その代わりになるような楽しいことを、今は必死になって探しているんじゃないかって、私は思う」

「・・・・・・」

「それが、無理をしているんじゃないか、ってことさ」

 

 ナオミにそう言われて、ケイは小さく息を吐きながら笑う。全てその通りだ、と顔で表現していた。

 

「・・・・・・確かに、ナオミの言う通りよ。確かに今日は、楽しみにしていた“それ”が無くなっちゃったわ」

 

 この時ナオミは、そのケイの楽しみにしていた“何か”の正体には、もう気付いていた。だが、それは今は言及せずにケイの言葉に耳を傾ける。

 

「でもそっか・・・・・・。無理してるように見えちゃってたのね。心配かけてゴメンね」

「いや、それは謝らなくてもいい」

「それでも、ナオミとこうして出かけられるのだって楽しいわ。それに、無くなっちゃった“それ”にばかり気を取られてくよくよするのも私らしくないもの。だから、空元気に見えても私は今を楽しむつもりよ」

 

 そう告げて、ケイは再び歩き出す。

 

「・・・・・・それならいいけど」

 

 ナオミも、ケイの後姿を見てそう呟きながら後に続いた。

 だが、ケイは口ではああ言ったものの、心ではとても困惑している。

 確かにナオミの言う通り、今日は心から楽しみにしていたことが無くなって―――英のピアノが聴けないことが残念だったが、ケイが困惑している理由はもう1つある。

 それは、英から『1人で練習させてほしい』というメールを受け取ったことだ。

 あのメールを受け取る前、つまりホームパーティで、ケイが最後に英に何をしたのかは覚えている。

 それまでは単なる軽い挨拶のつもりで交わしていた頬へのキス。だが、あの時ケイは、英に対して愛おしさを覚えてあの行動をとった。それは、あの時英と話をして、愛おしさを抱いて起こした行動だ。

 だがもしかしたら、英はあれを迷惑と思っているのかもしれない。だから今日、英は今日は『1人で練習したい』と言ったのかもしれなかった。

 それはまるで、ケイのことを遠ざけるかのようなものと思えてしまった。

 

(・・・・・・・・・・・・)

 

 ふと、これがきっかけで英との関係が消えてしまうのではないかと、ネガティブな思考に囚われる。そんな悪い方向に考えるのが自分らしくは無いと分かっていても、なぜかそんな考えが付きまとってくる。

 そして、そんなことを考えると胸が引き裂かれそうになるぐらい、心が痛くなる。

 どうしてここまで、英のことを考えると愛しく思い、その英と離れてしまうと考えると胸が痛むのだろう。

 しかしケイは、自分で自分にそう問いかけてはいるが、その答えである『感情』にはもうほとんど気付いていた。この気持ちを抱くのはその『感情』のせいだとすれば、今の自分がどうしてそう考えてしまうのかについても合点がつく。

 だが、その『感情』は自分の人生でも抱いたことのないものだったから、まだ本当にそうなのだという確証が持てなかった。

 そうと認めたくても認めることができないというジレンマに苛まれているケイではあるが、それでもその不安を顔に出すまいと最大限努めてきた。親友のナオミには隠し切れなかったが、自分が無理をしているように見えた理由の半分だけは伝えた。残りの半分だけはまだ自分でも理解しきれていない気持ちだからいうことも憚られた。

 その相反する気持ちが胸の内で渦巻く中で、ケイはナオミと共に寄り道をしていくために、学園艦の市街地の方へと向かった。

 

 

 同時刻、英は『コマンドス』棟の第3音楽室に併設されている録音室で、クリスから頼まれた曲をあらかじめ用意されているピアノで演奏していた。

 この録音室は要するに録音スタジオであり、専用のブースで歌を歌ったり、楽器を持ち込んで演奏したりして、それを録音して任意の媒体に記録することができる。

 暗譜しなければならないという縛りもしていないので、楽譜を見ながら指先にも意識を向けて鍵盤を叩いていく。前に最短で完成することができたとはいえそれで満足しているわけでもなく、あれからも何度かイメージトレーニングをしたり実際のピアノでの演奏もした。なのでもう、間違いはなく弾くことができる。

 無事に弾き終えて録音が終了する。そして、クリスに渡す媒体(USBメモリー)にしっかりと録音した曲が転送されていて、その曲も間違いがないことを1度聴いて確認すると、良しと頷く。

 これで、クリスからの依頼は無事に完遂することができたわけだ。

 

「ありがとうございました」

「いいのか?」

「はい、無事に終わりました」

 

 立ち会っていた教師にお礼を告げて、録音室と第3音楽室の施錠もして鍵を預けると、英は今度は『ハイランダー』棟の第5音楽室へと向かう。この『コマンドス』棟に来る前に鍵は借りていたので、この前のような先客に使用されるかもという心配は不要だ。

 何事も無く音楽室に着いて鍵を開け、電気を点けると室内が明るく温かみのある色合いの電灯に照らされる。そして他のものには目もくれずにグランドピアノへ向かい、学生鞄とトートバッグをピアノ椅子のそばに置き、その椅子に座る。

 

「・・・・・・よし」

 

 早速、楽譜をトートバッグから取り出してスタンドに開き練習を始める。弾く曲はもちろん、ケイのお気に入りだというあのラブソングだ。楽譜を入手した日以来何度もイメージトレーニングをしているので、大体のミスをする箇所は洗い出せている。

 だからと言ってミスはもうしないというわけではなく、しかもそのミスをする箇所が多いせいで完成するには険しい道となりそうだというのが、今の英の感想だ。

 

(だが、やるしかない・・・・・・)

 

 それでも、例え茨の道を歩むことになろうとも、英は弾くしかない。ケイを遠ざけるような真似をしてまで集中するのだから、何としても完成させなければならなかった。

 決意を新たに、楽譜に従って弾き始める。『ふとしたきっかけで抱いた恋心は、相手を想い続けることで色褪せることはなく、最後には結ばれる』という全体像と、付箋が貼ってある場所には注意して、ということを念頭に置いて。

 まず前奏。ここは静かに始まり、だが哀しさや辛さなどを感じさせないように、音が少し高めだった。

 最初のメロディ(Aメロ)は、前奏とは変わらないリズムだが少し低めの音で弾いていく。ここでの歌詞は、ちょっとしたきっかけで相手と出会い、その時はまだ相手のことをそれほど大切な人とは考えていなかった、という感じだ。

 次のメロディ(Bメロ)は、Aメロよりも少し明るめの曲調に変わる。この場面は、その相手と何度も会うにつれて次第に惹かれていき、自分の中に何らかの感情が芽生えてきたのを感じる、という場面である。

 そしてサビに入り、曲が一番盛り上がる。だが、英の好む曲のように音を強調して鳴らしたり音が上がったりテンポが速くなったりするのではない。曲全体を通して一番盛り上がるというだけで、全体の落ち着いた雰囲気は壊さない、静かに盛り上がるタイプのサビだ。

 この場面で歌詞の方は、遂に自分の抱いた感情が恋だということに気付くのだ。そこから、相手のことを考えない日が無くなって、想いを告げたいと思うようになる、と表現されていた。

 続く2番の曲調は1番と同じで、Aメロ、Bメロ、サビの歌詞の意味も1番とほぼ同じだ。しかしその目線はもう1人の登場人物に変わっている。

 間奏では、サビで盛り上がった曲調を保ったまま、最後のサビに続くメロディ(Cメロ)に入る。そこで曲調が全体を通して一番緩やかで、落ち着いた雰囲気になる。ここでは、お互いに自らの恋心に気付き、そして2人がそれぞれの下へと夜中にも拘らず走り出す、というイメージだ。

 そして最後のサビで遂に、2人は結ばれて夜の海辺を手を繋ぎながら歩き、朝日が2人を照らす中でキスをする・・・という曲だった。

 そして後奏は、そんな2人の明るく幸せに満ちた未来を示すかのように、ゆったりとしたリズムと穏やかな音で締めくくられた。

 

「やべぇな・・・・・・」

 

 だが、どれだけ曲のイメージができていたとしても、ピアノの演奏自体はボロボロだった。テンポがゆっくりなせいでリズムが乱れがちになり、音を外すことも多々あった。最初でこの出来栄えとは、先が思いやられる。

 

「・・・・・・・・・」

 

 そして曲の演奏を終えたところで、英は音楽室がやけに静かなのに気付いた。だが、それはつい最近は毎日来てくれていたケイがいないからだということにも、すぐに気付く。ケイは、曲が終わった後はいつも拍手をして、1曲を弾き終えた英を称えてくれたのだから。

 もしも今、ケイがこの場にいてくれたらどういう言葉をかけてくれるだろう、と英はふと考える。

 

『ドンマイ!次頑張ればいいじゃない!』

 

『まあ、そんなこともあるよね。再チャレンジよ!』

 

『影輔なら絶対できるわ!頑張って!』

 

 なんてことを言ってくれるのだろうか、とぽやんと考える。

 だが、次の瞬間英はピアノを思いっきり五本の指で叩き、『ガンッ!!』と乱暴な低い不協和音が音楽室に鳴り響く。

 

(何バカなこと考えてるんだ、俺は・・・・・・)

 

 自分からケイを遠ざけたにもかかわらず、この場にケイがいたとしたら、などと益体も無いことを考えるとはあまりにもバカバカしい。変にもほどがある。

 少しリフレッシュしようと思い、来る途中の校内の自動販売機で買ったペットボトルのコーラを飲む。炭酸が口の中で弾けて意識が覚醒する。

 何でここまでケイに固執するのかは、未だ英自身には分かっていない。しかしその考え自体に固執していてはいつまでたっても曲は完成しないだろう。

 だから一度、ケイのことをなぜここまで気にしているのかは置いておき、2回目の演奏に入ることにする。

 しかしながら、2回目を弾き終えてもミスの数は大して変わらず、やはりすぐに完成させるのは難しいということを思い知らされた。

 

「・・・・・・・・・はぁ」

 

 鍵盤蓋を閉じて、閉じた蓋に突っ伏す。2回連続でこうもひどい出来となると、ますますもって完成させられるかどうかが不安になってきた。

 だが、自分は『ケイのために弾く』と言ったのだから、もう後戻りは許されない。

 そして、自分のピアノのことを気に入ってくれたケイのこと、ケイの笑顔を思うと、諦めたいというくらい考えが消え去り、挫けそうになる気持ちが上向きになってくる。

 ケイのように朗らかな人の笑顔とは、目にしたり、思い浮かべるだけでどうしてか気持ちが明るくなるものだった。

 そこで英は、もう一度やってみようと思い立って、再び蓋を開けて鍵盤に手を置き、弾き始める。

 その最中、英の頭の中に、あるイメージがぽっと浮かび上がってきた。

 それは、この曲に登場する2人の男女の姿だ。英は今まで一度も恋をした事がなかったから、この曲に出てくる2人の姿は単に『男と女』としか認識せず、姿もシルエットでしかイメージしていなかった。

 だが今思い浮かんだその男女の姿は、なぜか、英と、ケイだった。

 

「・・・・・・・・・あ」

 

 その矢先、音を外してミスを犯した。

 英は『アホなことイメージするからだ』と舌打ちをしながら思う。だがそれで癇癪を起こしたりはせずにとにかく最後まで弾き続ける。

 ところが、どうしたことか、その後のミスの数は先ほど弾いた時よりも減ったのだ。

 その要因は英は分からなかったが、とりあえず『何度か弾いて慣れたから』ということにしておいた。

 

 

 その翌日の昼休み。山河はまたクイズ研での会合があるようで、昼休みのベルが鳴ると購買の方へとそそくさと向かって行ってしまった。

 だが、英も今日の昼食は1人ではなかった上に待ち合わせの時間も決められていたので、小走りに『バルタザール』食堂へと向かう。すると、券売機近くには既にその待ち合わせていた人物はいた。

 

「クリス」

「ハロー、英」

 

 軽く手を挙げて英の前に歩み出たのは、英が言ったようにクリスだ。

 クリスから頼まれていた曲の録音と転送が昨日完了したので、それを昨夜メールで伝えたところ、今日の昼食を約束通り奢ると言ってくれた。英もその提案に賛成して、今日この時間にここで待ち合わせることにしたのだ。

 

「で、例のブツは?」

「・・・・・・ここに」

 

 スパイ映画で見る取引のような言い回しをしながら手を出すクリス。やれやれと思いつつも、英もそれっぽい言い方でUSBメモリーをクリスの掌の上に置く。

 

「サンキュー!帰ったら早速聴いてみるね」

「一応確認はしたが、ミスとかあったら言ってくれ。やり直すから」

「うん。でも英のだもん、大丈夫よ」

 

 クリスの言葉は、英に対する信頼の表れであることは分かっていたので、変な勘違いもせずに肩をすくめて『ふん』と息を吐き小さく笑う。

 そして約束通り、クリスがランチを奢ってくれることになった。ただ、流石にやたら高いメニューを頼むのは気が引けたので、1000円強の牛カルビ定食を頼むことにする。クリスは了承して券売機で券を買い、英に渡す。このメニューも食堂では比較的安い方なのだから恐ろしい限りだ。

 

「もっと高いのでもよかったのに」

 

 料理を受け取り、2人掛けのテーブル席に座ってからクリスが話しかけてくる。

 クリスはこれまでも何度か英にピアノを頼み、そのお礼にランチを奢ることも同じぐらいあった。だが、その中でも英は一度たりとも食堂の最高級メニューを頼んだことはなく、今英が食べようとしているような牛カルビ定食ぐらいの値段のものばかりだった。

 そんなクリスが頼んだのは、ステーキ定食。だが、山河がたまに頼むステーキ定食よりもワンランク上のクラスであり、料金も相応に高い。

 

「別に、高い飯を食うためにピアノを頼まれてるわけじゃないし」

「おー、イケメン」

 

 英は小さく笑うが、浮かれてはいない。クリスのそれは冗談だと分かっていたし、自分で言ったようにタダでランチが食べられるからピアノを弾いているわけでもないのだから。

 そんな感じで雑談と冗談を交えながら食事を始める2人。そして半分ほど食べたところで、クリスが新しく話を切り出してくる。

 

「ねぇ、英」

「ん?」

「もう1曲頼んでもいい?」

 

 ステーキを一切れ咀嚼し終えてからそう頼んできた。またピアノで聴きたい曲を見つけてきたのかもしれないが、残念ながら英は今その依頼に応えることはできなかった。

 

「・・・・・・悪い、今は無理だ」

「え、なんで?」

「別の人から頼まれた曲がある。それを完成させるまではできない」

 

 どこかから情報が漏れてしまうことを考慮して、その別の依頼人がケイであることは明かさない。クリスはそんな情報をぺらぺら話すような輩ではないことはとうに知っているが、ケイと知り合いということを話すとおちょくられる可能性が高かったので、言いたくはなかった。

 そこで、食堂の入口の方がにわかに盛り上がった。昨日は聞かなかったそれは、ケイたちが来たサインだ。だが、それを全く気にせずクリスは話を続けてくる。

 

「誰から頼まれたの?」

「それは・・・・・・言えん」

「なんでー?教えてくれたっていいじゃない」

「いや、ほら。それはプライバシーのあれやこれやが」

「ケチー」

 

 そんな軽口を叩いていると、2人が食事をするテーブルのすぐそばをケイ、ナオミ、アリサの3人が通り過ぎて行った。英は食堂の奥の方に向かって座っていたから、後ろからケイたちが来たことに今の今まで気付かなかった。

 ケイたちに声をかけるタイミングを逃した英は、その後姿を少しの間眺める。が、昨日山河の言っていた言葉が脳裏によぎった。

 

『ケイさんが可哀想だなぁって思ってね』

 

 その言葉と同時に思い出したのが、音楽用品店に行った日、ケイが少しだけ見せたあの暗い表情。

 山河の言葉と、ケイの似つかわしくない表情が頭の中でフラッシュバックし、今なお見えているケイの後姿が何だか落ち込んでいるように見えてきた。英の中でも、抱いている罪悪感が大きくなっていくのを感じる。

 ケイには、本当に申し訳ないことをしたと思う。弾いたことがないジャンルだから集中して練習したいという理由と、ホームパーティの出来事以来顔を合わせられないという理由で、ケイを遠ざけるようなことをしてしまったことを、悔いていた。

 だから一刻も早く、あの曲は完成させなければならないと、心に言い聞かせる。

 

「とにかく、今は無理だ。今弾いてる曲が完成したら、また受けてやるから」

「はーい」

 

 再度英が断ると、クリスはようやく納得したようで不貞腐れながらも一応は引き下がってくれた。英は『悪いな』とだけもう一度告げて、牛カルビ定食を食べる。少し冷めてしまっていたが、それでも味は落ちていない。

 

 

 だがその日も、曲を完成することはできなかった。

 昨日と比べるとミスは減った方ではあるが、まだまだ完成とは言えないような出来だ。

 それでもミスが減ったのは昨日、この曲に登場する二人の男女のイメージを明確なものとしてからだ。つまり、その登場する男と女を、英自身とケイと仮定してからだ。

 最初は『アホなことを考えたものだ』と思っていたが、やはり登場する人物を明瞭にイメージすると曲全体の情景が掴みやすくなるからか、手詰まりに近かった弾き始めた当初と比べると弾きやすくなっていた。

 ともあれ、着実に完成に近づいているので、もっと練習を重ねなければと思い、英はさらにピアノの鍵盤に指を走らせる。

 

 

 翌日。戦車道の訓練が終わり、アリサは戦車から降りて背伸びをした。サンダースフェスタの日が徐々に近づいてきているので、訓練はそれに向けたものに変わり始めている。

 サンダース戦車隊の総合演習で行うのは大きく分けて隊形変化、砲撃訓練、模擬戦の3つだ。その中でも隊形変化、行進しながらのスムーズな隊形の変更はなかなか難しい。

 戦車道四強校の一角である聖グロリアーナは綺麗な隊形を組むことに定評がある。要は、あれと似たようなことをやればいいのだ。

 しかし、サンダースは元来物量で相手を圧倒するのが基本スタンスであるため、意識して隊形を組むということがあまりない。だからこそ、その慣れない隊形構築がサンダースの戦車隊には難しいのだ。それでもどうにか練習をして、ものにしなければならなかった。

 

「あー・・・疲れた・・・」

「ホントですねぇ。去年もそうでしたけど・・・」

 

 アリサが愚痴る横で、メットが戦車帽を脱いで汗ばんだ髪をタオルで拭く。2人とも、普段の訓練では行わない流動的な隊形構築という、慣れない訓練を行ったせいで疲れているのだ。メットは装填手なので砲撃を伴わない今日の訓練では特に役目がなかったのだが、それでも戦車が動いている時は中は常に揺れているので、これだけでも相当疲れるのだ。

 車長であり現副隊長であるアリサも、隊長・副隊長であるケイ、ナオミと共に50輌の戦車隊をまとめ上げなければならなず、戦車に乗っているのもあって精神的、肉体的に疲れがちだった。唯一の救いは、この総合演習に向けた訓練が次代の隊長であるアリサが主体で行うのではなく、現在の隊長であるケイが全面的に行ってくれることだろうか。

 しかしながら、今日はそのケイにも若干の違和感があった。

 

「・・・・・・今日の隊長、なんかいつもと違いましたね」

「・・・そうね。それは私も思った」

 

 メットの言葉にアリサも頷く。

 アリサだけでなくメットでさえも気づいているのだから、恐らくは隊のほぼ全員が今日のケイの違和感に気付いているだろう。

 その違和感は、この前アリサが感じた『良い意味での』違和感―――それは英のピアノを楽しみにしていたことが原因―――ではく、『悪い意味での』違和感だった。

 隊形の指示をする声が、いつものように溌剌としたものではなくて、少し覇気が感じられないような声だった。それと、この訓練は一昨日から行っているのだが、前日と比べると隊形変更の指示が遅れているようにも感じる。

 このように訓練中で元気のないケイというのは、隊員たちも見たことがない。

 

「副隊長、何か聞いてます?」

「いえ、何も知らないわ」

「そうですか・・・・・・まあ、そんなこともありますかね」

 

 今回のケイの異変を『そんなこともあるよね』と捉えるか、『何かあったのだろうか』と捉えるかは人による。

 メットは前者の方だったが、アリサは後者だった。

 雨が降ろうが雪が降ろうが風が吹こうが、暑くても寒くても、いつでも明るくはきはきと指示を出していたケイが、別に変ったことなど無いはずの今日に限って見せたいつもと違う様子を、『そんなこともあるよね』と軽く流すことができなかった。

 

(・・・・・・ナオミも、当然気付いてるはずよね)

 

 アリサはともかく、メットだって気付いているのだ。2人よりもケイとの付き合いが1年長く親しい間柄のナオミが気付かないはずはないだろう。

 そのナオミは今、ケイと並んで歩き、その肩をポンポンと叩いている。訓練で疲れたケイを労うように見えるが、ケイの何らかの異変に気付いてその真意を聴こうとしているようにも見える。

 アリサとしては、あれこれ詮索するのは憚られた。仮にケイに何かに悩んでいるのかを聞いて回答が得られたとしても、それがアリサ自身が力を貸してどうにかできる問題でなかったとしたら。そうなれば、ただ悩みの種を話させてしまっただけになり、ただ余計にケイを苦しめるだけになってしまうだろう。だから、聞けなかった。

 しかしナオミは、ケイの不調には気付いてはいたのだが、その原因を聞こうとはしなかった。それはナオミ自身がケイとは親友ではあるもが、だから全てを曝け出して話すことができるとは言い切れない。ケイにだって触れてほしくないような部分はあるだろうし、そこについて聞いてしまって余計に気を落ち込ませるのだけは避けるべきだった。

 それと、ケイの調子がよくない理由について、ナオミはもう7割方予想できていた。その不調の原因である『事象』も、そのケイの中にある『気持ち』も、予想とはいえ分かった。

 だからこそ、その『気持ち』はケイ自身で理解するべきだと思って。

 

「何か悩んでいるのなら、相談してくれていいんだぞ」

 

 とだけ、言っておく。それに対してケイは普段と比べて力なく『ありがとね』としか言わず、悩みの種を話そうとはしなかった。

 結果として、隊員たちの誰もがケイの不調には気付いているものの、誰一人としてケイ自身の口からその理由を聞き出すことはできていなかった。

 

 

 

「・・・・・・・・・できた・・・・・・?」

 

 時刻は4時半前。場所は『ハイランダー』棟の第5音楽室。その中で英は、ピアノを弾き終えて、ポツリと確かめるように呟いた。

 スタンドに楽譜が開かれている、たった今まで弾いていた曲は、ケイのお気に入りであるラブソング。初めて挑戦するジャンルに加えてテンポが遅めだったので、なかなか思うように弾けずに完成するのが難航していた曲だ。練習を重ねに重ねていたのでいよいよ指が痛くなってきていたところだし、この曲の練習(イメージトレーニング含む)を始めてから実に4日が経とうとしていた。

 そんな英のピアノ人生の中で上位に食い込むほどの難しい曲をたった今、リズムを間違えることはなく、音を外すことも無く、ミスを何一つ犯すことはなく、弾き終えることができたのだ。

 

(いやいや、待て待て)

 

 だが、1度成功しただけで完全に完成したとは言えない。本当にちゃんとマスターできたのかを確かめるために、まだ何回か弾くべきだ。この前クリスから頼まれた曲とは違って英の弾いたことのない苦手なジャンルだからなおさらだ。

 なので英は、楽譜の先頭まで目を戻して、もう一度最初から弾き始める。

 音は高めだが穏やかなリズムの前奏。前奏よりも落ち着いた雰囲気で低い音のAメロ。Aメロよりも少し明るめのBメロ。静かに盛り上がるサビ。そして2番に入ると再びAメロ、Bメロ、サビ。さらにサビの盛り上がりを保つ間奏と緩やかなCメロ。最後にサビと、ゆったりとしたリズムの後奏で、曲は終わる。

 それら全てを、1度ミスなく弾けたからと言って浮かれたりはせず、気を引き締めて最後の小節まで弾く。

 その結果、ミスをすることはなかった。

 

「・・・・・・・・・できた・・・」

 

 いや、まだ2回目で完成したというのは早計過ぎる。だから念のため、もう1度最初から弾くことにした。

 だが続く3回目でも、どこもミスを犯すことはなく、無事に全編を通しで弾き終えることができた。

 

「・・・・・・できた!」

 

 誰もいない音楽室で両腕を突き上げて、背中を逸らして喜びを体現し、声を上げて喜ぶ英。だが、それを恥ずかしいとも思わないぐらい、今の英は達成感に満ち満ちていた。

 クリスから頼まれた曲を完成させた時もそうだったが、やはり初めて1曲をミスなく無事に完成させることができると、達成感を得られるものだ。特にこの曲は、完成まで何度も練習と失敗を重ねてきたのだから、他のどの曲よりも得られる達成感は大きかった。

 だが、曲が完成した余韻に浸る最中で、夕方5時を告げるベルがスピーカーから鳴り響く。それで英も弾かれたように帰り支度を始める。

 バタバタと慌ただしく片づけをして、戸締りをしっかりとして、鍵を職員室に返してから帰路に就く。

 そして陽がほとんど沈みかけている中での帰り道、あの完成した曲を弾いていた時の自分の気持ちを思い出してみる。

 曲を弾くときは、その曲の情景をイメージして弾くのが重要だと教わった英は、その通りだと思ってこれまでも新しい曲に挑戦する時はそれを心掛けていた。だが、この曲は初めて挑戦するラブソングであり、そして未だ恋をしたことがない英にとってはそのイメージすらも難しくて、『最初は』弾くのが本当に難しかった。

 だが、『あること』をきっかけにミスが減っていき、最後には完成させることができた。それは、練習を何度も重ねたから、という理由だけではないと英は考えている。

 

(・・・・・・どうして、イメージできるんだろう)

 

 その『あること』とは、英自身とケイを、あの曲の中で登場する恋をする2人に重ねたことだ。それ以来、ミスは着実に減っていった。

 そのイメージをし始めた当初は『アホなこと考えるな』と思いつつも、明確なイメージが持てるのならそれでもいいや、と思って仕方なくそうしていた。

 だが今では、そのイメージが頭から離れず、むしろ自分とケイを重ねたからこそ、完成させることができたのではないかとさえ思える。

 その理由。それは、曲の中に出てくる2人のように、英自身もケイと『そういう』関係になりたいと、思っているからだろう。

 

(・・・・・・俺は・・・)

 

 

 

 同日夜。ケイは自分の部屋にいた。それも、ベッドにうつ伏せになって寝転がり、枕に顔の下半分を押し付けて、静かに目を閉じている。だが、眠っているわけではなく、意識ははっきりとしていた。

 

「・・・・・・・・・はぁ」

 

 ため息をつき、昨日のことを思い出す。

 いつものように、ナオミ、アリサと共に『バルタザール』食堂を訪れると、ケイは英のことを見つけた。だが英は、ケイが名前も知らない女子と楽しそうに話をしながら食事をしていた。

 それだけのことだったのに、ケイの心は深く抉られてしまったかのように、ひどく痛んだ。

 なぜ、そんな痛みを感じてしまうのだろうか。それは昨日から今日に至るまで、ケイがずっと自分自身に問いかけていることだった。

 だが、抱いたことのないこの気持ちを前にして、ケイの心は大きく揺れ動いてしまっていた。

 それは今日の戦車道の訓練でも不調として表れてしまい、訓練の後でナオミからそれを指摘されてしまった。ケイ自身も、今日の訓練ではうまく指示が伝えられなかったり、行動にムラがあったりと反省点がそこかしこに見受けられた。

 自分自身の得体の知れない気持ちに振り回されて、自分が愛し、真摯に取り組んでいるはずの戦車道ですら身が入らなくなってしまうとは、どうしたことなのだろう。

 その自分の中にある気持ちは、『そうなのかもしれない』と仮定はしているが、それでもまだ確信はできていない。だからこそ、ケイはまだ自分の気持ちが分かっていないのだ。

 しかしながら、英がケイのことをこの前のホームパーティでの行動以来迷惑に思い、遠ざけているという可能性だってまだ残っている。

 またしても、自分らしくも無いネガティブな考えが頭の中に湧き上がってきたところで、枕元に置いてあったスマートフォンがメールの着信を告げる。

 考え事をしていたところで集中力を乱され、小さく息を吐きながら画面を見ると。

 

『新着メール:影輔』

 

 その直後、ケイは勢いよく起き上がって、メールの画面を開く。

 

『差出人:影輔

 件名 :完成

 本文

 夜遅くにごめん。

 聴かせてあげるって約束した曲がやっと完成した。

 だから、ケイの都合が合う日を教えてくれれば、

 その日に弾いてあげるよ』

 

 そのメールを見た途端、それまでのケイの鬱屈とした表情はどこかへ消え去り、その顔には待ち望んでいたものを目の前にした子供のような笑みが浮かぶ。恐らくこれほど早くメールを打つのも返信するのも初めてだろう、と思うぐらいには早めに返信する。もちろんケイの伝えた都合の合う日は、明日だ。

 英もスマートフォンを手元に置いていたからなのか、ケイの返事に対するメールが返ってくるのもまた早かった。

 

『差出人:影輔

 件名 :Re:完成

 本文

 了解。

 じゃあ明日、いつもの音楽室の前で待ち合わせよう』

 

 その返ってきたメールを見て、ケイは心が何か温かいもので満ちていくような気持ちになった。

 ここ数日の間、ケイはまともに英と顔を合わせる機会も無く、1人で練習したいと言っていた英の意思を尊重して、英が練習をしているであろう音楽室に近寄りもしなかった。

 だから数日の間とはいえ、親しくなった英と会えず、話もできず、ケイの心を掴んで離さないあのピアノの音色を聴くことができなくて、寂しさを覚えていた。

 けれど、自分の手の中には、明日その英と会う約束を結んだ証であるメールがある。それを見て、ケイは大きく息を吐く。それは数分ほど前に吐いていた憂鬱そうなため息ではなくて、安堵の気持ちを籠めたため息だ。

 今から明日が楽しみで仕方がない。だって、数日ぶりに英と会って話をして、ピアノを聴くことができるのだから。明日が待ち遠しい。

 

「・・・・・・・・・あ」

 

 そこまで考えていたところで、ケイは気付いた。

 自分は今、何が一番嬉しいと思ったのだろう?

 お気に入りの曲がやっと聴けるということだろうか。

 いや、英のピアノがまた聴けることだろうか。

 違う、英に会い話すことだろうか。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・そうだ」

 

 今、ケイが一番嬉しいと思ったことは、英に会って、顔を見て、話せることだ。お気に入りの曲を聴くことも、英のピアノが聴けることも嬉しい。だけど、それ以上に英に会えることが一番嬉しく思ったのだ。

 そう思うのは、英のことを単なる親友と思っているから、ではない。

 ケイにとっての英は、それ以上の存在だということだ。

 

 

 放課後、英はホームルームが終わるや否や、クラスメイトとの挨拶もそれなりにして教室を後にし、教師や風紀委員にどやされない程度の小走りで『ハイランダー』棟の職員室へと向かう。それはもちろん、第5音楽室の鍵を借りるためだ。今日ばかりは、他の誰にもあの場所を譲ってはならないと心に誓っていた。

 職員室に到着して鍵を借りようとしたところで、いつもいる教師から『今日は早いな』とコメントを貰った。そこでとケイを見てみれば、まだ終業のベルが鳴ってから5分も経っていない。確かに普段よりも早かった。

 その教師に対してはとりあえず愛想笑いを向けて、足早に職員室から去って本来の目的地である第5音楽室へと小走りで向かう。

 鍵を入手できたのだし、もう場所は確保したも同然だった。だから急ぐ必要も無いのだが、それでも英は一刻も早く音楽室へ向かおうとしていた。

 一体なぜ自分はこうも急ぎ足なのか、それは英自身も自分に問うていることだ。

 ケイのお気に入りだというあの曲を、すぐにでもケイに聴かせたいと思っているからだろうか。

 自分のピアノの腕を信じ評価してくれた彼女の期待を裏切らず、応えたいと思っているからだろうか。

 それもあるが、それだけではない。

 自問自答を繰り返しながら音楽室へと向かうと、その扉にケイが背を預けて立っているのが見えた。

 

 

 放課後、ケイはホームルームが終わるや否や、クラスメイトとの挨拶もそれなりにして教室を後にし、教師や風紀委員にどやされない程度の小走りで『ハイランダー』棟の第5音楽室へと向かう。それはもちろん、英と待ち合わせをしているからだ。

 昨日の夜、英から『曲が完成した』というメールが届いて以来、ケイはずっとこの時のことを楽しみにしていた。戦車道の訓練だっていつも以上に真剣に取り組み、退屈な授業があっても手を抜かずに(そもそも手を抜いたこと自体無いのだが)、この時のために頑張ってきた。特に戦車道では、ナオミから『昨日とは大違いだ』とのコメントもいただいたぐらいだ。

 知り合いとすれ違って軽く挨拶を交わし、階段を降り、教師とすれ違って挨拶をして、いくつかの角を曲がって、連絡橋を渡り、『ハイランダー』棟の第5音楽室に到着する。まだ英は来ていなかった。

 およそ5日ぶりではあるが、もう随分と長い間この場所に来ていなかったような感じがする。この音楽室に近寄りもしなかったのは、英が『1人で練習したい』と言った際にケイ自身が『分かったわ』と言ったから、その時の約束を破ってしまいそうな感じがしたからだ。

 ドアに背を預けて、ケイは英のことを待つ。

 その間、ケイは昨日から確信を持ち始めた自分の中にある気持ちを、改めて見つめなおす。

 昨日の夜に英からメールが来て、そこで自分が一番楽しみにしていたことが、お気に入りの曲が完成することでも、英のピアノを聴くことでもなく、英と会うことだと気付いた。もちろんお気に入りの曲も、英のピアノも楽しみにしていたが、それ以上に英に会いたいと思っていた。

 ここまで誰か1人に会いたいと切に思うことなど、ケイは一度も無かった。相手が男であればなおさらだ。

 ましてや、その人のことを思うと心の奥底が温かくなることなどあるはずも無かった。

 だけど、この気持ちがどういうものなのかは、もう分かり切っていた。

 足音が聞こえて来て、そちらの方を見れば英が小走りでこちらに向かってきているのが見えた。

 

 

 英がケイの前にやってくると、開口一番こう告げた。

 

「・・・悪い、遅くなった」

 

 頭を下げて謝る英に、ケイは優しく話しかける。

 

「大丈夫よ。私もついさっき来たところだから」

「いや、それもあるけど・・・・・・曲が完成するのが、遅くなって」

 

 ケイのためにこの曲を覚えて弾いてあげると言ってから、今日で大体6日。英が最速で曲を覚えてマスターするよりも1日遅い程度だが(一番遅いものだと1カ月以上かかる)、それでもケイのお気に入りの曲である上に英が自分で言いだした手前、謝るべきだと英は考えていた。

 その謝罪にケイは『そうねぇ~』と言いながら英の顔を下から覗くように屈んで、いたずらっぽく笑う。

 

「確かに、ちょーっと待ったかなーって」

「・・・ホントすいません」

 

 英としてはただ謝ることしかできない。ケイの笑顔も皮肉たっぷりなものとしか見えなくて、直視しにくい。

 だが、すぐにケイはいつものように明るい笑顔へと戻った。

 

「だから、今日はたっぷり聴かせてね?あなたのピアノ」

 

 そう言われて、その笑顔を見て、英も自然に笑みがこぼれる。

 

「・・・ああ、もちろん」

 

 鍵を開けてドアを開き、電灯を点ける。

 英はいつものようにピアノを弾く準備をせっせとはじめ、ケイは前と同じようにピアノに一番近い最前列の席に座って、英の準備が整うのを待つ。

 英は、先ほどケイに会った時は真っ先に謝ったが、心の中では安心感を覚えていた。数日前までは、ホームパーティの後でケイにからされたキスの事を思い出して面と向かって会うのが恥ずかしかったというのに、今ではそれ以上に会えて本当によかったという安堵の気持ちがある。

 1人での集中練習は自分で望んだはずなのに、寂しさを感じた。それは、ケイが英の近くにいてピアノを聴いてくれていて、そして弾き終えると喜んでくれたことを当たり前のことだと思ってしまっていたからだ。

 ケイと出会ってからもう直ぐ2週間になろうとしているが、この短い時間で英はケイに対して強い親しみを抱くようになっていた。

 しかしここ数日の間は、ケイに向けている自分の気持ちは親しみなどでは済まないような気持ちだと、思い始めている。

 

「じゃあ、まずは肩慣らしから」

「OK!」

 

 前置きをして、言った通り肩慣らし程度の軽い気持ちで1つ短い曲を弾く。それはピアノの初心者がまず弾けるようになるべきとされているピアノ楽曲だ。だが、肩慣らしとはいえ真剣に取り組んでいく。

 もちろん、ケイから頼まれた曲を肩慣らしに弾くつもりはなかった。

 

 

 肩慣らしと称して明るめの曲を弾く英を、ケイは頬杖を突きながら見つめる。そのケイの視線には気づいていないようで、英は一意専心ピアノを弾いている。

 そんな英の事を見ながら、ケイは自分と英との間にあったことを思い出す。

 ここ数日、ケイは英との約束を尊重してここに来るのは控えていたが、その事実はずっと頭に残っていた。最初は『英が集中したいと言ったのだししょうがない』と割り切っていた。だが、次第に『英のピアノが聴きたい』と思うようになり、最後には『英に会いたい』と思うようになってしまっていた。

 加えて、自分の起こしたとある行動がきっかけで、英が自分のことを避けるようになったのだと思うと、胸が締め付けられるような気持ちになってしまった。

 さらには、英が、ケイの知らない女子と2人で昼食を摂っている光景を見た時は、ひどく胸が痛んだ。

 そう思う理由は、ケイが英のことを憎からずいい人だと思っているからだろう。だが、それだけでは、胸が痛んだり締め付けられるような思いをすることは無いはずだ。

 

 

 肩慣らしの曲を弾き終えて、英の準備が整う。トートバッグからケイのお気に入りの曲の楽譜を取り出してスタンドに広げ、ケイに目配せをする。ケイは少しだけ反応が遅れたが笑って頷き、無言で『お願い』と言ってくれた。

 英は一度深呼吸をしてから、演奏を始める。昨日、音楽室で完成させて自室に戻った後もイメージトレーニングをして、今日は万全の状態で臨んでいる。それにケイを呼んだのだし、失敗は許されなかった。

 前奏を弾き終えてAメロに入る。

 この曲を完成させることができたのは、練習を重ねたのと、曲の描写を克明にイメージして弾くことができたからだと英は思っている。だが、そのイメージで思い浮かべたこの曲の2人の登場人物は、自分とケイだった。

 それを思い浮かべると、なぜかミスを犯すことが少なくなっていって、終いにはノーミスでクリアすることができてしまった。

 その理由は、英自身が今まさに『そうだから』だろう。

 

 

 曲はBメロに入る。

 英の演奏を聴きながら、ケイは静かに目を閉じて曲全体の情景のイメージをする。お気に入りで、歌詞もそらで歌えるぐらいにはこの曲を好いているので、イメージ自体は容易だった。

 サビに入って曲は静かに盛り上がる。曲の中で登場する人物が、自分の中にある恋心に気付いた場面だ。

 この曲を聴き始めた頃は、イメージをすることはできても感情移入まですることはできなかったし、どんな気持ちなんだろうかというのを詳しく想像することもできなかった。

 けれど今では、この曲の描写は鮮明なものとなっている。

 この曲に登場する2人の男女の姿も、なぜか頭の中のイメージでは自分と英の姿に自然と変わってしまっていた。

 どうして自分は、こうも英のことを思ってしまうのだろうか。

 それはきっと、ケイ自身が『そうなりたい』と思っているからだろう。

 

 

 2番に突入してAメロ、Bメロ、サビと続く。楽譜の上では1番とほぼ変わらないが、歌詞はもう1人の登場人物が恋心に気付くまでを表現している。

 この曲の存在を知る前、英とケイが出会った次の日に、英は自分の過去のことを話した。その上でケイは、その時の英の“選択”と、今英の歩む“道”を認めてくれた。それは英にとっても初めてのことだった。

 そして、その時ケイに言われた『その時の選択のおかげで、今のピアノが上手な英がいる』という言葉は、胸に響いた。

 その直後に弾いた、クリスから頼まれていた曲も、僅か2回の練習で完成することができてしまった。それは、ケイのその言葉を聞いて、英の中の迷いとも未練とも言えるモヤモヤが無くなって、より曲に集中することができたからだと英は思っている。

 その時以来だろうか、ケイのことを意識し出したのは。

 出会う前から、ケイのことは噂だけではあるが知っていた。だが実際に面と向かって会って話をすると、彼女は本当に明るい笑顔が似合う人だと思い、自分のようなピアノぐらいしか取り柄がない凡庸な男に対してフレンドリーに接してくれる。

 ケイは、単なる下手の横好きでしかなかった英のピアノを素直に称賛し、気に入ってくれた。聴けなくなった時は、普段は見せないような暗い表情をするぐらい、英のピアノをとても気に入ってくれていた。

 

 

 サビの雰囲気を保ったまま、間奏になる。

 ケイは前に英の過去の話を聞いた時、子供ながらにして立派な感性を持っているのだと感心した。英よりも大人でピアノも上手いピアニストから教わっていたのに、押さえつけるようなやり方を嫌い、その時から『自由に楽しく弾く』という気持ち、信念を大事にしてきた。

 その信念を忘れることはなくピアノを弾き続け、そして今、ケイが聴いているような、素人にも美しいと分かるぐらい綺麗な旋律を奏でられるまでに成長していた。

 その美しい旋律は、ケイの心をつかんで離さないものだった。

 自分がそうしたかったからという理由で行動に移した点は、ケイは最初は自分と同じだと思っていたし、共感できた。ケイも、大洗女子学園が廃校の一歩手前まで追い込まれた時は、大洗の皆を助けたいと思い自分から行動を起こした身であり、自分がそうしたいと思って行動したところが通じていたから。

 だが英は、そのケイの行動は自分とは違うと言ってくれた。自分だけのために動いた英とは違って、ケイの行動は結果的には大洗の皆という自分以外の誰かを救う結果になったのだから、と。

 そしてそんなケイのことを、英は『すごい』と言ってくれた。その言葉自体は何度も言われてきたことだったのに、英から言われたその言葉だけはなぜか胸に響いた。

 その時以来だろうか、英のことを意識し出したのは。

 

 

 Cメロに入って、この曲一番の落ち着いた雰囲気を見せる。それに合わせて英もピアノの弾き方をそれまでとは違ってゆったりと穏やかなものに変える。

 だが、最後のサビに入った瞬間、再び静かな盛り上がりを見せ、英はケイはそれぞれ曲に集中する。英は楽譜と鍵盤に、ケイは奏でられる音色に。

 英もケイも、この曲に登場する2人の男女をイメージしようとすると、なぜか自分たちの姿が思い浮かんでしまう。

 そして、それぞれがこれまでに自分たちの間にあったことを思い出すと、自然と心が温かくなってくる。優しい気持ちになれる。

 それで、それぞれの中にある気持ちが何なのかに、ようやく確信が持てた。

 

(・・・・・・そうか)

(・・・・・・そっか)

 

 最後のサビが終わって、後奏に入る。曲に登場する2人の明るい未来を約束するかのように穏やかなリズムに変わる。静かに優しい旋律を奏でるように、鍵盤を叩く。

 

(・・・・・・俺は)

(・・・・・・私は)

 

 最後の行にたどり着き、曲も終わりへ向けてテンポがゆっくりになっていく。

 

(ケイのことが・・・・・・・・・)

(影輔のことが・・・・・・・・・)

 

 曲がいよいよ終わりに近づいてくる。音符の数が少なくなった。

 

 

 

 ――――――好きなんだ。

 

 

 

 曲が終わる。

 ケイは、笑みを浮かべて手を叩き、ミスをすることなく美しい旋律を奏でた英を称えた。

 英はそんなケイに対して、小さく笑ってサムズアップを向ける。

 そして今、2人は、抱いたことのない自分の気持ちの正体に気付いた。



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できない

ケイ隊長、誕生日おめでとう!

どうにか間に合いました・・・。


「お願い英、この通り」

「断る」

 

 昼休みの『バルタザール』食堂で、6人掛けテーブルの端に向かい合って座り昼食を摂っていた英と山河。2人だけなのに6人掛けのテーブルに座っているのは、運悪く4時限目の数学の教師が、山河と英にプリントを運ぶよう頼まれてしまったからだ。

 出遅れてしまった2人は、それぞれメニューを注文して、空いていた6人掛けのテーブル席に座りそれぞれ料理の味を楽しんでいた。そんな中で山河が英にとあるお願い事を話して頭を下げてきた。だが英はそれをすっぱりと断る。

 

「英が最後の砦なんだ!お願い!」

「そんなこと言われても、ダメなものはダメだ」

 

 山河が手を合わせて、頭をテーブルにつけそうな勢いで深々と下げ、必死に頼みこむ。だが英は眉一つ動かさずにチーズバーガーを齧って、さらに断る。

 だが英も、嫌がらせのつもりで山河を断っているつもりはないし、詳しい話を聞かずに断ったわけでもない。お願い事の詳細まで聞いて、だがその上で断っているのだ。

 

「うちの部長の顔を立てると思って、お願いだ!」

「クイズ研の部長の顔自体知らないんだけど」

「じゃあランチ10回奢るからそれで手を打ってくれ!」

「打てない」

 

 山河の持ち掛ける交渉を悉く退ける英。フレンチフライをつまみながら、山河の持ち込んだ『お願い事』を英はもう一度思い出す。

 山河はクイズ研究部に所属している。そして、開催日が徐々に迫ってきているサンダース大学付属高校の学園祭『サンダースフェスタ』でクイズ研究部は、何か1つ面白いクイズコーナーを設けたいと思っていた。

 しかしその面白いクイズコーナーの案が思い浮かばず、ここ数日昼休みを割いてでも話し合いの場を設けたが、それでも良案は出てこなかった。

 そこで山河は、最終手段とも言うべき案の相談を英に持ちかけた。

 

「俺は所詮帰宅部の素人だぞ。そんな奴に生演奏頼むとか、バカか」

「バカでもアホでもいいから、ホントにお願い!」

 

 山河が提案したのは、ピアノアレンジ曲を聴いてそれが何の曲かを当てる音楽クイズだった。それを提案すること自体は別に構わないのだが、問題なのは、そのピアノの演奏を英に生でやってほしいと宣った事だ。

 いくら英が、頼まれたら中々断れない性分であっても、そればかりは流石に譲れなかった。何しろ、有名なクイズ研究部の開催するクイズ大会と言うのだから観客は大勢いるだろうし、そんな観客たちの前で、しかもステージの上でピアノを生で弾くというのは、これまで経験したことのない緊張感を味わうことになるだろうということは分かる。

 念のため、もう一度だけ聞いてみることにした。

 

「そのクイズ大会、どこでやるんだっけ?」

「・・・東側の、第2ホール」

「収容人数は?」

「・・・・・・700人」

「うん、無理」

 

 クイズ研究部のクイズ大会は、毎年サンダースフェスタでの目玉イベントの1つとして注目されている。だから、早い段階で開催会場は確保することができたらしい。その場所となった第2ホールは、大規模な講談会や生徒会選挙の演説会などを行う施設である。

 その収容人数は山河の言った通り700人。クイズ大会にそこまでの観客が来るかどうかは不明だが、目玉イベントである以上はそれなりに多くの観客が来るであろうことは容易に予想できる。

 そんな大人数の前でピアノを弾くなどこれまで一度も無かったし金輪際来なくていいとも思っていたから、その人数を聞いただけで気が滅入る。

 

「とにかく無理だ、他を当たれ。っていうか、音楽系の部活やってる人に頼めよ」

「皆それぞれの部活の演目で手いっぱいらしくて、頼むのも申し訳ないんだよ」

「まあ、だろうな。で、俺に頼んできたと」

「そう、だからお願い!」

「全力で断る」

 

 がくっ、と力なく項垂れる山河。

 山河の落ち込む姿を見て英も少し心が痛むが、こればかりは引き受けられなかった。いくらピアノが好きだし周りからの評価もそこそこ高いとはいえ、そんな大舞台で弾くなど恐れ多いにもほどがあった。

 この前ケイのホームパーティで、急な話ではあったがパーティ会場(ケイの寮のリビングだが)で約20人ほどの前でピアノ・キーボードの生演奏をした時でさえ緊張してたのだ。その何十倍もの人数の前でピアノを弾くなど、英にとっては正気の沙汰ではない。

 とはいえ、このまま無下に断って後は山河が頑張るしかない、とまで言い切るほど英も冷酷無慈悲ではなかった。だから、少し協力することにする。

 

「他に何か案はないのか?」

「いやぁ・・・・・・先輩も後輩も、あまりアイデアが思い浮かばないらしくてね」

「そうか・・・・・・。どんな企画がいいんだ?」

「皆が盛り上がれるの」

「抽象的過ぎる」

 

 山河の様子を見る限り、どうやらクイズ研究部内でも手詰まり感が漂っているらしい。英も代替案を用意して助け舟を出したかったが、良いアイデアが浮かばない。

 2人して唸っているところで、頭上から声をかけられた。

 

「Hi,影輔!」

 

 自分の名前を呼ぶその声は、忘れるはずもない人のもの。声のした方向を見れば、そこにいたのはやはりケイだった。手には今英が食べているものと同じチーズバーガーとフレンチフライ、コーラのセットが載ったトレーがある。

 そしてケイの後ろには、アリサとナオミが控えていた。2人とも、それぞれカレーライスと、ビーフステーキ定食が載ったトレーを持っている。

 その中で笑顔で声をかけてきたケイを見て、英が刹那の間だけ呆けたような顔で動きを止めたが、すぐに覚醒して動きを取り戻す。

 

「・・・どうした?」

「席空いてるみたいだし、一緒してもいい?」

 

 英が『普段通りを装って』訊くと、ケイは英たちの横の空いている4人分の席を指す。3人ともそこに座りたいようだ。

 英は、突然やってきた有名人のケイを前にして沈黙してしまった山河の手の甲をつついて『大丈夫か?』と目で問いかける。山河がこくこくと頷き返したので。

 

「ああ、大丈夫」

「それじゃ、お邪魔しまーす」

 

 そう言ってケイは、当然のように英の隣に座る。そのケイの隣に座るのはアリサ。反対側に座る山河の隣にはナオミが座った。

 そしてその直後、ケイは椅子をわずかに英の方にずらして、英との距離を詰めた、ような気がした。それで英がケイの方を見て、ケイは『ん?』と笑って首をかしげていて、英の気のせいなのかもしれなかった。

 そこでようやく正気を取り戻した山河が、初対面のケイたち3人に挨拶をする。

 

「あ、初めまして。英の友人の山河博之です。よろしくです、ケイさん、ナオミさん、アリサさん」

 

 山河は基本的に人が良く穏やかな気性のため、仲良くなりやすい印象がある。だがそんな山河も、最初に英がケイたちと出会った時と同様に敬語で話してしまっていた。同い年でも敬語を話すのといい、名前を既に知っているのといい、英の時とほぼ同じだ。

 一方でケイたちは、自分たちがサンダースで名の知れいている存在だということは英と初めて会った時から分かっていたので、山河が名前を知っているということについては別段疑問を抱かなかった。

 

「よろしくね、ヒロ!」

「それと、同い年だし堅苦しい話し方もしないで大丈夫だ」

「そっか・・・それじゃあよろしく」

 

 早くもケイが山河のことを愛称で呼び、ナオミは英に初めて会った時と同じような言葉をかけて握手を交わす。ケイとも握手をしたが、アリサはやはり頭を下げるだけの挨拶だ。

 そんな4人を尻目に、英はフレンチフライを無心で食べる。急に食欲が湧いてきたとかそんな理由ではなく、隣に座るケイを意識しすぎないためだった。

 

 

 数日前に英は、ケイに対して恋をしているということを確信した。自分の中の気持ちを整理して、見つめ直して、それが恋心だということに気付いたのだ。

 そしてその気持ちに気付いてから、ケイのことを考えると心が掻き乱されるかのような気分になってしまう。それが嫌ではなくて、むしろ恋をしているんだという実感が湧くからそれは良い。

 だがそれでも、実際に顔を見るとどうしても緊張してしまうものだから、こうして気を紛らわせているのだ。

 そして自分の抱いている緊張感、恋心は悟られたくはなかった。誰かを想う気持ちとは、他の誰か、特にその想いを向ける相手には絶対に悟られたくはない。なぜならそれが恥ずかしくて、そして拒絶された場合のショックが大きすぎるからだ。

 だからこの想いを告げるまで、この気持ちは誰にも悟られたくはなかったし、言いたくもなかった。

 

 

 そんな英の心情などお構いなしに、ケイは話しかけてきた。

 

「ところで影輔」

「ん?」

 

 ただ、自分の気持ちは悟られたくないと思っていても無視するのは流石にできなかった。なので、ケイの方に顔を向けてみると。

 

(・・・・・・近い)

 

 英の予想していた位置よりも近い場所にケイの顔はあった。どころか、ケイの座っている位置そのものが英に近かった。このテーブル自体6人掛けで割かし大きめなのに、山河たちと比べてみても、ケイと英の距離は近かった。

 そんな近距離にあるケイの顔を英は直視できなかった。ケイと知り合う前から、彼女は遠目から見ても容姿端麗だとは思っていたが、今こうしてケイの整った顔を目の当たりにするとそれは間違いではなかったと思い知らされる。それに女性特有なのかもしれない甘い香りを受けて、心が揺さぶられる。

 そして、以前とは違ってケイに対し恋をしている今では、一層魅力的で可愛らしく見える。恋をすると、こうも相手を見る目が変わってしまうものなのか。

 

「2人で何の話してたの?随分深刻そうな顔してたけど」

「え?あー、えっと・・・・・・」

 

 そんな近距離で話しかけられたせいで、英も言葉が出ずにしどろもどろとなってしまう。

 その英の目の前に座る山河は、英が困惑しているのを『クイズ大会のことを話していいのか分からず困っている』と捉えたようで、はぐらかしてきた。

 

「いやぁ、サンダースフェスタでの出し物で英に協力してもらいたかったんだけど、断られちゃってさ」

 

 クイズ大会の特別イベントについては部外者にはまだ明かさないように部長から厳命されている。だからクイズ大会のことも、英に頼んだクイズの内容も明かさなかった。

 だが聡いケイは、英に協力を求めたという言葉の時点で、その理由に気付いた。

 

「もしかしてピアノ繋がり?」

「うん、正解。けどねぇ~?」

 

 山河が人の悪い笑みを浮かべて英を見る。どうやら山河は、この場で英を孤立させて、引き受けさせる空気を作る魂胆らしい。だがそんな空気に英は屈しはしなかった。

 

「何度も言うが、できない」

「ちぇっ」

 

 山河が小さくわざとらしく舌打ちをして、カレーライスを口に含む。しかしながらケイは、それでも英のピアノに関連する出し物のことが気になるようで、なおも英に問いかけてきた。

 

「どんな感じのこと頼まれたの?」

「・・・・・・まあ、結構な人数の前でピアノの生演奏してほしいって」

「へぇ~、すごいじゃない!ライブなんて!」

「けど、この前のホームパーティでさえ緊張しまくったんだ。それ以上の人の前でピアノ弾くなんて、とてもとても・・・」

 

 英が肩をすくめてチーズバーガーを食べる。

 流石にこれ以上詮索されると、どこかでボロが出かねないのでサンダースフェスタ繋がりで別の話を持ち出すことにした。

 

「・・・ところで、今年も戦車隊は総合演習をするんだっけ?」

「ええ、今年もやるわよ。ガンガンね!」

 

 総合演習は毎年恒例行事であるため、これは隠す必要はない。それに去年もやっていたのだし、その時は学園艦の上の広大な演習エリアで行われていて、ヘリやドローンを使って艦内でパブリックビューイングじみたこともやっていた記憶がある。

 

「指揮はケイが?」

「そうよ。いくらアリサが次の隊長だからって言っても、流石にまだ荷が重いと思ってね」

 

 そこで名前を出されて、アリサがコーラを啜るストローから口を離す。そのアリサに、ケイは目を合わせて伝える。

 

「今年は私が指揮するけど、来年はアリサがやらなくちゃいけないんだから。しっかり覚えるのよ?OK?」

「・・・・・・分かってます」

 

 アリサは苦笑してそう答えた。

 しかしながら、アリサは内心ではケイの様子が前と比べるとがらりと変わったと思う。

 この前はサンダースフェスタの総合演習に向けた戦車の訓練でムラッ気のある、らしくない指揮だった。だが、ここ数日はそれが嘘であるかのように明るく溌剌としていて、指揮も時に優しく、時に厳しく、以前のケイに戻ったかのようだ。いや、むしろそれ以上に煌めいて見えている。

 この数日の間にケイの身に何が起こったのかは分からないが、今のケイを見ているとその理由が分かりそうな気がする。

 

「何輌参加するんだっけ」

「50輌よ!」

「それだけの数の戦車を1度に指揮するのか。凄いな」

「でも、前にプラウダと練習試合した時は同じ数出したわよ?だからまあ、慣れてるわ!」

 

 英と話をしているケイの姿は、普段よりも生き生きとしているように見える。それはアリサ自身の恋路が上手く行っていないせいで妬ましく見えるというわけではない。本当にケイが、そんな風に見えるのだ。

 

「プラウダか・・・あの時戦った砲手とは、また一度手合わせ願いたいものだ」

「どんな人なの?」

「ん?ああ、私と同じように全国屈指の砲手と言われている奴だ」

 

 ナオミがそのプラウダとの練習試合を思い出したのか、不敵な笑みを浮かべてポツリと呟く。山河はそのつぶやきを聞いて純粋に興味が出たのか、話を聞こうとした。英としても気になる話だったので耳を傾ける。

 以前行った練習試合で、ナオミの乗るシャーマンファイアフライと、プラウダ高校一の砲手―――ノンナと言う少女らしい―――の乗るソ連製の重戦車IS‐2と撃ち合いを見せて、互角に持ち込まれた末に引き分けになったという。サンダースでも全国屈指の砲手と名高いナオミでもそこまで苦戦する相手がいるとは、戦車道の世界も奥が深いものだ。

 所々ケイから補足を貰いながらその話を聞き終わり、英はそこで残りのチーズバーガーを食べ終える。

 先ほど顔を合わせたばかりの時は、ケイが傍にいることにどぎまぎしてしまったものだが、こうして一緒に食事を共にしているとそんな気持ちも霧散してしまっている。ケイだって別に変った様子は見られないし、英が変に意識してしまっていただけのようだ。

 そう思うと自分が恥ずかしくなってきて、コーラでも飲んで気を紛らわせようと思い、手を伸ばす。

 

「あ、影輔。ソースついてる」

「え、どこに」

 

 そこでケイに指摘されて、どこに付いているのか分からないソースを拭おうとする。

 だが、それよりも早くケイは指でそのソース(右の口元についていたようだ)を拭って。

 

「・・・・・・ん」

「・・・・・・・・・」

 

 しかもそれをナプキンで拭いたりせずご丁寧に舐め取った。おまけに『ご馳走様』とでも言いたげに良い笑顔を英に向けてきた。

 先ほど感じなくなっていた恥ずかしさがまた込み上げてきて、自分の心の中でマグマのように愛おしさがゴボゴボと湧き上がる。

 だがそれは決して面には出さず、とりあえずケイのおでこに軽くチョップをかました。

 

「Why?」

「・・・・・・なんとなく」

 

 突然のチョップに驚いたのか、大して痛くもなさそうにおでこを押さえながらも笑って聞き返すが、英は多くは言わない。そしてケイが拭った箇所を改めてナプキンで拭いて、コーラを啜る。

 だが、英は本音を言わせてもらえば、ああいった前触れもない仕草はドキッとするので二度とやらないでほしかった。でないと、緊張と恥ずかしさで英の身が持たないからだ。

 そんなことを考えながら英はコーラを勢いよく啜る。

 けれど、その英の前に座る山河とナオミは、その英の心の中さえも見透かしているかのような、そして何かを言いたげな表情をしていることに、英自身は気付いてはいなかった。

 

 

 その日の放課後、英はいつものように『ハイランダー』棟の第5音楽室でピアノを弾いていた。その曲は、ケイと共に音楽用品店に行った際に買った英のお気に入りの曲だが、今は右手だけで弾いている。

 それは英が片手だけで弾ける超絶技巧を身に着けたわけでも、左手が痛むからでもなくて、単純にこの曲が難しいからだ。

 この曲は英の好みであるアップテンポで明るく盛り上がる曲だ。だが、いきなり両手で弾くのは至難の業と言えるぐらいリズムが複雑で難解だった。もしかするとだが、今まで英の弾いてきた曲の中で一番難しいかもしれない。

 こうした難しい曲に挑戦する際は、まず片手ずつ、高音程と低音程を別々に練習する。それぞれをマスターしてから両手で弾くのが定石と言えるやり方だ。

 ケイのために弾こうと考えたあのラブソングも習得するまでには苦労したが、この曲とは違いあちらはリズムが緩やかであったため、片手ずつ練習しなければならないほどのものでもなかった。

 マーカーが引かれていたりメモが走り書きされている楽譜と鍵盤を交互に見ながらピアノを弾いていく。ただ、片手だけで弾いていてもリズムが複雑であることに変わりはないので、やはりミスはどうしても生じてしまう。特に今弾いている右手の高音程の方は、歌詞のメロディも合わさっているので低音程と比べると遥かに複雑だ。

 それでも途中で折れることはなく、一応最後まで弾き終えることはできた。

 ただ、これはまた長期戦になりそうだと英は思う。片手ずつでもこれだけミスが目立っていたのだから、全部克服するまでは時間がかかるだろう。仮に片手ずつマスターしたとしても、両手を合わせて弾くとまたミスが出てくるかもしれないし、完成は遠く先のことになりそうだ。

 一度鍵盤から指を離して深呼吸し、ペットボトルのコーラを飲む。そして肩を上下に揺らし、首も回して疲れを解す。

 ふと壁にかかる時計を見上げ、英はポツリと呟いた。

 

「・・・・・・遅いな」

 

 時刻は4時過ぎ。ここでピアノを弾き始めてから30分以上が経過している。

 まだ、ケイは来ていなかった。

 この間のホームパーティ以前であれば、英が音楽室を開ける前にケイは教室の前でいつも先に来て待っていた。

 だが、今日に限っては、英が来た時にはケイはおらず、そして弾き始めてから30分以上経った今もケイは姿を見せない。

 昨日の別れ際も、ケイは自ら『明日も聴きに行く』とは言っていたので、物忘れがひどくない限りは約束を忘れているということはないだろう。

 と言うよりも、ケイのサンダースにおける立ち位置を考えれば、何か急用があって呼び出されたと考える方が自然なものだ。戦車隊の集まりか、あるいはサンダースフェスタのクラス出展の話し合いに参加しているのかもしれない。

 

「・・・・・・はぁ」

 

 どんな理由であれ、英が今ここにケイがいないのを寂しく思っているのは事実だ。あのラブソングを練習している時にも思ったことだが、ケイとはまだ知り合ってからそれほど時間が経っていない、一月も経っていないだ。だのに、ケイがいることがごく自然なことで、当たり前に思ってしまっていたから、いないことを寂しく思ってしまうのだ。

 それと、以前とは違って今は、英は明確にケイに対して好意を抱いている。だから前よりも寂寥感を強く覚える。もの悲しい気持ちになる。

 そんな感じで感傷に浸っていると、不意に音楽室のドアがノックされた。教師だろうかと思ったが返事をする前にドアが開いた。

 

「おまたせ~♪」

 

 そんな軽い掛け声とともに登場したのは、待ち焦がれていたケイだった。手を振りながらいつものような笑みを浮かべて入室した彼女の姿を見て、英の中にある『寂しい』とか『もの悲しい』とかのネガティブな気持ちが遥か彼方へと消え去って行った。

 それと取って代わるように英の中に芽生えたのは、安心感だ。自分の待ち焦がれていた、好意を抱く人が姿を見せてくれたことに対する、安堵。それはケイ本人に悟られたくはなかったから、冷静を装って話しかける。

 

「遅かったな。何か用事でも?」

「あー、うん・・・・・・。まあ、そうね。うん、ちょっとした急用」

「そうか」

 

 ケイの答えがいつになく歯切れの悪いものだったが、流石に何があったのかまでは訊きはしなかった。ケイの立場を考えれば急用が入ってもおかしくは無いし、それ以上の詮索はプライバシーにも関わりかねない。

 ケイの遅れた理由はさておき、ケイが来たのだから練習もお終いにしようと思って楽譜を閉じる。

 

「何の曲弾いてたの?」

 

 するとすぐ近くでケイの声がしたので顔を上げたら、英のそばまでケイが歩み寄ってきていた。広げていた楽譜がまだ見たことのない曲だから声をかけたようで、英も隠す必要も無かったから表紙を見せた。

 

「この前用品店に行った時に買ったやつ。俺の好きな曲だ」

「ああ、あの時のね。ちょっと見てもいい?」

「ああ、いいぞ」

 

 楽譜をケイに手渡して、英は別の楽譜をトートバッグから取り出す。ケイが来るまでは今ケイが読んでいる曲を片手で練習し続けていたので、肩慣らしは両手で弾ける曲を選んだ。

 その曲は、『トルコ行進曲』。学校の音楽の授業でも出てくる有名な楽曲の1つで、英がピアノを始めてから一番最初にマスターした曲でもある。軽快なリズムと弾むような軽い音がお気に入りで、今でもよく弾いているのだ。

 

「Jesus・・・なんて曲なの・・・」

 

 ケイが渋い表情をしたのがその声だけで分かる。ピアノを嗜む英でさえその楽譜を最初に見た時は『うげ』と声を洩らしたぐらいなのだから、素人の自覚があるケイが読めばそんな反応をするだろうとは分かっていた。

 そのケイの感想を聞いて英はふっと笑うと、『トルコ行進曲』を弾き始める。最初は軽快な音を弾くように弾いて、少ししてから低音も混ぜて弾いていく。低音と高温が混じると、どこか優雅あるいは荘厳な感じがしてくる。そして、弾いている身としても心地良くなってくる。

 曲調が変わったその直後にケイの様子をチラッと窺うと、ケイはグランドピアノの内部に注目していた。グランドピアノは天板を開けると中が見えるようになっていて、ピアノを弾いている最中に中を覗いてみると、ピアノのハンマーが弦を叩き音を出している様子がリアルタイムで見ることができる。その様子は存外面白いもので、現にケイはそのハンマーが弦を叩く様子にくぎ付けになっていた。

 そして、そんなケイは静かに笑っている。本当にピアノの中を見るのが面白いようなのがその顔だけで分かる。

 そのケイの顔を見ていると、鍵盤を指で叩き軽快なリズムを奏でている最中でも、英自身は穏やかな気持ちになれる。心が癒されるような感覚を得る。

 その笑顔を見て、自分の気持ちが変化していくのを感じて、自分はやっぱり、ケイのことが好きなんだということを、改めて思う。

 やがて『トルコ行進曲』を弾き終えると、ケイは楽譜を脇に挟み拍手をしながら英に近寄ってきた。英は、弾いている間に窺っていたケイの様子を思い出して話しかける。

 

「面白いだろ?中を見るのって」

「ホントね。今まで全然気にしてなかったけど、クセになりそうだったわ」

 

 そして今度はケイが、脇に挟んでいた楽譜を英に手渡しながら問いかける。

 

「この曲が、影輔のお気に入りの曲なのね?」

「ん?ああ、そうだけど」

「へぇ~」

 

 何かを探るかのようなケイの笑み。一体何を考えているのだろうか。

 だが人の心を読み取る術を英は持たないので、気にするのを止めて受け取った楽譜をトートバッグに仕舞う。そのまま、どの曲を弾こうか迷っていると。

 

「ところで、影輔はピアノを弾いてる時って歌わないの?」

「あー・・・歌わないっていうか、歌えない」

「なんで?」

 

 ケイの質問に、英は少し恥ずかしそうに答える。

 英はピアノ楽曲だけではなく、歌詞がある普通の曲も弾くのだから、ケイのその質問は当然のものと言えるかもしれない。だが英は、ピアノを弾いている最中に同時に歌ったことは全くと言っていいほどなかった。それは、決して英が音痴だからとかそういう理由ではない。

 

「ピアノを弾く時って、楽譜を読むのに加えて鍵盤を叩くのに集中してるんだよ。だからそれとさらにプラスで歌うってのは、なかなか難しいんだ、これが。口パクぐらいはするけど」

「そういうものなの?」

「そういうもんだ。仮に歌ったとしてもあまり上手くはないだろうし」

 

 曲を弾いていて楽しくなってくると、歌詞に合わせて口パクをすることがよくある。あるいは、聴いたことのある曲をピアノで初めて弾く際(先ほど片手で練習していた曲がまさにそうだ)には、リズムを合わせるために少しだけ歌うこともあった。

 だが、やはりピアノを弾きながら歌うということは英にとっては至難の業だ。テレビでよく見るプロの人なんかは、ピアノやキーボードを弾きながら歌っていたりする。あれは真似できないと見る度に英は思った。

 ただ、英の素の歌唱力は他人が聴くことなどできないほど絶望的というわけではなく、それなりに歌える方だと思ってはいる。単に不器用なだけなのだ。

 

「じゃあさ、影輔」

「ん?」

 

 楽譜を取り出そうとした英にケイが歩み寄ってきて、少し前屈みになって、ピアノ椅子に座っている英と目線を合わせようとして。

 

「影輔がピアノを弾いてる時に、私が歌うのは平気?」

「・・・・・・え?」

 

 突然にもほどがあるケイの言葉に、英も戸惑う。いきなり『歌う』と言ってくるとは、どうしたことだろう。

 ただケイ自身、説明が足りなかったことに気付いたようで『いきなりごめんね』と謝ってから補足する。

 

「影輔のピアノって、聴いててとっても楽しいし、心地いいの。それでピアノを弾く影輔を見てると、あなたもまた楽しんでいるのが分かる」

「・・・・・・・・・」

「それで、できることなら私も、ピアノを弾いてる影輔と一緒に曲を楽しみたいなって思うの。ただ、ピアノは無理だし、できるとすれば歌かなって」

 

 つまり、英のピアノに合わせてケイが歌ってくれる、ということか。それは英にとって思ったもいないような提案だった。

 だがそれよりも前に、1つだけ不安に思うことがあった。

 

「・・・・・・・・・もしかして、嫌だった?延々ピアノを聴くだけっていうの」

「あっ、違う違う!そんなわけないわ、嫌なところなんて無い」

「ホントに?」

 

 ケイの取り繕うような反応を見て余計に不安になってしまい、問い返すと。

 

「だって影輔のピアノ、私は大好きだもの」

 

 なんてことの無いように告げたケイの言葉は、まるで弓矢のように英の心に勢いよく命中した。

 自分のことを好きだと言ったわけではないのに、まるで自分のことを好きだと言われたかのように感じてしまって、それが嬉しかった。それは多分、これまでの英のピアノ人生の中で、英のピアノを『上手い』とか『それで食っていける』と言われることはあっても、英の弾くピアノを『大好き』と言われたのが初めてだったからだろう。

 だから、初めて告げられた言葉だったから、そして自分の好きな人から告げられた言葉だったから、胸に刺さるように心に響いたのだろう。

 

「あ・・・・・・もしかして、迷惑だった・・・?」

「いや、いやいやいや。それは無いから、迷惑だなんてそんな」

「そう?それなら・・・よかったわ」

 

 慌てて英が否定する。

 何はともあれ、自分がピアノを弾いている傍でケイが歌うというのは、確かにケイの言う通り楽しい時間を共に過ごせるだろう。それは喜ばしいことだ。

 それに、ただ曲を聴いているだけと言うのも、例え新しい曲を弾くことになっていくとしてもいずれは退屈と思ってしまうだろう。それはすぐの話ではないだろうが、そう思わせないためにも、聴いているケイもまた歌うというのは良いかもしれなかった。

 

「・・・そうだな。ケイの言う通りかも」

「?」

「いいよ、歌ってOKだ」

「YEAH!それじゃ、早速歌おうかな~?」

 

 ケイは嬉しそうにそう言うが、いきなり知らない曲を英が弾いてはケイも調子が合わなくて歌うことはできないだろう。そう考えた英は、トートバッグからある楽譜を取り出して見せた。

 

「じゃあ、この曲でどうだ?」

 

 そう言って見せたのは、ケイのお気に入りだというあのラブソングの楽譜だ。これは元々ケイが買ったものなのだが、ケイ自身はピアノが弾けないのでとりあえず英が持っておくということになったのだ。

 

「Oh,そうね。それがいいわ!」

「よし、分かった」

 

 ケイはこの曲をそらで歌えるという。初めて英のピアノと合わせて歌うにしても、問題はないだろう。

 

「いいか?」

「ええ、いつでもOKよ」

 

 先ほどと同じように、ケイはピアノの内側が見える位置にまで移動して、側板に寄り掛かるように肘をつき、英がピアノを弾き始めるのを待つ。

 英は一度ケイに視線を向けて、それにケイはニコッと笑みを返す。お互いに準備が整ったようなので、英は早速鍵盤を指で叩き曲を弾き始めた。

 まずは、ゆったりとした前奏。この曲を初めて弾いた時も前奏ではそこまで躓いたりすることはなかったので、ここは問題なく弾くことができる。

 続くAメロからはミスが目立ち始めていたので、完成してケイに聴かせた後になった今でも、まだまだ気を引き締めて弾かねばならない。

 そしてAメロに入り、楽譜にも歌詞が表記され始めたところに差し掛かると。

 

「―――――――」

 

 ケイが、歌い始める。

 ピアノの旋律に覆いかぶさり聞こえなくならない程度に抑えられていて、それでいて英の耳に届くような、程よい声量。

 そのケイの顔は、歌っていることを楽しんでいるかのように、静かな微笑みを見せていた。

 

(・・・・・・ケイって、あんな風に歌うのか)

 

 ピアノは嗜んでいるものの声楽それほど詳しくはない英は、ケイの歌声に対して文句をつけられる筋合いではない。だが今ピアノを弾いている英にとっては、そのケイの歌声は文句のつけようがないほど、聴いていてとても心が温かくなるような感じのするぐらい、とても上手だ。

 普段からアップテンポで盛り上がる曲を弾いたり聴いたりすることが多かったからか、このように落ち着いた歌声を聴くことがあまりなかった。だからこそ、今聴こえてくる歌声を聴いていると普段とはまた違う刺激を得られるのだろう。

 その新しい感覚と温かい気持ちを抱いたまま、英はピアノを弾いていく。

 ただ、楽しいピアノを弾いているのに加えて、その温かい気持ちを得たからか、それともケイが微笑んでいるのに魅せられたのか、英自身も小さく笑っていた。

 

 

 流れる旋律に乗せて、それでいてその旋律を自らの声で壊さないように、ケイは歌う。

 お気に入りの曲であり、そして英への恋心にも気づいたこの曲は、ケイの中でも最も印象深い曲となっている。

 そうして歌っている中で英の表情を窺うと、英は笑っていた。

 英が楽しそうにピアノを弾いていて笑っているのを見ると、ケイ自身も温かい気持ちになれる。楽しくなれる。

 思えば、ケイが英を最初に見た時も、英はああいう風に笑っていたっけ。

 ケイは、今のように楽しそうにピアノを弾いている英のことが好きだ。

 数日前に、ケイが英に対する恋心に気付いてからは、ケイはもう自分自身の気持ちが分からなくなって不調をきたすということはなくなった。どころか、自分のことがようやく理解できて清々しい気持ちになれた。

 そしてケイは恋心に気付いたから好きな人の前だとしおらしくなる、とはならず、むしろ英とより親密になろうと思うようになった。今日の昼食で英たちと同席して距離をほんの少し詰めたのも、今こうして英に一緒に歌いたいと言ったのも、自分から英に歩み寄って、より親しくなろうと思ってのことだった。

 だた、一緒に歌いたいと言った時は、断られたりしないだろうかとハラハラしていた。英から、趣味を邪魔されると思われるかもしれなかったからだ。

 けれど英はケイの頼みを聞いてくれた。その理由を聞いたからか、それとも別の要因があるのかは分からないが、ひとまずは安心だ。

 それと、ケイ自身が英に告げた『楽しい時間を一緒に過ごしたい』と言う気持ちも嘘ではない。ホームパーティを開くのが好きなのもそれと同じような理由だ。

 

(・・・・・・やっぱり、楽しいな)

 

 そして今実際に、英のピアノに合わせて歌っているケイは、とても楽しくて、充実していた。

 自分の歌唱力は人並みと思っていたけれど、英の綺麗なピアノの音色に合わせて歌うのはとても心地がいい。普段は机に座って聴いているだけで、そこで静かにピアノを聴いているのも楽しかった。だが、共に歌っていることで、ただ聴いている今までよりもずっと今の時間を英と一緒に楽しんでいると思える。

 曲はサビに入り、曲の中の登場人物が自分の恋心に気付くシーンになる。

 この曲を最初に弾き始めた時は、恋をする人の気持ちと言うものがよく分からずに、感情移入することもできなかった。『恋をするとこんな感じになるのかな?』としか思っていなかった。

 けれど、自分の中に恋心が芽生えた今では、この歌詞の意味を理解することができるようになった。そしてこの曲の情景を思い浮かべることができるし、登場人物にも感情移入できる。

 だからこそ、これまで口ずさんでいた時のようではなく、感情を籠めて歌う。だがそれでも、英のピアノの旋律を崩さないように声量は抑えて歌う。

 けれど今の時間は、とても楽しくて、穏やかで、心地よいものだ。

 ずっと、この時間が続けばいいのに、とさえ思えた。

 

 

 やがて曲が終わり、英とケイはお互いに向けて拍手を送る。英はケイの美声に対して、ケイは英の美しい旋律に対して。

 

「結構、歌上手かったんだな。ケイって」

「いやぁ、そうでもないわよ?」

「いやいや、でも十分上手かったって。トーシロの俺にでも分かる」

 

 その『トーシロにも分かる』という言葉は、英のピアノを褒めたケイも言っていた言葉だ。それを思い出して、ケイも思わず吹き出す。

 だが実際、ピアノを弾いていた英は要所要所でケイの歌声に耳を傾けていて、本当に上手いと思えた。それも、英のピアノに上書きするかのように大きな声ではなくて、自然に重ねるかのような声量だったから、聴いていて不愉快だとは全く思わなかった。

 

「でもこうして、影輔がピアノを弾いて、私が歌うのって・・・・・・ホントに楽しかった!エキサイティング!」

「・・・・・・・・・そうか」

 

 ケイが楽しそうにしているのを見て、英は本当に一緒に曲を楽しむことができたんだと思うし、それでよかったとつくづく思う。

 英からしてみれば今の曲は、自分が恋をしているのだと気付いたことで、以前よりも感情を籠めて弾くことができ、イメージを思い浮かべることができるようになったと感じる。曲全体の完成度も上がってきたのではないかとさえ思えた。

 加えて、英自身が恋をしているケイが歌ってくれたから、この曲を弾くことが楽しいという気持ちが心の底から湧き上がってきたのを、弾いている最中にも感じたものだ。

 

「・・・ねぇ、影輔」

「なんだ?」

 

 楽譜を閉じると、ケイがまた英の傍にまで歩み寄ってきて、問いかける。

 

「また、今日みたいに歌っても、いい?」

 

 不安の混じる微笑みを浮かべながらも聞いてくるケイに対して、『NO』と答えることは英にはできなかった。それに、先ほどのように自分がピアノを弾き、ケイが歌った時間はとても楽しく心地よかったし、何より嬉しかった。ケイの言った通り、楽しい時間を共に過ごせたからだろう。

 だからケイの申し出は、英にとっても望むところだった。

 

「・・・もちろん」

「やったー!ありがと!」

 

 そう言ってケイは右手を挙げたのを見て、英も右手を挙げてハイタッチを交わす。

 そしてそのまま、ケイは英に抱き付いてきた。

 

「!?」

 

 英は突然のことながらも、ケイの髪から漂う心地良い匂いと、女性的な柔らかい感触に宛てられて、多幸感が湧き上がってくる。

 だがすぐに英は、このまま密着しているのはマズいと判断して、名残惜しくはあるものの止めることにした。

 

「ちょっ、ケイ・・・・・・」

「あっ、ソーリー♪」

 

 英が苦しそうな声をしていると思ったのか、ケイはパッと離れて全く悪びれもせずに謝る。それを見て『勘弁してくれ』と英は呆れたように笑いながら小さく呟く。

 だが、目の前で笑みを浮かべるケイのことが、自分は本当に好きなんだなと、改めて自覚した。




恋をしてしおらしくなるケイも書きたかったけど、
ケイは逆に恋をしても変わらずむしろ逆に明るくなりそうと思って、
そう描写してみました。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。




グランドピアノの中身、
『トムと○ェリー』のある話を見てものすごい気になるようになったのは
筆者だけかもしれません。


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合わない

1週間も間が空いてしまい、
大変申し訳ありません!


 その日の夜、暖かい色合いの照明に照らされた寮の自室で、ケイはノートパソコンで調べ物をしていた。

 普段ケイがこのパソコンで調べることと言ったら、まず第一に戦車道に関する情報で、友人知人に勧められた映画、その他もろもろ。

 しかし最近になり、音楽に関することも調べる頻度が増えてきた。

 その理由はもちろん、自分が好きになった異性である英の影響だ。英の弾くピアノは本当に聴いていて楽しくなるし、ケイ自身もまだ知らない音楽の世界へと導いてくれるような気がしてならなかった。英と出会って以来、ケイはピアノに限らず音楽の世界に引き込まれつつあるのだ。だからケイも自然と音楽について調べることが増えてきていてた。

 そして今ケイが調べているのは、とあるアーティストの曲である。今日英が見せてくれた、難しいのが一目で分かる、英がお気に入りだと言っていた曲だ。

 

(・・・・・・いい曲ね)

 

 ケイが今閲覧しているサイトには、その曲の歌詞に加えて曲自体のデータが添付されていた。その曲をイヤホンで聞きながら、そんな感想をケイは抱いていた。

 歌詞自体にはそれほど激しさは感じられないが、この曲は比較的明るめな雰囲気がするので悲しさは感じられないし、退屈とも思わない。

 どうしてこの曲を調べるに至ったのかというと、それはこの曲を英が『気に入っている』と言ったからだ。ケイ自身が音楽に興味を持ち始めたというのもあるが、それ以上の理由として、ケイが好きでいる英が気に入った曲だから気になってしまった。好きな人が気に入っている曲、というだけで理由は十分だった。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 やがて曲は終わり、耳に入れたイヤホンからは何も聞こえなくなって、ケイは小さく静かに息を吐いた。

 実に面白い曲だった。と言っても、腹を抱えて笑うほど可笑しいという意味ではない。この曲は、楽し気な雰囲気も、もの悲し気な雰囲気も、落ち着いた場面も、明るく盛り上がる場面も、全てを兼ね添えている曲だったのだ。英が気に入るのも分かる気がする。

 英のことは抜きにしても、ケイはこの曲を1度聞いただけで好きになった。対極的な雰囲気と場面をそれぞれ兼ね揃えている構成が面白いし、歌詞も中々に味わいがあって好みだ。

 そんな歌詞の中で、ケイが気になるフレーズがあった。

 

「『自分の気持ちは言葉にしなくちゃ、それを感じる意味はない』『自分の気持ちに背を向けるな。後悔したくないのなら』・・・・・・ね」

 

 至極尤もなフレーズだとケイは思う。自分自身に何らかの気持ちが芽生えたのなら、それをきちんと言わないと気持ちは伝わるはずも無いし、その気持ちを抱いた意味も無くなる。そして、自分の気持ちを誤魔化して見えないフリをしても、待っているのは後悔だけだろう。

 英に対する恋心に気付き、恋をしているタイミングでこの曲を聴いてしまうとは、何とも皮肉な感じがした。

 ケイは、その気持ち―――恋心を知ってから、いつかこの想いを告げるということはとうに決めている。この気持ちを告げられないまま英と別れてしまうことなど考えたくもなかった。それに、嬉しかったり楽しかったりというプラスの感情は口にする自分らしくもないと思っていたからだ。

 そんな折にこの曲のこのフレーズを聞いて、なぜか追い風が吹いたような、背中を押されたような感じがした。

 けれど、すぐに告白するのも憚られる。それは、もしも自分がフラれてしまったらと考えるだけで怖気が走るし、それが原因で今の英との関係さえも無くなってしまうのを恐れているからだ。

 ケイは既に、英のことが好きだった。英のピアノも好きだった。好きでいるからこそ、今の関係から前に進めなくて、それどころか無くなってしまうことさえも怖かった。

 故にこの自分の中の想いを告げるのはもう少し待ってからにしようと思っていたのに、このタイミングでこの曲を聴いてしまった。それで『告白をもう少し待とう』と言う気持ちも揺らぎつつある。

 

(・・・・・・どうしたらいいんだろう、ホントに・・・)

 

 こんな気持ちを抱くのは自分らしくも無いと思っているのだが、それでもそう思わざるを得ない。

 パソコンの前で、自分の額を押さえるケイの心の中の問いに答えるものは、今この場には何もない。

 

 

 翌日の朝、ルームメイトたちと校門をくぐったナオミは、昇降口で靴を履き替えるとケイと共に『アイアンブリッジ』棟へと向かう。後2人のルームメイトは別の棟に所属しているのでここでお別れだ。そしてナオミのクラスの前に来るとケイとも一度離れることになる。

 

「じゃあ、また戦車道の時間にね」

「ああ」

 

 お互いに挨拶をして別れ、ナオミはクラスのドアを開く。既に登校していたクラスメイト達と軽く挨拶を交わしながら、窓際の自分の席に行くと。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 隣の席の男子、アーサーが机に突っ伏して死んでいた。本当に死んでいるわけではなくて、死んでいるように動かないのだ。寝ているわけではないのは分かる。

 このアーサーこと朝島(あさじま)は、アメリカンフットボール部に所属していて、そこそこイケメンと、それにフランクな性格だからか、同学年の女子たちからの人気は高い方だ。ナオミの同じクラスに所属しているのと、今は隣同士の席だから幾度となく話をしたことはあった。アーサーとクラスメイトから呼ばれた時も、『カッコ良さそうだし、いいな』とあっさり受け入れた。

 そのアーサーがここまで凹んでいるのを、ナオミはまだ見たことがなかった。一体何があったのだろう、部活動で戦力外通知でも受けたのか。

 何があったのかは分からないが、今のアーサーに話しかけても状況は好転すると思えなかったので、放置しておくことにする。鞄から筆記用具や教科書を取り出して、机の収納スペースにそれらを収めてから、ナオミは鞄からSF小説を取り出して目を通す。

 その数分後に同じクラスの男子グループ数名がやってきて、クラスメイトと挨拶を交わし、机に伏せているアーサーを見て全てを察した空気になった。

 

「よっす、アーサー」

「その様子じゃ、玉砕だったっぽいね・・・」

 

 それぞれ自分の机に荷物を置いた友人たちがアーサーの机を囲む。それでもアーサーは顔を上げようとはしないで『ああ・・・・・・』と呻くような返事をする。

 ナオミは変わらず小説に目を通していたのだが、『玉砕』と言うワードとアーサーの態度で何が起きたのかはすぐに読めた。

 

「・・・・・・・・・・・・フラれた」

『ドンマイ』

 

 悲しい現実をアーサーが告げて、取り囲んでいた友人たちは神妙な面持ちで両手を合わせて合掌のポーズをとる。中には優しく肩をポンポンと叩く奴もいた。

 ナオミの予想通り、アーサーはどこかの誰かに告白して、ものの見事に散ってしまったようだ。しかしながら、割と眉目秀麗で性格も悪くない、成績と運動神経も割と良い方と言う優良物件の告白を蹴るのがどんな人か、ナオミも少しだけ気になった。

 

「ま、相手が相手だしね。しょーがない」

「その通りだ。告る前から分かってたんだろ?」

 

 友人たちの言葉を聞いて、ナオミも視線だけを本から隣のアーサーたちに向ける。その仕草も他の人には気づかれないほどのもので、傍から見れば黙々と小説を読んでいるようにしか見えない。

 ナオミが意識を向ける中で、アーサーの友人の1人が告げる。

 

「だって相手はあのケイさんだろ?そんな簡単に付き合えたら誰も損しないって」

 

 その告白した相手の名前が告げられた。だがそれを聞いたところでナオミは狼狽えたりもせず、『やっぱりか』と思うだけだった。

 ケイが告白されることは、それほど珍しいことでもない。サンダースの顔とも言える大規模な戦車隊を率いている隊長であり、全校に存在が知れているほどの有名人。おまけに容姿端麗で性格はフレンドリーで一張一弛。これで人気が出ないはずはない。

 故に後輩、下級生、同級生から告白されることも多くあるが、ケイは一度もその告白に首を縦に振って答えたことはない。その告白の場面にナオミはいたことがないので、『今は誰とも付き合う気がない』と言う理由で断っていると噂でだけ聞いていた。

 ナオミはその真意を未だケイの口から聞いたことはないが、誰と付き合うのかはケイの自由であって、例え親友であろうともそれについて口出しすることはできない。

 それに、ケイが戦車隊の隊長として心にそれ程余裕がない身であるのは、戦車隊のナンバー2であるナオミが分かっている。それがあって、ケイもああいう断り方をしているのだろうと思っていた。

 アーサーも恐らくは、同じ断り文句を告げられてフラれたのだろう。

 

「いやぁ、でもアーサー結構いい線行ってると思ってたんだけどなぁ」

「こんな優良物件を蹴るなんて、ケイさんもすごいね」

 

 フラれたアーサーのことを慰める友人グループの言葉を、ナオミは右から左に受け流す。アーサーの告白を断ったのがケイと分かったことで、ナオミも興味は無くなり小説に意識を戻す。

 

「けどさぁ・・・・・・」

「何?」

 

 まだ何かを言おうとするアーサーの言葉を聞き流して、ナオミは小説の次のページをめくろうとする。

 

「・・・・・・まさか、ケイさんにも好きな人がいるとは思わなかった」

 

 ページをめくろうとしたナオミの手が止まる。その言葉は、流石にすんなり聞き流すことはできなかった。

 

「え、マジで?いるって言ってたの?」

「ああ・・・言ってた。だから付き合えないって・・・・・・」

「うっそだろ・・・もうそいつの一人勝ちじゃん・・・」

「そっかぁ・・・それじゃ勝ち目無いね・・・」

「ああ・・・・・・ああああ・・・・・・・・・・・・」

 

 友人が明かした残酷な事実を耳にして、友人グループは全員が頭を抱える。アーサーに至ってはその時受けたショックを思い出したのか、またも机に突っ伏してうめき声をあげた。

 一方でナオミは、開いていた小説を閉じ、窓の外を見る。晴れ渡る空の下でサンダースの生徒たちが次々に校門をくぐり校舎へと向かっているのが見えた。

 アーサーの告げた、ケイの『好きな人がいる』という言葉は、少なからずナオミは衝撃を受けている。サンダースに入学して以来の親友で、寮生活も共にしてきたケイに好きな人ができているのが驚きだったのだ。自分のあずかり知らぬところでそんなことになっていたとは。

 だが思い起こしてみれば、そのケイに好きな人がいるという片鱗はどこかしらにあったものだ。

 そしてその相手が誰なのか、ナオミは自然と相手であろう1人の姿が目に浮かぶ。

 その直後、クラスメイトの赤髪ポニーテールの女子がナオミに話しかけてきた。

 

「ハロー、ナオミ」

「Hi,エミー」

 

 エミー(名前の絵美(えみ)からクラスメイトが付けたニックネーム)は、白い紙袋を掲げて見せた。

 

「これ、ナオミが探してたやつでしょ?昨日たまたま見かけたから、買っといたわ」

 

 差し出された紙袋の中身を見て、ナオミは小さく笑う。確かにこの中身は、ナオミが探し求めていた『モノ』だった。

 

「ああ、ありがとう。今度必ず、埋め合わせをするよ」

「OK,分かったわ」

 

 ナオミがその紙袋を椅子の脇に置いたのを見ると、エミーは自分の席へと戻って行った。そのエミーの後姿を見届けながら、ナオミは考え事をするかのようにあごに指をやる。

 

(・・・・・・少し、用事ができたな)

 

 そう考えた直後、ナオミは懐からメモ帳を取り出し、ペンケースからボールペンを取り出して何かを書き込んでいく。

 

 

 昼休みになり、英は山河と共に食堂へと向かった。昨日に引き続き、クイズ研究部は会合が無いようだ。なんでも、クイズ研の部長は山河をはじめ各部員に『リフレッシュしてアイデアを考えてきてほしい』と言ったらしい。故に、山河だけではなくクイズ研の部員全員が今日の昼休みは自由時間らしい。

 

「英~、山河~」

 

 そんなわけで2人が『バルタザール』食堂へ向かっていると、その途中で背後から声をかけられた。

 2人にとっても聞き覚えのあるその声に振り返ってみると、そこにいたのはクリスだった。

 

「なんだ、クリスか」

「やあ、クリス」

「何だとは随分なご挨拶だね、英」

 

 軽い挨拶を交わして、クリスも『バルタザール』食堂で昼食の予定だと聞くと、3人で一緒に昼食ということになった。

 食堂に着くと各々券売機で料理を注文し、それをカウンターで受け取ると入口よりも少し離れた場所にある4人掛けのテーブル席に着く。英はカレーライス、山河はラーメン、クリスは前と同じステーキ定食だった。こうも高い頻度でステーキ定食を食すクリスを見ていると、健康面の意味で将来が不安になってくる。

 それはともかく、食事を始めてから雑談を交わし、話題は迫るサンダースフェスタのことになった。

 

「クリスたちのクラスは、何か出し物でもするの?」

「ウチのクラスはね、ゴーストハウスをやるよ」

「ゴーストハウスか・・・ベタだけど人気があるな」

「あっ、でも私はチアリーディング部の演目があるから参加はしないよ。ちなみにウチのクラスは西洋風ね」

 

 ゴーストハウス、つまりお化け屋敷は一定数の人気があり、文化祭では定番とも言える出し物の一つだ。

 そしてそう言った定番、鉄板の出し物は被ることが多い。それはサンダースも例外ではなく、サンダースの規模が大きい故に必ず演目が被ることがあるのだ。

 そういう時は、枠組みが同じであってもその中身を変えるようにしている。お化け屋敷を例にするのなら、舞台や登場するお化けを西洋風にするか、和風にするか、あるいは両方を合わせるか。こうすれば、それぞれ違った面白みを出すことができる。

 このように出し物の中身をそれぞれのクラスで変えるのは、サンダースフェスタの運営規則にも記されている。もし内容が被った際は、運営委員会が仲を取り持ちどうするのかを話し合いで決める。

 

「2人のクラスは何にするの?」

「俺たちは軽食喫茶。フレンチフライとか、ホットドッグとか」

「僕はクイズ研だから免除」

 

 山河は自分で言ったように、クイズ研の出し物(クイズ大会)があるため、クラスの出し物には協力しなくて大丈夫ということになっていた。一方で特に部活動に所属せず、どこかの手伝いをする予定も無い英は、その軽食喫茶のホールスタッフとして参加することになっている。

 

「あっ、そう言えば」

 

 そう言ってクリスは少しだけ向かい合って座る山河の方へと身を乗り出す。その動作だけで、山河も英も周りに聞かれてはマズいようなことを話すのだということが分かった。だから2人も同じように、身を乗り出す。

 

「今年のクイズ大会、特別な出し物とか考えてるの?」

 

 何かと思えば、昨日も英と山河が話をした、クイズ大会の特別なコーナーの話だった。

 だが、クリスの切り出した話題を聞いて山河は『よくぞ聞いてくれました』とばかりに笑い、英は『面倒なことになった』と言う気持ちが表情に出る。

 

「いやぁ、それがさぁ?まだ何も決まっていないんだよねぇ。場所はもう取ってあるんだけど」

「え、何それ?」

「だってさぁ、英がさぁ、ぜーんぜんやる気になってくれなくってねぇ?」

 

 それ見たことか。いっそ忌々しさすら感じる笑みで山河が英の方を見てそんなことを言ってくる。

 クリスとは1年生の間だけ同じクラスだったが、今でも仲は良い。だから山河がクイズ研究部に所属していることは知っていたし、毎年のサンダースフェスタでそれぞれ違った特別コーナーを設けているから、その存在も知っている。山河も、クリスが親しい人間だから吹聴することも無いだろうと思って、隠さずに話したのだ。

 それよりも、山河の言葉を聞いて、英の横に座るクリスがジト目でこちらを見ているのが面倒なことの前兆にしか見えない。

 さらにもう一押しと言わんばかりに、山河が自分の企画したクイズの内容をクリスに教えると、案の定クリスは『やれよ』とばかりに肘をグリグリと英の肩に押し付けてくる。

 

「いいじゃない、やりなさいよ英」

「悪いができないな」

「英のピアノの腕を皆に知らしめるいいチャンスよ?上手く行ったらあっという間にみんなの人気者よ?」

「別に知らしめたくはないし、目立ちたくも無い。おれはひっそりピアノを弾いていたいんだよ」

「でもこのままじゃ、クイズ大会で特別コーナーがおじゃんになるんでしょ?山河を助けると思って引き受けたら?」

「そうだよ英。僕を助けると思って頼むよ」

 

 クリスの言葉を聞き、山河が上手い頼み方を教わったとばかりに畳みかけてくる。それに対して英の答えは。

 

「悪いが、見捨てさせてもらう」

「・・・オーマイガッ」

 

 わざとらしく頭を抱える山河だが、そんな三文芝居に惑わされる英ではない。隣に座るクリスも『冷血漢』と言ってくるが、意にも介さず英はカレーライスを一口食べる。ピリッとした辛さがアクセントになっていて、実に美味だ。

 

「Hi!影輔、ヒロ!」

 

 英がカレーの味を堪能し、山河が頭を抱えて悩んでいると、ケイが声をかけてきた。後ろにはいつものようにナオミとアリサも控えている。

 昨日も思ったことだが、ケイのことを好きと意識してからというもの、姿を見ただけでも、何気ない挨拶でも英の心はドキッとしてしまう。それが嫌と言うわけではないので、嬉しい悩みとでもいうべきか。

 

「・・・おう」

「やあ、ケイ・・・皆も・・・・・・」

 

 英は動揺を隠しながらも片手を挙げて挨拶をし、山河は覇気のない笑みをケイたちに向ける。

 そして、英の隣に座っているクリスは、英と山河があのケイと面識があることが驚きだったようで、『え?え?』と明らかに困惑している。そのクリスに気付いて、ケイは問いかけた。

 

「影輔、彼女は?」

「え?ああ、友達のクリス。前に曲を頼んできた奴だよ」

「あら、あなたが?よろしくね、クリス!」

 

 ケイが気さくに挨拶をして右手を差し出す。クリスはしどろもどろに『よろしく、お願いします』と返す。普段のクリスはもう少し明るいはずなのだが、さしものクリスもケイを前にするとたじたじのようだ。

 

「そんなに堅苦しくならないでいいのよ?」

「それは無理な話ですよ、ケイ隊長・・・・・・」

「なんでー?」

 

 萎縮してしまっているクリスになお言葉をかけるが、アリサがその後ろからやんわりと呆れたような言い方で補足する。英と山河も、最初にケイと話をした時はクリスのように緊張しきっていたので、2人はクリスに同情した。

 

「ところで何の話してたの?サンダースフェスタの話?」

「ああ、まあな」

 

 山河の覇気がないので、英が代わりに答える。ケイは昨日、山河からサンダースフェスタの出し物について英と相談していたことを聞いた。それがクイズ大会の特別コーナーの話なのは知らないが、その『出し物』で山河が英のピアノの腕を利用しようとしているのは知っている。

 

「まぁ、影輔は人前でピアノを弾くのとか緊張するって前に言ってたものね」

「ああ。だから俺としては、御免被りたい」

「・・・ねえ、ヒロ。私は、無理にやらせても成功するとはあまり考えられないし、確実性のある他のアイデアを練った方が良いかもしれないと思う」

「・・・・・・やっぱり?」

 

 ケイの言葉を聞いて、山河も少し気持ちが上向きになってきたのか、顔を上げてケイの方を向く。

 一方ナオミとアリサは、ケイに『先に行く』と小さく伝えて英たちの座るテーブルの横を通り過ぎて、自分たちのテーブルを探しに行こうとする。いくら3人がサンダースで有名だとしても、長い時間通路で立ち話をしていると通行の妨げにしかならないからだ。

 だがその直後に、ナオミが英の方を見もせずに、英の手元に折りたたまれた小さな紙を置いて行った。その所作があまりにも速すぎたせいで、それに気づいたのは目の前にいた英だけ。ケイの方を向いている山河とクリスはもちろん気付いておらず、山河と話すケイも、ナオミの横を行くアリサも気付いていないようだった。

 そのナオミの行動に驚く英には気づかずに、ケイは山河と話を続ける。ケイは、彼女の性格を象徴するとも言える、悩みを吹き飛ばすかのような溌剌とした笑顔を浮かべた。

 

「ヒロが本当に成功させたいのなら、そんな無理強いするんじゃなくて、もっと別の道を探った方が良いと思う」

「・・・・・・・・・・・・」

「それでももしアイデアが浮かばなかったら、私を頼って。力になってあげるわ!」

「・・・ありがとう、ケイ」

「OK!」

 

 最後にケイは山河の肩をポンポン叩いて、手を振りながらナオミたちの後を追って行った。

 

「じゃあ、影輔。後でね」

 

 去り際に、ケイがウィンクをしながら英にそう告げる。英はそれに少しだけ笑って頷き返すと、後すぐにクリスが『ヘイヘイヘイ』と英と山河に話しかける。

 

「あなた達って、あのケイさんと知り合いだったの!?」

「いや、僕は昨日知り合ったばかり。英はそれよりも前から知り合ってたみたいだけど」

「うっそ・・・・・・どうやって知り合ったのさ?」

 

 クリスが英に問うが、その英はナオミが置いて行った小さな紙を開いてその中身を読み、反応がわずかに遅れてしまった。だがすぐに気付いた英はその紙をポケットにしまい、クリスの質問に答える。

 

「え?あ、ああ・・・・・・俺がピアノを弾いてて、それを偶然ケイが聴いて、それから成り行きでな」

「Jesus・・・何て偶然なの」

 

 心底感心したようにクリスがそう言う。その一方で山河がラーメンを食べ終えて、レンゲでスープを掬って一杯飲む。そして先ほどのクリスのように身を乗り出して、英に話しかけてきた。

 

「・・・ねぇ、英」

「なんだよ。クイズ研の話はもういいだろ」

「いや、それじゃなくて。1つ気になったんだけどさ・・・・・・」

 

 こうして話しかけてきたということは周りに聞かれたくはない類の話なのだろうが、今度は何だろうか。英はカレーを一口食べながら何を聞いてくるのかを考えていると、予想だにしない一言を山河はぶつけてきた。

 

「英ってさ・・・・・・ケイさんのこと好きなの?」

 

 瞬間、カレーが気管に入って『ゲホッ、ゴホォ!?』と、周りに座る生徒たちもびっくりして視線を向けるほど盛大に咽る。自分のコップの水を飲み切り、さらにクリスからも水を貰って喉を冷やし、ようやく呼吸が落ち着いた。

 

「お前・・・なんつー冗談を・・・」

「いやいや、からかってはいないよ。真剣にそうなんじゃないかって聞いてる」

 

 山河の目が本気になる。どんな嘘でも見逃すまいと鋭くなる。

 だが英は、絶対にケイへの好意など知られたくはなかったので、白を切ることにした。

 

「いや、それはない」

「ふーん・・・・・・」

 

 一層山河の目が細くなる。絶対に信じていない顔だ。

 

「あ、英。口もとにカレーついてる」

 

 山河に突然指摘されて、英は嘆息する。昨日も同じようなことを言われて、もしかしたら自分の食事のマナーは意外と悪い方なのかと心配になってくる。自分では気をつけているつもりだったのだが。

 いやだいやだと思いながらもその口元に付いているらしいカレーを指で拭おうとしたら。

 

「ていっ」

 

 隣に座るクリスが先んじてその汚れを指で拭い、さらに昨日のケイと同じようにそれを舐め取った。

 

「ご馳走様♪」

「良い顔で笑うな、アホ」

 

 ニマニマと笑うクリスの額を拳で小突く英。クリスは『痛いなぁ』と大して痛くもなさそうに額を押さえる。その様子を見ながら、山河が話しかけてきた。

 

「ほらな、それがいつもの英だ」

「え?」

「普段から英って、そういうことされるの嫌いだったでしょ?だから、クリスにやったようなリアクションをするのが、いつもの英だ。ちなみに、カレーなんてついてなかったよ」

 

 最後に付け足した山河の言葉に、英も小さく舌打ちをする。どうやらクリスは山河のついた嘘に乗っかって英をからかおうとしたらしい。そしてクリスがそうするだろうと知っていて、英の反応を確かめるために、山河もそんな嘘をついたのだ。

 だが、英は山河にそう指摘されて『そうかもしれないな』と思っていた。家族でも恋人でもないけれど親しい者―――クリスは英にとっての友達である―――に先ほどのようなことをされて、しかもそいつがしてやったりな笑みを浮かべていたらイラっとくる。

 しかし、昨日ケイに同じことをされた時、英はただケイに軽めのチョップをして、『なんとなく』としか言っていない。それが普通とは違う気がしたのは英自身も思っていたが、このわずかな反応の差で、山河は気付いたということか。

 

「後はそうだなぁ・・・。ケイさんの話題を出したり、ケイさんがここに来ると英ってなんかソワソワしていたような感じがするし、ナオミやアリサとか他の子と接する時よりもなんか丸い気がするし・・・。これはひょっとすると、って思ってね」

「・・・・・・そんなに違うか?」

「気のせいかもしれないけどね」

 

 おどけて見せる山河だが、その顔は『そうでしょ?』と確認しようとしているのが分かる。

 ここまで来ると、英がこれ以上誤魔化したりお茶を濁しても疑念は晴れはしないだろう。むしろ否定することで余計に怪しまれるかもしれなかった。

 

「・・・・・・まあ、好き、なんだろうな」

 

 ただ素直に好意を認めるのも恥ずかしいので、まだ自分の感情が『恋』だと気付いていないフリをした。本当はもちろん、恋心だと気付いているのだが。

 それを聞いて山河は『やっぱりねぇ』と吐き出すように告げながら椅子に深く座り直して頷き、クリスは『わ~』と口元を手で押さえてにやにやと笑う。知られたくはない人物に知られてしまい、ものすごく恥ずかしい。

 

「・・・・・・堅実なタイプだと思っていた英の恋のお相手が、まさかねぇ」

 

 再び身を乗り出して内緒話モードに入った山河が感慨深そうに呟く。クリスも腕を組んで実にその通りだと頷く。

 英の過去を話だけではあるが聞いて、今を友達として接してきたから、英の人となりを山河とクリスは知っている。だから、その英が好きになった相手が、自分たちには手の届かないような遥か高みにいる星のような存在のケイだというのが、驚きで仕方がないのだろう。

 英はもう、本気で穴があったら入りたい気分だった。英だってサンダースにいる最中にケイと親しくなって、おまけに恋心まで抱くようになるとは思ってもいなかったのだから。あまつさえその気持ちは誰にも知られたくはなかったというのに、この2人に聞かれたことも失策に他ならない。

 

「ま、頑張れ。当たって砕けろだよ」

「骨は拾っとくよ~」

「お前ら応援する気ねぇだろ」

 

 誠意が微塵も感じられない山河とクリスの応援の言葉を聞いて、英は目元をひくつかせる。だが、こうした無遠慮な物言いができるのも2人が英と親しいからできることである。それに、下手に応援してもらっても恥ずかしさが割り増しとなるだけなので、むしろこれで良かったとも言える。

 先にラーメンを食べ終えた山河は、食器を返却口へと返しに行く。2番目に食べ終えたクリスも同様に、食器を返しに行った。

 後に残った英はカレーを黙々と食べる。そして、2人が戻ってくるまでの内に、先ほどポケットにしまった小さな紙をもう一度開いて中を見る。そのサイズと、罫線が引かれているので元はメモ帳だったのだろう。

 

(・・・・・・どういうつもりだ?)

 

 紙に書かれていた文字を読み、英はそう思うしかない。

 

『今日3時45分

 アイアンブリッジ棟3階3‐D』

 

 それは、呼び出しの合図だった。

 

 

 ホームルームが終わると、まず最初に英は『ハイランダー』棟の職員室へと向かい音楽室の鍵を借りる。もちろん、ナオミとの約束を忘れたわけではないが、まだどんなものなのかが分からないそのナオミの『用事』がどれぐらいの時間がかかるのか分からないので、先に鍵を借りておくことにしたのだ。そしてケイにも、『用事』があるのですぐにピアノが弾けないことを伝えるつもりだ。

 鍵を借り、音楽室の前で英とケイは落ちあう。そして『用事』ができてしまったことをケイに伝えると、若干しょんぼりとした表情を浮かべるが、すぐにケイは笑みを浮かべた。

 

「そういうことなら仕方ないわね。それじゃ、第4図書室で待ってるわ」

 

 第4図書室は、この『ハイランダー』棟にある図書室である。ケイは例え英のピアノが聴けなくとも、一緒に帰るつもりでいるようだった。

 ちなみに、その『用事』がナオミに呼び出されたこと、とは言っていない。なぜか、言うと嫌な方向に事態が転がりかねないと英の勘が叫んでいたからだ。なので英はケイに嘘を吐いたことになるのだが、致し方なかった。

 英はその嘘をついてしまったことも含めてケイに謝り、『アイアンブリッジ』棟へと向かう。

 英は普段授業を受ける『デストロイヤー』棟、ピアノを弾く『ハイランダー』棟、録音室のある『コマンドス』棟にしか行かず、他の棟は移動教室で行くぐらいだった。

 だから、『アイアンブリッジ』棟に足を踏み入れるのも初めてだったのだが、『デストロイヤー』棟と特に変わったところは見受けられない。教室のドアの色もカラフルではないし、床が普通の弾性ウレタンではなく大理石などという違いもない。せいぜいロッカーの型式が違う程度で、一目見てすぐにわかるような違いはなさそうだった。

 英は初めて足を踏み入れた場所に対する好奇心は一先ず置いておいて、ナオミの指定した3階の3‐Dへと向かう。階段を上がり、廊下を歩いていてもすれ違う生徒は数える程度しかいない。いくらマンモス校と言えども、終業のベルが鳴ってからから少し時間が経っているので当然かもしれなかったが。

 やがて約束の5分前に、『アイアンブリッジ』棟の3階、3‐Dの前に到着した。時間まではまだ少し時間があるし、今ここで入ってもナオミがいなかったらどうしようと思っていたら、ドアが内側から開かれた。そのドアを開けたのは、英を呼び出した張本人であるナオミで、突然ドアが開いた英はびっくりした。

 

「ああ、早かったな」

「・・・・・・マズかったか」

「いや、大丈夫だ。問題ない」

 

 ナオミに招き入れられて、英は教室の中に入る。やはり教室も、『デストロイヤー』棟とは何も変わったところはない。強いて言うなら、窓の外の景色が少し違うことぐらいだ。

 教室の中には誰もおらず、ナオミは英の先を歩いて窓際の自分の席に座り、その前の席に座るよう英に促す。言われた通り英は、ナオミの前の席の椅子の向きを変えて、ナオミと向かい合う形になるように座った。

 傾き始めた太陽の光が、2人の他に誰もいない教室の中を照らし、そんな教室で向かい合って座る2人の男女。いい雰囲気と言えるかもしれないが、英はそんなことなど全く考えていない。ナオミがどういうつもりで呼び出したのかは知らないが、今2人の間には緊迫した空気が流れているし、表情はいつものように斜に構えたもので全く考えが読み取れない。

 このまま黙ったまま向かい合って座っていても状況は変わらないので、とりあえず英は話しかけてみることにした。

 

「・・・まさか、ナオミが呼び出すとは思わなかった。それもあんなやり方で」

「急な話ですまなかったな。少し、お前と話がしたかった」

「話?」

「ああ。だが、淡々と向かい合って話をするのも少し退屈だろうし、これでもやりながら話そうか」

 

 そう言いながら、ナオミは脇に置いてあった紙袋から、カサカサと音を立てながら長方形の箱を取り出す。その箱の蓋には、サンダースの所有する最大の航空輸送機・C5M‐スーパーギャラクシーが青空を飛ぶ写真がプリントされている。だがこの箱は、その写真が詰まった箱と言うわけではない。

 

「・・・パズルか」

「ああ」

 

 そしてナオミは、同じ袋に入っていたプラスチック製のパズルフレームまで取り出してきて、この場で完成させる気満々だった。ピースの総数は300とそこまで時間はかからないような大きさだ。しかし、いくら退屈させないためとはいえ、なぜこの場でパズルなど持ち出してきたのかが英には分からなかった。

 ちなみに、英は知らなかったがナオミの日課はジグソーパズルである。寮の自室にはポストカードサイズのパズルがいくつも保存されていて、どれだけ早い時間でパズルを完成させられるかに挑戦している身でもあった。

 ナオミは、パズルのピースが詰まった袋を破って、裏返した箱の蓋に広げる。そして、下地となるボードにピースを置き始めた。それだけでもう、パズルを組み始めたのだと分かる。英も今の状況に少し困惑するが、ただ座っているだけなのも本当に退屈なので、ナオミと共にとりあえずパズルを完成させることにした。

 パズルの基本中の基本は、ピースの1辺以上が水平で分かりやすい外枠から完成させることだった。ナオミと英はその基本に則り、ピースの山から外枠のピースを探してそれを嵌めていく。ナオミが日課としているだけあってか、外枠は10分と経たずに完成した。

 

「・・・・・・そろそろ、話してくれないか?俺を呼んだわけを」

 

 その時を見計らって、英がナオミに話しかける。だが、それでも英とナオミの手は止まらない。ナオミはともかく英までそうなっているのは、ジグソーパズルを組むなど中学生以来のことで、久々に楽しくなってきてしまっていたのだ。

 しかし、本来の目的である『話をする』ということは見失っていなかったので、それについてはっきりさせておきたかった。

 

「・・・そうだな。なら、そろそろ話すか」

「パズルも悪くないけど、そうもいかないからな」

「・・・・・・さて。どこから話したものか・・・」

 

 そう言葉をかけあう2人の手は止まってはいないが、ナオミがわずかにペースを落とす。何かを話すサインだと気付いた英も、一度手を止めてナオミの方を見る。

 

「・・・・・・少し、本題からはズレた話だけど」

「?」

 

 ナオミも手を止めて、英と目を合わせる。

 

「昨日、ケイは告白されたらしい」

 

 それを聞いて、英は一瞬だけ目を見開く。だが、すぐにゆっくりと目を閉じて小さく息を吐く。

 

「・・・そうか」

「・・・・・・意外と驚かないんだな」

「まあ・・・ケイがどんな人で、どんな立場なのかを考えれば、そこまで驚かない」

「・・・・・・確かにそうだな」

 

 英のその言葉は本心から来るものだ。英はケイと知り合う前、サンダースの中で流れる情報だけでケイの人となりを知ったし、だから彼女が全校に名が知れている有名人だということも知っている。好意を抱かれてもおかしくない人だということも分かっていた。

 そして英もまたケイに恋をしたのだから、自分以外の誰かが告白しても不思議な話ではない。英のクラスにだって、ケイに告白して潔く散った者もいたぐらいだ。

 それでも、先ほどナオミからケイが告白されたことを聞いた時には、動揺し、内心では焦っていた。それは、やはり英がケイを好きでいるからこそ、そのケイが誰かほかの人のものとなってしまうのを恐れて、そうなってしまうのではないかと不安を抱いたからである。

 

「ま、ケイは断ったらしいがね」

「そうか」

 

 ナオミが肩をすくめてふっと笑い、その事実を告げると英は内心では安心した。フラれた者には申し訳ないが、本当によかったと英は思っている。

 

「断った理由は、別に好きな人がいるから、だそうだ」

 

 だが、続けてナオミから齎されたその情報は、またも英の心を揺さぶるほどの威力を持っていた。

 自分が好きでいるケイに他に好きな人がいるという話など、不安を煽るものでしかない。そのケイの好きな人物が自分と言うのは自惚れにもほどがあるし、そこまで楽観的に物事を考えられはしない。故に英は不安になったのだ。

 

「・・・いるんだな。ケイにも、そんな人が」

「ああ、そのようだ」

「あのケイのお眼鏡に適うなんて、どんな奴なんだろうな」

「・・・それは、私にも分からないさ」

 

 平然としている風を装って英がそう言うが、心はぐらぐら揺れていた。気を紛らわせようと思ってパズルピースの山に伸ばした手も、注意深く見なければわからないほどではあるが震えているし、英の視界はゆらゆらと揺れている。目の前のナオミの姿が陽炎のようにぼんやりとしてきた。

 そんな英の様子に気付いているのかいないのか、普通に話を続けてきた。

 

「で、そろそろ本題に移ろうと思うんだが」

「・・・ああ」

 

 ようやく本題か、と思って英は嘆息する。前置きでまさかここまで動揺するとは思っていなかったし、なぜ本題の前でケイが告白されたなどと言う話を持ち出してきたのかが分からない。

 

「影輔は、ケイと知り合ってからどれぐらい経った?」

「え?そうだな・・・大体3週間ってところか」

「そこまで日にちは経ってなかったか。随分と仲が良さそうだから、旧知の仲かと思ったよ」

「まあ、そう思うのも無理はないか。ケイはフレンドリーなのもあるし、俺だってそう勘違いすることもある」

 

 パズルの外側は既に完成し、後は中心に向けてパズルを広げていけばいい。まだ青空の部分しか完成していないが、内側に進んでいけばスーパーギャラクシーのピースも嵌めていけるだろう。英とナオミは、互いにまたピースの山からピースを摘まんでいき、嵌める。

 

「もしかして影輔は、ケイと会う前から、噂だけでもケイのことを知っていたのか?」

「ああ。ケイは人気者だし、普通にしていても情報は自然と流れてる」

 

 スーパーギャラクシーは未だ見えてこないが、その周りの青空は完成へと近づいていた。

 

「実際にケイと会って、どうだった?」

「そうだな・・・噂通りの人だと思ったよ。フレンドリーで、明朗快活で。笑顔も明るいし、人気なのも頷ける」

「・・・・・・そうか」

 

 また、ナオミのペースが落ちたように感じた。それを不審に思いながらも、英はピースを嵌めていく。

 ナオミの言う『本題』とは、ケイとの近況報告を聞くことなのだろうか?

 

「・・・影輔、一つだけ聞かせてほしい」

「何?」

 

 改まってナオミが問いかける。英は、ピースの積まれた山から1つを摘まんだところで手を止めてナオミを見る。ナオミもまた同じように、手を止めて英のことを見ていた。

 

 

「影輔は今、ケイのことをどう思っているんだ?」

 

 

 英の全身が一気にスッと冷える。そしてすぐ、背中を中心に全身が熱くなっていくのを感じる。

 

「・・・どう、とは?」

「そのままの意味だ」

 

 一応聞き返してみたが、予想通りの回答しか得られない。

 そして英は、ようやくナオミの真意に気付いた。先ほど、ケイが告白されたという話をして、さらに他に好きな人がいるということも打ち明け、英とケイのことについて訊いたのも、ナオミが恐らく英のケイに対する気持ちに『気付いているから』この質問を投げかけてきた。

 気づいていても敢えて問うのは、英の口から直接聞いて、ナオミ自身の中ではまだ推測と言う段階でしかない、英のケイに対する気持ちを確信に変えるためだろう。

 英は、昼休みに山河から自分がケイに対して恋をしていることに気付かれたのを思い出し、自分の態度はそこまで露骨だったのかと不安になり、かつての自分を疑問視する。それと、山河のような穏やかな者が気付いたのだから、観察眼と洞察力が優れているナオミが気付かないはずもない。

 とすれば、ここで英が気持ちを隠しても無駄かもしれなかった。しかしながら、昼休みと同じで、自分はケイのことを好きだとここでストレートに言うつもりも無かった。

 

「・・・そう、だな。嫌い、ではないか。仲のいい友達だと、思ってる」

「・・・・・・そうか」

 

 好きとは言わず、婉曲的に表現した。これが最善だと、英が思ってのことだった。

 スッと、ナオミの目が鋭く細くなる。英の言葉如きでナオミが納得しないことは想定の範囲内だし、そんな反応をするのも分かっていたが、背筋が凍るような思いだ。端的に言って、ものすごく怖い。

 ナオミは、ピースの積まれた山から適当に2つのピースを摘まみ取る。

 

「・・・・・・人と人との付き合いは、パズルに似ていると私は思う」

 

 突然ナオミが、哲学的というか、ロマンチックなことを言ってきた。この状況で何を言い出すのかと、英はついていけなくなりそうになる。

 そんな英に気付いているのだろうが、ナオミはその手に取った2つのピースを英に見せる。どちらも、青空がプリントされていた。

 

「このピースにプリントされているものを人の性格や内面。このピースそのものを人としようか」

「・・・・・・・・・・・・」

「この2つのピースは、同じ青空の写真がプリントされてはいるが、穴の大きさと出っ張りの大きさが違うから、ぴったりとは嵌らない」

 

 2つのピースをナオミが合わせようとする。だがナオミの言う通り、片方のピースのでっぱりはもう片方のピースの穴よりも大きいせいで、嵌ることはなかった。

 

「同じ空の背景なのに合わない。つまり、性格が似ていても、合わない人は合わないんだ」

 

 持っていたピースの内の片方を山に戻し、もう片方は既に出来上がっている空の背景と合うように嵌める。今度はぴったりと嵌った。

 

「こっちのピースは、同じ空の背景のピースと合った。こちらは同じ背景、つまり同じ性格同士で合ったわけだ」

 

 ナオミはまた、ピースの山から2つのピースを摘まむ。片方にはスーパーギャラクシーの機体らしき白い金属的な何かが一部分だけプリントされていて、もう片方にはまた青空のピースがプリントされている。

 

「さて、この空が背景のピースだが、これはスーパーギャラクシーが写ったピースには合わない」

 

 またナオミが、手に取った2つのピースを合わせようとするが、今度は片方のでっぱりが小さく、穴が大きいせいでこれもぴったりとは合わない。

 

「しかし、このスーパーギャラクシーの機体が写されたピースは、この青空のピースに合う」

 

 ナオミの言う通り、既に出来上がっている青空しかプリントされていないピースに嵌ったのは、青い空とスーパーギャラクシーの一部がプリントされたピースだった。

 

「この通り背景が違う・・・性格が違うピース同士でも合うものはあるし、性格が違う上に合わないピースだって存在する」

「・・・・・・何が言いたい?」

 

 英はそう言うが、パズルを人と人との付き合い、ピースそのものを人間、ピースにプリントされた背景を性格・内面と例えている時点で、何を言いたいのかはなんとなくだが掴めた。

 ナオミは無駄なことはしない主義だと聞いていたので、この一連の会話も何かしらの意味があるものだというのは既に気付いている。だが、それでも英は、ナオミの口から直接聞きたかった。

 

「『性格が同じだから合う』『性格が同じでも合わない』『性格が違うけれど合う』『性格が違うからこそ合わない』・・・・・・人と人との付き合い方は、大きく分けてこの4つがある」

「・・・・・・」

「その中でも影輔とケイの付き合いは、『性格が違うけれど合う』に近いと思うのは、私だけか?」

「・・・いや、その通りだ」

 

 確かにナオミの言う通り、英とケイの性格はお世辞にも同じとは言えない。英は悪く言ってしまうとサンダースの中でも暗いイメージがあり、その自覚もある。周りからも良く『もっと愛想よくしろよ』と言われたものだ。一方でケイは英と対極の位置にあり、明朗快活でフレンドリー、笑顔もばっちりと2人の性格はまるきり違う。それでも英とケイの仲は良好であった。

 ナオミは再び、パズルのピースを嵌め始める。英も同じようにしようとするが、先ほどよりもペースが格段に落ちている。

 

「さっきの話で、私はピースに写った背景は『性格・内面』を表していると例えたが、それを『立場』に置き換えても意味は通じる」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 パズルを嵌めてから少ししてナオミがそう話す。パズルはもう、8割方完成に近づいていた。

 英は、ナオミの言葉を噛みしめてその通りだと頷く。『立場が同じだから合う』『立場が同じでも合わない』『立場が違うのに合う』『立場が違うからこそ合わない』と、確かに違和感はなく通じる。

 

「だが『性格・内面』と違って、『立場』と言うものは当人たちが気にしなくても、周りは大いに気にする。それで不満や疑念、あるいは嫉妬心を抱くこともあるだろう」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 極端な話、一国の王と貧民が恋に落ちて『付き合う』と宣言したところで、周りは果たしてそれに諸手を挙げて賛成するだろうか、と言うわけだ。

 例え2人が自分たちの立場など顧みずお互いの気持ちを尊重していたとしても、周りはそれを良しとしないだろう。ナオミの言う通り、不満や疑念、嫉妬心を生みかねない。

 

「そんな時はどうすればいいか」

「・・・・・・・・・・・・」

「それは、どちらか一方が相手の立場に歩み寄ることだ」

「・・・・・・それも、立場が下の者が上の者に近づく形の方がいいと」

「そうだな。その通りだ」

 

 ナオミと英は、それぞれピースを嵌めていく。ナオミは不敵に笑いながらピースを嵌めていて、一方で英は顔を上げずナオミと顔を合わせようとはしない。今自分の顔を見せると、色々と自分の気持ちを見透かされてしまいかねないからだ。

 それはともかくとして、立場が違う者同士が親しくなり恋に落ちてしまったとすれば、周りを納得させるために最も有効な手段の1つとして、まずは双方の立場を同等のものとするべきだろう。それも英が言うように、上の者が下の者に歩み寄るのではなく、下の者が上の者へと近づくべきだ。

 上の者が下の者へと近づけば、それは近寄る者の価値そのものを貶めることになってしまい、その人自身の周りからの評価も余計に下がってしまう。それを避けるために、下の者が上の者へと歩み寄るべきなのだ。

 

「まあ、何が言いたいのかと言うとだな」

「?」

 

 パズルはもう9割近く出来上がっており、完成も目前に迫ってきている。

 そこでナオミが一区切りつけるような言葉を告げて、英もそちらに意識を向ける。顔を上げて、ナオミの顔を真っ直ぐに見て次の言葉を待つ。

 

「もし、仮にもし、だ。性格も立場も正反対な影輔とケイが付き合うことになったとしたら、それを周りはどう思うだろうな、って話だ」

 

 英の摘まんでいたピースが机の上に落ちる。

 ナオミの言葉を受けて、英は改めて自分とケイの立ち位置を見直す。ケイはサンダースの星たる人気者で、フレンドリーで快活なマドンナのような存在。片や自分はちょっとピアノができる程度で他には別に何の取り柄も無いサンダースの一生徒。月とすっぽんもいいところだ。

 確かに英はケイのことを好いていて、万が一、億が一、自分の告白にケイがOKしたとしたら、英はそれはもう喜ぶだろう。だがしかし、周りはそれを決して良しとはしないだろう。ケイのことを好いている人物は他に大勢いるだろうし、その中には英よりもヒエラルキーがずっと上の人だっているに決まっている。そんな人物からすれば英は妬まれて当然だろうし、下手すると背中を刺されるかもしれない。

 そして、英を選んだケイだって非難される可能性もある。そうなれば、例え自分の恋が実ったとしても英は喜ばしくは思えないし、むしろケイに対して申し訳ないという気持ちが積もっていって、付き合うどころではなくなるだろう。

 そうなる可能性だって存在するということに、ナオミの話を聞いて英は気付かされた。

 恋心を抱いた時から、自分の中にある想いはいずれは全て告げるべきだと思っていた。しかし、今のままでは告白をして仮にケイが応えてくれたとしても、行き着く先は針の筵で心が折れるだけだ。

 

「よし、完成だ」

 

 気づけばナオミが、英の手元に落ちていたピースも回収して、ジグソーパズルを完成させていた。完成図の写真通り、青空を飛ぶスーパーギャラクシーが写っている。パズルが完成する最後の瞬間ぐらいは見届けたかったのだが、最後の方はナオミの言葉を頭の中で反芻していて、パズルのことなど頭からすっぽ抜けていた。

 時計を見ると、下校時刻まで15分も無いような時間だった。これでは今からケイの下へ向かっても、音楽室でピアノを弾く時間は残されてはいない。

 

「・・・・・・随分、回りくどいやり方をするんだな、ナオミも」

「・・・・・・さて、何のことだろうな」

 

 英のケイに対する好意に気付いたうえで話をしたナオミにそう告げると、ナオミはニヤリと笑う。しらばっくれているのは目に見えているが、これ以上言ってもナオミは態度を変えないだろうし、多くを言うのは諦めた。

 

「ナオミも結構、深い考えを持ってるんだな」

「半分は小説の受け売りだけどね」

「何だそれ」

 

 パズルフレームに完成したパズルを嵌めて、満足げな表情をナオミはする。それを英は腕を組みながら眺めていた。

 先ほどのナオミの哲学じみた言葉は、小説の受け売りだったとは。しかし、残りの半分は持論ということだろうし、その思考は果たして同じ高校生なのかと問いたくなる。

 そんなナオミは、今付き合っている男子がいないと言う。それは恐らく、先ほどナオミ自身が言っていたように、周りからの評価と言う人気者故の要因があるせいで、自分の思うように付き合うこともできないせいだ。時として人気があるというのは、足枷でしかないのだと思わされる。

 

「さて、これで話は終わりだ。急に呼び出したりして悪かったな」

「いや、おかげで大事なことに気付けた」

「そうか」

 

 事実、ナオミの話を聞いて英の中にはある決断が生まれていた。幼いころに、プロのピアニストからピアノを教わることを辞める時に値する、英の人生の道を分けるほどの大きな決断だ。

 だからこの時間も全くの無駄ではなかったし、何よりためになる話も聞けたのだから、これを無駄な時間ということなどできはしなかった。

 

「もう時間だし、何なら途中まで一緒に帰るか?」

 

 ナオミが提案してきたが、英はそれを申し訳なさそうに断る。

 

「・・・・・・悪い。ケイと約束してるんだ」

「・・・そうか。なら、仕方ないな」

 

 ケイと同じ寮で暮らすナオミなのだから、ここで一緒に帰ろうと言うこともできたはずだった。それでも言わなかったのは、ナオミが英の気持ちに気付いているから、英とケイを2人だけにするように計らってのことである。

 

「・・・影輔」

「?」

 

 席を立ちあがり、教室から出ようとする英の背中にナオミは声をかける。英が立ち止まってナオミの方を振り向くと。

 

「Good Luck」

「・・・・・・サンキュ」

 

 ナオミがサムズアップをしていた。英は同じようにサムズアップを返し、教室から出て行った。

 ナオミはそれを見送ると、完成したパズルを紙袋に丁寧に仕舞って、帰り支度を始める。

 

 

 結局、ケイの待っている第4図書室に着いたのは、下校時刻の5分前になってしまった。これでは流石に曲を弾くのも不可能だったので、今日は大人しく帰ることにした。結果的にケイは待ちぼうけを喰らうことになってしまったのだが、それでも気にはしていないようだ。

 

「悪かったな・・・待たせた上にピアノもできなくて」

「それはもういいわ。影輔に悪気が無いのは分かってるんだし」

「・・・・・・すまない」

 

 鍵を職員室に返し、昇降口で靴を履き替えて、今は家路を歩いている。

 昨日までは、ケイとは仲良くなれたのだしこうして一緒に帰ることも不思議ではないと思っていた。だが、ナオミの話を聞いた今では、英と違う立場にいるケイが自分の傍にいることが変に思えてきてしまっている。

 

「・・・・・・影輔、大丈夫?」

「え?」

「何か顔色悪そうだけど・・・?」

 

 歩きながらケイが英の顔を覗き込み、問いかけてくる。英は『何でもない』と首を横に振るが、ケイはそれでも納得していないようだ。

 何か別の話でもして気を紛らわせようと思い、英は肩に提げている楽譜の入ったトートバッグを見る。その中の、ケイのお気に入りだというあのラブソングが目に入り、さらに先ほどナオミの言っていた言葉を思い出す。

 

「・・・・・・なあ、ケイ」

「何?」

「1つ、変なこと聞いてもいいか?」

「えっ、何なに?」

 

 『変なことを聞く』と前置きしたはずなのに、なぜかケイが目を輝かせている。普通はそんなことを言われたら身構えたり多少なりとも狼狽えるだろうに、どうしてこうも反対の反応をするのだろうか。いや、それはケイの性格だろうな、と英は自問自答する。

 とりあえずは本題に移るために、そのトートバッグの中のラブソングの楽譜を取り出してケイに見せる。

 

「この曲をケイが気に入ってるって聞いた時から、気になってたんだけどさ・・・・・・」

「?」

 

 少しだけ言い淀んでから、英は訊いた。

 

「ケイには・・・好きな人がいるのか?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 英は今初めて、全ての表情が抜け落ちたようなケイの顔を見た。

 昨日ケイは、告白を受けた際に『他に好きな人がいる』と言う理由でそれを断ったと聞いた。ナオミが嘘をついているとは信じたくはないが、それが本当なのかどうかを確かめたくて、その質問をしたのだ。この反応を見るに、どうやらそれは図星、ナオミの話は本当だったらしい。

 だが、間違ってもそのことは言ってはならないと分かっていたので、これまで英が思っていた疑問だけを伝える。

 

「こういうラブソングが気に入ってるって言ってたから、もしかしたらケイにもそういう人がいるんじゃないかって思って」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 時間にしてケイは1分ほど黙りこくっていたが、それが10分ほどの時間に思えた。

 やがてケイは、言葉を洩らす。

 

「・・・・・・・・・この曲を聴き始めた頃は、いなかったわ」

 

 過去形の話し方をするだけで、今は違うというのがわかる。

 

「・・・でも、今はいる」

 

 夕暮れ特有の茜色に染まる空を見据えながら、ケイはそう答えた。それを聞いた英は、『そうか・・・』と力なく答える。

 その相手がどんな人なのか、までは聞かない。聞いたところでその人物のスペックが英よりも遥かに高かったら、本当に勝ち目がないと悟ることになる。英の決意が折れるかもしれなかった。

 

「で、影輔にはいるの?そういう人」

「はっ?」

 

 全く同じ質問を返されたことについては、完全に英の予想外だった。ケイは、夕暮れでそう見えているだけかもしれないが、僅かに顔を赤くして問いかけてきている。

 答えたくはなくて背を背けようとしたのだが、ケイは見逃してくれなかった。

 

「私だけ答えるっていうのも、ちょっとアンフェアじゃないかしら?」

 

 そうだった。ケイの人気の要因の一つにはフェアプレー精神があった。戦車道ではたとえ勝つためであっても彼我を問わず卑劣な手段を認めず、身内が恥を晒した時は素直に頭を下げる人柄だ。ここでそう言われたのはとても痛く、逃げることなど許されなかった。

 観念して、英は話す。

 

「・・・・・・ああ、いるよ。俺にもそういう人は」

「・・・・・・・・・そっか」

 

 ケイの声が少し落ち込んでいるように聞こえたのは、多分英の気のせいではないと思う。その落ち込む理由までは英にも分からなかったが。

 だが、ここでケイの顔を見ると、言外に『ケイのことが好きだ』と言っている風に捉えられてしまうかもしれなかった。だから今ここでケイの表情を窺うことはできない。

 そして今の状況を作り上げてしまったのは英の質問が原因だったので、この重い空気をどうにかするべきだと思った。

 

「あ・・・・・・悪かったな。バカな質問して。忘れてくれて――――」

 

 その直後、英の手に柔らかい感触が伝わってきた。

 見れば、英の右手を、ケイの左手が小さく握っている。しかもその手は、僅かに震えていた。

まるで、何かに縋るように。

 

「・・・・・・これで、忘れてあげる」

 

 そこで初めてケイの顔を見ると、ケイは笑みを浮かべてはいた。だが、その笑みは不安を押し殺すかのような、哀しみを帯びているようにしか見えない。

 

「・・・・・・本当に、ごめん」

 

 その哀しさを晴らすように、その震えを止めるように、英はその手を握り返す。そして、そんな不安で哀しい気持ちにさせてしまったことを謝った。

 いつもの十字路で別れるまで、2人はお互いに手を強く握り合ったまま離すことはなかった。

 

 

 夜、夕食を食べ終えて食器を片付けた英は、スマートフォンを手に取りある人物へと電話を掛けていた。その相手は3コール目が鳴り終わる直前で電話に出た。

 

『もしもし?』

「山河。悪いな、こんな時間に。今大丈夫か?」

『うん、大丈夫。どうかしたの?こんな時間に』

 

 その電話の相手、山河はいつものようなのんびりとした口調で電話に出てきた。

 英は普段、この時間帯に家族以外へ電話をすることは全くと言っていいほどない。友人知人であっても、夜が更けてから電話をするのは気が引ける。

 だから夜は基本メールで済ますのだが、こうして電話をかけているのはメールなどでは伝えられない用件だからだ。そして、眠っている間に決意が薄れることを恐れて早急に伝えるべきだと思ったからである。

 

「・・・・・・山河」

『なに?』

「あの、クイズ大会の特別コーナーの話・・・・・・どうなってる?」

 

 英が問うと、山河は電話の向こうで『あ~、あれねぇ~』と捻り出すような、本当に悩んでいるのだと分かる声を上げた。

 

『それがさぁ、まだアイデアが出てないんだよねぇ~。このままじゃ本当に特別コーナー無しで本番迎えることになりそう』

「・・・・・・そうか」

『で、それがどうかしたの?もしかして、引き受けてくれる気になったとか?』

「ああ、そうだ」

『だよねぇ。無理だよねぇ。どうしたもんかなぁ・・・・・・・・・・・・・・・って、え?今なんて?』

 

 山河も本気で聞いたわけではなかったのだろうが、その問いに英があまりにもあっさりと、さらっと答えたせいで、山河もすぐに反応できなかった。だがすぐに正気を取り戻して聞き返す。

 英は、すぅっと息を吸って、改めて自分の答えを告げる。

 ここでその答えを言うと、もう自分は引き返せなくなる。

 しかし、もう英は覚悟を決めていた。

 だから、その答えを告げる。

 

 

「山河の言っていた企画・・・引き受けるよ」

 

 




1週間も待たせてしまった上にヒロインの出番が少なくて大変申し訳ありません。

ただ、人気ある人と付き合うためには、相応の立場にいることも重要だということを、
ケイと親しくてなおかつ同じ人気者であるナオミに気付かせるという場面は最初から考えていたので、今回はその場面を書かせていただきました。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


余談
Variante4巻、面白かったです。
個人的に好きなアッサムや審判娘、直下さんバミューダの出番が多くてとても満足でした。


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やったことがない

感想・お気に入り登録ありがとうございます。
とても励みになります。

今回すごい長いです。
予めご了承ください。


 放課後、英は普段ピアノを弾く『ハイランダー』棟の第5音楽室ではなく、各部活動の部室が揃う『フォックストロット』棟のクイズ研究部の部室にいた。部室の広さは、普段英たちが授業を受ける教室とほとんど変わらず、壁に向かってデスクトップパソコンが何台か設置されており、本棚には検定試験の本や、多くの雑学が載った本が並べられている。

 その部室の中は今、緊迫した雰囲気に包まれていた。普段は規則正しく並べられている長机と椅子は、会議用に四角形に並べられている。英はその中で山河の隣に座っており、その山河は会議に参加する部員全員に聞こえるように話をしていた。

 その話している内容は、来るサンダースフェスタでのクイズ研究部が主体となって行うイベントのクイズ大会『サンダースQA(クイズアタック)』内での特別コーナーについてのことだ。具体的には、山河の提案したピアノアレンジの音楽クイズの話である。

 昨日の夜に英は、電話で山河にその『サンダースQA』で行う特別コーナーの企画に協力することを伝えた。その電話の後で山河はすぐ、クイズ研究部の部長にその話を通し、部長は翌日の部活動で会議を開き審議すると返事をした。その際、そのピアノを弾く英も連れてきてほしいとも伝えた。その話をその日のうちに山河は英に伝え、さらに前に英に弾いてもらったピアノのデータを用意して、今現在開かれている会議に臨んだのだ。

 

「・・・・・・確かに、このピアノはとても上手い」

「そうですね・・・。プロの方が弾いたと言われても疑えません」

 

 山河の持ってきた英のピアノの音声データを聴いて、部長のアイザックと言う男子と、副部長のニッキーと言う女子は大きく頷く。他の部員たちも同意見のようで、目を閉じて頷いていたり、小さく笑っていたりする。

 部長のアイザック(苗字の逢坂(あいざか)をもじった)は、四角いフレームの眼鏡に、程よく短く切られた黒の短髪で、朝のニュースキャスターのような爽やかな青年だ。

 副部長のニッキー(苗字の新木(にいき)をもじった)は、焦げ茶色のショートボブのスレンダーな女子で、クールな印象がある女子だ。

 

「如何でしょうか、アイザック部長、ニッキー副部長。今年の『サンダースQA』のコーナーは、彼に一任してもらえますでしょうか」

 

 普段部活外で話をする山河からは想像もつかないような、冷静かつ丁寧な言葉に、隣に座る英は舌を巻く。先ほど企画の話をした時も思ったが、山河はこう言った緊迫した場でも物怖じせずに自分の意見を貫くことができるほど、冷静沈着だ。

 

「・・・・・・彼の意見に反対する者、あるいは別の案がある者は?」

 

 アイザックが、部員全員に問いかけるが、部員たちは何も言わず、首を横に振る。それは見方を変えれば、他に打つ手がないということになるだろう。

 

「・・・・・・英君は、それでいいんだね?」

 

 柔和な笑みを英に向けて浮かべるアイザック。見た目と言い話し方と言い、テンプレートな秀才のような感じがしてならないが、不思議と悪い気はしない。

 そして英は、会議の内容を全て理解し、自分が頷けば全てが決まる。そして同時に、もはや後戻りはできなくなるということも分かっていた。

 だが、自分が何のためにここに来て、なぜ山河の懇願を聞き入れたのかを考えれば、ここで断るのは本末転倒だ。それに、部員たちの顔には本当に他に道が無いから『英に全てを任せる』という気持ちが現れていて、余計断ることなどできなくなる。

 

「・・・はい。それで大丈夫です」

 

 その英の返事の直後、会議室全体の空気が緩んだような気がした。部員たちの表情も安堵したかのようになる。

 

「では英君、よろしく頼む」

 

 部長がそう締めて、会議は終了となった。それと同時に下校時刻を告げるベルが鳴って、部員たちはいそいそと机と椅子を元の位置に戻す。英ももちろんそれを手伝い、早く撤収することができるように協力する。

 机を片付け終わると、部長が最後に号令をかけた。

 

「それでは皆。特別コーナーの内容も決まったから、明日からはまた忙しくなる。それでも頑張って一致団結して、サンダースフェスタを成功させよう!」

『はい!』

「終わったら皆でバーベキューで打ち上げだ!」

『YEAH!』

 

 最後に部員たちの士気を上げるご褒美を告げて、部員たちは一気に盛り上がる。聞けば、アイザックはケイと同じく一戸建て住宅型の寮で生活しているため、庭でバーベキューを行うことができるらしい。それはともかく、やはり部長だからか部員たちを統べる統率力は持っているようだ。

 号令が終わると解散になり、部員たちはそれぞれ荷物を持って帰路につく。英と山河もまた帰ろうとしたのだが、その前に英がアイザックから声をかけられた。

 

「ありがとう、英君。君が引き受けてくれたおかげで、今年も面白いコーナーができそうだ」

 

 気さくに英の手を取って握手をし、微笑みかけるアイザック。英は曖昧な愛想笑いを浮かべてその手を握り返す。

 

「ご期待に添えられるよう、誠心誠意努力します」

「ああ、是非よろしく頼むよ。詳しい話が決まったら、山河を通して連絡する」

 

 アイザックは英の肩をポンポンと叩く。そこで、今回の『サンダースQA』で舞台演出の協力をしてくれる技術研究部の部長がやってきて、アイザックはすぐにその部長と話をし始めた。

 

「忙しそうだな、クイズ研も」

「部長も最後だからって張り切ってるんだよ。もう卒業だし」

「そうか・・・」

 

 なんとなく英が呟くと、山河が先ほどの会議中とは打って変わって、いつものようにのんびりとした口調で返す。副部長のニッキーは2年生だが、アイザックは3年生なので当たり前だが来年には卒業する。だから最後の文化祭ということで、一層気合いを入れているのだろう。

 山河が『帰ろうよ』と促したので、英も山河と共に部室を出て昇降口へと向かう。その途中で、山河が頭を下げてきた。

 

「いやぁ、本当に助かったよ。引き受けてくれてホントにありがとう」

「・・・・・・引き受けた身で言うのもあれだけど、ちゃんとフォローしてくれよ」

「それはもちろん。ばっちりやるよ」

 

 英も、サンダースフェスタの目玉イベントの一角である『サンダースQA』の1コーナーに出演するのは、恐らく人生で一番緊張するだろうと思っていた。だから、自分1人で成し遂げようとするのは不可能だと早々に悟り、恥も外聞もかなぐり捨てて初めから山河とクイズ研究部をあてにしていた。無論山河も、全部英に任せるとまでは言わず、ちゃんとクイズ研究部側でやるべきことはやるつもりでいた。

 

「それにしても、随分と急な話だったね。どういう風の吹きまわし?」

 

 山河の疑問は尤もだ。昨日まで頑なに協力を拒んでいた英が、急に『引き受ける』と言ってきたのだから、山河はものすごく驚いている。

 英が断り続けてきた理由は、大ホールで多くの観客の前でピアノを弾くことに抵抗があったからなのは聞いている。その環境が別に変わったわけでもないのに、なぜだろうという疑問が消えないのだ。

 

「・・・・・・それは、あれだ。俺が断ったせいでクイズ研の演目が失敗して、クイズ研の評判が落ちて、お前やクイズ研の人が悲しい顔をするって思うと、寝覚めが悪いし」

 

 それも一つの理由ではあるが、山河とクイズ研究部には悪いがそれは最も重要な理由ではない。だがそれは口に出すのも憚られるもので、今は言わないでおくことにした。

 そして山河はと言えば、まだ英のことを疑っているようで、『本音は?』とでも言いたげにジト目をしていた。

 英のケイに対する好意に気付いた時もそう思ったが、山河はのんびりとしているように見えて割と人を見る目が、観察眼が備わっている。だから英にも他の理由があることを見通しているようだが、その詳細までは分からなかったようで、ふっと雰囲気を柔くする。

 

「・・・・・・まあ、他に理由があったとしても、僕はそれを根掘り葉掘り聞くような無粋な真似はしないよ。一先ずは、“仕事”を引き受けてくれて感謝はしてる」

「・・・悪いな」

「謝る必要はないよ。だけど、きっちり仕事はこなしてくれよ?」

「ああ、もちろんだ」

 

 2人は言葉を交わして、お互い拳を合わせて昇降口へと向かった。

 

 

 その翌日の放課後、今度は英は『ハイランダー』棟の第5音楽室でピアノを弾いていた。その傍の机には、やはりケイが座っている。昨日一昨日とピアノを聴かせることができず申し訳なく思っていた英だったが、そのケイは今は目を閉じて実に嬉しそうに微笑みながら、英の奏でるピアノの旋律に耳を傾けている。

 今、英の弾いている曲は世間的に有名なアニソンだ。初めてケイと英があった日にも彼女の前で弾いた曲だったので、ケイはこの曲を知っている。けれど、歌詞までは覚えてはいなかったので前のように一緒に歌うことはできなかった。なのでこうして聴くことに専念している。

 この曲は、そのケイと初めて会った日以来弾いてこなかったのだが、今日弾いたのには理由がある。それはやはり、自分が要となる『サンダースQA』の音楽クイズで弾くつもりだからだ。

 クイズ研部長のアイザックは、全部で10曲―――と言ってもサビ前とサビだけ弾くので時間はそこまでかからないが―――ほどクイズを出題すると言っていたのだが、その内の何曲かは英に自由に選んでもらうと言った。有名なのを選べばそれでいいし、マイナーであれば難問として扱うと、柔軟な対応をするつもりでいる。それに、普段弾き慣れた曲の方が英もやりやすいと思ったうえでのことだ。

 英は、スタンドに開かれている楽譜と鍵盤を叩く指、そしてこの曲を聴いているケイの様子をチラッと窺いながら、自分の中に生まれた決意を改めて見つめ直す。

 

 

 英が山河の提案を引き受けた一番の理由は、自分の立ち位置を変えるため、ケイに相応しい人物となるためだ。

 そうするべきと思ったのは、昨日ナオミと話しをして、今の自分のままではケイとは釣り合わないと悟り、どうにかして自分を変えなければならないと思ったからだった。

 あくまで仮定の話ではあるが、今の凡庸でピアノ以外では特に取り柄の無い英とケイが付き合うことになったとしたら。恐らく周りは、『“あの”ケイの相手がそんな男でいいのか』とまず間違いなく疑問視するだろうし、嫉妬心を抱く者も大勢いるだろう。そんな疑惑の視線と嫉妬の念に晒されながら付き合うのは英も針の筵となって気まずいし、ケイにも迷惑が掛かってしまうからそれは避けたかった。

 だからそのリスクを回避するために、サンダースの目玉イベントの一つである『サンダースQA』に出演し、その唯一と言ってもいい取り柄であるピアノで自分の名を上げ、自信をつけたいと思った。もちろん、それで知名度が格段に上がるとは思ってもいないし、それだけで全部解決するとも思えない。だがそれでも、やらないよりはマシだと思ってのことだった。

 

 

 曲を弾き終えて、ケイはパチパチと拍手をしてくれた。英は小さくぺこりと頭を下げて、笑みを浮かべる。

 

「久々に聴いた気がするけど、やっぱりいい曲ね」

「ああ。ちょっと悲しげな感じがするけど、そこがまたいいっていうか」

 

 この曲は曲調が少し暗めで、歌詞自体も哀愁が漂うフレーズがかなり使われているので、全体的に悲しいイメージが強い曲だ。けれどその斬新な構成が広い世代に人気の曲でもあった。

 

「この曲、私と影輔が初めて会った日にも弾いてたわよね?」

「ん?ああ、覚えてたのか」

 

 ケイは、この曲のことを覚えてくれていた。それは、あの時出会った日のことを忘れてはいなかったということになる。

 

「忘れるわけないじゃない。あの日影輔と会えたから、影輔の楽しいピアノが聴ける今があるんだもの」

「・・・・・・・・・」

 

 全く、ケイは英をときめかせるのが上手いと改めて思う。注意しなければ口がにやけて薄気味悪い顔を見せることになりかねないので、楽譜を取り替えるふりをして顔を逸らす。

 

「あの時以来聴いてなかったけど、久々に弾いたのは何か理由があるのかしら?」

「・・・・・・・・・あー」

 

 そう言えば、昨日英が『サンダースQA』の仕事を正式に引き受けることが決まってから、ケイには何も話していなかった。

 だが、英がその特別コーナーを担当するということ、そしてその特別コーナーの内容は一切他言無用と厳命されていたので、その理由を素直に話すことはできなかった。

 

「・・・実は山河からの頼まれてたピアノの生演奏を引き受けることになって。その時弾こうと思ってるから練習するために」

「えっ?引き受けることにしたの?」

 

 ケイもまた、英が山河の依頼を断り続けていたのを知っている。その断っていた理由だってケイは聞いていた。だからなおのこと、急に態度を一変させて依頼を引き受けたのが不思議で、不可解だとしか思えない。

 

「なんでまた急に?」

「俺が断ったせいで、山河たちがいい顔しないのも嫌だったし」

 

 誰かに参加する理由を聞かれた際は、こう返すことを既に決めていた。まさか、『ケイに告白するために自信をつけ、釣り合うように自分の名を上げる』なんて本当の理由は、口が裂けても言えない。しかも今目の前にいるのはそのケイなのだから、うっかり口を滑らせようものなら死んだ方がマシだ。

 

「優しいのね、影輔って」

 

 何気ないケイの一言に英はまた少し恥ずかしくなるが、同時に本当の理由を隠していることを申し訳なく思う。

 そしてさらに、ケイに対しては残念な報告があった。

 

「・・・その山河たちに協力するから、サンダースフェスタまではその演奏するつもりの曲を練習しなくちゃならない。だから・・・ケイが一緒に歌うっていうのは、ちょっと難しくなる。ごめん」

 

 ケイが一緒に歌うという話は、一昨々日ケイのお気に入りのラブソングを英が弾いた際に、ケイがそのピアノに合わせて歌ったことに起因する。あの後で、また一緒に歌いたいとケイは言っていたし、英はそれに首を縦に振ったのだが、一昨日も昨日も英はピアノを弾けなかったし、今日からは練習に入ってしまうのでそれが難しくなったのだ。

 

「ノープロブレム!影輔にそういう事情があるんなら仕方ないわ。それに元々は、私の頼みみたいなものだったし」

「・・・本当にごめん。そして、ありがとう」

 

 そして英は、『サンダースQA』で選ばれれば弾くつもりの曲を何曲か弾く。なるべく有名な曲を持ってくるようにとアイザックから言われたので、割と名が知れている曲や、話題になった曲を選び弾くことになった。

 弾き終えると、ケイも名前は知らないが聴いたことはあるような曲が何曲かあったらしく、『それなんて曲?』と訊ねてきた。英は、その質問には素直に答えて曲の名前を教える。

 『サンダースQA』に参加するのは学校を代表する人物で、去年は教師陣やOB、OGの他に先代の戦車隊隊長も参加していた。だから、今年もその隊長であるケイが参加するのではないかと思ったのだが。

 

「いやぁ、ケイさん今年は参加しないって」

「え、そうなのか?」

「うん。なんかねぇ、今年は別の用事が入ってるらしくて」

 

 今日の昼休みにそれを山河に聞くと、こんな回答が返ってきた。ただ、隊長だからクイズ研のイベントに出なければならない』と言う法も規則も存在しないので、無理強いはできないらしかった。

 何はともあれ、ケイが『サンダースQA』に参加しないというのであれば、そこで弾く予定の曲の名前を明かしても別に支障は出ないだろう。だから隠すことはせず、英は曲の名前を教えた。

 

「ありがとう、今度聴いてみるわね」

「ああ。是非聴いてみるといい。みんないい曲だから」

「そうね。この曲もできれば、影輔と一緒に歌いたいわね・・・」

 

 そう言ってから、ケイは少し困ったような、残念そうな笑みを浮かべた。やはり一緒に歌いたいと思っても、ケイにもケイの事情があるため、それもすぐには実現しないことだった。

 

「私も戦車隊の総合演習に向けて訓練があるし、ここに来るのも難しくなるわね・・・・・・」

「そこは、お互いさまってところか」

 

 忘れてはならないが、ケイだって総合演習で隊を率いて演習をするという重大なミッションがある。そのための準備だってあるのだから、放課後必ずここに来るということもできないだろう。

 

「戦車隊の方は、どうなんだ?」

「皆頑張ってくれてるわ。まだちょっとムラはあるけど、本番までには克服できる程度のものよ」

「それがフラグにならないことを祈るよ」

「あははっ、フラグじゃないって!」

 

 英が冗談を告げるとケイは軽く笑って否定する。

 英は、雑談もそれぐらいにして再びピアノを曲を弾き始める。その後も同じように、ケイの知っている曲はいくつか出てきたが、終ぞケイが一緒に歌うことはできなかった。

 時間一杯まで弾き終えて、終業のベルが鳴ると撤収作業に入る。ただし、明日から2週間はサンダースフェスタに向けての準備期間ということで、下校時刻が1時間遅くなる。学園艦と言う海の上の限られた場所で暮らしているため治安はそれなりに高いと言えるのだが、それでも教育面の意味合いで下校時刻は設定されているのだ。

 鍵を職員室に返し、ケイと2人で家路を歩く。明日から少しの間は、こうすることもできなくなるんだなと思うと、少し寂しい。

 

「寒くなってきたわね~」

「まあ、もうすぐ10月も後半になるしな・・・っていうか、寒いなら腕捲るのやめたらどうだ?」

「なんかこうしてないとどうも落ち着かないっていうかね~」

 

 年がら年中ケイは制服の腕の部分を捲っている。夏でもないのに女の子がそう肌を見せるもんじゃないと英は思うし、寒空では見ているとこちらまで寒くなってきそうだ。

 

「戦車隊の総合演習は2日目だったか」

「ええ、そうよ」

 

 サンダースフェスタは全部で3日間行われる。1日ごとに大きなイベントを開催するようになっていて、多くの来場者を呼び込めるようになっていた。初日のイベントは、サンダースOGやOBが所属する音楽バンドのライブ、2日目がサンダース戦車隊の総合演習、そして3日目が英が参加することになったクイズ研究部の演目『サンダースQA』だ。

 

「よし、応援しに行こう」

「えー?ちょっと恥ずかしいわね・・・」

 

 『恥ずかしい』とは、随分とらしくないことを言う。ケイはそのような大舞台では、むしろ胸を張って堂々と振る舞うイメージがあったのだが。もっと言えば、緊張もしないだろうとも思っていた。

 

「それは買い被り過ぎよ?私だって緊張することだってあるわ」

「そういうものか・・・・・・」

 

 その感想を素直に告げると、ケイは手を横に振って笑った。どうやらケイも、完璧超人ではなくて1人の女の子のようだ。

 

「じゃあ、影輔のピアノの生演奏って、いつどこでするの?」

「え?それは・・・・・・」

 

 同じようにケイが問いかける。恐らく、それを言えばまず間違いなくケイは聴きに来るだろう。

 だが、英がその演奏をするのは3日目の『サンダースQA』であり、それに英が参加することは誰にも言ってはならないことだ。だから適当にはぐらかすなり誤魔化すなりしなければならないのだが、そんな時にケイと目が合ってしまった。

 

「あ・・・・・・・・・」

「?」

 

 その吸い込まれそうなケイの瞳を見て、英は一瞬戸惑う。いかなる嘘も見通しそうな瞳を前にして、全部話しちゃってもいいんじゃないか、と言う悪魔のささやきが聞こえた気がする。

 だが、ここでそれを話すとクイズ研のアイザック部長や山河との約束を反故にしたことになってしまう。それで信用を失っては、英の本来の目的である名を上げることもできなくなる。

 だから、“全てを”話すことはできなかった。

 

「・・・誰にも言うなって約束されてるから全部は言えないけど・・・・・・」

 

 けれど、“少しだけ”は明かすべきだと思った。

 

「・・・・・・3日目にやる、としか言えない」

「え、3日目?」

 

 そこでケイが声を上げた。まさか、その情報だけでバレてしまったというのか。だが、困った表情をしているあたり、どうも違うらしい。

 

「ソーリー、3日目は私も用事が入ってるの。だから見に行けないわ」

「・・・・・・そうか」

 

 恐らくその用事が、山河も言っていたのと同じ案件なのだろう。

 とにかく、ケイが見に来ないというのは、少しだけ残念な気がした。これがケイではなくて普通の友人、例えばクリスであれば冷やかしに来るのが目に見えたので『来るな』と言っていただろう。だが、ケイが来ないのは寂しく、残念だと思う。

 

「・・・あっ、だったら影輔」

「ん?」

 

 そこで何かを思いついたケイは、再び英の顔を見る。しかしその顔はいい考えが浮かんだとばかりに明るい。

 

「1日目は空いてる?」

「初日?それはまあ・・・・・・」

 

 英もクイズ研究部の手伝いをするということで、英のクラスで行う軽食喫茶の手伝いが免除されることになった。実際にクイズ研の手伝いをするのは3日目だけなので初日と2日目はフリーなのだが、あまり口を出して仕事が増えて、当日万全のコンディションで挑めないのは痛いと思ったので、大人しく従う事にした。

 つまり英も、2日目は総合演習を見に行くとして、初日の予定は特になく、適当に文化祭の屋台をぶらぶらと回ることにしようとしていた。

 

「だったら、一緒に回らない?」

「・・・・・・」

 

 ケイもどうやら自分のクラスの手伝いは免除されたらしい。そして2日目は総合演習、3日目は何らかの用事で空いておらず、初日はフリー。そして英も初日はフリー。だから英を誘うのも当然の帰結と言えるかもしれなかった。

 

「それとも、誰かと約束でもしてた?」

「いや、それはない、けど・・・・・・いいのか?」

 

 『いいのか?』という言葉の裏には『好きな人と一緒じゃなくていいのか?』と言う意味がある。昨日言っていた『ケイの好きな人』が誰なのかはまだ分からない。その人とでも回ればいいのに、自分なんかにうつつを抜かしていいのだろうかと思って聞いたのだ。

 しかしケイはその『いいのか?』をまるきり別の意味で捉えていた。

 

「影輔だから、いいのよ」

 

 そう言われては断ることもできず、疑問は頭の片隅に追いやってとりあえず頷くことにした。

 

「・・・・・・ああ、分かった。じゃあ初日は一緒に回るってことで」

「OK!じゃあ待ち合わせとか諸々はまた追々ね」

 

 人差し指を立ててウィンクをするケイに、英も小さく笑う。2日目は総合演習、3日目はクイズ研の手伝いで、サンダースフェスタの間はケイに会えないと思っていたが、意外とそうはならずに一先ずは安心した。

 

「でも2人で回るのって、なんか・・・・・・」

「?」

「デートみたいじゃない?」

 

 それは、果たしてケイは特に深くは考えずに告げた言葉なのだろうか。どうなのかは分からないが、英は何か言葉を返さなければと思って一言だけ。

 

「・・・・・・どうなんだろうな」

 

 それしか思いつかなかった。

 だが内心では、何かのスポーツで優勝した時のように、飛び上がって、ガッツポーズをとっていた。

 

 

 その日の就寝前、ケイは寝間着に着替えてベッドに横になりながら、今日の帰りに英をサンダースフェスタ初日の見物に誘ったことを思い出していた。

 

「・・・・・・誘っちゃった」

 

 自分から言い出したことなのに、今になって猛烈に恥ずかしくなってくる。

 おまけに自分から『デートみたい』とまで言ってしまったことまで思い出し、余計恥ずかしくてそのあまりに自分の顔を殴り飛ばしたくなる。

 あんな軽率な言葉を言って英は何と思っていただろう。喜んでいたのだろうか、それとも幻滅しただろうか。できれば前者であってほしいがそれは自惚れに近いし、後者の方が可能性が高い。

 枕に顔を埋めて『うああああ・・・・・・』と小さくうめき声をあげる。壁は厚いから隣の部屋には聞こえないだろうし、自分の中にある恥ずかしい気持ちをうめき声に乗せて吐き出す。

 明日からは総合演習に向けた戦車隊の放課後訓練が始まるのだ。その前にこの胸の中にある恥ずかしさを今のうちに消化しきりたかった。

 結局、その日は何時に寝つけたかも思い出せなかったが、寝る直前まで唸っていたこと、英のことを考えていたのは翌朝も覚えていた。

 

 

 その翌日から、サンダースフェスタまで2週間を迎え、準備期間になったことで下校時刻が1時間繰り下げとなった。

 その日も英はクイズ研究部の部室を訪れており、アイザック部長との打ち合わせがあった。話す内容は本番で弾くピアノの曲の打ち合わせであり、山河からは前もって『英が選んだ曲の楽譜を持って来て』と言われていた。なので英は、昨日練習した曲や自分の部屋で選んだ楽譜の合わせて10曲を持ってきた。その中には、昨日ケイに名前を教えた曲も入っている。アイザックの方も有名な曲を5~6曲ほど見繕い、楽譜まで持ってきていてた。何とも仕事の早いものである。

 2人の持ってきた曲ですり合わせをした結果、英の持ってきた曲の中からは6曲、アイザックの方から4曲が選ばれて、これらを本番で使うことになった。

 そして打ち合わせの最後にアイザックは、この選ばれた10曲全てを10日以内に完成させてほしいと告げた。

 サンダースフェスタまでは2週間、その練習期間を除いた残りの4日でリハーサルを行うつもりだという。だから、ステージセットの製作で協力している技術研究部にも、同じ日までに作業を完了するようにお願いしていた。

 ちなみに、アイザックと技術研究部の部長は親友同士で、サンダースフェスタが終わったら技術研究部の皆もバーベキューに誘っているらしい。

 それはともかく、普段友達からピアノを頼まれる時とは違って、今回は完成させるまでに明確な期限が決められているためうかうかしてられない。英は楽譜を持って急ぎ足で『ハイランダー』棟まで戻り、職員室へ鍵を借りに行く。

 時刻は4時半に近づいており、普通であれば今から行っても鍵がまだある可能性は低かった。だが、昨日のうちに英は『ハイランダー』棟職員室の教師に、

 

「サンダースフェスタでピアノを演奏するので、それに向けて練習がしたいんですが」

 

 そう言うと、ありがたいことに鍵をキープしておくと言ってくれたのだ。なのでサンダースフェスタまでの間は、他の誰かに先を越されるという心配も、急いで鍵を確保しに行く必要も無くなったわけだ。

 焦らず職員室まで向かって鍵を受け取り、今度は第5音楽室へと行く。何事も無く到着して、電気を点ける。時間が少し経過していて既に外は暗くなり始めていたので、カーテンを閉めようとしたところでふと気づいた。

 

(・・・・・・向こうは演習場だったな)

 

 窓の外を見て、英は今更ながらそう思う。

 この第5音楽室からは、戦車の演習場が見える。だが、眼下に広がっているというわけではなくて、ここから少し離れた場所に戦車の演習場があるのだ。それでもここから演習場は見えるのだ。

 空が暗くなってきたうえに、サンダースの戦車がダークグリーンのせいで見辛いが、よく目を凝らすと、何十輌といるサンダースの戦車が隊列を組んで進んでいる。ケイの言った通り、放課後の訓練は既に行われているようだ。

 今は見ることができないが、あの戦車群を先頭で率いているのはケイなのだろう。そして、溌剌とした声と表情であれほどの数の戦車を従えているに違いない。

 

(俺も頑張んないとな・・・)

 

 その姿と様を思い浮かべると、自分も頑張らなければならないと思うし、ケイのことも気がかりだが自分のことも大事だと思いだして、カーテンを閉める。そしてピアノ椅子に座って、トートバッグから楽譜を取り出す。

 アイザックから渡された曲は全部で4曲だが、その中でまず最初に練習しようと思ったのはドイツ軍歌だ。他の3曲は英も聞いたことがある曲だったのだが、この曲だけは知らないので先に練習しようと思った。

 しかしながら、どうもチョイスが他とは違う気がする。外国の、しかも軍歌と来たものだから英も疑問を口に出さざるを得なかった。

 

『特別ゲストのためだよ。せめて1曲ぐらいはその人が知っていそうな曲を入れて、見せ場を作っておかないと』

 

 英の疑問に、アイザックはそう答えた。

 それは決して、特別ゲストの人を勝たせるためのインチキのつもりではなくて、その人にも見せ場を作ってあげたいという、アイザックの一種の思いやり、忖度だということは当然分かっている。なので英は何も言わず従った。

 何はともあれ、アイザックから渡された曲は見た感じではどれも完成までに膨大な時間がかかるような代物ではない。リズムが複雑怪奇とは言わないし、聴いたことがある曲なのでまだやりやすい。それと、アップテンポとまでは言わずとも明るい曲なので、ケイが気に入っているあのラブソングよりもまだ簡単な方だ。

 何より、本番で弾くのは確かに10曲だが、実際に弾くのは最初から最後までではなくサビとサビ前のBパートだけだ。だから普段よりも気楽な方である。

 だが、悠長に構えているわけにはいかないので、早めに完成させようと心がける。

 

「よし・・・・・・」

 

 ドイツ軍歌の楽譜を開き、最初から弾き始める。この曲は5番まである曲だが、本番で弾くのは1番だけだ。それは1番から5番までリズムがほぼ全て同じであり、またAメロやBメロなどの概念が存在しないため、1番だけ弾くのだ。

 やはり、兵士たちの士気を高めるための軍歌だからか、力強い音と弾き方を要求してくる。ロックのような激しさとはまた違う感じの激しさではあるが、こうした一味違う曲も嫌いではない。

 だが、いくら弾くのが1番だけで短めだとしても、ミス無しとはいかず、数回のミスを経て弾き終える。しかしミスの数と曲の短さを考えて、この曲は早いところ完成させることに決めた。

 鞄の中からペンケースを取り出して、中に入っている付箋を間違えた箇所に貼っていく。そしてミスをした箇所の前後を、ミスをしないようになるまで練習する。10回に届くか届かないかの数をこなして、ようやくミスをすることが無くなって、それから通しで2~3回で弾き、それもミスなく弾き終えると一先ずの完成とし、別の曲へ移ろうとする。

 だが、そのタイミングで下校時刻を告げるベルが鳴り響く。そこで初めて時計を見れば、1時間繰り下がった下校時刻を時計の針が指していて、時の流れの速さを痛感した。仕方なく、今日はここまでにしようと荷物を片付け始めた。そしてその間に、明日は先ほど完成したドイツの軍歌をもう一度弾いて、それで問題なければ完成にしようと考えていた。

 そしてピアノを元に戻した後で、カーテンの隙間から戦車の演習場の方を見る。陽は完全に落ちてしまっているので景色はほぼ真っ暗で何も見えない。戦車隊も恐らく引き上げただろうが、もしまだいたとしても戦車の色的に見えないだろう。

 さて、いつまでもここに留まって鍵を返すのが遅くなると、職員室の教師に注意されるかもしれなかったので、英は急いで電気を消して鍵をかけ、職員室へと向かって行った。

 

 

 翌日の放課後は、第5音楽室に直行してピアノの練習をする。

 音楽室に着いて一呼吸ついてから、ピアノの準備をして早速弾き始める。まず最初に弾くのは、昨日一先ずの完成を迎えたドイツ軍歌。一応もう一度弾いてみて、問題ないかどうかを確かめる。しかし、ミスなく弾き終えることができたので、まずはこのドイツ軍歌は完成ということになった。

 普段の英であれば、曲を1曲完成させるのには早くても3日、遅くても1カ月ぐらいはかかっていたが、まさか2日で完成させるというのは文句なしの新記録だ。覚えるのが1番だけで短いからかもしれないが、しっかりと期限が決められているから英自身も早く完成させなければと思っていたからだろう。

 まさか、こうして期限をつけられるだけでここまで早く完成させられるとは思わなかったが、その感動はさておき次の曲に移ることにする。

 

「次は・・・・・・」

 

 残りの曲は軍歌ではない普通の曲で、大体3~5分ほどの長さがある。本番ではこれを全部弾くわけにはいかないので、当初の予定通りBメロとサビの部分だけを弾くことになる。

 英は、楽譜を見て違和感の無いようなAメロとBメロの境目の部分を、歌詞と楽譜を見て見つけ出し、その境目の部分に付箋をつけて分かるようにする。また、実際に弾いてみて違和感がないのかを確かめつつ、ミスをしてしまった場所も確認して新しく付箋を貼り、またそこを重点的に練習する。

 英は、1日1曲完成させるようなペースで行かなければ追いつかないと頭の中で計算し、結論付けた。まだアイザックから渡された曲は今弾いているものを含めて3曲も残っていて、英の用意した6曲も練習が必要だし、これらをあと9日で完成させなければならないのだから。自分の持ってきた曲だからと練習せずにいると、本番で泣きを見そうな気がしてならない。それに、普段とは違ってBメロとサビだけと練習の仕方が違うのだから、普段通りで大丈夫とは思わないで取り組むべきだった。

 しかし、あまり慎重にやっていると今度は期限に間に合わなくなる。

 だから正直言って、英のスケジュールはカツカツと言っていいぐらいだ。

 

(・・・・・・・・・なんか、楽しいな。こういうの)

 

 だが、この状況を英は楽しんでいた。時間に追われる今の状況も、普段とは違う弾き方を要求されてそれに合わせて練習するのも、楽しいと思っていた。

 そして気づく。自分は誰かに、何かに縛られてピアノを弾くことを嫌っていたはずなのに、今はそんなことを全く考えていなかった。引き受けた時も、今も、嫌悪感や忌避感など全く抱いていない。

 少し前の自分はそうやって縛られるのが嫌だったから、部活動の類にも所属していなかったのに。ああしろこうしろと指図され、押さえつけられるようにピアノを弾くのを嫌っていたのに。自由にピアノを弾きたいと言ったのに。

 今英は、クイズ研究部という部活動から演奏する曲を指示されていて、10日という期限が決められていて、弾く部分までもが指定されていて、英が求め望んでいた自由なピアノとは程遠い。

 だというのに英は、今の状況を楽しんでいた。

 なぜ、かつて自分が嫌っていた状況を楽しむことができているのだろう?

 

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 そう考えて真っ先に思い浮かんだのは、ケイのことだった。

 ケイは英の過去を話だけでも聞いたから知っているし、その時の英の“選択”と今英が歩んでいる“道”も知っている。

 けれど今は、その英のかつてを認めてくれたケイと釣り合うような男になるために、今の自分を認めてもらうために、過去の自分が否定した『何かに縛られてピアノを弾く』という“選択肢”を選び、諦めたはずの“道”を歩んでいる。何ともおかしな話だ。

 ふと、ケイのホームパーティに招待された時のことを思い返す。あの時はケイに突然ピアノを弾いてほしいと頼まれたのだが、今思えばあれも『誰かに縛られるような弾き方』に近かった。

 しかしあの時はケイに対する恋心にまだ気付いてはいなかったが、ケイに頼まれて悪い気がしなかったのもあるし、自分のピアノは聴いていて楽しくなれるものだと言われて嬉しく思ったのもある。

 あの時から、英のものの見方・考え方は変わりつつあったのだ。

 ケイに出会ってから、自分の中の価値観は変わっていた。

 

(・・・・・・やってやる)

 

 だが今は、その自分の中で変わった価値観のことは一先ず保留にする。本番に向けて曲の練習をしなければならないのだ。

 楽譜を開き、鍵盤に指を置いてピアノの音を奏で始める。

 

 

 晴れ渡る空の下で、サンダースを象徴するとも言えるシャーマン軍団が演習場を行進する。その並び方は普段のような横隊や縦隊だけでなく、斜行陣や楔形陣、凹角陣と、普段の試合では行わないような隊形も組んでいた。

 その先頭にいるM4シャーマンのキューポラから、ケイが半身を乗り出して後ろに従う戦車たちの動きを双眼鏡で観察する。

 

「“アイテム”!動きが若干遅れてるわ!もう少し速度上げて!ハリアップ!」

『Yes,Ma’am!』

「“ヴィクター”は前に出過ぎ!速度落としてOKよ!」

『Sorry,Ma’am!』

 

 双眼鏡で状況を見ながら、特定の戦車に指示を出していく。そしてその戦車が周りに動きを合わせると『グッジョブ!』と褒めていく。

 何十輌もの戦車がいる中で、全ての戦車の動きを俯瞰的に見て、さらに他とは動きの違う戦車を判別して的確な指示を下す。

 普通の隊長ならこのぐらいはできて当然と思うかもしれないが、流石に50輌もの戦車を一度に指揮する機会というのはそうない。それにケイは他の学校の隊長と比べて、こうした戦車大隊の指揮能力が他の学校の隊長よりも秀でていると高校戦車道連盟からは評価されている。以前プラウダ高校と50輌対50輌の総力戦をした際に、プラウダの隊長のカチューシャでも自分の隊の全ての戦車の動きを把握しきることはできなかったのだから、ケイの指揮能力は本物なのだ。

 指揮能力だけで言えば、あの高校戦車道最強と言われる黒森峰女学園の隊長・西住まほを凌ぐとさえ言われている。それだけケイの実力は高いのだ。

 

「隊長、そろそろ時間です」

 

 装填手からそう告げられて、ケイも頷いた。

 

「全車輌、進路変更!隊長車についてきて!」

 

 ケイが通信でそう告げると、『Yes,Ma’am!!』と威勢のいい返事が聞こえてくる。そしてケイの乗る戦車が向きを変えると後ろの戦車もそれに従い、今まで行進していた演習場を弾き返す形で格納庫に戻っていく。

 格納庫に到着すると、ケイが無線をもう一度全車輌につないで話し出す。

 

「午前の訓練はこれで終わり!また放課後、頑張りましょ!お疲れ様!」

『お疲れ様でしたー!』

 

 号令を終えると、他の戦車の乗員たちが外に出るのが分かる。ケイたちも戦車を降り、乗員たちがケイに向けて『お疲れ様です、マム』と挨拶をして、シャワールームの方へと向かって行った。ケイも同じように行こうとしたところで、ナオミが合流してきた。

 

「大分疲れているみたいだな」

「え、そう見える?」

「ああ。普段よりも」

 

 だが疲れるのは無理もないことなのだ。何しろサンダースは、聖グロリアーナのように美しい隊形を組めるように訓練をしているわけではないし、試合中でも物量で押し切る作戦に偏り気味なせいで、意識して隊形を組むことに慣れていないのだから。

 そしてその訓練をする隊員たちはもちろん、指揮をするケイだって疲れるわけだ。

 ケイもナオミも、1年生の時から戦車隊に属していたが、ケイは隊長になるまでは指揮をするのではなくて、指示を受ける側にいたのだ。隊長になる前の総合演習の練習の時は疲れた記憶があったが、指揮をしてみるとその時以上に疲れる。

 

「・・・・・・確かに、ちょっと疲れてるかもね・・・。体も心も」

 

 そんな慣れない訓練で指揮をしていると、自然とストレスもかかってくる。ケイだってプレッシャーを感じることは当然あるし、不安を感じる時だってもちろんある。

 それでも気丈に振る舞っているのは、自分が隊を率いる存在だから。皆の先頭に立って率いる舵取りのようなポジションの自分が弱気になれば、自然と従う者たちだって弱気になってしまう。だからケイはストレスなどを感じてもそれを表に出すことはなかった。

 

(影輔、頑張ってるかな・・・・・・)

 

 そこでケイが考えていることは、英のことだった。

 英もまたサンダースフェスタに向けて頑張っている。山河たちが悲しい顔をしないためにも、嫌がっていた大勢の人の前で演奏することさえもやると、練習していると英は言っていた。

 ケイはそんな英のことを心から応援してはいるが、同時に英のピアノが聴けないことがとても残念だった。聴いていて心が楽しくなるような、それでいて癒されるような英のピアノが聴けず、ケイの心は少し疲れてきていた。

 早く、英のピアノが聴きたいとそう思っていた。

 

「・・・・・・サンダースフェスタは、影輔と一緒に回るのか?」

 

 ナオミが自然に話しかけてきて、ケイは少し面食らう。いや、話しかけられた事よりも英の名前が急に出てきたことが驚きだったのだ。

 

「あ、あれ?言ったっけ、影輔と一緒に回るって」

「いや、2人が仲良さそうだから、そうなるのかと思って聞いてみただけなんだけど」

「そ、そう・・・。うん、でも確かに、影輔と一緒に回る予定よ」

「そうか」

 

 ナオミがそこで、小さくニッと笑ったのにケイは気付かない。

 

「アリサも、タカシを誘って2人で回るらしい」

「タカシって・・・アリサが好きだって言う?」

「ああ」

 

 ナオミの話によれば、アリサとタカシの仲はあまり進展していないらしい。というのも、タカシ自身別に好きな子がいるらしくて、アリサの恋心が完全な片想いになってしまっているからだ。夏休み中に開かれたホームパーティで、アリサがコーラ片手にナオミに愚痴っていたとのことだ。

 それでも諦めずにアプローチを仕掛け、サンダースフェスタを一緒に回るところまでこぎつけたようだ。

 

「・・・・・・そっか」

 

 その話を聞いたケイは、アリサに対して親近感を覚えた。なぜって、それはケイもまた現在進行形で恋をしているからだ。もちろん相手はタカシではないが、置かれている状況がどうにも似ていると思えてならない。

 ケイが好きでいる英は以前、『好きな子がいる』と言っていた。それが自分、ケイのことだと思うのは虫が良すぎるし、楽観的にもほどがある。いくら自分がポジティブだとは思っていてもそこまでは前向きに考えられないし、それはもはや傲慢だ。

 つまり、ケイの英に対する恋心が、アリサのタカシに対する気持ち同様に一方通行である可能性が十分あるのだ。

 だからというわけではないが、ケイは英を、サンダースフェスタの初日を一緒に回ろうと誘った。それは英と一緒に回りたいという純粋な気持ちの他に、英に自分のことを見てほしいという欲もあった。

 

「ケイも影輔と2人だけで回るのか」

「?」

「まるで、デートみたいだな」

 

 冗談めかしてそう告げると、面白いほどケイは動揺した。

 

「で、デートなんてそんな・・・・・・あははは、ナイスジョークね、ナオミ」

 

 ぎこちない笑みを浮かべるケイ、というか動揺するケイなど滅多に見られないので大変貴重だ。

 だがナオミは、やはりケイも英に対して脈があるのだなとほぼほぼ確信した。ここ最近の2人を見ていればそれはよく分かるし、多分自分でなくともケイに親しい人物であれば気付けるぐらいだった。

 英の方も、山河の頼みを聞き入れて自分からいばらの道を歩み始めたらしく、ナオミは自分のアドバイスからちゃんと学んだようだなと安心した。

 とはいえ、両想いなのにお互いの気持ちに気付かないケイと英の2人を見ているのは非常にもどかしいので、ナオミはさっさとくっついてほしいと思ってもいた。

 これは、サンダースフェスタまで残り一週間を切った日のことである。

 

 

 ある日、英はアイザック部長に連れられて、当日に『サンダースQA』を行う会場の東側第2ホールを訪れていた。昨日のうちに山河を通してアイザックに、『実際の会場を見ておきたい』とお願いし、それで今日連れてきてもらったわけだ。

 普通の教室とは違う両開きのドアを開けると、目の前に広大な空間が広がる。

 

「・・・・・・・・・おぉ」

 

 この東側第2ホールは、前に山河からも聞いたが700人を収容できるほど座席が並べられており、大規模な講談会や生徒会選挙などの行事を行う際に使われる。さらに完全防音設備まで備わっており、さながら本物のコンサート会場と言ってもいいぐらいだった。

 

「ホントにここでやるんですよね・・・」

「ああ、その通りだ。去年もここでやったけど、その時は席が全部埋まって立ち見の人がいるぐらいには盛り上がったよ」

 

 アイザックがあははと軽く笑い飛ばしながら告げたその情報を聞いて、英は身震いする。『目玉イベントと言っても流石に700人は来ないだろ』と高をくくっていた、前の自分を無性に殴りたくなってきた。

 改めて、ホールの中を見渡す。座席は2階席まで用意されており、高級感と荘厳な感じを併せ持つ赤い布で覆われた座席が並んでいる。正面のステージに向かって階段状になっていて、どの列に座っていてもステージが見えるようになっていた。

 今は照明が落とされているのでホール全体が薄暗くなっているが、本番はステージ上部だけの照明が点灯するようになるとのことだった。

 

「ちょっと、ステージの方へ行っても大丈夫ですか?」

「ああ、構わないよ」

 

 アイザックに許可を取ってから、英は通路を進みステージの方へと向かう。入口からステージに辿り着くまでの時間が長くて、それだけ座席数が多いということを否が応でも実感する。

 一番下の段に到着して、舞台袖からステージに上がる。座席の方を見てみると、思わず声が洩れてしまいそうなほどの席が並んでいた。

 カタカタと足が小さく震えだす。本当にここでピアノを弾くのかと恐れおののく。誰も座っていない状態でここまで緊張してしまうのだから、アイザックの言うようにこの座席全てに観客が座り、さらに立ち見の観客までいたらどうなるのだと不安で仕方がない。もしかしたら、卒倒するやもしれなかった。

 反対側の舞台袖を見ると、元々このホールの備品であるグランドピアノが鎮座していた。音楽室に置いてあるものと同じ型なので何も目新しくはないのだが、なぜか『いつでも準備万端です』とピアノが言っているように感じた。

 そしてもう一度座席の方を見て、英はある事を思っていた。

 

(・・・あの人も、こんな場所でピアノを弾いていたのかな)

 

 その人物は、英が幼いころにピアノを教わっていた、母が紹介したプロのピアニストだ。顔は最早朧げにしか覚えていないが、その腕前はプロのピアニストに相応しい確かなものであったことは覚えている。

 英には厳しく指導をしていたあの人も、無数と錯覚しかねないほどの膨大な数の座席と観客を前にして、たった1人でステージの上に立ち、心を乱すことなくピアノを弾いていたのかもしれない。

 そう思うと、今さらながらその人のことがすごいと思えてきた。

 いや、その人だけではない。プロの音楽家は皆、同じような状況を味わっているはずだ。ステージの上で歌い、楽器を奏で、観客たちを魅了するような音色を奏でているのだ。

 

(・・・・・・俺も、そうなりたい)

 

 ステージを見ながら、英はそう思う。拳に力が籠められ、小さく握る。

 プロの人たちと比べたら一介の高校生に過ぎない自分等ちっぽけでしかないし、文化祭の1コーナーだけなのだからステージに立つ時間だってプロに比べれば圧倒的に短い。おまけに演奏する曲も端折ったものだ。

 だがそれでも、例え自分がただのピアノ好きな学生で、ステージに立つ時間も、演奏する曲がプロのそれと比べて短くても、プロの人たちのように観客を魅了するような音色を奏でたいと、切に思った。

 

「大丈夫かい?」

 

 そんなことを考えていると、ステージの下まで来たアイザックが話しかけてきた。

 

「はい。すみません、ワガママを言ってしまって」

「いや、気にしなくていいさ。山河から、君はこのような公の場でピアノを弾くのが初めてだと聞いているからね。なら、その前にその場所を見ておくのも悪いことではないさ」

「・・・・・・ありがとうございます」

 

 ステージから降りながらアイザックの言葉に耳を傾け、英は改めてお礼をする。そして、英の事情を知っていた山河がそのことをアイザックに話しておいたことについても、お礼を言った。

 そして2人はまた入口へと戻り、アイザックが鍵を閉めて2人で校舎の方へと戻っていく。

 

「ピアノの方は、どうだい?明日がお披露目だけど」

「ええ、一応すべての曲は完成して、何度か弾いてチェックも行っていますが、今のところは問題なくできています」

「おお、本当かい?」

「はい」

 

 楽しい時間を過ごしている時のように、期限に追われていると時の流れを早く感じてしまう。最初に引き受けた日からもう9日が経過していて、明日は完成させる期限である10日目だった。

 だが英は、アイザックから渡された曲も含めて10曲全てを調整し終え、さらに完成させている。明日のお披露目で全ての曲を発表できる段階にあった。

 

「急に任せた話で申し訳なかったけど、本当にありがとう。本番でも、期待しているよ」

「・・・・・・いえ、これしきのこと」

 

 アイザックから真っ直ぐにそう言われて、英も少しこそばゆくなる。

 

「じゃあ、明日はよろしく頼むよ」

「はい」

 

 最後にアイザックに肩を叩かれて、英は『ハイランダー』棟へと向かう。アイザックは『フォックストロット』棟の部室へ向かい、技術研究部と明後日からのステージセット搬入作業の調整を行う。

 いつもピアノを奏でる音楽室へと向かいながら、英はアイザックに告げられた『本当にありがとう』というシンプルな感謝の言葉と、『期待しているよ』という英のピアノの腕を信頼しているからこその言葉を思い出して、ふっと表情が緩む。

 頑張ろう、と気合を入れて、『ハイランダー』棟第5音楽室へと向かう足を速めた。

 

 

 サンダースフェスタに向けての準備期間の2週間の間、英とケイが会うことはなかった。

 英もケイも、それぞれがやったことがない初めての大舞台に向けて練習を重ねている。それはもちろん2人とも分かっていた。

 英は、大人数の前でピアノを演奏するという、嫌がっていたはずの大舞台に向けて。

 ケイは、慣れない隊形構築の訓練を行い、さらに自分が初めて指揮する総合演習に向けて。

 2人とも、それぞれが大変な思いをしていることには気付いている。だから、例え会いたいと思っていても、それを相手に伝えることはしなかった。そうしてしまえば、余計相手の負担になってしまうのは目に見えている。だからそれは、言わないでいるのだ。

 2人の会えない時間は、英が以前、ケイのお気に入りのラブソングを練習していた時よりも長い。けれど、不思議と2人はそれほど寂しく思ったり苦しく思ったりはしていなかった。

 それは恐らく、次に会えるのがいつかは分からない前とは違い、サンダースフェスタの初日を一緒に回るというちゃんとした“約束の日付”が存在するからだ。その日が分かっているからこそ、2人はお互いに会えない今の状況を嘆くことも、辛く感じることも無い。

 だがそれでも、寂しさは覚えている。以前同様、英は自分がピアノを弾いた後でケイが拍手をして感想を言ってくれることがないのが寂しいし、ケイは心を掴んだ英のピアノが聴けないことが寂しかった。

 何よりも、せっかく相手に対して恋心を抱いていることに気付けたのに、その相手に会うことができないのだから。

 その寂しさを感じている中で、英もケイも、お互いにできることは全てやり遂げた。

 英は、『サンダースQA』で弾く予定の10曲を完成させ、クイズ研究部からもOKを貰うことができた。

 ケイは、総合演習に向けての隊形訓練で、全ての戦車が完璧に近い形で行進を行うことができるようになった。

 これで2人とも、後は当日の本番を待つだけとなり、そして英とケイが会える日も近くなった。

 だがその前に、英がある行動に出た。

 

 

 全ての戦車が格納庫に戻り、最後に隊員たちを整列させて軽いミーティングを行い、そして号令を終えれば戦車隊の訓練も終了だ。

 明日はいよいよサンダースフェスタ初日、そして戦車隊の訓練はない。明後日が総合演習の本番なので、明日は総合演習前の一時の休息の日でもあった。隊員たちは早速どこを回るかを親しい者と一緒に相談している。

 無論、ケイだって明日は本番に向けて英気を養おうと思っているところだ。それも、英と2人で回るという約束をしているのだから、今からでも明日が待ち遠しかった。

 しかし同時に、ケイはその総合演習に対して自分が緊張していることも自覚していた。ただ試合を行うだけの普段とは違って、聖グロリアーナのように美しい隊形を構築する訓練をすること自体が初めてだし、しかもそれを一般公開するのだから緊張しないはずもない。失敗したらどうしようという不安だって抱いている。

 周りの人はよく、『ケイは緊張とかしなさそう』とか『不安なんて吹き飛ばすぐらいポジティブ』と言ってくれるが、意外とそうでもない。ケイだって普通の年頃の女の子らしく、こういった大舞台の前は緊張するものなのだ。

 隊員たちはここまで頑張って練習をこなし続け、力もつけてきて、さらに士気も高まってきている。ならば後は、その隊員たちを指揮する自分が当日に緊張せず普段通り明るく溌剌と指揮をすればいいだけなのだ。それはそうなのだが、その肝心要の自分が不安定ではどうしようもない。

 だから今の自分の不安定な状況は何とかするべきだということは、もちろん分かっている。しかしそれだけでどうにかできれば苦労はしない。ストレスや緊張、不安を『何とかしよう』と思っていても、自分だけの力でそれをどうにかするのは難しいのだ。

 ロッカールームでタンクジャケットを脱いで、シャワールームでシャワーを浴びて汗と埃を流し、タオルでよく拭いてから制服へと着替える。ここで時計を見上げると、時刻はもうすぐ下校時刻に差し掛かろうとしていた。

 自分の中にある緊張感やストレスは、今日眠る時や、明日英とサンダースフェスタを回る時に解消すればいいか、と諦めに近い形で結論付ける。そして制服のポケットに入れていたスマートフォンを見ると、メールの着信を知らせるランプがついていた。こんな時間に誰だろうと思いながら画面を開くと。

 

『未確認メール:影輔』

 

 その画面を見てから、時間にしてコンマ5秒ほどでメールを開くと。

 

『差出人:影輔

 件名 :

 本文

 戦車の訓練が終わったら、いつもの音楽室に来てほしい。

 聴かせたい曲がある』

 

 直後、ケイは大急ぎで身形を正し、荷物を纏めて隊員たちに挨拶をしてからロッカールームを飛び出す。出る直前でアリサをはじめとする隊員たちが『何事!?』とでも言いたげな表情で驚き、ナオミは黙ってケイのことを見ていたが、そんなことは気にするものか。

 このロッカールームとシャワールームがあるのは『ブルドッグ』棟。英のいるであろう『ハイランダー』棟からは少し離れていたので、ケイは駆け足でそこへと向かう。

 明日から始まるサンダースフェスタに向けて、掲示板や天井にはモールや紙花等の装飾が施されており、校舎内のイベントのリストを見ることができる特設のモニターも既に設置されていた。

 それらには目もくれずケイは『ハイランダー』棟へと向かう。訓練の直後、しかも熱いシャワーを浴びた直後なせいで、身体が熱を持ってしまい、途中何度もペースを落としたり制服を仰いだりしながらも、どうにか『ハイランダー』棟の第5音楽室に到着した。そしてそれと同時に、下校時刻を告げるベルが鳴り響く。

 ところが、その第5音楽室の中は電気が点いておらず真っ暗で、おまけにドアの鍵も開いていなかった。

 

(Why・・・?どういうこと・・・・・・?)

 

 なぜ英は、自分がそこにいないのにもかかわらず、ケイをここに呼び出したのだろうか。そんな疑問が頭の中に芽生えた直後、別方向から英がやってきた。

 

「早いな、ケイ・・・」

 

 2週間ぶりに見る英。だが、英もケイと同じくは知ってきていた様で、膝に手をつき肩で息をしている。右肩に提げていたトートバッグがずり落ちてしまった。

 2週間ぶりに会えたことは嬉しいが、それよりもこんな時間に自分を呼び出した理由を聞きたくて、ケイは英に問いかけた。

 

「どうしてここに・・・?」

「時間が、無い・・・。まずは、中に入ってからだ・・・・・・」

 

 息も絶え絶えな状態で、英はポケットから鍵を取り出して音楽室の鍵を開け、中の電気を点ける。先ほどまで真っ暗だった音楽室は打って変わって明るい色合いの照明に照らされ、見るだけで暖かくなってくる。この音楽室はサンダースフェスタでは使わないようで、飾りつけはされていない。だから英も今日までここで練習をすることができたのだが。

 中に入ると、英はトートバッグから数枚のA4サイズの紙を取り出してケイに渡してきた。その紙には、何かの楽譜がプリントされている。

 

「ついさっきまで、リハーサルやってて、遅れた。悪い・・・・・・」

「それはいいんだけど、この楽譜は?」

「それはな、昨日、コンビニプリントした、やつで・・・」

「影輔、大丈夫?まずは落ち着いて?リラックス、リラックス」

「ああ、悪い・・・・・・」

 

 あまりにも英が苦しそうにしているので、ケイも見かねてまずは落ち着くことを優先して英を宥める。

 英はこの直前まで、東側第2ホールで『サンダースQA』のリハーサルを行っていたのだ。先ほどケイが見たメールを送ったのはそのリハーサルが始まる直前で、その時はリハーサルが終わる大体の時刻も分かっていた。だが、微妙にリハーサルが伸びてしまい、終わるや否や全速力でここまで来たと言う。ちなみに鍵はリハーサルの前に借りておいたものである。

 そして下校時刻を告げるベルが鳴った以上、早く用事を済ませなければ教師からどやされるかもしれないので、今は一刻の猶予も無いと言ってもいいぐらいだった。

 ようやく呼吸が整ってきて、クールダウンもほどほどにし、英が改めてケイに話しかける。

 

「・・・明日からサンダースフェスタだな」

「ええ、そうね」

「それで明後日は総合演習だけど、出来栄えはどんな感じ?」

 

 英が質問してきたことと、今ケイの手元にある楽譜を渡してきたことは関連性が無いように感じるが、それでもケイは答える。

 

「みんな頑張ってくれてるわ。完璧に近いレベルで完成してるし、後は本番を待つだけよ」

「そうか・・・・・・。けど、ケイ自身はどうなんだ?」

「え?」

「前に、ケイは『緊張することだってもちろんある』って言っただろ?だから、今もまた緊張してるんだろうな、って俺は思ったんだけど・・・・・・」

 

 その話は、準備期間が始まる前日に英と一緒に帰る際に話したことだ。そして英の言う通り、今ケイは緊張しているし、不安さえも抱いている。その自分の心を、ほんの少しだけ明かした。

 

「そうね、私だって今は緊張してるわ」

「・・・・・・だよな。そう思って、何かケイのためにできることはないかって、俺なりに考えてみた」

「えっ・・・・・・?」

 

 英がトートバッグから楽譜を取り出しながら告げたその言葉に、ケイは腑抜けた感じの声を出す。

 

「やっぱり俺は、ピアノが好きだし、ピアノしか取り柄が無いと言ってもいい。そんな俺が、大切な人のケイのために何かできないかと思って考えてみて、自然とその曲が目に入った」

 

 ケイの手の中にある数枚の楽譜がプリントされた紙を英が指差す。改めてケイがその紙を見てみると、最後の方には歌詞が載っていた。

 

「緊張したり、不安になったりした人の背中を押すような、前向きな感じの曲。それで、ケイの緊張や不安とかが無くなればいいんだけど・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

「よかったら、聴いてほしい」

 

 ケイはその場に立ち尽くす。

 まず、英がケイのことを『大切な人』と言ってくれたこと、そして英がケイのために何かできることはないかと自分から動いていたことが、嬉しくて仕方がない。感情を抑えておかないと涙があふれ出そうになるぐらい、嬉しかった。

 ケイがどれだけ感情を揺さぶられているかに英は気付かず、ピアノを弾く準備を始める。いきなりケイのために弾くであろう曲の楽譜を広げているので、肩慣らしをするつもりはないようだ。先ほどリハーサルでピアノを弾いていたし、それに時間も押しているのであまりゆっくりもしていられなかった。

 

「・・・・・・じゃあ、始めるぞ」

「・・・お願い」

 

 英が声をかけると、ケイも一度楽譜に目を落とす。それを見て英が、ピアノを弾き始めた。

 およそ2週間ぶりにケイは英のピアノを聴くが、自分の心を掴んだ英のピアノに対する興味は色褪せることなく、また聴けて本当によかったと安堵している。ケイは楽譜に目をやりながらも、英のピアノの音色を絶対に聞き逃すものかと決意する。

 前奏が始まった直後は静かな感じがしたが、途中からすぐに音程が上がり、スピード感あふれる展開に変わる。高音と低音を混ぜながらも低音がメインになるような構成だ。

 滑らかにAメロに入り、ここからは低音がメインになる。ケイが旋律に合わせて歌詞を読み進めていくと、Aメロは『挑戦する前に失敗すると思い込んで、無理だと決めつけて、諦める日が続いてる』といきなりネガティブな印象がある歌詞だ。

 Bメロに移ると、Aメロをベースとしながら高音が交じってくる。『やる前に無理だと決めつけるのは、自分を弱くさせていく。それは挑戦して失敗するよりもバカバカしい』と、Aメロの歌詞を否定するような歌詞だった。

 そしてサビに入り、再び疾走感あふれる曲調に変わる。そのサビの部分の歌詞を見てケイも目を見開く。

 歌詞は、『不安だと思うのなら、緊張しているのなら、その気持ちを正直に吐き出せ』『失敗を恐れるのは恥ずかしいことじゃない、何回でも挑戦すればいい』と、今のケイにぴったりとも言える意味合いのフレーズだった。

 

「・・・・・・・・・」

 

 サビの盛り上がりを保ったまま一旦間奏を挟み、2番になって再びAメロに入る。『挑戦することを躊躇って足踏みをする自分を置いて、世界は回り続けている』と、またしても少しネガティブなイメージの歌詞だ。

 続くBメロでは、『立ち止まっていれば、前を行く人との距離は遠くなっていく。そうなったら、もう取り戻せない』と、またAメロの歌詞を否定するような歌詞だった。

 再びサビに入るが、サビの歌詞は1番と同じだ。だがそれでも、ケイはそのサビの部分を頭の中でだけ歌う。忘れないように、胸に刻むように。

 2番のサビを過ぎるとすぐにCメロに入る。そこではAメロのように低音がメインではあるが少しだけ高音を交ぜていて、少しゆったりとしたメロディだ。『成功しても、失敗しても、挑戦した先にあるのは新しい世界。そこを目指して突き進め』と前向きな歌詞だった。

 最後のサビに入り、再びスピード感のある曲調に戻る。だがその歌詞は、1番2番とは少し違っていて、『何回でも挑戦すればいい、失敗も楽しめばいい』と変わっている。

 そして、最後の部分には新しいパートが加えられていて、そこにも歌詞はつけられていた。

 

『君と一緒なら、失敗なんてしない』

 

 最後にサビの疾走感を保ったまま後奏に入り、そのスピードを緩めることはなく曲は終わった。

 

「・・・・・・・・・」

 

 弾き終えた英は、反応を確かめるかのようにケイの方を見る。

 ケイは、この曲と曲を弾いた英のことをすごいと思いながらも、拍手はせずに小さく目を閉じて曲の余韻に浸っていた。

 

「・・・・・・こんなエキサイティングな曲を聴けるとは思わなかったわ」

「そうか・・・。それは、何よりだ」

 

 ケイの心情を分かっているかのように、英はこの曲を弾いてくれた。自分を励まし勇気づけるかのようなフレーズは印象に残ったし、最後のフレーズ『君と一緒なら、失敗なんてしない』という部分は強く胸に響いた。

 

「・・・影輔」

「ん?」

 

 この曲に出てきた『不安だと思うのなら、緊張しているのなら、その気持ちを正直に吐き出せ』という歌詞を借りて、ケイは英にぽつぽつと話しかけた。

 

「この曲を聴く前、私すっごく緊張してた、不安に思ってたの」

「・・・・・・・・・」

「戦車道の訓練で、行進訓練なんて慣れないことをして、それを指揮するのなんて初めて。しかも、それを皆の前で公開するっていうんだから、もうすごい緊張してた」

「・・・・・・・・・」

「私に付いてきてくれる皆のことを疑ってるんじゃないんだけど、失敗したらどうしようって不安にも思ってた」

 

 英の顔を見ながら本音を告げるケイ。だが、英は嫌な顔一つせずに、真剣な顔でケイのことを見つめ返している。

 

「でもね・・・・・・この曲が聴けて良かった」

 

 最後近くの『失敗も楽しめばいい』と言うフレーズを聴いて、ケイの気持ちは軽くなっていた。もちろん、失敗してもいいやなんて無責任な考え方はしない。そうではなくて、失敗してもその時は嘆くのではなくて、それも一興として楽しめばいいんだと、そう思わせてくれるフレーズだった。

 緊張したり不安になったりするのはあまりらしくない、とケイは思っている。この歌詞のように、ポジティブに考えるのが自分らしいと、そう明るく考えることができるようになった。

 ケイの中にある不安も、緊張も、消え去っていた。

 

「ありがと、影輔」

「・・・・・・どういたしまして」

 

 ケイは、英だって緊張したり、不安になっているんだと思っていた。何せ、自分が嫌っていたはずの、大人数の前でピアノを演奏するという大舞台を目前に控えているのだから。だから今の曲も、ケイを元気づけるために弾いたのと同時に、英自身を奮い立たせるために弾いたのだろうと、ケイは分かっていた。

 それでも、英が自分のことを考えてくれて、この曲を弾いてくれたことはとても嬉しかった。

 

「“お互い”、全力で頑張りましょ?」

「・・・ああ、もちろん」

 

 『お互い』という言葉を聞いて、英も自分のことに気付かれたなと小さく笑う。

 そしてケイが英に右手を差し出す。英も、ピアノ椅子から立ち上がって、同じように右手を差し出し握手を交わす。

 お互いの成功を祈って。

 

 

 余談だが、このあと英は鍵を返しに行った際に教師から『練習熱心なのはいいが時間は守れ』とお小言を貰って英は平謝りしたのだが、そのことをケイは知らない。




部室棟の『フォックストロット』はオリジナルネーミングで、
ICAOのNATOボネフィックコードから付けました。


次回からサンダースフェスタ編ですが、2~3話を予定しております。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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心配ない

またしても1週間ほど空いてしまい、
本当にすみません!


 サンダース大学付属高校学園艦は、日付が変わりサンダースフェスタ初日の未明に、母港・長崎港に入港した。

 サンダースフェスタを開催している間はここに停泊する予定なのも、やはり学校を上げての一大イベントなので、学校側が多くの来場者を迎えたいと思っているからだ。事実、過去に行われたサンダースフェスタの来場者数は、一学校の文化祭とは思えないほどの数値を叩きだしている。港近辺で店を開いている地元民たちも、この期間は売り上げが上がるようでありがたく思っていた。

 それほどの来場者が訪れるのは、サンダースという学校自体が戦車道四強校の一角であると同時に、国内でも有数の資金力を持っていて知名度が高いからだ。そしてこのサンダースフェスタの規模が普通の学校と比べても大きくて、学生主体とは思えないほどのクオリティを誇る。名実ともに他の学校とはレベルが違うから、こうして毎年かなりの規模と来場者数になるのだ。

 だが、サンダースは外部からの訪問者に対するセキュリティの面も他より秀でている。何しろ、来場者用のゲートには空港の手荷物検査場のような金属探知機とスキャナーが設けられていて、これは他の学園艦にはない設備である。故に、安全性は他よりも高かった。

 それでも、外部からの来場者に対する受け入れを始めるのは朝、陽が昇ってからだ。まだ学園艦で暮らす住民たちは眠りに就いているし、セキュリティを担当する船舶科の生徒も同様だからである。そして騒音についての問題もあるため、時間は日の出の後と決まっていた。

 だが、来場者用ゲートが開く前の時間から、既に長崎港の駐車場にはサンダースフェスタ目当てと思しき来場者の車が駐車してあった。今の時間から待っているとは、よほどサンダースフェスタを心待ちにしていたことが窺える。

 やがて陽が昇り、サンダースフェスタが始まる1時間前に来場者用ゲートが開き、受け入れが始まった。物資の搬入用の車輌は専用の搬入口から乗船し、他の一般来場者は来場者ゲートから乗船する。一般来場者のセキュリティチェックは1人当たり2~30秒ほどで終わるので本来なら来場者で渋滞するということはないのだが、なまじサンダースの一大イベントということでゲートを通過する人の数は普段の比ではなく、若干混雑していた。

 このサンダースフェスタを訪れる客層の割合は、学生の比率が若干多めで他は同率と言ったところだ。学生が多めなのは、懐かしい母校を訪れようと思っているOBやOGと、サンダースへの進学を考えている中学生も多いからだ。

 こうして、サンダースの一大イベント『サンダースフェスタ』の初日が始まった。

 

 

 晴れ渡る秋空に号砲が打ち上げられ、サンダースフェスタが予定通り開催されることが知らされる。

 そして、サンダースフェスタが始まる時刻・午前9時が、英とケイが待ち合わせをする時間だった。待ち合わせ場所は、2人が一緒に帰る時に別れる十字路。この待ち合わせ場所を提案したのは英で、サンダースフェスタの入り口にあたる校門の前は人が多くて待ち合わせに向かないと思ったからだ。

 その待ち合わせ時刻丁度に、英とケイは待ち合わせ場所で落ち合った。お互い着ているのは制服で、これは学生は特別な事由がない限りは全員制服でいるようにという学校からのお達しからである。

 それにしても、ほぼ同時に待ち合わせ場所に着くとは、何たる偶然。

 

「グッモーニン、影輔!」

「おはよう、時間ぴったりだな」

 

 先にケイの方から挨拶をしてきて、英も片手を挙げて挨拶をする。

 そこでケイが、英の異変に気付いた。

 

「・・・その手、どうしたの?」

 

 ケイが指差す英の両手には、湿布が何枚も貼られていて、痛々しく感じる。

 

「ああ、これ?ピアノの練習しすぎて、ちょっと痛めた」

「え、大丈夫なの・・・?」

 

 すぐさまケイが駆け寄り、英の手を取る。英はそれだけで心臓が高鳴るが、そんな英のことなどそっちのけで、ケイは英の顔を見てくる。

 

「痛くないの?大丈夫?」

「あ、ああ、大丈夫。痛んだ時はいつもこうしてるし、今はそんなに痛くない」

 

 英はケイを安心させるために出まかせを言ったのではなくて、本当に痛んだ時はこうしているのであって、今もそこまで手は痛くないのだ。

 だがいつまでもケイに手を握られていると、緊張と嬉しさで胸が張り裂けそうになってしまうので、その手を優しく振りほどく。

 

「心配してくれてありがとう。もう大丈夫だから」

「そう?でも痛くなったら言うのよ?」

 

 心の底から心配してくれているのであろうケイの言葉に、英の顔がほころぶ。どこか母性を感じるようなその喋り方、戦車隊の隊長だから身に着いたものなのか、それとも天性のものかは分からない。考えても答えが出るはずがないし聞くのも変なので、考えることは止めた。

 そして2人は、並んで学校へと向かう。一緒に学校から帰ることはあっても、学校へ行くことはなかったのでなんだか新鮮だ。

 

「どこか、回りたいところとかあるか?」

 

 英がパンフレットを取り出しながらケイに問う。サンダースフェスタの規模が大きいせいで、パンフレットが中綴じでもページ数がかなり多い。そして一時のイベント用に作ったものとは思えないぐらい凝っている。

 ケイも同じようにそのパンフレットを取り出したが、既に回ろうと思っている出し物には目星をつけていたらしく、隅が折られたページがいくつかあった。

 

「私、これを観たいと思ってるんだけど・・・」

「どれ?」

 

 そう言ってケイが開いて見せたページには、縮小されたポスターがプリントされていた。より正確には、何輌かの戦車と妙な触手が無数に生えた白い巨大生命物体(?)が対峙しているポスターだ。だが、見る限りアニメーションではなく実写らしい。

 さらによく見てみればその出し物をするのは、毎年プロ顔負けのCGと撮影技術、メイクを駆使して観る人たちの度肝を抜く映画を作る映画研究部の作品だった。

 その作品の名前は『巨大アライッペ対大洗戦車隊』。撮影地は今年の全国大会で奇跡とも伝説とも言えるような快進撃を見せた、あの大洗女子学園の本籍地。しかも撮影協力にはその舞台となる大洗町と自衛隊(!?)、豪華が過ぎて煮崩れを起こしかねないほどボリューミーなキャストだ。それでいて上映時間は1時間。果たしてどんな内容なのか、興味深い。

 

「じゃ、それを観ようか」

「ありがと。それまではどうする?」

 

 英が了解して、今度はそれまでの時間を潰す予定を決めることになる。その映画の上映時間は11時からで、場所は西側の第3体育館。今は9時過ぎなので2時間近くの間が空いている。

 

「まあ、それは適当に見て回るか」

「そうね、そうしましょう」

 

 そして、サンダースの校門が見えてきた。校門にもアーチが飾られていて、来場者の目を楽しませるように明るい色合いだった。そして予想できてはいたが、開場直後だから人の数はとても多い。ただ歩いているだけだとはぐれかねないぐらいだ。

 だから英は、自然とケイの手を取っていた。湿布だらけで痛々しいが、それでもこうするべきだと思ったのだ。

 

「・・・・・・あ」

「・・・はぐれないようにな」

 

 英の頭では『ケイとはぐれないためだ』と分かっていても、心の中では『手を繋いでいる』ということに意識が取られている。こんな気持ちを知られたら自分の評価など地に落ちてしまうだろう。

 一方でケイは、『・・・・・・そうね』と言いながらその手を強く握り返す。その強く握る理由は、英の言う通りはぐれないためなのか、それとも別の理由があるのか。ケイが少し顔を背けているせいで、その真意は分からない。

 ただこの時英は、少し前にこうして2人で文化祭を回ることが、まるでデートのようだとケイから告げられたのを思い出す。だが今は、あくまで友達と一緒に回るだけなのだと自分に言い聞かせながら、顔に熱が集まるのをどうにかして防ごうとした。

 

 

 サンダースの校門付近は、たった一つの入り口だったために来場者でごった返していたが、校舎の中をある程度進んでいくと人もそこまで多くなくなる。開場からそれほど時間が経っていないのもあるし、サンダースの校舎自体が広いのもある。

 とりあえず、そこまで混まなくなった辺りで、英はケイの手を離す。はぐれないための配慮とはいえいつまでも野郎に手を握られるのは流石に嫌だろうし、心配しすぎかもしれないが湿布の匂いが移るかもしれなかったからだ。

 ところが、手を離したところでケイが『あ・・・・・・』と名残惜しそうな声をポツリと洩らしてきた。

 その声を、趣味のピアノで鍛えた英の耳は聞き逃せず、戸惑ってしまう。そんな声を聞いてしまうと、まるでケイが英と手を繋ぐことを望んでいたのではないかと錯覚し、勘違いしかねないからだ。そうなってしまうと、この恋が破れた後のことが怖くなる。

 その場の雰囲気に耐え切れなくなったのと、その勘違いから目を逸らすために、英は近くのクラスで出店しているソフトドリンク喫茶へと入店する。そのクラスの出店している人たちは、ケイが入店したのに気付くとにわかに色めき立つが、それで店の商売を忘れるということはなくすぐに大人しくなる。

 英はケイに席で待つように有無を言わさず伝え、先んじてコーラを2人分注文する。ケイが何か言いたげにしていたが、英は気付かないふりをしてコーラを啜る。

 さて、こうして腰を下ろしてコーラの味を楽しんでいるのは、先ほどの気まずい雰囲気に耐えられなくなったから、という理由だけではない。ケイが観たいという映画研究部の映画の上映時刻まではまだだいぶ余裕があるため、それまでの予定を考えたくて少し座れる場所を探していたからだ。

 

「適当に回るって言ったけど、どうする?」

「え?そうね・・・・・・うーん」

 

 コーラを飲んで気持ちが落ち着き普段通りのペースを取り戻したのか、ケイの纏う雰囲気が普段のような明るいものに変わる。人の纏う空気や雰囲気とは、決して目に見えるものではないが、英はケイと1月近く接して来てそれがなんとなくだが分かるようになってきた。

 

「影輔のクラスって、何をやってるの?」

「俺のクラス?俺んとこは・・・フレンチフライとかホットドッグとかの軽食喫茶だけど・・・」

 

 ケイに聞かれたから答えたところで、英は気付いた。ケイがニコニコ笑いながら訊ねてきた理由に。

 

「まさか・・・行く気か?」

「オフコース!ダメかしら?」

「ダメ」

 

 英は即答する。ケイは『え~?』と唇を尖らせて納得いかないと顔全体で表現する。英もただ断るだけでは自分の印象が悪くなるだけだと思ったので、その理由は伝えておくことにした。

 

「俺は山河の手伝いでピアノの演奏があるからクラスの出し物には参加しなくていいって言われてる。けどその演奏は3日目だから初日、2日目はフリーってことになる。そんな奴が自分のクラスに行って注文なんてしたら嫌味に思われるだろ?だから行きたくないんだ」

「そっか・・・・・・それなら仕方ないわね」

 

 ケイが一応は納得してくれたようなので、英は胸をなでおろす。

 英が自分のクラスに行くのを嫌がった理由は、先に述べたのもそうだし、何より自分とケイが一緒にいるところを見られたくなかったからだ。もし見られようものなら、あらぬ誤解やよからぬ噂を招くのは避けられないし、変に煽られるのも嫌だった。そしてその後、英がケイに告白してフラれてしまったら、この時のことを黒歴史と揶揄されるかもしれないので、それは絶対に避けたかったのもある。

 しかしながら、ここで話題を終えてしまうとケイの中での『行きたい場所に行く』という気持ちが不完全燃焼で終わるので、話の流れついでにケイのクラスの出し物を聞くことにした。

 

「ケイのクラスは、何の出し物を?」

「私たちはねぇ、執事とメイド喫茶よ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 聞いた口で申し訳ないが、とてつもなく反応に困る答えが返ってきて、英は無言でコーラを啜るしかない。『へぇ~』程度の相槌すらも打てない。

 

「・・・・・・一体、何でそれをやろうと?」

「『なんか楽しそう!』って理由で決まったわ。特にみんな反対もしていなかったし。私も面白そうだって思ったから、反対はしなかったわ」

 

 絞りだした英の言葉に、ケイはあっけらかんと答える。アバウトな理由でそれを選んだケイのクラスメイトにも、それを否定するどころか肯定するケイにも、妙な尊敬の念を英は抱く。その出し物は結構敷居が高いと思ったし、楽しそうという理由でその敷居を躊躇なくまたぐのも、見上げたものだと思う。

 

「何なら行ってみる?」

「いや、いい」

 

 英は首を横に振る。というのも、英は“その手”の店に入ることに抵抗があるのだ。普通にお茶やお菓子を嗜むぐらいならチェーン系列の一般的なカフェで十分だと思っているし、ぶっちゃけて言えば興味がない。

 

「影輔はメイドとか嫌いなの?」

「嫌いというか、そこまで興味がない」

「へぇ~・・・クラスの女子が『男はメイドが好きだから、男性客はゲットよ!』って言ってたんだけどねぇ」

「それは『日本人は全員忍者の末裔』ってのと同じぐらいの偏見だ」

 

 その女子の大いなる偏見をどうにかしたいと思ったし、それに乗せられるクラスメイトもどうかと思う。というか、なぜ自分はこんな時、こんな場所で自分の趣味を暴露しなければならないのだろう、と悲しくなり、英はコーラをまた啜って頭を冷やす。

 なぜこんな話になったのだろうと、話の流れを思い出して、映画までの時間をどう潰すかを決めるんだったと気付いた。

 

「他にどこか、行きたい場所はないか?」

「影輔の行きたいところはあったりする?」

「俺は・・・・・・ケイの行きたいところに合わせる」

 

 女性と2人で出歩くという経験がない英でも、これはいつまで経っても行きたい場所が決まらないパターンだと憶測で分かった。

 悩んだ末、その映画が上映される西側第3体育館から離れすぎない程度の場所を見て回り、気になったブースに入っていこうということになった。

 方針が決まったことで、2人はコーラを飲み終えると店を出て、西側体育館の方へと向かう。脇目も振らず、ではなくてむしろ周りを見回しながらゆっくりと向かう。

 途中、休憩中と思しき英のクラスメイトや知り合いを見かけたが、英には気づいていない様子だった。それは変な噂が流れるのを恐れる英としてはありがたいことだ。

 しかし、英の知人含めサンダースの生徒とすれ違っても、英とケイのことを気にする人はあまりいなかった。年頃の男女2人が並んで歩いているのを見れば、『もしや』と頭をかすめる程度でも考えるかもしれないが、今英の隣を歩いているのは、あのケイだ。ケイがフレンドリーな性格で交友関係が広いということは、ケイを知るサンダースの生徒であればほとんどが知っていることである。だから、今そのケイの横を歩く英も、ケイの友達程度の認識なのだろう。

 だがそれも英からすれば、変に囃し立てられたり茶化されたりするのは望むところではないので、助かることである。

 

「あっ、ここなんてどうかしら?」

 

 そうして歩いていると、ケイがある1つの教室を指差す。パンフレットによればそこは、手芸部が開催するショップ兼展示会だった。英も、悪くないんじゃないかと思う。 

 

「ああ、入ってみるか」

 

 2人の意見が一致し、教室の中へ入る。先ほど入ったソフトドリンク喫茶とは違い、こちらは中も静かで、どの商品を買うか悩んでいる人も、展示されている品々を見ている人も静かに見学している。

 教室の前側―――黒板と教壇がある方―――が物品売り場になっており、後側―――ロッカーがある方―――は手芸部の作品を展示するコーナーとなっていた。

 英とケイは、まずは手芸部の作品を見ることにする。展示品は、特殊な模様の編み込まれた海外の民族衣装を再現したものや、緻密な花の刺繍、大きな布の上に小さな布をいくつも縫い合わせたアップリケなどの裁縫ものだ。中でも、様々な色の布を縫い合わせたパッチワークキルトは、カーペットほどのサイズを誇っていた。その大きさと完成度の高さに、スマホカメラのシャッターを切る人も結構いたし、英とケイも同じようにそのキルトを撮った(撮影OKと書かれたプレートあった)。

 

「すごいわね・・・・・・」

 

 そのキルトを見上げ、さらにその横に置かれていた赤いバラの花の刺繍を見て、ケイが率直な感想を述べる。それは英も同感で、この緻密な柄の刺繍が人の手でできたものと思うと、とても趣深い。

 

「私にはできそうにないかな・・・・・・」

「・・・ああ、それは確かに・・・」

 

 ケイには、裁縫が得意というイメージが無くて、つい英は頷いてしまった。そしてそれは、ケイの機嫌を損ねる結果になってしまう。

 

「ふーん?それはつまり、私はそんな細かい作業ができないと」

「あっ、いや、そうじゃなくて・・・・・・」

 

 ふてくされたような表情をケイがして、英はビクッと震える。

 確かにケイには裁縫が得意というイメージが湧かないが、細かい作業全般ができないとは思っていない。それをただ伝えればいいだけなのだが、ケイを怒らせてしまったということに英は動揺し、焦り、言い知れぬ恐怖が心の中で渦巻いて、舌が上手く回らない。

 だが、その狼狽えている英の心の中が見えたのか、ケイがふっと柔らかい表情へと変わった。

 

「冗談よ、冗談。困らせてごめんね」

「いや・・・俺も悪かった。ただ、ケイって裁縫とか好きなイメージがあんまりなくて」

「まあ、確かにそうね。あんまり得意じゃないかも」

 

 緊迫した空気が払拭されて英はホッとする。相手を怒らせた時の彼我の間にある妙な緊迫感とは耐え難いものだし、それが自分のせいだとなると余計気が重くなる。

 しかし英もここまで焦って恐れたのは、相手がケイだったからこそだろう。自分が好きな人に嫌われるということは、その想いを告げる前においては最も避けるべきことだった。そうなってしまうと、自分の想いが届く可能性が限りなくゼロに近づいてしまうからだ。未だケイの好きな人が誰なのかは謎だが、せめて自分が告白するまではケイにとってのいい人だと思われたいから、余計にそれを恐れていた。

 だから、たった今ケイが冗談だと言った時は心底安心したし、もう二度と誤解を招くようなことは言うまいと心に誓う。

 それから少しの間は、また手芸部の趣向が凝らしてある展示品を見て回る。こうした裁縫ものは自分で作りたいとはなかなか思えないが、部屋に置いておくと少しだけ雰囲気が和やかになるような感じがするものだ。

 展示品を一通り見終えると、2人は物販コーナーへと移る。こちらには、展示されていたような裁縫系とは違い、身に着けるアクセサリーの類のものが売られていた。たがねを使って金属に模様が刻まれた彫金の指輪や、銀粘土のネックレスやイヤリングなど、こちらも中々凝った出来のものが多い。

 

「流石・・・こういうのはお手の物か」

「ホントねぇ・・・プロが作ったみたい」

 

 陳列されている商品を見ながら、2人は同じような感想を抱く。

 英が今回協力するクイズ研究部も、この手芸部もそうだが、サンダースの部活動は結構本格的なものが多いのだ。部活動の部費も結構多めなので、本格的な設備(道具やトレーニング器具)等を揃えられる。そして十分な設備が与えられているからこそ、生徒たちが十分なポテンシャルを発揮することができ、そしてこの手芸部のように手の込んだ作品を作ることができるわけだ。

 

「ケイは、こういうアクセサリーとか着けたりは?」

「そうねぇ・・・。興味はあるけど、買おうと思っても買わないことが多いかな」

 

 その気持ちは、英にもなんとなくだが分かる。英にとってはアクセサリーではないが、欲しいものがあってもそこまで重要度が高くなければ『また今度でいいや』と後回しにする。その結果ずっと買わないということがあるのだ。

 

「せっかくだし、ここで気に入ったのがあれば、買ったらどうだ?」

「うーん・・・・・・そうしようかなぁ」

 

 英が促すと、ケイが本格的にどのアクセサリーを買うかを見始めた。こういうところでは男の英が何がケイに似合うかを選んでそれを買ってあげた方が良いのだろうが、英は自分のファッションセンスに自信がないので、迂闊なことはしないでおくことにした。

 なので、自分も適当に商品を見ながら、ケイのお目当ての映画の時間に遅れないように時計をチェックしておく。

 

「ね、影輔」

「んー?」

 

 少しして、ケイが声をかけてきた。何か欲しいものでもあったのだろうかと思いながら振り返ると、ケイはアクセサリーが収められた2つの箱を持っていた。

 片方にはイヤリング、もう片方にはネックレスが入っている。イヤリングには稲妻の意匠が施され、ネックレスのロケットの部分には同じ稲妻の模様が刻まれていた。その稲妻は、サンダースの校章にも描かれている黄色い稲妻と同じものだ。

 

「このイヤリングとネックレス、どっちがいいと思う?」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 英はこの質問は、答える側のファッションセンスが問われるものだと聞いたことが前にあった。つまり今、英のファッションセンスが鍵になっているということだ。だが、英は自分のセンスには自信がないため、これは難問だ。

 また、英の選んだアクセサリーを身に着けるのは、他でもないケイだろう。だとすれば、ケイのイメージに合うものでなければならないと、さらに知恵を絞って考える。

 そんな英の出した答えは。

 

「・・・ネックレスだな」

「なんで?」

「イヤリングは、人によっては邪魔と思うかもしれないし、ネックレスはそうはなりそうにないかと思って。それに、外すときも手間がかかりそうだから」

 

 あと、耳に穴開けるのも痛そうだし、と英が付け加えると、ケイはニッと笑った。そして、『そっかそっか』と納得したように頷きながらイヤリングを元あった場所に戻し、同じネックレスをもう1つ手に取った。

 手に取ったということはその2つを買うつもりなのだろうが、なぜ2つも買うのだろうと英は僅かな時間考える。しかしその答えを英はすぐに察した。

 ケイには、好きな人がいる。だから今ネックレスを2つ買ったのは、その好きな人に贈るためのものなのだろう。

 今日に限ってケイは英と一緒にサンダースフェスタを回っているが、そのケイの本当に好きな人は今日何らかの事情があって一緒に回ることができないのだ。そして前にケイが言っていた3日目の“用事”が、その本来好きな人と回ることなのかもしれない。

 そう思うと、嬉しそうにアクセサリーの会計をするケイを見ていると、胸がズキッと痛む。

 だが、それで嫉妬の念に駆られるのは違うと、英は分かっている。

 だから今の英にできることは、目下最大の試練であるクイズ研究部の『サンダースQA』の特別コーナーで使う自分のピアノを成功させること。そしてその上でケイに告白することだ。可能性は低いが英の気持ちが伝わればそれでいいし、玉砕したらケイとその相手の幸せを願い、自分は涙を静かに流す。それ以上英にできることはない。

 

「お待たせ♪」

 

 会計を済ませたケイが、実にいい買い物ができたとばかりに嬉しそうな声を英にかける。それで英も思考を切り離してケイの方を向くと、晴れやかな笑みを浮かべているのが分かる。

 

「誰かにプレゼントするのか?」

 

 確認の意図も籠めて英が聞いてみると、ケイは普段の明るい笑みとは違う恥ずかしさと照れが合わさったような笑みを浮かべる。

 言うなればそれは、恋する乙女のような顔だった。

 

「・・・そうね、私の大切な人にね」

 

 その大切な人こそが、ケイの好きな人なのだろう。英はそれが分かったから、もうこれ以上訊きはせずに『そうか』とだけ言う。ケイも、それ以上は何も言ってこなかった。

 だが、ケイが『大切な人』と言った時、英の方を見ていたのに英自身は気付いていなかった。

 

 

 ケイが買い物を終えた段階で英が時計を見ると、映画の時間が間近に迫っていた。どうやら展示品を見ていたのと商品を選んでいたのが、思いのほか長かったらしい。2人は急ぎ足で西側第3体育館へと向かう。

 そこへたどり着いた時にはまだ席には若干の空きがあったが、やはり映画研究部の映画のクオリティが高いことは評判のようで、席は満席に近い。そのクオリティに加えて、今年の映画の題材が、戦車道全国大会で伝説を打ち立てた大洗女子学園の戦車隊で、さらに撮影協力の大洗町と自衛隊(どんな形で協力したのかは分からないが)が話題を呼んでいるのだろう。

 先ほどのコーラのお礼ということで、ケイが英の分の鑑賞料も払って、隣同士の席に座り映画を楽しむ。

 肝心の映画の内容だが、地球外生命体のアライッペ(ポスターに描かれていた白い触手がうねる巨大生物)が大洗町に上陸し、大洗女子学園戦車隊と自衛隊の戦車部隊が戦って、最後はアライッペを退けるというものだった。巨大生物が出現するのと、ミリタリーを持ち出してドンパチ撃ち合うのは、アメリカのアクション映画に似通ったところがあると、英は見ている最中に思った。

 ストーリーはともかくとして、戦車の戦いについては男の英も面白いと思ったし、まさか自衛隊が最新鋭の一〇式戦車(後でケイから教えてもらった)を持ち出して普通に出演し戦っていたのは度肝を抜かれた。この自衛隊の戦車のことを知っていたらしき観客たちは『おおー』と小さく声を出していたのを覚えているし、隣に座っていたケイが戦車乗りの血が騒いだのか目が輝いていたのにも英は気付いていた。

 おまけに実際に撮影した場所が大洗町で、ミニチュア模型などは全くと言っていいほど使っていなかったのは素直にすごいと思った。

 それにしても、例え資金が潤沢にあると言っても、所詮は一介の高校、しかもその中の部活動の映画撮影にまで登場する自衛隊と、撮影地として場所を提供した大洗町はもしかして暇なのだろうか、とほんのちょっと思わなくも無かったが。

 

「とってもエキサイティングだったわね!」

「まあ、な」

 

 映画が終わって体育館から出たところで、ケイが裏表のない笑みを浮かべながら感想を告げる。英も同感だったので、頷いてケイの言葉に同調する。

 英がそこで時計を見ると、時刻は正午を回っており、丁度いい感じに空腹感が湧き上がってきた。

 

「そろそろ、昼ごはんにするか」

「Oh,それなら!」

 

 いい時間になったのでケイに聞いてみると、彼女は指をパチンと鳴らして、まさに閃いたとばかりに表情を明るくする。

 

「どこかいいところでも?」

「ええ。付いてきて!」

 

 英の聞いた通り、おすすめの場所があるらしい。そこへ向かうらしく、ケイが先導して歩き出し、英も後に続く。どんな料理のブースか聞こうと考えたが、アメリカンな雰囲気のサンダースと来れば、肉か、ファストフードか、正反対の和食になるだろうと思ったので聞きはしなかった。ちなみに普段英たちが使う学食は、サンダースフェスタの期間中はフリースペースになっていてそこで料理を注文して食べることはできない。

 その目当てのブースへ行くまでの道のりは、結構人が多かった。昼時となったことで、そろそろ昼食にしようと考える人が大勢いて、うっかりすると人の多さでケイを見失ってしまいそうだ。

 そう考えながらケイの姿を見失わないようにしなければ、と思った矢先、英の手が誰かに握られた。

 その手を握る誰かとは、前を行くケイだった。ケイは、英の方を振り返って小さく笑う。

 

「はぐれないようにね」

 

 先ほどの英と同じセリフを言われて、英も抵抗せずに頷き大人しく手を引かれる。

 そんな英は今、先ほど手を繋いだ時よりもドキドキしている。さっきも手を繋いでいたというのに、繋がれている今はそれ以上に胸が高鳴っていた。手を繋ぐのと繋がれるのは、どうしてこうも違うのだろう。

 もしかしたら、さっき英に手を握られていたケイも同じ気持ちだったのだろうか、と詮無い想像をしながら、ケイに手を引かれてその場所へと向かう。

 そうして到着したのは、中庭だった。煉瓦で舗装された道と手入れされた芝生が綺麗な中庭だが、ここも人で賑わっている。

 

「オーマイガー・・・ちょっと出遅れたかしら・・・」

 

 人だかりを見ながら、ケイは残念そうに声を上げる。ケイが立ち止まり手を離したので、英はその隣に立つ。そして、ケイはそのまま何かの列に並んだ。その最中、ここには何があったっけと英がパンフレットを取り出して該当するページを開くと。

 

「アンツィオ高校の出張屋台?」

「そ。アンツィオの戦車隊長・アンチョビが、P40って戦車の修理資金を寄付で募ってるんだけど、中々集まらないらしくてね?」

「ほう」

「それで私が、『ウチに来たら少しぐらいは足しになるかもしれないよ?』って言ったら、『ぜひ行かせてくれ!』って」

「ああ、それで」

「だからこのサンダースフェスタで、ああして今屋台を開いてその売り上げを修理費に回すらしいわよ?」

「なるほどね・・・」

 

 つまり今並んでいる列は、そのアンツィオの出張屋台のものだろう。この列の正体が分かって英も腑に落ちて、ケイの口から齎される事情に耳を傾ける。

 先ほど言っていたP40という戦車は、今年の全国大会の2回戦・・・大洗女子学園戦で投入した、アンツィオの隠し玉にして切り札でもある重戦車だ。しかし、惜しくも敗れてしまい、その時の大洗から受けた損傷が予想以上に深刻なもの、そして修理資金が足りないことで修繕が進んでいないという。アンツィオ高校のホームページや戦車道ニュースの公式サイトで寄付を募っているが、それもあまり進展がないらしかった。

 それで嘆いているアンチョビに手を差し伸べたのは、他でもないケイだった。ケイは個人的に寄付をしたが、それだけではなくてアンツィオの力になろうとして、こうして寄付金を募る場所を提供したのだという。

 

「それはやっぱり、アンツィオを助けたくて?」

「ええ、もちろん。アンツィオは資金があまりないのは知ってたから、少しでも力になってあげたくて」

 

 流石に、サンダース大学付属高校から直接資金援助をアンツィオ高校にすることは到底無理だが、力になりたいと思っていたから、ケイはアンツィオに資金の足しになるような“場所”を提供したというわけだ。

 その修理資金が欲しいという話はアンツィオ高校全体の話ではなくて、アンツィオ戦車隊の話だったから、同じ戦車隊を率いる身であるケイの話も通りやすかったのだろう。

 やがて順番が順調に進んでいき、売り子なのだろう3人の女子の客引きの声が聞こえてくる。『美味しいナポリタンだよー!』とか『温かいラザニアですよー!』と、端的な言葉ではあるが、どうしてだかそれが逆に安心感を覚える。

 ようやく英とケイの順番になると、フードワゴンが目に入り、さらにアンツィオの制服らしき白いシャツと黒に近い紺のプリーツスカート、その上に黒いマント、そして黒のリボンとドリルツインテールという一際目を引く容姿の女子がいた。

 

「Hey,チョビ!」

「チョビって言うな!アンチョビだ!」

 

 その人の正体を知っているらしいケイが声をかけたら、いきなり反発してきた。だが、アンチョビという名前(?)を聞いて、英もこの人が件の戦車隊隊長のアンチョビか、と気付く。以前音楽室で『フニクリ・フニクラ』を弾いた後でのケイの話にも出てきたが、それがこの奇抜な出で立ちの人だったとは。

 

「今回は店を開かせてくれてありがとう、助かった!」

「それは何より。で、店の方はどう?」

「順調順調!もう目標の半分ぐらいは突破できたかな?」

「すごいじゃない!やっぱり、アンツィオのイタリアンは美味しいって評判高いしね」

 

 ケイとアンチョビの話が盛り上がる横で、英は『先に買ってる』とケイに伝えて商品を注文することにした。英たちの後ろにはまだ結構人が並んでいるので、立ち話をしていると後がつかえてしまうからだ。ケイとアンチョビもそれに気づいて、少し場所を移動して話を続ける。

 

「何の屋台?例の鉄板ナポリタン?」

「ああ、それとラザニア。夏休みの屋台総選挙で2位になった奴も誘って、ツートップの自慢料理を提供してる」

「へぇ~、美味しそうね!」

「他にも色々パスタやピッツァなんかも用意してるけど、売れてるのはその2つだな。是非食べていってくれ!」

 

 そんな話声が聞こえてきたので、フードワゴンに掛けられたメニューを見ると、確かにその鉄板ナポリタンとラザニアの欄が一番大きく書かれていた。他にもアンチョビの言う通りパスタやピッツァなどもあったが、やはりこの2つのことを聞いたのでそれにしようと思い、ケイの分も含めて買うことにした。

 

「すみません、鉄板ナポリタンとラザニアを1つずつ」

「はぁい、550円です。オーダー、ラザニアと鉄板ナポリタン1つずつよ」

「ういっす!」

「了解」

 

 エプロンを着けた金髪の澄んだ声をする金髪の女子に注文し、中で調理している2人に向けてオーダーを告げる。それに応えるのは、すぐそばで調理をしていたコックコートを着る黒い髪のおさげの少女と、奥で調理をする同じくコックコートを着た男子。3人とも、英と同じ高校生だが、こうして繁盛しているあたり彼ら彼女らの料理の腕は確かなのだろう。素直にそれはすごいと思う。

 少し列からずれて料理が出されるのを待つが、ほどなくして『おまちどーさん!』と黒い髪のおさげの声と共に料理が渡し口に出された。英はそのラザニアと鉄板ナポリタンを手に取る。ラザニアはプラスチック製の皿に載せられていたが、鉄板ナポリタンはその名の通り鉄板の上に載っていて、その下に敷かれた木のプレートも熱くなっている。ラザニアも少し熱いが、鉄板ナポリタンはそれ以上に熱い。これは長時間持つことはできなさそうなので、早いところケイと合流することにした。

 ケイの姿を探すと、彼女はアンチョビと共にフードワゴンの裏側で話をしていた。2人は『総合演習が~』とか『燃料が溜まったら練習試合も~』と戦車道の話をしている。話を遮るような真似はしたくないのだが、このままだと熱々の鉄板ナポリタンを持つ英の右手がもたないので、やむを得ず話しかけた。

 

「お待たせ、ケイ」

「あっ、ごめんなさい。話し込んじゃって」

「いやいや、戦車道の話も大切だし」

 

 話しかけると、ケイが鉄板ナポリタンを持っている英の湿布が貼られた右手が震えているのに気付き、鉄板ナポリタンを持ってくれた。それに英はお礼を告げる。

 と、そこでアンチョビが、2人が親しそうにしているのに興味を抱いた。

 

「ケイ、その人は?」

「私と同じ3年生の影輔。たまたま知り合ったんだけど、今は仲良しよ」

「どうも、英影輔と言います」

 

 ケイに名前を言われたら自己紹介しなければと思い、英は名乗る。アンチョビも、うんと頷いて笑った。ケイの明るい溌剌とした笑みとは違って、アンチョビの笑みはどこか勝気で得意げな感じがする。

 そんなアンチョビは手を差し出してきた。

 

「よろしく。アンツィオの総帥(ドゥーチェ)アンチョビだ」

「よろしくお願いします」

 

 絶対本名じゃないよな、と思いながら英も右手を差し出して握手をする。

 だが、握手をしたところでアンチョビが、英の右手の湿布に気付きグイッと引っ張る。そして両手で労わるように優しく持つ。そして、キッと英の顔を見る。悪意や敵意は感じられないので、恐らく元々の目つきのせいだろう。

 

「お前、これどうしたんだ?」

「ああ、大したことはありませんよ。ピアノで痛めただけですし、今は痛くありません」

「そうか。けど無理はするなよ?お前がこんなことになって、悲しむ人だっているはずなんだからな?」

「ご忠告ありがとうございます」

 

 初対面の男のケガを心配するのは、アンチョビが心配性だからなのか、それともアンツィオの生徒が人懐っこい性格をしているからなのかは、英には分からない。その答えは前者なのだが。

 

「影輔、そろそろ行きましょ?」

 

 そこで、ケイが話しかけてきた。だが、そのケイの声が若干棘が含まれているように感じたのは、英の気のせいなのだろうか?

 

「・・・ああ、そうだな」

「チョビ、邪魔しちゃってごめんね?」

「だからチョビって呼ぶな!」

 

 先ほどと同じように訂正を求めるアンチョビの反応を見て、ケイは『あははっ』とその反応が面白おかしいようで笑った。

 しかし実はこの時、ケイは少しばかりの嫉妬心を抱いていた。

 なぜかと言うと、それはやはり英がアンチョビと親しげにしていたからだ。それも、英の湿布が貼られた右手をアンチョビが優しく握り、労わるように諭していたのを見て。アンチョビが世話焼きで面倒見がいいタイプなのはケイももちろん知っていたし、アンチョビに他意がないことだって分かっていたので、ケイも仕方がないと思っていた。

 だが、そう思えていても、心の中にモヤッとした黒い気持ちがあったのは否定できない。

 嫉妬なんて自分の柄じゃないはずなのに、と思った。けれど、前に英がクリスと昼食をともに楽しんでいたのを見て心が抉られたような気持ちになったことがあるので、自分はもしかしたら嫉妬深いのかもしれない、とケイは内心で苦笑した。

 

「・・・・・・それにしても、なんか変わったな。ケイ」

「え、何が?」

 

 別れ際にアンチョビがそう告げたので、ケイが足を止めて振り返る。英も同様に、立ち止まってアンチョビの方を見る。

 

「いや、私も戦車隊を率いてる身だからなんとなくわかるんだが、さっき話してて前と比べて明るくなった気がしたんだ」

「私が?」

「ああ。確かに前は明るかったけど、何だか疲れとかが見えて・・・・・・でも今はそんな感じがしなくて・・・・・・上手く言葉にできない」

 

 アンチョビの言わんとすることは、ケイにはなんとなくだが分かった。だからもっと具体的に言ってほしいとは言わず、ニコッと笑った。

 

「そうね。確かに自分でも、最近は少し変わったって思うわ」

「そうか?」

「ええ」

 

 そしてケイは『Bye♪』と言いながら手を振り、英も軽く会釈をしてアンチョビに挨拶をし、その場を離れることにした。あまり時間が過ぎると、せっかくの料理が冷めてしまう。

 2人は中庭を後にして、座って昼食を摂れる場所を探す。その末に見つけたのは、グラウンドの周りに敷かれた芝生の広場だ。昼時の今は多くの人が芝生に座って弁当を食べたり、出店で買った料理を食べたりしている。

 英とケイは、空いているスペースを見つけてそこに並んで座る。広場の前方、グラウンドにはパブリックビューイング用の大型の特設モニターが設置されてはいるものの、何も映っていない状態だ。

 

「それじゃ、食べるか」

「そうね、冷めないうちに」

 

 英とケイは、それぞれが持っている料理を食べることにした。元々誰がどっちを食べると決めていたわけではないので、異論はない。英はラザニア、ケイは鉄板ナポリタンだ。

 

「「いただきまーす」」

 

 そう口にして、お互いにそれぞれの料理を一口ずつ食べると。

 

「美味っ」

「美味しい・・・!」

 

 2人の感想は同じ。英の食べたラザニアも、ケイの食べた鉄板ナポリタンも美味しかった。アンツィオで開催されていたという屋台総選挙で1位2位に輝いたのも頷けるほどの出来である。

 

「ラザニアなんて初めて食べたけど、結構イケるな」

「鉄板ナポリタンもアンツィオ名物ってことだけ聞いてたけど、確かに美味しいわね~」

 

 お互いに初めて食べる料理に舌鼓を打つ。この美味しさなのに2品セットで550円なのだから安いにもほどがある。

 そうして食べ進めていき、2人の料理はそれぞれおよそ1口分ずつ残った。そこでケイは英のラザニアを、英はケイの鉄板ナポリタンをチラッと見る。そのケイの視線にいち早く気付いた英は、何を言わんとしているのかを先読みした。

 

「ケイ、これ食べてみる?」

「あら、いいのかしら?」

「ああ」

 

 一口分程度の量だし、親しい人が物欲しそうにしていれば惜しげもなく譲るのが英の譲り方だ。相手が自分の好きな人であるケイであればなおさら。

 

「じゃ、お返しに私のもあげるわね」

「いいのか」

「私だけもらうのも申し訳ないもの」

 

 お互い最後の一口をトレードすることが決まったので、英はフォークを持ち直そうとしたが、その前にケイが最後のナポリタンを自分のスプーンで巻き始める。先ほどの約束はフェイントか、と思ったが、その巻き取ったナポリタンを英に差し出してきた。

 

(えっ・・・・・・)

 

 だが、それを見たまま口を閉じて硬直していてはならないので、口を開けてナポリタンを食す。口の中が程よく温かくなり、ケチャップと玉子の味が広がる。

 

「・・・・・・うん、美味い」

「でしょ?」

 

 得意げに笑うケイだが、どうやら先ほどの行為が恥ずかしいものだとは気付いていないらしい。それか、あの程度の行動は同性間、異性間を問わず普段からやっているのかもしれない、というかそうなんだろう。

 ではつまり、それを英がやっても問題はないというわけだ。

 

「じゃあほれ、口開けろ」

「え・・・・・・あ、うん」

 

 最後のラザニア一口分を英のフォークで刺して同じようにケイに差し出すと、ケイは一瞬戸惑いを見せた。さっきは平気そうだったのに何で自分がされると恥ずかしがるんだと英は心の中でツッコみ、そして自分でも恥ずかしくなってくる。

 だが撤退することはできずに、儘よとケイの口にラザニアを入れる。そしてケイは口を閉じ、咀嚼して飲み込むと大きく頷いた。

 

「そっちも美味しい!」

「・・・それはよかった」

 

 そう言ってもらえると、作った身ではないが英も嬉しくなる。

 空になった皿とフォークを脇に置き、程よい満腹感に満たされて英は小さく息を吐く。ケイも同様に、鉄板ナポリタンのプレートを脇に置く。

 そこで英は、先ほど気になった言葉をケイに改めて問いかける。

 

「・・・・・・ケイ」

「?」

「さっき、アンチョビさんが『前は明るかったけど何だか疲れが見えた』って言ってたけど・・・・・・それって本当なのか?」

「・・・・・・・・・」

 

 ケイは座りながら空を見上げる。

 その質問にどう答えるべきかを考えているのが分かるが、空を見上げたところでそこに答えが示されているわけではない。

 英の感じからして、少し心配しているのがケイには分かる。その英を安心させるために誤魔化すか、それとも多少の恥を忍んで本当のことを伝えるべきか、ケイは一瞬悩む。だが、ケイも英に言いたいことがあったので、そのために本当のことを伝えることにした。

 

「・・・確かにそうね。私も、アンチョビと同じように戦車隊のみんなを率いる身だから、気苦労とかもすることが多いわ」

「・・・・・・・・・」

「でも私が弱音を吐いたり、ぐでぐでだったら付いてくる皆にも失礼でしょ?だから、無理をしてでも明るく、元気に隊長として頑張ってきたわ。同じ隊長のアンチョビには、バレちゃったけど」

 

 そう言いながら、ケイは英の方を見る。

 

「でも最近は、そこまで疲れることも無くなったわ」

「・・・どうして」

「それは・・・・・・影輔のピアノを聴き始めるようになってから」

 

 自分のピアノのことを言われて、英も心臓が跳ねる。

 

「影輔の聴いていて楽しくて、明るい気持ちになれるピアノと出会ってから、戦車道で疲れても癒されるようになったから・・・・・・」

 

 前にケイは、英のピアノを聴いていると楽しい気持ちになれると言ってくれた。だが、まさか戦車道で疲れたケイの心と体を癒すほどのものだったというのは、今初めて知ったことだ。

 

「でも、だからあなたのことが心配なのよ」

「え?」

 

 急に自分の心配をされて、今度は戸惑う英。そしてケイは、湿布が貼られた英の右手に視線を落とす。

 

「手は大丈夫?」

「あ、ああ。大丈夫だって、そんな痛くないし」

 

 だが、本当に英がそう思って答えても、ケイは心配そうな顔をして英の表情から目をそらさず、そして自らの左手を英の右手に優しく重ねてきた。先ほどのように手を繋ぐのとは違って、ただ優しく、ふわりと重ねるだけなのに、それだけで英の鼓動は早くなる。

 

「さっき、アンチョビが『こんなことになって悲しむ人だっているはず』って言ったわよね?」

「ああ・・・・・・」

 

 ケイがいつになく重々しく言葉を紡いできたので、昂っていた英の鼓動も落ち着きを取り戻して、ケイの言葉に耳を傾けろと理性が告げたような気がする。

 その時のアンチョビの言葉はアドバイス程度にしか考えていなくて、肝に銘じておこうとまでは、真剣には考えていなかった。だが、今ケイから同じ言葉を真剣な表情で告げられて、その言葉の意図を改めて真剣に考えざるを得なくなる。

 

「影輔の手がこんなになってたのを今日初めて見た時、私すっごく心配したのよ?」

「それは・・・・・・悪かった」

 

 そこまでケイが心配してくれていたとは思わなかったので、素直に平謝る。最初に大丈夫と言っただけでケイの心配は拭えたと思っていたが、英の思っていた以上にケイは心配している。それは嬉しくもあったが、それ以前に心配させて申し訳ないと思った。

 

「・・・もし、影輔が手を痛めて、もう2度とピアノが弾けなくなる、なんてことになったら・・・」

「・・・?」

「すごく・・・・・・悲しいわ」

 

 前にケイは、英のピアノが好きだと言ってくれた。そして今、英のピアノを聴くと疲れが癒されるとも言ってくれた。それだけケイは、英のピアノを気に入ってくれているのだ。最初に英のピアノを聴いた時も、そう言ってくれたではないか。

 

『最高にクールね!気に入ったわ!』

 

 だから、そのピアノを弾く英本人が手を痛め、最悪ピアノを2度と弾くことができなくなれば、ケイだって英のピアノを聴くことは永遠にできなくなる。それが悲しいと言うことだ。

 

「・・・心配してくれてありがとう。でも大丈夫だ」

 

 英は、右手に重ねられていたケイの左手に、自分の右手を絡ませる。

 

「今回はちょっと大変だったけど、無理はしない程度に頑張ってるから。あくまで趣味で弾いているだけで、ちゃんと休み休みやってる」

「・・・・・・それなら、いいんだけど」

 

 ケイの声は安心したように聞こえるが、それでもまだ不安を完全に払拭することはできていないだろう。その証拠に、ケイの左手は英の右手を強く握っている。さながら、英のピアノが聴けなくなるなんてことが嫌だと言わんばかりに。

 どうしたものか、と思っていると近くに設置されたスピーカーからアナウンスが聞こえてきた。大人のものとは違う、若干の幼さを感じさせるその声は生徒のものだろう。

 

『只今より、第1体育館にて、サンダースOB・OGで結成された音楽グループ『夢幻観測(ドリームゲイザー)』のライブを開演いたします。また、ライブの様子は敷地内に設置されたモニターにも投映されます。どうぞお楽しみください。なお、ライブ映像の撮影、録画、録音は禁止しています』

 

 そのアナウンスの直後、英たちの座る芝生広場の前方、グラウンドに設置された特設モニターも点く。英たちの周りにいる人たちも、モニターの見える位置で待機していた。

 

「せっかくだし、観ていこうか」

「・・・そうね、そうしようかな」

 

 お茶を濁したつもりはないが、せっかくモニターが見えるいい位置に座っているので、そのライブ映像を観ていくことにした。サンダースフェスタ初日の目玉である、その『夢幻観測』というグループがどんな曲を歌うのかも気になったからである。

 曲が始まるまでの間にスマートフォンで、手早く『夢幻観測』のことをケイは調べ、検索結果の画面を英にも見せる。事前情報と先ほどのアナウンスの通り、『夢幻観測』はサンダースのOBとOGの2人が結成したバンドで、主に学生時代をイメージした曲を歌うらしい。ドラマの主題歌に選ばれたこともあるようで、その曲を見つけるとケイは覚えがあるらしく、『このグループだったのねぇ』と呟く。

 やがてモニターの映像が切り替わり、第1体育館の様子が映される。ステージの上を除く全ての照明が消されており、そのステージの上には4人の若い男女が立っていて、ドラムやギターなどの楽器も置かれている。あの中でサンダースのOBとOGはそれぞれ1人ずつで、その2人がボーカルとベース、ギターを兼任しているらしい。

 

「ケイは聴いたことがあるんだっけ?」

「ええ。でもこのグループの曲は1曲しか知らないから、他の曲は知らないけど・・・」

 

 その1曲というのが、先ほどのドラマの主題歌だろう。ケイはモニターを見たまま英の質問に答えたので、どうやら今から始まるライブの映像に意識を注ごうとしているらしい。英もこれ以上質問してケイの集中を乱すのは無しにしようと、同じくモニターに注目する。

 『夢幻観測』のメンバー1人1人が挨拶を終えると、拍手の音がスピーカーから聞こえてくる。あの場に直接いる観客たちのものだろう。

 やがて『夢幻観測』が演奏をする準備に入ると、自然と拍手も止んで『夢幻観測』が準備をする音以外の音が聞こえなくなる。英たちの周りからも自然の音以外が聞こえなくなって、もしかするとこのモニターが見える位置にいる人は最初からこれを目当てにしていたのかもしれなかった。

 やがて、『夢幻観測』の演奏が始まる。

 

 

 『夢幻観測』の曲は、先ほどケイが調べたように、学生時代の思い出をイメージした曲がほとんどで、今回のライブで演奏する全3曲もそんな感じの曲だ。

 まず1曲目は、『進学したての頃に環境ががらりと変わって、不安になりながらも新しい仲間を作り、そして新しくできた仲間と共にこれまでとは違う新しい時間を過ごす』というコンセプトの曲だった。静かに盛り上がっていき、サビではガツンと盛り上がる力強い構成のこの曲は、進学したばかりの中高生が聴いて大きく共感できると評判だったらしい。英も、前に何かの音楽番組でこの曲を聴いたような記憶がどこかにあった。

 続く2曲目は、聴き始めた時はラブソングかと思いきや、聴き終えるとまさかの失恋ソングだと気付く。『告白する勇気がなくて、好きな人を陰から見ているだけで満足していたけれど、その人は別の人と付き合い始めてしまい、自分の前から姿を消してしまった』と、何とも哀愁漂う曲。曲自体暗めな感じがして、ケイのお気に入りのラブソングとは、同じラブソングというジャンルが同じであれど方向性はまるで違う。

 演奏後に、この曲を作るに至ったきっかけを女性ボーカル(サンダースOG)が話して、自分がサンダースで失恋した経験をもとに歌詞を書いたと笑いながら話し、観客からも少しだけ笑いが起こる。

 だが、英としてはひとかけらも笑える要素が無かった。何しろ、自分の苦い経験を歌にしてそれを人前で歌うなど、並の精神力でできることではない。挙句その時のことを大人になった今笑って話すというのは、とても英にはできそうにない。

 そしてそんな悲しい曲の後は、お口直しとばかりに爽やかなイメージのする卒業ソングを最後に演奏する。『短くはない時を共に過ごした仲間たちと別れる時に涙を流して、それでも手を重ね合わせて再会を誓い合って、お互いの門出と未来を祝福する』という全体像のこの曲は、最近作ったもので、ラジオ局で流してもらった時も決して小さくない反響があったという。曲はやはり爽やかな感じがして、サビの部分では一層盛り上がる曲だった。

 一曲終わるごとに観客たちは拍手を贈り、そしてすべての曲を演奏し終えたら観客たちはもちろん、モニター越しにライブを観ていた人たちも、誰もが拍手を贈っていた。無論、英とケイも大きな拍手で『夢幻観測』を観ている人なりに褒め称える。

 英は、映像越しとはいえミュージシャンのライブをリアルタイムで観たことなど一度も無かった。だからこうして、パブリックビューイングでライブを観ることができたのは貴重な経験だし、知らない歌手グループの曲を聴いたことで自分の趣味の幅も広がった。特に最後の卒業ソングは、爽やかな雰囲気が英も好みだったので、後でまた調べてみようと思う。

 

「すごかったわね・・・」

「ああ、みんないい曲だったな」

 

 モニターの映像が消え、英とケイ、そして周りにいたライブ映像を観ていた人たちは拍手を静かに止めていく。多くの人たちは、残りの時間は学校内の出し物を見物しようとして立ち上がりその場を離れていく。だが英とケイは少しの間そこに座り、ライブで昂った気持ちを落ち着かせる。

 

「・・・・・・今日はありがとうね、影輔」

「ん?」

 

 改まってケイが英にお礼を告げる。何かお礼を言われるようなことをしただろうか、と英は記憶を掘り起こす。

 

「あなたと一緒に回れて、楽しかったわ」

「・・・・・・いや、でもあんまり回れていないし・・・」

 

 英の言った通り、今日はそこまで見て回れてはいない。映画とライブで大きく時間を消費し、後は手芸部の出展ブースにしか行っていない。映画の時間が若干長めだったのと、ライブも少し『夢幻観測』メンバーのコメンタリーもあったからだ。今日はまだ時間が残っているので、今から行動を始めればまだ少し回れるだろう。

 

「昨日帰る前に、1曲弾いてくれたじゃない?」

「・・・ああ」

 

 それは昨日の夜、帰り際にケイをいつもの音楽室に呼んで、『緊張したり不安になっている人の背中を押すような曲』を弾いた。それはもちろん覚えている。その後自分の部屋に帰ってから、英は自分の手が若干痛むのに気付き湿布を貼ったのだ。

 

「あの曲を聴く前は緊張したり不安にもなっていたけど、あの曲を聴いてからそれも無くなった」

「そうか・・・・・・」

「それで、昨日あの曲が聴けなかったら、今日もまた明日の総合演習のことが気になって、リラックスすることもできなかったかもしれない」

 

 離れていた英の右手とケイの左手が、また繋がれる。

 

「でも昨日、あなたの曲を聴けたから、今日はとっても楽しむことができた。おかげで明日は万全のコンディションで挑めそうよ」

 

 そしてケイは、横に身体をずらして、肩や腕を英にくっつける。英は、恥ずかしくてケイの顔など見ることができやしない。

 

「ありがとう、影輔」

 

 そう言って、英の肩に首を傾けて頭を乗せるケイ。

 英は、小さく笑い、目を閉じる。

 

「・・・・・・明日の総合演習、応援するから、頑張れよ」

「それは、もちろんよ」

 

 心地良いそよ風が吹いて、2人の頬を撫でていく。

 その風が止むまでの間、2人はその場に座って、その風を感じていた。




今回の作品内の『巨大アライッペ対大洗戦車隊』は、もっとらぶらぶ作戦4巻を参考にさせていただきました。
蝶野教官は割と協力してくれそう。

そしてサンダースとアンツィオって雰囲気が微妙に似ているなぁと思い、アンツィオ組も登場させました。
アンチョビとケイは作品内では関わりがありませんが、同じ隊長、3年生ということで独自に仲良しということにしました。
お気に召さないようでしたらすみません。


ここで2点ほど、お知らせがあります。
次回の投稿は、筆者の私用の影響で少し遅れてしまうことが見込まれます。
また、バレンタインが近いので、過去作でバレンタインデーの話を1つ書き投稿したいと思いますので、本作の投稿時期が少し遅れますのでご了承ください。
申し訳ございません。

ですが本作も絶対に完結させますので、よろしくお願いします。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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そうじゃない

大変間が空いてお待たせしてしまい申し訳ございません!


 サンダースフェスタ2日目も晴天に恵まれた。天気予報によれば、サンダースフェスタの期間はこの辺りの天気は晴れらしい。それは何よりだ。

 その2日目、英は昨日よりも早くに起きて朝食を済ませて、サンダースの校舎とは少し違う方角へと向かって歩いていた。目的地はサンダース戦車隊演習場に特設された観客席で、その理由はもちろんサンダース戦車隊の総合演習を観るためだ。

 総合演習が始まるのは10時からなので、今から行っても観客席で数時間待たされる羽目になってしまう。だが、英はそれは分かっていてこの早い時間に向かっていて、それは観客席がすぐに埋まってしまうことを知っているからだ。

 やはり50輌もの戦車を指揮して訓練を行うのはサンダースどころか戦車道でも稀なことである。それに加えて、50輌全てが出場するわけではないが戦車の試合を間近で見られるのは楽しみだから、毎年この総合演習は大勢の観客が来るのだった。

 

「初めて見るねぇ、総合演習って」

「そうね、どんな感じなのかな?」

 

 観客席に向かう英の後ろで、山河とクリスが気楽な会話を交わす。山河の『初めて見る』という言葉には英も同感で、今この3人はサンダースに入学してから初めて戦車隊の総合演習を観るのだ。

 サンダース戦車隊の戦車保有台数は全国一で、間違いなく規模も最大、サンダースの顔とも言える。だが、戦車に関わりのない、興味の無い者からすれば『そんなにすごいことなの?』程度の認識でしかない。

 英も少し前まではそんな認識だった。だが、ケイと出会い、さらにナオミやアリサといった戦車道履修生との関わりが増えたことで、戦車道に対する興味が湧いてきていたのだ。それに、昨日英は今日の演習を応援するとケイに伝えたのだから、見届けるのは最早義務に値する。

 それでも山河とクリスがここにいるのは、昨日の夜に山河から『明日どうする?』と電話で聞かれたことが発端だ。その電話で英が『総合演習観に行くけど、一緒に観るか?』と英が言って山河は賛成し、ついでにクリスも誘って一緒に行くことが決まった。

 英は別に1人で観ても親しい者と観ても別にいいと思ったので、仮に山河たちから誘われても英は一緒に行っていた。

 だが、1つ問題があった。

 

「あの英が戦車を見に行くなんてねぇ」

「それはあれよ。やっぱりケイさんに惚れたからでしょ」

「だよねぇ。そうだよねぇ」

 

 英の後ろで、周りには聞こえずとも英には聞こえるような声量で話す山河とクリス。

 こうも分かりやすく茶化してくることは分かっていたはずだったから、ナオミと一対一で話をした日に食堂で山河に指摘された時、強引にでも誤魔化しておくべきだったと今更ながら後悔する。

 そうこうしているうちに戦車の演習場に到着するが、既に多くの来場者がいた。やはり開始時刻前に観客席を開放すると人が殺到することを予想してか、入場ゲートはまだ閉じられていた。

 

「やっぱり人多いなぁ・・・座れるかな」

「まあ、滅多に見られないサンダースの総合演習だし、仕方ないな」

 

 秋が近づき冷たい風が吹きつける中で入場時刻を待つ人だかりを見て、クリスが苦笑してコメントをする。

 だが、英の言う通りサンダース戦車隊の練習試合はともかく、総合演習は滅多に見られるものではない。何しろ、学園艦は常に海の上を移動していて、それに加えてサンダース戦車隊が普段やらないような綺麗な隊形を組む訓練をするのだから、普通の練習試合とはわけが違う。

 英たちの周りに並ぶ人は、恐らくは戦車道ファンか、隊員の家族か友人、もしくは興味本位で観に来た者だろう。もしくは考えすぎかもしれないが、この機会にサンダース戦車隊の戦力を分析しようと企む他校のライバルもいるかもしれない。現に、英たちより少し離れた位置に、白と緑のセーラー服を着た5人の生徒が並んでいた。だが、ケイはスパイであっても『また遊びに来てね』と快く招き入れるので、取り立てて騒ぐ必要も無い。

 そしてサンダースフェスタの開場時刻となり、同時に観客席への入場ゲートも開場となった。総合演習が始まるのは今から1時間後なのだが、それでもいい席を確保するためにこうして早くから並んでいたのだろう。英たちだってそれを目的としてここに来たのだから。

 他の客たちの流れに従って、英たちは観客席へと向かう。3人とも並んでいる人の中では少し遅めだったからか、見晴らしのいい席は大体埋まってしまっていて、3人並んで座れる席は割と端の方にしかなかった。それでも文句は言わず、3人で並んで座る。観客席に座れなかった人たちは、急ごしらえの赤いテープで区切られたスペースへと向かい、そこで立ち見となった。

 観客席の目の前は演習場の敷地ではあるが、どうやらこの付近では演習は行わないらしい。というのも、観客席の正面には大型のモニターが設置されていて、演習場の様子はよく見えない。恐らく演習の際はそのモニターで中継映像を流すのだろう。

 席に着いたところで、英は身震いする。

 

「しかし寒いな・・・上着着ておいて正解だったな」

「そうだねぇ・・・。ついでに、温かい飲み物でも持ってくればよかったかなぁ・・・」

「私、ココア持って来てるけど飲む?」

「「飲む」」

 

 クリスが肩に提げていたバッグから魔法瓶を取り出して見せると、英と山河は声を揃えてココアを求める。クリスは『ハイハイ』と苦笑しながら―――2人がココアを欲しがることを予想していたのか―――紙コップを取り出して3杯分注ぎ、そして2人に渡した。静かにココアを飲むと、冷えた身体に染み渡るように体が温まっていき、とても美味しかった。

 寒空の下でココアを飲みながら演習が始まるのを待っていると、総合演習の開始時刻に差し掛かる。するとモニターが点き、黄色い稲妻が特徴的なサンダースの校章が大写しとなった。続けて、観客席の隅に建てられているスピーカーからノイズが聞こえ、音声が限りなくクリアになると総合演習を始める旨のアナウンスが流れた。

 そのアナウンスを聞くと、観客たちは自然と声のトーンを落としていく。これからいよいよ演習が始まるのだと思うと、期待と緊張が高まって、それで口数も減っていったのだろう。それは英たちも同じで、彼らもアナウンスが聞こえた直後から黙って観客席前方のモニターを見ていた。

 そして開始時刻丁度になると、戦車隊の隊長であるケイと、今回の演習に参加する戦車の車長たちが、タンクジャケットに身を包んでモニターの前に姿を見せた。

 まず最初に隊長であるケイからの挨拶のようで、後ろにあるモニターにもケイの姿が中継で映されていた。学校の校舎内にある特設モニターにも同じ映像が流れているのだろう。

 さて、サンダース戦車隊のタンクジャケットは、上は肩に白い星のマークが縫い付けられた濃いカーキのジャケットで、それは別に構わない。問題は下に履くホットパンツで、太ももがほとんど隠せておらず素足が丸見えの状態だ。そんな状態のケイをはじめとした隊員を見た英たちは。

 

「・・・・・・見ててすごい寒い」

「奇遇だね・・・僕もだよ・・・・・・」

「戦車隊のみんなってタフねぇ・・・」

 

 第一印象は『とにかく寒い』だった。今の時期にあんな露出度の高い恰好を見ていると、見ている方まで寒くなってくる。相対的に、3人の手の中にある2杯目のココアの入った紙コップを熱く感じてくる。今が冬でなければ、ケイたちの恰好を見た際の反応も変わったかもしれない。

 

「皆さん、こんにちは。本日は、私たちサンダース戦車隊の公開総合演習にお越しくださり、ありがとうございます。戦車隊の隊長を務めるケイです。よろしくお願いします」

 

 マイク片手に挨拶をするケイ。普段のフランクな口調とは180度違う敬語なので、違和感が拭えない。この総合演習がサンダースの身内にだけ見せるものであれば口調も普段と同じだろうが、今この場にはサンダースの外から来た一般の来場客も大勢いる。だから、いつものようなフランクな口調は使わないでいるのだ。

 挨拶も手短に終えて、他の車長たちと共に観客席に対してお辞儀をすると、観客席からは拍手が送られた。無論、英たちだって拍手は欠かさない。

 そして挨拶が終わると早速演習を始めるらしく、ケイをはじめとした車長たちは迅速に引き上げて戦車が待機する場所へと向かう。こうなれば、観客たちは後は演習が始まるのを待つだけだ。

 英は2杯目のココアを飲み切ると、モニターを見つつケイのことを思い浮かべる。

挨拶こそ他人行儀な感じがしたが、演習が始まれば普段と同じように溌剌とした口調に戻って戦車たちを指揮するのだろう。

 だが英は、ケイが緊張していないかどうかが気がかりだった。サンダースフェスタの前日に、英はケイを励ますような曲を1曲弾いて、昨日一緒に2人で回った時もケイは自分なりに楽しんで、今日の演習は万全の状態で臨めそうだと言っていた。

 ケイはそう言っても、それでも英は心配である。ケイは緊張とか不安とかとは無縁だとは思っていたが、そうでもないことはケイ自身の口からきいている。だから、ケイを疑うわけではないが、昨日のケイの言葉を聞いても英はやはり不安だった。

 

(頑張れ、ケイ・・・)

 

 だが、どれだけ英が不安に思っていても、今この場で英ができるのはケイたちが失敗しないように祈ることぐらいだ。ここで祈っていれば演習が絶対に成功するというわけではないが、やらないよりはマシだ。

 そんな英が戦車隊に向けて祈りを飛ばしている合間も、演習の開始時刻は徐々に近づいてきていた。

 

 

 ケイと、ケイと共に挨拶に出ていた車長たちが、戦車が待機している場所に戻ってくる。隊員たちは整備士と共に戦車の最終チェックを行っていて、その顔はまさに真剣そのものだ。

 そんな彼女たちもケイたちが戻ってきたのを見ると、戦車に乗り込み準備を始める。どの戦車も、不具合を起こしてしまったわけではなくて、本当に目視点検をしていただけなのですぐに乗り込むことができた。

 ケイだけはすぐに乗り込まず、整備をしていた整備班の班長であるリア(本名)というグレーのツナギの女子と話をする。

 

「戦車の調子はどんな感じ?」

「カンペキ!いくらでもブン回せるよ!」

「そりゃ頼もしい!」

 

 お互い笑い合って、ケイは最後にリアの肩を強めに叩く。そして手を振りながら戦車に乗り込んだ。戦車の中では、既にやる気満々という表現が似つかわしい表情の隊員たちがケイのことを待っていた。

 サンダースの隊員たちの多くは、試合や今日のような公の場に臨む際は緊張したりせず、むしろ『自分たちの力を見せてやろう』と張り切る傾向にある。それは隊員たちを率いるケイの明朗快活な性格によるものに限らず、サンダースという学校の校風の影響も強い。

 そのケイだって、多分に漏れずサンダースの生徒であり、そして彼女自身の性格も相まって、こういった場ではあまり緊張しないと思われがちである。しかし、やはり隊長として皆を率いる以上は、他の隊員とは違ってこうした場では緊張感というものを少なからず抱いていた。

 今日は模擬戦はともかく、これから行う公開演習は普段の試合とは違って一般に向けてのデモンストレーションの意味合いが強く、試合とは少し理屈が違う。それを初めて自分が指揮し先導するのだから、ケイとて緊張せずにはいられなかった。

 けれどケイは、一昨日英からピアノで励まされ、さらに昨日は一緒にサンダースフェスタを楽しんで思いのほかリラックスすることができた。それに英から『頑張って』と背中を押されて、ケイの中の緊張や不安はほぼほぼ解消されている。ケイは知らないことだが、英が心配しているのも杞憂に過ぎないのだ。

 

「さあ、訓練の成果を皆に見せるわよ!」

『はい!』

 

 隊員たちの気分も上々らしく、やる気に満ちた返事をしてくれる。それを聞いてケイも大きく頷いた。

 口では『皆に』と言ったが、ケイは見ているであろう英にも見てもらいたいと思っている。戦車隊を率いる自分の姿を恐らく英は見たことがないだろうと思ったからだ。

 好きな人には自分の活躍する姿を見てほしいと思うことはあるし、その好きな人が見てくれているから自分も精一杯頑張らなければと思える。

 

「それと、彼氏さんにも見てもらうんですよね?」

 

 ところが、ケイの前に座る砲手のオリーブ(オリーブオイルに嵌っているから名付けられた)からそう告げられて、ケイは思わず『へっ?』と間の抜けた声を上げた。

 

「か、彼氏?な、何の話・・・?」

「いやですねぇ、昨日グラウンドのモニターの前で同い年ぐらいの男子と一緒に座ってたじゃないですか」

「あっ、それ私も見た!」

 

 装填手のアンナ(本名)も加わってきて、話があらぬ方向に転がり始めている。ケイも珍しく狼狽え始めた。

 グラウンドのモニター前ということは、アンチョビたちのアンツィオ出張屋台で昼食を買って、それから『夢幻観測(ドリーム・ゲイザー)』のライブを英と2人で観ていたあの時か。それがこの2人に見られていた、ということか。

 普通は近くに自分の隊の、しかも同じ戦車に乗る仲間がいれば気付くはずだったのに。自分と英が座った後で来たのか、それともケイが英と2人でいられることに浮かれて気付けなかったというのか。

 いや、なぜ気付かなかったというのはこの際どうでもいい。それよりも、見られたら恥ずかしいようなことをしてしまった記憶がケイにはある。けれどこの2人はケイと英が2人でいたことを見たと言っていたし、それは十中八九―――

 

「いやぁ、あんな手繋いでおまけに肩に頭乗せるなんて、隊長も結構乙女なところありますよねぇ」

「あれはどー見てもできてるっぽいよね」

 

 案の定見られていた。凄い恥ずかしい。

 昨日のあの行動は、普段のケイを知る人からしても考えられないようなアクションだっただろう。友情や尊敬の念を含む握手やハグ、果ては頬へのキスやウィンクなどは知られているが、昨日のような行動をしたことは全くない。それが恋愛感情によるものであればなおさらだ。

 ケイもあの後部屋に戻ってから、少し踏み込むようなことをしてしまったかなと、ちょっぴり恥ずかしくも思った。自分でそう感じるのだから、周りが何も思わないはずがない。

 先に挙げた握手やハグなどの行動も、割と親しい男子に対してはやっていたことだった。だが、英に対してだけはそれさえも気軽にできないほど恥ずかしい。英だけが特別という点では、それだけ英を好いているという意味があるので決して悪いことではないのだが。

 それより、今ケイが問題視しているのは目の前にいるオリーブとアンナが自分のことを温かめで見ていることだ。

 

「で、実際のところどうなんですか?彼氏さんなんですか?」

 

 オリーブの質問に、ほら来た、とケイは内心で達観したような気持ちになる。戦車隊に属し、ケイの下につくこの2人をはじめとした隊員たちもやはり年頃の女の子なのだから、惚れた腫れたの話には興味津々だ。ましてやその中心であるのは、自分たちが慕うケイなのだから。

 

「・・・・・・違うわよ、仲の良い友達」

「へぇ~」

「そうですかぁ~」

 

 ケイの誤魔化す答えを聞いて、1ミリも信じていない顔をするオリーブとアンナ。数秒ほどケイのことをじっと見つめるが、先にケイが折れてしまって目線を横に逸らした。その反応だけで、オリーブとアンナは『察した』。

 

「隊長にも遂に春が来たんだねぇ」

「青春だねぇ」

 

 もうからかっているのが目に見えるぐらいの笑みを浮かべ悠長なことを言うオリーブとアンナ。

 その様子を見たケイは、うすら寒さを覚えるほどの満面の笑みを浮かべて。

 

「全車輌、40秒で支度して。ハリアップ」

 

 唐突過ぎる無慈悲な命令。しかも普段の明るさが欠片も感じられないほど冷えたトーンと口調。流石にそれでオリーブとアンナもからかい過ぎたと反省し、『すみませんでした』と平謝りをする。

 

「その礼は今日の演習できっちり返してもらうわよ?」

 

 2人が謝ると、ケイはいつもの明るい口調に戻ってそう言った。だがオリーブたちは、からかい過ぎると逆鱗に触れかねないと学習して、せっせと準備をしながら他の戦車の隊員たちに心の中で謝る。

 ジャスト40秒で、副隊長のアリサから全車輌の準備が終わったことを知らせる連絡が入る。やはり、先ほどのケイの命令が恐ろしさを感じるほど冷静だったからなのか、それとも今日が演習と言うことで気を引き締めていたからなのか、隊員たちも迅速な準備をしたのだろう。もう一度、オリーブとアンナは心の中で隊員たちに謝った。

 

「さて・・・・・・」

 

 全車輌の準備が整ったことで、後はケイが指示を出せばいつでも演習が始められるという状態になった。

 こうして自分が指揮を執ってデモンストレーション目的の演習をするのは初めてであるから、やはり不安や緊張はほんのわずかではあるが残っていた。

 だが、先ほどのオリーブとアンナとの話で、からかわれはしたもののリラックスすることはできたので、それについては感謝したいと思う。

 一度目を閉じて、前に英がケイを励ますために弾いてくれたピアノの曲を思い出す。何かに挑戦しようとして踏み止まってしまっている人の背中を押すような疾走感のあるあの曲は、あの日自分の部屋に戻った後で原曲を聴いてみたが、やはりいい曲だった。

 ピアノを弾いている英の姿が、脳裏に浮かぶ。

 どうしてだか、英の顔を、英がピアノを弾いている様子を、英が奏でた旋律を思い出すと、心が軽くなってくる。

 不安や緊張が胸の中から消え失せて、『私なら、皆ならできる』『自分を信じて付いてくる皆を信じる』『やり遂げる』と自分を鼓舞するような言葉が自然と心の奥から湧き上がり、その言葉で心が満たされる。

 もしも失敗したら、と不安に思うのはそれだけで無駄だ。それに、あの英が弾いてくれた曲のワンフレーズ『失敗も楽しめばいい』という言葉を考える。無論、失敗してもいいやとは全く思っていないし、失敗するつもりもさらさらない。ただ、仮にもし失敗してもそれを一興と捉え楽しめばいいと、ケイは気付いた。

 その方が、何事も楽しむ自分らしいと思う。

 目を開き、ケイはニッと笑った。

 

「全車、Go ahead!!!」

 

 ケイが無線に向けて勢いよく、最高の笑みを浮かべてそう告げると、50輌の戦車が前進を開始した。

 

 

 開会式の後はまたサンダースの校章を映していた大型モニターに、演習場付近を飛行するドローンからの映像が映し出される。この演習場は草原と荒野、そして林がメインで、今日は使わない艦内―――本当に学園艦内部にある―――には巨大なプールを活用した水辺と砂浜、さらに人工雪を降らせれば雪中訓練もできる演習場がある。このような全天候型、あらゆるコンディションの演習場があるのもリッチなサンダース特有のものだ。

 さて、モニターには演習場の入口からサンダースの象徴たるダークグリーンのシャーマン軍団が3列縦隊で入場してくるのが映されていた。まだ姿を見せただけなのだが、それだけでも観客たちは拍手を送り、これから始まる演習に向けて期待が高まっていく。

 シャーマン軍団は3列縦隊を形成しているが、先頭に1輌、さらに最後尾にも1輌列から外れて1輌だけで進んでいる車輌がある。最後尾の戦車は他よりも若干砲が長い。英は、先頭車に乗るのがケイで、最後尾の戦車がファイアフライという奴だろうからナオミが乗っているな、と思った。

 アナウンスが流れ、サンダース戦車隊の簡単な概要と、入場した戦車の名称が説明される。やはり先頭のM4シャーマンにはケイが乗り、最後尾の戦車はファイアフライでナオミが乗っているとのことだった。

 

「普段はああして綺麗な隊列を組むことが無いらしい」

「え、そうなの?」

「サンダースは物量で叩くのが基本スタンスだから、隊列とかはそこまで気にしないんだと」

 

 これはケイから聞いた話で、去年のサンダースフェスタでも総合演習をする際に、先代の隊長の指揮下でケイたちも練習したという。今年はそのケイが指揮をするのだが、指揮するのとされるのとは全然違うし、それに慣れない隊形の指示をするのは結構疲れるとも言っていた。

 

「ケイさんから聞いたの?」

「ああ、ピアノを練習してる時にな」

「そっかぁ、そこまで仲良かったのねぇ・・・」

 

 それは別に隠すことでもなかったので、素直にその情報の出どころを明かす。クリスはこれからの演習に興味があるようで必要以上におちょくりはせず、山河もチラッと英のことを見るだけで何も言わない。

 ドローンのカメラが先頭車にズームインし、無線機を片手に腕を振って後ろに従う戦車たちに指示を出しているケイの姿が映される。瞬間、観客たちが『おお~』と歓声を上げて拍手を送る。

 戦車に限らず、男女を問わず、リアルタイムで何かを指揮する姿というのは、なぜか惹かれるものだ。特に今クローズアップされているのは容姿端麗なケイだから、余計注目を集める。

 ドローンが再び戦車隊全体を映し出す。3列縦隊を崩さず進んでいたが、開けた荒野地帯に差し掛かるとそれぞれの戦車は前後左右の間隔を広げていき、1輌1輌が見やすくなる。だが、それでも3列縦隊は崩していない。

 英は、総合演習で具体的に何をするのかまではケイからは聞いていない。だからこそ、英は戦車の演習を始めて間近で観ることと、一体何を見せてくれるのかが楽しみだった。

 まず最初に、各車輌の速度を微妙にずらしていき、斜向陣という隊形へと変化する。戦車同士がぶつかったりするようなことも、感覚がズレてしまうというようなことも無く、スムーズに隊形を変化して見せた。それを目の当たりにして、英も、山河も、クリスも、観客たちの誰もが歓声を上げて拍手を送る。アナウンスが隊形についての説明をしているが、どうやらアナウンスは今回の演習に参加しない隊員が務めているらしい。

 さらに戦車隊は逆V字の型をした楔形陣、V字型の凹角陣へといとも簡単に陣形を変えていき、しかもそれらを迅速かつスムーズにこなすので、観客たちの歓声は止む気配を見せない。

 

(すごいな・・・・・・)

 

 英は歓声を上げながらも、演習を見届けながらも内心でそう思う。『すごい』と思うことはいくつもあり、この演習のために慣れない隊形を迅速に構築する訓練をしてきた戦車隊も、その戦車隊を指揮するケイも、素直にすごいと思う。

 やはり戦車隊のみんなも、この時のために厳しい訓練を続けてきたのだろうと、英は予想する。自分のことを引き合いに出すのは畑違いかもしれないが、英だってサンダースフェスタで行う初めての挑戦のために練習を重ねて、結果手を痛めてしまった。

 自分でさえこれなのだから、戦車隊の隊員たちの疲労など英の比ではないのだろう。戦車を動かすには体力がいると聞いたし、今回の演習に向けて隊員たちも今までとは違った訓練を続けて精神的にも疲れているはずだ。そして、その皆を率いて指揮を執るケイの疲れなど、精神的にも身体的にも筆舌に尽くしがたいものに違いない。

 そして今、こうして大観衆の前でその訓練の華々しい成果を存分に見せている戦車隊の隊員たちには、英も尊敬せざるを得ない。自分がちっぽけに思えてくるが、劣等感は抱かない。心地良さを感じるかのような自分との“差”だった。

 

「へぇ、あんな風に曲がれるんだ。綺麗だなぁ~」

「すごいな、あれ。普通の車でも難しいんじゃないか?」

 

 今現在モニターには、再び3列縦隊に戻ったシャーマン軍団が大きな弧を描いて曲がり、演習場の元来たルートを戻る形に入る。そのカーブを曲がる戦車隊は、山河の言う通り綺麗に足並みを揃えて一糸乱れず縦隊を形成している。その美しいカーブは観客たちを魅了し、惜しみない拍手を送る。

 

『これより、観客席の前にて砲撃訓練を行います。サンダースの戦車50輌の波状砲撃をどうぞお楽しみください。なお、砲撃の際観客席前方に座るお客様は轟音にご注意ください』

 

 アナウンスがそう告げると、モニターの映像が消えてゆっくりと横に移動し始める。このモニターは可動式だったようで、トレーラーがゆっくりとモニターを牽引していた。

 そして観客たちは、これから目の前で砲撃訓練が始まることにさらに期待を高めて、にわかにざわつき始める。

 先ほどまでの演習とは違って、砲撃訓練を観客たちの前で行うのは、直接観た方が迫力が伝わりやすくなるからだろう。それに先ほどの隊形を組む演習は、俯瞰的に見た方が体系の変化が分かりやすいからドローンで上から撮影していたのだ。

 ゆっくりとモニターがトレーラーに牽かれて移動していき、観客席の脇で停車して再びモニターが点く。見えない人への配慮も兼ねて、観客席から見えやすいように斜めに配置してあった。

 英たちはモニターがゆっくり移動していくのを見届けて、改めて正面を見る。トレーラーでモニターを移動させている内に戦車隊はこちらに向かって進んでいた。

 先頭を行く戦車に乗るケイが、キューポラから身を乗り出して観客席に向けて手を振る。モニターにその様子が映し出されると、観客たちはそれに応えるように歓声を上げたり、拍手をしたり、手を振り返したりした。英と山河は拍手を送り、クリスは手を振り返す。

 50輌もの戦車は3列から2列縦隊に変わり、さらに互い違いに位置を微妙にずらし、観客席から見て左手側に砲身を向ける。それを見て、観客たちがスマートフォンなりデジカメなり一眼レフカメラなりを取り出して、レンズを揃って戦車隊に向ける。戦車隊50輌もの波状砲撃の瞬間を写真に収めたいらしい。英の隣に座る山河とクリスも同じ腹積もりのようで、それぞれスマートフォンを取り出していた。

 

「あれ、英は撮らないの?」

「ああ、俺はいいや」

 

 だが英は、スマートフォンはポケットに入っているが、写真に撮ろうとはしなかった。カメラの腕に自信がないのもあるが、砲撃の瞬間はカメラ越しではなくて自分の目で直接しかと見ておきたかった。

 カメラを構え、そして砲撃が始まるまでの間は観客たちの口数も減っていき、自然と観客席が静かになる。50輌もの戦車が目の前で火を噴く瞬間を、固唾を飲んで見守る。

 

『間もなく、砲撃を開始いたします。最前列付近のお客様は砲撃音にご注意ください。なお、ファイアフライの砲撃は一番最後に行います』

 

 アナウンスが流れる。ファイアフライだけわざわざ最後にしてそれを伝えるということは、他のシャーマンとは違う何かがあるらしい。

 そのアナウンスに対しては誰もコメントや文句を付けたりはせず、ただただ砲撃が始まるのをじいっと待つ。

 英も、山河も、クリスも静かに待つ。

 風が吹き、草木が揺れる音が聞こえてくる。戦車のエンジンのアイドリング音が耳を澄ますと聞こえてくる。それ以外の音は聞こえてこない。限りなく静寂に近づいている。

 その時英は、一番観客席に近い位置にいるシャーマンのキューポラから身を乗り出しているケイが、左手で無線機を持ち、右腕を高く掲げるのに気付いた。

 その瞬間、英は、戦車ではなくてケイに目を引かれた。ただ目で捉えたからではなく、本当に印象的に見えたからだ。

 そのケイが、無線機向けて何かを告げて、そして右腕を振り下ろした瞬間。

 50輌弱の戦車が1輌ずつ砲撃を始め、その砲撃音が奔流のように身体を叩き、耳にすさまじい音が流れ込んできた。

 

『おおおおおおお!!!』

 

 砲撃が始まると、先ほどの沈黙とは打って変わって生き返ったかのように歓声を上げる。そこかしこからカメラのシャッター音が聞こえてくる。英の隣に座る山河とクリスも、興奮気味にシャッターを切りまくっている。

 英は、耳に流れ込んでくる砲撃の音を聞きながらも、ただただ砲撃を続けている戦車隊から、ケイから目を離せずにいた。放った砲弾が着弾し、遥か左の方向で土煙が上がり、観客たちはそれを見てさらに盛り上がる。だが英は、その土煙を視界の端で捉える程度にとどめ、ケイからは目が離せなかった。

 初めて戦車の演習を、戦車が動いているのをその場で観た英は、砲撃を続けている今は『すごい』という単純な感想しか抱けなかった。それに、引き込まれるほどの迫力があり、否が応でも釘づけにされる。

 そして、恐らくは砲撃開始の指示を下した瞬間のケイの姿は、英からすればとてもカッコよかった。演習の最中も戦車隊に指示を出していたケイも同様だったが、先ほどのケイはそれ以上にカッコよかった。

 既に心は掴まれていたはずだったのだが、先のケイの姿に英の心は鷲掴みにされた。

 そんな風に呆けた英の目を覚まさせるかのように、最後のファイアフライの砲撃が行われた。やはり他のシャーマンとは分けただけあって、その砲撃の音は全く違った。通常のシャーマンの砲撃音を基準とすれば、ファイアフライのそれは通常よりも長く、強く身体を叩くような音で、それは大きく、重く響いた。あまりの砲撃音の力強さに、観客の中には笑いだす者までいる始末だ。

 そんな中で、英はケイ、そしてアリサとナオミの顔を思い浮かべ、彼女たちがああして戦車を動かして戦っている姿を思い浮かべると、逞しいと思うし、そして尊敬と称賛をせずにはいられない。

 英は、静かに拍手を送ってその気持ちを表現した。

 

 

 最初の砲撃が終わると、13時から始まる模擬戦まで休憩時間となった。時計を見ると既に正午に差し掛かろうとしていて、観客たちは先ほどまでの演習で無意識に体が緊張し筋肉が硬くなってしまっていたのか、身体を伸ばしたりしている。

 英たちも、一度昼食にしようと思ったが、今座っている席を離れるともしかしたら別の誰かに座られるかもしれないと不安になる。仕方なく、英とクリスでだけ昼食を適当に買って来て、山河にはその場で座ったまま待ってもらうことにした。

 

「食堂車なんてものまで持ってるのか」

「流石サンダースって感じねぇ」

 

 総合演習は今日だけだが、この日のために有志によっていくつかの軽食、戦車の模型、戦車道グッズなどの屋台が開かれていた。

 その中で目を引くのは、3両ほどのサンダース戦車隊が所有する食堂車・・・と言うよりもフードワゴンだ。こちらでもホットドッグやフレンチフライなどの軽食を販売していて、多くの客が並んでいる。このような機会でしか利用できないから、一度だけでもいいから使ってみたいと思って並ぶのだろう。

 英とクリスも、同様にせっかくだから使ってみようと考えてフードワゴンの列に並び、サンドイッチやホットドッグなどを注文する。他にも興味深い屋台が多くあったが、あまり長く席を離れていると待っている山河に悪いので、早々に帰ることにした。

 そこで英が、何の気なしにフードワゴンを振り返ってみると、列に並ぶケイの姿を見つけた。

 その姿を見た瞬間、『何か話しかけた方が良いんじゃないか』と言う考えが英の中に芽生える。今は迫力溢れ見ごたえある演習の直後で、それに今日の本番とこの日のための練習でケイも疲れているだろうと思う。労いの言葉の一つでもかけておいた方が良い。

 

「クリス、悪いけど先に戻っといてくれ」

「え、なんで?」

 

 突然英がそう言ったのでクリスは面食らうが、すぐにケイをクリスも見つけて、『そういうことね』とばかりにニンマリと笑って頷いた。

 

「分かった、先に行って食べてるね」

「ああ、すまん」

 

 そして英は、観客席に戻るクリスとは反対にケイの方へと向かう。その前に英は、買っておいた自分の分のコーラの缶を袋から取り出す。

 

「ケイ」

 

 十分な距離まで近づいたところで、ケイに声をかける。もちろんケイも聞こえたようで、少し驚いたような顔で英の方を見た。

 

「影輔、来てたんだ」

「ああ」

 

 来てたんだ、とケイは口では言うが、本当は来ていると思っていた。何せ、昨日英はケイのことを『応援する』と言ってくれたのだし、演習中も度々、英が見ているかをケイは気にしていた。

 ただ、今話しかけてきたのはちょっとバッドタイミングだが、『話しかけるな』なんて言おうものなら英が傷つくことはまず間違いないので、そんなことはおくびにも出さない。

 

「ってことは、演習も見てたってことよね?」

「当たり前だろ」

「あちゃー・・・ちょっと恥ずかしいわね・・・」

 

 何を恥ずかしがることがあるのか、ケイは頭の後ろを掻いてちょっと恥ずかしそうに笑う。

 だがケイとしては、失敗らしい失敗もせずに終えることができたと思うのだが、観客席から見たら何か綻びのようなものもあったかもしれなかった。失敗したかどうかが自分で分からないから、少し恥ずかしいような、怖いような感じがしたのだ。

 

「何というか・・・・・・すごかった」

 

 だが英は、ありのままの感想を述べる。小難しい表現をするよりも、ストレートなことを言った方がこういう時は気持ちが伝わりやすい。

 

「戦車が動いてるところなんて初めて見たし、砲撃だって迫力がすごくて・・・・・・」

 

 だが、ストレートに言おうにも上手く言葉を紡ぐことができず、断片的なことしか言えない。それでもケイは嫌がる素振りなど欠片も見せず英の感想を静かに待ってくれている。

 英はそんなケイに、演習を観ていて一番強く感じたことを伝えた。

 

「すごく・・・・・・カッコよかった。ケイも、戦車も」

 

 戦車が足並み揃えて綺麗な隊形を組んでいるのも、すさまじい威力と迫力の砲撃も、そして何よりその戦車を指揮するケイが、カッコよかった。陳腐な表現な気がしたが、それでもカッコいいという表現が一番似つかわしかった。

 ケイが戦車隊を指揮しているのを見たのも今日が初めてだが、あんな風にカッコよかったなんて。それでケイの魅力にまた1つ気づくことができたし、ケイが人気の理由の一端に触れることもできた気がする。

 

「そっか・・・そう言われると、悪い気はしないかな」

 

 はにかむケイだが、あの華麗な戦車の動きができるようになるためには、血の滲むような努力と苦労を重ねてきたことは容易に想像がつく。そんなケイを少しでも労うために、英は手にあるコーラの缶をケイに差し出した。

 

「?」

「お疲れさんってことで、差し入れ」

「あ、いいのよ別に、そんな」

「いやいや、さっきの本番と練習で疲れただろ?遠慮せずに」

 

 ケイも英が本当にケイのことを気遣っているのは分かっている。英が微笑んでいるのを見れば、悪意も策略も何もないのが分かる。だから無下に突っぱねることもできず、ありがたく貰うことにした。

 

「・・・・・・サンキュー、影輔」

 

 差し出されたコーラの缶を受け取ると、英は『午後も頑張れよ』と言って背を向けながら手を振り、観客席へと戻っていった。

 

「あっ、やっぱりそうか」

 

 そんな英の背中を見ながら、ケイの後ろでずっと沈黙を保っていたオリーブが声を出す。ケイと一緒に昼食を買いに来たのだが、ケイに話しかけた英を見て、昨日ケイと一緒にグラウンドのモニターの前にいた男子に似ていたので敢えて存在感を極力消して様子を見ていたのだ。

 

「隊長、昨日あの人と一緒にいましたよね?」

「・・・まあね」

「そっかぁ、あの人が隊長の彼氏(仮)かぁ」

 

 またその話を蒸し返すか、とケイは内心げんなりする。

 先ほど英に話しかけられた際に『バッドタイミング』だと思ったのは、演習前にケイのことをからかったオリーブがいたからだ。

 

「彼氏って、そんなんじゃないから」

「だから(仮)って言ったじゃないですか。でも結構いい感じの雰囲気になってたし、これは時間の問題かなぁ~?」

「だから違うってば」

「でも別の女子と一緒にいたっぽいですし、早くしないと取られちゃうかもですよ~?」

 

 好き勝手なことを言ってくるオリーブだが、両頬を左手と右手に握るコーラに挟まれて『違うから、OK?』と告げると『い、イエフ、マフ・・・』と呻いてそれ以上あれこれ言うことはなくなった。

 ケイは『まったくもう』と言いながら手を離して、手の中のコーラを見つめる。まだ買ったばかりのようで冷たいが、英がケイのことを気遣って渡してくれたと思うと、顔が熱くなってくる。

 だが、オリーブの『早くしないと取られるかも』という言葉に、ケイも少しだけ引っ掛かりを覚える。英はモテないとは言い切れないし、オリーブの言うように誰かが英に告白してその人と付き合う可能性だって存在するのだ。

 その時のことを考えると、胸が引き裂かれるように悲しくなる。

 その悲しさから逃げるように、プルタブを空けてコーラを飲む。冷たいコーラに喉が冷えるが、まだ顔は熱い。

 

 

 英が観客席に戻ると、案の定ではあるが山河とクリスがニヤニヤと笑みを浮かべて英を迎えていた。そんな2人の視線を英は無視して袋からホットドッグを取り出して食べる。マスタードが利いていてなかなか美味しい。

 観客席の正面に目を向けると、先ほど移動していたモニターが元の位置に戻っていた。やはり模擬戦の様子はモニターに映すらしい。

 

「戦車の試合も初めてだなぁ」

「ああ、確かに」

 

 先にサンドイッチを食べ終えた山河が、ハンカチで口を拭きながら今更のコメントをする。しかしそれは英も同感で、演習の時もそうだったが戦車が動いているところを見たのは今日が初めてだったのだから。戦車が戦うのだって、これから始まる模擬戦で初めて見ることになる。やはり楽しみだった。

 ちなみに、クリスの所属するチアリーディング部の一部のメンバーは、戦車道の試合会場まで行くこともあるらしい。クリスはその機会は無かったためにが、何でも戦車隊の応援をする時は特有の振り付けがあるとのことだった。それについては深く聞かないでおく。

 そんな感じで適当にだべっていると、模擬戦の開始時刻まで15分を切る。そのタイミングでモニターの画面が点き、加えてアナウンスで模擬戦の説明が行われた。

 試合のルールは、相手チームの戦車を全て行動不能にした方が勝利する殲滅戦。

 今回戦うAチームとBチームの車輌数は共に15輌。Aチームを率いる隊長はアリサ、Bチームの隊長はナオミ。ケイはアリサのAチームに所属する。

 Aチームの車輌内訳は、M4A1シャーマンが1輌、M4シャーマンが14輌。Bチームはシャーマンファイアフライが1輌、M4シャーマンが14輌。M4A1シャーマンにはアリサが、ファイアフライにはナオミが乗る。

 

「ケイが隊長じゃないんだ」

「意外だねぇ」

 

 ケイは言わずと知れたサンダース戦車隊の隊長だ。だから模擬戦のチームの隊長も務めるものだと思っていたが、その当ては外れた。そう言えば、アリサを次の隊長にすると前に言ったことがあったし、今回の模擬戦で隊長の立場に慣れてもらうつもりなのかもしれない。

 ちなみに、英たちは知らなかったが、今回の模擬戦が殲滅戦なのは、観ている人たちを盛り上げるためだった。

 フラッグ戦は、相手チームのフラッグ車をいかに早く倒して勝利できるかを考えるため、殲滅戦よりも知略を巡らせるのが人気ではある。だが、運がよければ1発撃つだけで試合が決してしまう可能性もあった。それだと、ぶっちゃけた話つまらない。そしてそれを実現できる可能性を秘めた隊員が、サンダースにはいる。

 今観客席に座る人の中には、戦車道に詳しい人もいれば、逆に英たちのように戦車道に疎い人もいるかもしれない。そんな人たちも戦車の戦いというものを長く楽しんでもらうために、制限時間の無い殲滅戦にしたのだ。とはいえ、制限時間が無いからと50輌フルで出場させると試合が長くなりすぎて逆にダレてしまう可能性があったし、ここはあくまで学園艦の上で演習場もそこまで広くはない。だから、1チームの車輌数が15輌となった。

 やがて、模擬戦の開始時刻になると、観客席は再び満席となり、これから始まる試合に向けての期待を再び高めていく。

 モニターの前に、この日のために呼んだ戦車道連盟の審判と、AチームとBチームの戦車の車長が整列して挨拶をし、両チームの隊長であるアリサとナオミが挨拶をする。戦車道は『礼』に始まって『礼』に終わるということを知らない人にも教えるために、そして模擬戦だからと手を抜くことを良しとはせずに、ここまで徹底した挨拶をしているのだ。

 観客たちが拍手を送ってお互いの健闘を祈る中で、試合の挨拶は終わった。

 

 

 挨拶を終えると、両チームは試合開始地点へと移動する。

 その道中、戦車に乗ってキューポラから身を乗り出しているAチームの隊長・アリサは前を見ていることしかできなかった。

 今回の総合演習で模擬戦を行うことは事前に聞かされていたし、去年も参加したから分かっていたのだが、まさか自分がその模擬戦で隊長を務めることになるとは思っていなかった。

 ケイは、次の世代を率いるための予行演習だと言っていたが、アリサからすればどんな場であっても隊長として隊を率いるのが緊張することに変わりはない。

 アリサは元々、戦車隊のナンバー3の副隊長としてサンダース戦車隊の作戦を考案する、いわば参謀のような役割を担っていた。また、隊長であるケイが試合中は前線に出て戦うことを好んでいるため、自分は後方から作戦を指揮してフラッグ車を務めることが多い。

 だから、隊員たちに指揮を出すこと自体は慣れているから別にいい。自分が試合の鍵となるという経験もあるから、問題はない。

 だが、自分が隊を率いるとなれば話は別だ。隊長とはチーム全員の信頼を預かり、同時にチームを勝利へと導く責任を負っていると言ってもいい。副隊長の時もその責任を負っているという自覚はあったが、隊長ともなるとその重圧は副隊長よりも遥かに重くのしかかるものだと、今回隊長に任命された時から思っていた。

 今、試合を目前に控えて、改めてその重圧を再認識し、アリサは緊張感に押し潰されそうになっている。

 

「アリサ!リラックス!リラックスよ!」

 

 気づけば試合開始地点に到達し、全ての戦車がアイドリング状態で待機していた。アリサの乗るM4A1シャーマンの隣には、ケイの乗るM4シャーマンが停止しており、アリサの緊張を見抜いたかのようにケイがいつも見せてくれる明るい笑みを浮かべて声をかけてくれた。

 アリサは曖昧な笑みをケイに向けるが、それでも緊張感が抜けていないのは見え見えだその緊張のあまり身体が小刻みに震え、手がわなわなと開かれて、足が無意識に戦車の鉄製の床をカンカンカンカンと叩いている。

 

(どうしようどうしようどうしようどうしよう・・・・・・・・・・・・)

 

 ガタガタ震えるアリサの緊張感は最早最高潮に達し、できることなら逃げ出したいと切に願うまでになっていた。

 昨日は意を決してタカシを誘い、2人でサンダースフェスタを見て回ったのだが、今思えばそれも今日の試合に対する緊張から目を背けていたように感じる。こうなることなら、もっと心の準備をしておくべきだったと後悔した。

 ついには口から『あぁぁあぁぁあぁぁぁあぁぁぁ・・・』とうめき声まで小さく洩れ出してきた。床を叩く足のリズムもどんどん早くなってきている。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 その様子を、車内で待機していた装填手のメットはじっと見ていた。

 正直言って、アリサがここまで緊張しているのは見たことがない。今年の全国大会で大洗女子学園の戦車に追い詰められた時はヒステリックが極まっていたが、今はあれとは別のベクトルで狼狽えている。気丈に振る舞う姿が目立つアリサではあるが、こんなあがり症な面もあったとは。

 しかし同時に、メットは自分の車輌が隊長車であるということは分かっている。メット自身緊張しているし、隊長のアリサが緊張することも仕方がないことだと思っている。

 だがこの状態では円滑な指揮ができるかどうかさえ疑わしかったので、何かアリサの緊張が和らぐようなことをするべきだと思った。

 そこでメットは腕時計をチラッと見て試合開始時刻までの時間を計算し、さらに薄いブロンドヘアーの砲手であるメイ(本名)に目配せをして、1つ芝居を打つことにした。

 

「あーっ、いっけなーい!私、言伝頼まれてたの忘れてた~!」

「えぇ~?メット、それってマズいんじゃな~い?」

 

 一度、2人はアリサの様子を窺う。2人のわざとらしい、さながら通販番組のようなノリの会話にさえ反応する余裕がないくらい緊張しているらしく、まだ足で床をカンカン叩くのは止まっていない。

 そんなアリサに通用するかどうかは分からないが、芝居を続けることにした。

 

「それでメット、言伝って誰から頼まれたの?」

「えっとねぇ~、タカシっていう男の人から、副隊長に頼まれたんだけどねぇ~?」

 

 アリサの靴が床を叩く音が止まった。

 

「『今日の模擬戦は絶対見に行くから、頑張れ』だって~」

「ちょっとぉ~、エールはちゃんと伝えなくっちゃ駄目じゃない!同じ戦車に乗ってるのに~」

「だよねぇ。あっ、それとこうも言ってたなぁ。『もしもアリサが勝てたら、明日のサンダースフェスタで何か奢ってあげようかな』って」

「えーっ!メット、それってつまり~、デートのお誘いじゃない!そんな大切なこと忘れるなんて、あなたってヒドイわねぇ~」

「ホントにねー。私ってバカだなぁ~」

 

 HAHAHAHAHA、と笑い合う2人の傍らで、アリサの拳に力が入り強く握られる。

 

「あー、でも副隊長ものすっごい緊張してるし、これは勝てないかなぁ~?タカシさんの約束も、守れそうにないっぽいねぇ~?」

「じゃあ仕方ないし~、デートはお流れだねぇ。後でタカシさんにも、謝るっきゃないか~」

「そうだねぇ~」

 

 試合開始を告げる号砲が青空に上がり、ぽんっという心地良く軽い音が鳴り響いた。

 瞬間、アリサは先ほどまでの緊張など微塵も感じさせないほどにひったくるように素早く無線機を手に取って。

 

 

「全車、GO AHEAD!!!」

 

 

 すこぶる真剣そうなアリサの声が響き、アリサが乗るM4A1シャーマンを含めたAチームの全車輌がエンジン音を上げて前進を始めた。

 

「怯むな!ガンガン臆さず前に進みなさい!!何としてでも勝利をもぎ取るのよ!!!」

 

 真剣が過ぎて荒ぶるような声で指揮を下すアリサ。それを聞いて隊員たちも『何があった?』と疑問を抱く。先ほどアリサに声をかけたケイだって、小首を傾げる。

 

(人が変わったみたいね・・・・・・)

 

 とりあえずケイは、試合が始まったことで余計なことは考えないようにし、アリサのことは本番で緊張しないでいられるタイプなのかなと適当に結論付けた。

 ただ、アリサの闘志に火をつける起爆剤となったメットとメイは、『後が怖いな・・・』と内心では怯えていた。

 

 

 試合開始の号砲が聞こえると、ナオミたちのBチームも前進を始めた。

 

「さて、どうしたものか・・・」

 

 前進している最中で、ナオミは考える。

 まず大前提として、お互いに相手チームがどのような作戦をとるのかは知らない。例え同じ戦車隊内での演習と言っても、それはもちろん守られていた。

 今回はただフラッグ車を倒せば試合が終わるフラッグ戦とは違い、相手の戦車を全て倒さなければならない殲滅戦だ。この試合方式は、夏の終わりに大洗女子学園の増援として大学選抜チームと戦った時以来だが、それは一先ず置いておく。

 これがフラッグ戦であれば、ナオミは他の戦車にフラッグ車周りの護衛を片付けさせて、自分のファイアフライでフラッグ車を的確に撃破する。あるいは、最初からピンポイントでフラッグ車を狙ってもいい。フラッグ戦を一撃で終わらせる可能性を秘めている人物というのは、ナオミのことだ。

 だが、今回は殲滅戦だから誰かを倒せば試合が終わるというわけではない。

 となれば、まず最初に狙うべきは、戦いの基本に則り、敵チームの頭である隊長のアリサだという結論に至る。

 だが、向こうのチームには隊長のアリサとは別にケイもいる。つまり、アリサを倒してもまだケイが残ってしまう。

 アリサは用意周到な一面を持っているから、自分の戦車が先に倒される可能性も考慮して、バックアップにケイを据えている可能性も捨てきれなかった。

 かといってケイを先に狙うのも簡単ではない。彼女だって今日までサンダース戦車隊を率いてきたのだから、ただではやられはしないだろう。

 それに加えてさらに、アリサは副隊長になってからサンダース戦車隊の作戦を立案してきた身で、戦車の性能や乗員の能力も一通り把握している。ナオミの戦い方の傾向や癖だって、恐らくは分析されている。

 好きな男子相手に奥手になったり、詰めが甘かったりするところが目立つアリサだが、彼女も中々の切れ者だとナオミは評価していた。

 ともかく、無策に突っ込んでもやられるだけなので、ナオミが考えた作戦を全車輌に通達するよう、装填手兼通信手に伝えた。

 

 

 アリサの持つナオミのイメージは、『黙々と仕事をこなす仕事人』という感じだ。

 公式戦や練習試合での作戦会議では、ナオミは要所要所で意見をしたり作戦を確認することはあっても、大体作戦を立てるのはアリサの役目だった。それでもナオミは、アリサやケイが提案した多少の無茶を含むような役割であっても、ナオミはきっちりと愚痴なくこなす。そして全国屈指の砲手の腕を存分に振るって勝利を幾度となく齎してきた。あの大洗女子学園対大学選抜チームの試合では、フォローやサポートの任も請け負っていた。

 そしてナオミは、最前線に自ら進んで出て敵と戦うということはそこまではない。それは彼女の乗るファイアフライが長射程であるため、後方からの砲撃でも十分敵を狙えるからだ。もし前に出て倒れでもしたら、それこそ貴重な高火力長射程のファイアフライが無駄になってしまう。

 けれどもそれは、裏からこそこそ狙って戦うということとイコールにはならない。あくまで隊の後方に位置して狙うという意味であって、物陰や遮蔽物の影から狙うというわけではないのだ。

 よくナオミは、『狙った獲物は逃がさない』と豪語するが、実際ナオミのファイアフライの射程圏内に入ったら超高確率で撃破される。それぐらいナオミの命中率は高くて、あながちその言葉も大言壮語ではなかったりするのだ。

 そんなナオミの戦い方と、この戦うフィールドが学園艦の演習場というそれほど広いスペースではないことを考えれば、相手の行動がだんだんと読めてくる。

 

「全車輌、3列縦隊!“チャーリー”から“ジョージ”は左サイドに展開して、左翼を警戒!“キング”から“オーボエ”は右サイドに展開して右翼を警戒!」

『はい!』

「“エイブル”と“ベーカー”、“ハウ”から“ジグ”は中央。“ハウ”は“エイブル”の前に出て前方警戒、“アイテム”と“ジグ”は“ベーカー”の後ろについて後方警戒!」

『了解!』

 

 アリサが指示を出して隊形が変わる。今日の最初の公開演習で行った迅速な隊形変化を、すぐに模擬戦に取り組むのは少々リスキーかと思ったが、訓練の甲斐あってかスムーズにできている。やっててよかったとアリサは内心で安堵した。

 

(さて、どう出るか・・・・・・)

 

 キューポラから身を乗り出し、さらに地図を広げて、地形を確認して自分たちが今どの辺りを進行しているのかを確かめる。結果、今自分たちは演習場のほぼ中央を西に向かって進んでいることが分かった。

 その直後、通信が入った。

 

『“ハウ”チーム、前方に敵戦車発見!』

「距離と数は?」

『距離およそ500m、シャーマン5輌の小隊です!ファイアフライは確認できません』

 

 報告を聞いて、アリサは少し考える。相手チームは3分の1の数しか確認できず、それに加えて隊長車のファイアフライもいないということを考えると、偵察だろうか。いや、それにしては数が多すぎる気がする。

 チリチリと、いくつかの点がアリサの脳裏に浮かびあがり、それが線で結ばれそうになる。

 

『こちら“オーボエ”!2時方向、距離約400mに敵戦車隊発見!シャーマン4輌にファイアフライ1輌!こちらに砲塔指向中!』

(そっちが本命か・・・!)

 

 右サイドに展開していた車両の報告が耳に入り、アリサもナオミの狙いに気付く。隊を3つの小隊に分けて、いずれかの小隊に相手のチームを引きつけさせ、その隙に残った2つの小隊で挟み込む気だ。

 となれば、アリサたちのチームの前方にいる小隊と足を止めて交戦するのはマズい。そこで動きが鈍くなれば、ナオミたちのチームの別動隊が追いついてい後ろから撃たれる。どころかすでにファイアフライの有効射程圏内に入っているので、まず間違いなく逃げられずに撃破される。

 なんてことを考えていた矢先に、右方向から戦車が撃破された音と、続けて白旗が揚がる音が聞こえた。

 

『こちら“ナットレー”行動不能!すみません!』

「ファイアフライか・・・・・・」

 

 誰が狙ったのかはなんとなくわかった。だが、それに囚われていてはじり貧になる。指示を出すことにした。

 

「全車輌、進路このまま速度を上げて前進!前方敵小隊を突破して正面の林へ!」

『はい!』

 

 前方に展開する小隊には構わずに突破する。敵の狙いがこちらの足止めであれば、それに乗らなければ良いだけの話だ。その後は林の中の地形を生かしてナオミのチームを撒き、後はガンガン進んで倒していく。

 その指示を出した直後、前方の小隊が砲撃を始めた。先ほどは敵の小隊には構わないと告げたが、無視するというわけではない。その場にとどまって交戦するというわけでもなく、アリサたちは行進間射撃で迎え撃つ。停止射撃と比べると難しくて命中率は落ちるが、当たらなくても威嚇程度にはなる。

 なのでアリサは、躊躇いもなく前方の小隊に向けての発砲指示を出した。アリサのチームの戦車の砲が火を噴いて、ナオミのチームの小隊付近に着弾する。

 

 

 観客席のモニターには、試合の中心部であるアリサのチームと、ナオミのチームの2つの小隊が交戦する様子が映されている。

 最初にナオミのファイアフライが、アリサのチームの戦車を撃ち抜いてから、観客たちは歓声を上げて盛り上がっている。砲撃の音はそこまで大きくは聞こえないが、臨場感はモニターを通して伝わってくる。

 英や山河たちは昂ってきて『おお!』とか『すごい!』とか声が自然と洩れ出す。やはり男として、大きな鉄の塊が動いて戦うのを見ると血が騒ぐものだった。英の趣味はピアノでそこまで男らしいとは言えないが、それでもああいうものにロマンを感じるところはまだ男だった。

 

『Bチーム、シャーマン1輌行動不能』

 

 審判が告げて、モニターの中でも戦車が1輌炎上して白旗を揚げて擱座する。先のファイアフライの先制攻撃のお返しとばかりの攻撃に、観客たちが拍手を送った。

 だが、山河が気付く。

 

「ナオミのチームの戦車が足りないね」

 

 未だモニターには試合の中心部の映像が流れていて、アリサのチームの戦車14輌が林へ向けて進軍しているのが分かる。だが、山河の言う通り、ナオミのチームの戦車は右サイドから迫る5輌と現在交戦中の4輌の、合計9輌しか見つからない。

 

「本当だ。なら、まだどこかにいるっぽいな」

 

 するとモニターが、簡易的に演習場全体を表す画面に変わる。戦車の動きがマークや矢印で示されているが、そこで英と山河は気付いた。

 

「「あ」」

 

 2人の声が重なる。

 アリサのチームはナオミのチームの小隊との交戦を続け、さらにもう1輌撃破したところだった。だが、同時にアリサのチームの戦車も1輌撃破され、13対13の状態でアリサのチームは林の中へと進んでいく。そのアリサのチームを、ナオミのチームの2つの小隊が追っていく。

 そしてアリサたちのチームの前方には、残りのナオミのチームの戦車5輌が待ち構えていた。

 

 

 結局のところ、ナオミのチームの本当の狙いは、アリサのチームを林の中に誘い込んで3つの小隊で挟み込むことだったのだ。最初にアリサのチームの前方と右翼から姿を見せて、左翼からも敵が来ると思い込ませて林へと向かわせる。ナオミのファイアフライを陽動に使ったのも、隊長の自分が出てきた事で真の狙いは林の手前で足止めさせて仕留めることだと考えさせるためだった。

 だがアリサのチームも、林の中で残ったナオミのチームの小隊とぶつかる直前でナオミの真の狙いに気付き、アリサはチームを左右に展開させて被害を最小限に食い止めようとした。そこでナオミたちのチームが全車輌合流し、その後は林の中での激しい撃ち合いとなった。

 最後まで残ったのは、ケイとナオミの車輌。アリサはケイの前に撃破されてしまったが、その際に残っていた相手チームの戦車はファイアフライだけだったので、作戦はあって無いようなものだったしケイに任せるほかなかった。

 最終的には、ナオミの抜群の射撃の腕が光りケイの戦車を撃ち抜いて、アリサ率いるAチームの戦車が全滅し、ナオミ率いるBチームの勝利となった。

 

「結構面白かったな」

「そうだねぇ。ま、アリサの作戦はナオミにバレてたらしいけど」

 

 アリサのチームが、ナオミのチームの小隊を突破して林に入った時、待機していたナオミのチームの最後の小隊はアリサのチームの進路上にいた。それはまるで、アリサが最初からそこへ向かうであろうことをナオミが予想していたということだ。

 

「ナオミさんはアリサさんの先輩にあたるし、どんな作戦を立てるか読んでいたってこと?」

「そういうことになるな」

 

 クリスが疑問を呈して、英はそれに頷く。

 何にせよ、今回初めて戦車同士の試合を観たが本当に面白かった。戦車の知識はないがそれでも十分楽しめる内容だったし、最後の戦車同士の撃ち合いはまさに戦車の戦いを表しているかのようだったので、まさに見応えがあるものだった。

 閉会式の後で、英はケイにメールで『お疲れ様』と送っておいた。本当なら直接会って感想を伝えたかったのだが、総合演習を終えたことで色々と立て込んでいるだろうし、昼休みに一度会ってそこでも『お疲れさん』と言ってしまったので興醒めするかもしれなかったから、止めておく。

 そして総合演習が終わったことで、英の中で脇に置いておいた心配事が再び頭をもたげ始める。

 

「・・・・・・明日が本番か・・・」

 

 そう、英が山河たちクイズ研究部の開催する『サンダースQA(クイズアタック)』でピアノを弾く当日だった。アイザック部長曰く、本当にあのホールに700人以上集まるらしいし、そんな人数の前でピアノを弾くことを考えると、今から胃が痛くなってくる。

 

「あ、そうだ英」

「何・・・?」

 

 胃がキリキリと痛んできたように感じて腹のあたりを英が押さえるが、そんな英に対して山河は申し訳なさそうな、それでいて楽しそうな笑みを浮かべていた。

 

「アイザック部長が明日司会を務めるんだけどさ、ああ見えてあの人結構無茶振りを仕掛けてくるんだよね」

「え、無茶振り・・・?」

 

 果てしなく嫌な予感がしてきた。

 

「そ。だからさ、何か曲弾いてって言われるかもしれないし、何曲か普通の楽譜を持っていた方が良いと思うよ」

 

 その予感は悲しいことに的中してしまった。

 英としては勘弁願いたいものである。ただクイズのためにステージの上でピアノを弾くことさえ緊張するのに、おまけに無茶振りを仕掛けられてピアノを弾けと言われると余計ハードルが高くなる。

 やめてくれよと言いたかったが、そうなるかもしれないと警告してくれただけでもありがたいし、それならば対策は打てる。弾き慣れている得意な曲を事前に用意して、それを弾けばいいだけの話だ。

 それと、自分がそのクイズ研の依頼を受けた理由が、自分の立場を少しでも上げるためだということを思い出し、1曲を弾くのはむしろチャンスと捉えるべきではないかと思った。ただクイズの問題のために曲の一部を弾くだけでは、名を上げるのも難しいと思うからである。

 とはいえ、それでも緊張して胃が痛むことに変わりはないので、帰り際に薬局で胃薬を買っていくことにした。

 

 

 

 試合終了後の撤収作業中、アリサは肩を落としてひどく落胆していた。

 周りはそのアリサが落ち込んでいるのを、初めて隊長とを詰めた模擬戦で負けてしまったからだと思い、

 

「ドンマイよ、アリサ。何事も失敗はつきものだし、みっちり練習して次は勝てるようにしましょ?」

 

 ケイは肩を叩いて励ました。

 

「もう少し、作戦に捻りを入れた方が良いな。そうすれば、勝利することもできる」

 

 ナオミは少々厳しめではあれど改善点を伝えて、そして頭をポンポンと優しく叩いた。

 その2人の言葉をアリサはもちろんちゃんと聞き入れたが、何よりもアリサが気にしていることはタカシとの約束だ。模擬戦の直前でメットとメイの話を聞いたアリサは、あの模擬戦で勝利すればタカシと明日もサンダースフェスタを回ることができると信じ、緊張する自分を奮い立たせた。だが結果は負けてしまい、そのタカシとの約束もパァとなって小さくないショックを受けているのだ。

 さて、その話題を出したメットとメイは『やばいなぁ』と冷や汗を垂らしてアリサの様子を後ろから窺っている。

 あの時の小芝居はアリサを勇気づけるためのものであって、タカシからの言伝も、約束も全ては出まかせだった。しかしあの落ち込みようから見て、アリサは本気で2人の芝居を信じ込んでいたことが分かる。だから今、落胆しているアリサに『全部嘘でした』と白状するのも憚られるし、白状するとどうなるかは分かったものではない。

 

(どうすんのよ・・・もう引き返せないところまで来ちゃってるわよ・・・?)

(いやぁ・・・あの時は良いアイディアだと思ったんだけどね・・・)

 

 もしも模擬戦に勝っていれば、『全部嘘でした』と白状してもアリサは不貞腐れる程度で済んだだろうが、あそこまで落ち込んでいるのを見ると可哀想なことをしてしまったと2人は後悔している。

 と、そこで。

 

「アリサー!」

 

 ケイがアリサのことを呼んだ。アリサは力なく顔を上げてケイの方を見るが、ケイとナオミの傍に1人の男子が立っているのに気付く。その男子とは。

 

「あれ、タカシさん?」

「What?」

 

 メットとメイもケイの声を聞いて、アリサと同じ方向を見ると、そこには確かに件のタカシがいた。

 直後アリサは駆け出して、タカシの下へと向かう。そしてタカシとアリサはほんのわずかな間だけ言葉を交わすが、途端にアリサが首をブンブン縦に勢いよく振り出した。

 メットとメイは『一体何が起きているんだ』と分からなかったが、遂にアリサとタカシは並んでその場を去っていってしまった。

 訳も分からず、2人はケイとナオミに事情を訊いてみることにする。

 

「副隊長とタカシさん、何を話してたんですか?」

「えっとね。タカシが『よく頑張ったな。美味い飯でも食べて元気出そうぜ?俺が奢るから』って言って、それでそのまま2人でディナーに行っちゃった」

「タカシは他意なくアリサを慰めるために誘ったんだろうが、アリサからすれば完全にデートだな」

 

 ケイとナオミからそう言われて、メットとメイは頭の中では『オーマイガー・・・』と頭を抱え、口から『ひえええええ・・・』と驚きのような安堵のようなため息を吐く。まさか、その場しのぎで吐いた嘘が奇跡的な偶然によってほぼ現実のことになってしまうとは。『噓から出た実』とはよく言ったことだ。

 だが2人は、もう2度と中途半端な嘘はつくまいと、心に誓った。




アリサからタカシへの気持ちは恋慕
タカシからアリサへの気持ちは友情(?)な感じ。タカシ気付いてやってよ

今回はサンダースのナオミとアリサの強さを多少なりとも表現して、伝わればいいなと思って書きました。
このシリーズも後2~3話ほどで終わりとなりますので、今後ともよろしくお願いいたします。


今回はバレンタイン企画もあって投稿が大変遅くなってしまいました、申し訳ございません。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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知らなかったけれど

 カーテンを開けば晴れ渡った空が広がり、太陽の光が部屋の中を照らす。ニュースを点ければ天気予報で『気温も温かく絶好の行楽日和』と言っていた。試しに窓を開けてみれば、確かに季節も秋半ばにしては温かい。まさに、サンダースフェスタ最終日に相応しい天気と言えるだろう。

 だがそんな天気と裏腹に、朝から英の気分は低い。澄み渡った空の下、英は下を向きながら通学路を歩く。肩には、いつも楽譜を入れているトートバッグを提げていた。

 下を向くほど気分が沈んでいるその理由は至ってシンプル、今日自分が参加する『サンダースQA(クイズアタック)』に対する緊張感が当日になってより高まっているからだ。正確に言えば、解答者として参加するわけではなく、特別コーナーを担当する。だがどっちにしたって緊張することに変わりはない。

 昨日の総合演習を観終えて翌日が自分にとっての最大の山場だということを再認識して以来、その緊張感は薄まることを知らず時間が経つ毎に濃くなってきている。英の心に根付いて意識しないということができない。

 

「はぁ・・・・・・」

 

 快晴の空に似つかわしくないため息を吐く英。だが、こうでもしないとやっていられない。雪だるまのように大きくなっていく緊張感に押し潰されそうだから。

 そんな気持でも、英は普段通学する日と同じぐらいの時間帯に部屋を出ていた。昨日一昨日と、普段学校に行く時間とは少し異なる時間に部屋を出ていたが、今日はピアノの練習をするためにいつも通りの時間に出ている。

 英が『サンダースQA』の特別コーナーでピアノを弾くことはもはや確定事項だが、それはプログラムの中で一番最後のコーナーである。

 『サンダースQA』が始まる時刻は昨日の総合演習と同じ10時で、予め大体のタイムテーブルも存在する。英もそれは持っていたが、部長のアイザックは『場合によっては時間が前後するかもしれない』と言っていた。

 そのタイムテーブルを見ても、時間が前後することを考えても、英がピアノを弾くその特別コーナーまでは大分時間がある。

 

『時間まで、いつもの場所でピアノを練習してるといいよ。出番が近づいたら連絡するから』

 

 山河がそう提案してくれたのを英は思い出す。

 山河も、英がこういった場でピアノを弾くこと自体が初めてなのは知っているから、緊張しているだろうと思ってそう言ったのだろう。その提案は英としてもありがたかったし、本番に向けてピアノの練習をしておきたい。それと、ピアノを弾いていた方が気持ちも多少落ち着くので、そうさせてもらうことにした。

 大勢の人の前でピアノを弾くことに緊張しているのに、その緊張をほぐす方法もまたピアノとは、つくづく自分はピアノが好きなんだなと英は自分で失笑する。

 通学路には、開場前の準備のために学校へと向かう生徒が英の他にも多くいて、サンダースフェスタのために作られたアーチが架かる校門をいつものようにくぐっていく。英も校門を過ぎて、昇降口へと向かう。

 途中の掲示板に『サンダースQAダービー』と書かれたチラシが貼られていた。

 内容は、出場者の中で誰が優勝するのか、どれだけポイントを獲得するかを予想するというもの。見事ドンピシャだったら図書券が当たり、ニアピン賞も用意されているらしい。これもクイズ研究部の企画で、こうして企画を広げてこつこつ注目度を集めていき、目玉イベントに至るまでになったのだろう。

 だが、クイズ出演者は『サンダースQA』開始まではシークレット扱いになっていて、正式にはクイズ研究部の部員ではない英自身も、誰が出演するのかは聞いていない。

 このダービー企画が始まるのは『サンダースQA』開始から1時間後の11時からなのだが、英はそれよりもピアノに集中したかったのでこの企画はパスすることにした。

 そして今は、ピアノを練習して気持ちを落ち着かせたかったので、1分たりとも無駄にしたくはなかったので、急いで『ハイランダー』棟の職員室へと向かった。

 

 

 もし鍵を貸してくれなかったら、という一抹の不安が英の頭によぎったが、事情を話すと『ハイランダー』棟の職員室に待機していた教師(幸いにもいつもの人だった)は、第5音楽室の鍵を貸してくれた。

 サンダースフェスタで、どの教室でどんな企画が行われるのか決まった日から分かっていたが、調理室や技術室、化学室等、そこでしかできない企画あるいは作業がある教室を除いた特別な教室は、サンダースフェスタ当日でも開放されない。開放されていないから、ピアノを練習するというちゃんとした理由がある英に、教師も音楽室の鍵を貸してくれたのだ。

 教師にお礼を告げて、英は長い間使っていて大分愛着が湧いていた第5音楽室に到着し、一息つく。だが、それもほどほどにして、まずはウォーミングアップに『トルコ行進曲』を弾く。軽快なリズムと高めの音、そしてどこか優雅な雰囲気のするこの曲は、弾いているだけで心が落ち着くかのようだ。

 まずはウォーミングアップをして、その後で本番用の曲を練習することに決める。クイズ研の部員たちへのお披露目は既に終え、太鼓判をいただいているので問題はない。それでも用心に越したことはないから、ここでの練習を進んでやる。

 

(よし、上出来)

 

 『トルコ行進曲』を弾き終えて、緊張がある程度抜けて、自分が本調子に近づいてきたのを実感し、いよいよ本番で弾くピアノの曲を練習し始める。

 一部の曲を除き、弾く部分はBメロとサビだけだと言われているので、早い段階で覚えることができ、また簡単でもあった。しかし、アイザック部長からは『曲を答えた人が正解したら、サビをもう一度弾いてね』と言われているので、サビは重点的に練習する。

 今回本番で弾く曲のジャンルは、最近話題になっている曲、昔のヒット曲、海外の有名な曲、アニソン、演歌、果ては軍歌と幅が広い。だが、それでも英は愚痴ることなく全ての曲をどうにかものにしてきた。それに、こうして練習する中でまた英が個人的に気に入った曲を見つけることができたので、一概に悪いことばかりではない。

 不思議と、ピアノを弾いている時だけは緊張や不安を抱かずに、集中することができる。だから、練習は順調に進めていくことができた。

 しかし、練習する曲はこれだけではない。昨日山河から聞いた通り、アイザックが無茶振りを仕掛けてきた時に備えて最初から最後まで通しで弾く曲も用意していた。数曲だけでいいと言っていたので、英が本番用とは別に持ってきたのは2曲だけである。1曲は今年話題になった映画の主題歌、もう1曲はケイが気に入っているあのラブソングだ。

 この2曲を選んだのは、念のために明るい曲と落ち着いた曲の両方を用意しておいた方が良いかなと、思ったからである。映画の主題歌は爽やかな雰囲気がして英が好きだったからで、そのラブソングを選んだのは英自身も何度か弾いているうちに気に入っていたからだ。

 これら2つの曲も、前者はともかく後者は覚えたのが最近なので、練習はやっておくべきだと思った。

 そしてさらに、英はもう1曲だけ楽譜を持ってきていた。だが、これはまだマスターしておらず、ステージの上で弾くつもりもない英が個人的に練習している曲である。

 それは、英が気に入っていると言った曲であり、英もケイも楽譜を見ただけで唸るぐらい難しいのが分かった、複雑なリズムと技術を要する曲だ。

 最初は片手ずつ弾かなければならないほど難しかったが、サンダースフェスタに向けた練習の間も休憩がてらコツコツ練習を重ねて、もうすぐ完成するという段階にまで至っているのだ。

 

「『自分の気持ちは言葉にしなくちゃ、それを感じる意味はない』『自分の気持ちに背を向けるな。後悔したくないのなら』・・・・・・か」

 

 その曲の中にあるフレーズを、英はポツリと呟く。

 この曲を初めて聴いた時は、英はそのフレーズを聞いても『そりゃそうだよな』としか思っていなかった。自分が何かの気持ちを抱いたのであれば、それは言葉にしないと伝わらないし、その気持ちを抱く意味も無くなる。それに、自分の気持ちに正直に向き合わず目を背けていても、後ろめたさを感じ続け、行き着く先は後悔だけだ。

 だが、英は今ケイに対して明確な好意を、恋心を抱いている。だからこのフレーズの意味も、今では痛感するほど強くその通りだと感じていた。

 英は、いずれ自分のこの気持ちは全てケイに包み隠さず話すつもりでいる。そう思っている中でこの曲を弾き、そのフレーズを思い出して、英は自分の背中を押されたような気分になって、思わず呟いたのだ。

 そのケイは、今は『用事』でここにはいない。だが恐らくは、前にケイが言っていた『好きな人』と共にサンダースフェスタを回っているのだろう。もちろんそうとは限らないが、英はその可能性しか今は考えられなかった。

 そうしてケイが『好きな人』と一緒に回っている様子を思い浮かべると、英の胸が貫かれるかのように痛み、苦しくなる。それが不安によるものと、恋するもの特有の嫉妬によるものだというのは容易く分かったが、そんな気持ちを感じずにはいられなかった。

 ケイが『好きな人』という人が誰なのか、どんな人なのか英は分からない。自分なんかと比べることさえもバカバカしいと思えるぐらいすごい人なのかもしれない。

 それが英が、ケイに『好きな人がいる』と聞いて以来ずっと抱いている不安であった。

 

(・・・・・・絶対、成功させるしかない)

 

 しかし先ほど考えていたように、英はケイに告白するつもりでいる。その前にまずは、今の中途半端な自分の立ち位置を変えるために『サンダースQA』で成功を修めることが先決だ。それでケイの『好きな人』に敵うかどうかは分からないし、無理なのかもしれない。

 しかし、もう後戻りができないところまで英は来ている。だからどのみち、英はピアノを弾くしかない。

 お気に入りの曲を弾き終えて、英はもう一度本番で弾く曲を練習する。

 何度練習しても、『もう大丈夫』と慢心したりなどせず練習を続ける。

 今だけは、この音楽室だけが外とは完全に隔離されているようだった。

 

 

 練習する時間が一分一秒も惜しかったので、昼食は登校する途中で立ち寄ったコンビニのおにぎりで済ませた。昼食を挟み、小休憩をしてからすぐに練習を再開する。

 だが、楽しい時間が早く過ぎ去ってしまうのと同様に、できる限り先にしたい緊張する場までの時間と言うものもまた早く経ってしまう。

 英の下に山河から『そろそろホールに来て』と言う連絡が入ったのは、昼食を終えてからおよそ1時間ほど経った後、午後1時半過ぎぐらいだった。タイムテーブルと照らし合わせると、若干遅れ気味ではあるが数分程度だ。山河にはあらかじめ『ハイランダー』棟で練習していることは伝えてあるから、時間を逆算して連絡したのだろう。

 英はその連絡を受けると楽譜を全てトートバッグに仕舞い、中身を再度確認してから速やかに後片付けをして音楽室を施錠し、ホールに向かう。鍵は本番を終えた後で返せばいい。

 

 『ハイランダー』棟を抜けて東側第2ホールへと向かう英。そこそこ距離が離れているので、他の通行人にぶつからない程度には早歩きでそこへと向かう。

 途中の掲示板でチラッと見た『サンダースQAダービー』のチラシには『受付終了』というシールが貼られていた。流石に、もうすぐ最後のコーナーとなればポイントはともかく優勝する人の予想はしやすくなるからだろう。

 恐らくは、校内に特別に設置されたモニターで『サンダースQA』の様子が中継されているはずだ。だが、それを見ている余裕はないので、英は脇目も振らずに目的の場所へと向かう。行く途中でモニターを見かけることも無かったのだが。

 だが、ホールに近づくにつれて、英の中の緊張感が大きくなっていく。先ほどピアノを弾いていた時は感じていなかった緊張や不安が心を支配しはじめる。

 どれだけピアノを万全な状態にしても、音楽と言うものは演奏する人の心が映るかのように精神状態に左右される。

 よく聞くプロの演奏家の話だと、『本番よりも本番の前が緊張する』らしい。英はプロの演奏家ではないが、確かにケイのホームパーティで弾いた際も、実際に弾く時よりも弾く前までが緊張していた記憶がある。それと同じと考えればまだ気が楽だ。英は、少しでも自分の気持ちを上向きにさせながら、英は目的地へと向かう。

 

 やがて遂に、第2ホールへと到着し、事前に言われた通り通用門から入ってコンクリートの壁に囲まれた通路を通る。

 

「おっ、来たね」

 

 そして途中で山河と合流して、舞台袖に足を踏み入れる。そこには他のクイズ研究部の部員がいるが、解答者席は見えない。解答者席がステージの奥側にあるからで、英の位置から見えるのはステージの上に立つ司会のアイザックと、観客席だけだ。英の位置からでも、席には多くの観客が座っているのが見える。アイザックの言ったように、去年同様本当に700人ほどいるのかもしれない。

 及び腰になる英の横で山河が襟に着けた小型マイクに『準備できました』と伝えると、ステージの上のアイザックがこちらを見た。英は念のため、制服の襟を正し、問題がないことを山河と他のクイズ研部員に確認してもらう。

 

「さぁ、いよいよ長かった『サンダースQA』も残すところ、後1コーナーとなりました!最後は毎年変わる特別コーナー!今年のテーマは、『ピアノアレンジクイズ』!」

 

 英の記憶の中にある、何度か話をした時の穏やかな雰囲気のあるアイザックとは全然違う、溌剌とした明るい声で会場を盛り上げるかのように司会進行をする今のアイザック。風貌は割とイケメンで、サンダースフェスタの目玉イベントを開催するクイズ研の部長として高いヒエラルキーに位置し、知的な上にこうして場を盛り上げられるトーク力も併せ持ち、しかも嫉妬心さえ抱けないほどいい人なアイザックが、ズルい人だと英は思う。ズルい、というのは一種の皮肉だ。

 さて、アイザックが特別コーナーの内容を事前告知も無く(一部の関係者は知っているが)今この場で初めて明かしたことで、観客たちはにわかにざわつき始める。

 

「ルールは簡単、有名な曲のピアノアレンジ曲を聴いて、その曲名を答えるクイズです!そして今回このクイズを行うにあたり、ピアニストの方にこちらで生演奏をしていただくことになっております!」

 

 アイザックが高らかに宣言し、観客たちは拍手を送る。英はその拍手を聞いて胃が痛みだし、思わず『うっ』と呻いてお腹を押さえる。そんな英などそっちのけで、クイズ研部員は舞台袖に移動させていたグランドピアノを4人がかりでステージの上まで移動させる。

 

「では、そのピアニストの方に登場していただきましょう!サンダース3年の英影輔くん、どうぞ!」

 

 ついにアイザックから名前を呼ばれ、ステージの上に立つ時が来てしまった。山河に『頑張れ』と言われながら背中を押され、足を踏み出す英。握られた手には汗が滲んでいるのが分かり、心は緊張感で押し潰されそうだった。しかし、儘よと一歩、また一歩と踏み出して遂にステージの上に出る。

 そして観客たちの前に姿を見せた瞬間、雨のような拍手が英に向けて送られる。これだけの人数の前に出ることが英は人生でも初めて経験することだったから、緊張感がさらに濃くなってくる。

 英は、その拍手から少しでも気を逸らそうとして、そして解答者の人にも会釈程度でもいいから挨拶をしておこうとして、解答者席を見て。

 

(あ!!?)

 

 絶句した。しかし、顔は微笑を携えて、変わったことは何も考えていないように見せかけていた。

 英が絶句した理由は、解答者の1人が自分にとっては無視することのできない人物だったからだ。

 解答者は全部で6人だが、英の知っている人物はその内の4人。さらにその中の3人は、サンダースの校長と、イケメンと名高い数学教師(29歳)、温厚な性格の歴史担当のおばちゃん(確か50前後)。

 そして、最後の1人は、ウェーブがかった金髪で、サンダースの制服を着ていて、袖を捲っているその女子は、他ならないケイだった。

 

 

 遡ること数分前。7つあるコーナーの内の6つを終えて、残すは年ごとに変わる特別コーナーだけとなった。

 これまで、1分間で12の問題に答えるコーナー、脳のひらめきが重要な謎ときコーナー、一般的な早押し一般常識クイズコーナーなどを行った。

 今回の『サンダースQA』で出題される問題は、ほぼ全てがこのイベントを企画したクイズ研究部が独自製作したものだという。コーナー自体はテレビのクイズ番組などから着想を得ているが、問題のほぼ全てを作ったとなればそれだけでも十分すごいと思う。

 加えて、今ケイたちが座る解答者席も技術研究部の協力で結構凝った作りになっており、これもまた話題を呼んでいる。

 

「さて、これまで7つのコーナーを終えましたが、現在得点トップは、サンダース戦車隊OGのメグミさん!」

 

 今は、最後のコーナー前ということで個人得点の最終確認と、ちょっとしたインタビューという時間になっている。

 司会でありクイズ研の部長でもあるアイザックがマイクを向けた人物は、かつてサンダース戦車隊に所属していたOGのメグミという女性。現在は大学選抜チームという戦車道のチームに所属し、そこで副官を務めている。

 そして、夏の終わりの大洗女子学園対大学選抜チームの試合で、ケイが大洗側に参戦した時に戦った選手でもある。

 

「後輩と、自分がかつて教えを乞うていた教師への逆襲と言わんばかりに点数を重ねているメグミさん容赦がない!」

「戦車道で高校生に負けちゃったし、ここで負けたくはないわね」

「おっと、これは過去の因縁を相当根に持っている様子!闘志むき出しだ!」

 

 アイザックの言う通り、現在獲得点数トップはメグミである。そのメグミが、ケイの方、より具体的に言えばケイの隣に座る人物へと視線を向ける。すると、その視線を受けた人物は、肩を震わせて縮こまる。

 メグミのコメントを聞いて観客席が『おお~』と盛り上がり、そしてアイザックの軽快なトークに笑いが起こる。アイザックとメグミは初対面でおまけに年齢も違うが、こういった楽しい場で司会に求められるのは、軽快なトーク術と、円滑に事を運べる行動力であり、世間の渡り方はこの場でだけは必要ない。それに、いちいち年功序列などを指摘するのも野暮なだけだ。

 

「そしてそんなメグミ選手に続き2番目にポイントが高いのは、昨日の総合演習で華麗な隊形変化と豪快な砲撃を見せてくれた、サンダース戦車隊の現隊長・ケイさん!」

 

 アイザックに名前を呼ばれて、ケイも軽くお辞儀をしてから手を振る。どうやら、昨日の総合演習を観ていた人がこの場にもいるようで、歓声の大きさが少し上がったように感じる。

 

「さてケイさん。メグミさんには一歩及ばない状況が続いていますが、残る最後のコーナーで挽回できるでしょうか?」

「もちろん、やってみせるわ!バミューダアタックのお礼はきっちり返してやるんだから!」

「こちらもメグミさんとは因縁がある模様ですね。ツートップはもはや修羅場と言っても過言ではない!」

 

 バミューダアタックとは、大学選抜チームの中でメグミを含む副官3人の戦車が連携して行う攻撃のことである。件の夏の終わりの戦いで、ケイ、ナオミ、アリサの3人の乗る戦車はそのバミューダアタックによって全車輌やられてしまった。ケイはその時のことを言っているのだ。

 ケイの挑発的な発言にメグミは不敵に笑い、『やれるものならやってみろ』とその顔は雄弁に語っている。両者の間で見えない火花が散っているようにさえ感じた。

 

「そして意外や意外、サンダースOGと現サンダース戦車隊長が小競り合いをするその後に続くは、ゲスト参加の大洗女子学園の西住みほさん!」

「ど、どうも・・・」

 

 そのゲストである西住みほは、ケイが招いたのだ。みほの所属する大洗女子学園の本拠地である大洗町で映画研究部の撮影をさせてもらったことへのお礼と、ケイの友達だからという理由でここに呼んだのである。

 ちなみに、こちらに出張屋台を開くために出向いているアンツィオの統帥アンチョビもケイはこのイベントに誘った。しかし、アンチョビたちはP40の修理資金を募るためにサンダースで出張屋台を開かせてもらっているので、他の企画にお邪魔するのもなんか違う気がする、と言って辞退した。ケイも、アンチョビたちの意思を尊重して、無理強いはしなかった。

 

「おどおどした感じが目立ちますが、『稀代の隊長』と評される大洗女子学園の戦車隊長!今回の『サンダースQA』でも多くの難問をクリアしてきた強かな人でもあります。2位のケイさんとは僅差、逆転も夢ではないですよ!」

「が、頑張ります!」

 

 みほが可愛らしく拳をぎゅっと握って意気込み、観客たちは拍手を送ったり『頑張れー!』と激励の言葉を送る。

 アイザックの強かという評価は、まったくその通りだとケイは思う。ケイの率いるサンダース戦車隊も一度みほたち大洗と戦ったが、結果は負けてしまった。その時の試合はハラハラして楽しかったが、あの時のみほの作戦は正直ケイも舌を巻いたものだ。

 それに、大学選抜チームとの試合でもみほは逞しく戦う姿を見せて、そんなみほをケイは友達と思うと同時に、同じ戦車隊長であるライバルとも思っていた。

 ちなみに、招いたのはみほだけではなく、みほと同じ戦車の搭乗員も呼んでいる。他の人は、ステージの前列で観戦しているだろう。

 

「さて、教師陣もまだ十分逆転のチャンスはあります、次のクイズで挽回して優勝することはできるのでしょうか!」

 

 去年はケイは参加せずに観ているだけだったが、今年も去年と同じくこの『サンダースQA』で優勝した人には賞品が与えられる。賞品は年々変わっているらしいが、去年は旅行券だった。加えて、『サンダースQAダービー』なる企画も並行して行われているのもあり、だからこそこのイベントの注目度は高かった。

 そこでアイザックが舞台袖をチラッと見て、小さく頷いてから再びステージの方を向いて話し出す。

 

「さぁ、いよいよ長かった『サンダースQA』も残すところ、後1コーナーとなりました!最後は毎年変わる特別コーナー!今年のテーマは、『ピアノアレンジクイズ』!」

 

 ピアノ、と聞いてケイはまず真っ先に英のことを思い出す。

 確か英は、今日は山河の出し物で大勢の前でピアノを演奏すると言っていた。だが、ケイはまだ今日は山河の姿を見ていないので、恐らくは別の場所で行うのだろう。もしかしたら、『ハイランダー』棟ではなく他の棟の音楽室で行っているのかもしれない。

 そう言えば、山河が部活に入っているという話は聞いていないので、もしかすると何らかの音楽系の部活に山河が所属していて、英はそれの手助けという形なのか。

 ともかく、何であれ『ピアノアレンジクイズ』を担当するのは英ではないのだろうとケイは思っていた。

 

「ルールは簡単、有名な曲のピアノアレンジ曲を聴いて、その曲名を答えるクイズです!そして今回このクイズを行うにあたり、ピアニストの方にこちらで生演奏をしていただくことになっております!」

 

 3日目にその山河の手伝いがあると言っていたので、この会場に英は来ていないということだろう。それが少しだけ、ケイは寂しかった。

 『生演奏』というワードを聞いて、ケイは物足りなさを感じた。ケイにとって『ピアノ』で『生演奏』と言えば、もう英のことしか考えられなかった。それだけケイは英のピアノを気に入っていて、何よりそのピアノを弾く英のことが好きでもあったからだ。

 その英が大勢の前でピアノを演奏する姿を見届けられないのは、ケイも残念である。今は、英に聞こえるはずもないが『頑張って』と願うことしかできない。

 ところが。

 

「では登場していただきましょう!サンダース3年の英影輔君、どうぞ!」

 

 え。

 うっかりすれば、そんな空気の抜けたかのような声が口から飛び出しかねないほど、ケイは度肝を抜かれた。そして目を丸く見開き、思わず舞台袖を見る。だが、表情は極力変えなかったのと、幸いにも他の解答者も気になって同じように舞台袖の方を見ていたので違和感はない。

 だがケイは、アイザックの告げた忘れるはずのない人物の名前、自分の好きな人の名前を聞き逃しはしなかった。言い間違いとは思えなかった。

 そして、舞台袖からそのアイザックが呼び出した人物がステージの上に姿を見せて、瞬間観客席からは大きな拍手が送られた。

 その拍手を受けた、赤みがかった黒髪のケイと同じくらいの男子は、解答者席の方を微笑を携えながら見る。

 そしてケイの目が、そのピアニストと紹介された男子である英と合った。

 

(あ!!?)

 

 

 

 2人の視線がぶつかり合った時の英とケイの顔は、周りからすれば特に変化は見られないと思うほど普段と同じようなものだったが、2人の心は強く重く響く巨大な鐘の音を聞いたかのように衝撃を受けていた。

 英は、山河の『ケイさん今年は参加しないって』『今年は別の用事が入ってるらしくて』という言葉を思い出す。じゃあ、今自分と目が合ったあの人は一体誰だ。

 ケイは、英の後ろの方の舞台袖で、英に見えないように背中に向けてサムズアップをする山河の姿を見つける。そこで初めて、ケイも山河がクイズ研究部に所属しているのだということに気付いた。

 

 英は知らなかったが、ケイを含めたこの『サンダースQA』に参加する解答者の全員は、第三者に自分がこのイベントに参加することを知らせず内密にするように、アイザックたちクイズ研究部から言われていた。それは、観る人たちに期待をしてもらうためのサプライズも兼ねてのことだった。

 だからケイは、英には3日目にはただ『用事がある』としか言っていなかった。

 加えて、ケイを含めたこのイベントの解答者は事前にクイズ研と打ち合わせをする際に顔を合わせたのは、部長のアイザックと副部長のニッキーだけだったので、他の部員の顔も知らなかった。

 それと英は、山河の依頼を受けてクイズ研究部に協力する身であるとはいえ、正式にはクイズ研究部の部員ではない。だから、クイズ研究部内での情報は漏洩することを危惧してそこまで共有されず、『サンダースQA』に参加する解答者の情報も得られなかったのだ。

 

 ケイは知らなかったが、英はこの『サンダースQA』の特別コーナーでピアノを弾くということを他の誰にも言ってはならず内密にするように、アイザックたちクイズ研究部から言われていた。それは、観客と解答する人たちに対するサプライズの面が大きかったからだ。

 だから英は、ケイには『山河の手伝い』としか言わなかった。

 

 つまり、英もケイも、お互いがこのイベントに参加することは今この瞬間までは知らなかったのだ。しかもそれが、2人を嵌めるために仕組まれたことではなくて、本当に偶然に近いレベルだから、余計に衝撃は大きすぎた。

 

(どうすんだこれ・・・!)

 

 ともかく、ケイがこのイベントに参加しているのは予想外で驚きだし、何よりも英からすればそれはマズいことだ。

 

「さて、今回ピアノを弾いてくださる英君ですが、こうした人前でピアノを弾くのは初めてとのことです。ですが彼のピアノの腕は抜群と一部で話題になっており、私たちクイズ研究部が依頼したところ快く引き受けてくれました!」

 

 そんな英の心の中のショックなどつゆ知らず、アイザックは英が緊張していると思ってフォローを入れてきた。そのフォロー・・・もとい説明を聞いて、観客たちが興味ありげに『へぇ~』とか『ほぉ~』とか声を洩らす。

 アイザックの言ったことは、あながち間違ってもいないし、話を盛っているわけでもない。ケイのホームパーティでピアノを弾いた時は結構盛り上がって、あの時英のピアノを聴いた人とは今も少し交流がある。それに、ピアノを弾いてほしいと依頼してくるクラスメイトや友人からの評価も上々だから、一部で話題というのも嘘ではない、と思う。

 アイザックの紹介を受けて、英も今ここで初めてケイが参加しているのが分かったことによるショックを隠し、観客席に向けて一礼する。アイザックからマイクを渡されて、何らかの挨拶を求められる。

 挨拶となると、嫌でも観客席を見なければならなくなる。やはり百単位の人が席に座っているだけあって、これだけの人が自分に注目していると思うと圧倒される。どうしようもないほど緊張感が増大している。鼓動は早まり、手と背中に冷や汗が滲みだす。

 だが、このまま立っていてはそれだけ自分が注目を集め緊張する時間が続くので、英はとにかく挨拶をすることにした。

 

「・・・・・・皆さん、こんにちは。司会のアイザックさんからご紹介に与りました英です。よろしくお願いします」

 

 一応、こうして挨拶を促されることは予想できていたので、その言葉は考えておいた。ただし、今は意識しなければ舌が回らなくなるほど緊張しているので、噛まないことを最優先としている。

 頭を下げると拍手を浴び、少しばかりこそばゆい。

 

「今回、人生で初めて、こうした大舞台に立つこととなりまして、正直この話を受けた時から緊張してました」

 

 自分の緊張をほぐす目的で冗談をかますと、観客の一部から笑いが起こる。

 

「この『サンダースQA』のトリとなるコーナーを成功させられるように努めますので、よろしくお願いします」

 

 最後に自分の意気込みを告げると、観客席からもう一度拍手を受ける。英はお辞儀をしてからアイザックにマイクを返し、ピアノへと向かう。

 これだけ緊張している場面でつっかえずに挨拶を終えられたのは、英自身褒められたものだと思う。初めての大舞台のはずなのだが、やはり英も本番ではなくその前で緊張するタイプなのかもしれなかった。

 一方でアイザックは、マイクを受け取ると司会進行を再開する。この時、アイザックは英に『ナイスだ』と小声で褒めたが、すぐに溌剌とした声を発する。

 

「ありがとうございました、英君。ではこれより、『サンダースQA』最後のコーナーへと入ります!それでは、問題!」

 

 英がピアノ椅子に座り、アイザックが人差し指を立てると、ステージ後ろのスクリーンに、ポップアートで縁取られた問題文が表示される。

 

『問題:これから流れるのは、ある曲のサビの前とサビの部分をピアノでアレンジしたものです。その曲名を答えてください。サビの前で答えると20ポイント、サビの部分で答えると10ポイント獲得できます』

 

 ニッキー副部長が、ホール内の放送室で問題文を読み上げる。そしてアイザックが、問題を詳しく説明する。

 その間、英は『マズいな』と思っていた。先ほどもそう思っていたが、その理由は英がここでクイズの問題として弾く曲をいくつかケイに明かしてしまっているということだ。全部ではなく、英が自分で『これが良いと思う』と提案した6曲だけなのだが、もしもケイがその英の提案した曲全てを覚えていて答えて正解数を重ねたら、周りも多少なりとも不審に思うかもしれない。どころか、英とケイの間に交流があると知れれば、両者には悪影響も及ぶだろう。

 だが、ここで問題を変えることなど不可能だし、どの曲をどの順番で弾くのかも決められている。曲や順番を変えては進行に支障をきたしてしまう。

 

「最初のお題は、『‘90年代のヒット曲』。これは是非とも教師陣に答えてもらいたいところです!それでは英君、お願いします!」

 

 ついにアイザックに告げられて、否が応でも弾くしかなくなった。

 英は、トートバッグから楽譜を取り出してスタンドに広げ、鍵盤に指を置く。いつも第5音楽室で弾くピアノと同じ型のものだが、周りの状況が普段と正反対なので違うものに感じてしまう。

 会場内は完全防音となっており、ステージの上の人の肉声や楽器の音色は、普通の話声やひそひそ話程度の大きさでない限りは会場内全てに聞こえるようになっている。つまり英のこれから弾くピアノは、会場内にいる全員が聞くのだ。

 何度思ったのかは覚えていないが、もう英に逃げ道はない。曲の変更も許されない。こうなっては、ケイが英の教えた曲の名前を憶えていないことに賭けるしかなかった。

 最初に弾く『‘90年代のヒット曲』は、英が最初に見繕ってクイズ研からOKの出た曲であり、ケイに名前を教えてしまった曲である。

 大きく深呼吸をする。何百人という観客と、解答者の視線を見なくても感じるが、英はピアノの鍵盤と楽譜にだけ意識を集中させて、それ以外のものには目もくれないようにする。

 腹を決めて、鍵盤を叩き音色を奏で始める。いきなりBメロからなので分かりにくいかもしれないが、だからこそ獲得ポイント数が異なっているのだ。これも、クイズの難易度調整に一役買っている。

 今弾いているこの曲は、終始明るめの雰囲気で、諦めそうな、挫けそうな人の背中を押すような前向きのポジティブな歌詞もあってスポーツの応援歌として知られる曲である。その雰囲気が英は好きだったのと、知名度も高いと思ってこの曲を提案したのだ。アイザックも同意見で、この曲はすぐにOKが出た。

 アイザックも英も、いきなりBメロではあまり分かる人もいないだろうしサビの部分で解答者が増えるだろうなと、予想を立てていた。

 実際その通りになり、サビに入って少ししてから『ピーン』という電子音が鳴り響く。英も一度ピアノを弾くのを止めた。

 内心英は、誰が押したのかが一番不安だった。もしこの問題でケイが正解したら、この先さらにやりにくくなってしまう。ケイが正解すること自体は喜ばしいのだが、同時にそれを恐れていて申し訳ないと思う。

 

「おっと、最初に押したのはメグミさん!」

 

 だが、英の心配も杞憂に終わり、最初に解答ボタンを押したのはメグミで、メグミの座る赤い解答席のモニターが光る。

 

「ええと、『負けたくない』・・・だったかしら?」

 

 メグミも、自分の記憶があやふやだったからか、疑問形で答える。

 

「正解!メグミさん、さらにポイントが入ります!」

 

 正解を告げる電子音が鳴り、メグミの席のモニターが虹色に光る。メグミは『やったわ!』と喜び、観客たちも拍手を送る。後ろのモニターには、その曲の実際のアルバムとタイトルが、観客にも分かるように表示された。

 英は、ある程度拍手が収まったところで、アイザックに言われた通りサビの部分を最後まで弾く。ピアノを少しだけとはいえ弾いたことで緊張が抜けてきたのか、英がピアノを叩く指と奏でる音の滑らかさは、普段とさして変わらないほどに落ち着いていた。

 ついさっきまでは緊張感に押し潰されそうになっていたのに、ピアノを弾いていると平常心に戻っていく。それについて安心しながら英もサビを最後まで弾き終えた。

 すると、途端に観客席からまた拍手が送られ、英も少しびっくりする。それは果たして正解したメグミに対するものなのか、それとも英に向けてのものなのかは分からなかったが、『ヘタクソ』などとヤジを飛ばされるよりはマシだった。少しやりにくい、とは思うが。

 ともあれ、英は一先ずホッとする。まだ10問のうちの1問しか終わっていないのだが、もうなるようになれと諦めに似た気持ちになる。

 

「では、第2問。続いてのお題は『軍歌』です!戦車道履修生は度々軍歌や民謡に触れる機会が多いと話を聞きますが、果たして戦車隊の副官と隊長は正解できるのでしょうか。それとも長く人生を重ねる教師が有利か、緊張の第2問!」

 

 次の曲はアイザックも言った通りの軍歌。

 アイザックの話によれば、この曲はゲストの見せ場を作るために用意した曲だという。つまりこの曲は、緑色のゲスト解答者席に座るみほが活躍するための曲ということか。

 とにかく英は楽譜を広げて、弾き始める。しかしこの曲はAメロやBメロと言ったものの明確な概念がなく、強いて言えば前奏とサビしかない。だから、この曲だけは1番を全部弾くことが決まっていた。

 なのでまずは前奏を弾き、続けてサビに入る。そこで今度は『ポーン』と少し弾むような軽い電子音が鳴った。

 

「早い、西住みほさん!」

 

 解答ボタンを押したのはみほ。アイザックの本来の狙い通りである。

 そして今気づいたが、どうやら解答した際の電子音は席によって違うらしい。これもまた、実際のクイズ番組のような感じがする。

 

「えっと・・・『パンツァー・リート』ですか?」

「正解!やはり西住さん強かった!」

 

 みほが『お姉ちゃんと昔一緒に聴いたことがあったから』と理由を説明して、観客席からはさらに拍手が上がる。その拍手が終わってから、英はその『パンツァー・リート』の1番を最後まで弾く。すると、また英は拍手を受けた。一応自分に向けられたものなのかもしれないと思い、一応観客席に向けて会釈をした。

 それにしてもアイザックは、どこでみほがこの曲を知っているという情報を聞いたのだろう。ただ、博識なアイザックがどこで知識を吸収するのかは、所詮は勉強については平々凡々な英には想像できないので、深くは考えないでおいた。

 

 

 その後コーナーは順調に進んでいき、『パンツァー・リート』の後は最新のヒット曲、一世を風靡した曲や、長い間愛されるアニソン、今は有名なアーティストのデビュー曲などを弾いていく。前奏だけで分かる曲もあれば、サビの最後近くになるまで誰も答えられない曲もあった。ただ、どの曲も全員答えることはできていたので、曲のチョイスは間違っていなかったのだろう。

 そのクイズの過程で英はピアノを弾いていたが、英は一度たりともミスを犯すことはなかった。問題の出題中に弾いている時も、正解した後の答え合わせも兼ねてサビの部分を弾いている時も、音を外したり、リズムを乱したりすることはなかった。

 ここに来る前はミスをしたらどうしようと内心ビクビクだったが、それも無駄な心配に終わって安心だ。

 そして、英が答え合わせで曲のサビの部分を弾いた後は、いつも観客と解答者を問わず拍手を送ってくれた。最初こそは正解した人だけに向けてのものだと思っていたが、自分にも向けられたものかと思うと、すごく嬉しくなった。

 その拍手が、自分のピアノを聴いたことによるもので、自分の弾いたピアノの曲で他の誰かを楽しませることができたのが、とても嬉しいのだ。ケイのホームパーティで弾いた時も皆に喜んでもらえた時は嬉しくはあったが、今この場でその時以上の人を楽しませることができたと思うと、嬉しくないはずがなかった。

 これまで英は、誰にも縛られず、自分が楽しくピアノを弾ければそれでいいとだけ思っていた。だから、これまで部活には所属せず、誰かから教わったりもせず、過去の経験と独学だけでここまで来た。

 だが、この『サンダースQA』というイベントに参加して、ピアノを弾いたことで、その認識も改めることになった。

 自分がピアノを楽しく弾くことはもちろん大事だが、こうして自分が弾いたピアノで誰かを楽しませることができたことが、とても嬉しくて、そして大切なことなのだということに気付かされたのだ。

 ピアノを弾き終えて、観客から拍手を送られると、英は静かに笑みを浮かべて観客席に向けてお辞儀を返した。

 

 

 この演目までに英が緊張していた時間は結構長かったはずだが、実際にステージの上でピアノを弾いていたのは、30分ちょっとぐらいでしかない。こんな短い時間のためだけに自分がどれだけ緊張していたのかを考えるとどうも釈然としない。

 何はともあれ、特別コーナーの全10問が終了し、『本来の』英の役目は終わった。

 このコーナー内の解答数の内訳は、教師陣3人が1問ずつ、ケイとみほが2問ずつ、そしてメグミが3問だ。この時点で解答者それぞれの総合得点数が決まり、同時に優勝者も確定した。

 英は、山場を越えたことでひとまず安堵の息を吐きながら解答者席を見る。正確には、目線だけで見るのはケイだ。

 英がケイに事前に曲名を明かしてしまったのは6曲だが、ケイはそのどの曲も答えることはなく、答えたのはアイザック側が用意した曲だけだった。

 単純にケイが曲名を忘れたという線もある。だが冷静に考えてみれば、ケイはアンフェアなことを嫌う。だから、解答者の中で自分だけが曲名を知っていてそれをホイホイ答えて得点を重ねるやり方がフェアじゃないと思ったから、敢えて答えなかったと考える方が無難だ。

 最初にここでケイを見た時は驚きの余りケイの性格を忘れてしまっていたが、今思えばその心配もする必要はなかったのかもしれない。英は嘆息する。

 さて、肝心のイベントの方だが、最後のコーナーを終えたので後はこのまま最終結果発表をしてハイお終い、とはならないらしい。

 

「さて、これにて『サンダースQA』のクイズは全て終了となりました・・・・・・が!」

 

 何やら含みのある言い方をしながら、ピアノ椅子に座る英のことを見てくるアイザック。英は『仕掛ける気か』と身構える。

 

「最後のコーナーで素晴らしい演奏をしてくれた英君が折角来てくれているので、1曲弾いてもらおうかと思います!」

 

 英は『やっぱりか』と小さく息を吐くが、観客からは期待を示すかのように拍手が上がった。それが形だけのものではなくて、本当に期待しているのは、英から見える位置に座る観客たちの生き生きとした表情で分かる。

 それにしても、昨日山河の言った通り本当にアイザックは無茶振りを仕掛けてきた。だが、それを事前に知らされていた英はちゃんと楽譜も用意してきたし、気持ちの準備もある程度はできている。このことについては山河に感謝だ。本当に何も聞かされていなかったらどうなっていたかは分かったものではない。

 

「さて、急な申し出ではありますが、英君、弾いてもらえますでしょうか?」

 

 アイザックがマイクを向けて、笑みを浮かべる。もしも、本当に事前に何も知らされていなければ、ここで『無理です』と断っていたか、あるいは強がって引き受けて後で失敗していたかもしれない。

 だが、準備は整っていた。

 

「分かりました、弾きましょう」

 

 英は、自分のピアノで観客の皆を楽しませることができたと思いそれが嬉しく思ったので、頷いて答えた。すると観客たちはまた拍手を送ってくれた。しかしながら、楽しませることができたのが嬉しくても、こうも大勢の前で何曲も弾くのは流石に気後れするので、アイザックの言った通り1曲で済まそうと思っていた。

 英は、映画の主題歌の楽譜を広げ、これから弾く曲の名前をアイザックから聞かれて答えると、観客の一部から『おお~』と声が上がる。割と有名な映画だったので、この会場の中にもその映画を観て曲を聴いた人もいるらしい。

 改めて拍手が送られて、英は鍵盤に指を置き、一度気持ちを整える。自分は本番であまり緊張しないタイプなのかもしれないというのは、クイズの段階で考えていたことだ。しかし、ピアノを弾く前は大体一度気持ちを落ち着かせ、心を平坦な状態にしてから弾く。その方が曲に集中できるし、気分の変化でピアノの弾き方が変わってしまうということもない。たまに落ち着くことができずミスをしてしまうこともあるが、それは最近では無い。

 拍手が収まってきたところで、英はピアノを弾き始める。

 この映画の主題歌は、歌詞だけ見れば若干ラブソング寄りな感じがする。だが、この映画自体が恋愛映画というわけではないのと、曲自体爽やかでなおかつ疾走感があるので、ラブソングというよりも少年少女の青春時代を謳うかのようなイメージだ。

 『かつて同じ時を過ごしていた大切な人が逆らうことのできない運命によって遠くへ行ってしまい、自分はそれを追いかけていく』という全体像のこの曲。その『追いかける』というイメージに合わせるかのように全体のテンポが速く、時には若干曲が落ち込み気味になる。だが、それでもその後は再び明るい感じに戻るのだ。

 だから前奏から既にテンポが速く、この曲全体のイメージを前奏だけでも表現している。そして全体のテンポが速いからこそ、途中でテンポを落とすと目立ってしまう。このテンポの速さを保てるかどうかが、この曲を成功させるカギになる。

 Aメロを弾き、さらにBメロへとつなぐ。BメロはAメロに比べると少しだけ明るめだ。

 英はピアノを弾いている時は楽譜とピアノに意識を集中させているので、観客席や解答者席を見ることはできない。だが、今ピアノを聴いている人たちはどんな顔をしているのだろうと、頭の片隅で英は思う。無表情なのか、楽しそうなのか。気になるところではあるが、それでピアノを疎かにはせず弾いていく。

 サビに入り、曲は一番盛り上がる場面になり、映画のテレビCMでも何度か流れた部分になる。

 サビに限らず、曲全体のテンポが速いので、どうしても指の動きには早さが求められる。特に高い音を弾く右手側は、歌声を表現する音まで弾かなければならないので一時も指を休める時などない。楽譜を読む視線に遅れないように指を動かしていくが、その様子が一部の観客と解答者に見えていたのか、小さく感嘆の息を洩らしているのが英の耳にわずかに聞こえてきた。だが英は、そのことには全く気を取られずに集中してピアノを弾く。

 1番を弾き終えて、2番も続けて問題なく弾き終える。そして、少し長めの間奏に入った。一定のリズムを繰り返す間奏ではあるが、最初の半分は落ち着いた感じがして、残りの半分を超えると盛り上がってくる。

 するとそこで、英の耳に今度は無視できない音が入り込んできた。

 

(手拍子・・・?)

 

 それは最初、観客席の方から聞こえてきた。だが、誰かが始めたその手拍子は次第に観客席全体へと伝わっていき、遂には解答者席からも聞こえてきた。

 実際、原曲ではこの間奏の部分で手拍子にも似た軽めの音が組み込まれているので、手拍子自体は問題ない。

 それよりも英は、自分の演奏する曲に観客たちが手拍子という形で乗っかってくるということが驚きで、そして嬉しかった。英にも明確にわかるような形で反応を示していることが。

 間奏が半分を過ぎて、テンポは同じだがリズムが変わってくる。前半よりも明るめになり、最後のサビに向けて盛り上がっていく。この間奏が終わるまで、手拍子は止まなかった。

 そして、サビの直前で休符が入り、サビに入ると手拍子も止んだ。英のピアノに改めて集中しているということだろう。

 この部分で、『離れ離れになった大切な人同士の2人は無事に再会でき、かつてのように言葉を交わし合う』というシーンになった。そしてサビが終わっても、その爽やかなテンポを落とすことなく後奏に入り、晴れ晴れとした印象を残しながら曲は終わりを迎えた。

 英は、この曲をミス一つ犯すことなく弾き終えることができた。

 曲が終わった直後、奔流のように拍手の音が英の耳に入る。観客も、クイズに参加していた解答者たちも、誰もが英に拍手を送ってくれた。

 英はピアノ椅子から立ち上がって、そこで初めて意識をピアノから観客席へと向ける。照明はステージの上だけ点いていて、観客席側は点いていないので薄暗く見えるが、観客席の前側は英からも見ることができた。

 ほとんどの人が、英に向けて笑顔を浮かべて、拍手を送っていた。それだけで、英のピアノは受け入れてもらえたのだと、皆を楽しませることができたのだと、確信するには十分だった。

 英の心が、言葉にできないほどの幸せな気持ちで満たされていく。これまでの英のピアノを聴いた人からのどんな反応よりも、この拍手は心に響くものだった。

 

「・・・・・・ありがとうございました」

 

 拍手で聞こえはしないだろうが、英はそう言って頭を下げる。すると拍手はさらに大きくなってきた。

 

「アンコール!アンコール!」

 

 すると、観客の中からそんな声が聞こえてきた。以外にもその声は割と近くで聞こえてきたので、英が目を凝らして探してみると、腕を突き上げながらそう言っているのはサンダースの制服を着た男子。というか、よくよく見てみればその人はケイのホームパーティで英と話をしたオリバーだった。偶然観に来ていたのだろうか。

 だがそれよりも、アンコールがオリバーを中心に会場全体へと広がっていて、挙句観客席も乗っかってアンコールを要求してきた。ケイも普通に笑いながらアンコールと言っている。

 先ほどの1曲で観客を楽しませることができたのは嬉しかったし、これまで抱いたことのないほどの幸せな気持ちを感じられたことで自分も少しは変われたのかもしれないと思ったが、まさか2曲目のアンコールをされるとは思っていなかった。それも、アイザックではなく観客から。

 会場内が盛り上がる中で司会のアイザックが『さて!』とマイクに向けて告げてスピーカーからその声が聞こえてくると、一度アンコールも収まる。

 

「英君、会場の皆さんがアンコールをご所望ですが、弾いてもらえますでしょうか?」

 

 口では確認を取ってはいるが、その表情は『やってくれ』と懇願しているようにも見える。

 英も、ここで引き下がっては観客の期待を裏切ってしまうことになるだろうし、結果自分で自分の評価を下げてしまう。

 そして英は、もう1曲だけ楽譜は用意してあった。それは念のためであって、アンコールを想定していたわけではない。だから、後1曲だけ弾くことはできる。

 

「分かりました。それでは、あともう1曲だけ弾きます」

 

 マイクを向けられた英が答えると、観客たちは再び拍手と歓声を上げる。

 ここまで盛り上がると失敗なんて許されないなと思いながら、英は再びピアノ椅子に座って楽譜を取り替える。弾く曲は、ケイが気に入っているラブソングである。

 

 

 後になって英は、ここでこの曲を弾いたのは間違いだったかもしれないし、正しかったのかもしれないと思った。

 

 

 1曲目と同じように楽譜を開いて鍵盤に指を置くと、拍手と歓声が収まる。アイザックからマイクを向けられて、曲の名前を告げた。この曲を歌う人は知っていても、曲の名前を知っている人はそれ程いないようで、先ほどの曲よりも反応は僅かながらに薄い。

 そして、一呼吸おいてからゆっくりと前奏を弾き始める。静かな始まり方をするこの前奏は、曲全体が穏やかな雰囲気であることを示すかのように思える。

 前奏を終えて、少し低めの曲調のAメロに入ろうとする。

 だが、そこで。

 

 

「―――――――、―――――――――――」

 

 

 流れるような穏やかで美しい歌声が、聞こえてきた。

 それはピアノに集中しているはずの英の耳にも聞こえてきて、そしてその歌声は無視することができなかった。手は止められなかったが、思わず視線を楽譜から逸らして声が聞こえてきた方向へと変える。

 その視線の先にいたのは、解答者席を立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていたケイの姿だった。その姿を目にして、司会のアイザックも、メグミやみほ、教師陣など他の解答者も、舞台袖に控えていたクイズ研部員も、観客も誰もが驚きを隠せずにざわめき始める。

 だが英は、変わらずピアノを弾き続ける。ケイも、周りのざわめきを意にも介さず歌うことを続け、ピアノの横を通り過ぎる。そして、ステージの中央に立って、胸に手を当ててさらに歌う。

 アイザックからすれば、英がこの曲を弾くことも、アンコール自体も、全ては自分からすれば無茶振りであって、予定に無いことである。アイザックでさえどんな曲を弾くのかは分からなかったのに、なぜケイはその予定に無い曲を聴くとこうして席を立って、歌い出した?

 なぜ、どうしてという問いの言葉がアイザックの頭の中を占めていく。いや、それはアイザックだけではなくこの場にいる英とケイ以外の全員が感じていることだ。

 だが、英はピアノを弾くことを決して止めはしない。ここで曲を止めてしまえば混乱はより大きなものとなってしまうだろう。そして何より、自分のピアノに重なるケイの美しい歌声を止めるなど、英にはできなかった。

 今だけは、誰に何と言われようともピアノを止めるつもりはなかった。だから、英はピアノを弾き続ける。英が続行するのをケイは一瞥するとニコッと笑い、ステージの上から観客席を見て歌う。

 ざわめきはいつしか収まり、その場にいる誰もがステージの上でピアノを弾く英と、歌うケイにくぎ付けになっていた。

 肝心の曲は、Bメロを過ぎて既にサビに入っている。全体の落ち着いた雰囲気を壊さない、静かに盛り上がるこの曲の見せ場を弾きながら、英はケイのことをチラッと見る。

 ケイはステージの上で、恥ずかしがりもせず、緊張した様子も見せず、堂々と歌っていた。

 

『伝えたいよ、好きと・・・でないと、壊れてしまいそう―――』

 

 2番に入る。1番のAメロ、Bメロと楽譜はほぼ同じではあるが、歌詞は違う。

 本来ならピアノを弾く英は歌詞に気を取られたりなどせずピアノに集中して、ミスを犯さないことを第一とするべきだった。だが、自分とケイがステージの上に立ち、ケイが歌う今だけは、歌詞と歌声が気がかりで仕方がなかった。

 ケイの歌声は1番だけで力尽きるということにはならず、2番も同じように歌う。感情を籠めて、さながら曲の中に登場する人物のように心を籠めて真剣に歌う。

 再びサビに入り、曲は静かに盛り上がる。1番とは登場する人物が違っているので、こちらの歌詞もやはり若干変わっている。

 

『伝えたいよ、愛してると・・・言えないと、消えてしまいそう―――』

 

 そしてサビの盛り上がりを保ったまま間奏に入り、間奏の部分ではケイは歌わずステージの上でCメロに入るのを待つ。ここで英は、ピアノに集中する。

 間奏の間、誰もが手拍子も打てずも、拍手もできず、ただただ、ステージの上でなおピアノを弾き続ける英と歌うケイのことを見ることしかできなかった。2人のピアノと歌声の成す曲を聴いていることしかできなかった。

 そしてCメロに入る直前で、一度落ち着いた緩やかな雰囲気に戻る。

 

『月の夜、駆け出した・・・あなたに、会いたかったから―――』

 

 そのCメロも、最後のサビに近づくとそれに繋ぐように盛り上がる。

 

『好きと、告げたかったから―――!』

 

 最後のサビに入り、これまで以上に感情を籠めて強く、それでいて美しく歌う。

 英も、その歌声を引き立てるかのように、かつケイの歌声をかき消さない程度に、指に力を籠めて鍵盤を叩き、音を響かせる。

 本来の楽譜の上では、ここは曲の中で確かに一番盛り上がる部分ではあるが、そこまで強く弾く部分ではない。音楽記号にも強調する記号は書かれてはいない。

 だが英は、それを分かっていても、強く音を響かせる。この時だけ、心を籠めるケイの歌声に合わせて、英もまた同じように感情を籠めてピアノを弾く。

 

(そう言えば・・・・・・)

 

 英はこの時、ふと過去に自分がプロのピアニストから教わった言葉を思い出していた。

 『時には楽譜に従うだけではなくて、アレンジも入れるべきだ』という言葉。

 その言葉は、今よりもずっと幼かった英には理解できなかった。どれだけピアノを好いていても、発想力も想像力も成長過程にいたのだから。楽譜に合わせて弾いて、ピアノを弾く自分だけが楽しめばいいとしか思っていなかったから。

 だが、その言葉の意味を、英はたった今理解することができた。

 

(そういうことですか・・・・・・()()

 

 その意味を理解したところで、英はもう一度曲に意識を集中する。一番盛り上がる部分を過ぎて、クールダウンと言わんばかりに曲は落ち着いてきて、終わりを迎えようとしていた。

 最後のフレーズまで、ケイは気持ちを籠めることを忘れず歌いきる。

 

『朝日の中で、あなたと・・・・・・口づけを――――』

 

 後奏に入り、穏やかな曲調になる。テンポが徐々に遅くなっていき、曲の余韻を残すようなここばかりは楽譜に従って弾く。

 そしてゆったりとした曲調のまま曲は終わりを迎えた。

 曲を終えてから少しの間、誰も声を発することなく、音も出さず、完全な沈黙がホールを支配する。

 どれだけ時間が経っただろう、観客の誰かが拍手をした。それが隣の席の人、前の列の人、後ろの列の人へと広まっていき、先ほどの1曲目とは違う全体的に穏やかで優しい感じの拍手が会場内に響く。曲の雰囲気に合わせた拍手で、英は何だかそれが嬉しかった。

 その拍手を、英とケイは笑って受け止める。ケイは観客席に向かって手を振り、解答者席で拍手をする人たちにもお辞儀をする。英はピアノ椅子から立ち上がってお辞儀をする。

 そこでケイが、未だステージの上に立ったままで英に向けて手招きをしていた。こっちへ来いということだろう。英はここにいるだけで一杯一杯なのだが、ケイの笑顔を見て抵抗しても意味はないと思って大人しくケイの下へ向かうことにした。

 ケイの下へ歩く間も拍手は収まらず、時々英は観客席を見てぺこぺこと会釈をした。ステージの上からでも、サンダースの生徒はもちろん、他の学校の生徒やサンダースの外部からの来場者の姿も見受けられる。

 そして、ケイの傍へとたどり着いた直後。

 

「ありがとー!!」

 

 ケイが英を抱き締めた。英のピアノに合わせてケイが歌えたことが、そして楽しい時間を英と共に過ごして、こうして皆から拍手を送られたことがとても嬉しかったのだ。

 2人が抱き合うと、瞬間観客席からは割れんばかりの拍手と歓声、さらには指笛までもが聞こえてきた。さらに観客や解答者は立ち上がり、まさにスタンディングオベーションの様相を呈している。

 英はその中で、恥ずかしさの余りケイを突き放すということはせず、静かに笑っていた。

 英だって、感極まって泣きそうだった。やり切ったという気持ちと、自分のピアノがこれだけの人を楽しませることができたという嬉しさが英の中にある。そんなところで、自分の好きなケイに抱きしめられたとなれば、涙を流しそうになるのも必至だ。

 けれど今は涙を堪え、英はケイの耳元で小さく『ありがとうな』と告げた。

 

「・・・・・・えー、色々と驚きではありましたが、英君、そしてケイさん、ありがとうございました!」

 

 そこでアイザックが、突然の事態に未だ動揺を隠せていないのか、少し爽やかな笑みがひきつった笑いになっていたものの、ステージの中央近くに立って司会進行を再開した。そこで英とケイも抱擁を解き、最後にもう一度2人で観客席に向けてお辞儀をした。

 観客から2人に向けて、惜しみない拍手が送られる。英は、頭を下げながら、今自分が立っている場所と、そこで見た景色、聞いた拍手を一生忘れないようにするのだと、肝に銘じた。

 

 

 その後は特に何のハプニングも無く、当初の予定通り最終結果発表になる。

 優勝したのは、特別コーナーが終わった時点で分かっていたがメグミだった。その名が告げられた瞬間、『夏の借りはきっちり返したわよ!』と高らかに宣言して、観客たちを大いに盛り上がらせた。

 最後はクラッカーのように色とりどりのテープや紙吹雪が発射され、観客とクイズ研究部員、他の解答者が全力で優勝したメグミを祝福した。そして、賞品の旅行券がアイザックからメグミに手渡されて、『サンダースQA』は無事に終了となった。

 英は舞台袖に戻ると、クイズ研の部員から『すごく上手かった!』とか『ありがとう!』とか『ケイさんとできてるの?』と言われて、英も無難に受け答えをする。ケイのことに関しては、『違う』と否定した。

 

「いや、本当に驚かせてごめんね」

「ああ、驚いたとも。大いに驚いたともさ」

 

 そして山河は英に頭を下げていた。というのも、正式なクイズ研究部員の山河と特別協力でしかない英との間で情報が共有できず、ここまでケイが参加するということを英に言えず、驚かせてしまったことを詫びているのだ。

 そして山河は、『サンダースQA』が終了して隠す必要もなくなったので、なぜ英にそのことを言えなかったのを伝える。さらに、特別コーナーであるために英がここでピアノを弾くということも解答者には明かさなかったこと、解答者との打ち合わせはアイザックとニッキーだけで行っていたこと、ケイも山河がクイズ研部員だとは気付いていなかったことも、全て教えた。

 英は山河の言葉を聞いて、大きくため息をついて一応は納得した。

 そして、誤魔化すのではなく、英に『ケイは出ない』と嘘を吐いた理由について、山河はこう言った。

 

「ケイさんが参加するって聞いたら、英は絶対緊張するだろうな、って思ったんだよ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 頑なに英が山河の頼みを断り続けていたのに、急に態度を変えてきたのでどんな気の変わりようだと山河は不審に思えて仕方がなかった。それに英は『自分のせいでクイズ研が失敗したら寝覚めが悪い』と答えたが、そんな理由だけではないことは流石の山河も分かった。

 そこで、英の周りで最近変わったことを思い出して、それは英がケイと出会ったことだと思い至る。そしてその前日、英がケイを好きでいるということを知ったので、大体の事情を理解した山河は、『答えられない』と誤魔化して英に不安を残すのではなく、あえてケイが参加しないと嘘を吐いた。

 

「だから英だって、ケイさんが参加するって聞いたら、余計プレッシャーを感じるんじゃないかと思ってさ」

 

 英は確かにそう思った。事前にケイが参加すると知っていたら、本番に向けての緊張感はより濃いものとなってしまっていたかもしれない。何しろ、英からすれば今回『サンダースQA』に参加するのはケイと釣り合う存在となるため、自分の立場を変えるためであったのだから、そのケイが目の前で見ているとなったら練習の時点から緊張していただろう。

 もしそうなったら、今のような結末を迎えることができたかどうかさえも分からなかった。

 山河の嘘をついた意図も、ようやく分かった。

 

「まー、結果オーライじゃない?皆英のピアノ聴いて盛り上がってたし、最後にケイさんが一緒に歌ったのは流石に予想できなかったけど」

 

 観客たちを大いに盛り上がらせた英とケイの共演だが、挨拶の後でケイが『英が自分のお気に入りの曲をたまたま弾いてくれたから』と言ってくれたおかげで、英とケイの間に個人的なつながりがあったことはバレていない、だろう。

 だが、もしバレてしまえば、曲名をクイズの前に教えてしまったことも含めて、糾弾される可能性だってある。今思えば、あそこであのラブソングを弾いたのは正直ギリギリだったかもしれない。

 偶然にしては良すぎるほど、今回限りの特別協力者であるはずの英が、サンダースの星であるケイの気に入っている曲を弾いて、それをケイが歌うなど、聡い人間にはすべて仕組まれたことと思われるかもしれない。

 

「このことは、絶対誰にも言わないでくれ。いや、言うな」

「それはもちろん。今回のイベント成功させた英とケイさんが責められるのも嫌だし」

 

 そこで、英が後ろから『ちょっといい?』と声を掛けられた。英が肩をビクッと震わせて、もしかして話を聞かれてしまったのかと振り返ってみると、そこには優勝したメグミが立っていた。

 グレーのブラウスにグリーンのギャザースカートを着たメグミは、ゆったりとした雰囲気も相まって英には大人な感じに見える。大学生になると、こうも印象が違うのだろうかと妙な気分になった。

 だが、先ほどの山河との会話を聞かれたのかと思って不安な英はおっかなびっくり言葉を口からひねり出す。

 

「なんでしょうか・・・・・・」

「ピアノ、とっても上手かったわよ」

「あ、どうも・・・正直、こういった場で弾くのは初めてなので緊張してましたが」

 

 普通に褒められて、英は肩透かしを食らう。だが、あくまで相手は自分より年上なので敬語に徹する。

 

「さっきは色々見せつけてくれたけど、実際の所ケイとはどうなの?」

「何もないですよ、本当に」

 

 初対面にも拘らずぐいぐい来るメグミ。この人もサンダース卒業生なので、もしかしたら押しが強いところも健在なのかもしれない。

 そしてうっかり口を滑らせて『友達』とでも言ってしまえば、やはり今回のことについて色々問い詰められるかもしれないので『何もない』と嘘を吐く。

 

「ところで、そのケイは何処にいるのかしら?一応挨拶ぐらいはしようかと思って」

 

 メグミはOGとして、時折母校であるここを訪問することがあるという。そこで現隊長のケイとは何度か顔を合わせているので面識があった。

 しかし、そのケイがいないと言う。英が辺りを見回しても、確かにケイの姿は見えない。メグミは他の部員に同じ質問をしたが、誰もが首を横に振ったのだそうだ。

 

「アイザック部長に聞けばわかるかも・・・」

「司会の子よね?その子もいないみたいなのよ」

「??」

 

 部長までいないとなると、本当に分からない。山河にも目で『知ってるか?』聞くが、『いいや』と首を横に振った。

 

「じゃあ、ちょっと探してきます。メグミさん・・・でしたよね。あなたはここで待っててください」

「分かったわ」

「山河、手伝って」

「うん」

 

 英は舞台袖から、来る時に通った通路に出る。この通路はステージに上がる人向けのものであり、普通の生徒は立ち入ることはできない。英も初めてここに来たので、うっかりすると迷いそうだった。

 それにしても、真面目なアイザックとケイが、誰にも何も告げずにその場を離れるとはどういうことだろうと、英は疑問に思う。何らかの急用でも入ったのだろうか。

 と、そこで角を曲がろうとすると、話声が聞こえてきた。声からして男女1人ずつ、そしてここが関係者用と来れば、恐らくは話しているのはアイザックとケイだろう。

 まだ仮の撤収作業も終わっていないのにこんなところで話をするとは、と英は小さく息を吐く。ケイはともかくアイザックは、意外とずぼらなところがあるようだ。

 そんなことを考えながら英は角を曲がって、

 

「2人とも、こんなところで何を?」

 

 と話しかけようとした。

 

 

「ケイさん・・・あなたのことがずっと好きでした。僕と付き合ってください」

 

 

 だが、その直前で英の耳に滑り込んできたアイザックの言葉を聞いて、英は自らの言葉を飲み込み、半歩下がってコンクリートの壁に身を隠し気配を殺そうと努める。

 英が曲がり切る直前に見た最後の光景では、ケイは壁に背を預けアイザックはその正面に立っていた。そして英は言葉を発する直前で引き返したので、恐らく2人はまだ気づいていないだろう。

 青春の一コマと言ってもいい告白の場面。英はその場面に立つ人物が赤の他人であれば、大人しく何事もなく引き返していた。

 しかしそこにいたのは自分の知り合いで、その一方が自らが思いを寄せる人物となれば話は違ってくる。

 先ほどの『サンダースQA』で自らのピアノが成功を修めたことで英自身の心に籠っていた熱が、氷水をかけられたかのように急激に冷やされる。体全体が小刻みに震えて、視界が捻じれてくる。

 今英が目にしたものは、間違いなくアイザックがケイに告白をしたところだ。肩や眉目秀麗、頭脳明晰、しかも今日のイベントでは完璧な司会進行を見せたアイザックで、その相手は言わずもがななケイ。人からすればお似合いと言える2人だろう。

 

「・・・・・・返事を、聞かせてくれるかな」

 

 ピアノを弾いている最中は考えていなかった事実が、英の頭の中でまたフラッシュバックする。

 ケイには、好きな人がいる。

 その相手は、ケイのお眼鏡に適うような人とは誰なのだろうと、英はそのことを聞いた時から気になって仕方がなかった。それが誰なのかは分からなかったが、英は自然とその人物は自分よりも上のヒエラルキーに存在して、自分なんかと比較するだけ無駄なぐらいの人なのだろうと思っていた。

 今英の目と鼻の先でケイに告白したアイザックは、まさに英の予想にドンピシャな人だ。クイズ研の部長として少なくない人数の部員を束ね、今日の司会も完璧だったと部員は言っていて、ユーモアもトーク力もあり、今回のイベントを成功させた立役者である。おまけにイケメンだし、引く手あまたな存在であるはずだ。

 だからもしかしたら、ケイの好きな人とはこの人なのでは、と英は思ってしまった。

 

「・・・ありがとう、アイザック」

 

 ケイが言葉を発する。それだけで英の心臓がドクンと跳ねる。ともすれば血液さえもが沸騰しかねないぐらい緊張し、身体の中が熱くなってくる。

 

「でも、ごめんなさい」

 

 だがケイが次に口にしたのは、否定する接続詞と、謝る言葉。英もそれを聞いて目を見開く。

 

 

「私には、好きな人がいるの。だから、付き合えないわ」

 

 

 ケイが、告白を断った。その言葉は、英がナオミから聞いたものと同じ『他に好きな人がいる』だった。

 英はそこで、アイザックには悪いが安堵し、反対に恐怖心も抱いた。

 アイザックほどの人物の告白さえも断るとは、一体ケイが好きな人とはどれだけの人物なのかが分からなくなる。

 英は、先ほどのピアノでついた自信を瞬く間に失くしてしまった。先のピアノで観客を盛り上げることはできたが、その程度では敵うはずもないのではとネガティブな考えが頭をもたげてきた。

 

「・・・・・・そうか、ありがとう」

 

 アイザックが、僅かの沈黙を挟んでから答える。今のアイザックの心情は、正直言って言葉にできないものだろう。何せ、恋という無視できないほど大きな想いが散ってしまったのだから。

 

「・・・悪かったね、急にこんな話をして」

「気にしないでOKよ。それに、私を好きでいるって気持ち自体は嬉しいから」

 

 思考の海をさまよう英の耳に誰かの足音が聞こえてきた。反射的に英は貼り付くように背中を壁に押し付けて少しでも見えないようにした。

 そのおかげか、足音の主であるアイザックは英には気づかず、だがステージとは別の方向へと行ってしまった。

 

「・・・・・・影輔」

 

 そんなアイザックの行方を目で追っていると、ケイの接近に気付くことができなかった。英は思わずケイの方を見て、ケイが少し悲しげな笑みを浮かべているのに気付く。

 

「さっきはびっくりしたわ!まさか、影輔もこのイベントに参加してるなんて思わなかったもの!」

 

 ケイがいつもと同じように明るく振る舞う。

 ケイほどの人物であれば、英がここにいる時点で先ほどのアイザックとの話も聞かれたのだと、分かるはずだ。それでもこうして無理矢理にでも取り繕うのは、それだけその話がケイにしてみれば後ろめたいことだからだろう。

 後ろめたく思うのは、告白を断る場面を見られて相手を幻滅させてしまうかもしれないから。相手が自分を嫌うのを恐れているからだ。

 つまり今、ケイは告白の話題から必死で英を遠ざけようとしている。

 しかし、英は先ほどの告白の場面を最初ではないが決定的な瞬間だけを見て、衝撃的過ぎて、ろくな相槌も打てない。

 

「影輔の3日目の用事って、これのことだったのね~。知らなかった!山河もクイズ研だってことは知らなかったし、偶然って怖いわねぇ」

「・・・・・・・・・そうだな」

「でも、さっき影輔のピアノに合わせて歌えたのは本当にエキサイティングだったわ!だって、一緒に歌いたいって言った日から結局1度もそれはできてなかったし・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・ああ」

「それで・・・・・・その・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 途中から、ケイの言葉に明るさが無くなる。自分が必死で取り繕っていることが分かってしまったからなのか、これ以上誤魔化すことができなくなったのか。

 これまで英は、ケイと言葉を交わし、顔を合わせることが何度もあったが、今のように言葉まで落ち込むというのは初めてだった。

 そして、ついには。

 

「・・・さっきの、聞いてた?」

「・・・・・・・・・・・・ああ」

 

 確かにそう問いかけていたので、英も答えるしかなかった。ケイは英の返事を聞いて、『そっか・・・・・・』と寂しそうに呟く。

 

「さっきね、アイザックが言ってたのよ。『君と英君が親しげにしているのを見て、怖くなった』って」

 

 アイザックは、先ほど2人でステージの上で抱きしめ合ったのを見て疑念を抱いたのだ。この親しげにしているケイと英の2人はクイズの内容を事前に共有していたのではないか、ではなく、2人が付き合っているのではないかと、と疑った。

 そしてアイザックの中にあったケイへの恋心―――3年生の頭頃から抱いていたという―――が告げられないまま残りの高校生活を終えることが怖かった、とアイザックは告げた。実際にはケイと英は付き合っていないのでアイザックの疑念も取り越し苦労だったのだが。

 

「・・・・・・アイザック部長の気持ちは、少しわかる気がする」

「え・・・・・・?」

「自分に好きな人がいて、その相手が離れたり、他の人と付き合いだしたりしたら、その気持ちは2度と言えないままになるから。そんなの、辛くて、悲しくて、やりきれないような気持ちになると思う」

 

 その気持ちを抱くことを恐れて、アイザックはこのタイミングで告白をしたのだ。

 しかし、結果は玉砕。想いを告げられないまま離れてしまうのと同じか、それよりは少しはマシかもしれない。だが悲しいことに変わりはないだろう。

 

「・・・・・・そうよね」

 

 ケイは、先ほどの告白の場面を見た英がどんな気持ちでいるのかが心配だった。

 今のケイは、目の前にいる英のことが好きだ。それはもう、断言できる。だからアイザックの告白は断ったし、サンダースフェスタ前に告白してきたアーサーという青年の告白も断った。

 その好きでいる英に、他の人を振った場面を見られるとはあまりにも痛い。

 こんな自分を、英はどう思っているのだろう、と不安だ。

 

「・・・・・・ケイ」

 

 だが、そのケイの気持ちまで英は分からず、自分の中で不安な気持ちが大きく膨れ上がっていくのを英は感じていた。

 先ほどのアイザックの告白を見て、サンダースの中で有名人であるケイはやはり多くの者から慕われ、そして好かれているのだと確信した。ケイが内外共に十分に魅力的だからこそ、惚れる人は多くいる。以前ナオミと話をした時も、ケイの人柄と立場を考えれば告白されるのもおかしくはないと、英は自分で言った。

 そして、自分とてその1人にしか過ぎないということは重々把握していた。だから、そんな中で少しでも目立てるように、そして仮に付き合うことができたとしても周りを納得させられるような立場になるために、英は今回のクイズ研のイベントに協力した。

 その成果は、正直なところまだ分からない。

 ピアノを演奏して観客たちを盛り上げ、楽しませて、拍手を受けて、そしてケイが英のピアノに重ねるかのように歌ったことで、計らずともその場にいた大勢の人たちに強く大きな印象を与えられたと思う。

 しかし、それだけで本当に自分の立場が変わり、そして名前が上がったかどうかは分からなかった。

 確信が持てないのだ。

 

「なに、影輔?」

 

 ケイが英の顔を見る。

 不安は尽きない。

 自分が今サンダースでどの程度の立ち位置にいるのかが分からず、さらにアイザックほどの人物の告白さえも断ったケイが今恋する人がどれほどの人間なのかも分からない。

 

『自分に好きな人がいて、その相手が離れたり、他の人と付き合いだしたりしたら、その気持ちは2度と言えないままになるから。そんなの、辛くて、悲しくて、やりきれないような気持ちになると思う』

 

 先ほどの英のこの言葉は、自分に言い聞かせているつもりでもあった。

 英は今や、自分程度がケイと付き合えるとは、思えなくなっていた。元から『絶対できる』と思ってもいなかったが、今はその自信も塵芥ほどさえ残っていない。

 だから、英は。

 

「後で―――」

 

 

 

 3日目の目玉イベントである『サンダースQA』が終わっても、サンダースフェスタそのものはまだ終わってはいない。ホールから出ると、外は相も変わらず賑やかだった。

 だが、最終日の終了間近となると、流石に用意していた在庫が切れて店じまいをする区画が増えてくる。それに比例して、来場客も徐々に減っていき、校舎の廊下や教室は普段の日の放課後のような静けさを少しずつ取り戻してきていた。

 そして、17時丁度にベルが鳴り響き、サンダースフェスタの最終日、そして今年のサンダースフェスタの全日程が終了したことが告げられた。

 さて、このあとの生徒たちは簡単な撤収作業を終えればこぞって打ち上げに興じる。英が去年所属していたクラスでも、コンビニやスーパーなどで適当にお菓子やジュースを買って来て、クラス全員で軽いお疲れパーティのようなものを開いていた。

 だが今回英が協力したクイズ研究部と技術協力をしてくれた技術研究部の合同打ち上げは、明日の全校一斉撤収作業を挟み、明後日からの連休の初日の夕方からとなっていた。

 けれど、今の英にとっては打ち上げなど至極どうでもいいことだった。

 

「・・・・・・ハロー、影輔」

「・・・来てくれたか」

「当たり前じゃない。呼ばれたんだもの」

 

 『ハイランダー』棟の第5音楽室。

 秋も半ば、陽が落ちる時刻も早くなってきて、サンダースフェスタが終わってから少し経った今では空は紺に近い茜色に染まり、斜陽が音楽室の中を照らす。先にこの教室に来ていた英は、カーテンを閉めることも、蛍光灯を点けることもせず、ただ太陽の残り僅かな光だけで教室の中を照らすようにしていた。

 

「悪かったな・・・。あそこで急に待ち合わせの約束なんて」

「いいのよ、気にしなくて」

 

 英は東側第2ホールで、メグミが探していると伝えた後で、ケイこの時間にこの場所に来てほしいと約束をしてもらった。

 その時英は、ただ『話がしたい』としか言っていないが、こうして人気のない場所に呼び出して、さらにその約束の前の出来事を考えてみれば、何の話をするために呼んだのかもなんとなくだがケイには分かる。

 

「・・・話って、何かしら?」

 

 話題を切り出すケイ。何のつもりで英がここに自分を呼んだのかは、ケイもなんとなくは分かっているが、それでも英自身の口からその理由を聞きたかった。

 英も、ここにケイを呼び出した時点で全ての覚悟は決まっていた。

 例え自分に勝ち目がないと思っていても、それでもこの自分の中の気持ちは想いを告げるまでは失わないでいた。

 だが、その前に英はどうしてもやりたいことが1つあった。

 

「・・・・・・呼び出した側で悪いけど、話をする前に、1曲だけ弾かせてほしい」

「え・・・?」

 

 そう言って英は、後ろ手に持っていた楽譜を見せる。それは、英が気に入っている曲の楽譜で、ケイも少し見ただけで唸ったあの難しい曲だ。

 この曲は、『サンダースQA』が終わってから今に至るまでの間に英がここで一心不乱に練習し、つい先ほどマスターした。

 

「この曲を、弾きたい。そしてその上で、ケイに話がしたい」

「・・・分かったわ。お願い」

 

 ケイが頷き、英は『ごめん』と告げて、ピアノ椅子に座る。スタンドに楽譜を広げるが、シャープペンや蛍光ペンのメモと走り書きで、買った時よりも遥かに譜面は読みにくくなっている。

 鍵盤に指を置いて、深呼吸をして気持ちを平坦にするように意識する。準備が整ったところでケイの方を一瞥すると、ケイは以前のようにグランドピアノの縁に腕を置き、ピアノの内部が見える位置にいた。

 しかし、ケイの目は英のことを捉えていた。

 

「・・・始めるぞ」

 

 ケイの視線を感じながらも、英は鍵盤を叩き曲を弾き始める。

 この曲は、『少年少女たちが成長していき、自分の心と体、そして周りの環境が変わっていく中で、揺らぎつつある自分の価値観を見失わずに前へ進み続ける』というイメージの曲。そしてこの曲は、感傷的な面があれば激情的な面もあり、明るい場面もあれば暗い場面もある、多面的な曲だ。それは、英もケイも気に入っている部分である。

 まずは前奏だが、これも最初の部分は暗めで、途中からだんだん明るくなってくる。前奏だけで既に二面的なので調子が掴みづらい。

 前奏が明るい雰囲気で終わると、Aメロが落ち着いた雰囲気で始まる。爽やかなイメージがするが、英とケイがお互いに意識しているフレーズがあった。

 

『自分の気持ちは言葉にしなくちゃ、それを感じる意味はない―――』

 

 続いてBメロに入り、一度もの悲し気で落ち着いた雰囲気になる。『多くの人とすれ違い、皆もまた自分たちだけの葛藤や喜び、悲しみを抱えている』というイメージの歌詞が流れる。

 そんなBメロの途中から盛り上がり始め、サビの部分では一転して明るくなる。早めのテンポと軽い曲調で、この曲全体のイメージを明るくさせてくれる。

 

『人の気持ちに左右されるな。自分の道と未来を描け―――』

 

 サビの最後はそんな前向きな歌詞で締められ、そして2番に入る。2番のAメロも1番同様明るいが、1番よりも短めであり、そこでもまた2人が意識するフレーズがあった。

 

『自分の気持ちに背を向けるな。後悔したくないのなら―――』

 

 また、もの悲し気なBメロに入る。今度は、『楽しい時を過ごした後の人は、気持ちが盛り上がったままの人と、喪失感を抱く人の2種類がいる』と、若干捻くれたイメージの歌詞が入る。

 

『その気持ちも言葉にしなくちゃ、誤解されるばかり―――』

 

 その捻くれた歌詞に続くのは、1番のフレーズを想起させるような前向きなフレーズ。

 再び盛り上がるサビに入る。やはりこの部分は、聴いているのも楽しいが、弾いていると楽しいし面白い。弾いているこちらまで楽しくなりそうだ。ケイも、静かに目を閉じて顔を左右に小さく傾け楽しんでいる。

 

『価値観を掲げろ。それが自分らしさを証明するから―――』

 

 1番とは違う前向きな歌詞でBメロが締められ、今度は間奏に入る。明るい場面と暗い場面を交互に行き交うかのような曲調で、両手の指と両腕を忙しなく動かす。マスターしたばかりで不安な面もあったが、不思議とミスはしていない。だがそれに気を取られると逆にミスにつながりかねないので、それは深く考えないでおく。

 だが、この間奏自体がこの曲を難しいと言わしめるほどの難易度を誇っており、音符が横にずらりと並んでいて、それだけ一つ一つの音を素早く鳴らすように求めてきている。少しでも早くなったり遅くなったりすると、将棋倒しのように失敗が重なる。

 だが、英はその難所を乗り越えて、この曲で一番落ち着いた雰囲気のCメロに入る。

 

『もしも道を見失っても、自分のことを否定されても―――』

 

 だが、途中からどんどん曲調は明るくなっていき、歌詞も上向きになっていく。

 

『立ち止まるな。進み続けることこそが、自分らしさを知らしめるのだから―――』

 

 そして、最後の盛り上がる明るいサビに入る。この曲も、この最後のサビを終えればすぐに終わりだ。

 この曲を弾く前、英の中には不安な気持ちが積もっていた。

 その不安を抱いている限り、英は前に進むことはできず、自分の想いを告げる勇気も持てなかった。

 だからその不安を消し去ることを、この自分が気に入っている楽しい曲を弾くことで少しでも軽くしようとした。これこそが、英のどうしてもやりたいことだった。

 結果、今はその不安も完全とは言わないが消え去っている。

 そして最後に、自分の気持ちを言葉にして整理して、全てを伝える。

 最後のサビを終えて後奏に入るが、曲の雰囲気は明るさを保ったままだ。やがて、その後奏も終わり、英の気に入っている曲は弾き終えた。

 曲が終わって少しの間、ケイは曲の余韻に浸るように目を閉じていた。今聞いたばかりの英の旋律を、心に刻むように目を閉じ、やがて開く。

 

「すごく・・・いい曲だった。すごく、上手かった」

 

 控えめにケイが拍手をしてくれる。英はそれに笑って応えてみせて、楽譜を閉じて立ち上がる。だが、ケイの下へ歩み寄ろうとはせず、鍵盤の前で立ったままケイのことを見据える。

 

「・・・・・・この曲に、『自分の気持ちは言葉にしなくちゃ、それを感じる意味はない』『自分の気持ちに背を向けるな。後悔したくないのなら』って歌詞があったんだよ」

「ええ・・・知ってるわ。私もこの曲は聴いたもの」

 

 英からこの曲を教えてもらい、そして英がピアノを奏で自分が歌った日の夜。ケイは自分の部屋のパソコンでこの曲を調べて、そして原曲を聴いた。

 歌詞を併せて読んで、その英の言ったフレーズが目に入ってケイも共感したものだ。

 ケイの言葉を聞いて英は『そうか・・・』と短く答える。そしてもう一度、ケイのことを改めて見据える。

 

「この曲を弾いたのは、少しでも俺の背中を押してくれるような歌詞があるこの曲を弾いて・・・踏ん切りをつけたかったからだ」

「・・・・・・」

 

 ケイは黙って、英の言葉を待つ。

 

「さっき・・・アイザック部長からケイが告白されたのを見て、すごい不安になった」

「不安?」

「ああ。もしも、ケイがアイザック部長と付き合うことになったら、ってね」

 

 英の視線が、ピアノの鍵盤に落ちる。黒と白の無機質に並ぶそれは、ピアノを弾いている間だけは英に応えるように叩くと音を鳴らす。だが今は黙っているだけだ。

 

「最終的にケイは断ったけど、それでもやっぱり不安だった」

「・・・なんで?」

「前にケイが『好きな人がいる』って言って、それがどんな人なんだろう・・・俺なんかよりもどれだけすごい人なんだろう、ってやっぱり不安だったから」

 

 鍵盤の上に置かれた英の指が静かに握られる。

 

「このサンダースフェスタでピアノを弾くことに決めたのも、少しでも自分の立場を変えるため・・・・・・ケイの“横”に立てるような人になるためだ」

 

 英の言葉の意味、そしてここに自分を呼び出した理由に気付いたようで、ケイもわずかに目を見開く。

 

「・・・・・・ケイは最初、俺のピアノを聴いてくれた時に気に入ってくれた。その時俺は、嬉しかった。だってまさか、この広いサンダースで、ケイが偶然俺のピアノを聴いて、それでケイみたいなスターから褒められて、気に入ってもらえるなんてって」

 

 あの時感じた喜びは、昨日のことのように思い出せる。

 

「そして俺が・・・・・・自分が『自由に弾きたい』って理由だけでピアノを教わるのを辞めたって言ったら、ケイは俺のことを否定するどころか、逆に立派だって言ってくれた。その理由を聞いた時なんて、どれだけ心の中で喜んで、どれだけ嬉しかったか」

 

 その時の嬉しさは、褪せることなく英の心に残っている。あの時は初めての出来事に困惑したが、理由を聞くと嬉しくなった。

 

「それからケイと話をして、ピアノを弾いて、聴いてもらって・・・曲を弾き終えたらケイはいつだって拍手をしてくれたし、感想だってちゃんと言ってくれた。当たり前のことかもしれないけど、俺にはそれが一番嬉しかった」

 

 自分の中にある想いを告げる英の心の中では、真っ暗な中で細い一本道を歩いている自分をイメージしている。しかも自分が歩いてきた道は崩れ去っていき、後戻りも許されない。

 

『立ち止まるな。進み続けることこそが、自分らしさを知らしめるのだから』

 

 そんなフレーズが頭をよぎる。英はまた一歩前に進み、言葉を紡ぐ。

 

「ケイは俺なんかのピアノを聴いて笑顔を見せてくれて、それでそのピアノの腕を信じてくれて・・・・・・」

 

 ケイのホームパーティで、ケイは英に『楽しい気分になれるから』と英のピアノの腕を信じ切って、ピアノを弾いてほしいと頼んできた。それは、ケイが英のピアノの腕を認めていて、疑いもせず信じてくれていたことに他ならない。

 

「誰かのためにピアノを弾くことの楽しさを、ケイは教えてくれた」

 

 今日のサンダースフェスタもだが、そのケイのホームパーティでピアノを弾いた際に、自分のピアノで皆を盛り上げ楽しませることができたのは、英にとっては初めてのことで、とても嬉しかった。

 そしてその時の経験があったから、今日のサンダースフェスタでもその楽しさをより強く感じることができたのだろう。

 

「気が付けば、ケイは俺の心の中で大きな存在になっていたよ」

 

 言うべきことは言い切った。

 成すべきことは、出来得る限り成し遂げた。

 後はもう、英の言葉だけだ。

 一呼吸おいて、英はケイのことを見る。

 そして、口を開いた。

 

 

 

「俺は・・・ケイのことが好きだよ」

 

 

 

 自分の中にある正直な気持ちを、英は告げた。

 生まれて初めて抱いたこの気持ちを、言葉にしてケイに話した。

 ただ、それでも拒絶されることを恐れて『付き合ってほしい』とは言えなかった。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 ケイが息を呑んだのが分かる。

 瞳を閉じて、笑みを浮かべて、英の告白を噛みしめるかのように、少しの間だけ黙すケイ。

 英にできることはもうない。全ては、ケイの答え次第だ。

 

「・・・・・・ありがと、影輔」

 

 先のアイザックの時に似た言葉。このあとに続く言葉は、『私も』か『ごめんなさい』か。

 けれど英は、もうほとんど諦めていた。

 アイザックの告白を断った時点で、所詮はちょっとピアノができるだけの凡庸な自分がケイと釣り合うはずもなかったのだ、と。

 この広いサンダースでケイに巡り会えたこと自体が奇跡に近いのに、それからさらに付き合うというのは少し贅沢すぎやしないかと、思えてくる。

 心の中でイメージしていた暗闇の中の一本道が全て崩れ去り、自分が闇の底に落ちていくような感覚になる。

 

「・・・返事をする前に、1つだけお願い、聞いてもらっていい?」

 

 しかし、英の予想はことごとく外れて、ケイが発したのはまさかの『お願い』だった。この状況で一体何を頼まれるのだろうか。

 

「さっきステージで影輔が弾いて、私が歌った・・・私の好きな曲」

「?」

「あの曲を、もう1度弾いて?」

 

 ケイが、何の意図があってそんなお願いをしてきたのか、英には分からない。

 しかし、そのお願いを断る道理はないので、英はトートバッグからその曲の楽譜を取り出してスタンドに広げる。いつものように一声かけてから、ピアノを弾き始める。

 今日だけで弾くのは2度目だが、先ほどステージの上で弾いた時とは状況は正反対だ。何百人と座るホールではなく、たかだか3~40人程度しか入らない音楽室で、ここにいるのは英以外にはケイだけだ。

 落ち着いた前奏を終えて、Aメロに入る。だが、先ほどのようなケイの歌声は聞こえてこない。ケイは先ほどと同じ位置に立ち、静かに目を閉じて英の奏でる旋律に耳を傾けているだけだった。

 しかし、ケイが歌わないことに気を取られたりはせず、英はBメロも弾いていく。ミスは犯しておらず、ケイに告白した直後で気持ちが不安定になっていても、指は自然と滑らかに動き、優しい音を奏でていく。

 

『伝えたいよ、好きと・・・でないと、壊れてしまいそう―――』

 

 英の頭に、曲のフレーズがよぎる。

 2番に入り、Aメロ、Bメロ、そしてサビも弾いていく。この曲を練習したばかりの頃にボロボロだったのが嘘のように、スムーズに弾けている。最早この曲はマスターしたと言ってもいいぐらいだ。それも、一番最初にマスターしたラブソングなので、これは上出来ではないのかと英はこんな状況でも嬉しく思っていた。

 

『伝えたいよ、愛してると・・・言えないと、消えてしまいそう―――』

 

 また英の頭に、曲のフレーズがちらつく。

 そして間奏に入り、さらにCメロに続く。この曲もあと少しで終わりだ。

 

『月の夜、駆け出した・・・あなたに、会いたかったから―――』

 

『好きと、告げたかったから―――』

 

 最後のサビに入る。

 英は、この曲を弾いた後でケイは何て言うのだろう、と思った。

 どうしてこんなお願いをしてくるんだろう、と頭の片隅にその疑問が突っかかっていた。

 そこで、英はケイは断るものだと思っているから、もしかしたら聴き納めのつもりなのかもしれないと、思いかけた。

 

『朝日の中で、あなたと・・・・・・口づけを――――』

 

 最後のフレーズを過ぎて、後奏に入る。

 曲を弾き終えたところで告げるケイの答えが、英は今から怖かった。うっかりすると、手が震えて音が変になってしまうかもしれなかったが、ケイからのお願いなので曲は最後まできっちりと弾く。

 そんな恐怖心を抱きながらピアノを弾くという初めてのことだったが、最後まで英は弾き終えた。

 

 

 その直後、誰かが英のことを後ろからそっと抱き締めてきた。

 

 

 曲を弾き終えて立ち上がろうとしていた英にとってそれは不意打ちでしかなかった。

 だが、そうしてきたのはすぐにケイだと分かった。だって、この音楽室にはケイと自分しかいないし、誰かが入ってきた様子もなかったから。

 そんな英を抱き締めるケイの力は、とても優しかった。先ほどのステージの上での感極まったかのような強いハグではなく、綿に包まれているかのようにふわりとして優しい抱擁。

 

「・・・・・・ホントに、ありがとう・・・影輔」

 

 英の肩に、ケイがそっと顔を乗せる。甘い香りが英に漂ってくるけれど、英は顔を見ることができず、ただピアノを見ていることしかできない。

 

「・・・・・・影輔」

「・・・・・・ああ」

 

 ケイの声に、英は短く答える。

 ほんの少しだけ、ケイが英を抱き締める力が強くなって。

 

 

 

「私も、影輔のことが好き・・・愛してる」

 

 

 

 安堵の余り、小さな息が、英の口から吹き出す。目を閉じて、英は笑みを浮かべる。

 暗闇の中に落ちていく英の手を、ケイが掴んでくれたように錯覚した。

 自分の身体に回されているケイの手に、自分の手を重ねる。短い時間で多くの曲を弾いていたから手が少し痛むが、そんな痛みも今は感じない。ただ手から伝わってくるのは、ケイの温もりだ。

 

「私も影輔と同じで・・・・・・。この曲を聴いて、少しでも背中を押してほしかったから・・・」

 

 ピアノを弾いている最中で、英の頭にちらついたフレーズ。あれこそが、ケイの背中を押すものだったのだろう。

 

「本当に・・・嬉しい。影輔からそう言ってくれて・・・」

「・・・・・・俺だって、嬉しいよ」

 

 英が若干苦笑しながら告げるその理由は、ケイが好きだった人物が『自分よりも優れた誰か』ではなくて『自分』だったのだから。とんだ勘違いで自分が落ち込み迷っていたのが、バカバカしく思えたからだ。

 

「・・・・・・改めて、ケイ」

「うん」

「・・・俺と、付き合ってください」

 

 想いが通じ、そしてケイも同じことを想っていたと気付くことができた英は、先ほど言えなかったことを告げる。

 ところがケイが『んー・・・』と少し迷うような声を出し、英は困惑する。

 

「そんな堅苦しい言い方しないで?」

 

 ああ、そう言うことかと英は安心する。思い返してみれば最初に出会った時も、英とケイが同じ3年だと知ったらケイは『堅苦しい話し方はナシね?』と言っていた。

 

「・・・じゃあ、もう一度」

「ええ」

「ケイ、俺と付き合ってくれ」

「・・・もちろん!」

 

 抱き締める力が強くなり、英も少し前のめりになる。

 そこで緊張から脱して、手の痛みがぶり返してきて、思わず『いてて・・・』と声を洩らす。何しろ学校に来てから『サンダースQA』本番までの間と、その本番、さらにステージの上で2曲、さらにこの音楽室でケイが来るまで練習を重ね、そして先ほどまた2曲。ほぼ1日中ピアノを弾いていたと言っても過言ではないので、仕方なかった。

 そんな英の手を労わるように、ケイはその手を優しく撫でる。たったそれだけのことで、手の痛みが引いていきそうだ。

 そして、英はもう片方の手をそのケイの手に重ねて、こちらも優しく静かに撫でる。ケイは少しくすぐったそうに笑い、そっと英に体重を預ける。

 英の想いは届き、ケイはそれに応えてくれた。

 しかし、今日の英の『成果』が果たしてどれだけのものなのかは、まだ分からない。周りを納得させられるほどのものかは、良くて五分五分だろう。

 けれど、今だけは、英とケイだけしかいないこの音楽室で、この先の不安や心配も忘れ、静かに時を過ごすことにした。

 太陽は沈み、斜陽も失せて、教室の中は暗くなっていた。

 だが、英もケイも、一番近い場所にいるお互いのことだけは、見失うことはなかった。




どうしても切ることができず、この話だけが長くなってしまいました。
読みにくかった方、申し訳ございません。

あと少しで、この物語も完結となりますので、
最後までどうかよろしくお願い致します。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。




みぽりん・・・何気に登場数多くない?


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これからも

「おう、『スコア』!」

「『スコア』、おはよ」

 

 遅刻もせず、いつも通りの時間に学校に到着して教室に足を踏み入れた英に、クラスメイトがそんな挨拶をしてくる。英の呼び方以外は普段と同じだったのだが、その呼び方が英はすこぶる気に食わない。だが食って掛かるのも馬鹿らしいので、少しばかり不満げな表情を浮かべながらも『おはよう』とだけ返すに留める。

 自分の席に着いて、学習道具を机に収めると、ホームルームまで英はぼうっと窓の外の空を見上げる。だが、そんな英の下へひょこひょこと人影が近づいてきた。

 

「やぁ、『スコア』。今日もいい天気だねぇ」

「・・・お前に言われるとすごいムカつくのはなんでだろうな」

「ひどいなぁ、ただ挨拶しただけなのに」

 

 英が実に嫌そうな顔をしながら山河の方を向くと、山河は人の悪い笑みを浮かべている。どうやら、英がそう呼ばれるのを嫌っているのを知っているからこそそう呼んだのだ。要するに、確信犯である。英はその笑みを見て小さく舌打ちをした。

 

「そんな嫌そうにしないでよ。そうやって愛称で呼ばれるってことは、それだけ皆が親しみを込めてるってことなんだから」

「・・・・・・そうだけどさ」

「つまり、英のピアノが認められてるってことだよ。それってすごいことじゃない?」

「・・・・・・・・・」

 

 山河の言葉に、ぐうの音も出ない英。

 確かに、由来はどうであれ、こうして新しいニックネームで呼ばれるようになったのも、サンダースフェスタでの成果、功績が皆から認められたからである。それは英だって分かっていた。

 だが、それは理解できていても、ニックネームで呼ばれることは恥ずかしかった。何しろ、普段から苗字の『英』か、下の名前の『影輔』で通っていたのだから。以前は『英』の漢字を音読みにして『エー』と呼ぶ奴もいたが、今ではそんな奴は皆無だ。

 加えて、自分の本名とは一文字も合ってないニックネームときたら、変な気持ちがしてならない。それが嫌なのだ。

 しかし、そうやって愛称で呼ぶのは、山河の言う通り親しみを込めているのと、英のピアノを認めているということだ。それも英は分かっているから、いちいち反応して声高に『やめろ』とは言わない。

 だがそれでも、妙な気分は心の中に蓄積されているから、代わりに窓の外の青空を見て溜め息を吐く。

 あの日から、実に1週間ほどが経過していた。

 

 

 

「Hi,『スコア』!」

 

 昼休みのベルが鳴り、英と山河、そして途中でクリスも合流して3人で『バルタザール』食堂へ向かうと、食堂前の開けたスペースでケイが待っていた。ケイまでその名前で呼んでくるとは、英としては微妙な気持ちである。

 それより、そこまで距離が近くない状況でそうやって自分の名を呼ばれると、恥ずかしくて仕方がない。ただでさえケイは人目を引きやすいのに、そんなケイが自分を呼べば自分も注目を集めてしまう。現に今、英も注目を集めてしまっていて、英は苦笑しながらその視線を無視してケイの下へと歩み寄る。

 だが、誰もが取り立てて騒いだりはせずに、むしろ『そう言うことか』と納得したような表情になり、頷いて、それぞれの時間に戻っていった。

 

「その呼び方は止めてくれよ・・・」

「なんで?結構いい名前だと思うけど」

 

 ケイの下へ来ると弁明を求めるが、そのケイは名前を結構気に入っている様子。そう言われると、英も満更ではなくなる。

 

「ヘイ、『スコア』」

「隊長も気に入ってるみたいだし、諦めなさい」

「いや、でもな・・・・・・」

 

 ナオミが皮肉を混じらせるような笑みを浮かべ、アリサは肩をすくめる。おまけに『いいよね~、あの名前。何で嫌がるのかなぁ』『クリスもそう思う?』と、クリスとケイがそんなことを気軽に話しているので、英はもうどうにでもなれと匙を投げるしかなかった。

 

 

 このように英の周りの人物が、英のことを『スコア』と呼ぶようになったのは、1週間ほど前のサンダースフェスタ最終日の出来事が原因である。

 正確には、その出来事を記した学内新聞だ。

 サンダースフェスタの期間中、学内新聞を作成・発行している新聞部は製作活動はせず、新聞の記事のネタを探していたらしい。サンダースフェスタ終了後は新聞部も活動を再開し、サンダースフェスタ初日、2日目、最終日のことを書いた号外を合計3部出版した。

 その号外学内新聞の見出しだが、まず初日分の号外は『夢幻観測、沸騰中』だ。これは、初日に行われた、サンダース卒業生が結成したバンド『夢幻観測(ドリーム・ゲイザー)』のライブを書いたものであり、ライブ会場とパブリックビューイングの写真が併せて載せられている。ライブの撮影はできないはずなのだが、『特別な許可が下りています』と注意書きがされている。

 2日目の見出しは『轟く砲声、大地を行くシャーマン軍団』。言わずと知れたサンダース戦車隊の総合演習のことを書いた記事で、ドローンから撮影された綺麗な陣形のシャーマン軍団の写真と、アップのシャーマン戦車の写真が載っている。さらには模擬戦のことも書かれていて、両チームの健闘を称賛するような言葉が述べられていた。

 そして肝心の最終日の号外の見出しは、

 

『新星のピアニストと歌姫』

 

 勘違いしそうになるが、この号外は最終日の目玉イベントである『サンダースQA(クイズアタック)』のことを書いた記事である。だが、あのイベントの中で主体であるクイズよりも盛り上がったのが、英がピアノを弾いてケイが歌ったあの時であり、その時のことを見出しにしたのだ。

 それだけならまだいいが、その記事に載る写真は、イベント中の観客席と、あのラブソングを終えた後で英とケイがハグをしていたシーンだった。この記事を見た時の英など、穴があったら入って自分で埋まりたいと思ったほど恥ずかしかったものだ。

 記事の文章の割合は、『サンダースQA』のことが7割、残りの3割が英とケイとのことだった。さらに、英以外のあの場にいた何人かに後日インタビューをして、その内容も記してある。

 インタビューでは、ゲスト出演だったはずの英のピアノが予想以上に上手くて、さらにそのピアノに合わせてケイが歌うというハプニングに、観客と解答者、スタッフを含めて誰もが驚いたという。

 その観客の中には、たまたまサンダースフェスタをのイベントを見て回っていた音楽教師もいた。このイベントの取材をしていた新聞部の記者は偶然この教師を見つけて、インタビューも取り付けたのだ。

 その教師の評価は上々、どころかとても高かった。

 サンダースの授業には音楽もあるが、ピアノは授業では習わないものであり、音楽の教師も何人もいて、英はその教師と面識が無かった。だから、その音楽教師もこの場で初めて英のピアノを聴いて、感銘を受けたという。そして依怙贔屓もせずにこうコメントをした。

 

『まさか、これほどの超絶技巧を見せる生徒がいるとは思わなかった』

 

 英はその記事を読んでいて、『超絶技巧は言い過ぎではないだろうか』と思った。しかし、一緒に記事を読んだケイが、『すごいじゃない!』と笑って肩を叩いてきて、面識もない本職の音楽教師がそこまで言ってくれたことも嬉しかったので、そのコメントはありがたく受け取ることにした。

 また、その記事にはケイに対するインタビューのことも載せられていて、新聞部員の『事前の打ち合わせでもしていたのですか?』という、際どい質問があったが。

 

『サンダースフェスタの前から影輔とは知り合いだったけど、お互いにこれに出ることは影輔がステージに出るまで知らなかった』

 

 とケイが答えたので、クイズ研究部とケイの間の癒着が疑われることも、誤解を招くことも無かった。こればかりは、英もケイに全力でお礼を言った。

 そして、その記事の中で一番目を引くものは、最後の方の記者の『今回のイベントでピアノを弾いていた英さんとは友達のような関係ですか?』という質問に対する、ケイの答え。

 

『サンダースフェスタの前までは友達だったけど、最終日にお互い告白して付き合うことになった』

 

 英もケイも、お互いが付き合っていることは隠し通すのも難しいと思ったので、『自分から吹聴はしないが聞かれた時には答える』とすることにした。だから、英はこのインタビューでケイがそう答えたことに関しても頷いていた。

 こうして記事に載ってしまったことで、サンダースの星であるケイと英が付き合っていることは、自分たちが言うよりも早く校内に知れ渡ることになってしまった。

 ただし、この新聞記事にはまだ続きがある。

 取材をした新聞部の記者が後で調べたところ、英が弾いた映画の主題歌のピアノ曲は、相当難易度が高い曲だということが判明した。それが、その本職の音楽教師が『超絶技巧』というコメントを残すに至った経緯である。

 そして記事の最後には、その高い評価を受けた英を称えてこう呼びたいと書かれていた。

 『楽譜の巧者(スコア・マイスター)』と。

 

 

 その記事の言葉によって、英は『スコア』と呼ばれるようになった。二つ名の『スコア・マイスター』だと長すぎるから略されたのだが、『マイスター』なんて呼ばれるのは恐れ多すぎるので省略されてよかったと切に思う。

 

「私はいい名前だと思うけどね」

「人の名前っぽく聞こえないのが何か嫌だ」

 

 ホットドッグを咀嚼して、面白そうに笑うナオミ。英はその反応も含めて、まだ少し納得がいかない。

 6人掛けのテーブル席に着く英、山河、クリス、ケイ、ナオミ、アリサ。サンダースフェスタ以降、こうして昼食を一緒の席で摂ることが増えた。

 その原因は、英とその隣に座るケイだろう。

 

「ね、影輔。手は大丈夫?」

「ああ、もう痛まないし、問題ない。今日はピアノが弾ける」

「ホント?それじゃ聴きに行ってもいい?」

「もちろん」

「よっし、これで午後も頑張れるわ!」

 

 英が『スコア』と呼ばれるのを少し嫌っているのを理解し、ケイは普段通りの呼び方で英を呼ぶ。何気ないケイの気遣いが英は嬉しいし、ありがたい。

 英の手についてだが、サンダースフェスタ最終日の無理が祟って、翌日の全校撤収作業中にとうとう手を本格的に痛めてしまった。艦内の医療施設で診察を受けた結果、薬を処方され、『4~5日は安静にしているように』とくぎを刺されてしまい、その間英はピアノはおろか学校以外の外出さえも控えることを余儀なくされた。

 そのドクターストップの期間も昨日で終わり、今日からようやくピアノが弾けるようになる。

 

「ところで影輔、明後日の日曜日って空いてる?」

「ん・・・特に予定はないけど」

「それじゃ、デートしましょ?」

「・・・ああ、いいよ」

 

 ケイの性格ゆえに、デートの約束もとんとん拍子で進む。恋心を自覚する直前や、告白する間際のぎこちなさが嘘のようだ。もちろん英も、デートをすること自体は嫌なはずなど無いので喜んで承諾する。ただし、この次は自分から誘おうとも思っていた。

 

「・・・前も仲が良さそうだったが、最近露骨だな」

「・・・付き合ってるのが大っぴらになって隠す必要も無くなったからかしらね」

「・・・やるねぇ、スコア」

「・・・攻めるなぁケイさん」

 

 ナオミとアリサ、クリスと山河がそれぞれ英とケイに()()()()()()()、かつこのテーブル以外の人には聞こえないぐらいの絶妙な声量で話す。だが、ケイはそんな話を聞いても笑みを崩さずフライドチキンを齧り、英は苦笑してフレンチフライを食べる。

 

「アリサだってタカシとそこそこいい感じになったんだし、人のこと言ってる場合じゃないでしょ?」

 

 ケイの発言に、アリサは『んぐっ』と食べていたハンバーガーを喉に詰まらせる。すぐにコーラを飲んで流し込み、息を少し荒げながら『ここでその話はやめてください!』と目で訴えかけるがもう遅い。

 

「タカシって・・・この前言ってた?」

「ああ、この間の総合演習の後、2人でディナーに行ってな。まあぶっちゃけ、アリサはそのタカシのことが好きなんだが、タカシ本人はアリサの好意に微塵も気付いていない」

 

 英が記憶を掘り起こして、アリサたちと初めて出会った時にチラッと聞いた名前を思い出す。それをナオミに確認すると、ナオミがほぼ大体の事情を明かしてしまった。それを聞いて、英と山河、クリスは同情の目線をアリサに向けるが、アリサはアリサで俯いてしまっている。

 尤も、この話はサンダース戦車隊の中では結構有名な話になっていて、影ながらアリサの恋路を応援する者もいるにはいるのだが。

 

「ファイト、アリサ」

「ドンマイ」

「いざとなったら戦車が恋人でもいいんじゃない?」

「フラれるの前提で話を進めないでよ!」

「大洗のラビットも同じことを言ってたな」

 

 アリサがかみつき、ケイはそのやり取りを見てお腹を抱えて笑う。その様子は、食堂ではよく見かける光景なので、取り立てて騒がれることもない。

 ただ、英はケイと付き合っていることが学内新聞で明かされてしまっているので、知り合い(特に男子)からは結構からかわれる。『羨ましい奴め、おめでとう』とか、『そのピアノの腕をよこせ、この幸せ者』だの、『ふざけやがって、やるじゃねーか』などと好き勝手に言ってくれる。最後には祝う言葉を混ぜるあたり、悪意が無いのは分かるが。

 そして英が不安に思っていた、2人が付き合うことに異を唱える者は今のところいない。あの『サンダースQA』での予期せぬコンサートを観ていた者はそれなりに多く、さらに音楽教師が高く評価していたので、英の実力が多くの人に知られることとなった。その成果を華々しく見せられれば、疑念や嫉妬心も湧いてこないのだろう。今は、そう思っておく。

 つまり、周りから見ても、英はケイの横に立つに相応しい人となれたということだ。

 とはいえ、付き合い始めても、昼食を2人だけで過ごすということはなく、いつものように皆で一緒に過ごすことが続いている。それは、英もケイも付き合い始めたからと言って他の人との関わりを疎かにするべきではないと思ったのもあるし、それに2人だけで過ごせる時間が他にもあるからだ。

 

 

 放課後になり、英は肩に学生鞄、左手に楽譜の詰まったトートバッグを携えて、『ハイランダー』棟の第5音楽室へと向かっていた。そこへ行く途中、職員室で鍵を借りたのだが、鍵を貸してくれた教師からも『頑張れよ、スコア・マイスター』と言われてしまい、実にありがたい迷惑だった。

 やがて音楽室の前にたどり着くと、やはりそこにはケイが待っていた。

 

「待ってたわ、影輔」

「悪いな、待たせて」

「気にしなくてOKよ?」

 

 そのケイは、右肩に学生鞄を提げていたが、左手にはどこかで見たような気がする紙袋を持っていた。だが、それについてはあまり考えずに、まず英は音楽室の鍵を開けようとする。

 そこでケイが、英の持つトートバッグの異変に気付いた。

 

「今日は結構多いのね・・・」

 

 外から見てもかなりの数の楽譜が詰まっているのが分かるし、上から見てみると十数冊ほど入っているようにも見える。普段英はここまで多くの楽譜を持ってくることはないのに、今日はどうしてだろう。

 

「急に友達から頼まれてな・・・。後、友達経由で同じ学年の知らない奴からも」

「へぇ~。もうそんなに人気になっちゃったんだ」

 

 これまで英にピアノをお願いしていた生徒は、大体が英と面識がある生徒であり、友達とか知り合いだった。だが、あの『サンダースQA』を観ていたからなのか、それとも学内新聞の評価を見て気になったのか、ピアノを弾いてほしいというお願いが増えた。

 せっかく無くなった手の痛みもまた再発しそうで今から怖くなってくる。

 だが、それもやはりケイが言った通り英の腕前が人気になったからでもある。だからこれも一概に悪いこととは言えない。

 

「でもやっぱり、まずは弾きたい曲を弾くよ」

「そうね、それが一番だと思う」

 

 英が机に荷物を置いてピアノに向かい、ケイも英の荷物の隣に自分の荷物を置く。

 どれだけ弾く曲が多くても、まずは自分の弾きたい曲、弾き慣れた曲を弾かない分には始まらない。自分にとって馴染みのある曲を弾いて、自分自身を調子づかせて少しでも弾きやすいようにする。

 そんなわけで英が一番最初に取り出した楽譜は、英の気に入っている曲で、ケイに告白をした日に完成した曲だ。

 

「よし、行くぞ」

「OK!」

 

 弾く前に、いつものようにケイに一言告げる。

 その返事をするケイは、前と同じくピアノの内部が見える位置に立つ。前まではピアノに一番近い最前列の席に座っていたが、そこを新しい定位置にするらしい。

 それを横目に見ながら、英は曲を弾き始める。盛り上がる部分と落ち着いた部分、楽しげな雰囲気と悲しげな雰囲気を併せ持つこの曲は、何度聴いても、何度弾いても飽きないと言っていい。

 

『自分の気持ちは言葉にしなくちゃ、それを感じる意味はない―――』

『人の気持ちに左右されるな。自分の道と未来を描け―――』

 

 この曲の中には、英がケイに告白をするために背中を押してもらったようなフレーズがある。そして、ケイもまた英と同じようにこの曲の歌詞を見て、自らの中にある想いを告げようと決意することができた。

 2人にとってこの曲は、とても思い入れのある曲で、なおさら英が弾きたいと思う曲である。

 

「やっぱりいい曲ね、うん。パーフェクト!」

「サンキュ」

 

 弾き終えると、ケイが拍手をしながらそう言ってくれる。

 こうして感想を言ってくれるのは、ピアノを弾く側からすれば嬉しいし、同時にありがたい。というのも、評価をしてくれることが嬉しいだけではなく、弾いている本人では気付けないほどの小さなミス気に入らない点、引っかかるところなどを言ってもらえれば、改善に繋げられるからだ。

 ただ、今のところはケイからそう言った指摘は無く、『バッチリ』と花丸評価を貰っている。

 

「じゃあ、次はと・・・・・・」

 

 英は次に弾く曲は、ケイのお気に入りのラブソングに決めていた。英ももうこの曲を弾くのには慣れっこだし、この曲を弾き始めてからケイに対する自分の恋心を自覚したのだから、やはりこれも思い入れのある曲である。

 

「あ、そう言えば」

「どうしたの?」

 

 英が最初に弾いた曲を楽譜に仕舞い、交代にそのラブソングの歌詞を引っ張り出そうとして思い出したのだ。

 

「あのラブソングも、弾いてほしいって言われてたんだった」

「そうなの?」

「ああ、この通り」

 

 英が、トートバッグからあのラブソングの楽譜を取り出す。だが、それは英の持っている楽譜よりも真新しくて、端が折れているなどの使い古された感じがない。英の言う通り、これが別の人物から弾いてほしいと頼まれ渡された楽譜だった。

 

「やっぱり、あのイベントで聴いて気に入ったらしい」

「そっかぁ~・・・なんだか嬉しいわね」

「それは確かに」

 

 この曲は英が作ったわけでもないし、ケイが作ったのでもない。ただ、自分の気に入った曲が他の誰かも気になってくれると無性に嬉しくなる。自分たちはこの曲が良い曲だと分かっていて弾き歌ったのだから、その『良い』という感性が伝わったからだろう。

 

「ところで、他にはどんな曲を頼まれたの?」

「あー・・・・・・あのイベントで弾いた曲とか、後は有名なピアノの曲とか、色々・・・」

 

 話題のついででケイが聴いてみると、英はトートバッグを覗き込みながら答える。やはりあのイベントの影響は大きかったようだ。他に頼まれたのは、音楽の授業で聴いたことがあるらしい曲や、冗談抜きで超絶技巧を要するような曲も合って、英は嘆息する。

 

「一体いつ消化しきれるのか・・・」

「ファイト、ファイト!」

 

 ケイに励まされて、英もふっと小さく笑ってやる気を出す。それに、英も頼まれた以上投げ出すつもりはさらさらなかった。

 

「・・・影輔」

「ん?」

 

 そこでケイは、気付いた。

 英は元々、過去のことが原因で、誰かに縛られてピアノを弾くことを嫌っていた。だから部活動には所属しておらず、自由にここでピアノを弾いていたのだ。だが、今はあのサンダースフェスタの成果もあって、多くの人からピアノを弾いてほしいと頼まれている。

 弾いてほしいという曲が決められているこの状況は、英が嫌う『誰かに縛られてピアノを弾く』ということに似ているのではないだろうか?と思えてならない。

 

「影輔は・・・平気なの?」

「何が?」

「今みたいに・・・・・・誰かに縛られてピアノを弾くの」

 

 ケイが案じるように問いかけて、英は心の中では嬉しかった。だって、それだけケイが英自身のことを見てくれていて、かつての自分の言葉を覚えているということだ。つまり、自分のことを気にかけてくれているというわけで、それが好きな人からなのだから嬉しいのだ。

 そして、ケイのその心配も今は要らなかった。

 

「・・・前は確かにそういう弾き方は嫌だったけど、最近はそうも思わなくなった」

「え?」

 

 ぽつぽつと英は、言葉を探しながらケイに話し出す。

 サンダースフェスタに向けて、英はクイズ研のアイザック部長から、本番で弾く曲と弾き方を指定された。さらに完成させる期限も決められてしまった。そして、正式な所属ではないが、クイズ研究部に協力するという形でイベントに参加していたので、それは確かに英の嫌う『誰かに縛られてピアノを弾くこと』と同じだった。

 だが、それを英は苦痛とは思わず、むしろ『楽しい』とさえ思っていた。

 そう思うようになった理由は、ケイのホームパーティでピアノを弾いたことだと英自身は考えている。

 

「ホームパーティの時に、ケイに急な話でピアノを頼まれたから・・・あれも、まあ『その弾き方』に近かったのかもしれない」

「それは・・・・・・ごめんなさい」

「いや、謝らなくていい。むしろ、あの時頼んでくれなかったら、前みたいにしがらみの中で弾くのを嫌ってた」

 

 あのホームパーティで皆の前でピアノを弾き、そしてそこにいた多くの人から『楽しかった』『パーフェクトだ』と認められて、それ以来『縛られる弾き方』に対する忌避感も薄れていったのだ。

 そうなったきっかけは、英も言うようにあの時頼んでくれたケイだ。そこまで考えてのことではなかったのだろうが、結果的には考え方を変えることができたのだから、英としてはやはりありがたかった。

 

「それに、あのホームパーティと、前のサンダースフェスタで思うようになったことがある」

「?」

 

 ホームパーティでも、『サンダースQA』でステージの上で弾いた時も、自分の弾いたピアノで多くの人を楽しませ、笑顔にすることができたのが、英はとても嬉しかった。自分の弾いたピアノにそれだけの価値と力があるのだと、実感することができたのだ。

 そして今、英の中には小さな望みが芽生えている。

 

「もっと、いろんな人を・・・自分のピアノで楽しませたいって、思うようになった」

「・・・・・・・・・」

 

 ケイは英の思っている望みを、声を上げて笑ったりなどせずに静かに聞いていた。

 

「俺は『誰かに縛られてピアノを弾きたくはない』とか『プロにもなりたくない』なんて言ったけど・・・今はそうも思わなくなった」

 

 そのきっかけは、やはりケイとの間で起きた出来事だ。ケイにあのホームパーティで頼まれたからこそ、そしてケイの横に立つに相応しい人となれるように努力したからこそ、今の考えを持つことができたのだ。

 だが、英を見て笑うケイとは対照的に、英は少し落ち込むような表情を浮かべる。

 

「ただ・・・・・・一度あーだこーだ言って自分でその道を諦めたのに、今さらその道を選び直すっていうのはダメかもしれないけど・・・」

「ダメじゃないわよ、そんなこと」

 

 英の言葉を真正面から否定するケイ。びっくりしたような顔で、英はケイのことを見る。

 

「影輔の『いろんな人を自分のピアノで楽しませたい』っていう願い・・・かな?それは誇らしいことよ」

「・・・・・・・・・」

「それと、影輔がこれまで『やりたくない』って思っていたことに向き直って、『やりたい』って良い方向に考え直すことは、全然ダメなことじゃないわ」

 

 そう力強く言われては、英もこれ以上否定的な意見を述べる気にもなれないし、そんな意見さえも浮かばなくなる。否定的な気持ちさえも感じない。

 

「・・・そうか、ありがとう」

 

 だから今は、英の新しい望みを否定せずに認めてくれたケイに対してお礼を告げて、立ち上がり。

 

「・・・目指してみる、その『夢』を」

 

 英の中に芽生えていた『望み』は『目標』に、『夢』に変わった。

 この英の中の小さな変化は、この先の英の人生に向けての大きな変化だった。

 

「・・・・・・頑張って、影輔」

 

 そんな英は今、とても輝いて見える。新しい夢を見つけた人は、こうも変わって見えるのかと、ケイはその変化を目の当たりにして自分も嬉しくなっていた。

 

「影輔のその夢、私はこれからもずっと、応援するから」

 

 ケイは、ニコッと笑う。英もつられて、唇が緩んで笑みがこぼれる。

 

「じゃあ、そんな影輔に1つプレゼントを」

 

 そう言いながらケイは、机に置かれていた英がどこかで見たような紙袋から2つの長方形の箱を取り出す。その箱を見て、英もようやくどこで見たのか、その袋が何なのかを思い出した。

 

「・・・それ、手芸部展で買ったネックレスか」

「Exactly, その通りよ」

 

 それは、サンダースフェスタ初日に英とケイの2人で回った際に立ち寄った、手芸部のブースでケイが買っていたネックレスだ。ロケットの部分には、サンダースの校章にも描かれている稲妻が刻まれている。

 今この場で取り出したということは、どうやらそれは英に贈るつもりのようだ。

 

「てっきり・・・それは別の誰かに贈るものだと思ってた」

「えー?元々は影輔のために買ったつもりだったのよ?」

「・・・そうか」

 

 あっけらかんと、どうってことのないように言い放つケイの言葉に、英も少し鼻が痒くなる。恥ずかしさと嬉しさがない交ぜになってどう言い表したらいいのかもわからず、『そうか』という曖昧なことしか言えない。

 そんな英の気も知らずに、ケイは箱からネックレスを取り出すが、すぐに何かを閃いたような顔をする。

 

「ねぇ、影輔」

 

 そしてケイは、その取り出したネックレスを英に手渡してきた。だがそれは、無言の『自分で着けろ』と言うメッセージを持っているのではなくて。

 

「これ、私の首に掛けてもらってもいい?」

「・・・それは別にいいけど」

 

 贈るつもりだったのに急に自分に掛けてほしいとは、少し不思議に思う。だが、英の記憶が確かならば同じものをもう1つ買っていたので、お揃いのペアルックにしたいのだろう。

 そのペアルックは英にとっては少し恥ずかしいことだが、拒否するわけにもいかないので、まずは大人しくケイの言う通りネックレスを掛けることにする。

 そこで。

 

「・・・・・・・・・」

 

 ケイは瞳を閉じて、英に近づけるように顔を前に出して、さらには少し首を上に向ける。

 その体勢が、キス前のポーズに見えなくもない。

 まさかそれが狙いではないだろうかと英は邪推する。そしてそう考えてしまうと、ケイの顔、具体的にはその口元を意識してしまう。

 

(いやいや、それは流石に・・・・・・)

 

 だが、ここで何も言わずにキスなど仕掛けるのは、英も少し憚られる。無論英も、ケイとは恋人同士になれたので『そう言うこと』もいずれは・・・とは思っていたが、流石に急すぎる。それに、ケイが無意識にこの体勢を取ったという可能性も十分にあった。

 なので、冷静さを取り戻した英は『掛けにくいから』という建前の理由を思いついてケイの背後に回り、後ろからそっとネックレスを掛ける。『ヘタレ』と言われても構わない。

 

「よしOK,終わった」

「・・・・・・・・・むぅ」

 

 英がケイの肩を軽く叩くが、どうやらケイはご不満の様子。やはり、さっきの体勢は意図的なものだったらしいが、何がいけなかったのか、等とは聞かないでおくことにした。

 

「それじゃ、次は影輔の番ね」

 

 そう言ってケイは、もう1つの箱を空けてネックレスを取り出す。

 そこで英は、ケイの首に掛けられたネックレスを見るが、結構似合っている。ただし、装飾品の類は校則でNGなので、あまり見る機会もなさそうなのが残念だ。

 そんなケイは、ネックレスを手に英の前に立ち、人差し指でちょいちょいと『近寄って』とサインを出す。英も逆らうことなどできないので、大人しく少しだけケイとの距離を詰める。

 

「もうちょっと、首を前に出して?」

「・・・ああ」

 

 ケイに促されて、英も少し首を前に出す。

 必然的に、ケイの顔との距離が縮む。

 

「・・・・・・もっと」

「・・・・・・うん」

 

 さらに近づくよう促されて、さらに英はケイの顔に自分の顔を近づけて、2人の間の距離がさらに詰まる。吸い込まれるようなケイの瞳が、英の瞳に映る。

 そして、どちらからだろう。

 2人とも、引き寄せられるように唇を寄せて―――

 

 

 

 それから少しして、『ハイランダー』棟の第5音楽室から、ピアノの音色が聞こえてきた。

 その音色に合わせて、澄み切ったような綺麗な歌声も聞こえてきた。

 そのピアノと歌声は、音楽室のわずかに開かれた窓から外に流れ、サンダース学園艦が航行する広い海へと溶けていく。

 2人のピアノと歌声が合わさって奏でる穏やかな音色は、サンダースの校舎に風のように流れていく。

 英とケイが愛する歌声と旋律は、静かにこの時を彩り、そして静かに響き渡っていった。




これで、ケイと英の物語は完結となります。
長い間ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
ガルパン恋愛シリーズも4作目となりましたが、いかがでしたか?

今回のケイ編では、過去の作品で使っていた
『何かしらの共通点を持った主人公とヒロインにする』
『ラストで2人が結ばれ大人になってからのことを書く』
『アニメ本編・劇場版の裏側を描く』
という書き方を敢えて取りませんでした。

特に劇場版の後のことを独自で書き、さらに今回のテーマである『ピアノ(音楽)』を合わせるのは、
『ガルパンの世界観を損なわず、かつ釣り合いが取れるように』ということでどうやって作品に戦車を登場させるかに悩みましたが、
サンダースフェスタというイベントで戦車を登場させる形にしました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。

当初は、今回のテーマを決めてから、ヒロインをケイにするかナオミにするかに悩みました。
その末に、音楽を聴くというイメージがナオミよりも少し薄いケイをヒロインにすることにしました(筆者自身ケイが好きなのもありますが)。
作中、ナオミの出番がそこそこ多かったのはその名残でもあります。いつかはナオミをヒロインに据えた作品も書きたいです。
アリサの恋路もほんのちょっとだけ書かせていただきました。アリサが報われる日も是非来てほしいものです。

次回作を投稿する時期は不明ですが、次のヒロインはバミューダ三姉妹の1人か、継続高校の子を予定しています。
過去作の一部修正も行う予定なので、新作は早くとも4月頃になるかなと思います。
今作品は最初の投稿で躓いてしまったので、次回はそれが無いように十分気をつけます。

最後にもう一度、
ここまで読んでくださった方々、応援してくださった方々、評価をしてくださった方々、感想を書いてくださった方々、
本当にありがとうございました。
また、次の機会にお会いしましょう。

ガルパンはいいぞ。


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クリスマス記念
奏で続けよう


クリスマスと言うことで、書かせていただきました。
少し長めですが、よろしくお願いいたします。


 12月も半ばを過ぎれば、どこもかしこもクリスマスムードに染まる。

 それはサンダース大学付属高校学園艦とて例外ではない。艦内の店舗にはポップアートや電飾などにぎやかな装飾が施され、キャンペーンやセールを行い客足を伸ばそうと図っている。ここ最近で売れているのはパーティグッズやお菓子、ジュースなどの嗜好品らしい。

 そして学校の中庭には、どでかいクリスマスツリーが聳えている。元々植えられていたモミの木は、オーナメントや色とりどりのモールで煌びやかに彩られていた。頂点の大きな星の飾りがトレードマークだ。

 

「ホントでっけーなー・・・」

「カメラに収まんないよ~」

 

 毎年恒例のこのツリーは、完成度も高く生徒からの人気が高い。1年の内わずかな期間でしか見られないこのツリーを一目見ようと、そこそこの数の生徒が木の下に集まっている。写真に収めたり、絵に描こうとするアーティスト気質の者までいた。

 総じて、サンダースはクリスマスが近いのもあって全体的に浮ついた雰囲気になっていた。それは、アンツィオほどではないが、ノリが良く、楽しいイベントを好むタイプのサンダースにとっては当然の帰結とも言える。

 

 

 そんな喧騒から離れ、クリスマスツリーさえ見えない場所にある校舎『ハイランダー』棟。

 サンダースの校舎はいくつも棟があるが、この『ハイランダー』棟にしかないものがある。

 それは、第5音楽室で奏でられているピアノの音色だ。穏やかで優しいその旋律は、静かな校舎に溶け込むように目立つことなく流れている。

 そのピアノを弾いている赤みがかった黒髪の男子は、英影輔。視線はピアノと鍵盤だけに向けられており、指は淀みなく鍵盤を叩いている。

 そして、英が弾くグランドピアノに寄り掛かる金髪の女子は、サンダース戦車隊の隊長・ケイ。目を閉じて、英のピアノに静かに耳を傾けている。

 

―――胸に秘めたその気持ち、いつか忘れてしまうかも

―――それは見えないものだけど、いつもあなたの傍にあるよ

 

 弾いているのは格式高いクラシック曲などではなく、ドラマの主題歌にもなったラブソングだ。そもそも英が弾くのは、大半がこういった大衆向けの曲である。

 曲は既に最後のサビに入り、メロディは盛り上がりつつある。対旋律を奏でる左手は忙しくなってきた。それでも英は焦らず冷静に鍵盤を叩き、楽譜に沿って音を奏でる。

 

―――寂しい時も2人で乗り越えて

―――大切な人を忘れないで

 

 最後のフレーズも終えて、後奏に入る。サビで盛り上がっていた雰囲気を残しつつ、落ち着いたメロディになる。そして、その曲調を維持したまま最後の小節に差し掛かり、曲は終わりを迎えた。

 

「いい曲だったわ、グレイト!」

 

 鍵盤から指を離すと、ケイが小さく拍手をしてくれる。英は軽く手を挙げて『ありがとう』と応えた。拍手が小さいのは曲の余韻を壊さないためのケイの気遣いで、それは英も知っている。だから『あんまりな出来だったのか?』と不安にもならない。

 

「どうにか、形にできたか」

「そうね。聴いててもおかしなところなんてなかったわ。でも、難しかったかしら?」

「まあ、な。結構テンポが速めの曲だし」

 

 英個人としては、テンポが速い曲の方が好きだ。しかし、速ければ速いほど奏でる音の数は増えるし、リズムも複雑になって難易度は上がる。先ほどの曲は難しい方だった。その分、完成した時の達成感は十分ある。

 

「やったわね、影輔」

 

 右手を差し出してくるケイ。英の傍で練習しているのを見てきたから、達成感を抱いているのはケイも同じだった。

 その差し出された手を、英は優しく握り返し、ケイが一緒になって喜ぶのを嬉しく思う。

 やがて手を離すと、英は時計を見て『さて』と。

 

「そろそろ帰るか」

「え、もう?」

 

 時刻は4時半過ぎ。サンダースの校舎は冬休みも開放されており、その上限時刻は5時。まだ少し時間が残っている。ケイとしては、もう少し英のピアノを聴いていたかった。

 

「帰りに買い物していくんだろ?付き合うよ」

「・・・Oh,そうだったわ」

 

 この音楽室に来た時、『帰りにショッピングを少ししたい』とケイが言っていたのを英は忘れていなかった。

 

「でも急いでるわけじゃないし、時間いっぱいまで残ってもノープロブレムよ?」

「いや、陽が落ちると寒くなるし、明るいうちに行っておこう。それに、ピアノは今日しか弾けないってわけでもないし」

 

 この時期は、身を裂くような寒さが容赦なく襲い掛かる。学園艦は海を航行しているから、風の影響をもろに受けやすい。そのリスクを少しでも抑えるために、英は早めの下校を提案した。

 そしてそれは、ケイを気遣ってのことであることも、当人は感じ取る。

 

「・・・そうね、そうしましょう」

 

 ケイが頷くと、英も早速帰り支度を始める。持ってきた楽譜をお気に入りのトートバッグに仕舞い、鍵盤には保護シートを被せて蓋を閉める。

 それから音楽室の鍵を閉めて、職員室に鍵を返してから昇降口へと向かう。

 

「さて、行くか」

「うん」

 

 昇降口を抜けると寒い空気を全身で受け、同時にケイが何の前触れもなく英の手を握ってきた。しかし英は、払いのけたりはせずにその手を握り返す。

 英とケイ、2人が付き合い始めて2か月近くが経つ。元々ケイはボディタッチがそれなりに多かったので、最初は戸惑ったこれも今は安心感すら覚える。

 

「それにしても、やっぱり繁盛してるわね~」

「後から後から頼まれてな・・・切れ目がない」

 

 英の持つトートバッグの中には、ゆうに10冊を超える楽譜が入っている。それを見て、ケイは苦笑した。

 その楽譜のほとんどは、英にピアノを弾いて録音してほしいと頼んできた人のもの。英自身の持っているものは1~2冊程度しかない。

 元々英のピアノの腕を知っていた人が頼んでくることはよくあった。

 だが、学校を挙げての学園祭『サンダースフェスタ』で英の技術が明るみになったことで、その依頼の数は大きく跳ね上がったのだ。サンダースフェスタ直後は文字通り山積みだったので、日にちが経った今では大分落ち着いている。とは言え、やはり以前と比べれば多い。

 

「疲れたりしてない?」

「大丈夫。腱鞘炎にもなってないし、加減は弁えてるつもりだ」

 

 ケイが心配そうに訊くと、英は強がりなどではなく素直に笑って答える。

 サンダースフェスタに向けての練習とその本番で、いつも以上にピアノを弾きまくった結果、英は無理が祟って腱鞘炎になりドクターストップまでかかった経験がある。その時ケイに心配をさせてしまったので、英はそうならないために今は程よくブレーキをかけている。

 

「もう本格的にクリスマスだな・・・」

 

 サンダースの町を歩きながら、英は民家を彩るイルミネーションや店舗のポップアートを見てしんみりと呟く。

 

「ケイといると、時間が経つのが早く感じる」

「なんで?」

「そりゃ、楽しいことが多いから」

 

 付き合い始めてから、英はケイと共に色々な場所へ行った。

 設備の揃うリッチな学園艦特有の映画館や水族館、プラネタリウム。本土に寄港した時は、街を一緒に歩いたこともあり、この間はOBのメグミの提案で猫カフェにも行った。

ケイがアクティブな性格だからか、デートの範囲は広く、かつ1日中出ずっぱりのことが多い。

 それが英は、楽しかった。隣にいるケイがとても楽しそうで、そしてそんな彼女を英が好きでいて、それこそが英が望んでいたものだったから。

 そんな楽しくて濃い時間を過ごしてきたからこそ、時間の流れを早く感じるのだ。

 

「・・・そう言ってくれると、嬉しいわ」

 

 ケイは、言葉と共に手を握る力をほんの少し強くする。

 嬉しいのはケイも同じなんだと、英はその手から伝わる温かさで感じ取った。

 

 

 ケイのショッピングで訪れたのは、ごく普通のスーパーマーケット。

 ケイは買い物カゴに、お菓子やジュース、パーティ用のクラッカーなどを入れていく。それは、クリスマスイブにケイの寮で開かれるクリスマスパーティ用のものだ。

 

「今度はどれぐらい来るんだっけ」

「えーっと・・・20人ぐらいだったかしら。影輔も呼ぶんでしょ?」

「ああ、山河とクリスを・・・平気か?」

「OKよ」

 

 ケイの趣味のホームパーティは、月に数回程度の頻度で開かれる。その主催者であるケイの顔の広さは知っているので、今さら20人程度ではもう驚かない。

 そしてケイと付き合い始めてから、英も友達をホームパーティに招待するようになった(ケイとしては禁止していたつもりはない)。その友達―――山河とクリスもホームパーティを通じてケイとは親しくなっている。

 

「けど、菓子は買いすぎじゃないか?」

「多いに越したことは無いし、今回だけで食べきる必要もないからね」

 

 お徳用サイズのお菓子をカゴに入れていくが、ケイの言う通りまた次のホームパーティで必要になるかもしれないので、とやかく言わないでおく。

 そして買い物を終えて会計を済ますと、英は何も言わず、さも当然と買い物袋を手に提げる。結構重いが、愚痴るのはカッコ悪い。

 そんな英の気遣いにケイは小さく笑い、空いた手を繋ぐ。多くは語らなかった。

 

「影輔は、パーティ用の曲ってもう決めた?」

「ああ、3~4曲ぐらい。でいいか?」

「OKOK。いざとなったら私の楽譜を貸すわ」

 

 英は、パーティやイベント向きの曲もいくつか習得している。そして、ケイのホームパーティで自分のピアノを披露するのは最早定番と化していた。

 ケイも、英と付き合い始めてから、歌やピアノに興味を持ち始めている。まだピアノは弾けないが、それでも英のピアノが好きだから、楽譜を手に曲を頼むことは増えてきた。

 無論、英はそれを断ったことは1度もなく、ケイのためならと喜んで受け取って練習し、そして演奏する。『お礼はいらない』と英は言うが、ケイも義理堅い性格なので『何かお礼がしたい』と押して押され、最終的にご飯を奢ってもらう結果に落ち着く。

 そして、ケイからピアノを頼まれてから、英にも新しい発見があった。

 

「そう言えば、ケイから色々頼まれて分かったけど、ラブソングってしっとりした曲ばかりなわけでもないんだな」

「あー、確かにそうね。影輔が好きそうなのもあったでしょ?」

「ああ、あったな」

 

 これまで英は、恋愛系の曲に対して、全体的にゆっくり・しっとりしたバラードが多いとばかり思っていた。それが嫌いなわけではないが、テンポが速く、明るい曲が好きな英はどうも苦手だったのだ。

 ケイと英にとっては特別な、2人でサンダースフェスタで奏でたラブソングも、そんな感じの曲だった。

 だが、様々な曲をケイから頼まれ、教えてもらう中で、ラブソングはそういう感じの曲ばかりではないと知った。ケイの言う通り、英が好きなタイプの曲だって少なからずある。

 

「まあ、食わず嫌いってヤツだったな」

「あはは、言い得て妙ね」

 

 『そんな感じがする』という先入観だけで遠ざけていた英は、まさに食わず嫌い状態だったのだ。音楽家を志す者としては失格だろう。

 

「だから、ありがとうな。気付かせてくれて」

 

 それに気付くことができたのも、ケイのおかげだ。それは嬉しいほかないし、気付かせてくれたケイには感謝の気持ちを伝えたかった。

 それを聞いてケイは、にっと白い歯を見せて笑った。

 

「お礼なんていいわよ?私だって影輔のピアノが聴けて嬉しいし」

 

 いつだって、ケイは英に屈託のない笑顔を見せてくれる。

 その笑顔が、英がケイの好きなところに変わりはない。

 

「あ、そうだ。クリスマスパーティで、またあの曲を歌ってもいい?影輔のピアノと一緒に」

「ん、いいぞ」

「やった」

 

 その歌いたい曲は、もう分かっている。ケイが歌いたいのであれば、英はその曲を弾くだけだ。それに、そのケイの言う曲は2人にとっても特別な曲。それを却下するなど考えられない。

 

 

 ケイの寮へと向かううちに、陽はさらに沈んでいく。

 陽の光が弱まれば気温も下がり、寒くなってくる。冷たい潮風が吹き、冬の寒さを嫌でも実感させてくる。

 だが、澄み切った空には一番星が輝いていた。そんな空をケイは見上げ、白い息を吐く。

 

「今・・・どのあたりかしら」

「明後日には、長崎に着くんじゃなかったか?」

 

 どの学園艦も年末年始は母港に寄港し、生徒が実家に帰省しやすいように配慮してくれる。このサンダースの学園艦も、母港・長崎港に向けて航行している最中だ。

 

「実家にはいつ帰るかな・・・」

 

 英が独り言をつぶやくと、そこでケイの表情がなぜか明るくなった。

 

「ね、影輔」

「?」

 

 そしてその表情のまま話しかけてくる。

 

「私たちが付き合ってるのを家族に伝えるって話、この前したじゃない?」

「・・・ああ、そうだったな」

 

 冬休み前の時点で、2人とも正月は実家に戻ると決めていた。その時ケイは、自分の家族に英と付き合っていると報告したらしい。それについては、英も恥ずかしくはあったがOKを出した。

 

「そしたらね、ウチの家族がぜひ影輔に会ってみたいって」

「何?」

 

 ケイが言うには、ピアノを弾いている男子、というところに興味があるらしい。また、家族もケイの性格を知っているからこそ、そんな彼女が好きになった男がどんな人なのか実際に会ってみたい、だそうだ。

 

「・・・不安だ、すごく」

「心配いらないわよ!ウチのパパとママ、とってもフレンドリーだから」

 

 そうは言っても、実際に会ったことが無いのでどうなのか想像できない。ケイの言葉を疑うわけではないが、それだけではまだ不安だった。

 

「で、影輔はもう言った?」

「ああ・・・大方ケイと同じ。喜んでたし、ケイに会ってみたいって」

「ホント?良かった~」

 

 『喜んでた』と言っても、母親が『あなたに彼女が?』と若干失礼な物言いだったのは今も少し根に持っている。

 しかしながら、ケイを歓迎する雰囲気だったので、恐らく帰省する時に一緒に行くことになるだろう。

 

「影輔のママもピアノ弾いてるんでしょ?どんな人か楽しみね~」

「物怖じしないな・・・ホントに」

 

 英とは違って、ケイは早くも英の両親に会ってみたいらしい。その辺りは性格の差だろう。

 そしてそうこうしているうちに、ケイの寮が近づいてきた。

 

「明日も、ピアノの練習するのよね?」

「ああ」

「じゃあ、戦車道の訓練が終わったら、また聴きに行ってもいい?」

 

 サンダース戦車隊は、冬休み中でも訓練が続いている。

 先の全国大会で大洗女子学園に敗北を喫して以来、練習にはより一層力を入れている。夏の終わりには共闘したとはいえ、全国優勝までのし上がった大洗がサンダースの乗り越えるべき壁であることは変わらない。だから、次こそ勝てるように練習は欠かさないのだ。

 それに、ケイは今年度末で卒業してしまうので後輩の育成にも力を注いでいる。冬休みで帰省する隊員もいるので、訓練の規模は普段よりも縮小しているが。

 そんな訓練の後で、今日のようにピアノを弾く英の下へ行き、傍で静かにピアノの音色に耳を傾けることをケイは楽しみにしていた。

 だが。

 

「・・・悪い。明日はちょっと、どうしても1人で練習したい曲があるから・・・」

「そっか・・・分かったわ」

 

 最近、こうして英が『1人で練習したい』と言うことが増えた。

 ケイは極力声と表情に出ないようにしているが、それはどうしても残念だった。

 そして同時に、不安でもある。英が1人で練習したい曲がどんなものかは気になるが、まさかそれは『建前』で、何か後ろめたい理由があってケイを遠ざけているのではないか、と。

 

(・・・・・・っ)

 

 その理由を考えると、ケイの胸の奥がざわつく。たまらず自分の胸を押さえつけたくなるほどに、苦しくなる。

 自分にとって辛いこと、考えるのも恐ろしいほどの何かが起きているのではと邪推してしまう。

 

「ケイ」

 

 英に呼ばれ、ハッとする。

 沈みかけていた意識が引き戻される。

 

「本当に、ごめん。だけど、明後日は大丈夫だから・・・」

 

 そう言う英は、目に見えて分かるほどに辛そうだった。

 ケイが聴きに来るのを拒んでいることを、自分で悔やんでいるように見える。

 

「・・・それじゃ、明後日を楽しみにしてるわね」

 

 その顔を見ると、不安よりも疑問の気持ちが強くなる。そうまでして練習したい曲とは、何なのか。それ以前に、本当に曲を練習しているだけなのか。

 寮の玄関先で、英はケイのルームメイトのシンディにレジ袋をバトンタッチし、家路に就く。それを見届けながら、ケイは心の中で蟠りが大きくなっていくのを感じ取っていた。

 

□ □ □

 

 くどいようだが、サンダースはリッチなおかげで戦車道の設備も整っている。だから、普通の学校では実施しにくい訓練だってできるのだ。

 サンダース学園艦は艦上だけでなく、艦内にも演習場を有しており、地形も草原や荒野など様々。プールと併用すれば浜辺を想定した訓練だってできる。さらに、あらゆる天気を再現することができ、大雨や雪、夜間も自由自在だ。

 今は、草原地帯に人工雪を降らせて雪原を再現し、10対10の模擬フラッグ戦が行わている。

 

『敵フラッグ車、C10地点を通過!』

 

 Bチームを率いるファイアフライの砲手・ナオミは、通信を聞くと照準器を覗き込む。焦らず気持ちはフラットに、いつでも敵戦車を撃破できるよう備える。

 このファイアフライが控えているのは小高い丘の上で、敵戦車を狙いやすい位置にいる。加えて雪で視界が悪く、さらに天気も暗めなのでの車体は見つかりにくい。

 しかしナオミは、この模擬戦が始まってから一度も()()()敵戦車を狙ったことは無い。ナオミの砲手としての腕は全国トップクラスで、命中率はほぼ百発百中。そんな彼女が初めから前線で戦い、相手を片端から撃破しては周りの成長につながらない。だからナオミは、最終段階までは極力本気を出さないようにしていた。

 そして今、敵チームの戦車は大分減っており、ナオミは自分が参戦する頃合いだと思った。

 

(なまじ腕が良すぎるのも、考え物だな・・・)

 

 決してナオミは、妄信しているわけでも、驕っているわけでもない。自分の腕がここに至るまでには、相応の鍛錬と、自分に対して強い自信を持つことを欠かさなかった。その賜物と考えて、そして自分に酔うことなく研鑽を続けている。だからこそ、今のナオミの立場はあるのだ。

 

「・・・・・・」

 

 頭でそう考えても口には出さず、ナオミは黙って照準器越しに敵戦車の動きを追う。

 ファイアフライの中はエンジンのアイドリング音に混ざり、ナオミがガムを噛んでいる音が響いている。だが、他の乗員はそれはナオミが集中している証だと分かっているから、不快には思わない。

 

『こちらチャーリー、C12地点に到達しました!敵フラッグ車、C14地点に向かって邁進中!』

「装填完了しました」

 

 チャーリーの車長からの通信、装填手の報告にナオミは頷き、砲塔を動かして目的の場所に狙いを定める。そこを通過しようとしたところを狙い撃つ算段だ。

 照準器を覗き込み、焦らず冷静に、獲物が視界に入るのを待つ。先走ってしまえば、撃破するチャンスを逃してしまう。

 やがて、雪が降りしきる照準器の中に、敵フラッグ車のシャーマンが入る。

 

「!」

 

 それを逃さず、ナオミはトリガーを引く。他のシャーマンとは違う鋭い砲声が響き、ファイアフライが揺れる。

 そしてナオミの覗く照準器の中で、敵フラッグ車が黒煙を上げて停車し、白旗を揚げるのを確認した。

 

『Aチームフラッグ車、走行不能!Bチームの勝利!』

 

 審判係の通信が入り、ファイアフライの中の見えない空気が緩む。ナオミも照準器から顔を離して、小さく息を吐いた。

 

「みんな、お疲れ」

『お疲れ様です!』

 

 声をかけると、疲れを感じさせない声が返ってくる。ナオミはその声を聞いて頷くと、ファイアフライが前進してゆっくりと丘を下り始める。既に人工雪は止んでおり、照明も点いていて演習場はさっきとは違い明るかった。

 丘を下りたところでナオミがキューポラから身を乗り出すと、撃破を免れたAチームのケイのシャーマンが並走する。

 そして、ケイもまたキューポラから身を乗り出し、ナオミの方を見る。

 

「・・・・・・」

 

 その顔を見て、ナオミは首を傾げる。

 ケイの表情は、まるで何かに縋るようだったから。

 

 

 

「影輔が最近、1人で練習することが増えてきてると」

 

 昼休憩の時間、ケイから相談を受けたナオミは話の要点をそうまとめた。

 場所は艦内演習場より2つ上の階層。戦車隊員用のミーティングルーム兼休憩スペースで、周りも多くの隊員たちが思い思いに休憩をしている。ナオミもまた、傍らに昼食のホットドッグを置いていた。

 

「いつから?」

「冬休みに入ってから・・・それまでは無かったわ」

「影輔がそうなるような心当たりは?」

「・・・正直、全く思い浮かばない」

 

 イスに深く座るナオミは、ケイに質問を投げかけつつも考える。

 ケイの話は分かった。だからケイが不安になったり、英を疑ってしまうのも頷ける。

 だが、ナオミは英がちょっとやそっとの理由でケイを遠ざけるとは考えにくかった。何せ、英はケイに相応しい人になろうとどれだけの努力と成果を挙げたのかは知っているし、そうさせたのはナオミ自身でもある。

 だから、自分の全てを賭けてでも一緒になったケイを、そう簡単に見放すだろうか、とナオミは考える。ましてや浮気など、あるだろうか。

 

「・・・で、なんで私は呼ばれたんです?」

 

 その2人の間で、サンドイッチを手に不服そうにしているのはアリサ。

 相談事ならばケイとナオミの2人で十分だろうし、おまけにその内容はこの場にいない英のことだ。2人は同じ寮に住んでいるからここで話す必要は無いし、なお自分が呼ばれる理由がアリサには分からない。

 そこでナオミは、ふっと笑う。

 

「あるぞ、理由」

「どんな?」

「友達以上恋人未満のボーイフレンドがいる」

「んんっ!?」

 

 野菜ジュースがむせ返りそうになった。

 

「アリサ、最近タカシの方とは仲良くやれてるみたいじゃないか」

「そうね。傍から見たら、ただのボーイフレンドには見えないわ」

 

 2人の言葉にアリサの顔が赤く染まる。

 サンダースフェスタの模擬戦以来、アリサは男友達にして意中の人・タカシとの交流が増えている。昼食は2人で、休日も一緒に出掛けるなど、その関係はまさにケイの言う通りだ。サンダース戦車隊の見解では、2人の関係も『良い意味で』時間の問題とのことである。

 

「まあ、現在進行形で恋しているアリサならどうするか意見が聞きたい」

「そう。だからあなたを呼んだのよ」

 

 アリサもそう言われては、無下に断れない。なんだかんだでアリサも、ケイとナオミのことは尊敬してはいるのだ。

 また、アリサにとってもこの話は他人事とは思いにくい。

 ケイと同じように、自分の好きな人―――アリサの場合はタカシ―――が、自分を遠ざけるような素振りを見せてきたら、どうする?

 

「・・・私が何かしなかったか、考える」

「で、心当たりが無かったら?」

「その人を、見て観察する。何か変わったところがないか」

 

 アリサの意見はもっともだと、ナオミはケイを見る。しかしケイは、それでも心当たりがないらしく、肩をすくめる。

 

「ピアノを弾いてる時は変わらないし、デートの時も・・・。だからって四六時中一緒にいられるわけじゃないし」

 

 英もケイも、寮生活が続いている。相手の行動を見ていられるのは、一緒にいる時だけだ。それ以上、例えば尾行などに出るのはストーカーの一歩手前、フェアじゃないのでケイは嫌だった。

 

「それに・・・」

 

 付け加えるようなケイの言葉に、アリサとナオミは疑問符を表情に浮かべる。

 

「影輔も、すごく辛そうな顔をしてた。何か疚しいことをしてるとかじゃなくて、本当に私を遠ざけてることを申し訳なさそうに・・・」

 

 膝の上で手のひらが握られる。その瞳は揺れていた。

 ケイは言わずと知れたサンダース戦車隊の隊長で、洞察力は高い。人を見る目もあるし、その言葉に嘘偽りはないだろうと、アリサとナオミは思う。

 だが、ますますもって英が1人で練習したがる理由が分からなくなった。

 こうなると、こちらがあれこれ考えたところで結論は出ない。

 

「後はもう、直接訊くぐらいしかないですかね」

「まあそれが一番手っ取り早い・・・けど」

 

 自分に落ち度はないと思う、かと言って相手にも変わっている様子が無いとなれば、アリサの言う通り直接訊くのが良いだろう。

 だが、最初からそれができれば苦労はしないわけで。

 

「・・・怖いの。それを訊くのが」

 

 俯きがちに、ケイが呟く。

 

「それを訊いて、本当にただ集中して練習したかっただけだったとしても、影輔を不安にさせちゃうかもしれないから」

 

 実際に問いただして、本当に何もなければそれでいい。

 だが、そう訊いたことで逆に英を『心配させてしまった』と負い目を植え付けてしまうかもしれない。最悪の場合は、そこで関係が終わることも考えられる。

 

「分からないのよ、今は・・・」

 

 その声は、不安に押し潰されそうなのが分かるほどだ。

 

「何も訊かないでいるべきか、ちゃんと話した方がいいのか・・・だけど、待っているだけなのは不安で、訊くのもちょっと・・・」

 

 ケイにとって英はかけがえのない人である。その英とのつながりを、自分の言葉1つで断ってしまうことが、ケイは怖かった。それは、想い人がいるアリサにはよく分かった。

 一方で、この場でまだ恋をしていないナオミは、あごに指をやる。

 ケイと出会って3年近く、ここまでしおらしい姿を見るのは初めてだし新鮮でもあったが、それはそれ。今はケイがジレンマに思い悩んでいるのをどうにかするのかが先決だ。

 ケイの口からは訊けない、だけど何が起こっているのかは知りたい。

 

「分かった、私が行く」

 

 ナオミが自ら名乗り出る。アリサとケイは、意外そうに見てくる。

 

「でも・・・」

「影輔とはそこそこ仲が良いし、ちょっとした縁もある」

 

 付き合っているケイが訊けないのなら、他の誰かが訊くしかない。その結論にはこの場にいる全員が至っていた。

 それなら、まだ良き友人であるナオミが訊いた方がまだいい。

 

「それに、言いたいこともできた」

 

 そう言ったナオミの真意はケイとアリサの2人には分からないが、ケイは『お願い』と頭を下げる。アリサはふぅと一息ついて、サンドイッチを齧った。

 

 

 訓練は15時で終わり、身だしなみを整えたナオミは『ハイランダー』棟の第5音楽室へ向かう。そこで練習していることは、前にケイから聞いていた。

 

「さて・・・」

 

 目的の音楽室に近づくにつれて、ピアノの音色が聞こえてくる。その旋律は英が奏でているのだろうが、そこにいるのが英()()とは限らない。

 信じたくはないが、ナオミも英が『浮気している』可能性も塵芥程度には考えていた。もし本当にそうだとしたら、ファイアフライで撃ち抜くのも辞さないが。

 しかしナオミは、そのピアノを聞いているうちに違和感を覚え始める。

 

(・・・歌声?)

 

 ピアノに混じって、歌声が聞こえてくる。だが、その出来はお世辞にも上手いとは言えない。

 やがて音楽室の前に辿り着き、ドアの小窓から中の様子を気付かれないように伺ってみる。

 

(・・・いた)

 

 グランドピアノを弾いていたのは、やはり英だった。

 だが、その近くに人の姿は無い。

 そして驚くべきことに、歌っていたのもまた英だ。

 

(?)

 

 視線を横に向けて机が並ぶ方を見ても、誰もいない。別の人のものらしき荷物さえ置いてない。この音楽室にいるのは、英1人だけのようだ。

 ナオミがもっと中を見てみようとしたら。

 

『何してるんだ、ナオミ?』

「あ」

 

 いつの間にか英が演奏を止めて、ドアの方を見ていた。気付かないうちに露骨に中を覗いていたせいで、バレてしまったらしい。

 大人しくナオミは、ドアを開けて姿を見せる。

 

「何か用か?」

「・・・まあ、ちょっと」

 

 ナオミは『邪魔するよ』と言いながらドアを閉めて、中へ足を踏み入れる。改めてこうして見ても、英以外誰もいない。誰かがいたらしき痕跡も見受けられない。

 一方で英は、ナオミがなぜここに来たのかが分からないらしく、珍しそうな目でナオミを見ている。

 

「見学か?」

 

 ナオミが練習を見に来たことは一度もない。だから、ケイの話で興味が湧いたのかと思ったのだが、そうではない。

 

「いや、影輔に話があって来た」

「話?」

「ああ」

 

 ナオミは、グランドピアノに寄り掛かり腕を組む。

 そして英の顔を見て。

 

「最近ケイを練習から遠ざけているらしいな」

 

 前置きも建前も捨てて、ナオミは訊いた。

 その瞬間、英の表情が凍る。ナオミの言葉が責めているようなトーンだったから、委縮するしかない。

 

「・・・ケイから聞いたのか」

「いや。冬休みになって、ケイが1人で下校することが多くてな。前までは影輔と一緒に帰ってたのに、どうしたのかと思って訊いてみた。そしたら、『影輔が1人で練習したいって』とね」

 

 ケイから直接相談を受けた、とは言わない。ケイに対して不安を抱かせないために。

 冬休み前まで、ケイは毎日と言っていいほど英と一緒に下校していた。それは放課後の英の練習をケイが傍でずっと見ていたからなのは知っている。しかし冬休みになって、ケイが英の練習に付き合わず、訓練後に寮へ直帰するその機会が増えた。それをナオミは疑問に思った、と言う体で訊いたのだ。

 

「どうして、ケイを遠ざけるような真似をする?」

 

 ナオミは普段通り飄々としている風だが、英には感情の読めないその視線が痛い。

 そして英は、ケイを遠ざけていること自体に胸が痛かったが、今こうして指摘されてさらに胸が苦しくなる。

 ナオミの質問に、英は考える前に、ピアノのスタンドに開いていた楽譜を見せた。

 

「・・・ケイには聴かせられない曲を、練習してるから」

「?」

「この曲は、どうしても1人で練習したい」

 

 ナオミは眉をひそめつつも、楽譜を受け取る。

 それは、ナオミも知っているポピュラーな歌手の曲を載せた楽譜だったが、これとケイがどう関係しているのか。

 

「いや、ケイには聴かせたい。だけど、練習しているところを見せるのは嫌なんだ」

 

 パラパラとめくっていると、異質な曲が1つ見つかった。

 その曲だけ、マーカーや付箋などの目印が多い。書き殴ったようなメモがいくつもあって、素人目で見ても相当苦戦しているのが分かる。

 どうやら、英が練習しているのはこの曲らしい。

 

「なんでこの曲を聴かせたくないんだ?」

「・・・・・・歌詞」

「え?」

 

 英はどういうつもりか、ナオミと視線を合わせようとはしない。それを疑問に思いつつ、ナオミはページの下部に載っているその曲の歌詞を読んでみる。

 やがて、読み進めていくと、ナオミも『ああ、そういうこと』と納得した。

 

「・・・確かにな。これは恥ずかしい」

「・・・だろ?」

 

 読み終えたナオミは、失笑する。英の顔は、少し恥ずかしそうに赤かった。

 練習していたその曲は、ラブソングだ。それも、サンダースフェスタで英とケイの2人が奏でたあの曲よりもずっと『強い』。まるで、聴いている人に直接話しかけているような歌詞だった。

 

「さっきの下手な歌もこれか」

「ズバリ言ってくれるな・・・けど、そうだ。それに難しいんだよ、ピアノ弾きながら歌うって」

 

 ケイにも話したが、ピアノを弾くのだけでも多大な集中力を要する。それに加えて歌うのは、思っている以上に難しい。

 

「・・・で、これは誰の為に歌うんだ?」

「ケイのためだ」

 

 ナオミは、英を『見る』。

 その表情、言葉には、ごまかしや嘘などの邪な感情は見受けられない。恐らく英は。本気でケイに聴かせるために、この曲を練習している。そしてその真意も、この曲の歌詞から分かった。

 その表情を見て、ナオミはふぅと一息吐く。

 

「・・・正直、疑ってたよ。浮気でもしてるんじゃないかって」

「そんなこと」

 

 バカ言え、と英が失笑する。

 そこへナオミは容赦なく。

 

「私が疑うぐらいだから、ケイだってそう思うだろうな」

 

 英が硬直する。

 

「あんなことを言ったんだ、浮気の1つでも疑いたくなる。それに自分が遠ざけられてると思えば、自然に不安にもなるだろうさ」

 

 ケイと接していた時間は、ナオミの方がずっと長い。だから、この場でケイがどんな人かを知っているのはナオミの方だし、その分ケイの意図を汲むことができる。

 それは英も理解できるから、その言葉に信憑性を感じていた。

 ナオミの言葉を受けて、英はどれだけ自分が浅はかなことを言ったのかを、改めて痛感する。

 そんな英に、ナオミはさらに言葉をかける。

 

「影輔の狙いは分かったし、他の誰かに靡いてるなんてことも無いのならいい。けど、どんな事情があっても彼女を突き放すようなことを言うべきじゃないのは、私でも分かる」

 

 ナオミの言葉は、もちろん間違っていない。

 だから英は、反論できない。

 

「そんな当たり前なことにも気付けないなら、それは正真正銘のバカだ」

 

 言い放つ。それこそ、ナオミの言いたかったことだ。

 たとえ自分の大切な人を喜ばせたくても、サプライズのつもりでも、相手を悲しませたり不安にさせたりするような言動は、しない方がずっといい。それは、現在彼氏のいないナオミでも分かる。

 そしてもちろん、英がそれに微塵も気付けていないとは思わない。

ケイにあの言葉を言った時、英自身もまた辛そうな表情をしていたのは聞いている。それは、英が自分で罪悪感を覚えているからだろう。

 

「・・・・・・・・・」

 

 英の口は、真一文字に引き締められている。それは今更ながら後悔しているからか、それとも自分の愚かさを嘆いているのか、両方か。

 ナオミは目を閉じて、鼻で息を吐く。

 

「・・・とりあえずケイには、『心配することは何もない』とだけ言っておく。あとは、影輔が自分でどうにかしろ」

「・・・分かってる」

 

 口を開いた英の顔は、真剣だった。

 

□ □ □

 

 その翌日、英は今日もまた音楽室でピアノを弾いていた。傍にはケイもいる。

 今日持ってきた曲は、英とケイのそれぞれが好きな曲と、頼まれた曲が1~2曲ほど。ナオミに昨日見せた曲は持ってきていない。

 今弾いているのは海外のバンドの曲で、英も弾き慣れている。海外の曲は、その歌詞の意味を訳して理解するのに手間がかかるが、その分理解できた時の喜びも大きい。

 

―――僕がもっと小さかった頃は

―――今みたいにしんどくなるなんて思わなかったよ

―――だけど愚痴ってる場合じゃない

―――君の力が必要なんだ

 

 この曲は、『まだ子どもの頃は1人で何でもできると思っていたけれど、成長していくにつれて人とのつながり、人を助ける気持ちのありがたさを知るようになる』と言うメッセージが込められた曲。

 英はピアノを弾いている時、視線は楽器と鍵盤に注ぎ、頭の中は曲の情景を思い描くことに集中している。そこにを意識していれば、より感情を籠めてピアノを弾けるからだ。

 

「・・・・・・」

 

 ほんの少しだけ、視線をケイに移す。

 グランドピアノの天板に頬杖をついて、英のピアノに耳を傾けている。時折小さく首を揺らして、リズムに乗っているのが分かる。

 そんなケイを見て英は笑い、ピアノに意識を戻す。曲ももうすぐ終わりだ。

 

―――助けてほしいんだ、できることなら

―――ありがとう、力を貸してくれて

―――1歩進むのを助けてくれるかい?

―――どうか、手を握ってほしい

 

 最初から通しで軽快なリズムを保ったまま、曲は終わりを迎える。

 鍵盤から指を離すと、ケイは静かに拍手をしてくれた。

 

「上手かったわ」

「ありがとう」

 

 弾き終えたことで、英の意識もはっきりとケイに向けられる。

 目に映るのは、純粋な笑みを浮かべて英のピアノを褒めてくれるケイの姿だ。

 だが、その姿を見て、英の頭に昨日のナオミの言葉がよぎる。

 

―――自分が遠ざけられてると思えば、自然に不安にもなるだろうさ

―――そんな当たり前なことにも気付けないなら、それは正真正銘のバカだ

 

 今は明るく振舞っていても、ケイは英に対して不安を抱いているだろう。

 そしてそうさせてしまったのは、他でもない自分のせいだ。たとえ、ケイに聴かせたい曲を内緒で練習するにしても、それは恋人であるケイを不安にさせていい理由にはならない。

 英は、自分を恥じた。

 

「・・・ケイ、少し話していいか」

「?」

 

 一旦鍵盤に保護シートをかけて蓋を閉じる。

 英はピアノ椅子に座り、ケイは近くの席の椅子を引っ張ってきて、英の傍に座った。

 

「・・・昨日、ナオミが来た。それで、どうしてケイを遠ざけるんだって、訊かれた」

「・・・そっか」

 

 昨日の首尾について、ケイはナオミからは『心配することは何もない』とだけ伝えられた。それを疑うわけではないが、実際はどうなのかを英自身の口から聞くまではまだ安心はできない。

 

「・・・本当に、ごめん。遠ざけるようなことをして」

 

 頭を下げる英。だが、ケイは何も言わず、英の言葉を待つ。

 

「・・・1人で練習したい曲があるのは、本当だ。そしてその曲は、ケイのために弾こうと思ってる」

「私のために?」

「ああ。それで、その曲はピアノを弾いて、俺が歌いたい。だけど、ピアノを弾きながら歌うのは苦手だし、その歌詞はちょっと・・・練習では聞かせられない」

 

 ピアノを弾きながら歌うのは難しいと、ケイは確かに以前英から聞いている。

 だから、その難しさを承知したうえで練習するその曲は何なのか、ケイの中で興味が頭をもたげ始める。

 

「・・・だから、1人で練習したかったのね」

「・・・ああ」

 

 英は、辛そうに視線をケイから外す。

 

「・・・最初からこう言えばよかったのに、俺はできなかった。できなくて、ケイを不安にさせた」

「・・・」

「こうして誰かと付き合うことだって無かったし、誰かのためにピアノと歌を練習するなんてことも無くて、分からなくて・・・」

 

 言っている中で、英は頭を横に振る。これも言い訳か、と自嘲気味に呟く。

 ナオミの言う通り、自分はバカだ。

 

「不安にさせて、ごめん。本当に、悪かった」

 

 ケイの膝の上に置かれていたその手を、包み込むように握る。

 そしてもう一度、深く頭を下げる。

 自分の強い後悔と、ケイに対する申し訳なさを、最大限に表現する。

 

「・・・うん、分かった」

 

 穏やかな感じの、ケイの言葉。

 顔を上げると、ケイは目を閉じて、小さく頷いていた。

 

「素直に話してくれて、ありがとう」

「・・・」

「影輔の口から直接聞けて、心から謝ってくれて、安心したわ」

 

 ケイは、英が心の底から謝っているのを読み取った。

 そして英自身の言葉で、事情を聞くことができたから、蟠りも薄らいだ。

 

「その影輔が練習してるって曲、楽しみにしてるわね」

「・・・・・・・・・ああ」

 

 ケイの笑みを見て、英は心に固く誓う。

 絶対に、あの曲を習得すると。

 

「あのクリスマスパーティの日までに完成させて、聴かせるよ」

「・・・うん」

 

 ケイの目を見据えて、力強く伝える。

 その言葉にケイは、嬉しそうに頷いた。

 

「・・・でも、よかった。浮気とかじゃなくて」

「それは絶対違う」

 

 それについては、神に誓ってありえない。断言できる。ケイをそっちのけに誰かに手を出すなど、全く考えられない。そうならないために自分自身を律してきている。

 だからこそ、今回心配させたことは英の完全に落ち度だ。

 

「・・・・・・ケイ、ごめんな」

「いいわよ。さて、それじゃあ次はこの曲を弾いてもらおうかな?」

 

 けろっと笑い、ケイは次の曲の楽譜を差し出す。

 英はなお、申し訳なさを感じつつもその曲を受け取り、スタンドに開いた。

 

□ □ □

 

 いよいよ迎えた、クリスマス・イブ。

 英は、演奏用の楽譜と用意したプレゼントを持ってケイの寮へと向かっていた。

 

「いやぁ、本格的に寒くなったねぇ」

「ホントねー、ストーブとホットミルクが恋しいわ・・・」

 

 その横には、今回誘った親友の山河、クリスがいる。2人とも厚手のコートを着込んでいて、クリスは耳当てまでしている。

 

「クリスは寒がりだな」

「こうでもしないとやってられないわー・・・それに、備えあれば嬉しいなって言うでしょ?」

「患いなし、でしょ」

「またベタな間違いを・・・」

 

 軽口を叩き合いながらケイの寮へ向かう。しかし、空は厚い雲に覆われていて陽の光が届かない。

既に学園艦は長崎港に入港しており、天気予報では長崎でも雪らしい。ホワイトクリスマスの可能性もあるが、寒いのは勘弁してほしかった。

 

「で、影輔は今日もピアノ弾くんでしょ?」

「ああ、この通りな」

 

 山河に訊かれ、トートバッグを掲げて見せる。この中に、今日のために選んだ楽譜が入っているが、最低限なので普段と比べると軽い。

 

「今日はどんな曲を?」

「クリスマスとか冬らしい曲。多分、2人が聴いたことがあるやつもある」

 

 やがて3人は、目的の寮へと到着する。

 

「Hi、影輔!ヒロにクリスも!」

「やぁやぁ、どーも」

「こんばんは~」

 

 ドアを開けると、ケイとルームメイトたちが温かく迎えてくれる。山河とクリスは、最初に招かれた時は緊張しきっていたが、今ではそんなこともなく普通に接している。

 英は最初、パーティの準備を手伝おうとしていたが、パーティの一幕を任せているからとの理由で丁重に断られた。ピアノ自体は別に苦でもないので構わなかったが、とりあえず厚意には甘えておいた。

 

「影輔、楽譜はちゃんと持ってきた?」

「ああ、ばっちりな」

「グッド!ちゃんと準備してあるから、存分に弾いてね」

 

 ケイに背中を叩かれて、英は頷く。

 だが英は、別の意味で緊張していた。何せ、一世一代の告白を今日、為そうとしているのだから。

 

「さー、入って入って!」

「あー、あったまる・・・」

 

 中に入れば、暖房が体を包み込んで、冷えた体が瞬く間に温まっていく。

部屋は綺麗に飾り付けられていて、華やかなクリスマスツリーもこしらえてある。曰く、ナオミのセンスが良いらしく、ケイが誇らしげに言うとナオミは少しだけ唇を緩めた。

 既に何人か来ている招待客もいて、英たちは軽く挨拶をする。英たちにとってはパーティを通してすっかり顔なじみとなった人で、全く緊張しない。

 その後もさらに招かれた客が続々と訪れてきたが、中には英にとって気まずい関係の人もいた。だが、その人物はさして気にもせずケイたちと挨拶をする。

 そして人数が増えるにつれて、テーブルの上の料理の数も増えていく。気を利かせて料理を持ってきたりする人も少なからずいるからだ。

 やがて人数が揃い、テーブルの上も所狭しと料理が並んだところで、主催者のケイがみんなの前に立つ。

 

「それじゃあみんな、メリー・クリスマス!」

『メリー・クリスマ~ス!!』

 

 音頭をとると、そこかしこからグラスをぶつけ合う澄んだ音が聞こえてくる。

 

「かんぱ~い」

「乾杯」

「はい、かんぱい」

 

 英も、傍にいた山河とクリスとグラスをぶつけ合う。

 後はそれぞれが、思い思いに料理を食べたりジュースを飲んだり、あるいは他のみんなと適当に駄弁ったりする和やかなパーティだ。

 

「よう、スコア。最近ケイとはどんな調子?」

「その呼び方はやめろよ・・・。まあ、ケイとはそれなりに仲良く付き合えてると思うよ」

「ちくしょー、羨ましい奴め」

 

 パーティで交流ができ、仲良くなった航空科の男子と話す。

 こうした場に出るたびに、ケイの恋人として揶揄われたりするのがお決まりになってしまった。ケイがサンダースで注目の的なのは周知の事実で、そのケイの心を射止めた彼氏となれば、自然と注目されざるを得ない。

 加えて、類は友を呼ぶように、ケイのホームパーティに来る人は大体フレンドリーな性格だ。あんな感じで絡まれることも何度もある。

 

「こんばんは、英君」

「・・・アイザック部長、どうも」

「よしてくれ、今は“元”部長だ」

 

 ところが、爽やかな風貌の男子に話しかけられると、英の胃が縮んだ。

 クイズ研究部の元部長・逢坂ことアイザック。英と同じ3年生の彼は既に部を引退し、次の世代に託していると、同じクイズ研の山河から聞いた。

 アイザックは、ケイのホームパーティに参加するのは今日が初めてらしく、友人の誘いで呼ばれたらしい。

 だが、英とアイザックは、少しばかり複雑な関係でもある。

 

「あのピアノ、君が弾くのかい?」

「・・・ええ」

 

 アイザックが指差したのは、壁際に置かれているピアノ・キーボード。ケイのルームメイトの新藤ことシンディの私物で、ホームパーティでは英が演奏で使用する。

 

「楽しみにしてるよ。君のピアノは、サンダースフェスタでよく知ってるから」

 

 柔らかく笑うアイザックに、英は目を合わせられない。

 件のサンダースフェスタで英がピアノを弾いたのは。クイズ研究部の企画の一環。あれは英が自ら立候補したのだが、最終的に決めたのはアイザックで、その企画は()()()。無事に成功を収めた。

 

「ケイさんが好きになった君のピアノ、期待してるよ」

「・・・はい」

 

 だが、その企画の直後に、アイザックはケイに告白した。それも、英の目の前で。あの時アイザックは、その場に居合わせてしまった英には反応せずその場を去ったが、十中八九気付かれているだろう。

 結果としては、アイザックはフラれ、ケイは英の想いに応えた。

 その告白の現場に偶然居合わせてしまった英としては、アイザックに対しては強く申し訳ないという気持ちを抱いている。

 極端な話、英とアイザックは他人であり、ケイに対して同じ想いを抱いて結果がどうなっても、お互いには関係が無い。にもかかわらず、英は妙なところで真面目になってしまい、そのことが未だに引っかかっているのである。

 そして英は、ケイと付き合っている自分をアイザックがどう思っているのか今なお心配だった。

 

「・・・気にしないで大丈夫だ」

 

 英の気持ちを見通したのか、アイザックが肩をポンと叩く。

 

「ケイさんは知っての通り、魅力的な人だ。だから、これまでにも何度も告白を受けたことがあるらしい。僕もその1人に過ぎない」

 

 ケイがサンダースの人気者なのは、英がケイと出会う前から知っていた。

 これまで告白を何度もされてきたであろうことは想像に難くないし、ナオミからもその話を聞いた。アイザックのことは言わずもがな、本当にケイは魅力的な人なのだ。

 

「だけど君は、そんなケイさんを自分の力で振り向かせたんだ。気に病むことは無いし、僕に後ろめたさを感じることも無い」

 

 やはり、アイザックはあの場に英がいたことに気付いていたようだ。

 そして流石は聡明な元クイズ研部長。英の気持ちも慮ることができるらしい。そう言ってくれたことで、英の気持ちもほんの少し軽くなるが、やはり水に流すのは難しい。

 

「僕が言えた義理じゃないだろうけど、ケイさんのことをよろしく頼むよ」

「・・・はい」

 

 そう言って笑うアイザックは、吹っ切れたのだろうか。好きになった女性に告白して、フラれて、それをすぐに流せるのだろうか。それでも、英の背中を笑って押せるぐらいには、気持ちの整理ができているのかもしれない。

 そんなアイザックに、英は曖昧に笑って頷く。

 

「アイザックさん、このピザすっごく美味しいですよ!」

「ん?それじゃあ、僕もいただこうかな」

 

 アイザックの後ろでピザを食べていた、同じく元クイズ研の副部長・新木ことニッキーが、アイザックに話しかける。話しかけるタイミングを見計らっていたらしい。

 アイザックは、『それじゃ』と軽く手を挙げて英の下を離れる。

 

「どれだい?」

「これです、この3種のチーズピザ!」

「へー、確かに美味しそうだ。1枚貰うよ」

「はい、どうぞ」

 

 何の気なく、英が2人の様子を眺めていると、何とニッキーがアイザックに『あーん』を仕掛けた。しかもニッキーは嬉しそうで、アイザックも嫌そうではない。

 英は、ニッキーともサンダースフェスタの関係で話したことが何度かある。だが、それはビジネスライクな関係であり、その時は『真面目』な印象が強かった。だから、あの明るい感じのニッキーが新鮮に見えるし、アイザックとあんなに打ち解けているのは初めて見る。

 なんて疑問が頭に浮かんでいると、山河が手にチキンを持ってやってきた。

 

「どうかしたの?」

「いや、気になったんだけど・・・あの2人ってあんなに仲良かったか?」

 

 英がアイザックとニッキーを指差す。その指し示す2人を見て、山河は『ああ』と納得したように口にする。

 

「あの2人?最近付き合いだしたみたいだよ」

「What?」

 

 衝撃の事実に、思わず英語が飛び出す。賑やかなパーティではその声も目立たないのが幸いだった。山河はナプキンで指を拭きながら説明する。

 

「元々副部長、部長のことが好きだったらしいんだよね。部長、頭がいいし、そこそこイケメンだし。で、女子部員にも何度か相談してたみたい」

「ほう・・・」

「でね、サンダースフェスタから少しして告白したらしいんだ。その時は、『考えさせてほしい』って部長は返事したらしいけど」

 

 その理由は、英には分かり切ったことだ。それはおくびにも出さないが。

 

「それでまあ、はっきり答えないままだったんだけど、何回かデートとかご飯とかして、今じゃあんなに仲良くなってる。で、引退する時に部員が訊いたら『付き合ってる』ってさ」

「なるほど・・・」

 

 あれから2か月余りだが、アイザックの心境はどうだろう。

 見る限り、ニッキーと話すアイザックの表情は明るいし、ニッキーとのやり取りを楽しんでいるようにも見える。

 公言した以上、アイザックも気まぐれや慰めでニッキーと付き合ってはいないだろう。恐らく、アイザックもニッキーも両想い、あるいはそうなりつつある。

 どうなるにせよ、英は2人の恋路を陰ながら祈らせてもらうことにする。アイザックが好きだったケイを彼女として迎えた自分の役目だと、そう思う。

 

「影輔~!」

 

 ケイに呼ばれて、山河と共にその声のする方へと向かう。

 そこにはアリサとナオミもいたが、アリサの隣には初めて見る男子の姿があった。

 

「楽しんでる?」

「おかげさまで」

 

 英は、ケイとグラスを軽くぶつけ合う。山河もまた、アリサとナオミと乾杯をする。

 そこで、アリサの傍にいた男子ともグラスを掲げ合うが、初対面なので名乗るべきか悩む。

 

「彼はタカシ。アリサのボーイフレンドよ」

「ちょっと、隊長・・・!」

 

 迷っていると、先にケイの方が紹介し、アリサの顔が赤くなる。

 だが、タカシが否定せずにお辞儀をし、さらにアリサの反応で英と山河は大体察しが付く。

 この男子が、以前食堂で名前が挙がったアリサの想い人だ。サンダースフェスタ以来親交を深め、今回初めてアリサの方から誘ったという。

 

「で、影輔。ピアノは7時ごろにお願いしていい?」

「分かった」

 

 時刻は6時半で、あと30分ほどの余裕がある。

 

「曲は全部で4曲、ケイが歌うのは一番最後だ」

「OK、分かったわ」

 

 ケイが励ましのつもりで英の肩を叩く。

 すると今度は、ナオミが話しかけてきた。それも、声を潜めて。

 

「・・・()()()は、持ってきた?」

「・・・ああ、ばっちり」

 

 部屋を出る前に再三確認した。来る途中、到着してからも調べたので、忘れたり落としたりはしていない。今日と言う日のために練習を重ね、時にケイを不安にさせてまで完成させたのだ。忘れたら面目丸つぶれもいいところだろう。

 

「何々、内緒話?」

「まあ、そんなとこだ」

 

 ただ、ケイにとっても無関係な話ではなかったし、何も言わないでおくとまた不安にさせてしまうので、曲の詳細は避けつつ教えることにした。

 

「あのケイに聴かせたいって曲、完成したから後で弾くよ」

「ホント?それじゃあ、楽しみにしてるわね!」

「ああ、それと弾くのは7時からじゃないから」

「え?」

 

 最後に付け加えると、ケイは首を傾げる。

 その曲は、このパーティで弾くつもりは無い。弾くのは2人きりの時が良い。

 そしてその状況を作りやすくするために、英はナオミにある話を通してあった。

 

 

 時間を意識しだすと、そこまでの時間が早く経つように思える。

 そんなわけで約束の7時前になり、英はキーボードを準備しだす。同時に、ケイが手を叩いて注目を集めると、視線が一斉に英へと殺到する。

 

「今日もまた、影輔がクールなピアノを弾いてくれるから、楽しんでね!」

 

 期待値を上げてくるなぁ、と英は楽譜を取り出しながら内心ぼやく。

 

「それじゃあ影輔、よろしく」

「おう」

 

 肩を叩かれながら、ケイにバトンタッチされる。

 英が改めてみんなの前でお辞儀をすると、誰もが楽しみにしているとばかりに拍手をしてくれた。この場にいるほとんどの人は英のピアノを知っていて、中にはどんな曲を弾くのか楽しみと言ってくれる人までいる。

 

(よし・・・)

 

 深呼吸をして、椅子に座る。

 最初に招かれピアノを任された時は、心の中で『助けて』と叫んだものだが、それも今は昔。サンダースフェスタではこの何十倍もの人の前でピアノを弾いたし、こうしてホームパーティで弾くこと自体増えたので、いつしか緊張しなくなった。

 軽く指を解して、スタンドに置いた楽譜を開く。

 鍵盤に指を添えて、一呼吸置く。波立てている心が落ち着くのを、ゆっくりと待つ。

 やがて、すっと気持ちが落ち着くと、指を動かし、鍵盤を叩いて曲を奏で始めた。

 

 

 まず最初に弾くのは、洋楽のクリスマスソング。テレビCMにも起用されるぐらいには有名で、聴いていて『おっ』と表情を明るくする人も多い。

 軽快なリズムと少々足早な曲調が特徴で、次第に手拍子をしたり、軽くヘッドバンキングをする人も出てきた。最初は盛り上がる曲で人の心を掴むのが、英の常套手段である。

 ちなみにこの曲は、前々から知っていたものの楽譜を入手するのに手間取った結果、習得できたのがわずか1か月前と言う曲だ。

 そしてこの曲は、『クリスマスには沢山のプレゼントや豪華な食事よりも、一緒にいる仲間が大切だ』と言うメッセージが込められている。その『仲間』を『恋人』に変えても意味は通る、とファンの間では囁かれているらしいが、英は気にしていない。

 

 

 次に弾く曲は、クリスマスと言うよりも冬の夜空をイメージした曲。明るい1曲目とは違い、全体的に落ち着いてゆっくりとした曲調だ。

 1曲目で盛り上がった気分を2曲目でクールダウンさせるのは、聴いている人が疲れないようにするための英なりの気遣いだ。明るめの曲を連続で聴くのは楽しいだろうが、聴き終えた後で疲労感を抱かせるとせっかくのパーティも台無しになるだろう。

 この曲のイメージは、『冬の澄んだ夜空を眺めていると、もの悲しい気持ちになってしまう。だけど、傍にいる人のことを思えば寂しさも和らぐ』といった感じだ。曲自体も、冬を表現するかのように静かで澄んだ曲調だが、最後の方では夜明けか、あるいは冬が明けた後の春をイメージしているのか少しずつ盛り上がっていく。

 

 

 3曲目は英が好きな曲で、ケイに告白する際に一歩踏み出すために弾いた曲だ。

 『若者たちが成長していき、周りの世界や自分自身が変わっていく中でも、自分の価値観だけは見失わずに進み続ける』というイメージのこの曲は、明るい部分があれば暗い部分があり、賑やかな場面も落ち着いた場面もある面白い曲。そこを英は気に入り、そしてその曲のフレーズを通してケイに告白する勇気を持った。

 

―――自分の気持ちは言葉にしなくちゃ

―――それを感じる意味は無い

 

 この曲を知ったのはずっと前だが、習得したのはサンダースフェスタの直前だ。聴いただけでもピアノで弾くのは難しいと思っていたこの曲だが、それでもどうにかマスターした。

 そして、ケイに告白する時に、自分を奮い立たせるためにこの曲を弾いて、ケイに聴かせた。

 

―――人の気持ちに左右されるな

―――自分の道と未来を描け

 

 最初は不安定だったこの曲も、今や英の十八番の1つに数えられるぐらいには得意な曲。

 ここまで上達できたのは、英がこの曲を好きであるのと同時に、難しい曲への挑戦に楽しさを見出していたからでもある。

 その挑戦心、ピアノに対する気持ちは、英はこれまで一度も冷めたことが無い。そして、この後もずっと燃え続けるだろう。

 

―――立ち止まるな

―――進み続けることこそが

―――自分らしさを知らしめるのだから

 

 だから英も、これから先、ピアノを弾き続ける。

 その気持ちを昂らせてくれたのは、他でもなくケイだ。

 

 

 最後の曲は、英とケイの2人にとってはとても大切なラブソング。

前もってこの曲はケイも歌うと言っていた。だから、キーボードの近くにケイが来て、準備ができてから弾き始める。

 この曲の知名度は、元々そこまで高くはない。だが、英とケイのおかげ(?)で、サンダースの中ではこの曲も大分有名になった。

 

―――朝目が覚めると、あなたのことを想う

―――それが恋と気づいて、私の世界は変わった

 

 サンダースフェスタで、予定になかった英とケイの共演。あの時は、会場にいた誰もが度肝を抜かれたし、ピアノを弾いていた英も内心びっくりした。

 

―――伝えたいよ、『好き』と

―――でないと、壊れてしまいそう

 

 だが、あの時英がピアノを弾き、ケイが歌ったことで、状況はさらに動いた。

 あの時の一連のことが無ければ、もしかしたら英とケイは今も付き合っていないのかもしれない。そう思うと、恐ろしくも思うし、危なっかしいバランスで成り立つ運命というものが可笑しく思える。

 そして、その日のこと。それから今までのことに想いを馳せると、自然と英の指に力が籠る。

 

―――月の夜、駆け出した

―――あなたに、会いたかったから

 

 ケイの歌も、声に熱が入っているように感じる。その歌声を彩るように、しかし曲の雰囲気は壊さないように、英も感情を籠めて鍵盤を叩く。

 

―――好きと、告げたかったから・・・!

 

 ケイの歌声は、感情が籠っていてなお美しい。

 今だけは、英のピアノはケイの歌声を彩るパーツに過ぎない。

 誰もが、2人の奏でるハーモニーに圧倒され、息を呑んで曲に耳を傾けている。テーブルの料理など二の次だった。

 

―――今も、あなたを求めて走る

―――月も、星も、私を導いてくれる

 

 感情を籠めるケイに合わせるように、英も丁寧かつ感情を籠めてピアノを奏でる。時折、楽譜の記号や指示を無視して、情景に合わせて強弱を変えるまでに。

 無邪気にピアノを楽しみ、そして母親の知り合いのプロから教わっていた頃は、楽譜の指示に従わないで弾くなど考えられなかった。それに強く縛られてきたことが、今の英が『自由にピアノを弾きたい』と思うようになった原因だ。

 だが、サンダースフェスタで初めて感情を籠めるケイに合わせて弾いた時、その意味を初めて理解できた。自分が反発したあのピアニストの指導も、決して間違いではなかったのだと。

 そして、それに気付かせてくれたのは、やはりケイだ。

 

―――朝日の中で

―――あなたと、口づけを

 

 最後のサビに差し掛かり、ケイも曲中の登場人物のように穏やかに歌う。

 そして後奏が静かな雰囲気に戻り、ゆったりとしたメロディを保って曲は終わりを迎えた。

 英は曲が終わっても、最後の音が聞こえなくなるまで鍵盤から指を離さない。聴いている人たちも、拍手をしたい衝動を抑えて、誰も手を叩かずに言葉を堪える。

 やがてピアノの音は止み、英も鍵盤から指を離す。

 その瞬間、みんなが盛大な拍手で英とケイの2人を称える。口笛を吹いたり、余っていたクラッカーを鳴らしたりする者もいたが、誰もそれを咎めない。あるのはただ、2人の演奏を称賛する気持ちだけだ。

 

「サンキュー!」

「ありがとう」

 

 英はケイの傍に立ち、並んで2人でお辞儀をする。そこでまた、拍手が贈られる。

 山河も、クリスも、ナオミも、アリサも、タカシも、アイザックも、ニッキーも、誰もが笑みを浮かべて、手を叩いてくれる。

 この瞬間こそ、英がピアノを弾いてよかったと思える時だ。ケイの歌もあったが、自分のピアノで誰かを喜ばせたり、誰かを感動させることがとても嬉しくて、やりがいを抱ける。

 ケイに出会ってから、英自身も大きく変わった。それまでは、『ただ気ままにピアノを弾ければいい』としか思っていなかったが、今では『プロのピアニストになりたい』と自分の未来を真剣に考え、目指している。

 そんな未来を示し、こうしてピアノを弾き終えた後の達成感や喜び、嬉しさを思い出させてくれたケイが、英は本当に好きだった。

 そして、ずっと自分の傍にいてほしいと、思っていた。

 

 

 ピアノの後は、再び楽しいパーティの時間だ。

 だが、あれだけの演奏をしたものだから、英とケイはすぐに周りの人に色々話しかけられた。あの曲を完成させるのにどれだけ時間がかかったのか、一緒に演奏するほど仲が良いのか、等の質問に2人は当たり障りのないコメントを返して、引き続きパーティを楽しむ。

 そしてやはり、楽しい時間はあっという間に過ぎていき、お開きの21時になる。

 

「じゃあな!メリークリスマス!」

「良いお年を~」

 

 参加していた人たちは、少し片づけを手伝ってから帰りはじめ、それぞれ挨拶をして去っていく。クリスマスが過ぎれば次は年末年始、次に会うのは恐らく年明けになるだろう人もいたので、挨拶がそれらしくなる。

 

「ケイさん、それじゃあまた」

「メリークリスマスです」

「今日は来てくれてありがとうね!Thanks!」

 

 アイザックとニッキーは終盤ギリギリまで片づけを手伝い、2人で帰路に就く。2人で寄り添い合って帰っていくその様は、普通にいい雰囲気に見えた。英は『お幸せに』と心の中で祈りを飛ばす。

 

「さて、僕らもそろそろ帰ろうか」

「そだねー」

 

 ある程度片付いたのを見計らい、山河とクリスも帰り支度を始める。

 だが、英はまだ帰る様子を見せない。

 

「英はまだ残るの?」

「ああ・・・まだ、やることがあるし」

 

 言って、英はケイの方を見る。

 それを見て山河とクリスは、深く掘り下げることを止めて、挨拶をして帰っていった。

 これで残ったのはケイとそのルームメイト、そして英のみ。全員で後始末をするが、みんなが帰る前にある程度片付けてくれたのもあって、それも時間がかからずに終わる。室内の飾りつけは、明日の休みにやるため今は手を出さないとのことだ。

 そこで、ナオミが冷蔵庫を開けて。

 

「シンディ、カレン。明日の朝食の食材が無いから買いに行こう」

「えー?ナオミ1人で行ってきてよ・・・私もう疲れちゃった」

「右に同じ~」

 

 クリスマスの料理は綺麗さっぱり食べ尽くされたので、持ち越し分が無い。

 だが、シンディとカレン(苗字の花蓮より)はパーティではしゃぎすぎたのか気だるげにぶー垂れる。

 しかしそれはナオミの予測の範囲内。二の矢は用意してある。

 

「アイスも切れてるし、ついでに買ってこようかな」

「何してるのナオミ、さっさと行くわよ」

「クリスマスはアイスも売り切れが早いんだから」

 

 アイスと聞いて態度が180度変わる2人。サンダースの生徒はアイス好きが多く、シンディとカレンもその例に漏れない。

 

「ケイは残っていていい、影輔の見送りもあるだろうし」

「あ、うん・・・」

 

 推し留められる形で、ケイは残る。

 英は3人を玄関で見送ると、ナオミが他のみんなに気付かれないようにサムズアップを英に向けた。

 その意図を理解していた英も、同じく親指を立てる。

 英は事前に、ナオミに『パーティの後でケイと2人きりにさせてほしい』とお願いをしていた。その理由を知っていたナオミは承諾し、こうしてシンディとカレンを外に連れ出したのだ。

 ちなみに見返りとして、英はアイスの代金を払い、さらにこの後の結末を洗いざらい話すように英は言われている。ナオミには色々世話になったので、英もそれぐらいはするつもりだったが。

 最後に、英とケイで細かいところを片付けて、ようやく部屋がきれいになった。部屋の家具は全て元通り、装飾とクリスマスツリー、キーボードを除けば全てが片付けられている。

 

「サンキュー影輔、助かったわ」

「お礼なんていいさ。楽しむだけ楽しんで帰るのも釈然としないし」

 

 『やり残したこと』もあるが、その言い分に偽りはない。他人様の家で楽しむだけ楽しんで、後片付けは人任せというのは無粋だ。

 時計を見れば、時刻は21時半。窓の外は真っ暗で、厚い雲のせいで星も見えない。

 そして今は、ナオミのおかげでケイと2人きりの状況ができている。この機を逃すわけにはいかない。

 

「ケイ」

「?」

 

 テーブルを拭き終えたのを見て英は呼び、持ってきたトートバッグを手に取る。

 

「実は、まだちょっとやり残したことが色々あってさ」

「え?」

「で、まずはこれ」

 

 近寄ってきたケイに、トートバッグから取り出した手のひらサイズの白い袋を見せる。紅いリボンで口が結ばれているそれは、どう見てもプレゼントの類だ。

 

「メリークリスマス、ってことでクリスマスプレゼントだ」

「わっ、ありがと~!」

 

 プレゼントはパーティの間に何人かと交換したが、ケイとだけはまだしていなかった。

 

「開けてもいい?」

「ああ」

 

 楽しそうに、リボンを解いて中身を取り出す。

 それは、楽譜に載っているト音記号を模したブローチだった。

 

「可愛い・・・」

 

 英行きつけの音楽洋品店。その2階のアクセサリー売り場で、ケイに似合うと思って買ったものだ。

 早速、ケイが自分の胸辺りにブローチを着ける。安全ピンで留めるタイプなので、手早く着けることができた。

 

「どう?」

「ん、似合ってる。ばっちり」

 

 部屋の照明が反射して、キラキラと輝いて見える。ト音記号自体が丸みを帯びたフォルムなので、明るめの色も相まって目を引くアクセントになっていた。

 

「じゃあ私からも、プレゼントよ」

 

 そう言ってケイは、棚から青いリボンで口を結んだ白い袋を取り出して、英に差し出す。大きさは、ケイに渡したものと同じような感じだ。というか、袋のデザインも同じだ。

 それが頭に引っかかるが、英は『ありがとう』と受け取って袋を開く。

 

「・・・ブローチか」

「そう。これとはちょっと違うけどね」

 

 袋の中にあったのは、楽譜のヘ音記号を模したブローチ。ケイにプレゼントしたものと形は違うが、同じ楽譜にまつわるものだ。

 

「あの音楽洋品店で買ったやつ?」

「ビンゴよ。ってことは、影輔も?」

「ああ」

 

 お互い、似たり寄ったりな考えだったなと、2人で思わず吹き出す。

 早速英も、ブローチを同じく胸の辺りにつけてみると、ケイから『バッチグー』と褒められる。

 

「これで2つ目ね」

「?」

 

 2つ目、と言うケイの意図が分からないでいると、ケイは自分の服の襟首から手を突っ込んで、何かを探る。少しも恥じらいの無いような動作に逆に英が目を恥ずかしくなるが、やがて取り出したのはロケットに稲妻が刻まれたペンダントだった。

 

「これと、今貰ったブローチで、2つ。影輔とお揃いのものよ」

 

 そのペンダントは、今英も身に着けている。サンダースフェスタでケイが買い、その後英にもプレゼントされたものだ。

 お揃いのもの、同じものをケイと共に身に着けているというだけで、自然と気持ちが高揚してくる。

 

「それでケイ、まだやりたいことがある」

「?」

「言っただろ?練習した曲を聴かせたいって」

「あ、そうだった!ソーリー、色々忙しくてコロッと忘れてた・・・」

 

 あれだけ盛り上がったパーティだから、意識から外れてしまうのも仕方がない。

 英は、トートバッグからその楽譜を取り出して、スタンドに広げる。

 

「それを、今から弾きたい。いいか?」

「ええ、もちろん。聴かせて?」

 

 わざわざ内緒にしてまで練習した曲。果たしてそれはどんな曲なのか、ケイは楽しみだった。

 椅子に座った英は鍵盤に指を置いてから、思い出したようにケイの方を向く。

 

「一応練習してまともなレベルにはなれたと思うけど・・・歌が下手だったらゴメン」

 

 ケイはどんなに下手だろうと笑ったり責めたりするつもりは無い。自分のために練習してくれたことは嬉しいし、英が自分のピアノにだけは全てを懸けているのも知っている。それを考えれば、笑うことなどできない。

 

(・・・)

 

 英の目の前にあるのは、白と黒の鍵盤と、書き殴ったメモとマーカーが目立つ楽譜。

 この曲を習得するために、英は練習を積み重ねていた。時にはケイを不安にさせてしまい、バカな真似をしてしまったと深く後悔し、反省し、それでも練習を続けた。それは、途中で止めてしまえば、それこそケイを不安にさせただけで終わってしまう。

 それに、英はこの曲を通して自分の気持ちを伝えたい。最後は自分自身の言葉で伝えるつもりだが、あのサンダースフェスタでの告白と同じで、自分を勇気づけたい。だから、この曲を奏でるのだ。

 英は、気持ちが落ち着いてから指を動かし、鍵盤を叩き始める。

 前奏は静かで、透明感あるリズムでスタートする。

 そして、Aメロに入ると。

 

―――愛してるあなたへ

―――聞いてくれるかな

 

 その歌声は、音痴まではいかないが、ピアノにも意識を裂いているからか少し震えていた。

 だが、その最初のフレーズで、その声の震えも気にならないほどにケイは引き込まれた。

 

―――『愛してる』とか『好き』だとかよりも

―――君に伝えたい大切な言葉

―――カッコ悪いかもしれないけど

―――最後まで聞いてほしいよ

 

 Aメロは前奏と変わらず、静かで落ち着いた曲調。

 それはBメロに入っても変わらず、穏やかな空気を壊さない繊細な雰囲気がある。

 

―――遠い道の中で

―――君の隣を歩いていて

―――ずっと想っていたんだ

 

 太陽が昇るように曲調が明るくなっていく。それでいて、透明感ある全体の雰囲気は壊さず、落ち着きを感じさせるようなメロディだ。

 そしてこの部分が、サビだとケイも分かった。

 

―――ただ君の隣にいることが

―――生きる理由になったよ

―――もし許されるのなら

―――まだ君の傍にいたい

 

 間奏に入るが、今度はサビの雰囲気を乱すことなく、爽やかなメロディが続く。

 英は曲に集中しているのか、笑っているわけではなく、真剣に感情を籠めているような顔つきだった。

 やがて2番に入り、再び落ち着いた雰囲気に戻る。

 

―――お互いまだ知らない頃から

―――大分時が流れたね

 

―――同じじゃない心明かし合って

―――分からない気持ち覚えて

 

―――抱いたことないこの気持ち

―――伝えないなんてできないよ

 

 もう1度サビに入り、曲調が盛り上がる。

 

―――ただ君の隣にいるだけで

―――僕はこの先ずっと歩き続けられる

―――もし願いが叶うのなら

―――まだ君の隣にいたい

 

 間奏とはまた違う曲調になり、Cメロに入る。

 英の指の動きが複雑になり、そして歌声は切実な響きを含みだす。

 

―――合わないピースが合わさって

―――僕らの世界がまた広がる

―――やったことがないことも

―――君さえいれば心配ないよ

―――だから『君が好きだ』と伝えたい

―――何回でも、何十回でも、この声が続く限り・・・

 

 前奏よりもさらに静かな雰囲気になる。歌声も、より静かになっていく。

 今この時だけ、ケイの胸の中は溢れるような嬉しさに満ちていた。英がこの曲をケイのために歌いたくて練習した、と言ったのは、この曲の真っすぐなフレーズのような言葉を伝えたい、と言うことだろう。

 

―――君の思い描く未来に

―――僕はいるのかな?

 

 曲は再び、盛り上がりだす。

 

 

―――もしもまだ許されるのなら

―――この命ある限り君の傍にいたい

 

 

 だが、そのフレーズを聞いた瞬間、ケイの目が見開かれた。

 

―――君は知らないだろうけど

―――僕の気持ちは育ってきてる

 

 その意味を、理解した。

 

―――もしこの声が消え去ったなら

―――君の手をずっと握っていたい

 

 英は、そんなケイにも気付かず歌い続ける。ピアノを弾き続ける。

 ケイは自然と、自分の口元に手を当てていた。

 あまりにも嬉しくて、嬉しくて。

 

―――限りない時の中で

―――君だけを愛し続けよう

―――これからもずっと

―――君と共に生きてゆこう

 

 やがて後奏に入るが、最初はサビと同様に盛り上がる感じだった。

 しかしそれも、やがて静かに収まっていく。

 

―――君の傍で奏で続けよう

 

 徐々にリズムがゆっくりになっていき、音も静かになっていく。まるで陽が沈むかのように、落ち着いていく。

 やがて曲は終わり、最後の音が収まると英は鍵盤から指を離し、立ち上がる。

 

「・・・」

 

 ケイを見る。

 その瞳は潤んでいて、かろうじて英の姿を捉えることしかできない。曲の意味、英の真意を理解して、嬉しさのあまり拍手なんてできやしない。

 無論、英もそのケイの気持ちは理解しているつもりだ。それでも、目を逸らさずに、ケイを見つめる。

 

「・・・聴いてくれて、ありがとう」

 

 話しかけても、ケイはぎこちなく頷くだけだ。溜まった涙を堪えるのに精一杯で、満足に感想も紡げない。

 

「そして、今まで遠ざけるようなことをして、本当にごめん」

「・・・」

「ただ、この歌をケイの前で練習するのは恥ずかしかった。だから、1人で練習しようと思ったんだ。それでケイを不安にさせたのは、本当に悪かったと思う」

 

 ケイは何も答えない。答えられない。

 口を開いて、言葉を発せば、自分の気持ちは決壊すると分かっているから。

 

「この曲を見つけた時、ケイに聴かせたいってすぐに思った。何か、俺の気持ちを表現してるように感じたから」

 

 一歩、英はケイに向かって踏み出す。

 

「サンダースフェスタで告白する時、俺は自分に自信が持てなくて、だからあの時ピアノを弾いて自分を勇気づけようとした」

「・・・」

「その時と同じだ。だから俺はさっき、自分でピアノを弾いて、そして歌った」

 

 また一歩踏み出す。

 ケイは逃げようとも、退こうともしない。

 

「だけど最後は、やっぱり自分の言葉で伝えるべきだと思ってる」

「・・・」

「ケイを不安にさせたから、伝える権利なんてないかもしれないけど、それでも聞いてほしい」

 

 ケイの真正面に立つ。

 その英の言葉で、あの曲を英が歌った意図に確信が持てた。

 

「ケイ。俺はずっと、自分だけが楽しくピアノができればそれでいいなんて思ってた。けど、ケイと出会ってそんな考えも大きく変わった」

「・・・」

「今は、色んな人を喜ばせられるようなピアノを弾きたいって、そう思ってる。そして、そうなりたいって夢もできた」

「・・・」

「それに気付かせてくれたのは、ケイのおかげだ。誰かにピアノを聴いてもらって喜ばれる事の嬉しさや達成感に気付かせてくれたし、ケイの笑顔を見ると、自然と落ち込んでも立ち直れる」

「・・・」

「そんなケイのことが、大好きだ」

 

「そしてこれからも、ケイのことを愛し続ける」

 

 ケイの手を取る。

 

「ずっと、傍にいてほしい」

 

 その手を包み込むように、優しく握る。

 

 

 

「どうか、結婚してください」

 

 

 

 涙が溢れ、頬を伝う。

 温かくて、心地よい涙が流れ落ちる。

 

「・・・・・・私ね」

 

 それでもケイは、涙を堪えようと声を絞り出す。

 

「心配で、不安だった・・・。どうして1人で弾こうとするんだろうって」

 

 英の手を、またさらに包み返すようにケイの手が重ねられる。

 

「でも、私のためにピアノを練習してるって聞いた時は安心して・・・楽しみだった。どんな曲なんだろう、って」

 

 流れる涙を指で拭うケイ。だが、その涙は止まるところを知らない。

 

「・・・ここまでの歌だなんて、思わなかった」

 

 ケイは今、自分では笑っているつもりだ。英にどう見えるのかは、分からない。涙で視界は潤んでいるし、頬には温かい感触が残っている。

 それでも今は、自分の気持ちをただ伝えたい。

 

「影輔・・・」

「・・・ああ」

「私も・・・」

 

 もう一度手を重ねる、ことは無い。

 代わりに英を抱き締めて、耳元で伝える。

 自分も同じ気持ちなのを。

 

 

 

「・・・ずっと、あなたの傍にいさせて」

 

 

 

 英は、ケイのことを強く抱き締め返す。

 

「・・・ありがとう、ケイ」

「私の方こそ・・・素敵な曲をありがとう」

 

 もう涙を堪える必要はない。どれだけ視界が歪んでも、見失うことは無い。

 自分にとっての最愛の人は、すぐそばにいるのだから。

 

「・・・もう2度と、不安にさせないで」

「ああ・・・約束する。誓うよ」

 

 心に、ケイに、神に誓う。

 もう、不安にはさせないと。

 これからは、自分の傍で幸せにするのだと。

 

 空に広がる厚い雲から、一粒、また一粒と雪が舞い落ちる。

 けれど、英もケイも、外で降る雪なんて気付かない。今想うことは、自分のすぐ傍で涙を流し、喜んでくれている最愛の人だけだ。

 部屋の中で、クリスマスツリーとキーボードだけが、抱き締め合う2人を祝福するかのように静かに佇んでいた。

 

 

 

 

□ □ □

 

 

 

 

 広い部屋の中で、ピアノの音色が流れている。

 雪が降る外と違って室内が温かく感じるのは、暖房が効いているのとそのピアノの音色が温かく感じるからだろう。

 そのピアノを弾いている英は、脇目も振らず一心不乱に弾いている。急ぐような感情は一欠けらも音に混じっていない。

 

『・・・・・・・・・』

 

 そのピアノの演奏を、誰もが静かに見守っている。

 そのピアノの演奏に、誰もが静かに耳を傾けている。

 今だけは、誰もが声も音も立てずにそのピアノに集中していた。

 

 この曲は有名な音楽家が作製したピアノ曲で、その音楽家が手掛けた中でも最高傑作と言われている。燃え上がるような感情をわずかな隙も無く表現するこの曲は、テンポが速く複雑で、最高難度とも謳われていた。

 その曲を英は、焦ることなく奏でる。

 終盤に差し掛かり、曲は盛り上がりを見せる。連なる音符は波のように迫り、絡み合うように複雑なリズムを示す。弾いている英の指もこんがらがってしまいそうなほど素早く、不規則に動く。

 その速いテンポが衰えることなく、最後の小節に達し、終わりを迎える。

 英は音が消えてなくなるのを確認してから、鍵盤から指を離した。

 

『おお~!』

 

 直後、聴いていた誰もが拍手を贈ってくれる。大人も子供も、男性も女性も。

 その拍手を受けて、英はお辞儀をする。自分のピアノを聴いてくれてありがとう、評価してくれてありがとう、と言う気持ちを込めて。

 さて、今弾いた曲はテンポが速い疾走感ある曲だったが、少々暗い雰囲気もした。これで終わりにすると後味が悪いし、せっかくの明るいパーティも台無しだ。

 だから次は明るい曲を弾こうと思ったのだが、問題が起きた。

 

「えー・・・ちょっと手が疲れて痛いので、少し休ませてください」

 

 冗談めかして言うと、一同がどっと笑う。

 とはいえ、英のピアノはパーティに欠かせない要素。何より今の英にとって、ピアノを弾く手はとても大事にすべきものだ。その手を失くすことは、自分で叶えた夢を棒に振るも同然。聴いていたみんなもそれは分かっていたので、無理に引き留めはしない。

 

「お疲れ、影輔」

「ああ、ありがとうケイ」

 

 一旦ピアノから離れると、グラスを2つ手にしたケイが歩み寄ってくる。英は1つ受け取り、軽く乾杯をして一口飲む。ちなみに中身はジンジャーエールで、酒の味を知ってから大分経つが、ピアノを弾く時は決して酒を飲まない。

 

「すっごく上手だったわ!」

「ありがとな。けど正直、弾いてる時は冷や冷やした」

「まあ、あれだけ複雑なリズムだったらそりゃね・・・」

 

 英は手のひらを閉じたり開いたりして疲れを解す。先ほどの曲は、旋律だけ聞いていても複雑なのは分かったし、緊張して、疲れるのも仕方ないとケイは思う。

 

「お疲れ、影輔」

「おお、山河。クリスも」

「ええ、お疲れ様」

 

そこへやってきたのは、母校サンダースの親友の山河とクリス。あの時の面影が今も残っている2人は、小皿を手に料理を楽しんでいるらしい。

 

「あんな難しい曲、よく弾けたねぇ。流石と言うかだけど」

「弾いてる時はギリギリだったけどな。何せあれだけ速い曲、1度ミスると最後まで引きずるし」

 

 昔の調子で話す英と山河の横で、ケイとクリスは楽しそうに話している。

 

「ケイさん、世界大会代表入り、おめでとうございます」

「サンキュー!でもまだまだこれからだし、応援よろしくね」

 

 クリスも大人になって、性格は学生時代と比べて落ち着いている。大人になるにつれて心が成長したのだろう。一方で山河は、変わらず穏やかな感じだ。

 

「影輔先生」

 

 そこへ今度は、かつての凛々しい雰囲気を残すナオミがやってくる。

 よく見ると、ワイングラスを持つ左手の薬指には銀色に輝く指輪が嵌められていた。

 

「先生はやめてくれ、今日はオフなんだし」

「それは悪かった」

 

 英が苦笑し、お互いグラスを掲げる。山河とクリスは、まだケイと話をしていた。

 

「合奏団は大変そうだな。この時期は特に」

「そうだな・・・昨日も演奏会だったし、厳しいもんだ」

 

 英は、サンダースで新たに見つけた夢を追求した結果、合奏団のピアニストを務めるに至った。合奏団そのものは有名で、英の腕前も認められているからか、たまにソロでピアノを弾くこともある。幅広いジャンルの曲を弾くのが面白いと専らの噂だ。

 もちろん、ここまで来るのは決して楽な道のりではなかった。

 サンダース卒業後は音楽大学に通い、改めて教師の下で指導を受けた。卒業課題曲を習得するのだって苦労したし、周りとのギャップを感じてスランプに陥ることだってあったのだ。

 

「けど、大変だったからこそ、今は幸せだろう?」

「・・・そりゃあ、な」

 

 問われれば、もちろんそれには頷く。

 その努力と苦労、挫折を積み重ねたからこそ、夢が叶った今を幸せに感じる。努力もなしに夢が叶っても、正直嬉しさは薄いだろう。

 そんな時、誰かが英の足を掴むような感覚が。

 

「?」

 

 目線を下に向けると、艶やかな赤い髪の女の子がズボンを握っている。手には子供用のコップを持っているが、まるでナオミから隠れるようにして、英を見上げている。もしかしたら、ナオミが怖いのかもしれない。

 

「大丈夫、ナオミは怖くないよ」

「そうよ。ホントはとっても優しいんだから」

 

 英とケイがしゃがみ、頭をそっと撫でる。ケイと話していた山河とクリスは、場所を移動したらしい。

 この赤毛の女の子は、英とケイの2人の子供だ。髪の色が赤いのは、英の地毛が赤みがかった黒だからだろう。顔つきはどことなくケイに似ているが、大人しく引っ込み思案な性格だ。

 

「こう見ると、ケイの子とは思えないな」

 

 ナオミもそれが不思議に思うようで、足を屈めて頭を撫でながら呟く。撫でられて心地よくなったのか、娘ははにかむ。

 

「いや、ケイも昔は大人しかったらしい」

「そうなのか?」

「ああ、お義母さんが言ってた。だから多分、性格はケイ譲りなんじゃないかな」

「そうか・・・なら、将来有望かもな」

 

 そこで、娘が英のことを見上げて首を傾げる。普段接するケイは明るいから、想像がつかないのだろう。

 ナオミの『将来有望』という言葉は、恐らくいろいろな意味が含まれているに違いない。

 

「ママに似てるから、もしかしたら将来は美人の戦車乗りになれるかもな」

「ほんと?きれいになれる?」

「そうね。でもその前に、好き嫌いをなくさなきゃだけど」

「うー・・・」

 

 ケイの『好き嫌い』という言葉に表情が陰る。このぐらいの年頃の子供は好き嫌いが多いのは、英もケイも理解していた。それでも甘やかしはしないが。

 そんな親子のやり取りを見て、ナオミはふっと笑う。

 

「仲が良さそうで何よりだ」

「でも影輔の方がウケが良いのはちょっと悔しいかも」

 

 英の休みの日は、ピアノを練習していることが多い。そんな中で、子供が好きそうな曲を弾いて娘の関心を惹くのは、なかなか上手いとケイは思う。もちろんケイが嫌われているわけではないし、英のピアノの腕も認めている。それでもどこか、割り切れない。

 

「ナオミも、もうちょっと表情柔らかくしないと子供がおびえちゃうわよ?」

「別に愛想悪くしているつもりは無いんだけど・・・」

 

 ナオミが飄々としているのは前と変わらないし、そんなナオミに惚れて結婚まで至った男もいるわけだ。とは言え、ナオミも小さい子供に怖がられていい気はしなかったので、今度夫に相談してみようと思う。

 

「・・・アリサは、来れなくて残念だったな」

 

 さて、この場には、ケイたちと親しくてサンダース在学中から親交のあるアリサとその夫・タカシの姿は無い。

 

「仕方ない。アリサはもうすぐ『頃合い』だし、タカシもその付き添い。無理に招くことはできないさ」

「そうね、私の時も大変だったし・・・。今度お祝いパーティ開きましょう?」

「ああ、それはいいな」

 

 もうすぐ、新しい命が芽生える。

 その大切な瞬間を前にしているアリサは今は大人しくしているべきだから、ナオミの言う通り仕方がない。英も、自分たちの時はケイの言葉通り大変だったのを覚えているからこそ、アリサとタカシの気持ちを理解していた。

 

 それから少しの間、招いた人達と談笑する。

 その中には、サンダースでケイのルームメイトだったシンディとカレン、さらには所縁の深いアイザックとニッキーの2人もいる。特にこの2人は、大学卒業後に結婚し、さらに力を合わせて起業を成し遂げたらしく、何と言うか『らしい』未来を勝ち得ていた。前々から思っていたが、英は彼らに対しては尊敬の念を抱かずにはいられない。

 

「・・・そろそろ、行けるな」

 

 一区切りついたところで、英は改めて自分の手の調子を確かめる。

 ケイが心配そうに話しかけてきた。

 

「ホントに大丈夫?」

「ああ」

 

 元々、少し疲れて休んでいただけだ。鋭い激痛に苛まれていたわけでもない。

 するとケイが、労わるように英の手を握って解すようにマッサージをする。程よい力加減と柔らかな感触が気持ち良いのマッサージは、演奏会などの前にケイがいつも無事を祈ってしてくれるものだ。

 

「言うまでも無いかもだけど、くれぐれも手には気を付けて。影輔がピアノを弾けなくなったら、私・・・」

「分かってるよ、ケイ。俺も十分気を付けてるし、それに・・・」

 

 そして英は、マッサージするケイの手を逆に包むように握る。

 

「ケイを悲しませたくないから」

 

 昔誓ったことを、忘れてはいない。

 二度とケイを不安にさせはしない、悲しませはしないと。

 

「・・・ありがとう、影輔。頑張って」

「ああ」

 

 最後に、勇気づけるように英の手を力を籠めて握る。

 英は頷き返してピアノへ足を向ける。

 

「がんばって、パパ」

「おう、頑張るよ」

 

 愛娘からエールを貰い、俄然やる気が湧いて出てくる。

 改めてピアノの前に立つと、談笑していた人たちの視線がこちらに自然と向く。これ以上の大多数の観客を前に挨拶をしたことだってざらだから、もうこの程度では痛くも痒くもない。

 

「大変お待たせしました。それでは、最後の曲を弾こうと思います」

 

 宣言すると、みんなが拍手をしてくれる。

 最後の曲とは、ケイと英の2人が愛している、学生の時から弾き続けていたラブソングだ。しかし今日はピアノを弾くだけで、ケイは歌わない。飽きたわけではなくて、ケイが『たまにはピアノだけを楽しみたい』と静観に徹することもまた多くある。

 それでも、休みの日にはよく英のピアノに合わせて歌うことがあり、それがプロ戦車道選手としてプロの世界を生きるケイの彼女の小さな幸せでもあった。

 

「よし・・・」

 

 弾き始める前に、今一度演奏を待っている親しい人たちを見る。

 これほどの人が英のピアノを楽しみにしていること。そして、自分の夢を新たに見つけて、みんなとのつながりができたことも、全てはケイと巡り会うことができたからだと英は信じている。

 そんなケイは、英に向けて小さくサムズアップをしている。傍にいる愛娘も、胸の前で手を振っている。

 自分の家族の姿を見て安心した英は、笑って鍵盤に指を置き、全身全霊を籠めてピアノを弾き始める。

 その旋律は、雪降るクリスマスの夜空へと溶けて消えていった。

 




これにて、ケイと英の物語は本当に完結です。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

今回のお話で、本編終了後の英とケイの関係、さらにアイザックや彼らの周囲の人の関係を掘り下げて書かせていただきました。
ケイのために、英が自ら『ピアノを弾きつつちゃんと歌う』という難しい課題に挑戦するのは、この特別編を描こうと思った当初から決めていました。
また、アイザックのその後についても書き、自分なりにけじめをつけることができたかなと思います。
それぞれが大人になってからのことを描くのは、いつもながら緊張すると同時に楽しかったです。

次回作ですが、年明けぐらいに、大学選抜チームの2人目の話になるかと思います。
その時はよろしくお願いいたします。

最後になりますがもう一度。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
また、感想を書いてくれた方、評価をしてくださった方、ありがとうございます。
それではまた、次の作品でお会いしましょう。

最後に。
ガルパンはいいぞ。
ケイはとても魅力的だぞ。


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