比企谷八幡と黒い球体の部屋―外― (副会長)
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■■■■と黒い衣の戦士
寄生星人編――①


※今章は『比企谷八幡と黒い球体の部屋』【○○星人編-繋-】《side八幡――④》まで読了済であることが前提とした構成になっていましたおります。
ネタバレが嫌だという方は、先にそちらの方を読んでいただきたいなと思います。





化物なのに。化物なのに。化物なのに。


私は――化物なのに。


 千葉県某所――雪ノ下邸。

 

 どこか浮世離れした――世界から浮いているような、馴染めていないような、異様な雰囲気を放つ、一軒の洋館。

 

 その前に立てられた白いパラソル、その下に用意された白いテーブルを囲むように、三体の化物と、二人の人間は相対していた。

 

 二人の人間――比企谷八幡、そして霧ヶ峰霧緒。

 三体の化物――雪ノ下豪雪、雪ノ下陽光、そして霧ヶ峰霧緒と同一容姿の少年。

 

 これまで、雪ノ下陽光によって、彼女という化物の――『彼女』という化物の、その長い物語が語られ続けてきた。

 

 これは、化物の、化物による、化物の為の物語。

 

 とある一体の寄生虫が、恐ろしく美しい寄生獣となり、ありふれた人間の家族に迷い込んだ物語。

 

 化物としては余りにも美しく、獣としては余りに賢く、人間としては余りに醜かった、小さな生命の物語。

 

 極寒の世界でしか生きられないのに、温かい陽だまりに手を伸ばしてしまった、雪の結晶の物語。

 

 彼女は語る。

 

 美しく、儚く、脆い――雪の結晶のような微笑みを浮かべながら。

 

 比企谷八幡は、そんな彼女を――ただ、見ていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

「気付いていました――気付いていたのです。知っていた。私は、分かっていたのです。

 

「綺麗で温かい繋がりで輝いていたその世界の裏で、真っ黒で冷たい残酷な殺し合いで溢れる夜が――ずっと、繰り返されていたことを。

 

「年を経るごとに、年月を重ねるごとに――あの黒い球体が、その真っ黒な勢力を増し、己が支配を広げていることを。

 

「数多の“星人狩り”の組織を束ね、吸収し、または壊滅させていった某組織は、まるで自分達の植民地に自国の国旗を突き立てるように――各地に“黒い球体”をばら撒いていきました。

 

「そして、真夜中――唐突に、戦争(ミッション)を始めるのです。

 

標的(ターゲット)は――“星人”。

 

「時に人間達の生活を脅かす星人(侵略者)を、時に静かにひっそりと暮らす星人(移民者)を、彼等は独自の選別方法で見つけ出し、深夜の闇に紛れて襲い掛かっていきました。

 

「急速に、本当に信じられないようなスピードで、“黒い球体”は世界を、地球を、その手中に収めました。

 

「何故そこまで加速的に支配を、勢力を広げることが出来たのか。長らくそれは謎でしたが……それを知った時、化物である私も、我が宿主の耳を疑いました。

 

「そう……死人です。

 

「……本来、ごく限られた家系の者、人並み外れた特殊な能力を持った者にしか資格のなかった“星人狩り”――数々のオーバーテクノロジーを開発した黒衣は、それをごく普通の一般人にも可能な仕事にしたのです。

 

「そして彼等は、残る問題――全世界に正しく星の数も程存在する星人に対抗すべく、同じく夜空に輝く星のように全世界に配置した“黒い球体”、そこに配属させる戦士達の補充を、つまりは人材確保の問題を解決するために、とんでもない方法を実現させ、そして躊躇わずに実行した。

 

「死人の回収――そして、復元。

 

「そんな、正しく神の如き偉業を、神をも恐れぬ奇跡を、()()()()()()()()()()()()()、とある小さな一組織が世界規模で行っているという情報を得た時、私は――いえ、私だけでなく、他のこの情報を得たどんな星人達も、驚愕し、そして畏怖したことでしょう。

 

「地球人を――人間を、畏怖し、恐怖し、こう吐き捨てていたかもしれません。

 

「この――化物が、と。

 

「……正直に言いますと、ここまでの情報を得たのは、全てが終わった後なのです。当時、私が気付いていたのは、とんでもないスピードで“黒衣の星人狩り”達が勢力を広げ、恐ろしく精力的に“星人狩り”に乗り出しているということだけでした。

 

「それを知って、私は兎に角、寄生星人達の組織の制御に努めました――決して、動くなと。じっと息を潜め、隠れ、逃げ(おお)せるのだと。反抗などせず、ましてや戦おうなどと夢にも思わず、反抗など絶対にするなと。同族の中には恐怖で早まろうとするものもいましたが、そんなことをしては、ただ標的(ターゲット)にされる可能(きけん)性が増すだけ。私は自分達に、寄生(パラサイト)星人に万に一つでも勝ちの目があるなどと、思い上がるつもりは毛頭ありませんでした。

 

「けれど、私達のような選択をするもの達ばかりではありません。中には黒衣達の行動に、その武力を以て反抗しようとする星人達も決して少なくありませんでした。

 

「八幡さんが知っているところだと、まさしくオニ星人がそうですね。篤さん達のグループが出来たのはつい最近ですが、オニ星人という種族自体の歴史はかなりふる――いえ、失言でしたね。……そんな顔をしないでくださいな。私にも立場というものがございます。いつか、お話出来ると思いますよ。

 

「ともかく、星人達も、ただで殺される気など、駆逐される気など――絶滅する気など毛頭なかったということなのです。戦力を集め、仲間を集めて……それは段々と、黒衣による一方的な虐殺から、実力拮抗した殺し合いへと推移していきました。

 

「つまりは――戦争です。

 

「……当然、戦争は時を経るごとにそのスケールは大きくなり、被害が広がっていきました。にも拘わらず、その凄惨な爪痕は、どれほどの激戦の後であろうとも、徹底的に表舞台には、表の、昼の日常世界には、その兆候すら見えませんでした。

 

「ただ、天災の後のように、大地に傷が残るばかり。人間の死体も、化物の死体も、まるで綺麗さっぱり消し去られていました。

 

「私は……そうですね、怖かったのでしょう。あれだけの地獄を、まるで何もなかったかのようにすることが出来る、何か。おそらくは、あの黒衣の戦士達を擁する組織は、そんなことが出来てしまうくらいの権力(ちから)を持っていると、恐ろしくて堪らなかった。

 

「そんな組織が、何故か唐突に、“星人”達をこの地球から撲滅せんがばかりに、“星人狩り”を強行している。まるで、何かのタイムリミットが、近づいているかのように。

 

「……ええ。気付いていた――私は、気付いていました。

 

「知っていた。分かっていた。それでも――何も、しなかったのです。

 

「庭師の副官にも、問われたことがあります。――このままで、いいのか、と。

 

「決まって私はこう答えました。――今は、動くべき時ではない、と。

 

「私は未来を諦めていました。この身の、彼女の寿命が尽きるまで、ただやり過ごせればいいと、そう諦観していました。

 

「星人達は、いずれ地球から撲滅されるでしょう。寄生星人も、遠からず内に絶滅するでしょう。

 

「私は、それで構いませんでした。人間に勝てるとは思いませんでしたし、人間を殺してまで生きたいとも思いませんでした。そもそもの話、死んでいるようなものでしたしね。

 

「ならば、このまま、ひっそりと、こっそりと――あの綺麗な人間達を、この美しい家族達を。

 

「そっと、そっと、そっと。

 

「ただ見守って。このまま、近くで。

 

「この幸せに…………割り込ませて――。

 

 

「――そんな、傲慢で、醜悪なことを、願った……せいで。

 

 

「化物なのに。化物なのに。化物なのに。

 

 

「私は――化物なのに。

 

 

「繋がりを………求めて………しまった…………ッッ。

 

 

 

「私は…………化物。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 氷の美少女――氷の微笑女。

 

 雪ノ下家のとある一部の者達から、そう称される一人の使用人がいる。

 

 身請け同然に雪ノ下家へと放り出され、案の定、当時の雪ノ下家の当主である厳冬にその身を弄ばれたその少女は、実の家族と共に全ての感情を失ったかのような、氷のような無表情の人形だった。

 

 だからこそ、まるで氷の彫刻のように美しく――厳冬は、当時僅か十二才だった彼女に魅入られ、廃屋の前で呆然と立ち尽くす彼女を、そのまま車を降りて問答無用で屋敷に連れ帰ったという。

 

 そんな彼女が唯一感情を表す時――それは、ベッドの上で厳冬に犯されている時だった。

 

 氷のようなその顔に涙を浮かべ、目を鋭く細めて、歯を食い縛り、その真っ白な頬を赤く染めながら厳冬を、燃え盛るような凍える瞳で睨み付ける。

 

 そんな少女を見て、厳冬は――背筋の凍るような、この上ない昂揚感を覚えていた。

 

 自分の行為が、自分のこの感情が、ひどく悍ましいものであるということは、厳冬は理解していた。

 

 金にものを言わせて人権を無視して動物のように買い取った、成熟すらしていない、幼いと称するが妥当の、まだ明らかに子供の少女を。

 

 このように力づくに、穢し、傷つけ、そして犯す。

 

 しかし、反吐が出るような自らの行為の醜さを理解していても尚、厳冬は既に、この少女に魅入られ、そして取り憑かれていた。

 

 あの美しい少女が――ボロボロの家でボロ衣を纏い、ボロボロに汚れながらも、それでも氷のように美しく佇んでいた、あの氷の美少女が。

 

 自分の前では全てを曝け出し、その瑞々しい、未成熟ながらも光り輝いている裸身を晒し。

 白い肌を赤く染めながら、氷を溶かすような苛烈な感情を剥き出しにし、この厳冬にだけそれを向けてくれる。

 

 氷の中に隠されていた、ぐつぐつと煮えたぎるような――その真っ黒な激情を。

 

 一代にして雪ノ下建設を築き、あらゆるものを屈服させながら栄華を極めたこの男が、唯一手に入れられなかったもの。

 

 全てを手に入れたこの男も、ただ一つ、女の愛し方は知らなかった――愛される方法も、知らなかった。

 

 汚れた陰謀によって婚儀を結んだ、自分よりも二十以上は年下の妻とは、当然ながら愛や恋など生まれる筈もなく――自分の家の中すらも、会社同様に戦場(いくさば)に変わるだけだった。

 

 そこに後悔などない。

 これが雪ノ下厳冬という男が自ら選択した末の生き方であり、人生だった。

 

 戦い、戦い、戦い続ける。

 敵を潰し、他者を出し抜き、その力と才覚を以て屈服させ――己の城を、雪ノ下建設を天下一の名城に築き上げる。

 

 あの女との結婚も、所詮はその為の契約に過ぎない。

 令嬢という己の立場を理解しつつも不満を持て余し、野心を燻らせ、己の能力に対する誇りを抱え、自らの家よりも己の欲望を優先させる――あの女は、己の契約相手としてこの上なく適当な女だった。

 

 そう、安い契約の筈だった。

 結果としてあの女は自分が思っている以上に手に負えないじゃじゃ馬ではあったが、女としてならまだしも、仕事人としては己も決して負けるつもりはない――むしろ、初めて出会った自身と同等以上の才覚を持った人材として、それは嬉しい誤算でもあった。……その結果、自宅すらも決して隙を見せることの出来ない戦いの場となってしまったが。それでも、あの女を手に入れることが出来た事実と比べればお釣りがくる。

 

 そう、その筈――その筈だった。

 既に人生を折り返した年齢に達した厳冬は、順調に己の人生の謳歌している筈だった。思い通りに生きていて、悔いのない生涯を送っている筈だった。

 

 だが――時折、無性に胸が痛む。

 

 あの女に男がいることには気付いている。

 自分と同じように、仕事に全てを捧げている筈のあの女――だが、自分と、あの女には、決定的に違う瞬間がある。

 

 決して派手派手しくはない――が、前日から念入りに何着もの候補から厳選し、いつもの仕事の時以上に早起きをして、気付かれるか気付かれないか程度のメイクを念入りに施して。

 そして、何より――美しく、笑う。

 

 見合いの時も、式の時も、一度たりとも感じなかった美しさを、この時、不覚にも厳冬はこの女から感じてしまった。

 

 顔や身体の造形が美しい女だとは知っていた――だが、今まで幾人もの女を抱き、目を張るような美女を送り込まれて来た厳冬にとって、それは心を揺らす要因にはなり得ない、筈だった。

 

 だが、自分に向けられたわけでもない、その笑みの横顔に、厳冬は胸の痛みを覚える。

 

 嫉妬ではない――否、嫉妬なのかもしれなかった。

 だが、それはこれから女が会いに行くであろう男にではない。

 

 自分と同じように規格外の才覚を持って生まれ、自分と同じように己の並外れた能力に誇りを持ち、自分と同じように、己の力で何処まで上り詰めることが出来るか、その証明に生涯の全てを捧げている――筈の、あの女に。

 

 自分と同じである筈なのに、自分が持っていないものを持っている――あの女に。

 

 己の妻であるこの女に、厳冬はきっと嫉妬していた。

 

 

 そして、厳冬は、見つけてしまった。出会ってしまった――出遭ってしまった。

 

 荒れ果てた街の、腐り果てた民家――その軒先に、みすぼらしいボロ衣を纏って佇む、氷の美少女に。

 

 

 だから、雪ノ下厳冬は、今日も少女を犯している。

 

 己の人生の全てを懸けて、雪ノ下建設という一つの城を築き上げた豪傑が、その身を女として成熟すらさせていない少女に狂わされている。

 

 厳冬は少女を組み敷きながら嗤う――この雪ノ下厳冬が、何と滑稽で、何と無様な有様かと。

 

 だが、少女を己の手で喘がせる度に、己の手で少女の氷に罅を入れる度に――己の心に空いた穴が、何かで満たされていく感覚に陥るのだ。

 

 まるで獣だ。この少女には、己はどれほど恐ろしい化物に見えているのだろうか。

 

 愛されている可能性など微塵もない――この少女は、恐ろしく怜悧で、そして聡い。

 己の境遇を理解しているし、だからこそ、このような悍ましい暴挙を受け入れているのだろう。

 

 それでも、屈辱は消えない。成熟しきっていない身体が、心が、この現実を認めてくれやしない。

 どうしても溢れてしまう――溶岩のような憎悪が、業火のような憤怒が、氷の美少女の内に秘めた剥き出しの黒い感情を引き擦り出す。

 

 そして、それが厳冬を満たすのだ。

 少女に憎まれることで痛む心を、それ以上の耽美な快感で包み込む。

 

 ああ――ままならない。

 どれほど年を重ねても。どれほど欲望を満たしても。どれだけ野望を叶えても。

 

 無様に、醜悪に。己が全てで築き上げた、その全てを失ってしまうような愚行だと理解していながらも――繋がりを、求めてしまう。

 

(……そうか。儂は――)

 

 これが心。これが獣。

 

 これが――人間というものなのか。

 

 なるほど。何と醜く――。

 

(――ああ……何と、美しい)

 

 そして、厳冬は、己を憎々し気に睨み付ける氷の美少女に、そっと口付ける。

 

 氷の美少女は、涙を零しながら、力無く――目を、瞑った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(…………随分、昔のことを思い出しましたね)

 

 かつての氷の美少女は、未だ健在の氷のように美しい無表情で、静かに額をその細い指で押さえる。

 

『彼女』が思い出したのは、自分が“初めて”呼ばれた夜の褥で、行為に耽っている中、無表情無感動無反応の自分に対し、大いに慌てふためいていた厳冬の姿。

 

 滑稽というのならまさしく滑稽の極みだったあの姿を思い出し、『彼女』は静かに微笑みを浮かべる。

 

 氷の美少女――氷の微笑女。

 

 いつからか、『彼女』が浮かべるようになったその微笑みの余りの美しさに、雪ノ下家の家中で密かに広がっているその異名は。

 

 しかし、目の前の若者に対しては、一瞬たじろぎ、頬を赤く染めさせるものの、その激昂を止める程の効果は惜しくもなかった。

 

「――聞いているんですか社長!? このままじゃ……このままじゃあダメなんですよ!」

 

 若者はオフィス机を叩きながら、事務所全体に響くような怒声を上げる。

 室内にいた数名の視線が集まるが、皆静かにPC作業に戻る――これは、ここ最近、幾度となく繰り返された光景だ。

 

 社長と呼ばれたのは、平日は雪ノ下家に使える家政婦長であり、かつて、そして今も密かに氷の美少女と呼ばれる、静謐な美女である。

 

 幾つもの机が固められた島から少し離れた場所に置かれた窓際のオフィス机の椅子に座る彼女――その横に侍るは、休日の今でさえ本業の庭師の恰好から着替えていない細身の青年。

 机を挟んで美女と相対するは、Tシャツにジーンズというラフな格好で、スラリと背が高く、髪はオールバックな目つきの鋭い、高校生くらいの若い少年。

 

 他にも、机が固められた島で各々作業する面々は、年若い女性から壮年の男性、果ては歩行に杖が必要そうな老人まで、老若男女が一切の統一性なく集められていた。

 

 事務所の名前は『スマイルカンパニー』。

 資材の運送からイベント会場の設備運営まで、様々な業務をこなす――『会社』である。

 

 社長と呼ばれたこの美女が、かつて雪ノ下家の反乱分子を粛清した際、送り込ませた手先を使って系列会社に紛れ込ませた、雪ノ下建設の配下のとある一企業。

 

 氷の微笑女は、偽()を使って自らをそこの社長とし、寄生(パラサイト)星人組織の隠れ蓑として使用していた。

 

 勿論、普段は真面目に業務を行っている。

 寄生(パラサイト)星人達の表の世界での社会的地位を確立し、真っ当な収入源を安定させ、人間らしい暮らしを供給する。これが、美女がこの会社を設立した目的の一つだからだ。

 

 人間社会に溶け込む上で、仕事というのは切っても切り離せない重要なファクターだ。だが、並みの寄生(パラサイト)星人では、長期間に渡って人間達の中に溶け込み、違和感を持たれずに日常生活を過ごしていくことなど出来ないだろう。

 

 ならば、そんな劣等生な寄生(パラサイト)星人達を、纏めて面倒を見ることの出来る(おおやけ)な職場を用意すればいいと、美女は考えた。

 そこにはその職場を美女が運営する寄生(パラサイト)星人組織の隠れ蓑にも出来るという利点もあった。いつまでも深夜の廃墟に、老若男女入り混じった不自然な集団が集まるのも限界があるからだ。

 

 千葉のとある駅から程よく離れたオフィスビルのワンフロア。

 これが、地球に降り立ち、この惑星で生まれた化物――寄生(パラサイト)星人が、およそ二十年かけて手に入れた、住処であり、棲み家である。

 

 つまり、ここに集まっている人間は、全員が人間ではなく化物であり、寄生(パラサイト)星人である。

 

 この美女も、この庭師も、このOLも、このオタクも、このギャルも、この外人も、この老婆も、このアスリートも、このイケメンも、この教師も、この探偵も、この眼鏡も、この仲居も、みんな、みんな、みんなみんな――化物だ。

 

 どいつもこいつも星人だ――人間に擬態した、寄生(パラサイト)星人だ。

 

 そして、それは、この、高校生も――。

 

「――シン。何度も言っているでしょう。それは、ダメよ」

 

 氷の微笑女は、その微笑みを消し、氷の名に相応しい極寒の眼差しを、シンと呼ばれた高校生に送る。

 

「我々『寄生(パラサイト)星人』は、この事態に――何もしない。いつも通り、これまで通り、普通に過ごすのです。人間に混じり、人間に擬態し、人間のように振る舞い、人間のように暮らす。化けの皮が剥がれぬように、ひっそり、こっそり、静かに過ごすの――やり過ごすのよ」

「――ッッ!! ………だから………それじゃあ、ダメだって言ってるんだ……ッッ」

 

 氷の微笑女の冷たい言葉に、シンは机に叩き着けた両手を拳に変えて震わせる。

 そして、睨み付けるように自分達の長である社長に向かって言った。

 

「黒衣の星人狩り達は、もう確実にこの辺り一帯を手中に収めてるッ! もういつ『標的』にされてもおかしくない!」

「だからこそ、よ。今、この状況で何か行動を起こしたら、それこそ『標的』にされてしまう。私達寄生(パラサイト)星人が、数々の強豪星人を駆逐しているあの黒衣達と戦った所で、立ち向かった所で、シンは――まさか、本気で勝てるとでも自惚れているの?」

「戦おうと言ってるんじゃない! 逃げるなって言ってるんだ!」

 

 シンは、これまで数々の戦いを経てきた歴戦の氷の微笑女の極寒の眼差しを受けて、真っ向から、真正面から言い放つ。

 

「戦ったって勝ち目がないことくらい分かってる! でも、逃げてるだけじゃあ、隠れてるだけじゃあダメなんだ! 守るんだ! 守る為に……守る為に、戦うんだ!」

 

 叫ぶように言い放ったシンは、何も言わず、ただ冷たく己を見据えて来る氷の微笑女に、項垂れるように目線を逸らしながら、懇願するように言った。

 

「……社長。あなたも、知っているでしょう。……奴等は、確かに人間の脅威になるような、危ない星人達を優先的に狩ってはいるけれど……今では何の罪もない、ただ地球にいるというだけで、人間達にまるで関わっていない無害な星人達だって、容赦なく討伐していってるんです」

 

 黒衣の星人狩りは、その勢力と支配を増すごとに、その討伐対象を広げていた。

 この間、奴等に滅ぼされた『ねぎ星人』は、寄生(パラサイト)星人と同じように、人間に擬態する能力(寄生(パラサイト)星人のように人間に見た目を変えるのではなく、自分達にむけられる人間からの認識を弄るという能力だが)を駆使して、人間社会に紛れ込み、静かに暮らしているだけの化物だった。

 

 そのねぎ星人ですら、黒衣の討伐対象となった。

 人間社会に、星人が紛れ込んでいる――それだけで、奴等に脅威と判定されるなら、シンの言う通り、自分達『寄生(パラサイト)星人』も、いつ黒衣の討伐対象とされてもおかしくない。

 

 この言葉で、氷の微笑女の無表情が、初めて翳った――かのように、隣に侍る庭師には思えた。項垂れているシンは、それに気付かない。

 だが、それでも庭師は、何も言わず、こちらは樹木のような無表情で、ただ美女とシンのやり取りを黙して見守るだけだった。

 

 氷の微笑女は、項垂れているシンから目を逸らして、冷たく言う。

 

「……それでも、私達は、何も出来ない――何もしない」

「っ!? 社長!」

「ならば――あなたは捨てられるの?」

 

 再び顔を上げ、目を合わせる両者。

 冷たさを増した美女の眼差し。シンはゾクリと、背筋が凍る錯覚を覚える。

 

 美女は告げる。冷たく、告げる。

 

「人間を――棄てられるの?」

 

 此処が、この場所が、この千葉が。

 

 既に黒い球体の支配下だというのなら――そして、戦って勝ち目がない相手からの生存を目論むのなら。

 

 逃げるしかない。隠れるだけじゃあ、いつか見つかるというのなら。

 

 でもそれは、その選択は――人間として築き上げてきた今のこの生活を、棄てるということに他ならない。

 

「……出来ないでしょう――特に、あなたは」

「………………それでも……なら――」

「武力を整える? 戦力を掻き集める? それこそ、奴等の思う壺。ほんの僅かでもそんな素振りをした時点で明確な人類への敵対行為と見做されるわ」

 

 話は終わり。

 そう告げるように、氷の微笑女は席を立つ。

 

「……………もしも」

 

 項垂れ続けるシンは、自分の横を通り過ぎていく美女に、搾り出すように、言った。

 

「……もしも……あなたが逃げてくれるというのなら――俺は……棄てます」

 

――人間を、棄てます。

 

 その言葉に、美女の足が止まった。

 

「あなたが戦えというのなら、黒衣とだって……戦います。……あなたが一緒に死ねというのなら――俺達は、あなたと一緒に死ねます」

 

 シンは、背中を見せる美女に向かって宣言する。

 

 気が付けば、他の従業員も――他の寄生(パラサイト)星人達も、作業を止めて、美女を見ていた。

 

「………………」

 

 庭師は、氷のように動かない彼女の、背筋が凍るような美女の背中を、誰よりも近くで見守っている。

 

「俺は、あなたの戦いの、ほんの一部しか知らない。それでも、此処にいる“人”達は、“社長”の戦いをずっと見て来て、社長の為に――死ぬことが出来る者達だ」

 

 シンは言い放つ。自分達を導き続けた、偉大なる先導者(リーダー)に向けて。

 

「……俺は……あなたのように、頭が良くない。……だけど、このまま……あなたが作り上げたものが壊されるのを……黙って見ていることなんて出来ない……っ」

 

 歯を食い縛って、俯きながら――己が右手に、縋るように目を向けて。

 

「あなたの…………それが、どんな答えだろうと、どんな末路であろうと……それがあなたの答えなら……あなたの選択なら――きっと、俺達は」

 

 その右手を開き、見詰め、そして強く拳を作りながら。

 氷を溶かすように、熱く、熱く、言い放つ。

 

「だから――逃げないでください! 俺達を……見てください。それが、どんな選択だろうと……あなたに付いていきますから」

 

 事務所の中に、冷たい、静寂が満ちる。

 

 やがて、氷の微笑女は、己が集めた寄生星人(ばけもの)達の方を見ることなく、冷たく告げた。

 

「――もう、我々には……守るものが、有る筈です」

 

 社長は告げる――寄生(パラサイト)星人の、女王は告げる。

 

 OLに、オタクに、ギャルに、外人に、老婆に、アスリートに、イケメンに、教師に、探偵に、眼鏡に、仲居に――高校生に、告げる。

 

――守る為に、生きなさい。

 

 そして、背を向けたまま、氷の微笑女は、寄生星人の棲み家の事務所を後にした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 静謐な美女は――氷の微笑女は、先程の会合を思い返しながら、雪ノ下家への帰路を歩いていた。

 

 今日は家政婦としては休日だが、昼過ぎから外せない用事が入っている。

 それは雪ノ下家にとってはとても重要な行事であり、庭師はともかく、美女は会長と社長夫人から直々に参加を要請されているので、こうして朝だけ会社に顔を出した後、速やかに自宅へと向かっているのだ(今でも彼女は雪ノ下家に住み込みで働いていて、庭師も屋敷の離れを住居として使わせてもらっている)。

 

 お互い無言で歩いていた庭師と美女だが、やがてぽつりと美女が呟いた。

 ちなみに庭師は街中でも平然と庭師ファッションだったし、美女も流石に家政婦ファッションではないがぴっちりとしたOLスーツと眼鏡姿なので、その氷のような美しい相貌と相まって十分に注目を集めていたが、既に二人は――というより美女は、そんな自分達が注目は集めるものの(人間達にとって)近寄りがたい存在であるということは自覚しているので、周囲に漏れない声のボリュームというのを把握した上で会話している。

 

 話題は、当然ながら、先程の会合のことであった。

 まず真っ先に議題に上がったのは、やはり――。

 

「――変わったわね、あの子も」

「……奴は、元々()()だからな」

 

 あの部屋では遂には一言も喋らなかった庭師も、美女の言葉には相槌を返した。

 

 シン――ほんの数か月前に、美女と庭師が発見して直接スカウトした逸材。

 通常の寄生星人とは大きく異なる事情を持つ特別製であり、それ故にか、瞬く間に美女と庭師――寄生星人組織(スマイルカンパニー)社長と副社長(トップツー)に、その他メンバーの意見を纏め上げて進言するような、ナンバスリーの役割をこなす位置にまで伸し上がっていた。本人にはその自覚はないだろうが。

 

 これには、他にも大きな事情がある。

 

 美女が把握している範囲内においては――既に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 氷の微笑女が築き上げた組織は、いわば寄り合いのような集まりだった。

 明確にリーダーを決めるのではなく、あくまで種族としての方向性は合議で決める――まぁ、かといって全員が円卓に座って会議するわけにもいかず、選出された代表者によっての少人数での会議となり、そうなると、その有力者を旗頭とする派閥が生まれるのは自明の理である。

 

 つまりは、寄生(パラサイト)星人にも、複数の派閥があったのだ。

 複数に分かれれば、それぞれ相手の意見を否定し、自分達の意見を通り易くするために、それぞれの派閥のカラーが出てくる。

 

 美女が率いる派閥が穏健派なら、その意見を潰す為にといわんばかりの好戦派が生まれ、彼等の顔色を窺いつつ身の振り方を考える中立派が生まれる。

 創設者の美女は、それもまた一つの成長であると放置していたのだが、此度の黒衣の進撃に当たって――端的に言えば、好戦派が暴走した。

 

 氷の微笑女達の懸命な説得も虚しく、彼等は黒衣達に戦いを挑んだ――何とか、美女は千葉ではなく東京でその戦争を起こすように誘導はしたのだが――結果だけ言えば、大敗であった。

 好戦派筆頭派閥の首領、その他会議出席者の幹部等も軒並み討ち取られる大惨敗である。

 

 早まった愚か者の当然の末路――そう割り切れたものは、美女を含めてのほんの一部だった。

 

 同族の敵討ちと復讐に走った奴等がいた――負けた。

 武力だけで言えば最強派閥の敗北に恐怖に呑まれた奴等がいた――死んだ。

 真に危機感を覚え、隠れ、潜み、逃げ続けた奴等がいた――殺された。

 

 一人、また一人――化物達が死んでいき。

 一つ、また一つ――派閥が消え、集団的に狩られ、会議の椅子が空白になっていく。

 

 氷の微笑女の表情が、みるみる内に――凍っていった。

 

 こうして今、寄生(パラサイト)星人は、絶滅の危機に瀕している。

 

 残っているのは、ほんの一部――氷の微笑女が率いる、穏健派派閥のみだった。

 

 元々スマイルカンパニーは美女が用意した隠れ蓑の一つに過ぎなかった。

 設立理由は前述の通りで間違いはないが、しかし、今ではあの会社のメンバーと、そして雪ノ下建設の各グループに忍ばせている一摘みの精鋭――のみが、寄生(パラサイト)星人という種族の生き残りの全てになってしまった。

 

 幸いなのは、気休め程度に幸いなのは、残った寄生(パラサイト)星人達はその殆どが、美女が自らスカウトし、救済してきた者達であり、彼女に深い恩義と信頼を感じている者達だということか。

 寄生(パラサイト)星人の全体数が著しく減少したこと――そのことに関しては、美女は特に思うことはない。むしろ、御蔭で残る寄生(パラサイト)星人の発見のリスクが減り、より人間達に紛れ易くなったと思っている。

 

 問題は――最大の問題は、寄生(パラサイト)星人という星人種族を、黒衣の星人狩り達に認識されてしまったこと。

 そして――奴等が、牙を剥いたもの達だけでなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことだろう。

 

 あの事件により、種族会議にて最大の発言力を持っていた美女の意見に流されていた奴等も、こぞって迂闊に動いてしまった――結果、早死にし、犬死に、無駄死にした。

 

 シンに言われた通り、このまま隠れ潜んでいても、奴等に見つかり、奴等の標的とされる可能性は高いのかもしれない。

 だが、戦うにしろ、逃げるにしろ、はっきりとした行動に移すのは、黒衣に発見されるリスクを更に大きく高めるのも確かなのだ。

 

 それは、きっと――致命的な程に。

 

「………………」

 

 氷の微笑女は、その異名の微笑みを浮かべることなく、氷のような無表情で、氷のように冷たくなってきた空を見上げる。

 

 一面の曇天。今夜は、もしかしたら雪が降るかもしれない。

 雪は嫌いでもなければ、好きでもない――それは、彼女にとって、この世の殆ど全てが当て嵌まる枠組みだけれども。

 

 寄生(パラサイト)星人は、今、絶滅の危機に瀕している。

 寄生(パラサイト)星人は、今、ここが、きっと別れ道なのだろう。

 

 絶滅するか。それとも生存するか。

 

 氷のように冷たい美少女は、その美し過ぎる相貌に――終ぞ、微笑みを浮かべることはなかった。

 

 ただただ、哀れみだけを、浮かべていた。

 

 氷のように冷たい彼女の、氷のように冷たい思考は、ずっと――たった一つの答えのみを出し続けていたから。

 

「――なぁ」

 

 滅多に聞くことが出来ないけれど、彼女にとっては聞き慣れた声が、何故か横からではなく背後から聞こえた。

 

 立ち止まり、振り向くと、街中でどうしようもなく浮いている庭師姿の男が、彼女を樹木のような無表情で真っ直ぐ見据えている。

 

「……あら、珍しいわね。あなたの方から話しを切り出すなんて。今夜は雪でも降るのかしら」

 

 そんな風に茶化してみるが、それでも庭師は何も返さず、ただ静かに口だけを動かす。

 

「お前の――守るものとは何だ?」

 

 庭師の、その言葉に――彼女は。

 

 一瞬、大きく目を見開いて――微笑みを、浮かべて。

 

「――行って来るわ。……今夜は、きっと遅くなる」

 

 振り返り、背を向けて、一人――雪ノ下家へと、帰っていく。

 

「………」

 

 その背中を、庭師は立ち止まり、佇んで、見送る。

 

 ブルルルと庭師の懐で振動する携帯電話。

 庭師は、パカッとそれを開いて、彼女の背中から目を離さずに応答した。

 

「――俺だ。…………ああ。分かった。すぐ戻る」

 

 その表情は、樹木のように無表情で。

 

「…………ああ。アイツは戻らない。客には――俺が社長(リーダー)だと、そう伝えろ。シン」

 

 その瞳は、冷たく――氷のようだった。

 

 

 

 

 

 そして。

 

 灰色の空は、黒く染まり――夜が、来る。

 

 暗い、暗い、夜が。

 

 冷たく、寒い、夜が。

 

 美女は、庭師は、そっと息を吐く。

 

 そして吸い込んだ冷たい空気は、恐ろしい程に、借り物の身体にしっくりと滲んだ。

 




夜が来る。

暗い、暗い、夜が。

冷たく、寒い、夜が。

息が凍るほどに、冷たく寒い――真っ黒な、夜が来る。


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寄生星人編――②

……………………ああ――



――……………………………終わっ…………た。



 

 真っ暗な世界をヘッドライトがほんの少し先だけを照らしながら、四人乗りの普通自動車は舗装された山道を走る。

 

「ごめんなさいね、折角の休日なのに。それでも……あの人は、あなたに来て欲しいと思っていると思ったから」

「……いいえ。……私も、個人的に参ろうと思っていましたから。声を掛けていただき、嬉しいです。ありがとうございます、奥様」

 

 後部座席に座る、顔に深い皺を刻みながらも未だ美しさを損なわない老年の女性は、隣に座る氷のような美女に語り掛けた。

 

 暗い車内の中、自らと同じく黒い礼服に着替えている美女は、少し目を離したらまるで外の闇と同化してしまうかのような、妖しい美しさを纏っている。

 

 奥様と呼ばれた女性は、文言は殊勝だが、何処か氷のように感情が伴っていない言葉調子で、尚且つ、こちらの方を向きもしないで、窓の外の林の中を堂々と見渡しながら言うそんな『彼女』に、思わず苦笑を漏らした。

 

 そして、そんな一人の使用人としては失礼極まりない態度を咎めることなく、一方的に『彼女』の方を向いて、奥様は更に語り掛ける。

 

「私はもう隠居の身。奥様なんて呼ばれるような存在じゃないわ。何度も言ってるけど、普通に名前で呼んでくれて構わないのよ」

 

 老年の女性――厳冬の戸籍上は正式な妻であった、豪雪の血縁上の母である彼女は、名を雪ノ下照子(しょうこ)と言った。

 前の席で運転する血縁上の息子である豪雪よりも、助手席で彼と仲睦まじく話す戸籍上の娘である陽光(ひかり)よりも、厳冬亡き今となっては最も長い付き合い存在となる、言葉上ではとても複雑な関係になってしまう『彼女』に、照子はその立場には似つかわしくない程フランクな口調で言った。(この子は本当に変わらないと苦笑する――変わらないといえば、自分よりも遥かに年下とは言え、年齢としてはもう三十を超えている筈なのに、容姿が出会った時から殆ど変わらない。自分はこんなにも深い皺を顔に刻んでいるのに。まるで雪女のようだと、少し不思議に、そして羨ましく思う)

 

 だが、実は立場というのであれば、公的には既に照子は何のポジションにも付いていない。

 表面上は幼馴染であり、血縁上では共に豪雪を生んだ、愛する男性――(つよし)を、数年前に事故で失ってからは、彼女は雪ノ下グループの会長の職も下りた。

 

 今は千葉のとある場所で孤児院――今では児童養護施設と正式には称されるらしいが――に運営資金を寄付しながら、そこに理事長のような形で名を貸しつつ、時折その園の子供達に顔を見せに行き、気まぐれにふらっと娘(息子)夫婦の元へと遊びに訪れて談笑しながら、最も古い友人である『彼女』とお茶を楽しむという老後を送っている。

 

 そんな充実の隠居ライフを楽しんでいる照子が、言葉上は立場を重んじていながらも態度からは全然伝わらない独特の対応をしてくる友人と(そんな所を気に入っているのだが)、息子(娘)夫婦、そして――。

 

「――それにしても、相変わらず懐いているわね。雪ノ下家の血かしら」

 

 照子は、祖母の自分ではなく、友人の膝の上で(血縁上は『彼女』も祖母であるのでそこまで気にしてはいないが)気持ちよさそうに寝息を立てる孫娘――陽乃を優しく慈愛の籠った手つきで撫でながら、ちょっぴりの嫉妬心と共に友人に言った。厳冬から始まり、陽光、そして陽乃と、雪ノ下の血を引く人間の悉くを惹き付ける、不思議な引力を持つ友人に。

 

「…………」

 

 氷の微笑女は、そんな照子の言葉には何も返さず、いつもと同じ無表情の瞳で車内を見渡す。

 

 雪ノ下照子。

 雪ノ下陽光。

 雪ノ下豪雪。

 雪ノ下陽乃。

 そして、『彼女』。

 

 いつもは会社のトップに立つ者の当然の義務としてハンドルを握ることのない豪雪の運転で、(『彼女』を例外として)都築を始めとする使用人を一切連れず、暗い山中の道を一台の普通自動車に乗って進んでいる『彼女』達は――照子と『彼女』だけでなく、陽光も、豪雪も、幼い陽乃さえも――全員揃って、真っ黒な礼服を着用していた。

 

「………………」

 

 外の林から、自らの膝の上で眠る陽乃に目を移し、相変わらず氷のような色の瞳で、陽光を育てた時に調べた知識を使って、適切な強さで少女を撫でる氷の微笑女。

 

 そんな友人を見て、穏やかに微笑む照子は、そっと前を向きながら、誰にともなく呟いた。

 

「……きっと、あの人も喜ぶことでしょう。こんなにも可愛い孫娘と……あなたの幸せそうな姿を見たら」

 

 そう。

 今日は、雪ノ下陽光豪雪夫妻の結婚記念日であり――。

 

――先代雪ノ下家当主、雪ノ下厳冬の、命日でもある。

 

「…………」

 

 氷の微笑女は、彼の、そして『彼女(じぶん)』の血縁上の孫娘――陽乃の柔らかい髪を撫でながら。

 

(…………幸せ――)

 

 ただ、その言葉の意味を考えていた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 雪ノ下厳冬の墓は、小さな教会から見える少し離れた場所にある。

 まるでドラマや映画のラストシーンに使われるような、美しい海が一望出来る崖に、十字型の墓石が用意されていた。

 

 あの日――雪ノ下陽光と、豪雪が結ばれたこの教会で、雪ノ下厳冬は眠るように息を引き取った。

 余りにも安らかな死に顔と、隣に座っていた『彼女』の手を握っていたその死に様を見て、厳冬の妻は、新郎新婦の母親は、雪ノ下照子は優しい顔でこう言った。

 

『――この地に、眠らせてあげましょう。この男が、生涯で最も幸福で満たされたであろう、この場所で』

 

 そして、陽光と豪雪の結婚式は、そのまま厳冬の葬式へと移行した。

 

 だが、誰もそのことに悲しみを覚えることはなく、新郎新婦も涙を流しながら、それでも皆、穏やかな笑顔で、一人の男の旅立ちを見送ったのだ。

 

 

 

 

 

 陽光と豪雪が結ばれる瞬間を見届けてくれた恩人である教会の神父に挨拶を済ませた後、一同はそのまま厳冬の墓へと向かう。

 

 ぽつんと一つだけ、だが生前の男の威容を表すかのように堂々と存在するその墓は、神父が常日頃から手入れをしてくれているのか、汚れ一つ存在しなかった。

 

 この地に来るのは、あの結婚式以来、あの葬式以来、全員が初めてのことだった。

 偉大なる創立者を失って傾きかけた会社を立て直し、若い夫婦の間に娘が生まれ、目まぐるしかった激動の月日を経て――今、ようやく、向かい合うことが出来る。

 

 そして、墓を前にして、真っ先に一歩を踏み出したのは、一番に故人に語り掛けたのは、生前は夫婦の関係にあった――生涯の仇敵。

 

「――久しぶりね。あなたが死んでからもう三年が経つけれど、私はまだまだ死にそうにないわ。むしろあなたが生きていた頃より遥かに幸せよ。ざまあみなさい」

 

 残された妻から先立った夫に向けて語り掛けられる温かいメッセージに、娘の頬が思わず緩み、息子の頬が思わず引き攣る。

 対して故人の愛人であり、その妻の友人である『彼女』は、こんな二人のやり取りを幾度となく近くで眺めていたことを思い出していた。

 

 そうだ。この二人は、こういう関係だった。

 こういう宿敵で、こういう仇敵で――こういう形の夫婦だった。

 

「実は……あなたが死んだ時は、正直複雑だった。大嫌いな夫が死んで嬉しかったのと、憎たらしい敵が消えて……寂しかったのと。……………そして、正直……嫉妬もした」

 

 恭しく跪き、厳かに手を合わせながらも、微塵も敬意を表さないそのふてぶてしく好戦的な瞳は、彼女が常に厳冬に向け続けていた、あの頃、そのままだった。

 

 そして、その瞳を一瞬、ほんの僅かに細めながら、そっと、溜め息を吐くように呟く。

 

「……ああ。なんて、幸せそうに死ぬんだろうって」

 

 彼女のこの言葉に、彼女の娘は、彼女の息子は、少し悲し気で、だけどとても穏やかな表情を浮かべる。

 

 雪ノ下厳冬という男の、見る者全てを幸せにするかのような――あの死に顔を、思い浮かべる。

 

「……あの時の、あの感情を……私は生涯忘れない。きっと死に際でも忘れない。だから、ここで、あなたに誓うわ」

 

 陽光が、豪雪が――この世で最も愛する己の子供達が、夫婦として永遠の愛を誓ったこの地で。

 

 妻は誓う。夫に誓う。今、ここに宣誓する――宣戦布告する。

 

 死んでも負けたくない男に、終ぞ愛することはなかった夫に、生涯の愛すべき仇敵に。

 

 生前の夫に向け続けた、その好戦的なふてぶてしい眼差しを以て、告げる。

 

「私は――あなたより幸せに死んでやるわ」

 

――あの世で、待ってなさい。

 

 老いた妻は、その年齢に見合わぬ、苛烈な感情を振り撒きながら言った。

 

 そしてすっと立ち上がり、陽光に、豪雪に、そして『彼女』に微笑みかける。

 

 陽光と豪雪は微笑み返し、『彼女』は、やはり無表情だった。

 

 照子は、大きな欠伸をして目を擦る可愛らしい孫娘に苦笑しながら、そのまま軽々と陽乃を抱き上げて、娘息子夫婦に場所を譲る。陽光達はそのまま二人並んでしゃがみ込み、実父に、義父に色々な報告をした。

 

 会社の事、自分達の事、そして――二人の間に産まれた、大切な生命のこと。

 

 そして、今、まさに、新しい生命を宿しているということ。

 

 温かい幸せに満ちているその光景に、何処か眩しさを感じたかのように――『彼女』は、墓の向こうに広がる暗い海の方へと目を移した。

 

 あの日、あの時――厳冬をこの場所に埋葬したあの時は、あれほど優しく美しい蒼色だった海も、空も、今は真っ暗な黒色に塗り潰されている。

 

 今日は厳冬の命日ではあるが同時に二人の結婚記念日でもあるが故に、照子は陽光、豪雪、陽乃の三人家族に高級レストランでのランチをプレゼントしていた。

 結婚してから今までは碌に結婚記念日を祝うことも出来なかったのだからと、恐縮そうな娘息子夫婦を強引に納得させた。あの男の墓参りなんぞ、その後で十分だからと。

 

 結果として厳冬の墓を訪れることが出来たのはこんな時間になってしまったが、神父は事前に連絡を受けていたので温かく迎えてくれたし、それにこの近くには雪ノ下家の別荘もある。

 

 この崖から下に見えるビーチ。あれは雪ノ下家も利用したことのある海水浴場だ。

 流石にプライベートビーチとはいかないが、事前に言えば貸し切りにすることも可能なくらいには雪ノ下家の息の掛かった、というよりはこの場所が海水浴場となる際に雪ノ下家が尽力したスポットだ。

 

 そもそもの思い出話として、かつてこのビーチに家族で遊びに来ていた時に、幼かった陽光と豪雪が探検に出かけて、見つけたのがこの教会であるというエピソードがある。

 

 つまり、ここから別荘までは、子供が大冒険で来られるくらいの距離しかない。

 車が移動できる道路を使うなら少し回り込むような遠回りになるが、それでも帰りのことは心配しなくてもいいだろう。こういうこともあろうかと、既に照子と『彼女』によって、昨日の時点で使用人達に件の別荘に食材の用意すること、設備のメンテナンスと室内の掃除を済ませることは命じてある。

 

 照子も、『彼女』がビーチを見下ろしていたことに気付いたのか――陽乃は既に厳冬への顔見せにと陽光達に手渡している――『彼女』の横に立ち、静かに語り掛けて来る。

 

「――思えば、本当にこの地は、雪ノ下家(わたしたち)にとって幸せな思い出が詰まっている場所ね」

「………………」

「どうせ死ぬなら、こんな場所で死にたいわね。あの男と同じ場所っていうのが唯一癪だけれど」

 

 老女のそんな戯言に、『彼女』は何の反応も返さない。ただただ思考に耽るばかりだ。

 

 幸せ――その言葉の意味に、その言葉が表すものに、いつまでも『彼女』は辿り着けない。

 

 それはどんな感情なのだろうか。それはどんな環境なのだろうか。

 どんな形で、どんな色で、どんな味をしているのだろうか。

 

 もう既に持っているものなのだろうか。もう既に知っているものなのだろうか。

 

 それは、自分のような化物でも、手に入れられるものだろうか。

 

 それとも、それを手に入れれば、自分は――『彼女』は――[彼女]は――。

 

(――――私、は――)

 

 そんなことを、氷のような無表情で、只管に思考し続けていると――とん、と。優しく『彼女』は肩を叩かれる。

 

 振り向くと、そこにあったのは――娘のような、娘の笑顔。

 

「――あなたの番よ。…………父に、何か言ってあげて」

 

 その笑顔と、その言葉は、何かの感情が溢れていて。

 

「………………」

 

 だが、『彼女』はそれに何も言わず、ゆっくりと厳冬の墓へと歩み寄る。

 

(……私は、一体……何を話せばいいんだろう?)

 

『彼女』にとって――[彼女]にとって。

 特別な意味を持っていた筈の存在――雪ノ下厳冬。

 

 そんな死者の墓の前で、『彼女』である自分は、[彼女]である自分は、一体どんな言葉を話せばいいのか。

 

『彼女』を――[彼女]を、救い上げた存在である雪ノ下厳冬。

『彼女』を――[彼女]を、穢し弄んだ存在である雪ノ下厳冬。

 

『彼女』を――[彼女]を、愛した存在である、雪ノ下厳冬。

『彼女』が――[彼女]が、憎んだ存在である、雪ノ下厳冬。

 

 そして、『彼女』の――[彼女]の――

 

(――【私】、の――)

 

 娘――の。雪ノ下陽光の。

 

 父である、雪ノ下厳冬。

 

 

――ああ、儂は……幸せだ。

 

 

[彼女]を、そして【私】を――『■■■■(わたしたち)』を――雪ノ下、厳冬。

 

 

――こんなにも幸せに逝ける。こんなにも、満たされて死ねる。……お前の、御蔭だ。

 

 

[彼女]にとって――雪ノ下厳冬とは。

 

 

――ありがとう……儂と出会ってくれて。

 

 

【自分】にとって――雪ノ下厳冬とは。

 

 

――ありがとう……儂の、傍にいてくれて。

 

 

 

■■■■(わたしたち)』にとって――雪ノ下厳冬とは。

 

 

 

――御蔭で、儂は……幸せになれた。

 

 

 

「…………………」

 

 

 

――陽光を、生んでくれて……ありがとう。

 

 

 

「…………………っ」

 

 結局、考えは纏まらず。

 

 何も答えも――出せないままに。

 

 ぐるぐるぐちゃぐちゃの思考のまま――『彼女』は、()()()()()()()()()()()()

 

「………………」

 

 いつものように――美しく。

 

 いつものように――蓋をして。

 

 いつものように、[彼女]になって。

 

 ゆっくりと、墓の前に、厳冬の前に、座ろうとして。

 

 

 

――だから、もういい。

 

 

 

(――――え――――)

 

 その言葉を――思い出して。

 

 その言葉に対し、当時と同じ声を、心中で漏らした――その時。

 

 

 

――スパンと、()()()()()()()()()()()

 

 

 

「………………………………………………え」

 

 陽光が、ぽつりと呟く。

 

 それはまるで水平にギロチンを掛けられたかのようで、首が真ん中でスパンと切れて、頭部が単独で少し宙を舞って、ドボッと血が噴き出した。

 

 たたらを踏むように首のない身体がふらつくと、くるっと回って背中から倒れ込み――雪ノ下照子だった死体は、崖から海へと堕ちていった。

 

「………………………………っ!!? お、お義母さん!!」

 

 その時、氷のように固まっていた豪雪が動き出し、崖の下を覗き込もうとしたその瞬間――

 

 

 

――ドドドドドドドドドドドカンッッッッッ!!!!!! と、()()()()()()

 

 

 

 真っ暗な海から突き上がった真っ白な水柱の中から姿を現したのは――()()

 

 およそ平和な現実では現れることのない種類の巨大な怪物が、夜の世界で雄叫びを上げる。

 

 

「LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!」

 

 

『彼女』は、氷のような瞳を真っ暗に凍らせ、その怪物を、何かへの哀れみに満ちた瞳で見詰めた。

 

 

――幸せになれ。

 

 

(……………………ああ――)

 

 こくりこくりと眠りかけていた陽乃が、パチッと()()()()()、大きな声で泣き喚く。

 

「うぇぇえええええええええええええん!!」

 

 

――人を愛して、愛する人と、幸せになれ。

 

 

(――……………………………終わっ…………た)

 

 

 何かが終わったのだと、『彼女』はぺたんと、座り込んだ。

 

 怪物の咆哮と、陽乃の泣き声が響く中、厳冬のあの時の遺言が、『彼女』の中でぐるぐると渦巻いていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ暗な海から、真っ暗な空へと、真っ白な水柱と共に姿を現したその怪物は、全長数十メートルはあろうかという巨体の何かだった。

 

 それだけ大きな存在なのに、まるで正体が分からない。

 ただ黒くて、ただただ禍々しくて、ただただただただ恐ろしい。

 

 雪ノ下陽光は言葉を失いつつも、必死にその存在を己の理解の範疇に収めようと、己が知識の中で最も近い存在を検索する――そして、最も類似値が大きかったのは、鯨だった。

 

 大きな身体。大きな、大きな口。

 そして、突き上げるように水面から飛び出し、仰向けのような姿勢で天を見上げる雄大なジャンプ。

 

 だが、それはあくまで、似ているというだけだ。雪ノ下陽光という人間が、あの正体不明の怪物を、必死で自分の常識の及ぶ存在に押し込もうとしているだけだ。

 

 例え己が知識として知る限り最大の鯨でありこの地球で最も巨大な生物である筈のシロナガスクジラでさえも、あれほど巨大ではない。シロナガスクジラは大きくても30メートル程だが、あの怪物はどれだけ小さく見積もっても50メートルはある。

 

 そして、何よりも――黒い。

 この怪物は、この真っ暗な夜の世界でも、この真っ黒な海が広がっている中でも、圧倒的に黒い。黒い。黒い。

 

 月光を浴びて光り輝くのは、まるで鎧のような光沢で黒光りする真っ黒な鱗。

 一枚一枚が大判のようで、これだけ離れていてもその一葉の大きさが分かる程だ。

 

 そして、かのシーラカンスのように、何本ものヒレが胴体から生えている。それは形だけは魚のヒレのようだが、大きさがまちまちで、おどろおどろしい。そのアンバランスさが怪物としての醜悪さをより一層に際立たせている。

 他にもごつごつとした巌のような背びれ、滑らか且つしなやかな長い尾など、幾つもの特徴を気持ち悪いほどに有しているが――何よりも。

 

 陽光が恐ろしかったのは、陽光が気持ち悪かったのは、陽光が不気味だったのは――陽光が、あの雪ノ下陽光が、涙を流し、腰を抜かして、生まれて初めて、全身全霊で悲鳴を上げることになった決定的要因となったのは。

 

 その、小さくて、つぶらな――真っ赤な、真っ赤な、美しい、瞳。

 

 真っ暗で、真っ黒な世界で、たった一対。

 真っ赤に染まるその瞳が、血のように光るその瞳が――ギョロッ、と。

 

 こっちを、向いた、気がした。

 

 それだけで、雪ノ下陽光は決壊した。

 

「いやぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」

 

 自らの腕の中で泣き叫ぶ陽乃の声を掻き消すような絶叫。

 まるで、その悲鳴が届いたかのようなタイミングで、真っ黒な怪物は、巨大というのも生温い程の大きな、それはもう大きな――口を開いた。

 

 バガッ――と、まるで地獄へと繋がる穴のように。無数に生え揃った牙を披露しながら、大きく、大きく、口を開いて、顎を広げて――雄叫びを上げる。

 

「LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!!!」

 

 その雄叫びは、大気を地震の如く震わせ、真っ暗な海を盛大に揺らした。

 

 自身を起点に、放射上に白波が広がっていく。

 そして、弧を描くように宙を舞った怪物は、そのまま背中から再び轟音と共に豪快に着水した。

 

 ドガンッッッッッ!!!! と、爆発音のような衝撃が響き渡り、海は荒れる。

 たった一体の生物の、たった一回の着水で、容易く自然災害が引き起こされた。

 

 雪ノ下陽光は恐慌し、雪ノ下豪雪は自失し、雪ノ下陽乃は叫喚する。

 

 人間達が、目の前の怪物のたった一度の登場に、己を失い絶望する中――『彼女』は。

 

 たった一人、たった一体、人間達の中に紛れ込んでいた化物は、氷のような美女の皮を被った何かは。

 

「………………」

 

 静かに立ち上がり、冷たく、凍えるような真っ暗な眼差しで怪物を見据え、怪物の登場を見送り、怪物が沈んで巨大な渦となっているその箇所を、ただただ無表情で見詰めていた。

 

「………………」

 

 そして、そのまま視線を少し斜め後ろに、乱雑にごろっと転がっている、『彼女』の掛け替えのない友人の生首へと向ける。

 

 雪ノ下照子の死体の表情は、永遠に固められたその表情は、何とも形容しがたいものだった。

 

 これは、どんな表情なのだろう。これは、どんな感情なのだろう。

 

(……私は……この人の…………あれだけ長きに渡って共に過ごしてきた人間の……最後の感情すら、理解することが出来ないのね)

 

 こんなにも分かり易くのに。こんなにも分かり易く、見せつけるように永遠に固定されているのに。

 

 自分は、一体どれほど化物なのだろう。どうしてこんなにも――

 

――人間では、ないのだろうか。

 

「………………」

 

 氷の微笑女は、ゆっくりと崖に向かって歩き出す。

 

 陽光が、豪雪が、腰を抜かしながらも、少しでも離れようと、今は海の中へと姿を消したあの怪物から距離を取ろうと這いながら後ずさる中、『彼女』は確かな足取りで、確か過ぎる闊歩で、海へと向かう。

 

 そして――立つ。

 真っ黒な礼服を海風ではためかせながらも、氷のように真っ暗な瞳で、怪物が沈んだ跡地である巨大な渦潮――()()()()、それよりも遥かに岸辺に近い、怪物が作り出した白波を轟々と浴びる(いわお)の、その上で。

 

 ちょうどこちらを、崖上を見上げるように、淑やかな笑みを浮かべながらハープを奏でている――下半身が翡翠色の鱗を持つ魚の美女を、見下ろす。

 

 人魚。

 この世界では――人間の世界では、およそ伝承やお伽話の中の存在である、かの幻想種。

 

 氷の微笑女の、氷のように冷たい優秀すぎる頭脳は、その存在を認めただけで――全てのことを理解した。

 

 美女は見下ろす。人魚は見上げる。

 目が合い、人魚は微笑み、美女は氷のように無表情だった。

 

「………………………」

 

 ギュッと、肘に掌を添えるように組んでいた腕に、力が入った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 荒れ狂う海の波のようにウエーブのかかった色の薄い金色の髪。

 真っ白な肌と形のいい胸が剥き出しの上半身に、翡翠色の宝石のように輝く鱗の下半身。

 

 まるでお伽話の絵本の中からそのまま飛び出してきたかのような美しい人魚は、抱き締めるように抱える純白のハープに手を添えながら、己を見下ろしている黒服の美女を見上げていた。

 

(……黒い服の人間が見えたから思わず殺しちゃったけど……あれが標的でよかったのかしら? 聞いていた話よりずいぶんあっさりと殺せちゃったのだけれど……)

 

 今回の戦争は、それこそ自分達『海の星人』の、現状集められるだけの戦力を片っ端から掻き集めて、縄張りが異なる『陸の星人』や『空の星人』達にも得られるだけの協力は出来るだけ仰いで――正しく全面戦争を仕掛ける心積りで、その覚悟で臨む戦争である。

 

 一枚岩ではないこちらの目的は様々だ。

 勢力を増し続ける『黒衣』達の早期壊滅を目論むモノ。

 これを機に“陸”へと勢力を拡大せんとするモノ。

 異なる縄張りを持つかつての同胞達との再会を夢見るモノ。

 そして、これから激化するであろう、星人と人間の戦争――それを嘆き、止めんとするモノ。

 

 この人魚も、その例に漏れず、『半魚星人』――その中の、マーメイド族達の長としての、確固たる目的を持って、この戦争に参戦している。

 

 今、この地球上に住まう“星人”達で、“黒衣”に脅威を覚えぬモノは、殆どいない――言語を操る程に知能の高い星人は特にだ。彼女も、彼女達も例外ではない。

 

 自分が放った一閃が、取り返しのつかない一手であることは、この人魚は理解している。

 あの首を吹きとばした老女――彼女が“黒衣”だったならば、それは宣戦布告の号砲に他ならない。

 

 戦争の――大戦の引き金に、他ならない。

 

 その上で、この人魚は剥き出しの胸を張る――それがどうした、と。

 この場に居合わせた時点で、この戦場に赴いた時点で、これだけの明確な敵対行動に打って出た時点で、とっくに自分達に後戻りなど許されていない。

 

 よろしい。さあ、戦争だ。

 懸けるものは――全て。己の命と、同胞の命――我らが種族の生存か、それともはたまた絶滅か。

 使えるものは怪物だって使う。例え今日というこの日に全てを失おうとも、明日の朝日が拝めなくとも――黒衣は必ず滅ぼしてみせる、と。

 

 我らが――化物が。

 今日も、明日も、この惑星で生きていく為に。

 

(だから、死んで――人間)

 

 美しい人魚は、微笑みながら、優しくハープを掻き鳴らす。

 

 そして、見上げる先に屹立する、崖上からこちらを見下ろす冷たい美女に――不可視の刃が接近し――。

 

 

――()()()()

 

 

「…………え?」

 

 キィィィン――という、甲高い音が響く。

 

 人魚は呆気に取られた。だが、化物の彼女の視力は、その一部始終を、鮮明にその瑠璃色の瞳に焼き付けていた。

 

 崖上の美女は、まず、信じられないことだが、不可視である筈の音色の刃――音の刃を、()()()()()()()()()

 そう、()だ。美女は確かにその一瞬、瞼を閉じて、手を前に突き出し、ブンッとその手を水平に振った。そして、人魚の音の刃を弾いたのだ。

 

(――ッ!? ……あれが、“黒衣”? さっきの老女とはまるで違う。正しく、アレは戦い慣れた動き……戦争に慣れ親しんだ反応……というより、黒衣は皆あんなことが出来るの? ……いや、でも……っ!? ……()()()は――)

 

 人魚は美しいその顔を小さく、険しく、顰める。

 化物の視力は、その瑠璃色の瞳は捉えていた。音の刃を、たったの一振りで弾いたその動き――その美女の右手は、化物のように、醜悪な刃に変わっていた。

 

(…………そう。そっち、か。つまりは、()()()()なのね)

 

 人魚は顰めていた眉を戻して、小さく、感情のない言葉を呟いた。

 

「アイツ、失敗したのね。………使えない男」

 

 微笑みを消して、無表情で崖上を見上げる人魚。

 こちらを、不可視の一撃を防いでも未だ無表情で、真っ暗な氷の瞳でこちらを見下ろしてくる美女を見上げて――吐き捨てる。

 

寄生(パラサイト)星人のリーダーは稀に見る切れ者だと聞いていたけれど……愚かね。一体、どういうつもりなのかしら?」

 

 化物を敵に回して。自分達も、化物の癖に。

 

 化物の癖に。化物の癖に。

 

 化物なのに。化物なのに。化物なのに。

 

 自分達も、どうしようもなく、化物の分際で。

 

(…………まさか、これからもずっと、人間に紛れて生きていけるつもりなの? まさかまさか、これからもずっと、人間と、仲良くやっていけるつもりなの? まさかまさかまさか、自分達も、人間になれるとでも、思っているの?)

 

 ハッ――と。侮蔑するような、呟きが漏れる。

 

「いいわ。そんなに死にたいなら殺してあげる」

 

 この戦争で――人間達と、一緒にね。

 

(プレゼントよ。泣いて喜びなさい)

 

 人魚がハープを優しく掻き鳴らす。

 

 さあ、戦争が始まる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その人魚の姿を目に捉えた時――否。

 

 友人の首が宙を舞い、海から怪物が飛び出した時には――『彼女』は、己が友人の首を指一本触れずに胴体と分離させ、殺害した、その摩訶不思議なトリックを暴いていた。

 

 半魚星人の二大派閥が一つ、マーメイド族の族長――【人魚姫】セイラの“音色の刃”は、それ程までには、有力な星人達が築いている情報網の中では有名な必殺技だ。

 

 星人。

 人間ではない彼等は、化物である宇宙人の彼等は、それこそ人間がこの世界を支配する以前から、この惑星に住み着いているモノ達がいるほどに、地球という星に適応している。

 

 だが、その多種多様な性質の為か、ある一部の環境に特化したモノや、ある程度の条件が整わなければ生存できないモノ達も当然に存在していて、それ故か、星人達の支配領域は、大きく分けて三つの生息地に分類される。

 

 陸の星人。

 海の星人。

 空の星人。

 

 いつの間にか、こういった形でカテゴライズされるようになった彼等は、それぞれを自分達の縄張りとして住み分けるようになった。

 

 不可侵条約がある訳でも、明確に三つの国として分裂している訳でもないが、ある程度の共通認識として、この地球を大きく三つに分けて、それぞれが己の住み易い場所で、棲み付き易い形で、この地球という惑星での異星生活を満喫していたというわけだ。

 

 そして、半魚星人は、所謂“海の星人”の中でも、トップクラスの勢力を誇る最大種族だった。

 

 半魚星人は、大きく分けて二つの種類に分けられる。

 雄の半魚であるマーマン。

 雌の半魚であるマーメイド。

 

 マーマンは人間と魚の中間的な特徴を有していて、二腕二脚だがエラや鱗を持ち、醜悪な容姿だが強力な身体能力と戦闘能力、そして圧倒的な繁殖力を持つ種族である。

 マーメイドは明確に上半身が人間で下半身が魚の生物で、足はないが尾びれを持ち、容貌は総じて美しいが直接的な戦闘能力は低く、その数も驚くほどに稀少な種族である。

 

 だが、マーメイドはマーマンにはない幾つもの特殊な能力を持っている。

 

 一つは遊泳速度。

 単純なスピードならば、ありとあらゆる海の星人を相手取っても、マーメイド以上に速い速度で泳げるモノは存在しない。

 

 一つは寿命。

 マーマンも通常の地球人や魚よりは遥かに長命だが、マーメイドのそれは比ではない。およそ時間という概念では彼女達を老いさせることは出来ないのではないかと思われる程に、その美しい姿を永遠に保ち続けることが出来る。

 

 一つは歌声。

 その可憐な声で奏でられるその歌は、あらゆる船乗り達を魅了し、虜にするがままに海底に沈ませたという伝説が語り継がれている。

 

 他にも様々な能力を持つマーメイドだが――それ以上に、彼女達は数多くの悲痛な運命を背負っていて、この頃はまだ、マーマン達に紛れる、文字通りの半魚星人の稀少種でしかなかった。

 何よりも、直接的な戦闘能力の乏しさが、マーメイドという種族を長きに渡って苦しめ続けた要因となり続けていた。

 

 彼女達は――弱かった。

 けれど、彼女達は美しかった。彼女達は不老だった。

 彼女達は海に愛され、彼女達は音楽に愛された。

 

 だから、彼女達にとって――この世界は地獄だった。

 

 来る日も来る日も、彼女達は逃げ続けた。

 誰よりも速く、速く、速く泳ぎ続けた。何処までも、遠く、遠く、遠くまで逃げ続けた。

 

 それでも、一人、また一人。

 下卑た笑みを浮かべる醜悪なモノ達の手に落ちて――。

 

 人魚は、幸せになれない。

 いつしか、人間達ですら、誰もが知っている常識となった。

 

 そんな、ある日。

 美しくも悲しい人魚達に、遂に神が救いを齎したのか。

 

 息を呑まずにはいられない程に、悲しいまでに美しい人魚達の中でも、一際に美しい、まるで宝石のような眩い輝きを持つ――『姫』が生まれた。

 その人魚は美しくもあり、哀しくもありつつも――とても強かった。そして、恐ろしかった。

 

 金色の髪と翡翠色の鱗を持つ『人魚姫』は、全てのマーメイド達の希望となった。

 彼女が奏でるハープの音色は至福と共に斬撃を飛ばし、彼女が奏でる歌声は万物万象を意のままに操り、海を鳴らし、嵐を起こすという。

 

 まるで、これまでを生きたマーメイド達の怨嗟と絶望、これからを生きるマーメイド達の希望と祈願から生まれたかのような、そんな彼女の名は――。

 

(――恐らくは彼女が……【金緑の人魚姫】セイラ)

 

 紛れもなく、この地球に住まう全星人達の中でも、トップクラスの――大物の一人。

 

 そんな彼女がこんな極東の島国へ何の用なのか――それは、聞くまでもなく明らかだが。

 

 戦争をしに来たのだろう。

 かつて世界を二分した人類史上最大の争いの果てに敗戦した一国である日本を舞台にするのは、戦争に負けた人間達の国を選んだのは、皮肉なのか、どうなのか、知らないが。

 

「………………」

 

 本来ならば、例え全ての星人の動向を探るのは現実的に不可能だとしても、人魚のように人間世界にすらその存在が知られている――その多くがお伽話や物語の存在としてだが――程のビッグネーム達の動向くらいは、常に把握しておくべきだった。

 

 何故なら、彼女等程の存在が動くとなれば、恐らくはあの黒衣達ですら、完全に闇の中に真実を隠し葬るということは不可能であるからだ。

 

 つまりは、文字通りの、世界を揺るがす、戦争となる――大戦となる。

 こんな風に、ただそこに居合わせたというだけで、巻き込まれ――――そして――――そして。

 

「……………………っ」

 

 避けなければならなかった。防がなくてはならない事態だった。

 

 星人の存在は基本的に隠し通されているものだが、同じ星人同士なら、その動向は星人達の間だけで構築される情報網から、嫌でもその情報は――人間達のゴシップ記事程の信用度の情報だが――手に入れることが出来る。

 

 だが、それもやはり、ある程度の勢力を持った星人組織間のみで、という但し書きは付くが。

 そもそも星人組織同士が情報をやり取りするのは、やはり様々な目的があるからだ。どんな理由にせよ、情報をやり取りする程度には相手組織と関わりを作っておきたいからだ。

 

 つまりは、そんなやり取りをする価値もないと思われるような弱小種族は、その情報網の中にすら入れてもらえない。

 そして、有力星人組織達が当然のように細心の警戒を持って巡らせる件の情報網の、その外側から、求める情報を掠め取るには、それ相応の力と才覚が必要だ。

 

 これまた当然――その有力星人組織間の情報網の中に入れてもらうには、それこそ、相応の力と、相応の才覚が、必要になる。

 

 それが頭脳であれ、戦闘力であれ、何であれ。

 文字通りの伝説の存在である彼等に、自分達は情報交換をするだけの、関りを持つ、コネクションを築く価値がある存在だと、認めさせなければならない。

 

 結論として――『彼女』は、つまり寄生(パラサイト)星人は、今日に至るまで、こんな事態に至るまで、その情報網の内側には、終ぞ入れてもらえていない。怪物社会でも、仲間外れのままだ。

 

 星人としての歴史も浅く、詳細な起源も不明、またその特性上限りなく人間側に近い存在である寄生(パラサイト)星人――情報という、時に命より大事な商品をやり取りするには、余りにも危険性(リスク)が高すぎると判断されたのか、それとも寄生(パラサイト)星人という種族に魅力を、そして恐怖を感じなかったのか、またはその両方か。

 

 だが、ただ一人――『彼女』は。たった一人、たった一体の寄生(パラサイト)星人は。

 個人の才覚を以てして、幾つものルートを個人的に切り開いて、求める情報の幾つかを、文字通り掠め取っていた。それ相応の力と才覚を、『彼女』という個体に関しては有していた。

 故に、ある程度の星人社会の情勢は把握していたが――同時に有力星人組織にその存在を知られていったが――いくら『彼女』でも、個人で集められる情報には限界がある。

 

 その上、ここ最近、『彼女』は裏舞台に関わりを持つことを極力まで減らしていた。当然、情報収集にも、精を出さなくなっていた。

 それは、同胞達が“黒衣”に襲われ、迂闊な動きが出来なくなったという面もあるが――。

 

「………………」

 

 結果――招いてしまった。こんな――結末を。

 

 避けなければならなかった。防がなくてはならない事態だった。

 

 だが、結果として、結末として、『彼女』は。

 

 眼下の――崖下の、美しい人魚姫の引き起こした戦争に巻き込まれ。

 

 

――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

(――――――――っ)

 

『彼女』が、その事実に、気付き。ようやく、思い至り。

 

 息を呑んで、身体を硬直させて、頭の中を真っ白にした――止まっていた思考を、更に完全に停止させ、思わず陽光達の方へと振り向きかけた、その一瞬の間に。

 

「――――ッ!」

 

 殺気。殺気。殺気。

 

 眼下から、崖下から、目には見えない殺意が、空気を切り裂きながら迫り来る音の刃が――()()、襲い掛かるのを感じた。

 

(――っ! これは――ッ)

 

 背後を振り向きかけた身体を再び強引に前に戻し、化物の刃を右手に作り出して――振るう。

 

 だが、防ぎきれない。

 見えないが、感じる。寄生(パラサイト)星人として、これまで数々の死線を潜り抜けていく間に磨き抜いてきた化物の五感は、音の刃が複数迫っていることを正確に感じ取っていた。

 

 正面から来る斬撃は、弾ける。だが、残る二つの斬撃は――自分の身体を真っ二つにする軌道ではない。せいぜい四肢を掠める程度だ。

 しかし、先程――愚かにもつい先程、ようやっと思い至ったように、自分の後ろには、陽光が、豪雪が、陽乃がいる。

 

『彼女』は刃を増やす為に頭部を裂かせようとして――再び、固まる。氷のように。

 

 いる。自分の後ろには、彼女が、彼が、彼女が――人間がいる。

 

 ()()()()()()()()――()()

 

(――っ!!?)

 

 その瞬間、『彼女』の脳裏を()ぎったのは。

 

 彼等を守る方法でも、自分を守る方法でも――なく。

 

 ついさっきの、反射的に人魚の攻撃を防いだ、あの瞬間。

 右手の手首から先を刃に変えて、無造作に弾いた、あの――化物丸出しだった、あの瞬間を、見られていなかったか、などという、無様過ぎる焦燥で。

 

 結果――残り二つの不可視の斬撃は、『彼女』の両二の腕を浅く切りつけて、()()()()

 

 豪雪の目の前の地面と――雪ノ下厳冬の墓を、真っ二つに切り裂いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 彼女は人間だった。彼も人間だった。そして、その間に産まれた彼女も、当然、人間だった。

 

 だから逃げたのだ。少しでも、少しでも、逃げようとしたのだ――化物である、『彼女』と違って。

 

 あの怪物が――どこからどう見ても、誰が何と言おうと、紛れもなく間違いなく怪物に決まっている巨大未確認生物が海から飛び出した、あの光景を見せつけられて。

 逃げるに決まっている。恐怖に怯えるに決まっているのだ。そうでない存在は、間違いなく絶対に人間ではない。

 

 よって、人間ではない『彼女』が、あんな怪物が飛び出してきた、そして今も中に潜んでいるだろう――真っ黒な海に向かって、あろうことかしっかりとした足取りで、迷うことなく崖の先端まで歩いて行ったのとは、反対に。

 

 少しでも遠くに。少しでも遠くに。あの怪物から、あの海から、少しでも遠くに。

 叫びながら、涙を流しながら、腰を抜かしながらも――這うようにして、ゆっくりと、ぶるぶる震える身体を引きずって、力の入らない四肢に懸命に訴えかけて。

 

 家族に向かって、手を伸ばして。

 

 ただ、家族だけを、求めて――愛する家族の元へと、逃げていた。

 

 ()()――()()()()

 

「………………ッッ!!」

 

 崖下の化物の攻撃は、真っ黒な海からの射撃手の不可視の斬撃は、雪ノ下家の人間達を殺すことは出来なかった。

 

(――――っ!? つまり……あの人魚からは――)

 

――()()()()()()

 

 この三人は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『彼女』は、心臓が――[彼女]の心臓が荒ぶっているのを何処か他人事のように感じながら、思い返す。

 

 崖下からこちらを見上げているだろう、人魚姫の位置取り。

 元々この場所に来るであろう自分達を狙っていたのであれば、かなり不適切な場所だった。文字通り、見上げなければこちらに気付かないであろう程の鋭角な場所。

 

 恐らく、偶々、自分達を見つけたのだろう。そして、偶々見つけたから、こちらを(つい)でに攻撃している。

 照子を殺したのも、彼女が偶々、身を乗り出すように崖の先端に姿を現したから――黒い礼服を着ていたからか、それとも人間は見つけ次第に片っ端から皆殺しにする算段だったのかは分からないが。

 

 兎も角、この推論が正しければ、あの人魚はこちらの人数を正確に把握していない。今の攻撃も、ただ『彼女』を狙って外した攻撃でしかない――ならば。

 

(――ッ。今は、一刻も早くここから――)

 

 離れなければならない。

 こんな簡単なことに、『彼女』の優秀な筈の頭脳が思い至るまでに、あろうことか、何ということか――数秒もの時間を要してしまった。

 

 痛恨の硬直――己の両二の腕を裂いて通過していった二つの見えない斬撃――――その直後。

 突き動かされるような感情と共に、二つの殺意が齎す結果を、斬撃の行く末を、反射的に振り向いて視認した。

 

 それがどんな感情故だったのか――そもそも、全身を駆け巡ったそれが、身体を突き動かしたそれが、果たして感情というものだったのかという自問すらも置き去りにして、振り向いて、氷のような両目を見開いて捉えた――その画は。

 

 歯を食い縛って、普段の堅苦しい無表情がまるで嘘のように、顔をぐしゃぐしゃにして、妻と娘に向かって、這いつくばりながらも手を伸ばす豪雪――父親と。

 涙で顔をぐちゃぐちゃにして、泣き叫ぶ娘を守るように抱えながら、普段の高貴さをかなぐり捨てて、地に伏せながらも懸命に前に、夫に向かって手を伸ばす陽光――母親が。

 

 ただ、ただ――家族を求めて、生きようとする、姿で。

 

 そんな家族を、引き裂くように――豪雪の目の前の地面が、豪雪と、陽光と陽乃の、間の地面が、真っ直ぐに抉られていた――それでも。

 

 真っ直ぐに、真っ直ぐに、真っ直ぐに――手を、伸ばして、求め合う。

 

 化物の眼球が潰れそうな、眩さの、光景で。

 

(――――――)

 

 ズシン、と。

 

 立ち尽くす『彼女』の背後で、崖の先端に威風堂々と建てられていた、雪ノ下厳冬の墓石が真っ二つに崩れ落ちる。

 

 この光景と、その音が、『彼女』の中に――感情(なにか)の渦を巻き起こし、轟々と加速させる。

 

 彼等がこちらを向いていなかったことに、己が右手を化物に変化させた姿が見られていなかったという安堵を覚えて。

 けれど、とてもそれだけではないような疼痛が響いて。墓石が落ちる音に寂寥を覚えて。この光景の美しさに温かさを覚えて。でも、同時に、冷たさも感じて。

 

 荒れ狂う――この、何かは、感情なのか? これが感情なのか?

 

 だとすれば、これは何だ? 何という感情だ? 何と称するべき感情だ?

 

 安堵か? 痛恨か? 寂寥か? 憤怒か? 嫉妬か? 憧憬か? 幸福か? 諦念か?

 

「…………陽、乃……陽……光……待っ……て……ろ……俺が……俺が……絶対――ッ」

「あ……な、た……大丈夫……大丈夫よ陽乃…………あなたは……あなただけは――ッ」

 

 

――――凍る。

 

 氷のように、凍る。

 

 

(………………ああ…………消える)

 

 冷めていく――覚めていく――醒めていく。

 

 冷えていく。心が冷えていく。まるで――現実を突き付けられているかのようだ。首元に、冷たいナイフを、押し当てるように。

 

 求め合う家族。愛し合う家族。美しき――家族。

 

 崩れる墓石。引き裂くような亀裂。転がる生首。迫り来る怪物。

 

 娘が生まれ、孫が生まれ――新たな生命が再び宿ったと、皆で喜び合った、あの温かった光景が、まるで夢のようだった。

 

 そんな夢から覚めたかのように、現実はやはり冷たかった。

 

 だが、それでも。

 

 やはり、家族は――人間は、こんなにも――。

 

――ああ、何という光景。夢のような姿。

 

 温かい。本当に、何と温かい。

 

 それと比べて――なんで、『私』は――――こんなにも――

 

 

「――冷たい」

 

 

 手を横に開いた。この温かい光景を、化物の殺意から庇うように――現実から、守るように。

 

 遠くに離れる時間はなかった。無様に、家族に、見蕩れていたから。

 

 それは、消えゆく夢を、夢のような夢を、看取っていただけなのかもしれないけれど。

 

 とにかく――自分だけなら逃げられたかもしれないけれど、この期に及んで『彼女』は、まだ何かに縋るように、雪ノ下家の人間達を守ることを選んだ。

 

 夢のような光景を。夢のような家族を――守る為に。

 

 これも、立派な、みっともない、逃避の癖に。

 

 海に、化物に、冷たい現実に、背を向けたまま、大きく手を横に開いて――悍ましく、伸ばした。

 

「―――――――――ッ!!」

 

 ガキキキキキキキキキィィイイン!!! ――と、防ぐ、防ぐ、防ぐ。

 

 恐らくは、こちらの正確な位置を把握していないが為の、雨霰のような範囲散弾攻撃。

 

 全てが不可視な弾丸を、化物な『彼女』は、化物のように伸ばした腕から、更に枝のように腕を幾つも生やして、その全ての先端を刃に変えて、振り回した。

 

 そして、全て、弾く、弾く、全て、全て、防ぐ。

 

 この家族を傷つけようとする全てを、この夢を破壊しようとする全てから――守る。

 

 氷のように無表情で、氷のように無感情で、氷のように無感動で。

 

 氷のように――美しく。

 

「――――――――っ!!」

 

 キィィン!! と、最後の一つを弾き飛ばす。一刹那の攻防だった。

 

 瞬間――化物の武器は消えていて、横に伸ばした両手は、人間のモノに戻っていた。

 

『彼女』の口元が、小さく緩む。嘲るように。

 

 轟音が消え、静寂が訪れる。

 陽光が、豪雪が、顔を上げた。

 

 見上げた先に映るのは、氷の微笑を浮かべる美女。

 

「――逃げましょう」

 

 その笑みは、どんな感情が、作り上げたものなのか。

 

『彼女』は、もう、考えるのを止めた――逃げた。

 

 地面に座りこんで呆然と見上げる夫婦に、『彼女』は、せっかく人間に戻した手を、差し伸べることはしなった――出来なかった。

 

 夫婦の手は、大きな亀裂を物ともせずに――その上でしっかりと結ばれていたから。

 

 容易く刃に変わる(ばけもの)の手を、向けることなど出来る訳がなかった。

 

『彼女』はそれを、美しい微笑を浮かべて見つめて――心を凍らせ、氷になって逃げた。

 




 それは――眼球が潰れそうな程に眩しかった。

 彼女は人間だった。彼も人間だった。
 そして、その間に産まれた彼女も、当然、人間だった。

 だからこそ――『彼女』は凍る。氷の微笑を、浮かべて笑う。

 その温かさから、化物たる己が身を守る為に。

 それでも――瞼を閉じることだけは、どうしても出来なかった。


 


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寄生星人編――③

よう、化物。ご機嫌麗しゅう。

初めまして、人間。あなたのことが嫌いです。


 

 ポロロン、と。軽やかに音を鳴らす。

 人魚は優しい手つきで、再び凶悪な殺意を飛ばした。

 

 放つは、先程よりも更に範囲を広げた、雨のような不可視の斬撃の散弾。

 

 人魚は目を瞑って、崖の上から響く轟音に耳を傾ける。

 

 そして、目を開いて、あっけらかんとあっさり呟いた。

 

「――手応え、なしね」

 

 彼女の不可視の音色の刃は、基本的には矢と変わらない。純白のハープは、彼女にとっては弓なのだ。

 自動追跡(ホーミング)機能などは付いておらず、不可視の斬撃を飛ばせるということ以外は、命中率などはセイラという戦士の技術に依存する。

 

 基本的には普通の射撃手と同じように、目で標的を捉えて、狙って、攻撃をする。

 故に、姿が見えない敵に対しては、遠く離れていく敵に対しては、どうしても命中率が下がってしまう。それは仕方がないことだった。

 

 なので、彼女はあっさりと、自らの手で標的を始末することを諦めた。

 

 私情を持ち込まず、感情を瞬時に整理する。

 一つの群体を率いる器として、彼女は確かにリーダーの素質を備えていた。または、磨き上げていた。

 

 そう、これは戦争――その、イントロにも満たない序章の始まりに過ぎない。

 

 使えるものは何だって使う。こちらは、まだ何だって使えるのだ。

 

(アンコールよ、レヴィアタン)

 

 不敵に微笑んだ金緑の人魚姫は、純白のハープをそっと巌の上に置いて。

 

 両手を捧げるように広げて、大きく息を吸って、瞳を閉じて空を見上げて――真っ暗な海に向かって。

 

 高らかに、妖しく、美しく――その歌を、響かせた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 走る。走る。走る。

 

 豪雪は愛する妻の手を痛いくらいに握って、陽光は愛する娘を痛いくらいに抱き締めて、陽乃は愛する母の胸に痛いくらいにしがみ付いた。

 

『彼女』は、そんな愛すべき家族を、痛いくらいに、見つめ続けていた。

 

 必死に、必死に、海から離れ、教会に向かって走り続ける家族。

 その後ろ姿を、背後から守るようにして、『彼女』は家族を守り続ける。

 

 時折降り注ぐ不可視の斬撃を、必要最低限だけ弾き飛ばしながら、悲鳴を上げて振り向こうとする彼等を、しゃがみ込みそうになる家族を――「振り向かないで!」と、叫んで――「立ち止まらないで! とにかく逃げるのです!」と、鋭く諫めた。

 

 今は兎に角、逃げること。海から少しでも離れること。

 こうして分かり易い単純な行動指針を示して、混乱と恐怖に陥った心でも何も考えずに身体を動かせるようにする。

 

 そうして雪ノ下一家を誘導しながら、『彼女』はこれからのことを考えていた。

 

 知ってしまった。彼女達は、知ってしまった。

 裏の世界を。夜の世界を――世界の、裏側を。

 

 星人の世界を知ってしまい、化物の世界に巻き込まれてしまった。

 真っ黒な戦争に、戦場に――巻き込んで、しまった。

 

「……………………」

 

 これから、彼女達はどうなるのだろうか。

 少なくとも『彼女』の知識として、星人の存在を知っている人間は、星人狩りの連中の他には存在しなかった。

 

 理由は単純――死んだからだ。

 偶然、星人の存在を知った者は、偶々、星人の世界に巻き込まれた一般人は――残らず、たった一人も残らず、真っ黒な世界に飲み込まれて死んだからだ。

 

 星人達の争いの、星人狩り達との戦いの、巻き添えを食らって――または。

 

 隠し通された存在である星人が、隠れ遂せ続けた存在である星人が――口封じの為に、秘密保持の為に、殺し続けてきたからだ。

 

(――――ッッ)

 

 まだだ――まだ、やり直せる。やり過ごせる。

 

 人魚は首を断ち切った照子以外の雪ノ下家の存在に気付いていない。先程の崖上の攻防から、『自分』のことも寄生(パラサイト)星人だと、ちゃんと化物なのだと気付くことだろう。

 

 ならば、このままちゃんと逃げ遂せれば、後は――彼女達のメンタルの問題だ。

 訳の分からない現象で照子は死んだ。海面からとんでもない怪物が現われるのを目撃した。

 どちらも、一旦日常に帰れば、余りにも超常過ぎて、自分達の見た夢なのだと、幻なのだと、そんな風に自己処理してしまうに違いない。

 

 照子の死体は、きっと奴等が、または尋常ではない事件隠蔽能力を持つ"黒衣”辺りが、上手いこと処理してくれるだろう。

 

 死体が見つからなければ、この断崖絶壁というロケーションからして、照子は足を滑らせて不運にも崖から堕ちたのだと、そんな風に都合よく解釈して。

 

 遺体のない葬式でも開いて、ある一定期間悲しみに暮れれば、また、きっと、すぐにでも、あの温かい世界が、日常が――きっと。

 

(…………………………あぁ。冷たい)

 

 そんな風に、醜く、滑稽で、悍ましい思考を繰り返しても――心は、頭は、既に、どうしようもなく冷え込んでいて、凍り付いていて、無表情で。

 

 こんな『自分』が、どうしても――化物に思えて仕方なかった。

 

 

 そして――再び、突き上がる、轟音。

 

 

「LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!」

 

 足が、呼吸が、止まる。

 

 止まらざるを得ない。それほどまでに、この雄叫びは――余りにも、怪物で。

 

 陽光が、膝が折れたかのように崩れ落ちて、振り返ることすら出来ず、倒れ込むようにして夫に抱きかかえられた、その胸の中で。

 

「――――い」

 

 やぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ――と再び決壊する、陽光の叫びを、搔き消すように。

 

 真っ黒な怪物は、天に向かって巨きく開けた口から、真っ黒な空を突き刺すように――()を放った。

 

 真っ黒な水柱が、真っ黒な怪物の口から天に向かって放たれる。

 

 それは、既に潮を吹くといった次元ではなかった。

 まさしく滝を、本来重力によって上から下に向かって降り注がれなければならない滝を、大いなる意思に逆らって突き上げているとしか思えないふざけた光景。

 

 だが、それでも、やはり重力は偉大で、地球は偉大で、そんな巨大な滝ですら――やがて重力に負けて。

 

 花が咲くように、花弁が開くように――水を滑らせる傘のように、滝が広がり、振り撒かれる。

 

 雨のように、一粒一粒が弾丸のように――陸地に向かって、散弾のように。

 

「――――ッッ!! 早く、逃げ――」

 

 人魚の不可視の刃と違って、はっきりと視認できる黒い弾丸は、正しく黒い雨だった。

 

 ダダダダダダダダダンと、大地が抉れる。

 それは最早、雨というよりは隕石といった有様で。

 

『彼女』が防御に回る前に、一際大きな“粒”が――雪ノ下家に向かって、真っ直ぐに飛来した。

 

 激突の瞬間――少し先で、何かが崩れ落ちるような音が響いた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 真っ暗な海の中、セイラは白いハープの背負いながら、輝く金髪をゆらゆらと靡かせて優雅に泳いでいた。

 

(…………少し遠かったかしら。まぁ、レヴィアタンは大事な切り札の一つなんだから、見せつけるって意味でわざと離れた場所に配置したんだけど)

 

 余りの巨大さ故にそうとは感じないが、実は真っ黒な巨大怪物――レヴィアタンは、かなり沖合で姿を現していた――それに気付いていたからこそ、『彼女』はあの異様な姿を確認してなお、悠然としていたのかもしれない。

 

 よって、先程の黒い雨ならぬ黒い滝は、雨粒のような残滓しか陸地に届かず、本体の滝は海を大いに荒れ狂わせるのみで、陸地を浸食することはなかった――それでも、わずかな粒のみで尋常ではない被害を齎したが。

 

(やっぱり強すぎる力は考えものね。……でも、だからといってリミッターを外し過ぎると、こちらもどうなるか分からないわ)

 

 セイラは自らが腰かけていた巌を呑み込む程の高波を生み、今も洗濯機の中の如く荒れ狂っている海中を溜息交じりに泳ぎながら、思考を素早く切り替えた。

 

(……まぁ、今はあの寄生(パラサイト)星人に拘っている場合ではないわね。同盟を断ったのであれば奴等も既に敵だけれど、所詮――()()()()()。今回の戦争相手は、一番の敵は、本命は――やはり人間なんだから)

 

 そして、セイラは一度ちらりと背後を――あの崖を振り返ると、そのままぐんぐんと海の中へと、真っ暗な闇の中へと消えていった。

 

 海上では、自らが荒れ狂わせた海の中へ、その巨大な背中から再び戻ろうとする、醜悪な黒鯨の雄叫びが地獄のように轟いていた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

「……………………」

 

 うぇぇぇえええええええええええええええん――と、泣き続ける陽乃の声だけが響き続けていた。

 

 陽光と、豪雪は、ぐったりと意識を失って、『彼女』の背中から飛び出している第三の腕に――腕と称しつつもそれは背肉を裂かせて帯のような形にしたものだが――その悍ましき腕に夫婦仲良く纏めて包まれ、宙に持ち上げられている。

 陽乃は、『彼女』の人間のような両腕の中で、胸の前で抱きかかえられて、ただ只管に泣き叫んでいる。『彼女』は、そんな陽乃をあやすこともなく、ただ目の前の()()を眺めていた。

  

 

――幸せになれ。

 

 

 教会は、崩壊していた。先程の黒い雨によって、凄惨に。

 

 

「………………」

 

 無表情に、無感情に、無感動に、『彼女』は無言で立ち尽くす。

 

 ふと、化物の視力が、廃屋内に血溜まりを見付けた。それは神父の死体だった。

 

 雪ノ下家が幸福に満ちていたあの瞬間。

 陽光と豪雪の結婚式も、厳冬の葬式も、共に見届けてくれたあの神父。

 

「………………」

 

 やはり、『彼女』には、その死に顔がどんな感情に満ちているのか、分からなかった。長年の友人である照子の時と同じように。

 

 それよりも、今、化物丸出しで背中から出した帯で娘夫婦を包んでいることや、容易く刃へと変わる両腕で孫娘を抱いていることの方が、『彼女』の心を蝕んでいた。

 

 しかし、あの時はこれが精一杯だった。

 気が付けば辺り一面が穴だらけで、娘夫婦は大きな傷はなかったものの意識を失っていて、孫娘はただ泣き叫んでいた。『自分』も、致命傷は受けなかったものの、少なくない傷を負っていた。

 

 どうやってあの黒い雨を凌いだのか、『彼女』自身もよく覚えていない。

 もしかしたら、見られたのかもしれない。

 化物丸出しの姿を、陽光と豪雪に――雪ノ下家の人間達に、見られたのかもしれない。

 

 もう、何も考えられず、何も考えたくなかった。

 

(――帰らなくては)

 

 それだけが――『彼女』の身体を動かしていた。

 

 ふと目を向けると、教会の近くの駐車場――そこは無傷だった。

 雪ノ下家が乗ってきた四人乗りの普通自動車も、奇跡のように無事だった。

 

 うぇぇえええええええんと泣き叫び続ける陽乃を、ゆさと、優しく揺らした。

 かつて陽光を育てた時に学んだ挙動、力加減で、無意識に。

 

 泣き叫ぶのを止めて、涙目で、自身を抱き上げる存在を見上げる陽乃。

 

『彼女』は、微笑んだ。氷の美少女――氷の微笑女。

 

 ボロボロに汚れた顔で、それは尚も――美しく。

 

 

――人を愛して、愛する人と、幸せになれ。

 

 

 己の背中から飛び出る化物が、この愛らしい、まだ世界を知らない無垢なる存在からは見えないように、隠すように――『彼女』は、凍るように綺麗に、見るに堪えない程に美しく微笑んだ。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 左右を森林で挟まれた真っ暗な山道で、『彼女』は自らハンドルを握り普通自動車を走らせていた。

 

 化物である『彼女』は、寄生(パラサイト)星人である『彼女』は、その気になればその身だけで常人離れしたスピードで走ることは可能だが、それは自動車には到底敵わない程度の常人離れ(スピード)でしかない。

 

 後部座席に夫婦を寝かせ、陽乃はそっと母親の腕の中に戻した。

 未だ不安そうにこちらを見上げる陽乃の頭にそっと手を乗せよう――として、ピタリと、止めて。

 不思議そうに首を傾げる陽乃に、『彼女』はやはり微笑みを向けて――

 

――その時、ギュッと、()()()、陽乃を抱き締めた。

 

 目は覚めていない。意識は覚醒していない。

 それでも母親は、娘を求めて、無意識下でも娘を守ろうとしている。

 

 陽乃は、母の腕の中に、母の温もりの中に戻れて安心したのか、嬉しそうに笑みを浮かべて――眠るように、意識を失った。

 

(…………………)

 

『彼女』は、そんな光景に微笑みを浮かべて――氷のように、無表情になって。

 

 前を向いて、ハンドルを握り、アクセルを全開で踏んだ。

 

 後部座席で横たわる家族の眠りを妨げないように静かに、けれど、普通自動車が出せる最大速度を維持しつつ、山道を全速で進む。

 

「…………………」

 

『彼女』は巧みにハンドルを操作しながら思考する。

 

 この地は既に戦場だ。

 

 敵は海の星人の中でもトップクラスの大物――半魚星人のマーメイド族。いや、もしかすれば、マーマン族を含めての半魚星人全てが出動しているのかもしれない。

 

 否――()()()()()()()()。それだけならば、あの黒鯨の説明がつかない。

 あんな怪物が半魚星人にいるのならば、間違いなくもっと広まっている筈。彼等にあんな特別変異体が生まれるなど聞いたことがない。吸血鬼族ではあるまいし。

 

 そもそも、あんな怪物の存在など、見たことも聞いたことも、全く――。

 

「――――ッッ!!」

 

 キキィ――と、ハンドル操作が一瞬遅れ、カーブをギリギリの形で曲がる。

 家族はまだ目を覚ましていないようだったが、『彼女』の額からは冷たい汗が流れた。

 

 もし――この推論が、正しければ。

 

 まだ材料が余りにも少ない、推論というよりも極論、最悪の事態の想定という奴だが――もし、正しければ。

 

 事は、半魚星人どころの話では収まらない。正しく――戦争となる。

 

 星人と、地球人の、かつてない程の大きな――世界を揺るがす、大戦に。

 

(――どう、すれば……このまま戦場を脱出出来たとして……この推論が正しければ、下手すれば千葉を……日本を……世界全体を巻き込む程の……最悪の事態に……ッ)

 

『彼女』は、そっと、一瞬――後部座席で眠る、家族を見遣る。

 

 どうする――どうすれば。

 

 もしかすれば、今日、世界は変わり――世界は終わる。

 

 そうなれば、彼女達は――そして『自分』達は。

 

「………………………ッ」

 

 ハンドルを握る両手に力が入り、唇を噛み締める『彼女』。

 

 分からない――どうすれば――どうしたら――。

 

 

(――『私』は…………どう、したいの?)

 

 

 その時――化物の視力が、()()()()()()()()()()()()()を捉えた。

 

 

「――――ッッ!?」

 

 反射的にブレーキを踏む。

 

 最大速度で疾走していた普通自動車は急激に停止しようとして、ゴムが擦れる音と共に車内に慣性が働く。

 

 シートベルトをしていた『彼女』、そして同様の後部座席の家族の身体が揺さぶられる中――ギリギリで、その人影ギリギリで、車体は停止した。

 

「――――っ! ……………っっ!!」

 

 悲劇は何とか防がれたかと思われたが、『彼女』の表情は晴れず、更に曇る。絶望を、見つけたように。

 

 その人影は黒かった。

 頼りないチカチカと照らされる街灯が、その黒い影を照らしても――やはり、黒かった。

 

 真っ黒な光沢を持ち、身体に張り付く独特の全身スーツ。

 今、世界中で、星人と呼ばれる化物を猛烈な勢いで狩り尽している――謎の星人狩りの集団のユニフォーム。

 

 人影が纏うは――“黒衣”だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 星人とは、つまりは異星人で、宇宙人である。

 

 こんな表し方をすると、まるで地球人のような、人間のような、二足二腕で言葉を操る生命体か、または両手を吊るされるように連行される頭が大きなかの有名な正体不明か、まさか今どきはタコのような火星人を思い浮かべるものはいないと思うが、まぁ、そのような存在をイメージし易いだろう。

 

 だが、ここで言う星人は、裏の世界で使われる星人という言葉は、いわば地球外生命体その全てを指す。

 

 人間とは別の知的生命体は勿論、お伽話に出てくるような怪物や、妖怪変化に至るまで――この地球上の至る場所に、奴等は様々な形で存在している。

 

 基本的に、星人は表の人間社会では隠し通され、そんなものはいるわけがないということになっているが――だからといって、人間達の全てが、地球人の全てが彼等の存在を知らなかったかと言えば、そんなことはない。

 

 星人という惑星規模の部外者に、人間ではない化物達に――目を逸らさず向き合い、立ち向かい、戦い続けてきた者達は、確かに存在する。それも、人間という生物が生まれた、太古の昔のその瞬間(とき)から。

 

 彼等は――星人狩りと呼ばれた。

 星人という化物と、命懸けで戦うことを使命とした、怪物退治の専門家(スペシャリスト)達。

 

 そもそも、星人達が今の地球上に置いて、その姿を潜め、隠れるように暮らしているのは――彼等がその昔、星人達との争いに勝利したからだ。

 

 かつて、地球由来ではない外来生物が、この地球の支配者であった時期も存在していた。

 

 つまり星人の全てが、自分達は外様の部外者だからと遠慮して暮らすことを選ぶような、謙虚なモノ達ばかりではなかったというわけだ――勿論、全ての星人達が新天地への野心を露わにしていたわけではないが、地球を侵略すべくやってくる宇宙人は、SF映画で描かれるような遙か未来ではなく、太古の昔から存在していた。

 

 そんな侵略心を抱えた星人達に対し、我らが地球を守るべく、奴等と戦う為の人間達が必要となったというわけだ。

 

 勇敢な星人狩り達の英雄譚は、基本的には星人達の存在と共に、その雄姿諸共、闇の中に葬り去られているが、その一部は、お伽話や神話として、今も世界中の人々に語り継がれている。

 

 人間達が、時代を経るごとにその支配力を強めていくにつれ、星人狩りの存在もまた、星人と共に世界の裏側へと消えていき。

 

 今では、各国の上層部のほんの一部と、星人狩りの特殊な技能を受け継いでいくほんの一部の後継者達に語り継がれていくのみとなっていた。

 

 星人達もその殆どが、地球に順応し、各々の居場所を見つけて、表面上は目立った動きも見せなくなり。

 

 人間同士の大きな戦争も終わりを告げて、世界全体が、地球全体が平和への道を歩き出し始めた――そんな、今日。

 

 

 とある、噂話が、裏の世界に流れ始めた。

 

 

 曰く、人間達が眠りにつき始める、怪物達も眠り伏せる、そんな丑三つ時に。

 

 真っ暗な夜の世界を、真っ黒な衣を纏った者達が、怪物を始末するべく動き出す、と。

 

 全く見たことのない新進気鋭の集団。

 技術も何もなく、ただ在り得ない程の性能を持つ不可思議な武具を乱雑に振り回して。

 

 次々と、次々と――容赦なく。

 

 対話もせず、命乞いも聞かず、星人達の集落を唐突に襲い、一切合財を駆逐していく。

 

 伝統も格式も無く、規則も密約も意味を為さず、誓約も制約も通用しない。

 

 文字通りのルール無用。

 今、世界中の星人達はおろか、世界中の星人狩りの組織すらをも、その支配下に治めようとしている、荒唐無稽の星人狩り集団。正体不明の――人間共。

 

 ()の殺戮集団の、名前など誰も知りはしない。

 

 ただ、こう呼ばれている。

 ユニフォームのように件の星人狩りが揃って身に着けている、機械仕掛けの黒い衣から。

 

 

――“黒衣”の星人狩り、と。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

『彼女』は、痛恨の思いだった。

 

 優秀なる『彼女』は、これまでの人生――化物生に置いて、失敗という事象自体の経験そのものが少なく、またそれらの失敗も、確実に糧として成長してきたので、この短時間に明らかな失敗を、何の糧にもならず、時を逆行出来るのであれば確実になかったことにしたいという痛恨の思いを、二度も連続してしまうことは、正しく痛恨の極みだった。

 

『彼女』は、当然、“それ”は居ると思っていた。例え居なくても、すぐにでも、この地に現われるだろうとは思ってはいた。

 

 摩擦力が働けばそれと反対の方向に慣性が働くのと同様に、星人が動けば、抑止力のように星人狩りも動き出す。

 

 そして、今日の世界的な情勢を考えれば、こんな事態に即座に動き出す星人狩りは――奴等に決まっている。

 

 黒衣。

 最近では動かない星人相手にすら働く抑止力として、星人達の間ではもっぱら評判の殺戮集団が、こんな事態で出張らない筈がない。

 

(……むしろ、彼等の過剰労働が――過剰な抑止力が、逆にこんな事態を招いたのではと言いたくなるけれど)

 

 思わず目の前の正義の味方にそんな恨み言を言いたくもなけれど――『彼女』は口を開かない。

 こんな痛恨の極みの愚行を犯した後では焼け石に水であるとは理解しているが、それでも愚行は重ねれば相殺されるというわけではない。焼け石を更に加熱するだけだ。

 

 今は、ただ祈るしかない――目の前の黒衣が、『彼女』の犯した愚行に気付かない愚物であることを。

 そんな思いを込めて、普通自動車の運転席からハンドルを握り締めつつ件の黒衣をただ見詰めるが――その黒衣は。

 

 ニヤニヤと、ニタニタと、およそ正義の味方とも、人類の希望とも思えないような、悪人丸出しな笑顔を浮かべている。

 

 絶対に性格が悪い。間違いなくクズ野郎だ。

 そんな、およそ『彼女』が初めて抱くような種類の感情を、『彼女』は無自覚に抱く。

 

 コイツは――嫌いだ。

 

「おいおいおいおい、どうしたんだよ美人さんよぉ。人一人轢き殺しかけといて、その態度はないんじゃないんですかぁ? あるでしょ。一言何かあるでしょうよぉ。ほら。いつまでもそんな風に固まってないで。ショックなのは分かるけど。とりあえず車降りて話しましょうよ、話。大人の話。あ、別の意味の大人な話でも可。フヒ」

 

 イラッ。『彼女』は思わずハンドルを握り締める両手に力が入るのを感じる。

 

 目の前の黒衣は、年齢は豪雪と同じくらいの男だった。

 ボッサボサの髪。アレ絶対リンスとか使ってない。シャンプーをガーッドライヤーでガーッではい終わりって感じの髪。モテる努力しない俺マジ自然体カッケェとか思っている典型的なモテないタイプ。ピョンと一房だけ飛び出ているアホ毛がマジうざい。生理的に嫌い。身長はそこそこ。顔もまあ整っているが、あのニタニタ笑いがその全てを台無しにしている。ていうかマジで嫌い。生理的に嫌い。そして目だ。何といってもあの目。この世の全てを舐め腐っているかのような色の濁りきった瞳。嫌い。もうマジで嫌いだ。生理的に大ッ嫌い死ねッ――以上、『彼女』の中に現在進行形で渦巻いているモヤモヤを、言葉として表すと大体こんな感じだった。

 

 生まれて初めてだった。初対面の誰かを、僅か数秒でここまで嫌いになったのは。まるで天敵に出会ったかのような気分だった。

 

 だが、今の『彼女』には、そんな初めての感情に戸惑うことも、自分が生まれて初めて、 “嫌悪”と、間違いなく、たった一言で、明確に言葉で表することの出来る感情に出会ったことを自覚することも、出来なかった。

 いっそあの時に轢き殺していれば――そんな思考に、そんな後悔に、そんな痛恨に囚われていた。

 

 それは、この目の前の黒衣憎しという思いだけでなく、単純に失策という意味での後悔――痛恨。

 腹立たしいことに、憎々しいことに――この黒衣は、愚物ではない。

 

 気付いている。奴は、『彼女』の痛恨の失策に。

 

「はぁ……晴空(はると)。あなたがクズ野郎なのは今に始まったことじゃないけれど、そういうのは無駄に事態をややこしくするだけなんだから止めなさいよ」

「そうだよ、はるるん。あの女の人がかわいそうじゃん。それに、いきなり車の前に飛び出すなんて危ないよ?」

「こちとら昨日も今日も残業残業であぁやっと帰れるって思ったら、真夜中にこんな戦争(こと)に駆り出されて正直ダルいの。帰って寝たいの。分かる? だからさっさと終わらせましょ」

「え? またあおのん残業だったの? 赤ちゃん生んだばっかりなのに大丈夫? ちゃんと食べてる? 今度ごはん作りに行こうか?」

「それだけは止めて。疲れ切った私の身体に止めを刺す気?」

「ひどっ!?」

「あーもう、うっせぇぇぇ!! 両側からやいのやいの言うな! それから痴女! 俺のことは二度とはるるんと呼ぶなって言ったよなぁぁぁぁあああ!」

「ちょっ!? 誰が痴女だし!? っていたいいたいやめて離してぇぇええ!!」

 

 濁った眼の黒衣の後ろから、その両側に更に二人の黒衣が現われた。

 

 二人とも女性。

『彼女』から見て右側、切り立った断崖側に立つのは、艶やかな黒髪に眼鏡を掛けた、落ち着いた雰囲気を持つ、均整の取れたスタイルのスレンダーな女性。

『彼女』から見て左側、鬱蒼とした山林側に立つのは、明るく茶色に染めた髪をお団子に纏めた、落ち着きのない賑やかな、豊満なボディの発育のいい女性。

 

 そんな、明らかに美女と称されるであろう女性達に、あんなクズ野郎が挟まれているという現実が、何故か無性に『彼女』の癇に障った。

 

 濁った眼の男が、お団子髪の女の顔面を片手で掴み上げて吊るしているのを、眼鏡の女性と、更に三人の後方にいる醜悪な容姿の男の黒衣が溜め息を吐いて眺めている。

 

 この場にいる黒衣は、全部でこの四人。

 

(――四人)

 

 黒衣――今だからこそ、世界で最も恐ろしい星人狩り集団と呼ばれる彼等ではあるが、ほんの少し前までは、彼等は全く無名の集団だった。

 

 彼等には、歴史も、ノウハウもない。

 全くのゼロから始まった集団だということは、誰が見ても明らかなことだった。

 

 その前例や慣例を全て無視したかのような伸し上がり方も勿論だが、一つに、彼等の戦闘スタイルに、技術というものが全くの皆無だったことが挙げられる。

 彼等は、明らかにズブの素人集団だった。

 

 はっきりと記録に残っているわけではないが、数々の有力星人組織を壊滅させてきた黒衣の初陣は、片田舎の辺境の村を食い物にしていた野盗のような無名の星人グループとの戦いだったらしい。

 敵の数も十に満たるかどうかという程の、小規模というにも少ない数。

 それでも――黒衣達は、あわや壊滅といった境にまで追い詰められてしまったらしい。

 

 これは、始まりの黒衣達が弱い人間だったのかと言えば、そうとは言い切れないだろう。

 より正確に表するなら、()()()()()()()()()だったのだ。

 

 星人という存在を、化物の実在を、何も知らず、知らないまま――化物退治に、星人狩りに挑んだのだ。

 それがどういう背景を持った無謀なのかは知る由もないが、それでも黒衣達は、まるで懲りることなく愚かに無謀を重ね続けた。

 

 そして、いつしか、誰しもが恐れる、星人にも人間にも忌み嫌われる――殺戮集団と成り果てた。

 それでも、どれだけ規模を大きくしても、何故か全く変わらない悪習があるらしい。

 

 唐突に戦闘を仕掛けてくる、戦争をすべく襲い掛かって来る、黒衣の集団の襲撃には、決まって、一定数――何も知らないズブの素人が紛れ込んでいる。

 一般の人間が放り込まれている。

 

 同じように黒衣を纏いつつも、化物をまるで化物を見るような目で見上げて、怯え、恐怖し、震え出す――普通の、人間が。

 囮として用意しているのか、それとも、今も尚、新たな戦力として育てるべく新人育成というには余りに惨い教育を強いているというのか。

 

 どちらにせよ恐ろしく、悍ましい、どちらが化物なのか分かったものではない鬼畜の所業だが――だからこそ、人間達の同職の星人狩り達も、黒衣に対して嫌悪感を隠そうとしないのだろうが――それは、その悍ましき悪習は、ここでの『彼女』にとっては最後の希望ではあった。

 

 四人の黒衣。四対一。

 

 だが、それでも、もしかしたら。

 彼等が何も知らないズブの素人であったなら。無理矢理こんな状況に放り込まれた哀れな一般人なのだとしたら。

 

 そんな希望は、そんな儚い希望は、あの濁った眼の黒衣が只者ではないと分かってしまった時点で、潰えたようなものだったけれど――案の定、世界は、現実は、やはり氷のように冷たかった。

 

(………………そう、甘いわけがなかったわね)

 

 これは現実で、既にここは裏の世界、真っ暗な夜の戦場だ――この期に及んであわよくば逃げられるかもしれないなどと考えていた己の愚考を、『彼女』は吐き捨てるように内心で嘲笑った。

 

 ニヤニヤニタニタと笑うあの濁り眼の黒衣だけではない。

 彼の右側に佇み、いい加減放してやれと彼の左耳を引っ張る眼鏡の女の黒衣も。

 三人の少し後方で佇みながら、左腕の何か四角い画面のようなものを見る醜悪な容姿の黒衣も。

 

 濁り眼の男と同じく、鋭く、険しく――全くの油断なく、こちらの動きを観察している。

 あの二人も、愚物ではない。只者ではない黒衣が――少なくとも、三名。

 

(…………あのお団子髪の子は、分からないけれど)

 

 濁り眼の男のアイアンクローから解放されて、「うわーん! あおのーん!」と眼鏡の女性に抱き付いている彼女は、果たして気付いているのか不明だが――これだけの面子の中に紛れているということは、気付いていることをこちらに気付かせていないだけのかもしれないと思わせる。怪しくなさ過ぎて逆に怪しい存在のようにも感じて来る。

 

(……考え過ぎ? いえ、彼等は黒衣。考え過ぎて、恐れ過ぎて過剰ということはないわ。……少なくともあの三人は……認めたくないけれど、最低でもあの濁り眼の男は、()()()()()()()()()()()

 

 団子髪の黒衣に抱き付かれてうっとうしそうな顔をするが、眼鏡の黒衣は引き剥がそうとせず、どうしてくれるんだとばかりに濁り眼の黒衣にジト目を送る。

 

 だが、濁り眼の黒衣は既にそんな女性陣に見向きもせず――ニヤリと。

 

 この上なく腹立たしく、そして、この上なく恐ろしい――笑みで。

 

 凶悪で、攻撃的な、捕食者の笑みを――人間が、化物に対して向けていた。

 

『彼女』を、化物だと、確信した上で向けられる、宣戦布告の笑みだった。

 

「さぁて。化物が化物の癖に往生際が悪いので、この俺様が、若干一名の事態を把握していないアホの子への説明を兼ねて、徹底的に逃げ道を塞いでやろう。あんまりにも見苦しい自分への恥ずかしさに耐え切れなくなったら、潔く車から降りて来い。殺してやるから」

 

 まぁ――そう言いながら、濁り眼の男は、車内の『彼女』に向かって、異様に銃身の短い機械的な銃を向ける。

 

「――降りなくてもどっちみち殺すけどな」

「……………」

 

 濁り眼の男は見下すような笑みを崩さず、『彼女』もまた無表情を崩さない。

 

「……ねぇ、はるるん。アホの子ってもしかしてあたしのこと?」

「しっ。大人しくしなさい。後でクッキー作ってあげるから」

「あおのんあたしのことバカにし過ぎだからぁ!」

 

 うるさい左右に対し「うぉんへん! ごほぉへんらぁ!」と下手糞な咳払いを漏らす濁り眼の男。そして額を押さえて大きなため息を吐く醜男の黒衣。

 

「………………」

 

 もしかしたら普通に逃げられるじゃないだろうか、と『彼女』は真剣に検討したが、ぐっとかなりの精神力を使って堪えた。

 

「まぁ――降りなくてもどっちみち殺すけどな」

 

 と、何事もなかったかのように編集点を作って、濁り眼の男は短銃の銃口を『彼女』に向けたまま続ける。

 

「実を言うと、俺達は正義の掃除屋なんだ。主に真夜中にこっそり化物退治なんてことを生業としてる。そんで驚くべきことに、ここら一帯は化物出没注意報発令中の、ま言っちまえば戦場ってわけなんだが――色々と特殊な細工をしてはいるが、道を塞いで交通規制とか掛けてるわけじゃあない。こんなド深夜の、あッ郊外の、あッ山奥に、うっかりどっきり何の罪もない無知でむっちむちな一般人が紛れ込んでいても……まぁ、おかしかぁ、ない。実際、これまで何度かそんなことがあったわけだしな」

 

 濁り眼の黒衣の言葉に、団子髪の黒衣はうんうんと首を縦に振って頷く。

 そして――眼鏡の黒衣は、気怠げにどこからともなく漆黒の刀身の刃を取り出し、醜男の黒衣は身に着けている黒衣を筋肉質に膨れ上がらせた。

 

 濁り眼の黒衣は尚も挑発的な笑顔で語り、『彼女』は氷のような無表情で聞き続ける。

 

「だがな、情報の隠蔽工作なら定評のある俺等だ。当然、そんな一般人対策は講じてある。……あんな顔をしてたんだ。薄々、辿り着いてはいたんだろう?」

 

 そして濁り眼の男は、更にその挑発的な笑みを――挑戦的な笑みを深めて、言った。

 

「――()()()()()()()

 

 無表情で、無感情で、無感動――のように、見える。

 

 氷の表情の、中で――『彼女』は、歯噛む。

 

 ()()()()()()と。

 

 濁り眼の男は続けた。

 

「そう――それが、俺達の圧倒的な科学力(ちから)だ。テメーら化け物共を討ち滅ぼす力だ。そうだ、そうだよ、そうなんだよ美人な化物ちゃん」

 

 ダンっ――と、車のボンネットに足を乗せ、見下すように男は続ける。

 

「お前の絶望通り、あの時――()()()()()()()()()()()()()()()()で、お前は自分が化物だって自白したんだ。そもそもあんだけのスピードでこうしてピッタリ止まり切れてる時点で、どんだけの距離で俺を発見したんだって話だけどな」

「……はぁ。まぁ、だとしても、いきなりあんなスピードの車の前に飛び出すとか、こっちの心臓が保たないから止めて欲しいんだけど。ホント、その自己犠牲っぷりはいつになったら治るんだか」

「かっ。このスーツ着てりゃあ、俺様の才能なら自動車程度のスピード躱すくれぇわけねぇっての。それ以前に、自己犠牲なんてするわけねぇだろ」

 

 濁り眼の男は、横に並ぶ眼鏡の黒衣の肩を掴み――短銃を構えていない左手で、胸の中に彼女を押し込んだ。

 

 そして、濁った眼は『彼女』に向け続けながら、挑発的な笑みはそのままで、不敵に言う。

 

 まるで他の誰でもない――己自身に刻み込むように。

 

「俺はもう――家族を守る、父親になったんだからよ」

 

 男の腕の中の女は、眼鏡の黒衣は――ふん、と、頬を少し朱色に染めながらそっぽを向き、ぼそぼそと、小さく呟く。

 

「……父親らしいこと、何一つしてないくせに。……さっさと終わらせて帰るわよ。家に帰ったら、あの子に少しは愛情を注ぎなさいよね」

「あー。でもなー。アイツ、赤ん坊の癖に可愛くねーんだよなー。全く、誰に似たんだか。親の顔が見てみたいぜ」

「間違いなくアナタの子よ。今から将来が不安で仕方ないわ」

 

 眼鏡の黒衣は、キュッと唇を噛み締めて――濁り眼の男の腹に肘を入れ、男が「ぐふっッ」と悶絶している間に距離を置いて、ニヤけているような白けているような団子髪の黒衣と純度一〇〇%で呆れ返っている醜男な黒衣の視線を無視して、漆黒の刀を構え直す。

 

 そして、濁り眼の男が、再び胸を張って『彼女』を見下し、若干涙目のままで言った。

 

「つまり! ネタは上がってんだよ、速やかに投降しろ! 俺よりもいい車に乗りやがって、免許持ってんかよ、コノヤロー!」

 

『彼女』は大きく息を吐いて――ハンドルから手を離し、シートに身体を預けるように倒れ込んだ。

 

 濁り眼の男は、不敵に、挑戦的に――殺意を覚える程の、ドヤ顔で言う。

 

「人間ごっこはしめぇだ――寄生(パラサイト)星人。……いつまでも、偽物に縋ってんじゃねぇ。お前が逃げているのは――」

 

 シートに体重を預けて、後部座席を、先程の急ブレーキを受けても未だぐったりとしている雪ノ下家の家族の姿を見ていた『彼女』を――殺すように。

 

 その男は、その黒衣は――ナイフのような、現実を突き付ける。

 

 

――只の欺瞞だ。化物め。

 

 

「――――」

 

 その、濁った眼の黒衣の男が、挑発的な笑みで、嘲笑するような言葉で、放った言葉は。

 

『彼女』の――氷のように凍った心を、アイスピックのように、鋭く突き刺した。

 

 瞬間――氷の美少女が、氷の微笑女が。

 

 微笑みを忘れて、顔を真っ赤にして――憤怒に表情を歪めて、沸騰する。

 

「――お前――――なんかに――――ッッ」

 

 ダンっ!! ――と、運転席のドアが勢いよく吹き飛んだ。

 

 瞬間――濁り眼と醜男の黒衣は後ろに跳んで距離を取り、眼鏡の黒衣も団子髪の黒衣を抱えてそれに続く。

 

 そして、眼鏡と団子髪と醜悪の黒衣は、緊張に身体を固くするが。

 濁り眼の黒衣は、隣の眼鏡の黒衣に「――雨音(あお)、下がってろ」と告げ、一歩、前に出る。

 

 吹き飛んだドアに続いて、ゆっくりと優雅に車を降りて来たのは、妖しい程に美しい、黒い礼服に身を包んだ、氷のような美女だった。

 

 髪色はしっとりとした、烏の濡れ羽色の漆黒。瞳の色は少し水色がかったアイスブルー。

 人形のような、氷のような無表情だったが――この時、『彼女』は生まれて初めて。

 

 燃え盛るような、激しく熱い怒気を――噴火するかのような憤怒を、その身に纏っていた。

 

 眼鏡の黒衣は、団子髪の黒衣は、醜男の黒衣は――揃って警戒を露わにする中。

 

 この人間は、悪魔のように嗤う。

 

「よう、化物。ご機嫌麗しゅう」

 

 その化物は、人形のように答えた。

 

「初めまして、人間。あなたのことが嫌いです」

 




その人間は、化物のように嗤った。

その化物は、人間のように怒った。


■■■■は、その日、この夜――生涯の天敵と遭遇した。

夢から醒めた寄生星人は、闇よりも濁る瞳の黒衣との戦争に挑む。


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寄生星人編――④

 あぁ、醜い。醜い。醜い。醜い。醜い。

 なんと化物で、なんという化物だ。

 そう――【彼女】は、化物だった

 ただ、それだけの話だった。



 

 燃え盛る氷の微笑女の目の前に対峙するは、『彼女』を退治すべく遣わされた四色の個性を持つ純黒の星人狩りの集団。

 

 真夜中の山道。

 僅かに下り坂となっているこの舗装された道は、山林と崖に挟まれた構図となっている。

 傾斜上ほんの僅か黒衣達を見下ろす形となっている『彼女』から見て、左側は鬱蒼とした山林となっている。この山林を挟んだ向こう側には太平洋が広がっており、間もなく人魚姫が率いる軍勢が、あの黒鯨を伴って進撃してくるだろう。

 右側が崖だ。下を見れば同様に鬱蒼とした山林とほんの少し先には川も見えるが、切り立っていて、傾斜は殆ど断崖絶壁に近い。

 

 つまり、右も、左も、逃げ場はないに等しい。

 否――本当にこの窮地を、生き残る可能性を追求するならば、右か、左か、そのどちらかを『彼女』は選択するべきだ。

 そのどちらを選んだにせよ、そのどちらも逃げるものには有利で、追うものには不利なフィールドだ。それも数が多い敵を撒くにはかなり好都合といっていいだろう。

 

 これまで、戦闘力という面では数ある星人の中でも本当に心許ない程度でしかない寄生(パラサイト)星人である『彼女』にとって、逃げる戦いというには、むしろ正面きっての真っ向勝負よりも遥かに得意分野に入る。

 

 明らかに自分と同格以上の者が三名――うち一名は、業腹だが明らかに自分よりも、こと戦闘力においては格上というこの状況に置いても、それが山の中での逃亡戦なら、『彼女』ならば逃げ延び、生き残ることも十二分に可能だった。

 

 だが、『彼女』は、それを選べない。右も、左も、『彼女』は選び取ることが出来ない。

 

 人間が作り出した、自然を支配下に置いた証左でもあるこの舗装された道しかない。

 前か、後ろか――『彼女』には、その選択肢しか、ない。

 

 この普通自動車を置いていくという選択肢が――正確には、中に乗る家族を置いていくという選択肢がない以上、『彼女』には鬱蒼とした山林も、切り立った断崖絶壁も、只の壁と変わらなかった。

 

 だからこそ、『彼女』はギリギリまで可能性を捨てず、縋りつくようにハンドルを手放すことが出来なかった――が。

 

 完全に己が化物であると、目の前の星人狩りの人間達に看破された以上、運転席に居座り続けるのはむしろ危険だった。

 

 それに――奴は、あの濁り眼の黒衣は気付いている。

 あんな目の前ギリギリで停車した自分の失策といえばそれまでだが、ボンネットに足を乗せた時、奴は確かに見付けていた。

 

 後部座席に横たわる、雪ノ下家の人間達を。

 

 問題は、奴が彼女達を、寄生(パラサイト)星人が誘拐した人間と思っているのか、それとも寄生星人の同族だと思っているのか――そして、もう一つの問題は。

 

 仮に、彼女達が人間だと判断しているとして――巻き込まれた不運な人間を、果たして守ってくれるような。

 

 この濁眼の黒衣が――そんな、人間らしい、人間なのかということ。

 

 その判別が出来ない以上、後部座席に乗る家族が、処分されるかもしれないという可能性が僅かばかりでもある以上――絶体絶命のこの窮地に置いて、それでも『彼女』は、戦わなければならない。

 

(………………私は――)

 

 例え、無事に切り抜けられたとしても、生きて帰れたとしても、そこにはもう――何もないのかもしれない。

 もう既に全てを失っていて、それでも尚、無様に現実から目を背け、夢よ覚めるなと目を瞑り続けているだけなのかもしれない。

 

――お前が縋っているのは、只の欺瞞だ。化物め。

 

「…………………っッ!」

 

 例え、そうだとしても。

 

 論理的に明らかに破綻している愚行でも、それでも――それでも。

 

 何かに突き動かされるかのように止まれない。

 何かに振り回されるかのようにままならない。

 

 辛く、苦しく、狂おしいのに――それでも、それでも――手放せない。

 

「―――――ッッ!!」

 

 氷のようだった美女は、顔を燃え盛るように歪めながら――右手を強く、横に振るう。

 

「――――ッ!」

 

 眼鏡の黒衣が、団子髪の黒衣が息を呑む。

 

 それは――美しい刀のようだった。

 

 氷の美女の白魚のような手が、真っ白な刃へと変化する――変わる。()わる。化物のように。

 

 それは美しく、それでもやはり醜悪で。

 

 紛れもない――化物の姿。

 

「………………」

 

 濁り眼の男は、なおも笑みを崩さず、顎を上げて見下すように――『彼女』を見遣る。

 

 そして、先程までの挑発的なそれではなく――不敵な声色で、言う。

 

「今回の指令(ミッション)標的(ターゲット)が『寄生(パラサイト)星人』と出た時は、詰まらん消化試合かとがっかりしたもんだが……いやいやどうして。思ったよりも楽しそうじゃねぇか」

 

 まぁ、只の寄生(パラサイト)星人狩りじゃあねぇってのはすぐに分かったが――そう言いながら笑みを深め、短銃を手の中で弄びながらこちらを見据える濁り眼の黒衣に。

 

『彼女』も、歪めた表情を氷のように無に返しながらも、そのアイスブルーの瞳は燃やしながら、問うた。

 

「一つ、聞いていいかしら。私を――寄生(パラサイト)星人を標的に、遥々こんな山の中まで来たのなら……どうして、私がブレーキを踏んだ時点で、その銃で車ごと射撃しなかったのかしら?」

 

 この濁り眼の黒衣――見た目通り性格は最悪だが、それでも、決して愚物ではない。

 挑発的な表情や言葉や態度も――もちろん本人の最低最悪な性格や性根もあるだろうが――意図的に、戦闘条件を自分に有利にするために技術として用いているようにも思える。

 

 つまり、あのブレーキの時点で、その車の運転手が寄生(パラサイト)星人であると確信を持っていたのならば、わざわざ減速してくる標的の前にぼおと突っ立って、その後もわざわざ車を自分から降りるまで待ち続けるような、そんな行為は戦闘に置いては愚行でしかない。

 

 理由が分からなかった。

 例え、後部座席に眠る雪ノ下家の人間達を部外者だと判断し、巻き込まないためだとしても――ブレーキの時点では後部座席に人間が乗っているかどうかなど分からなかった筈。

 

 先程の会話だけでも十分過ぎる程に理解出来る。この濁り眼の黒衣は恐ろしく狡猾な狩猟者(ハンター)だ。

 

 そんな男が、こんな初歩的なミスを犯すとは思えない。

 素直にペラペラと話してはくれないだろうが、それでも時間稼ぎも兼ねて、『彼女』は敢えて真正面から問うた。

 

 怒りで氷が溶ける程に燃え盛ろうと――『彼女』の優秀な頭脳は冷静に訴えかけている。

 真正面からの戦闘では、絶対に目の前の敵には勝てないと。

 

 勝つのではない。やり過ごすのだ。

 打ち破るのではなく、逃げ延びるのだ。

 

 その為に必要なのは、一つでも多くの情報と、策を練る為の僅かな時間。

 時間は掛け過ぎても駄目だ。黒衣がこの四人だけとは限らないし――何より、雪ノ下家の人間達が、目を覚ましたら――。

 

 目を、覚ましたら――?

 

 その先に思考が及びかけた時、『彼女』の燃え盛っていたアイスブルーの瞳が、怯えるように温度がなくなり。

 

 濁り眼の黒衣が――ニヤリ、と。

 

 笑っているのに、気付いた。

 

「――なぁ、イチロー。俺様ってば、最高に神に愛されてると思わね?」

「……こんな地獄に放り込まれている時点で、俺等の中の誰一人として神に愛されている奴などいないだろうが……それでも、ああ、お前の言う通り――」

 

『彼女』に銃口を向けたまま語る濁り眼の黒衣の言葉に、少し離れた場所で、右手首の小さな画面を見つめていた醜悪の黒衣が、静かに言った。

 

「――コイツは、当たりだ」

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 醜男の黒衣のその言葉の後、不敵な笑みを浮かべる濁り眼の黒衣は、手の中で弄んでいた短銃を――。

 

「――――っ!?」

 

――ゴミを捨てるかの如く、後ろに向かって高々と放り投げた。

 

 呆気に取られる『彼女』と味方の筈の団子髪の黒衣。

 眼鏡の黒衣は溜め息を吐き、醜男の黒衣は動じなかった。

 

 ガシャン! という音が、黒衣達の後方の暗闇から響いた後、濁り眼の男は不敵な笑みのまま両手を広げている。

 

「喜べ、化物。命乞いのチャンスだ」

 

 濁り眼の男は、輝くような笑顔でそう言って、続いて引きずり込むかのような笑顔でこう続けた。

 

「ちょっくら俺とトークしようぜ。俺からの質問に、お前はただ答えるだけでいい。そうすれば――この場は見逃してやる。その、後ろの奴等も一緒にな」

「――――ッ、――――ッッ」

 

 これは――罠だ。

 

 否――罠、なのか?

 

 余りにも美味し過ぎて、余りにも都合が良すぎて、そして――それを提案してくる男が、余りにも信用出来なさ過ぎて。

 

 余りにも罠のようで有り過ぎるが故に――逆に、罠らしくない。

 

(…………一体、何なの……この男。……この私が――心理戦で……心理戦ですら……追い詰められているというの――ッ?)

 

 数多の星人が蔓延る、この地球という惑星の――裏側において。

 決して武力では、戦闘力では優位に立てない身の上である、寄生(パラサイト)星人の『彼女』は。

 

 その化物の身の丈に合わない“知能”を武器に、立ち回り、戦い続け、そして勝利してきた。

 星人の中には、人間のように言葉を操るモノや、あるいは人をも超える知性を持ちうるモノ達も存在していたが――それでも。

 

 こと、強さを覆す知性という強さは、弱者が強者を下す策を生み出す知恵という強さは。

 正々堂々と立ち向かわない知は、弱さを武器に強さを貶める知は――『彼女』特有の武器であり、どんな強大な武力や、どんな高尚な知力を相手にしても、決して見劣りしない、『彼女』特有の強さだった。

 

 だが、この惑星には、そんな武器を徹底的に磨き上げて。

 貧弱な身体でも、貧弱な寿命でも、貧弱な能力でも。

 数多の星人が蔓延るこの惑星を、地球を――完膚なきまでに支配した生物がいる。

 

 弱くて、弱くて、弱弱しい『彼女』の、たった一つの武器――だが、それは。

 星人の中で、化物の中で、ほんの少し――()()()()、という、ただそれだけに過ぎない。

 

 そう、『彼女』はきっと近かった。だからこそ憧れ、だからこそ苦しんだ。

 近いだけで、決して同じではなく、決して同じにはなれず――その隔たりは、常に『彼女』だけには見えていたその隔たりは、きっと決定的に深かった。

 

 心理戦――? 笑止。

 感情というモノを自覚出来ない分際で、心の理の何を理解しているというのか。

 

 そんなモノが振りかざす武器など、本物の使い手には通用しない。

 

 目の前にいるのは――人間。

 

『彼女』よりも弱く、『彼女』よりも弱く、『彼女』よりも弱弱しい。

 

 だからこそ――圧倒的に、強い。

 

 人間という種族。

 

 地球人という肩書を、他の星人達には無かったその圧倒的な強さを持って生存競争を勝ち抜き獲得した――この星の最強種族。

 

「…………そ、その……理――ッッ!?」

 

 その、余りにも都合がよく、余りにも罠のようで、だからこそ罠らしくない提案の理由を弱弱しく尋ねようとした『彼女』の声は――パァンッ! と、広げていた両手を勢いよく閉じた濁り眼の黒衣の柏手によって掻き消された。

 

 ビクッと、怯えるように身を竦ませる『彼女』を安心させるかのように、濁り眼の男は――笑う。

 

 それが、『彼女』には、たまらなく恐ろしく映った。

 

「――質問は、たったの三つ。簡単なアンケートだ。それに対し、お前は正直に答えても、()()()()()()()()()()()

「………………っ」

 

 分からない。この目の前の男の、考えていることが、何一つ。

 

『彼女』は腰を落とし、刃を身体の前で構えて、氷の無表情をみるみる内に強張らせていく。

 

 濁り眼の黒衣は、そんな『彼女』をただニヤついた笑顔で見るだけだ。

 

(……正直に、答えなくてもいい。それは嘘を吐いても、または無言という回答でも構わないということ? 例え嘘を吐いても、または何も答えなくても、そんなものは簡単に見抜けるということ? ……それとも嘘を吐くということが、何も答えない、何も答えたくないということが――彼等にとっての答えになるということ?)

 

 分かっている。こうして一方的に考えさせられている時点で、自分がこの男に追い詰められているということは。

 

 だが、かといって武力行使で強引に逃げ出せるわけでもなく、こちらから何か心理的に攻められるような言葉も思い浮かばない。

 そして、ありもしないカードを探すよりも、このまま受け手として、奴の質問に対する正しい答え方を探す方が有効にも思える。

 

――俺からの質問に、お前はただ答えるだけでいい。そうすれば――この場は見逃してやる。その、後ろの奴等も一緒にな。

 

 あの濁り眼の男はあんなことを言っていたが、それを一〇〇%鵜呑みになど、出来る筈がない。

 当然のように見えない但し書きとして、こちらにとって見逃すに値する答えであれば、という文言が隠れている筈なのだ。

 

 見えないワイヤーは幾本も張られていて、それに掛からないように慎重に答えを探さなくてはならない。

 

 しかし、『彼女』には、そのワイヤーが何なのかも分からない。

 

 彼等が何を求めているのか。自分が何を求められているのか。

 彼等は何を知っていて、自分は何を知らないのか。

 

 尋ねるのは彼等で、答えるのは『自分』なのに――何だ、この状況は。

 

 一体、この黒衣達が、何を尋ねてくるのか――身構える『彼女』に、濁り眼の男は、ニヤリと笑みを深めてこう尋ねてきた。

 

 

「なぁ――黒い球体を、見たことがあるか?」

 

 

 今度こそ、『彼女』の思考が――真っ白に染まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………黒い……球体?」

 

 先程まであれほど荒れ狂っていた思考が完全にリセットされ、そして一度引いた潮が再び波となって押し返ってきたかのように、無数の疑問で溢れかえる。

 

(……黒い、球体? 何なの、それは? 何かのアイテム? モニュメント? それとも何かのシンボルマーク? 彼等はそれを探しているの? その為に無差別に星人狩りを? 彼等はそれを私が持っているのだと勘違いしている? ならば持っていない、知らないと答えれば見逃して――否、それならばあれだけの星人組織が壊滅されたことに説明がつかない。少なくとも、彼等に滅ぼされた寄生(パラサイト)星人達は、そんなものは持っていなかった筈。それでも滅ぼされた。ならば、彼等は基本的に口封じをするというのが通常。ならば安易に持っていないと答えるのも――ならば――)

 

 冷静に思考を――そう自らに言い聞かせれば言い聞かせる程、思考は空回り、知らない感情という何かに振り回されていく。恐らく『彼女』は、自分の頭が下がり、顔が青くなり、肩が震え、額に汗が流れていることにすら気付いていないだろう。

 

 そんな『彼女』を、団子髪の黒衣や眼鏡の黒衣は不思議なものを見たかのように呆然とし、醜男の黒衣は無表情に見遣り――濁り眼の黒衣は、笑う。面白くて、堪らないとばかりに。

 

 そして、必死に正解を導き出そうとする『彼女』の思考を断ち切るように――。

 

「――もういい」

 

――と、断じる。

 

 ビクッと顔を上げる彼女に、濁り眼の黒衣は不気味な笑みと共に告げる。

 

「その顔で、十分だ」

「――っ!?」

 

 濁り眼の男のその言葉に、バッと『彼女』は顔に手をやる。

 

 眼鏡の黒衣は「性格最悪ね、アナタ」と濁眼の黒衣に呆れるが、『彼女』はただ悔しそうに歯噛む。

 

(――っ!? ()()()()()()――? この――『私』が――?)

 

 氷のような女だと言われ続けてきた『自分』が、こんな局面でポーカーフェイスすら出来ていなかったというのか、と、『彼女』は愕然とする。

 そして、続いて、自分はどんな表情をしていたのか、どんな情報を読み取られたのか、どんな回答を提出してしまったのか、それは果たして彼等にとってどんな答えだったのか、と、次から次へと怯えるような懸念が駆け巡る。

 

 これまで彼女にとって最大の武器であった“知性”が、考える能力というものが、ここにきて彼女を振り回し続けている。

 

 (これ)は、これほどまでに、使い勝手の悪い道具であったのか――否。

 

 ただ、知られているのだ。

 思考――それが持つ強さを、そして弱さを。

 

 知――そして、心。

 心の理――それを見抜き、掻き乱し、掌握する。それこそが、心理戦。

 

 人間が得意とする、人間が磨き上げてきた戦い方だ。

 

「では、第二問だ」

 

 未だ混乱から抜け出せない『彼女』に畳み掛けるように、濁り眼の黒衣は更なる問いを『彼女』にぶつける。

 

「お前の、目的は何だ?」

 

 続いての問いは、一問目とは打って変わって、こういった場面での尋問においてはスタンダードなものだった。

 故に、『彼女』も比較的に落ち着いて対処することが出来た。

 

「……目的? 随分と曖昧な言葉ね? もう少し具体的にお願い出来るかしら?」

「おいおい、化物の癖に言葉で遊ぶなよ。ちょっと流暢に喋れるからって――()()()()()()?」

 

 だが、僅かに取り戻した余裕も、濁り眼の男の言葉一つで簡単に立ち消えた。

 

 再び氷の心をアイスピックのような言葉で突き刺さされる。

 振り回され、急所を剥き出しにされ、的確に容赦なく貫かれる。

 

 思わず口を閉じてしまった。こちらも何か、言葉を返さなければ――そして、少しでもこちらのターンをと、そう思うのに。

 

 この男と、言葉を交わすのを、恐れている自分がいる。怯えている自分がいる。

 今まで幾多の強敵と渡り合ってきたのに。絶体絶命の窮地など何度となく経験してきたというのに。

 

(――これが、恐怖……なの?)

 

 初めてだった。これほどまでに――怖い相手と出会ったのは。

 そんな怯える美女の姿に、濁り眼の男はケラケラと笑いながら――。

 

「いやいや悪かったって。そんな怯えるなよ――まるで赤ん坊だな。持て余しちゃって、振り回されちゃって、初々しい限りだぜ。……こりゃあ、マジで大当たりかもな」

「…………? ………なに、を――」

「ああ、こっちの話だ。とにかく、今は質問に答えてもらおうか。まぁ、深く考えるな。素直に、思ったままを答えればいい」

 

 濁り眼の黒衣はその言葉通り、どこか幼子をあやすように促す。

 

『彼女』は、目を少し伏せながら、探るように――答えた。

 

「わ、私達……寄生(パラサイト)星人は……あなた達に、危害を加えるようなつもりは、一切ないわ。他の星人組織と……協力関係にも、ない。……あなた達が恐れるようなものも、求めるようなものも、私達は、何も――」

「あー、そういうのいいから。全然求めてねぇから――やめろ。冷める」

 

 無難であろう答えを、正解であろう回答を提出しようとした『彼女』の言葉を、ズバッと、冷たく、それこそ氷のように断ずる濁り眼の黒衣。

 

 そういった模範解答は、何かを真似たような、そんな偽物は――いらないと。

 

「俺はそんな教科書回答が聞きてぇんじゃねぇ。失望させるなよ。俺が聞きてぇのは『お前』の目的だ。寄生星人(おまえら)のじゃねえ。……その意味は、お前なら分かるよな」

 

 この――男は。

 

 たったこれだけの、ほんの数分にも満たないだろう、こんな僅かな時間で。

 

(……一体、どこまで――っ)

 

 濁り眼の男は、氷のような表情から一転し、へらへらとした表情に戻りながら言う。

 

「さぁ、答えろよ。目的って言葉が曖昧だっつうお前のリクエストに応えるなら、こう聞き直してもいい。お前が――目指すものは、何だ?」

 

 目指すもの――『彼女』が、生きる、目的。

 

「お前という化物が、この地球(ほし)で生きる目的は何だ? お前という化物が、この地球で求めるものとは何だ?」

 

 目指すもの――『彼女』が――【私】が――求める、もの。

 

「さぁ、答えろよ化物。お前程に賢い化物が、この地球で、何が目的で、何を目指して――どんな欲望を叶える為に、そんなに一生懸命になってるんだ?」

 

 欲望。

 化物に相応しい、そんな言葉が、最もしっくりくるような気がした。

 

 ずっとずっと渦巻いていた。

 

 あの温かい光景を見守っている間、自分はずっと暗い闇の中にいるような気がして。

 明確に、はっきりと、光の世界と闇の世界を隔てる境界線が、『彼女』には――【彼女】には、ずっと見えていた。

 

 温かく、明るい世界。冷たく、暗い世界。

 

 ずっとずっと、暗く冷たい世界の端っこで、明るく温かい世界に最も近い場所に――【彼女】は、いた。

 手を伸ばせば、その温かさをほんの少し感じられるような気がして――でも、硬く、厚い、何かが、堅固な隔たりとして明確に存在していて。

 

 背を向ければよかったのかも知れない。逃げ出せばよかったのかもしれない。

 

 いっそ、そんな世界が見えなくなるくらい、どっぷりと闇の中に浸かれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 お腹の中に真っ黒な何が渦巻くような、こんな辛く苦しく悲しい何かから、解放されたのかもしれない。

 

 これが――感情だというのなら、そんなものは、いっそ棄ててしまえば――楽に、なれたのかもしれない。

 それこそが本来のあるべき姿で、正しい寄生(パラサイト)星人で、化物として相応しい在り方で。

 

「――――私、は…………『私』……は…………【私】は――――――ッッ!!」

 

 

 それは、きっと、この上なく醜く、浅ましく、悍ましい、正しく化物に相応しい、欲望に満ちた叫びだった。

 

 

「―――――――ッッッ!!!!!!!」

 

 

 感情に振り回され、知性に振り回され、氷のように美しくも冷たかった化物は、この日、この夜――生涯で最も無様を晒した。

 

 

「―――――――ッッ!!! ――――――ッッッッ!!!!!」

 

 

 分からなかった。ずっと何も分からなかった。

 他のどんな同族よりも、遥かに優れた知能を持って生まれた【彼女】は、その優れた知能故に、他のどんな同族よりも、藻掻き、足掻き、苦しんできた。

 

 それでも、考えても考えても――何も、全く、何も、分からなくて。

 

 

「――――っっっ!!! ―――――――ッッッッ!!!!! ―――――――ッッッッッ!!!!!!!!」

 

 

 厳冬が。照子が。陽光が。豪雪が。陽乃が。

 

 どうして笑っているのか。どうして泣いているのか。どうして怒っているのか。

 

 分からず、分からず、どれだけ考えても――全然、分からなくて。

 

 

「――――――――――――――――――――――」

 

 

 そして、その度に――分かりたいと、願ってしまった。

 

 欲を覚えた。望まずにはいられなかった。

 

 触れられないと分かっているのに。届かないと分かっているのに。

 

 

 きっと自分には相応しくなくて、たとえこの向こう側に行けたとしても、この手は全てを壊してしまう。この身は温かさで溶けてしまうだろう。

 

 支離滅裂で、荒唐無稽で、論理も因果も破綻していて、ただただ無様な戯言でしかない。

 

 

 あぁ、醜い。醜い。醜い。醜い。醜い。

 

 なんと化物で、なんという化物だ。

 

 そう――【彼女】は、化物だった。

 

 ただ、それだけの話だった。

 

 

 これは、ただ――それだけの物語だった。

 

 

「………………………………………」

 

 叫んだ。お腹の中に渦巻く何かを、全て吐き出すかのように叫んだ。戦場全てを揺るがすように。

 

 それは化物の欲望で、泣き叫ぶ女性の悲鳴で――助けを求める、赤子のようで。

 

 叫びきった【彼女】は、全てを吐き出した【彼女】は、全てを失ったかのようにぐったりと俯きながら――ぽつりと、呟く。

 

 全てを吐き出し、全てを失い――ずっと、ずっと、【彼女】を戒め続けたそれから解放されて、ずっと、ずっと、【彼女】を殺し続けたそれを失った。

 

 

 だからこそ、きっと、それが【彼女】の全てだった。

 

 

 

「――――」

 

 

 

 余りにもか細く、余りにも弱弱しい呟き。

 

 まるで『彼女』という生物を、【彼女】という化物を、そのまま表しているかのような、小さな呟き。

 

 化物のようだった右手の刃が、ゆっくりと白い女性の手に戻っていく。

 

 眼鏡の黒衣が、団子髪の黒衣が呆然と、醜男の黒衣が厳然と見遣る中、たった一人、満足げに笑う男が居た。

 

 合格だ――そんな声が聞こえたような気がしたが、『彼女』は顔を上げることすら出来なかった。

 

 きっと、この時。

 

『彼女』は――【彼女】は。

 

 完膚なきまでに――人間に、敗北した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

「それじゃあ、これが最後の質問だ。……と、その前に――」

 

 濁り眼の男は、背後から醜男の黒衣が放ってきた無骨な黒い物体を、後ろを振り向かずに右手に取り――左手を振って、漆黒の剣を抜刀した。

 

 眼鏡の黒衣と団子髪の黒衣が背中合わせになる。醜男の黒衣が無表情で見詰めるその液晶の画面には――四つの青点の前の、一つの赤点――。

 

 

――そして、その右側から、十、二十、いやそれ以上の数の赤点が、まるで赤で画面を塗り潰すような勢いで接近する様が映し出されていた。

 

 

「おい、美人さんよぉ。こっちから申し出た所で悪いが――」

 

 ゆっくりと、力無く顔を上げていく『彼女』だったが、既に濁り眼の男は『彼女』を見ていなかった。

 

 彼の視線に釣られるように、鬱蒼とした山林の方向に目を向ける――と。

 

「――時間切れだ」

 

 昏い愉悦の感情が見え隠れする濁り眼の男の呟きを合図としたかのように――山林から無数の半魚人が、一斉に道路へと飛び出してきた。

 




 目指すもの――『彼女』が、生きる、目的。

 目指すもの――『彼女』が――【彼女】が――求める、もの。

 ずっとずっと渦巻いていた。

 温かく、明るい世界。冷たく、暗い世界。

 背を向ければよかったのかも知れない。逃げ出せばよかったのかもしれない。


 それは、きっと、この上なく醜く、浅ましく、悍ましい、正しく化物に相応しい、欲望に満ちた叫びだった。

 感情に振り回され、知性に振り回され、氷のように美しくも冷たかった化物。

 分からなかった。ずっと何も分からなかった。

 それでも、考えても考えても――何も、全く、何も、分からなくて。

 分からず、分からず、どれだけ考えても――全然、分からなくて。


 そして、【彼女】は、烏滸がましくも――分かりたいと、願ってしまった。


 欲を覚えた。望まずにはいられなかった。

 触れられないと分かっているのに。届かないと分かっているのに。

 向こう側の温かく明るい世界は――この氷の身体を溶かしてしまうと、分かっていたのに。


 あぁ、醜い。醜い。醜い。醜い。醜い。

 なんと化物で、なんという化物だ。

 そう――【彼女】は、化物だった

 ただ、それだけの話だった。


 これは、ただ――それだけの物語だった。


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寄生星人編――⑤

ありがとうな。人間を、好きになってくれて。


お前達と、出会えてよかった。


 

 ギィしゃぁぁぁぁぁぁ!!!! ――という、擬音というにも耳触りな雑音の如き奇声を放ちながら、その化物集団は黒衣達を、そして『彼女』を取り囲んだ。

 

 そう、それらは、紛うことなき化物だった。

 見かけだけは人間のような化けの皮すら被っていない。

 

 全身は見たこともない醜悪な緑色の鱗で覆われ、魚のような死色の双眸とぽっかりと開いた口、そして(えら)を持っていた。

 そんな存在が二足歩行で、思い思いの武器を両手で携えている――が、その手は、この陸上においては明らかに不要と思えるような立派な水かきを備えている。

 

 醜悪――その一言に尽きた。

 これまで数多くの星人を滅ぼしてきた黒衣達も思わず眉を顰める程の――明確に表情を崩したのは団子髪の黒衣だけだったが――目を背けたくなるような、醜い怪物。

 

 そんな存在が十や二十では足りない多数を持って自らを取り囲む中、濁り眼の黒衣は右手にXガンを、左手にガンツソードを構えて周囲を見渡しながら、決して緊張感を感じさせない言葉調子で『彼女』に問い掛けた。

 

「はッ――なぁ。これはさっきの三つにカウントしないで欲しいんだが……アンタら寄生(パラサイト)星人は、こんな化物にも化けられるのか?」

 

 可能だ――が、それはあくまで可能だというだけだ。

 寄生(パラサイト)星人は、対象の脳を乗っ取り、食らうことで寄生する。それは、理論上は脳を持つ生物にならば何にでもなれるということ。現に『彼女』はこれまでに犬や猫、牛や虎といった動物に寄生した同族や、数は本当に少ないが、他の星人に寄生した同族と出会ったこともある。

 

 だが、そもそもの習性として、寄生星人は知能に引き寄せられて、生まれる場所――初めての寄生先を決める、というのが『彼女』の推論だ。故に、この地球という惑星で最も繫殖している知的生命体である人間に寄生するモノ達が圧倒的に多い。

 

 そして、人間以上に自分達と違うモノに対して排他的な他の生物達は、例え運良く寄生出来たとしても、即座に集団的に排斥される憂き目に遭う。よって、そのような境遇の寄生(パラサイト)星人は総じて長くは生きられない。寄生(パラサイト)星人が他の星人達に嫌われているのは、そんな理由もあるのだ。

 

 勿論、『彼女』程のイレギュラーな個体ならばそんな状況でも生き残るだろうし、始めは人間に寄生した個体が成長した後に別の星人の身体に乗り移ったというケースも考えられるだろうが――だが、そんなありえるかもしれない程度の可能性を探るよりも、目の前の状況を遥かに強い説得力で説明することが出来る可能性がある。

 

 つい先程、『彼女』は人魚姫と一戦交えたばかりなのだ。

 この半魚人達は、ほぼ間違いなく――彼女と同じ目的の軍勢。

 

 寄生(パラサイト)星人など全く関係ない、寄生(パラサイト)星人など及びもつかない――格の違う怪物達。

 

「シャシャシャシャ! おい、そこのドブ川のように濁りきった眼の人間! まさかとは思うが……今、オレ等をそんな寄生虫(ムシケラ)共に乗っ取られるようなザコ扱いしなかったかァ? 人間(オメェラ)と一緒にするんじゃねぇよ――この下等種族が」

 

 軋むような音とともに、豪快に木々が倒れ、巨大な道が出来た。

 薙ぎ倒された木と、ザッと両側に避けた半魚人達で舗装された道を、ゆっくりと歩きながら現れたのは、その巨大な道に見合う程の――大柄な魚人だった。

 

 振るう。振るう。振るう。

 三メートルに届かんばかりの巨体が振るうのは、その倍はあろうというサイズの――(ノコギリ)だった。

 シャシャシャと残虐に笑いながら、森林を伐採し、自然を破壊する魚人は、その姿を現しながらも道路には下りず、下等な人間を見(おろ)すように、人真似に縋る化物を見(くだ)すように――笑う。

 

 その魚人は他の半魚人達とは明らかに異なっていた。

 体色は緑ではなく海のような青色。鱗も触れるだけで切れてしまいそうな鋭さを持っている。

 

 そして、何よりもの特徴は――黄色と黒色による警戒色の刺青のような紋様。

 それが体中を模様のように駆け巡っていて、周囲の半魚人よりも遥かに醜悪で、何よりも凶悪だった。

 

 一目見るだけで、相まみえるだけで、歴戦の黒衣達は感じ取った。

 明らかに格が違う。この化物は、ボスクラスの――怪物だと。

 

 そして、それは――『彼女』も、同じだった。

 

(――――ッ!? まさか……『鬼鮫』のジャック!? ……人魚姫だけじゃなく、マーマン族の三巨頭まで出てくるなんて……本当に半魚星人は、全てを懸けて、人間に戦争を仕掛けるつもりなの――っ?)

 

 己の最悪の予想への現実味が容赦なく増していくことに、『彼女』は更なる絶望を感じる――が。

 

 ()()()()は、どんな怪物を目の当たりにしようと、目の前にしようと、変わらず不気味に不敵だった。

 

「はっ。悪いなぁ、お魚さん達。あんまりゾロゾロと湧くもんだから、思わず“雑魚(ザコ)”扱いしちゃったよ。ゴメンな。プライド傷つけちゃった? ――お鮫ちゃん」

 

 ミキ――ミキミキ、と。

 何かに罅が入る音が響き、そして、また一本の大木が倒れ伏せる。

 

 だが、この両者は――濁眼の黒衣と、警戒色の魚人は。

 凶悪な表情を浮かべたまま、ただ両者だけを――笑いながら、見据えていた。

 

「――全く。“ガンツ”の標的画像が当てにならないのはいつものことだが……つまりはコイツ等が本命ってわけな」

 

 濁り眼の黒衣は言う。

 

 彼等が黒い球体より指令(ミッション)を受けて、この千葉の地へと転送されて真っ先に行ったのは、いつも通りのエリア画像の確認。

 

 その時、近くにはこの四人のメンバーが居て、そして、とあるアホの子を除いた三人は直ぐに疑問を抱いた。

 

『……なぁ。今回の標的(ターゲット)は、一応は寄生(パラサイト)星人ってことになってたよな』

『…………ああ』

『…………そうね』

『だよなぁ………だったら、どうして――()()()()()()()()()()()()?』

 

 今回の指令(ミッション)は、スタートから明らかにおかしかった。

 

 まず、制限時間が設けられていない。

 いつもは一時間のタイマーを表示するページは、【-:--:--】と表示されているだけだった。

 

 続いて、エリアの広さだ。

 基本的には広くても一キロメートル四方ほどの大きさで区切られている筈の戦争エリアは――今回、通常時よりも遥かに広大で、そして何よりも不思議だったのは、その半分が海であることだった。

 

 これまで数多くの場所で戦争を行ってきた黒衣達だったが、その殆どが市街地や住宅街であり、山や田舎ですら珍しいのに――海を戦場(ステージ)とした戦争(ミッション)は、少なくとも彼等は初めてであり、いつもと変わらないのは開戦(スタート)の時間帯が夜だということだけだ。

 

 そんな設定を用意されたにも関わらず、標的(ターゲット)はこれまで何度となく戦い、そして対して苦戦もせず圧勝してきた、あの部屋ではボーナスステージ扱いを受けていた寄生(パラサイト)星人である、と。

 

 明らかに不自然だ。何かがおかしい。

 これだけの前代未聞――確実に、それに相応しい異常事態が起きている。

 

 故に濁眼と醜男と眼鏡の黒衣は、まずは情報収集を行おうと決めた。

 制限時間はない。ならば、まず行うのは正確な現状の把握――当然だと。

 

 訳も分からず、敵も味方も教えられず、何の説明もされないまま、見たことも聞いたこともない化物がうじゃうじゃと蠢くステージに無慈悲に放り込まれる――こんなクソゲーのプレイヤーにさせられたあの日から、これは最早習性と呼べるほどに、身体に頭脳にインプットされた行動だった。……若干一名、そんな重い荷物など知らないとばかりに、気の向くままに行動し続けて、何故かまるで死なず、自分達と遜色ないハイスコアを叩き出し続ける(アホの子)もいるが。

 

(……そんで、一発目に出会ったのが『コイツ』で……いい感じに何も知らず、その上で話も通じそうで……別角度から有益な情報が手に入ると思ったんだがなぁ。……それに――)

 

 濁り眼の黒衣は、ちらりと、混乱しながらも半魚人達から普通自動車を守れるようなポジションに動く『彼女』を見遣り、そして背後の醜男に問う。

 

「――イチロー。これが本隊か?」

「……正直、余りにも赤点が多すぎて判断が難しい――が、未だ、海の中で動かない軍勢がいる。恐らくは、コッチが本隊だ」

「ほう。つまりはつまり、コイツ等は捨て駒扱いの特攻隊というわけか」

「一番槍を買って出た先陣と称してもらおうか。俺等はこのままお前等を突き殺し、そのままテメェラに勝たせてもらう」

 

 巨大鋸を肩に乗せる警戒色の魚人の言葉を、濁り眼の黒衣は鼻で笑う。

 

「ハッ。勝つ、ね――どうやって? 俺等はお前等の親玉を――つまりはボスキャラをぶっ殺せばいいわけだが、お前等はどうすれば勝ちなんだ? 俺等真っ黒いのを全滅させたらか? それともこの国の総理大臣でも殺したら満足かい?」

「シャシャシャシャシャ! オレはそんな安い男じゃねぇよ。なぁに、オメェラが散々やってきたことだ」

 

 そう言い、警戒色の魚人は――獰猛に、笑う。

 

 獲物を眺める、鮫のように笑う。

 

 

 そして、山が、林が、全てが、震えた。

 

 

――LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!

 

――GLAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!

 

 

「――ッッ!!」

「な、なにっ!? なんなのッッ!」

 

 警戒色の魚人の背後から、何か途轍もないものが飛び出してきたかのような錯覚――否。

 見えないが、何も視界には現われていないが、それでも何かが起きているといった確信――肯。

 

『彼女』は、気付いた。そして、混乱した。

 

(――ッッ!? 雄叫びが――()()()!!??)

 

 確かに、聞こえた。

 それは余りにも凄まじく、鳴き声や雄叫びというよりは最早衝撃波に近かったが、確かに聞き分けた。化物の聴力は聞き分けた。

 

 あの、『彼女』の夢を終わらせた、温かい夢から醒めさせた、真っ黒な怪物の極寒の雄叫びの――他に、もう一種類。

 

 別の、異なる、けれど同じくらい凄まじい――絶望の、怪物の、出現。

 

(……あんなモノが……あんな化物が――二体!?)

 

 絶望――絶望――絶望でしかない。

 あんなものを敵に回して、勝てる筈がない。そう、例え、それがあの黒衣でも。

 

(――そう、そうよ。……半魚星人は、あくまで黒衣に――人間に、戦争を仕掛けている筈。『私』は――)

 

 関係ない、部外者だ。巻き込まれた、被害者だ。

 その立場を使って上手く立ち回れば――この三方を敵に囲まれた窮地でも、見逃してもらえるのでは。逃げ出してしまえるのでは。

 

 黒衣と半魚星人を戦わせ、その隙を突いて、運転席に飛び乗り、逃亡する。大丈夫だ。逃げるのは得意技だ。それだけが特技と言っていい。ずっと、ずっと、『彼女』は逃げ続けてきたのだから。

 

 そう言い聞かせ、ゆっくりと、右足を引いて一歩下がろうとした――その時。

 

「終わりだよ――()()()()は」

 

 警戒色の魚人が――突き付ける。

 

 真っ直ぐに、巨大鋸の切っ先を、黒衣に――『彼女』に、向けながら。

 

黒衣(オメェラ)は、ここで絶滅だ――そんで、()()()()()()()()寄生星人(ムシケラ)

「――っ!!?」

 

 仲間に入れてもらえると思ったわけではない。容易く見逃してもらえると思っていたわけでもない。

 

 だが、まさか、ここまで明確に敵意を――殺意を、向けられるとは、思っていなかった。

 

「……あら。随分と嫌われているのね。あなた程の有名星人と出会っていたら、忘れる筈はないと思うのだけれど」

「アァ、確かに、オレとテメェは初対面だ――が――シャシャシャ! この状況でそんな口が叩けるたぁな! 大した雌だ!」

「――ッ!?」

 

 そう言って――ギロリ、と。

 

 目の色を変えて、瞳の形を――鋭く、楕円に、変えて。

 

 ブチ切れた――猛獣を、露わにして、魚人は寄生虫に言う。

 

「オレ達の兄貴(リーダー)を、()()()()()()()()()()()()()、よくもまぁ嘯けるもんだ。……そんでもって、聞かせてもらったぜ。()()()()()()()

 

 強く、大きく、一歩。

 

 その巨躯なる威容を見せつけるように、足を踏み出した警戒色の魚人は――獲物を前に、敵を前に、告げる。

 

「お前ら寄生(パラサイト)星人に対しても、我ら半魚星人は――()()()()()()。人魚共の了解は取っちゃあいねぇが、問題ない。テメェみてぇな愚かな化物は、あの人魚姫は一番大嫌いなタイプだ」

「――――ッッ!!」

 

『彼女』は――震える。

 

 それは、あの『鬼鮫』に明確な殺意を向けられたから――()()()()

 

 自分のせいで、自分の愚かな欲望のせいで――全ての寄生(パラサイト)星人の同族が、海における最大派閥の、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(……そん――な――)

 

 彼等のリーダーを――あの、『海王』を、虚仮(コケ)にした?

 バカな。有り得ない。そんな大物と会ったこともなければ、関わったことすらあり得ない。

 

 違う。何かの間違いだ。

 早く誤解を解かなくては。説得を、いや無理だ。あの『鬼鮫』がこちらの話を大人しく聞くとは思えない。

 

(…………どうして……こんな……ことに――)

 

 その時、一人の男が、ザッと同じく、一歩を前に踏み出した。

 

「――ハッ。盛り上がってるところ悪いが、俺等のことを忘れてもらっちゃあ困っちゃうぜ」

 

 濁り眼の男に続くように、眼鏡の黒衣が、団子髪の黒衣が、並び立つ。

 

「わざわざ海から上がって来てもらって恐縮だが――絶滅すんのはお前らだ、魚共。お前らは今日、大嫌いな陸の上で死ぬんだよ」

 

 その少し後ろで醜男の黒衣が巨大な黒槌を構える中――濁り眼の黒衣は、その瞳から冷たい何かを迸らせながら、言う。

 

「――人間を、ナメんじゃねぇ」

 

 一触――即発。

 

 空気が極限まで張り詰め、今、まさに――黒衣と半魚星人の、壮絶な死闘となるであろう戦争が勃発しようとしている。

 

 先の一瞬――『彼女』は、見た。

 あの醜男の黒衣が頻繁に目を向けていた、右手の液晶画面。

 濁り眼の男との会話から、あの地図画面の赤い点で表示されるのが標的(てき)であり、位置関係から青い点が黒衣(なかま)であると推察される。

 

 そして――『彼女』も、明確に赤い点で表示されていた。

 

 つまりは、黒衣の標的(てき)だ。

 さらには、半魚星人の標的(てき)でもある。

 

 三つ巴の戦争。

 だが、これは、明らかに拮抗していない。

 

 黒衣(きょうしゃ)と、半魚星人(きょうしゃ)の争いに、巻き込まれた寄生星人(じゃくしゃ)

 

 その命運は――確定的に、明らか。

 

「――フッ。シャシャシャ。面白れぇ。だったらもう、四の五はナシだ」

「――ああ。とっととやろうぜ。後がつっかえてる」

 

 

――さあ、戦争(ゲーム)を始めよう。

 

 

 濁り眼の男の宣言から、周囲を取り囲んでいた半魚人達が、一斉に気勢を――。

 

 

――そして、幾つかの、呻き声を上げた。

 

 

「――――何?」

 

 獰猛な愉悦を浮かべていた警戒色の魚人から――表情が消える。

 黒衣達も戦闘に備えていた無表情が、徐々に困惑に変わっていった。

 

 その間も、何かを裂くような音と、半魚星人の呻声が続き、警戒色の魚人が何事かを問う――前に。

 

 ギャァァァァアアア!! ――と、黒衣達を取り囲んでいた最前線の内の一か所が、吹き飛ぶように穴が開いて。

 

「な、なに――!?」

 

 団子髪の黒衣の戸惑う悲鳴のようなものに答えるように――ダンッッ!! と。

 

 

 普通自動車の天井に、一人の少年が降り立った。

 

 

 真っ白なTシャツにジーンズ。

 背はスラリと高い細身で、髪はオールバックで目つきは鋭く、年齢は高校生であろう、何処にでもいる普通の少年――否。

 

 異様に赤い触手のように、先端が刃に変形している右手を伸ばしていなければ、何処にでも溢れているであろう少年は。

 

 その特徴一つで、この場の全てのもの達に、己が化物であると知らしめていた。

 

 すくっと立ち上がった少年は、車の天井から、黒衣と半魚星人から庇うように『彼女』の前に降り立つと、右手を人間のものへと戻し、横に広げ――言う。

 

 何処にでもあるTシャツ、何処にであるジーンズを――ズタボロにした姿で。

 オールバックの髪を振り乱しながら、なおも鋭いその眼光を光らせて。

 

 人間のような右拳を握り締めて、ある日突然化物になった少年は言う。

 

「――この人は、殺させない」

 

『彼女』は、自らが化物の世界に引きずり込んだ、巻き込んでしまった同胞の名を呟いた。

 

 少年が化物になった日――『彼女』が贈った、その名前を。

 

「…………シン」

 

 そして、尚も、呻き声と流血音、悲鳴と怒声は響き続けた。

 

 見渡せば――見付けた。

 

 半魚人と戦いながら、傷つけながら、傷つきながら――それでも、懸命に、命を懸けて、命を捧げた『彼女』の元へと辿り着こうと戦う化物達が。

 

 OLが、オタクが、ギャルが、外人が、老婆が、アスリートが、イケメンが、教師が、探偵が、眼鏡が、仲居が、リーマンが、ガリ勉が、委員長が、帰国子女が、ショタが、アーティストが、イクメンが、不良が、刑事が、サングラスが、板前が、コックが、師範が、メイドが、ウサ耳が、ヤブ医者が、職人が、ニートが、探検家が、武士が、アルバイトが、犯人が――傷つき、倒れ、そして立ち上がりながら、戦っている。

 

「……あなた、たち――」

 

 どうして――そんな声にならない呟きに答えるように、背を向けたままの高校生は言う。

 

「守る為です」

 

――守る為に、生きなさい。

 

「守る為に――あなたを守る為に。ボク達は、ここにいます」

 

『彼女』は、ただ、涙を流すことしか出来ない。

 

 黒衣と、半魚星人と、寄生星人。

 

 遂に勃発した戦争は、正しく三つ巴の様相を呈し――流血と悲鳴と、落涙を以って幕を開けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 合戦――目の前の光景を言い表すならば、きっとそんな言葉が相応しいのだろう。

 

 黒と――緑――そして、こんな戦場に余りにも不似合いな色とりどりの制服達。

 そんな三種三様の戦士達が、ぐちゃぐちゃに混ざりこんで、鮮血と悲鳴を絶え間なく生み出し続けている――そして、その度に、死んでいった。

 

 単純な数だけでいえば、緑色の半魚人が圧倒的に多い。

 寄生(パラサイト)星人達の数は多いというわけではないが、少なくとも三十人以上は揃えられていた。

 

 そんな中、黒い衣を纏う星人狩りの人間達は――たったの四人。

 

 だが、すぐそばで合戦を見遣る『彼女』の目には――いや、きっとこの光景を目にした誰もがこう答えるだろう。

 

 この戦場において――他色を圧倒しているのは、黒であると。

 

「いっくよぉーー!!」

 

 醜男がその巨大な黒槌を宙へと投げる。

 そして、それを跳び上がった団子髪の黒衣が、空中で柄を両手で掴み――緑色で染まった地帯に向かって容赦なく振り下ろした。

 

 グチャァッッ!! という異音と共に、半魚人達が真緑色の液体へと変わる。ぶわっと広がる血液の匂いに、しかし団子髪の黒衣は動じず、黒槌を振り下ろした体勢のまま声を張り上げた。

 

「あおのん!」

 

 彼女の叫びに擦過するように、団子髪の黒衣の顔直ぐ横を、一筋の風が吹き抜ける。

 

 その風は――黒く、鋭い、一本の矢だった。

 黒い矢は前方の半魚人の心臓を寸分違わず射抜き、断末魔の叫びも許さず絶命させる。

 

「……心臓の位置は人間と同じ、か。話が早くて助かるわね」

 

 眼鏡の黒衣は淡々とそう呟きながら、太腿のホルスターから黒い矢を取り出し、黒いアーチェリーに番え、放つ。

 構えは一瞬。まるで流れ作業のように正確無比の射撃を振り撒き続ける彼女は、自らの――そして黒衣の同胞達に緑を近づけさせない。

 

 一本の矢は頭に突き刺さり、一本の矢は心臓を貫く。

 時には敢えて腕や足を射抜き、バランスを崩させて仲間の止めの一撃をアシストする。

 

 その姿は、正しく狩猟者(ハンター)で――そんな、彼女の背後で。

 

「はぁッ! はぁぁぁぁぁッッッ!!!」

 

 膨れ上がらせた、漆黒の筋肉の鎧を。

 昂ぶらせ、鳴らし――振るう。

 

 半魚人の頭を片手で鷲掴みにし、力任せに、振るう。

 その化物そのものが武器となり、凶器となり、振るわれる。

 

 殺意と、生存本能。

 生物の原初かつ根源的な感情を、一切抑えることなく、ただ振るう。

 

 まるで化物のような、生まれ持った醜悪な容姿。

 だが、その姿は、この中の誰よりも――強い意思を感じさせる暴威。

 

 この場のどんな生物よりも、貪欲に生存を渇望する――人間の持つ、意思の力。

 

(…………これが………黒衣の……狩猟(たたかい)

 

 噂はどんな場所でも聞こえてきた。

 至る所で囁かれる逸話は、いつだって彼等のことを伝説的に語っていた。

 

 それは、まるで、怪しげな都市伝説のように瞬く間に広がっていって――。

 初めて真正面から目の当たりにする、漆黒の衣を纏う人間達の戦争は――それらの噂話が、都市伝説が、まるで脚色されていないことを物語っている。

 

 世界の三分の一を占める海の世界。その頂点に君臨する最大派閥の半魚星人。

 ()の星人が満を持して送り出してきた精鋭たる筈の先陣部隊を、たった四人で蹂躙している黒色。

 

 只の黒い衣を纏っているだけの、紛れもない、人間達が。

 一方的に、息を乱されることもなく、ただ返り血だけをその身に浴びて、圧倒的に、容赦なく化物を狩り尽している。

 

 この眼で見るまで信じられなかった。この眼で見ることで確信できた。

 絶対に敵に回してはいけない――例え、他の何者を敵に回すことになろうとも。

 

 黒だけは――絶対に。

 

「――――っ?」

 

 そして、その時、奴が見当たらないことに気付いた。

 たった四人しかいない筈の黒衣の――数が合わない。

 

 最も目が離せず、最も警戒しなければならない筈の、あの黒色は――。

 

(――あの男は、一体――――ッッ!?)

 

 瞬間――火花が舞った。

 眼前に唐突に迫った漆黒の刃――が、同じく眼前に、唐突に現われた真っ赤な触手の刃によって防がれた。

 

『彼女』を襲った男と、『彼女』を守った少年は、『彼女』の前で、刃を交わしながら言葉を交わす。

 

「…………何の真似ですか?」

「ハッ。決まってんだろう、素敵右手の青少年くん。人間(おれ)が、化物(おまえら)に剣を向ける理由なんざ――ぶっ殺す以外の何でもねぇ!!」

 

 拮抗している刃を、敢えて力を抜き、バランスを崩し――そこからトリッキーな動きで剣の持ち手を入れ替え、左手で突くように切っ先を突き出す濁眼の黒衣。

 

「――っ!? ――ッッ!!??」

 

 そして濁り眼の黒衣は強烈に突き出したガンツソードを、空中で浮かせるように――()()()

 

 悪魔のような笑みを浮かべたまま濁り眼は、ぐるりと身体を回転させる挙動を取る。

 その異様な動きに混乱を覚えずにはいられないシン――だが、そんな少年の困惑が治まるのを待たず、濁り眼の男はその回転の勢いそのままに、右の手で再び剣を取り、切り裂くように振るった。

 

「――っ! シン!」

 

 キィン! ――と何とか刃に当てたものの後ろにたたらを踏むシンは、背後の『彼女』に支えられて、何とか倒れ込むのを堪える。

 

 距離が出来た両者。

 シンは右手の刃を構えたまま、不敵な笑みを浮かべる濁り眼の男に言う。

 

「…………殺す、ですか。もしかしたら、あなたはこの人を見逃してくれるかもと思ったんですが」

「甘いな。甘いぜ。マックスコーヒーよりも甘い。確かにその女は俺のタイプだが、こうなった以上、化物共は無差別に討伐(ターミネート)でいかせてもらう」

 

 ニヤニヤと笑う男を、シンは右手の刃を眼前に構えて、無表情で睨み付ける。

 濁眼の黒衣は、漆黒の剣を手の中でくるくると弄びながら、軽薄に嘲笑うように言った。

 

「…………」

「言っておくが、他の奴に同情してもらうとしても無駄だぞ。俺等はそれなりに場数を踏んでる。いざとなれば、それが人間の姿をしていようと可愛らしい子猫だろうと幼い子供だろうと、容赦なんてものは簡単になくせる奴等が、此処には揃ってる。運が無かったと思って潔くその生命を諦めな」

 

 ちらりと、シンは、『彼女』は、他の黒衣を見る。

 確かに彼等は半魚星人を積極的に狩っているが、それはあくまで奴等の数が多く、寄生(パラサイト)星人が黒衣に手を出していないからだ。これは寄生(パラサイト)星人の他の同胞が黒衣に散々に()られているという事実があることと、やはり半魚星人の数が多いことが理由だと考えられる。

 

 一時的に、黒衣対半魚星人、寄生(パラサイト)星人対半魚星人になっているが、こうして濁眼の黒衣が『彼女』を迷わず狙ったように、一つのきっかけがあれば、容易く黒衣と寄生(パラサイト)星人の間も双方向矢印が引かれることになるだろう。

 

 シンは『彼女』を背に庇いながら、濁り眼の男に言う。

 

「……この人に、まだ聞きたいことがあったのでは?」

「ミッションに関しての情報は、こうして本命が現れた以上、殆ど用済みだ。……まぁ、他にも個人的目的の為に確かに聞きたいことはあるんだが、それは別に急ぎじゃねぇんでな」

 

 濁り眼の男は、邪悪に言う。

 正義の味方にあるまじき、悪魔的な笑みと共に。

 

「ここで死ぬなら、また別の“合格”を探すまでだ」

 

 そして、濁り眼の黒衣から――真っ黒な殺意が吹き荒れる。

 

「まぁ、とはいえ。俺もやっと見つけた合格をあっさり殺すのは忍びねぇ――だから、あっさりとは死ぬなよ、美人さん。万が一、この場を生き残れたら、アンタは文句無しで満点だ」

 

――だから、頑張って生きろよ。さもなくば俺が殺すからな

 

 そう言って、笑う、嗤う――濁りきった、瞳の、黒衣に。

 

『彼女』は思わず――両腕で己を掻き抱いた。

 

 怖い。恐ろしい。

 あの真っ黒な黒鯨や、少し先に佇む『鬼鮫』も恐ろしいが――『彼女』にとっては、やはり、この男が、世界で最も恐ろしい。

 

「――――ッッ!!」

 

 だが。

 

 それでも。

 

 そして――そして――そして。

 

「――っ!? 社長!?」

 

 ぐいっ、と、『彼女』は、シンを退けて、濁り眼の黒衣と対峙する。

 

 濁り眼の黒衣はそれを見てニヤリと笑い――それを見て、『彼女』は思った。

 

 ああ――嫌いだ。

 

 この男のニヤけた笑い顔が嫌いだ。この男の濁った眼が嫌いだ。

 

 この男の神経を逆撫でする物言いが嫌いだ。この男の捩子曲がった根性が嫌いだ。

 

 この男の猫背が嫌いだ。この男のアホ毛が嫌いだ。この男のこの男がこの男に嫌いだ嫌いな嫌いが嫌いを嫌い――――――ッッッッ。

 

 嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い。

 

「私は――『私』は――【私】は」

 

 真っ白な右手を、真っ白な刃へと変える。

 

 瞳を凍らせ、言葉を凍らせ――氷のような、殺意をぶつける。

 

「――あなたのことが、嫌いです」

 

 この男は――怖い。

 

 何よりも怖く、誰よりも怖い。

 

 きっとこの男は天敵で、宿敵で、外敵で、怨敵で、敵で、敵な、敵だ。

 

『彼女』の全てを見透かして、『彼女』の全てを脅かす。

 

 だから何よりも恐ろしく、そして――大嫌いな程に憎らしい。

 

 故に、怖いけれど、恐ろしいけれど――それでも――絶対に。

 

――逃げては、駄目だ。

 

 この男から逃げたくない。この黒から逃げたくない。この敵から、逃げたくない。

 

「あなたのことが――嫌いだ――ッ――『私』は――――ッッ」

 

 凍った傍から燃えていき、それを更に冷たく凍らす。

 

 凍えるような殺意を、凍らせ、凍らせ――研ぎ澄ます。

 

「――なら、生き残って、俺を殺してみろ」

 

 対して、濁り眼の黒衣は、不敵に笑う。

 

 ぐつぐつと、どろどろと真っ黒に燃える殺意は、ただ男の口元を歪ませ、瞳を濁らせ――男の周囲の空間を腐らせるかのようだった。

 

 美しく澄んで研ぎ澄まされた殺意。醜く濁って腐り果てた殺意。

 

 化物は氷のような無表情で。人間は炎のように揺らめく悪感情で。

 

 殺意を凍らす化物と、殺意を燃やす人間。

 

 今、その宿敵同士がぶつかろうとしていた――その時。

 

「―――っ!」

 

 シンが、社長を庇って無理矢理にでも間に割り込もうとするよりも――前に。

 

 

「あぁ、ウザッてぇ」

 

 

 今にも爆発しそうな苛立ちを込めた、その小さな呟きが、一部の者達の耳に届き――その全員が、動きを止め、視線を向けた、その先には。

 

 巨大な鋸を高々と振りかぶり、高く高く、乱戦が行われてる道路上に跳び出した、警戒色の巨躯なる魚人の姿があった。

 

 

「下等種族共が――調子に乗ってんじゃねぇぞッッ!!!」

 

 

 混沌極まる三つ巴の戦争に、『鬼鮫』の異名を持つ紛れもない怪物が、余りにも豪快な一撃を持って参戦する。

 

 同胞達が巻き込まれるのも構うことなく、最も密度の高い密集地へと叩き込まれたその一撃は――道路に稲妻を走らせ、轟音と共にアスファルトを爆発させた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 まるで本当に爆弾が爆発したのではないかと思う程の、馬鹿げた一撃。

 これには流石の黒衣達も――否、すぐさま強烈な一撃が来ることを予測し、戦闘を中断して四人全員が的確に回避してみせたことこそ、流石というべきか。

 

 兎にも角にも、警戒色の魚人の挨拶代わりの参戦の一撃により、乱戦は一時中断し、全員が衝撃を堪えることと、体勢を立て直すことを要求された――ほんの数秒。

 

 シンは、自らのリーダーである『彼女』を説得しなければならなかった。

 

 この数秒を、逃すわけにはいかないと行動に出た。

 

「――社長!」

「シン。私は大丈夫。とにかく、この隙に――」

 

 あの濁眼の黒衣を――と。

 彼の『鬼鮫』も、他の黒衣達も脅威だが、それでも『彼女』は一番の脅威はあの黒衣だと確信し、この隙を逃してなるものかと、土煙で視界が塞がれる中、この煙すら利用してやろうという思考に即座に切り替わっていた。

 

 あの『鬼鮫』の一撃を前にしても――と、ようやっとシンが知る社長らしくなってきたと感じながらも、それでもシンは表情を引き締め、『彼女』に言わなければならなかった。

 

 この社長はこんな風にいつも凛々しく、いつだって頼もしく。

 自分達は、そんな社長に憧れて、ずっと守られてきたけれど――と、迫り上がる何かを堪えながら、『彼女』の両肩を掴んで、目を合わせる。

 

「――? シン、何を――」

「――社長」

 

 シンは――笑顔で、告げた。

 

 

「――逃げてください」

 

 

 その表情の、感情は――やはり、『彼女』には、分からなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「―――――え」

 

 瞬間、凍り付かせていた殺意が、研ぎ澄まされた殺意が――雲散霧消する。

 

 この場で死ぬ覚悟は固めていた。

 シンが、彼等が、彼女等が――『彼女』の同族達が、スマイルカンパニーの寄生(パラサイト)星人達が、この戦場に現われた、その瞬間から。

 

 どうして皆がここに来たのか、この場に現われたのかは分からない。

 が――それでも、この場にいるというそれだけで、既に事態は取り返しのつかない程に詰んでしまっている。

 

 ならば、『自分』に出来ることは、もうたった一つしかない。

 こんな『自分』を守る為にやってきたという救えない彼等を、たった一人でも多く救うこと。

 

 とにかく一人でも。たった一体でも。

 

 既に半魚星人から宣戦布告され、そして黒衣の標的(ターゲット)としても名を覚えられた寄生(パラサイト)星人。

 

『彼女』は諦観していた。

 これは、きっと、今に始まったことではないけれど。

 

 それでも、身体は勝手に戦闘状態へと切り替わり、思考は彼等を救うことに自動的に向いた。

 今までずっとそうしてきたように、『彼女』はそうするつもりだった。

 

 その先が破滅でも、ほぼ確実な死亡でも、どうやら『自分』は動けるようだと、他人事のように思考しながら――。

 こんな状況で、高望みなど出来る筈もなく、きっと自分はこの戦争の序盤も序盤であっさりと脱落することになるだろうという計算結果を既に叩き出しているが故に、特定の希望の同族を生き残らせるように誘導することなど不可能だと分かっていても――それでも。

 

 生き残るなら。生き残ってくれるなら。

 出来ることなら――この少年を、と。

 

 自分が巻き込んでしまった少年を。こんなことになる筈のなかった彼を。

 

 我らが同族の中でも誰よりも無関係な彼を。

 我らが同族の中で、誰よりも生きるべき彼を、誰よりも死ぬべきでない彼を。

 我らが同族の中で、誰よりも――人間な、彼を。

 

 人間であるべき彼を。人間であるべきだった彼を。

 

 こんな依怙贔屓は、長たるモノとして、化物を率いる化物としては、あまり誉められる思考ではないのかもしれないけれど。

 

(…………こんな『私』を、あなたはどう思うのかしらね)

 

 唯一、この場にいない『彼』を思いながら、『彼女』は心中で微笑んでいた。

 

 この少年を特別扱いする『彼女』に対し、好きなようにすればいいと言いながら、決まってその日はいつも以上の無口になる『彼』を。

 なんだかんだ言いながら、『彼女』と同じくらい、またはそれ以上にこの少年を可愛がっていた『彼』を。

 

 この場にいないことにほっとし、この場にいないことを寂しくも思う、『彼』を。

 

(…………最期に、あなたに会いたいと思うのは――きっと、『私』が化物だからなのでしょう)

 

 あの時――『彼』を置いて、雪ノ下家へと向かったのは、『彼女』だ。

 窮地に怯える同族達に背を向けて、陽だまりの人間達の元へと引き寄せられたのは、『彼女』だ。

 

 なのに、こんなことを、今わの際で願うだなんて――ああ、醜い。

 

 だから『私』は化物で、化物な、化物なのだ。

 

「――――ッ!」

 

 ギリッ、と。

 歯を食い縛り、この葛藤と憤怒すら、目の前の宿敵への殺意へと変えて。

 

 死の覚悟と共に刃を振るおうとしたその瞬間、頭上から唐突な破壊が振り下ろされてきて――。

 

 

「――逃げてください」

 

 

――どうか生き残って欲しいと願った少年の、真っ赤な触手のような右手によって、放り投げ出されていた。

 

 

「――――え」

 

 

 呆然と、あれほど凍らせていた殺意すら見失って、気が付いたら普通自動車の運転席に叩き込まれていた。

 

「――っ!?」

 

 運転席側のドアは『彼女』が吹き飛ばしたので、『彼女』はシートに衝撃と共に受け止められる。

 

 フロントガラスの向こう側には、未だ濛々と立ち込みながらも徐々に薄くなっている土埃と、こちらに背を向ける何処にでもいる普通の少年だった化物。

 

「――シン!」

 

 ただ、名前を叫んだ。

 少年を化物にした日――人間社会とは別の世界で生きる顔として、『彼女』が贈ったその名前を。

 

 あの少年にとって、()()()()()()()()()()()()、その名前を。

 

「――――っっ!」

 

 そんな、当たり前のことに。彼をずっと、化物として呼んでいた、人間としての彼を殺した元凶たる『自分』に。

 

 こちらを向いて、眉尻を下げて微笑む少年を見て、ようやく思い至った、愚かなる化物の『彼女』は。

 

 だが、何の感情(おもい)も口にすることは出来ず、それよりも前に、そんな『彼女』に何も言わせないとばかりに、シンと呼ばれ続けた少年は言った。

 

「……副社長から託されたんです。アナタを守れ――と。アナタの夢を守れと」

「…………私の、夢……?」

 

 その『彼女』の呟きは、余りにもか細く、フロントガラスの向こう側の少年に届いたのかは分からないが。

 

 シンたる少年は、ただ真っ直ぐに『彼女』を、『彼女』のその向こう側を指さした。

 

「――アナタにはもう、守るべきものがある筈です」

 

 それは数時間前、危機に瀕する同族達に背を向けた醜い化物が、逃げるように言い残した言葉で。

 

「――守る為に、生きてください」

 

 それを、今、『彼女』は――そんな自分を守る為に駆けつけた、同族達に背を向けられながら、言い返された。

 

「――――っっ!! ――――ッッ!!」

 

 思わず車外に飛び出し掛ける――が、何かに引き擦り込まれるように、その目は後部座席に残していた存在へと向けられる。

 

 陽光は、豪雪は、陽乃は――雪ノ下家は、未だ眠るようにぐったりと倒れ伏せていた。

 

 そんな彼女を、彼を、彼女を――人間達を見て、『彼女』は。

 

「………………………ぁぁッ! ぁぁぁッッッ!!」

 

 シートに両拳を叩きつけ、前を――フロントガラスの向こう側を見る。

 

 煙が晴れようとしている。

 

 シンの意図を理解出来ない『彼女』ではない。

 こんな混沌たる戦場で、脱出のチャンスなど二度も訪れない。

 

 これが最初で、恐らく最後の、一縷の望み。

 

 再び涙を流す『彼女』の、ぼやけた視界で――その時。

 

 シンと呼ばれた少年は、笑っていた。

 

 それは、『彼女』が、そう思いたかっただけなのかもしれないけれど。

 

 

「ありがとうな。人間を、好きになってくれて」

 

 

 その時、『彼女』は、改めて自分は化物なのだと自覚した。

 

 

「お前達と、出会えてよかった」

 

 

 こんな言葉を聞いて。こんな言葉を貰って。

 

 こんなにも思い切り、あの少年の笑顔に向かって、アクセルを踏み切っていたのだから。

 




 彼は、巻き込まれた少年だった。

 こんなことになる筈ではなかった少年だった。

 誰よりも無関係で、何の罪もない、只の少年だった。

 生きるべき少年だった。死ぬべきではない生命だった。

 彼は――人間だった。

 人間であるべき彼は、人間であるべきだった彼は――シンという化物は。

 自分を化物にした化物に、きっと――人間のような笑顔で。


「ありがとうな。人間を、好きになってくれて」


「お前達と、出会えてよかった」



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寄生星人編――⑥

 それは、それほどまでに、罪深い願いだったのだろうか。

 人間に憧れた化物は、人間を好きになってしまった化物は――この日、慟哭する。


 これまで積み上げてきた、これまで逃げ続けてきた、当然の報いを受けた化物の、激しい激しい慟哭と――。

――小さな、掠れ消えるような懺悔で、幕を閉じることになる。


「――――――――――ッッッッ!!!」

 

 今、再び。

 

 愚かな化物の、絶叫が響いた。

 

 土煙が徐々に晴れようとする中、四人の黒衣が、警戒色の魚人が、それに反応する。

 

 だが、それよりも早く、不敵な笑顔と共に行動を開始したのは――どこにでもいた、普通の高校生。

 

「――行くぞ、ミギー」

「――ああ。こうなってしまった以上、一つでも多くの同胞の命を残すことこそが最善だ。それが彼女ならば申し分ない」

 

 後ろからエンジン音を轟かせて接近する自動車を避けようともせず、少年は己の右手に語り掛ける。

 

「死ぬぞ、新一」

「――覚悟はしていたさ。あの日から」

 

 何処にでもいる普通の高校生が、余りに異常な化物になってしまったあの日。

 

『彼女』に襲われ、『彼』と殺し合った日。

 

 そして――『コイツ』に、寄生された日。

 

「……なぁ、ミギー」

「手短に頼むぞ新一。会話を楽しめるのは残り数秒だ」

 

 こんな窮地でもいつも通りの右手に、ずっと変わらず新一と呼ばれていた少年は――。

 

「僕――お前と、出遭えてよかった。お蔭で俺は、“シン”になれたよ」

 

 その言葉に、お喋りな右手は、一瞬口ごもって。

 

「……私もだ、新一。お蔭で私も、“シン”になれた」

 

 これが、彼等の交わす――シンの、最後の会話だった。

 

 次の瞬間――シンの右手は唸りを上げて真っ赤に伸び、先端が鋭い刃に変わる。

 

「逃がすかぁぁぁぁぁアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 土煙を切り裂くように振るわれた巨大な鋸に、シンは対抗するように右腕を振るう。

 

「ぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!!!」

 

 シンが振るった右手の先の刃には、先程の『鬼鮫』の一撃によって破壊されたアスファルトの塊が突き刺さっていて――。

 

――ドゴォン!! と、再び轟音が響く。

 

 吹き飛ばされるシンは、そのまま背後から急接近していた自動車に跳ね飛ば――。

 

「――今だあぁぁぁぁぁ!!! 守れぇぇぇえええええええええええ!!!!」

 

――れまいと、刃の右手をアスファルトに突き刺しながら、シンが叫び放った、その時。

 

 

 ()()()()()()()

 

 

「っ!? なんだと!?」

 

 土煙を斬り祓った警戒色の魚人が、己の頭上を自動車が飛び越えていく光景に驚愕する。

 

 だがそれは、まるでかのSF映画において月を背景に走行した自転車のように、己が叩き割った走行不可能なアスファルトを回避するように浮上した不条理にではなく――。

 

――その自動車が浮かび上がる為に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 

「――――ッッ!!」

 

 そして、最も驚愕していたのは、浮いている自動車の運転席の『彼女』だった。

 

 土煙は自動車から見て進行方向――斜面の下り坂方面に存在していた。

 

 が、その煙の中には四人の黒衣が、そして警戒色の魚人『鬼鮫』がいる。

 そして、当然のことだが、アスファルトは『鬼鮫』によって走行不可能な程に叩き割られているだろう。

 

 かといって後方には、まるで逃げ道を塞ぐかのように無闇に突っ込まず待機している魚人達が。土煙は当然なく、車に乗り込んだ『彼女』を見て警戒したかのようにスクラムを組んでいる。

 

 危険度で言えば、それでも後方の方が易い。

 それでも、来た道を戻ってもこの先には崩れ落ちた教会しか存在せず、一時窮地を逃れても、その後にこの戦争に巻き込まれ続ける可能性は高い。

 

 別荘への別れ道や千葉への帰り道は、あの土煙の向こう側だ。

 逃げるなら、逃げ切ることを望むなら――ただ、全力で、今、この瞬間にアクセルを踏むしかない。

 

 故に、『彼女』は前方へと車を発進させた。

 全力で。全速力で。走行不可能なアスファルトを、それでも勢いで突破する為に。

 

 そんな一縷の、小さな小さな突破口に、賭けた。

 

 シンならば避けることが出来ると思っていた。そう――思っていたが、思いたいと思っていることも確かだった。

 

 ごちゃ混ぜのぐちゃぐちゃだった。

 涙が止まらず震えが治まらず、だがそれでもアクセルだけは全力で踏み、しがみ付くようにハンドルを握って――土煙が唐突に祓われ、警戒色の魚人が垣間見えた時は、思わず、目を、瞑って。

 

 轟音と共に目を開けて――迫ってくるシンの背中に再び目を瞑って――。

 

――()()()、と。()()()が響いた。

 

(………………え)

 

 何かを撥ねた音。何かを轢いた感触。

 人間の真似をして安全運転をしていた頃を通じても終ぞ味わっていなかったその感覚が――二カ所。

 

 化物の感覚は、混乱状態においても尚、それが二つ分の感覚であることを知らせていた。

 

 となれば、シンではない――のか?

 

 シンと『鬼鮫』を両方とも轢いた――否、シンだけならばともなく、『鬼鮫』が自動車如きに撥ねられるとは思えない(逆に撥ね返してみせるだろう)。それに、二カ所の衝撃はほぼ同時だった。あの位置関係でそれは有り得ない。いや、有り得ないというのならば――。

 

――どうして、今、()()()()()()()()()

 

『彼女』はようやくその事に対して思考する。

 そうだ、何故、そもそも浮いている? 当たり前だが、この車は何の改造も施されていないごく一般的な普通自動車だ。

 

 何の理由もなく空を飛ぶはずがない。たまたま破壊されたアスファルトが発射台になった? いや、そもそもその破壊されたアスファルトに辿り着く前に、あの位置関係ではシンとぶつかったはずだ。

 

 どうして――と、『彼女』が窓の外に目を向けた時――。

 

 

――崖下に落下していく、醜悪な老婆の姿が見えた。

 

 

(………………あ――)

 

 その時、『彼女』はすぐさま辿り着いた――その、余りにも、あんまりな、答えに。

 

 あの老婆は見たことがある。当然だ。アレはスマイルカンパニー(うち)の社員だ。

 

 頭をザクロのように裂かせ、ぐちゃぐちゃの肉塊に変貌していようとも、見間違えるわけがない。だって、今日も会ってきたのだ。彼女は今日もあのオフィスにいて、これまで幾度となく顔を合わせてきた。化けの皮の顔も、醜悪なすっぴんでも。一緒に殺しをしたことも、一緒に殺されまいと逃げたことも。ずっと、ずっと――彼女は、同族(なかま)だった。

 

 バッッと、反対側も見る。

 ズザザザッッ!! ――山林の中に何かが放り込まれていった。姿は見えない。見えなかった。

 己の為に死んだであろう同族を、把握することすら出来なかった。

 自分が轢いた筈の同族を、自分が撥ね飛ばした筈の同族を、自分が足蹴にし、踏み潰した同族を――死に顔すら、見届けることが出来なかった。

 

(――――ッッッ!!! どうして……どうして………どうして――ッッ!!)

 

 どうしてここまでする。どうしてここまでしてくれる。

 

 重い。重い。余りも重過ぎる自己犠牲。

 

 やめて。やめて。やめて。

 ずっと守ってきたのは、『私』がずっと同族(あなた)達を守ってきたのは――こんな風に、いざという時に、使い潰す為では、決してないのに。

 

「ッソガァ!! 逃がすなテメェらっ!!」

 

 警戒色の魚人の叫びに呼応し、破壊されたアスファルトを飛び越えて再び地面へと足を着けようとする自動車の着地地点に、半魚星人達が集結する。

 

 そこを、通りすがりのアスリートと教師が、弾丸のように突っ込んで道を開けさせた。

 

「――――ッッ」

 

 彼等もまた頭部を真っ赤に咲かせていて――裂かせていて、半魚星人が持っていた武具に串刺しにされながらも、道だけは力づくに拓かせた。

 着地した自動車は脇目も振らず、拓かれた道の両脇にて凄惨に死亡する同族を一顧だにせず、瞬時にフルスロットルで回転するタイヤが数秒ぶりのアスファルトを踏みしめて、摩擦音と共に走り出す。

 

 また一人――いや、二人、死んだ。

 

 否――二つの、二体の、人になれなかった化物達が、死んだ。

 

『私』が――殺した。

 

「――――ぁ――――ぁぁ……ッ」

 

 バックミラーから覗ける、背後の戦場。

 同族達によってこじ開けられた半魚星人の包囲網を抜けた自動車の後ろに広がるのは――ただただ無残に殺されていく、『彼女』の同族達の姿。

 

 元々存在する絶望的なまでの戦闘力の差。『彼女』を逃がす為に、それぞれの同族達が、ただ身体を張って、命を捧げて、道を作り出す為に決行した特攻。

 

 待っていたのは――当然の醜態。

 

 OLが、オタクが、ギャルが、外人が、イケメンが、探偵が、仲居が、コックが、師範が――傷つき、倒れ。

 眼鏡が、リーマンが、ガリ勉が、委員長が、帰国子女が、ショタが、アーティストが、イクメンが、不良が――見るも無残に、見るも堪えない、醜悪な化物の姿のままで。

 刑事が、サングラスが、板前が、メイドが、ウサ耳が、ヤブ医者が、職人が、ニートが、探検家が、武士が、アルバイトが、犯人が――力尽き、一体、また一体と散っていく。

 

 戦場が、半魚星人の緑が――化物の血で、同族の生命で、赤く(あか)く染め上げられていく。

 

「………………………っっ」

 

『彼女』はもう、後ろを振り向くことはしなかった――出来なかった。

 

 そして、真っ直ぐに戦場を後にしようと、走り抜けようとする自動車の右側の――バックミラーが吹き飛ぶ。

 

「――っ!?」

 

 息を呑み、左側のバックミラーを見れば、赤で染め上げられていく景色の中、それでも何色にも染まることなく存在している黒――こちらを見据える三人の黒衣。

 そして、その中の眼鏡の弓兵が、こちらに向かって漆黒の弓を向けて――構える。

 

「――――ッ」

 

 バリンッ! と、左側のバックミラーも破壊され、『彼女』は更に全力でアクセルを踏む。

 

 だが――ここで、ふと、何故、と思う。

 

 ほんの垣間見ただけだが、彼女は相当の弓の名手だ。

 その気になればバックミラーなどではなく車体本体を、ただ逃がすのを防ぐだけというならタイヤを狙うことも容易い筈。

 そもそも直接追ってこず遠距離で仕留めるというのであれば、一射目で――と、思考する『彼女』の横に。

 

 バチバチバチバチ――と、火花が散るような音と共に、姿を現した、近未来風の漆黒の単輪(モノホイール)バイク。

 それに搭乗し、ドアを失って剥き出しの運転席の『彼女』を見るのは――やはり、濁った瞳の黒衣の男。

 

「――よう。最後の質問がまだだったよな」

 

 見たことない乗り物を操る宿敵は、絶句する『彼女』に向かって、皮肉気に笑う。

 

「まぁ、それはさておき、こんな滅多にないチャンスだ。実は前から言ってみたかった台詞を、俺の趣味全開で言わせてもらおうか」

 

 真っ黒な銃口と、真っ黒な殺意を向けて――告げる。

 

「ここを通りたくば、俺を倒してからいけ」

 

 対し、『彼女』は。

 

 泣き腫らした瞳を冷たく凍らせ、片手を刃へと化えて――答える。

 

「――しつこい男は、大嫌いです」

 

 冷たい氷のような無表情で言う『彼女』に、濁り眼の男は、ニヤリと笑う。

 

 そして、甲高い発射音と、青白い閃光が、真っ黒な夜の世界に広がった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ねぇねぇ、よかったの、あおのん? アレ、絶対にはるるんの趣味だよ? 新しい装備(おもちゃ)を試してみたかっただけだよ?」

「でしょうね。……まぁ、いいんじゃない。確かに彼女は底知れない感じがあったけれど、晴空なら負けはしても死にはしないでしょう」

「負けはするんだ……」

 

 眼鏡の黒衣は、見えなくなった自動車と単輪(モノホイール)バイクから目を切り、団子髪の黒衣の言葉をあしらうようにして、再び戦場に目を向けた。

 

 そこでは警戒色の魚人が怒りに震え、醜男の黒衣が黒槌を肩にかけ、Tシャツジーンズの少年が片膝を着いて向かい合っている。

 そして、数はかなり減ったが、未だに周囲をまばらに取り囲む程度の数は生き残っている半魚星人。

 

 眼鏡の黒衣は溜め息を吐く。

 こんな面倒くさい戦場を押し付けて、自分にあんな頼みごとをしてさっさと趣味に走ったあの男。

 

 警戒色の魚人がど派手に登場し、土煙が充満した途端、あの男は彼女にこう言った。

 

『アイツが逃げたら、取り敢えずは放置してくれ』

『え、何?』

『そんで包囲網を抜けられでもしたら――まぁ、多分あの右手くんが何とかして突破させるだろうが――そん時は、後ろからバックミラーでも撃ち抜いて、くっ逃げられたか、みたいな感じで逃がしてくれ。ほっとしたところに満を持して俺が登場する。どうだ?』

『いや、どうでもいいけど。意味が分からないんだけど』

『じゃあそういうことで――頼んだぜ』

 

 回想を終えて、眼鏡の黒衣は額に手を当てて溜め息を吐く。

 

「――全く、あの男には困ったもんだわ」

 

 あんなことを言いながらも、彼女は濁眼の黒衣(あのおとこ)が死ぬなんて微塵も思っていない。

 遊びに走り過ぎるきらいがある故にとんでもない失敗をやらかすこともあるが、基本的にはハイスペックな男だ。あの部屋の中でも第二位のスコアを誇る彼が殺されるようなことがあれば、自分達も今回のミッションで命を落とすことになるということだろう。

 

(……まぁ、それはあながち有り得なくもないのかもね)

 

 眼鏡の黒衣は太腿のホルスターから新たな黒い矢を取り出し、漆黒の弓に(つが)える。

 団子髪の黒衣も黒い拳の上から更に黒いパンチンググローブを嵌めて構え、醜男の黒衣は未だ黒槌と共に泰然と佇む。

 

 そんな彼等の目が向く先――警戒色の魚人は、天に向かって大きく吠えた。

 

「舐めやがってェェェェエエエエエエエエ!!!! 下等種族がァァァァぁあああアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 

 ざわざわと森が騒めき、大気が震える。

 団子髪の黒衣はぶるっと身を震わすが、眼鏡の黒衣も、醜男の黒衣も一切動じなかった。

 

 眼鏡の黒衣はサッと右手のモニタに目を向け、自分の少し前にいる醜男の黒衣に声を掛ける。

 

「……イチローくん。あんまりココでモタモタもしてられないみたいよ」

「ああ。他のメンバーも、そして見知らぬ同胞(なかま)達も、どうやら()()りに分散されてはいるようだが、今回の主戦場は明らかに――海だ。コイツは、ボスじゃない」

 

 黒衣(じぶん)達の戦争(ゲーム)は、ボスを倒すまでは決して終わらない。

 

 つまり、コイツは前座の前哨(中ボス)戦。

 だが――この怪物を倒す、ビジョンがまるで浮かばない。

 

(どうしたものかしらね。……それに――)

 

 眼鏡の黒衣は、その少年に目を向ける。

 

 たった一人――たった一体。

 見るも無残に殺され尽くした同族達の亡骸に囲まれながらも、その少年は。

 片膝を着き、全身をズタボロにされながらも、それでもまた――息のある、その少年は。

 

「――あなた。まだ、戦うの? あなたの味方はもういない。あなたが逃がしたかった彼女はもう逃げた。なら、もう戦わなくてもいいんじゃない?」

 

 冷たく、淡々と。

 まるでどっかの誰かのような、氷のような言葉に――その、少年は。

 

 シンという名の化け物は、笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がり、黒衣に背を向け、怪物を見上げながら。

 

「逃がしてくれるんですか?」

「そんなわけないでしょう」

 

 少年の背中に向けるモニタ――そこには少年を真っ赤に示す光が輝いていて。

 

 ふっと笑う少年は、「なら、戦いますよ」と、右手を刃へと変えて――言う。

 

「僕は――俺は、死ねない。あの人に、俺は生きろと命じられた」

 

――守る為に、生きなさい。

 

「なら――僕は――俺は。あの人を守る為に生きるさ」

 

 そして、少年は――人間に背を向け、化物と対峙する。

 

 怒り狂う最凶の怪物を前に、疲労か、苦痛か、はたまたは恐怖か、膝を震わせながら、それでも不敵な笑みを浮かべて。

 

 そんな小さな少年の背中を、そんな微笑ましい化物の背中を、三人の狩人はただ――見詰め。

 

「――そう。言っておくけど、特別扱いはしないわよ。そこのでっかい魚人と一緒に、同じモノとして同列に討伐するわ」

「ははっ。何を今更」

「お喋りは終わったか小物共」

 

 警戒色の魚人は、ブチ切れた細く赤い瞳で、下等種族達を見下ろす。

 

人間(クズ)寄生星人(ムシ)が。どいつもこいつも虚仮にしやがって!! 一匹残らず――駆逐してやるよォォォ!!!」

 

 今、再び、『鬼鮫』が振り下ろす巨大鋸が、アスファルトを砕き、轟音を響き渡らせる。

 

 戦争は終わらない。

 

 他の種族を、絶滅させるその瞬間まで――ただ、戦い続ける。生きる為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、その戦場から、数百メートル離れた、山の中のとある道路上。

 

 濁眼の黒衣は、五体満足で、殆ど無傷で――()()()()()()

 

「……あ~、負けたわ。完敗だぜ」

 

 既に普通自動車はそこにいない。

 

 あるのは、横倒しで放置されたままの近未来的な単輪(モノホイール)バイクと――

 

 

――漆黒の短銃の銃口と下半身を()()()()()、濁眼の黒衣だけだった。

 

 

「…………なるほど、ね。頭じゃなくて腕を刃に変えていたからおかしいとは思っていたが――あの右手くんとは、また違った感じで“特別種”な訳だ。……こりゃあ、本気で欲しくなってきたな」

 

 そう呟きながら、にやけた表情のまま氷を砕いて、すぐさま自由の身になった濁眼の男は、漆黒の剣で血振るいをするように剣を――黒い炎を纏わせるように発火させた、黒剣を振るう。

 

 濁眼の男は、何処からか取り出した煙草を咥え、その黒い炎で火を点けると、そのまま剣を肩に担ぎ、真っ黒な空に向かって煙を吐き出した。

 

「……まぁ、今回は俺の負けってことにしといてやるよ。……生きてたら、また会おうぜ、雪女さん」

 

 そして男はマップを取り出して位置関係を把握し、「さて、どこに行くかね。負けた分際でさっきのとこに戻んのもダセぇしなぁ。でも戻んねぇと家で雨音(あお)になんて言われるか分かんねぇし……はぁ」と呟きながら、単輪(モノホイール)バイクをよっこらせと起こす作業に入るのだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ暗な夜道を、運転席側のドアを失った普通自動車が疾走する。

 

「………っ……………ぐぅぁ………」

 

 遠くから怪物の雄叫びが轟き、時折衝撃と共に騒めく森の中を駆けるこの車のハンドルを握る美女は、最高速度を維持しながらも激烈な苦痛と戦っていた。

 

 今日に至るまで傷一つなかった『彼女』の――[彼女]の、乗っ取ったこの宿主の身体の――右肩。

 ちょうど腕と身体の連結部に程近い場所に、目を逸らしたくなるような真っ黒な穴が開いている。

 

 貫通はしていないようだが、それでもかなり深く抉られた――刀傷。

 

 その刀傷が、発火している――真っ黒に。

 

(……あの、男………いや、黒衣の連中は…………一体どんな技術で……こんな武器を――)

 

 先程の、走行中車両を並走させての、一瞬の一騎打ち。

 

 あの濁眼の黒衣は、『彼女』の()()()を、垣間見た、その瞬間に。

 即座に銃口を向けた短銃を囮にして、何処からか黒剣を取り出し、真っ直ぐに『彼女』に向かって突き出してきた。

 それよりもコンマ数秒――恐らくは一刹那程の差で、『彼女』があの男の下半身を凍らせることに成功した為に抉られるだけで済んだが、あとほんの少しでも遅かったら、確実に貫かれていた。

 

 何とかあの男を振り切りきった――そんな安堵に包まれるのを、許さないとばかりに、次の瞬間にはこの肩口が真っ黒に発火したというわけだ。

 反射的に傷口を塞ぐという意味も兼ねて凍らせたが、この黒火の恐ろしさはそこからだった。

 

(……この黒火は――何故、()()()()のっ!?)

 

 火が、凍らない。

 それは当然のように思えるが、『彼女』の氷は、それがビル一棟燃え盛るような芸術的な火災でも瞬時に凍らせることが出来るような代物だ。こんな小さな火種など、息をするように容易く凍らせることが出来る――筈なのに。

 

(……明らかに何かトリックがある……こんな火を、人間の――科学の力で作り出せるものなの?)

 

 とりあえず傷口を覆うように氷の膜を張ったが、黒火は未だ、氷の中で燃えている。

『彼女』の肩口を焼き続け、激痛で『彼女』を苛み続ける。

 これは、『彼女』という化物にとって――[彼女]という身体にとっては、何よりも耐え難い拷問だった。

 

 それでも――無様に肩口に手を添えるわけにはいかない。

 痛みと疲労で朦朧とする意識の中、最高時速で戦場の山道を疾走し続けるには、『彼女』といえども両手でしっかりとハンドルを握り続ける必要がある。

 

 正しく、蝋燭のようだった。

 この黒火が少しずつ、少しずつこの身体の――[彼女]の生命を奪っていく。

 

 あの日――この地球に降り立ってから、数十年に渡って共に生きて来たこの身体――否。

 あの日――この地球に降り立ったその時から、【私】が奪い、食らい尽してきたこの身体、この生命が。

 

 尽きようとしている。燃え尽きようとしている。

 

 死因が焼死というのが、[彼女]にとっては何とも皮肉だ――余りにも、申し訳ない。

 燃え広がらないように内から凍らせている為、正確に燃えているのは肩口だけだが、その場合でも焼死というのだろうか――そんなことを、考えている中。

 

 ふと、心が、冷たくなった。

 冷たくなったのは、心なのか、どうなのか分からないが――兎に角、真っ白になった。

 

 思考が、頭の中が、一瞬すごく冷たくなって、真っ白になって、ただこんな言葉が浮上した。

 

 

――死にたく、ない。

 

 

 ギュッ、と。ハンドルを握る力が更に強くなる。

 この文言の後に真っ白な頭を過るのは、先程、こんな化物を救う為に、文字通り我が身を犠牲にした同族達。

 

 

――死にたく、ない。

 

 

 いつかこんな日が来るのは分かっていた。それが遠い未来ではないことを、すぐそばまで迫っていることを、『彼女』はとっくに理解していた。

 

 それが、逃れられない、現実であることも――なのに。

 

 

――死に、たく……ない。

 

 

 なのに。なのに。なのに。

 

 その瞬間(とき)が予想通り訪れただけなのに。その運命が当たり前に降りかかっただけなのに。

 

 まだ――せめて――この子達を、この無関係な人間達を、無事に人里に送り届けるまでは、戦争なんて関係ない、平和で温かい場所まで――。

 

 そして――そして――そして。

 

 

「………死にたくない」

 

 

 燃える傷口に――思わず、手を、添える。

 

 だから、溢れてくる涙は拭うことは出来ず、湧いてくる弱音を――本音を、押さえることは、出来なかった。

 

 まだ――まだ――。

 

 

「…………一緒に………居たい」

 

 

 

 それは、それほどまでに、罪深い願いだったのだろうか。

 

 

 人間に憧れた化物は、人間を好きになってしまった化物は――この日、慟哭する。

 

 

 黒衣の戦士と、半魚星人の戦争は、この後、夜明けまで続く死闘となるが。

 

 

 三つ巴の一角だった、弱くて弱くて弱々しい寄生(パラサイト)星人の戦争は、夜も深い真夜中の時点で終わりを迎える。

 

 

 それは、寄生(パラサイト)星人の長である、一体の美しい化物が、報いを受けることで幕を閉じる。

 

 

 これまで積み上げてきた、これまで逃げ続けてきた、当然の報いを受けた化物の、激しい激しい慟哭と――。

 

 

 

――………………ごめんなさい。

 

 

 

――小さな、掠れ消えるような懺悔で、幕を閉じることになる。

 

 

 

 そして――その、終わりの始まりたる号砲が鳴る。

 

 化物が浅ましい願いを口にした、まずその瞬間――前方の強烈な発光と共に――普通自動車の前輪がパンクした。

 

 撃ち抜かれたかのように。

 

「――――ッッ!!」

 

 突如、コントロールが失われる車体。

 

『彼女』は強く瞬きをして涙を振り払い、必死に横転を避けるべくハンドルを捌く。

 

 最高時速で走行していた車体は、アスファルトとの間に火花と異音を撒き散らしながら――背中を裂かせて後部座席の人間達の身を守りつつ、スピードを出来る限り減らして――ドンっ、と。道の脇の山林の中の一本の木の幹に激突した。

 

 これでもうこの車は使えないだろう。大分車を飛ばしてきたとはいえ、まだ戦争のエリアからはギリギリで抜けていないように思える。これから陽光達を連れて徒歩で行くのは限界が――そんなことを考えると同時に、『彼女』の脳内はもう一方の懸念事項を処理していた。

 

 それは当然、あの正体不明の発光、そして二つの前輪を撃ち抜いた何か。

 

 車を降りる。

 そしてタイヤに目を向けると、最高時速にてパンクした後、猛スピードでアスファルトと摩擦し続けた故に見るも無残なことになっているが、『彼女』はタイヤを撃ち抜いたのが、釘などよりも遥かに太い、拳銃の銃弾などでもない、もっと大きな何かであることを見抜いた。あの黒衣達が使っていた銃による破裂するような衝撃でもない。

 

 そんな風に観察していると――突如。

 

 虚空から、バチバチバチという、あの音が響いた。

 

(――ッッ!! まさか――追いついてきたの!?)

 

 いや――有り得ない。

 あの濁眼の黒衣の乗っていた摩訶不思議なバイクは転倒させてきた。

 例えあの乗り物の最高時速が普通自動車以上だとしても、後ろから迫って来る筈だ。前輪を撃ち抜かれている以上、障害は前にいた筈で――。

 いつの間にか追い抜かれていた? そしてあの透明化で姿を消して――そう焦るように思考していた『彼女』の予想外に、現われたのは濁眼の宿敵ではなかった。

 

 奴とは別の――新たなる、黒衣だった。

 

 正確には、()()()()だった。

 

 あの光沢のある黒衣の全身スーツの上に、真っ白な白衣を纏った――人間。

 

 月光を背中に浴びる白衣の黒衣は、それはそれは――醜悪に笑った。

 

「いけませんねぇ。こちらから先はお外――場外ですよ。化物は化物らしく、檻に閉じ込められていなくては」

 

 こうして『彼女』が――夢から醒める、この夜の、最後の殺し合いが幕を開ける。

 

 それは『彼女』の――[彼女]の――生命の幕を閉じる戦いでもあった。

 

 報いが始まる――そして、因果は、応報する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 醜悪に笑う黒衣だった――まるで化物と見紛う程に。

 

 だが、その醜悪な笑みこそが、邪悪な内面を浮き彫りにするかのようなその醜悪さこそが、まさしく人間のようだとも思えた。

 

(……白衣を着た……黒衣?)

 

 だが、『彼女』はその程度のことでは動じなかった。人間が醜悪であることなど、とっくに『彼女』は学習している――醜悪なだけでは人間はないことも、醜悪なだけの人間が溢れていることも。

 

 それよりも『彼女』が息を呑んだのは、この場に新たな五人目の黒衣が現われたから――でも、当然ない。寄生星人(じぶんたち)だけならばまだしも、あの半魚星人を相手取るに辺り、いくらあの四人が只者ではないにせよ、四人だけの戦力で臨むというのもあり得ないだろう。

 

『彼女』が当惑した理由というのは、それは、黒と対比するような、(カラー)としては恐ろしく似合わないが、アイテムとしてならば恐ろしくあの醜悪な笑みに似合っている――あの白衣である。

 あの四人――そして、『彼女』が集められたあらゆる黒衣の情報の中でも、白衣を着た黒衣などという存在は、寡聞にして聞いたことがない。

 

 だが、それを言うのなら、黒衣が扱う武器に対しての情報すらも“常識外で規格外なテクノロジーの見たことも聞いたこともない武器”という余りにあやふやで意味を為さない程度のもので、精々が黒い全身スーツを纏い、破裂する銃や捕獲する銃、あと伸縮自在の剣を使うといった程度で――実際、あのバイクや黒火の剣など存在も知らなかった――自分が黒衣の全てを知っているなど口が裂けても言えないが、口どころか頭や背中までが裂けるのだとしても言える筈もないが、だとしても、知らないものを警戒するというのは、生物として間違った対応ではないだろう。

 

 化物だとしても、化物だからこそ、未知を恐れるべきだろう。

 故に『彼女』は、既に動かないであろう普通自動車を無意識に守るように、白魚のような右手を水平に構え、腰を僅かに落とし、鋭い眼光で、月光を背景に笑う白衣の黒衣を見据える。

 

 そんな『彼女』をニタァと笑いながら、醜悪な笑みのままに首を右に、時計の針のように四十五度傾けた白衣の黒衣は――「おやぁ?」と、醜悪な笑みを、疑問顔に変えた。

 

「おやぁ? おやおやぁ? アナタは寄生(パラサイト)星人ですねぇ。それにも一つおまけにおやぁ? まさかまさかの親玉じゃあないですか! アナタこそズバリ! 【寄生女王(パラサイトクイーン)】なのでしょうそうなんでしょう!」

「……そんな恥ずかしい名前で広まっていたなんて、初耳ね。知りたくなかったわ」

 

 右腕を左耳の方に回し、左手をピストルのポーズで向け、おまけに片目ウインク更には舌をペロッと出す、今世紀最大のムカつくポーズでムカつくことを言われた『彼女』は、イラッとしつつも、その言葉を暗に認める返答をした。

 

 既に黒衣の連中には自分が化物であることは知られてしまい、尚且つその情報を共有されているようだし――この白衣の黒衣も右腕のモニタのようなもので確認していた――外見で半魚星人ではなく、寄生(パラサイト)星人だと看破されるのも納得出来る、が――。

 

「――ふう、一つ聞かせてもらってもいい? どうして私が、その、【寄生女王(パラサイトクイーン)】だと?」

 

 自分で言うには余りにも恥ずかしい二つ名だったが――まるで男に寄生するのが異常に上手い女のようではないか――何とか氷の無表情を保ちつつ言った。

 

 すると、「――ッン~~~~!」と、白衣の黒衣はくるっと身体をひねりながら、「簡単なことで~す!」と、その勢いを利用するようにバッと顔を前に出して言う。ある程度距離があるからこそビクッとする程度で済んだが、至近距離でやられたら反射的に殺してしまいそうなくらい腹立たしい挙動だ。

 

 だが、次の白衣の黒衣の言葉に、『彼女』は腹立たしさも忘れて、思わず息を呑むことになる。

 

「その肩口――その黒火を身に受けて尚、生きている。未だ生存している。そんなことが可能な寄生(パラサイト)星人は、それはもうボスしかありえないでしょう。そんな存在が何体もいるのなら、寄生(パラサイト)星人は今こうして絶滅に瀕していな~い」

「――ッ!」

 

 まぁ、ワタ~クシが事前に得た情報から導き出した結論が確かなら、こうしてあなたが生きているのも、おかしな話なのですがねぇ――と、白衣の黒衣は、先程とは逆の向きに四十五度に首を傾げ、ニタァという笑みのまま言う。

 

 が、それよりも、『彼女』にとって大事な情報はそこではなく。

 

「あなた――この黒い火のことに、ずいぶんと詳しそうね」

「当たり前でしょう! 何を隠そう、その黒火は――」

 

 バッ、と足を広げて膝を曲げ、その膝に肘を付けるようなポーズを決め(手の形はピストルだった)、そして再びバッと両手を広げて胸を張るようなポーズで、表情はあの腹立たしいニタ笑いで、白衣を靡かせながら黒衣は言う。

 

「――このワタ~クシが、開発した武器(もの)ですからねぇ」

 

 再び、『彼女』が息を呑む。

 が、そんなことにはお構いなしに、白衣を再び靡かせて、無意味に背中を見せながら、ニタ笑いの黒衣は巻き舌で語る。

 

「そう! ワッタクシは、エリィィィィトなのですッ!!」

 

 左の手の平で顔を覆い、ゆっくりと膝を折りながら、まるで舞台の上で演じる役者のように。

 

「そう! そう! そう! ワッタクシは本来このような埃臭い現場に赴く立場ではぬぁいのですがええとあるやんごとなき事情がございましてねはいこんな場所まで足を運び参じた次第でございましてああダガ! どぁっがぁ! ワタックシの本来の責務は逆! まったくの逆! もっとスゥゥゥパァァアアでインッテリッジェンスッッなお仕事なのですよええ実はワッタクシは――」

 

 そして、再びバッと。

 高々と右手を挙げ、左膝を折り曲げた状態で、左手の親指で自身のニタ笑い顔を指し、今世紀最強のドヤ顔言った。

 

「――星人の能力(ちから)を! 研究しているモノなのデ~ス! ハイ拍手!」

 

 当然、拍手は起こらなかった。意味も分からなかった。

 目の前に忽然と現われたこの謎の白衣の黒衣が度し難い変態だということ以外は、何も分からなかった。

 

「………………」

 

 星人の能力を研究している? あの黒い火もコイツが作った? 

 ああいいだろう事実だとしよう。それが本当なのかなんて分からないし、確かめようもない。これから先、黒衣と相対していくならばとても重要なことなのだろうが、今の切羽詰っている『彼女』にとっては正直どうでもいいとさえ言える。

 

 が、一番分からないのは、そんなとても重要なことを、何故こうして腹立たしいまでに得意げに、滔々と『彼女』に語らなければならないのかということ。

 確かに質問したのは『彼女』だが、それはあわよくばこの火に対する情報を漏らしてくれて、更にあわよくば対処する方法を探れないかと思ったからで、結果としては肝心な情報は聞けず、聞きたくもない変態の自慢話を(ムカつくポーズ付きで)聞かされるという地獄を味わっている。なんで地獄の中でまで特殊な地獄を味合わなければならないのだ。

 

「人間というものは! 魚に憧れ海を渡る術を編み出し! 鳥に憧れ空を翔る術を創り出した! そう! 人は学ぶのです! 他の生物の長所を奪い! 常に! シ・ン・カ・シ・テ・キ・タ! ならばァン! 星人というかくもおかしく摩訶不思議な生物(イキモノ)を前にして! 化物(バケモノ)を前にして! その知的好奇心を押さえずにいられるであろうか! いやヌァァァァイ!!!」

 

 変態科学者は尚も荒ぶっていた。

 両手で顔面を覆い、そのまま頭がアスファルトに着く程に背を反りブリッジを決める。

 

 そして、そのまま腹筋の力だけでバイーンという効果音が聞こえるような挙動で起き上がり、あのニターという笑いを『彼女』に向けて、言う。

 

「ワタクシの名前はレジー。レジー博士と呼びなさい。はい、レジィィイイイイイ!!!」

「言いませんよ」

 

『彼女』は冷たかった。というより引いていた。

 余りの見事な巻き舌に、これだけ距離が離れても唾が飛んでくるかのような錯覚すらした。

 

(……一体、何なのコイツは。……付き合っていられない。けれど――)

 

 一刻も早く戦場を脱出したい『彼女』とすれば、この変態を一刻も早くやり過ごしたい。

 戦士ではなく研究者だというこの男の言葉を信じるのであれば、強引に突破すれば抜けられるかもしれない――『彼女』が一人ならば。

 

 チラッと『彼女』は背後の自動車を見る。車内には三人の人間達。

 彼女等を連れて、流石にやり過ごせるとは思えない。必ず、この変態は目を付けるだろう。

 

 それに――『彼女』は、見るも無残に潰れた普通自動車の前輪を見遣る。

 明らかに、これはこの変態――レジー博士がやったものだろう。

 

 研究者だと、この変態は自称していた。

 こんな風な穴を開ける武器を、この男は今、所持しているのだろうか。せめて、その武器の正体が分からなければ、迂闊に背中を向けたらそのまま撃たれるだけだ。この前輪のように、見るも無残に。

 

 そんなことを思いながら警戒していると、突然――ピタリと。

 荒ぶっていたレジー博士が、まるで一時停止ボタンを押したかのように動きが止まり、「――さて」と、ゆっくりとニタニタ笑いのまま、『彼女』に向き直った。

 

「自己紹介も終わりました。なので、ここからはオシゴトの時間です。感想をお聞かせください」

「……感想? あなたのブリッジの?」

「いいえ、その黒火のです」

 

『彼女』の煽るような言葉に微塵も揺らぐことなく、レジー博士はビシッと(手の形はピストルではなかった)、『彼女』の肩口を指さす。

 

 氷の膜に覆われた中で、未だ燃えている黒い火。

『彼女』は、一度自身の肩口に目を遣って、額から脂汗を流しながら、再度聞き返した。

 

「……感想って、何を言えばいいのかしら?」

「決まっているのでしょう。彼にあの試作品を授けてから、ようやくその黒火を食らいながらも生きているサンプルに出会えたのです。聞きたいことが山積みですよ。さあさあさあさあお聞かせ下さい。痛みは? 熱は? あとどれくらい耐えられそうですか? 痛みのレベルの継続性は? 食らった時の衝撃はどうでしたか? どれくらいの進度で侵食していますか? 他の火や炎と比べてどうですか? さあさあさあさあさあさあお聞かせ下さい!!」

 

 レジー博士は、狂気の炎に憑りつかれたかの如く、熱く、熱く語りながらずんずんと『彼女』に近づいていく。

 

人間(ワタクシ)科学(ちから)は! その“黒火”は! あの“黒炎”にどれだけ近づけているのかを!!」

 

 限界だった。

 余りにも熱く、余りにも怖く、余りにも気持ち悪かった。

 

「――ッッ」

 

 白魚のような右手を刃に変え――思い切り、振るう。

 

 そして、『自分』と接近するレジー博士の間に、氷の壁を作り出す。

 

 ズキン――と、肩口が痛み、『彼女』は後悔した。

 余りの気持ち悪さに反射的に壁を作ってしまったが、これはもう戦闘開始の合図と捉えられかねない。

 

 ならば――“奥の手”を見せるのであれば、壁ではなく、そのまま奴の首を狙うべきだったか。

 

 そんな風に後悔していると。

 

「……おお! おおお!!!」

 

 突如現れた美しい氷壁に、両手をべたべたと着け、そして頬をべたりと押し付けながら、レジー博士は言った。

 

「やはり! やはりやはりやはり! 天才であるワタクシの推論は正しかった!」

 

 そして、頬を押し付けたままの体勢で――ギョロリと、ギョロ目のように大きく不気味な眼を、氷の向こう側にいる『彼女』へと向け、言った。

 

 

「【寄生女王(パラサイトクイーン)】よ! あなたはやはり――『雪女』ですね!!」

 

 

 その――言葉に。

 

【彼女】は、凍り付いた。

 




「…………一緒に………居たい」

 それは、とある化物が抱いてしまった、余りにも無垢なる残酷な願い。

 人間に憧れた化物は、人間を好きになってしまった化物は――その余りにも純粋な願いと共に――この日、この夜、慟哭する。


『彼女』は、間もなく絶命する。

 何の奇跡も起こらず、ただただ絶望的な悲劇によって生命の幕を閉じる。

 これまで積み上げてきた、これまで逃げ続けてきた、当然の報いを受け、華々しく散る。


 これは、そんな一体の化物の、激しい激しい慟哭と、掠れ消えるような懺悔で、幕を閉じる物語。

 それは、一人の醜悪なる人間が、暴いた『彼女』の――[彼女]の真実から、終わり始めた。


『雪女』

 それは――【彼女】を凍らせる、余りにも冷たい真実だった。


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寄生星人編――⑦

そーですか。非常に、残念です。


さらば。哀れな化物よ。


 

 前述の通り、この地球には現在――現代に至るまで、絶滅したり新たに来訪したりを繰り返した結果、種々雑多な数多くの星人が暮らしている。隠れ潜んだり、紛れ込んだりしている。

 人間という、人類という、何代目かの地球人の座を獲得した種族が支配するこのブループラネットには、この地球原産ではない他の星々からの外来種である化物が跋扈している。

 

 そして、各々の特性に合わせて各地に分散し、住み分けを始めた星人達は、大きく三つに分類(カテゴライズ)された。

 

 空の星人。海の星人。陸の星人。

 

 空の星人は総じて、陸や海の、つまりは他の星人達との交流は断絶に等しい状態となっており、その存在は星人界の中ですら伝説の存在となりかけているが、伝承によれば、とある大きな雲の中に多種族によるコミュニティを作り、国家のようなものを興し、最早一つの別世界を創り上げているという。

 

 海の星人は、その知能の高さと個体数の多さから半魚星人が最大派閥として君臨し、一部を除き多くの海棲星人達を取り纏め、これまた一つの大きな国家のようなものを地球人の手が未だに及ばない深海の底に創り出している。空の星人と違い、他の海の星人の全てを国に取り込んでいる訳ではないが、それでもほぼ一強状態と言っていい程に、その勢力図は分かり易い。

 

 対して、陸の星人は、空の星人や海の星人と違い――複雑だった。

 

 大きな前提条件として、陸は海や空と違い繋がっていない――文字通り、陸続きではない。

 そして何より、陸には明確に――既に君臨する支配者がいる。

 

 人間という、支配者がいる。

 よって、陸の星人は空や海の星人達とは比べ物にならない程に、人間達と――星人狩り達と激闘を繰り広げてきた。

 

 結果――まるで追い立てられるように、夜の闇の中へと退治された訳だが、当然、絶滅してはいない。

 中には一匹残らず駆逐され尽くした星人種族も存在するが、それでも、多くの有力な大物星人達は、今もひっそりと息を潜め、力を蓄えながら、闇の中から反撃の機会を窺っている。

 

 こうした経緯もありつつ、大陸や人間達が作った国境線などで様々な形で区切られていることによって、陸の星人には明確な頂点種族といったものが存在せず、それぞれの地域毎に、いわば縄張りが形成されている。

 

 東欧の吸血鬼。

 エジプトのスフィンクス。

 中国の斉天大聖。

 アイルランドのデュラハン。

 そして、ギリシャの■■■。

 

 現在に至るまで、表の世界にまで伝承が残る――つまり、歴代の星人狩り達や時の権力者達が、その存在を完全に隠蔽することが出来なかった程の、文字通りの伝説級の星人達が、それぞれの地域で勢力を残す中。

 

 ここ、日本では。

 とある星人種族が、一千年以上の昔から、圧倒的な一強勢力として、この極東の島国の夜の世界の天下を治め続けている。

 

 その種族は――妖怪星人。

 

 妖怪。

 (あやかし)、物の怪、魔物などと呼ばれ、この国に住まう人間達の恐怖の象徴で在り続けてきた怪物達。

 

 この日本という国に置いて、化物とはつまり妖怪のことであり、時にはかの存在を神と見立て、崇め、祀ることすらあったという。

 妖怪は、化物がお伽話の存在であると貶められた現代においても、各地で様々な伝承が語り継がれている程に、この地に、この国に、強く根付いてしまっている。

 

『雪女』――かの伝説の存在も、伝説として語り継がれる程に、歴史ある、由緒正しき、紛うことなき――妖怪である。

 

 妖怪であり、星人である。

 

 妖怪で、星人で――化物である。

 

『彼女』は――[彼女]は。

 

 寄生(パラサイト)星人である前に。寄生(パラサイト)星人となる前に。

 

 生まれたその時から――殺されるその前から、人間ではない、化物だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ウフフフフフフフフ!!! いい!! イイ!! あぁぁぁあああああああああああイイイイイイイイイイイィィィィィィ!!!!! なんたる!! なんたる貴重なサンプルかっ! まさか雪女に寄生する寄生(パラサイト)星人とは! それも! そんな存在が今の今まで生き残り! そしてあまつさえ族長にまで上り詰めているとは! なんたる奇跡! なんという化物か! あぁ神よ! 感謝を! このレジー! 己が全てを捧げ感謝をぉぉおおおおお!!」

 

 レジーが、氷の壁に顔面を押し付けながら、零距離で号泣し(むせ)び泣く。

 

 それを氷の向こう側で見せつけられた『彼女』は、氷のように無表情だった。

 

「…………」

 

 雪女に寄生した寄生(パラサイト)星人。

 

 化物によって化物にされた化物。

 文字通り、身も心も化物な、生まれも育ちも化物な化物。

 

 化物が巣食ったのは、化物が喰らったのは――化物だった。

 

 そう、『彼女』が殺した[彼女]は――雪女だった。

 

 始めは只の人間だと思っていた。【自分】が乗っ取ったのは人間で、だからこそ『自分』は『人間』だと思っていた。そう擬態して生きていかねばと思っていた。

 

 だけど、いつからだろう。

『彼女』が周囲を観察し、人間というものを学習していくにつれ、『自分』が人間であるということに――[彼女]が人間であったということに、疑問を持ち始めた。

 

 何かがおかしい――いや、おかしいというのであれば、きっと全てがおかしかった。

『自分』は人間ではない――それも、思っていた以上に、いやそれ以下に、何もかもが足りていない。

 

 そして、それは、ある日――唐突に、突き付けられた。

 

 ()()を見つけた時から。[彼女]について、知った時から。

 

 この手で、()()()()()()()、その時から。

 

 

[彼女]は化物だった。【彼女】が化物であるように。

 

[彼女]は【彼女】以上の化物だった。そして【彼女】が[彼女]を、より悍ましい化物にした。

 

[彼女]と【彼女】は――そうして、『彼女』になった。

 

 

 化物と化物が化物になった。化物の中の化物に。化物の中ですら化物に。

 

 そう。『彼女』は化物だった。化物で化物な化物だった。

 

 生まれも化物。育ちも化物。

 

 だからこそ、[彼女]は、そして【彼女】は、『彼女』となって尚、『彼女』となったからこそ――きっと。

 

「………………」

 

『彼女』は、その表情をみるみる凍らせていくと同時に、周囲に更なる氷気を充満させていく。

 

 氷の壁がより冷たく、より苛烈に凍り付いていく中、それでもレジーは氷の壁に両手を着いて、その手が氷の壁に接着していくのも構わずに喋り続けた。

 

「ハッハハ!! 天才たるワタクシが集めた天才的データに()ると、寄生(パラサイト)星人のように他者の身体を乗っ取るタイプの星人は、数は少ないですが、それなりの種類が確認されてはイマ~ス。だ・が! 得てしてそういった星人の多くは短命! そ・れ・も! 元の星人の、宿主の星人の異能が強力であればあるほど! まるで身体が拒絶するかのように――ね。決まって宿主(からだ)の能力を、異能力を使いこなせないか、それとも暴走する異能力に呑み込まれて死ぬか。えぇえぇ、実に興味深いデータだったので、よ~く覚えていますハイ」

 

 その通りだった。

 星人というのは、人間以上に、その種族毎の仲間意識が強く、そして他種族に厳しい傾向にある。

 

 そういったところでは野生動物に近いところがあるのだろうが――つまり、寄生(パラサイト)星人のように、身内に紛れ込む余所者に対しては、まるで容赦はしないということだ。

 そういった意味でも、星人に寄生した寄生(パラサイト)星人というものが生き残り辛い環境ともいえるのだが、もう一つの意味で、星人に寄生した寄生(パラサイト)星人が短命な理由がある。

 

 それは、異能だ。

 基本的に寄生(パラサイト)星人は、寄生したその身体の性能を一〇〇%に近い、もしくはそれ以上の性能を引き出すことが出来る。そういった(すべ)(すべか)らく学習するという意味合いだが、それでも異能は別だった。全くの別問題だった。

 

 星人達の異能は、特殊な例を除いて、その星人の身体に特化した能力となっている。

 つまりは、長い年月を懸けて、その異能に特化した身体に進化してきたというわけだ――にも関わらず、そこに寄生(パラサイト)星人という()()が紛れ込んだ身体では、異能を十全に掌握することが出来ず、総じて不具合を起こすのだ。

 

 オニ星人という種族がいる。

 彼等は、元人間の身体を、異能に相応しいオニ星人の身体に作り変えられる途中で異能が発現する為、その異能を掌握すること自体が難しいのだ。才能を要するのだ。

 それも始祖(リオン)の灰という、恐ろしく乱暴な方法で大雑把に身体を作り変えられる為、発現する異能もひどくランダムで――それは吸血鬼という種族特有の特徴かもしれないが――強引で力づくな改造である為、そもそも掌握不可能な無茶振りの異能が発現してしまうという例も往々に存在する。

 

 これは特殊な例だとしても、通常の星人は、それぞれの身体的特徴に合わせたそれぞれの異能を脈々と受け継ぎ、洗練させていった結果、その異能に合わせて身体的特徴も合わせて変化――進化していった。

 そんな中で、突如紛れ込んできた寄生(パラサイト)星人は、正しく異物であり、繊細なバランスで整っていた身体と異能の関係を、滅茶苦茶に掻き乱すものでしかない。

 

 それ故に、他の星人に寄生した寄生(パラサイト)星人は、正体がバレて袋叩きにされて殺されるか、異能を掌握できずに死んでしまうかといった末路を迎えており、総じて短命であった。

 

 だが、『彼女』は、正しく例外で、恐ろしく規格外であった。

 

「ワタクシは! ここまで見事な【混合種(ミックス)混】を! 今まで見たことがありません!」

 

【彼女】は『彼女』となり、本来は自分のものではない筈の、自分のものには出来ない筈の[彼女]の異能(ちから)を、[彼女]の氷を掌握している――自分のものに出来ている。我が物にしている。

 

「一体、あなたは! どんな方法で宿主を食らったのですか!? 一体どんな手段を用いて、宿主の異能を屈服させ、自分のものとしたのですか!? ああ興味深い知りたい知りたいあぁぁぁぁああああああ知りたいぃぃぃいいいいいいいい!!!」

 

 ハッ――と、『彼女』は、吐き捨てるように笑う。

 

 屈服? 掌握?

 

 そんなもの――()()()()()()()だろうと。

 

(……【私】は、屈服も掌握もしていない。……出来る筈もない。[彼女]は、【私】なんかよりも――ずっと気高く、ずっと美しく――ずっと、強いのだから)

 

 強かったのだから。

 

 本来ならば、こんな末路を迎える筈もない、もっと美しい、氷の道を優雅に闊歩する筈の生命だった。

 

(……【私】は、ただ……使わせてもらっているだけ)

 

[彼女]の異能を。

[彼女]の身体を。

[彼女]の生命を。

 

 奪い、食らい――無理矢理、棲み付く、寄生虫。

 

 寄生獣。

 美しくもない、気高くもない――醜く、卑しい、寄生獣。

 まかり間違っても強くない――弱くて、弱くて、弱弱しい、寄生獣。

 

「――――ッッ!!」

 

 白雪のように美しい、[彼女]の身体に開けてしまった醜い刀傷。

 雪女の身体をジクジクと痛め続ける黒火を氷の上から握り締め、『彼女』は更に氷の壁を強化した。

 

 氷の壁から、氷のドームへ。

 まるでカマクラのように、レジー博士を閉じ込めるように氷を大きく成長させる。

 

 既にレジー博士は氷の壁と接着され、動けない。

 だが、なおもそのニタニタ笑いを崩さず、天と己を遮るが如く伸びあがっていく氷を見遣りながら、なおも叫び続ける。

 

「おお! 確かにこれ程の力を持っているのならば! ()を相手にして逃げることが出来るのも納得しました! ああ! ですが! ただ一つ! たった一つ! ワタクシは――悲しい!」

 

 遂に、氷のドームが完全にレジー博士を閉じ込め、彼の上下左右百八十度を分厚い氷が取り囲んだ。

 

 中は極寒とは言え、それでも敵はあの黒衣だ。

 しばらくは死にはしないだろうが、逃げる時間くらいは稼げるか――そう思考していた『彼女』は――しかし、次の瞬間、驚愕に目を見開いた。

 

 

「それでも――所詮は氷。雪女の身体すら燃やすことが出来ないとは――不合格ですねぇ、その黒火は。どうしようもない程にッッッ!!!!」

 

 

 バリィィィィィン!!!! ――と。まるでガラスを割るような音と共に、氷のドームが内から割れた。

 氷の厚さは決して薄くない、それこそ防弾ガラス並みの厚さで作った筈――にも関わらず、身動きも取れなかった筈のあの変態が、一体どうやって。

 

 右手を白刃へと変えた『彼女』が警戒を走らせながら注視する先――そこには、キラキラと氷片が月光を浴びて輝く中に、佇む白衣の黒衣の姿。

 

「ワタシが見たあの黒炎は、もっと熱く! もっと黒かった!! もっと凄まじく! もっと恐ろしく! もっともっと悍ましかった!! まるで地獄のように!! まさしく煉獄のように!! ああ足りない!! まだまだまだまだワタクシは届かなァァいッ!! この天才が!! この天才のワタクシの科学(ちから)の全てを賭しても!! 模造品にすら辿り着けない!! ……ぁぁ! ァァァァアア!!! だからこそ! だからこそ素晴らしきかな! ああ、星人(ばけもの)異能(ぎじゅつ)!!!」

 

『彼女』が、息を呑む。

 思わず一歩、後ずさる。

 

 輝く氷片に彩られ、恍惚の表情で顔面を掌で(ねぶ)るその白衣で黒衣の科学者は。

 頬を紅潮させ、身体をぶるりと震わせて、極寒の夜の世界で白く染まる吐息を漏らしながら、囁く。

 

 

「――もっど、欲じいぃ」

 

 

 その背中から――()()()()()()()()()()()

 

「――――ッッ」

 

 その腕は、いつの間に身に着けていたのか、背中に背負っている銀色の立方体から飛び出している何本ものロボットアームだった。

 

 先端は物々しいながらも人間の手の形をしていて、一つ一つが思い思いの――武器を持っていた。

 ソード。ランタン。ロッド。(さかずき)。ロープ。ミラー。

 

 それらは全て機械的で、科学的で、まるで工場用ロボットのようだったけれど――なぜか、無数の手が放射状に広がるその光景に、『彼女』は呆然とこう呟いた。

 

「……千手、観音……?」

 

 その呟きに、恍惚の表情を浮かべていたレジー博士は、ニタァとその笑みを深めながら。

 

「――あなた達、星人は素晴らしい。あなた達化物は、ワタシに無限のアイデアと可能性をくれる」

 

 そして、その無数のロボットアームを全て『彼女』に向け、顎を上げてギョロリと眼球を動かして、『彼女』を見る。

 

寄生(パラサイト)星人には前々から興味を持っていました。だから半ば無理矢理に今回の標的に食い込ませたのですが――あなたは予想以上に素晴らしいサンプルだった! ああ! アァ! あなたに目を付けて正解だった! 欲しい欲しい欲しい欲しい!!」

 

 レジーは己の身体を掻き抱いて悶える。そして限界まで捩じり上げながら、吐息を漏らすように、欲望を捻り出した。

 

「あぁ……ワタシは、全てが――欲しいぃ」

 

『彼女』が、悍ましいものを見たかのように口元を押さえる。

 背中から無数の手を生やし、目を血走らせ涎を垂らしながら、どす黒い欲望をこれでもかと晒し出すその姿は――まるで、化物のようだった。

 

 だが、これこそが、まさしく人間の姿だった。

 

 化物から見た、人間の姿だった。

 

「あなたが欲しい。あなたを手に入れれば、ワタクシはまた一歩――あの黒炎に近づくでしょう」

 

 そして、捩じれたままで、一瞬真顔になったレジー博士は、あのニタ笑いではなく、この上なく爽やかな笑顔で、『彼女』に宣戦布告を告げた。

 

「ご安心を。その細胞一つに至るまで、人類の発展に活用すると誓いましょう」

 

 次の瞬間、レジー博士がぐるりと回転しながら奇声を上げ――それに呼応するように、無数のロボットアームが『彼女』に襲い掛かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 日本――京都。

 京の都と呼ばれる()の地は、日本というこの列島を国土とする日ノ本において、長らく中心地として栄えた歴史ある街。

 そして、人間達が――日本人達が、首都を遥か東に移して――東京とした後も、彼の街はかつての古き良き時代を残し続け、数々の文化や伝統や遺産を守り続け、日本という国を最も色濃く継ぎ続けている。

 

 だが、人間が、日本人が、京の都を過去の街へと変えようとする中――まるで、その機を窺い続けていたかのように、待ち望み続けていたかのように。

 歴史ある街――京都では、東京と異なり眠りに着くこの街が、すっかりと寝静まった頃。

 

 かの化物達は、徐々にその眠りから覚め始めていた。

 

 

 

 そんな、闇夜に包まれる京の都の、とある寺院にて。

 

 天から降り注がれる電子線によって召喚されるは――数人の摩訶不思議な黒衣を纏う集団と、一体の獣。

 

 その獣は、犬の姿をしていた。その正体も正真正銘の犬ではあったが――彼は人間の心を持っていた。

 

 機獣。

 彼等はそう呼ばれていた。

 

 とある組織によって作られた兵器であり、兵隊。

 近年、激烈な勢いで数多の星人組織を狩り尽し、そして数多の星人狩り組織の支配を進めている謎の組織によって進められている幾つものプロジェクトの中の一つの試験体。

 

 その中の、数少ない成功体と呼ばれる個体の一つ――一体――一人だった。

 

 機獣は、犬の姿で、犬の視点から、自分と共にこの真夜中の寺院に送られて来た人間達を見遣る。

 

 数名は酷く狼狽し混乱しているが、そんな彼等を一顧だにせず、冷静に武器を確認する者、これからの戦いに興奮を抑えきれない者、綿密な打ち合わせを仲間達と交わす者、地図(マップ)を確認し敵の捜索に余念がないもの――そんな兵士(キャラクター)達を見て――犬は勝利を確信する。

 

 それもそうだろう。

 彼等は、この京の都の近辺をテリトリーとし、これまで何度も強力な星人組織と戦い、勝利し、滅ぼしてきたエリート戦士集団だ。100点を獲得し、組織が完成させたばかりの最新鋭の武器を所持している者達も多く居る。

 

 そして、満を持して、この京都の市街中の寺院――この日本という国で最も強大な星人組織の本陣へと攻め入って来たのだ。

 

 念には念をという意味で機獣(イヌ)も投入され、更に念には念をと、かの妖怪星人の配下ではあるが、正確には妖怪星人ではない、彼等が作った“人形(おもちゃ)”達が潜む“寺院(おもちゃばこ)”に攻め入るのだ。いわばこれは宣戦布告の挑発的な初陣であり、先制打に過ぎない。

 いつもとは少し違う空気感に、歴戦のエリート達は気を引き締めているようだが、それならそれで勝利がより盤石になるだけだと、犬は表情一つ変えず、言葉一つ発することなく――だが、内心でほくそ笑んでいた。

 

 これで、あの目障りな同胞(パンダ)に差をつけることが出来る――と。

 

 自分は()()()()()()()()()()()()――が、それでも、己の人生が、否、既に犬生だが、残りの犬生が恐ろしく頼りない綱の上を歩き進めるようなものであるということは、十二分に理解していた。犬になれる程に聡明で優秀であるこの機獣は、だからこそ、この突発的に放り込まれた戦場に置いて、これをチャンスだと理解することにしたのだ。

 

 示すのだ。示し続けるのだ。

 犬である自分の優秀性を。有用性を。自分がどれだけ使える犬であるのかということを、示し続けるのだ。

 

 さもなくば、自分にこの先の犬生などない。犬とすら、生きられなくなる。犬として死んでしまう――殺されてしまう。

 

 犬は――カメラとなっているその双眸を輝かせる。

 かの妖怪星人との戦いの前哨戦となるこの戦争の一部始終を記録する為に、ライブ配信で本部へと繋がっているこの両目に、己が活躍を収め続けてやると決意した。

 

 

 そして、その数十分後――このカメラはあえなく破壊され、この機獣は一匹の犬として哀れに死亡し、その余りに短い犬生の幕を閉じた。

 

 

 そのカメラが最後に送った映像には――歴戦の黒衣達の死体の海で真っ赤に屹立する、血塗られた千手観音の姿が映し出されていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――そうして、その千手観音のデータを元に作成されたのが、この怪物兵装(エイリアンテクノロジー)№1010というわけなので~す。あ、ちなみにこれは千手観音だから1010(せんじゅう)にしたわけではないですよ。ある程度狙って調整したことは否定しませんがねぇ(笑)」

 

 と――これまた聞いてもいないのに、ペラペラと開発経緯を喋り続けるのは、どうせ負けるわけがないという怠惰か、それともただ己の天才性をひけらかしたいという傲慢か。

 

「まぁ、所詮これも使えなかった犬越しの情報を材料に作った兵装(もの)なので、オリジナルのそれらとは大きく見劣りするのですがね。これもまた、模造品にすらならない不合格品です。本来ならばもっとデータを集めたいのですが、既にあの日から千手観音は京都を出奔したようでして……ああ、欲しい。奴のデータも欲しい。欲しい。欲しいィィイイイイイイイ」

 

 途端、突如として発狂し、頭を抱えてブリッジを始めたレジー博士だったが、博士の変態的な挙動とまるでリンクすることなく、どういった仕掛けで操作しているのか、博士の背中の立方体から飛び出す無数のロボットアームは、まるでそれらが独立した意思ある生物であるかのように――意識ある化物であるかのように蠢き、襲い続ける。

 

「――だが、シカァァァァシ!! 個人的には仕上がりに大いに不満がある不合格品ですが、現状、兵器として使用できる水準(レベル)に達している怪物兵装の中では、かなり愛用している一品です。どうです? 意思疎通の出来る星人(バケモノ)の方と()()のは久しぶりなので、出来ればこちらの感想なども聞かせてもらえればと思うのですが――」

 

 そして――頭部を両手で鷲掴みにし、海老もかくやといった角度でブリッジを決めて。

 

 ニタァ、と。

 

 化物のような笑いを浮かべて、逆さまの視点から、科学者は問うた――が。

 

 そのまま、ニタァ、と。

 

 醜悪な笑みに、愉悦と、愉悦と、愉悦を、混ぜ込んで――嗤った。

 

 

「――中々、気に入って頂けたようですねェ」

 

 

 ニタニタと、ニタニタと、白衣の黒衣の科学者は笑う。

 

 路面や道に面している山林の一部が凍り付き、氷柱や氷壁が乱立する中で――真っ白な息を吐きながら、肩口に不気味な黒火が宿り――真っ白な肌を汚すかのように、人間のような赤い血に塗れる雪女の寄生(パラサイト)星人を、舐め回すように見詰めながら。

 

 ニタニタと、ニタニタと――嘲笑う。

 

 人間が、化物を、見るように。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

――寒い。

 

『彼女』は、生まれて初めてそう思った。

 

 それは、【彼女】としても、そして当然[彼女]としても、初めて感じるものだった。

 

 凍えるような寒さ。身を削るような寒さ。

 視界は霞み、手足の感覚はなくなり、ただ痛みと、肩口を焦がす熱さだけが、彼女の意識を繋ぎ留めていた。

 

 雪女の身体を持つ[彼女]が凍死する――それは、雪女が焼死する以上に皮肉的な末路だと、『彼女』は自嘲しかける。

 

(……本当に、[彼女]には顔向けが出来ないわね)

 

 その顔ですら、【自分】は[彼女]の借り物の顔しか、向ける顔を持ち合わせていない。

 借り物だらけの、強盗品ばかり――偽物ばかりの、生涯だった。

 

「――――ッッ」

 

 ガっ――と、凍った路面を踏み直す。美しい紅色を失いかけている唇を噛み締めて、つうと雪女に相応しくない緋色を口元から垂らした。

 

 そして、はぁ――と。

 自らが作り出した、地面から生え揃う何本もの巨大な氷柱により低下した外気温によって、真っ白に視認出来るようになった吐息を漏らす。

 

 この極寒の環境は、『彼女』が自ら作り出したフィールドだ――正確には、結果的にそうなってしまったという方が正しいが。

 それでも本来、こんなフィールドを創り出せるような能力を――異能を操る『彼女』が、[彼女]という雪女の身体を持つ寄生(パラサイト)星人が、あろうことか寒さに震えるなんて醜態を晒すことは、まかり間違ってもあり得ない異常事態だ。

 

 つまりは、そういうことだ。『彼女』の現在のコンディションは、そんな異常な事態が起こり得てしまう程に異常だった。

 それほどまでに、『彼女』という化物は弱り切り――死に、瀕していた。

 

 食い縛った唇から、左肩から、右脇腹から、左腿から、右脛から、真っ黒な礼服を切り裂いて局所的に露わになったその美しい真っ白な肢体から、その新雪のような白を穢すように、あるいは彩るように、人間のような緋色の血液が流れ出している。

 

 そう――あの千手観音のような無数のロボットアームによる多彩な攻撃は、確かに苛烈で、このような醜態に『彼女』を追い詰めたが、それでも、この通り致命的な一撃はもらっていない。

 あの人魚からの逃亡戦や、あの濁眼の黒衣からの逃亡戦による体力の消費や肩口の穿傷などによってとてもではないが十全の力を発揮出来たとは言えないが、それでも――雪女の身体を持つ『自分』が、凍死に追い込まれる程に弱らされる程に追い込まれるような攻撃は受けていない――否。

 

 ドクン、ドクン――と。

 まるで脈打つような激痛を齎してくる黒火を、氷の膜の上から押さえるように、『彼女』は手を添える。

 

 そう――既に、この身体は限界だった。

【彼女】が[彼女]から奪い取り、寄生し、『彼女』の身体として生き続けていた、この身体は、既に燃え尽きようしていた。

 

 生命を、燃やし尽くそうとしていた。

 

 消火出来ないまでも、延焼は防いだ。

 ただ肩口を焼き続けるばかりだったこの黒火は、それでも、雪女の冷たい身体を、氷のような身体を、猛毒のように苛み続けた。

 

 ポタ――ポタ――と。

 一滴、一滴、残り僅かの生命を垂れ流すように、似合わぬ赤い血を滴らせる『彼女』。

 

 限界は近く――死期も、迫っていた。

 

 肩口の黒火に焼き殺されるのが先か、自らが作り出した氷のフィールドで凍え死ぬのが先か。

 それとも――あの無数のロボットアームの色取り取りの兵器に、殺されるのが、先か。

 

 霞む視界の中、霧のように冷気が漂う中、そんな周囲に溶け込むような白衣を――だが、内に着込んだ真っ黒な全身スーツによってどうしても隠し切れない存在感を放つ、あの変態科学者は、これ以上なく化物染みた笑みを浮かべ、舐るように鮮血に塗れる『彼女』を見遣りつつ、愉悦を隠そうともしない声色で言った。

 

「さあ、選択の時です、『寄生女王(パラサイトクイーン)』。ワタクシとしても、出来る限り実験体(サンプル)は生きている状態で回収したいのです。なので、死に体のあなたに救いを齎しましょう」

 

 レジー博士は、敢えて、白い手袋を嵌めているかのようなビジュアルの何の兵器も持っていない一対のロボットアームを突き出して、その右側の手で“一”を示した。

 

「一つ。このままあなたが両手を上げれば、ワタクシはこれ以上、あなたを傷つけません。このYガンであなたを捕獲し、すぐさま本部へと連行します。送られる先は暖かいワタクシの研究室(ラボ)。もう雪女の癖に寒さに震えるなんて惨めな思いをしなくて済むのです」

 

 そう言ってYガンを右手に持ちながら、哀れむような――けれど愉悦が隠し切れない笑顔で肩を竦める。

 

 次に、左側の手袋ロボットアームで、“二”を示しながら、レジー博士は言う。

 

「二つ。このまま両手を挙げず、熱さに耐え、寒さに震えながら、死に体の身体で死ぬまで悪足掻きをし、死体としてワタクシの暖房の効いた研究室まで送られる末路。個人的には、こちらはオススメしませんねぇ。ワタクシとしてもメリットが小さいですし、何より惨めですよぉ。まぁ、身体と頭が分かれても、しっかりと弄り回しはしますので、その点はご安心を」

 

 さぁ、どっち――と。

 手袋ロボットアームと、自らの両手をリンクさせて、前に突き出すレジー博士。

 

『彼女』は、霞む視界と、霞む世界の中――霞む思考で、選択した。

 

 ドクン、ドクンと、鼓動と共に激痛が響く。

 

 けれど――これは証だ。

 

 生きている証。まだ生命尽きていない証拠。

 この身体が、燃え尽きていない証拠。

 

 まだ――[彼女]が、死んでいない、何よりの証拠。

 

「…………」

 

 ゆっくりと、両腕を挙げていく。

 

 見る見る内にレジー博士の笑みが深くなるが、『彼女』は、この期に及んでも、あの氷の無表情だった。

 このまま大人しく投降すれば、もしかしたら背後の普通自動車の中で眠る雪ノ下家の人達の生存確率は上がるのかもしれない。

 

 だがそれは、この戦場に何も知らない彼女等を放置するということであり、それにこの狂った科学者(マッドサイエンティスト)は、『自分』を本部の研究室(ラボ)とやらに送った後、この家族を見逃すような人物とはとても思えない。

 

 これまでに何度かこの普通自動車を庇うような動きもしてしまっているし、それに、“見たこともない混合種(ミックス)”であるところの『自分』が、あれほどまでに庇おうとした存在であるというだけで、この変態科学者は興味を持つかもしれない。いや、前もって『自分』の存在に興味を持っていたという奴は、雪ノ下家についても既に調査済みで――()()()()()()()()()()()()

 

「………………」

 

 それに――ドクン、ドクンと。

 全身に響き渡るような鼓動を鳴らし――『私』を――【私】を鼓舞してくる[彼女]に。

 

[彼女]がこんなにも、燃え尽きていないのに。諦めていないのに。

 

 生きようと、しているのに。

 

(――応えないわけには、いかないでしょうっ!!)

 

 ゆっくりと挙げていた両手を――バッと、正面に強く突き出す。

 

 その氷の無表情は――不敵な微笑に変わっていた。

 

 氷の美少女――氷の微笑女。

 

 その二つ名に相応しい、美しき笑みだった。

 

「――ほう」

 

 レジー博士も笑う。

 愉悦ではなく、こちらも静かな不敵な笑みで。

 

 パキパキパキと、空気中の水蒸気が凍り、拳大の氷塊が幾つも作り出され――発射された。

 

 対してレジー博士も手袋ロボットアームを下げて、戦闘用の兵器を持つその他の幾つものロボットアームを駆り出し、迎撃する。

 

「――――ッ!」

 

 力を振り絞って放つ氷塊は、悉くが科学者まで届かない。

 防がれ、撃ち落とされ、弾かれ――やがて、ロボットアームが防御ではなく攻撃に転じた。

 

 襲い掛かる機械の腕に対し、『彼女』は両手を突き出したまま、鋭く叫ぶ。

 

「ッッ――ハァッ!!」

 

 途端、アスファルトの路面から、幾つもの杭のような氷柱が飛び出した。

 それらは的確にロボットアームを弾き飛ばしていくが――それでも、満身創痍の『彼女』が放つ氷柱は、残酷に数が、勢いが、足りなかった。

 

 腕が迫る。氷柱の網目を掻い潜って来る。

『彼女』は歯を食い縛り、激痛を振り払って、両手を、背中を、顔面を――裂かせる。

 

 ガキキキキキキン!!! ――と、雪女の[彼女]の異能に比べれば、余りにも小さく、余りにもか細い【彼女】の異能(ちから)、異能とも呼べないささやかな力で、必死に、必死に、死を追い返す。

 

 まだ死なない。まだ死ねない。まだ――死にたくない。

 そんな『彼女』の命乞いを嘲笑うかのように、霞む思考の中に走馬灯が流れ込む。

 

 雪ノ下厳冬。雪ノ下照子。雪ノ下豪雪。雪ノ下陽光。雪ノ下陽乃。

 

 共に戦い、先に散った同族達。シン。『彼』。

 

 そして――[彼女]。

 

『自分』そっくりの、けれど【自分】では絶対に作れない“微笑(えがお)”を、振り向いて、【彼女】に向ける――[彼女]。

 

「ッッッッッッ!!!」

 

 キィィィン!!! ――と。

 

 全てのロボットアームを弾き返し、防ぎ切った『彼女』は、ハッと、真っ白な吐息を吐き出して――見た。

 

「――っ!?」

 

 杭のような氷柱が乱立する、その向こう側で。

 自らの目の前に突き出すように、一本のロボットアーム――その手が持つ、一つの銀色のランタンを、構えるレジー博士を。

 

 レジー博士は笑う――ニタァと、化物のように。

 

 そして、ランタンが、燃えるように激しく輝き出した。

 

「――――――ッッッッ!!!!」

 

『彼女』は――強く、強く両手を前に突き出し。

 

 顔半分が裂け、背中が帯のように伸長し、両手が真っ白な刃へと化けているのも構わず。

 

 ただ――真っ白な頭で、生命を必死で振り絞った。

 

 

「ァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 

『彼女』の目の前に、大きく、美しい――雪の華が咲いた。

 

 

「フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」

 

 

 その氷の結晶は『彼女』を守るように立ち塞がり、狂った科学者(マッドサイエンティスト)の哄笑と共にランタンから放たれたビームのようなレーザーと激突した。

 

 

 パリィィン――と。

 

 何かが、砕け散る音が、哀しく、美しく響き渡った。

 

 

 一体の化物の身体が、キラキラと月光によって輝く氷片に彩られながら吹き飛ばされ、ゴロゴロと路面を転がりながら、やがて、普通自動車の後部座席のドアに受け止められた。

 

 その身体は、未だ弱々しく鼓動を刻むものの、すぐに立ち上がることすら出来なかった。

 鉛を流し込まれたかのように、腕が、いや指すらも、『彼女』の意思を反映してはくれなかった。

 

 まるで、別人の身体になってしまったかのように。

 

(…………いや…………元々、【私】の……身体じゃ……なかった……わね)

 

 無理矢理、奪い取った身体だった。殺し、盗った、借り物の身体だった。

 

(…………見捨てられた………いいえ………見放された……のかしら)

 

 だとすれば、そんなにも相応しい最期もない。こんな化物には、勿体ないくらいの末期だ。

 

 ハッ――と、笑えた、だろうか。自嘲くらいは、出来ただろうか。させてもらえただろうか。

 

「――おや。おやおやおやおやも一つおやぁ? これは僥倖。大したものです。アレを食らって尚も五体満足、それも息まであるとは感服ですねェ。素直に見事と賞しておきましょう」

 

 狂気の科学者の声がする。

 霞んだ視界は、もう本当に朧げにしか世界を映してくれないけれど、それでもこちらに向かってゆっくりと、背中から何本もの腕を生やす怪物の姿は捉えることが出来た。

 

 否――怪物ではなくて、人間だ。

 化物を退治すべく、恐ろしい人間がやってきた。

 

 どうせならもっとマシな処刑人をとも思いたくもなるが、これも報いというものか。

 

「どうです? これも神の下さった奇跡です。 一番を選びますか? 今ならギリギリで間に合いますよ?」

 

 そう言ってニタニタ笑いのまま首を傾げるレジー博士。

 

 その笑みを受けて、『彼女』は――【彼女】は。

 

 美しく――不敵に、微笑んだ。

 

「――そーですか。非常に、残念です」

 

 科学者も、また、笑いながら言った。

 

「さらば。哀れな化物よ」

 

 白い手袋を嵌めた一対のロボットアームが伸びる。

 

 それはまるで地獄から伸びる屍者の手のようで――ならば、と。

 

『彼女』は――【彼女】は。

 

 背中の帯触手で身体を持ち上げ、両手の刃で地面を突き刺して、顔の半分を裂かせたまま――微笑(わら)った。

 

 最後は――最期は、目一杯、化物のように死のうと。

 

 あんな醜い手に地獄へ引き摺り込まれるのは――【化物(じぶん)】だけで十分だ。

 

 人間になりたかった[彼女]に、人間になれたであろう[彼女]に、こんな最期は相応しくない。

 

 こんな化物に、あんなにも素敵な“人生”をくれた[彼女]に、せめてもの恩返しがしたかった。

 

 迫る腕に、微笑みながら【彼女】は。

 

 今、再び駆け巡る走馬灯に。己の生命を美しく彩ってくれた生命に。

 

 かつて――厳冬が、この上なく幸せそうに逝ったように。

 

 感謝を、遺す。

 

「ありがとう」

 

 出会ってくれて。傍にいてくれて。

 

 お蔭で――『私』は――。

 

 

(………幸せ――――だったの、かな?)

 

 

 最後の――最期で。

 

 微笑みが、凍った――その瞬間。

 

 

「――ダメぇっ!」

 

 

 地獄へと引きずり込もうとする前方の腕が、路面から飛び出した新たな氷柱に貫かれ。

 

 ガラッ――と。

 背後の扉が横に開き、後ろに倒れ込む【彼女】を――『彼女』を、温かく柔らかい存在が抱き締めた。

 

 両手が刃で、背中が開き、顔面の左半分すら裂けている瀕死の化物を、受け止めたのは。

 

 恐ろしい化物を、悍ましい化物を――ギュッと、温かく、柔らかく、けれど強く、抱き留めたのは。

 

 

「――――陽、光?」

 

 

 その名の通り、まるで太陽の光のように、温かく――暖かく、そして、柔らかい――愛しい、愛しい、娘だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 これまでのものよりも細いが、遥かに鋭く飛び出してきた二本の氷柱に、弾かれるのではなく、防がれるのではなく――破壊された。

 

「な――な――な――」

 

 白い手袋を嵌めたような、二本のロボットアームが、くるくると完全に制御を失い、滑稽に宙を舞っている。

 

「――――――ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああにぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいをぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!! ワァァァァァァタクィノォォオオオオオオオオオオオオ!!!! 作品をぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 

 両手で頭を抱え、笑みではなく愕然とした絶望で膝を着き、レジー博士は絶叫する。

 まだ動けたのか、あろうことか氷を創り出せたのか――そんな疑問よりも前に、己が作品に傷をつけられたことに、レジー博士は号泣する。

 

 そんな一人の変態の泣き叫ぶ声が響く中――普通自動車の車内では。

 

 一体の醜悪な化物が、一人の美しい人間の女性に、強く、強く、抱き締められていた。

 

「……陽………光………」

 

 化物は、呆然と美女の腕の中で呟く。

 

 片目で見上げるその顔は、氷のような冷たさなどまるで感じず、ただ温かい涙で塗れ、何かを堪えるような、けれど今にも決壊してしまいそうな、そんな――正しく、人間で。

 

 片目――? と、その時、【彼女】はようやく、今の己がどんな姿なのかに思い至った。

 両手は刃で、背中が開け、そして顔面は右半分が醜悪に裂けている――正しく、化物で。

 

「――――ッ」

 

 思わず、情けなく、歪めて。

 そして【彼女】は、娘の顔を直視出来ないとばかりに顔を背け、震える声で、小さく言った。

 

「…………放しなさい………離れなさい…………陽光(ひかり)

「嫌」

 

 だが陽光は、その言葉を聞いて更に強く、ギュッと【彼女】を抱き締める。

 

「――っ!! ………分かっているの? ………分かっているのですか。……あなたが……今……腕に抱いているのが……どんな……存在なのか」

「分かってる。抱き締めて、何が悪いの?」

 

 ずっと被っていた“設定”を忘れていたことに気付いて、遅まきながら言葉使いをいつも陽光に使っていたものに直すが、陽光はまるで取り合わず、更に強く、強く抱き締めて――ポタ、ポタと、温かい、涙を垂らす。

 

「……何が、悪いのッ!」

 

 その涙に、思わず【彼女】は、ゆっくりと、娘を見上げて。

 

 目を合わせた娘は、涙を零しながら、顔を真っ赤にして、声を震わせて――化物に言った。

 

 

「――“娘”が……“母親”を、抱き締めて……何が、悪いっていうのよ……っ」

 

 

【彼女】は、娘のその告白を受けながら、娘のその涙を受け止めながら。

 

「…………」

 

 驚愕も、衝撃も無く――ただ、目を瞑った。

 

 言い訳はしなかった。言い逃れも出来なかった。

 

 娘に――この子に、そんなものは、通用しないと知っていた。

 

「……………いつ、から?」

 

 本来なら、こんな問いもまるで無意味なのだろう。

 

 雪ノ下陽光の出生――それは、雪ノ下家において、雪ノ下建設において、最大の秘密で、機密で、スキャンダルだ。

『彼女』は勿論のこと、戸籍上の母親である照子も、戸籍上も血縁上も実父である厳冬も、終ぞ陽光に明かすことなく逝去した。

 元々この真実を知っている者など、当時の幹部達を含めたほんの一握りで、知られたら最後、自分達も纏めて路頭に迷う危険性を秘めた爆弾だ。漏れる筈もなかった。

 

 けれど――そんなもの、何の意味がある?

 

 この人間は――我が娘は、雪ノ下陽光(ひかり)だ。

 

 いつまでも誤魔化せる筈がない。

 

 この子はもう――子供じゃないのだ。

 

「……………………」

 

“母”の愚かな問いに、瞳に涙を溜めるばかりで、何も答えない陽光に。

 

【彼女】は目を開け、生まれて初めて、母として娘と向き合い――懺悔する。

 

「………………ごめんなさい」

 

 そうだ。

 まず何よりも、【私】は娘に謝らなければならない。

 

 母であることを黙っていたこと。こんな戦争に巻き込んでしまったこと。

 謝罪することは数多く、懺悔するだけで死に伏してしまいそうだけれど――何よりも、これだけは、謝らずにはいられない。謝らずして、死んではいられない。

 

「……こんなお母さんで……ごめんなさい」

 

 陽光が――母を抱き締める、娘が震えた。

 

 母は――両手が刃の母親は、背中が開けた母親は、顔面の半分が裂けた母親は。

 

 自らを抱き締める娘の顔を、氷のような――微笑みで見上げて、言う。

 

 

――母親の癖に、化物でゴメンね。

 

 




 恐ろしい化物を、悍ましい化物を――ギュッと、温かく、柔らかく、けれど強く、抱き留めたのは。

 その名の通り、まるで太陽の光のように、温かく――暖かく、そして、柔らかい――愛しい、愛しい、娘だった。


 一体の醜悪な化物が、一人の美しい人間の女性の腕の中で、情けなく、震える声で呟く。

 放しなさい。離れなさい――と。


 人間は、美女は、娘は、言った。

 嫌――と。抱き締めて、何が悪いと。

 温かい涙を浴びせながら、強く、強く――言う。


「――“娘”が……“母親”を、抱き締めて……何が、悪いっていうのよ……っ」


【彼女】は――化物は――【母】は。

 その涙を浴びながら。

 人間に――己が娘に。

 生まれて初めて、母として娘と向き合い――懺悔する。


「………………ごめんなさい」


 ごめんなさい――ごめんなさい。

 母は――両手が刃の母親は、背中が開けた母親は、顔面の半分が裂けた母親は。

 自らを抱き締める娘の顔を、氷のような――微笑みで見上げて、言う。


――母親の癖に、化物でゴメンね。



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寄生星人編――⑧

母親は――化物でした。

母親なのに、化物でした。


 

 ある日の昼下がり。

 

――【あなたは、私の本当の娘ではないの】。

 

「…………」

 

 パリッと、煎餅を(かじ)りながら、陽光は氷のような無表情でテレビドラマを眺めていた。

 

 ふと隣を見ると、同じようにテレビを――いや、テレビを見てはいるが、意識の半分以上は隣に座る友人との会話に向いている“母親”と、その母親の会話に付き合わされているが、視線は真っ直ぐにテレビに向いている陽光の“教育係”の使用人がいる。

 

 その様子を見て、陽光が思わず引き攣った笑みを浮かべてしまったのは言うまでもあるまい。

 

(……いや、少しは気不味そうな感じを出しなさいな)

 

 そう――この時には既に、雪ノ下陽光(ひかり)は気付いていた。

 

 戸籍上の母である雪ノ下照子とは血が繋がっていないことも。

 只の使用人で教育係ということになっている『彼女』が本当の実母であることも。

 

 いつから気付いていたかということに関しては、本当に覚えていない。

 

 昔から、仲が悪すぎて逆にいいのかもしれない両親の関係には疑問を持っていた。確かに相性は悪くないのかもしれないが、それは宿敵とか好敵手とかそういった言葉が相応しいように思えて、幼いながらもこの二人の間に恋愛感情が生まれるとはどうしても思えなかった。

 それでも成長するにつれて賢しい陽光は、自分達のような立場の人間が異性として好ましい相手と結婚出来るとは限らないし――それどころかそんなことは殆ど有り得ないし、それでも求められる立場として、子供は設けなければならないのだと、悟ったように理解していった。

 

 だが、それでも疑問が残る。

 良くも悪くも破天荒な我が両親が、そんな上流階級の暗黙の了解に、粛々と従うような器とは思えなかったのだ。

 

(特にあのお母さんが、そんな下らない理由で身体を差し出したりするかな?)

 

 確かに上り詰める為なら何だって利用する野心家の母ではあるが、だからこそプライドの塊のような人であるが故に、本当に仕事で女を使ったりするのか、と。それに父もそんな女を幾ら優秀とはいえ妻として傍に置くような真似をするのか、と。

 

 そんな疑問を持ってはいたが、それでも両親は陽光を愛していたし、陽光も両親を愛していた。

 

 日夜喧嘩ばかりの両親だったが、逆に喧嘩が毎回本気過ぎて(最後は決まって「ああもう離婚よやってられるか!!」「ああ上等だおい離婚届け持ってこい何枚でもサインしてやる!!」と離婚届けが部屋中に舞い散ることになる。そして『彼女』以外の使用人が死んだ目で掃除することになる)、ああ逆にこの二人は仲がいいなあと微笑ましいくらいだったし、陽光も陽光で只者ではなかったので、そんな離婚届けの紙吹雪の中で心底から呆れ返りながらも悠々と紅茶を楽しむくらいの器の持ち主でもあった為、すごく言い方を変えれば賑やかな楽しい家庭だった。

 

 そして、両親の間に男と女の関係はなく、自分はこの二人の実子ではないと確信したのは――陽光が恋をというものを知った時。

 

 陽光が豪雪を男として意識し、淡い初恋――を何段か飛ばしですっ飛ばして、燃え盛る太陽のような苛烈な愛を抱き始めた頃。

 

 両親に、それぞれ自分と同じように、熱い視線を送る相手がいるのに気付いた。

 母は、豪雪の父親の鷲人氏を。父は――陽光の教育係である、『彼女』を。

 

 その時は、流石の陽光も驚いた。

 だが、同時に、酷く納得もした。

 

 陽光は、自分で言うのも何だが、子供らしくない子供だと――自分では思っていた。

 

 太陽のような子供。誰からも愛される子供。

 

 生まれてからずっとそんな存在で、自分がそんな存在だと知った時から、自分でもそうであるように振る舞ってきたけれど――だからこそか、陽光自身は、驚くほど()()()()子供だった。

 

 愛さない。心を開かない。

 愛されても愛されても、いくら皆から愛されようと、陽光は愛する相手は――自分で決めた。

 

 自分がこの人を愛したいと思った者しか、絶対に愛さなかった。そして、そんな相手は恐ろしく少なかった。

 

 きっと、手の指の数で事足りる。

 万人に愛されても、陽光は万人を愛さず、ただ隣人だけを愛した。

 

 それでも――『彼女』のことだけは、陽光はすぐに愛したのだ。

 出会ったその日――というのは、乳母を務めたという『彼女』との初対面は意識あらずの赤子の時だったので言い過ぎかもしれないが、いや、もしかしたら、その時から陽光は『彼女』を愛していたのかもしれない。

 

 それこそ、無条件で愛することが出来る、家族であるかのように。

 家族であることを――我が母であることを、無条件で分かっていたかのように。

 

「…………」

 

 だからきっと、それが分かった時――陽光は。

 

 驚いた後、怒りもせず、泣きもせず――微笑んだのだ。

 

 太陽のように、微笑んだのだ。

 

 

――名前を、付けてあげて。

 

 

 陽光は、自分も娘を生んだ、その日――『彼女』に、誰よりも先に、娘を抱かせた。

 

 それは陽光からの、自分を生んでくれた母親に対する、精一杯の感謝で。

 

 

――あなたに付けて欲しい。……この子に、名前を。素敵な名前を。

 

 

 大事な、愛しい、初めての娘。

 

 その名前を付けてもらうのは、ずっと『彼女』だと決めていた。

 

 無表情で、冷たくて――だけど、とても純粋で。

 

 振り返ったら、思い起こせば、この人は誰よりも自分の傍にいてくれた。

 

 色んなことを教えてもらった。時には厳しく叱ってもらった。

 泣いたら慰めてくれて。頑張ったら誉めてくれて。

 

 とても不器用でぎこちなく、時には呆れてしまうこともあったけれど。

 

 何度も何度も指切りをしたこの人は――間違いなく、私の『母親』だった。

 

(だから――これが、私の最初の親孝行)

 

 娘を――陽乃を、手渡した時。

 

『彼女』は、初めて――泣いてくれた。

 

 笑うように元気よく泣く陽乃を、手慣れた手つきで揺らす『彼女』は、それでも涙が止まらずに戸惑っていて。

 

 そんな様子を、陽光と――もう一人のお母さんは、優しく、柔らかく微笑んでいて。

 

(……あぁ……あったかい)

 

 幸せだった。

 

 暖かくて、温かくて、柔らかくて。

 

 まるで、太陽の光の中にいるかのような日々だった。

 

 

 いつまでも続くと思っていた。

 

 これからもっともっと幸せになるのだと思っていた。

 

 

 陽乃も大きくなり、やがて二人目の娘がお腹の中に宿って。

 

 この子の名前も付けてもらおうか。『彼女』に一番に抱いてもらって。

 

 そしたら、あんな涙を、また見せてくれるのかしら――なんて。

 

 

 なんて――――。

 

 

 

「………………………………………………え」

 

 

 

 首が――舞って。

 

 

 飛んで――堕ちて。

 

 

 

――LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!

 

 

 

 あったかい世界は――瞬間、突然。

 

 まるで、テープが切り替わったかのように――物語が、切り替わったかのように。

 

 

 冷たく、黒く――唐突に、真っ暗になった。

 

 

 

「いやぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ暗に堕ちた意識が、ゆっくりと覚醒したのは、強烈な反作用の衝撃を感じてのことだった。

 

(………………こ、こ………は――?)

 

 低い天井。狭い空間。

 直前の記憶が曖昧で、まるで暗闇を彷徨っているかのようで――

 

 

――『逃げましょう』

 

 

 冷たい微笑――寂しげな、微笑。

 

「――――っ!」

 

 意識は――覚醒する。

 

 顔を上げることは出来ない。身体を動かすことも出来ない。

 痛みは――ある、が、それは大きな問題ではない。

 

(――――っっ!! あ……あれは――っっ)

 

 黒い怪物。極黒の雄叫び。

 

 そして、あの、漆黒の――雨。

 

 寒さに震える。これは恐怖だ。

 見たこともない非常識。感じたこともない非日常。

 

(……私は……雪ノ下陽光とは……こんなにも脆いものだったの……)

 

 晒した醜態が脳裏を(よぎ)る。だが、それを醜態とも思えぬ自分もいた。

 

 これまで感じたことのない無力感。それ故の恐怖。自分の能力の埒外にある異常事態に――寒さに、震えた。

 

 あんなにも――あったかかったのに。

 

(――っ! 陽乃! あなた! おか……あ……さ――)

 

 温もりを求めて、手を伸ばす。

 すぐ傍に、陽光に寄り添い、重なるように――陽乃と、豪雪の身体があった。

 

 二人とも眠るように気絶しているが、少なくとも、呼吸をしている。

 それに心から安堵するのと同時に、母――照子が死んだことも思い出して、心を突き刺すような痛みを覚える。

 

 

――『逃げましょう』

 

 

(――っ!)

 

 そうだ。もう一人いる。

 大事な、大事な、家族が。もう一人の母親が。

 

 手を伸ばしても届かない。ふと、まだぼやける目を凝らして――ここが車内だと分かった

 来るときには助手席に座っていた、あの普通自動車の中――後部座席。

 

 なら、この車を運転しているのは――。

 

「そう――それが、俺達の圧倒的な科学力(ちから)だ。テメーら化け物共を討ち滅ぼす力だ。そうだ、そうだよ、そうなんだよ、美人な――」

 

――化物ちゃん。

 

 ダンっ――と。

 

 車内に衝撃が響いた。

 

(――っ! ……な、なに?)

 

 思わず悲鳴が漏れそうだったのを必死に堪えた。

 

(……人の、声? 今のは、車のボンネット……? 美人な――化物?)

 

 未だ、外からは人の声が――話声が聞こえてくる。

 

 男の声と、女の声。

 外には複数人いるようだ。

 

 この車に乗せてくれという話だろうか。あんな化物が近くにいるという状況では妥当な線だが、それにしては、外の人間達の声には――恐怖というものがない。

 

 分からない。頭が働かない。

 

 未だあの黒鯨の恐怖と衝撃から立ち直り切れていない陽光は、意識を保っているのも辛くて、思わずぐったりと目を瞑る。

 

 兎に角、声を出すのだ。そして、運転席にいるであろう『彼女』に説明をしてもらえばいいと気付き、まったく力が入らない喉から、振り絞って声を出そうとして――。

 

 

「人間ごっこはしめぇだ――寄生(パラサイト)星人」

 

 

 そう、言い下すのが――聞こえて。

 

(…………寄生(パラサイト)、星人……?)

 

 分からない。

 

 だが――『彼女』が、こちらを、見ている気がした。

 

 縋るように――逃げるように。

 

「……いつまでも、偽物に縋ってんじゃねぇ。お前が逃げているのは――」

 

 目を開ければいい。

 

『彼女』がこちらを見ているというのであれば、目を開けて、目を合わせるのだ。

 

 声が出せないのならば、それでもいい。

 ただ目を合わせれば、目覚めているのだと、『彼女』にそう伝えることが出来る。

 

 そうすれば――そうすれば?

 

 どうなって、しまうのだろう。

 

 寒い――冷たい。

 

 これは、恐怖なのか?

 

(……私は――何が――)

 

 いつしか、強く――強く、魘されるように、目を瞑っていた陽光の。

 

 それでも塞ぐことの出来ない耳から、その言葉は――まるで、突き付けるように、届いてしまった。

 

 

――只の欺瞞だ。化物め。

 

 

 瞬間――燃え盛った。

 

 錯覚がした。

 前の席――前の運転席から。

 

 シートの向こう側から、こちらを見ていた、何かの、口から。

 

 聞いたこともない、燃え盛るような、沸騰したかのような――声が、聞こえた。

 

 

「――お前――――なんかに――――ッッ」

 

 

 ダンっ!! ――と、衝撃が響く。

 

 ビクッと震え、反射的に陽乃を強く抱き締めた。

 

 車内に入り込む違った感触の空気から――運転席のドアが、吹き飛んだのだと分かった。

 否――吹き飛んだのではなく、吹き飛ばしたのだと。

 

(…………違う)

 

 本当は、分かっていたのだ。

 

『彼女』が――違うということを。

 

(…………嘘よ)

 

 それに気付いたのはいつだったのか。もう覚えていない。

 

 無表情の庭師と無表情に密会しているのを見た時か。

『彼女』の手入れしていた花壇の花の一つが真夏なのに凍っているのを見た時か。

 

 少なくとも――先程、背後の黒い雨が、甲高い音共に防がれているのを感じた時は、驚くこともしていなかった。

 

(―――――違うッッ!!)

 

 そう――違う。『彼女』は、違う。

 

 分かっていた。気付いていた。知っていた。でも――でも。

 

 

「よう、化物。ご機嫌麗しゅう」

 

 

 やめて。やめて。やめて。やめて。

 

 お願いだから――だから――だから。

 

 

「初めまして、人間。あなたのことが嫌いです」

 

 

 

 母親は――化物でした。

 

 母親なのに、化物でした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 外から、車から降りた化物(ははおや)と、見知らぬ人間達の会話が聞こえてくるけれど――陽光には、それは遠い彼方の会話のように聞こえた。

 

 否――そう、遠ざけていた。

 何も考えたくなくて、目も耳も塞ぎたかったけれど、それでも身体は動かなくて、心まで――死んでしまうかのようだった。

 

(……化物……化物……いつから? ……一体、いつから?)

 

 いや、まだ決まったわけじゃない。

 

 自分は『彼女』の化物な姿を、まだ見ていないのだから――正確には、見ないようにしてきたのだから。

 

 身体を上げれば、顔を覗かせれば――見えるだろうか。確かめられるだろうか。

 

 今、『彼女』は――『母』は、化物の姿なのだろうか。本性を、見せているのだろうか。

 

 本性――それが『彼女』の本性なのだろうか。ずっと騙されていたのだろうか。仮面を被っていたのだろか――仮面というよりは、正しく、化けの皮というものを。

 

 動けない――動かない。見えない――見たくない。

 この車の外の世界では、どんな世界が繰り広げられているのか。

 

 見知らぬ人間達は何者なのか。化けの皮を被っていた、母親だと思っていた『彼女』は――何物なのか。

 

(――『彼女』が……化物で。他の人間達が……『彼女』を……化物を……退治……しようと……している……っっ)

 

 漏れ聞こえてくる会話から、的確に状況を把握する――してしまう。

 己の才覚をこれほどまでに呪った時はない。退治――討伐――殺害。

 

(……ころ……され………る………?)

 

 殺されてしまう。殺されてしまう。

 

『彼女』が――『母親』が――殺されてしまう。

 

 照子のように――義母のように。

 あの首を吹き飛ばされた義母のように。

 

 死んでしまう――殺されてしまう。

 

「――――っっ」

 

 身体を起こそうとして――力が入らなかった。

 

 それは恐怖なのか。それとも――自制なのか。

 

(……化物……だ……っ)

 

『彼女』は化物だった。『母親』なのに化物だった。

 母親である前に、人間ですらなかった。

 

 なら――死んで、当然なのではないか。

 

 陽光の脳裏に、あの黒鯨が(よぎ)る。恐怖で震えた。

 陽光の脳裏に、あの指切りが(よぎ)る。やはり――恐怖で、震えた。

 

「…………っっ」

 

 分からない。分からない。分からない。

 どうしてこんなことになった。どうしてこんなことに――どうして。

 

(……どうして……私の…………お母さんに、なったの?)

 

 どうして自分を生んだのか。化物なのに。化物なのに。

 

 分からなかった。何も分からなかった。

 

『彼女』が――『母親』が、何を考えているのか。

 

 

「お前の、目的は何だ?」

 

 

 そして、外の世界から、こんな言葉が聞こえた。

 

(…………目、的?)

 

 目的――『彼女』の、目的。

 

「さぁ、答えろよ。目的って言葉が曖昧だっつうお前のリクエストに応えるなら、こう聞き直してもいい。お前が――目指すものは、何だ?」

 

 目指すもの――『母』の、目指しているもの。

 

 その目が向いているもの。その目が見ている景色――世界。

 

『彼女』は――『母』は。

 

 あの温かい世界で、一体、何を見て――何を感じていたのか。

 

「お前という化物が、この地球で生きる目的は何だ? お前という化物が、この地球で求めるものとは何だ?」

 

 求めるもの。

 

『母』は、何を求めたのか。何かを、求めていたのか。

 

 何かを求めて――私を生んで、母になったのか。

 

 家族に、なったのだろうか。

 

「さぁ、答えろよ化物。お前程に賢い化物が、この地球で、何が目的で、何を目指して――どんな欲望を叶える為に、そんなに一生懸命になってるんだ?」

 

 陽光は、動かなかった手を動かして――いつの間にか、願うように、両手を組んでいた。

 

 何を願ったのか。何を求めたのか。

 

 それは何も分からなかったけれど――それでも陽光は、願わずにはいられなかった。求めずには、いられなかった。

 

 陽光は、暗く、狭い車内の中。

 

 化物だった『彼女』を――生まれて初めて、こう呼んだ。

 

「…………お母さん」

 

 化物は――『母親』は、叫んだ。

 

 

「――――私、は…………【私】は――――――ッッ!!」

 

 

 光が――差し込んだ、気がした。

 

「…………………っっ!!」

 

 それは、きっと、この上なく醜く、浅ましく、悍ましい、正しく化物に相応しい、欲望に満ちた叫びだった。

 

 

「―――――――ッッッ!!!!!!!」

 

 

 でも――それは。

 

 

「……………っっ!! ………ッッ!!」

 

 

 きっと――『娘』が、『母』に願った、確かな願いで。

 

 

「―――――――ッッ!!! ――――――ッッッッ!!!!!」

 

 

 無様な化物の叫びは、醜悪な欲望の叫びは、狭く暗い車内の中にも響き続けて。

 

 

「…………………ッッッ!!!」

 

 

 夫と娘が起きないように、ギュッと抱き締めた陽光は、涙を溢れさせながら必死で嗚咽を堪えた。

 

 

「――――っっっ!!! ―――――――ッッッッ!!!!! ―――――――ッッッッッ!!!!!!!!」

 

 

『母』は化物だった。

 

『母』なのに、化物だった。

 

 

 怖くて、恐ろしくて――でも、だけど。

 

 

「――――――――――――――――――――――」

 

 

 それでも、もう――冷たくない。

 

 寒くない。温かい。

 

 心が、こんなにも暖かい。

 

 

 それだけで、また、夢の中に旅立てる気がした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ダンッ――と、いう衝撃で、再び陽光は夢の世界から現実へと戻された。

 

(……私、寝ていたのッ!? こんな状況で!?)

 

 いくら『母』の言葉に救われたとはいえ、状況は何も改善されていない。

 

 義母が殺されて、黒鯨のような怪物が襲来して、『母』が化物で、その化物を退治する人間と遭遇して――混沌が極まっている。

 

 様々な突飛な状況に巻き込まれて精神がこの上なく疲弊しているとはいえ――余りにお気楽な行動と言える。

 

(――それでも、少しは身体が軽くなったかな)

 

 恐怖ではなく安堵で気を失ったからか、先程少し覚醒した時よりは、身体の重さが減っていた。

 

 まだ身体を動かすのは抵抗があるが、それでも動かそうと思えば何とか動かせるだろう。

 

(それよりも、状況は――)

 

 頭の方も、大分いつも通りに動かすことが出来る。

 

 あの黒鯨を目の当たりにし、黒い雨などを食らいかけて、『母親』が化物であるということを知った直後で、この対応力を発揮するのは、流石は雪ノ下陽光というところか。

 

(にしても役に立たない旦那ね)

 

 未だ目を覚ます気配すらない豪雪に呆れ顔を見せる陽光。

 しかし、その身体を見れば、きっと自分と陽乃を庇って自分よりも大きなダメージを負っていることが察せられたので、半年分の小遣いの値下げくらいで許してやろうと決めた。

 

「――シン!」

 

『彼女』の叫び声が聞こえた。

 

 あの『彼女』の、ここまでの絶叫は陽光も聞いたことがなかった。

 

(何? シン? 誰の事? あの外にいた人達の誰か?)

 

 いや、『彼女』が元々感情が氷のように希薄な為に分かり辛いが――それでも、敵に向けるというよりは、知り合い、味方に向ける声色のように思えた。

 

(あの状況から、『彼女』に味方が? なら、その味方と一緒に、あの人間達と戦っているの?)

 

 目を開けるべきか? 身体を起こすべきか?

 いや、今の自分では身体を起こすことが出来ても、直ぐに素早く動くことが出来ない。

 

 そんな状況になれば、間違いなく『彼女』の足を引っ張ってしまう。それに、己が化物だと陽光(じぶん)に知られたということを知れば、『彼女』は動揺するだろう。あの絶叫を聞けば、それは恐らく間違いないと断ずることが出来る。

 

(今は――状況の把握がまず最優先)

 

 こうなると再び気を失ってしまったことが忸怩たる思いだが、それにより、少なくとも頭脳の方はコンディションを回復することが出来たのだから、大人しく二重の意味で目を瞑ろう。最低でも――まだ『彼女』は生きている。

 

「……副社長から託されたんです。アナタを守れ――と。アナタの夢を守れと」

「…………私の、夢……?」

 

 車外からの少年のような声と、『彼女』のか細き呟き。

 

 副社長――という単語に陽光が反応する中、更に車外から言葉が届く。

 

「――アナタにはもう、守るべきものがある筈です」

 

 

――守る為に、生きてください。

 

 

(………………)

 

 陽光は、ギュッと陽乃を強く抱き締める。

 

 守る為に――生きる。

 

 守るべき、もの。

 

「――――っっ!! ――――ッッ!!」

 

『彼女』息を呑む声。

 

 そして、こちらを向く気配。

 

 陽光は目を開けるか逡巡したが――ギュッと。

 

 目を瞑ったまま、更に強く、陽乃を抱き締めた。

 

「………………………ぁぁッ! ぁぁぁッッッ!!」

 

『彼女』の声。苦しむ声。呻く声。

 

 初めて聞いた――『彼女』の、弱さ。

 

(…………お母……さん)

 

 あの少年は、『母』にとって、それほどまでに大切な存在なのだろう。

 

 そして、今、それと天秤に乗せられているのが――。

 

 

「ありがとうな。人間を、好きになってくれて」

 

 

 外から届いたその声は――きっと化物の声の筈なのに、まるで人間のようだった。

 

 自分達と同じ――私達と同じく。

 

 

「お前達と、出会えてよかった」

 

 

 化物の絶叫が轟く。『母』の叫びが――陽光の、胸の中に。

 

「――――ッッ」

 

 陽光は、強く、強く、陽乃を抱き締めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「………………………っっ」

 

『母』の歯を食い縛る気配に胸を痛めつつ、陽光は少し目を開けた。

 

(………抜けた、の?)

 

 車の外から乱戦の音が聞こえなくなった。

 

 状況から察するに、敵に包囲された中を突破する為に、車でジャンプして――仲間に、道を切り開いてもらって、突破した。

 

 つまり、『母』の仲間は――。

 

(――っ! ……ようやくお目覚め? けれど、まだよ。じっとしてて)

 

 その時、服を引っ張られる感触がした。

 

 どうやら豪雪の意識が覚醒しつつあるようだが、ここで『母』を混乱させるわけにはいかない。

 陽光は豪雪の手に己の手を添えて、一度さすった。それだけで、豪雪は陽光の言いたいことを理解したようだった。

 

 兎に角、安全圏に離脱するまでこのまま――そう、思っていた時に。

 

 バリーン、と。 バックミラーが吹き飛んだ。

 

「――っ!?」

(――ッ!?)

「な――ッ」

 

 豪雪の口を反射的に塞ぎながら、陽光は陽乃を抱き締める。

 

(追っ手!?)

 

 そう簡単に逃げられないってことね――と、陽光は、更にバリンッ! と、左側のバックミラーも破壊される中、じっと目を瞑り、堪えた。

 

 そして、数秒が過ぎ、今度こそ逃げ切ったかと思った、その時。

 

 バチバチバチバチ――と、火花が散るような音が聞こえ。

 

「――よう。最後の質問がまだだったよな」

 

 あの声が――運転席側の、剥き出しの外から聞こえた。

 

(――ッ!? あの、男――)

 

『母』に――そして、陽光(わたし)に。

 

『母』が化物だという現実を、喉元に残酷に突き付けた男。

 

「ここを通りたくば、俺を倒してからいけ」

 

 真っ黒な、その声に。真っ黒な、その殺意に――『母』は。

 

「――しつこい男は、大嫌いです」

 

 やはり聞いたこともない、冷たい、氷のような、凍えるような、殺意を、返す。

 

 次の瞬間、甲高い発射音と、青白い閃光が広がり。

 

 そして――。

 

「――――ッッ!?」

 

 

 そして――。

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「………っ……………ぐぅぁ………」

 

 あれから、どれだけ経っただろう。

 

 黒い男との戦いの後、普通自動車がとんでもないスピードで疾走しているのが、車内でも伝わってくる。

 

『母』の苦悶の声と、遠くから響くあの怪物の雄叫び、周囲の山林を騒めかせる衝撃も、やはり同じく伝わってくる。

 

 既に完全に意識を覚醒させた豪雪は、アイコンタクトで陽光に状況説明を求めて来る(直ぐに起き上がって説明を要求するということをしないくらいには、状況が読めているようだ)が、陽光はただ首を振った。

 

 これだけのスピードで疾走している中、『母』を無闇に混乱させるわけにはいかない。このまま『母』が安全だと判断するまで車を走らせた方がいいと。

 

 勿論、陽光は『母』が、先程の戦いのときに大きな傷を負っていることに気付いていた。

 

 だが――陽光では、もちろん豪雪でも、『母』の傷を満足に治療することは出来ない。こんな山奥では救急車を呼ぶことも出来ないし、運転を変わろうにも、これだけの猛スピードで車を走らせているということは、未だ、謎の人間達との戦いの危険性は去っていないのだろう。そんな時、安全運転しか出来ない自分達がハンドルを握っていても邪魔にしかならない。

 

 それでも、そう分かってはいても――『彼女』の、『母』の息遣いは、今にも死んでしまいそうな程に、痛々しいものだった。

 

(…………)

「………ッ」

 

 豪雪が再び陽光を見る――が、陽光は、一度目の前の運転席のソファを見て、再び首を振る。

 

『母』の容態にも焦りが募るが――陽光の頭の中には、先程の『母』の戦う姿がぐるぐると渦巻いていた。

 

 恐ろしかった――のではない。悍ましかった――わけでもない。

 

 それよりも、もっと、ずっと――美しかった。

 

 だが、あれは――。

 

(…………確か、あれは……私が、小学生だった頃)

 

 その日、珍しく、千葉に雪が降った。

 

 雪だるまを作るには心許ない、雪合戦をしようにもすぐに泥だらけの雪玉になってしまう、そんな程度の雪だったが。

 

 豪雪は、陽光に可愛らしい雪兎を作ってくれた。

 

 それが本当に嬉しくて、誰よりも早く『彼女』に見て欲しくて、手袋をするのも忘れて両手の中に兎を乗せて、家路を急いだ。

 

 けれど、子供の手で作られた小さな兎は、徐々に陽光の温かい体温で溶けていって。

 

 焦った陽光は、願った。

 

 どうか溶けないで。冷たいままで。カワイイままでいて。

 

 そう願って、目を瞑って――開いたら。

 

 

 雪兎は、氷の球の中に閉じ込められていた。

 

 

(――ッ!?)

(……大丈夫か、陽光)

(……………大丈夫。心配しないで)

 

 急に思考に耽った陽光を心配し、陽光の太腿を撫でた豪雪。

 

 陽光は、あの日のことを、今日の今まで忘れていた。

 

(……結局、あの後は……訳も分からず混乱していた私の元に豪雪が駆けつけて………そのまま、新しい雪兎を作ってくれたんだっけ)

 

 あの氷の球の雪兎はそのまま草むらの中に隠して。

 誰にも、『彼女』にも言えなかったけれど、登下校の際にちょくちょく確認しにいって、いつの間には綺麗に溶けてなくなったから、そのまま考えないようにしていた。

 

 だが、今、思い返すと――あれは。

 

(…………まさ、か……)

 

 私の『母』は、化物だった。

 

『母』なのに、化物だった。

 

 だけど――だけど――。

 

 

 

「………死にたくない」

 

 

 

 その――言葉は。

 

 その、嗚咽は。その、苦悶は。

 

 その、弱音は。その、本音は。

 

 

 

「…………一緒に………居たい」

 

 

 

 私の『母』は、化物でした。

 

 とても綺麗で、とても美しく、とても純粋で、とても寡黙で。

 

 

『あのね! あのね! 私、今日テストで百点だったの! 流石でしょ! 崇めて崇めて!』

 

 

 いつも不愛想で、いつも無表情で、いつも事務的で、いつも頑固者で。

 

 

『――そうですか。……頑張り、ましたね』

 

 

 ゆっくりと、恐る恐る。

 

 キラキラ光る氷みたいに綺麗に、小さく、優しく、微笑んで。

 

 私の頭を、撫でてくれて。

 

「――――ッ!」

 

 陽光は、反射的に『母』を抱き締めたい衝動に駆られて。

 

 立ち上がろうとして――閃光と、衝撃が走った。

 

 抱き締められた豪雪の固い身体と、車体とアスファルトの摩擦音。

 

 そして、どんっ!! ――という、恐らくはどこかにぶつかって車体が停止したのを最後に。

 

 再び、意識がゆっくりと暗く、遠くなっていった。

 

(……お母さん――)

 

 陽光は手を伸ばす。

 

 日の光が届かない、真っ暗な闇に向かって。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(……嫌)

 

 まるで夜の海の中のようだった。

 

 一筋たりとも日の光が届かない、寒い、寒い、夜の世界。

 

 何処からか、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 

 行かなきゃ。戻らなきゃ。

 

 でも――動かない。

 

 寒くて、寒くて――パキパキと、自分の身体が凍っているような感覚すらするのに。

 

 何故か、身体は全然、冷たくなかった。

 

 

「【寄生女王(パラサイトクイーン)】よ! あなたはやはり――『雪女』ですね!!」

 

 

 真っ暗な世界に、こんな言葉が届いた。

 

 雪女?

 

 いつだったか、子供の頃にそんな渾名を付けられた気もするけれど。

 

 確か、陽光って名前なのに肌白過ぎって男子にからかわれたんだっけ? 八つ裂きにしたけど。豪雪も引いてたっけなぁ。けど、あの時はあいつらの言ったことのせいでむしゃくしゃしてて、あんた豪雪って名前なのに全然白くないわよね、名前負けじゃないって言っちゃったのよね。結局あいつらと同レベルじゃない私。珍しく豪雪も露骨に落ち込んでたっけ。

 

 それで、確か放課後もイライラが治まらなくて――それと、ちょっぴり、泣きそうで。

 

 白い肌も、陽光って名前も、どっちもすごく大好きだったから。

 

 それで――『彼女』に、聞いてもらったんだっけ。聞いて聞いて、ひどいのよって。たぶん、その時私、既にちょっと泣いてた。

 

『彼女』は、いつも通りの無表情で淡々と、けれど最後までじっと聞いて。

 

 そして、少し考えた後、こう言ったんだ。

 

――別に、陽光って名前だからって、白くてはいけないというわけじゃないでしょう。太郎という名前なのに細身の人間もいますし、花子という名前の子がみな草花を愛する人間というわけでもありません。

 

 がくっとしたっけ。いや、そういうんじゃなくて。そういうことを言って欲しいんじゃなくて。

 

 思わず脱力しちゃったけど、うんうんと大真面目な無表情でそんなことを言う『彼女』のいつものらしさに、哀しい気持ちはいつの間にかなくなって、しょうがないなぁと苦笑してた。

 

 だけど、『彼女』はその後、少し――優しく、小さくだけど、確かに微笑(わら)って。

 

――それに、陽光が白くても何もおかしくありません。だって、日光は白いじゃないですか。

 その言葉は、次の日、学校に行くときの快晴の空を見て、知った。

 

 確かにお日様は、空の上で白く光っていた。

 

 そうか――陽光って、白いんだ。だったら、何もおかしくない。

 

 私は陽光って名前でいいんだ。この白い肌も、私にぴったりなんだって。

 

 本当に嬉しかった。だって、この白い肌は――

 

――じゃあ、あなたもお日様ね!

――……え?

 

――だって、あなたの肌も、真っ白じゃない! 私と同じ、お日様色!

 

 そう。私とあなたの、お揃いの肌色。

 

 同じお日様色の肌。あなたと同じ――雪女の肌。

 

(……そうよ。私と『あなた』は……やっぱり親子なのよ)

 

 私は『あなた』の娘。『あなた』は私の『母親』。

 

 だから行かないで。だから――行かせない――逝かせたりなんかしない。

 

 闇の中に連れて行ったりしない。地獄なんかに落とさせやしない。

 

 夜の世界なんかに『あなた』を渡さない。

 

『あなた』は私達と一緒に、お日様の下で暮らすのよ。

 

 豪雪と、陽乃と――お腹の中の、この子と一緒に。

 

(死なせない! まだまだ全然恩返しが出来てない! 私はもっともっと親孝行がしたいんだから!)

 

 陽光は――目を開ける。

 

「陽光!!」

 

 虚空に向かって伸ばしたその手を――豪雪が、しっかりと握った。

 

 そして、パリィィン――と。

 

 雪の華が、砕け散る音が響く

 

「――ッッ! お母さん!」

 

 ドンッ!! と――二人の目の前に、普通自動車の後部座席のドアに、『彼女』の身体が叩きつけられる。

 

「っ! お母さん!」

「落ち着け、陽光!」

 

 直ぐに車外に飛び出そうとする陽光を、豪雪が引き留める。

 

「離してあなた! ッ、豪雪!」

「このまま外に出て、俺達に何が出来る」

 

 感情的になる陽光を、静かに諭すように豪雪は語る。

 

 両肩を掴んで向き直り、真っ直ぐに前を見て。

 

「――俺は、車が停まってお前が目覚めるまで、あの二人の戦いを見ていた。……文字通りの、化物同士の戦いだ。俺達、人間が……何かをどうこう出来る……戦争じゃない」

 

 豪雪の目は、既に恐怖に怯えてはいなかった。失った自分を取り戻していた。

 

 その上で――言っている。

 

 このまま、『彼女』を――救うなと、そう言っている。

 

「……『彼女』は、私のお母さんなの。……もう一人のお母さんなの! もう、たった一人の、お母さんなの! 見捨てろっていうの? 見殺せっていうの!? 『彼女』にはあなたもいっぱい助けてもらったじゃない! 家族じゃない!」

「ああ、家族だ。だが、俺はお前の夫で、お前達の父親だ」

 

 豪雪は、未だ眠り続ける陽乃と、陽光のお腹を見て、そして陽光の瞳を見詰める。

 

「俺はお前達がこの世で最も大切だ。他のどんな人間を、例え家族をも見殺しにしようと、俺はお前達を守りたいんだ」

 

 陽光は、その目をじっと見詰めて、目を瞑る。

 

「……そうよね。あなたは、そういう人よね」

 

 例え愛する人の『母親』だろうと、それ以上に愛する者達を守る為なら、その目を見て見捨てるということの出来る男。

 

 こんな男だから、陽光は豪雪に惚れたのだ。

 

 そして、それでも、陽光は――。

 

「――聞いて、豪雪」

「――聞こう、陽光」

 

 目を開けて、真っ直ぐに見詰めて、陽光は愛する夫に告白する。

 

「私の『母』は化物だった。……そして、たぶん、私もきっと――『化物』なんだと思う」

 

 パリ――パリ、と。

 

 空気中で小さな雪の結晶が生まれ、そして消えていく。

 

 それでも豪雪は、一度大きく目を見開いた後――目を瞑って、そして真っ直ぐ陽光に目を合わせ、その手を両手で包み込んだ。

 

「それでも、私を愛してる?」

「この世界中で、誰よりも」

 

 それは雪の結晶をも溶かす、静かな熱い告白で。

 

「なら――私を信じて。化物な私を信じて。人間じゃあ手出し出来ない戦争でも、私なら割り込める。私なら――母を助けることが出来る」

 

 豪雪は、強く、愛する妻を抱き締めた。

 

 

「さらば。哀れな化物よ」

 

 

『母』に――銀色の魔の手が伸びる。

 

 豪雪は、陽光と――唇を重ねた。

 

「――」

「――」

 

 囁き合った夫婦は離れ――夫は娘を抱き締めて、妻は車外の戦場を睨み付けた。

 

 白い手袋を嵌めた一対のロボットアーム。

 

 陽光に残された、たった一人の『母親』を、黄泉へと引きずり込まんとするその魔の手を、陽光は全力で拒絶した。

 

 

「――ダメぇっ!」

 

 

 その瞬間――地面から二本一対の氷柱が飛び出し、ロボットアームを貫いた。

 

 ガラッ――と。

 

 戦場への扉を開け、陽光は、戦い続け、傷つき果てようとしている『母親』を。

 

 ずっと、ずっと、化物(なかま)を守る為に、人間(かぞく)を守る為に。

 

 化物達と、人間達と――世界と戦い続けてきた、偉大なる『母親』を。

 

 両手が刃で、背中が開き、顔面の左半分すら裂けている――愛すべき、化物(ははおや)を。

 

 

 ギュッと、温かく、柔らかく――強く、強く、抱き締めた。

 

 

「――――陽、光?」

 

 

 その名の通り、まるで太陽の光のように、あったかく。

 

 胸いっぱいの感謝と――溢れんばかりの愛を込めて

 

 

 

――母親の癖に、化物でゴメンね。

 

 

 

 だから、こんなことを言う『母親』に、『娘』は笑顔で、こう言うのだ。

 

「お母さん――化物に生んでくれて、ありがとう」

 

 お蔭で、『母親』を助けることが出来る、『娘』になれたよ。

 

「…………生意気ね」

 

『母』は、『娘』が化物となったその日――静かに、娘の腕の中で泣いた。

 




『母』は化物だった。

『母』なのに、化物だった。

 怖くて、恐ろしくて――でも、だけど。


 私の『母』は、化物だった。

『母』なのに、化物だった。

 だけど――だけど――。


「………死にたくない」


 その――言葉は。

 その、嗚咽は。その、苦悶は。

 その、弱音は。その、本音は。


「…………一緒に………居たい」


 私の『母』は、化物でした。

 とても綺麗で、とても美しく、とても純粋で、とても寡黙で。

 いつも不愛想で、いつも無表情で、いつも事務的で、いつも頑固者で。

 ゆっくりと、恐る恐る。

 キラキラ光る氷みたいに綺麗に、小さく、優しく、微笑んで。

 私の頭を、撫でてくれて。


――母親の癖に、化物でゴメンね。


 だから、こんなことを言う『母親』に、『娘』は笑顔で、こう言うのだ。


「お母さん――化物に生んでくれて、ありがとう」


 お蔭で、『母親』を助けることが出来る、『娘』になれたよ。


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寄生星人編――⑨

決まっている――愛の力だ。


 ファサ、と、開いている背中を隠すように、『彼女』の肩に上着が掛けられた。

 

「……豪雪、君?」

「……気休めですが、着てください。……怪我というわけでは、ないのでしょうが」

 

 無表情というのなら『自分』に負けない程に無表情でそんなことを言ってくる豪雪に苦笑が漏れそうになる。

 だが、まるで『母』と『娘』の時間を邪魔されたと思ったのか、それとも自分以外の女性に心優しい気配りをみせたことが気に入らなかったのか、陽光が豪雪に食って掛かる。

 

「あら? あなたにしては珍しく紳士じゃない? 妻の目の前で継母のポイントを稼ぐなんて素晴らしい甲斐性だわ」

「……それよりも、今は一刻も早く逃げる方向を考えよう」

 

 豪雪はそんな陽光の気質には慣れているのか、一切取り合わずに車外を見る。

 

「――それもそうね。いつまでも面白いリアクションを取り続けてはくれないだろうし」

 

 陽光も、真面目な顔に戻ってそうふてぶてしく言った。

 

 車外では局地的に氷の世界となったフィールドで、レジー博士が地面を只管に無意味に叩いて嘆いている。一通り悲しみをぶつけ終えたら、再びこちらに、今度は失われた二手の分も上乗せして殺意を向けてくるだろう。

 

「……残念だが、この自動車はもう動かないだろう。そうなると、陽乃を抱えて、お腹の子も守りながら、あの変な手を操っている男をやり過ごさなければならない」

「……難しいわね。さっきは無我夢中だったけれど、あの氷はどうやればどんな風に出せるのかしら。ねぇ、端的にコツを教えてくれる? 一分も要らないわ。理解してみせるから」

 

 既に、未知なる非日常に、超常なる怪物達への恐怖に呑み込まれていた弱者の姿はそこにはない。

 

『彼女』を囲むように鋭い表情で対話するこの男女は、その脆弱なる身の上で、ただ怜悧な頭脳だけを武器に、醜悪で凶悪な化物を打倒せんとする――人間という、強種族だった。

 

 不思議な点は、その背に守ろうとしているのが瀕死の化物で、立ち向かおうとしているのが同じ人間ということだが――最大の問題点は、驚くべきことにそこではない。

 

 瀕死――そう。

 フィクションの世界では、しばしば都合よく使われて、案外あっさりと助かってしまうことも多いこの表現だけれど、残念ながらこの場面では、文字通りの意味で『彼女』は瀕死だった。

 

 くどいようだが、ここでもう一度、この『彼女』という化物の物語の結末を先んじて明かそう。

 

 この物語はバッドエンドだ。もっと言えば、『彼女』が絶命することで幕を閉じる。

 

 そして、そのエンディングは迫っている。絶命の時は目前だ。

 死に瀕していた――肩口を過ぎて喉元まで、『彼女』は死に浸かっていた。もうすぐ息も出来なくなる。言葉も紡げなくなる。

 

『彼女』は死ぬ。このまま死ぬ。死に瀕しても眠っていたパワーは目覚めず、何の奇跡も起こらず、何の救いも齎されず、化物は退治される――人間の手に懸かって。

 

 例え、人間が狂気の変態科学者でも。化物が家族に愛されていたとしても。

 人間は化物を退治する――めでたしめでたしでページを閉じるのだ。この世界は、この地球は、きっとそういう物語で動いているのだ。

 

 それを『彼女』は理解していた。

 冷たく、氷のように、いつだって『彼女』は諦観していた。

 

 だから、『彼女』は微笑むのだ。氷のように、儚くも美しい笑みを浮かべるのだ。

 

 多くの死を見てきた。多くの化物の死に様を目撃してきた。

 

 己よりも遥かに強大で格上だと思っていた化物が死んだ。

 同族として数多くの時間を共に過ごし親交を深めた化物が殺された。

 

 静かに孤独に死んだ化物がいた。

 多くの同族と共に絶叫を上げながら殺された化物がいた。

 

 ある日突然にあっさりと死んだ。

 その日唐突にしっかりと殺された。

 

 みんなみんな死んで、みんなみんな殺されてきた。

 

 だから、きっと――『私』も例外なく死ぬのだろう。

 

 ずっと死ぬだろうと思いながら生きてきた。

 それは今日かもしれないし明日かもしれないと思いながら生きてきた。

 

 終わりに怯えず、終わりに諦めながら生きてきた。

 仲間が必死に生きる道を探す中、家族が必死に幸せを築き上げていく中で、『彼女』はずっと氷の中で諦めながら生きてきた。

 

 だから、『彼女』は微笑むのだ。氷のように、儚くも美しい笑みを浮かべるのだ。

 

 そんな中――『家族』に囲まれ、『娘』に抱かれながら、死ぬことが出来る『私』は、なんと幸せなのだろう、と。

 

 故に、『彼女』は、告げた。

 極寒の寒さに震える唇を、白く染まる途切れ途切れの吐息を、振り絞るように押さえて、『娘』と義息子に告げた。

 

 その表情は、きっと『彼女』は気付いていないけれど――我が子を慈しむような、優しい微笑みで。

 

 化物に相応しくない、ハッピーエンドをぶち壊す言葉を。

 

「『私』はもう助からない。あなた達だけでも逃げなさい」

 

 それはまるで、『母親』のような言葉だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雪のように儚く、今わの際の言葉を遺し、今にも溶けてしまいそうな『母』に、たった一人の『娘』は、途端に凍り付いてしまったかのように固まった表情で問うた。

 

「………な、何言ってるよ……あなたらしくないわね……上手くない冗談を無理に言うものではないわよ」

「……………『自分』の……とは、言えるかは分からないけれど……曲がりなりにも……ずっと……生きてきた……[身体]です……分かりますよ………」

「ッ、やめて! 嫌よ! そんな――っ!?」

 

 そんなことを言って欲しくなくて。生きるのを諦めて欲しくなくて。

 

 陽光は『母』の前に回り込み、その頬を両手で挟んで――絶句する。

 

(……冷、たい……っ)

 

 まるで氷のようだった。まるで――死人のようだった。

 

 その頬は、その顔は――雪女だとしても、余りにも白かった。

 あの美しかったお日様色の白ではない。新雪のような白でもない。

 

 ただただ青白い――生気を失っていく、人間の肌。

 死んでいく、人間のような、肌。

 

 だが――『彼女』は化物だ。化物の中の化物――人間になれなかった化物だ。

 

 人間のように死ぬことが、世界から許される筈もなかった。

 

「――ッ!?」

 

 陽光は、思わず『母』から手を離した。

 

『母』の身体は、まるでドライアイスのような氷気を放ち始めていた。

 

 見る見るうちに冷たく――凍っていく。

 自らを氷の中に閉じ込めるが如く――それが、雪女の、化物に相応しい死に様だと言わんばかりに。

 

「……私が……何とかして……あの男を足止めします。…………虫の息ならぬ雪女の息吹(いぶき)で、奴を凍らせてみせましょう。……これが、『私』の――最期の生命の灯火です」

 

『彼女』は、闘気ならぬ凍気を身に纏いながら、ゆっくりと起き上がる。

 パキパキと傷口を塞いだ氷を軋ませながら、刃となった両手に、開かれた背中に、そして裂けた左顔面に――氷の鎧を纏わせながら。

 

『彼女』は――『母』は――立ち上がる。

 

「『娘』に守られるというのも乙なものですが、ここは『母』に任せなさい。年の功の見せ所です」

「……ッ! で、でも私は! まだ親孝行も碌にしてないのに――二人もっ! 二人ともっ! 母親を、失いたくないのよ!!」

 

 陽光が涙を浮かべ、胸を押さえながら叫んだその言葉に――『母』は、慈しむように微笑んで。

 

「……少なくとも『私』は、孫娘を――陽乃を、この手に抱かせてもらった時に、とっくに全てを貰いましたよ。……それに――」

 

『母』は、陽光の横を通り過ぎ――娘を庇うように、戦場へと戻る。

 

「――娘の最大の親孝行は、親より長生きすることです」

 

 化物は戦う。

 

 死に瀕したその身体を、今にも消えそうなその生命を、無理矢理に冷たく凍らせて。

 

 氷の鎧を身に纏い、凍える息吹で生命の灯火を燃やしながら。

 

 自分に待つのは壮絶な死というバットエンドだと分かっていても――望む所だと、氷のように微笑んで。

 

「あなたは死なないわ。『私』が守るもの」

 

 娘を守るのが母親だもの。

 

 家族に囲まれ、娘に抱かれて死ぬのなんて許せない――そんなハッピーエンドはごめんだ。

 

 家族に見捨てられ、娘に見殺され――ひとりぼっちで、『私』は死にたい。

 

 だから――早く。

 

「『私』を置いて、先に――」

 

 

「――逝くのです。全員、纏めて、一緒に死になさい」

 

 

 悪魔のような、人間の声が聞こえた。

 

「ギィィィイイイイイイイイイイイイイイイシャァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」

 

 悪魔のような、人間の叫びが響いた。

 

 小さな体躯を黒衣と白衣で包んだ人間が、手甲に蟀谷に不気味に血管を浮き上がらせ、舌を喉を震わせながら叫び――背中から何本もの銀色の腕を飛び出させる。

 

 まるで孔雀の求愛行動のように――銀色の機械腕が花開く。

 咲き誇る――それはどこか、まるで寄生(パラサイト)星人が裂き乱れるように。

 

『彼女』という化物の本性のように、奇怪な機械を、ぞろぞろと、ぞろぞろと。

 宝剣、短刀、灯篭、鏡、錫杖、投縄――氷の世界で輝く銀色の数多の武具の中で、たった二本、たった一対。

 

 無様に、およそ滑稽に――まるで手首から切り落とされたかのように、明らかに長さが短く、折れた枝のような断面を輝かせるロボットアームを、見て。

 

「……お……おぉ……ワタクシの……さく……ひん……がぁあああああああああああ!!!!!」

 

 再び涙をぶわっと溢れさせ、だが、それを遂に絶望ではなく憤怒へと変えて。

 

「きぃぃぃいいいいれぇぇぇえええええたぁぁぁぁぁぁあぞぉぉぉおおおおおおおおお!!!!! あああああああああああああ!!!! ワタクシは前進することはだぁぁぁいすきだが!! 研究を遅らせるものはだぁぁああいきらいだぁッ!! 逃がすわけがないでしょう! あなた達は全員! ここで死ねぇッ!!」

「……あなたは一応、人間の味方でしょう。化物(わたし)はともかく、この二人は人間よ」

「御冗談を。少なくとも、そちらの娘は雪女でしょう。ワタクシの大事な腕をぶっ壊したのです。だからワタクシがぶっ壊します」

 

 怒りが収まったのか、それとも振り切ったのか。

 

 ケラケラと真っ黒な瞳で笑いながら、レジー博士は言う。

 銀色の不気味な腕をゆっくりと宙で漂わせて、ケラケラと、ニタニタと。

 

「そもそも、前提から間違っています。ワタクシのような狂人が、人間の味方なわけがないでしょう。ワタクシは、少なくともワタクシだけの味方です」

「……自分が狂っているという自覚はあるのね」

「勿論。それで昔は色々とありましたからねぇ。だからこそ、ワタクシのような天才に好きなことを存分にさせていただける今の職場には感謝しているのです。それ故に、組織が決めたことは遵守することを心掛けています。故に、di~~e(ダ~~イ)!」

「!?」

 

 レジー博士は唐突に、一本のロボットアームから錫杖を投擲する――その標的は、氷の鎧を纏う『彼女』でも、白手袋の機械腕を砕いた陽光でもなく。

 

 その傍らに屹立する――()()()()()()()

 

「ッ!!」

 

 氷の鎧に亀裂が走るのも構わず、『彼女』は動く――だが、それよりも早く、妻は夫の前に立ち塞がり、拒絶した。

 

「消えなさい」

 

 白い手を前に突き出した陽光の前に、一瞬で氷の壁が作り出される。

 

 ガキン、と弾かれた錫杖は、くるくると縦に回転しながら、再び同じロボットアームの手の平の中へと戻っていった。

 

「――あなた方は死ぬのです。化物だろうと人間だろうと、目撃者は排除です。黒衣(ワタクシ)達の存在は、まだ表に出る訳にはいかない」

 

 それでも、レジー博士の表情は、今度は一切変わらず――否、その醜悪な笑みを深めて、言葉を続けた。

 

「今日、この日、この夜に居合わせたことで、あなた方の命運は尽きたのです。恨むならば、化物の分際で太陽を求めた、そこの化物を恨みなさい」

 

――その化物に巻き込まれたことで、あなた達は死ぬのです。……家族諸共ね。

 

「――――っ…………ッ」

 

『彼女』は、弱りきった化物は、その言葉だけでも死にそうになった。

 

 そうだ。

 何が『娘』の為に死にたいだ。『家族』に見殺しにされてバッドエンドだ。

 

 そんなの当然のことではないか。そんなの当然の報いで、至極当然の末路ではないか。

 

 陽光を、豪雪を、陽乃を――太陽の下で輝く人間達であった彼女達を、この冷たい夜の世界に巻き込んだのは、その原因は、その元凶は――化物たる、『自分』だ。

 

「――それは違うわ」

 

 まるで、夜の世界に差し込んだ、太陽の光のような言葉だった。

 

「そもそも私達は死なないわ。死んでたまるものですか。その気持ち悪い指を向けないで。後、目も閉じて口も閉じて呼吸もやめてもらえるかしら。あなたという存在の全てが悍ましいわ」

 

 目の前に作り出した氷の壁に更なる冷気を送り込むかのような極寒の毒舌を放つ――『娘』。

 ああ、そういえば万人に愛される娘だけれど、嫌いな相手にはとことん冷たい子だったと――『母』は、暖かい、微笑みを浮かべる。

 

 結局、こうして『娘』に守られ、『娘』に庇われ、『娘』に救われる。

 

 ああ、『私』は、最後の最期まで本当に――。

 

「――私の『母親』を、化物呼ばわりするのは止めていただけるかしら」

 

 氷の壁がキラキラと輝く氷片に変わり、レジー博士の視界に現われるのは、美しい人間の美女。

 

 否――人間の父と、化物の母の間に生まれた、人間でありながらも、化物である存在。

 

 雪ノ下陽光(ひかり)――真っ暗な夜の世界においても、太陽の光の輝きを放つ美女。

 

 雪のように冷たさと、太陽のような熱さを併せ持つ、奇跡の『混血種(ハイブリッド)』。

 

「ッッ!! ン~~~~~~~~~!!!! エクスタスィィイイイイイイイイイイイイイイ!!!!!!」

 

 レジー博士は、そんな陽光の美しい姿を見て、唐突に両腕で頭を抱えて身体を捩じらせた。

 

 その勢いで無数のロボットアームが無差別に振り撒かれるが、陽光は身動ぎ一つしない。

 

「はぁ……はぁ……全く、今日は何て日だ。大事な作品に傷をつけられたことはショックでしたが、雪女に寄生した『混合種(ミックス)』と、はたまたそんな稀少存在と人間の間に生まれた『混合種(ミックス)』――否、『混血種(ハイブリッド)』とは! まさしくドリィィィイイム!!!!」

 

 顔面をがしがしと掻き毟り、それでも尚「フハハハハハハハハ!!! 神よ!! 神よぉぉおおおお!!!」と奇声を上げ続けるレジー博士を、陽光も、『彼女』も、豪雪もまるで無表情で見遣る。

 

「だが! ご安心召されよ、稀少(レア)なる『混血種(ハイブリッド)』よ。確かに、あなたのお母さん程の『稀少』から生まれた更なる『混血種』程ではないとしても、星人と人間――人間と化物の交配種は、少ないながらも前例が確認されています」

「!?」

 

 その言葉には、陽光よりも『彼女』の方が少なくない衝撃を受けた。

 

 だが、それもある意味では当然だろう。

 幾ら星人が化物だとして、遥か昔から人間と戦い続けてきたのだとしても――それはつまり、今より遥か昔から、星人はこの地球に住み着き、人間と関わっていたのだと言い換えることも出来る。

 

 きっと居たのだろう。きっと、今も、何処かに居るのだろう。

 星人と地球人の間に生まれ、人間と化物の血を混在させる――『混血種』が。

 

 寄生(パラサイト)星人のように、自分達の遺伝子を残せない欠陥種族の方が、稀で、哀れなのだ。

 

 自分達の強力で強烈な遺伝子を、人間の遺伝子の中に紛れ込ませ――同族を増やし、侵食する星人(ばけもの)

 そんな方法で地球侵略を目論んだ種族がいても、何もおかしくない。

 

 そして、敵同士だとしても、宿敵同士だとしても――愛を育み、その愛の結晶として、お互いの遺伝子を受け継ぐ存在を生み出したとしても――それは、きっと――。

 

「――そう。星人は、化物は、地球人に対して、人間という種族に対して、『混血種』を作ることが出来る。少なくとも少なくない数の種族が、人間に対し遺伝子侵略を行うことが出来た――()。そう! そう! その筈だった! だ、が!! 星人という存在がこの地球に在住しているであろう期間を考えても、その膨大なる時の長さを鑑みても、何の異能も持たない何の変哲もない只の人間が、何も混ざった痕跡のない純粋無垢なる純地球人のなんと多いことか!」

 

 そう――そうだ。

 少なくとも、星人という外来種は、人間という地球人が誕生するよりも前に、この地球に住み着いていた筈だ――棲み着いている筈だ。

 

 ならば、もっと致命的に、それこそ人間と星人という区切りすらなくなる深度で侵略されていてもおかしくない――いや、そうでなくては、おかしい。

 

 星人と、人間の、交配。

 その禁断のシステムに、より致命的な欠陥がありでもしない限り。

 

「…………ッ」

 

『彼女』の顔が更に真っ白に蒼白する。

 

 レジー博士は更に真っ黒に愉悦した。

 

「そうですそうですそうなのです! 星人(かれら)は気付いてしまった。人間に自分達の同族を生ませる――つまり、人間を自分達の同族へと染め上げていく遺伝子侵略。その戦争計画(プラン)に、致命的な欠陥があることに!」

 

 レジー博士は、これこそ正しく自分の本分であると言わんばかりに、己が辿り着いた仮説を滔々と語り続ける。

 

「ワタクシが出会った数少ない『混血種』は、どれもこれもサンプルとしてはとても稀少な存在でしたが、どいつもこいつも()()()()()()()()()()()ばかり。それでいて人間でもないという、研究材料として以外は、生物としてとても中途半端な哀れなる化物でした」

 

 レジー博士は、雪ノ下陽光から一切目を逸らさず、愉悦の笑みのまま見下すように告げる。

 

 陽光は、まるで動じず、『母親』譲りの氷の眼差しで冷たく見据えていた。

 

「彼等は――異能を持っていなかった。否、厳密に言うには()()()使()()()()()()()()()()()。そうです『化物』。アナタと同じです。異能という力は、その異能に特化した細胞――すなわち遺伝子で構築された肉体だからこそ扱える超常の力です。例え実の子だろうと、遺伝子を半分受け継いでいようと、所詮は半分――半端ものなのです。人間の遺伝子という異物が混ざり込んだ身体では、薄まった異能しか使えない。それも――」

 

 レジー博士は、不気味に醜悪に、笑った。

 

「――己が身体を、侵食するというおまけつきで」

 

 バッ、と。

 豪雪が、そして『彼女』が、真っ直ぐ佇む陽光に目を向ける。

 

 レジー博士は尚も楽しそうに「いいえ、正しく己が半身を、というべきでしょうか」と、語り続ける。

 

「まるで、異能が――化物の遺伝子が、人間など認めないといわんばかりに。それが己の身体であろうとも、明確に敵だと認識して拒絶するかのように。……恐らく星人達は、人間という弱者の遺伝子が、星人(じぶんたち)の遺伝子を受け入れられる程に強くないからだと傲慢にも思い上がっているのかもしれないませんが。だが、これはこうも考えられるでしょう。これは、人間という存在が、()()()()()()()()()()()()()()()のだと。人間という遺伝子が、化物に侵食されてなるものかと、抵抗し、戦争し――そして勝利したのだと」

 

 現に、今、この地球において、人間という種族を遺伝子的に支配しようと考える星人は殆どいない。人間の、現代まで受け継がれてきた、この何の変哲もない凡庸なスペックが、何よりの証拠です――と、レジー博士は、まぁ、ワタクシは天才ですが、と付け加えるのも忘れず、誰よりも楽しそうに語り終える。

 

 だが、『彼女』も、豪雪も、レジー博士の言葉を既に聞いていなかった。

 二人の耳はまるで機能しておらず、ただその両目が捉えたその光景に、意識を奪われていた。

 

「……それは至極必然です。恐らくは、今まで碌に異能を使っていなかったのでしょう。混血種(ばけもの)の分際で、粋がるからそんなことになるのです」

 

 レジー博士もそれに目を向けて、それはそれは楽しそうに言う。

 

「――凍っていますよ、あなた」

 

 無数の機械腕にも、目の前の狂人科学者にも、一切動じず屹立する――雪ノ下陽光。

 

 彼女の右手は――既に、美しく、凍り付いていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……陽光」

「大丈夫――大丈夫よ」

 

 豪雪の言葉に、陽光は振り向かず即座に答える――が。

 

「…………ッ」

 

 動かない。

 拳を握ろうとしても、まるで固まっているかのようにビクともしない。

 

 冷たいという感覚もない――何も感じず、ただズシっと重かった。

 

 陽光はそっと『母』の方を向く――しかし、その『母』の姿を見て、陽光は己の凍り付いた腕のことなど頭から吹き飛んだ。

 

「…………はぁ…………はぁ………ッ」

 

 真っ白な息を漏らし、みるみる内に凍り付いていく。

 時折、激痛に悶えるような表情と共に、余分な氷を弾かせる――が、それでも、

 まるで侵食するかのように、『彼女』に襲い掛かるかのような濃密な冷気が、『彼女』の氷の鎧を禍々しくアップグレードしていった。

 

「己の異能を抑えきれない程に死にかかった混合種(ばけもの)と、己の異能を使いこなせない程に中途半端な混血種(はんぱもの)と――何の変哲もない、只の人間(おろかもの)

 

 レジー博士は、一人一人を指差し確認し、哀れむように言う。

 

「――終わりですねェ」

 

 陽光が、豪雪が、『彼女』が。

 

 氷の無表情を融解させ、燃え盛るように睨み付ける――レジー博士は、堪らないとばかりに哄笑した。

 

「フハハハハハハハハ!! 生意気ですねぇ! 天才のワタクシには理解出来ませんよ! この状況で、あなた達に、最早何が出来るというのですか! 瀕死の化物と出来損ないの半端ものと只の人間のあなた達に――勝ち目などぬぁぁあああああい!!」

 

 銀色の機械腕が、混合種を、混血種を、人間を襲う。

 

 陽光が、『彼女』が――その手を掲げ――顔を顰めた。

『彼女』は己を切り裂んばかりの激痛に。陽光は、その上げた右腕が凍り付いているのを見せつけられて。

 

 ザッ、と。

 雪ノ下豪雪は、そんな二人の前に、ただ己が身だけを晒し出して――両腕を広げて。

 

 悲鳴と、哄笑と、破壊音だけが響く筈だった――その瞬間。

 

 

「ほう。ならば、そこにもう一体“化物”が加わったらどうなるんだ? 教えてくれ、天才殿」

 

 

 キィィィィン!!! ――と、甲高い音だけが、闇夜に響いた。

 

「…………はぁ?」

 

 レジー博士の間抜けな声だけが聞こえる中――ドス、ドス、ドスと、彼の足元に三本の何かが突き刺さる。

 

 それは、混合種と、混血種と、人間の、小さな三つの命を奪う筈だった魔の手――三本のロボットアームだった。

 

 NooooooooOOOOOOOOOOOO!!!! と狂人の絶叫が轟く一方で、くるくると落下してきた銀色の宝剣を(他の二つの武器は森のどこかへと吹き飛ばされたようだ)掴んだ乱入者は――まるで庭師のような恰好をしていた。

 

 背は決して高くない。細身だががっしりとした体躯を、ボロボロのつなぎと帽子という作業着で包んでいる。

 

 否――ボロボロなのは服だけではなかった。

 全身に切り傷を負い、使いこまれた作業着は決して日常業務では付着しないであろう量の血液で汚れている。その右腕は失われていた。

 

 そして、その頭部は――裂けていた。

 

 だが、それでもその庭師は、利き手ではない左手で剣を弄び、食虫植物のように不気味な姿で――まるで守るように立ち塞がった。

 

「……悪いな、社長」

 

 遅刻した――そう、悪びれもなく嘯く、副社長に。

 

 ずっと、誰よりも、『彼女』の隣に立ち続けてきた――『彼』に、『彼女』は。

 

「……遅いですよ。……次はクビですからね」

 

 だが――次はない。

 

 これが『彼女』の最期の戦争。

 

 あのまま、もう会えないのだと思っていた。

 このまま、永劫に別れるのだと諦めていた。

 

 それでも――『彼』は、来てくれた。

 

「ああ、肝に銘じる――もう俺は、お前の傍から離れない」

 

 一目見て気付いた。その背中を見ただけで――『彼女』はそれを理解した。

 

 失われた右手。全身に負った大傷。

 そして、何より――『彼』の声色が、全てを『彼女』に伝えていた。

 

「――最期の時まで、俺はお前の傍にいる」

 

 そう、振り返って。

 

 花弁が開くように裂けた、慣れ親しんだ化物の相貌を向けて――『彼』は、言った。

 

「…………そう。なら、社長として――あなた達の、寄生(パラサイト)星人の長として……最期の命令を送ります」

 

『彼女』は言う。『彼』に言う。

 

 初めて出来た仲間に。ずっと連れ添った相棒に。無口で不器用な副社長に。

 

 氷の微笑女の、とびっきりの美しい微笑みと共に――冷徹に、死を命じる。

 

「私と共に死になさい」

「社長命令とあらば、是非もない」

 

 その社長命令を聞いて、副社長は小さくこう呟いた。

 

「――やはり、俺には社長は荷が重い」

 

 寄生星人(おれたち)社長(リーダー)は、やはり『彼女(コイツ)』以外は有り得ない。

 

 そんな当たり前のことを、化物は裂けた頭部を人間の形に戻しながら言った。

 

 普段は樹木のように無表情なその顔は――小さく微笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

その化物が戻した――あるいは被った――人間の顔は、陽光も、豪雪もよく見知った顔だった。

 

「っ!? お前は――」

「我が家の……庭師の……?」

 

 いつから勤めているのかはよく覚えてはいない。

 だが、ある日突然ひょっこりと雪ノ下家に紛れ込んでいた、積極的に内情に絡んでくることはなく、ただ背景のように庭の片隅に映り込んでいたかのような、そんな存在。

 

 よく庭で遊んでいた子供の頃にはしばしば話し掛けていたような気がするが、『彼』と会話をしたという記憶は陽光達にはなかった。

 だから、この時、初めて聞き取った『彼』の声は、ひどく新鮮に二人の耳に届いたのだった。

 

「よう。十年以上は遅れたが、こうして話すのは初めてだな、ご当主夫妻殿。ふっ、あの嬢ちゃん坊ちゃんのことを、第一声でご当主と呼ぶことになるとは。この身体も年を取ったか。通りで死にそうになっているわけだ」

 

 普段の寡黙さが嘘のように、その童顔と称しても違和感のない作りの顔に不釣り合いな渋み溢れる表情で紡ぐ言葉に――そしてその言葉を紡ぐ新鮮な声色に、二人は驚愕と共にこう言った。

 

「「……っ!? 庭師が、喋った……っ!?」」

 

 娘夫婦のリアクションに、『彼女』は力無い苦笑を漏らしそうになる。

 それもそうだろう。雪ノ下家の庭師と言えば、勤続年数はそれなりに長いのに、誰もその声を聞いたことないことで小さく有名だった。

 

 声を聞いたことはおろか、その表情が変わったところすら、誰も見たことがない。

 草木としか話さない職人庭師――というのなら聞こえはいいが、()の庭師は自分が日々手入れをしている庭の植物とすら会話をしない。

 

 まるで、自分もその自然の中の一部であるかのように、一本の樹木であるかのように、口も開かず、声も発さず、呼吸すらもしていないかの思えるような――人間味を感じない存在だった。

 

 雪ノ下家のスタッフとの窓口は――『彼女』のみ。

 お互い、まるで作り物であるかのような無表情で無感情、だが、だからこそか、お互いとても端正で人形のように整っている容姿である為、よくそういう風に噂されたものだが――雪ノ下家の禁忌(タブー)について知っている者は、それを聞いた瞬間、とんでもない形相で噂を根絶やしにした為、庭師は更に腫物のように孤立したが。

 

 それこそが――『彼女』の狙い。

 いつの間にかそこにいて、誰も違和感を持たず、それでいて誰も関わらない存在として、雪ノ下家に、己の近くに紛れ込ませたのだから。

 だからこそ『彼』が、ましてや雪ノ下陽光や豪雪といった、雪ノ下家の中心部と関わることなど、あろうことか言葉を交わすことなど、本来有り得ることなく――終わる筈だったのだ。

 

「そのリアクションは正解だ。俺は、本来ならお前達とこうしてお喋りする筈もなく、お別れする筈だったんだから」

 

 庭師は、正しくそんなことを、陽光と豪雪に告げると――再び、その童顔を醜悪に裂いた。

 

 毎年、彩り豊かな絶景を提供した、雪ノ下邸の庭の草花を咲かせるが如く――当然のように。

 

「どうも初めまして。俺は()()()()()()だ。仲良くしなくていいから、一刻も早く忘れることをオススメする」

 

 見知った庭師が、今までずっとすぐ傍にいた人間が、改めてこうして分かり易く化物に変わる光景に、陽光と豪雪は衝撃と共に息を呑む――が。

 

「……庭師……副社長……スマイルカンパニー? ……なるほど、そういうことね。『あなた』が会社経営って聞いた時は、ちょっと不思議に思ったものだけど、そういうこと。雪ノ下建設をそんな風に使うだなんて、やってくれるわね、『お母さん』」

 

『彼女』は、純粋にこれには驚きを覚えた。

『娘』の――雪ノ下陽光という“人間”のスペックは素直に称賛していた筈だが、それでもたったこれだけのやり取りで、そこまで辿り着かれるとは思っていなかった。

 

 ともすれば、化物が自分達の会社を秘密裏に乗っ取ろうとしていたと受け取られ兼ねないその真実に、だが『母』は、まるでへそくりが見つかったかのような表情で、『娘』に問う。

 

「……怒っていますか?」

「素直に感嘆しているわ。流石は『お母さん』と言ったところね。……それよりも、私が気になるのは、『彼』の事よ」

「……?」

 

 陽光はあっさりと自分達の会社が化物の隠れ蓑に使われたことは流したが、途端に表情に含みを持たせると、『彼』の背中を見詰めながら、隣の『母親』にこう囁いた。

 

「本家から離れた子会社のオフィスで自分の片腕に添えただけじゃ飽き足らず、本家に庭師として紛れ込ませてまで傍に居て欲しかったのかしら? お父さんが知っていたら、さぞかしやきもきしていたでしょうね」

「えっ?」

 

 思わず零れた小さな声は、まるで人間の女の子のような声だった。

 それには陽光も目を丸くして――だが、次の瞬間には、からかうような、それでいて慈愛溢れるような、『娘』が『母親』に向けるには正反対な目線を送って。

 

 だが、死に瀕している化物は、己が身体に走る激痛などまるで忘れたかのように、奇妙な混乱に陥っていた。

 いや、『彼』が庭師になったのと副社長になった時系列は逆だとか、確かに厳冬には『彼』の存在については表の顔としても話していなかったけれどそれは聞かれなかっただけだとか、『私』と『彼』にはそんなやましい秘密はないしっていうかやましいって――等と一気にたくさんの言葉がせり上がってきたが、だからこそ喉の中で詰まったかのように言葉が出て来ず、ぐっと何かを飲み込んだところで――。

 

「――なぅぁぁぁぜ? あなたが此処にいるのですかねェ? 『女王の番犬(クイーンガード)』よ」

 

 レジー博士は醜悪な笑みのまま首を傾げ、口の形を全く変えずに不気味に問う。

 

「ワタクシの計画(プラン)においては、あなたは最も邪魔な存在だった。故に――あなたにはそれなりの高得点を配分した上で、最も過酷な戦場を用意しておいた筈です。……あなた、あの“最強の黒衣”とか【伝説の海王】などを相手にして――どうして未だに生きているのですか?」

 

 その言葉に、その言葉の意味する絶望を理解出来る『彼女』だけが息を呑んだ。

 

 最強の黒衣。

 伝説の海王。

 

 この両者が相対する、恐らくは、今現在におけるこの世界で、最も激烈であろう――その戦場に。

 

 そんな戦争に――『彼』は、巻き込まれていたのか?

 レジー博士の挙動は変わってはいないが、その言葉は――その声のトーンは、これまでのそれとは違い、本心からの困惑が透けて見えているかのような無機質さだった。

 

 思わず『彼女』も、『彼』を見る。

 こちらを振り返ってくれない『彼』の後ろ姿は、ボロボロで、ズタズタで、傷だらけの満身創痍で、片腕も失って、今にも死んでしまいそうで――それでも。

 

『彼』は、()()()()()

 

彼女(じょうおう)』の元へと馳せ参じ、『(ばんけん)』は堂々と言い放つ。

 

「決まっている――愛の力だ」

 

 その言葉は、路面が凍り、氷杭が乱立し、冷気が充満する――その極寒の戦場を、燃えるように駆け巡る。

 

 レジー博士は勿論のこと、陽光も、豪雪も凍り付かせ――ただ一人。

 

『彼女』の頬を、雪女の頬を真っ赤に熱く火照らせながら。

 

 樹木のような無表情で、誰よりも長く、『彼女』の隣に立ち続けてきた――男は、言う。

 

「愛する女の為なら――男は何だって出来るのさ。そんなことも分からないなら――天才ってのも、大したことないな」

 

 そうだろう、()()――庭師の『彼』は、そう、豪雪の方を振り返って言った。

 豪雪はしばし呆然としていたが、やがて小さく笑い――片手が凍り付いた陽光の前へと躍り出る。

 

 そして、無表情な男達は、小さな笑みを交わし合う――『彼』は豪雪に向かって何かを放り、豪雪はそれを受け取った。

 銀色に輝く美しい宝剣――『彼』がレジー博士の銀腕を斬り落とし、奪い取った武器だった。

 

 そして、男達は、愛する女を背中に庇い、醜悪な怪物へと立ち向かう。

 化物の男と、人間の男が、無数の機械腕を蠢かせる怪物のような人間と向かい合う。

 

 狂った天才科学者は、そんな男達の瞳を受けて――ただ、笑った。

 

「――は、ハハ、ハハハハハハハハハハハハはははははははははは!! あい! 愛! アイィィィイィィイイイイイイイイイ!!!! それはいい!! それは素晴らしい!! なるほど、ではその素晴らしい愛の力を見せてもらいましょう!! お礼にワタクシが愛する人と共に一個の肉塊にしてあげますよォ!! 永遠に一緒ですよ歓喜して死になさい!!」

 

 機械の腕が一斉に降り注ぐ。

 

 隻腕の庭師は頭部を裂かせ、雪女の寄生女王は氷鎧を凍らせ、半端な混血種は右手を掲げ、人間の父親は銀剣を握った。

 

 これが、文字通りの最後の戦い。

 

 一体の化物が、化物のように死亡する、バッドエンドが約束された、誰も知らないとある小さな戦争の記録。

 

 瀕死の化物は、文字通り死力を振り絞って戦った。そして死亡する。その冷たい身体の生命を燃やし尽くす。

 

 その生命の灯火が尽きるまで、後――三分。

 




『彼』は、来てくれた。

 恐らくは、今現在におけるこの世界で、最も激烈であろう――その戦場から。

 ボロボロで、ズタズタで、傷だらけの満身創痍で、片腕も失って、今にも死んでしまいそうで――それでも。


――もう俺は、お前の傍から離れない。

――最期の時まで、俺はお前の傍にいる。


 それでも――『彼』は、来てくれた。
 
彼女(じょうおう)』の元へと馳せ参じ、『(ばんけん)』は堂々と言い放つ。


「決まっている――愛の力だ」


 樹木のような無表情で、誰よりも長く、『彼女』の隣に立ち続けてきた――男は、言う。

「愛する女の為なら――男は何だって出来るのさ。そんなことも分からないなら――天才ってのも、大したことないな」

 そして、男達は、愛する女を背中に庇い、醜悪な怪物へと立ち向かう。

 最後の戦いが、始まる。


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寄生星人編――⑩

……ああ、そうだな。出来ることなら――

――【俺】は、木になって死にたい。


 

 レジー=ペテルド=バルトマールは“天才”である。

 

 知能指数は213を記録し、幼少期からその才覚を遺憾なく発揮した。

 数多くの奇跡を起こし、そして当然のように――人格を破綻させていった。

 

 明確なきっかけは存在しない。少なくとも本人は覚えていない。

 もしかしたら彼にも純粋な心を持っていた頃もあったのかもしれないし、美しい笑顔を振り撒いていた時代もあったのかもしれない。

 

 だが、レジー=ペテルド=バルトマールは、弱冠十三才にして世界最高峰学府より博士号を獲得し、レジー博士と呼ばれ始めた頃には、既に彼は完成していた――既に彼は崩壊していた。

 ニタニタと、あらゆるものを嘲笑うかのような笑顔のみを浮かべ、真っ黒な己を隠すように白衣を靡かせる、狂気のマッドサイエンティストとして。

 

 博士号を獲得した翌年、十四才となったレジー博士は――博士号を剥奪され、ただのレジーとなった。

 彼の天才児の名は、科学界に轟いた――蔑するべき、悪名として。

 

 科学界とは、人間という種族の進化の最先端が切り拓かれていく場所だ。

 人間という種族の強さが、人間という種族の恐ろしさが、人間という種族の醜さが――人間という種族の全てが、そこにはあり、そこに集結する。

 

 そんな世界で栄華を極めたレジー博士という天才は、まさしく人間という種族を体現していたのかもしれない。

 

 この世界で最も、人間らしい人間。

 この世界で最も、人間という言葉に相応しい存在。

 

 だからこそ――人間は天才を拒絶した。

 

 嫌悪した。蔑視した。恐怖した。

 彼という天才を、レジー=ぺテルト=バルトマールという存在を、人間とは認めなかった。

 

 同じ存在だとは認めなかった。

 ()の天才が、このような存在が、誰よりも人間だと――認められなかった。認めたくなかったのだ。

 

 人間という種族が――こんなにも恐ろしく、こんなにも醜く、こんなにも気持ち悪く、こんなにもおどろおどろしく。

 

 こんなにも化物なのだと、絶対に認めるわけにはいかなかった。

 

 弱冠十四才の天才少年は、誰よりも人間だったが故に、人間達から仲間外れにされた。

 

 

 

 そして――某年某月某日。

 

 とある真っ白な研究室が、何十人もの大人達の血液で真っ赤に染め上げられた惨たらしい事件が起きた。

 

 唯一残されていた手掛かりは、たった五秒間の監視カメラ映像。

 

 そこには、真っ白な白衣を真っ赤に汚した少年が、自らを映すカメラに向かって――ニタリと。

 

 まるで化物のような笑みを浮かべて、大きく、分かりやすく、こう伝えていた。

 

 

――『ワタクシこそが、人間だ』

 

 

 その日、一人の天才が、世界から姿を消した。

 

 レジー=ぺテルト=バルトマールという名は、どんな記録にも残されていない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 無数の機械腕が、闇の世界から飛び出るように、闇の世界へと引きずり込むかのように、次々と陽光達に向かって襲い掛かって来る。

 

 だが、これまで幾度となく“無数の”という表現を使用しておいて申し訳ないが、当然ながらそれは無数に存在しているわけではない。

 レジー博士が背負うあの銀の立方体の体積から考えると物理的に到底有り得ないような本数の機械腕であることは間違いないが、それでも文字通りの千手とはいかないであろうことは明確だ。それどころか百にも満たないだろう。

 

 この『怪物兵装(エイリアンテクノロジー)』のモデルとなった、レジー博士が画面越しの情報のみしか得られなかったと嘆き、いつかこの眼で対面することを切望している千手観音の姿をした謎の星人も、文字通りの千手を携えていないことは、画面越しの粗い記録映像からも明らかだった。

 むしろ、単純な腕の数ならば、この機械腕の怪物兵装(エイリアンテクノロジー)の方がずっと多いだろう。

 

 だがそれは、あの千手観音が所持していた数々の摩訶不思議な、まさしく星人の異能としか思えないようなテクノロジーの武具に、それらを模倣した己の兵装(さくひん)が及ばないことを確信しているレジー博士の心の表れともいえるものだ。

 

 謎の千手観音は、数多くの戦場で腕を鳴らし、数多くの戦争で名を轟かせた、勇者とも呼ぶべき歴戦の黒衣の戦士(ハンター)達を、たった一体で全滅させてみせた。

 一匹の犬(機獣)の視点で残されたその記録映像は、当然ながら作品としての体裁は保たれておらず、必死に逃げ惑い、恐慌で揺れ動き、ピントすら碌に合っていなかったが――その戦闘は、いっそ美しくもあった。

 

 それほどまでに、あの千手観音は強かった――その強さに、正しく化物に相応しい強さに、レジー博士は魅了された。

 

 黒衣の特殊繊維すら容易く断ち切る宝剣。

 肉も骨も残さず一緒くたに溶かす水瓶。

 自由自在に空中を飛び回る錫杖。

 光の速さで闇を切り裂く灯篭。

 そして――時を戻す鏡。

 

 どれもこれもが、余りにも情報が足りないということもあるが、現在の人間の科学力では、真似は出来ても模倣にすら届かない高みにあるテクノロジー。

 

 レジー博士も全力で挑んだが――結果。

 

 宝剣は量産品のガンツソードで応用し。

 水瓶は皮膚を溶かすのが限界の強酸で妥協し。

 錫杖は対象を捕捉した上での追尾機能を持たすのが精一杯で。

 灯篭はただ直線状に突き進む軌道のレーザーのみしか放てず。

 そして、鏡は――。

 

 勿論、兵装としての完成度の上昇を諦めたわけではない。

 クオリティで劣る分を数でカバーすべくありとあらゆる武具を持たせた腕を用意し、灯篭には切り札としてチャージ機能による威力の増大を可能にした。

 結果として、現在に至るまでに完成しているどの兵装よりも、戦闘力においては最強と自負出来る仕上がりにまで高めることが出来た。

 

 だが、それでも、この兵装が未完成品であることは、決して成功作品ではないことは否めない。

 これほどまでに、天才である己の能力をつぎ込んでも、未だ辿り着くビジョンすらも見えない。

 

 だからこそ、レジー=ぺテルト=バルトマールは、追い求める。

 

 誰よりも人間であるものとして。誰よりもまっすぐに、星人(ばけもの)に向かって手を伸ばすのだ。

 

 全ては、人間を愛するが故に。誰よりも――人間(おのれ)を真摯に愛するが故に。

 

「ワタクシは! 全ての星人(ばけもの)を超えてみせる! 人間として!!」

 

 無数の機械腕が陽光達に向かって襲い掛かる中――小さな人間の両手に。

 守るように抱きかかえていた、銀色の小さな黒い火を照らす、その小さな灯篭を。

 

 レジー博士は、掬い上げるように、宵闇の空に向かって放り投げた。

 

 くるくると回転しながら宙を舞うその灯火(ひかり)に、迎撃態勢を整えていた『彼女』達が一瞬目を奪われ――そして。

 

 

 一斉に、眩い破壊が振り撒かれた。

 

 

「ワタクシこそが!! 人間だッッ!!!」

 

 鳥から空を奪ったように。魚から海を奪ったように。

 

 動物から山を奪ったように。神から地球を奪ったように。

 

 他者の全てを学び、奪い――そして超える。

 

 全ての強さを手に入れる弱者。

 

 傲慢で、強欲な、醜き簒奪者。

 

 レジー博士は、笑う。

 

 

 我こそが――人間だと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 火影(ひかげ)(かぶと)は“半身”である。

 

 ここでの火影兜とは、所謂“女王の番犬(クイーンガード)”という二つ名を所持する寄生(パラサイト)星人であり、『彼女』と――【彼女】と最も長く、最も深く、共に戦い、共に寄り添い、寄生(パラサイト)星人という名でカテゴライズされるまでに同族達を纏め上げた、いわば創設メンバーである古株の青年の名前である。

 

 当然、本名ではない。

 名前というものに執着しない寄生(パラサイト)星人の例に漏れず、数多くの名を使い分けて来た『彼』――【彼】にとって、少しだけ特別な名前ではあったが、それでも、【彼】にとっての本名でも、偽名でもない。

 

【彼】は、名前を持たない。自らに名前を付けることをしない。

 だが、どうでもいいとどんな名前でも許容することはしない――明確に、只唯一の名を持つことを禁じている。

 

 火影兜は、雪ノ下家に潜入する際に【彼女】より贈られた、最も使用歴の長い名前ではあるけれど、それすらも、仕事時以外は【彼女】にすらその名前で呼ばれることを拒んだ。

 

 それは、ただ一つの敬意に他ならない。

 

『彼女』にとって――【彼女】にとって、[彼女]が余りにも特別な存在であるように。

 

『彼』も――【彼】もまた、[彼]を一つの生命として認め、尊重している、余りにも珍しい寄生(パラサイト)星人の一人だった。

 

 

 

【彼】の宿主となった[彼]は――死んでいるかのような浮浪児だった。

 

[彼]には何もなかった。

 親も、家族も、名前も――生も。

 

 宇宙から飛来し、宿主を本能で探していた【彼】が体内に入り込んだ時点で、[彼]は既にその身体機能の殆どが停止していた。

 

 このまま死亡すれば、死因は餓死と診断されるだろう。

 瘦せ細り、殆ど骨と皮しか残っていないかのような有様の少年は、じめじめとした不衛生な路地裏で、生ゴミの詰まったポリバケツに向かって手を伸ばした体勢で這いつくばったまま死に掛けていた。

 

 既に思考機能は停止していて、恐らくは只の本能故の行動だったのだろう。

 知性に引き寄せられる筈の寄生(パラサイト)星人であるにも関わらず、こんな個体を宿主に選択してしまった『彼』は、恐らくは“失敗”したのだろう。

 

 今はまだ本能による行動の最中であるが故に気付かないが、このまま脳を乗っ取り、知性が芽生えたその瞬間に、己の失敗に気付くに違いない。

 そして、その死に掛けの身体をどうにか動かして路地裏を飛び出し、生存本能の働きに身を任せるがままに、すれちがった人間(どうぞく)達を貪り尽す羽目になるに違いない。もし、飛び出た先に人間がいなければ、そのまま余りにも短い生涯を終える羽目になるだろう。

 

 そう――その筈だった。ただそれだけの、愚かな“失敗”談で終わる筈だった【彼】と[彼]の邂逅は、二つの大きな特異点があった。

 

 一つは――【彼】が普通ではなかったということ。

 それは寄生(パラサイト)星人という化物だということではない――普通ではない寄生(パラサイト)星人の中でも、【彼】は群を抜いて普通ではなかった。

 

【彼】もまた、化物の中の化物だったのだ。

 

 見知らぬ名も無き少年の耳から侵入した【彼】は、そのまま本能に導かれるがままに脳を食らい、死に掛けの少年を呆気なく絶命させた。

 死に掛けの少年は、あっさりと、ゴミ捨て場で生ゴミに向かって手を伸ばしながら死んだ――最終的な死因は餓死ではなかったけれど、およそ人間として限りなく惨めな死に様ではあった。

 

 そして、【彼】はそのまま脳を乗っ取り、首から上を完全に己の細胞と置き換えて――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 これは極めて異例であり、本来ならば有り得ざる異常事態だった。

 

 本来の寄生(パラサイト)星人は、頭部を――正確には脳を乗っ取ることで、その宿主に寄生し、明確な生を得る。

 そして、首から上の頭部を己の細胞と置き換えて同化し、全身を操る権利を強奪し、宿主の生命を乗っ取り――化物として完成する。

 

 つまりは、首から上は化物だが、首から下は宿主の身体のまま――人間のままの筈なのだ。

 

 もう二度と自らの意思で動かせないのだとしても、脳を乗っ取られることで痛みも殆ど感じないとしても、リミッターも外され己を破壊するような性能を引き出されるのだとしても、それでも、人間のまま、化物に使われていく筈だった。

 ただ栄養を頭部へ送る為の器官として、化物を生かす為の装置として使用されていく――筈だった。

 

 だが――【()()()()()()()()()()()()

 

 首から肩へ、肩から胸へ、胸から胴へ――。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 肺も、胃も――心臓も。

 

 化物へと――生まれ変わっていく。

 

 死んでいた人間の身体が、化物の産声を上げていく。

 

 通常の寄生(パラサイト)星人が、何故、脳のみを乗っ取るだけで収まるのか。

 

 これより後――寄生(パラサイト)星人の長となる【女王】は、数々の仮説を挙げることになる。

 脳を乗っ取るだけで精一杯なのか、はたまた脳による随意筋の筋組織の操作方法を学習することは出来るが内臓などの不随意筋までは掌握することは出来ずに栄養補給の為に残すのか――だが、少なくともそれらの仮説を、【彼】だけはこの時、覆してみせた。

 

 脳を乗っ取った勢いそのままに、首から下へと侵食の手を伸ばし、頭部のみならず随意筋や不随意筋の取捨選択すらせずに筋肉や内臓をそのまま寄生細胞体へと塗り替えて、頭から順々に「考える筋肉」へと変貌させていく。

 

 この時――もし、という、可能性が、一瞬の刹那のみ、確かに生じた。

 

 この時までに、そしてこれから先に、数多くの寄生(パラサイト)星人が地球という惑星で誕生した。

 他の星に寄生(パラサイト)星人のような化物がいるかどうかは定かではないが、少なくとも地球においては、寄生(パラサイト)星人は寄生(パラサイト)星人しかおらず、そして、後にも先にも、【彼】のような存在は、存在しなかった。

 

 首から下を侵食する寄生(パラサイト)星人。内臓をも化物の色に染める寄生(パラサイト)星人。

 それは【彼】が、あの【女王】にすら不可能だった偉業をも成し遂げられる可能性を秘めた、寄生(パラサイト)星人という化物の根底を揺るがす才能を持った特別体であるという何よりも証拠だった。

 

 そう――()()()

 だから、これは――()()、だ。

 

 もし、【彼】が選択した宿主が――[彼]ではなかったら。

 

 ゴミ捨て場で、骨と皮に近い痩せ細った状態で、生ゴミに手を伸ばしながら這いつくばった体勢で死に掛けていた、[彼]という人間でなかったのなら。

 夢も、希望も、思い出も、名前すらも無かった[彼]という人間でなかったのなら。

 

 もしかしたら――生まれていたのかもしれない。

 

 内臓すらも化物の色に染めることの出来た[彼]が、そのまま下半身も――生殖器官も化物に、寄生細胞体へと塗り替えることが出来ていたのなら。

 寄生(パラサイト)星人という遺伝子を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことが――そんな可能性が、生まれていたのかもしれない。

 

 これは只の可能性に過ぎない。

 例え生殖機能を塗り替えられたとしても、生まれてくる子供はやはり混血種(ハイブリッド)の半端ものに過ぎず、雌の個体に寄生した【彼】のような特別体が生まれない限り、寄生(パラサイト)星人の完全なる子孫は残せず、そのまま衰退していく運命から逃れられない欠陥種族のままだったのかもしれない。

 

 そして、この――もし、は。そのまま、もしという可能性のままで終わった――消えた。

 

 この【彼】と[彼]の邂逅が、只の“失敗”談で終わらなかった、もう一つの理由。

 

【彼】が、普通の寄生(パラサイト)星人ではなかったように。

 

[彼]もまた――普通の人間ではなかった。

 

 骨と皮に近い状態に成り果てるまで瘦せ細り、餓え藻掻き、苦しみ悶えて、遂には湿った薄暗い路地裏で、誰にも見られることなく、ゴミ捨て場の生ゴミに向かって、這いつくばりながら手を伸ばして――最終的にはあっさりと死んだ、救いようもなく惨めな少年は。

 

 寄生(パラサイト)星人に唯一生まれかけた希望を。人間にとっては悪夢に等しい絶望を。

 

 打ち砕く、強さを秘めていた生命だった。

 

 ()()()――()()()()

 

 化物に創り変えた上半身を起こした――『彼』は。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 後に【彼】は、【彼女】にこう語る。

 

 恐らくは、【俺】は[(コイツ)]に、負けたんだ――と。

 

 名も無き[彼]は。

 秘めた強さを終ぞ発揮する機会も与えられないままに、惨めに呆気なく死亡した[彼]は。

 

 己が身体の全てを奪おうとした化物を。何も残せなかった己の、人間としての死すらも踏み躙ろうとした許されざる侵略者を。

 

 死して尚、理不尽と戦い――そして、遂に、勝利したのだ。

 

 故に――火影兜は、“半身”である。

 

【彼女】の――『彼女』の片割れとして、右腕として――半身として、戦い続けてきた【彼】は――『彼』は。

 

 化物の上半身と、人間の下半身を持つ、雪ノ下陽光(ひかり)や『彼女』とはまた違った形の――この世に一つしかない『混合種(キセキ)』なのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 闇夜を漂い、くるくると回りながら、銀色の灯篭は三百六十度に破壊の閃光を放つ。

 

 それはまるで、閃光の豪雨。

 頭上から降り注ぐ眩いレーザー光線群に、『彼女』達は目を見開き、息を呑んだ。

 

 が――『彼女』と陽光は、雪女の血を引く冷たい頭脳を持つ母娘は、一瞬の硬直の後に直ぐに気付く。

 

 これは、悪手だ。

 確かに強力無比な恐ろしい攻撃だが、これでは自分まで等しい危険に晒されてしまう。

 あれは三百六十度に向かって放たれるからこそ脅威となり得るが、三百六十度逃げ場を失くせば、今度は己もレーザー光線を浴びるリスクを被ることになる。それならば、自分の手元から固定砲台として、こちらに向かって一発一発を狙い撃つか、横一面に掃射する方が余程脅威だし、何より一方的に捕食者になれる。

 

 にもかかわらず、あの天才は天からの無差別攻撃を選んだ。

 

「!?」

 

 そんな二人の疑問に答えるように、降り注ぐレーザーの弾幕の向こう側に、『彼女』達は垣間見た。

 

 一斉に攻撃に向かってきたと思っていた無数の機械腕――そのおよそ半分が、レジー博士を取り囲むように、ドームを作るかのように奴の手元に戻っていた。

 自らの手であんなにも分かりやすく灯篭を打ち上げたのは、『彼女』達の意識を逸らす為――そうして圧倒的な攻撃手段の構築と共に、己への確実な防御手段の構築を同時に進めていた。

 

 横からの平面掃射ならば、恐らくは再びあの氷の盾で防がれると踏んだのだろう。それ故に、自慢の一品である機械腕の怪物兵装(エイリアンテクノロジー)――その半分を失うことを覚悟しつつ、超短期決戦を選択したのだ。

 

 頭上を守るには、氷の盾ではなく氷のドームが必要だ。

 死に瀕した混合種と、半端ものの混血種にとって、どちらがより負担になり、死期を早めることになるかは自明の理――極限まで追い詰められている『彼女』等にとってそれは、正しく致命的な負担となるだろう。

 

 それは偏に、レジー博士がそれ程までに『寄生女王(パラサイトクイーン)』を評価していたということに他ならない。

 こと戦闘力においては、寄生(パラサイト)星人としては上位個体ではあっても、決して上位種族には比べるべくもない存在であった『彼女』は、それでも、一個体としてはそれなりにその名は星人界では轟いている。星人について誰よりも熱心に調査を続けていたレジー博士の耳に、幾つもその逸話が届く程に。

 

 それは、レジー博士にリスクを孕んだ短期決戦を選択させ得るに値する奇跡の数々だった。

 裏世界にどっぷりと浸かり、表の世界で死んでから、裏の夜の世界で生き続けてきたレジー博士は、知っている。

 

 この世界には、いるのだ――“特別”な存在が。

 特別な役割を与えられ、特別な役どころを演じる能力(ちから)を持つモノ達が。

 

 物語を歩み、物語を紡ぎ、物語を生きるモノ達が。

 

 誰しもが誰かにとっての特別だ。みんな違ってみんないい。

 そんな素敵な言葉の外側の住人達が、世界には、確かにいるのだ。

 

 誰しもにとっての特別で、みんなよりも明らかに格上の、この世界にとっての重要度が違う存在が、その他大勢で括れない重要登場人物(ネームドキャラクター)になり得る素質を秘めた存在が、世界には明らかに存在する。

 

 己は世界で最も優れた人間だと、この世で最も価値ある存在だと、そう心の底から自負していた天才は、ある日それを思い知った――()()()()()()()()()()()()()

 

 だからこそ、レジー博士は殺し急ぐのだ。

 それは――感じているから。

 この死に掛けの化物に。雪女と寄生獣の血が混じった虫の息の怪物に。

 

 追い詰め過ぎてはならない。殺すなら一息に容赦なくだ。追い詰められれば追い詰められる程、万物は“奴等”に味方する。奇跡が、物語が、世界が――“奴等”を生かそうとする。

 

 真偽などどうでもいい。そうかもしれない――そう思わせる程の可能性だけでも十分に危険だ。

 その片鱗だけでも、自分のような凡人(モブキャラ)にとっては、殺したくなるほどの羨ましい――才能なのだから。

 

「……死ねッ! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねシネェェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!!!」

 

 だが――見逃していた。

 

「――社長」

「……え?」

 

 レジー博士は、その光を見た時から、『彼女』達の輝きに目を奪われていた。

 

 雪女の身体に寄生し、これまで数々の奇跡を引き起こしてきた傑物である『寄生女王(パラサイトクイーン)』の二つ名を持つ『混合種(ミックス)』。

 そんな『彼女』の血を引く実娘であり、人間と雪女の半血(ハーフ)である、雪ノ下陽光(ひかり)という『混血種(ハイブリッド)』。

 

 共に生まれながらにして奇跡の存在であり、世界にとっても特別な存在となり得る才能と可能性を持っていた――目を潰さんばかりの輝きを放つ、眩い太陽のような原石。

 

 

「先に()くぜ」

 

 

 だからこそ――見えなかった。

 

 その存在は知っていた。その脅威も知っていた。

 例え『彼女』の影に隠れていたとしても、その逸話が『彼女』の伝説の添え物のような扱いだったとしても――決して、『彼女』の輝きに打ち消される程度の存在ではなかった。

 

 どれほど眩い光の傍でも、常に影は寄り添ってきた。

 

「死ねッ!! 死ねッ!! 死ねッッ!! 死ねぇぇええッッッい!!!!?」

 

 光の背後――陰から、光を背に浴びて――影へ。

 

 まるで光を守るように。まるで光から守るように。

 頭上から降り注ぐ閃光を防ぎながら――影は真っ直ぐに伸びていく。

 

 機械腕の森を、縫うように――枝分かれし、伸びて、伸びて、敵を捕らえた。

 

 それは――()()()()()

 

 人間の下半身から伸びた、化物の上半身が変化した、一本の大樹だった。

 

 まるでたっぷりの光を浴びて伸び伸びと成長したかのような、樹木のような男が作り上げた、化物が成り果てた奇跡の大樹だった。

 

 寄生(パラサイト)星人は、己が細胞と――寄生細胞体と同化した部位を変形させることが出来る。

 通常の個体は頭部。寄生部位を失敗した個体は各々の寄生した――右手などの――部位を、変形させることが出来る。

 

 一部の――【彼女】のような――例外を除いて、寄生部位以外の肉体は変形させることは出来ない。【彼】の場合、変形出来るのは上半身だけだ。

 

 そして、“変形”にも、限界がある。

 寄生部位を伸ばしたり、裂かせたり、鋼鉄のように硬くしたり――といった“程度”だ。そして、あくまでも身体の形を変えているだけなので、本体と切り離すことも出来ない。

 腕を刃に変えたり、翼を作ったりすることは出来るが、全く見知らぬモノに変形することは出来ず、またそれが複雑かつ大規模になればなるほど、変形のクオリティは寄生(パラサイト)星人本体の資質に依ることになる。

 

 早い話、規格外の変形を行う為には、規格外の莫大なエネルギーが必要となる。

 

 正しく、命を削るほどの死力を振り絞り――()()()()()()()()()()

 

「――ッ!? あなた……火影(ひかげ)……ッ! (カブト)!!」

 

『彼女』が――【彼女】が叫ぶ。

 普段は呼ぶことを禁止されている『彼』の名前を――自分が贈った、【彼】の名前を。

 

 ガスッ、ガスッと火影の両足が勢いよく地面に埋まった――まるで根のように。

 

 その間も上半身は、すくすくと、伸び伸びと成長を――生長を続ける。

 機械腕のドームの間に枝を滑り込ませ、銀色の半球を内側から破壊した。

 

 その中から飛び出したのは、不気味な大樹に――【彼】に捕らえられた白衣の黒衣だった。

 

「グァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 四肢を(つる)で縛り上げられ、やがてその蔓は伸びてきた大樹の幹と同化した。

 それに巻き込まれるかのように、レジー博士の身体も幹の中へと沈んでいく。

 

 既に大樹の先端は、山林を上から見下ろす高度となっていた。

 灯篭が回っていた地点よりも、ずっと高い場所まで成長した大樹の、天辺付近にレジー博士は晒されている。

 

 気が付いたら、大樹の成長が――生長が止まっていた。

 周囲の山林と比べても、まるでそれらの木々の王であるかのように、別格の巨大さで君臨する不気味な大樹。

 

 それを支えているのは、決して筋骨隆々ではない人間の青年の下半身。

 およそ滑稽ですらあるこの不可解な光景を、呆然と眺めていた豪雪と陽光だったが、やがて陽光が恐る恐る、『彼女』に向かって声を掛ける。

 

「……あ……これ……庭師、さんが? すごい、けど……とりあえず……戻って、アイツが死んでるのか、確認――」

「――無理よ」

 

 娘の言葉を遮って、『彼女』は――【彼女】は、大樹と変わり果てた上半身を――ずっと影として己に寄り添い続けた【彼】を、労わるように、そっと触れた。

 

「もう、死んでるわ」

 

 触れた幹は、まるで植物のように冷たかった。

 

 

――【私】が氷のようならば、あなたはまるで樹木のようね。

 

 

 昔、とある日。

 

 庭師の職務中の『彼』の元を不意に訪ねた『彼女』は、ぼんやりと自らが世話をする桜の木を見上げていた『彼』に向かって、こんなことを言った。

 

 その時『彼』は、背後から近づいてきた『彼女』の方を振り向いて一瞥した後、再びぼんやりと無表情で木を見上げて、こう呟いたのを、『彼女』はこんな時に思い出していた。

 

 

――……ああ、そうだな。出来ることなら、【俺】は木になって死にたい。

 

 

 太陽が昇り、くっきりと大木によってできた影を浴びながら、『彼』は――【彼】は、そう言っていた。

 

 

――どっかの誰かが、安らげる影を作る。どっかの誰かの、寄り添える支えになる。ほら、木って素晴らしいじゃねぇか。

 

 

 そう言って、珍しく、あの【彼】が、微笑んでいた。

 

 やっぱりそれは、温かい――樹木のような笑みで。

 

「…………バカ」

 

 娘に見せないように背中を向ける【彼女】の声は、肩は、小さく震えていた。

 

「……もういいわよ。……お願いだから、もう休んで」

 

 いつだって、どこだって、【彼】は傍にいてくれた。

 

 初めて出来た仲間だった。それ以来ずっと一緒だった。

 

 相棒で、副官で――ずっと、【私】の、“半身”で。

 

「――――」

 

 そっと、幹に額を付けて、口付けをした。

 

 すると、大樹はゆっくりと傾き始める――根を張っていた下半身が、まるで腰を下ろすかのように、座り込んだのだ。

 ちょっとだけ休むと、そう言うように。【彼女】はクスリと微笑んだ。

 

 尻餅をつくかのように座り込んだことによって、大樹は斜めに傾いたが、それでも倒れ切ることなかった。

 

 まるで発射台のように――死刑台のように。

 大樹の天辺、登り切った先に。

 

 殺すべき人間が――そこいる。

 

 目を上げた【彼女】の――『彼女』の、その視点の先に――磔の人間の、口元から血を流すレジー博士の、それでもニタニタと笑う天才の、その手元に。

 一本の、生き残った機械腕が――眩い灯篭を届けていた。

 




 その男は――影だった。

 眩く輝く光の傍で、常に寄り添い続けた影だった。

 その男は影だった。樹木のような男だった。

 相棒で、副官で、番犬で、右腕で――“半身”だった、その男は。

 己を照らし続けた太陽を、己を生かし続けた女王を。

 守り、支える――影となる為に。

 男は、大樹となったのだ。


――……ああ、そうだな。出来ることなら、【俺】は木になって死にたい。

 
 温かい――樹木のような笑みを浮かべていた男は。

 愛する女を守る為、大樹となって死んだのだ。

 太陽のような雪女と、ずっと傍に居る為に。


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寄生星人編――⑪

 彼は普通の人間だった。

 豪雪は微笑む――これが、愛の力なんだと。


 

 雪ノ下陽光(ひかり)は“半血”である。

 

 たった一代で千葉県でも有数の権力者へと上り詰めた稀代の人間と、雪女の身体に寄生した奇跡の化物の間に生まれた半血(ハーフ)――『混血種(ハイブリッド)』である。

 

 雪女の血筋で、夜の世界に棲息する化物の娘でありながら、太陽の光を意味する名を持って生まれた彼女は、生まれた時から、誰からも愛される子供だった。

 人間の父親は勿論、化物の『母親』ですら、我が子は人間だと、そう認識せざるを得ない程に――雪ノ下陽光は、世界からも愛された子供だった。

 

 その容姿は、まるで天女のように美しく。

 その才知は、まるで天才のように冴えていて。

 その笑顔は、まるで天使のように愛らしかった。

 

 人間離れしたルックスを誇り、人間離れしたスペックを誇り、人間離れしたカリスマ性を誇っていても、誰しもが、こう信じて疑わなかった。

 

 雪ノ下陽光は、世界に愛された――人間だと。

 

 だが、真実として、雪ノ下陽光は半血だった。

 純粋な人間ではなかった。半分は化物で出来ていた。

 

 混じりモノ。半端モノ。出来損ない。稀少種。

 数々の意味を持つ“混血種”という存在であることが発覚した彼女は――だが、しかし。

 

 もし、ここで、彼女の心境を尋ねることが可能だとしても、お前はそんなモノな訳だがどういう気分なのだと突き付けることが可能だとしても、彼女はそんな愚問を尋ねた愚か者に対して、見下すことを隠そうともせずにこう言ってのけるだろう。

 

――何を馬鹿なことを。私は私以外の、ナニモノでもないわ。

 

 自分が何で出来ているのかなど、どうでもいい。

 

 私の父親は雪ノ下厳冬。母親は、雪ノ下照子と、そして『彼女』だ。

 この身体は、父と母にもらったモノだ。流れる血潮は、父と母から受け継いだモノだと。

 

(私は――私だ)

 

 光り輝く才能が、彼女の魂を照らし出す。

 美しい新雪のような穢れなき白が、太陽の光のように真っ白に彼女を輝かせるのだ。

 

 雪ノ下陽光は“半血”である。

 人間の美しい弱さと、化物の恐ろしき強さを併せ持つ――混血種。

 

 そう、混血種には、もう一つの意味がある――奇跡の存在。

 

 傾く大樹の先に、不気味に光る灯篭の輝きが増していく中――そんな汚い光を打ち消すように、己の前に出て、美しい輝きを纏う彼女を見て、『彼女』は思う。

 

 ああ、やはり――我が子は、人間だ。

 

 我が子なのに、人間だ。

 

 化物の血を引いていようと。人(あら)ざる異能を発動しようと。

 

 こんなにも美しい存在が、化物である筈がない。

 

 こんなにも暖かい存在など――人間であるに、決まっている。

 

 それが、今は、こんなにも誇らしい。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「立って、お母さん。立ち上がって、前を向きなさい」

 

 変わり果てた“半身”に、戦い抜いた相棒の成れの果てに――傾いた大樹に、膝を着いて手を添えていた『彼女』に背中を見せながら、雪ノ下陽光は言った。

 

「上を向いて、敵を見据えて、最後の瞬間まで戦いなさい。庭師さんがそうしたように。それが、上に立つ者の務め――それが、女の、意地というものでしょう」

 

 遂には左腕をも凍らせながらも、真っ白な氷気を纏う彼女は――ただ美しかった。

 その氷気は、己の身体を蝕み、凍り付かせると知りながらも、それでもなお、氷結を恐れず、支配してみせると言わんばかりに異能を発動し続けている証拠――戦意を失わず、言葉通り、戦い続けている証拠だった。

 

 その背中に見蕩れていた『彼女』は、“半身”を引き裂かれた痛みと喪失感に打ちひしがれかけていた己が、娘の言葉と背中に奮わされたことに気付く。

 

「……娘が『母親』に女を語るなんて……十年早いわね」

 

『母』は並ぶ。

 己の子宮から産み落とした、己が半血を受け継いだ、この世の何よりも美しい――“半血”と並び立つ。

 

 目の前に伸びるのは、一本の大樹。その先には、煌々と怪しく輝く一つの灯篭を持つ、ニタニタと笑う人間(かいぶつ)

 大樹に身体を呑み込まれても、身動き一つ取れなくとも、男は笑うのを止めない。天才は諦めることを知らない。

 

 人間は――どこまでも怪物になれる。

 だから天才は――何度でも、こう叫ぶ。

 

「シネェェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!」

 

 最大限にまで膨れ上がった怪炎は、遂には一筋の巨大な光線となって発射された。

 それはレーザーよりもビーム――キャノンと表すべき、まさしく大砲が如き一撃。

 

 大樹の表面をガリガリと()き削りながら、その大樹と同等の直径を持つ破壊光線が、真っ直ぐ大樹の根元で並び立つ母娘(おやこ)に向かって放たれた。

 

 対して、母娘は、一歩も逃げずに、立ち向かった。

 

『母』は氷が融けたかのような静かな微笑で。『娘』は太陽の光のような温かな嬉笑で。

『母』は真っ白な刃の右手を、『娘』は凍り付いた左手を――前に突き出す。

 

 一度、瞑目して――『母』は。

 美しい白刃の右手を、己が化物の象徴たる右手を――刃物を握ったことすらなさそうな、白魚のような女性の手へと、変形――変化させた。

 

 最早、これが本来の姿なのか、それとも仮初(かりそめ)の化けの姿なのか、自分でもよく分からない。

 それほどまでに、己は化物に染まり、そして人間に染まったのだ。

 

 小さく苦笑した『母』は、そっと隣の『娘』を見る。

 陽光は、悪戯っぽく微笑みながら、凍り付いた左手を揺らした――まるで親に甘えるように。

 

 その微笑みに、微笑みを返しながら『母』は、その白魚の手をそっと伸ばして、容易く白刃へと変わる己に恐怖を覚え躊躇しながらも――触れた。

 

 壊れ物に触れるように、冷たく凍り付いた娘の手に触れ、そして握った。

 やがて、ゆっくりと、ゆっくりと――強く、強く、握り締めた。

 

 娘の体温を求めるように、強く、強く握り、そして――氷を溶かした。

 

 陽光の凍り付いた手が、人間の体温を取り戻していく。

 まるで、日の光を浴びたかのように。

 

 正確には、雪女の異能を、氷を操る異能を操る『彼女』が異能によって氷を溶かしたのだ。氷を操るということは、氷を創り出すだけでなく、当然、溶かすことも出来る。更に正確に言うならば、()()()()()()()()()()()()()()()()のだが、それはいずれ語る機会もあるだろう。

 

『母』が、娘を蝕む氷を溶かした――今は、それだけが事実だ。

 

 そして、『母』と『娘』は――指を絡めながら、お互いの体温を感じるように手を繋ぐ。

 五指を組むように繋いだそれを、『母娘』は、銃口を突き付けるように、自分達に迫る破壊光線へと向けた。

 

 ギュッ、と。

 お互いを感じるように、力を分け与え、膨れ上がらせるように――鼓舞し合うように、勇気付け合うように、『母』と『娘』は、支え合う。

 

(――伝わる)

 

『娘』は受け取る。

『母』の(てのひら)から、『母』の温もりから――『母』の、冷たさから。

 

(――伝わる。この冷たさの使い方が。雪女の冷気の扱い方が。……すぐさま完全に掌握することは出来ない…………でも、この一撃になら! お母さんと、一緒なら!)

 

 そして、それは、一方通行ではない。

 

(――伝わる)

 

『母』は受け取る。

『娘』の(てのひら)から、『娘』の温もりから――『娘』の、暖かさから。

 

(――伝わる。この暖かさの強さが。人間の……美しさが。……もう、『私』の生命も尽きるでしょう。………でも、この一撃だけは…………この子、だけは――ッ)

 

 瞬間――雪女の『母娘』の繋いだ手から、吹雪が発生した。

 

 怪炎と雪嵐が激突する。

 

 閃光で世界が包まれ、衝撃が轟き――――そして。

 

 

 

 ()は、これをただ見ていることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雪ノ下豪雪は“人間”である。

 

 天才でもなければ半血でもない。

 何処からどう見ても何処をどう切り取っても、何の変哲もない普通の人間である。

 

 知能も、運動能力も、容姿も、体躯も、いずれも標準以上ではあるけれど、どれもが規格を外れない、優秀の二文字で収まってしまう程度の男だった。

 

 生まれは標準よりも少し貧しい家庭だった。母親がいないシングルファザーの家だったけれど、金に苦労した覚えはない。良くも悪くも倹約家な父親の方針で贅沢を出来たことは滅多になかったけれど、それでも普通に幸せだった。

 父の幼馴染だという女性がちょくちょく家に来ては遊んでくれたし、一緒に旅行にすら出掛けてくれた。

 

 空腹に飢えいたこともなく、愛情に餓えたこともない。

 親族を殺されたこともなければ、幼少期に酷いイジメや虐待を受けたこともあり得ない。

 

 数奇な運命も背負っておらず、特別な血筋も流れていない。

 

 雪ノ下豪雪――彼は普通の人間だった。

 そんな普通な男に、強いて挙げる特別があるとしたら――そう。

 

 雪ノ下陽光という()()にとって、特別な人間であったということだろう。

 

 豪雪少年は生まれたその時から凡庸だったが、陽光少女は生まれたその時から特別だった。

 この世に幾億幾万といる人間の一個体に過ぎなかった豪雪は、だが、偶々偶然、何の因果か、雪ノ下陽光という世界に愛された存在に、最も近い場所に生まれ落ちた。

 

 生まれて初めて出会う、自分以外の同世代の存在。

 これがもし、小学校入学時に出会う何十人もの一人だったならば、豪雪は陽光の特別にはなれなかっただろう。

 

 あくまで、親同士に複雑過ぎる繋がりがあり、それ故に、それこそ物心つく前から、同じ病室で誕生したその瞬間から、他の誰よりも先にお互いに出会っていたからこそ、陽光にとって豪雪は特別な存在となりえ、豪雪は特別にとっての特別となれる程度の人間となりえたのだ。

 

 兄弟もおらず、孤児であったシングルファザーの父親のみが家族だった豪雪少年にとって、周りは全て()()だった。

 訪ねて来るのは父の友人ばかりであり、その殆どが独身であった者達ばかりだったが故に、豪雪の周囲に己と同世代の子供は――豪雪の友達となれるような存在はいなかった。

 

 幼い豪雪にとって大人とは自分とはまるで違う別の生物であり、彼等の話は己とは別世界の出来事で、豪雪にとって彼等は異世界の住人のようだった。

 そんな中、豪雪にとって己と同じように幼く、同じ目線で同じ世界を生きる存在は――雪ノ下陽光だけだった。

 

 だからこそ、豪雪は幼き日、こんなことを思っていた。

 

 自分は()()()()()()()()()()()()、と

 

 子供心ながらに感じていた――目の前のこの女の子は、自分とは明らかに違う存在だと。

 

 この子は道行く人々の誰もに愛された。

 この子は見聞きした事柄の全てを理解した。

 この子は目にした動作の何もかもを再現した。

 

 そんな子が、そんな存在が、自分と同じ存在だとは思えなかった。

 そんなことを父親に言うと、笑って頭を撫でられながら、それはお前が男の子であの子が女の子だからだよと諭されるように言われる。

 

 だが、そんな言葉が当て嵌まらないことを、子供ながらの直感力で豪雪は理解していた。

 

 あの子は違う。自分とは違う。

 それでも、あの子は愛されている。大人達に愛されている。

 ならば、あの子は大人達の仲間で、大人達はあの子と同じ世界の住人なのだろう。

 

 それならば、あの子は人間で、だとすれば――自分は――。

 

 豪雪少年が、無表情ながら漠然と抱いたそんな疑問は、二人が小学校へと入学し、たくさんの同世代の子供達と出会ったことで、容易く氷解する。

 

 自分は普通だった。自分は凡庸だった。自分はおかしくなかった。自分こそが――人間だった。

 雪ノ下豪雪が世界の大多数を占める人間という存在で、雪ノ下陽光こそが世界でも数少ないほんの一部の特別だった。

 

 それにほっとしなかったかと言えば、嘘になる。彼は普通の子供だったのだ。

 だが、それでも、豪雪少年は普通の男の子だったのだ。

 

 例え特別でも、みんなと――己と、違っても。

 誰からも愛され、誰からも持て囃され――誰からも特別扱いを受ける少女を、今更、特別扱いできなかった。

 

 特別だからこそ、みんなと同じように扱うことが出来なかった――特別扱いしてしまった。

 

 だって、生まれて初めて出会った同世代の女の子で、みんなよりもずっと前から一緒にいる女の子で。

 自分とは違うと分かっていたけれど。特別なんだとは分かっていたけれど。

 

 それが本当の意味で特別なんだと気付いたからといって。

 彼女を特別なんだと感じるのが自分だけではないのだと気付いたからといって。

 

 今更、態度を変えるなんてこと――恥ずかしくて出来なかった。

 

 興味のない振りをした。何とも思ってない態度を崩さなかった。

 邪険に扱うことは父親の育て方が良かったから出来なかったけれど、淡々と対応することを心掛けることは出来た。

 それ故か、いつの間にか随分と無表情がデフォルトなクールなキャラになってしまったけれど、でも、しっくりくるから元々自分はそういう人間なのかもしれない。

 

 そんな豪雪だったからこそ、きっと陽光は特別に感じたのだ。

 

 自分を特別扱いしない存在。特別な特別扱いをしてくれる存在。

 ずっと変わらない態度で接してくれる存在。特別な自分を、特別だと思って尚、特別だと言って逃げないで、一緒にいてくれる存在。

 

 こうして、雪ノ下豪雪は、雪ノ下陽光にとっての特別となった。

 

 それは凡庸なる少年にとって、普通なる人間にとって、とても過酷な人生だったことだろう。

 

 彼は優秀だった――だが、決して天才ではなかった。

 理解するには時間がかかるし、身に付けるには努力が必要だし、愛される為には愛さなくてはならないし、労せず輝いていられる彼女とは違い彼が輝く為には己を磨かなくてはならなかった。

 

 彼女のように世界に愛されなくとも、世間に受け入れてもらう必要はあった。

 雪ノ下陽光という特別の、特別な人間に相応しいと、認められなければならなかった。

 

 故に、雪ノ下豪雪は、普通に努力した。

 努力して、努力して、努力して――そして、努力は報われた。

 

 雪ノ下陽光という特別を伴侶とし、雪ノ下厳冬という特別が築き上げた会社を受け継いだ。

 いずれも普通の人間にとっては、成し遂げるには至難とも思える偉業だが、それでも、雪ノ下豪雪は――頑張って、成し遂げた。

 

 少しは特別な人間になれた気がした。

 でも、今、改めて実感している。

 

 少しは特別になれた気がしていた。少しは近づけたような気がしていた。

 それでも、今、改めて痛感している。

 

 己の――凡庸さを。

 

 自分が、普通であるいうことを。

 

 雪ノ下豪雪は人間である。

 

 普通に怖い。普通に寒い。普通に痛い。普通に眩しい。普通に熱い。普通に眠い。普通に寂しい。普通に恐ろしい。

 

 普通に脆く――普通に死ぬ。

 

 雪ノ下豪雪は人間だ。

 何の変哲もない何処を切り取っても何も出てこない――種も仕掛けもないどこにでもいる人間だ。

 

 息の詰まるような過去もない。父親や母親が化物でもない。

 英雄の子孫でもなければ、魔王の生まれ変わりでもない。

 海賊王も火影も目指さないし、ペガサス流星拳も北斗百裂拳も撃てないし、地球に落とされたサイヤ人でもなければキン肉星の王子でもない――普通の人間だ。

 

 ただ、初恋の女の子に相応しい男になる為に頑張った、只の普通の人間だった。

 

 だからこそ――身体が勝手に動いたのだ。

 

 怖くても、恐ろしくても、特別な身体や秘めた能力もなくても、何のご都合主義の恩恵も受けられない身分だと分かっていても。

 

 気が付いたら動き出してしまう――彼は普通の人間だった。

 

 好きな女の為ならば、何だって出来てしまう男だった。

 

 豪雪は微笑む――これが、愛の力なんだと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 灼熱の極寒の衝撃が走り、閃光が辺りを包んだ。

 

 そして、豪雪がゆっくりと目が開けると――そこは、銀世界だった。

 

 自分達がいた周辺の全てが、銀色に凍り付いている。

 地面も、森林も――あの大樹も、その全てがまるで氷像のように。

 

 呆然と座り尽す豪雪は、ふと頬に感じた冷たさに、夜天を見上げた。

 

「…………雪」

 

 星々が煌めく夜空には雲などまるで見当たらないのに、ゆっくりと、しんしんと、真っ黒な天を彩るように真っ白な雪が降っていた。

 

 その時、豪雪の背後から――ジ、ジジという音が聞こえる。

 

「ッ!?」

 

 反射的に後ろを振り向くと、そこには――奇妙な電子音と共に姿を現していた機械腕が、太刀を豪雪の背中に向かって振りかぶっていて――バタン、と、そのまま力尽きたように崩れ落ちた。

 

「――っ! これは……」

 

 豪雪はそのまま勢いよく立ち上がり、辺りを見渡す。

 すると、この機械腕と同じように、幾つもの自分達の背後から迫っていたであろう機械腕達が強制的に姿を露わにさせられていて、そのどれもがバタバタと力尽きたかのように倒れ伏せていく。

 

 その中の、最も多くの機械腕が殺到している場所には――二人の人間離れした美女が手を組み、上空に向けている姿勢のまま凍り付いたように佇んでいた。

 

 バタバタバタと機械腕が一斉に機能停止していく中で――ぐらりと、陽光の身体も力尽きたかのようにぐらりと揺れて、倒れかける。

 

「っ!? ひか――」

 

 豪雪が反射的に駆け付けようとする――が、急激に下がった外気温によって、凍り付いてはいないまでも寒さによって固まっていた身体は言うことを聞かずに、凍った地面に滑ったように片膝を着いて体勢を崩してしまう。

 

 そんな豪雪の目の前で、愛する妻はその『母親』にしっかりと支えられていた。

 

「……大丈夫ですか?」

「……私、はね。……あなたの方が、大丈夫じゃないじゃないの」

 

 己の背中を抱きかかえるように支える『母』の頬を、見上げずにただ慈しむように撫でる――その声は、か細く震えていた。

 

 豪雪も、絶句する。

 

『娘』を支える『母』の肌は、息を呑むかのように白だった。

 かつて太陽のように輝いていた白でもなく、先程までの死人のような白でもない――雪のような白だった。

 

 真っ暗な冬山の吹雪の中に消えてしまいそうな、暗く、冷たく、黒い白。

 

 肌だけではない。

 烏の濡れ羽のようだった髪も、息を呑むようなアイスブルーの瞳も、全てが真っ白に染まっていた。

 

 身に付けていた喪服の黒と、肩口で未だ灯る黒火だけが、その白の中で妖しく映えている。

 その黒すらも夜の中に溶け込み――まるで、今にも消えてしまいそうだった。

 

『娘』もそれを察しているのか、もう何も言わない。何も言えない。

 

 ただ、己を包むこの『母』の温もりが――この冷たさが、消えてしまうことに怯え、恐れ……悲しんでいた。

 

「…………おか、あさん……っっ」

 

 涙を染み込ませるように、陽光は『彼女』の肩口に顔を埋めた。

 そこには、氷で覆われた中で『彼女』の生命を奪い続けていた黒い灯火が宿っていて、皮肉にも少し暖かかった。

 

「……あなたには、残った『私』の――この身体の、[彼女]の異能(ちから)を出来る限り明け渡しました。今は身体に馴染まずに辛いでしょうけど……あなたはこの[身体]から生まれた、『(わたしたち)』の娘。いずれ問題なく、あなたの一部となる筈です」

 

 そうなれば、あなたはずっと、『(わたしたち)』よりずっと、長生き出来るわ――そう言って『彼女』は、『娘』の身体を己に向かせ、涙を拭うように頬を撫でる。

 

「――幸せになりなさい」

 

『彼女』は、娘への最期の言葉に、かつて己が贈られた遺言を選んだ。

 

『娘』の涙を拭いながら、己が生んだ存在を確かめるように触れ合いながら。

 

 一言一句、生涯己が胸中に渦巻き続けた、ぐちゃぐちゃの何かを、込めるように。

 

「人を愛して、愛する人と、幸せになりなさい」

 

 そして、『彼女』は、己が死期を目前にして――悟る。

 

(…………ああ、愛しい)

 

 これが、愛するという――感情。

 

 腕の中の陽光(ひかり)を、まるで陽光(ようこう)のように暖かい微笑みで見詰めていた『彼女』は――これまでの生涯で、間違いなく最も美しかった。

 

「――――ッッ」

 

 陽光は、ただ力いっぱい『母』の胸にしがみ付いた。

 涙も、嗚咽も、全てその場所に染み込ませて、己が“半血”の細胞に、『母』の全てを染み込ませんとばかりに。

 

「……行ってくるわ――【愛してる】」

 

『彼女』は『娘』の額に、そっとキスをした。

 

 いつか何かで、愛情を伝える行為として学習したものだった。

 初めてやってみたけれど、なるほど心が暖かくなり、己の中の愛情も増した気がした――極限に冷たくなっていた身体が少し温かくなったように感じたのも、きっとその副産物なのだろう。

 

 そんな行為を受けた『娘』は、初めは呆然としていたが、やがて黒いくらいに真っ白の肌を火照らせているように見える己が『母』の姿に、泣き顔を眩しい笑顔に変えて。

 

「――私もよ! 愛しているわ、お母さん!」

 

 その冷たくて温かい頬に、キスをして――送り出した。

 

『彼女』の、最期の仕事に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 くらりと、『彼女』が離れた後によろけた陽光を今度こそ支えようと豪雪は動くが、陽光は独力で倒れ込まずにしっかりと立った。

 

 そして、凍り付いた傾く大樹を登っていく『母』の背中を、強く、眩しい眼差しで見遣る。

 

「………………」

 

 豪雪は何も出来なかった。

 

 何も出来なかった自分は、何もしていない自分は、何もしてはいけないように思えた。

 

 そんな姿を、ただ、見ていることしか出来なかった。

 

 雪ノ下豪雪は、ただの人間でしかなかった。

 

 

 

 

 

 凍り付いた大樹の上を、『彼女』は歩く。

 

 一歩、一歩――踏みしめるように。

 

「…………」

 

 俯き、見詰める地面――大樹は、『彼女』に付き従い続けた『彼』の、【彼女】に寄り添い続けた【彼】の、変わり果てた姿。

 

(……ごめんなさいね。冷たいでしょう。……もう少し我慢してください)

 

――【私】も、今、そちらに逝きますから。

 

 そして、『彼女』は顔を上げる。

 

 心臓の鼓動が一刻一刻と弱り続け、全身に血流が行き渡らず、体温を失い、身体の芯から凍り付き始めている『彼女』は――だが。

 

 その歩みには、一切の乱れなく。

 

 その姿には、気品すら溢れ出して見えて。

 

 その背中には、まるで太陽の光を背負っているかのように、輝いて見えた。

 

 その目の先には、身体の大部分が木に埋まり、その上から更に堅牢な氷の檻に塗り固められて――ただ、何かを握り締めた右手だけが突き出しているのがいっそ却って哀れに見えるような、そんな死に様を晒している、レジー博士の姿だった。

 

 そう――死んでいる。

 レジー=ぺテルト=バルトマールは、誰がどう見ても死亡していた。

 

 万が一、生きていたとしても、奴にはもう何も出来ない。

 右手だけでは氷の牢から脱出することも、無防備に近づいて来る『彼女』を迎撃することも出来ないだろう。あの機械腕も操作をすることは出来ないことは、一斉に機能停止したあの光景が如実に示している。

 

 だが、それでも、『彼女』の心に慢心はない。

 明確に眼前にまで近づいている死期が、これが最期の仕事だという使命感が、『彼女』の心を今一度凍り付かせていた。

 

 この氷漬けの男は、全身を大樹に呑み込まれてかけていたあの時でも、己が最強の一撃を放つだけでなく、不可視化させた機械腕を背後から忍び寄せ挟撃という第二策を用意していた。

 そこまで用意周到な男が、嫌らしいまでの知恵を働かせる天才が、このまま大人しく凍り付いているだけとは限らない。

 

 このままでは何も出来ないだろうが、ここで見逃せば、もし万が一生き延びでもしようものならば、奴は必ず再び陽光を――奇跡の『混血種(ハイブリッド)』を狙うだろう。

 

 その時は、『自分』はもう、あの子の傍には居てあげられない。

 ここで死に行く生命ならば――確実にコイツも道連れにしなければならない。

 

 レジー=ぺテルト=パルトマール。

 この男に、この不気味な天才に、今、完全確実な容赦なき死を。

 

 そして『彼女』は、レジー博士の氷像の前に辿り着いた。

 

「……………」

 

 寒風吹き抜ける、地面よりも夜空に近い場所。

 肩口に黒火を灯らせる死に瀕した雪女は、その真っ白な手を――妖しく煌めく白刃へと変える。

 

 油断はない。慢心もない。

 ここまで無様な姿を前にしても、『彼女』の心は冷たく凍っていた。

 

 あれほど異常な天才ならば、ここまで狂った科学者ならば、自分が死亡した際の死体にすら何かしら細工を施していたとしても不思議ではない。

 だが、例えどのような悪足掻きを用意されていようと、確実に殺して見せる。絶対に地獄へ道連れにしてみせる。

 

 それが、『母親』として――[彼女]の代わりに生きた命として。

 

 果たすべき、最期の――使命だから。

 

 使うべき、命だから。

 

「さよなら――地獄で会わないことを祈ります」

 

 そして、氷ごと男を切り裂くべく、白刃を静かに振り上げて。

 

 

 雪と共に――天から垂らされた糸のような、一筋の光が、真っ直ぐに降り注いだ。

 

 

「――――ッ」

 

 バッ、と、真っ黒な天に目を向ける。

 

 糸のような光が降り注いでいるのは――レジー=ぺテルト=パルトマールの氷像。

 

 瞠目する『彼女』の眼は捉える。

 レジー博士の唯一剥き出しの右手が持つ――謎の鏡。

 

 銀色の手の平に収まる丸い鏡が――発光していた。

 

 明るく、眩しく、夜を――化物を、切り裂くように。

 

「ッっ!?」

 

 反射的に白刃を振るう。

 その光を消す為に――光を嫌悪する化物のように。

 

 だが、一瞬早く――その人間は目を覚ます。

 

 氷の中、レジー博士の眼は見開き、ニタニタと――不気味に笑う。

 

 息を吹き返すように、氷を砕いて復活した。

 白刃を右前腕で受け止め、『彼女』を見上げて、こう言った。

 

「ご安心を――私は地獄へ逝きません」

 

 瞬間――何かが、『彼女』の髪を貫き、過ぎ去った。

 

(――――え)

 

 そして、鈍く、響いた。

 

 何かを――肉体(にく)を、貫く、音。

 

『彼女』は振り向く。それと同時に――娘の、陽光の、悲鳴が届いた。

 

 凍り付いた頭の中が、真っ白に染まった。

 

 その頭の後ろから聞こえてくるのは、悪魔のような――人間の声。

 

「地獄へ落ちるのは、あなた達――【化物】だけです」

 

 おや。

 

 でも、()()()()()()()()()()()()()

 

 ニタニタと、ニタニタと、レジー博士は笑いながら言った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 凡庸だった。

 

 氷も生み出せず、頭を裂かすことも出来ず、手を刃に変えることも出来ない。

 何処をどう見ても、何処をどう切り取っても、何の変哲もない普通の男だった。

 

 数奇な運命も背負っておらず、特別な血潮も流れていない。

 たった一つしかない生命を宿した、脆く儚い肉体で歩んできた、ごく普通の男だった。

 

 

 だからこそ、彼は死んだ。

 

 天から突然飛来してきた、鋭い銀色の錫杖に貫かれて。

 

 

 あっさりと、呆気なく死んだ。

 

「…………豪、雪?」

 

 愛した女の身代わりになるという、凡庸でありきたりな死を迎えた。

 

 既に力を使い果たし、異能を馴染ませるのでいっぱいいっぱいだった妻を。

 唐突に襲い掛かって来た凶器に対し、身を竦め硬直するしかなかった幼馴染を。

 

 ただ、身を挺して、己が体躯を盾にして、惚れた女を背に庇って、生命を懸けて守ってしまった。

 

 気が付いたらこうなっていた。

 身体が勝手に動いてしまったのだ。

 

 どんなに怖くても。どれほど恐ろしくても。

 

 特別な身体もない。秘めた能力もない。何の奇跡も起こらない。

 そんなこと、生まれたその時から分かっていても、死ぬその時まで変われなかった。

 

 彼は普通の男だった。

 

 好きな女の為に死んでしまうような、普通の男だった。

 

 好きな女の為にならなんだって出来てしまうような、ごく普通の男だった。

 

「……………豪……雪…………?」

 

 物語の登場人物のように、彼は死に際に都合よく言葉を遺すことは出来なかった。

 そんな暇もなく、そんな時間すら与えられず、彼はあっさりと即死していた。

 

 だが、その死に顔は、どこか満たされているように見えた。

 

 己が人生に、己が死亡に、一片の悔いもないかのように。

 

 

「イヤァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」

 

 

 

 愛する者に出会い。愛する者と育ち。

 

 愛する者の為に頑張り。愛する者と結ばれ。

 

 愛する者と繋がり。愛する者と繋げ。

 

 愛する者と育み。愛する者と幸せになり。

 

 愛する者に満たされ。愛する者の為に死んだ。

 

 何処にでもいるが、世界にたった一人しかいない。尊く、輝く、素晴らしい生命。

 

 雪ノ下豪雪は、人間だった。

 





 彼は――何も出来なかった。
 
 氷も生み出せず、頭を裂かすことも出来ず、手を刃に変えることも出来ない。
 何処をどう見ても、何処をどう切り取っても、何の変哲もない普通の男だった。

 だからこそ、彼は――人間だった。

 普通に怖くても。普通に寒くても。普通に痛くても。
 普通に眩しくても。普通に熱くても。普通に恐ろしくても。

 普通に脆く――普通に死ぬと、分かっていても。

 好きな女の為ならば、何だって出来てしまう男だった。

 愛の力で、不可能を可能にしてしまえる可能性を秘めた生命だった。

 何処にでもいるが、世界にたった一人しかいない。尊く、輝く、素晴らしい生命。

 雪ノ下豪雪は、人間だった。
 
 


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寄生星人編――⑫

「ワタクシは、人間だ」
「そうですか。【私】は化物です」


 

 白縫(しらぬい)雪華(せっか)は“化物”である。

 

 化物で化物で化物で化物で化物である。

 

 生まれたその時から化物で、死ぬその瞬間まで化物である。

 

 そんな当たり前のことを、『彼女』は知っていたようで、全然分かっちゃいなかった。

 

 これは、白縫雪華という名を分不相応にも賜った、一人の化物の物語。

 

 とある雪女の少女に寄生し、化物外れの知能を得て、何の因果か感情が芽生え。

 

 冷たい身体を持つ身にも関わらず、暖かい陽射しの下の世界に憧れてしまった、一体の化物の物語。

 

 誰よりも何よりも化物な、化物の中の化物である【彼女】が、己が化物であると思い知らされる物語。

 

 その終わりであり、始まりでもある――バッドエンドの一夜の物語。

 

 もうすぐ夜が明ける。

 

 夢から覚める時間だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――イヤァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 

 一人の女性の胸が張り裂ける叫びが、真っ暗な夜に響いた時。

 

「――ギアハァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 

 一人の天才の腕が吹き飛ばされた叫びが、真っ白な氷を震わせた。

 

「……………な、たは………」

 

 女性の叫びは、『彼女』の胸にも響いていた。

 

 只の空気振動である筈にも関わらず、己を内側から破裂させられると錯覚する程に、激痛と共に響いていた。

 

 天才の叫びも、『彼女』の氷を震わせていた。

 

 否、氷だけではない。

 肩も、手も、唇も、まるで凍えているかのように震えていた。

 

 だが――『彼女』は、(おの)が冷たい身体が、ここまで熱く感じるのは、幕切れ間近な生涯で初めてのことだった。

 

 初めてだった――ここまで強く、(おの)が鼓動を強く感じたのは。

 初めてだった――ここまで強く、燃えるような何かを覚えたのは。

 

 感情というモノを理解出来ぬまま、これまで感情に振り回され続けてきた『彼女』にとって、初めてだった。

 

 真っ白な己を真っ黒に染め上げ、目の前の景色が真っ赤に染まる、この――感情――激情。

 

 これが――憤怒。これが――殺害衝動。

 

 燃えるような、怒りだった。

 

 熱い、熱い、殺意だった。

 

「――あなたは…………どこまでッッ!!」

 

 反射的に振り抜いた氷の刃を、この男は右前腕を盾にするような形で防いだ。

 

 勿論、只の人間の腕など、容易く『彼女』の氷の刃は斬り飛ばす。

 例え“黒衣”を纏っていたとしても、通常の寄生(パラサイト)星人の刃ならばまだしも、『彼女』が本気で殺意を込めて振り抜いた氷刃ならば裁断してみせるだろう。

 

 そして、あの時の『彼女』に油断はなく、当然殺意も込めていた。

 殺す気で振った一刀だった――が、寸前で心乱れたとはいえ、間違いなく黒衣を切り裂いたであろう刃を、レジー博士は盾で受けるわけでもなく、ボクサーのように腕のガードで止めてみせた。

 

 その()()が、これだった。

 

「ギャハハハハハハ!!! ギャハハハハハハ!!!!」

 

 一度、『彼女』の斬撃を受け止めたものの、すぐさま振るわれた第二刀で、右腕を肘から斬り飛ばされた――その切断面を押さえながら哄笑するレジー博士を、極寒の眼差しで見下ろす『彼女』。

 

 その両者から少し離れた場所に、銀色の腕が落下した。

 あのロボットアームとはまた違う、人間の腕の形をした、だが眩いばかりの銀色の文字通りの機械腕――接合部を的確に斬り飛ばされたその腕は、見るからに特別製と分かる完成度で、まるで本物の腕のようだった。

 

 だが、紛れもなく、人工の産物だ――改造品だ。

 

 レジー=ぺテルト=パルトマールは改造人間だった。

 

 数多くの兵装兵器を創り出した天才マッドサイエンティストは、狂気の科学者に相応しい所業を、己が身体にも施していた。

 

「ギャハハハハハハ!! ギャハハハハハハ!!!」

 

 切断面を押さえたまま――グルリと。人間の眼球では有り得ない動きで己を見上げるレジー博士の左眼球に、『彼女』は氷の無表情を溶かされる。

 

 憤怒と――恐怖。

 殺意と――畏怖に、表情を染める。

 

 そして、心からの怒りと、心からの嘲りを込めて、レジー博士に吐き散らす。

 

「あなたは――どこまで化物なんですかッッ!!!!」

 

 バサッッ――と、翼を開くように、背中を開いた。

 触手の如く牙を剥き出しにした食虫花のような『彼女』の背中は――背後から弾丸の如く迫っていた錫杖を食らい、バラバラに喰い砕いた。

 

 自動追尾(ホーミング)機能を誇った、あの千手観音の武具を目標に作り上げた己が傑作装備の一つが、キラキラと粉雪と共に輝きながら散っていくのを見上げて、レジー博士は――嘲笑う。

 

「ギャハ。……その言葉、そっくりそのままお返ししましょう――化物」

 

 パカ――と、大きく開けた口をレジー博士は『彼女』に向ける。

 銃口になっていた舌が発砲される前に、『彼女』は天才の口を強制的に閉じた。頭を踏み抜いて無理矢理黙らせた。

 

 天才は諦めない。

 ならばと次はランドセルを開けようとした。

 これまで無数の機械腕を原理不明に収納していた魔法のような銀色の立方体――は、『彼女』が目線一つで只の氷塊に変えた。もう二度と開くことはないだろう。

 

 だが――その瞬間に、天才は姿を消していた。

 氷塊と化した立方体に潰されたのかと思いきや、潰されていたのは黒衣だけだった。

 

 緊急脱出機能なる緊急脱衣機能でも備えていたのだろうか。

 普通ならば命綱となる黒衣を緊急的に脱衣することなど有り得ないのだろうが、天才は頭脳だけでなく肉体すらも普通ではなかった――尋常なく改造を施していた。

 

 天才は最後に正面からの対決を挑んだ。

 氷塊の脇から突如飛び出すように、裸一貫で美女に向かって突っ込んでいった。

 

 その裸は、およそ半色が銀色だった。

 最早肌色の方が少ないのではと思える程に、天才の身体は科学に侵されていた。

 

 まるで、思い思いに幼児が色を塗ったかのように無秩序に、思いついた傍から実験的にメスを入れたかのように無計画に――その身体は醜悪だった。

 

 醜く、傲慢で、何より気持ち悪い程に恐ろしい――人間の身体だった。

 

「ワタクシこそが――人間ダァぁぁああああああ!!!」

 

 天才の切り札は披露されずじまいとなった。

 レジー博士が己の機械体のどんな部位のどんな仕掛けをぶつけようとしたのかは分からない――『彼女』は、それがお披露目となる前に、レジー博士の心臓を貫いた。

 

 そして、そのまま、串刺しにする。

 

 凍り付いた大樹の幹に――かつての己の相棒と挟み込むように。

 

 冷たく、無慈悲に――氷のように、無表情で。

 

「死になさい。あなたはもう――終わりなさい」

 

 冷酷に、女王のように、裁く。

 

「……いいえ、死にません。ワタクシは、まだ……オワラナイ」

 

 だが――天才は抗う。

 死に反抗し、女王に最後まで抗戦する。

 

 心臓は確かに貫いた。だが、そこは既に銀色だった。

 天才は心臓を既に改造していたのかもしれない。だが、ゴフッと大きく血を吐いた。赤い血を。赤い生命を。

 

『彼女』の冷たい刃は、確かにレジー=ぺテルト=パルトマールの生命に届いている。

 

 だが、それでも天才は、戦うのを止めない。

 レジー=ぺテルト=パルトマールは、戦争を止めない。

 

 何故なら、彼は――人間だからだ。

 

「ワタクシは……絶対に化物には屈さない」

 

 己に突き刺さる氷の剣を、残された左手で掴み取る。

 ツゥ――と、赤い、人間の血が流れた。

 

「人間は――負けない」

 

 天才は、笑った。

 

 機械塗れの身体で、偽物の心臓を貫かれながら、それでもレジー博士は笑ってみせた。

 

 それは醜悪で、不気味で、禍々しくて、気持ち悪くて――そして――でも。

 

「――――ッッッッ!!!! ふざけるなッッ!!!」

 

 かつて氷の微笑女と呼ばれた『彼女』は――白縫雪華は。

 

 その天才の微笑みに、自称人間の不敵な笑みに。

 

 噴火するように、激昂した。

 

「あなたの、何処が人間だッ!! あなたのような醜い存在が――人間を騙るな!!!」

 

 ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――という泣き声が、下から悲しく聞こえてくる。

 

 そこには、胸を貫かれた大男の亡骸を、支えるように抱き締めている美女がいた。

 雪華の視力は――化物の視力は、彼女のぐしゃぐしゃな泣き顔も、彼の誇らしげな死に顔も、はっきりと目に映すことが出来る。

 

 胸が痛んだ。今にも張り裂けそうだった。

 だが、それでも、思う。

 

――美しい、と。

 

 しんしんと粉雪が降る中、互いを心から思い合い、愛し合う姿。

 

 半血だろうと関係ない。

 凡庸だろうと関係ない。

 

 あの子達こそ、人間だ。

 この身が溶けてしまいそうなほどに暖かく、この目が潰れそうなくらい眩しく、この世の何よりも美しい。

 

 それこそが――人間だ。

 

 だから、許せない。

 この身が焼けてしまいそうな程に、この目から消し去りたくて堪らない程に、この世の何よりも忌々しい。

 

 その身で、その目で、その口で、その存在で。

 

「これ以上……人間を穢すな!! 化物ッ!!!」

 

 雪華が殺意を撒き散らす。

 花が咲き誇るように背中を開かせ、両手を禍々しい刃へと変えて、遂には頭部までもを恐ろしく裂かせた。

 

 真っ黒な殺意に呑み込まれ、真っ白な氷に蝕まれ、頭部の中に隠していた(つぶ)らな目の色を真っ赤に変えて――。

 

 レジー博士は――嗤う。

 

「――その言葉も、そっくりそのままお返ししましょう」

 

 

 化物――人間は、『彼女』に、そう言った。

 

 

 ギュイーン――と。

 

 甲高い銃声と、青白い閃光が。

 

 真っ暗な夜の戦場で――小さく響き、そして消えた。

 

 

 怪物は嗤った。『彼女(化物)』も無傷だった。

 

「――――あ」

 

 またしても。

 

 殺されたのは、()()だった。

 

 雪華は素早く見下ろす。

 

 陽光はゆっくりと後ろを振り向いた。

 

 

 そこに、見知らぬ黒衣が短銃を向けて立っていた。

 

 

 数瞬後――雪ノ下陽光は破裂した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 人間ではなくなった時、彼は神様に出会った。

 

 

 同族達から迫害され、お前は人間ではないと言われた。人間ではないことにされた。

 

 寄って(たか)って嬲られて、そしてみんな離れていった。

 

 だから殺した。

 

 そして、気が付いたら独りだった。

 

「――ギャハ」

 

 いつもまるで源泉のように湧き起こり続けていた奇想天外なアイデアが。

 どんな人間にも思いつかないような、口にするだけで誰もが顔を顰めつつも誰もが唾を飲み込まざるを得ないような、そんな止めどない発想が――あの日から、止まっていた。

 

 まるで時が止まったかのようだった。

 まるで世界が死んだかのようだった。

 

 感じるのは、あの日からずっと身に付けている、唯一手放せずにずっと握り締めている、既に元が何色だったのかも判別できない――白衣の感触だけ。

 

 分かっている。()めたのは自分だ。()めたのは自分だ。

 

 世界が動き続ける限り生まれ続けるから、世界を止めた。

 思考する度に、生まれ続けるから――考えるのを止めた。

 

 分からない。何がいけないんだ。何が恐ろしいんだ。何が悍ましいんだ。

 

 武器を生み出したのは人間だ。武器を手にしたから人は、動物よりも強くなったのだ。

 兵器を生み出したのは人間だ。兵器を創り出したから人は、地球よりも強くなったのだ。

 戦争を生み出したのは人間だ。戦争を始めたから人は、この世界の支配者となったのだ。

 

 何がいけない。何がおかしい。

 

 ワタクシはただ、これまで人間がしてきたことをしているだけなのに。

 ワタクシはただ、これまでと同じように、人間を進化させようとしているだけなのに。

 

 ワタクシは――ただ――。

 

「……ワタクシは……人間では、ないのか?」

 

 遂に――考えてしまった。考えてしまった。考えてしまった。

 止めようとしても、止めようとしても、どうしても自分は考えてしまう。思いついてしまう。

 

 誰も考えたことがないような武器を。

 誰も創り出したことのないような兵器を。

 誰も描いたことのないような、見たこともない――戦争を。

 

 それはとてもとても真っ黒で、この世の何よりも悍ましい――遊戯(ゲーム)

 

 きっとそれは莫大な利益を生むだろう。きっとそれは絶大な悲劇を生むだろう。

 

 でも――でも――でも――アァッッ!!!!

 

「ワタクシは……ワタクシはァッッッ!!」

 

 見たい。見たい。見たい。見たい。見たい。見たいッッ!!!

 

 そう思ってしまう自分は。そう思わずにはいられない自分は。

 

「ワタクシは……化物……なのか?」

 

 

――そんなわけがないよ。あんまり思い上がらないで。アナタ程度、化物に値しない。アナタは、人間。只の、人間。

 

 

 見上げたら、神がいた。

 

 レジー=ぺテルト=パルトマールという死に損ないは、後にそう語った。

 

 一目で目を奪われた。一目で心を奪われた。一目で全てを奪われた。

 

 それは少女だった。

 

 セーラー服に赤いマフラー。

 銀色の髪は編み込んでいて、銀色の眼鏡を掛け、手には文庫本を持っていた。

 

 一見すると通りすがりの文学少女に見えるが、サファイアのような透き通り過ぎた無機質な青色の瞳と、何故か羽織っている青色のジャージが、そのイメージに反していた。

 

 少女は真っ直ぐにレジーを見下ろす。否、まるで見ていなかったのかもしれない。

 手元の開いたままの文庫本の文字列を追っていたのかもしれない。それ程に、少女のサファイアのような瞳は、何も映していなかった。

 

 だが、そんなことすら、レジー博士にはどうでもよかった。

 

 邂逅の一瞬で己から全てを奪い去り、既にレジー博士にとっての全てとなっていた少女の言葉に、レジーは臆面もなく縋りついた。

 

「……人間。ワタクシを、人間だと――そう言っていただけるのですね」

 

――当たり前。だって、アナタ人間だもの。むしろ、人間そのものと言ってもいいくらい。人間の権化のような人間。すっごく気持ち悪い。

 

 無表情で、無感情でそう言う少女は、言葉とは裏腹に何も感じていないようだった。

 何も映していないサファイアのような瞳は、その整い過ぎている容姿と相まって、まるで人形のようだった。

 

 氷ですらない、人の形をした人形。

 だからこそ少女は神秘的で――神のように、人間離れした美しさだった。

 

 そして少女は、ぱたんと、綺麗な指で文庫本を閉じて。

 

――アナタこそが、人間。レジー=ぺテルト=パルトマール。

 

 何故、初めて出会った見知らぬ少女が、あらゆる記録から抹消された己の名前を知っているのか。そんな無粋な疑問は当然抱かなかった。

 

 ただ、その唇が、その喉が、その声帯が、その息が、我が名を紡いでくれたことにレジー博士は歓喜していた。

 

 信仰心が膨れ上がる。少女の為に死にたいと思った。

 

 そして、そんなレジー博士を見下すように少女は。

 

 神が人に与えるように、目の前の人間に赦しを与え。

 

――アナタの欲望を叶えてあげる。アナタはアナタのままでいい

 

 神が人に与えるように、目の前の人間に天命を与えた。

 

 

――思う存分、人間をやりなさい。

 

 

 そして、レジー博士は、戦争を起こした。

 

 彼がずっと思い描いた、思い焦がれていた最悪の戦争を。

 

 その戦争(ゲーム)はきっと、人間という生物の全てを曝け出す。

 

 多くの血が流れるだろう。多くの死で溢れかえるだろう――だが、それがどうした?

 

 それが戦争だ。それでこそ戦争だ。ずっと人間がやってきたことじゃないか。

 

 戦争に戦争を重ねて、戦争と戦争を積み重ねて――人間は進化してきた。

 

 技術を、産業を、経済を、世界を――進歩させてきた。

 

 この一歩は悍ましい一歩だが、世界にとっては大きな一歩だ。

 

 鮮血が舞い、絶叫が轟き、理不尽が溢れ返り、不条理に噎せ返り、反則が罷り通り、卑怯が幅を利かせ、腐臭が充満し、復讐が蠢き、裏切りが連鎖し、謀略が張り巡らされ、流れ弾で巻き添えを食らい、殺害しなければ殺害され、死人の死体で視界が――世界が、埋め尽くされる。

 

 連日連夜、繰り返される。世界中の何処かで。世界中の何処であろうとも。

 

 日が落ちて、夜が更ければ――さぁ、今日も戦争だ。

 

 楽しい楽しい、遊戯(ゲーム)の時間だ。

 

 あぁ。

 

 人間は、素晴らしい。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バンッ――と、呆気ない音と共に。

 

 肉が弾けて、血が舞って――膝から崩れ落ちる。

 

 豪雪の亡骸を抱き締めながら。縋り付くように抱き付きながら――崩れ、落ちる。

 

 そして、絶叫が轟いた。

 

「YAHOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!! レアキャラぶっ殺したぜぇええええええええええええええ!!!!!!!」

 

 

 

 今更だが――本当に今更だが、今は戦争の真っ最中だ。

 

『彼女』が、『彼』が、彼女が、彼が、そして彼が、戦い争っていたように。

“化物”が、“半身”が、“半血”が、“人間”が、そして“天才”が、殺し殺され殺し合っていたように。

 

 この千葉のとある岬周辺地では、化物と人間が戦争をしている。

 

 海の覇者である半魚星人。

 弱小種族である寄生(パラサイト)星人。

 そして――黒衣を身に纏った星人狩りの人間達。

 

 三つの種族。三つの勢力。三つの軍勢による三つ巴の戦争が。

 

 濁眼の黒衣と醜男の黒衣が呟いていた通り、これはこれまでの黒衣の狩り(ゲーム)と比べても極めて異質な戦争だった。

 レジー=ぺテルト=パルトマールという天才が用意した、未だかつてない規模での――世界大戦だった。

 

 前代未聞のこの大戦において、この『黒い球体の遊戯』の生みの親であるレジー博士は、今回限りの特例措置を行った。

 

 一つは、戦争エリアの拡大。

 此度の戦争は文字通り、世界の三分の一を敵に回した世界大戦。当然、敵の規模も文字通りの軍勢となるだろう。それにより、戦闘エリアもより広大なものが必要となる。

 

 一つは、制限時間の撤廃。

 今回の敵は、その数も、そして強さも今までの星人とは桁違いだ。

 例えこの天才の頭脳が生み出した超兵器を用いても、一時間で駆逐出来るなど、レジー博士も考えてはいない。

 

 これまでの小規模な戦争ならば黒衣が全滅しようとそれはそれで一興ではあったが――今回ばかりは、負けられない事情があった。

 ゲームオーバーでは困るのだ――これは、まだ()()()()()()()()のだから。

 

 そして、もう一つは――協力プレイの解禁。

 これまで各地域別に分かれ、それぞれの“黒い球体黒い球体(プレイヤー)”によって育成されてきた“戦士(キャラクター)”達の、一斉投入を強行した。

 

 敵は軍勢だ。ならば――こちらも軍勢をぶつけるのみ。

 未だ同国内のみしか“転送”を行えない為、全戦力投入とまではいかなかったが、いざとなれば“本部戦力”を送り込む手筈であった。

 

 つまりは――今宵、『彼女』が目撃したのは、この“千葉決戦”のほんの一部に過ぎず、地獄のほんの一端に過ぎない。

 戦争は、『彼女』から見えなかったところで、ずっと繰り広げられ続けていた。

 

 そして何度でも述べるが、今更だが――本当に今更だが、今は戦争の真っ最中だった。

 そして――そして。ほんの一端でも、隅の端っこでも、此処は――戦場だった。

 

 この山林は、この道は、この闇は、この地は――戦場だった。

 

 黒衣の戦士(キャラクター)達が放り込まれた、黒い球体の遊戯盤の上(ゲームエリア内)だった。

 

 星人という化物を殺す為に徘徊する黒衣の――狩り場だったのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鬼怒川千三郎という栃木県の地名性を持つ東北育ちの少年は、九州エリアを支配する黒い球体の部屋の戦士である。

 

 苗字を使った「こんな名前ですが、実は鬼怒川温泉には浸かったことすらありません」という掴みネタを何度言ったかすらも覚えていない程に転校を繰り返した彼は、二十一才にして訪れた名湯でガイドブックを作れるのでは(勿論、鬼怒川温泉を除く)と思える程に日本全国を渡り歩いていた。

 

 子供の頃は転勤族の父親に憎悪すら抱いたものだけれど、思春期を過ぎた頃には、自分程に彩り豊かな青春時代を過ごした人間はいないのではと思えるようになってきた。

 

 テレビで流れるような美しい景色、美味しい郷土料理などは、その殆どがこの身で体験したことがある。

 あの景色も観た。あの料理も食べた。あの雪山に登ったこともあるし、あの海で泳いだこともある。

 関西弁も九州弁も東北弁も沖縄弁も喋れることが出来る。残念ながら栃木弁は今でも喋れないが。

 

 そう考えれば、自分という人間ほど、日本という国の魅力を学べた子供もいないのではないか――そんな風に考えた時、今度は自分の足で、自分の意思で、日本中を旅するようになった。

 

 転勤族の父親から自立し、九州の地で一人暮らしをしながら大学へと通い始めた鬼怒川青年は、だがようやく手に入れた安住を享受するのではなく、バイトを幾つも掛け持ちして趣味の旅行に生き甲斐を感じるようになった。

 

 そして、全国津々浦々を三年間見て回り、写真を撮ったり絵を描いたりしながら沢山の光景を切り取って、やがて将来の道を考えるようになった時――温泉ライターになろうと決意した。

 

 昔から温泉は好きだった。初めは「趣味は温泉巡りです。でも鬼怒川温泉には入ったことないです」というネタを使う為に言った方便が切っ掛けだったが、気が付いたら何よりも好きなものになっていた。ちなみに、自立した今も鬼怒川温泉には行ったことはない。ここまで来たら何か特別な切っ掛けがない限り、気軽に行ったら負けな気がするのだ。

 ずっと、転校続きの自分の伝家の宝刀だった自己紹介ネタに禊を捧げているというわけでもないが――まあ、楽しみを残しておくというのも、人生においては大事なことだろう。

 

 なんて。

 

 豊富な人生経験を積んだ十代を過ごしたからか、そんな達観したようなことを言うくせに。

 けれど、でも、どこかそんな自分は特別だと思っていて。周りの同級生達を、きっとどこか見下しているような、子供の部分を捨てられずにいる。

 

 そんな、子供でもない、大人でもない、不思議で自由な時期を過ごしていた、旅行好きの温泉ライター志望の大学生は――自宅の風呂場で死亡した。

 死因は出血多量。頸動脈をカミソリで切られて殺された。

 

 犯人は見ず知らずの五十代のホームレス。近所の銭湯で見掛けた、老人相手に将棋を指していた時の見下すような目が気に食わなかったらしい。

 むしゃくしゃしてやったらしい。後悔はしていないらしい。

 

 夕方のワイドショーで一瞬報じられたが――直ぐにテレビにノイズが走り、老人が誰もいない他人の部屋の風呂場に侵入し、奇声を上げたという事件内容に改変された。

 

 誰も気に留めずに、聞き流した。

 

 よくある日常の一部であるかのように。

 

 

 

 そして――今。

 

 温泉を愛した青年は、返り血を全身で浴びている。

 

 洗い流すこともせずに、乾いた上から上塗りをして。

 

 人並み以上に色々な経験をしてきたと自負していた青年は、見たこともない景色に壊された。

 

 見たこともない。

 聞いたこともない。

 嗅いだこともない。

 触ったこともない。

 味わったこともない。

 

 青年は、初めて知った。

 

 これが――地獄。

 

 今までたくさんの美しいものを見てきた――それが全て壊された。

 

 あの日――あの時――あの瞬間から、果たしてどれだけ月日が経っただろう。

 自分が、あの、無機質なワンルームに囚われてから、果たしてどれだけ経ったのか。

 

 初めて目の前で人が死んだあの日から。

 初めて化物を見たあの日から。初めて化物を殺したあの日から。

 初めて黒衣に袖を通したあの日から。初めて銃を持ったあの日から。初めて剣を持ったあの日から。

 初めて恩人を失ったあの日から。初めて親友を殺されたあの日から。初めて恋人を――殺してしまった、あの日から。

 

 初めて――100点を取った、あの日から。

 

 震える手で、震える声で、涙を流し――笑いながら。

 

『二番』――と、答えた、あの日から。

 

 果たして、どれだけ経ったのだろう。

 

 あの時、思った。

 ああ――俺はもう、死んでいるんだ。

 

 それはそうだ。だって俺はあの時殺されたんだから。死んでるに決まってるじゃねぇか。

 

 だから――これは夢だ。夢だ。夢だ。夢だ。夢だ。夢だ。

 

 なら、死んでいるなら、好きに生きなきゃ、損だろ?

 だったら好きに生きてやる。好き勝手にやってやる。思う存分生きてやる。

 

 だから――思い通りに、生きてやるから、頼むから。

 

 どうか、死ぬまで――覚めないでくれ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ヒャッハァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!! 化物ぶっころぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!!! ざまぁぁぁぁぁぁああああああああああああアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 

 血に肩まで浸かった男が、まるでひとっ風呂浴びてきたかのように血にぐっしょりと濡れた男が、人間を殺してはしゃぎまくっている。

 

 鬼怒川千三郎は、この千葉決戦に収集された戦士の中でも、数少ない100点獲得者(ホルダー)として戦力の一角に数えられる猛者だったが、実はこの男は逃亡兵だった。

 

 地獄に壊されたこの男が、戦場に狂わされたこの男が、戦争に殺されたこの男が――逃げた。

 別格だった。恐怖でしかなかった。今までに、見たことのない景色だった。

 

 化物と化物と化物と化物と化物と化物しかいなかった。

 これまで自分達が殺してきた化物とは一体何だったのかと思える程に、格が違う化物揃いだった。

 

 そして、また――奴等に立ち向かう、人間達の正義の味方もまた――化物だった。

 九州ではトップクラスの戦闘力を誇り、同じ部屋の住人達から化物だと恐れられていた、この男から見ても、同じ人間には見えなかった。

 

 そして、何よりも、恐ろしかったのは。

 

 奴等が――人間だったことだ。

 

 自分よりも遥かに強く、きっと自分よりも遥かに地獄を見て来た筈なのに――奴等は壊れていなかった。狂っていなかった。殺されていなかった。

 

 死んで、いなかった。生きていた。

 前を向いていた。今に生きていた。未来の為に――戦っていた。

 

 それが――無性に、怖くなった。

 そして逃げた。逃げた。逃げた。

 

 戦場から逃げた。戦争から逃げた。

 敵に背中を向けて、味方を置き去りにして――逃亡した。

 

 誰も、追いかけてはこなかった。

 

 鬼怒川は知っている。

 実際の戦場では殺されてしかるべきの敵前逃亡も、この戦争ではある程度は許される。

 

 戦場にいればいい。エリア内から出なければいい。

 

 でも――このままでは、逃げられない。

 戦争から逃げれば、この遊戯(ゲーム)にまで背を向けたら――自分はもう、()()()()()()()()()()()()

 

 駄目だ。駄目だ。駄目だ。

 逃げなくちゃダメだ。逃げなくちゃダメだ。逃げなくちゃダメだ。

 

 逃げなくては――覚めてしまう。

 目を瞑れ。光を見るな。夜に逃げ込め。

 

 だから、暗い暗い、山の中へと逃げた。海から少しでも遠くへと逃げた。

 

 辺り一面を転がる死体を見ていくにつれ、少しずつ彼に笑顔が戻った。

 

 そうだ。これだ。

 此処が――俺の居場所。俺の逃げ場所。

 

 殺すんだ。殺して殺して殺して殺せ。

 

 もっと、もっと、血を浴びろ。

 汚せ。穢せ。俺を堕とせ。

 

 今更――俺に、光を見せるな。

 鬼怒川は、マップを見て、山中の赤点の明かりを一つずつ消していった。

 

 どれだけの血を流し、どれだけの血を浴びたのか。

 やがて、辺り一面の動いている存在を殺し尽くした時――山が揺れた。

 

 大樹が――生えた。

 

 驚愕と共にマップを見ると、そこは一つの青点と――()()の赤点。

 

 化物がいる。それだけを確認すると、鬼怒川は一目散にその場所へと向かった。

 

 そして、開けた空間に出た。

 辺り一面が凍り付いていることに一瞬目を奪われたが――すぐに彼の目は、巨大な大樹と、その根元にいる二つの人影を真っ直ぐに捉えた。

 

 ぐったりとした大柄の男と、それを支える美しい女性。

 鬼怒川は直ぐに気付いた。男は死んでいる。胸に穴が開いているし、死んでいる人間など無数に見て来た。

 

 マップを向ける。大樹の根元――そこに化物がいると示す、()()()()()が光っている。

 

 

 これは、レジー博士が今回のミッションにおいて施していた、特別処置の一つだった。

 そもそも戦場ではなく研究室を住処とするこの男が、何故、わざわざこうして黒衣を纏いながら戦争へと繰り出したのかといえば――『寄生女王(パラサイトクイーン)』をこの手で鹵獲し、己の研究材料とする為だ。

 

 つまり、レジー博士はこの戦争以前から、『彼女』に目を付けていたということで――当然、事前調査として、雪ノ下家のこともある程度は調査済であった。

 この一家が、『彼女』にとってどれだけの意味を持つ居場所であるか――そして、何の因果か、この戦争の日、彼等が揃いも揃って、この戦場に勢揃いするという巡り合わせに、レジー博士は笑みを歪ませながら一計を案じた。

 

 雪ノ下家の人間達――彼等もまた、ミッションのターゲットとして設定し、排除させること。

 そうして、『寄生女王(パラサイトクイーン)』の表世界での居場所を徹底的に破壊し――心を折る、ただ、それだけの為に。

 

 故に、陽光も、豪雪も、陽乃も――生きていれば、照子にも、初めから、星人も黒衣もその姿が見えていた。声も聞こえていた。戦争に、初めから、関係者として巻き込まれていた。

 

 故に――黒衣の戦士のマップには、彼等もまた、赤点として表示されていた。

 

 

 だから、この瞬間、雪ノ下陽光は、ミッションのターゲットとして、ハンターである黒衣に発見された。

 

 それに気付かないままに、陽光は、抱き締めている己が夫に手を翳す。

 美女の手に氷が生まれ、男の亡骸の胸の穴を塞ごうとしているかのように凍り付かせた。

 

 その光景は――鬼怒川千三郎という死人の瞳には、余りにも美しく映った。

 

 足が止まり、腕がだらんと下がり、手に持っていた短銃を手放しかけた。

 

 心が――洗われてしまうかのようだった。あれほど血に塗れた心が。

 

 殺害衝動が消えかかる。暴かれる。曝け出される。

 

 それに気付いた瞬間――鬼怒川は銃を向けた。

 殺意ではない。ただただ醜い、燃えるような憎悪で。

 

 目障りだった。眩しかった。

 

 だから殺した。

 

 

「ザマァァァアアアアアアアアアアアアアアア!!!! ヒャーーーーーーーーーハハハッハッハハハハハハハッハッハハ!!!!」

 

 笑った。笑った。笑った。

 

 必死に、必死に、はしゃいでみせた。

 

 何かから目を逸らすように。何かを自分に言い聞かせるように。

 

 これでいい。これでいい。これでいい。

 

 これでまだ、俺は暗闇の中にいられる。

 

 壊れていられる。狂っていられる。死んでいられる。夢に――浸れる。

 

 だから、笑え。笑え。笑え。

 

「ヒャーーーーーーーーハハハハハッハハハハハハッハハハハハハッハハ!!!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その笑い声は、大樹の天辺まで届いていた。

 

 まるで、心地よいクラシック音楽に耳を傾けるが如く、レジー博士は目を瞑りながら穏やかに聞き入っていた。

 

(……あぁ。素晴らしい。なんと素晴らしい人間の叫び声なのでしょうか)

 

 全身が凍り付くような恐怖に怯えて。

 全身に粘り着くような欲望に侵されて。

 全身に燃え盛るような憎悪に狂わされて。

 

 必死に、必死に、自分を守って。

 必死に、必死に、他者を傷つけて。

 

 浅ましく、悍ましく、禍々しく、恐ろしい。

 

 醜く、醜く、醜く、醜く、醜い。

 

(あぁ! あぁ! あぁぁああああ!! 人間! 人間! これこそが人間(ワタシ)! これでこそ人間(ワタクシ)!! あぁ、素晴らしきかな、人間よ!!)

 

 霞み始めた右目。機能停止した左目。

 痛みも熱さも寒さも感じなくなってきたレジー博士は――静かな心で、祈りを捧げた。

 

(浅ましく悍ましく禍々しく恐ろしい、醜くて醜くて醜くて醜くて――とても哀れな、我らが人間達に――どうか、精一杯の幸あれ)

 

 右目の視界が滲んでいく。

 

 己が前に立ち、己が命を奪う化物の姿が――あの日の少女()に変わっていく。

 

(……ワタクシは、人間らしく、生きたでしょうか?)

 

 その答えは、決まっていた。

 

 だから、恥ずかしげもなく、何度でも言おう。

 

「ワタクシは、人間だ」

「そうですか。【私】は化物です」

 

 首を握り潰した。

 後、数分も持たずに死亡していたであろう生命を、一足早く刈り取った。

 

 全身のあちこちが機械だった男も、首は人間のままだったので殺すのは容易かった。

 

 そうだ。人間はこんなにも脆いんだ。こんなにも簡単に死んでしまうのだ。

 

 対して――【私】の、なんとしぶとく無様なことか。

 

 死は感じる。間近まできている死期は感じる。

 

 だが、結局、生き残ったのは【彼女】だった。

 

 誰よりも早く、誰よりも長く死に瀕していたくせに、結局、見苦しく生き永らえている――他の生命の全てを奪って。

 

 ゆっくりと、【彼女】は人の形を取り戻していく。

 

 背中も、両腕も、そして頭部も、元の美しさを取り戻していく。

 

 だが、空を見上げ、降り注ぐ雪を見上げる、その姿は。

 

 まるで、氷のように冷たい無表情で。

 

 余りにも冷たく、余りにも美しく――余りにも、怖くて。

 

 とてもではないが、人間のようには見えなかった。

 




 死んだ。

『彼』は死んだ。彼女も死んだ。彼も死んだ。――彼も死んだ。

“半身”が死んで、“半血”が死んで、“人間”が死んで。――“天才”も死んで。

 人間のような化物が死んで。
 化物のような人間が死んで。
 人間のような――人間が死んで。

『彼女』だけが生き残った。“化物”だけが、死に損なって。

 だけど、ちゃんと――白縫雪華も、間もなく死ぬ。

 そして、『彼女』の――物語も、終わる。


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寄生星人編――⑬

「――ごちそうさまでした」


 

 大樹の傍を落下する、黒い流星があった。

 

 黒く燃焼する『彼女』だった。

 

 白縫(しらぬい)雪華(せっか)という化物が、人工の黒火を抑えることも出来なくなっている証拠だった。

 

 遂に、やっと、ようやく訪れた――『彼女』という化物の、死に時だった。

 

 白縫――不知火。

 

 雪女の身体を持つ化物に対して、皮肉な名を付けられたものだと思っていたが。

 

 存外、名に相応しい死に方が出来そうだと、黒火の中で『彼女』は――雪華は微笑んでいた。

 

 燃え盛る火の中――氷のように。

 

 儚く、雪の華のように――美しく。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 着地した。

 墜落ではなく、正しく着地。

 

 黒く燃焼していようとも、雪氷の身体が刻一刻と溶けていようとも、数十メートルの高さから静かに着地することなど、この『化物』には容易かった。

 

 だから、この衝撃は、着地によるものではない。

 

 目の前の光景によるものだった。

 

 

『娘』が人を殺していた。

 

 

 そこには、首がない黒衣の死体と、背中が弾けた我が娘、静かに目を瞑って手を組んで氷の上に横たわる娘婿がいた。

 

「…………陽光(ひかり)

 

『母』の掠れた呟きに、『娘』はゆっくりと反応した。

 

 最期に殺すつもりだった。

 この燃え盛る身体でも、黒衣の一人くらい殺せると思っていた。

 

 そして、『娘』と、娘婿と、『彼』の死体に囲まれて、ゆっくりと死のうと思っていた。

 

 けれど――『娘』は、陽光は、生きていた。

 

 否――まだ、死んではいなかった、か。

 

「……おかえりなさい。お母さん」

 

 そういって、彼女は笑顔で出迎えた。

 

 全て――分かっている筈なのに。

 

 頭の良い彼女が、優れた能力を持つ彼女が、分かっていない筈がないのに。

 

「お母さん。私――人を殺しちゃった」

 

 そう言って、困った風に、笑う。

 

「――――ッッッ」

 

 何も言わない。

 

 陽光を撃った黒衣が、本来は『彼女達』を、化物を殺しにきた刺客であることに気付いている筈なのに。

 

 陽光は、雪華に――何も、言わない。

 

 もうすぐ死ぬというのに。巻き添えで殺されたというのに。

 

『娘』は、『母』に――何も、言わない。

 

「――――っっっ」

 

 燃え盛る黒火の中、雪華は一筋の涙を流した。

 雪女の涙は凍るという。だが、黒火の中では本当に凍ったのかは分からなかった。

 

『娘』は何も言わない。ただ、そんな『母』を見て、優しく笑うだけだった。

 

 どうして――と、思う。いっそ呪ってくれと、そう思う。

 

 こんなことになったのは、お前のせいだと。

 

 そう、事実を、ありのまま、ぶつけてくれと。

 

(……【私】が、いなければ)

 

 今宵、こんな戦争に巻き込まれることもなかった。

 

 照子が、豪雪が、そして陽光が――殺されることは、なかったのに。

 

(……【私】が……憧れなければ……)

 

 もっと早く、覚めなければならなかった。

 

 雪氷の身体を持つ身でありながら、温かい世界に憧れた。

 

 夜の世界に生きるものでありながら、太陽の陽射しに憧れた。

 

(……【私】が……【私】が………ッッ)

 

 分かりたいと、そう思ってしまった。

 

 笑い合いと思ってしまった。泣き合いたいと思ってしまった。怒り合いたいと思ってしまった。

 

 一緒にいたいと、一緒に生きたいと、思ってしまった。

 

 その結果が――これだと、いうのならば。

 

(………【私】は……なんという……化物だ……ッッ!!)

 

 全身に粘り着くような欲望に侵されて。

 全身に燃え盛るような憎悪に狂わされて。

 

 必死に、必死に、自分を守って。

 必死に、必死に、他者を傷つけて。

 

 浅ましく、悍ましく、禍々しく、恐ろしい。

 

 醜く、醜く、醜く、醜く、醜い。

 

「――――――ッッッッ!!!」

 

 黒火の中、凍らない涙を流す『彼女』は――【彼女】は。

 

 白縫雪華という、雪女の身体に寄生した、化物と化物を掛け合せて生まれた何かは。

 

 ポツリと、【彼女】という生命を表すような呟きを漏らした。

 

「……私は……人間に……なりたかった……ッッ」

 

 誰よりも化物だった【彼女】の、化物のような欲望が詰まっていたその言葉に。

 

「――お母さん」

 

 陽光は、まるで太陽の陽射しのような、柔らかな笑みを浮かべて。

 

「私を、殺してくれないかな」

 

 じゃなきゃ、私、死んじゃうよ。

 

 それが、『娘』の、最期の親孝行で――何よりの、親不孝だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――ああ。俺は死んだのか。

 

 

 真っ黒だった。まるで夜のように。だから、不思議と落ち着いた。

 

 

――……何にも、ないな。

 

 

 何もなかった。

 

 水も、木も、土も、空気も、何も、かも。

 

 

――……木になって死んだんだ。水くらいは、あってもいいとは思うが。

 

 

 だが――何も感じない。

 

 根は人間の下半身だったのだから土は勿論だが、周囲に幾らでもある筈の空気も、中を循環している筈の水も。

 

 生きているという感覚もない。

 

 死んでいるのだから当たり前だが。

 

 これは、死んでいるから何も感じないのか、それとも木々はこんな感覚で日々を生きているのか。

 

 何も感じないという、感覚で。

 

 それは――生きていると、言えるのか。

 

 

――……まぁ、生きてるって感覚を、死後に求めるのもどうかというものだ。

 

 

 元々【自分】は、【彼女】程に、生きてはいなかった。

 

 それは生存期間という意味ではなく、もっと別の意味での――生。

 

 だが、それは【彼】が特別だったのではなく、【彼女】こそが、特別だったのだ。

 

 寄生(パラサイト)星人という種族は、元々、生存執着の強い種ではなかった。

 そもそも種の構造からして欠陥を抱えた種族なのだ。繁殖能力を持たない以上、生存執着が生まれる筈もない。

 

 食欲はあった。生存本能のようなものもあった。

 死ぬことに拒否感はあったし、敵を殺してでも生き残ろうという程度の執着もあった。

 

 だが、生を楽しんでいるかといえば、そんなことは全くなく。

 ただ、生きているから生きているという、いわば惰性で生きていた。

 

 腹が減ったから人を喰ったし、殺そうとしてきたから殺した――まさしく、獣。

 

 そう、寄生(パラサイト)星人は、正しく寄生獣だった。

 

 淡々と、機械のように。

 そういった風にプログラムされているから、ただそれ通りに動く、そんな生物だった。

 

 誰かの気まぐれによって生み出され、突然変異的に発生し、そしてあっさりと絶滅する。

 歴史に残らず、記録にも残らず、只のバグとして処理される――きっと、そんな運命を辿る筈の種族だった。

 

 ただ一人、たった一体、突然変異の中の突然変異種――【彼女】が生まれるという、奇跡がなければ。

 

 

――……そうだな。きっと、アイツがいなければ、俺達はとっくの昔に滅びていた。

 

 

 その個体は、機械のように、獣のように生きていた同族達を、一つの大きな集団――種族にした。

 

 感情も持たず、仲間意識すら皆無で、個々の中で世界を完結させていた化物達を、独力で統率し、支配した。

 

 そうして只の寄生獣から、寄生星人という――()になった。

 

 

――……そうだ。俺達は化物(バケモノ)だが、決して獣(ケダモノ)ではなくなった。……少なくとも、【アイツ】だけは……。

 

 

 きっと、人間だった。

 

 そうだ――俺は、【アイツ】を人間にしてやりたかった。

 

 

――………………。

 

 

 結局、【彼女】程に、明確に感情に芽生えた個体はいなかった。

 

 一見すると氷のように無表情だが、実は誰よりも感情豊かな【彼女】の傍に居続けた同族程、感情らしきものは芽生えつつあったが、それを明確に感情と理解し、把握し、自覚出来たものは皆無だった。

 

 それに芽生えるものは――その殆どが、【彼女】に対する想いだけだった。

 

【彼女】に感謝するという想い。

【彼女】を守りたいという想い。

【彼女】の傍に居たいという想い。

 

 それは、果たして感情と呼べるのか。

 もしかしたら、女王蜂や女王蟻に尽くすようなものと変わらないのではないか――誰よりも【彼女】の傍にいて、彼等よりも少しは感情というものが理解しつつあった【彼】はそんなことを思わなくもなかったが、結果として、無粋なことは言わないことにした。

 

 少なくとも、【彼女】に尽くした彼等は――皆、幸せそうだったのだから。

 

 笑顔を浮かべるものもいた。

 寄生(パラサイト)星人という種族において、それがどれほど幸福なことか。

 

 

――……それに、俺も、アイツ等のことは何も言えまい。

 

 

 何故なら、【彼】もまた、抱いた感情は、得ることの出来た感情は――全て。

 

【彼女】に対する感情ばかりなのだから。

 

 そう――彼は、【彼女】を愛することが出来た。

 

 愛を知った。愛に生きた。愛に――死ぬことが出来た。

 

 

――……そうだな。愛する女が出来た。それだけで、俺は生きたと胸を張って言える。

 

 

 この何もない世界が、死後の世界だとして。

 

 化物であった己が、落ちた地獄というものなのだとして。

 

 これから先、このままこうして死に続けていくことになるのだとしても。

 

 

――この愛があれば、俺は決して、折れることはないだろう。

 

 

 大樹のようなこの愛は、死して尚も健在だった。

 

 ならば、怖いものなど、ある筈もない。

 

 

――[君は、強いね。]

 

 

 何もない世界の何処かから、こんな声が聞こえた気がした。

 

 

――[後悔はないの? やり残したことはないの? 心残りは、残さなかった?]

 

 

【彼】は迷わず答えた。

 

 

――ああ。お前のお蔭で、俺は楽しい“人生”を送った。感謝しかない。俺は、存分に生きたぞ。

 

 

 もし――あの時、[彼]が、【彼】に負けて、全身が寄生(パラサイト)星人という種が生まれたら。

 

 寄生(パラサイト)星人という種を残すことの出来る――繋ぐことの出来る、完全無欠の寄生(パラサイト)星人が誕生していたら。

 

 断言する。

【俺】はきっと、こんなにも素晴らしい生を送ることは出来なかった。

 

“半身”だからこそ――【俺】は【彼女】の『半身』になれたのだ。

 

 

――[そっか。]

 

 

 声は――[彼]の声は、柔らかく、温かく、優しかった。

 

 それは[彼]という生命が持つ魅力だったのだろう。

 きっと[彼]は、生きていたら、とても優しく、穏やかな青年へと成長したことだろう。

 

 だからこそ【彼】は、こんな風にぽつりと漏らしてしまった。

 

 

――……ああ。だが、一つだけ。

 

 

 否――この世界が、何もないこの世界が、『彼』の死後の世界だというのなら、ここにはきっと、【彼】と[彼]しかいない。

 

 だから、きっと初めから、誤魔化すことなど出来なかった。だって、『彼』は【彼】で、[彼]もまた『彼』なのだから。

 

 例え、どれだけ強がっていても――『自分』だけは、誤魔化せない。

 

 

――【アイツ】を、悲しませなくなかった。

 

 

 これは自惚れではなく、誰よりも【彼女】を見続けてきた、【彼】には分かる。

 

【自分】が死ねば、【彼女】はきっと悲しむだろう。

 

 誰よりも感情豊かな【彼女】は。誰よりも純粋な氷のような心を持つ【彼女】は。

 

 氷のように、傷ついたら傷ついた分だけ、その心を削ってしまう。

 

 だが、【俺】はもう、そんな【彼女】の傍にいて――大樹のように寄り添ってやることが出来ない。

 

 それだけが――それだけが。

 

 死ぬほど、心残りだった。

 

 そして、やはり声は、優しく、温かく、穏やかに言う。

 

 

――[だったら、こんなところで死んでる場合じゃないよね。]

 

 

 思い出す。

 

【俺】の宿主は、優しく、温かく、穏やかで――そして、とても強いのだと。

 

 

――全く、[俺]には敵わないな。

 

 

 だが、悔しいという感情を、【彼】は知らない。

 

 きっとこれは、誇らしいという気持ちだ。

 

 また一つ、【彼】は感情を知ることが出来た。

 

 

――だが、【俺】はもう死んでいる。

 

――[大丈夫、【君】は死んでない。【君】は死なない。]

 

 

 死ぬのは、[僕]だけだ。

 

 それはどういう意味なのか、【彼】にも直ぐに伝わった。いや、きっと初めから理解していた。ここは[彼]と【彼】の世界なのだから。

 

 

――……………。

 

 

 何と言っていいのか分からなかった。どんな感情を抱いているのかも分からなかった。

 

 少しだけ、【彼女】の気持ちが理解出来た気がした。

 

【彼女】はきっと、こんな感情をずっと抱えながら生きていたのだ。

 

 

――[何も言わなくていい。何も感じなくていい。僕も【君】には、感謝しかないから]

 

 

 何もなかった。

 親も、家族も、名前も。

 

 字も書けなければ、言葉も話せない。

 

 こうして今話しているのも、これまでずっと生きてこられたのも――全部、【彼】と出遭ったおかげだ。

 

【彼】が殺してくれたから。【彼】が生かしてくれたから。だから[僕]は、『彼』になれた。

 

 火影(ひかげ)(かぶと)という名前も。あんなに沢山の同族(かぞく)も。

 

 そして――愛も、教えてくれた。

 

 

――[だから、助けてあげて。『僕達』が愛した『彼女』を。]

 

 

 あぁ――[僕]も、存分に生きた。

 

 

――だから、【君】は、[僕]の分まで生きて。

 

 

 そして、何もない世界に――光が差す。

 

 これが最後の会話なのだと、【彼】は悟った。

 

 

――……火影(ひかげ)(かぶと)という名前は、[お前]にこそ相応しい。……さらばだ、兜。

 

 

 そして【彼】は――何もない、慣れ親しんだ影のような世界から、光の元へと、手を伸ばした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 名も無き【彼】が目を覚ますと、そこには、真っ暗な空と、真っ白な雪が広がっていた。

 

「……………………」

 

 身体を起こすと、裸の上半身に少し雪が積もっていた。

 

 それにもう一度空を見上げると、真っ暗という程に暗いわけではない。黒は――段々と薄くなっていた。

 

 夜が明ける。夜が終わる。

 

 戦争が、終わろうとしている。

 

「……………………っ!?」

 

 立ち上がろうとした時――下半身が動かなかった。

 

 人間であった下半身が。[彼]であった下半身が。

 

 まるで、凍っているかのように、木であるかのように。

 

 死んでいるかのように――動かない。

 

「………………………」

 

 人間の身体は、寄生(パラサイト)星人にとっては生命力の補給庫であり、文字通りの命綱である。

 

 つまり、人間の身体の死は、寄生(パラサイト)星人の死にも直結する。

 

 故に、このままでは【彼】は、遠からず内に死亡する。

 人並み外れた生命力を持つ[彼]の死力によって、辛うじて生命を繋ぎ留めた【彼】であったが、それでも残された時間は、本当に僅かだ。

 

 だから、動かなくてはならない。

 

 例え、地べたを這いつくばってでも。

 

「…………」

 

 雪の中、氷の上を上半身裸で【彼】は這い進んだ。

 両肘を足代わりに、匍匐前進するように。

 

 立ち上がれないが故に【彼女】の正確な場所は分からない。それに、とてもではないが、この戦場は静かすぎる。

 

 戦争は終わっている――少なくとも、この戦場においては。

 

(……あの人間は死んだのか? 陽光と豪雪は? ……【アイツ】は――)

 

 だが、それでもこの足を――この手を止める理由はない。

 

 火影兜の名を託した――生命を託された[彼]と、約束をしたのだ。文字通りの生命の約束を。

 

 愛した女の為に生き返った男は、そして【彼女】の元へと辿り着いた。

 

「…………」

 

 野犬かと思ったのだ。

 

 静寂に包まれたこの戦場跡において、たった一つ響いていた“咀嚼音”。

 

 もしかしたら誰かが死んで、その死体を漁りに来た野犬がいるのではないかと。

 

 その喰らっている死体から、少しは状況が察せるのではないか――生き返ったばかりながら死に掛かっているこの状況では遠回りかと思ったが、この雪の中を闇雲に探すよりはと思い、その食事場を目指した。

 

 だが――本当は分かっていた。その咀嚼音の主の正体も。

 寄生(パラサイト)星人には、同族を感知する能力がある。だから、目にするまでもなく分かっていたのだ。

 

 この光景が、どれ程に悍ましいバッドエンドであるかを。

 

 

 そこでは、愛する女が、実の娘に貪り喰われていた。

 

 

 ガツガツと、がっついていた。

 

 まるで犬のように――まるで、獣のように。

 

 両手を地に付けて、四本足の姿勢で、屍体に顔をくっつけて――ガリガリと。

 

 白縫雪華の身体は凍り付いていた。真っ黒な火ごと凍り付いていた。

 

 全身黒く燃え盛った状態のまま、氷漬けにされていた――そしてそのまま食べられていた。

 

 ガツガツ、バリバリ、グチャグチャと。

 

 血を啜られ、肉を食い千切られ、黒火ごと呑み込まれていた。

 

「――社長」

 

 名も無き【彼】は声を掛けた。()()()()()()()()()()()()、無作法に。

 

 社長――と。

 

 雪ノ下陽光(ひかり)は貪り続ける。白縫雪華の物言わぬ死体を。

 

 もう一度、【彼】は。

 

 食事中の、()()()()()()()()()()()

 

「――社長!」

 

 バッ! ――と、顔を上げた。

 

 血が口元をべったりと汚して、涙が顔中をどろどろに汚して。

 

 あの美しかった、太陽のような笑顔を――否。

 

 あの美しい、見るモノ全てを恐怖させるような。

 

 人間離れした、まるで氷のような――微笑みを、浮かべて。

 

「――遅刻ですよ。……バカ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鬼怒川千三郎という男は、確かに優秀な戦士(キャラクター)ではあったが、それでも雪ノ下陽光を相手取るには力不足だった。

 

 本来――ならば。

 

 だが、この時の彼女は、目覚めたばかりの異能をコントロール出来ず、『母』から異質な力を受け継いだばかりで、そして尚且つ――愛する夫の死に嘆き悲しんでいた。

 

 およそ、ここまで条件が重なって初めて、鬼怒川千三郎は雪ノ下陽光に致命傷を与えることに成功した。

 

 しかし――それでも鬼怒川千三郎は、雪ノ下陽光に勝利するには至らなかった。

 

 短い銃身の黒銃――Xガンを陽光に向けた時、鬼怒川は真っ黒な憎悪を余りにも露骨に彼女に向けた。

 そも、憎悪や殺意を抑えることが出来るような()()の仕方をしたのならば、むしろ鬼怒川はここまで生き残ってはいなかっただろうが、こと雪ノ下陽光を相手取るにあたっては、それは致命的なまでの未熟だった。

 

 弱り切った陽光でも、悲しみに暮れていた陽光でも、それは反射的に反応してしまう程のものだった。

 

 つまり陽光は、銃口を向けられたその瞬間――豪雪の亡骸を庇い、そして、腹を守った。

 

 結果として――背中――肩甲骨の辺りの肉が弾け飛び、血が噴き出した――が。

 

 即死傷は、避けた。

 

 次の瞬間。

 激痛を堪え、叫び声を上げるよりも先に。

 

 氷の刃が鬼怒川の首を吹き飛ばしたのは、愛する夫の亡骸を壊そうとしたことへの妻としての怒りか。

 

 それとも――母の、怒りなのか。

 

 そして、激昂が去った瞬間、彼女の心を覆い尽したのは。

 

 人を殺してしまったことへと後悔の念――では、なく。

 

「……………」

 

 自分の、生命への、諦めだった。

 

 

 

 

 

 私を、殺してくれないかな。

 

「――じゃなきゃ、私、死んじゃうよ」

 

『娘』からの、そんな死刑宣告に等しい死亡宣告に。

 

『彼女』は――黒火の中で、凍り付いた。

 

「…………な――」

 

――何を言うのですっっっ!!!!!

 

 それは、恐らくは『彼女』の生涯で、最も激しい慟哭だった。

 

 だが、それでも陽光は、それを受けてもなお嬉しそうに微笑む。

 

 そして、駄々っ子をあやす母親のように、『娘』は『母親』に語り掛ける。

 

「……背中の傷、塞げないの。もう上手く氷が出せない。それぐらい、この傷は致命傷みたいなの」

「そ、それならば、『私』が塞ぎます! 『私』の、氷で――」

「――その、身体で?」

 

 陽光の言葉に、『彼女』は言葉を詰まらせた。

 

 既に黒火を抑えきれず、己が身体すらも凍らせることの出来ない『彼女』には、氷を生み出すことなど出来る筈もない。

 

「……いいの。例え、凍らせることが出来たのだとしても……私はお母さんに殺してもらうつもりだった。だって、お腹の中の子を助けるには、もう、それしかないから」

 

 そう言って、陽光は――我が、『娘』は。

 

 あの陽だまりの記憶のように――『自分』が初めて陽乃を抱いた時のように。

 

 美しい顔で――母親の顔で。

 

 そのお腹を撫でて、顔を上げて、『母』に言った。

 

「私を殺して、お母さん。そして――()()()()()

 

 私の代わりに――私になって――。

 

「――この子を、産んで」

 

 絶句――する。

 

 黒火に全身を燃やされているのに、寒くて冷たくて仕方がなかった。

 

(……この子は……アレだけの、情報で――)

 

 レジー博士が得意げに語っていた、寄生(パラサイト)星人という化物の特性。

 そして『彼女』は気付いていないが、陽光は車内で、濁眼の黒衣と『彼女』の会話も聞いていた。

 

 故に――陽光は、自らの生命を諦めた。そして、託すことを決めた。

 

 自分の生命を。そして、お腹の中の、新しい生命を。

 

「……例え、この傷を塞いだとしても、無理なの。身体が唐突に死に瀕したせいで、私の異能とお母さんの異能が同時に暴走し掛けてる。自分の意思じゃあ氷は出せないけれど、このままじゃあ、身体の中から凍り付いちゃう。……そしたら、この子は――助からない」

 

 陽光は『母』を真っ直ぐに見つめる。

 蒼白の顔で、冷や汗を流して、それでも表情は、微笑みのままで。

 

「――でも、こうすれば、『娘』と『母親』、()()()()()()()()()

「!? やめ――ッ!?」

 

 そして――雪ノ下陽光は。

 

 袖口に忍ばせていた、鬼怒川千三郎を葬った際に作り出した氷刃を――己の首に当てて、天を見上げた。

 

 しんしんと、降り積もる、真っ暗な夜の中でも輝く、真っ白な――雪を。

 

「――雪乃。この子の名前。きっと可愛い、女の子だから」

 

 そして――陽光の手に持つ氷刃が――小さく震えているのを、化物の視力は、逃さなくて。

 

「――――ッッッッ!!!! ァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」

 

 ザスッ、と。

 

 白縫雪華の身体が変化した黒火を纏う刃が、雪ノ下陽光の首を吹き飛ばした。

 

 

 こうして――『彼女』は、娘を殺した。

 

 

 そして、【彼女】は、娘の身体に移住し。

 

 

 そのまま――『雪ノ下陽光』は、[白縫雪華]という化物を殺した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 寄生(パラサイト)星人は、他種族の身体を乗っ取り、寄生する化物である。

 

 基本的には頭部を乗っ取り全身の支配権を獲得するが、首から下の身体も生存する為の栄養を作る為に必要不可欠な臓器として機能し続ける為、人間の身体が極端に損傷し機能停止した場合、寄生(パラサイト)星人は死に至る。

 

 だが、寄生(パラサイト)星人は、別の個体の頭部を斬り落とし、そこから別の個体の身体に移住することが出来る――そうして身体を乗り換えることで、生命活動を続けることが出来る。

 

 この寄生(パラサイト)星人の特性は、所謂一つの不老不死の実現の可能性を秘めており、レジー博士はその点においても寄生(パラサイト)星人に興味を抱いていた。

 

 だが、実のところ、この延命方法においては寄生(パラサイト)星人らしく色々な欠点や注意点がある。

 右手や顎など頭部以外の部位から頭部への移動は脳の複雑な支配方法が分からず不可能であったり、性別の違う身体に乗り移った際は雌雄の差異の操作方法が分からずに苦戦したりと、様々な問題と制限がある。

 

 いうならば、慣れ親しんだ自動車からいきなり別の車へと乗り換えるようなものだ。車ならば慣れるまで運転すればいいが、身体はそうはいかない。中には、操作を間違えれば異物と見做され排除されることもある。

 

 そういう意味では、人間と雪女の混血種(ハイブリッド)である雪ノ下陽光の身体は、相当に制御の難しい身体ではあったが――【彼女】は見事に陽光の身体を乗りこなしてみせた。

 

 身体を乗っ取り、移住したその瞬間。

 暴走していた二種類の異能を抑え込み、背中の傷を凍らせて、お腹の子を守ってみせた。

 

 こうして【彼女】は、娘の身体を完全に支配し、略奪し、寄生した。

 

「…………」

 

 だが、足りなかった。

 

 応急措置は済ませた。だが、それでも根本的な解決には至らない。

 

 今は無理矢理に抑え込んではいるが、生命を繋ぐだけならば耐えればいいが――お腹の子供を守る為には、母体の力が足りない。

 

 吸血鬼(オニ星人)が吸血によって栄養を――異能を支配する力を手に入れるように。

 

「………………ッッ」

 

 寄生(パラサイト)星人が異能を支配するには――同族の捕食が必要だった。

 

「―――――――ッッッッ!!」

 

 本来――寄生(パラサイト)星人には、制御しなくてはならないような異能などは殆ど存在しない。

 強いていうならば、栄養豊富な状態の方が、より複雑な形に変化出来るといった程度のものだ。暴走するような異能ではなく、つまりは食事をしなくても問題はない。

 

 が――【彼女】の場合は、特別だった。

 

 雪女の異能の制御方法は、大方の星人と同じように、技術と、精神力だ。

 だが、今はそれでどうにかなる問題ではない――ならば。

 

 幸運なことに――不運なことに、今や、雪ノ下陽光は、雪女であり、人間でありつつも、寄生(パラサイト)星人でもある。

 

 寄生(パラサイト)星人と同じように、宿主の同族を食すことで、異能を支配する能力を手に入れることが出来るのだ。

 寄生(パラサイト)星人としての栄養補給で――同族食いで、雪女の異能を支配する力が増幅可能であるということは、[前の身体(白縫雪華)]で検証済みだった。

 

 そして、目の前には、都合よく()()の頭部が転がっていた。

 

「―――――――ッッッッ!!! ――――――ッッッッ!!!」

 

 最早【彼女】には、人間らしい言葉を放つことすら出来なかった。

 

 分かっている。同族を食らうという意味ならば、雪女の異能を支配する栄養を獲得する意味では、そこに転がっている鬼怒川千三郎よりも、娘が愛した雪ノ下豪雪よりも、この身体の一部であった、雪女の血も混ざっているこの混血種の頭部を食らうことが最も手っ取り早い。

 

 そして、時は一刻を急いだ。

 

 絶対に嫌だと叫ぶ心を感じた。

 

 だが、それと同時に、最早これは無意味な感傷だと凍り付く心もあった。

 

 既に娘は死んだ。他ならぬ(じぶん)が殺した。

 この頭部は既に只の頭部であり、頭部以外の何物でもない。

 

 喋らないし語らないし考えないし感じない。只の物体だ。

 

 ならば、それを食らうことに何の抵抗があろうか。

 

 娘の頭部を食らうことが、娘の願いを叶えるのに最も合理的だ。

 

 そう判断してしまう自分が、何よりも化物なのだと感じた。

 

 そして、【彼女】は、数年ぶりに――人間を食した。

 

 ガツガツ。ムシャムシャ。ゴリゴリ。ゴクゴク。

 

 雪ノ下陽光は食べた。雪ノ下陽光を食べた。

 

 ポロポロと涙を零しながら――その涙は雫の形で凍った。

 

 頭蓋を噛み砕き、脳漿を啜り呑んで、頭髪を喉に詰まらせて、眼球を舌の上に転がせた。

 

 そして、一口一口、しっかりと味わい、やがて小さく微笑んだ。

 

(……ああ。【私】は化物だ)

 

 娘を殺して、娘の首を刎ね飛ばして、娘の身体を奪い、娘の生命を奪い――挙句の果てに、娘の頭部を食べている。

 

 こんな化物は他にいない。世界で最も――醜い、化物だ。

 

(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」

 

 やがて【彼女】は、謝罪の言葉を口にしながら娘を食べ続けた。

 凍り付く涙をポロポロと零し、けれどその表情は氷のように無表情で。

 

 そして、娘を食べ終わると、そのままかつての自分の身体へと――白縫雪華の亡骸へと飛び掛かった。

 

 頭部を失いながらも黒く燃え続けるその身体を、一睨みで瞬時に凍らせて。

 

 だが、案の定、氷の膜の中で黒火は燃え続けていたが、構わず氷塊のまま両手で収まる食べ易いサイズに――[彼女]を、砕いた。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 瞬間――まるで己が身体を砕かれたかのように、表情を歪めた【彼女】は。

 

「…………ごめん、なさい」

 

 と、謝りながら。

 

 口元を真っ赤に濡らして、表情を氷のように凍らせて。

 

 そのまま、獣のように、白縫雪華という名前だった身体を。

 

 何十年物間、己が身体として共に生きてきた生命を。

 

 思う存分、貪り尽した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 名も無き【彼】は、そんな【彼女】を傍で見ていた。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい――と。

 

 ぶつぶつと、うわごとのように呟きながら、氷の無表情でかつての己が身体を食べ続ける【彼女】を。

 

「…………」

 

 彼のやることは、決まっていた。

 

 

 

 

 

「……………ごめん……なさい……ごめん……なさい……」

 

 自分は何をしているんだろう。

 

 何も分からなかった。何も分からなかった。何も分からなかった。

 何も分かりたくなかった。何も分かりたくなかった。何も分かりたくなかった。

 

 ただ――食べた。

 

『娘』を食べた。もう二度と、人間を食べないと決めていたのに。

[彼女]を食べた。もう二度と、[彼女]を殺さないと決めていたのに。

 

 ただ食べた。一口ゴクリと嚥下する度に、自分が化物だと思い知らされているような気がした。

 

 化物め。化物め。化物め。化物め。化物め。

 

 食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる。

 

 自分が化物に染まっていく。真っ暗に染まっていく。

 

 夜が終わろうとしているのに。空すら黒から青へと変わっていくのに。

 

 これが罰だというのなら、自分はどれだけの罪を犯したのだろうか。

 

 化物なのに、化物なのに、化物なのに――光を求めたからだろうか。

 化物なのに、化物なのに、化物なのに――人間に憧れたからだろうか。

 

 その結果――全てを失って。全てを殺してしまって。

 

 闇の中に、暗い夜の中に、『娘』と、[彼女]の、味と共に。

 

(……ごめん……なさい……ごめん……なさい……)

 

 暗くて、寒くて、冷たい――吹雪の中に――(ひとり)

 

(…………いやぁ)

 

 食べて。食べて。食べて――食べ終わって。

 

 最後の一口までしっかりと呑み込んで。最後の一片までしっかりと――生命に代えて。

 

 そして――何かを、殺された。

 

 化物化物化物化物化物化物化物化物化物化物化物化物化物化物化物。

 

「…………誰か……」

 

 青く染まり掛けている空から降って来た、小さな雪が、頬に落ちる。

 

 化物は、か細く、死にそうな声で呟いた。

 

 

「……………たすけて」

 

 

 ザシュッ――と。

 

 人を殺す音が聞こえた。

 

 

【彼女】は振り返る。口元を血で汚し、涙で濡らした顔で――そこでは。

 

【彼】が――人を殺していた。

 

 雪ノ下豪雪を殺していた。

 

 そして、雪ノ下豪雪となっていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 寄生(パラサイト)星人は身体を変えることが出来る――まるで人が住居を変えて引っ越しをするように。

 

 だが、寄生(パラサイト)星人にとって身体とは、生命力を作る為の器官であり機関である為――生命活動が停止している死体を新たな母体とすることは出来ない。そんなことをしても死ぬだけであり、文字通りの自殺行為である。

 

 だが、それは――【彼】という特別個体においては、また少し話が変わってくる。

 

 通常の寄生(パラサイト)星人とは違い、首から下にまで侵食の手を伸ばすことの出来る【彼】は、例えその宿主が死んでいようと――寄生することが出来る。その死んでいる器官を、呑み込み、塗り替え、寄生細胞体に――己が色に染め変え、置き換えることが出来るからだ。

 

 極端な話をすれば、既に生命体として成体に成長した【彼】は、あのまま上半身だけでも生存することは可能だったのかもしれない。通常の寄生(パラサイト)星人と違い、上半身を丸ごと手に入れている【彼】は、心臓も肺も胃も腸も、当然脳も手に入れているのだから。

 

 だが、それでも【彼】は、[彼]が死んで、死に掛けていた。

 

 それはつまり、全身を寄生細胞体に塗り替えることが出来る程の力を持つ【彼】でさえも――あくまで、()()星人であるということなのかもしれない。

 

 寄生(パラサイト)星人という種族そのものが、何かに寄生することで初めて生存することが出来るという――前提の生命だという話なのかもしれない。

 

 閑話休題。

 

 兎にも角にも、例え【彼】だとしても、何かに寄生しなければ生存し続けることは出来ないという話であり、更に【彼】は、それが死体だとしても寄生することが可能だという話でもあって――そして。

 

 そんな【彼】の前に、雪ノ下豪雪という人間の死体があったという話でしかなかった。

 

「…………」

 

 迷わなかった。

 

 這いつくばった姿勢のままで、首から上を化物のように裂かせた。

 

 そして、そのまま刃を作り出し――振るう。

 

 

 

『――眩しくないのか、お前』

 

 かつて、雪ノ下邸の大きな庭で。

 

 太陽の陽射しが降り注ぐ中、無表情の白縫雪華と満面笑顔の雪ノ下陽光が遊ぶのを。

 

 まるで日陰を求めるようにして木陰へとやってきて眺めていた雪ノ下豪雪少年に、同じく木陰で木の世話をしていた火影兜が、そう尋ねたことがあった。

 

 己の誕生の場所でもあるこの雪ノ下邸に、数えるのも馬鹿らしくなるほどに来訪している豪雪だが、顔を合わせることも滅多になく、ましてや話し掛けられることも初めてな大人の男に、声こそ上げなかったものの、露骨に驚き、少々警戒心も露わにしていた。

 

 だが、これは後にそんな少年の記憶からも薄れ消えるような、そんな他愛もない過去の一幕に過ぎない。

 少なくとも、豪雪少年にとっては、そんな程度の特別でも何でもない、思い出にすら残らないようなワンシーンに過ぎない、とある日の話だ。

 

 豪雪少年の警戒の目線には気付いているが、何も気付いていないかのように何も言わない火影。

 だが、火影は豪雪の横を離れようとはせず、彼と同じく雪華と陽光の方を眺めていた。

 

 火影にもよく分かっていなかった。

 雪華から、なるべく家人の印象には残らないように立ち回れと言われていて、その言葉通りにこれまで重要人物達はおろか下っ端のメイドにまで接触を最小限にしていたというのに、気が付いたら、この少年に自分から声を掛けていた。

 

 問いかけた言葉も、意味が分からない。自分でも分からない。

 眩しいからこうして木陰に来たのかもしれない。だが、この薄暗い蔭の中でも、この少年は眩しそうに目を細めていた。まるで自分のように。

 

『……眩しいよ』

 

 豪雪少年はそう言った。薄暗い陰の中、表情に影を差しながら。

 

『……だったら、どうして離れない?』

 

 眩しいモノの傍にいても、影が差すだけなのに。

 輝くモノの近くにいても、自分を暗くするだけなのに。

 

 光をずっと浴び続けたところで、己が光を放てる日など、来る筈がないのに。

 

 なのに、どうして、こんなにも惹き付けられてしまうのだろうか。

 

 豪雪少年は、眉を寄せたまま、目を細めたまま、自嘲するように笑った。

 

『……しょうがないよ。だって、綺麗なんだもん。好きにならずにはいられないよ』

 

 火影兜は、同じく自嘲するように――笑った。

 

『豪雪ー! 何をやってるの! こっちに来なさいよぉ!』

 

 陽射しの中から陽光が陰の中の豪雪に向かって手を振る。

 

 豪雪は苦笑と共に立ち上がり――隣に誰もいないことに気付いた。

 

 木の幹の裏から火影は、陽光と豪雪の無邪気な会話に耳を傾け、そして粛々と職務に戻った。

 

『もう。いい? これからは黙っていなくなってはダメよ。ずっと私の傍にいなさい』

『……はいはい。例え、火の中だろうと水の中だろうと……光の中だろうと、闇の中だろうと――』

 

――ずっと陽光の傍にいるよ。

 

 それは、少年にとって、余りにも当たり前のことに過ぎなかった。

 

 だからこれは、思い出にすら残らない、あったかもしれない会話だった。

 

 

 

(………お前なら、きっとこうすることを望むだろう?)

 

 そして――だからこそ、【彼】は。

 

 新たな寄生先に――雪ノ下豪雪を選んだ。

 

 数十年ぶり二度目の寄生となるが、やはり容易く侵食は首下の身体まで及んだ。

 見る見る内に寄生細胞体に作り変えられていく。胸に空いた致命傷となる大穴も、そこにあった内臓も含めて新品同然に作り変えられ――そして。

 

 今度は意図的に、上半身までで侵食を止めた。

 

「………………」

 

 そこにどんな意味があったのかは分からない。多分、【彼】にも、全部は分からない。

 

 だけど、きっと、こうするべきだと思ったのだ。こうしなくては駄目だと思えたのだ。

 

 雪ノ下豪雪(かれ)の身体を引き継ぐには。火影兜(かれ)の生命を受け継ぐには。

 

 雪ノ下陽光(ひかり)の――【彼女】の――傍に、寄り添うには。

 

 こうしなくては、相応しくないと、思えたのだ。

 

「……あな、た…………何を………どう、して?」

 

 口元を血でドロドロに濡らして、涙で顔をボロボロに汚して、呆然とこちらを見遣る【彼女】に――【彼】は。

 

 背中を向け、膝を折り――そして、豪雪の頭部を前に。

 

 両手を合わせて、目を瞑る。

 

「――いただきます」

 

 そして、大きく口を開けて、咀嚼した。

 

「な、な、何をしてるの!?」

「礼儀だ」

 

 バク、がつ、ゴリ、ごく――【彼】は豪雪を食べていく。

 

 雪ノ下豪雪の顔のまま、雪ノ下豪雪を食べていく。

 

 寄生星人の本性(すがお)ではなく、化けの皮を被ったままで。

 

「俺は、これから雪ノ下豪雪として生きていく。コイツの身体で、コイツの顔で、コイツの人生を受け継いでいく。コイツの生命を――受け継いでいく。……だから、これは礼儀だ」

 

 本来、寄生(パラサイト)星人の食事は、一口で豪快だ。

 

 頭部を丸ごと喰らいついて、そのまま放置する。

 吸血鬼のように灰になったりせず、そのまま遺体(たべかす)を放置するモノもいる程で、惨殺事件として表沙汰になりかけたことも多い。

 

 だから、これは礼儀だ――そして感謝だ。

 

 只の捕食ではなく、これは食事だ。

 

 生命に感謝し、生命を受け継ぐ――これは、儀式だ。

 

「だからお前も……そうしたんだろう」

 

 口元を真っ赤に汚して。綺麗な顔を涙でボロボロにして。

 

 一口一口、苦しみながら。それでも味わって――嚥下して。

 

 自分が化物だと思い知らされながら。自分が真っ暗になっていくことを思い知らされながら――それでも。

 

 全てを受け継ぐために。全てを――生命に代える為に。

 

「――ごちそうさまでした」

 

 血に濡れた口で、【彼】は、両手を合わせて、頭を下げた。

 

 感謝していた。

 失われた生命に。奪った生命に。糧となった生命に――感謝の念を抱いて、両手を合わせ、誓っていた。

 

「――()()

 

 そして、背を向けたまま、【彼】は――雪ノ下豪雪は、言った。

 

「――幸せにする」

「っ!?」

 

 そして、かつて、雪ノ下豪雪が、雪ノ下陽光に誓ったように。

 

 雪ノ下豪雪は、今、再び、雪ノ下陽光に、雪の中で誓った。

 

 立ち上がり、振り向いて――白に囲まれた世界で、プロポーズした。

 

「幸せになろう。ずっと、お前の傍にいる」

 

 陽光は、愛する男に抱き付いた。

 

 口付けをする。ファーストキスは、血の味がした。

 

 深く、深く、口付けをする。

 血の味がする。生命の味が広がる。それはきっと、化物だけが分かる味だった。

 

「………………」

 

 そして、二人は、唇を離し、見つめ合い。

 

 手を繋いで、そのまま真っ直ぐ――車へと向かった。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 まるでヴァージンロードを歩き、教会の出口へと向かっているかのように。

 

 扉を開けると、そこには――雪ノ下陽乃が、小さく丸まって眠っていた。

 

 まるで守られるかのように、綺麗な氷のドームの中に。

 きっとあの子が作り出したのだろう――娘を守る為に。死後も、これほど美しく残る程に、生命を懸けて。

 

 それを、陽光は指先一つで儚く破壊する。そして、未だ眠り込む彼女を、そっと優しく抱き上げた。

 

「――お母さんですよ」

 

 全身が切り刻まれたかのように、何かに激痛が走った。

 

 だが、氷のような微笑みで、それを押し殺した。殺すのは、化物の何よりの得意技だった。

 

 豪雪は妻の肩を抱く。そして、二人、車外に出て、家路へと歩き出した。

 

 明るむ空。だが、青はまだ薄黒く、雪はしんしんと降り注ぐ。

 

 お腹の中を蹴られた感覚。雪が再び、彼女の頬に落ちて、涙の跡を冷たく濡らした。

 

 二つの無垢なる生命を抱えながら、悍ましい真相を雪の下へと隠し。

 

 例え、この身体を苦痛と共に溶かすだけだと、思い知らされても。

 例え、この心を鈍痛と共に軋ませるだけだと、思い知らされても。

 

 例え、己が決してそこには相応しくない、暗く冷たい世界が住処の化物なのだと――身にも、心にも、この上なく思い知らされても。

 

 それでも――それでも――それでも――還らなくてはならない。

 

 雪ノ下陽光として。雪ノ下豪雪として――化物共は、帰還する。

 

 新たな化けの皮と共に、化物の中の化物は。

 

 己が身体を灼く陽射しの中へ――光の世界へ。

 

 真っ暗な絶望と、二つの輝く生命を抱えて。

 




 ××××年×月×日

 今日、私は、人間に捕獲された。

 故郷を失った。母親を失った。生きる術を失った。父親は知らなかった。

 右も左も人工物の、この檻の中のような人里で、私は死に行くはずだった。

 雪が降らないこの街は、私にとっては異境で、魔境だった。

 そんな中に、私は、ひとりぼっちで、生きていかなければならなくなった。
 こんな中で、私は、ひとりぼっちで、死んでいかなければならないのだと思っていた。

 荒れ果てた街。腐り果てた民家。
 雨露さえ凌げないこの場所に、どれだけ居座り続けただろう。

 遠からず死ぬことは分かっていたけれど、それはこの場所から一歩でも外に出たって、同じだ。

 ここは異境。ここは魔境。私のような化物にとって、ここは化物の巣窟だ。

 人間という、この世で最も恐ろしい生物の世界。

 そんな所で殺されるくらいなら、私はこの廃墟で死にたい。

 お母さんと暮らした、この家で死にたい。

 でも、神様は化物の願いを叶えてくれない。お母さんと一緒に死にたかっただけなのに。

 みんなみんな殺されたのに、私だけ何故か生かされて。

 その上、私の前に、恐ろしい化物を連れて来た。

 人間の名前は――雪ノ下厳冬。

 その名前の通り、厳冬の雪のような真っ白な髭を生やしながら、燃えるような生命力を持った、人間という化物。

 私は、今日、雪ノ下厳冬に捕獲された。

 そして、処女を奪われ、女にされた。

 私は泣いて、叫んで、呪った。

 雪ノ下厳冬を。人間という化物を。そして神様を。この世界を。

 この恨みは忘れない。この殺意を、私は忘れない。

 死ぬのは止める。私は生きる。生きて、生きて、絶対に復讐してやる。

 もう、負けるのは嫌。負ける側でいるのは嫌。私は強くなる。絶対に。絶対に。

 私は――人間になる。










――そこまで読んで、比企谷八幡は、一先ずこの日記(ものがたり)を閉じた。



白縫雪華と黒い衣の戦士――BADEND
                    


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■■■■と黒い炎の戦争
妖怪星人編――① 半妖の鴨桜


※今章は『比企谷八幡と黒い球体の部屋』【○○星人編-繋-】《Side Crossover――last ep》まで読了済であることが前提とした構成になっております。
ネタバレが嫌だという方は、先にそちらの方を読んでいただきたいなと思います。

※この物語はフィクションです。
 日本の平安時代を舞台にしていますが、実際の歴史、人物、事件、制度など異なる点がわんさか出てきます。
 この人物とこの人物が同じ時代にいるのはおかしくね? 
 そもそも平安京ってこういう設定なの? 
 など、様々な矛盾点がこれでもかと出てくるとは思いますが、この世界ではこうだったんだろうという寛容な心でスルーしていただけたら助かります。




悪いな――俺も、人間じゃあねぇんだ。


 

 むかしむかし、今からおよそ千年ほどむかしのこと。

 

 日ノ本は妖怪で(あふ)れ返っていた。

 どこもかしこも暗く(くら)い、真っ暗闇。そしてその暗闇には決まって――妖怪が潜んでいた。

 

 徐々に徐々に、列島を真っ暗な闇で覆ってきた妖怪達は、遂に『人間』にとっての中枢にして中心地――平安京の内部にまで、その暗闇を広げつつあった。

 

 長い年月を掛けて、この日ノ本という島国を我が物としてきた『人間』は、この時、はっきりと追い詰められていた。

 

 しかし、この期に及んでも尚、この国を纏め、導く立場にある朝廷――貴族は、(まばゆ)く煌びやかな宮中の内部での権力闘争にのみ目を向け、自分達の足下にまで迫ったどろどろの暗闇を見ようともしていなかった。

 

 だからこそ、それは悲劇では無かった。

 この時代の日ノ本において、それは有り触れた光景だった。

 

 どこにでもあって、どこにでもありふれた、悲劇ですらない――死だった。

 

 その日、とある命が失われた。呆気なく、拍子抜けに、何の救いもなく、死を迎えた。

 

 今後千年、この国において最も大きな星人戦争であり続ける――第一次妖怪大戦争は、そんな小さな死によって幕を開ける。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 美しい水面に、月が映し出されていた。

 

 残念ながら綺麗な円形ではないものの、十分に丸みを帯びており、明日か明後日にでも荘厳な満月を拝むことが出来るだろう――月。

 

 そんな見事な月が描かれた雄大なる鴨川に、余りにも無粋な吐瀉物が注がれていくのを見て、その青年は思わず川に背を向けた。

 

「おろろろろろろろろろ」

 

 青年は、柵から身を乗り出すようにして吐き続ける横の男に対し、己の茶色の髪を掻き回して不快気に溜息を吐く。

 そして首に巻いた布で口元を押さえながら、吐き散らす男に向かって吐き捨てるように言った。

 

「……だから言ったんだ。お前が賭け事で勝てるわけがないだろう。毎度毎度、自棄(やけ)酒まで付き合わされる俺の身にもなれ」

 

 そう言いながら水の入った竹筒を差し出す悪友に、一通り胃の中の物を(酒も含めて)吐き出してすっきりしたのか、受け取った竹筒をぐいっと呷り、黒と桜の(まだら)模様の髪の男は地面に向かって霧のようにして水を吹き出す。

 

「――かッ! なぁに言ってやがんだ、士弦(しげん)。滅多に勝てねぇからこそ、勝てた時は震える程に(たかぶ)るんじゃねぇか」

「だったら一人で行けばいいだろう。賭場(とば)から追い出されるような外見年齢ではもうあるまい。中身は知らんが」

「俺はしっかり中身も成人してるっての。幼馴染みだろうが。それに寂しいことを言うなよ。一人で自棄酒してても不味くて酔えねえ」

「しっかり負ける前提じゃねぇか! もう二度と金輪際、お前と賭けには行かねぇからな!」

 

 もう何度目か分からない悪友の宣言に、もう一度水を呷って今度こそ飲み干した男は、ばんばんと友の背中を笑いながら叩いて、天に浮かぶ月を眺めた。

 

「……今夜は悪くない月だな。ツキはなかったが」

「お前のツキを基準したら、この京の空に満月が浮かぶ日など来ないな」

 

 まぁ、それはあながち冗談ではなくなるかもしれないが――と、士弦と呼ばれた男は首に巻いた布で口元を隠しながら呟く。

 

 斑髪の男は、その言葉に笑みを消して言った。

 

「さっき落雷みてぇな音が轟いたが、空は綺麗なもんだ。遂に天気までおかしくなりやがったか」

「……あながち冗談とは言い切れないのが恐ろしい。既に天変地異くらいはいつ起こっても不思議じゃないからな」

 

 目線だけを地上に戻しながら、斑髪の男は周囲を眺める。

 

 夜も深い時間帯とはいえ、辺りには人気が全くなかった。

 月明かりによって一寸先も見えないというわけではないが、電灯も整備されていないこの時代の夜は、やはりとても暗い。

 

 しかし、人間達が夜に外を出歩かなくなった最大の原因は――。

 

「よう、兄ちゃん。いけねぇなぁ、こんな夜更けに出歩いちゃあ」

 

 その時、突如――ぬっ、と、彼等の目の前が暗くなった。

 

 月が雲に隠れたわけではない。

 彼等の眼前に――正確には、斑髪の男の前に、見えない壁が現れたのだ。

 

 いや、それは本来ならば、人間には不可視の存在なのだろう。

 だが()()平安京では、()()日ノ本では、それは見えて当然の壁だった。

 

 壁の方もそれを理解しているのか、ギョロと己が身体に双眼を浮かび上がらせ、それを嫌らしく三日月型に歪めて、口もない分際でどこからともなく恐ろしい気な声を震わせる。

 

「こわ~い妖怪(お化け)が出るって、お(っか)さんから教わらなかったのかぁ?」

 

 ずずっと、その大きな身体を男達の方に寄せながら、目の前のお化け――()()・ぬりかべは言う。

 

「…………」

「…………」

 

 士弦と呼ばれた茶髪の男は露骨に大きく溜息を吐き、黒と桜の斑髪の男はぬりかべを無表情で見上げる。

 その様子を見て、ぬりかべは「ふふ、恐ろしくて声も出ねぇか」と巨体を震わせながら笑うと、斑髪の男は「――なぁ、一つ聞きてぇんだが」と、懐に手を入れ、口元を緩ませながら尋ねる。

 

「アンタは『()』か? それとも『()』か?」

 

 男の言葉に、一瞬だけ虚を突かれた様子のぬりかべだったが、すぐに「はは、愚かな人間共も、それくらいのことは知っているのか」と笑い、得意げに答える。

 

「俺様は化生(けしょう)(まえ)様の(しもべ)さ! この平安京は、もうすぐあの御方が統べる土地となる! あの御方に掛かれば、陰陽師共も! 武士共も! あの酒吞童子(しゅてんどうじ)すらも畏れるに足らん! よおく覚えておけ、人間! いや、貴様は此処で死ぬのだったな! ははははは!」

 

 そう笑いながらぬりかべは、その巨体をゆっくりと傾けさせていく。

 

「安心しろ! 貴様らの臓腑がそれなりに美味であるならば、あの御方に献上してやる! あのいと美しき御方の血肉になれることを光栄に思いながら死ね!」

「……あー、色々と言いたいことがあるんだが。とりあえず、最初に一個だけ」

 

 ドスッ、と。

 ぬりかべの身体を、まさしく壁の如き強硬な身体を、一振りの()()が貫く。

 

「…………は?」

 

 まるでぬりかべ自身の心を映しているような空白の時間が挟まれたが、それに構うことなく、斑髪の男の振るう黒柄の長ドスはそのままぬりかべの身体を真っ直ぐに上っていき、その肩(頭部がないのでそこが人間で言うところの肩なのかは不明だったが)の辺りから飛び出す。すると、奇妙にも壁から血液が噴き出した。

 

「な、な、なな、なぁぁああああああああ!!」

 

 悲鳴を上げるぬりかべに向かって、斑髪の男は足裏を押しつけながら、そのまま傾いてきた巨体を押し返すように蹴り上げた。

 

(わり)いな――()()()()()()()()()()()

 

 どすん、と、ぬりかべの巨体が倒れ伏せる。

 吹き出す血液も相まって、相当に注目を浴びたが――それを斑髪の男は一睨みで、闇の中からこちらを見ていた()()達を追い払った。

 

「……どうだった?」

「恐らくは、『鬼』と『狐』が半々といったところか。……京も、随分と物騒になった」

 

 斑髪の男は士弦の言葉を聞いて、その清流のように黒の中に、吹雪のように桜色が混ざり合った髪を振り乱す。

 

 士弦は、その幻想的な存在感を放つ幼馴染みにして悪友――そして、自らが所属する組織の総大将の息子である男を見詰めた。

 

(……人間じゃない、か)

 

 人間ではない――かといって、純粋な妖怪でもない存在。

 

 ()()――妖怪勢力が全盛期であるこの時代においても、限りなく珍しい存在であるその男は、自身が倒したぬりかべを踏みつけながら「ふん。『鬼』の残党共がうろつくくらいならまだしも……こいつら『狐』が京にやってきてからだ。京が――日ノ本が、ここまで暗くなったのは」と吐き捨てる。

 

 自身の妖怪としての存在感を消し、人間としての存在感を強めて、このぬりかべのような人間狩りに精を出している勢力の妖怪をおびき出す。ここ最近、この男が精を出している活動の一つだ。決まって賭け事に負けた時や父母に叱られた後などに実行する為、憂さ晴らしという面も強いのだろうが(士弦はそれが八割方を占めていると予想している)。

 

 それでも、血気盛んなこの二代目(候補)が、平安京の現状に憤りを覚えていることは事実だった。

 

「確かに、『鬼』と『狐』の勢力争いは佳境を迎えているという噂だ。近々デカい決戦があって、それに勝った方がこの京の、しいては日ノ本の支配権を手に入れるとか」

「はっ、支配してどうする? 人間達も滅ぼすのか? ()()()()()()()()()()()()。それが分からないくらいの阿呆なのか? 『鬼の頭領』も。『狐の姫君』も」

 

 そう吐き捨て、斑髪の男は再び暗い路地を――京の暗闇を、細めた瞳で見遣る。

 

 あそこからこちらを見ていたのは、『鬼』の勢力下の妖怪が半分、『狐』の勢力下の妖怪が半分。

 元から奴等の配下だった妖怪に加え、日ノ本の各地から、妖怪の、しいては日ノ本の行く末を左右する戦争に参加しようと、ここ最近に各陣営に加わった新参達が――今、この平安京には集結しつつある。

 

 それ以外の者は――その戦争に参加意思の無い妖怪は、戦争の数にすら数えられていない妖怪は、自分達とぬりかべの諍いを、誰も覗いてすらいなかった。

 

 人間達と同じように、夜に出歩くことすらせず、ただひっそりと、息を潜めていた。

 争いに巻き込まれないように――戦争に、巻き込まれないように。

 

 それが、今の平安京という場所だった。日ノ本という国だった。

 

 半妖の男は、強く舌打ちをし、苛立つように地面に倒れ伏せるぬりかべの屍体を、もう一度強く踏みつける――と。

 

「――鴨桜(オウヨウ)

 

 士弦が、己が相棒を制するように声を掛けた。

 

「派手にやり過ぎた。さっさとずらかるぞ。すぐに陰陽師が来る」

「……はっ。明るい宮中だけが自分達の世界の貴族様なんざあ、こんな路地裏の喧嘩なんて眼中にねぇだろ」

「奴等当人達は今頃意味も分からん宴の最中かもしれねぇが、陰陽師の式神は健気に警邏に勤しんでる。こういう屍体を貴族様の目が届く前に片付けて、平和な平安京を装うのが、現代の陰陽師共のお仕事なんだからな」

 

 名目上は、妖怪という災害から平安京を守る公共機関という位置付けにある『陰陽師』。

 いつだって事件が起こってから、その大半では事件が終わってから現れる、人間達の対妖怪防衛力に対して、鴨桜は嫌悪を隠そうとしなかった。

 

 そして、そんな存在に対して懇意な関係を築いているらしい――己が父親に対しても。

 

「…………」

「いくぞ。陰陽師だけならまだしも、最近流行の『侍』――特に、噂の『神秘殺し』とかに遭遇したら、俺等だけじゃあ真面目にあっさりと退治(ころ)されちまう」

 

 鴨桜はそれでも渋りを見せたが、最後には「……分かったよ」と言い、ぬりかべから足を退けて、そのままゆっくりと帰路につく。

 

 士弦はそんな相棒の態度に溜息を吐きながら、首に巻いた布で口を隠し、その横に並んで河川敷を歩いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 妖怪と半妖は、夜な夜な夜道を歩く。

 こんなことを続けて何になる、と、大人達は、大人妖怪達は言う。

 

 鴨桜の父が連れる妖怪達は――『百鬼夜行』を名乗っている妖怪任侠組織だ。

 妖怪大将ぬらりひょんが率いる彼らは、口を揃えて口酸っぱく、若者達の夜遊びを窘め続ける。

 

(……何が、妖怪大将だ。そんな肩書き、今の京じゃあ、何の意味もない)

 

 ぬらりひょんと人間の間に生まれた半妖――鴨桜は、この平安京で生まれ育った。

 生まれてから平安京を一歩も出たことのない彼にとって、世界とは、日ノ本とはこの平安京が全てだ。

 

 だが、組の他の者達はそうではない。

 元々は地方の小さな妖怪組織であった『百鬼夜行』。

 今から百年前、何を思ったのか、日ノ本の人間達の中心地であり、この日ノ本で最も対妖怪戦力が集結しているこの平安京にひっそりと乗り込み、唐突に住処としたのだ。

 

 その『百鬼夜行』を率いる総大将が、鴨桜の父――妖怪・ぬらりひょん。

 彼はやがてこの平安京の地にてとある人間の女と出会い、愛し合った。――そして半妖である鴨桜が生まれることとなる。

 

 陰陽師の目を掻い潜りながらも、ひっそりと平安京の闇の中で潜み続け、時には人間達に紛れ込みながら、それなりに楽しい日々を送ってきた。

 

 しかし、年月を経るごとに、日ノ本を覆う妖気は見る見る内に濃くなり続け、夜はどんどん暗くなり続けていった。

 日ノ本の中心たる平安京もそれは例外ではなく――日ノ本に妖気が満ちていくごとに、難攻不落と呼ばれた平安京の結界を突破する妖怪が増えていき、続々と乗り込んでくるようになった。

 

 そんな外様妖怪と陰陽師の戦いが激化の一途を辿っていくごとに、ひっそりと平和に暮らしていた原住妖怪や人間の民達の平穏が脅かされていき――そして、ある日。

 

 とある『鬼』と、とある『狐』が、天下を争い平安京を挟んで対峙することとなった。

 

 国を滅ぼし得る大妖怪が――二体。

 我が物とすべく平安京へと攻め入る時を虎視眈々と狙い合っている今、事態は正に最悪を迎えようとしている。

 

「……このままじゃあ、不味い。そんなことは、誰もがきっと分かっている」

 

 鴨桜は、そう小さく呟く。

 鬼の一味と狐の一党の戦いは、最早、戦争と呼ぶべき様相を見せ始めていた。

 

 今までの小競り合い、鍔迫り合いですら、それに巻き込まれていた市井(しせい)の人間、京に住まう妖怪達の生活を、ここまで破綻させているのだ。

 

 このまま本格的に、それこそ両勢力の幹部連中がぶつかり合うような本戦の火蓋が切られれば――平安京は間違いなく火の海になる。

 

 そうなれば何も残らない。

 日ノ本の人の世は崩壊し、全てが広大な焼け野原になることもあり得る。

 

 そして、その地獄は、もういつ現実になってもおかしくないのだ。

 

「――ふざけるな。ここは、俺の故郷だ。俺の世界だ。余所者にこれ以上、好き勝手されてたまるかよ……ッ」

 

 鴨桜は怒りに任せて妖気を漏れ出させる。

 これが陰陽師に気取られたら不味いと、士弦は目を細めながら窘めた。

 

「お前が分かるくらいのことは、総大将は当然分かっている。だからあの方なりに、どうにかしようと動いているのだろう」

「それが陰陽師との飲み会だってのか? 人間に媚びを売ることが、妖怪大将のやるべきことなのかよ」

「総大将には、妖怪だの人間だのは関係ない。そんなこと――お前が一番よく知っているだろう」

 

 そう言って士弦は、降り散る寒桜のはなびらを手に取って立ち止まり、鴨桜を見る。

 

「……………」

 

 鴨桜は――妖怪の父親譲りの黒髪と、人間の母親譲りの桜髪が混ざり合う、斑模様の髪を持つ青年は。

 

 真っ暗な夜空と、舞う桜吹雪を見上げながら「……関係ねぇよ」と呟き、言う。

 

「……ここは、俺の故郷だ。俺の世界だ。……それを壊す奴は――全員、敵だ」

 

 鴨桜は、そのまま視線を隣の相棒に移す。

 

「親父をこれ以上、待つつもりはない。親父がやらねぇなら、俺が――」

 

 それ以上、言わせてはならない。

 士弦の瞳がスッと細まり、そのまま胸元に手を伸ばす。

 

 鴨桜も相棒のその動きを見て、ぬりかべを両断したドスに腕が伸びかける――が。

 

 

 その時、鴨桜の足に小さな衝撃があった。

 

 

 ずさっという音が響く。

 鴨桜と士弦が同時に目線を下ろすと、そこには痛々しく転んだ、みすぼらしい少年がいた。

 髪もボサボサで、頬も()け、手足も棒のように痩せ細っている。

 

 鴨桜は「……大丈夫か」と声を掛けて手を伸ばした。

 痩せこけた少年は手を取ると鴨桜に向かって「……ありがとう……ございます」と言って、笑顔を向けた。

 

「…………」

 

 そのままゆっくりと立ち上がり、闇の中に向かってふらふらと走り出そうとした少年に向かって、鴨桜は、もう一度、「……大丈夫か?」と尋ねた。

 

 少年は一度だけ立ち止まり、振り向いて。

 今にも消えてしまいそうな笑顔で言った。

 

「……行かなくちゃ。……ありがとう」

 

 少年はそのまま、ふらふらとした足取りで、京の闇の中に消えていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 しばし、その少年の消えていった先を見ていた二人だったが、鴨桜はぽつりと士弦に言った。

 

「……アイツ、お前のことも見えてたな」

「……何を今更。これだけ妖気が濃いんだ。人間にだって、もう普通に妖怪が見えるようになって久しい」

 

 士弦は、それでも少年の消えていった先から目を逸らさない鴨桜に向かって言う。

 

「――今度は、『人間』に肩入れか?」

「…………」

「……俺は幹部の連中やお前程に、総大将が陰陽師と関係を持つのをとやかく言うつもりもない。桜華さん(人間の女)と結ばれたこともな」

 

 だが、と。

 士弦は一拍置いて、相棒に向かって言い放つ。

 

「俺達は――『妖怪』だ。人間の味方にはなれない」

 

 何も言い返さない鴨桜に、士弦は諭すように言う。

 

「妖怪は人間の『(おそ)れ』を糧に生きている。確かに、お前の言う通り、人間がいなくなれば妖怪は滅びるさ。だが、それは人間が動物や植物を食って生きているのと同じことだ。共存ではあっても、間違っても味方じゃない」

「…………分かってるさ」

「分かってんなら、()()()()()()()()()()()()()

 

 分かってんだろ。()()()()()()()()()()――士弦はそう言って、鴨桜の肩を掴む。

 

「お前は妖怪大将を継ぐ男だ。お前はそれを選んだ。お前は()()()を選んだんだ――そうだろ」

「…………あぁ。そうだ」

 

 分かり切ってることを大げさに言ってんじゃねぇ――そう言って鴨桜は、士弦の腕を振り払うようにして歩き出す。士弦はそれに何も言わずに横に並んだ。

 

「……ただ単に、俺の京が辛気くさくなってることに嫌気が差してただけだ」

「それこそ今更だ。平安京は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。貴族様が暮らす宮中以外の平民達は、とっくの昔に限界だ。毎日、どれだけの数が飢え死に、川に身投げしているか分からん」

 

 陰陽師の式神が毎夜毎夜の警邏で処理している死体は、妖怪に殺された者以上に、自ら命を絶った死体の方が多いかもしれない。

 それが平安京の、終わらされる前に終わっているかもしれない現状だった。

 

「……胸糞悪い」

 

 それが分かっているからこそ、人間の血を半分流す鴨桜は、貴族の人間達を、もしかすると鬼や狐よりも怒り嫌うのかもしれないと、士弦は思う。

 

「気分直しにもう一回賭場にでも行くか」

「ふざけろ。どれだけ過ちを繰り返す気だ」

「なら娼館にするか? いい女でも抱けば気分も晴れるだろ」

桜華(おうか)さんに言いつけてやろうか。……いや、あの人なら息子が大人になったと喜ばれるか」

「おいやめろ。女を抱くときに母親の顔が思い浮かぶとかどんな罰だ。勃つものも勃たねぇだろうが」

「なら月夜(つきよ)にするか」

「お前は俺を殺したいのか。そうなんだろう。どれだけ娼館に行きたくねぇんだ。だからお前はいつまで経っても童貞なんだ」

「ぶっ(ころ)

「上等だ。表出ろ」

 

 そう言って何故か足を止めて胸倉を掴み合う男達。

 近くに『百鬼夜行』の組員が居ればいつものことだと呆れるだろうが、質が悪いことにこの男達はいつも本人同士は至って真面目に殺し合っている。

 

 今も「何だ? 娼婦に童貞だってバレるのが怖いのか? 大丈夫だって相手は本職なんだ。嗤わずに笑顔で導いてくれるさ。一回行ってみろって。もしかしたら思わず惚れちゃうくらい相性ぴったりの娘と出会えるかもしれねぇだろ?」「死にてぇんだな? 死にてぇんだろ? それならそうとはっきり言えばいい! 俺はまだ自力で伴侶を得ることを諦めたりしない! 俺を優しく包み込んでくれる聖母系お姉さんはいつか俺の目の前に降臨すると信じている!」「妖怪が聖母系お姉さんを求めてんじゃねぇよ、このむっつりスケベ型童貞が!」と、今回も本人達だけは真面目に互いに対する殺意を膨れ上がらせていると。

 

「…………ん?」

 

 鴨桜はそれに気付いた。

 月明かりが眩い夜だから、きっとそれに気付けたのだろう。

 

 丸みを帯びた月を映した川面。

 その美しい月を台無しにするように――それは流れてきた。

 

 二人の男が互いの胸倉を掴み合ったまま鴨川に目を向ける――今度は少年ではなかった。

 

 仰向けに川をどんぶらこと流れてくるそれは、美しい月でも、大きな桃でもなく――小さな童女だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どうして自分が死んだのかはよく覚えていない。

 

 いつ死んだのかも、どこで死んだのかも、なぜ死んだのかも、全く覚えていない。

 

 ただ一つ覚えていたのは――自分が愛されていなかったということだけ。

 

 痛いと、寂しいと、怖いだけが全てで――だからいつも、渇いて、飢えて、欲しがっていた。

 

 だから――自分は――きっと――。

 

 

 

「…………んぅ?」

 

 目を開けると、そこは知らない場所だった。

 

 次に感じたのは、知らない匂い。

 丁寧に手入れをされている畳と、そして不思議な――花の香り。

 

「ここ……は?」

 

 段々と覚醒していくにつれ、ピントが合っていくように鮮明になっていく、知らない天井だけを映していた視界――そこに、ぬっと黒い影と白い影が覆い被さった。

 

「あ、起きた?」

「おはようございます。といっても、ここはいつも真夜中なんですけど」

 

 そこにいたのは、夜闇に浮かぶように妖しく瞳を輝かせた黒い女と、不気味な水色の髪と死に装束のような着物の白い女だった。

 

「きゃぁあああああああああ!!!」

 

 寝起きに真っ暗な部屋で見るには恐ろしすぎる光景に――童女は思わず悲鳴を漏らしながら後ずさりする。

 

「あわわわわわ、怖がらせてしまいましたかっ!?」

「だ~いじょぶよ。いくら猫が肉食だからって、取って食べたりしないから」

 

 いくらあなたが美味しそうでもねぇ――と、妖しく笑いながら舌なめずりする黒い女の仕草に思わず再び身体を震わせる童女。

 こらと白い女が黒い女を窘め、黒い女が別の意味で舌を出した辺りで、童女は改めて二人の女の姿を眺めた。

 

(……ん? 猫?)

 

 そう自称する通り、黒い女の頭部には――まるで猫のような両耳が生えていた。

 人間のような耳もあるのかは長い黒髪に隠れて見えないが、その代わりに、扇情的にはだけた黒い着物からは、猫のような尻尾も飛び出ていた。

 

 けたけたと笑う口元には獣のような鋭い牙も覗ける。そして、夜闇の中で、猫のように妖しく光る瞳――。

 

「――!?」

「さ、寒い寒い寒い! ちょ、雪菜! 漏れてる! 冷気漏れ出してる! 謝る! ふざけすぎたの謝るから! 猫は寒さに弱いの~!」

 

 ふと思考から我に返ると、白い女から白い霧のようなものが漏れ出していた。

 黒い女の言う通り、それは身を芯から凍えさせるように冷たく、寒い。その姿は、まだ童女の彼女でも――いや、()()()()()()()()()()()()()()()()()彼女だからこそ知っていた。

 

「……雪……女?」

 

 童女の呟きに、白い女と黒い女は向き直る。 

 黒い女は、猫のようにいたずらっぽく笑って言う。

 

「にゃはは。その顔――やっぱり、あなたは()()()側なんだね。いや、にゃんだね」

「無理して猫っぽくしなくていいです、月夜さん。ふぅ、ごめんなさい、起きたばかりなのに騒がしくして。そう、あなたの言う通り――()()()()()()。雪女の雪菜(ゆきな)と言います」

 

 そう言って白い女は――氷のような水色の髪と、雪のように白い着物の妖怪は言う。

 自らが妖怪だと――怪異たる化物だと自白する。

 

「そして、こちらが――」

「月夜だよ。見ての通り、猫の――黒猫の妖怪。猫娘の月夜ちゃん。まぁ、正確にはもっとアレなんだけど、正式な学術的名称なんてどうでもいいよね。可愛ければそれで正義なんだからにゃ!」

 

 そういって猫手を顔の前で作り、にゃんと童女に向かってウインクする黒い女――化猫の月夜は。

 

 ぼんと、瞬きの間に、その姿を黒猫に変えた――化えた。

 猫耳に猫尾を着けた美少女から、どこにでもいる黒い毛並みが美しい黒猫に。

 

 童女はそれを呆然と見ながらも、先程までのように取り乱すことなく、ただ唾を飲み込んだ。

 

 黒猫はそんな童女の腰が抜けたように座り込んだ膝に手を、肉球を当てて、動物特有の無表情で、けれど、童女にはそれが先程のいたずらっぽい笑みに見えるそれを向けながら、黒猫のままで言った。

 

「それで――あなたは、(にゃ~に)?」

 

 童女は、もう一度、唾を飲み込んだ。

 

 辺りを見渡す。

 知らない場所。知らない部屋。知らない匂い。知らない空気。

 

 何も知らない童女は、目の前の雪女を、黒猫を見ると、そのまま俯き、ぽつりと、ただ一つ知っている――己の名前を明かした。

 

「…………わたしは…………詩希(シキ)

 

 俯き、力無く、無力な我が身を、蔑むように――己の正体を明かした。

 

「……座敷童の………シキ」

 




用語解説コーナー①

・千年前の日ノ本

 妖怪の全盛期であり最盛期。妖怪が存在するだけで周囲に放つ力――妖気の濃度が上がり過ぎることで、霊感のない一般市民にすら妖怪が目視できるようになってしまっている。
 
 中でも『鬼の頭領』が率いる『鬼』勢力と、『狐の姫君』が率いる『狐』勢力が二大勢力となっており、この二大勢力が『人間』の中心地たる平安京を挟んで睨み合っている為、一触即発の緊張状態が続いている。


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妖怪星人編――② 座敷童の詩希

幸せにしたいと――きっと、そう願ったんだ。


 座敷童(ざしきわらし)

 家屋の座敷、蔵などにいつのまにか住み着いているとされる――妖怪。

 

 主に子供の姿をしているといわれており、悪戯好きで、誰も居ない部屋から物音が聞こえてきたり、子供達が複数人混ざって遊んでいるといつの間にか一人増えているといった現象があると、そこには座敷童がいると畏れられていた。

 

 だが、住み着いた家に富や幸福を齎すとされる伝承もあり、地域によっては精霊と同一視され――時には、神として信仰を受けることもあるという。

 

「――で? そんな神様が、何をどうしたら水死体の如く川を漂流するなんてことになるんだ?」

 

 水死体の如く漂流していた童女――神様と同一視されることもある妖怪――座敷童の詩希(シキ)は、その言葉を呆然と聞いた。

 

 桜のはなびらと共に降ってくる、それこそ神様から語り掛けられるような、その言葉を。

 

 それほどまでに神秘的な光景だった――神を秘しているが如き光景だった。

 まるで吹雪のようにはなびらが舞っているのに、誇るように満開に咲いている、一本の枝垂(しだ)れ桜。

 

 その花の中に、まるで桜の木の化身のように、桜に秘される神様のように、幹に身体を預けて枝の上に座り込み、こちらを見下ろす一人の青年。

 

 清流のような艶やかな黒髪に、桜色の髪が斑のように混ざり込んでいる。

 その余りにも美しく、余りにも神秘的で――余りにも、現実的ではない光景に、詩希は、ただただ圧倒されるばかりだった。

 

「――ハッ。現実的? そんな言葉を、俺等のような存在が口にするほど、滑稽なことはねぇな。間抜け顔の神様ちゃんよぉ」

 

 斑髪の青年は、口を開けて呆けたままの詩希を、そう豪快に笑い飛ばす。

 すると、木の上の青年よりも距離としては近い位置にいる、桜の木の幹に背を預ける、首元に布を巻いた青年が、口元を隠すようにその布を持ち上げながら、詩希に向かって言った。

 

「……桜が咲いているのがそんなに疑問か?」

「え! あ、あの……その……」

 

 唐突に声を掛けられて思わず肩を硬直させる詩希。

 実のところ、その光景の美しさと神秘さにただただ言葉を失っていただけなのだけれど、そう問い掛けられると、改めてそこにも疑問を覚えた。

 

 確かに、いくら美しくとも、いくら神々しくとも、今の時期に桜が咲いているのはおかしい。

 自分が漂流していたという川の水も身も凍るような冷たさだったことを思い出す。

 どれだけ素晴らしい桜だろうと、どれだけ凄まじい桜だろうと、この真冬の時期にこれほど見事に咲き誇る筈がない。

 

「冬に咲く寒桜というのもあるがな。少なくとも、この桜はそういった特殊な事情で咲いているわけではない。いや、特殊という意味なら――この桜自体も、恐らくは()に咲く他のどんな桜よりも特殊なのだが――この場所、この空間、この世界こそが、何よりも特殊なんだ」

 

 首元に布を巻いた青年――士弦は、そう詩希に向かって思わせぶりに言う。

 自身の言葉の悉くに首を傾げる童女に「月夜や雪菜から何も聞いてはいないのか?」と尋ねると、童女は目つきの鋭い年上の男の迫力に怯えながらも「……こ、この桜の木の所に……わたしを助けてくれた人がいるから行ってきなさいとだけ……」としどろもどろに答える。

 

 士弦はチッと舌打ちをすると「……仕事を増やしやがって」と呟き(その呟きと舌打ちに詩希がまた怯えているのも気付かず)ながらも、しぶしぶと説明を始めようとして――。

 

「――ここは、平安京の“裏”だ」

 

 再び、桜の木の上から言葉が降ってくる。

 

 詩希が見上げると、どこからともなく、風が吹いた。

 より一層、空間全てを包み込むように桜のはなびらが舞う。

 

 隙間から漏れ出す満月の月明りが、その斑模様の男を、なお一層に美しく照らした。

 その光景は、やはり、詩希には神秘そのものに思えた。

 

 自分などよりも余程――神様のように見えた。

 

「表の世界が人の世なら、ここは人ならざるものたちが住まう――裏の世界」

 

 妖怪の――世界。

 一年中桜が狂い咲き、欠けることなき満月が浮かび、永遠に日が昇ることのない常夜の異界。

 

「そう――ここは、俺達の、お前の世界だ。怪異たる化物」

 

 化物――そう自分を呼ぶ男の顔は、不敵な、それこそ座敷童を彷彿とさせる、いたずらっぽい笑顔だった。

 

 桜吹雪の中に男は消える。

 そして、次の瞬間――斑模様の青年は、みすぼらしい和装の童女の背後に立っていた。

 

「座敷童の詩希つったか? ようこそ、夜の世界へ。俺はお前を歓迎する」

 

 妖怪大将を継ぐ男――ぬらりひょんの息子――鴨桜は、迷い込んだ童女に手を伸ばした。

 

「さあ、聞かせてもらおうか。神様が真冬の川で漂流する羽目になった、その厄介事の詳細を」

 

 相棒たる士弦は、そんな絵に描いたように面白がっている鴨桜に頭を抱えた。

 

 鴨桜という男は、表の世界でも裏の世界でも、関わる妖怪、人間達から信頼を獲得することに長けている。

 

 人間の血が半分流れる半妖でありながら、頭の固い幹部連中ですら、『百鬼夜行』を継ぐのは鴨桜だと、口に出さないが認めているモノがいるくらいだ。

 

 女と賭け事に目がなく、自由気儘のトラブルメーカー。

 父親譲りのカリスマ性に、母親譲りの天真爛漫さ。

 

 そして何よりも――鴨桜は、この京の街を愛している。

 

 そんな男が、目の前に転がっている、目の前に流れ着いてきたぷんぷんに匂い立つ事件の香りを、黙って見過ごすことなど、ある筈がなかった。

 

 今も面白がっている瞳の奥には、冷静にこの事件の黒幕への推理を走らせ、その何者かに対する怒りが渦巻いている。

 

 士弦はまた厄介事だと溜息を吐きながらも、いつものことかとすぐに諦め、鴨桜が作る流れに身を任せることにした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 泣きじゃくるボロボロの服装の男の子を、それよりも少し年上の、けれどやはり子供と呼ぶのが相応しい年齢の少女が困り顔で宥めている。

 

「いやだよぉぉ、行かないでよ、お姉ちゃぁああん!」

「……ごめんね。ごめんなさいね。それでも……お姉ちゃんは行かなくてはならないの」

 

 そう言いながら泣きじゃくる男の子の頭を撫でて、両手を握って、膝を折って座り込みながら目線を合わせる少女。

 一見すると姉弟の別れのように見えるシーンを、童女は少し離れた場所から眺めていた。

 

「……あの子も律儀ね。わざわざお別れを言いたいだなんて」

「無理もないですよ。私達、座敷童にとっては、あの少年のように私達を慕って想いをくれる存在こそが、なによりの生きる糧なのですから」

「…………ふっ。生きる糧、ね」

 

 童女の横に立つ、年上の、しかしやはり少年を慰める少女と同じく子供にしか見えない外見の少女達は、目の前の別れのシーンをそうそれぞれに語る。

 両者とも、その表情は暗く、瞳は悲しげだ。

 

 童女は膝を抱えるように座り込んだ姿勢でそんな二人を一度見上げて、再び少女と男の子の別れのシーンに目線を戻す。

 

 生きる糧――確かに、そんな言葉は、恐ろしく皮肉が効いている。思わず鼻で笑ってしまう程に。

 

「……………」

 

 座敷童――家屋に人知れず住み着き、家族に紛れ込む妖怪。

 

 決まって子供の姿をしている彼等の正体は――愛されなかった子供達の幽霊だ。

 正確には、愛されずに死した子供の幽霊が、座敷童という妖怪になる。

 

 寂しがり屋で、遊びたい盛りだった子供達が――その思いが、その飢えが、満たされなかった子供達の無念が。

 死してなお、その未練を強く残した『魂』が現世に残り続けた結果、生前に憧れた愛溢れる家庭へと導かれ、住み着く――住み憑くのだ。

 

 そして、妖怪となる程に求めたものを与えてくれた恩返しとして、その住み着いた家に幸福を齎す――それが、座敷童という妖怪の特性。

 

 だが、そんな幸福のみを齎す存在が妖怪と呼ばれるわけがない。

 与えるだけの存在――そんなものは、神様だろうとありえない。

 

 与えるものとは――奪うものでもある。

 それは神様だろうと、妖怪だろうとも変わらない。

 

 愛に飢えた子供達の妖怪――座敷童。

 死してなお、愛を求めた子供である彼等は、その出自故に――愛を失うことを、何よりも恐れる妖怪でもある。

 

「……あの子は、これからどうなるの?」

 

 童女は、ぽつりと、ぽっかりと空いた空洞のような瞳を、親しい少女との別れを泣きながら惜しむ男の子に向けながら言った。

 

「…………」

 

 そんな新米の言葉に、途端に口を閉ざす二人の座敷童。

 やがて「……決まっているわ」と、一人の少女が、その問いに答えた。

 

「私達、座敷童が去るということは……そういうことよ」

 

 はっきりとした明言は避けた。だが、それは、それこそが答えだった。

 避けられない、変えられない――運命は決まっていると。

 

 幸運を齎す妖怪・座敷童は――不幸を置き去る妖怪でもある。

 愛を失うことを何よりも恐れる妖怪である座敷童は、住み着いた家を、住み憑いた場所を追い出されるということに本能的、概念的な恐怖を抱く。

 

 故に、座敷童を追い出した家庭、町は、これまで与えられた幸福以上の不幸を招き寄せてしまう。

 

「彼等には、これまで以上の不幸が襲うでしょう。……これ以上の、これ以下の惨状があるのかは……別にしてね」

 

 そう、一人の座敷童は、辺り一面を眺めながら呟いた。

 

 ここは平安京――その平民街――とある貧民街。

 妖怪である彼女達には、辺り一面をうっすらと漂う妖気が見える。まだ、日は高く昇っているのに。

 

 少女と男の子の別れを、近くを通る人達も痛ましげに見詰める。大人達ですら、その瞳の端に涙を浮かべて。

 

 感受性の強い、常識や先入観の弱い子供達が妖怪や幽霊を見てしまうことは多々あることだが、大人達ですら座敷童である少女の姿をはっきりと捉えている。

 

 これが、今の平安京の現状。

 日の高い昼間ですら妖気が漂い、魑魅魍魎が子供達や霊感の強い人間以外にも視認できる程に――妖怪に犯された(みやこ)

 

 邪気に満たされた、滅びゆく都――それが、平安京の終わりゆく現状だった。

 

「分かるでしょう? これほどに絶望に満ちた、愛なき土地――私達、座敷童には、とてもじゃないけど耐えられない」

 

 座敷童とは、本能的に愛を求め、愛を与える妖怪。

 だからこそ純粋に愛を求め、愛を与える人間の子供達に好かれやすく、また救われている存在。

 

 しかし、今の平安京は、全国各地から押し寄せる魑魅魍魎、そしてそれらを討伐すべく殺気立つ陰陽師や武士との戦いにより治安は最悪に悪化。

 街は(すさ)み、邪気に満ち、凶悪な妖怪による被害が日々甚大で、人々はこれ以上なく絶望しきっている。

 とてもではないが座敷童の住める土地ではなくなってしまった。

 

 例え、自分達を友と慕う、貧困に喘ぐ無垢なる子供達に、更なる不幸を置き去りにしてしまうと分かっていても――もう、一刻たりとも、この終わりゆく都に滞在することは、本能的に耐えられない。

 

「……………」

 

 童女は、そんな先輩座敷童の言葉を、ぽっかりと空いた洞のように黒い瞳で聞いていた。

 

 やがて、男の子との別れを済ましてきた座敷童が、自分達の方へと帰ってくる。

 

「……もういいの?」

「ええ……ありがとう、私の我儘を聞いてくれて」

「本当よ。子供達にとって、座敷童(わたしたち)なんて幼い頃の夢のようなもの。その殆どが思い出とすら残らないのに」

「それでも……あの子は、私のことを本当の姉のように慕ってくれた……純粋な愛をたくさんくれた存在だったから。……もう、私はあの子に、何もしてあげられないから……」

 

 少女は泣きじゃくりながら家路につく男の子を、本当に愛おしそうに見つめた。

 座敷童は、死して、幽霊となり、座敷童となったその時から見た目の年齢は変わらない。

 だからこそ、少女の年齢が本当に少女なのかは分からないが、その目は姉が弟を見るような、あるいは母が子を見るような、そんな愛情で満ちているように、童女には思えた。

 

 少なくとも、自分にとっては、昔も今も、一度たりとも向けられたことのない――瞳だ。

 

 いや――いや。

 

 かつて、一人。

 

 たった一人――だけは。

 

「それで? あなたはどうするの? 新人さん」

 

 一番(外見年齢が)年上の座敷童が、まっすぐに蹲る童女を見下ろした。

 

「私達は、これから蝦夷(えぞ)へと向かうわ。かつての日ノ本における妖怪の本拠地であり、未だに人間よりも妖怪の方が数が多い、魔の地。……正直、とても危険だけれど、私達にとっては、そこにいるだけで妖怪としての最低食糧である『畏れ』は手に入る。最低でも死ぬことはないでしょう。現地妖怪に襲われなければね」

 

 少なくとも、この平安京にいるよりはずっと、生き残る目はある――そう、彼女は語る。

 それは、幼い少女には相応しくない瞳で。それは、長い年月を生き抜いてきた歴戦の面構えで。

 

「あなたはどうするの?」

 

 彼女は、もう一度、童女に問うた。

 童女はその瞳に目を合わすことすらせず、ただただ目を瞑るように蹲るばかり。

 

「……正直、こんなご時世に座敷童として生まれ変わった貴女に、同情する気持ちはある。……いいえ。こんなご時世だからこそ、あなたのような『魂』が増えているのかしら。……けれど、私がいくら同情しようとも、現実は何も変わらないわ。……だから、一度だけ聞いてあげる」

 

 少女は童女に手を差し伸べる。

 固い表情で、悲しそうな瞳で、長い年月を子供の姿で過ごした妖怪は、生まれたての座敷童に向かって言う。

 

「私達と一緒に来る?」

 

 その、最初で最後の、同族からの救いの手に。

 

 童女は――。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 生まれたての座敷童――死にたての座敷童。

 彼女はひとりぼっちで、荒れ果てた平安京を歩いていた。

 

 既に日は暮れようとしている――逢魔が時――妖怪が活動を活発化させ始める時間帯。

 童女が見渡す限りでも、人間達の姿は既になく、心優しい現地在住妖怪達も次々と姿を消していっていた。

 

 もうすぐ――戦争が始まる。

 鬼と狐の、妖怪と人間の、今日も街を壊し、無力な一般人が最も被害を受けることになる小競り合いが始まる。

 

 毎夜毎夜のそれは最早、この平安京に住まう、全ての人間、全ての妖怪にとって日常となりつつある非日常。

 童女は、一人逃げ遅れたように、ぽつんと立ち止まって、夕陽から目を背けるように俯く。

 

(……わたしは間違ったのかな。……わたしも、逃げた方がよかったのかな)

 

 きっとそれが正解だということは分かっていた。

 あの手を取ることこそが、自分が生き残る上での最も賢い道だということも。

 

 だけど童女は――その手を取ることが出来なかった。

 

 愛を求める妖怪として、この絶望が充満する街を嫌悪し、恐怖してしまう感情はある。

 だが、生まれたての、死にたての座敷童として――未だ座敷童として、完全に覚醒していない童女にとっては、良いか悪いか、きっと悪い方なのだろうが、その拒絶感も他の座敷童程には感じていないようだった。

 

「……………」

 

 童女はゆっくりと顔を上げる――そして、逃げずに、夕陽を見上げた。

 

 血のように赤い夕陽。

 それを童女は、眩しそうに、痛そうに、目を細めて見つめる。

 

 童女は、生前の記憶をよく覚えていない。

 それは座敷童としてはままあることらしい。それはつまり、覚えていられない程に辛い生前を、記憶に残すことを拒絶するような過酷な前世を持つ座敷童が多いということを意味している。

 

 その例に漏れず、童女も何のエピソードも記憶していない――だが、ただただ辛い生前だったことは覚えている。

 

 どうして自分が死んだのかはよく覚えていない。

 いつ死んだのかも、どこで死んだのかも、なぜ死んだのかも、全く覚えていない。

 

 ただ一つ覚えていたのは――自分が愛されてなかったということだけ。

 痛いと、寂しいと、怖いだけが全てで――だからいつも、渇いて、飢えて、欲しがっていた。

 

 だから――自分は――きっと――――座敷童になったのだ。

 

「…………会いたいな」

 

 童女は思わずといった風に、夕陽に向かってぽつりと呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 あの日も、こんな夕焼けの空だった。

 

 川のほとり――いつの間にか、ここに立っていた。

 

 何も分からない。何も覚えていない。

 死んだ記憶もなく、いつの間にか生まれていた――生まれ変わっていた。

 

 その時は、まだなんでもない、どこにでもいる只の幽霊だったのかもしれない。

 何が未練なのかも、自分が幽霊だという自覚もない、彷徨える『魂』。

 あやふやで、今にも消えてしまいそうな、不確かな存在。

 

 そんな状態で何も知らないままに唐突に世界に放り出された童女は、漠然と心に残る悲しさ、恐怖に涙を浮かべながら呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 

「おい。何、泣いてんだよ」

 

 この時、不安げに立ち尽くす童女に最初に気付いたのは、良識ある大人でも、妖怪でも陰陽師でもなく、貧民街で暮らす少年達だった。

 何の力もない生まれたての幽霊に最初に気付くのは、実は人間の子供や赤ん坊であることが最も多い。

 

 人間は元々、この世ならざるもの――後の世にて黒い球体に星人と名付けられることになる存在――に対し、とても鋭敏な感覚を持って生まれてくる。

 成長するにつれ、常識や先入観などを養っていくにつれ、その感覚は鈍くなるが、妖怪という存在が当たり前に周知され、闊歩するこの平安京において、この地に暮らす子供達の見る目は、正しく専門家のそれと比べても遜色がない程に優れていた。

 

 あまりに優れ過ぎて、目の前のそれが只の子供なのか、それとも妖怪なのか、区別がつかなくなってしまう程に。

 

「聞いてんのか。お前、どこの子供だ? もう夕暮れだぞ。こんな時間に出歩いちゃいけないって親に教わんなかったのか?」

 

 立ち尽くす童女の肩を突き押して、倒れ込ませながら少年の一人は言った。

 やがて少年達は尻餅をついた童女を取り囲み、口々に責め立てる文言を浴びせかけた。

 

「――っ、――――ッッ」

 

 少年達にとっては軽率な行動をとっている知らない子供を注意しているつもりだったのかもしれない。だがそれは、自己の存在すらあやふやだった当時の童女にとっては、とても恐ろしいものに思えただろう。

 

 未だ確立していない自分という存在を、否定され、責め立てられる言葉の数々は、険しい瞳は、三百六十度取り囲まれて発せられる夥しい暴言は、まるで世界から拒絶されているかのように思わされた筈だ。

 

 自己を――自分を。

 

 徹底的に――否定されているように、感じた筈だ。

 

「――やめろッ!!」

 

 正に、その時だった。

 少年達で作られた壁を――とある別の少年が突き破って現れた。

 

 他の少年達と同じようにみすぼらしい服装だった。

 どこにでもいるような、平々凡々な容姿。ぼさぼさの黒髪で、瘦せこけていたその少年は、恐らくはリーダー格であろう少年の胸倉を掴みながら馬乗りになると、烈火の如く怒った表情でこう叫んだ。

 

「自分達の不安をッ!! どうしようもなく怖いっていう感情を!! 自分よりも弱い子にぶつけるのはやめるんだっ! 男だろうッッ!!!」

 

 その言葉に、リーダー格の少年はまるで図星を突かれたように顔を真っ赤に染めると「――ッ! うるさいっ!」と言って馬乗りになったその少年の頬を殴った。

 

「――っ! ふん――ッ!」

 

 だが、その少年は怯まず、間髪入れずにリーダー格の少年の額に頭突きをすると――。

 

「――こっちだ!」

 

 童女の手を取ってそのまま彼らを置き去りに走り出す。

 取り巻きの少年達は咄嗟に追おうとしたが、額を抑えたリーダー格の少年が「――っ! もういい!」と叫ぶと、誰も追ってくることはなかった。

 

「――ふう。ここまで来れば、もう大丈夫」

 

 そう言ってほとりから離れた場所まで辿り着くと、少年は童女から手を離す。

 童女の口から「……ぁ」と小さい声が漏れたが、それには本人も少年も気付くことはなかった。

 

「……ごめんね。怖かったよね。だけど、彼等のことをどうか恨まないで欲しい。……彼等も、毎日を生きるのに必死で……明日が見えない日々がずっと続いていることが不安で……何かに当たりたくなっちゃうんだ。……彼等も……僕も、まだ子供だから」

 

 そう言って少年は頭を押さえて「()が出ちゃった。……僕も人のことは言えないよなぁ」と笑う。だけどそれは笑顔じゃないと、童女は当たり前のように気付いた。

 

「あ、あの……」

「だけど、彼等が言っていたことも一理ある。こんな時間に外を出歩いたら危ないよ。一人で帰れるかい? ここら辺では見ない顔だけど」

 

 童女は何かを言い掛けるが、少年の笑顔と――そのボロボロの服を見て、口を噤む。

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……そう。それじゃあ、気を付けて。……そうだ! 君、名前は? 名前はある?」

 

 少年の言葉に、童女は奇妙な感覚を覚えた。

 けれど何故かその笑顔を直視することが出来なかった詩希は、あわあわと慌てながら、必死で空っぽの自分の内側を覗き込み――そして。

 

「あ、あなたが――あなたが、決めて」

 

 やはり――なかった。

 何もない、空っぽの洞だった。

 

 記憶もない。過去も見えない童女は――やはり、かつての名前も、思い出せなかった。

 

 だからこそ咄嗟に、反射的に出てきた言葉だった。

 変なことを言ってしまったと焦った童女が――この時は、名もなき彷徨う魂だった童女が、思わず顔を上げると。

 

 そこには、とても複雑な、悲しそうな、それでも笑顔を浮かべる少年が居て。

 

 少年は、涙を浮かべる童女に、こう贈った。

 

「――詩希(シキ)、というのはどうかな?」

 

 童女は――詩希は、呆然と少年を見上げた。

 瞳から落ちる一滴の涙が、橙色の光を反射して煌めく。

 

 少年は詩希に、夕焼けの空を見上げながら、だれともなく呟くように語る。

 

「座敷童――という妖怪がいるんだって。子供達に紛れて遊んで、いつの間にか家庭に居着いて、その家に幸福を齎す……妖怪」

 

 真っ赤な夕陽が徐々に落ちていき、暗く怖い夜がやってくる。

 少年は、その先に潜む何かを見据えているかのように、静かに、ゆっくりと語っていく。

 

「……妖怪は恐ろしいもの、悍ましいものだと、誰もが言うけど……だけど、恐怖を与えるだけじゃない。幸せをくれる妖怪も――いい妖怪も、いるんだよ。……それはきっと、人間と同じ。怖いだけの存在なんて――存在しない。……きっと」

 

 少年は童女を見下ろして言う。

 それはまるで、何よりも――自分に向かって言い聞かせているような。

 

「もうすぐ夜が来る。だけど必ず朝も来る。怖いだけの存在なんかない。だからきっと、今は辛くても、怖くて、寂しくて、悲しくても――きっと、来るから。楽しくて、嬉しくて――幸せな時が」

 

 きっと――来るから。

 少年は、童女に向かって、複雑な、子供らしくない――けれど、ある意味でとても子供らしい、夢を見る笑顔で言う。

 

「詩希――座敷童のシキ。妖怪にちなんだ名前なんて嫌かと思うけど……きっと君に、幸福を招いてくれると思う。……どう? 受け取ってもらえるかな?」

 

 童女は――詩希は、この時、確かにこう思ったのだ。

 

 わたしは、座敷童になりたいと。

 

 この人の――座敷童に、なりたいと。

 

「わたしは……詩希」

 

 この人に、幸福を齎す存在になりたいと。

 

「座敷童の――シキ」

 

 この優しい少年を――自分に愛をくれた存在を。

 

 幸せにしたいと――きっと、そう願ったんだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そのすぐ後だった。

 路地裏に消えていった少年の後を追う間もなく、自分の目の前に三人の座敷童が現れた。

 

 その時、自分が――座敷童になりかけていることを知った。

 幽霊から座敷童になる方法は明らかになっていない。だが詩希は、その最低条件である、愛を求める子供の幽霊であることは満たしていた。

 

 自分の正体を教えてもらったのと同時に、先輩の座敷童達から告げられたのは――平安京からの脱出計画だった。

 今、この平安京は座敷童の住める場所ではない。だからこそ、戦争が本格化する前に、この平安京から速やかに脱出し、蝦夷へと亡命しなくてはならないと、彼女達は言った。

 

 けれど、詩希は――座敷童にとっては死の都である、この平安京に残ることを選んだ。

 

 その理由は、何度も考えたけれど、何度も何度も考えても、たった一つだった。

 

「……あの人に……会いたい……」

 

 自分に名前を与えてくれた。自分に愛を与えてくれた。

 ずっと欲しかった温もりをくれた。ずっと求めていた――救いをくれた。

 

 幸せになってと、初めて願ってくれた少年を――幸せにしたい。

 

 その為に、きっと自分は――座敷童になったのだから。

 

「…………でも、一体、どこに行けば」

 

 童女にとって、この平安京は広過ぎる。

 少年と初めて会った場所に、こうして幾度も足を運んではみるものの、あの日以降、少年に会えたことは一度もない。

 

 そして、時間もない。

 先輩座敷童達が教えてくれたように、この平安京は終わりゆく都だ。

 

 鬼と狐、そして人間の三つ巴の争いは、日々激化の一途を辿っている。

 何かをきっかけに、いつ決定的な戦争の火蓋が切られることになってもおかしくない。

 

 そうなれば、ただでさえ限界を迎えているこの貧民街など、間違いなく真っ先に崩壊してしまう。

 

 タイムリミットは刻一刻と近づいている。

 だからこそ、早く見つけなければ――と、焦る詩希の前に。

 

 少年は――その日、唐突に現れた。

 

「あ! みつけ――」

 

 詩希は、絶句する。

 その少年は、ふらふらと通りを、誰にも気付かれることなく歩いていた――まるで、幽霊のように。

 

 瘦せこけていた身体は更に細くなっていて、詩希はパッと見で枯れ木を連想した。

 童女を救ってくれた笑顔の面影は最早どこにもなく、何もかもが抜け落ちたような無表情で、瞳はよく先輩座敷童から空洞のようだといわれた自分よりも深く昏い真っ黒な球のようで。

 

 そして、詩希が何よりも衝撃を受けたのは――その頬。

 あのリーダー格の少年に殴られた時などとは比較にならない、思わず目を覆いたくなるような、痛ましい、痛々しい――青痣があった。

 

 それはまるで、渾身の殺意を込められて殴られたような――その人間全てを否定するかのような傷だった。

 




用語解説コーナー②

・幽霊

 死んだ人間の魂が、器を持たずに彷徨っている状態。

 未練や執着を残している場合が多く、未練を解消すれば成仏し、執着を捨てきれなければ悪霊となってしまう。


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妖怪星人編――③ 明けない夜

お前のせいだ。不幸を齎す――疫病神め。


  

 幸せだった筈だ。

 

 父一人、母一人、子一人の三人家族。

 決して裕福では無い。だが、明日の食い物に困る程に貧しかった訳では無かった筈だ。

 

 いつからだろうか。

 その日の食事の品数が、一つ、また一つと減っていったのは。

 その日の食事の回数が、一回、また一回と減っていったのは。

 

 いつからだろうか。

 俺の分も食べろと、父親が息子に米を渡すようになったのは。

 あなたの分も寄越しなさいと、母親が息子に米を渡すように迫るようになったのは。

 

 いつからだろうか。

 一緒に乗り切ろうと、お前だけは守るからと、家族を、息子を守るように抱きかかえていた父が、母が。

 もっと食べ物を持ってこいと、もっと金を稼いでこいと、お互いを――そして息子を、罵り、責め立て、殴りつけるようになったのは。

 

 幸せだった筈だ――あんなにも、幸せだった筈なのに。

 

 空が赤い。血のような夕焼けだ。

 もうすぐ黒くなる――真っ黒になる。何も見えない、光が消える夜が来る。

 

 いつからだろうか。

 見上げる空が血のように赤くなったのは。見上げる空が闇のように黒くなったのは。

 

 もう――青い空を、思い出せない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 今日も妖怪が現れた。

 

 どれだけの人間が連れ去られたのか分からない。

 辺り一面に傷つけられた人間が蹲り、倒壊した家の人間は呆然と立ち尽くしている。

 

 そんな嘆き苦しむ人達の傍を、恐ろしい面貌の鎧武者が通り過ぎる。

 だが、路傍に転がる人間達をまるで一瞥することもなく、己が歩く道端には何も存在していないかのように、彼らは一目散に貧民街の出口へと歩いて行った。

 

 鎧武者の足にボロボロの男が縋る。彼は今宵の妖怪退治において家を壊された者だ。

 鎧武者の足にズタズタの女が縋る。彼女は今宵の妖怪退治において夫を殺された者だ。

 

 だが鎧武者達は足を止めない。声を掛けることも、足元を見遣ることすら一度もしない。

 絡繰のように一定の足取りを乱さない。その存在からはおよそ、自分達を舌なめずりをしながらいたぶっていた妖怪達よりも、感情というものがなかった――人間味が、なかった。

 

「………………」

 

 そんな光景を、平太(へいた)という名の一人の少年は眺めていた。

 

 当然だ。

 ここに居る誰もが、そんなことは分かっている。

 

 あの鎧武者は――正真正銘の絡繰(カラクリ)だ。

 正確には、平安京の貴族領に住む、陰陽師が放っている自動警邏式神だ。

 

 この式神には、感情など備わっていない。

 ただただ自動的に、機械的に、平安京内を巡回し、妖怪を見つけたら排除する機構だけを備えた――人形だ。

 

 人間の言葉など解さない。そもそも、妖怪は識別出来ても、人間を識別出来ているかどうかは分からない。

 

「…………………」

 

 住む場所を奪われた人達の嘆きを、愛する家族を奪われた悲しみを、自らの身体を傷つけられた痛みを、叫ぶ声が響き続ける光景を眺めながら、平太は思った。

 

 今更だ。分かり切ったことだ。

 突然、今宵になって始まったことではない。

 

 既にどれだけ繰り返された夜だろう。

 何度も何度も眺めた、いっそ見飽きてすらいる景色だ。

 

 鎧武者に縋り付いている者達も、嘆いている者も、悲しんでいる者も、痛がっている者も、みんな、みんな分かっている。

 妖怪の恐ろしさも、鎧武者が式神なのも――貴族領から遠く離れたこの場所は、あくまで戦争の僻地であるということも。

 

 ここにやってくる妖怪は末端も末端で、ただ単に腹を空かせているからか、気まぐれでやってくるもの達に過ぎない。

 そんな末端に対して派遣する戦力など自動警邏式神で十分だというのが、我らが朝廷の御判断だということも。

 

 自分達の悲痛な声など届くこともなく、ただただこの戦争が終わるその時まで、こんなことは毎夜毎夜繰り返されるのだと。

 

 そして――戦争が終わる前に、きっと自分達が終わってしまうのだろうということを。

 

 ここにいる誰もが分かっていた。分かり切っていた。

 

「………………」

 

 それでもこんな所にいるのは、他に行く場所などないことも分かっているから。

 既に日ノ本のどこに行っても多かれ少なかれ現状は変わらない。

 

 妖怪の勢力は最盛期を迎えていて、それに対する防衛戦力も、この平安京が最も潤っているのだ――こうして、夜が明ける前に鎧武者が駆け付けてくれるだけでも、神に感謝しなくてはならない程に恵まれている方だ。

 

 だから――自分達に、無力な民草に出来ることなど、祈ることだけだ。

 

 今日、壊される家が、殺される命が。

 どうか――自分達のものでは、ありませんようにと。

 

「………………」

 

 鎧武者に引き剥がされ、泣き喚きながら地面に蹲る大人達を平太は見る。

 初めは彼等の元へと駆け寄って、その肩に手を置いていた者達もいた。自分も積極的にそうしていた。

 

 大変な時だけれど――きっと、すぐに、夜が明けるから。

 それまでは無力な者同士、力を合わせて助け合って乗り越えよう――と。

 

 だが――今は。今となっては――。

 

「…………………」

 

 平太は、その目を――妖怪によって壊された家へ、殺された人達へと向ける。

 そこには壊れた家の中に一目散に突入し、中にある食べられるもの、着れるものを奪い合う人達がいた。殺された人の衣服を剥ぎ、身に着けていたものを奪い合う人達がいた。

 

 妖怪は去ったというのに。まだ――夜は明けない。

 そこには、まだ、恐ろしい化物が暴れ狂っていた。

 

 自分も――紛うことなき、その中の一人だ。

 

「…………………」

 

 平太の足元に、木の実が一つ転がってきた。

 倒壊した家の中の食べ物を奪い合っていた大人達。その手に持っていた一つが、その手を互いを殴り合う為に拳に変えたことで手放したものが、近くで呆然と立っていた少年の元に転がってきたのだった。

 

 少年はそれを、緩慢な動きでゆっくりと拾う。

 

 その手を――転がっていた死体が、ガッと強く掴んできた。

 

「――――ッ!?」

 

 何もかもが抜け落ちたような無表情だった少年の顔が変わる。

 

 死体だと思っていたそれは、まだ生きていた。

 だが、顔はどろどろに溶かされ、眼球は今にもこぼれ落ちそうで、ボロボロの歯は剥き出しになり、とてもではないが人間には見えない。

 

「た、た……す……け――」

 

 その先の言葉は聞こえなかった。

 

 少年は振り払った。今際の際に伸ばされた手を、渾身の力で、あの無機質な式神のように――容赦なく。

 

 そして、背後の地獄から逃げ出すように、一目散に駆け出した。

 

 路地裏に這入る。

 乱れた息を整えるように深呼吸する。吸い込んだ空気は、とても不味かった。

 

 それほど恐怖しても。それほど嫌悪しても。

 少年は自分が――木の実を手放していなかったことに気付いた。

 

 何かを噛み締めるように、少年は強く奥歯に力を入れる。

 

 まだ――夜は明けない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 乱雑に、まるでゴミを捨てるかのように、少年が放り込まれてきた。

 

 真っ暗な空間。

 湿った土の感触は、いつからか板の上よりも慣れ親しんだもので、いっそ落ち着きすら感じられた。

 

「……使えない奴だ」

 

 つい先程まで狂ったように絶叫しながら息子を殴り続けていた男は、疲れ果てたような小さい声で、失望の色を隠そうともせずに吐き捨て、戸を閉める。

 

 既に使われなくなって久しい、家屋の端にある農具入れ。

 少年の小さい身体を持ってしても身体を丸めなければ眠ることも出来ないような狭い場所。

 

 いつからかこの場所が、平太にとっての家庭内の居場所になっていた。

 

 家族三人川の字になって眠っていた頃が、もはや青空のように思い出せない。

 

「………………」

 

 閉められた戸の向こう側から、父と母が怒鳴り合う声が聞こえる。

 鎧武者に縋り付いてた大人達のように、かつてはこの身を間に挟んで仲裁しようとしてたが、いつからは両親は、間に立った自分をも躊躇無く殴るようになった。

 それどころか、その時ばかりは結託して、二人で平太を責め立てるようにもなった。

 

 先程も、()()()()()()と息子を夫婦揃って罵倒していた。

 自分達は妖怪に襲われないようにとこの家の中でがたがた震えていただけにも関わらず、犠牲者の家から、死骸から、めぼしいものを盗んでこいと子供を家の外に追い出した分際で。

 

(…………ぁぁ。…………暗い)

 

 灯りなどあろう筈が無い物置の中は、まるで夜のように真っ暗だ。

 平太は少しでも暖を求めるように、痩せ細ったその身体を丸めて、夜が明けるのを必死で待った。

 

 やがて――どれだけ時間が経ったのか、気絶するように眠りについた少年を起こしたのは、乱雑に開けられた戸から差し込んだ光だった。

 

「――平太っ!」

 

 そう叫びながら物置の中に飛び込んで、平太と、自分達が名付けた少年の名を呼びながらそれを抱き起こし――夫婦揃って息子を抱き締める。

 

 いつものことだった。

 夜が明けると、まるで憑きものがとれたかのように、両親は息子を抱き締め、涙ながらに謝るのだ。

 

 ごめん、ごめんなさい、どうかしていた――と。

 初めの頃は、思わず泣いてしまうくらいに嬉しかった。ああ、よかった。あの怖い両親はいなくなった。本当の両親に戻ってくれたと。

 

 だが――それも、長くは続かない。夢のようなものだ。

 日が沈み、夜が来れば、またあの両親に戻る。

 怖くて、恐ろしい、互いを罵り合い、息子を家の外に追い出して、お前が死ねと手当たり次第に殴りつける――醜い化物に。

 

 人間という、化物に、変貌する――いや、もしかすると。

 あれが本当で、あれが本物で――これが、今が、只の仮初めなのかもしれない。

 

 まさしく、夢なのかもしれない。

 自分がみたいと思っているから見えているだけの――ああ、だと、すれば。

 

 きっとまだ、夜は明けていない。

 だって、晴れ渡っている筈の空は――ちっとも。

 

(…………今日も、青空じゃないや)

 

 まだ、終わらない。

 地獄は今日もやってくる。

 

 空が血のように赤く染まり、そしてすぐに真っ黒になる。

 

 明けない夜はない。

 でも、こんなにも長いのなら、いっそ。

 

(………………早く、終われば、いいのに)

 

 少年は、自分を抱き締める両親の腕の中で、そう無表情に呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ()()()()()()――()()()()()()()()()()()

 

「―――――っ! ―――――――ッッ!!」

 

 何もかも抜け落ちたような無表情の少年を、何もかも溢れ出してしまいそうな表情の童女が見ていた。

 涙一つ流さない少年を、涙を零れ落とす童女が、見ていた。

 

 頬に痛々しい青痣を残す少年が。

 互いを傷つけ合う両親によって家から放り出され。

 妖怪達が暴れ狂う地獄の一夜に立ち尽くし。

 鎧武者が去った戦場跡で木の実を拾い。

 その戦果に対する不満を息子に暴力という形で露わにし。

 今にも死んでしまいそうな痩せ細った身体を物置の中に押し込み。

 そのまま存在を忘れたかのように一晩を明かし。

 夜が明けて、正気に戻った風に家族揃って抱き締め合う――その一部始終を。

 

 そんな輪廻のように続く地獄を、誰よりも近くで、童女は見ていた。

 少年の日常を――少年の長い、長い夜を、ずっと見ていた。

 

(……何で……どうして…………変わらないの……)

 

 童女は――座敷童の詩希は、平太が外に出て戸を閉めた物置の中で、再び暗くなった世界で、自分の小さな手を見詰めながら無力感を噛み締めていた。

 

 あの日――頬に見るも無残な青痣を残した平太を見つけた日。

 平太の後をつけ、彼の日常を知った時。

 

 いつか夜が明けると、そう童女に語ってくれた少年が、誰よりも暗い夜の中に――否、これは今の平安京には、それこそありふれた境遇なのかもしれないが――いること知った時、詩希は生まれ変わってから、死に返ってから最も強いショックを受けた。

 

 今すぐにでも少年に声を掛けて励ましたかった。

 自分がそうしてもらったように、少年が自分にそうしてくれたように、自分も少年を救ってあげたかった。

 

 でも、すぐに思い至る。

 自分はもうあの時とは違う。

 何も分からなかった、存在さえも不確かだった幽霊ではない。

 

 座敷童の詩希――座敷童。すなわち、()()なのだ。

 

 今、この平安京に跋扈する魑魅魍魎、その紛れもない一体。

 毎夜毎夜、地獄を作り、少年の闇深い夜を作り出している妖怪、その同類なのだ。

 

 確かに、自分はこの妖怪戦争において、『鬼』派でも『狐』派でもない。

 だが、貧民街の人間達が、そんな妖怪の派閥争いなど理解しているだろうか。妖怪にも穏健派はいると、一般市民ならぬ一般妖怪がいるのだと、理解してもらえるだろうか。

 

 妖怪にも、いい妖怪はいると、少年はそう言っていた。

 だが、それはそう自分が思い込みたいだけで、こんな地獄にも希望があるだと、恐ろしいだけの存在などいないのだと、そう言い聞かせているだけで、本当はそんなことは思っていないのではないか。妖怪というだけで無条件で恐怖させてしまうのではないか。

 

 そんなことはないかもしれない。だが、そうかもしれないと思うだけで――詩希はたまらなく怖くなった。

 妖怪として、人間に畏れられることで糧が得られるような存在となっていることは理解している。

 

 だが、それでも――平太にだけは。

 自分を救ってくれたこの少年にだけは、自分のことを畏れて欲しくはなかった。

 地獄を作り出す妖怪を見るようなあんな目を、向けて欲しくはなかった。

 

 それに――何よりも、少年に、あんな顔をさせたくなかった。

 あんなにも綺麗な、誰かを救ってくれる笑顔を浮かばせることが出来る少年に。

 これ以上、あんな悲しい顔を、あんな怖い顔を、あんなにも辛い――無表情を、浮かべて欲しくは無かった。

 

(……笑って欲しい。…………どうか……どうか……)

 

 幸せに――なって欲しい。

 あの子の夜が明けて欲しい。青空を見上げて笑って欲しい。

 

 そうだ――わたしは感謝して欲しいわけじゃない。恩を売りたいわけじゃない。

 恩を返したいんだ。もらったものを、ほんの少しだけでも。

 

 気付いて欲しいわけじゃない。見つけて欲しいわけじゃない。

 わたしの居場所は、この暗い物置でいい。あなたを明るい世界に戻してあげられるなら。

 

(わたしは詩希――座敷童の、シキ)

 

 きっと、わたしは――この為に、座敷童になったんだから。

 

 なのに――なのに――その筈、なのに。

 

(…………どう…………して………ッ)

 

 あの日から、ずっと、ずっとそう思って、そう願って。

 この暗い物置から――この家に居着いてから、居憑いてから、ずっと、ずっと。

 

 必死に、それだけを願っているのに。

 

 なのに――どうして。

 

「どうして……しあわせにならないの…………ッッ」

 

 座敷童のシキは、ギュッと小さな手を握り締め、歯を食い縛る。

 

 詩希は座敷童になりたての、まだ座敷童見習いといった身分の存在だ。

 これまで座敷童の能力を、その異能を使ったこともなかった。なので当然、使いこなしているわけではない。

 

 けれど、わたしが座敷童だというのなら、必ずや出来る筈だと奮闘を続けるも――結果はまるでついてこない。

 

 しかし、それも仕方のないことだった。

 そもそも詩希自身も完全に理解しているわけではないことだが、座敷童とは幸福を作り出す、幸運を生み出す妖怪――()()()()

 

 座敷童とは、居着いた家に、自分に居場所を与えてくれた家に――幸福を()()()()()()妖怪だ。

 

 世界には、運命には、『流れ』というものがある。

 幸せな場所には幸せを運ぶ流れが、不幸な場所には不幸を齎す流れが存在している。

 

 座敷童に出来ることは、その()()()()()()()()()()()ことだけだ。

 幸福を引き寄せる時は幸福の流れを、不幸を引き寄せる時は不幸の流れを、その手に掴み、手繰り寄せる。

 

 だからこそ、座敷童は何よりも、その場の()()というものに敏感だ。

 詩希以外の座敷童が、今の平安京に耐えきれずに出奔したのは、それも大きな理由の一つである。

 

 幸福の流れを、不幸の流れを体感的に知覚する彼女らにとっては、愛を求める、幸せな空間を何よりも求める彼女らにとっては、今の平安京は耐え難いものだった。

 

 未だかつて、幸福や不幸を――すなわちは運命を、自由自在にコントロールするまでに至った座敷童など、存在しない。

 座敷童に可能なのは、その運命の流れを、ほんの少し変えるだけ。

 

 つまり――奇跡は起こせない。

 幸福の流れなど殆ど存在せず、ただただ不幸な流れで満ちている、この戦乱間際の平安京の貧民街に置いて――たった一人の少年を救うことすら、出来ない。

 

 幸せに――出来ない。

 生まれたての座敷童見習いには、それはとてもではないが不可能な難題だった。

 

(…………むしろ、闇雲に引き寄せようとしているから……)

 

 流れにがむしゃらに手を伸ばしているから、引き寄せているのがただの不幸な流れという可能性もある――ただでさえ不幸な少年に、さらなる不幸を齎しているだけという可能性もある。

 

 ならば――自分がしていることは、一体何なんだ。

 恩人たる少年を、幸せにしたいだけの少年を、ただただ苦しめるのが、わたしのやりたかったことなのか。

 

 座敷童になってまで、やりたかったことなのか。

 

 念願の、座敷童になっても――わたしは。

 

「……………何も、出来ないの?」

 

 そして、その日も、何も出来なかった。

 

 いつも通り、夜が来て、妖怪が来て、家が壊れて人が死んで――少年が、両親に殴られて。

 物置に放り込まれる。

 まるで様式美のように、何の救いもなく繰り返される日常。

 

「………………」

 

 詩希は、放り込まれた平太を見て、ぽたぽたと涙を流して唇を噛み締める。

 

 無力感に苛まれているその時、平太の腹が力無く鳴った。

 初めて会ったその時から痩せ細っていたけれど、平太はあれから更に細くなり、もはや骨と皮しかないんじゃないかと思える程だ。

 

 腹は鳴るけれど、呼吸音も微かで、詩希は、このままだと平太は朝には冷たくなってしまっているのではないかと怖くなった。

 

 故に――詩希は、()()()、こっそりと、物置の戸を開け、まだ真っ暗な家の中を歩く。

 互いを罵り合う平太の両親の怒声が止み、寝静まったのを確認し――ほんの僅かしか残されていない食料を、ほんの僅かだけ、こっそりと拾う。

 

 そして、再び音を立てずに物置の中へと戻り、小さく腹だけを鳴らす少年の口元に、それをこっそりと置いた。

 

「………………」

 

 しばらくはピクリと動かなかった平太だが、やがて、ゆっくりと手を伸ばし、それを口へと入れる。

 

 きっと、本人は何も覚えていない。

 意識が戻っているかも怪しい。だが、詩希は、この光景を見るときだけが、ほっと胸をなで下ろすことが出来る。

 

 意識もなく、ただ本能の赴くままに、身体が栄養を求めての無意識的な行動だとしても――本能が、生存本能が働くということは、まだ。

 

 少年が――平太が、生きようとしていると、生きようとしてくれているということだから。

 

 まだ、大丈夫。

 まだ、きっと間に合う。

 

 詩希は、そう信じることが出来る。

 

「………………ごめん、なさい」

 

 そう童女は呟いて、少年の頭を撫でようとして――やめる。

 

 手を引っ込めて、そのまま物置の隅っこまで戻って、そして、ぐっと――その手に力を入れる。

 

 次こそは――明日こそはと。

 そしてまた――運命の流れへと、手を伸ばす。

 

 少年は、朝までピクリとも動くことはなかった。

 

 

 そして――この次の日。

 

 全てが終わった。

 

 座敷童は、間に合わなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日も、いつも通りだった。

 

 夜になって、妖怪が現れ――暴れ、壊し、殺した。

 何もかも手遅れになった頃に鎧武者が現れ、何もかもなかったかのように後片付けを行った。

 

 唯一、いつもと違ったことは――壊された家屋の中に、平太の家が含まれていたこと。

 これまで散々、平太に命じてきたようなことを、この日、両親は思う存分やり返されることとなった。

 

 妖怪が去った後、間髪入れずに足を踏み入れてきたのは人間達だった。

 愉悦に歪んだ目をしていた妖怪達の後は、血走った獣のような目を輝かせた人間達が襲いかかる。

 

 平太には――やはり、どちらも同じくらい恐ろしい化物のように思えた。

 

 やめてくれ、出て行ってくれ、うちには食べ物なんてないと縋り付く両親達を容赦なく殴り、蹴り飛ばしながら、隅から隅までめぼしいものを奪っていく人間達。

 力一杯に扉をこじ開けられ、小さい身体を極限まで縮こませて発見を逃れた詩希ですら恐怖で震えるような光景を――平太は、これまでと同じように、離れた場所から無表情で眺めていた。

 

 これまでと同じように。

 見ず知らずの他人の家が壊されていくのと同じように、我が家の崩壊を眺めていた。

 

 いつかと同じように、コロコロと足元に木の実が転がってきた。

 

「………………」

 

 平太は、それを、拾わなかった。

 

 血走った目をした獣のような人間達が、散々に食い散らかし、既に何もなくなった我が家に――互いに泣き崩れ、絶望に暮れる両親の元に、平太は手ぶらで近づいていった。

 

 ああ、終わったんだと、無表情に、ただそれだけを思いながら。

 

 そして、ゆっくりと近づいてきた平太を――父親は、渾身の力で殴り飛ばした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 お前のせいだと、父親は言った。

 お前のせいだと、お前のせいだと、父親だった筈の男は殴り続けた。

 

 平太は思う。

 僕のせいだったのだろうかと。

 

 我が家が貧しいのも、世が乱れているのも、僕のせいなのかと。

 世界が暗いのも、妖怪が溢れているのも、誰も助けてくれないのも、僕のせいなのかと。

 

 こんなにも冷たいのも、こんなにも痛いのも――こんなにも寂しいのも、僕のせいなのかと。

 

 頬を、腹を、腕を、足を、背を、頭を殴られながら、蹴られながら、少年は呟いた。

 

「…………ごめん…………なさい」

 

 その言葉を最後に、平太は何も発さなくなった。

 殴られても、蹴られても、罵られても、何の反応もしなくなった。

 

 父親だった筈の男は、何かに怯えるように息子だった少年を殴り続け。

 母親だった筈の女は、何もかもを恐れるように息子だった少年に見向きもせずに泣き続けるばかり。

 

 だから――それに気付いたのは、彼女だけだった。

 少年を見ていたのは、ただひたすらに少年の幸せを願い続けた妖怪だけだった。

 

「やめて! それ以上、叩いたら死んじゃう!!」

 

 血走った眼を闇夜に浮かべて、何かに取り憑かれたかのように暴力を振るう大人の男。

 彼女にとっては妖怪よりもよほど恐ろしい猛威が振るわれているその最中に、童女は小さい身体を滑り込ませた。

 

 そして、ピクリとも動かない少年に覆い被さりながら言う。

 

「何でこんな酷いことが出来るの!? あなたは――お父さんでしょう!?」

 

 どうしてこんなことが出来ると、童女は泣きながら叫んだ。

 

 どうして愛さないんだと。

 どうして守らないんだと。

 

(……彼が……一体、何をしたっていうの!?)

 

 何もしていない。何も悪くない。

 世が乱れているのも、この家が貧しいのも、妖怪が跋扈しているのも、夜がこんなにも暗いのも。

 

 少年は――平太は、何一つとして関与していない。

 何も変える力も持っていない。何一つとして、息子を痛めつけていい理由になんてならない。

 

(彼が、こんなにも不幸でいい理由になんてならないっっ!!)

 

 この少年は、もっと、もっと――幸せにならなくてはならなかったのに。

 この少年を、絶対に――幸せにしなくてはならなかったのに。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 童女は少年を抱き締め、涙と共に呟く。

 そして、息子を痛め続けた暴力が――今度は童女へと牙を剥く。

 

「――――ぁがッ!?」

「……やはりか。食い物が減っていると思っていた……ッ。俺等がこんなにもひもじい思いをしているっていうのに……。このガキは、こんなもんを飼っていやがったんだなッ!! 碌に食いもんも持ってきやがらねぇのにッ!! この――親不孝もんがぁッ!!」

 

 大人の男の大きな手が童女の小さな首を締め付ける。

 もう片方の手で父親は、動かなくなった息子の痩せ細った身体を持ち上げ、そのまま物置へと放り投げた。

 

「――――ッ!!」

 

 童女は涙を浮かべながら、ぱくぱくと口を開けて――その大きな手に噛みついた。

 

「ぐがぁッ!」

 

 ふざけるな――ふざけるな。

 彼が何をした? 彼が今までどれだけ――()()()()助けようとしたと思っている。

 

 平太は聡明だ。

 自分がどんな境遇にいるのか、そして、それがどれだけ理不尽なものなのか、彼は間違いなく理解していた。

 

 見捨てることも出来た。

 少なくとも、彼はこの両親の庇護がなくては生きられない程に弱くは無かった。

 少なくとも、彼は自分にとってこの家にいることが最善でないことは分かっていた。

 

 それでも、彼は最後まで、この家にいた。

 理不尽に虐げられ、殴られ、罵られ、痛めつけられるだけだと分かっていても。

 

 それでも――ここにいた。ここに帰ってきた。

 

 それは偏に、両親を見捨てられなかったからだ。

 自分がいなければ何も出来ない両親を、見殺しに出来なかったから。

 

 だって、幸せだった。

 かつては間違いなく、愛してくれた存在だったから。

 

 幸せだったから――殺せなかった。

 それが分かっていたから――痛いほどに、伝わったから。

 

 だから――わたしは――。

 

「この――ガキがぁあああああああ!!!」

 

 かつて、確かに父親だった筈の男は。

 自分の手に噛みついた童女を殴り飛ばすと――そのまま家から追い出した。

 

 小さな腕を乱雑に引っ張り、引き摺るようにして、そのまま地獄のような貧民街を歩かされる。

 

「お前のせいだ! お前のせいだ! 不幸を齎す――疫病神めッ!!」

 

 不幸を齎す疫病神――幸福を招く座敷童だった筈の詩希は、その言葉に全てを悟った。

 

 ああ、わたしは失敗したんだ。

 何もしてない。何も――出来なかった。

 

「……ごめんなさい……ごめんなさい」

 

 詩希の呟きは、何かを恐れるような、何かから逃げるような青い顔をした男には届かなかった。

 

 それでよかった。

 この謝罪は――罪を謝る言葉は、間違ってもこの男に向けて言った言葉では無い。

 

「ごめん…………なさい…………」

 

 助けてくれたのに。救ってくれたのに。

 せっかく、誰かを幸せに出来る、座敷童になれた筈だったのに。

 

 あなたを――幸せにしたかった。

 

 わたしは、ただ。

 恩を返して、幸せな場所で、あなたに与えられた、あの温かい愛に包まれて。

 

「…………一緒に、幸せに――」

 

 詩希は、掴まれていない、もう一方の手を。

 

 真っ暗な夜に浮かぶ、まるでこの暗い世界の出口であるかのように輝く月に向かって。

 

 その小さな手を、伸ばそうとして。

 

「――消えろ。化物が」

 

 ぐいっと。大人の力で無理矢理に、放り投げられた。

 

 全身を包む浮遊感。

 詩希は咄嗟に後ろを向いて、その先には大きな川が流れていることに気付いた。

 

 何故か、その時、ここ最近耳にした、この川に身投げをして自らの命を絶つものが後を絶たないという噂を思い出す。

 

 命を絶つ――死ぬ。

 殺される。消える。

 

 妖怪であるこの身が、こんなことで死ぬのかは分からない。

 だが、詩希には、この真っ暗な川から、己を引き摺りこもうとする無数の手が見えた気がした。

 

 それは幻覚かもしれない。

 だが、この川は多くの命を飲み込んできた川であり、そして今、自分が殺意を持ってその中に放り込まれようとしていることが、何よりも恐怖だった。

 

「――っ!? いやッ! いやぁああ!!」

 

 詩希は再び手を伸ばす。

 既に自分を放り投げた男はいない。誰もいない。

 

 だが、詩希は――誰もいない、その場所に向かって。

 

 いつも、いつも、真っ暗な物置の中で、呟いていた言葉を投げ掛けた。

 

「わたしを――」

 

 

 瞬間――圧倒的な轟音が、その全てを掻き消した。

 

 




用語解説コーナー③

・座敷童

 愛されなかった子供の幽霊が、死後も愛を求めて妖怪となった怪異。

 運命の流れを知覚し触れることの出来る異能を持ち、居憑いた家に幸福の流れを手繰り寄せ、自分を追い出した家に不幸を齎す流れを手繰り寄せる。前者は自覚的に発動させ、後者は自動的に発動される。

 元々そこにある流れを寄せるだけなので、自ら任意の流れを作り出すことは出来ない。

 また、運命の流れを手繰り寄せる練度や強度も、座敷童としての経験や才能による個体差が存在する。


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妖怪星人編――④ 夢の光景

愛してます。だから、どうか愛してください。


 

 そして、再び――夜が来る。

 

 自分が水死体の如く漂流していたという川のほとり。

 青い顔をした男に冬の川に放り込まれたその場所に、詩希は鴨桜と士弦と共にやってきていた。

 

「――で、ここからその男に、お前さんは真夜中の川に放り投げられた、と」

「…………はい」

 

 鴨桜と詩希が川を覗き込む傍らで、士弦は辺りを見渡していた。

 

(……確かに、この辺りは貴族領からも離れている。毎夜毎夜、『狐』や『鬼』の下っ端妖怪共が遊びに来る場所としては、正にうってつけの穴場ともいえるな)

 

 空白地帯ではあるものの、どこにとっても旨味の少ない場所。

 大きな戦場の舞台にはなり得ない――故に、ずっと小さな争いが終わらず、いつまで経っても平和にならない場所。

 

 最前線だけが、戦場の全てでは無いということを、改めて突き付けてくる場所。

 

(いつだって一番の被害者は、巻き込まれる無関係な一般人……か)

 

 勢力図のどこにも属さない、無色で無力な――部外者達。

 

(……まぁ、そういう意味で言うなら、俺等も正確にはこっち側なんだが)

 

 鬼にも狐にも属さない、かといって第三勢力とは口が割けてもいえない程度の規模の妖怪組織。

 

 そんなちっぽけな存在でありながら、この平安京は俺の庭だと、そう大言壮語を宣う男がいる。

 

「なるほど――気に入らねぇ」

 

 士弦の背後で、鴨桜はそう吐き捨てた。

 そして、童女の頭をぐわしと掴んで「――んで? お前はどうしたい?」と尋ねる。

 

「……どう……って?」

「もう恩返しとやらはいいのか?」

 

 鴨桜の言葉に、詩希はぶるりと身を震わす。

 

 詩希の脳裏に過ぎるのは、あのピクリとも動かなくなった――平太の姿だ。

 

「……おい、鴨桜――」

「士弦。黙ってろ」

 

 何かを言い掛けた士弦の言葉を止め、鴨桜は再び詩希に問い直す。

 

「お前はその平太とかいう人間に、恩を返したかったんじゃないのか」

「…………でも…………でも…………」

「甘えるな。()()()()()――()()()()()

 

 鴨桜は童女の頭を掴みながら、しゃがみ込んでその潤んだ瞳を真っ直ぐに見据える。

 

「妖怪となったからには、その本分は遂げろ。――死んでもだ」

 

 詩希――座敷童の、シキ。

 居着いた家に幸福を招く――妖怪。

 

「…………」

 

 鴨桜の真っ直ぐな視線から目を逸らし、何かを堪えるように唇を噛み締める詩希に。

 士弦は小さく溜息を吐いてから、「……座敷童ってのは、何も幸福を与えるだけじゃないよな」と語る。

 

「――え?」

「昨夜の話を聞く限り、お前は間違いなく、()()()()()()()()()()形だ。つまり――」

 

 士弦は一度ちらりと鴨桜を見る。

 これでいいんだろ、と、そう言うように。

 

「――その平太が、まだ生きているとすれば。今頃、座敷童を追い出した、そのぶり返しを受けているんじゃないか? 不幸という形でな」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 詩希は一目散に貧民街を駆けていく。

 昨夜、平太の父に引き摺られた時と同じ道を逆走するように。

 

 もう日は沈み、夜を迎えている。

 いつ、いつものように、妖怪達が現れるか分からない。

 

 否――妖怪はいる。

 他ならぬ自分と、『百鬼夜行』を名乗る新たなる恩人達が。

 

 詩希はちらりと後ろを振り返る。

 童女の全力とはいえ走っている自分を、まったく歩調を変えずに、しかし全く引き離されることなくついてくる桜と黒の斑髪の青年。

 

 まるで気が付いたらそこにいるかのようだ。

 これが、人知れずに他者の家に忍び込むという、ぬらりひょんという妖怪の血が成せる技なのだろうか。

 

(……いや、正確には、ぬらりひょんと人間の半血……半妖……らしい、けれど)

 

 その辺りはよく分からない。

 彼らは前提として昨夜、正確には今朝に知り合ったばかりの妖怪だ。

 目が覚めてからも詩希は自分の事情を話すばかりで、彼等のことは殆ど何も聞くことは出来なかった。

 

 ぬらりひょんと人間の混血種――鴨桜。

 その鴨桜と一緒に自分を助けてくれたという、首元に布を巻いた茶髪の男――士弦に関しては、何の妖怪なのかすらも聞かされていない。

 

 見ず知らずと言っていい二人。

 だが、見た目は人間そのものなので、貧民街の人間達も、こんな時間に突如として現れた不審な人間という目は向けても、分かりやすくパニックになってはいない。

 

 だが、それも時間の問題だろう。

 もういつ『狐』か『鬼』――戦争参加組の妖怪達が現れ、いつものように暴れ出すかは分からない。

 

(……昨日のあんな状況で……この上更に、不幸を呼び寄せているとしたら――)

 

 間違いなく、平太の家が最大の被害を食らう。

 昨夜、徹底的に終わってしまったのに――未だ、終わる余地が残っていたらだが。

 

(……わたしは、どうしたいのだろう……)

 

 もし万が一、平太がまだ生きていたとしたら。

 一体どうしたいのだろう。何をする為に、こうして全力で駆けているのだろう。

 

 住む場所を追い出された座敷童が不幸を齎す。

 これは運命の流れに手を伸ばして引き寄せる幸福とは違い、自動で発動してしまう、座敷童としての特性だ。

 

 つまり、もし仮に、詩希が間に合ったとして。

 まだ平太の家は取り返しがつく状態だったとして――その取り返しは、詩希が取り返せるものなのだろうか。

 

 あれだけ頑張っても。

 どれだけ手を伸ばしても――何も変えることなど出来なかったのに。

 

「――――ッッ!!」

 

 それでも――。

 

 妖怪なら、その本分を果たせ。

 詩希の後ろを、ピタリと、まるで監視するかのようについてくる――半妖の言葉が、詩希の脳裏を過ぎる。

 

 それでも――逃げるわけにはいかない。

 

 これは、詩希という座敷童の、運命そのものなのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、辿り着いた詩希が見た光景は――平和だった。

 

 平和と、幸福――そして、愛だった。

 

「…………嘘」

 

 詩希は右を向いた。次に左を向いた。後ろを向いた。

 そして、前を向いた。それを直視した。

 何度見ても、何度も見直しても――それは、そこにあった。

 

「……ここに間違いないんだな?」

「俺には、不幸な家なんてどこにも見えないんだが」

 

 詩希にも見えなかった。首を振った。

 

「……違う。ううん、違わない。ここ、ここなの。平太の家は――でも、これは」

 

 違う。

 詩希は、その言葉をごくんと飲み込んだ。

 

 場所は、住所は間違いなくここだ。

 ずっと居着いた家だ――居憑いた家だ。

 幸せにすると誓った家庭だ。でも、幸せに出来なかった――家族だ。

 

 不幸にしてしまった――筈だ。

 昨夜、ここは妖怪同士の小競り合いに巻き込まれた。倒壊した。

 家庭は――決定的に、致命的に、崩壊した筈だ。

 

 なのに――だから――これは――。

 

「――夢?」

 

 これは、実現しなかった、夢の光景だ。

 

 時刻は夜。真っ暗な夜。

 明けない夜だからこそ、見ることの出来た――夢。

 

「……取り敢えず、中に入らせてもらうか」

 

 入るまでもないと、詩希は思った。

 他の家は妖怪に狙われることを危惧して、日が沈むと同時に全ての灯りを消している。いつもの光景だ。蝋燭一本灯されていない。月明かりが当たることさえ恐れて息を潜めている。

 

 だが、その家からは、温かい灯りが漏れ出していた。

 そして何より、戸の向こうから――笑い声が、聞こえてくる。

 

 温かい、胸を締め付けるような、笑い声。

 詩希が居着いた、取り憑いていた間には、ついぞ聞くことの出来なかった――温かい、家族の団欒が。

 

 それでも、直視しなくてはならない。

 どれだけ有り得ない幻想でも――壊したくない、夢の光景だろうと。

 

 これは、詩希が。

 一人の未熟な座敷童が招いた――運命の末路なのだから。

 

「――おや。お客さんかい。こんな夜更けに珍しい」

 

 それは聞いたこともない優しい声だった。

 初め、詩希はそれが誰の声なのかも分からなかったくらいだ。

 

 戸を開けたのは鴨桜だったが、彼は開いた戸の中に、自分よりも先に詩希を押し込んだ。

 まるで――これを見届けるのはお前の仕事だと、冷たく、容赦なく告げられているようだった。

 

 だからこそ、その声を発したのは誰か、詩希はしっかりと目視した。耳だけで無く目で判断出来た。だからこそ、声だけでは判断できなかったが――その目で、その現実を受け止めなくてはならなかった。

 

 否――現実では無く、夢。

 彼女が現実に出来なかった、夢の光景の真実を。

 

「…………ぁ」

 

 その優しい声色は、この家の主から発せられたものだった。

 この家を守ってきた男。この家庭を守り切ることが出来なかった男。昨夜、童女を殺意を持って川へと放り込んだ男。

 

 毎晩、毎晩、息子を殴り続けていた――彼の、父親。

 

「あらまぁ、可愛いお客さんね」

 

 続いて、やはり優しい声色を持って声を発したのは。

 詩希が泣き声とヒステリックな叫び声しか聞くことの出来なかった存在。

 

 何もかもを包み込むような笑顔を向けてくる女。この家を優しく見守り続けた女。昨夜、自身の息子が動かなくなった後も己が目を覆い続けていた女。

 

 毎晩、毎晩、息子を責め立てることしかしなかった――彼の、母親。

 

「平太のお友達かな?」

「そうかしらね。平太、女の子が尋ねてきたわよ。あなたのお友達?」

 

 そう言って、彼の両親は彼の名を優しく呼ぶ。

 

 綺麗に並べられた、質素ながらも人数分が揃った食事。

 父と、母の、その間に並べられた食事の前に座っていた少年が、くるりと振り返ってこちらを向いた。

 

「――――おかえり。詩希」

 

 詩希は、その瞬間、(くずお)れ、泣きじゃくった。

 

 彼が自分を見てくれたから。名付けた名を呼んでくれたから。

 それもある。それもあるが、嬉しかった以上に――悲しかったからだ。

 

 だって、この夢のような、温かい空間で。

 綺麗で、眩くて、目が潰れそうな――幸せな空間で。

 

 ただ一人、少年だけが。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 少年は左瞼が腫れ上がっていた。少年は左腕が変な方向に曲がっていた。

 少年は右手の指が折れていた。少年は右足が青く内出血を起こしていた。

 

 それは、昨夜の最後の記憶。

 平太という少年が自身の父親に痛めつけられ、ピクリとも動かなくなった――息を引き取り、命を失った――死を迎えた、その最期の瞬間と、全く同じ姿だったから。

 

「気付かないのか? 新米座敷童」

 

 泣き崩れる詩希を跨ぐようにして、鴨桜がその家の中へと足を踏み入れながら言う。

 

「この家には、恐ろしい程に高密度の――『力』が満ちている。俺にはそれくらいしか分からねぇが、ちゃんとした座敷童が見れば腰を抜かすんじゃねぇか? お前さんの話を聞く限り、これが全部――いわゆる、『運命の流れ』ってやつだろうからな」

 

 正直、息が詰まりそうだ。

 そう言いながら、鴨桜は懐からドスを取り出す。黒い柄に白い刃の得物を抜く。

 

 瞬間―――家屋の中のあらゆるものが。

 物は数える程に少ないが、その全てが――()()()()()()()()()()()()()

 

 鴨桜はその全てを瞬く間に切り伏せる。

 そして、まるで動じることなく言葉を続けた。

 

「正直、入るまで気付かなかったってことが信じられないくらいだ。だが、それは逆に言えば、それだけ密度が濃いということだとも言える。……これだけの特異点だ。ここで小競り合いしてたっていう『狐』と『鬼』の下っ端の目が節穴だったとしても――鎧武者(式神)を巡回させている陰陽師が、何も気付かないとも思えない」

 

 だとすれば、時間はもうねぇ――そう言いながら、鴨桜は足を動かす。

 再び飛来する障害物。それを鴨桜は一歩も足を止めずに弾き飛ばして、進む。

 

「ま、待って! 何をするの!?」

「決まってんだろ。事態は、既に俺等が想像しているよりも遥かに深刻かもしれねぇ。一刻も早い対処が必要だ」

 

 それでも、もうとっくの昔に手遅れかもしれないが。

 鴨桜は舌打ちをする。せめて、昨日のあの時点で動いておくべきだったと。

 

(……そうすれば、せめて……コイツだけは――)

 

 ドスを振り回す青年を、ただただ優しい微笑みで眺めるばかりの両親。

 それを見て、鴨桜は目を細め、舌打ちをする。これはつまり、()にとってこの人間達は、とっくの昔に自分を守ってくれる存在ではなくなっているということを、この上なく表していた。

 

 この、夢のような光景の中でさえ。

 そんなことを望まなくなってしまう程に。

 

 鴨桜は、そんなある種の哀れみと共にドスを向ける。

 夢のように痛々しいこの世界の中で、ただ一人、今にも死んでしまいそうな程にボロボロの少年に。

 

 こんな夢の中でさえ、自分に一切の救いを与えなかった少年に。

 

「――ッ!! やめてぇ――ッ!?」

 

 詩希は思わず駆け寄ろうとするが、それを士弦は容赦なく押さえつけた。

 湿った土の上に押しつけられた童女はそれでも口を開き、叫びを上げる。

 

「なんで――どうして――」

「どうして? お前も、とっくに分かってんだろ?」

 

 鴨桜は童女を振り向くことすらせず、首元にドスを突きつけられても微笑む少年を見据えて、言う。

 

()()は――コイツが作り出した、夢の光景だ」

 

 少年は、ただ静かに微笑んだ。

 ボロボロに痛めつけられた格好で、とても痛々しい笑みを浮かべた。

 

 それを見上げた詩希は、再び瞳に涙を浮かべて、呻く。

 

「……どう……して――」

「それもお前は分かっているだろう」

 

 現実を認めようとしない――目の前の夢の光景を受け入れようとしない童女に、やはり、青年達は容赦なく突きつける。

 

 残酷な夢の真実を――現実を、突きつける。

 詩希を押さえつける士弦は、瞑ろうとしている童女の目を開かせるように言った。

 

「この家に充満した、座敷童の――詩希(おまえ)の、力だ。お前ががむしゃらに手繰り寄せ続けた、運命の流れ。――それを、平太(アイツ)は使ったんだ」

 

 詩希は――地面に向かって、顔を埋めるようにして突っ伏す。

 

「…………っっ!」

 

 自分は、ただ只管に、我武者羅に、運命の流れを無理矢理に手繰り寄せ続けた。

 どれだけやっても平太は幸せになれなくて、どれだけやっても毎日毎日平太は痛めつけられて。

 

 それでも、自分は他に方法を知らなかったから。

 だからずっと、ずっとずっと、この家に運命の流れを引き寄せ続けた。

 

 それが、この家の中に充満している、膨大な『力』の正体だとすれば――。

 

 だけど――だけど。

 

「……彼は……平太は! ただの人間です! わたし達とは違う! 妖怪じゃ無い、ただの人間で――そんなこと、こんな妖怪みたいなこと、出来るわけが」

「だから――()()()()()()()()()()()()()

 

 その時、鴨桜は初めて、振り返って言った。

 

 詩希を見るその瞳は――とても冷たく。

 童女は言葉を、熱を失い、絶句した。

 

「――――え」

 

 それは目を背けていたわけでも、逃げていたわけでも無い、まるで想像の範囲外のことで。

 士弦は「……何を驚いている?」と、童女を押さえつけながら口元の布をずらしつつ言った。

 

「人間として死んで、幽霊となり――妖怪となる。他でもないお前が、()()()()()()()()()()と、身を持って証明しているだろう?」

 

 そうだ――そうだ。

 他でもない詩希自身が、幼くして死亡し、幽霊として彷徨い、座敷童として新たなる生を与えられた存在だ。

 

 ()()()()()()()()()()()()だ。

 

 ならば――ならば?

 

「……そうだよなぁ、平太。……お前――全部、分かってんだろ?」

 

 鴨桜はドスを少年の首元に突きつけながら。

 容赦ない冷たい瞳で――けれど、どこか、哀れむように言う。

 

 少年は――痛々しく、微笑みながら。

 

「……よかった。優しそうな、()で」

 

 鴨桜に向かって、そう呟き。

 詩希に向かって、優しく、笑った。

 

「―――――――っっっ!!」

 

 その笑みを見て――自分を救ってくれた、あの時とそっくりの笑顔を見て。

 

 詩希は再び涙を溢れさせて、立ち上がろうともがく。

 だがそれを士弦は許さず、再び力尽くで押さえつけた。「離してっ! 離して!」と詩希は暴れ出した。

 

 そんな詩希に苦笑を漏らす平太に、鴨桜は再び問い掛ける。

 

「お前の両親は? どうなった?」

「……僕が幽霊として目覚めた時には……もう……」

 

 平太の両親は、互いを殺し合うようにして死んでいた。

 互いの首を絞め合うようにして事切れていた。

 

 それが座敷童を追い出したことによる不幸によるものだったのか。我が子を殺して逃げ場を失った感情を互いにぶつけ合った末路だったのか。それとも全てから逃げ出して楽になる為の心中だったのか。

 

 真相は分からない。真っ暗な闇の中だ。

 それを悲しむことは平太には出来なかった。それを言うならば自分だって死んでいるし――殺されているし。何より、分かり切っていたことだった。

 

 ずっと平太には分かっていたことだ。

 こうなることも。こう以外、なることはなかったということも。

 

 だから、幽霊として生き返った平太が思ったことは――そうしようと、思い立ったことは。

 死んでから一番に思ったことは――恩返しだった。

 

 自分を生んで育ててくれた両親へではなく、ずっと、ずっと――自分を愛してくれた存在への。

 

 ()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()

 

「………………わた…………し?」

 

 詩希は、呆然と呟く。

 そんな座敷童に、平太は優しい瞳で言った。

 

「ごめん、ずっと気付いてあげられなくて。だけど、ずっと気付いてたよ。誰かが――何かがが、ずっと、ずっと、僕の幸せの願ってくれていたことは」

 

 真っ暗な物置の中が、ある日から寒くなくなった。

 ずっとくうくうと鳴っていたお腹が、ある時からあまり鳴らなくなった。

 

 辛く、冷たく、寂しい夢の中で――ずっと、ずっと、聞こえるようになった。

 

 どうか、どうか――しあわせになって。

 

 その言葉に、どれだけ僕は――救われたか。

 

()()()()――()()()()()()()()()()()()()

 

 詩希は、声にならない叫びを漏らす。

 何も言葉にならなかった。結局、自分は存在を完全に隠すことすら出来ない、何も出来ない半端物の座敷童だった。

 

 そんな存在に、あろうことか、彼は。

 

「――ありがとう。ずっと傍にいてくれて」

 

 童女の叫びが、夢の空間に響き渡る。

 鴨桜は、誰にともなく呟いた。

 

「…………だから、これか」

 

 ()()()()()()()()()()()

 ずっと傍に居た存在が自分に願い続けた、けれど生前にはついぞ叶えてあげられなかった願い。

 

 だからこそ、平太は作り上げたのだ。

 死んで、幽霊になって、まず一番に作り上げたのが――この絵に描いたようにしあわせな世界。

 

 温かく、眩い――けれど、自分だけは外れた世界。

 自分ではなく、誰かの為に作った、しあわせに満ちた夢の世界。

 

「………………だから……これか」

 

 鴨桜は、目の前で痛々しく微笑む少年に向かって言う。

 

「平太。お前は――死ななくちゃならねぇ」

 

 ドスを煌めかせながら告げる鴨桜に、しかし平太は動じない。

 まるで全て分かっているかのように痛々しい微笑みを崩さない。

 

 代わりに叫んだのは、未だ涙を流し続ける詩希だ。

 

「どうして!? なんで死ななくちゃならないの!? 人間から座敷童になったっていうならわたしも同じなのに!」

「別にその出生が問題じゃない。それに正確に言うなら、コイツは座敷童にすらまだなっていない」

 

 鴨桜はやはり振り向きもせずにそう告げる。

 

「座敷童は生前に愛されなかった子供の幽霊が、愛を求めてなる妖怪なんだ。……コイツは、()()()()()()()()。その前提を満たしていない」

 

 詩希は思わず平太を見る。

 平太は何も言わず、何もかも分かっているかのように――何もかもを受けているかのように、ただただ壊れたように、微笑むばかり。

 

 鴨桜は、そんな平太を睨むようにして言う。

 

「俺と士弦は、昨夜、詩希を拾う前にお前に遭っている。だが、お前は昨夜生き返ってから、ここを一歩も動いていない。違うか?」

「……ええ。()()()()、あなた達とはこれが初対面です」

「あれは生霊だ。強すぎる思念が生み出す分身体。死した直後に、座敷童でもないにも関わらず運命の流れを操り、夢を具現化する。そして生霊を飛ばす。それも全て――ここにいる、詩希の為だ。そうだな?」

 

 幽霊として生き返り、まず真っ先に彼がしたことは。

 生霊を飛ばして詩希の安否を確認し、家屋に充満した座敷童しか操れない筈の運命の流れを使用しての、詩希が思い描いた夢の具現化だった。

 

 只の幽霊の身の上で。死んで、生き返って、何もかも分からないはずの状態で、何もかも分かっているかのように――全てを成し遂げた。

 

 それも――全て。

 

「…………わたしの、ため?」

 

 詩希は呆然と呟く。

 そんな詩希に、ボロボロの少年は、眩いばかりの笑顔で言う。

 

「……嬉しかった。温かかった。……だから、恩返しがしたかったんだ」

 

 安心したように――夢が叶ったかのような笑顔で、言う。

 

 あ――と、詩希の口から声が漏れた。

 この夢のような光景も、生霊を飛ばしてまで探しにきてくれたのも。

 

 おかえり、詩希――と、そう言って迎えてくれたのも。

 

(……わたしに……座敷童のわたしに……帰る場所を、作ってくれる為)

 

 ぽろぽろと、涙がこぼれる。

 温かい。本当に、なんて、温かい――愛だろう。

 

「……大丈夫。この人達は、優しい人達だから。……詩希を助けてくれて、本当にありがとう。……だから、どうか――」

 

 しあわせに、してあげてください。

 そう言って平太は、鴨桜が突き出すドスを掴む。

 

 詩希は再び絶叫する。

 嫌だ。嫌だ。もう平太に――死んで欲しくない!

 

「ダメぇ!! どうして!? どうして平太がまた死ななくちゃいけないの! 死んだら――もう生き返れないでしょう!!」

 

 嫌だ。嫌だ。死んでしまうのは絶対に嫌だ。

 詩希の脳裏に昨夜の記憶が過る。だって、死は、あんなにも――怖い。

 

 死ぬのは誰だって――妖怪だって、幽霊だって、怖いのに。

 

「言っただろう。コイツは座敷童じゃない」

「言ってない! どうして座敷童じゃないと死ななくちゃいけないの!? 幽霊だっていいじゃない! どうして――平太が死ななくちゃいけないの!!」

 

 それをまだ、誰も説明してくれていない。

 納得なんて出来るわけがないと童女は二人の青年を睨み付ける。

 

「…………」

 

 本来、こんな童女に何もかもを説明する必要なんてない。

 事態は既に一刻を争う――刻一刻と悪化の一途を辿っている。

 

 だがこれは、この未熟な座敷童から始まった事件だ。

 これは、座敷童のシキが歪めた運命の物語だ。

 

 故に、鴨桜は詩希をここまで連れてきた。

 自分の行いが、自分の願いが引き起こしたものを、最後まで見届けるのが、妖怪・座敷童としての本分を全うすることだと思ったからだ。

 

 だからこそ、ここで何も説明せずに、何も分からないままで終わらせるのは違うだろう。

 

 百鬼夜行を継ぐ者として。妖怪大将を引き継ぐ者として。

 昼と夜を、人と妖を繋げるものとして。

 

 鴨桜は、自分の本分を全うしなくてはならない。

 

「――幽霊とは、本来、自覚なく形なく、現世を彷徨い歩く存在だ。だが、自らが幽霊だと自覚したものは、その形を強制的に格付けされる」

 

 土地に縛られる地縛霊。

 ふらふらと漂う浮遊霊。

 しかし、それも一時的な格付けだ。

 

 長期間に渡って成仏出来なかったそれらは――やがて悪霊という明確な妖怪へと変わる。

 

「つまり、正確に言えば悪霊だけが妖怪であり、それ以前の幽霊とは、人間と妖怪の狭間の存在だ。だが、だからこそ、明確に形のないそれらはとても――危うい。それこそ、容易く世界の理に手を触れてしまう程に」

 

 人間でも、妖怪でもない存在。

 人の血と妖怪の血を引く半妖は――人でも妖怪でもなく、人でも妖怪でもあるものは、言う。

 

「さっきも言ったが、本来ならばそう時間も掛からないうちに形が定まるから大きく問題視はされない。だが、お前は別だ、平太。お前は不安定な状態で、あまりにも大きな『力』を浴び過ぎた」

 

 挙げ句の果てには、それをここまで使いこなす始末だ。

 鴨桜は、この小さな家屋の中に充満する『力』を――運命の流れを見上げる。

 

 うねりを上げながら渦巻くそれは、世界の理すらも歪めかねない、莫大な奔流。

 とてもではないが、一人の少年の幽霊という脆く小さな『箱』の中に収まるようなものではない。

 

「だが、お前はもう、この『力』に手を伸ばしている――手を触れている。使用している。既に、お前とこの『力』の渦には、明確に繋がりが生まれているんだ」

 

 そもそも、一人の座敷童が集め続けた膨大な運命の流れの、正にその渦中にて死亡し、幽霊となった少年だ。

 出自からして、この『力』との繋がりはあった。その上、明確にその流れに触れ、扱った平太には、今、この瞬間にも刻々と『力』が注がれ続けている。

 

 死んだばかりの、生き返ったばかりの少年の幽霊という不安定な『箱』の中に、世界を歪めかねない程の莫大な『力』が注ぎ込まれ続けると――どうなるか。

 

「可能性は――危険性は二つだ。一つは、とんでもない力を持った悪霊になるというもの。それこそ、『狐の姫君』や『鬼の頭領』といった、日ノ本を揺るがす程の大妖怪にな。だが、これはお前がその力を完全に我が物とした場合だ。希望的観測ってやつだな。――そして、もう一つの可能性。実現確率が高い危険性。こっちの方がだいぶ現実的で、このままだと十中八九その通りになる」

 

 鴨桜はそう冷たく伝える。

 だがそれは、目の前で諦観と共に微笑む少年にではなく、背後で未だもがく童女に向けて言っているように聞こえた。

 そして、鴨桜は、既に立たせている人差し指に続いて、その細長い中指を立てながら言う。

 

「完全に妖力に飲み込まれる。その結果、お前という『箱』は崩壊し、この不安定な『力』を現実に具現化する為の触媒となる。そして、溢れ出した『力』は、ただ暴れ狂うがままに世界に放出され――災害となる。……己の力を暴走させる幽霊というのは、稀にいる。不安定な状態だからこそ起こり得る霊の災害化――つまりは霊災だ」

 

 世界の理を歪ませる程の『力』――それが、『霊災』という形で現実世界へと放出されたら。

 間違いなく平安京は火の海に沈む。『狐』や『鬼』がどうこうする前に、この片隅の貧民街から都は崩壊を迎える。

 

(……だが、それですらまだ希望的観測だ)

 

 暴走するのが只の力ならば、まだマシだ。

 ここに渦巻いているのは、只の力ではなく、座敷童が蒐集し続けた運命の流れ――世界の理に触れ、改変することすら可能とする『力』。

 

 それも既にこうしてしあわせな光景の具現化という形で、行使された履歴を持つ『力』だ。

 ただ単純な破壊力という面だけじゃない。もし、この改変力を持ったまま――超巨大規模の霊災と化されたら。

 

(京や日ノ本だけじゃねぇ……この世界そのものも、どうなっちまうか分からねぇ)

 

 正に、世界を滅ぼし得る存在。

 鴨桜は冷たく、ボロボロの少年を見据えながら告げる。

 

「……お前は、この世界にいちゃいけねぇ奴だ」

 

 お前は死ななくてはならない。お前は生きていてはいけない。

 

 そう容赦なく、真っ直ぐに告げられた少年は。

 

 何もかもを諦めているかのように――当然の事実を告げられたかのように、微笑む。

 

「――分かっています」

 

 ボロボロの少年は、今にも死んでしまいそうな少年は――正に一度死に、生き返った途端に再び殺されそうになっている少年は、笑う。

 

 ずっとそうしてきたように、何もかも分かっているかのように、何もかもを諦めているかのように笑う。

 

 ずっとそうしてきた。

 ずっとそう――言われてきた。

 

 死ねと、消えろと、何もかもお前のせいだと。

 隣で微笑む父親から。隣で見詰める母親から。

 

 それはまるで、世界そのものからそう責め立てられているかのようで。

 

「僕はずっと、そう――望まれてきましたから」

 

 誰からも愛されなかった少年は――遂には、自分さえ、愛せなくなった少年は。

 

 だからこそ、今度こそ、己に決定的な(終わり)を齎してくれる、その刃を手繰り寄せる。

 

 運命の流れすら掴んだ、その痩せ細った小さな手で、優しく己が喉元へと。

 

「だから、僕を殺してください」

 

 平太の、その微笑みには、死を目前にした恐怖の感情は一切なかった。

 

 死は、あんなにも怖い筈なのに。

 恐ろしくて恐ろしくて堪らない筈なのに。

 

 そこにあるのは、圧倒的な諦観と、悲しいまでの謝意で。

 

 ごめんなさい。

 生まれてきてごめんなさい。生き返ってごめんなさい。

 

 けれど、その奥底には、まるで燻った火種のように――仄かに。

 

「………………」

 

 鴨桜は、最期に一つだけ問い掛けようとして。

 

「――――やめてぇぇえええええええええええ!!!」

 

 宙に――浮いた。

 

「ッ!?」

 

 それはまるで、ぐいっと引き寄せられるような――強引に、()()()()()()()()()()()浮遊感だった。

 鴨桜は若く、まだ青年と呼ばれるような年齢で、決して筋骨隆々の偉丈夫ではないが、間違いなく成人男性の体格をしている。

 

 だが、そんな鴨桜を手繰り寄せたのは――間違いなく、童女だった。

 

 詩希――座敷童のシキ。

 運命の流れすらその手中に納める妖怪が、手も使わず――否、この部屋に充満する莫大なる『力』に手を伸ばし、操り、鴨桜を己が元へと手繰り寄せたのだ。

 

 少しでも鴨桜を平太の傍から、平太の喉元に突き立てられていたドスの刃を遠ざけようとして、弾き飛ばした。

 

「鴨桜っ!」

 

 士弦は飛来してくる鴨桜を受け止めた。

 それ自体は容易かったが、思わず二人揃って尻餅を着いてしまうくらいの勢いはあった。

 

 結果として、拘束が外れる。組み伏せられていた童女が自由になる。

 

 そして、自由になった童女は、一目散に少年の元へと駆け寄った。

 瞳一杯に涙を浮かべて、歯を食いしばり、そして思い切り殴りかかるように一切ブレーキを踏むことなく――少年に抱き着いた。

 

 ついさっきまで組み伏せられていた童女が、今度は少年を押し倒すようにして抱き締める。

 強く、強く抱き締める。

 まるで、どこにもいかないでと、引き留めるように。

 

「…………詩希」

 

 平太は、何もかもを知った風に達観していた少年は、何も分からず呆然としていた。

 

 詩希が鴨桜を吹き飛ばしたことも、己が喉元に刃が刺さっていないことも――己が身体を包み込む、温かさも。

 何も、何も分からないといった風に、無様に童女の背中の上で己が手を持て余す。

 

 童女は、そんな少年の首元に顔を埋め、耳元で囁きかけるようにして言う。

 

「……やめて……やめてよ……。生まれてきて……ごめんなさいとか……。生き返って……ごめんなさいとか……。……殺して……とか……っ! そんなこと……そんなこと……言わないでよ……っ!」

 

 詩希は、そのまま押し倒した平太の顔を挟むように両手を着いて、ぽたぽたと涙をこぼしながら叫ぶ。

 

「わたしは……嬉しかったっ! あなたに出会えて! 名前をもらえて……本当に嬉しかったの! あなたがわたしを生かしてくれた! なのに――何で、あなたは、そんなことを言うの!?」

 

 どうして――そう言って自分に跨がったまま、ぐしぐしと涙を拭う童女を、少年はただ呆然と見上げるがままだった。

 

 分からない。何もかも分かっているつもりだった。

 世界の仕組みも、救いのなさも、未来の暗さも――だからこそ、ずっと諦めて、笑って生きてきた。

 

 だから、分からない。だって、知らなかったから。

 自分の頬に、ぽたぽたと落ちてくる雫が当たる。

 

(……あたた……かい……)

 

 そっと手で拭ったそれは、感じたことのない温度だった。

 いや、遠い昔、もはや夢にすら見なくなった程の――手が届かなくなった遠い遠い過去に、似た温度で包まれていた気がする。

 

――平太。

 

 自分の名を、名付けてもらった名を、優しく呼ぶ声が、何処からか聞こえた気がした。

 

 それは目の前の童女が言ったのか――それとも。

 自分を温かい笑顔で見詰める両親が、そっと過去から囁いたのか。

 

「……どこにも、行かないで……っ」

 

 詩希は、ぼろぼろに崩れた顔で、平太の胸の上に手を置いて願う。

 親からすら死と消失を望まれた少年に――どうか生きてと、そう望む。

 

「あなたがいなくなったら、わたしはずっと……()()が寒い。……痛くて……苦しくて……ずっと――寂しい」

 

 それはずっと抱えてきた胸の痛み。

 どれだけ時が経とうとも、どれだけ周囲に仲間が増えても――きっと消えることのない傷として残り続けるだろう。

 

「だから生きて! ずっと一緒に居て! もっともっと、温かくして!」

 

 詩希は――絶対に逃がさないと、平太を再び強く強く抱き締めながら言う。

 

「愛してます。だから、どうか愛してください」

 

 ずっとずっと、手が届かなかった童女は。

 絶対に――手放さないと、自分を救ってくれた少年の手を握り、己が望みを押しつける。

 

「幸せにします。だから――どうか、幸せになってください」

 

 平太は知らなかった。否、ずっと――忘れていたのだ。

 

 世界には、こんなにもあたたかい温もりがあることを。

 

 それが身を、心を包み込むと、こんなにも、痛みも悲しみも寂しさも――全て、消し去ってくれるのだということを。

 

 これが、愛されるということだと。

 

(……あぁ。そうか。……だから……――)

 

 平太は、ずっと彷徨わせていた両手を、ゆっくりと童女の背中に回す――包み込むように。

 

 ようやく、探していたものを、見つけたように。

 

(…………あぁ。そうか。いいんだ。願っても。望んでも。……なら……出来ることなら――)

 

 ボロボロの少年は、両親からも世界からも、死を、消失を願われた少年は。

 

 たった一人、どうか生きてと願ってくれた童女を抱き締めて。

 

 誰よりも――自分に向かって。

 

 心からの願いを、口にした。

 

 

「僕は――幸せになりたい」

 




用語解説コーナー

・運命の流れ

 数ある妖怪の中でも座敷童のみが知覚し、触れることが出来る、世界を改変する力。
 幸福な流れは世界に幸福を作り出し、不幸な流れは世界に不幸を作り出す。

 星の力――龍脈を流れる莫大な力の流れを本流としており、支流として座敷童の異能でそれを手繰り寄せる。

 本来であれば一定の現象を引き起こした後に雲散霧消するものだが、稀に莫大な量の流れを一ヶ所に集めることで凝集し、一つ世界改変力の塊となることがある。
 過去に例のないことだが、世界の改変力をとめどなく強化することで、理論上は世界の理すらも超越した奇跡を起こすことも可能である。




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妖怪星人編――⑤ 戦争の火種

いい加減、覚悟を決めろ――馬鹿息子。


 瞬間――家屋の中を充満する莫大なる『力』、その渦巻く速度が急激に増した。

 

「何だっ!?」

「ッ!!」

 

 士弦が瞠目し、鴨桜はタイムリミットかと目を細めて再びドスを構える――が、その『力』の流れは、暴走というよりも、まるで一カ所に向かって収束しているかのようだった。

 

 その渦の中心点は、童女と抱き合うようにして座り込んでいる――ひとりの少年。

 

「へ、平太――」

「これって……」

 

 まるで少年に吸い込まれるように、『力』が一人の少年に注ぎ込まれていく。

 先程までも細い糸を辿るように繋がっていた流れが、まるで太く強い道になったかのように急速に勢いを増す。

 

 そして、莫大なる『力』が流れ込んでいくにつれ、少年のボロボロの身体がみるみる回復していった。

 

 腫れ上がった瞼が、折れ曲がった腕が、傷が、痣が消えていく。

 そればかりが、痩せ細っていた筈の身体までもが、健康そのものの肌艶を獲得していった。

 

「……どうなってる?」

「……………」

 

 士弦の呟きに鴨桜は何の言葉も返さなかった。

 だが、状況から推測するに――。

 

(……おそらく、平太が自分の幸せを願ったことで、不安定だった幽霊の状態から座敷童という明確な『形』を手に入れた。それによって、あの莫大な『力』を制御することが出来るようになったってとこか)

 

 この家屋の中に渦巻いていたのは、そもそもがとある座敷童(詩希)が蒐集した運命の流れだ。

 そして平太は、幽霊となる際に、そして座敷童となる際に、この『力』そのものから多大な影響を受けている。相性がいいというどころの話ではない

 

 奇しくも、この莫大な『力』を納める『箱』として最適な形を、平太は手に入れたことになる。

 

(……そうなると、それはそれで面倒な話にもなってくるんだが)

 

 少なくとも今すぐに暴走の危険性はなくなった。

 それを喜ぶべきかと、鴨桜は一切の笑みを浮かべていない顔で思考しながら、一歩、平太達の方へと近づく。

 

「――よう。ずいぶんと男前になったじゃねぇか、平太」

 

 さっと詩希が平太を庇うように抱き締めるが、それを苦笑して剥がし、平太は真っ直ぐに鴨桜と向き直る。

 

「……えぇ。まだ、なんだかふわふわしていますが……さっきまでよりはすっきりしてます」

「そりゃ結構。並の妖怪なら身体が内側から吹き飛んじまうような『力』を取り込んで、そんな水浴びしたみてぇな感想が出てくるたぁ、頼もしい限りだ」

 

 一見すると、問題のないように思える。

 だが、平太の頬は熱に浮かされたかのように紅潮している。そして、ふわふわするという言葉。

 

(……()()()()()? 妖力に酔うってのは聞いたことがないが……注ぎ込まれる、外部から与えられる『力』に限ってはあり得ることなのか)

 

 つまり、最適な『箱』たり得る平太でさえも、完全に我が物としているわけではないということか――それとも、平太が取り込んだ『力』が、鴨桜が知っている妖力とは根本的に異なるものなのか。

 

 妖怪になりたての平太が、これから先に妖怪として成長していけば完全に制御下に置けるようになるものなのか――だが。

 

(――それはそれで、やっぱりデケェ火種になりそうだ)

 

 鴨桜がそんなことを考えていると、その後ろから「――その通りだ」と、士弦の声が聞こえる。

 詩希が、そして平太が露骨に身体を強張らせたのを感じて、鴨桜は露骨に溜息を()いた。

 

「――士弦。童が怖がってるだろ」

「さっきまでその童にドスを突きつけてた奴の言うことか。……それよりも鴨桜、いいのか?」

 

 何がだ――と問うよりも前に、両手でピンと張るように鋭い糸を持った士弦が、鴨桜の前に、そして平太の前に立つ。

 

「コイツの中には、さっきの莫大な『力』が詰まってるんだろ。あれはどう考えても危険だ。にも関わらず、肝心の『箱』がこんなガキだという。安心しろっていう方が無理な話だ」

 

 何が言いたいと、今度は鴨桜は口に出来た。

 士弦は淡々と返す。

 

「――殺すべきだ。コイツはこの先、戦争の火種になる」

 

 平太という『箱』を巡って、一触即発状態の『鬼』と『狐』の、妖怪と人間の戦争勃発の切られる火蓋になってもおかしくないと、士弦は言う。

 

 再び平太の前に出ようとする詩希、だがそれを再び平太が止める。

 鴨桜は一度士弦の方を向き、そして再び平太と向き合って問い掛けた。

 

「お前はどうしたい?」

 

 その言葉に、平太は再び微笑む。「やはりあなたは優しい人ですね」と呟いて、自分を殺そうとした男と、自分を殺そうとしている男に向かって言った。

 

「……確かに、その方が言うことは最もです。僕は妖怪のことはよく分からないけれど、こんな風に夢を現実に出来る力を、僕みたいなものが持っているということがどれだけ怖いことなのか……漠然とですが、理解しているつもりです」

 

 ですが――と、平太は。

 自分の胸に手を当てて、幽霊なのに、座敷童なのに、どくどくと心臓が動いているのを感じて――笑う。

 

 笑って、堂々と、力強く言う。

 

「僕は死にたくありません。それよりもずっと――幸せになりたい」

 

 その言葉に、背後の童女は嬉しそうに微笑み、桜と黒の斑髪は――人でも妖怪でもないものは、人でも妖怪でもあるものは。

 

 口元を、小さく綻ばせた。

 

「子供の戯言だな」

「ええ、子供の戯言です。でも、いいじゃないですか」

 

 子供なんですから、戯言くらい言わせてください――そう言って平太は、笑顔のまま、背後の詩希を庇いながら囁く。

 

「僕は逃げるけど、詩希はどうする?」

「決まってる。ついていく。置いていくって言ったって離れない」

 

 そう言って平太の服を掴む詩希。

 士弦は「逃がすと思ってるのか」と見せつけるように糸を伸ばして、そして鴨桜は。

 

「……はぁ。いいか、テメェら――」

 

 と、斑髪を掻き毟りながら何かを言い掛けた所で――瞬間、背後を振り返りながらドスを投げつける。

 

 だが、投げつけた相手は平太でも詩希でも、ましてや士弦でもある筈もなく。

 

 家屋の玄関口に向かって投げつけられたそれは、容易く扇によって跳ね返された。

 

「……気付かれましたか。若くとも、あの妖怪大将を自称する男の息子というだけはありますね」

 

 鴨桜に続いて、士弦も、平太も詩希もその方向に目を向ける。

 

 そこに居たのは、真っ白な長い髪を尾のように一つに纏めた美しい女性だった。

 水色の羽織に、動き易さを重視したかのような、この時代の女性としては珍しい膝丈ほどの着物。

 

 そして、何よりの特徴は――美しい白髪から飛び出る、頭部に付いた二つの耳だった。

 

 士弦は瞬時に鴨桜を守るように前に出る。

 ドスを弾かれ愛用の得物を失った鴨桜は、それでも動じることなく懐に片手を突っ込みながら冷たい眼差しで問う。

 

「――『狐』か。狙いはこの小僧かよ?」

「勘違いしないでいただきたいです。確かに目的はそこにいる少年で、私は狐の妖怪の血を引いていますが――私は『狐の姫君』の手の者ではありません」

 

 そう言って、白い狐の女性は、殺気を向けてくる二人の青年に向かって、己が手に持つ扇を広げて見せつける。

 

 扇に描かれていたのは――五芒星の紋様だった。

 

「私は、陰陽頭(おんみょうのかしら)――安倍晴明(あべのせいめい)様の遣いです」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 安倍晴明――その言葉に、鴨桜や士弦は勿論、妖怪の世界に詳しくない平太もが瞠目した。

 

「……安倍晴明?」

「……大人達が話していたのを聞いたことがある。確か、平安京で一番強い陰陽師だって」

 

 後ろで(わらべ)達が話している前で、士弦と鴨桜は神妙に囁き合う。

 

「これまたとんでもない名前が出て来たな」

「……陰陽師が、妖怪を式神に?」

「式神といっても人形だけじゃない。練度の高い陰陽師が、倒した妖怪を式神にすると聞いたことがある。自分を倒した人間の人形にされるわけだ。さぞかし楽しい余生だろうさ」

 

 そう言って狐の女を嘲るように言う鴨桜に、女は「流石はお詳しいですね」と涼やかに流し、その青い瞳を細めながら返す。

 

「我が主から聞かされたことを――お父様からお聞きになったのですか?」

「――――ッ」

 

 鴨桜は軽薄な笑みを消し、無表情で懐に入れていない拳を握る。

 士弦は「――鴨桜」と言って諫めるが、鴨桜は険しい顔のまま「……分かっている」と返す。

 

(……親父のことを知っているということは、コイツは間違いなく陰陽頭の式神だ。『十二神将(じゅうにしんしょう)』かどうかは分からんが……こうして戦闘の可能性のある場所にお遣いに出される時点で、かなり強力な妖怪上がりには違いない)

 

 それでも――自分と士弦の二人がかりなら、と鴨桜は思うが、この狐の女は、あの安倍晴明の遣いだ。

 万が一、ここでこの女を退治(ころ)した場合、『百鬼夜行』が平安最強の陰陽師に目をつけられかねない。

 

「……親父め。人間の陰陽師なんぞと関わりを持つからこういうことになるんだ」

「総大将を恨むのは筋違いだ。この状況にあの方は何も関係ないだろう」

 

 鴨桜と士弦の言葉に、狐の女は「その通りです。お父上は関係ありません。先程も言ったとおり、我が主の目的はあなた方ではなく――そこの少年です」と、青い瞳を彼等の後ろの童女と少年に向けた。

 

「妖怪大将の息子殿の側近であらせられる、たしか士弦殿と仰いましたか。あなたは先程、その少年を殺すことで憂いをなくそうとしていたご様子ですが、それはやめておいた方がよろしいでしょう」

「……それは、この小僧を陰陽師が回収したいからか?」

「可能ならば是非もありませんが、それが『鬼』や『狐』に露見すると、あなた方が懸念するように戦争が起こります。それでなくとも秒読みといった情勢ですが、わざわざ新たな火種を持ち込むこともないでしょう」

 

 それに、彼の中に貯蔵されているのは、そんな便利な『力』ではありませんからね――という、狐の女の呟きに、鴨桜は目を細めたが、そんな相棒に気付かず士弦は尚も言い募る。

 

「火種……そう、火種だ。分かってるじゃないか。コイツは戦争の火種になる。ならばさっさと消しちまいたい、そう思うのは間違っているか?」

「間違ってはいません。ですが、その消火方法が問題なのです」

 

 狐の女は、ゆっくりと彼らに歩み寄りながら、その青い瞳から感じる冷たさそのままの声色で語る。

 

「彼は、正しく『力』を溜め込んだ蔵が如き状態です。ですが、ただ殺すだけでは、溜め込まれている『力』は彼という『箱』を失うことでそのまま爆発的に溢れ出し、結果として甚大な『霊災』を発生させかねません」

「……ならば――どうすると言うんだ、陰陽頭の遣い」

 

 鴨桜達に並び、そしてそのまま追い越して、平太達の前に立った狐の女。

 あっさりと自分達に背中を見せた女に、士弦が糸をちらつかせるが、鴨桜はそれを手で制しながら問うた。

 

 狐の女は「決まっています。陰陽師らしく、術を使うのです」と、一枚の札を取り出しながら言う。

 

「平太殿。これよりあなたの中に溜め込まれた『力』を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 淡々と、事務的に告げられた解決案に、誰よりも真っ先に反応したのは、張本人の平太ではなく詩希だった。

 

「ざ、座敷童の能力と共にって、どういうこと!?」

「この家屋内に充満していた『力』は、あなたがこの家に手繰り寄せた、膨大なる運命の流れでしたよね、座敷童・シキ。それを平太殿は、不安定な幽霊の状態から、座敷童という明確なる形の『箱』を得ることで己の中に取り込みました。故に、我が主は、こういった解決策を用意したのです」

 

 狐の女は――平安最強の陰陽師の遣いは、その札を見せつけながら淡々と言う。

 

「この札によって、平太殿、あなたが取り込んだ莫大なる『力』を、あなたが獲得した座敷童という形の『箱』ごと、共に封じ込めることが出来るのです」

 

 その言葉に絶句する詩希を尻目に、鴨桜は瞳を細めた。

 

(……()()()()()()()。昨夜の時点で、警邏の式神からこの家の情報を得て、その札を準備したのだとしたら……安倍晴明は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――見透かしていたことになる)

 

 現代の陰陽頭であり――歴代最強の陰陽師・安倍晴明。

 妖怪の天敵であり、『大江山の鬼退治』や『菅原道真公の大禍』といった、数多くの伝説を誇る英雄の一人。

 

 かの大陰陽師様は、一体、どこからどこまで見透かしているのか――と、鴨桜が、狐の女の向こう側にいる『人間』に対して思考を巡らせていると。

 

「そ、そんなことをしたら、平太は!? 平太はどうなるんですか!?」

「ご安心を。平太殿自身が消失するわけではありません。あくまでも封印です。ただ――」

 

 狐の女は、童女から少年へと視線を動かす。

 狼狽える童女とは違い、張本人の少年は――鋭く、冷静に、唐突に現れた陰陽頭の式神を観察していた。

 

「平太殿。この封印を施した場合、あなたは座敷童としての形を失います。あなたは再び、幽霊へと戻ることになる」

「それは、僕はまた、不安定な状態になるということですか? ――つまりは、悪霊になる可能性が、再び発生すると」

 

 詩希が再び息を吞む――が、肝心の平太は、己の未来のことにも関わらず、その目はあくまで狐の女の観察を続けていた。

 

 狐の女は(…………なるほど。()()が気に掛けるだけのことはありますね)と、自身もまた平太を深く観察しながら「いえ、ご心配には及びません」と返す。

 

「あなたは既に一度、座敷童としての形を得ている。この札は、あなたの中にある座敷童としての材料(パーツ)の効力を封じるだけなので、あなたの魂は座敷童となることが確定している状態のまま幽霊へと戻るのです。進むべき路が確定している以上、あなたは不安定な状態にはなりません。いうならば――」

 

 狐の女は言う。少年は、それをただ、真っ直ぐに受け止める。

 

「――少年。あなたは、おそらくはこの国でたったひとりの、()()()()()()()()()()となるのです」

 

 平太は「…………ただの、幽霊」と呟く。それは己の未来を受け止めるというよりは、ただの単語としての意味を理解しようとしているだけに見えた。

 そんな少年を、狐の女が、そして斑髪の青年が静かに見詰める。

 

「……無論、座敷童としての能力を封じるので、何の力もない只の幽霊ですが、少なくとも悪霊などに化けることはないことを、我が主の名において確約致します」

「いえ、他の誰かに迷惑を掛けることがないなら十分です。ありがとうございます。正直、逃げるといっても宛てはありませんでしたから。すごく助かります」

 

 平太はぺこりと頭を下げた。

 そして、「それで、僕はこの札を使ってどうされればいいのでしょう? おでこにぺたりと貼られるんですか?」と狐の女に笑顔で詰め寄った。詩希が「ちょ、そんな簡単に――」と服を引っ張って制する。

 

 狐の女は、そんな畏れを知らない少年に――その実、笑顔の裏でどこまでもこちらを観察している少年に向かって「……ええ。使用方法は簡単です」と言いながら札を差し出した。

 

「この札を吞み込んでください。そうすれば――」

「分かりました。はい、ごくん、と」

 

 最後まで言い切らせず、平太はその札を呑み込んだ。

 途端、平太は己の中で何かが強く脈打つのを感じる。

 

 どくん、と。

 それはまるで怪物の鼓動のようで。

 

(……なるほど。幽霊になった時と、座敷童になった時はそれどころじゃなかったから感じる余裕はなかったけど――これが、自分という存在が()えられる感覚なのか……)

 

 平太は、その口端を歪ませる。

 そして――()()()()()()()()()()()()()

 

「――太ッ! 平太っ!」

「……し……き……? あれ? 僕、倒れてた?」

 

 己にしがみつくようにして身体を揺さぶっていた涙目の童女に、平太は己が無意識に掻いていたであろう大量の脂汗を拭いながら尋ねた。

 

 その問いに答えたのは「ほんの一瞬だがな」といつの間にか平太の傍に歩み寄っていた鴨桜だった。

 

「札を呑み込んだ瞬間に倒れ込んだから、普通に毒でも吞ませたのかと思ったぜ」

「この状況でそんなことはしませんよ。あなたも感じるでしょう――いえ、感じないでしょう。あれだけ荒れ狂い、世界を歪ませる存在感を放っていた、莫大なる『力』を」

 

 鴨桜は「ああ、見事なもんだ」と呟きながらも、狐の女と目を合わせる。彼女もそんな鴨桜に細めた目を合わせた。

 

 二人とも、確実に見たのだ。

 己の存在が書き換えられる――描き化えられる感覚。それを味わっていたであろう瞬間、間違いなく浮かべていた――()()()()()()()()を。

 

「……大丈夫、なんともないよ、詩希。……ありがとうございます。これで、なれたんですよね、僕は。……誰にも迷惑を掛けない、無力な只の幽霊に」

「……ええ、そうですね」

 

 無力な、只の幽霊。

 そう自称する、事実そうであろう、自分が持ち込んだ、この世界で誰よりも信頼する己が主によって作成された霊験あらたかなお札によって、そう堕とされた無力な少年に対し―――狐の女は。そして、鴨桜は。

 

「…………」

 

 戦争の火種になる筈だった少年。終わりを齎す筈だった少年。

 それを回避した筈なのに、それでも――どうしてだろう。

 

 自分達は、()()()()()()()()()()()()()()――そこまで考えて、事の成り行きを見守っていた士弦の言葉に、両者は思考を戻した。

 

「――それで。この後はどうする気だ、この小僧は? 野山に放逐でもするのか?」

「……いえ。『力』は封じ込めたとはいえ、昨夜、この家に目をつけたのは無論、我々陰陽師だけではありません。『狐』も『鬼』も、少年の存在は把握しているでしょう。我が主の封印を奴等が解けるとは思いませんが――」

 

 それでも、使い道がないわけではない。

 世界を改変する『箱』としては『鍵』が掛けられた為に使えないかもしれないが、少年という『箱』ごと破壊しての爆弾としてでの使用方法ならば、十分に切札になり得るポテンシャルを、今の平太は、変わらずに秘めている。

 何よりも、今、この平安京は戦争一歩手前の状態なのだ。

 

 目の前に核爆弾があったとして。例え自陣にそれを有効活用する術がないのだとしても、むざむざと敵陣に持って行かれることを由とするだろうか。

 それに封印を施したのは陰陽師陣営だ。すなわち、陰陽師陣営に持ち帰られたら、彼等はその莫大な『力』を有効利用出来る術を持っていると推測できる――他の陣営からしたら、それだけは避けなければならない最悪のシナリオだ。

 

「だからこそ、陰陽師(われわれ)が彼を保護するわけにはいきません。奴等を引き付ける餌にしかなりませんからね。故に――少年は、あなた方『百鬼夜行』に引き取って頂きたい」

 

 狐の女は鴨桜に言った。

 それに対し、反射的に苦言を呈したのは士弦だ。

 

「戦争の各陣営が血眼になって手に入れようとしている火種を、ウチが抱えろっていうのか?」

「これは、あなた達の総大将――あなたのお父上のご意思ですよ」

 

 前半の言葉を士弦を見据えて、後半の言葉を鴨桜を見据えて、狐の女は言う。

 

「そもそも、この少年に関係なく、近い内に戦争は間違いなく勃発するでしょう。そしてそれは、全てを巻き込んだ大きな戦争になる。怪異京も決して安全地帯ではありません。あなた方のような第三者陣営も、傍観者ではいられない。……いいえ、いるつもりがないのでしょう? 妖怪大将を継ぐとされる、二つの色の血を流す者」

「…………」

 

 怪異京――それは、鴨桜ら『百鬼夜行』のような、この平安京に穏やかに暮らすもの達が住まう神秘郷。

 人間達にも、『狐』や『鬼』といった外様妖怪達も知り得ない、裏の京――だった、筈。

 

 しかし、その存在を、名称も含めて、この陰陽師の遣いの式神はあっさりと口にした。

 

(……親父がバラした? いや、そんなことを親父がするわけがない。……だとすれば、怪異京の存在は、陰陽師――少なくとも安倍晴明からすれば秘密でも神秘でも何でもないということ。……そして、ここでそれを仄めかすということは……それは、『狐』や『鬼』にとってもそうだということか)

 

 それは、狐の女からの、お前達も決して安全圏にいるわけではないというメッセージ――または、脅し。

 鴨桜の、そして士弦の目線が鋭くなることも構わず、狐の女は尚も続ける。

 

「こう考えてはいかがでしょう。少年は火種ではなく、場合によっては『狐』や『鬼』、そして使い方次第では陰陽師(われわれ)に対しても有効的な切札になり得ると。この少年をどう使うのか、全てはあなたに掛かっています。百鬼夜行を継ぐ資格を有する可能性よ」

「……それも、親父からの言葉か」

「ええ。()()()()()()()()と。そして、もう一つ、言付けを承っています」

 

 狐の女は真っ直ぐに、若き半妖に向かって言った。

 

「――『いい加減、覚悟を決めろ、馬鹿息子』……と」

 

 鴨桜は、父からの、自分達を率いる妖怪大将の言葉に。

 

 奥歯を噛み締め――不敵に、笑う。

 

「……上等だ」

 

 そして少年の元へと歩み寄る。

 真っ直ぐ見下ろし、その笑みのままに、頭を鷲掴みにして問う。

 

「平太――俺の下に来るか?」

 

 只の幽霊の少年は、斑髪の青年の目を、ぶれずに見返し――ふてぶてしく笑ってみせた。

 

「……ええ。それが一番、()()()()()()です」

 

 よろしくお願いします。とぺこりと頭を下げる。

 鴨桜はそのまま隣の詩希を見るが、詩希はきっと睨み付けながら平太にしがみついていた。離れるつもりはないと示すように。

 

「だとよ」

「……はぁ。相変わらず厄介な展開に進みたがる奴だ。だがまぁ、お前が決めたことだ、もうとやかく言うつもりはない」

 

 そう言って溜息を吐いた士弦は、そのまま表情を鋭くし「……なら、次の問題は、どうやって家に帰るかだ」と両手で持っていた糸をピンと鋭く張る。

 

「おや、流石に気付いていましたか」

「うちの側近をなめるなよ。殺気を隠しちゃあいるが――お前さんの言葉にもあったしな――陰陽頭がお前を寄越したように、『狐』も『鬼』もお遣いを寄越したってことだろ」

 

 囲まれてる――と、鴨桜は呟く。

 この家の周りに、少なくとも二体の妖怪。

 

 いつまで経ってもいつものように両陣営の下っ端妖怪が暴れ出さないと思っていれば、それなりのクラスの妖怪が派遣されてきたようだと悟る。

 

 存在を隠しているのか強い妖気は感じない――が、もし、『狐の姫君』と『鬼の頭領』が安倍晴明と同じ位に、この家の危険性を昨夜の時点で感じ取れていたのならば、狐の女と同等以上の妖怪を寄越しているだろう。

 

 ならば、それなりに厄介な戦闘になると鴨桜と士弦が戦意を漲らせた所で――。

 

「――ご安心を。我が主は全てを見透かしています」

 

 狐の女が呟いた時――()()()()()()()()

 

 そう称する他ない光景が広がっていた。

 先程まで何もなかった筈の虚空に、真っ黒な穴が開いていたのだ。

 

「――――な」

 

 これには鴨桜も士弦も、平太も詩希も絶句することしか出来なかった。

 空間に、虚空に、世界に穴が開いている。

 その場所だけ()()かれたかのような、違和感しか覚えない暗闇が、開いた、というよりは、まるでそこにあった、そうであったかのように突然に、その場所に唐突に出現したのだ。

 

「ど、どういうことだ、これは!?」

「言ったでしょう。我が主は全てを見透かしていると。こうなることを我が主は予め見透かしていました。故に、あなた方の帰宅手段も、私はあの方から預かっています」

 

 そう語る狐の手には、平太の座敷童としての能力を封じた札とはまた別の、異なる呪文のようなものが書かれた札を手に持っていた。

 

(……まさか、そんな札一枚で、空間に穴を開けたってのか!? それも自らの手で行うことすらせず、遣いの式神が使えるような札一枚に……こんな世界をねじ曲げるような術式を!?)

 

 鴨桜は改めて絶句する。

 日ノ本最強の陰陽師――この国において、妖怪変化に対する最強の防衛存在。

 

 安倍晴明――その人間の、底知れぬ力量に、確かに自分は今、ごくりと生唾を呑まされた。

 

「この門は、怪異京へと繋がっています。ここを潜ればあなた方は外で待ち構える『狐』や『鬼』の手の者と遭遇することなく、家に帰ることが出来るというわけです」

 

 その言葉に安堵だけを覚えることが出来る程、鴨桜は間抜けになれなかった。

 つまりそれは、安倍晴明はいつでもどこでもお手軽に、鴨桜達の家に――怪異京に攻め込むことが出来るということだ。

 

(――覚悟を、決めろ……か)

 

 鴨桜は士弦と目を合わせる。

 

「…………」

 

 近づいている。そして、始まっている。

 

 いや、既に終わろうとしているのだ。

 

 昨夜――そして、今夜を機に、それは急激に加速する。

 

 清流のような黒と、目も眩むような桜をなびかせ――青年は、精一杯に強がりながら、その真っ白な女に向かって、不敵に笑う。

 

「――また会おう。そう、お前の主にも伝えてくれ」

「ええ、また会いましょう。そう伝えてくれと、予め我が主から言付かっています」

 

 鴨桜は、その言葉を聞くと、真っ先に己がその漆黒の闇の中へと足を踏み入れた。

 続いて平太が、恐る恐ると詩希が続き――最後に士弦が、狐の女と、そしてその奥を睨み付けるように一瞥してから続いた。

 

 そして、四者全員が通った直後、空間に開いた黒き門は、何もなかったかのように消失し――世界の理を歪ませる特異点となりかけた民家には、狐の女と、()()()()だけが残った。

 

「……あの二人は、俺の存在にも気付いてたみたいだな」

「あくまでも、何かいる、程度みたいでしたけどね。あなたの気配遮断に勘付けるだけでも将来有望というものです」

 

 そして、徐々に夢が醒めていく。

 一人の少年が、一人の童女の為に見た夢――原料の『力』と、術者となった少年が消えたことで、元の見るも無残な、倒壊した民家へと姿を変えていく。

 

「あれが、『百鬼夜行』の跡継ぎか」

「ええ。将来は有望そうでしたが、父親に比べればまだ未熟……しかし、彼等には酷な話ですが、無理矢理にでも成長してもらう他ありません。それこそが、我が主が見透かした、我が主が求める未来へと繋がる唯一の可能性なのですから」

 

 そして、それは、私が求める未来でもある――と、狐の女は己が胸の中で呟きながら、自身の周囲に青白い狐火を浮かべる。

 

 隻腕の男は仄暗い妖気を放ちながらその巨大な掌をぼきぼきと鳴らして、彼女と共に屋外へと出る。

 

 既に空には大きな月が浮かんでいた。

 そして、その月光を背に、『狐』と『鬼』の妖怪達は、高みから彼等を見下ろしている。

 

「俺が『鬼』をやる。お前が『狐』をやれ。お誂え向きだろ」

「あら? 代わってあげてもいいですよ? 古巣と刃を交わすのは気不味いでしょう?」

 

 抜かせ、と吐き捨てながら、隻腕の男は駆け出した。

 轟音が響く中で、狐の女は自身が担当する敵方と向き合いながら、誰にとも無くぽつりと呟く。

 

「……期待していますよ。ぬらりひょんの息子」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、この日、平安京の片隅にひっそりと存在した一つの貧民街が消失した。

 

 昨夜、ここで失われ、今夜、ここで『箱』となった小さな少年の命が、この国に千年にも及ぶ因縁を齎す大きな戦争の小さな始まりとなった。

 

 そして、この日、この夜――ここではない、また別の場所においても、終わりは始まっていた。

 

 

 場所は――宮中・土御門邸。

 

 この時代の覇者たる『人間』が住まうこの場所で、第二の『前夜祭(前哨戦)』が幕を開ける。

 

 

 

 

 

 第一章――【貧民街の座敷童】――完

 




用語解説コーナー

・神秘郷

 この世界の各地に存在する異界。
 規模、性質は神秘郷によって様々であり、条件を満たさなければ入り込むことが出来ないものもあれば、いつの間にか迷い込んでいるものも存在する。

 多くが、それぞれの星人種族のテリトリーとなっており、現代では星人郷ともいわれている。一つの神秘郷に複数種族が共存している例は稀れである。

 怪異京は平安京の裏という形で存在し、ぬらりひょんが平安京へと潜り込んだ際に発見し、己らの住処(テリトリー)とした。常に夜の世界であり、満月が浮かび、満開の桜が咲き誇る。
 百鬼夜行だけでなく、争いを好まない野良妖怪たちもぬらりひょんに招かれることで定住しており、みな穏やかに暮らしている。
 


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妖怪星人編――⑥ 月へ手を伸ばす男

遥かなる月を求めて。


 

 季は春。時刻は、曙。

 

 徐々に白くなっていく山際が、ゆっくりと明るくなっていく。

 

 紫がかっている雲が細くたなびく――穏やかで、美しい景色を、女は眺めていた。

 

「……………………」

 

 

 

 季は夏。時刻は、夜。

 

 満月の夜も、そして新月の夜も。まばらに飛び交う蛍を、そして突如として降りしきる雨を浴びながら――ただひたすらに、ここではないどこかを思いながら、女は佇んでいた。

 

「……………………」

 

 

 

 季は秋。時刻は、夕暮。

 

 夕陽が山端に近くなっている空を、烏が仲睦まじく身を寄せ合って飛び急ぐ。連れなって飛んでいる雁、風の音、虫の声――その全てから、女は、たった一人に対して思いを馳せる。

 

「………………………」

 

 

 

 季は冬。時刻は――早朝。

 

 昨夜は雪も降らず、地面には霜も張っていなかった。

 けれど山深いこの地の朝は、それでも身が凍るように寒い。

 

 今朝も急いで火を起こし、炭を持って走り回っていた少女が、庭に出てぼおと立ち尽くしていた主人の女に、神妙な顔つきでこう告げた。

 

「――諾子(なぎこ)様。宮中の者より、知らせが届きました」

 

 少女の言葉に、主人の女は振り向くことすらしなかった。

 その様はまるで、何も聞きたくないという意思表示のように思えたが――しかし、今に限らず、この地に来てから、主人が反応らしい反応を見せたことは、一度たりともない。

 

 ぐっと何かを堪えるように下唇を噛んだ少女は、それでも続ける。

 ここでないどこかを、ここにいない誰かを思うように、ただ呆然と空を見上げる主人に向かって、きっと――決定的な引き金となる知らせを。

 

「――三条天皇が崩御され、後一条天皇様が、新たな帝として即位されました」

 

 それに伴い――と、少女は口ごもり、続けた。

 

 きっと、決定的に――終わりを齎すことになる、その名を。

 

「藤原道長様が――摂政へと就任なさいました」

 

 ゆっくりと顔を上げた少女は――思わず息を吞んだ。

 

 自らが仕える主人たる女が、いつの間にか真っ直ぐにこちらを見据えていたからだ。

 

 あれほど眩い笑顔を持って宮中を席捲していた女傑が、まるで極寒の雪山のような無表情で。

 

 少女の背後では、彼女が朝に起こした火種が、未だに白い灰とならず、静かに――だが、確かに、燻っていた。

 

 女は、本当に久しく、誰にも聞かせていなかった美声を発する。

 

 

「――道摩法師様へ、文を送ります。紙と墨の用意を」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 藤原道長(ふじわらのみちなが)は、天高く輝く月に向けて伸ばした手を、強くグッと握り締めた。

 

 届く――遂に、届く。

 あの美しい月を、ようやく――この手中に、収めることが出来るのだ。

 

 

 道長は藤原北家(ほっけ)当主であり人臣が辿り着ける最高位・摂政へと上り詰めた男である藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の五男として生を受けた。

 

 そう、五男である。

 決して高位へは上がれない星の下へと産み落とされた筈の男――だが、運命は、道長の前に立つ障害を次々と排除した。

 

 まるで天が、藤原道長という男を、歴史の表舞台へと引きずり出すように。

 

(否――否だ。私がこうして上り詰めたのは、こうして大いなる月へと手を伸ばし続けたのは、決して天の導きなどではない。私が、この手で、全てを手に入れる為に戦い続けた結果なのだ)

 

 そうだ――あの日、道長は誓った。

 全てを手に入れてみせると。決して届く筈のなかった場所からのスタートだったとしても、全ての障害を排除し、どんな手を使ってでも――必ずや上り詰め、辿り着いてみせると。

 

(私はかぐや姫をみすみす月へと返した帝とは違う。どんな手を使ってでも、私は必ず――手に入れてみせると誓ったのだ)

 

 幼い頃に手に取った、一冊の書物。この国における最古の物語。

 物語に魅入られた男は、取り憑かれたかのように――憧れた。

 

 そして誓った――()()()()()()()()()()と。

 

 この世の全てを手に入れ、誰もが手放しの賞賛する、完全無欠の主人公――それを超える、男になると。あの日、何者でも無い少年は誓ったのだ。

 

 そして、何者でも無かった少年は。

 あらゆるものを手に入れ、あらゆることに手を染めて――遂に、その宿願を叶えようとしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 倫子(りんし)は、夫が唐突に姿を消した時、どこに居るかすぐに思い至るくらいには、長い年月を共に過ごしてきた。

 

 特に今日のような、空気が澄んで、雲一つ無い程に晴れ渡った日の夜は――月がよく見える夜は、必ずと言っていいほど、夫はこの縁側に座り込んでいるのだ。

 

「今日も月見ですか。本当にお好きですね」

 

 既に齢は五十を過ぎたにも関わらず、年齢よりも幼く見えるその容姿は、二男四女の母となった今も健在である。

 

 月を眺めていた夫は、己の背中に優しく掛けられた声に振り返ることはせず、妻が隣に腰掛けると、ゆっくりと呟くように語り出した。

 

「……覚えているか? 私がそなたと婚姻を結んだ頃のことを」

「…………ええ。もう三十年ほども昔のことになりますが、昨日のことのようにはっきりと思い出せますわ」

 

 倫子は二歳年下の夫の言葉に、ゆっくりと瞼を下ろしながら返す。

 

 今でこそ二男四女と多くの子宝に恵まれた倫子ではあるが、道長という夫を得ることが出来たのは、倫子が二十四の頃。嫁ぐのであれば早ければ十二、婿をもらうとしても遅くとも十八までには婚姻を結ぶのがこの平安時代の常識である中で、二十四まで一度も結婚していなかった倫子は、とても特異な例だった。

 

 これは倫子の容姿が特別醜かったからでも、家柄に問題があったわけではない。

 むしろ、倫子は年齢よりも幼く見える整った容姿をしていたし、倫子の父は、従一位・左大臣であった源雅信(みなもとのまさのぶ)である。この平安京においてもトップクラスに優れた家柄だ。

 

 だからこそ、といえる。

 年をとってから生まれた念願の娘である倫子を、雅信は多いに嫁に出し渋った。なまじ自分が左大臣という高位にいたからこそ、そんじょそこらの家柄の男と婚姻を結ばせるわけにはいかないと中々許可を出さなかったのである。

 

 しかし、ならば天皇の后にと時機を伺っていれば、残念ながら冷泉天皇(れいぜいてんのう)にも円融天皇(えんゆうてんのう)にも花山天皇(かざんてんのう)にも縁に恵まれず、次代の天皇であった一条天皇(いちじょうてんのう)はこの時未だ八歳。既に二十四だった倫子にとっては現実的な相手ではなかった。

 

 よって、倫子の母・穆子(ぼくし)は、道長との結婚を半ば強引に後押しした。

 当時、摂政となる為に悪辣な手段を用いて花山天皇を排し、己が娘の子である一条天皇を力尽くで即位させるなど、強引な手段で権力を広げていた藤原兼家――その息子である道長と愛娘の婚姻を雅信は当然よく思っていなかった。

 

 確かに家柄としては申し分ない――が、肝心の道長自身が五男であり、何より二十二にもなるにも関わらず(男の初婚年齢としてもこの時代としては遅い方だった)、彼の有能さを語る評判がまるで聞こえてこなかったのだ。

 

 つまり、この当時において、道長の出世の見込みは皆無に等しかった。

 だが、穆子はそれでも譲らず、倫子と道長の婚姻を最終的には雅信に納得させたのである。

 

「母の目は、正しかった――というわけですか」

 

 倫子は隣に座る道長の手に、そっと己の手を重ねる。

 妻の言葉に、道長はふっと笑って呟いた。

 

「義父上の目も、また正しかったであろう。なにせ、私が辿った道のりは、我が父・兼家の辿ったそれよりも、更に険しく――また穢れた道であったであろうからな」

 

 花山天皇を口八丁で誑かし、出家させて排斥した藤原兼家。

 その父を超える悪辣さを存分に発揮して、道長は今、こうして月を眺めている。

 

「……それでも、後悔はなさっておられないのでしょう?」

「無論だ。私は地獄に落ちるだろう。だが、天国よりも美しいものを見る為に、私はどんな手を使ってでも上り詰めると誓った。全てをこの手に収めると誓ったのだ」

 

 道長は、倫子に握られていない右手を再び月へと伸ばし、ぐっと掴むように握り締める。

 そんな夫の肩に、ゆっくりと頭を寄せながら、倫子は微笑みながら呟いた。

 

「……ならば、わたくしも後悔など致しません。全てを承知の上で、己が全てをあなた様に捧げると、わたくしもあの月へと誓ったのですから」

 

 あの初夜の日に、道長が全てを倫子へと打ち明けたあの日に、倫子は天高く輝く満月に誓った。

 届くことの無い月へと手を伸ばすこの愚か者と共に、いつか共に地獄へと落ちることを。

 

「……もうすぐ、ですね」

「ああ。私は後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の摂政となる。そして、威子(いし)()の御方の中宮とする」

 

 一家立三后(いっかりつさんごう)

 太皇太后(たいこうたいごう)(先々代天皇の妻)、皇太后(こうたいごう)(先代天皇の妻)、皇后(こうごう)(現天皇の妻)を、全て己が娘で、己が一族で制すること。

 

 正に、天下を我が物としたに等しい偉業。

 それに藤原道長は、今、遂に、手が届く所まで来た。

 

「…………」

 

 倫子は月へと手を伸ばす夫の横顔を見詰める。

 皇后となれなかった自分が、まさか三代に渡る皇后の母となるとは。

 

 初めて道長と面を合わせたあの日に、こんな未来に至ることを、果たして誰が想像出来ていただろう。

 

(……いえ、少なくともこの方は、こうなることが分かっていた。……いえ、いえ、こうなることを夢見て、大真面目に目指して、あの日、わたくしを妻にしようとしていた)

 

 初対面の折、恐ろしく整った容姿の青年だと、倫子は思った。これまで宮中の女たちの噂に全く上ってこなかったのが信じられないほどに。

 だが、確かに、どこか存在感の薄い、掴み所のない男のように思えた。目は半分瞑っているようで、覇気もなく――今、思えば、あれは意図的に抑えていたのだろう。

 

 しかるべき時に、しかるべき方法で、己が存在を明るみに出す為に。

 己が才気を――倫子に出会うまで、誰の目にも止まらぬように、隠し通していたのだ。

 

 道長は、ふと縁側から降り立ち、月光をその背に浴びながら、己が妻を振り返り――限られた人間にしか見せない、溢れんばかりの野心燃ゆる笑みを浮かべて、言った。

 

「遥かなる月を求めて。その為に、私はあらゆるものを燃やし尽くす。この黒き炎に抱かれて、私は地獄へと落ちるのだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 後一条天皇即位の数日後、外祖父(がいそふ)である藤原道長の摂政への就任が正式に決定した。

 

 己が書き記す日記のタイトルから「御堂関白(みどうかんぱく)」の異名を後の世に残す道長ではあるが、関白への就任経験はなく、これまで二人の娘を皇后としてきたが、摂政を務めるのもこれが初めてのことだった。

 

 それもまた道長の策の一つでもあるのだが――此度はどういうことか、大人しく慣習通りに摂政(せっしょう)の座につくという。

 

 この突然の気まぐれのような決定に、しかし道長へ異議を唱えるものは、少なくとも表立って出来るものは既に宮中のどこにもおらず、まさに支配の全盛を迎えつつあるといえた。

 

 事ある毎にこれまで道長に噛みついていた藤原実資(ふじわらのさねすけ)という男も、先帝・三条天皇(さんじょうてんのう)の崩御による一件により完全に発言力を失った。

 

 今、この朝廷の会議場は、文字通り藤原道長の独壇場と言えた。

 

 

 さて、そんな天下人の如く権力を振り撒く道長ではあったが、しかし常に部下を引き連れ胸を張りながら宮中を闊歩しているのかといえばそんなことはなく、むしろ、その苛烈な手腕で出世街道を邁進してきた彼は、宮中の他の人間から分かり易く恐れられていた。

 

 彼が持つ権力に媚び諂う者達も大勢いるが、道長は露骨にそのような態度で近付く者は嫌う。かといって自分に逆らう者はより容赦なく潰すのだが。

 

 結果、新たなる摂政はこうして一人ぽつんと内裏(だいり)をうろつく羽目になっている。すぐに自宅である土御門(つちみかど)邸に戻っても構わないのだが、この日は孤独に黄昏る道長に声を掛ける者がいた。

 

「よう。どうした? とても権力の全盛を極めんとする男とは思えぬ顔をしているが」

「……公任」

「ふふ、怖い顔をするな。俺としても、他の者が居る前ではこんな態度は取ったりせぬよ。不敬であるからなぁ、摂政殿よ」

 

 固く険しい顔をする道長とは対照的に、爽やかに、けれど決して下品ではない微笑みを浮かべる男。

 

 道長と同い年である彼は、やはり既に齢五十に達しようとしている筈だが、道長同様にその整った容姿に翳りが見えることはない。

 常に険しく堅苦しい表情を崩さない道長と比べれば、表情が柔らかい分、若々しくすら見える。

 

 彼の名は藤原公任(ふじわらのきんとう)といった。

 道長とは系譜上は再従兄弟にあたる。つまり祖父同士が兄弟なのである。

 

 二人が社会に出た時、公任の父・頼忠(よりただ)は関白だった。ちなみに祖父も関白経験者だ。その上、姉・遵子(じゅんし)は時の円融天皇の中宮(ちゅうぐう)――つまりは皇后であった。

 正しく最高の血筋。当然、瞬く間に道長を置いて出世街道を邁進していった。

 しかも公任は、この時代の貴族が重視した、風雅な芸術――漢詩、和歌、管楽、その全てに長ずるアーティストでもあったのである。

 

 藤原公任を語る上で、今でも一種の伝説となっているエピソード、そして公任自身を表す異名として「三船(さんせん)(ほまれ)」と呼ばれるものがある。

 

 それは数十年前のとある日、公任にとっては姉の夫にあたる円融天皇――当時は既に息子である(といっても遵子ではなく道長の姉である詮子(せんし)との子であるが)一条天皇が即位していたので、円融法皇であったのだが――の発案で行われた風流な行事の中でのこと。

 

 美しく艤装(ぎそう)された三船。

 それぞれに漢詩が得意なもの、和歌に自負があるもの、管楽の腕に覚えがあるものを乗せて、嵐山(あらしやま)の紅葉を背景に大井川を渡るという壮大なものだ。

 

 譲位したとはいえ円融法皇発案の行事。

 不格好なものをみせたとなれば恥を掻くだけでは済まされない。だが逆に、ここで見事なものを披露すれば、それはこの時代、直接的に己が出世へと繋がった。

 

 そこで藤原公任は、和歌の船へと乗り込みそれは見事な歌を披露した。

 だが他の貴族達は彼が例え他のどの船に乗っていたとしても同様の喝采を浴びたであろうと噂し、称賛したのである。

 

 三つの船のどれだろうと堂々と乗り込める才の持ち主――「三船の誉」。

 藤原公任は、道長にとって同世代の出世頭であり、誰からも注目される宮中の貴公子だった。

 

 だが、現在――。

 道長は従一位・摂政として権力の隆盛を極め、公任は従二位・権大納言(ごんのだいなごん)として道長を支える立場となっている。

 

「随分とまあ、差がついたものだ。俺らが若かった時とは立場が逆転してしまったな」

「……時の運というものよ。何かが一つ違えば、この椅子に座っていたのはお主かもしれぬぞ」

「よく申すわ。この耳にもしかと届いているぞ。覚えていないのか? お前がかつて父・兼家殿から、兄弟揃って俺の名を使われて叱責された時に、お主が返した痛快な言葉を」

 

 道長は公任の言葉によって苦虫を噛み潰したような表情になった。

 普段は堅苦しい表情を崩さない道長にとっては珍しいことである。

 

 ことは再び、先述の大井川での船遊びの折りへと遡る。

 円融法皇主催のこの行事に、当然のことながら宮中の有力貴族達は揃って参加していて、己が勢力の評判を上げようと躍起になっていた。

 

 道長達の父・兼家も、当然、その一人である。

 当時、彼は摂政というポジションを手に入れて権力の頂点に立っていたとはいえ、その就任方法はとても穏やかなものとはいえず、禁じ手に近いものだった。花山天皇を言葉巧みに出家させ、半ば無理矢理に己が孫を即位させたのだから。

 

 この船遊びはそんな事件のほとぼりが冷めきっていない時期に行われたもので、兼家としては、花山天皇を引きずり下ろした仄暗い印象を拭い、自分達の一族の名声を高める絶好の機会でもあった。

 

 だが、蓋を開ければ、道長を初め自分達の息子達は目立った評判を上げられず――逆に、自分達が引き起こした花山天皇退位によって、関白を辞さざるを得なくなり、一族として下火を迎えつつあった頼忠一族の子・公任に全てを持って行かれてしまった。

 

 兼家としては面白い筈がない。

 船遊びの日の夜、長男と三男、五男(次男と四男は正妻とは別の母の子である)は父に呼び出され、横一列に並べられて説教を受けた。

 

 散々に罵られ、最後に兼家は「貴様等は公任の影も踏めない」と嘲る。

 そんな父に長男・道隆(みちたか)、三男・道兼(みちかね)は何も言えなかったが――ただ一人。

 

 これまで目立った功績も、才気も、野心も見せてこなかった末っ子の五男が。

 ただ一人、怒れる父に、この国の権力の頂である摂政たる父に――いえ、と。

 

「影どころか、いずれは公任の面をも踏んで見せましょう」

 

 大胆不敵に、そう言ってのけたのだ。

 

 昔のやらかしを掘り起こされ、道長は思わず右手で顔を覆う。

 対して己がいないところで己相手に宣われた大言を、公任ははっはっはと笑いながら、あの頃とは違い自ら摂政へと上り詰めた男の背中を叩きながら蒸し返す。

 

「――で? 摂政へと上り詰めた道長様。俺の面はいつ踏んでくれるんだ? 今宵か?」

「……ふん。今更、そんなものを踏みしめたところで面白くもなんともあるまい。……若き日の、血気を抑えきれなかった未熟者の戯言だ。二度と表に出すんじゃないぞ」

 

 事実、あの言葉は道長にとっては痛恨だった。

 当時はまだ道長にとっては牙を研ぐことに専念する雌伏の時――いずれ必ず訪れると確信していた飛翔の時へと備える為の我慢の時期だったのだ。

 

 道長にとって、あの頃は自身の頭上を覆う壁が余りに多すぎた。

 その筆頭が、正しくその時に同列していた父であり、長男であり、三男だったのだ。

 

 圧倒的権力を手中に収めていた父・兼家。

 兼家の跡継ぎ筆頭であり、父に愛され、天に愛された長男・道隆。

 兼家、道隆に真っ直ぐに食らいつき、虎視眈々と下克上を狙う野心を隠さない三男・道兼。

 

 道長は、そんな三人の怪物を常に間近で見て育ってきた。

 故に道長は、若き頃は存在感を消し、三人の三つ巴の、三者三様の思惑が渦巻く権力闘争の傍観者に徹していたのだ。

 

 時の権力者を引き摺り下ろし、自分達の一族に権力を齎す父、兄が居たことは道長にとってはある種の幸運だった。

 しかし、それで五男というハンデが取り返せるかといえば、そんなことは勿論、ない。

 

 黙っていれば、例え同じ一族とはいえ、権力のリレーは長男からその長男へ、自身に回らず目の前を、頭の上を通り過ぎていくだけである。

 

 だからこそ、父・兼家から長男・道隆へ、そしてその子へと受け継がれるだろうそのバトンのリレーを、分かり易く妨害してやろうと行動する三男・道兼を隠れ蓑にして、いかにして己が手元に奪い取るかを道長は虎視眈々と静かに計画し続けていた。

 

 つまり、道長にとっては出来る限り、この時はまだ父や兄たちにとって、凡愚な五男でありたかったのだ。下手に注目されて、自分に興味を示される、ましてや警戒などされたらたまったものではない。

 

 しかし、この時、道長は父の言葉に思わず反論してしまった。

 正しく痛恨。百害あって一利なし。道長にとっては何よりも業腹なことに、何の考えも裏も無く、ただただ――()()()()()()()。そんな思いによってぽろりと出てしまった言葉なのだから、ますます救いようがなかった。

 

 勿論、今を雌伏の時と考えている道長だ。大井川の船遊びにおいて、父・兼家が期待していたような活躍などやろうと思う筈もないが、思わず大胆不敵な言葉が出てしまったのは、例えやろうと思っても、自分には公任のような活躍は出来なかったという自覚があるからに他ならない。

 

 自分には、公任のような才能はない。

 和歌も、漢詩も、管楽も――弓ですら自分は公任には敵わなかった。

 

 無論、それによって自分が公任に劣ると思っているわけではない。

 確かにこの時代、これら雅な才能があれば格が上がり、何よりも女にモテるが――いってしまえば、それだけである。

 

 現代においても歌やスポーツが上手ければ女にモテるし、尊敬もされるが、それで人生の全てが決まるわけではないように――平安の時代もまた、それだけでは決まらない。今回のように出世に繋がることもあるが、それでも最終的には政治力によって決まる。現に、この時、公任の一族は凋落し、道長の一族は隆盛していた。

 

 最終的にものをいうのは、雅な才能ではなく、政治力。

 道長も当然、それは理解していたが――それでも彼にとっては、藤原公任という存在は特別だった。思わず、感情的に愚かになってしまう程に。

 

(……まあ、あの時の愚行によって父の機嫌は直り、最終的には倫子との結婚の根回しも行ってくれたのだから、悪いことばかりではなかったのだが)

 

 自分で選んだ道とはいえ、凡愚な五男を演じていた道長にとって、当時、左大臣の娘だった倫子との結婚は中々に越えがたいハードルだった。しかし、道長の計画にとって倫子はどうしても欲しい物件であったし、事実、倫子がいなければ、今、道長はこうして天皇の外祖父として摂政の椅子に座ってはいないだろう。

 

 だからこそ、少なからず父の評価を手に入れ、結婚の後押しを手に入れることの出来たこの一件は、道長にとっては損ばかりではなかったのだが――それは結果論でしかない。道長にとって、己が感情に振り回された数少ない失態の一つであるこの一件は、現代風に言うならば思い起こす度に頭痛を齎す黒い歴史なのである。

 

「それで? 私を若き日の失態でからかいに来たのか、公任よ。何か要件があったのではないか。このような晴れの日に苦き味を思い出させるに値する重大な要件が」

「ここまで言われると、俺としても悲しくなるぞ。今となっては得がたい青き思い出ではないか」

「申せ。はよう」

 

 今、この宮中において、道長とここまで近い距離感で会話が出来るのも公任だけだろう。

 道長には現在、己が手足と呼べる程に重用する部下が四人いるが、中でも同い年である公任は特に近い距離感で接することが出来る稀有な存在だ。

 

 こうしてあの公任を己が部下に出来たことは、確かにあの頃では考えられない――否、考えて、考えて、考え続けていたことだ。

 ただ引き摺り下ろし、権力争いから遠ざけることは容易かった。しかし、道長はどうしても、引き摺り下ろし、政治の中枢から遠ざけて尚、その上で――()()()()()()()()()()()()()。手元に置き、己が計画に賛同させ、協力を得たかったのだ。

 

 決して容易い道では無かった。

 公任は自分と似ている。そして、自分が逆の立場であったら、例え舌を噛み千切ってでも、縁の下に潜って相手を支えることなどする筈がなかったからだ。

 

 それでも、倫子と同じように、公任もまた自分の計画には必要不可欠な存在だった。

 今、こうして、表面上だけでも己と対等に振る舞ってくれる存在がいてくれるありがたみを、道長は表情には出さないが理解していた。そして、公任がそれを理解した上で、そのように振る舞ってくれていることも。

 

 故に、口には出さないが、道長は公任に全幅の信頼を置いている。

 だからこそ、このとき、鋭い目つきに変わった公任の信じがたい報告を、道長は瞬時に事実であるとして受け止めた。

 

「お前の家に、土御門邸に――妖怪が差し向けられている。それも、とびっきり、強力なやつだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その邸宅は平安宮(へいあんぐう)からほど近い場所にあった。

 

 しかし、その場所が纏う雰囲気は、絢爛豪華な宮中とはまるで異なり、別世界に迷い込んだかのように怪しい――妖しい。

 華やかさは微塵も無い。日の高い時間である筈なのに薄暗く、気象条件上発生する筈もない霧に覆われている。

 

 決して大きくはないその屋敷。

 その広くはない庭を一望する縁――そこに、この屋敷の主と、この屋敷を訪れる数少ない来客の一人である女性は座り込んでいた。

 

「随分と熱心に此処へと足繁く通うが、こうも頻繁に主の下を離れてもよいのか? 皇太后――まもなく太皇太后となられる御方の女房でありながら。かの御方が多忙で無い筈がなかろうに」

「……彰子(しょうし)様には、許可は頂いていますので」

 

 屋敷の主人は、そう言って己と顔を合わせようともせずに札に念を込め続ける女を笑う――そして、徐に立ち上がり、自身の庭で奇妙な動きをする人型の影に向かって二枚の札を風に乗せるように放った。

 

「――踊れ」

 

 男が二本の指を揃えながら呟くと、二枚の札は瞬く間に淡く輝く燕へと姿を変える。

 

 そして燕は人影の周りをひゅんひゅんと飛び回り、やがて燕から伸びた光の糸が人影に絡みつき、ブリキのように歪な動きをしていた人影が優雅な舞を踊り出す。

 

「ならば、せめてこれくらいは出来るようになってもらいたいものだな」

 

 そう言って男はそのまま屋敷の壁にもたれ掛かるように再び座り込むと、懐から人型の札を複数取り出し、瞬く間に美女へと変化させ、そのまま茶と酒を淹れさせる。

 

 女はそんな男の嫌みな程に素晴らしい術を見せつけられ、眉間に皺を寄せて大きく溜息を吐いた。そして、既に文字通り燕の操り人形となっている人影に見切りをつけ、新たな人型の札に呪文を書き記す所から始める。

 

(……そう仰るなら、少しは言葉で教えてくださればいいのに。……この方にそのようなことを期待することすら烏滸がましいといえばそれまでですが)

 

 この男の下に弟子入りを志願してから既にどれだけの月日が流れただろうか。

 教えてもらったのは簡単な式神の作製方法のみ。その程度で弟子と呼べるものかは不明だが、それでも女は健気にこの屋敷へと通い続けた。

 

 平安京において、この男を知らないものはいない。

 男が残した数々の伝説はどれもまるで御伽噺のようで、だからこそ女は男に対し、当初は崇拝に近い思いを抱きつつ、この屋敷を訪れたのだが――それも長く続かなかった。

 

 伝説の男は――伝説級に()()()()()()()だったのだ。

 

(……そもそも、この宮中にまともな男性がいるのかと言われれば……期待するだけ無駄というものですね)

 

 女は奮闘する自身の背後で真っ昼間から酒盛りを始めた男を白けた瞳で流し見て、そのまま男を視界から排除して己が動かす人影へと視点を戻す。

 

 だが、その優秀な頭脳は、そのまま現在の平安京の現状へと思考をずらしていた。

 

(――もう、()()()()()()です)

 

 圧迫されていく財源は既にどのように運用しても遠からず内に破綻を迎えることは明らかだ。

 

 その割を食うのは下民。

 しかし遠く離れた地方の民達は、既に国守の理不尽な徴税に不満を募らせ続けていて。

 平安京の中に住まう民達も、すぐ近くにいる貴族達に憎悪に近い激情を燃やしている。

 

 そして、こうしている今も、一人、また一人と、飢えと疫病と――妖怪によって、その数を刻々と減らしているのだ。

 

(民は、国にとっての細胞です。それが倒れ、蝕まれていけば、待っているのは自分達の――国の死。……この国で最も高等な教育を受けている貴族達が、それに気付かない筈がないのに)

 

 既に妖怪の脅威は、この平安京の中にまで侵食している。

 貴族達もその被害を、勿論、受けている。近頃は毎日のように、貴族の誰かの邸宅が火災に遭って焼失しているのだ。それを行っているのが妖怪か、あるいは不満を募らせた民なのかは、この時代の力の無い警察機構では暴き出すことすら出来ないが。

 

 だが、それでも、貴族達は圧迫された財源の中で、自分達の目に見える範囲の世界を修復することに真っ先に湯水のように金を使う。そして、また財源が圧迫される。

 

 既にこの国は、そのような終末的な悪循環を引き起こす所まできている。

 

 それでも――背後の男を始め、この世界を回す男達は、()()()()()()()()()。根本的な問題解決に動こうともしないのだ。

 

(……一体、何を考えて――)

 

「一体、何を考えているかは知らぬが――」

 

 気が付くと、女が使役していた人影が――()()()()()()

 風船が膨らむように、ひょろひょろと枝のようだった身体が膨れ上がり、言語として認識出来ない奇声を発している。

 

「既に、この平安京の中には妖気が充満している。それは――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 操り人形だった人影をその小さな嘴で貫き、二羽の燕がすぐさま膨張するもう一方の人影へと飛んでいった。そして、その周囲を円を描くように旋回する。

 すると、その円は瞬く間に円柱状に淡く光る結界となり、より強い光を発し始めた。

 

「君に教えた式神作りは、周囲の力を取り込んで疑似生命を作り上げるものだと教えた筈だ。考え事をしながら制御出来る程――君はまだ、陰陽師ではないよ」

 

 そう言って男は、杯をくいっと傾け、酒を呷る。

 

 膨張していた人影は燕が作り出した結界の中で悶え苦しむようにして爆散し、仕事を終えた燕は札に戻って男の手元へと帰って行った。

 

 女はゆっくりと、男に向かって振り返る。

 そして「……私が未熟なのは百も承知。だから、聞かせてもらえませんか。――伝説の陰陽師様」と、何もかも見透かすような瞳でこちらを見据える男に向かって言った。

 

「既にこの国において最高最強の陰陽師の邸宅ですら、妖気の侵食を防げていない。……それは既に、この国において安全といえる場所はもう何処にも無いということですよね」

「正確には、帝と后がおわす内裏だけは、まだ妖気の侵食を防げている。あそこにはここよりも強力な結界を施しているからね。……まぁ、それも時間の問題だが」

 

 男はそう言って、再びどこまでも見透かすような瞳を浮かべる。

 

 それが気に入らないのか、女は怒気を込めて「……そこまで分かっているなら――!」と、声を荒げようとしたが、男はそれを制するように、くいっと杯を上げて、その水面に女の憤怒の表情を映すようにして言う。

 

「それは、誰に対しての、何に対しての怒りかな? ――紫式部」

 

 紫式部(むらさきしきぶ)と、そう呼ばれた女は。

 男の透き通るような――何もかもを、己の全てを見透かすかのような瞳に、その口を閉ざされる。

 

 だが男は、口を閉じるのをやめない。

 

「この俺――安倍晴明に対してか?」

 

 最強で最高の陰陽師、妖怪の天敵、この国における怪異に対する最大のオーソリティである男は、自身の名を――安倍晴明(あべのせいめい)という名を口にする。

 

 そして、続いて。

 

 紫式部が、決して口に出さなかった名を――口に出せなかった名を。

 

 この国において、最も大きな権力を誇る男の名を――。

 

「この私――藤原道長に対してか? 香子(かおるこ)よ」

 

 紫式部は絶句し、瞠目する。

 硬直し、思わずその肩を震わせる。

 

 庭から直接現れたのは、正しくその件の人物だった。

 

 屋敷の主人はその無作法に怒れることもなく、ただ淡々と、この国の実質的な最高権力者を迎え入れた。

 

「これはこれは。歓迎しますぞ、我らが摂政殿。さて、今宵は――どのような案件で参られたのでしょう?」

 

 今宵――その言葉の通り、高かった日はいつの間にか暮れ落ちて。

 

 夜の時間が、訪れようとしていた。

 




用語解説コーナー

・藤原北家(ほっけ)

 大化の改新の中心人物たる藤原(中臣)鎌足が次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子が興した四つの藤原氏の家の一つにして、最も遅い時期に興隆し、最も大きく栄えることになった家。

 伊予親王の変で同じ藤原四家の南家が、薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た当時の北家嫡流たる冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。

 冬嗣が文徳天皇の、その子である良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)である基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、三代にわたって外戚の地位を保ち続けた。

 これが以後の、北家嫡流(氏族の本家を継承する家筋・家系)こそが藤氏長者であるという図式を決定づけることとなった。

 そして、藤原兼家は、正しく北家嫡流であり、その後継者として認められたものこそが、北家嫡流を継ぐもの、つまりは藤原氏の氏長者であるということになる。

 その座を、長男・道隆、三男・道兼、五男・道長で争うこととなった。


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妖怪星人編――⑦ 呪いの輝

この恨み――はらさでおくべきか。


 

 紫式部が初めて藤原道長と出会ったのは、今からおよそ三十年前のことだった。

 

 当時、少女だった紫式部は、源倫子付きの女官の一人として仕えていた。

 下っ端も下っ端に過ぎないが、黙々とよく働き、物覚えもいいとあって、同僚にも倫子にも大層可愛がられていたらしい。

 

 そして、紫式部が仕事にも慣れてきた頃、俄に家中が騒がしくなってくる。

 倫子の父である雅信、母である穆子の言い争う声が頻繁に聞こえてくるようになったのだ。家中のトップである夫婦の喧嘩に、幼い紫式部はおろおろするばかりだったが、先輩女官達はまたかという表情を揃って浮かべていた。

 

 なんでもこの家では定期的にこのような言い争いが勃発するらしい。原因は、紫式部の当時の主である倫子の結婚に関してだ。

 二十四である倫子を一刻も早く結婚させようとする穆子と、色々と言い訳を尽くしながらも結婚させたくない雅信――娘の結婚に関して積極的な母と消極的な父と言い換えれば現代にも通じる話ではあったが、現代よりも遥かに結婚適齢期が早く、また結婚自体の一族的な意味も重かったこの時代においては、より切実であったことだろう。

 

 そして、今度ばかりは、夫は妻に勝てなかったらしい。

 女官達はバタバタと慌ただしく婚儀の準備に取りかかり、婿に来るというその男の来訪を待った。

 

 それからあっという間にその日はやってきた。

 待望の婿君、平凡児と評判であった道長は――美しかった。

 牛車(ぎっしゃ)から降りた男は、周囲を圧する覇気を放ち、雲間から差し込む光をその身に受けていた――まるで物語の主人公のように。

 

 周りの女官達も、雅信も、彼を推した穆子も揃って息を吞む。

 唯一、婚儀前にお忍びで顔を合わせていたという倫子のみが堂々と彼を迎え入れていた。

 

 少女・紫式部は、無作法であると知りながらも、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。頬を赤く染め、その美しい男を見上げることしか出来なかった。

 

 これが、藤原道長と――紫式部の初対面であった。

 

 

 紫式部はその後の数年間、倫子付きの女官として勤めたが、父・藤原為時(ふじわらのためとき)の転勤に伴い平安京を後にする。

 父の配属先の現地で親子程に年の離れた藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し、一女を設けるが、僅かその三年後に先立たれてしまった。

 

 そして、そのすぐ後だった。

 

 平安京から――藤原道長から、彼女に対して誘いがあったのは。

 

「物語を、書いているらしいな」

 

 美しい月夜だった。

 それは紫式部に、幼い頃の情景を思い起こさせた。

 

『君も、物語が好きなのか?』

 

 あの夜も、美しい月明かりが照らす夜だった。

 眠れなくて、誰もいないと思っていた秘密の場所で、大好きな『竹取物語』を諳んじていた所に――彼はやってきて言ったのだ。

 

 その日から、お互い眠れない夜は、こうしてひっそりと物語について語り合った――紫式部にとっての、人生で最も楽しい思い出。

 

 だが、この時は、あの頃のように淡い思い出とはならなかった。

 

 それは誰もいない場所、誰も見ていない夜――紫式部は、久方ぶりに会った道長に、強く腕を引かれ、彼の胸に抱かれた。

 

 この時、紫式部は初めて理解した。

 もう自分は、少女ではなくなっていることを。

 

 あの主人公のような――初恋の大人の男にとっても、今の自分は、もう少女ではなく、一人の女なのだということを。

 

「帝も、この上なく、物語を愛しておられるのだ――私達と、同じようにな」

 

 男の吐息が、そっと女の耳を撫でる。

 紫式部は、夫の腕の中ですら感じたことのない羞恥と、興奮を覚えた。男を知らぬ生娘のように高鳴る鼓動を、初めて恋を覚えた少女のように染まる頬を見られないように、道長の胸に顔を押し付ける。

 

 道長は、そんな紫式部を尚も酔わせるように囁く。

 

「誰も見たことのない物語を綴ってくれ。誰もが先を知りたくなるような、誰もを虜にする最上の物語を。『竹取物語』とも違う。『伊勢物語』とも違う。お主が書く、お主だからこそ書ける、そんな物語を――」

 

 男は女を引き離す。

 温もりが離れることに紫式部は思わず寂しさを感じたが、それを自覚するより早く、道長の瞳が紫式部の瞳を捕らえた。

 

「私は――それが欲しい」

 

 ああ、これだ、と、紫式部は思い出した。

 重ねられる唇――それを味わいながら、紫式部は遂に長年の感情を理解した。

 

 ずっと、この瞳に魅入られていた。

 それは煌々と燃える黒い炎のような激情だった。男であれば誰もが抱く感情を、この男は誰よりも強く内に秘めていた。

 

 それはまるで、赤く染まる月のように妖しく、見る者を引きずり込むように輝く。

 恐らくこれは――呪いの(かがやき)だ。

 

 藤原道長という男は、きっと破滅に向かう者だ。もしくは――破滅を齎す者。

 

 この男は触れてはいけないものに手を伸ばす者だ。

 それが、全てを焼き尽くす劫火だと知っていても。

 

 この男と共に歩むのならば、きっと己も身を滅ぼすだろう。全てを失うのだろう。

 だが、それでもいい――そうしたいと、支配されてしまった。

 

 紫式部は、この日――藤原道長に全てを捧げた。

 

 

 そして、紫式部は、一条天皇の女御(にょうご)であり、道長の長女である彰子に仕えることとなる。

 

 一条天皇にはこの時、既に他に複数の女御がいた。

 中でも、道長の兄であり、父・兼家からその権力を正当に受け継いだ長兄・藤原道隆の娘である定子(ていし)との間には深い愛情が通っており、子も生まれていた。

 

 道長はどうにか長女・彰子を入内(じゅだい)させたが、一条天皇との年の差は八つ。この時、彰子は未だ十二である。

 

 それこそ年若い者同士ならばいざ知らず、夫には三つ年上の正妻が居て、しかもしっかりと愛情と子を築き上げている。つい先頃に女の身体となったばかりの十二才が、愛し合う夫婦の間に後から割り込もうというのだ。生半可な戦いではない。

 

 しかし、それでも、彰子が一条天皇の子を――皇子を生まない限り、道長の野望はそこで終わりだった。

 

 だからこそ――。

 

「――私には、お主が必要なのだ。香子」

 

 道長は褥の中で、紫式部の頬を撫でながら語りかける。

 厳しい戦いを強いられる娘の元に、道長が紫式部を送り込んだ、その理由はただ一つ。

 

「物語を紡ぐのだ。帝を一夜でも多く、一刻も長く引き留める為に。お前が紡ぐ物語で、帝を、誰もを、夢の中へと引きずり込むのだ」

 

 

 そして、紫式部は綴り続けた。

 帝の前で、中宮の前で、平安貴族の誰もを虜にするような壮大なる物語を語り続けた。

 

 それは光り輝く男が、幾人もの女性を虜にし続け――不幸にし続ける物語。

 目が潰れんばかりの眩い光で、何人もの女性を狂わせ続ける物語。

 

 破滅を齎す男と知っていながら、そんな男を愛さずにはいられない――女の物語。

 

 紫式部は、それを、たった一人の男の為に――綴り続けたのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夜の帳が落ち、静まりかえった京の都。

 

 その片隅にひっそりと存在する屋敷の主は、旧知たる来客をもてなすべく美姫の式神達に酒を注がせていた。

 

 来客の男は、そんな酒を一口に飲み干しながら、屋敷の主に不敵な笑みを浮かべる。

 

「――それで? 件の妖怪はいつ頃に現れる?」

 

 常人ならば眩むような強い酒だった。

 だが、それをものともせずに豪快に、それでいて静かに飲み干した、この国の最高権力者――その座へと上り詰めた男は。

 

 藤原道長は、この妖しげな屋敷の主人であり、この国の最強能力者である――生まれついたその時からその座を(ほしいまま)にしていた男に問う。

 

 安倍晴明は、道長の問いに薄い笑みを浮かべながら返す。

 

「さて、初耳ですな。何の話でしょうか」

「とぼけるな。お前と言葉遊びを交わすのも一興だが、事は一刻を争うのだ。そもそも、お前に知らぬ事、見えぬ事など()()()()()()()

 

 そう言いながら、道長は一度、同席する紫式部を流し見た。

 この中でただ一人、事態を把握していない彼女はその視線に身体を震わすが、聡明な彼女はすぐに気付いた。

 

 全てを見透かす陰陽師が知らないふりをした――この場でのそれはつまり、何も知らない紫式部の為に、事件の詳細を口に出して語らせる為だということ。

 それを察した彼女は、詳細を知りたいのはやまやまだが、道長の時間はないという言葉を優先させる為に、晴明に向かって頷きを返す。

 

 晴明は「――失礼いたしました。それでは、問に対する答えをば――」と一度瞑目し、そして薄く目を開けながら、鋭く言う。

 

「その妖怪は、丑の刻――今宵、夜が最も深まる時、現れましょう。場所は、土御門邸。道長様、あなた様の住まう御屋敷にございます」

「――っっ!?」

 

 晴明が恭しく――道長らには白々しく映ったが――語った言葉に、ただ一人事情を知らなかった紫式部は絶句する。

 

 確かに、近頃の平安京において、妖怪の襲撃など日常茶飯事と言っていい。

 ここ最近においては貴族の邸も頻繁に狙われているが――それでも、この国の最高権力者である道長の住まう邸である土御門邸が標的とされることは、正しく国を揺るがす一大事と言える。

 

 思わず腰を浮かしかけてしまった紫式部――だが、ここにいる紫式部以外の男達は、前もってその事実を知っていたとはいえ、誰一人として狼狽えている者はいない。

 

(……いや、道長様が貴族、民に問わず怨嗟の念を抱かれているのは今に始まったことではない。……これまでも私が知らなかっただけで、知らされていなかっただけで、このような夜襲は度々未遂で防がれていたのかも)

 

 だからこそ、道長はこうして晴明屋敷を訪れたのかもしれない。

 藤原道長にとって安倍晴明は、平安京の摂政と陰陽頭(おんみょうのかみ)という公的な立場以外に、雇い主と顧問陰陽師という関係でもある。

 

 この平安の時代は妖怪の最盛期であり、対妖怪戦力の最盛期でもある。

 それはつまり、妖怪という存在が常識として認知されているということでもあり――こと、人間同士の対立でも妖怪が度々利用された。

 

 この国の最高権力者でもある貴族同士の政闘においては、それは殊更に顕著だった。

 政敵に対し妖怪、悪霊を用いて『呪い』を掛けて失脚させるというのは、この時代においてポピュラーな手法だったのである。

 

 故に、有力な貴族達は、優秀な仏僧や陰陽師をお抱えにし、手元に置いておく。

 どれだけ強力な護衛を傍に置いているかで、その貴族がどれだけの力を持っているのか言外にアピールする意味合いもあった。

 

(……だからこそ『最強の陰陽師』と『最強の神秘殺し』――このお二方を召し抱えている道長様は、名実共にこの国の頂点へと立つことが出来た。……そんな道長様にとって、此度のようなことは恐れるに足らずと、そういうことなのかしら)

 

 紫式部は道長勢力の一員とはいえ、正式には長娘である彰子に仕える身である。

 道長がこれまでどのような戦いを繰り広げてきたか、間近で見てきたわけでもなく、その全てを知っているわけではない。

 

 だからこそ、土御門邸襲撃という此度の事態に動揺を隠せないが、道長と共に数多くの戦いを乗り越えてきた男達は、紫式部の心中に慮ることなく冷静に戦況を確認していく。

 

「なるほど。公任の言はやはり正しかったわけだな。それで? 此度の客人はどなたかな? 懐かしの『鬼』か? 今、流行の『狐』か?」

 

 それとも――と、道長はそこまで口にし、再び酒を呷る。

 晴明は薄い笑みを浮かべるばかりで何も返さないが、道長の隣に座る公任は「――俺の調べによるとな」と、晴明を真っ直ぐに見据えながら言う。

 

「その『鬼』も『狐』も、だいぶピリピリしてる感じだ。平安京を挟んで向かい合い、睨み合っていて――両勢力とも、最後の一押しを欲しがっている。開戦の号砲となる、大きな騒ぎを求めてる」

 

 鬼――そして、狐。

 今、この平安京を足元まで呑み込んでいる妖怪。その最大手たる二つの勢力。

 

 それが今、平安京を舞台にして勢力争いをしている。

 国の中枢たる平安京――それを堕としたものこそ、この国を手に入れると、まるでそう言わんばかりに。

 

 そして、それは紛れもなく現実となるだろう。

 つまり――その時は、この国が、人間のものではなく、妖怪のものになることを意味しているのだから。

 

(……いえ、既に妖怪達にとっては、そこはもう確定事項……今はもう、その後の話……妖怪がこの国を手に入れた後の、統べる王を決める戦い……そう考えているのかも)

 

 そして、それを否定する根拠は、紫式部にはない。

 破綻した財政。離れる民心。頻発する反乱。そして――既に国中に犯された妖気。

 

 この国は、平安京は――終わっている。

 優れた頭脳を持つものこそ理解している。

 にも関わらず、貴族達は足元まで浸かっている危機に見向きもせず、華やかな張りぼてを保つことばかりに執着している有様だ。

 

 そして、それは――この平安京、その全てを掌握するに至った、()も同じ。

 

「――――っ!」

 

 紫式部は、合いそうになった道長の視線から逃げるように顔を俯かせる。

 公任はそんな紫式部に一瞬視線を向けた後、再び晴明へ向けて続けた。

 

「だからこそ、これはしびれを切らした両勢力のどっちか――あるいは両方が仕掛けてきたものだと見ている。この国の最高権力者たる摂政、その就任の日の夜に、その男の住まう屋敷が襲撃される。間違いなく平安京は混乱するだろう。それを号砲とし、『鬼』と『狐』がこの国の覇権を争う――戦争が始まる。そういう筋書きと俺は見るが、どうだ? 専門家の意見を聞かせてくれ」

 

 公任は摂政たる道長が同席している場にも関わらず、片膝を立てて端正な顔に不敵な笑みを浮かべて言う。

 道長も、そんな公任を何も諫めることなく、いつものように鋭い目つきで晴明を見詰めるだけだ。

 

 そんな彼等と晴明の間に座る紫式部も、道長と公任に追随するように、緊張を隠せていない表情のまま、ゆっくりと――この国で最も妖怪に詳しい専門家、陰陽頭たる安倍晴明へと目を向ける。

 

 安倍晴明は、いつもと同じように、何もかも見透かすような――何もかも見ていないかのような表情で告げた。

 

「公任殿の推測は正しい。けれど、間違ってもいらっしゃいます」

「それは、どういうことだ?」

 

 晴明の言葉に公任ではなく道長が問い返す。

 そして晴明は、道長でも公任でもなく――紫式部を見ながら答えた。

 

「今宵、襲来する妖怪は、『鬼』、『狐』――そして、『女』です」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 街灯などがないこの時代の夜は、まるで墨汁で塗り潰したかのように暗く――黒い。

 

 その墨色の空を、薄明るい青色の光を放つ燕が一筋の光の線を虚空に引きながら泳ぐように飛んでいる。

 すると、その光の線から滝のように青い光の壁がゆっくりと地に向かって伸びていく。やがて光の壁は上にも伸びていき、半球状に屋敷を包み込んだ。

 

 その様子を、土御門邸の庭から紫式部は眺めていた。

 平安京でも随一の絢爛豪華な邸宅である土御門邸――当然、その敷地面積は広大だが、あの燕を操る術者はいとも容易くその全てを結界に包んで見せた。

 

(……流石は晴明様、といったところでしょうか)

 

 常時発動型に加えて更なる結界を発動し上書きしたということは、既に退避させるべき者達は退避させ、招くべき者達は招き終えたということだろうか。

 

 紫式部は、仮に都に住まう全ての貴族がやってきても宴や式典を行うことが可能な程に広大な庭に、未だ自分しかいないことを確認する。

 

 道長の権力ならば都中の術者や、それこそ平安京の対妖怪機関である陰陽庁の陰陽師を総結集させることも可能だが――これが貴族政治の難しい所だ。

 

 これは現代の政界にも通じるところではあるが、当然ながらその内部は一枚岩ではない。

 武力や暴力で事を強引に進めることが許されない以上、策謀や陰謀が渦巻くのはどこの国の、いかなる時代の政治組織でも同じことだ。

 

 狙われているのが、たとえ摂政の邸宅だとはいえど――いや、だからこそ、軽々しく公的な戦力を頼ることは難しい。それは後に、我が身可愛さで権力を私物化したと、敵対勢力につけ込まれる弱みへと繋がる。

 

 権力の私物化など今更なので、これも薄ら寒い言葉となるが、時と場合を選べば面の皮の厚さはとても強力な武器になることを、政治家ならば誰もが知っている。

 己を棚に上げて述べる正論は鋭い刃に成り得る。誰もが相手の背後を突き刺すタイミングを見計らっている戦場で生きているからこそ、可能な限り隙は作らないに越したことはない。

 

 権力は極めれば終わりではない。頂点に立った瞬間から、その椅子に座り続ける為の次なる戦いが始まるのだ。

 何せその椅子は頂点に置かれているからこそ足場が不安定であり、そこから引きずり下ろそうと前後左右から足を引っ張られ続けるのだから。

 

(……ですが、こんな状況で……何を今更……と――)

 

 思わずにはいられない。

 ことは既に平安京の、この国の、そしてこの国に住まう人という種の行く末を左右するという局面にすらきているのに。

 

 広大とはいえ、たった一つの邸宅に収まる程度の数の人間達が織りなす世界なんぞに何の意味があると――紫式部は正にその邸宅の庭で、完成した結界から青色が失われて、再び平安京の夜の黒と同化した空を眺めながら歯噛みしていると。

 

「――久し振りね、香子。あなたも戦ってくれるの?」

 

 紫式部は背後から掛けられた声に肩を震わせた。

 振り返ると、ここにいる筈のない人物がいることに瞠目する。

 

「倫子様! 何故!? い、いそいで避難を――」

「ふふ、いいのよ。こんな夜更けとはいえ、わたくしまで慌てて屋敷を出てしまえば、必ずや目敏い者に見つけられてしまいますわ」

 

 道長の妻であり、二人の皇后の母である倫子は、当然ながら平安京の超重要人物だ。

 そんな存在が深夜にこそこそと――そもそも倫子が外に出るとなれば車やらなにやら大仰な準備が必要となるのでこそこそとすらいかないが――避難などすれば、せっかく公的な戦力を集めることを自粛したのに、何かあったのかと勘ぐられてしまう。

 

 だが、だからといって、これから襲撃されると分かっている屋敷にのこのこと残っていていい人物ではない。

 

「で、でしたらせめて、わたくしめの屋敷にご避難を! 倫子様をお呼び出来るような家ではないことは承知の上ですが、そこならばこの土御門邸のすぐ傍です。他の貴族様に見つかる危険性も――」

「よいのだ、香子よ。倫子も覚悟の上での残留だ」

 

 それでも納得のいかない紫式部を窘めるように、倫子の背後から声が掛かる。

 ある意味で倫子以上に、この場にいてはいけない者の声だった。

 

「……道長様。あなた様まで……」

「この土御門邸は、私が今は亡き義父上から譲り受けたもの。倫子にとっては生まれ育った家だ。それが燃やされるやもしれぬという夜を、別の場所で怯えながら待つというのは耐え難いのだ。分かってくれ」

「…………しかし」

 

 倫子に寄り添うように傍らに立つ道長。

 だが、紫式部は眉間に皺を寄せながら理解の言葉を返さない。

 

 当然だ。

 倫子は兎も角、道長は最も渦中の人間だ。標的といってもいい。

 

 この土御門邸が狙われるということは、それは藤原道長という人間を狙った凶行ということなのだから。

 

 道長は紫式部の表情だけでその言いたいことを察したのか「だからこそだ、香子」と口を再び開く。

 

「狙われている私が移動すれば、妖怪はその避難先に現れるかもしれぬ。日ノ本最強の陰陽師である晴明が張った結界の中――すなわち此処こそ、ある意味で最も安全な場所だ」

「…………」

 

 一見、筋が通っているようにも聞こえる。だが、やはり紫式部には詭弁に思えた。

 

 しかし、紫式部は道長や倫子に己が意見を押し通せる立場には、無論ない。

 政治的立場でもそうだが、戦力としても、拙く式神を動かせる程度の技量しか持たない紫式部も、本来ならばこの場にいることがおかしい立場なのだ。

 

 避難すべきというのならば、紫式部こそ避難すべきなのである。彰子付きの女房である紫式部に、この場で戦うべき筋の通った理由などないのだから。

 

 これ以上、紫式部が苦言を呈せば、道長はその辺りを理由に紫式部こそを追い出しにかかるだろう。道長や晴明に無理を言ってこの場にいる紫式部は「……くれぐれも、御身を第一に」と、頭を下げてそう言うしかなかった。

 

「案ずるな。こんな日が、いつかは来ると思っていた。むしろ――待ち侘びていたと言ってもいい」

 

 道長は頭を下げる紫式部に対し、天を仰ぎながらそう言った。

 

 紫式部は恐る恐る、そんな道長を見上げるように顔を上げたが、目が合ったのは、そんな道長に寄り添うように傍に立つ倫子だった。

 

「大丈夫よ、香子。これは、この人が――選んだ道。避けては通れないものだから」

 

 そう言って、倫子は柔く微笑んだ。

 紫式部は、その笑顔を持って、倫子がここにいる理由を全て悟った。

 

 そして、改めて強く理解した。

 この方は――自分と同じなのだと。

 

 妖しく光り輝く男の黒い炎に魅入られて、その末路を悟りながらも、同じ道を歩むことを覚悟した女なのだと。

 

 紫式部は、その揺れない姿に、眩いものを見るように目を細めて。

 

(…………ああ)

 

 強く、強く――嫉妬した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ここに居られましたか、道長様」

 

 その時、道長の背後から二人の男が現れた。

 内の一人は紫式部も見知った人物だ。道長や倫子よりは年下だが、紫式部よりは僅かに上の四十代半ばの男性。

 

 藤原行成(ふじわらのゆきなり)

 公任と同じく道長が重用する四人の部下の一人で、公任を裏の右腕とするなら、行成は正しく道長の表の右腕と呼ぶべき重臣である。

 

 一条天皇時代には蔵人頭(くろうどのとう)――天皇の側近として勅命の伝達、上奏の取次ぎなど、政府と天皇の中継ぎをする重要な役職――を勤め上げ、道長の渾身の策である彰子の立后を、既に定子という中宮との間に確固たる愛を築き上げていた一条天皇に認めさせた立役者だ。

 

 これらの働きから道長は行成を高く評価していて、後の世に「権積」と称される程の能書家でもある彼を、才を持つ者を愛する道長は、蔵人頭の役職を降りた後も側近として傍に置いていた。

 

「来たか、行成」

「は。頼光様の下を尋ねました所――生憎、かの方はご不在でした」

「――え?」

 

 行成の言葉に、思わず声が出てしまったのは紫式部だった。

 

 思わず顔を伏せるが、混乱は消えない。

 源頼光(みなもとのらいこう)は、安倍晴明と並んで道長が保有する対妖怪戦力の筆頭だ。

 

 神秘殺しと名高いかの御仁は、政治的権力はそこまで強くないものの、こと財力と戦闘力においては右に出るものは居らず、道長とは別の意味で平安京において一目置かれている。

 

 道長も極力他の貴族には今宵の襲撃を知られたくないとはいえ、頼光には声を掛けた筈だ。だが、その答えはまさかの不参加だった。

 

(……そんな!? まさか、他の貴族に鞍替えを? ……いえ、あの御方に限って……それに、今の政治状況でそんなことをしてどのような益が……っ!?)

 

 紫式部は頼光とそこまで親交があるわけではない。

 道長と会っているのを傍で何度か見かけている程度だ。だが、その傍目からでも、二人の関係が他の貴族とは違う、晴明と道長の関係とも少し違う、何やら特別なものに思えたのだ。少なくとも、道長の危機とあれば、何を置いても駆け付けてくれるような。

 

 だからこそ、紫式部は頼光の不参加に衝撃と、混乱と、少なからずの失望を覚えたが――道長は「ふむ。そうか、それは残念だ」と言葉通り僅かな落胆を声色に見せたが、紫式部のような失望の色はなかった。

 

 行成はそんな道長に向けて続けて言った。

 

「はい。ですが、この方には駆け付けて頂きました」

 

 ガシャと、貴族世界には似つかわしくない音が聞こえた。

 紫式部にとって聞き馴染みのないそれは――鎧がこすれる音だった。

 

 行成の背後にいた男が、一歩前に出て跪く。

 女のように艶やかな黒髪を伸ばした、息を吞むような端正な美男子だった。

 

渡辺綱(わたなべのつな)、今宵は主君・源頼光が名代として参上仕りました」

 

 男の名乗りを聞いて、紫式部もようやくその男の姿を見たことがあるのを思い出した。

 この土御門邸で藤原道長と源頼光が会う時、何度か頼光の傍に控えていたことがあった人物だ。

 

(……まさか、この方が――かの頼光四天王最強と呼び声の高い、頼光様の右腕と呼ばれる妖狩りの……)

 

 神秘殺し――源頼光。

 かの武将の傍に侍る四人の従者――頼光四天王といえば、平安京で暮らす者ならば知らぬ者はいないという程に有名だ。

 

 実際に街に蔓延る妖怪を退治して回る彼等は、困窮する市民達に何もしようとしない貴族達よりもよほど市井の支持を得ている。分かり易い正義のヒーローだ。

 

 しかし、それ故に、貴族達からはその力は認められているものの、市民に媚びを売る階級の低い家柄の者達と疎まれ、軽んじられていることは否めない。また、頼光自体が貴族界での出世には余り興味がない上、その仕事柄地方を渡り歩くことが多いことも一因である。税収のいい実り豊かな土地との繋がりが強い故に、財だけならば都の貴族の中でもトップクラスなのだが。

 

 つまり、源頼光は分かり易く貴族界では浮いているのだ。

 だが、そんな頼光は何故か道長とは昔から相性が良く、この土御門邸で茶や酒を酌み交わすことが多かった。無論、それはあくまで道長と頼光の個人間での友人関係であり――頼光の財を道長が宛てにしたり、貴族界で浮いている頼光の後ろ楯として道長が使われたりと、共に家名を背負う氏長者としての思惑もあっただろうが――基本的に彼らの会合は、道長と頼光の一対一だった。

 

 だからこそ、紫式部としては、自分はかの有名な頼光四天王の姿をこの目ではっきりと見たことはなかった――と、本人は思っていた。

 流石に頼光も個人的な官位は低いとはいえ家長なので、供を全く連れていないということはなかったが――時折見かけてはいた、この女のように美しい男が、かの四天王筆頭である渡辺綱だとは今日まで思い至りもしなかった。

 

(……確かに、鎧姿でこうして目の前に居られると……なにやら物々しい、只ならぬ気配を感じますが――)

 

 かつて、この土御門邸で見かけた時は、妖怪と戦うどころか刀を振るう姿すら想像も出来ない、はっきり言って優男にしか見えなかった。

 あの源頼光が傍にいたとはいえ――頼光自身が、例え道長と会合する時であっても他の者がいる場合は鎧を脱がない異様な男であるので、そちらばかりに目が行っていたとはいえ――記憶力のいい紫式部が思い返す限りでは、背は高いが全体的にすらりとしていて線が細く、家人に向ける笑顔も優しい、正しく光り輝く貴公子といった具合の印象で、そう、まるで――。

 

「光源氏のような……」

 

 ぽつりと、思わず零れてしまった紫式部の呟きは、タイミングが悪くその場の全員の耳に届いてしまったようで。

 行成が、倫子が――呟かれた本人である綱は勿論、道長までもがすっと紫式部に目を向ける。

 

 紫式部は途端に顔を真っ赤に染め上げ「も、申し訳ございません!」と頭を下げた。

 

 倫子はくすりと笑って、行成は持ち前の生真面目さを発揮してくすりとも笑わず。

 綱は原作者のまさかの言葉に苦笑のようなものを浮かべて頬を掻いて――そして、紫式部は、道長がふっと薄い笑みを浮かべているのが見えた。

 

「…………っ!」

 

 それを見て、ますます声も出せずに顔を赤くしたまま伏せる紫式部に、綱は貴公子然とした爽やかな笑みを持って近付く。

 

「ありがとうございます。まさか、あの源氏物語の作者様からそのようなお言葉を頂けるとは思いませんでした」

「……いえ。こちらこそ、ご高名な妖狩りであらせられる勇敢なる御方に向かって、大変失礼なことを申しました」

 

 光源氏は、光り輝くように美しい男だが、決して正義のヒーローではない。

 守りたいものを守れず、触れてはいけないものに手を伸ばし、己に関わる女を悉く不幸にする男だ――他でもない紫式部が、そのように描いたのだ。

 

 その身を持って弱きを助ける民衆の英雄である渡辺綱を称するには、決して相応しくない言葉だと紫式部は頭を下げる。

 

 対して綱はそのようなことを気にしていないのか「頭をお上げください、紫式部様」と眉尻を下げながら言うと、その綱の肩に腕を回しながら藤原公任が現れて軽薄に言った。

 

「おいおい、紫式部。前に俺に言ったことと違うじゃないか? 光の君はこんなところにおったのか?」

 

 にやにやといった表情の公任に、紫式部は「……覚えておいでなのですか」と険しい顔で呟く。

 

 かつて、源氏物語が貴族の中で流行し始めた頃。

 その頃に開かれた盛大なる宴の席にて、顔を真っ赤にする程に酔っ払った公任が、貴族達が大勢居る前で、部屋の隅にいた紫式部の前にどかっと腰を下ろし喚くように言ったのだ。

 

 若紫はこちらにおいでか? ――と。

 

 若紫とは、源氏物語のヒロインの一人である紫の上のことである。

 紫の上は数あるヒロインの中でも、殊更に男にとっての理想の女として描かれていた。

 

 端から見れば、宮中の貴公子である公任が、今話題の才女である紫式部を口説いている場面だ。

 俺にとっての若紫(理想の女)はどこにいるという戯言にも、あのような男にとっての都合のいい女などいるわけがないと女を揶揄する言葉にも聞こえるが。

 

 紫式部にとっては、()()()()()()()を知っている公任が、よりにもよって()()()()()()()()()()という怒りが強かった。

 

 だからこそ、紫式部は、この時、キッと公任を睨み据えてこう言ったのだ。

 

 光の君(光源氏)がどこにもいないのに、若紫(紫の上)がいるわけがありませんでしょう? ――と。

 

 その言葉は、宴の席に一瞬の静寂を生み――どっと、盛大な笑いで沸かせた。

 

 大衆の面前で手酷く振られる形になった公任の元には貴族の男達が慰めるという形で面白がりながら集まり。

 

 紫式部の周りには、一目置かれるモテ男である公任を、才女に相応しい機知に富んだ返しでバッサリと振って見せた彼女を褒め称える女性達が集まった。

 

 今、思えば、これは公任なりに紫式部をフォローしたのだと彼女も理解している。

 当時、源氏物語は確かに宮中を席巻していたが、一躍ブームとなったものを取り敢えず否定してみたがる者達は、いつの世も一定数存在するものだ。

 

 だが、源氏物語自体は一条帝も大層に気に入っている作品だ。そこを直接的に否定することは難しい。

 ならばと、その矛先が作者である紫式部に向くのは避けられないことだった。

 

 時は平安時代――男尊女卑という言葉を使うととても強く聞こえるが、男の立場が強く、女の立場が弱い時代であったことは確かだ。

 女という言葉が母という言葉へと変わると意味も変わってくるが、少なくとも一人の女中が、他の貴族の男と対等に渡り合うのはとても難しい時代だった。

 

 そこには紫式部という女性の気性の問題も大きく関係していた。

 紫式部――藤原香子(ふじわらのかおるこ)は、その恐ろしいまでの文才とは裏腹に、等身大の彼女はとても気弱で内向的な性格だった。

 

 臆病で、繊細、世渡りが下手で自分に自信がなく、いつも物語の世界に没頭しているような女性だった。

 

 だからこそ、彼等は紫式部本人を標的に陰湿ないじめを繰り返した。

 藤原道長を始め、彼女の背後にいるものが余りにも大きいので、そこまで分かり易いものではなかったが、そこは宮中という狭い世界で日夜暗闘を繰り返す政治家達だ、卑怯、姑息な手管といったものは十八番の得意技だった。

 

 そして、紫式部はそれに表立って反抗出来ない。

 彼女はそれほどまでに強い女性ではなかった。筆と紙のみで壮大で緻密な人間模様を描き出せる彼女は、現実ではどんな感情も口に出すことは出来なかったのである。

 

(……分かっています。あれが、この方の思いやりだったのだということは――)

 

 紫式部はにやにやとこちらを見る公任から固い表情で顔を逸らす。

 そして――逸らした先で、とある人物と目が合ったことに、不意打ち気味に心臓の鼓動が強くなった。

 

「――――っ」

 

 紫式部は、紙の上でどんな感情も表現出来る――だけど、藤原香子は、その口でどんな感情も吐き出すことは出来ない。

 

 だからこそ、あれからどれほどの月日が経とうとも、未だその疑問を――仄かな願いを、口に出して確かめることが出来ないでいた。

 

 あの日、公任を通じて、もしかして――私を助けてくれたのは。

 

(……あの日、あの場所に――光源氏は、いたのですか?)

 

 紫式部は、キュッと口を強く閉じる。

 合った視線はすぐさま反射的に逸らした。けれど、彼のあの時の表情は、現金にも一瞬で脳裏に、今でも忘れられぬほどに強く焼き付いている。

 

 藤原道長は、その固い表情の、口元だけを綻ばせて――紫式部を優しく見詰めていたのだ。

 

 歴史に残る程に精密に、複雑怪奇な人間の感情を描いてきた紫式部でも、ただ一人、彼の心の内だけは――その胸中は、いつまで経っても読み解くことが叶わない。

 

「……………」

 

 もう少女でもなく、女性としても抱かれなくなって久しいのに、いつまでもなんて愚かなことだろう――そう紫式部が心中で自嘲する中、渡辺綱は己の肩に乗りかかるような格好の公任を振り払うように身を捩る。

 

「重たいですぞ、公任殿。肩が凝るのでお戯れは大概に」

「ふっ。身の丈程の大刀をも易々と振るう綱殿の負担になってしまうとは。俺も真夜中の摘まみ食いなどは控えねばいかんな。目を逸らし続けてきたが、俺ももう若くないのだから」

 

 公任が己の脇腹を摘まんで戯言を振り撒きながら、綱の元を離れて道長の元へと歩み寄る。

 そして、その公任の背後には――先程の屋敷の時とは違い、真っ白な衣を纏った安倍晴明がいた。

 

(……浄衣、なのかしら? ……晴明様のあのような姿は初めて見るわね)

 

 常日頃から屋敷に引き篭もっていてまともに狩衣すら着ない晴明の姿を見慣れている――というより、殆どそんな印象しかない――紫式部は、一瞬、晴明本人かどうかも疑ってしまったほどだ。

 

 穢れのない真っ白な浄衣のような着物に烏帽子(えぼし)

 いつもは寝癖そのままのボサボサの髪も油か何かで流すように固められ、その端正な顔立ちが際立っている。

 

 表情はいつもの見透かすような笑みを浮かべたままだが、その瞳だけは、雲で覆われた真っ暗な空を射貫くように見詰めている。

 

 ぞくり、と。紫式部は己の背筋に冷たい何かが走ったような気がした。

 

 周囲を見渡すと、既にそこには公任の戯言で緩んだ空気はなかった。

 倫子も、綱も、行成も、公任本人も、表情は変わらないが、纏う雰囲気はピンと張り詰めている。

 

 紫式部は――ここが既に戦場となっていることを悟った。

 

 その中心にいるのは、やはりこの二人だった。

 

「用意出来た戦力はこれで全てか、晴明」

「今宵は前哨戦に過ぎません。しかし、奴等もそれなりの大妖怪を送り込んでくることと思われます。生半可な戦士や術者では犠牲が増えるだけ。()()()()()()()()()()()、ここは私と綱殿で十分でございましょう」

 

 晴明の言葉に、道長は頷く。

 この二人はやはり、既に狐と鬼、人間と妖怪の戦争は避けられないと見ている。

 

 紫式部の耳には、その時の為にここで数は使うべきでないと――その時の為に、()は取っておくのだと、そう言っているように聞こえた。

 

(…………穿ち過ぎなのかもしれないけれど……)

 

 顔を(しか)める紫式部を余所に、晴明と道長は更に会話を続ける。

 

「確かにその送り込まれる大妖怪とやらにも、お前と綱殿ならば対処出来よう。しかし、こちらはそれでいいとしても、あちらが数に頼ってきたらどうする?」

「その時は同士討ちをさせるなり、纏めて祓うなり、いくらでもやりようはあります。それなりの式神も用意していますし――ちょっとした隠し球も招待しておりますれば」

 

 式神に対して用意という言葉を使った晴明が、隠し球とやらに対しては招待という言葉を使った。

 そのことに、当然、紫式部も道長も気付いていたが、眉を(ひそ)める紫式部に対し、道長は「……ほう」と不敵に笑うと――そのまま晴明達に背中を向け、屋敷の中へと歩みを進めながら。

 

「では――お前達に、全て任せる」

 

 道長は倫子を連れて、屋敷の奥へと進んでいく。

 晴明はそんな二人を見送りながら「お二人の寝所にはより厳重に結界を施してあります。ご安心を」と言って恭しく頭を下げた。

 

「香子」

 

 ふと、道長は立ち止まり、顔だけを後ろに向けながら紫式部に呼びかけた。

 

「…………」

 

 紫式部は、一度瞑目すると、何も言わず――頭を下げ、そのまま二人を見送った。

 道長はそれを見てふっと笑うと、倫子の肩を抱き、一瞥もすることなく灯りのない屋敷の中へと消えていった。

 

「――さて。これで後は、客を迎え入れるだけだな」

「……公任様、そして行成様はご避難なされないのですか?」

「私達は戦況を見極め、いざという時は道長様と倫子様をいち早く連れ出さなくてはなりませんので」

 

 つまり、後方から戦いを見守るつもりらしい。

 それならば紫式部の役割としては、この二人の傍に居て、二人を守るというものになるのだろう。

 

(……安倍晴明様と渡辺綱様……当代きっての妖狩りのお二方と並んでも、足を引っ張るだけというのは目に見えている)

 

 それでも、この戦いの場から離れるつもりはないのだから、紫式部に二人のことをとやかく言う資格などない。

 

 晴明はずっと宮廷に仕えて平安京を守り続けてきた男であるし、綱に至っては主である頼光と共に依頼を受けたお偉方の身を守るべく侍ることを仕事としている人間だ。もとより守る戦いは得意分野だろう。

 

(……昨今の危うい情勢から、最近では彼等のように貴族の身を守るべく侍ること生業とする者達が増えていると聞きます。より多く、より強い彼等のような存在を抱えることが、地方の、そして宮中の貴族達の権威を計る数値となっているとか)

 

 そして彼等のような存在は、近頃ではこう呼ばれているらしい。

 

 主の身を守るべく侍る士――(さむらい)、と。

 

「――皆様方、もう少し後ろへとお下がりください」

 

 そして、紛れもなく当代きっての侍の一人である男――渡辺綱(わたなべのつな)は、その象徴たる、腰に下げた長刀の柄に手を添えて言う。

 

 紫式部が、公任が、行成が表情を引き締めると――対照的に、表情を緩め、口元を歪めて、その笑みを深めた男、安倍晴明が虚空を見上げ言う。

 

「来ましたよ。――妖怪が」

 

 ビシッ――と。

 夜空に罅が走った。

 

 平安京最強の大陰陽師である安倍晴明が張った結界に、まるで氷の張った湖に岩を放り投げたが如く、放射状の亀裂が広がっていく。

 

 ビシッ、ビシッと。

 二つ、三つと花が咲くように亀裂が数を増していく。

 

 公任と行成は、素早く晴明と綱の邪魔にならない位置まで下がる。紫式部は頭上の亀裂に意識を取られて動けなかったが、公任がその腕を掴んで強引に下がらせた。

 

 そして、紫式部が目を離せなかったその亀裂から――バリンッ、と、長い腕が突き出してきた。

 

「――ッ!?」

 

 どう見ても人のそれではなかった。

 形状は近い。五指があり、掌があり、そこから腕が伸びている。

 

 だが、その長さが尋常ではない。

 ずるずるとまるで蛇のように、関節すら存在しないかのように、宙を不気味に蠢いている。

 そして、数もまた、二腕ではなかった。

 三、四、五――夜空に走った全ての罅の中心点から、その長い蛇のような腕が、死体のようにか細く青白い腕が飛び出てくる。

 

 そして、その全ての罅が繋がった瞬間――空が、割れた。

 

 結界が完全に破壊される。

 まるでガラスのように破片が降り注ぎ、その意味を失ったベールの向こう側の光景が露わになった。

 

「素晴らしい。あの安倍晴明の結界をこうも容易く。流石は導師謹製の悪霊だ」

「こんなのこんなの私にだって出来るわ。調子に乗らないで欲しいわね」

「いいではないですか。我々では触れるだけで焼け爛れることになる。破ることは可能でしょうが、熱いし痛いではないですか。――こういうのは、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ふっ――と、そう言って笑う、鬼がいる。

 紫式部達から見て右側の塀の上に、扇を広げてほくそ笑む鬼がいる。

 

 人間のような、貴族のような豪奢な服を身に纏ってはいるが、体表は青く、頭部には二本の角が生えている。

 体つきは鬼にしては華奢だが、彼に続くように塀を乗り越えてきた五体の鬼――その中には彼より大きく、彼よりも遥かに体格がいい鬼もいたが――を見ても、紫式部は、あの鬼こそが、彼等を取り纏める首領格なのだと疑いもしなかった。

 

 それだけ、違う。放っている――妖気が違う。

 間違いなく大妖怪。『鬼』勢力の幹部に違いないと、紫式部のような陰陽術を僅かに囓った程度の術者にも理解出来た。

 

(……しかも、あの『鬼』に匹敵する程の存在が、少なくとも――)

 

 少なくとも――()()は、間違いなくそうだ。

 

「……相変わらず、胡散臭い鬼だこと。まぁ、いいわ。私は私の目的が、可能な限り簡潔に遂行出来ればそれでいいの」

 

 はっ――と、そう言って吐き捨てる、狐がいる。

 紫式部達から見て左側の空に、月明かりを反射させながら尾をたなびかせる狐が、天狗の背中に立って、人間達を見下ろしている。

 

 外見年齢は年若い。

 腰の辺りから飛び出ている尾は燃えているように赤く、そしてそれは印象的な瞳の色も同様だった。

 

 こちらを見据える彼女の瞳は赤く――けれど、とても冷たい。

 背に乗って足蹴にしている天狗に対してもそうだが、引き連れる他の四体の妖怪――化け提灯を、一つ目入道を、小豆洗いを、木魚達磨を見る目も、また一様に冷たい。

 

 とても恐ろしく整った美貌を有している分、その燃えるような尾と瞳とは対照的に、凍えるような印象を受ける。

 

 彼女こそは、今宵の『狐』勢力を率いる大妖怪。幹部の一体に違いない。

 

(……そして、ある意味では分かり易い彼等とは違う。……でも、彼等の口ぶりからして、晴明様の結界を打ち破ったのは――)

 

 右の『鬼』。左の『狐』。

 けれど、晴明は言っていた。

 

 今宵、来訪する妖怪は、『鬼』、『狐』――そして、『女』だと。

 

「………………」

 

 紫式部から見て真正面――その夜空に、巨大な女が浮遊していた。

 

 否、それは女と呼ぶより、女のような化物と呼称する方が正しい。

 それが持つ女らしさなど、その禍々しく伸びきった黒い髪と、死に装束のような着物、そしてその細く青白い腕だけなのだから。

 

 顔も見えない。死人のように白い面布によって隠されている。

 

(……そもそも、幽霊に顔などないのかもしれないけれど)

 

 そう――来訪した巨大な女は、正しく幽霊だった。

 おどろおどろしく強大だが――不思議なほどに希薄な存在感。足がなく、死人のように青白い肌。そして、何よりも強く感じる、何かへの強い執着。

 

(死して幽霊となったものは、速やかに成仏しなくては悪霊として物の怪となるといいますが……これほどまでに強大な悪霊といえば、かの菅原道真(すがわらのみちざね)公以来でしょうか)

 

 紫式部はちらりと、女の悪霊から目線を下ろし、その男を見る。

 何を隠そう、その菅原道真公を退治した者こそ――。

 

「――ようこそおいでくださいました。招かれざるお客人の方々」

 

 伝説の陰陽師――安倍晴明は、一歩前に立ち、錚々(そうそう)たる妖怪達に向かって言った。

 

「いや――人ではなく、(あやかし)、か」

 

 そう言ってにやりと笑う晴明。

 不敵な笑みに、『鬼』が、『狐』が、ざわりと敵意を露わにする。

 

 その化物の殺気に、紫式部や、修羅場に慣れている公任や行成も硬直する中、晴明は笑みを崩さず、真っ直ぐに――正面を見遣る。

 

「鬼の頭領も、狐の姫君も、文句なしの逸材を送り込んできたらしい。かの大妖怪達の今宵に対する意気込みが窺える。()()()()()、ここで私を、亡き者に出来たらと、そんな欲を感じるよ」

 

 晴明の挑戦的な言葉に、『鬼』と『狐』の配下の者達が飛び出しかけるが、それを幹部の二体が止める。

 それを晴明は一瞬見遣った後、再び真正面を――宙に浮かぶ巨大な女の霊を――否。

 

「それで――君は、どこの誰かな? お嬢さん」

 

 巨大な女霊――その彼女に、抱きかかえられるように。

 戦場となる土御門邸にやってきた、同じように真っ白な死に装束に面布をした、真っ直ぐ艶やかな黒髪の、『謎の女』を見据えて語りかける。

 

「……………」

 

 紫式部は、改めてその謎の女性を見た。

 どうしても巨大で禍々しい霊の方に目がいってしまうが、そんな彼女に抱きかかえられるように手の上に立つ彼女も、また異様だった。

 

 同じように幽霊かと思ったが、彼女の方は僅かに見える肌は青白くなく、また存在感も希薄ではない。足もある。

 

(……彼女は――生きている? ……それも――)

 

 晴明は、そんな紫式部の心中の疑問を代弁するように、鋭く言う。

 

「貴女は――()()。生きた人間、ですね?」

 

 返答を期待したものではなかったのかもしれない。ただの駆け引きで、揺さぶりで――正体不明の彼女の正体を知る為の、ほんの足がかりのつもりだったのかもしれない。

 

 だが、彼女は、女霊の手から地面へと――土御門邸の庭へと降り立つと。

 

 真っ白な面布の中から、思いのほかはっきりとした発音の――けれど、まるで血の通っていないかのような、無機質な言葉を発した。

 

「いいえ。私は死人――もう、長いこと、無意味に現世を揺蕩う、呼吸をしているだけの只の死人です」

 

 紫式部は、その声を知らなかった。

 きっと聞いたことはない。当然だ、あんな不気味な人物に会ったことなどないのだから。

 

 でも――けれど――。

 

(……この感情は……何?)

 

 聡明な彼女も理解出来なかった。

 誰よりも繊細に感情を表現する彼女にも、表すことが出来なかった。

 

 だけど――それでも――。

 

「あなたは……誰、ですか?」

 

 晴明と同じ言葉を、今度は紫式部が口に出していた。

 

 この大妖怪が集結する戦場において、己に注目を集める愚行の意味を理解していない紫式部ではない。

 だが、問わずにはいられなかった。知らなければならないと思ったのだ。

 

 彼女が何者なのかを。彼女の正体を――他ならぬ、この紫式部が。

 

 紫式部の問いに、初めて――正体不明の自称死人は、くすっと、笑った気がした。

 

「あなたは私を知っていますよ。――私はあなたを知りませんけど」

 

 そして、別に知りたくもない――そう言って、自称死人は、ゆっくりとその手を上げる。

 死に装束の袖が落ちて、垣間見えたその腕は、病的に細く、不健康に白い女のものだったが――体温と血液が通っていた、死に損なっている人間のものだった。

 

「お喋りはここまでにしましょう。よいですね? 『狐』のお嬢さん。『鬼』のお兄さん」

 

 人間の『女』の言葉に、『狐』の女が、『鬼』の男が返す。

 

「アナタが仕切らないで。部外者の人間が。殺すぞ」

「鬼のお兄さんっていうのは語呂がいいですね。出しゃばるな人間が。殺すぞ」

 

 吐き捨てるような『狐』の言葉にも、笑顔で脅す『鬼』の言葉にも――大妖怪の殺気にも、『女』は動じない。

 

「ご承知のこととは思いますが、我々の目的はあなた方『人間』の虐殺です。どうか速やかに死んでください」

 

 そして、自称死人は言った。

 

 背後に連れた女霊の代言か、それとも――何年間も思い続けた、溜め続けた己が怨念か。

 

 正しく――幽霊に、死人に、相応しい開戦の合図だった。

 

「この恨み――はらさでおくべきか」

 




用語解説コーナー⑦

・源氏物語

 紫式部によって紡がれた世界最古級の長編小説。

 光り輝く美貌と才を誇る光源氏による華麗なる物語という印象が強いが、その内容としては、手の届かない――否、手を伸ばしてはならないものに焦がれる一人の男が、その男が放つ強烈な魅力に惹かれる女たちを次々と不幸にしていく物語である。

 しかし、その予測不可能な展開と、魅力的な登場人物、何より紫式部による圧倒的な構成と緻密な心理描写は、時の天皇や貴族、宮廷女官たちを虜にした。


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妖怪星人編――⑧ 美しい華

なんと悲しく――なんて、惨い。


 

 土御門邸の最奥に位置するここは、道長と倫子――夫婦の寝室だった。

 正確には妻である倫子の寝室だ。女性の寝床に男が深夜、こっそりと訪れるのがこの時代の男女の逢瀬の作法であった。

 

 道長の寝床も屋敷には一応用意されているが、この時代の貴族の男は、毎夜毎夜、正妻やら側室やら、はたまた別の女の所を訪れては夜明けと共に帰っていくというのが常であるので、寝床として使われることは滅多にない。

 

 だからこそ、この土御門邸で道長が最も長い時間を過ごしたのは、この倫子の寝床といってよいだろう。

 

「……遂に、来ましたね。この時が」

 

 しかし、夜も更けきったにも関わらず、夫婦は横になってはいないどころか部屋には布団すら敷かれていない。

 身に纏っているのも寝着ではなく、先程までと同じ正装だ。

 

 当然である。夫婦が今宵、この部屋で行うべきは夜の営みではなく――裁判なのだから。

 

 藤原道長という男が、かつて犯してきた罪――そして。

 

「ああ。今宵、決まる。藤原道長という()が、ここで終わるか――それとも」

 

 その時、土御門邸に轟音が響き渡る。

 何かが破壊される音。衝撃。化物の――悲鳴。

 

 それは戦闘の余波であった。

 妖怪が、人間が、すぐそこで、同じ敷地内で殺し合っている。

 

 そして、それは見る見る内に近づいている。

 屋敷の最奥たるこの場所に。それは、人間が――妖怪に、押されているという証拠。

 

 守るべきこの場所に、守るべき人間――藤原道長の元へと、妖怪の脅威が迫っているという、紛れもない現実だった。

 

「すまぬな、倫子よ。義父上から譲り受けたそなたの生家を守り抜くことが出来なかった」

「ふふ、心にもないことをおっしゃらないでくださいな。今宵、この屋敷を失うこと――()()()()()()()()()()()でしょうに」

 

 倫子はそう言って寄り添う夫に向けて微笑みを向ける。

 そんな妻の言葉に、道長は小さく口元を緩めた――その時、一際強い轟音と共に、遂に寝床に明確な侵入者が現れた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!!」

 

 侵入者は、()()()()()()だった。

 

 陰陽師が使役する人影の式神にも似ているが、現れたそれはより禍々しく、よりどす黒かった。

 飢えた獣のような強烈な殺気を放つ影。ゆらゆらと、まるで陽炎(かげろう)のように揺らめいている。地獄の黒い炎が人の形となって顕現しているかのようだった。

 

 黒い影は――咆哮した。

 それはおよそ言語として成立しておらず、獣のそれともまるで異なる。

 

 威嚇として上げる唸り声でも、コミュニケーションとして発する叫び声でもない。

 己の内から湧き上がる、溢れ出す――怨嗟を。怨念を。ただただぶつける為だけに放つ砲撃のような咆哮。

 

 化物の――殺意。

 それを受けて、倫子は静かに瞑目し――道長は。

 

「…………亡霊め」

 

 男の細められた目は、恐ろしく冷たい。

 まるで、待っていないと――お前ではないと言わんばかりの、侮蔑しきった眼差しだった。

 

「この期に及んで、尚もみっともなく足掻くか。どこまでも私を失望させる男だ。一族の――面汚しめ」

 

 道長の声が聞こえたとも、ましてや理解出来たとも思えないが、黒い影は道長に向かって、再び怨嗟の咆哮を上げる。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!!」

 

 そして、両手を前に伸ばし、道長に向かって一目散に駆け出して――そのまま大きく弾かれた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!!」

 

 黒い影は無様に背中から倒れ込む。

 道長はそれを冷たく見据えながら「夫婦の寝床に土足で踏み入れようとは。無礼者め」と吐き捨て――そして。

 

「いや、お主に礼儀というものを求める方が間違っていたか。自らの愚行で父の威光を貶め、妹の家に逃げ込み、母を道連れにし、弟に見捨てられた、貴様のような男に何かを期待した、この私が愚かであった」

 

 黒い影は、結界に触れた影響からか痺れるようにラグのようなものが走っている己が体を、這いつくばるような体勢からゆっくりと起こす――と、道長はちょうど黒い影が、膝と両手が着いた体勢の、まさにその瞬間を、狙いすましたように。

 

「――伊周(これちか)よ」

 

 これまで氷のように冷たかった口調に、ほんの僅か、愉悦を意図的に混じらせて、言った。

 

「私は、摂政になったぞ」

 

 それは、生前――摂政の長男として生まれた藤原伊周(ふじわらのこれちか)という男が、終ぞ手に入れることが出来なかった権力の頂点であった。

 

 目の前の男に、阻まれ、奪われた未来だった。

 

 黒い影は、今度はラグではなく、別の何かで体を震わせ――黒い身体を、陽炎(かげろう)のように揺らめかせる。

 

 そして、着いた両手で、土御門邸の木張りの床を握り砕いた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!! ミィィィィィチィィィィィナァァァァァァガァァァァァァァァああああああああああああああああ!!!!!」

 

 再び、黒い影は、立ち上がり、駆け出し、己を阻む結界へと手を伸ばす。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!!」

 

 真っ黒な五指を突き入れ、ゆっくりと、結界を強引に押し開こうとする。

 何度も全身にラグを発生させ、火花のようなものを撒き散らしながらも、黒い影は――伊周と呼ばれた亡霊は止まらない。

 

 藤原道長への、殺意を止めない。

 

 道長も、伊周がどれほど己に近づこうとも、それでも両腕を組んだまま、その冷たい眼差しを注ぐことを止めない。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!! ミチナガァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 そして、伊周は――遂に最後の結界を打ち破る。

 黒い身体は既に満身創痍で、今にも消えてしまいそうな風前の灯火のようであった。しかし、その黒い炎は蝋燭の最後の輝きが如く、黒く燃えたその手を道長へと伸ばす。

 

 黒い五指が、道長の首へと届きかけた、その瞬間――突如として現れた新たな影によって、伊周の亡霊は紙のように吹き飛ばされた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!! ミィィィチぃぃぃなぁぁぁぁ……………が………」

 

 吹き飛ばされた黒い影は、黒い炎をみるみると失い、やがてそこには、ボロボロの狩衣を纏ったやせ細った男がいるのみだった。

 

 かつては端正であったろう顔は失った顔色と痩けた頬によって見る影も失い、ただ爛々と燻り続けた殺意だけが瞳の中に宿っていた。

 

 道長の名を呟き続け、血走った黒い瞳で仇敵を睨み続け、その枯れ枝のような腕を伸ばし続けていたが、ただラグが走るばかりで、既に身動き一つ取れないようだった。

 

「………………」

 

 そんな哀れな男を冷たい眼差しで一瞥し、道長は己を救った者に目を向ける。

 

「よくやった。香子」

 

 そこには息を大きく荒げた紫式部がいた。

 人型の式符を右手の人差し指と中指で挟んで構えている彼女は、息を整えると「お、お逃げ下さい! 道長様! 倫子様!」と普段の作法も忘れて懇願する。

 

「落ち着け。状況を説明せよ」

 

 紫式部は、己が式神が吹き飛ばした伊周を――伊周の亡霊を見遣ると、歯噛みし、道長夫妻の元へ駆け寄りながら言う。

 

「……晴明様が『狐』を……渡辺綱様が『鬼』の勢力をそれぞれ相手取りましたが、両勢力が送り込んできた刺客は、どちらも恐ろしい手練れの大妖怪でした」

「それで? まさか、あの二人が敗れたのか?」

 

 道長の言葉に、紫式部は首を振った。

 だが、その表情は暗く、俯くようにして続きを語る。

 

「……いいえ。ですが、お二方とも、それぞれを相手するのに手いっぱいといった様子でした。……そして、今宵、この土御門邸を来襲した妖怪は、晴明様が事前に予言なされたように、『狐』、『鬼』――それだけでは、なかったのです」

 

 その時、再び衝撃が、紫式部の背後から――倫子の寝室の入口から響いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「これでよかったのか――晴明殿?」

 

 場所は戻り――土御門邸庭内。

 

 艶やかな黒長髪の武士(もののふ)――渡辺綱は、その長刀を構えながら、背中合わせに立つ陰陽師へと言葉を投げ掛けた。

 

 対して、白狩衣に烏帽子の陰陽師――安倍晴明は、その両手を袖口に仕舞い込んだ体勢のまま、薄い笑みを持って返す。

 

「はて、何のことですかな?」

「誤魔化さないでいただきたい。あの女霊と術師を()()()見逃したことです。紫式部殿だけでなく、行成殿や公任殿も泡を食っておいでだった。彼等も聞いておらぬことなのでしょう」

 

 ぐぁぁあああ、と、獣のような咆哮を持って、満身創痍の小鬼が綱に向かって襲い掛かる。

 それを綱は見向きもせずに斬り捨てながら、晴明に向かって言った。

 

「あなたはいつもそうだ。そちらの方が()()()と思ってのことなのでしょうが、大丈夫なのですか? 今宵に限っては、金時は勿論、我が主も居らぬのですよ」

「そうは申しつつも、こうしてあっさりと乗ってくださったではありませんか」

「これまでの付き合いを踏まえての信用です。あなたは事態を()()()()()()()()()()()()()()()()()という。それで、どうなのです。紫式部殿も行成殿も公任殿も奴等の後を追いました。そろそろ私を真に安心させてはくださりませぬか」

 

 ぐはぁぁぁああ、と、晴明に向かって腕を振り下ろそうとしていた天狗が、突如として血を吐いて倒れ伏せた。

 未だ両手を袖口に仕舞い込んだままで、晴明は笑みを崩さぬまま言う。

 

「では、存分にご安心なされよ。道長様にも、此度のことはお話してはおりませぬが、あの方はこうなることは予見しておいででしょう。それに――それなりの隠し玉も、ひっそりと忍ばせています。最悪の事態にはならないことは、この晴明が約束いたします」

 

 我々は今宵の主役ではありません――そう言って、晴明は笑う。綱は、背中合わせでその笑顔を感じ取った。

 

 きっと、この全てを見透かす陰陽師は――いつものあの笑顔を浮かべているのだろう。

 

 いつものように――何も映していない瞳で。

 

「今宵の主役は、陰陽師でも武士でもない。妖怪でもない。『女』と――そして、『男』です」

 

 だからこそ、ここいらでお帰り頂けませんか――と、陰陽師は、そこで初めて、背後の綱ではなく、目の前に立つ存在に向かって語り掛ける。

 

 そこには、倒れ伏せ、今にも消えてしまいそうな――五体の妖怪と。

 片腕をだらりと下げて口端から血を流す、燃えるような瞳の妖狐がいた。

 

「……………くそ、クソ、クソがぁぁぁぁぁあああ!!!! ふざけるな……ふざけるんじゃないわよっ、安倍晴明ぇぇえええええええええ!!!」

 

 妖狐は怒り狂っていた。

 初めは大したことないと思った。伝説は所詮、伝説なのだと。大袈裟に尾鰭が付いているだけなのだと。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()自分からすれば、大したことのない若造なのだと。

 

 事実、開戦当初は優勢だった。こちらが繰り出す攻撃にまともに反撃も出来ずに、目の前の陰陽師は防戦一方だったのだから。

 

 それが、どうだ。

 あの女霊達が一足早く屋敷内へと侵入し、後を追うように三人の人間達がいなくなった瞬間――こちらの手勢が瞬殺された。

 

 そして、それは、向こう側の『鬼』達も同様だった――。

 

「……なるほど。だからこそ、こちらには私だけで十分だと仰ったのか。……確かに、これだけの仕事ならば、我が主は勿論、他の四天王も不要でしたな」

 

 長刀に付着した血を振り払いながら呟く渡辺綱の眼前には、五体の鬼の死体が転がっていた。

 

 その中には図体の大きさだけならば巨鬼といって差し支えない化物もいたが、見事に右胸から先が胴体から切り離されて――斬り伏せられている。

 

「……は、はは……まさか、これほどとは……なるほど。我らの頭領が、なかなか全面侵攻を決断なされない筈だ……」

 

 そして、こちらの鬼もまた、片腕を失っていた。

 身に纏っていた風流な着物もボロボロになり、扇子を振っていた左腕は肩の付け根の先から存在していない。残った右手で肩口から流れ出る血を押さえているからか、口から盛大に吐き出す血はそのまま土御門邸の庭を汚した。

 

「晴明様の言葉は聞いたか? どうする、鬼。ここで帰るなら見逃してもいい」

「がはっ。……はは、面白いことを言う。かつての戦乱において――あなたがた人間は、あれを『大江山の鬼退治』と呼んでいるのでしたか――誰よりも鬼を狩ったあなたが、随分とお優しいではないですか。あの時の貴方は……我々を含めて……()()()()()()()()()()()と評判ですよ……くく」

「…………」

 

 幹部の鬼の言葉に、綱は表情を失くし、無言で鋭く長刀を振るう。

 それを、片腕を失った鬼は後ろに大きく飛び去ることで回避し、当初の位置取りである塀の上へと降り立って、くつくつと笑う。

 

 晴明は背中越しに「まともに言葉を聞いてはいけませんよ。あれこそが、あの鬼の真骨頂ですから」と忠告する。

 

「――天邪鬼(あまのじゃく)

 

 晴明の呟きに、片腕を失った鬼は笑みを消した。

 

「仏教においては煩悩を表す悪鬼とされる鬼です。人の心を察し、読み取り、悪戯をする妖怪とされていますが、天邪鬼――天の邪魔をする鬼。そんな異名を持つ鬼がその程度の小物の筈がないとは思っていましたが、まさか『鬼』勢力の幹部にまで上り詰めているとは。頑張りましたね」

「……ふふ。かの安倍晴明にそこまで知られているとは、こちらこそ光栄ですよ」

 

 風流な着物に身を包んだ隻腕の鬼――天邪鬼は、再び綱へと目線を戻して語る。

 

「いえ、それもこれも、全てはあなたのお陰なのですよ、鬼狩り――渡辺綱。かつての戦乱で我々『鬼』はだいぶ酷い目に遭いましたからね。上層部が一新された。だからこそ、私のような小物も恩恵に預かれたのです」

「……そのようだな。あの鬼の頭領も、随分と人手――いや、鬼手不足のようだ」

 

 渡辺綱は長刀の切っ先を天邪鬼に向けながら「確かに、この小鬼共に比べれば多少は強いのかもしれないが」と、己よりも遥かに巨体の鬼を足蹴にし、淡々と言う。

 

「かつての大江山には、お前程度の鬼はぞろぞろと居た。お前程度でも幹部になれてしまうほど、今の『鬼』は弱いらしい」

「…………」

 

 天邪鬼は笑みを固めたまま、塀を降り、庭に降り立って綱に言う。

 

「…………確かに、私はあの方よりも弱いのでしょうね。あなたが斬り、あなたが倒した――かの『茨木童子(いばらきどうじ)』よりは」

 

 そう言って、天邪鬼は左肩口を押さえていた右手を外し、その指を綱へと向ける。

 

「その長刀『髭切』――否、今はかの鬼を斬ったことで、『鬼切』と呼ばれているのでしたか。正に鬼を斬る為にあるような、あなたに相応しい刀だ。ご丁寧にあの方とお揃いの隻腕にしていただけるとは……まことに、まことに――光栄の至り」

「………………」

 

 己の左肩口から血が噴き出るのも構わず、天邪鬼は綱を、そして妖刀『鬼切』を指差しながら、一歩、一歩と綱に向かって近づく。

 

 そして、その笑みが極限まで深まると、その口端が――更に深く、裂けた。

 

 顔だけではない。

 目も、耳も、顔も――体も、更に醜悪に、更に巨大に変貌していく。

 

「けれど、それでは――()()()()()

 

 いつの間にか、肩口からの出血は止まっていた。

 隻腕のままではあるが、青かった身体を血のように赤く変化させ、全身を膨張させて、凶悪に強大に変貌させながら、綱を指差し、べらべらと喋り続ける。

 

「ええ、ええ。お言葉に甘えて、今日の所は帰らせていただくことにしましょう。私はあなたよりも、茨木童子(あのかた)よりも弱い。……けれど、()()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけは覚えていただきたい――ので! せめてそれだけは示させていただく。それを持って我らが頭領への土産とすることにしましょう」

「ほう? どうやって?」

「その刀。我らを屠る為に存在するような――妖刀『鬼切』」

 

 見るも醜悪な姿を――本性を露わにした天邪鬼は、残った右手を、綱を、刀を、指差し続けていた右手の五指を広げて、グッと虚空を握り潰す。

 

「その刀――今宵、()し折らせていただく」

 

 瞬間――天邪鬼と渡辺綱は、同時に踏み出した。

 

 それをちらりと確認すると、安倍晴明はゆっくりと一歩を前へ――満身創痍の狐へと踏み出した。

 

「さて、『鬼』はそういった結論を見せたようですが、あなたはどうします? 『狐』の遣い」

 

 陰陽師は歩を進める。

 未だ両手を袖口に隠し、薄い笑みを浮かべたまま――まるで、遊ぶように楽しそうに。

 

 対して、燃えるような尾の妖狐は、思わず後ずさっていた。

 たかが人間に、たかが人間と侮っていた相手に対して、怯えるように。それに気付き、妖狐は思わず歯噛みし、叫んだ。

 

「何なんだ――何なのよ、お前はッ!?」

 

 妖狐はだらりと負傷した右腕を押さえながら、己に近づいてくる陰陽師を睨み付ける。

 それは妖怪が人間に向ける目とはまるで思えない――化物を見る瞳だった。

 

「どうしてお前のような奴がいるの!? どうしてお前のような奴が――()()()()()()()()()()()()ッ!?」

「不思議な物言いですね。まるで、昔に私のような奴に会っているかのような口ぶりではないですか、妖狐――いや」

 

 ()()()()()()()()()()()()――そう言って、晴明は笑う。

 楽しそうに――何も映していない瞳で。

 

 対して、陰陽師の言葉を聞いた妖狐は――否。

 狐の振りが上手い女は、瞠目する。

 

「……どういう意味? どういう意味で、それを――」

「いや、なに。君が私のような誰かと会ったことがあるように、私も昔、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それだけの話ですよ。――私の記憶の中のあなたは、そのような似合わない尾ではなく、美しい角を持っていた、強く、怖い女だった」

 

 その時、晴明は袖口に突っ込んでいた手を出した――その右手には、一つの巻物が握られていた。

 

 絶句する妖狐に見せつけるように、晴明はその巻物を両手で開く。

 そして言う。楽しそうに、面白そうに――何も映さない冷たい瞳で。

 

「さて、今は――(すず)と、そう名乗っているのだったか。私のこの記憶が確かならば、あれからおよそ二百年以上……流れ、彷徨い、そのような姿に成り果てて……遂には『狐の姫君』なんぞに膝を着いたと。なるほど、まさしく身も心も化物と成り果てた――妖怪に相応しい執念だな」

「……お前………貴様、まさか――っ!?」

 

 鈴と、そう呼ばれた妖怪は、再び一歩、後ずさる。

 妖怪よりも余程恐ろしいものを見たといわんばかりの表情で――だが。

 

 陰陽師はそんな妖怪に向かって、小さく、けれどはっきりと言った。

 

「一つ教えよう、鈴とやら。()()()()()()()()()()()()()()()()()()――それは確かに、()()()()()()()()()()()()

「ッッ!!!」

 

 そう、陰陽師が発した直後――巻物が強烈に発光した。

 

 真夜中の暗闇を切り裂いたその閃光は、鈴の視界を白く焼き――そして。

 

 再び鈴が視力を取り戻した――その時。

 

「っっっっっっっ!!!!」

 

 鈴は絶句し、驚愕し――()()()、そして。

 

「――――ぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!!」

 

 ()()()()()()()()()

 だらりと動かない右腕を千切り、そこから炎の腕を生やし、煌々と燃える尾を、二本、三本と増やして。

 

 爪を鋭く伸ばし、口腔内に火を閃かして、そこから目の前の陰陽師への呪詛を発する。

 

「安倍晴明……いや、貴様は――貴様はッッ!!!!」

「……ふふ、やはりか。やはり、お前はアイツか。……そうか、お前も参加するのか。この妖怪大戦争に」

 

 ()()()――そう呟いた陰陽師は、己の横に出現した、召喚した『()()』を見上げる。

 

 その仏像は――無数の腕を生やしていた。

 一腕、一腕に多種多様な武具を持ち、表情もいくつもの感情を表す顔面が用意され、不気味に闇夜に佇んでいる。

 

 面影など――ある筈がない。

 だが、鈴には、一目で分かった。

 

 ずっと求めていた。何度も諦めかけた。けれど捨てきれなかった。

 鈴にとってそれは生きる為の――この世に求める、全てだったから。

 

 だからこそ驚愕し、歓喜し――そして、そして、そして。

 

 燃えるように、激昂するのだ。

 

「っっ……ぁぁ……ぁぁぁぁああああアアアアアアアアア!!! やはり…………ッ! お前ら『人間』は――何年経とうが、何百年経とうが変わらぬ化物だッッッッ!!!」

「……お気に召したようだな。()()の、とっておきの()()は。お前も本望だろう。コイツの手に掛かって死ねるのならば」

 

 同じ所には逝けないかもしれないが――その言葉に、鈴は己の中の一線が切れるのを感じた。

 

 尾――だけではない。

 全身が包まれるように発火する。その炎の色も、煌々とした橙ではなく、見る見るうちに冷たい青色へと変化する。

 

 自分自身をも真っ黒に燃やす青い炎。

 黒く燃えていく人型の額には――天に向かって真っ直ぐに伸びる、()()()()()()()()()()

 

「……やはり、美しい」

「――――カエセ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――狐の振りが上手かった女が、全てを燃やしながら陰陽師に向かって特攻する。

 

 そして――陰陽師が、にやりと笑うと。

 人間と妖怪の間に入るように、一体の仏像が割り込んだ。

 

 そして、無数の腕の中の一本が、宝剣を握り込んだ腕が振り上げられ――青い炎に向かって振り下ろされる。

 

 燃え盛る青炎の中で、化物が涙を流したように見えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そこに居たのは、一人の女――そして、巨大な、消えない怨念だった。

 

 紫式部は思わず目の前の道長に縋りつくように抱き着く。

 道長はそんな紫式部を引き剥がすでもなく、ただ小さく――笑っていた。

 

「……ふっ、晴明め」

 

 そこには、自身を守るように言いつけたものが務めを果たせなかったことを責めるような響きはなく、まるで友人のいたずらを面白がるといった口ぶりだった。

 

 紫式部は道長の呟きにより我に返り、己の体勢と、そして奥にいる倫子の微笑みと目が合ったことにより、素早く身を離し、倫子と、そして道長に向かって叫ぶ。

 

「み、道長様! 倫子様! お早く! ここは私が食い止めます!」

「無駄だろう、香子。お前がどれほど陰陽術を使えるかは詳しくは知らぬが、晴明や綱が止められなかったものを止められるとは思えぬ」

 

 そう言いながら、道長は紫式部の肩を抱いて、そっと脇へと追いやる。

 真正面から侵入者と向き合った道長は、威風堂々と、一歩、彼女らに向かって歩み寄りながら言った。

 

「今宵は客が多い夜だ」

 

 歓迎しよう――そう言って、両手を広げて道長は歓待する。

 

 死装束の女は、そんな道長に対し――小さく歯噛みし、左手を振るった。

 

「――ッッッッ!!! ミチナガァァァァァァァアアアアアア!!!」

 

 すると、まるで息を吹き返したかのように、全身にラグを走らせる伊周が、錆び付いた機械のような挙動で、無理矢理動かされているかのように立ち上がる。

 

「っ!」

 

 紫式部はすぐに動いて、再び式符を指に挟んで、新たな黒い人影を召喚し、伊周に差し向けた。

 

「ガァァッ!!!」

 

 が――壊された。

 一瞬だった。一挙だった。

 たった腕の一振りで、紫式部が差し向けた式神は、伊周に文字通り片手間で破壊された。

 

(ッ! やはり、これほどの悪霊には、私の式神など不意打ちでなければ……これほど呆気なく……)

 

 しかし、紫式部にはこれしか出来ない。

 あの程度のレベルの式神を、それも一体しか、それも連続では出せない。

 

 これが現実。これが――戦場。

 紫式部程度の実力では、一瞬しか時間を稼ぐことが出来ない。

 

 それが、残酷なまでの戦場のリアルだった。

 

「ッッ!! 逃げてください!! 道長様ッ!!」

 

 それでも――この人だけは、死なせないと。

 紫式部は道長を庇うように前に出て、両手を広げて立ち塞がる。

 

 思い切り目を瞑り、迫りくる死の恐怖に身を震わせながらも――ただ。

 

「――いや。よくぞ、一瞬を稼いだ。大義だ、紫の君」

 

 空気を切り裂き――突き刺さった。

 

 紫式部の靡く髪を背後から貫き、そのまま腕を振り上げていた伊周の額を、飛来した矢が射抜いた。

 突如として現れた真っ白な矢が――道長の、そして紫式部の命を救ったのだ。

 

 紫式部が、道長が――そして、謎の死装束の女が、倒れゆく伊周になど目もくれず、真っ直ぐにその射手へと目を向けた。

 

 それは紫式部や死装束の女とは違い、別の部屋を経由してこの場所へと辿り着いた者達だった。

 この屋敷の構造を熟知した者だからこそ分かる最短経路――道長と共に歩んできた年月が、彼等を一瞬先の未来へと送り届けた。

 

 紫式部が稼いだ一瞬が作り出した可能性を、掴み取ることが出来るこの未来へと。

 

「公任様! ――それに」

 

 矢を射たのは、簡素な白い弓を携える藤原公任だろう。

 そして、この場に辿り着いたのは、公任だけではなく――。

 

「ミチ――ナ――ガァァァァア!!!」

 

 躊躇なく、そして容赦なく。

 白い儀式用の宝剣を振り上げ、そのまま鋭く振り下ろす。

 

 藤原行成――その瞳は鋭く、消えゆく黒い魂を見据えていた。

 

「ァァ――ぁぁぁ――ちち――うえ――――」

 

 その断末魔は、あまりに小さく、惨めだった。

 伊周の亡霊は切り裂かれた傷口から黒い靄を噴き出し、涙を流すように瞳から黒い水を一筋垂らすと――そのまま塵のように風に吹かれて消えた。

 

 一時とはいえ、権力の頂点に指を掛けた貴人とは思えぬ――生前と同様に、目を背けたくなるような哀れな末期だった。

 

「………………」

 

 紫式部は思わず目を伏せ、倫子は静かに瞑目する。

 公任は冷たく、行成は無表情で――そして、道長は。

 

「――――」

 

 生前の仇敵とはいえ、仮にも甥に向ける者とは思えぬような、侮蔑しきった瞳であった。

 紫式部はそれを見て思わず息を吞む――だが、そんな道長の瞳を見ていたのは、紫式部だけではなかった。

 

 死装束の女――巨大な女霊を引き連れた侵入者。恐らくは伊周の亡霊を差し向けたと思われる、白い面布の謎の女は――自称死人は、道長に向かって淡々と問い掛けた。

 

「――先程、この部屋の外にて、面白い話が聞こえました。藤原道長様――あなた様は先ほど、伊周様に向かってこう言いましたね。一族の面汚し、と」

 

 道長は己に掛けられた言葉に――その面布の下から聞こえる、()()()()の声色に、小さく口元を緩ませ、歪ませて、また一歩、踏み出して答えた。「――ああ。確かに申した」と。

 

「それがどうかしたかな?」

「いえ、ですから面白い話だと言ったのです。……誰よりも一族を乱し、蹴落とし、踏み台にしてのし上がったあなた様が――お前が、それを言うのかと」

 

 その時、死装束の女の背後に浮かぶ巨大な女霊が――啼いた。

 世界を揺るがす悲鳴のようだった。伊周も人とは思えぬ咆哮を放っていたが、あれが地の底から響くようなそれだとしたら、女霊の叫びは天より振り下ろされる豪雨のようだ。

 

 思わず無条件に跪つきたくなる――()()()()()()

 だが、己の耳を塞ぐ紫式部の前に立つ道長は、揺らぐことなく彼女らと対峙した。

 

「夫婦の寝室に踏み込む無礼者? はっ――この世で最も神聖な場所に土足で踏み込んだあなたが、よりにもよってそんなことを言うの? 滑稽ね。そして心底――穢らわしい」

「ふっ。お主こそ、随分と言葉が汚くなっているぞ。とてもではないが、()()()()()()()()()()が放つ言葉とは思えぬな」

 

 死装束の女が、面布越しでも分かる程に表情を歪ませて、右手を大きく振り上げる。

 

 その動きに反応したのは、白き弓を引く公任と、白き剣を構える行成――だが、そんな二人を死装束の女は滑稽と笑う。

 

「あなた方は陰陽師でも武士でもないでしょう。藤原公任様、そして――藤原行成様。先程はたまたま不意打ちが上手くいったに過ぎない。例え、日ノ本最強の陰陽師お手製の呪装具だとしても、使い手がただの貴族ならば、分不相応、文字通り宝の持ち腐れというものです」

 

 そんなものが通用するとでも――そう言わんばかりに、死装束の女は狼狽えない。

 むしろ余裕を見せつけるように、再び女霊の咆哮が迸る。

 

 紫式部だけでなく、行成も、そして公任も、構えは解かないまでも、彼女の言葉を否定できないのか、思わず一歩後ずさってしまう。

 

 それを見て、自称死人は言う。「――終わりです、藤原道長」と。

 

「あなたに摂政などは似合わない――相応しくない。そんなものは、この私が許さない」

 

 この恨み――晴らさでおくべきか。

 そう唸るように呟き、死装束の女が振り上げた右手を振り下ろそうと、した――正に、その瞬間。

 

「その、恨みというのは――誰の恨みだ?」

 

 摂政の地位に上り詰めた、人臣最高位――この国の頂点に昇り詰めた覇者が。

 

 真っ直ぐに、揺れずに、ぶれずに――射貫くように。

 白い面布に死装束の、自称死人に向かって――そして。

 

「さきほど散々無様に喚いて散っていった伊周か? ――それとも」

 

 文字通り、見下ろすように。

 虚空に浮かんで揺蕩い、人々を――現世を、見下ろすように顕現している悪霊に。

 

 この平安京の、貴族の陰謀渦巻く世界の怨念を、全て凝集したかのような、醜悪極まる化物に向かって。

 

 笑みを消し、まるで責め立てるように――罪を突き付けるように、言った。

 

「ここにおられる、かの一条帝の中宮であらせられた、一条院皇后宮――」

 

――『定子』様のものか?

 

 時が、止まったかのようだった。

 自称死人の右手は、ピタリと振り上げられた状態のままで固まり。

 

 行成も、公任も、思わず一瞬だけ道長を振り返り、そのまま宙に浮かぶ女霊を見上げた。

 

「………………ッっっ!!」

 

 紫式部は、絶句した。

 かの()()()()()――藤原定子(ふじわらのていし)のことは、勿論知っている。

 

 直接見掛けたことはない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()()

 

 それは――つまり。そして、だからこそ。

 

 定子だと、この巨大なる怨念の塊の正体が、かの伝説の中宮だと言われて。

 

 紫式部は思わず――納得、してしまった。

 

(…………ああ。もし、そうならば――)

 

 納得し、そして同時に、悲しくなった。

 確かに悪霊となるに相応しい未練と、怨念と――恨みが、あっただろう。

 

 平安京に、宮中に、そして――藤原道長に。

 

 この恨み、晴らさでおくべきか――だが。

 

 直接見掛けたことのない紫式部にすら、藤原定子の伝説は伝わっていた。

 

 誰よりも賢く、誰よりも強く、誰よりも大きく――そして、誰よりも美しい中宮だったと。

 そんな彼女と誰よりも比べられたであろう、紫式部の主――他でもない藤原彰子からも、かの中宮を讃える言葉しか出てこなかった。

 

 そんな、伝説の中宮が。

 誰よりも讃えられ、誰よりも尊敬された、美しい女王――そんな、藤原定子の、その末路が。

 

「■■■■■■■■■――――!!!」

 

 こんな恐ろしく、こんなに禍々しく、こんなにも醜い――化物だなんて。

 

(………………それは、なんと悲しく――なんて、惨い)

 

 バァン! ――と。乾いた音が響いた。

 それは聞いたことない轟音だった。何かが破裂したかのような、力が抜ける――魂が抜かれるような、呆気なく、けれどとても恐ろしい響き。

 

 それは、紫式部の背後から聞こえた。

 耳鳴りのような響きが今も続いている。嗅いだことのない匂いがした。

 

 紫式部は、ゆっくりと振り返る。同様に、行成と公任も、その男を見ていた。

 

 藤原道長は――見たことのない武器を、その右手で構えていた。

 見たことのない武器――()()()()()()()()()

 

 光沢のある筒、その先端から煙が出ている。

 嗅いだことない正体不明の匂いもそこから発しているようだった。

 

 紫式部に分かったのはその程度だ。

 だが、もし、分かる人が見たら――()()()()()()()()()()()()、一目で看破しただろう。

 

 その正体は――()

 この時代にある筈のない、存在してはいけない――兵器だった。

 

「――それとも」

 

 味方の筈の人間達からすら瞠目され、絶句されている覇者は。

 

 ただ一人、瞑目する背後の妻を見遣ることもなく、真っ直ぐに、目の前の女を冷たく見据える。

 

 はらりと、白い面布が落ちた。

 道長の『銃』が撃ち抜いたのは、彼女の正体を隠す――己を死者とする為の、白い面布。

 

「他でもない――お主の恨みか?」

 

 艶やかな黒髪の付け毛も落下し、女の本来の髪が――癖のある、忌み嫌った醜い髪が晒される。

 露わになったその顔には、小さく一筋の血が垂れていた。

 

 まるで血の涙を流しているかのようにも見えるその顔に――公任は絶句し。

 

「……………ッ!」

 

 行成は、まるで心臓を貫かれたかのように、表情を歪めた。

 

 紫式部も、息を吞んだ。

 定子と同じく、紫式部は会ったことはなかった。見たこともなかった。

 

 紫式部が宮中の世界へ足を踏み入れた時――彼女もまた、定子と同じく、伝説の存在となっていたから。

 

 だが、紫式部にとって彼女は他人ではなかった。

 本人が不在でも闊歩する伝説に、何度も打ちのめされ、打ちひしがれて――何度も、何度も、嫉妬した。

 

 紫式部にとって彼女は、伝説で、気に食わない怨敵で――何よりも、憧憬で。

 

 だから、初めて見る顔でも、紫式部は分かった。

 

 彼女の正体は――。

 

「――久しぶりだな、()()()()

 

 真っ白な死に装束に、真っ赤な血を垂らす女は。

 

 自称死人――清少納言(せいしょうなごん)は、道長の言葉に何も返さず。

 

 ただ静かに、血に塗れた拳を握っていた。

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 美しい、華をみた。

 途方もない、華をみた。

 

 かの御方は輝いていた。かの御方は華やいでいた。

 この世の何よりも美しく、煌びやかだった。

 

 かけがえのないわが主――あの御方と過ごした華麗な日々。

 いつまでも咲き誇り、いつまでも枯れることはないと、愚かなわたしは当然のように信じ込んでいた。

 

 華はいつか枯れるのだと、栄光はやがて翳るのだと、それがこの世の定めなのだと。

 

 あの御方は理解していた。だからこそ、誰よりも気高く戦った。

 それをわたしは誇りに思う。あの方は最後まで美しく、強い、最上のあるじでした。

 

 だからこそ――これはわたしの恨みだ。

 いつまでも晴れぬ、決して消えぬ、果たされることのない――醜き恨み。

 

 あの御方は恨まなかった。あの御方は決して憎まなかった。

 あの御方は、最後まで、誰に対しても呪いを掛けなかった。

 

 だけど――わたしは――。

 

 これが、あの御方の意に沿わない行いなのだとは分かっている。

 このようなこと、決してあの御方は望まない。

 

 それでもわたしは――もう、この渦巻く怨念を、抑え込むことは出来ない。

 

 あの『枕』によって、美しい『華』として残せる筈だったあの御方を――『悪霊』と貶める愚行だと理解していても。

 

 ああ――お許しください。中宮様。

 

 いえ――どうか、許さないでください。

 

 なので、どうかもう一度――このわたしを叱ってください。

 

 どうか、どうか、もう一度、わたしの前に現れて、愚かなわたしを、笑ってください。

 

 もし、それが叶うなら――わたしは。

 

 

 わたしは――。

 




用語解説コーナー⑧

・髭切

 源頼光の父である源満仲から頼光へ、頼光から綱へと託された源氏の宝刀。
 試し切りで罪人の遺体の首を落とした際に、髭まで一緒に切り落としたとされる伝説からこの名がつけられた。

 坂上田村麻呂が鈴鹿御前と剣合わせをした刀であり、その後、それがとある男の手によって満仲へと渡り、現在の持ち主にまで流れ着くに至った。

 かの「大江山の鬼退治」の末期において、京の羅生門の前で渡辺綱がこの髭切によって茨木童子の右腕を斬り落としたことにより――鬼を滅ぼす妖刀『鬼切』となった。


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妖怪星人編――⑨ 香炉峰の雪

――ああ。私は、この御方に出会う為に生まれてきたのだ。


 

 清少納言(せいしょうなごん)――そんな身に余る呼び名を頂く前の彼女は、平安京の片隅でひっそりと暮らす、ただ浄土に憧れるだけの、どこにでもいる救い難き愚か者であった。

 

 ここではない場所、どこか遠い理想郷に憧れる、ありふれた夢見る女子(おなご)であった。

 

 彼女は平安でも指折りの歌人・清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘として生まれた。

 歴史に名を残す偉大なる父を尊敬していた――だが、そんな父が時折みせる、とある顔が、彼女はとても嫌いだった。いや、分かり易く――恐れていた。

 

 元輔は穏やかで優しく聡明な父ではあったが、歌の評判とは裏腹に官位に恵まれない男だった。

 毎年の春、朝廷で官職が発表される季節になると、いつもはユーモア溢れる父親の顔が、険しく、冷たく――抜け落ちたかのように、無になるのだ。

 

 幼少の頃より聡明だった少女は、その瞬間が何よりも嫌いだった。

 尊敬する大好きな父親が、まるで妖怪のように変化(へんげ)する瞬間――欲する華へと手を伸ばして、届かない絶望に染まる瞬間。

 

 自分など及びもつかない程の才覚を誇る父ですら、本当に欲しいものは手に入らない。

 それは余りにも無情で、救いのない話であるように思えた。自分はそんな救いのない世界にいるのだと、とても悲しいくてたまらなくなるのだ。

 

 そんな幼少期を過ごした彼女は、いつからか完成された理想郷を求めるようになった。

 

 誰しもが救いを受けられる理想郷、美しく完璧な世界――そんな浄土を語る仏の教えに、耳を傾け続ける日々を送っていた。

 

 だが、それほど熱心に浄土に憧れていながらも、彼女は出家し世を捨てることはしなかった。

 彼女を現世に引き留めるのは、いつだったか父が、ぽつりと零した、とある一つの言葉だった。

 

 妖怪へと堕ちてしまうのではないかと、恐ろしいまでに強く官位を欲しがる父に対し、幼き少女はある日、たまらずに問うたのだ。

 

 どうして、そこまで――と。

 

 父は、たった一言、痩けた頬を震わし、こう答えた。

 

「――(はな)が、みたいのだ」

 

 それは、彼女という人間の心に深く刻みこまれた根源となった。

 

 あの父が、あそこまで求めた――華とは、何なのか。

 それを知りたいが為に、彼女は浮世に残り続けたといっていい。

 

 しかし、それが何なのか、女である自分も見ることが出来るものなのかも分からないまま、彼女は時代に流され続けていく。

 

 最初の夫である橘則光(たちばなののりみつ)とは一子を設けたが、二十一歳の時に別れた。

 五歳だった息子は則光の跡取りとして相手方に引き取られ、彼女の元には何も残らなかった。

 

 再婚をしようにもこれぞという相手がおらず――そして彼女自身が、当時としては異例なほどに、結婚こそが女の幸せ、絶対の使命だという風潮に同調できない女性だった。

 

 愛した相手に、ただ一人、唯一の相手として最大限に愛されたい。

 一夫多妻が当たり前だった時代に、有力貴族でもない一人の女が抱くには余りにも高い理想だった。

 

 女はみだらに外出するな、女は夫や家族以外に顔を見せるな、女はこうするべきだ、女はこうしてはいけない、女は、女は、女は――そんな息が詰まるような世界に、彼女は声には出せない不満を溜めこんでいた。

 

 だからこそ、まるでそんな世に反抗するように、別世界への――浄土の世界へと憧れを強くし、説法を聞くべく家の外へと出て、諸方に歌と手紙をやり取りするようになった。

 まるで女である自分の才覚を見せつけるようなそのやり方は、多くの人にとって、はしたないと侮蔑されるようなものだった。

 

 だが、彼女はどうでもいいといわんばかりに、それを続けた。

 まるで、誰も自分のことなど分かってくれないと、強がり拗ねる子供のように。

 

 そんな日々を過ごすうちに、一年、また一年と歳をとっていった。

 

 しかし、彼女も下級とはいえ貴族の娘であるが故に、結婚からは逃れられない。

 二十五歳となった年、二人目の夫を迎えることになった。

 

 これまで散々、正室でなくては嫌だ、第二、第三の女がいる男は嫌だと、父に妹の面倒をみるように頼まれていた兄たちによる様々な勧めを断ってきた彼女だったが、遂にその頭を縦に振らざるを得ない相手を宛がわれたのだ。

 

 二人目の夫――藤原信義(ふじわらののぶよし)は、清少納言と同じく歌人の元輔を父に持つ男であり、それを共通点として彼女と意気投合した。

 

 燃え上がるような恋ではなかったが、歌や文に明るく穏やかな信義との夫婦生活は大きな波乱はなく順調のように思えた。

 

 しかし、彼女の中には、満たされぬ何かが燻り続けていたのだろう。

 父亡き後、己が支えを失ったかのような不安定さに襲われた彼女は、見えない不安を打ち消すように、己の才覚を、再婚後も――否、再婚前よりも更に激しく振るい、自ら家中を切り盛りするようになった。財務を管理し、家の様々なことに口に出し、来客に対しても堂々と対応するようになった。

 

 女がこうして前に出ることに露骨に顔を顰める男も多い時代だったが、信義が穏やかに笑って許してくれる夫であったことも幸いし、徐々に彼女は機知に富む才媛であると貴族界でも評判になっていった。

 

 そして、信義と結婚して三年が経ったある日。

 かつて短い期間ではあるが出仕したことのある小野宮家から手紙が届いた。

 

 そこには新たな出仕先を紹介したいと記されていた。

 新しい世界への憧れが未だに強かった彼女は、それに二つ返事で了承した。

 

 だが、肝心のその出仕先を聞いた時、彼女は思わず凍り付くことになる。

 その出仕先とは、どんな有力貴族の家でもなく――この世で最も浄土に近い場所であった。

 

 こうして彼女は、己が清少納言となる場所に――己の全てを変える場所に。

 

 平安京の――日ノ本の中心地。

 宮中(きゅうちゅう)へと、その足を踏み入れることになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 藤原定子(ふじわらのていし)

 花山帝の後に即位した若き賢王、一条天皇の正妻――中宮となった妃。

 

 藤原兼家の後釜として権力を順当に引き継いだ藤原道隆の長女。

 容姿端麗、頭脳明晰と評判の女性であり、一条帝よりも三つ年上ながら――この時、未だ十七才。

 

 自分よりも十一も年下ながら、この国で最も貴い女性として君臨するかの御方の元へと出仕する――それを聞いた時、彼女は思わず竦み上がり、現実を疑った。

 

 確かに、権力を掌握する関白・道隆が、中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)(中宮に関する事務を扱う部署の長)に任命した弟・道長に、中宮に相応しい女房を都中から掻き集めるように指示を出し、優秀な女性をスカウトして回っているという噂は、平安京に住まう女性の噂話のトレンドとなっていた。

 

 だが、下級貴族の娘であり、既に二十八才の自分に声が掛かるとは夢にも思っていなかった。

 中宮の女房とは内裏の華だ。それはすなわち中宮の華であり、中宮定子という存在の一部とならなくてはならない。

 

 はっきりいって気後れした。余りにも畏れ多い。

 だが、内裏といえばこの世で最も浄土と近い場所――今、自分が暮らす不完全な世とは異なる、完璧で美しい世界に憧れる彼女にとっては、正しく夢のような話であることも間違いない。

 

 そして、最終的には、畏れよりも憧れが勝り――彼女は足を踏み入れた。

 

 ずっと憧れ、恋い焦がれ続けた場所――輝く貴い世界である内裏に。

 

 しかし、華やかな世界に震えながら飛び込んだ彼女を待っていたのは、顔を赤くしない日はないという恥ずかしめの連続だった。

 

 覚悟をしていたつもりだったが、中宮の女房として求められるものは当然のように高く、それなりに聡明であるという自負のあった自分でも、所詮は下級貴族と自虐してしまう程には、物や常識を知らなかったのだと思い知らされた。

 

 そして、自分以外の女房達は、やはり自分なんぞよりも遥かに若く、そして美しい女性ばかりだった。家柄も申し分なく、それに相応しい教育を受けたエリート揃い。

 

 自分についてくれた上司である弁のおもとという女房は、女房の中では年を取った女性という意味で「おもと」という呼び名で呼ばれていたが、そんな彼女ですら自分よりも五つも年下であり、癖髪がコンプレックスの自分など見る影もなくなる艶やかな髪の美人であった。

 

 なんと場違いな所に来てしまったのだろうと、毎晩のように涙を流していた。

 彼女達に比べれば、自分は知識も華も自信もない、見所も面白味もない中年でしかない。

 

 そうして完全に心が折れてしまった彼女は、人目につくことを嫌い常に隅っこへと身体を隠し、顔を伏せ続けた。

 

 このままお暇をもらうまでじっとしていよう――そんな風にして、再び彼女は流されるがまま日々を過ごそうとして。

 

 憧れ続けた世界で、自分はどうしてこんなにも惨めでいるのだろうと、絶望のままに全てを諦めようとして――そして。

 

 その声は、天から差し伸ばされたかのように、俯く彼女の頭上へと降ってきた。

 

 顔を上げなさいと、優しく顎を持ち上げるように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「そこに隠れているのは誰かしら?」

 

 まるで天から声が届けられたかのようだった。

 耳から侵入した響きが脳を通り過ぎ、そのまま心臓を鷲掴んだかのような感覚。

 

 思わず顔を上げてしまう。

 これまでずっと伏せ続けていた顔を、恥ずかしくて面も上げられなかった顔を上げる――そして、ここで初めて、彼女は真正面からその存在を確認した。

 

 余りにも畏れ多く、こうして内裏へ参上してからも、遠目からしか拝謁することが出来なかった存在。

 今日のように、滅多にない近くに侍ることになった際でも、まるで太陽を直視しないようにするかのように、顔を伏せ続けて見上げることすら叶わなかった――宮中の華。

 

 中宮定子を――彼女は、初めて直視した。

 

 美しかった。余りにも、美しかった。

 美しく、麗しい、正しく天から降り立ったかのような美女だった。

 

 この時代の美人の証ともいえる艶々とした長い黒髪はまるで雪解けの清流のようで、癖だらけの自分の髪とはとても同じ女の髪とは思えぬもので。

 

 こちらを見てくすりと微笑むその顔は、美男と噂される父・道隆のものとはまた違い、けれど、同性で十以上も年上の自分すらも、向けられただけで思わず胸が高鳴る輝きに満ちたもので。

 

 彼女はただただ、顔を赤くして惚けるばかりだった。

 

 それをいつもの自省だと思ったのか、定子のすぐ傍に侍る、女房の中でも筆頭のような役割をしていた宰相の君は、からかうように定子に言った。

 

「肥後のおもとですよ、中宮様」

 

 宰相の君の父は藤原重輔という男で、彼女の今の夫の父である藤原元輔の弟である。

 つまり彼女にとって宰相の君は義理の従妹なのだ。勿論、宰相の君の方がずっと若く、中宮の女房としての職歴も長く立場もずっと高いのだが、彼女にとってはこの時点で数少ない、比較的近い距離感で接することが出来ていた女房だった。

 

 だからこそ、顔を真っ赤にして硬直する彼女を気遣う意味で、こんな返しをしたのだろう。

 先述の通り「おもと」というのは年が上の女房に対する綽名(あだな)のようなものであり、肥後というのは彼女の父の最後の赴任先が肥後であったことから、こう呼ばれていた。

 

「こちらへおいで」

 

 中宮定子が、くすりと笑いながら彼女を呼ぶ。

 ぽんぽんと自分の近くの畳を叩きながら、己の傍へと招き寄せる。

 

 彼女は更に顔を真っ赤にし、瞳もうるうると潤わせながら首を振った。

 そんな彼女に定子は尚もくすりと笑い、宰相の君は「ほら。中宮様がお呼びですよ」と動けない彼女を引っ張った。

 

 面白がってと、思わず宰相の君を睨んだが、義理の従妹は義理の従姉のそんな視線をまるで意に介さずに引っ張り続け「連れて参りました」と定子の傍まで運ぶとそそくさと自分は離れていってしまう。

 

 気が付いたら、彼女は定子と二人きりになっていた。

 無論、見えないだけで宰相の君を初めとした御付きは傍に控えているのだろうが、少なくとも今、この場所は、中宮定子と肥後のおもとの二人だけが、淡い灯火が照らす空間に身を寄せ合うような距離で存在するだけだった。

 

 定子は文机の上に広がった大層な値打ちの絵を指差して、これは何という物語のどんな場面だったかしら、この絵は誰が描いたものかしらと彼女に質問を投げ掛ける。

 

 彼女はただただ無様に狼狽えながら碌に返事も出来なかった。

 定子はそんな彼女に呆れることなく、次々と優しく問いを重ねていく。

 

 余りにも穏やかなその声に、心臓の音が聞こえてしまうのではと恥ずかしがっていた彼女も、段々と顔を上げられるようになった。

 そして、遂に直視した定子の横顔に、手を上げれば触れることすら出来てしまいそうな程に近くに居る中宮定子に、彼女は再び見惚れてしまう。

 

 ああ、美しい。この方は、その全てが美しい。

 容貌も、御髪も、声も、息も、そして――心も。

 

 こんな醜く無様な「おもと」に、こんなにも優しく接してくださる。

 絵がよく見えるように近くに置かれた灯火は、きっと、間抜けに惚ける年増の女の見るに堪えない顔を明るく照らしているのだろう。いつもの自分なら、死にたくなるくらいに羞恥に悶えていた筈だ。

 

 でも、今ばかりは、自分の顔を覆うことが出来ない。

 妖しく照らされる中宮の美貌を、もっとよく見ていたい――そんな傲慢な欲望に、抗うことが出来ない。

 

「これ。わたしではなく、絵をしっかりと見なさいな」

 

 余りにも不躾な熱視線を送る彼女に、定子はくすりと笑いながら言った。

 彼女は慌てて絵へと視線を戻す。このやり取りで緊張が解けたのか、そこからは少しずつ、彼女は中宮の問いに答えられるようになった。

 

 すると、初々しいものを見遣るようだった定子の表情が、段々と感心するようなものへと変わっていった。定子は更に彼女に質問し、彼女はたどたどしくはあるがそれに答えるというやり取りが――明け方まで続いた。

 

 それに彼女が気付いた時、忘れかけていた羞恥が再びぶり返し始めた。

 暗い夜中とは違い、眩い日中に自分の醜い容姿が中宮定子に見られることにやはり抵抗を覚えたのだ。

 

 そんな彼女の様子に気付いた定子は、最後の問いとして彼女にこう問いかけた。

 

「この絵に相応しい詩は何だと思う?」

 

 それは『白氏文集(はくしもんじゅう)』という、唐の詩人・白居易(はくきょい)によって編集された詩文集の中でも、特に有名な詩である香炉峰(こうろほう)(ゆき)を描いた絵だった。

 

 白氏文集はとても長大な詩集ではあったが、この時代の宮中ではポピュラーなものであったので、彼女も反射的に香炉峰の雪の詩を諳んじる。

 

「香炉峰の雪は簾を――」

 

 その時、彼女はハッと気が付いた。

 香炉峰の雪は(すだれ)をかかげてこれを看る。白居易はそう詠んだ。

 

 既に夜は明けている。外では明るい陽射しの下に雪が降り積もった美しい景色が広がっている筈。でも、この部屋の格子と御簾(みす)は、まだ閉ざされたままだ。

 

 定子はくすりと笑って、彼女に言う。

 

「また、来るのですよ」

 

 彼女は慌てて頭を下げて、そそくさと定子の元を後にした。

 

 すると彼女と入れ違いに何人もの女官達が部屋に入り、するすると格子と御簾を上げていく。

 

 差し込んだ眩い陽射しに思わず目を細めた彼女は――続いて思わず息を吞んだ。

 

 そこには、見たことのない輝きを放つ雪景色が広がっていた。

 彼女が恐ろしい場所だと思っていた内裏――貴い場所であるこの地に降り積もった雪は、こんなにも特別な光を放つのだ。

 

 彼女がずっと顔を伏せて、見ないようにしていただけで、こんなにもすぐ傍に、見たことのない世界は広がっている。

 

(……それを、中宮様は教えて下さったのだ)

 

 彼女は思わず涙を溢れさせた。

 そして、一つの決意を固めて自分の局へと戻った彼女の胸中を読んだかのように、その日の日中に、彼女の元へと文が届いた。

 

 その文の主と、内容を読んだ時――彼女は改めて、こう思ったのだ。

 

(なんという御方が、この世にいらっしゃるのだろう)

 

 その文の送り主は――中宮定子。

 内容は、ただ一言――心が決まったら、いらっしゃい。

 

 それを読んで彼女の心は決まった。

 

 そして、まだ日が沈みきらない、醜い姿を隠してくれない、太陽が健在の日中のこと。

 

 彼女は再び、中宮定子の元を訪れた。

 

 眩い陽射しが雪を照らし輝く中、彼女は必死に顔を上げて廊下を進む。

 

(……応えなければ。この貴い期待に応えなければ、私は――)

 

 しかし、到着した中宮の御座所を見て、彼女は再び無様を晒した。

 

 なんと中宮の御座所は再び格子を閉ざされ、まるで夜のように真っ暗だったのだ。

 中では昨夜のように灯火で照らされ、幾人かの女房と中宮が何てことないように他愛の無いお喋りに興じている。

 

 ぽかんと口を開けた間抜け顔で入ってきた彼女を見て、悪戯が成功したといわんばかりに一同が揃ってくすくすと笑う。

 

 そんな彼女に中宮は一言、こう問うたのだ。

 

「香炉峰の雪はいかがかしら?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、彼女は再び涙が溢れそうになるのを堪えた。

 胸の中に火が灯ったのを感じた。心の底からこう思えたのだ。

 

(――ああ。私は、この御方に出会う為に生まれてきたのだ)

 

 華が、みたいのだ――己の根源に刻み込まれた、父の言葉が蘇る。

 

 それに、胸を張って答えることが出来る。

 父よ、華はあった。私は出会えた。

 

(この御方こそが、私の――華だ)

 

 彼女はそのまま真っ直ぐに、中宮定子に見詰められるままに――閉ざされた格子へと歩み寄る。

 

 そして、いつまでも開いてくれるなと願い続けたそれに向かって、夜が更けた証であり、朝が来ていない証でもあるそれを――彼女は自ら開けた。

 

 開けやすい一枚格子ではなく、より固く閉ざされた二枚格子を――それは一枚格子が南にあり、二枚格子が西に面していたからだ。

 

 たっぷりと陽射しが差し込む――より眩く明るい西面に。

 

 女房達が感嘆の声を漏らす。定子は、優しく目を細めていた。

 強烈な光に彼女は照らされる。これまで顔を伏せ、存在を消し続けた彼女を、後宮の特別な光が照らしている。

 

 西面には真っ白に広がる雪景色があった。

 もし一枚格子の南面を選んでいれば、これほど見事な雪景色は見えなかっただろう。

 

「香炉峰の雪は簾をかかげて看る……なるほど、だから二枚格子を一枚だけ開けたのね」

「詩は勿論、知っていたけれど……こんな風に見せるなんて、まるで思い至らなかった……」

 

 女房達が揃って彼女の咄嗟の振る舞いを称賛する。

 そして、その中の一人の女房が、感心しきったといった口調でこう言ったのだ。

 

「中宮様の女房は、まさにこうあるべきだわ」

 

 その言葉を聞いて、彼女は再び思わず涙ぐみそうになった。

 けれど、折角、そのような言葉を貰えるようになったのに、ここでそんな無様を晒すわけにはいかないと、彼女が咄嗟に目を逸らすと――そこで、本当に嬉しそうに目を細めて微笑む中宮を見た。

 

 定子は、彼女が開けた格子の向こう側に広がる雪景色を見て。

 

「…………本当に、綺麗な雪ね」

 

 その言葉と、その表情を見て、彼女は自分が中宮の期待に応えることが出来たのだと確信する。

 震えるような喜びを覚える彼女に、定子が優しい笑みを向けると。

 

「――清少納言(せいしょうなごん)

 

 女房達がハッとし、彼女は何が何だか分からずに呆けた。

 

 この時、中宮定子ははっきりと、彼女のことを「清少納言」と呼んだ。

 彼女の父の姓である「清原」、夫の官職である「少納言」を組み合わせたものであったが――中宮がそう呼んだということは、彼女自身も少納言と、下﨟(げろう)ではなく中﨟(ちゅうろう)に近い身分として扱うと、そう宣言したようなものだった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 父があれ程に欲した官位――それをたった一言で授けることが出来る、皇家の力。

 

 人の運命を、人生を、操る権能。

 人を見抜き、人を導き、開花させる才能。

 

 中宮――藤原定子。

 僅か十七才の少女の放つその王威に、人の上に立つ君主としての、その華に。

 

 彼女は――清少納言は、ただただ感動し、敬服した。

 

 そして、生涯の忠誠を誓い、膝を着いて頭を垂れた。

 

 こうして彼女は――己の全てを尽くし仕える主と出会ったこの日、清少納言となったのだ。

 




用語解説コーナー⑨

(ろう)

 官職や位階による序列が重要視された平安社会において、任官・叙位の順番によって一﨟・二﨟・三﨟と数字で区別されたり、先に任じられたものを上﨟、後から任じられた者を中﨟・下﨟などと区別する習慣が生まれ、やがてそれがそのまま秩序として用いられるようになった。これ﨟次(ろうじ)と呼んだ。

 女房の世界においても上﨟・中﨟・下﨟の区別があったが、その区別は実家の家格に影響され、上﨟は公卿の家の娘がなるのが例であり、中﨟は五位以上、下﨟は六位官人か社家出身の女性が就くこととされていた。


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妖怪星人編――⑩ 王者の眼

もし、道隆がおらず――道長が長男だったら。


 そして、清少納言となった彼女は、異例の速度で才能を覚醒させていった。

 

 中宮に仕える女房になったからといって、内裏(だいり)に出仕することが叶ったからといって、決して華々しい宮中生活が確約されているわけではない。

 肥後のおもとだった頃の彼女がそうであったように、卓越したエリートが集まる中宮のサロンにおいて、周囲との違いによる劣等感に押し潰されてそのまま実家に戻る者や、他のエリート達の中に霞んでしまい存在感を発揮することなく埋もれてしまう者も、多々いる。

 

 中宮の姿すら御簾(みす)越しに見ることしか叶わないまま女房生活を終える者達も数多く存在する。

 そんな中で清少納言は、驚くほどに呆気なく定子に気に入られ、多くの女房の中でも、宰相の君を初めとするほんの一握りしか存在しない、中宮の傍付きへと出世を果たすことになる。

 

 余りにも露骨な優遇に、定子はともかく、清少納言本人への不満の声は当初は大きかったが、清少納言はそんな外野をその才覚で力づくで黙らせた。

 

 前述の通り、中宮の女房というのは中宮の華の一部、つまりは中宮定子の一部である。

 中宮の一部たる彼女達の評判が高くなればなるほど、ひいてはそれを付き従わせる中宮の名声が高まることに繋がるのだ。

 

 そして、これも前述の通り、いくら中宮定子が内裏の華として持て囃されていたとしても、時代は男尊女卑の真っ只中の平安だ。女性蔑視とまではいかなくとも、女性軽視が罷り通っていた時代ではある。

 

 それは男性側だけでなく女性側からもいえることだった。

 サロン内での、女房間での噂話や陰口ならば兎も角、男と面と向かってやりとりをするというのは、選りすぐりのエリート揃いの中宮の女房とはいえど、いや、そんなエリートとして育ってきた彼女達だからこそ、みだらに男と顔を合わせない、言葉を交わすなどもってのほかと育てられてきた彼女達だからこそ――男と対等にやり合うという行為そのものが、彼女達にとっては非常にハードルが高いものだった。

 

 しかし、中宮の女房となった以上、数々の場面で中宮に寄り添い、時には中宮を守るべく矢面に立って、宮中の貴族()達へと立ち向かわなくてはならない。こういった場面が避けられない以上、中宮の女房というのが女性にとって最大級の名誉ではあるものの、就任を断る者が決して少なくない理由でもあった。

 

 人によっては、女が女房などいう職に着くことすらはしたないと断じる者達も(それも少なからず女性側の意見としても)いる程なのだから、働く女性の問題はおよそ千年単位で根深いといえなくもないが――閑話休題、ようは中宮の女房といえど、不特定多数の男と対等に渡り合うのはとても難しいことだということだ。それは能力というよりは、やはり感情の問題としてが大きい。

 

 無論、宰相の君を初めとした選ばれし者達は、中宮と共に数々の修羅場をくぐり抜けてきたエリートの中のエリート達は、それを見事にこなしてみせる。

 平安貴族達を――こちらも応天門を潜り抜けてきたエリートの中のエリート達を、権謀術数の日々を涼やかに送っている怪物達を相手に、中宮の女房に相応しい品を保ちながら、風流には風流で応え、邪心に塗れた探りを軽やかに躱し、中宮を引き立てる華となり、中宮を守る盾にもなる。

 

 そんな彼女達こそ、真の中宮の女房――中宮の華、中宮の番人に相応しい存在。

 

 そして、覚醒した清少納言は、その役割を完璧にこなしてみせた。

 傍付きへと昇進した彼女は、初めからどんな男相手でも物怖じせずに立ち向かったのだ。

 

 宮中に来たばかりの彼女は、肥後のおもとだった頃の彼女は、この内裏という世界そのものに気後れし、他の貴族はおろか絶対の味方である中宮の父・道隆や兄・伊周(これちか)にすら顔を見られることを恥ずかしがり、多いにからかわれたものだったが――しかし、清少納言となったその日から、彼女は己の顔を隠すことをしなくなった。

 

 醜い癖毛を艶やかな付け毛で覆い、まるで強い自分の仮面を――清少納言という鎧を身に纏ったかのように。

 

 宰相の君を初めとした先達にまるで劣らない振る舞いを見せる彼女は、元々有していた持ち前のセンスも相まって、見る見るうちに女房内の序列を駆け上がり、中宮定子の名を高めていった。

 

 そして、清少納言という才媛が中宮の元にいるという評判が、宮中の中心にいる貴族の男達の間に広がり初めた頃――ある一つの決定機が訪れた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 前提として、藤原定子は聡明だ。

 故に、これまで彼女は、誰か特定の一人を優遇するということを行ってこなかった。

 

 中宮として――天皇の后として、一条天皇だけを己の特別としてきた。

 彼だけをただ一人の特別として置き、他の誰かを特別視したことはなかった。

 

 そこは父を反面教師とした面もあるのだろう。

 父・関白道隆は、己が長男である伊周を、誰もが分かる程に露骨に優遇していた。

 

 確かに伊周は母・貴子(きし)譲りの優秀な頭脳と、父・道隆譲りの華やかな容貌を持っていた。

 妹の定子ほどではないが、人の上に立つカリスマ性も持っていたのだろう。少なくともその可能性は大いに秘めていた。

 

 だが、いかんせん若すぎたし、早すぎた。

 この頃には既に伊周は権大納言(ごんのだいなごん)――中宮大夫である叔父・道長と位を同じくしていた。

 

 宮中の女性には大層な人気を誇っていた伊周ではあったが――反面、同僚である貴族の男達の敵は増える一方であった。

 

 それを見ていたからこそ、定子は己が持つ力の振るい方には敏感だった。

 敵を簡単に排除できる一方で、敵を簡単に生み出してしまう――大きな力とは、権力とはそういうものだと、一族の誰よりも定子は理解出来ていた。

 

 だが、ここにきて例外が生まれた――清少納言という例外が。

 定子が、誰が見ても分かる程に特別扱いをしている、特別な人物が現れたのだ。

 

 それを聞いた時、所詮は定子も道隆の一族だったと幻滅したものも少なからず居ただろう。伊周という誰よりも身近な悪例を知りながら愚行を行う――蛙の子は蛙だったと。

 

 しかし、伊周と違い、清少納言には政治力がなかった。彼女の夫も兄弟も出世コースとは縁遠い人物であり、中宮の権力に媚びる必要がなかったのである。

 それはつまり、清少納言を特別に可愛がったところで、定子に何のメリットもないという意味でもあった。

 

 だからこそ、誰もが不思議がったのだ。

 どうして定子は、あんなにも清少納言を特別扱いするのだろう。

 

 そして、誰よりも本人が、それを本当に不思議に思っていた。

 

(どうして中宮様は、こんなにも私によくしてくれるのかしら?)

 

 清少納言も自分を優遇することで中宮に少なからず悪い評判が立っていることも知っている。清少納言を優遇したところで分かり易いメリットがないからこそ、そこまで大きな火種にはなっていないが、大きくなくとも火は火だ。ないに越したことはない――それによって得られるものがないなら尚更だ。

 

 無論、生まれる火種以上に、清少納言は中宮に与えられたものを返すつもりだが――それでも、不思議は不思議だった。

 

(中宮様から見れば、私のような年増の新人は珍しいでしょうし……今まで私のような女房はいなかった、からとか)

 

 つまりは、物珍しさ。

 清少納言という特異な人物を面白がっているのかもしれない。

 

 それならそれで構わない。

 中宮の一時の楽しみになれるのなら光栄以外の何を思おう。

 

 既に清少納言はこの命を中宮の為に捧げると決めている。

 例えいつか飽きられ、こうして傍に侍ることが叶わなくなったとしても、影からでもどこからでも、中宮の一助となるべく働くことは決意している。

 

 だからこそ、たとえ気まぐれの優遇なのだとしても、こうして中宮の傍にいる間は、全力で中宮の華となろう――そう決心していた清少納言であったが。

 

 清少納言は後に、この時の己を大いに恥じることになる。

 自分はまだ見縊っていたのだ。藤原定子という御方を。

 

 定子が気まぐれで人を優遇するような、気分で権力を振るうような人ではなかったと。

 

 それを痛感させられたのは、清少納言に対する噂も広がりきったように思える頃に行われた――とある行事でのことだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 内裏(だいり)は祭りの宝庫である。

 それは宮中の華やかさを彩るという意味もあるだろうし、豪勢な祭りを行うことで己が権力をアピールするという意味もあるのだろう。現代の政治家が事ある毎にパーティやらを開くようにコネクション作りの意味もあったのかもしれない。

 

 何はともあれ、当時の貴族たちは毎月毎週のように祭りや宴を行った。

 一度行えばそれは毎年恒例のこととなり、昨年以上のものにせねばと盛り上がる。

 

 それが困窮していた財源を圧迫する大きな原因ともなっていたのだが、かといって昨年のそれよりもみすぼらしいものになってしまえば、勢いが衰えている、あの方の代の時の方がよかったなどと、他の貴族に弱みをみせることになってしまう。貴族社会というのは基本的に見栄の張り合いなのだ。

 

 だが、この当時の清少納言にとっては、毎週のように開かれる行事の、ひいては宮中という世界の――憧れの世界の、憧れ以上の華やかさに、目と心を輝かせるばかりだった。

 

 この祭りは本当に楽しかった、来週はどんなものが、次は、その次は――と、息を吐かせぬ勢いでやってくる祭りに、年甲斐もなくはしゃぎ通しだった。

 

 そして、それがひと段落したと思った冬の終わり――そして、春の始まりに、それは起きた。

 

 とある年の二月――時の関白・藤原道隆は、積善寺一切供養を行った。

 これは道隆の父・兼家が吉田野に建立した積善寺(しゃくぜんじ)を、京の東に移させ御願寺とするものだ。

 

 関白・道隆がその総力を以て、未曾有の豪華さで行う一大行事である。

 当然、中宮定子もそれに参加する為に、前もって二条の宮という邸に入ることとなった。

 

 この二条の宮は定子の為に道隆が建てたばかりの屋敷だったが、そうとは思えぬほどにとても綺麗な屋敷で、調度品なども当然のように一流のものが揃っていた。

 

 それに清少納言などは感嘆の息を漏らしながらも、中宮定子が移動するともなるとそれだけで一大行事であり、この時も警備を務める宮司と女房間でのトラブルなどもあって、全員の移動を終えた頃には夜も更けていた。

 

 なので到着と同時に屋敷中を見て回るということも出来ず、皆そのままぐっすりと眠ってしまい――翌朝、まだ日も登り切っていない早朝に、清少納言は目を覚ました。

 

 そして、局を出て庭先に出た清少納言は、思わず息を吞む。

 

 時期的に、咲いている筈もない満開の桜が、見事に世界を彩っていたのだ。

 

(これは、造花!? それも、こんなにたくさん、こんなに大きな――こんなにも美しい桜を……)

 

 一つや二つの花だけではない。

 幹や枝、そして数えきれない程の花弁が、一つ一つほんのりと色も変えて、こうして至近距離まで近づかなくては造花と気付けない程に精巧につくられていたのだ。

 

(これほどまでのものを……果たしてどれほどの手間を掛けて……)

 

 それも見事に美しく配置されている。紙で出来ている為、ぱらぱらと雨でも降ったら見るも無残なことになっていただろう。けれど、それを惜しみも恐れもせずに、屋根もない庭先に、こうして見せびらかせるわけでもなくひっそりと配置しているのだ。

 

(……これが、関白・道隆様の――華)

 

 人々を魅了させる感性――これもまた、人の上に立つ者の華なのだろう。

 己が娘の為に建てた、この二条の宮。そこに初めて訪れる定子の為に、その対面を華やかに飾ろうとするこの趣向は、清少納言に大きな感動を齎した。

 

 道隆のこの企画力、演出力は、一族の中でも群を抜いている。

 そしてそれが、華やかさというものが人心掌握において大きな意味を持つこの平安貴族界では、とても強い力を発揮する。

 

 道隆がただの兼家の二世ではなく、父が持っていた権力を引き継いだ上で拡大化することが出来たのは、こうした才覚が故といえよう。

 

 だが、しかし――。

 

「…………」

 

 清少納言は、何かを呟きかけた口を閉じて、そのまま作り物の桜に背を向け、自分の局へと戻っていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日の昼頃、関白・藤原道隆は二条の宮へとやってきた。

 

 桜色の直衣を纏った道隆は、当時四十を過ぎていたが、そうとは思えぬほどに華やかな雰囲気を放っていて、定子の女房達も揃って赤い顔で惚けていた。

 

 この衰えぬ容貌こそが、道隆最大の武器でもあった。

 道隆も己の武器は理解していて「俺は、顔はいい。だが、頭がよくない。だからこそ、頭がいい女を妻に選んだのだ。俺の容貌と妻の聡明があれば、俺の子供は完璧だろう?」という頭の悪い考えで、関白の妻としては身分違いだった高階貴子(たかしなのきし)を強引に娶ったほどだ。

 

 だが、その理論の元に、道隆以上の容貌を持ち、貴子以上の聡明を持つ定子が生まれたのだから、その考えはある意味正しかったといえる。こういった正解を選び取れる天運を持つのも道隆を王者へと導いた才覚であろう。

 

「中宮様はさぞご満悦のことでしょう。これほどの美女を大勢侍らすなど、この関白をしても羨ましい限り。しかし、皆様方はご存知ですかな? 中宮様はお生まれになった頃から熱心に仕えているこの忠臣に、未だご褒美一つ下さらないのですよ?」

 

 道隆はこういった冗句で周囲を綻ばせるのが得意技だった。

 

 父娘であること、しかし、主従であることを、自らを貶めることを厭わず――しかし、決して品位は落とさずに笑いに変えてみせるのだ。

 

 身近に感じられようと、尊敬は失わない。

 緊張は解そうと、憧憬はより増すばかり。

 

 道隆はそんな王者だった。

 彼の周囲は常に華やかだったし、彼の周りに人は絶えなかった。

 

 だからこそ――だろうか。

 清少納言は、まるで気付けなかった。

 

 和やかな語らいが行われる中、道隆は一条帝からの遣いが届けた手紙を受け取り。

 それを一度開くそぶりを見せながらも「中身を見るなど畏れ多い」などとおどけながら定子へと手渡した。

 

 この時、関白道隆が笑顔の裏でどんな思いでいたのか。

 この時、中宮定子が微笑の裏でどんな思いでいたのか。

 

 清少納言は気付けない。

 この場にいる誰も、この二人以外の誰もが気付いていなかった。

 

 否――少なくとも、彼女は、気付かない振りを、することを選んだのだ。

 この華やかな空間が、時間が、いつまでも続くのだと――そう信じていたから。

 

 彼女が何かを飲み込んだ後、定子の妹達、そして母・貴子もやってきた。

 兄・伊周も、弟・隆家もやってくると、いよいよその場は光り輝かんばかりの華やかさで満ちていた。

 

 誰も彼もが美男美女であり、正しく宮中貴族の誰もが憧れる一家の団欒。

 

 そんな家族を眩しそうに見つめながら、女房達は明日の行事での服装のことで盛り上がる。名目上は仏事であろうが、中宮の女房として出席する以上、格好には手は抜けない。他の女房から浮くまいと、あるいは目立とうと、小声でひそひそと牽制し合っている。

 

 そんな中で、清少納言は、ただ定子だけを見詰めていた。

 一条帝からの手紙をギュッと胸に抱く、その姿を――そして、その姿を、笑顔で、時々、その笑みを消しながらそっと眺める、道隆を。

 

「…………」

 

 清少納言は、耳を閉じたいと思った。

 外から雨が降り出す音が、ぽつぽつと聞こえたから。

 

 次の日の朝――庭先の美しかった桜の花は、見るも無残にしなびれていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、積善寺一切供養(しゃくぜんじいっさいくよう)の日がやってきた。

 

 定子は帝の母后――道隆の姉でもある詮子(せんし)に敬意を表するという意味で裳と唐衣という礼装だった。

 紅の衣がとても似合っており、清少納言は普段とは違う美しさを放つ定子に「どうかしら?」と聞かれて「それはそれは素晴らしいです!」と才女らしからぬ言葉しか返すことが出来なかった。

 

 定子はそんな清少納言にくすりと笑い――あの日のように。

 

「こちらへいらっしゃい」

 

 と、ぽんぽんと傍らを叩く。

 清少納言に席の上段へ来るようにという合図だった。

 

「……え?」

 

 清少納言は思わず開口して静止する。

 その中宮に最も近い席には、道隆の叔父の娘である中納言の君と、故右大臣の孫である宰相の君だけが座っているのみ。宮中の貴族全てが参列するといっても過言ではない此度の仏事において、清少納言をその席に座らせるということは、対外的にも清少納言を文字通り己の側近として扱うと公言するようなものだ。

 

 何の後ろ盾もない、政治的に何の魅力もない、年増で見目も悪い下級貴族の女房を。

 

 下段にいる女房達はどよめき、中納言の君も驚きを隠せなかったが、宰相の君はそっと奥に詰めて清少納言が座るスペースを開ける。

 

 定子はなおも動けない清少納言に微笑みながら言う。

 

「さあ。お入り」

 

 その先のことは、清少納言はよく覚えていない。

 あの新しい中宮の御付きは誰なのかと、ちらちらと貴族の男達が己を見ていたような気がするが、清少納言はそれどころではなかった。

 

 喉が干上がるような畏れ。身悶えるような羞恥。震えるような歓喜。

 あまりにも激しい感情の渦に、意識を失わないことが不思議なくらいだった。

 

 しかし、ここで倒れて中宮の顔に泥を塗るわけにはいかないと、精一杯背筋を伸ばすことに全力を尽くしながら――頭の中では。

 

(どうしてこの御方は、こんなにも私によくしてくれるのだろう)

 

 その言葉でいっぱいだった。

 ただでさえ、自分のようなものを優遇していると、完璧な中宮にとって余計な付け入られる隙となってしまっているのに。

 

 なのに、そんな言葉を肯定するような――あるいは開き直るような、公言するような、このような対応は。

 

 余りにも、余りにも畏れ多く――そして、余りにも。

 

(…………嬉しい……ッ)

 

 この息が詰まるような、あまりにも苦しい幸福を与えて下さる御方を――愛しく思えないわけがない。

 

 清少納言は、仏事の間、必死に意識を保ち、涙を堪えることに奮闘した。

 

 だからこそ――清少納言は再び見逃した。

 涙に潤んだ瞳で、歪んだ視界で、見るべきものを見落としたのだ。

 

「中宮様の裳をお脱がせなさい」

 

 関白・道隆の、その口元に広げた扇を介して発せられた言葉に――凍り付くような微笑から放たれた言葉に、場の空気が固まった。

 

「この座では中宮様こそが主君なのだ」

 

 その言葉に、定子の女房達はいたく感激した様子だった。

 道隆の言葉に、妻・貴子はいたく気まずげに娘の裳を脱がす。これは道隆が、中宮の母である自分の服装が略装であったことを咎めている意味もあると察したのだ。こうして中宮が裳を脱げば、少なくとも貴子の服装はそこまでおかしいものではなくなる。

 

 一見、これは道隆らしい機転のようにも見える。

 女房達には貴子への、そして定子への素晴らしい気の利かせ方として映っただろう。

 

 だが、この時、清少納言は――突き刺すような鋭い視線を感じていた。

 

「――ッ!?」

 

 それは自分達のすぐ傍の、木々の影の下に佇む一人の男の視線だった。

 中宮大夫として誰よりも近くから――この光景を、その言葉を、突き付けられている男の想念であった。

 

「……………」

 

 藤原道長(ふじわらのみちなが)――兄・道隆によって中宮大夫に任命された男は、道隆の栄華の象徴たる中宮に奉仕する役職に就かされた、長兄の勝者としての華を誰よりも近くで見せつけられ続けてきた男は、その日。

 

 貴子の父・高階成忠(たかしなのなりただ)に、己の隣である上座を奪われて、静かに拳を握り締めていた。

 成忠は貴子の父とはいえ出家している。位は道長と同じ従二位ではあったが、その場合は現職の権大納言である道長が上座に座ることが通例であった。

 

 しかし、他の者を押し退けるように道隆や貴子に挨拶をした老爺は、そのまま何食わぬ顔で、道長など見えぬかのように上座に腰を下ろしたのだ。

 

 その姿はまるで天下でも獲ったかのような振る舞いに映ったことだろう。事実、透けて見えるかのようだった。

 このような大きな式典に略装で現れる貴子、我が物顔で上座に腰を下ろす成忠――彼等は心の内でこう思っているのではないか。

 

 この式典の主役は定子、道隆つまりは娘であり婿、ひいては高階一族であると。

 

 そう思うのも、そしてそう思われるのも無理はない。道隆が関白となり、定子が中宮となってからの高階一族の優遇は誰の目から見ても分かり易いものだった。

 

 だが、しかし、その王者の振る舞いを――誰よりも近くで見せつけられているものが居ることに、この時は誰も気付いていない。

 

 ふつふつと、燃え滾る野心に、屈辱という薪を焼べている者が、すぐ傍にいることに、誰も――――否。

 

 少なくとも、二人、気付いていたのかもしれない。

 だからこそ――道隆は、定子こそがこの場の主君だと強調し。

 そして、定子は――ゆっくりと、表情を消しながら裳を脱いだのかもしれない。

 

 しかし、清少納言は気付けなかった――必死で、気付かないことを、選んだのだ。

 

 見ない振りをして――逃げたのだ。

 

 その、禍々しい、黒く燃えるような――想念から。

 

「…………」

 

 

 彼女の脳裏に、この時ふと、とある祭りの情景が過ぎった。

 

 それは清少納言が、清少納言となってから日の浅いとある祭りの日――新嘗祭(にいなめさい)という、秋の収穫を神に捧げる祭事でのことだった。

 

 祭りの見所は、四人の舞姫が五節の舞を披露する「少女(おとめ)の舞」。

 公卿や殿上人らが選出した十三才前後の若い娘が色とりどりの衣装で可愛らしく踊る、華やかな宮中という世界を象徴するような光景だ。

 

 正しく、華の晴れ舞台。

 四日間も続く煌びやかな祭は、宮中の貴族達の誰もが楽しみにしているものだった。

 

 そして、この年――四人の舞姫の内の一人は、中宮が選出した右馬頭(うまのかみ)の娘だった。

 彼女が座へ参上する際、清少納言を初めとする中宮の女房達が一緒に付き添うこととなっていたのだが――その送迎に対して、中宮は事細かに女房達に直接指示を出したのだ。

 

 何故、たかだか送迎にそこまで真剣に指示を出すのか分からず怯える女房達も多かったが――本番を迎え、誰もがその意図に感心した。

 

 当日、中宮定子から全員に、青摺の祭服が与えられたのだ。

 これは本来、神事に仕える男の服装であるが、それを中宮は、女房達は勿論、舞姫の童女たちにも惜しみなく贈呈した。

 

 花道を飾る女房、そして主役の舞姫、その誰もが普段は見られない美しさを放ち、殿上人だけでなく帝をも感嘆の息を漏らすこととなった。

 

 華やかな祭典に、更に鮮やかな色を加えるのではなく、落ち着いた色合いの男装の女を並べることで斬新な驚きと美しさを生む。

 

 父・道隆譲りでありながら更に新しい発想で人々を驚かせる定子の才覚に、清少納言は感動に震えていたが――そんな中、確かに彼女は、聞いていたのだ。

 

「…………やはり、恐ろしい御方だ」

 

 それは、華やかな式典の隅で、暗い影の中でひっそりと立っていた男の呟きだった。

 中宮大夫として彼は、この日も、誰よりも近くで中宮定子の輝きを見せつけられていた。

 

 暗い、けれど奥に黒い炎を宿す、その男の瞳を見て――清少納言は、確かに思ったのだ。

 

 藤原定子と、藤原道長は、似ていると。

 

 何故、そう思ったのかは分からない。

 この時の清少納言はまだ、中宮大夫としての仕事に真面目に取り組んでいたとはいえない道長と、深く話したことはなかった。

 それどころか、中宮と中宮大夫、定子と道長が二人で話しているところも見たこともなかった。

 

 だが、それでも直感的に、似ていると思ったのだ。

 容貌ではない。無論、叔父と姪なので似ていないわけではないが、道隆や定子のそれが華やかなスターとしての美しさである一方で、道長は鋭く冷たい印象を覚える美男子だった。しかし――。

 

(……そうか。目――瞳)

 

 定子の目は道隆にも貴子にも似ていない。

 どちらかといえば――彼女の瞳は、道長と似ていた。

 

 真っ直ぐに、どこか一点を見詰めている目。

 燃えるように強い何かを、その深奥に秘めている瞳。

 

 それは、真っ直ぐに見据えた者を引き摺り込む――王者の、眼。

 

(…………もし、道隆様がおらず……道長様がご長男だったら――)

 

 そんなことを一瞬だけ考えてしまい、直ぐに不敬だと振り払って、式典に集中した。

 新嘗祭の時は、その後、再び目を戻したらそこには既に道長は居らず――その日、もう道長の姿を見ることはなかった。

 

 

 この時、そんなかつてのことを、清少納言は思い出した。

 

 そして、積善寺一切供養が終わった時、中宮の周囲が、道隆の心遣いへの称賛を囁き合い、中宮定子への労わりの視線を向けている中――清少納言は涙をそっと拭いて、その席を見た。

 

 老爺・成忠の隣に座っていた道長は、新嘗祭()の時と同様に、既に姿を消していた。

 

「…………」

 

 だからこそ、清少納言は気付かない振りをした。

 道隆も、弟・道長の行方を誰にも問わなかった。

 

「…………」

 

 そして、ただ一人、定子だけがその姿を捉えていた。

 

 屈辱の表情で唇を噛み締めていた、定子の叔母であり、一条帝の母堂――己が姉である詮子の元へと真っ先に向かう、藤原道長の姿を。

 

 そして、本来は詮子に対する敬意を示す意味で羽織っていた裳――そして、結局は詮子を押し退けて、己こそがこの場の主役であると示す為に脱ぐことになった真っ赤な裳を羽織っていた肩に、そっと手を置く定子の姿を。

 

「……………」

 

 ただ二人、藤原道隆と、清少納言だけが笑みを消して何も言わずに見詰めていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 実の所、藤原道隆は、末弟・道長のことをどう思っていたのだろうか。

 

 少なくとも、先代関白・兼家が健在の頃は、藤原道長といえば特筆すべき点のない平凡児という評判だった。

 取り立てて秀でた特技もなく、仕事で結果を残していたわけでもない。唯一の見所といえば、左大臣・源雅信の娘である倫子と結婚したことくらいだが、彼自身に何か脅威があったかといえば、何もなかったという他ないだろう。

 

 事実、道隆の弟であり道長の兄である道兼は、道長に対しては甘やかされた楽観的な末っ子という印象だけを抱いていたようだ。

 

 道隆もそうだったのかもしれない。少なくとも初めは。

 だが、何を思ったか、道隆は己が関白となった後、道長を中宮大夫へと任命する。

 

 頂点へと昇り詰めた権力者が、己が兄弟や親戚を優遇するのは、何も贔屓というだけではない。ある程度は優遇し、恩を売っておかなければ、自分の子などの直系に権力を継がすことが難しくなるからだ。

 

 権力の引継ぎは長男が最も有力だが、兄弟も十分に権利がある有力者なのである。

 故に、分かり易く冷遇して、政敵に回られ、他の貴族も取り込み派閥でも作られてしまうと非常に面倒なことになる。政治を回す上でも大いに邪魔な存在だ。

 

 だからこそ、己に近い血を持つ者には適度に甘い飴を与えて優遇し、無駄な敵意を持たれないようにしなくてはならない。最も信頼すべき親族こそが最も恐ろしい敵となり得るのが、この狭い世界で繰り広げられる貴族社会なのである。

 

 だからこそ道隆は、次弟・道兼を大臣へと引き上げている。

 だが、道長は権大納言――これも道長の若さを考えると大出世だが、己が息子の伊周とほぼ同列に配置し、更には中宮大夫の任を命じている。

 

 年下の甥に追い縋れる地位。更には兄の栄華を最も間近で見せつけられる役職。

 道長にとっては面白い筈がない。何故、優遇すべき弟である道長の、まるで心を折るような真似を、道隆はしたのだろうか。

 

 所詮は、平凡な末子だと見縊っていたのだろうか。

 それとも――将来、我が子を脅かすかもしれない政敵の野心を、前もって潰そうとしたのだろうか。

 

 一つ確かなのは、道隆のこうした振る舞いは、平凡児の仮面を被った道長のプライドを傷つけ続けたということ。

 

 そして、屈辱を薪として焼べられ続けた道長の燃え滾る野心は、徐々にその炎を表に出し始めたということだ。

 

 

 この積善寺一切供養の次の日――内裏の後宮に火が放たれた。

 

 それと時を合わせるように、平安京に悪魔のような疫病が流行り始めたのだ。

 

 黒く昏い炎が、輝く華を呑み込もうとしていた。

 




用語解説コーナー⑩

中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)

 后妃に関わる事務などを扱う役所である中宮職(ちゅうぐうしき)の長官。

 兄・道隆によってこの職に任じられた道長は、定子という華を、誰よりも近くで見せつけられ続けることになる。


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妖怪星人編――⑪ 道化の鬼火

やはり、我らは兄弟ですね。兄上。


 

 藤原信義(ふじわらののぶよし)が死んだ。

 清少納言の二人目の夫である彼の命を奪ったのは、京で猛威を振るっていた流行り病だった。

 

 夫が病だという知らせを聞いた清少納言は頻繁に実家へと戻り、病気平癒の祈祷やら、寺への貢ぎ物やら、方々に手を尽くして財を投げ打ったが、夫の容態は一度として快方に向かうことなく、春がやってくるのを待っていたかのように、庭の花が咲くのを見届けて亡くなった。

 

「お前が中宮様に気に入られたように、俺は仏に気に入られたらしい。……お前が好きな浄土を……俺はしっかりと探検しておくから……お前はゆるりと来るがいい。……お前が来た際には、浄土の名所を……俺が存分に、案内してやろうぞ」

 

 夫を亡くした清少納言は、内裏にも戻れず、自邸にもおられず、居場所を失くして呆然と佇んでいた。

 家族の死に立ち会った者は、当時は穢れているとされ、人目に触れぬようにひっそりと隠遁しなくてはならない風習があった。また、人が亡くなった家にも物忌みとして長期間滞在することが出来ず、陰陽師が示す穢れを落とす方角にある方々の家を転々としなくてはならない。

 

 更に、この時期、清少納言は新たな命を宿していることが明らかになった。

 その妊娠が発覚したのは、あろうことか夫が病床に臥せった後のこと。それを知った信義は、涙を流して笑みを浮かべ、清少納言に「――よくやった」と、そう言って喜んだ。

 

 信義は死の間際、自分の為に財を投げ打つ、己が子を宿した妻に対し、どうか財ある者と再婚してくれと言い遺した。同じことを自分や清少納言の親戚に手紙を何通も書いてお願いしたそうだ。

 

 だが、夫が死に、身籠った清少納言が物忌みに入って尚、夫の親戚からも清少納言の兄弟からも何の連絡もなかった。

 

 頼れる者もおらず、己が守らなくてはならない命の重さだけを抱えて家々を転々とする日々は、清少納言に大きな孤独感と陰鬱とした寂しさを感じさせた。

 

 そんな時に、清少納言を救ってくれたのは、やはり中宮定子だった。

 

『いかにして 過ぎにし方を 過ぐしけむ 暮らしわづらふ 昨日今日かな』

 

 あなたがいなかった頃、わたしはどのように過ごしていたのか分からなくなってしまったわ。あなたがいないせいで、昨日も今日も退屈に暮らしているのよ。

 

 敬愛する主からのそんな歌に、清少納言の中の暗い陰鬱とした寂しさは吹き飛んだ。そして、同封されていた宰相の君の文には、こう書かれていた。

 

 中宮様はあなたの出仕を待ち詫びている。明け方にでも帰ってきなさい――と。

 

 清少納言は本当に明け方には内裏に戻った。そんな彼女を中宮や女房達は笑いながら出迎えた。

 

 彼女は思わず涙を浮かべながら笑った。

 夫に先立たれ、子を身籠り、財は目減りし、親戚は全く頼りにならない。

 

 そんな中で、この場所だけは、この御方だけは――こんなにも明るく出迎えてくれる。

 

 清少納言はこのように語った。

 

「もし余りにも辛いことが続いて、生き続けるのが嫌になった時。そんな時に、ふと真っ白な美しい紙なんかが目の前にあったら、ああ、もう少し生きてみようかなんて、そんな気になってしまうの」

 

 女房達と中宮が口元を隠して笑う。

 それが余りに嬉しくて、調子に乗ってこう続けるのだ。

 

「そこに青くて細やかな畳があればもう言うことはないわ。縁が綺麗なものが広がっているのを見ると、ああ、やっぱり死ぬのはいやだわって、もう一度、顔を上げることが出来るの」

 

 それは、本当に他愛のない幸せ。

 周りの女房達も「そんなことで気持ちが休まるなんてお手軽ね」と笑う。

 

 けれど、清少納言にとっては、それが本当に幸せの象徴だった。

 紙と畳――当たり前にすぐ傍にあるもの。それが幸せなんて――なんて幸せなことなんだろう。

 

 それからしばらくの間は穏やかな日々が続いた。

 しいて変化を挙げるならば、清少納言に対する異性からの誘いが増えたことだろうか。

 

 中宮定子の特にお気に入りの女房という評判は前々から流れていた。

 そこに夫を亡くしたという事実が広がり、手紙や歌を送り易くなったということだろう。無論、その全てが夜の誘いではなかった。純粋に夫を亡くした彼女を気遣う手紙もあったし、才女と評判の彼女の機転の利いた返しを求めた腕試しのようなものもあった。

 

 その中には、一人目の夫と二人目の夫の間に彼女が真剣に恋をした風流人・藤原実方や、父・元輔の友人でありかつて兄たちから結婚相手として宛がわれた藤原棟世などもいた。

 中でも清少納言が返事を出すのに緊張した相手は、三船の誉れとして名高い藤原公任だった。

 

(……っ! まさか、かの貴公子から和歌が送られてくるなんて……ッ)

 

 上の句だけが掛かれた手紙。これはこれに相応しい下の句を書いて返せというものだ。

 これまで何度もこういった手紙は受け取ってきた。父に及ばないコンプレックスから苦手意識がある和歌だったが、そんじょそこらの相手ならばそれほど迷わない。しかし、相手があの公任では――と、一晩内容に悩み、ようやく返事を出した後、再び手紙が届けられた。

 

 次は誰だと、半ばうんざりしながら受け取った手紙――その相手を見たとき、徹夜の眠気など吹き飛んで起き上がった。

 

 差出人は――藤原道長。

 

「思ひきや 山のあなたに 君をおきて 一人都の 月を見んとは」

「――ッ!?」

 

 手紙に書かれたものと全く同じ歌が、目の前で諳んじられている。

 

 清少納言の局――その御簾の向こう側に、今、正に、藤原道長その人がいるのだ。

 

「――どうかね、私の歌は。あの清原元輔氏の娘からすれば、それも公任の奴の歌の後だからな。どうしても拙く聞こえるだろう」

「……いえ。そんなことはございません。素敵な歌ですわ」

 

 清少納言は動揺しながらも言葉を返した。

 先述の通り、中宮大夫である藤原道長と新参女房である清少納言の接点は少ない。余り長い会話をしたこともなく、精々が業務連絡程度だ。

 

 それに中宮大夫という役職に露骨に不満を露わにしていた、露骨に態度に出していた道長は、他の女房とも仲が良いとは言えない。いわゆる女房に手を出したという話も全く聞かない。もしそんな事例があったとすれば、普段の勤務態度から考えて、女房間で話題に上がらない筈がないのだ。

 

 それが、まさか――よりにもよって。

 

(……どうして、私の所に?)

 

 清少納言が戸惑っている間に、御簾の向こう側の道長は「……そういえば、君とは面と向かって深い話をしたことがなかったな」と言って、そして――こう言った。

 

「――どうだろう? 今宵、私と語らってみないか?」

 

 それは、決定的な一言だった。

 この平安の世には、平安の夜には珍しくもない――誘い文句だった。

 

「…………」

 

 道長はプレイボーイとして名を馳せているわけではない。

 だが、若く端正な美男子として、平安京の女性陣からは人気のない男では決してないのだ。

 

 目立った評判は聞かないが、関白・道隆の弟として家柄は十分である。

 故に、普通の女ならば――いや、家柄のいい男との出会いも出仕の大きな目的の一つである他の女房ならば、急な誘いに戸惑いはしても、御簾の中に入れて誘いに応じるだろう。

 

 だが、清少納言は。

 

「――申し訳ありませんが、その御誘いには応じかねます」

 

 道長は、そんな清少納言の言葉に「……そうか。振られてしまったな」と呟いて。

 

「それは――君の矜持故かな? 清少納言」

 

 清少納言の矜持。

 それは「一乗(いちじょう)の法」のことを言っているのだろうと、彼女は察した。中宮大夫である道長ならば、あの雑談も耳に入っているだろうと。

 

 清少納言が昔から、それこそ少女の頃から頑なに唱え続けている矜持――ただ一つの真理であると、念仏のように唱え続けている「一乗の法」。

 

「思う人から一番に愛されなくては意味がない。二番目、三番目など以ての外だと。……なるほど、妻を二人持つ私からすれば、耳の痛い話だ」

「……頭の固い女の戯言と、笑ってくだされば」

 

 道長は「いや、私も他人から見れば大層に愚かしいものに心酔している人間だ。譲れないものを胸に抱く気持ちは、理解しているつもりだよ」と言って、そのまま立ち上がった。

 

「だとすれば、今宵は無粋な真似をしてしまった。許して欲しい」

「いえ。かの道長様にお誘いいただくなど、光栄でござりました」

 

 清少納言は御簾の内側で頭を下げる。

 そんな彼女に、道長は去り際にこう告げた。

 

「やはり君こそが、中宮様の『理解者』のようだな」

 

 清少納言は頭を上げる。その御簾の向こう側には、もう既に道長いない。

 

――自分にとって一番大切な方から、一番に愛されよう。一度口にしたからには、何としても貫き通しなさい。

 

 かつて、この「一乗の法」が女房達の話題に上がった時、中宮はそう清少納言に言った。

 その時の表情はいつもの穏やかな微笑みではなく、まるで己自身に言い聞かせるような険しいものだった。

 

 中宮(ちゅうぐう)――帝の后としての立場にいる定子は、天皇の寵愛を勝ち取ることが使命である。

 無論、定子本人としても一条天皇のことを恋い慕っているが、定子はそれだけではない。未だ子がいない一条帝の跡取りを生むことは、父・道隆を初めとする一族の、広義でいえばこの国の悲願でもある。

 

 まだ十代の夫婦に求めることではないのかもしれないが、帝の后になるということは――中宮になるということは、そういうことなのだ。

 

 少女のように夢見る自分の矜持とは、まるで重さが違う。

 けれど、定子は同じ矜持を持つものとして――同士として、自分のことを見てくれているのだ。

 

(同士――理解者)

 

 そして、それを――理解していた。

 見抜いていた。否――見定めていた……?

 

(……藤原……道長、様……)

 

 そして、今宵を最後に、道長が清少納言の元を訪れることはなかった。

 

 他の誘いに関しても、清少納言はすげなく断り続けた為、中宮のお気に入りの女房に声を掛けてみようという貴族の男達の流行はすぐに下火になっていった。

 

 

 やがて、出産時期が近付いてきた頃、まさか内裏で出産して穢れを持ち込むわけにはいかず、清少納言は再び里へ下がることになった。

 

 その際に、中宮は清少納言に、きらきらと輝く上質な『紙』を渡した。

 

「畳まではくれてやることは出来ないけどね?」

 

 そう言ってくすりと笑うが、清少納言はそれどころではない。

 何気ないものといったが、この時代、上質な紙はそれだけで高級品だ。

 

 内裏で眺めるならまだしも、一介の女房の里下りに贈呈するようなものでは、決してない。

 

「し、しかし、このような立派なものをいただいても、わたしには書くものがございません」

 

 歌は父には及ばず、絵心などもある筈がない。

 詩も、書も、人に誇れるようなものは――何もない。

 

 中宮定子は、狼狽える清少納言に――美しい、微笑みを向けて言った。

 

「あなたがしあわせになれるものを書いて」

 

 紙と畳――自分に幸せをくれる、何気ないもの。

 あたたかい光景――光。

 

 これから一人で、命を生まなくてはならない清少納言に、生きる力を与える為に。

 

 定子は、自らの『理解者』に、これを贈ってくれるのだと気付き――清少納言は、深々と頭を下げた。

 

「――御意に、ございます」

 

 主命を、いただいた。

 美しい紙束と共に、定子は清少納言に――幸せになれと、そう命じてくれたのだ。

 

 余りにもありがたい御言葉と共に、清少納言は里に下った。

 

 

 その年の秋――清少納言は子を産んだ。

 初めての娘だった。ああ、よかったと思ったことを覚えている。

 

 娘ならば、息子のように夫の家に後継ぎとして連れていかれることもない。ずっと傍にいてくれる。そう思ったら、ますます愛おしく感じられた。

 

 そして冬になると、再び清少納言は娘を家の者に任せて出仕した。

 これからは自分が稼がなくてはならないと、この時代には珍しいシングルマザーとしての決意を胸に抱きながら、けれどとても誇らしい気持ちだった。

 

 けれど、戻った内裏は、かつてのように眩い光を放ってはいなかった。

 

 関白・道隆が――病に倒れ伏せていたのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平安京全土を蝕んでいる流行り病が、遂に頂点たる関白にまで届いたのか――そんな噂が流れたが、道隆の身を襲ったのは流行り病ではなく持病、当時では飲水病と呼ばれた、いわゆる糖尿病である。

 

 現代でも生活習慣病として名の知られた糖尿病だが、毎週のように宴を催し、華やかな飲みニケーションに明け暮れ、狭い宮中のみが世界であり碌に運動もしない平安貴族たちは、殊の外この病に侵される者が多かった。

 

 糖尿病は病状が悪化してしまうと快方に向かうのは現代医学でも難しい。いわゆる、一生付き合っていかなくてはならない病気だ。血糖値などという概念もなく、無論、降血糖薬(インスリン)などある筈もないこの時代に置いて、立ち上がれなくなるほどまでに悪化した病状を和らげる方法などある筈もなかった。

 

 そのことを、誰よりも直感的に理解していたのは、他ならぬ道隆であろう。

 思えば、積善寺一切供養の際、あれほどまでに豪勢に仏事を開き、仏の力に縋ったのも、都中に流行り病が蔓延していたからという理由もあっただろうが――己の死期を悟ったというのも大きいのではないだろうか。

 

 道隆の焦りはそれだけに留まらない。

 その年の人員任命の際、道隆は長男・伊周を、権大納言から、なんと内大臣にまで強引に取り立てた。

 まだわずか二十一才の若造が、なんと左大臣、右大臣に次ぐ地位にまで上り詰めたのである。

 

 その余りにも分かり易い人事に、宮中ではすぐさま噂が流れた。

 関白・道隆は流行り病に侵されている――結果としては持病だったわけだが、己の死期を悟っているという意味では大差ない。

 

 道隆がこれほどまでに強引な行動に出ているのは――未だ、自分の一族の権力が決して揺るぎないものではないということを、誰よりも理解出来ているからだ。

 

 跡取りとして最有力候補である伊周は、未だ二十一才の若輩だ。

 何とか内大臣にまで取り立てたものの、弟・道兼は右大臣だ。引継ぎは決して確実ではない。あの野心家の弟は、必ず自分の後の空席を力づくに奪おうと画策するだろう。

 

 そして、中宮である娘・定子は未だに一条帝の子を身籠っていない。一条帝は十五、定子は十八の若い夫婦だが、その次代の天皇と系譜上は目される東宮(とうぐう)居貞(おきさだ)(後の三条天皇)は十九で帝よりも年上であり、既に第一皇子を生んでいる。

 関白である自分が亡くなり、後ろ盾がなくなれば、かつて自身の父がそうしたように――強引に一条天皇を排斥させ、東宮を即位させようと動く者がいないとも限らない。

 

 それに、今は一条帝の女御(にょうご)は中宮定子一人だけだが、自分が死ねば、誰かが別の娘を女御として押し付けるだろう。そして、定子よりも先にその女御に第一子が生まれたら――その子が、男児であったなら。

 

 自分達の一族の未来の繁栄は、まだ決して確約されていない。

 それを誰よりも理解していた道隆だったからこそ、目前に迫りくる死に全力で抵抗した。

 

(……私はまだ、ここで死ぬわけにはいかぬ……ッ!)

 

 道隆の悪足掻きは止まらない。

 年明けには定子の妹である次女・原子(げんし)を東宮の女御として押し込んだ。

 

 そして――自ら、関白の職を降りたいと辞意を表明する。

 

 自分の死後、空席となった関白の椅子を取り合うということになれば、伊周は道兼に敗れることも十分に考えられる。

 だからこそ、自分が健在の間に強引に伊周を関白にすることを目論んだのだ。

 

 だが、道兼もそれを察しない程の愚鈍ではない。

 一早くその情報を聞き付け、画策を巡らせた。

 

 自身の息子の加冠の儀――その加冠の役を、弟である道長に頼んだのだ。

 加冠の役とは、本来は一族の長の役目。それを道隆ではなく道長に頼むということは、道隆を一族の長とは認めない、ひいては道兼は道隆と本格的に敵対するという意思表示になる。

 

 そして――道長は道隆ではなく道兼へと付くという姿勢を示すことになるのだ。

 道長は、それを了承した。

 

 

 その日はすぐにやってきた。

 道兼の息子に、道長が冠を贈呈する。

 そして少年は兼隆と名付けられた――加冠の儀が行われた。

 

 そして、奇しくもその同日。

 東宮の女御となる道隆の次女・原子が、先に入内している中宮定子に登華殿にて対面するという華やかなる儀式が行われていた。

 伊周も、隆家も、貴子も、無論、道隆も――揃って行われた。この華やかなる行事に、中宮大夫である道長は参加していない。

 

 そのことに、中宮定子だけが気付いていた。

 顔を真っ青にして痩せ細っている道隆は、それにすら気付かない。

 

 死から逃げる関白の窪んだ眼は――真っ直ぐに中宮を見据えている。

 

 子を産めと。

 一条天皇の――帝の子を、孕めと。

 

「…………」

 

 定子はいつもの場所に目を向けた。

 理解者は――子を産む為に、己が未だ出来ないことをする為に、己の傍にいてはくれなかった。

 

 道隆と道兼、そして道長。

 故・前関白・兼家の息子たちの道は、この時、完全に別たれた。

 

 そして、宮中の貴族達は、果たしてどの勢力へと付くのかを迫られることになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 二月の終わり。

 道隆は二回目の辞表を提出した。この時代は辞めたいからはい辞めますとやめられるわけではない。関白ほどの大きな役職となれば猶更だ。

 

 提出すれば帝に却下され、いえいえそれでもと何度も辞表を書いた末に、三度目、四度目でようやく成立する。これを利用して、己に対する反発を抑えるポーズとして、または余りにも自らの陣営にいいことが続けた時に周囲の妬みを抑える為のポーズとして辞表を書くという慣例もあった。

 

 わたしは辞めたいといったが帝がそこまでおっしゃるならと、こういった面倒くさい慣習をいつまでも残すのも前例主義の日本人らしさともいえなくもないが、今回のように本当に辞めたい場合などは意外と当人を苦しめるものとなる。

 

 それを表すように、二回目の辞表を提出した直後――道隆は宮中に出仕することが出来なくなった。

 定子と原子の入内後の初対面から、僅か一月も経っていない内の出来事であった。

 

 王者・道隆の終焉。

 それを徐々に貴族達が感じ始めた頃――道隆が流行り病ではなく、飲水病であることも明らかになっていった。この時期、平安京を蝕んでいた疫病は発症後数日と持たず亡くなるといったものだったからだ。

 

 だが、道隆はこれを逆手に取る。

 出仕できなくなるということは、正常な業務を行うことが出来なくなるということ。それを理由にしきたり的な辞表の往復を簡略化し、己の辞職を認めさせ、一気に伊周を関白にせんと推し進めようとしていた。

 

 当然、それは道兼も理解していた。

 つまりは三度目の辞表――それこそがターニングポイントとなるだろう。それまでに伊周の関白就任を阻止する妙案を思いつかなくてはならない。

 

 宮中の他の貴族は、この瀬戸際を、息を吞みながら見守っていた。

 この時点で勝者の勢力に付けば、その後の優遇は約束される。だが、先走って自分が選んだ勢力が敗北すれば、待っているのは無残な未来だ。

 

 そして、その時、道長は――ある人物の元を訪ねていた。

 

 東三条院詮子。

 この時を見据え、何年もかけて恩を売り、信頼を育んできた、己が姉にして一条天皇の母后である。

 

 詮子はこの頃、疫病の流行に心を痛めており、信心深かった彼女は是非とも石山詣に行きたいと願い出た。

 石山詣とはこの時代に流行した石山寺へ詣でることで、場所は遠く手間も掛かるが大層な御利益があるとされていた。

 

 道長はそれを即座に了承し、引率の役目を志願した。

 京を出る際に伊周と一悶着があったが、道長は敢えて、これまで控えていた直接的な伊周との対立をすることで――見極めたのだ。

 

 詮子は伊周に恥をかかせた道長を咎めなかった。

 そして、石山寺にて、道長は詮子に対して切り出した。

 

「道隆兄上のお加減は相当にお悪そうです。関白を辞めたがっているのも、恐らくは本心からでしょう」

「…………」

 

 瞑目し、手を合わせ、祈り続ける詮子の背中に向けて、道長は問う。

 

「道隆兄上は伊周に後を継がせたいと思っている。道兼兄上は、己こそが関白に相応しいと触れ回っています。……姉君は、どう思っておいでですか?」

 

 詮子はゆっくりと目を開けた。道長の方には振り返らず、ぽつりと、ただ虚空を見詰めながら。

 

「私は……我が子を。帝のおんためのみを、考えております」

 

 道長は、その言葉を聞いてゆっくりと頭を下げた。

 さすがは姉君。さすがは母后。

 

 道隆よりも、道兼よりも――そして、おそらくは自分よりも。我が兄姉弟の中で、最も偉大な傑物は、まさしく詮子であろう。

 

(……我が一族は、本当に女が強く、恐ろしい)

 

 下げる道長の頭の中には――これから先、最も恐ろしい敵として立ち塞がるであろう女の顔が浮かんでいた。

 

 兄よりも端麗で、兄嫁よりも聡明――だが、瞳だけは自分によく似た、あの可愛い姪の顔が。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 清少納言が内裏へ戻った時、女房達の間で最も噂になっていたのは、粟田口(あわたぐち)での一幕に関するものだった。

 

 一条天皇の母后・東三条院詮子の石山詣への付き添いの際、足並みを乱した内大臣・伊周を、権大納言・道長が大衆の前で叱責したというものだった。

 

 これに対して伊周は不敬だと大層にご立腹だったが、どのような立ち回りをしたのか、貴族内の評判は道長を評価する声が大半を占めていた。

 

 元々、貴族の内での伊周の評判自体が決してよいものとは言えないのでそれ自体は予想通りというものだが――問題は、今回の一件により、道長自体の評判が大きく上がったことだ。

 

 これまでは関白・道隆、右大臣・道兼の影に隠れた、見た目が少しいいだけの見所のない末っ子というものだった道長の評価が、ここにきてやる時にはやる、関白の兄弟に相応しい男として頭角を現すことになったのだ。

 

 それでいて、牙を剥いた相手が伊周というのも、今のこの情勢においては非常に大きな意味を持つものだった。

 道長が道兼派に付いたということは、道兼の子・兼隆の加冠の儀の際に一部の貴族の間では分かっていたことだが、この時は道兼が道隆に反旗を翻したというニュースの印象が強くて、はっきりいって道長に関しては誰も印象に残っていなかった。

 

 だが、ここにきて道長が貴族間でも存在感を露わにしだしたことによって、道隆vs道兼だった構図が、道隆vs道兼・道長という形で捉えられ始めたのだ。内実は変わっていないが、貴族間で持たれる印象は大きく変わる。

 

 更に、粟田口での一幕が、詮子の石山詣に向かう際の出来事であったということも、大きな意味を持っている。伊周は詮子の石山詣の付き添いという立場であったにも関わらず、その足並みを乱した、そこを道長に叱責された――つまり、伊周は詮子をないがしろにし、道長が詮子の不満を代弁したといった形にも捉えられるのだ。その際、伊周は一条天皇の母后である詮子の信頼を損なったとも捉えられる。

 これは、次代関白を巡る戦いにおいて、隠しようがない大きなマイナスとして映ることになる。

 

 つまり、粟田口での一幕――たったあれだけのやり取りで道長は、これだけの効果を生み出したのだ。

 

 隠していた頭角を、ほんの少し露わにした、ただそれだけのことで。

 

(……これが、藤原道長様)

 

 清少納言は、これまでも時折感じていた悪寒を、改めて思い出した。

 

 やはり、あの御方は――秘めていたのだ。

 研いでいたのだ。隠して、抑えて、ずっと待っていたのだ。

 

 その能力を披露する、その機会を、伺っていたのだ。

 

「…………中宮様」

「………………」

 

 清少納言は傍に侍る中宮の顔を見る。

 定子は何も言わず、ただ引き締めた無表情で――何かをじっと見つめていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 藤原道長の台頭――それを病床で聞いた道隆は、高い天井を呆然と見上げた。

 

「…………」

 

 そして、静かに側近を己の枕元に呼ぶと、一条帝に次のような申し入れを届けさせた。

 

 関白・藤原道隆が病の間、文書内覧(ぶんしょないらん)の権を内大臣・伊周に譲りたい――と。

 

 それを一早く耳に入れた道長は、思わず小さく呻いた。

 天皇と役人の間を取り持つ蔵人(くろうど)――その頭である蔵人頭、この時の蔵人頭は源俊賢(みなもとのとしたか)という男で、この男は道長の二人目の妻である源明子(みなもとのめいし)の兄妹なのである。

 

 道隆と伊周、そして道兼の政闘――その中心地から離れた場所に居ながらも、道長は天皇にある意味で関白よりも近い人物とのパイプを構築し、常に最新の情報を得ていた。

 

(……なるほど。流石は道隆兄上……華だけのお人ではなかった)

 

 文書内覧とは、政府から天皇へ提出される書類を下見する権利である。

 いわば天皇と政府の間のフィルターとなれる権利。実質的に行政そのものを掌握することが出来る、関白という役職が権力の頂点といわれる権利そのものといえる。

 

 つまり、この権利を譲渡するということは、実質的に関白を譲ることと同義である。

 

(これならば三度目の辞表を待たずして伊周に関白業務を譲ることが可能……それに、文書内覧の権を関白以外の人間へ与えることも歴史上先例がある。問題なく兄上の申し入れは通るだろう)

 

 だが、それでは困るのだ。

 ここで道兼ではなく伊周が勝利してしまえば、道長の計画に大きな狂いが生じてしまう。

 

 ならば――。

 

 

 そして、三月の初めに出された道隆のこの申し入れを、一条帝は受諾した。

 だが、決してすんなりと通ったわけではなかった。

 一条帝は初め、あくまでも関白の目を通してから、それを内大臣が正式に通達するという、いわば病床の道隆の代弁者に過ぎない形で了承しようとした。

 

 それに伊周が反対の意を示し、再び蔵人頭である俊賢が一条帝と伊周、道隆の間を往復しながら意見をまとめ、最終的には道隆、伊周の意が通った。これで伊周は実質的な関白と同義の権利である文書内覧の権を手に入れたことになる。

 

 だが、ここで更に一つのトラブルが起きる。

 蔵人の一人である高階信順(たかしなのさねのぶ)――伊周の母であり、道隆の妻である貴子の兄であるこの男が、宣旨(せんじ)、つまりは天皇の言葉を正式に記録しようとしている書記官の元を訪れて、こう言ったのだ。

 

 関白の病床に替わり、内大臣へ文書内覧の権を移譲する――と、記録せよと。

 だが、その場に蔵人頭である俊賢が訪れて叱責し訂正された。これは、現代で言う公文書偽造に当たる行いである。

 

 関白の病床に替わり――この言葉で記録すると、関白の病床により、正式に文書内覧の権が伊周へと移譲することが決定になってしまう。

 此度の文書内覧の権は、関白・道隆が病床の間の、あくまで代行である。

 

 高階信順――つまりは、高階一族が、道隆から伊周への権力移譲を先走った結果の愚行である。だが、これは余りに愚かな勇み足だった。

 

 公文書偽造――それも、天皇からの言葉、宣旨改竄は、天皇こそが日本の頂点であり、半ば神にも近い存在であったこの時代にとっては、余りにも畏れ多い行いである。

 

 結果、あくまでも勘違いから生まれた誤解だと信順は言い張り、正式に処罰が下ったわけではないが、高階一族がある意味、最大のタブーであるそんな行いに出たというのは、瞬く間に宮中に広がった。

 

 道隆が関白に就任して以降、露骨な特別扱いを受けて、我が物顔で宮中を闊歩していた高階一族に対する評判は最悪といっていい。その上で、今回のような愚行が広まり――道隆一族への貴族間の信頼は失墜したといっても過言ではない。

 

 しかし、評判をさておけば、権力の継承リレーの進行としては順調である。

 紆余曲折はあったものの、伊周は文書内覧の権を獲得した。

 

 ()()()、一条帝はすんなりとそれを認めようとはしないが、伊周の関白就任は目前といっていい。

 

 道隆自身の容態は悪化の一途を辿っていたが、道隆は――四月、遂に三度目の辞表を書き終え、提出した。

 

 その上、道隆は文書内覧の権に並ぶ、関白としての象徴である随身も、伊周へと譲り渡したのである。

 随身(ずいしん)とは、現代で言うところのSPに近い。この時代では護衛兵というよりも儀仗兵といった意味合いが強いが、勇壮な男達に脇を固められるその姿は、正しく権力の頂点として相応しいものであった。

 

 随身を侍らせて宮中を出入りする、文書内覧の権を持つ大臣。

 名実の実は、それで殆ど満たせるといっていいだろう。

 

 後は、名実の名を伊周が獲得するまで――己の命が持つか。

 

(……これでどうだ……道兼…………道長)

 

 道隆の風前の灯火の命、その最後の燃え上がりのような一手。

 だが、これにも、文書内覧の権の時と同様に痛いケチが付くこととなった。

 

 道隆の意を受け、一条帝へと伝えた――その返事を、伊周へと伝えるのは、当然のように蔵人頭である源俊賢である。

 

 源俊賢は道長の妻・源明子の兄妹ではあるが、これまで長年に渡って道隆勢力に属しており、道隆の力を受けて蔵人頭にまで上り詰めた男だ。

 

 だが、この時、彼が持ち帰ってきた言葉は、道隆の、そして伊周の欲したものではなかった。

 

「帝の御言葉をお伝えします。関白様におかれましては、辞任の後も随身辞退には及ばぬとのこと。近衛の府生を除くのみで、他の人員はそのまま従前通りでよいとのことです」

「了解した。――して?」

 

 伊周は前のめりになりながら問うた。それに対し、俊賢は、伊周の瞳を見ることなく淡々と答える。

 

「わが随身に関しては? 許可はいただけたのであろうな?」

「……帝が仰せられましたのは、関白様の随身に関してのみでございます」

 

 伊周は沸騰したかのように顔を真っ赤にし、俊賢の胸倉を掴み上げた。

 

「お主が今の立場にいるのは父上のお陰であろう! その恩を忘れたかッ!」

「……私は職務に則り、帝の御言葉をそのままお伝えしているのみでございます」

 

 己と一向に目を合わせようとしない俊賢に、伊周はぷるぷると手を震わせながらも、俊賢を放り投げるように離し、そして、勢いそのまま立ち上がり――部屋を出た。

 

「…………」

 

 感情のままに突き動く若き内大臣を、俊賢はそのまま冷たい眼差しで見送った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 結局、伊周は己が随身を獲得することに成功した。

 

 だがそれは、蔵人を通さずに荒ぶる感情のまま単身で帝の元に乗り込み、直接に言質を頂くという前代未聞のものだった。

 

「……朕の言葉が足りなかったようだ。……内府、貴殿の随身についてだが。……前例があるのならば……望みの通りにしてもらって構わぬ」

 

 天皇に、その口から、前言を撤回させた。

 その時の一条天皇の表情は、筆舌に尽くし難いほどに――不快感に溢れていたという。

 

 翌朝にはそのセンセーショナルなニュースは瞬く間に宮中を駆け巡った。

 

 そして、当然――それは、後宮の中宮の元へも届けられる。

 

「………………ッッ!!」

 

 中宮定子は、その報せを聞いた途端、唇を噛み締め、肩を震わせて俯いたという。

 

 周りの女房達も、そんな定子を気遣しげに見詰めた。

 無理もない、と思う。臣下に直接、文句を言われ、あろうことか一度口に出した宣旨を、己が口から撤回させられるのだ。

 

 それも蔵人や関白との間のみの密話ではなく、こうして宮中にその様が広げられている。

 まさに前代未聞の恥。しかも、その恥をかかせたのがあろうことか――己の兄だというのだから。

 

 しかし、何故――と、清少納言は思う。

 

(どうして、帝は、そこまでして伊周様の関白就任を渋るのかしら……。あれほどまでに中宮様を愛しておられる帝が)

 

 定子の立場を第一に考えるのならば、父から兄へ、道隆から伊周へ関白のバトンを渡させる方が何よりも安全だ。

 

 道兼に関白の座が渡れば、道隆の権力の象徴たる定子の立場は鬱陶しいだけのものになる。

 何より、道隆や道長と違って強面の髭男である道兼は、一条帝にとっては殆ど身近に接したこともない男だ。それならば、定子と結婚して以来、家族のような付き合いを長年している伊周の方がずっとやり易いに違いない。

 

 だが、ここにきて一条帝は、露骨に伊周を冷遇している。はっきりいえば、伊周の関白就任をどうにかして防ごうと、まるで一条帝自身が躍起になっているかのようだ。

 

(……確かに、この後宮に届く断片的な情報だけでも、高階一族――貴子様のご親族の方々の蛮行は目に余るものがありますが……でも、それも、すんなりと伊周様の関白就任が決まりそうにないからこその、焦りからくるもの)

 

 一体、どこから?

 この嫌な暗雲は、一体、どの時点から漂い始めたのだろうか。

 

 清少納言は、静かに俯く中宮の姿を見遣りながら、一刻も早く、この嫌な雰囲気がなくなることを祈った。

 

(……ですが、もうすぐの筈。何はともあれ、このまま行けば、伊周様の関白就任は確実。……そうなれば……このまま、行けば……)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、その日の夜、道隆は一条帝の返事を受け取った。

 

 道隆の御簾に近づいて、床に臥せる男に報せを届けたのは、蔵人頭・源俊賢――では、ない。

 

「帝の御言葉をお伝えます。関白殿には御辞職の後にも随身辞退には及ばぬと。内府殿には、前例を十分に考慮して、然るべき随身をとのことです」

 

 御簾の中の男は、その切れ切れの息を吞んだ。

 そして、掠れる声で「……入れ」と、そう言う。

 

 帝の言葉を届けた男は、御簾の内に入った。

 その男を見上げる病臥の男の目は、赤い涙を流さんばかりに、血走っていた。

 

 死に伏せる、関白は言う。

 

「…………()()……ッ」

「……お加減、変わりありませんか、兄上」

 

 現れた道長は、ふと御簾の中を見渡す。

 既に介助なしでは身体を起き上がらせることも出来ないであろう道隆だが、この報せを受ける時には誰も近づかせないように言い渡していたのだろう、侍女の姿すらどこにもなかった。

 ただ、屋敷の奥から響いているであろう、読経の声だけが微かに伝わってくる。

 

(前情報通りだ)

 

 道長が澄ました顔でそう考えている中、道隆は呻くように言う。

 

「……どうして、お主が、帝の御言葉を私に伝えるのだ……蔵人は……俊賢は、どうした?」

「既に此度の件につきましては、宮中の誰もが知っていることなのです。()()()()()()()、瞬く間に広がりましてな。まるで疫病のように」

 

 俊賢はその混乱を抑えるのに忙しく、代わりにこうして私が参った次第――道長が足を崩して座り込みながら言った、その言葉に。

 

「…………………っっっ!!!」

 

 病床に伏せる関白は、王者としての死を迎えようとしている道隆は――絶句する。

 

(……こいつは……こいつは、()()()――! ()()()………ッ!!)

 

 己を見下ろす末弟は、中宮大夫として誰よりも己の栄華を見せつけてきた道長は――今、()()()()()

 

「み、ち……なが――ッ!」

「ご無理をなさるな。兄上も分かっておいででしょう。私が先程、お伝えした帝の御言葉――あれを聞いて、伊周がどのような蛮行を帝になさったのか。分からぬ兄上ではございますまい」

 

 それでも――道隆は。

 ゆっくりと、ゆっくりと、布団から出て、道長に向かって這い寄ってくる。

 

 道長は避けもしない。身動き一つ取らない。ただ淡々と――愉悦を混じらせながら、道隆が聞きたくない言葉を突き付けてくる。

 

「一条帝の御心は、此度の一件で完全に伊周から離れた――あなたの一族は、もう終わりですよ、兄上」

「みちながぁ――――ッッッ!」

 

 あれほど美しかった華が――枯れようとしてる。

 皮肉にも、道隆はいつかのように桜色の直衣を纏っていた。見るも無残に散りゆくようにはだけるその衣を、もはや直すことすら出来ないのか、その隙間から覗く身体は、あれほど艶やかだった肌が嘘のように痩せ細っていた。

 

「……兄上は、このような間際になってもお美しいですね」

 

 その瞳は、爛々と輝き続けていた。奥に潜むのは青い鬼火のような執念。

 似ていないと思っていた。だが、なんてことはない。

 

 ただ、隠すのが上手かっただけなのだ。

 道化の仮面を誰よりも上手く被り続けた滑稽な王者は、その執念の野心を、この死の間際まで誰にも悟らせずに隠し続けたのだ。

 

(……やはり、我らは兄弟ですね。兄上)

 

 道隆は、その痩せ細った手を道長の肩に食い込ませる。

 その細い指で、どうやってこれほどまでの力を出せるのか、そう思う程に強い力で――執念で、道隆は道長に懇願する。

 

「……頼む、道長。帝に伝えてくれ。内大臣に……伊周に、どうか関白をお与え下されと。そうしていただければ、私は……儂は――」

「兄上」

 

 道長は己に縋りつく道隆の髪を掴むと、そのまま鬼火が燃える瞳を真っ直ぐに――道隆の青い炎を呑み込む程の、黒々と業火が燃える瞳を合わせて、笑みを携えて言う。

 

「後のことは、万事この道長にお任せを。どうか、ごゆるりとお休みなされ」

 

 道隆は、つうと涙を流しながら、ぱくぱくと口を開閉させ――そのまま眠るように目を瞑った。

 

 道長はそのまま道隆を布団の中へと戻し、御簾の向こう側へと帰っていった。

 

 眠るように横たわる道隆の寝床には、再び微かに聞こえる読経だけが響き続けて――そして、その読経が止んだ頃、言いつけられていた時刻になって御簾の中へと入ってきた女中によって、道隆の遺体は発見された。

 

 藤原道隆(ふじわらのみちたか)

 父・兼家から関白の座を引き継ぎ、華やかな権勢を築いた偉大なる王者は、真に望んだものを手中に収めることなく、こうして四十三年の人生に幕を下ろした。

 

 そして、この王者の死を契機に、瞬く間に時代は動き出す。

 

 黒き炎の野心に、平安京が呑み込まれようとしていた。

 




用語解説コーナー⑪

・流行り病

 この時代、平安京では天然痘が流行していたという。
 民たちはバタバタと呪われたように死んでいったが、公卿会議に参加するような上位の貴族には流行が遅れた為、高貴な人間にはかからないという根拠不明な自信を持っていた為、この時点での貴族たちの危機感は薄かった。

 そして、この流行り病は――やがて、平安京に嵐を巻き起こすことになる。


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妖怪星人編――⑫ 死の嵐

呪いを――ご所望ですかな?


 

 人々から愛された関白・道隆の死は、宮中全体に暗い影を落とした。

 

 そして、まるで呪われたかのように、それから次々と宮中の重要人物が亡くなり続けたのである。

 道隆の死の一月前には、大納言・藤原朝光が亡くなった。そして道隆の死の一月後には、大納言左大将・藤原済時がなくなった。

 

 この三人は良い飲み仲間であったらしく「関白があの世でも飲み会がしたくて道連れにしたのだ」だとか、また済時は娘が東宮の皇子を生んでいるので「そうはさせてなるものかと関白が冥土に引き摺りこんだのだ」などと、平安時代らしく様々な理由を結び付けて噂した。

 

 だが、その頃はまだ他人事で済ませられたのだろう。

 しかしすぐに、面白おかしく噂話に花を咲かせていた貴族達も、段々とその顔色を青くしていくこととなる。

 

 何故なら、朝光と済時のどちらの死因も――平安京を蝕んでいたあの流行病だったからだ。

 

 これまで彼等は、心のどこかで思っていたのだ。自分達は貴族だと。選ばれしものだと。死ぬのは下々の庶民だけで――自分達は、神に、仏に、守られているのだと。

 

 だが、ここから先、ぱたりぱたりと貴族達が流行り病で死んでいく。

 一昨日は何々家の誰誰が、昨日は何家の誰が、明日は、明後日は――。

 

 毎日のように、一日何人も、面白いように死んでいく。

 志半ばで死んでいった関白の祟りだと、誰かが言った。そこらじゅうの家から読経の声が聞こえ出し、坊主はあちこちの家を飛び出しては次の屋敷に向かった。

 

 そして、遂に流行病の魔の手は、左大臣・源重信にまで伸びた。

 関白が死に、大納言が二人死に、そして遂には左大臣――現代で言えば、総理が死に、長官クラスがバタバタと倒れ、官房長官まで倒れ伏せるような非常事態である。

 

 一体、この先、どうなるのだと、誰もが頭を抱えて恐怖に震える中。

 

「――何故だッ! 何故、俺を関白にするという宣旨が出ないっ!!」

 

 内大臣――藤原伊周は、父・道隆の喪に服しているので、表立っては何も動けず、屋敷の中でただ畳を殴ることしか出来なかった。

 

 彼はこの時、非常に微妙な立場にあった。

 道隆の生前に勝ち取った文書内覧の権は、関白・道隆が病床の間という但し書きがついていた。つまり、道隆の死後は不透明なままなのだ。

 

 しかし、伊周も、彼を担ぎ上げる高階一族も、道隆の死後には伊周へ正式な関白への任命が伝えられるものだと思い込んでいた。

 

 だが、道隆の死後、一向に、一条帝からは何の通達もない。喪に服している立場としては、随身の時のように直接乗り込んで問い質すことも出来ない。

 

 貴子の父・成忠は財を尽くして霊験あらたかな僧を掻き集めては祈祷を行わせ「これで若の関白就任はまちがいなしじゃ」と、まるで己に言い聞かせているかのように笑っている。

 だが、その他の面々は、段々とその表情に焦りを募らせていた。

 

(父上は、私に文書内覧の権を譲る際に、道兼叔父上に氏長者(うじちょうじゃ)の証である印を手渡している……あれは、父の後継者を争うという意味では、とても大きい……ッ)

 

 道兼も、ただ黙って伊周への文書内覧の権や随身の許可などを見過ごしていたわけではない。

 彼も道隆や道長と同じく、権力の頂点の座を己が一族へと引き寄せた怪物・藤原兼家の息子なのだ。政治的な手練手管は兄や弟に勝るとも劣らない。

 

 そういった意味では、氏長者の印を現在所有する道兼は、権力を引き寄せた兼家の一族・藤原北家の、現在の最高位者と声高に主張出来る立場を獲得している。

 

(探らせた部下によれば、道兼叔父上の屋敷には日ごとに訪れる客人が増えているという……平安貴族は優柔不断が多く、勝つと確信した者以外には決して擦り寄らない……つまり――このままでは、まずい……ッ)

 

 だが、屋敷から出られない伊周には何も出来ない。

 否――自分の生まれ持った華という武器以外は、戦い方を何も知らない伊周には、どうしたらいいか分からなかった。

 

 これまでは口を開けているだけで、親鳥である道隆が何でも持ってきてくれたということに、伊周はこの時に至っても、未だ気付いていなかった。

 

 

「――こんなにも、簡単なのか」

 

 道兼は来客が落ち着いた深夜、自身の屋敷で、道長と二人で酒を飲んでいた。

 

 あれほど熾烈な戦いを繰り広げていたというのに、道隆が死んだ途端、あっという間に流れを引き寄せることが出来た。そして、その流れは留まる所を知らない。このまま最後まで持っていけそうな勢いだ。

 

 道兼は拍子抜けといった呆れを隠さない。

 そんな兄に、道長は酒を注ぎながら言った。

 

「相手は、初めから道隆兄上であり――伊周ではなかった。ただ、それだけのことでしょう」

「お主は伊周に手厳しいな。そんなにあの甥が好かんか」

 

 次いで、道兼が道長の杯に酒を注ごうとする――が、道長はそれを遠慮し、残っていた僅かな酒を一気に飲み干して、吐き捨てるように言った。

 

「ええ。――嫌いです」

 

 そして、道隆の死後から、およそ一月後。

 一条天皇から藤原道兼へ――関白就任の(みことのり)が下った。

 そして、翌日には正式に藤原氏の氏長者にも任じられた。

 

 名実共に、藤原道兼が、藤原道隆の後継者の座を手に入れたのである。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「何故だッ! 何故だ何故だ何故だッ!! 何故、父上の後継が()ではないのだッ!!」

 

 突然、後宮を訪れてそう喚いた伊周は、中宮定子に向かってそう吠え立てた。

 周囲の女房達は唖然としている。それほどまでに、伊周は異様な様相だった。

 

 あれほど華やかに整えられていた容貌が嘘のように乱れている。

 髪は幾度も掻き毟ったであろうことが透けて見えるようにぼさぼさで、目の下には濃い隈、そして目はぎらぎらと血走っている。

 

「な、内府様。今、中宮様は喪に服しております。それは内府様も同じでいらっしゃる筈――」

「どけッ!」

「きゃあ!」

 

 異様な伊周と中宮の間に入った宰相の君はそう言って伊周を宥めようとしたが、伊周は宰相の君を突き飛ばし、そのままずんずんと中宮の元へと近寄っていく。

 

 清少納言は宰相の君を受け止め「誰か! 伊周様をお止めして!」と叫んだが、伊周の異様な迫力と恐ろしさに誰も動けなかった。

 

 そして、伊周は定子の目前に迫り、唾が飛びそうな程に大声で喚き散らす。

 

「何故だ。どうして帝に、俺を関白にせよと申さなかった」

「伊周様! お言葉が不敬ですよ! この方をどなたと心得ているのです!」

「中宮――そう、お主は中宮であろう、定子。お主の言葉ならば帝の心など容易く動かせた筈だ」

 

 清少納言は伊周の言葉遣いに叫んだ。

 例え親子であろうと、兄妹であろうと、天皇の中宮となったからにはそこには主従関係が生じる。当然、内大臣・伊周は中宮・定子を敬わなくてはならない立場だ。関白であった道隆ですら、例え、身内しかいない後宮の中であろうと、そこは最後まで崩さなかったのだ。

 

 しかし、今の伊周はそのことが頭から吹き飛んでいる。

 だが、言葉遣いに関しては見逃しても、最後の言葉は定子も看過できなかった。

 

「容易く動かせる? 帝の御心を、私が? 取り消しなさい、兄上。例え兄上であろうと、帝を軽視することは、この私が許しません」

「何を許さないというのだ。中宮としての責務を何一つ成し遂げていないお主が。帝を正しく導くことも――帝の子を産むことすら出来ていないお主が!!」

 

 伊周は決して言ってはならないことを言った。

 先程まで伊周の異様な様子に恐怖していた女房達が、一斉に伊周に向けて殺意に近い敵意を向ける。

 

 清少納言は、思わず中宮を見遣った。

 そこには、これまでどんな時も――父・道隆が逝去した際にも毅然とした態度を崩さなかった中宮定子が。

 

 まるで、どこにでもいる年相応の町娘のように、泣きそうに傷ついた顔をしていた。

 

「そうだ――そもそもお主がさっさと帝の子を孕んでおれば! 男児を――皇子を産み落としていれば、こんなことにはならなかったのだ! 全てお前のせいだ! この出来損ないの中宮めが!」

 

 清少納言は頭が沸騰するのを感じた。

 音が消え、視界が真っ赤に染まった。我を忘れ、激昂していたのだと、清少納言が自覚するのは、このほんの数瞬後だった。

 

 ぱぁんという乾いた音で我に返った。

 そこには、激昂した清少納言を見て――それより先に伊周を引っ叩いた、中宮定子がいた。

 

 さらに、我に返ったのは、清少納言だけではなかった。

 

「な、なにをする! 俺を誰だと――ッ!?」

 

 伊周は、その時、ようやく我に返った。

 己が関白に選ばれず、道兼が関白に就任した、その報せを聞いてから――初めて、我に返ったのだ。

 

 そして、ようやく気付いた。

 自分が今の今まで聞くに堪えない暴言を喚き散らしたのが、誰か。

 じんじんと痛む己の頬を打ったのが、誰か。

 

「……ぁ……いや、これは――」

 

 思わず後ずさった伊周は、誰かにぶつかり、振り返った。

 そこにいたのは、表情を消して、伊周を真っ黒な瞳で見据える――清少納言だった。

 

「っひ!」

 

 伊周はようやく周囲に目を向けた。

 自分が突き飛ばした宰相の君を初め、これまでのような熱っぽい憧れの視線ではない、本気の嫌悪と、殺意に近い敵意を剥き出しで伊周を睨み据える、中宮の女房達に囲まれていたのだ。

 

「――――ッ! 失礼します!」

 

 一応は敬語に戻ったが、結局、ただの一度の謝罪もなく、伊周は逃げ出すように後宮を後にした。

 後に残ったのは、居心地の悪い、気持ち悪い空気だけ。

 

「…………あんな人だったのですね」

 

 誰かがぽつりと呟いた。

 後宮ではこれまで、藤原伊周は、比喩ではなく文字通り王子様のような扱いだった。

 

 道隆という王者の息子であり、自分達にとって姫のような存在である定子の兄。

 見目も麗しく華もあって、和歌や漢詩などの芸術にも長けている。

 

 伊周の言葉ではないが、ここにいる女房達は、いずれ彼が道隆の後を継ぐのだと、信じて疑っていなかった。

 

 だが――今。

 伊周の誰も見たことのなかった顔に、全員が嫌悪と失望を隠せていない。

 

 定子はそんな女房達に向けて「……身内の、見苦しい姿を見せましたね」と言って座り込む。

 

「……伊周様の、あの御姿は――」

「……良くも悪くも、兄は父に影響を受け過ぎたのです。そして父は、いい父ではありましたが――いい上司では、なかったということでしょう」

 

 宰相の君の言葉に、定子はただそう言って、その細い指で頭を抑えた。

 その姿に、女房の誰も、それ以上、中宮に問いを重ねるものはいなかった。

 

(……伊周様は他の貴族からは覚えが悪いとは聞いていたけど……先程の姿を見るからに、さもありなんといったところかしら)

 

 物怖じしない性格から、他の貴族の男との窓口係を務めることが多い清少納言。比較的に宮中の貴族と会話をすることも多い彼女は、前々から伊周の宮中の評判を、その耳で聞いてはいた。

 

 父譲りの華とカリスマ性から同年代の支持率はそれなりに高い伊周だが、年上の他貴族からの評判はすこぶる悪いのが特徴だった。

 

 その理由も、先程の蛮行を見て、ようやくその理由が分かった。

 伊周は本気で、自分が関白を継げると信じて疑わなかったのだろう。そして、それが叶わなかった理由が――自分にあるとは、まるで思いもしていないのだ。

 

(いい父ではあったけれど、いい上司ではない――か。これまできっと、自分がどれだけ道隆様に救われていたのか、あの方はその自覚すらない)

 

 もしかしたら、内大臣まで上り詰めたのを、本気で自分の才覚によるものだと思っているのかもしれない。もしそうだとすれば、自分達が甘い汁が吸えているのは道隆と定子のお陰だと、曲がりなりにも自覚のある他の高階一族の方が、まだマシなのかもしれないくらいだった。

 

 清少納言は、その日の夜、他の女房達が寝静まった後、中宮に話し相手として残るように言われた。

 中宮から、いわゆる愚痴のようなものを聞かされるのは、これが初めてのことだった。

 

「……帝からは、何度も謝られたわ。……でも、あのお優しい帝からすら、既に兄上達は見放されているのよ。……政闘に負けたからというだけじゃない。ただ単純に、関白を務めるだけの能力がないと、兄上は帝から判断されているの」

 

 若く、感情に流されやすい、自己を取り巻く環境すら理解出来ていない二世。

 それが藤原伊周という人物に対する、帝の、ひいては宮中の人物評だった。

 

「同じ華を武器にするのでも、父上と兄上ではまるで違う。父上は計算で道化を演じていたけれど、その裏ではとても冷静で冷徹だったわ。……でも、兄上は違う。父上の道化の仮面を、関白たる姿だと、人の上に立つ者の姿だと心から信じてしまっている」

 

 華や雅だけでは王子としては持て囃されても、王にはなれない。

 あくまでそれは人心掌握の術であり、その裏で大局を、そして何より自分を俯瞰で見ることが出来なければ、頂など立てる筈もない。

 

「伊周様は……これからどうなるのでしょう」

 

 清少納言は、そう問いかけた。

 それにはこれから中宮はどうなるのか、そして、中宮は伊周をどうするつもりなのか、様々な意味が込められていたが。

 

 中宮は、ただその言葉に、小さく笑って――こう答えた。

 

「私は、中宮としての責務を全うする。ただ、それだけよ」

 

 そこには年相応に傷ついた少女はおらず――顔を上げたのは、偉大なる女王としての中宮だった。

 

 清少納言は、その余りにも痛々しく、そして誇らしい姿に、涙を堪えて頭を下げることしか出来なかった。

 

 そして、この時、まだ誰も気付いていなかった。

 道隆の死。伊周の敗北。道兼の悲願達成。

 

 そのどれもが、まだ始まりに過ぎないことに。

 平安京を包む黒い野心の炎は、まだまだ渦を増しているのだということに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その頃、自邸に戻った伊周は、当たり散らしてボロボロになった部屋の中に引き籠っていた。

 すると伊周の部屋を、祖父・高階成忠が訪れる。

 

「――若」

「……なんだ、爺。今は人に会いたい気分ではない。一人にさせてくれ」

 

 明かりも灯さず、真っ暗な部屋の中で座り込んでいた伊周の制止の声も聞かず、老爺は孫の部屋の襖を開ける。

 

「――っ! 俺は誰にも会いたくないと申した――ッ!?」

 

 伊周は反射的に手に掴んだものを投げつけようとしたが、途中で椀を持って振りかぶった腕を止めた。

 

 そこには、声を掛けてきた成忠だけでなく――もう一人、老爺がいた。

 

「……爺。そやつは誰だ」

「我らをお救い頂ける、救世主にてございます」

 

 成忠はそう言って跪き、頭を下げた。

 だが、もう一人の老爺は内大臣を前にしても頭を下げず、ただニタリと笑って、こう囁く。

 

「呪いを――ご所望ですかな?」

 

 伊周は、月光を背に浴びる、影が濃く、闇が深い老爺に、目を細めてこう尋ねる。

 

「――もう一度、問おう。お前は誰だ」

(それがし)は、人を呪うことしか取り柄のない、しがない、しがない――」

 

 そこで老爺は初めて深々と頭を下げた。

 しかし、膝は折らず、下げた頭も――伊周から見えない真っ暗な影の中で。

 

 口角を吊り上げ、愉悦に歪ませて――怪物のように、嗤っていた。

 

「――ただの、陰陽師にございまする」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 いよいよ明日、藤原道兼の関白就任式が行われるという、その日。

 

 この日も道兼の私邸である二条邸は入りきらんばかりの来客で満ちていて、道兼は一日中来客に追われていた。

 

「……ずいぶんとお疲れの御様子ですね」

「ああ、そう見えるか。流石にこう毎日だとな。嬉しい悲鳴というやつだが」

「いよいよ明日が本番です。今宵はごゆっくりお休みを。祝酒はこの一杯だけにいたしまししょう」

 

 明日はたんまりと呑まれるでしょうしね――そう言って道長は、いつかのように道兼の杯に酒を注いだ。

 道兼は己の身体を気遣う弟の言葉にはにかみながら「……それにしても、お主に注がれる酒をこれほど飲むことになろうとは。一昔前には考えられなかったな」と上機嫌に呷る。

 

「天の采配というものでしょう。私もまさか道隆兄上がこれほどまでに早くお亡くなりになってしまうとは思いもしなかった。それだけ、道兼兄上の天運がお強かったということ」

「可愛くない弟だ。私は天の力でここまで上り詰めたわけではない。私は欲しい物を、ずっとこの手に収めたかったものを、己が力で手に入れたのだ」

 

 そう言って道兼は、天に向かってその毛むくじゃらのごつい手を掲げる。

 道長は「……そうですね。本当に欲しいものは、天ではなく、己が力で手中に収めねば。道兼兄上はそれを成し遂げた。弟として、本当に誇らしく思います」と、己の杯の酒を呷る。

 

 道兼は道長の言葉に気をよくしたのか、再び勢いよく酒を呷る――が、今度は途端に噎せ返り、ごほっごほっと具合の悪そうな咳をした。

 

「……どうやら本当に具合が悪いご様子。明日は大切な日です。今日はここまでに致しましょう」

「……あぁ。どうやら思った以上に疲れが溜まっているようだ。俺も若くないな」

「何をおっしゃいます。これからでしょう」

 

 道兼兄上の天下は、明日から始まるのです――そう言って、道長は小さな椀に酒を移し、掲げる。

 

「……ふん。お主も可愛い弟らしいことが言えるではないか」

 

 そう言って道兼も同じく小さい椀に酒を移し、兄弟はそれをカツンと合わせ、くいっと最後の酒を飲んだ。

 

 では、私はこれでと、早めに退散しようとした道長に、立ち上がって寝床に向かおうとしていた道兼は、これまでの人生でずっと、隠すことなく常に浮かべていた、ギラギラとした牙を剥いた獣のような笑みを、遂に消し去り――穏やかな、満ち足りた笑みを浮かべて言う。

 

「道長。これからも、よろしく頼む」

 

 その顔は――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 今宵、顔を合わせた時から、これまでずっと、道兼の様相はみるみる悪化の一途を辿っていた。道長は、それを一切口に出すことなく、寝床に向かう道兼を見送った。

 

(変わられたなぁ、道兼兄上。あなたはずっと、どこまでも分かり易い獣であったのに)

 

 剣山を纏っていたかのような野心家の獣も、あのような満ち足りた人間のような笑みを浮かべることが出来るのかと、道長は苦笑した。

 

 道隆のように長く権力を謳歌することは出来なかったが、ある意味では道兼は長兄よりも幸せなのかもしれない。

 念願の頂点に立った、その絶頂の瞬間のまま――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「どうか、よい夢を。道兼兄上」

 

 道長は誰にともなくそう呟いて、二条邸を後にした。

 

 

 

 明くる日――藤原道兼は、関白就任式、その最中に、病に倒れた。

 

 関白就任の挨拶も、蒼白とした顔面を晒しながら荒い息だけを途切れ途切れに漏らすだけで、何も残すことも出来ずに、そのままゆっくりと沈み込むように倒れ伏せた。

 

 そして、そのまま二度と起き上がることは出来なかった。

 だが、その後、道兼は七日間に渡って苦しみながらも生き続けた。ただ一度も目を覚ますことなく、まるでずっと関白就任の挨拶を続けるように――念願の関白の座に、しがみ付くように。

 

 そして、その後、関白就任の夢を見続けながら、関白就任式から七日後――藤原道兼はこの世を去った。その余りにも短い王座は、後世に七日関白として、皮肉にも道兼の名を永久に語り継ぐ伝説となった。

 

 

 その成果に、誰よりも狂喜乱舞している者達がいた。

 

「やっった!!! 死んだ、逝ったぞ!! 俺から関白の座を奪いやがった道兼が!! こんなにも呆気なく!! あんなにも無様に!!!」

 

 内大臣・伊周は、真っ暗な自邸で小躍りしながら笑っていた。

 それを後押しするように、祖父・成忠入道が――そして、真っ黒な陰陽師が気持ちよく煽る。

 

「これで若の関白就任を邪魔するものはおりますまい」

「ああ。これで俺の天下だ」

「ようやく、亡き道隆殿の無念が晴らせますな」

「ああ。これが本来の正しい形なのだ」

 

 そして伊周は、隈で黒く窪んだように見える瞳をぎょろりと陰陽師へ向けると。

 

「お主は正に我らの救世主であった。褒めてつかわす」

 

 真っ黒な陰陽師は、恭しく頭を下げる。

 

「勿体無き御言葉」

 

 

 藤原道兼の死因は、大方の予想通りに京を蝕む流行り病だった。

 京を混乱の渦へと突き落とした死の嵐は、次々と高貴な者達を餌食にしていく。

 

 結果、たった半年の間に、前関白・藤原道隆、左大臣・源重信、前右大臣にして新関白・藤原道兼、大納言・藤原朝光、藤原済時という、この国の上層部の、その大半の人間が逝去した。

 

 そして、六月――伊周の異母兄である、権大納言・藤原道頼が逝去した。

 道長と同じ位にいた藤原道頼が亡くなった――これにより。

 

 この国の上層部は――権大納言である()()()()()()()()()()()()()

 内大臣・藤原伊周を除いて――()()()()()()()()()

 

 全員が、亡くなった。

 まるで道長へ、その道を開けるように。その位を空けるように。

 

 藤原道長へ、天下を、明け渡すように。

 

 そして――土御門邸。

 妻の倫子が見詰める中、道長は己が掌を月へと向ける。

 

 まだ何も掴めていない手。だが、ようやくその目に、月が見える所までやってきた。

 

 道隆は死に、道兼も死んだ。

 常に己の頭上に壁として存在した偉大なる兄達は――遂に、乗り越えた。

 

 残るは、一番の強敵――最強、最大の壁。

 ここだと、道長は己を叱咤する。

 

「さて――勝負所だ」

 

 道長は、虚空を握り締める。

 この空っぽの手の中に――真に己が欲するものを収める為に。

 

 今、黒き炎が渦巻く宮中で、世紀の大勝負が行われようとしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 未曽有の大恐慌、その真っ只中であった平安京。

 関白就任直後に急逝した道兼、続いて他の官僚も続々と倒れ、完全に政治機能が麻痺する中――これで己が関白就任は間違いないと確信し、思考停止したかのように狂喜乱舞する伊周ら高階一族を他所に、この日。

 

 一条天皇の元を訪れたのは、白い尼服を纏う女性だった。

 

「我が弟、道長こそが、次なる関白に相応しい人材です。帝よ、この母の言葉を、どうか聞き入れてくださいますよう」

 

 若き王は、余りにも重く放たれる母の言葉に、思わず小さく呻き声を上げた。

 

 女は政治に関わるべからず。

 これが、この時代の内裏の常識であった。

 政治は男の仕事、女は仕事に口出しするなといえば、ほんの最近まで日本という国に染みついていた慣習ではあるが――何事にも例外は存在する。

 

 それでいえば、東三条院詮子――彼女こそ、この時代での大きな例外であった。

 道隆、道兼、道長と同じく、先々々代の関白・藤原兼家の子にして、一族に権力を齎した最大の功労者。

 

 彼女が円融帝の女御となり、一条帝を生んだからこそ、彼女の一族が栄華に至り、関白職を独占し続けているのである。

 

 だが、彼女は子を生んだものの円融帝の愛を勝ち取ることは出来ず、中宮の座を得ることは終ぞ叶わなかったことで、長き苦悩の時代を生き続けた。

 

 つまりは、定子の鏡合わせのような女王なのである。

 帝の愛を獲得することは叶わずとも子を産むことには成功し、一族に繁栄を齎した詮子と。

 帝の愛は独占しながらも子を孕むことは叶わず、一族に敗北を齎してしまった定子。

 

 だが、一条帝にとってはどちらもかけがえのない、妻であり、母である。

 

 一条天皇は苦悩した。

 確かに、母の言葉には大きな理がある。一条帝も伊周に関白職が務まるとは思えない。ここで高階一族に再び権力を与えるような真似をすれば、ただでさえ瀕死の政府に止めを刺すことになるとは分かっている。

 

 だが、ここで――道長を選べば。

 止めを刺されるのは――政府の代わりに、この国に代わりに、致命的なダメージを負うのは。

 

「――帝」

 

 詮子はより強く、一条帝を見据える。

 母の勘は、今、一条帝の頭の中に誰がいるのかを正確に見抜いていた。

 

 自分の言葉を何でも聞いてくれた子供はもういない。

 それに寂しさを感じないと言っては嘘になるが――ならば、母として子に、ではなく、一人の臣下として王に、真っ直ぐに、心からの忠言を。

 

「本当に守るべきものは何なのか――それを見誤りなされるな」

 

 一条帝は――長く、長く沈黙した。

 

 やがて夜になり、逃げるように寝床へ入ったが――詮子は逃がさなかった。

 通常は后しか入ることの許されない帝の寝所に、自ら強引に入り込んでまでも、一条帝を無言で睨み続けたのだ。

 

 そして、夜が明ける。

 一条帝よりも先に御簾を潜り抜けてきた詮子は、その場に控えていた蔵人に向かって、こういった。

 

「――宣旨(せんじ)が下りました」

 

 この日、藤原道長は――右大臣へと就任した。

 関白不在の平安京にて、人臣最高位へと上り詰めたのである。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 畳を貫くような勢いで、伊周は拳を振り下ろした。

 

「馬鹿なッ!! 俺ではなく、道長がっ!? どうなっているんだふざけるなッッ!!」

 

 平安貴族の序列としては、関白、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、権大納言という順になる。

 だが、現在、関白、左大臣の位は空席となっている。そこに、権大納言であった道長が、大幅に序列を上げて右大臣へと上り詰めたという報せが入った。

 

 これにより内大臣である伊周よりも、名実ともに上位に立たれたことになる。

 

「それに加えて、文書内覧の権も道長のものだと!? ふざけるな! それではまるで――」

 

 関白ではないか、という言葉を、かろうじて伊周は呑み込んだ。

 だが、憤懣やるかたない伊周は激しく鼻息を荒げ、肩を上下させる。目はギラギラと血走り、消えることのない隈はますます濃くなるばかりだった。

 

 伊周のものであった文書内覧の権は、道兼が関白にと正式決定されたその日から取り上げられている。随身も既に失っており、伊周はまさしく裸の王様――裸の元王子様といった風体に成り下がっていた。

 

「……認めぬ……認められるか、こんなことが! 女院もだ! 女が政治に口を出すなど、恥ずかしいとは思わぬのかッ!!」

 

 かつて定子にどうして帝に自分を関白にせよと言わなかったと(いか)ったことを大いに棚に上げながら、伊周は畳を足蹴にする。

 

 そんな伊周を、祖父・成忠は顎髭を撫でながら「まだ諦めるのはお早いですぞ、若よ」と宥める。

 

「七日で死ぬ関白も居りました。此度も――死んでもらえばよいではありませぬか」

 

 成忠入道の言葉に「――そうか。そうだな。それがいい」と、伊周は不気味な笑みを浮かべた。

 

「――出来るか? 陰陽師」

「そうですなぁ。道長殿は道兼殿と違い、若く、健康であらせられます。流石に七日とはいかぬかもしれませぬが――」

 

 黒き陰陽師は、その表情を見せぬまま、恭しく頭を下げて、言う。

 

「――死んでいただくことは、可能かと」

 

 伊周はその言葉を聞いて、ますますその笑みを深めながら言う。

 

「では、呪え。存分にな」

「御意」

「そうですぞ。若こそが、道隆殿の後継者に誰よりも相応しいのですから。それに――」

 

 他にもまだ手はありまする――成忠はそう言って、伊周に囁く。

 

「子です。定子様が皇子を産めば、その皇子の摂政、関白となるのは伊周様、あなた様なのですから」

 

 正義は必ず勝つのです――そう言って、真っ暗の部屋の中で、三人の黒い男達は嗤った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 まだ勝負は決まったわけではない――そのことは、無論、藤原道長も理解していた。

 

 権大納言から右大臣となり、宮中の頂点に上り詰めた道長は、長年被り続けていた平凡児の仮面を外し、その覇気を最早隠そうとはしていなかった。

 

 藤原北家の氏長者の証も道兼から引き継ぎ、錚々たる随身を引き連れながら応天門を潜る。

 

 その王者たる様に、道長に道を譲る貴族は畏怖の面持ちを見せていた――が。

 

「浮かない顔だな、右大臣」

「……これは元々だ」

 

 人気が少なくなると、そんな道長の元に一人の軽薄な男が近寄ってくる。

 藤原公任――道長と同い年の彼は、道長の眉根に寄る皺を揶揄しながら言った。

 

「ここまでは順調そうに見えるが? 何がそんなに不満なんだ」

「これは元々だと言っている。……それに、ここまではいわば予定調和なのだ。順調でなくては困る。勝負はこれからだ」

 

 年寄達も不満なようだしな――と、道長は道中に己に道を譲っていた彼等の顔を思い出す。

 

 確かに、伊周はいけ好かない若造として同僚貴族達から大層に嫌われていたが――かといって、道長が支持を集めているかといえば、そんなことはない。

 

 伊周は二十二にして内大臣に抜擢され批判を浴びた――が、道長も三十で右大臣、それも現在の人臣最高位だ。他のベテラン貴族からしたら面白い筈がない。若い世代が台頭するということは、当然、自分らの地位が脅かされるということなのだから。

 

 ただ単純に、これまで悪目立ちしていたか――雌伏していたかの違いでしかない。

 そして、道長は雌伏するのを止めた――台頭を始めた。つまり――これからだ、というわけだ。

 

「それに、問題は山積みだしな」

 

 ただでさえ政治的に崩壊しかけている状況での引継。

 流行病の猛威は依然、留まる所を知らず。毎日のように市政では火事(ボヤ)騒ぎが起き、街は死体で溢れ返っている。

 

 それに――何より。

 

「伊周はこれで終わると思うか?」

「あんな青二才などどうでもよい」

 

 道長はそう吐き捨て、歩調を早めて公任を置き去りにする。

 そして、去り際にこう言った。

 

「俺の敵は、もっと大きく、もっと怖い――油断できぬ相手だ」

 




用語解説コーナー⑫

藤原道兼(ふじわらのみちかね)

 藤原兼家の三男に生まれ、兄・道隆や弟・道長と違って、毛深く髭も濃い醜い容姿をしていた。常に瞳をぎらつかせて、これもまた兄や弟と違い野心を隠そうとしない男であった。

 だが、その才覚は確かであり、父・兼家の意を受けて花山天皇を唆し、出家・退位させた実行犯は他でもない、当時、花山帝の蔵人であった道兼である。

 しかし、その手柄があったにも関わらず、自身ではなく道隆が関白の座を継いだことに不満を燻らせており、そこを道長に利用された。

 道隆が病死後、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死し、「七日関白」と呼ばれている。



 本編で余り活躍させられなかったので、特別に道兼個人解説コーナーを作ってみた。
 もっと活躍させたかったが、ここで道兼ルートの話も膨らませてしまうといい加減に過去編の過去編が長すぎて(今でも十分長いのだが)しまうので断念。

 俺も出家するから一緒に出家しようぜ! と花山帝を唆して直前で裏切る所とか。
 兼家の死後に自分ではなく道隆に権力を継げられたことに拗ねて、父親の喪中をぶっちぎって宴会を開いちゃう所とか。
 父親の妹(つまり叔母)を犯して奥さんにしちゃう所とか(ちなみにこの人と道兼の子は、fgoの平安京エピで玉藻の姿で登場している尊子)。

 中々に濃いエピソードをお持ちで。人徳で権力を集めた兄や、天運が味方した弟と違い、冷酷な性格でギラギラと尖り続けたまま我武者羅に権力を狙い続けた所とか、キャラとして非常に好きだった。死に際も劇的だし。

 彼だけでも物語が一つ作れそうだったのだが、今回は中々うまくスポットライトを当てられなかった。

 というか、道長一族はこの過去編を執筆するにあたって色々と調べたら調べるほど、どいつもこいつもいいキャラ過ぎて好きになる。彼ら彼女らの人生そのものが物語だ。

 道隆も、道兼も、姉の詮子の人生もまた物語として面白い。

 けれど――やっぱり、この過去編の過去編の主人公は、道長であり、清少納言であり。

 そして――これは、彼女の物語だ。


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妖怪星人編――⑬ 馬鹿な子供

どうして――こんなことに、なったのだろう。


 

 では、努々(ゆめゆめ)、お忘れなきよう――そう言って伊周は、後宮を去っていった。

 

「……よく、毎度毎度、堂々と顔を見せることが出来るものです」

 

 宰相の君は独り言といった体で、けれど皆に聞こえるような音量で呟いた。

 本来であれば伊周のような立場のものに対しては不敬極まりないが、けれど誰もそれを咎めなかった。この場にいる全員の心の代弁だと分かっていたからだ。

 

 ここの所、伊周は余りにも頻繁に後宮へと顔を出していた。

 そして、決まって言う言葉は「帝の寵愛を獲得しろ」だった。

 

(ようは一刻も早く帝の子を産め――と。直接そう言わないだけ、あの方の理性も戻ったということかしら。ほんのちょっとでしょうけれど)

 

 少なくとも、自分の言動がどれだけデリカシーに欠けることなのか、そして、そんな自分がどれだけ冷ややかな目で見られているのかを自覚できる段階には、まだ程遠いらしい。宰相の君の言葉通り、こうして恥知らずにも何度も後宮へ出入りすることが出来るのが何よりの証拠だ。

 

「焦っておられるのでしょう。この間も随分と、右大臣様と口論をなさったようですし」

 

 中納言の君はそう冷ややかに言った。その件に関しては、清少納言の耳にも入っている。

 

 その内容は伊周の言いがかりに近い物言いで、騒ぎ立てたのも伊周であり、道長はそれをひらひらと受け流すといった――煽っているともいう――ものだったらしい、が、それを年寄貴族らは、道長の統率力不足という形で流布しているらしい。

 

 ある意味で狙い通りに道長の評判を落とす結果に繋がってはいるが、同時にそれ以上に自分の身と評判を削っているので、費用対効果としてはどうなのかと思わなくもない。

 

(まぁ、そもそも、伊周様の評判は今以上に下がりようがないので、ある意味で理に適っているのでしょうが)

 

 清少納言がそう心中で吐き捨てると、「気分が悪くなる話題はそこまでにしましょう」と、中宮の涼やかな声がその場に響き渡った。

 

「私のやることは――私達のすべきことは、何も変わりません。これまで通り、今まで以上に――私達らしく、いましょう」

 

 清少納言は、今、再び感服する。

 あれほど刺々しくぴりついていた後宮の空気が、定子の言葉と微笑みだけで、あっという間にいつもの穏やかさと温かさを取り戻した。

 

(そう……そうよ。いつも通りでよいのだわ。伊周様の思惑に乗るようで癪だけれど、そもそもそんな心配はいらないのよ。中宮様は、これ以上ないほどに、既に帝の御心を掴んでらっしゃるのだから)

 

 それは、この場に居る者ならば誰でも分かる。

 道長が右大臣になってから奇しくも、一条帝はこれまで以上に定子の元へ通う頻度は増している。

 

 そして、女ならば誰でも分かる。その際の一条帝の、定子を見詰める瞳が、どれだけ温かい――熱い、愛で満ちているか。そして、それに応える、一条帝へ向ける定子の瞳にも。

 

(これまで通り――愛する方に、ただ一人の相手として、最大限に愛される。中宮様は、それを誰よりも、その身で体現なされている)

 

 そんな愛する二人の元に――子が贈られない筈がない。

 いつか必ず、中宮は一条帝の子を産むだろう。そうなった時――最後に勝つのは誰か、清少納言は信じて疑わない。

 

 定子の戦いは、いつか必ず報われる。

 そう、彼女達は信じ抜いていた――だからこそ。

 

 それを、誰よりも近くで見ていたものは――それを何よりも脅威に感じていた。

 

 だからこそ、彼は――そして、彼女は。

 お互いを、最も恐ろしい敵だと、ずっと前から認識し合っていたのだ。

 

 そして、その年の夏、大量に空席が生まれた各役職が整理された。

 

 公卿へと出世を遂げた源俊賢に代わり、蔵人頭(くろうどのとう)も新たにされたのだ。

 

 その後釜に座った男の名は――藤原行成(ふじわらのゆきなり)という。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 後に一条帝の半身とまで呼ばれる程に信頼を勝ち取ることになる行成が、中宮へ初めて挨拶する為に後宮へと訪れた際、御簾の内側で共に応じたのが清少納言だった。

 

 行成は幼い時に有名な歌人であった父を亡くし、以来、後盾もないまま厳しい貴族社会を戦い抜いてきた男だ。その実直な仕事ぶりで評価を徐々に上げていき、遂には俊賢が、自分が死に物狂いで獲得した蔵人頭の後釜を、太鼓判を持って継がせる程の人材となった。

 

「彼は間違いなく、帝の優秀な手となり足となるでしょう」

 

 その大層な評判を、清少納言は中宮経由で前以(まえも)って聞き及んでいた。

 そして、実際に相対した行成の第一印象は――可愛くない若者、であった。

 

(よく言えば真面目、なのだろうけれど……)

 

 無駄口も叩かず、話す言葉はただただ無機質な事務連絡のみ。

 優秀な歌人の息子という前評判から、他の女房から風流な言葉遊びを投げ掛けられるも、そのどれもをすんと無視している。

 

 脇目もふらず仕事のみを行う、というのも日本人らしい生真面目さといえるが、こと貴族社会、それも後宮ともなれば、風雅な遊び心は必須ともいえる。それも、有名な歌人の子といった評判が立っているのだから、自分の歌才を出し惜しみこちらを下に見ていると取られてもしょうがないのだ。

 

 そんな同僚達の空気を察し、清少納言は行成にこう冷ややかに皮肉を言う。

 

「新しい蔵人頭の方が、とても風流な御方で我々も嬉しいです」

 

 だが、行成は一切表情を変えず、ただ淡々とこう返した。

 

「色も分からぬ者が描く絵ほど、滑稽なものはございません」

 

 その答えに他の女房達は失望を隠せなかったようだが、清少納言だけは違う受け取り方をした。

 

(……ああ。この御方は、私なのだ)

 

 優秀な父を持つが故に、自分の才が恐ろしく鈍いものに思えてしまう。

 きっと、ずっと己を恥ずかしく思いながら生きてきたのだろう。

 

 その後、案の定、他の女房に嫌われた行成は、後宮を訪れるたびに清少納言を聞き役に指名することとなる。

 こうして清少納言は、新たなお得意様を得ることになった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ある日の夜――土御門邸に来客があった。

 それは傍目でみれば何もおかしなことはない光景であっただろう。

 

 右大臣――人臣最高位の男の元に、蔵人頭が訪れた、ただそれだけなのだから。

 

「ふっ。そうか。随分と女房達に嫌われたか」

「……ですから申したのです。私のような人間は、あの場所には合わぬと」

 

 道長は面白そうにくつくつと笑う。杯に酒を満たし、月を見上げながら、大層に機嫌がいい様子だった。

 

「まあよい。清少納言とは仲良くなれたのだろう? むしろ、これで彼女を指名するよい理由となったではないか。あの場所では彼女とだけ交流を図れればよい」

「……どうして、彼女なのですか?」

 

 確かに清少納言は中宮定子のお気に入りとして名を馳せているが、中宮の女房と言えば宰相の君や中納言の君の方が有名だ。職歴も長く、女房としての序列もまだ彼女達の方が上だろう。

 

 だが、中宮大夫として、彼女達を誰よりも近くで見てきた男は一蹴する。

 

「決まっている。清少納言こそが、中宮様の番人であり、半身だからだ。――いずれは帝にとっての彼女に、お前がなってもらうぞ、行成」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――道長の言葉に、行成は無表情で頭を下げて言う。

 

「……父亡きこの身を重用してくださり――蔵人頭などという、身に余る大役を任じて下さった御恩。この行成、生涯をかけてお返ししとうございます」

 

 行成は道長の父・兼家の兄にあたる藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の孫だった。

 その繋がりから道長は、早くからこの優秀な人材に目を付けていたのだ。

 

「相変わらず固い男だ。なに、そんな主に腹芸など期待しておらぬ。お前は何も考えず、蔵人頭の役職を、ただ全力で全うすれば、それでよい」

 

 道長は、行成へ笑みを向けて言う。

 

「一条帝も、中宮定子も、お主が忠誠を捧げるに相応しい主だ」

 

 行成はその言葉に更に深々と頭を下げて「……道長様は、これからどうなさるおつもりですか?」と尋ねる。

 一条帝、そして中宮定子がそれほどの存在であるならば、道長が望む野心はどのように叶えるつもりなのかと、そう問うと、道長は「問題ない」と笑みを崩さぬまま答える。

 

「一条帝が、中宮様がいかに傑物でも――付け入る隙は、いくらでもあるものだ」

 

 ちょうど馬鹿が、餌に思うように食い付いている――そう言って、道長は再び月へと手を伸ばし。

 

「――近付いている。それは、我が手元へと」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、事務連絡を伝えに後宮へとやってきた藤原行成から清少納言へと伝えられた。

 

「た、隆家様の従者が、道長様の従者を――殺した!? 本当なのですか、それは!?」

 

 行成は、当初は清少納言が相手の時も必要最低限以上の会話はしない男だったが、訪問の回数を重ねるにつれ――他の女房は行成を相手を嫌がったので、毎回のように清少納言が対面相手だったという事情もあるだろうが――徐々にではあるが仕事以外の会話も増えていた。

 

 此度も、業務連絡を終えての、去り際の世間話から出た話題だった。

 だが、隆家の従者と道長の従者の小競り合いの話は、今、宮中で最もセンセーショナルに飛び交っているニュースでもあった。

 

 無理もない。

 小競り合いとは称したが、それはこの平安京内では珍しく、日中の大通りでの人間同士の乱闘であり、それも互いに弓矢まで放たれた小さな合戦のようなものだったのだから。

 

 そして、何よりも重大なのは――その小競り合いで、死人が出たことだった。

 

「隆家様の従者と道長様の従者が争ったのは、ついこの間もではありませんか!」

「ええ。その際に道長様側の従者が隆家様の従者に怪我をさせたのを根に持っていたらしく……此度も隆家様の従者の方から因縁をつけた所を目撃されています」

 

 清少納言はその言葉に唇を噛む。

 

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、藤原伊周、藤原定子の弟である。

 かつて道隆が健在だった頃、そして伊周が文書内覧の権を所持していた頃に二人の力で強引に出世させ、十七才という若さながら参議にまで至った出世株である。

 

 だが、その若さ相応に向こう見ずな激情家であり、よく言えば怖い物知らず――悪く言えば、視野の狭い、考えの浅い、子供なのだ。

 

 そんな彼は、伊周以上に礼儀を知らない若者だと有名で、和歌や漢詩の才能に秀でた雅なボンボンであった伊周とは対照的に、隆家は武芸に秀でた乱暴者なガキ大将であった。

 

 気に食わないことがあると、その腕っぷし自慢の取り巻きと共に、すぐに腕力にものをいわせて自分の意見を押し通すことが多かった。これまでは道隆、伊周という圧倒的な後盾があった為に、そんな横暴も通っていたが――まさか。

 

(まさか……今の状況でも、そんな無茶をするなんて……ッ)

 

 確かに、これまで好き勝手に我を通してきた隆家からすれば、今はさぞかし面白くない状況だろう。

 尊敬する兄の出世街道を阻んだばかりか、選ばれし一族である自分達を差し置いて王者の振る舞いをする道長を、あのガキ大将が目を付けない筈がない。

 

「しかし、此度ばかりはやり過ぎた。一度目の時すら周囲から白い目で見られていたというのに。右大臣の随身を殺めるなどとは、例え……内大臣の弟様といえど」

 

 清少納言は、行成が一瞬言い淀んだ時、何と言い掛けたのかすぐに察しがついた。

 

 例え――中宮様の、弟といえど。

 そうだ。いくら隆家の独断専行とはいえ、その行動は一族である以上、中宮定子の名に泥を塗ることに繋がる。無関係では済まされない。

 

(なんて馬鹿なことをっ! 隆家様は、そんなことも分からない子供だったというのッ!?)

 

 いや――子供なのかもしれない、と思う。

 元服し、参議として出仕していようとも――まだ、十七才だ。

 

 同年代で立派に務めを果たし、老獪な貴族と渡り合っている、一条帝や中宮定子が、規格外に特別なのだ。

 

(現に伊周様も貴族間での評判は最悪だったといいます。腕っぷしに自信がある故に、隆家様の未熟さがこういった形で出ただけで)

 

 これまで何の苦労もなく出世し、傍若無人な我儘もお咎めなしで済まされてきた。

 だからこそ、気に食わない相手に、こんなにも短絡的に喧嘩を売ることが出来たのだ。

 

(……そもそも、本当に独断専行なのかしら。……唆した者が――伊周様……いや、まさか)

 

 清少納言の脳裏に、ついこの間、盛大に道長と怒鳴り合ったという伊周のことが思い起こされる。これも、甘やかされたおぼっちゃまの未熟さが露呈した場面だが――しかし。

 

(いくらなんでも、隆家様はともかく、伊周様はそんな愚行を犯す方かしら――方だった、かしら……。曲がりなりにも内大臣として政務をこなしてきた方よ。若いとはいえ二十二才……政界という場所がどういう世界か……流石に、分かっている筈)

 

 もし――()()()()()()()()()()()()()()

 異様な雰囲気がまるで消える気配のない、あの二世が、そんなことも分からなくなっているのだとしたら?

 

 果たして――これから、どうなってしまうのだろか。

 

「……隆家様は謝罪するどころか、下手人の引き渡しを拒み、周囲にはまるで武勇伝ように上機嫌に語っているようです。……重い処罰は、避けられないでしょう」

 

 人臣最高位――「(いち)(かみ)」に対する蛮行だ。当然のことだろう。

 まさか、一条帝が庇い立てるとでも思っているだろうか――そんなことが可能であると、本気で妄信しているのだろうか。

 

 だとすれば――伊周の目は、どれほどまでに曇っているのだろうか。

 

 あの華やかだった貴公子の、日を追う毎に黒くなっていく隈を思い出し、清少納言は寒気を感じた。

 

 どうか、これ以上、中宮様を取り巻く世界が、暗く、寒くなりませんようにと、彼女は祈ることしか出来ない。

 

 だが、そんな健気な女の願いは届かず――決定的な悲報が、年明けの冬、宮中を駆け巡った。

 

 隆家の、そして伊周の従者たちが、またもや人を殺したのだ。

 

 殺した相手は道長の従者――ではなく。

 

 前帝・花山院、その御付きの――子供であった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ことの始まりは――やはり、女だった。

 

 かつて藤原為光(ふじわらのためみつ)という男がいた。

 この男もまた、兼家の異母兄弟であったが――この男の来歴は、ここではあまり重要ではない。

 

 重要なのは、この男が遺した娘たちである。

 為光の娘達は、みな絶世の美女であると有名だった。

 その中でも長女は、かの花山院が若い頃に熱烈に恋い焦がれ――その愛ゆえに殺されてしまったほどだった。

 

 当時、まだ若い王であった花山天皇は、余りにもその娘を愛したが故に、女が子を身籠っているにも関わらず、出産の為に家に下りることも許さずに己の元へと留め続け――愛し続けた。その結果、子を身籠ったまま長女は亡くなってしまったのだ。

 

 大層に嘆き悲しんだ花山天皇は、そのまま全てを放り出して出家することを決意した――正確には、その悲しみを利用し、誘導して出家させたのが、道長の父・兼家であり、当時、花山天皇の蔵人であった兄・道兼であるのだが。

 

 そして、現在――問題になっているのは、残された、その妹達である。

 かつて長女を愛し殺した花山院は、それに懲りることなく、この頃、その妹である為光の四女の娘に恋文を贈っていた。

 

 流石に元天皇とはいえ、現在は出家している男の、それも姉を愛し殺した男の誘いなど受け入れられないと四女は拒み続けていたが、愛に生きる男である花山院は己の行いがどれほど狂気的なのかを理解することなく、まるでかつての頃のように盲目的にアピールを続けた。

 

 そして、そこに藤原伊周が関わってくる。

 伊周はこの頃、絶世の美女として名高い為光の娘――その三女と、親密的に愛を通わせていたのだ。

 

 この所、何も上手くいかず、敵ばかりが増えていた伊周にとって、彼女との語らいの時間は何にも代えられない、失い難き癒しの時であった。

 

 そんな時だ。伊周の元に、あの愛に狂う男・花山院が、為光の娘達が暮らす屋敷へ足繁く通っているという噂が流れ込んできたのは。

 

 伊周は激昂する――その真っ黒に淀み切った瞳で。

 

「あの男は、己が失った妻の――己が愛し殺した女の面影を求めているのだ! 我が寝殿の御方に!」

 

 寝殿の御方とは、伊周が愛する為光の三女のことだ。

 伊周は、何の違和感も持たず、法皇・花山院の目的が、己が愛する三女であると、そう思い込んだのだ。

 

「法皇は、一度見初めた女は愛し殺さずにはいられない御方です。このままでは、寝殿の御方も、子を身籠ったまま死んだ、かの女御と同じ命運を辿ることになるでしょう」

 

 己が全幅の信頼を置く漆黒の陰陽師のその言葉に、伊周は迷わず弟を呼んだ。

 

 隆家は、敬愛する兄の言葉に張り切って行動を開始した。

 この時までに隆家は花山院と幾度か揉め事を起こしていた。短気な隆家はそのことに対する鬱憤もあり、例え相手が法皇であろうと、事を構える抵抗はまるでなかったのだ。

 

 月明りすら遮られるような雲濃き夜。

 伊周は弟と、弟の自慢の荒くれ者の取り巻きと共に、為光の娘達が暮らす屋敷の前をこっそりと見張る。

 

 そして――花山院は、来てしまった。

 

 伊周の頭は、瞬時に沸騰し、黒い殺意に支配される――まさに、()()()()()()()()()()()()()

 

「――殺せ」

 

 その呟きに、ギョッとしたような違和感を覚えたものもいるかもしれない。

 なにせ、相手は――法皇なのだ。出家したとはいえ、元天皇。そんな相手に弓を引くというのはどういうことなのか。それも、正式な妻でもない、ただ己が通い詰めているだけの女に手を出されたかもというだけのことで。

 

 しかし、既に彼等の大半は正気ではなかった。

 他でもない、伊周が、そして隆家が――誰よりも狂気に堕ちていたのだ。

 

「殺せぇぇええええええええええ!!」

 

 兄の命を受けて、弟が叫ぶように配下に命令を下した。

 

 途端に雨のように弓矢が放たれる。

 普段は屈強な山伏を配下に連れている花山院も、今宵はただ女に会いに来ただけである。それも深夜にお忍びで。法皇といえど、過剰な護衛が女を怯えさせるだけだと心得ている。

 

 だからこそ、その場には、花山院の世話係のほんの数名しかいなかった。

 花山院は慌てふためいて来た道を引き返そうとする。だが、殺意の篭った攻撃は、遠慮なく花山院の命を狙っていた。

 

 結果、花山院の衣服を掠め、その胴体を貫こうとした矢は――彼を庇った、(わらべ)の命を奪った。

 

 その光景を見て――冷や水をぶっかけられたように、伊周は、ハッとした。

 

(……()()()()()()()()()()?)

 

 どうしてこんなにも花山院のことが許せなかったのか――分からなかった。

 こんな深夜に、離れた場所から命を下すわけでもなく、こうして隆家と同行して、凶行を目撃しているのか、意味が分からなかった。

 

 何故、今、自分は弟に命を下し――法皇の家来を襲わせている?

 弓矢を放つように命じ、こんなにも派手に殺戮を行わせている?

 

 隆家は、隆家の配下たちは、まるで酔っているかのように残虐を極めていた。

 逃げる花山院の馬車に向かって矢を放ち続け、自分達が殺した二人の童の首を刎ねて、それを夜空に掲げた。

 

「見たかッ! これが伊周兄貴の力だッ! 兄貴に――俺達に歯向かうものは、皆こうなるのだと覚悟しろッ!!」

 

 堂々と、まるで自白するように――伊周の名を使って、己が愚行を宣言している隆家。

 

 伊周は頭を抱えた。そして、震える声で――撤退を命じた。

 

「……帰る、ぞ……」

「え? 伊周兄貴、今、なんて――」

 

 それはまるで、泣いているかのような声だった。

 

「帰るぞ! 早く! 一刻も早く屋敷に!」

 

 伊周は馬車に飛び乗った。

 戸惑う隆家やその家来達を呼び戻して――自分達が行った殺戮の証拠を、首を刎ね飛ばされた童たちの死骸も放置して。

 

 道中、伊周はがたがたと震えていた。

 悪かった顔色はますます青くなり、かちかちと歯を鳴らしながら――何度も自問していた。

 

 どうしてだ、なんでこうなったと。

 必死で、これは悪い夢なのだと思い込んだ。伊周の優秀な頭脳が、今の己の状況を理解させようとするたびに、それを無視して夢想に逃げた。

 

 とにかく、眠りたかった。

 本当の、暖かい、夢を見たかったのだ。

 

 だが――それよりも、現実の方が早かった。

 どこからか聞き付けたかのように。あるいは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それは伊周達の屋敷の前にいた。

 

 検非違使(けびいし)が。平安武者が――侍が。

 

 藤原道長が――伊周達を待っていた。

 

 提灯が照らす光に目を焼かれながら、胸中で何度も繰り返す。

 

 どうして――こうなってしまったのかと。

 

(何故だ……何故、そんな目で、俺を見る?)

 

 彼等の目は一様に――軽蔑の色に染まっている。

 堕ちゆく者を見る目。終わりゆく者を――哀れむ瞳。

 

(何故だ……なんで、俺を……この俺を……そんな目で……ふざけ――)

 

 ふざけるなぁ! と、背後で弟が暴れている。だが、腕力自慢の弟を、更に屈強な武士――侍が、力づくで地に抑え付けた。

 

 夢から覚めた男は――ようやく、気付いた。

 

 平安武者を引き連れていたのは――自分達を取り囲む検非違使を手配したのは。

 

 今日、この日、この決定的な場面に――まるで現場を取り押さえるように、図ったように、この状況(シーン)を演出したのは。

 

「………みち………な……が……?」

 

 仇敵であり、怨敵。

 自分から全てを奪った男が――そこにいた。

 

 藤原伊周――彼は、この時、ようやく、気付いた。

 

 煙が晴れるように、曇り切った眼が色を取り戻す。

 靄がかかっていたような思考がクリアになり――その全てが赤く染められていく。

 

 こいつだ。コイツだ。全部、ぜんぶ、ゼンブ――貴様が。

 

「みちながぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!!」

 

 両手を縛られた男が、一目散に道長に向かって駆け出す――が、近くにいた武士が地面に叩き付けるように押さえつけ、伊周は触れることすら出来ない。

 

 伊周は、何度も何度も、己の中で繰り返した。

 

(……どうして――)

 

 こんなことに、なったのだろう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その後の展開は、見苦しさ極まる無様なものだった。

 

 伊周は暴れ狂いながら抵抗し、隆家の家来たちを逃がそうとした。

 しかし、それが、自分が身代わりになり部下だけでも助けようとしたというものではなく、直接的に法皇を害した者達が証拠として捉えられることを恐れたものであると見抜いていた道長は、冷たい目で伊周を見据えながら、検非違使に速やかに指示を出し、その全てを捕らえることに成功した。

 

 そして、少しの脅しで驚くほど滑らかに口を割った彼等と、彼等が持つ血に塗れた武具によって容疑が確定した後に、道長自ら一条帝へと報告を行った。

 事件の翌日のことである。

 

「法皇に弓を引いた。それはすなわち、天皇家の高貴なる血に弓を引いたということ。その意味が分からぬ帝ではございますまい。――どうか、厳粛なご決断を」

 

 一条帝は、苦渋に顔を歪めながら言ったという。

 

「……内大臣と、中納言の――罪状を、審議せよ」

 

 罪状を審議。それはすなわち、天皇自ら、伊周と隆家を罪人と認めたことに他ならない。

 愛する中宮の兄弟を咎人とする。十七才の少年の心にどれだけの負荷をかける言葉であったかは想像に難くなかった。

 

 道長は、その少年王の重き決断に敬意を表するように、深々と頭を下げた。

 

 その心と、瞳に――黒々とした炎を渦巻せながら。

 




用語解説コーナー⑬

花山法皇(かざんほうおう)

 円融帝の次代天皇であり、その後、一条天皇に譲位した後に法皇になった。

 外祖父・伊尹の威光により生後10ヶ月足らずで立太子したが、17歳で即位した時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかった。
 それにより宮中は、帝の外舅・義懐、関白・頼忠、皇太子懐仁親王(後の一条帝)の外祖父・兼家の三つ巴での対立構造となり、政治が停滞するようになった。

 そんな中で起きたのが、花山帝出家事件――「寛和の変」である。

 藤原為光の娘・忯子に心奪われた花山帝は彼女を女御にし――僅か十七才の彼女を愛し殺した。
 それに失意した花山帝は、出家したいと言い出す。
 花山帝の気質(はっきりいえばその場の気分で物を言う)を知る義懐らは翻意を促すが、兼家は道兼を使い積極的に出家を促し、花山帝はまんまと口車に乗って出家してしまう。

 しかしまあ、この出家の際も花山帝は一筋縄ではいかず、道中にて「月が明るくて出家するのが恥ずかしいな」とか言って急に躊躇ったり、その時にタイミング良く雲が月を隠したから「やっぱり朕は今日出家する運命だったに違いない」とかいって乗り気になったり。かと思えば、「自室に妻から貰った手紙が残ったまんまだった気がする!」とか言って取りに帰ろうとするから、挙句の果てには道兼が嘘泣きをしてなんとか引き留めたりしていて、何やってんだコイツらみたいなことを大の大人たちが大真面目に繰り広げながら、どうにかこうにか出家させた。

 なにはともあれ、この事件により、花山帝は在位わずか二年で譲位することとなる。

 内裏からいなくなった花山帝を散々に探し回った義懐と同派閥の惟成は、寺で出家した花山帝を見つけ、自身らの政治的敗北を察し、共に出家したという。

 こうして、花山帝の排斥をきっかけに、藤原兼家が政治的頂点に立ち、彼の息子たちによって平安京は大いに揺れ動くことになるのだ。

 だがまあしかし、愛する女の死に心を痛めて出家した筈なのに、花山帝の女癖は一向に改善することなかった。その代表的な事件が、今話でも記した伊周とのいざこざ――後の世には「長徳の変」と呼ばれる事件である。

 まあ、出家したとはいえ二十歳にもなっていなかった青年が、天皇という責務から解放されて時間を持て余していたのだから、女遊びをするなという方が無理だったのかもしれないが。

 かといって、高御座(天皇の玉座)に女官を呼んで性行為をしたり、同時期に母と娘を同時に妾として同時期に己の子を産ませるなどという蛮行も行っているのだから、狂帝として千年後も語り継がれるも納得である。

 その他にも、即位式で「重い」とか抜かして王冠を放り投げたり、清涼殿(天皇の住居)の壺庭で馬を乗り回そうとしたなどと破天荒な逸話には事欠かない。こうした所業を必死に隠しながらも忠義を尽くして仕えた上、一緒に出家までしてくれた義懐と惟成はマジで賢臣。

 ちなみに、父・冷泉帝も負けず劣らずの強烈な逸話が多数残されている狂帝の為、この血脈からはなるべく天皇は出さないようにしようという風潮が広がることになった。

 更に言うと、一条天皇の年上の東宮(次代天皇と目される人物)・居貞は、花山帝の弟であり、冷泉天皇の子である。

 しかし、その一方で、花山帝は絵画・建築・和歌などのクリエイティブな分野では多岐に渡る才覚を見せていて、常人離れした発想に基づく彼の創造は常に人々の想像を飛び越えた驚きを与えるものだったという。

 天皇としては狂帝でも、アーティストとしては非常に優れた人物だったというのだから、本当にこの時代は実に面白い。


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妖怪星人編――⑭ 太元帥法

私は――あなたに、容赦をしない。


「あなたはいつまで――中宮様にお仕えするつもりなのですかな」

 

 その日、行成と並ぶもう一人の蔵人頭である藤原斉信(ふじわらのただのぶ)は、清少納言に向かってそう言った。

 

 斉信は行成の前任である源俊賢が蔵人頭だった頃から共に蔵人頭だった男である。

 つまり、清少納言との付き合いもそれなりに長く、親密といえる間柄であった。

 

 そんな彼からの言の葉に、清少納言は無言のみを返す。

 

「……時勢、というものです。此度のそれは激流だ、誰にも止められはしない。……伊周殿は誤った。もう、誰にも止められはしない――」

 

 藤原道長殿は、最早、誰にも止められない――と、斉信は言う。

 

 清少納言は、何も言わない。

 

「決定的です、此度の一件は。伊周殿に付く者は最早、誰一人としていない。全ての殿上人が、道長殿へ付くことを選んだのです」

「……ですから、私も、道長殿へ付け……と」

 

 この私に、中宮様を、見限れと――清少納言は、膝の上で握った拳を震わせて、斉信に向かって、中宮の女房としての、平安の女としての礼儀も恥も何もかもかなぐり捨てて吐き捨てようとした。

 

 ふざけるな。

 私はお前とは違う。

 道隆に取り立てられて出世した癖にすぐに新たな権力者に尻尾を振るお前とは違う。

 あんなにも中宮を、この後宮を褒め称えていた癖に――私のような女房にまで、手を出そうとしていた癖に。

 

 それなのに――それが――それが――。

 

「それが、宮中という世界です」

 

 清少納言の声にならない叫びを、全て聞き届けたかのように――そして、それでいて、それを一蹴するように。

 

 少女の綺麗な夢に対し、現実を見ろと諭す――大人のように。

 

「時勢を読み、己の――そして何より一族の為に、勝者を嗅ぎ分ける。そして、決して敗者にならぬように立ち回る。それが宮中です。それが、政治なのです」

「……それが………それは――」

 

 それが、清少納言が憧れた、この世で最も浄土に近い、美しい世界の正体だと、斉信は淡々と突き付ける。

 

 確かに、宮中はこの世で浄土に最も近い場所かもしれない。

 昨日まで光り輝いていた勝者も、明くる日には屍たる敗者へと身を落とすことになる――地獄。

 

 そして、斉信は言う。何も言えない清少納言に――お前も、そこにいるのだと。

 

 この世で最も浄土に近い場所に、身を置いているのだと。

 

「それは貴族だけではない。女房も同じことなのです」

 

 清少納言は、何も言えなかった。

 

 そんな彼女に――斉信は尚も問う。

 

 お前はいつまで、中宮定子に仕えるのだと。

 

「いつまでも」

 

 清少納言は、その問いにだけは、はっきりと答えた。

 

「この身が果てるまで、いつまでも。この心朽ちるまで、いつまでも」

 

 我が全ては、中宮様のお傍に――と。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 斉信は正しかった。

 その言の葉は、確かに、残酷に現実を語っていた。

 

 伊周、隆家の決定的な失脚。

 それにより、貴族のみならず――後宮までも。

 

 あんなにも温かく、あんなにも輝いていた後宮さえも、暗い雲に覆われたように――冷たく、暗い空気に呑み込まれていた。

 

 斉信の言葉通り――中宮の元を去る女房が現れ出したのだ。

 最初の一人は、大粒の涙を流しながら中宮に不義を詫びた。しかし、中宮はそれを笑顔で許し、これまでの忠義に感謝を示した。

 

 宮中とは、勝者に(おもね)り、敗者から距離を置くことで、一族に繁栄を齎すように立ち回る世界。

 そもそもがそれ故に、中宮の元へと出仕させられた娘達が女房である。

 

 中宮の勝者としての輝きに翳りが見え始めた――それ故に、中宮の元を去るというのは、一族を代表するものとしては至極当然の決断だった。

 

 だが、それはあくまでも一族としての意だ。

 こうして後宮へと出仕し、中宮定子の輝きに照らされ続けた者としては、勝者だの敗者だのは関係ない――中宮の、定子の元で、いつまでもこの御方に尽くしたいと、そう願っている女達ばかりなのだ。

 

 だからこそ、誰一人として、去りゆく女房達を責める者はいなかった。

 敬愛する中宮の元を去らなくてはならない、誰よりも尊敬する御方に不忠を働かなくてはならない、そんな身を引き裂くような思いをすることになるのは――次は、自分かもしれない。

 

 女房達は、そんな不安を誤魔化すべく、恐怖の矛先を探した。

 馬鹿なことをした伊周に隆家か、自分達を失脚させた道長か――当然、彼等にも向いただろう、だが、彼女達の余りに大きい漠然とした不安は、もっと手頃で、もっと身近な矛先を求めたのだ。

 

 そして、彼女達のそれが向けられたのは。

 

 自分達を貶める道長派閥――そんな道長派閥に、この後宮において、最も親しき者。

 

 藤原行成、藤原斉信を初め、宮中の貴族と、この後宮において最も親密な関係を築いている女房。

 

 彼女達は――最も身近な敵として、清少納言を選んだのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 清少納言は、いつからか他の女房達から向けられる敵意の視線に気付いていた。

 無論、彼女等も中宮の女房として出仕するだけの品位や知性を備えているが故に、自分達が向けるそれが半ば以上八つ当たりに近いものだとは気付いている。

 

 だからこそ、露骨な、それこそ隆家が振るうような暴力的な嫌がらせなどは起きてはいないが、そこは女社会特有の蔭口や仲間外れといった、一つ一つは小さくとも、積み重なれば心が擦り減っていくような、いってしまえばいじめが発生していた。

 

 宰相の君や中納言の君といったトップクラスの女房達はそれに加担するようなことはなかったが、それでもここで下手に嫌がらせをやめろと全員並べて言い聞かせたところで、こういったものはなくなるものではない。むしろ、行き場を失った負の感情がどのような形で発露するか分からず、不安定な現在の情勢ではそれは致命的なダメージに繋がりかねなかった。

 

 それは定子も同様である。

 だからこそ、彼女はこれまで以上に清少納言を傍において己が抑止力になろうとしたが、当の清少納言がそれをやんわりと断るようになった。

 

(こんな状況において、私なんぞのことで中宮様の負担になってはいけない)

 

 そして、清少納言はこの状況において尚、行成や斉信と積極的に交流を持った。

 既にこうして道長派閥と呼ばれる者たちと交流を持つこと自体が、後宮においていじめの理由になり得ることは理解している――そして、それ故に他の女房がそれを避けていることも理解しているが、しかし、後宮が政治に触れるべからずな場所であるとはいっても、政治と無関係であるわけがない。

 こんな状況であるからこそ、宮中の情報は積極的に獲得していかなくてはならなかった。

 

 そして、それは後宮から宮中への発信力という意味でも重要であった。

 伊周の失脚以降、後宮への貴族の来訪が目に見えて減っていることは誰もが気付いている。

 

 それはつまり、貴族達が中宮定子に見切りをつけ始めているということだ。

 女房が離れていっているように、貴族達もまた、沈みゆく船から逃げ出そうとしている。

 

 しかし、それでもまだ、訪れる人が完全に途絶えないのは――中宮定子の勝利の目が、完璧に潰えてはいないからだ。

 

(そう――中宮様は、未だ帝の愛を失っていない。中宮様が子を生めば――皇子の母となれば、それはつまり)

 

 中宮定子の、ひいては伊周勢力の逆転勝利となる。

 どれだけ宮中を道長派閥で支配されていようと関係ない。定子が皇子を生めば、伊周が外戚として、摂政、やがては関白となり、権力の頂点に返り咲くことは可能なのだ。

 

 それが分かっているからこそ、斉信を初めとする、道長派閥に軸足は乗り換えながらも、完全には後宮への糸も断ち切ってはいないという立ち回りをするものがいなくなってはいないというわけだ。

 清少納言としては業腹な態度だが、それでも――そんな風見鶏たちですら、今の中宮には貴重なのだ。

 少なくとも矛や拳を向けてこない人間は、一人でも多いに越したことはないのだから。

 

 そして、そんな人間を集めるのは――自分の仕事だと。

 行成や斉信と、宮中の殿上人達と対面し、言葉を交わし――堂々たる姿を見せつけ続けることによって。

 後宮はまだ健在だと。中宮定子の華は――未だ、些かも劣らず、咲き誇っていると。

 宮中に、貴族に――藤原道長に見せつけることこそが。

 清少納言と名付けていただいた自分の使命だと信じ、彼女は戦った。

 

 戦い、戦い、戦った。

 味方である筈の女房達の敵意の視線を背に浴びながら、憎たらしい貴族の薄ら寒いおべっかに笑みを返して――それでも、最後にはこちらが勝つのだからと。

 

 そんな日々を送り、けれど、欲しい情報は一向に得られず。

 伝わるは愛すべき味方からの敵意と、憎むべき敵の隆盛ばかりで――。

 

(……それでも……それでも、必ず、中宮様は――)

 

 いつからか、常に美しくあるべき中宮の女房としては有り得べからずなことに――目の下に、黒い隈を作ってしまった清少納言の元に、その日、とある客人が現れた。

 

 いつものように、最早、見慣れた、決まった顔ぶれの男達ではない。

 現れたのは、見知らぬ――黒い老爺だった。

 

 宮中では偶に見かけるが、この後宮では滅多に見ない人種だった。

 その男達は、検非違使や侍のように、都の防衛に回る役職の者であるが故に。

 

「これはこれは。お初にお目に掛かります」

 

 黒い老爺は恭しく頭を下げる。

 清少納言は訝しがりながら、その男に問い掛けた。

 

「……陰陽師の方が、このような場所にどのような御用件でしょう?」

 

 黒い陰陽師は、ゆっくりと頭を上げて。

 

 口角を上げながら、背筋が冷たくなる笑顔を浮かべて言った。

 

「――あなた方が望むものをお届けに」

 

 

 

 それから、間もなくのことである。

 

 中宮定子が、一条天皇の第一子を懐妊した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「そうか、やっとか」

 

 深夜の土御門邸――やはり月を見上げながら、藤原道長は酒を呑んでいた。

 

 月光のみが光源のこの空間で、道長に語り掛けるのは壮年の男だった。

 源俊賢――藤原行成の前任の蔵人頭であり、此度の人事にて参議の権を得た公卿へと出世を果たした男。

 

 数少ない、道長の野望を知る者の一人である彼は、呟く道長に「――して。これからどうするおつもりですかな?」と尋ねる。

 

「何がだ? 俊賢殿」

「中宮様の御懐妊です。伊周殿などは気が早くも、謹慎中の身でありながら己を左大臣にして道長殿から文書内覧の権を移せと騒いでいるようですが」

「我こそが未来の摂政であると? 相変わらず脳内で花が咲き誇っている男よ。術中に嵌める必要などなかったやもしれぬな」

 

 くつくつと笑う道長に、俊賢は崩れぬ引き締まった表情で「――ここで、()()を使うつもりですかな」と問うと、道長も笑みを消して「――まだだ」と答える。

 

「奴等は使わぬ。――まだ、な。お主を蔵人頭から外し、奴等との橋にしたのは、まだこの時の為ではない」

「……それでは、何も手は打たれぬと?」

()()()()()()()、既にな。このまま何もせずとも致命傷には至らぬ――が、伊周の阿呆がそれほどまでにはしゃいでいるというのならば、水を差すのも一興であろうよ」

 

 そう言って道長は「俊賢。お主には奴等の元ではなく、別の者へと使いを頼まれてもらいたい」と、酒をくいっと呷りながら言う。

 

 俊賢は間髪入れずに了承し、そして尋ねた。

 

「承知致しました。して、この身は何処へ向かえばよろしいので?」

 

 道長は杯の酒に月を映して――それを呷り、答える。

 

「晴明――安倍晴明に、道長が動けと、そう申したと伝えよ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 中宮定子の懐妊。

 その事実が知れ渡った時、宮中が激しく騒めいた。

 

 ここまで道長勝利に固まりつつあった空気が、再び大きく揺れたのだ。

 

 天皇の子を生ませる。それはこの時代に置いて、貴族が目指す最終到達点だ。

 そのゴールを目指して、彼等は深謀術数を巡らせる。道長の父・兼家がそうして己が一族に栄華を齎したように。道長の兄・道隆が最後までそれを欲して手を伸ばし続けたように。

 

 つまり、どれだけ道長が政敵を排除し、引き摺り下ろしたとしても、そのゴールに手が届いていない以上、完全勝利には至っていなかったのだ。

 

 無論、道長もそれを理解していただろう。

 道長が、己が娘の彰子をどうにかして帝に嫁がせようとしていたかは、少し耳聡い者達ならば知り得ていたことだが、いかんせん彰子はまだ幼く、子を孕めるような歳ではない。これは道長がどれだけ権力を誇っていた所でどうにもならないことだった。

 

 そして、道長が兄や甥に代わり権力を得たところで、一度天皇に嫁いだ女を、何の大義名分もなしに引き摺り下ろすことは出来ない――例え、それがどれだけ自分にとって面白くない男の血を引いているのだとしても。

 

 だからこそ、こうなることは時間の問題であったといえる。

 清少納言の言う通り、定子と一条帝の間には確かな愛があり、そんな夫婦の間に子が生まれることは、もはや必然に等しいのだから。

 

 道長の敗北、そして、伊周の逆転勝利――その結果に驚きと、少なくない不安に宮中が包まれる中。

 

 定子の懐妊の衝撃醒めぬ間に、更に大きな衝撃が宮中を駆け巡る。

 

 

 一条帝の母堂・東三条院詮子が病に倒れたというのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その悲報は、やはり藤原行成の口を持って、後宮に届けられた。

 聞き届けたのは、やはり清少納言の耳であった。

 

「東三条院様は、己は呪われたと仰せです」

「…………」

 

 清少納言は行成の言葉に唾を呑み込んだ。

 

 詮子の言葉は特に珍しいことではない。

 妖怪や怪異がそこら中に跋扈するこの時代は、呪いや祟りといったオカルトが至極真面目に信じられた時代だった。

 

 それどころか、この国で最も暗き陰謀が巡らされる宮中においては、他者を貶める為に、いわゆる「お(まじな)い」が盛んに利用されていた。

 

 敵の出世を妬んで、失脚を願って、霊や呪詛を利用し、祈祷や念仏で他者を呪う。

 己の財産を投げ打って高名な僧や陰陽師を雇い、見えざる手で怨敵の首を締めあげるのだ。

 

(……陰陽師)

 

 清少納言はこっそりと己が首に手を添えるが、御簾の向こう側の行成は気付かずに、話を進める。

 

「東三条院様の信心深さは有名です。体調を崩す度にこのようなことを言い、事実、出家までなさっているのですから。此度もこれまでと同じようにひょっこりと体調を戻すと思われたのですが――少し、今回はこれまで以上に怯え、震えていたのです」

 

 詮子は愛された中宮を差し置き、ただの女御の身でありながら後継ぎの皇子を生んだ女だ。

 愛されなかった女御として、数々の政敵と渡り合い、ここまで栄華を掴んできた。送られた呪い以上に、どれだけ敵を呪ってきたことだろう。

 そして、確かな栄華を獲得した今となって、自分が蹴落としてきた者達の呪いが、そして己が送った呪いが返って来たのではないかと、詮子は事ある毎に怯えているのだ。

 

 それは何も詮子に限ったことではない。

 上っている時は無我夢中だが、頂点に立って、安寧を得て、ふと思い返すのだ――己の所業を。そして怯える。自分は今、かつて己が呪った者と同じ場所に立っているのだと。

 

 この時代の権力者は、常にこうした傾向が強い。

 未曽有の天災や大きな事件があった時、これはかつて自分達が冷遇したものの祟りだと怯えるのだ。そして、それが本当にその者の怨念が引き起こす祟りであったという真相がまま起こり得るのも、この時代の大きな特徴である――かの、菅原道真公のように。

 

 つまり、この世界での祟りや呪いというのは、何も科学が発展していない旧時代の迷信というわけではないということ。詮子の被害妄想もあながち的外れではないかもしれないのだ。

 

「故に――我々は、東三条院様が住まう、ひいては右大臣様が住まう屋敷である土御門邸を検めることとしました」

 

 行成は語る。

 その話が進むごとに、清少納言の飲み込む唾の量が増えていく。

 

「調査団を率いたのは、当代きっての大陰陽師――安倍晴明様です」

 

 陰陽師――安倍晴明。

 その名を聞き、清少納言は喉が干上がるのを感じた。

 

(……違う……違うわ。関係ない――()()()()()()()()()()()()()())

 

 声が出ない。何も漏れないように、唇をキュッと噛み締める。

 ……漏れる? 何が。

 

 私は、何もしていないのに。

 

「そして、晴明様は――土御門邸の寝殿の下から、このようなものを発見しました」

「――ッ!」

 

 清少納言は叫びそうになった、が、何とか、噛み締めていた唇を更に強く噛むことでそれを堪えた。

 

 行成が懐から取り出したそれは――()だった。

 木乃伊のように干からびた、鬼のように禍々しい腕。それに包帯のように霊験あらたかな布が巻かれていて――その上から五芒星が描かれた札が張られている。

 

「――呪物です。晴明様曰く、たんまりと呪いがかけられた一級品だと」

「……そ、そのような悍ましきものを、どうして――私に?」

 

 御簾の向こう側で震える清少納言に、行成は気付いているのかいないのか――鋭い眼差しを向けて問う。

 

「見覚えは、ありませんか?」

 

 清少納言は強く、唾を呑んで、言う。

 言う――言うのだ。ただ、本当のことを。

 

 私は、何もしていないし――何も、何も知らないのだから。

 

 清少納言は、目を逸らすように俯き、答えた。

 

「私は――何も、知りません」

 

 しばしの、沈黙。

 痛いくらいの静寂の後――本当に安心したかのように、行成は言った。

 

「……よかった」

 

 その声が、これまでずっと無感情であった行成とは思えない、人間味のようなものが込められたそれのように聞こえて、清少納言は思わず「……え?」と呆ける。

 

「本当に申し訳ございません。神聖なる後宮にこのような呪物を。晴明様による厳重な封印が施されていますので、害はありませんのでご安心を」

「……いえ、それは疑ってはおりませんが――あなたは、私を疑っていたのでは?」

 

 緊張が解けた反動からか、そんな物言いをしてしまう清少納言に対し「いや、重ね重ね申し訳ありません」と行成は生真面目に頭を下げて言う。

 

先頃(さきごろ)、怪しい陰陽師がこの場所で清少納言殿と面会していたという目撃証言がございまして。まさかとは思いましたが、検めるようにと一の上よりご指示が。ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございません」

「……お気になさらず。確かに、そのような人物と応対した記憶はございますから」

 

 この後宮での応対の詳細を知る者は――限られている。

 だが、誰と誰が会ったなどという噂話は知らず知らずのうちに広がっているもの。故に――深く疑う必要は、ない。

 

 こうしている今も、背後の障子の隙間から誰かが聞いているかもしれない――が、清少納言は背に感じる視られるような錯覚を無視するように言った。

 

「しかし、誓って東三条院様を呪えなどとは口にしていません。中宮様の女房として相応しくない振る舞いを、この私は――」

 

 清少納言はそこで、再び、口を閉じる。

 行成は皆まで言わせないと「はい。そこは疑ってはおりません。あなた様の疑いは、この行成が潔白だとお伝えします」と語り、そして――再び、神妙な面持ちで言う。

 

「実を言うと、既に有力な容疑者は、他に浮かび上がっております。……その者が近頃、懇意にしているという陰陽師と、ここを訪れたという陰陽師の風貌が似通っていたので、念の為にこちらに伺った次第」

「……有力な容疑者とは?」

「それはまだ何とも。……しかし、東三条院様を――そして、右大臣様を、この宮中で最も恨めしく思っている者とだけ」

 

 それは殆ど答えを言っているようなものだった。

 詮子の助言によって道隆の後継を外された者。

 そして、その道隆の後を継ぎ、己を追い越し――「一の上」の座を奪い取った者。

 

 恐らくは、この宮中の誰もが犯人だと、そう頭に思い浮かべている者。

 

「……私は、斉信様のように、野暮なことは申しません。あなた様が中宮様を裏切るようなことはないと、疑っておりません」

 

 ですが――と、行成は去り際に、清少納言に向かって、静かに言った。

 

「もう一度、彼の言葉を反芻してあげてください。……そして、その上で――」

 

 どうか、ご健勝に。

 口下手な男の、それが精一杯の言葉であると、清少納言は受け取った。

 

 そして、その上で、その男の言う通り――かの貴公子の言葉を、瞑目して静かに思い返す。

 

 あなた様は、いつまで中宮様の傍にいるおつもりですか。

 

「――いつまでも」

 

 清少納言の答えは変わらない。

 

 いつまでも、この身、この心が果てるまで。

 

 その答えは、変わらない。

 

 何があろうと――どんな末期が、待っていようと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ暗な部屋の中で、一人の男が高笑う。

 

 終わったと思っていた。何もかもが終わったのだと思っていた。

 

 だが、見たか。それ、見たことか。

 天は間違えない。必ず最後には正解を選び取る。

 

「勝ったッッ!! 俺は、勝ったのだッ!!!」

 

 藤原伊周は真っ黒な隈が侵食しきったかのような真っ黒な顔を狂喜に歪めて、燃え盛る炎を見ていた。

 その前で延々と念仏のようなものを唱え続ける漆黒の陰陽師に抱き着き「よくやったッ! 本当によくやったぞ!」と叫ぶ。

 

 黒き陰陽師は念仏を止めて「いえいえ。某は何も。なるべく形に、ただなった。それだけのことです」と穏やかに呟く。

 

 そんな陰陽師に、小柄な老人・高階成忠は、歯を失った口をもごもごとさせながら「謙遜せずともよい、陰陽師殿」と、同じく燃え盛る炎に手を合わせながら言う。

 

「定子様は無事、懐妊された。これで伊周殿の天下――全て、あなた様のお陰じゃ」

「兄貴の天下! 俺達の天下だ!」

「それだけではない。それだけでは到底、済ませてなるものか! 俺をここまで苦しめた奴等に、それ相応の報いを受けさせなければ」

 

 東三条院詮子は既に呪われた。

 後は、最も憎き怨敵。伊周から全てを奪おうとした――あの男を、必ずは呪い殺す。

 

「藤原道長ッ!! 奴も終わりだ――この「太元帥法(たいげんのほう)」によって!!」

 

 太元帥法――とは。

 この国における、最大級の呪術。

 鎮護国家を目的とし、怨敵、逆臣を調伏する為に施行されるべき秘術。

 

 ()()()()()()()()()()()()()――()()である。

 

 黒き陰陽師は、最後に問う――「本当に、よろしいので?」と。

 

 伊周は、真っ黒に笑いながら言った。

 

「当然だッ! 俺は摂政に、関白になるものッ!! それはすなわち、俺こそが天皇の代身だッ! そんな俺の敵とは、すなわち逆臣なりッ!! 天皇に――国家に対する、怨敵なりッ!!」

 

 だからこそ、相応しいと。

 自分はこの禁術を使うに相応しいと。道長はこの禁術で呪うに相応しいと――笑う。

 

 伊周も、成忠も、隆家も――まるで、狂ったように、笑う。

 

 真っ黒な陰陽師は、そんな彼等の笑いを背中で感じながら。

 

「――御意。どうぞ、お気の済むまで」

 

 静かに笑いながら――煙のように姿を消した。

 

 彼等がそれに気付いたのは、検非違使が屋敷に乗り込んできた時だった。

 

 黒き陰陽師がいた場所には――五芒星が描かれた、人形の式符のみが残されていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 判決が言い渡された。

 

「藤原伊周、藤原隆家の両名を――配流(はいる)とする」

 

 配流――それ、すなわち、島流しである。

 本当に島に流されるわけではないが、宮中を追い出され、平安京の外へと放り出されて、二度と戻ることは出来ないとされる厳罰。

 

 かの菅原道真公が歴史に名を遺す悪霊と成り果てた、その時と同様の処罰。

 政界からの追放――貴人としての、死刑である。

 

 かつて、栄華を極めた男の息子としては、権力の頂点に指をかけていた男の末路としては、およそ最も惨い最期。

 

 道隆が死んでから一年も経たずして、彼等はその全てを失ったのである。

 

 しかし、彼等はそれでも、尚――見苦しかった。

 

「定子ッ! 助けろ!!」

 

 伊周と隆家は、京から即刻退去せよという帝の命に、体調が悪いといって背き。

 

 中宮定子がおわす、二条北宮に籠城したのだ。

 

「……この御方は、なんという……」

 

 女房達は侮蔑を通り越して、もはや恐怖すら宿した瞳で、その男を見る。

 定子懐妊という最大の好機を自らの愚行で潰した挙句、道隆が逝去してからわずか一年で、道長に一の上の座を奪われ、花山院の家来を射殺し、東三条院詮子を呪って、遂には太元帥法にまで手を出した。

 

 墜ちるべくして落ちぶれた二世。

 それは宮中の貴人はおろか、身内と言って等しい中宮の女房達にすら、それは共通の認識となっていた。

 

 にも関わらず、この期に及んで、未だこの男は――こんなにも見苦しく足掻くのか。

 

「……兄様」

 

 定子は、今ばかりは中宮としての立場を忘れて、かつてのただの定子だった頃、ただの兄妹であった時のように――悲しげな瞳で、哀れな兄を見詰めていた。

 

 定子は妊娠による穢れという意味で、今は後宮ではなく二条北宮という別邸に身を置いている。

 

 だからこそ、帝といえど簡単には手が出せない。

 そこに伊周は目を付けた。

 

「俺を匿えッ! こんなのは何かの間違いだッ! お、俺が配流などと――クソッ!! とにかく今は時間だッ! こ、ここにいれば時は稼げる! そ、その間に、何か――」

「……時を稼いで……どうするというのです」

 

 ボサボサの髪を掻き毟りながら呻く伊周に、一歩近づきながら清少納言は言った。

 

「既に(みことのり)は下りました。帝のお言葉は覆りません。……それは例え、中宮様の元に逃げ込もうともです」

「黙れッ!! 女房風情が、この俺に言の葉を向けるなッ!!」

 

 かつて、清少納言の機知に富んだ返しを穏やかに褒め讃えたのと同じ口で、伊周は清少納言を怒鳴りつける。

 隆家も「兄貴に何を言う!」と、その巨体で見下ろすように清少納言を威圧する。

 

 他の女房も怯えながら距離を取る中、震える声と溢れる涙を堪えながら「……中宮様は、ご懐妊の身なのです。……帝の子を、その御腹に宿しておられるのです」と、更に一歩、伊周と隆家に寄りながら、清少納言は言い放つ。

 

「今は! どんな重荷も背負ってはならぬ御身体なのですッ!! この国で最もッ! 大事にしなくてはならない御方なのですッ!! 何故、他でもない御兄弟であらせられる貴方達がッ! 中宮様にこの上ない負担を掛けるのかッッ!!!」

 

 清少納言は、涙ながらに吠えた。

 どうして――どうしてだ。

 

 何故、世界はこんなにも中宮様に厳しい。

 あんなにも光り輝いていた、暖かかった世界に、どうしてこんなにも冷たい寒風が吹き荒れているのだ。

 

 ただ、中宮様は――この、二十歳に満たない少女は。

 ただ、ただ――愛する人の子を、元気に生みたいだけなのに。

 

 なのに――世界は。

 

 だから――私は。

 

「私は――中宮様の番人だッ!!」

 

 例え、どれだけ高貴な人であろうとも。

 兄弟だろうと、一の上であろうと――帝であろうと。

 

 世界で――あろうと。

 

「中宮様を傷つける者を、私は絶対に許さないッッ!!」

 

 清少納言の、渾身の言の葉に。

 女房達も、隆家も、何も言えずに、更に一歩後ずさる。

 

 唯一、伊周だけが「――ッ! この――」と、右手を振り上げ頬をはたこうとしたが。

 

「やめなさいッ!!」

 

 定子がそれを制する。

 そして、清少納言を見詰めて。

 

「ありがとう――ごめんなさい」

 

 そう言って、悲しげに、けれど愛おしそうに微笑んで。

 

 己が兄に――帝が罰した罪人に、相向かって。

 

「――随分と、盛り上がっているようで」

 

 その時、唐突に一人の男が現れた。

 周囲を圧する覇気を放ち、検非違使や平安武者を引き連れた、突き刺すような鋭い眼差しの男だった。

 

「――ッ! みち、なが……ッ」

 

 伊周は思わず一歩後ずさる。

 その間に素早く検非違使たちは伊周と隆家の周りを取り囲んだ。

 

 女房達が悲鳴を上げる中、定子は一歩前に出て、道長と向き直る。

 

「……道長殿。ここは二条北宮、私達の家です。何の報せもなく土足で上がり込むなど無礼ではありませんか」

 

 検非違使や武士、道長が引き連れた男達は思わず息を吞む。

 彼等にとって、御簾も何もなく、中宮定子を直視することはこれが初めてであった。

 

 絶世の美女という評判は聞いていたが、女がみだらに伴侶や家族でもない男に顔を晒すなど言語道断という時代だ。それがこの国で最も貴い、中宮となれば尚のこと。

 そういった意味もあり、伊周はこの場所はそう容易に踏み込まれないと踏んでいた――だが。

 

「これは中宮様。突然のご無礼、大変失礼いたしました。――しかし、事は一刻を争います。法皇に弓を引き、女院様を呪い、天皇家のみが扱える禁呪に手を出すような罪人が、こともあろうか中宮様のおわす屋敷に侵入したとなれば、我々も全速で駆け付けなければならぬと思った次第にて」

 

 道長はこう言っている。

 今のこの状況は、兄が妹の家に逃げ込んでいるのではなく、皇家に仇なす罪人が帝の子を宿した中宮を襲っているのだと。

 

 無論、そんなことはあくまで建前だと、誰もが気付いている。

 ただ道長は、伊周や隆家を逃がすまいと、強引に理屈をつけてこうして中宮がおわす宮殿であろうとお構いなしに乗り込んできただけだ。

 

 こうして、不特定多数の男達に、中宮の顔を晒すことも、構わずに。

 

(……この、男は――ッ!!)

 

 清少納言は道長を睨み据える。

 だが、道長はそちらを一瞥しながらも、再び中宮へ目を向けながら。

 

「――故に、どうかご容赦願いたい」

「……一の上、御自らですか。ご苦労なことですね」

「これは帝の御決定です」

 

 その言葉に、中宮の方が震える。

 道長はそれを見て、更に言葉を続けた。

 

「帝の詔を反故にし、あろうことか、帝が最も大切になさっている中宮様を盾に逃げ延びようとする罪人がいる。帝を敬愛する臣下の一人であるこの私が、それをどうして許せましょうや」

 

 この手で、帝の願いを叶えたいと、そう思うことに何の不思議がありましょうや――そう言って道長は、定子に向かってその手を向ける。

 

「そこの罪人を、引き渡してください、中宮様。それが帝の御意志――この国の総意なのです」

 

 既に、この部屋にいる者だけではない。

 この屋敷中が検非違使たちに取り囲まれていることは、ここにいるもの全員が分かっていた。

 

 そして、それだけではない。

 あれだけの栄華を誇った道隆一族、その終焉を見届けようと、二条大路は大勢の人や牛車で溢れ返っていた。

 

「さあ――ご決断を」

 

 笑みを消し、真っ直ぐに――その突き刺すような目を道長は定子に向ける。

 

 伊周は定子に縋りついて許しを請おうとするが、それを検非違使に防がれる。

 隆家はあれだけ威張り散らしていた男とは思えないほど情けなく、その大きな体を丸めて泣き喚くのみ。

 

 そんな哀れな兄弟を――家族を――罪人を見て、一瞬、くしゃくしゃに定子は表情を歪めた。

 

「――――」

 

 それは――ほんの一瞬だった。

 だが、それを清少納言は、道長だけは見逃さなかった。

 

 だからこそ――だろう。

 その一瞬の表情に余りにも心を痛めた清少納言は、次の一瞬、凛々しい中宮の顔を取り戻した定子の行動を――止めることが出来なかった。

 

 定子は、いつから隠し持っていたのか、懐から短刀を取り出した。

 それをどのように使うつもりだったのかは分からない。余りにも愚行を繰り返す兄弟に、せめて己の手で引導を送るつもりだったのか。

 

 それとも、ここに至った時点で――初めから、こうするつもりだったのか。

 

 中宮は、取り出した短刀で――己が髪を背の辺りでばっさりと断った。

 

 力強く振るわれた一刀は、定子のこの世の物とは思えぬほど美しかった黒髪を、見事に両断した。

 

 清少納言には、まるで中宮が自らの身体を掻っ捌いたかの如く、噴血が撒き散らされる光景を幻視した。

 

 それはある意味で間違いではない。

 髪を背の辺りで切るという行為は、女性にとってこの時代――俗世との決別を意味するのだから。

 

「私は――出家いたします」

 

 定子のその言葉が、場に染み渡っていくと、女房達が狂ったように泣き叫んだ。

 

 検非違使も、武士も、ざわざわと混乱を抑えきれない。

 伊周も、隆家も、顔面を蒼白させて呆然とするばかりだった。

 

 帝の子を孕んだ中宮が、出家をする。

 その前代未聞の決断に――この場にいる誰もが混乱を抑えきれなかった。

 

(あ………あ………)

 

 清少納言も、中宮の番人を自称しておきながら、この決断を止められなかったことに滂沱の涙を流すばかりで何も出来ない――それでも。

 

 ただ一人――この、男だけは。

 

「……やはり、あなたは恐ろしい御人だ」

 

 藤原道長だけは、定子に向かってゆっくりと近付いて、問う。

 

「……よろしいのですね」

「――これを、あなたに」

 

 定子ははらはらと舞い落ちる輝く黒髪の一房を道長へと手渡した。

 

 それがどのような意味を持つのか――この両者には、それは確かに伝わっていた。

 

 道長は、それを確かに受け取って――だが。

 

「ええ。分かっています。私は――ずっと、分かっていた」

 

 自分の最大の敵は、藤原道隆でも、藤原道兼でも――ましてや、藤原伊周でもあろうはずがなく。

 

 ずっと、ずっと――傍で見てきた。

 その才能を。その光輝を。その――余りにも眩い、強さを。

 

 だからこそ――道長は、決めていたのだ。

 

「私は――あなたに、容赦をしない」

 

 道長は、そのまま定子に背を向けて――受け取ったその黒髪を、()()()()()()()()()

 

 定子が、その光景を誰よりも傍で見ていた清少納言が、絶句する。

 

 そして、その投げ捨てられた黒髪は――凍えるような、突き刺すような眼差しは。

 

 へたり込んで呆然としていた――伊周に向けられていて。

 

「――ッ、ぐッ」

 

 伊周は突然、悶え苦しみ出した。

 息が出来なくなったかのように首を抑えて、黒々としていた顔色がますます黒くなり――そして。

 

 何かに気付いたかのようにハッとした。

 目だけで見上げたその先には――定子の髪を受け取った、その逆の手に握られていた、黒い人形の式符があった。

 

 道長はそれを、無表情で握り潰す。

 伊周は、最後の脈動とばかりに一際強く跳ねた己の心の臓に突き動かされたように、渾身の力で跳ね起きた。

 

「――ッッッ!! み……ち……な……がぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!!」

 

 だが、伊周の手は道長に届かず――源俊賢が、無慈悲に伊周を地に叩き伏せた。

 

 そして、そのまま伊周は――全身から血の華を咲かせる。

 女房達は悲鳴を上げながら逃げ出した。その中には、隆家の姿もあった。

 

「――捕らえろ」

 

 道長の冷たい命令に、一瞬遅れながら検非違使が続いた。

 阿鼻叫喚の混乱に包まれる中、中宮の身を守るように残っていた数少ない女房の一人であり。

 

 投げ捨てられた黒髪を、血に伏せた伊周を、そして――悲鳴を堪えながらも、一筋の涙を流した一人の女性を見遣った、清少納言が。

 

 この世の何よりも憎いとばかりに、道長を睨みつけながら、こう呟いた。

 

「…………化物めッ!」

 

 この国で最も貴い女性が見せた、未曽有の覚悟の行動に――まるで、心を動かさず。

 

 粛々と処刑を実行した――人の心を持たない怪物に向かって、中宮の番人は吐き捨てる。

 

 道長はその言葉に一度振り向きながらも、そのまま何も言わずに、二条北宮を後にした。

 




用語解説コーナー⑭

藤原伊周(ふじわらのこれちか)

 藤原道隆の嫡男として生まれた、輝かしい二世。
 兼家、道隆と続いた藤原北家の継承リレーを正統に受け継ぐべく、瞬く間に出世を重ね、父譲りの美貌と母譲りの聡明な頭脳で以て、宮中の同世代や女性たちの心を掴んだ王子。

 だが、関白である父のその強引な引き立ては、年上貴族や道兼、道長といった同族の叔父たちの不興を買い――道隆亡き後の急転直下の失脚へと繋がっていく。

 政争では道長に敗れたが、多くの秀逸な漢詩や和歌を残し、アーティストとしては後の世にまで名を残した。

実 際の歴史では、今話での二条北宮での一件で捕らえられたのは隆家だけであり、伊周はなおも逃亡を続けた。やがては逃げられなくなり、配流の指示に従うことになるが、ここでも母・貴子を同行させる云々で見苦しく足掻くことになる。結局、貴子の同行が許されなくて、その後、配流だっつってんのに、病床の母を見舞う云々でこっそりと平安京に忍び込んだりして、また配流されたりした。ここまでくると逆に面白い。

 史実的には、やがて詮子の病状が回復しないが故の大赦(呪いを回復させる為に、恨みを買っているであろう人物の罪を許すこと)によって隆家と共に罪科を許され、平安京に
帰洛することを許されているが――この物語では、ここで凄惨な最期を遂げることになった。

 容姿端麗で才気煥発ではあったが、その心は幼く未熟な――裸の王子様。

 やがては亡霊にまで身を堕とすことになるが、彼はただ、純粋に耀く父に憧れ、自分もそうなりたいと願っていただけなのだ。

 ただ、その器を持たず――黒い野心に呑まれただけで。


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妖怪星人編――⑮ 望月の兎

あなた――そんなに、藤原道長が怖いの?


 

 中宮定子の御落飾(ごらくしょく)

 この衝撃的な悲報はたちまち宮中を駆け巡った。

 

 中でも、一条帝の嘆きは殊更に大きかったという。

 

「……朕の子を宿した身で……果たして中宮にどれだけの負担を……朕は……」

 

 一方で、道長に対する畏怖の声は、更にその大きさを増した。

 伊周の凄惨な末期は、その場にいた検非違使や女房達の口によって瞬く間に広がった。

 

 果たしてどんな手を使ったのか、中宮が出家してまでも守ろうとした兄の命を奪ったその手段は明らかにされず、よって道長が殺したという証拠は出なかったが、伊周の末期の怨嗟の声と、それを見る一の上の冷たい眼差しはその場にいた全員の脳裏に刻み込まれていた。

 

 藤原道長に逆らう者は、あれほどまでに凄惨に殺される。

 そういった噂が広がって、誰も道長に歯向かうことは出来なくなった。

 

 それは生き残った隆家も同様だった。

 あの後、逃げ出した隆家を探し出す為に、二条北宮は柱の一本まで残さずに解体されることになった。

 

 二条大路に集まった人々から姿を隠す為に布を持った女房に囲まれながら牛車へと逃げた定子が見詰める中で、彼女の宮殿は平安武者達によって無残に壊されていったのだ。

 

 その光景を眺めていた清少納言は、道長に対する怨嗟の念をますます固めていった。

 

 やがて畳の裏に隠れ潜んでいたところを発見された隆家は大層に怯えており、そのまま碌な抵抗もせずに平安京を後にした。

 

 息子を失った母・貴子も自宅で自害していたところを発見され、祖父・成忠も、伊周と同じ様に自宅で全身から血を噴き出した状態で発見された。

 

 道隆を失って、僅かに一年。

 あれほどに栄華を極めた道隆一族の、余りにも無残な凋落だった。

 

 道長は、それほど盤石な体制を築こうとも、敢えて関白へとなることを拒んだ。

 摂政・関白となってしまえば参議への参加資格を失う。故に、大臣の位のままに己を据え置き、参議の最も高い椅子から、内裏の公卿たちを、その突き刺すような眼差しで見据え続け――強固な独裁体制を築くのだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、清少納言は、一人だった。

 ()()()()()()()()()()、たった一人、真っ暗な部屋の中で、考え続けていた。

 

「…………」

 

 こと、ここに至れば疑いようがない。

 

(……中宮様の女房の中に、裏切り者がいる)

 

 あの日――例え、一の上といえど、一条帝の命を受けていようと、中宮の寝殿まで家人の誰も知らぬままに上がり込めることなど有り得ない。

 

 つまり、手引きした者がいる。

 伊周や隆家が定子の元に逃げ込んだことを一早く、道長に密告した者がいる。

 

 そして、その者は、今度は清少納言を中宮の元から引き離そうと画策していた。

 

 女房間で浮いている清少納言はあっという間に、その犯人に――裏切り者に仕立て上げられてしまった。

 元々、斉信や行成と密な関係を築き、道長派閥に(おもね)る者として蔭口を叩かれていた清少納言だ。印象操作は容易いことであっただろう。

 

 そして、今回は定子の出家という、前代未聞の事態にまで発展してしまった。これまでは伊周や隆家の失脚だけだったが、今回に至っては定子本人に甚大なる被害が出ている。女房達による排斥運動も、これまでとは比べ物にならなかった。

 

 その圧力を受け、清少納言は素直に内裏を出た。

 下らない女房間の諍いで、ただでさえ甚大な負荷をかけたであろう、定子の母体にこれ以上、要らぬ負担を掛けたくなかった。

 

 このような事態の時に、中宮の番人としてあの御方の元を離れるのは業腹だったが――。

 

(しかし、これで後宮は、完全に内裏から繋がりを断たれたことになる)

 

 そもそもその役目を、内裏とのか細い糸としての役割を背負っていたのが清少納言なのだから。

 宰相の君や中納言の君などが完全にゼロにはしないだろうが、今の後宮の雰囲気でそれを担うことはかなりの火種になる。最小限に留めるだろう。

 

「これからどうするおつもりですかな?」

 

 清少納言は宮中の誰にも知られない場所に身を隠した。

 連れてきたのは娘と、最小限の家人のみ。

 

「宮中では清少納言は道長派閥であると大層に噂されているようですよ」

 

 清少納言は拳を握る。

 あの夜、道長が清少納言の元に訪れたことも、見事に吹聴されているらしい。

 

 だが、今は――堪えるのだ。

 報いるべき時は、必ず来る。

 

「……そうでしょう? 陰陽師さん」

 

 これでよいのね――そう呟きながら、清少納言は、遂に『枕』を書き始めていた。

 

 清少納言の名を、そして中宮定子の名を、永遠に歴史に残し続ける偉大なる随筆を。

 

 描くのは、中宮定子の全て。煌びやかに、華やかに。

 

 たっぷりと――藤原道長への怨念を込めて。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、冬――定子が生んだ子は、女の子だった。

 皇女だ。後継たる――皇子ではなかったのである。

 

 無論、定子は喜んだ。

 愛する一条帝との、初めての子。女房達も揃って祝いの言葉を、そして出産という大仕事を終えた中宮への労いの言葉を掛けた。

 

 だが――その笑顔の裏で、これで中宮定子の勝利の芽は殆ど潰えたと、そう見限る者も多かった。

 

 定子が道長に勝利するには、この出産が最後のチャンスだったのだ。

 

 道長は定子の懐妊が発覚した際、抜け目なく一条帝に他の女御を宛がうという手を打っている。

 道隆は己が娘に一条帝の夜を独占させるために他の女御を宛がうことは最期までしなかったが、本来であるならば、天皇とは己が血を少しでも多く残すことも使命である為に、複数人の側室を持つことはむしろ責務とさえ言える。

 

 そして、現状唯一の女御であった定子が妊娠したとなれば、一条帝の夜が空くことになる。

 それならばと、他の新しい女御を受け入れることは天皇として当たり前であり、一条帝としても拒むことは出来なかった。

 

(道長の長娘である彰子様はまだ十にも満たぬ身体。故に女御として贈ることは出来ない。なのに、ここで別の女御を贈るということは、数年先に彰子様を入内させる際に、新たな敵を作ることにも繋がる)

 

 だからこそ、道長は他の女御を贈らないのではないかと、そう噂する貴人もいた。

 

 しかし、定子が皇子を生めば、その子は一条帝の長男として後継の最有力候補になる。だからこそ、ここで別の貴人が帝に女御を贈り、その娘が皇子を生めば、第二候補、第三候補が生まれ、定子が生んだ皇子が権力を引き継ぐとは限らなくなる。

 

 その場合は、第二候補らの父親たる貴人も、道長同様に定子反対派に回るだろう。

 既に道隆に次いで伊周も失っている定子陣営は、非常に厳しい戦いを強いられることになる。

 

 無論、道長にとっても、その第二候補、第三候補は決して喜ばしい存在ではない。

 いずれ入内をと考えている彰子が子を生める年齢になり、そして子を生むまでに、果たしてどれだけの敵を作ることになるのか――それでも、道長は新たなる女御を一条帝に宛がうことを選んだ。

 

 自身が左大臣に昇進したことで繰上りで右大臣となった道長の従兄である藤原顕光が娘、元子。

 己の叔母であり一条帝の女官でもある繁子と今は亡き道長の兄である道兼との娘、尊子。

 道長の父である兼家の異母弟である大納言・藤原公季が娘、義子。

 

 定子が出産で内裏を離れている間に、一気に三人もの女御を入内させることに成功したのである。

 

 女御の数が多くなれば、それだけ一人の女御に割く時間が減り、彰子が入内するまでに子が出来る可能性が少なくなる――無論、全員に子が出来る可能性も大いにあるわけだが――と考えたのか、それとも。

 

(――違う)

 

 そう、恐らくは、これも道長の定子潰しの策の一環なのだ。

 

 定子は今回の一件で出家をした。つまりは、俗世との関りを、表面上は断ったのだ。出産を終えた後も、定子は内裏の後宮に戻れずにいる。

 そんな定子と密会を重ねることは、一条帝としては非常に体面が悪いことになる。

 

 それでも、定子が唯一の女御のままであれば、何かと理由を付けて会いにいくことが出来ただろう。

 しかし、これだけ多くの女御を内裏に抱えているとなれば、わざわざ理由を付けて、内裏の外にいる出家した定子の元に通うことも難しくなる。

 

 つまり道長は、将来の政敵を増やすことを覚悟の上で――徹底的に定子を潰しにかかっているのだ。

 

(……そう。あの男は、それだけ中宮様を恐れている)

 

 己の最大の敵は――藤原定子だと、藤原道長は確信している。

 

 そう、清少納言は、宮中の密かな隠れ家で、涙を流しながら定子に出産を祝う手紙を書きながら思考する。

 

(……本当に、おめでとうございます、中宮様。天皇の血を引く命を生む――そんな偉業を成し遂げた貴女様を、お傍で支えることの出来ない不忠、真に申し訳ございません)

 

 子を生む。

 女として生涯で最も辛く尊い瞬間に立ち会えなかったことに、身を裂くような思いを抱きながらも、清少納言は手紙を書き終え、家人に手渡すと――再び呪いを綴り始める。

 

 呪いの『枕』を、粛々と、ただ一念だけを込めて。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 清少納言が書き散らす『枕草子』は、段々と宮中で評判になっていった。

 

 詩でもなく、歌でもない、ただなんでもない日常を、清少納言独自の鋭い切り口で、ほんのり毒を込めて描くそれは、これまでの宮中にない目新しさを持って、みるみる内に広まっていった。

 

 当然、ふざけたものだと、女がでしゃばりおってと怒りを買うことも多かったが、狭い世界で生きる平安貴族にとっては、それは待ちに待った刺激的な娯楽として、清少納言の名と共にブームを巻き起こした。

 

 それを清少納言が狙っていたのかは定かではない。

 直接感想を言おうと、あるいは一言物申そうと、清少納言本人を訪ねようとする者が後を絶たなかったが――清少納言本人は忽然と姿を消したままで、誰も彼女の元には辿り着かなかった。

 

 そして、そうした人達が足を向けるのは――既に目がないとして宮中の貴人達からは見放されていた、中宮定子の元だった。

 

 何故なら、清少納言が宮中にばら撒いた『枕草子』。

 詩でもない、歌でもない、何でもない日常が綴られたその文からは――ただただ溢れんばかりに、中宮定子への想いが込められていたからだ。

 

 読めば誰もが、中宮定子のことが好きになるような、そんな甘い甘い果実のような文章であったからだ。

 

 だからこそ、それを読んだ誰もが、中宮定子に会いに行きたくなった。

 

 そして、尋ねるのだ――清少納言は、いつここに戻るのかと。

 

 定子の女房達は、裏切り者だと思っていた清少納言の深い想いに戸惑い。

 

 そして――定子は。

 

「…………負けては、いられないわね」

 

 一つの決意と共に、清少納言と――ある方へ、文を送った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 落飾し、俗世との関わりを断った女御が、再び内裏へと戻る。

 帝の子を孕んだ中宮が出家することが前代未聞ならば、そんな中宮が再び内裏へと舞い戻るのも、また前代未聞であった。

 

 無論、そんな話が歓迎される筈もない。

 既に政治的に目がない定子が、そんな常識外れな復帰を果たした所で、受け入れる勢力が今の宮中に存在する筈がないのだ。

 

 何より、そんなことを――あの道長が許す筈もない。

 

「無論、それはそれは激しい批判を浴びたそうですじゃ。政治的云々という話を抜きにしても、前例主義の貴族様達にとっては受け入れ難き特例でございましょうからなぁ。しかし、此度の中宮様の内裏帰参が――他でもない、帝ご自身の強きご希望となれば、無碍にも出来ますまいて」

「……そうですか。一条帝が」

 

 若く、賢しいが為に、名君と謳われながらも、これまで自分の意よりも宮中の和を優先してきた一条帝。

 

 それは全体を俯瞰することが出来る優秀さでもあるが――穿ったことを言えば、道隆や道長の都合のいい傀儡という言い方も出来た。

 

 だが、いかに藤原氏が権力を持っていようと――この国の最高位は天皇である。

 権力の頂に座するのは、関白でも、左大臣でも、そして中宮でもない。

 

『道長よ。(ぬし)の深奥に巣食う渦の正体は、朕には伺い知ることは出来ぬ。――だが、主の野望がどのようなものであったとしても、主からは朕や、そしてこの国を害そうという悪意は感じることはなかった。故に、朕はこれまで主を信じ、共に邁進してきたつもりだ』

 

 若き賢王は、この時、初めて大人に歯向かった。

 

 全体の和ではなく、賢い正解でもない――子供のような我が儘を通した。

 

 一条天皇は、たった一度――国よりも、ただ一人の。

 

『だが、主にとって、中宮だけは違ったのだろう。中宮だけは、主にとっての敵であったのだろう。……主は朕に、そして国に益を齎す男だ。そんな主にとって中宮が敵となるのならば、このまま中宮を排することが、この国を統べる者として選ぶべき正解なのかもしれぬ。……だが、こればかりは譲れぬのだ。――許せ、道長』

 

 王は、男として、愛する女を手放さないことを選んだ。

 

『中宮を内裏へ戻す。これは、朕が決めたことだ』

 

 道長は、そんな天皇の言葉に、ただ一言、頭を下げて言ったそうだ。

 

『――それが帝の御意志ならば』

 

 

「…………」

 

 清少納言は、そこまで聞いて、ついさっき届けられた――中宮定子からの手紙を開く。

 

 手紙には文字は一つとして書かれておらず、差出人の名前すらもなかった。

 

 ただ一枚――山吹の花弁が挟まれているのみだった。

 

 だからこそ、これが中宮定子からの手紙だとは断定はできない。

 しかし、だからこそ、清少納言はこれは定子からの手紙だと確信する。

 

(……山吹――くちなし。……そうですね、中宮様。言葉はいらない。わたし達のすべきことは、あの頃から何も変わっていない)

 

 自分にとって一番大切な方から、一番に愛されること。

 

 一条天皇にとって、中宮定子は代えの利かない只一人の女性だった。

 定子が愛する人から獲得し続けた莫大なる愛は、遂にはあの道長を脅かすまでに至った。

 

「――ならば、わたしも負けてはいられませんね」

 

 例え、内裏に戻れたとしても、中宮定子がこれから進むは荊の道だ。

 天皇が味方だとしても、その他の全てが――道長を始めとする朝廷の全てが、定子の敵として立ち塞がるだろう。

 

 だが、そんな地獄に舞い戻ってでも、定子は戦う覚悟を決めている。

 

 ならば――中宮の番人として、やるべきことは、ただ一つだ。

 

「――あなた様は、どうなさるおつもりですかな?」

 

 滔々と、宮中の現状を清少納言へ語り続けていた、目の前の黒き陰陽師は問う。

 

 清少納言は『枕』を書いていた筆を置いて「わたしは――中宮様の番人です」と呟いて、言う。

 

「中宮様が望むなら――そこが例え、地獄だろうと。――それが中宮様の御意志ならば」

 

 そして、清少納言は内裏へと――この世で最も浄土へ近い場所へ舞い戻る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 内裏へと戻った清少納言を迎えたのは、中宮定子の微笑みだった。

 

「長きに渡る(いとま)、真に申し訳ありませんでした、中宮様」

「あら? 見覚えのない顔ね? 新参の者かしら? ふふ。()()――よろしくお願いしますね」

 

 そんな言の葉を交わし――中宮と清少納言は笑い合う。

 

 清少納言を追い出した形になる女房達は些か以上に気まずそうな顔をしていたが、清少納言はそちらには目を向けない。

 こうして同僚に戻った以上、必要以上の仕返しをするつもりはないが、以前のように友好を深めるつもりはなかった。

 

 清少納言は、ただ目の前の御方の為だけに、こうして地獄に戻ってきたのだから。

 

(……中宮様)

 

 久方ぶりにこうして顔を合わせる中宮は、以前と同じような輝く笑みを浮かべていた。

 

 だが、当然、何も変わらない筈がない。

 家族を失って、母となって――何もかもが変わった。

 

 こうして内裏に戻れたとはいえ、ここはかつて暮らしていた登花殿のような華やかな屋敷ではない。

 (しき)御曹司(みぞうし)とよばれる、本来は中宮に仕える事務職の者達が住まう社寮のような場所だ。

 

 それに何より――中宮の頭髪が。

 かつては背中を覆わんばかりに伸ばされた黒髪が、その半分すら覆えていない。

 

 艶やかな長い黒髪は、この時代の女性の美人の第一条件。

 誰よりも美しかった定子は、誰よりも美しい髪を流していた。

 

 だが、それを失われても尚、定子は付け毛で隠そうとも誤魔化さそうともせず――ありのままの自分で以て、誰よりも美しく輝いている。

 

 清少納言はそれを細めた瞳で見詰めて。

 

「……中宮様。お見苦しいものをお見せするご無礼をお許しください」

 

 と言って――自分のかもじ(付け毛)を勢い良く剥がした。

 

 周囲の女房達がどよめく。この場にいる誰もが、それを知っていたからだ。

 彼女が己の本来の髪質をどれだけ忌々しく思っているか。何よりも、中宮の女房として、それをどれだけ恥ずかしく思っているか。

 

 無論、中宮定子も、それを理解していた。

 しかし彼女は、それをあろうことか――誰よりも己の醜い様を見られたくない、中宮の目の前で外してみせた。

 

 己の一番のコンプレックスである癖毛姿を晒して――それでも尚、強がりながら、不敵に微笑む。

 

「わたしは――中宮様の番人として、もう二度とお傍を離れません。どこであろうと、いつまでも、わたしは中宮様と共に」

 

 中宮定子は、呆然としながらも、やがて呆れるように微笑んで。

 

「可愛いわよ。――わたしの番人様」

 

 中宮と番人は――二人の主従は、今、ここに再会した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 内裏への復帰を果たしても、中宮定子の立場は決してよいとは言えないものだった。

 しかし、完全に身動き一つ出来ないまでに追い込まれていたのかといえば、そんなこともなかったのだ。

 

 中宮が第一子を妊娠し、出産するまでに道長は三人もの女御を一条帝に宛がったが、しかし今日に至るまで、その誰もが子を宿すことはなかった。

 

 そして、中宮を職の御曹司へと住まわせたのは、実は道長の嫌がらせではなく、他でもない一条天皇だったのだ。

 内裏の屋敷に敢えて住まわせていないことで、正式には「入内」ではないという言い訳の為である。出家した女を後宮に戻したわけではないと。

 

 詭弁といえばそれまでだが、ある意味で現代よりもルール主義であるこの時代においては、例え詭弁であろうと筋が通っていれば黙認するしかないのが平安の朝廷であった。他でもない、一条天皇が言い出したことならば尚のことである。

 

 そして、そんな詭弁を黙認しなければならない理由のもう一つが、この国の最重要事である、皇家の血統保持の問題である。

 

 前述の通り、中宮定子が第一子である皇女を生むまで、他の女御が子を孕むことは出来なかった。つまり、この国はまだ、一条帝の皇子を獲得していないのである。

 

 皮肉にも、道長が三人もの女御を宛がったことで、これまで定子のみに責任が集中していた一条帝の世継ぎの問題が、にわかに騒がれ出したのである。

 

 これまでは何故、早く生まないであったのが――このままで、本当に世継ぎを手に入れることが出来るのかという不安に変わったのである。

 

 一条帝は未だ若い皇子だが、これだけ世が流行病に侵され、二人もの関白を失った今、誰もが脳を過ぎらずにはいられなかった。

 

 果たして、この平安京を呑み込んでいる流行病が――かの天皇にまで及ばないということが、保証されているのだろうかと。

 

 と、いうのも、もし、一条帝が不慮の死を遂げてしまえば、次期の天皇の座につくのは東宮・居貞(おきさだ)である――が、居貞は一条帝や良帝として名高かったその父帝・円融天皇と違って、狂帝として有名な冷泉帝、花山帝の血筋なのである。

 

 皆、口には出さないが、一条帝の血筋の皇子に天皇を継いでほしいと願っている。

 無論、そこには様々な思惑が交錯し、出来ることなら自分達が甘い汁が吸える血を引いた皇子であることがベストだろうが――王として優れた主君を求めるのならば、一条の血統を継いだ皇子であることが望ましいと、誰もが本心ではそう思っているのだ。

 

(皮肉ね。女御、そして()()()――己が仕掛けたそれらが、ここにきて自分が最も厭う中宮様の追い風となっているなんて)

 

 清少納言はそう冷笑する。

 これまで平安京を混乱の渦に叩きこんできた誰かの思惑が崩れ始めていること、そして、それが恐らくはその誰かにとって最も面白くない形で跳ね返っていることに、笑みが堪え切れない。

 

 一条帝の世継ぎがそもそも生まれないかもしれない。

 そんな恐怖が生まれた時、皇女とはいえ、第一子を生んだ前例がある中宮定子は、そうなると彼等にとっては完全に排除することが出来ない存在となる。

 

 それに、こうなると伊周を排除したことは更に道長にとっては悪い方向に作用する。

 今、中宮は宮中に明確な後ろ盾が存在しない。それは裏を返せば、誰でも彼女らの盾となることが出来るということでもあるからだ。

 

 しいて言えば隆家だが、道長の恐怖が骨髄まで刻み込まれた奴は、例え中宮が皇子を生んで、自分が摂政になれるかもしれないとなっても平安京に帰ってくることはないだろう。

 

 そうなると、残る可能性は中宮の叔父である道長自身だが――。

 

(奴にそれは出来ない。そうなれば、奴は中宮様の御子を次代の天皇と認めたことになる。彰子様に次代の天皇を生ませることが奴の勝利条件である以上、それだけは出来ない筈)

 

 ここまでは、平安貴族ならば誰もが読めている。

 そうなると彼等にとっては、中宮定子が皇子を生むというのは決して悪い未来ではなくなるのだ。

 

 道長一強である今の状況から、少なくともイーブンに均せるのだから。

 

 つまり――。

 

(――まだ、戦える。中宮様を勝たせる可能性は、まだ生きている)

 

 ならば、自分に出来ることはただ一つ。

 

 清少納言は――宮中へと持ち込んだ白い紙に、滔々と新たな『枕』を綴る。

 

 そして、多くの貴族を中宮の元へと呼びこんだ。

 時には自ら出向いて世間話をし、友好を結んだ。

 

 数多の貴族男子の中を、醜い癖毛を晒しながらも威風堂々と渡り合う。

 女性蔑視が蔓延る宮中を、その才覚のみを武器に、魑魅魍魎たる殿上人らと対し続けた。

 

 全ては中宮定子の名声の為。

 全ては、かの御方の勝利の為に。

 

 中宮定子は死んでいないと。負けていないと、その全てを以て示す為に。

 

 藤原道長が支配する、浄土に最も近い世界で。

 私だけは恐れない――中宮様は、屈しないと、そう叫ぶように。

 

「――」

「――」

 

 例え、道長と遭遇し、形式的に頭を下げることになろうとも。

 

 道長は、そんな清少納言を見て口元を緩めながらも、まるで受けて立つと言わんばかりに、咎めることはしなかった。

 

 清少納言はその背中を睨みつけながらも、力強く立ち上がり、己も背を向けて歩みを進めた。

 

 

 

 そして、それから間もなく――宮中に二つの衝撃的なニュースが轟く。

 

 藤原道長の長娘・彰子の入内。

 

 そして、中宮・藤原定子――第二子、妊娠。

 

 長きに渡る、とある誰かの物語が。

 

 今、遂に――終着点に辿り着こうとしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 これも、定子の持つ運命力の強さなのだろうか。

 どれだけ苦難が続き、悲劇的な目に遭おうとも、決して致命的には陥らずに、どれだけか細くとも残された可能性の糸を手繰り寄せる。

 

 だが、清少納言はもし誰かのそんな呟きを耳にしたら、こう言ってのけるだろう。

 

 全ては、中宮定子が獲得し続けた愛の結果だと。

 

「――よくやった」

 

 定子の懐妊を聞いた時、一条帝は誰よりも嬉しそうにそう言ったらしい。

 

 その膝には定子が生んだ一条帝の第一子である皇女・脩子(しゅうし)が座っていて、その横には一条帝の母后であり脩子の祖母でもある詮子が微笑んでいる。

 

 これも道長にとっては想定外の一つだろう、と清少納言は思う。

 道長は伊周を排除する際に、キーパーソンとして詮子を利用した。それ故に、道長は詮子を己の陣営の存在だと思い込んでいたのかもしれない。いや、道兼や伊周よりは道長を詮子が可愛がっていたのも事実であろう。

 

 だが、彼女は姉である前に、母であった。

 現に彼女はこう言っていた――「全ては帝のおんためを思っている」と。

 

 彼女の中で最大の優先順位は常に一条帝であった。

 そんな彼女が、一条帝の第一子であり――己の初孫である脩子を、可愛がらない筈がないのだ。

 

(つまり、奴は詮子様という大きな手札をも失ったことになる。そして、脩子様は詮子様だけでなく、帝がこうして中宮様の元を訪れる縁にもなってくださっている)

 

 親が子に会いに行って何が悪い。

 そう帝に開き直られてしまえば、例え、中宮の立場が政治的に危ういものだったとしても強く言える者はいない。あの道長でさえもだ。既に定子に関しては、道長は一度、一条帝に強く出られて、それを認めてしまっている。

 

 だが、それを黙って指を咥えて見ている道長ではない。

 彰子が十二才となり、成人の裳着を済ませたその直後のこと。

 

 定子が第二子を身籠ったと、そんな報せが宮中に囁かれた、そんなタイミングで、道長は打診した――己が娘・彰子の入内を。

 

 一条帝はそれを受け入れた。

 否――受け入れずにはいられなかったという方が正しい。

 

 たった十二才の娘。一条帝も若いとはいえ、そんな彼にしても今の彰子は子供にしか見えないだろう。子を孕むような行為など出来ようもない。

 しかし、それでも受け入れざるを得なかったのは、一条帝が賢帝であるからとしかいいようがない。

 

 いうならば、一条帝は花山帝ほどに愛のみには生きることは出来ないのだ。

 

 政治的に苦境に立たされた定子を守るべく、道長に強く出た一条帝だったが、それでも、宮中の貴人のほぼすべてを掌握する道長と決定的に対立することが、どのような未来に繋がっているかを想像出来ないほど、一条帝は無能ではない。

 

 定子の第二子懐妊という、道長にとっては最も避けたかったであろうことを実現させてしまった一条帝にとって、ここで、自分に殆ど益のないことだとは分かっていても、道長の娘の入内を拒むということは出来なかったのである。

 そんな己の心情を全て道長が読み切り、このタイミングで切り出してきたのだと分かっていても。

 

(だが、全てはもう遅い。中宮様はその御身体に、既に御子を宿しておられる。後は、その御子が男児であれば――皇子であれば)

 

 中宮一行は出産の為に、職の御曹司からすら再び追い出され、内裏を後にする。

 用意されたのは平生昌(たいらのなりまさ)という中宮職の男の屋敷。だが、とある筋から清少納言はこの男こそが、あの事件の折に道長一行を二条北宮に招き寄せた裏切り者の密告者であると看破していた。

 

(……あの男は、どこまで――)

 

 清少納言は歯ぎしりしてしまいそうな衝動を抑えた。

 いざという時は――と、己の懐に忍ばせたそれをいつでも取り出せるようにしながら、中宮を迎えるのに相応しくない、その小さくみすぼらしい屋敷を、女房の同僚達と生昌に聞こえるように揶揄しながら、引越し作業を進めた。

 

 本来であるならば中宮の引越しなど大勢の貴人が手伝いに来る筈なのだが、今の情勢では殆ど身内しかいない。

 清少納言の『枕』のお陰で少なからず取り戻した筈の中宮の求心力も発揮されていない。道長が見越したように同日に催しを開いたので、貴人達は皆、そちらの方へ出席している。

 

 何を隠そう、今日というこの日に、道長は彰子の入内祝いの宴を開いているのだ。

 未だ十二才の子供の女御に箔をつける為にか、それとも己が権力を見せつける為にか、嫁入り道具に金箔の屏風を用意し、そこにこの宮中に置いて名手と謳われる歌人達に歌を詠ませて、それを書き記した世界に一つだけの豪奢な一品を作り上げて、だ。

 道隆と違い、そういった貴族の遊びを余り好まない道長がそこまでして盛り上げたいと思うことが、今の道長の状況を表しているといえる。

 

 そして、その名歌の数々を金屏風に書き記すのが――稀代の能書家である藤原行成だというのだから、それはそれは素晴らしい一品だろう。

 

「……………」

 

 清少納言は、胸に走る痛みを無視するように無心で働き続けた。

 

 

 

 そして、それからしばらしての――とある日のことである。

 

 定子の腹も大きく膨らみ、出産を間近に控えた綺麗な月の夜。

 

 平生昌の屋敷に――新たに一条帝の女御となった、道長の娘・彰子本人が来訪したのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 清少納言は絶句する。

 中宮の番人を自称し、これまで数多くの中宮へのお目通りを願った貴人と相対してきた彼女が、その動揺を隠しきれずに目に見えて狼狽えていた。

 

「こんな夜更けにごめんなさい。でも、どうしても会いたくて、居ても立っても居られなかったものですから」

 

 目の前の少女は、そうクスリとも笑わずに言う。

 その整い過ぎた容姿、冷たくも見える無表情は、紛れもなくとある男からの遺伝を感じさせる。

 

 一本に結んであったそれを解けば、さらさらと流れるような黒髪を靡かせる。

 するとその髪は、その小さな身体を包み込むように広がった。

 

 小さい。まだ子供だ。

 美しい顔立ちであり、将来はさぞ大層な美女になることは想像に難くないが――まだ、十二才の子供である。

 

 藤原彰子――藤原道長の長娘であり、ついこの間、一条天皇に入内したばかりの女御。

 

(……そんな存在が、今、この時期に中宮様を来訪する? それも、こんな夜更けに、何の前連絡もなしに――()()()()()で?)

 

 そう、一人。あろうことか、道長の娘であり一条帝の女御となった少女は。

 既にこの宮中では、天皇の子を身籠っている中宮定子と同じく、あるいは、政治的立場からみればそれ以上に重要な存在である筈の彰子は、一人の御供も連れずに、この屋敷を訪れたのである。

 

 屋敷の一応の主人である平生昌が、何故かがたがたと震えながらこうして清少納言ら女房の前に連れてきた時、彰子はたった一人で、くすりとも笑わず無表情で現れたのだ。

 

「……彰子様。お連れの方はいらっしゃらないのですか?」

「ええ。夜のお散歩中に、ふと訪れてみたくなったから。勿論、一人じゃなく、この子も一緒だけれど」

 

 この子――と、彰子はその小さな腕の中に抱いている、白い兎を撫でる。

 一見すると、ただの白い身体と赤い目が特徴の、どこにでもいる、只の兎だ。

 

 彰子の愛玩動物(ペット)だろうか――と、清少納言がその兎に注意を向けると、懐に忍ばせていたものが強い反応を示す。

 

「ッ!? 式神――ですか?」

 

 清少納言の言葉に、周囲の女房達が強い警戒心を示す。

 

 震える生昌を他所に、当の彰子は「あら? よく分かったわね」と言いながら、優しくその背を撫でる手を止めずに答える。

 

「晴明から貰ったの。何でも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしいわよ。よく分からないけれど。私にとっては可愛い只の望月だわ」

 

 望月(もちづき)――そう呼ばれて抱きかかえられた、額に満月のような黄色い痣を持つ兎。

 それを見せつけるように胸に抱いて、その赤眼を向けさせる彰子に、清少納言は生唾を呑み込みながら尋ねる。

 

「……なるほど。かの陰陽頭(おんみょうのかみ)様の式神をお連れならば、確かにご安心でしょう。しかし、帝や左大臣様は、さぞご心配なされているのでは?」

「大丈夫よ。用が済んだらすぐに寝床に戻るし、それに――」

 

――間違っても、今の帝は私の寝床になど来ないでしょう?

 

 そう言って、ここに来て初めて、無表情を崩し――ゾッとする程に妖艶に微笑む。

 

 たった、それだけで。百戦錬磨の中宮の女房達が、全員揃って息を吞ませられた。

 

(……これが、彰子(しょうし)様。未だ十二才の子供と侮るなかれ。この御方は既に一条帝の女御であり、何より――あの、藤原道長の娘なのよ)

 

 藤原定子とはまた異なった意味で、人並外れた美しい少女。

 定子が咲き誇る華、輝ける太陽のような美女であるならば、彰子は見る者を引き摺り込むような、妖しい月光のような美を秘めている。

 

 もし、この少女がこのまま成長していったら――果たして、どれだけ危険な敵となり得るのか。

 

(そう、忘れては駄目。目の前に居るのは彰子様。一条帝の新たなる女御にして、藤原道長の娘――中宮様の、て)

 

「私が今日、ここに来た用とは、ただ一つよ」

 

 清少納言の思考が纏まり切るのを待たず、彰子は単刀直入に言った。

 

「中宮定子様とお話をさせて。二人きりで。それがしたくて、私は夜のお散歩ついでにここに来たの」

 

 その言葉に、再び絶句する清少納言達。

 たった十二才の少女に、中宮の女房達が見事に手玉に取られている。

 

(――ッ! 何を考えているのか分からない、のに……気が付けば、全てが掌の上で転がされる、この感じ……。大胆不敵な行動、単身で敵地に乗り込む度胸、何もこちらに読み取らせない無表情。その全てが――あの男を彷彿とさせる……ッ!)

 

 後手後手に回っていることを自覚しながらも、清少納言は何とか言葉を返す。

 

「……まことに申し訳ありませんが、中宮様は既にお休みになられています。お手数ではございますが、また後日とさせて頂くわけには参りませんか?」

「嘘ね。中宮様はまだ起きてらっしゃるでしょう?」

 

 ビクッと、その言葉に思わず若い女房の一人が肩を震わせてしまう。

 清少納言は件の女房を睨みつけたが、既にその様子は彰子に気付かれた後だった。

 

「ふふ。まだ寝るには早いし、月の綺麗な夜だからきっと、と。そう思っただけなのだけれど。あながち私の決め付けというわけでもなさそうね」

「……彰子様。目的は、何でしょうか?」

 

 子供騙しが通じる子供ではないと、そう判断した清少納言は表情を険しくし、深く切り込む。

 それに宰相の君らは待ったを掛けようとしたが、既に清少納言は止まらなかった。

 

「目的? さっき言ったでしょう? 中宮様とお話したいだけよ」

「この情勢下で、それだけだとは到底思えません。左大臣様は、一体何を企んでいらっしゃるのですか?」

「お父様は関係ないわ。私がそうしたいと思ったから、私はここにいるに過ぎない」

「信用出来ませんッ! あなたは――藤原道長の娘でしょう!?」

 

 感情が昂り、思わず道長を呼び捨てにして叫ぶ清少納言。

 その失言に宰相の君をはじめとする女房達が、そして清少納言自身がハッとする中。

 

 彰子は激昂するでも、眉を顰めるでもなく――嗤った。

 

「……あなた、清少納言と言ったわね」

 

 だがそれは、清少納言の失態を嗤うもの――ではなく。

 

「あなた――そんなに、藤原道長(お父様)が怖いの?」

 

 その――言葉に。

 女房達は一斉に清少納言の方を向き、そして、清少納言は。

 

「………………ぁ」

 

 何の感情故なのか。

 戸惑いなのか、怒りなのか――それとも。

 

 小さく震える唇を、それでも懸命に動かして、何かを言おうとしている、そんな時に。

 

「――奇遇ですね。私も、あなたとお話ししてみたいと思っていました。彰子様」

 

 清少納言の背後から、その声は現れた。

 伸び始めた黒髪、大きく膨れたお腹、けれど、そんなことはまるで感じさせない美しさを放つその女性は、そっと宰相の君に目配せをする。

 

 宰相の君は平生昌を下げさせると、彰子との間にあった御簾を上げさせた。

 

 そして中宮定子は、彰子と真正面から対面し、微笑む。

 

「こんな醜い姿でごめんなさい。会いたかったです、彰子様」

「こちらこそ、大変な時に突然、お邪魔してごめんなさい。醜いなんてとんでもない。私がこれまで出会った全ての人で――最も美しい御姿ですわ、中宮様」

 

 それは、中宮の美しさの象徴であった身の丈以上の黒髪を失わせた仇敵の娘が言うには相応しくない言葉だったかもしれない。

 

 だが、それでも誰も何も言わなかったのは。

 それが本心の言葉であると、心からの称賛であると、女房達は勿論のこと、定子本人にも伝わっていたからだ。

 

 氷のような無表情であった彰子が浮かべている、輝かんばかりの満面の笑みが、それを何よりも物語っていた。

 

 その年相応の、少女のような笑みに、先程までの覇気を放ち続けていた彰子の姿を知っている女房達は呆気に取られ。

 

 中宮定子も、少し呆然とした後――その笑みをとても優しい笑顔に変えて「……私と、二人きりでお話したいのであったわね?」と言う。

 

 彰子は身を乗り出すように「はい! 是非に!」と言って答えると、定子は「それではそうしましょうか。あなた達、少し席を外してくれるかしら?」と、女房達に命を出す。

 

 当然、それに納得の出来る清少納言ではない。

 

「中宮様。お産を間近に控えた御身体です。ご自愛ください」

「少しくらいなら大丈夫よ。それに――」

 

 定子は彰子の方を向き合いながら、柔らかい笑みを以て言う。

 

「――同じ男性に嫁いだ后同士なんだもの。先輩として、後輩の相談には乗ってあげなきゃでしょう?」

 

 その、余りにも毒気のない笑みに(……これも、惚れた弱みというのかしら)と、清少納言が押し負けそうになりながらも「……しかし、彰子様には安倍晴明様の式神が付いています。二人きりにするのは――」と抵抗すると。

 

「それでは、この子はお庭に放ちましょう。ちょうどこの子好みの月明りの夜ですし。それを貴女方が見張っていればよろしいのでは?」

 

 そう言って彰子は「遊んでおいで」と、庭に望月と呼ばれた兎を放つ。そして、不敵に笑って清少納言を――正確には、その懐を見た。いざという時は、()()で止められるでしょう? と、そう言わんばかりの視線で。

 

「…………」

 

 これ以上、清少納言は何も言うことが出来ず。

 

 月明り眩い、望月の夜に。

 

 中宮――藤原定子と。そして、後にまた、中宮となる少女――藤原彰子は。

 

 誰にも知られない、たった二人で語り合った夜を過ごした。

 

 定子は本当に女房の誰にも耳をすませることすら許さず、また彰子も、この夜のことは誰にも、一条帝にも父・道長にも語ることは生涯なかった。

 

 故に、この夜のことを知っているのは、世界でただ二人であり。

 

 宮中の貴族達に翻弄され、その人生を若くして定められ、また歪まされた后達は、誰にも彰らかにされることのない一夜を過ごした。

 

 昏く、黒い策謀、野心に振り回されながらも、尚も輝かしく、美しく生きた二人の中宮。

 

 たった一夜、二人で共有したその月明り眩い夜を、二人は笑顔で語り明かした。

 

 二人が何を語ったのか。

 

 一条天皇についてか、生まれる新たな命についてか、藤原道長についてか、この国の行末についてだったのか。

 

 それは誰も知らず、それは誰にも知られない。

 

 秘密裏に行われたこの密会は、月が消えぬ前に、彰子が屋敷を後にしたことで終わりを告げた。

 

 その月夜、兎を見たと、そう噂する民がいた。

 

 満月に姿を映すように跳ね回っていたその兎は、それはそれは、とても楽しそうであったという。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、そんな夜から、そう日は経たぬ間に――その運命の夜は訪れる。

 

 中宮定子が産気づいたのだ。

 

 この日もまた、長い、長い――夜になった。

 

 

 




用語解説コーナー⑮

望月(もちづき)

 道長パパが(晴明に強請って)娘である彰子に与えた式神。

 実は『十二神将』・『太裳(たいじょう)』だったりする。親馬鹿にも程があるだろ。
 
 本来の太裳は天帝に仕える文官とされるが、この物語では姫に仕える兎となった。

 月にいるとされる兎・玉兎をモデルに安倍晴明が創り出した式神であり、兎本体に強い戦闘力があるわけではないが、望月が主と認めた相手に特別な力――兎のようにあらゆる場所で跳ね回る身軽さと、例え月面のような過酷な環境であろうと生存できる適応力を与える性質を持つ。

 道長の夢そのものである彰子に相応しいとして与えられたが、当の彰子は望月を可愛いペットとしか思っておらず、こっそりと夜の平安京に散歩と称して連れ出して思う存分跳ね回って遊び、飽きたら家に帰って共に布団の中に潜ってもふもふしながら愛でている。


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妖怪星人編――⑯ 中宮定子

夜もすがら 契りしことを 忘れずや 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき


 月も見えぬ暗い夜。

 

 轟々と焚かれた火に向けて唱えられる僧達の読経の声を掻き消すように、女の苦しむ声が響き渡っていた。

 

「ぐぅぅぅぅあああああああああああああああああ!!!」

「濡れた布を持ってきてッ! 中宮様の汗を拭いてッ! それから布を口に噛ませて! 舌を噛まないように!」

「大丈夫です! 大丈夫ですよ、中宮様! ……どうしてッ!? 脩子様の時はこれほど苦しまなかったのにッ!」

 

 定子が産気付いてから果たしてどれだけの時間が経過したのか。

 時が経つにつれ、中宮の苦しみような尋常なものではなくなり、手当たり次第に僧を集めて別室にて経を読ませているが、定子の苦しみは一向に和らぐ気配がない。

 

 定子の顔が徐々に青白くなり、介助する女房達に最悪の未来が過ぎる。

 そんな想像を掻き消すように互いに大声で指示を出し合うが、そんな怒声を掻き消すように、一人の黒衣の侵入者が現れた。

 

「――ッ!? 何奴、ここを何処と心得――え? 清少、納言?」

 

 黒衣の正体は、いつの間にか姿が見えなくなっていた清少納言だった。

 いつもの華やかな和服ではなく、まるで僧――否、陰陽師のような黒服を纏い現れた清少納言は、女房達の戸惑う視線を意に介さず、中宮の元へ歩み寄りながら告げた。

 

「皆様も気付いているでしょう。これは――呪いです」

「呪い!? まさか、中宮様を!? 一体、どこの誰が――」

「それも、気付いているでしょう。既に宮中に中宮様の御出産を憂う者は数知れず。しかし、今、最もそれを望まず、かつ、これほどまでに強力な呪いを送る者など――ただ、一人」

 

 その場にいる誰もが、同じ人物の様相を頭に浮かべる。

 清少納言は、悶え苦しむ中宮の手を握りながら――強く、囁く。

 

「……大丈夫です、中宮様。貴女様の番人である、この私が――あなたをお守りします」

 

 中宮はそれに言葉を返すことも出来ない。

 だが、強く、更に強く――その手を、ギュッと握り返した。

 

「……こんなこともあろうかと、既に名のある陰陽師に結界を張る準備をさせています。皆様はここからご退去を」

「馬鹿なッ! 我々がここを離れたら、誰が中宮様の御産のお手伝いをするのです!?」

「そ、それに、かの左大臣様には陰陽頭の安倍晴明様が! この京で最も高位であらせられる陰陽師の放つ呪いを防げる結界を張れる陰陽師などいるわけが――」

「中宮様の御産は、この私が介助いたします。これでも二人の子を産んだ身、必ずやその御子を無事に取り出してみせましょう。そして、結界に関してですが――」

 

 清少納言は懐から黒い人形の式符を取り出し、言う。

 

「――これが、その件の陰陽師から預かった、結界の核となる術符です。これが燃やされない限り、結界が外から壊されることはないとのこと」

「そ、それでも、安倍晴明様なら、そんじょそこらの陰陽師の結界など――」

「この術符は――蘆屋道満様より預かったものです」

「ッ!!?」

 

 清少納言が出したその名に絶句する女房達。

 

 蘆屋道満、または道摩法師。

 それは、いつ頃か、この平安京に流れる一種の都市伝説だった。

 

 ある人曰く、それは今にも死んでしまいそうな老爺で。

 ある人曰く、それは武士のように筋骨隆々な美男子で。

 

 その術は彼の安倍晴明にも劣らぬ奇跡を生み出し。

 その呪は彼の陰陽頭にも実現不可能な災いを齎す。

 

 出会った者はおろか、姿を見た者もおらず、やがてそれは安倍晴明という絶対最強の、並び立つ者すら存在しない規格外(ジョーカー)に対抗する為に生み出された空想の陰陽師だと揶揄されるようになった。

 

 だが、清少納言は、そんな存在から受け渡されたという術符を掲げて言う。

 

「かの陰陽師には、この屋敷の傍で待機していただいています。私がこの術に気を流すことを合図に結界を張っていただきます。安倍晴明様といえど遠隔から放つ呪いならば、術の核が内側にあり、なおかつ結界を張る術者がすぐ傍にいるこの状況ならば防ぎきれるというのが、道満様の御言葉です」

「……あなたがいつ道満様と親交を深めていたのかは気になりますが、今はそれは問いません。ですが、これだけは問わせていただきます」

 

 宰相の君は清少納言に固い声色で問う。

 

「あなたは、今日、左大臣様が中宮様に呪いを掛けてくることを予想していた。故に、それに対する準備を道満様と進めていた。そうですね?」

「ええ」

「ならば――何故、それを私共にも教えてくれなかったのですか?」

 

 宰相の君の言葉に、清少納言は彼女の方も見ずに言う。

 

「……密告者が一人とは限らなかったものですから」

「……私達を疑っていたの?」

「最初に疑ったのはあなた達でしょう?」

 

 清少納言の言葉に、宰相の君も、その他の女房も口を噤む。

 そして、清少納言は、彼女達の方を見ずに、ただ中宮だけを見詰めて言った。

 

「……それに、元々、結界の中には私だけを残すつもりでした。結界の中で守る人の数が少ない程、その一人当たりの守る力は増す結界だそうですから」

 

 ですから、早く出て行ってください――そう清少納言は言う。そして、吠える。

 

「私は一刻も早く中宮様の苦しみを和らげて差し上げたいのです! あなた達を守る分などありはしないッ! 結果を張ります! ですから――早くこの場から出て行けッ!」

 

 この場に居ていいのは、私と中宮様だけだッ!! ――清少納言は黒い術符を突き付けるようにして吠える。

 

 その有様に絶句する女房達だが、その黒衣が開けて僅かに見えた清少納言の素肌――そこから黒い瘴気のようなものが出ているのを見た宰相の君は「……分かりました」と、瞑目する。

 

「よろしいのですかッ!?」

「……清少納言の、中宮様を想う気持ちは紛れもなく本物です。私達に中宮様をお助けする術がない以上、ここは彼女に任せる他にないでしょう」

 

 そう言って宰相の君は他の女房達を部屋の外に出す。

 そして、他の女房達が全員部屋を出た後、最後に振り返り。

 

「……ごめんなさい。あなたを守ることが出来なくて」

「…………」

「……お願いします、清少納言。どうか、どうか――」

 

――中宮様を、お願いね。

 

 宰相の君は、そう、何かを滲ませた笑みを以て言った。

 

「………………」

 

 そして、二人きりになった密室で――清少納言は術を発動する。

 

 黒い御簾が下ろされた。

 四方を取り囲むように出現したそれは、途端に空間内を不思議な空気で満たす。

 

 清少納言は、徐々に呼吸が落ち着いていく中宮を見て表情を和らげる。

 未だ苦しみが消えたわけではない。だが、いまにも死んでしまいそうだった先程に比べれば幾分かマシになったようだ。

 

 代わりに――清少納言は血を吐き出した。

 ゴホゴホと咳き込み、その口を押えた手に、赤い血が付着していたのだ。

 

 結界内で守るべき人の数が少ない程に、この結界は守る力が増す。

 故に、二人きりになった空間内において、清少納言は己を守る数に含めなかった。

 

 蘆屋道満お手製だというこの黒い術衣。そして、前もって法師に浴びせられていた黒い瘴気に慣れる為の呪い。それだけを以て清少納言は、守るべき人を守る瘴気の中で――対して、守るべきもの以外を害す毒の中で、中宮を支えることに決めたのだ。

 

「――中宮様。貴女様と御子様は、この私が守ります。私は最後まで――最期まで、貴女様の御傍に」

 

 そして、命懸けの出産が始まる。

 それは、長い、長い、とある人物の――最後で、最期の、戦いだった。

 

「はぁ……っ…………はぁ……ッ……はぁ……!」

 

 苦しむ中宮の手を握って、毒を浴びながら支える番人。

 

 どれだけそうしていただろう。

 だが、無論、それだけでは終わらない。

 

 長い出産が終わりに近づこうとしていた時――朦朧としていた清少納言の意識を覚醒させる音が響いた。

 

 ビリっ――と。

 何かが、裂ける音。

 

 黒い御簾が、引き裂かれている。

 外から突き出された短刀が、黒き瘴気に満たされた空間に穴を開ける。

 

 そして、外に逃げる黒い瘴気を浴びながら、一人の男が侵入してきた。

 中宮が出産している寝床――およそこの世で最も犯し難い空間に、土足で踏み込むことが出来る、ただ一人の男。

 

「――なるほど。随分と無茶をする。死ぬ気だったのか? 清少納言」

 

 鋭い眼光。撒き散らされる覇気。

 男は、薄い笑みすら浮かべながら、二人の女を見据えていた。

 

「……藤原……道長……ッ!」

 

 清少納言は咄嗟に中宮の盾になろうと立ち上がろうとしたが、強烈な目眩でふらついてしまう。

 道長は「よい。中宮様の介助を続けよ。ここまで戦い続けた中宮様の奮闘を無為にするつもりか?」と言いながら歩み寄る。

 

「ふざけるな……ッ。ならば、お前は何の為にここに来た!? そもそも、どうやってここまで――他の女房は……宰相の君は」

「落ち着け、清少納言。他の女房だが、悪いが眠ってもらっている。この結界の外にいる者達は、全てな。読経の声も聞こえぬだろう。そもそも、あんなものには何の意味もないが」

「ッ!? ど、道満殿は――」

「道満とやらは知らぬが、大方、結界の維持に専念しておるのではないか? 賢き男だ。私の歩みを止めるよりも、この結界が壊される方が致命的だと正しく判断出来たのであろう。見てみよ。私が短刀で開けた穴も、既に修復されているだろう?」

 

 道長の言葉に清少納言は彼の背後に目を向けるが――確かに、黒き御簾は再び閉鎖空間を創り出している。黒き瘴気は、再びこの空間に充満していた。

 

(……ならば、何故、この男は飄々としていられる? ――その白い衣か)

 

 恐らくは、清少納言が身に着けている黒衣と同じように、道長が身に纏っている白衣が――恐らくは安倍晴明お手製の――この黒き瘴気に対する耐性を発動しているのだろう。

 

 それでも、清少納言が苦しみ、藤原道長が飄々としているのは――蘆屋道満が作った黒衣と安倍晴明が作った白衣の差か、それとも清少納言と道長の元々の素養の差か。

 

 顔を苦渋に染める清少納言に、道長は「案ずるな。私は中宮様に直接的な害を加えに来たわけではない」と嘯く。

 

「戯けたことを! 今、ここは中宮様の御産の場! そこに男が無断で土足で立ち入ること! これ以上の無礼があるものか! そんな禁忌を犯す不届き者の悪意を疑うものかッ!」

「そなたには用はない。私が、用があるのは――ただ一人、この御方だけだ」

 

 再び歩みを進める道長を止めようと清少納言は飛び掛かる――が、道長はそれを振り払う。グイッと身体を持ち上げられるような浮遊感と共に、清少納言は黒き御簾に叩き付けられた。

 

(ッ! な、なに、この力ッ!? これも白衣の力なの――!?)

 

 肺の空気が吐き出されるような衝撃に立ち上がることの出来ない清少納言。

 そんな彼女を一瞥もせずに道長は中宮の手を握る。

 

「お久しぶりです。中宮様」

「――みち、なが……殿」

 

 苦しみに朦朧とする中宮。清少納言は「……ちゅう、ぐう……さまに――触れるなッ!」と、畳を這うようにしながら吠える。

 

「……まさか、貴女様がこれほどまでに呪いに打ち勝つとは。この道長、正直侮っておりました。貴女様のことを、私は誰よりも評価していたつもりでしたが――それすら、まさか過小評価であったとは」

「ふふ……そう。それは、私を甘く見たわね」

「ええ。この道長の眼、節穴でございました」

 

 まったく、貴女は恐ろしい御人だ――道長と、中宮の、その穏やかですらある会話に、清少納言は混乱しながらも「――そうよ。中宮様は、お前なんかよりずっとずっと強い。中宮様が皇子を生む直前になって焦って、こんなことをしても意味なんてない! 中宮様は負けないッ!」と、ゆっくりと立ち上がりながら吠える。

 

 道長は清少納言のそんな言葉を「ふっ――」と笑い、中宮の手を離して立ち上がり、清少納言と向き直る。

 

「清少納言。中宮の番人などと嘯いている割には、そなたは何も分かっていない」

「ッ!? な、何を――」

「もしやそなた、中宮様が皇子を産みそうだから、私がここにきて焦って呪いを掛け始めたと、そう思っているのか?」

 

 何を――何を言っている?

 清少納言は黒い瘴気が渦巻く空間で急激に喉が渇くのを感じる。

 

 目の前の男、藤原道長は――禍々しい野心家だ。

 平安京内の秘境に隠れ、粛々と『枕』をしたためていた時、黒き陰陽師――蘆屋道満に探らせ、清少納言は道長という男を知った。

 

 その内に飼う黒き野心を満たす為に、この男はあらゆる悪辣な手段を選ばずに実行した。

 中宮を政略的に孤立させ、伊周を排除する為に法皇や女院すらも利用し、京を未曽有の大混乱に陥れる流行病すらばら撒いて見せた。

 

 まさに悪魔の所業だ。

 魑魅魍魎と同一視される怪物達の陰謀渦巻く内裏においても、歴代に類を見ない化物。

 

 だが、そんな男でさえも。

 どれだけその周囲を破壊し、心を圧し折ろうとしたといえど――この国に住まう者にとって、内裏に生きる者にとって、天皇と、そして中宮は、神聖なる存在だ。

 

 犯しべからずな存在だ。

 だからこそ、そんな中宮を直接的に呪うなどいう蛮行は、いくら道長といえど、本当に追い込まれた末の最後の手段として、悪魔なりの葛藤を経ての行動だと――そう、信じていた。

 

 そう、信じていた。

 この期に及んで、清少納言は――藤原道長という怪物が、その黒き野心が、どれだけ禍々しいものなのか、その一端といえど、理解していた筈なのに。

 

「私が――中宮を呪ったのは、今宵のことではない」

 

 道長は言う。怪物は語る。

 黒き瘴気の中で、己が内に燃え盛る黒々しい野心を。

 

「中宮大夫として、中宮様の輝かしさをその目で見た時から。いつか、この私の前に立ちふさがるであろうと確信したその日から――私は、中宮様を呪い続けていた」

 

 人知れず、ひっそりと――けれど一分の容赦もなく。

 

 己が才覚を、覇気を内に抑え込んでいたあの日から。

 それでもいつか来るこの日の為に。

 

「おかしいと思わなかったのか? あれだけ一条帝に愛されていた中宮がどうしてずっと子に恵まれなかったのか。やっと恵まれた待望の第一子が皇女であったのが、只の偶然であったとでも?」

「で――でも、中宮様はこうして!」

「だからこそ、私はこうして敬服の言葉を御届けに参ったのだ。本当に、凄まじい御人だと」

 

 道長は再び膝を折った。

 中宮定子に――心からの敬意を示すように。

 

「番人だ、理解者だと嘯いていながら、お前は本当に何も知らなかったようだ。少しは警戒していたのだが、それも不要であったようだな。――お主は、本当に、何も知らない」

 

 道長の清少納言に対する声色がみるみる冷たくなっていく。

 清少納言は黒き瘴気に酸素すら奪われたかのように、喉の渇きに続いて息苦しさを覚えるように胸の辺りを掴んだ。

 

「お前は何も知らなかった。中宮様が私とどれだけ苛烈に戦っていたのか。お主たちが華やかな日常を無邪気に楽しんでいる裏側で、この御方がどれだけ、私達貴人の思惑の中で苦しんでおられたのか」

「――――っ」

「お前は何も知らない。お前は何も見ていない。見て見ぬふりを続け、気付かぬ振りを続けて――そして、全てを失う」

 

 お前に、中宮様の番人を名乗る資格などない――道長はそう吐き捨てた。

 それは覇者・藤原道長が、清少納言に見せた初めての本気の侮蔑だった。道長が、初めて清少納言にぶつける心からの敵意だった。

 

「………………っっっ!!!」

 

 清少納言はそれを真正面から向けられただけで、自分の心が折れるのを感じた。

 戦っているつもりでいた。負けないと思っていた。だが、それは、本当に只の一人相撲であったのだと痛感した。

 

(道長にとって、私は只の中宮様のおまけだった。道長は、そして中宮様は――ずっと、お互いだけを見て、ずっと熾烈に戦っていたんだ……)

 

 何も出来なかった。何もしなかった。何も知らなかった。

 

 ずっと、ずっと、いつまでも続くものだと思っていた。

 この華やかで、煌びやかで、美しい世界が――いつまでも終わらないのだと思っていた。

 

 だからずっと、見て見ぬ振りをして、気付かない振りを決め込んでいた。――その傍らで、誰よりも守らなくてはならない人が、誰よりも恐ろしい敵と戦い続けていたのに。

 

「――そんなことはないわ。可愛い、可愛い、私の番人様」

 

 途切れ途切れの、儚い呼吸音。

 けれど清少納言が聞き間違える筈がなかった。

 

 それは、この世で最も愛した御人の声だったのだから。

 

「……中……宮……さま」

「こっちへ……おいで」

 

 清少納言は、幼子が母を求めるように中宮に駆け寄る。

 道長は何も言わず、ただ一歩後ろに下がり、主従だけの場を作った。

 

「中宮様、私は何も……何も、貴女様の為に――」

「――清少納言。私、あなたに会えて、本当に嬉しかったの」

 

 中宮は清少納言に握られた手を、更に両手で包み込んで言う。

 

「私は、関白の娘に生まれて――中宮になった。お父様にとっても、お母様にとっても、私は娘である前に中宮になったわ。……私は、正直に言うと――どうしたらいいのか分からなくなった」

 

 それは、清少納言が初めて聞く、中宮の弱音。

 たった十四才で帝に嫁いで、中宮と――国の母となった女の本音。

 

「帝のことも、正直に言うと、初めは弟のようにしか思えなかったわ。でも、すごく優しくて、頭がよくて……小さな身体で、この国のことを本当に大事に思ってて……すぐに好きになった。すごく好きになった。だから、どうしたらいいか分からなかった私は――この人の為に生きようって、そう決めたの」

 

 誰よりも強く、誰よりも美しく在り続けた女性は、清少納言の手を弱弱しく握りながら、それでも――微笑む。

 

「ずっと私は、中宮として、帝の后として、新たな帝の母として生きていくんだって思ったの。それは望んだことだし、望まれたこと。でも――あなたが現れた」

 

 清少納言は、強く強く握る。

 情けない涙を流しながら、十以上も年下の女性に――けれど、自分よりも遥かに強く、遥かに美しい女の手を。

 

「あなたといる時は、私は只の定子でいられたの。同じ考え方を共有して、同じものに価値を見出して――私という人生を認めてもらえた気がして」

 

 定子は、握る。そして、伝える。

 この世でたった一人の同志に――あなたに出会えて、本当によかったと。

 

「あなたは私を守ってくれていたわ。可愛い、可愛い、私の番人。だから――そんな顔をしないで」

 

 覇者の呪いを受け続けた体で、陰陽頭の呪いと戦い続けた体で、滝のような汗を流しながら――清少納言の涙を拭う。

 

 そんな中宮の優しさに、清少納言は涙を止めることが出来なかった。

 

「脩子の時は見てもらえなかったから、この子の時は、一番にあなたに抱きかかえてもらいたいの。だから――しゃんと、しなさい」

 

 清少納言は、中宮の手を両手で強く握り締めた。

 そして、残りの涙を自分で荒々しく拭うと――中宮定子に、改めて告げる。

 

「私こそ――貴女様という華に出会えて……あなたを愛せて、幸せでした」

 

 余りにも胸の中に、莫大なる感情が荒れ狂って、言葉に出来ない。

 

 これこそが――藤原定子の愛。

 ずっと一条天皇にだけ捧げられ続けた、今、この時、ほんの少しだけ分けていただけた、中宮の愛。

 

 なんと偉大な御方なのだろう。なんと尊き――女性なのだろう。

 これほどの愛――打ち破れない呪いなどある筈がない。味方しない運命などある筈がない。

 

 起こせない奇跡など、あるわけがない。

 

「よいのか? 清少納言。中宮様は、これまでずっと私が送った呪いと戦い続けてきた。そしてそれは、中宮様が帝の子を孕めば、そしてそれを産もうとすれば、更にそれが皇子であれば――その強さが桁違いに増していく、そういう呪いだ。中宮様はこれまで何度もそれを覆してこれられたが、着実にそれは中宮様の身体を蝕んでいる。これまでの負荷が溜まりきったその身体で、尚もこのまま皇子を産めば――どうなるか、分からない筈がないだろう?」

 

 道長の言葉に、清少納言の中宮の手を握る力が増す。

 

 それは分かっている。

 中宮の身体を濡らす滝のような汗。悪化する顔色。それを見て悟らない清少納言ではない。

 

 だが、それ以上に――その顔を、その表情を、その目を、そしてこちらを握り返す手で、悟らない、清少納言ではない。

 

 故に――番人は。

 道長の眼を、真っ直ぐに睨み返し――荒れ狂う感情に蓋をして、その言葉を喉から引っ張り出す。

 

 言う――言うのだ。

 

 自分は、中宮を守り――中宮の願いを叶える、番人なのだから。

 

 中宮様の番人に――今宵こそは、ならなくてはならないのだから。

 

「それでも――中宮様が、それを望むなら」

 

 戦う、戦うのだ。

 

 今度こそ――最後まで――最後こそ。

 

「それが――中宮様の、御意志ならば……ッ」

 

 これまでずっと目を背け、見て見ぬ振りをしてきた、気付かない振りをしてきた――終わりと向き合え。

 

 例えこれが、最後の戦いなのだとしても。

 勝っても、負けても、待っているのが終わりだとしても――それでも。

 

 それでも――中宮様が、愛する人が、それを望むのならば。

 

「……そうか。ならば、私も黙ってみているわけにはいくまい」

 

 藤原道長は、その白き衣の中に手を伸ばしながら、主従に向かって歩き出す。 

 

「中宮様に害は加えないのでは?」

「だからこそよ。私は中宮様を見誤っていた。容赦はしないと、そう誓った筈であったのだがな。この局面で情けを加えるなど、この方に対する一番の侮辱であった」

 

 道長の鋭い眼差しは、中宮から――清少納言へと向けられる。

 ここに来て、遂に清少納言に対し、道長が敵にだけ向ける瞳を向けた。

 

「――――」

 

 清少納言は恐怖で悲鳴が上がりそうなのを堪える。

 こんな恐怖を、こんな敵意と。

 

 中宮定子は、ずっと戦い続けてきたのか。

 

「こうして目の前に、私が出来る抵抗が、私が取り得る手段が存在しているのだ。勝つ為の最善手を打つことこそが、私が中宮様に差し上げられる最大の敬意というものだ」

 

 道長の、射貫くような鋭い眼。

 それは清少納言の持つ――黒き術符に向けられていた。

 

 気付いている。道長は、この術符こそが『黒き御簾』の核だと。これを砕けば結界は解除され、中宮を呪いから守る術がなくなる。

 

 そうなれば、抑えられていた呪いが中宮を更に強く苛み――既に限界に近い中宮の意識を奪うだろう。

 皇子が生まれることはない――それどころか、中宮の命も危うい。

 

 させない。させるわけにはいかない。

 例え――私の命に代えても。

 

「そこまでだ、道長」

 

 清少納言が覚悟を決めて、その黒き術符を呑み込もうとした。

 藤原道長がそれをさせまいと、懐から何かを取り出そうとした――その瞬間。

 

 黒き御簾の中に――白き王が現れた。

 

 道長と同様の白い術衣を纏った男が――額に満月模様の赤目の白兎を抱きかかえながら登場した。

 

 一条天皇――中宮定子の夫にして、この国を統べる王と呼べる男が、黒き瘴気の中に参上していた。

 

「み、帝様!?」

 

 清少納言が瞠目する。

 先日の彰子以上に――ここにいる筈がない存在。

 

 ここは内裏ではない。ここは宮中ではない。ここは――修羅場だ。

 

 黒き瘴気が充満する危険地帯に、この国で最も安全な場所にいるべき男が立っていた。

 

「何故、帝がここに?」

 

 懐に手を入れたままの道長が問い掛ける。

 そんな、普段は絶対にしないであろう無礼な振る舞いの道長に、一条帝は笑みすら浮かべながら言う。

 

「彰子に、ここに行けと、そう言われてな」

「え? 彰子様が?」

 

 清少納言はもう意味が分からないといった様相だ。

 彰子は道長の娘だ。そんな彰子が、道長の計画を全て台無しにするような、こんな奇想天外な一手を打ったというのか。

 

 思わず道長の方を見ると、道長は――苦笑とも、苦渋ともとれるような、何とも難しい表情を浮かべている。

 

 それは正しく、娘の我が儘に振り回される、父親の表情であった。

 

「――ふっ、アヤツめ」

 

 道長は清少納言に向かって言う。

 奔放な娘のことを愚痴るように――あるいは、子の成長を、惚気るように。

 

「あの娘はじゃじゃ馬でな。誰に似たのだか、自分がやりたいことしかしない」

 

 そして、道長は、その目を清少納言から定子へと向けて言う。

 

「アイツは俺の娘だからな。きっと、中宮様のことが――好きになってしまったのだろうよ」

 

 清少納言は先日の、とある望月の夜を思い出す。

 定子と彰子、二人のプリンセスが二人きりの時間を過ごした、あの夜。

 

 今、思えば、あの夜に――全ての決着はついていたのか。

 

「中宮様の出産が間近である夜に、帝が彰子の殿を訪れる筈もない。恐らくは彰子が帝の寝床を訪れたのでしょう。女御とはいえ有り得えない行いだ。誠に申し訳ない」

「ふっ。やはり、主の娘であるなぁ、彰子は。誰も思いつかぬようなことを、至極冷静にやってのける。その通りだ。朕の寝床に唐突にやってきたと思えば、この兎を渡して、あやつは朕にこう言ったのだ」

 

――中宮様の所へ行ってあげてください。きっと、お父様がよからぬことを企んでいると思いますから。

 

 彰子が女御となってからこれまで、道長の顔を立てる意味でも何度か一条帝と彰子が顔を合わせることはあった。

 しかし、彰子は一条帝と進んで親密な関係を築こうとせず、倫子や道長が頭を痛めたものだったが。

 

(ここに来て、まさかこんなとんでもない行動に出るとは)

 

 やはり、我が一族は女が強い――そう、道長が天を仰いでいると。

 

「彰子はこうも言っておったぞ。『お父様の我が儘を聞いてあげたんだから、娘の最後の我が儘も聞いて下さい』とな」

「……はは。言いよるわ」

 

 父の長年の計画をぶち壊した挙句、帝の女御となれたことを父の我が儘と称し――尚且つ、それでいて。

 

 娘の最後の我が儘と――これから、父と娘ではなくなることを、父の計画が決定的には崩れないことを示唆しながら。

 

 まるで、お父様ならそこからでも巻き返せるでしょと、そう言っているかのようで。

 

((まこと)に――敵わぬわ)

 

 娘に己が計画を滅茶苦茶にされながらも、不思議と自身の心が晴れやかなことに――道長は笑う。

 

 そんな道長に、中宮の元へと歩み寄りながら、一条帝は言った。

 

「どうする、道長。抜いてみるか、その懐に忍ばせているものを。それで、中宮諸共――朕を、撃ち抜いてみせるか?」

 

 愛する女を抱き締めるように支えながら、黒い瘴気を吹き飛ばすかのように、王としての覇気を密室に放つ天皇。

 

 夫としてではなく、父としてでもなく――初めて見る、王としての一条帝に、清少納言が絶句する中。

 

 道長は、まるで白旗を挙げるように、空っぽの手を懐から取り出した。

 

 一条帝はそれで全てを許すとばかりに笑みを浮かべると――表情を引き締めて、中宮に向けて言う。

 

「――遅くなってすまぬ。よくぞ耐えた。……朕の皇子()を、生んでくれるか?」

 

 中宮の手を握り締めながら、そう囁いた一条帝に――中宮定子は、この世で最も強く、美しい笑顔で言う。

 

「……当たり前です。私は、その為に、生まれてきたのですもの」

 

 

 

 

 

 それからは、本当に尊い時が過ぎた。

 

 清少納言は額に汗を流しながら、中宮の出産を介助した。

 一条帝は常に定子の手を握り続け、戦う定子を励まし続けた。

 

 いつの間にか『黒い御簾』は消えていた。

 だが、中宮の呪いの症状は悪化することはなかった――まるで、全ての呪いを、完全に、愛の力で打ち破ったかのように。

 

 

 そして、夜が明ける頃――屋敷に大きな、産声が響いた。

 

 

 男の子――皇子です! と、清少納言の感涙が混じった声が聞こえた。

 

 それを、扉を隔てた別室で聞き届けた道長は、朝陽を浴びながら、すっきりと言う。

 

 

「――見事。私の完敗だ」

 

 

 定子に呪いを掛け続けていた証である術符が崩れ落ちるのを見ながら、道長は讃える。

 

 中宮の身体は既に限界だ。

 呪いを完全に打ち破ったとはいえ、長くは生きられない。恐らくは一年も持たないだろう。

 

 だが、定子が道長に勝利したのは紛れもない事実。

 それに敬意を表し、残り僅かな余命、道長は定子の余生を尊重することを誓う。

 

「しかし――私はまだ、諦めるつもりはない」

 

 歓喜と幸福に満ちた光景に背中を向け、道長は歩き出す。

 

 こうして、長い長い夜は明けた。

 

 一人の女性の、長き長き戦いは終わった――紛れもない勝利で、その幕を閉じた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 定子、皇子出産。

 

 その報が駆け巡った途端、宮中は一時期大きく揺れたが、道長はそれを力づくで押さえつけたらしい。

 中々の荒れようで、完全に支配した筈の宮中の再統治にそれなりに尽力せざるを得なくなったそうだが、それらは全て後から聞いた話だった。

 

 清少納言にとっては、それは最早どうでもいいことだった。

 

 彼女達にとって最も重要なのは――中宮定子の残された日々を、どのように過ごすかということなのだから。

 

 皇子を産んだ定子は、これまでどこか美しくも張り詰めていた雰囲気を一変させた。

 彼女はとてもよく笑うようになった。柔らかく、包み込むようなその美しさは、正しく――母の美しさだった。

 

 皇子を産む。その使命を果たしたことで、これまでずっと抱えていた責務から解放された定子は、本当に美しく――今にも消えてしまいそうな儚さを放っていた。

 

 あの場にいなかった――清少納言の他の女房達も、何も言われずとも理解していた。

 

 中宮定子は、間もなく死ぬ。

 誰もがそれを理解しながらも、涙を堪えて、何も言うことは出来なかった。

 

 一条天皇は、中宮定子の元に通い詰めた。

 敦康と名付けられた待望の皇子に会う為か、姉となった脩子を愛でる為か――理由など何でもよかった。ただ、愛する人に、愛する家族に会いたかったのだ。

 

 それはまるで、清少納言が憧れた、かつての温かい光景だった。

 道隆がいて、貴子がいて、伊周がいて、隆家がいて――そして、定子がいて。

 

 栄華を極めた輝ける家族の光景。

 あの時と違い、誰もが間もなく失われる光景だと気付いてはいたが。

 

 しかし、だからこそ――定子はただの母として、妻として、その温かさを享受し。

 一条帝も、ただここにいる間だけは、全てを忘れて父として、夫としての時間を過ごした。

 

 そして、敦康皇子を産んだ、その数か月後――再び定子は妊娠した。

 

 まるで定子に、中宮としての、最後の仕事をせよと、そう運命が告げるように。

 

 

 

 そして、中宮定子が残された僅かな時間を過ごしている間、道長は定子に何の手出しもしなかった。

 

「我が一世一代の呪を打ち破られた時点で、私は中宮様に完膚なきまでに敗北を喫した。今更、恥を上塗りするようなことは、厚顔無恥な私とて出来まいよ」

 

 だが、勝利を諦めたわけではないという言葉通り、道長が何の動きもみせなかったわけではない。

 

 今更ながらだが、定子は出家している。

 そして、余命幾ばくも無い身の上であることは、一条帝が誰よりも承知のことだろう。

 

 道長はそこを突いた。

 中宮とは何も帝の子を産むことだけが仕事ではない。

 

 帝の后として様々な神事に出席し勤めを果たさなくてはならない――が、仏道に出家した身である定子はそれを満足にこなすことが出来なかった。

 

 故に、定子を中宮から皇后とし――空いた中宮の席に彰子を据えるという提案をしたのだ。

 

 平安貴族得意の詭弁である。そもそも、中宮と皇后は同義であったが、それを敢えて区別し、いわば二人の中宮を誕生させようというのだ。

 

 しかし、前例がないわけではない。

 他でもない定子が立后したときのことだ。

 

 定子が立后した当時、「三后」――太皇太后は三代前の帝の正妻・晶子内親王が存命であり、皇太后は一条帝の母堂・詮子が、中宮は先々代の帝の正妻・遵子がいた。

 これらが退位しなくては、例え現帝・一条帝の正妻であろうと、中宮は名乗れない筈だった。

 

 だが、しかし、定子の父・道隆は当時絶頂であった権力にものをいわせ、皇后と同義であった「中宮」を別職であると強引に定義し、定子を「中宮」として立后させたのだ。

 

 つまり、皇后と中宮を別義とするのは、皮肉にも定子自身が前例となっているのである。

 

 それを知らないわけではない一条帝は、道長の提案を否とすることが出来なかった。

 

 こうして、道長の権力の絶頂を示す有名なエピソードである「一帝二后」が実現されるのである。

 

 しかし、ここに一つの疑問が残る。

 この一帝二后は少なからず強引な手口であり、当時の道隆と同様に宮中に権力の私物化であると波紋を呼んだのだ。

 彼等にとっては、定子が皇子を産んだが為に焦った道長の無理矢理な一手だと映ったかもしれないが――道長は、定子は幾ばくも無い命だと知っている。

 

 つまり、黙っていても、中宮の座が空くことは知っていた筈なのである。

 にも関わらず、宮廷貴族の反感を買ってまで、定子存命中に彰子を中宮としたのは何故なのか。

 

「道長様は――定子様を中宮から解放してあげたかったのではないか。そう、一条帝は申されていた」

 

 藤原行成は、褥の中で清少納言にそう言った。

 清少納言は行成の方を見ずに、裸の背中でそれを聞いた。

 

 一条帝は道長の一帝二后の提案を聞いた時、それでも深く迷ったという。

 定子に神事の供は務まらない、だからこそ中宮の責務を果たせないというのは理屈は通っている。それに、一条帝としても道長に敵対するつもりはないし、定子亡き後に彰子が中宮となるのも反対するつもりはない。

 

 だが、一条帝は定子がどれだけ、それこそ命懸けで中宮として相応しく生きようとしていたのかを知っていた。だからこそ、死の間際にいる定子から中宮まで取り上げて良いものか、大いに悩み込んだのだ。

 

 そして――。

 

「――だからこそ、あなたはその背中を押したのでしょう。行成様」

 

 行成は、背中を向けて言った清少納言の言葉に答えなかった。

 

 真面目だけが取り柄のこの若者は、かつての道長の言葉通り、宮中の策謀の渦の中、ただ愚直に、蔵人頭の職務を全力で遂行し続けた。

 

 その実直な働きぶりは、同じく真面目で愚直な一条帝の莫大な信頼を勝ち取るに至り――いつしか、一条帝にとっては誰よりも信頼する右腕となっていた。

 

「女は愛する者の為に化粧をし、男は信ずる者の為に死ぬ――でしたか。行成様らしい御言葉です」

 

 だからこそ、行成は一条帝の背中を押した。

 清少納言はこの行成という男が道長派閥の人間だと気付いている。だが、それでも、こうして夜を交わしているのは――知っているからだ。

 

 この男が、道長か一条帝か選べと言われたら、一条帝を選ぶ男であるということを。

 道長でもなく、定子でもなく、清少納言でもなく、一条天皇にのみ命を捧げる人間であるということを。

 

(だからこそ、行成様の御言葉は一条帝の背を押すに至った。……それも、道長は読んでいたのだろうけれど)

 

 きっと、そこまで読んで、藤原行成という男を蔵人頭に任命した。

 誰よりも嘘を上手く吐ける男ではなく、誰よりも嘘が下手な男を送り込んで、偽りの言葉ではなく、真実(まこと)の忠誠で以て、己が望む未来へと誘導した。

 

「私を、恨んでおいでですか?」

「――いえ。恨んでいたら、こうして貴方様の腕の中で寝てなどいません」

 

 清少納言はくるりと布団の中で身を回し、行成の裸の胸に顔を寄せる。

 

 愛する人の、ただ一人として最大限に愛されたい――そう「一乗の法」を唱え続け、どんな貴公子と夜を共にすることもなかった清少納言は、たった一度だけ、藤原行成とだけは枕を交わした。

 

 それは互いに似た者同士だったからかもしれない。

 歌人として高名な父を持ち、だからこそ歌が好きで、だからこそ自分に才がないことに気付いていて――自分に自信がなくて、自分が嫌いで。

 

 だからこそ、信じられる確かな「(いち)」が欲しくて、自分ではなく、その為に生きたくて――死にたくて。

 

 それが、自分にとっては中宮定子であり、行成にとっては一条天皇なのだ。

 

 中宮と帝――何かが違えば、自分達はきっと、誰よりも近くて頼もしい味方であった筈なのに。

 

「……中宮様の御心が分かるなどという傲慢は、もう私には宣うことは出来ません。もしかしたら道長様の言うように、残された僅かな時間を中宮ではなく只の定子様として過ごしたいのかもしれない。帝の言うように、自分がその御命を燃やして務め上げ続けてきた中宮として、最期までそう在りたかったのかもしれない」

「…………」

「……でも、確かに一つ言えることは――私にとっては、いつまでもあの御方は中宮様であるということ」

 

 だから私は、最期まで――最期くらいは、中宮様の番人でありたい。

 そう言って清少納言は起き上がる。それは、既に美しいとはいえない年を取った女の裸体。だが行成は、その在り方はどこまでも真っすぐで、美しい女性に見えた。

 

「……もう、間もなくですね」

「――ええ」

 

 御簾を開ければ――いつかのように、綺麗な雪が見えるのだろうか。

 狭くみすぼらしいこの屋敷では、あの輝ける、この世のものとは思えない、浄土のような光景は広がっていないのかもしれないけれど。

 

 それでも――私は。

 

「――中宮様。私は、どこでも、いつまでも、貴女様の御傍に」

 

 

 

 雪が溶け、花が咲く頃。

 一条帝は皇后定子を内裏へと招いた。

 

 それはまさに定子の腹も大きくなり、三度目の出産を間近に控えた頃。

 巷では花山帝がかつて溺愛した女御を愛し殺した時のようだと噂されたが、一条帝はただ定子の傍に寄り添い、庭園の美しい花を眺め続けた。

 

 庭では脩子が赤ん坊の敦康と共に楽しそうにはしゃいでいて、それを一条帝と定子は微笑ましく眺めている。

 

 清少納言ら女房達は、そんな二人を邪魔せずに、呼ばれた時だけ傍に寄って、後はその家族団欒の時間を、ただただ尊いもののように慈しんだ。

 

 定子はこの一年間でみるみる痩せ細っていった。

 けれどその美しさに陰りはなく、むしろ、儚い人間とはこれほどまでに美しいのかと、一種の神々しさを感じるほどだった。

 

 中でも、この内裏に滞在した二十日間は、体調の方もすこぶるよく――まるで、蝋燭の最後の灯火のような、そんな輝きを放っていた時間だった。

 

 女房達は、彼等に見えない所で代わる代わる泣いた。

 誰もが迫りくる終わりの時を察し、悲しみを堪え切れなかった。

 

 清少納言も涙を浮かべた。

 けれど、それを振り払い、今度こそはと――しっかりその目に焼き付けた。

 

 見て見ぬふりなど、もうしない。

 受け止め、見据えて――焼き付けるのだ。

 

 もう二度と見ることは出来ないであろう、この眩い光景を。

 

 自分が出逢うことが出来た、この世の何よりも美しい――華の輝きを。

 

 

 

 そして、中宮――皇后、藤原定子は。

 

 産まれた第三子である皇女・媄子(びし)の、それはもう元気な産声を聞くと共に。

 

 満足げな、安心しきった微笑みを浮かべたまま――静かに息を引き取った。

 

 懸命に生き、その命を燃やし尽くした亡骸は、驚くほど軽かった。

 

 女房達の悲鳴のような泣き声は夜が明けるまで止むことはなく。

 

 清少納言はその全てが耳に届かなかった。

 世界から音が消え、色が消えて――そして――そして。

 

 そして――。

 

「――――――っっっっ!!!!」

 

 

 藤原定子(ふじわらのていし)

 

 夜もすがら 契りしことを 忘れずや 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

 

 貴族の大人達の策謀の渦の真中に放り込まれながらも、常に真っ直ぐに、まるで揺るがずに――ただ一人への愛に生きた彼女は。

 

 華やかに、輝かしく――何よりも美しく、壮絶に散った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 藤原定子の葬儀が行われた後――清少納言は平安京を去った。

 

 表向きの理由は、再婚した三人目の夫・藤原棟世について地方に行くというものだった。

 

 引き留める者は誰もいなかった。

 それぞれバラバラの貴人の元へ再就職することになった、あるいは実家に戻ることになった女房の同僚達はもとより、一時の恋人となった行成や、深い関係を築いた斉信や、最初の夫・則光ら、清少納言とそれなりの関係を築いた者達は、皆、理解していたからだ。

 

 清少納言にとって、中宮定子の代わりなど存在しない。

 仕えるべき華が散った平安京に、彼女が留まる理由など存在しないのだと。

 

 そういった意味では、棟世という新たな伴侶は彼等にとっては理解できるものだったのかもしれない。

 父の友人として、一時、兄達からも再婚相手として勧められていた棟世は、良くも悪くも中立の立場を貫く男だった。

 

 出世意欲というものが薄く、いつも優しく微笑む男だった。それ故に宮中の出世コースから外れて地方へ配属となってしまったが、平安京を離れたかった清少納言にとっては都合がよかったのだろう。共にもう子を欲しがるような年齢でも家柄でもない。親子程に年の離れた夫婦となったが、穏やかな余生を過ごすという意味では相応しい相手かもしれない。

 

 そう、誰もが思っていた。

 清少納言はもう歴史の表舞台に上がることはない――あの『枕』と共に、中宮との思い出を抱えながら生きて、死んでいくのだと。

 

 だが――――それは。

 

「……ここでよいかな」

「――ええ。私の我が儘を聞いて下さり、ありがとうございます」

 

 平安京を出て、都が遠く見えなくなった頃、清少納言は牛車を降りた。

 僅かな荷物と数えるほどの家人だけを連れて、彼女は山の中へと続く道へ向き直る。

 

「……棟世様には、いくら感謝申し上げても足りません。私のような女を娶ったという触れ込みが、これからさぞ貴方様の人生の枷となるでしょう」

「なに、儂はもう老い先短い身の上だ。その上で、このように可愛い娘が出来たと考えれば、この上ない幸いというもの。……そう。主の娘は、儂の娘ともなったのだ。やれることの少なくなった爺だが、この子の幸せは必ずや――約束しよう」

 

 牛車の中から、清少納言の娘が顔を出す。

 あの頃に生まれ、清少納言の支えとなり続けた可愛い娘は、既に自分の足で立って――道を選ぶことの出来る歳になっていた。

 

「お母様! やっぱり、私も一緒に――」

「なりません。これは私が、選んだ道なのです」

 

 清少納言は予感していた。これが、娘との今生の別れになるだろうと。

 これが、娘に贈ることの出来る最後の言葉であると。

 

 母であることよりも――番人であることを選んだ。

 家族よりも――野望を果たすことを選択した、罪深い女として、彼女に残すことが出来るものとは。

 

「…………」

 

 清少納言は葛藤の末――かつて、自分が父に刻まれた、生涯の呪いを、彼女にも施すことにした。

 

「華を――探しなさい。自分の全てを捧げるに相応しい、あなただけの華を。……それは、あなたの人生を苦しいものにするかもしれない。でも、それでも、出会ってよかったと、そんな風に思える華と出逢えたならば。それはきっと、あなたを――幸福にするから」

 

 清少納言はそんな言葉を残して、娘を棟世に預け――深い山の奥へと入っていった。

 

 彼女に付き従う家人は、その全てが世を捨てる覚悟を持った女官だった。

 

 だが、それから一年が経ち、二年が経って――いつまでも終わらない過酷な旅に、その家人の数も一人、また一人と減っていった。

 

 清少納言は彼女達に何も語らなかった。

 この旅はいつまで続くのか、一体、何を目的としたものなのか。

 

 やがてとある山中の小屋に留まるようになると、清少納言はずっと、ひたすらに紙に何かを綴るようになった。

 

 自分を清少納言と呼ぶことを、あの時から許さなくなった彼女は――只の清原諾子(きよはらのなぎこ)として、滔々と、ある一念だけを込めて、『枕』を綴り続けた。

 

 

 この世で最も大切なものを、白く美しいものを――黒く、黒く、穢しながら。

 




・用語解説コーナー⑯

 一条天皇(いちじょうてんのう)

 本当は定子のことを書こうかとも思ったのですが、彼女のことは本編で存分に書き切ったので、ここは本編であまり描写しきることができなかった、かの王について語ろうと思います。

 円融天皇と藤原詮子の間に生まれる。
 己の血を受け継いだかの皇太子を即位させるため、謀略を巡らせた藤原兼家により退位させられた前帝・花山天皇の後を継ぐ形で、僅か七歳で即位させられた。

 その後、兼家の基盤を継いだ道隆の娘である定子を中宮へと迎えると、兼家、道隆、道兼、伊周、道長といった藤原北家の宮中支配権をかけた一族内の争いの渦中に置かれることになる。

 彼の時代はまさしく藤原全盛期の始まりであり――それはつまり、終わりの始まりでもあった。
 定子の女房であった清少納言はもちろん、彰子の女房となる紫式部も彼の時代であり、女性作家による平安文学の最盛期でもあった。

 彼自身もまた物語を愛し、詩文や笛などの音楽にも秀でた、温和な人柄と優秀な能力でもって、誰しも愛さずにはいられなかった賢帝である。

 中宮定子とは、お互いに子供といえるほどの年齢で夫婦となりながらも、激動の時代をともに手を取り支えあい、深い愛で結ばれていた。

 定子亡き後は病に侵され、譲位の意向を道長へと伝えるが、道長はそうなった場合の天皇を継ぐ東宮・居貞(後の三条天皇)と自身の折り合いが悪かったこと、一条天皇と彰子の子・敦成(あつひら)(後の後一条天皇)がまだ即位できる年齢であったことから慰留を続けていたが、やがて病状が悪化し三条天皇へと譲位し、出家。その数日後に崩御した。

 享年わずか27歳。
 24歳でこの世を去った定子の後を追うように、愛された賢帝は早逝し――そして。

 彼の死後、即位した三条天皇と、そして最後の道長対抗勢力である藤原実資との死闘を経て――道長の野望は王手に達し。

 そして――黒い炎は、その隆盛を迎えることになる。


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妖怪星人編――⑰ 黒い炎

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば


 

 どれだけ『枕』を書き続けただろう。

 

 あの日――唯一無二の華を失い、魂も手放した抜け殻のようになっていた私に、その黒きの陰陽師は言った。

 

『貴女様には――才がございます。貴女様が己の全てを注ぎ込んで生み出したその『枕』は、このまま丹精に念を込め続ければ、いずれは立派な『触媒』とになりましょうや。その為の手筈は拙僧が整えます故――まだ、諦める必要はございませぬ』

 

 諦める? ――何を?

 

 私は、何を――諦めてなくてよいというの?

 

 全てを失った、この私に、一体、何をしろというのよ。

 

『果たさなくてよろしいので? ――その宿願を。貴女様の中で、轟々と燃え続けている、その願望を』

 

 宿願――願望。

 

 私の、願い。私の、望み。

 

 中宮様を失った私の――中で、轟々と燃えるもの。

 

 それは――。

 

『―――――――――憎い』

 

 憎い――憎い。

 憎い、憎い、憎い、憎い、憎い――憎いッ!

 

 そうだ――私は、憎い。

 憎くて憎くて憎くて憎くてしょうがない。

 

 消えない。そうだ、私は憎い。

 私の中で、まだ燃えている。その憎悪は、今も黒く、轟々と燃え続けている。

 

『そうでしょう――そうでしょうとも。ならば綴るのです。あなたの『枕』を。白く美しいそれではない、貴女様の中の黒き憎悪を存分に込めた――黒き『枕』を。そうすれば――貴女様の、その燃え盛るような願望が叶う時が必ず来ると、そうお約束いたしましょう』

 

 この――()()()()がッ!!

 

 そう言い残して以来、全く姿を現さなくなった陰陽師の言葉が、いつまでも耳から消えずに残り続けている。

 

 

 私は――粛々と『枕』を綴り続けた。

 

 夫を捨て、娘を置いて、誰にも見つかることのない山の中にあった小屋を住処にして、いつまでも『枕』を綴り続けた。

 

 気が付けば、私に付いてきてくれた家人は一人だけになっていた。

 

 けれど私は、そんな彼女にお礼を言うこともなく、ただ『枕』だけを綴る日々を送る。

 

 あれだけ美しかった、中宮様との幸せな日々を綴っていた『枕』は――いつしか黒く汚れていた。

 

 中宮様が私に、しあわせになる為に使ってと贈ってくださった、この国でも最上級の白く美しい紙は――私が吐き出した黒き憎悪で真っ黒に穢れていた。

 

 ああ――ごめんなさい。ごめんなさい、中宮様。

 本来ならば、きっとこの『枕』が、いつまでも後世に、中宮様の美しさを残し続けた筈なのに。

 

 私はそれを、ただただ醜い、黒き願望を叶える為に穢し続けている。

 

『――憎い――憎い』

 

 だけど――消えない。

 この黒い激情が消えてくれない。

 

 憎くて憎くて憎くて憎くてたまらない。

 

 中宮様が亡くなったのに、今ものうのうと息をしている肺が、鼓動を続けている心臓が――憎くて憎くて堪らない。

 

『――死ね――死ね――殺してやる――殺してやるッッ!!』

 

 だから私は今日も『枕』を綴る。

 

 黒き陰陽師の何の信用も置けない予言だけを頼りに、黒い『枕』を綴り続ける。

 

 全てはこの黒い願望を叶える為。

 憎くて憎くて憎くて堪らない命を、最も相応しい形で殺す為に。

 

 為に――為に?

 

 

――それは、お前の心からの願いか? 清少納言よ。

 

 

 誰だ。私の夢に――土足で踏み込んでいるのは。

 

 ここは私の夢だ。ここは私の――中宮様との、思い出の世界だ。

 

 

――大変美しく、興味深い物語であった。だが、些かばかり長過ぎる。もう、夜が明けてしまうぞ。

 

 

 ……………やめろ。

 

 やめろ、やめろ、やめろ。

 

 やめて、やめて、やめて、やめて。

 

 

 お願いだから、私の――夢を、覚まさないで。

 

 

「美人の女の願いは出来る限り叶えてやりたいがのぉ――それ以上に、その涙は見ていられんわい」

 

 

 悪いが、力尽くで――その涙、拭かせてもらうとしよう。

 

 そんな気障な言葉と共に。

 

 黒き御簾が、ドスの白刃で切り裂かれる。

 

 

 一人の女の夢の世界が壊され――強引に瞼は開かれる。

 

 長い、長い、夢から覚める時間。

 

 悪夢が終わる、時が来た。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黒き(ゆめ)が――砕け散る。

 

 それは夢であり、(ゆめ)であり、過去(ゆめ)であり――願望(ゆめ)であった。

 

 一人の女が願い続け、逃げ続けて、彷徨い続けた、悪夢であり理想郷――この世ならざる完成された世界。

 

 浄土のような、別世界。

 

 長い、長い物語の終わりに――紫式部は、呆然と呟く。

 

「……何が、あったの?」

 

 藤原道長が放った弾丸は、自称死人の正体を露わにした――清少納言。

 

 紫式部にとっての憧憬であり、嫉妬の対象であった伝説の女房。

 正体を暴かれた彼女は――懐から黒き本を取り出し、そこに黒き術符を叩き付けた。

 

 すると、大悪霊・定子がこの世のものとは思えぬ叫びを上げ、黒き結界がこの部屋を包んだ。

 安倍晴明が道長達を守る為に張っていた結界を、まるで上書きするように急速に広がったそれが、この部屋を包み込んだ――その直後。

 

 ()()()――()()()()

 

 広がったのは、繰り広げられたのは、眩く華やかな絵巻のような光景だった。

 明るく、温かい世界が――黒き野心によって燃やされ、暗く冷たくなっていく物語。

 

(……あれは、清少納言様の記憶……? それとも、本当にあった過去――過去の世界?)

 

 それが誰かの記憶だったのか。それとも実際に存在した過去の世界を漂流していたのか。

 何年間もの時間が過ぎていたのか、それとも一瞬の内に過ぎ去った幻だったのか。

 

 紫式部はそれすらも確証を持てない。凄まじい早さで駆け巡ったような気もするし、同じだけの長い年月をずっと眺めていたような気もする。

 

 そう、見ていた。見させられていた。

 一人の女の人生を。とある一人の女が、耀く華に出会い、運命を変えられた壮大な物語を。

 

(……あれが、清少納言様の物語。……あれが、伝説の中宮様……藤原定子様の、壮絶なる人生)

 

 紫式部が絶句する中、世界は砕け散る。

 まるで映画の上映を終えたかのように、黒い暗幕のように何も映さなくなった結界が、ドスの白刃によって切り裂かれた箇所を境界に――現実世界を取り戻す。

 

 だが、取り戻した先の現実は――舞い戻った筈の現実も、紫式部が知っている世界ではなかった。

 

 

 土御門邸は――()()()()()()

 黒き野心で平安京を呑み込み続けた男の屋敷は、黒い炎によって物理的に燃え盛っていた。

 

 

「――ッ!!」

「な、なんだこれは――ッ!?」

 

 紫式部だけではない。

 藤原公任も、藤原行成も混乱している。

 

 黒き炎は既に周囲を取り囲んでいる。

 紫式部達は勿論のこと、狼狽えることなく屹立する道長や倫子、苦しむ定子の悪霊や膝を着いて項垂れる清少納言自身も――既に逃げ場のない炎の中だった。

 

 そんな中、黒き炎の中を、まるで暖簾でも潜るかのような気安さで、一人の男がその純白の直衣(のうし)に焦げ痕一つ作ることなく現れる。

 

「――これが、大悪霊・藤原定子様の権能である『黒き炎』。定めた対象を黒く燃やし尽くす穢れた業火。清少納言様が、長年の怨念を込めて定子様に授けた――悍ましき呪いですよ」

 

 平安最強の陰陽師・安倍晴明は静かに告げる。

 彼の登場に公任達は「晴明!」と目を見開いたが、道長は静かに目だけを合わせて「――来たか」と問い掛ける。

 

「お前が来たということは、外は片付いたのか」

「はい。『狐』と『鬼』の幹部は私と綱殿が無事に追い返してございます。しかし――決戦は近い。綱殿にはこのまま頼光殿と合流してもらうべく、礼と共に見送った所――黒き炎が土御門邸を包み込んだ為、こうして遅ればせながら救援に参上した次第」

 

 ご無事で何よりでございます――と、黒き炎が足元に広がっていながらも、一切の動揺も見せない晴明に、公任は声を張り上げる。

 

「晴明! この炎は何だ――何が一体どうなっているッ!?」

「初めに申しましたでしょう、公任様。これは大悪霊・定子の権能です。定めた対象を黒く燃やし尽くす穢れた業火で――」

「そういうことを聞いているのではない! これは、これは――」

 

 いつもは飄々としていながらも誰よりも冷静な公任が我を失っている。

 知らぬ間に長き幻想を見せられ、目が覚めたら先程までいた場所が黒く炎上しているのだ。混乱するのも無理ならぬことだが、そんな彼の様相を見たからこそ、紫式部は少し冷静になれた。

 

 公任が、行成が冷静さを失っている中で――道長と倫子は静かに状況を俯瞰している。

 紫式部の目が吸い寄せられるように道長に向かう中で、道長は晴明に再び問い掛けた。

 

「この『黒き炎』が我が屋敷を包み込んでから、どれほどの時が過ぎた?」

「それほど時は過ぎておりませぬ。しかし、残された猶予は少ないでしょう。――急いだ方がよろしいかと」

 

 晴明のその言葉に、ようやく紫式部もそのことに思い至った。

 そうだ。訳が分からないことだらけだが、土御門邸が黒炎で炎上していることは間違いない。

 

 何をとっても優先すべきことは――道長夫妻をこの場から逃がすこと。

 

「道長様! お早く退去を!」

「……させると、思いますか?」

 

 紫式部の叫びを掻き消すように、静かに、けれどはっきりとその声が届く。

 

 面布が落ち、その白髪の混じったボサボサの癖毛を晒しながら、俯き両手を着いていた彼女は、ゆっくりと立ち上がって――道長を睨みつけた。

 

 清少納言は、血走った、涙の混じった瞳で、食い縛った歯の間から怨嗟の言葉を放つ。

 

「……そこの陰陽師様がお告げの通り、この大悪霊は――中宮様。私が長年、醜き憎悪を存分に込めて、こうして現世にお呼びした魂です。私が中宮様に、この『枕』を通じて願ったのは――憎き者を、この真っ黒な炎を以てこの世から燃やし尽くすこと」

 

 清少納言は立ち上がりながら、その真っ黒の本を抱える。

 この国で最も上等な白き紙で作られた、憎悪で黒く染まり切った――魔本。

 

「なるほど。その本が、かの有名な清少納言殿の『枕草子(まくらのそうし)』。あなたと藤原定子様との強い繋がりの象徴であるその本を『触媒』とすること、長年の憎悪を込めての執筆という形での呪の『練成』、そして、あなたと藤原定子様との繋がりを再確認する在りし日の『回想』――ここまで手順を踏み、手筈を整えることで、術士ではないあなたが、これほどまでの大悪霊を従えることが出来ているというわけですが」

「……ええ。まあ、概ねその通りです。私が中宮様を従えているという最後の言の葉だけは、訂正していただきたいですがね」

 

 私は、ただ――清少納言は何かを言い掛けて、だが、それ以上は口にせずに唇を噛み締める。

 

 それを見た紫式部が何かを言う前に「ですが、それほど条件を整えていても、これほどの大悪霊です。あなた如きが自由自在に操れる筈もない――たった一つ、ただ一つの命令を与えることくらいが精々でしょう。そして、それこそが恐らく――」と、晴明は滔々と、さらりと毒を混ぜ、笑みすら浮かべながら楽しそうに考察する。

 

 そして、言う。伝説の中宮が、世紀の大悪霊として蘇った――あの世から、この世へと引き戻された、その――目的とは。

 

「――――憎い」

 

 だが――それを陰陽師が明かす前に、地を這うような女の声が響く。

 

 白髪交じりのボサボサ髪を掻き毟り――その爪先には徐々に血の赤が混じって。

 血走った眼には見る見る内に涙が浮かんで――そして、放つ。

 

 この世で最も憎き者へ、黒く煮込んだドロドロとした思いを。

 

「憎い。憎い憎い憎い憎い。ああ――ああ――憎くて憎くて憎くて憎い! どうして――どうしてお前はまだ生きている? 息を吸って、息を吐いている? 言の葉を紡いでいる? 許せない許せない許せない許せない!! ちゅ、中宮様は! ……あの御方はッ! あの方……は――もう」

 

 死んで――しまったのに。

 

 清少納言は、この世で最も吐き出したくない言の葉を口に出したかのように。

 

 強く、強く、強く強く唇を噛み締めて――自らが呼び戻した大悪霊が見下ろす中で、そう吐き捨てる。

 

 公任が顔を顰め、行成が悲し気に見詰める中、清少納言は、その震える指先を――道長に、向けて。

 

「――憎い。……憎い。だから、燃やすの。あの方を焼いた黒い炎で。……お、お前が、宮中に広げた、この黒い炎で! 今度は、私が――お前をッッ、絶対にッッ!!」

 

 絶対に――絶対に、許さないと。

 

 何度も、何度も、言い聞かせるように口にする。

 

 その時――女が。

 

 ぽつりと、静かに呟く。

 

「――()()()?」

 

 それは、本当に静かに響いた。

 湖面に投じる一石のように、その波紋は瞬く間に広がり――清少納言を絶句させた。

 

「……本当に、貴女様は道長様が憎いのですか? 憎くて憎くて堪らないのですか?」

「……何? あなたは何を知っているの? 私はあなたのことを何も知らないけれど――あなたは私のことを知っているんでしょう? ――紫式部」

 

 清少納言は睨み据える。

 かつて、散々に己の著書で自分を批判した、清少納言がかつて伝説を残した女房ならば、今、正に、伝説を残し続けている現役の女房である――紫式部を。

 

 己を知った風に批評し、今も知った風なことを言う――この年下の女房を、その血走った眼で睨み据える。

 

 お前は、私の――何を知っているんだと。

 

「……何も。何も知りませんでしたよ。私は、貴女様のことを。ただ貴女様と較べられ続けた私は、私には出来なかったことを、成し遂げ続けていた貴女様に――分不相応な嫉妬心を抱き続けていただけ。貴女様の一表面を聞き齧って、貴女様は自分とは違う御人なのだと、そう知ったつもりになっていただけの女です」

「……そう。でも、少なくともこれだけは知っているでしょう。知らないとは言わせないわ。あなたの主――いえ、あなたは彰子様の女房でしたね。ならば、そこの男が――あなたの主の父君が、中宮様にどんな仕打ちをしたのかを!!」

 

 その真っ黒の野心で、どのように中宮様を焼き殺したのかを!! ――清少納言の絶叫に、尚も紫式部は悲しげな瞳で憂うのをやめない。

 

「その上で! その上で!! あなたは尚も言うの!? どうしてこんなことをしているのか分からないと!」

「……ええ。分かりません。どうして、そこまで道長様を憎むのか。どうして、あなたがこんなことをしているのか」

「――ッッ!! あなたは――」

「だって!」

 

 紫式部は、清少納言の声を掻き消すように、涙を浮かべて胸に手を抱き、言った。

 

「だって――()()()()()()()()()()()()()()()()()()でしょう!?」

 

 悲痛な、女の叫びに――女は。

 

 無意識に、一歩――後ずさる。

 

「…………何を――」

「……私は知りません。何も知りません。ですが、彰子様は――私の主は、私にお聞かせて下さいました。自分は()()()()()()()()()()()()()()()()……それに過ぎないと。本当の中宮は、一条帝の中宮様は、今も、昔も――たった、御一人だと」

 

 たった一度、たった一晩だけ、顔を合わせ、言葉を交わしただけだった。

 それでも、父の勝利より、あの方の勝利を願ってしまうくらいには――魅力溢れる人だったと。

 

 彰子は、それこそ自慢するように、藤原定子について腹心の女房に語っていた。

 

「……そんな方が、こんな姿になってまで、復讐を望むとは考えられない。……何より、他でもない貴女様が、定子様をこんな姿に――貶めることを……そんなことで許容するとは、私には思えません」

「――そうだな。香子、お前の言う通りだ」

 

 だから、これ以上、虐めてやるな――そう言って道長は、再び前に出て、清少納言と向き合う。

 

 清少納言は額にどろどろの汗を掻きながら「ッ! 近寄るなぁ!」と腕を振るう。

 瞬間、定子の腕が連動するように動き、清少納言と道長の間に黒炎の壁が生まれた。

 

 だが、それをいともたやすく、晴明が掌を向けて吹き飛ばす。

 

「ッ!?」

「――今も、私を燃やし尽くすことが目的ならば容易かった筈だ。何故、やらなかった?」

「ち、近寄るな! 来るな――来ないでッ! もう、口を開かないで! 私は、私は――」

「答えは単純だ。()()()()()()()()()()()()()()。ただそれだけのこと」

 

 道長は言う。まるで銃口を突き付けるように。

 

 陰謀策謀渦巻く宮中を、その身一つで伸し上がった、唯一の武器――その弁舌を、たった一人の女に向けて。

 

「確かに、私は定子様を排する為に数々の策略を巡らせた。外道に手を染めたことも否定しない。だが、お前は見た筈だ。誰よりも定子様の傍に居たお前は――見て見ぬ振りを決め込んでいたとはいえ、決定的な場面に居合わせたのだからな。お前こそ――知らぬとは言わせぬ」

 

 その男は、何一つ頭を垂れることはないと、その胸を張ってはっきりと言う。

 

()()()()()()()()()()()

 

 この世の栄華を極め、月へと手を届かせた男は。

 

 その時、はっきりと――己が敗北を口にした。

 

「定子様は、私に完膚なきまでに勝利してこの世を去った。そもそもあの御方は、私如きに恨みを抱き、復讐の為に現世に蘇るような御方ではない。あの御方は最期まで、一条帝の為に、愛の為に生きて、死んだのだから。だからこそ――私はあの御方に敗北を喫したのだ」

 

 あの御方を、侮辱するな――道長は冷たく、清少納言に言った。

 

 中宮の番人を自称した女が、この世で何よりも美しいあの華を――穢すことは許さないと、真っ黒な、冷たい炎が如き敵意を込めて。

 

「ならば、お前が憎悪する対象とは何か。黒く燃やすと定めた対象とは、誰か。それは、あの輝かしい華であった定子様を――そんな醜き姿に貶めてまでも」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――道長は、一切震えていない指先で、真っ直ぐに、撃ち抜くように、その者を指差した。

 

 

「――清少納言。お前だ。お前は、お前自身が、どうしても憎く、許せなかったのだ」

 

 

 ああ――そうか、と。

 清少納言はようやく理解した。

 

「……………………」

 

 血走った目を見開き、涙が真っ直ぐに落ちる。

 全身から力が抜け、膝から文字通り――崩れ、落ちた。

 

 ずっと憎かった。憎くて、憎くて、たまらなかった。

 

 消えなかった。この黒い憎悪が。

 道長の黒き野心の炎を全身に受けても、威風堂々と、美しく散った中宮定子――そんな、定子と道長、二人だけが互いを理解していた戦いを、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 守りたかった。それが出来ないならば、せめて、一緒に苦しみ、一緒に死にたかった。

 

 なのに、何も出来ず、どこまでもずっと部外者で――あなたが死んだ後も、のうのうと息をしている自分が、何より許せなかった。

 

 そして、誰よりも美しく生きて、誰よりも美しく散った――あの御方に。

 

 ただ、もう一度、もう一度――そう、醜く、願ってしまった。

 

「わたしは、あなたに――もういちどだけ……あいたかった」

 

 こんな醜いわたしを叱って欲しかった。

 こんなどうしようもない番人を、あなたの手で、同じ所へ連れて行って欲しかった。

 

 あなたに、わたしを――殺して欲しかった。

 

「―――――――――――――――!!!!」

 

 突如として、大悪霊・定子が叫ぶ。

 

 定子の不安定な霊体を、()()()()()()()()()()()

 

「清少納言が、本来の憎悪の対象を認識した。それにより、術者が焼却対象であるという矛盾に――契約が、一瞬、揺らぐ。そこを突くように、()()()()にはお願いしておきました」

 

 晴明が言う。

 大悪霊・定子を貫いた白刃は、そのまま定子の巨大な体を切り裂く。

 鮮血の代わりに黒炎が噴出した。

 

 その黒炎は、間近に居た清少納言に降りかかろうとして。

 

諾子(なぎこ)!」

 

 行成は思わず駆け出そうとする。

 そんな行成に――彼女は、穏やかに微笑んだ。

 

 黒炎に呑み込まれる瞬間、清少納言は――包み込まれた。

 

 醜く細い腕。希薄な身体。

 おどろおどろしい不気味な大悪霊は、黒く燃えるその身体で、自分の身体から噴き出した黒炎よりも早く――優しく彼女を包み込んだ。

 

「……ああ。貴女様をこんなにも醜い御姿に貶めた私までも……包み込んで――救ってくださるのですね」

 

 あの時の――ように。

 

 自分の身体から噴き出した黒炎から守るように、定子は清少納言を抱き締める。

 

「ごめんなさい。アナタを――こんなにも醜く、愛してしまって」

 

 

 愛していた――だから、あなたに、愛されたかった。

 

 誰よりもあなたを愛していた――だからこそ、誰よりもあなたに、愛して欲しかった。

 

 

(許してください。あなたを守れなかった番人が、こんなにも――満たされて、しあわせに逝くことを)

 

 屋敷が崩れる。

 

 黒く炎上した土御門邸が、いつかのどこかの屋敷と同じように、見るも無残に破壊されていく。

 

 逃げ惑う中、紫式部は、はっきりと見た。

 

 暴虐的な黒炎の柱に貫かれるよりも前に、一人の哀れな女が、醜い大悪霊の優しい黒炎に燃やされて、散っていく瞬間を。

 

 愛する人の腕の中で、清原諾子(きよはらのなぎこ)が――清少納言として、愛する人の元へと旅立っていく、その終焉を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 土御門邸が黒く炎上した――その翌日。

 

 藤原道長は、就任した翌日に――摂政を辞任した。

 

「――これも全て、道長様の筋書き通りなのでしょうか」

 

 生家を失った倫子は、晴明の勧めで源頼光があらかじめ用意していた屋敷に逃げ込んだ。そこには家財一式が新品で用意されていて、すぐに移住してもこれまで通り――あるいはこれまで以上の生活が可能な環境だった。

 

 それでも引越しとして細かな作業はあった為、陽が昇ってからゆっくり休む間もなく働く羽目になった道長勢力の貴人達は、それらをようやく終えた後、新居の見事な庭園を眺めながら、腰を下ろす。

 

 そんな中、ぽつりと、紫式部が呟いた言の葉に。

 

 公任と行成は、やはり庭園の方に目を向けながら言った。

 

「……我々も全てを知っていたわけではございません。ですが、これまで頑なに摂政や関白になるのを拒んでいた道長様が、此度に関しては大人しく宣下を受けた」

「かつての道隆様の時とは違う。後一条天皇は道長の孫だ。何往復ものやり取りなんて必要ない。こうして翌日には辞めたいといって辞められる――だからこそ、今回の一日摂政は、やっぱり」

 

 清少納言を、都へと呼び戻す為の――茶番(ままごと)

 

 きっと彼女はずっと機会を伺っていたのだろう。自分自身への憎悪を、彼女はずっと持て余していた。

 その正体に見て見ぬ振りをしながらも、世界で最も大事な中宮を貶める真似を続ける自分を許せなくて――それでも、ただもう一度会いたいという思いを捨てられなくて。

 

 だから彼女は、その矛先を道長へと向けた。

 自分は中宮の仇である道長を憎んでいるのだと――これは、中宮様を苦しめた道長へと復讐なのだと、そう自分自身を騙し続けていた。

 

「……そして、道長が権力の頂点を極めた分かり易い機である、摂政就任。それを聞いて、清少納言は行動に出た。……何か、上手く行き過ぎな気もするが」

「何故、清少納言は道長様が摂政になったことを行動の機にしたのか。……そして、それすらも道長様の思惑通りなのだとしたら――そもそも何故、道長様は、この機に、清少納言を京へと呼び戻したのか」

 

 公任と行成の言葉に、紫式部は眉を顰めて思考する。

 

 もし、今回の土御門邸黒炎上が――全て、道長の掌の上だったとするならば。

 

 何故、この機にそれを実行させたのか。

 どうやって、清少納言をここまで巧みに操ったのか。

 

(――全てを、知っているのは――)

 

 紫式部は勿論、藤原公任も、藤原行成も、全てを知らされることはなかった。

 渡辺綱も全てを知っている様子はなかった。

 

(……昨夜、倫子様は一切、動揺している様子は見られなかった。……晴明様も、恐らくは全てを知っているだろう)

 

 道長の指示の下、全ての手筈を整えたのはあの男だ。

 大悪霊・定子の権能すら、奴は一目見ただけで言い当ててみせた。もしかすると、清少納言が初めて『枕草子』に呪を込めたその日から――定子の魂を悪霊としてこの世に呼び戻す、その仕組み自体も、あの男が把握していたというのなら。

 

「………………」

 

 あの純白の陰陽師が、ただ白いだけの男ではないことは、一応の弟子である紫式部はよく知っている。

 かの大陰陽師の性根が、決して善人ではないことも。――黒い血が、流れていることも。

 

 そして――黒い炎に、魅入られていることも。

 

「――あの御方の、黒き炎は……果たして、どこまで燃え上がるのでしょう」

 

 紫式部は、ぽつりと呟いた。

 それに対し、公任も、行成も、何も答えることはなかった。

 

 何も言わずに、昼の青い空に浮かぶ、薄く見える月を眺めていた。

 

 あの御方が欲しいもの。あの御方が目指すもの。その為に、あの御方が歩んでいる――道。

 それを全て理解しているわけではない。その道がどれほど長いのか、それすらも理解しているとはいえない。

 

 それでも、理解しているものはある。

 もう――自分達は、後戻りはできない。

 

 何故なら、昨夜の土御門邸を炎上させ、自分達をも呑み込もうと広がっていた――黒い炎を見て。

 

 恐怖よりも、混乱よりも、何よりもまず――()()()、と。

 

 そう、思って、しまったのだから。

 

「……………」

 

 黒い炎に魅入られている――それは何も、かの陰陽師だけではない。

 

 この黒い炎が、果たしてどこまで燃やし尽くすのか。

 大きくなり続けるこの穢れた業火が、果たしてどこまで届くのか。

 

 見てみたいと――その物語を見届けたいと、そう願ってしまっているのだから。

 

 女は、そっと――昼の月へと手を伸ばす。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真夜中の月へと――男はぐっと、手を伸ばす。

 

 黒い炎に焼かれ、何もかもが黒く燃え尽くした場所。

 土御門邸黒炎上跡に――藤原道長は立っていた。

 

 灯りすら手に持たず、従者すら連れず、たった一人で。

 

 月明りのみが照らす中で、道長は瓦礫の中を進む。

 

 そして――黒炎上の中心地。

 かつては倫子と道長の寝室があった場所にて――空間が歪み、何者かが姿を現す。

 

「――お待ちしておりました」

 

 それは――女だった。

 年は二十代後半から三十代か。華やかとはいえない和服に身を包んでいる彼女は、どこかの家に仕える女中にみえる。

 

 しかし彼女は、道長に仕える女中でなければ、黒炎上する前の土御門邸に仕えていた家人でもない。

 

「――ご苦労だった」

「……はい。例のものは、そこに」

 

 彼女が指さす先の空間が歪んだ。

 ベールのようなそれが消え――黒い種火が現れる。

 

 何もかもが黒く燃え切った中で、それだけが、未だ往生際が悪く、縋りつくように黒い炎を消せずにいた。

 

 道長は笑う――本当に、()()()()()()()()()と。

 

 ボンッと、女は煙と共に姿を消した。

 彼女が居た場所には人形(ひとがた)の術符があり、それはひらひらと――黒い炎の中に消えた。

 

「……晴明も見事な式神を作ったものだ。我らの(めい)であったとはいえ、長年仕えた主と共に消える忠を見せるとは」

 

 清少納言の元に唯一残り続け――正確には、自分以外の家人を排除し、清少納言唯一の家人として、長年に渡って清少納言を支え続けて。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと、彼女の憎悪に薪をくべるように彼女の黒い火を燃やし続けて――『黒い炎』を育て続けて。

 

 こうして然るべき時に、主を京へと――道長の元へと送り届けた式神に、道長は敬意を表しながら、それを拾い上げる。

 

 黒く燃える魔本――『黒い炎』を宿す魔本を手に取り、道長は笑う。

 

「――ようやく、全ては整った」

 

 黒い本に向けて凄絶な笑みを向ける道長――その背に向かって、黒く燃え尽きた、今にも崩れそうな柱の上に寝転がるような体勢の黒い男が声を掛けた。

 

「それが――今回の盛大な茶番劇の成果というわけかの? ――人間」

 

 道長が声の届いた方を見上げると――そこには妖怪がいた。

 

 黒い影の中に紛れ込んだ、目を離すとすぐにでも消えてしまいそうな存在感の黒い男。

 真っ黒な衣を真っ黒な帯で結んでいる、真っ黒な髪を全身を覆い尽くすように伸ばした――腰に真っ黒な鞘のドスを差す男。

 

「いつの間にやら他人の家に土足で上がり込む――なるほど、貴様が妖怪・ぬらりひょんか」

 

 道長の言葉に、黒い男・妖怪ぬらりひょんは不敵に笑い――黒い影の中から現れた真っ白な陰陽師が「――ご名答。流石の御慧眼でございます、道長様」とその言を認めた。

 

「彼こそは妖怪・ぬらりひょん。この平安京にて『鬼』にも『狐』にも属さない第三者にして第三勢力・妖怪任侠組織『百鬼夜行』の長たる妖怪です。彼はそれなりに長きに渡って懇意にしておりまして。妖怪大戦争が間近に迫った今、道長様にもご紹介したく、昨夜の祭りに参加していただいた次第」

「……そうか。昨夜、黒き暗幕を破り、定子様の悪霊に止めを刺した白刃の正体は主か。ご苦労であった」

 

 見上げながらも、一切不遜な態度を崩さない道長に、ぬらりひょんは再び笑う。

 確かに妖怪・ぬらりひょんは()()()妖怪なので、『鬼』や『狐』のように分かり易い迫力があるわけではないが――それでも、この距離で、しかも姿を隠していない状態で相対すれば、普通ならば恐怖に震えて然るべき妖気を放つ妖怪である。妖怪大将の異名は伊達ではない。

 

(……まあ、()()()()()()()()とはいえ、昨夜もあの大悪霊を前にして堂々と揺るがなかった男じゃ。人間側の実質的な頭――流石の面構えじゃの)

 

 人間に理解がある方の妖怪とはいえ、あの安倍晴明を従える男がいると聞いて半信半疑であったが、道長は無事に妖怪大将のお眼鏡に叶ったらしい。

 

(――これだから、人間は面白い)

 

 道長の方は、早々にぬらりひょんから視線を外して――そのことによって、再び見失う危険性があると理解した上で、だ――晴明へと向き直り、言う。

 

「晴明も、ご苦労であった。お陰で大筋が狂うことなくここまで辿り着いた。……伊周まで蘇るというのは些か余分であったがな」

「かの御仁も執念深さは一流であったということでございましょう。清少納言殿が定子様を呼び戻す上で利用したのは、彼女の宮中での思い出です。そこにかの御仁の無念のエピソードも含まれたていたこと、そして、定子様とは異なり、かの御仁の魂自らが蘇りを熱望していたことが作用した上でのイレギュラーであると考えられます。伊周様自身の魂の核が定子様には遠く及ばぬ故、清少納言殿も上手く扱えたようですが――こちらの計算違いであることには変わりなく。我が身の不徳の致すところでございます」

「……エピソード……イレギュラー……お前は時折、意味の分からぬ言葉を使うが、要するに、あの男の無様さが死して尚健在であったが故の計算違いであったということは理解した。馬鹿は死んでも治らんということが証明出来ただけでも有用だ。計画に大きな狂いは生じなかった。気にするな」

 

 お前にはそうでなくとも多くを任せ過ぎたからな――道長はそう言って頭を下げる晴明に言う。

 

「――お前にはこれから、()()()()()()()()()()()()()()()()、これまで以上に動いてもらうことになる」

 

 道長の言葉に、頭を上げた晴明は、その純白の衣を――漆黒へと変える。

 

 まるで妖怪のように、変化する。

 

 その浮かべる笑みの色を、白から黒へ――反転させる。

 

 昨夜は落雷があったそうだな――そう言って、一度、破壊された天井から夜空を見上げた道長は呟いた。

 

「ええ。土御門邸が黒炎上した、その同時刻に――()()は飛来して参りましてございます」

「なるほど、お主が()()()()()通りだな。――『箱』の方はどうだ?』

「今宵、完成するでしょうな。既に()()()羽衣(うい)』と『茨木(いばらき)』を送り込んでおりますじゃ」

「――そうなると、明日だな」

 

 藤原道長は――黒く燃える本を月へと掲げる。

 

「全ての手筈は整った。火蓋も切って落とされた。ならば、後は――幕を開けるだけだ」

 

 月へと手を伸ばし続けた男は、その黒き炎と月を重ねる。

 

「明日は、美しい――満月となるだろう」

 

 黒き妖怪と、黒き陰陽師が見詰める中――黒く炎上した廃墟の中で、黒き本を掲げる男は、魔本から発火する黒炎を見詰めながら言う。

 

「さあ――戦争の時間だ」

 

 

 

 

 

 翌日、藤原道長は――太政大臣となった。

 

 長男・頼通(よりみち)が摂政に任じられ、三女・威子(いし)は中宮となり――藤原氏は全盛となった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、正しく浄土の世界のような華やかさだった。

 

 宮中の主だった全ての貴族が集まり、その男を褒め称えている。

 

 源頼光が用意した新たなる道長の邸宅にて――祝宴が開かれていた。

 現帝・後一条天皇に嫁いだ、藤原道長が三女・威子が中宮となった祝いの宴だ。

 

 これにより、一条天皇、三条天皇、そして後一条天皇――三代もの天皇の皇后を、自らの娘で占めたことになる。

 

 太皇太后――藤原彰子。

 皇太后――藤原妍子。

 そして、皇后――藤原威子。

 

 三后全てを、己が娘で独占した。

 

 一家立三后。

 それは、これまで誰も成し遂げたことのない、未曽有の栄誉。

 

 まさに、およそこの国の人間が成し遂げられる偉業の頂点、栄華の極みであった。

 

「……ん? 道長殿?」

 

 三条天皇に与し、そして敗れた右大臣・藤原実資は――突如として立ち上がり、庭園へと降り立った道長に声を掛けた。

 

 宴もたけなわ。長く続いた宴は夜まで続き、空は黒く染まり――見事な満月が浮かんでいた。

 

 だが――。

 

(……今宵の月は、どこか不気味だ)

 

 どこか禍々しく、血のように赤く見える月に実資が恐怖を抱いていると。

 

 そんな不気味な月光を浴びた道長が、その月に向かって手を伸ばした。

 

 先程までにあれほど騒いでいた他の貴族達も、宴の主役の奇妙な行動に静まり返る。

 

 そして、道長は、そんな静寂も意に介さず――(うた)った。

 

 

「この世をば――」

 

 

 

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 

 

 

 そして、この夜――月に手を伸ばし続けた男は。

 

 

 遂に、その悲願を叶えることに成功する。

 

 

 

 最後の戦いが――今、幕を開けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、土御門邸が『黒炎上』した、その次の日。

 

 そして、貧民街で座敷童が『箱』となった、その日のこと。

 

 この、藤原道長の一家立三后を祝う宴が行われる、その前の日に――とある会談が行われていた。

 

 

 場所は――平安京の外である、霊山・大江山。

 

 

 血に酔う『鬼』達の本拠地であるこの場所で――妖怪達もまた、終わりの戦いに向けて動き出していた。

 

 

 

 

 

 第二章――【土御門邸黒炎上】――完

 




用語解説コーナー⑰

土御門邸(つちみかどてい)

 土御門殿(つちみかどどの)とも呼ばれる、藤原道長の主要邸宅である。

 道長の正室である倫子の父である源雅信によって建てられた屋敷であり、倫子と道長が結婚した際に道長の居所となり、道長の権力が増していくにつれ、それを表すように拡張工事が行われていった、道長の栄華を象徴する邸宅であった。

 史実でも1016年に火事で焼失しているが、道長に恩を売ろうと諸国の受領たちがこぞって屋敷再建の品物を届けたことによって、以前より立派な屋敷が再建された。

 この物語では、道長は黒炎上したまま放置し、別の場所に新たな邸宅を建て、その屋敷にて一家立三后を祝う宴を開いた。

 そして、その祝いの席にて――月に向かって、『手』を伸ばすことになる。


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妖怪星人編――⑱ 大江山の鬼ヶ城

遂に、この時が来たなぁ。


 

 大江山(おおえやま)

 平安京から少し離れた地に存在する、雲の海に囲まれた霊峰。

 

 かつて、この地では『人間』と『鬼』による壮絶な戦争が繰り広げられた――それは平安京では『大江山の鬼退治』と呼ばれ、およそ千年先まで語り継がれるであろう伝説となっている。

 

 この白い雲の海が、血で赤く染まる程の死闘の末に――妖怪の代名詞として勇名と恐怖を日ノ本全土に振り撒いていた『鬼』は、敗北を喫した。

 

 種族としてもその数を大きく減らし、一時は絶滅も囁かれた『鬼』ではあったが。

 

 あの大戦(おおいくさ)から――およそ十年もの時が経て。

 

 今、この大江山は――再び、『鬼』の居城として息を吹き返しつつあった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雲の海を眼下に収める、霊峰の頂上――この地で最も『龍脈』の力が集まるその場所に、その城は建てられていた。

 

 現在、日ノ本を二分する妖怪勢力の一つ――『鬼』。

 その『鬼』勢力を治める『頭領』が住まうの居城――『鬼ヶ城(おにがしろ)』である。

 

 禍々しい妖気に包まれるその城の頂上――玉座の間にて、今。

 

 四体の――大妖怪が、互いに向かい合っていた。

 

 部屋の中央に鎮座する荘厳なる玉座。その巨大な椅子に腰を掛けるのは、それに見合わぬ――小さな少女だった。

 背も低く、凹凸もない細い身体。しかし、その額から生える二本の角は鋭く、そして何より――息を吞む程、凄まじかった。

 

 少女の身体から発する妖気――それは、白い雲の海の中で、この城だけを黒く浮かび上がらせる程に、おどろおどろしいものだった。

 鬼ヶ城が黒き妖気に包まれているのではなかった。内部から発する、この少女から放たれている黒き妖気によって、真っ黒に浮かび上がっているのだ。

 

 何をするでもなく、ただそこにいるだけで、全てを呑み込むような漆黒を発する存在。

 

 生まれながらにして妖怪の王たる器。鬼の頭領。その少女の名は――酒吞童子(しゅてんどうじ)

 この小さな少女こそが、日ノ本を二分する妖怪勢力を率いる大妖怪である。

 

 しかし――と。

 その少女の傍らに控える、女の鬼は唾を飲み込む。

 

 酒呑童子とは違い、その体躯は成熟した女そのものである。

 長く伸びた燃えるような赤髪に大きな双丘は目を引くが、やはり何よりの特徴は――額に生えた、二本の角。

 

 紅葉(こうよう)――と、隣の酒呑童子からか細い声で呼ばれた女は、続く頭領の言葉に再び困惑することになる。

 

「――それで? …………こいつらは……なにをしに……ここに、来たの?」

 

 酒呑童子の言葉に、紅葉は何も言えずに口をつぐむ。

 何をしに、ここに――そんなことは、紅葉自身が誰よりも聞きたかった。

 

 酒呑童子と鬼女紅葉、その二人の前には一組の男女が座っていた。

 どう見ても恋仲のようには思えない二人組だ。見て分かる、見なくても――放っている、妖気で、分かる。

 

 女の方は、それほどまでの桁違いの妖気を放っていた。

 酒呑童子と違い、隠すつもりならば隠すことが出来るのだろう。事実、この者達がこうして玉座の間に現れるまで――紅葉はその存在に、まるで気付くことが出来なかったのだから。

 

 だが、こうして相対した今、彼女は意識的に妖気を放っている――己の前に座る、()()()()()()()()()()()を。

 

 今、この日ノ本において、『鬼の頭領』たる酒呑童子と匹敵する妖気を放てる妖怪など、たった一体しか存在しない。

 

 紅葉は、意を決して、その口を開いた。

 

「うちの頭領がこう言っているわ。……あなた自身の口から聞かせてくれるかしら。此度の訪問の目的を」

 

 どうなの? 『()()()()』さん――紅葉の言葉に、その九尾の狐は口角を裂いて笑った。

 

 狐の姫君。九尾の妖狐。

 数多くの異名を持つこの女は、その無数の噂話が広がる中でも、肝心の実態は謎に包まれていた大妖怪。

 

 彼ら『鬼』と日ノ本を二分する勢力――『狐』の頂点に君臨する『姫君』。

 

 その名は、化生(けしょう)(まえ)――輝く黄金の髪、見る者を魅了する豊満な身体、そして、妖しく眩く微笑む美貌。

 正しく絶世の美女。姫君と崇められるのも当然と思える程に、その大妖怪は――魂を潰さんばかりに美しかった。

 

(美しさという意味なら、うちの頭領も負けないくらいの美少女だけれど……うちの頭領が生物としての無駄のない美しさなら、この姫君は……なんというか……人を狂わせる俗物的な美しさね)

 

 もし、この『狐』がその尾と耳を隠して宮廷の中に潜り込めば、その美しさだけで人間達はたちまち狂い――容易く国が傾くだろう。

 傾国の美女。そんな危うい、暴虐的な美しさを――この玉藻の前は醸し出していた。

 

 何もかもを狂わせるような美女は「……目的……そうやねぇ……なんといったらよろしいんやろ……うまいこと説明出来たらええんやけど……ウチ、そういったの苦手なんよねぇ」と口元を隠しながらくすくすと笑う。

 

 玉藻の前のそんな些細な仕草すら、紅葉の中に簡単に恐怖を生み出した。

 

(……こうして相対するまで信じられなかったけど……本当に、いるのね…………生まれたのね……あるいは、現れた、のか)

 

 ちらりと、紅葉は己の横を見る。

 信じられなかった。けれど、こうして目の前にいるのならば信じざるを得ない。

 

 存在するとは思えなかった。

 我らが頭領――酒呑童子に、匹敵し得る妖怪など。

 

 酒呑童子は余りにも強すぎるが故に、その妖気を隠すことが出来ない。否――隠そうという発想がない。そんなことに頓着するような、大人ではない、子供なのだ。

 

 だからこそ、彼女と相対した全ての妖怪は、酒呑童子に恐れおののく。

 その世界を歪めるが如き妖気に、世界そのものから力を授かっているが如き妖気に――同じ妖怪といえど、否、同じ妖怪だからこそ、目の前の怪物は自分よりも怪物なのだと、上位の存在なのだと己の魂から警告され、恐れずにはいられないのだ。

 

 その恐怖の感情は、自分のような――『鬼』の幹部でも変わらずに感じるものだ。

 これまで酒呑童子と相対し、全く恐れずにいられたものなど――。

 

(……いえ、かつて、一体(ひとり)だけいたわね)

 

 紅葉は、自分ではなく、かつて頭領の隣に立っていた『右腕』を思い出しながら、目の前の化生の前を見据える。

 

 あの男以来、初めてとなる、酒呑童子に全く恐怖しない妖怪を。

 

「それでなぁ。その辺りのことは、うちの頼りになる幹部の『(サトリ)』はんにぃ、説明してもらうとするわぁ。ほなぁ、覚はん、よろしゅう」

「はい。仰せのままに、姫君」

 

 そう言って化生の前は、隣に座る男に話を振る。

 

 目の周りに包帯のような布を巻いている若い男――(サトリ)と呼ばれた妖怪は、恭しく酒呑童子や紅葉に向かって頭を下げた。

 

「お初にお見えに掛かります。鬼の頭領――『酒呑童子』様。そして大江山四天王であらせられる『鬼女紅葉(きじょこうよう)』様。当方は身の程知らずにも『狐の姫君』様の元で大幹部の一角を務めさせて頂いております、『覚』という木っ端妖怪でございます」

 

 覚――そう名乗る妖怪を、紅葉は細めた目で見詰めた。

 

 自嘲するように、自評するように、確かに目の前の男からは――大した妖力(ちから)を感じない。

 最高戦力の一角を務めているという割には、放つ妖気はとても頼りないものだった。

 

 正直、この男程度の妖力の持ち主ならば、紅葉のような四天王を除いても、今の『鬼』勢力にもぞろぞろいるだろう――だが。

 

(……そう。感じる妖力自体は大したことはない。けど――)

 

 この男からは、()()()()()()

 脅威も――そして、恐怖も。

 

 男からは――男からも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(……どういうこと? 普通の妖怪であるのならば、頭領(この子)を恐れないということは有り得ないのに。多かれ少なかれどんな妖怪も、自分よりも上位の存在を――()()()()()()()()()()を……恐れないというのはあり得ないのに……なのに……覚……妖怪・覚って、確か――)

 

 紅葉は「――覚、と、そういったわね。あなた」と、恭しく、あるいはわざとらしく頭を下げたままの覚に向かって、問い質すように言う。

 

「こんな首脳会談の場に同席出来るだなんて、随分と信頼されているのね。『狐』といえば、今や鬼以外の全ての妖怪を支配下に置くなんて言われているほどの大所帯。さぞかし強い妖怪もたくさんいるのでしょうに」

「ええ。皆様、当方など及びも付かない程の大妖怪でいらっしゃいます」

「そんな中、そんな大妖怪等を差し置いて、あなたがこの会談に同席しているのは――あなたが、()()()()()()だからかしら?」

 

 紅葉は目を細めながら睨むように言う。

 覚は紅葉の言葉に、何も返さずに笑みのまま表情を変えない。

 

 すると、そんな紅葉に「――ええやないのぉ」と化生の前が返す。

 

「確かに覚はんは心を読む妖怪や。でも、無論、妖怪としての、()()()使()()()()()である以上、読めるもんと読めへんもんがある。力ぁある妖怪やったら、防ごう思えば防げる程度のもんやぁ。つまり――」

 

 つまり――化生の前はこう言っている。

 

 こちらが読もうと思って、読もうとして、()()()()()()()()()()()()、と。

 

 紅葉は「……それもそうね」と目を瞑って、肩を竦めて言う。

 

「そもそも私達は敵同士。こうして交渉の場に一番適した能力の妖怪を送り込んでくることは、当然の選択よね」

「いえいえ、当方がこうして同席する運びと相成ったのは、他の大幹部の方々にどうしても外せない用事があったから――()()()()()()()()()()ですよ、鬼女紅葉様」

 

 己が居るのは偶然だと、そう弁明する言葉の中に、まるで()()()()()()()()()()()()を付属させて返す覚。

 紅葉は「……」と無言で覚を見据え返す。己の心を読んだのか、それとも只の推理なのか、いずれにせよ、彼等が何かを求めて交渉してきているのは確かだ。

 

(……確かに、今、()()()()()()()()()()()()()()()()。――それを見据えて、あるいは読んで此奴らは、こうしてのこのこと乗り込んできたのだとしたら)

 

 今、ここで開戦するのも有り得るか――そう思い、紅葉が()()()()()()()()のを検討した、それを見越したように、覚は「――それと、もう一つ、訂正させていただきたいことがあります」と言葉を挟む。

 

「我々『狐』は、あなた方『鬼』に対し、敵として交渉に来たのではございません」

 

 ()()()()()――提案に来たのです。

 

 覚は、呪文のような文字によって黒く(よご)れた包帯のような布をぐるぐるに巻いた顔――その中で、唯一といっていい、剥き出しになっている口を、分かり易く歪めて言った。

 

「力を合わせて、共に手を取り合って戦いませんか? ――憎き、恐ろしき、人間共と」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 会場は熱気に包まれていた。

 

 酒呑童子が御座す居城、霊峰・大江山の(いただき)に築城された鬼ヶ城。

 その玉座の間から見下ろせる足下に、その闘技場は存在する。

 

 闘技場などといっても、実際はただの広い空間だ。

 周囲が壁に囲まれているだけで、特別なものは何も存在しない。

 

 用意されているのは、東西南北に四つだけ存在する扉のみ。

 だが、それは一度閉じられれば、中から開くことは不可能な術式が施されている。

 一歩中に足を踏み入れれば、自分の足で立ってそこを出ることが許されるのは――ただ一人の、勝者のみ。

 

 ここで行われるのは――ただ純粋な力比べ。

 鬼同士が、ただ己の力を見せつける為の殴り合い――決闘だ。

 

(……遂に、この時が来たなぁ)

 

 円形の闘技場を取り囲む観客席には、この日の為に全国から集結した無数の『鬼』達が集結している。

 

 常ならば、血気盛んな鬼達が、後腐れ無く雌雄を決する為の、いわば喧嘩場として使用されるこの闘技場だが――今宵に限っては、酒の肴として面白半分で野次を飛ばす鬼達は一匹たりとも存在しなかった。

 

 それも、その筈――今宵、鬼の頭領たる酒呑童子が見守る中で行われる決闘は、『鬼』勢力において、非常に重大な意味を持つからだ。

 

 酒呑童子は――言った。

 今宵、この決闘で、最後まで立っていられた、ただ一体の鬼を――()()()()()()()()()と。

 

 かつて、酒呑童子の右腕として、鬼達の纏め役として君臨してた最強の鬼――『茨木童子(いばらきどうじ)』。

 あの『鬼』が、かの『大江山の鬼退治』において勢力から失われて以降、ずっと空席だった、四天王の最後の椅子。

 

 それが遂に埋まる時が来たのだと、四天王最強だったかの鬼の後釜を、決める時がようやく訪れたのだと。

 

(……みんな、感じ取っている。あの酒呑童子様が、遂に茨木童子の後釜をお決めになる覚悟を固めた。……それはつまり、近いということ。……かつてのような、人間との大戦(おおいくさ)が……すぐそこまで近付いているということだ)

 

 だからこそ、急きょ、何の前触れもなく開催が決まった決闘にもかかわらず、全国各地から鬼達はこの大江山へと集結した。

 そして、野次も飛ばさず、酒も呑まず――固唾を吞んで、見守っている。

 

 かの大戦において――否、それまでも、どんな時もずっと、『鬼』の先頭に立ち続けた、あの鬼が腰掛けていた椅子に。

 唯一、鬼の頭領の隣に立つことを許された、文字通りの右腕の後継となるのは――四天王最後の席に座るのは、果たして、どんな鬼なのか。

 

 かの『茨木童子』の後を継ぐに相応しい鬼なのか――それとも、あの伝説の最強を上回る新星が現れるのか。

 

 そして、そんな鬼が、果たして存在するのかどうか。

 

(――するさ。存在する。あんな右腕を失った『右腕』など、既に大江山には必要ない)

 

 ぐっ、と――その少年は、小さな拳を握る。

 

 歓声が爆発した。

 入場が始まったのだ――我こそは、茨木童子を継ぐ者なりと、四天王最後の椅子の挑戦権を表明した鬼達が、四つの門から次々と姿を現していく。

 

 酒呑童子が告げた、この決闘のルールは単純明快だ。

 

 誰でもよい。どんな鬼でもいい。これまで挙げた手柄なども一切考慮しない。

 我こそは、四天王に相応しい鬼だと、そう自負するものは、この闘技場へと足を踏み入れよと。

 

 そして、その全ての鬼達を一斉に閉じ込め、最後の一体となるまで戦い続けよと。

 

 他の全てを薙ぎ倒し、最後まで立っていたその鬼が、勝利の瞬間を以て――鬼の頭領・酒呑童子が名を持って、四天王最後の一体と認めると。

 

「僕こそが、あの御方の新しい右腕だ」

 

 そして、その小鬼は、歴戦の鬼達が集結する闘技場へと足を踏み入れる。

 

 退路を塞ぐように――扉が勢いよく閉められる。

 

 歓声が爆発する。衝撃が伝播する。

 

 決闘が――始まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 轟く歓声が、この鬼ヶ城の頂上――玉座の間にも届いている。

 

 妖怪・(サトリ)は、外へと顔を向けながら、口元だけが見える笑みを浮かべて。

 

「――面白そうなことをなさっていますね」

 

 紅葉達が何も答えないのも構わずに、彼女らへと向き直って続けて言う。

 

「茨木童子――かつて、酒呑童子様の右腕として、実質的に『鬼』達の纏め役として君臨していた大妖怪。その後釜を決める為の決闘大会ですか。これだけの『鬼』が一同に集結している様は、いやはや壮観ですね」

「……随分とお詳しいのね」

「私は――(サトリ)ですから」

 

 覚は悪びれずに言う。

 紅葉達の頭の中を読んだのか、それとも、外に集結している『鬼』達の中の誰かの頭を読んだのか。定かではないが、それは最早、どうでもいいことだ。

 

 この男の口ぶりからして、それよりも――重要なのは。

 

(……つまり、この二体(ふたり)は……今、この大江山には全国の『鬼』達が集結している。それを承知の上で――たった二体で乗り込んできたということね)

 

 事前にそれを知っていたのか、それとも大江山に足を踏み入れて知ったのかも、またどうでもいいことだ。

 

 どちらにせよ、今、敵地でたった二体で孤立しているこの状況を――この二体は、そのどちらも、全く恐怖していないのだから。酒呑童子に恐怖していないように。

 

(いえ、それも、コイツの言葉を信じれば――私達は、敵ではないようだけれど)

 

 敵ではなく――味方として。

 

 交渉ではなく――提案しに来たと、そう言った覚は。

 

「それにしても――今、ですか」

 

 呟くように、投げかけるように言った。

 

 紅葉は「……今、とは?」と、相手が求めているであろう言葉を返す。覚は「いえ、何故、今なのかと思いましてね」と、流暢に、喋り出した。

 

「あなた方『鬼』が、かつて人間と、かの安倍晴明や源頼光一行と大戦を行ったのは、既に十年も前のこと。その際に、大江山四天王で残ったのは鬼女紅葉――貴女様と、存命ですが四天王の座を退かれた星熊童子様のみ。四天王の内、三つもの席が空いた。そして、その内の二つの席は早々に後釜をお決めになったと聞いています。四天王が不在となれば残された勢力の維持も難しくなりますからねぇ」

「……本当に、よくご存じで」

 

 紅葉は溜息を吐きながら言う。その辺りのことは、『鬼』勢力のものならば誰でも知っていることだ。この覚に今更、なんで知っていると問うのも時間の無駄だろう。

 

 だからこそ、覚は、今、問うている。心を読むのではなく、言葉で問うている――「だからこそ、疑問なのです」と。

 一介の『鬼』では知り得ない、目の前の紅葉のような四天王、いや――酒呑童子だけが答えられることを。

 

 鬼の頭領にしか、答えられない疑問を。

 

「他の三つの席は早々に埋めていた貴女が――いつまでも埋めようしなかった最後の椅子。茨木童子の後釜を」

 

 何故、今になって、急遽、この時機に。

 

 明確に誰かを指名するわけでもなく、誰でもいいと言わんばかりの決闘方式で。

 

 その、代え難い、代わりなどいないとばかりに空けていた椅子を――埋めようとするのかと。

 

「…………」

 

 紅葉はちらりと酒呑童子を見る。

 

「――――」

 

 鬼の頭領は、この国で最も強い妖怪である少女は。

 

 何も読めない瞳で、ただ真っ直ぐに――何処かを、呆然と、見詰めていた。

 

「――昨夜のことです。我らが『狐』勢力の末端の妖怪から、平安京のとある貧民街で、莫大な『力』が渦巻いているとの情報が上げられました。当然、そちらもご存じでしょう? 我らは今宵、その現場にとある最高幹部を送り込みました」

 

 覚は急に話を変えるように言う。

 だが、それがまるで脱線していない本線であると、紅葉は理解していた。

 

 彼ら『狐』が、その貧民街に最高幹部を送り込んでいるように――我ら『鬼』もまた、()()()()()()を、その現場に送り込んでいるのだから。

 

「続いて、こちらも昨夜のこと。我らは数日前に平安京のとある()()()()()から、ある文を受け取りました。そこには、藤原道長が摂政に任命されるその日の夜、彼の住まう屋敷である土御門邸を襲撃する手筈を整えたという趣旨の内容が記されていました。かの安倍晴明が張った結界を破る手段を用意したとも。罠の可能性もありましたが、ここで『人間』側の長とも言える男を殺すことが出来れば我々に大きな益となる。故に、少ない手勢ではありますが、念の為に――最高幹部の一体を送り込みました」

 

 結果、安倍晴明と渡辺綱によって撃退されてしまいましたが――藤原道長の屋敷を炎上させることには成功した。

 

 そう覚は滔々と語るが、紅葉は何も言わない――が、覚は、確信しているのだろう。その黒き陰陽師は、この大江山にも文を送っていた筈だと。

 

 何故なら、あちらが四天王の一角である鈴を送り込んだのと同じように、こちらも――四天王が一体である天邪鬼を送り込んだことを、彼らはとっくに知り得た上で、こうして語っているのだろうから。

 

 気付いている――「気付いているのでしょう」と、覚は言う。

 

「今宵――切られるのです。いいえ、既に切られている。――決戦の火蓋は」

 

 目を覆うように巻かれた布――それでは隠しきれない興奮を滲ませ、その妖怪は言った。

 

「始まるのです! 始まるのですよ、遂に! 十年前、この山で行われた大戦(おおいくさ)――それを遥かに超える、日ノ本全土を揺るがす、妖怪大戦争が!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 激闘は続いていた。

 

 この場に集まった全ての者が、この闘技場に閉じ込められた全ての鬼が、全国津々浦々から集結した、我こそは伝説を受け継ぎし鬼であると手を上げた歴戦の強者達。

 

 そんな強者達が、より強大な鬼に倒されていく。そして、その鬼もまた敗北し、強者から弱者へと堕とされて、勝ち残ったより強い鬼のみが立ち上がり、目の前の未だ強者たる者に立ち向かっていく。

 

「……すげぇな。あんなデケぇ鬼達がみるみる内に倒されていく。……地獄とは正にこのことだ」

「……ああ。面白半分で参加しなくて正解だ。命までは奪わない決まりとはいえ、それはあくまで奪わなくてもいいってだけだ。死んだら死んだで自己責任。中途半端な強さで調子に乗って飛び込んでたら、あっという間に首が吹き飛ばされて終わりだぜ」

 

 茨木童子の後継を、四天王最後の椅子に座るものを選別する決闘。

 この戦いのルールはただ一つ――最後まで立っていられた鬼が勝者。

 

 倒れ伏せたまま起き上がってこれなければ、それが失神であろうと気絶であろうと、あるいは死亡であろうと同じ――失格。

 

 逆にいえば他者を殺さなくとも勝利ではあるが、これだけの強者が一同に閉じ込められ、一斉にバトルロワイヤルへと押し込められれば、そんなことに一々構っていられないだろう。

 

 ただ――目の前の相手を全力で打倒する。手加減など施そうとすれば真っ先にやられる。

 

 故に、開始から数刻が経った今、あっという間に夥しい程の血が流れて、闘技場は真っ赤に染まっている。

 この血の海に沈む者の中には死者も多数含まれているだろう。

 

 場外などの救済措置も存在しない。例え観客席まで吹き飛ばされても、再び他者の手を借りずに己の力で立ち上がり、己の足で闘技場内へと戻れば失格ではない。

 

 これは、誰が最も強いのか――それだけを決める、それだけの決闘なのだ。

 

「だけど、段々とめぼしい候補は絞られてきた」

 

 とある観客は呟く。

 隣に座る鬼も、その言葉に頷いた。

 

 いくら全員一斉に戦うバトルロワイアル方式とはいえ、開始からそれなりの時間が経過すれば――徐々に島が出来上がってくる。

 

 頭角を表し始めた強者を中心に、一つの大きな戦場が――五つに分割され始めていた。

 

「……あれが、近年の最高傑作といわれる『絡繰鬼(からくりおに)』か」

「確か……付けられた名は――鎧将(がいしょう)

 

 一口に『鬼』といっても、その出生は様々だ。

 

 妖力が外的要因によって歪な形に変質して鬼となったもの。

 鬼の血を取り込んでその血によって支配されて鬼となるもの。

 鬼同士の雌雄が交配し子を成して鬼として生まれたものもいるだろう。

 

 しかし、三番目を除き、その殆どの発生が偶発的なものだ。

 いくら血を取り込んでも鬼にならないものもいるし、その鬼の血が毒となって死んでしまうものもいる。

 そもそも三番目に至っても、鬼同士ではなかなか子は生まれない。

 

 故に『鬼』はその数を年々減らしていた。

 そんな状況にあって更に追い打ちをかけるように、十年前の『大江山の鬼退治』によって、鬼は劇的にその数を一気に減らされた。

 

 このままでは日ノ本最大の妖怪勢力でいるどころか、勢力の――否、種としての存亡すら危うい。

 

 そんな状況に追い込まれて――とある一体の鬼が、狂気的な発想を持ってこう言ったのだ。

 

――生まれないのであれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 天に邪する鬼は――そう言って、鬼を手製した。

 

 妖力の容れ物として『死体』を用意し、そこに死に瀕した鬼の妖力を雑多に詰め込んで。

 

 最早、鬼と呼べるのかも怪しい――けれど、()()()()()()()()()()という、鬼の定義だけはかろうじて外れない妖怪を、彼はその手でこの世に誕生させた。

 

 言葉を発することは出来ない。言語を解しているのかも不明。

 角は一応と言わんばかりに歪に生えていて、皮膚の色は見苦しいドブ色だ。

 体中を奇病のような斑点が這っているものや、腕や足が変形しているもの、牙は一本一本が長さの違うもの、無数の眼球を全身に持つもの、その全てが――醜き化物。

 

 だが、その()()が生み出した()()は、終わりかけていた『鬼』という種族の息を吹き返らせた。

 

 人間に一度、完膚なきまでに敗北した『鬼』という妖怪を、日ノ本最強で在り続けさせた立役者の一角である――『絡繰鬼』。

 

「……そういう意味では、あれが最後の四天王の椅子に座っても、何もおかしくはないのかもしれねぇ」

 

 窮地の鬼を救った兵器。

 その紛れもない――最高傑作の一体。

 

「鎧将だぁぁあああああ!!! 鎧将を止めろぉぉぉぉおお!!!」

 

 全国から腕自慢の、無論、体躯の大きさもトップクラスの鬼達が多数集まった闘技場の中においても――正に、別格。

 

 頭一つ分なんてものではない。

 周囲よりも一回りも二回りも大きいその巨体は――自らを抑える理性を持ち合わせていない。

 

「ガぁぁぁあああああああああああああああ!!!!」

 

 ただ、その巨木が如き腕を――振るう、振るう、振るう。

 通常であれば巨大といえる鬼を一体、二体、三体と纏めて吹き飛ばす。

 

 無数の眼球は標的を悟らせず、牙から漏れ出す腐った息は相対する者の背筋を凍らせる。

 

 化物――そう、鬼である筈の自分たちを棚に上げて、彼らは思った。

 目の前に(そび)える化物は、自分を食らうものだと――まるで、我らが頭領と相対したときのような錯覚を起こさせる。

 

 コイツは、自分を食らうもの、自分を餌とするもの――自分を、問答無用で支配する、上位種なのかもしれないと。

 

(――ッ!! ふ、ふざけるなッ! コイツは酒呑童子様ではないッ! コイツは『絡繰鬼』! 数年前までは『出来損ないの鬼』だと馬鹿にされていた玩具ッ! 数合わせにしかならなかった、ただの都合のいい武器の一つでしかなかった――紛い物の鬼ではないかッ!!)

 

 だが、自分は間違いなく――その紛い物に恐怖している。

 あの無数の眼球に睨まれ、巨木が如き腕を己に向かって振るわれても――足が竦んで動けない。

 

 我こそは茨木童子を継ぐ者だと、意気揚々と大江山へやってきた筈の、強者たる自分が――為す術なく殺されようとしている。

 

(俺は――何を――)

 

 呆然と、ただ恐怖だけに包まれて死を待つだけだった――そんな鬼を。

 

 巨木よりも先に――()()が吹き飛ばした。

 

「邪魔だ――臆病者」

 

 その金棒を振るった鬼は、強靱な腕力で得物を強引に引き戻し――それを再び逆方向に振るう。

 

 屈強なるその鬼の、身の丈以上の大きさを誇る金棒は、巨木が如き鎧将の拳と、強烈な勢いで激突した。

 

「――――ッッ!!」

 

 両者――動かず。

 金棒も、巨木も、激突した位置から一歩も譲らない。

 

 その激突の余波の衝撃で、周囲にいた数体の鬼が吹き飛ぶが――その二体は動かない。

 

 最高傑作の絡繰鬼――鎧将と。

 

 身の丈以上の深紅の金棒を振るう鬼――鑽鉄(さんてつ)

 

 両者は互いに一歩引き、睨み合う。

 

「……あれが、鑽鉄か」

金棒鬼(かなぼうおに)の鑽鉄――返り血を拭うよりも早く新たな血を吸わせ続けて深紅に染まった、身の丈以上の金棒を振るうという……噂で聞くよりも細いな」

「だが――強え」

 

 すらりとした鬼だった。

 醜悪な見た目の個体が多い鬼の中で、人間の貴族のように整った容貌。

 

「……絡繰鬼・鎧将。私は貴公の出生についてどうこういうつもりはない。私も誇れるような生まれではないからな」

「グゥゥゥウウ」

「私が興味があるのは、貴公が私の金棒で潰せるのか、それとも私が貴公の巨木のような腕によって潰されるのか――それ、のみだ」

「ァァァアアアアアアアアア!!!」

 

 だが、彼が肩に担ぐ金棒が全ての印象を上書きする。

 これまで数々の敵をすりつぶしてきたであろう、そしてこの決闘でも多くの鬼を吹き飛ばしてきたであろう、血がポタポタと垂れる真っ赤な金棒。

 

「とある霊峰の主を三日三晩の死闘を持って打倒し、その妖怪の血を持って『妖器』と化した金棒――実物を見ると禍々しいことこの上ないな」

「鎧将とも互角に渡り合えている。むしろ、二体の戦いの余波で――他の鬼達がどんどん減ってってるぜ」

 

 二つの島の主がぶつかる。

 巨木の腕と、深紅の金棒――両者が再び激突し、周囲の無関係の鬼達がどんどんと吹き飛んでいく。

 

 

 そして、今――別の場所でもやはり、二つの島が衝突しようとしていた。

 

 闘技場のとある場所で、風が渦を巻いて突き上がる。

 

「あれは――竜巻か!?」

「見ろッ! あそこ――鬼が」

 

 飛んでいる。竜巻を背に、一体の鬼が飛んでいる。

 

 真っ赤な身体に、一対の漆黒の翼を生やして――長い鼻を天に向けている。

 

()()!? なんでここに天狗がいるんだよ!?」

「知らねぇのか。あれは()()()だ。額に角が生えてんだろ」

 

 前述の通り、鬼が生まれる方法は実に様々だ。

 鎧将のように研究の成果として生み出された鬼がいるように――他種族に鬼の血を妖力と共に流し込む、『鬼化』の実験が進められたことがある。

 

 天狗鬼(てんぐおに)――風頼天(ふうらいてん)は、その数少ない成功例の一つだった。

 

「――何故、今になって表舞台に戻ってきた?」

 

 風頼天は、上空から竜巻を背に、漆黒の羽扇を振るいながら問い掛ける。

 多数の鬼を吹き飛ばしながらも――風頼天の見据える先にいるその鬼は、荒れ狂う暴風の中で静かに佇んでいた。

 

 小さな鬼だ。

 がっしりとした風頼天や、体躯としては細身だった鑽鉄などよりも格別に小さい。鎧将などと比べたら猛獣と小動物のようだろう。

 

 しかし、その小動物は、髭によって顔が見えない老鬼は、己よりも遥かに大きい鬼達が舞上げられ、竜巻に呑み込まれていく中で、たった一本の杖だけを頼りに、己の二本足で屹立している。

 

 風頼天は、そんな老鬼に驚くことなく――当然だと言わんばかりに続ける。

 

「これは、四天王の最後の椅子を掛けた決闘だ――四天王を自らの意思で降りたお主がここにいることは、理が通らんとは思わんか?」

 

 羽扇が再び振るわれる。

 生まれた刃のような突風は、老鬼との間にいた複数の鬼をすぱすぱと面白いように切り裂いて――老鬼の杖によって受け止められた。

 

「――――ッ!?」

 

 観客席の鬼が絶句する。

 否――老鬼は受け止めたのではない。切り裂いたのだ。

 

 老鬼がいた場所を境に、真っ直ぐに伸びていた風刃の軌跡が、分かれるように二筋となって、老鬼の背後の鬼達を切り裂いているのだから。

 

「――だから、こそよ」

 

 小さく、(しゃが)れた声だった。

 だが、その声は何故か、上空にて老鬼を睨み据えている風頼天の元にも届いた。

 

「既に四天王たる資格を失った、この老いぼれにすら勝てぬような未熟者を――茨木童子の後継と認めるわけにはいくまい」

「……最強を名乗るのなら、ここで打倒してみよと。かつての四天王、伝説の星熊童子を」

「分不相応にも『童子』を名乗っていたくせに、あのような醜態を晒した愚か者は、あの大戦で死んだよ。今の儂は、ただの老いぼれ。無様な死に損ないじゃ」

 

 星熊童子。

 かつて鬼女紅葉や、かの茨木童子と共に大江山四天王として、安倍晴明や源頼光と戦い――生き残ってしまった敗北者。

 

「元・四天王!? あの爺さんが――」

「確か、あの戦いで星熊童子の名前を返上して、四天王を辞めて……鬼壱(きいち)って名前を酒呑童子様に貰って……死に場所を探すみたいに戦場を渡り歩いてたって聞いていたが――まだ、生きてたのか」

 

 観客席で決闘を眺める鬼達は、伝説の登場にどよめきを隠せないでいた。

 元・四天王。だが、だからといって彼を見るその目が尊敬一色であるかといえば、そんなことはない。

 

 鬼とは、力こそが全て。

 出生はバラバラで、鬼となってからの年月も千差万別。

 

 血統なんてものが殆ど何の意味も持たない鬼にとっての序列を決定する唯一の物差しは――強さのみだった。

 

 だからこそ、強い鬼は尊敬を集め――弱い鬼は侮蔑される。

 

 星熊童子はかつての戦いにおいて、それまでの尊敬を掻き消す程に――余りに無様な敗北を喫した。

 

 それを自覚していたからこそ、生き残ったにも関わらず自ら四天王を降りて、誰よりも厳しい戦場に老いたその身を投じていた。

 

 一度見せてしまった醜態は、弱さは、どれだけ年月が経とうと拭いきれない。

 風頼天の天災が如き猛攻を一本の杖のみで捌ききっている、往年以上の強さを見せても――彼を応援する声は聞こえなかった。

 

 だが、観客席の一角からは、応援とは真逆の――罵倒の声が轟いていた。

 

 それは元四天王、元星熊童子――鬼壱(きいち)に向けられたもの、ではない。

 

 

 残る最後の一つの島。

 

 百体以上の鬼達が――たった一体の鬼を取り囲む処刑場。

 

 響き渡る罵倒の声は、小さな少年鬼を、寄って集って嬲るように数の力で押し潰そうとしている大人げない鬼達へのもの――でもない。

 

 その盛大なブーイングは――その中心に居る、一体の青き少年鬼へと向けられていた。

 

「あれは――」

「アイツ――まだ生きていたのか」

 

 これまで四体の強豪鬼を解説してきた彼らも、それに気付いて顔を顰める。

 

 無論、その少年鬼に向けられたブーイングに――ではなく、未だ、あの少年鬼が呼吸していることに、だ。

 

「鎧将。鑽鉄。風頼天。そして、鬼壱。この中の誰が四天王になってもおかしくない。が――」

「――ああ。駄目だ。アイツだけは有り得ない。有り得ちゃ、いけない」

 

 その少年鬼は、既に満身創痍だった。

 開始直後から徹底的に狙われ、数の力で袋叩きにされた。

 

 だが、死なない。

 殴られても、蹴られても――折られても、捥がれても。

 

 立ち上がる。何度でも、立ち上がる。

 

 傷を塞ぎ、骨を繋ぎ、腕を生やして――蘇る。

 

「ああ――楽しいなぁ。楽しいなぁ」

 

 少年は笑う――鬼のように、禍々しく。

 

 彼を取り囲む鬼達が、恐怖で震える。

 何度も何度も叩きのめした。コイツだけは駄目だと、何としても殺さなくてはと。

 

 だが――積み上がるのは、少年の背後の死体だけ。

 

 少年は笑う。子供のように――邪気を零して。

 

「強くなった! 僕は強くなった! ああ――見てますか、酒呑童子様! 僕はこんなにも強くなった! あなた様の貴き血を! 受け継いだ! この僕が!!」

 

 青き少年鬼の言葉に、周囲の鬼が震える。

 

 少年の言葉に嘘はない。彼は酒呑童子の血を流し込まれて鬼になった、唯一の存在。

 

 日ノ本最強の妖怪の、鬼の頭領の唯一の眷属。

 

 そして、ただ一人の――人間から、()()()()()()、鬼になった存在。

 

「俺は――お前を認めないッ!!」

 

 少年鬼を囲む中の一体が、そう吠える。

 そして、次々と、少年を否定する言葉が飛び交っていく。

 

「お前だけは――お前だけは認めてなるものかッ! 人間がッ!!」

「鬼になれなかったお前がどうしてここにいる! 人間を捨てられなかった分際で、何故、のうのうと息をしているッ!!」

「鬼でもないお前が――()()()()()()()()()()()()()()()ッ! 四天王になる? 茨木童子様の後継にだと!? 誰が、誰が認めるものか!!」

 

 少年鬼は、己を包み込む、己を否定する言葉に――より深く、邪気に満ちた笑みを浮かべた。

 

 その凄惨な笑みに周囲の鬼が恐怖する中、少年鬼は高らかに笑い――そして。

 

「なるほど、僕を認めない――結構、結構、大いに結構! 恐怖されることこそ鬼の本分! 妖怪の本懐!! ならば!!」

 

 少年鬼は、己を否定した鬼に――瞬時に到達し、そして、その腕を捥いだ。

 

 血が噴き出し、悲鳴が飛び交う。それを掻き消すように、少年鬼――(あおい)は笑った。

 

「ならば僕を殺してみろ! 僕より強いことを証明してみせろッ!! 僕より恐ろしいことをその身をもって示すがいい!! 強さこそが!! 恐ろしさこそが!! ――鬼の正義だッッ!!!」

 

 決闘は、徐々に終わりへと向かっていく。

 

 無数の鬼達は、その数を――五へと減らしていく。

 

 弱者は死に、強者のみが生き残る。

 

 それこそが鬼だと、そういわんばかりに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 失礼、少し取り乱しました――そう言いながら、覚は立ち上がり、眼下の闘技場で繰り広げられる決闘を眺める。そして「それにしても――凄まじいですね」と、四天王最後の椅子を奪い合って戦う鬼達を褒め称えた。

 

「流石は我こそが四天王に相応しいと名乗りを上げる鬼達だ。皆様、とてもお強い。そして――その中でも、五体……凄まじい鬼がいますねぇ」

 

 高みから見下ろす、目を布で覆っている妖怪は、何が見えているのか――そう言ってしみじみと、紅葉達に背を向けて呟く。

 

「あの五体ならば、例えどなたが勝利しても四天王に相応しいと言えるでしょう。今や構成員の数だけならば『鬼』を超えたと自負している我々『狐』勢力の中でも、あれほど強い妖怪は数える程しかいないでしょうね。……だからこそ、もう一度、言わせていただきたい」

 

 覚は振り返り――不敵な、不遜な、笑みを持って言う。

 

「何故――今なのです? 酒呑童子」

 

 これまでのような様付けでもなく、紅葉には目もくれない名指しで、覚はまっすぐに――鬼の頭領に問うた。

 

 何故、今、こんなことをしているのか――と。

 

「今になって、四天王最後の椅子を埋めようとしている。それは、あなたが気付いたからだ。決戦の火蓋が、今宵にでも切られると。明日にでも――戦争が勃発することになると。だが――」

 

 これは、()()だ――覚は、今、正に、強者達が潰し合っている闘技場を、指差しながら吐き捨てる。

 

「これが決戦の一年前ならば意味もあるでしょう。衆人環視の中で、強さを示して地位を得た四天王ならば、一定の統率力も得られる――しかし、戦争はもう目前にまで迫っているのです。妖怪といっても一晩寝ればダメージが回復するわけではない。怪我が瞬時に治癒したりしないし、欠損した手足が気軽に生えてくるわけでもない」

 

 普通の鬼は、あなたとは違うのです。酒呑童子――酒吞童子の血を受け継いだ碧を指差しながらの、覚のそんな言葉にも、鬼の少女は表情を変えない。

 

 紅葉は、そんな両者を見ながら、言葉を挟んだ。

 

「つまり、あなたは――戦争を間近に控えた今、こんな風に身内で削り合うようなことをするなと、そう言いたいのね」

「不遜ながら。確かに四天王の存在は重要でしょう。しかし、こんな突発的に用意する四天王ならば、少なくともこれから始まる戦争には不要です。いえ、不要とまではいいませんが――それよりも、今、傷つけ合いながら戦っている、腕に覚えがある強き鬼達を、万全の状態で備えさせておく方が、少なくとも勢力としての戦力を保つという意味では、よほど正しい」

 

 今、必要なのは、強き一体の四天王ではなく――少しでも多くの強い鬼。

 こんなバトルロワイアルという形で貴重な強い鬼を潰し合わせるような真似は、戦争前夜に行うようなものではないと、覚は言う。

 

「お聞かせください、酒呑童子。あなたは何故、こんなことをしているのです」

「……それを……あなたに」

 

 ここで初めて、酒呑童子は覚の言葉に返した。

 

「…………言う………必要が……あるの?」

「それを聞きに、うちらはここへ参ったんどす」

 

 鬼の頭領の言葉に、狐の姫君が返す。

 

 覚は、己が勢力のトップの言葉を背に、日ノ本最強の妖怪に真っ直ぐに問い掛けた。

 

「酒呑童子様。あなたは()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 その言葉に、射貫くような殺気を放ったのは、酒呑童子ではなく――鬼女紅葉だった。

 

 自分達の長を、鬼の頭領を揶揄するような言葉に対する混じりけ無しの殺気は、そのまま物理的な殺傷力を伴って覚を射貫こうとして――九尾の妖狐の、九つある尾の一本で弾かれるようにして防がれる。

 

 覚は笑みを崩さずに、そのまま恭しく頭を下げて「――失礼致しました。私としたことが、言の葉を誤ってしまったようです」と謝罪する。

 

「私が申し上げたかったのは、酒呑童子様――ひいては『鬼』勢力が、此度の戦争において、人間を打倒することよりも重要視していることがあるのではと尋ねたかったのです。戦争において、勢力としての勝利ではなく、別の勝利条件を目指しているのではないか、と」

 

 だからこそ、勢力としての戦力を低下させるような真似と分かっていても――四天王最後の椅子を埋めようとしている。

 

 五体の強力な鬼ではなく――より強い一体の鬼を選別しようとしている。

 

 鬼女紅葉も、酒呑童子も答えない。化生の前は優雅に微笑み――妖怪・覚は、その言の葉を口にした。

 

「鬼の頭領・酒呑童子よ。あなたの目的は、かつての戦争で奪われた、己が右腕――」

 

 ()()()()()()()ですね――酒呑童子は、覚のその言葉を聞いて。

 

 ゆっくりと、玉座から腰を上げ、立ち上がった。

 




用語解説コーナー⑱

・妖力と妖気

 妖怪が持つ異能の力の源。
 体内を巡る妖力を用いることで、種々様々な異能を扱うことが出来る。

 より強大な妖怪ほど、より強力な妖力を持ち合わせており――それが体外に漏れ出したものが妖気である。

 当然、強力な妖力ほど妖気として体外に漏れやすいが、妖力のコントロールに長けた強者は、この漏れ出す妖気を最小限に抑えて偽装することも出来るものもいる。


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妖怪星人編――⑲ 最後の四天王

――――――――あぁ。恐ろしいな。


 

 その時――決戦場が震えた。

 

「「「「「――――――ッッッ!!!!」」」」」

 

 観客席の、そして闘技場にいる殆どの鬼は、反射的にその城の頂上を見上げる。

 

(これは――酒呑童子様の妖気ッ! 鬼ヶ城の玉座の間は、妖力を抑えることの出来ない酒呑童子様の為に結界が張られている筈……その結界を通しても尚……これほどの……一体、何がッ!?)

 

 鬼達が、その生唾を呑み下す。

 

 酒呑童子は、精神性は幼いが、決して凶暴な鬼ではない。

 好物の酒を吞んで酔っ払った時などは無邪気に暴れたりはするが、感情的に妖気を爆発させるような――そんな未熟な妖怪ではない。

 

 だが、しかし、この妖気の膨れ上がり方は、明らかに尋常ではなかった。

 

「お怒りだ。怒っているんだよ、あの方は――さっさと勝負をつけろって」

 

 瞬間――()()()()()()()()()()()

 巨大な身体の、更にその頭の上から、跳び上がった小さな少年鬼の拳で、力尽くに倒れ伏せられた。

 

「あと五体――いや、これであと四体か。一刻も早く終わらせよう。楽しい時間だけれど、あの御方を待たすなど万死に値する」

 

 優勝候補の一角――地に伏せた絡繰鬼・鎧将を足蹴にし、そう宣言する小さい青鬼。

 

 少年鬼・碧の不敵な言葉に、鎧将と熾烈な激戦を繰り広げていた金棒鬼・鑽鉄は顔を顰める。

 

「……随分と卑怯な真似をする。背後から攻撃するなど、四天王に名乗りを上げている鬼のすることとは思えぬが」

「卑怯? なにを言っているんですか、鑽鉄殿ともあろう方が。これは決闘ですよ。戦場でも同じ言い訳を抜かすんですか。油断する方が悪いに決まっているでしょう」

 

 それに、僕はあれだけの数を相手に同時に袋叩きに遭っていたんですよ――と、親指で背後を指差しながら言う。

 

 彼が示す方向には、無残な鬼の山があった。

 どれだけの者が息があるかも分からない、ゴミのように積まれた元強者達の成れの果て。

 

 それを見て鑽鉄は「……」と、何も言わずに、何かを言いたげに口を噤む――が、そんな彼の目の前で――鑽鉄と激戦を繰り広げていたとはいえ――たった一撃で戦闘不能に追い込まれた鎧将の頭に、更に鋭く足を振り下ろして、碧は言う。

 

「そもそも、戦場では複数同時に敵を相手にする状況など想定してしかるべきです。一々、敵対象を定めてからでないと攻撃に移れないような仕様のこんな玩具なんかが、四天王になれるわけがないでしょう」

「……彼は強い。とても強い鬼だった。それだけで彼が四天王の器と認めるのに十分だろう」

「強い? これが? 笑わせないでくださいよ」

 

 グシャ、と、不快な音を立てる。死体から作製されている絡繰鬼に対し、こういった表現が正しいかは不明だが――既に鎧将が絶命しているのは明らかだった。

 

 それでも、碧は鎧将を嗤うことを止めない――倒れ伏せた巨大な鬼から、継ぎ接ぎだらけの腕をもぎ取り、血を噴き出させながら言う。

 

「これが強いわけがないでしょう。そもそも弱くて死んだ鬼の妖力(のこりかす)から作られた玩具だ。たまたま目減りした雑魚戦力の補充に有効だったから重用されただけ――第一、ですよ。作られた理由からして、実力で四天王になれなかった天邪鬼が、出世したいが為に作った点数稼ぎの代物でしょう」

「――――そこまでだ、青二才が」

 

 少年鬼の減らない口を閉ざすように、金棒鬼は一閃を振るう。

 

 赤い金棒が、青い掌で受け止められ――至近距離で彼等は睨み合う。

 

「貴様の全てが、勇ましく戦った鎧将の、そして四天王として我等に尽くす天邪鬼様への侮蔑そのものだ。――四天王に相応しくないのは一体誰か、この金棒で貴様に教えてやろう」

「……こんなに喋る鑽鉄様を初めて見ましたよ。嬉しいなぁ、強い鬼と喋るの大好きなんですよ、僕。それじゃあ、僕からも一つだけ――」

 

 鬼と言えば金棒っていう発想からして、古いんだよ、オッサン――そう、餓えた少年鬼が、唾と共に吐き捨てた、その瞬間。

 

 赤い金棒と、青い拳が、強烈な勢いで激突する。

 

 

 

 そして、そこから少し離れた場所からは――暴風が吹き荒れていた。

 

 上空を舞う天狗鬼が繰り出す風の刃、その全てを地上で待ち構える老鬼の小さな杖が弾き飛ばしていく。

 

「しぶといな――この死に損ないめッッ!!」

「儂のような黄泉に片足を突っ込んどる老いぼれすら殺せぬ、己の未熟を恨めッ!」

 

 既に彼等の周辺には一体の鬼も立ってはいない。

 この二体の天災が如き戦闘の撒き添えとなって、この決闘から退場していった。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 風頼天は肩で息をしながら睥睨する。

 既に無数の風刃を放った。今回の決闘における撃破数だけならば文句なしに風頼天が頂点に立つだろう。

 しかし、その内の一発たりとも、鬼壱のよぼよぼに衰えた身体に傷一つ負わせることは叶わなかった。

 

(……流石は星熊童子。茨木童子と共に『鬼』を勢力として纏め上げた創設期から名を連ねる伝説の鬼。……かつての戦争で大敗し『()()()()()()()()()()()()負け犬と蔑まれても――その磨き抜かれた技量は未だ衰えを知らずか)

 

 このままでは埒があかないと、風頼天は羽扇を手放し、頭上で両手を構えて――風を集める。

 

「見事だ、鬼壱殿。醜く老いたとはいえ、その技は確かに伝説そのもの。四天王を再び名乗るだけの実力はあると認めよう」

 

 遥か高みから見下ろす天狗鬼は、今にも倒れそうな程にふらふらと杖に体重を預ける老鬼に言う。

 一発もその身に受けなくとも、ただ技を振るうだけで『老い』に蝕まれた骨は悲鳴を上げる。

 

 だが、風頼天は一切の油断なく――否。

 

「しかしながら、いくら貴様が伝説だろうと――空は飛べぬ。その身体ではこの高さまで跳ぶことも無理だろう。つまり、いくら風刃を防ごうと、貴様はこの身を斬ること(あた)わぬ」

 

 一発も攻撃を当てることが出来ていないのは、鬼壱も同じ。

 

 そして、ならば――こちらは攻撃の当たらない安全圏から、防ぐことの出来ない攻撃を放つまで。

 

「豪風弾――これならば、どれだけ貴様の技が優れていようと、その枯れ木のような腕では弾くことも出来ん。そうなれば、嫌でも認めざるを得ないだろう。かつての四天王よりも、この俺の方が『右腕』を受け継ぐに相応しいということをな」

 

 大柄な鬼である風頼天自身よりも、大きく育った風の塊。

 それを大砲のように、風頼天は小さな老鬼に向かって放つ。

 

「さらばだ――老いぼれ」

 

 鬼としての莫大な妖力。そして、天狗としての風を操る異能を併せ持つ。

 正しく新時代の妖怪としての、圧倒的な才能を持つ風頼天の前で。

 

 かつて伝説を作った老将は。かつて汚点となった敗北者は。

 

 旧時代を駆け抜け――本物の『右腕』を知るものとして。

 

「嘗めるな――若造」

 

 己を呑み込もうとする新たな時代の暴風の中に、強く地を蹴って、悲鳴を上げる己が老骨を飛び込ませた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もう一度…………言う――と、少女は小さく呟く。

 

 そのか細い呟きを掻き消すように、強烈な破裂音が連発で響いた。

 

 殺気――それはきっと、攻撃しようという意思すらない、只の殺気。

 先程の鬼女紅葉のように、余りにも強力な妖力を込められた殺意は、物理的な破壊力を伴って対象を襲う。

 

 だが、鬼女紅葉のそれは玉藻の前の九つある尾の内の一尾によって防がれた――が。

 

「……なんで……それを…………あなた……たちに………言わないと――いけないの?」

 

 再び、二発、三発、四発と、破裂音が響く。

 一発毎に鮮血が撒き散らされる。吹き飛ばされているのは、狐の姫君・玉藻の前の九つ存在する尾だ。

 

 否――九つの尾が、既に残り三本にまで減らされている。

 

 鬼の頭領・酒呑童子の殺気によって。

 立ち上がった鬼の少女が、一歩、一歩と近付いてくる毎に、鬼女紅葉の殺気すら容易く防いだ大妖怪の妖力の源が弾き飛ばされていく。

 

(……馬鹿ね)

 

 紅葉は冷たく覚を見据える。

 彼にとっては、少しでも交渉を自分優位に運ぼうとして踏み込んだ物言いだったのかもしれない。

 

 だが、酒呑童子にとって、茨木童子は――古参である紅葉すらも容易く踏み込めない逆鱗だ。

 

 土足で足を踏み入れたら最後、酒呑童子自身すら自覚のない感情の乱れによって、ただそれだけによって跡形もなく消し飛ばされてしまう。

 

 それをここまで防ぎきっている化生の前も見事だが、いくら九つあるとはいえ――限りがある。

 

(死んだわね、此奴ら)

 

 紅葉がそう見限る中、覚は再び口を開く。

 末期の言葉らしく命乞いか――そう思った紅葉だが。

 

「否定――しないのですね」

 

 狐の尾に守られながら覚が放った言葉は、酒呑童子のその大事な領域の中を、更に一歩、踏み込む言葉だった。

 

 紅葉は目を見開く。本気で死にたいのかと絶句する。

 

 だが、心を読む妖怪・覚は、その心の中へ踏み込む言葉を止めない。

 

「そう――あなたの目的は人間ではなく、茨木童子だ。そもそもあなたが本当に人間を打倒し、この国を統べる妖怪の王になりたいのならば、十年間も雌伏する必要はなかった。()()()()()()()()()()()、他の妖怪をその力を持って屈服させ、配下として従えて数を持って、今度はあなた方の方から、平安京へと攻め込めばよい話だったのですから」

 

 酒呑童子という大妖怪ならば、それが可能だった。

 だからこそ、安倍晴明は源頼光らを率いて、十年前に自ら大江山へと攻め込んだのだ。

 

 かつての阿弖流為(アテルイ)のように――酒呑童子という妖怪は、日ノ本の妖怪を統べることが出来る、妖怪の王になれる存在だと恐れて。

 そして、かつての阿弖流為の時とは違い、今、国中で妖怪が溢れかえっているこの日ノ本でそれをされたら危ういと、そう判断されたことが、かの『大江山の鬼退治』に繋がるのだから。

 

「そう、安倍晴明はそれこそを恐れた。だからこそ、十年前の戦争において、あなたを殺しきれないと判断したあの陰陽師は――あなたから『右腕』をもぎ取った! 茨木童子という『右腕』を!」

 

 再び大きな破裂音が響く。

 化生の前の尾は、残り二本。

 

 妖怪・覚は、その口を閉じるのを止めない。

 

「しかし、あなたは妖怪を纏めることをしなかった。茨木童子を失ったとはいえ、あなたはこうして健在だ、酒呑童子。やろうと思えば出来た筈。けれど、それをあなたはしなかった」

 

 結果、酒呑童子が妖怪王となる前に――化生の前という、新たなる王の器が日ノ本に出現した。

 

 そして、『鬼』ではなく『狐』が日ノ本中の妖怪を統べて、かつての妖怪最大勢力だった『鬼』と二分する力を手に入れて、二つの勢力が『京』を挟み込む構図が生まれている。

 

「元々日ノ本征服などに興味がなかったのか、それとも十年前にその志を折られたのか――私などには想像も出来ません。ただ一つ、確かなのは、今、あなたにはその意思がないということ――けれど、あなたはそれでも、今、かつてとは逆に、今度は己から、『人間』へと、平安京へと攻め込もうとしていること」

 

 狐の尾が弾ける。尾は――残り、一本。

 

 酒呑童子はその表情を、はっきりと――嫌悪に、変える。

 

 覚は額に汗を流し、唾を飲み込み――それでも、口元に、笑みを、浮かべて。

 

「その目的は、茨木童子――あなたの『右腕』を、取り戻すこと」

「…………黙っ……て」

 

 遂に――覚と、化生の前の眼前に辿り着いた酒呑童子は。

 

 その小さな手の届く所まで、歩み寄った鬼の頭領は。

 

 ゆっくりと、その少女の手を――何もかもを簒奪する、鬼の手を振り上げて。

 

 目の前の目障りな、心に土足で踏み入る不届き者を――。

 

「――十分。もうええやろ。限界どすえ、覚はん」

 

 その時、最後に残った一本の狐の尾が、今まで守っていた覚に巻き付いて――背後に向かって放り投げた。

 

 庇ったというには勢いよく壁に叩き付けられた覚は、そのままぐったりと倒れ伏せ。

 

 振り下ろされた酒呑童子の手は――いつの間にか()()()()()()()()()()が、包み込むように受け止めていた。

 

「瀬戸際を楽しむんのも大概にせんと。ここまでくれば明白やぁ。この子は些かも――衰えてへん」

 

 不快げに化生の前を睨み付ける酒呑童子に「……ごめんなぁ、お嬢ちゃん。いじわるして」と、狐の姫君は口元を扇で隠して微笑む。

 

 そして、震える身体をゆっくりと起こす覚は「……ええ。戯れが過ぎました。申し訳ございません」と、何度目かも分からぬ謝罪をし、言う。

 

「酒呑童子様。あなた様の目的が人間への勝利でもなく、日ノ本征服でもないというのなら……尚更、好都合なのです。我々の目的は同じではない。だからこそ、共に戦うことが出来るのです」

 

 初めに申し上げた通りなのです――覚は血を吐きながらも、手を差し伸べて言う。

 

「手を取り合いましょう。同じ妖怪同士、力を合わせて――人間と戦うのです」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そこは、日ノ本に幾つも存在する神秘郷の内の一つだった。

 

 ただ大きな山のみが存在するその空間は、異様なまでの妖気に満ちていた。

 霊峰の頂上には、その空間を巡る妖力の全てが集まるそのスポットには――とある大蛇がとぐろを巻いて眠り続けていたのだ。

 

 喉が渇いたら水を飲むように、ごくごくと、霊峰の噴口から妖力を摂取し続けたその大蛇は、いつしか神秘郷の外にまでその妖気が伝わり、時折迷い込む人間達からは神のように崇められる存在となっていた。

 

 体躯をみるみる成長させていった大蛇は、いつしか妖怪となり――やがては龍にまで至るのではないかと思われていた。

 

 とある男が――腕試しにと、その神秘郷に来訪するまでは。

 

 男と大蛇の戦いは数日にまで及んだ。

 

 件の神秘郷には朝日が上り、夕陽が沈み、夜が訪れる。

 そのサイクルが一体何度繰り返したかは分からない。目撃者は誰も居ない。ただ、一人の男と一匹の大蛇のみが存在する異空間で、両者は戦い続けた。

 

 そして、何度目かの朝日が上る時――立っていたのは男だけだった。

 

 持ち込んだ黒い金棒は、いつしか真っ赤に染まっていた。

 

 龍への階段を上り始めていた大蛇の血を吸い続けた金棒は――この世に一つしか無い妖器となり。

 

 妖力の篭った大蛇の血を浴び続けた男は――鬼となった。

 

 こうして金棒鬼・鑽鉄は誕生した。

 

 それからも鑽鉄は、武者修行とばかりに日ノ本中を旅し続け、いくつもの大物妖怪をその金棒で倒し続けていった。

 

 金棒鬼の勇名はいつしか大江山にも届き初め、四天王になる日も近いと、まことしやかに囁かれる程だった。

 

 つまり――金棒鬼・鑽鉄とは。

 

「あああああ―――ああああああああ――ああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 日ノ本最強妖怪集団・『鬼』勢力の中でも、屈指の実力者である。

 

「…………なぁんだ。がっかり」

 

 筈――――だった。

 

「――お前、()()()

 

 少年鬼の小さな掌が――真っ赤な金棒を握り砕いた。

 

 これまで数多くの大妖怪の頭蓋を破壊してきた妖器が、少年の小さな片手で容易く破壊された。

 

 鑽鉄は目の前の光景が信じられずに絶叫する。

 

(――有り得ない!? 有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない!? 霊峰の(ぬし)の血を吸った妖器だぞ!! これまでどんな妖怪の、どんな攻撃だって打ち返してきたんだ!! それが、こんな、こんな餓鬼に――)

 

 呆然と立ち尽くす鑽鉄に向かって、碧は金棒を砕いた拳を握りながら言う。

 

「こんな餓鬼を壊せない玩具が壊れたくらいで絶望ですか? だから――アンタは弱いんだ」

 

 青い少年鬼が振り抜いた拳は――鑽鉄の顔面の真ん中を貫いて吹き飛ばす。

 

「金棒が壊れたんなら、拳くらい握ってみろよ。それが出来なかった時点で、強かったのはアンタじゃなくて――金棒だったってことだ」

 

 アンタは、最強には相応しくない――吹き飛んだまま、仰向けで倒れ伏せたままピクリとも動かなくなった鑽鉄を見て、碧はそう吐き捨てた。

 

「――――ん?」

 

 そして――その背後では、もう一つの戦いが決着していた。

 

「ガ――はっ――ッ!?」

 

 渾身の力で放った豪風弾。

 切り裂きも弾き返しも出来ないと、そう豪語し放たれた一撃――それを、真っ二つに()り裂かれ。

 

 そして――豪風弾もろとも、空中に飛翔している風頼天をも斬り裂いた、小さな老鬼・鬼壱は。

 

「な――ぜ、だッ……」

「笑わせるでない、新時代。空を飛べるのがお主だけの専売特許であると思うたか。大江山の外におる妖怪共には、空を飛べる奴なんぞゴロゴロおるわい」

 

 それこそ、天狗と殺し合ったのも一度や二度ではない――そう呟きながら、刀身を露わにした仕込み刀を杖へと戻し、胴体だけでなく翼をも切り裂かれ、地に向かって落下していく天狗鬼を見遣る。

 

「妖力を飛ばすなんぞ高等な妖怪であれば無意識にでも出来ることじゃ。斬撃も共に飛ばすくらい容易く出来んと――四天王は名乗れんわい」

 

 修行不足じゃ。出直せ、若造――そう吐き捨てながら背を向け、天狗鬼が墜落した音を背にし、そして。

 

 そして――相対する。

 

「…………おい。嘘だろ」

「鎧将も、鑽鉄も、風頼天も――負けた。ってことは……四天王は――」

 

 どよめきが決闘場を包み込む。

 

 向かい合うは、かつて四天王を追われた老鬼と、人間から生まれ変わった青鬼。

 

 残すは――二体。

 

 鬼壱と碧。

 勝った鬼が――最強の名を受け継ぐ、最後の四天王となる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「申し訳ありませんでした」

 

 覚はそれはそれは綺麗な土下座をした。

 

 紅葉が「えー」とドン引きする中、土下座したまま覚は釈明を続ける。

 

「大変失礼なことをしてしまいました。十中八九違うとは分かっていましたが、もし『鬼』勢力が日ノ本征服へと動かない理由が十年前の戦争時における酒呑童子様の弱体化であったなら、あわよくば吸収する形で勢力を乗っ取れないかと思い、試させていただきました」

「頭を下げれば何でも正直に言っていいってことじゃないわよ」

 

 余りにも清々しく開き直る覚に、紅葉が冷たく言う。

 だが覚は「しかし、殺気だけで化生の前様の尾を容易く吹き飛ばすあの妖力の凄まじさたるや! この覚、感動致しました!」と聞く耳を持たない。

 

 こいつ別の意味で最強の妖怪なのではと、紅葉が再びドン引きする中、覚は酒呑童子に言う。

 

「先程も言いましたが、我々は別の目的を持っている。それが故に協力し合えます。どうか、もう一度だけ、私の言葉に耳を傾けていただけませんか」

「…………」

 

 酒呑童子は、振り下ろした己の手を八本の尾で押さえ込む化生の前を見る。

 化生の前は何も言わず、ただニコッと笑みだけを返した。

 

 そして、続いて酒呑童子は紅葉を見た。

 紅葉は深く息を吐きながら「――好きになさいな」と言って、そして「――あなたが、私達の頭領なんだから」と微笑む。

 

「…………」

 

 酒呑童子は、しばらく立ち尽くし――そして、再び玉座へ戻った。

 

 覚は「ありがとうございます。寛大な御心に、深く深く感謝を」と恭しく言い、そして。

 

「此度の戦争――我々『狐』勢力と、皆様方『鬼』勢力は、共に手を取り合うことが出来ます」

 

 覚はどこから取り出したのか、大江山から平安京まで、広範囲を示す地図を取り出して、歌うように説明を始める。

 

「何故ならば、目指すものが異なるからです。我々『狐』の目的は、いわずもがな『日ノ本征服』。そして、『鬼』の――酒呑童子様の目的は、右腕たる『茨木童子の奪還』。ここまでは、よろしいですね?」

 

 今更誤魔化すつもりはないのか、酒呑童子は覚の言葉に異を唱えない。

 覚は一つ頷いて続ける。

 

「だからこそ、『鬼』の皆様は勢力としての戦力を削ぐような真似をしてでも、四天王の穴を埋めようとしている。なぜならば、『鬼』の皆様が目指すのは戦争としての勝利ではないから。恐らくは――少数精鋭での短期決戦。我々『狐』勢力が『人間』達と激突している隙を突いて、一直線に安倍晴明の元へと向かい、四天王を主とする精鋭のみを連れて戦いを挑み、茨木童子を奪い返す。いかがですか、この私の推理は?」

「こっちを見ないで。気持ち悪いわ」

 

 紅葉は冷たく、きらきらとした笑顔の覚をこき下ろす。

 覚は些かも堪えていないが、紅葉の言葉は本心から出たものだった。

 

 気持ち悪い。気持ち悪いくらいに――正鵠を射ている。

 覚の推理は見事に正解だった。戦争の火蓋が切られようとしていると分かった時、酒呑童子はこの計画を四天王の三体のみに話した。

 

 悪路王と天邪鬼は、この計画が『狐』側に悟られないように、恐らくは『狐』側の大幹部が来るであろう、戦争の火蓋となり得る『力』の発生源である貧民街と、黒き陰陽師が誘う土御門邸へと向かった。

 

 そして、その間に鬼女紅葉は全国の鬼達に四天王最後の椅子に座る者を争わせる決戦が開かれることを酒吞童子の名を以て伝え、大江山に戦力を集結させる。例え、鬼達のこの動きだけが悟られても、遂に戦争に備えて戦力を集めさせたのだという風にしか映らない。外から見るだけなら。

 

 こうして中にまで入り込む者がいなければ。

 

(……なのに、まさか中に飛び込んできただけでなく、ここまで詳細に計画を推理出来る妖怪がいたなんて)

 

 心を読む妖怪・覚。本当に心を読んでいるかのようだ。

 だが、この計画は酒呑童子と四天王の三体しか知らない。ならば、先に平安京に潜り込んでいる天邪鬼か悪路王のどちらかの心を読んだのだろうか。

 

 しかし、化生の前の言葉通り、妖怪の能力ならば相手を上回る妖力がなければ通じない。この覚が、あの二体の鬼よりも強い妖力を秘めているというのだろうか。

 

(……それとも――)

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 紅葉がそんな思考に囚われている中、覚は流暢に計画を話し続ける。

 

「その計画、大いに結構。我々を存分に囮にしてもらって構いません。『狐』はあなた方の茨木童子奪還を全力で応援(さぽーと)致します」

「(さぽ……?)――いいの? ずいぶんと簡単に言うけれど」

「この計画は我々にとっても得しかないのです。鬼女紅葉殿」

 

 覚は地図上に小さな青い種火を生み出した。そして、平安京の心臓部である平安宮、更には()()()()()()()()()()()()()()()()、黒い種火を、花が咲くように次々と生み出していく。

 

「我々『狐』は、鬼以外の、およそこの国全ての妖怪種族を配下に治めています。しかし、この国では元来、()()()()()()()()()()()()だった。それほどまでに鬼という妖怪は強い。我々は数こそ膨大に保有していますが、突出した力を持つ個の妖怪はそれほど多くないのです」

 

 そんな我々でも、木っ端陰陽師や下っ端武者などとは十分に戦えます――と呟きながら、一際強く、大きく燃える黒火を地図上に出現させる。

 

「――しかし奴等『人間』の中にも、突出した『個』は存在する」

 

 その大きな黒火の数は、六つ。

 平安最強の神秘殺し――源頼光。

 頼光が抱える四天王――渡辺綱、卜部季武、碓井貞光、そして、坂田金時。

 

 そして、平安最強の陰陽師であり、妖怪の天敵――安倍晴明。

 

「奴等はそんじょそこらの妖怪では物の数にもなりません。我らが誇る大幹部でも、一対一ですら正直危ういと私は考えています。間違っても彼らの前では言えませんが」

「…………」

 

 紅葉はその言葉を弱気だと笑うことが出来ない。

 何故ならば、他でもない、自分達が――自分が、その身を持って知っているからだ。

 

 源頼光、頼光四天王、そして安倍晴明――彼等の強さを、その人間達の恐ろしさを。

 

 自分達は、実質的に、彼等――たった六人達の人間達に。

 

 十年前――徹底的に敗北しているのだから。

 

(私達は、あの日、種族として半数以上の同胞達を失った。四天王も、半分やられた。……それに比べて……雑魚はそれなりに屠ったとはいえ……奴等六人は、その数を一つたりとも減らせなかった)

 

 だからこそ――だろうか。

 牙は折れていない。闘志も失っていない。今度遭ったら、今度こそはその首を必ずやへし折ってやると心に決めている。

 

 だが、それでも――『鬼』として、種族として、戦争で『人間』に勝とうなどとは、もう思えなくなっている。

 

 復讐に燃えるわけでもなく、ただ奪われた仲間を救い出すことだけを考えている。

 妖怪たる、怪物たる、化物たる――鬼である、我等が。

 

(私は――私達は、怖がっているの?)

 

 人間を。奴等を。

 あの日、あの時――そう、それは、まるで、鬼のように。

 

 自分達の同胞達を、殺して、殺して、殺して、殺して、殺した――あの、人間達を。

 

 私は――そして。

 

 紅葉は、そっと、隣に座る酒呑童子を見遣ろうとして。

 

「それでよいのです。あなた方は、それでよいのです」

 

 覚はそう言いながら、地図上に新たに赤い火種を灯す。

 

「あなた方は奴等の強さを知っている。だからこそ、あなた方には奴等の相手だけをお願いしたい」

「……どういうこと?」

 

 紅葉の言葉に、覚は笑みを浮かべながら、赤い種火と青い種火を操作する。

 

「戦争において必要な『数』は我々が用意します。あなた方は強い鬼を数体『将』としてお貸し頂けるだけでいい」

 

 もちろん、派遣していただける数は多ければ多いだけ嬉しいですが――そう言いながら、覚は赤い種火を一つと、青い種火が数体で構成されるチームを作っていく。

 

「あなた方には、我々が貸し出す妖怪を率いていただきたい。戦争全体の指揮は私が取ります」

「急にこれまで敵だった鬼が現れて、自分達を率い出しても、そっちの子達は言うこと聞かないんじゃない?」

「雑魚ならばそうでしょう。しかし、先程も言ったとおり、妖怪とはすなわち鬼のことであるという認識は妖怪ならば誰もが持っています。そして、鬼と同じく、妖怪とは強さが全てという風潮は我々『狐』にも共通です。力を示せば大概は素直に言うことを聞きますよ」

 

 そして覚は、一際大きな赤い種火を、地図の上に出現させる。

 

「我々が平安京の各地で戦場を作ります。源頼光や四天王が討伐の為にちりじりになったら――あなた方は、真っ直ぐに安倍晴明の元を目指してください」

 

 紅葉は、地図の上に広がる仮想戦場を眺めて、呟くように言った。

 

「――さっきも言ったけど、いいの? これじゃあ、私達が一番おいしい所をもってっちゃうんじゃない? あなた方の負担だけが随分と大きいように見えるんだけど」

「先程も言いましたが、この作戦は我々にとって得しかありません。敵の中でも最も恐ろしい安倍晴明の相手を買って出て頂いているだけでなく、同時に相手取らなくてはならないと考えていた酒呑童子様までもが、言ってしまえば潰し合ってもらえるのですから」

 

 簡単に考えましょう――覚は指を立てて言う。

 

「あなた方は元から我々を囮に安倍晴明を狙うつもりだった。それを我々は分かった上で買って出る。だから代わりに安倍晴明を倒してください。あ、ついでに頼光や四天王に対抗出来る戦力を貸して頂けると助かります」

 

 我々が言いたいのは、つまりはこういうことですと、覚は言う。

 

 紅葉は思う――(……悪い話じゃない)と。

 

(元々、平安京全体を相手取る戦力は私達にはなかった。だからこそ『狐』と『人間』が潰し合っている隙を見て平安京へと侵入し、安倍晴明を叩くつもりだった。そのお膳立てを『狐』自ら買って出てくれる。……確かに『狐』からしたら安倍晴明と酒呑童子が潰し合ってくれるんだから益しかない。……強いて言えば、酒呑と一緒に突っ込むつもりだった四天王が離されるのが懸念といえば懸念だけと……話が違えばさっさと見捨てて酒呑の元に駆け付ければいい話。そもそも元の計画がバレている以上、ここで私達に断るという選択肢は――)

「分かった……それで……いい」

 

 何と返すか熟考していた紅葉の考えが纏まるのを待たずに、酒呑童子はさっさと返事をする。

 

 そのままぴょんと玉座から再び立ち上がって、すたすたと覚の――いや、化生の前の元へ歩み寄った。

 

「――よろしいんどすえ? 安倍晴明から茨木童子を取り戻した後に、やっぱり日ノ本欲しいとか言うのはなしやんね」

「日ノ本とか……どうでも……いい。……好きに……すればいい。でも――」

 

 鬼の頭領は真っ直ぐに、狐の姫君に向けて――杯を向けた。

 

「使えなかったら、殺すから」

「ふふ、それはこちらの台詞どすなぁ」

 

 そして、狐の姫君は、その小さな腕と自らの細い腕を組ませ、同じく手に持った杯を口に運ぶ。

 

 日ノ本を両断する二つの勢力の両巨頭――鬼の頭領と狐の姫君が、その杯を交わした時。

 

 決闘場から、その日一番の歓声が、大江山中に響き渡った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 元四天王。元星熊童子。

 元伝説であり、元童子。そして、四天王を降りる際にも、童子の名を捨てる際にも、酒呑童子から『鬼』の名を冠することを許された戦士――鬼壱。

 

 その経歴が語るまでもなく、鬼壱という鬼は――鬼勢力の中でも屈指の実力者である。

 

「――ここまでじゃ、小僧」

 

 現在空白となっている四天王最後の椅子。

 十年前まで、誰もが認める四天王最強であった鬼が、頭領たる酒呑童子の唯一隣に立つことが許された鬼が腰掛けていた、文字通りの『右腕』たる席。

 

 最後の椅子を懸けた、最後の勝負。

 残った二体の鬼の対決――それは観客席で見守る誰もが息を吞むような激戦となった。

 

 斬撃と衝撃が飛び交い、闘技場は粉々に割れた。

 互いに致命傷に近い、重く響く攻撃を何度もその身に浴びながらも、老鬼と少年鬼の小柄な二体の鬼の激闘は、これまで繰り広げられたどんな勝負も霞む程の凄まじいものになった。

 

 彼等の強さは、この場に居合わせた誰もが認めるものであろう。

 

 しかし――彼等の心は一つだった。

 確かに、鬼壱は落伍者だ。かつて手痛い敗北を喫し、『老い』という、妖怪にとっては最大級の屈辱的な呪いを受けし者だ。

 

 強さこそ全ての鬼にとっては、決して尊敬に値しない鬼だ。

 

 だが――それでも。

 

 彼等はただ、鬼壱の勝利のみを願っていた。

 

 誰もが――碧という、異端者の敗北のみを願っていたのだ。

 

「「「「「うおおおおおおおおおおおおおお!!!」」」」」

 

 だからこそ、この結果に会場は沸いた。

 

 倒れ行く若き青鬼に。立ち続ける老いた赤鬼に。

 

 前のめりに倒れてゆく碧を見ながら、この結果に、鬼壱は静かに思考する。

 

(……許せ、若鬼(わこうど)。確かにお主は強かった。しかし――)

 

 会場を包み込む大歓声。老鬼である自分の勝利に歓喜する彼等を眺めて、鬼壱は思う。

 

「――お主では、『茨木童子』になれぬ」

 

 今、懸けているのは只の椅子ではない。

 かつて、只の力の塊であった妖怪・鬼を種族として纏め上げ、()()()()()()()である酒呑童子の隣に立ち続け、誰よりも尊敬を集めて、鬼という種族の代表者となった『最強』の後継者だ。

 

 いくら強くとも、これだけ同胞達に忌避される存在では――その後釜は務まらない。

 

(……そもそも、今の儂に負けるようでは、その強さも不十分じゃがな)

 

 無論、自分が相応しいとは思わない。

 かつて勢力に敗北を齎し、四天王を自ら辞退した自分が、あの男の後継など務まるわけがない――が。

 

(それでも、こうなってしまった以上、責任は取らねばなるまい。先陣を切り、盾となるくらいなら、この老体にも使い所があろう)

 

 未だもう少し、彼女の右側には紅葉に立ってもらわなくてはならない。あの娘にも負担を掛けることになるが――仕方ない。

 

 後継者は――現れなかったのだから。

 

「……あの男の代わりなど……やはり、現れぬか――」

 

 

 その時――再び、地響きが響いた。

 

 

「――いる――わけ――ないだろう」

 

 歓声が、止む。静寂が、襲う。

 

 大江山全体が揺れたかのようなその地響きは――少年が、一歩を踏み出した音だった。

 

 青い少年鬼が、倒れ行く己の身体を支えるべく、踏み出した小さな一歩だった。

 

 血を吐き、足元を青く汚しながらも、少年鬼は――鬼のように、笑う。

 

「いるわけが、ないだろう……あんな男の代わりなんて。……いらない……だろう……あんな裏切り者の……後継なんざ」

 

 小さな身体に大きな刀傷を負った少年鬼は、それでも、更に一歩、大きく踏み出して――笑う。

 

 刀傷を急速に修復させながら――楽しそうに、嬉しそうに、鬼のように笑う。

 

「どいつもこいつも……勘違いしてさぁ。これは茨木童子の後継を決める戦いじゃない。茨木童子じゃ務まらなかった、あの裏切り者が逃げ出して、放り出した――あの御方の『右腕』。それに相応しい、今度こそ相応しい鬼を選ぶ為の――決闘なんだよ」

 

 少年の右拳が振るわれる。それは満身創痍の身で放たれたにも関わらず、これまでで最も速く、鋭く振るわれた一撃だった。

 

 鬼壱は反射的に杖を盾のようにして防ぐ。致命傷ではない――が、確かに、仕込み刀に罅が入ったことを感じた。

 

「僕が、『茨木童子』になれないぃ? 結構、結構、大いに結構! 僕はあんな鬼よりも遥かにあの御方に相応しい鬼になる! アイツが出来なかったことを、僕はやり遂げてみせる! 僕は――今度こそ、本物の! あの御方の右腕になるんだよぉぉおおおおおお!!」

「…………なるほどのぉ」

 

 茨木童子――その鬼の偉大さを、誰よりも知っているが故に、鬼壱では決して出てこない発想。

 

 伝説を受け継ぐのではない。伝説を――超える。

 

 本物を知らない。だからこそ――放てる。その大言壮語というにも青い、誇大妄想に。

 

「――若い」

 

 鬼壱には決して認められない。

 

 しかし、だからこそ――鬼壱では計れない、未知なる器。

 

(……それが大器なのか。それともただの歪な器なのか)

 

 それを見極める眼が、計れる器が、自分にはない。

 自分が持つ定規は、古く錆びた、何の面白みもない――老いたこの身に残った、使い古した技だけだ。

 

「では、それを証明してみよ。この老いぼれを、旧時代の遺物を、乗り越えて見事、その未来を示してみせよ」

「言われなくても。僕は年寄りに席を譲るような出来た鬼じゃなくてね。問答無用で退いて貰おう。――せめてもの手向けとして」

 

 面白いものを、見せてやるよ――そう言って、()()()()()()()()を見て。

 

 観客席は悲鳴に包まれる。我先にと逃げ出す者で溢れかえる。

 

 そして、それを見た――老鬼は。

 

「――――――――あぁ。()()()()()

 

 正しく、鬼を見たような言葉と共に。

 

 笑って――この世を去った。

 

 

 そして、地獄には、ただ一人の鬼が残されて。

 

 四天王最後の鬼が決まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 会談を終えた、鬼ヶ城頂上・玉座の間でも、その結果は見届けられていた。

 

「……決まったようですね」

 

 覚は思わず冷や汗を流しながら呟く。『鬼』は――とんでもない化物を隠していたものだと。

 

(この決闘も、まるでこの鬼を披露する為に用意されていた舞台であったかのようだ……披露? ()()。彼を迫害していたらしい他の鬼にか? 有り得るかもしれない。強さ第一主義の鬼とはいえ、こんなものを見せられたら一つにならざるを得ない。()()()()()()())

 

 それとも――と、覚は背後をちらりと見遣る。

 

 披露した対象は――恐怖を、植え付けられたのは。

 

(……いや、それはないでしょう。我々が今日、ここに来ることは知らなかった筈。――それとも)

 

 こうして今日、『(アオイ)』という化物の披露の場に、『狐』の妖怪が立ち会っているのも――もしかしたら。

 

(阿弖流為が――かの妖怪王の器がいなくなってから、この国の妖怪の頂点で在り続けた少女。……可憐な見た目で判断しては、容易く呑み込まれるということですか)

 

 ()()()()()によりその莫大な妖力に恐怖しない覚ではあるが――だからこそ、心がけなければならない。

 

 ここにいるのは、紛れもなく――日ノ本最大の妖怪、最強の鬼なのだと。

 

(……勝ったのね、(アオイ))

 

 そして、同じく決闘の結末を見届けた紅葉は、勝者の少年鬼を見遣る。

 恐怖で逃げ出した観客、倒れ伏せる敗者のみの決闘場で、ただ一体。

 

 ()()姿()()()()()少年鬼は、見下ろす紅葉の姿に気付いて、全身で勝利をアピールする。

 

 そんな碧に手を振り返しながら、紅葉は複雑な笑みを浮かべて。

 

(……これで、碧は――)

 

 思考に囚われそうになった紅葉に「それでは、我々もそろそろお暇させて頂きます」と覚が言う。

 

「とても激しい戦いだったようだ。動ける鬼は限られておられるでしょう。無理にとは申しません――それでも、少しでも手練れの鬼を我々に貸し出していただけると助かります。無論、悪意のない運用を約束しましょう。大戦(おおいくさ)となるでしょうから、絶対に死なせないと確約することは出来ませんが」

「……分かっているわ。こっちとしても、そちらの働き次第で成功確率が大きく変わるのだから。変な出し惜しみはしないわよ」

 

 助かります――そう言って、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()へと向かう覚は、振り向き様に、紅葉と酒呑童子に向かって。

 

「どうか――よい(いくさ)をしましょう」

 

 そして、黒い空間の亀裂の中に消えていく覚を見て。

 

(――()()()。……やっぱり、そういうことね)

 

 紅葉は眼を鋭く細めて確信する。

 

 そして、「――あ、そうそう」と。

 覚に続いて黒い亀裂の中に消えていこうとしていた化生の前は。

 

「そういえば、自分ら――随分と因縁があるみたいやけどぉ」

 

 紅葉へ――いや、真っ直ぐに酒呑童子に向かって。

 

 にやぁ、と。その傾国の美貌を、悪意たっぷりに歪ませて。

 

「源頼光さんら、御一行。足止めちゅう約束やけど――殺してしまっても構いませんかぁ?」

 

 狐の姫君――化生の前の、その言葉に。

 

 鬼の頭領たる、酒呑童子は。

 

 息を吞んで自分を見る鬼女紅葉の方を、一度たりとも見遣ることなく。

 

 暴虐的に膨れ上がった妖気の中で、淡々と言う。

 

「……頼光は……どうでもいい…………綱は……駄目……きっと…………茨木が……殺したい……筈だから…………そして――」

 

 そして、その名を、口にする時。

 

 酒呑童子は――無表情だったこれまでが嘘のように。

 

 鋭く眼を細めて、はっきりと。

 

 揺るぎなく――ただ一体の鬼として、宣言した。

 

「金時は――私のもの」

 

 手を出したら、殺すから。

 

 そんな莫大な殺意を持って放たれた言葉に。

 

 化生の前は、悪意で歪んだ笑みだけを残して――真っ黒な闇の中に消えていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 こうして、人知れずに、妖怪たちのみぞ知る首脳会談は終わり。

 

 最後の四天王が決まり――再び四体揃った大江山四天王が、鬼の頭領と共に、遂に大江山からの下山を始める。

 

 傾国の美女率いる魑魅魍魎と共に――人間達の京への侵攻を開始する。

 

 

 

 そして、そんな妖怪と戦う武士(もののふ)たちもまた、とある場所で前哨戦を繰り広げていた。

 

 平安京から僅かに離れた――通称『魔の森』。

 

 妖怪退治の専門家――平安武者。

 

 人間達の『四天王』が――遂に、動き出す。

 

 

 

 

 

 第三章――【大江山首脳怪談】――完 




用語解説コーナー⑲

・大江山

 京都府丹後半島に位置する山。
 標高832m。雲海の名所であり――酒呑童子伝説で知られる霊峰。一度は行ってみたい。

 実際は連峰である為、大江山と呼ばれる頂上をもった峰があるわけではないが、ここでは雲海の上に頂上があり、そこに城があるという設定。鬼ヶ島ならぬ鬼ヶ城。十年前の『大江山の鬼退治』においてもこの場所で最終決戦にして頂上決戦が行われた。

 古くから伝説が残る土地で、三つもの鬼退治の伝説が残されている。
 一つは、『古事記』に記された、崇神天皇の弟の日子坐王が土蜘蛛の陸耳御笠を退治した話。
 一つは、聖徳太子の弟の麻呂子親王が三上ヶ嶽(大江山の古名)にて3匹の鬼を討ったという話。

 そして、残る一つが、源頼光と頼光四天王が酒呑童子を退治したという伝説だ。

 大江山は鉱山として有名で、それに富を蓄積していた族がいて、それを都の勢力が収奪し支配下においた経緯を正当化するために、族を鬼ということにして伝説として広めたという説もあるが――何が真実かは誰にも分からず、一つ確かなのは、大江山という舞台は幾度となく伝説の舞台となってきたということ。

 この作品においては、個人主義だった鬼という妖怪を、酒吞童子という怪物を旗頭に、一つの勢力として纏め上げたとある『右腕』が――鬼達の住まう『家』としたのが大江山であるということ。

 そして、そんな『家』に人間たちが攻め入り、『右腕』を強奪してから――十年が経ち。

 遂に、鬼達は、自分達の同胞を救い出すべく、今度は自分達から、人間達の『(いえ)』へと攻め込もうとしている。

 これは――とある鬼が、己の右腕を取り戻そうとする物語だ。


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妖怪星人編――⑳ 英雄の背中

任せろ。オレがお前達を守ってやる。


 

 夜が怖くて嫌いだった。

 

 夜が怖い。闇が恐ろしい。黒という色が――僕はずっと大嫌いだった。

 

「いいんだよ、それで。お前はまだ、子供じゃねぇか」

 

 大きな掌――大きな背中。

 

 大きな人だった。大きな男だった。

 

 それは、ちっぽけな僕と違い、その大きな力で大勢の人達を救う――英雄の笑顔だった。

 

 夜は怖い。闇は恐ろしい。黒は――やはり、どうしても、嫌いだ。

 

 でも、この人の背中の後ろにいれば――どんな妖怪も怖くなかった。

 

「任せろ。何が来ようと、オレがお前達を守ってやる」

 

 そう言って、大きな(まさかり)を担いだ男は。

 

 ぐっと膝に力を溜めて、四方八方から飛び掛かってくる妖怪達に、その鉞と――黄金の雷を放った。

 

 それは瞬く間に闇を切り裂き――いつも、僕の心から、恐怖を吹き飛ばしてくれたんだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 日ノ本は乱れきっていた。

 

 財政は悪化し、それを補う為に貴族は重税を課して、民は困窮し更に貧しくなっていく。

 

 やがて懐が寂しくなった豪族達は、別の土地の豪族の元へ攻め入り――土地や財を奪うようになった。飢えた人間同士で争い、人同士で傷つけ合うようになった。

 

 そんな人間の負の感情が、妖怪達に栄養と付け入る隙を与え、夜の世界を見る見る内に侵食していく。

 

 それでも、人間達は争い合うことをやめなかった。

 かつて隆盛を誇ったものの、やがて地位や権力を失った、この国には山程いる没落貴族達――彼等は、自分達が仕える上司の命を受け、腕っぷしに自信がある者を集めて、武器や武具を買い揃えて、争い事の専門集団を組織した。

 

 それが――武士の始まりだ。

 これまで雅な芸術ばかりを磨き上げ、弓や剣などもあくまで芸事の一環としてしか身に付けてこなかった者達が――人を殺める為の技術として磨くようになった。

 

 当然、人同士の争いならば、より人を殺める技術が優れている方が勝つ。

 そうして強い武士を抱えている豪族は、その勢力を拡大化させていく。

 

 より強い武士を、より多く抱えていることが、より優れた豪族である――そんな図式が出来上がってくるのも時間の問題だった。

 

 そして、段々と武士の重要性が高まっていくにつれ――武士が政治的にも力を付けていくのも、また当然の流れだった。

 

 武士はやがて武士団となり――大きな集団となっていく。

 

 それは、豪族同士の勢力争いとは、表面上は無縁である筈の――平安京の内部でも同じだった。

 

 既に平安京の中でも妖怪が溢れ返るようになって久しい。

 自分達の身を守ることに関しては全力を注ぐことに定評のある貴族達が――武士に目を付けるのも、また必然だった。

 

 そんな流れの中で、平安京内での政闘に敗れて没落し、まともな手段では日の目を浴びることの出来ない家が、一縷の望みを掛けて武家となるという事例も生まれ始めた。

 有力貴族に武士として雇ってもらい、繋がりを得て、恩を売って――自らの家を再興しようと企てる、安易な家系。

 

 長々と語ってきたけれど、つまりは何を隠そう――そんな安易で安直な愚かしい家系が、他ならぬ僕の家というわけなんだけれど。

 

「武士なんて、やろうと思ってやるようなもんじゃねぇよ。オレが言うのもなんだが――命がいくらあっても足りやしない」

 

 目の前の男が――この日ノ本全土を見渡しても、間違いなく五本の指に入る武士がいうのだから、それはきっと正しいのだろう。

 

 事実、没落貴族から平安武士への華麗なる転身を決意した我が父は、初めての任務であっさりと妖怪に食われて死んでいるのだから。

 

 平安貴族の中でも誰もが知るような名門中の名門に、運良く――あるいは運悪く、か――雇ってもらうことに成功し、これで我が家にもようやく再興の目がとはしゃいでいた父だったが、本来ならばそこでおかしいと思うべきだったのだ。

 

 そんな名門中の名門が、我が家のような何の実績も碌な装備も人材もいない発足したてのなんちゃって武家に、どうしてお声を掛けたのか。

 

 つまり――それだけ人手が欲しい、武士と名乗るのならば猫の手だって欲しい程に、厳しい任務であったということ。

 

 なにせ、その任務とは――日ノ本最強の妖怪・『鬼』の本拠地へ攻め込むという大戦(おおいくさ)。『大江山の鬼退治』だったのだから。

 

「思えば、よくここまで大きくなったもんだ。あの時の泣き喚いていたガキが、今や立派な当主様ってんだから」

 

 男はそう言って僕の頭を撫でる。

 言葉とは裏腹に、この人にとっては僕はいつまでも子供らしい。

 

 それも無理のないことだ。第一印象が悪すぎる。事実、あの時の僕は子供だった。

 

 発足したての武家である我が家は、当然、抱えている人手も少なかった。

 だが、右も左も分からない新米武家だった我が家も、当然、その時の初任務が失敗の許されない大事なものだということくらいは分かっていた。

 具体的には、この任務での活躍が、そのまま我が家の命運を左右することくらいは分かっていた。

 

 だからこそ我が父は、この任務に当時十才になったばかりだった僕を急いで元服させて、槍を持たせて同行させた。我が家には妹はいても弟はいない。跡取りの替えがいない状態でそんな選択をした父は、今思い返しても相当に混乱していたのだと思う。そうでなければ何の伝手もなく、いきなり武家への転身など図る筈もないが。

 

 お告げを受けたのだ――と、それはもう満面の笑みでいきなり宣言し、父が家中を混乱の渦に叩き込んだあの日を、今でも鮮明に覚えている。

 

 思い返せば、あの笑顔こそが、父の生前に浮かべた最も晴れやかな表情だった。

 

 何せ――その後の父の姿は、泣き喚き、恐怖で壊れた哀れな末期しか記憶していない。

 

 初任務であった『大江山の鬼退治』――結論からいえば、我が家で生きて帰ったのは、当時十才の僕だけだった。

 

 語り継がれる伝説では『人間』側の大勝利だと伝えられているが、一応は当事者の一人だった僕から言わせてもらえるならば、あんなのは勝利でも何でもない。

 

 勝ったのは『人間』じゃない――『英雄』だ。

 

 僕の頭を撫でてくれている、この人のような――規格外の『英雄』が、規格外に強かっただけのこと。

 

「――金時様。それで、僕たちは何処へ向かっているんですか?」

 

 あの日――『大江山の鬼退治』のあの日。

 

 父の死体の下に隠れて無様に生き残った僕を見つけ出して救ってくれた英雄。

 

 当主である父を亡くし、付いてきてくれた僅かな家臣の殆どを失った状態で、十才で家督を継いで当主となった僕を、部下として雇い、家族を養うだけの財を与え続けてくれた英雄。

 

 あの日から――十年。

 

 僕は、あの日の英雄と同じ年齢になった筈なのに、ずっと追いつける気がしない程にずっと遠い背中を――だけど、ずっと、その温かく大きな手が届くところに置いてくれる、この人を。

 

 ずっと――見てきた。

 

 そして、ずっと、ずっと思う。

 

 坂田金時(さかたきんとき)様――もし、真っ黒に暗い、ゆっくりと終わりに向かっているこの日ノ本を、明るく救う英雄がいるのならば。

 

 それはきっと、この大きな人だろうと。

 

「――決まってんだろ」

 

 英雄は、快活に笑う。

 

 あの日と同じく、大きな鉞を肩に担いで。

 

 大きな背中を見せて、陽の光のような金色の髪を振って、僕らの闇を吹き飛ばし――明るく照らし出す。

 

「苦しんでいる人を、助けに行くんだよ」

 

 僕は、その人が大きく踏み出した一歩に続くべく、真っ暗な夜の森の中へ踏み込んでいった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 前後左右が闇に囲まれている中、焚いた火を囲んで野営をする。

 

 僕らは数十人もの武士を引き連れた集団ではあるが、火を焚いているのは集団の先頭である僕らだけだ。

 

 それは、僕らがこの集団全体の方向を決める首脳陣だからという意味もあるし――万が一、この火に妖怪が引き寄せられた時、真っ先に戦う囮の役割をするからでもある。

 

「大分、森の深い場所まで進んだが――目的の獲物の気配は感じねぇなぁ。どうなってんだ、貞光の旦那」

 

 首脳陣といっても、僕はただそこに同席しているだけ。

 たまたま、この人と付き合いが長くて、たまたま、僕がこの隊にいてずっと生き残っている古株だからってだけ。

 

 本当の首脳は――この隊の首であり脳は、この御二人だ。

 

 誰もが知る、老若男女に愛される英雄。頼光四天王が御一人。

 足柄山の金太郎こと、轟雷の(あやかし)狩り――坂田金時(さかたきんとき)様。

 

「焦るな、金時。ただでさえ、この森は深く、日中でさえ遭難者が絶えない。……こういう場所は、決まって厄介な妖怪がいるもんだ。夜が明けたら、頼光(らいこう)さんと季武(すえたけ)も合流する。そっから、四人で一斉に虱潰しだ。それで仕舞いだ」

 

 同じく頼光四天王の御一人であり、渡辺綱様と並ぶ古株である影の纏め役。

 碓氷峠(うすいとうげ)荒太郎(あらたろう)こと、大鎌の妖狩り――碓井貞光(うすいさだみつ)様。

 

 この御二人こそが、今回、この『魔の森』に出現したという謎の妖怪退治へと派遣された源頼光武士団の分隊の首脳である。僕はただこの御二人の話の間に入るだけの焚火管理係に過ぎない。

 

 御二人が話に集中できるように、焚き木を火の中に放り込む作業を続けていると、金時様は貞光様の言葉に「――そう、そこだよ、旦那」と意見を出した。

 

「そもそも、おかしいと思わないか。確かに、この魔の森じゃあ、随分と人間が行方不明になってる。それでも、それがどんな妖怪の仕業なのかは、未だに分かっちゃいねぇ。そんな妖怪相手にオレと貞光の旦那の二人がかりってだけでも奇妙なのに、そこに頼光の棟梁と季武の小僧まで加わるなんざ――」

「確かに、一見すると過剰戦力のように思えるな。これでは平安京に綱しか残らなくなる。金時はそれが不安か?」

「……いや、綱の兄貴に限ってそんなことは思わねぇよ。ただ――」

 

 貞光様は「というか季武を小僧呼ばわりするのをやめろ金時。おまえの方が年下で後輩だろう」といつも通り苦言を呈し、金時様が「オレの方が背も高いし風格も上だ」と聞く耳を持たずに首を振る中、神妙な顔で黙りこくった金時様に、貞光様は溜め息を吐きながら言った。

 

「確かに、この状況は何者かが意図して作り上げた可能性が高いな」

「!」

「……意図して?」

 

 貞光様の言葉に、金時様が目を見開く。

 僕の疑問の言葉に、今度は貞光様が焚き木をくべながら言った。

 

「そもそも、俺達の本来の仕事は平安京の――(みやこ)の守護だ。俺達はこうして都外の妖怪退治も請け負っちゃいるが、それは俺らにしか倒せない妖怪が出現した場合だけだ。……それでも、いつもなら四天王の誰かを派遣するくらいが常だった」

「……でも、今は綱様以外の全員が京の外へと駆り出されている」

「ああ。何よりも解せないのが、頼光様まで外に出ているってことだ」

 

 源頼光様は確かに平安貴族の出世街道からは外れているけれど、まちがっても僕の家のような没落貴族じゃない。

 京の外の実りのいい土地に荘園を持ち、むしろ財政難の平安京内にしか屋敷を持たない貴族よりもずっと潤沢な財を持っている。その上、ご自身が誰よりも強い力を持つ武士でいらっしゃる御方だ。

 

 何より平安京の実質的な頂点でおられる左大臣様・藤原道長様とも懇意な関係を築いている頼光様は、当然ながら滅多なことでは前線に立たれない。そんな軽い御身ではない。

 

 ご自身が所持する荘園との往復で京を出ることがあっても、今回のように京を手薄にしてまで妖怪退治に出るということは、今の御立場になってからは有り得なかった。

 

「例え、それほど凶悪な妖怪が出たとしても、出陣するのは季武の小僧と綱の兄貴であった筈で、都に残るのは頼光の棟梁の筈だ」

「――頼光様の御耳に届いたのは……妖怪・牛鬼(ぎゅうき)が出現したという報せだった」

 

 牛鬼だと!? ――金時様は腰を浮かせて驚愕する。

 僕は金時様が何故そんなにも驚いているかが分からず「……えぇと、牛鬼というのは――」と貞光様に問い掛けた。

 

「かつて頼光様が遠い東国の寺で遭遇して討伐したという大妖怪ですよね。それが再び出現したと」

「……ああ。頼光様はその報せを受けた瞬間に血相を変え、御供も連れずに一目散に飛び出していった。季武が何とか付いて行くことに成功したが……」

「……牛鬼が現れたっつうんじゃ、頼光の棟梁がそうなっちまうのも無理はねぇ」

 

 それで、どうなんだ? と、浮いていた腰を下ろしながら問う金時様に、どうとは? と貞光様が金時様の顔を見ずに問い返す。

 

「分かってんだろ。……どうなんだ? それは本物の牛鬼だったのか?」

「遠い遠い浅草寺(せんそうじ)まで向かった頼光様の御動向を俺が把握しているわけがないだろう――と、言いたい所だが」

 

 言葉を切った貞光様は、すっと己の懐を開けた。

 すると、そこから一羽の蒼い燕が飛び出して宙を舞う。

 

「それは、晴明の爺様の式神かっ!?」

「ああ。この燕が関東にいた頼光様からの伝令を届けてくれた」

 

 かの大陰陽師・安倍晴明様の式神ならば、牛車(ぎっしゃ)で数週間掛かる距離を飛び越えて届いたとしても何の不思議もない。

 

 燕が咥えて届けた一枚の手紙には、こう書かれていたらしい。

 

「頼光様曰く、浅草寺に現れた牛鬼は――『影』だったそうだ」

「影、ですか?」

「ああ。妖力がただそれらしい形に整えられて現出しただけの紛い物。当然、本物の牛鬼に及ぶべくもない。頼光様が現地に到着した時には、現地の武士達に抑えられていたらしい」

「――現地の武士に? 紛い物とはいえ、牛鬼の形を得られるだけの妖力の塊を……オレら以外の奴等がか」

 

 金時様は貞光様の言葉に驚きの表情を見せる。

 しかし貞光様は「――金時。妖怪と戦う力を持つのは、何も俺等だけじゃない」と諭すように言う。

 

「確かに、俺達は()()()()を持っている。だが、それは俺達が特別なわけじゃない。晴明様も言っていただろう。俺らのような力を持つ存在は、いつの世も存在している。そして――妖怪のような異形の存在がその力を増す時、より強く特別な力を持つ者が、より多く生まれてくるのだと」

 

 まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――貞光様は、己の手を見詰めながら言う。

 

 金時様も、また火を黙ってじっと見つめていた。

 

「…………」

 

 常人ならざる力を、妖怪と戦う力を持って生まれた――妖狩りの力をその手に宿す戦人(いくさびと)

 

 強き力を持つが故に、より多くの戦場を駆け続ける使命を持って生まれた者達。

 

 きっと、何も持たざる只人である僕には、想像もつかないものを抱えていらっしゃるのだろう。

 

 だから僕は、少しでもこの重い沈黙を打破すべく「……それで、頼光様達は東国からこちらへ向かっているのですか?」と話しを進める。

 

 僕の言葉に「――ああ。頼光様もそこで気付いたらしい。これは、何者かによる罠であると」と言葉を返してくださった。

 

「罠だと? それって、やっぱり――」

「ああ。よりにもよって牛鬼の紛い物を用意するということは、十中八九、頼光様を平安京から引き離す為の策だ。いくら頼光様でも、東国からここまですぐさま蜻蛉(とんぼ)帰りってわけにはいかないからな」

「ってことはよぉ。この魔の森の件も――」

 

 再び腰を浮かせる金時様に、「いや、この森で民の行方不明者が発生しているのも、先行隊として送り込んだ武士や陰陽師が姿を消しているのも確かだ。何かいるのは間違いない」と貞光様が制す。

 

「だが、これが俺達も平安京から引き剥がす策の一環っていうのも十分にあり得る話だ。つまり、俺達がやるべきことは――」

「――この森にいる何かを、できるだけ速やかに退治して、平安京へと戻るということですね」

 

 僕の言葉に「じゃあよぉ――」と、金時様が腰を下ろさずに、その黄金色の髪を掻き毟りながら言う。

 

猶更(なおさら)、ここでのんびりしてねぇで、さっさとその何とかを退治に動くべきなんじゃねぇのか、旦那。棟梁や小僧を待つなんて言ってねぇでよぉ。っていうか、棟梁達にもこんな場所に寄らねぇでさっさと真っ直ぐに平安京に戻ってもらった方がいんじゃねぇのか?」

「……そもそも、頼光様も季武様も、この前まで坂東(ばんどう)にいらっしゃったんですよね。何者かの策によって。平安京にしろ、この森にしろ、明日になんてやってこれるものなんですか?」

 

 金時様の言葉に続けて僕が疑問をぶつけると、「そこは問題ない」とまず僕の疑問に貞光様は答えて下さった。

 

「そもそも、この燕の式神を頼光様に持たせていたように、晴明様はこれが敵の策である可能性を見透かしていた。故に、こんなこともあろうかと、頼光様に長距離移動術式の術符を渡していたそうなのだ」

 

 大人数を運べるものではないらしいが、頼光様の独断専行が功を奏した形だな。頼光様と季武だけを運ぶならば問題ないらしい――と貞光様は言う。

 

「しかし、晴明様本人が扱うのとは違い、あくまで術式が込められた術符によるものだ。簡単な術ならばまだしも、ここから東国まで一気に人を移動させる術式だからな。術者本人ではない使用者が発動するとなるとそれなりに時間が掛かる。故に、早くてもここに来れるのは明日の朝となるらしい」

「だからよぉ、そんな大層な術式を使うんなら、なおさらさっさと平安京にまで飛んじまえばいいじゃねぇか。そもそも、こんな森の妖怪なんざぁ、オレと旦那だけでも――」

「――いや。そういうわけにもいかん」

 

 貞光様は、そこで初めて、子供を制する大人の声から――冷たい戦士の声へと変えていった。

 

 金時様が目を細め、僕が少し臆して唾を呑む中、貞光様は再び焚き木を放りながら言う。

 

「晴明様の御言葉だ。頼光様と季武を、俺等の援護としてこの魔の森へ送るのはな」

「……どういうことだよ。オレらだけじゃ勝てねぇってか」

「……分からん。少なくとも、すんなりとはいかない。()()()()()()()()()()だろう」

 

 ここで初めて、貞光様は立ち上がり、金時様と真正面から目を合わせた。

 そして、その身の丈以上の大鎌を抱えながら、淡々と言い聞かせるように言う。

 

「忘れるな、金時。頼光様や我々を京から引き剥がすという策が動いているならば、それは間違いなく近いということだ。『鬼』や『狐』が平安京へと攻め入る――かつてない妖怪大戦争の開戦の刻がな」

「…………」

「そして、我々はその戦争にて、五体満足で戦いの最前線を張る責務がある。こんな森の妖怪相手に負けることはおろか、大きな傷を負うことすら罷りならん。出来得る限り無傷で倒し、すぐさま京へと戻ることが使命なんだ」

 

 分かるな、金時――そう、貞光様は言う。

 

 常人よりも遥かに強い力を持つ――伝説の妖狩り。

 頼光様、そして四天王の皆様は、今では平安京に暮らす民の中で――間違いなく英雄として信仰されている。

 

 日々の暮らしに困窮し、妖怪に怯える毎日を過ごす中で、何もしてくれずに重税だけを課す貴族などよりも、直接彼等の前に出向いて、妖怪を祓って助けてくれるこの方々こそが――民衆にとっての英雄なのだ。

 

 そのことを、貞光様は理解している。

 自分達の代わりなど存在しない。自分達こそが、彼等の最後の希望なのだと。

 

 だからこそ、無闇な危険は冒せない。

 ここはまだ最後の戦場ではない。自分達は命を懸けるべき戦争は――これから勃発するのだと。

 

「夜明けを待ち、頼光様らと合流する。そして、明日の夜に決着をつける。これでよいな、金時」

「いや、よくねぇぜ、旦那」

 

 金時様の言葉に、目を吊り上げて怒声を放とうとした貞光様も――遅れて気付く。

 

 そして、貞光様が気付いて数秒して――僕でも気付いた。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 いる――すぐ傍に。

 夜の闇の中に。

 

 自分達を取り囲む、森の黒い影の中にいて――こちらを、じっと、見ているのだ。

 

「あちらさんは、そんな悠長な策に付き合ってくれねぇみたいだぜ」

「……どうやらそのようだ」

 

 ならば、策は変更だ、金時――貞光様が、抱えていた大鎌を構える。

 

 金時様と背中合わせになり、鉞を肩に担いで笑う金時様に向かって言う。

 

「夜が明ける前に終わらす。そして、明日の夜明けにやってくる頼光様らと合流して――夜が更ける前に、平安京へと帰還するぞ」

「だからずっとオレは――」

 

 そして、金時様は。

 

 大きく跳躍し、雷を纏う鉞を、真っ黒な闇で満ちた森の中へと叩き付ける。

 

「――そっちのがいいって言ってんだろう、がッッ!!!」

 

 瞬間――雷光が伝播し。

 

 黒い夜闇を切り裂いて、妖怪退治の号砲とばかりに轟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雷光が轟くのと同時に、一羽の鳥が飛び立った。

 

 それと同時に数十の妖怪達が人間達に向かって襲い掛かっていくが、鳥はそのまま逆方向へ――深い森の奥深くへと飛んでいく。

 

 闇夜に溶け込むその鳥は、(ふくろう)ではなく――(からす)だった。

 

 やがて、その烏は滑空しながら森の中へと入っていき――己を遣わせた主の元へと帰還する。

 

「――ご苦労でした。よい働きでしたよ」

 

 烏を迎え入れたのは、高い枝に腰掛ける烏頭黒翼の妖怪だった。

 黒い羽毛に覆われているが、その身体は屈強で、山伏のような服を纏い錫杖も所持していた。

 

 烏天狗(からすてんぐ)――そう呼ばれる妖怪は、遣わせた烏を労うと、自身と同様に背の高い枝に座る妖怪へと語り掛ける。

 

「どうやら、我々の目論見が外れ、明日にでも源頼光はここに到着してしまうようです。よって、予定とは異なりますが、既にかの一行への襲撃を独断にて開始してしまいました」

「…………話が違うぞ。烏天狗」

 

 否、その妖怪は枝に腰を掛けていなかった。

 どういった原理か、その妖怪は枝の裏側にまるで重力に逆らって立っているかのように、足裏を枝に吸い付けて、頭を下にする恰好で烏天狗の報告に遺憾の意を示す。

 

 その妖怪は僧衣を身に纏っているが、肉も皮も血も涙も失っている。

 剥き出しになっているのは骨ばかりであり、声帯すらないにもかかわらず、かたかたと歯だけを鳴らしながら、それでも意味のある言葉を発する。

 

 妖怪・狂骨(きょうこつ)は、感情を見せない骸骨の顔に、それでも不満を表しながら言った。

 

「本来の決行は明日の夜であった筈だ。我が手駒の数も十分ではない」

「この魔の森で亡くなった死体を、あなたが操る手駒として再利用するという案は非常に魅力的でしたが、作戦には臨機応変さも必要です。今でさえ、本来予定では一人であった筈の四天王が二人もやってきている。ここに更に四天王がもう一人、加えて源頼光まで加われば、いかに――かの、土蜘蛛(つちぐも)様といえど」

「貴様。我が主を愚弄するか」

 

 烏天狗の言葉に、いつの間にか背後へと移動していた狂骨は低い声で唸るように言った。

 己の首の後ろに突き付けられた鋭い骨の切っ先に、烏天狗は振り向く素振りすら見せずに言う。

 

「……その御言葉。やはり、今宵に至っても、我らが『姫君』を主と認めては下さりませんか」

「愚問よ。我が主はあの御方のみ。『鬼』だの『狐』だの、貴様らの好きに争うがよい」

「ですが、天下分け目の大戦は最早、目前。それは、あなた様にもよくお分かりなのでは?」

 

 それこそ、愚問よ――と狂骨は言う。

 

 眼球すら失った窪んだ眼で、ただ真っ直ぐに、己が信じる主だけを見詰める妖怪は、語る。

 

「例え、あの御方は日ノ本全土を敵に回してでも戦い続ける。相手が人間であろうと、妖怪であろうと。鬼の頭領であろうと、狐の姫君であろうと、伝説の陰陽師であろうと、最強の神秘殺しであろうとな。私はそれを傍でお支えするまで」

 

 狂骨は、いつの間にか自分達の足元、木の根元の地面を覆い尽くさんばかりに――骸骨の兵士を生み出していた。

 

 烏天狗がそれを見下ろしていると、狂骨は「――あの御方は、退屈しておられる」と語り続ける。

 

「手応えのない武士、歯ごたえのない陰陽師との戦いに、絶望のような飢餓に苦しんでおられる。いつしか静かな惰眠だけが癒しとばかりに洞窟に篭り切りになったあの方を、私は憂いているのだ。烏天狗」

「存じております」

「だからこそ、貴様の胡散臭い企みに乗ったのだ。それに応えて、貴様は頼光四天王という馳走を連れてきてくれた。感謝はしている。雑魚は些か余分だったがな」

 

 故に、これから雑魚を掃除する。貴様も手伝え、烏天狗――そう言って狂骨は、烏天狗の引き連れた部下妖怪が攻撃を仕掛けている一団に向けて、続いて己が生み出した骸骨兵団を仕向けた。

 

 一斉に骸骨達が走り出していく中、狂骨は尚も烏天狗に言う。

 

「貴様の目論見は知らん。己の『姫君』に付き従わない我が主と頼光四天王を潰し合わせるのが目的か、どうにかして我が主を己が陣営に引き入れたいのか――まぁ、好きにするがよい。我が主は貴様ら如きにどうにか出来るような御方ではない」

 

 狂骨の言葉に、烏天狗は何も返さず微笑むばかり。

 

 そして狂骨は、兵団の最後尾を務める、一際大きな骸骨兵の肩に飛び乗ると、未だ枝の上に座る烏天狗を見上げるようにして言う。

 

「だが、余り我が主を舐めるなよ。我が主が洞窟を出た際には、退屈凌ぎの相手に貴様の『姫君』を皿に載せてもよいのだぞ」

「――ご忠告、痛み入ります」

 

 最後まで笑みを崩さずに頭を下げる烏天狗。そんな彼に「……食えぬ奴だ」と吐き捨て、狂骨は闇夜の中へと消える。

 

 そんな狂骨を見送る烏天狗は――その笑みを、より醜悪に歪めた後。

 

「――さて。私も動きましょうか」

 

 漆黒の翼を広げて、真っ暗な夜の森の中へと飛び立っていった。

 




用語解説コーナー⑳

・頼光四天王

 源頼光に仕え、彼が特に重用した四人の武士の総称。
 渡辺綱、卜部季武(うらべのすえたけ)碓井貞光(うすいさだみつ)、坂田金時の四人。

 誰もがこの時代における最高峰の呪力を持つ英雄であり、文字通りの百人力の戦闘力を持つ。

 基本的には平安京の守護を請け負っている平安武者だが、彼らは他の武者と隔絶した力を誇る為に、日ノ本各地で彼らにしか退治出来ない妖怪が現れた際には、京を飛び出して地方出張に出掛けたりする。

 安倍晴明曰く、妖怪のような『異形のもの』の勢力が増していくにつれ、彼らのような化物と戦う力を持った強い人間が生まれるという。

 まるで、星が、己の上に蔓延る外敵を排除すべく、抗体を生み出すように。

 それを――人は英雄と呼ぶ。


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妖怪星人編――㉑ 飢えた蜘蛛

オレがその妖怪を、さっさと殺しちまってもいいんだろ?


 

 誘い込まれている――坂田金時は、そう察して目を細めた。

 

 焚火(あかり)に群がるように殺到した強襲に対し、先手を打つ形で夜闇に突撃した金時だったが、逃げ惑う妖怪を追撃していく内に、いつしか森の中で孤立させられていた。

 

(どうする? 来た道を戻るか? ……いや、オレを孤立させることが目的なら、この先にはオレを討ち取れるという算段の罠か――もしくは、それだけ強力な妖怪を配置している筈だ。それを真っ向から食い破ってからでもいいだろう。あっちには貞光の旦那もいることだしな)

 

 元々は、この魔の森に棲み着いているとされる妖怪を退治しにきたのだ。それも、晴明が金時や貞光だけでは心許ないと、わざわざ頼光や季武も合流させようとしているほどの。

 

 上等だ――と、金時は鉞を担ぎ、そして――その一点を睨み付ける。

 

「――出て来い。妖怪がオレを見下ろしてんじゃねぇ!」

 

 瞬間、その高枝が衝撃と共に吹き飛んだ。

 

 一斉に数羽の鳥が飛び立つ。その中に、一際大きな――黒い影があった。

 

「ほほう。殺意を衝撃として飛ばすことが出来るとは――聞いていた以上に『こちら側』ですなぁ。坂田金時殿」

 

 ただでさえ少ない月明りを遮るように、金時の真上を飛ぶ影は、一応は人の形をしていた。

 両腕があり、両足がある――しかし、それは嘴を持っており、羽毛に塗れており、背中からは黒翼が生えていた。

 

 金時は鉞を帯電させながら「……誰だ、テメェ」と問い掛ける。

 

「我が名は、妖怪・烏天狗。『狐の姫君』にお仕えする、しがない下っ端妖怪でございます」

 

 妖怪が名乗るのと同時に――再び、虚空に衝撃が轟いた。

 物理的な衝撃を伴う殺気。今度は雷も添えて金時はそれを放ち、烏天狗がいた座標にぶつけたが――。

 

「頼光四天王・坂田金時殿。妖怪がお嫌いなのはお察ししますが、まずは話し合いましょう。その為に私は、貴殿を招待したのです」

 

 烏天狗は、いつの間にか金時の背後を飛んでいた。

 金時は「……『狐』の妖怪か。じゃあ、これは噂の『姫君』の企てってことかよ?」と、ゆっくりと振り向きながら、目を眇める。

 

 こいつは、強い。少なくともただの下っ端ということは有り得ないと。

 

(……妖気って意味じゃあ、そこまで強いものは感じねぇ……が、だからこそ、不気味だ)

 

 金時は警戒心を更に引き上げていると、烏天狗は「そうであるといえますし、そうでないともいえますな」と烏頭に笑みを浮かべながら言う。

 

「正直に白状いたしましょう、坂田金時殿。貴殿に――この先の洞窟に坐わす、とある妖怪を退治していただきたいのです」

 

 そう言って、烏天狗は闇夜の森の奥を指差す。すると、烏天狗が指さした先に――怪しげな種火が出現した。

 次々と、まるで道を照らすように、紫色の不気味な種火は森の奥へと続いていく。

 

「…………どういうことだ?」

 

 引き上げた警戒心を更に引き上げ、より強く烏天狗を睨み付ける金時。

 烏天狗はそんな覇気を受けながらも、涼しげにつらつらと言の葉を連ねる。

 

「貴殿はさきほど、私がここにいるのは狐の姫君の企みではないかと問いましたが、それに正確にお答えしましょう。我々の目的は――貴殿ら頼光四天王と、件の妖怪をぶつけることなのです」

「その妖怪にオレ達を潰させようってことか」

「無論、それに越したことはありません。しかし、貴方達がかの妖怪を退治していただいても、それはそれで我々としては歓迎すべきことなのです」

 

 烏天狗の言葉を理解しきれない金時に、烏天狗は「端的に申し上げるならば――」と、その人間のような指を立てながら言う。

 

「この先の洞窟にいる妖怪は、我々『狐』の配下の妖怪ではないのです。かといって『鬼』というわけでもない。今、この日ノ本において数少ない、どちらの配下にも属していない第三勢力――否、独立勢力の妖怪なのです」

 

 無論、そういった妖怪もいないわけではないのですが――と、烏天狗は。

 

 何かに引き摺り込むように、金時に向かって語り続ける。

 

「その妖怪は、無造作に放っておくには、無軌道に独立させておくには、余りに危険なのです。味方に引き入れられないのであれば――いっそ、殺してしまいたい程に」

 

 偏に――その妖怪が、強過ぎるが故に。

 烏天狗は、民衆の英雄が、()()()()()()()()()()()()()が、決して無視することのできない、その言の葉を打ち込むようにぶつける。

 

「…………」

 

 金時の鉞を握る手に力が入ったのを見逃さず、妖怪は更に深く、引き摺り込むように続けた。

 

「故に、私達『狐』といたしましては、貴方がたが勝とうが、その妖怪が勝とうがどっちでもよいのです。強いて言うならばできるだけお互い削り合っていただけるのが最上ですな。私達が漁夫の利をいただけるように」

「……なら、どうしてお前はここにいるんだ?」

 

 金時は、しばらく閉じていた口を開き、烏天狗に問い掛けた。

 

「お前はオレ達とその妖怪を潰し合わせたいらしいが、この森では明確に人間の被害が出ている。なら、遅かれ早かれオレ達はその妖怪を退治する為にここに駆け付けていた。お前達が何をしなくともな」

「それでは遅すぎるのです。後顧の憂いを断つには、今、この時機が最後でした。ええ、我々もそれに越したことはなかったのですが、あの妖怪が予想外に大人しく、そして、あなた達が予想外にもたもたしていた。だからこそ、我々が――私が一肌脱いだのです」

 

 烏天狗は言う。

 首を傾げる金時に――妖怪に相応しい、醜悪な笑みを持って。

 

「この森に人間達を引き込んだのは私です。あなたが言う、この森で続発している人間の被害は私が生み出した――殺し潰したものです」

 

 英雄(あなたがた)を、こうして招き寄せる為にね――バチィンと、今度は雷が放たれた。

 

 音をも超える、正しく光速の一撃も、烏天狗を射抜くことは出来ない。

 金時は瞬間的に血が昇った頭で、こうして自分の目の前にいる烏天狗は、妖怪が放った幻像なのだと把握していた。

 

 本体は――祓うべき悪は、今もこの森のどこかで、一方的に金時の姿を見据えている。

 

「それが、私と彼らとの契約なのです」

 

 再び現れた黒い影。

 月光を遮る烏は、雷を纏う英雄に向けて、滔々と語る。

 

「かの妖怪は、強き者との決闘に飢えておられる」

 

 その妖怪は――余りにも()()()()と。

 

「かの妖怪は強かった。それ故に、戦いを愛し、激闘を求め、死闘を生き甲斐としていた。しかし、それ故に――弱者との戦闘に、人間との戦争に、嫌気が差していたのです」

 

 その妖怪にとって、人間とは余りに弱く、余りに脆く――余りにつまらない存在だった。

 

 故に、彼はいつしか人間を襲うことも止めて――暗い洞窟に引き籠るようになってしまったと。

 

「それでも、彼が強過ぎる妖怪であるということは変わりない。そして、その強さ故に誰かに従う、仕えるということが致命的に向いていなかった。彼が求めるのは、あくまで強き者との戦闘のみ」

 

 そうして、『狐』の妖怪からの使者すら返り討ちにした彼は、四六時中、惰眠を貪り続けた。

 憎き太陽が昇る昼も、妖怪であるにも関わらず夜に起き上がることすらせずに。

 

 彼の強さに心酔し、彼に付き従うことを己が全てと定めたとある妖怪が、そんな現状を憂うようになるのは時間の問題だった。

 

「そこで私は、彼と、そして彼に仕える者と、とある契約を結びました。それこそが――彼と、そして彼の退屈を晴らすことの出来る強き者との決闘の場を整えること」

 

 そして、選ばれたのが――この日ノ本にて知らぬものはいない、妖怪退治の専門家(スペシャリスト)、民衆の英雄、英雄であり続けなければならない青年。

 

 坂田金時は、己を指差す烏天狗に向けて――再び雷光伴う殺意の衝撃を飛ばす。

 

「――あなたを送り届けた後は、私は先程のあの場に戻り、雑魚を掃除します。そうすれば碓井貞光殿も、あなたの援護に駆け付けるでしょう」

 

 闇夜を切り裂く閃光が晴れると、再び金時の後方の上空から妖怪の声が響く。

 一体、何体の幻影を生み出すことが出来るのか。金時は舌打ちしながら振り向いた。

 

「――ですからどうか、それまでは持ち堪えていただけると助かります。私の契約不履行になってしまいますので」

「……………」

 

 ザバッ、と、幻影が切り裂かれる。

 振り向き様に放っていた鉞が烏天狗の影を貫いたが、ゆらゆらと影は揺れるだけで、その醜悪な笑みは健在だった。

 

 くるくると回転しながら、この世界でたった一人の使用者の元へと帰ってくる鉞を、金時は影に背を向け――種火の道へと向かいながら受け止めた。

 

「――お前の口車に乗ってやる。お前の掌の上で好きなように転がってやるよ」

 

 この先に、その引き籠り妖怪はいるんだろう――と、金時は鉞を担ぎ、妖怪が齎した灯りのみが照らす魔の森へと足を踏み入れる。

 

 烏天狗の笑みがさらに醜悪に歪む中――金時は。

 

「だが、最後まで――お前の思う通りに行くとは思うなよ」

 

 闇に消える前に、一度だけ振り返り――妖怪に向かって「テメェ、さっき言ったよな」と、獰猛な笑みを浮かべて言う。

 

「オレがその妖怪を、一人でさっさと殺しちまってもいいんだろ?」

 

 烏天狗は、英雄のその言葉に――ニヤリと、楽しげに笑い。

 

「ええ――期待していますよ。『足柄山の龍鬼』殿」

 

 その禁じられた忌み名を口にした烏天狗に――金時は轟雷を落とす。

 

 本当に天から雷が落ちたのかと見紛う程の一撃を背に、金時は闇の森へと消える。

 

 恐らくはこれでも殺せていないであろう妖怪に、金時はぼそりと小さく呟いた。

 

「――精々、人間を見縊ってろ、妖怪」

 

 貞光の旦那だけじゃねぇ――と、金時は。

 

 無防備に晒す背中を、その大きな背中を、妖怪に向けながら言う。

 

 その背中を預けたのは、同じ四天王の英雄だけじゃない。

 

「――オレの仲間に、雑魚なんて一人もいねぇよ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ふむ。これで雑魚は粗方、掃除し終えたか」

 

 僧衣を纏った骨の妖怪・狂骨は、背の高い枝の上でそう呟いた。

 

 眼下に広がるのは、無数の骸骨に囲まれた、同じく僧衣を身に纏った大男。

 

「貴様が、頼光四天王などと大層な呼び名を持つ人間――碓井貞光で相違ないか?」

「……いかにも。拙僧が碓井貞光だ」

 

 そうか、喜べ、人間――と、狂骨は骸骨の包囲網の一点、己が立つ高枝の真下を開けて言う。

 

「この先に、強者を求める御方が待っている。貴様は強いのだろう? ここを通ってよいぞ――許可する」

「……なるほど。それで雑魚、それで――掃除、か」

 

 貞光は狂骨の言葉に理解を示したように頷き、頭上の妖怪に問い掛ける。

 

「この強襲は、その待っている御方とやらに見合う強者を選別するもの、ということかな」

「正確には、ここに来ているという頼光四天王とやらを見つけ出す為のものだな。私には人間共の個体認識など出来ん」

 

 だから、こうして掃除をした――と、狂骨は言う。

 

 蠢く骸骨の群れ。その足下には、()()()()()()があった。

 

「…………」

「コイツ等は、魔の森(ここ)に迷い込んだ人間達の死体を、私が妖力を込めて傀儡にしたものだ。自由意志などない。ただの人形に過ぎない。こんなものに踏み潰されるような弱者、こんなものから逃げ出すような雑魚など――あの御方に捧げるに値しない」

 

 故に、もし、誰もここに残らなければ、頼光四天王とやらが混ざっていようと、全員を失格とするつもりだった――そんな狂骨の言葉に、貞光は何も答えなかった。

 

 今もざわざわと蠢き続ける骸骨に、踏み潰され続ける同胞へ、一度だけその目を向けた貞光は、高みから見下ろす妖怪に言う。

 

「それで、拙僧は合格を頂いたわけだ」

「とはいえ自惚れぬなよ、人間。あくまで雑魚ではないと判じたまでだ。我が主に見合う強者など、日ノ本広しといえど存在するとは思えぬが――我が主の退屈を紛らわすことくらいは出来よう」

 

 そして、せめて、あの洞窟から外に出る切っ掛け程度にはなってくれたら、と、狂骨は思うが、口には出さない。それを誤魔化すように「――分かったなら、さっさと行け。あの御方をこれ以上、待たせるな」と吐き捨てる。

 

 貞光は、そんな狂骨の言葉に。

 

 ゆっくりと、その手に持った――大鎌を構えて。

 

「――――――」

 

 一閃。

 体全体を使って、大きく横凪ぎし――骸骨の包囲網を切り裂いた。

 

(――――すまぬ)

 

 貞光は心中で、たった一言。

 自分が助けることが出来なかった人間に――切り裂いた骸骨なのか、それとも踏み潰された同胞へなのか、たった一言、誰にも聞こえることのない懺悔を零して。

 

 己を取り囲んでいた死の囲いを、()()()()()()()()()()()()()

 

「……何の真似だ」

 

 狂骨は人間の蛮行に、カタカタと鳴らした歯から低い声を漏らす。

 貞光は妖怪の質問に、かかっと不敵な笑みを漏らして返した。

 

「折角の誘いだが、断らせてもらおう。今、拙僧はその道を進むわけにはいかぬ」

「……怖じ気づいたか、人間。未だ姿すら見ぬ我が主に」

「如何様に受け取ってもらっても構わぬが、拙僧がすべきことは、おぬしの主というその妖怪の退屈を紛らわせることではなく――貴様をここで止めることだ」

 

 貞光は、骸骨の群れが晴れることで鮮明に露わになる、グチャグチャに踏み潰された同胞の死骸に目を細めて、己を見下ろす妖怪を見上げる。

 

「拙僧がここを離れたら――貴様、彼らの後を追うであろう?」

 

 貞光は、この骸骨の包囲網を形成される際、己と、そして地に転がる五名の同胞が身を挺して逃がした、残る二十五名の同胞を思った。

 

 自分を主の元へ送ったら――この目の前の骸骨は、残された仲間を、殺しに行くだろうと。

 

「――無論だ。万が一、貴様らの後を追いに戻ってこられて、我が主の戦いに水を差されでもしたらどうする? 駆除は徹底的にすべきだ。人間(ムシ)一匹たりとも逃がすことはせぬ」

 

 これは、我が主にとって久方ぶりの戦闘(ごらく)なのだ――そう語る狂骨に、己の肩に大鎌を戻しながら「――なら、拙僧の相手はおぬしだ。おぬしをここで止めることが、命を張った彼等に報いる、拙僧の務めだ」と言う。

 

「――下らぬ」

 

 骸骨の僧は、森の闇の中に妖力の糸を伸ばした。

 そしてグイッと引っ張り出すのは――無数の骨により形成された怪物だった。

 

 使用した()()は十、二十の人間ではないだろう。

 森の中で暮らす獣や、そして他種族の妖怪も含まれているようだ。

 

 背の高い木々で形成された森とはいえ、今までどこに隠れていたのだと思うような、それは巨大な骨獣だった。

 

「私程度、さっさと殺せると思ったか。先程も言ったが――自惚れるな、人間」

「……おぬしの話じゃあ、その主様(あるじさま)は弱者に用はないんだろう。ならば、拙僧が証明して見せよう」

 

 大鎌を構える僧兵は、その醜悪な怪物を前にしても、尚も不敵に笑って宣言する。

 

「ご自慢の切り札(とっておき)と、それを操るおぬし自身をあっさりと屠り――拙僧が貴様の主を退治するに相応しい強者だと」

 

 その、自分はおろか、己の崇拝する主すら軽んじるような僧兵の言葉への怒りを――狂骨の怒りを、代弁するように、骨獣は吠えた。

 

「――――――ォォォォォォオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 狂骨と同じく、震わせる声帯も発声器官も持たぬ筈の骨獣の咆哮。

 吹き散る唾液すらも幻視出来るような迫力のそれを真正面から受けても――僧兵の不敵は止まらない。

 

「……それに、案外、拙僧が出向くまでもないかもしれぬぞ」

 

 表情を浮かべる筈もない骸骨の面を、それでも苦渋に染めているのだろうと伝わる程の怒気を放つ狂骨に、貞光は言う。

 

「そちらにはもう金時が向かっている筈だ。アヤツが行くのだ。一人で片を付けていても、拙僧は何も驚かぬよ」

「たかだか人間一人に、我が主が――負けると?」

 

 嘗めているのかッッ!!! ――と、今度は骨獣と共に吠える狂骨に。

 

 嘗めているのはどっちだ――と、貞光は、笑う。

 

「妖怪ごときに、アヤツが負けるものか」

 

 金時は――強い。そう、笑みを消して断言し。

 

 そして、殺せッッ――と、己が作品に対して命ずる骸骨の僧に、命を受けて己に向かって襲い掛かってくる骨獣に。

 

 大鎌の僧兵は、民衆の英雄と同じ言葉を口にした。

 

「それに――あまり、人間を嘗めるなよ、妖怪」

 

 その必殺の大鎌を、数多の妖怪を退治してきた得物を――()()

 

「ッ!?」

 

 骨獣の突進を受け止め、両腕の筋肉を膨れ上がらせ――()()

 

 巨大な骨獣を、高枝の上から自分達を見下ろす、妖怪に向けて。

 

 これ以上――己の後ろで眠る、同胞の死骸を辱めまいとばかりに。

 

「拙僧の仲間に、雑魚などいない。我が身を盾に同胞を逃がした彼らも。そして――」

 

 己が役割を察し、その務めを果たそうと駆け出した彼らも――と。

 

「私の仲間を、侮辱するな」

 

 碓井貞光は――その静かな怒りを、決闘の号砲として放った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 涙が横に流れる。噛み締めた唇から血が滴り落ちる。

 

 それでも――後ろだけは振り向かない。

 ただ、前だけを向いて――目の前の妖怪の壁を破るべく、その槍を突き出した。

 

 そして、妖怪の悲鳴を掻き消すように、僕は腹の底から怒声を発する。

 

「足を止めるなッ!! 味方の背中を守りながら進めッ!!」

 

 既に骸骨の群れはいない。

 目の前に立ち塞がるのは、種々雑多な小物妖怪の群れ。

 

 コイツ等ならば、陰陽師の呪力が込められた武器が通用する。

 単純な腕力が必要だった、あの人間の死骸の傀儡ではない。経験の浅い部下達の心に葛藤や躊躇を生むものではない――妖怪だ。

 

 それならば、僕たちは進める。

 武器を振るえる――殺せる。戦える。

 

「諦めるなッ! 生きて帰るぞッッ!!」

 

 骸骨の妖怪は、きっと貞光様が倒してくれる。

 魔の森の主も、きっと金時様が殺してくれる。

 

 だから、僕は、僕の出来ることを。

 脆弱な僕たちには出来ないことを――英雄は成し遂げてくれる。

 臆病な僕たちには出来ないことを――先輩たちは、引き受けてくれた。

 

 未来ある僕たちを。未来しかない若者(ぼくたち)を、逃がす為に、その身体を張って、その命を捧げてくれた、あの五人の英雄(せんぱい)たちの想いに応える為にも。

 

 僕たちは戦う――僕たちは、逃げる。

 

 この部下達(みらい)を守ることが、僕の妖怪退治(たたかい)なんだ。

 

「何としても生き残れッ! この森を抜けるんだッ! 朝になれば頼光様達がやって来るッ! あの方達を出迎え、援軍に送ることが、僕達の――辿り着くべき勝利だッッ!!」

 

 僕の声に、部下達は声を上げて応える。

 

 平安武士の――寿命は短い。

 僕の父のように、何の才覚も計画もなく、その道に足を踏み入れる愚者はもちろんだが――もっと単純な理がある。

 

 人間は――弱い。

 本来ならば、人間は妖怪になど勝てる筈もないのだ。

 

 神秘殺し・源頼光様や、妖怪の天敵・安倍晴明様。

 坂田金時様ら四天王の方々が――特別なだけで。

 

 異常な、だけで。

 人間は弱い。脆弱で、臆病で、涙が止まらないほど悲しいことに、血が出るほど悔しいことに――弱い。

 

 皮膚が刀を弾くほどに固く、人間の身体を容易く貫く牙や爪を持ち、常識が通用しない特性を備え、澱んだ妖気と人間の恐怖だけを材料に無限にその数を増やす――妖怪に、人間なんかが勝てる筈もない。

 

 それでも――きっと、死にたくなかったから。

 だからこそ、その知恵という武器だけで、陰陽術や呪力というものを見出し、編み出し、鍛えて、その身を守る(すべ)を手に入れてきたけど。

 

 一部の英雄を除いて――その頼りない武器を振るうには、扱うには、人間という生き物は余りにも、弱すぎて。

 

 だからこそ、その数をみるみる内に減らした。

 陰陽師も、平安武士も――妖怪に立ち向かう、勇気ある者達こそが、率先して死んでいった。

 

 今も、僕らの為に道を繋いでくれた、偉大なる先輩が骸骨に蹂躙されたように。

 

 いつの間にか、大江山の鬼退治の時に――父や一族の屍の中に隠れて無様に生き延びた、僕のような臆病者が。

 

 この一団の首脳会談に()()()()()()()()()()()

 この未来ある新参者(わかもの)達を、その背中で()()()()()()()()()()()()()

 

 人間は――弱い。

 

「…………ッ!」

 

 重い。余りにも重い。

 身の丈に合っていない重責だ。嫌な汗が止まらない。槍を持つ手が無様に震える。

 

 僕は――英雄じゃない。

 いつ死んでもおかしくない凡人だ。

 この予め呪力の篭った武器がなければ妖怪を殺すことも出来ない――どこにでもいる、ただの人間だ。

 

 あの人のようにはなれない。あんな大きな背中を見せることは出来ない。

 

 それでも――僕は。

 

「陰陽師を中心に円を作れッ! 彼が術を発動する時間を稼ぐんだッ! その術の発動を合図に、一気にこの包囲網を抜けるッ!!」

 

 強く――なりたい。

 

 父を、祖父を、叔父を――誰一人として、一族を守れなかった僕だけれど。

 

 それでも、まだ、僕には家族がいる。

 帰りを待つ母が――守るべき、妹がいるんだ。

 

 脆弱な僕だけれど、臆病な僕だけれど、余りにも頼りない――小さな背中の僕だけれど。

 

 せめて、家族にとっては――英雄でありたい。

 立派とはいえなくても、相応しい当主でありたい。

 

 いつか、僕こそが一家の主だと、胸を張って、大きな背中を見せたいから。

 

「――戦えッッ!!!」

 

 渾身の力で、槍を突き出す。

 妖怪の頭部が吹き飛び、鮮血が舞う。そして、背後から合図の声が響き、倒れ込むように道を開けた。

 

 炎を纏う突風が吹き抜ける。

 陰陽術によって放たれた呪力の奇跡によって――妖怪の包囲網に穴が空けられる。

 

「今だっ! 妖怪に止めをなんて考えるなッ! 朝が来ればコイツ等は闇に帰る! 今は一人でも多く生き残ることを考えろっ!」

 

 僕は先陣を切るように、その穴を抜け、森の闇の中に突っ込んでいく。

 

「走れっ! ――生きろっ!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その弱き人間達の奮闘を――その妖怪は文字通りの高みから見下ろしていた。

 

「……………なるほど」

 

――オレの仲間に、雑魚なんて一人もいねぇよ

 

 漆黒の翼を持つ妖怪・烏天狗は、かの英雄の言葉を反芻して、素直に感嘆していた。

 

「あくまで念の為でしたが、なるほど、戻ってきて正解だった。私が連れてきた雑兵では、彼らは止められそうにない」

 

 幹部ですらない烏天狗が連れて来ることが出来る妖怪などたかが知れているとはいえ、れっきとした『狐』勢力の戦闘要員だ。

 

 彼らと狂骨の『死骸傀儡』を持って数の力で強襲を掛けて、雑魚を排除し、四天王だけを『土蜘蛛』へと献上する計画だったが――。

 

「……ここで彼らが森を抜け、源頼光らを()()()()()引き連れて戻ってくるようなことがあれば、流石の土蜘蛛といえど厳しいでしょう。無論、私としてはそれでも一向に構わないのですが――」

 

 烏天狗は、烏頭に醜悪な笑みを浮かべる。

 本来ならば磨り潰す予定だった人間共だ。金時も契約通りに土蜘蛛の元へと送り届けた――ならば、少しくらいは、()()()()()()()()()()()()

 

(――私にとっては、()()()()()()()()()()ですからね)

 

 そして、烏天狗は、羽織っていた着物の懐へと手を伸ばして――とある巻物を取り出す。

 

 まるで陰陽師が式神を封じるような、術符によって封をされているそれを――開く。

 

 眼下で集団を率いる、その名も知らぬ一人の青年へと目を向けて。

 

「さぁ――これで計らせていただきましょう。あなたの――」

 

――英雄としての、可能性(うつわ)を。

 

 そして、頼りない月光が照らす暗き森に。

 

 一体の『鬼』が――愉悦の笑みと共に放り込まれた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その場所は、月明りすら拒む闇で満ちていた。

 

 しかし、その場所に一歩、男が足を踏み入れると、これまで森の中をそうしてきたように、道標の妖しい種火が、ぼっぼっぼっと洞窟内を照らしていく。

 

 その火はやがて、洞窟の最奧の寝床にまで届いた。

 一段高い場所にあるその寝床の両端に用意された篝火に、一際大きな炎が咲く。

 

 妖しく照らされるのは、巨大な(シルエット)だった。

 何本もある腕を頭の下に敷き、見るからに退屈そうに横になっている。

 

 まだ眠りたいのに、無理矢理日光をぶつけられたように。

 その影は不機嫌を隠そうともせず、ゆっくりとその巨体を起こす。

 

「――狂骨。起こすなって言ったよな。少なくともあと千年くらいはよぉ」

 

 ガシガシと、一番上の左腕で頭を掻く。

 その怪物には――左腕が三本存在した。

 

 右腕も三本。二本の足を含めると――八本の八肢(あし)を持つ、その怪物は。

 

「――つれねぇこと言うなよ。こっちは引き籠りのガキと遊んでくれって頼まれたから嫌々来てやってんだぜ」

 

 その狂骨って奴は知らねぇけどな――そう、背に浴びせられる声に「――アァ?」と振り向くと。

 

 眼前に――雷光が迫っていた。

 

 怪物は反射的に、あるいは鬱陶しそうにその雷を頭を掻いた手で受け止めて――弾かれた。

 

「――――ッ!?」

 

 弾いたのではない。弾かれたのだ。

 それは怪物が思っていたよりも、その挨拶代わりの雷の威力が高かったことを示していた。

 

 ビリビリと、雷という意味だけでなく、衝撃という意味で痺れている己の掌を見詰める怪物は――その醜悪な相貌を来訪者へと向ける。

 

 ぎょろぎょろとした複眼が、巨大な牙が――その男へ向けられた。

 

「…………テメェ、誰だ? オレぁ――土蜘蛛(つちぐも)だ」

 

 ゆっくりと、だが確かに――歓喜の色を滲ませて。

 

 その寝台から巨大な足を下ろして、名乗るに値する不躾な侵入者を歓待する。

 

 己よりも一回りも二回りも大きい、この広い洞窟を一気に狭く感じさせる迫力を放つ怪物――妖怪に。

 

 鉞を担いだ英雄は、妖怪に名乗る名などないと、いつものように告げようとして――笑う。

 

「オレは金太郎――いや、源頼光が臣下、四天王が一人――坂田金時」

 

 英雄は――人間は。

 

 同じく、歓喜に震えながら、堂々と名を返した。

 

「――――ッ!!」

 

 それは久しく感じることのなかった――紛うことなき、昂りだった。

 

 全身の血が沸騰するような興奮。妖怪への憎悪よりも勝る――圧倒的な、歓喜。

 

 ああ――今の自分はきっと、見るに堪えない表情をしているのだろう。

 

 英雄足らんと、英雄にならなければならないと――己を律する理性を吹き飛ばす、己に刻まれた根源。

 

 ()()()()()()()()()()()()()と戦える――殺し合うことの出来る、昂揚。

 

 そして、初めて出会えた――その歓喜を、分け合うことが出来る、同類の存在に。

 

 坂田金時は、笑う。そして――。

 

「行くぜ、妖怪(バケモノ)――ッ!!」

「――来いや、人間(バケモノ)ッ!!」

 

 地を蹴り、跳び上がり、鉞を振りかぶる。

 大気を震わす雷光を纏わせ、それを落雷の如く振り下ろした。

 

 迎え撃つは、三発の右拳。

 巨大な体を存分に捩じり、それを大砲の如く振り放った。

 

 激突――洞窟の隅々まで衝撃を走らせた、その邂逅は、この上なく示していた。

 

 

 出会うべくして出会った――けれど、けして出会うべきではなかった。

 

 彼らは、きっと、そんな妖怪(バケモノ)と、英雄(バケモノ)だったのだと。

 




用語解説コーナー㉑

・妖怪第三勢力

 この時代の妖怪勢力は、『鬼』と『狐』に大きく二分されている。

 だが、かといって全ての妖怪が、この両者のどちらかに属しているというわけではない。

 鴨桜ら『百鬼夜行』も無論だが、平安京の闇の中で息を殺して潜んでいる『平和主義者』たちもそうだし、日ノ本の地方各地の神秘郷に隠れ潜んでいるものらも存在する。

 そんな中で土蜘蛛は、第三者ならぬ一匹狼を貫いている。
 鬼からも狐からも隠れ潜むことなく、その姿を堂々と晒して、その強さを威風堂々とひけらかしていた。

 鬼のみを同胞とする『鬼』は彼に干渉しなかったが、所属妖怪を問わない『狐』は当然ながら彼にコンタクトを取り、スカウトを行った。

 が――見事に返り討ちにされた。

 そんなわけで、土蜘蛛は『狐』から要警戒対象としてブラックリストに載せられ、どうにかしてこいと烏天狗に指令が下った。

 そんな彼が選んだ手段が、魔の森に頼光四天王を招き寄せての、決戦のセッティングであった。


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妖怪星人編――㉒ 星人狩り

いつの世も少なからず存在するらしい。怪物に対する『力』を持って生まれてくる『人間』は。


 

 まるで鍛冶師が灼熱の鉄塊を鍛えるような音が、薄暗い洞窟内に響き続けていた。

 

 ぶつかるのは無双の英雄の(マサカリ)と、暴悪の怪物の――六つの拳。

 

「――――っぐ!」

 

 言うまでもないことだが、戦闘において手数とは極めて重要な意味を持つ。

 手数が増えるということは攻撃の回数が増えるということであり、自分の攻撃時間(ターン)が長くなるということでもある。

 

 攻撃は最大の防御ともいう。

 自分の攻撃を無限に繋げ、敵に攻撃の機会を与えなければ、()()()()()()()()()()。ずっと一方的に攻撃を繰り出すことが出来る。

 

 だからこそ、戦士は手数を増やす為に、より速く攻撃を繰り出すべく、素早く動く。何故なら、振るえる武器は限られているから。人間の手は――二つしかないから。

 

 だが――土蜘蛛の拳は、六つある。

 

 金時の身の丈程もある巨大な腕が――六本。

 六腕の怪物・土蜘蛛。

 

「――――ぐ、っ、ちぃ!!」

 

 しかも、その一つ一つが、一発一発の拳が、金時の渾身の力で振るう鉞と同等の威力。

 普段ならばその剛力と俊敏さにより、自分の攻撃時間(ターン)で埋め尽くし、敵に攻撃する暇を与えずに圧倒する金時が、正にやり返されている。

 

 無理矢理に守勢へ回される。攻撃できない。そも――攻撃を防ぎきれない。

 

「足元が留守だぜ、人間ッ!!」

「ッ!?」

 

 そして、土蜘蛛はその最大の武器――六本腕に頼り切らない。

 巨躯を支える二本足、それも巧みに使いこなす。

 

 その巨体からはあり得ない機敏な動き。敏捷性すら金時に匹敵する。

 

 金時も意表を突く土蜘蛛の足払いを跳躍して反射的に避けるが――続いて地を這うように繰り出された、本命の三発同時の浮き上がる左拳を避けることは出来なかった。

 

「ぐぅ、はァッ!!?」

 

 遂にまともに受けてしまった、どてっ腹を貫く一撃――いや、三撃。

 

 大男といっていい金時の巨体は軽々と吹き飛ばされ、洞窟の天井へと叩き付けられる。

 

 そして、土蜘蛛はそんな金時に追い打ちをかけるように――()()()()()()()()()()

 

「な――!?」

 

 天井に激突すると同時に着弾したその糸の塊は、金時の大きな身体を天井に縫い付けるように固着する。

 三つの拳が叩き込まれたどてっ腹が、土蜘蛛の白い糸によってまるでペンキのように色付けされ、瞬間的に乾いたそれが固まり剥がれない。

 

(こんな飛び道具までもってやがるとは――それに威力も凄まじい。普通の人間なら、この糸の砲撃だけで身体が木端微塵に吹き飛んでるくらいの衝撃だ)

 

 金時は、己の真下で、ぐるぐると右の三腕を回し――その三つの拳に凄まじい妖力を溜めている妖怪を、大妖怪を眺めて、笑う。

 

 これが――妖怪・土蜘蛛。

 

「さぁ――どうする、人間」

 

 不気味な複眼で見上げてくる土蜘蛛に――金時は、獰猛な笑みを返し。

 

 天井に張り付いた、()()()()()()()()()()天井を破壊する。

 

「――ッ! ほう」

 

 ばらばらと破片が落ちてくるのも構わず、土蜘蛛は構えを解かない。

 このまま貼り付けの状態を享受するようならば自分からこの拳を届けに行くつもりだったが、やはりあの人間は自力で糸の拘束を逃れてみせた。

 

 そして、奴は思った通り、落下と共に自分へ一撃を食らわそうと目論んでくる。

 離れた安全地点への着地ではなく、土蜘蛛()が強烈な一撃の為に妖力を溜め(チャージし)ていることを分かった上で、自らも鉞に雷を纏わせながら――反撃を試みる心積もり。

 

 面白い――土蜘蛛は、金時の一挙手一投足を一つも見逃すまいと捉えながら迎え撃つ。

 

 射程距離。

 先に放たれたのは――腕長(リーチ)の長い土蜘蛛の拳だった。

 

 同時に放たれる――が、それぞれ違う着地点へ放たれる三拳。

 点ではなく面を制圧する攻撃。一発の拳は防げても、身体のどこかには重い一撃()を受けてしまうであろう大妖怪の必殺に――金時は。

 

「――ッ!?」

 

 両手で持っていた鉞を片手に持ち換えて――自由になったもう一方の片手で、土蜘蛛の拳を()()()

 

 どうしても躱し切れない拳を見極め、その拳を弾くことで、身動きの取れない空中での体勢移動を敢行する。

 

 そして、土蜘蛛の――背中へ、通り過ぎ様に。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

 これが――英雄・坂田金時。

 

「ぐぁっ――ッ!?」

 

 咄嗟に片手に持ち替えたことで、利き腕ではない左手での一撃となってしまったが、雷を纏うことで威力を増していた鉞は、土蜘蛛の背中を浅くではあるがしっかりと切り裂いた。

 

 ようやく決まった一撃(クリティカル)に、金時は笑みを浮かべるが――瞬間、表情が凍り付く。

 

「――――ッ!?」

 

 振り抜かれなかった左腕――三本の左腕が、背後の金時を迎撃に動いたのだ。

 

 まるで自動(オート)で敵を排除に動いたが如く。だが、それを認識するよりも前に、渾身の一撃を終えたばかりの金時もまた、バク転のような動きで危険地帯から抜け出していた。

 

 どちらも――化物染みている。

 そして、紛れもなく、彼らは妖怪(バケモノ)で、英雄(バケモノ)で――そして、強者(バケモノ)だった。

 

「「――テメェ、強ぇなぁ」」

 

 再び距離を取って睨み合う――笑い合う両者は、一度だけ、そう呟いて。

 

 言葉を交わし合う時間すら惜しいと言わんばかりに、再び拳を握り、再び鉞を構えて――そして。

 

 再び――激突する。

 

 熱い鉄塊を鍛えるような、灼熱の戦いを再開させた。

 

 妖怪と英雄は、引きつけ合うように――殺し合う。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、この戦場でもまた、妖怪と英雄が殺し合っていた。

 

 辺り一面に撒き散らされた骨の残骸を――骨の獣が踏み潰す。

 

 この世ならざる怪物の咆哮を上げる骨獣は、それを――悲鳴のように、轟かせながら吹き飛んでいた。

 

「ゴォォォォォオオオオオオオ!!!」

 

 バキバキと木々を薙ぎ倒しながら、その巨体を倒れ込ませる骨獣に、それを操る傀儡師は、骸骨の面を呆然と固める。

 

「――馬鹿な」

 

 そして、そんな隙を――その大鎌が見逃す筈もない。

 

「――ッ!?」

 

 闇夜に閃くその斬撃を、狂骨は骨の杖で受け止める――が、その下から伸びるように迫ってきたその大鎌は、瞬間に何の支えもなくなかったように軽くなる。

 

 それに狂骨が戸惑っている間に――その僧兵は木の幹を駆け上がっていた。

 

「な――!?」

 

 碓井貞光――彼もまた、金時と並んでも遜色のない大男である。

 だが、その巨体に見合わぬ敏捷な動きでもって、僧兵は狂骨の後ろを――いや、上をとった。

 

 そして、振るわれる拳骨。

 呪力を込められた大鎌ではない――が、今の平安京でも数少ない、己の体内で呪力を練り合わせることが出来る人間の一人である碓井貞光の拳は、それだけで妖怪を屠ることの出来る『呪具』となり得た。

 

 狂骨は咄嗟に腕を上げて防御(ガード)を試みる――が、そんな骨の身体の盾を貞光の拳は容易く貫く。

 

 その僧兵の拳は、骸骨僧の右腕を破砕し――頭蓋骨に衝撃を届かせた。

 高枝から地に吹き飛ばされる、その直前に、立ち直った骨獣の背中に助けられた狂骨は。

 

 先程とは立ち位置が逆転し、いつの間に回収したのか、大鎌を手に取り戻している僧兵を見上げて、憎々し気に言った。

 

「――貴様。本当に、人間か?」

 

 人非ざる動きを可能にし、妖怪をも殴り飛ばす拳を振るう貴様は――()()かと。

 

 そう問う骸骨の妖怪に、貞光は淡々と答える。

 

()()()()()。多少、人間離れはしてい(特殊ではあ)るがな」

 

 貞光は、くるくると大鎌を手の中で弄びながら妖怪に言う。

 

「全てを見透かす男曰く、私達のような人間は、いつの世も少なからず存在するらしい。妖怪に――怪物に対する『力』を持って生まれてくる『人間』は」

 

 それは怪物を屠る剛力を持って生まれる者。

 それは化物を殺す呪術を編み出し操りし者。

 それは妖怪を祓う武具を鍛えて作り出す者。

 

 その『地』に巣食う魑魅魍魎が跋扈する時、まるで『世界』から『力』を授かるように、特異な才を持って生まれ落ちる――人間。

 

「『()()()()』――と、男は言った。星人という言の葉が何を意味するのかが不明故に、我々は『(あやかし)狩り』などと呼ばれるようになったがな」

 

 そして、それは『星人』――『怪物』に対する為に生み出される存在であるが故に、魑魅魍魎の存在が強大かつ、増大すればするほど、より強力な『星人狩り』が生み出されるということになる。

 

 安倍晴明(妖怪の天敵)や、源頼光(神秘殺し)が、誕生したように。

 

 そして――。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 貞光の言葉に、骸骨の僧は歯を食い縛るような表情を見せる。

 

 対して貞光は己の言葉を反芻するように、妖怪から目を外し――その同胞の死骸へと目を移した。

 

(……そうだ。もし、ここに残ったのが私ではなく、金時ならば。彼等を決して死なすことはなかっただろう)

 

 それは一目散に敵に向かって突っ込んでいった金時を責めるものではない。

 留守を預かったにも関わらず、預けられた部下を守れなかった己を責めるものだ。

 

 一括りに四天王だ、英雄だなどと呼ばれているが――そこには大きな隔たりが存在する、と、貞光は考えている。

 

 安倍晴明、源頼光は無論のこと。

 同じ四天王の中でも、人外の境地にまで『技』を極めた筆頭・渡辺綱や、その出生からして人外の領域の『力』を持つ英雄・坂田金時も、自分より遥かに強き者だ。

 

(季武はその辺りのことを随分と前に割り切り、その優れた『智』を持って、彼等に出来ぬことを成そうとしているが――)

 

 自分は、割り切れない。

 晴明や頼光ほどに振り切れてはいない。

 綱ほどに『技』が優れているわけでも、金時ほどに『力』を持っているわけでも、季武ほどに『智』に長けているわけでもない。

 

(歴だけならば、綱に次いで長くあの御方の下に仕えている筈だが――未熟。私は、奴のような『兄貴』にはなれぬな)

 

 だが、それでも――彼等には遠く及ばないとしても。

 

 自分の中には、流れている――妖怪を殺すことの出来る『呪力(ちから)』が。

 

 常人が持ち合わせない特異な力を持っている。

 そしてそれを操る術を、他の英雄と比べれば拙くも、この身は間違いなく会得している。

 

 これは紛れもなく――妖怪と戦えと、『天』からそう命じられている、何よりの証だ。

 

「だからこそ、私は貴様を屠ろう――妖怪」

 

 例え、肩を並べる彼等には及ばぬとしても。

 英雄と呼ばれるには、役として不足している身なのだとしても。

 

「貴様は金時に任すには余りにも弱い――雑魚だ。故に、ここで掃除させてもらう」

「――――ッッ!!! 人間がぁぁぁぁあああああああああ!!!」

 

 骸骨の僧は、その骨の表情を憤怒へと染める。

 そして、自分が着地した骨獣へ――その両手足を突っ込んだ。

 

 骨獣と一体化した狂骨は、そのまま周囲に散らばる、貞光に粉砕された無数の骸骨の破片を――蒐集する。

 

 巨大だった骨獣の体躯が、より強大に、より醜悪に膨れ上がっていく。

 

 それを――冷たい、醒めた眼差しで眺めていた貞光は。

 

「醜いな。――まるで、自分を見ているかのようだ」

 

 骨獣は、より自分の身体を大きくしようと――大きく見せようと、無様に足掻く。

 

 それはまるで、届かないと分かっているのに、相応しくないと――身の丈に合わない願いだと、分かっているのに。

 

 止まれない。諦めきれない。手を伸ばさずにはいられない――誰かのようで。

 

「――終わらせよう」

 

 貞光は、その刈り取る形をしている道具を――伸ばしてくる手を、拒絶するように振るう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 闇夜の魔の森に怪物の咆哮が轟く。

 

 木々が揺れる。地が震える。

 種々雑多の妖怪の包囲網を抜け出そうとしていた、僕らの足が、思わず止まってしまった。

 

 くっ――今度は何だッ!?

 

「隊長ッ! 妖怪が逃げますッ!」

「――――ッ!?」

 

 騒めく森に同調するように、僕達を追いかけていた妖怪達は逃げるように立ち去って行った。

 願ってもない状況の筈なのに――有り体に言って、嫌な予感が止まらない。

 

 あんな妖怪の集団なんかよりも、もっと恐ろしい何かが――近付いている。

 そんな僕の想像を裏付けるように――ずしん、ずしんと、森を揺らし、地を震わす、足音が響く。

 

「………た、………たい、ちょう――」

「――――ぁぁ……ぁぁぁあああああああ!!」

 

 そして、僕らを追っていた妖怪達が逃げ出す光景に目を向けていた僕は、僕の背後を――これから向かうべく足を向けていた方向を指差しながら、恐怖で震え、腰を抜かし、絶叫する部下の声を聞いた。

 

 僕は、ゆっくりと、緩慢な動きで振り返り――それを目にする。

 

 それは――『鬼』だった。

 四つん這いで歩く、体躯を筋肉で膨れ上がらせた、禍々しい妖力の塊。

 

 目を術符で覆われて、首と両手足に枷のようなものを施されている――しかし。

 

 その巨大な角は――紛れもない鬼の証だった。

 

 全身を覆い尽くす獣毛、二本の剣のように伸びる牙、顔面を彩る黒黄の斑模様の――鬼。

 

 まさか――まさか――まさか、まさか、まさか!?

 

「――――な、ん……で――」

 

 僕の脳裏に、あの悪夢の『大江山の鬼退治』が蘇る。

 

 嘘だ――確かに、今の情勢として、ここに二大勢力のどちらかの妖怪がいることは予想できた。

 でも、さっきの種々雑多な妖怪は明らかに『狐』の特徴だった筈だ。

 

 それに――それに。

 この――鬼は、有り得ない。有り得る筈がない。

 

 だって、この鬼は――()()()()()()()()()()()()()

 

 僕は目の前の現実が受け入れられなくて、決定的なその名を口にすることができない。

 

 だけど、ここにいる僕以外の隊員はみんな、『大江山』を伝説でしか知らない。

 

 故に――口にしてしまう。

 その伝説でも、はっきりとその容貌が伝わっている――正しく、目の前の鬼と合致してしまう特徴を持つ、かの『鬼』の名を。

 

 かつて、あの『大江山の鬼退治』で殺された筈の――()()()()()()()()()()()()()()()、その伝説の『鬼』の名を。

 

「――虎熊、童子――ッッ!?」

 

 虎熊童子(とらくまどうじ)

 鬼女紅葉、星熊童子、そして茨木童子と並んで、十年前、大江山四天王として君臨していた伝説の鬼が。

 

 大江山の鬼退治において、我らが頼光四天王に退治された筈の、鬼の中の鬼が。

 

 何の脈絡もなく、理不尽に、魔の森からの逃避行中の僕達を、唐突に強襲した。

 

「…………逃げろ」

 

 必死に絞り出した声は、あまりにもか細く、率いるべき、導くべき隊員たちの誰にも届かなかった。

 

 だけど、続いて腹の底から出した絶叫も――目の前の怪物の咆哮に搔き消されてしまう。

 

「逃げろぉぉぉおおおおおおおおおおおおおお!!!」

「ゴォォォォォォォォオオオオオオオオオオオ!!!」

 

 僕の叫びに、怪物の咆哮に、新参者たちは一目散に駆け出す。

 だけどそれは進むべき前にではなく、深い森の中へと逆戻りする絶望の逃走。

 

 だから――僕は。

 震える歯根を必死に食い縛り、膝に拳を入れ、無理矢理に動かす力を手に入れた。

 

「……………………くそっ…………ちくしょう……ッ!」

 

 示すんだ。あの背中には遠く及ばなくても。

 それでも――この壁は、貫ける壁なんだって。

 

 僕達が逃げるべき進路は、背後の闇ではなく――真っ暗な、前方なんだって。

 

「後ろに下がるなッッ!! 前に逃げろッッ!! 僕らが生き残る希望は、この鬼の背後にしか存在しないッッ!!」

 

 だから僕は、あの妖怪の包囲網を突き破れたように。

 

 その呪力の篭った穂先を――『鬼』へと向けて。

 

 爪先に力を入れて、地を蹴って、全力で突き出し――。

 

「――――え」

 

 

 次の瞬間――僕の視界は、真っ暗に染まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 青年が軽々と吹き飛ばされて、指揮官を失い混乱する人間達を――その妖怪は、上空の高みから見下ろしていた。

 

「虎熊童子――十年前の『戦争』において、()()()が封じることに成功した『鬼』」

 

 妖怪・烏天狗は、中身を失った開かれた巻物を手に、眼下に向かって笑みを浮かべながら呟く。

 

「既に命を失っている『骸』では有りますが、我が主が作っただけはあり、狂骨殿の傀儡などよりも余程生前の強さを保っている。それも、かつて四天王に追い込まれた時の、()()()()()()()()()()()()()()()()()のままの姿で。『心』はなくとも『体』は正しく全盛期」

 

 元四天王であった茨木童子や星熊童子、そして虎熊童子と同じ古参組。

 四天王に並ぶ実力者として名高かった同胞である熊童子と金童子をその身に取り組み、頼光四天王に戦いを挑んだ伝説の鬼。

 

 その白き体に、『獣毛』と『黄金』の妖力を取り込み――碓井貞光と卜部季武が二人がかりでなければ倒せなかったとされる化物となった虎熊童子。

 

「とても貴重な『駒』でしたが、あの方も『いつかどこかで使えるかもしれないから一応取っておいただけ』と言っていましたし……まぁ、ここで使ってしまっても構わないでしょう」

 

 英雄の可能性(たまご)に宛がうには、少しばかり大駒かもしれないが――既に、決戦(リミット)は近い。

 多少は強引(スパルタ)でも、ここで片鱗くらいはみせてもらわなければ――到底、間に合うことはないだろう。

 

「――さて、本来の登場人物(きゃすと)表には名前のなかったアナタですが……どんな物語をみせてく青れるのでしょうか」

 

 少しは、楽しませてくださいね――烏天狗は、名もなき青年(かのうせい)に向けて、そう歪んだ応援(エール)を送った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バチ、バチ――と、雷が(またた)く。

 

(まだだ……まだ、足りねぇ――ッ!)

 

 金時は土蜘蛛の怒涛の連撃(ラッシュ)の嵐の中に飛び込みながら、鉞に雷を充電(チャージ)する。

 

(土蜘蛛(コイツ)の恐ろしさは、その六腕の攻撃力だけじゃねぇ。最大の防御たるその攻撃(ラッシュ)を潜り抜けても、その先の()()――これも立派に呪具染みた防御力を秘めている)

 

 そもそもの話。

 妖怪という化物自体が、何の力も持たない人間が呪力も何も篭っていない只の刀や弓矢を当ててもビクともしない硬質な皮膚を持っている。

 

 それは妖怪が人の『畏れ』を糧に存在しているが故に、その妖怪に対する『畏れ』を克服しなければ、祓うことはおろか、傷つけることも出来ないという(ことわり)でもあるが――こと、存在力がずば抜けている『大妖怪』とも呼ばれる段位(クラス)になると、その皮膚自体が盾の如く攻撃を弾く防御力を持つようになる。

 

 かの日ノ本最強の妖怪の一体でもある酒吞童子に至っては、その強靭な皮膚(防御力)を乗り越えて与えたそばから、その傷すら瞬く間に『再生』するといった理不尽(チート)ぶりを誇るが――。

 

(この土蜘蛛の理不尽(チート)っぷりも、それに匹敵するな。さっき入れた背中の一撃も、既に出血が止まってやがるし。コイツは酒吞(ヤツ)のように再生(かいふく)してるっていうわけじゃなく、筋肉を盛り上げて傷を塞いでいるって感じだが……いかんせん、()()()())

 

 ならば――と、金時は目を細める。

 

 いくら堅固な皮膚(防御力)を誇るとはいえ、土蜘蛛は酒吞童子と異なり、『なかったことにする(ダメージ)』には許容範囲がある。

 少なくとも、先程のような浅く裂く攻撃ではなく――鉞を深々とその皮膚の中に刻み込むことが出来れば。

 

(どデカい傷を負わせることは出来る。だが、それはただ鉞を振るえばいいってもんじゃねぇ。生半可な攻撃じゃ、あの皮膚に簡単に弾かれる。……だったら――)

 

 だからこその――充電(チャージ)

 より強い雷を鉞に込めて、切れ味を存分に上げての渾身の一撃を叩き込む。

 

 呪力を雷に変換することの出来る金時ならばこその一撃(クリティカル)

 これまで数多の妖怪を圧倒してきた身体能力(タフネス)という武器で上を行かれても、金時にはまだこの雷の呪力が――『呪い』がある。

 

「何か、企んでやがるな――人間」

「ッ!」

 

 距離を取った金時に、土蜘蛛は両手を――六本の腕を、大きく広げた。

 

「――打ち込んで来いよ」

 

 不気味な複眼と牙だらけの口を――笑みの形に変えて。

 

 六腕の怪物は、右の三つの手を拳に変えて、左の三つの掌に打ち付けて、言う。

 

「久しぶりに――本当に久しぶりに、楽しい戦いが出来てるんだ。俺の凍りそうだった血を熱くしてくれたお前に対する褒美として、その小細工を真っ向から受け止めてやる。全力で――来い」

「…………」

 

 土蜘蛛の、強者しか口に出すことの許されない――その、傲慢に。

 

 金時は「――ハッ」と、笑い――そして。

 

「――後悔するなよ」

 

 鉞に充電(チャージ)していた雷をこれ見よがしに強烈に発光させて、一直線に土蜘蛛に向かって駆けていく。

 

(雷は十分ッ! 後は、思い切り待ち構えている土蜘蛛(あのヤロー)に、どうやってこの一撃をぶち込むかッ!)

 

 真っ向から受け止めるとは言うものの、あの六腕に真っ向勝負を挑むのも簡単な戦いではない。

 溜め込んだ一撃をぶつけるという意図(コンセプト)である以上、襲い掛かるであろう六腕をいかに搔い潜り、避け続け、あの懐に潜りこ――。

 

 その時――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――ッ!?」

 

 突如、唐突に、何の前触れもなく――()()()()()()()()()()()()()()

 

(――――な――これは――――()!?)

 

 金時の身体に出現した、何本もの走る裂傷。

 全力で駆けていた身体に生まれる、まるで壁のような抵抗感。

 

 その正体は、いつの間にか目の前に張り巡らされていた――()()()()()()()()()()()()

 

(いつの間に、こんなもんが――――ッ!!? あの糸の弾丸も、真っ向勝負宣言も、()()()()()()()()()()()――)

 

 卑怯とはいわない。これは決闘だ。互いの命を奪い合う殺し合いだ。

 敵は――妖怪だ。そう、妖怪――化物――怪物。

 

 そんな相手に卑怯だなんだと叫ぶことは愚か者、間抜けのすること。だが、しかし――。

 

(いつの間にか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だが、それも、全部――)

 

 全部が全部、演技とは思えない。

 しかし、土蜘蛛という妖怪が、こと勝利においては搦手をも許容し、罠も張り巡らせる妖怪だということを金時は見抜けなかった――いや、()()()()()()()()()()()()

 

 否――土蜘蛛にとっては、頭を働かせ、こうして敵の裏を取るべく策を講じることも含めて、戦闘だと。自分が愛する闘争だと、そう妖怪は楽しんでいる。

 

「――――ッ!?」

 

 全身を裂かれ、動きを止めた金時に――土蜘蛛はすかさず、今度は糸を弾丸として吐き飛ばす。

 

 その糸の弾丸は、先程貫けなかったどてっ腹ではなく――金時が土蜘蛛を抉るべく雷を溜め込んでいた鉞を弾き飛ばした。

 

 これが、妖怪最盛期である平安の時代において、『鬼』と『狐』の二大勢力から『脅威』と認識されながらも、その強さのみで孤高に生き残ってきた――()()()()()

 

 身体能力。妖力。そして――知力。

 全てにおいて規格から外れる大妖怪の――力。

 

 だが――しかし。

 

「――――ッ!?」

 

 土蜘蛛は知らなかった。

 金時が土蜘蛛という妖怪の本質を見抜けなかったように――土蜘蛛もまた、この時点ではまだ、計り切れていなかった。

 

 坂田金時――この英雄も、また。

 戦闘という極限世界において――『天』から『才』を与えられた者だということを。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 全身から血を噴き出しながら――金時は咆哮する。

 そして、身動きを奪われた糸の拘束を、力づくで引き剥がして突破する――否。

 

(力技じゃねぇ! ()! この人間、俺が鉞を飛ばす直前に、()()()()()()()()()――()()()()()()()()()ってのか!?)

 

 信じられない御業。だが、金時の全身を覆い輝く雷光がその証拠。

 

 呪力で全身を強化する人間は存在する。その上で、呪力が雷に変換可能な金時は、その要領で全身から雷を薄く発し、己に巻き付いた糸を吹き飛ばしてみせた。

 

 そして、雷を纏った足で地面を踏み抜き――雷光の如き高速移動で、土蜘蛛の懐まで一瞬で肉薄する。

 

(ッ!? 速ぇ!! だが――)

 

 そう――()()

 例え、糸の拘束を抜け出せた所で、高速ならぬ雷速の移動で懐に潜り込んだ所で――鉞に溜め込んでいた刃を全身へ移動させた、全身へ()()()()()今の状態の金時では、土蜘蛛に重傷を負わせることは出来ない。

 

(痛ぇだろうが――耐えられる! むしろ、そのまま反撃(カウンター)をぶち込むことも可能!)

 

 故に、当初の宣言通りに真っ向から受け止めるという選択を土蜘蛛が選ぼうとした――その瞬間、土蜘蛛の複眼は目撃する。

 

 坂田金時が――戦闘において、『天』賦の『才』の持ち主であるという意味を。

 

 金時の()()()()()()――()()()()()()

 

 代わりに、坂田金時の()()()()()――闇を切り裂くように、『()()()()()耀()()()()()()

 

「――――ッッッ!!!」

 

 振り抜かれる、英雄の右拳。

 坂田金時の渾身の一撃は、土蜘蛛の巨体を弾丸のように吹き飛ばした。

 

 金時は――顔を顰め、舌を弾く。

 

(――()()()()()())

 

 本来ならば、土蜘蛛のどてっ腹を貫くつもりだった。

 それがこうして巨体を大きく弾き飛ばす結果となったということは――つまり。

 

(あの一瞬で、オレの右腕を見たアイツが――()()()()()()()()防御(ガード)したってことかよ……ッ!)

 

 加えて、その尋常ではない脚力で咄嗟に後ろに跳んで、威力(ダメージ)を減少させる小細工も並行して行っていた。

 

 これらを、土蜘蛛は反射的に、本能的に行っていた。

 金時が攻撃の瞬間(インパクト)で、全身の呪力()を右腕に集中させたように。

 

 類い稀なる戦闘の天才同士の決闘――それは、更に熱く、上の階位(ステージ)へと進出する。

 

「――――()()()!」

 

 洞窟の壁へと吹き飛ばされ、土煙の中、再び姿を現した土蜘蛛は――変身していた。

 

 否――()()していた。

 

 薄黒く、冷め切ったように薄汚かった全身の体色を――()()()()()()()()()()()()()()

 

「熱い! 熱い! 熱いぜ、いつ以来だ、こんな燃えるような戦闘は! あの『茨木童子』と()った以来か!? いずれにせよ――お前は、最高だ、『人間』!」

 

 ようやく、()()()()()()()()()――そう叫ぶ土蜘蛛に、金時は額から汗を一筋流しながらも、笑って見せる。

 

(……ってことはなにか? 今までは鈍ってた(ブランク明け)ってことか――赤色(こっから)本性(本番)ってことかよ)

 

 笑えねぇ――そう言って笑う、英雄に向かって。

 

 土蜘蛛は、三つある内の一つの右手で、真っ直ぐに――金時を指差す。

 

「――お前も、そっちが『本性』か?」

 

 妖怪の指摘に――『人間』は答えない。

 

 だが、最早、隠そうとはしなかった。

 

 金時はゆっくりと歩き出し、鉞を拾う。

 これまでのように右手ではなく――まだ『人間』の左手で。

 

 代わりに――右手は、拳を握った。

 

 赤く変色し――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を目撃して。

 

 土蜘蛛も――また、笑う。

 

「――なるほど。そういうことか」

 




用語解説コーナー㉒

・星人狩り

 地球外生命体『星人』に対抗すべく『力』を与えられた者、あるいは身に付けた者の総称。

 この時代の日ノ本では妖怪に対抗すべく、特別な力を持って生まれた『英雄』達が、『妖狩り』と呼ばれている。

 未だ『星人』という存在を、この時代の日ノ本の民は知る由もない。
 だが、全てを見透かす陰陽師は、星人を知っている。妖怪が星人であるということを知っている。

 そして、彼こそが、この時代の日ノ本において――誰よりも星人狩りとしての使命を与えられた存在である。

 星人狩りとして、星人から星を守護する使命を以て生まれた――星に選ばれし英雄である。


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妖怪星人編――㉓ 足柄山の金太郎

私は、あの子に救われたのです。


 バキッ――と、貞光が首に巻く数珠、その玉の一つに罅が入る。

 

(――封印が、外れかけている?)

 

 表情を険しく引き締める貞光は、金時が向かったであろう洞窟を――高い木の天辺から見遣る。

 

(それほどの相手か。妖怪――土蜘蛛は)

 

 罅割れた数珠は一粒――恐らくは四肢の一本は『龍化』しているであろう、四天王の末弟。

 

 碓井貞光は――坂田金時という少年と出会った、その日を回顧する。

 

(あの男を我らが源氏一門へと引き入れたのは、他ならぬ私だった)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、源頼光という男が当代一の妖狩りとして全国へ名を轟かせ始めた頃。

 

 足柄山に妖怪が出没しているという現地人からの要請を受け、京から向かったのが碓井貞光だった。

 

 そして、深い山中で貞光は山小屋を発見する――その中に、一人のやつれた山姥(やまうば)が居た。

 

 山姥の名は――八重桐(やえぎり)と言った。

 

 武装した貞光という大男を一目見た時、八重桐は全てを悟ったのだろう。

 わざわざご足労を掛けて申し訳ないと頭を下げると、貞光を小屋の中に招き入れてもてなした。

 山姥というには余りにも美しい所作、そして覚悟を決めたその態度に、貞光も腰を下ろした。

 

 八重桐はそんな貞光に感謝し、そして、こう繰り出した。

 

――私には、息子がいるのです。

 

 その言の葉を皮切りに、山姥は己の生涯を語り出した。

 

 八重桐は、元々平安京に住んでいた。とある彫刻師の娘だった。

 彼女の父は、それはそれは腕のいい職人で、その生涯において何体もの素晴らしい仏像を作り上げていた。平安京でも評判の男だったが――とある日、そんな彼の下に検非違使が訪れ、親子に向かってこう言った。

 

 貴様が作った仏像が、夜な夜な動き出し、罪なき民を襲っている――と。

 

 男は何かの間違いだと訴えたが、実際に男が仏像を納めた寺院を巡っても、そこに男が彫った像はなく。

 

 やがて、男は目撃する――自分が生み出した仏像が、意思を持ち、独りでに動き出して、男が手に持たせた法具で人を殺めている姿を。

 

 己が生み出した、己の手で作り上げた仏像が――妖怪となった、その姿を。

 

 男は娘を連れて逃げた。

 検非違使の追手を必死で振り切った親子は、やがて男の腕に心酔していた寺の僧によって匿われることとなった。

 

 娘は必死に父を慰めた。

 父にそんなつもりはなかったことは分かっている、きっと妖怪がたまたま父の仏像に乗り移っただけだ、父は悪くない、みんなきっと分かってくれる――だが、そんな娘の言葉は、父には届かなかった。

 

 男は既に魅入られていた。

 

 虐殺を働く己の仏像の姿に。

 自分が作り上げた作品に――命が吹き込まれる、その外法の奇跡に。

 

 やがて男は、匿われた寺院の蔵の中で、再び仏像を彫り始めた。

 娘の声も届かぬままに、これまでの最高傑作を生みだした父は――闇に向かって祈った。

 

 どうか再び私の『子』に――命を吹き込んでくだされ、と。

 

 どうか、どうか、私の『子』を――妖怪にしてくだされ、と。

 

 そして、祈りは通じた。

 男の願いを叶えるべく――闇の中より現れた、その黒き影は。

 

 真っ黒な――愉悦の笑みを浮かべて。

 

 男の『子』を――()()()()()()()()

 

 この上なく醜悪な――()()()()()()()()()()()

 

 娘・八重桐が目を醒ましたのは、身体を造り変えるような激痛から解放されたのは――真っ暗な蔵が真っ赤に染まった後だった。

 

 自らを妖怪へと変えた黒き影は消え去り、自らを妖怪へと貶めた父は――山姥と堕ちた自分が食い散らかしたのだと気付いたのは、ぐちゃぐちゃに転がる父であっただろう死体と、べとべとに汚れた己の手と口が証明していた。

 

 娘は絶望した。

 この世のモノとは思えぬ絶叫を上げながら蔵を、寺を――平安京を飛び出した。そして、宛てもなく日ノ本を彷徨い続けた。

 喉が渇き、湖へ顔を突っ込んで――自分の顔が醜い老婆へと変わっていること知って、八重桐は再び絶望し、絶叫した。

 

 それからは、ずっと真っ暗な日々だったと、八重桐は語った。

 

 妖怪が跋扈する山の中を彷徨い、自分を襲う妖怪から逃げ回り、同胞だった筈の人間に怯えられ――悲しみの余り、荒れ狂う感情を抑えきれなくなり、無辜の民を襲って食べてしまったこともあったとも独白した。妖怪の中には、こんな自分を受け入れて、優しくしてくれたモノもいたとも。

 

 そして、絶望することにも飽きてしまった、とある日――八重桐は、とある妖怪の集落で小耳に挟んだという。

 

 足柄山(あしがらやま)という霊峰には――『天』の国と繋がる神秘への入り口があり、そこに居る『神』という存在と謁見出来れば、どんな願いも叶えてもらうことが出来ると。

 

 その笑ってしまうような流言飛語は、既に絶望するにも疲れて一歩も動けなくなってしまった八重桐の足を――再び動かす唯一の希望となった。

 

 山姥は、何日も、何か月も、何年も、足柄山を彷徨い続けた。

 あるかも分からないそんな扉を、存在しているかも怪しい『神』とやらに縋り続けて。

 

 ひたすらに俯きながら、もはや慣れ親しんだ絶望に暮れながら、行く先も見えない真っ暗な山の中を――ただただ最高に都合のいい、甘い甘い『奇跡』だけを求めて。

 

 だからこそ――なのか。それとも、何の救いでもなく、ただの偶然なのか。

 

 山姥は――その『奇跡』の瞬間に立ち会うことが出来た。

 

 八重桐は言う。その日は、酷い嵐の夜だったと。

 人間達はおろか、普段は縄張り争いを繰り広げている足柄山の凶悪な妖怪達も出歩かないような、この世の終わりとも思える嵐の中。

 

 その日も死んだように徘徊を続けていた彼女は――『()()()()()()()()()()、『()()()()()()()()()()()

 

 引き寄せられるように、雷が落ちた場所に向かって山姥が駆け付けると――何かを(くぐ)るような、空気の感触が変わる一瞬を経て――それは目の前に現れた。

 

 そこには――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 八重桐は語る。それは何故、あんな近くまで行かなくては気付かなかったのか不思議なほどに大きな怪物だったと。

 否――怪物ではないのかもしれないと。その存在は、余りにも自分とは存在感(スケール)が異なる生物で。

 

 正しく、住む世界が違う、存在する次元が違う――恐怖よりも、まずは拝謁出来たことに感謝を覚えるような、神々しさを放っていたと。

 

 山姥は、それを見た瞬間、地に伏せり、頭を下げた。

 一目見て、それが――『神』だと悟り、八重桐は感涙に咽び泣いた。

 

 

――ほう、まさか、この神秘郷(ばしょ)に迷い込むことが出来るものがいるとはな

 

 

 それは『声』ではなく、自分の心に直接『思考』を流し込むような御業だったと、八重桐は語った。

 

 この『龍』は、『言語』というものを必要とすらしていない。

 そう悟った八重桐は、反射的に――願っていた。

 

 偉大なる『赤龍』に対して『畏れ』を感じながらも、それでも、止めることは出来なかった。

 

 八重桐は、ただその願いの為に、屍者のように死地である足柄山を徘徊し続け、こんな場所にまで迷い込んだのから――あるいは、この女のその惨めな執着こそが、圧倒的な絶望と未練こそが、この女と赤龍を引き合わせたのではと、貞光は思考したが。

 

 とにかく、八重桐は、『赤龍』を――『神』に等しいと悟った存在を前に、己を抑えることが出来なかった。

 

 八重桐は――偉大なる『高位存在』へ祈った。

 

――どうか、私を……人間へ戻してください。

 

 その心に直接届けられた一言一句を記憶していると八重桐は言った。

 だが、恐らくは受け取る側の存在が理解できる言語へ無理矢理に変換して聞こえるがために、八重桐には意味不明な言葉も多く含まれていた。

 

 

――ふむ。『星』の度重なる要請に対し、顔を立てる意味での形だけの『表世界』への来訪であったが、まさかこんなことになるとは。此度の『地球人』は、中々に面白い。

 

 

――なるほど。『器』に『異物』を『混入』され、『星人化』されているのか。使い古された手法ではあるが、手っ取り早く数を増やすには有効的な手段だ。少し探ってみれば、随分とこの『陸地』は、この『種族』に犯されている。それ故の『星』の要請か。強力な『星人狩り』も生まれているようだが……。なるほど。では、こうしようか。

 

 

――娘よ。結論から言えば、貴様を完全に『現地球人』、つまりは『人間』に戻すことは出来ぬ。だが、貴様を一時的にならば『人間』に戻すことが可能だ。とある条件を呑んでもらうことになるが。

 

 

 八重桐は条件とは何だと『思った』。

 遥か高みから『人間』を見下ろす『高位存在』は答えを『届けた』。

 

 

――『赤龍()』の『子』を『(はら)め』、『人間』。

 

 

 八重桐は顔を上げて見上げる。

 

 そこには偉大なる高位存在が――『人間』ではない、紛れもない『龍』が、感情の見えない瞳で彼女を見ていた。

 

 

――我が『赤雷』を胎内へ宿し、『子』として産み落とせ。そうすれば、その『赤雷』が貴様の胎内にいる間は、貴様は『人間』へ戻れるだろう。

 

 

 八重桐は、己の下腹部にそっと手を添える。

 巨大な『赤龍』は、『人間』の感情など一切考慮せずに思考を届け続けた。

 

 

――矮小なその身に我の『赤雷』を宿すのは多大なる苦痛を伴うだろうが、『子』として産み落とすまでの間ならば持つだろう。我の『赤雷()』を継ぐ『人間』との『半血』が生まれることになれば、『人間』側にも大きな戦力となる。

 

 

――『星』にとっても好都合だ。『支援』も受けることになるだろう。我もこれ以上、『星』の聞き苦しい懇願からも解放される。互いにとって、利のある『契約』である筈だ。

 

 

 どうする、決めるのはお前だ――そう問われた八重桐は。

 

 莫大なる――感謝のみで、その心を埋め尽くした。

 ありがとうございます――そう言って、深々と、まるで『神』に感謝するように、平伏して。

 

 

 山姥は――『赤龍』の『赤雷』によって、その身を焼かれ。

 

 やがて、目を醒ますと――その身は麗しい『人間』の『娘』へと戻り。

 

 その子宮に――『()()()()』を宿していた。

 

 

 八重桐は語る。幸せだったと。

 

 人非ざる存在の、『高位存在』たる『龍』の子をその胎に宿して――この上なく、幸せな時間(とき)であったと。

 

 かの『赤龍』が告げていた通り、その妊娠期間――『赤雷』は女の身を蝕み続けたという。

 全身を駆け抜ける痛みで一歩も動けない日もあった。だが、八重桐はそんな痛みすらも愛しかったと笑う。

 

――山姥と堕ちたこの身が、妖怪となったこの身が、再び日の下を歩けるようになった。美しい肌も取り戻し、食人衝動もなくなって、そして、何より。

 

 子を――産むことが出来た、と。

 

 忘れていた、諦めていた、人間の女としての最上の幸せを、味わうことが出来たと。

 

――私は、母となることが出来たのです。

 

 奇しくも、それもまた――嵐の夜だったという。

 

 外では雷が鳴っていた。それが赤かったかどうかは――八重桐に確かめる余裕がある筈もなかった。

 彼女は、何とか風雨が凌げるといった程度の山小屋の中で――生涯で最も偉大な仕事に取り掛かっていたのだから。

 

 そして、そんな雷鳴を掻き消すような産声を上げて――その男は生まれた。

 

 雷に愛されし――『赤龍の子』。

 偉大なる『高位存在』の『赤雷()』を受け継ぎし――『星』に『祝福()』されし『生命』。

 

――『金太郎』。私の息子。私は、あの子に救われたのです。

 

 そう語る女は――山姥の醜い皺だらけの顔に、とても美しい笑顔を浮かべた。

 

 金太郎を生んだ後、子が成長していくにつれて、母は美しい人間の女から、醜い山姥へと戻っていったという。

 

 しかし、子は母を愛し続け――山姥はもう、絶望に身を落としたりはしなかった。

 

 金太郎は優しい少年に育った。

 赤龍の赤雷()を受け継いで生まれた『半血』である子は、妖怪が跋扈する足柄山を、まるで野山を駆け回る普通の少年のように遊び倒した。

 

 僅か十才で足柄山の主であった大熊の妖怪を素手で相撲を取って負かして『山の主』となった。

 空を飛ぶ緋鯉に捕まり滝を遡って遊んだりもした。

 

 山姥は、そんなすくすくと育つ我が子の成長を、愛しく慈しみ――幸福を享受した。

 

 だが――『赤龍』の子を宿すという偉業は、八重桐の身体に深刻な重傷を与えていた。

 

 金時が、大熊との相撲に勝ったという報告を母に届けた時――八重桐は、山小屋の中で倒れ伏せていた。

 息子は急いで母を背負い、箱根の湯まで連れて行ったが、いくら湯治をしようと八重桐の容態は回復しなかった。

 

 やがて年月を重ねるにつれ、八重桐は動ける時間はどんどん短くなり、醜い身体もさらに瘦せ細っていったという。

 

――私は、もう十分に生きました。この世に思い残すことは、もう、たった一つだけ。

 

 己の生涯を語り終えた山姥は――恐らくは、かつて『赤龍』にそう願ったように。

 動かすのも辛い身体を起こし、ゆっくりと、平伏して――頭を下げ、願う。

 

 死に逝く己に残された、たった一つの、最後の願いを。

 

――どうか、息子を。よろしくお願いします。

 

 妖怪・山姥は、その醜い顔を――優しい、母の顔に変えて。

 

――優しい子です。強い子です。困っている誰かの為に、戦うことが出来る子です。

 

 少し得意げに、自慢げに、息子のことを語る、その表情は。

 

――きっと、人様の役に立ちます。みんなを守る、英雄になれます。

 

 とても――とても――美しく。

 

――だから、どうか。妖狩り様。あの子を。どうか、私の、息子を。

 

 この山姥は、恐らくは長らく人を襲っていない。

 そして、何もしなくとも――遠からず内に死ぬだろう。

 

 だからこそ、貞光は――顔を上げた山姥の首を刈った。

 

 死を覚悟していた女を。

 恐らくは、その赤雷の後遺症に苦しみながらも――息子を託すに相応しい存在が訪れるまで、きっと戦い続けてきた母を。

 

 最も美しい表情を浮かべている時に――殺してやるべきだと思ったのだ。

 

(妖怪ではない――だが、人間でもない。『高位存在』――『龍』との『半血』。敵にするには恐ろしく、味方にするのも――また、恐ろしい)

 

――…………母ちゃん。

 

 いつの間にか、外は嵐になっていた。

 

 山小屋の前には、小さな山小屋の扉よりも大きい、顔も見えない程に大きく成長した青年がいた。

 

 青年は、大きく成長した己の身体よりも遥かに大きな――大熊の死体を引き摺っていた。

 

 恐らくは、その大熊こそが、この足柄山で出没しているという現地人の要請のあった、人に目撃されてしまう程に暴れていた妖怪なのだろう。

 

 それを退治した、病床の母の住まう足柄山を騒がしていた元凶を退治した青年が家に帰ると――母は殺されていたというわけだ。

 

 見たこともない、武装した僧――『人間』に。

 

 

 これが碓井貞光と――後に坂田金時となる青年との出会い。

 

 足柄山の金太郎が、頼光四天王の坂田金時となる――その原点(オリジン)となった物語だ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その後――碓井貞光は、ボロボロに死に掛けた状態で、同様に死に掛けた状態の金太郎青年を引っ張って、己が主の前に連行した時、こんな言葉を貰うことになる。

 

――他人様に誇れるような『生い立ち』でないのはお互い様だ。だからこそ、我々は強い『芯』がないと容易く折れてしまう。この子がそれを見付けることが出来るのか、あるいはそれに気付けるか。

 

――託されたのは、お前だ、貞光。

 

 

 

「……しっかりと、導け。覚悟を持って、見守れ。……そして、いざという時は――」

 

――責任を取るのが、『大人』の役目だ。

 

 貞光は、そんな在りし日の回想を終えて、罅割れた数珠を手に取り――激戦が繰り広げられているであろう、洞窟を見遣る。

 

(……頑張れよ、金時。『英雄』に、なるんだろう)

 

 私に、()()()()()()()()――そう、かつて、彼の母の首を刈り取った大鎌を。

 

 地に倒れ伏せ、バラバラに砕け散った骨獣に――妖怪・狂骨に向けて、大樹の天辺から、碓井貞光は冷酷に言う。

 

「『息子』がどうやら苦戦しているらしい。貴様の主は、どうやら本当に強いようだ」

 

 ()()()()()()()――人間の目は、まるでそう言っているかのようだった。

 

「あんな啖呵を切った後で恥ずかしい限りだが、やはり私もそこに向かおうと思う。未熟な『息子』の加勢に向かいたい。――だから、終わらそう」

 

 来る――来る。

 あの命を刈り取る鎌が――容易く『私』を終わらせる一撃が。

 

「――――――ッッッ!!」

 

 狂骨は、ある筈もない心の臓が震えるのを錯覚する。

 

 全てを結集させた。可能な限り最大の骨獣を組み上げた。

 

 それを全て――あの大鎌が、終わらせた。

 

「ふ、ふざけるなぁッ! お、お前は何者なんだッ! こんなことが――『人間』に出来るわけがないだろうッ!!」

 

 この――化物がッッ!!。

 骨獣の鎧を失い、剥き出しとなった骸骨は、大樹の天辺から飛び降りてくる貞光に向かって叫ぶ。

 

 だが、動けない。

 ご丁寧なことに、貞光は骨獣と一体化した狂骨の周辺部分は無傷で残しながら、骨獣の四肢を破壊した。動かせる手足を失った狂骨は、ただ叫ぶばかり。一体化を解除する力も残されていない。

 

 降ってくる人間は、そこまで冷たく計算しながら、一方的に妖怪を甚振ったのだ。

 

(――終わる? 終わらされるのか、私は……。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だッ!! まだ、私は――私は――()()()辿()()()()()()()()ッッ!!)

 

 それは――走馬燈と呼ばれる回顧だったのかもしれない。

 

 狂骨は一瞬で己の中の過去に遡った。

 

 真っ先に蘇るのは――己の全てを変えた出会い。

 全てを破壊し、全てを造り変えた――怪物との邂逅。

 

 

 

 その日、妖怪・狂骨は――『伝説』と出会った。

 

 日ノ本二大妖怪勢力の一角・『狐』の部隊長として、狂骨はとある一体の妖怪を勧誘に訪れていた。

 

 その妖怪は、前々から勢力の首脳陣から注視(マーク)されている妖怪であり、何としても己が勢力に迎え入れるか――それが出来なくば、排除するか、その方針が纏まっていない妖怪だった。

 

 狂骨は、その妖怪の対処を自ら志願した。

 彼は見抜いていた――これからは『狐』の時代だと。

 

 十年前の大江山にて、『鬼』は終わった。

 頭領・酒吞童子は健在だとしても、かの茨木童子を筆頭に三体もの四天王を失い、個体数としても大きくその数を減らした。その上で、未だに同族()以外の妖怪を勢力に引き入れようとしていない。

 

 それでも、酒吞童子の力が圧倒的である以上は勢力としても健在かと思えたが――ここにきて、件の鬼に匹敵する最強が現れた。

 

 狐の姫君――その存在を直接目にしたことはないが、かの姫君が滅ぼしたという村を、狂骨は見たことがある。

 

 その光景を見て確信したのだ。

 あの酒吞童子と同格という触書は――決して虚飾ではないことを。

 

 勢力の頂点同士の力は互角――ならば、この大妖怪時代において、配下の妖怪の種族は問わないと公言している『狐』こそが、これからの妖怪を統べるに相応しい存在だ。

 

 妖怪とは、すなわち鬼のことである――そのような時代は、十年前に終わっていることは誰の目にも明らかだ。

 

 ならば、一早く、この『狐』勢力に取り入り、内部での立身出世を目論む方が、よほど賢い。

 

 自分は正解を選び取れるだけの智がある――と、その日まで、狂骨は疑っていなかった。

 

(まさか千体もの部下を与えられるとは思ってはいなかった。正直、過剰であるとは思うが――つまりは、上層部はそれだけ、その『何とか』という妖怪に重きを置いているということ。この妖怪を取り込めれば、それだけ私の評価も上がるだろう)

 

 少し智があれば、そう遠くない未来に『狐』と『鬼』で覇を競う決戦が起こり得るであろうことに辿り着くのは容易い。そんな時代において『孤』を選択するのは愚か者としかいいようがないだろう。

 

 多少腕に覚えがあろうとも、所詮は時代の趨勢も読めぬお山の大将に過ぎない。時代の流れを見る目を持っている自分に御せぬ相手ではない――と、狂骨は高を括っていた。

 

 翌日――引き連れていた千体もの妖怪が、たった一体の妖怪によって崩壊させられるまでは。

 

――つまらねぇ。

 

 その妖怪は、ただそれだけを吐き捨てた。

 

 事実、その妖怪は――最初から最後まで、醒めていた。

 

 千体もの妖怪を引き連れて、己を取り囲むように狂骨らが現れた時も。

 滔々と、得意げに、狂骨が上から目線で己を『狐』に勧誘している時も。

 その演説を遮ったことで、四方八方から無数の妖怪に飛び掛かられた時も。

 

 どんどんと――その赤い巨躯から、熱を失うように、灰色に冷め切らせて。

 

 狂骨はたった一体だけ生き残った。

 

 否――狂骨の存在は、ただの一度たりとも、この妖怪の複眼に捉えられてすらいなかった。

 

 その他の千体もそうだ。

 ただ、自分に群がってくる『虫』が鬱陶しかったから――払っただけに過ぎない。

 

 この妖怪には、たった千と一体の雑魚など、敵とすら映っていなかったのか。

 

(――こんな、規格外が……存在するのか?)

 

 時代の趨勢? 二大勢力? 生き残る道? ――()()()()()、と、言わんばかりの唯我独尊。

 そして、それを世界に許されるだけの――圧倒的な、単純な、純粋な『強さ』。

 

 己が身一つで、荒れ狂う時代の狭間を乗り越えようとする――その美しき在り方に。

 

 狂骨という妖怪は――魅入られた。

 

 かの『狐の姫君』の、傾国の魅了を、打ち破る程に――()()()

 

『我が名は狂骨!! 見ての通りの――凡骨なり!!』

 

 昨夜までは確かに同胞だった死体が埋め尽くす地獄の中で、狂骨は叫んだ。

 

 灰色に冷め切った背中に向かって、己が全てをぶつけるように。

 

『卑小なる我が身は、凡庸なる我が命は、貴殿の退屈すらも紛らわすことは出来ない! しかしながら! この凡骨に! 御身と共に在ることを許していただけるのならば! 必ずや! お約束致す!!』

 

 それは命乞いにあらず。ただ、余りにも眩い『強さ』に狂わされた妖怪の、哀れな願望。

 

 ただ――この『伝説』の、行末が見たい。

 

 いつか、この大きな妖怪に――並び立ち、そして。

 

 余りにも狭い世界しか見ることの出来なかった自分では、決して見ることが出来なったであろう――その景色を、見てみたいと。

 

(――辿り着くのだ、その『視点』に!! 最早、時代の趨勢など、勢力内での立身出世などどうでもよい!!)

 

 だから――生きるのだ。生き残るのだ。こんな所で死ぬわけにはいかない。

 

 私はまだ――何も見えていなかったのだから。

 

『必ずや! 御身の退屈を晴らして見せまする!! その美しき体躯が、燃えるような赤色を取り戻すような! 御身と同じ『景色』を共有できる『強者』を見つけ!! 引き合わせて御覧に入れます!! 必ずや!! この狂骨(凡骨)が!! 御身の下へと!!』

 

 その灰色の背中は、凡骨の言葉に――振り向かなかった。

 

 だが、殺しもしなかった。そんな価値もないと言わんばかりに去っていく妖怪――土蜘蛛の背中を。

 

 狂骨は、同胞の死骸を踏み潰し――追いかけていった。

 

 そして――今日、この瞬間に至るまで。

 

 ずっと、ずっと――追いかけ続けて。

 

 それでも――まだ。

 

 

「私は!! まだ!! 辿り着いていない!! 何も!! 何も!! あの御方に!! 示せていないのに!!」

 

 まだ――死ぬわけにはいかない。

 

 そう吠える骸骨の――今度こそ、正真正銘の、命乞いを。

 

「――知るか、()()

 

 貞光は、一切構わず、その大鎌で刈り取った。

 

「……酷い顔だ。しかし、すまぬな」

 

 大口を開けながら死に絶える狂骨の、切り離された頭部を、片手でわし掴んだ貞光は。

 

 冷たい眼差しで一瞥し、そして――。

 

「――残念ながら、貴様は、死に顔を尊重するにも値しない」

 

――容赦なく、握り砕いた。

 

「……つまらない妖怪(おとこ)だった。だが、これで後顧の憂いは消えたな」

 

 貞光は、地に転がった骨を踏み砕き――前だけを向いた。

 

「待ってろ、金時(息子)。今、行くぞ」

 

 この時、貞光は知らなかった。

 

 無事に森を抜けて援軍を呼んでくれると信じて送り出した、同胞達の下に。

 

 信じられない危機が、迫っているということに。

 




用語解説コーナー㉓

・龍

 この世界において、隔絶した『高位世界』に棲息する『高位存在』。

『星の意思』と直接的に意思疎通をすることが可能であり、『表世界』との関ることは滅多にない。

 ひとたび表世界へと姿を現せば、その邂逅は伝説となり――かの存在を討ち果たしたものは、例外なく英雄となる。

 人間でも、妖怪でもない、その存在を目にしたものは――かの『高位存在』を、きっと『神』として崇めたであろう。


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妖怪星人編――㉔ 無色の青年

期待していますよ。未だ『無色』である青年よ。


 一羽の凶兆(カラス)が、その報せを届けた。

 

「おや、狂骨が死に(負け)ましたか」

 

 烏天狗は上空で受け取ったその報せを聞いて「でしょうね」と呟く。

 

勝敗(結果)は目に見えていた。問題はその後の碓井貞光の動向なのですが――」

 

 その戦いを見張らせていた烏から、貞光が真っ直ぐに金時の援護へと向かったと聞き――烏天狗は笑みを深める。

 

「――重畳。()()は上手く効いているようですねぇ」

 

 本来であるならば、虎熊童子ほどの存在(イレギュラー)魔の森(戦場)に迷い込んでいれば――頼光四天王たる貞光に、その存在を察知できぬ筈がない。

 

 だが、今宵、烏天狗が森に放った『虎』は――『傀儡』。

 

 かつて大江山四天王として名を馳せた虎熊童子の『死体』を、烏天狗の『主』が秘密裏に回収し、心を失った『身体』のみが駆動するように細工した『傀儡』に過ぎない。

 

 史上、最も智に――邪智に長けた鬼である天邪鬼が実現させた『絡繰鬼』とも、また違う。

 

 それを扱う『心』はなくとも、生前の『力』のみならば『十割』のそれを『再現』することが出来る――『魔』の『術』。

 

 生命の理すらも冒涜する恐るべき『禁忌』――だが、それは、あくまでも『死体』であるが故に、()()()()()()()()()()

 

 妖怪であればどんな下級妖怪であれど、どれほど妖力を扱う術に長けた妖怪であれど、僅かながらは発する筈の妖気を、生前どれだけの大妖怪だったとしても、微塵も、欠片も――まるで死んでいるように発さない。

 

 例え、妖力がなければ不可能な身体能力を『再現』しようとも。

 火を吐こうとも、風を起こそうとも、水を操ろうとも、土を盛り上げようとも、雷を落とそうとも――微塵も、欠片も、一切だ。

 

 正しく、理を無視する外法の業。魔によって引き起こされた奇跡。

 

「……『あの御方』は、正しく――『魔王』だ」

 

 烏天狗は、『魔王』謹製の傀儡――あの御方曰く、『魔屍(ゾンビ)』の不条理さに笑みをこぼすと。

 

(……無論、どれだけ不条理でも、魔のものでも、それが『術』であるが故に――『()()()())

 

 それに、あの青年は気付くことが出来るのか――烏天狗は、高みから笑う。

 

「期待していますよ。未だ『無色』である青年よ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 全身を駆け巡る激痛に――却って、何もかも遠くなった。

 

 仲間たちの悲鳴が、後輩たちの絶叫が、深い海の底にいるかのようにくぐもって聞こえる。

 

 現実感が湧かない。恐怖も感じない。額から流れる血が片目を塞ぎ、目の前の光景が今なのか夢なのか分からなくなる。

 

 何だ――僕は今、()()()()()

 

 ここはどこだ? 魔の森? それとも――あの、大江山?

 

 どっちでもいいか。どっちでも同じだ。

 

 ここは――『鬼』の棲む、地獄だ。

 

「――なら、やることは、一つだ」

 

 ここで死んだふりをしているのもいいだろう。今にも死にそうだってことは嘘じゃないんだから。数刻後には嘘じゃなくなっているかも、ふりじゃなくなっているかもしれない。

 

 それでも――立ち上がるんだ。

 

 立ち上がって――悪足掻け。

 

 黙ってたって数刻後には死んでいるかもしれないけれど、だったら最後まで喚き散らすのが礼儀だ。

 

 僕はもう――あの頃とは違う。

 あの頃と同じように無力でも、あの頃とは立場が違う。責任が――背負っている、重みが、命が、違う。

 

 僕はもう、守ってもらえる立場じゃない。ただ自分の命だけを可愛がっていればいい分際じゃない。

 

 死体の中で死んだふりをしていればいい青春は終わったんだ。

 

 立ち上がれ。悪足掻け。血を拭って――両目を開けて、目の前の現実を直視しろ。

 

 貴様(ぼく)が守るべき部下が泣いているぞ!

 

「――総員! 陣形を組めッ!!」

 

 僕は喉から血を吐き出すように――指示を繰り出す。

 戦場の、地獄の全ての視点を、死にかけの身体(ぼく)に集めて、力を振り絞って――槍を天に向けて上げる。

 

「やることは変わらない! 目指す場所は、何も変わってなどいない! 妖怪を退治し――生きて帰るんだ! その為に! 泣くのはやめろ! 喚くのもおしまいだ! 武器を取れ! そして――戦えッ!」

 

 今にも死にそうな指揮官の言葉ほど頼りないものはないだろう。

 事実、僕の言葉を聞いても、皆どうしていいのか分からず――命を預けきれず、困惑するばかりだった。

 

 だから僕は、何度でも言う。

 そして――示す。誰よりも体を張って、先頭に立って、死に損ないの命を張るのだ。どうせ僕には、僕ごときには、ただそれだけしか出来ないのだから。

 

「もう一度言う! やることは変わらない! 対大型妖怪用の陣形に隊列を組み直せ! その時間は――僕が稼ぐ!」

 

 一歩踏み出す毎に、全身に激痛が駆け巡る。

 たった一撃――まともに攻撃を受けただけで、『弱者』のこの身はこんなにも情けなく悲鳴を上げている。

 

 頼むと。よしてくれと。お願いだから――あんな怪物に、立ち向かうのは、やめてくれと。

 

 誰よりも己の身の程を知っているこの身体は、全身で警告を発している。

 

 なるほど。頭と違って賢い身体だ。だけど、愚かな(ぼく)はそんな身体(賢者)からの有難い警告を無視して、無理矢理に動かしてしまう。

 

 一歩、一歩、激痛でぼんやりとした頭を強引に覚醒させながら――目の前の『鬼』に向かって、強がって笑う。

 

「――死に損ないは、お互い様だ。そうだろう――『虎熊童子』」

 

 僕の言葉に、虎熊童子は答えない。

 かつては巻いていなかった目を覆う包帯――いや、()()か――で、何も見えていないかのようだ。

 

 獣のような唸り声をあげるばかりで、攻撃方法は――ただ己に近づく、あるいは最も近くにいる人間に向かって襲い掛かり、その剛腕を振るうばかりの単純な行動のみ。

 

 ……考えろ。考えろ。考えろ。僕のような選ばれなき弱者のすべきことは、まずそれだ。

 

 さっきみたいに感情に任せて特攻しても、当たり前のように吹き飛ばされるだけ。

 僕には英雄のように怪物の攻撃を反射的に回避することなど出来ない。僕如きに怪物の攻撃なんて見切れるわけがないんだから。

 

 だから、考えるんだ。どんな攻撃が来るのか予測し、計算した上で回避行動を取れ。

 

 たった一発受けただけで死に掛けているこの身体。後一発でも受けたら間違いなく――死ぬ。

 

 それは駄目だ。死ぬならせめて――使命を遂げてから死ね。

 

 家族が――母が、妹が、僕の帰りを待ってるんだ!

 

「――行くぞッッ!!!」

 

 どうせ不意打ちなど通用しない。だから僕は、何よりも僕自身が覚悟を決める為にそう声を上げて走り出す。

 

 恐怖を無理矢理に抑え込み、半ば現実逃避するように過去を回想して――現実を直視して、気付いた。

 

 あの大江山の『虎熊童子』の一撃は――()()()()()()()()()()()

 僕如きが一撃を受けて、未だこうして息をしているのがなによりの証拠だ。

 

 目の前の虎熊童子は、白い体皮に獣毛、そして顔面は黄と黒の縞模様――間違いない。大江山で碓井様と卜部様を追い詰めた、()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

 この最終形態の虎熊童子は、頼光四天王の、本物の英雄ですら二人掛かりで倒したんだ。

 そんな怪物の一撃が僕のような弱者を粉々に出来ない筈がない。

 

 何かある筈だ――目の前の虎熊童子が、弱体化している理由。

 

 弱体化といえば、こうして無様に雄叫びまで上げて駆けているのに――僕がまだ死んでいない理由はなんだ?

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()辿()()()()()()()()()()()()()

 

「ウォォォォ!!!!」

「ッ!?」

 

 その思考に辿り着いた瞬間――僕は立ち止まった。

 急停止した僕の目の前を、虎熊童子の張り手が空を切る。

 

「――――ッッッ!!」

 

 やっぱりだ。コイツは、()()()()()()()()()()()

 ただ、己に近づいた()()に反応して動くだけの――()()

 

「――――いや、傀儡、か……ッ」

 

 やはり――『虎熊童子』は死んでいる。

 この『鬼』は、とっくに自由意志を失っている。只の『屍体(したい)人形』だ。

 

「………………っ」

 

 分からない。

 どうして、あの『虎熊童子』がこんな有様になっているのか。

 

 どうして、こんなところに放たれたのか。

 どうやって、あの『虎熊童子』を――こんな『傀儡』にしたのか。

 

「……………ッッ」

 

 ……分かっている。

 コイツは、『鬼』だ。化物――妖怪だ。何人もの人間を殺した。同情なんて出来る訳がない。

 

 でも――だけど。

 

「――――――ッッ!!!」

 

 ()()()()()()()退()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――隊長!」

「……ッ! 完全に隊列が組み終わるまで手を出すな! 無闇に手を出さなければ攻撃されることはなさそうだ!」

 

 己と一定距離に近付いてきたものを自動で迎撃する――そんな仕様ならば、拠点防衛や門番としては使い道があっても、こんな何もない森で放つわけがない。

 

 なら、別の可能性として考えられるのは、脅威と判定したものを敵対象として襲い掛かる、もしくは完全な操作仕様で操っている術者がどこかにいる、くらいか。

 

 後者なら、こうしている今、自分達に襲い掛からない理由が分からない。

 操作に不慣れなのか、僕達の出方を伺っているか――相手に動きがない以上、この可能性はこれ以上、考えることがない。

 

 なら、ここは前者と仮定して考えるべき。

 この可能性において、先程僕が一定距離まで近づいて迎撃された理由は――単純に、あそこまで近づいてやっと、アイツにとって僕が目に入るくらいの脅威になったから?

 

「……まさか、ここにきて僕の『弱さ』に助けられるとは」

 

 思わず笑ってしまう。きっと、僕が『英雄』だったら――この『鬼』は今すぐにでも襲い掛かってきたのだろう。

 

「――なら、今だけは――僕も『英雄』にならなくちゃ」

 

 槍を強く握り直し、その穂先を怪物へと向け直す。

 

 弱者のままならば、このまま一歩も動かなければ――安全なのかもしれない。

 だけどそれも根拠薄弱だし、膠着状態が続けば『敵』も手を打ってくるだろう。操縦者じゃなくても、この『鬼』を『魔の森(ここ)』に放った『誰か』は確実にいるのだから。

 

 だから――なろう。

 

 コイツの脅威対象に。この『鬼』を退治出来る――『英雄』に、今だけでも。

 

 この槍は、『呪具』ではあっても『呪装』じゃない。

 英雄の為に作られた唯一無二じゃない。只の支給された量産品だ。

 

 渡辺綱様の『髭切』とは違う。碓井貞光様の『烈鎌』とは違う。

 卜部季武様の『冥弓』とも違う。坂田金時様の――あの、『轟鉞』とも、違う。

 

 そして、全ての妖を滅ぼすと言われている神秘殺し――源頼光様の『童子切安綱』などとは、比べ物にならない凡具だ。

 

 そうでいい。凡人には凡具がお似合いだ。それに、凡具は凡具でも、込められた呪力は超一級品。

 

――君は、面白い『運命』をしているね。

 

 なんといっても、あの――()()()()()()()()()()()()()()()()のだから。

 

 奇跡を起こす――その条件は、整っている。

 

「なら、後は凡人(ぼく)が――奇跡を起こす(英雄になる)だけだ!!」

 

 隊列が整ったという部下の声を背中で聞き、ぼくは手信号で合図を送る。

 

 ある筈だ――虎熊童子を傀儡(こんな)にした何かが。

 屍体を動かしている何らかの仕掛けが施されている筈だ。

 

 そう考えた時に、あからさまに怪しいのは――不気味に呪文が書かれた、目の周りを覆っている術布。

 

「………よし」

 

 あれを外す、もしくは破る、あるいは燃やす――とにかくあれをどうにかすればっ! 事態は前に進む! そう信じる!

 

 術布が何らかの『枷』で、外れたら狂暴化! 超強化! もしくは本来の力を取り戻す! なんてことになったら――その時はその時だ!!

 

「とにかく動け!! 前に進め!!」

 

 うだうだ考えるのは終わりだ! これ以上うだうだと悪い可能性を考えたら何も動けなくなる! 今はとにかく目先の目標だ!

 

「――放てっ!」

 

 先程の合図で準備させた弓――それを一斉に虎熊童子に射出する。

 

「ラァァァァアアアアアアアアアアアアイ!!!」

 

 虎熊童子がその巨大な手を振るう。それだけで部隊の一斉掃射は一本たりとも鬼の身に届かず吹き飛ばされるが――最前席でそれを見た僕は、何とか見逃さなかった。

 

 全身隈なくばらばらに放たれた矢だったが、虎熊童子は確かに――顔面を庇うように腕を振るった。

 

「なら――やっぱり、そこだっ!」

 

 怪物が大きく手を振るった、その直後。

 最も隙が大きい瞬間を見計らって、僕は虎熊童子の脅威判定範囲内――危険領域へと足を踏み入れる。

 

「ガアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 身が竦む。反射的に硬直する。

 間近で感じる、己に向けられる妖怪の敵意に――折れそうになる、心を。

 

「――――ッ!!」

 

 唇を噛み切って、死力を振り絞って、奮い立たせる。

 槍を強く握り締めて――向き合う。

 

 鬼と。怪物と。圧倒的な――恐怖と。

 

 虎熊童子は外側に掻くように振った左腕ではなく、残った右腕で拳を作り――そのまま僕に向かって槌のように振り下ろす。

 

 凡人の目になど止まらない、捉えられない一撃。

 喰らったら今度こそ僕如きなど地面の染みにされるであろう必殺。

 

 弱者の限界――運命。

 

 それを――僕は。

 

 否――()()は、変える。

 

「――――今だッッ!!! 出せっっ!!」

 

 虎熊童子の――動きが、()()()

 

 反射的に目を向ける――弱者の僕の槍などよりも、離れていてもよほど脅威的な()()へ。

 

 矢を掃射した部下達の半分が次弾を装填する中、残りの半分は、()()を掲げる者の護衛へと回した。

 

 隊列の最後尾で掲げられるそれは――『英雄の力』。

 

 いざという時はそれを使えと渡されていた、とっておきの切札。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 部隊に同行した陰陽師が、ほんの少し呪力を込めて発動し――雷を、瞬かせる。

 

 それで十分――僕の脅威(そんざい)など掻き消してくれる。

 

 作戦通り――だけど。

 

弱者(ぼく)を――嘗めるなよ」

 

 あらかじめ発動していた、もう一つの小細工。

 晴明様謹製の術符、時間差で効果を発動させるように、突撃前に陰陽師に呪力を込めてもらったそれが――槍の穂先に火を纏わせる。

 

 悔しいかな、こんなに大きな隙を作っても、僕の未熟な腕では確実に捉えきれるとは限らない――だけど、これなら確実に燃やすことは出来る!

 

 その時、ようやく脅威認定が更新されたのか、虎熊童子が僕の方を向くが――もう遅い!

 

 かえって狙いやすいくらいだ――その趣味の悪い術布を!

 

 今――外してやる!

 

「――――っっっ!!! ウォォォォォォォォォォォ!!!!!」

 

 

 次の瞬間――僕はまた吹き飛ばされていた。

 

 

 全身を貫く激痛、死の気配に包まれながら意識を失う直前に――僕は見た。

 

 僕が伸ばした槍の穂先が術布を燃やし、剥がして――()()()()

 

 その中にあった、本来は二つの眼球がある筈の場所に、まるで埋め込まれたかのように存在した――()()()に。

 

 槍の穂先が届いた瞬間、穂先を弾き――そして、その石は発光した。

 

 その光と共に衝撃が僕の身体を貫き、吹き飛ばされる――その最後の瞬間に、僕は見たんだ。

 

 虎熊童子の白い体皮を覆っている黒い獣毛が――眩い金色に輝いているのを。

 

 まるで目覚めのように咆哮を上げる鬼の声を聞きながら――僕は、確かに、それを見たんだ。

 

――その時はその時に考えればいい!

 

 馬鹿か、僕は。

 

 失敗した弱者に――次なんて、その時なんて……存在しないのに。

 

 

 そして僕は――意識を真っ暗に失った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その『人』は、いつも――その皺だらけで醜悪な顔に、美しい微笑みを浮かべながら言った。

 

――『英雄』になりなさい。

 

 その『人』は、いつも――何かを殴り飛ばして血が滴る拳を、優しく包み込みながら言った。

 

――あなたの『力』が強いのは、困っている誰かを助けるため。

 

 その『人』は、いつも――自分よりもどんどん大きくなるその身体に、誇らしげに触れながら言った。

 

――あなたの『躰』が大きいのは、怯える誰かを守るため。

 

 その『人』は、いつも――怒りで真っ赤に染まる金髪を、愛しく撫でながら言った。

 

――あなたの『赤雷()』が耀くのは、暗く沈んだ世界を救うためよ。

 

 その『人』は――母は、いつも、『怪物(オレ)』に言った。

 

――だから、あなたは。

 

――『英雄』になりなさい。

 

 その『人』は、いつも。

 

 優しく、誇らしげに、愛しく――美しく。

 

 まるで――それは。

 

 妖怪(わたし)のようにはなるなと、言わんばかりに。

 

 

――誰からも愛される、『英雄』になりなさい。

 

 

 それは、紛れもない。

 

 深く、深く与えられた、重い――想い。

 

 きっと、この世の何よりも――強い。

 

 母から、息子への――強く刻み込まれた、『(呪い)』だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ暗に閉ざされた世界に、眩い赤雷が轟く。

 

 迸る緋光。そして、遅れて降り注ぐ――赤い、血。

 

「―――――ハッ、いってぇな!!」

 

 くるくると血の雨の中を舞うのは、吹き飛ばされた、巨きな――腕。

 

 土蜘蛛の最大の武器である六腕――それを五腕とする、本体から切り離された一腕だった。

 

「ハァッ! ハァッ! ハァッ! ハァッ!」

 

 だが、腕を吹き飛ばされた土蜘蛛は笑い、腕を吹き飛ばした金時は――膝を着いた。

 

 その英雄の右手は、渾身の赤雷を繰り出した右手は『赤き龍』と化しており、更にここまで『赤雷』を乱発した結果、その『龍化』は既に右肩まで『侵食』していた。

 

 髪も、眼も、その美しい金色が妖しい赤色へと、右側のそれが『変色』している。

 

 強力な力を放った後に来る、その揺り戻しのような『反動』に――『龍化』の衝動に、抗うことが出来ない。

 

(だが、『赤化』した土蜘蛛には、もはや生半可な肉弾戦なんか通じねぇ。唯一、分かり易く効果があるのが……この『赤雷』。だが、この『力』に頼り過ぎれば――)

 

 この『赤雷』は――『龍』の力。

 それに頼り過ぎれば、『高位存在』の力に縋れば縋るほど――この躰が人間ではなく、『龍』へと近付くのは自明の理。

 

「…………ッ!」

 

 着いた片膝を上げられず、噛み締めた唇から血が垂れるのも拭えない金時に。

 

「何を恐がってんだ、オメェ」

 

 そう問い掛けるのは、吹き飛ばされて宙に舞っていた己が腕を、まるで枝木を弄ぶかのように手に取った土蜘蛛。

 

「強ぇ奴はこれまでもいっぱいいたが、俺の腕を吹き飛ばした奴なんざぁ、俺の長い戦いの歴史の中でも、お前で『二度目』だ。俺は『鬼』じゃあねぇからな。すぐにくっつけることも出来ねぇ。俺にとっちゃあ『腕』ってのは妖力の源だ。また生やすのはすげぇ大変なんだぜ。つまり――お前は偉業を成したんだ。誇っていい。てぇのに――なんだぁ、そのツラは?」

 

 土蜘蛛は、未だ立ち上がれない金時に向かって笑って言う。

 

「その『龍の力』を使うことに――負い目でも感じてやがるのか?」

 

 ()()()()()――そう吐き捨てる土蜘蛛に、金時は、瞠目する。

 

 その土蜘蛛の言葉に、そして、その言葉と共に――土蜘蛛が、新たに()()()()()()()()()()()()()ことに。

 

 再び吹き荒れる、赤い血の雨。

 その中で土蜘蛛は、未だ無様に片膝を着く金時に向かって言う。

 

「その『赤雷()』は紛れもねぇ、お前自身の力だろ。お前の正体がなんだろうが、俺にとってはどうでもいい。テメェが『人間』だろうと! 『龍』だろうと! どんな姿に変わり果てようが、テメェってヤツは何も変わらねぇ! 腕が六本だろうが、五本だろうが、四本だろうが――俺が妖怪・『土蜘蛛』であるように!」

 

 土蜘蛛はそう吠えると、そのまま二本の己の腕を――己の口の中に突っ込んでいく。

 

 金時が呆然とその様を見ている中、ごくんと、土蜘蛛は完全にそれを飲み込むと――()()()、と、大きく、強く、不気味に脈打つ音が響く。

 

「……言ったよなぁ。テメェで二度目だ。俺が腕を奪われるのは。そんで、これも言ったなぁ。俺にとって、妖怪・『土蜘蛛』にとって腕は、妖力の塊ってことも」

 

 かつての、とある『鬼』との死闘において、腕を捥がれた土蜘蛛は、腕に溜め込まれた妖力をむざむざ失うくらいならと、咄嗟にそれを呑み込んだ。

 

 すると、土蜘蛛自身にも想定外の事態が起きた。

 普段は貯蔵庫として莫大に溜め込まれた『腕』の妖力が、攻撃や防御や挙動時にしか使用されなかったそれが――全身を血のように巡っていったのだ。

 

 妖怪・『土蜘蛛』は、己が腕を『妖力』として取り込むことで――その姿を化える。

 

 最大の武器である『腕』を失うことで、より醜悪に、より凶悪に、より暴悪に――より最悪の、妖怪へと生まれ化わる。

 

「――だが、これも――紛れもない『土蜘蛛(俺様)』だ」

 

 土蜘蛛は――笑った。

 二本の腕を失い、四本腕の妖怪として――生まれ化わった、その姿で。

 

 先程までも、大妖怪として相応しい凄まじさだった妖力を、莫大に膨れ上がらせた――『第二形態』。

 

 残された四本腕はより太く、より禍々しく、より無骨になった――まるで武士の鎧のように。

 巨大だった体躯は一回り小さくなったが、その体色はより黒みがかった、固まった血のような不気味さを醸し出している。

 

 金時は――笑った。

 力無く、何かを諦めたように。

 

「…………やるしか、ねぇのか」

 

――英雄になりなさい。

 

 かつての言葉が、再び金時を蝕む。

 

 分かっている。ここで『龍の力』に更に深く手を伸ばせば、自分はきっと『英雄』ではなく、目の前の『妖怪』と同じく――『怪物』へと近付いてしまうのだろう。

 

 誰からも愛される英雄となる為には、自分は綺麗な人間でいなければならない。

 

 だが、この『怪物』は言った。

 どれも、全て――自分なのだと。

 

(――その通りだ)

 

 例え、どれだけ否定しようとも、どれだけ目を逸らそうとも『坂田金時』は『金太郎』であるという事実は変えられない。

 

 妖怪で溢れる霊峰・足柄山で生まれ育ち、赤龍の赤雷を身に宿しているという事実は――変えられない。

 

 龍の血を受け継ぐ『半血』であるという事実は変えられない。

 

 どれも自分だ――紛れもない、坂田金時の真実だ。

 

(だったら、遅かれ早かれだ)

 

 どうせ自分は――()()なっていたんだ。

 

 金時は、そう力無く笑って。

 

 何かを諦めたように――立ち上がった。

 

 そして――人間のままの、左腕に、『龍』の右手を伸ばして――。

 

 

「諦めるな。それが――『英雄』のすることか、金時」

 

 

 真っ暗な洞窟の、唯一の出口から――その声は届いた。

 

 かつて、嵐の足柄山で、彼の全てだった母親を殺した男の声。

 

 足柄山だけが全てだった彼の世界を破壊し、外の世界へと連れ出した男の声。

 

 真っ暗な夜の世界が全てだった彼に、明るい世界があるということを教えてくれた――『英雄』の、声。

 

「――貞光の、旦那……」

 

 何かを投げ出そうと、諦めようとしていた金時を引き留めるように――『龍化』した右肩を掴んで、貞光は言う。

 

 託された息子を、決して諦めないと伝えるように。

 

「――よく頑張った」

 

 そして、後は任せろと、そう言わんばかりに前に出て、背中を見せる貞光に。

 

 金時は――笑った。

 そして、膝に力を入れて、胸を張って立ち上がって、貞光と並び立って言う。

 

「子供扱いするんじゃねぇ――クソ親父」

 

 そして――そして。

 

 二人の『英雄』を前にして、第二形態と化した土蜘蛛は。

 

 四本腕の、四つの拳を鳴らして――やはり、笑う。

 

「一対一じゃなきゃ卑怯だとか冷めたことを言うつもりはねぇさ。強ぇ奴は、何人だって歓迎する」

 

 どっからでも、かかってこい――四本腕を広げる妖怪に。

 

 駆け付けた『大鎌』の英雄と、立ち上がった『鉞』の英雄は。

 

「――行くぞ」

「――おお!」

 

 並び立ち、走り出す。

 

 妖怪退治――いつも通りの、『英雄』の仕事を成す為に。

 




用語解説コーナー㉔

・童子

 かつて茨木童子は、全国津々浦々に点在していた『鬼』という妖怪を、一つの勢力として纏め上げた。
 その初期から彼の元で、共に勢力作りに邁進したのが、茨木童子に心酔していた古くからの同胞――『童子組』であった。

 その後、大江山において『童子』という名は称号に近いものとされ、童子を名乗ることが大江山の鬼としての最大の栄誉となっている。


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妖怪星人編――㉕ 慿霊体質

――これは、君が英雄になる為の贈り物だ。


 

 虎熊童子は――元々、白い体皮が特徴的な猛々しい『鬼』だった。

 

 獣のような獰猛さで、荒れ狂う感情のままに暴れ回り、茨木童子や星熊童子らと『童子組』と呼ばれる歴史上初めて徒党を組んだ鬼集団、その最古参の一人。

 

 やがて、そこに酒吞童子が来襲し、『鬼』という種族全体を纏め上げて、茨木童子や星熊童子と共に四天王として名を連ねた後も、虎熊童子は同じく最古参の童子組の一員だった金童子と熊童子を己が両腕として常に傍らに置き、『三童子』と称される程に人間達から恐れられていた。

 

 だが、かの『大江山の鬼退治』の折。

 頼光四天王である碓井貞光と卜部季武に窮地に追い込まれた虎熊童子は、その両腕をあろうことか――()()()()()()

 

 金童子と熊童子を己が躰へと取り込み、正しく三位一体の『三童子』という新たな妖怪へと化わったのだ。

 

 白い体皮は『熊』のような獣毛に覆われ、顔面の『虎』のような紋様はそのままに――そして。

 

 己に迫る脅威に対する激昂と共に、その獣毛が『金』色に耀く――全く新しい『鬼』へと。

 

 その『三童子』という恐ろしき羅刹は。

 

 かの碓井貞光と卜部季武を、瀕死の重傷へと追い込む程の――歴史に名を残す、正しく怪物であったという。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんな大事なことを、僕はすっかり忘れていた。

 

「………………」

 

 なんて愚かなんだ――僕は、見ていた筈なのに。

 

 今と同じように――死の淵から。

 折り重なった死体の隙間から、漏れ出す曙光のように目を焼く――この黄金の輝を。

 

「オオオオオオオオオオオォォォォォォォォォオ!!!」

 

 何もかも遠く感じるような、死が近づいているという圧倒的な倦怠感の中でさえも――尚、恐ろしい。

 

 怪物――『鬼』の、恐怖。

 あの万夫不当の英雄達をも追い込んだ、最上級の――妖怪の、畏れ。

 

「…………もう、ダメだ…………」

 

 僕の横で、もはや自嘲めいた笑みと共に、そんな呟きが漏れる。

 彼だけじゃない。既に各員ばらばらに吹き飛ばされた僕の部下達は、みな一様に諦観の中にいた。

 

 それは勝利を諦めた、任務の遂行を諦めた――生還を諦めた、何もかもを放り出した、敗北の呟き。

 

 同感だ。ここまでくれば、僕達のような弱者に出来ることは何もない。

 

 必死に英雄になろうとして――やったことといえば、藪から蛇を出したことだった。

 

 逃げればよかったんだ。最初から。余計なことをせずに、怪物に背を向けて逃げ出せばよかった。

 先程までの虎熊童子が、己が脅威以外には反応しないというところまでは見抜くことが出来たんだ。だったら僕がすべきことは、あの鬼を遠回りして、放置し、目を背けて、何もかもから背を向けて、森を抜けることだった。

 

 どうせこの森には、僕達以外には既に人間は碓井様と金時様だけしか生き残っていないんだ。

 あの方達なら、『金色化』する前の弱体化した虎熊童子など歯牙にもかけなかっただろう。だったら、僕達のすべきことは、やっぱり逃亡だったんだ。

 

 現実からの、逃避だったんだ。

 

 弱者が、凡人が、一丁前に夢を見た。

 もしかしたら、一回くらいは、自分も――英雄になれるんじゃないかって。

 

 それが――この様だ。

 僕の余計な背伸びのせいで、見ろ――部下達が泣いているぞ。

 

 守るべき部下達が諦めているぞ。導くべき部下達が、全てを、放り出そうとしているぞ。

 

 でも――まだ。

 

 ()()()――()()()

 

「…………ッ」

 

 起き上がれ――立ち上がれ。

 せめて、僕だけは、放り投げるな。

 

 諦めるな――せめて、せめて、彼らの、命だけは。

 

 それが――僕の背負った、責任だ。

 

 夢を見せた、悪夢を見せた、責任を取れ。

 

 もう、死体を被って生き延びるような真似はしたくない。

 

 もう――誰にも、そんなことはさせないと誓ったんだッ!

 

「――きみ、陰陽師だよね」

「え、あ、な、なにを――」

 

 幸か不幸か、先程の呟きを漏らしていた、僕の傍にただ一人だけ吹き飛ばされていた青年――僕と同い年くらいの彼は、陰陽師だった。

 

 白い法衣を身に纏った、この部隊の光。数少ない、呪力を操る才を持つ人材。

 

 坂田金時様の呪力――雷を宿した術符を預けられた者。

 

「ごめん、巻き込んで。悪いけど、もう少しだけ頑張ってほしい」

「な、何を言ってるんですかっ!? この期に及んで――もう、何をやっても無駄ですよ!」

 

 我々は死ぬんです――そんな言葉を言わせない為に、僕は懐から一枚の術符を見せた。陰陽師の彼なら――この札の意味が分かる筈だ。

 

 なんといったってこれは、全陰陽師の憧憬であり、現在の陰陽術――その全てを編み直したといっても過言ではない伝説の人物の、御手製の術符なんだから。

 

「――――ッ!? そ、それって――」

「僕の切札。これに呪力を流して起動して欲しい。それと、金時様の術符も、さっきの誘導みたいなのじゃなくて、本格起動で。そこまでしてくれたら、みんなを隠して、きみも逃げていい。後は――全部、僕がやるから」

 

 彼は優秀だ。研究肌の人間ばかりの陰陽師は誰もやりたがらないとはいえ、この若さで呪力を操作し、こうして最前線の戦場に駆り出されている逸材だ。僕のように、ただ生き残っただけで偉くなった人間とはわけが違う。

 

 そんな彼でも、晴明様のように外敵を弾き、他者を守る結界を張るのは至難の業だろう。一人二人ならまだしも、部隊の全員を守るようなものは不可能に違いない。

 

 でも、存在を隠すことなら、この規模でも可能な筈だ。

 ましてや――ただ一人、立ち上がり、これ見よがしに反撃を行おうとする愚か者がいるのならば、脅威に反応する虎熊童子の目は、僕に釘付けになる筈だから。

 

「悪いけど、急いで。『金色化』した虎熊童子は凶暴化する。我を忘れて暴れ回るんだ。今の状態の奴がどれだけ生前と同じかは分からないけど、ぐずぐずしてると誰か踏み潰されちゃうかもしれない」

「で、でも隊長! こ、この術符は――」

 

 僕は思わず笑ってしまう。本当に優秀だ――そして、優しい男だな、この人は。

 

 何も出し惜しみしていたわけではない。本当なら――出来ることなら、使いたくはない切札だった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から。

 でも――例え、僕という存在がなくなっても、みんなは助けなくちゃいけない。

 

 どうせこのままじゃあ死んでなくなる命なんだ。

 だったら――縋れるものなら、なんだって。

 

 ()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()

 

「……ッ! ――ご武運を」

 

 そう言って、彼は影の中に消えていった。

 

 本当に――優しい人だな。

 

 全くもって――死なせたくない。

 

 静かに結界が発動する。

 僕以外の全ての人間を隠す結界。

 

 それが降りたと同時に、眩く光る金色を引き寄せるように――瞬く雷光を槍の穂先に纏わせる。

 

「――『鬼』さん、こちら」

 

 そして――僕は、手を鳴らす。

 

 両手で挟んだ、起動済の術符。

 伝説の陰陽師――安倍晴明様が、僕の為に用意してくれた術符。

 

 そこに込められた――奇跡が発動するのと同時に。

 

 金色の鬼が、姿を現す。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 そして――僕の意識は、深く深く、深く――潜り。

 

 代わりに――浮かび上がるように。

 

 顔も名前も知らない、『英雄』の意識が――現出する。

 

 

『――――なるほど。コイツは――奇縁だ』

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 僕が安倍晴明様と――伝説の人物と初めて面会したのは、僕が部隊長という地位を得たばかりの頃だった。

 

 陰陽師を部下として預かる立場になったんだから一言挨拶くらいしとけ――金時様からそう言われて連れ出されたのだが、それは表向きの理由。

 

 本当の面会の理由は、かの伝説の安倍晴明様が、何故か僕という弱者(モブキャラ)に興味を持たれたからだそうだ。

 

――面白い運命をしているね。

 

 これは、その初対面時、安倍晴明という伝説が実在していたことに感動のようなものを覚えて呆然とした僕に、当の伝説がにやにやと笑いながら告げた言の葉だ。

 

 そして、更に続いて放たれた言の葉に、僕は感動も忘れて凍り付いた。

 

――君、怪異に取り憑かれたことはないかい?

 

 伝説は――安倍晴明様は、僕と出会う前から、僕という存在を、僕よりも深く理解していた。

 

 僕という人間の人生を――物語を、設定を、隅から隅まで見透かしていた。

 

 憑霊(ひょうれい)体質――僕という、何の見所もない弱者(モブキャラ)に、しいて挙げる特徴らしい特徴といえば、この特異体質だった。

 

 僕は、幼少期から幾度か霊に取り憑かれたことがある。

 自分ではない何か、この世の者ではない何者かが――躰の中に入り込み、()()()()()()()()()()、僕という存在を乗っ取っていく感覚。

 

 と、いっても、それで何か大きな悲劇が起きた訳ではない。

 しいて言えば寝ている間にうなされ、偶に街を徘徊する程度だった。

 

 だから僕は晴明様にそう説明されるまで、奇妙な悪夢を見ることがある程度の認識だった。

 

――慿霊(ひょうれい)とは、蝦夷の霊山で修行している『イタコ』と呼ばれる術師などが生まれ持つ特殊な体質のことでね。死者の魂を己が身に堕とし、死者の生前に伝えられなかった思いなどを代弁するのだが、当然ながら特殊な力が必要となる。なにせ、自分以外の魂のその身に取り込むわけだからね。

 

 例え、特殊な体質を備えていても、否、備えているからこそ、その体質を使いこなすにはそれ相応の修行が必要になるのだと、晴明様は仰った。

 

 蝦夷のイタコとやらも、代々その体質を受け継いでいる一族が、その一生を懸けて積み重ねる修行を成し遂げて、実現することの出来る、体現することが許される――奇跡。

 

 それが――慿霊。

 自分以外の魂を、その身に取り込む外法の業。

 

――今までは、睡眠時など君という自我が薄れる時に体に入り込まれる程度だったみたいだけど、君が武士として、魑魅魍魎が放つ妖気の濃い場所に出向くことが増えれば、君の躰を意図的に乗っ取る妖怪が出てこないとも限らない。

 

 そう、自分以外の魂とは、何も人間だけとは限らない。

 死した霊は容易く妖怪となり得る。つまり、この身が妖怪に取り込まれる危険性も十分にあるということだ。

 

――だからこそ、私は君にお守りを授けたいんだ。それとついでに、切札も一緒に贈呈しよう。

 

 そう言って晴明様は、僕に晴明様の呪力の篭った槍を授けてくれた。

 晴明様の呪力が込められている物を身に着けるだけでも、並大抵の妖怪に対しては強い牽制になるという。

 

 そして、槍と共に授けられた――術符。

 これを手渡す際、にやにやと笑いながら――けれど、まるで笑っていないかのような目で、晴明様は言った。

 

――さっきも言ったけど、慿霊体質は本当に稀有なものだ。それはつまり、選ばれし才能ともいえる。

 

 本来は太い龍脈が流れ込む霊峰に、先祖代々住み続けて修行を重ねてきた一族にしか身に付かないような体質――才能だと。

 

 晴明様は、選ばれなき弱者である僕に言う。

 

――危険はある。碌な修行も積んでいない君には、とても使いこなせないものかもしれない。だけど、これから死地に向かい続ける君にだからこそ、敢えて言おう。その体質(才能)は、奇跡の力だと。

 

 奇跡すら――起こせる力だと。

 

 英雄にだってなれる――選ばれし武器なのだと。

 

――これは、君が英雄になる為の贈り物(ギフト)だ。

 

 僕は、その言葉を思い出して――笑う。

 

「――本当に、最低な人だ」

 

 伝説の陰陽師・安倍晴明様から授かった、贈り物を。

 

 両手に挟んで起動した術符を、僕は手の中でくしゃくしゃに丸めて――吞み込んだ。

 

「――――()()()()

 

 深く、深く――沈んでいく、僕の意識。

 

 代わりに浮かび上がってくるのは――僕の身体の中に入り込んだ、顔も名前も知らない英雄の魂。

 

 ()()()()

 かつてこの国に実在した、()()()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()

 

 どう足掻いても、どれだけ頑張っても英雄になれない弱者が――全てを誇り高き英雄に丸投げする、最低の戦法。

 

 英雄になれないなら――せめて、英雄の『器』になるのだ。

 全てを投げ捨てる勇気がないのなら、全てを出来る人間に丸投げするのだ。

 

 僕の貧弱な躰――脆弱な命で良ければ、いくらでも貸しますから。

 

 だから、どうか――英雄様。

 

 僕の守りたい人達を――救ってください。

 

『――よかろう、強き者よ。この未熟者、文字通り全霊で手を貸そう』

 

 既に指一本も自分の意思では動かせない僕の口から、僕の声で、知らない心が語り出す。

 

 力を貸して下さるこの英雄様が、何時何処の誰かは、僕は知らない。

 どんな仕組みで晴明様が、妖怪になっていない、ずっと昔に亡くなった筈の英雄の魂を、僕の身体に引っ張り下ろしたのかも分からない。

 

 でも、初めて自分の意思で行った慿霊は、ひどく不思議な感覚で。

 

 一つだけ、確かなのは――この英雄が、とても優しく。

 

 そして――とても強い、英雄であるということ。

 

『――それにしても、不思議なものだ。死して相対するのが、まさか百目の鬼とはな』

 

 なるほど、コイツは奇縁だ――そう、英雄は言った。

 

 目の前の、悍ましい容貌となっている虎熊童子を見遣って――己の過去に思いを馳せる。

 

 朧気ながら――僕の魂にも、英雄の魂に刻み込まれているであろう、そのかつての光景が一瞬、映し出された。

 

 闇夜の森の中で、月明りのみに照らされる戦場で相対する――鎧姿の英雄と、全身に眼を持つ百目の鬼。

 

 輝かしい英雄と――醜悪極まる怪物。

 

 それはきっと、僕には生涯無関係であろう――伝説の光景で。

 

『良き槍だ。しかし、かつての躰ならばまだしも、この躰では――あの鬼を貫くには、ちと弱いか』

 

 英雄は、僕の貧弱な体では本来不可能であろう、軽々とした動きで金時様の雷を灯している槍を回すと――それに拙者は、剣や弓ならばまだしも槍は不得手でなと、そう呟きながら。

 

 咆哮を上げる金色の虎熊童子を前にしても飄々としながら――地面に置いていた弓を拾った。

 

『軽いな――しかし、撃てなくもないか』

 

 そして、英雄は――槍をそのまま、拾った弓に、矢のように番える。

 

「ウォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

『安心せよ。伝わっておる。そなた程の鬼が、そのような姿に貶められておるのは――さぞかし無念であろう』

 

 今、終わらせてやる――そう呟いた後、僕は、意識の底で、きっと、震えた。

 

 この躰は呪力が練れない。生まれてから修行三昧だったわけでもない。だから筋力も相応にしかない筈だ。

 

 それでも、僕が両手で振るっていた槍を、軽々と矢の代わりに番えて、微塵も揺らすことなく――その照準を、真っ直ぐに定めている。

 

 圧倒的な殺気を迸らせながら猛接近してくる――悍ましき怪物を前にしても。

 

 英雄は――畏れない。

 

『――その宝玉を、砕けばよいのだろう』

 

 そして、放たれる一射。

 

 雷光を纏った槍は、真っ直ぐに敵の顔面の――。

 

『――――未熟』

 

 ()を――貫いた。

 目の位置に埋め込まれていた宝玉ではなく、目標を僅かにずれて槍は命中した。

 

 原因は――間違いなく、僕の躰。

 僕が両手で持った槍でどれだけ攻撃しても弾かれていた体皮を、英雄はその一射のみで完全に貫いてみせた。

 

 でも、この僕の貧弱な躰は、既に致命傷を二度に渡って受けている。

 立っているのもやっとの筈だ。弓もそこら辺に落ちていた常人仕様の情けないもの。英雄仕様としては――余りにも、軽すぎた。

 

『言い訳にはならんさ。拙者はそれを把握した上で――終わらせると、そうほざいたのだから』

 

 やはり師匠のようにはいかないか――と、英雄は、自嘲するように、笑う。

 

『だが、安心しろ、強き者よ。情けない話、拙者の手で終わらせることは出来なかったが――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 頭の半分を失いながらも、再び動き出そうとした虎熊童子。

 

 その鬼の背後から――()()()()()()()()()()()()()()

 

 首を吹き飛ばされて、宙を舞う宝玉。

 そして、残った身体を三つに切り裂くように、複数の斬撃が同時に虚空を駆ける。

 

「――よくやった、若人」

 

 お陰で、()()()()()()()()――その言葉が聞こえた瞬間、英雄の意識が遠ざかっていく。

 

 代わりに僕の意識が浮上する――こともなかった。

 既に限界だった僕は、薄れゆく視界の中で、最後にそれだけを見た。

 

 崩れゆく虎熊童子。

 その傍で宝玉を拾い上げる弓を背負った――英雄。

 

 そして、妖刀・『童子切安綱』を鞘に戻す――伝説。

 

 僕は自分の役目が終わったことを悟りながら、安堵と共にその意識を――真っ暗の中に沈めていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、その上空で――その烏は、笑っていた。

 

「――面白い。実に面白い。期待以上でしたよ、青年」

 

 烏天狗は中身がなくなった巻物を夜空にはためかせながら、眼下を眺めて呟く。

 

「援軍も無事に到着したことですし、私も最後の戦場へと向かうこととしましょう」

 

 今宵の前座も、間もなく――幕が下りる。

 

 残すは一番の目玉。最大のクライマックス。

 

「さて。期待していますよ――『赤龍の子』よ」

 

 この戦いは、アナタの為に開かれた祭りなのですから。

 

「どうか、最高の――落雷を」

 

 そして――烏天狗は己を目掛けて放たれた矢を受け、どろりとその姿を消した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 六腕から四腕となった大妖怪・土蜘蛛。

 しかし、それはやはりというべきか、妖怪の弱体化を意味しなかった。

 

 失った二腕、それを補って余りある程に、土蜘蛛は――強くなった。

 その拳はより重く、その挙動はより俊敏に。怪物は――より、怪物となった。

 

 当世でも指折りの英雄――頼光四天王を二人同時に相手取ることが可能な程に。

 

「――――ッ!?」

「――――チッ!」

 

 貞光と金時、両者が完璧なタイミングで双方向から放った拳を、土蜘蛛は二本の腕を交差するようにして受け止める。

 

 そして、防御に回さなかった、残りの二腕で拳を振るう。

 金時はそれを龍の右腕で、貞光は大鎌で受け止め――吹き飛ばされる。

 

「くっ!?」

「ならば――金時ッ!」

 

 頼光四天王は基本的には単独で行動する。

 一人一人の力がずば抜けて強い為に、殆どの妖怪を単独で撃破可能な彼らは、纏まって行動する意味があまりない為だ。

 

 しかし、今回のように討伐対象、任務難易度によっては複数人が派遣される場合もある――その中でも、金時と貞光は、比較的にコンビを組む頻度は多かった。

 

 それは、大きな力は持っていたが、『人間』としての社会経験が余りにも欠如していた金時の教育係――否、父親代わりを務めてきたのが、この碓井貞光であったからだ。

 

 重ねてきた時間は、言の葉なしでの意思疎通を可能にする。

 両者ともに瀕死となる程の凄惨な『決闘』から始まった義父子(おやこ)関係は、戦闘という極限世界において、阿吽の呼吸のコンビネーションを実現させる。

 

「――――ふっ!」

 

 土蜘蛛を挟むように、それぞれ逆方向に吹き飛ばされた金時と貞光。

 

 すかさず、着地と同時に貞光は、地を這うように低い軌道で大鎌を振るい――地面を覆い尽くすような斬撃を飛ばした。

 

(――ッ! そりゃあ、頼光四天王ともなれば斬撃を飛ばすことも出来るか。『鬼』にもそんなことが出来る奴もいるらしいしな。だが――)

 

 これがただ斬撃を飛ばしただけなら、正直恐れるに足りない。

 四腕となった今の土蜘蛛(じぶん)ならば、ここまでに見た貞光の大鎌程度の攻撃は突っ立っているだけでも弾くことが出来る――だが。

 

「――――っ」

 

 土蜘蛛は直前で、受けて立つのではなく、跳躍して回避することを選択した。

 

(――チッ。これまでの斬撃で目測を誤らせた上での、切断力を増した満を持しての本命だったのだが、直感で避けるか。これだから()()()()()は恐ろしい)

 

 貞光は舌を打つが、構わない。

 自身の本命が避けられようとも――()()()()()()は、既に土蜘蛛の背後を取っている。

 

「――――ッ!? 狙いはこっちか!」

「気付いた所で、もう遅ぇ――ッ!!」

 

 土蜘蛛が振り向いた先には、既に帯電(チャージ)を完了させ、両手で鉞を振りかぶった金時がいた。

 

 これだけ全力の振りかぶり、満タンの帯電、そして踏ん張れない空中という条件が揃えば――。

 

「さすがのテメェも――受け止めきれねぇだろ!!」

 

 食らいやがれっ!!! ――と、繰り出された金時の渾身の一撃を。

 

 土蜘蛛は筋力を膨れ上がらせた――二腕で。

 

「ハッ――嘗めんじゃねぇ!!」

 

 両の掌を焦がしながらも、ジャギジャギと己が肉を抉ろうとするその刃を――挟み込むように。

 

(――――受け止め……やがっただとッ!?)

 

 間違いなく、六腕の時の土蜘蛛ならば受け止めきれず、致命傷を与えられただろう一撃。

 

 だが、あろうことか今の土蜘蛛は、四腕どこか、たった二腕で、金時の渾身の一撃を完璧に捕らえてみせた。

 

 強くなっている――二本の腕を妖力塊として取り込んで変異したという、だけじゃない。

 

 強敵との戦い――まさにその最中に、その天賦の戦闘スキルを、刻一刻と磨き上げている。

 

 しかし――それは、この男も同じ。

 

「この――バケモノがよぉ!!」

 

 金時は、そう吠えながら――笑みを浮かべて。

 受け止められた鉞、それを起点に――空中で己が躰を、持ち上げる。

 

 己が巨体を、己が巨力で、強引に浮かび上がらせて。

 そして、残されたフリーの二腕で土蜘蛛が反撃を放つ、それよりも前に。

 

 持ち上げた勢いそのままに、土蜘蛛のどてっ腹に向けて――遠心力を込めた両足蹴りを放った。

 

「――――カッ!」

 

 土蜘蛛も、笑みを浮かべながら――それを防ぐ。

 攻撃に回そうとしていた二腕を咄嗟に十字に構えて、その両足蹴りに対する盾とした。

 

 しかし、その勢いまでは殺せない。

 重力を思い出したかのように、そのまま地面に向かって吹き飛ばされる。

 

 そして――その着地点では、再び大鎌に呪力を込めて待ち構える貞光がいた。

 

(第二、第三の決め技を次から次へと用意する――どれだけ戦闘慣れしてんだ、コイツらは! たまらねぇぜ!!)

 

 死神のように、冷たい眼差しで鎌を振りかぶる貞光は、いつも通りの仕事をこなすように、最高のタイミングで――命を刈り取るべく、刃を振るう。

 

「――――終われ、妖怪」

 

 その冷酷な殺意に額に汗を滲ませながらも、土蜘蛛は二腕を背後に構えて――十指を広げて。

 

「終われねぇな――人間!」

 

 その指の先端から――糸を射出する。

 

 網目状に空間に張り巡らされた糸は、落下する土蜘蛛の巨体を宙空で受け止めた。

 

 そして、受け止めた衝撃を――そのまま反撃の為の反発力へと変える。

 

「何――ッ!?」

 

 貞光の渾身の決め技(フィニッシュ)は空を刈り、土蜘蛛は再び貞光の元から――今、正に着地しようとしている金時の元へと射出された。

 

「ッ!」

 

 妖怪の着地の瞬間を狙った英雄の一撃を躱し、妖怪は英雄の着地の瞬間を狙う。

 

 糸を防御や攻撃だけでなく、回避手段として利用する。

 

(やればできるもんだ)

 

 ()()()()()()だったが、戦闘の天才はそれを容易くものにする。

 今、正に殺されようとしている瞬間に、正に、今思いついたアイデアを躊躇なく試すことが出来る度胸も兼ね備えている妖怪は、そのアイデアを更に瞬間的にアレンジする。

 

 落下している金時の着地地点の背後の壁――そこに向かって糸を射出し、それを掴んで引っ張ることで、己が巨体を()()()()()()()()()()()

 

 つまり、より高速に――己が巨体を移動させる、()()()()()()()()()()()()()

 

 その獲得した勢いを――己が拳に更に上乗せする為に。

 

「――こうだ!」

 

 金時は、急速に向かい来る、その土蜘蛛に対し。

 己に残された最後の選択の時――落下し、地に右足を着けた、その一瞬で。

 

 着地の勢いのまま――右膝の力を抜き、沈むように折った。

 そして、そのまま前傾姿勢を取り。

 

 向かい来る土蜘蛛を――向かい討つように、己が躰を射出させる。

 

 つまり――激突。

 真っ向から、その巨体をぶつけて――離れない。

 

(――ッ!? 動かない!? こちとら助走もつけた上に糸の加速まで加えたんだ。勢いは間違いなく俺の方が上だった。なのに、たった一歩の踏み込みで受け止められただと!)

 

 土蜘蛛の腰に手を回し、その強烈な一撃を、踏ん張った足で地に轍を描きながらも受け止めきった金時は、土蜘蛛の身体に顔を付けながら獰猛な笑みで、見上げながら言う。

 

「――相撲、って、知ってるか?」

 

 自分よりも遥かにデカい相手と組み合うのは慣れている――今よりもはるかに小さいガキの頃から、見上げるような大熊と相撲を取ってきたのだから。

 

 上体が浮きながら突進してくる相手には、低い軌道でかち上げるようにぶつかる。

 そして――。

 

「――捕らえた腰は、絶対(ぜってぇ)離さねぇ……ッ!」

 

 己を押し出そうと、あるいは抜け出そうと、土蜘蛛の剛力が腕の中で暴れ回る。

 だが、金時は絶対に離さない。己よりも遥かに強き獣に対する為に磨き上げたのが――金太郎の相撲なのだから。

 

「……だが、己の腕は――四本あるんだぜ!」

 

 金太郎が己の両腕を回し、動きを封じているのは――二腕のみ。

 つまり、残る二本の腕は自由。土蜘蛛はその両手を組み合わせて振り下ろそうとするが。

 

「――いいのか? そんなことしたら――」

 

 背中が、がら空きだぜ――金時の言葉に、土蜘蛛が背後を振り向く。

 

 そこには、念仏を唱えながら、大鎌を逆手に持ち替え――鋭い石突を真っ直ぐに、まるで槍の穂先を向けるように、土蜘蛛を狙っている貞光がいる。

 

 碓井貞光は――僧兵だ。

 

 この日ノ本には呪力という力を操る才を持つ人間が存在する。

 妖怪という『星の外敵』が勢力を増すごとにそれを扱える人間が増えるとは、とある陰陽師の言葉ではあるが、正に妖怪大国と呼ばれるに相応しいこの平安の時代においても、その才を持つ人間は一握りしかいない。

 

 そして、呪力を操る才を持つ人間は、大きく三つの職に就くことになる。

 一つは陰陽師。一つは武士。そして、残る最後の一つが――僧だ。

 

 呪力を研究の為に磨くのが陰陽師。呪力を戦闘の為に伸ばすのが武士なのだとすれば、呪力を救世の為に広めるのが僧だった。

 

 そして――この平安の世において、仏教とは特別な立場にあった。

 

 かつて平城の時代、仏教はとある僧によって大きく政治的に力を持つことになった。

 それを恐れたとある天皇が、平安へと都を移す際に、仏教の力を大きく削ぐことに執心した。

 

 結果、仏教は政治と切り離されたが――それでも、仏教は未だに救いの教えとして根強く残り、京とはまた別の一大勢力として不気味に息を潜めている。

 

 そして、そんな勢力が戦う力を整えない筈がない。

 僧兵――戦う僧はそういった経緯で生まれた。

 

 碓井貞光は、その中でも特筆すべき力を持つ男として大きく名を轟かせていた。

 

 そんな彼に目を付けた、とある平安武士が彼を己が四天王へと導いたのだが――それはまた、別の物語である。

 

 この局面で重要となるのは、碓井貞光は僧兵である――ただ、それだけの事実に過ぎない。 

 

(――なんだ、コイツ……ッ! どんどん力が膨れ上がって――)

 

 僧は、読経によって呪力を練り上げる。

 金時や頼光のように特別な出生であるわけでもなく、綱や季武のように特別な技能があるわけでもない。

 

 ただ、普通の人間よりも多くの呪力を持って生まれた。

 ただ、普通の人間よりも上手く呪力を練ることが出来た。

 

 ただ――ただ。

 普通の人間のように、困っている誰かを救いたいと思った――ただ、それだけで、英雄になった男は。

 

 誰かに与えられたわけでもない、ただただ、愚直に修行して獲得した、その力のみで――妖怪と戦う。

 

「今度こそ――終われ、妖怪!」

 

 貞光は、駆け出し――撃ち抜くべく、繰り出す。

 その念仏を込めた、呪力を込めた石突を。妖怪の心臓を貰い受けるべく――放つ。

 

「まだまだ――終われねぇんだよ、人間!」

 

 土蜘蛛はやむを得ず、金時を潰そう組み上げていた二腕の拳を解き、その石突を受け止める。

 

「――――っっっ!!! あぁ……重ぇなぁあああ!!」

 

 その貞光の一撃は、先程の金時の渾身の鉞に勝るとも劣らない威力があった。

 石突に込められた念仏の呪力は受け止めた土蜘蛛の掌を焼き焦がす。

 

 これで土蜘蛛は四腕全ての掌を焦がすこととなったが――それでも、決してその手を離さない。

 

 正面に金時。背後は貞光。

 英雄に挟み込まれながら――土蜘蛛は、それでも決して――。

 

「――諦めろ。観念したらどうだ、妖怪」

 

 金時は土蜘蛛に囁く。

 額から汗を流しながらも、二腕を拘束したまま腰から手を離さず――押し出そうとする。

 

 背後から迫る貞光の石突。それを持って串刺しにしようと、その巨力を持って巨体を動かす。

 

「テメェの四腕は封じた。六本ありゃあオレを殴れたかも知れねぇがな。いくらテメェといえど、このままいつまでも持ち堪えられねぇだろ」

 

 覚悟を決めて串刺しになれと、そう笑う金時から目を逸らすように背後を向く土蜘蛛。

 そこには、金時のように無駄口を叩くことすらせず、あの冷たい殺意の篭った眼差しのままで石突を押し出そうとしている貞光がいる。

 

 正しく、絶体絶命の中。

 土蜘蛛は――それでも。

 

 笑う――笑う――笑う。

 

「諦めねぇ……俺は、終わらねぇさ」

 

 土蜘蛛は、金時に封じられた二腕、そして、貞光の石突を掴む二腕を――さらに、強く、膨れ上がらせる。

 

「オラぁ、『土蜘蛛』! 『まつろわぬもの』!! 何処の誰だろうと! 『鬼』だろう『狐』だろうと!! 『朝廷』だろうと『英雄』だろうと!!」

 

 そして土蜘蛛は――『天』に向かって、吠える。

 

「『土蜘蛛(俺様)』を!! 『服従』させることは出来ねぇ!!!」

 

 瞬間――土蜘蛛は、強烈に全身を発光させた。

 まるで己が躰を爆発させたかのようなそれは、至近距離でそれを受けた金時と貞光の目を焼き、衝撃を持って吹き飛ばす。

 

「――がッ!」

「――ぐっ!」

 

 その凄まじい衝撃は、金時や貞光をもってしても、すぐさま起き上がることの出来ない程だった。

 

 視界に色が戻り、ゆっくりとその身を起き上がらせた時――彼等が目にした光景は。

 

 最凶の大妖怪・土蜘蛛が、己が躰から更に二腕を毟り取り――それを頬張る瞬間だった。

 

「――『夜明け』が、近ぇ」

 

 ゴクリと、それを呑み込む。

 身体が更に一回り――小さくなった。最早、金時や貞光と同じ――『人間』と同じようなサイズ。

 

()()()()()()()()である俺様でも、妖怪という枠組みからは逃げられねぇ。妖怪である以上、日が昇ると弱体化する。いつか、このつまんねぇ法則もぶっ壊してみせるが、今はまだ力が足りねぇ」

 

 だからこそ――俺は強くなる。

 その呟きと共に、土蜘蛛は尾を生やした。全身の金色発光はそのままに、失った二腕の代わりとばかりに、土蜘蛛は――複眼の代わりに二つとなった血色の眼で、英雄たちを見据えて笑う。

 

「決着と行こうか、人間。楽しい戦闘(まつり)もそろそろ仕舞いだ」

 

 金時は、己の足が勝手に後退ったのを感じた。

 龍の力を持つ英雄が、天井知らずに強くなる妖怪に――恐怖した。

 

 身体は小さくなったが、先程までの四腕の時とは比べ物にならない。

 同じくらいの大きさになったのに、腕も同じ二本なのに――まるで別次元の生物のようだ。

 

 負ける――金時は、生まれて初めてそう思った。

 

(……いや、初めてじゃねぇ。俺は、前にもこんなことを思った)

 

 金時が現実から逃避するように過去を回想しようとして。

 

「恐れるな、金時」

 

 その時、震えを抑えるように――貞光が金時の肩に手を置いて、彼の前に己が身を出す。

 

「お前は強い。お前の赤雷(ちから)ならば、あの怪物を必ずや滅ぼせる」

 

 その為の時間は、私が稼ごう。

 貞光はそう言葉少なく呟き、手招きする怪物の元へと大鎌を携えながら歩いてく。

 

「――なんだ? お前一人か?」

「ば、馬鹿か、旦那!」

 

 死ぬぞ――その叫びを言わせる前に、貞光は顔だけ振り返って言う。

 

「なら、お前が私を救けてくれ」

 

 誰かを救ける英雄になりなさい――己に刻み込まれた(ことば)が、金時の胸をうずかせる。

 

「限界まで溜め込め。これまでで最強の赤雷をお見舞いしろ。それで倒せない妖怪なんて、この世界には存在しないさ」

 

 貞光は、微笑む。

 それは全てを――命すら預けきった者へ贈る、絶大な信頼。

 

「英雄に――なるんだろ」

 

 坂田金時は、あの日の言葉を思い出す。

 

 初めて会った、自分よりも強い存在。

 母を殺した男。世界の全てだった足柄山から連れ出した者。

 

 そいつは、半殺しにした青年へ、血だらけの笑顔を持って言った。

 

――なれるさ。お前なら。

 

 誰もを救ける、最強の英雄に。

 

「……やってやる。やってやるぜ」

 

 金時は天に向かって右手を掲げる。

 

 真っ赤な鱗の龍の手を――そして、その手に、眩い赤雷を纏わせる。

 

「俺が救ける。だから――死ぬなよ」

 

 クソ親父――そうエールを送る息子に。

 

「誰に言ってやがる。バカ息子が」

 

 背中を見せながら、大鎌を携え――怪物へ向かって貞光は特攻する。

 

「一人ずつでも構わないぜ。どうせ二人とも殺すんだからな」

 

 土蜘蛛もビリビリと感じていた。

 身体が変異していくにつれ、高みへ上り詰めていくにつれ――分かるようになってきた。

 

 あの()()が、どんな意味を持つ『力』なのか。

 だからこそ、分かる。今から引き出される最強の赤雷――より純度の高い赤龍の雷。

 

 ()()()()()()()()()()()()()――それをまともに受ければ、この最終形態であろうとも、塵一つ残らず土蜘蛛という妖怪は消滅するだろう。

 

 だが、だからといって、貞光をやり過ごして金時を優先的に潰すなどという真似をするつもりもなかった。

 そんな真似を目の前の男は許さないだろう。この男もまた、全力を持って相手をしなければこちらが殺されることも十分に考えられる英雄だ。

 

 それに――。

 

「――()()()()()()()()

 

 これが己の寿命を縮める選択だという自覚はあった。

 自分でも分かる程に浮かれている。それほどまでに強くなった――この強さに酔っているのか?

 

 それとも――。

 

「――まぁいい。()()()()

 

 ごちゃごちゃ考えるのは性に合わない。

 とにかく今は――殴り合おう。

 

 この英雄達との、最後の戦いを堪能しようではないか。

 

 どうせ夜が明ける頃には――。

 

――生き残っているのは、勝者だけなのだから。

 




用語解説コーナー㉕

・相撲

 言わずと知れた日本の国技。
 現在のような大相撲の形となったのは江戸時代らしいのですが、古墳時代には既に相撲人形があったりと、相撲というものはそれよりもはるか以前からあったようです。まあ、力比べのようなものですから、大昔から男が腕っぷしの強さを比べるにはちょうど良かったのでしょう。似たような格闘技も、世界中に遥か昔からあることですしね。

 この平安時代にも無論、相撲は存在していて、むしろ宮廷でも儀式で行われ、天皇が観戦する天覧相撲も行われているような、神聖な一面もあったようです。

 金太郎――坂田金時にとっては、妖怪たちとのコミュニケーションの一つでした。
 足柄山は龍脈の関係上、強力な妖怪が集まる霊峰でしたが、そこを牛耳る一体の大熊によって、異例なことに、多くの種族の妖怪が共同で生活をしていました。
 無論、争いも絶えませんでしたが、致命的な崩壊をしなかったのは――そして、そんな魔の地で、ひとりの男の子がすくすくと育つことが出来たのは、ひとえにその大熊の大きな器によるものでしょう。

 そして、そんな足柄山は――その大熊が狂い始めたことで終わりを迎えました。

 かつての楽しい相撲ではない――本気の命の奪い合いの末、すくすくと成長した男の子によって、大熊は討ち取られました。

 いずれ英雄になる男の子が、初めて退治した妖怪は――父のような、友達でした。


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妖怪星人編――㉖ まつろわぬもの

ああ――楽しかったぜ。


 

 金時が初めて赤雷を発動させたのは、金太郎であった最後の夜――嵐の夜。

 足柄山の(ヌシ)であった大熊との最後の戦いの間際だった。

 

 共に足柄山で育ち、子供の頃から相撲を取っていた大熊。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()大熊を、説得しに向かった時のことだった。

 

 大熊は、泣きながら暴れ狂っていた。そんな奴じゃなかった。確かに凶暴な面もあったけれど、弱き者には優しい、濃い妖気が集まり強力な妖怪が生まれやすい霊峰であった足柄山を、その大きな器で収めてきた偉大な王だった。

 

 だが、嵐が近づくにつれて、大熊が我を忘れたように暴れることが多くなった。

 遂には人里まで下りてしまうこともあって、このままでは妖狩りと呼ばれる人間が足柄山に足を踏み入れることになると、人間の事情にも詳しい山姥の母の言葉を聞いて、金太郎はその腰を上げたのだ。

 

 しかし、旧知の金太郎の声にも、大熊は耳を貸すことはなかった。

 話し合いは殴り合いになり、遂には殺し合いになった。

 

 相撲では何度も勝利を収めたこともあった金太郎だったが、本気で殺意を迸らせる妖怪とはこんなにも恐ろしいのかと息を吞んだ。そして、大熊の鋭い爪が、躱し切れずに金太郎の身に届きそうになった――その瞬間。

 

 金太郎は――天から赤雷を振り降ろした。

 

 無意識だった。無我夢中だった。

 その結果に――その力に、誰よりも驚愕したのは他でもない金太郎だった。

 

 訳も分からず、ただ目の前に転がる友達だった大熊の死体だけを前に、嵐の中、呆然と佇んでいた金太郎は。

 

 とにかく友を弔ってやらねばと、母の意見を聞こうとそのまま死骸を引き摺って家へ戻った。

 

 その力の正体を教えてくれたのは、帰った家で待ち構えていた――母を殺した男だった。

 

 金太郎は自分の正体を、この時、母から聞いたという男から初めて聞いた。

 

 赤龍の子。

 それが自分の正体らしい。

 

 あの赤雷は――龍の力。

 人間でもない、妖怪でもない、高位存在の大いなる権能。

 

 母は常々言っていた――英雄になりなさいと。

 

 母は知っていた――息子が普通の人間ではないことを。

 母は知っていた――自分の息子がいずれ、世界の命運を左右するような役目を背負うことになると。

 

(――オレは、どうだ? 何も知らなかった。ただ、いつも傍に母ちゃんがいて、御山で面白おかしく過ごして――オレは)

 

 どうなりたかった? 何をしたかった?

 

 英雄になりなさいと、母は言った。

 困っている人を救いなさいと、母は言った。

 

 英雄になれると、父のような男は言った。

 お前は強いと、父のような男は言った。

 

(――赤雷。赤龍の権能。そんな“血”を流すオレは――何をすべきか。何をしたいのか)

 

 バケモノと、人は言った。バケモノと、妖怪は言った。

 

 人間でもない。妖怪でもない。

 

 なら――オレは、何になればいい。

 

 

――なら、お前が助けてくれ。

 

 

「――――――」

 

 初めはきっと、母がそう望んだから。

 

 続けたのはきっと――みんなが、喜んでくれたから。

 

 笑顔になった。礼を言ってくれて、慕ってくれて――受け入れてくれた。

 

 生まれ育った御山を下りて、何もかも分からなかった自分を。

 人間からも、妖怪からも、バケモノと呼ばれる“赤雷()”を持った自分を。

 

 嬉しくて、むずむずして――笑顔になった。

 

 そして、これを守る為の力なのだと思えたら――自分の赤雷()のことを。

 

 坂田金時という――バケモノのことを。

 

 少しは誇らしく、好きになれそうな気がしたから。

 

 だから――オレは。

 

「オレは――英雄になる」

 

 坂田金時。赤龍の子。

 

 真っ赤な鱗の侵食は進み――更に醜く、半身が龍に犯されていく。

 

 金時は、笑う。

 そんな自分を――誇るように。

 

 誰かを救う為の力として――右手に赤雷を宿し。

 

 雷雲すら存在しない天から――高位存在の権能を呼び寄せる。

 

「――赤龍(クソ親父)。『赤雷()』を貸しやがれ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その――敏捷性(はやさ)も。

 

「――安心しろ、お前は強い」

 

 その――攻撃力(つよさ)も。

 

「十分に英雄って名乗るに値すると思うぜ」

 

 ()()()――()()()()()()()()

 

「だが――それ以上に、俺様が強くなりすぎたってだけだ」

 

 果たして、どれだけ時を稼げただろうか。

 時間にして、数分か、数十分か。

 

 それだけでも――歴史に名を残す偉業として相応しい程に、今の土蜘蛛は、余りにも強過ぎた。

 

 小さくなった体は、英雄の目にも残像しか捉えられず。

 生えた尾は予想外の角度から襲い掛かり。

 速さに慣れた眼は発光で潰され。

 全身のあらゆる場所から強靭な糸を射出し。

 二腕に凝縮された莫大な妖力はそれだけで世界を歪めるかの如く――重い。

 

 最大の武器である大鎌すら真っ二つに折られた貞光は――首根っこを細い腕に掴まれながら、片手で持ち上げられ、呻く。

 

「……確かに、お前は強いさ――妖怪。だが、この勝負――」

 

 それでも――貞光は笑う。負け惜しみではなく――己が勝利を確信して。

 

 土蜘蛛も気付いていた。

 貞光を持ち上げながら、ゆっくりと――それを見る。

 

 金色に発光する自分よりも眩く、暗い洞窟内を照らすその存在は、目を向けるまでもなかった。

 

 半身を赤い龍と化えたその男は――その右手に赤き轟雷を携えていた。

 

 そして、それは――予兆に過ぎない。

 この地に大いなる破壊を齎す、天から『高位存在』の一撃を振り下ろす、その奇跡を起こす為の、下準備でしかない。

 

「……当然、気付いているさ。あんだけバチバチやってればな」

 

 だが、俺様は妖怪だぜ――そう、土蜘蛛は、英雄の首を締めながら言う。

 

「こうしてお前を生かしている限り、奴は攻撃を発動出来ない。なら、話は簡単だ」

 

 そして、土蜘蛛は貞光を締める右腕とは逆の手――最後に残された左の掌を、身動きの取れない金時へ向ける。

 

「お前がこうして命懸けで時間稼ぎして、俺様を引き付けてるってことは――身動きが取れねぇんだろ、アイツ。それだけ集中力が必要なことだよなぁ――奇跡を起こすってのはよぉ!」

 

 土蜘蛛が糸の弾丸を射出する――それよりも前に、金時は笑い。

 

 貞光は――折れた大鎌の柄を握り直す。

 

「――拙僧は、君や金時のように殴り合いが得意な人間ではない。が、これでも一応は僧――()()なんでね」

 

 陰陽師ほどではないが、(小細工)はそれなりに得意なのだ――貞光は、そう呟きながら、鎌の柄に呪力を流す。

 

 貞光は自身の大鎌の柄に様々な種類の術符を巻き付けている。

 握る場所を変えることによって、都度異なる術符に呪力を流し、狙った効果を伴った攻撃を繰り出すのが貞光の基本戦法だ。

 

 だが、貞光がここで発動した術符は――攻撃の種類を変えるものではない。

 

 場所移動(スイッチ)――同じ術符を貼り付けていた物体と自身の空間座標を入れ替える術式。

 

 貞光は大鎌が破壊された時、吹き飛ばされる刃にこの術式の術符を貼り付けていた。

 

 そして、大鎌の刃は今――金時の背後の壁に突き刺さっている。

 

「――――ッ!!?」

 

 掴んでいた貞光の首が――鎌の刃に代わり、瞠目する土蜘蛛。

 

 そして、貞光は――大いなる力を呼び寄せるべく赤く耀く右腕を掲げる金時の背中に向かって、言う。

 

「――やれ、英雄」

 

 金時はその言葉を受けて――ニヤリと微笑み、赤き右手を振り降ろす。

 

「これで――終わりだぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは黒い空が、その色を変えようとしている頃だった。

 

 偉大なる太陽――それが昇り切るよりも早く。

 

 雷雲なき夜空に、赤き雷がその姿を現した。

 

 それはまるで鉄槌のように、あるいは世界を切り裂く斧が如く、大いなる高みから一直線に振り下ろされる。

 

 大地を揺るがす轟音すら置き去りに――とある島国の小さな洞窟を目掛けて落下していった、その赤雷は。

 

 

 

 ()()――()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()

 

 

 

 それは、『高位存在』の大いなる意思すら無視して――引き起こされた想定外(イレギュラー)

 

 あるいは、とある小さな神様が、とある一人の少年を思って手繰り寄せ続けた、世界すら歪める力――()()()()()が、この星に呼び寄せた『来訪者(イレギュラー)』だったのかもしれない。

 

 こうして――物語は。

 

 予測不可能な、未知の世界へと――繋がっていく。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 世界を引き裂くような、大地を揺るがすような、大いなる奇跡が振り降ろされた轟音。

 

 どんな妖怪すら、どんな怪物すらも、塵一つ残らず消滅させるような赤雷。

 

 それが何処かに落下した衝撃を――金時は、崩落もせず、天井に穴も開かず、未だ健在な洞窟の中で、聞いた。

 

「…………()……()()……()()?」

 

 全身から力が抜けていく。全てを出し尽くした途轍もない疲労感が襲い掛かる。

 自分は確かに赤雷を呼び寄せた。大いなる一撃を齎した筈だ。なのに――。

 

(――――()()()()()…………ッッ!!)

 

 外れる――なんてことは、あり得ない。

 そもそも自分が呼び寄せたのだ。いうならば、自分の腕を、この身に流れる赤龍の血を避雷針とすることを前提とした奇跡だ。

 

 後は自身目掛けて降り注いだ赤雷をこの龍の右手で掴み、操り――土蜘蛛にぶつける、その手筈だった。

 

 なのに――赤雷は、金時に向かって降り注ぐことすらせず。

 

 何処か、ここから遠くはない、けれどまるで無関係な見知らぬ地に――落雷した。

 

「有り得ねぇだろ!! なにが――どうなってやがるッッ!!!???」

 

 奇跡が起きなかった現実を疑う咆哮――その無意味な叫びで、最後の力を、使い果たしたように。

 

「――――ッッ!!??」

 

 金時は膝から崩れ落ちる。最後の矜持で倒れ伏せることだけは堪えたが――全身が鉛のように重い。体を持ち上げることすら出来ない。

 

「……金時……――ッ!? ゴホっ、ぐはっ!!」

「っ!!? 貞光の旦那ッ!?」

 

 立ち上がれない英雄の背後では、もう一人の英雄が喀血し倒れ伏せようとしていた。

 

 金時が赤雷を呼び寄せる間、単身で最終形態の土蜘蛛を相手取っていた貞光は、既に限界だった。致命傷に近い傷を負っていたのかもしれない。

 

 それでも――奇跡は起こらなかった。

 大いなる一撃は降り注がず、英雄は二人とも力尽き――そして、妖怪は――。

 

「――――」

 

 金時は気付く。そうだ、自分は失敗した。

 落雷をこの場に落とせなかった以上、土蜘蛛は未だ健在の筈だ。

 

 なのに――どうして動けない自分達は、失敗した英雄は、こうしてまだ生きている?

 

「………………」

 

 土蜘蛛は、未だ健在な洞窟の天井を見上げながら、だらんと腕を下げて――大鎌の刃を握り砕きながら、ぽつんと呟く。

 

「……情けねぇぜ。実際に落ちてきたわけでもないのに、その照準が自分に向けられているってだけで……その莫大な力が近付いてきただけで――()()()()()()()()()()

 

 情けねぇ――死因だ。

 土蜘蛛はそう呟きながら、力無く笑い、金時を見る。

 

「刻限が近付いてたのは分かってた。だから、俺様の勝機は、落雷が落ちなかった、()()()()()()()()()。そこで動けなかった――俺様の負けだ」

「……土……蜘蛛?」

 

 未だ何も把握できていない金時に――勝者に。

 敗者たる妖怪は、それを告げる。

 

「英雄――テメェの勝ちだ」

 

 瞬間――何処からともなく、一本の矢が飛来する。

 

 金時はそれを辛うじて目で追えた――土蜘蛛は反射的に、その矢を左の掌で防ごうとして。

 

 土蜘蛛の左手は――容易く、大きく後ろに弾かれた。

 

「っ?!」

 

 あの金時の鉞すら弾き返した土蜘蛛の皮膚が、最終形態にまで強化されて更に強靭となっている筈の土蜘蛛の身体が、たった一本の矢で、ボタボタと血を流し、だらんと力無く動かなくなっている。

 

 土蜘蛛は、そんな自分の左手を感情のない瞳で見詰めていると。

 

「――驚かないということは、もう気付いているんだね。既に――()()()()()()()()()()()()()

 

 金時はその声の方向に反射的に目を向ける。

 そこには烏帽子を被り、弓を構えた若々しき没落貴族がいた。

 

 眠そうに半分閉じられた眼は、けれど鋭く、五本目の腕を失った妖怪を見据えている。

 

「季武の小僧! どうしてここに!?」

 

 卜部季武(うらべのすえたけ)

 坂田金時や碓井貞光と同じく、頼光四天王に名を連ねる男は「僕はお前よりも年上だ。小僧と呼ぶな餓鬼」と金時を一瞥することもなく吐き捨て、真っ直ぐに土蜘蛛だけを見据えている。

 

「ちょっと事情があってね。予定よりも早く到着することが出来たんだ。お前達の部下が頑張って森に道を作ってくれてたしね。だから――こうして、間に合った」

 

 僕達は――ここに辿り着けた。

 季武はそう言って、道を譲る。

 

 彼の後ろから現れたのは――『鬼』の面を被った鎧武者だった。

 一切正体が分からない、兜を被り、甲冑を纏い、鬼面で顔を隠した武者だった。

 

 決して大男ではない。

 土蜘蛛はおろか、金時や貞光よりも一回り小さい、実年齢よりも遥かに若く(幼く?)見える季武と同じくらいだろうか。

 

 だが、その鎧武者が登場した途端――金時の胸に、安堵の念が満ちる。

 

 ああ――もう大丈夫だと。

 何故なら――来てくれたのだから。

 

 まるで、英雄――のように。

 

「――源頼光……かの神秘殺しのお出ましか」

 

 源頼光(みなもとのらいこう)

 金時ら頼光四天王の長にして――平安最強の神秘殺し。

 

 この日ノ本においても紛れもない最強の一角が、同胞達の最大の窮地に駆け付けた。

 

「……時間切れ、か」

 

 土蜘蛛は全てを悟ったが如く――天を仰ぐ。

 暗い洞窟の中では見えないが、きっと昇り始めているであろう――太陽を睨み付けるように。

 

『――貴様の負けだ、妖怪』

 

 鎧武者は、右の篭手の人指し指を土蜘蛛に向ける。

 

『例え、コイツらをここまで追い込む貴様がどれだけの強者であろうと、夜が明けた以上――この私に勝てる妖怪など存在しない』

 

 鬼の面の中で、頼光は鋭い眼光を放ちながら告げる。

 

 土蜘蛛は、この日ノ本で最も妖怪を殺す術に長けた男を前に――それでも、最後に残った右拳を握る。

 

「……なるほど――これが、俺様の生涯最後の戦いか……ッ!」

 

 土蜘蛛は獰猛に笑い――爆発するように、妖力を急激に膨れ上がらせた。

 それは夜明けを迎えた妖怪とは思えぬほどに、正しく蝋燭が最後の火を燃え上がらせるような、今わの際の耀き。

 

(……なるほど。これが流浪の大妖怪・土蜘蛛。死に瀕して尚、これほどまでに凄まじい妖力を放つとは)

 

 季武は目を細める。不意打ちとはいえ自分の矢の一撃で片腕を吹き飛ばすことが出来たのは、それだけ――金時と貞光の奮闘により弱らせることが出来ていたからだろう。

 

 彼等の戦いは、決して無駄ではなかった。

 それを察したように――頼光は二人に向かって言う。

 

『――貞光。そして、金時。二人とも、よく戦った』

 

 自分達の敬愛する主からの褒め言葉に、貞光は息絶え絶えながらも笑みを浮かべ、金時は露骨にほっとする。妖怪ごときに何を手こずっていると拳骨を食らうことも覚悟していたからだ。

 

『金時のその半身に関しての説教は、京に帰ってからにしてやろう』

 

 無論、全てが許されたわけではなかった。

 金時が表情を消して冷や汗をだらだら掻きながら力無い笑いを漏らす中で――土蜘蛛は更に一段と、妖力を膨れ上がらせる。

 

「神秘殺し――我が生涯を締め括る相手として一切の不足なしッッ!!!」

 

 かつて六本あった腕も、残すはたった一腕のみ。

 その一腕を大きく、太く、強く膨れ上がらせ、空間が歪む程の莫大な妖力を纏わせる。

 

 貞光も、季武も、金時すらも思わず息を吞む中――その神秘殺しは、静かに一歩を踏み出しながら、腰の刀へと手を伸ばす。

 

『我が四天王の奮闘、決して無駄にはしない』

 

 部下の手柄を掠め取るようで心が痛むが、美味しい所を頂くとしよう――そう呟きながら、ゆっくりと腰を落とす。

 

『――来い、妖怪』

「行くぞ――人間ッッ!!!」

 

 土蜘蛛の言葉に、頼光はふと口角を緩める。

 ()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()、そんな強き妖怪に、敬意を示すように。

 

(――()()を、使うのか)

 

 季武はそれに気付いて目を見張る。

 あの頼光が、妖怪に対して、()()()()()()()()()()()()()()()に。

 

 金時と貞光をここまで追い詰め、頼光にこの技を使うことを選択させた妖怪――土蜘蛛。

 

(すごい……男だ)

 

 季武は、決してその瞬間を見逃すまいと、眠そうに半分閉じられた瞳に力を入れる。

 

「我が生涯に、まつろわぬ闘争の日々に、一片たりとも悔いはない!!!」

 

 土蜘蛛が最期の特攻を敢行する。

 その覚悟を決めた言葉とは裏腹に、彼は最後まで、己が勝利のみを目指していた。

 

 凄まじい――突撃。

 それは、まるで雷光のようで、地を蹴った轟音が、この距離でも遅れて聞こえるほどだった。

 

 貞光も、金時も、その動きを捉えることは出来なかった。

 目を凝らしていた季武も――その目ではっきりと捉えることが出来たのは、己が主の太刀が、振るわれるその瞬間のみだった。

 

 気が付いた時には――全てが終わっていた。

 土蜘蛛の拳は、振るわれることすらなかった。

 

 頼光と土蜘蛛――両者の立ち位置が、いつの間にか逆転していて。

 

 チャキ、と。妖刀・童子切安綱が、鞘へと()()()()()音が、静かに洞窟に響くと。

 

 一拍の遅れの後――幾重もの斬撃が閃き――そして。

 

 大妖怪・土蜘蛛の――最後の腕が、宙を舞った。

 

「…………ああ――」

 

 楽しかったぜ――その言葉を、最期に。

 

 土蜘蛛の身体に幾重もの剣閃が走り、その巨体はバラバラに斬り刻まれた。

 

 決着は一瞬。

 

 ここに、平安最強の神秘殺し・源頼光の伝説に――『大妖怪・土蜘蛛退治』が新たに加わって、今宵の『魔の森の決戦』は幕を閉じた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 激闘は終わった。

 

 金時が大きく息を吐き、貞光が切れそうになる意識を必死で繋ごうとしている中――それに気付いたのは、細めた眼を更に細めていた季武だった。

 

「――消滅、しませんね」

 

 その言葉に金時も気付く。

 通常、絶命した妖怪の肉体はボロボロと崩れ始める。

 

 特殊な術式などを使用しない限り――それは生前、どれほどの大妖怪であっても例外ではない、が――。

 

「――つまり、土蜘蛛は未だ死んでいないってことか? ……こんな、肉片になっちまっても」

 

 金時は悍ましいというよりは、少し悲しげに言う。

 強過ぎるというのは、ここまで残酷なことなのだろうか。

 

 あの凄まじい最期に泥を塗られているような気がして、金時は小さく唇を噛み締めた。

 

「とはいえ、流石のコイツも、この状態で日光に晒せば完全に消滅するだろう。そんな顔をするくらいなら、お前がソイツをそうやって弔ってやれ」

 

 自分も相当に死にそうな貞光が金時に向かってそんなことを言う。今にも倒れそうな貞光の元に季武が肩を貸しに行くのを見遣ると、金時は「……ああ。そうだな」と、土蜘蛛の肉片を拾い上げようとして――。

 

「――いえいえ、それは余りにも(むご)過ぎるというもの。ここまでの激闘を見事に演じた戦士に対する仕打ちではございますまい」

 

 戦いが終わった戦場に――そんな怪しげな声が響くのと。

 

 突如――洞窟の入り口から()()()()()()()がやってきたのは、ほぼ同時だった。

 

「な――ッ!」

「――――ッ!!」

 

 そして、満身創痍の貞光、貞光に肩を貸していた季武が動けないのを尻目に。

 

 土蜘蛛の肉片を拾い上げようとしていた金時は――見た。

 

「――――ふふふふふ―――ふふ――――ふふふふふふふ――――ふふふふふふふふふふふふふふふふふ――」

 

 闇の中から、無数の――烏天狗が突っ込んでくる様を。

 

(――烏――天狗――――ッ!?)

 

 その異様な様に金時が硬直する中――唯一、動けたのは、鬼面を被った平安最強の鎧武者。

 

『――何奴だ』

 

 空間を呑み込もうとしていた濃密な闇と無数の烏天狗。

 それを頼光は、童子切安綱の一振りで吹き飛ばした。

 

 闇が晴れる洞窟内――そして、金時達を見下ろすように黒い翼で宙に漂うのは。

 

「流石は平安最強の神秘殺し。お見事でございます」

 

 一体のみ、健在の烏天狗。そして――その烏天狗の手には、一本の巻物が広げられていた。

 

「ご安心を。私は戦いに来たわけではございません。――こうして、戦士を迎えに来ただけでございます」

 

 烏天狗の言葉に、季武が地面に目を向けると。

 

「――! 土蜘蛛の肉片がなくなっている」

「何!? じゃあ、まさか――」

 

 金時が烏天狗を見上げると、烏天狗は既に巻き終えた巻物を、虚空に開けた漆黒の窓に向かって突っ込みながら、笑みを浮かべて語っていた。

 

「坂田金時様には既にお話させていただいておりますが、私の今宵の目的は妖怪・土蜘蛛の始末にありました。皆様方には大変感謝しております。とある事情により巻物に空きが出ましたのでどうせならと回収に参りましたが――まさか、こんな有様とは思いませんでした」

 

 しかしまぁ、我が主ならば再利用(りさいくる)方法を見付けるでしょう。おそらく。たぶん。きっと――と呟く烏天狗を、頼光は細めた瞳で睨み付ける。

 

(――()()()()は――)

 

 そして、考え込みながら――目にも止まらぬ速さの斬撃を宙にいる烏天狗に向かって放つ。

 

 胴体を真っ二つにされる烏天狗だが、「……頼光の棟梁……たぶん、無駄だ」と金時が言う。

 

「ここにいるアイツは本体じゃない。土蜘蛛を封じた巻物もどっかに送っちまった以上、今、浮かんでるアイツをどうこうしても意味はない」

「その通りです。ですが、誤解なきよう。再度申し上げますが、私は戦いに来たのではありません。讃えに来たのです」

 

 いつの間にか復活している烏天狗は、巻物を手放して自由になった両手で、ぱちぱちと手を叩いて――その言葉通り、讃える。

 

「こんぐらっちゅれーしょん。今宵の戦い、皆様方――英雄様の、完全勝利でございます」

 

 そして、妖怪(われわれ)の、完全敗北でございます――両手を広げて、笑みを浮かべて、見下ろしながら人間を讃える烏天狗を。

 

 貞光は、季武は、頼光は――金時は、殺意を込めて、睨み付ける。

 

妖怪(われわれ)は今宵を持って、この森から撤退いたしましょう。あなた方も京へお戻りください。英雄としてぜひ悠々と凱旋なさってください」

「……そんなことを、俺達がはいそうですかって信じると思ってんのか」

 

 金時は鉞を杖のようにし、渾身の力を振り絞りながら――立ち上がる。

 

「テメェは――何なんだ? 『狐』勢力に(おもね)かない土蜘蛛を、俺達にぶつけるのが目的っつたな。だとすれば、今回の全部は、『狐の姫君』の思惑だったってのか?」

『それに加えさせてもらえば、貴様が先程使った術式――“虚空の窓”』

 

 金時の言葉に続けながら、頼光は鬼の面の中から真っ直ぐに烏天狗を見据えながら言う。

 

『あれは――()()()()()()だ。それもかなり高度な、平安京でも使えるものは極々限られているような。……それを何故、妖怪である貴様が使うことが出来る?』

 

 そして、頼光も――金時と同じく、問い掛ける。

 

『貴様は――何者だ?』

 

 英雄たちの濃密な詰問と殺気を受けながら――烏天狗は、飄々と答える。

 

「私が何者か――そのようなことは、これから起こる時代の転機には、大きな戦争においては、小さくつまらない些事でございます」

 

 これは、今宵の()()()において、見事に勝利を飾られた、英雄の皆様方に敬意を表して明かす、本邦初公開の情報ですが――と前置き、烏天狗は言う。

 

「今宵、この魔の森の前哨戦の裏側で、狐の姫君・玉藻の前は、鬼の頭領・酒吞童子と()()()()を張るべく、大江山へと向かうことを決心致しました!」

「「「『―――――――――っっっっ!!!』」」」

 

 烏天狗のその言葉に、英雄達は揃って息を吞んだ。

 

 二大妖怪勢力の首脳会談。

 そして、その目的が、共同戦線を張る為の――同盟の締結。

 

「――――なんで、そんな――」

「……それが百歩譲って、本当だとして――どうしてそれを、我々に明かすのだ?」

 

 絶句する季武。額に汗を掻きながら聞き返す貞光に、烏天狗は「ですから申したでしょう! 今宵の前哨戦での勝利への褒賞だと!」と高らかに、歌い上げるように言う。

 

「それに――問い掛けたかったのです。これより始まる大戦に対し、重要な登場人物であるあなた方に、覚悟の程を、問い掛けたかったのです」

 

 烏天狗はそう言いながら、ニヤニヤと笑いながら――坂田金時を、真っ直ぐに見据えながら、問う。

 

「あなたは戦えますか? もう一度――鬼の頭領・酒吞童子と」

 

 今度こそ、その手で、あの鬼を、殺せますか――そう、問い掛けた、烏天狗に。

 

「――――――ッッ!!!!」

 

 金時は宙に浮かぶ烏天狗に向けて――今度こそ、洞窟の閉ざされた天井を突き破り、赤雷を落とす。

 

「……テメェに、言われるまでもねぇ」

 

 それは、土蜘蛛はおろか、ここにはいない烏天狗の本体にぶつけても殺しきれないような小さな規模の赤雷だったが、金時はまるで、己が身を叱咤するように――何かを殺すように、落とした赤雷に誓う。

 

「オレは――英雄になる! 今度こそ! 誰にも負けねぇ! 最強の英雄に! その為なら、狐の姫君だろうが――何だろうが、殺してやるよ!! 妖怪は!! 一匹残らず!! このオレが絶滅させる!!」

 

 突き破られた洞窟の天井から、一筋の朝日が差し込む中で、金時は――英雄は、吠える。

 

「酒吞童子を倒すのは――この坂田金時だ!!!」

 

 赤雷が晴れた後、新たな烏天狗の残像は現れなかった。

 

――期待していますよ、英雄の皆様。

 

 ただ、遠ざかるように、その声だけは洞窟内を残響していた。

 

――どうか、よい戦争を。

 

 そして、烏天狗の気配が完全に消え、妖怪がいなくなった朝日が差し込む戦場で。

 

 妖怪を殺す英雄を束ねる武者は、戦いを締め括る、最後の命を下した。

 

『――帰還するぞ。我らが平安京へ』

 

 そして――向かう。新たな戦争へ。

 

「…………」

 

 金時は、赤き龍の拳を握る。

 

 近付いている――全てを終わらせる戦いが。

 

 全てに決着(ケリ)つけるべく始まる――最後の鬼退治が。

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 こうして、平安京の『外』で、真っ暗な森と洞窟の中で繰り広げられていた『前哨戦』は幕を閉じた。

 

 

 そして、英雄達が帰還する平安京――そこから遠く離れた、この魔の森よりも遥か先の、京の目の届かぬ僻地にて。

 

 

 関東平野に広がる武士の国――坂東にて、それは目覚め始めていた。

 

 

 そして、赤き雷と激突した――赤き流星もまた、京から遥か離れた地に墜落を果たしていた。

 

 

 坂東の地にて、目覚め始めたモノ。

 

 そして、星の外から飛来した、赤き流星の中から飛び出すモノ。

 

 

 妖怪大戦争の最後の登場人物(ピース)が今、遂に出揃う。

 

 

 

 

 

 第四章――【魔の森の土蜘蛛】――完

 




用語解説コーナー㉖

・土蜘蛛

 土蜘蛛とは、元々、朝廷に服従しなかった「まつろわぬもの」への蔑称だった。
 
 政府は、自分達に従わない彼らをまるで人ではないが如く扱った。死して尚、五体バラバラにして封印し、蘇らないように呪った。そうして、彼等は何時しか妖怪となり――土蜘蛛という、怪物となっていった。

 土蜘蛛とは、「土隠(つちごもり)」から来ていて、彼らが穴式住居に住むものたちであったという説があるが――それもまた、自分達が追いやった彼らを蔑する為に、朝廷が広めたものだったのかもしれない。

 本来の歴史の頼光伝説では、京の土蜘蛛として登場する、鬼の顔に虎の胴体に蜘蛛の手足を持つ獣頭蜘蛛身の妖怪である土蜘蛛だが――この世界では、突然変異のように戦闘特化個体が生まれた。

 既に土蜘蛛という妖怪は彼以外は絶滅していて――まるで、土蜘蛛という、支配への拒絶概念の結集体のように、「まつろわぬもの」としての究極体として、彼は長き逃走ならぬ闘争の日々を生き残り続けた。

 狐であろうと、鬼であろうと――そして、人間であろうと。
 彼を服従させることは出来ず、彼を支配することも出来なかった。

 大妖怪・土蜘蛛は、その生涯の最期まで支配と戦い続けて、ナニモノにも服従することなく、その偉大なる命を燃やし尽くした――と、誰もが思った。

 その僅かな残り火を、とある烏が、気紛れに掻っ攫うまでは。

 烏が、蜘蛛を、果たしてどのように弄ぶのか。

 それはまだ、この時点ではまだ誰も知らない、回収未定の伏線である。


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妖怪星人編――㉗ 坂東の武士

――時が来ました。どうか、目覚めて下さい。


 

 平安京は、蝦夷よりもよっぽど魔窟だ――男は大きく溜息を吐いた。

 

 吸い込む空気が不味い。壁に囲まれた京の中に充満するそれは、どろどろと澱んだ汚水のような味がする。

 貴族たちは男達のことを坂東の野蛮人だと揶揄するが、自分から言わせてもらえれば、この一見華やかな(みやこ)の住人の方が、よっぽど醜く――妖怪のようだ。

 

 日ノ本の中心地――平安京。

 この華やかな世界での立身出世を幼い頃から夢見ていた従兄弟に連れられて、病に伏せった父に背中を押されるようにやってきた場所だったが、自分には肌に合わないと早々に見限っていた。

 

 例え妖怪の本拠地たる蝦夷に面していようとも。常日頃から豪族同士の小競り合いが絶えず、鎧の着方、武具の振るい方、馬の乗り方の履修が必須である野蛮な地であろうとも――澄んだ空気、涼やかな風、広がる緑、豊かな自然が隣にある坂東の地こそが、自分の生きるべき場所だと痛感する。

 

 この京で共に切磋琢磨して出世しようと目を輝かせる従兄弟、こんな田舎者をいずれは己が懐刀へと買ってくれている右大臣殿には悪いが、なるだけ早めに理由を付けて下総(しもうさ)に帰らせてもらおうと、男は闇夜の静まる平安京内を、警邏と称して少しでも故郷を思い出そうと馬を走らせていると――やがて、自分が見知らぬ場所に迷い込んでいることに気付く。

 

 平安京は未だこの地にやって来てから日が浅い男にとっては正しく異国のようなもの。まいったと馬を降りて、どこかに人はいないかと灯りを探すべくうろついていると――あろうことか、馬が突然、何の前触れもなく駆け出し、逃げ出してしまった。

 

 確かにこの馬は長年連れ添ったものではなく、厩舎から適当に見繕ったものだったが――長年、関東平野はおろか、蝦夷の地でも馬を走らせていた経験を持つ、幼き頃から己の家の官牧で馬と共に育ってきた自分が、まさか、馬に逃げられるだなんて。

 

 悲しみとも似通った衝撃に打ちひしがれながら、なんとかして帰らねばと、それでも己の足を進めていると、周囲はどんどんと己の見たことのない平安京に変わっていく――似たような豪奢な屋敷が立ち並ぶ大路からは程遠い、竹や木々が立ち並ぶ林や森と呼ぶに近しい景色が広がっていく。

 

 平安京にこんな場所があったのかと驚くと共に、着実に迷子は進行しているのに、華やかな都に似つかわしくない自然を見付けて嬉しくも思えた男は――みるみる霧が濃くなっていくのも構わずに、林の中へと、奥へ奥へと進んでいく。

 

 やがて、男はとある妖しい山小屋へと辿り着いた。

 真っ暗な森の中で、不気味に――けれど美しく灯る、狐火。

 

 恐る恐るといった風に、その扉は開いた。

 そこから顔を覗かせるのは、息を吞む程に美しい――真っ白な、穢れなき、白狐の耳を持つ美女。

 

 男は思った。

 自分は、この女と出会う為に、この地にやってきたのだと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 男は目を覚ました時、お決まりの台詞を恥ずかしげもなく呟いた。

 

「ここは――どこだ?」

 

 そして体を起こし、頭を押さえた所で、再び非常にテンプレな言葉を零した。

 

「――俺は、誰だ?」

 

 非常にありきたりで、つまらないことだが――男は記憶喪失になっていた。

 

 

 

 やがて男は立ち上がり、そして闇雲に歩き出した。

 

 己の名も思い出せない男だったが、目覚める前に――誰かが、己に語り掛けた言葉だけは記憶していた。

 

 

――時が来ました。どうか、目覚めて下さい、我らが英雄殿。

 

 

 目を覚ました時には、この森の中でひとりぼっちだったため、本当にそんな何者かが存在していて、本当にそんな言葉を己に語り掛けたのかは不明だった。

 

 だが、己の正体を知る手掛かりはそれだけだ。

 その言葉にしても非常に曖昧で、言葉の主が男か女かも分からない。

 

「……………」

 

 時? 英雄? ――分からないことだらけだ。

 己の名前、己が立っている現在地に続いて、更に謎が増えただけとも言えた。

 

 しかし、幸いにも直すぐに謎は一つ減った。

 非常に危険なことに、この男は右も左も分からない森の中を、ただ勘だけを頼りに(その勘にしても明確な目的地も何もないのだから、こっちの方に行ったらなんかよさそうといった、余りにも曖昧な勘というか感頼りだったが)進んでいたのだが、男は見事に正解を叩き出したらしい。

 

 まるで、見えない何か――それこそ英雄らしく、運命というものに導かれたかの如く。

 

「……ここは、下野(しもずけ)か」

 

 目の前に現れた古い建物――神社には何故か見覚えがあった。

 

 己の名前も思い出せない男が、何故かこの場所は覚えていた。

 

 そして、連鎖的に、ここが何処だか思い出してきた。

 

「そうか――ここは、俺の故郷か」

 

 京から遠く離れた――坂東の地。

 関東の一角は、妖怪犇めく蝦夷と隣接する――下野の国。

 

 自分はこの地に生まれ育った――武士(もののふ)だ。

 

「……ずっと、守ってくれていたんだな」

 

 男は誰もいない寂れた神社の境内に土足で踏み入り、無遠慮にその神社の宝物庫に手を掛ける。

 

 宝物庫には札が貼られていた。恐らくは高名な僧か――あるいは何処かの陰陽師が、厳重に施したであろうその封印は、男が手を触れただけで札が燃えて消えた。

 

 そして、男は宝物庫を開けて――中から、一振りの太刀を取り出した。

 

 男は未だ、肝心なことは何も思い出せていない。

 自分の名前も、正体も――目的も、使命も。

 

 けれど、その太刀は、己が躰の一部といわんばかりに――しっくりと、その手に、その魂に馴染んだ。

 

 男は漆黒の鞘から、ゆっくりと太刀を引き抜く。

 

 その刃は――まるで陽の光のように、黄金に眩く輝いていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 父が死んだ。

 

 以前から病に伏せっていた父だったが、男が京へ上洛した途端、みるみると弱っていき、あれだけ精悍だった顔もどんどんと瘦けていき、最期は枯れ枝がぽっきりと折れるように逝ったらしい。

 

 そして、坂東の地で少なくない領地を有していた父が逝去した途端、その遺された領地を周囲の豪族がこぞって狙い始めたという――その中には、父の、そして男の縁戚たちが多く含まれていた。

 

 坂東の地は、武士の国。弱肉強食の――力こそが掟の世界。

 だからこそ京からは蛮族の地と揶揄されていたが――しかし、そういった土地柄だからといって、黙って父が生涯を懸けて尽くしてきた領地をくれてやるわけにはいかない。

 

 男はすぐさま京での立身出世を捨て、故郷の下総へと一目散に帰参した。

 

 若いながらも父に勝るとも劣らない武勇を既に轟かせていた男が風のように帰還したお陰で、周囲の豪族も闇雲に攻め込んでくることもなく――以来、睨み合いが続いている。

 

 皆、張り詰めた空気を感じながらも、そこは流石に蝦夷と隣接し、京からも敵意に近い白い目を向けられ続けている坂東の地に住まう者達である。戦が間近に迫った空気を感じながらも、だからこそ、日常を損なう過度な緊張は持ち合わせまいと明るく振る舞うことが出来る民族だった。

 

 その日は、いわゆる祭りの日だった。

 田植えの時期を前にし、仕事が忙しくなる前の息抜きとばかりに、若い男女が出会いを求めて集まる催しだ。

 

 男もそれに参加した――といっても、常日頃から自分に仕えてくれる部下に息抜きをさせる為に、彼等が参加しやすいように自分も同行しただけだ。

 

 身を持て余した男女が出会いを求めて集まる催し――男は気乗りがしなかった。

 

 自分の肌に合わぬ、不味い空気が充満する京――そこに残した、唯一の心残りである、とある白狐の面影が、どうしてもちらついてしまうから。

 

 可愛らしく咲き誇る花の下、精いっぱいに着飾った若い男女が睦まじく微笑み合う様を、少し離れた場所から見守る男――そんな男の傍に、とある白拍子(しらびょうし)が近付いてきた。

 

 彼女は男が自分に気付いたことを察すると、男にしか見えない場所で、男の為だけに踊る舞を披露する。

 

 男はその歌舞を見て――彼女が、京で一度だけ見掛けた白拍子であることを思い出す。

 

 思い出していただけましたか――紫色の花飾りを髪にあしらった女性は、無邪気に微笑みながら、男に近づき、触れた。

 

 花の香りを纏う女性――彼女の名は、桔梗といった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 失敗した――少年は、焼け焦げた地面に強く拳を叩きつけた。

 

 東国(あずまのくに)――浅草寺(せんそうじ)

 とある(もの)()が暴れ回ったことで焦土と化し、この地に住まう武士の奮闘によりかろうじて寺の本殿だけが取り残されたこの地。

 

 少年は、その残された本殿の裏手から飛び出し、表で繰り広げられる、辺り一面を焦土と化した怪物と――京より来訪した英雄の戦いを見遣る。

 

 否――それはもはや戦いではない。只の退治――駆除と称した方が正しい。

 

 それほどまでに、両者の力の差は歴然であった。

 

 怪物は漆黒の巨体を誇っていた。

 それもただ漆黒の体皮というわけではない。全身が隈なく真っ黒で、まるで光を吸収しているかのようだ。

 

 少年は知っている。

 漆黒の怪物の正体は――()。本体ならざる分身――正体を持たない、只の残滓(のこりかす)であると。

 

 この浅草寺という場所に縁ある妖怪の、この地に残された思念、妖力、そういったものを『形』に固めて顕現させた紛い物――だが、それでも。

 

 ()()()()()の紛い物というだけでも、相当な妖力(ちから)を誇る筈だった。

 それに、妖怪勢力の総力が平安京に集結しつつあるとはいえ、ここから目と鼻の先にはかつての妖怪達の都、魑魅魍魎の本拠地たる蝦夷がある。

 

 さらにいえば、今は日ノ本中に妖気が空気のように充満している。

 このまま『影』に、辺りの野生の妖怪を、あるいは人間を食らい続けて成長させ、ある程度に育ったら蝦夷へ導き、かの霊峰の息吹を吸わせれば――きっと、あの封印を破壊するほどに成長できると。

 

 そう――企んでいたのに。

 だから、わざわざ危険を冒して、不敬であると自責の念に駆られながらも――浅草寺の本殿に、()()を仕舞い込んでいたのに。

 

 なのに――どうして。

 

(――なんでだッ! なんでこんなにも早く妖狩(あやかしが)りが京からやって来るッ!?)

 

 しかも――よりによって――どうして。

 

 二大妖怪勢力が京に戦力を集中しているこの時期に、平安京で最も妖怪を殺す術に長けている――最強の神秘殺しが。

 

 ()()()が――こんな場所(坂東)に現れるのだ。

 

「グォォォォォォオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 大妖怪――牛鬼(ぎゅうき)の、()

 その漆黒の両目を、頼光四天王たる卜部季武の矢が貫く。

 

 さらに、その隙を逃す神秘殺しではない。

 溜めは一瞬、構えは一挙――次の瞬間には、瞬殺は完了していた。

 

 遅れて閃く剣閃。妖を滅す妖刀――童子切安綱が振るわれたことに観衆が気付いたのは。

 

 牛鬼の影が粉微塵になり、この世界から消滅した後だった。

 

 こうして二度目となる、源頼光による『浅草寺の牛鬼退治』が遂行され。

 

「…………」

 

 何者かの視線を感じて頼光が寺の本殿へと目を向けた頃には――少年は何かを抱えながら、既に浅草寺を後にしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ふと、源頼光は後ろを振り返る。

 軽快に馬を飛ばしながら、敬愛する鬼面の鎧武者の、後ろ髪を引かれるようなその姿に、従者たる従順な四天王は、轡を並べながら問い掛けた。

 

「――どうしました、頼光様? 自分で頼光様を浅草寺へ送り込みながら、すぐさま帰還を命じる晴明様に不服を覚えますか? もう少し浅草観光がしたかったと?」

『――いや。晴明様の言動が支離滅裂であることなど今に始まったわけではない。それに、あの方の嫌な予感は、只の嫌な予言だ。確実に現実になる。故に、こうして強行軍での蜻蛉帰りとなることに、不服などないさ』

 

 私とお前以外の部下がいたのなら、流石にこんな無理な行軍には頷かなかったがな――そう、鬼面に施された特殊な術によって肉声を変えている鎧武者は、その特殊な鬼面の贈り主である陰陽師に対してそう言った後、己の後ろ髪を引っ張るものについて語る。

 

『だが、もう少し、あの地に留まりたかったというのは確かだ』

「…………あの牛鬼の、影に関してですか」

 

 かつてのそれとは比べるべくもない、正しく残滓といわんばかりの有様ではあったが――それでも。

 

 あの影は、紛い物ではあっても――偽物ではなかった。

 残滓ではあったが――紛れもなく、本物の牛鬼由来の、『影』であった。

 

「あの『影』の発生要因は、確かに調査しなくてはならないかもしれませんね。……もしかしたら――」

『――確かに、それもある。が、私が気になっているのは、影ではなく――』

 

 人、だ――鎧武者のその言葉に、四天王は顔を向けて問う。

 

「それは、あの影は自然発生したものではなく、何者かによる人為的なものだと」

『――それも、ある。が、だが、私が気になっているのは、私の後ろ髪を引いているのは、もっと漠然とした、もっと大きく、もっと広いものだ』

 

 そこで頼光は遂に馬の足を止め、背後を――後にする坂東の地を眺める。

 

 坂東は限界だ――牛鬼の影を退治した頼光に、地元の武士――坂東武者達は、頼光の助太刀に感謝した後、そう小さく、唇を噛み締めながら零した。

 

 平安京の慢性的な財政難。

 そのあおりを強く食らっているのは、壁に囲まれた京の中に住まう貴族等の目には映らない、地方の民衆だった。

 

 朝廷は足りない財を地方から集めようとし、地方を治める国司に民衆から重税を取り立てるように指示を出す。

 国司は中央の監視の目が届かない僻地であることをいいことに、まるで己の王国であるかのように、要求されている以上の税を民に課して、懐に入れる取り分を増やして私腹を肥やす。

 

 結果、民はますます疲弊していく。

 そこに広がる、空気のように充満していく妖気――活発化する妖怪。

 

 地方は――坂東は、既に限界だった。

 

(……しかし、それでも――坂東の武士は、強い。平安京の検非違使などよりも、遥かに実践慣れしている)

 

 頼光によって容易く葬られたとはいえ、残滓とはいえ――牛鬼の影は、それでも本物の大妖怪由来の成分から構成されていた怪物だ。

 

 それを、曲がりなりにも、彼等は食い止めていた。

 犠牲も最小限に――()()()()()()

 

 頼光や季武といった一部の、ほんの一握りの英雄(イレギュラー)を抜きにすれば――坂東武者は、平安武者よりも強いかもしれない。

 

(国司も馬鹿ではない。自分達の行いが、民衆の恨みを買っていることなど百も承知であるだろう。彼ら――坂東武者の強さも。そして、限界を超えた彼らの怒りが、真っ先に向けられるのが、中央ではなく己ら国司であるということも)

 

 だからこそ、この坂東の地の国司達は、中央の貴族達のように、坂東の民を野蛮な蛮族であると差別したりはしない。

 今現在、地方を治める国司や豪族は、自分達を守る傭兵として坂東武者を正式に雇い入れている。

 

 要人の身を守るべく、傍に侍る士――(さむらい)

 

 国司や豪族の間では、どれだけ優秀な、どれだけ強い、どれだけ多くの侍を抱えているかで階級(ヒエラルキー)が生まれているという――だが、それは、つまり。

 

(既に、この坂東の地は、彼らによって全てが決まる仕組みになっている。坂東武者がその気になれば――()()()()()()()()()()())

 

 そして、その手は――いずれ、伸ばされることになる。

 

 終わりゆく京である――平安京へと。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 頼光は、今度こそ、坂東の地から――()()()()()()()()から、背を向けて呟く。

 

『今、再び蘇るは――妖怪の影か。それとも――』

 

 何かが、動き出している。

 それは妖怪か、人間か、それとも――時代か。

 

 鎧武者は、とある全てを見透かす陰陽師の式神である――術符を咥えた燕の飛来を見上げて。

 

 源頼光は――確信した。

 

 何かが動き出している。何かが変わろうとしている。

 

 そして――何かが、終わろうとしている。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 何かが、終わった――男は、それを確信した。

 

 己が放った火で燃え盛る屋敷。己が炎上させた地を眺めながら、男はそれを受け入れようとしていた。

 

 きっかけは、男が愛を受け入れたことだった。

 父の領地を受け継ぎ、領主となった男は、複数の女を室として迎え入れた。

 

 その一人が、男の父の弟の娘――すなわちは従妹の娘だった。

 彼女は幼き頃から男に憧れを抱いていた。それはいつしか思慕に代わり、彼女の身を燃えるように焦がせた。彼女の父が婚約を決めた男がいるにも関わらず、その者の元から逃げ出すことを決意する程に。

 

 道中、妖怪に襲われボロボロになりながらも、男の元へと辿り着き、受け入れてほしいと叫ぶ従妹を拒絶することが、男には出来なかった。

 

 その決断が、どんな事態を引き起こすのか――想像出来ないような愚か者では、男はなかったが。

 

 それでも、泣いている女を突き放すことが出来ないほどには、男はどうしようもない愚か者であった。

 

 そこからは早かった。

 従妹の婚約者であった男が、男の領地を攻めてきたのだ――男はそれを返り討ちにしたが、元婚約者は続いて男の別の室の実家、すなわちは舅の領地を攻めたのだ。

 

 標的である男には勝てないと分かった途端、何の関係もない者の地を、まるで嫌がらせのように襲う――元婚約者の武士にあるまじきその行為は、男を遂には獣へと化えた。

 

 男は徹底的にその元婚約者を攻め立てた。

 徹底的にだ。どこまで逃げ続け――挙句の果てには、父亡き後、男の一族の長であった、室となった従妹の父とは別の、もう一人の叔父の元にまで逃げ続けた元婚約者を。

 

 奴を引き渡して欲しいという訴えを聞き入れなかった叔父ごと――男は焼き払った。

 

 男は覚悟していた。

 自分のこの行いは、きっと全てを敵に回すだろう。

 

 後悔はなかった。自分はきっと――どれほど常軌を逸しようと、理不尽を許すことが出来ないのだ。

 こうする他に道はなかった。遅かれ早かれ、自分はこうなってはいたのだろう。

 

 きっと――自分は人ではなくなった。

 元婚約者だけでなく一族の長である叔父も、叔父が治めていたこの地に住まう民も、女も、子も焼き尽くし――焦土とした自分は。

 

 我は、魔人なり――男は燃え盛る大地を眺めながら呟いた。

 

 きっと何かが終わった。

 そして、始まる――ここから、全てを敵に回す戦いが。

 

 男の脳裏には、自分が焼き尽くした氏長者――叔父の長子であり。

 

 かつて、都で共に栄達を夢見た、幼馴染であり、従兄弟であり――親友であった、男の顔を思い浮かべていた。

 

 きっと、これから終生に渡って殺し合う、宿敵となってしまった、男の顔を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 少年は見ることが出来なかった――自身の目の前に座る、女の顔を。

 

「……はは……うえ……。申し訳!! ございませぬ!!」

 

 畳に頭突きをするように、少年は勢いよく頭を下げた。

 

 表情を消して少年を――息子を睨み付けながら。

 まるで我が子を抱くように、()()を膝に乗せて愛おしげに撫でる女は――表情を消して、膝の上のそれではない、紛れもない、我が子に言う。

 

「――そなたの軽い頭など、いくら下げても、何の意味もないのです、忠常(ただつね)

 

 少年――平忠常(たいらのただつね)は、目の前の女――己の母の言葉に身を震わせる。

 

 時間の無駄です。面を上げなさい――と、まるで主が如く振る舞う母の言葉に操られるように、恐る恐る、すこぶる悪いと分かっている機嫌を伺うように顔を上げた。

 

 如春尼(にょしゅんに)――かつての名を春姫。

 彼女は少年・忠常の母であり、平国香の弟・平良文の子である平忠頼の妻であり。

 

 そして――。

 

「よいですか、忠常。幾度も申してきたことです。だからこそ、何度でもそなたに申しましょう」

 

 如春尼は、冷たい眼差しを我が子に向けながら、まるで我が子を愛おしむかのように、()()を膝に乗せて、優しく撫でながら言う。

 

「そなたには――魔人の血が流れています。母であるわらわと、同じように」

 

 彼女が膝に乗せる()()は――()であった。

 物言わぬ首。けれど、何よりも雄弁に――迸るような無念を、物語る、生首。

 

 幾星霜の時が流れようとも、決して衰えることのない『力』を放つ――()()()()

 

「我等の使命は、我が父――将門公(まさかどこう)を蘇らせることです。その為に、我等は存在している。そのこと、努々(ゆめゆめ)――お忘れ無きよう」

 

 彼女は如春尼――かつての名を、春姫。

 かつて魔人と呼ばれた男。かつて新皇を名乗った男。伝説の大怨霊・平将門(たいらのまさかど)の娘であり。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、魔人を殺した男・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)()()()()()()()()の娘は。

 

 魔人と呼ばれた男と、魔人を殺した男――その真っ黒な血と、真っ白な血を受け継ぐ娘は。

 同じく、その二色の血を受け継ぐ己の息子に、尚も冷たく、鋭く命じる。

 

「浅草寺の牛鬼を利用する企みが潰えたことは理解しました。しかし、やはり何度でも申しましょう。我々には――(とき)がありません」

 

 如春尼はそう言って、法衣に隠れていた己が左手を、生首を撫でる右手とは逆の手を晒す。

 幼き時から何度も目にしていた。だが、忠常は、何度見ても――母のその手が、とても嫌いだった。

 

 如春尼の腕は、まるで呪われているかのように――()()()()()()()()()()()()()()

 

「わらわの兄も、わらわの姉も、わらわの弟も、わらわの妹も――叔父も、叔母も、夫も、みな、みな、みな! 父上を! 将門公を蘇らせる為に生きてきた! あの偉大なる魔人を! この坂東を救う英雄を蘇らせる為に! その為にこの身を! この命を捧げてきたのです!!」

 

 突如、火を噴くが如く燃え盛った母の怒りに、忠常はいつものことと分かりながらも、心から震える。

 

 かつてこの坂東の地を救うべく立ち上がり、新たなる(おう)を名乗り、朝廷に――平安京に叛旗を翻した男――魔人・平将門。

 

 しかし、その乱は自身の従兄弟である平貞盛(たいらのさだもり)、そして最強の豪族と謳われた怪異殺しである藤原秀郷によって無念にも鎮圧された。

 

 結果、首は平安京にて晒され、胴体は彼の故郷である下総に捨て置かれた――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 首は怨嗟の念のみを動力源に再び刮目し、胴体を求めて平安京の結界を突破して坂東目指して飛んでいき。

 胴体は首無しの鎧武者として再び立ち上がり、同じく己の首を求めてゆっくりと京に向かって歩き出した。

 

 だが、それでも、首と胴体が再び巡り会うことは叶わず。

 それぞれ力尽きて動作を停止したが――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 首も、胴体も、幾星霜の時が流れようとも、その身を朽ち果てることは出来ず、どんなに高名な怪異殺しでも、神秘殺しでも、そして、()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 結果、かの魔人の首と胴体は、別々の地に離されて埋葬され――幾人もの陰陽師が厳重に封印を施し、未来永劫に渡って放置するという沙汰が下された。

 

 そして、人々がかの恐ろしき魔人のことは一刻も早く忘れようと、忘却の彼方へ追いやろうとしている中――かの将門公の血を引き、かの魔人の遺志を受け継ごうとする一族だけは、忘れようともせず、むしろ決して忘れてなるものかといわんばかりに。

 

 何の知識も、何の力も無い中で――ただ、その魔人の血のみを頼りに。

 平安京の幾人もの高名な陰陽師が、幾重にも厳重に施した封印に挑み続けた。

 

 そして、忠常の母――魔人の血と、魔人を殺した英雄の血を受け継いだ彼女の手によって、ようやく、首の封印を破壊することに成功した。

 

 だが、彼女は、それでも――言う。

 

 我々には――時間が、ない、と。

 

「そなたにも分かっているでしょう――既に、坂東は」

 

 日ノ本は――限界です。

 そう、如春尼は、忌々しげに吐き捨てた。

 

「…………」

 

 忠常は母の言の葉に何も返すことが出来なかった――それが只の事実だったからだ。

 

 平安京の財政は悪化の一途を辿り、それを無理矢理に取り繕うことに疲弊し――その足りない財源を、無理矢理に絞り出されている地方は更に疲弊している。

 

 そして、それと反比例するように妖怪勢力は拡大の一途を辿り、今やこんな坂東の地表にまで妖気は充満している始末。

 中心地たる平安京、この国で最も厳重な封印によって守られている筈の都市の内部まで妖気に犯されているという有様。

 

 既に人の世が滅びて、妖怪に蹂躙されることになるであろう刻限は確実に近付いている。

 そして、そうなった場合、真っ先に滅び行くのは――総攻撃を仕掛けられるであろう平安京、()()()()

 

 (とど)めを差されるまでもなく限界まで疲弊しきった、戦う力も抗う力も残されていない、それでいて、妖怪勢力が隆盛を取り戻したら間違いなく攻め込んでくるであろう土地。

 かつての妖怪の都――蝦夷(えぞ)と隣接している、この坂東の地であると。

 

「だからこそ、我々には魔人が必要なのです」

 

 今こそ、蘇らせなくてはならない。

 

 かつてこの地を救うべく立ち上がった、この坂東の守り神を。

 

 圧倒的な理不尽を覆すべく戦った――たった一人で平安京という『人間』と、蝦夷の『妖怪』と戦い続けた『英雄』を。

 

 人の身でありながら、妖怪の力をも支配した――かの菅原道真公をも凌駕するであろう、この国で最も恐ろしい『怨霊』を。

 

 全てを超越し、何もかもから外れることになってしまった、奇跡の『魔人』を。

 

「我々には――時間が無い。『鬼』が、『狐』が――そして、『人』が。この国を終わらせる、その前に」

 

 如春尼は、魔人の生首を、再び息子に手渡しながら。

 

 まるでこの坂東の、そしてこの国の命運を託すように。

 

 母から息子に――呪いを施す。

 

「魔人を――蘇らせなさい」

 

 少年は、ただ生唾を呑み込んで。

 

 それを受け取り、頷くことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、翌朝――少年は、山を登った。

 

 何も圧迫的な母親が嫌になって家出を敢行したわけではなく、むしろ、母親の言うことを忠実に実行しようと思ったが故の登山だった。

 

 魔人・平将門の復活。

 忠常ら一族はその悲願の為に執念を燃やし、遂には『首塚』の封印を解除することに成功した。

 

 しかし、『首塚』の封印から解放された首は、瞼を薄く開きはするものの、何の言葉も発することなく、活動を再開することはなかった。

 

 故に、如春尼は、将門が復活するには『首』と『胴』を引き合わせることが必要と考えた。

 

 そこで母から(めい)を託された忠常は――将門の首が、周囲の怪異に影響を及ぼすこと、有り体に言えば強化――凶化することに目を付け、かの牛鬼を輩出したことで有名な浅草寺に将門の首を隠し忍ばせた。

 

 結果――『首』は、有名な怪異スポットであった浅草寺の妖気に多大なる影響を及ぼし、牛鬼の影を復活させるに至る。

 

 後は十分に『影』が強化された頃を見計らって、『首』に影を取り込ませて首の霊力を高めさせ、『胴』を呼び寄せる算段だったのだ――が、その計画はまさかこの時機にと思わせる出張をかましてきた神秘殺しに台無しにされた。

 

 不幸中の幸いは、源頼光に『首』の存在を悟られなかったことか。

 かの神秘殺しも唐突な牛鬼の影の出現に疑問を持ったようだが、それこそ、時機が時機なだけに、日ノ本中に蔓延している妖気の仕業だと、ここは都合良く解釈されたようだ。

 

 それは頼光が将門の存在をそれこそ伝説としか知らないからともいえそうだが――しかし、伝説は実在する。そして、蘇る。その為に――忠常はこうして『首』を背負って、険しい山道を登っているのだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 忠常は己の首に流れる汗を拭いながら、だんだんと山道から只の山へと――つまりは歩くべき道がなくなり、道なき道を歩み始めている己を振り返る。

 

 どうして自分は、こうして下総の霊山を登る羽目になっているのか。

 

 それは――。

 

(『胴』を呼び寄せることが出来ないのならば――『首』の方を直接、『胴』の元へと届けるしかない)

 

 いってしまえば単純な理屈だが、その簡単な答えに母を含めた一族は誰にも辿り着けなかった。

 

 何故なら――厳重な封印が施されていた『首塚』と違い、『胴塚』は、()()()()()()からだ。

 

 平将門の遺体――殺しきることが出来なかった不死身の魔人であるが故に、遺体という表現が正しいかは分からないが、ともかく平将門の『首』と『胴』は、かの安倍晴明でさえも破壊することは叶わなかった。

 

 故に、陰陽師達は『首』と『胴』が永遠に出遭わないように、『首』の方は固い封印の中に閉じ込めて、『胴』の方は深い結界の中へと隠した。

 

(結界というよりは、異界――妖怪達は、その場所を()()()と呼んでいるらしいけど)

 

 つまりは、普通の人間では()()()に辿り着くことすら出来ない場所に、将門の『胴』は隠されてしまっている。だからこそ忠常ら一族は、『胴』の捜索も一応は続けながらも、その殆どの手勢を『首』へと注力せざるを得なかった。結果として『首』の封印は解除することは出来たのだから成果は出ているのだが、『胴』の方は何の手がかりも得ていないのが現状だった。

 

(だからこそ、『胴』の方から見つけて貰う方策を取ったのだけれど。……少ない情報が確かなら、『胴』の方は身動きを封じられるような封印は施されていないみたいだし)

 

 しかし、その少ない情報が――伝説が確かなら、『胴』は破壊されてはいなくとも動けるだけの力は残されていないようなので、その方策にそもそも無理があったのかもしれない。

 それでも、『首』の霊力を高めれば、『胴』の方も刺激されて再び立ち上がるだけの力を取り戻すかとも思っていたが――それも全て、計画が破綻した今では只の青写真だ。

 

 故に、動けない『胴』に変わって、自分の足を動かすことにした忠常は――こうして山を登った後は、霊峰に辿り着いた後は、己が背中に背負っている『首』に期待するしかないのだった。

 

(普通に探しても、『胴塚』には辿り着けないのかもしれない。でも、まだ殆ど力を取り戻していない『首』でも、こうして物理的な距離を近づければ――もしかしたら、何らかの『共鳴』を起こして)

 

 物理的に侵入不可能な『胴塚』にも――辿り着けるかもしれない。

 

 それは、昨夜、赤き流星を見たと叫ぶ如春尼が言い出した、吉兆だと叫び散らしていた母が立てた、余りにも希望的な観測だが――それでも。

 

 不可能を可能にするからこそ、平将門は魔人と呼ばれたのだ。 

 

 そして、死して尚――不死身の魔人は、平将門は、健在だった。

 

「――――ッ! 首が――!?」

 

 忠常は背負った箱に仕舞い込んでいた『首』が反応したのを感じた。

 ゆっくりと箱を地に下ろし、取り出してみると、『首』はその両目を開眼させ――そして、発光させていた。

 

 その物理的に光を発した両眼は、いつの間にか霧に囲まれていた山中の一点を照らし出していた。

 

 忠常は強く唾を飲み込み、『首』を大事そうに両腕で抱えて、ゆっくりと、その照らされた道を進む。

 

 己の身を枝木で傷つけながら、それでも『首』には傷一つ付けまいとしながら、その道なき道を更に進むと――――遂に、辿り着いた。

 

 一族の誰も、遂には見つけることすら叶わなかった――平将門の『胴塚』に。

 

「こ……こ……は――――ッ!!??」

 

 そこは深い山の中で、ただ一筋の光だけが差し込む場所だった。

 一柱の悠々と聳える大木が存分にその光を吸収しており、その根元には簡素な墓があった。

 

 未だ誰も辿り着いたことのない場所であるが故に、手入れなどもされている筈もなく、ぼうぼうと雑草が生い茂りながらも――どこか神聖で、犯しがたき聖域のようにも思えるその場所は。

 

「――――なんだ、これは――ッッ!!??」

 

 ()()()――()()()()()()()

 

 大木はへし折れ、墓は粉々に吹き飛んでいる。

 

 誰にも足を踏み入れられない筈の『胴塚』は――()()()()()()()()()()()()()()()、暴虐的に、理不尽に、容赦なく、蹂躙されていた。

 

「……なにが……どうなってるんだ?」

 

 あり得べからずな異常事態(イレギュラー))。

 

 忠常ら一族が、何年もの月日を掛けて目指してきた悲願を、唐突に無作為に粉砕した――その、宇宙からの、世界の外から現れた隕石(来訪者)は。

 

 将門の『胴塚』を吹き飛ばしていた、彼の墓があった場所に代わりに鎮座していた、()()は――『赤い球体』だった。

 

 ぽっかりと、まるで口を開けるように(ひら)いているその異物から、忠常は不気味に思いながら目を逸らす――関わってはいけない異分子(イレギュラー)だと、無意識に理解しているかのように。

 

 そして――見たこともない、世界観がまるで異なる――まるで、異なる世界からやってきたようなそれを。

 

 己の墓を蹂躙している()()を、将門の『首』は、薄く開いた――光った眼で、じっと無感情に見詰めていた。

 




用語解説コーナー㉗

坂東(ばんどう)

 関東地方の古名。
 相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野を合わせて坂東八カ国と呼ばれていまた。足柄峠・碓氷峠などの山を「坂」とし、それより東の諸国で「坂東」である。

 平安京から離れている為、国司による独自の暴走が加速しており、それに対抗するように武士の力が高まっている。

 貴族の時代を終わらせる武士の力が――刻一刻と、その力を増し続けている。

 その背景には、間違いなく――とある魔人の存在があった。


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妖怪星人編――㉘ 箱入り姫の星出

この星から、出て行きなさい。


 

 そこからの人生は、この後の物語は、まるで雪崩のようだった。

 

 自分ではどうにも出来ない何かが、まるで運命とか時代とか、そういう大きすぎるスケールの何かが、自分という主人公(なにか)を無視して勝手に話を進めているかのように、一方的に進んでいった。

 

 将門によって殺された兄・平国香の代わりに氏長者となっていた平良兼は、先代の氏長者への仕打ちを理由に将門の領地へ攻め込んできた。

 絶対的だった兄が死に、地元の有力者だった将門の室の元婚約者の父も失脚して、良兼はふっと湧いた好機に欲が出たのだ。

 

 これで将門をも打倒すれば、坂東は我が物となる。

 そう舌なめずりをし、腕力自慢だった弟・良正、そして、一族きっての才覚の持ち主であった亡き国香の長子・貞盛をも戦力に加えて――制止する貞盛の言葉にも耳を傾けずに、三千の兵を率いて挑み掛かり。

 

 たった一日で、僅か三百の兵を率いた平将門に敗れ去った。

 

 屈辱であった。

 一族きっての腕っ節を誇る良正と将門の一騎打ちを特等席で眺めていた良兼は、己が陣営の勝利を疑っていなかった。

 

 あの巨体を誇る良正が、黒き馬に跨がる将門に――腕一本で宙吊りにされる様を目の当たりにするまでは。

 

 魔人だと、良兼は思った。

 人間ではない。化物だ。怪異だ。彼奴(きゃつ)は妖怪ではないのかと心から疑った。

 

 良正はまるで掻っ攫われるかのように馬上から引き剥がされ、そのまま黒馬を走らせる将門に腕一本で宙吊りにされた後、無造作に捨て置かれるかのように投げられ、落馬した良正は首の骨を折って死んだ。

 

 その死に顔は、まるで信じられないものを見たかのように、恐怖と酸欠で真っ青に染まっていた。

 

 良兼はその目と合った瞬間に、甥である将門に見据えられた瞬間に、背を向けて一目散に逃げ出した。

 兵も部下も子も捨て置き、ただ我武者羅に死にたくなくて逃げ惑った。

 

 そして、どうにかこうにか逃げ延びた良兼は――震えた。

 恐怖、そして、それ以上の――屈辱で。

 

 兵法も何もかも捨て去り逃げ惑う良兼など、将門にとっては屠るのは容易かった筈だ。

 

 なのに見逃された――まるで、何度来ても同じことだと、そう良兼を見下すように。

 

 事実、そこからの平将門の隆盛は凄まじかった。

 三千の兵を三百の兵で破り、しかも民上がりの兵を一兵たりとも捨て駒にしていない。

 

 己の領地の民にも優しく、害されたら我が事のように怒ってくれると。

 気が付けば坂東の土豪達が続々と将門の元に集まり――まるで一つの国家のようになっていった。

 

 そこに目を付けたのが、将門が殺した例の元婚約者の父と、そして平良兼だった。

 

 平将門に朝廷への叛意在りと訴え、朝廷の軍を持って奴を捕らえろと求めたのだ。

 坂東の勢力を己が下へと集め、京への対抗勢力を作り上げていると。

 

 時は正に日ノ本中で平安京への不満が立ち込めていた全盛であり、瀬戸内では藤原純友という海賊が横行していた時機だった。

 

 それもあって朝廷は、事の真偽を確かめるべく、張本人である将門へ平安京への招待状を送りつけた。

 

 平将門はそれに素直に応じた。己が身に隠し立てるような黒い思いは何もないと。

 

 こうして、将門は久方ぶりに――平安京へと足を踏み入れることとなった。

 

 凱旋、である。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 追放、であった。

 

――出て行きなさい、ここから。

 

 この星から、出て行きなさい――そう言われて、彼女は家出を決行した。

 

 家出というか、星出というべきか。

 彼女は住み慣れた、棲み慣れたその星から、飛び出すように宇宙船に飛び乗ったのだ。

 

 箱入り姫――彼女はそう言われていた。

 生まれついて誰よりも美しく、誰よりも賢く、誰よりも強く――誰よりも化物だった彼女は。

 

 ただ、そこにいるだけで――その部屋にいるだけで、その星の全てを支配していた。

 

 その星は、いわゆる他種族国家だった。

 複数の『星人』が一つの惑星を分け合い、共存し、運営していた。

 

 その中でも彼女は――最強だった。

 彼女の種族は、数こそ圧倒的に少なかったものの、その星に暮らす他種族よりも、他の星人よりも圧倒的に強かった。

 

 それ故に、まるで隔離されるように限定的なエリア内で同種族のみで暮らし、他の種族は彼女達にまるで供物を捧げるように同族を餌として定期的に送り込みながらも不干渉を貫き、時折発生する他の星からの侵略者との戦い――『星人戦争』時には、戦力として、切り札として、応援を依頼され、それに応えるという契約の元に、共存は成り立っていた。

 

 筈――だった。とある『悲劇』が起きるまでは。

 

 結論を先に言うと、その『悲劇』を経て――彼女は、全てを支配した。

 正に、圧倒的な化物(イレギュラー)だった――『奇跡(キセキ)の子』と、そう呼ばれていた。

 

 彼女は賢かった。

 隔離された箱庭においても更に隔離された『子供部屋』の中からさえも――星一つを簡単に支配してしまうくらいに。

 

 彼女は美しかった。

 余りにも危険だと分かっているのに、彼女の美貌を目撃してしまった戦士達が、無数の傀儡という名の手足となってしまうくらいに。

 

 そして、彼女は、余りにも――強かった。

 強さ。そのたった一つのパラメータで、その全てが許されてしまう程に――生まれながらに、ただそこにあるだけで、彼女は只の最強だった。

 

 その星は、彼女というイレギュラーによって成立し、そして、彼女というイレギュラーによって崩壊の危機を迎えていた。

 

 ただ圧倒的に天才で、ただ圧倒的に美しい、ただ圧倒的に最強な――彼女というイレギュラーの機嫌一つで、ぐらんぐらんに揺れ動いてしまう、そんな危うい世界に作り変えられてしまった。

 

 それでも、彼女はその星に住まうどんな生物よりも、どんな星人よりも、賢く、美しく、強いが故に――絶対で。

 

 だからこそ、その星に住まうほぼ全ての星人が、己達の運命を、命運を、静かにゆっくりと諦めて、彼女という存在に委ねようとしていた――そんな時だった。

 

 鉄壁の如く締め切られた彼女の子供部屋の扉を物理的に開け放って、巨大過ぎるベッドで死んだように寝転んでいた、身体だけは大きく、そして美しく育った彼女に向かって――ビシッと、とある女が叱りつけたのは。

 

――出なさい。出て行きなさい。この部屋から。この城から。この国から。そして、この星から。

 

 その女性は――美しかった。

 星を揺るがす彼女ほどではなかったが、国を振り回すには十分過ぎるほどの、見る者の目を奪う、心を奪う美貌を誇っていた。

 

――世間知らずの小娘に振り回されるのは、もううんざりなの。あなたは知るべきよ。世間を。そして、世界をね。

 

 既に、その星に住まう全ての者が何も言えなくなっていた彼女に、それでも、この女だけは、はっきりとぶつけた。

 

 余りに賢く、余りに美しく、余りに強い――彼女というイレギュラーが星を支配して、果たしてどれだけの年月が経ったのだろう。

 既にこの星は、彼女が気まぐれに変えた仕組みで動いていて。既にそれは、彼女以外の誰にも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、複雑で、繊細なルールの元に運営されていて――けれど、それは余りにも完璧な、触れるだけで壊れてしまいそうな、見事な調和を生み出していた。

 

 だからこそ、世界は彼女を恐れた。

 自分達が理解出来ないルールで完璧に整えられた世界――それはつまり、彼女の機嫌一つで、世界は、この星は、理解不能な、解決不可能な、致命的なエラーを容易く発生させてしまいかねないということだからだ。

 

 故に、この星の住人は、彼女に対して、既に何も言えなかった。

 

 何も言うことも出来ず、何も思うことも出来ず――子供部屋のベッドの上で、彼女は余りにも完璧な独裁を敷いていた。

 

――大人を嘗めないで。あなたが崩した均衡なんて、あなたが作り上げた調和なんて、いくらでも整え直してみせる。

 

 彼女の余りに完璧な操縦(コントロール)は、その指示を送られた者が、本来の自分では不可能な仕事(パフォーマンス)を容易く可能にした。

 

 だからこそ、世界は彼女を恐れた。

 自分では絶対に不可能な仕事を前提として成り立っている世界――それはつまり、彼女の魅了(アシスト)無しの自分では、自力操縦(マニュアル運転)の自分では、この繊細な調和が成り立っている世界に、次の瞬間にも致命的なエラーを齎してしまいかねないということだからだ。

 

――大人が情けないことを言わないで。彼女は、あくまで彼女があなた達の性能(スペック)で可能なことをさせているだけよ。出来ないことをやらせているわけじゃない。出来るまで練習しなさい。鍛錬なさい。それでも出来ないというのなら、こんな世界はあなた達の、私達の身の丈に合っていないものなのよ。潔く手放しなさい。

 

 彼女という最強は、彼女という化物は――彼女という、奇跡(イレギュラー)は。

 

 彼女という存在以外の全てを震え上がらせてきた。

 どんな外敵からもこの星を守り続けて――それ以上に、この星に住まう誰もを恐怖させてきた。

 

 この世界は――彼女を恐れた。

 

 だからこそ――だからこそ。

 

 世界は彼女に恭順し、世界は彼女を隔離し、世界は彼女を――この狭い、子供部屋の中へと閉じ込めた。

 

 この星は――彼女を恐れた。

 

 だからこそ――だからこそ。

 

 星は彼女に依存し、星は彼女を確保し、星は彼女を――この狭い、何もない星の中へと閉じ込めた。

 

 この世界に――この星に。

 

 この国に、この城に、この部屋に――この『箱』に、閉じ込めた。

 

 だからこそ――そんな『箱入り姫』に、女は、言った。

 

――私を嘗めないで。私に情けないことを言わせないで。アナタの尻拭いくらい、いつでもやってみせるわよ。

 

 こうみえても、一つの国をめちゃくちゃに振り回してみせた女なのよ――女性は、まるで檻に閉じ込められるように、ベールの中のベッドから出ようとしない彼女に向かって、挑発的に言い放つ。

 

――悔しかったら、アナタも見学してきなさいな、社会ってものを。こんな狭い『箱』に閉じこもってないで、その目で、その耳で、その足で、その手で、その牙で、味わってきなさいな。……ちょうど、おすすめの場所があるわよ。

 

 女性は、その狭い部屋の窓を――きっと彼女が、ずっとずっと眺めてきたであろうその窓から見える、青い惑星を指差した。

 

――いいところよ。わたしはそこで、色んなことを学んだ。温かさも、冷たさも。愛も、恋も、憎しみもね。きっとアナタも、虜になるわ。

 

 あなたのことも、きっと――受け入れてくれる()()もいるわ。

 

 女性はベールを開けて、彼女を真っ直ぐに見据える。

 自分以外の誰もを、たった一目で魅了してきた彼女の美貌を直視しても――女は、小さく微笑むだけだった。

 

 誰もが彼女を天才と讃える。誰もが彼女を最強と崇める。誰もが彼女を、化物と恐れる。

 

 けれど、その女は違った。

 女には――彼女は、只の、寂しそうな、女の子にしか見えなかった。

 

 だから女は、彼女が誰かに言って欲しかったであろう言葉を告げた。

 

 それはきっと――女がいつか、誰かに言って欲しくなかった言葉だった。

 

――いってらっしゃい。あなたには、行くべき場所があるんだから。

 

 それでも、何処に行こうとも何も変わらないと、拗ねるように言う彼女に、女は挑発的に言う。

 

――なら、また世界征服でもしてみなさいな。()()とは違い、()()はそんなに上手くはいかないとは思うけどね。

 

 それでも――それでも、また、閉じ込められるようなことになったなら。

 

――その時は、今度は私が、迎えに行ってあげるから。

 

 余りにも天才であったが故に――何もかもを見限っていた彼女は。

 余りにも最強であったが故に――何もかもを見下していた彼女は。

 

 余りにも、化物であったが故に、生まれて一度も負けたことのなかった彼女は。

 

 この時、初めて――負けを認めた。

 

――いってらっしゃい。リオン・ルージュ。

 

 箱入り姫と、ずっと揶揄されていた彼女は――もう、誰も呼ばなくなったその名をもって、背中を押されて。

 

 その勢いそのままに、部屋を飛び出し、城を飛び出し、国を飛び出し――星を飛び出した。

 

 赤くて丸い宇宙船に飛び乗って、青くて丸い惑星へと飛び込んで。

 

 

 真っ赤な雷に撃ち抜かれて――知らない何処かへと墜落した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 女は目を覚ました時、お決まりの台詞を恥ずかしげもなく呟いた。

 

「ここは――どこだ?」

 

 そして体を起こし、頭を押さえた所で、再び非常にテンプレな言葉を零した。

 

「――僕は、誰だ?」

 

 非常にありきたりで、つまらないことだが――彼女は記憶喪失だった。

 

 が――しかし。

 

 何処かの間抜けな男と違って――女は天才だった。

 

 それ故に、直に全てを思い出す。

 

「ああ――思い出した。そっか、僕、家出したんだっけ」

 

 女は立ち上がり、宇宙船から飛び出して、そのまま闇雲に歩き出した。

 

 神秘郷の不可視の結界を、まるで天蓋ベッドのベールを潜るみたいな気安さで突き破って、そのまま美味しそうな匂いのする方へと大ジャンプした。

 

 そして、そのまま隕石みたいに落下し、空腹に突き動かされるがままに――辺り一面に転がる、妖怪達を喰らった。

 

「――いただきます」

 

 

 こうして、妖怪の国――()()()()()()()

 

 

「えっと……あの女に挑発されるがままに星を飛び出したのがいつのことだっけ……で、宇宙船がなんかにぶつかって制御不能になって……あれ? 僕、いつ宇宙船から出たんだっけ? ここ、どこだっけ? どれくらい歩いたんだっけ? どれくらい食べたんだっけ?」

 

 僕は、何をしに、()()に来たんだっけ? ――紅蓮の髪の美女は、妖怪達の屍が、蝦夷に住まう全ての妖怪が、真っ黒な灰となって消えていく中で。

 

 黒灰に包まれながら――それでも、太陽を浴びることだけは無意識に避けながら、差し込む日光を、久しく認識していなかった己が天敵を、まるで睨み付けるように眺めながら。

 

 ひとりぼっちで、途方に暮れる。

 

「…………嘘つき」

 

 こうして紅蓮髪の美女は、星から飛び出した箱入り姫は、来星初日に、あっという間に一つの国を滅ぼした。

 

 己の名も思い出せなかった女が、己の名を思い出す前に――朝飯前とばかりに、一つの国を食べ尽くした後。

 

――行ってきなさい。あなたには、行くべき場所があるんだから。

 

 それでも、まるで何かを求めるように、足を止めず、そのまま夜になり太陽が沈むと、彼女は山を下り、人里に下りた。

 

 食べても食べても――腹が減った。

 

 何かを求めるように、何かを探すように徘徊する紅の美女は、すれ違う全ての生物を喰らって回った。

 

 違う。違う。違う。

 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ!!

 

(僕は、こんなことがしたくて飛び出したのか? 僕は、こんなことを求めて、あの部屋を飛び出したわけじゃない!!)

 

 自由に――なりたかった。

 

 理解出来なかった。

 

 何故、みんなもっと賢くやらないのか。

 何故、みんなあんなにも醜いのか。

 何故、みんなどうしようもなく――弱いのか。

 

 理解出来なくて、意味が分からなくて――だから、教えてあげたんだ。

 こうすればもっと賢く、こうやればもっと美しく、こう出来れば――もっと強くなれるって。

 

 でも、そうしたら、みんなが彼女のことを恐れた。

 拒絶し、隔離し――気が付いたら、閉じ込もっていた。

 

 箱の中の世界はすごく息苦しくて、だけど、自分がこうすることを、誰もが、何もかもが――望んでいたのは分かっていたから。

 

 リオン・ルージュという化物は、こうしているべきなのだと、理解出来たから。

 

 そうすれば平和で、そうすれば穏やかで――それこそが、調和のとれた世界だと。

 

 これが、簡単に導き出される――ひどくつまらない、正解だと。

 

――あなたは知るべきよ。世間を。そして世界をね。

 

「――――っっ!!! こんな世界ッッ!! 知ったところで――ッッ!!」

 

 ほれみたことか。分かっていたことだ。

 

 世界はこんなにも脆い。

 リオン・ルージュという化物が、自由なんてものを求めた所で――。

 

 一体、何処の誰が――受け入れてくれるっていうんだ。

 

「――やめろ」

 

 その時――涙と共に振るわれた紅蓮の爪が、受け止められた。

 

 自分が八つ裂きにしようとした子供を庇うのは――地味な色の着流しの男だった。

 

 墨色の髪。すらりとした長身の体躯。

 端正な顔立ちだが――何よりも目を引くのは。

 

 紅蓮の爪を受け止めた――彼女の瞳と同じ、黄金の太刀。

 

「やり過ぎだ」

 

 彼女のことを叱ってくれた二人目は――何の変哲もない、只の人間の男だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 男を初めて叱ってくれたのは――この国の権力の頂点に君臨する覇者だった。

 

 やり過ぎだ――と。

 

 何をやっておるのだと、そう大きく溜息を吐く太政大臣に、男は下げた頭を上げることが出来なかった。

 

 藤原忠平(ふじわらのただひら)――かつて短い期間ではあったが、将門が京にて主と仰いだ権力者は、遂には右大臣から太政大臣となっていた。

 

 将門はこの殿上人にいつか我が剣にと目を掛けてもらっていたが、早々に京を後にして何も返せなかったばかりか、此度の反乱疑惑である。恩人に仇を返すような事態になってしまったことを、将門は心から苦しく思った。

 

 そんな不義理な男に対しても、忠平は京で最も豪勢な屋敷――つまりは我が家への滞在を許してくれた。

 忠平もどっぷりと平安京の闇に浸かっていて、出世欲に身も心も明け渡したような男だが、それでも、貴族特有の平民や武士を見下すような狭量さはない。

 

 使える男なら平民だろうと武士だろうと――それこそ妖怪であろうと利用する、そんな狡猾さを持ち合わせている怪物だった。

 

 だからこそ、だろうか。

 忠平は坂東の野蛮な獣だと揶揄されていた将門も、そして従兄弟の貞盛も積極的に重用した――京を後にした将門と違い、貞盛の方は未だにこの男の下で順調に栄達の道を歩んでいる。

 

 将門の凱旋を歓迎するという宴には、その姿を現すことはなかったが。

 

「…………」

 

 忠平は、悪いようにはしないと、将門に言った。

 坂東の平氏一族の内乱も、きっかけは相手方だという弁明を理解してくれたし、何より将門の方に朝廷への叛逆の意思がないことは、こうして面を合わせて伝わったと、そう言ってくれたのだ。

 

 だが、瀬戸内の海賊の方は、はっきりと平安京に対して害意を抱いていることは明らかだし、藤原純友(ふじわらのすみとも)は自らそう宣言している。そして、将門の処罰を求めた良兼らは、京の治安維持部隊であり罪人を裁判する権限も持つ検非違使庁に、それはもう熱心に平将門という男の危険性を訴えているという。

 

 故に、坂東の地に帰ることが出来るのは少し先になりそうだと、忠平は将門に言った。そこには少しでも長く将門を京に滞在させ、今度こそ己の元に引き込もうという魂胆が見え隠れしていたが、こちらは藤原忠平という「(いち)(かみ)」に庇ってもらう立場だ。嫌だとは言えなかった。

 

 そして、宴が落ち着き、京が寝静まった頃。

 

 ひっそりと屋敷を抜け出した将門の足は、かつて迷い込んだ森林の方角へと向いていた。

 

 大きく、息を吐く――あの頃と違い、吐いた息は白く色付いた。

 

 相変わらず、魔窟だと思う。この場所の空気は不味いと感じる。

 あの頃と何も変わっていない――否、あの頃よりもずっと、暗く、重く、沈んでいるように見えた。

 

 灯りが消えて、必死に眩く飾った化粧が落ちたかのような夜の京は、まるで本性が明らかになったかのように――薄汚い。

 

 まるで蝦夷よりも、よっぽど妖怪の住処であるかのようだ。

 今や西には大きな敵対勢力が生まれ、自身も東の敵対勢力となるのではと疑われている――終わりゆく京。

 

 やはり自分の居場所ではないと、十年以上ぶりの凱旋にも関わらず、将門がまるで心が躍らない風景に失望を覚えていると。

 

 まるで、将門が唯一残した心残りが、己が居場所を伝えるように――温かく光る。

 

 いつの間にか、将門は再び辿り着いていた。

 豪奢な屋敷から遠く離れた、本当に平安京の中なのかも疑わしい――秘境。

 

 十年以上の月日が経とうと、一日たりとも忘れたことはなかった。

 

 全てを覆い隠すような霧の中、それでも、平将門という男だけは足を踏み入れることを許されたかの如く、導くように仄かな灯りが足元を照らす。

 

 そして――女は待っていた。

 真っ暗な森の中で、美しい狐火が灯る山小屋の前で、まるで今宵、男が帰ってくることを知っていたかのように。

 

 ああ――と、将門は感嘆の息を漏らす。

 何もかもが変わり果てていく中で――彼女だけは、何も変わっていなかった。

 

 まるで、穢れていなかった。

 息を吞む程に美しい――真っ白なままの、白狐。

 

――(くず)()

 

 男は彼女の名を呼んだ。

 

――将門(まさかど)様。

 

 女は彼の名を呼んだ。

 

 そして、男は女を腕の中に閉じ込めて。

 妖怪は人間を決して解き放そうとしなかった。

 

 平将門と葛の葉は、この日、夜が明けるまで、互いを求め続けた。

 

 長き別離の時間を埋めるように。

 いつまでも、いつまでも――互いを感じられるように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夜が明ける直前――将門は神秘郷を抜け、平安京へと帰還した。

 

 そして、それを一人の老爺が見ていた。

 

「――昨夜は、お楽しみであったようで」

 

 ふぇふぇふぇと怪しく笑う老爺に、男は目を細めた。

 

 見たこともない老人だ。

 体躯は小さく、杖で己を支えている。頭髪も半分以上失っており、顔には深い皺が刻まれていた、見たことはないが、どこにでもいる爺だ。

 

 まるで寝惚けながらも家を出て、朝の散歩の途中に通りがかったかのよう――しかし。

 

 将門は、そんな老人と目が合った瞬間、腰に吊り下げた刀に手を添える。

 

 老爺の――血のように赤い瞳が、どうにも不気味に思えたのだ。

 

 貴殿は何者かと、将門は問うた。

 

 老爺は、再びふぇふぇふぇと笑い、いえ、何、ただただ見惚れていただけですよと、将門が出てきた林へと目を向ける。

 

「素晴らしい『力』をお持ちだ。正しく英傑の素質そのもの。その上、かの白狐の心を奪う『魂』をもお持ちとは。英雄にも、怪物にもなり得る逸材。……あぁ、本当に」

 

 面白い――そう呟き、くつくつと、噛み締めるように、老爺は笑う。

 

 男は遂に、刀を抜いた。

 老爺の放つ、異様な気配。赤く耀く瞳。何より、この老人は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――貴様、何者だ」

 

 将門は殺気と共に問うた。

 老爺は何も答えず、ただ不気味に笑うのみ。

 

 コイツは――危険だ。

 そう判断し、何より葛の葉を守る為、将門は未だ薄暗い平安京の中で刃を振るった。

 

「――やめろ」

 

 だが――それを、黄金の太刀が受け止めた。

 

「……コイツが気に食わないのはよく分かる。よぉく分かる。だが、これでもこの爺様は、平安京では少しばかり厄介な立ち位置にいるんだ。ここで殺しちまったら、ただでさえ危うい立場のアンタは終わっちまうぞ」

 

 将門は間違いなく殺す気で刃を振るった。

 しかし、老爺を庇うように突如として現れたその者は、ビクともせずにその一振りを片手で持った刀で受け止めたのだ。

 

 年齢は将門よりも少し若いか、同じくらいの歳の男。

 すらりと背は高いが、大男と呼ばれる将門よりは一回り小さい。体躯もがっしりとしているが細身だ。

 

 墨色の髪。涼やかな瞳。彫の深い将門とは違い、まるで少年のように端正な顔立ちだ。

 

「爺さんも、命が惜しければ他人を揶揄うのは大概にしろよ」

「ふぇふぇふぇ。すまんのぉ。これほどまでに才覚溢れる者を見たのは、お前さん以来じゃったものだから、年甲斐もなくはしゃいでしまったわい」

 

 将門は大人しく刃を引いた。

 それを見て、墨色の髪の男と、血色の瞳の老爺は、改めて将門と向き直る。

 

 では、老い先短い身じゃが、殺されとうはないので、あっさりと正体を明かそうかの――そう言って、老爺は将門に向かって名乗った。

 

「――儂の名はドーマン。蘆屋道満(あしやどうまん)。しがない、どこにでもいる、ただの陰陽師じゃ」

 

 そして、墨色髪の、黄金の鞘の太刀を刷く青年は――やがては終生の仇敵となる男に向かって名乗った。

 

「――俺は俵藤太(たわらのとうた)……じゃなかった。……えっと、秀郷(ひでさと)、そう秀郷だ」

 

 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)――未来の英雄は、未来の魔人と対面し、そう快活に名乗ったのだった。

 




用語解説コーナー㉘

藤原忠平(ふじわらのただひら)

 藤原基経の四男であり、兄・時平の早世後に朝政を司った。
 ちなみに、基経は皇族以外で初めて摂政の座に就いた良房の義理の息子であり、時平は菅原道真公左遷の中心人物である。

 朱雀天皇の摂政、関白を務め、村上天皇の初期まで長く政権をその手中に収めていた。

 平将門は、平安京にいた頃、忠平の家人として仕えていた。

 彼もまた、藤原道長と同様、権力の頂に手が届く生まれではなかった。
 だが、長兄・時平は菅原道真との権力争いの末、勝利するも呪い殺されてしまう。

 その後、忠平は次兄・仲平を差し置いて、藤氏長者となった。

 権力の絶頂であった長兄の失脚、そして菅原道真という大怨霊の脅威をその眼に焼き付けた忠平は、その生まれから元々薄かった、己は選ばれたものであるという自惚れを捨て去り、あらゆる手段を用いて権力の座を維持することに固執した。

 その一つが、蛮族と忌避されていた坂東武士である将門や貞盛の重用である。

 忠平の最大の才こそが、その『眼』であった。
 
 道真を左遷させた長兄の余りに無残な末期を、長兄に加担していた者達が次々と呪い殺されていくのを、そして、絶対不可侵であった天皇の住まう殿に雷を堕とすことすら成し遂げた――菅原道真という怨霊の凄まじさを。

 そんな道真と友好的な関係を築くべく、かの男の凄まじさを見抜いてた己の眼に――こうして生き残り、そして頂まで出世することが出来たからこそ、忠平は全幅の信頼を置いていた。

 この世に絶対などない――それを深く刻み込んだ忠平は、ただ、己の眼で見たもののみを信じた。
 その結果、選ばれしものである長兄が成し遂げられなかった長期政権を実現させた。

 そして、そんな忠平の眼は――今、再び、見抜いていた。
 かつて菅原道真という男の器を見抜いた、その時と同じように。

 平将門。
 あの男こそは、かつてみた菅原道真と同様に――絶対を覆す、真の意味での、選ばれしモノだと。

 ちなみに、忠平の次男である藤原師輔の三男が、藤原道長の父である藤原兼家である。


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妖怪星人編――㉙ 新たなる皇

あなたがなるのです――新たなる(おう)に。


 

 何だ――コイツは。

 

「君は――何だい?」

 

 燃え盛るリオンの爪を、悠々と受け止める着流しの男。

 

 男は庇った子供を逃がしながら、己と同じくらいの背丈の、紅蓮の髪の美女に向かって言う。

 

「お前こそ何だ? 一体――何がしたい?」

 

 何がしたい――そう問い掛ける男に、リオンは激しい苛立ちを覚える。

 

 何がしたい? 何がしたいだと。

 

 こんなこと――やりたくてやっているとでも思っているのか。

 

「何が――何がしたいだって? 決まっているだろう! 見れば分かるだろうが!! お腹が空いてるんだよ! 腹が減って仕方がないんだ! 空腹で死にそうだ! だから喰った! だから殺した!! ――誰だってやっていることだろう!!」

 

 ここまでの道中――色んなものを食い散らかしてきた。

 来日どころか来星したてのリオンにはそれらの細かい区別はついていなかったが――例外なく、完食してきた。

 

 蝦夷という一国を食べ尽くしたのを皮切りに、彼女が歩く一直線上にあったものは、それが動物の集落であれ、無辜なる民が住まう村であれ、武士が守る関所であれ――全てだ。

 

 その全てを彼女は、一切残らず、一食残さず、一体も食い残すことなく食い荒らさってきた。

 

「それで気付いたんだよ! 君みたいな姿形をしている――人間っていうんだっけ! 宇宙の匂いがしない、この惑星特有の味がする君達が、どうやら一番美味しいってことにね! どうせ食べるんなら美味しい方がいいだろう! だから食べるのさ! だから殺すのさ! ――僕は何か、間違ったことをしているかい!?」

「……そうか。よくわからんが、腹が減っているんだな、お前は」

 

 その淡白な反応に、再び思う。

 

 リオンは思わずにはいられない――何だ、何だコイツは。

 

(僕にとっては只の食事だ。でも――コイツにとっては、同族を殺した化物だろう?)

 

 優秀過ぎる頭脳を持つリオンにはそのことは十分に理解出来ていた。

 この惑星の住人である『人間』は知能を持っている。感情を持っている。

 

 だからこそ、この男は同族の子供を殺そうとする自分を止める為に、無謀にも立ち塞がってきたのだと――そう理解していた。

 

 それが気に食わなくて感情に任せて挑発するようなことを言ったが――しかし。

 

 この男からは、己の一撃を受け止めたその瞬間から、その邂逅から、一貫して――怒りという感情が一切伺えない。

 

 同族を無数に食い殺したと自白する自分に、何の罪もない子供を手に掛けようとした自分に――何の感情も見せようとしない。

 

(――いや、コイツ……もしかして――)

 

 ()()()――()()()()

 そう戸惑うリオンの爪を弾き返した男は、そのまま懐に手を忍ばせる。

 

 新たな武器かと警戒するリオンに、男は懐から取り出した――葉に包まれた、握り拳大の握り飯を手渡した。

 

「――――は?」

「食え。腹が減っているんだろう。――人間などよりも、こっちの方がずっと旨い」

 

 なにせ、龍神から貰った米だからな――そう、無表情で、血の匂いを放ち続ける謎の美女に向かって言う男に。

 

「己の名前も思い出せないのに、こんなことばっかりは思い出す。この俵は無限に米が出てくるという代物だ。だから遠慮するな。好きなだけ食え」

 

 足りなければ、また炊いてやると、まるで飢えて蹲る子供にそう言うように――全身から返り血を垂らし、五指の爪に紅蓮の炎を纏わせる、見たこともない西洋衣装(ドレス)の女に向かって、男は言う。

 

 この時代の日本人において、外国人というのは、それだけで宇宙人のようなものだろう。

 リオンは本当に宇宙人なのだが、少なくともこの時点において、男にとってリオンは只の――化物であった筈だ。

 

 燃えるように鮮やかな紅蓮髪、そして正しく紅蓮の炎を纏わせている両手、血走ったように輝く黄金の瞳、ぽたぽたと食事の痕跡を残す鮮血滴る鋭き牙――そして、生物として圧倒的に格上であることを、否が応でも突き付ける、その迸るオーラ。

 

 妖力とも、呪力とも異なる――けれど、近くにいるだけで全てを変えてしまうような、凄絶なる覇気。

 

 四方を壁に囲まれた領域に建てられた城――その一室に閉じ込められながらも、一つの惑星を支配してみせた、規格外の異端(イレギュラー)が放つオーラに。

 

 彼女が襲った村の全ての住人が諦観と共に意識を手放した。

 男が助けた子供も、親元に辿り着くことも出来ずに地に倒れ伏せていた。

 

 そんな中でも――男は。

 まるで何も感じていないが如く――恐怖も、畏怖も、まるでどこ吹く風が如く。

 

 立ち尽くす女に向かって、握り飯を差し出し続ける。

 

「いらねぇのか。確かに具はなんも入ってねぇが、十分に旨い。騙されたと思って食ってみろ」

 

 男は尚も、無表情でそう、女に言う。

 

 女は――そんな男が。

 

 生まれて初めて出会う、生まれてから出会ったどんな存在とも違う、そんな男のことが。

 

「――――っ」

 

 ()()()()()――()()()()()()()()

 

「――ふざけるなよ、人間」

 

 リオンは、男が差し出した握り飯ごと――その手を弾いた。

 

「……それ以上、口を開くな。僕はお前が――嫌いだ」

 

 リオンのこれまでの生涯において、自分の思い通りに動かない存在はいなかった。

 

 その頭脳で、その美貌で、その最強で――その全てを思い通りにしてきた。

 全てが答えの分かり切った答案用紙のように薄っぺらくて。あらゆる存在が、彼女の掌から逃れられなかった。

 

 唯一、彼女の思考の外から影響を及ぼしたのが、彼女の部屋の扉を開けた『あの女』だったが――彼女の存在は、彼女の放った言葉は、ずっとリオンが望んでいた、待ち望んだものだった。ある意味、彼女もリオンの望んだ通りに動いた存在と言っていい。

 

 だが、この男は違った。

 目の前のこの男は、ことごとくリオンの勘に障ってくる。

 

――やめろ。

 

 リオンの食事という現実逃避を阻害して。

 

――お前は何がしたいんだ?

 

 リオンが触れられたくない核心に無遠慮に触れた挙句。

 

――食え。腹が減っているんだろう。

 

 リオンのことを、まるでかわいそうな子供をあやすように、あろうことか、施しを授けようとした。

 

「……こんな屈辱は初めてだ。僕を……この、僕を…………一体、誰だと思っている……ッ」

「…………」

 

 男は地面に転がった握り飯を拾い、丁寧に砂を払って「……食い物を粗末にするな」と呟いて。

 

「……それは悪かったな。余計な世話を焼いた。……俺には、お前が」

 

 泣きそうな、子供に見えたもんだからな――男はそう、ぶっきらぼうに言った。

 

 瞬間――リオンの視界が、発火した。

 

 真っ赤に染まり――紅蓮に染まり。

 

 一度地面に落ちた握り飯を頬張る男に向かって、その殺意を――全力でぶつけた。

 

「――――死ね」

 

 それは、紅蓮の女王が生まれて初めて抱いた、己の身を焼き尽くさんばかりの――殺意だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、漆黒の魔人として生まれ変わるべく初めて抱いた、全てを焼き尽くさんばかりの――殺意だった。

 

「――――殺す」

 

 平将門は、勢いよく立ち上がり、激情を押し殺そうとし――けれどもまるで殺しきれずに、食いしばった歯の間から漏れ出した、どす黒い殺意が形になったような言霊を吐き出す。

 

 

 

 蘆屋道満や藤原秀郷と対面を果たした、あの日から、およそ数年が経過していた。

 

 結局の所、経緯はどうであれ、坂東に戦乱を齎した将門は、完全に無罪放免となることは出来なかった。

 しかし、その直後に行われることになった、朱雀帝の元服式に出された大赦令によって、将門の罪は流されることとなったのだ。無論、その背後には太政大臣にして摂政であった藤原忠平が関与していた。

 

 忠平は、坂東を平定した暁には、平安京へと再び上京し、己が下に仕えよと、そう背中を叩いて再び将門を下総へと帰した。

 そして将門も、これほどの大恩を返すにはそれしかないだろうと覚悟を決めていた。身体に合わぬ空気に生涯耐えねばならなくなるが、此度はそれほどの温情を頂いたと自覚していた。

 

 幸いといえるか分からないが、将門の長子である良門(よしかど)もすくすくと健康に育っている。

 いずれ良門が一人前となった暁には、領主の座を譲り渡し、自分は京にて余生を過ごすのもよいかもしれない。

 

 そうすれば、ずっと傍にというわけにはいかないだろうが、今よりもずっと頻繁に、あの『白狐の小屋』を訪れることも出来るだろう――と、そんな風に思いながら、坂東で穏やかな日々を過ごしつつ、良兼ら敵対勢力と睨み合い、小競り合いを続ける中。

 

 突如――その報は、将門の下に届けられた。

 

 己が側室の一人である、君の御前姫の口から。

 

「――――それは、確かか……君の御前」

 

 君の御前――現在、坂東を舞台に。打倒将門に執念を燃やしながら内乱を繰り広げている平良兼の娘であり、この平氏内乱のきっかけともなった将門の従妹であり側室である女は。

 

 険しい顔を引き締めながら、恭しく指を畳につけ、己の夫にして最愛の人に、一切の偽りなしと決意を込めて言う。

 

「――はい。桔梗姫が、彼女の実家の使いという者と密会している中、確かにそのような報告を受けている様を、この目で、この耳で確かめました」

 

 君の御前の言葉に、しばらく黙考し――やがて、将門は、吐き捨てるように言った。

 

「……桔梗を、ここへ呼べ」

 

 

 

 呼び出された桔梗姫は、己の横に座る君の御前、そして、己の目の前に座る将門の、突き刺さるような視線の中、ゆっくりとその口を開いた。

 

「……確かに、実家からそのような知らせが届いたのは事実です」

「何故――すぐに、我に申さなかった?」

 

 将門の、空間そのものが歪むような覇気に――桔梗も、そして、それを直接向けられているわけでもない君の御前もが息を吞む。

 

 桔梗は無意識に頭を下げながら「……恐れながら、申し上げます」と、必死に言葉を選びながら弁明する。

 

「……陰陽師・蘆屋道満殿に関して、怪しげな噂が京に流れた例は枚挙にいとまが無く――言ってしまえば、よくあることなのです。そもそもが存在自体が不確かな御方。顔や姿を見たことがあるという者もほんの僅かで――」

「そんなことは、どうでもよい」

 

 将門は桔梗の言葉を両断する。

 

 存在自体が不確かな――まるで怪談のような陰陽師。

 怪しいこと、恐ろしいことの代替者。

 不都合なこと、不気味なことが起こったら、まるで都合の悪いことを全てそいつのせいにする都合のいい存在として使用される名前。

 

 それが平安京における蘆屋道満という存在だと、桔梗は言うが――将門からすれば、そんな妄言は聞くに値しない。

 

 将門は、この目で見ている。

 だからこそ、断言できる。

 

 そのような街談巷説、道聴塗説――その全てを、最悪の形で実現し得る邪悪。

 

 蘆屋道満は――そういった、怪異だと、知っている。

 

 故に――将門は、再び、強く、桔梗姫に問う。

 

「蘆屋道満が――京に住まう白狐の怪異を、永遠の命を齎す贄として、帝に差し出す。そういった知らせを、おぬしは聞いたのだな」

 

 おぬしの()――()()()()()()

 将門は、桔梗へそう問い詰める。

 

 はいか、いいえか、どちらかのみで答えよという圧に――桔梗は、ただ二文字を口に出すことしか出来なかった。

 

「…………はい」

 

 桔梗がそう答えると同時に、将門は立ち上がる。それを見て桔梗が頭を上げて「――ですがッ!」と必死に声を上げる。

 

「蘆屋道満殿は! 存在自体が不確かで、正式な官位などは授与されていない陰陽師ではありますが――どういうことか、歴代の一の上や、帝からの覚えは目出度い方だといいます! ……どういう形であれ、完膚なきまでにこちら側に理があるのならば、まだしも……」

 

 桔梗はそれ以上は口を濁した。

 

 将門は嘘をつけない。

 それ故に、こうして複数の女を室として迎えるに辺り、将門は正妻を含めたその全員に、己と結ばれる際に――京で愛を交わした、白狐の怪異については伝えてある。

 

 お前達のことは妻として愛そう。だが、この世で一番の愛は、葛の葉という女狐に捧げてある――と。

 君の御前や桔梗姫は、それでも将門という男を愛しているが故に、こうして傍で侍ってはいるが。

 

 それでも――。

 

「――確かに、()()()()……()()()

 

 将門は桔梗が濁した言葉の先を、はっきりと口にした。

 

 しかし――それでも、瞳の中の炎は、些かも衰えておらず。

 

「妖怪は人間の敵である。京の人間からすれば、帝に永遠の命を齎すならば、道満を褒め称えこそすれ……それを害そうという者は――京に対する、そして帝に対する叛逆者に他ならない。そういうことだな、桔梗」

 

 将門は愚かではない。

 自分の衝動が、そしてこれから成そうとしていることが――どれほど理を欠くことであるかは理解している。

 

 だが――と。

 食いしばる歯が、握り締める拳が、決してこのまま腰を下ろすことを許容しようとしない。

 

「葛の葉が――人間(おれたち)に何をした?」

 

 ほんの数度だが、顔を合わせ、言葉を交わし、肌を触れ合わせた将門は知っている。

 

 葛の葉は、あの穢れなき白狐は、何もしていない。

 ただ――人間達よりも遥かに昔から、あの場所で静かに生きていただけだ。

 

 それを後からやってきて、四方を壁で囲み、澱んだ空気が充満する京を築いたのは――人間だ。

 

 彼女達の暮らす住処を荒し、彼女以外の同胞を狩り尽くして蹂躙したのは、人間だ。

 それでも彼女は復讐を成そうとすることもなく、じっと耐えて、息を潜めて暮らしていた――それこそ、その気になれば、平安京を火の海に変えることが可能な力を秘めながらも、それを振るおうとしなかった。

 

 ただ――悲しいほどに、優しかったから。

 争うという野蛮な行為に、耐えきれない程の繊細な心を――穢れなき白い魂を生まれ持っていたから。

 

 それなのに――ただ、稀少で、高位な力を持っていると、それだけの理由で、そんな彼女すらも陵辱しようというのなら。

 

人間(やつら)の方が――よほど、怪物(ケモノ)ではないか……ッッ!!」

 

 将門は、一筋の涙を流す。

 それが人間を見限り、()()()()への一歩を踏み出す凶兆であるかのように思えて、桔梗は思わず手を伸ばそうとした――が。

 

 桔梗の手よりも、君の御前のその言葉の方が、ほんの少し早く、将門の心に触れてしまった。

 

「ならば――アナタ様がなればよろしいのです。()()()――()()()

 

 その言葉は、きっと決定的だった。

 

 平将門という男が。

 世紀の大逆人として、永劫に消えぬ呪いの怨霊として――人あらざる魔人として。

 

 後世にまで悪名を轟かせることになる――それは、きっと。

 

 致命的な、踏み外しだった。

 

「平安京が、帝が、それほどまでに人間をやめてしまったのならば、腐りきってしまったのだならば――アナタ様が、変えるのです。アナタ様が、なるのです」

 

 平将門(アナタ様)には、それに相応しい『血』が流れているのですから――そう、君の御前は、言う。

 

 桓武(かんむ)天皇――平安京を築けし天皇(おう)である『始祖』の血を先祖に持つ、由緒正しき、王族であると。

 

 そう、自らの夫の、その一歩を踏み出す背中を押す。

 自分の為に内乱を起こす羽目になってしまった最愛の人が、最愛なる人を助けに行けるように。

 

 君の御前は――天に唾を吐く、余りにも罪深い言の葉を放つ。

 

「あなたがなるのです――新たなる(おう)に」

 

 平将門は、君の御前の、その言葉を以て。

 

 一歩を踏み出し、彼女達の間を抜けて――通り過ぎざまに、一言、果てしなき決意を持って放った。

 

「魔なる人であろうと、新たなる皇であろうと――そうならなければ救えないものがあるのなら」

 

 (オレ)は、どんな道でも歩んでみせよう――その言葉に、君の御前は顔を歓喜に染めながら、桔梗姫は顔を沈痛に歪めながら、ゆっくりと、頭を下げた。

 

 

 そして、平将門という武士が、新たなる皇を――我こそが『新皇』であると宣言し。

 

 瞬く間に坂東を支配しにかかるのが、この数日後のことであった。

 

 

 こうして、一人の男は破滅へと走り出す。

 

 己が身と魂を『魔』へと堕とし、腐りきった京を破壊する為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――それを誰よりも早く察知した男達が、平安京に存在していた。

 

 一人は、理知的な相貌に、深い遺憾の意を示している壮年の男。

 

「――道摩法師……とんでもないことをしてくれましたね」

 

 現在の平安京を支える根幹ともいえる陰陽庁――その頂点である陰陽頭(おんみょうのかみ)を務めている、紛れもない現平安京最高の陰陽師である男。

 賀茂忠行(かものただゆき)は、平安京で最も美しく星空が見えるこの場所で、一人の老爺に向かって苦言を呈していた。

 

 陰陽術――現代日本においては妖怪変化と戦う魔法の術のようなイメージがあるそれは、しかしその本質は占術、そして天文学にある。

 

 星の動きを見て、未来を占う――それこそが陰陽の神髄。

 つまり、この京で最も天体を観測するに適したこの場所は――平安京で最も陰陽の研究に没頭する賀茂忠行の領域(テリトリー)であった。

 

 そして――今宵、その不可侵の結界に、土足でずかずかと踏入って、怪しげな術式を組み上げて嗤う老人が現れたのだ。

 

「ふぇふぇふぇ。固いことを言うな、忠行よ。お主がガキの頃に色々と授けてやった恩を忘れたか?」

 

 それに、儂も歴とした陰陽庁に務める陰陽師じゃ。この場所を使う権利はあろうよ――と、老爺はこの国で最も権威ある陰陽師の言葉を意に介さない。

 

 道摩法師(どうまほうし)――またの名を、蘆屋道満(あしやどうまん)

 

 平安京の公的な記録には一切その名を残していないにも関わらず、こうして闇の中で暗躍する老爺は――この国で最も美しい夜空の下で、一匹の白狐を戒め、捕らえていた。

 

「今宵は、実に良い月じゃ。そうは思わんか――のう、(くず)()よ」

 

 老爺が杖で地面を叩く。

 すると、そこから美しい波紋が広がり――月の下で、両腕を見えない何かで縛られて吊されている、白狐の美女は絶叫を上げた。

 

 まるで臓物を引きずり出されるような悲鳴。

 それに表情を歪めた忠行は、老人を責め立てるように言う。

 

「――ッ! こんなことに――何の意味があるというのですっ!」

「お主も知っておるじゃろう。儂が教えたことじゃからな」

 

 美しい狐の妖怪。

 それも尾を複数本宿す妖狐は――()()()()()()

 

 生まれ変わりを果たす毎にその尾を増やしている。つまり、多くの尾を持つ妖狐ほど、より強力な転生の異能を持つ妖怪であるということだ。

 

「この白狐は――八尾。これほどの転生力を持つ妖怪など――永き年月を生きてきた儂とてお目に掛かったことがない」

 

 果たして、どこまでこの狐の尾は増えるのか、想像もつかぬ、極上の逸品じゃ――と、老爺は嗤う。

 

 異例の転生能力を持つ妖狐の臓物を取り出し――その驚異であり脅威の異能を簒奪する。

 

 これは、その為の儀式なのだと、蘆屋道満は、まるで妖怪のように、醜悪に――嗤う。

 

「転生妖怪・葛の葉――その異能はを正しく、御伽草子に描かれた『永劫の命』そのものじゃ。それを帝に献上するのじゃよ。儂はこれでも、陰陽庁に勤める、平安京に仕える、帝の忠実なる臣下じゃからの」

「――そのような妄言が聞きたいのではない。そのようなくだらぬおためごかしで、アナタがそのように嗤うことはないことは知っている!」

 

 私は、他でもない、アナタの弟子なのだから! ――忠行は宙に五枚の術符を浮かせ、一枚の術符を指で挟み込み、構えて言う。

 

「アナタがそのように嗤う時は、世界を滅茶苦茶にする時と決まっている!」

 

 何を企んでいる、蘆屋道満! ――そう吠える賀茂忠行に、己に向かって殺意を向ける弟子に向かって、笑みを浮かべて。

 

 皺だらけの老爺は――大いなる月を見上げて、うっとりと蕩けるように語る。

 

「……これから行うことは、ただの下準備じゃ。本番はもう少し先じゃと思っておったが――あんな『魂』を見せられては、儂のような年寄には我慢など出来そうにない」

 

 魔人に、そして英雄に伝えよ――道満は、術符を五色に発光させる日ノ本で最高の陰陽師とされている男に向かって言う。

 

()()()()()! それまでにこの場所に辿り着け! 魔人が求める姫はここにおる!」

 

 日ノ本で最も美しい夜空が広がるこの場所で、一年分の月光を浴びることで、この儀式は完成する。

 

 転生を繰り返す毎に尾を増やす妖狐――その臓物は、不老不死の霊宝へと変化(へんげ)する。

 

 本体である――()()()()()()()()()()()

 

「これは魔人が姫を救い出す物語――あるいは、京を滅ぼす魔人を英雄が退治する物語じゃ」

 

 お主の役割は、この言葉を奴等に届けること――ただ、それだけじゃ、と、その言葉を最後に。

 

 賀茂忠行は、自分の領域であった筈の結界から吹き飛ばされ――二度とその場所に戻ることは叶わなかった。

 

 自身最高の術ですら傷一つ付けることの出来なかった――日ノ本最高の陰陽師である己を、遥かに凌駕する陰陽師。

 日ノ本最凶――そして、最悪の陰陽師・蘆屋道満。

 

「…………伝えねば」

 

 ボロボロになった身体で、賀茂忠行は道満に言われた通り、奴の思惑通りに伝言者(メッセンジャー)伝言者となるべく動き出す。

 

(無論、京は滅ぼさせぬ!! 星を見れば、魔人とは誰か、英雄とは誰か――その正体を占うのは容易い! ならば、英雄にのみ――かの()()()()()()にのみ、これから起こる戦いを告げるのだ!!)

 

 そして、魔人が動き出す前に、この平安京に辿り着く前に――魔人を殺す。この平安の京の地を踏ませず、坂東の地で永遠に眠らせる。

 

 だが、そうなれば――かの白狐は?

 魔人に救い出されることなく、その永遠の命を果てさせ、不老不死の霊宝へと変えられるのを、黙って見過ごすのか。

 

 あの蘆屋道満が、不老不死の霊宝を手に入れる――その先に、平安京の平和など、有り得るのか。

 

(……私では、あの法師には叶わない)

 

 最高の陰陽師でも、最悪の陰陽師には勝てない。

 最凶の陰陽師の思惑を打ち砕くには――規格外には、規格外を。異端(イレギュラー)には、異端(イレギュラー)をぶつけるしか可能性はない。

 

 最凶には――最強を。

 

 賀茂忠行は、這うように、真っ先に――己の邸へと戻った。

 

 そして、そこには――全てを見透かすように、待ち構えていた少年がいた。

 

「……頼む、我が弟子よ」

 

 師匠を止めるべく、男は己の弟子へと縋る。

 

 ぱくぱくと、陸に揚げられた魚のように言の葉を残し、意識を失う師を――少年は、無表情に、ただ冷たく見据えていた。

 

 師は弟子に――ただ一言、こう告げたのだ。

 

 世界を――救え。

 

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 世界が――終わる。

 

 そう呟きながら、己の意識が失れようとしているのを――平忠常(たいらのただつね)は、くしゃくしゃに表情を歪めながら自覚していた。

 

 

 赤い球体に蹂躙されていた、魔人・平将門の『胴塚』。

 しばし呆然と立ち尽くした忠常は、それでもようやく辿り着いたのだからと、瓦礫の中を必死に捜索したが――将門の『胴』は、ついぞ発見することは叶わなかった。

 

 隕石の落下によりどこかへ吹き飛ばされたのか――それとも、どんな高名な、そして伝説な陰陽師にすら破壊不可能だった魔人の胴体も、天からの落下物の衝撃には耐えきれずに、粉々に砕け散ったのか。

 

「――――ッ!」

 

 その最悪の想像に、一族の悲願はおろか、坂東の未来すら失われる絶望の可能性に、忠常が歯を食い縛った――その時。

 

 世界が――重くなった。

 

「ッ!?」

 

 急激に重力が増したかのようだった――否、急激に、ではない。

 この胴塚に足を踏み入れたその時から感じていた――この場所は、息がし辛いと。

 

(初めは、魔人の胴塚だから――特別な結界の中、神秘郷の中だからだと……思って、いたけど……)

 

 気付いていた――でも、気付かないふりをしていた。

 気付いてしまったら――向き合わないといけないから。

 

 あの、異端で、異質で、異常な――世界観の異なる、あの赤い球体と。

 

(……あの、赤い球体の周囲が――最も、()())

 

 この、異端な空気が。

 この、異質な雰囲気が。

 

 この、異常な――圧倒的な、圧力が。

 

 世界を重く、世界を恐ろしく、世界を禍々しく変える――()()()()()()が。

 

 そして――それが、膨れ上がっている。

 みるみると、溶岩が流れ込むように容赦なく、世界を塗り替えていく。

 

 異なる世界へと――変質させている。

 

(ざわめいている。森が。山が。神秘郷が。そして――世界、そのものが)

 

 何処だ――元凶は。

 世界をこんなにした犯人は。この赤い球体の、中に入っていたであろう『何か』は。

 

(もう此処にはいない。この膨れ上がっている『紅蓮』は、もうこの神秘郷の外を――世界を、()いている)

 

 紅蓮――そう、紅蓮だ。

 真っ赤な炎が燃えている。目には見えない、その赤く、紅く、緋い炎は――犯すように、世界を灼いている。

 

 熱い――熱い――熱い。

 

(死ぬ――死ぬ――死ぬ)

 

 世界が――終わる。

 

 そう呟きながら、表情を歪めながら、失われようとする己が意識を保つべく、忠常は藻掻き――遂には転げ回っていた。

 

 熱い。体が沸騰したかのように熱い――いや、沸騰しているのは、沸騰したかのように熱いのは、身体というより――()

 

 血――忠常の中に流れる、薄まっているとはいえ流れているといえる、将門の血。

 

 ()()()()()――()()()()()()

 沸騰しているかのように、熱く、熱く――反応している。

 

 この『紅蓮』に――熱く、反応している――刺激、されている。

 

「――――将、門――様ッ!?」

 

 その時だ。

 

 両目を発光させていた、開眼していた――将門の『首』が。

 この世界を変質させている『紅蓮』に反応したかのように、遂に、()()()()

 

 口を開き、世界へ向けて――あるいは、『己』に向けて、咆哮した。

 

「―――――――――――ッッッッ!!!!!」

 

 魔人の咆哮は、世界を――『胴塚』を隠蔽していた結界を、神秘郷を崩壊させた。

 

 空間に――空に罅を入れて、そして、その抉じ開けた突破口から――突破した。

 

「――ッ!! うそ――ッ!?」

 

 そして、咄嗟だった。

 地面を惨めにのたうち回っていた忠常が、まるで打ち上げられるように――空へ向かって発射した将門の『首』にしがみ付いたのは。

 

 忠常は、そのまま空を飛んだ。

 神秘郷を飛び出し、下総の霊山を後にし、空中飛行を続ける中、忠常は渾身の力で目を瞑った。

 

 飛行機はおろか、高層ビルの一つも建設されていない平安の日ノ本において、山よりも高所から眺める地面など恐怖以外の何物でもない。

 咄嗟に将門の首にしがみ付いてしまったことを後悔する忠常だったが、胴も見付けられなかったのにここで首までも失ったら母にどれだけ怒られることかと現実逃避のように考えながら、必死に恐怖を誤魔化していた――が、再び、どくんと、己の身体が沸騰するのを感じる。

 

 己に流れる魔人の血が、強く、強く――反応するのを感じる。

 

 果たしてどれだけ空中飛行を続けたのか――そこは既に、見慣れた下総ではないことは確かだった。

 

 初めての視点に困惑しながら、忠常は空から、その戦場を眺めた。

 

 目には見えない『紅蓮』ではない。はっきりと見える、どこまでも広がる――紅蓮の炎。

 

 真っ赤な大地。緋色の戦場。

 紅き炎に灼き尽くされる世界には――三つの、人影があった。

 

 一つは、見たこともない服に身を包んだ、紅蓮髪の美女――見るまでもなく分かる異質。『紅蓮』の元凶。一目で明らかな赤い球体の中身。招かれざる来訪を果たしている――異端者。

 

 一つは、何も感じない、そこにいるかさえも確証を抱けない程に希薄な浪人――見えざる異質。確かにそこにいるのに、はっきりと姿形は見えるのに、まるで世界にいないかのように存在感がない。世界を犯す紅蓮の炎、その全ての標的であると過言ではない程に苛烈に煉獄を集中的に浴びせかけられているのに、その全てをいなしている。防いでいる。生き延びている――異端者。

 

 そして、もう一つは――最後の人影は。

 

 その異端者達から少し外れた場所にいた。紅蓮の炎の中にいた。

 

 ゆっくりと、全身に紅蓮を浴びながら――その人影を形成していた。

 だんだんと――まるで、燃やされた灰が積み重なるように。燃え盛る炎の中で。

 

 荼毘(だび)に付された死体が再生するように、世界が巻き戻るかのように――甦っていた。

 

 赤い球体に吹き飛ばされ、粉々にされた――『胴体』が、『紅蓮』の力を得て、この世に再び顕現していた。

 

「――――あれは――――ッ!!?」

 

 忠常がその衝撃の光景に絶句していると、ぐんっと、急激に再び重力が増した。

 

 否――重力が増したのではなかった。急降下したのだ。飛行していた『首』が、一直線に地面に向かって落下していた。

 

 そして、途中、降り落とされるように首から離れた忠常は、無様に地面に転がされていた。

 末裔の手から逃れた『首』は、そのまま一直線に――紅蓮の美女と、墨色の浪人の間を突っ切って。

 

 その首無し武者の元へと辿り着き――『胴体』と、再会を果たす。

 

 

 こうして、魔人は――封印を解き、百年の時を経て、平安の世に復活を遂げた。

 




用語解説コーナー㉙

・平将門の妻たち

 平将門の妻に関しては諸説あり、将門の同盟者である平真樹(たいらのまき)の娘を正妻である君の御前とする説や、良兼の娘を反対を押し切って連れ去って妻にしたという説もある。

 この作品では、良兼の娘であり、平氏内乱の元凶となった娘を君の御前として将門の側室とし、正妻は別にいるという形にしている。

 そして、将門の室として逸話が残っている有名な姫に――桔梗姫がいる。
 彼女は将門の寵愛も深かったが、藤原秀郷とも内通しており、将門が秀郷に討たれる鍵となった女とされている。

 この作品では、彼女は秀郷の妹となっている。
 そして、彼女は将門との間に一女を設ける。それが春姫――如春尼であり、彼女は将門の従兄弟である忠頼に嫁ぎ、三子を産んだ。

 その一人が、平忠常である。
 本来の歴史では、関東の有力な武士として名を馳せ、祖父・将門のように『平忠常の乱』を起こし、そして祖父と同じように首を斬られ、歴史に名を残すことになる忠常であるが。

 この世界では、母・如春尼と、そして一族の悲願を果たすように――歴史に名を残さずとも、誰も成し得なかった、偉業を成し遂げることとなる。それは本来の歴史以上の、悪行なのかもしれないが。


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妖怪星人編――㉚ 魔人が目覚める日

お前はもう――魔人だ。


 

 何だこいつは――何なんだ、コイツは。

 

 何と――何と――目に障る、気に障る、癇に障る、癪に障る、しかし――コイツは――ッ!

 

(――――面白いっっ!!!)

 

 あれほど殺意に侵されていたリオンの表情は――今や、歓喜に染まっていた。

 

 殺そうと思った。

 膨れ上がった殺意のままに、燃え盛った憤怒のままに、それらを一切抑えずに、そのままぶつけて灰にしてやろうと思っていた。

 

 けれど――殺せない。

 まったく、これっぽっちも殺せない。

 

 手加減はしていない。否、無論、加減はしている。

 星一つ丸ごと支配するような力を、そのまま放出はしていない。世界を壊しかねない力だ、世界を壊さないくらいには、加減はしている。

 

 けれど、殺害という意味で、殺人という意味合いにおいては、リオンは己の全力を目の前の男にぶつけていた。

 

 殺そうとしている――十割の力で。

 骨一本、髪の毛一本すら残らず灰にしてやろうと、紅蓮の炎をぶつけている。既に地面の色が見えない程に炎を撒き散らし、辺り一面は灼熱の世界と化している。

 

 けれど――殺せない。

 死なない。目の前の男は、まったく、これっぽっちも、微塵も、死ぬ気配すら見せない。

 

 なんだ――なんなんだ――なんなんだ、コイツは。

 

「は! はは! ははは! はははははははははははははははは!!!!!」

 

 面白い。面白い。面白い。面白い!

 初めてだ。初めてだった。ここまでリオンについてこられた生物は。

 

 ここまでリオン・ルージュという最強を――受け止めてくれた存在は。

 

「まだだ! まだまだまだまだ――ついてこれるかい!! 人間!!」

 

 リオンは既に認めていた――自分が、あろうことか、人間という脆弱種を、認め始めていることを。

 

 吸血鬼たる己は、この戦闘が始まってから傷一つ負っていない。

 対して人間である奴は、既に満身創痍だ。傷を負っていない箇所を見付ける方が難しい。

 

 だが、死なない。微塵も死なない――気配すらない。

 

 何故なら、墨色の浪人は、何の力もない筈の人間の、その目は。

 

 まるで、一切、微塵も――死んでいないからだ。

 

 恐れていない。疑ってすらいない。

 自分の敗北を。死を――欠片も、想像すらしていない。

 

 だからこそ、リオンは笑う。

 

 そして、放つ――今、自分という化物が、この状況で放つことが出来る、渾身の一撃を。

 

 リオンは両手を宙に掲げる――そして、生み出す。

 それはリオンにとって最大の暴力、最強の権化、憧憬に近い嫌悪――そして、恐怖の象徴。

 

 すなわち――()()。この世で唯一、己を殺し得る存在。

 それを疑似的に作り出す。暗闇の世界を焼く弑逆的な紅蓮の炎。

 

 リオンはそれを、真っ直ぐに、躊躇なく、全力で――人間に向かって、放った。

 

「さあ――どう生き延びる!!」

 

 疑似的とはいえ放たれた、最強(リオン)を殺し得る最強(太陽)に。

 

 満身創痍の浪人は――真っ直ぐに迫ってくるそれに、一度だけ、溜息を吐いて。

 

「――全く、訳が分からん。何もかも分からんが……そうだな、一つだけ確かなのは」

 

 本当に、厄()だということだ――そう言って、墨色の浪人は、弛んでいた表情を、瞬時に鋭く引き締めて。

 

 腰に吊り下げた鞘に、一度、黄金の太刀を――ゆっくりと納刀し。

 

 そして、()()()()――眩く耀く、日光のように迸る、その黄金の太刀筋を閃かせて。

 

 ()()()――()()()

 

「――――」

「――――」

 

 女は――星人は――それを見て、大いに笑い。

 

 男は――人間は――表情を変えず、それを、静かに受け止めた。

 

 切り裂かれた太陽は、再び大地を紅蓮に染め上げる。

 

 地獄が加速し、炎上する。そして、誰よりも楽しそうに――吸血鬼は叫んだ。

 

「はははははははははははははははは!!! やるぅーーーーーー!!!!」

 

 人間は、振り抜いた黄金の太刀を再び仕舞って――大きく、真っ暗な夜空に向かって息を吐く。

 

 吸血鬼は、太陽を食らって尚、ふてぶてしく生存する人間に対し、言った。

 

「やるね、お前。さては、ただの人間じゃないな」

「……いや、俺は、ただの人間だよ」

 

 どこにでもいる、ただの死に損ないだ――そう、男が呟いた、その時だった。

 

 がしゃん、と。()()は姿を現した。

 

 胴体を――現した。

 鎧に包まれた胴体が、現れたのだ。

 

 幾本もの矢をその身に受けていた胴体が。幾筋もの剣閃を刻み込まれた胴体が。

 

 けれど、決して倒れない、力強い足並みで――現れたのだ。

 

「……何だ、コイツは」

 

 リオンはまるで燃え盛っている中、水を差されたように呟いた――()、と。

 紅蓮の炎の中から現れたその鎧武者に向かって。()()()()()()、と。

 

 それもその筈――何故なら、その鎧武者は、顔が分からなかったからだ。

 

 燃え盛る鎧武者には――『首』がなかったからだ。

 

 首無し武者は、それでも止まらない。

 一歩、一歩、灼熱を纏いながら、それでも――何処かへ向かって、歩き続ける。

 

「――――――」

 

 そんな鎧武者を見て――西洋ドレスの紅蓮髪の美女を見ても、一切の感情を動かさなかった男は。

 

 分かり易く――瞠目した。

 目を見開き、その表情にはっきりと驚愕を浮かべた。

 

 そして、浮かび上がってきた。

 全く何も思い出せなかった、真っ暗だった己の深奥から――急激に、何かが浮かび上がってくるのと――同時に。

 

 何かが、落下してきた。

 空高くから、まるで隕石のように、一人の子供と――そして、そして。

 

「――――っ!!」

 

 瞬間、だった。

 まだ完全には掴み切れていない――把握しきれていないけれど。

 

 それでも、急浮上しかけている、自分の中の何かが強烈に訴えていた。

 

(――――ダメだ)

 

 それをさせては。なんとしても防がなくては。

 

 自分は、その為に――こうして無様に、()()()()()のだから。

 

 でも――瞬間というならば、彼もまた――瞬時に動いてみせた。

 

 訳が分からなかったことだろう。

 突如として飛んでいった『首』にしがみ付き、紅蓮の地獄の中に放りだされて――それでも、彼は、動いて見せた。

 

 着地というには余りに荒々しい落下に、全身に激痛を覚えながらも。

 それでも――沸騰する血液にのたうち回ることもせずに、まず、真っ先に立ち上がった。

 

 そして――立ち塞がった。

 魔人の復活を防ごうとする英雄の前に――堂々と、両手を広げて、立ち塞がってみせた。

 

「させない――! だって、僕達は――」

 

 この瞬間の為に、生き続けてきたのだから――そう、決死の覚悟を固めた顔で、己の前に立つ子供に。

 

 男は――鈍った。

 あるいは、迷ったのかもしれない。

 

 そして、それが――取り返しのつかない、失策になった。

 

 百年の計画を、台無しにして余りある――大きな、失敗。

 

「っ!」

 

 それは一瞬だったのかもしれない。

 男は腰に――鞘に伸ばしかけた手を――前に伸ばした。

 

 そして、掴んだ――己の前に立ちふさがった子供を。

 容易く引き倒し、意識を奪った。時間にして一秒にも満たない早業。

 

 けれど、男は確かに迷った――子供を殺して道を開けるかどうか。

 だからこそ、鈍った。その()()を阻むという至上の使命を――何よりも優先するという決意が。

 

 一瞬の迷い。一瞬の躊躇。

 そして、それが――今、再びの()()()()()()()()()()()()()()

 

 英雄の目の前で――魔人の、『首』と、『胴』が、繋がる。

 

 再会する――『首』と『胴』が。

 

 そして、再開する。

 魔人の――復讐の、物語が。

 

『――――――――』

 

 紅蓮を掻き回す――漆黒の奔流。

 それは、異星から持ち込まれた、(がい)にして害なる『よくないもの』を吹き飛ばす、紅蓮に犯された坂東を救う魔人の力。

 

 妖気とも、呪力とも、紅蓮とも異なる――いうならば、()()

 人間でもなく、妖怪でもない――魔人へと至った、この国で平将門のみが振るえる救世の力。

 

 そして、破滅の力。

 漆黒の奔流を取り戻した魔人は、『首』と『胴』が繋がった魔人は――真っ直ぐに、前を向く。

 

 中心へと、その目を向ける。

 日ノ本の京、百年前から未だ腐り続ける病巣――憎き、平安京へと。

 

『――――長く、待たせた』

 

 黒き魔人は、己の身に纏う黒き奔流で以て――新たに黒馬を顕現させる。

 

 それは百年前においても、最後まで主人と共にあった、蝦夷の地にて神の化身と恐れられた黒馬の再現だ。

 

『行くぞ――』

 

 魔人は、まるでそこにあるのが当たり前とばかりに黒い魔力で形成された黒馬に跨り、そして――駆け出す。

 

『――もうすぐだ。葛の葉』

 

 そして、その進行方向上に――今、再び、立ち塞がる、英雄。

 

「――行かせない。そうだ、その為に、俺は……こうして――時を越えたんだ」

 

 満身創痍の墨色の浪人は、感情を持たない青年は――ここにきて、初めて、はっきりと決意の篭った顔を、魔人に向ける。

 

 そして名乗る――決闘に臨む、武士の如く。

 

 はっきりと、今、再び、己の名を――捨てた名を、百年前に置いてきた筈のその名を、ただ、一度だけ。

 

 目の前の、魔人にだけに――かつての己への、決別の遺志を込めて。

 

「俺は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)。この名に懸けて、魔人(おまえ)(ころ)す。ただそれだけの男だ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「俺は、お前を殺さないといけないのか。――平将門(たいらのまさかど)

 

 下総(しもうさ)下野(しもずけ)――共に蝦夷と隣接する坂東の地を統べる者達が、こうして二人きりで顔を合わせていた。

 

 場所は、互いの領地、下総と下野の間に跨る、とある森だった。

 広大といえるほどに大きなものではないが、こうして誰にも気付かれずに密会するにはうってつけの場所。

 

 平将門が、あの殺意を発炎させた夜から、新皇を名乗ることを決意した夜から、およそ数か月――彼は、坂東の豪族達を瞬く間に粗方支配し終えている。

 世紀の逆賊として名を馳せ、貴族を恐れさせ、平安京を震え上がらせていた。

 

 この坂東の地で、彼の色で塗り上げることが出来ていない地は、残るは目の前の男――藤原秀郷が居わす下野を残すのみとなっている。

 

 そんな睨み合う立場にある両雄が、何故、こんな暗い森の中で領主会談に臨んでいるかというと。

 

「――なるほど。……やはり、お主か」

 

 将門の室の一人であり、秀郷の妹でもある――桔梗姫の嘆願を、将門が聞き届けたからである。

 

 この日、この時間、この森にて――とある人物と会ってはくれないかと。

 

――どうか。どうか。この桔梗の我が儘を、聞いては下さりませんか。

 

 黒い憤怒に支配されている将門に対し、桔梗はそう、己の首に刃物を触れさせながら言った。

 

 流石の『新皇』も、愛する女の一人である桔梗にそこまでさせて、足を運ばないわけにはいかなかった。

 藤原秀郷という人物が現れたことも、桔梗が会談をセッティングしている時点で予想出来ていた人選だ。

 

 それに――平将門としても、藤原秀郷はどうしても矛を交わしたい男ではない。

 

 坂東に生きる者ならば誰もが知っている――藤原秀郷、そして俵藤太という伝説を。

 

「違うな。殺さなくてはいけないというわけではないぞ、秀郷殿。貴殿が、何もせず、ただ見逃してくれるなら――私は下野には一切足を踏み入れないと誓おう」

 

 そもそも将門が真っ先に京に向かわずに、向かうことが出来ずに、こうして坂東の地を力で征服していっているのかといえば、彼ら坂東の豪族達が、平安京へ牙を剥く将門を、平安京の命に従い鎮圧しようとしてくるからだ。

 

 既に個人的な因縁を持つ叔父・良兼らは粛清を終えていた。

 そもそもの『平将門の乱』の始まりの原因だった、将門に復讐の念を抱いていた、君の御前の元婚約者の父親・源護(みなもとのまもる)も、もうこの世にはいない。

 

 故に、将門にとって残る坂東の敵は、急激な勢力の拡大をみせた将門に恐れをなし、平安京から発令された将門討伐命令を断ることが出来なかった豪族だけだ。

 

 勢力を広げながらも、決して無駄な蹂躙は行わない。

 理不尽な圧政なども敷いることもせず、むしろ朝廷直轄の国司が長だったころよりもずっと民のことを考えた政治を行ってくれる将門のことを――『新皇』と認め、無条件で降伏し、それどころか諸手を上げて歓迎する者も多かった。

 

 平将門という男は――坂東という苦しむ地にとって、一種の救世主となりつつもあった。

 

 何も将門は、坂東の全てを力で手に入れたいわけではない。

 彼が求めるのは、彼が目指すのは、征服でも、栄達でもなく――救出なのだから。

 

 だからこそ――藤原秀郷という伝説と、何がなんでも戦いたいわけでは、当然ない。

 

「私もあれから調べた。私なりに――藤原秀郷という男をな」

 

 明け方の平安京で、初めて出会ったあの日から――伝説しか知らなかった男のことを、将門は徹底的に調べ尽くした。

 

「…………」

 

 あの時――目の前の男が、将門の刃を防がなかったら。

 

 あの時、蘆屋道満をこの手で殺すことが出来ていたなら――こんなことにはならなかったかもしれないと、そう全く思わずにいることは出来ないけれど、それは下らない()()()だと一蹴する。

 

 過去には戻れない。

 一歩進んだその瞬間から、背後は崖となり崩れ落ちる――道は常に、現在と未来にしか伸びていない。

 

 だからこそ、将門は語る。

 望むべき未来を掴む為に――目の前の大きな障害を、己が進むと決めた覇道から退かせるために。

 

 魔人は、語る――藤原秀郷という英雄を。

 

「貴殿は――英雄だ。紛れもない、天下に二人と存在しない万夫不当の大英雄。三上山の大百足、明神山の百目鬼――屠った妖怪は数知れず、築いた伝説は数え切れず。ああ、素晴らしいな、正しく英雄だ――だが、しかし、だ」

 

 将門は、そこで言葉を切り――鋭く、真っ直ぐに、秀郷を見据える。

 

 その視線を微塵も避けようとしない秀郷に、将門は力強く言った。

 

「お主は――決して、忠臣ではない。藤原秀郷――お主には、平安京に対する忠誠の心などない」

 

 違うか、英雄――という、魔人の言葉に。

 

「…………」

 

 英雄は、答えられない。

 

 藤原秀郷――彼は、俵藤太と名乗って、全国津々浦々を旅歩いた流浪人だった。

 

 その行く先々で、伝説級の妖怪を退治し続けていくうちに、いつしか彼自身が伝説となった。

 

 だが、一介の国司に過ぎない身分で、そんな自由奔放が許されるはずもない。

 一介の国司が、そんな自由と名声と力を持ち得るのを――平安京が快く思うはずもない。

 

 当然、京の貴族達は俵藤太という存在を握り潰そうとした。

 時には首輪をつけようとし、時には権力で脅して身動きを取れなくさせようとした。

 

 しかし、そんな圧力を、俵藤太は――ただ、圧倒的な力で跳ね返し、自由を謳歌し続けたのだ。

 

平将門(オレ)や瀬戸内の藤原純友が現れるまで、京にとっての恐怖とはすなわちお主のことだった。都での栄達に興味がない故に飴も効かず、かといって京の貧弱な武力などものともしないほどに強いが故に鞭にも怯えない。下野(じもと)に出没した強盗まがいの豪族すらも、彼らに理があると思えば京の命令にも背いて庇うお主のような存在は、さぞかし京にとっては目障りな存在であったことだろう」

 

 近年では、何かしらの心変わりがあったのか、放浪をやめて地元の下野に常駐し、京にも素直に足を運んで、藤原姓を受け継ぐなど軟化の様相も見せているが――将門はその辺りのことは口に出さず、ただ手を差し伸べる。

 

「そんなお主が、まさか京の側につくと――坂東ではなく、平安京を選ぶと、そう申すのか。英雄殿よ」

 

 将門のぐつぐつと煮えたぎるような熱さが込められている言葉を受けて、それでもただ口を閉ざし続ける秀郷に、将門は更に強く、鋭く、熱く語る。

 

「このままでは――坂東は滅びる。他でもない、平安京の――『人間』の手によって」

 

 故に――見逃せと、手を出すなと、そう主張する将門に。

 

 遂にその閉ざされた口を開いて、ただ一言――秀郷は小さく、重く、冷たく問うた。

 

「だから、坂東ではなく――平安京を滅ぼすのか?」

 

 他でもない、お前の手で――藤原秀郷の、その言葉に。

 

 愚かな男は――それでも、まっすぐに。

 

 揺ぎ無く、迷いなく、はっきりと――答えてみせた。

 

「――ああ。それが、(オレ)の道だ」

 

 秀郷は、その言葉を聞いて―静かに瞑目し。

 

 ゆっくりと、その口を開いて――。

 

 

「なら――やっぱり、俺はお前を殺さなくてはならない」

 

 

 ()()()()()()()

 

 言葉の刃――ではなく、物理的な殺傷性能を持つ小太刀が。

 

 平将門の背後から、真っ直ぐに襲い、人体の急所である肝臓を貫いた。

 

「な――ッ!」

 

 馬鹿な、と、将門は血を吐きながら驚愕する。

 

 この場には二人しかいない。平将門と藤原秀郷――二人きりの会談であった筈だ。

 

 当然、将門は周囲を警戒した上で、もっと言うならばこの決して大きくない森を一周した上で、秀郷が自軍を引き連れてなどいないことを確認した上で、慎重に慎重を期してこの会談に臨んでいる。

 

(伏兵がいたとしても、その接近にこの(オレ)が気付かない筈がないっ! どうやって忍び込ませた――そして、誰だ!? この刺客はッ!?)

 

 平将門に一切気取らせずにこんな暗殺を成し遂げてみせた者の正体を、将門は見た。

 

 己の背後を取り、真っ直ぐに鎧を小太刀で貫いてみせた刺客、それは――。

 

「――ッ!? 太――郎――っ!?」

 

 平貞盛(たいらのさだもり)

 かつて太郎、小次郎と互いを呼び合い、共に野山を駆け回った幼馴染が。

 

 共に京へと上り、切磋琢磨した親友が。

 

 彼の父を殺してしまったことで、終生の宿敵となってしまった従兄弟が――今。

 

 将門の命を奪う刃を、深々と彼の背中から突き刺していた。

 

「な――ぜ――」

「……秀郷殿から、この会談を開くと聞いた時から――夜が明ける前から、その茂みで息を殺していた」

 

 全てはお前を殺す為と、貞盛は震える言葉を漏らす。

 お前がどのように周囲を警戒するのか、この俺は知り尽くしている――だからこそ裏をかけたと、そう語る貞盛の目を、将門は見る。

 

 彼の目は、冷たい殺意を覗かせながらも――そこから一筋の、涙をゆっくりと流していた。

 

「……どうしてだ……小次郎――っ!」

 

 何故、こんなことになったと、そう悲痛に訴える貞盛を、直視できなくなったのか。

 

 将門は、その疑問と痛苦に血走った目を――相向かったままの、秀郷に向ける。

 

「――俺は、どっちでもよかった」

 

 将門は、殺意に呑まれた貞盛よりも冷たい――感情がまるで見えない、秀郷のその瞳を見る。

 

 感情が見えない――いや、感情がない――?

 

「どういう……こと……だ?」

「お前の言った通りだ、将門。俺には平安京への忠誠心などない。俺が欲しかったのは――ただの、自由だ」

 

 自由――そう言って、秀郷は何も持たない右手を、何も掴んでいない右手を開く。

 

「……俺はこの通り、欠落している人間だ。だが、何の因果か――()()()()()()()()宿()()()()()

 

 厳しい修行をしたわけでもない。特別な血統に生まれたわけでもない。

 

 だが、彼は――生まれながらに、最強だった。

 

 まるで――何かに選ばれたかのように。

 

「でも、俺にはこの最強は持て余す代物だった。何か使命を与えられたわけじゃない。京や帝に尽くすような忠誠心もない。それでも――正しく使いたかった。だから俺は、誰かの声に、誰かの叫びに、応える為に使おうと思った」

 

 死に近づく将門に向かって、秀郷はゆっくりと近付いていく。

 

 背後の貞盛、正面の秀郷に挟まれた将門は、その近付く――迫り来る死から、逃れることが出来ない。

 

「俺は日ノ本中を放浪した。困っている人がいたら、それを助ける為に最強(ちから)を振るった。……でも、それじゃあ駄目なんだって、教えてくれた奴がいるんだ。俺は領主なんだから、そういう立場に生まれたんだから――困っている人を助けたいなら、戦闘じゃなくて、政治で救えと」

 

 いつまでも『俵藤太』でいてはいけない。

 生まれ持った最強だけではなく、生まれ落ちた藤原という立場からも逃げてはいけないと。

 

 そう、たった一人の、俵藤太の弟子となることが出来た少年は言った。

 俵藤太は俺が継ぐからと、だからあなたは――『藤原秀郷』にならなくてはいけないと。

 

「だから――どっちでもよかった、俺は。下野を守ることが出来るなら、平安京でも、平将門でも、俺は――どっちでもよかった」

 

 ()()――()()()()()()()

 

 藤原秀郷は、そこで初めて――殺意を放つ。

 

 これまで数多くの伝説の妖怪を屠ってきた――伝説の英雄、怪異殺しの殺意を。

 

「――――っ!!」

 

 それは親友を背後から突き刺している貞盛すら震える程の殺気。

 

 だが、今まさに死を向けられている将門は、そんな英雄に向かって吠えたてる。

 

「……背後からの暗殺。二人だけの会談という偽りの情報で私を釣り出し、その上、自分の手を汚さず、貞盛を使っての騙し討ち――これが! 武士のすることか! 何が英雄だ! 恥を知れ!!」

「確かに、これは武士としては恥ずべき行いなのだろう。俺も、相手が武士ならば、こんなやり方はしない。……だが――」

 

 怪異退治ならば、怪異殺し(オレ)は、手段は選ばない――そう、静かに語りながら。

 

 藤原秀郷は――その黄金の太刀を抜く。

 

「…………()()、だと――?」

「分からないのか。気付かないのか。自覚はないのか。――だから俺は、テメェでは駄目だと言ったんだ」

 

 別に誰でもよかった。

 別に、どっちでもよかったのだ。

 

 天下万民を救うなどということは考えたことすらない。

 ただ目の前の困っている人を、己の手が届く範囲を救えればいいと思っていた最強の英雄は。

 

 己が治める下野に手を出さないならば、日ノ本を統べるのが平安京だろうと、平将門だろうと――何でもよかった。

 

 だが、蘆屋道満(ヤツ)の言う通り――平将門は、()()()だった。

 

 天皇だろうと、新皇だろうと、誰でも構いはしないけれど――でも、それでも。

 

「平将門――お前はもう、魔人(ダメ)だ」

 

 その時、ようやく――気付いた。

 

 この時、ようやく――平将門は、自覚した。

 

 自分の手が、真っ黒に染まっていることに。

 自分の瞳が、真っ赤に汚れていることに。

 

 自分の指が六本に増えていることに。自分の額に禍々しい角が生えていることに。自分の腕に鱗のようなものが生まれていることに。自分の尻に尾のようなものが生えていることに。自分の歯が全て牙になっていることに。自分の爪が刃になっていることに。

 

 自分が、黒く、黒く、黒く、黒く、黒く、黒くなっていることに。

 

 自分がもう――人間ではないということに。

 

 自分が、魔人となっていることに。

 

 この時、ようやく、平将門は――初めて、気付いたのだ。

 

(――いつからだ。いつから、こんなことなった――?)

 

 蘆屋道満が葛の葉を犯そうとしていると知った時からか。

 

 あの日、蘆屋道満と、藤原秀郷と出会った時からか。

 

 源護と、平良兼と事を構えた時からか。

 

 貞盛の父である平国香を殺した時からか。

 

 それとも――あの、美しき白狐と出会った――出遭った、その時から。

 

 平将門(じぶん)は、魔人と(こう)なる――運命(さだめ)だったのか。

 

魔人(おまえ)の存在を、怪異殺し(オレ)は看過することは出来ない」

 

 例え、こうなることが、あの最悪の陰陽師(蘆屋道満)の筋書き通りだとしても――秀郷は、瞑目し、黄金の太刀を振りかぶる。

 

 背後で貞盛の涙を堪える声を聞きながら、それでも将門は――醜く、足掻く。

 既に、これ以上なく、醜く堕ちてしまっているのに。

 

「――待てっ! 待ってくれっ! 私が道を誤ったことは認めるっ! もはや天下を統べる新皇などは求めない! それでも葛の葉は――()()()()()! ()()()()()()()()()()()()()()!!」

「……思い上がるな――魔人」

 

 英雄は、魔人の懇願を――両断する。

 

魔人(キサマ)に救えるものなど――何一つとして、ありはしない」

 

 そして、黄金の一閃が振り降ろされた。

 

 漆黒の魔人は、その日の光が如き神聖な閃きに切り裂かれ――そして。

 

 

 魔人は――()()()()()()

 

 




用語解説コーナー㉚

平貞盛(たいらのさだもり)

 
 坂東平氏の基盤を固めた時の支配者である平国香の長男にして、平将門の従兄である武将。

 将門とは従兄弟というよりは幼馴染の親友として育ち、互いに貞盛のことを太郎、将門のことを小次郎と呼び合う仲であった。

 成人すると将門と共に平安京へ上洛する。
 実直で堅物であり故郷愛の強かった将門と違い、華やかな京での都会暮らしに憧れを抱いていた貞盛は、時の権力者である忠平の信頼を勝ち取ると、京の見目麗しい姫君との逢瀬を楽しみながらも、順調に出世街道を邁進し、京での地位を盤石にする――が、そんなある日、故郷である坂東にて、己の実父である国香が、従弟である将門に殺されるという事件が起こる。

 しかし、父を殺されながらも様々な情勢を冷静に俯瞰し、また、従弟であり幼馴染であり親友である将門の大きな理解者であった貞盛は、感情的に仇討ちに走ることもせずに、何よりも故郷である坂東の平穏を第一に、各勢力の間を取り持ちながら落とし所を探った。

 だが、まるで何かの禍々しい思惑が働いているかのように、事態はみるみる内に悪化し――やがては「新皇」を名乗り、「魔人」と化した将門と戦わなければならなくなる。

 誰よりも将門のことを知る貞盛は、魔人討伐軍の双頭の一角として、目覚ましい活躍をし、何度も敗走の憂き目に遭いながらも、母方の叔父であり双頭のもう一角である藤原秀郷と共に最終決戦に繰り出し――「北山の決戦」にて、将門の額を撃ち抜く一射を放つこととなる。

 この貞盛の一射によって無防備に晒すことになった首を――藤原秀郷の黄金の太刀が両断し、戦争は終結した。

 従弟であり、父の仇であり、幼馴染であり、親友であり、理解者であった――魔人を討伐した、この功により、貞盛は官位を得て、念願であった京での立身出世を盤石のものとした。

 この貞盛の後の子孫こそが――平家の全盛期を築きあげた、かの平清盛であり。

 貞盛が憧れ続けた華やかなる平安京――その終焉を齎す武士の象徴を輩出することになる。


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妖怪星人編――㉛ 時を越えた英雄

愛する人に、永遠に生きて欲しい――女ならば、男の人に当然、そう願うものでしょう?


 

 この国で最も夜空が美しく見えるその場所で、蘆屋道満は――呆気に取られていた。

 

「…………これは――」

 

 未だ刻限は来ていない。儀式は終了してはいない。

 

 しかし、まるでしかるべき時が来たかのように――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その様を見て、呆然としていた蘆屋道満は「……そうか。お主、既に『()』を用意しておったのか」と、厭らしく、笑う。

 

「葛の葉――お主、()()()()()()()()()()

 

 妖怪という生物の寿命は(なが)い。

 成体と呼ばれる、肉体的、異能的な成熟が完了した状態にまで成長した後は、まるで時が止まったかのように、若い状態で永い時を生きることになる。

 

 だが、種族としての後継――子を成し、生んだ場合、雄も、雌も、その個の体は時の流れを思い出す。

 まるで役目を終えたかのように、急速に老いていく――死に向かって、再び歩み出すのだ。

 

 葛の葉は、大粒の汗を流しながら、見る見る内に皺だらけになりながら――美しく、笑う。

 

「次なる転生体へと、生まれ変わるのか」

「いいえ……()はないわ。私はもう――ここで終わる」

 

 何故なら、ついに、全てを貰ったもの――やっと、全てを、あげられたもの。

 

 そう、己の下腹部を愛おしげに触れながら――妖狐は、紛れもない、母の笑みを浮かべる。

 

「……そうか。例え、無限の転生を繰り返す白狐といえど、後継たる子を産めば、その不死は効果を失うというわけかの。ならば、お主の肝を取り出したところで、ただ美味いだけの肉というわけか」

「ふふ。私の肝が美味しいかは知らないけれど、食べた所で栄養以外は何も手に入らないというのはその通りね。――『不死(それ)』も、もう……後継(たく)した後だもの」

 

 何――と、ここで初めて、蘆屋道満の顔から、笑みが消える。

 

 対して葛の葉は、その美しい笑みを、妖しく、艶やかに――不気味に、深めて。

 

 私も、初めて、理解出来たの――と。

 妖怪に相応しい、恐ろしき笑みを持って、言う。

 

「愛する人に、永遠に生きて欲しい――女ならば、男の人に当然、そう願うものでしょう?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 確かに、その黄金の太刀は魔人を殺し得た筈だ。

 

 もはや肌色を探す方が難しい、漆黒の魔力に犯され呑まれた巨躯を、怪異殺しの太刀は完全に切り裂いた。

 

 その黒い躰からは漆黒の血が噴き出し、真っ二つにされた激痛に咆哮する魔人は死に逝く――筈、だった。

 

 ()()()()()()

 断末魔を上げた魔人は、三途の川を渡らずに、そのまま現世に留まり続ける。

 

 両断された身体が、ゆっくりと元通りになっていく――まるで、時が戻ったかのように。

 傷が、塞がる。命を、取り戻す。

 

 平将門――男は、既に、取り返しのつかない程に、後戻りなど出来ない程に、魔人となっていた。

 殺しても、殺しても――死ぬことすら許されない。

 

 この世でたった一人の――不死身の、魔人に。

 

「――――葛の、葉――――ッ」

 

 何故、こんなことになってしまったのか。

 

 坂東で乱を起こした、あの時か。

 親友の父親を殺した、あの時か。

 

 それとも、平安京の、あの神秘に包まれていた山小屋で。

 

 美しき――白狐に、魅入られた、あの時か。

 

 あの時か、それともあの時か、はたまたあの時か――あの時にはもう、こうなる運命(さだめ)だったのだろうか。

 

 分からない――だが、確かなことは――ただ、一つ。

 

 会いたい。逢いたい。

 

 真っ黒に染まってしまった自分だけれど、真っ黒に穢れてしまった魔人だけれど――どうか、死ぬ前に、もう一度。

 

「クズノハぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 どうか――どうか――もう一度。

 

 そう願い、そう叫びながら。

 

 新皇を名乗った魔人は、坂東を黒き魔力で覆い尽くしながら、未来永劫語り継がれる伝説となる『大乱』を起こし。

 

 夥しい犠牲を生み出して、数えきれない死を振り撒きながら――正しく『魔人』と呼ばれるに相応しい『畏れ』を見せつけた激戦の末。

 

 藤原秀郷という英雄に、首を刎ね飛ばされ――敗北を喫した。

 

 真っ黒に泣き叫ぶ程に求めた、愛する人の元に、辿り着くこと、叶わずに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 竹林の奥にひっそりと存在する、みすぼらしい小さな山小屋。

 平安京の中に存在しながら、そこに住まう殆ど誰もが知り得ない――神秘の(さと)

 

 まるで世界から忘れ去られたかのようなその山小屋を、一人の白狐を抱えた少年と、一人の白い狐耳と尾を持つ少女が訪れていた。

 

 少年は、小屋の扉を開けると、その中に敷かれた畳の上に、一匹の白狐をゆっくりと寝かせた。

 

「――これでいいかい? お母さん」

「……ええ。ありがとうね、愛しい息子」

 

 少年の淡々とした声に、母と呼ばれた狐は、掠れた、絞り出したのようなか細い声で答えた。

 

 涙を堪えながら少年の服を掴んでいる少女を見上げて「……ふふ、泣かないの、愛しい娘。お母さんは……永い時を生きたけれど……一番の、幸せの中で――眠るのだから」と、白狐は力無く笑う。

 

「……それにしても……その年齢(とし)で……あの蘆屋道満(かいぶつ)の結界を破って……助けてくれるなんて……さすがは『星の英雄』……いえ、私の――私達の息子ね」

「……お母さんから『不死』の力が失われてるって分かった時点で、ヤツがお母さんから興味を失うっていうのは()()()()()から。――もういい? 師匠に言われたから、これから世界を救う為に動かなくちゃいけないんだ」

 

 少女は泣きながら少年の服を掴む。

 分かっていた。少女にとって、これが母との長い別れの瞬間になると。少年も分かっていた。

 

 そして、母も分かっていた。

 だからこそ、自分との別離に泣く妹に、淡々と終わらせようとしている兄に、力無く笑い、等しく愛しく思いながら――ゆっくりと、()()()()()()()()

 

「……お母さんが眠ったら、このままこの『山小屋(神秘郷)』は閉ざされるんだよね」

「……ええ。そうすることで、この空間の時は止まる。私は止まった時の中で、眠り続けることになる。……そうすれば、いつかここを訪れるかもしれないお父さんに、綺麗なまま見つけてもらえるでしょう?」

 

 これから息子は――世界を救う。

 それはつまり、彼のお父さんを、白狐が愛した男を、()()()()()辿()()()()()()()()()()()だということを、理解した上で。

 

「愛しい我が子。――最後に一つだけ、母と約束して頂戴な」

 

 そう母は、死に瀕した白狐は。

 

 最期の力を振り絞り――人間のような姿に、皺皺の老婆の姿に戻りながら、息子を己が下へと手招きして。

 

 無表情に、ゆっくりと母の元へと近付いてきた息子の――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……何の因果か、どういう意思によるものは分からない。まさか、妖怪である私の(はら)から……あなたのような『星の戦士』――それもとびっきりの『星の英雄』が生まれるとはね……それも、()()()()()()()()()()()()()()が」

「…………」

「ふふ。それでも、あなたは私の愛しい息子よ。だから、あなたが世界を救おうと、地球を守ろうと、母はあなたを応援するわ。――でも、これだけは、どうか約束して頂戴ね」

 

 そう言って、葛の葉はキュッと、息子の首を締めながら――呪いのような、遺言を遺す。

 

(この子)を――守って。何があっても、絶対に死なせないで。()()()()――()()()()()()()()()()。……()()()()()()

 

 お願い……『晴明(せいめい)』。

 

 そう、息子の首を締めながら、娘に向かって微笑みかける――母親に。

 

「……………それは、()の未来の名前だ。今の()()の名前は、()()童子丸(どうじまる)だよ。お母さん」

 

 結局、妹の名前は終ぞ、呼ぶこともなかった母親に。

 

 晴明――童子丸は、感情の篭らない瞳を向けながら。

 

 ゆっくりと、自分の首から妖怪の爪が離れるのを感じる。

 

 力無く、息を引き取るように眠る葛の葉を、泣き続ける妹を抱き締めながら、童子丸は見遣る。

 

 彼女の目が閉じられると共に、妖怪・葛の葉の妖力の象徴だった、転生を繰り返した妖力の塊だった八本もの尾が――眩い光となって膨れ上がる。

 

 その強烈な光によって目を焼かれた兄妹が、再び目を開けた時には――老婆は小さな白狐となっていた。

 

(――これで、妖怪・葛の葉は死んだも同然だ。転生妖怪・葛の葉の『転生』の異能は、『不死』の力として――お父さんと妹に繋がれる形で継承された。時が止まった神秘郷で仮死状態で文字通り『永眠』しようとも、葛の葉の代名詞であった『転生』は叶わないだろう)

 

 幾度も転生を果たしてきた妖狐――妖怪・葛の葉は『死』を選んだのだ。

 あれほど莫大な妖力を誇っていた大妖怪が、その殆ど全てを手放して、こうして小さな白狐になってしまった有様が、それをこれ以上なく如実に表している。

 

 愛する男を永遠に生かす為に、自らの命を捧げて――愛する男を、不死身の魔人にして。

 

 童子丸は、自身の母と、自身の父の――『愛』の末路に、その無表情であった眉間に子供らしからぬ皺を、一度だけ寄せて。

 

「……行こうか、羽衣(うい)。ぼくは世界を救わなくちゃいけない」

 

 そう言って、小さな白狐に背を向けて、童子丸は『山小屋』を後にした。

 

 兄妹が神秘郷の外に出ると、入口の時空が歪み、やがてそこには小さな『祠』が現れた。

 これは誰にも破れず、誰にも見付けられない――資格を持たないもの全てを排除する結界。

 

 この結界を潜れるのは、この『祠』が認めるのは――自身の主たる白狐の妖力を持つ者と、彼女が求める、たった一人の魔人だけ。

 

 そして、その魔人を滅ぼすことが、少年が託された――英雄としての使命だった。

 

 こうして少年は、母と父の逢瀬を邪魔する為、世界を救う戦いに向かうことになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 この数か月後、少年は平安京へと凱旋した、魔人を殺した英雄と接触することになる。

 

 自分の父親を殺した男に、少年は残酷な二択を突き付けた。

 

「平将門は不死身です。あなたが持ち込んだ『首』は、晒し台の上で覚醒し、坂東にて立ち上がっている『胴』へ向かって飛び去って行くことになる」

 

 少年の言葉を疑っていたわけではなかった。

 だが、表面上は感謝し持て囃そうとも、魔人を殺した己に対する隠し切れない怯えを向ける貴族の内心を悟った秀郷が、さっさと下野へ帰ろうとしている中――それは起きたのだ。

 

――クズ……ノハ……クズノハァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!!

 

 天下の逆賊として晒し首にされていた将門の『首』が開眼し、そのまま平安京中を飛び回ったのだ。

 

 阿鼻叫喚となる京の中で、たった一人の少年――童子丸は気付いていた。

 闇雲に飛び回っていたわけではない。ましてや帝や貴族連中が畏れたように彼らを探し回っていたわけでもない。

 

 魔人の『首』は、ただ一人――ただ一体の妖怪のみを探していた。

 だが、それは決して見付けられるわけがなかった。

 

 他でもない少年が、()()を隠したからだ。

 流石の童子丸といえど、あの『山小屋』と『祠』を消すことは、そしてそれの『鍵』を変更し魔人を通過不可能にすることも出来なかった。

 恐らくは、あの神秘郷を創り出した製作者である葛の葉が、他でもない英雄の息子を警戒してのことだろう。

 

 だからこそ晴明はそれを逆手に取り、あの『山小屋』は、そしてその入口の結界たる『祠』は、()()()()平将門でなければ見つけられない設定として上書きしたのだ。

 魔人と白狐――その二色しか受け入れない設定を強調することで、セキュリティを強化することで、母が求めた父を拒絶するようにした。

 

 互いを求め合う男女が、すぐ傍にいるのに出会えない――そんな状況を、他でもない息子がセッティングした

 

 やがてそれに気付いたのか、将門の首は平安京の結界を突き破り、そのまま坂東へと飛び去って行く。

 

 その悲劇を演出した息子は――飛び去る生首を無表情で眺めながら、再びその歩みを――父を生首にした英雄へと向ける。

 

「ご安心を。流石の将門といえど、あなたという英雄との戦いの傷は大きい。そして、我が師匠が張った平安京の結界を突き破るという追い打ち……長くは持ちません。首を斬るという、あなたの選択は正解だった。いくら不死身といえ、首と胴が離れれば、無尽蔵に動き続けることは出来ない」

 

 少年の予言は、またしても的中した。

 

 それから首は坂東まで飛んでいき、胴もゆっくりと首と合流する寸前まで動き続けたけれど、やがて力尽きたかのように、首は地に落下し、胴も野に倒れ伏せて――『首』と『胴』の再会は叶うことはなかった。

 

 愛する男と女の、魔人と白狐の、父と母の再会が――叶わなかったのと同じように。

 

「しかし、魔人は死んだわけではない。葛の葉という妖狐の『不死』を後継(たく)された平将門という男は、必ずや未来で復活します。彼の『首』も『胴』も、現時点での平安京では、()()()()()では滅ぼす手段はありません。それは我が師匠でも、ぼくでも――かの蘆屋道満でも、です」

 

 まるで少年の言葉を裏付けるように、あるいは少年の言葉を実現させるように――現実は進んでいった。

 

 平安京中の陰陽師が、日ノ本中の能力者が力の限りを尽くしても、『首』も『胴』も滅ぼすことは出来なかった。

 

 そして、やがて諦めたように、『首塚』と『胴塚』には結界が張られ、何も出来ない代わりに誰も手出しはさせないようになった。

 

 だが、それでも、少年は言う。

 遠からず未来――魔人は、将門は、必ずやこの世に復活を遂げると。

 

「――お前は、一体、何者なんだ?」

 

 藤原秀郷は少年に問う。

 

 感情のない青年の言葉に、感情のない少年は、無感情に答えた。

 

 妖怪と魔人の子である童子丸ではなく――目の前の青年と同様に、()()()()()()()()()()()()()()としての名を。

 

「――安倍晴明(あべのせいめい)。ただのしがない――陰陽師ですよ」

 

 その言葉を聞いて――秀郷は決心した。

 

 この少年の口車に乗ることを――つまり。

 

 俵藤太を捨てたように、藤原秀郷を捨てることを。

 

 持ち得る全てを捨て去り、一振りの怪異殺しとなることを。

 

 安倍晴明と共に――世界を救うことを。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、秀郷は晴明と共に下野を訪れた。

 

 生まれ育った地こそが、その儀式の成功を最も高めると言われ、そういうものかと秀郷はあっさりと納得した。

 

 藤原秀郷という名は、彼が生涯で唯一取った弟子に譲ることにした。

 秀郷は流浪人だった為に家族はいない。両親も既に先立ったし――だからこそ秀郷は流浪人を止めたのだが――妻も娶らず、子もいなかった。

 

 だからこそ、民からの信頼も篤い弟子に、全てを譲ることにしたのだ――歴史の辻褄を合わせる為に、晴明がそう進言した。

 

「師匠の自由奔放ぶりは誰よりも知っていたつもりでしたが、まさか時すらも越えることになるとは。まぁ、今更、師匠が何をしようと驚きません。……僕に藤原秀郷という名は重すぎますが、それでも弟子として、俵藤太を継いだ時のように、師匠に出来る最後の奉公と思って――全力で務めさせていただきます」

 

 晴明は、そんな()()()()()()()に対し「――あなたもまた、英雄です。あなたの覚悟が、世界を救う大きな一助となるでしょう」と、その覚悟に敬意を表した。

 

 そして、俵藤太を、藤原秀郷を捨て――何者でもなくなった男は。

 

「お前が覚悟を持って藤原秀郷の名を貰ってくれるというのなら、俺もまた覚悟を持って――お前の名を受け継ぐことにしよう。魔人を滅ぼした暁には、俺は偉大なるこの名と共に、お前に負けぬよう、誇り高く生きていくことを誓う」

 

 そう言って、生まれてからずっと男を見守り続けてきた故郷の神社の中で、眠るように目を瞑る。

 

 晴明の一週間にも及ぶ儀式の末――男は、時を駆け、未来へと飛んだ。

 

 

 

 

 

「――ここは、どこだ」

 

 そして、百年後――全てを失った男は、全てを過去に置いてきた男は、目を覚ます。

 

 魔人を滅ぼす――ただそれだけの使命を持って。

 

 後継(たく)した名である藤原秀郷――その前任者として、やり残した最後の仕事を成し遂げる為に。

 

 

 

『―――――――邪魔だ』

 

 

 

 そして、百年の時を経て、蘇った魔人は。

 

 

 時を越えて、再び立ち塞がった英雄を踏み越え――愛する者が待つ京へ向かって、漆黒の闇の中を駆けていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、カッコつけて立ち塞がった割にはあっさりと魔人(ヴィラン)に突破されてしまった英雄(ヒーロー)は、仰向けに倒れて真っ暗な夜空を見上げながら、お決まりの台詞を恥ずかしげもなく呟いた。

 

「ここは――どこだ?」

「いや、それは通らないでしょ」

 

 続いて体を起こし、頭を押さえながら「――俺は、誰だ?」と再びテンプレ展開に持ち込もうとしたが、「だから無理あるって」と吸血鬼に一蹴される。

 

「瞬殺じゃん。ダサ。さっきまでの根性はどこ行ったのさ」

「……誰のせいだと思ってるんだ」

 

 英雄は悔し紛れに呟き、吸血鬼は「はぁ? 僕のせいだっていうのかい」と頬を膨らませて抗議したが、英雄はじろっとリオンを睨み付ける。

 

 半ば以上は負け惜しみで呟いた台詞だったが、よくよく考えてみれば遠くない答えだったのかもしれなかった。

 

 自分が既にリオンとの戦いで満身創痍で、記憶を取り戻した直後というバッドコンディションであったこともそうだが、それを踏まえても――()()()()()()()()()()()()()()

 

 生前の平将門も、覚醒後は正しく魔人と呼ぶに相応しい強さと恐ろしさで坂東を暴れ回ったものだが、それでも――藤原秀郷を一蹴、瞬殺というのは、全盛期を超えた埒外の強さだった。

 

(……埒外……規格外……異常――異分子)

 

 だからこそ――英雄は吸血鬼を見つめた。

 

 そして、何よりもの証拠は、魔人が黒馬と共に生み出し、己が進む道の障害を吹き飛ばすのに使用した――()()()

 

 黒炎。

 生前の漆黒の魔人は、黒き魔力の奔流を使うことはあっても――漆黒の炎を操るなどという異能は持ち合わせていなかった。

 

(……それはつまり、『首』と『胴』の再会の場が――あの『紅蓮』の炎の中だったからこそ獲得した、新たなる魔人の力……というわけだな)

 

 更に、英雄が知らない情報を付け加えるならば。

 

 そもそも魔人の『胴塚』の封印を吹き飛ばしたのもリオンだし、蝦夷の妖怪を食べ尽くしたことで日ノ本の『怪異』を刺激する力を得てそれを無作為にばら撒いたのもリオンだし、挙句の果てには英雄との戦いで『紅蓮』という『異星の力』を振り撒いて現地の『怪異』を刺激、および坂東という地に危機を齎して坂東の守護者たる魔人の復活および強化に貢献したのもリオンだ。

 

 つまり、大まかに言うならば、だいたいリオンのせいではあった。

 

 それに対し、流石は天才というべきか、全てを把握せずともだいたいは理解しているのか、英雄の冷たい視線からそっと吸血鬼は目を逸らす。

 

 だが、英雄はそんな吸血鬼に対してそれ以上、何も言うことはなかった。

 リオンの力が周囲の怪異を刺激するということに気付かなかったのも失態だし、それをいうならば無様に『時駆けの儀式』の後遺症で記憶を失っていたことも失態だし、失った記憶をこれまで取り戻せなかったことも失態だし、リオンの紅蓮をここまで広げてしまったことも失態だし――なにより。

 

 満身創痍だろうと、記憶喪失だろうと、なんだろうと――魔人の突破を許してしまったこと、無様に敗北を喫したこと、それこそが最大の失態だ。

 

 魔人を滅ぼす――平将門を止める。

 

 それこそが、怪異殺しとして、全てを捨て去って、何もかもを押し付けて――こうして『時駆け』などという許されざる反則(チート)を使ってでも、魔人が蘇る未来へやってきた、最大の使命なのだから。

 

「おや? どこに行くんだい? 僕が言うべきことじゃないかもだけど、それなりの怪我なんだからもう少し寝てたらいいじゃないか。一日に二度も負けたことだし」

「本当にお前が言うべきことじゃないな。後、お前には負けていない。……それに、寝ている場合じゃないんだ」

 

 思い出したからな、やらなくちゃいけないことってやつを――そう言って、英雄は、傷つき果てた体を無理矢理に起こし、立ち上がる。

 

 再び、魔人の前に立ち塞がる為に――立ち上がる。

 

「……あの真っ黒と戦う為かい? やめておいた方がいいと思うけどな。僕ともそれなりにやり合えた君だ。万全の状態ならいい戦いも出来るかもだけど、その身体じゃあ、また瞬殺されるんじゃないの? その傷を負わせた僕が言うのもなんだけど」

「本当にお前が言うのもなんだけどだが、忠告はありがたくいただいておこう。しかし、それでも――聞き入れることは出来ない。ここで立たなきゃ、ここで動かなきゃ、本当に……何しに来たんだって話だからな」

 

 本当に――何をしに。

 

 時を越え――未来にまで、やってきたのか。

 

 決まっているだろう。藤原秀郷として、やり残したこと――たった一つの、使命を果たす、その為に。

 

「怪異を、殺す。魔人を、滅ぼす。将門を――止める。俺は、その為に、こうして無様に息をしている」

 

 汗を拭うように――男は、首に流れた血を拭った。

 

 そして、一歩、また一歩と、魔人が向かった、最早とっくに影も形も見えなくなった方角へ向かって――英雄は、歩き出す。

 

「…………」

 

 英雄は止まらない。

 ゆっくりと、ゆっくりと、ぽたぽたと汗のように血を流しながら進む。

 

 そして、そんな背中を眺めていた紅蓮の美女は、たたたと男の前に――立ち塞がり。

 

 えい、と

 男の首を――血を、嘗めた。

 

「うおっ!」

 

 ここまで魔人に対してしか感情を見せなかった男が、初めて女に対してリアクションを取る。

 それに対しことのほか嬉しそうに笑い――そして、男の血を、嚥下すると。

 

「――――ッ!!!???」

 

 リオン・ルージュは、頬を紅潮させ、身体を捩らせ震わせた。

 

 さきほど男が太陽を斬ったときと同じがそれ以上に――瞳を爛々と輝かせる。

 

「美味いっ! なにこれ、美味しいっっ!! こんなに()()()()血は生まれて初めてっっ!!」

「……それは喜べばいいのか? それとも怖がればいいのか? それとも気持ち悪がればいいのか?」

 

 当然、喜べばいいとも!! ――そう言って、リオンは男に向かってビシッと指をさす。

 

 強さ。生き方。感情。性格。そして――血。

 そのどれもが、これまでリオン・ルージュという吸血鬼が出会ってきた者達とはまるで異なる生命体。

 

 そんな彼を、リオンは――はっきり言って、()()()()()()()

 

 今まで味わった中で最高の血を前にして――()()()()()()くらいには。

 

 この面白い人間を、もっと、もっと――楽しみたいと、そう思うくらいには。

 

「僕は君が気に入ったよ――英雄君」

 

 そう、まるで物語の英雄のような男の――人生という物語を、特等席で眺めたいと、そう思うくらいには。

 

「だから君の、そのふらふらの背中を押してあげよう」

 

 そう言って紅蓮の美女は――己の背中から、翼を生やした。

 まるで飛び出すように現れたそれは、蝙蝠のような醜悪な翼だった。

 

 それがこの世の美の権化とも思える、美という概念の具現化とも思える女の背中から生えていることに、流石の英雄も呆気に取られていたが――その隙を見計らったかのように、女は男を攫った。

 

 搔っ攫い、そして、そのまま――さきほど首にしがみ付けて空中飛行していた忠常のように。

 

 男は気が付けば、美女に抱えられながら、真っ暗な空を、飛んでいた。

 

「な――ま、待て! 俺は――」

「あの真っ黒を追いかけるんだろう? だったら、さっきの赤子のような足取りでは、それこそ夜が明けてしまうよ」

 

 どれだけ夜が明けても辿り着けないぜ――と、そう言うリオンの言葉に、男は「……」と、何も返せない。

 

「僕はそんな何のイベントも起こらない移動パートをスキップもせずに眺めているほど気は長くないんだ。なにより太陽はもっと嫌いなんだ。だから、夜が明ける前には辿り着いてもらうよ、目的地へ」

 

 大丈夫、墜落事故を起こす前に大気圏から眺めることは出来た。この程度の大きさの島だったら、この翼でも何処にでも行けるからさ――そう豪語するリオンは、くいっと覗くように腕に抱える男の顔を見る。

 

「心当たりがあるんだろう? あの真っ黒が向かう場所に」

 

 そう言って楽しそうに笑う吸血鬼に抱きかかえられている英雄は、大きく溜息を吐き、初体験であろう足が付かない上空などという状況にも微塵も動じることなく、ふてぶてしく言った。

 

「――ご期待に沿えるような、面白いものが見れるかは保証しないぞ」

「いいよ。僕にとっては初めての星出だ。旅行なんてものも初体験な僕にとっては、それだけでわくわくどきどきなんだぜ」

 

 よろしく頼むよ、フジワラノヒデサト――そう、先程名乗っていたのを聞いて女が一度で覚えたその名を、男は鋭く咎める。

 

「……生憎だが、それは捨てた名だ。譲った氏名で、押し付けた使命だ。藤原秀郷としての最後の仕事として、魔人相手にはそう名乗るが、それ以外では名乗るつもりはない。だから――その名前はもう、二度と口にしないでくれ」

「めんどうくさいなぁ。じゃあ、君のことは何て呼べばいい?」

 

 美女に荷物のように抱えられながら、真夜中の平安の空を飛びながら――英雄は、言う。

 

 己が時を駆ける前、名を譲った弟子に、己が全てを押し付けた弟子に貰った――新たな名を。

 

 この名に恥じぬよう、誇り高く生きると、そう誓い、己に刻んだ――新たな、名を。

 

 初めて明かす――時を駆けた怪異殺しが、その初めての相手に選んだのは、息が凍る程に美しい紅蓮の吸血鬼だった。

 

「――京四郎(きょうしろう)。それが、俺の――新しい名前だ」

「リオン・ルージュ。それが僕の、今も昔もこれからも名乗る、唯一無二の名前だ」

 

 よろしく、人間。

 こちらこそ、吸血鬼。

 

 そんな風に笑いながら――あるいは、利用し合いながら。

 

 夜の空の旅を楽しみながら――英雄は、そして吸血鬼は。

 

 妖怪が、人間が、陰陽師が、鬼が、狐が、武者が、そして魔人が。

 

 蠢き、企み、欺き、戦い、殺し合う――地獄の平安京へと向かうのであった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 斯くして――漸く。

 

「役者は――揃ったようじゃの」

 

 場所は平安京の――どこかの闇の中。

 

 そこは表の平安京のどこかなのか、それとも妖怪達が住まう怪異京なのか、はたまた、誰も知らない神秘郷のどこかなのか。

 

 誰も知らない――誰にも見えない溜まり場(エアスポット)

 

 ただ一つ確かなのは、そこが座標上は日ノ本の平安京のどこかであり。

 

 最も妖気に満ちた地脈の穴――その真上であるということだけだった。

 

 ここは偉大なる太陽の恩恵すら寄せ付けない、よくないものの吹き溜まり――そこで。

 

 ただ一人の老爺が、不気味にふぇふぇふぇという笑いを響かせていた。

 

「此度の祭りには間に合わんかと思ったが、最高の時機に蘇ってくれた。吸血鬼が来星した時は流石に肝を冷やしたが、こうなると――月からの最高の贈り物と言えるかもしれんのぉ。あの英雄まで時を駆けるとは」

 

 最悪の陰陽師の『星詠み』では読めなかった『来訪者』の存在――それを、かの最強の陰陽師の『星詠み』は、見透かしていたのだろうか。

 

 その真偽は掴めないが――よい、と、老爺は笑う。

 

 お陰で『祭り』は、最高に盛り上がるキャスティングでド派手に開催することが出来る。

 

 妖怪大将の後継者たる若頭。

 

 家を失った迷子の少年。

 運命を手繰り寄せる座敷童。

 

 月へと手を伸ばす天下人。

 全てを見透かす陰陽師。

 

 百鬼夜行を率いる長。

 右腕を取り戻すべく山を下りる鬼。

 妖しく統べようと企む狐。

 

 神秘を殺すべく戦う鎧武者。

 英雄になるべく笑う武士。

 

 愛する女の元へと辿り着きたい魔人。

 魔人を滅ぼすべく時を越えた英雄。

 そして、全てを狂わす異星からの来訪者。

 

 幾人もの主人公たちが、それぞれの物語を紡ぐべく、糸を持ち寄り絡ませて――結ばれ、あるいは断ち切られることとなる。

 

「ああ――楽しみじゃ、楽しみじゃ」

 

 老爺は笑う。

 

 誰の目も届かない場所から、誰によりも近くで――この国で最も大きな、星人戦争を特等席で眺める。

 

「妖怪大戦争の――始まりじゃ!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 斯くして、役者は出揃い、それぞれの前哨戦(プロローグ)を終えて――遂に、舞台の幕が上がる。

 

 

 およそ千年間にも渡り、誰にも語られることもない、けれど確かに、この国で最も大きな星人戦争であり続けた――

 

 

――伝説の、『妖怪大戦争』が。

 

 

 人間の、妖怪の、そして――英雄の。

 

 長い長い夜が――やってくる。

 

 この国に、夜明けをもたらす、その為に。

 

 

 

 

 

 第五章――【魔人と英雄と吸血鬼】――完

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第終章――【第一次妖怪大戦争】――開幕

 




用語解説コーナー㉛

俵藤太(たわらのとうた)

 本名を藤原秀郷。
 今昔物語集などで俵藤太という異名が残っているが、詳しい使い分けは分かっていない為、本作では若い時は流浪人として全国津々浦々を徘徊しており、その際に立場などを捨て自由を謳歌する為に名乗った名前としている。

 生まれながらにして最強の力を与えられた男は、『藤原』を捨てて『俵藤太』を名乗り、各地で遭遇した怪異を殺して回ったのだ。

 俵藤太は、藤原の始祖たる藤原鎌足から受け継がれた黄金の太刀を以て、数々の妖怪変化を退治した『怪異殺し』として伝説を残している。

 三上山では『龍』を害する程のイレギュラーである『大百足』を、自身最高の得物である黄金の太刀を用いることもなく、唾を吐き付けた一射でもって射殺し。

 宇都宮では百体もの鬼を取り込んだ『百目鬼』を人に戻して埋葬した。

 いつしか俵藤太は、怪異殺しの英雄として全国にその名を轟かせることになり、中央の貴族の反感を買うようになったが、彼は意に介さずに放浪を続け――やがて、一人の弟子と出会うことになる。

 生まれながらにして最強であった為に、それと引き換えにあらゆるものが欠落していた彼に――ただ一人、心に言葉を届けることに成功した少年に諭されることで、俵藤太は藤原秀郷となり、退魔の英雄――俵藤太は、その名も無き少年に継がれることになった。

 やがて、遂には藤原秀郷の名も捨て、魔人を追い掛け時を駆けることにした師に、弟子は呆れながらも、今度は藤原秀郷という名も受け継ぐことになる。

 平将門を討ち取ったという功績を以て、出世を遂げることになった『藤原秀郷』は、その子々孫々を繁栄させることに成功し、彼の子孫は広範囲に分布する。現代において最も多い苗字である『佐藤』も、その多くが彼の子孫であるとされている。

 見事に、彼は師の代わりに、俵藤太と藤原秀郷という人物の影武者を全うしたのだ。

 そして、俵藤太も、藤原秀郷の名も捨て――かつて名も無き少年であった弟子に自らが贈った名である『京四郎』を受け継いだ師は。

 誇り高きその名に恥じぬ為に、己が為すべき使命を果たす為に――今、百年ぶりに、怪異殺しとして、その黄金の太刀を振るうことになる。


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妖怪星人編――㉜ 十二神将

我々に明日がやって来るのか――全ては、我々の手に掛かっているのです。



 

「…………んぁ?」

 

 目を開けると、そこは知らない場所だった。

 

 次に感じたのは、知らない匂い。

 丁寧に手入れをされている畳と、そして不思議な――花の香り。

 

 そして――凍え切った身体を芯から暖めてくれるような、柔らかな温もり。

 

「ここ――は」

 

 急速に覚醒していく意識。鮮明になっていく記憶。

 知らない天井から目を移し、続いて周囲を見渡そうとしている時――ぬっと、黒い影と白い影が覆い被さるように現れた。

 

「あ、起きてる」

「おはようございます。ここはいつも真夜中なんですけど、時刻はちゃんと紛れもなく朝ですよー」

 

 顔を出したのは、夜闇に浮かぶように妖しく瞳を輝かせた黒い女と、不気味な水色の髪と死に装束のような着物の白い女だった。

 

(……そうか。夜は――明けたのか)

 

 彼女達の言葉を、静かに、瞑目して噛み締めながら――ずっと夜の中にいた少年は、目を開けて、久方ぶりに掛けられた朝の挨拶に、夢見ていた、朝の挨拶を返す。

 

「――おはようございます」

 

 それで、ここは何処ですか?

 

 平太という名の、一昨日の夜に死亡し、昨日の夜に座敷童として生まれ変わり――そして、再び幽霊となった少年は。

 

 微笑みと共に、初対面の妖怪少女達に向かって、そう問い掛けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……む~。なんか薄い反応ねぇ。昨日の詩希ちゃんを見習って欲しいわ」

「いえ、これでも驚いているんですよ。今まで妖怪なんて、『鬼』や『狐』の凶暴で恐ろしい輩しか見たことなかったので、月夜さんたちのような美しい方々を見たのは初めてだったので」

 

 もー、可愛いこと言えるじゃない! 食べちゃいたいくらいと、黒猫の妖怪・月夜(つきよ)が平太の背中をばしんと叩き。

 

 平太の言葉にその白い肌を真っ赤に火照らせて照れている、雪女の妖怪・雪菜(ゆきな)があわあわと狼狽えているのを苦笑しながら見詰めつつ――平太は周囲を伺っていた。

 

 ここは、どこかの屋敷の中なのだろう。

 雪菜の先程の言葉通り、ここは常夜の世界らしい。彼女の言葉を信じるならば今は時刻としては朝であるということだが――とてもではないが信じられない程に、しんとしは静謐な空気に満たされた世界だ。

 

 この布団も、畳も、平太が初めて見て触れるほどに上質なもの。

 平太は足を踏み入れたこともないが、平安京の貴族の屋敷で使用されているそれとも決して劣らないのではないかと思うほどに素晴らしい一品。無論、平太に物の良し悪しが分かるような審美眼など養われていないが、あくまで感覚的な問題として。

 

 そんな風に平太がきょろきょろしているのを、月夜と雪菜はじぃと観察していた。

 我らが仕える未来の二代目が、二日続けて保護してきた元・人間の子供。対照的な童達だと、そんな風に思っていると、彼女等のそんな視線に気付いたのか、少年はこんなことをおずおずと尋ねてきた。

 

「……あの、先程のお言葉から、月夜さんは詩希を知っているようですが――彼女は、今、どこに?」

 

 笑みを消して、至極真面目な顔でそう真剣に宣った少年の言葉に――子供らしくない警戒心を見せていた少年に対して向けていた、先程までの少し険しい表情をみるみる溶かして、女性陣はにまーと笑う。

 

 その表情に露骨に戸惑う平太に、月夜はそれを指差す。

 未だ平太の半身を包んでいる――身体の芯まで暖まるような温もりがある布団を。

 

 まさか――と、少年が恐る恐る布団を捲ると。

 

「…………」

 

 ()()――布団の中に、少年にしがみつくように、決して離れないというように抱き着く。

 温かくて、柔らかい、寝息を立てる童女がいた。

 

 まるで、ずっと寂しく、ずっと寒い思いをさせてきた少年に、二度と凍える思いはさせまいというかのような、その姿に――少年は、思わず綻ぶ。

 

「…………詩希」

 

 そんな少年をにまにまと見詰める妖怪少女の目線に気付いた平太は、ごほんごほんと誤魔化すように(まるで誤魔化せていないが)へたくそな咳払いをした後、赤くなった頬を冷ますように首を振って、彼女達に向かって再度問い掛ける。

 

「あの、ここはどこなんですか? それと――」

 

 平太は、思い出した昨夜の記憶から、きっとこの場所に自分達を連れてきたのであろう――二体の妖怪の居場所を。

 

「士弦さんと――鴨桜さんは、今、どこに?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――で? 何をどうしたら、()()()()()()()()()()()なんてことになるんだ?」

 

 桜のはなびらの中で眠るように横になる男の言葉に、桜の幹に背を預ける男は「――分からん」と、投げ捨てるように答えた。

 

「詩希の言葉を聞く限り、毎夜毎夜と襲撃を受けていた、いつなくなってもおかしくないような小さな貧民街だ。それでも、俺らが昨夜、平太の家を訪れた時は、まだそれなりに形を保っていた。それなりに形を保っていた家屋も点在していたしな」

「――んで、俺らがこうして怪異京に戻ってきて、朝になってお前が確認に行ったら……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……と」

 

 自身の相棒のその信じがたい報告を、黒と桜の斑髪の男――鴨桜は、ふっと笑い飛ばすが、それは相棒の報告が信じられないから、()()()()

 

 それを理解しているのか、報告を齎した首元に布を巻いた男――士弦は「……現実的に考えて、そういうことだろうな」と返す。

 

「――ハッ。()()()。昨日、詩希が吐いたそんな言葉を吐き捨てた身としちゃあ笑えねぇが。……ここで現実から目を逸らす方が、よっぽど滑稽極まりないってもんだろう」

 

 俺は、そんな間抜けになるのはごめんだ――斑髪の青年は、豪快に笑い飛ばすと、桜の木から飛び降りて。

 

 いつの間にか枝垂桜に近付いていた、昨夜からこの怪異京に迷い込んでいる幽霊の少年の目の前に降り立つ。

 

「――どうだ? ()()()()()()()()、平太」

 

 鴨桜のその言葉に、平太は「……ええ。もう十分、夢は見ましたから」と返し――そして。

 

「だから僕に――現実を教えてください」

 

 平太はそう言って、桜吹雪を散らせながらも、いつまでも満開に狂い咲く枝垂桜を見上げる。

 

 朝が来てもいつまでも明るくならない夜空を見上げる。

 決して欠けることなく淡い光を照らし続ける満月を見上げる。

 

 そして、そんな平太を――鴨桜は、そして士弦は、真っ直ぐに見詰めて。

 

「……いい覚悟だ。けど、悪いな――今は、新参者のお前よりも、客の相手が最優先だ」

 

 鴨桜は、平太の横を通り過ぎて、その後ろで彼らを見ていた――()()()に向かって歩き出す。

 

「――よう。昨夜ぶりだな」

 

 そこにいたのは、昨夜、鴨桜達をこの怪異京に逃がした者。

 

 妖怪でありながら、妖怪の天敵の手先――日ノ本最強の陰陽師・安倍晴明の式神である白狐。

 

「ようこそ――平安京の“裏”へ。俺はテメェを歓迎するぜ」

 

 今朝は、一体、何の用だい? ――常夜の世界で、妖怪任侠組織の二代目と目される半妖は、そう煙管を咥えながら問い掛ける。

 

 平太がその再会を見詰めていると、どこからともなく――風が吹いた。

 

 空間全てを掻き回すように舞う、桜のはなびら。

 満月の月明りが、その斑模様の男を、そして白狐の女の間を妖しく照らす。

 

 その月光が照らす間の距離を、二人は歩み寄ろうとせずに、ただ言葉だけを、笑みと共に交わす。

 

「――おはようございます、ぬらりひょんの息子。昨夜はよく眠れましたか?」

 

 おかげさんでな、と、鴨桜は白狐の女に返す。

 白狐の女は、それは重畳ですと、靡く白髪を、そして狐耳を押さえながら言った。

 

「そうでなくてはなりません。英気はしっかりと養わなくては。なにせ――あなたの戦いは、我々の戦いは、これからが本番なのですから」

 

 我々の戦争(たたかい)は、これからなのですから――白狐の女は、笑みを消す鴨桜に向かって、尚も妖しく、微笑みながら手を伸ばす。

 

「ぬらりひょんの息子・鴨桜(オウヨウ)。ようこそ、闇の世界へ。私はあなたを歓迎します」

 

 両者の間を照らしていた月明りが、ゆっくりと雲に隠れていく。

 

 ただただ、真っ暗な、常夜の黒が満たす中で、白い狐は――不気味に笑う。

 

「さあ、お話させてください。あなたが、あなたたち『百鬼夜行』が、これから飛び込む冷たい戦争の、その真っ黒な詳細を」

 

 私は今日、それをお聞かせすべく、こうしてやってきたのです。

 

 そう告げる白い狐に、鴨桜は聞かなかった。

 何故、も、誰の指示で、とも。それらは既に聞くまでもないことだと、聞いてもどうしようもないことだと、既にどうしようもなく理解していた。

 

 自分は既に――後戻りは出来ない。するつもりも、ない。

 

 詩希を、平太を、こうして身内に取り込む――それよりも、前に。

 

(――ここは、俺の『京』だ)

 

 そう、覚悟を固めた時から――自分は首を突っ込むと決めていたのだから。

 

 相棒たる士弦は、そんな鴨桜に頭を抱えて――それでも、何も口を挟まず、ただ隣に寄り添った。

 

 鴨桜という男が、誰よりも、何よりも――この京の街を愛していると、やはりどうしようもなく理解していたから。

 

 そんな男が、京の街を滅ぼし得る戦争が行われると分かっていて、黙って見過ごすことなど出来る筈もないと、初めから分かっていたから。

 

 今も、覚悟を決めていている瞳の奥には、この戦争そのものに対する怒りが、ぐらぐらと煮えたぎるように燃え盛っていると、知っているから。

 

「その前に、一つだけ聞かせろ」

 

 平太がそんな向かい合う彼らを見上げる中――鴨桜は、微笑みを向け続ける白い狐に問い掛けた。

 

「お前の名前は?」

 

 その問いに、一瞬だけ呆気に取られた白い狐は。

 

 再び小さく――顔を綻ばせて、自らの名を口にした。

 

「私の名前は『羽衣(うい)』。()()()()()()』の羽衣です」

 

 長い付き合いに、なるといいですね――あなたのお父様と、私の主のように。

 

 白い狐は、そう不敵に妖しく微笑みながら言った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 場所は再び、今朝に平太が、昨朝に詩希が目覚めた部屋へと戻る。

 

 既に布団は片付けられ、詩希も目覚めており顔を真っ赤にしている。散々にお姉さん妖怪達にからかわれたらしい。

 

 しかし、そんな微笑ましい空気を保っているのは平太の背中に顔を埋めて、その真っ赤な顔を隠している詩希だけだった。

 

 その他の登場人物が纏う空気は、はっきり言って重々しい。

 否――そんな中でも、雪菜が出したお茶を物怖じせずに啜って「とても美味しいです。少し冷たいですが」と言って、この状況でも微笑んでいる白狐の女くらいか。

 

 白狐の女――否、先程彼女は、既に名乗っていた。

 

 己の名前は、羽衣と――十二神将が一角。『貴人(きじん)』の羽衣だと。

 

(……安倍晴明の式神だとは聞いていた。そうではないかと疑ってもいた。……だが、まさか、本当にあの『十二神将』だったとは――それも、よりにもよって……『貴人』か)

 

 妖怪の天敵であり、日ノ本最強の陰陽師――安倍晴明(あべのせいめい)

 

 その大陰陽師が繰り出す、様々な奇跡を引き起こす術式は、正しく世界の理を揺るがす程の強力無比なものだが――そんな中でも、かの大天才が抱える十二体の特別謹製の式神は、安倍晴明という名から半ば独立して、凄まじき脅威として妖怪から認定されている。

 

 安倍晴明の手足とすらいえる、十二体の式神――『十二神将(じゅうにしんしょう)』。

 

騰蛇(とうだ)』。『朱雀(すざく)』。『六合(りくごう)』。

勾陳(こうちん)』。『青龍(せいりゅう)』。『天后(てんこう)』。

太陰(たいいん)』。『玄武(げんぶ)』。『大裳(たいじょう)』。

白虎(びゃっこ)』。『天空(てんくう)』。――そして。

 

 十一体の式神を纏める、十二神将の主将にして――最強の式神と呼ばれる存在が、『貴人(きじん)』である。

 

「そんな大層なものではないですよ。十二神将も発足時と比べれば入れ替わった席も多い。今や、当初にはあった『属性』や『方角』などの陰陽道的意味も失われ――我が主のお気に入りの式神という意味合いが強い手駒達です」

 

 ほら、『鬼』の四天王や『狐』の大幹部のようなものです――と、羽衣は笑うが、士弦は(……それでも、妖怪(おれたち)からすれば何も変わらない)と思考内で吐き捨てる。

 

 陰陽道や儀式的な意味が失われても――それでも。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()――その意味が、健在ならば。

 

 かの大陰陽師と同じく、妖怪にとっての天敵であることには変わりない、と、士弦が羽衣を睨み付ける中、鴨桜は「――ハッ」と、笑って見せる。

 

「それは自慢か? 十二神将『貴人』――すなわち、自分こそがお気に入りの中のお気に入りだと。安倍晴明にとって最も強い式神だと、そう嘯いているようにしか聞こえないぜ」

「まぁ、最も使い勝手がいい式神であるという自負はありますね。強さに関しては、最近は大型の新参者が多くて、自信を喪失中なのが実際の所です」

 

 それでも、()()()()()()()()()()()()()()()が――と、羽衣はお茶を置きながら「さて、私の自己紹介に関してはこんなところでいいでしょう。残された時間も決して豊富とはいえない状況ですしね」と仕切り直す。

 

「始めましょうか。此度の戦争――『妖怪大戦争』に関しての講義(れくちゃー)を。……参加者は、ここにいる皆様だけでよろしいので?」

 

 羽衣の言葉に――あぁ、と、鴨桜は重々しく頷く。

 

「生憎、うちの爺様はいい歳こいて夜遊びに夢中でな。未だに朝帰りもなさっていない。……そんな中で、頭がカッチカチな年寄り連中に――まさか、安倍晴明の式神なんて輩を会わせるわけにもいかねぇだろ」

 

 しかも、その当の式神も脅威の中の脅威――『十二神将』が『貴人』だというのだから。

 妖怪大将が不在の中で幹部連中と顔合わせなどしようものなら、その場で抗争が始まってしまうだろう。

 

(……まぁ、それが普通の反応といえば、普通の反応だ)

 

 士弦はそう思考する。

 それほどまでに、妖怪達にとって――安倍晴明という名は脅威であり、恐怖だ。

 

 かつて自分達『百鬼夜行』の長であり頭――妖怪大将『ぬらりひょん』が懇意にしている()()というのが、まさかの安倍晴明その人であったと発覚した時、冗談抜きで『百鬼夜行』は崩壊一歩手前までの大混乱となった。

 

 それを乗り越えたのは偏にぬらりひょんのカリスマ性あってのことだが――逆に言えば、そのぬらりひょん抜きの場で安倍晴明が式神、十二神将が貴人などが、自分達の本拠地である『怪異京』に乗り込んでいるのだと発覚すれば、今度こそ『百鬼夜行』は崩壊してもおかしくない。むしろ崩壊まっしぐらといえよう。

 

(……現に、現幹部の古参達だけではない。……雪菜も、月夜も――それに、()も。警戒……恐怖、していないといえば、嘘になる)

 

 その程度で、済んでいるのは――士弦ら、いわゆる『二代目派閥』と呼ばれる若い妖怪達が、安倍晴明のことを伝説でしか知らないからだ。今の平安京に住む、多くの人間達と同じように。

 

 安倍晴明の戦闘力を――その規格外の戦闘を、伝説でしか知らないからだ。

 大江山の鬼退治も、菅原道真大祓いも、それら近年の大きな伝説も現場を目撃していない――だからこそ、恐怖し、警戒するという、()()()()()()()()()()

 

 故に、鴨桜は己の派閥のみを在席させたのだ。

 

「――お前の話は、ひとまず俺等だけで聞く。聞いた上で、他の連中にも知らせるかどうか判断する。だからまずは聞かせろ。妖怪大戦争の全容とやらを。時間がないんだろ?」

「時間がないからこそ、手間は一度で済ませたいのですが――まぁ、妖怪大将が不在ならば、『貴人(わたし)』という存在が混乱の元にしかならないというのも理解出来ます。……あなたのその判断が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことを祈って、それではご希望通り、一先ずあなた方にだけお話させていただきましょう」

 

 そう、羽衣は、鴨桜に向かって鋭く皮肉を言うが、鴨桜は目を細めるだけ――『貴人』たる己に向かって、()()()()()()()()()()()()()()、未来の妖怪大将の器に、羽衣は口元を緩ませる。

 

 ()()()()()()()()使()()()()()()()――それは、()()である故なのか、それとも。

 

 いずれにせよと、『貴人』は笑う。

 

 そして――そんな張り詰めた空気の中で、何もかも分からない中であろうに、ずっとこちらを注意深く観察し続ける、ただの幽霊の少年も、ちらりと見遣って。

 

(……なかなかに、楽しみ(ゆにーく)な『卵』が揃っている)

 

 妖怪任侠組織『百鬼夜行』――『二代目派閥』。

 此度の妖怪大戦争の『視点』として据えるに、彼らは面白いかもしれないと――羽衣は、己の主らが描いた『計画(ぷらん)』に賭け(べっとす)ることを、今、ここで、静かに瞑目しながら決断した。

 

(……願わくば――どうか)

 

 ()()()を――()()()を、救ってくれることを願って、と。

 

 そう、儚い願いを込めて、全てを見透かす者を、ずっと傍で見続けてきた女は――ゆっくりと瞼を上げて、幕を開けるように、語り始める。

 

「ずっと伏線が張られ続けてきた、誰もがいつかは勃発すると確信し続けてきた、全てを終わらせる『妖怪大戦争』――その火蓋は、既に切られました。戦争が起こるのは、明日や明後日の話ではありません」

 

 今日というこの日、陽が沈みきった今宵。

 

 血のように赤い満月が浮かぶ――今夜。

 

「――妖怪大戦争は勃発します。我々に明日がやって来るのか」

 

 全ては、我々の手に掛かっているのです。

 

 白い狐の女は、そう妖しく――恐ろしく、未来ある『卵』達に向かって通告した。

 




用語解説コーナー㉜

貴人(きじん)

 安倍晴明が誇る十二体の特別謹製の式神――十二神将の主将であり、安倍晴明の右腕たる存在。

 十二神将はその席に座るモノが何度か入れ替わっているが、貴人の席には十二神将というシステムが発足した当初から羽衣が座り続けている。

 十二神将の纏め役であり、主たる安倍晴明との往復役でもある。

 安倍晴明と、その主である藤原道長、彼らに次いで『計画(プラン)』を把握している存在。

 そんな彼女は、今宵の妖怪大戦争において、視点役に彼らを選んだ。

 若く、青い――若き妖怪の卵たちを。

 これからの未来を担うべき蕾たちを――これからも続いていく、未来を勝ち取る戦争という試練を乗り越える為に。


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妖怪星人編――㉝ 盤面解説

この戦争に、どんな目的地を目指して、乗り込もうとしているんだ?


 

 今夜――戦争が勃発する。

 

 そんな衝撃的な報せに、しかし、『百鬼夜行』二代目派閥の面々は――表面上は、動揺を見せなかった。

 

 昨夜、戦争の火蓋となる、大炎上の火種となる『力』の貯蔵庫となった少年と、その『力』を練り上げた童女を匿うと決めた時から、未来の二代目とその側近は覚悟を固めていたということだろうか。そして、白い少女妖怪と黒い少女妖怪も、あらかじめそれを知らされ、心の準備は終えていたということか。

 

 顔色を赤から青に変えたのは童女だけで――その火種の張本人である少年すらも、その顔色を一切変えていない。

 

 羽衣は、そんな頼もしい少年少女妖怪達を微笑ましく見遣りつつ、具体的な講義(れくちゃー)に移るのだった。

 

「これは古今東西、どんな戦争にも言えることですが、此度の妖怪大戦争においても、様々な者達の、様々な陣営の、様々な思惑が重なり、複雑に交差し、ぐちゃぐちゃに絡み合っています」

 

 無論、それぞれの陣営において、知っている情報、知らない画策が入り乱っているのですが――そう、前置きした上で。

 

「この国で唯一、その全てを見透かしている御方がいます。我が主、安倍晴明だけは――全ての陣営、全ての思惑、全ての画策――その全てを、見透かしている」

 

 だからこそ、こうして私があなた方に、戦争の全体図を講義(れくちゃー)することが出来るのです――安倍晴明が式神、十二神将が『貴人』・羽衣は、堂々と言い切って見せた。

 

 鴨桜は鼻で笑うが、士弦はその言葉を聞いて――更に重々しく、険しくその表情を固めてしまう。

 

(……その大言壮語が正しいのかなんて、ここでは問題じゃない。……そもそも俺達には、コイツ以外の情報源なんて、戦争の各陣営の情報を得る手段なんて存在しないんだ。故に、コイツの言葉が正しいと、そういう前提で受け取るしかない。……それに、何よりも恐ろしいのは)

 

 実態を知らない。実体を知らない。

 なのに、そんな自分達でさえ――()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 そう思わせることが出来ている時点で――その大言壮語は成立しているのだ。

 

 妖怪の天敵。伝説の陰陽師――安倍晴明。

 今まで漠然としか理解出来ていなかったその恐ろしさを、士弦は段々と、全身を包み込んでいく薄ら寒さと共に理解し始めていた。

 

 羽衣は、そんな士弦の心情に慮ることなく、次々と指を立てながら説明を続けていく。

 

「此度の妖怪大戦争――主な参加陣営は、大きく分けて五つです」

 

 酒吞童子率いる――『鬼』陣営。

 化生の前率いる――『狐』陣営。

 藤原道長率いる――『宮中』陣営。

 源頼光率いる――『武士』陣営。

 

「そして、あなた方『百鬼夜行』を主とする、他の四陣営からは存在すら認識されていない『その他』陣営」

「――ハッ。言ってくれやがるな、『貴人』」

 

 笑い飛ばしながらも、半ば本気で苛立っている(ことが士弦や雪菜や月夜にはバレている)鴨桜に、「しかし、事実でしょう?」と羽衣は笑みを向ける。

 

「それに、()()()()()()()()()()()――その意味を、ぬらりひょんという妖怪を父に持つあなたが、理解出来ていない筈がない」

 

 羽衣の、その笑みと、その言葉に、「……チッ」と鴨桜は舌打ちをしながらも、それ以上の言葉を発さなかった。

 

 白狐の女は、そんな若き半妖の反応を見て尚も微笑みながら、「そして、当然、それぞれの陣営に、それぞれの目的が――()()()()()()()があります。それを叶える為に、今宵の戦争へと臨むことになります」と、語り続ける。講義(れくちゃー)を続ける。

 

「まずは、『鬼』陣営。彼らの目的は、というよりも酒吞童子の目的は――『()()()()()()()』です」

 

 十年前の『大江山の鬼退治』によって、『安倍晴明』が、かの『鬼の頭領』の『右腕』を捥ぐ為に、自らの式神へと堕とした鬼の奪還。

 

 ()()()()()()()()()()()――それが、『酒吞童子』の今宵の戦争における勝利条件(ゴール)

 

「――すると何か? 『鬼』は『狐』を倒して妖怪の天下を取るってわけでも、『人』を滅ぼして日ノ本の天下を取るってわけでもなく、攫われた仲間を取り戻したいだけってことか?」

「ええ。鬼の下っ端たちはともかく、頭領たる酒吞童子は、その為だけに平安京へと侵攻してきます」

 

 鬼の頭領は――天下など望んでいない。

 

 今宵の妖怪大戦争を『鬼』と『狐』の天下争いだと思っていた前提が初手から覆されて、雪菜と月夜が呆然とし、鴨桜は眉間に深い皺を刻む。

 

 そんな中、士弦は羽衣に向かって「――だったら、さっさと返してやればいいじゃないか」とぶっきらぼうに切り込んだ。

 

「茨木童子を酒吞童子に返還してやったらいい。そうすれば、アイツ等は御山に帰るんだろう? 少なくとも、一旦は返してみせて――『狐』を狩ってから、『狐の姫君』を打倒してから、再び大江山に攻め込むっていうのも選択肢としてはアリな筈だ」

 

 少なくとも、日ノ本最強の二大妖怪を同時に相手取るよりはいいと、士弦は羽衣に進言するが、羽衣は「そういうわけにはいかないのです。我々には『茨木童子』を『鬼』の元には返せない理由がある」と首を振る。

 

 羽衣の言葉に「ハッ。強力な『鬼』を手駒にして、捨てるのが惜しくなったのか?」と鴨桜は吐き捨てるが、「まぁ、それもあるかもしれませんね。彼はとても便利なので」と羽衣は肩を竦めて――そして、表情から笑みを消して、言った。

 

「そもそも、十年前――何故、晴明様は大江山へ()()()()()のか。先んじて、虚を突いて、はっきり言って卑怯な手を使ってまで、『鬼』を滅ぼそうとしたのか。……そうしなければ、あの時点で、()()()()()()()()()()()()です」

 

 ()()()()()()()()()――そう、全てを見透かす男を、ずっと傍で見続けてきた女は言う。

 

「かつて、阿弖流為(アテルイ)という『鬼』がいました。その『鬼』は、『妖怪』を、()()()()()()()()()()()()()()()()程の『器』を持った『王』でした。……稀に生まれるのです。『鬼』だけではない。種族や住処の垣根を超えて、『妖怪』という大きな枠組みで纏め上げてしまう程の『器』を持つものが。――鴨桜(オウヨウ)。他ならぬあなたの父上が、小規模ながらそれを成し遂げているように」

「…………」

「阿弖流為や酒吞童子は、それを全ての妖怪、()()()()()()()()()()()()()()を支配下に置くことが出来るだけの『強さ』と『器』を兼ね備えている――規格外の怪物です」

 

 それでも、阿弖流為という『王』が生まれた時代では、未だ妖怪は蝦夷という地方に『国』を作る程度の規模の存在でした。無論、あのまま放置していたらどうなっていたかは分かりませんが――と、羽衣は語る。それ故に打倒し、滅ぼすことが出来たとも。

 

 しかし、酒吞童子は違った。

 酒吞童子という『王』の『器』が頭角を現した平安の時代は、既に妖怪の力は、畏れは全盛へと近付いており――人間を滅ぼし得る脅威となっていた。

 

「故に、晴明様は、大江山へと先んじて攻め込んだのです。酒吞童子が『王』として覚醒し、妖怪を纏め上げるだけの『器』を完成させてしまったら、その時は――平安京は勿論、人間という種が滅ぼされる危険性が十二分にあった」

 

 そして、安倍晴明は源頼光や四天王と共に――大江山を崩壊させることに成功した。

 

 虎熊童子を殺し、星熊童子を呪い、鬼女紅葉を倒した――が。

 

「肝心の酒吞童子は――『妖怪王』の『器』を破壊することは、出来ませんでした」

「……それは、安倍晴明が、源頼光が――負けたってことか?」

「いえ。勝負には勝ちました。何度も、何度も、命は奪った。けれど――酒吞童子は、殺せない」

 

 あの鬼は、()()

 心臓を貫いても、全身を燃やしても、首と胴を引き離しても、バラバラの肉塊にしても――復活する。

 

 それが、酒吞童子という鬼の特性。

 どれだけ死んでも、何度だろうと蘇る鬼。

 

 鬼の頭領――酒吞童子。

 不死の権能――それが、かの少女鬼が、その小さな躰に背負った()()

 

「……そんなの、どうしようもないじゃん」

 

 月夜が思わずといったふうに独り言ちる。

 その言葉は、全員の心中の代弁のようだったが、鴨桜は「……それで? お前の主様はどうしたんだ?」と、続きを促した。

 

「――例え、何体もの鬼を殺そうと、大江山の四天王を削ろうと……『王』が健在では、何の成果も得られなかった戦争に等しい。ただ、犠牲だけを払った戦争となってしまう。けれど、それすらも、晴明様は見透かしていました。酒吞童子が殺せないのならば、せめて妖怪王としての器を完成させる為の――『(ぴーす)』を彼女から奪おうと」

 

 ぴーす? と、意味の分からない響きの単語に首を傾げる面々を無視するように、「酒吞童子――彼女はとても、子供なのです」と羽衣は続ける。

 

「彼女は恐ろしく強く、不思議な魅力に溢れた『鬼』ですが、あまりにも純粋で、そして幼い。そんな彼女が曲がりなりにも『鬼の頭領』として大江山の頂点に君臨することが出来ていたのは――彼女を支える『右腕』が、彼女を『王』として導いていたからです」

「……それが、『茨木童子』か」

「ええ。酒吞童子の右腕であり――半身。彼女が『妖怪王』となるには欠かせない存在であり……逆に言えば」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だからこそ、安倍晴明は――十年前の大江山で、標的を酒吞童子から、照準を王の器から、その『右腕』へと変えたのだ。

 

「故に、我々から『鬼』へ、茨木童子を返還することは出来ません。そんなことをすれば、十年前の大江山の鬼退治が、まるっきりの無意味の悲劇と成り果ててしまう」

「……だったら、何故、茨木童子を殺さずに、生かして式神なんぞにしておくんだ? そんな危険な火種ならば、さっさと殺しちまえばいいだろう?」

「ふふ、それをあなたが言うのですか?」

 

 戦争の火種となると分かっているのに、こうして少年と童女を匿っているあなたが――と、羽衣は平太と詩希に目を移し、詩希は平太の背中に隠れて、平太はそれを庇うように目を向ける。

 

 羽衣はそんな微笑ましい子供達に笑みを浮かべつつ、「先程も言いましたが――酒吞童子は、子供なのです」と続ける。

 

「彼女の精神はとても幼い。今は鬼女紅葉がうまくあやしているようですが、茨木を殺してしまえば――彼女の癇癪は、次の瞬間にも容易く爆発する」

 

 そうなれば、その莫大な力を無作為に振るい、ただただ激情のままに暴れ続けるでしょう。それこそ、平安京はおろか、日ノ本に草木の一本も残らない程に。その不死身性に身を任せて――と、そう語る羽衣の瞳は、口元とは裏腹に、微塵も笑っていない。

 

 何よりもその表情が、それが容易く実現してしまう未来予想図だと――未来地獄絵図だと、雄弁に語っていた。

 

「……ならば、どうする? 酒吞童子を殺すことは出来ない。かといって奴等の望みを叶える為に茨木童子を返還することも出来ない。ならばどうやって、お前達は『鬼』との戦争に決着を着ける気だ?」

「言ったでしょう。幾度となく申し上げたでしょう。我が主は全てを見透かしていると。十年前の大江山にて、茨木童子を誘拐した時点で、いずれ酒吞童子が彼を取り戻しに平安京へ攻め込んでくることは分かっていました」

 

 故に、十年を掛けて、安倍晴明は酒吞童子への対抗策を用意した、と、『貴人』は言う。

 

()()()()()()()――()()()()()()

 

 かつて、あの『魔人』に対してそうしたように――羽衣は、その言葉は口に出さずに、何も知らない少年少女妖怪達に向かって講義(れくちゃー)する。

 

 妖怪の天敵・安倍晴明が、妖怪王の器たる酒吞童子に対して、辿り着いた結論を明かす。

 

「酒吞童子は封印します。この平安京のとある場所に、かの大妖怪をも千年に渡って封じることが出来る、我が主・安倍晴明様の渾身の力作を用意しました。その封印を、酒吞童子に施すこと。それこそが、今宵の妖怪大戦争における、『鬼』陣営への我らの勝利条件です」

 

 殺せないならば――殺さない。

 生かしたまま、永遠に封じ込むという、羽衣の言葉に。

 

「……可能なのか? そんなことが」

「可能ですとも。我が主は全ての不可能を可能にします」

 

 そして、全てを見透かしています――そう語る羽衣は、そのまま『狐』への勝利条件も明かした。すなわち――。

 

「――用意した封印は、一つではありません」

 

 続いて羽衣は、二本の指を立てながら宣言する。

 

「『狐』陣営を率いる、()()()()の『妖怪王』の『器』――『狐の姫君』・化生の前も、同様に我が主の用意した封印で、千年に渡って封じ込めます」

 

 それこそが、我らが見据える、今宵の妖怪大戦争の終着点です――そう力強く語る羽衣の言葉に、大きく溜息を吐いた鴨桜は、その黒と桜の斑模様の髪を掻き毟りながら、大きく溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――分からん。一つ一つ、段階を追って説明してくれ」

「ふふ、了解しました。順序立てて丁寧に講義(れくちゃー)して参りましょう」

 

 ちゃぷたぁつぅです――と、鴨桜達は羽衣が時折漏らす意味の分からない単語に対する疑問すらさておいて、真剣な表情で揃って耳を傾ける。

 

 二つの指を再び立てて「それでは、『鬼』に次いで、続いては『狐』の話をしましょう。『狐の姫君』の此度の戦争の目的、その勝利条件からお話ししましょう」と語り始める。

 

「といっても、何のビックリもございません。『狐』の目的は、これまで散々噂されてきた通り――日ノ本の征服です」

 

 日ノ本征服。

 覇権を、支配権を――『人間』から奪い、日ノ本を妖怪の国にする。

 

 既に、この国に住まう全ての者が恐れ――けれど、それが目の前まで迫っていることからは全力で目を逸らしている、絶望の未来の具現。真っ暗で、真っ黒な闇に包まれた、悪夢の世界の実現。

 

 それが、『狐の姫君』・化生の前の目指す、今宵の妖怪大戦争の終着点。

 

「――ま、だろーな」

 

 鴨桜はそう吐き捨てる。

 元々の想定から外れないつまらない答えに、期待外れとも言わない。

 

 ただただ――己の故郷を侵そうとする外敵に、冷たい敵意を研ぎ澄ませるだけ。

 

「……確かに、鴨桜の言う通り、だろーなという感じだが――具体的に、奴等が思い描く日ノ本の征服とは、どのような形のことを言うんだ? 今の人間の朝廷を崩壊させたら終わりなのか……それとも、本気で人間という種を、根こそぎ滅ぼすつもりなのか」

「後者に至っては、流石の『狐』もそこまで考え無しではないと信じたいですね。妖怪である以上、人間からの畏れを供給源に自分達は成り立っていると、そう本能で理解出来ている筈です」

 

 それでも、確実にそうだと言い切れないのが、『狐』の怖いところでもあります、と、羽衣は語る。

 

「どういうことだ?」

「古式ゆかしい『鬼』と違い、歴史に名高い『鬼』と違い、妖怪の代名詞とまで言われた『鬼』と違い――『狐の姫君』は、()()()()なのです」

 

 突然変異というのなら、あの『姫君』は、『阿弖流為』や『酒吞童子』よりも、よっぽど唐突に出現した変異種なのです――と。

 

 羽衣は、そこで突然に笑みを消し――ゾッとするような冷たい無表情を浮かべた。

 

 だが――それはほんの一瞬のことであり、鴨桜が、士弦がそれに対して口を開くのを防ぐように、間髪入れずに羽衣は語り続ける。

 

「かの『姫君』は、本当に突然、突発的に、変異的に現れました。そして、この十年の間に、()()()()()()()()、瞬く間に、この妖怪全盛期において、『鬼』以外のおよそ全ての妖怪勢力を纏め上げて、我々が恐れていた妖怪の種族化を成し遂げました。その上、我々が恐れた通り――人間を滅ぼすべく、人間を終わらせるべく、その大勢力の矛先を、この平安京に向けている」

 

 正しく、人間にとっての絶望の権化のような――妖怪。

 この時代の、この日ノ本に住まう者達の恐怖が――畏れが、そのまま形となって現出したかのような、新たなる『妖怪王の器』。

 

「……つまり、『狐の姫君』・化生の前に関しては、流石のお前の主様も、見透かすことは出来ねぇってわけか?」

 

 鴨桜の煽るような言葉に、羽衣は反射的にとばかりに間髪入れず、その表情に不敵な笑みを取り戻して断言する。

 

「いいえ。私の主は――その全てを見透かしています」

 

 ですから、狐の姫君の終着点も、日ノ本征服の定義も、きちんと暴き出しています――そう言いながら、羽衣は安倍晴明が見透かしたその答えを披露する。

 

「『狐の姫君』が目指すもの――それは、安倍晴明、源頼光、渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光、そして、藤原道長の抹殺です」

 

 それにより無力化した――()()()()()()()()

 この条件を達成した暁に、日ノ本征服を完遂したと、そう見做す目算だと、羽衣は語り聞かす。

 

「……つまり、平安京そのものを滅ぼすというよりは、人間の中枢たる、要たる、心臓たる重要人物を殺すこと。それが奴等の目的ということか」

 

 士弦はそう要約した。

 なんというか、思ったよりも優しい、というのが、率直な感想だった。

 

 無論、『人間』からしたら堪ったものではないだろう。

 これ以上ない絶望だと、そう天を仰ぎたくなる悲劇的な結末であろう。

 

 特に安倍晴明と源頼光。

 この両者がやられるだけでも、『人間』は『妖怪』への対抗戦力を半減させられるといっても過言ではない。

 

 妖怪の天敵足り得るこの二人の規格外がいるからこそ、人間への手出しが出来ないという妖怪も山のようにいるのだ。

 現代でいうところの核兵器のような抑止力となっている二大巨頭を失えば、例え今宵の戦争で『鬼』や『狐』を退けることが出来たとしても、その翌夜には残存勢力や野良妖怪に再び攻め込まれかねないくらいには、『人間』という勢力の畏れが失われる。

 

 そして、鴨桜や士弦には想像もつかないだろうが、対妖怪ではない、対人間という意味での――平安京という国づくりシステムとしても、現在の情勢において要たる藤原道長を失うということは、下手をすればそれだけで国が崩壊する未来を容易く引き寄せることにも繋がりかねない。妖怪大戦争という未曽有の戦後処理が残された状況であれば尚のことだ。

 ただでさえ終わりゆく(みやこ)だ――崩壊している情勢において、宮中を単独支配している左大臣を失うということは、正しく脳と心臓を破壊されるのと同義たる致命傷となり得る。

 

 故に、『狐の姫君』が標的とする者達、その全てを失えば、間違いなく『人間』は終わるだろう。

 

 しかし、それでも、これほどの規模の大戦争だ。

 誇張なく、平安京に住まう人間達の全てを皆殺しにし、平安京そのものを火の海に変えると、そんな事態になっても何もおかしくないと士弦は思っていた。

 

 そう言った意味で――優しいと、温いとすら思った士弦に対し。

 

「ええ。何もおかしくないと思いますよ。あなたが想像しているそれは、今宵の戦争において、かなり高い確率で実現する未来だと思われます」

 

 主直伝の見透かしを行ったかのように、羽衣はそう笑顔で断じた。

 

 何――と、目を見開く士弦に、羽衣は尚もこう断言する。

 

「妖怪・化生の前。彼女ははっきり言って未知数です。我が主は全てを見透かしていますが、何故か主は、彼女に対しては多くを語りません。それでも、一つ言えることは――彼女は『妖怪王』となるに足る『器』を持つ大妖怪であるということ。……そして」

 

 彼女は『酒吞童子』と違い、()()であるということです――羽衣は、この場に居座る百鬼夜行の二代目派閥の少年少女妖怪達を。

 

 そして、未だ大人になりきれない、未来の百鬼夜行の主を、真っ直ぐに見据えながら言った。

 

「彼女は本気でこの日ノ本を征服するつもりです。そして、だからこそ、彼女は()()()()()()()()()()。安倍晴明様を、源頼光様を、頼光四天王を、そして、藤原道長様を、決して見誤ってはいない。既に日ノ本を真っ暗に染め上げた己の大勢力をもってしても、全力で掛からなければ勝てない相手だと、まるで油断していない。だからこそ、七名の人間を殺す為に――平安京を滅ぼすことを、十分に留意した上で、戦争に臨んでくるでしょう」

 

 化生の前は、平安京を滅亡させることを、躊躇したりしない――と。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――と。

 

 たった七つの命を奪う為に、一つの都を火の海へと変えることを恐れないと、そう断言する羽衣に。

 

 士弦は「……奴等は人間を滅ぼすつもりはないんじゃなかったのか?」と、静かにそう問い返す。

 

「俺ら妖怪は、人間の畏れを糧に生きている。それを奴等も理解している筈だと」

「それも恐らくですし、これも恐らくの話ですが――例え、この国で最も人口が多い都市をまるごと滅ぼしたとしても、全国津々浦々にぽつぽつと残った人間の畏れだけでも生存は可能だと、そう判断しているのかもしれませんね」

 

 もし、狐の姫君の思惑通り、日ノ本の征服を完遂した暁には――化生の前は紛れもなく妖怪の王と見做される存在となる。

 それはつまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことを意味している。

 

 畏れを抱く人口そのものが大きく減少しても、一人一人が妖怪へ抱く畏れは、昨日までのそれとは比べ物にならない程に膨れ上がるだろう。

 

 なにせ、曲がりなりにも人間のものだったこの国が――妖怪の国となり。

 自分達は支配する側から――支配される側へと、名実共に上下が入れ替わるのだから。

 

 例え、既に現状が限りなくそれに近い状況であるとしても。

 逃げてる現実から、目を逸らしている現実から――逃げきれなくなり、受け入れざるを得なくなる。

 

 その恐れは――畏れは、計り知れない。

 

「――なるほど。奴等がイカれているというのは、よーく分かった」

 

 鴨桜が膝を叩き、重い沈黙に包まれそうになっていた空気を一蹴する。

 そして「んで、だ。全てを見透かす陰陽師様は、そんなイカれ女に対する策を、きちんと練っているというわけだよな?」と、羽衣に問い掛ける。

 

「――ええ。それはもう。これまで語ってきた通り、『鬼』と『狐』の目的は必ずしも一致しない。けれど、部分部分では一致している。つまり、分かり易く言えば――『鬼』と『狐』は共闘してくるでしょう。共同戦線を張って、手を結んで、手を取り合って、力を合わせて、呼吸を揃えて、平安京へと乗り込んでくる筈です」

「『鬼』と『狐』が、手を取り合う――だと?」

 

 士弦の驚愕に、月夜、雪菜も共に続いた。

 日ノ本を支配する二大妖怪勢力――それが共闘し、一つの勢力として平安京へと攻め込んでくる。

 

 その悪夢のような話に「――まぁ、そうなるだろうな」と、鴨桜は受け止め、「どうせ、どっちもぶっ倒すんだ。固まってもらった方が、手間がない」と吐き捨てる。

 

「つまり、安倍晴明を『鬼』が、源頼光一行を『狐』が倒す、そんな計画ってとこか? 二大巨頭を失えば、藤原道長とやらは裸の王様だろうからな」

「恐らくはそういう形になるでしょう。平安京を警邏する役目を持つ源頼光様達を誘き寄せる為に、『狐』が平安京のあちこちで火種を起こす。そして、その隙に晴明様の元に『鬼』が向かう。これが、今宵の戦争の基本的な図になると思われます」

 

 悪夢のような未来図に動じることなく、冷静に戦局を予想する鴨桜に。

 士弦をはじめとした二代目派閥は落ち着きを取り戻し、羽衣は思ったよりも頼もしいじゃないですかと少なからず感嘆する。

 

 そこで――。

 

「…………それで、羽衣さんが鴨桜さん達にさせたいことは、藤原道長様の護衛ですか?」

 

 ただ一人、静かに脳内で戦局図を描いていた平太は、そう羽衣に向かって唐突に問い掛けた。

 

 唖然とする少女妖怪達、目を細める少年妖怪達にも構わず、真っ直ぐに――いっそ冷たくすらある眼差しを向ける幽霊少年に「……何故、そう思われたのですか?」と、羽衣は問い返す。

 

「安倍晴明様、源頼光様ご一行は、僕のような存在でも知っているくらいの有名な怪異殺しの方々です。そんな彼らと、恐らくはそんな彼らを殺せると狐の姫君が判断し送り込まれた勢力が争う戦場に、鴨桜さん達のような『その他』勢力は向かわせられない。誰にも気付かれない、気付かれていない勢力を使うなら、裸の王様を影から守る方が、よほど有用な使い方だと、そう思っただけです」

 

 違いますか? ――と、戦争(ウォー)の火種たる、戦争(ゲーム)の景品たる、世界の理を歪める力を内包する少年は。

 

 昨夜まで、この平安京にありふれた死の中にいた、何の力も持たない幽霊少年は――この国で最も強い陰陽師の、最も強い式神に対して、そう真っ直ぐに問い掛ける。

 

 鴨桜と士弦が静かに見据える中で、白い狐の女は「――正解です。少年・平太」と、微笑みと共に、その推理を認めた。

 

「基本的に我々は、源頼光様ご一行には、それぞれに宛がわれるであろう妖怪との一騎打ちに専念してもらうつもりでいます。晴明様にも、あの方にしか務まらない大事なお役目がございます。しかし、そうなるとどうしても、左大臣様の周辺が手薄になってしまう」

「だからといって、どうして俺達がそんなお偉い様の――貴族様の随身の真似事みたいなことをしなくちゃいけないんだ?」

 

 鴨桜は露骨に眉間に皺を寄せて、噛みつくように、白い狐に牙を剥く。

 

「勘違いするな。俺は平安京を守りたい――だが、間違っても、『人間』を守りたいわけじゃない」

 

 鴨桜がこの戦争に身を乗り出す覚悟を決めたのは、単純に生まれ故郷を守るためだ。

 

 ぬらりひょんと人間の半妖である青年は、この平安京で生まれ育った。

 彼にとって世界とはすなわち平安京だ。だからこそ、この京を滅ぼそうとする『鬼』と『狐』と戦う覚悟を固めた。

 

 だが、この平安京を脅かすという意味では――滅ぼすという意味では。

 彼にとって『人間』は、『鬼』よりも『狐』よりもよほど身近な――紛うことなき、敵だった。

 

「そもそもの話――『鬼』よりも、『狐』よりも、誰よりも積極的にこの国を滅ぼそうとしているのが、テメェの主をはじめとする『人間』だろうが。にもかかわらず、いざ、自分たち貴族様の命が脅かされそうになったら、『その他』の妖怪にすら助けを求めるってのは……いくらなんでも虫が良すぎるってもんだろうが」

 

 鴨桜は、その時、ちらりと平太を見遣った。

 人間が――貴族が、いうならば他でもない藤原道長が何の手も打たなかったからこそ失われた命が、正しくここにいる平太だ――平太をはじめとする、平安京に蔓延している『ありふれた死』だ。

 

 そんな幽霊(いのち)の前で、あろうことかその藤原道長を守れという羽衣に――そして、自分からそんな可能性を提示した平太に、ただならぬものを感じていると。

 

 羽衣は「ならば、あなたはどうしたいのですか。百鬼夜行二代目()()・鴨桜」と問い掛ける。

 

「平太少年の言うように、晴明様や頼光様ご一行と、『鬼』や『狐』の幹部、ましてや『頭領』や『姫君』との戦争に、あなた方の入り込む隙間などないことは理解しているでしょう? それでも戦争の第三者ではなく参加者でいたいのであれば、その他といえど参加勢力の一角でありたいのならば、左大臣様の随身というのは悪くない立ち位置なのでは? 一体、何がご不満だというのでしょう」

「何が不満だと聞かれれば不満だらけだ。……が」

 

 と、鴨桜はそこで、歯切れ悪く言葉を途切れさせる。

 

 彼も、論理の上では分かっていた。

 そういう形でしか、自分達はこの戦争の深部には辿り着けない。ただ闇雲に戦闘現場に首を突っ込んだ所で、何も出来ずに流れ弾に撃たれておしまいだと。

 

 しかし、それでも――己の中で処理できない感情を持て余す。それを見詰める羽衣の瞳が、それこそが()()だと、そう告げてくることにも苛立ちが増していく。

 

 そして鴨桜は、そんな苛立ちをそのままぶつけるように「……せめて――これだけは、聞かせろ」と、羽衣に向かって詰め寄った。

 

 鴨桜は、片膝を着いた体勢で、鋭く白い狐を睨みつけながら「……『鬼』の目的は分かった。『狐』の目指す場所も分かった。……だが、まだ聞いてなかったよな」と、真っ直ぐに、感情のままに突き出した人差し指を向けながら、問う。

 

「――『人間(テメェら)』。他でもない、テメェらは……この戦争に、何を求めてる?」

 

 人間は、この戦争に、どんな目的地(終着点)を目指して、乗り込もうとしているんだ? ――と、妖怪大将の息子に、百鬼夜行を継ぐ者に、そう真っ直ぐに問い掛けられ。

 

 白い狐の女は――「目的地と、聞かれれば……こう答える他ありませんね」と。

 

 怪物のように、口端を吊り上げて笑い。

 

「……未だかつて、この世の誰も辿り着いたことのない、果てなき大地――」

 

 己も一本の指を立てて、それを鴨桜にではなく天井へと――『天』へと、向けて、答えた。

 

「かぐや姫がお帰りになった……遠い、遠い――お月様ですよ」

 

 それは正しく、とある男が、手を伸ばし続けた。

 

 夢のような――物語(はなし)だった。

 




用語解説コーナー㉜

・『その他』陣営

 鬼からも、狐からも、武士からも、民からも認識されていない第三ならぬ第三者陣営。

 本来、戦争に参加義務などない、誰からも参戦を望まれていない乱入者達。

 それでも、若き妖怪達は、ただ己の住まう故郷を守る為に立ち上がる。


 そして――望まれない、予想外の参加者は、『その他』陣営は、彼らだけとは限らない。

 種々雑多の魑魅魍魎が乱れ狂う戦争は、もう目前まで迫っている。


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妖怪星人編――㉞ 月下の肝試し

 

 土御門邸黒炎上から――二度目の夜明けを迎えた朝だった。

 

 安倍晴明(あべのせいめい)は、己の屋敷の縁に立って、朝陽を浴びながら、遂に訪れた運命の日に息を吐く。

 

(……ようやく、今日か。……長いような、短かったような。……死にたくなるような暗闇に殺されそうになっていた時期もあったが――あの御方と出会ってからは、総じて楽しい毎日であったな)

 

 日が高く昇っている。

 恐らくは綺麗な円を描いているであろう月も、今は太陽の光が強過ぎて探すことは叶わない。

 

 だが、晴明は、まるでそれがくっきりと見えているかのように。

 

 迷いなく、その満月に向かって手を伸ばしながら、微笑みと共に――回顧する。

 

(――あの夜も、美しい月光が差し込んでいた)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、今からおよそ数十年前。

 時は花山(かざん)天皇が在位していた頃。雨が降りしきる、五月のある夜のことだった。

 

 厚い雲によって真っ暗な闇夜が作り出された不気味な屋敷の外を見ながら、花山天皇は唐突にこう言った。

 

 この不気味な闇に誘われて、宮中の結界の中に、強力な妖怪が一体、迷い込んでいるらしい。今、陰陽師達が必死に捜索しているが……この中に、そんな今宵の宮中を、一人で出歩く豪胆な者はおるか――と。

 

 これを聞いて、その場にいた貴族達は、心中で大きな溜息を吐いた。

 花山天皇は狂帝として有名だった。こんな大雨の夜に呼び出されて話し相手をさせられるだけでも迷惑な話なのに、その上、また何か頭のおかしいことを言い出したぞと辟易した。

 

 宮中は大きな結界に囲まれた平安京の中でも、更にもう一重の強固な結界が取り囲んでいる場所だ。

 そんな場所に迷い込むというだけで、その妖怪がどれだけ恐ろしいものか分かるというもの。

 

 いくら陰陽師が総力を挙げて捜索しているとはいえ――裏を返せば、それはつまり、()()()()()()()()()()退()()()()()()()()()ということなのだ。猛獣が闊歩している山の中を丸腰で遭難しろと言われているようなものだろう。

 

 貴族達は、揃いも揃って、そんなことが出来るわけないと苦い笑みを持って言う。

 だが、そんな中で、ビシッと、右手を挙げてこう宣う男が居た。

 

 我が息子達ならば、見事にその胆力を見せつけてくれることでしょう――そう言ってのけたのは、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)という男だった。

 後の世にて、目の前の花山天皇を排除し、己が一族に栄華を齎すことになる未来の覇者であった。

 

 しかし、この時の兼家は未だ、円融(えんゆう)帝の元に送り込んだ娘・詮子(せんし)が生むことになる皇子――後の一条帝を手に入れていない。

 だからこそ、現帝である花山天皇に己が一族をアピールすべく、その狂気の催しともいえる『肝試し』に、三人の息子を送り込んだのだ。

 

 三人の息子達は、一人はやれやれといった風に、一人はとんでもないことを言い出しやがってと父を睨み、そして、もう一人は一切その表情を変えずに――花山天皇の前に座らされた。

 

 狂帝は、面白いと、その狂気を隠そうともせずに、楽しげに三人に命じる。

 

 三人それぞれ違う目的地へ、申し訳程度の腰刀だけを携えた随身を一人ずつ道案内として付けられ、五月雨(さみだれ)降りしきる闇夜の中へと、花山帝は三人の若者を放り出した。

 ちゃんと目的地へ行ってきた証拠に、柱を削って持ってこいと小刀まで渡されて。

 

 そして、ほどなくして、長兄・道隆と次兄・道兼は、たいそう怯えながら戻ってきて、貴族の面々や花山天皇を笑わせた。兼家は渋面だったが、余興としての受けはよかったのでよしとしていた。

 

 だが、その後、しばらく経っても――待てど待てど、末弟は帰ってこなかったのだ。

 すわ本当に妖怪に食われたかと、段々場は騒めき出したが――やがて、厚い雲が晴れ、雨が止み、月明りが差し込み出した頃。

 

 ずぶ濡れの若者が、木の削りかすのようなものを持って帰って来たのだ。

 

 余りにも暗かったので、道案内の随身ともはぐれてしまった。

 故に、迷いに迷った末に、御大層な巨木に辿り着いたので、その木を削って命からがら持ってきたと。その若者が余りにも情けなく話すものだから、貴族達は大いに笑い、花山天皇も大層ご満悦の様子だった――と。

 

 きっと、後世には、そんな笑い話として語り継がれるであろう――その『肝試し』の真実を。

 

(――私だけは、知っている。あの御方の『肝』が、果たしてどれだけ豪胆であったかを)

 

 何故なら、あの夜――二つの結界を破り、平安京の宮中に忍び込んだという妖怪を退治したのが、他ならぬ、この安倍晴明であったから。

 

 そして、その場に――その現場に。

 

 他でもない、藤原道長(ふじわらのみちなが)が、遭遇していたからだ。

 

 それは正しく――きっと、運命に導かれた出逢いだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ある日、平安京随一の陰陽師・安倍晴明は、晴明屋敷と呼ばれる自邸を訪れた旧知の仲のである一人の僧から、ふとこんな話を聞いた。

 

 今、宮中にて破竹の勢いで権力を伸ばしている藤原兼家という男――その息子達が、大層な傑物揃いらしい、と。

 

 その話は平安京の文字通りの『中心』たる存在にも関わらず、肝心の政治から遠い場所にいる晴明の耳にも届いていた。

 

 注釈すると、晴明は政治から遠ざけられているわけではなく、自ら距離を置いている。

 貴族同士の呪い合いという側面も大いに含んでいるこの時代の政闘において、自他ともに認める平安最強の陰陽師である安倍晴明というカードは余りにも強い。どれだけの陰陽師や僧を自身の陣営に取り込もうとも、晴明一人を手に入れてしまえばあっという間に覇者になれてしまうであろう程に、安倍晴明という存在は『チート』なのだ。

 

 それを晴明自身も理解しているが故に、晴明は自らを他者から遠ざける形で、中立という立場を選んだ。

 何もかも見透かすことが出来るにも関わらず、誰も何も導かない。

 

 正解を知っていようと、失敗すると分かっていても――何も言わず、何もしない。

 

 自らを只の怪異退治装置と位置付け、己以外には対処できない事態にのみ現れる存在とすることで、晴明は『世界』と折り合いをつけていた。

 

 だからこそ、晴明はあらゆる権力者の数多の誘いを断り続け、こうしていざという時は瞬時に駆け付けられる程に距離的には近くとも、華やかな平安宮とは似ても似つかない不気味な屋敷に身を置いている。

 そんな晴明の元を訪れるのは、有事以外の時は本当に一握りの友人のみで、この僧はその数少ない存在の一人だった。

 

 だが、この時の晴明は、そんな友人が持ち出した世間話をつまらなそうに聞き流していた。

 権力の頂点への執着、それを隠そうともせずに己の辣腕のみで宮中を暴れ回っている父・藤原兼家。

 そんな父とは似ても似つかない愛嬌を武器に、周囲の人間達の心を片っ端から掴んで回っている魅力の持ち主である長男・藤原道隆。

 父、兄への対抗心を薪として、ギラギラと目を輝かせて懸命に背中を追う三男・藤原道兼。

 

 何か一つ、決定的な切っ掛けがあれば。

 やがては宮中に大きな渦を巻き起こすであろうと噂される一族・藤原北家。

 

 もはや聞き飽きた噂だ。

 そして、こう続くのだろう。

 

 そんな中でも、末弟・五男だけは、見所のない平凡児であった――と。

 

 しかし、そんな晴明の予想を、友人である僧はにこやかに裏切る。

 

 私はこの間、噂の藤原北家、その全員と顔を合わせる機会があったが――と、前置き、そして、こう言った。

 

「藤原道長殿。――あの御方は、他のご兄弟の誰よりも……否。この平安京の、誰よりも――恐ろしい」

 

 紛れもなく、この宮中――いや、日ノ本を、あるいは、もっと大きく、遠い彼方のものを。

 

 その手中に収める、『器』の持ち主なのではないか――そう語る僧に、晴明は。

 

 流石は我が友――と。

 

 にこりともせず、ただいつも通りの、醒め切った表情で呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そう――安倍晴明は知っていた。

 

 藤原道長という男が、傑物揃いの怪物一家の中でも――群を抜いて恐ろしい男だということを。

 

 権力の頂点どころか――それよりも遥か彼方へと、その手を伸ばす男だということを。

 その漆黒の野心を持って、何もかもを燃やし尽くす男だということを――そして。

 

 この安倍晴明を――その配下に付き従わせることになる、男であるということを。

 

 晴明は、道長に出会うずっと前から――そんな未来を見透かしていた。

 彼が生まれ持った、天から――否、『星』から与えられた『チート』は、そんな確定事項を、藤原道長という『主』がこの世に生まれる前から晴明に教えていた。

 

 だが、晴明が見透かす『未来』は、他人が描いた絵巻を眺めるようなものだ。

 あらすじは知っている。展開も読めている。登場人物も把握している。だが、それはどこまでも紙の上の記号であり――今、この時を生きる安倍晴明にとっては、藤原道長という男は只の若造に過ぎなかった。

 

 この先の未来にて、この世の全てを黒く燃やし尽くすことになる男だとは理解していても――そんな男の、果たして『安倍晴明』は何処に惚れることになるのか、今の晴明にはまるで理解出来なかった。

 

(……理解する必要など、ないのだろう。既に『未来』はこのように確定している。否、そうでなければならない。私があの男の配下にならなければ、あの男の『物語』を完遂させなければ、この国が――日ノ本が滅ぶことになるのは、間違いないのだから)

 

 故に、これは本来、不要な工程だ。

 このまま運命の波に身を任せれば、遠からず内に出会うことになるのだから。

 

 その時に自分は、その男に惚れたふりをして、差し出されるであろうその手を取って、黒い炎が布かれた道を共に歩み――藤原道長の『物語』を、その悍ましき結末まで導けばよい。

 

 それが、この『未来(ものがたり)』の正しいあらすじだ。進むべき――道だ。

 

 故に、これは――晴明という、一つの生命の、小さな運命への反抗だったのかもしれない。

 

 大いなる存在から『チート』として――母なる『星』から、『才』を、『力』を、そして『使命』を与えられて、ずっと『装置』として生き続けてきた男の。

 疲れ切った男の、壊れかけた男の、ふっと湧いた些細な悪戯心だったのかもしれない。

 

 どこまでも未来を見透かす男は、この日、そんな自分でも理解出来ない衝動を持って――()()()()()()()()()()()、自分以外では対処不可能な程度の、それでも、晴明にとっては指先一つで屠れるような妖怪を、宮中内にそっと手引きをした。

 

 この日、晴明は、その男が単独で『肝試し』をすることになると知っていたから。

 

 本来の『未来(ものがたり)』ならば、何の面白味もなく、男が仮面を被り続けて、道化を演じ続けることになって終わるだけのつまらない催し。

 

 しかし、この日、藤原道長は安倍晴明の悪戯によって――五月雨降りしきる闇夜にて。

 

 生まれて初めて――妖怪と遭遇することになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平凡児の仮面を被り続けてきた男は、ゆっくりと、その仮面を剥がすように――微塵も恐怖心を見せることなく、目の前に立つその醜悪な化物を見据えながら呟く。

 

「ほう――これが、妖怪か」

 

 凛々しい顔をした、けれど特別に恵まれた体躯というわけでもない青年と。

 

 肉を抉る為に鋭く伸びた爪、息の根を止める為に大きく生えた牙、そして、闇夜を生き抜く為に爛々と輝く瞳が特徴的な化物――『妖怪』が、ざあざあと降りしきる雨の中で邂逅する。

 

 そんな現場を、少し離れた場所で、安倍晴明は眺めていた。

 

「…………」

 

 無論、これは全て、安倍晴明が仕組んだ状況だ。

 普段はどんな妖怪の侵入も許さない宮中を囲む結界に穴を開けたのも、自分以外の陰陽師ならば大いに苦戦するであろうあの妖怪を内部に手引きしたのも――そして、藤原道長が現れるであろうこの場所に配置したのも、全て、この安倍晴明だ。

 

 いつも通り、何もかもを、自分自身で整えた自作自演のマッチポンプだった。

 

(……一体、何がしたいのだろうな、私は。道長殿に、このレベルの妖怪をどうこう出来る能力などないことは――よく見透かしているだろうに)

 

 何も道長に限ったことではない。

 この時代の日ノ本において、妖怪は人間の天敵だ。特別な能力を持っていなくては、その強靭な皮膚に傷一つ付けることは出来ない――それは、日ノ本の中枢を担っている貴族といえども変わりはない。

 

 妖怪への対抗手段を持っているのは、ほんの一部の人間だけだ。

 

 それは悪霊を退散させることが出来る経の力を身に付けている――僧兵であり。

 対妖怪の最前線で戦い続けてきたが故に発揮された武力を持つ――武士であり。

 

 そして、万象を操作する『奇跡』に手を掛けた、『星』からの『(ギフト)』を授りし『天才』が編み出した『術』を習得するに至った者――陰陽師である。

 

 故に、そのどれでもない、未だ何者でもない――この時点での藤原道長に、目の前の妖怪を退治する手段など、ありはしない。

 

(……だと、いうのに)

 

 そう、分かっているのに――安倍晴明は、この舞台を整えた。

 

 果たして――私は。

 

(一体、何が見たいのだ――)

 

 分かっている――藤原道長に、目の前の状況をどうにかする力はない。

 

 分かっている――それでも、自分は、藤原道長を、ここで死なせるわけにはいかない。

 

 だからこそ、こんな舞台は整えるべきではなかった。

 これは不要な工程だ。不必要な演目だ。自分の『役目』が、『使命』が、こんなことを――許す筈がないのだ。

 

『――貴族か! まあいい! 今はどんな塵だろうと摂取し、力を蓄えなくてはならない!』

 

 あの陰陽師を殺すためにな――そう叫びながら、妖怪は道長に向かって、その鎌のような牙を振り降ろす。

 

 自分が無理矢理にこの結界内へと放り込む際、多少強引に押し込んだ為に、この妖怪の脳裏にはたっぷりと安倍晴明への恐怖が刻み込まれているだろう。

 

 それ故に、妖怪は道長の殺害を逸っている。

 焦ったのは全ての元凶である晴明自身だ。己の中の言語化不可能な葛藤を処理するよりも前に、道長が妖怪に殺されようとしている。

 

 咄嗟にその手を掲げる――間に合うかと、晴明が術を発動しようとした、その時。

 

 晴明は――見た。

 自分が妖怪に手を向ける――それよりも、先に。

 

 藤原道長が、自身を見下ろす妖怪に向けて、その掌を翳していた。

 

『……何の真似だ、人間』

 

 思わずその爪を振り降ろすのを止めた妖怪が、理解出来ないとばかりに呟く。

 これほど流暢に人の言葉を操ることから分かるように、この妖怪のレベルは高い。それ故に、理解出来ないのだと、晴明は察した。

 

 練達した戦士である人間が、一目見れば、目の前の妖怪がどれほどのレベルなのか理解出来るように。

 強い妖怪であればあるほど、一目見れば、目の前の人間がどれほどの脅威なのか理解出来る――だからこそ、理解出来ない。

 

 目の前の人間――藤原道長には、僧兵たる力も、武士たる力も、そして無論、陰陽師たる力も、まるで感じ取ることが出来ないだろう――が故に。

 

 何の異能も持たない、何の能力も持たない――何も持たない、只の人間――で、あるにも、関わらず。

 

 それでも道長は、『死』そのものたる、妖怪の爪が眼前に振り降ろされようとも――微塵も揺るがず、恐怖で震えることすらなく。

 

 ただ、掌を妖怪に――否。

 

『……今宵は生憎の空模様だ。……それが、私には、どうしても気に食わない』

 

 こんな夜に、私は死ぬわけにはいかないのだ――と。

 

 無力たる人間は――否。

 

 天下人の『器』は――その掌で、天を造り変えんばかりに。

 

「――――ッッ!!!」

 

 その息を吞んだ、押し殺した声は――妖怪か、それとも、晴明の口から漏れたものか。

 

 少なくとも晴明は、生まれて初めて――絶句というものを経験した。

 それ程までに、目の前の光景が信じられなかった。

 

 だって、晴明には――全てが見透かせているのだから。

 遥かなる未来も、森羅万象の結末も――今日の天気など、晴明からすれば、未だ発明されていない天気図すら見るまでもないことだ。

 

 故に断言する。今日の天気は雨だ。ずっと、夜が明けるまで、生憎の空模様であった筈だ。

 五月雨が降りしきる夜だと、後世の歴史にもそう記されるであろう一夜の『肝試し』――その筈だ。そうに決まっている。だって、未来を、結末を、安倍晴明は見透かしているのだから。

 

 だから――有り得ないのだ――()()()()など。

 

 厚い雲に――雲間が生まれて、そこから光が差し込むなど。

 

 月が、覗くなど。

 月光が、降り注ぐなど。

 

 月明りが――藤原道長を照らすなど。

 

 本来の未来では、定められた結末では、有り得べからずな――『奇跡』なのだ。

 

「……ああ。やはり、君は美しい」

 

 そう陶酔するように呟く道長の掌は、ずっと、その月を収めるように向けられていた。

 

『ぐぁぁあああああああああ!!!』

 

 本来、夜の世界に生きる妖怪にとって、月光とは毒ではない。

 

 しかし、月の光が、妖怪達の忌み嫌う太陽の光を反射しているものだということは、未来の人間であるならば誰もが知ることだ。

 吸血鬼のように浴びれば燃え盛る程に天敵というわけではないが、それでも太陽の下では十全のパフォーマンスが封じられる程度には、妖怪の肌に合わないものではある。

 

 そして、そんな月光が、妖怪に対する大きな武器となる瞬間が存在する。

 

 長時間雲に遮られたことで凝縮されていたエネルギーが、まるでレーザーのように照射される、雲間から差し込む一筋――それを不意に、それも後頭部に一直線に注がれれば、人語を操るほどに高レベルの妖怪といえど、藻掻き苦しむ程度には深刻なダメージとなる。

 

 無論、一撃で屠れるようなものではないし、息の根を止めるような負傷とはならない。

 だが、窮地から脱する時間を稼ぐには十分な程の隙が生まれる。

 

 そして、そんな値千金の間で、道長は、一歩も後退りすることすらなく――隠れて全てを目撃していた、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――」

 

 瞬間――晴明は。

 

『――――――ァァァァァ……』

 

 今度こそ、手を掲げ、術式によって生み出した暴虐的な光によって、妖怪を塵一つ残さず滅ぼした。

 

 理解出来たからだ。

 

 藤原道長という男の、一体、何処に、『安倍晴明』は惚れることになるのか。

 

 どうして、『安倍晴明』は、『藤原道長』を、『主』と仰ぐことを決めたのか。

 

 藤原道長は、何の力も持たない、只の人間だ。

 妖怪を滅ぼす異能は勿論、運命に選ばれた出自であることもない。本来であるならば、只の貴族の五男として、平安京の片隅で平凡な人生を送ることになる筈の人間だ。

 

 天を操る力など持つはずもない。

 雨が止んだのも、雲が割れたのも、光が差したのも――月が、助けたのも。

 

 ただの運で――ただの天運で。

 

 それでも――否、()()()()()

 

「――藤原道長殿。ご無礼を、お許しください」

 

 晴明は降り続けた雨でぐしゃぐしゃになった地面に、服が汚れるのも構わずに勢いよく膝を着け、頭を下げる。

 

 道長はずっと気付いていた。誰かが見ていることも。それが他でもない安倍晴明であることも。

 それでも尚、自身に妖怪の爪が振り降ろされようとしているにも関わらず、一度たりとも振り返らずに、毅然と妖怪と向かい合い続けた。

 

 道長は、膝を着く晴明に、月光を背にしながら、ふ、と微笑む。

 

「私は――その『眼』に、(かな)ったか?」

 

 晴明は、思わず顔を上げる。

 全てを見透かす、その呪われた『眼』で――改めて、その男を見上げた。

 

 何の力も持たない。運命にも、無論、『星』にも選ばれていない――平凡児。

 

 だが、この男は――まだ、死ねないと。

 その真っ黒に燃え盛る執念のみを以てして、雨を止ませ、雲を割り――月を、引き出した。

 

 安倍晴明を支配し続けてきた、『星』運命(さだめ)る『未来(ものがたり)』を、己の『野望(ものがたり)』で、塗り替えたのだ。

 

 ああ、この御方だ――晴明は、そう涙を流しながら微笑む。

 

「無論ですとも――我が、主よ」

 

 こうして、美しい月夜の『肝試し』にて、藤原道長は、安倍晴明を、その手中に収めた。

 

 それはきっと、何か輝かしい未来(ものがたり)の始まりで。

 

 それはきっと――とても悍ましい野望(ものがたり)への、踏み出してはいけない第一歩だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 かたん、と。中身が空になった杯を落とす。

 

 それが少しばかりに長くなった、思い出話の終わりを示す合図だった。

 

「――これが、私とあの御方の、安倍晴明と藤原道長の始まりの夜です」

 

 楽しんでいただけたかな――そう言うと、晴明は、空になった杯へ式神の美女に酒を再び注がせると、それをそっと、隣に座る男に向けて差し出した。

 

「次は、そちらが聞かせてはくださいませぬか? お主と、あの御方――藤原道長と、源頼光の始まりの物語を」

 

 晴明がそう微笑みながら告げた言葉に対する返答は――名刀の切っ先だった。

 

 どんな妖怪変化も屠り続けてきた『童子切安綱』が、大陰陽師の首元に真っ直ぐに突き付けられている。

 

『――はぐらかさないでいただきたい。安倍晴明ともあろう御方が、私如きの心中を察することが出来ない筈がないでしょう』

 

 自分が此処に来た、その要件は分かっている筈だと、『鬼』の面を被った鎧武者は言う。

 

 例え、どんな場面でも。

 平安京の中でもとびっきりの結界で囲まれた『晴明屋敷』の中でさえも――否、今となっては、()()()()()、戦装束を纏ったままの男は。

 

 平安最強の神秘殺しは、平安最強の陰陽師へと、単刀直入に問う。

 

『貴殿の心中をお聞かせいただきたい、安倍晴明殿』

 

 私如き猪武者は、貴方様と違い、言葉にしていただかなくては理解出来ない――と、『鬼』面の中から、赤く耀く眼光を放ちながら。

 

 源頼光は――安倍晴明へと、数多の神秘を滅してきた殺意を放ちながら言う。

 

『我々が遭遇した烏天狗――奴が使用した“虚空の窓”。アレの作成者はアナタだな?』

 

 

――流石は平安最強の神秘殺し。お見事でございます。

 

――私の今宵の目的は妖怪・土蜘蛛の始末にありました。

 

 

――我が主ならば再利用(りさいくる)方法を見付けるでしょう。

 

 

 あの魔の森の洞窟にて、烏天狗が漏らした言葉の数々が、頼光の脳裏に蘇る。

 

『――烏天狗が言っていた、『(あるじ)』。それは――貴様だな。安倍晴明』

 

 源頼光が、より強く放った殺気により、酒を注いでいた晴明の式神が鏡が割れるように破壊される。

 

「…………」

 

 晴明はそれに動じることなく、中途半端に注がれた酒を口に含みながら、頼光の殺気の嵐の中で悠然と微笑んでいた。

 

 そんな晴明の首に、更に深く切っ先を突き付け――つうと、真っ赤な血が流れるのを、真っ赤な瞳で見据えながら、頼光は再び問いを続ける。

 

『どうか正直に答えていただこう。大戦(おおいくさ)を目前とした今、つまらぬ冤罪で貴殿を失うことほど馬鹿なことはない』

 

 聞きたいことは山ほどある。

 どうして妖怪と通じているのか。どうしてこのような時期に、『魔の森の決戦(あんなたたかい)』を用意したのか。その目的とは。

 

――どうか、よい戦争を。

 

 安倍晴明(このおとこ)は――果たして、何を――何処まで――見透かしているのか。

 

「――私は何も、はぐらかしてなどおりませんとも。源頼光殿」

 

 瞬間――頼光が童子切安綱の切っ先を突き付けていた、晴明の身体が霧のように消えた。

 

 幻――それは、魔の森にて烏天狗が多用していた写し身の術――否。

 

(私は確かに、その切っ先に手応えを感じていた。首筋の感触も――赤い血すらも流していた。……それが分身? 幻だと? ――あの妖怪のそれよりも、遥かに……術式の完成度が違う)

 

 これが――安倍晴明。

 共に種類は違えど、平安最強――人類最強の名を(ほしいまま)にしている両者。

 

 けれど、最強の片割れ――源頼光は、思う。

 

(この人は――本当に、『人間』なのか)

 

 そう――何よりも、痛烈に己に返ってくる、そんな疑問を抱きながら、頼光はいつの間にか庭の中心に立っていた晴明へと目を向ける。

 

「私の心中は、先程お話した中に全て含まれています。――私は、『人間』ですよ。『狐』でも、『鬼』でもなく――『妖怪』ではなく、『人間』の。その勝利を、何よりも願って行動しています」

 

 相も変わらず、頼光の心中を詳細に見透かしたような言葉を織り交ぜながら、晴明はその微笑みを頼光に向ける。

 

「いえ、此度の戦争においても多大なご活躍を見せて下さるであろう頼光殿に敬意を表して、より深く我が心中を明かすならば――私は、あの御方の野望を。()()()()()()()』を、叶えるべく行動しています。そこに、一切の偽りはないと、我が生命に誓いましょう」

 

 安倍晴明は、そう真っ直ぐに宣言しながら――何時の間にか、瞬時に頼光の眼前に戻っていた。

 

 未だ鞘に仕舞っていない童子切安綱の刀身が、容易く届き得る距離に。

 これは再び幻なのか――そう頼光の脳裏に過ぎる思考を、目の前に差し出された晴明の手が遮った。

 

「貴方様ならば分かる筈です。だからこそ私は、誰にも話したことのない私の原点(オリジン)をお話したのですから」

 

 はぐらかしてなどいない――その為の回顧だったと、晴明は言う。

 

 そして、晴明は、問う。

 

「アナタにとって――藤原道長とは、何ですか?」

 




用語解説コーナー㉞

・肝試し

 平安時代から室町時代にかけて書かれたとされる、『四鏡』とよばれる作者不明の歴史物語がある。

 その中の『大鏡』と呼ばれる第二章では、藤原道長の栄華をメインテーマに描かれていて、『肝試し』はその中でも殊更有名なエピソードである。

 大筋は本話で描いた通りで、異なる点と言えば、原作では道長は平凡児の仮面を被ることもなく、無論、安倍晴明が出しゃばることもなく。
 怯える二人の兄を振りに使い、道長は堂々と柱の削りかすを持って帰る豪胆さを見せつけ、花山帝の無茶振りに応えてみせたという形でオチが付いている。

 これが本当にあった史実なのか、それとも道長が己の栄華を強調する為に書かせた創作なのか、それは分からないが――この物語においては、とある二人の『人間』が邂逅した歴史的な夜であり。

 それは、きっと――妖怪大戦争という、全てが終わる夜の、始まりでもあった。


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妖怪星人編――㉟ この世をば

――ようやくだ。ようやく――叶う。


 

 源頼光(みなもとのらいこう)にとって――藤原道長(ふじわらのみちなが)とは。

 

 安倍晴明は言った。全ては藤原道長の『夢』を叶える為だと。

 

 烏天狗と通じていたのも。かの妖怪に様々な術式を提供したのも――それによって『魔の森の決戦』を引き起こしたのも。数多の人間を危機に晒し、多くの犠牲を払ったのも。

 

 あの男は、全てはその為だと、いっそ誇らしげに、堂々と言ってのけた。

 

 貴方にも分かる筈です――そう、あの男は、言った。

 

 アナタにとって、藤原道長とは、何ですか?

 

(……私にとって、藤原道長とは――)

 

 鎧武者は――否、と言う。

 

 晴明屋敷を後にして、戻ってきた己の屋敷の、真っ暗な一室で。

 

 ゆっくりと、『鬼』の面を外した武士は――否、と呟きながら、ゆっくりと、回顧する。

 

「――『源頼光(みなもとのらいこう)』にとって……藤原道長……とは――」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――遂に兼家(かねいえ)殿も逝ったか。天下を掴み、全てを手に入れられたあの方も、死ぬ時はあっさりだったな。

 

 

――とはいえ、長男・道隆(みちたか)殿の支配は強固だ。娘を一条帝に捧げることも成功し、此度の葬儀でも堂々としておられる。溢れる笑みを堪えるのに必死であろうさ。

 

 

――目の上のたんこぶならぬ、頭の上の親父殿がいなくなり、遂に訪れた己が天下だ。そりゃあにやけも止まらぬだろうさ。

 

 

 

――……外が随分と騒がしいな。まぁ、事実上の天下人の葬式だ。流言飛語が飛び交わない方が不自然というものだが。

 

 

――気が滅入るが、それでも責務はこなさなくては。兼家殿には世話になったからな。跡継ぎである道隆殿の器も、此度の葬儀で存分に見極めてくるとしよう。

 

 

――まぁ、偉そうなことをほざきつつも、我々はむしろ見限られぬように必死に媚びを売る立場なのだが。それでも、背中と命と家名を預けるのだから、それなりの御方であって欲しいと願うのは我が儘ではないだろう。兼家殿には遂に預けることの出来なかった刃を、預けるに相応しい御方であるとよいのだが。

 

 

 

――……ん? 僕も行きたい? そりゃあ無茶ってもんだぜ、坊ちゃん。確かにお前さんには、あの晴明の旦那から貰ったお守りがあるから結界に弾かれるってことはないだろうが……摂政の葬儀だ。お前さんの事情を知らねぇ陰陽師も参列するだろうし、勝手に忍び込んだのがバレたら、下手りゃあその場で祓われてもおかしく――って、おい、待て、この餓鬼!

 

 

 

――ほう。お主が噂の……()()()()()()か。

 

 

――なるほど。

 

 

――実に、面白い。

 

 

 

――ふふ。聞いてくれ、頼親(よりちか)。俺は今日、本物の武士となることが出来た。

 

 

 

――己が全てを捧げるに相応しい、主君に出会うことが出来たんだ。

 

 

 

――……あぁ。俺は、本当に幸せだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――そうか。……そうだ。……そうだったな」

 

 確かに――分かっていた。

 

 源頼光にとって――藤原道長とは――。

 

 

 だが――しかし。

 

 

「――()()()()()()()()()

 

 ゆっくりと、一度外した『鬼』の面を、もう一度――被り直して。

 

 真っ暗な部屋の中で――『彼』は、呟いた。

 

 それでも、源頼光ならば、藤原道長の願いを叶える――その為だけに、きっと全てを捧げられた。

 

 でも――だけど。

 

 今の『僕』は――それだけでは、きっと全てを捧げられない。

 

『――ごめん。『兄さん』』

 

 だからこそ――行かなくては。

 

 そして、見つけなれば。新しい答えを。

 

 源頼光にとって――藤原道長とは――何なのか。

 

 何故なら――今は。

 

『『僕』が――『源頼光(みなもとのらいこう)』なんだから』

 

 そして、『鬼』の面を被った鎧武者は。

 

 ゆっくりと立ち上がり、真っ暗な室内に、赤い眼光を揺らめかせた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黒炎上した土御門邸に代わり、新たに道長一族の居住地となった屋敷――『新土御門邸』は、黒炎上する前に晴明の指示によって用意していた頼光が道長に献上したものだ。

 

 その時は単純に風水の問題で引越しをするからと聞かされていたが――こうなった今では、どこまで計算済のことだったのか、頼光には分からない。

 

 だからこそ、それを知る為に、此処にやって来たのだ。

 

「……源……頼光……様?」

 

 屋敷の広大な庭に、突如として姿を現した『鬼』面の鎧武者に、一昨日の夜を思い出して身を硬直させた紫式部であったが、その姿は流石に何度か見たことのある人物のそれであった為、何とかゆっくりと口を開くことが出来た。

 

 しかし、その纏う異様な雰囲気に戸惑いは消えない。

 そもそも『鬼』面の鎧武者相手に異様な雰囲気も何もないのだが、紫式部の記憶にある源頼光とは、このような『鬼』面をいつも纏っていただろうか。

 

 妖怪退治の後などには身に着けていたのかもしれないが、道長の元を訪れ、土御門邸に足を踏み入れた後は、いつも面を外してにこやかに笑っていた気もする。自分が彰子の元に仕えるようになってからは顔を合わせる機会も減ったので、ここ数年は会うこともなかったが(故に一昨日の夜も渡辺綱に気付けなかった)――と、そんなことを考えていると、いつの間にか紫式部の横に立っていた藤原公任が、屹立し続ける頼光に声を掛ける。

 

「よう。久しぶりだな、神秘殺し殿。此度は我らが摂政殿に――いや、摂政は昨日辞めたんだったな。えっと、ついさっき宣旨が降りたから、太政大臣だ。我らが太政大臣殿の為に、こんな立派な屋敷を献上していただき感謝する。一昨日の綱殿の派遣の件も、重ねて礼を申し上げよう。……それで――」

 

 此度は、どのようなご用件で――と、あの公任が、言葉調子はいつも通りではあるが、表情は一切笑みを浮かべずに、冷たく問い詰める。

 

 やはり()()源頼光は、いつもの源頼光と比べても異様なのだと理解した所で、紫式部は思わず唾を呑み込んだ。

 

 公任と頼光、両者の間に張り詰めた空気が充満する。

 そして、公任の問いに対し、『鬼』面の鎧武者が何も答えないでいた所に――。

 

「――構わない。私が呼んだのだ。此度のこと、これまでのこと――そして、これからのことに対して。私から彼に、直接、礼を言いたくてな」

 

 戸惑う紫式部、警戒する藤原公任の背後から、その男のよく通る声が届いた。

 

 先程まで堅苦しい式典に参加していた反動からか、髪も下ろし、重々しい服も脱いでラフな直衣だけの状態で――どこか長兄・道隆を思わせるような柔和な笑みを浮かべながら、藤原道長は庭園に立つ源頼光を見下ろす。

 

「よくぞ参った。こっちに来い。――二人だけで話そう」

 

 その為に来たのだろう――そう語る瞳に、頼光は、赤く光る眼を合わせて応えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――ほう。お主が噂の……源頼光殿の弟君か。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 

――なるほど。

 

――実に、面白い。

 

 

 初めて会ったその時から、ずっと、この男が恐ろしかった。

 

 家族以外で、生まれて初めて出会った――()()()()()()()()()()()

 

 そして、それでいて尚、微塵も畏れることなく、静かに、僅かに、その無表情を崩して――()()()()()()、その男が。

 

 藤原道長という男が、『■■』はずっと、怖かった。

 

 

 

「久しぶりだな。こうして話すのも。――『大江山』の後から、お主はめっきり顔を出すことも少なくなったからな」

 

 こうして道長は、二人きりになった途端、何の躊躇もなく核心に触れる。

 

 それが、『■■』の逆鱗であることも理解した上で。『■■』の激昂が、容易く己の首を吹き飛ばす死因となることを、全て理解した上で。

 

 一直線に、道長は問う。

 

「今のお主は、『源頼光』か? それとも――『■■』か? ()()()()()()()()()()()()()()? 私は全て、ありのままを答えよう」

 

 その為に来たのだろう、と。

 

 この藤原道長(わたし)を――見定めに来たのだろう、と、真っ直ぐに語る、この男が。

 

 ああ――と、『頼光』は思う。

 

 ゆっくりと、『鬼』面を外しながら。

 

 どんな妖怪よりも――藤原道長(この男)こそが、恐ろしいと。

 

「――どちら()、です。『■■』として――『源頼光』である為に。全てを知る覚悟を持って、アナタに会いに来ました」

 

 面を外し、()()()から、四天王にすら見せなくなった『素顔』を晒しながら、『源頼光』は――『藤原道長』と向き合う。

 

「今は――『僕』が、『源頼光』だから」

 

 道長は、その――『鬼』を見て。

 

 ()()と初めて遭遇したその時と、同じように、笑ってみせる。

 

「よかろう。私も、お主のように、全てを晒そう」

 

 そして、太政大臣となり、日ノ本の頂点に立った男は。

 

 平安最強の神秘殺しに、言葉通り、包み隠さず――己の漆黒の(ハラワタ)を晒す。

 

 その壮大で、荒唐無稽で――けれど、その実現に、後一歩のところまで迫っている絵巻を。

 

 とある馬鹿な男が、その手を愚直に天へと伸ばし続け――遂に月まで辿り着いた、その黒き野望の物語を。

 

 

「――俺は、月を手に入れる。その為に、全てを黒く燃やし尽くすと決めたのだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 道長は、本当に何かを誤魔化したり、はぐらかしたりしようとはしなかった。

 

 聞くに堪えない悍ましい話や、決して褒められない汚い手段に手を染めたことまで、包み隠さず頼光に自白した。

 

 だが、それでも、詳らかに全てを話してはいないのだろう。

 一人の愚かな男の人生(ものがたり)は、そう長い時間を掛けずに語り終えられることとなった。

 

 それでも、『頼光』は――何かが染み入るように、理解出来た。

 

(…………あぁ。()()か)

 

 全身を包み込むかのようだった。

 息苦しく、決して心地いいものではない。

 

 けれど――()()

 燃え盛るように熱い。熱く、熱く、それでいてゾッと凍えるように冷たい。

 

 これだ――この、『黒い炎』。

 黒く、轟々と燃える、炎のような野心。

 

 この熱さに。この冷たさに。この美しさに――きっと、皆、惚れたのだ。

 

(紫式部殿も、藤原公任殿も――安倍晴明殿も、そして、『兄さん』も)

 

 誰もがこの美しさの虜にされた。

 

 誰もがこの黒い野心に――藤原道長の魅力に、抗えなかった。

 

 全てを黒く燃やし尽くすことになるであろう悍ましき物語の――その結末を、見たくなってしまったのだ。

 

「――これが、我が野望の全てだ」

 

 語り終えた道長が、くるりと振り向き、『頼光』を見遣る。

 

 いつの間にか立ち位置が逆になり、頼光が道長を見下ろす形となっていた。

 

「既に我が長男・頼通(よりみち)の摂政への任命、そして三女・威子(いし)の後一条天皇様の中宮様への任命の宣旨は下りた。我が藤原氏は――これで全盛となった」

 

 これで、全ての準備は整った――道長は再び頼光に背を向け、だいぶくっきりと姿を現し始めた、天におわす()()満月へと、手を伸ばす。

 

「今宵だ――今宵、遂に始まり、全てが終わる。俺は月へと辿り着き、妖怪と雌雄を決し――この平安京は、滅びへと向かうだろう」

 

 その為に、貴殿の力を貸して欲しい――そう言いながら、振り向いた道長に向かって。

 

 ()()()()――と。

 

 面を外した剥き出しの鎧武者――『源頼光』は、その男の首に向かって、童子切安綱の切っ先を突き付けていた。

 

「それでも――『僕』は、アナタの全てを、認めることは出来ない」

 

 例え、安倍晴明が認めても。天皇も、中宮も、日ノ本の全てがこの男のモノでも。

 

 例え――かつての【源頼光】が、()()()【源頼光】が、認めた男なのだとしても。

 

 それでも――『僕』は。

 

 この黒き野望のその全てを、全肯定することなど、出来る訳がない。

 

「アナタの野望――そこには『民』がいない。いるのはどこまでも自分だけだ。その野望を、その漆黒を――その『結末』を! 見過ごすことは、『僕』には出来ない!!」

 

 だって――『僕』は託されたんだ。

 

 どうか『民』を救えと。どうか『都』を守護(まも)れと。

 

 あの『大江山』で、この『源頼光(なまえ)』と共に、この『童子切安綱(やいば)』と共に――『僕』は全てを、託されたのだから。

 

 どうか――と。だから――『僕』は。

 

 例え、こうして、『源頼光(あに)』が全てを捧げた男に、刃を向けることになろうとも。

 

「ならば――どうする?」

 

 道長の笑みに――『源頼光』を引き継ぎし武者は言う。

 

「――戦う」

 

 道長が晴明と共に整えた舞台は――既に完成している。

 

 今宵――妖怪大戦争は勃発する。

 それはもう避けられない未来だ。

 

 だが、その辿り着く結末は、まだ定まっていない。

 

 燃え盛る戦火から、襲い掛かる妖怪から、全てを呑み込む黒炎から――『民』を、そして『都』を守護(まも)るのだ。

 

 それこそが――『源頼光』の役目だ。

 

「アナタの野望を全肯定することは、『私』には出来ない。それでも、妖怪と雌雄を決する機会を作っていただいたのは感謝する。――『私』が今宵、『鬼』も、『狐』も、全ての妖怪を滅ぼし、妖怪との長きに渡る因縁に完全に決着を齎してみせる』

 

 ()()()()、と――『源頼光』は、『鬼』面を再び装着しながら、赤き眼光を耀せながら、童子切安綱を、天に輝く『赤き月』へと向ける。

 

『『私』は決して、平安京を諦めない。この地に住まう『民』も救い、『都』も守護(まも)り、『妖怪』に完全勝利する。――私が目指すその『結末』を、アナタの『野望』が邪魔をするというのならば』

 

 その時は――そう、『源頼光』が発しようとした、瞬間。

 

 藤原道長は、いつかの時と同じように、己の命を容易く刈り取る刃を前にしても。

 

 一切の恐怖を見せることなく、微塵も揺らぐことなく。

 

 童子切安綱の切っ先に対して一歩を踏み出し――己の首筋から赤き血が垂れるのも構わず、平安最強の神秘殺しに言う。

 

「その時は――この首を取り、『英雄』となるがいい」

 

 期待しているぞ、源頼光――赤き月に見守られながら、『藤原道長』と『源頼光』は、そう新たなる契約を交わした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、遂に、終わりが始まる。

 

 

「――()()。準備は十全か?」

 

「無論。全ては滞りなく整っておりますれば」

 

 

 

「――()()。脚本は仕上がっているか?」

 

「書き上がっていませんとも。数多に散らばった伏線は、存分に舞台を掻き乱してくれるでしょう」

 

 

 ふ――と。

 

 かつて、主人公になると――そう誓った男は笑う。

 

「重畳。結末は誰にも分からないというわけだ」

 

 

 では、行こうか――道長は、そう呟きながら、先の見えぬ一歩を踏み出す。

 

 傍らに居た影は闇の中へと消え――道長は、真っ暗な夜を打ち消すような、華々しい宴の場へと。

 

 ずっと進め続けてきた――その最後の一歩を、踏み入れた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 土御門邸黒炎上から――二回目の夜。

 

 新土御門邸では、正しく浄土の世界のような、華々しい宴が催されていた。

 

 宮中の全ての貴族が集結したのではないかと思うほど、大勢の人々が、その男を褒め称えている。

 

 今宵は、現帝・後一条天皇に嫁いだ、道長の三女・威子が中宮となった祝いの席だ。

 

 一条天皇、三条天皇、後一条天皇――三代もの天皇の皇后を、自らの娘で占める『一家立三后』という未曾有の偉業を成し遂げた道長に、誰もが敬意を、嫉妬を、そして何より――恐れを抱いている。

 

 人間業ではない――人間の成せる、偉業ではない。

 

 誰も成し遂げたことのない、想像することすら許されなかった、栄華の極み。

 

 日ノ本を統べる頂に立った男は、己を褒めさやす言葉が飛び交う宴の空気を止めて――突如、庭園へと降り立った。

 

「……ん? 道長殿?」

 

 三条天皇に与し、そして敗れた右大臣・藤原実資(ふじわらのさねすけ)は――不気味な、血のように禍々しく、赤く耀く満月の光を浴びる道長に、ぞくりとした何かを覚えた。

 

 誰もが、赤き月に手を伸ばす道長に注目し、口を閉じる。

 

 そんな沈黙の中――後世に永久に残ることになる、その歌は詠まれた。

 

 

 

「この世をば――」

 

 

 

 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 

 

 

 その、余りにも傲慢で、余りにも不遜な(うた)に――実資は。

 

(――ッ!! この、男は――)

 

 最後まで、この宮中において藤原道長の敵であり続けた男は。

 

 黒き炎が如き野心に侵された世界の中で、最後まで歯向かい続けた男は――見た。

 

 歌を詠み、振り返った道長は。

 

 これまで鉄仮面のような無表情を崩さず、全てを恐怖で支配しきった男は。

 

 まるで――少年のように、きらきらと瞳を輝かせて、笑っていた。

 

 

 

 瞬間――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 それは旧土御門邸『黒炎上跡』から出現し、ぐんぐんと伸びていく――遥かなる、月へ向かって。

 

「――ようやくだ。ようやく――叶う」

 

 貴族達が恐慌する中、実資だけが聞いた。

 

 その男の――歓喜の、呟きを。

 

()()()。俺は、お前を――」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、赤き満月が耀く夜。

 

 

 一人の男が栄華を極め、その全てを、たった一つの野望の為に燃やし尽くした、真っ黒な夜に。

 

 

 日ノ本における、史上最大の星人戦争(ミッション)――妖怪大戦争は、開戦した。

 




用語解説コーナー㉟

藤原実資(ふじわらのさねすけ)

 藤原北家小野宮流の継承者であり、当代一流の学識人として名を残した男。

 小野宮流は、本来であれば藤原北家の嫡流であったが、兼家や道長が属する分派である九条流に権力の主導権を奪われ苦渋を呑んだ。

 それでも、道長全盛期に置いても己の中の筋を通す態度を貫き、道長の支配に最後まで抵抗した。

 道長も彼の才覚は認めていて、己に対する反抗分子の旗頭として彼を残し続け、最終的には従一位・右大臣にまで取り立て、実資は後世において「賢人右府」と呼ばれるようになる。

 史実においても、実資が書き残した『小右記』と呼ばれる日記は、平安時代の貴重な宮中の様子を知る資料として高い評価を得ている。

 しかし、そんな実資も、既に道長に対して完膚なきまでに敗北している。
 道長は己と折り合いの悪かった三条天皇と、己に対する反抗勢力の旗頭だった藤原実資を接近させ、道長に対抗せんとする勢力を一ヶ所に集め――これを徹底的に叩き潰した。

 長年に渡り道長と対等に渡り合ってきた実資と、この国の頂点たる天皇のタッグでさえも――道長には及ばない。
 三条天皇の凄惨な最期を見せつけられた宮中の貴族達は、道長に対する対抗意識を完全に失う結果となった。

 実資自身も、己だけが頼りだと縋りついてきた三条天皇に、これ以上ない敗北を味合わせてしまったことによって心を圧し折られ、既に道長に対する表立った反抗を行えなくなってしまった。

 こうして、道長は宮中を完璧に己の支配下に置き――その権力の全盛たる宴の場において、余りにも傲岸不遜極まりない歌を披露することになる。

 そして、それがまるで――呪言であるかのように。

 道長が、この世をばと、そう歌い上げるのと同時に――終わりは、始まる。

 妖怪大戦争は、今、ここに――幕を開けた。


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妖怪星人編――㊱ 開戦の狼煙

――始まりましたね。


 

 開戦の狼煙が上がった。

 

 それは巨大な手の形をしていて、平安京のとある地点から噴出するように伸び上がり、一直線に――真っ赤な月へと向かっている。

 

「――始まりましたね」

 

 ド派手に打ち上がったの戦争開始の号砲に、呪言が記された布を顔面に巻いている男が、ふふふと笑って言う。

 

「それでは、我々も参りましょうか」

 

 男の言葉に続くように、突如として飛び出した巨大な手に民衆が慌てふためくよりも早く平安京の――平安京のあちこちで連鎖的に“火柱”が立ち昇る。

 

 そして、ようやく――現実に気付いたように。

 遅れて伝播する――悲鳴、悲鳴、怒号に、悲鳴。

 

 遂に、平安京に暮らす人間達は、気付いた――否、認めた。

 目の前に迫る、己らを取り囲んでいる、濃密なる死の気配に、認めざるを得なくなった。

 

 戦争が――始まったのだと。

 

 自分達が浸かっていた温い平穏をぶち壊す――終わりが、始まったのだと。

 

「それにしても、本当に現れましたね。“手”――確かにあれ程の規模ならば、この上なく分かり易いですが……流石の私も、半信半疑でしたよ。あなた方の報告を聞いた時は、失礼な話、耳と正気を失いました。前者は私で、後者はあなた方の、ですが」

 

 顔面に布をぐるぐる巻きにしている男――妖怪・(サトリ)は、共に朱雀大路(すざくおおじ)を真っ直ぐに進んでいる巨大な髑髏(どくろ)に乗っている妖怪達にそう言った。

 

「……私はアンタなんかに何も言ってないわ。その不愉快な括りに含めないでくれる? 殺すわよ」

 

 覚を見ようともせず、ギラギラとした瞳で、ただ前だけを――聳え立つ巨大な門の向こう側である『平安宮(へいあんぐう)』だけを見据えて、そう吐き捨てながら。

 その意味不明な報告をアンタにしたのはコイツでしょ、と、ぶっきらぼうに親指だけで、疾走する髑髏の上に乗る、残る一体の妖怪の方を指差すのは――轟々と、もはや隠そうともせずに六尾の先端を燃やす、額に角を伸ばした女だった。

 

「……ふふ。そうでしたね。それにしても随分と不機嫌なご様子ですが、何か嫌なことでも遭ったのですか? 折角の、待ちに待った『戦争(おまつり)』の日だというのに。あ、ちなみに、その角、よくお似合いですよ――(すず)さん」

 

 覚がにやにやとそんな軽口を叩いた所で――覚と同じく『狐』陣営の大幹部の一角である妖怪・(すず)は、遂にそのギラギラと燃え盛っていている瞳を向けて、ギランッと鋭く、しっかりと殺意を込めて強く睨み据える。

 

 六尾を燃やす妖狐である筈の彼女、その額から生える角をあろうことかイジってみせた覚は、「怖い怖い、失言でした」と両手を上げて、大人しくその口の矛先を変えて。

 

 赤き満月に向かって飛び出す“手”を開戦の合図としようという、『()()()()()()()()()()()()()()、ここまで一度も会話に加わろうとしていない、この場に居るもう一体の妖怪に向かって尋ねる。

 

「悪路王殿――『人間』側から、()()()()()()()()()()()()()()()()情報(めっせーじ)は、他に何かございませんか?」

 

 悪路王(あくろおう)

 鬼女紅葉。天邪鬼。そして、先ごろ新たに四天王となった碧と同じく、『鬼』の四天王である妖怪は。

 

 覚からの言葉を受けて、鈴と同じく真っ直ぐに前のみを向きながら――思い返す。

 

 昨夜――今は既に消失した、あの貧民街での戦いを。

 

 安倍晴明が誇る十二神将が筆頭――『貴人』羽衣と。

 

 もう一体の十二神将――『勾陳(こうちん)』であり。

 かつての鬼の頭領が『右腕』であり、『鬼』の四天王最強の妖怪であったモノ。

 

 伝説の『茨木童子』と、相対し、対決した、その一夜の出来事を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 妖怪戦争の『鍵』となるであろう、運命の流れの結集体である『箱』――その()()を、平安京中に放っている部下の一体から報告を受けた『鬼』四天王の()纏め役である鬼女紅葉(きじょこうよう)は、その回収を同じく現四天王である悪路王に命じた。同様に回収に動くだろう『狐』も、そして『人間』も、他勢力にそれを渡さんとすべく、最高戦力の一角を送り込んでくるであろうと想定したからだ。

 

(――だが、まさか……『十二神将』……それも筆頭である『貴人』と……まさか、『奴』もいるとはな)

 

 どうやら一歩出遅れたらしいというのは、問題の発生源たる『家』から、莫大なる『力』が消えていったことから察することは出来た――が、だからといって、このまま手ぶらで帰るわけにはいかない。

 

 出遅れたということは、先んじて『箱』を回収することに成功した勢力があるということだ。

 一体、どの勢力が回収したのか――同じく出遅れたようである『狐』は外すとして――それを確認し、場合によっては力づくで、更にそこから回収しなくてはならない。

 

 それほどのものであると、紅葉から聞いている。

 件の『箱』は、もしかすると、それを持っているというだけで戦争の勝者になれるかもしれないといった程の――大いなる『力』だと。

 

(――それを手に入れることが出来れば、俺の願いも、あるいは叶うかもしれないな)

 

 悪路王が、拳に力を入れると同時に――悪路王と同じく周辺家屋の屋根の上に立つ、()()()()()()()()()()()()()()()一体の天狗が声を張り上げる。

 

 問題の『家』から姿を現した、白い狐の女と、巨躯なる隻腕の鬼に向かって。

 

「――単刀直入に問う。『十二神将』が『貴人』、そして『勾陳』たる――妖怪よ」

 

 目の前の存在が、その狐が、その鬼が――かの最強の陰陽師が手先、つまり『人間』側の存在であると理解した上で、それでも貴様等は『同族(ようかい)』であると、そう呼び掛け、高圧的に問い質すは。

 

「――『箱』を、何処へやった。早急に答えるがいい」

 

 日ノ本を二分する妖怪勢力が一角――『狐』の最強戦力である大幹部が一体である『大天狗』。

 

「これは、これは。かつて京を支配していた妖怪――天狗一族が長、大天狗であらせられる鞍馬(くらま)殿ではございませんか。御機嫌よう。今宵は、『()()()()()()ですか?」

 

 かつて――京を支配していた妖怪の頭目に向かって。

 現在の京の支配者である『人間』側の手先であり、現在の天狗の支配者である『狐の姫君』と同じく妖狐である存在――羽衣は微笑みながら、そう鞍馬に向かって言い放った。

 

「――――ッ!! 貴様――!!」

 

 鞍馬の返答は、手に持つ軍配団扇を振るうことで繰り出した風の刃だった。

 しかし――二刃、三刃と痛烈に襲い掛かるそれらは、全て、羽衣の目前で微風へと変換される。

 

 それを涼しそうに浴びながら、天狗に向かって微笑み続ける白狐に――迫る、『鬼』の拳を、雷の如き速度で間に入った、もう一体の『鬼』が受け止めた。

 

 巨躯なる『鬼』に拳を止められた、その『鬼』は小柄だった。

 恐らくは人間の成人男性に紛れても平均身長に満たないだろう程の心許ない体躯。

 

 それでも――巨躯なる鬼の掌が受け止めた、その拳の重さは紛れもなく、『鬼』の中でも最高峰。

 新たなる大江山四天王――その一角であることに疑い無しの威力だった。

 

 故に、十二神将『勾陳』――かつて四天王筆頭であった『鬼』――『茨木童子(いばらきどうじ)』は言う。

 

「よう――『()()』」

 

 そして、その『先輩』の言葉に、小柄ながらも重き拳を振るう『鬼』――『悪路王(あくろおう)』は答えた。

 

「……なるほど。()()()()()()()

 

 最強――最強――『かの御方』を差し置いて、不遜にも最強を名乗る鬼の内の一体。

 

 この目で見た、真っ向から相対した――『酒吞童子』は、苦渋ながらも認めざるを得なかった。

 

 今の自分では到底敵わない――認めたくないが、この自分の目をもってしても。かの御方の傍で、ずっとその強さに憧れ続けた自分をもってしても――()()()()()()()と、()()()()()()()()()()()()、そう認めざるを得ない程に、奴は『最強の鬼』だった。

 

 だからこそ――だからこそ、だ。

 

 認めるわけにはいかない――ただ、()()()()()()()()()()()()()を。

 

 最強の名を受け止めるに相応しくない自分を。

 かの御方を差し置いて、最強を名乗り続ける鬼共を。

 

 もう、()()()()、認めるわけにはいかない。

 

 だから――ずっと。

 

「会いたかったぞ――自称、『最強』――!」

 

 オマエはどうだ――『茨木童子』。

 かの御方と、そして酒吞童子と同じく――最強を名乗るに相応しい『鬼』か?

 

 この俺が――乗り越えるべき、『壁』か?

 

「祭りには少し早いが、ここで会ったのも縁というものだ」

 

 ここで『茨木』を殺せば、『酒吞』が自分を殺しに来るかもしれない――が、その時は、是非もない。

 

 あの『最強』をも超えて、この『悪路王』が、真の最強の鬼となり――そして。

 

(その時こそ!! この俺が――『あの御方』の名を継ぐに相応しい『鬼』となったということだ――!!)

 

 悪路王は獰猛に笑いながら、そのまま細い腕の筋肉を、全身から放つ妖力を膨れ上がらせて――大きく足を上げて上段蹴りを放つ。

 

「今も昔も最強を自称した覚えなどないが――血気盛んな後輩が入ったもんだ。今の『(あいつら)』は、どいつもみんなこんな感じなのか?」

 

 悪路王の振り上げられた蹴りを、茨木童子は額から伸びる角で受け止めた――『(つの)』。鬼の力の象徴。悪路王の渾身の蹴りを受けても微塵も揺らぐことのない、その角の硬さに、悪路王の笑みは更に獰猛に深まる。

 

 そして茨木と悪路王が距離を取り、その間に再び羽衣へと迫ろうとしていた鞍馬を――制するように。

 

 羽衣は狐火の(とばり)を下ろした。

 それは一瞬の閃光のように、瞬く間に消失したが、場の空気を止めることには成功した――その上で。

 

「――話し合いをしましょう」

 

 白狐の女は、そう微笑みながら、天狗と鬼に――『狐』と『鬼』に向かって言った。

 

「そこにいらっしゃる『鬼』――四天王であらせられる『悪路王』さんが仰る通り、我々が戦うには、今はまだ尚早です。今夜は文字通りの前夜祭――祭りの本番は、明日です」

 

 妖怪大戦争の勃発――それは、明日の夜です。

 そう、羽衣は柔らかい笑みを浮かべながらも、力強く断言する。

 

 鞍馬は、団扇を力強く握り締め続けながら、「……やけに具体的だな」と、警戒心を露わにした表情のまま問い質す。

 

「その言葉の根拠は何だ? 今宵、貴様等が手に入れた『箱』を使って、我々を滅ぼす算段でも付いたか?」

「確かに我々は、何処の誰が『箱』を手に入れたのか、その現在地を把握してはいますが、残念ながら我々の手中にあるわけではありません。まぁ、そうは言っても信じてはもらえないとは思いますので、それに関して弁明をするつもりはありませんが――戦争の勃発日が明日である理由は、また別にございます」

 

 羽衣は、その細く美しい指を――真っ直ぐに、夜空へと向ける。

 

 爛々と輝く――月を、指し示す。

 

「明日は――満月です」

 

 月が満ち――時は満ちる。

 

 史上最強の陰陽師の、最強の式神は、ここに宣言する。

 

「満月が赤く耀く時、全ては始まり、そして終わります。一人の人間が、天高く佇む月へと、その手を伸ばし――届かせる。壮大なる御伽草子が完成する時が来る。平安京は大混乱に陥りるでしょう。その時こそ、あなた方『妖怪』が攻め込む最大の好機です」

 

 折角のお祭りです。どうせなら、ぱぁっと行きましょう――ニコッと、狐は微笑む。

 

 天狗は顔を顰め、隻腕の鬼は溜め息を吐き、そして、小柄の鬼は――。

 

(……どこにでも、いるもんだな)

 

 拳を、ゴキリと鳴らし――冷たい汗を一筋流しながら、ハッと吐き捨てるように笑って見せる。

 

「……そうかい。なら、その妄言――」

 

 楽しそうに、面白そうに――その『計画』を語る白狐に。

 

 そして、その裏にいる、その『御伽草子』の筋書きを描いた――『人間』に。

 

(――化物、ってヤツはよ!!)

 

 妖怪であり、鬼である己を差し置いて、()()がと、そう冷たく見下しながら、己の背筋を走る――恐怖を、誤魔化すように、再びその拳を振るった。

 

「夜が明けるまで――生き延びれたなら、信じてやるよ!!」

 

 悪路王の特攻に、合わせるように鞍馬天狗は団扇を振るう。

 

 白狐はきょとんとし、隻腕の鬼は呆れながら――それを受け流して。

 

 結果――夜が明ける頃には、前夜祭の舞台となった貧民街は十二神将と四天王と大幹部の前哨戦によって消失しながらも、その誰もが大きな手傷を負うことはなかった――まるで、本番に向けての調整試合であったかのように。

 

 鞍馬と悪路王は、夜が明けると共に忽然と姿を消した二体の十二神将から齎された情報を、それぞれの陣営に持ち帰ることになった。

 それこそが、あの白狐の――そして、その裏にいる『人間』の、『計画』通りなのだと知りながら。

 

 結局――悪路王は、己の背筋を流れる冷たいそれが、こびり付いたように消えていないことに、歯噛み、拳を握り締めることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――ッ!!」

 

 そして、悪路王は。

 

 昨夜、あの白狐が語った『計画』――否、『御伽草子』の筋書きを思い出しながら、再び歯噛み、拳を握り、己の背筋に流れ続けるそれを振り払うように。

 

 巨大な髑髏の頭の上で勢いよく立ち上がり――それを指差す。

 進行方向に大きく聳え立つ朱雀門――そこから右奥の離れた場所から飛び出している、その巨大な『手』を。

 

「……奴は――『貴人』は、語っていた」

 

 赤き満月の夜、平安京から『手』が出現する。天高く耀く月に向かって、その『手』は伸びていき、遂にそれを届かせる――。

 

「――そして『男』は、『月』へと向かう。一人の『女』を手に入れる為に」

 

 そう――ただ、それだけ。

 これは、ただ、それだけの物語。

 

 たったそれだけの為に、その『男』は、儚き生涯を費やして、全てを黒く燃やし尽くした。

 決して選ばれない立場から出立し、あらゆる手段を用いて、日ノ本の頂点へと登り詰めた。

 

 狂っていると、素直に思う。

 妖怪などよりも、よっぽど化物染みていると。

 

 だが――しかし。

 

「――なるほど。実に面白い」

 

 そして――()()()

 妖怪・覚は、その一人の人間の物語(じんせい)に、そう素直な感想を漏らす。

 

 鈴は、まるで理解出来ないと、馬鹿な男達を心底から侮蔑するように見下しながらも、何も言わない。

 

 そんな女の見下げ果てるような視線もいざ知らず、覚は「しかし、それでは我々の目的は果たせません」と、笑みを浮かべながら言う。

 

「我々の此度の戦争における勝利条件は、『人間』側の主要人物の排除。当然、そこには、その物語の主人公たる『男』であろう――『藤原道長』も含まれています。『月』へ行ったまま帰ってこないというのならば別ですが、それが保証されていない以上、『月』へと逃がすことは、残念ながら我々の敗北に繋がる」

 

 つまり、我々がこれからすべきことは――と、指を立てながら覚は朗々と語る。

 

「一、藤原道長が『月』へと向かう前に排除すること。二、藤原道長を『月』に逃がしてしまった際には、彼が帰還してもどうにもならない程に、平安京を徹底的に壊滅させること」

 

 出来れば二はやりたくないですねぇ。『人間』は敵ですが、同時に我々の食糧でもあるわけですし。いたずらにその数を減らしたくはありません――と、あちこちから人間の悲鳴が轟く朱雀大路を突き進みながら、妖怪は言う。

 

「――どっちにしろ、その道長ってヤツの所に辿り着かなくちゃいけないんでしょ」

 

 さっさと進めと、鈴が髑髏の頭を鞭打つように踏みつける。髑髏は何の悲鳴もあげないが、覚は「ええ、その通りです」と鈴の言葉に返答する。

 

「本来、『狐』である我々の役目は平安京内で『火種』をばら撒いて平安武者を引き付けることですが、かといって誰も『中心地(心臓部)』を目指していなければ怪しまれます。それに、『鬼』が平安宮に攻め込む本命であるとはいっても、彼らの目的はあくまで安倍晴明。藤原道長など目に入ってはいないでしょう」

 

 故に、藤原道長を排除するのは、我々の役目です。まぁ、()()()は、ですが――覚はそう言って、鈴を、そして悪路王を見遣る。

 酒吞童子ら『鬼』の本命部隊が藤原道長など眼中にないように、彼と彼女の目的もまた道長にないことを――()()()()()上で。

 

「……まぁ、平安宮に辿り着いた暁には、あなた方は自由に行動して構いませんよ。安倍晴明は『鬼』の皆さんがお相手してくださるでしょうし、『人間』側の実質的な頭とはいえ、道長自身に戦闘力はありません。私一人でも十分に排除できるでしょう」

 

 特に悪路王さんは、『鬼』であるにも関わらず、こうして我々の部隊の『将』をやっていただいたのですから。それだけでも感謝してもしきれません――と、そう語る覚に。

 

 悪路王はその背中を見せながら「――礼はいらねぇ。俺の目的は、藤原道長でも、そして安倍晴明でもなかっただけだ」と言い――そして。

 

「俺は、『最強』になる、ただそれだけの為に戦う。その相手が『狐』だろうが、『陰陽師』だろうが、『鬼』だろうが、『武者』だろうが――『人間』だろうが、『化物』であろうが、誰でもいい、何でもいい」

 

 そう宣言し――冷たい背筋を、震える心を、黙らせるように。

 

 どん、と、己の胸に拳を叩き付けながら。

 

 全部倒して、最強になるだけだと――そう呟き、そして、小柄の『鬼』は。

 

 胸の上で、その拳を――強く、握る。

 

「――それに、単独行動云々も、()()を突破出来ての話だろう?」

「……ええ。この正門には、当然ながら門番を配置しているとは思いましたが――」

 

 まさか、あちらも――()()()とは。

 

 覚の呟きに、鈴も臨戦態勢とばかりに尾の先端の狐火をより強く燃やし始める。

 それを横目で一瞬見遣り――鈴と目線が合いながらも、お互いに何も言わず、悪路王は再び正面を向いた。

 

「――――――」

 

 一人の男が、立っていた。

 

 あちこちから轟く悲鳴に、噴き上がる火柱に、己の腕に血が滴る程に強く爪を立てて、唇が切れる程に噛み締めながらも――手を出さず、腕を組みながら。

 

 男は――待っていた。

 

 己が任じられた役割を遂行すべく、必ずやって来ると言われた、四天王(おのれ)でなくては倒せない妖怪の到着を。

 

 たった一人で。

 巨大な門を背に――その金色の髪の武者は。

 

 地面を這いながら進む髑髏の上に乗ってやってきた大妖怪達を見据えると、その背から鉞を抜いて――叫ぶ。

 

「――ここを通りたくば」

 

 頼光四天王が一角――坂田金時(さかたきんとき)は。

 己に迫りくる妖怪に向かって、力強く鉞を振り降ろした。

 

「俺を、殺してみなッッ!!! 妖怪共っ!!」

 

 振るわれる鉞と同時に、振り降ろされる落雷――それを、髑髏から跳び立ち、振るう拳で弾き飛ばすのは。

 

 大江山四天王が一角――()()()()()()()()()()・悪路王。

 

「ならば――そうさせてもらおう」

 

 閃光と轟音と共に邂逅する四天王同士――その、衝突を。

 

 後ろから、妖狐・鈴――()()()()()()()()()()()()()()()鈴鹿御前(すずかごぜん)は、感情の無い瞳でもって見詰めていた。

 




用語解説コーナー㊱

平安宮(へいあんぐう)

 別名大内裏(おおだいり)
 平安京の北辺中央――最奥に位置する宮城である。

 天皇が住まう内裏(だいり)や、中宮が住まう後宮(こうきゅう)も、この平安宮内に存在している平安京の中枢であり、基本的に宮中(きゅうちゅう)とは、この平安宮内を指す。

 平安京全体を囲う結界に加え、更にもう一重、より強固な結界で、この平安宮は囲われている。

 その結界の基点となるのが、平安宮の正面玄関である、平安京を真っ直ぐに貫く朱雀大路と面する――金時が守護する、この朱雀門である。

 


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妖怪星人編――㊲ 民衆の英雄

――やってきますよ。邪悪な妖怪を退治すべく、民衆の英雄の皆さんが。


 

 悲鳴が轟く。絶叫が木霊(こだま)する。

 天に耀く赤い月に焚べるように、火柱が次々と突き上がっていく。

 

 平安京内のとある場所から、巨大な『手』が出現した、その瞬間――平安京を取り囲んでいた結界は、完全に破壊されていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 妖怪側の総合指揮官――『狐』・『鬼』連合勢力の司令官のような役割を担っている(サトリ)という男は、平安京内に忍び込ませた、とある内通者による情報提供によるものだと言っていた。

 確かに、かつては平安京を日ノ本で最も安全な場所としていたあの恐ろしい結界も、近年では経年劣化により有名無実の代物と化していたのも事実だ。毎晩のように『鬼』も『狐』も自陣営の妖怪を忍び込ませることが出来ていた。

 

 しかし、いくらその気になれば突き破れる程に劣化した壁とは言っても、それでも()の安倍晴明が張り巡らせた結界である。それがそこにあるというだけで、本能的に忌避感を覚える妖怪も未だ多かった。

 

 だが、今宵、遂にその結界は完全に、木っ端微塵に破壊された。

 それが意味することとは、つまり――目の前に繰り広げられている、文字通りの、地獄絵図。

 

 妖怪達が雪崩のように、四方八方から人間の京へと乗り込んでくる――終末の景色である。

 

「ぎゃぁぁぁぁああああああああああああああ!!!」

「いやぁぁ!! いやぁぁ!! やめてぇぇええ!!」

「誰か!! お願い誰か助けてぇぇぇええ!!!!!」

 

 平安京の至る場所で『火種』を撒く――戦場を、作り出す。

 その役目を負っているのは、主に『狐』勢力の妖怪だ。

 

 日ノ本における、およそ全ての妖怪種族をその配下においているとされる――『狐』。

 

 彼らはその特性故に、『鬼』のように戦闘に特化しているモノばかりというわけではない。所属妖怪の中には平安武者や『鬼』からみれば雑魚と称されるような下級妖怪も多いことだろう。

 

 しかし、およそ――戦争という舞台に置いて。

 兵力、つまり『数』は、それだけで全てを蹂躙せしめる圧倒的な『兵器』となり得る。

 

「ギィヤァァァアアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 そして――()()()()()、ただ、それだけで。

 只の人間にとって、無力な民にとっては、何よりも恐ろしい――『恐怖』となり得る。

 

 そして、その『畏れ』が、妖怪にとって――その腹を満たし、力を生み出す、何よりの『食糧(ごちそう)』となるのだ。

 

「なんだこりゃあ! 此処が人間達の言う所の()()って奴か! 力がどんどん漲ってくるぜ!」

「おい。分かっていると思うがやり過ぎるなよ。覚様が仰ったことを忘れるな」

 

 全身を満たすかつてない昂揚感に浮かれて人間を甚振る手を止められない同胞に向かって、比較的に冷静な妖怪が人間の首を引き抜きながら釘を差す。

 

 わぁっているよ、と答える妖怪も、無論、忘れていない。

 落ち着かなくてはと、転がってきた人間の頭部を踏み潰しながら、この戦争が始まる前に覚が全軍に伝えた言葉を改めて反芻した。

 

「――()()()()()()()()()()()()()。妖怪が人間を打倒して、この国を手に入れた後も、俺らの食糧となるもんだからな。絶滅させたら、俺らが絶滅しちまう」

「ああ。俺らがやるべきことは、こうして人間達に悲鳴を上げさせること。適度に甚振り、あちこちに戦場を作ることだ。そして――」

 

 そこに、()()()、と。

 一際大きな、足音が響き――彼らの遥か()()から、声が届いた。

 

「その通り。我らがすべきことは、こうして適当な地獄を作り――()()を、此処へ誘き寄せることです」

 

 彼ら『狐』の雑兵妖怪は、戦闘集団『鬼』から派遣された自分達の『将』を見上げる。

 

 それは決して大柄の鬼ではない。風流な着物を身に纏い、流暢に放たれる言葉はいっそ柔らかくすらあった。

 

 しかし、彼ら『狐』の下っ端妖怪は、遥か高みから見下ろすその鬼に対し、更に頭を低くすべく膝を着いて閉口する。

 

 この『鬼』は、只の鬼ではない。

 幾つもに別たれた部隊に将として派遣された『鬼』の中でも――殊更に特別な『鬼』である。

 

 平安京を掻き乱す攪乱部隊の統括を任された、朱雀大路(正面ルート)を走る『本体(仮)』に配属された悪路王と同じ――()()()()()()()()()

 

 天邪鬼(あまのじゃく)

 青かった身体を赤く化えた鬼は、左腕が存在しない袖を靡かせ、更に失った右眼を押さえながら言う。

 

「私に頭を下げる必要はありません。あなた方は『狐』の妖怪――それぞれの目的を達する為に、一時的に手を組んでいるに過ぎないのですから」

 

 そう呟きつつ天邪鬼は、巨大絡繰鬼・鎧将(がいしょう)の肩に乗りながら、朱雀門の遥か先――平安京の中心地たる平安宮を見据える。

 

(……(あおい)の小僧によって機能停止させられていた鎧将。時間がなかったので失った腕と頭部は補充出来ませんでしたが、こうして私が直接操作することで何とか戦場に連れてくることは出来た)

 

 完全に『絶命』していた為、既に鎧将は自由に動くことは出来ない。僅かに残っていた意思も存在しない。今の鎧将は、天邪鬼によって操作されるだけの、文字通りの『絡繰(ロボット)』に過ぎない。

 

(鎧将を四天王へと押し上げ、更に勢力内の権力を高める筈が……共に片腕を失い、肝心の本番ではこうして最前線から追いやられて、平安京の隅っこで『狐』共のお目付け役とは。……情けないこと、この上ない)

 

 肝心な奥の手を『前夜祭』にて使い果たしてしまった天邪鬼単体では、頼光四天王には最早とてもではないが太刀打ちできない。膨張した身体も力も失われ、かろうじて体色に変化の名残があるに過ぎない有様だ――だが。

 

「――鎧将。共にこっぴどく負けた身の上ですが、負け鬼同士、力を合わせれば――もうひと暴れくらいは出来るでしょう」

 

 天邪鬼は、まだ諦めたわけではない。

 自身の任務は平安京のあちこちで『火種』を起こし、平安武者や陰陽師を引き寄せること。

 

 そして――集まってきた人間共を潰し続ければ、いずれ、『奴等』は必ず現れる。

 

「共に、『人間』を――頼光四天王を殺しましょう」

 

 天邪鬼は、そう言って、火柱が次々と噴き上がる、真っ赤に燃える真っ黒な空に向かって手を伸ばす――駆けつけてくる四天王が『奴』とは限らないが、関係ない。

 

(現れるまで――蹂躙するのみ)

 

 殺し続ければ、必ず再び相まみえる。

 

 必ず滅ぼすのだ――あの鬼の天敵を。

 

 そして、示すのだ――『鬼』という存在の、圧倒的な恐怖を。

 

 我ら『鬼』が――日ノ本の頂点に君臨すべき種族であるということを。

 

 それが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()、と、時折思考に紛れる()()()を無視するように、天邪鬼は邪悪に微笑みながら呟く。

 

「――やりなさい。鎧将」

 

 頭部を失った鎧将の、目となり、耳となり、そして『頭』となった天邪鬼が、失った右眼の代わりに己に埋め込んだ義眼を赤く輝かせる。

 

 それに呼応するように、既に叫び声すらも上げられなくなった鎧将が、残された巨木が如き右腕を振り上げ――振り降ろした。

 

 振り撒かれる破壊。

 倒壊していく家屋が、伝播する民衆の悲鳴が、彼らの望むモノを――此処へ連れてくる。

 

 膝を着いていた『狐』の妖怪の下っ端達に向かって、天邪鬼は「さぁ、祭りの本番です」と、嬉しそうに微笑んだ。

 

「――やってきますよ。我ら邪悪な妖怪を退治すべく、民衆(せいぎ)英雄(みかた)の皆さんが」

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 碓井貞光(うすいさだみつ)卜部季武(うらべすえたけ)は、平安京内を駆け回りながら妖怪を退治し続けていた。

 

「殺しても、祓っても、次から次へと湧いて出るな」

「……キリがない」

 

 坂田金時が門番となり、源頼光と渡辺綱が『本命』へと向かった結果、貞光と季武はこうして『人間』軍の最前線の指揮官として駆り出されていた。

 

「それにしても、こうしてまた季武と組むことになるとは。大江山を思い出すな」

「大江山を思い出したくないから、僕は貞光さんとは組みたくなかったですよ」

 

 彼らは軽口を叩きながらも、引き連れた平安武者や陰陽師の一軍の総計を遥かに上回るペースで、たった二人だけで妖怪の屍を積み上げ続ける。

 

 だが、他の戦士達が遭遇する妖怪に後れを取っているのかと言えば、そんなことはなかった。

 頼光四天王には劣るとはいえ、彼らも妖怪という怪物と命を懸けて戦う道を選んだ英傑たちだ。それに――。

 

「コイツ等一体一体は大したことはないな。大江山の鬼共には遥かに劣る」

「それでも、いかんせん数が多いですね。……結界が完全に破られたのが痛い。時間の問題だとは思っていましたが」

 

 しかし、平安京全体を覆う結界ともなると、張り直すのは安倍晴明といえども年単位の事業となる。

 今のこの状況で、晴明をそれだけに専念させるような余裕はとてもではないがなかった為、結界の劣化は放置せざるを得なかったのだが――。

 

(……それでも、『鬼』と『狐』が潰し合ってくれれば、これほどまでの状況にはならないと予想していた。……しかし――)

 

 それは余りにも甘い目算だったと言わざるを得ない。いや、目算ではなく――希望的観測だった。

 戦争において、決して抱いてはいけなかった、無責任な願望であったのだろう。そうなってくれたらいい、が、通用するような相手ではなかったのだ。

 

 結果として、『狐』は『鬼』と手を組み――こうして目の前に、考え得るべき最悪の地獄が創り出されている。

 

「数の『狐』、力の『鬼』。奴等が手を組むと、ここまで面倒くさいことになるんですね」

「いや、敵は最早『狐』や『鬼』などと区別できるようなものではない――『妖怪』。我々は正しく、妖怪という種族、そのものと(いくさ)をしているのだろう」

 

 これは、人間と妖怪、まさしくその雌雄を決する戦い――最終決戦だ、と、貞光は鎌を振るいながら季武に言う。

 

「我々が今すべきことは、過去を悔いることではなく、未来を繋げるために戦うことだ」

「分かっていますとも。その中でも、僕たち四天王が果たすべき責務は――」

「ああ――大物狩り。幹部妖怪の退治だ」

 

 季武が放った矢が数体纏めて妖怪の額を貫く。

 そうして出来た隙間に一般の戦士達が突っ込み、次々と妖怪を殺していった。

 

(数は脅威だが、ただ数にしかならない妖怪共ならば、一般戦士(かれら)でも十分に対処できる。問題は『士気』だ。倒しても倒しても湧いてくる、民衆の恐怖によって強化されている妖怪共。現状はどうしても奴等に流れが向いている。ならば、我々が示すべきは――人間が妖怪に勝利できるという分かり易い可能性(きぼう))

 

 晴明の結界を破り、平安京の各地で同時多発的に発生した、発火した戦火――先制攻撃。

 これにより勃発したばかりの戦争の流れは、完全に妖怪に向かって流れる一方的な激流となっている。人間は成す術なく防戦一方――ならば、まずはそれを変えなくてはならない。

 

 その為に一番手っ取り早く、分かり易い効果が期待できるのは――反撃の証となる戦果。

 

 敵勢力の支柱――中心戦力の撃破だ。

 

「いくら結界を破って平安京の四方から同時に攻め込んだとはいえ、ここまで短時間で大きな戦火をいくつも、この数だけの妖怪共が発生させられるわけがない。――必ず、存在する筈だ。中心地たる平安宮へ攻め込むのではなく、こうして在野で戦場を作り続けるように命じられている、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が」

「ソイツの目的は、正しく僕達――頼光四天王を、己の元へ引き付けることでしょうね。僕らはまんまと敵の思惑に乗るわけだ」

「ああ。だが、行くしかない」

 

 それが例え敵の思惑通りだとしても――件の幹部妖怪を野放しにしておけば、ますますこの絶望的な戦火は広がっていく。

 

 地獄絵図が、平安京全土を、呑み込んでいく。

 

 そんなことをさせない為の頼光四天王――民衆の英雄だ。

 

「――我々は幹部を叩きに行く。ここはお前達に任せたぞ」

 

 貞光の言葉に頼もしい気勢で応えた部隊を置いて、貞光と季武は平安京内を勢い良く駆けていく。

 

「それで? 何処かに目星が?」

「……あそこに見える、これみよがしに巨大な『鬼』。奴も間違いなく幹部、もしくはそれに近しい、『妖怪』軍の大きな戦力なんだろうが――」

 

 貞光は、駆けながらも近くにいる妖怪を殺し続けながら、同じように周囲に矢を放ちつつ追随する季武に言う。

 

「季武。お前はどう思う?」

「……『火柱』のことですか?」

 

 そうだ――と、貞光は、高い建物が少ない平安京の中で、殊更に目立つ巨大な『鬼』を、そして何処かから出現した巨大な『手』を見上げながら、季武の言葉に返す。

 

「突然、赤き月に向かって巨大な『手』が出現したと思ったら、平安京のあちこちから火柱が上がった。そして、()()()()、結界が破れ、妖怪の軍勢が一斉に押し寄せてきた」

「……つまり、あの火柱は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、おそらくは()()()()()()()()()()。それに……『手』の出現の衝撃に紛れてはいたけれど、火柱が上がる前には――閃光と轟音があった」

 

 閃光、そして轟音。それにより発生した火柱。

 

 貞光と季武は、同時に足を止め――見上げる。

 

「……まぁ、分かるよなぁ」

「……まぁ、僕達にとっては――()()()()()()ですから」

 

 それはつまり――()()

 平安京中に雷を落とし、火の海へと変えた妖怪が存在する。

 

 そう、それはきっと、正に今、二人の頭上を()()()()()――真っ黒な雷雲に乗っている、異様な怪物なのだろう。

 

「いやぁ。全く――分かり易い」

 

 それは――雲に乗っていた。

 黒く、小さな、雷瞬かせる不気味な雲。それに一体の妖怪が座り込んでいた。

 

 一見すると鬼のような容姿だ。

 焦げ付いたような癖毛の中に小さく二本の角が生えている。赤い体皮を隠そうともしていない上裸に、黄色地に黒の縞模様の腰布。

 

 そして、背中から複数の太鼓が円周上に付いている円形の飾りが生えている。俗にいう――『雷神太鼓』。

 

 つまりは、奴こそが――妖怪・雷様(かみなりさま)

 

 落雷と共に剥き出しの(へそ)を掻っ攫うという――雷の化身。

 天候を操る、天災が如き大妖怪。

 

 貞光は、神妙に呟く。

 

「間違いない。あれが――幹部だ」

 

 その仲間の言葉に、季武が弓を構えて、矢を番えた――瞬間。

 

 彼らの近くの家屋が破壊された。

 現れるは、破壊された家屋よりも巨大な――絡繰の鬼。

 

 肩に乗る隻腕隻眼の――鬼は、笑う。

 

「――みーつけた」

 

 二人の四天王と、二体の幹部妖怪が。

 

 平安京の片隅の最前線で――今、凄絶に殺し合う。

 




用語解説コーナー㊲

・『人間』軍

 平安京が誇る対妖怪戦力の一団。

 基本的には『平安武者』と『陰陽師』で構成されている。
 より稀少で数の少ない陰陽師一人に対し、複数名の平安武者で一個隊が構成され、それを様々な規模や形で戦場に配置させている。

 頼光四天王は、その実質的な指揮官の役割を果たしているが、今回の妖怪大戦争では綱と頼光が単独行動による敵勢力の最高戦力の撃破に動いていて、金時が最重要拠点の一つである朱雀門の門番として単独配置されている。

 それ故に、軍全体の指揮は貞光が執っており、季武はそのサポートを行っている。


 

 


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妖怪星人編――㊳ 破れぬ誓い

――誓え。


 

 

 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 

 

 一人の男によって紡がれた、その傲慢不遜な歌により――世界は滅亡した。

 

 藤原実資(ふじわらのさねすけ)は、そう心から確信していた。

 

 気に食わない男だとは思っていた。

 周囲の人間を常に見下し、頭角を現さず牙を研ぎ続けながら、ずっと何かを企んでいることを匂わせる男だった。

 

 しかし、そう感じていたのは自分だけだったようだ。

 どんなに周囲の人間に奴の危険性を熱弁しても、まともに取り合う者はいなかった――奴が雌伏を終え、頂点に立った後は、奴を恐れて誰も手を取ってくれなかった。

 

 何故だ。どうして理解出来ない。

 あの男は危険だ。この世で最も、妖怪などよりもよほど恐ろしい――『人間』なのだと。

 

 藤原道長を野放しにしてはいけない。

 あの男はきっと、いつか全てを破壊する。

 

 だからこそ、藤原実資は戦った。

 チャンスは一度しかなかった。一条天皇が退位し、その子であり、道長の孫である後一条天皇が即位するまでの間――道長と血の繋がりのない三条天皇が即位している、この僅かな期間だけが勝負だった。

 

 病に蝕まれている三条天皇が道長と対峙出来る時間は少ない。

 その間に、どうにかして道長を失脚させる。

 

 己の栄達の為ではない。

 全ては――平安京を、日ノ本を、この世界を守る為に。

 

 そう信じ、実資はたった一人、宮中をおよそ全てを支配する道長と戦い続けた。

 

 そして――敗けた。

 奮闘空しく、三条天皇は退位し、後一条天皇は即位された。

 

 その頃には実資は宮中で完全に孤立してしまっており、己が持つパイプも全て破壊されていた。

 

 分かっていた。理解していたとも。

 これまで完璧な手順を踏んで権力を我が物としていた道長が、どうして自分のような反乱分子をいつまでも野放しにしていたのか。

 

 どれほど上手く立ち回っても、反乱分子は、反抗の意思を持つ勢力は必ず発生してしまう――だからこそ、それを一ヶ所に集め、纏めて叩き潰すには、藤原実資(じぶん)は恰好の旗頭であったことだろう。

 

 己の奮闘は、己の戦いは、この胸に宿る熱き正義感すらも、全ては道長の掌の上だと突き付けられた時、この宮中にて最後まで反道長であり続けた実資の心も、遂に、折れてしまった。

 

 実資のこれ以上なく無残な敗北を目の当たりにし、抵抗はせずとも道長に協力的にはなれなかった僅かな勢力も、抵抗の意思を完膚なきまでに失って――道長の支配体制は盤石となった。

 

 全ては道長の思うままだ。

 己を摂政へと任じたと思ったら、たった一日で退任し――翌日には太政大臣となった。

 

 後一条天皇の即位の直後に、己が三女を中宮に据えて、一家立三后などという、国の私物化の極地のようなことまで成し遂げた。

 

 最早、やりたい放題だった。

 しかし、そんな暴挙を振る舞う道長に対して、既に何の抵抗心も湧いてこなくなった自分が、なによりも情けなかった。

 

 道長の三女・威子が後一条天皇の中宮となった祝いの宴――藤原道長の完全勝利を祝う華々しい宴の中で、道長は実資を誰よりも近い場所に座らせる。

 

 それは最後まで道長に抵抗した男に対する辱めか、それとも、そんな男をも屈服させたのだと他の貴族達に分かり易く示す為か。

 どちらにせよ、他ならなぬ実資自身も、道長に対する反骨精神は完全に失っていた。

 

 この男は――最早、人間ではない。

 

 実資は、そんな諦念と共に、盛り上がる祝いの席を呆然と見つめながら、ただ静かに酒を啜っていた――が、そんな宴もたけなわといった時だった。

 

 赤き月光を浴びながら、この世で最も傲岸不遜な歌と共に――世界が終わりを迎えたのは。

 

 天に向かって差し出す道長の腕の動きに呼応するように、巨大な『手』が赤き月へと伸びる。

 

 そんな、この世の終わりの光景を見て、狂乱する貴族達の声を、何処か遠くに聞きながら――実資は思った。

 

 ああ――やはり。

 

 藤原道長は――世界を終わらせる、怪物であったと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 手が――月へと伸びていく。

 

 それは何度も夢想した光景。

 何度も、何度も手を伸ばして――夢見た、光景。

 

 その『手』は、まるで、夢を叶えるように――ぐんぐんと、止まることなく、伸びていく。

 

 遥かな月へ――かぐやの、城まで。

 

 ああ――やっと。

 そんな恍惚とした思いに沈み込もうとする道長の背中に、男の悲鳴が浴びせかけられる。

 

「これは――どういうことだ!? 道長!!」

 

 完全に抵抗の意思を圧し折った筈の男――藤原実資は、道長に続くように庭に下りて、月へと手を伸ばす男に向かって詰め寄っていく。

 

「あの『手』は何だ!? 続いて噴き上がった火柱は!? 民の悲鳴は!? 貴様は何か知っているのか!?」

「ふっ。勇ましいな、実資殿。流石だ」

 

 こうして、最後まで立ってみせるのは、貴殿だろうと思っていた――道長のその言葉に、再び怒声を放とうとした実資は気付く。

 

「―――」

 

 聞こえない。

 先程まで響いていた、この宴に集まった他の平安貴族の悲鳴が、気付けば一切聞こえない。

 

 実資は勢いよく振り返る。

 そこでは――。

 

「――――な!?」

 

 実資を除く、この宴に集まった、平安京のほぼ全ての貴族達――その全員が、意識を失い倒れ伏せっていた。

 

「こ、これは――!?」

「安心せよ。眠ってもらっているだけだ。夜が明けるまで、誰も目を覚ますことはないだろう」

 

 道長――ッ、と、実資が再び道長の方へと振り返った瞬間、ぐらん、と、脳が揺れるような感覚と共に、実資の身にも抗い難い睡魔が襲い掛かる。

 

「――これまで、よく戦った。褒めて遣わそう。実資」

 

 暴虐的に意識を刈り取ろうとする睡魔に、実資の足取りが乱れ、視界が攪拌される。

 

 駄目だ。止めなければ。やはり、自分は間違っていなかったのだ。

 

「だ――――ここで――――ま――――みち――――なが」

 

 実資は、朦朧としながらも道長に辿り着き、その襟元に縋りつく。

 だが、その力は弱弱しく――とん、と、道長が軽くその身体を押すだけで、ゆっくりと背中から倒れていった。

 

 実資が最後に見たモノは、赤き月を背に、真っ黒な顔を向ける――『人間』。

 

 やはり、自分は、何も間違ってなどいなかった。

 

 どんな魑魅魍魎よりも――この『人間』は、恐ろしい。

 

 そして――藤原実資は、眠りの世界へと真っ逆さまに落ちていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんな実資の背中を、間一髪で抱き留めることが出来たのは――藤原公任(ふじわらのきんとう)

 道長勢力で唯一、この宴に共に参加していた男だった。

 

「……どういうことだ、道長」

 

 その表情は険しい。

 背後を振り返り、倒れ伏せる貴族達を見る目も、再び振り返り、目の前で真っ黒な顔で実資を見下ろす――道長を、見る目も。

 

 思えば不自然だった。

 今宵の宴、名目上は公式な行事ではなく、あくまで威子が中宮となったことを道長に対し祝う席だが――それでも道長の自邸で行う以上、道長勢力の者は出来る限り同席する筈だ。

 

 しかし、道長が同席を許したのは公任のみ。

 紫式部は彰子の元に返し、妻・倫子に至っても同席を許さずに行成と共に別邸へと避難させている。

 

 避難――そう、紛れもなく、それは避難なのだろう。

 道長は知っていたのだ。今宵、戦争が勃発することを。平安京が――この平安宮の中でさえも、戦場になることを。

 

 知っていた――否。

 

 恐らくは、藤原道長という男こそが、今宵の戦争の発起人――勃発へと導いた、張本人なのだ。

 

「――道長。これは――どういうことだ!!」

 

 何も知らない――何も知らされていなかった公任は、先程の実資と同じく道長を大声で問い詰める。

 

 それに返したのは、道長ではなく――真っ暗な奥から現れた、真っ白な陰陽師だった。

 

「遂に、辿り着いたということです。手を伸ばし続けた月へ――我々の、最終目的地へと」

 

 声に振り返ると、そこにいたのは紛れもなく。

 平安京最強の陰陽師にして、藤原道長の野望の全てを把握していたであろう男――安倍晴明(あべのせいめい)だった。

 

「……晴明」

 

 晴明は姿を現すと同時に術符をばら撒き――無数の人形(ひとがた)の式神を召喚する。

 そして、式神達は倒れ伏せた貴族達を何処かへと運び去っていく。

 

「おい! 何処へ連れていくのだ!」

「ご安心を。彼等は帝がおわす、この平安宮の中でも最も強固な結界の中へと運び込みます。そこに私の全力の結界を張り、帝を含めた皆様を全力でお守りいたす所存です」

 

 つまり、平安京の要人達を一ヶ所に纏め、それを晴明という最強のセキュリティが守るというわけだ。

 

 恐らくはきっと、ずっと前から段取りとして決めていたのだろう。

 今日、この日、この夜に――戦争を起こすと、決めていたのだろう。

 

 公任は、もう一度、真っ直ぐに――道長を見る。

 道長はそんな公任の目を、真っ向から受け止めて、言う。

 

「かぐやを手に入れる。その夢を叶える――それが、今だ」

 

 道長の、余りにも短い、その言葉に。

 

 公任は――あぁ、と、全てを納得してしまった。

 

(――かぐやを手に入れる。……確かに、あの日、お前はそう、俺に言ったな)

 

 若き日、同期の出世頭だった公任が、いつしかその栄達に陰りが見え始めた時――目の前の男に、藤原道長という男に、二人きりで酒を呑み交わした、美しい月夜にてその野心を明かされ、己が右腕になれと、そう誘われた。

 

 かぐやを手に入れる。その夢を叶えるのだと――公任は、その時、自分は帝が出来なかったことを成し遂げると、そういった決意表明だと受け取った。

 

 他の貴族に聞かれたら不遜極まりないのだろう。実資辺りが聞いたら卒倒しそうだ。

 だが、そんな傲慢を――公任は面白いと思った。

 

 何より、その野望に懸ける道長の熱意は本物だった。

 決して綺麗ではない。正しくもない。禍々しく黒く燃える傲慢な野望。

 

 だが、その黒炎を――美しいと、公任は見惚れてしまった。

 

 故にこそ公任は、同い年のライバルの下に着くことを――右腕となり、縁の下で支えるという、本来ならば死んでもごめんだと思えるポジションに付くことをよしとした。

 隣で支え、道長が拓く道を、広がる景色を、この目で見てみたいと、そう思ったのだ。

 

 だから、一緒に――戦ってきた。

 

 そして――此処が。

 今日というこの日が、その終着点だという。

 

「…………」

 

 赤き月が浮かび、何本もの火柱が上がり、貴族達は倒れ伏せ、民衆の悲鳴が轟く――この、地獄が。

 

 この戦争が――自分達が戦い続けた、その果ての景色なのか。

 

「――――道長」

 

 話が違うと、そう激昂するつもりはない。

 聞いていないと、そう泣き叫ぶつもりもない。

 

 全ては、己が選んだ道だ。己が選んだ、男なのだ。

 

 それでも、何も言葉は出ずとも、道長に縋るような目を向けてしまう公任に。

 

 道長は、そんな男の横を通り過ぎ様に、その肩に手を乗せ「――大丈夫だ、公任」と、そう短く告げる。

 

「――俺は、この夢を叶える為に、この野望を果たす為に生きてきた」

 

 それは全てに優先される。

 この日、この時の為に――邪悪にも手を染めた。呪いも掛けた。民を見捨て、帝を蔑ろにし、己の娘達すらもその手段とした。

 

 赤き月に手を届かせるには、帝を超える必要があったからだ。

 

 もし、世界を滅ぼさなくては月へと辿り着けないというのなら、藤原道長という男は迷わず世界を滅ぼすだろう。

 

「――だが、私とて、平安京を忌み嫌い、好き好んで地獄に変えたいわけではない」

 

 確かに、この戦争の絵図を描いたのは道長だ。

 月を赤く染め、平安京を火の海にし、妖怪との戦争を勃発させた。

 

 だが――これも全ては、掌の上。

 

 全てを見透かす陰陽師――安倍晴明は、既に星を詠んでいる。

 

「これこそは、人間が時を進める唯一の道なのだ。この戦争で妖怪に勝利した暁には、日ノ本は新たな歴史を作ることとなる」

 

 故に、これは、その第一歩だ――そう呟き、道長が公任から一歩離れる。

 

 その時、ズシン、と、大きく地が揺れ、衝撃が走った。

 

「っ!! 今度は何だ――」

「道長様。想定よりも少し早いですが――来ています。『鬼』が。既に目前まで」

 

 この新土御門邸にも、当然ながら晴明は結界を張っている。

 ズシン、ズシンと響く衝撃は、その結界を『鬼』達が攻撃している衝撃だという。

 

「確かに想定外だな。奴等は帝がおわす御所に真っ直ぐ向かうと思っていたが」

「私が帝よりも道長様を優先すると察してのことでしょう。茨木の後釜である現在の酒吞童子の保護者は、それなりに頭が回る鬼のようです」

 

 なるほどな――と、動じることのない道長に、公任は問い掛ける。

 

「これからどうするつもりだ?」

「決まっている。我々の計画に変更はない」

 

 そう言って、道長は見上げる。

 

 天高く耀く赤き月に、真っ直ぐに伸びる巨大な『手』を。

 

「『月』へと向かう。あの『手』を辿って――私はかぐやの城まで行く」

 

 公任が絶句するのも構わず、道長は「――終わったか、晴明」と問うと、晴明は「はい。貴族の皆様方や使用人の方々は、既に転移完了いたしました。この屋敷に残っている『人間』は、我々のみでございます」と返答した。

 

 よし――と、道長は、再び真っ直ぐに、公任を見据えて。

 

「――来るか? 公任」

 

 端的な道長の問い。公任はゴクリと唾を呑み込む。

 

 きっと、これが最後の分水嶺だ。

 ここで道長の手を拒めば、自分は他の貴族達と同様に眠らされ、箱に詰められるように結界へと送られるだろう。目が覚める頃には恐らく朝で、きっと全てが終わっている。

 

 公任はそんな未来を創造し、ハッと、鼻で笑う。

 ()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 ああ、認めよう。この男が怪物なことはずっと分かっていた。その道の先が、きっと地獄であるということも――その上で。

 

(俺は、美しく――面白いものが見たいから、怪物になろうと決めたんじゃねぇか!!)

 

 公任は道長の手を力強く叩きながら応える。

 

「ふざけるな! 人をこんな道に引き摺り込んどいて、いまさら途中退場なんて有り得るものか!」

 

 付いて行くとも。

 例え、その先が地獄だろうと、月であろうとも――どこまでも。

 

 この黒い炎が耀くその道を歩み続けるのだと、自分はそう――呪いを刻み込まれているのだから。

 

「だが、具体的にどうするのだ? 既にこの屋敷は『鬼』に取り囲まれているのだろう? 供が俺だけじゃあ、お前を確実に『手』のとこまで運べるか……保証は出来んぞ」

 

 それとも、使()()()()――と、公任は己の胸に手を当てたが、それは今じゃないと道長は首を振る。

 

「ご安心を。こんなこともあろうかと、随身は用意してございます」

 

 その言葉と同時に、晴明は軽やかに指を鳴らす。

 

 すると、さきほどまで貴族が倒れ伏せっていた広間の一部の空間が、蜃気楼のように歪み始めた。まるでベールが剥がされるように、()()()()()()()()()()が明らかになる。

 

 現れたのは――四体の妖怪。

 黒耳黒尾の猫娘。

 青髪白装束の雪女。

 茶髪に首布の青年。

 

 そして、黒と桜の斑髪の――半人半妖の青年だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その半妖は問うた。『人間』の――目的は何だと、

 

 白狐の女は、口端を吊り上げ、微笑み、言った。

 

 

――未だかつて、この世の誰も辿り着いたことのない、果てなき大地。

 

――かぐや姫がお帰りになった……遠い、遠い――お月様ですよ。

 

 

 言葉の意味を――今、半妖の青年は、これ以上なく理解し。

 

 そして、己にも半分流れる、その血を――畏れるように、吐き捨てる。

 

 目の前の――『人間』に向かって。

 

「…………この――」

 

――化物(バケモノ)め。

 

 その『人間』は、『半妖』からの、その言葉に。

 

 ふっ――と。

 

 不敵に、笑った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 相対する、『人間』と『妖怪』。

 

 黒と桜の斑髪の半妖――妖怪任侠集団『百鬼夜行』の二代目候補・鴨桜(オウヨウ)は、その『人間』の微笑みを真正面から受け止めた。

 

「そうか――君が、ぬらりひょんの息子か」

 

 藤原道長の言葉に、鴨桜は思わず唇を噛む。

 

(……落ち着け。安倍晴明とクソ親父の仲が良いことは分かっていたことだ。なら、晴明の主であるこの『人間』と親父が知り合いだろうと、何もおかしなことはねぇ)

 

 そんな小さな動揺、そして小さな畏れを押し殺すように、鴨桜は道長に対し、意識的に見下ろすようにしながら言葉を返す。

 

「……ああ。左大臣様に知ってもらえて光栄だな」

 

 実際には今日、道長は左大臣から太政大臣になっているのだが、そこは道長も訂正せず「こちらこそ、会えて光栄だ」と淡々と返し、「――それで」と速やかに話を進めようとする。

 

「君達が、あの『手』まで、私を護衛してくれると、そういう理解でいいのかな?」

 

 道長は晴明の方には目を向けず、真っ直ぐに鴨桜だけを見据えて問う。

 

 まるで、自分で決めろと、そういうように。

 

「……今ならまだ間に合うぞ、鴨桜」

 

 鴨桜に囁きかけるのは、隣に立つ首布の青年・士弦(しげん)

 側近であり右腕である男は「『貴人』の口車に乗ってここまで来てしまったが、ここで奴と同行しなければ、俺達はまだ――この戦争の部外者でいられる」と言う。

 

 そう――部外者。

 無関係の傍観者。背景のエキストラ。役名すら与えられない、その他大勢に紛れることが出来る。

 そうだ、本来ならば、自分達は今宵の大舞台において、そんな立ち位置に過ぎなかった筈なのだ。

 

 何の因果か、戦争の行く末を左右すると言われる運命の流れの結集体である『箱』を手に入れてしまったことから、ずるずるとこんな所まで来てしまったが――今、ここで道長と深く関わらなければ、まだ引き返すことが出来る筈だ。

 

「……平太と詩希は、『貴人』が安全な場所で秘匿すると言っている。ならば、後は俺達が部外者を貫けば――俺達はまだ、この戦争から降りることが出来るんだ」

 

 士弦の言葉に、青髪白装束の雪女・雪菜(ゆきな)は不安げに、黒耳黒尾の猫娘・月夜(つきよ)は全てを委ねると信頼の目で、自分達『二代目組』の長を――鴨桜を見遣る。

 

 鴨桜は、そんな配下達に背中を見せるべく「――冗談じゃねぇ」と一歩を踏み出し。

 

「――部外者? 御免だ。俺はこの戦争を止める! その為にこうして――関係者になりに来たんだよ!」

 

 そう叫び、鴨桜は庭に下りて、真っ直ぐに――同じ目線で、道長を睨みつける。

 

「藤原道長! 俺はテメェが気に食わねぇ!!」

 

 鴨桜は懐からドスを取り出し、それを道長に向かって振るう。

 咄嗟に公任が道長を庇い掛けるが、道長はそれを目だけで制して止めた。

 

 ぴたっ、と、首筋寸前で止められた白刃に――瞬き一つしなかった道長を、睨み付けながら鴨桜は言った。

 

「――テメェはずっと、平安京(このまち)を見殺しにし続けた。その上、お月様だがかぐや様だが知らねぇが、テメェの野望を叶える為だけに、今度はこんな戦争をおっぱじめやがった!」

 

 ふざけるんじゃねぇ――チャキ、と、刃を立てて、この国の頂点に立つ人間に、地下暮らしの底辺半妖は言う。

 

 ()()()()()――と。

 

「テメェで始めた戦争だ。全部、テメェが何とかしろ」

 

 散々に好き勝手やって、自分の願いが叶ったらはいさよならなんて許さない。

 他の誰が許そうとも、この国で最も権力を持つ人間だろうと何の関係もない。

 

 怪物だろうと、化物だろうと――そんなことは、通さない。

 

 筋を――通せと、半妖の青年は言う。

 

「お前が滅茶苦茶にした平安京を、お前の手でどうにかしろ。ここは、お前の(みやこ)じゃねぇ。俺の――俺らの――此処に暮らす(モノ)達の為の(まち)だ!」

 

 鴨桜の叫びに、いつでも間に入ろうとしていた公任の身体が解けていく。

 

 道長は、首元に刃を添えられながらも――笑う。

 妖怪の血が混ざった半妖の、青い、若者の愚直な言葉を受けて、言う。

 

「それを約束すれば、君は憎き私の願いを叶えるべく、月まで連れて行ってくれるのか」

「約束なんて甘いもんじゃねぇ――()()。お前の命に代えても、この平安京を滅ぼさねぇと。それを果たさなければ、俺は例え――()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()――その言葉に。

 

 藤原道長は呆気に取られ、そして――爆笑する。

 

「はっはっはっはっは!!」

 

 これが笑わずにはいられるか。

 まさか、こんな場面で、初めて会う半妖の青年から。

 

 

 あの日――月に向かって誓った言葉を、まさか吐き返されることになろうとは。

 

 

「何がおかしいんだ、テメェ!!」

「いや、済まぬ――絶対に、反故に出来ぬ誓いだと思ってな」

 

 なんと卑怯な取引か。

 その誓いを、道長だけは破ることは許されない。

 

 何故なら、ずっと、その誓いを果たす為に――全てを捧げ、ここまで辿り着いたのだから。

 

「――誓おう。妖怪大将を継ぐ者よ。この藤原道長の名と、そして命を懸けて」

 

 その言葉と笑みに、鴨桜は「…………は。信用したわけじゃねぇが――ここは信じといてやるよ」と、白刃を引く。

 

 鴨桜が背後の配下達に「そういうことになった」とだけ言い、三者三葉の反応(リアクション)を頂いている中、道長は晴明の方を見た。

 

 晴明は言っていた。

 この若き妖怪達こそ、自分達が望む結末へと導く為の――最後の欠片なのだと。

 

 その時は、いかんせん何の前情報もなかった為、あの晴明の星詠みといえど半信半疑ではあったが。

 

(――なるほど。実に楽しみな才能だ)

 

 そう、道長が彼等に微笑みを向けていると――再び結界が大きく揺れ、そして遂に罅が入る。

 

「事前に()()()()細工を施していた定子様のように瞬殺ではなかったが、流石の晴明の結界も『鬼』の総攻撃を受け続ければ長くは持たないか」

 

 晴明――と道長が呼び掛けると、「――御意」と晴明は懐から巻物を取り出す。

 

 その巻物には――『青龍』と書かれた札が封として貼られていた。

 

 晴明が巻物を開く。

 開かれた巻物は黄金の光を放ち――そこから『龍』が現れた。

 

 平安京一の敷地を誇るといっても過言ではない新土御門邸。その広大なる庭を埋め尽くすかのような巨大な龍であった。

 その鱗は青白く輝き、見る者を遍く畏怖させる美しさを誇っている。

 

 鴨桜も、士弦も、月夜も、雪菜も、初めて見る公任も絶句し、反射的に膝を着きそうになる。

 妖怪も人間も関係ない。生物としての本能が、目の前の存在を己よりも上位――『高位』の存在であると反射的に認識してしまう。

 

「――間もなく、結界は『鬼』共によって破壊されるでしょう。その破壊と同時に、皆様はこの『青龍』の背に乗って、旧土御門邸跡地より伸びる『手』へと辿り着き、『赤き月』を目指してください」

 

 晴明の言葉に、誰もが呆然として耳を傾けられない。

 ただ一人、道長だけは「よし。では向かおう」と、一早く青龍の背に上るべく、その穢すのも畏れ多い鱗に足を掛ける。

 

 それがひどく罰当たりな光景に見えた公任は「……いや、いっそのこと、この龍に乗っていけるとこまで飛んで、そっから『手』に飛び移った方が早いんじゃねぇか」と軽口を叩くが、晴明が「それはなりません」と断じる。

 

「あの『手』は、『回廊』なのです。手の根本から『入る』ことで、『月』へと行くことが出来る。実際に触れることは出来ない、只の『術』なのです。入口はただ一つだけ。ショートカットは出来ません」

 

 しょーとかっとという言葉の意味は分からなかったが、公任も何も本気で言った戯言ではない。「分かったよ」と、覚悟を決めたように青龍の上に乗り込む。

 

「――しょうがない。ここまで来たら後戻りは出来ないだろう。……行くぞ」

 

 そう言って『二代目組』の足を進めたのは士弦だった。

 自ら先陣切って一歩を踏み出し、『青龍』に足を掛ける。咄嗟にまだ味方認定されていないかもしれない自分達が近づいたら反射的に迎撃されるのではないかという恐れもあったが、それは杞憂だった。士弦、月夜、雪菜の順で『青龍』への騎乗に成功する。

 

「…………」

 

 鴨桜は、真正面から、『青龍』の顔と対面していた。

 つぶらな瞳だ。蛇のようにも見えるが、鱗は細かく鋭く輝き、髭や角も生えている。

 

 美しい。何という美しい存在だろう。

 こんなにも美しく、尊い生物を、式神として使役している――『人間』。

 

「……………」

 

 鴨桜は、こちらに向かって微笑みかけている晴明を見据えていると「何をしている! 早く乗れ、鴨桜!」という士弦の声に従い、「………ああ」と、ゆっくりとその背に乗った。

 

 道長、公任、鴨桜、士弦、月夜、雪菜を乗せても青龍の背はまだ遥かに余裕があり、その身体を軽やかに浮かせ始めた所を見ても、なんら問題ないようだった。

 

「結界が破られたら、この屋敷は(から)になるので、私も転移します。その後の『妖怪』の討伐は頼光様達にお任せましょう」

「――ああ。後のことは頼む、晴明」

 

 龍の背の上で立ち上がり、地上にいる晴明に向かって言う道長。

 そんな道長に、晴明はゆっくりと跪いて、頭を下げた。

 

「――――割れるぞ」

 

 公任の言葉に、士弦、月夜、雪菜の目が結界へと移る。

 二日前の夜と同じように、ビシ、ビシッと、波紋が広がるように宙空に線が走り、それらが繋がり――そして。

 

 そして――晴明と、道長の最後のアイコンタクトを、鴨桜だけが目撃していた。

 

 パリンッ、と。

 氷が張った湖面が割れるように、結界が破壊される。

 

 それと同時に、青白く輝く龍が、一直線に空へと飛び立っていく。

 

 瞬く間に『鬼』の軍勢がなだれ込んでくるが、龍はそれを一顧だにしない。

 

 まるで突き上がるように離陸し、戦場を置き去りにして自由に空を駆けて行った。

 




用語解説コーナー㊲

・青龍

 安倍晴明十二神将が一角。
 羽衣と同じく十二神将発足時からずっと『青龍』の座に君臨している古株。

 その正体は正真正銘の『龍』であり、紛うことなき『高位存在』。

 大陸において伝説を残した龍であったらしいが、そんな存在がどうして安倍晴明の式神となったのか――それを知る者は、羽衣や晴明を含めてごく僅かしか存在しない。


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妖怪星人編――㊴ 王達の出陣

お前を殺す――それが僕の戦争だ。


 

 自分達が結界内へ突入したのと同時に、空へと向かって飛んでいく龍を、その鬼女は呆然と眺めていた。

 

(これみよがしに強力な結界をこの屋敷周辺に張っていたのは、私達を誘き寄せる為だと思っていたけれど……まさか、視覚的かつ妖力的な仕掛けまで施してあったなんてね……。結界を破るまで、あんな存在がこんな傍に居たことに、全く気付かなかった。……恐ろしいことをするわね。あの龍が――『龍』なんて『高位存在』が、もし、ああして飛び立っていくのではなく、私達を迎撃する為に待ち構えていたならば)

 

 少なくとも、一撃で、自分達が引き連れた軍勢の殆どが消滅するだろう。

 不意打ちならば、自分すら――四天王たる、この鬼女紅葉(きじょこうよう)すらも危うい。

 

 そんな存在が、こうして結界内へと突入を果たした『鬼』を一顧だにすることなく、何処かに向かって飛んでいくということは。

 

 迎撃用ではなく、脱出用として用意された『龍』。あれだけの式神を――と、すれば、あの背に乗っているのは。

 

「恐らくは、あの龍に乗っているのは藤原道長ね。『転移』を使わない理由は分からないけど……道長を逃がした足で、あの龍をそのまま平安京の中で暴れさせるのかしら?」

「……………どうでも、いい」

 

 一斉に屋敷内へと殺到した『鬼』の軍勢が、一瞬で道を開ける。

 そのぽっかりと出来上がった道を、小柄の少女鬼が真っ直ぐに、ゆっくりと歩き進んでいく――その先には、待ち構えているのは。

 

 既に背後の虚空に転移の結界を開けている、平安最強の陰陽師――妖怪の天敵。

 

 安倍晴明(あべのせいめい)が、十年ぶりに、妖怪王の器である『鬼の頭領』・酒吞童子(しゅてんどうじ)と対面を果たした。

 

「――お久しぶりですね、鬼の王よ」

「…………」

 

 晴明の言葉に、酒吞童子は何の言葉も発さず――ただ、圧倒的な殺意を返す。

 

 幼き王が無自覚に、無遠慮に振り撒く妖気に、周辺を固める『鬼』の軍勢達が、一体、また一体と耐え切れずに意識を失っていく。

 

 紅葉の「――酒吞!」と己を窘める声も聞かえていないのか、酒吞童子は「――――晴明」と、一歩、大きく踏み出して、低く、強く、真っ直ぐに睨み据えながら問い詰める。

 

「――――茨木は……どこ?」

 

 その言葉に、晴明は微笑みながら、ただ一言を返す。

 

「……今のあなたには……()()()茨木を返すわけにはいきませんね」

「――――」

 

 カッ――と、酒吞童子はいつも眠たげな瞳を開き。

 

 五爪を立てて、激情のままに――振るう。

 

「――ッ! いけない――逃げなさい!!」

 

 紅葉の言葉は勿論、晴明に向けられたものではない。

 晴明を取り囲むようにしていた『鬼』の仲間――晴明を挟む形で、酒吞童子が手を振るう先に立っていた鬼達だ――が。

 

 紅葉の叫び空しく、彼等の身体は跡形もなく消失した。

 新土御門邸の屋敷が、鬼の手の形で抉り飛ばされるのと、同じように。

 

 しかし――安倍晴明は、影も形も残さずに、鬼の一撃が届くよりも前に、黒い闇の結界の中に消えていた。

 

「………逃げられたわね」

 

 平安京の各地で『狐』が火種を作り、頼光四天王を引き付ける。

 その間に、『鬼』の精鋭が『中心地』に強襲を掛け、安倍晴明を電撃的に討伐する。

 

(……やっぱり、そう、うまくはいかないか)

 

 それでも、安倍晴明が平安京の外に出ることは有り得ない。

 晴明という対妖怪最強戦力を、この妖怪大戦争において全く使わないということは有り得ないだろう。

 

 問題は、あの規格外の存在を、『人間』は果たしてどのように運用するつもりなのか。

 

(普通ならば、最大戦力は、最大戦力にぶつけるのが定石。つまり、酒吞か、あの『狐の姫君』にってことになるけど……。酒吞からは逃げ出した。狐の姫君は、わざわざ向こうから安倍晴明の相手をしてくれって頼んできたんだから、あっちの方から相手をしない……筈。なら――)

 

 紅葉は辺りを見渡す。

 事前に(サトリ)から齎された情報によれば、今日というこの日、この悪趣味に広い屋敷では、藤原道長への祝いの宴が行われていて、平安京の貴族が勢ぞろいしていた筈だ――だが、今は、このだだっ広い屋敷の中には、人っ子一人見当たらない。

 

 あの龍で逃がしたのだろうか。 

 いや、いくらあの龍が巨大でも、全貴族を背に乗せることは出来ないだろう。

 

 つまり、それならば――。

 

「……紅葉」

 

 未だ殺意を剥き出しに放ち続けている酒吞童子が、ちらりと紅葉を振り返る。

 

 多くの同胞をその手で無作為に殺したことなど微塵も意に介していない。

 その小さな体躯には、ただただ溢れんばかりの、たった一人の『人間』に対する憎悪で満ちている。

 

「……晴明は……どこに……いった、の?」

 

 ビリビリと、四天王である紅葉ですら肌がピリつくような殺気を受けて、背後の鬼の同胞がバタリとまた一体、意識を失ってしまう。

 

(……殺気を収めて……なんて。私が言っても、聞く筈もないものね)

 

 やはり、自分ではこの子の右腕にはなれない。

 そう溜息を吐きたくなるのを堪えて、紅葉は「……たぶん、安倍晴明は、帝を守りにいったのだと思う」と答える。

 

 帝――すなわち、天皇。

 この国に住まう『人間』の名目上の頂点。この国で最も貴い血と言われている存在。

 

 道長の支配力の増大により有名無実となりつつあるけれど、それでも天皇という存在が重要であることには未だ変わりない。天皇という光があってこそ、道長の権力は輝くのだから。それに、現在の天皇は道長の血を引く孫にあたる。晴明にとっても、十分に守る理由になる筈だ。

 

「それ……どこに、いるの?」

「恐らく、この平安京の最奥――」

 

 つまり、あっち――と、紅葉が指さそうとした瞬間。

 

 再び衝撃が走る――『鬼』の悲鳴と共に、その(さむらい)達は現れた。

 

『……餓鬼のように無遠慮な殺気。……仲間すらも意に介さない妖気。……相変わらずだな。子供の王様』

 

 面の奥から暗く響く怨声。

 それに続くように、再び――走る衝撃。

 左右から挟み込むように、屋敷を囲っていた『鬼』の軍勢に無理矢理に穴を開けて、逆に彼等の逃げ場を失くすように現れたのは、二人の妖怪退治の専門家だった。

 

「――紙のように軽い軍勢だ。一昨日の自称幹部といい……随分と弱くなったな。大江山の鬼共よ」

 

 現れたのは『鬼』の面を被った小柄の鎧武者と、艶やかな黒長髪の武士(もののふ)

 

 その二人の平安武者の手には、それぞれ、かつて金棒鬼と恐れられた鬼と、かつて天狗鬼と恐れられた鬼の首が握られていた。

 

「……全く、話が違う所じゃないわね。一番厄介な二人が野放しになっているじゃない。どうなっているのよ、『狐』さん達」

 

 四天王になれなかったとはいえ、また、その四天王決定戦で大きなダメージを負っていたとはいえ、鬼の中でも指折りの実力者を、正しく片手間に殺して現れたのは、安倍晴明と並ぶ妖怪の天敵の名を恣にしている存在達だった。

 

 平安最強の神秘殺し・源頼光(みなもとのらいこう)と、頼光四天王最強の男・渡辺綱(わたなべのつな)

 当初の予定では『狐』勢力が引き付けている筈の、平安京の治安維持を務めている筈の防衛戦力。

 

(……平安京のあちこちで発生する戦火の消火活動は、末端の兵士や他の四天王に任せて、自分達は主力狩りに出ているってことかしら。……最高戦力には、最高戦力を。……私達と同じ作戦――もしくは)

 

 自分達『妖怪側』の戦術が、奴等『人間側』に漏れている可能性――そこまでを紅葉は瞬時に検討したが、既に無意味とその思考を破棄した。

 

 漏れていたにしろ、そうでないにしろ――こうして目の前に源頼光と渡辺綱が現れたという事実は消えない。

 ならば、自分達がやるべきことは――原因の検討ではなく、現状への対処だ。

 

「お久しぶりね、人間の怪物達。積もる話もあるけれど――残念ながら、お呼びじゃないの」

 

 そこを退いていただけるかしら――紅葉の言葉に、綱は――そんなわけにはいくまい、と、微笑みと共に返す。

 

「お呼びでないのは貴様等の方だろう。大江山に篭っておれば、後数年は長生き出来たものを。こうして改めて殺されに山を下りたのは、ここで死ぬ覚悟があってのことだろうよ」

 

 そう言って、綱は名刀・『髭切』――天邪鬼という四天王の一角が、結局は圧し折る所か、傷一つ付けられなかった妖刀・『鬼切』を抜く。

 

 正しく鬼を殺す為に存在するような刀――その切っ先を向けられ、紅葉は綱を睥睨する。

 

「……酒吞。どうする? 大人しく道を開けてはくれないみたいだけど」

「…………どうでも……いい。綱は……茨木のだから……殺さなければ、倒していい」

 

 簡単に言ってくれると紅葉は笑う。

 そんな紅葉の隣から、一切の躊躇もなく真っ直ぐに――鬼の頭領は、平安最強の神秘殺しに向かって歩いていく。

 

「…………頼光は……興味ない。……どうせ……………殺すのは…………()()()

「――――ッ!!」

 

 その鬼の言葉に、空間を圧する鬼の殺気と互するほどの殺気が――鎧武者から噴き出した。

 

 奇しくも、最強の鬼と、最強の武士は、まるで狙いしましたかのように、同時に同じ言葉を互いにぶつける。

 

「「――――(コロ)す」」

 

 こうして、妖怪大戦争、勃発直後にして――早くも二つの最強が、その牙と刃とぶつけ、殺し合い始めた。

 

 激突と共に、周囲を吹き飛ばす衝撃が――破壊力を伴って伝播する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その尋常ではない衝撃は、遥か上空を飛んでいた『青龍』の元まで伝わった。

 

「な、なに、今の!?」

「計画通りならば、酒吞童子と頼光が邂逅し、ぶつかった頃だ」

 

 月夜の驚愕に、道長が振り返りもせずに淡々と答える。

 その道長の言葉に、今度は全員が驚愕し――揃って、絶句した。

 

(最強の鬼の頭領と、最強の神秘殺しが……戦争開始直後の、こんな序盤で激突するだと――)

 

 士弦はその事実もさることながら、そんなとんでもない筋書きを、こうしてあっさりと実現させる――目の前の『人間』の、その手腕にこそ恐怖する。

 

(……『鬼』は……『狐』は……『武士』は……そして、『その他(おれたち)』は。どこまで……この『人間(おとこ)』の掌の上なんだ……ッ)

 

 慄く士弦の傍らで、青龍の上でどかんと胡坐を掻いている鴨桜は、この不安定な足場、そして未経験であろう龍の飛翔という条件下でも、堂々と二本足で立っている道長の背中に問う。

 

「そんな綺麗に戦争を動かせるならば、あの『手』の元への移動も護衛無しで出来なかったのか? この『青龍』がいればそれだけで十分だろう。あの『転移』でもよかった筈だ」

 

 効率のみを優先するならば、そもそもの話――『手』を新土御門邸の広大な庭園内にて顕現させればよかった。

 にも関わらず、鴨桜達のような飛び入り参加の妖怪を巻き込んでまで、こうして無駄な移動時間を消費しているのか、その意図を問う鴨桜に。

 

 そういうわけにもいかんのだ――と、道長は尚も振り返らず、眼下の戦火を睥睨しながら答えを返す。

 

「まず、転移を使わず『青龍』を使うのは、この行程が儀式上において必要な工程であるからだ。あの新たな屋敷にて『呪文』を放ち、旧き屋敷に『手』を出現させ、そこに『龍』に乗って向かう。この順序に、この形に――奇跡を成す為の大きな意味がある」

 

 何もかもが初耳の公任だが、なるほどと思う。合理性の塊のような道長が、わざわざ『手』出現させてからその場所に向かうなどという非合理的なことを、何の意味もなく行うわけがない。

 

(……だが、そう考えると、あの定子様や清少納言の一件で旧土御門邸を失うのも、あの場所に新土御門邸を立てたのも、全部――道長と晴明の計画の上だったってことか)

 

 この二人のやることには、全て何らかの意味がある。それが果たして、どれだけ遡ってのことなのか。どこからどこまでが『計画(プラン)』の内だったのか――公任は、まるで見当もつかなかった。

 

「そして『青龍』は、あくまでその儀式上の移動手段に過ぎない。晴明の『十二神将』はその殆どが自由意志を持った式神だが、こと『青龍』は『高位存在』であるが故に、晴明本人が与える命令のみを忠実に実行するという機構のみが残されている『龍』だ。そういった『縛り』を設けることで初めて式神とすることに成功した個体らしい。そして晴明も、『青龍』が己の手元から離して運用する際は、予め与えた一つの命令のみを実行させることしか出来ない」

 

 つまり、敵を殲滅せよと命じればどんな敵も排除させることは可能だが、『青龍』を送り出した後で、離れた場所からやっぱりアイツだけは殺すななどという上書き命令は、例え安倍晴明本人からの指令だろうが受理させることは出来ない。それを実行する為には、安倍晴明が『青龍』の元まで出向き、直接新たな命令を下すしかない。

 

「この『青龍』は今現在、『手』の元に私達を連れていけという命令を晴明に与えられている状態だ。その命令のみを『青龍』は着実に実行する。裏を返せば、その道中にどのような襲撃を喰らった所で、『青龍』はただ移動を継続するのみで、僅かながらも迎撃することが出来ないというわけだ」

 

 どんな命令にも従う代わりに、命令以外のことはどんなことも実行しない。

 あの安倍晴明ですら、そこまで融通の利かない『縛り』を設けることで、初めて式神とすることが出来る高位存在――『龍』。

 

 無論、それらもあくまで道長の語る言葉のみの情報であり、どこまで信用出来たものかは分かったものではないが、それが真実であっても納得せざるを得ない程の存在であるのが、『龍』だ。

 

(逆に、『龍』すらも、自由意志を持ったまま、何の縛りも制約もなく式神に出来るのではないかと思わせてしまうのが、安倍晴明という存在だが)

 

 士弦がそんな思考を巡らせている横で、鴨桜は「……ってことは、やっぱり、来るのか?」と呟きながら――立ち上がる。

 

「――ああ。新土御門邸と旧土御門邸はそれほど離れているわけではない。戦火の街道を牛車(ぎっしゃ)で向かうならばともかく、『青龍』に乗って飛んでいくならば、そう時間は掛からない。だが――」

 

 道長は、眼下に向けていた目を、ゆっくりと持ち上げ――平安の夜空を泳ぐ龍の目線の先、真っ暗な空を、真っ直ぐに見上げた。

 

「――どれだけの可能性(みらい)を探ろうとも、晴明の星詠みは、この空の路にて、この妖怪との遭遇は避けられないという答えを見透かした」

 

 だからこそ、君達の力が必要なのだ――そう言い放つ道長の目前に、瞬間、一体の天狗が現れた。

 

 空という絶対安全な航路を進む龍に、京の空は我々の縄張りだと、そう主張するように。

 

「――ここから先は通すわけにはいかん。神妙に致せ――若造共」

 

 瞬く間に戦闘態勢に入る。

 黒耳黒尾の黒猫は爪を立てて、青髪白装束の雪女は冷気を生み出し、首布の青年は弦を張り、貴族の壮年の優男は――この国で最も権力を持つ『人間』に引き留められた。

 

 その『人間』は、天狗に背を向け――真っ直ぐに、斑髪の半妖を見据える。

 

「彼は『狐』勢力の大幹部が一体。かつて京の都を支配していた天狗族が族長。名は鞍馬という大妖怪だ」

 

 君達は、彼に勝つことが出来るか? ――そう問う、『人間』に。

 

 半妖は不敵に笑いながら、懐から薄い桜色の白刃を抜いた。

 

「――俺達を誰だと思ってやがる。泣く子も黙る『百鬼夜行』を継ぐモノだ。京は全部、俺の庭よ。無論、空だって例外じゃねぇ」

 

 下がってな、と、乱雑に道長を押し退けて、その天狗の赤く長い鼻っ柱に――ドスの切っ先を向ける。

 

「道を開けやがれ、老いぼれ。ここはもう――俺達の(まち)だ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 旧土御門邸――黒炎上跡。

 

 平安京に突如として出現し、妖怪大戦争勃発の号砲となった――赤き月へと伸びる巨大な『手』の根元。

 

 そこに、一体の隻腕の鬼がいた。

 彼の役目は、とある『人間』がここを訪れるまで、誰も傍に寄らせないこと。

 

 この『手』を使うことの出来る資格を持つ人間は、この平安京でただ一人なので、他の人間や妖怪が近付いても大きな影響は生じない。

 だが、ここは今宵の儀式上、最大級に重要な場所だ。何らかのイレギュラーが起きた時に対処できるように派遣された戦力が彼だった――というのは、表向きの話。

 

 もう一方で、彼はこの戦争における、『箱』や『道長』に並ぶ大きな火種の一つであり、一つの勢力の『目的』でもある。

 故に、こうして戦火の中心になると思われる新土御門邸や朱雀門から離れた場所に、ある意味で隠れ潜んでいるわけであるが――。

 

 そんな彼の元に、一体の小柄な『鬼』が訪れていた。

 

「……お前も、俺の後輩か? 晴明から聞いた話だと、戦争前に急遽補充された四天王らしいが……こんな所で単独行動をしていていいのか? 部隊を率いる立場であろうに」

「ああ、大丈夫ですよ。僕の部隊は――既に全員、皆殺しにしてきましたから。単独行動は問題ありません」

 

 その言葉通り、夜闇から現れたその鬼は――全身に返り血を浴びていた。まるで水を被ったように、頭から爪先まで血を被っていた。青鬼である彼が、茨木童子と同じく赤鬼に見える程に。

 

「…………そうか。それは、自由で何よりだ」

 

 なかなかイカれた奴が入って来たな、と茨木は思う。

 鬼なんて妖怪はどいつもこいつも碌な出生ではない為、そもそもがまともな精神性を求める方が間違っているのだろうが。

 その出自故に、暴力的な奴も、精神的に螺子の一本や二本外れたぶっ飛んだ奴も多い――が。

 

(――少なくとも、大江山に入った時点で、伸びきった鼻の一本や二本は圧し折られて大人しくなる奴が大半だが)

 

 この鬼は、そうではなかったらしい。

 圧し折られなかったほどに強かったのか、それとも、圧し折られ、歪みながらも――強く、なっていったのか。

 

 茨木童子は、そんな風に目の前の血塗れの青鬼を観察していると――途端、その全身に浴びた血を吹き飛ばすかのように、高速で移動し、茨木の懐に入り込んだ青鬼が、拳を巨躯なる隻腕鬼のどてっ腹に向かって振り抜いてきた。

 

 それを茨木は――己に残された左腕で掴み、受け止める。

 

「……先輩に対し、随分とご挨拶な後輩だ」

「自由! 自由! 自由! ええ、僕は自由ですよ、先輩! 不自由! 不自由! 不自由! 陰陽師の式神なんかに成り下がり、不自由に縛られているアナタなぞよりは!!」

 

 至近距離で青鬼は、隻腕の赤鬼を見上げ――笑う、笑う、笑う。

 

 血塗れのように真っ赤に――笑う。

 

「先輩!! 先輩!! 先輩!! ええ、僕はアナタの後輩ですよ! 後輩! 後輩! 後輩です!! この意味が分かりますか、先輩! 僕は四天王になった――アナタの代わりに!! ええ、代わりです! 穴埋めです!! 代替品です!! つまり――つまり――つまり!! 僕が居る限り、アナタはもう――必要ないんですよ!!」

 

 青鬼は掴まれていた拳を剥がし、逆に茨木の一本しかない腕を掴む――そして、そのまま己の身体を持ち上げ、渾身の膝蹴りを茨木の顔面に叩きこむ――が。

 

 その膝蹴りを、茨木童子は、己の額から生える角で受け止めた。

 青鬼は固執せず、距離を取り――尚も茨木に向かって凄絶に笑う。

 

 茨木童子は、そんな青鬼に向かって「……酒吞は、俺を殺すことを許可しているのか?」と問い掛ける。

 

 その言葉に対し、青鬼は心底侮蔑するように、吐き捨てるように笑った。

 

「――ハッ! 自分で捨てた癖に、いなくなった癖に、未だに自分の穴は誰にも埋められないと――酒吞童子には茨木童子が必要だと、そんな風に思ってるんですかぁぁあああああ!?」

「………………」

 

 ははははははははははははは――と、腹を抱えて笑った青鬼は、ピタリと、その笑いを止めて。

 

 無表情で、大江山を裏切った鬼に向かって。

 

 己がいないと何も出来なかった――小さな(こども)を見捨てた、『鬼』に向かって、言った。

 

「――思い上がるな。そんな資格は、既に貴様にはない」

「――――」

 

 何も答えることもせず、ただ目を逸らさない茨木童子に、青鬼はその目を突き刺すように――真っ直ぐに人差し指を突き付けて、宣言する。

 

「――僕は、オマエを殺す。例え、そのことで酒吞童子様が御怒りになろうと、僕はなってみせる。あの方にとっての『右腕』に。新たなる『茨木童子』に」

 

 茨木童子の呪縛から、酒吞童子(あの御方)を解き放つ――そう宣言して、血塗れの青鬼は。

 

 深く腰を落とし、構え――伝説の鬼に向かって宣戦布告する。

 

「――僕の名は、(アオイ)。あの御方の血を与えられ、人間から鬼となった者。酒吞童子様のただ一人の眷属であり――家族だ」

 

 青鬼は涙を流しながら、その涙が血と混ざり、赤く頬を伝いながら――殺意を以て、宣言する。

 

「僕は貴様を許さない。お前を殺す――それが僕の戦争だ」

 

 茨木童子は、何も言わなかった。

 

 古巣からやってきた刺客に、全てを呑み込むように――大きく息を吐く。

 

 向けられる敵意に。向けられる憎悪に。向けられる失望に。向けられる軽蔑に。

 

 隻腕の鬼は、残された一本の腕を広げて。

 

 いっそ微笑みすら浮かべながら、堂々と、その胸を貸すように。

 

「――――来い。俺は、その全てを受け止めてやる」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、神秘的な光景だった――神を秘しているが如き光景だった。

 

 吹雪のようにはなびらが舞う中で、その枝垂《しだ》れ桜は満開に咲き誇っている。

 

 怪異京――平安京の裏側。

 

 常夜の世界。

 いつも空に浮かぶ満月は、だがしかし――今宵は、血のように赤く染まっていた。

 

「――この神秘郷は、表の京と表裏一体の都。それは、あの月で繋がっている」

 

 桜の木に話し掛けるように、その『狐』は言った。

 表の世界の月が赤く染まるのに呼応するように――怪異京の満月も真っ赤に染まる。

 

 それは、本来、世界から隔絶している筈の神秘郷が――この怪異京に限っては、表の世界と繋がっていることを意味している。

 決められた入口――世界の『穴』だけで行き来できる筈のそれが、月という、大きな共通項を得てしまっている。

 

「故に、この神秘郷の存在強度はとても強いけれど、それはある意味で、とても危険。だって、表の世界の京が滅べば――この神秘郷も滅ぶということだものね」

 

 くすりと、『狐』は笑う。

 妖しく、恐ろしく、おどろおどろしく。

 

 そんな『狐』に――桜の中から、声が届いた。

 

「――聞いていたのと、随分と口調が違うじゃねぇか。晴明曰く、()()()()()()、だったか。それは、もういいのかい? 狐の御姫さんよ」

 

 男の声に、『狐』の女の笑みが消える。

 

 一際強い風が吹く。

 その桜の花の中から現れたのは、清流のように艶やかな黒長髪の男だった。

 

 まるで波に呑まれるように、黒髪に溺れるかのように、男の顔は髪に隠れて見えなかった。

 枝の上で足を乱雑に組み、酒の入った盃を片手に――黒い髪の中から女を見下ろしている。

 

 妖しく、怪しいが――桜に紛れる黒い男は、けれど、とても美しかった。

 

 そんな男に――『狐の姫君』・化生の前は言う。

 

「……おじゃましますぅ、妖怪大将はん。『(おにもつ)』、受け取りにきましたえ」

 

 そんな女に――『妖怪大将』・ぬらりひょんは言った。

 

「知らねぇ。帰りな。――怪異京(ここ)は、儂の――『百鬼夜行(おれたち)』の縄張り(シマ)だ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 こうして、満を持して開戦した妖怪大戦争は、早々に妖怪の王の器達も出陣する異常事態となり――平安京は混沌と化す。

 

 人間が、妖怪が。

 騙し、戦い、殺し合う。

 

 幾つもの戦場が生まれ、幾つもの戦闘が始まり。

 

 戦争は、更に、うねり――加速していく。

 




用語解説コーナー㊴

・王の器

 妖怪は人間と比べて遥かに強い戦闘力を誇るが、その特異な性質上、各種族毎に独自の生態を持っている為、妖怪星人全体としての統率に欠けている。

 その為、妖怪よりも遥かに脆弱な人間を支配しきれずにいるが――ごくまれに、各種族の妖怪を全体で纏め上げる『器』を持つ、『王』の素質を持つ個体が現れる。

 妖怪王の誕生――それは、『星の意思』すら恐れる事態であり、それを阻止する為に、特別な『戦士』を送り込む程である。

 そして、とある陰陽師の星詠みは――見透かしている。

 今宵の妖怪大戦争において、星すら恐れるその未来が――妖怪王の誕生、その恐ろしき未来が実現する可能性を。



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妖怪星人編――㊵ 白狐の子守り

不味いですね……。


 

 正に、地獄絵図だった。

 

 轟音と共に雷が落ち、木造建造物が容易く炎上する。

 火柱が噴き上がり、阿鼻叫喚の悲鳴が木霊する。

 

 そんな平安京の中を、僕達は必死に舌を噛んで、零れそうになる叫びや弱音や絶望を堪えながら、ただ只管に駆け回る。

 

 うじゃうじゃと、まるで虫のように無限に湧き続ける――妖怪を殺し回りながら。

 

「ぎゃぁぁぁああああああ!!」

「隊長! キリがないです!」

「泣き言を言う暇があったら手を動かせ! 一体でも多くの妖怪を狩り、一人でも多くの民を救え! 忘れるな! ここは戦場でも、地獄でもない――僕達の日常……守るべき故郷なんだぞ!!」

 

 僕の言葉で、弱気に陥っていた隊の皆の士気が、僅かながらも復活するのを感じる。

 そして、何よりも自分が、己の言葉に再び槍を持つ力を取り戻していた。

 

 忘れるな――そうだ、逃げるな。真っ直ぐに向き合え。

 

 この地獄絵図は、何処か遠い彼方の光景じゃない。

 日々の仕事で向かう結界外の郊外でも、あの十年前の大江山でも、そして先日の魔の森でもない。

 

 平安京だ。

 僕が――そして、家族が、暮らしている、故郷(まち)だ。

 

 逃げられない。逃げるわけにはいかない。

 

 僕は――このような日の為に。

 

 家族を守る為に、こうして武器を取ったんだろう。

 

「――ちょう! 隊長!」

「ッ!? どうした、陰陽師くん!」

 

 先日の魔の森の戦いで隊員達を救い出したことで一気に隊の戦士達の――無論、僕もだ――信頼を獲得し、今やこの隊の副隊長のような立場となっている陰陽師くん。

 

 彼が指さした、その先には――。

 

「あそこ! 子供達が妖怪に襲われてます!」

 

 小さな男の子と女の子、そして若い女性が妖怪に襲われている場面だった。

 

「――! ――? 分かった! すぐに行く」

 

 僕はその光景に妙な違和感を覚えながらも――すぐに彼らの救助に向かう。

 

 一刻も早く、この戦争を終結させる。

 それこそが平安京を――家族を救う、最短の道。僕が出来るただ一つのこと。

 

 僕達の戦争なのだと、そう心に言い聞かせて。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「不味いですね……」

「どうするんですかっ! だから言ったんですよ、表世界の京の中を突っ切るなんて無謀だって! 『外』がこうなってることくらい予想出来たことでしょう!」

「仕方ないでしょう。まさか戦争が勃発して早々いきなりの初手で『狐の姫君』が怪異京に乗り込んでくるなんて予想出来なかったのですから」

 

 女性の右足を盾にするようにしながら慌てるボロ衣の少年に、顔を隠すように布で頭部を覆う女性は、自分達に近づいてくる妖怪を見ながらも淡々と言う。

 

「ちょ、ちょっと! あなた強いんでしょう!? こんな奴等、ぱーんとやっつけちゃって!」

「……いえ、無論ぱーんとやっつけることは可能ですが……まだこんな戦争の序盤で、『狐』の妖怪に『貴人(わたし)』の居場所と行動を把握されたくないといいますか。『計画(ぷらん)』が狂ってしまうといいますかなんといいますか……」

 

 女性の左足を盾にするように怯える和装人形のような童女に、顔と比べて殆ど生足を剥き出しにしている女性は、さてどうしたものかと無表情で考える。

 

 どうして、こんなことになったのだろう――と。

 

(……『狐の姫君』を少し嘗め過ぎていましたか。……彼女は私が思っていた以上に、『箱』の――()()()()()()()()()()()()()()()()。……もしかしたら――いえ、今はそんなことよりも)

 

 狐の姫君――化生(けしょう)(まえ)

 彼女に対する考察も勿論重要だが、喫緊の重大事はこの場をどう切り抜けるかだ。

 

 本来であるならば――『箱』の少年と『鍵』の童女を、怪異京の外へ連れ出して『表』の京へ引っ張り出すつもりなどなかった。

 

 その為に、『貴人』である彼女は、少年と童女と行動を共にすることを、半妖の青年相手に交渉したのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「平太と詩希を――預けろ、だと?」

「ええ。これが最善であると、私は提言します。未来の二代目様」

 

 妖怪大戦争勃発を間近に控えた怪異京――『百鬼夜行』の本拠地たる『妖怪屋敷』にて。

 

 粗方の講義(れくちゃー)を終えた後、『貴人』は『半妖』にそう提言し――場の空気は、凍り付いた。

 

「何もおかしなことは言っていないでしょう? あなた方は左大臣様――いえ、今はもう太政大臣になっていますか――の随身として護衛に付く。そうなると、戦闘力のない平太少年と詩希童女とは別行動となる。ならば、そこに護衛役は必要でしょう? なにしろ、彼らは、正しく戦争の鍵を握る少年童女なのですから」

「…………なるほど。随分とまぁ、ご親切に色々と御教授下さると思ったら――これが狙いか。――狐め」

 

 鴨桜が吐き捨てた言葉に、羽衣は小さく不快げに眉を顰める。

 それに平太のみが気付いたが、鴨桜は気付かずに「――だが、その提言は却下だ、『貴人』様よぉ」と睨み付ける。

 

「コイツ等は、俺が引き取ると決めた――俺のモンだ。んで――俺は、俺のモンを無防備に預けられるほど――テメェのことを、信用していない」

「あなたに信用されようとは思いませんが――それでは、どうすると? この場に同席しているお仲間方は、当然、()()()()戦争に連れていくのでしょう? ならば、他の組の――大人妖怪達に、この子達を任せるのですか? ()()()()()()()()()()()を、あなたは自分のもんを無防備に預けられるほど、信頼していると?」

 

 羽衣の言葉に、鴨桜は少し口を噤む。

 そして「……戦争には、俺と士弦だけでいく。この二人の護衛は、月夜と雪菜に――」と言い掛けたところで、黒猫の待ったが入った。

 

「却下よ、鴨桜。戦争には私と雪菜も行くわ」

「――ッ! 月夜――」

「悪いけど、これは譲れない。あなたが戦争に行くのは止めないけれど、当然、そこが地獄になることを覚悟していくのよね? 陰陽師だとか武士だとか、鬼だとか狐だとかでぐちゃぐちゃの混沌の中に飛び込む『頭』を――黙って見送れるわけがないでしょう」

 

 鴨桜の「だが――」と言い返す言葉も、月夜は首を振って拒絶し、言い切ることすらさせない。

 

「これはごく単純な、優先順位の問題。平太と詩希をあなたの下にいれることも、もちろん私は何も言わないし、あなたがそういうのならば私も全力を持って守るけれど――あなたかこの子らを選ばなくてはならない状況ならば、私達は迷わずにあなたを守るわ。そして、その状況が、正しく今なの」

 

 鴨桜は月夜を、そして堪らずに横の雪菜を見るが、月夜は頑として、雪菜も鴨桜に、そして平太や詩希に申し訳なさそうにしつつも、やはり強く鴨桜の目を真っ直ぐに見返した。

 

 羽衣は「決まったようですね」と鴨桜を見据える。

 鴨桜は右手で頭を抱えながらも、それでも決定的な言葉は口にしようとしない。

 

 そんな鴨桜に対し、平太本人が口を開こうとするが――それよりも早く、部屋の襖がスッと開いた。

 

「なら――俺が子守りをしようじゃねぇか」

 

 現れたのは、この屋敷の主であり、鴨桜の父であり――彼ら『百鬼夜行』の、家族の杯を交わした全員の父ともいえる男。

 

 不遜にも妖怪大将を名乗り、百年前に人間全盛だった平安京へと乗り込み、この怪異京を見つけ出し、あろうとこか己が住処とした妖怪。

 

 最強の人間である安倍晴明と秘密裏に通じ、我が友と呼ばれる程に親交を深めた――この世で、ただ一体の怪異。

 

「あら、帰っていたのですか、ぬらりひょん。お邪魔しています――あなたの『世界(いえ)』に」

 

 そう言って気軽に応じたのは羽衣。そんな『貴人』に、黒い清流のような髪に埋もれる男は「おう、『貴人』の嬢ちゃん。いらっしゃい。ゆっくりしてけや」と笑顔で持って応じる。

 

 妖怪大将・ぬらりひょんの登場に、むしろ慌てふためたのは、家族である『百鬼夜行』の面々だった。

 

「お、お頭! どうしてここへ――」

「はッ。おいおい、士弦。どうしたも何も、さっきこの嬢ちゃんが言ってたろ。ここは俺の『世界(いえ)』だぜ。我が家に俺が居て何がおかしいんだよ」

 

 そう言って己の手にぶら下げたひょうたんの中身を煽る男に――父に、息子は。

 

 目の前の男の血を己の中に半分流す男は、父に向かって半ば睨み付けながら問うた。

 

「――朝帰りの分際で偉そうにすんじゃねぇよ、クソ親父」

「おう、反抗期真っ盛りのクソ息子。んで? テメェは今から夜遊びの相談かい?」

 

 反抗期らしく剥き出しの嫌悪をそのままぶつけるように睨み付ける息子に。

 放蕩親父は「ははは。睨むな怒るな――別に、俺は止めやしねぇよ」と酒を呷りながら言う。

 

「夜遊び――実に結構じゃねぇか。実にいい――()()()()()()、な」

 

 尚も強く――何よりも憎むように睨み付ける息子に、父は――目を細めて「……テメェが本気でそれを選ぶっつうんなら、むしろ俺は積極的に、今夜の夜遊びを応援するぜ、息子よ」と言う。

 

「ほ、本当ですか、お頭!」

「『狐』と『鬼』が総力を結集してくる戦争だ。そこで幹部の一人でも倒せば、うちのお堅い頭の奴等も納得させるだけの実績になるだろうよ――」

 

 そう言って父は――妖怪大将・ぬらりひょんは、息子の前に立ち塞がり、座る『半妖』を――見下ろしながら、言う。

 

「――俺の後を継ぐ――『百鬼夜行』の二代目となる上での、デケェ実績にな」

 

 何も言わず、ただ強い意志の篭った眼で、聳え立つ父を睨み――見上げる、息子に。

 

 父親たる妖怪は、口端を吊り上げ――笑いながら、言った。

 

「だから――子守りは俺に任せろ、鴨桜。テメェは、命を懸けて――『外』の世界を見てきな」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(まぁ、そんな風にカッコつけた結果――ぬらりひょん(あのおとこ)はここにおらず、子守りは私が押し付けられているわけですが)

 

 羽衣はそう回想を打ち切るが、これは何もぬらりひょんだけが責められる問題でもない。

 前述の通り、羽衣も予測することなど出来なかったのだから――まさか、戦争勃発直後に、脇目もふらず、『狐の姫君』が単独で怪異京に乗り込んでくるなんて。

 

(むしろ、そちらの対処を押し付けたことに罪悪感を覚えますが……)

 

 結果として、ぬらりひょんが化生の前の相手をしている間に、羽衣は子供達を連れて怪異京を脱出することに成功した。

 

 化生の前がいる怪異京内を移動するより、次の目的地まで表の京を移動した方がいいだろうという羽衣の判断だったのだが――結果、こんなことになってしまったとなると、平太の言う通りに少し無謀であっただろうか。

 

(……しかし、化生の前(あの狐)羽衣(わたし)は、()()()()()()()()()()()。怪異京に住まう一般妖怪は、前もってぬらりひょんが避難させてしまった為に、あの場所には余りに妖気の数が少なかった。直接顔を合わせなくとも、あの世界にいては私の存在を気取られてしまう。だからこそ、こうして『狐』の雑兵共で溢れ返っている表の京の方が、私の気配(妖気)は紛れられると踏んだのだけれど――)

 

 どちらにせよ、こうして『外』に出てしまった以上、後はどうにかして次の『目的地』まで辿り着かなくてはいけない。

 出来れば、『化生の前』に己の存在を感知されることなく――更に出来れば、彼女の配下である『狐』の妖怪の誰にも見つからずに。そう思っていたのだけれど――。

 

(――でも、それは何だか、出来そうにないなぁ)

 

 子供達は、目の前の妖怪が近付いてくるにつれて、段々と強く羽衣の足を揺らしながら喚き続けている。

 考えに耽っていたせいで、気付けば目の前の『狐』の配下であろう妖怪が、顔を真っ赤にして怒りながら(元々そういう体色なのかもしれないが)、無視するなと言わんばかりに武器を振り降ろそうとしている。

 

 やはり、ぱーんとやっつけるしかないか。でも目立っちゃうなーと、溜息を吐きながら羽衣がその妖怪を排除しようとして――。

 

――妖怪が、背中から血を噴き出しながら倒れ伏せた。

 

「あら?」

 

 羽衣はサッと術を纏わせたその手を背に仕舞って、妖怪の鮮血の後ろから現れた――その男の顔を見遣る。

 

「――大丈夫ですか!」

 

 戦争真っ盛りの平安京において、どこにでもいる平安武者の一戦士である青年。

 

 しかし、羽衣はその顔を――この武者の顔を、見たことがあった。

 

 他でもない――己が主の住処である『晴明屋敷』にて。

 

「――ええ、大丈夫です。助けてくれてありがとう」

 

 白い狐の女は、その獣の――化物の耳と尾を隠しながら、微笑んだ。

 

 この男は――使える、と。

 




用語解説コーナー㊵

・怪異京と平安京

 平安京と怪異京は、『表』と『裏』の関係性であり、本来の現世と神秘郷のそれよりもずっと強く結びついている。

 その分かり易い証左が『月』であり、怪異京の月はずっと満月だが、今宵は表の平安京のそれに紐づくように赤い満月となっている。

 その為、通常の神秘郷とは異なり、複数の出入口が用意されており、また侵入条件も実はかなり緩い。表の京に住まう民達も、実はそれなりの頻度で怪異京に迷い込んだりしている。

 今回のケースでは、化生の前が奇襲のように怪異京に侵入してきたのと入れ替わるように、別の出口から羽衣が平太と詩希を連れて怪異京を脱出していた。

 また、怪異京は平安京よりも実際の面積はかなり狭く、またぬらりひょんが今宵の妖怪大戦争に備えて住民たる一般妖怪を怪異京から、そして平安京からも脱出させていた為、化生の前が侵入してきた時には、妖怪が暮らす街としては皮肉にも、文字通りのゴーストタウンとなっていた。

 その為、あと少しでも脱出が遅れていたら、化生の前が羽衣の妖気に気付いていた危険性は高かった。羽衣としては、それは何としても避けなければならなかった。

 羽衣と化生の前は、『計画』の関係上、決して出遭ってはならないのだから。

 今は――まだ。


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妖怪星人編――㊶ 同じ境遇

……何を、考えてるんだよ。


 

 坂田金時は、この戦争が勃発する直前、己が主である源頼光から告げられた言葉を思い返していた。

 

「妖怪大戦争は――今夜だ。『狐』と『鬼』は、今宵、平安京へと一斉に攻め込んでくる」

 

 その凶報がどのような情報源から齎されたものなのか、それを改めて問い返すことは、他の四天王――渡辺綱も、碓井貞光も、卜部季武もすることはなかった。

 

 恐らくは、それが全てを見透かす陰陽師・安倍晴明であると理解していたからだ。

 

 しかし、金時を含め、綱以外の三名の顔は僅かに歪む。

 

 先日の魔の森での決戦で遭遇した妖怪・烏天狗。

 かの妖怪が使用していた結界術――それは、平安京でも一握りの陰陽師しか使えない高度なものだった。

 

 陰陽師の中に、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その最有力の容疑者は、言わずもがな、かの陰陽頭(おんみょうのかしら)であることは明らかだからだ。

 

 我らが棟梁は、京に戻るや否や、安倍晴明の元にその事実を追及しに向かった筈だ――だが、その答えは、未だ自分たち家臣団には齎されていない。

 

 それはつまり――そういうことなのだろう。

 だからといって、自分達には何も出来ない。

 

 この戦争間近の時機に、まさか、かの陰陽師を敵に回すわけにもいかない――それに。

 

(……晴明の旦那が真っ白なだけの男じゃないってことは、分かってたことだしな)

 

 既に金時も晴明とは十年以上の付き合いだ。

 かといって、あの全てを見透かす癖に、何も見透かせようとはしない男のことを、僅かながらも理解しているとは到底言えない。

 

 理解出来ない――ということしか、理解出来ない。

 一つ言えることは、あの男は生粋の善ではないが、純粋な悪でもないということ――だからこそ。

 

(……信じるしかねぇ。あの人の企みが、目指す先が――間違いじゃ、ねぇってことを……)

 

 信じるしかない――あるいは、信じたいだけなのかもしれないけれど。

 

 だからこそ、金時も頼光に、晴明のことは何も尋ねなかった。

 それは貞光も季武も、自分達が魔の森に行っている間に当の晴明と共に『前哨戦』を乗り越えたという綱も同様だった。

 

 故に、頼光は多くは語らず、ただ――今宵の戦争における、頼光四天王の配置と役割を伝えるのみだった。

 

 碓井貞光と卜部季武は、平安武者団全体の統括。

 渡辺綱は源頼光と共に、本丸に乗り込んでくるであろう『鬼』の主力部隊の撃破。

 

 そして――坂田金時は。

 

「――金時。お前は、『門』を守護(まも)れ」

 

 平安京を貫く主要道路にして大動脈――平安宮の正『朱雀門』。

 この門をぶち抜こうと正面突破を図る妖怪の主力の迎撃が、金時に与えられた妖怪大戦争における任務だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 金時は、目の前に迫る妖怪軍に対し、鉞を大きく振りかぶって――落雷の雨を降らす。

 

「――くらいやがれっ!!!」

 

 平安京を囲う結界は破られた――これは長年積み重なった負荷(ダメージ)が閾値を超えた結果によるものであり、遠からず内に破られるだろうと前もって予想されていた事態ではあった。

 

 だが、結界にはもう一つ、常時展開されているものが存在している。

 それがこの朱雀門を起点として張り巡らされた、平安宮をぐるりと囲う結界だ。

 

 これも平安京を囲んでいたものと同じく、決して侵入不可能な強固な壁のようなそれではないが、妖怪がそれに触れ、潜るだけで侵入者に多大な負荷(ストレス)を与える効果がある。強い妖怪ならばともかく、『狐』の数だけが強みの下級妖怪はその身に大きな行動制限を受けるだろう。

 

 だからこそ、今、戦争が勃発したこの最中でも、平安宮内部では金時の目の前に広がるような地獄絵図は生まれていない。火柱も上がっておらず、妖怪の波に呑まれる事態にまでは至っていない。

 

 しかし、それは裏を返せば――金時が此処で敗れるようなことがあれば。

 

(平安宮を囲う結界は、平安京を囲う結界のように長年積み重なった負荷を受けているわけでもない。そんな結界を無力化するには、この『朱雀門を妖怪が真正面から潜って通り抜ける』ことで、結界の術式的条件を無効化するか、結界の起点であるこの『朱雀門を物理的に破壊する』しかない)

 

 妖怪を拒絶するという意味の結界である以上、この門を正面から妖怪が抜ける――すなわち、正式な客人として妖怪を認めるようなことが事態が発生すれば、結界の術式的意味が否定され、結界は効力を失う。それは結界の起点である『門』を物理的に破壊されても同様だ。

 

 だが、あくまで術式効果の主軸を『結界内の妖怪の否定』に重きを置いている以上、現在晴明が『内裏』にて天皇や貴族ら要人を守護すべく囲っている結界と違い、物理的に侵入者を拒絶する――すなわち弾くようには出来ていない。

 

 通ろうと思えば潜ることが出来る結界なのだ。

 晴明の結界というだけで恐怖を覚える下級妖怪ならばいざ知らず――幹部クラスの大物妖怪であれば。

 

 だからこそ――『門番』が必要だった。

 我が物顔で門を潜ろうとする幹部クラスの妖怪を、力づくで追い返すことが出来る強力な門番が。

 

「…………チッ」

 

 そんな大役を仰せつかった門番――坂田金時は、強く舌打ちした。

 

 己が挨拶代わりに振らせた『雷の雨』――それはあくまで、振るいだった。

 

 朱雀大路を真正面から突き進んできた『本隊(仮)』は、巨大な髑髏を先頭におよそ百体の妖怪を伴って進軍してきた――が、そんな有象無象を全て相手にすることは、流石の金時といえども骨だし、何より無駄であった。

 

 物理的に弾く結界ではないとはいえ、『門』を潜れるのはそれなりに位の高いクラスの妖怪のみ。

 

 だからこそ、その要注意妖怪を見極めるべく、放ったのが『雷の雨』だ。

 質ではなく数に重きを置いた攻撃であった為に、見た目の派手さと比べて一発一発の威力はそうでもないそれではあったが。

 

 それでも数合わせの妖怪相手ならば十分だろう――だからこそ、この振るいの一撃を、難なく突破してくる妖怪こそが、要注意の幹部妖怪。

 

 結果として――雷の雨を突破してきた妖怪は、三体だった。

 

「――嘗めているのか」

 

 小柄でありながら筋肉質な――『鬼』。

 

「無粋な『雨』ね」

 

 六尾と双眼に火を灯す――『狐』。

 

「ですが、我々の武器である数を無効化する先制としては、よい選択かと」

 

 そして、顔面を術符で覆う――謎の妖怪。

 

(……クソ。予想より多いな)

 

 戦火を致命的に広げるには、この平安宮を囲う結界の無効化は、妖怪側にとって必要不可欠な工程だ。

 だからこそ、この門の正面突破を図る『本隊(仮)』には、敵も主力級を送り込んでくることは予想出来ていた。

 

 故に、頼光は自陣からも主力を――頼光四天王である坂田金時を配置したのだが。

 

(そんでもって、予想よりも――強ぇ)

 

 威力を押さえたとはいえ、金時の雷を、『鬼』は拳で易々と弾き、『狐』は尾で軽々と払い、そして謎の妖怪は、おそらくは易々と、躱した、のだろう。雷が落ちた場所から、この謎の妖怪は、スッと影のように現れた。

 

(あの『鬼』と『狐』は、恐らくは俺が一対一でも苦戦するくらいの強さ。そんであの顔面術符野郎は……得体が知れねぇ。……それを三対一で――)

 

 厳しい戦いになる。だが、やるしかない――元々、それを覚悟で請け負った任務。強敵を相手にするのは分かり切っていたことだ。だからこそ、無闇に部下を巻き込むことを憂い、この場を一人で任せてくれと啖呵を切ったのだから。

 

 実際の所、このレベルの妖怪の相手ならば、それこそ四天王クラスでなければ物の数にならないだろう――犠牲が増えるだけだ。

 

 しかし、それは――この門が抜かれた場合でも変わらない。

 平安京全土に広がっている地獄が、金時が失敗した場合、この門の内側でも広がることになる。

 

「考え事とは余裕だな」

 

 気が付けば、好戦的に飛び出してきた『鬼』が肉薄していた。

 髑髏から跳び出し、雷を弾き飛ばし、そのまま地に足を付くことなく金時の元まで辿り着いた小柄な鬼の拳が、空を切りながら振り降ろされる。

 

 金時はそれを反射的に腕でガードし――後ずさり――――吹き飛ばされた。

 

「――――がッ!?」

 

 空中で踏ん張りが効かない体勢から放たれた拳。

 その上、道中にて落雷を弾き飛ばしておいて――この威力。

 

 見た目の小柄さに油断したわけではない。だが、巨漢と呼ぶに相応しい体躯である金時と比べて、目の前の『鬼』は一般的な人間の成人男性と比べても小柄と呼んで差し支えない身長だ。

 

 その体重差を物ともしない一撃。金時は門前まで大きく吹き飛ばされた。

 ガードした筈なのに、今も尚、ビリビリと金時の太い腕に痺れを残している。

 

(――土蜘蛛の一撃を彷彿とさせる……間違いなく、コイツは新たな大江山四天王の一角……)

 

 十年前の大江山にはいなかった。

 この十年で酒吞童子が新たに手中に収めた――『鬼』。

 

「――――ッ!?」

 

 金時が『鬼』の一撃に戦慄している間に、横を『狐』が通り過ぎようとしている。

 

 そうだ――敵は、『鬼』だけではない。

 

「通らせるかよッ!」

 

 金時は左腕を振るい、『雷の壁』を作り出す。

 一瞬、目を剥いた『狐』だったが、すぐに表情を険しくしながら。

 

「しゃらくさいっ!」

 

 金時の『雷の壁』を、六尾を振るうことで生み出した『狐火』で吹き飛ばした。

 

「ッ!?」

 

 確かに、咄嗟に進行を止めようと生み出したものなので、雷の密度は決して高くない壁だった――だが、それでも、稼げた時間がたったの一瞬、たったの一撃で紙のように吹き飛ばすとは。

 

「俺を前に余所見とは――馬鹿なのか」

 

 瞠目する金時。

 その懐に一瞬で潜り込んだ小柄の『鬼』は。

 

「俺との戦いに集中しろ」

 

 ドガン、と、金時のどてっ腹に重い拳を叩き込んだ。

 

「っ!? カハッ……ッ!」

 

 まともに喰らった、体内の酸素を全て吐き出させられたような一撃。

 視界に火花が瞬く。

 

「もう一度、言う」

 

 続いて『鬼』は、己の短い足でも届く位置まで下がった――膝を着かせることで下げた金時の頭に向かって。

 

 その踵を、断頭刃(ギロチン)が如く――振り落とす。

 

「俺に――集中しろ」

 

 瞬間――金時は、発光した。

 

 己の身体――全身から雷を発したのだ。

 

「――ッ!?」

 

 目を焼く光に、皮膚を焼く熱に――『鬼』は咄嗟に行動を封じられる。

 

 金時は雷を操ることは出来るが、纏わせることに慣れているわけではない。

 普段、雷の発射口となっている掌はともかく、他の体皮は、己が呪力を変換して生み出した雷に焼かれることになる――が。

 

 これで、一瞬は稼げた。

 

「――待ちやがれっっ!!」

 

 金時はそのまま――後退する。

 門前まで吹き飛ばされて、尚、そんな己よりも門へと近付いている者への壁となる為に。

 

「――しつこい!」

 

 六尾を燃やす『狐』は、現れた門番に向けて蒼い狐火をぶつける。

 対して、門番は己が雷を赤く染めて、それを目の前の妖怪に向けて放った。

 

 蒼炎と対する赤雷。

 爆発を起こす二つの異能の激突――その横を。

 

 妖しい影が、スッと音もなく通り過ぎようとする。

 

「――!? ――させるかッッ!!」

 

 それに気付けたのは、金時の並外れた第六感がなせる業だろう。

 

 全力で蒼い狐火に対抗する中で、半ば無意識に、その影に向けて右の掌を向けた。

 

 そして放つは、真っ直ぐに標的を射抜く伸びた雷――『雷の槍』。

 

 金時はあまり雷を変形することを好まない。

 それは単純な性格の問題もあるが――そのままぶつけた方が早えだろ――それよりも更に単純な解答として、変形させることが、難しいからだ。

 

 己の体内を巡る『呪力』を、『術式』を通して、水や雷や炎に変える『技術』を、この時代の人間は体系化することに成功している。無論、そこには前提条件として、才能を必要としているが。

 

 しかし、金時はそのように、術式として論理的な技術を持って、己が呪力を雷として変換しているわけではない。

 それは金時にとっての『雷』が、才能や術式という技術で操るそれよりも、坂田金時という生物に宿った権能というそれに近いからだ。

 

 高位存在からの『遺伝(ギフト)』。赤龍から受け継ぎし『雷』。

 

 故に、金時は雷を、()()()()()()()操っているに過ぎない。

 そして、そうして放たれる雷がそれ単体で余りに強力であるが故に、変形などの工夫を試すことすらせずに、必要とせずに、ここまで数多の妖怪を屠り続けてきた。

 

 だからこそ、『雨』や『壁』などの単純なものならばいざ知らず――『槍』などは生まれて初めて成功した変形であった。だが、それは金時の戦士としての才能ゆえか、この土壇場で、これ以上なく強力な武器として、完璧に錬成された。

 

 それは――貫いたのだ。

 確かに、その妖しげな影を、不気味な妖怪を――その胴体を、心臓に近い中心を、確かにこの手で、この『雷の槍』で貫いた、その手応えがあった。

 

 が――妖怪は死ななかった。

 死なずに、滅びずに――『(カラス)』になった。

 

「――――な――――に?」

 

 それは、何処かでも目撃した光景。

 

 数日前に、あの魔の森の戦いの、その最終決戦の場となった洞窟で――その最終局面で。

 

 突如として現れた烏天狗が、消えていった、その去り際に、脱出方法に――酷似した、光景。

 

 全く同じ――逃走術――『術』。

 

 陰陽師の、息がかかった――妖怪。

 

「――――」

 

 パリン、と、何か――罅が、入った音。

 

 割れる。破壊される。崩壊する。

 平安宮を囲う――安倍晴明が作成した結界が、消える。

 

 ()()()()()――()()()()()()()()()()

 

(……何を、考えてるんだよ――旦那)

 

 あの謎の妖怪は、安倍晴明の息がかかった妖怪だった――あの烏天狗と、同じように。

 

 少なくとも、金時はそう思ってしまった――確信した。

 

 だからこそ――金時は、あの妖怪の後を、追えなかった。

 

(……本当に……裏切ったのか? 人間じゃなく、妖怪の方に……ついちまったのか? 晴明の旦那)

 

 そのふざけた答えを、金時は――()()()()の金時は、一蹴することが出来なかった。

 

 自身と同じ、人間ではないものの血を、その身に半分流す存在――安倍晴明。

 

 あの、自分と同じく――あるいは、自分以上に、人間ではない『人間』の心中が、金時には想像も出来なかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 呆然と立ち尽くす坂田金時の背中を、消えていく平安宮を囲う結界と共に眺めながら、『狐』と『鬼』は――『狐』大幹部・鈴と、『鬼』四天王・悪路王は、言葉を交わし合っていた。

 

「……覚の奴、あんな異能を持っていたのね。……でも、心を読む妖怪に過ぎない筈のアイツが、なんであんなことが出来たのかしら」

「どうでもいい。()()()()()()()()()()()()()奴には、興味はない」

 

 そう覚が消えていった方向を見ながら吐き捨てて、悪路王は立ち尽くす金時を見遣る。

 立ち尽くし――けれど、その拳が強く握られるのを見て、戦士の戦意が消えていないのを見て、その口端を楽しげに吊り上げた。

 

 鈴は、そんな鬼を横目に「……とにかく、これで、結界は壊れた」と、目線を前に戻しながら呟いた。

 

「これでもう、別に正面突破に拘る必要はなくなった。どこからでも自由に中に攻め込んで、弱体化もなく万全の体勢で戦うことが出来るわけだけど、アンタはどうするわけ?」

「それこそ、どうでもいい。俺は帝だの、藤原道長だの、安倍晴明にも興味はない。俺はただ、強い戦士と戦いたいだけだ」

「――そ。なら、アイツの相手はアンタに任せるわ」

 

 私は先に行かせてもらう――と、そう一歩、踏み込んだ、その女の背中に。六本の尾を生やした――変わり果てた、その背中に。

 

 悪路王は、かつての女の姿を知る、鬼は言った。

 

「――言っておくが。もう、あの中に、田村麻呂はいないぞ」

 

 踏み出した一歩が止まる。

 後天的に生えた――生やした六尾が、蒼き狐火を燃やしながら、揺れる。

 

「一昨日の夜、それを思い知らされたのだろう。お前が求める男は、お前が探し求めた男は、今や只の――哀れな残骸だ」

 

 拒絶するような衝撃が走る。

 蒼き炎を燃やす狐の尾が、鬼に向かって振るわれる――それを鬼は小さな拳の甲で受け止める。

 

 泣きそうな女の瞳を、無表情で――受け止める。

 

「……知った口を聞かないで。あなたが、何を知っているの? ……私の三百年の、何を知っているというの」

 

 ずっと逃げて、ずっと山に篭り続けていた――あなたが。

 青い狐は――その額から生える角を妖しく輝かせながら。

 

 張り裂けるように、叫ぶ。

 

「……あの人がいない。あの人は、もういない。そんなことは――三百年前から分かってる!!」

 

 狐の耳が生えても、燃える六尾を生やしても――変わらぬ角を、変わらぬ愛を残し続けた女は、それでも――と、胸に残った、(こいごころ)を語る。

 

「あなたは知らないでしょう! 山に篭り切りのあなたには分からないでしょう! 阿弖流為(アテルイ)が、そしてあの人が――どんな最期を迎えたか。……この(みやこ)の人間に――『あの男』に! どんな風に悍ましく殺されたか!!」

 

 ああ――分からないと、悪路王は無言で肯定する。

 悪路王は知らない。あの鬼に、偉大なる阿弖流為に――後は頼むと、そう蝦夷を託された鬼は。

 

 結果、何も守れず、こうして単身で世に出るまで三百年も掛かった――そんな弱者は、そんな卑怯者には、何も言う資格などないと分かっている。

 

「……私は許せない。絶対に許せなかった! だから生きた! こうして生き延びてきたの! いつか……この京に戻って、あの人を――取り戻すと! もう死んでいても、もうどこにもいなくても! あの人の――誇りを! 必ず取り戻すと、そう誓って――生きて……きたの……」

 

 鬼となっても――そして、狐になっても。

 どれだけの化物になっても。どれだけの屈辱に塗れても。

 

 それでも――その胸に、愛を燃やして生き続けてきた。

 

 鈴は――否。

 

「――鈴鹿御前(すずかごぜん)

 

 悪路王は、かつての彼女の名を――彼女の真名を、再び背を向けた彼女に投げ掛ける。

 

「……その名を呼ばないで。もう、その名を呼んで欲しい人は――この世のどこにもいない」

 

 彼女はそれを理解している。この世の誰よりも――あの人はどこにもいないということを。

 

「それでも、あの人は未だに……平安京に――この(ばしょ)に、縛られている。私はそれが許せない。必ず、解放する。必ず――取り戻す。……そして――」

 

 鈴鹿御前は――六尾を燃やす。

 己の中の愛を――そして、憎悪を燃やすように。

 

「あの男は……和気清麻呂(わけのきよまろ)は! ――()()()()()()()()()()()()! ()()()()()()()!! ()()()()()()()()()! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 許せない――許せるものかと。

 鈴鹿御前は妖怪らしく、化物らしく、禍々しく轟々と殺意を燃やす。

 

「――だから私は行くのよ。あの門の中へ。愛する人の仇を取って、愛する人を救う為に」

 

 あなたはどうなの――と、鈴鹿御前は振り向かずに言う。

 

「阿弖流為は――大嶽丸(おおたけまる)は、もうどこにもいないのよ」

 

 その燃え盛る女の言葉に、「……どうでもいい」と、悪路王は冷たく答える。

 

「俺はお前のように、復讐に燃えているわけではない。――俺は、あの方の遺志を継ぐ、ただその為に生きている」

 

 無様にな――と、悪路王は自嘲する。

 

 蝦夷を頼むと託された、その遺志を継ぐことは出来なかった。

 あの偉大なる妖怪王を失った蝦夷を、悪路王は纏めることが出来なかった――その『器』を、悪路王は持っていなかった。

 

 結果、孤立し、更に奥に篭ることになり――三百年の時を経て、里を下り、大江山を登った。

 

 せめて、もう一つの遺志は、継がなくてはならないと思ったから。

 

 俺に出来なかったことをしろ、と、阿弖流為は言った。

 

 ()()()()()――()()()と、大嶽丸という一体の鬼は言ったのだ。

 

 だから――ならなくてはならない。

 

「俺は――最強になる。()()()()()()()――()()()()()()()()()

 

 だから、ここは俺に任せて先に行け――と、悪路王は、かつての主の妻の背を押した。

 

「…………そう。お互い、また無様に、生き延びられたらいいわね」

 

 鈴鹿御前は、そう吐き捨てて駆け出した。

 

 そして、悪路王は、こちらを再び振り向いた金時に向かって走り出す。

 

 坂田金時は――覚悟を再び固めたようだった。

 

 任務は失敗した。戦争が始まって早々に妖怪の侵入を許し、平安宮を囲う結界は解除された。

 目の前の『本体(仮)』の下っ端構成妖怪達は、金時の雷の雨によって動けなくなっているが、結界が解除された以上、これより四方から平安宮への妖怪の侵入を許すことになる。

 

 平安京に広がる地獄絵図が、平安宮の中にまで、広がることになる。

 

(――だが、だからといって、目の前の二体の妖怪を野放しには出来ねぇ)

 

 大きな失態を犯したからと言って、更なる失態を重ねていいことにはならない。

 汚名は返上し、名誉は挽回しなくては。

 

「――これ以上は、通さねぇ!!」

 

 その金時の威勢に――応えるように。

 

 突破されたが、物理的には破壊されていない朱雀門が――揺れた。

 

「…………なに?」

 

 そう静かに呟いたのは悪路王か、あるいは金時か。

 

 ゴゴゴゴゴ、と音を立てながら、()()――()()()()()()

 

 それは瞬く間に、一体の巨大な鎧武者となった。

 果たしてどこにそのような意匠が隠されていたのか、それは翼の生えた蛇に全身を巻き付かれた不気味な武将だった。

 

 そして、その鎧の左肩には、こう記されていた――『騰蛇』、と。

 

(翼の生えた蛇に纏われた――式神。十二神将の『騰蛇(とうだ)』か!)

 

 金時はその正体に気付く。

 恐らくは結界が破壊されることがトリガーとなって発生する仕掛け――保険。隠された防衛機構。

 

 無論、誰が仕掛けたものなのかは言うまでもない。

 

 金時は――歯噛む。

 

「…………本当…………何を考えてんだよ……旦那」

 

 安倍晴明――あの人は、人間の味方なのか、それとも妖怪に肩入れしているのか。

 

 あるいは――だが。

 

 理解出来ないと眉根を寄せる金時の背後で、こちらもまた、憎々し気に、その式神を睨み据えていた。

 

「……安倍晴明……和気清麻呂……どこまで――私の邪魔をすれば気が済むッッ!!!」

 

 鈴鹿御前は『騰蛇』に向かって飛び掛かる。

 

 そして、金時の前に、一体の鬼が向かい合った。

 

「さあ――続きを始めようか」

 

 鬼の目は武者に語り掛ける。

 

 戦争はまだ、始まったばかりだと。

 




用語解説コーナー㊶

・半血

 妖怪と人間の血を、その身に半分ずつ流すもの。
 基本的には人間の身体に妖怪の異能を併せ持つ存在となるが、その配分は様々。

 人間に妖怪が混じった程度の者もいれば、妖怪に人間が混じったような者もいる。
 その寿命においても様々であり、人間と同じように歳と取る者もいれば、妖怪のように永い時を生きる者もいる。それぞれどちらに近いかによって、その生態は変わってくる。

 しかし、遥か未来において混血種とも呼ばれる、星人と人間のハイブリッドであるそれらは、この時代の日ノ本においても、そもそも個体数が非常に限られている。

 生まれることすら奇跡であり、その存在は例外なく――数奇な運命を歩むこととなる。
 故に、人間と妖怪の混ざり子は災いを生むとして、ただそれであるというだけで迫害を受けることもある。

 この妖怪大戦争においても、それは例外ではない。

 妖狐と魔人の子である――安倍晴明、そして羽衣。
 赤龍と一時的に人間に戻った山姥の子である――坂田金時。
 そして、ぬらりひょんと人間の子である――鴨桜。

 彼らは、この妖怪大戦争においても、非常に数奇な運命を辿り、重要な役割を背負い――そして。

 劇的な、結末を迎えることとなる。


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妖怪星人編――㊷ 神たる怨霊

……何故、蘇った。


 

 門が式神に――朱雀門が十二神将・『騰蛇(とうだ)』へと変形し、がらがらと崩れ落ちていった。

 

 見事、およそ二百年以上もの間、真正面からの侵入者――妖怪の侵入を許さなかった朱雀門を潜った、歴史上初めての妖怪・(さとり)は、偉大なる門が崩壊するの様を、内側から、平安宮側から眺めながら呟く。

 

「――ほう。このような仕掛けが施されていようとは。朱雀門が起点であった以上、結界が張られたその日には、あるいは平安宮を作り上げたその時には、()()()()()()()()()()()()と企んでいたのでしょうが。……いやはや、一体、どこまで見透かしているのですかなぁ――()()()()殿()は」

 

 そうは思いませぬか、()()()殿()――と、顔面を術符で巻いた妖怪は、自身の背後に降り立つ烏頭の山伏のような妖怪にそう問い掛ける。

 

「はてさて。私には想像しかねますなぁ。何しろ私は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――うぬと同じく。そうであろう、覚殿」

「ふむ――然り」

 

 振り返り、覚は烏天狗と向かい合う。

 二体の妖怪は、共に妖しい笑みを浮かび合いながら、一歩、一歩、近付いていく。

 

「我らは、あの御方の代わりに動く『あばたー』に過ぎない」

「我らは、あの御方が代わりに動かす『きゃらくたー』に過ぎない」

 

 やがて覚は歩みを止め――烏天狗はその首を掴む。

 

「これまでご苦労様でした。あなたはここで『お役御免(くらんくあっぷ)』です」

「ええ。あなたも――最後まで、しっかり勤め上げて下さい」

 

 ぐっ、と烏天狗が首を掴む力を入れると、覚の身体は再び無数の烏と化し――烏天狗へと吸収されていく。

 

 妖怪勢力『狐』の大幹部として、此度の妖怪大戦争の全体図を作り出し、最後の役目として平安宮の結界を破壊して、十二神将『騰蛇』を目覚めさせた所で。

 

 安倍晴明の三羽烏(さんばがらす)・覚の役目は終わった――と、いうわけだ。

 

「実に、実に――羨ましい限り」

 

 そう言って、己が掌に最後まで残った黒い人形の術符を、ごくりと、噛まずに呑み込んだ烏天狗は。

 

「では、私も定時で上がるべく、残された仕事(たすく)を片付けなくては」

 

 呟いて、そして、朱雀門跡の前で繰り広げられ始めた激戦――とは、見当外れの方向を見据えながら、闇夜に向かって背中の黒翼を羽ばたかせながら飛び立っていく。

 

「――取りあえずは、己が『役柄』に没頭し過ぎて、己が『役目』を忘れている、同胞にして同僚の、目を覚まさせることから始めましょうか」

 

 幾つもの戦場が生まれ、戦火が文字通りの火柱として上がっている平安京。

 

 烏天狗は、その中の一つ――戦火の火柱の発生源たる戦場を見据え、そして飛んで行った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 天に邪する鬼は、鉢合わせた二人の四天王を見下ろし、そして――巨大な鬼の肩に立つ自分と、同じ高さから同様に下界を見下ろす妖怪を見遣る。

 

 雷様(かみなりさま)

 かつて、この()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――。

 

 この京に巣食う貴族達が、酒吞童子よりも、阿弖流為よりも、何よりも恐れた稀代の大怨霊――。

 

(――『狐』もとんでもない隠し玉を用意していたものですね……。しかし、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……。そして、その一体も安倍晴明によって退治された筈。……ならば、ここにいるこやつは、一体どこのどいつなのでしょうねぇ?)

 

 天邪鬼は「……お初にお目に掛かる。私は大江山四天王が一体、天邪鬼と申します」と、同じ高さにいる雷様に向かって声を掛ける。

 

「……そなたは、妖怪・雷様とお見受けられる。伝説に名高い大妖怪である貴殿と共闘できることは誠に光栄の至りですが……一体、いつの間に復活なされたので?」

 

 小さな黒い雷雲に乗る、見た目は赤い鬼のような妖怪。

 背に雷神太鼓と呼ばれる装具と、まるで何処かの誰かと同じように黒い布で目元を覆っているのが特徴の不気味な怪異は。

 

「…………」

 

 まるで何も聞こえていないかのように、天邪鬼の言葉に応えない。

 

(……何らかの封印が施されている? それとも単純にこちらに興味がないだけですかね? ……退治された『本体』を何らかの術式で復活させたのか――あるいは、只の贋作か)

 

 例えそうだとしても、平安京を瞬く間に火の海に変えた、その力は本物だ。

 少なくとも『武器』として使用するならば、その破壊力は申し分ない。

 

(封印されているにしろ、操られているにしろ、(にせ)ているにしろ――かつての伝説の力、それを十全に振るえないしろ、その恐ろしさは申し分ない。『狐』がどのような手段で用意したかは不明ですが……使えるものは、使わせてもらうことにしましょう)

 

 目を細め、天邪鬼がその手を雷様に向けようした――瞬間、その手が、突如飛来した矢によって弾き飛ばされた。

 

「――!」

 

 天邪鬼は矢が飛んできた方に目を向ける――が、目を向けるまでもなかった。

 

 その矢を射たのは――頼光四天王が一人、卜部季武(うらべすえたけ)

 四天王きっての弓矢の達人が、次弾を番え、こちらを真っ直ぐに視線で射抜いている。

 

 天邪鬼は、瞬く間に襲い掛かってきた二射目を、血が滴る右手で構えた鉄扇で弾き返した――しかし、その威力は、鉄扇に生涯癒えることのない弾痕を穿っていった。その痕跡が、四天王たる戦士の実力をありありと物語っている。

 

(……この闇夜の中、この高低差のある距離の中で、これほどまでに正確に、これほどまでの威力の矢を射る、か。……『鬼の天敵』と肩を並べる、流石は頼光四天王というべきでしょうかね)

 

 ずぼっ、と。

 天邪鬼は己の右足を鎧将の右肩へと埋め込む。鎧将が呻き声を上げると、まるで何かを吸い取ったかのように、矢で射抜かれた天邪鬼の右手が――時を戻したかのように再生した。

 

「…………」

 

 その光景を鋭い眼で見据えた季武は、尚も神速で矢を番え、連続で矢を射ていく。

 

「――だが、舐めるな、人間」

 

 天邪鬼は引き抜いた右足で、そのまま鎧将の右肩を強く踏みつける。

 それを合図と受け取ったかのように、先の呻き声とは打って変わった、まるで獣のような雄叫びを上げ――巨鬼が右腕を振るい、矢の弾幕を薙ぎ払う。

 

「――っ!」

 

 そして、腕を、大きく、振り上げて――槌の如く、その握った拳を振り下ろす。

 

「平安京の()みとなるがいい!!」

 

 迫りくる巨大な丸太のような拳に――碓井貞光は、相棒に向かって吠えた。

 

「俺が――受け止める!!」

 

 そして、その有言は実行された。

 

 貞光等を血染へと変えようとしていた巨大鬼の拳を、貞光という人間は、己が身の膂力のみで支え切ってみせる。

 

 不快げに表情を歪めた天邪鬼に、貞光は額に玉のような汗を吹き出しながらも――強く笑みを、浮かべて見せた。

 

「……そちらこそ、舐めるなよ、鬼。……デカいだけの妖怪など、これまでいくらでも……退治してきた……ッッ!」

 

 貞光は、ぐぐぐと、折れかけた膝に力を入れ、それを徐々に、徐々に伸ばして――。

 

「偉そうに見下ろすな。お前が今日、この京の滲みとなれ」

 

――ガツン、と。巨大鬼の拳を地に叩き付けた。

 

「な――」

 

 無論、貞光自身が潰されたわけではない。

 己に向かって振り下ろされた拳を受け止めた貞光が、それを更に勢い良く、抑え込むような形で平安京の地面へと叩きつけたのだ。

 

 そして、一時的に、巨大鬼を上回る膂力で、その鬼の動きを封じる――その、一瞬を利用して。

 

 貞光は――跳んだ。

 己を見下ろす鬼を見下ろすべく、更に高く、京の空を高々と飛んだ。

 

 命を刈り取る――大鎌を振りかぶって。

 

「――っ!」

 

 天邪鬼は直感で理解する――あれは、妖怪(おのれ)退治(ころ)武器(いちげき)だと。

 

 二日前の夜に、己の左腕を薙いだ、あの『鬼殺し』が振るった『鬼切』のような。

 

 跋扈する妖怪を排除せよと――そう天に命じられたかのような武装。

 

(――ッ! ふざけるな! 我は天邪鬼! 天を邪する鬼! 天の意思などに退治されてなるものか!)

 

 そう怒るように、天邪鬼は己を高みから見下ろす貞光――その先の天に向かって手を伸ばし。

 

「私を――見下ろすな!」

 

 天を堕とすように、その権能を発動させる。

 

 妖怪の名は天邪鬼(あまのじゃく)――天を邪する鬼。

 大いなる意思を穢せと、そう命じられた名を持つ鬼。

 

 天に運命(さだめ)られたものを捻じ()げろと、そう使命を負わされた――凶兆(カラス)

 

 

「――そう。()()()()()

 

 闇から覗く瞳が、そう不気味に笑っていた。

 

 

 瞬間――ぐん、と、斜め下に引っ張られるように、貞光は通りの家屋の中へと墜落した。

 

 重力は真下に働くものだと、そう()()()()()()()()()()()()()

 

「我が名は天邪鬼――天を邪する鬼。ここで退治(きえ)るが運命(さだめ)と天が望もうと、私はそれを嘲笑う」

 

 己の身体を引っ張る、少なくとも天の力ではない何かを感じながら、貞光は――暗夜の中で、己を見下ろす赤い眼を見た。

 

 失われた右眼。埋め込まれた隻眼にして赤眼。

 

 敗北し、追い詰められ――取り戻した使命にして本性。

 

(……全く。綱の奴も詰めが甘い。敵を強くしてどうするのだ、全く)

 

 そう溜息を吐きながら――碓井貞光は家屋の中へと墜落した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 倒壊する轟音を聞きながら、天邪鬼は己の手を見遣る。

 

「……今のは――」

 

 何かを取り戻した気分だった。

 忘れている何かを。本来の、『何か』を。

 

 そして、ふと周囲を見渡す――己を何処から見る視線を感じて。そして――見つけた。

 

「――ッ!!」

 

 卜部季武。

 彼もまた、貞光と同様に空を跳んでいた。

 

 貞光が鎧将の拳を受け止めた時、彼はその姿を晦まし――背後へと回り込んでいた。

 

 巨大鬼・鎧将の、その肩に乗る天邪鬼の――()()()()

 

 その横で、ずっと不気味に、身じろぎ一つせずにぷかぷかと浮かんでいる雲に乗る妖怪の、太鼓の装具が埋め込まれた、無防備な背中に――真っ直ぐにその鏃を向けている。

 

(……確かに、新たなる大江山四天王だという天邪鬼が操る巨大絡繰鬼は脅威だ。しかし、より広範囲に、より甚大に破壊を振り撒いているのは、優先して退治すべきなのは――間違いなく、コイツ)

 

 生まれた絶好の機会に、季武は震えそうになる手元を改めて引き締める。

 

 有り得ない。有り得る筈がない――が、もし、この妖怪が、()()()()()()()()()()()()()()

 退治された筈の、かの大怨霊が、その尽きぬ怨念によって再び顕現し、この平安京へとやってきたのだとしたら。

 

(退治(ころ)さなくては――確実に! 今、この瞬間に!)

 

 まるで、指令がなくなったかのように、何か条件を満たしたかのように、四天王と遭遇した瞬間から、ピタリと、その動きを止めているこの妖怪を。

 

 再び、動き出す前に。伝説が、蘇る前に。

 

 先程の天邪鬼への牽制のそれではない――確実に、一撃で、終わらせる為の一射を。

 

 季武は、背後から無音で放った。

 

 弦を離した音も、矢が放たれた音も、どのような原理による技術か不明な、まるで術のようなその一射を。

 

 ピクリとも、これまで微動だにしなかった雷様は。

 

 己を退治しようとする殺気を感じたかのように――()()()と、首を一回転にして察知した。

 

「――――ッ!!?」

 

 だが、躱し切れなかった。

 頼光四天王が終わらせるべく放った渾身の矢は、確かに雷様に届いた――しかし。

 

 頭部を射抜く筈だった矢は、首の回転に僅かに軌道をずらされ――その黒い布の上に被せられていた仮面を吹き飛ばすに過ぎなかった。

 

 現れたのは――人間の顔だった。

 否、元――人間というべきか。

 

 黒い布によって覆われたそれは、顔の形が人間のそれと酷似していると、そう辛うじて推察することが出来る程度だった。

 

 だが、それで十分だった――正体が判明するには、十分だった。

 

 何故なら、一枚の仮面を破壊した、たったそれだけで。

 

 全てが、変貌したからだ。

 

 妖怪が放つ妖気が――そして、生み出す、怨念が。

 

 平安京そのものを、震わし、始めたからだ。

 

 まるで――施されていた封印が、解かれたかのように。

 

『……懐かしい空気だ。相も変わらず、反吐が出る味だな』

 

 睨まれたわけではない。殺気を返されたわけでもない。

 

 だが、それでも、季武は――追撃の矢を打ち込むことが出来なかった。

 

 何も出来ず、ただ無様に、地に下りただけだった。それも綺麗に着地など出来ず、まるで落とされたかのように――腰を落としていた。

 

 それほどまでに、その妖怪が放つ妖気は――圧倒的だった。

 自分は伝説しか知らない。実際に対面したわけでもない。だが、それでも――確信した。

 

 今まで感じたことのない程に膨大な妖気。圧倒的な怨念。それこそ、正に――。

 

(――あの時の……大江山の……酒吞童子以上……ッ!!)

 

 妖怪王の器すら上回る妖気――日ノ本史上、最も恐ろしい妖怪へと変貌した――()()

 

「……間違いない……本物であった……」

 

 そう笑うは、天を邪する鬼。

 しかし、その鬼の額には、確かに冷たい汗が流れていた。

 

 倒壊した家屋から戦場へと戻ってきた碓井貞光は、それを見上げて、言う。

 

「……何故、蘇った――菅原道真(すがわらのみちざね)公」

 

 菅原道真。

 かつて藤原氏隆盛の時代に、学徒の身で宮中の頂点を獲得した者。

 

 そして、宮中の――『藤原』の陰謀によって、その全てを失い――怨霊となったモノ。

 

 

 人から妖怪へ――そして、その祟りを持って――神へと至った存在。

 

 

 菅原道真。

 正しく伝説として永劫に語り継がれし怪異を前に、貞光は――震える膝を左手で叩き、その大鎌を握る右手に力を入れた。

 




用語解説コーナー㊷

・雷様

 ゴロゴロと天を鳴らし、怒りと共に雷を降らすと恐れられる大妖怪。
 落雷と共に臍を奪い、その怒りが収まるまで雨の如く雷を降らし、全てを焼き尽くすと恐れられている。

 この世界における雷様とは――たった一人の元人間、たった一体の大怨霊を指す。

 人の身でありながら、その才覚と怨念により、悪霊となり――そして、神へと至った男。

 歴史上、最も人間を追い詰めた――『人間』。

 かの雷神の怒りが今――再び、平安京へと降り注ぐこととなる。


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妖怪星人編――㊸ 愛に狂う鬼

僕はあなたを救わない。あなたが僕達を救わないように。


 

 赤き月を、その鬼は仰ぎ見た。

 

「…………」

 

 否――正確には、その方角から出現した、自身に匹敵する強大な妖気へと顔を向けた。

 

(…………なに?)

 

 生まれながらにして最強であった彼女は、自身の強さというものに恐ろしく無頓着だった。

 彼女の強さの基準は常に自分自身――だからこそ、彼女にとって他者とは、()()か、()()()の、たった二つに、その殆どが分類された。

 

 強者というものを、彼女は片手の指で数えられるほどしか知らない。

 

 戦闘力という面で彼女に認識されたのは、かつての自身の右腕と、ついこの間に対面した狐――そして。

 

『――余所見とは、余裕だな』

 

 呆けるように立ち尽くす少女鬼――『鬼の頭領』・酒吞童子(しゅてんどうじ)の喉元に向かって、その名刀は振るわれる。

 

 童子切安綱(どうじきりやすつな)――数多の妖怪を屠り続けてきた、もはやその刀そのものが怪異を殺す概念といっても過言ではない――紛れもない『怪異殺し』。

 

 そして、その名刀を振るうは、こちらも当代において、あの安倍晴明と並び称される『最強』――もう一人の、妖怪の天敵。

 

 殺せぬ(あやかし)は存在せぬと言われた『神秘殺し』――源氏の棟梁・源頼光(みなもとのらいこう)

 

 源頼光は、酒吞童子が『強者』として認識した、数少ない存在。

 茨木童子や化生の前と並ぶ強者と認めた存在――だが、それは。

 

 ()()()()()()()()()()()()――。

 

『――――ッッ!!』

 

 明確な隙をこれ以上なく完璧に突いた一撃。

 名刀の力を完全に引き出した、神秘殺しの渾身の一撃を。

 

 小さな少女鬼は、たった一本の爪で、それを身動き一つせず、瞬きもせずに受け止めた。

 

「…………やっぱり…………お前…………はるかに…………()()

『―――ッ!!』

 

 酒吞童子が――目を見開く。

 

 たったそれだけの動作で、無数の妖気の刃が頼光に襲い掛かった。

 

『――――ぐっ!』

 

 絶え間なく降り注ぐ必殺の嵐。

 酒吞童子から()()()()規格外の妖気が、少女鬼が敵意を向けた、ただそれだけで、何の技術も術式もなく、刃となって対象に襲い掛かる。

 

 彼女は、この驚異の現象を、ただ()()()()と、それだけの感情を抱いたというだけで対象に振り撒くことが出来る――振り撒いてしまう。

 

 こんなものは酒吞童子にとって攻撃ですらない。

 だが、最強の鬼が不快感を抱く、ただそれだけで、この場は生存不可能な地獄と化す。

 

 頼光はその斬撃の雨の中を、童子切安綱を振り回すことで何とか生き延びる。

 常人には視認不可能な程に刀を高速に操り、寸分の狂いのない達人技で以て振るう。

 

 だが、それでも、ずずずと、その両足は少しずつ、少女鬼から遠ざかっていく――遠ざけられる。

 

 遠い――手を伸ばせば届く程の距離が。

 目の前の『最強』が――恐ろしく、遠い。

 

(――――()()……ッ!)

 

 分かっている――自分が、弱いということは。

 

 強くなったつもりだった。高みへ登り詰めたつもりだった。

 

 大江山の鬼退治から――十年。

 ()()()()()()()()()――十年。

 

 強くなった――つもりだった。

 

 だが、求めた『最強』は、目指した『最強』は――見ろ、その爪を構えてすらいない。既にこちらを、見てすらいない。

 

 再び余所見を――赤き月へと、目を逸らしている。

 

『――――ッッ!!』

 

 それでも――届かない。

 童子切安綱が重い。無数の斬撃を弾き返し続けて、見る見る内に腕が鉛のように重くなっていく。

 

 弱い――弱い――弱い。

 

 そんなことは――分かっている。

 

(――()が、()()に及ばないことなんて――分かっているッッ!!)

 

 だが――それが、どうした?

 

 そんなことは前提だ。十年前、あの瞬間から、分かり切っていたことだ。

 

 分かった上で、僕は――源頼光をやってるんだ――ッッ!!

 

『僕は――源頼光に――ならなくちゃいけないんだよ――ッッ!!!』

 

 それが――託された者の責務。

 

 命の使い方――定めた、使命だから。

 

 だから、例え斬撃の嵐の中だろうと、隔絶するような断崖絶壁が立ち塞がっていようと――足を進めぬ、理由にはならないッッ!!

 

 この歩みを止める――諦める、理由になんてならない!!

 

『うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!!!』

 

 進む――進む――進む。

 鉛のように重い童子切安綱を振るい、鉄を引き摺るように重い足を前へと進めて。

 

 最強が放つ壁を、妖気の刃の中を――源頼光になると、『最強』へと至れと託された鎧武者は、その刃を、再び少女鬼へと届かせる。

 

()を見ろ――『最強』!!』

 

 瞬間――酒吞童子の目が見開く。

 

 今度は――届いた。

 頼光が振るった童子切安綱は、今度こそ、余所見をしていた『最強』の身体を斬り裂いた。

 

 右肩から左腹に向かって――真っ二つにせんと、その小さな身体に一閃を走らせる。

 

 身体が千切れかける。鮮血が噴き出す。

 

「――――ふうん」

 

 だが――すぐさま、再生する。

 鎧武者の奮闘を嘲笑うかのように。弱者の努力を、嘲笑うかのように。

 

 しかし、確かに――酒吞童子は、源頼光を、()()

 

「――――死ね」

 

 五爪が振るわれる。鬱陶しいという拒絶ではない。明確に殺意を以て――『敵』へと向けられる最強の、()()

 

 先程までの妖気の刃の嵐とは比べ物にならない恐怖を感じながら――それでも、頼光は、冷たい汗を流しながら笑った。

 

 最強が、見ている。

 最強が、自分を――敵として、見ている。

 

 十年前のあの日、大江山でのあの日に、影から見ていることしか出来なかった『最強』が――自分を個体として認識すらしていなかった『鬼』が、自分を。

 

 誰もが認める『最強』であった『源頼光』と、死闘を繰り広げ――そして、殺した、あの『酒吞童子』が。

 

 自分を、敵として、殺すべき対象として、認識している。

 

『――ッ! 遂に――辿り着いたぞ!! 酒吞童子!!』

 

 源頼光は童子切安綱を振るう――自分には重い名刀、相応しくない『怪異殺し』を。

 

 この鬼を、今度こそ殺す。

 

 そうすれば――自分は――。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 響き渡る轟音。そんな『最強』の激突を――その侍は見ていた。

 

「十年……()()()は、強くなった」

 

 ずっと自分達の背中に隠れて、後ろを付いてくることした出来なかった子が。

 

 目の前で『兄』を失い――その小さな身には余りにも重すぎるものを託された。

 

 震える身を鎧で包み、怯える心を『鬼』の面で隠して――子供は大人へと、そして『最強』へとならなくなった。

 

 強くなった――本当に強くなった。

 今では貞光も、季武も、金時も、心からアイツを源氏の棟梁と、己の主だと認めている。

 

 浅草寺の牛鬼も、魔の森の土蜘蛛も、例え奴等が十全の状態で相対することになっていたとしても、今の『源頼光』ならば間違いなく勝利することが出来るだろう。

 

(……それでも、やはり――酒吞童子だけは、別格か……)

 

 酒吞童子。

 突如として現れた変異種。迷い込んだ妖怪王の器。

 

 生まれながらにして、余りに歪な形で完成された――純正の『最強』。

 

「アイツも頑張ってはいるが――今はまだ、『最強(こちら)』には辿り着いていない」

 

 本来ならば、この局面(クライマックス)には間に合わせなくてはならなかったが――それには、十年という時間は、余りに短すぎた。

 

「酒吞童子との戦いは、『源頼光』にとっては避けられない試練――だからこそ、やらせてはみたが……死なせてしまっては本末転倒というもの」

 

 託されたのは――アイツだけではない。

 

 我が主に――無二の『弟』を託された身としては、ここで再び『源頼光』を『酒吞童子』に殺されるわけにはいかない。

 

「――俺は、『兄貴』なのだから」

 

 だからこそ――と。

 

 渡辺綱は、純白の白い鞘から――炎刀を抜いた。

 

 燃え盛る赫き刀。魔性を――この世界で最も鬼の血を吸った、鬼を殺す為に特化した魔剣。

 

 名刀・『髭切』――否、妖刀・『鬼切』。

 

 その炎を、その切っ先を向けられるのは――既に満身創痍である、虫の息の鬼女だった。

 

「呆気なくて申し訳ないが、もう終わらせようか――紅葉」

 

 鬼女紅葉(きじょこうよう)

 茨木童子が不在の今、大江山四天王において一番の古株であり、四天王筆頭を務める鬼。

 

 酒吞童子の補佐役を代行し、実質的な『鬼』勢力と纏め役として機能してきた幹部は。

 

 同じく四天王筆頭であり、纏め役であり、補佐役をこなしてきた――頼光四天王が一人、渡辺綱(わたなべのつな)に。

 

 手も足も出ず、完膚なきまでに敗北し――今、正に、息の根を断たれようとしていた。

 

 ごふっ、と、喀血しながら紅葉は笑うしかない。

 

「――強過ぎでしょ。馬鹿じゃない、アナタ」

 

 人間の化物(バケモノ)――そう彼を称した紅葉は、己が言葉が微塵も間違っていないことを、これ以上なく己が身で痛感していた。

 

 渡辺綱は言う――『鬼』は弱くなったと。

 

 確かに、十年前の『大江山の鬼退治』にて、『鬼』は壊滅的被害を受けた。

 四天王を三体失い、構成員の大半も退治された。

 

 何よりも、この大江山の敗北によって、人間達の『鬼』への畏れが大きく軽減した。これにより妖怪としての『鬼』は、全盛期に比べて、確かに弱くなったことだろう。

 

 しかし、それでも、四天王としては、頭脳面を買われた天邪鬼は除いても、新たに四天王入りした悪路王は、阿弖流為を継ぐ者を自称するだけあって、かつての虎熊童子に勝るとも劣らない戦闘力を持つ。最後に四天王入りした碧に至っては、かつての四天王である星熊童子を倒して四天王入りしている。決しては遜色はない。

 

 それでも――と、鬼女紅葉は思う。

 全盛期を知るモノ、そして、あの――『大江山の最終決戦』を知るモノとして。

 

 届かない――と、遠い――と、絶望する。

 

 あの場に立っていた、奴等は――()()だと。

 

(『源頼光』……『酒吞童子』……『茨木童子』……そして――『渡辺綱』)

 

 地獄と化した大江山。

 その頂上に辿り着いた、四体の怪物。

 

 自分と、坂田金時と、そして『源頼光』を継ぐことになる子供は――影から、ただ見ていることしか出来なかった。

 

 それほどまでに――隔絶していた。

 あの四体しか足を踏み入れることの出来ない領域と、あの時の大江山の頂上――最終決戦場は化していた。

 

 選ばれし『最強』のみが呼吸を許される極限の世界。

 あれを生き延びた武者からすれば、確かに、自分や天邪鬼は只の雑魚にしか見えないだろう。

 

 隔絶した世界に辿り着いた『最強』に対抗できるのは、同じ領域に住まう『最強』だけ――だが、それでも。

 

「…………随分と、カッコよくなったわね。……その刀」

 

 紅葉が見詰めるそれは、妖刀・『鬼切(おにきり)』。

 十年前、紅葉が知るそれは――このような炎を纏ってはいなかった。

 

「ああ。お前たち自慢の『右腕』の――その()()を斬り落として辿り着いた、新たなる領域。獲得した――『(ちから)』だ」

 

 ふっ――と、紅葉は、今度こそ声に出して笑った。

 笑うしかない。目の前の『最強』はこう言っている。この期に及んで、更に強くなったのだと。

 

(『茨木童子』の血と炎――それを吸って、奴はあの炎を手に入れた。……それだけじゃない。あの大江山で、源頼光よりも、坂田金時よりも――誰よりも鬼を殺した、その戦果が、浴びた血が……あの名刀を、鬼殺しの妖刀にした)

 

 百鬼殲殺――十年前の大江山で、百の鬼を殺したとされる渡辺綱。

 その伝説を持って、彼の名刀は――鬼殺しの呪を、業を手に入れ、妖刀となった。

 

 妖刀・『鬼切』。

 その刃を身に浴びた、自分だからこそ分かる。

 

(……私は、間もなく死ぬ。……そして、この刃は――例え、酒吞童子でも、滅ぼすことが可能かもしれない)

 

 十年前の大江山にて、安倍晴明の術式を持って強化していた『源頼光』ですら、例え何度その身を切り刻もうと、終ぞ退治すること叶わなかった『最強』――不死の鬼たる『酒吞童子』をも。

 

 もしかすると――十年前、この妖怪大戦争(クライマックス)よりも先んじて、大江山へと乗り込んできたその真の理由こそが。

 渡辺綱に、この妖刀を与えることだったのかもしれないとすら、鬼女紅葉は思う。

 

 あの全てを見透かしたような、陰陽師の顔を思い出して――。

 

「―――フッ」

 

 鬼の女は、だらんと、腕から力を抜いて笑う。

 

「……覚悟を決めたか?」

「あら? お優しいのね、『鬼殺し』ともあろう御人が」

「なに。お前とはそうは言っても十年以上の付き合いだからな。辞世の句を詠むくらいの時間は用意してやろうと思っただけだ」

 

 まぁ、貴様ら鬼に、そのような風流があるとは思えんが――そう言って、妖刀を持つ手に力を込めた綱に、「…………そうね。私は風流は解さないけれど――それでも」と、髪を振り乱すように顔を上げ、そして。

 

 穏やかな、美しい笑みを浮かべ、言った。

 

「『人間(あなたたち)』と違って――命に代えても、守りたいものくらいはあるのよ」

 

 その笑みを見て、綱は一瞬で表情を消し、即座に紅葉に向かって一歩で詰め寄る。

 

 だが――。

 

「――あなたが『兄』なら、私は『姉』なの」

 

 託されたのは『人間(おまえたち)』だけではない。

 

 酒吞童子(アイツ)を頼むと、『(アイツら)』を頼むと、そう身に余る重い『置き土産(おもい)』を託されたのは――。

 

(…………本当に、ひどい男)

 

 それでも――十年。

 ずっと、ずっと、その言葉を守り続けることが出来たのは。

 

「――可愛い『妹』を守るのが、『お姉ちゃん』ってもんでしょう――!!!」

 

 鬼女紅葉は、美しく――凄惨に笑う。

 

 そして、その美しい顔を――醜悪な、怪物へと化えた。

 

 己が命に代えても、目の前の鬼殺しから――可愛い『最強(いもうと)』を逃がす為に。

 

 愛した『(おとこ)』からの、身勝手極まりない、大切な誓いを果たす為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 愚かな女だった。

 

「――肌の色が恥ずかしい? 何言ってるんだ、(みどり)も立派な青色よ。だから私は、あなたを(あおい)と名付けたんだから」

 

 そう言って、その女は泣きじゃくる子鬼の頭を撫でた。

 

 この世で最も偉大な血を継いでいるのに、それに見合う強さを全くと言っていいほど引き出せず、毎日他の鬼達に甚振られて泣いていた元・人間の子供を、そう言って慰めてくれるのは、その鬼女だけだった。

 

 子鬼は思った――何て、愚かな鬼だろうと。

 この鬼女はきっと長生きすることは出来ない。きっとすぐに死んでしまう。

 

 だって、その鬼女は――余りにも、優し過ぎたから。

 

 誰よりも損な役回りをさせられ、誰よりも苦労を背負わされ――きっと、誰よりも報われない。

 誰も彼女を省みない。甘えるだけ甘えて、押し付けるだけ押し付けて――きっと、そのまま、あっさりと死んでしまうのだろう。

 

 そんな鬼女の優しい笑顔を、碧色の子鬼は、きっと生涯忘れない。

 

「だから僕は――お前を絶対に許さない!!!」

 

 あの頃よりも少しは大きくなった(あお)の子鬼は、弾丸のように隻腕の鬼に向かって飛び掛かる。

 的確に顔面に突き刺さろうとしていたその膝を、残された左腕で防ぐ鬼に――至近距離から子鬼は叫ぶ。

 

 すぐさま着地し、足で地を捉えて身体を回転させる。

 その螺旋の回転力を拳に乗せて、目の前の巨躯に向かって右拳を振るう。

 

「よくも――姉さんを不幸にしたな!!」

 

 碧の渾身の拳は、茨木童子の腹筋のど真ん中に突き刺さる。

 しかし、それに構わず碧は左拳を握り、そのがら空きの身体に向かって振るう。

 

「お前が逃げ出した後、全てを背負ったのが姉さんだ!! お前が全てを押し付けた――お前が姉さんを追い込んだんだ!!」

 

 少年は、ただ只管に拳を振るう。力任せに、溢れ出る激情をぶつけるように。

 

 岩をも砕く鬼の拳が、巌のような巨躯に叩きこまれていく。

 

「知っていたんだろう!! 姉さんの気持ちを!! 分かっていたんだろう!! 自分が――『茨木童子』がいなくなれば!! 姉さんが!! 母さんが!! 大江山が――『(あの場所)』が、どうなってしまうかってことくらい!!」

 

 碧は未熟だった自分を、何も出来なかった自分を、餓鬼だった自分を棚に上げて、ただただ目の前の男に全てをぶつける。

 

 全てに対する怒りを――全てから逃げた、裏切り者へ。

 

 涙を流しながら、血塗れの拳を、何も見えない視界の中で――全てを受け止めると、そう言った男へ。

 

「何か言えよ!!! クソ先輩!!!」

 

 返答は拳だった。

 

 たった一発。

 数えきれない程の拳を喰らいながらもビクともしなかった男は、たった一発の拳で少年を吹き飛ばした。

 

「が――ハ――――ッッ!!!」

 

 あれほど喚き散らしていた碧は、絶叫すら出来ず、呼吸すら封じられて宙を舞う。

 

 そんな少年に、伝説の鬼は――ただ冷たく、見下し、告げる。

 

「――言いたいことは、それだけか。餓鬼(ガキ)

 

 碧は蹲りながらも見上げる。

 

(……傷一つ……ない……ッ。茨木童子には、酒吞童子(母さん)のような回復力はない――つまり、僕の渾身の拳は、この男には傷一つ負わせることが出来なかったってことか……ッ)

 

 その鬼は、吹き飛ばした碧を追うことすらせず、一歩も動かずに起き上がれない碧に言う。

 

「俺達は――『鬼』だ。欲望のままに暴れ、感情のままに行動する。自身の失敗を、苦悩を、懊悩を、他者のせいにするなど言語道断だ。己が被る不利益は、全て、己が力不足によるもの。それが――『鬼』というものだろう」

「…………それを……他でもない……お前が言うのか!! 『茨木童子(いばらきどうじ)』!!!」

 

 鬼を――そうしたのは。

 

 欲望のままに暴れて、感情のままに行動し。

 ただただただただ――獣のように振る舞う、そんな(ばけもの)を。

 

 纏め上げて、一つの勢力に――家族にし。

 

 鬼を――『鬼』としたのは。

 

「他でもない――貴様だろうがッッ!!!」

 

 激痛が走る身体を、激情によって叩き起こす。

 

 そして、そのまま一歩も動いていない茨木童子の元へと駆け出して、その小さな体を跳躍させて顔面に蹴りを入れる――その交錯の一瞬。

 

 碧の足は空を蹴り――茨木童子の拳は顔面を射抜いた。

 

「―――ッッ!!」

 

 無論、自分で自分の顔面を殴ったわけではない。

 大人の拳が子供の顔を――容赦なく殴りつけたのだ。

 

「ああ。何度でも言おう。――『(おれたち)』は、間違えたのだ」

 

 だから、それを正すのが、俺の役目だ――そんな言葉を、碧は真っ白な頭で聞いていた。

 

 通じない――己の全てが通じない。

 

「…………ッッ」

 

 分かっていたつもりだった――それでも、ああ、なんていう壁だ。

 

 なんて高い。なんてぶ厚い。

 

 自惚れていたつもりはない――分かっていた、つもりだった。

 

 それでも超えると、越えてみせると、その穴を埋めると――そう信じて、強くなってきたつもりだった。

 

 だが、いざ対面すると、その存在感だけで――心が折れそうになる。

 

 これが『茨木童子』。

 伝説の鬼。最強の一角。酒吞童子の――『右腕』。

 

 憧れ続けた――()()()()

 

「――――っっ!」

 

 だからこそ――認めるものか。

 

 そんな鬼の口から出る言葉を。裏切りを。否定を。

 

(僕が欲しかったものを――喉から手が出る程に欲したものを、全部持っていた癖に……っ! その全てを捨てた男を、その全てを裏切った鬼を――ッッ!!)

 

 少年鬼・碧は。

 吹き飛ばされ、地に伏せながらも。

 

 震える膝に拳を入れて――何度でも立ち上がり、吠える。

 

「それでも僕は――『茨木童子(おまえ)』にだけは、負けられない――ッッ!!」

 

 青鬼は――笑う。

 

 笑う――笑う――笑う。

 

 絶対に超えられない高い壁を前に――それでも、絶対に飛び越えてみせると、鬼のように笑ってみせる。

 

 血塗れのように真っ赤に――笑ってみせる。

 

「………………」

 

 そんな後輩を、伝説の赤鬼は、一歩も動かずに――冷たく、見据える。

 

「僕が何を言っても響かないようですね、先輩。赤鬼の癖に血も涙もない裏切り者だ。ですが、同様にあなたの言葉も、僕には何も響かない。陰陽師の式神に成り下がって、『人間』に懐柔された、哀れな負け犬の言葉にしか聞こえない」

「…………ならば、どうする、後輩。俺を無理矢理に大江山へと連れ帰るか?」

「ご冗談を。()()()()()()()()()()()()()()(ぼくたち)()()()()()()()()

 

 その時、初めて茨木童子の表情が僅かに変わった。それを見て、碧は――ハッと、吐き捨てるように笑って。

 

「僕の願いは変わらない。あなたはもう――必要ない」

 

 ()()()()()――()()()()()()()()()()

 

 ははははははははははははは――と真っ赤に笑う青鬼を、隻腕の鬼は黙って見詰める。

 

「ころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころす!!!! 僕は救う!! お前が見捨てた『鬼』を! 鬼女紅葉(ねえさん)を! そして酒吞童子(かあさん)を!!」

 

 ボクはスクウ!!! ――そう叫びながら己が指を頭部から引き抜く碧。

 

 そして、かつて綺麗だと言われた(あお)色の体皮を――不気味な真っ黒へと変えていく。

 

 頂点に君臨する鬼。

 余りにも寂しい玉座に座り続ける鬼。

 碧に血を与えた母なる鬼。

 

 かつて茨木童子が救い――そして、見捨てた、あの鬼のように。

 

 何度でも言おう――血塗れの黒鬼は、そう宣言する。

 

「――僕はお前を殺す。僕はなってみせる。あの方にとっての右腕に。新たなる茨木童子に――そして」

 

 ()()()()()()()に。

 

 ははははははははははははは――と、黒鬼は笑う。

 

 ころすころすころすころすころすころすころす――と、小さな鬼は、泣き笑う。

 

「……………」

 

 その姿は、似ても似つかないのに、茨木童子は――在りし日の幻影を見た。

 

 後は任せて――と、鬼女は笑った。

 

 行かないで――と、少女は泣いた。

 

 黒鬼となった青鬼は――許さないと、そう笑い、泣いている。

 

 何も言わない赤鬼は――ただ残った左の拳を握る。

 

(――これが俺の、戦争か)

 

 だからこそ、男に許された言葉は一つだった。

 

 覚悟は――十年前。

 あの陰陽師の手を取った、その瞬間から固めている。

 

「――――来い。俺は、その全てを受け止めてやる」

 

 ああ――そうだ。俺は『鬼』を救わない。

 

 その為に、全てを裏切り――あの日、あの『人間(バケモノ)』の手を取ったのだから。

 




用語解説コーナー㊸

・鬼の体色

 基本的には『赤鬼』と『青鬼』に分類される。

 力が強い鬼が赤鬼になり易い傾向にあり、青鬼は力は弱い傾向にあるものの特殊な異能を持っていることが多い。

 碧はその特殊な出生により緑に近い(あお)色だった。

 黒の体色を持つ鬼は、酒吞童子ととある鬼のみであり――碧は、酒吞童子の血をその身に流しているが故に、その体色を黒色へと変えることが出来た。

 その黒色の意味を――まるで理解することなく。


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妖怪星人編――㊹ 鞍馬の天狗

何も守れてないのは――テメェだろ。


 

 京――日ノ本の中心たるこの場所は、かつて妖怪・天狗の(さと)だった。

 日ノ本有数の龍脈スポットである『鞍馬山』を本拠地とし、長きにわたり周囲一帯を支配下に置いていた。

 

 代々『鞍馬』の名を最強の天狗に継承させて、鞍馬山で修行を続けてきた鞍馬の天狗達は、鍛え上げ続けてきた異能である『神通力』で名立たる妖怪連中の御山への侵入を許さず――京を守り抜いてきた。

 

 それは、『人間』という怪物達が、奈良から長岡へ、そしてこの京へと都を移してきた時も同様だった。

 新たに人間達の都の対怪異戦力として設立された『陰陽師』との激しい戦闘の末に――それこそ戦争と呼ぶに相応しく繰り広げられた激闘の末にも、終ぞ鞍馬山の本寺への侵入は許さず、痛み分けた果てに。

 人間は天狗に平安宮への出入りを禁じた代わりに、天狗は陰陽師の鞍馬寺への侵入を禁ずる不可侵条約を結んだ。天狗は、そうやって人間と折り合いをつけることとなった。

 

 天狗は平安宮へと乗り込まない限り、平安京内を自由に飛び回ることが出来た。

 その地に住まう他の妖怪を、己が自由に支配することも出来た。

 

 いわば、人間は天狗を、陰陽師や平安武者と同じ対妖怪用戦力の一環として利用したのだ。

 だが、それはあくまで名目上は平等の条約であり、人間側が天狗へ協力を強いることはしなかった。

 

 平安京へ『鬼』がちょっかいを出してきたときも、とんでもない『怨霊』が襲い掛かってきた時も――天狗は静観に徹した。手を出さず、傍観した。

 

 人間達が敗れ、京を追われたその時は――と、虎視眈々と、息を潜めて、機を伺い続けた。

 本当の京の闇の支配者は自分達なのだと、京の妖怪の王は天狗だと、そう鞍馬山に住まう大天狗達は自負してきた。

 

 自負――そうだ。自分達は負けていない。

 奴等が我等を利用していると思っているように、我等こそが人間を利用しているだけだ。

 そもそも平安京などという盆地には興味はない――この御山さえ、鞍馬の寺さえ守れればいいと。

 

 そう、鞍馬の天狗達は、何年も、何百年も、そう己に唱え続けて――遂に、ある日、逃げられなくなった。

 

 目を背けることも、己等の自尊心を守ることも、出来なくなってしまった。

 

 十年前――『妖怪王』の器を持った『鬼』が、『人間』に敗れたと聞いた時――。

 

 そして、その数か月後――鞍馬山の結界を破り、乗り込んできた一匹の『狐』に、鞍馬山の血の海に変えられた、その時に――。

 

 ああ――自分達は、とっくの昔に、負けていたのだと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 天狗が大きく扇を振るう。

 風を起こすことが出来る天狗という妖怪は、好んで扇を武器として選択する。

 

 それは羽扇であったり、鉄扇であったりと様々だが――戦火の平安京の空を泳ぐ青龍の前に現れた、殊更に巨大な大天狗が振るうそれは、軍配だった。

 

 軍配団扇――集団を指揮する証であるそれを、たった一人で龍へと挑む天狗は、闇夜の中で力一杯に振るう。

 

「――させるかよッ!!」

 

 それを、黒と桜の斑髪の青年が振るうドスが受け止めた。

 

「ッ!? 正気か、若造!」

 

 鞍馬山の大天狗――その最強の個体の証である『鞍馬』という個体名を受け継ぎし天狗の長は、目の前の若者の蛮行に目を見開く。

 

 天狗が数ある妖怪の中で、鬼と並ぶ程に勇名を誇るに至った最大の強みは――空を飛べることだ。

 

 制空権の確保は、こと戦闘や戦争において、それだけで勝敗を決するに至る程に重要な因子だ。

 卑怯(チート)と、そういっても過言ではないだろう。

 

 何故なら空を飛べないものにとって、相手に空を飛ばれるということは、己の攻撃が当たらないことを意味する。

 空を飛べる敵に、手の届かない場所から風などを起こされぶつけられたら、それだけで戦闘が一方的な虐殺となる。

 

 無論、妖怪とは怪物だ。

 空を飛べる敵に届く程の跳躍を以て、己の拳を届けるものもいるだろう――だが、それだけだ。

 

 跳躍と飛翔には、跳ぶと飛ぶには、それこそ泳ぐと溺れる以上の違いがある。

 飛べるものは空を泳ぐことが出来るが、跳ぶことしか出来ないものはその後――沈み、落ちるだけなのだから。

 

 だからこそ、鞍馬は目を見開いたのだ。目の前の若者の、正気を失ったのだ。

 空を飛ぶ己にドスを届かせたから――では、ない。

 

 翼を持たぬ者が、空を泳ぐ術のない者が――こんなにも無防備に、空を掻き回そうと団扇を振るった天狗の下へと、その身を投げ出してきたからだ。

 

 何の躊躇もなく――命綱すら巻かずに。

 

「あぁ? ――その目は節穴か、オッサン。ご自慢の鼻だけじゃなく、ちゃんとそのつぶらなお目目も使ってやらなくちゃ駄目だぜ」

 

 斑髪の青年――鴨桜(オウヨウ)が振るったドスは、鞍馬の軍配団扇を更に上方向へと弾き飛ばした。

 

 結果、龍と天狗が飛ぶ空よりも更に上空へ、鞍馬が起こそうとしていた突風は吹き荒れ、青き龍の飛翔には何の影響も及ぼさなかった。

 

 だが――それまでだ。

 空を泳ぐことが出来ない者は、大地からの引き寄せる力に抗う術のない者は、ただそのまま無様に溺れるように堕ちるのみ――。

 

「――ッ!?」

「言ったろ、ちゃんと見ろって。俺は命綱なんてちゃちなものより――よっぽど命を預けるに足るものを巻いてる」

 

 そのまま垂直に、真下に大地に引かれて落下する筈の鴨桜の身体は――龍の背中へと戻っていく。

 

 まるで引かれるように――引っ張られるように。

 

「……なるほど。首無――念糸(ねんし)か」

 

 鴨桜の側近・士弦(しげん)

 彼は『首無(くびなし)』と呼ばれる妖怪である。

 

 その常に巻かれている首布の下には――本来、あるべき首は無い。

 代わりに彼の胴体と頭部は――念糸(ねんし)と呼ばれる、見えない糸で繋がっている。まるで剣玉と呼ばれる玩具が如く。

 

 彼はその糸を体中のどこからでも伸ばすことが出来る。

 鋭く張ったその糸で敵を切断することも出来るし、このように味方を救うことも出来る。

 

「認めよう。その若さにしては大した技術だ。しかし――それでも」

 

 そう――何の意味もない。

 決死の覚悟で闇夜の中に飛び込んでも、それで天狗の『風起こし』を一度だけ弾けても、そのまま落下せずに龍の背中に生還できたとしても。

 

 何も変わらない。ただ死ぬのが、一秒だけ遅れただけだ。

 弾かれた団扇を再び振るえばいいだけ。こちらはたったそれだけの挙動に、何の決死の覚悟も、リスクを負うこともないのだから。

 

 そう考えて、考えるまでもなく振るおうとして――振るえない。

 

 引っ張られる――まるで重力のように。

 先程の無様な落下を見せた、翼無き者のように。

 

 龍の背中に――否。

 

「……なるほど。ここまでが貴様らの策か、餓鬼共」

 

 まるで見えない糸に引っ張られているかのよう――いや、正に、見えない糸で引っ張られているのだろう。

 

 鞍馬の団扇を持つ右手は、士弦の手から伸ばされた念糸が結ばれていた。

 

「――ただいま、っと」

「ふざけろ。開幕一番からとんでもない自殺行為に走りやがって」

 

 ちゃんと合わせてくれただろ――と、自分の腹から伸びる、緩んだ見えない糸を手に取りながら鴨桜は言う。

 

 士弦はそんな鴨桜に一瞥もくれず、残った別の糸――天狗の団扇を封じる糸を引くことに全力を注ぐ。

 

「――嘗められたものだ。こんな細い糸で、儂を縛ることなど出来ると思っているのか?」

 

 しかし、その全力も――筋骨隆々の天狗の片腕の力で容易く凌駕されてしまう。

 

「……くっ!」

 

 士弦は両腕で糸を引き、龍の背中に踏ん張って全体重を掛けて抵抗する。

 だが、鞍馬は何の踏ん張りも効かない空中に屹立し、ただ団扇を持つ右腕のみを引いている。

 

 そして、そのまま無理矢理に、その軍配団扇を振るおうと試みる。

 

「おい! もう持たない! 分かっちゃいたが、あの天狗は化物だ! 早くしろ! 雪菜! 月夜!」

「は、はい!」

 

 士弦の叫びに、死人のような白装束の女――雪女の雪菜が応えた。

 

 突然の大妖怪の襲来に目を丸くしていた青髪の少女は――しかし、己が主の右腕の言葉を受けて、瞬間的に表情を凍らし、その小さな口から冷気を吹き込む。

 

 そっと、まるで蝋燭の火を消すように、小さくすぼめた唇から繰り出した吐息は――瞬く間に、士弦の見えない糸をはっきりと視認させるかのように、その姿を顕現させる。

 

 見えない糸を――氷の道へと変化させる。

 

「――ぬう!」

 

 否、それは道というよりは、橋だった。

 遥か未来に完成するサーカスという雑技団にて、巨大な鉄の棒を持って渡るような、か細い吊り橋。余りにも頼りないが、息を凍らせるように美しいその橋は、確かに士弦と鞍馬の手を、その両者の手もろとも凍らせた。

 

 しかし、そんなものは一瞬だ。

 鞍馬が冷静になれば、凍らされた手の冷たさによって一瞬の混乱から覚めれば、すぐさま対処されてしまう――落とされてしまう、か細い糸。

 

 だが、その糸を、その一瞬の内に渡り切る一匹の黒猫がいた。

 

「にゃあ」

 

 小さな猫――どこにでもいるような、一匹の凶兆(黒猫)

 

 ただし、その黒猫の尾は、裂けるように二つに分かれていた。

 

 百鬼夜行『二代目組派閥』に属する黒猫――月夜。

 彼女は仙狸(せんり)という妖怪である。

 

 猫又。化け猫。

 長い年月を生きた猫が妖力を得て妖怪と化したもの。あるいは死して何度も蘇った猫が怪物と化したもの――『猫』に関する妖怪変化は多種多様に存在しているが、仙狸とは、その起源(ルーツ)ともいわれる妖怪だ。

 

 日ノ本から海を渡った大陸に存在する国家――中華。

 この時代では唐という国家が滅び宋という国が興ろうとしているように、かの国家は幾度も名を変え、滅んでは興りを繰り返し――日ノ本よりも遥かに長い歴史を重ね続けてきた。

 

 それは妖怪――化物――星人においても例外ではない。

 仙狸とは正しく、その魔の国から渡来してきた妖怪だ。

 

 遥か長い年月を生きた山猫が、特殊な力を得て妖怪となり、美男美女へと変化する術を身に着け、人間の精気を吸う怪物となったと言われている。

 

 妖怪・仙狸――月夜(つきよ)

 海を渡った化猫は、たとえ氷の糸の橋の上だろうと、京の闇夜の空だろうと恐れない。

 

「にゃははははは!!!」

 

 黒猫はいつの間にか、美しい少女と化していた。

 天狗が氷の糸の橋を落とすよりも早く、闇夜に溶け込み目視すら難しい速度で天高く駆け上がって――その爪を、翼を持つ者へと届かせる。

 

「――――!!」

 

 それは、少女の肉球が付いた小さな手では――爪ではありえない、もはや斬撃と称するが相応しい裂撃だった。

 

 天狗の筋骨隆々の精悍な肉体に――三筋。縦に走る傷が生まれ、巨体から血液が噴き出す。

 

「――まさか。鞍馬天狗に傷を――!?」

 

 青龍の背中から見上げる人間――藤原公任(ふじわらのきんとう)は、若手妖怪達が大妖怪に与えた一撃(クリティカルヒット)に驚愕する。

 

(――見事だ)

 

 その横で、藤原道長(ふじわらのみちなが)は、表情を変えず冷静に戦況を分析していた。

 

(首無。雪女。仙狸。そしてぬらりひょんの半妖。一体一体の妖怪としての格は、長らく京の空を支配してきた鞍馬の天狗とは比べ物にならないだろう。それに彼等は皆、妖怪としての全盛を迎えていない、鞍馬天狗の言う通りの若造だ。だが、それでも彼等は各々の特性を上手く組み合わせ、痛烈な先手を与えてみせた)

 

 流れるような一連のコンビネーションを見るだけで、それがよく分かる。

 彼等の溢れる妖怪としての才能。そして、互いに信頼し合う深い関係性。

 

 これまで個の力を振るうことに躍起になっていた妖怪という怪物の常識に囚われない、異なる色の力を組み合わせて生まれる未知の力を創り出す――新たなる時代を歩む若者達。

 正しく、百鬼夜行という妖怪組織を担っていくに相応しい――輝く未来を宿す卵達だった。

 

(……だが――)

 

 道長は目を細める。

 

 そう――卵。

 金色に輝くかもしれないが、可能性に満ち溢れているかもしれないが――現時点では、また殻は破れていない。孵化には至っていない。

 

 今は、まだ、青い。

 

「――なるほど。神通力か。子猫だと侮った。……いや、それは貴様ら全員に言えることだな。どいつもこいつも若造と――嘗めていたことを認めよう」

 

 その上で、もう一度、言わせてもらう――そう、己の身体から血が噴き出ているのも構わずに、歴戦の妖怪は言う。

 

 高みから見下ろす天狗は――大妖怪・鞍馬は、爪から己の血を滴らせる猫耳黒髪美少女に向けて、神通力を持って爪の斬撃を巨大化させた仙狸に向けて、軍配団扇を左手に持ち替えたことで空いた、大きな右の掌を向けて、言う。

 

()()()()()()。――本物の神通力とは、こういった異能(ちから)のことを言うのだ」

 

 その膨れ上がる殺気に、それを間近で向けられた月夜が、目を細めていた道長が表情を変え――そして鴨桜が、誰よりも早く相棒に叫ぶ。

 

「――ッ! 不味い! 士弦! 月夜を戻せ――早く!!」

 

 相棒の言葉に士弦が月夜に向けて糸を放つが、それが黒猫耳少女に巻き付く――よりも早く、月夜の全身から血が噴き出した。

 

「――――っっっ!!!」

 

 月夜が咄嗟に両手を交差して作った即席の盾――それを嘲笑うかのように、少女の柔肌に無数の裂傷が走っていた。

 先程の猫の引っ搔き傷。それを何倍にもお返ししたかのように、全身に浴びせたかのように、腕、腿、腹、背中――そして、顔にも。

 

 そして、裂傷だけではない。

 衝撃――突き飛ばすような、突き落とすような、突風が如き衝撃もその身に受けて、猫耳美少女は脆くも崩れ去った氷の糸の橋から、真っ暗な虚空へと放り出される。

 

「致命傷は避けたか。だが、これで文字通り身に染みたであろう。大陸からおめおめと逃げ出してきた負け犬――もとい、負け猫の神通力など、数百年もの間、鞍馬山の御寺で血の滲むような修練をこなし鍛え上げてきた、我等が鞍馬天狗の神通力の足下にも及ばぬ」

 

 そんな天狗の言葉に遅れるように、吹き飛ばされた月夜の身体にようやく士弦の糸が巻き付く。

 

 だが、月夜はそれに安堵の笑みを浮かべるのではなく――己を見下ろす天狗に、不敵な笑みを、向けてみせた。

 

「――偉そうな口を叩くじゃない。ご自慢の御山も御寺も、狐に奪われた――負け天狗の分際で」

 

 猫の言葉に――天狗は、表情を殺し。

 

「――死ね」

 

 念糸によって青龍へと引き寄せられる月夜に向かって、追撃の神通力の刃を容赦なく放った。

 

「――月夜ちゃん!!」

 

 雪菜が月夜を守るように、虚空に何枚もの氷の盾を創り出す。

 だが、いかんせん距離が離れていて、なおかつこの闇夜だ。それに月夜も高速でこちらに向かって移動しているし――何より、鞍馬の神通力の刃は、目に見えなかった。

 

 気が付いたら切られている。分かった頃には喰らっている。

 氷の盾は出来上がった瞬間に砕け美しい氷片を撒き散らすばかりで、月夜の瑞々しい身体に新たな裂傷が刻まれ続けるのを防ぐことは出来なかった。

 

「くっ――!」

 

 雪菜が目端に涙を浮かべ、唇を噛み締めながら見詰める先で、月夜はその小さな体を更に小さくしながら耐えていた。

 激痛の中でそれでも細い腕だけは伸ばして、見えない何かに向かって必死に抵抗する。

 

 神通力には、神通力を。

 しかし、鞍馬の言う通り、扱うのは同種の力でも、そこには歴然とした差があるのだろう。

 それに大陸由来の月夜の神通力と、数百年もの時間を日ノ本の霊山で独自に鍛え続けた鞍馬の神通力は、あくまで起源を同じにするだけで、今やまったく別の枝であるといっても過言ではない。

 

 やられる――そう、月夜と雪菜が絶望した瞬間。

 

「――諦めるな。そのまま氷の盾を生み出し続けろ」

 

 そう、肩に乗せられた手と共に、言葉で背中を押された。

 

 え――と振り返ろうとしたが、その時には背後から気配は消えていた。

 だが、それが誰の言葉で、期待であったのか、分からない雪菜ではない。

 

「――はい!」

 

 雪菜は再び前を向き、虚空に向かって、守るべき友達(なかま)に向かって手を伸ばす。

 

「はぁぁぁあああああ――――」

 

 生み出すは氷の盾の森。

 虚空一杯を埋め尽くすように、無数の氷の盾を創り出す。

 

 目に見えないのなら、どこから襲い掛かるのか分からないなら――全てを守ればいい。

 前後左右上下、全方位を氷で埋め尽くす。今の雪菜に出来る精一杯。ごっそりと体内から妖力が持っていかれるが、唇を噛み締め、ただ傷つく黒猫だけを見据えて意識を保つ。

 

「――無駄だ」

 

 しかし、鞍馬天狗は冷酷に告げる。

 氷の盾の森を更なる上空から見下ろし、不可視の刃を雨のように降り注がせ、無数の氷塊を一斉に砕ききっていく。

 

「いくら重ねようと、いくら創り出そうと、一枚一枚がこれほど薄く脆くては話にならぬ。――お前では、何も守れない」

 

 雪菜の表情が悲痛に歪む。

 だが、傷だらけの月夜は、きらきらの氷片の中で――にゃと、猫のように笑う。

 

「その伸びきった鼻が邪魔でよく見えてないんじゃない? 私は全然死んでない。親友の氷のお陰でね。それに――」

 

 ()()()()()()()()()――()()()()()

 

 そんな言葉が、鞍馬の名を継いだ天狗の、背後から聞こえた。

 

 振り返る――何も見えない。

 

 だが、確かにそこにいる筈だ。己を突き刺す殺気を感じる。

 しかし、その場所は真っ暗な闇が広がるだけだった。その認識の食い違いに、あり得ない違和感に脳が混乱する。

 

 そして――赤い月光によって、黒と桜の斑髪が照らされたのを認識した、その瞬間には――。

 

 白刃は、闇夜を切り裂くように、閃いていた。

 

 ドスが振るわれる。

 あの氷の盾の森は、守るためだけでなく、送るためでもあったのだと――コイツがここまで辿り着く為の足場でもあったのだと、そう遅まきながら理解すると同時に。

 

 軍配団扇が――鴨桜の白刃を、再び受け止め、防ぎきった。

 

「――――ッ! チィッ!!」

 

 渾身の一撃。会心の術式だった。

 妖怪ぬらりひょんの奥義。それを完璧に決めた筈だったのに――防がれた。殺せなかった。

 

 その事実に、届かなかったことに、何よりも自分自身に強く舌打ちをする。

 

「見事な術だった。殺気の覗かせ方も秀逸だ。しかし、いかんせん――太刀筋が素直過ぎる」

 

 完璧にその姿を捉えることが出来なくとも、反射的に掲げた団扇で防げてしまったのがその証拠だと。

 真にその技を繰り出すのならば、(とど)めの白刃すらも変幻自在でなければならないと。

 

「堕ちろ、未熟者」

 

 貴様には、まだこの高みは早いと、そう叩き付けるように、大天狗は力任せに団扇を振るう。

 踏ん張ることすら出来ない若き半妖は、成す術なく無様に吹き飛ばされていく。

 

 奥歯を噛み締める鴨桜。そして、その様を見下ろす歴戦の天狗は。

 

「――――!!」

 

 一拍遅れて、己の身体に走った剣閃に瞠目した。

 

(……何だ? いつ受けた? これほどの斬撃を――受けたことに気付かなかったというのか?)

 

 奴の術式は看破した。完全に捉えることは出来なかったが、白刃は確かに防いだ筈だ――ならば、いつ、この傷はこの身に付けられたのか。

 

「…………」

 

 敵ではないと思っていた。戦いにすらならないと思っていた。

 こちらは一、向こうは四――人間をその数に入れても六。それでも、話にならないと思っていた。

 

 だが、蓋を開けてみればどうだ。

 若造だと見縊っていた子供相手に、既にこの身に二度、みっともない傷を、無様な出血を許している。

 

 瞬く間に塞がる程度のそれだ。鍛え上げた肉体を隆起に傷を塞ぐことは出来る、負傷ともいえない掠り傷。

 だが――青い卵達に、この身に傷をつけられたという事実は覆らない。

 

 心底悔しそうに表情を歪め、ごほっと、交錯際にその身に流された神通力によって吐血する鴨桜。

 自分が奴に触れていたように、奴もこの身に触れていたのか――種は分からないが、この若い芽を、自分が計り切れていないのは確かだった。

 

「――――」

 

 一瞬、思案する。

 部下を束ねる立場にあったモノとして、家族を守らなくてはならない立場にあったモノとして――感じた可能性に、未来に、それを潰していいものかと、躊躇する自分がいるのを自覚する。

 

 だが――。

 

「――だからこそ、私は貴様等を摘まなくてはならない」

 

 天狗は再び、虚空に神通力の刃を生み出し――放つ。

 だが、それの矛先が向けられたのは、吐血しながら落下する鴨桜でも、既に青龍の背中に引き戻された月夜でもない。

 

「――っ!」

 

 これまで、この空中戦を支えていた士弦――彼が相棒を救うべく伸ばしていた念糸だった。

 

「いくら不可視であろうと、これだけ繰り出されれば、いい加減その対処も学ぼうというもの。糸を視覚ではなく、貴様の妖力で察知すればよい。己が武器を過信したな――首無」

「くっ!」

 

 そして、士弦の念糸を失えば――翼なき彼らに、天狗を相手に(そら)で戦う術などない。

 

「くそ! おい! この龍に鴨桜の元へ行くように命じろ! 落下する鴨桜を受け止めろと!」

「それは無理だ。言っただろう。青龍はただ目的地に我らを運ぶだけだ。攻撃をすることも、避けることもしない。ましてや特定の対象物を救うことなどな」

「そんな!?」

 

 士弦が何度も糸を放つ。雪菜が再び足場にと氷の盾を何とか生み出す。

 だが、それは鴨桜に触れるよりも前に、見えない神通力によって断たれ、砕かれる。

 

(――奴等の要は、この半妖。まずはこの若者を、コイツ等の前で確実に殺す)

 

 助けられない。

 士弦の、月夜の顔が苦渋に染まり、雪菜の双眸に涙が溢れる。

 公任が険しく表情を歪め――そして、道長は、何かを見定めるように目を細める。

 

「――終わりだ」

 

 止めとばかりに、鞍馬は落下する鴨桜に掌を向けて。

 

「やめろぉぉぉぉぉおおおおおおおお!!!」

 

 士弦の叫びを無視するように、神通力の衝撃波を鴨桜へと放った。

 それをまともに受けた鴨桜は――ぐんっと、砲弾のように、その動けぬ身体は平安京の大地へと向かって放たれて――。

 

 

――それを、闇夜から跳び上がってきた、大犬(おおいぬ)の背中が受け止めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 突然、現れた天翔ける巨大な黒犬に、鞍馬も、士弦も月夜も雪菜も、公任も呆然とする。

 

 そして、ただ一人道長は、いつの間にか青龍の背中に乗っていた、新たなる妖怪達へと目を向けていた。

 

「……なるほどな。これが、君の――百鬼夜行か」

 

 龍の背中には、新たに二体の妖怪がいた。

 

 この黒い闇夜の中でゾッとする程に不気味に浮かび上がる白い女と、何故か片袖のみ着物を着ていてびちょびちょの身体に刺青のような絵を刻み込んである謎の爬虫類。

 

 刺青を入れた爬虫類は水かきの付いた手を、真っ白の着物の女はその病人のように白い手を――それぞれ宙を泳ぐ天狗へと向ける。

 

 爬虫類の手から、砲弾のような巨大な水の塊が連射される。

 白い女の手から放たれた冷気が――それを巨大な氷塊へと変えた。

 

「――むう!」

 

 そして、それは連射された。

 まるで未来の散弾銃という兵器のように、弾幕で視界が埋め尽くされる。先程の雪菜が作り出した氷の盾の森が、今度は氷塊の砲弾によって創り出されたような光景だった。

 

 妖怪・雪女。そして、妖怪・河童。

 彼等の突然の登場に気付いた士弦達が、驚きと共に声を上げる。

 

「長谷川さん! 白夜さんも!」

「……お母様――どうして、ここに……」

 

 つるりと、水かきの付いた手で頭頂部の皿を触り、眼帯のように顔半分に巻かれた包帯に覆われていない片目を細めて、妖怪・河童――長谷川(はせがわ)は士弦に言った。

 

「――決まっているだろう。不甲斐ない若造共の尻拭いだ」

 

 ふわりと、病人のように白く冷たい手で娘の頬を触り、真っ白に伸びきった髪の間から覗く両目を細めて、妖怪・雪女――白夜(はくや)は雪菜に言った。

 

「――決まっているでしょう。可愛い娘達のお迎えよ」

 

 そして、くしゃりと。

 ごつごつとした男の手を乗せて、闇夜に浮かぶ漆黒の翼を広げた天狗を見上げつつ、黒い猫耳の生えた頭を撫でながら――その妖怪は、月夜に言った。

 

「よく頑張ったな、黒猫。後は――儂等に任せるがよい」

 

 嵐のように襲い掛かった氷塊を突風の盾で防ぎ、それをも突き破ってきた氷塊を神通力で時を止めたように完全に受け止めてみせた天狗に、「――流石は鞍馬の大天狗だな」と黒犬は呟きながら、背に乗せた半妖――鴨桜の意識の覚醒を感じる。

 

「…………刑部、さん」

 

 妖怪・犬神――刑部(ぎょうぶ)

 四国地方に伝わる憑き神と呼ばれる妖怪の一種。

 

 地に顔だけ出して埋めた犬に、目の前に食糧を置いて飢えさせ、死の間際に首を落として――呪いとすることで妖怪となった化物(ケモノ)

 

 刑部はその力で四国を支配下に置いていた妖怪であり、百鬼夜行では唯一、総大将たるぬらりひょんと家族の杯だけでなく、義兄弟の契りも交わした男でもある――妖怪大将の『右腕』。

 

「目を覚ましたか、鴨桜。先程の“(げん)”――不完全ではあったが悪くなかった。攻撃をくらいながらも“(えい)”は決めたことも、成長を感じた」

「……条件は揃ってた。それで決めきれないんだから、俺の未熟だ。あんまり甘やかさないでくれ」

 

 鴨桜の身を起こしながらの言葉に、黒犬は「――ふっ。それを己で認められるようになっただけでも、やはり成長を感じるとも」と笑う。

 自由を極めている総大将に代わって、実質的に組織を運営している立場である刑部には、鴨桜も実の父親以上に頭が上がらない。

 

 だが、徐々に、鴨桜は――そんな組織の纏め役である刑部が、そして百鬼夜行の幹部たる長谷川や白夜がこの場に来ているという事実に、その覚醒した頭を巡らせて――。

 

「……何で、居るんだ」

「…………鴨桜。聞け、我々は――」

「何で! …………ここに……居るんだよ」

 

 既に鴨桜の言葉は刑部に向けられていなかった。

 

 黒犬の背に立って見上げる先に居る、青龍の背に立ってこちらを見下ろす男に向けらていてた。

 

 決してここに居てはいけない男へと――大事なものを預けて、任させた筈の。

 

 ()()へと――それは向けられていた。

 

「――――ッッ!!」

 

 鴨桜は、口元の血を拭い、溢れんばかりの怒りを込めて――叫ぶ。

 

「何でここに居んだよ――クソ親父っっ!!!」

 

 妖怪大将・ぬらりひょん。

 真っ黒な髪を、真っ暗な闇夜に流す男は、いつも通りの笑みを浮かべて、戦火の平安京を見下ろしていた。

 




用語解説コーナー㊹

・鞍馬天狗

 古来より京の鞍馬山にて神通力の修行に勤しむ天狗たち。

 鞍馬山、そしてその御山に建立された鞍馬寺は天狗にとっての聖地であり、この地で修行をした天狗は、在野の天狗と比べて別格の神通力、ひいては戦闘力を誇る。

 そして、当代で最も強力な力を持つ天狗に『鞍馬』の称号を受け継がせていて、当代の『鞍馬』は実質的な鞍馬山の、そして天狗という妖怪の長のような立場となる。

 かつて天狗は鬼に匹敵する知名度と勢力を誇っていたが、妖怪大戦争時には既に有力な勢力は鞍馬山総本山を残すのみとなっていて、その鞍馬山も狐の姫君の支配下に落ちている。


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妖怪星人編――㊺ 桜吹雪問答

あなたがその野望を再び燃やすのなら、私はあなたを燃やしましょう。


 

「どんな願いでも叶える力――それが、平太という少年の中に渦巻く『力』の正体よ」

 

 怪異京――平安京の裏側の世界。

 その片隅に建つ川辺の屋敷の、広い庭にぽつんと咲く一本の枝垂桜(しだれざくら)を見上げるようにしながら、その『狐』は呟くように言った。

 

 既に『きゃらづくり』を再開することも早々に放棄した彼女は、神秘的な、神を秘しているが如き美しさを放つ、満開に咲き誇るその桜の枝に膝を立てて座り、己を見下ろす男に向けて。

 

「妖怪・座敷童は『運命の流れ』ともいうべき『世界の理』に触れることが出来る。そればかりか、その方向性を、指向性を、僅かばかりでも操作することが出来る異能を持つ。彼ら彼女らが『神』と呼ばれる上位存在として信仰を得ている理由の一つね」

 

 そう、神秘的な桜の中に佇む男を揶揄するように、狐の美女は言う。

 清流が如き艶やかな、常夜のように密度の濃い黒髪の男――妖怪・ぬらりひょんは、そんな狐の言葉に笑みを浮かべて。

 

「だが、本来であるならば、一体の――それも未熟な座敷童が手繰り寄せられる運命の流れの量などたかが知れている。それがどういうわけか、あれほどまでの量を、あれほどまでの密度で手繰り寄せた挙句、それが一体の幽霊の器の中に注ぎ込まれ――『箱』として収まっている。こういう言い方は好きじゃねぇが、正しく」

 

 ()()だ――と、ぬらりひょんは、狐の言葉を継ぐように言った。

 

 男の言葉に女は――狐は、その微笑を崩さない。

 

「正確にはそれは、どんな願いも叶えるなんて便利なものじゃねぇだろうが。それでも、少なくとも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()くらいは可能だろう。使い方によっちゃあ、正しく願いを叶える『箱』にもなり得るだろうな。あれだけの莫大な『運命の流れ』を上手いこと使えば、この日ノ本をどんな形に『改変』することも出来るだろうよ。妖怪大戦争なんて比じゃねぇ。誰が死のうが、誰が生き残ろうが、関係ねぇ。あれを手にした奴こそが、実質的な戦争の勝利者といえる。だからこそ、お前さんも真っ先にここに来たんだろう?」

 

 本来ならば『鬼』も、お前さんみたいに何を差し置いてでも獲得しに来なくちゃあいけねぇくらいの『爆弾』だとぬらりひょんが言うと、『鬼』の皆さんはどいつもこいつも戦闘民族で戦うことしか頭にないからなぁと、肩を竦めるようにして『きゃら』を一瞬、取り戻した所で。

 

「――――だからこそ、出来過ぎだとは思わねぇか?」

 

 ぬらりひょんは、常夜の世界に浮かぶ月を――現実の平安京と表裏一体に繋がっている月を。

 

 真っ赤に染まった、満月を見上げる。

 

「正しく奇跡の『箱』――そんなもんが、妖怪大戦争目前の、それも平安京の内部の、『鬼』も、『狐』も、みんなが見ている目の前で完成する。そんなことが、あると思うかい?」

「…………」

「案の定、それは戦争開戦の為に切って落とされる火蓋になった。だが、肝心の戦争が始まってみても、その景品たる『箱』は、『鬼』でも『狐』でも、そして『人間』でもない――『その他』勢力が持って逃げ回っている。……なぁ、()()()()()()()()()じゃねぇか。まるで物語を面白くするために誰かが演出してるみてぇだなぁ」

 

 まるで舞台袖の暗闇に向かって語り掛けるように、その妖怪は言った。

 桜のはなびらを浴びる『狐』は、そんな妖怪の言葉に微笑みを崩さない。

 

「――何が望みだ? 狐の御姫様よ」

 

 そんな狐の微笑みを凍らせるように――ぬらりひょんが狐の背後を取る。

 

 目を離した瞬間――否、一瞬たりとも目を離してなどいない。

 にもかかわらず、桜吹雪に紛れるように、ぬらりひょんは枝垂桜から降り立ち、化生の前の背後に着地していた。

 

 思わず振り向きかける化生の前。

 だが、ぬらりひょんもまた、彼女の背中に――己の背を向けていた。

 

 互いに背中を預けるように――互いの腹を探り合う。

 まるで表と裏を繋げる月のように、互いの奥底を覗き合おうとする。

 

「結局、お前だけだった。願いを叶える『箱』に、真っ先に手を伸ばしたのは。あの『箱』の真価を、あの『箱』の危険性であり可能性を、見抜いたのは。それはつまり、お前の目的は、戦争でも、鬼でも、日ノ本でも――月でも、ない。もっと遠い、それこそ、奇跡でもなければ届かない代物ってことか」

 

 お前の叶えたい願いとは――何だ。

 

 そう、口元を歪めながら問い掛ける背後の男に。

 

 くすりと、『狐』は笑った。

 妖しく、恐ろしく、おどろおどろしく――美しく。

 

「――聞いていたのと、随分と性格が違いますなぁ。飄々と掴みどころがないのが、妖怪・ぬらりひょんの『きゃら』とちゃうん。何をそんなに――焦っておられるんどすか? 妖怪大将はん」

 

 女の言葉に、妖怪の男の笑みが消える。

 

 一際強い風が吹く。

 

 男と女は互いに振り返り――向かい合った。

 

 桜の花の中で、赤い月光の下で、男と女は――ぬらりひょんと化生の前は、言葉の刃の切っ先を突き付け合う。

 

「私のどうでもいい目的など、私のちっぽけな野望など、私のささやかな願いなど、知る必要はないでしょう。それがどんなものであるにせよ、あなたは私に『箱』を渡すつもりなどないのだから」

 

 それでも、あなたが私に願いを聞いたのは――『狐』は笑う。

 獣のように、化物のように――血を舐めるように、笑って、言う。

 

「他でもないあなたに、叶えたい願いがあるから。その為に、あの『箱』を開けたいと、そう願う心が、あなたの中に息を潜めているから――違うかしら? 妖怪大将さん」

 

 舞い散る桜のはなびら、そして伸びきった黒髪によって、男の顔は――その心は、見えない。

 

 女は、そんな男の正体を暴くべく、鈴を鳴らすように美しい声で語る。

 

「私は『鬼』と違い、『人間』を侮ってはいません。だから当然、こうして『本番』を迎える前に、やるべきことはすましています。『人間』の中でも最も警戒すべき『人間』――安倍晴明と懇意にする、手足でも道具でも式神でもない、『友人』という立ち位置を獲得している妖怪のことなど、徹底的に調べ上げるに決まっているでしょう?」

 

 例え、警戒されないのが妖怪・ぬらりひょんの『きゃら』であろうと――男の胸に人差し指を突きながら、『狐の姫君』・化生の前は言う。

 

 そんな怪しくて、妖しい存在を、この私が、逃がすわけがないでしょう――と。

 

「調べるのは多少苦労はしましたが、調べれば調べるだけ興味が湧いてきて、とっても楽しかったですよ。調べれば調べる程――あなたがどれだけ怪しい妖怪なのかが判明するんですから」

 

 妖怪・ぬらりひょんは、およそ百年前に平安京へと来訪した。

 時は菅原道真公という大悪霊の大暴れが記憶に新しく、その上、坂東では平将門という魔人の脅威が増していた――平安京が混乱の坩堝に陥っていた頃。

 

 その隙間を、まるで狙い澄ましたように、ぬらりひょんは己が引き連れる百鬼夜行と共に結界を抜けて、平安京へと侵入した。

 

「当時は京の空を天狗が飛び回っていましたが、あなた方はうまくやり過ごし、平安京の裏となる神秘郷――この怪異京を見つけ、その中で暮らすようになった。以降、現在まであなた方は、実に上手く平安京へ溶け込んでいた。あなたの息子なんか、この平安京を己の京だと、そう恥ずかしげもなく言い放つくらいですもの。よっぽど楽しい日々だったのでしょう」

 

 あなたは上手くやった。でも、そもそもの話です――と、狐の美女は、まるで男の首筋に口づけをするが如く、その美貌を至近距離まで近づけ、ゆっくりと、その唇を、耳元へと持っていき、囁くように。

 

「あなたは、どうして――平安京(このまち)へやって来たのです?」

 

 平安京は――妖怪にとっての死地である。

 人間達の中心地であるこの場所は、平安武者に陰陽師――妖怪にとっての天敵で溢れている。

 

「それでも、あなたは平安京の中で暮らすことを選んだ。結界を潜り、天狗の目を盗んで、己が戦力も引き連れて、安倍晴明に接触まで図った。何らかの目的が、何らかの野望が――譲れない願いが、あなたにはあった。そう考えるが妥当でしょう。そう考えなければ辻褄が合わない」

 

 あなたの叶えたい願いとは――なあに?

 

 そう、口元を歪めながら問い掛ける眼前の女に。

 

 にやりと、『妖怪』は笑った。

 妖しく、恐ろしく、おどろおどろしく――美しく、笑い。

 

 抱き締めるように――女の首筋に、ドスの白刃を添えた。

 

「……………」

 

 笑みを消す女に――『妖怪大将』・ぬらりひょんは言った。

 

「知らねぇな。仮に、そんな御大層な願いとやらが、この儂にあるとしてだ。テメェこそどうする? 儂がお前の大事な『箱』を、先に開けちまいかねないような奴だったとしたら、お前はどうするつもりだ? 儂の大事な大事な『箱』を、先に開けちまいかねないお前のような奴を――」

 

 儂は、どうするつもりだと思う? ――にやりと笑う黒い男に、狐の女は、にやりと、笑う。

 

「あなたに私が殺せるとでも?」

「やってみなくちゃ分からないぜ。儂ってば、お前の言う通り――怪しくて、妖しい、色男だからな」

 

 もしかしたら、サクッと殺せる裏技を隠し持ってるかもな、と、気が付けば己を包み込もうしている九本の尾にも目を向けず、ぬらりひょんは化生の前の首筋に白刃を添え続ける。

 

 男と女は、吐息がかかるような至近距離で、互いに笑みと――殺意を、向け合う。

 

 数秒――沈黙が支配する。

 そして風が吹き、桜吹雪が両者を包み込もうと、激しく舞った――その瞬間。

 

「あらあら。そのように熱く見つめ合って――妬けますね。けれど、そこまでにしてもらえますか?」

 

 密着する二人を引き離すように、横から声が割り込んだ。

 

 屋敷の方から庭に下りて、二体の妖怪の元へと近寄ってくるのは――美しい桜色の髪をした、一人の『人間』。

 

「――桜華(おうか)……ッ! 何でここにいる! 逃げろと言っただろう!」

 

 これまで『狐の姫君』を前に、至近距離で相対していても、その不敵な笑みを崩さなかった妖怪大将が、ここで初めて声を荒げた。

 

 桜華――そう呼ばれた人間は、しかしその怒声を浴びせられても「こんなことになるんじゃないかと思って、私だけは残っていたんです。他のみんなは避難していますよ」と、穏やかに笑いながら、近寄る歩みを止めない。

 

「ここは私達の家――家族が暮らす家です。物騒なことはやめてください。この美しい桜を、血で(よご)したくはありません」

 

 なので、どうかお引き取りを。偉大なる狐の姫君――と、桜華は化生の前に頭を下げる。

 

 そんな人間の女を、狐の女はじっと見詰めた。

 

 桜色の髪を。穏やかな佇まいを。

 美しい身体を。そして――強い、心を。

 

「…………なるほどなぁ」

 

 そう呟き、狐はそっと、男から離れた。

 ぬらりひょんもドスをゆっくりと仕舞い、桜華を庇うように前に出る。

 

「不思議に思ってはいたのよ。何かを企んでいる筈とは思っていたけど、それにしてはずっと大きな動きもなく、ずっと裏に引き籠っているから。時機を見計らっているにしてもね。でも、まさか()()()()()()()()()()()とは。可愛いところあるじゃない、妖怪大将ちゃん」

「余計なお世話だ。ちゃん付けをするな」

「健気な奥さんに免じて、ここは引いてあげましょう」

 

 そう言って、狐は夫婦に背を向ける。

 九本の尾が揺れる背中に、ぬらりひょんは言った。

 

「いいのか? 『箱』の――平太の居場所を聞かなくても」

「いいも何も、もうここにはいないのでしょう。少なくともこの怪異京の中には。逃がす為の時間は、たっぷり稼がせてあげたつもりですけど」

 

 ふっと、お互いに笑みを交わす。

 どうやらこちらの思惑はお見通しらしかったが、ならばとそこで新たな疑問が浮かぶ。

 

「あなたとお喋りしてみたかったのよ。あのいけすかない『妖怪の天敵』が、()()()()()()として認めた妖怪である、あなたとね」

 

 狐の姫君は「さて、どうせあなたは『箱』の逃げ先を言わないでしょう。ならばこれ以上の長居は無用。お暇させていただきます」と言い――そして。

 

「――ぬらりひょん。あなたがその野望を再び燃やすのなら、私はあなたを燃やしましょう。美しい狐火で、その醜い野望ごと」

 

 どうか、可愛い奥さんを、泣かせない選択をしなさいな――そう微笑み、狐の姫君は桜吹雪に紛れるように消えていった。

 

「…………行ったか」

「美しい方でしたね」

 

 当面の脅威が去ったことに対する呟きに、随分と平淡な言葉が返ってきた。

 遠回しに見知らぬ女性との密着を咎められているような気分にさせられた。あれはそんなロマンチックなものではなく、純粋に命の危機だったのだが。

 

 ぬらりひょんは気圧されそうになった心をぐっと踏ん張って。

 

「――ふみゅ!?」

 

 愛する妻の額に弾いた中指を当てる。

 そして、溜息を吐いて、苦言を呈した。

 

「……もうあんな真似はするな。あやつは狐の姫君――ああ見えても、今の日ノ本で最も危険な妖怪だ」

「……そんな妖怪と楽しそうに密着していたのは何処のどなたですかね」

 

 桜華はそんな風に不満気に頬を膨らませたが「……ごめんなさい。もうしません」と頭を下げた。そんな下げた頭を、ぬらりひょんは大きく溜息を吐いて「――まぁ、俺も助かった。ありがとな」と優しく撫でた。

 

「――とにかく、お前は逃げろ。取り敢えずの危機は去ったが、この先もここが戦場にならないとは言い切れない」

「……あなたはどうするのですか?」

「鴨桜との約束は守れなかったからな。取り敢えず――息子に叱られてくるさ」

 

 それでも息子との約束の為ならば、このまま逃げた平太達の後を追うべきなのだろうが、『狐の姫君』が己に目を付けていると判明した以上、自分が再び合流したらかえって『箱』の在処を知らせることに繋がりかねない。

 

 折角、逃亡の時間稼ぎには一応は成功した以上、平太達はこのまま羽衣に任せた方がいいだろう。

 

(一応、保険は掛けておるしな)

 

 桜華はぬらりひょんの背に回り、彼が身に付けている黒い装束の皺を伸ばしながら言う。

 

「――お帰りは、いつ頃になりそうですか?」

「恐らくは朝になると思う。――ああ。朝にはきっと、この戦争も終わるだろうさ」

 

 だが、きっと、長い夜になる――そう告げると、桜華は正面に回り、夫の顔を見上げて、微笑んだ。

 

「ご武運を。美味しい朝ご飯を用意してお待ちしています。家族みんなでいただきましょう」

 

 どうか、あの子を、お願いします――そう言って、手を握って。

 

「……私はあなたのものです。ですから、あなたが、どのような道を選んでも、どこまでも付いて行きます――だけど、どうか、これだけは忘れないで」

 

 私達は――家族です。

 その言葉に、ああ――見透かされていると、ぬらりひょんは思った。

 

 きっと――見透かされている。

 自分の中の、この燻火を。

 

 目の前の妻にも、狐の姫君にも――そして、あの『人間』にも。

 

 恐らく、今宵――選択の瞬間が訪れるのだろう。

 その蓋を開けるかどうか、自分はきっと、岐路に立たされることになる。

 

 分かっているさ――分かっているとも。

 そんな思いを込めて、鴨桜は潤んだ瞳で見上げる妻に。

 

「――行ってくる」

 

 こうして、妖怪大将は、妖怪大戦争の戦場へと降り立つ。

 

 その他勢力ではなく、一人の願いを持った戦士として。

 

 大事な家族を守る――大黒柱としての責務を果たす為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平安京――最奥。

 一つの小さな屋敷を囲むように、結界の御簾(みす)を下ろした男は、最後に鍵を閉めるように、両手を合わせ、呪文を唱える。

 

(――これで、取り敢えずは、隔離完了だな)

 

 貴族、その家族。更には中宮、女御、その家人達――そして、帝。

 平安宮の主だった中心人物達の避難は完了した。秘密裏に年月を掛けて仕掛けを重ねていった為に、この結界は平安京を囲む結界や平安宮を囲む結界よりも更に強固だ。それこそ酒吞童子が全力の呪力をぶつけでもしない限り、例え今宵の妖怪大戦争の余波をどれだけ浴びせかけられようとも脅かされることはないだろう。

 

(無論、私がここから離れないという前提の上で、だが)

 

 結界とは、結界を張った術師が近くにいればいるほどに効力を高める。

 見張りを務めなくてはならない為に中に入ることは出来なかったが、こうして屋敷の入口に座り込んで、戦火を遠くから眺めている上でならば、最大に近い力を発揮することが出来るだろう。

 

 しかし、平安最強の陰陽師――安倍晴明は、平安京全土を巻き込んだ妖怪大戦争の戦況を、こうして眺めるまでもなく、手に取るように、平安京全体を把握し、戦争の趨勢を見透かしていた。

 

(朱雀門は無事に『騰蛇』に変身完了。二対二ならば金時は悪路王に勝つだろう。鈴鹿御前もこれ以上、生かしておく理由はない。ここで処分だ)

 

(貞光と季武に、道真公の相手は荷が重いか。天邪鬼もそろそろ本来の己を取り戻すだろう。――お客さん(飛び入りゲスト)もすぐ傍までやって来ている。『彼ら』に相手をしてもらおうか)

 

(頼光も酒吞童子にはまだ及ばないが――ここは綱に任せていればどうとでもなるだろう。……紅葉をここで殺す以上、やはり、やり直しは許されない。今宵、この戦争で全ての決着をつけねば)

 

(青龍の元にはぬらりひょんが追い付いたらしい。若き種達もよく時間を稼いでくれた。彼等が『手』に着く頃には茨木も掃除を終えているだろう。――大丈夫だ。『計画(プラン)』通りに、事は進んでいる)

 

 ただ一つ――誤算だったのは。

 

 見透かせて――いなかったのは。

 

(さとり)を解放したのは尚早だったのではないですか? ――折角、傍に置いてあげていたのに」

 

 この最奥の屋敷の入口は、結界で偽装している。

 余りに強度の高い結界を剥き出しにしてしまうと呪力で気付かれてしまう危険性があった為に、あくまで入口は偽装で済ませ、見つけにくい細工を施してあった。

 

 だが、目の前の女は、そんな小細工などまるでなかったかのように、真っ直ぐにこちらに向かって歩み寄ってくる。

 

「確かに平太少年は、今や願いを叶える夢の『箱』――けれど、その『箱』にはきちんと『封』がされている。ならば、それを開ける『鍵』がなければ、『箱』だけ手に入れても、文字通りの宝の持ち腐れ」

 

 そう――『鍵』を隠し持っている、『安倍晴明(あなた)』を押さえなければ話にならない。

 

 九本の尾を揺らす『狐』は、未だ腰すら上げない男に――『妖怪の天敵』たる、史上最強の陰陽師に向かって言う。

 

「初めまして――安倍晴明」

 

 全てを見透かす陰陽師は、ここに来る筈ではなかった来訪者に――『妖怪王の器』たる、狐の姫君に向かって言う。

 

 

「久しぶり――――()()()

 




用語解説コーナー㊺

・桜華

 ぬらりひょんの妻となった『人間』。

 二十年前、囚われの姫であった彼女を、ぬらりひょんが誘拐し、怪異京へと連れ去ることで結ばれた。

 ぬらりひょんの人間への傾倒の元凶だと彼女を認めていない百鬼夜行の幹部も多いが、それでも百鬼夜行を己の家族だと愛し、常に笑顔を絶やさない彼女のことを好むモノ達も多い。

 とある特殊な『力』を持った家系の生まれであり、それは髪の桜色と共に、己の血を半分流す息子へと受け継がれている。


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妖怪星人編――㊻ 泣いた赤鬼

残念だが――お前じゃ、無理だ。



 

 それは――まだ都が奈良の地にあった頃。

 

 朝廷の支配が及びきらない遠い蝦夷の地に、一体の『妖怪王』が誕生しようとしていた。

 

 かの鬼の名は大嶽丸(おおたけまる)

 突如として現れたその妖怪王は、日ノ本の歴史上初めて、生まれも育ちも、見た目も能力も、性格も習性も、言語も肌の色も異なる妖怪達を、一つの勢力として纏め上げ――蝦夷を一つの『国』にした。

 

 蝦夷の地に、妖怪王国を立ち上げたのだ。

 

 王となった大嶽丸は、自らを阿弖流為(アテルイ)と名乗り、平城京から送られてくる勢力を幾度となく追い返した。

 

 やがて、朝廷が無視出来ないどころか、脅威を――恐怖を覚える程に巨大化していった蝦夷を、そして阿弖流為を何としても打倒する為に。

 

 平城京は、とある武将を蝦夷へと送り込んだ。

 朝廷が初代征夷大将軍の座を与えた、その男こそが――坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)である。

 

 この世紀の邂逅を皮切りに、数々の壮絶なる物語が繰り広げられることとなるが。

 

 それは今宵の本題ではない為、早々に結論だけを語ると、その物語の結末として、妖怪王と初代征夷大将軍は――殺されることなった。

 

 阿弖流為も、そして、坂上田村麻呂も。

 怪物も、英雄も、揃ってその首を落とされた――『人間』の手によって。

 

 英雄を失った平城京は、やがて一人の僧によって混乱の極地に陥り、都を長岡へ、そして京へと移すことになり。

 

 王を失った蝦夷は、それを再び纏め上げる新たなる王が終ぞ現れることはなく――ゆっくりと勢力を失い、再びそれぞれの種族がバラバラに暮らすだけの僻地と化した。

 

(……そう。俺はなれなかった。あの方の後を継ぐことも。あの方を失った蝦夷を纏めることも。……俺は――『阿弖流為』にはなれなかった)

 

 田村麻呂と共に、京へと出頭することを決意した大嶽丸は、当然――覚悟していた。

 

 己の死を――だからこそ、託していたのだ。

 

 誰よりも懸命に自身の背を追っていた、小さな鬼に。

 決して自分のような生まれながらの最強ではないが、誰もが自分を崇めるだけの中で、ただひとり――()()()()()()()()()()()と、そう無邪気に口にした、未来ある子鬼に。

 

 頭を撫でで、背中を向けながら――呪いを残した。

 

『――阿黒(あくろ)よ』

 

 後は頼む。俺のようにはなるな。

 

 

――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

(――ああ。分かっている)

 

 だから――なると誓ったのだ。

 

 あの鬼神魔王すら超える鬼に。

 

 新たなる阿弖流為に。誰もが認める妖怪王に。

 

 だから――俺は。

 

 

 強くならなくては、いけないのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 振り下ろされる鉞と、振り上げられる拳が激突する。

 鉞の刃を横から叩くような軌道で振るわれた拳は、鬼を縦に両断しようとしていた鉞を真横に弾く。

 

「――ちっ!」

 

 だが、鉞を振るう武者――坂田金時は、弾かれたその勢いを利用して体ごとぐるりと一回転させ、螺旋の力を上乗せした横凪ぎの一撃で、今度は横に真っ二つに両断しようと再び鬼に向かって鉞を振るう。

 

 小柄の鬼――悪路王(あくろおう)は、咄嗟に後方に跳んで躱そうとするが、空中で自身の体に裂傷が生じているのに気付く。

 

 躱しきれなかった――傷は深くはないが、自身の体外に撒き散らされている鮮血を見て。

 

「はは――!」

 

 笑う――金時の柔軟な対応力に、その類稀なる戦闘センスに対して、思わず浮かび上がったという風に、楽しそうに笑う。

 

「素晴らしいな。まさしく戦う為に生まれたような男だ。正直、あっさりと(さとり)の突破を許したときは落胆したが、一対一の戦いは楽しいぞ! どうやらごちゃごちゃと難しいことを考えるのは向いていないとみえる」

「うるせえ! 余計なお世話だ!!」

 

 事実――それは確信を突いていた。

 坂田金時という男は間違っても頭脳派ではない。山育ちで碌な教育など受けていないというのも勿論だが、なまじ強力な力を生まれ持ったばかりに、大概の戦闘は力押しでどうにかなってきたので、ごちゃごちゃ考える前にとりあえず殴ってきた。

 

 だからこそ、先ほどまでの三対一の戦闘では、彼の本領は発揮されなかったことだろう。

 ごり押しで力任せに一掃することが出来る状況ならばまだしも、それが通用しない多対一は、彼の苦手分野といっていい。

 

(そんなのは失態を犯した言い訳にすらなりはしねぇが――結果的に、やることは単純になった)

 

 覚が突破したことで、この朱雀門跡にて立っているのは、坂田金時と悪路王、鈴鹿御前と式神・『騰蛇(とうだ)』の、一人と三体。

 

 状況は二対二だが、悪路王も鈴鹿御前も各々が協力し合う体制には見えない。こちらも『騰蛇』とは初対面だ。その能力も戦闘スタイルも理解していない。

 

 ならば、それぞれ一対一で、目の前の敵を倒すことに全力を注ぐことが出来るというもの。

 

(どうやら『貴人』や『勾陳』みたいに言語による意思疎通ができるわけじゃなさそうだが、俺には一切襲い掛かってこないところを見ると、敵味方の判別はついてそうだ)

 

 ちらりと金時は、騰蛇と鈴鹿御前の戦いを見遣る。

 巨大な身体に似合わない敏捷性を持って暴れる騰蛇を、それを上回る敏捷性を持って躱しながら、鈴鹿御前は鎧武者に立ち向かっている。

 

 一撃一撃が必殺の重さ。

 身に纏う鎧は鈴鹿御前の狐火を、まるで無効化するように弾き飛ばす。

 

「――――くっ!」

 

 鈴鹿御前の美貌が険しく歪む。

 安倍晴明最強の式神――『十二神将』が一角・『騰蛇』。その看板に偽りはないらしい。

 

「――言ったそばから考え事か?」

 

 目を、意識を逸らしたのは一瞬――だが、四天王同士の戦闘において、それは余りに大きな隙となり得る。

 

「ちっ――」

 

 金時は咄嗟に鉞を盾にするように構える。

 瞬間、その鉞に腰の入った拳が激突した――。

 

「かっ――ッ!?」

 

 金時は肺の中の空気を吐き出すように呻く。

 走った激痛――その出所は、拳を防いだ正面、()()()()()()()()()

 

 受け止めた拳は間違いなく全力の一撃だった。

 だが、その鉞を盾のように構えたことで生じた、僅かな視覚的隙――それを突くように、小柄な体を生かした悪路王は、低く伸びあがるような蹴りを、金時の左脇腹へと突き刺していた。

 

「――――っ!」

 

 だが、それで膝を折るような金時ではない。

 むしろ、そのまま己の脇腹に突き刺さった足を――挟むように。

 

「ぬ!?」

 

 己の肘で悪路王の足を固定し、逃がさぬようにして――発雷する。

 

 瞬く閃光。

 先程身に付けた、己の身体全体から発する雷。

 

 己の身も焼く諸刃の剣だが、雷に愛された金時と、呪力の性質変化が出来ない鬼――どちらが雷に耐性があるかなど比べるべくもない。

 

「ぐぁぁあああああああ!!!」

 

 悪路王は雷に全身を灼かられながらも、片足で跳び上がり、その足で金時の身体を蹴るようにして拘束から脱し、距離を取る。

 

 金時はすぐに追撃を行おうとするが、先程の脇腹への一撃によるダメージが思ったよりも重く、一瞬ふらついてしまった。

 

(――っ。……鬼は妖力によって肉体性能に差が生まれる。デカければデカいほど強いってわけじゃねぇ。その身に込められた妖力こそが全てだ。だから、あの鬼がいくら小柄だろうと、その一撃が軽いってわけじゃねぇことは分かる――が)

 

 なんだ、これは――と、思わず脇腹を押さえながら金時は眉を顰める。

 

 重い――重さ、という意味では、これよりも重い攻撃を食らわしてくる妖怪は数える程だが相対してきた。

 茨木童子。土蜘蛛。それに――。

 

(……そうだ。この重さ。……嫌な、重さ。これは、土蜘蛛や茨木よりも――)

 

 はははと、笑い声がした。

 見れば、全身に雷を浴びた悪路王が、ゆっくりと立ち上がろうとしている所だった。

 

 全身に焦げ臭さを漂わせながらも、その笑みは正に――狂喜に染まっている。

 

「……いいぞ。実にいい! 流石は――()()()()()()()()()()だ」

 

 悪路王は――瞳を赫く耀かせながら、笑う。

 

 金時は違和感を覚えた。

 自分が酒吞童子のお気に入りという言葉にもだが――悪路王が、酒吞童子と、そう敬称を付けずに名を言ったことに。

 

 大江山の支配下の鬼の中で、それが許されていたのは――少なくとも金時が知る限りでは――『右腕(茨木童子)』と、『(鬼女紅葉)』の二体だけだったからだ。

 

 思わず、金時は疑問の言葉を口に出した。

 

「……酒吞の?」

「ああ。源頼光や安倍晴明は殺してもいいが、坂田金時(おまえ)は殺すなと、そうお触れが出ているくらいだ。お前は自分の手で殺したいらしいぞ。愛されているなぁ、色男よ」

 

 かははと悪路王は顔に手を当てながら笑う。

 その言葉に金時は一瞬、口を閉じるが――すぐにまた、口を開ける。

 

「――はっ。お前は頭領の御言葉に逆らっていいのか? 後で怒られるんじゃねぇの?」

「どうでもいい! 俺の(かしら)は――今も昔も、()()()()だけさ! 大江山には、酒吞童子の元には、強い鬼が集まるから籍を置いているに過ぎない!」

 

 俺は、強くなる為に、ここにいる!! ――と、悪路王は、己の身体を赫く耀かせ、赤鬼の本性をこの上なく露わにしながら叫ぶ。

 

「お前の雷を浴びて確信した。お前と戦えば、俺は強くなれる。お前を殺せば――俺はようやく、次の段階へと進むことが出来るだろう!」

 

 だからお前を殺すぞ。坂田金時――と、悪路王は真っ直ぐに、金時に向かって指をさす。

 

「例え、酒吞童子の言いつけを破ることになろうとも。例えそれで『鬼の頭領』の怒りを買った所で、その時は、その時だ――下克上の時だ。俺は、怒り狂う酒吞童子すらも、この手で殺してみせよう」

 

 そして、俺が最強になる――そう、首を掻っ切る動作をしながら、不敵な笑みを浮かべる悪路王という赤鬼に。

 

 金時は――表情を消し。

 

 静かな声で――言った。

 

「残念だが――()()()()()()()

 

 赤い――怒りのような雷を、掌から迸らせて。

 

「面白い!! ならば俺を止めて見せろ、坂田金と」

 

 きっっっ!!!?? ――と、悪路王は最後まで言葉を発せられず、顔面を殴打された。

 

 赤い雷を纏った、坂田金時の右拳によって。

 

「ぐぶっ!?」

 

 小柄な身体は大きく吹き飛ばされ、受け身を取る間もなく、背中から地に打ち付けられる。そのまま勢いは止まらず、ぐるりと回転し、バウンドし、ようやく両足が地面に付いた時。

 

 目の前に――右腕を龍と()けた金時が接近していた。

 

「――――!!?」

 

 赤龍化。

 土蜘蛛戦でも踏み込んだ、坂田金時にとっての禁断の領域。

 

 金時は一時的に人間へと戻った山姥(やまんば)と、高位存在たる赤龍の子である。

 彼の中には、赤雷と共に龍の血が受け継がれていて、その力を引き出そうと『奥』に手を伸ばせば伸ばす程――その身は着実に龍へと近付いていく。

 

 だからこそ、金時にとって赤雷は奥の手、切札、秘中の秘である。

 これまでにその雷を赤く染めたのは数度――しかし、此度は前回の赤龍化から、まだほんの数日しか経っていない。

 

 金時としても、まさか僅かこれだけの力の引き出しで、右腕が龍へと変わったことに戸惑いを覚えていた。

 

(……段々、身体が赤龍化に慣れてきてやがるってことか。禁断の力に頼り過ぎれば、いつか必ずしっぺ返しを食らう。――分かってるよ、これが易々と触れていい力じゃねぇってことくらい)

 

 だが――今は、と。

 

 どうか――もう少しだけ、と。

 

(酒吞を――()()()()――殺す――までは――!!)

 

 金時は龍となった右腕に赤雷を迸らせながら、小柄の鬼に向かって振り下ろす。

 

「ぐぁぁあああああああああああああああああ!!!!!」

 

 赤雷に包まれた鬼は、絶叫を迸らせながら全身を赤く灼かれた。

 

「…………」

 

 金時は、仰向けに倒れる悪路王を見下ろす。

 

 しばし沈黙が包むが――()()()、と。

 再び動き出す心臓に無理矢理起こされるように、悪路王は上半身を跳ねさせながら――起き上がった。

 

「…………」

 

 金時は無言で睨み付けながら、龍の右手の拳を握り、赤雷を瞬かせる。

 

 全身をこんがり灼かれた赤鬼は、「は……はははは………はははははは」と。

 

「はははははははははははははははは!!」

 

 と――笑って。

 

 そうか――お前も。

 

「お前も――()()()()か!! 坂田金時!!!」

 

 全身を赤く染め上げられた赤鬼は――血と、雷で、赤く、赤く染まった、赤鬼は。

 

 真っ赤な瞳から、真っ赤な血を流しながら、血塗れに笑う。

 

「――いい! いい! 実にいいぞ! お前の赤雷は! その超常なる力は、実に体に染み渡る! 相性がいい! ()()()()()()()! ()()()()を! ――目覚めさせてくれる!!」

 

 ああ――やっと、目覚める、と。

 

 うっとりと、まるで夢の中で微睡むように。

 

 悪路王は呟く。穏やかな顔で――全身に巡る超常たる力に。

 

 頂上から――()()()()()()()に。

 

「……どれだけ修行を重ねても、届かなかった力。馴染まなかった異能が、ようやく巡り始めた感覚だ。……感謝するぞ、坂田金時。だから、もっとだ。もっとその赤雷を、俺に浴びせろ」

 

 金時は――目を見開く。

 

 赤く染まった悪路王の身体が――更に赤く、染まっていく。

 

 血のようにどす黒い赤に――真っ赤な妖力が溢れ出し、悪路王の身体を包み込んでいく。

 

「感じる……感じるぞ! ようやくだ! 遂に引き出すことが出来た! この超常たる異能を! 頂上たる、阿弖流為の――神に通ずる力を!!」

 

 ()()()()、『神通力』を!! ――そう歓喜の叫びと共に、両腕を広げた悪路王から、凄まじい突風が吹き荒れる。

 

 そして、雨が降り始めた。

 瞬く間に豪雨となり、それは金時と悪路王の直上のみに降り注ぐ。

 

 更には豪雨の中で鉄火が発生し、雷の鳥が舞う。悪路王は、そんな超常の中で、己の手に氷の剣を創り出しながら――笑った。

 

「もっとだ――もっと戦おう、金時。俺は、もっと、もっと強くなれる」

 

 俺は――ようやく、阿弖流為になれる!!

 

 そう、真っ赤に笑いながら分身していく悪路王に。

 

 左で鉞を、右で龍の拳を握る金時は――無表情で、冷たく告げる。

 

「……()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()()()()――どこか哀憫を込めながら、金時は超常たる異能が暴れ狂う暴風雨の中に突っ込んでいった。

 




用語解説コーナー㊻

・阿弖流為の異能

 悪路王は、阿弖流為との別れの時に、自らの末路を察した阿弖流為により、自らの異能を受け渡されている。

 酒吞童子と同じ、この日ノ本で――否、この地球でたった二体だけでの黒鬼の異能を。

 真なる外来種たる黒鬼の異能――『黒鬼の神通力』を。

 悪路王は、今日に至るまで、その異能の真価を発揮することは出来なかった。

 不幸か――幸か。

 そして、遂に、『赤龍の赤雷』という、『黒鬼の神通力』と同じ、『高位の異能』をその身に浴びたことで、悪路王へと受け継がれた、阿弖流為の異能は目覚めることとなる。

 豪雨を、鉄火を、落雷を、氷地を、分身を――この世を滅ぼす力たる、禁じられた異能を。

 その力が齎す末路を――赤鬼の戦士は笑い、赤雷の武者は哀れむ。
 


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妖怪星人編――㊼ 知に呪われし者

お前は、まるで妖怪だな。


 

 お前はまるで妖怪だな――その男は、唐突に少年に言った。

 

「失礼な。私は人の母と人の父から生まれた、正真正銘の人の子ですよ」

 

 不躾な言葉をぶつけられた少年は、声の方を振り向くことすらせず、大陸から齎された巻物を読み込む目線をピクリとも動かさない。

 

 歳の離れた友人の、そんな相変わらずさに、壮年と呼ばれるほどに月日を重ねても尚、女人を虜にする魅力を失わない色男――在原業平(ありはらのなりひら)は苦笑する。

 

「血の話ではない。心の話だ。お前は恐ろしく聡明だが、それ故に味がない――人間としての味がな」

「余計なお世話というものです。私にとっては論理こそが全てだ。感情などというものは極力排除し、理に基づくのが智というもの。好き好んで、私は無味でいるのです」

 

 未だ少年と呼ばれる年齢でありながら、全てを達観したような眼差しの男――菅原道真(すがわらのみちざね)は、その冷たい眼差しを巻物から離し、業平ではなく空に向ける。

 

 平安京の、空に向ける。

 

(――この国に、未来はない)

 

 奈良から長岡へ、そしてこの京へと都を移してから、およそ百年。

 この絢爛豪華な都は、日ノ本の民から富と生気を吸い尽くし、遠からず内に衰弱しきることは火を見るよりも明らかだ。

 

 宮中に生まれた癌細胞――『藤原』によって。

 

「……あなたも分かっているでしょう。これからは『藤原』の時代です。……帝の高貴にも、民の平穏にも、日ノ本の未来にも……彼らは目を向けない。ただただ、己が『野心』を満たす為に全てを利用する。彼らの野心には、誰も勝てない。……そして、彼ら『藤原』が統べる日ノ本に――未来はない」

 

 この平安の都――その建設当初から、中枢深くに根を張る一族・『藤原』。

 彼らが他の貴族と一線を画する、その最大の特徴が――圧倒的な、『野心』だった。

 

 帝の貴き血も、己が一族の繁栄の為の手段と断じ、娘を宛がい『血』を手に入れ、そして自身は政治の中心へと踊り出す。

 

 既に現帝は『藤原』の子であり、そしてこれからもその系譜は途絶えることなく続くだろう。

 

 この国で最も貴き赤い血に――その黒色の野心は混ざり込んでいくだろう。

 

(『藤原』は――既に他の『藤原』のことしか目に入っていない。『藤原』同士が争い、どの『藤原』の天下となるかの争いは続くだろうが――それ故に、彼らが民を、日ノ本を気に掛ける日は永劫に訪れない)

 

 若くして賢過ぎる頭脳を持ってしまった少年は、そうして狭い京の空から、再び巻物へと目を落とす。

 

 何もかもを達観し――何もかもに諦念を抱く。

 

 そんな少年の有様に――在原業平は言った。

 

「……確かに、今は藤原の世であろう。奴等は、怪物だ――正しく、妖怪のように。今の宮中に、その恐ろしさを理解していない貴族はいないだろうな」

 

 だが、だからこそ、戦わなくてはならない――業平は、まるで拗ねる子供を相手にするように優しく、冷たく凍った心を溶かすように熱く、語る。

 

「我らが惨めに這いつくばるのは道理だ。奴等に負けた敗者なのだから。しかし、このまま『藤原』の時代が続けば、苦しむのは崩壊の世に生きる我らの子や孫――罪のない、子孫達だ」

 

 平安の都は、いずれ滅びる。

 だが、それは十年や二十年先ではない。ゆっくりと衰弱し、着実に芯まで腐り切り――巨木が倒れるように、ある日、力尽きるように限界が訪れる。

 

 来るべき日はやって来る――だが、それに巻き込まれるのは、自分達ではなく、未来に生きる子供達だ。

 

「我らの負債を、まだ見ぬ子供達に負わせるなど、あってはならない。だからこそ、我らはやるべきことをやるのだ。――そして、今の時代にそれが出来るのは」

 

 私は、お前だけだと思っている――業平は、そう優しく、けれど、どこか哀れむように言う。

 

「――道真。『藤原』の野心に対することが出来る、この京で唯一の逸材よ。平安京を救えるのは、お前の人間離れした、妖怪のような『智』のみであると、私は確信している」

「……まだ言いますか。私は人間ですよ」

「そうだ。まことの妖怪では、人の世は救えぬ。だからこそ――お主は人間であらねばならぬのだ」

 

 業平は、醜い現実から目を背けるように、一心不乱に巻物へと向く道真の顔を持ち上げ――目を合わせる。

 

 その高貴なる瞳は、ただ真摯に、道真に向けての願いを込められていた。

 

「どうか、その理外の智を、『人間(われわれ)』に施してくれ。伸ばされた手を、求められた救いを――拒まないでくれ」

 

 そんなに、『人間』を――嫌いにならないでくれ。

 

 真っ直ぐに、そう、語る――業平の、目の奥には。

 

「………………」

 

 仄かに、けれど確かに燻り続ける――黒い炎が灯っていた。

 

 在原業平。

 高貴なる血――天皇家の血をその身に流すものでありながら、『藤原』との戦いに敗れ、権力の中枢から外されて、愛する女からも引き剥がされた、敗北者。

 

 彼が未来を憂いているのは事実だろう。子や孫への、民や国への憂慮の言の葉に嘘はないだろう。

 しかし、未だその心の奥には、『藤原』への復讐心が消えていないのも、まだ事実だった。

 

(――綺麗なだけの、美しいだけの者はいない。……それもまた、『人間』――人間味というものなのか)

 

 少年は、そう達観したように思考するが――それはまた、己にも当て嵌まることだということに気付かない。

 

 彼もまた、目を逸らしている。

 必死に屋敷の外を見ないようにし、巻物だけに目を向けることで――向き合うことから、逃げている。

 

 己の心の中の――黒い炎から。

 

 不意に、脳裏を過ぎる――『藤原』に殺された兄のことが。『藤原』に利用され続ける兄弟子のことが。

 

 己の中に渦巻く――『藤原』への、黒い憎悪が。

 

 この、黒い炎が、己が失くしてはいけない――人間味だというのなら

 

(――関わらないと決めた。手を出さないと、口を出さないと。……決して表に出してはいけない。……恐らく……この……私の……『■』は――)

 

 余りに賢過ぎる少年は――きっと全てを理解していた。

 

 己が果たして何者なのか。何物に成り得る存在なのか。

 自分の中に生まれてしまった『■』が、果たしてどれほど恐ろしいものなのか。

 

 だからこそ――少年は、決して踏み込むまいと決めていたのだ。

 

 あの魔の巣窟に。『藤原』が支配する宮中には。

 

 

 

 しかし、まるで何かが――それを許さないと、嘲笑うかのように。

 

 時代というものは、やがて菅原道真という逸材を、己が中心へと引っ張り上げていく。

 

 在原業平の最後の叛旗も空しく敗れ、無念の中で朽ちるように彼が逝去する傍らで――道真は、かの色男の言葉に従うように、己に伸ばされた手を取り、求められた救いを与えていく。

 

 そして、宇多天皇(うだてんのう)の絶大なる信頼を勝ち取るに至り、彼は並み居る『藤原』を押さえて――右大臣へと登り詰めることとなった。

 

 だが、そんな男の栄達を。

 

 黒い『野心』に呪われた一族――『藤原』が許すわけもなく。

 

 

 

 菅原道真という、時代に、あるいは世界に、選ばれし『何か』は。

 

 

 その身を――これ以上なく無残に、黒い炎によって、灼かれていくことになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 既に、その戦場は一体の妖怪が支配していた。

 否――たった一枚の仮面が、封印が破壊された、ただ、それだけのことで。

 この、平安京そのものが、件の妖怪に支配されたかのようだった。

 

 重力が急激に増したかのような――圧し掛かるような豪雨が降り注ぎ続けるかのような、圧倒的な、重圧。

 

 呼吸をする――たったそれだけの生存本能に全力で努めなくてはならないような、息を吸って、息を吐く、ただそれだけのことが、余りにも苦しい。

 質量を持ったかのように重い空気の中で、碓井貞光はその存在に声を掛ける。

 

 黒い小さな雲に座り込む、背に円形の太鼓装具を身に付ける、仮面を外して尚、黒い布で顔面を覆っているが為に、その表情を伺うことすら出来ない――妖怪に。

 

「――お目に掛かれて光栄です。菅原道真公」

 

 奇しくも膝を着いて頭を垂れるような姿勢で――実際には敬意ではなく、道真から放たれる重圧によって跪いているのだが――恭しく放たれた貞光の言葉に。

 

『……ふっ。妖怪なんぞに堕ちた私に、そのような言葉は不要だ。現代の妖狩りよ』

 

 黒い布に覆われた男――妖怪・雷様は、堂々と言った。

 

『それに、こうして悪霊となり、菅家(かんけ)の恥さらしとなった私に、その名は余りに――相応しくない』

 

 たった一体の妖怪が、言葉を放った――ただ、それだけのことで、周囲を圧する重圧が――否。

 

(――これは、妖気だ……ッ! 大江山の頂上にて、酒吞童子が発していたような、無自覚の妖気ッ! ……妖怪王に比肩する、この妖気……そして先程の言葉で……やはり、確定した)

 

 目の前の存在は、紛れもない本物。

 偽物でも紛い物でも贋作でもない。伝説の妖怪、歴史に悪名高い大怨霊。

 

 菅原道真(すがわらのみちざね)が――今、ここに再び顕現した。

 

「――――っ!!?」

 

 屈しそうになる。

 かの大怨霊がこうして目の前にいる、ただそれだけの事実に、こうして折れている膝と同じく、心が挫けそうになる。

 

(だが――それは、許されない)

 

 今は間違いなく、日ノ本滅亡の危機。

 我が国の行末を左右する――妖怪大戦争の最中(さなか)なのだから。

 

 碓井貞光は、折れそうになる心を――屈した膝を、死力を尽くして伸ばし、背を正す。

 

『…………ほう』

 

 菅原道真の呟きも意に介さず、貞光は立ち上がり、そして――言った。

 

「何故ですか、菅原道真公」

 

 何故――と、そう、己の遥か頭上に浮かぶ超常に問うた。

 

「菅家を名乗るに相応しくないと貴公は仰るが……貴公の冤罪は――既に晴れている!」

 

 史上最大の霊災――『菅原道真の大禍(たいか)』。

 

 道真を重用した宇多天皇が譲位した後、次代の帝・醍醐天皇(だいご)天皇に見事に取り入った『藤原』の策略によって、無実の罪を着せられた菅原道真は、九州太宰府に左遷させられた。

 その後、京へと戻ることなく、無念の中で太宰府にて逝去した道真は、死後に怨霊となり、その恨みを晴らすべく、平安京に数々の災いを運ぶこととなる。

 

 実質的に道真排除の引き金を引いた藤原管根(ふじわらのすがね)は、道真の死去の僅か五年後に病死した。

 道真を排除したことで政治の頂点の座を盤石にした筈の藤原時平(ふじわらのときひら)は、その翌年に三十九の若さで死亡。

 その四年後には時平と結託して道真を貶めた源光(みなもとのひかる)が狩りの最中に沼に落ちて溺死する。

 

 災いはそれに留まらない。

 道真の左遷を決定した張本人である醍醐天皇の息子の東宮・保明親王(やすあきらしんのう)が二十歳の若さで突然の逝去。

 その後、彼の息子の慶頼王(よしよりおう)が皇太子に立てられるが、二年後に僅か五歳で亡くなってしまう。

 

 呪いは止まらない。誰もが道真の怨霊の仕業であると恐れた。

 結果、道真は死しているにも関わらず、剝奪された右大臣の座に戻され、正二位の位を与えられる。

 

 だが――かの怨霊の怒りは収まらない。

 その醜い掌返しに、我が身可愛さが透けて見えるおべっかに、尚もその心を怒りで燃やしたかのように。

 

 その鉄槌は――下ろされた。

 

 平安京にて最も強力な結界に囲まれた、平安宮・内裏――清涼殿(せいりょうでん)

 帝が住まい、公達(きんだち)が朝議を行う、この国で最も神聖なる空間に。

 

 雷が――落ちた。

 

 藤原時平らと共に道真を追い込んだ藤原清貫(ふじわらのきよつら)平希世(たいらのまれよ)――その他、道真を疎んでいた多くの貴族達が、その雷に焼かれ命を落とした。

 まるで宮中そのものを破壊せんばかりに振るわれた呪いの雷は多くの死傷者を出し、遂には醍醐天皇――帝その人にまで呪いを及ぼしたかの如く、かの天皇はこの日を境に体調を崩し、三か月後に崩御した。

 

 その後の混乱を抑えきれず、やがて藤原時平の息子である保忠(やすただ)の死を持って、誰もが菅原道真に膝を屈した。

 

 清涼殿への落雷、帝の崩御という、この国のどんな妖怪すらも成し得なかった被害を齎した菅原道真公に――平安京は、敗北を認めたのだ。

 

 相次ぐ日照り、疫病の流行、大雨洪水、あらゆる災いを平安京の人々は菅原道真の怒りによるものだと噂した。

 膨れ上がる恐怖が妖怪の力となり――菅原道真という妖怪は、この国で最も強大な妖怪となりつつあった。

 

 そして、安倍晴明が、顕現させた菅原道真と一対一の決闘を行い、三日三晩の激闘の末に退治した後も――人々は道真の恐怖を忘れなかった。

 消えぬ恐怖が菅原道真という妖怪を蘇らせることを危惧した晴明は、時の天皇に進言し、道真を新たなる『神』へと据えた。

 

 道真の本来の偉業を正確に民へと伝えることで、道真を恐怖ではなく信仰の対象としたのだ。

 北野社に祀り上げ、やがては太政大臣の位まで進呈した。

 

 今の時代には、菅原道真を恐ろしくも偉大なる神として、彼を恐怖する声だけでなく、讃える声も少しずつ増え続けている。

 

「貴公は恐ろしき怨霊ではなく、ありがたき神となりつつあった。……それでも、貴公はまだ許せないのか。あなたを裏切った平安京を――そして、あなたを貶めた……『藤原』を」

 

 貞光の言葉に、黒い雲の上で胡坐(あぐら)を掻く道真は。

 その膝の上に肘をついて、顎を掌で支えるような姿勢で――穏やかに、微笑みながら答える。

 

『……許せるか……許せないか……そう問われれば……そうだな。無論――許すことは出来ない』

 

 ズン――と、一瞬、視界が真っ黒になる。

 それが幻覚すらみせるほどに重圧を増した妖気だと分かって、猶更、心が絶望に黒く染まりそうにある。

 

 必死に唇を噛み締めて、顔を上げ続ける。

 目を逸らしたら、もう一度でも頭を垂れたら、もう二度とあの『神』を直視することは叶わないと、己の心に荒れ狂う恐怖が物語っていた。

 

 そんな貞光を見て『……ああ、勘違いするな』と、道真は微笑みを絶やさずに言う。

 

『許せないとは、宮中を追い出されたことや、政治的権力を奪われたことではない。元々、政治には関わりたくないと思っていた。宇多帝には申し訳ないが――私はそこまで、愛国心に溢れた男ではないのだ。不敬だがな』

 

 だがら、右大臣だの太政大臣だのを与えられても、私は嬉しくもなんともないと、そう肩を竦める。

 

 貞光が何かを問おうとしたが、続いて道真から発せられた『だから――許せないのは、もっと別の、大切なことだ』の言葉と共に、より密度を増した妖気に何も言えなくなった。

 

 だが、それも一瞬だった。

 まるで何かを閉じ込めるように、その言葉を、その思いを――封じ込めるように。言葉を切った道真は、再び言葉調子を穏やかにしながら、貞光に言った。

 

『……それも、もうよい。愚かにも怒りに支配され、こうして妖怪なんぞに成り果てた私は、その恨みは大方晴らし終えた。未だこの身に怒りは巣食い、恐らく永劫に消えることはないが……今の世に生きる人間には関係のないことだ。それは今の帝にも、無論、民も――そして、『藤原』も、例外ではない』

 

 そう静かに語る道真に――貞光は、意を決し、問う。

 

「――では、何故……あなたはこうして、蘇ったのだ?」

 

 貞光の言葉に、道真は答える。

 

『その問いに対する答えはこうだ。私は蘇ったのではない。()()()()()()のだ――何者かにな』

 

 引き戻された――冥府の地から。

 何者かに――何者かに?

 

(……ッ!? そうだろうとは、思っていた……施されていた封印……被らされていた仮面……だが、誰だ――かの菅原道真公を、こうして戦争の道具にするなど――!?)

 

 正気の沙汰ではない。

 その発想もそうだが――こうして実現させてしまうこと、その手段も不明だが、その手腕も、また不明。

 

 混乱する貞光に、道真は己が身に起こっている状況を、微笑みながら語っていく。まるで若者の奮闘を綻ぶ先人が如く。

 

『こうして無様に現世に再び顕現することになったこの身は、正確にはかつての我が身ではない。用意された『器』に、冥府に送られた我が『魂』の『複製』を張り付けたもの――『影法師』のようなものだな。本来であるならば複製といえど、それこそ蘇りが如く生前と変わりない存在を用意出来る筈だが、その『未来技術』までは、『未来視』だけでは再現出来なかったと嘆いていたよ。その『何者』かは』

 

 やはり、『黒い球体』のようにはいかぬ、とな――そう朗々と語る道真に、貞光は幾分か冷静さを取り戻したかのように問う。

 

「……随分と、見てきたかのように語るのですね。出来の悪い我が頭では理解出来ぬことだらけですが――貴公は、御身を蘇らせたその何者かを知っているのでは?」

『蘇りではないと申しているだろう。この身は魂の影法師だ。だが、その影を作る際に、その『何者』は我が魂に触れているのでな。その際に読み取った、僅かばかりの個人情報よ』

 

 だが、その『何者』は大したものだ――と、道真は嬉しそうに語る。

 その『何者』がその身に施した、数多くの仕掛けと――奇跡を、讃える。

 

『本来であるならば、その『黒い球体』は『魂の複製』を創り出す際、余りに精巧に作るが故に、『鍵』は付けるが自由意志と行動自由を与えてしまう。だが、その『何者』かの『影法師』は、こうして性能としては『劣化複製』となってしまうが、その能力の限定に比例にして自由意志と行動自由を奪うことが可能だ』

 

 道真はそう語りながら、壊れた仮面の欠片を掲げる。

 能力の制限に比例した自由意志の剥奪と行動の制限――つまり、あの仮面はその制限を施していた封印なのだ。

 

 その封印が剥がされた今、自由意志と行動権を取り戻した結果――菅原道真の影法師は、その本来の能力を取り戻しているということか。

 

 しかし、そんな貞光の危惧に対し、道真の影法師は、安心せよとばかりに。

 

『だが、所詮は影法師。こうして施されていた封印が解けても、振るえる力は全盛期には遠く及ばぬ。それに、私を引き戻した『何者』かがその気になれば、再び追加の封印を施すことも出来る筈だが、それもないとなると――私は既に、その役目を終えているのだろう』

 

 役目――貞光は、この平安京の惨状を、開幕の合図とばかりに上がった火柱を思い描く。

 

 その通りと、肯定するように道真は頷きながら言った。

 

『平安京に、恐怖を齎す――そういう意味では、我が(いかずち)以上に相応しいものはあるまいて』

 

 菅原道真の雷――かつて不可侵の領域であった清涼殿を破壊し、帝の命をも奪ってみせた極上の呪い。

 

 確かに、平安京に終焉を齎す号砲として、これ以上に相応しい恐怖はない――が。

 

(――()()()()? 開幕の一撃、戦争の号砲、ただそれだけの為に、菅原道真公という特級の呪いを蘇らせたのか……ッ!!?)

 

 その、正体不明の『何者』かの思惑――否、ここまで埒外の奇跡を見せられれば、貞光といえどその答えは絞られる。

 

 魔の森の決戦にて、その『陰陽師』に疑いを持ったのは、坂田金時だけではない。

 

(…………何を――考えている――ッッ!!?)

 

 大鎌を握る拳に、ぎちぎちと行き場のない力が入る。

 血管が浮き出る程に込められたそれを制するように――『――さて。こんなものでよいだろう』と、道真は天高くから、貞光に言う。

 

「…………何を――」

『恍けるでない。こうして長々と、私が貴殿が欲しいであろう情報を語り続けた意味に、気付いていないわけではあるまい。現代の妖狩り――否』

 

 現代の、英雄よ――道真の言葉に、ぐッと、貞光は大鎌を握り直す。

 先程までの力任せにではない。適切に得物が振るえるような――戦闘態勢の力加減に。

 

 それを見て、それを感じて――菅原道真は、笑い、言う。

 

『――私を、退治(ころ)してみろ』

 

 菅原道真の言葉に、言葉とは裏腹な――圧し潰すような、重圧を感じる。

 

 生唾を呑み込む貞光に、道真は胡坐の体勢を崩さずに語った。

 

『正直に白状した通り、私が現世に対して思うことは既に何もない。私を引き戻した『何者』かの追加指令もない。……つまり、この身は既に、此度の召喚においての役目を終えている』

 

 そして――と、道真は。

 

 誘うようにその手を出して、真っ直ぐに――貞光を見る。

 

『今の私は影法師。とある陰陽師にしか止められなかった全盛期とは違う。ならば、お主のその大鎌も、そして、我が仮面を撃ち落としたお主の矢も、もしかすると――この身を滅ぼし得るかもしれぬぞ』

 

 道真の眼光に、貞光との問答の間に姿を隠し、暗殺の機会を探っていた季武が震える。

 

 捉えられている――それに気付いた貞光が、再び口を開こうとした、その瞬間。

 

 付近に――雷が落ちた。

 

 一瞬、金時のものかと思ったが、続く民の悲鳴に違うと確信する。

 

 頭上を見上げる――『言い忘れていたが――』と、微笑みを、人間味が排除された、妖怪の笑みを浮かべる道真が、貞光に言った。

 

『例え封印が解除されようと、自由意志と行動権を取り戻そうと、それ以前に与えられた指令は継続中だ。()()()()()()()()()()()という――『何者』かの指令はな』

「――――ッッ!!」

 

 貞光は目を見開き、妖怪となったモノを、神となったモノを――人間ではなくなったモノを見上げ、睨み、吠える。

 

「――ッ、自由意志を取り戻したのならば、行動権を取り戻したのならば、その指令に歯向かうことも出来るのでは! 何故、それをしない!」

『言ったであろう。今の世に思うことはないと――それはつまり、守ろうという程の価値も感じていないということだ』

 

 何を期待している――そう道真は、妖怪・雷様は言う。

 

『我は――妖怪だ。既に菅原道真という名の人間は死んだのだ。貴殿が英雄を名乗るのならば、取り戻すべき平和を、勝ち取るべき未来を、その手で掴み取って見せよ』

 

 歯を食い縛る貞光、息を潜める季武――現代の英雄を見下ろし、道真は笑う。

 

 そして、見渡す――己が火の海に変えた都。喉を汚すように不味い空気が流れる平安京。

 

 在りし日に思い描いた、漠然と思い至っていた終焉が――今、目の前にある。

 

 遠からず未来、平安京は終わる。

 そう確信し、それから全てを諦め、ただ流されるままに生きた。

 

 救いを求める手を拒むなという呪いを受けて、多くの人を救け――そして、全てを失った。

 

 後悔はないかと言われれば嘘になる。

 いっそ全てを拒絶して、あの屋敷の中で死ねたならと、思ったことがないかと言われれば嘘になる。

 

 それでも。

 

 お前はきっと世界を変えられる――そう言ってくれた友がいた。

 

 お前が居てくれて本当に良かった――そう言ってくれた主がいた。

 

 あなたを愛しています――そう言ってくれた、かけがえのない、家族がいた。

 

(――宣来子(のぶきこ)。お前を奪ったこの都を、憎くないかと言われれば嘘になる。……けれど――)

 

 この身は既に影法師なれど。

 憎しみも――愛も、また、偽りなき(まこと)ならば。

 

『選ぶべきは、死人(わたし)ではない』

 

 進むも止まるも。

 終わるも――また、始まるも。

 

 だから――この先を、終わりの先を望むのならば。

 それを作り上げるべきは、諦めた者ではない。

 

 未来を創る資格があるのは、最後まで諦めない――今を生きる者なのだから。

 

 だから――菅原道真は、今を生きる、未来ある人間達に向けて、言う。

 

『さあ――私を、退治(ころ)してみせろ』

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「いえ――そうはさせませぬ」

 

 

 雷神の身体に――絡繰(カラクリ)の腕が突き刺さった。

 

 

「「――――っっ!!??」」

 

 貞光と季武が瞠目する。

 そして、その驚きを掻き消すように――その巨大な身体は動き出す。

 

「―――――――――――っっっっ!!!!!」

 

 巨大絡繰鬼・鎧将(がいしょう)

 既に頭部を失い、自律行動が出来ない筈の絡繰が、その肩に何も乗せずに暴れ始めた――まるで封印が解かれ、自由意志と行動権を取り戻したかのように。

 

 だが、真実は異なる。

 

「――あなた方が長々と問答をしている間に、私の妖力を彼に注ぎ続けました。これで一定時間は私の操縦を必要とせずに戦闘が可能です」

 

 無論、細かい動きは不可能だろうが――力任せに大暴れするだけならば、それも必要ない。

 対人戦闘は困難だろうが、操縦下にない大暴れする巨大鬼を、周囲に甚大な被害を齎す脅威を、英雄達は無視することが出来ない。

 

 そして、貞光が、季武が、鎧将の対処へと動かなくてはならない――その間に。

 

「このままあっさりと退場など勿体ない。あなたがいらないのあれば――その莫大なる妖力、私が使わせていただきます」

 

 天に邪する鬼――妖怪・天邪鬼(あまのじゃく)は、菅原道真の背後から、その背中に腕を突き入れていた。

 残された隻腕に絡繰を纏わせ、菅原道真の体内を探り――そして。

 

「あなたの言う『何者』か――それは、私を遣わせた者と、恐らくは同じ御方でしょう。つまり、私とあなたの原理は同一。ならば……あなたの操縦権を、私が手に入れることも可能ということです――っ!」

 

 天邪鬼の言葉に、貞光と季武は驚愕する。

 菅原道真の圧倒的な力。それを邪なるモノが、悪意を持って振るったならば、その脅威と被害は比べ物にならない。

 

(――くっ! 菅原道真公の登場に気を囚われて、天邪鬼から目を離した私の失策だ!)

 

 なんとしても防がなくては――だが、それを無軌道に暴れ回る鎧将が許さない。

 

 季武が一瞬の隙を突いて矢を放つ。

 しかし、それよりも天邪鬼が菅原道真の器の核を見つけ、それに触れる方が早かった。

 

『………………』

 

 道真は、己が背に、己が体内に鬼の手が突き入れられようと、その表情を、その無表情を変えない。

 

 天邪鬼の顔が――歓喜に歪む。

 

(もらっ――)

 

 バチィィィィィィ!! ――と、雷が瞬いた。

 

 まるで落雷を受けたかのように、天邪鬼の身体が、一瞬にして焼け焦げた。

 

「――ッ!?」

 

 貞光が、季武が、そして天邪鬼が驚愕する。

 

 季武の放った矢が、炭となってゆっくりと落下していく中――影法師は、淡々と語る。

 

『なるほど。面白い目論見だ。それに確かに、貴様と私の作り主は同じ『何者』のようだな』

 

 だが――と、妖怪・雷様は、語る。

 

『一つ、誤算があったようだな。――()()()()

 

 天邪鬼が菅原道真の支配権を手に入れるには、その影法師の器の核に己が妖力を注ぎ込み続けなくてはならない。

 

 しかし、その菅原道真の核に触れるということは――その妖力たる(いかずち)を、己が身に浴び続けるということ。

 

『私の支配権を手に入れるまで、貴様は地獄の痛苦を味わい続けることになる。それに貴様は、耐えることが出来るかな?』

 

 天邪鬼は、黒雲から落ちそうになった我が身を堪えるように。

 

 一歩を踏みとどまり、そして――口角を引き裂くように笑いながら、更に、一歩を踏み出して。

 

「――上等ですともッッ!!」

 

 再び、その無防備な背に、隻腕を突き出す。

 

 菅原道真は、微笑みながら、その暴挙を受け入れた。

 

 

 そして、再び――雷光が、瞬く。

 




用語解説コーナー㊼

菅原道真(すがわらのみちざね)

 時は『藤原』が権力の全盛期間近の時代。

 学徒の家系でありながら、時の天皇たる宇多天皇の信を得て、並み居る『藤原』を押し退け、右大臣にまで上り詰めた。

 その結果、当時の左大臣である藤原時平らに濡れ衣を着せられ、平安京を追い出されて九州・太宰府に左遷させられ――そのまま、平安京に戻ること叶わず、59歳でこの世を去ることになる。

 道真逝去の直後から、数多の天変地異、そして道真排斥の関係者達が次々と不幸に見舞われた為、これは道真公の怒りによる呪いだと流言飛語が飛び交い――菅原道真は大怨霊として恐怖の象徴となった。

 やがて、道真公は大怨霊として『妖怪』となり――遂には、雷神として『神』に至ることになる。

 数々の伝説を残し――また、数々の怪談に残されることとなった道真ではあるが、その素顔を知る者は余りにも少ない。

 それは家族であり、それは友人であり、それは主であり。

 彼らが一様に語るのは――菅原道真公とは、つまり。

 余りにも過ぎる、まるで呪いのような『知』を与えられただけの。

 少しばかり臍を曲げがちの、ただの――『人間』であったという。



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妖怪星人編――㊽ 百鬼夜行

俺の、百鬼夜行(かぞく)なんだよ。


 

 今から――ほんの百年前のことだ。

 

 鞍馬山の麓――天狗達が守護(まも)り続けてきた、日ノ本において最も霊験あらたかな地である京を人間達に奪われて、およそ百年が経過した頃。

 

 その日も、代わり映えのしない――否、変わり果てた京の空を、その天狗は飛んでいた。

 

 かつての面影はもはや微塵も残っておらず、人間の都として完成した平安京は、夜の世界においても光は完全に失われず、まるで所有権を声高に主張するような篝火(かがりび)が、ちらほらとそこら中に点在し、空を泳ぐ天狗の瞳を焼く。

 

(…………)

 

 すまない――と、先代の鞍馬は彼に言った。

 尻拭いをさせてしまってすまないと。何もかもを丸投げしてしまってすまないと。

 

 どうか、後は頼むと――縋りつくように、その名を与えられた。

 

 今日からお前が『鞍馬天狗』だと――ずっと欲しかった筈のその名は、目指し続けた筈の栄誉は、押し付けられるように突然に継がされた。

 

 まるで、滅びかけている国を背負わされるように――その日、一体の天狗は、『鞍馬』となった。

 鞍馬山に住まう全ての天狗達の長となり、家族を守る父となった。

 

 もう、きっとみんな、心の中では――気付いているのに。

 この広大なる、完成された都の空を飛ぶ度に――思い知っているのに。

 

 京は――この地は、既に自分達のものではないということを。

 こんな場所を作り上げる――『人間』という怪物には、敵わないということを。

 

 もう、恐らく、ずっと前から――。

 

 

「――よう。お前さんが、かの有名な『鞍馬天狗』ってやつかい?」

 

 

 その妖怪は、いつの間にか――そこにいた。

 

 気紛れだった。

 たまたま目に入った――悪霊となり、妖怪となり、暴れている無辜の民だった筈の魂を見付けた。

 

(…………)

 

 このまま放っておいても、しばらくすれば陰陽師が平安京中に放っている自動警邏式神が発見し、対処するのだろう。

 

 自分達が京の治安を守っていたのは、はるか昔の話だ。

 夜の世界には関与しない。妖怪の世界の揉め事には天狗が対処するという契約は、口約束ほどの効力も持たず、既に有名無実化して久しい。

 

 だから――使命感ではない。義務感でもない。ただの気紛れだった。

 

 偶然に目に留まった一つの魂が、たまたま悪霊として暴走し始めるのが目に入ってしまったから。

 無辜の民だった筈の魂が、平安京で慎ましく暮らしていた筈の――悪霊となる程に苦しんで死んでしまった筈の魂が、死して尚、ずっと傍から離れられなかった家族に襲い掛かる瞬間を、たまたま、偶然、はるか上空から見つけてしまったから。

 

 きっと陰陽師の式神が到着する頃には、悪霊は家族を殺してしまっているだろうと――思ってしまったから。

 

 だから、気紛れに、気が向いたから、気が付いたら――地に降り立ち、悪霊を征伐していた。

 

 そして――突如現れた大天狗に、怯え、逃げ出した人間達と入れ替わるように。

 

 まるで影のように、まるで幻がごとく――その妖怪は、そこにいた。

 

「強いのぉ。恐ろしいのぉ。お主――見事な、妖怪じゃのぉ」

 

 見たことのない妖怪だった。初めて見る男だった。

 

 清流が如き艶やかな伸びきった黒髪。

 まるで全身を包み込むが如き、闇のような黒の中から――ぎらぎらとした、何かを煌々と燃やす瞳を覗かせながら、その妖怪は、天狗に手を差し出した。

 

「ほんのつい最近、上京してきたばかりの田舎者でな。右も左も分からずに右往左往するばかりじゃったが――とりあえず散歩でもしてみるもんだ。まさかこんなにも早く、お主のような妖怪に出遭えるとは」

 

 儂の名は、妖怪大将ぬらりひょん――と、真っ黒の男は、大妖怪に向かって不敵に笑って言う。

 

「儂は――天下を獲りに、この京へと来た。その為に、強い妖怪が、一体でも多く必要だ」

 

 鞍馬天狗よ。儂の百鬼夜行(かぞく)となれ――正体不明の黒い妖怪は、そう傲岸不遜に言ってのけた。

 

「…………ッ」

 

 鞍馬は、男の言葉に――強く握り締めた、拳を振るって返礼とした。

 

 

 これが、妖怪大将ぬらりひょんと、鞍馬山の大天狗との出遭い。

 

 そして、百年の時を経て――今、再び、両者は平安京にて対峙する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 河童と雪女の合体攻撃である氷塊の散弾を受けきった鞍馬天狗は、しかし、その術者である二体の妖怪ではなく、いつかのように、いつの間にかそこにいた、龍の背に立ちこちらを見上げる黒い妖怪を見下ろしていた。

 

 不敵な笑みを浮かべながらこちらを見上げる漆黒は、長い年月を挟みながらも、些かも変わらず、まるで引きずり込むかのような濃い黒色のままであった。

 

「――ぬらりひょん」

 

 かの妖怪の名を、忘れたことはなかった。

 

 対峙したのは、この百年で一度きり。

 大きく名を広めることはなく、しかし、京で勃発する妖怪騒ぎのところどころで、その妖怪の存在は、そして、彼が率いる妖怪組織の名は耳に入っていた。

 

 数多の種の妖怪が、陰陽師の目を盗んで暗躍し、平安武者の目の届かぬ闇の中にひっそりと隠れ潜んでいるという――人間達の都である、日ノ本の中心たる平安京の何処かで。

 

 人間の手の及ばぬ先で、困り苦しむ民や妖怪達を救う――その任侠組織の名は『百鬼夜行(ひゃっきやこう)』。

 

――儂の、百鬼夜行(かぞく)となれ。

 

 妖怪大将・ぬらりひょん。

 かの漆黒の妖怪が集め育てた、彼に忠誠を誓う家族達。

 

 鞍馬天狗は、今、改めて確信する。

 

――儂は、天下を獲りに、この(みやこ)へとやってきた。

 

 あの大言壮語は、妖怪王の器たる妖怪が同時期に二体も生まれ、その雌雄を決しようとしている、この妖怪大戦争の渦中にあろうとも――事ここに至ろうとも。

 

 黒く燃える野心は、些かの翳りもなく、まだ轟々と燃え盛っていると。

 

「…………」

 

 そして、そんな天狗を見上げているのは、ぬらりひょんだけではなかった。

 

 落下する鴨桜を背に乗せて、天を(かけ)る大犬――犬神・刑部も鋭い眼差しで大天狗を見上げる。

 

(……奴が、鞍馬山の最高傑作と謳われる大天狗か。……確かに、ぬらりひょんの奴が欲しいというに相応しい妖力だが――)

 

 こうして相対するのは初めてだが、見るだけでもやはり別格と分かる。

 これでも一つの地方の妖怪を束ねる立場にあった刑部(ぎょうぶ)は、天狗という妖怪を見るのも初めてではないが、彼の記憶の中のどの天狗よりも、目の前の存在は強大な妖力を誇っていた。

 

 が、しかし――と目を細める刑部だが、今は背中の鴨桜を青龍の元へ送り届けるのが先だ。

 

「……鴨桜。あんまり、アイツを責めてやるな」

「………………」

 

 自身の背中で、天狗ではなく、別のただ一点を睨み付ける鴨桜に、刑部はそう声を掛けた。

 いつもは刑部にだけはあまり反抗的な態度をとらない鴨桜も、しかし、此度の刑部の言葉には無言のみを返す。

 

 刑部は、親子だなと思いつつも、更に言葉を紡がずにはいられない。余計なお世話だと分かっていても。

 

「お前の怒りは分かる。だが、アイツは決して、お前の言葉をないがしろにしたわけではない。アイツは――」

「……ああ、分かってるさ。大人の事情って奴だろ? ……だがよ、それでいつも――子供(こっち)が大人しく、はいそうですかって言うこと聞かなきゃいけねぇ義理はねぇ」

 

 大人には大人の事情ってもんがあるように――鴨桜は、歯を食い縛って、憎しみの視線を父にぶつけながら言う。

 

「――子供(こっち)にも、譲れねぇ一線(もん)があるんだよ……ッ」

「…………」

 

 刑部は、その鴨桜の言葉に、これ以上は自分が何を言っても無駄だと悟った。

 ぶつかる時が来たのだろうと。一度、思い切りぶつからなくてはならないとは思っていた――その時が、きっと今なのだろうと。

 

 世話が焼けると溜息を吐いた。親父も、息子も、もっとうまく出来ないものかと。

 

 だが、それでも――アイツの家族となると決めたのだから、これも焼くべき世話なのだと、刑部は心を決めた。

 

「――ならば、好きにしろ。親子喧嘩の時間くらいは稼いでやる」

 

 刑部はそう言って、龍の背中に鴨桜を下ろした後――そのまま空を翔けて、上空の天狗に向かって襲い掛かる。

 

 天狗がそれに応戦し、大犬が吹き荒れる嵐の中へと突っ込んでいった時。

 

 龍の背中では、漆黒の妖怪が煌びやかな貴族に向かって話し掛けていた。

 

「――大臣様よぉ。アンタが晴明のヤツと企んで、色々と悪巧みをしていたのは知っていたが、幾ら何でも賭けが過ぎるんじゃねぇのかい? ここで鞍馬の天狗とコイツ等をぶつけるなんざ。俺らが来なければ、アンタ等は地に落っこちて、平安京の滲みになってたぜ」

 

 それとも、俺等がこうしてここに来るのも、アンタ等の計画(ぷらん)ってやつの内なのか? ――ぬらりひょんはそう言って道長の表情を覗き込むが、道長は揺るがず、笑みに対し笑みを返してみせる。

 

「その時は――俺はそこまでの男であった、それだけのことだろう」

 

 道長の言葉にぬらりひょんは更に笑みを深めるが、道長は「それよりもお主、私なんぞに構っていてよいのか?」とぬらりひょんに言う。

 

 ぬらりひょんは、鞍馬は刑部が引き付けているし、もう少しここで道長から情報を得たいと構わず口を開こうとするが――道長は、上空ではなく、ぬらりひょんの背後を指差し、そして言う。

 

「――お主、息子に殺されようとしているぞ」

 

 その時、ぬらりひょんは表情を消して振り返った――背中に迫る、混じりけなしの、本物の殺気に。

 

 振り返った先で、白刃と目が合った。

 その白刃は氷の刃で受け止められていて、それを振るった息子――鴨桜の首には、河童の水かきがついた手が添えられていた。

 

 自身の百鬼夜行の幹部――雪女の白夜と河童の長谷川に庇われながら、ぬらりひょんは息子を見る。

 

 たったひとりの息子・鴨桜(オウヨウ)は、白夜と長谷川に至近距離から睨まれながらも、ただ真っ直ぐに、父たるぬらりひょんに向けて殺意をぶつけ続けていた。

 

「………ふざけたことを言ってんじゃねぇぞ――クソ親父」

「……………」

 

 鴨桜の殺意に、ぬらりひょんは無言を返す。

 いつもの反抗期と断ずるには、明確に、一線を超えていたからだ。

 

 故に、白夜が、長谷川が、鴨桜の蛮行に対して冷徹に言う。

 

「……ふざけたことをしているのはアナタよ、鴨桜君。分かっているの?」

「……お前が今したことは、組長への叛逆行為だ。お前は父を、俺達を――」

 

 百鬼夜行(かぞく)を、敵に回そうとしているんだぞ――そう語る両者の目には、家族の温かみではなく、敵に向ける冷たい殺意が込められていた。

 

 真っ白な白刃を――真っ黒な凶刃を、頭たる組長へと向けた。それも本物の殺意を込めて。

 止められなければ、気付かれなければ、鴨桜はそのままぬらりひょんを切り裂いていたことは、その刃を止めた白夜と長谷川こそが理解していた。

 

 そして、その刃に念糸を巻き付けて止めていた――士弦もまた、同様に。

 

 白夜と長谷川だけではない。

 鴨桜に付き従う、士弦や月夜、雪菜もまた、鴨桜の行動に目を見開いていた。

 

「――やめろ、鴨桜! 何をしてるんだ!?」

 

 だが鴨桜は「……何をしている? ……ふざけたことをしているのは、どう考えてもコイツだろうが!!」と、士弦を、自身よりも格上の白夜や長谷川の殺気すらも無視して。

 

 ただ真っ直ぐに、握り締めた刃のように、目の前の父を睨み付ける。

 

 更にぐっと身を乗り出し、刃を持ち上げようとする。

 それを氷の盾で防がれながらも、自身の首に河童の巨大な手を押し付けられながらも――自分を裏切った父親に、怒りの丈を渾身の力でぶつける。

 

「――何で、どうしてここにいる!? 平太は――平太と詩希はどうした!!? クソ親父!!」

 

 鴨桜の言葉に、士弦と、月夜、雪菜は目を見開く。

 白夜と長谷川は表情を変えずに――父たるぬらりひょんは。

 

「…………」

 

 真っ直ぐに、息子の殺意を受け止めていた。

 

「お前は俺に言ったよな――任せろと! そう言ったよな! なのに、ガキ放り出して、テメェは何でこんなとこに居やがる!! まさかアイツらを、あの『貴人』に渡しやがったんじゃねぇよなぁ!! アァ!?」

 

 鴨桜は再び大きくドスを振るう。

 それは白夜の氷の盾を砕き、士弦の念糸を引き千切った。

 

 きらきらとした氷片が、ぬらりひょんに降りかかる。

 

 息子の殺意の欠片を、父は無言で浴び受けていた。

 

「―――っ!?」

 

 白夜は氷の盾から、氷の拘束へと切り替える。

 鴨桜の身体を凍らせて身動きを封じ、長谷川は添えていた手に力を入れて首根っこを掴み上げ――いつでも水流で首を貫けるように妖力を込める。

 

 だが、鴨桜は委細構わずに、ただぬらりひょんのみを睨み続けていた。

 そんな相棒を、士弦は抱き締めるように、直接その身を以て止めようとする。

 

「…………鴨桜。……やめろ……ッ」

 

 相棒の震える声での懇願に、僅かばかりの理性を取り戻したのか。

 

 ここで初めて鴨桜が、目線と殺意は父親に向けたままで、「…………長谷川」と、ぬらりひょん以外の妖怪に、己の首を掴み上げて、一瞬の挙動で己を殺せる相手に向かって、吐き捨てるように言う。

 

「お前、さっき言ったよな。百鬼夜行(かぞく)を敵に回そうとしているってよ」

「…………ああ」

「そうだ。家族なんだ。平太も、詩希も――とっくに、俺の家族なんだよッ!」

 

 鴨桜は、片目から一筋の涙を流しながら、ドスを震わせて咆哮する。

 

 その殺意は、どうしようもなく父に――そして、己に向けられているようで。

 

 士弦も、月夜も雪菜も、そして白夜も長谷川も息を吞む。

 

「昨日出遭ったばかり? ――関係ねぇよ。アイツらが俺に手を伸ばして、それを俺が受けた。アイツらが俺に救けを求めて、それに俺が応えると言った。アイツらが! 俺に家族を! 居場所を求めて!! 俺はそれに応えると言った!! その瞬間から!! 俺はアイツらの命を預かってる!! 幸せにする義務があんだよ!!」

 

 それは鴨桜という若き妖怪には、未熟な半妖には、独力では応えきれない期待で。

 

 だからこそ、無力感に打ちひしがれながらも、屈辱を覚えながらも――頼った。任せたのだ。

 

 気に食わなくとも――任せられた。決して口には出せなかったけれど――安心して、信頼して。

 

 その相手とは――断じて『貴人』なんぞでは、ない。

 

「テメェがどれだけ『人間』が大好きなのかは知らねぇ! だが俺にとっては、母さん以外の人間なんざ、これっぽっちも信頼になんか値しない! ましてや陰陽頭の十二神将なんざ論外だ! 俺の家族を預けられるわけがねぇ! だから俺は、アンタにアイツらを任せたんだ!! あの女じゃなく!! 百年間――この魔の都で、百鬼夜行(かぞく)を守り続けたアンタにだ、ぬらりひょん!!」

 

 そして、遂に手が届く。

 ドスを握った右手ではないため、白夜と長谷川の警戒が遅れたのか、剥き出しの左手が、ぬらりひょんの黒い着物の胸倉を掴み上げる。

 

「俺にとっての平太と詩希(アイツら)は、アンタにとっての白夜と長谷川(コイツら)と同じなんだ……。俺の、百鬼夜行(かぞく)なんだよ。過ごした時間なんざ関係ねぇ。アイツらに何かあったら――俺は絶対に、お前を殺すぞ……ッ!」

 

 鴨桜は、まるで己に突き刺すように言う。

 守護るべき百鬼夜行(かぞく)の傍に居れず、意気揚々と参戦した筈の戦争でも何の結果も残せていない。

 

 そんな己を棚に上げて吐き捨てた、八つ当たりのような言葉。

 

 しかし、それを受けて、それをぶつけられた父親は。

 

 己の胸倉を掴み上げながら、殺意をぶつける息子の――頭を、撫でる。

 

「――ちっとはマシな、いい(ツラ)をするようになったじゃねぇか。息子よ」

 

 ぬらりひょんは目線だけで、白夜と長谷川を下がらせる。

 ありがとうなと言うように鴨桜を押さえている士弦の肩を叩いて、父親は息子に言った。

 

「すまねぇな。のっぴきならないことが起きてよ。坊ちゃんと嬢ちゃんには逃げてもらったのさ。確かに今、あの二人は『貴人』と一緒にいるが、ちゃんと俺の信頼できる百鬼夜行(かぞく)も同行させている。任せられた子守りを放り出してはいねぇさ。安心しろ」

「……じゃあ、何でアンタは今、ここにいんだよ」

 

 先に逃がしたのなら、どうして後を追わない――そう言いたげに、頭に乗せられた手を荒々しく払う反抗期の息子に、父は笑う。

 

「――心配だったからさ。息子(ガキ)のことを心配しない父親(おや)がどこにいる」

 

 テメェと一緒だよ――と、百年間、人間達の都で、妖怪にとっての死都で、百鬼夜行(かぞく)守護(まも)り続けた妖怪大将(ちちおや)は、穏やかに微笑む。

 

「だが――安心した。お前らはもうガキじゃねぇな。正直、あの鞍馬天狗を相手にここまで戦えるとは思ってなかったぜ」

 

 士弦を、雪菜を、月夜を見渡して、ぬらりひょんは笑う。

 そして――鴨桜を見て、目を細めて、父親は言う。

 

「よくやったな。鴨桜」

 

 息子の肩を叩き、ぬらりひょんは前に出る。

 傍らに白夜と長谷川を――百鬼夜行を引き連れて、妖怪大将は戦場に出る。

 

「こっからは大人の時間だ。お前らの戦いにケチをつけようってわけじゃねぇが、ここは儂らに任せちゃくれねぇか?」

 

 そして――ぬらりひょんは。

 

 天高い場所で空駆ける大犬と激闘を繰り広げている天狗を見上げて言う。

 

「百年前から予約済での。アイツは――儂の獲物(モン)じゃ」

 




用語解説コーナー㊽

・二代目派閥

 妖怪任侠組織『百鬼夜行』は、総大将たるぬらりひょんのカリスマによって結成された組織だ。

 流れ者であったぬらりひょんが、一体一体声を掛けて、己が下へと集めて出来た家族だ。
 これまで阿弖流為や化生の前といったクラスの大妖怪にしか成し遂げられなった、多種族組織を、小規模ながら成立させているのも、全てはぬらりひょんのカリスマ性があってこそだ。

 だからこそ、その血を受け継いだ息子とはいえ、鴨桜へ向ける古株妖怪達の目線は厳しい。
 古株であればあるほどぬらりひょんに心酔しているというのもあるが、何よりも鴨桜の半血であるという部分に対する忌避感がぬぐえないのもあった。

 それを鴨桜自身も理解していて、故に鴨桜自身も人間というものに対する忌避感を少なからず抱いているが――だからこそ。

 ぬらりひょんという偉大なる父を崇拝する組織内において、それでも父よりも自分を選んだ、他でもない自分の傍にいてくれる妖怪達のことを、鴨桜は何よりも大事に思っている。

 士弦を、月夜を、雪菜を――そして。

 こんな自分を頼ってくれた、手を伸ばしてくれた、救いを求めてくれた――平太と詩希を。

 彼等こそ、自分の――百鬼夜行(かぞく)だと。

 やがて、この若き妖怪の卵達は――百鬼夜行の『二代目派閥』と呼ばれる程に大きくなっていき、新たなる妖怪伝説を紡いでいくことになる。


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妖怪星人編――㊾ 紅葉の郷

ようこそ。水無里へ。――紅葉郷と、私達は呼ぶけど。


 

 真っ暗な森の中を逃げていた。

 

 肩を穿(うが)たれ、腕が上がらない。

 それでも必死に足を動かし、草木を掻き分けながら山の中を、闇の奥へと進んでいった。

 

 背の高い葉が陽の光を遮る。

 本来、それは喜ばしい筈の身の上だったが、今はただ、それが恐怖を誘った。

 

 果たしてどれだけの時間が経ったのだろう。

 自分の命を狙うモノから、果たしてどれだけの距離を稼げたのだろう。

 

 分からない。分からないから、ただ怖くて、切れる息を無理矢理に、唾を呑み込むように抑え込んだ。

 

 すると、やがて――闇の中に、光が差し込んだ。

 忌避すべき筈の日光に、思わず手が伸びてしまった。自分を追い詰めるばかりの暗闇に、もう耐えることが出来なかった。

 

 息を吞み、唾を呑み込み、ゆっくりと光の方へと足を動かす。

 

 

 そして――光の先には、真っ赤な世界が広がっていた。

 

 

 舞い散る紅葉(もみじ)に包まれた(さと)

 

 そこに、呼吸を忘れる程に、美しい鬼がいた。

 

「おや。今日は随分とお客さんが多い日だね」

 

 美しい鬼は、口元を赤く染めた血を舐めながら言った。

 

 鬼は人を喰っていた。

 

 それは、自分がずっと追われていると思っていた――鬼である自分を襲い、殺そうとして山の中へと追い詰めていた、正義の武者だった。

 

 闇を恐れた鬼は、逃げ込んだ光の先で、血に塗れた美しい――紅葉の鬼に出遭った。

 

「――それも、無粋な人間の武者のお次は、えたく別嬪な、鬼ん子とはね」

 

 真っ赤な美鬼は、人間の腕を荒々しく齧って、ゾッとするほどに美しい笑みで、彼女を歓迎した。

 

「ようこそ。水無里(みずなしのさと)へ。――紅葉郷(こうようきょう)と、私達は呼ぶけど」

 

 こうして彼女は、真っ赤な鬼女が支配する、紅葉郷へと迷い込んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 彼女が紅葉郷へと迷い込んで、幾ばくかの時が経った。

 

 紅葉郷は鬼が住まう秘境――ではなく、鬼が支配する秘境であった。

 端的には、人間が、鬼女によって、支配されながら暮らしていた。

 

 彼女は生まれて初めて、人間と同じ立場で生きるという体験をした。

 迷い鬼である彼女は、この里に匿ってもらい、この里に住まう一般人と共に寝食を共にしながら日々を過ごしたのだ。

 

 彼らは支配者である鬼女を崇拝していて、故に同じ鬼である彼女の来訪を歓迎していた。

 捕食者である彼女を同じ食卓へと誘い、己の(うなじ)を見せながら同じ床で眠りについた。

 

 そんな彼らを不気味に思いながらも、恩を感じていた彼女は危害を加えることもなかった――そしてある時、彼等からこの隠れ里の歴史を聞いた。

 

 元々、この里は少数の領民が暮らすだけの小さな隠れ里だったらしい。

 平和だが水源に乏しく、ゆっくりと、その少数を更に少なく減らしていた日々の中――突然、三人の高貴な装いの人間が現れた。

 

 父と、母と、娘。

 内――娘の腹は、大きく膨らんでいた。

 

 聞けば、その娘は京の有力貴族の家に仕えていたが、その当主の男の子を孕んでしまい、この地に流されてきたらしい。

 

 領民達は娘一家の境遇に同情したが、この地は人間が暮らすには不向きで、何処か別の地を目指した方がいいと諭すが――。

 

「――いえ。この場所はひっそりと暮らすには都合がいい。水源がない? ()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう言って、娘は雨を降らせ――湖を作り出した。

 

 明らかに人間業ではない――(あやかし)の術。

 

 気付けば、娘の額には角が生えており、娘の周囲の木々は赤く萌え――紅葉が色付いていた。

 

 自分達が生まれ育った、死んでいた筈の土地が――息を吹き返し、美しく生まれ変わる、その光景に。

 

 痩せ細った領民達は、恐怖よりも感謝を――信仰を抱いた。

 跪き、平伏し、全てを捧げた。

 

 そして、この水無里(みずなしのさと)と呼ばれていた神秘郷は――紅葉郷(こうようきょう)と名を変えた。

 

 紅葉(もみじ)(さと)を支配する、一体の美しき赤き鬼女。

 

「……………」

 

 彼女は、そんな鬼女の正体を知るべく、陽が沈みきった深夜に、神殿たる屋敷へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 人間と共に暮らすと言っても、鬼として生きてきた彼女に田畑仕事が出来る筈もない。

 

 彼女の主な仕事は、時折迷い込む人間を撃退する用心棒であった。

 

 この隠れ里と繋がる信濃国戸隠山(とがくしやま)は鬼が住まうと都で噂になっている為、その討伐の為に武者が派遣されている。

 そして、彼女がこの郷に迷い込んだ時、鬼女がそれを喰らっていたように、鬼を狙う武者がこの里に迷い込むことも、珍しいことではない。

 

「ここは神秘郷としては、神秘が薄い部類に入るの。現実との境目が、あまりに曖昧で頼りないのよ」

 

 そもそも人間が郷を作って住み着いてしまえるくらいにね――と、夜半に突如として来訪した彼女を、鬼女は微笑みながら歓迎した。

 

 昼間に時折里で見かける時とは随分と異なる姿だった。

 都の高貴な娘といった様相の昼とは違い、着物は盛大に着崩れ、豊満な胸が零れ落ちそうになっている。髪を解き、(べに)の塗られた唇で煙管(たばこ)を吹かす彼女はあまりに妖艶で、なるほど、思わず手籠めにしたという良家の当主の気持ちを、雌の身ながら分かったような気がした。

 

 鬼女は彼女に酒を勧めた。

 飲める年齢ではあったが(そもそも鬼にそんな良識はないのだが)余り酒の味を好まなかった彼女はあくまで唇を湿らす程度に付き合ったが、鬼女は酒豪であったようで、初めて出会ったという同族である彼女との語らいに気分を良くしたのか、次々と杯を空にし、段々と饒舌になっていった。

 

 そして、いつしか彼女は、天高く輝く月を眺めながら、昔語りを始めた。

 

「――とある、どこにでもいる馬鹿な人間と、愚かな鬼の話よ」

 

 かつて権力を誇っていた元名家の血を引く男と、そんな男に嫁いだ女がいた。

 男は都の貴族らしく人並み以上の出世欲を持っていたが、彼ら夫婦は子宝に恵まれなかった。

 

 彼らは天に、神に、仏に願い続けて、それでも叶わず――遂には、魔に願った。

 

 どうか、我ら夫婦に子を――特別な子を、と。

 

 そんな執念が通じたのか、歳を取った彼ら夫婦に、奇跡のような子が贈られた。

 

 美しい女子だった。

 嘘のように頭がよく、礼儀作法も水を吸うように身に着け――特に、彼女が引く琴は、聞く人間の魂を取り込むような魅力に満ちていたらしい。

 

 夫婦はそんな娘を溺愛し、娘の評判は瞬く間に広がった。

 

 娘の器量に感激した父は最上級の良家に嫁がせることも可能だと野心を燃やしたが、かつて権力を誇ったとはいうものの当時には既に隆盛を失っていた彼の家は、望まない中流階級の家から贈られた求婚を拒むことも出来ないような有様だった。

 

 父の苦悩を、娘はただ晴らしたいだけだった。

 愛してくれた父を、可愛がってくれた母を、苦しませたくないだけだった。

 

 故に彼女は、迷わずにこう言ったのだ。

 

「苦しまないで、お父様。悩まないで、お母様。私を嫁に出さなくてはならず、私を嫁に出したくないのならば――私を嫁に出して、私を嫁に出さなければよいじゃない」

 

 そう言って彼女は、自分をもう一人生み出した。

 己の身代わりを、瓜二つの自分自身を、何とはなしに、最も分かり易い解決策だと笑顔で実現させたのだ。

 

 父の苦しみを、母の悩みを、吹き飛ばす最も簡単な答えだと。

 

 しかし、その時――娘に向けられた、父の、母の、表情は。

 

「――この時、ふたりは初めて気付いたみたい。自分の子供が、人間ではないことに」

 

 魔に願って授かった子宝は――鬼子だった。

 血に濡れたように真っ赤な髪に、真っ赤な瞳の美しい娘は――美しき、鬼女であった。

 

 その時、己に向けられた瞳で――ようやく、彼女も気付いた。

 

「――この時、初めて、気付いたみたい。……私は……私が……人間ではなく」

 

 鬼だと――いうことに。

 

 その日、確かに、何かが壊れた。

 

 けれども、父も、母も、娘も、まるで何事もなかったかのように――その後も、幸福を演じ続けた。

 

 身代わりを贈られた家は、妖怪に呪い殺されたと風の噂で聞いたが、父も、母も、娘も、その話題を出すことは一切なかった。

 

 やがて、恐れをなしたのか父から売り込むことはなかったが、皮肉にも天が、あるいは魔がその願いが叶えたのか、待望した最上級の良家から、娘に侍女としての誘いがきた。

 

 父も、母も、何も言わなかったが――娘はその誘いに乗り、出仕することを決めた。

 

 ただ――喜んで欲しかった。

 可愛がってくれた、確かに娘として愛してくれていた父母の、願いを叶えて上げたかった。

 

 天でも、魔でもなく――娘の、自分が。

 だから――魂を抜く琴を、誰に求められるわけでもなく弾いたのだ。

 

 目が虚ろな当主に求められるがままに身体を差し出し、手付けにされ――子を孕んだ。

 

 嫉妬に身を焦がし、呪われたが如く体調を崩した正室に――おぬしは妖だと、そう疑いを掛けられても。

 愛していると、そう己の胸の中に顔を埋めて囁いたのと同じ口で、当主からおぬしを都から追放すると、そう言い放たれても。

 

 涙を流し、心が引き裂かれても――ただ、ただ――私は。

 

「――――ただ、言って欲しかった」

 

 あの時のように――あの時のように。

 

 愛していると、そう、言って欲しかっただけなのに。

 

 気が付いたら――全てを壊していた。

 

 まるで怪物に襲われたかのような、貴族の屋敷を逃げるように後にし。

 

 そのまま怯える父と母を連れて、重い腹を抱えながら、信濃国戸隠山へとやってきた。

 

「……父は、都を後にしたその日から、みるみる内に体調を崩して――母は、そんな父に付きっきりで、この地に来てから屋敷の外に殆ど出ていないわ」

 

 そして、まるで娘に近づけることを恐れているように、この地で生まれた子――己の孫を四六時中傍に置いているのだと、鬼女は語った。

 

 ぽつぽつと、呟くように語られた、そんな鬼女の昔語りを、彼女は黙って最後まで聞いていた。

 

 彼女は生まれながらに鬼であり、その自覚も生まれたその瞬間からあった。

 鬼という妖怪の出生は様々だ。霊的に妖気が充満する土地で妖気が形を得て鬼となる場合もあれば、鬼同士の雌雄の交配によって生まれる場合もある。

 

 そして、彼女のように――別の生物が呪われて鬼となる場合も存在する。

 

 彼女の場合は、それがたまたま――人間であっただけ。

 そして、それに気付くのが、遅かっただけ――人間として育てられて、けれど後から鬼だと、そう気付いた、ただそれだけの悲劇だ。

 

「私は――都で貴族の家を破壊して、この地へと逃げてきた」

 

 鬼女は言う。自分は追われている身の上だと。

 あの日――我を失った鬼女は、その凶悪な本性を晒し、仕えていた屋敷を無残に破壊して逃亡した。どれだけの被害を出したのかは覚えていないが、少なくとも当主と正妻は殺していない。彼らの恐怖に染まった瞳は鮮明に覚えている。その瞳を受けて、己が自我を取り戻し、そこから背を向けて逃げ出したことも。

 

 故に、我に返った彼等が、あるいは恐怖を忘れられない彼等が、死に物狂いで鬼女の討伐を命じるのは想像に難くない話だ。

 事実として、この地に逃げてきてから幾度となく、この里にまで辿り着いている妖狩りを返り討ちにしている。

 

 あなたが襲われたのも、その内の一人でしょう。ごめんなさい――と、鬼女は語る。

 そんな鬼女の言葉に彼女は首を振るが、鬼女は憂う表情を変えずに言う。

 

「……この地に住まう人間達は、私を崇拝している。私が止めてと言っても、私を守るのだと言って……時折、山へと出て、盗賊紛いのことをして、私を追いに山に入ってくる人間を襲うといったことを繰り返している」

 

 それでも討ち漏らした、あるいは倒しきれなかった武者は、逃げ惑う郷の民を追って、結果としてこの里を発見する。

 すると、そんな彼らを生きて帰すわけにはいかず、鬼女が止めを差すことで彼等の窮地を救うことで、また民の信仰が深まるという悪循環。

 

 そして、その因果応報の末路は――もう、すぐ傍まで迫っている。

 

「送った戦士が帰ってこない。そんなことが続いたら、都は更に強い戦士を送るに決まっている」

 

 鬼女が手に入れた情報によると、これまで返り討ちにした戦士とは格が違う大物が――近々、この郷へと乗り込んでくるらしい。

 

 平維茂(たいらのこれもち)――かつて、あの魔王・平将門を討ち取った英雄、その一人である平貞盛の養子。

 紛れもない当代随一の妖狩りの一角。流石の鬼女も、これまでのように容易く返り討ちに出来るとは思っていない。

 

「悪いことは言わないわ。あなたは早い内に逃げなさい。もう傷も癒えたでしょう」

「……あなたは、どうするのですか?」

 

 彼女からの問いに、「……私は――」と、何かを言い掛けた、鬼女の言葉を遮るように。

 

「――自首をするのです」

 

 いつの間にか彼女達の背後に立っていた、痩せ細った老婆が言った。

 否、実年齢で言えば、まだ老婆というほどの歳ではなかったのかもしれない。だが、その生気というものを失った表情は、この暗い夜の中では、まるで幽鬼のように恐ろしく映った。

 

 人間の、只の女にゾッとするような恐れを抱いて絶句する鬼子など、まるで見えていないかのように――否、まるで、何も見えていないかのように虚ろな瞳で、母は言う。

 

「……お願い。自首してちょうだい。貴族様に謝ってちょうだい。あなたは可愛い子。あなたは賢い子。あなたは美しい子。きっと罪を償えば、またあなたを娶ってくれる別の御貴族様が現れる。だから都に帰りましょう。だからあの日に戻りましょう。そうすれば、そうすればきっと、お父様も元気になるから。だから、だから、だから、だから、だから」

 

 母は、娘に縋りつきながら、うわ言のように繰り返す。

 だから、だから、だから、だから、だからと。

 お願い、お願い、お願い、お願い、お願い、だからと。

 

 そんな母を、娘は優しく抱き締めて――自分を見ていない母に、何も見えていない母に、止めを差すかのように、現実を突きつける。

 

「もう――無理よ。私達は、後戻りは出来ない。もう、どこにも、戻ることは出来ないの」

 

 帰る場所などない。

 

 戻れる場所など、きっと、どこにもなかった。

 

 だって――始まりから、生まれた時から。

 

「私は――鬼だから」

 

 その言葉に、母は大きく目を見開いて――魂を吐き出すように号泣した。

 

 なんで、なんで、なんで、なんで、なんでと。

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして――こんなことに、と。

 

 いつまでも、いつまでも、いつまでも泣いて。

 いつまでも、いつまでも、いつまでも――鬼は、母を抱き締めていた。

 

 そんな親子を、彼女はずっと傍で見ていた。

 

 だから、力尽きたように眠りにつく瞬間、母が娘の胸の中で言った、その言葉も一言一句聞き取れてしまった。

 

 ああ――と。

 

 老婆は、嘆くように言う。

 

「…………あなたさえ――」

 

――鬼女(あなた)さえ、生まれ(産ま)なければ。

 

「………………」

 

 それでも――鬼女は。

 

 最後まで、母を優しく、抱き締め続けた。

 

 真っ赤な瞳で、とても美しい、涙を流しながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 次の日――母は死んでいた。

 

 息を引き取っていた父の傍で。鬼女が生んだ、己の孫を道連れにしながら。

 

 

「………………」

 

 そんな家族の亡骸を、鬼女は無表情でいつまでも見下ろしていた。

 

 外からは郷の民の悲鳴が轟いていた。

 

 訪れたのだ。

 予想よりもずっと早く。

 

 平維茂が――そして。

 

「……これで……終わるのね」

 

 鬼女は、そう天井を見上げて呟いた。

 涙はもう流れなかった。悔いがあるとすれば、我が子を抱いて死ねなかったことだが、この子も鬼の胸の中で死ぬより、大好きな祖母と共に死ねたことがきっと幸福だろう。

 

 鬼は――鬼らしく。

 

 化物は――化物らしく。

 

 妖怪として、哀れに、孤独に、退治()されようではないか。

 

「その必要はありませんよ」

 

 覚悟を決めた妖怪の背中に、その覚悟を揺さぶる声が掛けられる。

 

「…………お万」

 

 お万と、そう鬼女は、彼女の名を呼ぶ。

 この郷にて唯一、否、鬼女がこれまで出会った唯一の同族――自分と同じく、鬼で、化物で、妖怪である存在に。

 

「郷の人間達は、誰一人残らず殺されました。皆、あなたを守ろうと死ぬまで戦いました。……まあ、元々山賊として政府からは生死問わずのお触れが出ていたようですから。自業自得ではあります」

 

 いつからか民の悲鳴が消えていたのでそうではないかと思ってはいたが、改めてその末路を知らされると、どんよりと暗いものが胸の中を乱した。

 

 半ば信仰心が暴走していたとはいえ、自分がこの地に水と豊かさを齎したとはいえ、彼等も自分という鬼がこの場所に流れ着いていなければ、只の貧しくも平穏な民として生涯を終えていた筈なのだ。

 

 結果、彼等は自分達の人生を大きく歪めた化物に、一言たりとも恨み言を言うことなく散っていった。

 

「気に病むことはありません。彼等が選んだ末路です。それに――彼等が全員死んだからこそ……あなたが生き残ることが出来る道が生まれたのです」

 

 もう、この紅葉の郷に、あなたの――『鬼女紅葉(きじょこうよう)』の素顔を知る人間はいない。

 

 お万は、そう言って俯く鬼女の顔を上げて、真っ直ぐに目を合わせて言う。

 

「私がここに残ります。鬼女紅葉(きじょこうよう)として、平維茂(たいらのこれもち)に討たれましょう」

 

 だから、あなたは生きて下さい――そう、生まれて初めて出遭えた同族は。

 

 少女鬼・お万は、美しき赤鬼に、生きてくれと願った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 紅葉の郷が燃えている。

 赤く燃えるような美しい里が、これ以上なく無残に焼け落ちていく。

 

 いつかとは真逆の光景だった。

 

 あの時は、命からがら逃げのびてきたお万を、鬼女が紅葉の郷で出迎えたのに。

 今は、紅葉の郷に残ったお万から、鬼女が命からがら逃げ出している。

 

 どうして――こんなことに。

 鬼女は、昨夜、自身の母が零した言葉を漏らしながら、枯れたと思っていた涙を流しながら、山道を走る。

 

 

 

 どうして――と、鬼女は言った。

 

 自分が残ると。自分が鬼女紅葉として、政府の追手に討たれると言ったお万の肩を揺さぶりながら、鬼女は問い詰めた。

 

「いいんです。あの時、アナタに救われていなければ、とっくに私は死んでたんですから。――だから、この命は、アナタの為に使いたい」

 

 どうして――と、再び、鬼女は言った。

 

 あなたまで、そんなことを言うのか。

 自分の為に死んでいった民と同じようなことを。自分を救ってくれる救世主を見るような目で、信仰させてくれる偶像へ語るような言葉を。

 

 やっと、やっと――自分のことを分かってくれる、同族と出遭えたと思ったのに。

 

 そんな失望が表情に出てしまったのか。

 

 お万は、再び顔を伏せる鬼女の――。

 

「――――!」

 

――頭を、優しく、ゆっくりと撫でた。

 

 遠い昔のように感じる遥か彼方――もう、戻れないと思っていた、それは、あの頃と同じ感触で。

 

「……大丈夫。私は、あなたが私の救世主だから、あなたの為に死にたいんじゃない。――あなたに、幸せになって欲しいから」

 

 ただ、あなたに生きて欲しいから。

 自分が生き延びるよりも、あなたに生き延びて欲しいと――そう思ってしまったから。

 

「……私は、本当は仲間を探して旅をしていました。……私と同じように――仲間を、同族を……家族を、求める鬼を」

 

 その最中に人間に見つかって死に掛けちゃいましたが。お陰で、見つけることが出来ました――と、お万は。

 

 昨夜、鬼女が母にしていたように――かつて、母が、父が、娘に対してしてくれていたように。

 

 優しく、包み込むように、己よりも大きな鬼女を抱き締める。

 

「――よく、頑張りましたね」

 

 その言葉に――その、ずっと求めていた、ずっと失くしてしまったと思っていた、ずっと、もう、手に入らないと思っていた、温もりに。

 

 鬼女は、枯れたと思っていた、涙を流して――縋った。

 

「……これから、ずっと西に――京よりも西に、大江山という山があります。そこに、私と同じように、あなたと同じように――仲間を求める、同族()達が集まっている」

 

 どうか、そこへ向かってください。どうか、生きて辿り着いて下さい。

 

 鬼女はいやいやと、子供に戻ったように頭を振る。どうか、お万も一緒にと。

 

「……私はもう戦えません。傷は治りましたが、力はついぞ戻らなかった。……これから、私たち鬼が自由を手に入れる為には、きっと大きな戦いを乗り越える必要があります。その時、同族の助けになるのは、私よりも――きっと、あなた」

 

 さあ、行って――と、お万は優しく突き放す。

 

 気が付けば、屋敷には火が放たれていた。

 侵入を防ぐ結界を張ったのは鬼女だが、それは建物自体を破壊されたら意味を失う。

 

「――紅葉郷の鬼女は、ここで討たれます。あなたに追手が差し向けられることはないでしょう。……あなたは自由です。どうか、生まれ変わってください」

 

 私は、二度も救われた。だから――と、お万は優しく、微笑みを持って送り出す。

 

 焼け落ちた柱が二体の鬼の間を引き裂く。

 

 その瞬間に――彼女は言った。

 

「私を救ってくれた、あの方とあなたが、どうか――『鬼』という哀れな化物を、救ってくれることを祈っています」

 

 

 

 がらがらと、全てが燃え落ちた場所で――人が、鬼を取り囲む。

 

 水無里(みずなしのさと)と、そこは呼ばれていた。

 枯れ果てた地。死に逝く土地。暮らす民達は、ただ絶望のみを抱いていた。

 

 そこに――鬼が現れた。

 鬼は恵みを与えた。無しと言われた水を、美しい紅葉と共に、施すように民に与えた。

 

 その鬼が、今、死に逝こうとしている。

 民を失って、家族を失って、己を殺す武具を向ける人間達に囲まれて。

 

 鬼は――笑った。

 

「――何か、言い残す言葉はあるか?」

「ふっ。面白いことを言いますね。我が民を、我が父母を――そして、我が子を殺めた人間共に、この私が、そう易々と殺されるとでも」

 

 そう言って、鬼はその爪を構える。

 もはや何の力もない――残されていた僅かな力も、この地の民としての用心棒での仕事で使い果たしてしまった。

 

 故に、もう人間の小娘に等しい力しか振るえぬ様で――それでも、鬼は笑う。

 

 鬼女紅葉伝説――その幕引きに相応しいように。

 あの美しい鬼に相応しい、死に様を演出する為に。

 

 鬼は、美しく、笑う。

 

「我が名は――鬼女紅葉(きじょこうよう)! この命、安くはないぞ――人間共よ!!」

 

 

 

 その日、一体の鬼女が、美しくその命を散らした。

 

 そして、その日、一体の鬼女が、醜くその命を長らえたのだ。

 

 

 

「――お前が……『鬼女紅葉』か?」

 

 奇しくも、それも山中での出遭いだった。

 

 長く続いた逃亡生活の果てに辿り着いた御山。

 

 その入口にて、一体の赤鬼が立っていた。

 

 赤鬼は、その鬼女の有様を見て、全てを悟ったように。

 

「――よくぞ、参った。……今日から、この大江山が、お前の家だ」

 

 今日から、我らが――お前の『家族』だ。

 

 その言葉を聞いて、鬼女は、男の胸に倒れ込むように、ゆっくりと気を失った。

 




用語解説コーナー㊾

・鬼女紅葉伝説

 かつて子宝に恵まれなかった夫婦が第六天魔王に祈願した。

 どうか私達に子供を――と。

 その甲斐があってか、夫婦の間に女子が生まれた。
 女児は生まれつき利発で、美しい琴を弾き、その美貌と共にみるみる評判になっていった。

 彼女に想いを寄せる若者は多く、強引に縁組を迫るものもいたが、困っている父に、娘は呪文を唱えて出現させた己に身代わりに嫁がせればよいと言った。

 その後、住む場所を変え、名も紅葉と改めた娘は、ある日、娘の琴の音に惹かれた貴族の奥方に自分の侍女にと誘われる。こうして大臣の家に仕えることになった紅葉は、その才智で侍女達を取り仕切る立場となった。

 やがて紅葉は大臣の目に止まり、寵愛を受けるようになった。
 その頃から急に奥方は病に伏すようになり、やがて奥方の病は紅葉の呪いのせいだという噂が立ち始める。

 紅葉は奥方暗殺の嫌疑をかけられ、追い出されることになる。
 都を追放すれた紅葉一家は、奥信濃に流されることになったが、彼女の身体には大臣の子が宿っていた。

 紅葉一家は信濃国戸隠の奥深くに辿り着く。
 そこは一年中山々が赤く染まる紅葉の郷であった。紅葉の美貌や放つ異様な雰囲気に魅了された郷の民達は、彼女達一家に館を献上し、自分達の主として迎え入れた。
 
 やがて大臣の血を引く子が生まれ、成長するにつれて紅葉は、再び都に戻り、大臣に我が子を逢わせてやりたいと願うようになった。

 その為の資金を欲したが為に、紅葉は夜な夜な妖術で操った民達を差し向け、近隣の村々に強盗行為を働くようになっていった。

 紅葉一党の悪名は徐々に轟いていき、戸隠山には鬼女が住み、村々を襲っていると噂になった。その噂は鬼女が都へ攻め込んでくるという形で都にまで伝わり、朝廷は盗賊退治の命を信濃守であった平維茂に与えた。

 維茂は手勢をつれて戸隠に攻め込んだ。
 母は娘に自首を進めたが聞き入れずに、父と共に自害して果てた。

 紅葉は維茂軍を妖術で迎撃する。

 維茂は高名な老僧によって授けられた一振りの短剣を持って彼女へと挑み、紅葉が住まう館を炎上させて、彼女の息子を討ち果たした。

 愛しい我が子の死に怒り狂った紅葉は、維茂と壮絶な戦いを繰り広げられるも、短剣を弓に番えて放った維茂の一射により、遂には討ち果たされることになる。

 紅葉を失った郷は、まるで血を流すように紅蓮の炎によって赤く染まっていて。
 まるで山々が泣くように、何処からか女の泣き声が響き続けたという。


 こうして、鬼女紅葉伝説として、とある鬼女の逸話は語り継がれることとなった。


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妖怪星人編――㊿ 鮮烈なる紅

――さらば。紅く美しき鬼女よ。


 

 赤き鬼女は、懐かしき過去を回顧して――穏やかに微笑む。

 

(――あの日から、私は宝のような日々を送った)

 

 それは走る馬の上から眺める灯りのように、一瞬で脳裏を過ぎ去っていく。

 

(家を――家族を。仲間を――居場所を。多くのものを、与えてもらった。温かい――宝のような日々)

 

 無論、楽しいばかりではなかった。

 あの日、お万が言っていたように、とても大きな戦いもあった。

 

 傷ついて、敗れ去って。

 四天王などと呼ばれるほどには強くなったけれど、本当に『鬼』という種族の力になれたのか、その自信は余りない――けれど。

 

(あの日、死に逝く筈だった私に、こんなにも幸福な日々をくれた……。ありがとう、お万。……ありがとう――)

 

 茨木――と、女は最後に、身勝手に自分達を捨てた男を思う。

 

 これ以上なく手痛く敗北し、およそ種族として最大の窮地に陥っている最中に。

 

 部下も、同僚も、女も、そして何より、彼がいなければ何も出来なかった子供(頭領)すらも見捨てて、御山を下りようとした男に。

 

 女は泣きながら、その頬を張り手した。男は、そんな女に――ただ一言、こう言い残したのだ。

 

『……俺は、お前達を救わない。鬼を、家族を……何もかもを、捨てる。……だから、紅葉――お前にだけは、伝えておく』

 

 そして――男は、捨てる女を抱き締め、その耳元で、最後の呪いを囁いた。

 

――どうか、酒吞を……頼む。

 

(……本当に、最低の男)

 

 紅葉は、それでも、そんな馬鹿な恋をすることも出来たのも――悪くはないと、笑って振り返ることが出来る。

 

(――お万――そして、茨木)

 

 彼女のように、彼のように――自分も誰かを守護(まも)って、大切な何かの為に死ねるのならば。

 

 その生涯に一片たりとも悔いはない。

 

 あの時の、燃え盛る紅葉殿の時とは違う。

 

「――私は、幸せ者ね」

 

 そして――女は、美しく、笑いながら、怪物になった。

 

 かつて、己の全てを奪った時と同じ、悍ましき姿に。

 

 己の全てを懸けてでも守護(まも)りたい、そう思える、大切なものの為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鬼の頭領・酒吞童子。源氏の棟梁・源頼光。そして、鬼殺し・渡辺綱。

 

 三つの最強が集結した、新土御門邸の広大なる庭園に――新たなる怪物が出現した。

 

 それは、正しく魔の顕現だった。

 かろうじて額に角が残っているが、鬼と呼べる残滓はそれだけだ。

 

 両手は鎌が如き刃へと変わり、誰かを抱き締めることは不可能となった。

 美しき赤い体皮も失われ、それどころか肌も肉も失われ、もはや骨しか残っていない。

 その代わり足は増えていた。尾も増えていた。眼球も二つほど増えて四つになっていた。

 

 更に、巨大になっていた。

 その場にいる誰もが――彼女を見上げていた。彼女だったものを。あるいは、彼女の本性、そのものを。

 

「…………紅……葉?」

 

 誰よりも、信じられないと呟いたのは、彼女の同族だった。

 鬼の頭領・酒吞童子(しゅてんどうじ)は、誰よりも己の傍にいた側近の変貌に、一早く気付いたが、誰よりもそれを受け入れるのが遅れた。

 

 だって、それは、あり得ない。

 有り得る筈がなかった――だって、それは、それを、彼女は誰よりも恐れ、拒んでいた。

 

 本来の姿を晒すことを、本来の力を発揮することを――鬼女紅葉(きじょこうよう)は、誰よりも恐れていた。

 

 誰よりも己を――鬼女紅葉という鬼の本性を恐れていた。

 

 故に、あの大江山の鬼退治においても、紅葉はこの姿を解禁していない。

 だって、言っていた――この姿に戻ったら、自分はもう、自分を保てる自信がないと。元に戻れる確証がないと。

 この本性を知ったあの時も、どうして自分が戻れたのか、自我を取り戻したのか、分からないのだからと。

 

「…………どう……して――」

 

 呆然と、だが、はっきりと困惑の色を浮かべている鬼の頭領に――変わり果てた紅葉は、襲い掛かった。

 

「――――!?」

「我を失っているのか……?」

 

 突然の暴挙に、頼光は瞠目し、綱は冷静に分析を始める。

 

 振り降ろされる鎌、それを目前に叩き付けられて尚、微動だにしない酒吞童子に――変わり果てた鬼女は、言葉にせず、思念を伝えた。

 

《――逃げなさい、酒吞。あの二人は、私が引き付けるから》

「――――!?」

 

 酒吞童子は、再び目を見開き、口に出して問う――「どうして……?」と。

 

 頼光にも、綱にも、部下の突然の乱心と受け止められるであろう、その疑念の声に、紅葉は神通力による念話で応える。

 

《綱の刀は、もはや鬼殺しの概念の結晶といえるものになってる。あなたでも殺されるかもしれない。だから、ここは逃げなさい》

「……どうして……どうして」

 

 紅葉は鎌を地面から引き抜き、そして――酒吞童子に背を向ける。

 

 その複数の赤眼を、当代最強の妖狩り達――人間の、怪物達に向けて。

 

《あなたの目的は――あんな奴等じゃないでしょ?》

 

 そう――この子の、この少女鬼は、決して人間を滅ぼそうと企んで、この平安京に乗り込んできたわけではない。

 源頼光、渡辺綱――人間の怪物を打倒しようなどと目論んで、こんな戦争をしているわけではない。

 

 彼女が平安京に、この妖怪大戦争に求めたもの――それは、決着と、再会。

 

 ただ一人、己と同類と見なした――少年との決着と。

 

 ただ一体、己を同族と見なしてくれた――右腕との、再会。

 

 こんな悪趣味な庭園に、彼女の求めるものなど存在しない。

 そんな場所で、彼女が死の危険と隣り合わせる必要など、ない。

 

《だから――あなたは行きなさい。あなたは――生きなさい》

 

 酒吞童子は、その念に、その心に――初めて、表情を歪ませ、声を震わせる。

 

「――どうして!!」

 

 初めて見る、鬼の頭領の感情の発露に、頼光と綱の表情が変わる。

 

 だが、紅葉にとって、それは見慣れたものだった。

 

 誰よりも強く、何よりも恐ろしい妖怪・酒吞童子。

 

 だが、この世界でも恐らくは、自分と、坂田金時、そして――茨木童子しか知らない、等身大の彼女は。

 

 己の感情を御しきれず、その揺れ動きに戸惑いを覚える――幼く、危うく、そして、愛しい、『少女』なのだと。

 

(私の、愛しい――『妹』――)

 

 その時、酒吞童子の身体を、温かい何かが包み込んだ。

 

「――――!」

 

 体温ほどに暖められた空気を、酒吞童子の周辺に、操り、停滞させている――種を明かせば、ただそれだけのトリック。

 

 両手が鎌に変わり、もはや、何も抱き締めることの出来ない怪物となった鬼の、苦肉の策による抱擁の再現。

 

 だが――酒吞童子は知っていた。忘れる筈もなかった。

 

 だって、これは――紅葉の温もりだ。

 

 何年間も、ずっと、ずっと傍に居てくれた。『右腕』を失っても、ずっと傍らで、頭を撫でて――抱きしめてくれた。

 

 家族の――『姉』の――温もり。

 

 醜悪なる怪物は、背を向けたまま、彼女を疑似的に抱き締め、言う。

 

《――貴女が、『妹』のように――『我が子』のように、可愛かった。自分の命よりも、貴方の夢の方が大切になった。だから、私は、ここで死ぬのよ》

 

 酒吞童子はグッと息を吞む。

 分かっていた。既に紅葉は致命傷を受けている。

 

 それは変貌しようと、本性を明かそうと何も変わっていない。

 鬼女紅葉という存在の核に罅を入れた、渡辺綱の鬼殺しの刀傷は、間もなく紅葉の命の灯火を容赦なく吹き消す。

 

 酒吞童子の荒れ狂う感情が、そのまま大気を乱す。

 頼光と綱が再び臨戦態勢に入る中――紅葉は、酒吞童子を包み込んでいた温かい大気を、そのまま上昇気流へと変えた。

 

 少女鬼の小さな身体が、そのまま平安京のどこかへと吹き飛ばされる。

 

「――――紅葉(こうよう)!!」

 

 酒吞童子は、紅葉に向かって手を伸ばす――だが、決して、逆らわなかった。

 

 嫌だと、貴女まで私の傍からいなくなるのと、悲しくて堪らなかったが――我慢した。

 

 酒吞童子の力ならば、このような気流など簡単に吹き飛ばせる。

 もっと言えば、たとえどこまで吹き飛ばされようと、結界すら既に存在しないこの平安京ならば、すぐさま戻って来ることも出来た。

 

 だけど――分かったから。

 これが紅葉の最後の願いだと――最後の、愛だと、教えてくれたから。

 

 自分を吹き飛ばす、この優しい嵐が――とても、温かったから。

 

《大丈夫よ――酒吞》

 

 最後に、紅葉が、教えてくれたから。

 

《あなたの右腕は、あなただけは、裏切ったりしない。例え、他の全てを切り捨てても、あなたのことは見捨てたりしない――アイツは、必ず、あなたの元へと帰ってくる》

 

 だから――生きて。

 

 酒吞童子(あなた)は、(わたしたち)の――。

 

「―――――――ッッッ!!!!!!」

 

 ただ、流されるままに。

 

 ただ、導かれるがままに。

 

 酒吞童子は、この温かい風に、その身を任せて――平安京の空を飛んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、酒吞童子が星のように流れていく様を――二人の妖狩りは黙って見ていた。

 

 いつ横槍が入るか、いつ我が身を盾にしようかと背後の気配を伺っていた紅葉だったが、終ぞ何もしてこなかった彼らに、振り向きながらゆっくりと問うた。

 

《……随分と優しいのね。黙って見過ごしてくれるだなんて》

「お、これは……なるほど、神通力による念か。お前が神通力を使えることは知っていたが。なるほど、これで酒吞童子と意思疎通していたのだな」

 

 納得したと首を振った綱は、「いや、何――優先度の問題だ」と変貌した紅葉を見上げる。

 

「お前――間もなく、我を失うだろう?」

《……………》

「これでも数多の妖怪を見てきた。分かるさ。お前は我を失い、ただ力の限り暴れ続ける怪異となる。先程、私が刻み込んだ致命傷がお前を殺すまでな。だが、それまでお前を放っておけば、この平安宮が更地になりかねない被害を生むだろう」

 

 今のお前は、それほどまでに脅威だ――渡辺綱は、鬼殺しの化身は、その鬼を(ころ)す為の刃を、妖刀・鬼切を抜き放ち、炎を閃かせながら言う。

 

「故に――下手に手出しをして、酒吞童子をも暴れさせるくらいならば、一旦は逃がした後に、お前を確実に退治した後に捜索する方が無難だと判断した。あの鬼は強大無比だが、誰彼構わず人を襲う鬼ではないし……向かう目的地も、見当がつくからな」

 

 続いて、かつて、その酒吞童子の身体を斬り裂いた実績のある名刀・童子切安綱を引き抜きながら、源頼光はその切っ先を向ける。

 

 当代最強の妖狩り、人間の怪物が二人――真っ直ぐに、その殺意を、紅葉に向ける。

 

『だが、かといってあんな怪物を長時間野放しには出来ない。故に、早急に終わらせてもらう――鬼女紅葉(きじょこうよう)

 

 ここが、お前の死に場所だ――と、渡辺綱が言う。

 せめて、自我がある内に殺してやる――と、源頼光が言う。

 

 鬼女紅葉は、既に――何も感じない。

 ああ、コイツラは、ヤハリアノコを殺すノダ――と、そう思うだけ。

 

 真っ暗な海に落ちていくようだ。分かっていた。最後はきっと、この黒い闇の中で死ぬことになるということは。

 

 後悔はない。

 あれほど恐ろしかったのに。何よりも怖かったのに。

 今はもう、二度と上がることは出来ないであろう、この冷たい闇の中に沈んでいくことを、受け入れられている自分がいる。

 

 自分は、もう、十分に生きた。

 

 だから、アトハ――。

 

《――コノ、キジョコウヨウノ、イノチ……ヤスクハナイゾ》

 

 その言葉を最後に、怪物は言語を失った。

 

 ただ叫ぶ。己の内から湧き上がる魔の衝動を放つように。

 

 絶叫し、殺意のままに、その必殺の鎌を振るう。

 神通力を全開にし、炎の花を咲かせ、豪風を吹かせ、濁流を迸らせた。

 

 そして――怪物は、怪物によって、その生涯の幕を閉じる。

 

 見るも無残。

 あまりに醜悪な死体は、正しく怪物の成れの果て。

 

 しかし、その生涯の鮮烈なる美しさに、鬼切が纏った血を飛沫として振った武士は、敬意を表した。

 

「――さらば。紅く美しき鬼女よ」

 

 どうか、その暖かい愛の中で、安らかに眠れ。

 




用語解説コーナー㊿

・鬼女紅葉の本性

 第六天魔王によって呪われた鬼子であった紅葉の、その正体は醜悪なる魔の鬼だった。

 それはもはや、鬼と呼ぶのも憚られる、死の化身。
 肉や皮といったものすら捨て去り、理性や感情といったものをも失い。

 ただ、命を刈り取り、死を齎すだけの鎌を振るう――奪った命を咀嚼することすらせず、ただただ死を振り撒き量産するだけの機構。

 とある夫婦の歪んだ願いが齎した、魔が差したが故の皮肉な悪戯。

 紅き鬼女は、何よりも、そんな己の本性こそを恐れた。

 醜悪な己を、残酷な己を――けれど、そんな自分をさらけ出してでも、守護りたいものに出会えたから。

 故に――その死体は、どこまでも醜く恐ろしくとも。

 その生涯は、きっと、紅く萌える山のように、鮮烈な美しい愛に彩られていた。


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妖怪星人編――51 悲劇の少年

初めてだった。本当に――――嬉しかったんだ。


 

 出来心だった。

 あるいは気の迷い――血迷い、だったのかもしれない。

 

 この世界で、たった三体――己と同じルーツの血を流している個体――盤外個体。

 

 内、一体は既に殺され、この世にはいない。

 

 内、一体は完全に異なる立場を、真逆の立ち位置を選択し、決定的に敵対した。

 

 故に、彼女にとっては、その存在だけが全てだった。

 この世で唯一、心の底から信頼出来て、ずっと己の傍に居てくれる存在。

 

 同じ階層に立って、同じ視界を共有し――自分を孤独から救ってくれる存在。

 

 そんな存在が――いなくなった。

 自分の隣から、自分の世界から、いなくなってしまった。

 

 何も言わず、いつだって握ってくれた、自分の伸ばす手に背中を向けて。

 

 ぽっかりと大きな穴が空いたようだった。

 何も得たことのなかった少女は、だからこそ、何かを失うことが初めてだったのだ。

 

 生まれて初めて感じる――喪失感。

 その、圧倒的な空虚に、恐らくは、血迷ってしまった。

 

 何でもいいから埋めたかった。誤魔化したかった。

 そんな感覚を、そんな感情を、少女はきっと理解出来ぬまま、ただ血迷うがままに行動し――その血を、垂らした。

 

 人間を――鬼にする。

 その出自自体は、その方法自体は、決して珍しいものではない。

 

 呪いを持って、妖力をもって、あるいはその――血をもって。

 獣を、他の妖怪を、そして人間を――鬼とする、それ自体は、決して珍しいものではない。

 

 だが、鬼は決して、簡単になろうと思ってなれるものではないし――させようと思って、簡単に出来るものでも、決してない。

 

 妖怪の頂点種――鬼。

 妖力の塊とも称されるその種族は、その特徴でもある莫大なる妖力に耐えられる『器』無しでは、その資格すら与えられない。

 

 他の生物を――鬼にする。

 その為には、その器に強度が、圧倒的な妖力を呑み込む容量が求められる。

 

 ましてや――頂点種の中の頂点、鬼の中でも規格外たる盤外の個体――酒吞童子(しゅてんどうじ)の眷属など、簡単に生まれよう筈がなかった。

 

 だから、これは只の血迷いで終わる筈だったのだ。

 

 たった一滴の血。

 それを死に掛けの人間に垂らした。何をやっているんだと鼻で笑われるような、そんな馬鹿な真似で終わる筈だったのだ。

 

 しかし、それは――奇跡の一滴(ひとしずく)だった。

 あるいは悪魔の、かもしれなかったが。

 

 死に掛けの、何の変哲もない、ただ無力に死に逝く筈だった人間の少年は。

 その血を、本当に美味しそうに、乾ききった喉に染み込ませるように呑み込み――そして。

 

 全身を真っ黒な炎に包まれ、焼かれ、炭となり――そして、その中から。

 

 鬼として――生まれ変わった。

 

 正に奇跡だった。

 その集落にいた、全ての人間の死体に酒吞童子は血を垂らしたが、その全てが黒く燃え尽きたにも関わらず――たった一人、たった一体、その少年だけが、適合した。

 

 否、それは適合というには余りに歪で、醜いまでに不完全だったが――それでも。

 

 彼にとっては正に、神の奇跡が如き潤いだった。

 たった一滴の血で――自分を蘇らせてくれた。

 

 生き返らせてくれた。

 何の力もなかった自分を――最強の鬼へと変えてくれた。

 

 そんな存在を――崇拝せずにいられるだろうか。

 信仰せずにいられるか。この方の為に生きたいと、新たな命を使いたいと、そう思わずにいられるだろうか。

 

 だから――ならなくてはならないのだ。

 

 この方が、空虚なる穴を埋める為に――代わりをお求めになったのならば、全力でその穴を埋めよう。

 

 代替品を求めたのならば、本物以上の、偽物となろう。

 

 茨木童子が必要ならば、茨木童子以上の、茨木童子に。

 

 かの御方が、己が規格外れであると、孤独を覚えているのならば。

 

 酒吞童子(あの御方)以上に――この世界から、外れてみせよう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 全てが遠くなっていく。

 

 己の身体が『黒』に支配されていくにつれ、深い水底に沈んでいるかのように、全てが遠くなっていく。

 

 その重苦しい世界の中で、微かに――化物の断末魔が、聞こえた気がした。

 

(……逝ったんだね、姉さん。……本当に、最後まで馬鹿な鬼女だった……)

 

 かつて己の頭を撫でてくれた、たった一体の、愚かな鬼女を思い出し――黒くなりたての鬼は、何も映さない瞳に涙を流す。

 

 ハハハハハハハハハハハハハハ――と、壊れたように笑いながら。

 

(ダイジョウブ。さみしくないよ。スグに――ツレていくカらネ)

 

 黒い鬼は、己が頭部から指先を引き抜き、頭から黒い鮮血を噴き出しながら、凄惨な笑みを咲かせて言う。

 

「――――コロス! コロスコロスコロスコロスぅぅぅううううううううう!!!!!! イバラキドウジィィィィィィイイイイイイイイイ!!!!」

 

 狂い叫びながら、黒鬼は一気に距離を詰める。

 

 先程までとは比べ物にならない速さ。

 それに瞠目した巨躯なる赤鬼は、その隻腕を瞬時に盾のように構える。

 

 瞬間、即席の盾に爆発のような衝撃があった。

 

「――――ッ!」

 

 確かに防御は間に合った――だが、殺しきれない。

 弾ける衝撃が、隻腕の鬼の巨体を押す。ズザザザザザッと、轍を引くように、茨木童子に後退を強要した。

 

「…………」

 

 これまで一切のダメージを許さなかった、茨木童子の強靭な体躯に、防御した筈の隻腕に――確かに。

 

「――痺れている! 効いているなぁ! 痛そうだなぁ!! 茨木童子ィィイイイイ!!!」

 

 ハハハハハハハハと哄笑する(あおい)に、茨木童子は隻腕を振りながら返す。

 

「……お前の腕ほどじゃないさ」

 

 爆発かと紛うような衝撃を放った碧の拳――右腕は、なくなっていた。

 正確には、拳を叩き込んだ瞬間に爆散していた。放った拳に、繰り出した攻撃の威力に――碧の身体が耐えきれなかったのだ。

 

 しかし――碧は、尚も笑う。

 

 瞬間、爆散した腕が、何事もなかったかのように――再生したからだ。

 

「――羨ましいですか? あなたと違って、僕は腕を失くすようなことはない」

 

 取り戻した腕を、再生した腕を見せつけるように、碧は両手を開いて、胸を張って、誇るように言う。

 

「この再生力こそが! この黒色の体皮と同じく! この世でただひとり! 僕だけが受け継ぐことの出来た王の異能(ちから)!!! この世でただふたり! 僕とあの御方しか持ち得ない神が如き奇跡!!!」

 

 ぎろりと、血のように真っ赤に染まった眼で、天を見上げながら、茨木童子を見下ろして。

 

 黒鬼は、酔うように、告げる。

 

「僕の中に、あの御方の血が流れている。その何よりの証拠だ」

 

 再び、碧の姿が揺れて消える。

 

 次の瞬間には、碧は高く跳び上がり、右足を弓のようにしならせていた。

 

 そして――振り抜く。

 茨木童子の頭部を的確に狙ったその蹴りは、再びその太い隻腕に防がれたが――茨木童子の巨体は吹き飛ばされ、碧の右足は木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

 碧は頭から落ちるのを両手で着地することで避け、そのまま宙返りをするようにして跳び上がり、次の着地時には右足は再生していた。

 

 それを吹き飛びながらもしっかりと観察した茨木童子は、目を細めて――()()()()と、怪訝に思う。

 

(……確かに『再生』は、多くの鬼の中でも酒吞しか持ち得ない異能の一つだ。だが、それは『無限再生』ではあっても『瞬間再生』ではない)

 

 確かに掠り傷程度ならば、酒吞童子はまるで傷など負わなかったかのように瞬く間に再生するが、その再生速度は負傷具合による。

 少なくとも四肢の欠損ほどの大怪我ならば、再生するのに数秒は要した筈だ――あの酒吞童子でさえも。

 

 だが、碧は再生開始までは一秒ほどの時間(タイムラグ)があるものの、再生自体は正に一瞬――『瞬間再生』が如き速度で欠損が修復されている。

 

 酒吞童子(オリジナル)をも越える権能――そんなものが、何の代償もなく実現できる筈がない。

 

 そう茨木童子が思考する最中――再び、目に捉えることすら難しい速度で急接近する碧。

 

「――――!!」

 

 そして、自分の目を潰すかのように放たれる拳を――瞬きもせずに、最小限の挙動で避け、カウンターの拳で黒鬼の胴体を吹き飛ばした、茨木童子は。

 

 何も映っていないかのように、真っ赤に濁った黒鬼の目を見ながら。

 まるで踏み越えてはならない一線を越えようとするものを引き留めるように、残った碧の上半身――その細い子供のような腕を掴んで、告げる。

 

「――死ぬぞ」

 

 瞬間再生。

 たった一秒後に、胸から下を失った筈の身体を修復するという奇跡を体現している黒鬼への言葉に、碧は――凶悪な笑みを浮かべながら、言う。

 

「――死にませんよ。あなたをこの手で殺すまでは」

 

 そう言って、碧はその手を――茨木童子に掴まれていた右腕を、切り落とした。

 

 虚を突かれ硬直する茨木童子に、碧はそのまま、己の手を切り落とした手刀を赤鬼に振るう。

 だが、容易くその手刀は避けられ、一秒後に修復された左拳も避けられる――そして、返す刀でそのまま振るわれた茨木の前蹴りで、再び碧の胴体は木っ端微塵に砕け散った。

 

 だが――黒鬼は諦めない。

 

 何度も、何度でも、赤鬼に向かって拳を振るう。

 例え何度、文字通りの意味で砕け散ろうとも、蹴りを、手刀を、拳を、頭突きを、がむしゃらに、無茶苦茶に、ケラケラ笑いながら振るい続ける。

 

 どれだけやっても届かない。何度やっても上手くいかない。

 

 それはまるで、これまでの彼の命の歴史そのものだった。

 

――『気持ち悪い。なんでこんな奴が大江山にいるんだ』

 

 誰とも異なる鬼は、その(あお)色の体皮を隠すように縮こまっていた。

 

――『大丈夫。あなたは強い子。強くなる子。……誰よりも優しいあなたは、きっと誰よりも強くなるわ』

 

 優しくしてくれたのは、誰よりも優しいあの鬼女だけ。

 

――『気持ち悪い。気持ち悪い。なんだあれは。ダメだろ、あんなの。あんな奴は――鬼じゃねぇよ』

 

 それでも、皆、認めてくれなくて。仲間だと。同族だと、受け容れてくれなくて。

 

 だから頑張って、頑張って――強くなることしか、出来なくて。

 

――『…………………』

 

 自分を救ってくれたあの御方も――自分をこんなにしたあの御方も。

 

 こちらをちらりと見るだけで、何も言ってはくれなかった。

 

――『気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。追い出さなきゃ。排除しなきゃ。――消さなきゃ。あんな奴は――この世にいちゃ、いけない』

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 僕は――僕は――僕は。

 

 それでも――僕は。

 

――『出て行け! 出て行け! 出て行け! 大江山から出て行け! ここは鬼の居場所だ! お前の居場所じゃない! お前が居ていい場所じゃない! 出て行け――この』

 

 

「――()()()()? ()()

 

 

 茨木童子は、首を掴み上げ――首から下を失った(あおい)という少年に向けて言った。

 

「………………」

 

 肺を失っている為に呼吸も出来ず、言葉も発せず――何も言えず。

 けれど、死ぬことも出来ていない黒鬼は――瞬く間に、まるで何事もなかったかのように修復された身体を、ピクリとも動かすことが出来ずに、ただ、ぶらんと、力無く吊るされていて。

 

 例え、無限に修復されるのだとしても、痛覚がなくなるわけではない。

 その奇跡のような異能を生まれ持ったというわけではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()碧は――砕かれる度に、傷を負う度に、その全身に死んでしまいそうな程の激痛を覚えている。

 

 覚えているのだ――痛みも、苦しみも。

 

 感じるのだ――まるで、人間のように。

 

「お前は――(もろ)過ぎる」

 

 茨木童子は、淡々と言う。

 

 同族に対する――鬼に与えるような慈悲を、まるで込めずに、冷徹に言う。

 

「お前の肉体性能は、余りにも低い。攻撃の度に簡単に砕けるのも、お前の身体が余りにも弱いからだ。その膂力も、身体能力も、運動性能も、無理矢理に妖力で底上げしているものだろう――その酒吞譲りの、莫大なる妖力で」

 

 鬼という妖怪は、妖力の塊である。

 逆に言えば、莫大なる妖力を誇っていれば、それだけで鬼という妖怪である資格があるということ。

 

 種族の象徴である(つの)も、所詮は強大な妖力の証に過ぎない。

 蛇のような形をしている個体や、獣の肉体を有してい個体、空を飛ぶ個体、海を泳ぐ個体、地に潜る個体――この世界には、種々雑多な鬼が存在する。

 

 だが――しかし。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 赤鬼はこの世界の深い場所にある真実を、まるで独り言のように、何も知らない哀れな黒鬼へと漏らす。

 

 黒鬼は、水底で沈んでいるかのように真っ暗な世界で、遠い地上から放たれたような、その言葉を上手く聞き取ることすら出来ない。

 

「生物は誰でも『箱』と『魂』を持っている。その『魂』が妖力を宿してしまうことで変質し、それによって『箱』の形も変わる。人間だった『魂』が幽霊となり、悪霊となるのと同じ原理だ」

 

 人間は死ぬことで『魂』が『箱』から抜け出す――この時の魂だけの状態が『幽霊」だ。

 そして、成仏出来ずに次第に魂が歪み『悪霊』となることで、新たに歪んだ魂に合わせた形の『箱』を得てしまう――その『箱』の形は、奇しくも『妖怪』と呼ばれるそれと同じ。

 

 こうして、『人間』は――『妖怪』となってしまう。

 

 先に『箱』の変形させることで妖力を得て、そこに『魂』を入れて妖怪化するのか。

 先に妖力を得て『魂』を変質させて、その歪んだ中身に合わせた『箱』に入って妖怪化するのか。

 

 辿るプロセスは違えど――結果は同じ。『箱』も、『魂』も、人間のそれから妖怪に相応しいそれへと変化したことで――妖怪は誕生する。

 

 逆に言えば、『箱』と『魂』――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「お前の『箱』は、未だ人間のままだ。酒吞童子由来の莫大なる妖力(なかみ)を得ながら――未だ、お前という『(いれもの)』は、妖怪変化を果たしていない」

 

 それは本来、有り得ざる事態だった。

 人は『箱』の変形を果たすか、『魂』の変質を果たさなければ、妖力を得ることは出来ない。また、妖力を得た場合、そのもう一方も影響を逃れることは出来ずに引き摺られるように変化する。

 

 人間と妖怪の間に生まれた半妖のように、そのどちらの性質も受け継いだ『箱』と『魂』を持って生まれてくるという特殊なパターンもあるが。

 

 人の『箱』か、人の『魂』、そのどちらかを保ったまま、妖力を獲得する――そんなパターンは、世界のバグとしか言えない、不具合でしかない。

 

 何の意味も持たない――ただのエラー、だ。

 

「……恐らくは、酒吞童子の再生力を受け継いでしまったが故の異常か。人の身に余る酒吞の異能は、こうしている今も、お前の『箱』と『魂』を()()()()()()()()()()()()というわけか」

 

 酒吞童子の一滴の血。

 それは死に掛けの少年の『魂』を容易く犯し――変質させた。

 

 そして、酒吞童子の妖力を受け継いだ魂は、そのまま少年の『箱』を妖怪それへと変形させた――が、制御出来る筈もない酒吞童子の妖力が、自動発動させている『再生』の異能を、魂の容れ物である『箱』まで元通りの形に修復させようとしてしまう。

 

 結果、『箱』の変形がいつまでも完成しない――鬼もどきの人間状態が永続してしまっている。

 

「皮肉にも、その現象のお陰で酒吞の妖力に壊されずに済んでいるのだろうがな。酒吞の妖力による再生によって、酒吞の妖力に耐えうる器となっている。……鶏が先が、卵が先か――どちらにせよ、悲劇だな」

 

 そう言って、茨木童子は碧を投げ捨てる。

 

 鬼にはいつまで経ってもなれず、かといって人間にもどこまで行っても戻れない。

 酒吞童子という頂点種の血迷いによって、運命をこれ以上なく歪められた悲劇の少年(イレギュラー)

 

 そんな存在を、茨木童子は一切の表情を変えずに見下ろす。

 

「……例え、そのような理屈を知らずとも、妖怪であれば誰でもお前の歪さは直感で理解する。あるいは人間もな。優しくしてくれたのは紅葉だけ、か。アイツも本能で嫌悪感を覚えていただろうに……やはりアイツこそが――」

 

 茨木童子は、それ以上の言葉を首を振って切り、「――(あおい)、と、そう言ったか、お前の名は」と、尚も告げる。

 

「お前も理解したか。お前が嫌われるのは、受け入れられないのは、その在り方の問題だ。お前と言う生物の――『魂』の、『箱』の、在り方の問題だ。どれだけ強くなろうと無意味だ。お前自身が、お前そのものが、鬼もどきであり人間もどきである、歪な存在であることが原因だ。これから先、どれだけ強くなろうと――新たな『茨木童子』になろうと、新たな『酒吞童子』にすらなれたとしても、未来は何も変わらない。運命はまるで変化しない。今という現実が、そのままの形であるだけだ」

 

 お前は孤独(ひとり)だ――茨木童子は、そう言って、遠くを見る。

 

 茨木童子も、また感じていた。

 例え、どれだけ悍ましい異端でも、家族のように同族を包み込む、愛に溢れた鬼女が――その鮮烈な最期を迎えたことを。

 

「……………」

 

 茨木童子は、ゆっくりと再び視線を下ろす。

 

 唯一、哀れな少年に愛を与えていた鬼女も、もういない。

 

 もう誰も、死に掛けの少年に一滴の血を与えた主君でさえも、このくすんだ黒鬼を顧みることはないだろう。

 

「それでもお前は、健気に戦い続けるのか?」

 

 隻腕の鬼の、地上から放たれたような重い言葉に。

 

 水底で沈んでいるような、深い闇から「――――ハハハ」と。

 

 笑い――そして。

 

 哀れな黒鬼は、再び――立ち上がる。

 

 血のような真っ赤な瞳から何かを流して、その黒い身体を罅割れさせながら。

 

 笑い、噛み締め、言う。

 

「――関係、ないね……ッ」

 

 あれだけ瞬時に回復していた身体も、既に立ち上がろうとするだけで罅割れる有様だった。

 

 ぎし、ギシ――と、致命的な音を鳴らしながら、命に至る損傷を負っていることを示しながら、それでも哀れな少年は、笑い続ける。

 

「……受け入れられるとか……認められるとか……そんなことなんてないって……そんな未来なんかないんだって……分かってたんだよ、そんなことは……ッ。……孤独(ひとり)? ……そんなものは、生まれた時から、そうだったよ」

 

 親の顔など覚えていない。

 物心ついたその時から、ずっと空腹に支配された人生だった。

 

 飢餓と口渇と戦い続ける日々を――終わらせてくれたのは。

 

 蜘蛛の糸のように垂らされた救いを齎してくれたのは、一滴の血だった。

 

「お前には分からない……ッ。僕が欲しくてたまらなかったものを! 全部持ってたくせに!! 簡単に全てを捨てたお前になんか分からないだろう!!!」

 

 本当に、神様だと思えたんだ。

 

 何でもできる強い力。すぐに元通りになる凄い体。

 

――『私はね……『鬼』を救いたいの。昔、私を助けてくれた親友と、そう約束したから』

 

 頭を撫でてくれる存在。

 

――『……あなた……は………『茨木』に……なれ……る?』

 

 何かを――期待してくれた存在。

 

 初めてだった。本当に――――嬉しかったんだ。

 

「だから――僕は戦うんだ!!!」

 

 認められなくていい。受け入れられなくていい。

 

 もう、誰も、見てくれなくっても構わない。

 

「だから!! 僕は!! なるんだよ『茨木童子』に!!! 『鬼の英雄』に!!」

 

 ただ――叶えたいんだ。

 

 欲しくてたまらなかったものを、与えてくれたから。

 

 お返しがしたい。

 願いを叶えてあげたい。

 

 だから――戦うんだ。だから――強くなりたいんだ。

 

 ただ――それだけなんだから。

 

「僕が姉さんの願いを叶える!! 『鬼』を救う! お前が投げ出したことを――僕が成し遂げてみせるんだ!!」

 

 碧は、ボロボロの拳を握り――そして、駆け出す。

 

 先程までのそれとは違い、まるで歩いているかのように遅い駆け出しで。

 

 それでも、これまでに与えられた全てを込めて――その全てを捨てた、この世で最も憎い相手へ。

 

 全てを受け止めると、そう言った男へ向けて。

 

 茨木童子は、静かに――目を瞑り。

 

「僕が母さんを解放する!! 母さんの空虚を、僕がなくしてみせる!! 母さんを超える鬼になって――僕が代わりに全てを背負うんだ!!」

 

 瞬間再生の副作用――身に余る力に身を委ねた末路。

 目の前の黒鬼の、その寿命が風前の灯火であることは明白だった。

 

「酒吞童子を救うのは――この」

 

 僕だぁぁぁぁああアアアアアアアアア!!!!! ――哀れな黒い鬼の、その最後の慟哭を。

 

「――――」

 

 隻腕の鬼は、塞き止めた――たった一発の、その大きな拳で。

 




用語解説コーナー51

(あおい)

 本名不明。

 平安京の外の世界ではありふれた、限界集落から零れ落ちた少年。

 両親は彼が物心が付く前に死亡しており、自分自身もどうやって生き延びたのか覚えていないような幼少時代を送る。

 彼の人間時代の記憶を統べるのは、四六時中彼を支配していた飢えであり、渇きだった。

 人が住んでいる集落を見つけては、黴の生えた食糧を盗み、時には見つかって袋叩きにされるといった日々を送る中で――彼が求めたのは、ただひたすらに、温もりだった。

 その日も、彼は詳細をまるで覚えていない。

 立ち寄った集落を襲った妖怪に殺されたのか、あるいは、遂に戦い続けてきた飢餓感に敗北したのか。

 ただ、遂に訪れた限界に、それと気付かずに身を委ねようとしたときに。

 垂らされた――その一滴の血で、彼という少年の物語は始まる。

 それを、他者は悲劇だというかもしれない。

 世界から外れる血。この世界で、誰とも異なる歪な化物にされた――悲劇の少年だと。

 だが、彼はそれを鼻で笑うだろう。

 そして、胸を張って、こう言うのだ。

 僕は――この世で、誰よりも幸福な生命だと。

 だって、僕は、ずっと欲しかったものを、与えられたのだから。


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妖怪星人編――52 奪われた右腕

――許さない。


 

 十年前――大江山、頂上。

 

 人間と鬼、双方に夥しい犠牲を出し、山が血で赤く染まる程の激戦となった鬼退治。

 

 その最終局面――最終決戦。

 

 頂上で刃を交わすは、二人と二体の規格外。

 神秘殺し――源頼光(みなもとのらいこう)

 鬼殺し――渡辺綱(わたなべのつな)

 

 妖怪王の器――酒吞童子(しゅてんどうじ)

 王の右腕――茨木童子(いばらきどうじ)

 

 既に鬼女紅葉、坂田金時、そして頼光の弟たる名もなき少年は、立ち上がることすら出来ずに戦闘不能となっていて、二体の鬼と二人の武者の頂上決戦を、ただ呆然と眺めていることしか出来なかった。

 

 大江山そのものを崩壊させるのではないかと思われるほど、人智を超越し、世界を揺るがすかのような激戦が続いたが――その均衡は、遂に崩れることになる。

 

 無限に再生する鬼――酒吞童子を、その童子切安綱で幾度となく追い詰めるも、遂にその命を刈り取るには至らず、消耗から逃れられない人の身である男は、その爪から永劫に逃れることは出来なかった。

 

 源頼光。

 当代最強の神秘殺しと謳われた妖怪の天敵は、妖怪王の器たる鬼の魔の手によって、その身体と生命を貫かれることになる。

 

 渡辺綱が、坂田金時が、名も無き少年が、その光景に、その現実に絶句し――最強の英雄集団に、確かな絶望が影を落としかけた、その瞬間だった。

 

 

――『―――ふむ。やはり、ここまでのようですね』

 

 

 唐突に、虚空の穴から現れたのは、陽光のように純白の陰陽師だった。

 

 ここまで影も形も見せなかった、源頼光と双璧をなす妖怪の天敵である男・安倍晴明(あべのせいめい)が、源頼光の落命の瞬間、突如として現れ――そして。

 

 所持していた(さかずき)を振るい、中に満たされていた液体を、大江山の頂上に、最終決戦場に振り撒いた。

 

 途端、充満するは――酒の匂い。

 

 まさかと思った茨木童子がそれを止めようとするが、それよりも先に――異変が起きた。

 

 ふらりと、頼光に(とど)めをさした酒吞童子の小さな体が、ふらりと傾き――倒れだしたのだ。

 

「――酒吞!」

 

 茨木童子が瞬時に駆け寄り、抱きかかえた酒吞童子は――眠っていた。

 

 否――()()()()()()()

 

 ついでとばかりに、投げ捨てた杯に次いでどこからか取り出した瓢箪の中身――眩むように強い酒を、どぽどぽと大江山に注ぎながら、晴明は言う。

 

「――『神便鬼毒(しんべんきどく)』。この戦いに備えて、頼光殿が八幡大菩薩から戴いた呪酒です。少々効果を強める儀式が必要であった為、我が身はこうして遅ればせながら馳せ参じることになってしまいましたが――」

 

 結果――間に合った。否、間に合わなかったのかもしれない。

 

 人間側は源頼光という代えの利かない大戦力を失ってしまった。しかし、その甲斐あって、鬼側もこうして酒吞童子という最大戦力を眠らされてしまうことになった。

 

 残存戦力数としては互角――否。

 こうして安倍晴明が現れた以上、趨勢は人間側に傾いたといってもいい。

 

「……綱様。今ならば、『鬼』を完全に退治できますか?」

 

 晴明の言葉に、身動きの取れない紅葉、そして酒吞童子を抱える茨木童子の身体が硬直する。

 

 酒吞童子。

 その名の通り、酒を呑む童子。

 

 酒吞童子の唯一の弱点――というよりは、これもかの鬼の特性の一つだ。

 かの鬼は、吞み干した酒によって力を増すことも、全く異なる性質の力を振るう可能となる。

 極上の良酒を摂取すればその法外な力を更に増すことも出来るが、此度のように、その酒の力に影響を受けるという点を逆手に取られて、身動きを封じることも理論上は可能であった――が。

 

「既にまともに動ける鬼は茨木のみ。――ならば、某は必ずや勝利してみせましょう」

 

 何かを押し殺したように、冷たい殺意を以て『鬼』を睨み付ける綱。

 

 庇うように酒吞童子を抱く茨木童子――だが、綱は、その刀を握る力を震わせながら「……ですが――」と、晴明に問う。

 

「……酔い潰れている酒吞童子は――殺すことは出来るのですか?」

 

 綱の言葉に、晴明は――首を振る。

 

「明日の朝まで目を覚ますことはないことは保証します。――しかし、『神便鬼毒』は、酒吞童子を酔わすことは出来ても、その異能を封じ込めるほどには至ることは出来ません。八幡大菩薩から施された呪酒を、儀式で強化しながらもそこまでしか至ることが出来なかった。私の――力不足です」

 

 綱は「……そうですか」と、名刀・髭切を震わせながらも、その切っ先を、ゆっくりと下ろす。

 

「――我等も、力不足です。……今の俺には、酒吞童子は……殺せない……ッ」

 

 鬼を、退治しきることは、叶わない――そう、血を吐くように言う綱に、今度は晴明が「……そうですか」と瞑目しながら頷き。

 

 そして――茨木童子と向き直る。

 

「――『鬼』よ。今宵は、ここまでと致しませんか?」

 

 晴明の言葉に、紅葉が目を剥き、そして茨木童子は目を細める。

 

「……どういう意味だ?」

「言葉通りの意味です。停戦の提言、といったところでしょうか?」

 

 晴明は瓢箪も放り投げて、薄い笑みを持って茨木童子に言う。

 

「我々は酒吞童子を退治することが出来ない。けれど、あなた方も酒吞童子無しでは我々に勝てない。これ以上続けるならば泥沼です。ここらが落とし所といったところでしょう」

 

 それとも――と、晴明は、手を差し伸べながら言う。

 

「朝まで殺し合いますか? 酒吞童子が酔いを醒まして目覚めるまで――その頃には、大江山に生き残っている鬼は、酒吞童子だけとなっているかもしれませんがね」

「…………」

 

 茨木童子は、酒吞童子を動けない鬼女紅葉の元へと運ぶ。

 

「……茨木」

「…………」

 

 心配そうに見上げる紅葉の頭を撫で、穏やかに眠りこける酒吞童子を見遣りながら、茨木童子は単身で、安倍晴明と渡辺綱の元へと歩み寄る。

 

「それはつまり、今宵、我々『鬼』を見逃してくれると、そう言っているのか?」

「確かに、我々は一晩であなた方を絶滅させることは可能。しかし、そうなれば酒吞童子は間違いなく、単身で平安京へと乗り込んでくるでしょう。その鬼を退治する術が我々にない以上、その末路こそ避けるべき最悪の事態です。だからこその手打ち――だからこその、停戦です」

 

 どうですか、『鬼』の英雄よ――と、晴明は茨木童子に問う。

 

 茨木童子は一度瞑目し、そして開眼して――問いに問いを返すように、安倍晴明に問うた。

 

「――条件は、何だ?」

 

 人間にとっては、勝てる筈の(いくさ)だ。

 被害の差も尋常ではない。『鬼』は――完膚なきまでに、負けたのだ。

 

 それでも、絶滅はさせず、停戦を提言する――無論、タダではないだろうということは、餓鬼ではなくとも理解出来ることだ。

 

 敗者には、払うべき代償がある筈だ。

 

 潔いと、晴明が頷くと――渡辺綱が、切っ先を下げていた、その名刀を振り上げた。

 

「即時報復を防ぐ為――妖怪王の右腕たる、『茨木童子(あなた)』の『右腕』を頂戴したい」

 

 茨木童子は、酒吞童子ではない。

 負った大傷が癒えることはなく――失った腕が、自然に再生することはない。

 

 これまで数多の人間を、怪物を、薙ぎ払ってきた大鬼の腕を。

 

「――――欲しければ、持っていけ。これで守れるのならば、安いものだ」

 

 規格を外れた武将の刀は、一太刀でそれを薙ぎ切り、宙へ飛ばした。

 

 こうして、末永く語り継がれることになる妖怪退治――『大江山の鬼退治』は、こうして幕を閉じたのであった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、その翌日の夜――平安京・羅生門(らしょうもん)前にて。

 

 安倍晴明と渡辺綱――そして、隻腕となった茨木童子は対面していた。

 

「よく来てくれました。茨木童子殿」

 

 単身で人間達の本拠地へと赴いた茨木童子を、晴明はそう笑顔で迎える。

 

「戦争の火消しは済みましたか?」

「……簡単に言ってくれる」

 

 昨夜――大江山山頂での頂上決戦時にて。

 戦争の決着の瞬間、秘密裏に、彼等は晴明の蒼い燕によって打ち合わせていた。

 

 渡辺綱が、茨木童子の腕を斬り落とす――瞬間、茨木童子の残される左手にそっと文を握らせて、待ち合わせの約束を交わしていた。

 

 こうして戦争の事後処理を行う為の、各勢力の首脳会談を開く為に。

 

「……腕のことは随分と険しい顔で問い詰められたが、一応の納得はさせた。……そもそも、酒吞は下界のことなどまるで眼中にない。誰かさんが攻めてこなければ、そもそも山を下りるなんて発想すら持たなかったんだ。人間だの、天下だの。酒吞童子は、まるで興味すらないのだから」

 

 ()()()()()()()()()()()()()――と、茨木童子は言い掛けたが、そこまでは言葉にせずに口を閉じた。

 

 此度の戦争においても、あの両者の間には何かがあり、更にその因縁が深まってしまったようだが――それでも。

 

 茨木童子は、頂上決戦の戦場にて、未だその戦場に足を踏み入れることを許されず、ただ這いつくばって眺めることしか出来ない金時を酒吞童子は――ちらりと、僅かに、けれど確かに見遣った、酒吞童子の表情を思い出して。

 

「…………」

 

 茨木童子は、己の喉まで競り上がってきた何かと共に、強く唇を噛み締め、その先の言葉をを呑み下す。

 

 晴明は、そんな茨木に何もかもを見透かしたような目を注ぎながら、ただ口元だけに笑みを浮かべて言う。

 

「それは申し訳ない。けれど、こちらとしても妖怪勢力を纏め上げる妖怪王を、今の段階で誕生させるわけにはいかなかった」

 

 だから、大江山に攻め込まないという選択肢は――『人間』にはなかったのだと、そう飄々と嘯く。

 

 例え、どれだけ相手から、そちらに興味なんてないですよと言われても。

 将来的に自分達を滅ぼせる恐れのある脅威に成長するであろう怪物が、そう遠くない場所にある御山で健やかに暮らしていると知ったなら――黙って見過ごすなんてことは出来ないと。

 

 だが――。

 

「しかし、酒吞童子はこちらの想定を超えて、遥かに強かった――強過ぎた。源頼光殿を失った以上、もう一度大江山に攻め込んでも、望む戦果を挙げることは叶わないことは想像に難くない」

 

 そうなれば――待っているのは、凄惨な泥沼だ。

 安倍晴明ら『人間』は、妖怪王の器たる酒吞童子の存在を許容できない。

 茨木童子ら『鬼』は、平穏に暮らしたいと望むならば攻め込んでくる人間を滅ぼすしかないが、此度の戦いにおいて真正面から戦っても人間には勝てないことが証明されてしまった。

 

 互いに望む結果が得られない、この状況。

 

 ならば――。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 その晴明の言葉に、呼応するように――渡辺綱は、鞘から引き抜いたその名刀の切っ先を、隻腕の鬼へと向ける。

 

「…………」

 

 当然、想定はしていた。

 ここは昨夜の大江山とは違う。自陣ではなく、紛れもなく敵地――平安京。

 

 目の前の大陰陽師・安倍晴明の結界に囲まれた、人間達の都。

 ここに足を踏み入れた、その時点で。妖怪である自分は、まるで鉛を背負っているかのような重圧に常に襲われている――妖怪にとっての死地。

 

 平安京を集合場所にされた時点で、単独(たったひとり)で来いと、そう指定された時点で――こんな未来は想定していた。

 

 だが、想定はすれど、覚悟はしていなかった。

 ならば――目の前の陰陽師が、そんな馬鹿な真似をする筈がないと、確信していたからだ。

 

 だからこそ、自分は、敵地であり死地に、こうしてのこのことやってきたのだから。

 

「――正解です。やはりアナタは優秀だ」

 

 だからこそ欲しい――と、晴明は言う。

 浮かべた笑みを揺るがすことなく、妖怪の天敵たる『人間』は、何の武器も持たずに、妖怪の死地たる魔都へと乗り込んできた鬼に向かって言う。

 

 これは脅迫ではなく――勧誘だと。

 

「私の式神(モノ)になりませんか? 茨木童子(いばらきどうじ)

 

 アナタを、我が十二神将として迎え入れたい――そう、真っ黒に笑う、純白の陰陽師は言った。

 

 その妄言に、これまで威風堂々たる姿を崩さなかった――鬼の英雄が慄く。

 

「――お前の……安倍晴明の、式神になれ、だと……ッ!?」

 

 馬鹿なと、そう吐き捨てた茨木に、晴明は差し出した手を下ろさずに言う。

 

「何も馬鹿なことは言っていませんよ。先程に述べた通り――どちらも望まない結末です。茨木童子(アナタ)は、安倍晴明(人間)の式神になるというこの上ない屈辱を受けることになる。その代わり――人間は、酒吞童子の討伐を、()()()

 

 ウインウインであり、ルーズルーズである落し所です――晴明の意味の分からない言葉に、茨木は混乱しながらも、必死にその提案の意味を嚙み砕く。

 

 これは脅迫ではなく勧誘だと、晴明は言った。

 否、これは勧誘という名の脅迫だと、茨木童子は理解する。

 

「我々も、何も憎くて酒吞童子を殺すことに躍起になっているわけではありません。ただ、彼女が怖いから。彼女が妖怪王の器であるから、我々は何としても、かの鬼を退治しなくてはならないと、強迫観念に駆られているのです」

 

 だがしかし――ここで一つの朗報がある、と、晴明は笑う。

 

 酒吞童子が妖怪王になる。

 その禍々しい未来予想図が実現するには、ある外せない前提条件が――(キーパーソン)となる、右腕が存在すると、晴明は微笑む。

 

 真っ黒に、おどろおどろしく――人間のように、恐ろしく。

 

「それが、アナタです――茨木童子」

 

 茨木童子(アナタ)が傍にいなければ、酒吞童子(あのこども)()()()()()()()()()――そう、断言する、『人間』に。

 

「………………」

 

 妖怪王の右腕となる筈だった赤鬼――茨木童子は、何も言い返すことが出来なかった。

 

 それは見事に、真理を突いていたからだ。

 

「……………………ッッ!!』

 

 何故なら、酒吞童子を、そんな風にしてしまったのは。

 

 他でもない――茨木童子自身なのだから。

 

「…………だが、そこまで分かっているなら――酒吞から……そんな酒吞から……茨木童子(オレ)を引き離すということが、どういう意味を持っているのか――」

「だからこそ、昨夜の大江山で鬼女紅葉を狩り残したのではないですか。愛の鬼である彼女ならば、酒吞童子の宥め役くらいは務まるでしょう。それに――」

 

 あなたは、これから一度だけ、大江山に戻ります。

 

 その時、彼女達に、こう愛を持って囁けばいい――と、晴明は。

 

 息を吞む程に綺麗な、とても美しい顔で、地に這いつくばる虫を踏み潰すように言う。

 

()()()()()()()()()()――と」

「――――ッッ!!?」

茨木童子(アナタ)が、そう一言だけ言い残すだけで、酒吞童子は、鬼女紅葉は、いつまでもずっと、アナタのことを待っているでしょう」

 

 そんな『人間』に、茨木童子は――遂に。

 

 目の前の悍ましき『怪物』に、恐怖に満ちた目を向けながら――問う。

 

「……お前は、一体、どこまで――知っているんだ……ッ!?」

 

 晴明は――その、美しい笑みを。

 

 どこまでも美しく、仮面のように崩れない、そんな笑みのまま。

 

 残酷に、冷酷に――告げる。

 

「――残念ながら……アナタに、選択肢はない」

 

 瞬間――これまでずっと、まるで銃口を向けるように、切っ先を向け続けていた、渡辺綱が掲げる、名刀・髭切が。

 

 赤炎を纏い――発火した。

 

 その炎を見た瞬間、茨木童子の――『魂』が、震える。

 

「――――ッッ!!?」

()()()()――かつて、かの鈴鹿御前に傷を負わせたといわれる名刀・髭切に、百の鬼の血を吸わせたことで、鬼殺しの『呪』を獲得することに至った、我々『人間』の新たなる切札です。昨夜、『鬼』の纏め役であり英雄――『鬼』の象徴である『茨木童子』の『右腕』を切断することで、『赤炎』の『覚醒』に至りました」

 

 茨木童子が差し出した右腕によって完成した――鬼を(ころ)す刀。

 

「……………ッッッ!!!」

 

 隻腕の鬼は理解した――この上なく、理解させられた。

 

 昨夜、自分が失った右腕。

 燃えるように熱い幻痛が迸る、右肩口を押さえながら、冷や汗を流し、唇を噛み締める。

 

 分かる――あれは、鬼を殲す刀、鬼という存在を滅ぼす概念が象られた炎。

 

 無限の再生力を持つ妖怪王の器たる鬼の頭領――酒吞童子を、退治(ころ)し得る呪具だ。

 

(……全て、この『人間』の掌の上だったというわけか……ッッ)

 

 夥しい数の犠牲を――『人間』にも、『鬼』にも、払うことになった、昨夜の『大江山の鬼退治』も。

 

 全ては、この『妖刀・鬼切』と、『茨木童子』を手に入れる為だけの演目。

 

「君に選択肢はない。その上で問おう、茨木童子」

 

 安倍晴明が、その全てを操る掌を向けながら、俯く隻腕の鬼に問う。

 

「貴殿の、守りたいものとは――何だ?」

 

 守りたいもの――その言葉が、絶望に染められて上手く働かない脳内を駆け巡る。

 

 失った右腕を押さえる手に力が入る。

 

 守りたいもの――茨木童子という鬼が、右腕を差し出してでも、守りたかったもの。

 

「鬼という最強種族を統一し、大江山に集結させた英雄――茨木童子は、何の為に、その失った右腕を、これまで振るい続けてきた?」

 

 何の為に、お前は戦い続けてきた――そう問う晴明の言葉に、茨木童子は。

 

(……全てが、この男の掌の上だった。……我々は――俺は、負けた。……状況は絶望的だ。……それでも――俺が、守りたいものは――守らなくては、ならないものは)

 

 残された腕は、たった一本。

 何もかも守れるような立場では、もうない。

 

 掴めるものは――もう、たった一つだけ。

 

「……頼みが、ある」

 

 条件と、そう言えるような立場ではないことは理解していた。

 

 だからこそ、頼みと、そう言った茨木童子に、晴明は「聞こう」と、間髪入れずに答えた。

 

 ありがたいと、茨木童子はそう言って。

 

 幻痛を――己を苛み続ける幻の痛みを受け入れたように。

 

 右肩口から――守ることが出来なかったものから、手を離して。

 

「――酒吞童子(あの子)を、殺さないでくれ」

 

 片膝を、残された左拳を、地に着き。

 

 首を垂れて――茨木童子は、目の前の『人間』に、配下の礼を取り、切に願う。

 

「……なるほど。確かに、酒吞童子の命に届き得る武器を手に入れたとはいえ、未だ酒吞童子の規格外の強さは健在です。こちらも頼光殿を失った以上、命の取り合いとなると、どれだけの犠牲が出るかも計算できない」

 

 確かに酒吞童子を退治することの出来る手段は手に入れた――だが、これはあくまで、立場が互角になったに過ぎない。

 酒吞童子の小さな手は、当然、こちらの全ての人間の命に当然のように届き得るのだから。

 

 最悪の結果として、酒吞童子は殺せても平安京は滅びました、といった事態すら十分に考えられる。そうなれば本末転倒もいい所だ。

 

 故に――茨木童子は。

 平身低頭の姿勢のまま――血を吐くように、その提言を、晴明に捧げる。

 

「……安倍晴明。アナタは、かつて、あの魔人を坂東の地に封印したと聞いた」

 

 人間が、酒吞童子という脅威を野放しにすることは、決して認めないだろう。

 

 ならば――かつて、魔人と言う脅威を、封印と言う形で対処したように。

 

「――やはり、あなたは優秀だ」

 

 心強いですよ、我が式神――と、晴明はそう言って、茨木童子に術式を施す。

 

 淡い光を放つ燕が晴明の術符から飛び出し、それは茨木童子の首に溶け込んで――赤鬼を縛る青き首輪となり、消えた。

 

「よろしい。こちらとしても望む所です。()()()()()()()が育つまで、大江山には手出しをしない上――酒吞童子に対しては、討伐ではなく封印を第一選択とすることを、ここに約束しましょう」

 

 それでよいですか、綱殿――と、晴明は隣に立ち、鬼殺しの赤炎を放ち続ける渡辺綱に問う。

 

 茨木童子は冷汗を流しながら、こちらを凍えるような眼差しで見据え続ける綱を見上げたが――綱は、ゆっくりと、その炎刀を、鞘に向ける。

 

「――酒吞童子は、我が主の仇だ」

 

 だが、この身は未熟なれば――と、淡々と冷たく、己を呪うように呟く。

 

「……今の俺の技量では、例え奴の命に届く刃を手に入れても、確実に殺せると断言することが出来ない。……それに、俺は――アイツに託された青葉がいる」

 

 それを守り切らなくては、それこそ不忠というものだ――と、チャキンと音を立てて、その刃を仕舞った。

 

「――都の守護を仕る、源家の臨時名代として、陰陽頭(おんみょうのかみ)の意向に従いましょう。……時が来るまで、大江山に手出しはしないことを誓います」

 

 言葉とは裏腹に、未だ殺意が薄れない眼光を持って、茨木童子を――鬼を睨む、鬼殺しに。

 

 茨木童子は、その赤炎が鞘の中に納まるのを見て――感じて、ようやく己が呼吸を思い出したことを悟った。

 

 鬼殺しの赤炎――妖刀・鬼切。

 あの炎に、自分が完全に、心折られていたことを痛感させられた。

 

 自分が――戦わずして、敗けていたのだと、そう思い知らされた。

 

(――――俺は――――ッ)

 

 大江山の鬼退治。

 その、歴史には語られない、本当の終焉。

 

 深夜の羅生門にて行われた首脳会談は、こうしてひっそりと幕を閉じた。

 

 この後の夜明け前に、茨木童子はもう一度だけ大江山へと上り、酒吞童子と鬼女紅葉に、それぞれ一言ずつだけを言い捨て、そのまま浴びせかけられる涙と悲鳴に背を向けて、二度と向き合うことはなかった。

 

 

 そして――その後。

 安倍晴明の唯一空席であった十二神将『勾陳』の座に、新たに隻腕の鬼が加わり、僅か十年間で目覚ましい功績を数々と積み上げることになる。

 

 

 かつて、鬼の英雄といわれた赤鬼がいた。

 それは無類の強さを誇りながらも、欲望のままに暴れ狂う、手が付けられない最強種といわれた鬼という妖怪種族を、その腕っぷしで纏め上げて、大江山へと集めるという偉業を成し遂げた戦士だった。

 

 

 だが――そんな鬼は、もうこの世の何処にも存在しない。

 

 

(……俺は負けた。俺は折れた。俺は潰えた。……もう、俺には、『鬼』を守るなんて大言は、救うなんて妄言は、口が裂けても宣うことは許されない)

 

 何も考えていなかった。

 ただ、楽しく過ごせればそれでよかった。

 

 だから大江山に皆を集めて――家族を作った。

 

 しかしそれは、人間達からすれば恐ろしき勢力でしかなくて――脅威でしかなくて。

 

 故に、きっと『鬼』は――『茨木童子』は、間違えたのだ。

 

(――それでも、俺は)

 

 例え、英雄じゃなくても。例え、みっともない敗北者でも。

 

 かつて、取り返しのつかない間違いを犯した身だとしても。

 

(それでも俺には、まだ一本――腕が残っている)

 

 まだ、掴めるものがある。

 

 手放せない――ものがある。

 

 だから――まだ。

「俺は――まだ――」

 

 拳を――握れる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 拳が――貫いた。

 

「ご――――ふぉ――――」

 

 ボロボロに崩れ始めていた黒鬼の身体が、木端微塵に吹き飛んでいく。

 

 無表情で、けれど――強く、強く握られた拳は。

 

 かつて自分が捨てたものを、守ることは出来ないと手を離したものを――『鬼』を救うと、そう叫んでいた後輩を打ち抜いた。

 

「――ああ。俺はもう、お前ら『鬼』を救えない」

 

 それでも――例え、誰が相手だろうと、これだけは――譲れない。

 

 だから――茨木童子は、高く拳を、握り続けながら言う。

 

「酒吞童子を――救うのは、この俺だ」

 

 大事なものから背を向けた逃亡者に。

 何もかもを打ち砕かれ、打ちひしがれた敗北者に。

 

 残された、たった一つの、この拳を――握り続けると。

 決して手放さないと――誓ったのだ。

 

 例え――どんな怪物を、敵に回すことになろうとも。

 

「……………全く、お似合いですね」

 

 そう、小さく呟いた黒鬼は――再生しない胴体を捨て、その残された首だけで、隻腕の鬼の首筋へと噛付いた。

 

 身の丈に合わぬ力で身を滅ぼした、哀れなる悲劇の少年は、己から消えゆく一滴の血を、精一杯に振り絞って、何も言わず、ただ噛み締める力で――こう、言い遺した。

 

 

――許さない。

 

 

 それは、これまでのことでもあったし、これからのことでもあっただろう。

 

 それは、とある愛の鬼女へのことでもあったし、とある孤独なる少女鬼のことでもあっただろう。

 

 それは、彼によって運命を歪められた、哀れな少年鬼のことでもあったのかもしれない。

 

 だからこそ――許さないと。

 

 そう、精一杯の――呪いを掛けた。

 

「――ああ。俺は、その全てを受け入れる」

 

 隻腕の赤鬼は、剥き出しの首を晒して、それを受け止めた。

 

 兜を重ね着るように――彼は、最早、何の言い訳も重ねることは許されない。

 

 許さない――と、そう言われた。

 黒灰となって消えていく鬼の牙の痕は、彼の首筋に消えることなく刻み込まれる。

 

 全てが黒く燃え尽きた、黒炎上の跡地で。

 

 赤い隻腕の鬼は、ただ――唯一残された、大切なものを握り締める。

 

「酒吞……お前を救って見せる」

 

 それが、茨木童子に許された、最後の戦争だと。

 

 鬼は、ただ左拳を、静かに、強く、握り締め続ける。

 

 あの日から――ずっと。

 

 これからも――ずっと、ずっと。

 




用語解説コーナー52

・首輪

 茨木童子の首輪は、安倍晴明との式神契約――主従契約を分かり易く可視化しているに過ぎない。

 主人に対しての敵対行為を制限する、式神たる茨木の位置の居場所を把握するなどという最低限の拘束効果はあるが、命令に違反すると爆発したり首が絞まったりといった効果はなく、基本的には只の首輪である。

 茨木童子に対して屈辱を与えるのが目的なだけの、はっきりいえば性格の悪い安倍晴明が、茨木が嫌がることがしたいというだけの個人的な趣味によるもの。

 本当は鎖も付けたかったらしいが、普通に仕事する上で邪魔ですと羽衣に怒られてやめたという経緯がある。


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妖怪星人編――53 朱と黒の衝突

願いを叶えるには――それに相応しい、苦難が伴う。


 

 久しぶり――母さん。

 

 安倍晴明(あべのせいめい)は、見透かすことが出来なかった筈の、計算外にして『計画』外の来訪者を、座り込んだまま腰も上げずに、微笑みながら出迎えた。

 

 平安京の最奥にて。

 貴族、中宮、帝――およそ平安京の全てを隔離保護した結界を背後に。

 

 今宵の妖怪大戦争の主役の一人であり大ボスの一角――『狐』勢力が姫君・大妖怪『化生(けしょう)(まえ)』を。

 

 平安最強の陰陽師にて、『人間』勢力の最大戦力である伝説の存在――安倍晴明は。

 

 ()()()――と、そう呼んだ。

 

 狐は、その『人間』からの言葉に――ふっ、と、微笑を、あるいは嘲笑を、携えて。

 

「私はあなたのお母さんではありませんよ?」

 

 優しく、あるいは、突き落とすように、そう嗤う。

 

「それとも、母恋しさに、狐の妖怪はみんなお母さんに見えるのですか? 妖怪の天敵と謳われる最強の人間も、所詮は男児というわけですか。いいお年なのですから、いい加減に母離れしてはいかがです?」

 

 その、妖怪の嘲笑に――「いいや――お前は、我が母だ」と、晴明も不敵に、笑う。

 

「お前は我が母――妖怪『(くず)()』の()()()なのだからな」

 

 瞬間――狐の笑みが凍った。

 

 妖怪の、笑みは消えて――人間の、笑みは深まった。

 

「どうした? 私にお前のことは何も見透かせないと――そう驕ったのか?」

 

 嘗めるなよ、妖怪――と。『母』と、そう呼んだ狐に対し。

 

 これ以上なく、獰猛な笑みを向けながら――人間は言う。

 

「我は安倍晴明。我が『星詠み()』は全てを見透かしている」

 

 安倍晴明の――『星詠み』。

 文字通り、星から与えられた千里眼の力。

 

 それは古今東西、この日ノ本の端から端まで、太古から未来まで見透かすことの出来る異能。

 

 狐の姫君・化生の前は、それを知っている。

 だが――それは――しかし。

 

「――そう。しかし、それには死角が存在する。全てを見透かす千里眼でも、視覚出来ぬ死角が存在する。だが、こうは考えなかったのか、狐よ。全てを見透かす私が、見透かすことが出来ぬ存在が現れたのならば、正にその()()()()()()()だと、私がそう見透かすことを」

「――っ!」

 

 狐の表情が、一瞬、強張る。

 その明確な反応にこそ、千里眼を持つ陰陽師は――その一瞬から、全てを引き摺り出すように見透かしてみせる。

 

「我が千里眼は星から与えられたもの――しかし、我が出生故に、この力は我に流れる『半血』、つまりは妖狐の力と深く結びついてしまっている」

 

 それはつまり、妖怪・『葛の葉』の力だ――晴明はそう、異能に頼らぬ、己が自身の頭脳から導き出した推理を朗々と語る。

 

 最強の人間・安倍晴明は、決して異能頼りの英雄ではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()、星の戦士として戦い続けてきたことによる、脈々と受け継がれて、積み重ねてきた経験値が、彼という最強の戦士を鍛え上げ、生み出したのだ。

 

「故に、この千里眼でも、妖怪・『葛の葉』の血を引くモノは見透かせない。どんなに優れた視力を持つ者でも、自分の姿は見透かすことが出来ぬように」

 

 しかし、それが『答え』だとすると、どうしても疑問と矛盾が生じる――そう語りながら、これまでずっと下ろしていた腰を上げて、ゆっくりと立ち上がながら、人間は妖怪を見下ろす。

 

「妖怪・『葛の葉』は、不死の力を娘――つまりは我が妹に授け、永劫の眠りへとついた。転生妖怪である『葛の葉』の当代は、()()()()()()()()()。つまり、葛の葉の力を持つモノは、私と妹、そして未だ『祠』にて眠っている葛の葉(はは)自身だけの筈。故に、真っ直ぐにこう問おう」

 

 お前は、()だ? ――問い掛ける晴明。

 

 だが、その『人間』の『眼』は、言外に告げている。

 

 不明な正体、有り得ざる存在、矛盾の謎に覆われた妖怪――その、真実を。

 

 この安倍晴明は――既に、どこまでも見透かしていると。

 

「妖怪・葛の葉は、その不死なる生涯において、遂に――愛する男に出遭った」

 

 これまで無限の生を堪能しながらも、死を経験したことのない生命は、しかし、その愛によって――初めて、『喪失』に怯えた。

 

 故に、自身の『不死』を手放してでも、己が愛した男に『不死』を与えようとした。

 

 その為に、己が異能である『不死』と愛する男を結び付け――そして、その力を、男との愛の結晶である、胎の中の『子』へと引き継がせようとした。

 

「しかし、そこで、当の葛の葉にも計算外の妨害が入る」

 

 何と、胎の中の子は――『双子』であり。

 しかも、その片割れは――あろうことか、『星の戦士』だったのだ。

 

「幸か不幸か、否――どちらに対しても不幸であったか。星の脅威たる妖怪王、その器たる『三体』の『真なる外来種』。その力を『星の戦士』たるこの私に引き継がすことが出来る筈もない」

 

 結果、双子に分割し、分け与えられる筈だった『真なる外来種』の『異能』の片割れは――弾き飛ばされた。

 

「正確には、その片割れのみ――『転生』したのだ。これまでその永劫の生において幾度も繰り返してきた通り、妖怪・『葛の葉』の本分に則ってな」

 

 そのことには、当然、晴明は気付いていた。

 だが、『葛の葉』由来の力は、晴明の『星詠み』でも見透かせないが故に、これまでその『片割れ』の動向を知ることは出来なった――が。

 

「まさか、これほどまでに分かり易く、己が存在をアピールしてくれるとは思わなかった」

 

 星詠みの力で獲得した未来の言葉を交えながら、晴明は笑みを持って言う。

 

「そうなると、確かに、お主は我が母ではないかもな。我らと共に、この世に転生――生まれ落ちたお主は、つまり、もう一人の――我が妹というわけだ」

 

 両手を広げて晴明は、狐の姫君に――遂に出遭うことの出来た、生き別れた己が妹に笑い掛ける。

 

「会いたかったぞ、妹よ。元気にしておったか? これまでどこをほっつき歩いておったのだ」

 

 こうして、見事に――異能ではなく推理によって、己が正体を見透かした安倍晴明に。

 

 狐の姫君・『化生の前』は――妖怪・『葛の葉』の異能、その片割れの転生体は。

 

 消した表情を取り戻し、仮面のような笑みを作って、己を見下ろす陰陽師に言った。

 

「――ええ。私もすっごく会いたかったわ、お兄様。聞いてよ、もう大変だったんだから」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 妖怪・『化生(けしょう)(まえ)』。

 その記憶の始まりは――石ころだという。

 

 気が付けば、石ころに転生していた。

 

(転生先が石ころだった件)

 

 三つ子の兄の影響か、そんな意味の分からない言葉が脳裏を過ぎったが、この時は兄のことも、妹のことも、母のことすらよく分からなかった。

 

 ただ、唐突に自我が芽生えた。

 しかし、自分が石ころであるということには変わりなく、身体を動かすことも出来ない。文字通り手も足も出なかった。手も足もなかったのだから。

 

 それから、どれだけの月日が経ったのかは覚えていない。

 長い、とにかく長い、気が遠くなるような、気が狂うような長い月日だったことは覚えている。

 

 何も出来なかった。

 声も出せず、身体も動かせず、だが痛みと苦しみを味わう感覚だけはあった。

 

 雨にも負けて、風にも負けた。

 来る日も来る日も、蹴られ、踏みつけられ、踏み躙られた。

 

 ただただただただ――憎しみが募った。

 覚えているのは、圧倒的な――屈辱の日々。

 

 そして、気付いたら、募り続けた恨みと憎しみは――呪いへと変質していた。

 

 周囲に呪いを振り撒く石として――『畏れ』を獲得したのだ。

 

 そうして、只の石ころは呪いの石となって――やがて『妖怪』となり、妖力を取り戻して。

 

 とある、天気雨の日。

 呪いの石は――『狐』の姿を取り戻した。

 

 そして――理解した。

 これが、妖怪・『葛の葉』の、繰り返してきた永き生涯だったのだと。

 

 生を終える度、呪いの石として天から降り注ぎ――己を踏みつける存在に対して憎しみを募らせ、『妖怪』となり。

 

 その恨みと憎しみを糧に猛威を振るい、そしてまた死して――再び無力な石ころとなる。

 

 こうして永劫とも思える月日を繰り返し、その『魂』に宿る妖力を――その『()』に宿す尾の数を増やし続けながら、無限に強くなる大妖怪。

 やがては全てを呑み込む『妖怪王』となりうる器にまで成長する可能性を持った怪物(ケモノ)

 

 妖怪・『葛の葉』――『白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)(きつね)』。

 

 己の中に記録がある。これまで葛の葉という妖怪が、どのように――この地球という星で、その生涯を繰り返していたのか。

 どのように妖力を――()()()()()()を取り戻していっていたのか。

 

 分かる。見返せる。閲覧できる――が。

 

(――これは、()だ?)

 

 そこに、実感がまるで伴っていない。

 まるで他人のアルバムを眺めているような、最も大事な――感情が、抜け落ちている。

 

 その上、妖怪・『葛の葉』として、最も大事な記憶が。

 最後の転生を果たす直前の――終わらない生涯の全てに疲れ切って、ひっそりと隠れ潜みながら眠りに着こうと辿り着いた――あの『祠』で。

 

 あの『(ひと)』と、出遭った、記憶が。

 

 芽生えた筈の、溺れた筈の、狂い悶えた筈の――『愛』が、思い出せない。

 

(……なるほど。そういうことですか。それだけは、例え『子』にだろうと、引き継がせるつもりはなかったということですね)

 

 例え、愛する男を死なせない為に、『不死』の異能を、妖怪・『葛の葉』としての力さえも引き継がせようとも。

 

 愛する男を愛したという記憶は、己を焼き焦がした感情は、誰にも引き継がせずに独占し眠りについたと――そういうわけだ。

 

(――ならば。私は――何だ?)

 

 妖怪・『葛の葉』の、苦悩と苦痛と苦難の――苦しみ一色の記憶を引き継ぎ。

 

 こうして誰にも、『母』にさえも望まれない転生を果たして。

 

 本来であれば、妖怪・『葛の葉』が迎えた『愛』という出口の記憶すら引き継がれず――再び、歩まなくていい永劫の旅に出るのか。

 

「……そんなこと、受け入れられるわけがないでございましょう」

 

 故に――妖狐は。

 己が妖怪に目覚めた証である、二本の尾を靡かせて、天気雨を浴びながら――人里へと降りていく。

 

 誰にも望まれない転生を果たし、誰にも――全てを見透かす『人間』にすら、存在を認知されていない非存在として、真っ黒な闇の中で暗躍を始めた。

 

(誰にも知られていないのなら、好きなようにやらせてもらう。誰にも望まれていないのなら、私が望むがままにさせてもらおう)

 

 そして、突如として現れた――『妖怪王の器』たる妖狐は、己を『化生の前』と名乗り、瞬く間に一大勢力を築き上げる。

 

 かつて蝦夷を支配下においた『大嶽丸(おおたけまる)』、大江山の鬼の軍勢を率いた『酒吞童子(しゅてんどうじ)』――二体の『妖怪王の器』――『真なる外来種』をも凌駕する、圧倒的な手腕で日ノ本の妖怪勢力を纏め上げたのだ。

 

「お母様が放棄なさるなら、私が代行して差し上げましょう。日ノ本三大化生の一角として――この惑星に流れ着いた『真なる外来種』が一体として、その本分を果たしましょう」

 

 その妖狐は、嗤う。

 

 母譲りの美貌を、妖怪らしく――妖しく怪しく歪ませて。

 

「我こそは、『白面金毛九尾の狐』なり。妖怪を纏め上げる王の器にして――この惑星を、呑み込むものなり」

 

 その『狐』は、本当に美しく。

 

 騙るように、演じるように――笑っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんな『狐』の、どこまでが本当なのか分からない、化かすような昔語りを聞いて。

 

 自分が見透かすことの出来ていなかった、真贋の判断がつかない物語を聞いて――『人間』は、問う。

 

「――妹よ。お前の願いは何だ?」

 

 奇しくもそれは、この京の裏側で――狂い咲きの枝垂桜の下で、とある妖怪が彼女に問うたことでもあった。

 

「お前の正体は分かった。けれど、お前の目的は、未だ不明のままだ。母の――妖怪・『葛の葉』の――『白面金毛九尾の狐』の代役を務めることか。それとも――」

 

 兄は、生き別れの妹に――妖怪・『葛の葉』の、誰にも望まれていない転生体に向かって、冷たい眼差しと共に。

 

「未だ『祠』で眠り続ける『葛の葉()』の息の根を止めて――正真正銘、お前自身が、本物の『葛の葉』として……今度こそ、生まれ変わることか?」

 

 晴明は――そう、美しい狐に、問うた。

 

 狐は、化かすでも騙るでもなく――揶揄うように、笑って、言う。

 

「――あなたと違って、私はとっくに母離れを済ましていますよ、お兄様」

 

 恨みもなく、憎しみもなく。

 

 しいて言えば――憧れていると。

 

「憧れている?」

「ええ、娘らしく、母のようになりたいと、そう憧憬を抱いています」

 

 不死の力を手放してでも、妖怪王の器の座を放棄してでも――それでも手放せなかった素敵なものを、己も手に入れてみたいと、そう思う。

 

 流れ星に願うように、流れ星として流れ着いた『真なる外来種』を代行する『娘』は、こう願う――(こいねが)う。

 

「私も――『愛』が、欲しい」

 

 自分の中にぽっかりと空いた(うろ)――それを思うように、豊満な胸に手を当てながら。

 

 狐は――燃えるように、()()()()

 

「…………ほう」

 

 晴明が見据えるその先で、(あか)い妖気が渦を巻いていた。

 視認できる程の密度で練り上げられた妖力が体外に漏れ出し、全身を覆う。血管が浮き上がるように、妖力を体内で循環させる『回路』が刺青のように表面化している。

 

 まるで鎧を――否、妖力の皮膚を纏うかのように、朱い妖力が具現化を果たしている。

 それは、この平安京内で爆発的に膨れ上がっている、酒吞童子や菅原道真公のそれと比べても、全く遜色のない――正しく、この国の(あやかし)の頂点の座に手を掛ける、妖怪王を狙う器に相応しい力。

 

「『愛』――それを求めて、お前は『玉手箱』に手を伸ばすと?」

「ええ。『葛の葉()』に出来たのですもの――『葛の葉()』に出来ない筈がないでしょう?」

 

 そうでしょう、お兄様――と、手を伸ばすように、あるいは爪を伸ばすように、化生の前()は、安倍晴明()に向かってそれを放つ。

 

 化生の前が纏う朱い妖力――それ自体が、まるで意思を持っているかのように、晴明に向かって手を伸ばすように伸びていく。

 

 ただ莫大な妖力が、爪を立てて、牙を剥くように――『人間』に向かって、襲い掛かる。

 

「――――」

 

 晴明は、二本の指を立てて、短く『呪文』を唱え――それを迎え撃った。

 

「――――ッ!」

 

 化生の前の『朱い妖力の腕』は、目標を確かに掴んだ筈だ。

 だが、それは、晴明が張った円柱状の蒼い結界に阻まれ――。

 

 

 蒼い結界の中の晴明は、白い法衣に包まれた己が躰に――黒い呪印を走らせていた。

 

 

「…………安倍晴明――あなたは」

 

 その『呪印』を見た途端、化生の前の表情が変わる。

 

 化生の前の『朱い回路』と同じように、まるで、刺青のように――取り返しのつかない、もう、後戻りできない証のように。

 突如として皮膚を走るように出現した『黒い斑点』に構うことなく、晴明は不敵に笑って言う。

 

「……欲しいものがあるのは、兄も同じだ、妹よ」

 

 そして、正体が不明であるのもな――そう、儚く笑い、『人間』は言う。

 

 この国で最も、『人間』離れした、存在は言う。

 

「私は、お前以上に――『特異』なのだ」

 

 兄が教えてやろう、妹よ――そう、妖しく笑い、『怪物』は言う。

 

「願いを叶えるには――それに相応しい、苦難が伴うということを」

 

 そして――平安京・最奥にて。

 

 二つの最強が激突し――史上最大の『兄』『妹』喧嘩が勃発した。

 




用語解説コーナー53

・真なる外来種

 大嶽丸、酒吞童子、白面金毛九尾の狐の三体の妖怪王の器を指す。

 後世にて日ノ本三大化生として名を残すことになる、この三体の怪物は――真の意味で、『外来種』であり、妖怪星人の起源(ルーツ)となる『血』を流す特別種である。


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妖怪星人編――54 ぬらりひょんの器

――これが、妖怪大将・ぬらりひょん。


 

 平安京――上空。

 神秘的な青き龍が泳ぐ――その傍らで。

 

 黒き両翼を背に生やした赤面長鼻の山伏と、(てん)(かけ)る白き大犬(おおいぬ)は、その鎬を削っていた。

 

 鞍馬の名を継承せし天狗は、その軍配団扇を縦横無尽に振るい、鍛え上げた神通力を持って念による不可視の空間の歪みを作り出し、遂には局所的に嵐すらも作り出した――が。

 

 大犬は、空間をまるで跳躍するように高速に移動し、その全てを掻い潜り――遂には。

 

「――――ッ!!」

 

 その妖力を込めた一発の咆哮で、天狗が作り出した神通力の歪みを、全て掻き消し、吹き飛ばした。

 

「――――くッ!」

 

 天狗の表情が歪む。

 これまで若き妖怪の卵達を単独で相手にし、河童と雪女の合わせ技による長距離砲台と相対したが――そのどちらも、鞍馬にとっては厄介でこそあれ、脅威ではなかった。

 

 若き妖怪達は勿論、あの河童と雪女も、油断できない相手だと察しはしたが、一対一、いや二対一でも勝利する自信はあった。

 

 しかし――この大犬は、違う。

 一対一で、こうして真正面からぶつかり合って、分かる。

 

 日ノ本有数の霊山である鞍馬山、かつて鬼と日ノ本を二分する立ち位置にまで上り詰めた妖怪種族・『天狗』の総本山である鞍馬寺で修練を積み――最強の天狗として鞍馬の名を受け継いだ、この自分よりも――。

 

 この大犬は、同等――あるいはそれ以上に、強大な妖怪だと。

 

「ちぃ――ッ!」

 

 遂に、鞍馬が巻き起こした嵐の中を走破して、自身に肉薄してきた大犬に。

 

 鞍馬は軍配団扇を振るい突風を巻き起こし、神通力による盾を併用しながら、その突進を受け止める。

 

 それでも――己が間近に迫った獣の牙に、鞍馬は一筋の冷たい汗を流しながら――問う。

 

「これだけの力――貴様もかつては名のある妖怪……同胞種族を率いる長であったのだろう」

「……………」

 

 天狗の問いに、大犬は言葉ではなく――至近距離から放つ、咆哮で応える。

 

「――――ぐっ、!?」

 

 それに堪え切れずに風は押し返され、盾は砕かれ――大天狗の巨体は宙に投げ飛ばされるが。

 しかし、そこは翼を持つモノ、すぐさまに体勢を立て直し、大犬を見下ろす高度から、鞍馬は再び問いかける。

 

「何故、お主ほどの妖怪が、奴のような無名な妖怪に仕えるのだ? お主を慕う同族もいただろう。お主を頼る同胞もいただろう。……それらを捨て、見捨てて――何故、お主は、奴の配下となることを選んだのだ!?」

 

 天狗の、怒りすら滲んだその問いに、大犬は「……細かいことを言わせてもらえれば、私は奴の配下ではないのだが」と前置きながら、真っ直ぐに見上げて、その問いに――問いを返した。

 

「鞍馬天狗よ。その団扇が――重くなったのはいつからだ?」

 

 己が真下から。

 獣が、まるで突き刺すように、真っ直ぐに見上げながら、放った言葉に。

 

 誰よりも自由に飛べる筈の天狗に、地に縛られることなく天すら翔ける獣が――突き付けた、言葉に。

 

「な――」

 

 鞍馬は、己の呼吸が一瞬途切れたことにこそ――何よりも強い衝撃を受けた。

 

 大犬は――尚も天狗に問いを重ねる。

 

「その肩が、その翼が、重くなったのはいつからだ?」

 

 空ではなく地を、上ではなく下を、向くようになったのはいつからだ? ――と。

 

 今まさに、逃げるように刑部(ぎょうぶ)の上空へ飛び――距離を取り。

 

 怯えるように――見下ろしている、天狗に。

 

 刑部は、心臓を突き刺すように――問う。

 

()()()()、ではなく――()()()()()()と、そう己に言い聞かせるようになったのは、いつからだ?」

「――ッ! 黙れ――!!」

 

 それ以上、言わせてはならないと。

 

 天狗は軍配団扇を大きく振るい、風の大波を繰り出す――が、刑部はその苦し紛れの風を、ただ一発の咆哮で押し返した。

 

 己の怯える心が、そのまま突き返され――目を瞑る天狗に。

 

 大犬は言う。

 言葉を――現実を、突き付けるように。

 

「――時代は変わるのだ。世界も変わるだろう。守ることとは、()()()()()()()()()()()()

 

 今が正にそうだと、刑部は言う。

 

 妖怪大戦争――勝敗はどうあれ、決着の形がどうあれ、今宵を境に、日ノ本は大きく在り方を変えるだろう。

 

 朝日が昇る頃には、まるで別の時代に、新たな世界に変わっていることだろう。

 そんな時代で、そんな世界で――変わらないことに固執することは、何も守っているとは言えないのだと。

 

 檻のような島を飛び出して、新たな世界に飛び出すように、天へ向かって翔け出した大犬は語る。

 

「平安京が遷都した時、天狗は変わるべきだった。人間達がこの地にやってきた時、鞍馬は在り方を変えるべきだったのだ。しかし、お前に全てを押し付けた旧体制は、その役目から逃げ出した」

 

 お主はどうだ、新たなる『鞍馬』よ――と。

 鞍馬の名を継いだ、偉大なる大天狗よ――と。

 

 我武者羅に、拒絶するように嵐を振り撒く天狗を、逃がさないとばかりに、縦横無尽に宙を駆け回り、咆哮をぶつけ続ける獣は。

 

 ただ真っ直ぐに――逃げるなと、そう蒼い瞳を向け続け、言う。

 

「下ではなく、前を向け。そして――己の目で、見定めるのだ」

 

 時代の、世界の、日ノ本の行末を――その上で。

 

「お前が――『天狗』が、『鞍馬』が、選ぶべき道を! お前が決めろ!!」

 

 白き大犬は、その口腔に妖力の弾丸を作り出し――上空に向かって撃ち放つ。

 

 それは全てを拒絶するように張り巡らされた嵐を祓い、紛うことなき現実を――天狗に突き付ける。

 

「――――」

 

 天狗は、眼下の戦場を、突き付けられる。

 

 あらゆる妖怪が集い、その雌雄を決する妖怪大戦争。

 戦火に焼かれる平安京。一体、また一体と倒れゆく、歴史に名を刻んだ大妖怪。

 

 そして、己の真下に集いし、若き妖怪の卵達、河童や雪女、そして犬神といった縁もゆかりもない種族を束ねる――下級妖怪(ぬらりひょん)

 

 正に、時代の節目。

 世界の変革の時――逃れようのない、終焉を、天狗へと見せつけて。

 

 鞍馬天狗は――団扇を下ろす。

 

 覚悟を決めるように、顔を上げて、何時の間にか同じ高度にまで昇っていた刑部に問うた。

 

「……そして、お前が選んだ道は――あの男か」

 

 青い龍の上から、刑部を、そして鞍馬を、全幅の信頼をおいて見上げる男。

 

 酒吞童子や化生の前といった今宵の戦争の主役妖怪と比べれば、余りにも小さく見える妖怪を一瞥して、鞍馬は言う。

 

「……あの男は――ぬらりひょんは、それほどの『器』なのか」

 

 刑部は、そんな男を見て――くるりと、天狗に背中を向ける。

 

「それも――お前の、その目で、しっかりと見定めろ」

 

 己の役目は終わったとばかりに青き龍の元へと駆けて行く大犬。

 

 そして、宙空に氷の盾の舞台が創られ。

 

 まるで主役の登場とばかりに――その上に、一体の黒き妖怪が登壇する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「一発じゃ」

 

 舞台の上に立ったぬらりひょんは、上空から見下ろしている鞍馬に向かって、己が指を一本だけ立てて見せつけた。

 

「今宵、お主は連戦に次ぐ連戦であったことじゃろう」

 

 鴨桜や士弦、月夜や雪菜――若き妖怪の卵達との遭遇戦。

 長谷川と白夜――百鬼夜行幹部との遠距離戦。

 

 そして、百鬼夜行総大将相談役兼四国犬神一族族長、ぬらりひょんの義兄弟である犬神・刑部との空中戦。

 

 これだけの激戦を重ねた相手に、例え一騎打ちとはいえ打倒した所で。

 

「そんなものは――弱った所に付け込んだに過ぎぬ」

 

 本来、四国妖怪を束ねる大妖怪・犬神と、日ノ本屈指の霊山である鞍馬山の天狗族の長・鞍馬には――それほど大きな戦闘力差は存在しなかった。

 

 互いに無傷で万端ならば、勝敗は見えぬほどに拮抗している実力同士の筈なのだ。

 

 それが、あそこまで一方的な戦いになったのが、鞍馬が消耗している何よりの証拠だと、そう語るぬらりひょんは。

 

 だからこそ、一発だと――氷の舞台で両手を広げて、堂々と宣言する。

 

「――儂はここから、()()()()()()。そもそもお主や刑部と違って空なんぞ飛べんしの。故に、儂はここから一歩も動かず、お主は好きに、何度でも攻撃してよい」

 

 その上で、儂は一撃でお主に勝利して見せよう――と、そう嘯くぬらりひょんに。

 

「……嘗めているのか?」

 

 大気を震わせる程に妖気を溢れ出し、とても弱っているなどと、そう感じとることは出来ない覇気を発する大天狗に、若き妖怪達が背筋を凍らせる中。

 

 ぬらりひょんは飄々と、しかし――心から敬意を表するように言った。

 

「いや、敬っておるのじゃ。ここまでせんと、お主を迎え入れるには相応しくないとな」

 

 お主はそれほどのいい男じゃ――そう、ぬらりひょんは、真っ新な誠意と、真っ直ぐな覚悟を見せる。

 

 厳しい条件なのは百も承知。

 成し遂げるは不可能に等しい。

 

 宙も自由に闊歩出来ぬ身で。

 畳一畳ほどの滑りやすい氷の足場に、孤立無援で立ち尽くし、命綱すら巻かずに――それでも、と。

 

「ここまでしてでも――儂は、お主が欲しいのじゃ」

 

 そう、まるで素っ裸で害意を否定するように――好戦的な瞳で、鞍馬天狗という大妖怪に挑戦する意を表明する男に。

 

 天狗は「……よかろう」と、屈辱ではなく、戦意を持って、己に残った妖力を膨れ上がらせながら。

 

「――ぬらりひょん。お主の計らいに乗ってやろう」

 

 真っ直ぐに眼下を見下ろしながら――目の前の男の『器』を見定めるべく。

 

 ぬらりひょんに、一本指を返した。

 

「ただし、一撃だ。――儂も、その一撃に全てを込めよう」

 

 平安京の大気を震わせる、鞍馬山の大天狗の妖気が。

 

 みるみる内に膨れ上がり――天狗の右手に握られた、軍配団扇に凝縮されていく。

 

「この一撃をもってしても、お主がその舞台に立っていることが出来れば――儂はお主に膝を着き、頭を垂れ、忠誠を誓おう」

 

 若き妖怪達が唾を呑み込む。

 これが、大妖怪の、全力の妖気――月夜は、雪菜は、士弦は、その神通力ではなく、単純な妖気で空間が歪む様に、その身を震わせるような『畏れ』を抱いた。

 

 自分達との戦いの時は、まるで本気ではなかったのだと。

 否、本気であったかもしれないが、全力ではなかった。

 

 今宵の妖怪大戦争において、これからもっと強い敵と戦うことを想定しての、温存された戦闘だったと、思い知らされて。

 

「――――ッッッ!!」

 

 鴨桜は、震えている自分に、奥の手を秘めていた鞍馬に――そして。

 

 それを真正面からぶつけられてなお、『ぬらりひょん』を崩さない――父に。

 

 心の――底から。

 

「みせてみろ、ぬらりひょん。お前の力を――お前の器を」

 

 お前の――『未来』を。

 

 そう告げて、鞍馬天狗は、己が全てを込めた一撃を放つ。

 

 選んだ術は――暴風刃。

 天狗の代名詞である『風』を操る力。それをただ純粋に研ぎ澄ませ、神通力で殺傷力を増した、どんな防御も意味を為さない、正に一撃必殺の奥義。

 

 感知は不可能。

 放たれた次の瞬間には対象を真っ二つにしている、音速の烈刃に。

 

 月夜と雪菜は思わず目を瞑ってしまい、士弦と鴨桜はぬらりひょんの死を幻視した――が。

 

 長谷川と月夜、そして刑部は――己が主の、生還を、そして勝利を、ただ静かに確信していた。

 

 それに疑問を生じた鴨桜は――次の瞬間。

 

 信じられない光景を――見せつけられることになる。

 

「――――!!??」

 

 目を疑った――現実を、疑った。

 奇しくも鞍馬が受けた衝撃と同じだけのそれを、息子である鴨桜も受けていた。

 

 信じられなかった――目の前に広がる、ただ当然のように広がる、現実が。

 

 空間を裂く、鞍馬天狗の渾身の暴風刃。

 

 それは、ぬらりひょんへと届いた、その瞬間――()()()()のだ。

 

「……目を凝らして、しかと見定めろ――鴨桜」

 

 いつの間にか、鴨桜の背後に立っていた刑部が言う。

 

「あれが、妖怪・『ぬらりひょん』の最奥――『包妖(ほうよう)』だ」

 

 ぬらりひょんの息子たる鴨桜は、これまで数多くの奥義を、父の背中から学んできた。

 

 己の存在を完璧に隠密してみせる、存在感を消すぬらりひょんの本領ともいえる奥義――『(げん)』。

 己の攻撃を完全に認識させない、攻撃の畏れを消す奥義――『(えい)』。

 

 天才肌であった鴨桜は、これらの奥義を教わるまでもなく、不完全ながら会得していた。

 

 自分なりに磨き上げ、及ばずながらも手が届く所までは――辿り着いたと、そう思っていた。

 

 だが――『包妖』。そんな奥義は、見たことも聞いたこともなかった。

 

「否――お前は見てきた筈だ。知っていた筈だ。なぜならば、『包妖』とは――」

 

 ()()()()()()()()()()()()()と、そういうことなのだから――そんな、刑部の言葉に。

 

 お前が見てきた、百鬼夜行の総大将たる、父の姿こそが。

 

 妖怪・『ぬらりひょん』だと、そう告げる言葉に。

 

「…………」

 

 鴨桜は、ただ、父の背中を見詰めることしか出来ない。

 

「―――――」

 

 そして、同じく、絶句することしか出来ないモノがいた。

 

 鞍馬天狗は。何故、犬神・刑部ほどの大妖怪がぬらりひょんなどという下級妖怪を『総大将』と認めるのか。

 

 何故、奴の周りには、あれほど多種多様な妖怪が集まるのか――ただ、一発で、理解した。

 

 己が全力を掻き消されたことで――否、受け容れられたことで、理解させられた。

 

 妖怪・ぬらりひょんが最奥義――『包妖』。

 それは言葉の通り、妖力を包み込む、ぬらりひょんの才がなせる『業』である。

 

 いつの間にかそこにいる妖怪。

 それはすなわち、他者の心に入り込む――警戒心を抱かせないということ。

 

 つまりは、いつの間にか心を許してしまう――否、()()()()()()()()

 

 ぬらりひょんという妖怪が、全てを受け容れているが故に、他者もぬらりひょんに心を許してしまうという構図に他ならない。

 

(――全てを、受け容れる。畏れも、妖力も――全てを受け容れ、無効化してしまう)

 

 実際には、その圧倒的な『包妖力』で、ぬらりひょんという妖怪を受け容れてしまった『相手自身』が、無意識の内に自分で『術』を止めてしまうというカラクリなのだが――それを為すには、ぬらりひょんが攻撃を受ける寸前で放つ、特殊な一瞬の妖気が、相手の妖怪の『魂』に干渉することが必要だ。

 

 それはある意味で――『魅了』と呼ばれる異能に近い。

 相手の『魂』に直接干渉する御業――その領域に、ぬらりひょんという下級妖怪は、己が特性を極限まで追求することで、到達し得たのだ。

 

(――これが、妖怪・ぬらりひょん)

 

 鴨桜が、父の背中から目を離せない中――鞍馬は、ゆっくりと、ぬらりひょんが未だ一歩たりとも動いていない氷の舞台へと降り立つ。

 

 その瞳には、もはや欠片の敵意も存在しない。

 例えそこにはカラクリがあろうとも、ぬらりひょんが己が御業を持って、鞍馬の全力の一撃を突破し、己が『魂』に触れたことは、紛うことなき事実なのだから。

 

 自分が、鞍馬天狗という妖怪の全てを受け容れた――ぬらりひょんという『器』に、魅せられたことは、紛うことのない、現実なのだから。

 

(――これが、百鬼夜行の主)

 

 ぬらりひょんの前に降り立った鞍馬は、そのまま膝を折り、頭を垂れる。

 

 そんな鞍馬に、ぬらりひょんは終ぞ一度たりとも抜かなかったドスの柄から手を離し。

 

 何も握られていない右手を、鷹揚に差し出す。

 

「鞍馬天狗よ――儂の、百鬼夜行(かぞく)になれ」

 

 片膝を着き、頭を垂れていた鞍馬は。

 

 その手を取って立ち上がり、真っ直ぐに前を向いて。

 

 己が選んだ(みらい)に、心からの決意を持って言った。

 

「――我が名は『鞍馬(くらま)』。霊山・鞍馬山の天狗衆を束ねる鞍馬寺の当主にて、僭越ながら今宵より、百鬼夜行が末席を汚すモノ」

 

 あなたと同じ酒を吞ましてくれ。我らが総大将よ――そう言って、京屈指の大妖怪・鞍馬山の大天狗が、百鬼夜行(かぞく)へと加わる、そんな光景を、目の当たりにして。

 

(――これが、妖怪大将・ぬらりひょん)

 

 これが、父の背中かと。

 

 その父の背中と器の、余りの大きさ――偉大さに。

 

 鴨桜は、拳を握り、唇を噛み締め――心を震わせる。ただそれだけしか出来なかった。

 




用語解説コーナー54

・ぬらりひょんの異能

 妖怪・ぬらりひょんの異能は、言ってしまえば、他人の家にこっそり忍び込むことが出来る、という、ただそれだけに過ぎない。

 それをぬらりひょんは、ただ己が執念と修練によって磨き上げ、数々の奥義を編み出したが、『幻』も、『絶』も、そして『包妖』も――およそ戦闘にはまるで向かないぬらりひょんという妖怪の性質を、無理矢理に引き出したに過ぎない。

 気付かれないという力を――隠すという力に。
 隠すという力を――受け容れるという力に。

 ただ――それは、決して選ばれた存在ではない自分が、それでも抱いてしまった、身の丈に合わない、分不相応な願いの為に。

 遠い彼方へ輝く月に手を伸ばすように――燃やし続けた、野心の結晶に過ぎない。


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妖怪星人編――55 妖怪の国

あなたはきっと、蝦夷を一つにする為に生まれてきたのだ。


 

 平安京と平安宮を分ける境界――朱雀門前。

 

 そこでは正に、この世のものとは思えない――あるいは、この世の終わりと思えるような光景が繰り広げられていた。

 

 降り注ぐ、幾筋もの赤雷。

 赤き稲妻が局所的に、まるで雨のように降り注いで、怪物を閉じ込める檻を形成しているかのような、そんな猛威の中を。

 

 全身を赤く染め上げた灼眼の赤鬼が、その小柄な身体で隙間を縫うようにして、赤雷の迷路を突破した――出口に向かって、置かれるように放たれていた、水平に奔る本命の巨大な赤雷を。

 

「らぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあいッッッ!!!!」

 

 その小さな――炎を纏った拳で、赤鬼は地面に向かって叩き付けるように堕とす。

 

「……………」

 

 左手に氷の剣を、右手に炎を纏わせる赤鬼。

 金時は、それを冷たい眼差しで見遣っていて。

 

「今度はこっちの番だなッッ!!」

 

 喜色満面の――狂色満開の顔で、悪路王は神通力を振り撒く。

 

 金時と悪路王――四天王同士の戦場の周辺は、既に。

 雷が降り注ぎ、豪雨が吹き荒れ、突風が巻き起こり、炎が瞬き閃いて、地面は大きく揺れる――天変地異の宝庫と成り果てていた。

 

「ははははははははははははははは!!」

 

 あの世の光景をこの世に無理矢理引っ張ってきたかのような、正に地獄絵図を。

 

 遂にその手に掴んだ、己が小さな身体全体に巡り始めた、鬼神魔王・大嶽丸(おおたけまる)から受け継いだ『外なる力(神通力)』に酔いしれ、溢れるがままに放出する悪路王に向かって。

 

 金時は、左手で鉞を担ぎながら――龍へと化わった赤い右手で、くいっと手招く。

 

「――来るなら来い」

 

 その挑発に――悪路王は歓喜する。

 

「上等だッッ!! 今、行くぞっっ!!」

 

 悪路王は豪雨の中、右拳の炎を一層に激しく燃やし、左手に携えた氷の剣を輝かせ、突風に押し出されるように、自分が振らせる雷の中を突っ切り、己が割った地面を踏みしめて――金時へと迫る。

 

 一瞬の接近。

 まるで瞬間移動をしているかのように目の前に現れ、氷の剣を振るう悪路王の跳び蹴りを――金時は上体を反らすだけで躱す。

 

 しかし、悪路王は止まらない。

 次いで炎の拳を、そして間髪入れずに氷の剣を振るい、金時はそれを上体の動きだけで躱す――が。

 

 遂に、一歩。

 悪路王の猛攻に押されて、金時の足が、一歩、後ろに下がる。

 

「そこだっ!」

 

 その一瞬を、悪路王は逃さなかった。

 突如として水平の攻撃から、上下の動きへと軌道を変えた赤鬼の左手――氷の剣が、金時の鉞を弾き飛ばす。

 

 獲ったッッ!! ――と、勝利を確信し、表情を歪めた悪路王が、そのまま次いで右手を、炎の拳を金時の隙だらけのどてっ腹に繰り出そうとして――。

 

 ドスっっ――と。

 

 重い一撃が――何の変哲もない、燃えてもいない、ただの人間の左拳が。

 

 小柄の赤鬼の身体を浮かすように、どてっ腹に突き刺さっていた。

 

「……気持ちのいい(酔い)は醒めたか?」

 

 そして、まるで現実を受け入れられないかのように、混乱に染まる悪路王の顔面を――次いで、龍の拳が突き抜ける。

 

 重すぎる拳は一瞬で悪路王の意識を奪い、そのまま吹き飛ばされ、叩き付けられた地面の硬さと衝撃に、沈んだ意識を再び浮上させる。

 

 ハッと、己を取り戻した悪路王は、全身を駆け抜ける激痛を無視して、何とか体勢を変えて着地を決めると――既に、目前には赤雷を纏った鉞が迫っていた。

 

「ぬおッッ――!?」

 

 己が弾き飛ばした筈の鉞。

 それを一瞬で回収した金時が、赤雷を付与して投擲したのだと、そう理屈で理解するよりも早く、反射的に、その場しのぎで悪路王は氷の剣で鉞を再び弾く。

 

 その鉞の――すぐ後ろに。

 

 坂田金時本人が、目前にまで迫っていたことに、最後まで気付かずに。

 

「な――――」

 

 元から弾き飛ばされることが前提の二段構え。

 赤雷は己の姿を隠す只の目晦ましに過ぎないと、そう理解する間もなく。

 

「――これが、『力』の使い方だ」

 

 金時は、そう冷たく告げながら――巨大化させた『赤龍の右手』を振りかぶり、そのまま悪路王の小柄な体を地面へと押さえつけて。

 

 今度こそ、これまでの見せかけのそれではない、正真正銘の攻撃用に『力』を込めた赤雷で――赤鬼を()いた。

 

「ぐぅぁあああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 氷の剣や炎の拳で容易く対処できていたそれではない――紛れもなく超常にして頂上の、『高位存在』由来の『力』の奔流に成す術なく呑み込まれながら。

 

 悪路王は、その言葉を聞いた。

 

「――『人間』が使う『呪力』にしろ、『妖怪』が使う『妖力』にしろ、どれだけ凄まじい『摩訶不思議』を起こせようと、結局はそれは戦闘の為の『武器』に過ぎない。……俺や、お前が振るう、『超常由来の力』も、根本は同様だ」

 

 どれだけ凄まじい『力』であろうと――それはあくまで『武器』に過ぎないと。

 

 把握し――掌握し、自分のその手で、自由自在に操れなくては何の意味もないと。

 

 金時は、赤雷を纏った鉞を、引き寄せるように、繋がった雷を手繰り寄せるように手元へ戻しながら、仰向けに地に抑え付けられる赤鬼を冷たく見下ろしながら言う。

 

「お前の()()は何だ? 炎の拳と氷の剣――何故、相反する性質のそれを同時に使う? 炎の拳を使うなら、どうしていつまでも雨を降らせている? 風を操れるなら、それを移動の加速に使うなりしたらどうだ? わざわざ地を割って自分も動き辛くする意味は? 敵に当てもしない、行動を誘導するわけでもないのに馬鹿みたいに降らせている雷は、一体どんな意図があってのものなんだ?」

 

 これまで数多くの強敵と相対してきた戦闘の天才は、余りにお粗末な悪路王の『力』の使い方に――否。

 

「お前は、その『力』をまるで使えていない」

 

 その、身の丈にあっていない強大な力に、ただただ無様に振り回されている様を――見下げ果てながら、言う。

 

「お前に、その『力』は相応しく(もったい)ねぇよ」

 

 赤鬼の身体を冷え切らせるような、坂田金時の冷たい眼差しと声色に。

 

 荒れ狂っていた天地――豪雨も、落雷も、地割れも、突風も、ゆっくりと収まっていく。

 

 だが――しかし。

 

「…………うるさい」

 

 赤き龍の掌の下で。

 

 ぐつぐつと、まるで溶岩が煮えるように。

 

 赤く、赤く――熱く、熱く。

 

 燃え、滾り――噴火する、()()があった。

 

「うるさいっっ!!」

 

 悪路王は、全身を発火させる。

 

 噴き上がった炎は下から金時を照らした――が、赤鬼を押さえつける『赤き龍の掌』は、まるでビクともしていない。

 

「……今のもだ。それだけの力――本来の大嶽丸の神通力ならば、この程度の拘束を弾き飛ばすことなど造作もない筈だ。にもかかわらず、こうしてお前が無様に俺を見上げることになっているのは」

 

 お前が『力』を引き出せていない、何よりの証拠だ――と。

 

 脆弱な『器』を壊さないようにと、無意識に加減してしまっている、何よりの証拠だと。

 

 悪路王という『器』が、阿弖流為の『力』の容れ物に相応しくない、何よりの証拠だと――そう、金時が言葉にするよりも早く。

 

「うるさい! うるさい!! うるさい!!!」

 

 ドゴン! ドゴンッ!! ドゴンっっっ!!! ――と。

 

 まるで爆発するように、何度も何度も噴火するように、龍の掌を揺らす炎の煌めきは――やがて、遂に。

 

()()()()()()()()()()()()()()っっっ!!!」

 

 涙する赤鬼の咆哮と共に、何かを破り――貫く。

 

 龍の掌を吹き飛ばした火炎は、何よりもその器こそを焼いて――赤雷に灼かれた赤鬼の小柄の身体を、更に赤く、血のように赤く染め上げる。

 

「……俺は、この力に相応しい器じゃない。……俺は、相応しくない。……俺は、選ばれし者じゃ……ないっ!」

 

 泣いた赤鬼は、その涙を赤く染めながら、真っ赤に濡れた瞳を、金時に向けて言う。

 

「俺は――『器』じゃない。分かってんだよ……そんなことは」

 

 そんなことは、とっくの昔に、誰に言われるまでもなく――ずっと、ずっと、思い知っていたと。

 

 嘲けるように吐き捨て、口元に笑みすら浮かべながら。

 

 小さな赤鬼は――ちっぽけな、自分という鬼のつまらない歴史を回顧する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 この子は――『特別』よ。

 

 生まれてからずっと、その小さな鬼はそう言われながら育った。

 

 特殊な出自があるわけではない。

 むしろ、生まれはどこにでもいる凡百の妖怪だった。

 

 その鬼は蝦夷(えぞ)と呼ばれる辺境の地で生まれた。

 当時の日ノ本を支配していた朝廷が存在した奈良から遠く離れた僻地であるそこは、いつからか人里で生きられぬ異形の怪物達が集まる土地となっており、種々雑多の妖怪が、それぞれの領地を見えない線で分かちながら暮らす集落と化していた。

 

 小さな鬼は、そんな中の一つの集落の片隅で、ひっそりと暮らす平凡なる妖怪夫婦から生まれた。

 

 両親達は鬼と呼ぶには余りにも頼りない、か細い生命力を辛うじて保っているような妖怪であったが――そんな彼らの間に生まれた小さい鬼は、正に桁違いの妖力を持っていた。

 

 鳶が鷹を生んだ――そう両親は小さな鬼を囲みながら、嬉しそうに笑った。

 

 しかし、子が生まれて間もなく、父親はとある集落同士の紛争に巻き込まれて亡くなった。

 

 当時の蝦夷では珍しいことではなかった。

 

 妖怪が集まる土地とはいえ、姿形は勿論、時には言語すらも異なる妖怪が、ほど近い距離の中で見えない国境を引いて暮らしていたのだ。

 

 蝦夷という地が人里にて、妖怪が集う魔の土地という街談巷説として広まってからは、蝦夷に住まうというだけで人間の恐怖を糧とすることが出来るようになった。その為、力が増し、より好戦的になる物の怪達も増えていった。

 

 結果――集落同士が小競り合いを起こすことが頻繁になり、それが紛争として発展することも、珍しくなくなっていった。

 

 こうして、力無き妖怪が、それに巻き込まれて亡くなることも――この魔の地では、ありふれた日常の一コマであった。

 

 母は大いに嘆き悲しんだが、まだ幼児といっていい年齢だった小さな鬼は、悲しみに暮れるよりも――このか弱い母を守らなければと使命感に燃えた。

 

 既に小さな鬼は、己を生んだ母よりも、そしてそんな母を脅かすものを打ち倒せる程には強かった。

 

 身体が弱い母。心が脆い母。

 そんな母を守れることは子にとって誇りだったし――そんな天賦の強さを持つ息子を生むことが出来たことを、また母も誇りに思っていた。

 

 この子は――『特別』だと、母は言った。

 この子はきっと、大いなる使命を果たす為に、天が我らに授けて下さったのだと――母は言った。

 

 何よりも争いが嫌いだった母は、父を奪った争いを、憎んですらいた母は、いつも、いつも、己を守る強き子に向かって言った。

 

 あなたはきっと、この争いの絶えない蝦夷を一つにする為に生まれてきたのだと。

 

 そして、そんな偉大なる子の母になれて、私は本当に幸せだと。

 

 弱く脆い母は、己の弱さに逃げ続けた母は、そう息子に言い続けて。

 強く賢い子は、己の強さに頼り続けた子は、そんな母に――こう、言い続けた。

 

「分かった。なら、俺が母さんの願いを叶えてやる」

 

 そう胸を叩いて笑って言えば――母は必ず喜んでくれたから。

 

 平和とは、蝦夷とか――心の底から、どうでもいいけれど。

 

 自分にとっては――母こそが全てだから。

 

 優しい母。善良なる母。

 弱き母。自分が守ってあげなくてはならない母。

 

 母の笑顔が、母の感謝が、母の生存が――小さな鬼にとっての全てだった。

 

 

 だから、その日――鬼の子は全てを失った。

 

 

 その日も、いつもと変わらない日だった。

 いつも通り、隣り合うとある集落同士が下らない小競り合いをして――それが小さくない紛争に発展して。

 

 偶々近くにいた、無関係の弱き妖怪が――それに巻き込まれて、あっけなく死んだ。

 

 いつもと違うのが、巻き込まれたのが、病床の母が寝ていた家であり。

 

 食糧を持ち帰った鬼が帰った頃には――全てが、蹂躙された後だったという、ただそれだけの話だった。

 

 その日――二つの集落が、蝦夷から跡形もなく消失した。

 

 更地となったその場所では、それから何日も、何日も、小さな鬼が泣き続けていたという。

 

 己の身体を真っ赤に染めて、血の涙を延々と流す――小さな赤鬼。

 

 そして、その日以来、蝦夷では新たな街談巷説が広がり始めた。

 

 争いが起こると、どこからともなく。

 

 血塗れの、血の涙を流した真っ赤な鬼が現れ――両成敗とばかりに、争いそのものを根絶せんとばかりに、その全てを蹂躙するという、そんな怪談が、妖怪の間に流布し始めたのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 赤き鬼は蝦夷で猛威を振るった。

 

 全てを失った鬼は、失意のままに、失望のままに――それでも縋るように、亡き母の願いを叶えようとした。

 

 争いが絶えない蝦夷を、妖怪同士で争い続ける蝦夷を、一つにする。

 

 復讐の炎に身を焼かれる鬼は、それでも、母の願いを叶えようとしたのだ。

 

 母が天から授かったと褒め称えていたその強さでもって、大いなる使命を果たす為に得たのだというその力任せに――争いをなくそうとした。

 

 しかし、その拳に込められていたのは、平和への願いか、母への愛か――それとも、只の憎しみだったのか。

 

 結局、争いはなくならなかった。

 どこからともなく現れる赤鬼に怯えながらも、彼らは、その恐怖を糧に、争いを止めることではなく、武器を下ろすことではなく、まるで身を守るように――更なる武装を重ね着て、争いの為の争いを続けて。

 

 いつまで経っても争いはなくならず、いつまで経っても彼は――母の願いを叶えることは出来ず。

 

 蝦夷はバラバラに分断を続けて――いつしか赤鬼は、拳を解き、天を見上げて。

 

 自分は――天に選ばれた存在ではないのだと理解した。

 

 己は、天からの授かりものなどではなかったと――己を責め立てるように降る雨に、全身を串刺しにされるような絶望と共に、痛感した。

 

 膝を着いた赤鬼は――そんな、降り注ぐ雷雨の中で、出遭ったのだ。

 

 紛い物の天賦ではない、本物の――天からの贈り物を。

 

 遥かなる天から流星のように落下してきた――これまで出会ったどんな妖怪とも違う、その大鬼は。

 

 いつものように争う村々を見つけ、力づくで押さえつけようとして――それでも争いは止まらず、絶望に膝を着いた赤鬼ごと、制圧してみせた。

 

 小競り合いから紛争に、そして戦争へと発展しかけていた争いの渦中へと飛び込み――そして、無傷で平定してみせた。

 

 その圧倒的な強さと、その包み込むような笑顔と、その余りにも大きな――『器』で以て。

 

 戦争一歩手前まで争い続けていた村と村を――大きな一つの村とした。

 

 その巨大な黒鬼は、大嶽丸(おおたけまる)と名乗った。

 

 赤鬼は、天から降ってきた、その大きな黒鬼に――夢を見た。

 

 彼こそが、母がずっと求め続けた、蝦夷に平和を齎す鬼だと。

 

 バラバラに分断され、至近距離で争い続けた魔の地を、一つに纏め上げる――本物の『王』だと。

 

 その日、再び――赤鬼は全てを失った。

 

 己にとって全てだった母。

 そして、そんな母から唯一残された願い――夢。それすらも、己よりも相応しい『器』が現れた。

 

 この子は――『特別』よ。

 この子は、蝦夷から争いをなくすために、天が授けた贈り物なのよ。

 

 そんな母の言葉を、たった一日で否定してみせた黒鬼に――赤鬼は真正面から戦いを挑んだ。

 

 自分の全てを奪った鬼。

 真の意味で天に選ばれた存在――『特別』な『器』。

 

 赤鬼は戦う前から理解していた。

 この戦いに意味はない。己はこの黒鬼には勝てない。

 

 自分の強さは紛い物で――『本物』ではない。

 母の夢を、願いを叶えるのは、自分ではなくコイツだと理解しながらも、赤鬼は何度倒されても、黒鬼に向かって拳を振るい続けた。

 

 戦いは三日三晩に及び、悪路王は満身創痍の瀕死にされたが、大嶽丸には終ぞ、拳を一発叩き込むのが精一杯だった。

 

 そして遂には拳が握れなくなり、立っていられなくなり、膝を着いて頭を垂れて――赤鬼は、懇願した。

 

 どうか、蝦夷を――俺達を、導いてくれ、と。

 

 それは己の唯一残さ阿弖流為(アテルイ)れた柱を折る行為で、赤鬼にとっては命を差し出すに等しかったけれど――もう、赤鬼に、他に残された選択肢はなかった。

 

 拳よりも、身体よりも、何よりも心が――黒鬼の『器』に打ちのめされていた。

 

 黒鬼は、そんな赤鬼の言葉に――こう告げた。

 

――俺様は『漂流者』だ。お前が言う、天からの遣いだとはそんな大層なもんじゃねぇ、只の行き先を見失った迷子みてぇなもんだ。

 

 だから、お前が行き先を示してくれるなら、俺様はそこに向かって、ただ進もう――そう言った黒鬼は、膝を着いて起き上がれなかった赤鬼を引き上げる。

 

――だが、一人で歩くのはつまらねぇ。お前も責任を持って同行しろ。そうすんなら、俺様がお前の行きたい所に、何処へだろうと連れて行ってやるよ。

 

 ガハハと豪快に笑いながら、呆然とする赤鬼に黒鬼は言う。

 

――そうと決まれば、まずは改名だな。もしかすると大嶽丸の名を使うのは後々面倒なことになるかもしれん。この星に『漂流』できたのは俺様だけだと思うが、念には念を入れておこう。新天地での第一歩と思えば、そんな始まりも悪くない。

 

 話の流れについて行けない赤鬼に、黒鬼は問う。

 お主の名は何と言う、と。

 

 赤鬼は、亡き父と母が己に残してくれた、ただ一つ残った――それを言う。

 

 父と母以外は誰も知らなかった、誰にも名乗ることのなかった、己が名前を。

 

「……阿黒(あくろ)阿黒」

 

 赤鬼に黒と言う名を付けた、当時はどうしてと思った己が名前も、こうして黒鬼と出遭ったことで全てが変わった、まるでこの未来を暗示していたかのようだと、呆然と思いながら。

 

――阿黒。いい名だ。俺様もお前の名から一字を貰うこととしよう。

 

 そんな黒鬼の言葉に、赤鬼――阿黒は、ただ漠然と――予感していた。

 

――阿弖流為(アテルイ)。これが今日から俺様の名だ。

 

 阿黒よ、俺様は、全てを変えるぞ――大いなる蝦夷の自然を眼下に見下ろしながら。

 

 せっかくの新天地だ。大いに楽しもうではないか――そう言って、ガハハと豪快に笑う、余りにも小さい己とは、比べ物にならない程に大きい鬼の背中を見て。

 

 阿黒は――予感していた。否――確信していた。

 

 本当に、全てが変わる。

 この男の『来訪』が、恐らく蝦夷を――そして、日ノ本を変えると。

 

 阿黒は、ぶるりと震えて、いつしか再び強く――その拳を握っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 正しく、快進撃だった。

 

 大嶽丸――阿弖流為は、本当に瞬く間に、蝦夷を一つの国にした。

 肌の色はおろか姿や形も違う、言語どころか言葉すら発せないモノ達もいる、寿命も生命力も、戦闘力も存在力も、ありとあらゆるモノが異なる――ただ、()()()()()と、その一点のみが共通するモノ達を一切合切纏めて、己が下に集めてみせた。

 

――なぁに。みんな、俺のカワイイ『子』達だ。家族になるのは当然だろうが。

 

 阿弖流為はそうガハハと笑い、己の巨大な『器』でもって、その全てを見事に受け容れてみせた。

 

 阿黒は、そんな男の背中に、己もまた魅入られながら、後ろではなく横に立つ為に、背中ではなく片腕となる為に、その力を振るい続けた。

 

 どれだけ阿弖流為のカリスマが凄まじくとも、種々雑多な妖怪勢力を一つに纏めれば、少なからず綻びは生じる。

 

 これまで狩るモノと狩られるモノだったものを同列に扱うことに不満を持つモノもいるだろう。

 己が天敵となるモノと仲良くしなければならないことに不安を持つモノもいるだろう。

 これまで本能のままに暴れていたのに、牙を収めなければならないことに耐えきれないモノもいるだろう。

 

 そんな不穏分子を――阿黒は『恐怖の赤鬼』として少なからず名を馳せていたことを利用して、妖怪王国『蝦夷』の治安維持装置として、ヘイトを集める憎まれ役として己を据えた。

 

 これまで獣同然に生きてきた、妖怪という怪物達。

 それを一つの国として、一つの組織として、一つの家族として纏め上げるならば、必要以上に厳しい戒律の元、枠から外れようとするモノを取り締まる存在が必要だった。

 

 本能に忠実なる妖怪にとって、それは正に憎悪の対象となり得るモノだ。

 そんな存在を傍に侍らせて御してみせる阿弖流為のカリスマは更に輝くが、当の阿黒に集まるのはその綺麗な白を保つ為の垢そのもの。

 

 阿弖流為はそんな阿黒を気遣ったが、阿黒はこれでいいと己の在り方を変えようとしなかった。

 

(これでいい。元々、成り立つことが奇跡の国なんだ。だからこそ、理想以上の綺麗な目標が必要だ)

 

 形が重要なのだ。

 阿弖流為は綺麗でなくてはならない。白でなくてはならない。

 

 だからこそ、生じてしまう垢は――黒は、自分が背負わなくてはならない。

 あの美しい黒鬼を白くする為に、黒になれない赤鬼の自分が――黒を背負うのだ。

 

 そんな両輪の鬼の手によって、遂に――奇跡の国は実現した。

 

 辺境に追い詰められた只の限界集落であった蝦夷は、やがて全国から妖怪が集まる王国となり、阿弖流為は奇跡の王として、妖怪勢力を纏め上げる存在となる――が。

 

 そんな存在を、そんな奇跡を、『人間』が――平城京が、許す筈もなかった。

 

 一つになろうとしている妖怪――当然、それを危険視した平城京は、やがて辺境である蝦夷に軍を派遣することを決定する。

 初めは妖怪退治により名声を得ようとする小物らが自らこぞって志願したが、阿弖流為はそれらを鎧袖一触に退ける。

 

 それを繰り返すこそ幾度。

 やがて誰もが、予想外の蝦夷の強さに恐れをなし、妖怪という存在に対する恐怖そのものが高まり、更に妖怪が強大になっていく中――平城京は、遂に、その切札を投入すること決断した。

 

 その『人間』の切札たる男の名は――坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

 初代征夷大将軍に任じられた、紛れもない――『英雄』である。

 




用語解説コーナー55

・蝦夷

 現在の東北地方に位置する、辺境の地。

 日ノ本を統べようとする大和朝廷に属することに抵抗した民族が住まう地域で、『野蛮のモノ』という俗称として蝦夷と名付けられた。

 この世界では全国津々浦々から行き場を失くした妖怪達が吸い寄せられるように集まる妖気の吹き溜まりであり、それぞれの妖怪達が勝手に自分達の種族が暮らす集落を形成し、見えない国境線を幾つも引き合い、日々小競り合いを続けていた。

 そんな世界に、突如として黒い流星が落ちる。

 バラバラだった蝦夷を、負け犬の集合体であった蝦夷を、終わらない醜い争いによって自滅しようとしていた蝦夷を――その圧倒的な強さと器で以て、一つに纏める『王』が現れた。

 彼は、自らを――阿弖流為と名乗った。

 蝦夷の首長・阿弖流為――この星に降り立った、『本物の妖怪』であった。


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妖怪星人編――56 託されたモノ

託されたモノを――『未来』へと継ぐ、その為に。


 

「待て! 待ってくれ、阿弖流為(アテルイ)!」

 

 阿黒は己に遠ざかる背中を見せつける黒鬼に向かって怒鳴り声を上げた。

 

 この場には、既に黒鬼と赤鬼――蝦夷の両輪たる二大巨頭しかいない。

 

 そして、その両輪の片輪が――今、外れようとしていた。

 

――分かってくれよ、阿黒(あくろ)。もうこうするしかねぇんだ。

 

 いつものガハハという豪快な笑いではない、黒鬼が初めて浮かべる寂しげな笑みに、阿黒は下唇を噛み締めることしか出来ない。

 

 どうしてこうなったんだと、阿黒は俯く。

 

 英雄・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、確かに強かった。

 阿弖流為――大嶽丸(おおたけまる)と互角の戦いを演じた、この世界でただ一人の男。

 

 その戦いは熾烈を極めた――それでも、最後には互いの力を認め合い、握手を交わした筈だった。

 

 人間と妖怪。鬼と英雄。

 その垣根を超えた、『超越者』同士にしか分かり合えない何かを、二人は確かに繋ぎ合ったのだ。

 

 だが、世界は――否、『人間』は、そんな両者の友情を許さなかった。

 

「分かっているんだろ!! これは罠だ!! むざむざと赴いたら殺される! そんなことは分かり切っているだろう!!」

 

 田村麻呂は阿弖流為を征伐することはなく、そのまま手ぶらで平城京に帰還し、朝廷に進言した。

 

 自分と阿弖流為は友好を結んだ。蝦夷はもう――恐ろしき脅威ではないと。

 人間と、妖怪は――手を取り合うことが出来るのだと。

 

 だが、平城京はそれを受け容れず、脅威ではないというのならば、阿弖流為自ら単身で我らの前へと赴き、誓いを立てよと、そう通告した。

 

 敵の本拠地に、人間達の都に――たった一体で。

 戦わないというのならば大人しくその首を差し出せと、最早そう言っているに等しい傲岸不遜な命令に――だが、阿弖流為は。

 

――あぁ、そうかもな。だが、俺様が行かなくちゃ、田村麻呂が罰せられる。そうなればどうなるか……お前にも分かるだろ。

 

 黒鬼のその言葉に、阿黒は何も言えなかった。

 

 阿弖流為の――鬼の力を認め、剣先を向けるのではなく、素手を差し向けて握手をすることが出来る英雄。

 そんな存在は、もう二度と現れることはないだろう。あの田村麻呂でも駄目だったとなれば、平城京が打ち出す次なる一手は――決まっている。

 

 全面戦争。

 和睦も休戦も選択肢にない、人間と妖怪のどちらかが滅ぶまで終わらない戦争が始まる。

 

 そうなれば、阿弖流為という圧倒的な戦力がいる蝦夷でも、やがては人間の圧倒的な物量に呑み込まれるだろう。

 

 例え勝利しても、広がるのは無残な焼け野原と化した蝦夷であり、日ノ本だ。

 

 妖怪王国・蝦夷は――終焉を迎える。

 

 阿黒の――母の、夢の終わりだった。

 

――すまねぇな、阿黒。お前には、いつもいつも、本当に損な役回りばかりさせる。

 

 阿弖流為は、そう言いながら振り向いて、阿黒に、迷惑ついでにもう一つだけ、頼まれちゃあくれねぇかと、そう言いながら。

 

 小柄な赤鬼の頭に手を乗せて――()()を、託した。

 

「――――っっっ!!!!」

 

 全身に重すぎる何かが流れ込むのを感じる。

 体中を巡る血液が沸騰したかのように熱くなり、呼吸することすら難しくなる。

 

 何を――託されたのか。

 それを直感的に理解した阿黒は、何よりもまず――畏れ多さを感じた。

 

 だから、まるで泣き言を言うように、情けなく、膝を着いて、頭を垂れて。

 

「…………『器』じゃ……ない……っ」

 

 それは、かつて目指した筈のものだった。

 

 ずっと背中を見てきた、隣に立つのだと奮起して――終ぞ、一度も同じ目線に立てなかった。

 

 余りにも遠く、余りにも大きく、余りにも――重い。

 

「俺には………無理だ…………ッ!」

 

 ぽろぽろと、涙を流しながら言う阿黒に。

 

 阿弖流為は――否、今、その名を捨て、託そうとしている黒鬼は。

 

 手を差し伸べず、けれど笑って、己をただ一体、ずっと追いかけ続けた泣き虫の赤鬼に言う。

 

――俺達は失敗した。少し、急ぎ過ぎたんだろうさ。だが、お前が見せてくれた夢は、それはもう、綺麗だった。捨てるには、余りにも惜しい。

 

 だから、()()に託すんだと、黒鬼は、そう言って前を向き――死地へ赴く。

 

――()()は、負けだ。だが、負けるにも形ってもんがある。どうせ負けるなら俺様は、家族を巻き添えにするより、友の為に死にてぇ。

 

 負けるのは、死ぬのは、蝦夷の王の阿弖流為としてではなく、ただ一体の凶悪なる鬼神魔王――『大嶽丸』として。

 

 だから――頼むと。

 

 後は――頼むと。

 

――阿黒。お前はつえぇ。お前には俺様にはねぇ強さがある。ここまでこれたのは、全部お前のお陰だ。

 

 蝦夷を作ったのは、大嶽丸ではなく阿黒だと。

 

 だから――お前には、資格があると、そう憧れ続けた背中は言う。

 

 お前には、夢を見る資格があると――夢を継ぐ、資格があると。

 

――だからお前は、俺様には出来なかったことをしろ。

 

 大嶽丸には出来なかったことを――大嶽丸には、なれなかった『()()()()』になれと。

 

 そう言い遺し、余りにも重い『託されたもの』に身動き一つ出来ない阿黒を置いて、阿弖流為を脱ぎ捨てた一体の黒鬼は、人里へと下りて――平城京へと向かい。

 

 やがて――自分に体を巡っていた、託された『超常の力』が、ゆっくりと身体の奥底に封じられ、阿黒が再び顔を上げられるようになった、その頃には。

 

 

 全てが――終わっていた。

 

 

 大嶽丸は――友の為に、一体の鬼として最期を迎え。

 

 そして、変わった筈の蝦夷は、一つに纏まった筈の国は、瞬く間に再びバラバラに崩壊した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 何も出来なかった。

 

 大嶽丸は坂上田村麻呂と共に平城京へ赴き、案の定――『人間』に殺され、蝦夷の地に二度と足を踏み入れることはなかった。

 

 当然、蝦夷は『人間』への憎悪へ燃えた。

 すぐさまに報復へと向かおうとする彼等を、しかし、阿黒は止めなくてはならなかった。

 

 このまま『人間』との全面戦争へと突入すれば、大嶽丸が命を捨てて彼等を守ろうとした意味がなくなる。

 

 だから阿黒は、崖の上に立ち、いきり立つ彼らを見下ろしながら――吠えたのだ。

 

「勝手な真似をすることは許さねぇ!! お前らの憎しみ、怒り――悪感情の全てを、この俺が預かる!! 阿弖流為は――もういねえ!! 今日からは俺が――お前らの王だ!!」

 

 新しい阿弖流為だと、そう断言する勇気は、赤鬼にはなかった。

 お前の名から一文字もらうぞと、そう言ってくれた絆に縋ることも出来なかった。

 

 だから――赤鬼は、こう名乗ったのだ。

 

「我が名は――悪路王(あくろおう)!! お前らの悪を、全て俺に預けろ!! そうすれば、俺が進むべき路を創ってやる!!」

 

 そう言って、赤鬼は自分に従わないモノを殴り飛ばした。

 

 これしかやり方を知らなかった。

 ずっとこうしてきたから――力で持って、その場を平伏しようとしたのだ。

 

 しかし――これまで秩序の為だと、正しい形の為だと、数多くの身内を粛清してきた悪路王に。

 

 阿弖流為というカリスマを、大嶽丸という『器』を失った蝦夷の妖怪達は――悪路王のそんな恐怖政治に、従うことはなかった。

 

 悪路王の背中には、誰も付いてくることはなかった。

 

 結果、蝦夷はふたたびバラバラになった。

 身内同士で激情をぶつけ合い、それを止めようとした悪路王を嬲る時だけは、皮肉にも一致団結して一体の鬼を叩き潰した。

 

 徹底的に囲い討たれた悪路王は虫の息となり、再び動けるようになった頃には、内乱は既に収拾不可能な程に大きくなっていて。

 

「………………」

 

 悪路王は、それから目を逸らすように背を向けて、山中深くへと逃げるように潜っていった。

 

 こうして両輪が失われ、やがては潰し合うことすら出来ない程にボロボロになった蝦夷は、かつてのようにポツンポツンと見えない国境線を引いた集落が点在するだけの、只の僻地へと戻っていった。

 

 愛してくれた母の願いを叶えることも、託してくれた友の願いを叶えることも出来ず。

 

 涙すら枯れ果てた赤鬼は、失意のままに、ただ山の奥へと逃げ続けて、隠れ潜むことしか出来なかった。

 

 何年も――何十年も――だが、それでも。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 修行だけは――己の身体を痛め続けることだけは、続けていた。

 

 もう何もかもが遅いということは分かっている。

 自分は何も出来なった。失敗した。夢は破れ、誓いは果たせなかった。

 

 全ては過去のこと。何をしようと後の祭り――そんなことは、分かっている。

 

(――分かってるんだよ、そんなことは――――ッッッ!!!)

 

 巨木を拳で倒壊させ、荒い息を吐きながら、悪路王は心の中で叫ぶ。

 

 ずっと、ずっと、何年も何十年も、母と阿弖流為の言葉だけが己の中に響き続けていた。

 

――この子は『特別』よ。

 

――お前は、俺様に出来なかったことをしろ。

 

 だが、失敗した悪路王には、何もかも成し遂げられなかった悪路王には、その声を掻き消す手段がなくて。

 

「……俺に、どうしろと言うんだ……ッ」

 

 そう呟いて、再び俯いた悪路王の――そんな背中に。

 

「――もう一度、()()()()があると、そう言えば、どうします?」

 

 ここ百年以上も、己以外のどんな妖怪すら足を踏み入れなかった蝦夷の最奥に、聞こえる筈のない己以外の声が聞こえた。

 

「誰だっ!?」

 

 振り返り、そんな誰何の声をぶつけた悪路王が見たのは――謎の烏天狗(からすてんぐ)だった。

 

 少なくともかつての蝦夷にはいなかったと思われる、気配も掴めない、怪しい――妖怪。

 

 烏天狗は、恭しく頭を下げながら「お初にお目に掛かります。かつて蝦夷にてその名を轟かせた、『恐怖の赤鬼』――悪路王様」と、そう赤鬼の名を呼びながら。

 

「今宵はあなた様に、お伝えしたきことがあり、参上いたしました」

 

 そう妖しく――(いざな)誘い始める。

 

 突如として現れた、謎の烏は告げた。

 

 平城京は既に滅び――『人間』の都は平安京へと遷都したこと。

 しかし、政治の混乱も相次ぎ『人間』の勢力は衰え、それと反比例するように『妖怪』の勢力は増し続けて、いまや力関係は逆転しつつあるということ。

 

 そして――それを象徴するように。

 

 阿弖流為に次ぐ、新たなる妖怪王の器を持つ鬼が、日ノ本に――大江山という御山に現れたこと。

 

「名を――『酒吞童子(しゅてんどうじ)』。未だ幼い女鬼(めおに)ながら、その『力』と『器』は妖怪王足るに相応しい――『未完の大器』にございまする」

 

 新たなる『妖怪王の器』の出現。

 

 悪路王の母が夢見た蝦夷の統一。それを遥かに上回る――蝦夷どころか、日ノ本全土の妖怪勢力を、一つに纏め得る大器の登場。

 

「…………」

 

 それを聞いた時、悪路王の胸に宿ったもの。

 

 自分が成し遂げられなかった夢の実現。

 届かなかった理想への、新たなる希望の出現への歓喜――ではなく。

 

「………………ふざけるな…………ッ」

 

 どうしようもない――嫉妬心と、焦燥感だった。

 

「……ふざけるなよ…………ッ……俺が――阿弖流為が出来なかったことを、何処の誰とも知れぬ女鬼が成し遂げると? 笑わせるなッッ!!」

 

 駄目だ――()()()()()()()()

 

 誓ったのだ――俺は、あの日、託されたのだ。

 

――お前は、俺様に出来なかったことをしろ。

 

(……そうだ。俺は、阿弖流為にならなくてはならない。……妖怪を一つに纏め上げるのは――()()()()()()()()()()()()()()()……ッ)

 

 もし、新たな妖怪王が――阿弖流為ではない妖怪王が誕生してしまったら。

 

 そう考えて、焦燥感に呑み込まれそうになっている悪路王を見て。

 

 一羽の烏が醜悪なる笑みを浮かべていることにも気付かずに、赤鬼は言う。

 

「……『妖怪王』は、そんなぽっと出の小娘にくれてやれるような、安い椅子ではない……ッ」

「だからこそ、私はこの蝦夷まで参ったのでございます」

 

 烏天狗は語る。

 

 先日、妖怪王の器たる酒吞童子率いる大江山と、人間達の新たなる都である平安京が激突する大戦があったと。

 

 結果は、大江山の敗北。

 酒吞童子は生き残ったものの、多くの有力な鬼を失い――今、大江山は一体でも多くの強い鬼を欲していると。

 

 そして、漆黒色の烏は、赤鬼を闇から引き摺り出すように――あるいは、更なる闇へと突き落とすように、告げる。

 

「――これより数年後、再び『人間』と『妖怪』の、それもこれまでで最も大きな、正しく雌雄を決する戦い――大戦争が勃発します」

 

 そして、その戦いを制したモノこそが、日ノ本の新たなる支配者となるであろうと。

 

「『妖怪王』――その誕生の瞬間となるでしょう」

 

 悪路王は、その言葉に。

 

 真っ直ぐに、その灼眼を、己を見透かす烏天狗へと向ける。

 

「……お前は一体何者だ? 何故、そんなことを知っている?」

 

 赤鬼の殺気交じりの言葉に、烏天狗は恭しく頭を下げながら言う。

 

「私は何も知りませぬ。私が望むのは――恒久的な平和、ただ一つ」

 

 日ノ本に平穏が訪れるならば、それを収めるのが人間であろうと妖怪であろうと構わない。天皇であろうと妖怪王であろうと問題はない。

 

「重要なのは――『形』と、『器』です」

 

 故に、優秀なる『王』の候補は、一つでも多い方がいいと、烏天狗は言う。

 

「……なるほど。舞台には乗せてやる。だが、そっから先は自分でやれと、そういうことか」

「その通りでございます」

 

 なるほど、恐怖の赤鬼も甘く見られたものだ――と嘯き、さもありなんと頷く。

 

 これまでの体たらくを思えば、これでも十分過ぎるというものだろう。役者として最後まで忘れ去られていても、何も文句は言えない有様だ。

 

 幾度となく失敗し、何度も何度も夢破れて、挙句の果てには拗ねたように山奥に引き籠り、世捨て鬼を気取りながらも――未練だけは、いつまでも無様に残し続けていた。

 

 最後の機会を与えられて、むしろ感謝すべきなのだろう。

 

 ここで立ち上がることをさえしなければ――自分は、何の為に生まれてきたのか。

 

――この子は『特別』よ。

 

(――俺は『特別』ではなかった)

 

――この子はきっと、世界を平和にする為に生まれてきたのよ。

 

(――俺は、そのような『器』ではなかった)

 

 悪路王は、百年以上も燻り続けた――己が心に、再び火を灯し。

 

 今、再び――前を向いた。

 

「――いいだろう。お前の口車に乗ってやろうとも」

 

 それが何よりも怪しい存在の筋書き通りの舞台だとしても。

 

(――それでも、俺は――)

 

 例え身の丈に合っていなくても、相応しくなくても、どれだけ重くて堪らなくても。

 

 叶えなくてはならない願いを叶えることが出来ず、背負った期待をことごとく裏切ってきた敗北者の悪足搔きなのだとしても。

 

 それでも――託された『炎』は、こんな山奥で、こんな負け鬼のちっぽけな手の中で消してはいけないものだから。

 

「妖怪と人間の大戦争――『王』が生まれるというその場所に、阿弖流為がいないなどありえない」

 

 世界が変わるというのなら、未来が生まれるというのなら――そこに、この炎をくべなくてはならない。

 

(だから――終われない。俺はまだ――終わることは許されない)

 

 そして、悪路王は、かつて――死地へと向かった、あの黒鬼のように。

 

 山を下り、蝦夷を出て――単身、大江山を訪れ、瞬く間に四天王となった。

 

 目的は、ただ一つ。

 

 かつて託されたモノを――『未来』へと継ぐ、その為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それが俗に言う走馬灯だと、悪路王は理解した。

 

 体感にして一瞬――己が生涯を振り返り、赤鬼は笑う。

 

 何と惨めな物語だろうか。

 敗北に敗北を重ね、無様の上に無様を塗りたくって――背負ったモノの重さに潰れ、託されたモノは何一つとして果たせていない。

 

 だが――それでも、まだだ。

 

 まだ、終わるわけにはいかない。まだ、消すわけにはいかない。

 

「――まだだ!!」

 

 悪路王は、拳を燃やす。

 

 煌々と燃える右拳は、やがて炎を圧縮し――まるで太陽のように光り輝く。

 

「こんなもんじゃねぇ……あの背中は、あの光は、こんなもんじゃねぇ!!」

 

 全身を燃やして、瞳の中にすら炎を燃やして。

 

 悪路王は、叫ぶ。

 

「阿弖流為は――終わらせねぇ!!!!」

 

 その――蝋燭の末期のように、目を潰さんばかりに強く輝く鬼に。

 

 坂田金時は――冷たく、哀れむように言う。

 

「……お前の大切なモノ達は、こんなことを――()()に望んだのか?」

 

 その言葉は、微かに――真っ赤に燃える鬼に届いた。

 

(……そうだ。『母』は、いつも、あの言葉の後にこう続けていた)

 

――どうか、あなたが大きくなった時、『未来』が美しいものでありますように。

 

(……そうだ。『頭』は、あの時、確かにこう言っていた筈だ)

 

――俺達は失敗した。だから、後は『未来』に託すんだ。

 

 そうだ――託したのは、()()()()()()と、悪路王は、この期に及んで、ようやく思い至る。

 

 彼等が、託したのは――。

 

(――どうやら、ようやく、軽くなったようだな)

 

 その鬼の表情の変化は、燃え盛る炎の中でも、はっきりと金時は見ることが出来た。

 

 赤鬼は、ずっと泣いていた。

 

 背負ったモノの重さに――ずっと悲鳴を上げていた。

 

 その姿がずっと――何処かの誰かのようで、鏡を見ているようにで、ずっと気に食わなかった。

 

 坂田金時(オレ)は、ずっと、こんな顔をしているのだろうか――と。

 

(――違う)

 

 違うと、金時はそう断言する。まるで己にそう言い聞かせるように。

 

――『英雄』に、なりなさい。

 

(――違う。違う。俺は、囚われているんじゃない。俺は――)

 

 呪われて――いるんじゃない。

 

 託された願いに、望まれた理想に――呪われているんじゃない。

 

「――違う」

 

 そう小さく、だがはっきりと、口に出して断じる。

 

「俺は――自分(テメェ)で、英雄になると誓ったんだ!!」

 

 自分の意思で、自分の心で、自分で選んで――決めたんだ。

 

 無辜なる民を、信じてくれた人を、受け容れてくれた場所を――自分(テメェ)で守る、その為に。

 

 そう断じ、金時は、振りかぶった鉞を――地面へと突き刺して。

 

 龍の拳の右ではなく、左――人間の拳に。

 

 込められるだけの、父なる赤龍に与えられた赤雷ではなく、己が呪力を変質して生み出した、己の全部を――黄金の雷として込めて。

 

「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

「おぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 そして――炎と雷、鬼と人間、二色の拳が激突した。

 

 託したもの、背負ったもの。

 

 その全てを、小さな拳に、存分に込めて。

 




用語解説コーナー56

阿黒(あくろ)

 蝦夷に生まれた、ほんの少し特別で、けれど、とても凡庸であった赤鬼。

 特別な出自ではない、何処でも居る只の鬼――で、ある筈だった。

 この子は『特別』よ――そんな言葉を、母から託されることさえなければ。
 俺に出来なかったことをしろ――そんな言葉を、頭から託されることさえなければ。

 小柄な鬼は、その小さな身体に、身の丈に合わない、重過ぎるモノを託されていた。

 自分はそんな『器』ではないと、ずっと悲鳴を上げながら、赤鬼は泣いていた。

 それでも、それを下ろすことだけは、百年以上経っても、終ぞ――出来なくて。

 だって、それは、この世界で最も大切な存在達から託された――とても大切なモノだったから。


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妖怪星人編――57 月へ手を届かせた男

妖怪よりよっぽど――『化物』ではないか。


 

 鞍馬天狗を下し、障害を取り除いた後の空の旅は快調に進み――それから間もなくして、無事、彼等は目的地に辿り着く。

 

「…………来たか」

 

 青き龍が高度を落として着陸してくるのを、隻腕の鬼が見上げる中――藤原道長(ふじわらのみちなが)藤原公任(ふじわらのきんとう)、そしてぬらりひょんとその息子を筆頭とする百鬼夜行ご一行は。

 

 赤き月へと伸びる巨大なる『手』の根元――土御門邸跡地たる『黒炎上跡』へと到着した。

 

「おお! 遠くから見てもデカかったが、近くで見るとこれはこれで壮観じゃのぉ!」

 

 誰よりも早く、子供のように龍の背中から降りたのは漆黒の髪に全身を包まれた怪しい妖怪だった。

 溜息を吐きながらも、一早くその男に続いたのは長身の犬頭の男。それに張り合うように続いたのはつい先程まで敵だった筈の赤面長鼻の天狗だった。

 

 隻腕の鬼は、そんな見ず知らずの妖怪達――内一体は偶に主の元を訪れた時に顔を合わせることはあったが――の奇行を一瞥するだけで放置し、彼等のようにはしゃぐこともせず、ゆっくりと、その気品に恥じない優雅さで龍の背中から降りてきた貴族の男を出迎える。

 

「予定より遅いな。藤原道長」

 

 ぶっきらぼうにそう言い放つ鬼に、この国の権力の頂に立つ人間の男は、いつもの無表情の上に、ほんの少しの笑顔を携えながら答える。

 

「待たせてしまって申し訳ない、『勾陳(こうちん)』――いや、茨木童子(いばらきどうじ)。少々、空が混んでいてな」

 

 道長に続いて龍を降りた公任は、長年に渡り傍に侍った幼馴染として、道長がいつになく上機嫌なことに気付く。

 

(……無理もないか。道長にとっては、正しく念願の瞬間だ)

 

 公任は初めて見る伝説の鬼――茨木童子を目に前にして感じる少なくない恐怖心を誤魔化すように目を逸らして――その巨大な『手』を見上げる。

 

 遥かなる月、天に浮かぶ赤き月まで伸びて――そして、届いたという、その『手』に。

 

 圧倒され、絶句し――そして、高揚する。

 

 遂に、道長の――『人間』の手は、遥か彼方たる『月』の元にまで、届いたのだ。

 

「――それで? 言われた通り、あんたをこの『手』の元まで送り届けたわけだが……儀式とやらは道中に無事に済ませたのか?」

 

 そんな鬼と人間達の会話を見下ろすように――最後まで龍の背中に残っていた、黒と桜の斑髪の半妖とその仲間達は。

 

 安倍晴明(あべのせいめい)から、そして藤原道長から、この空の旅における太政大臣の護衛を任じられた若き妖怪の卵達は。

 

 一斉に龍の背を飛び降りて、まっすぐに彼等の元に歩を進める。

 

 その表情が硬いのは、肝心なその任務を、自分達の力だけで成し遂げることが出来なかったという自覚があるからだろう。

 親世代――百鬼夜行の幹部達の手助けがなければ、彼等だけでは鞍馬天狗を打倒することが出来なかった。

 

 だが、道長は、そんな暗い表情の若き妖怪達を労うように「――無論だ」と太鼓判を押す。

 

「よくやってくれた、若者達よ。君達のお陰で、私はこうして無事に、『回廊』の入口へと辿り着くことが出来た」

 

 そして――と、道長は。

 

 赤き月を、そこに向かって伸びる『手』を見上げて――己が手も、その『手』に重ねるように、真っすぐに、月へと伸ばす。

 

「――ここに、『儀式』は完了した」

 

 瞬間――道長の言葉に、呼応するように。

 

 彼等をこの『黒炎上跡』まで運んだ――『青龍』が、咆哮した。

 

「LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!」

 

 それは、正に『高位存在』たる――『龍』の大いなる力。

 

 初めから事情を把握していた茨木童子、そしてぬらりひょんが目を細め。

 

 犬神、鞍馬、白夜、長谷川といった、歴戦の百鬼夜行の幹部妖怪達が全力で警戒を露わにし。

 

 何も知らされていない公任が、そして鴨桜ら青き卵達が、何も考えられず圧倒される中。

 

 天に向かって嘶く『青龍』の身体が――突如として、『黄金』に発光し。

 

 そして、『赤き月』に向かって伸びる『手』も、同じく『黄金』に輝き出した。

 

「――――これは」

 

 漆黒の闇に包まれ、鮮血に染められる平安京の中で、ただ一ヶ所、この世のものとは思えない、美しく輝く――その『手』に。

 

 誰もが呆然と見惚れる中――淡々と、道長は語る。

 

「――『龍脈』と、呼ばれるものがある。それはこの日ノ本に張り巡らされる、『星の力』が流れる血管のようなものだ」

 

 当然、その脈の太さは一定ではない。

 多くの力が流れる『(スポット)』はこの国の至る場所に点在し、その場所付近には特別な現象が発生することがある。

 

 よって、長い歴史の中で、自然とその『点』周辺には、有名な寺社が建立されたり、祀られたり、信仰を得たり――いわゆる、『パワースポット』と化すのだが――。

 

 道長と晴明は、それを――その『龍脈』に流れる『星の力』を、『人』の手で操ろうと試みた。

 

「『星』には、『意思』がある。自身の危機を感じた時、『星』は『世界』に干渉する」

 

 安倍晴明は、藤原道長にかつて語った。

 

 母なる『星』には『意思』があると。

 己に危機が迫った時――外なる襲来者たる『外来種』に脅かされた時、己を守るべく『星』の力を行使することがあるのだと。

 

 正しく、外なる星からの襲来者たる『外来種(妖怪)』に対抗し、『星の力を与えられた戦士』たる『安倍晴明(英雄)』が創り(生み)出されたように――と。

 

 だからこそ、あの男は、己が主の荒唐無稽たる野望に対し。

 

 月へと手を届かせる――そんな無理難題たる馬鹿な夢を叶えるべく、こんな奇策を、有り得ない『計画(プラン)』を提言した。

 

 それは――つまり。

 

「『星の力』を高める為に、意図的に『外来種』を――『()()()()()()()。徹底的に『人間』を――『在来種』を、つまりは『星』を追い詰める為に」

 

 日ノ本を――『人間』を滅ぼし得る『妖怪勢力』を作り、それを人間達の最終要塞たる平安京で激突させる。

 それにより、平安京を流れる『星の力』――つまりは『龍脈』を極限まで活性化させて、史上最大規模の『儀式場』を作り出す。

 

「こうして『場』と『エネルギー』を用意した後は、『チート』――安倍晴明の出番だ。必要な材料を揃えた上で、前代未聞たる『月へと手を伸ばす術』を完成させる」

 

 空前の『(スポット)』と化した平安京――その中でも特に強力な二つの『点』を結び、『滑走路』と化し。

 

 そこを最も『星の力』と相性がいい『高位存在』たる『龍』を渡らせることで、妖怪大戦争という未曽有の『危機(バフ)』により最大に活性化している『星の力』を『蒐集』させ。

 

 集めた『星の力』によって『手』を――『回廊』へと覚醒させ、月へと渡る『道』を作った。

 

「以上で、『儀式』は完了した。後は――」

 

 遂に完成した、この黄金に輝く『回廊』を通り――『月』へと辿り着く。それだけだ。

 

 道長は、その言葉と共に、一枚の術符を無造作に放る。

 

 それは『青龍』と共に晴明から託された、もう一体の『十二神将』。

 

「…………『天空(てんくう)』」

 

 呟いたのは、道長の語る言葉の殆どの意味を理解出来ず、ただ呆然と事態に流されていた公任だった。

 

 安倍晴明が十二神将の、文字通りの一角。

 霧や黄砂、雷を呼ぶとされる、美しき一角を携える青白き天翔る馬――『天空』。

 

 現れたそれに恐れることなく跨りながら、道長は言う。

 

「皆のもの、大儀であった。我はこれより『月』へと赴く。君達はこれよりは思うがまま好きにし、この妖怪大戦争を生き延びてくれ」

 

 天馬の上からの道長の言葉に、ぬらりひょんは「……ほお」と目を細めて、にやりと笑いながら。

 

「それはつまり、儂等はお主らの『計画』に付き合う必要はないということか?」

 

 妖怪大将がそう繰り出す言葉に、頂に立つ人間は「無論だ」と端的に答えながら、無表情のその顔に、やはり小さく笑みを作り出しながら言う。

 

「今宵、お主は欲するものに手を届かせる。それを掴み取るか、掴み損ねるかは、お主次第だ――晴明からの言葉を、お主に伝えよう。ぬらりひょん」

 

 道長の笑みに――ぬらりひょんもまた、笑みを向ける。

 好戦的な笑みと、そして鋭い何かのぶつけ合いに、張り詰めた空気が流れる中――道長は茨木童子に向けて「そうだ、お主にもまた、晴明から言付けを頼まれていたのだった」と。

 

 藤原道長は、茨木童子に向けて、何とはなしに言う。

 

「『勾陳――否、茨木童子よ』」

 

 その託された言葉に――茨木童子は、その目を見開く。

 

「『お主も――()()()()()()()』」

 

 まるで、全てを見透かすような、その白き陰陽師からの言の葉と共に。

 

 茨木童子を縛り付けていた――『式神』たる拘束が解き放たれて。

 

 十年ぶりに――『茨木童子』は、『自由』となる。

 

「――――――っ!?」

 

 今、起きたことを――正確に理解出来たものは、恐らくは茨木童子以外にいないだろう。

 

 道長からの晴明の言葉は、あくまでぬらりひょんらに言ったものと同じように、自由行動の許可という意味として受け取られる筈だ。

 

 もしかしたら道長は晴明から聞かされていたのかもしれないが――他者経由の言付けという形ですら、十二神将という強大極まる式神を解放することが出来るなど、まさか想像出来る筈もないが――その言の葉の重さは、恐らくは茨木童子にしか分からない。

 

(――本当に、全てを見透かした……化物のような『人間』だ)

 

 茨木童子は、十年ぶりに自由となった身体――『式神』ではない己の身体を確かめるように、グッと、己に最後に残された隻腕の拳を握る。

 

「おい――藤原道長」

 

 そして、青白く輝く馬を翻し、『回廊』へと向かおうとした男の背中に、鴨桜は声を掛けて。

 

「――『誓い』を、忘れるなよ」

 

――藤原道長! 俺はテメェが気に食わねぇ!!

 

 距離は離れながらも、あの時と同じようにドスを真っ白な切っ先を突き付けながら、真っ直ぐに斑髪の青年は頂たる人間を見据える。

 

――テメェで始めた戦争だ。全部、テメェが何とかしろ

 

――誓え。お前の命に代えても、この平安京を滅ぼさねぇと。それを果たさなければ、俺は例え月まで追いかけてでもテメェを連れ戻す。

 

 首だけで振り返りながら、道長は吐き返された唾に応える。

 

 いつものように――「無論だ」、と。

 

「誓おう。私は必ず、この平安京に帰ってくる」

 

 戦争を起こした張本人が言うには、余りにも白々しい言葉を堂々と放つ、その姿に。

 

 鴨桜は――本当に、と、白刃を仕舞う。

 

「……………クソが」

 

 本当に、自分は何も知らなかった。自分は――余りにも子供だった。

 

 本当に――この世界は、どこもかしこも――化物だらけだ。

 

 そう口を閉じて、無意識に俯く鴨桜の背中を、父たるぬらりひょんと、相棒たる士弦だけが見遣る中で、既に前を向いていた道長は。

 

「では、行こうか、公任よ。我らが夢の地へとな」

「え、あ――お、俺も? 『天空』の背中に乗せてくれるのか?」

 

 急に声を掛けられて戸惑う公任のそんな言葉に、道長は、無論だ――と、肯定はせずに、「何を言う」と、笑みを向ける。

 

「今こそ、お主の()()()()()()だ。何の為に――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 その言葉と共に、()()()、と、公任の身体の奥深くが脈打つ。

 

 藤原公任の中に宿る『それ』が、目覚めの時に歓喜して暴れ出す。

 

「この回廊は安倍晴明の『術』だ。この中を通ることが出来るのは、晴明が術の対象とした『藤原道長()』と、同じく晴明の呪力の宿った――『式神』だけだ」

 

 道長のそんな言葉の最中にも、どくん、どくんと公任の中のそれの脈は強くなっていく。

 

 かつて道長の危機を救う為にしたこの禁じられた契約も――()()()()()()と、そう『計画』で決まっていたことだという道長に、公任は――獰猛に笑う。

 

 その牙を覗かせて、心の底から――歓喜して。

 

「――この、()()()

()()()()()()()。『十二神将』――『白虎』よ」

 

 うぉぉおおおおおおおおおおおお――と、藤原公任は天に向かって咆哮する。

 

 大陸から伝わった物語に――『人虎伝(じんこでん)』というものがある。

 傲慢なる男が、人を疎んだ果てに病に侵され正気を失い――虎に成り果てる物語。

 

 その伝説を再現するように、一人の男は――白き虎へと姿を変えた。

 

 ぬらりひょんが、鴨桜が、茨木童子が瞠目する。

 同じく『十二神将』だった隻腕の鬼も、『白虎』の正体を知ったのは今宵が初めてであった。

 

 その正体が『人間』の――それも藤原道長に最も近き友人であったことに。

 

 名立たる妖怪達は――揃って、恐怖する。

 

 これが――『人間』。

 日ノ本を支配する『在来種』。これまで数多の『外来種』を駆逐してきた暫定勝者。

 

 その頂たる『人間』は、天翔る馬に乗り、(おお)きな白き虎を引き連れ――『月』へと旅立つ。

 

「では――さらばだ、妖怪諸君」

 

 そう言い残し、道長は『天空』を翔けさせる。

 

 黄金に輝く『手』――『回廊』の中に、畏れもせずに飛び込んでいく。

 

 一際強い光を放つと、次の瞬間には――その姿を消失させていた。

 

 黄金に輝く『青龍』は巻物へと戻り、やはり発光しながら消失して――『黒炎上跡』に残ったのは。

 

 全てを『人間』の『手』で踊らされた、立ち尽くす妖怪達のみで。

 

「…………ふっ。『人間』か」

 

 妖怪(儂ら)よりよっぽど――『化物』ではないか。

 

 そう言って、誰よりも『人間』を知る妖怪――ぬらりひょんは、吐き捨て。

 

 しばし、沈黙が降りた後、「……では、儂らも奴の言う通り、好きにさせてもらおうかの」と呟き。

 

「戦争は――まだ終わっておらぬ」

 

 己が息子に向かって「鴨桜――お主はどうするつもりじゃ?」と問い掛ける。

 

 鴨桜は、無意識に俯いていた頭を上げて、「――決まってんだろ」と、そう、己に言い聞かせるように、強く言う。

 

「――平太達だ。アイツ等を――『家族』を守る。それが、俺の『戦争(やるべきこと)』だ」

 

 その息子の言葉に、ぬらりひょんは「……その通りじゃな」と、笑みを向けて言う。

 

「日ノ本だの星だのは、そういうのが好きな奴等に任せておけばよい。儂らは底辺妖怪(わしら)らしく、儂らの世界を守る為に戦えばよいのじゃ」

 

 ぬらりひょんはそう言って、噛み締める様に煙管(キセル)を咥える。

 道長や晴明のように巻物から出現させたりしない。合図を送ったわけでもない。

 

 だが、声なき求めに応じるように――格好つける総大将の元に、百鬼夜行の仲間である一反木綿(いったんもめん)がどこからともなく現れた。

 

「龍の背中も悪くなかったが、儂はやっぱりお主の上の方が座り心地がよいわい」

 

 そう言ってひょいっと胡坐を掻いたまま飛び乗ると、続いて長谷川と白夜が乗り、「新たに家族となった鞍馬じゃ。仲良うせい」と、犬神と共に己の横を飛ぶ天狗を紹介すると。

 

 息子に向かって、ぬらりひょんは手を伸ばす。

 

「――乗れ。平太達の居場所は、護衛させておる儂の百鬼夜行(かぞく)から届いておる。お前の家族ならば儂の家族じゃ。共に守ろうではないか――のう、『二代目(むすこ)』よ」

 

 鴨桜は父のそんな言葉に、露骨に顔を顰めながらも。

 

「――ああ。力を貸してくれ、『総大将(オヤジ)』」

 

 そう言いながら、その手を取り、一反木綿の背中へと飛び乗った。

 

 長谷川と白夜は目を合わせ、月夜と雪菜は驚きを共有して目を見開き。

 

 犬神は微笑み、鞍馬は表情を変えず――そして、士弦は。

 

「…………」

 

 何も言わず、ただその背中を見続けながら、次いで一反木綿の上に乗った月夜と雪菜の後に続いた。

 

「――それじゃあ、儂らは先に行かせてもらうが、お主はどうする?」

 

 行き先が特にないなら、儂らと一緒に来るか――と、一反木綿の上から投げ掛けたぬらりひょんの言葉に。

 

「……いや、生憎だが俺には俺の――『戦争(やるべきこと)』がある」

 

 ずっと前から、ずっと、ずっと――その為に生きてきたと、そう語らんばかりの、茨木童子の眼に。

 

「……そうか。無粋じゃったの」

 

 幸運を祈るぞ、お前もなと、ただそれだけを言い交わして。

 

 一反木綿は『黒炎上跡』を後にし――やがて、『手』の黄金の発光が終わると。

 

 月へと伸ばされた巨大なる『手』は、まるで幻のように、その姿を消失させた。

 

「――役目を終えたか」

 

 ならば、いい加減に返してもらおう――そう言って、茨木童子は、黒炎上跡の地面に向かって、鋭く深く、拳を振るう。

 

 舞い上がる黒く焦げた土――その中、かつて土御門邸があった、その地の深く――巨大な手の『根元』から。

 

 太く、逞しい――巨きな鬼の、『右腕』が出土した。

 

「――十年ぶりだな」

 

 十年前、茨木童子は安倍晴明に『式神』にされ。

 十年前、茨木童子は渡辺綱に『右腕』を切断された。

 

 十年――長いようで長く、まるで永劫のように永い時間であったが。

 

「ようやくだ――やっと、この時が来た」

 

 長く苦しい永劫の果てに、『式神』の楔から解放され、『右腕』を取り戻した最強の赤鬼は。

 

「――待っていてくれ、酒吞(しゅてん)。あと、もう少しなんだ」

 

 手に入れた自由と、取り戻した右腕を持って。

 

 ずっと、ただ、その為に生きてきた――己が悲願を、果たすべく、己の戦場に向かって歩き出す。

 




用語解説コーナー57

・月へと手を届かせる方法

①『星』の危機感を煽る為、『在来種』たる『人間』を滅ぼし得るまでに『妖怪勢力』を強化する。
 妖怪側に『人間』の息がかかった幹部を送り込んだり、人間の負の感情を膨れ上がらせて妖怪の糧となる『畏れ』の感情を提供したり、秘密裏に妖怪側との外交官を用意したりしていた。

②『人間』の滅亡の危機クラスの大戦争を平安京を舞台に引き起こさせる。

③これにより最大級に強化された『星の力』を、『龍』を使って蒐集し、材料を確保する。

④平安京を儀式場として展開した術式の基点たる『手』の元に、龍を使って蒐集した『星の力』を届けて、起動する。

⑤これにより、月にまで届く『手』の形をした『回廊』が完成。

 ざっくり書くとこんな感じです。
 無論、細かい軌道修正やら仕掛けなどもあるのですが、大体はこれが『計画』の大筋です。

 こうして道長は、無事に月へと辿り着くことが出来ました。

 しかし、彼の野望は、『月』に辿り着く――それ自体では、無論、なく。

 彼が求めた『月』――それを手に入れられるかどうかは、まだ、これからで。

 藤原道長の『戦争(たたかい)』は――これからです。


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妖怪星人編――58 天を邪する鬼

天すらも利用し、邪するような、そんな鬼となってみせよ。


 

 巨大な鬼が、暴れ狂う。

 

 その鬼に、もはや命はない。生はない。――首も、ない。

 

 既に――完膚なきまでに、死んでいる。

 造られた命は消えど――それでも、創られた身体は、未だ動き続ける。

 

 動き続け、藻搔き続け――暴れ続ける。

 

「――悲しいな」

 

 そう哀れみながら振るわれた鎌は、首無鬼の片足を勢い良く刈り取った。

 バランスを崩した鬼は、受け身を取ることもせず、そのまま無様に倒れ伏せる。

 

「死んでいるなら、大人しく死ね」

 

 そして、倒れた鬼の手の甲を目掛けて、家屋の屋根に立つ男の弓から矢が放たれる。

 

 一度の射で数本の矢を同時に射出した男は、寸分狂わず狙い通りに、鬼の両手を地に縫い付けることに成功した――が。

 

 死んでいる鬼は、首も命も何もかも失っている鬼は――それでも、未だそれを認められないかのように。

 

 縫われた手を、手の甲が引き裂かれることにも構わずに、無理矢理に振るい、拘束を吹き飛ばし、矢を射た男を家屋ごと吹き飛ばすように、その丸太のような拳を振るう。

 

 絡繰鬼・鎧将(がいしょう)は、命も首も失おうとも――ただ与えられた妖力と指令のままに動き続ける。

 

 ()()()と、ただ一つの命に従い、もう失くした筈の命を往生際悪く燃やし続ける。

 

「強さは大したことはない――だが、放置も出来ない」

 

 鎌を構える武者――頼光四天王が一人・碓井貞光(うすいただみつ)は、そう呟く。

 

 確かに巨大で強大だ――が、言ってしまえば、それだけだ。

 特殊な術を使うわけでもない、ただ巨体頼りの力任せの攻撃。

 

 皮膚も硬いわけではない。こちらの攻撃に対し防御も回避も取らない。

 ただ暴れ狂うだけ――しかし、この場においては、それが何よりも厄介だ。

 

「こちらを狙ってくるわけではない。だからこそ、注意を引くことも出来ない。この鬼を一秒でも放置すれば、京にも、民にも、無残な被害が生まれる。分かっていますとも」

 

 しゅたっと貞光の傍に着地した、弓を背負う武者――同じく頼光四天王が一人・卜部季武(うらべすえたけ)は、そう言の葉を紡ぎながらも、並行して矢を、こちらに背を向ける鬼の肩へと打ち込むが、鬼は体勢をややよろけさせるだけで、振り返りもせず、また暴れることを止めるわけでもなかった。

 

「ああ、分かっている。――奴もまた、それを分かっているのだろうさ」

 

 貞光は一度だけ背後を見る。

 

 そこには、黒い小さな雲の上で胡坐を掻く黒布で顔を覆う妖怪と――その背に手を突っ込みながら、強烈な雷を浴び続ける隻腕の青鬼が居た。

 

 ()()を止めなくてはならない。

 だが、その為に、その前に――この死んでいる鬼を、暴れ回る鬼をこそ、止めなくてはならないということを。

 

 分かっている――『人』も、『鬼』も。

 

 ならば――こそ。

 

「迅速にあの巨大鬼を止めるぞ」

「それも、分かっていますよ。死んでいる鬼を、更に殺せっていうんでしょう」

 

 そうだ――と、言いながら、貞光は駆け出す。

 

 彼らは頼光四天王――妖怪退治のスペシャリスト。

 常識が通用しない怪物を退治し続けてきた武者達だ。

 

 死んでいる鬼を殺す――そんな矛盾も、これまで何度も成し遂げてきた。

 

 己を援護するように後ろから放たれる矢の雨を一顧だにせず――ただ、目の前で平安京を破壊せんと暴れる、既に死んでいる鬼を、鎌を持つ武者は見遣る。

 

(あの巨大鬼は、先程までは天邪鬼が操作する形で動かしていたんだろう。それを、天邪鬼は、自動操縦にした――恐らくは『暴れろ』と、そう単純な継続指令を送り込む形で。だからヤツはただ暴れることしか出来ない。問題は――その動力源だ)

 

 一直線に巨大鬼に向かって駆けていく鎌を持つ武者の背中を見詰めつつ、弓に次弾を番えながら――振り上げた鬼の拳に向かってそれを放つ武者は、冷たく静かに目を細める。

 

(己の中に動力源を持つ鬼でないなら、天邪鬼が操縦権を手放す際に予め妖力を注ぎ込んだって所か。前者なら動力源の破壊、後者なら妖力(燃料)切れを起こすまで攻撃を避け続けるなどでやり過ごすのが定石。だが、今求められているのは、対象の一刻も早い無力化だ)

 

 前者か後者か、慎重に見極めている時間もない。

 ならば、実行すべきは――第三の選択肢。

 

 どこに動力源を隠していようと、どれだけの妖力を与えられていようと、関係ない。

 

「「跡形もなく破壊する――それが一番手っ取り早い」」

 

 金時、頼光、綱――雷を、炎を操る彼等がここに居れば、話は早かったのだが、生憎、この場に立つのは貞光と季武だけだった。

 

 怪物のような仲間達の中で、ただ愚直に、何の超常現象も引き起こせない武具を振るうことしか出来ない――只の人間しか、此処には居ない。

 

 残されたもう一本の足も切断しながら貞光は苦笑するが――それでも、何の問題もないと、そう鎌を強く握る。

 

 先程よりも強い呪力を込めた矢で、鬼の右の手を吹き飛ばす矢を放った季武は、ちらりと一瞬、背後を見遣る。

 

(僕の矢と貞光さんの鎌でも、この鬼を木端微塵にすることは出来る。けれど、金時や綱さんや頼光様と違って、一撃では無理だ。どうしてもそれなりに時間はかかってしまう)

 

 数分か、数十秒か。

 後は、間に合うかどうかという話だ。

 

 あの青鬼と、雷様――その戦いの、決着までに。

 

(――考えている時間はない。僕等に出来ることは、一秒でも一瞬でも早く――ッッ!!)

 

 両足を失い、片手を失っても尚、頭部と命を失っている鬼は、それでも藻掻くように暴れ続ける。

 

「――――ッ!」

 

 そんな哀れな姿に、思わず下唇を噛み締めながら――呪力を込めて、季武は再び矢を放った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 まるで、鬼を灼き殺す太陽の中であるかのようだった。

 

 眩い光が眼球を貫き、迸る熱が全身を痺れさせる。

 

 正に天の怒りが如き力の奔流。

 

 これが、この国で最も強固な結界――安倍晴明が渾身の、この国で最も貴き血を守る為に張られた清涼院の結界をも打ち破った力。

 

 雷神・菅原道真(すがわらのみちざね)(いかずち)

 

 此処に居るのは力が大幅に制限された影法師――それも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()であるとはいえ、それでも、少しでも気を抜けば、この全身を包み込む激痛に意識を奪われ、存在そのものを消されてしまうことが分かる。

 

 それでも――と、隻腕の青鬼は、絡繰を纏ったその腕に力を込めて、道真の『核』を握り続け、己の妖力を流し続ける。

 

『――何故だ?』

 

 雷の奔流の中で、必死に繋ぎ止める己が意識に、微かにそんな声が届く。

 

『何故、お前はそこまで必死になっている? 何故、お前はそんなにも――我が力を欲するのだ?』

 

 それは単純な知的好奇心を満たす為の問いであるかのような響きを纏っていた言の葉だった。

 気になったから聞いた。知りたいから尋ねた。そんな、菅原道真という人間の本能のような問い掛け。

 

 だからこそ、天邪鬼は、何の疑問もなく、己も尋ねた――己に、尋ねた。

 

 何故――何故だ。

 

(――何故、私は――)

 

 こんなにも必死に――『何か』に尽くそうとしているのか。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――今日から、お前は『鬼』だ。

 

 そう、純白の陰陽師は言った。

 

 己の両隣には、二羽の烏が居た。

 

 白い男の言葉によって、『(さとり)』、『烏天狗(からすてんぐ)』にそれぞれ変貌した彼等は、片膝と片拳を地に着いて、頭を垂れて跪いている。

 

 そして――今。

 彼等と同じように、目の前の男――『三羽烏(さんばがらす)』を生み出した存在、白き陰陽師――安倍晴明(あべのせいめい)の『言霊』によって。

 

 最後の烏は、三羽目の烏は――その姿を、『鬼』へと化えた。

 

 嘴と羽が失われ、身体も闇夜に溶け込む黒から不気味な青色へ。

 裂けた口には牙が、額には二本の角が生えた。

 

 男が鬼になれと言ったから――今日から、自分は『鬼』になった。

 

――名を与える。お前は今日から『天邪鬼(あまのじゃく)』だ。

 

 両隣に跪く同胞――『覚』と『烏天狗』と同様に、生まれ変わった『三羽烏』に晴明は名を与え、次いで果たすべき『使命』を与えた。

 

――『天邪鬼』よ。お前に与える使命は、『鬼』の『復権』だ。

 

 先頃に行われた『大江山の鬼退治』によって、酒吞童子(しゅてんどうじ)の妖怪王への覚醒は先延ばしにすることが出来た――が、いかんせん、削り過ぎた。

 

 あくまでの安倍晴明にとっての本番は十年後に開催予定の『妖怪大戦争』である。

 それまでに『鬼』には、再び日ノ本を揺るがす脅威になってもらわなくてはならない。

 

 四天王を三席失い、抱えていた戦力の大多数を滅ぼされた大江山。

 それを、僅か十年で、先頃の『大江山の鬼退治』以上の規模で行われる――『星人戦争(ミッション)』の、相手方を務めるに相応しい一大勢力へ復権させる。

 

 そんな無理難題を、安倍晴明は一羽の烏に押し付ける。

 

――日ノ本に千年の平和を齎す為、『妖怪大戦争』という『儀式』は、必ずや計画(プラン)通りに成功させる必要がある。

 

 崇高なる目的の為に、今、この瞬間から――お前は誰よりも『鬼』となれ。何よりも『鬼』の為に尽くす鬼となれ。

 

――その為に、誰も、何も、この生みの親たる『()』すらも利用し、邪するような、そんな鬼となってみせよ。

 

 お主は今日から――『天邪鬼』だ。

 

 そう齎される言の葉に、三羽目の烏は、深く深く敬服し、ただ一言を返す。

 

「御意に。それが(貴方様)の御意志であわせられるならば」

 

 その瞬間、『烏』は『鬼』となり。

 

 何者にも縛られない、天すら邪する鬼と化した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 まるで走馬灯のようなそれを、雷の奔流の中で回顧して。

 

 青き鬼は――天にすら縛られぬ鬼は、笑う。

 

「――ふふ。思い出しました。全て思い出しましたよ。何にも縛られるなという真名を与えられながら、誰よりも素直に言うことを聞いていたということですか」

 

 随分と『役』になり切るタイプだったのですねぇ、お恥ずかしい――そう呟く青鬼に、菅原道真は訝しむが。

 

「……しかし、これもまた、あの御方の筋書き通りなのでしょう。結果として、私はあの御方からのミッションを、完璧にこなしているのですから」

 

 己が『役名』を忘却しながらも、己が『役目』は完璧に成し遂げていた。

 

 予想外の『狐』が出現したとはいえ、結果的に『鬼』は京を脅かすだけの勢力を復権させ、妖怪大戦争はかつての『大江山の鬼退治』を上回る程の役者を持って、日ノ本を危機に陥れ、『星の力の流れ』の活性化に成功している。

 

 月へ伸ばされた『手』は無事に届いた。

 後は、妖怪王の器たる存在に封印を施し――『妖怪』という『星人』を、千年もの間、『弱体化』させることが出来れば。

 

 この盛大なる『儀式』は完遂される。

 今宵の『妖怪大戦争』の成功は、今後千年間、日ノ本という国に対し、少なくとも国土全域を巻き込むような大規模な星人戦争は予防するだろうと、そう安倍晴明()星詠みし(おっしゃっ)た。

 

「――しかし、それでは些かつまらないでしょう」

 

 天邪鬼は、己が全てを思い出し、己が全てを取り戻して――尚、その手を離さずにいる。

 

「我が真名は天邪鬼(あまのじゃく)!! 天を邪せよと天に命じられしモノ!! ならば、一度くらいあの御方の意表を突かなければ!! それこそ不敬というものでしょう!!」

 

 安倍晴明が、恐らくは舞台装置として配置し、既にその役目を終えたとされる菅原道真。

 

 その力を奪い、我が物にする。

 同じくその役目を終えた筈の、一羽の烏に過ぎない筈の――この天邪鬼が。

 

 自らを作り出した『天』たる存在が、完璧に創り上げたこの妖怪大戦争という舞台を、台本(プラン)を無視して掻き乱す。

 

(あるいは――これもまた、あの御方の思い通りなのでしょうか)

 

 だが、あの御方は仰った。

 

 誰もを、何もを――『天』すらも利用する、そんな『鬼』になってみせよと。

 

「ならばこそ、私は――より()()()()な、そんな道を選びましょう!!」

 

 その方がきっと、あの御方は、お喜びになられるに違いない! ――と、そう雷の中で笑う青鬼に。

 

 己の『核』に流れ込んでくる妖力、それに混ざり込む呪力に――安倍晴明の色が濃くなっていくのを感じて。

 

 やはり、同じく――道真は、笑った。

 

「――これもまた、お前の筋書きか。……小僧め」

 

 かつて、賀茂忠行(かものただゆき)に引き連られてやってきた、齢十に満たない少年。

 三日三晩の死闘の末、見事に日ノ本最大の大怨霊と化した菅原道真を退治してみせたかの少年の呪力を感じて、道真は笑う。

 

()()()()――お主の悪巧みは、百年後の今も健在か」

 

 己の『核』を侵食されながら、道真の瞳は――月へと伸びる『手』に、そして、離れた闇の中から己を見詰める『烏』へと向けられる。

 

 目が合った『烏』――『烏天狗』は、()()()()と笑う。

 

 当初の『計画』になかった『狐』。

 しかし、彼らの主は、その予想外の存在の出現すら見透かしていた。

 

 結果として、己が手元に残して使い勝手のいい手足とする筈だった『烏天狗』をも送り込むことになったが、当初は日ノ本各地を渡り歩き鬼以外の妖怪勢力を纏め上げる予定だった『覚』を幹部として送り込んでからは、話は早かった。

 

 あの『狐』は強大な力を持っていながら、己が勢力の運営にはことごとく無頓着だった。

 まるで己が目的は明確に定まっていて、それ以外はどうでもいいという態度が露骨に見え隠れしていた。

 

 お前の好きなように、この勢力を利用してみろと、覚や烏天狗を通じて、()()に向かって微笑んでいるかのようで。

 

(――まあ、それならそれで話は早いと、我々も好き勝手にやらせてもらいましたが)

 

 結果として、『狐勢力』の殆どを、覚が運営することになった。

 

 覚。雷様。鈴鹿御前。鞍馬天狗。

 四天王を設定したのもまた、覚であり、烏天狗であり、そして安倍晴明だった。

 

(『計画(プラン)』に必要な『役者(キャスト)』を、必要な時に必要な場所にいるように配置することも、実に簡単だった)

 

 全ては、彼()の、『計画(プラン)』通りだった。

 

「………………あの男が、当代の『藤原』か」

 

 妖怪・雷様――妖怪よりも神に近い位に上り詰めた男の目は、月へと伸びる『手』の中を進む『人間』の姿を捉えていた。

 

 天を翔ける白馬に乗り、白き虎を供に連れて、月へと上る――『人間』を。

 

 そんなことが可能なのは、そんな荒唐無稽な夢を叶えるのは――『野心』を燃やし上げて、実現させるのは、間違いなく『藤原』だと。

 

 己が滅ぼされ――百年が経ち、こうして平安京が終焉を迎えようとしても、尚。

 

 全ては――『藤原』の黒く燃える野心と、純()の『陰陽師』の黒き策謀によって支配されている。

 

(やはり、平安京は変わらないのか――それとも、変わろうとしているのか)

 

 続きが気になる物語だが――端役はここで退場のようだと、道真は目を瞑る。

 

 青鬼の絡繰が纏った隻腕が突き入れられた背中からのみ噴出していた雷が、道真の身体をも包み込み始める。

 

(あの黒き陰陽師は、どうして私という『役者』を、わざわざ影法師として蘇えらせてまで用意したのか)

 

 こうして天邪鬼に取り込ませる為か。それとも本当に、戦争の号砲としてド派手な開幕を飾るためだけの催しだったのか。

 

(――まぁよい。どちらにせよ、とっくの昔にくたばった老人が口を挟むべきことではない)

 

 これは、死後の夢のようなもの。

 

 黒き野心も、黒き策謀も――全ては、今を生きる若人達が、解き明かすべき問題だ。

 

『――今度こそ、お前に会いたいなぁ。宜来子(のぶきこ)

 

 そして、一際強く光り、影法師が消え去る――その、最中。

 

 膨れ上がった己の妖力を――塗り替えるように出現した、()()()()()に、笑みを漏らす。

 

(随分と欲張りな配役だ。流石の『藤原』や『陰陽師』も、物語を作る才能はないと見える)

 

 道真はそれを無粋と思うが、しかし、こうして己のように潔く退場する、皆が皆、そのような『魂』ばかりではないということだろう。

 

 例え、既に役目を終えていても、舞台を降りるべき時を過ぎても、全力で死に損なうことに執着するモノもいる。

 

 恐らくは、そんな存在こそが、舞台を――物語を、あるいは計画を、レールから外し、引っ掻き回すことが出来るのだろう。

 

(それを面白いと思うか興ざめと思うか――些か興味はあるが、私はさっさと舞台を降りて、客席から好き勝手に批評させてもらうことにしよう)

 

 広げに広げた風呂敷を、果たしてどのように畳むのか。

 

 天の上の黄泉の国から胡坐を掻きつつ、精々高みの見物とさせてもらおう――と。

 

 かつて平安京を恐怖のドン底に叩き落した、歴史上最も強大な怨霊――菅原道真の影法師は。

 

 一際強く輝きを爆発させて、それが再び闇夜に消えた時――たった一枚の人形の術符だけを残して、影も形も残さずに、きれいさっぱりいなくなっていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(――これで――ッ!)

(終わりだ―――っ!)

 

 貞光の鎌の一閃が、季武の矢の一射が、鎧将の最後の肉塊を吹き飛ばす。

 

 四肢を失っても、もはや機能していない臓物を撒き散らしても――鎧将は只管に暴れ続けた。

 

 手も足も持たない肉塊が、それでも意思を持ったように動き続ける姿は民達の恐怖を大いに煽ったが、これまであらゆる奇々怪々な怪異と相対し続けてきた百戦錬磨の四天王には無意味だった。

 

 ただただ効率的に、淡々と最速で鬼を解体していく様は、頼もしさと共に、やはり民に恐怖を与えたが、結果として一人の犠牲者を出すことなく民は逃げ切り、そして鬼を殺し切った。

 

 だが、二人の四天王は気を緩めず、そのまま得物を持つ手に力を入れて――すぐさまに頭上を見上げる。

 

 そして――揃って、顔を、顰めた。

 

「……間に合わなかったか……っ!」

 

 黒き小さな雲は健在で、バチバチと雷を瞬かせている。

 

 しかし、その雲の上には、既に菅原道真の姿はなかった。

 

 代わりに、小柄な隻腕の青鬼が――その全身から雷を瞬かせて、瞳の色を小金色に輝かせながら、二人の妖狩りを、愉悦の笑みを持って見下ろしていた。

 

「……ふふ。ふふはは。手に入れた――手に入れたぞ! かつて清涼殿の結界をも打ち破った――雷神・菅原道真の(ちから)を!!」

 

 天邪鬼の感情の昂りに呼応するように、ゴロゴロと黒雲は唸り、雷が落ちる。

 

 その恐れていた事態の具現に、貞光と季武は臨戦態勢を取りながら、額に冷たい汗が流れるのを止められない。

 

 菅原道真の影法師は、確かに強大な力を感じさせたが、それでも積極的な敵意はなかった。

 しかし今、その力が明確に悪意を持った『鬼』の手に渡ってしまった。

 

 かつて、この国で最も強固な結界を打ち破った雷が、『鬼』の手に渡った。

 

 予測される未来は――今以上の、地獄絵図。

 

「素晴らしい力だ! この力があればどんなことでも出来ることでしょう! 平安京を火の海に変えるなどというつまらない使い道だけでは収まらない――正しく、最強となった気分です」

 

 酔っている――貞光はそう判断する。

 菅原道真という極大の力を手に入れて、感じたことのない全能感に酔いしれている。

 

 貞光は季武と目配せする。

 今ならば――分かり易く酔いしれ、力に溺れている今ならば、あの鬼を止められるかもしれない。

 

 菅原道真の雷を手に入れた今、天邪鬼はこれまで通りの脅威ではない。四天王などいう枠に収まらない。

 

 鬼の頭領、狐の姫君――それに並ぶような、最上位の脅威。それこそ正しく、奴の言う通り。

 

 最強の妖怪。

 その位に手が届きかねない位置まで、目の前の存在は登り詰めた。

 

「……季武」

「分かっていますよ。例え、僕等の命に代えてでも――」

 

 止めなくてはならない。

 そう、両者が決意を固めた――その瞬間。

 

「そう! 私こそが、正しく、最強の――!!」

 

 天邪鬼が、そう天に向かって叫ぼうとした――正に、その瞬間であった。

 

 

 貞光と季武が守った家屋、民、その他諸々を、盛大に吹き飛ばしながら。

 

 天を見上げる武者、天を仰ぐ妖怪――その他諸々を、盛大に吹き飛ばすように。

 

 

『葛の葉は―――――――――何処だ』

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――()()()

 

 

 かつて辿り着けなかった悲願の目的地――愛するモノが待つ場所。

 

 平安京に――魔人・『平将門(たいらのまさかど)』が、襲来した。

 

 そして――。

 

 

『クズノハァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!』

 

 

 民も、街も――武者も、妖怪も。

 

 雷も、最強も――何もかもを。

 

 

 黒い炎が――全てを、吞み込んでいく。

 

 




用語解説コーナー58

・天邪鬼

 天を邪する鬼。

 安倍晴明が『計画』を恙なく遂行する為に、盤面を整える為に送り込んだ『三羽烏』が一羽。

 三羽の中で、誰よりも『役』に入り込み、十年間、己を本当に鬼の復権を使命とする大江山四天王だと思い込んでいた。

 だが、その働きと功績は、他の二羽と比べても遜色はなく、どこまでも『天』の掌の上であった。

 故に――天を邪せよと命じられた鬼は、己を取り戻して尚、天の意思に叛逆する。

 雷神の力を手に、圧倒的な全能感に酔いながら、天に向かって嗤う。


 そして、天は――そんな鬼を見て、全てを見透かしたように笑うのだ。


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妖怪星人編――59 鈴鹿御前

だからきっと、この出会いは、この恋は。正しく――運命だったのだ。


 

 その出会いは――正しく、運命だった。

 

「素晴らしい剣捌きだ。その見事な立烏帽子(たてえぼし)――お主が鈴鹿姫(すずかひめ)で相違ないか?」

 

 かつて、無実の罪で都を追われた身の上の女は。

 その当てつけとばかりに身に着けていた立烏帽子を押さえながら――目を奪われ、呆然と惚けていた。

 

 一目惚れだった。

 

 闇夜の鈴鹿山に差し込む光が、その男を神秘的に照らし出している。

 

 勇壮な顔立ち。鍛え抜かれた身体。

 彫は深く、表情は引き締まっていて――そして、何より、()()()

 

 目の前の大きな男は、とにかく『魂』が美しかった。

 

 まるで世界に、まるで時代に――まるで、星に。

 

 選ばれた、戦士であるかのように。

 

「ある者はお主を、鈴鹿の山を通る行商人を襲う女盗賊『立烏帽子』と恐れる。ある者はお主を、鈴鹿の山に巣食う鬼から人を助ける女義賊『鈴鹿姫』と敬う。……果たして、どれが本当のお主なのだ?」

 

 男の言葉に、鼓動が早まる。

 男の視線に、頬の紅潮が止められない。

 

 生まれて初めての感情を持て余した彼女は、男の威容に怯える部下達の制止の言葉に構わず――襲い掛かった。

 

 これが、立烏帽子と鈴鹿姫の二つの異名を捨て、後に鈴鹿御前(すずかごぜん)と名乗ることになる女と。

 

 星に選ばれた戦士であり、後に初代征夷大将軍に任じられることになる男――坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)との出会い。

 

 お互いに持てる力の出し切り、殺し合った末に――二人は夫婦となることになる。

 

 お互いに初めての恋で、お互いに初めての一目惚れ。

 

 だからきっと、この出会いは、この恋は。

 

 正しく――運命だったのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平安宮の入口に聳え立つ、荘厳なる巨大門――朱雀門。

 

 長岡から遷都してから、およそ二百年以上。

 あらゆる怪異を阻む結界の基点として機能し続けてきたそれは――今、ガラガラと音を立てて崩れ去った。

 

 崩れ去り、崩れ壊れ――そして、新たなる形を得た。

 

 巨大な門は、瞬く間に――巨大な鎧武者へと変形した。

 

 全身を翼の生えた蛇に巻き付かれた不気味な武将。

 その鎧の左肩には、こう記されていた――『騰蛇(とうだ)』。

 

 翼の生えた蛇に纏われた鎧武者。

 安倍晴明が抱える最強の十二体の式神――十二神将が一角。

 

 その最強の番人に、今、一体の妖狐が襲い掛かる。

 

「――安倍晴明ぇぇぇぇえええええええええええええええええ!!!!」

 

 六尾を禍々しく青く燃やす妖狐――『狐』勢力四天王が一角・『(すず)』。

 

 その真名は――『鈴鹿御前(すずかごぜん)』。

 

 三百年前――かつて都が奈良にあった頃の名を馳せた美姫。

 

 星に選ばれた戦士――坂上田村麻呂が伴侶として歴史に名を残す彼女は、禍々しい妖力を放ちながら、今、虚空に出現させた刀を抜刀していた。

 

 かつて、あの月光に照らされた鈴鹿山で。

 

 あの男と出会い、そして殺し合った、あの夜からその手に握り続けてきた刀を。

 

「邪魔だっ!! 道を開けろ――絡繰人形がッッ!!」

 

 飛び上がり、妖怪としての膂力をふんだんに詰め込んだ一刀を、巨大な鎧武者の更に頭上から振り下ろした一撃を――絡繰人形と称された鎧武者は。

 

 十二神将『騰蛇』は、目にも止まらぬ速さで――抜刀した、その腰に刷いた刀で受け止めた。

 

「――っ!?」

 

 瞠目する鈴鹿御前。

 

 対する鎧武者は、般若の面でその表情は一切伺えない――否。

 

 十二神将・『騰蛇』――その正体は、鈴鹿御前の言の通り、『絡繰』であった。

 

 一般的な陰陽師が使役する式神、この平安京を警邏すべく張り巡らされた、文字通りの治安維持装置『鎧武者』。

 十二神将は、それを日ノ本最強の陰陽師である安倍晴明が作製した一品に過ぎない。

 

 陰陽師ならば誰もが造れるそれを、史上最強の陰陽師が造った――ただ、それだけの一品。

 

 誰でも造れるが故に、造り手の技量が――陰陽師としての力量が、そのまま性能差となって現れる絡繰人形。

 

 安倍晴明が、一から十まで、己が手で作り上げた――最高傑作。

 それが十二神将・『騰蛇』――朱雀門の代わりに外敵たる怪異を薙ぎ払う、最強の番人。

 

「くっ――っ!?」

 

 打ち払われる。

 妖怪としての身体能力を持って、人間時代に磨き上げた剣術を振るう鈴鹿御前の攻撃の悉くを、目の前の鎧武者は、その巨体に見合わぬ身のこなしを持って薙ぎ払い続けた。

 

 かつて、かの坂上田村麻呂に素晴らしいと言わしめた、鈴鹿御前の剣術。

 それを心無き鎧武者が、ただ事前入力(インプット)されたままに動く絡繰人形が凌駕する。

 

 皮肉にも、『人間』側の最高戦力と目される男が用意したそれが、まるで人間というものが積み重ねる努力を、鍛錬を、一笑に付しているが如き光景に――鈴鹿御前は。

 

 かつては人間であり、今では妖怪というものにこれ以上なくどっぷりと堕ちている女は――睨め付け、歯噛みし、呪詛を漏らす。

 

「……………安倍晴明(あべのせいめい)………和気清麻呂(わけのきよまろ)……()()は――どこまで――――ッッ!!」

 

 燃え滾る憎悪を込めて、振るった鈴鹿御前の一撃を――『騰蛇』は真っ向から打ち返す。

 

 そして――砕かれる。

 鈴鹿御前が、かつて田村麻呂と出会った時に打ち合った――その刀が。

 

 二人の運命の出会いの象徴が、この上なく儚く、きらきらと輝く破片となって。

 

「――――」

 

 鈴鹿御前は、また一つ、身を切り刻むような喪失を経験する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鈴鹿の山を縄張りにしていた盗賊団を解散させ、田村麻呂の嫁となった鈴鹿御前は、彼と共に日ノ本各地に出向き、数々の妖怪退治を成し遂げていった。

 

 幸せだった。

 決して長くない、数年間の新婚生活だったけれど。

 凶悪なる妖怪との激闘の日々、血で血を洗う血みどろの日々だったけれど。

 

 それでも――鈴鹿御前は、幸せだった。

 

 一目で芽生えた恋心は、冷めるどころか日々成長を続け、紛うことなき愛へと成熟していった。

 

 全てが愛おしい。

 顔も、声も、手も、指も、優しさも、強さも、真剣な眼差しも、屈託のない笑顔も――その全てが、愛おしかった。

 

 嫌いだった剣も、あくまで自衛と襲撃の手段でしかなかった武も、彼の隣に立つ為ならばいくらでも鍛錬を積むことが出来た。

 

 いつまでも続くと思っていた。

 鈴鹿御前は田村麻呂が日ノ本で最強の存在だと信じて疑わなかったし、彼に勝てる妖怪が存在するなど想像もしていなかった。

 

 だから、彼が蝦夷へ向かうように指示を受けた際も、何も思わなかった。

 今度の旅先は蝦夷か、長い旅になる、それだけ彼の傍に居られると、そんなことだけを思っていたように思う。

 

 彼が征夷大将軍という役職に就いたと聞いた時も、彼の偉大さならば当然だと、そんな風にしか思わなかった。

 

 だから――思いもしていなかった。

 坂上田村麻呂が――敗北することになるなんて。

 

 日ノ本で最強の存在だと思っていた彼よりも、星に選ばれた戦士である彼よりも――強い鬼が。

 

 正しく星の脅威となるような鬼が、この世界に存在するなんて。

 

 かの鬼の名は――阿弖流為(アテルイ)といった。

 

 妖怪王国・蝦夷を統べるモノ。日ノ本を恐怖へ陥れる、妖怪王の器たる怪異だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鎧武者の攻勢は止まらなかった。

 

 刀を失った鈴鹿御前は、人としての武器を失った鈴鹿御前は――妖怪の力に頼らざるを得なくなった。

 

 妖狐として蒼炎を四方八方へと振り撒くが、『騰蛇』の鎧に施された結界は、それを雨露が如く弾き飛ばして無効化する。

 

 正しく、妖怪を狩る為の絡繰人形。

 対妖怪に特化した式神――安倍晴明が謹製の、怪異狩りの鎧武者。

 

(――ならっ!)

 

 これならどうっ!! ――と、鈴鹿御前は蒼炎を、鎧武者にぶつけるのではなく、『騰蛇』を囲むように、身動きを封じるように張り巡らせ、半球状に包み込んだ。

 

(この鎧武者は安倍晴明の仕掛け――ぶち壊したいのは山々だけど、それでも、私の勝利条件はコイツの粉砕じゃない!)

 

 そう、既に結界は解かれ、門は壊されているのだ。

 ご丁寧に門は自らの足でその場所から退き――突破口を開けている。

 

(馬鹿正直に付き合う必要なんてない。私の目的は、あくまで――)

 

 鈴鹿御前は炎のドームに閉じ込めた鎧武者をそのままにし、足の向きを変えようとした――所で。

 

 妖狐の蒼炎が作り出した檻が――破壊される。

 内側から、木端微塵に。

 

「――っ! ――――ッ!?」

 

 分かっていた。妖力を弾く鎧を身に纏っているのだ。例え蒼炎を直接ぶつけられないのだとしても、自ら動いてそれを砕きに来ることも可能であろうと――それでも、ここを離れる数秒くらいは持つだろうと楽観視していたが、やはり甘かったか。

 

 そう歯噛みした鈴鹿御前は、しかし次の瞬間――瞠目する。

 

 蒼炎のドームを破壊すべく、檻の内側から飛び出してきたのは、鎧武者の篭手の拳でも、腰に刷いた刀でもなく――蛇だった。

 

 その身に有り得べからずな翼を生やした――幻想の蛇。

 

 鎧武者の身に纏わり憑いていたその蛇が、何匹もその身を離れて独立して動き出し――蒼炎から飛び出して、その身を青く燃やしながら、鈴鹿御前へと一斉に襲い掛かってきた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 何度挑もうと、幾度となく征夷へ赴こうと、田村麻呂は阿弖流為に勝てなかった。

 

 これまで常勝――どころか碌に苦戦もしたことのない田村麻呂の連戦連敗に、彼が引き連れた部下の間にも、そして彼を蝦夷へと送り出した平城京の首脳部の中にも、不穏な空気が漂い始めた。

 

 そして、これまでどんな時も堂々たる雄姿を崩さなかった田村麻呂――彼自身の表情にも、苦いものが広がり始めた。

 

 このままでは不味い。

 だが、どうすることも出来ないと、鈴鹿御前は苦虫を嚙み潰す。

 

 田村麻呂は強い。これは間違いない。

 だが、それ以上に阿弖流為が強過ぎるのだ――それはもう、星の規律(ルール)を無視しているかのように、常識外に、埒外に。

 

 たった一体であの鬼は、山を黒雲で覆い、暴風を巻き起こし、雷鳴を轟かせ、鉄火の雨を降らせて、草原を凍土へと塗り替える。そして、単純な膂力だけでも、田村麻呂の剛力を押し返す程だ。

 

 勝ち目がない。どんな作戦も意味を為さない。

 大軍で襲い掛かろうと、たった一体で万を討ち滅ぼせ得る脅威を前には零も同然だ。

 

 結果として、田村麻呂が単騎で阿弖流為に挑み、敗走するというのがお決まりになっている。そして、敗北のその全ての責任を、田村麻呂が負うことになってしまっているのだ。

 

 彼に率いられている戦士達も頭では理解している。

 自分達が何の戦力もならないからこそ、田村麻呂が一人で立ち向かうしかないのだということを。

 

 それでも、成す術なく、何の言い訳の余地も存在しないほどに敗北を喫し続ける大将軍に対し不信感が溜まっていくのは無理ならざることだった。

 

 彼等にも守るべき家族が――家がある。

 このまま何の成果も得られなければ、彼等は全ての責を田村麻呂に押し付けて、自分達だけでも罰を逃れようとするだろう。

 

 そして、田村麻呂は、それを馬鹿正直に、何の言い訳もせずに受け容れる筈だ――。

 

「…………そんなことは認めない。許せるわけないじゃない……ッ!」

 

 意気消沈とする軍から一人距離を取って、そう憤る鈴鹿御前。

 

 そんな彼女に――その夜、声を掛けるものが現れた。

 

 小さなその影は、阿弖流為と田村麻呂が一対一の決闘を行っている中、睨み合う両軍――その片方を率いていた鬼だった。

 

 人間軍を率いる鈴鹿御前と同じく、蝦夷軍を率いる、事実上の妖怪王国の副将の立ち位置にいる――小柄な赤鬼。

 

 阿黒と名乗ったその鬼は、警戒する鈴鹿御前に、こう言った。

 

「喜べ、人間の女。その貧相な身に合わぬ、光栄な誘いだ」

 

 それは蝦夷の王であり、妖怪王の器たる鬼――阿弖流為からの、思わぬ求愛行動(アプローチ)

 

 鈴鹿御前に対する――求婚の誘い(プロポーズ)だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 蒼炎と青炎がぶつかり合う。

 

「――――くっッッ!!」

 

 鎧武者が放った翼蛇は、蒼炎を突き破った後、その身に纏っていた蒼炎を脱ぐように――自ら青く発火した。

 

 妖狐の蒼炎よりも、ずっと濃く、濁ったような青色。

 その青炎は――()()()()()()

 

 妖力を喰らう炎。

 他者の妖力を喰らい、呑み込み――翼蛇はその身を更に大きくする。

 

 そして、その青炎は――本体である鎧武者へと流れ込み、その巨躯を徐々に、青く、燃やし始める。

 

(これが――十二神将)

 

 妖怪の――天敵。

 怪異に対する最大戦力、この国で最も妖怪の脅威である――『人間』。

 

 安倍晴明――史上最強の陰陽師の、最高傑作たる絡繰式神。

 

(これが、『騰蛇』――――こんなの)

 

 勝てるわけがない――鈴鹿御前は、かつてのあの日と、同じような。

 

 真っ暗な絶望に囚われかけた。そして、それを表すように。

 

 妖狐の渾身の蒼炎を呑み込みつくした青炎が、まるで大波のように、何の障害物に遮られることなく――鈴鹿御前に向かって、まるでそれ自体が怪物であるかのように襲い掛かる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 初めてその求婚の誘いを受けた時は、言付け役(メッセンジャー)だった阿黒に問答無用で斬り掛かった鈴鹿御前であったが――当然、その鈴鹿御前の攻撃は易々と受け流された――その後も毎晩、鈴鹿御前が一人になる度に、阿黒はやってきて、阿弖流為からの求婚を伝え続けた。

 

 無下にし続ける鈴鹿御前であったが、その間も、夫である田村麻呂は阿弖流為に挑み続け――そして、敗れ続けた。

 

 だが、そんな日々に、やがて変化が起きる。

 田村麻呂率いる征夷軍の隊員達が、一人、また一人と離脱し始めたのだ。

 

 名目上はお互いに勢力を率いての戦争とはいえ、毎度繰り広げられるのは大将同士の一騎打ちだ。軍勢から一人二人、離脱者が出ても戦いに支障はない――が。

 

 離脱者が出るということは、平城京への帰還者が出るということ。

 そして、何の成果もない軍から単身で出戻った男がすることといえば、一つ。

 

(……本来であれば敵前逃亡は厳罰であれど、この現状を大将の暴走として処理させることで、この軍の責任者である田村麻呂(かれ)一人に全責任を押し付け、己を正当化することが出来るというわけね……)

 

 反吐が出ると、鈴鹿御前は吐き捨てる。

 無論、そこまで上手くいかず、罰を与えられることになるかもしれないが――その報告は平城京に、それほどまでに征夷軍の蝦夷攻略が難航しているという印象を与えてしまうことになる。

 

 それこそ、平城京から正式に帰還命令が出てしまうかもしれない。そうなってしまえば、避けようもなく、田村麻呂の責任問題になるだろう。

 

 残された時間は少ない。

 だが、攻略の糸口すら見えていないのがありのままの現状だ。

 

 続く連戦に田村麻呂の体力は日に日に減退している。

 ただでさえ殆どない勝ち目がどんどん――どんどん、どんどん、薄くなる。

 

「………………………………………ッッッッ!!!」

 

 そして、その日も、阿黒は闇夜に乗じてやってきた。

 

 阿弖流為からの求婚の誘い。

 これまで一貫して、一顧だにせず、断り続けた、その誘いに。

 

「―――――――――――分かったわ」

 

 女は、血を吐くような表情で、頷いた。

 

 その日、鈴鹿御前は――妖怪王の花嫁となって。

 

 坂上田村麻呂の下から去り、妖怪の国・蝦夷へと、その足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 青炎に呑み込まれ、全身を青く焼かれながら――鈴鹿御前は思い出していた。

 

 愛する夫を裏切ったあの時を。

 あらゆるものを捨てて、妖怪の棲み家へと乗り込んだ――あの時を。

 

 それでも――『愛』だけは、その胸に抱いて、ただそれだけを抱えて、戦いへと赴いた、あの時を。

 

(――――そう。私は戦いに行ったんだ。ただ見ていることしか出来なかった自分が心底許せなくて。……弱い自分が……この世の何よりも許せなくて)

 

 許せなかった。

 

 田村麻呂に全てを任せて何もせずに、それでいて責任だけを押し付けようとした、彼の部下も、平城京も。

 

 愛する夫を痛め続ける阿弖流為も。そして、そんな鬼の背中に隠れて、己自身では田村麻呂に敵わないのに彼を嘲笑する他の妖怪も。

 

 だが――それよりも、何よりも。

 

 ただ、見ているだけで、指を咥えて、涙を堪えて――ただ、見ていることしか出来ない、自分が。

 

 彼の隣に立てない、彼の助けになれない――弱くて弱くて堪らない自分が、この世の何よりも許せなかった。

 

 だから――戦いに行ったのだ。

 

 全てを捨ててでも、愛する夫を裏切ってでも――それでも愛を、捨てられなくて。

 

 鈴鹿御前は、阿弖流為の、花嫁になった。

 

(――――だから、この力は、私の愛の……そして、裏切りの象徴)

 

 青炎の中で、鈴鹿御前は刮目する。

 

 全身から蒼炎を放ち――その炎を紫色に変える。

 

 八重歯は――牙に。肌は鮮やかな――蒼色に。

 

 そして額からは、天を貫くように鋭い――角が、伸びて。

 

 己を呑み込む青炎を――妖怪の天敵たる安倍晴明が術を、吹き飛ばす。

 

 そして、宙に浮きながら――冷たく、その蒼色の瞳で、鎧武者を見下ろした。

 

「調子に乗るんじゃないわよ――人形風情が」

 

 それは正しく、妖怪の女王の姿。

 

 妖狐であり、妖鬼――妖怪・『鈴鹿御前』、その伝説の再来であった。

 




用語解説コーナー59

・立烏帽子&鈴鹿姫

 鈴鹿山を縄張りにしていた荒くれ者集団を率いる、立烏帽子を被った美女。

 元々は誰彼構わず道行く人間達を襲撃する盗賊団だった落ち武者達を纏め上げ、悪しき者達には容赦なく制裁と強奪を、善き者には護衛と救出を行うようになった。

 その為、ある達にとっては盗賊『立烏帽子』、ある者達にとっては義賊『鈴鹿姫』と呼ばれるようになった。

 元々は京に住まう由緒正しき姫であったが、政闘に家ごと巻き込まれ、その優秀さと気の強さから首を深く突っ込んでしまったら、いつの間にか無実の罪を着せられ京を追われることになってしまった。

 その為、貴族や権力者というものに対し人一倍隔意を持っていて、権力者と癒着をしている悪徳商人などには特に容赦なく制裁を加えていた。

 あの日も――それだと思った。

 一目見ただけで気付く、身なりのいい服装。それを見るだけで、彼女の胸の中には煮えたぎるような黒い憎悪が渦巻く。

 商人にしろ、それに雇われた護衛にしろ、あるいは轟始めていた己が悪名につられた役人にしろ――関係ないと。

 ただ黒い激情に突き動かされるがままに、この当てつけのように被り続けた立烏帽子に、また一つ、汚い返り血を付着させるだけだと。

 問答無用に襲い掛かろうとして――月光が差し込んだ。

 そして――彼女は、運命との出会いを果たす。


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妖怪星人編――60 比翼連理

――その全てに、一目で惚れた。


 

「ようこそ――我が花嫁。俺様はお前を大歓迎する」

 

 新婚初夜の寝室にて。

 

 その怪異は、花嫁を歓待した。

 

 寝床(ベッド)に腰掛けて、半裸の姿で――初対面の女を出迎えた。

 

「……………」

 

 ちらりと、鈴鹿御前は背後を振り向く。

 葉で一応の扉のような敷居が作られているが、殆ど暖簾程度の意味しかなさないものだ。

 

 続いて上を向く。岩面の天井が見える。

 この夫婦の寝室は、これまで目の前の鬼が寝転がる為に用意していた洞穴だ。

 

 どんな仕組みなのかは分からないが、密室で燃やしても酸素を奪わない紫色の妖力の炎で光源が用意されている。しかしそれでも、薄暗いことには変わりない。

 

 そして、遂には目を逸らせなくなり――逃げられなくなり、鈴鹿御前は真っ直ぐに、その存在と向き直る。

 

 この巨大な洞穴も、圧迫感の強い窮屈な空間に思わせるような――巨体。

 

 伸びる二本の角は天に向けられる牙のようで、剥き出しの上半身は、心許ない腰布から伸びる足は、触れるまでもなく鋼のように固い筋線維で構成されているのだろうと確信させる迫力を放ち。

 

 その体皮は、闇夜よりも尚も深い、光を呑み込むような黒色。

 

 漆黒の、巨躯なる、鬼。

 

 妖怪王国・蝦夷を纏め上げた、妖怪王の器たる黒鬼。

 

「…………あなたが……阿弖流為(アテルイ)ね」

 

 これまで何度も、その姿は目撃していた。

 離れた場所から――用意されたその闘技場で、幾度となく愛する人を、坂上田村麻呂を圧倒し続けた妖怪の首魁。

 

 分かり切ったその問いに、黒鬼は荒々しい笑みを浮かべながら答えた。

 

「如何にも。俺様が阿弖流為だ。仲良くしよう、我が花嫁」

 

 その巨体を示すように、大きく腕を両手で広げ――まるで、この胸に飛び込んで来いといわんばかりの阿弖流為に、鈴鹿御前は一歩足を引きながら、それでも逃げられないと唇を噛み締めて問う。

 

「――どうして、私に求婚したの?」

 

 意を決し、鈴鹿御前は阿弖流為にその疑問をぶつけた。

 

 遠目で阿弖流為の姿は知っていたが――逆を言えば、阿弖流為もまた、鈴鹿御前のことを遠目でしか見ていない筈なのだ。

 

 言葉を交わすこともなく、ただその姿を、一目――見た、だけの、筈で。

 

 阿弖流為は、一目見ただけ、それで十分とばかりに、荒々しく笑い、言う。

 

「決まってんだろ。一目惚れだ」

 

 一目見て――惚れたと、阿弖流為は言う。

 

「いい女だと思った。美しい女だと思った。愛する男を思う姿、憂う姿、励ます姿――その全てに、一目で惚れた」

 

 だから欲しいと、そう思ったのさ――そんな黒鬼の言葉を、他ならぬ鈴鹿御前は、一笑に付すことが出来ない。

 

 一目で何が分かると、言葉も交わしてすらいないのに、内面を感じてすらいないのに、私の何が分かると、そう断じることが出来ない。

 

 そんな恋もあると、そんな始まりの愛があると――誰よりも、己が、知っているから。

 

 だから、こんな恐ろしい存在から向けられる愛を、鈴鹿御前は――否定できない。

 

「お前に愛する男がいるのは知っている。その男に向ける愛が美しいこともな。けれど、俺は欲しいと思ったものを我慢できるほどに行儀がよくねぇんだ」

 

 けれど、俺も鬼じゃねぇ――と、この国で最も強い鬼は、そう豪快に自らの言葉に笑いながら言う。

 

「今すぐお前に手を出すつもりはねぇよ。思わず手に入れちまったが、それでお前の美しさを損なっちまっても意味がねぇ。お前の美しい愛の矛先が俺様に向くまでは、近くに置いて俺様がいい男だってこと思い知ってもらうさ」

 

 部下達の手前、夜はここで一緒に寝てはもらうがなと、寝台から立ち上がってそこに寝るように促し、自らは寝室の隅に腰を下ろす阿弖流為に。

 

 鈴鹿御前は、空けられた寝台――ではなく、移動した阿弖流為の下に歩み寄り、身に着けていた着物に手を掛ける。

 

「――いいわよ。手を出したければ出しても。そのくらいの覚悟は、してきたから」

 

 そして、着物を勢い良く、自らの身体から剥いで――その美しい裸身を晒しながら、座る阿弖流為を見下ろす。

 

「……………」

「その代わり、一つだけ、私のお願いを聞いて頂戴」

 

 先程までの笑みを消し、どこか冷たく鈴鹿御前を見据える阿弖流為に。

 

 鈴鹿御前は膝を地に着いて、手を阿弖流為の膝に置いて、縋るように――けれど、瞳の色は、どこまでも苛烈に染め上げて、言う。

 

「私を――強くして」

 

 至近距離に、顔を近づけて。

 

 この国で最も強い――生物に向かって、言う。

 

 あなたと――同じにして、と。

 

「あなたと同じ――鬼に、して」

 

 愛する男の下を離れ、愛する男を脅かす鬼の下へ嫁いだ女は。

 

 そう、妖しい光が照らす洞穴の中で、新婚初夜に、己の全てを差し出しながら。

 

 苛烈な覚悟を持って、そう、真っ直ぐに懇願した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 人間が――鬼になる。

 その堕落には、幾つかの道筋が存在する。

 

 鬼に血液を与えられ――『魂』を変質させる方法。

 尋常ならざる妖気に()てられ続け――『魂』が変質してしまう現象。

 

 いずれにせよ、人間という魂の形が、妖怪という魂に変形し、そのまま魂に合わせ『箱』の形が変わるという工程は変わらない――それにより、人間から妖怪へ堕ちるという悲劇が完成する。

 

――だが、それじゃあつまらねぇ。何より、()()()()()

 

 お前という女の美しさが損なわれちまうと、その黒鬼は吐き捨てた。

 

 そもそも阿弖流為程の鬼の血液を与えた所で、大抵の人間は器が耐え切れずに、鬼となる前に死亡する。

 かといって、鈴鹿御前は、只の鬼になりたいわけではなかった。

 

 彼女は――強くなりたかったのだ。

 例え人間を辞めてでも、妖怪に堕ちてでも、愛する人の隣に立ちたかったのだ。そんじょそこらの鬼になったところで何の意味もない。

 

 だから、彼女は阿弖流為の求婚に応じた。

 故に彼女は、全てを曝け出し、全てを捨ててでも――愛する人の仇敵に、懇願したのだ。

 

 私を――鬼に(強く)して、と。

 

 そんな彼女に、阿弖流為は寝台に敷いた布を、全裸の彼女に向かって投げ渡しながら、笑って言った。

 

 彼女の覚悟に――美しい愛に。

 

 惚れ直したぜと、そう豪快に笑いながら。

 

――どうせなら、とびっきり美しい鬼になろうや。この国にただ一体しかいない。

 

 ()()()()にな――そんな黒鬼の言葉が、彼女の脳裏に蘇る。

 

「――燃えなさい」

 

 宙に浮き、紫色の炎を纏う、六本の狐尾を揺らす蒼色の鬼は。

 

 そんな冷たい言葉と共に、美しい掌を、眼下に見下ろす鎧武者へと向ける。

 

 渦巻く紫炎。

 口を開けて呑み込むように瞬時に生まれた炎の渦は、容易く鎧武者を引き摺り込み――そして、燃やす。

 

 あれほど炎を弾き飛ばしていた、妖力を無効化する筈の、式神を妖怪の天敵たらしめていた鎧が、焼け焦げていく。

 

 主を脅かされた怒りに、文字通り青く燃えている翼蛇が、その有り得ざる翼の本領発揮とばかりに宙に浮かぶ鈴鹿御前に向かって襲い掛かる――が。

 

「――鬱陶しい」

 

 虫を払うように、横に払われた彼女の腕の挙動に連動するように生まれた紫炎の壁に激突し――そのまま焼かれ、あえなく落下する。

 

 妖力を無効化する『騰蛇(とうだ)』を焼き得る炎――その感触を確かめるように、彼女は己を包み込む紫色の炎を握り締めながら、かの黒鬼の言葉を回顧する。

 

 この国にただ一体しかいない――特別な鬼。

 

――お前のその美しい呪力。その色を残したまま、鬼の妖力と合わせて一つの力にする。

 

 ミックスソフトクリームのようにな、と、阿弖流為は意味の分からない単語を発しながら言った。

 

 妖怪として獲得する妖力と――そんな妖怪に対抗する為に、星が人間に与える力である呪力を、合わせて新たな力にする。

 

 ただ混合し新たなどす黒い力を生み出すのではなく、どちらかの力にどちらかの残滓を残すというわけでもなく、互いの色をはっきりと残したまま、二色の一つの力にする。

 

 そんなことが出来るのと、そんな弱音が喉元まで競り上がったのを呑み込み、鈴鹿御前は言った。

 

――やるわ。私は何をすればいいの?

 

 そんな彼女に対する黒鬼の不敵な笑みを思い浮かべながら――彼女は、目の前の光景に対し呟く。

 

「――まぁ当然、簡単じゃないわよね」

 

 妖力を弾く鎧に対し、呪力で覆っ(コーティングし)た炎ならば通じるだろうという鈴鹿御前の思惑は上手くいった。

 

 だが、対するはかの安倍晴明が抱える最強戦力が一角――十二神将・『騰蛇』。

 それだけで沈めることが出来るような存在ではない。

 

 紫色の炎の中から――巨大な蛇が飛び出した。

 鈴鹿御前の紫炎を、そして己が纏っていた鎧すらも吹き飛ばしながら、翼を広げる巨大な蛇は、まるで龍が如く、こちらを睨み据えている。

 

 紫を塗り潰す青色の炎を纏う、鎧武者の姿を捨てた、大翼を携えた巨大なる翼蛇。

 これが十二神将・『騰蛇』の真の姿にて――最後の変身。

 

「――醜悪ね。強さを追い求めていった結果、己が面影すら失くした怪物に成り果てて……まるで鏡を見ているようだわ」

 

 翼蛇を前に、鈴鹿御前は――己の尻に生えた六本の尾を、一際強く燃やしながら言う。

 

「――来なさい。何もかもを燃やし尽くしてあげる。あなたに守るものがあるように、私にも……例え、どんなことをしてでも、やり遂げなくてはいけないことがあるの」

 

 天を焼き焦がすが如き咆哮を放ちながら襲い掛かってくる『騰蛇』。

 

 全てを受け入れ、全てを認めない眼差しを持って待ち構える『鈴鹿御前』。

 

 その全てを曝け出し、己が全てを出し尽くす燃やし合いは――正に。

 

 互いの全てを懸けた――死闘となった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 遂に――その日が、やってきた。

 

 阿弖流為と坂上田村麻呂――『妖怪』と『人間』の頂上戦争が勃発してから、およそ一年が経っていた。

 

 鈴鹿御前が阿弖流為へと嫁ぎ――つまりは、田村麻呂の元を去って行った、その日から。

 連戦連敗が重なり、手も足も出なくなっていった田村麻呂の拳に、再び力が篭もり始めた。

 

 嫁にすら見放されたと、鈴鹿御前が抜けてから征夷軍自体の士気は底まで落ち込み、遂には田村麻呂と阿弖流為の一騎打ちの際に誰も応援に駆け付けなくなる程であったが、田村麻呂は文字通りの孤軍奮闘を続け。

 

 少しずつ――少しずつ。

 身体に傷を増やしながら、何度も地に倒れ伏せながら――徐々に、徐々に、その苛烈さを増していった。

 

 阿弖流為の身体に届く拳が、一発から二発、二発から三発と増していき――遂に、その日。

 田村麻呂の拳は――阿弖流為の膝を、着かせるに至った。

 

 どよめく蝦夷の妖怪達。

 初めて見る王の苦戦に、田村麻呂を嘲笑するばかりだった顔に――戸惑いが混ざり込み始める。

 

「――立て。俺達の戦いはこれからだ」

「…………はっ」

 

 ようやく面白くなってきたな――そう口元を拭いながら、阿弖流為は己が神通力を解放する。

 

「応とも!! こっからが、楽しい楽しい、俺達の頂上戦争(ケンカ)だ!!」

 

 大気が震え、空が黒く染まり、雷と鉄火が降り始め、大地は瞬く間に凍り付く。

 

 三本の刀を宙に浮かせ、それらの異能を操る阿弖流為に対し。

 

「…………」

 

 坂上田村麻呂は、ただ一振りの刀を抜いて――己が身一つで、その天災の渦に飛び込んでいった。

 

 

 

 その激戦の裏で、阿弖流為の寝室に忍び込もうとしている二体の影があった。

 

 蝦夷の下級妖怪である彼等は、阿黒に力尽くで屈服させられたものの、蝦夷の王が阿弖流為であることに納得し切れていない残存勢力に属すモノ達だった。

 

 彼等は王である阿弖流為の決闘を応援するよりも、この日、嫁いでからずっと寝室に閉じ込められている、かの王が溺愛する人間の女を犯しにやってきたのだ。

 

 連日連夜、この居城にはかの女の悲鳴が響き渡っていて、阿弖流為がそれほどまでに入れ込む逸品なのだと、部下達の間では下卑た噂が流れていたのだが――この日、王が確実に寝室から姿を消してしばらくの間戻ってこないことが確定している決戦の裏で、こっそりと味見してやろうと企んだのだ。

 

 人間の女など脅してしまえば告げ口もすまいと、舌なめずりをしながら寝室へと侵入した二体だったが――残念ながら、生きてその部屋を出ることは叶わなかった。

 

 代わりに、その寝室から出て来たのは、全身を返り血で染めた――紫色の鬼だった。

 

 これまでにないどよめきと、悲鳴のような声援が、こんな洞穴にすら伝わる。

 

 彼が――戦っている。

 

 紫の鬼は、それに向かって引き寄せられるように、もはや自分には相応しくないと分かっている、外の光に向かって、己が身体を引き摺るように歩いて行く。

 

 その背中を、一体の小柄な赤鬼が見詰めていた。

 

「…………」

 

 届かぬ光に、身を焦がす程に惹かれる――余りにも小さな、その背中を。

 

 まるで、どこかの誰かのようだと、哀れみながら。

 

 

 

 届かない――田村麻呂は表情を苦渋に染める。

 

 あらゆる天災を巻き起こす阿弖流為に、田村麻呂は一振りの刀だけを携えて立ち向かう。

 

 雷鳴を、鉄火を、暴風を、凍土を切り裂いて、その手で強引に突破口を開ける。

 だが、届かない――これまでで最も阿弖流為に迫ることが出来たが故に、改めて、その壁の厚さに打ちのめされそうになる。

 

 三明(さんみょう)(つるぎ)

 阿弖流為が保有する、()()()()()()()()()()技術(テクノロジー)で造られた宝具。

 

 ただでさえ尋常ならざる神通力を持つ阿弖流為に、それぞれの剣が更なる規格外の力を黒鬼に授けている。

 

 黒鬼の巨躯に相応しい、右手に握られた身の丈以上の巨大剣・大通連(だいつうれん)は、阿弖流為に無尽蔵の妖力の回復を。

 豪快な黒鬼に似つかわしくない、左手に握られた細く美しい刀・小通連(しょうつうれん)は、阿弖流為に永久の身体の回復を。

 そして宙空に浮き、黒鬼の周りを跳び回る脇差・顕明連(けんみょうれん)の力は――未だ明らかになっていない。

 

 しかし、前者二本の剣の権能だけでも、田村麻呂を絶望させるには十分だった。

 どれほどの規格外の天災を巻き起こしても――大通連の権能により妖力は瞬く間に回復し。

 どれほど田村麻呂が攻撃を届かせても――小通連の権能により身体は瞬く間に回復する。

 

 まさしく――最強の生物。

 星の規律(ルール)を度外視した怪物。この星を滅亡させるべく、出現したかのような破壊者(デストロイヤー)

 

 勝てない――と、これまでの田村麻呂ならば、ここで膝を、何よりも心を折っていた。

 

 だが、今は――。

 

 その心に、何よりも――愛しいその顔を、思い浮かべながら、吠える。

 

「私は――敗けるわけには、いかないのだ――ッッ!!」

 

 どんな消耗も、どんな損傷も、瞬く間に回復してしまうというのなら。

 

 一撃で――その首を落とし、絶命させてみせると。

 

 田村麻呂は、渾身の一撃を叩き込もうと、阿弖流為に向かって駆け出した――その時。

 

「その意気――天晴れでございます。()()()()

 

 田村麻呂と交差するように、その背後から一筋の影が差す。

 

 そして、田村麻呂を追い抜き、一瞬早く、阿弖流為と交錯し――抜き去った。

 

 右手に大剣を、左手に刀を――大通連と小通連、二つの宝具を、奪い去った。

 

 その閃光は紫色で、妖しく――何よりも。

 

――美しい、と。

 

 一人の男と一体の鬼の、目と心をも奪い去った、その影は。

 

 一度だけ振り向いて、変わり果てた――肌の色も、額の角も露わにしながら、それでも、田村麻呂に向かって、微笑みかける。

 

 それを見て――田村麻呂は全てを理解し。

 

 愛する女の心に応えるように、その手に力を込めて――その刀を振るった。

 

 ソハヤノツルギ。

 星に選ばれたという田村麻呂の祖父が、文字通りその命を燃やして鍛えた刀。

 

 妖怪を退治せよと、星によって鍛えられた聖剣。

 

 田村麻呂が、たった一振り、己が英雄人生に携えた、唯一の武装。

 

 その刀は、最強の妖怪・阿弖流為の首を落とすに至った。

 

 遂にその手に掴み取った勝利に、田村麻呂は拳を握るでも、勝鬨を上げるでもなく――変わり果てた妻の手を取り、一言、首を失った阿弖流為に向かって言った。

 

「妻は――返してもらう」

 

 肌の色が蒼くなっても、角が生えても、紫炎を纏おうとも――鬼と、成り果てようとも。

 

 愛は、変わらないと。愛は、揺るがないと。

 

 そう示すように、燃える妻の手を握り続ける男に。

 

 鬼となった女は号泣し、胴体と切り離されてもなお意識を保つ鬼の首は――失恋を認め、笑う。

 

「――俺の、負けだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――私の勝ちよ」

 

 鈴鹿御前は、ただ静かに、そう呟いた。

 

 青炎を纏いながら襲い掛かり続ける翼蛇との死闘に――終止符を打つように。

 

 彼女がその身から取り出したのは、一振りの巨大剣と、一振りの細く美しい刀。

 

 己が妖力に溶け込ましていた――二つの宝具。

 

 大通連――そして、小通連。

 かつて健在していた最強の怪異が振るった二振りの剣。

 

 蝦夷の王・阿弖流為から鈴鹿御前が奪い去った両刀を、今、ここで――鈴鹿御前は抜いた。

 

 阿弖流為が施した儀式により、その身を鬼とした鈴鹿御前には、その身に阿弖流為由来の妖力を流している。

 しかも、妖力と呪力、どちらの色も残したまま混合させている鈴鹿御前に流れるそれは、限りなく阿弖流為本来の色に近しいものだ。

 

 だからこそ、阿弖流為にのみ使用可能な、この二つの宝具を溶け込ますことが出来る。

 

 無論、鈴鹿御前は本来の遣い手ではない。

 彼女がそれを出現させたところで、無限の妖力も、無限の再生も、発揮することは出来ない。

 

 しかし、それでもそれは紛うことのない――蝦夷王の宝具だ。

 

 限界まで追い詰められ、絶体絶命の危機に瀕した、この時。

 まるで愛した女を救わんとばかりに、彼女の中に流れる阿弖流為の妖力()が、彼女に宝具の顕現を可能にさせた。

 

(――また、あなたに助けられたわね。……阿弖流為)

 

 彼女の脳裏に過ぎったのは、余りにも大きく自分達の前に立ち塞がり――それでも、最後には友諠を結ぶことの出来た、旧友の笑顔。

 

 あの鬼に助けられるのは――少し癪で、それでも、今ならば素直に、こう言えることが出来た。

 

「――ありがとう。私を――私達を、助けてくれて」

 

 宙空に顕現したその巨大剣と細美刀は、鈴鹿御前の意のままに――切っ先を、翼蛇へと向けて。

 

「これで終わりよ――十二神将」

 

 弾丸のように射出され、その頭部と胴体を貫いた。

 

 大翼を携えた大蛇は絶叫の咆哮を漏らし、その有り得ざる翼を羽搏(はばた)かせることが出来なくなり。

 

 やがて、墜落するよりも早く、己が青炎によってその身を焼き尽くされた。

 

 こうして、安倍晴明が抱える最強の式神が一体――十二神将・『騰蛇』は。

 

 妖狐であり、妖鬼。

 妖怪であり――『人間』であった彼女に。

 

 かの英雄・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の妻であり、比翼連理と称された愛姫。

 

 鈴鹿御前(すずかごぜん)によって――完膚なきまでに、退治されることとなった。

 




用語解説コーナー60

三明(さんみょう)(つるぎ)

 かつて蝦夷王・阿弖流為――大嶽丸が所有した規格外(オーバーテクノロジー)の宝具。

 星の危機感を露骨に煽り過ぎてしまう為、大嶽丸自身も滅多に使用することはない。
 つまり、この宝具を二振りも同時使用しなくてはならない状況にまで、田村麻呂は追い詰めていたということ。

 大嶽丸は、神通力を阿黒に託したのとは別に、この宝具を鈴鹿御前に託していた。

 鈴鹿御前が使用する際には、大通連と小通連は妖力や身体の瞬時回復ではなく、徐々に回復していくバフ程度の効果しかないが、鈴鹿御前もそれをよく分かっていて――彼女はこれを、ただ武具として使用した。

 蝦夷王が振るう得物として相応しい――破壊力を持つ剣として。
 
 しかし、二振りの宝剣をそんな風に扱える彼女でも――三振り目、顕明連(けんみょうれん)の力は、弱体化した状態ですら使えない、本当に只の飾り物の宝具と化している。

 大嶽丸曰く――顕明連(けんみょうれん)は大通連や小通連以上に、星の規律(ルール)を破る、その最も反則(チート)である宝具だという。
 


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妖怪星人編――61 愛してる

いままでも――ずっと。いつまでも――ずっと。


 

 俺はもう、戦えない――そう、勝者の筈の田村麻呂が、首を失った阿弖流為(アテルイ)に向かって、そう両手を上げた。

 

「俺は鬼となった妻に変わらぬ愛を感じている。最早、お前達が妖怪であるというだけで、憎悪も、嫌悪も、抱くことは出来ない」

 

 憎まぬ相手に剣を向けられる程、俺は器用な人間ではない――そう、田村麻呂は言った。

 

 これまで幾度となく己を地に沈め、愛する妻を拐し、あろうことか妖怪()にしたモノに向かって。

 

 俺はお前が憎くないから戦えないと、そう本心から言ってのける――田村麻呂という男の()()()()()()()()()に。

 

「――は! はは! がはははははははははははははははは!!!」

 

 胴体から離れた首は哄笑し、そして、その首を首無しの胴体が掴み、そして乗せる。

 

 三明(さんみょう)(つるぎ)――最後の一振り。

 顕明連(けんみょうれん)――宙空に浮いたままのその脇差が、くるくると回転し、発光していた。

 

「この剣の権能は――無限の蘇生。この剣が俺のモンである限り、俺は何度でも地獄の淵から蘇る。鈴鹿御前も、かっぱらうならまずこの剣を盗むべきだったな」

 

 無限の妖力。無限の再生。

 それらの規格外(チート)を突破すべく一撃必殺を決めても、無限の蘇生(コンティニュー)を強制させる権能。

 

 改めて、阿弖流為という鬼の反則さを目の当たりにして絶句する鈴鹿御前であったが、田村麻呂はそれを見せつけられて尚――「流石だ、阿弖流為よ」とむしろ称賛するように微笑んでみせて。

 

「首を落とした程度で、お前が死ぬことはないと思ってはいた。敵にすると恐ろしいが――友としては、これ以上なく頼もしく思えるぞ」

 

 そう言って、田村麻呂は阿弖流為に手を差し出す。

 

「俺はお前の妻を攫った。俺はお前の女を鬼にした。そんな俺を、お前は友と、そう呼ぶことが出来るのか」

「お前は俺をいつでも殺せただろう? ならば、お前は妻をいつでも己の女とすることが出来た。それをしなかったのは――こうして、俺がお前の同胞に力を見せるまで待ち続けたのは、()()()()()()()()()()()()()()だと、これは私の思い上がりか?」

 

 田村麻呂は手を差し出しながら、周りを見渡す。

 そこには既に田村麻呂を見限った人間達は存在しなかったが――田村麻呂に向ける瞳が変わった、蝦夷の妖怪達が、田村麻呂と阿弖流為の戦争の決着の瞬間を見届けようとしていた。

 

 誰もが敵わなかった規格外の妖怪王。

 別次元の黒鬼に膝を着かせ、鈴鹿御前の援護があったとはいえ――その首を落とすまでに至った、唯一の存在。

 

 それが、『人間』という、自分達が見下し、そして畏れた存在という目の前の現実に、彼等は固唾を呑んでいた。

 

 阿弖流為は、望んではいた、だが、決して訪れることはないだろうと諦めてもいた、そんな未来を手繰り寄せた――紛うことなき、『英雄』に。

 

「やはりお前は――俺様が見込んだ通りの『人間』だった」

 

 その手を取り、強く握手し――友情を結んだ。

 

 立ち上がり、その手を強く結んだまま、阿弖流為は自分の部下達に、守るべき同胞達に向かって叫ぶ。

 

「――野郎共!! 宴だ!!」

 

 こうして戦争は終結した。

 

 数多くの犠牲を払い、取り返しのつかないこともあったけれど。

 

 それでも最後には、互いに手を取り合い、友情を結ぶことが出来た。

 

 誰もが夢描いた最高の終結へと辿り着くことは出来た。

 

 

 けれど、阿弖流為も、田村麻呂も気付いていた。

 

 人間と妖怪が手を取り合うことが出来た――この現場に、この終結(エンディング)の場に、『人間』は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)しかいなかった。

 

 彼の部下達は誰一人おらず、この現場を目撃していないし、この終結に辿り着いてもいない。

 

 自分達は、遅かった――失敗したと。

 

 だが、それでも、この日、結んだ友情は、開くことのできた宴は本物だったと。

 

 二人は笑みを交わし、酒を交わしながら、その最後の宴を楽しんだ。

 

 そんな両者の姿を、鈴鹿御前は笑顔で、阿黒は無表情で見守っていた。

 

 

 

 

 

 翌日、平城京から伝令がやってきた。

 

 その内容は要約すれば、征夷大将軍・坂上田村麻呂の、平城京への帰還命令。

 蝦夷王を名乗る阿弖流為を連れてとの厳命と共に、差出人として書かれた名前は――和気清麻呂(わけのきよまろ)

 

(……和気清麻呂。新進気鋭の政治家として、正に頭角を現し始めたと評判の若者だったか)

 

 いつの間にか征夷軍に命を送ることが出来る程の立場になっていたのかという驚きもあったが、田村麻呂が目を細めたのは、阿弖流為を連れてという一文があったことだ。

 

 田村麻呂が阿弖流為と友諠を結んだのは昨日のことだ。

 少なくとも、平城京が田村麻呂への帰還命令を出したその時には、田村麻呂は連戦連敗で勝ち目がないという報せを受けていた筈だ。

 

 無理難題を言って田村麻呂に更なる大きな厳罰を加えるつもりだったのか――それとも。

 

 まるで見透かしているかのようなこの一文に不気味なものを感じながらも、田村麻呂が取れる選択肢は一つだった。

 

 受けるしかない。

 この命を断っても、田村麻呂が政敵にされるだけだ。阿弖流為を連れていかなくとも、今度は自分ではない将軍が蝦夷に派遣されるだけだろう。

 

 それでは意味がない。

 阿弖流為の願いを叶える為にも、ここでの答えは一つだった。

 

「――すまない、阿弖流為。俺の力不足だ」

「何を言う。お前でなくてはここまでこれなかった。ならば、これが天命というものだろう」

 

 恩に着る――そう言って、田村麻呂は全身全霊を懸けて、阿弖流為を守ると宣言した。

 

 人間の英雄が、妖怪の王を守ると宣言するその光景は、まるで夢のようだった。

 

 奇跡のようだった。

 きっと、この二人でなくては辿り着けなかった境地。

 

 同じ女を愛した男達が結んだ友情は、確かにそこにあって、とても美しくて――儚かった。

 

 その時、そこにいて、それを見ていた者達は――予感した。

 

 ああ――ダメだと。

 悪い予感を――絶望の未来を、確信した。

 

 赤き小柄な鬼は思いをぶつけた。

 行っては駄目だと。黒い鬼を説得しようとしたが――その思いは、聞き届けられなかった。

 

 紫の鬼女は縋った。

 お願いだから行かないでと。

 

 蝦夷の未来も、人間の世界もどうでもいい。

 

 私には、ただ、あなたがいればそれでいいと。

 

 あなたの為ならば何でもする。

 あなたの為なら何にだってなれると。

 

 だからどうかと。

 縋る女の唇を――英雄は己が唇で塞いだ。

 

 まるで全てを受け入れるように。

 

 あるいは――もういいと、拒絶、するように。

 

 必ず帰ると、男は言った。

 

 鬼となった鈴鹿御前は平城京へは連れてはいけない。

 だから、待っていて欲しいと、そう囁く田村麻呂。

 

 女は男の胸で泣き、頷いて――裏切った。

 

 もう二度と裏切らないと誓っていた男の言葉を、女は再び裏切って、平城京へと潜り込んだ。

 

 後ろ手に縛られた阿弖流為。それを引き連れる田村麻呂が通された――評定の場。

 舞台となった屋敷は結界が施されていて、内部に侵入することは出来なかったけれど、鈴鹿御前は塀の上から顔を出して。

 

 

 ()()を――見た。

 

 

 列席した平城京の首脳陣達。そんな彼等と、田村麻呂と阿弖流為の仲介をするように間に立つ白い若者――和気清麻呂。

 

 平城京の頂点に立つ彼等に向かって、田村麻呂は、懸命に訴えた。

 蝦夷にはもう平城京への敵対の意思はないこと。人間と妖怪は棲み分けが可能であるということ。

 

 そして、自分と阿弖流為は、友諠を結び――分かり合えたこと。

 

 人間と妖怪は、手を取り合い、分かり合えるのだということを。

 

 坂上田村麻呂は――同胞である『人間』達に向かって、懸命に、命を削るように訴えかけ続けた。

 これが自分の――最後の仕事であると、そう言わんばかりに。

 

 そんな彼の言葉に、熱に、引き寄せられそうになる首脳陣を――制するように、和気清麻呂は手を横に伸ばして。

 

 微笑みを――田村麻呂に向けて。

 

 何もかもを見透かしたような瞳の、男は言った。

 

「――坂上田村麻呂様。貴方は間違いなく『英雄』です」

 

 しかし、もう――『星の戦士』ではない。

 

 そう言って、指を鳴らし――結界の力を発動させる。

 

「お疲れ様でした。貴方の出番は、もう終わりです」

 

 結界の力は、阿弖流為の頂上にて超常の力――その全てを封じ込め。

 

 そして、坂上田村麻呂は、星に授けられたその力――その全てが、振るえなかった。

 

 阿弖流為と田村麻呂は、それでも懸命に戦った。

 ここが自分達の終着点だと理解しながら、それでも互いの為に――互いを認め合った、戦友の為に。

 

 しかし、それを嘲笑うかのように――和気清麻呂は、一切の容赦なく。

 

 坂上田村麻呂と阿弖流為――『英雄』と『妖怪王』を、この上なく無残に処刑してみせた。

 

 まるで何かを見せつけるように。まるで誰かに見せつけるように。

 

 妖怪王は、それでも豪快に、死の瞬間まで笑い飛ばし。

 

 英雄は――最後に、愛する女を見つけ、微笑みかけた。

 

 女は、結界に全てを跳ね返され、全てが己にのみ降り注ぐ絶叫を、平城京全土へ響き渡らせた。

 

 愛する者を奪ったモノ達へ、有らん限りの憎悪を込めながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 倒れ伏せる『騰蛇(とうだ)』を一顧だにせず、鈴鹿御前は歩みを進める。

 

 背後から轟音が聞こえる。

 小柄な赤鬼と現代の英雄――あちらの戦いも決着らしい。

 

 だが、そんなものに鈴鹿御前はまるで興味はなかった。

 

 阿黒――悪路王(あくろおう)の命の灯火が消えようとしている。

 あの鬼とも古い付き合いだが、感傷のようなものも微塵も湧かない。

 

 共に――あの時、死ぬ筈だったモノ達だ。

 無駄に生き恥を晒した、無様に生き延びてしまった敗者同士。

 

 先に逝くのか――やっと逝けるのか。

 浮かぶのは、そんな思いだけ。

 

(――羨ましいわね。……でも、私は、まだ逝くわけにはいかないの)

 

 まだ、やらなくてはならないことがある――と、今にも倒れそうな足を、引き摺るように前に進める。

 

 十二神将・『騰蛇』との激闘は、確実に鈴鹿御前の命の残量を毟り取っていた。

 

 身に馴染まない『妖狐』の力。身に余る『妖鬼』の力。とっくに寿命を迎えている筈の『人間』としての呪力。それらを限界以上に引き出した挙句、阿弖流為の『宝具』まで引っ張り出したのだ。

 

 とっくの昔に罅だらけで、今にも砕け散ってもおかしくなかった。

 

 それでも、鈴鹿御前は。

 一歩一歩に激痛を覚えながら。

 

 己の身体を灼く炎が、紫から蒼へと変わり――やがては消え去り。

 

 己の身体を彩る色が、紫から蒼へと変わり――やがては、懐かしい肌色に戻り。

 

 天を貫くような角が消え、六本の尾が、一本、また一本となくなって、やがては耳もなくなって。

 

 何もかも失って――それでも、ただ、愛だけを抱えて。

 

 あの頃のように、いつかの頃のようになって。

 

 それでも――鈴鹿御前は、朱雀門を潜る

 

 ただ――もう一度だけ。

 

 あの人に、会いたくて。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――あなたには何も出来ませんよ。

 

 白い男は、血に塗れて地に伏せる女に、微笑みながらそう吐き捨てた。

 

「確かに、あなたが言うように、私があの両者を処刑できたのは、事前に私が念入りに作成した結界内だったからです。あなたの夫が蝦夷で阿弖流為を足止めし続けたお陰で完成した渾身の逸品です。まぁ、田村麻呂殿が『星の戦士』でなくなったのは、『星人(妖怪)』を愛した自業自得故ですが」

 

 つまりはあなたのせいです――遠くなっていく耳には、ただその言葉だけが届き、殊更に深く突き刺さった。

 

 私のせい――私のせいで、あの人は。

 

 あんなにも惨たらしく、死ななくてはならなかったのか。

 

「その通りです。あの両者は、そもそも自分の運命を受け入れていた。この平城京に来れば殺されると覚悟の上で、最後まで誇り高く在った。その誇りをあなたは汚したのです。その汚い血でね。あなたが本当に彼を助けたかったのならば、そもそも此処に来させるべきではなかった――中途半端だ、あなたは。その全ての行動が。その全ての選択が」

 

 あなたのその醜い姿が、何よりも雄弁にそれを物語っている――と、和気清麻呂は、あくまでも微笑みながら言う。

 

(……醜い。そうでしょうね。綺麗な『人』でもない……かといって正しい『鬼』でもない。中途半端――正しくその通りね)

 

 男を愛する一人の女でいたかったのならば、間違っても阿弖流為に嫁ぐことなどしてはならなかった。

 英雄の隣に立ちたい一人の戦士になりたかったのならば、間違っても鬼になどなってはならなかった。

 

 彼を死なせたくなかったのならば、友情(アテルイ)よりも(わたし)を選んでと、そう想いをぶつけるべきだったのだ。

 

「全くもって、無駄な行いだ。あなたは一体、何がしたかったのです?」

 

 そう、無駄だ。文字通り、無駄な足掻きだった。

 

 確かに和気清麻呂が坂上田村麻呂と阿弖流為を処刑できたのは、あの結界のお陰だろう。

 

 それでも、例え結界の外の夜道であろうと、鈴鹿御前では和気清麻呂を殺せないということは、一目見ただけで理解出来ていた。

 

 坂上田村麻呂と初めて出会った瞬間、一目で愛を覚えたように。

 和気清麻呂と初めて出遭った瞬間、一目で――畏れを、覚えたのだから。

 

 あの『英雄』と同じだけの衝撃を、この『人間』からは感じ取った。

 

 だから、こうなることは必然だった。

 

 それでも――私は。

 

 果たして――何が、したかったのか。

 

「愛する男と共に死にたいというのならば――望み通り、そうして差し上げます」

 

 鈴鹿御前(あなた)は別に、必要不可欠な役者(キャスト)ではない――そう言って、白い男は一枚の術符を、もはや身動きの取れない鈴鹿御前へと放る。

 

 そして、その落ち葉のような符が、鈴鹿御前へと辿り着いた瞬間――彼女の全身が、炎に包まれた。

 

 それは紛うことなく、彼女を冥府へと誘う荼毘(だび)であった。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 恥ずかしい程の絶叫を上げながら、それでも彼女の心を包み込んだのは――身を焼く、命を溶かす燃焼に包み込まれながら、それでも心に浮かんだのは、安堵だった。

 

 死――奇しくも、あの白い男の言葉は、彼女に一時の安らぎを齎した。

 

 愛する男と共に死ぬ――あの人と、同じ場所へ、逝ける。

 

 それはとても甘美だ。

 もしかしたら、それこそを求めて、彼女は勝ち目のない戦いを、仇敵に向かって挑んだのかもしれなかった。

 

 あの人を失った世界に希望なんてなかった。救いなんてなかった。

 どうやって息をすればいいのかも分からない。自らを荼毘に付そうとしているこの炎の中の方が心地よいくらいだった。

 

「さようなら――裏切りの花嫁。どうか冥府では、夫婦仲良く暮らせることを祈っています」

 

 そう言って、白い男は去っていく。

 路上で燃え盛る女に背を向けて。最早、彼の世界では、鈴鹿御前という存在は登場人物一覧(キャスティングボード)から消失――焼失したかのように。

 

 しかし、鈴鹿御前は――瞬間。

 

 男のその言葉により、静かに眠りにつこうとしていたかのように瞑目していた、その瞼を持ち上げる。

 

 炎の中で、起き上がる。

 

(……そう。私は、ずっと裏切ってきた。誰よりも愛するあの人を――誰よりもずっと、裏切り続け来た)

 

 不倫をし、堕落した。

 敵方の王の妻となり、人間をやめて鬼となった。

 

 そんな女を抱擁し、そんな醜い存在を――美しいと言ってくれた。

 

 こんな私を、あの人はそれでも――愛してくれた。

 

 死の間際。

 

 あの人の最後の言葉をも裏切って、平城京へと忍び込んだ妻を発見し。

 

 しょうがないなといわんばかりに苦笑して――微笑んで。

 

 あの人は、私に、音の届かない中、優しい唇の動きで、こう言った。

 

 

――()()()、と。

 

 

「なら――私は……死ねない……ッッ!!!」

 

 ずっと夫を裏切り続けてきた妻を――それでも信じ、それでも受け入れ、それでも愛し続てくれた男の、最期の願いを。

 

 こんな私の安らぎの為に、こんな私の中途半端の為に、こんな私の――死にたいという、願望の為に。

 

 これ以上――あの人を、裏切ることなどあってはならない。

 

「生きなければ……私は――まだ」

 

 いつしか絶叫は止み、一歩も動かせなかった身体は、ふらふらと起き上がり、動き出した――それは、文字通りの、幽鬼が如くで。

 

 醜いと、白い男に唾棄された身体は、美しいと、愛する男に讃えられた身体は、ぼとり、ぼとりと、皮膚が爛れ焼け落ちていく。

 

 それでも――鈴鹿御前は、死ななかった。

 全身を焼かれ、跡形がなくなる寸前まで弱り切ったが――それでも、死ななかった。

 

 平城京を脱し、鈴鹿山へと辿り着いた。

 

 だが、死ななかっただけで、生き延びたかどうかは分からなかった。

 

 長い年月を掛けて、肉体的な消耗は回復したが――意識を失ったかのように、彼女は鈴鹿山から下りることはなかった。

 

 生きろと願われた。それを裏切れなかった。

 

 しかし、何をしたらいいのか分からなかった。

 愛する男を失い、生きる希望を失った彼女にとってはやはり、その世界で行う呼吸すらも責め苦だった。

 

 ただ死んでいないだけの日々。

 頑張って、死力を尽くして、死なないだけの日々を送っていた。

 

 果たしていつまで、この責め苦の日々は続くのか。

 何の希望もない生存を続ける、この苦行を、果たしていつまで続けなくてはならないのか。

 

 これこそがまさか、愛する者を裏切り続けた女に与えられた罰なのかもしれないとすら思い至り始めた頃。

 

 鈴鹿山に、一匹の狐が現れた。

 

 突如として出現した彼女は、ただ死んでいないだけの女に向かって、こう吹き込む。

 

――お前の仇は生きている。お前の愛も、また生きている。

 

 和気清麻呂も、そして、坂上田村麻呂も――()()()()()()()と、そう嘯く狐に。

 

 突如として立ち上がり、接近し、殺意の篭った眼光を、至近距離でぶつける鈴鹿御前に。

 

 その狐の女は、一切動じることなく、淡々と言う。

 

 死ぬのは、私の言葉の真偽を確かめてからでもよいのでは――と。

 

 こうしてまるで――狐に化かされるように、鈴鹿御前は口車に乗り、『狐』勢力の四天王となって。

 

 正体を隠す為と、衰えた力を補充する意味も込めて――彼女は『妖鬼』に続いて、『妖狐』となった。

 

 和気清麻呂が生きているのならば、あの頃と同じでは駄目だと、狐に言われるがままに、彼女は再び、己が魂を冒涜した。

 

 それはまるで自暴自棄ともいえる行動だったが――それは奇しくも、功を奏することとなる。

 

 

 

 来たる前夜祭――前哨戦となる、『土御門邸襲撃』において。

 あの『狐の姫君』の言葉を確かめる意味も込めて、半信半疑の口車の正体を確かめる意味も込めて、『狐』側の指揮官として乗り込んだ彼女は。

 

 今、再び――出遭ったのだ。

 

 仇――『安倍晴明』として、名と、顔と、正体を変えていた『和気清麻呂』と。

 

 愛――『千手観音』として、名と、顔と、身体と、生命と、器と、魂と、ありとあらゆるものを造り変えられていた『坂上田村麻呂』と。

 

 瞬間――彼女は。

 

 今、再び、世界を呪って――そして。

 

 

 そして――。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――――――――だから。

 

 

 だから――――私は。

 

 

「私は……私は――」

 

 許せなかった。

 

 あれほどまでに凄惨に処刑しておきながら。

 

 助命の確約を反故にして。彼の願いを踏み躙って。

 

 ずっと人間の為に戦い続けてきた英雄を――この上なく卑怯に、裏切っておいて。

 

 この期に及んであの男は、この世界は、あんなにも悍ましく、あの御方の生命を冒涜している。

 

 許せるものか――許せるものか。

 

「だから――私は――わた、し……は――」

 

 だから、助けるのだ。

 

 今度こそ私が、あの方を全てから解放する。

 

 あの男から、この世界から――解き放って、救って見せるのだ。

 

 それが、あの御方に出来る、私のせめてもの恩返し――贖罪。

 

 そうすれば私は――だから――――いいえ、違う。

 

「私は――ただ――――」

 

 目が霞み、耳が聞こえなくなる。

 

 足の感覚がない。歩みの感触が鈍く――全てが、遠くなる。

 

 ああ――いやだ、と、涙が流れる。

 

 それを拭うよりも、一歩進むことを選択し――鈴鹿御前は、遂に、朱雀門を抜けた。

 

 いやだ――まだ、待って。まだ――まだなの。

 

 そう、間近に迫ったものから逃げるように、彼女は震えながらもう一歩を踏み出す。

 

 全身が朱雀門を抜け、平安宮へと到達する。

 

 目的の人物――安倍晴明は、まだ遠い。彼はこの平安宮の最も深き場所にいる。

 

 しかし、それでも、ここが――彼女の終着点だった。

 

「―――――――あ」

 

 辿り着いた――鈴鹿御前を、迎え入れるように。

 

 ()()は、彼女の前に現れた。

 

 まるで――ずっと、傍に居たかのように。

 

 ふっと、静かに、彼女の前に降り立った。

 

「ああ…………ああ―――ッッ!!!」

 

 最早、何も聞こえない。

 

 全てが遠い世界で、それでも、彼女には一目で分かった。

 

 ありとあらゆるものが変わり果てた。

 妖鬼になった自分よりも、妖狐になった自分よりも、それでも人間を捨てられない――中途半端な、鈴鹿御前よりも。

 

 面影など微塵も残っていない。『魂』も『器』もこの上なく『変形』させられた――それでも、分かった。

 

 あの時と同じ――愛が、一目で、己が全てを支配した。

 

「ああ―――――会いたかった」

 

 彼女は両手を広げて歓待した――かの存在が、振り下ろす刃を。

 

 千手観音(せんじゅかんのん)――その無数の腕の一本が持つ宝剣が、彼女の身体を斬り裂く閃きを。

 

 彼女に死を齎す一撃を。

 

 彼女の願いを――叶える一撃を。

 

 愛する男だったモノから放たれる殺害を――愛する女はこの上なく愛おしそうに歓待した。

 

(ああ――でも)

 

 彼を救うことはできなかった。彼を助けることは出来なかった。

 

 彼と同じ場所に逝く――それが彼女の願いだったけれど、彼が救われていない以上、それは本当に意味では叶えることが出来なかった。

 

 鈴鹿御前は、坂上田村麻呂を、今、再び、裏切った。

 

「ごめんなさい――私だけ、救われて」

 

 斬撃を振り降ろした後、千手観音は、その姿勢のまま動かなかった。

 

 彼女に致命の一撃は与えたという判断なのか。それとも、既に跡形もなくなった筈の何かが――抗っているのか。

 

 鈴鹿御前は、そんな千手観音を、残った力の全てを込めて――抱き締めた。

 

 消えゆく命の、最後に残ったものを、せめてと彼に――届けるように。

 

 どんなに変わり果てた自分にも、彼はそう囁いてくれた――疑ったことはなかったけれど、今、正しく、あれは本物だったのだと、そう確信し、何より自分が救われながら。

 

「――――愛してる」

 

 いままでも――ずっと。いつまでも――ずっと。

 

 わたしは――あなたが救われることを、願い続けていますと。

 

 そうありったけの愛を込めて、鈴鹿御前は――息を引き取った。

 

 千手観音は、そんな彼女に、いつまでも抱き締められ続けていた――まるで、彼女を、抱き締めるように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんな、一つの愛の結末を。

 

 朱雀門の前で――坂田金時(さかたきんとき)は眺めていた。

 

「……………」

 

 前夜祭――前哨戦。

 土御門邸襲撃戦のことは、渡辺綱から聞いてはいた。

 

 中宮定子の霊を伴って清少納言が藤原道長を狙った土御門邸内部の戦いの他に、あくまで互いに、正しく前哨戦のような小競り合いではあったものの――土御門邸の庭園にて、渡辺綱と天邪鬼、そして、安倍晴明と鈴と名乗る妖狐の激突があったと。

 

 その鈴という妖狐は、今宵――かの『鈴鹿御前』であったということが明らかになったわけだが。

 

 問題なのは、鈴鹿御前は、その前哨戦にて――安倍晴明と一戦を交え、あの『千手観音』と相対していたということ。

 

 つまりは――その時。

 安倍晴明は、千手観音を、鈴鹿御前に()()()()()()()()ということだろう。

 

 彼女が、他ならぬその千手観音を追い求めていたのを、無論、全て――見透かした上で。

 

 朱雀門を抜け、平安宮へと足を踏み入れた、その瞬間――彼女を止める、つまりは殺すように、あらかじめ指令(コマンド)を与えていたのだ。

 

 無論、妖怪から人間を守る――それだけの面を見たら、正しい、合理的な処置だ。

 

 正しくて、正しい――『人間』の、行いだ。

 

 

――これが、『人間』のやり方だ。

 

 

 そう、金時の背後に立つ『影』が言う。

 

 薄い影は、まるで幽霊のようなそれは――悪路王が作り出した『分身』だった。

 

 阿弖流為が悪路王に託した神通力――その最後の能力。

 終ぞ悪路王が使いこなすことが出来なかったそれを、悪路王は――己を打倒した金時に、言葉を遺す為だけに、死力を尽くして発揮していた。

 

 

――お前は言ったな。お前は自分で、英雄になると決めたんだと。

 

 

「……ああ」

 

 金時は、確かにそう思ったのだ。

 

 始まりは、母の言葉だったのかもしれない。

 

 けれど、それは決して呪いではなくて、己は縛られてなどいなくて。

 

 足柄山を下りて経験した、人々との出会い、与えられたもの、そういったものによって培われた――間違いなく、己の中で芽生えた願いなのだと。

 

 自分は――自分の意思で、『人間』を守りたいのだと、そう願ったのだと。

 

 

――()()を見ても、お前はそう言えるのか?

 

 

 悪路王の影は指差す。

 

 千手観音を抱き締めるように永眠(ねむ)る、鈴鹿御前を。

 

 他ならぬ――『人間』の()によって。

 

 愛する男を救う為に、この上なく化物になった女と。

 この上なく化物にされ、愛する女を殺させられた男を。

 

 悪路王は――言う。

 

 

――それでもお前は、英雄になるのか?

 

 

 悪路王の残影は、囁くように、金時に言う。

 

 鈴鹿御前の半生を。

 千手観音の正体を。

 

 そして、それらを全て見透かし――全てを企んだ男を。

 

 安倍晴明という『人間』を――安倍晴明という化物を生み出した、『人間』という『在来種(いきもの)』を。

 

 

――お前は、愛することが、出来るのか?

 

 

「……………」

 

 金時は、言葉を出そうとして――まるで、呪いのように、その言葉は蘇る。

 

――『英雄』に、なりなさい。

 

 思わず怯むように身を震わせて、金時は、影を振り向かずに言う。

 

「それでも……俺は――」

 

 目の前の、惨状を見る。振り向かずに――前を見る。

 

 凄惨な地獄だった。

 戦争が始まり、たったの数時間で、ここまで無残に破壊された平安京。

 

 例え、それを引き起こしたのが――『人間』なのだとしても。

 全ての絵図を描いているのは、その『人間』なのだとしても。

 

 悲鳴を上げ、痛み、苦しんでいるのもまた――『人間』で。

 

「俺は――それでも、『英雄』になるんだ」

 

 英雄と、かつて呼ばれたモノの成れの果てを。

 

 哀れに固まる千手観音を――真っ直ぐに見据えながら、金時は言う。

 

 それでも――かつて、妖怪大戦争を終結させた、偉大なる英雄(せんぱい)に、向かって言う。

 

「――このふざけた戦争を止める。それが出来るなら、いくらでも……『英雄』にだって、なってやるさ」

 

 俺は、自分(テメェ)で、英雄になると決めたんだから――そう小さく、けれど力強く言った金時に。

 

 悪路王は――どてっ腹に風穴を開けて、倒れ伏せる悪路王の本体は、その背中を、霞む視界で眺めながら言う。

 

 その背中は――確かに。

 

 かつて、敬愛する『頭』を死地へと誘った忌むべき『英雄』に。

 

 それでも、自分が引き出せなかった『頭』の全力を、そして笑顔を引き出し、自分が立てなかった場所(となり)に立った、偉大なる『英雄』に、重なって見えて。

 

 ああ――また、勝てなかった、と。

 

 そう、眠るように、穏やかに息を引き取った。

 

「……………」

 

 呼応するように、分身もまた、瞑目しながら雲散霧消する。

 

 金時は、それを背中に感じながら、しばし、何かを噛み締める様に立ち尽くした後。

 それでも、まだ戦争は終わっていないと、泣いている人々の下へ駆け出そうとして――それを見付けた。

 

 見上げて、見付けた――真っ黒な夜空に浮かぶ、一羽の青く輝く燕。

 

 誰も彼もが死んで、門すら跡形もなくなった――『朱雀門跡の決戦』。

 

 その終結を、まるで見計らったような――見透かしたようなタイミングで、金時だけが残された戦場に、その燕はやってきた。

 

 青い燕――それが意味する所は、平安京最強の陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)からの伝令に他ならない。

 

「……………」

 

 龍の右拳を、そして、人間の左拳を握りながら、金時はその燕を迎え入れた。

 

 英雄を目指す男は、一つの戦争を乗り越えて――また、新たなる戦場へと向かう。

 




用語解説コーナー61

千手観音(せんじゅかんのん)

 安倍晴明が和気清麻呂から受け継いだ式神。

 日ノ本屈指の『英雄』を原材料に作成された傀儡人形であり、その戦闘力は十二神将を除けば晴明が所有する式神の中でも屈指である。

 事前に入力された指令を忠実に実行し、既に材料にされた『英雄』の意思は残滓すらも遺されていない――筈だった。

 だが、その怪異を殺害した瞬間――およそ千年に渡り稼働するだろうと白き『人間』が太鼓判を押した傑作は、己の中に大量に発生した『エラー』に動作不良を起こした。

 身体が動かなかった。
 与えられた指令を実行しなくてはならないのに、門を抜けようとする侵入者を排除しなくてはならないのに――その女を、振り解けなかった。
 
 その日――夜が明けるまで、その仏像は動けなかった。

 既になくした筈の心が上げる悲鳴(エラー)に――己が破壊されるのを感じた。

 その日――何かが死んでいくのを、仏像は感じた。

 そして、千手観音は――正真正銘の怪異へと成り果てて。

 千年先も、ただ与えられるがままに、指令に従い――その刃を振るい続ける。


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妖怪星人編――62 魔人、襲来

通称【ラスボス】。その――鮮烈なる、登場シーンだった。


 

 その瞬間――黄金の光が、平安京を包み込んだ。

 

「――――ッ!?」

 

 燃え広がるかのような強い光の奔流に、平安宮の奥深く――妖怪大戦争の戦火すら届かない程の深い闇の中で、ボロ衣のように倒れ伏せていた狐は。

 

 今宵の戦争の主役の一角たる大ボス――『狐』勢力の頭である『狐の姫君』――『化生(けしょう)(まえ)』は。

 

 赤を通り越して赫に――そして血のように黒く染まっていた、莫大なる妖力の『皮膚鎧』を、ボロボロと崩れ落としながら、呻いた。

 

「………今度は、一体、何が起こったというの?」

 

 ありとあらゆる混乱が、衝撃の展開が次々と巻き起こっている妖怪大戦争――その全ての文字通りの蚊帳の外である、安倍晴明謹製の結界に囲まれた大内裏、その内部においても。

 

 正に――衝撃の展開が繰り広げられていた。

 

 妖怪勢力の大ボスたる『化生の前』。

 彼女は戦争が始まるや否や、他の何にも目もくれず――途中、()()()()に立ち寄ったが――『人間』勢力の最高戦力でありながら、拠点防衛と要人警護の為に戦局から外れた男――『安倍晴明(あべのせいめい)』を狙い討ち、見事に急襲を成功させた。

 

 その結果、ここに――『化生の前』vs『安倍晴明』という、戦争の最終盤にて最終決戦として用意されるべき最高の対戦カードの一戦が、早々に組まれてとんとん拍子に開戦した。

 

 そして、その夢の戦いは、それに相応しい大激戦となった。

 化生の前は赤い妖力の『皮膚鎧』を更に赫くし――奥の手の切札であった『黒い鎧』、そして『疑似九尾化』まで取り出して、それこそここが最終決戦となっても後悔はない、否、これを最終決戦とする覚悟を持って、己の全てを出し切った――が。

 

 その全てが――『()()()()()()()()()()()()

 

 結果は――()()

 

 全ての『皮膚鎧』が力尽くで剝ぎ取られ、地に叩き伏せられ、無様に横たわることとなり――平安京を焼き尽くさんばかりの強烈な黄金の光を浴びせられるまで、意識を完全に奪われていた。

 

 何故――自分は生きているか――生かされているのか。

 そんな疑問よりも前に、思わず呟いてしまった独り言。

 

 一体、何が起こっているのか――それに対する返答が。

 

 自分が此処に侵入してきた時と同じ姿勢で腰を掛けている――()()()()()から返って来た。

 

【――『主演』が、ようやく『舞台』へと上がったというわけじゃ】

 

 そこに居たのは――【知らない男】だった。

 

 自分がこの結界内へと侵入した時、自分を出迎えた『白い男』の面影は一切ない。

 

 ただただ黒い。闇のように黒く、影のように黒い。

 平安京全土を包み込んでいるかのような強烈な黄金の光を浴びせかけられて尚、その光すら呑み込んでいるかのように、何もかも明らかにされない程に――()()

 

【遅れていた『役者』も揃ったようじゃ。つまり――ここからが本番じゃな】

 

 真っ黒な男は、真っ黒に言った。

 

 笑っているかも分からない。笑っていないかも分からない。

 

 その言葉は平坦で、平淡で――やはり、何色でもない、真っ黒だった。

 白い所がない。無色すらない。全てを吞み込み、全てを塗り潰すような――黒い男。

 

 世界の中に、物語の中に、突如として湧いた――不穏分子(エラー)のような、異物。

 

「……あなたは――誰なの?」

 

 安倍晴明――ではないのか。

 

 自分と同じ『母』から生まれた『兄』。

 

 この星に来訪した『真なる外来種』たる『葛の葉』から生まれた『星の戦士』。

 妖怪の血を引く『半妖』でありながら、『在来種』たる人間を守るべく『星の力』を与えられた――真なる『人間』。

 

 史上最強の陰陽師。『人間』側の最高戦力。

 

 安倍晴明――では、ない、のか。

 

 ついさっきまで――目の前の男は、白かった筈だ。

 

 自分が戦っていたのは――そんな、『人間』だった、筈だ。

 

(……これが、『安倍晴明(あべのせいめい)』の――正体?)

 

 正体が不明であるのもな――その白い男は、儚く笑い、言った。

 

 己の身体に――黒い『呪印』を巡らせながら。

 

 その黒い呪印は、化生の前の『皮膚鎧』が赤から赫に、そして黒になっていくのに、呼応するように。

 

 黒から黒へ――そして、黒へ。

 白を塗り潰すように全身へ巡り――『人間』を犯すように、真っ黒に染まり。

 

 そして――。

 

――私は、お前以上に、『特異』なのだ。

 

 そして――【黒い何か】は、言う。

 

【儂は――【蘆屋道満(あしやどうまん)】という】

 

――願いを叶えるには、苦難が伴うということを。

 

 かの白い男の――兄の言葉を思い返す、化生の前――妹に向かって。

 

 黒い何かは――己が名を。

 

 安倍晴明ではなく――蘆屋道満と名乗った。

 

【よろしくの――そして】

 

 さよならじゃ。葛の葉の遺産よ――そう、黒い男は、真っ黒に言って。

 

 倒れ伏せる化生の前に向けて――何時の間にか指の間に挟んでいた、その【黒い術符】を放った。

 

 それが己の下に届くよりも前に――化生の前は再び『鎧』を身に纏って。

 

 瞬間――黒い爆発が、化生の前を包み込んだ。

 

 安倍晴明が、要人貴人達が眠らされたまま封じられている建物を守るべく、二重に包み込むように張った結界。

 

 更に念の為にと、その上に重ねるように、【黒い男】は己の前に黒い御簾のような結界を下ろして、己の術が起こした黒い爆風から身を守った――が。

 

 爆炎が収まり、爆風が止んで、黒い御簾を上げたその場所に――狐の死体は、転がってはいなかった。

 

【…………逃げたか。まぁ、それはそれでよかろう】

 

 既に『狐の姫君』に代わる『ボス』は平安京に来襲している為、最悪、()()()()()()はここで処分しても構わないかと思ったが、逃げるというならば、それでもいい。

 本来の筋書き通りに進むだけだ。『第三のボス』との関係性(伏線)もある。それなりに面白い転がり方をすれば、新たな展開も生まれるだろう。

 

【それに、儂のような盤外キャラがチートでボスキャラを殺すなど、興醒めもよいところじゃ】

 

 メタ展開ほど醒めるものはないと、【黒い男】は再び深く腰を下して。

 

 天に浮かぶ赤き月を見上げ、戦場から離れた結界内――『盤外』に、微かに届く平安京の恐慌に耳を澄ませる。

 

【儂はあくまで、舞台袖の脚本家(ストーリーテラー)に過ぎぬ。実際に物語を演じるのは、舞台の上の役者でなくてはな】

 

 ああ、楽しみじゃ、楽しみじゃ――と、夢を見るように、【黒い男】は目を瞑る。

 

【お主もそう思うじゃろ――()()

 

 親しげに、安倍晴明と同じ顔で、同じ声で――【黒い男】は、『白い男』へと語り掛ける。

 

 そして、今度は白い術符を取り出し、五枚の術符を、五羽の青い燕へと変えて――結界の外の戦場へと飛ばした。

 

【さあて。クライマックスの始まりじゃ。共に見届けようではないか。千年に一度の――祭りの終わりを】

 

 平安京の最奥にて、再び闇に包まれた蚊帳の外で。

 

 その【正体不明】は、たった一人で、真っ黒に笑った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その黒い嵐は、唐突に現れた――正しく、天から降り注ぐ雷が如く。

 

 突き刺すように平安京を縦断し、地獄の戦場に――降臨した。

 

 何もかもを吹き飛ばして、一切合切を滅茶苦茶にした。

 

『クズノハァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!』

 

 漆黒の魔人――『平将門(たいらのまさかど)』。

 

 かつて日ノ本を混乱と恐怖の坩堝へと叩き落した伝説。

 

 新皇を名乗り、坂東を暴れ回り、処刑された筈の、その男が。

 

 時を超えて復活し、かつて辿り着けなかった場所へ――平安京へと、帰還を果たした。

 

 嵐の如く襲来し、雷の如く降臨し――黒い炎と共に、全てを破壊した。

 

 民も、街も――武者も、妖怪も。雷神も、最強も――何もかもを。

 

 魔人の黒炎が――その全てを、呑み込まんばかりに襲い掛かる。

 

(――――何だ、これは…………ッ!!)

 

 その魔人の登場を認識できたのは、百戦錬磨の頼光四天王である碓井貞光(うすいさだみつ)卜部季武(うらべすえたけ)の両名――ではなく。

 

 皮肉にも、かの魔人が現れる直前に、最強の妖怪の位に指を掛けるに至った一羽の烏――雷神の力を獲得した天邪鬼(あまのじゃく)だった。

 

 魔人の覇気、獄炎が如き黒炎――それを目前にしてなお、彼だけがただ一体、意識を辛うじて保つことが出来ていた。

 

(コイツは――何だ……ッッ!!??)

 

 全知たる星詠みの陰陽師によって生み出された『烏』とはいえ、彼自身に全知は備わってはおらず――故に、目の前の黒い何かが、かの平将門だと一目では看破出来ない。

 

 真っ黒な肌に、真っ赤な瞳。

 

 六本の指。禍々しい角。鱗が生えた腕。突起だらけの尾。巨大な牙。刃が如き爪。

 

 その姿を凝視するだけで、全身に畏れが駆け巡る。

 

 黒い、黒い、黒い、黒い、黒い、黒い。

 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。

 

 目の前の漆黒は()()()()()()――だが、かといって、()()()()()()

 

 何だ――目の前の、この黒い何かは。

 

 黒くて怖い。黒くて恐ろしい。

 

 コイツは――存在してはいけない何かだ。

 

「――――ッ!!???」

 

 ぎょろりと――その黒い何かの中で唯一の赤が、血色に染まったその瞳が、己を――天邪鬼という妖怪を捉えた。

 

 見られた。見つかった。認識――された。

 

 恐ろしい何かに。正体不明の漆黒に。

 

 全身を貫くような――恐怖に、犯される。

 

「う――うわ――うわぁぁあああああああああああああああああ!!!」

 

 天邪鬼は絶叫しながら目の前の漆黒に掌を向ける。

 恐怖で硬直し、生を諦めようとする心を叱咤し――戦いを挑む。

 

(ふざけるな――私は最強になったのだ!! 雷神の力を手に入れ、私はあの御方の――必ず、あの御方を――()()()()()()――!!)

 

 ようやくだ――ようやくなのだ。

 全てはあの全知たる主の筋書き通りなのかもしれない――だが、それならば、自分は、主の期待に応えられたということなのだ。

 

 身の丈に合わない力だという自覚はある。

 だが、それでも、今宵だけは――この夜が明けた頃に消滅している身分なのだとしても、それでも。

 

 まだ――始まったばかりなのに。

 

 まだ――まだ――これから、なのに。

 

「邪魔をするな!! 邪魔者がぁぁああああああああああああ!!!」

 

 天邪鬼は、渾身の力で、手に入れたその力を全力で振るって、雷を空から落としてみせて――。

 

 その雷柱が、丸ごと――黒炎に呑み込まれた。

 

「――――――――ッッッッ!!!!!?????」

 

 雷神が振り落とした稲妻が――魔人が突き上げた炎柱によって喰われた。

 

 それは、黄色が黒色に侵食され、塗り替えられたが如き衝撃の映像で。

 

 天邪鬼は現実を認識するよりも早く、黒炎に包み込まれて、視界を黒く染められた。

 

 何も――かもを。

 

 願いも、怒りも、夢も、希望も、何もかもを平等に滅茶苦茶にする規格外。

 

 これが魔人――平将門。

 

 かの【黒い男】が招待した、祭りの新たな主役――通称【ラスボス】。

 

 その――鮮烈なる、登場シーンだった。

 

 

 こうして、一つの戦争を、強引に力づくに、ただただ無慈悲に暴虐的に、台無しにした平将門は。

 

 そのまま何事もなかったかのように現場を後にし、地獄たる平安京を徘徊する。

 

『クズノハァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!』

 

 愛する女の名を、それ以外の全てを忘れてしまったが如く、ただ只管に叫び続けながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、魔人が去った後。

 

 ゆっくりと、卜部季武は目を覚ました。

 

「…………う――ハッ!? こ、ここは――!?」

「気が付いたか、季武」

 

 頭を押さえながら、バッと身を起こした季武は、既に覚醒し屹立していた碓井貞光を見上げた。

 

「貞光さん……自分は――」

「不甲斐ないのは私も同じだ。同様に気を失い、目を覚ましたのはつい先程だ」

 

 そう言う貞光の顔は険しく、季武を見ていない。

 

 彼が目を向けているのは、眺めているのは――目を、逸らすことが、出来ないものは。

 

 季武も、貞光の視線に釣られるように、それを見て。

 

 同様に――それを、突きつけられる。

 

「…………ッッ!!」

 

 それは、破壊された家屋。逃げ遅れ、傷ついた民。守れなかった――平安京。

 

 自分達の敗北、失敗が引き寄せた――逃げられない、現実そのものだった。

 

「…………何が、起きたんですか?」

 

 それは、まるで負け惜しみのような、情けない呟きだった。

 思わず零れてしまったかのような、けれど、言わずにはいられない言葉だった。

 

 負けを認められない、失敗を受け止められない――理不尽に対する、憤りのようだった。

 

「僕らは確かに、間に合わなかったのかもしれない。けれど――挽回の機会は残されていたでしょう! 勝てなかったのかもしれない。結果は同じだったのかもしれない。それでも、あの雷神の力を得た天邪鬼と、戦うことは、出来た筈でしょう!?」

 

 まだ、巻き返すことが出来た筈だ。まだ、食い止めることは出来た筈なんだ。

 

 少なくとも、その機会だけは――戦うことは、出来た筈なんだ。

 

 なのに――それなのに。

 

「一体! 何が起きたっていうんですか!!」

 

 一瞬だった。

 何かが起きた。何かが現れた。

 

 これから決死の戦いを挑もうとした、その時。

 これから命を懸けた戦争に向かおうとした、その時。

 

 何かが起きた。何かが現れた。

 

 決死の思いも、誓いも、気概も、何もかもを嘲笑うかのように。

 

 黒い何かが――その全てを、台無しにした。

 

「……分からない。あの黒い何かがなんだったのか。天邪鬼はどうなったのか。……ただ一つ、言えることは――」

 

 貞光は目を細めて――けれど、決して、瞑ることなく。

 

 目を逸らさずに、その理不尽を――逃れようのない、現実を口にする。

 

 その震える拳と背中を、季武だけは気付いていたが――その声は、まるで己に突き刺すように、震えず、真っ直ぐだった。

 

「我々は――負けたのだ」

 

 貞光の言葉に、反射的に開こうとした季武の口は――民の悲鳴によって、強制的に閉じられた。

 

 家を失った男の叫び、子供とはぐれた女の叫び、行き場所を失った子供の叫び――全て、自分達の弱さが招いたものだ。

 

 英雄が、守れなかったものだ。

 

 横合いから殴られた、名乗りがなかった、把握していなかった、意味が分からなかった――そんなものは全部、何の言い訳にもならない。

 

 これは武士の決闘ではない――戦争なのだ。

 規律などない。慣習などない。暗黙の了解などある筈もない。

 

 自分達が、足りなかった――弱かった、それが全てだ。

 

 我々は――負けたのだ。

 

「だが――戦争はまだ、終わっていない」

 

 俯く季武を引き上げるように、貞光は無理矢理に腕をとり、彼の体を持ち上げ、立たせた。

 

「民を(たす)けるのだ。天邪鬼や黒い何かがどうなったかは分からないにせよ、下級妖怪達は未だに暴れまわっている。蹲っているよりは、それらを討伐して回る方が遥かに有意義だ」

「……そう、ですね」

 

 天邪鬼、そして黒い何かは、放置しておくにはあまりに危険だけれど、自分達は奴らがどの方向にいなくなったのかすら把握していない。

 

 それに、あれほどの妖怪が再び猛威を振るうとしたら、少なくとも騒ぎになるだろう。

 下級妖怪を退治しつつ民の避難誘導を続けながら手がかりを探した方が、確かに闇雲に動き回るよりずっといい――そう、季武が再び前を、上を向く気力を取り戻したとき。

 

 頭上から、それが舞い降りてくるのに気づいた。

 

 眩い雷光ではなく、無論、黒い奔流でもないそれは――蒼い燕だった。

 

 碓井貞光、卜部季武の敗戦、そして奮起――その時機を見透かしたように、現れたその蒼い燕の意味を、両名は知っていた。

 

 平安京最強の陰陽師――安倍晴明からの使者(メッセージ)

 

 次なる戦場を指し示す、終わらない戦いを告げる伝令だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 蒼い燕に導かれ、貞光と季武が後にした戦場――その、すぐ傍で。

 

 二人は気づくことはなかったが、ひっそりと、まるで路地裏に捨てられるゴミのように。

 

 大江山四天王にして、三羽烏――雷神の力を獲得した鬼。

 天邪鬼(あまのじゃく)は、息も絶え絶えに、見る影も失くして倒れ臥せっていた。

 

「おやおや。随分と、哀れな姿に成り果てていますね、我が同胞よ」

 

 そんな彼を見上げるように、一羽の烏が舞い降りる。

 

 鳥のような頭部に山伏衣装。

 黒翼をはためかせながらゆっくりと舞い降りるそれは――消えゆく命を回収しにきた死神のようで。

 

「……ふっ。同胞? 面白いことを言いますね」

 

 天邪鬼は、そんな死神のような烏の言葉を嗤う。

 

 同じ主から生み出された三羽の烏。

 だが、断じて、私とお前等は同胞などではないと――そう、天に邪する鬼となれと命じられた烏は告げる。

 

 この世界の筋書きに逆らえと、そう真なる主に命じられた式神は言う。

 

()()()()――()()()()()()()()()()

 

 震える指を持ち上げて、精一杯に不敵に笑う。

 

 己を見下ろす――真っ黒な、烏を。

 

「私をここで取り込んだとしても――我が主の『白』は、決してあなた方の『黒』に塗り潰されなどしない!」

 

 例え、今、ここで、『天邪鬼』という『役者(キャスト)』は『(クランクアップ)』を迎えるのだとしても。

 

 それが、果たして、どこの誰の『筋書き』なのか――それを、私は、確信していると。

 

「……ふふ。その伏線回収の場に立ち会えない。それだけが、私の心残りです」

 

 今わの際に、力無く――けれど、一切の絶望も見せずに笑う()に。

 

 黒い式神は――容赦なく、その首根っこを掴み上げて。

 

「その時こそ、()()()は――心の底から、お喜びになられることでしょう」

 

 お疲れ様でした。中々の道化(ピエロ)でしたよ――そう告げながら、烏天狗は、天邪鬼をその掌で取り込んでいく。

 

 二羽の烏――覚と天邪鬼、その両者の力を、その身に取り込んで。

 

 三羽烏は今、一羽の烏に集約される。

 

「――それでは、その伏線回収(クライマックス)とやらを、見届けさせていただくといたしましょう」

 

 そして、黒い鳥は夜空へと飛び上がり、闇へと溶け込む。

 

 物語の行く末、戦争の行く末を、己が主へと送り届けるが為に。

 




用語解説コーナー62

・【黒い男】

 蘆屋道満――正体不明。

 脚本家であり、演出家。


 真っ黒な――――黒幕(ラスボス)


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妖怪星人編――63 異星人、来襲

――それでは、ミッションスタートです。


 

 そして、回想シーンならぬ回廊シーン。

 

 藤原道長(ふじわらのみちなが)は、『回廊』の中を進みながら、己が人生を回顧していた。

 

 幼き日。

 月光が差し込む書庫の中で――藤原道長という男の運命は変わった。

 

 貴族の五男。

 野心と才覚溢れる父兄に囲まれ、およそ栄光というものに程遠い出生。

 

 自分はきっと、高すぎず低すぎない家柄の娘と結婚し、父や兄に目を付けられない程度に出世し、家の血を絶やさない保険の為の子を産み、この狭い平安京の中で死んでいくのだろうと、そう思っていた。

 

 それが相応しいと思ってもいた。

 自分が父や兄を凌ぐ才覚を持っているとは思ってもいなかったし、何より、彼等のような燃える野心も持ち合わせていなかったからだ。

 

 この狭い世界、宮中という囲いの中の世界での立身出世に、それほどに燃え滾る情熱を、野心という名の炎を、燃やすことが出来ないと冷静に自覚していた。

 

 自分には、『藤原』としての才が――黒く燃える『野心』がないと、そう幼き時分にて既に、自分という男に見切りを付けていた。

 

 だが、それは、まるで導かれるように――月光に照らされた一冊の写本にて狂わされる。

 

 それは日ノ本最古の物語。

 著者は不明。果たしていつ生まれたのか、その正確な日付も不明。

 

 まるで神が、あるいは星が、こっそりと生み出したかのように、ある日から当然のように、この国にあった物語。

 

 光る竹の中から生まれた姫が、宮中という世界を、貴族の男達を、日ノ本という国を、己が美貌という才一つで掻き回し、蹂躙する物語。

 

 好き勝手に国そのものを揺れ動かし、やがては狭い世界を飛び出して――天に悠然と佇む、月へと至る物語。

 

 その物語に――その、かぐや姫という、『キャラクター』の魅力に。

 

 己が人生を見限っていた少年は――魅了された。

 

 全身を流れ巡る血が、『藤原』という才が――覚醒するのを感じた。

 

 誰よりも強く、誰よりも色濃く、まるで『藤原』という一族の完成形といわんばかりに秘めていた才に――歴代で最も黒く、最も熱く燃える『野心』に、火を着けた。

 

 そして、その本を持って書庫を飛び出した少年は、美しく輝く、遠い彼方にて輝く、思わず手を伸ばしてしまう程に大きく輝く――けれど。

 

 誰もが美しいと目を奪われ、誰もが神々しいと心を奪われながらも、誰もがそう思った瞬間に、諦念と共に手を下ろす――その『月』に、向かって。

 

 少年は、グッと、掴むように――その手を、握る。

 

 届かせてみせると、誰もが正気を疑うそんな野心を、黒々と燃やしながら、一人の少年は――ここに、誓った。

 

――僕は……いや、俺は、違う。

 

 むざむざと月へとお前を逃がした帝とは違う。

 届く筈がないと諦めて手を下ろす輩とは違う。

 

 どんな手を使ってでも、どんな手段を用いてでも――どんな悪に、手を染めてでも、

 

――俺は、必ずそこまで辿り着く。

 

 身分の差。種族の違い。――そんな些事(こと)知るかと、不遜に吐き捨てて。

 

 生まれて初めての『野心』に昂揚して。

 

 生まれて初めての――『恋』に、燃え上がった。

 

――俺は、『かぐや(おまえ)』を、必ず手に入れてみせる!!

 

 そんな――幼き頃の、黒い歴史を思い出して。

 

 あの時と同じく、大きく輝く月が――どんどんと、どんどんと、あれほど大きかった月が、更に大きくなっていくのを。

 

 円から球体へ、そして大地へと姿を変えていくのを見て。

 

 遂に――辿り着くのだと、そんな昂揚に打ち震えながら。

 

 道長は一度だけ振り返る。

 

 大きくなっていく月とは対照的に、どんどんと小さくなっていく、己が世界の全てだと思っていた箱庭――平安京。

 

 赤く燃えあがる己が故郷――そこに、漆黒の影が侵入し、それに追随するように、遅れて()()()()()()()()()()()()()()()()()()を見て。

 

 今宵の主役たる『人間』は笑う。

 

「――さぁ、()()()()()()()だ」

 

 己をここまで連れてきてくれた臣下の言葉を真似するように呟きながら、道長は――遂に、降り立つ。

 

 この回想シーンが、回廊を天翔る馬で駆けていた時間が、果たしてどれほどの時間だったのかは分からない。

 

 一瞬か、一分か、一日か――瞬間だったような気もするし、永劫だったような気もする。

 

 少なくとも道長にとっては、それは人生と同じ長さだった。

 

 己が人生全てが、この瞬間にあったのだと、道長は確信する。

 

 己の来訪を――まるで見透かしていたかのように。

 

 待ち構えていた兵士、従者――そして、それらを背に、誰よりも前に立って。

 

 正面より、真っ向から、堂々と――己を迎えた、美女を見て。

 

 道長は――己が胸の高鳴りに、燃え上がるような慕情に、そして黒く膨れ上がる野心に、確信する。

 

「……ようやく、辿り着くことが出来ました。あなたの故郷に――あなたの国に」

 

 故に――己も堂々と、彼女に相応しい己を心掛けて、胸を張って、崩れそうになる相好を堪えて、薄い笑みを湛えて、万感の思いを込めて言う。

 

「お迎えに上がりました。――かぐや姫」

 

 藤原道長の言葉に、一団を率いた美女は、更に一歩、前に出る。

 

 ばっさりと首元で切られた黒髪に、吊り上がった気の強そうな瞳。

 身に付けている衣も、道長の見慣れないもの――()()()()()()()()()()()()調()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 背後の従者、兵士達も同様に、()()()()()()()()()()を身に着けているのを見て――道長は、やはり、薄く笑う。

 

 まさか、ここまでとはな――そう、地球にいる、己が配下たる星詠みの陰陽師を思い出しながら。

 

 目の前の美女の――言葉を聞く。

 

「……ようこそ、いらっしゃいました――懐かしき地球の御方。ご明察の通り、(わたくし)の名は輝夜(かぐや)。この月の代表代理を務めております」

 

 深々と頭を下げる黒き女王――そして、漆黒の武器を携え、出迎える黒き一団。

 

 それに相対するは、光る馬と白き虎を連れた、黒き野心を燃やす――()()()

 

 頭を上げた女王は、静かに――その開戦の言葉を口にする。

 

「――それでは、()()()()()()()()()です」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もうダメだ――と、息も絶え絶えに、男は言った。

 

「ダメだなんて言っちゃダメだ! 僕が必ず、あなたをご家族の下へ連れていきますから!」

 

 だから諦めないでと、青年は血塗れのその手を取って、今わの際の男を励ます。

 

 そんな様子を、背後に少年と童女を庇いながら、女は冷たい眼差しで眺めていた。

 

(……もうダメね。お腹の傷が深すぎる。臓器もいくつか傷ついているでしょう。出血は止まらない。すぐに意識を失い、呼吸が止まる。……それでも、彼はその死体を家族の下へ運ぶまで譲らないでしょうね)

 

 狐の姫君・化生(けしょう)(まえ)が、怪異京へと乗り込んでくることを察知し、戦争の序盤も序盤で計画の修正を余儀なくされた羽衣は、戦争の『鍵』となる少年・平太と童女・詩希を連れて、妖怪大戦争勃発中の表世界の平安京へと飛び出した。

 

 しかし、何の戦闘力も持たない平太と詩希を連れながら、それも狐の妖怪に己の正体を悟らせない為に、振るえる力も大きく制限されている羽衣(うい)にとって、目的地までの道のりは簡単なものではなかった。

 

 案の定――道中にて狐の下級妖怪に囲まれて窮している時、彼女達は彼に出会った。

 

 平安京を守る武士であり、安倍晴明がその才能を認める戦士である青年――が、しかし。

 

 彼と合流して尚――未だに羽衣達は、目的地に辿り着くことは出来ていなかった。

 

(確かに、彼と出会ってから、目的地である『祠』までの道のりのおよそ半分という所まで来たけれど――()()()()。既に『手』は発光して消失した。つまり、道長様が月に向かったということ。……ならば、既にこの妖怪大戦争は終盤(クライマックス)に突入しようとしている……)

 

 妖怪大戦争――この『舞台』を『脚本(プラン)』通りに締め括るには、『羽衣』が『祠』に辿り着くことは()()()()だ。

 

 羽衣が『祠』に辿り着かなければ、この戦争は終わらない。

 

(否――正しくは、私が『祠』に辿り着かなければ、『人間』はこの戦争に勝てない)

 

 つまり、戦争が終わるその前に、羽衣は何としても『祠』に辿り着かなければならないということだが――羽衣が有用だと判断し、同行を願い出たこの武士の青年は。

 

(余りにも――お人好し過ぎる)

 

 いや、もはやそんな言葉では足りない。

 まるで人助けという行為に依存している――狂人のようですらあった。

 

 確かに、このような妖怪最盛期の時勢において、平安武士を志すような人間は、家の威光を高める為という欲を持って志願する者もいるが、大抵は図抜けたお人好しだ。

 

 羽衣もそうだと考えた上で、その目的地にこの子達の家族が逃げ遅れているのだと虚偽の説明をして、戦地から離れた避難所に童達を向かわせようとする青年を『祠』へと誘導した。

 

 だが、その道中、この青年は傷ついた人々を見掛けると、一人残らず傍に駆け寄り救助を試みた。

 

 無論、彼が平安武士である以上、その行為は至極当然のものだが――その行動力が、余りにも異常なのだ。

 

 平安武士の中には、妖怪というものを恐れない者も存在する。

 それは偶々それなりの才能があり妖怪退治に苦戦したことがないものであったり、これまでに弱い妖怪にした出遭っていない者だったり――まるで星から才を授かったかのような人間離れした強さを持っている者だったりするが、この青年は、そのどれともまた違う。

 

 妖怪を恐れてはいる。そして、自分が選ばれた強者ではないということも、やはり理解している。

 

 にもかかわらず――窮地に我が身を飛び込ませることに、躊躇がない。

 

 傷ついている人がいれば、苦しんでいる人々がいれば、例え、己が身が傷つくことになろうとも――あるいは、死ぬことになろうとも、助けなければならないと、そう脅迫されているかのような投身ぶりだった。

 

 事実、羽衣が今振るえる限りの力で影ながらサポートしていなければ、目の前の死に掛けの男と同じだけの傷を、既に彼は負っているだろう。

 

 これだけ進捗の遅い行軍を、ここまでずるずると続けてきてしまったのも、そんな青年に――少なからず、恐怖していたからでもあった。

 

 それはきっと、自分の脚の裏に隠れている、この少年と童女もだろう。

 

(……兄様は、彼の特異な『体質』に対して興味を抱いていたのだと思っていたけれど……もしかすると、この青年が特異なのは……『体質』よりも、むしろ――)

 

 羽衣と詩希と平太が戦慄の眼差しを向けるのも気付かず、青年は死に瀕した――否、既に死んでいる男の身体を背負って、路地裏から通りへと出る。

 

 そこには――漆黒の轍が出来ていた。

 

「――ッ!?」

「え、なにこれ!?」

「これは……ッ」

 

 思わず足を止める青年、驚愕する詩希と平太の横で――羽衣は歯噛みする。

 

 一直線に走る黒い轍。

 その直線上にあった家屋も、人も、全てが黒く貫かれている――まるで、黒い災害が通り過ぎたかのように、その轍には黒い残り火がゆらゆらと揺らめいていた。

 

(これは――もう、一刻の猶予もない……ッ!!)

 

 かくなる上は――と、羽衣は、死体の男――男の死体を背負ったまま、黒炎に包まれている人の元へと駆け出そうとする青年を止める。

 

「――やめなさい! もう助かりません! 黒く燃える人も――あなたが背負っている、その男の人もです!!」

 

 羽衣の言葉に、ピタリと青年の足が止まる。

 しかし、青年は振り向こうとも――前を向こうともしない。

 

 何かに縛られ、何かに囚われているかのように。

 死体を背負うそんな背中に、羽衣は静かに問い掛ける。

 

「何故……そこまでするのです? 分かっているでしょう。あなたに救える命には限りがあるということくらい。あなたに助けられている私達が言うことではありませんが――全てを救うことなど出来ないです」

 

 いっそ哀れむように言う羽衣の言葉に、青年は顔を上げながら、それでも振り向くことも、背中の死体を下ろすことも出来ず――そんな自分を嗤うように、「……分かってますよ」と、そう呟く。

 

「……分かってます。それでも、駆け寄らずにはいられないんです。手を取らずにはいられないんです。……この戦争が始まってから、ずっと、ずっと――思ってしまう」

 

 あそこで倒れている人が、あそこで傷ついている人が――今にも、その命を失おうとしている人が。

 

 もし――僕の、家族だったら?

 

 もし――僕の――。

 

「――妹、だったら……と」

「――ッ!?」

 

 その――言葉に。

 

 羽衣は――安倍晴明の妹は、思わず息を吞んで。

 

「分かっています。こんなのは下らない妄想だ。ここで見知らぬ誰かを助けた所で、それで家族が――妹が勝手に救われることはない」

「……ならば、何故――あなたの家族の下へ、自ら(たす)けに向かわないのです?」

 

 つい先日、家族を失った少年――平太は、そう青年に直接問い掛ける。

 そんな子供の言葉に「……出来ませんよ」と、力無い笑みで青年は応じた。

 

「家族が心配なのは僕だけではありません。……今、戦っている平安武士――その殆どが、この平安京に家族を持ち、故郷を守る為に戦っている者達です。誰もが己の家族を第一に守りたいと思っているにも関わらず……『人間』の為に、『平安京』を守る為にと、作戦の駒となっている」

 

 僕は、仮にも隊長である身だ。自分だけ、家族を優先するわけにはいかない――と、そう、力無く、それでもその覚悟を示すように、背中の死体を抱え直す。

 

 まるで、作戦の最中であるならば、任務の途中であるならば、戦いの最中で見付けた危機ならば、思う存分助けることが出来ると言わんばかりに。

 

 自分が助けた窮地の民が――家族であってくれと、そう願っているかのような、矛盾した願望に。

 

 その身を裂くように強く縛られて、囚われているかのような――『兄』に。

 

「ならば――どちらも救えばいいのです」

 

 羽衣は、強く――鋭く、言葉を突き刺す。

 

「苦しむ民も、怯える家族も――そして、この平安京も。何もかもを、救えばよいのです」

 

 それは、無力な子供を引き連れた、か弱き女性の声ではなく。

 

 青年を叱咤するような、より高みから導くような――強者の言の葉で。

 

「……あなたは、何者ですか?」

 

 青年は、ようやく振り返り、そう小さく問い掛ける。

 

 これまで危ない所を何度か助けてもらった。陰陽師見習いだと、そう彼女は自称していた。

 

 そんな青年に――羽衣は。

 

 青年の背中の死体を、見えない力で手も使わずに持ち上げて、そのまま黒い炎の中へと、荼毘に付すように突っ込んで。

 

 堂々と、胸を張りながら言った。

 

「私は――安倍晴明様の、妹です」

 

 羽衣は、十二神将『貴人(きじん)』でも、妖怪・葛の葉の娘でもなく。

 

 己は、安倍晴明の妹だと、そう堂々と自称した。

 

「…………妹」

 

 妹を探す兄は、背に負っていた重みを解放されても尚、自由になれないとばかりに立ち尽くしながら、呆然とそう復唱する。

 

 羽衣は、そんな兄に、そんな戦士に――道を指し示すように、力強く言った。

 

「はい。私は、帝を守護(まも)る為に清涼殿から動けない兄に代わり、この妖怪大戦争を終結させる大任を仰せつかっています」

 

 羽衣は、動けない青年の下へと歩み寄りながら語る。

 

「私の呪力は特殊で――『狐の姫君』を刺激してしまう。だからこそ、『祠』に着くまでは強力な術は使えない。故に、あなたに護衛を頼みました。初めに全てを教えなかったのは……敵方に情報が洩れることを避ける為です。あなたが道中に力尽きれば、別の武士に護衛を頼むつもりでしたから」

 

 あの子達を途中で保護して、無茶な行軍は出来なくなってしまいましたからね――そう語る羽衣の言葉に、青年は何も返すことが出来ない。

 

 安倍晴明の妹。戦争を終わらせる勅命。

 何もかもが、一介の隊士に過ぎない青年の身には重過ぎて。

 

 死体は既に背負っていないのに、重くて、身体が――動かない。

 

「っ!」

 

 そんな青年の肩に、羽衣は手を乗せて言う。

 

「しかし――あなたならば、出来ると、やり遂げてくれると判断しました。あなたならば、私達を目的の場所へ――この戦争を、終わらせる場所へ、送り届けてくれると」

 

 肩に手を乗せて――そして、何よりも重い、期待を乗せて。

 

「お願いです。戦争を終わらせてください。そして、皆を、家族を、平安京を」

 

 救ってください――と、羽衣は、どこにでもいる青年に言う。

 

 英雄ではない。最強でもない。

 

 きっと『兄』が、そして『奴』が、書いた『脚本』には名前すら載っていない、『役者』ですらない、只の『名無し(モブキャラ)』に。

 

「……どうして――僕なんですか?」

 

 それはまるで懇願のようだった。

 

 何故、僕なんだと。何で、そんなものを、どうして『名無し()』の肩に乗せるのだと。

 

 そんな青年に、羽衣は――。

 

「…………それは――」

 

 彼女が彼に掛けようとした言葉は、更なる重みだったのか、それとも青年の肩を軽くするようなものだったのか、それが判明するよりも――先に。

 

「――これは、一体どういう事態なんだ?」

「っ!?」

 

 羽衣と青年は咄嗟に警戒態勢に入る。

 平太の判断か、少年と童女も既に羽衣の傍へと避難していたが、それも少し遅かった。

 

 既に、羽衣と平太と詩希、そして青年は――取り囲まれていた。

 

 大きく、不気味な、三体の妖怪に。

 

「先程の『黒い何か』――あれは、お前等の仕業か?」

「そりゃあないだろ。只の餓鬼と女と小僧だ」

「確かに、まともに戦えそうなのは男くらいだが……油断するな。戦争が始まって大分経つ。我等『狐』の妖怪も損耗が激しい。戦える人間は一人でも多く殺しておくべきだ」

 

 右側の行く手を遮るのは、両手を羽に変えた鳥頭の妖怪。

 左側の行く手を阻むのは、亀のような頭に甲羅を背負った妖怪。

 そして、正面の廃屋の屋上から見下ろすのは、蟲のような下半身を持つ屈強な男の妖怪だった。

 

 反射的に得物を手に取るが、青年は額から汗を流すのを止められない。

 

(不味い……三体ともこれまで戦った下級妖怪じゃないッ! 幹部とまではいかなくても――少なくとも、僕と同じ部隊長級の妖怪!)

 

 重ねた連戦と無茶な救助活動により、青年の身体は万全とはいえない疲労状態だ。

 これほどの妖怪と、それも三体同時に、子供と女性を守りながら戦えるわけがない。

 

(『慿霊(ひょうれい)』を使うしか……でもあれをするには集中する時間が必要――仲間がいない今、誰がその時間を稼ぐっていうんだ!?)

 

 苦悩する青年の背後で、羽衣もまた思案していた。

 

(限界ね……。彼一人では、この場を脱することは出来ない)

 

 力を解放するべきかと悩む。

 ここで十二神将『貴人』としての本領を発揮すれば、幹部ですらない中級妖怪三体など、羽衣にとっては物の数ではない。

 

 しかし、彼女の呪力の色は、『狐の姫君』・化生の前の妖力のそれと()()()()

 

 故に、大きく、そして純度の高い力を発揮すれば、同じ平安京内の敷地ならば、間違いなく化生の前は羽衣の『正体』に気付くだろう。

 

 そして、羽衣がこれから向かおうとしている『祠』で、一体何をするつもりなのかを――どのように、この妖怪大戦争を終結させるつもりなのか、その手段を察知するだろう。

 

 そうなった場合、化生の前は間違いなく羽衣を止めに来る。そして、その時は羽衣が単独で化生の前と相対しなくてはならない。流石の羽衣といえど、『貴人』といえど、単独で化生の前を打倒できるかといえば疑問符が付く。

 

(けれど、序盤で『怪異京』に出現してから、あれから私の方では『化生の前』の存在を感知できない。……まだ怪異京にいるということ? 『箱』がない怪異京に、いつまでも?)

 

 ぬらりひょんが未だに足止めしているという可能性は少ない。

 ならば、怪異京から既に出て、自分と同じように力を使わずに潜んでいるということか。

 

 もしそうならば、ここで『貴人』としての全力を振るうことは、避けなければならないけれど――。

 

「とりあえず殺すか」

「とりあえず殺しとこうぜ」

「とりあえず殺しましょう。そうしておくべきだ」

 

 青年や羽衣の苦悩や思案の終了を待つ筈もなく、三体は同時に飛び出し、彼女等に向かって襲い掛かってくる。

 

「どうするの!? どうするのよ!?」

 

 詩希の叫びに、青年の焦燥は増幅し、羽衣は歯噛みしながら――覚悟を決める。

 

(……やるしかないわね――ッ!)

 

 しかし、その時。

 

 詩希を庇いながら、こちらも覚悟を決めたような表情していた平太は――それを、見付けた。

 

 襲い掛かってくる妖怪の上から、何かが――流れ星のように落下してくる。

 

「――――あれは……ッ!?」

 

 黄金の光が閃く。

 

 それはまるで、あの巨大な『手』の発光のように、鮮烈で。

 

 目で追える筈もなかった。

 余りにも高速で振るわれるそれは、正しく一つの大きな――斬撃のようで。

 

 そう――斬撃。

 天から降ってきた黄金の閃光は――斬撃だったと、そう気付いたのは。

 

 平太達に襲い掛かっていた三体の妖怪が、バラバラに斬り刻まれて、瞬殺されたからだ。

 

「――少しばかり、遅れたか」

「おい、それは僕に対する嫌味かい? 僕が飛んでこなかったら、君は間に合ってすらいないんだよ」

 

 それは、紅蓮髪の少女と、黒い着流しの男だった。

 

 紅蓮髪の少女の背中からは異形の羽が生えていて、明らかに人間ではない――にも、関わらず、少女からは妖怪特有の畏れがなかった。

 

 そして、着流しの男は。

 

 ありとあらゆるものが欠落しているようでいて――しかし。

 

 その黄金の太刀からは、そして、細く開かれる瞳からは――怪異を滅ぼす、殺意が迸っている。

 

(――――ああ、この人は――()()だ)

 

 羽衣は陶然と見遣る。

 

 生まれて初めて見た――『兄』の同種。

 

 星に選ばれた戦士――星から外敵を滅する力を与えられた――真なる『人間』。

 

「通りすがりに怪異に襲われているようなので反射的に助けてしまったが、次はこちらを助けていただけるとありがたい」

 

 何しろ、平安京を訪れるのは百年ぶりなものでな――そう、時を越えた英雄は、黒い炎に侵された都を眺めて、問う。

 

「今――平安京で、一体、何が起こっている?」

 

 こうして、遂に、平安京に『役者』が揃い。

 

 妖怪大戦争は、一気に――終盤戦(クライマックス)へと、加速する。

 




用語解説コーナー63

・ミッション

 とある『黒い衣の戦士』達が用いる、『対異星人』との『戦争』の意味合いを持つ言葉。


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妖怪星人編――64 鬼と英雄

答えは――変わらねぇよ。


 

 陰陽頭(おんみょうのかみ)安倍晴明(あべのせいめい)から齎された指令。

 青い燕が虚空に描いた暗号によって示されていた次なる目的地は――旧土御門邸――『黒炎上跡』。

 

 前哨戦たる前夜祭において、この平安京でも最も豪奢だった藤原道長の屋敷が、黒い炎によって跡形もなく焼け落ちた、無残極まるその場所に、碓井貞光(うすいさだみつ)卜部季武(うらべすえたけ)が到着した時――そこには既に先客が居た。

 

「――御頭!」

 

 その存在の正体に気付き、貞光と季武は足早に駆け寄る。

 

 貞光はもとより、武士として小柄である季武よりも低い背丈に、不釣り合いな程に大きな鎧を纏った武者。

 

 そんな体躯を補うようにいつも身に着けている威圧感を放つ鬼の仮面は、何故か今は身に着けていなくて、パッと見は戦火に彷徨う迷子のようだったが、他ならぬ頼光四天王である彼等は、当然として、かの武者の仮面の下の素顔を知っていた。

 

 源頼光(みなもとのらいこう)――平安最強の神秘殺しであるかの名を受け継ぎし少年の正体を知っている彼等は、それでも、彼を自らの御大将として忠誠を誓っており、それを示すように、彼の元に辿り着くやいなや、黒く染まった地面に勢い良く膝を着いて、目の前の少年に頭を下げた。

 

「よく来た――そして、よく生き残った。貞光、季武」

 

 仮面を外したことにより、ありのままの少年としての声でそう言う頼光に、貞光は頭を下げたまま「勿体無き御言葉です」と言い、そして尋ねる。

 

「……御頭は、如何にして此処に?」

「お前達と同じだ。――青き燕によって、晴明殿によって、此処に導かれた」

 

 そう言って、頼光は頭を下げる貞光と季武から視線を上げて、辺りを見渡す。

 

 黒く燃え、黒く燃え尽きた、黒炎上跡を。

 草木すら一本たりとも残らぬ、何もかも真っ黒に燃え尽きた――戦場跡を。

 

「……………」

 

 目を細めて、何かを見詰めるようにしながら、頼光は再び貞光に問うた。

 

「お前達は、晴明殿からどこまで知らされた?」

「……詳細は、何も。ただ、一刻も早く此処に来るようにと、それだけを伝えられました」

 

 そうか。ならば、私が晴明殿により託された、これからの段取りについて簡単に語ろう――と、晴明は未だに膝を着いて頭を下げる二人の四天王に立ち上がるように命じながら、両者に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。

 

「私はお前達より少し早く、この黒炎上跡に辿り着いた。恐らくはそれを見越してだろう。私にはもう少し詳しく、晴明殿が描くこれからの計画が伝えられた」

 

 頼光は、ある場所――まるで何かを掘り起こしたかのような、不自然な穴がある場所の前で足を止めて、語る。

 

「今宵の戦争の号砲となった、『月へと伸びる手』――その手首の根元、起点が此処――『黒炎上跡』だ」

 

 そのことには、貞光と季武も気付いていた。

 戦争が始まると同時に出現した、平安京の何処からでも確認できた巨大な『手』。

 

 この場に辿り着く少し前に、それこそ平安京全土を呑み込まんばかりの強烈な発光と共に、唐突にその『手』は姿を消していたが――。

 

「その『手』は太政大臣様――藤原道長(ふじわらのみちなが)様を『月』へと送り届ける為に、晴明殿が編み出した『術』であったそうだ。その目的、方法は省略するが――重要なのは、その前代未聞の秘術を実現させる為に、今、この場所は、莫大なる星の力が集結する『点』となっていることだ」

 

 人間を月へと送り届ける秘術――省略すると言われたが、そんな荒唐無稽なことを唐突にさらりと言われて、季武はギョッとし、貞光も表情を険しく固めていたが、振り向いた頼光はそんな二人の心中を慮ることなく、これまたさらりと――彼等にとって、とても重要な『作戦』を口にした。

 

「今宵、この『黒炎上跡』に残った莫大なる『星の力』――これを以て、我等は今度こそ、かの妖怪王の器、大江山の頭領――『酒吞童子(しゅてんどうじ)』を、完膚なきまでに無力化――『封印』する」

 

 貞光が、季武が、今度こそ表情を消して、息を吞む。

 

 酒吞童子――大江山の主、鬼の頭領、妖怪王の器――最強の妖怪。

 

 十年前の鬼退治において、かの鬼に言いようのない敗北を喫した彼等にとって、その鬼は正しく不俱戴天の仇であり――その埒外の強大さを、その身を以て痛感している存在でもあった。

 

「……御頭」

 

 だからこそ、かの存在を完膚なきまでに無力化する――そんな術が存在するのかと言われて、簡単に信じられる筈もない。

 それが自らが仕える主の言葉でも、それが平安最強の陰陽師の言葉であろうともだ。

 

 そんな感情が透ける季武の言葉に、皆まで言わせず頼光は、再び彼に背を向けて、その『計画』の詳細を語る。

 

「先程も言った通り、今、この場所には『星の力』が凝縮している。人間を月まで送り届けるという、荒唐無稽なる奇跡を実現させる為にな。それは晴明殿が意図的に龍脈を操作にして集めたものだが、それはあくまで今宵限りの限定的な操作であり、時と共に集めた力は再び元の形の流れに戻っていく――だが、それは裏を返せば」

 

 今宵に限れば、それほどの奇跡を実現させ得るということだ――そう呟きながら、頼光は手に持っていた術符を『(スポット)』に(ほう)った。

 

 それは、青い燕が頼光の下に、『計画(プラン)』の詳細と共に咥え運んできた――安倍晴明の術符。

 

 ひらりと、それが穴に吸い込まれていった瞬間――黒く燃え尽きた旧土御門邸の庭に、噴き上がるように光の柱が昇った。

 

 それは『月へ伸びる手』程に劇的なものではなかったが、ぼんやりと幻想的に現れたその光は、黒く染まった地面に、大きくとある紋様を描いているようだった。

 

 円の中に五本の線によって星が描かれたそれは――五芒星(ごぼうせい)

 紛れもない、安倍晴明が術である証である紋様。

 

「一体――いつから、どこまで、『奴』が見透かしていたのかは分からない」

 

 奴――と。

 この時、初めて、頼光は晴明をそう呼んだが、絶句する貞光と季武の方を振り返った時には、少年は表情を消しており、真っ直ぐに、己が配下達に固く告げる。

 

「酒吞童子は殺せない。だが、今宵、この場所ならば、奴を千年封じることが可能であると、晴明殿は仰った」

 

 しかし、当然、それには相応の代償が伴う――頼光はそう、一度目線を下ろしながら呟く。

 

 酒吞童子は殺せない。

 その無限ともいえる再生力は、肉体の損耗は勿論、妖力に対しても適応される。

 仮に、首はおろか、その少女が如き体躯を木端微塵に吹き飛ばした所で――酒吞童子は再生するだろう。

 

 酒吞童子は、そういった存在であり、そういった怪異なのだ。

 

 なればこそ――殺さずに封じればいいとは、当然、十年前も『人間』は考えた。

 しかし、十年前においては、かの安倍晴明ですらそれを成し遂げることは不可能だと断じた。

 

 理由は単純で、酒吞童子程の存在を封じるにおいては、当然、それに相応しい出力が必要であったが、それだけの呪力は晴明も、頼光も、金時も、綱も、持ち合わせてはいなかった。

 

 だが、今宵においては、それを星の力を持って補うことは出来る。

 故に――封印術式を発動することは可能。

 

 しかし、先述の通り、一ヶ所に集めた莫大なる『星の力』は、時と共に元の流れに戻っていく。

 

 なればこそ、その術式を継続させる為の、別の力が必要だ。

 少しでも長く酒吞童子を封じる力が――少しでも長く、日ノ本に平穏を齎す為の、犠牲が。

 

「――貞光。季武」

 

 故に、頼光は――源頼光になると、そう誓った少年は。

 

 真っ直ぐに、己の部下を――源頼光が、己が四天王に相応しいと集めた、誇り高き四天王に向けて、言う。

 

()と共に――犠牲になって(死んで)くれるか?」

 

 その言葉に、貞光は己が胸に拳を打ち付け、季武は破顔する。

 

「――無論です。我らが主よ」

「命じてよ。君は、僕等の主なんだからさ」

 

 それで、何をすれ(どうやって死ね)ばいいと、真っ直ぐに無言で問うてくる、頼光四天王に。

 

 頼光は一度だけ小さく笑みを浮かべると、再び表情を消して、五芒星の紋様を指し示して説明する。

 

「この結界の基点は五つ。この結界の中心に酒吞童子を導き、中に入れた上で、私と四天王がそれぞれの基点の上に立ち、結界を発動する手筈になっている」

 

 円と五芒星が交わる五つの点。

 そこに五人の呪力を持つ人間が立ち、呪力を流すことで結界は発動される。

 

「結界を維持する為には、我々が呪力を流し続ける必要がある。よって、我々は結界の内側に入り、酒吞童子と共に、この地に封じられることとなる」

 

 故に――犠牲。

 源頼光と四天王は、酒吞童子を道連れにする形で、かの最強の妖怪を千年に渡り封じることとなる。

 

 結界の中の一日は、現実世界の一年に相当するという。

 つまり、千年の封印を保つ為には、およそ千日に渡り、呪力を流し続けることになる。それは正に地獄の拷問に等しい苦痛だろう。

 

 その凄惨な事実を知らされながらも、貞光も季武も、()()()()()()()()()()()だと言わんばかりに、別の懸念点について頼光に問う。

 

「――つまり、一番の難関は、酒吞童子をこの結界内に入れること、ですね」

 

 貞光はそう断じる。

 

 酒吞童子は幼稚だが、愚かではない。

 この黒炎上跡に満ちる莫大なる『星の力』も感じ取るだろうし、そこに晴明の五芒星が浮かんでいるとなれば、馬鹿正直に足を踏み入れることはないだろう。

 

 故に、力尽くで、無理矢理に、酒吞童子を結界へ放り込む役が必要となる――あの、酒吞童子をだ。

 

 そして、その大役を任せられたのは、源頼光――では、なく。

 

「晴明殿は、その役目を――金時に命じたそうだ」

 

 坂田金時(さかたきんとき)

 貞光や季武と肩を並べる頼光四天王の一角であり。

 

 酒吞童子と、最も強き因縁を持つ戦士である。

 

「俺では無理だった。……僕では、アイツに――酒吞童子には、敵わなかった」

 

 源頼光は、この妖怪大戦争において酒吞童子と一早く邂逅し、刃を交えている。――そして、その上で、その刃は、かの鬼に届かなかった。

 かの妖怪王の器を、倒すことは、出来なかった。

 

 そして、それを見透かしていたかのように、安倍晴明は酒吞童子を封印場所へと誘導する大役を、頼光ではなく、坂田金時に任じたというわけだ。

 

 貞光も、季武も、何も言わない。

 己が主の力を疑っているわけではない――だが、分かっていた。

 

 今宵、この場面において、酒吞童子を力尽くでどうにか出来る可能性がある逸材は。

 

 坂田金時という男を置いて、他には存在しないだろうと。

 

「僕では届かなかった。兄さん……綱……茨木童子、そして酒吞童子。選ばれたモノしか立つことが許されない、あの『領域』に――僕では、辿り着くことが出来なかった」

 

 大江山の鬼退治。その頂上決戦にして最終決戦。

 外れしモノ達だけが、文字通り立つことを許された戦場。

 

 源頼光を受け継ぐことになる少年が、鬼女紅葉が、そして金時が、這いつくばり、観ていることしか出来なかった――あの『領域』。

 

 十年間、死に物狂いで修行して強くなり、神秘殺しの異名を、名刀・童子切安綱を継承するに至っても、終ぞ――辿り着くことは出来なかった世界。

 

「晴明殿は、兄――源頼光や、綱、そして伝説の坂上田村麻呂殿や俵藤太殿といった彼等を、『星に選ばれた戦士』と呼んでいた。妖怪――『星の外敵』が、力を増し、脅威が増大した時、(おのれ)を守るべく、星から力を授けられる――『本物の英雄』が、この世に生まれるのだと」

 

 恐らくは晴明自身も、その『星に選ばれた戦士』なのだろう。

 選ばれしモノ。資格を持つモノ。頂上へと、領域へと、至る可能性を秘めるモノ。

 

「僕では無理だった。けれど――もし、新たに、その領域に足を踏み入れる可能性を――天賦の才能を、持つモノがいるとするならば」

 

 今、この時代――妖怪最盛のこの時代において・

 

 新たにその領域へと辿り着く、その(いただき)へと登り詰める、可能性を持つモノが、いるとすれば。

 

 それは、恐らく――たった、一人。

 

「僕ではない。貞光、季武――お前達でもない」

 

 頼光からの、その断言に、貞光も季武も、不満を漏らすどころか、神妙に頷いて見せる。

 今宵の戦争においてさえ、『黒い嵐』に蹂躙され、天邪鬼という敵幹部も取り逃がした自分達に、そんな資格がありやしないことは分かっている。

 

 分かっている――分かっていた。

 不安定で未熟。けれど、その身に秘める才能は、他の誰よりも金色に輝いている弟分。

 

 頼光は、彼等の心中も代弁するように――その、英雄の可能性を持つ卵の名前を、口にする。

 

「坂田金時――アイツだけが、頂の領域へと足を踏み入れる、その才能(しかく)を秘めている」

 

 だからこそ――きっと。

 アイツならば、何とかしてくれる。この大役を成し遂げてくれると。

 

 頼光は、貞光は、季武は、真っ直ぐに――その方角を向いた。

 

 巨大な二つの力の激突――離れたこの場所まで衝撃が伝播する、その邂逅の方角を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それはまるで、戦火に迷う幼子のようだった。

 

 ふらふらと、頼りない足取りで、轟々と燃え盛る街を彷徨う少女。

 

「きゃぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!」

「いやぁぁ!! いやぁぁぁああああああああああああああああ!!!」

「助けてぇぇえええええ!! 救けてぇぇええええええええええ!!!」

 

 つんざくような悲鳴。

 突き刺すように――放たれる、拒絶の言葉。

 

 それらは全て――真っ赤に染まる、幼い少女に向けて放たれていた。

 

「こっちに来ないで――化物ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 がらがらと、燃える家屋が焼け落ちる。

 

 その凄惨な光景を背景に、真っ赤な少女は――小さな鬼は、無表情に、ただ己を拒絶する人間に向かって、首を傾げる。

 

 この人間は――何を叫んでいる?

 何を怯えている? 何を恐れている?

 

 自分はまだ、何もしていない。

 ただ歩いているだけだ。ただ探しているだけだ。

 

 ただ――此処に、いるだけだ。

 

 まだお前に牙を剥けていない。爪を見せていない。

 何の感情も――何の殺意も、向けていない。

 

 それなのに、何を恐れる? 何を怯える? 何をそんなに――拒絶するというのか。

 

(…………意味が……分からない……)

 

 少女は何も分からない。幼い鬼は、何も理解出来ていない。

 

 今日に至るまで、終ぞ少女は、何も理解することが出来なかった。

 

 人間とは何か――まるで興味も湧かなかったが故に、知ることはなかった。知ろうとすることが出来なかった。

 

 か弱い彼ら彼女らにとって――自分がどのように見えているのか。

 隠すまでもなく剥き出しの角が、無防備に放たれ続ける妖気が、人間という脆弱な生物にとって、どれほどに恐ろしくて堪らないのか。

 

 酒吞童子(しゅてんどうじ)という鬼が、果たしてどれほどに、恐ろしい生物であるのか――化物であるのか。

 

 彼女は分からない。彼女は知らない。彼女は理解出来ない。

 

 それでも――それ、だからこそ。

 

――……………ごめんな、酒吞(しゅてん)

 

 分からないから、知らないから、理解出来ないから。

 

 それが――どうしようもなく、()()()()()()

 

(………………五月蠅い)

 

 耳障りな悲鳴が止まない。

 

 自分を見て逃げ出す人間が。自分を見て恐れる人間が。

 

 五月蠅くて、鬱陶しくて――だから、彼女は。

 

 人間が虫を払うように――虚空を、払って。

 

 破壊を――無造作に、振り撒く。

 

「――――()()()

 

 少女が、手を払った――それだけで、燃え盛る戦場の炎が暴れ狂う。

 

 焼け落ちる家屋が吹き飛び、無力な人々が宙を舞う。

 

 そして、酒吞童子の目線の先にいた、彼女にウザいと、明確に敵意を向けられた女は。

 

 一睨みされる、酒吞童子に視覚される――ただそれだけで、全身を縫い留められるような恐怖で動けなくなり、ゆっくりと、自らに向かって死が迫りくるのを感じた。

 

 幼い鬼が払った『(くう)』が、脆く弱い人間など容易く木っ端にする『破壊』となって、数瞬後には己を貫くであろう現実を前に――身動きが取れない。

 

 そんな儚い未来を――英雄の(いかずち)が打ち砕いた。

 

 目の前に雷が落ちる。

 彼女を襲う『死』を、『破壊』を、『空』を木っ端微塵に打ち砕いた。

 

 そして、雷が晴れると。

 恐ろしくて堪らない『鬼』の姿を隠すように、まるで壁のように大きい背中が立っていて。

 

 彼女に向かって、逃げろと告げた。

 

 そんな優しい声に引っ張り上げられて、背中を押されて、女はよたよたと覚束ない足取りで走り出す。

 

 背中は、そんな彼女に向けられ続けていて。

 

 英雄は――ただ目の前の、化物だけを見据え続けていた。

 

「――――待たせたな」

 

 その男は、(まさかり)を担いでいた。

 

 この国の男児ではおよそ見られない金髪金眼。

 鍛え抜かれた身体は、まるで神に与えられたが如く常人離れした(おお)きさで。

 

 雷と共に現れた英雄――坂田金時(さかたきんとき)は。

 

 真っ直ぐに、ただひたむきに――その少女だけを見詰めていた。

 

「お前に会いに来た――酒吞(しゅてん)

 

 再び、ガラガラと、また一つ、焼け落ちた家屋が崩れていく。

 

 炎上する平安京――その炎が揺らめき。

 

 泣きそうな顔の少女が、目の前にいるかのような錯覚が()ぎる。

 

「――――っ!」

 

 坂田金時は目を瞠る――が、瞬きを一つすると、そこには凍ったように何の表情を浮かべない、感情を感じさせない少女が。

 

 この国で最も化物な怪物――酒吞童子が、炎の中で佇むだけだった。

 

「……………」

 

 金時は、己を戒めるように――龍へと変わった右拳を握り込み。

 

「…………ひとつ………だけ…………」

 

 掠れたような、小さな声で。

 

「さい……ごに……いちどだけ…………もう一度だけ……………聞く」

 

 無感情に、無表情で、零れた――その呟きを、拾う。

 

 小さな、とても小さな赤鬼は。彷徨う迷子のような幼い鬼は。

 

 その小さな手を――何もかもを切り裂く爪の生えた手を、金時に向かって差し出して。

 

「――わたしのものになって」

 

 金時は――今度こそ、絶句する。

 

 目を見開いて、握った筈の拳も緩んで。

 

 そして、溢れる何かを、必死に己の中に押し留める。

 

(……だから、お前は。他の奴に、俺を殺させるなと命じていたのか)

 

 それはかつて――幼馴染の少女に、言われた言葉。

 

 同じく幼かった金時が、裏切り、反故にした――指切り(誓い)

 

 英雄を夢見ていた少年が、手酷く傷つけた少女の笑顔。

 

(……お前は、ただ――もう一度)

 

 ただ――もう一度。

 

 あの時の――答えを、聞きたい為に。

 

 炎上する平安京を彷徨い歩いた少女は、最後にもう一度と、その手を、あの日の少年に向かって差し出して。

 

()()()()……酒吞。答えは――変わらねぇよ」

 

 それでも――少年は。

 

 それでも――――英雄は。

 

 それでも――――――坂田金時は。

 

 その手を取らず、首を振って、今再び――拒絶する。

 

「俺は――『人間』なんだよ」

 

 だから、お前と同じ所には行けない――そう言って、龍の右拳を再び握り込み、人の左手で、肩に担いだ、鉞を構える。

 

 妖怪を――退治する為の、武器を、構える。

 

「俺は、『(おまえ)』を――退治する」

 

 人間であることを――選んだ少年は。

 

 英雄となることを――目指し続けた男は。

 

 かつて泣かせた少女に向かって――退治すべき、化物に向かって、大声で宣言する。

 

 何かに決別する覚悟を、誰よりも己に向かって叫ぶように、鉞を振るう。

 

「酒吞童子を退治するのは――この、坂田金時だっっ!!!!」

 

 再び、雷が落ちる。

 

 ガラガラと、何かが崩れ――そして、始まる。

 

「……………そう」

 

 雷の中から、平然と少女が歩み出る。

 

 その足取りには、もはや些かの――迷いも、ない。

 

「――なら、もう――いらない」

 

 破壊を振り撒く爪を、死を齎す殺意を――少女は目の前の英雄に向ける。

 

「死んで――金時」

 

 襲い掛かる化物に、そして、逃れられない過去に。

 

「死ぬのはテメェだ!!! 酒吞童子!!!」

 

 今、再び――坂田金時は、戦いを挑む。

 




用語解説コーナー64

・星に選ばれた戦士

 星人の力が活発化すると、星の自衛能力の一環として、在来種を強化するといった現象が発生する。

 この時代の日ノ本の人間は、妖怪に対抗出来るようになる為に、『呪力』といった力に目覚める人間がいる。こういった人間達が、陰陽師や武士や僧兵、より強い力に目覚めた者は『英雄』と呼ばれる存在になるが――中には、文字通り桁違いの力を授けられる、『星』が特別な力を与える『選ばれた戦士』が存在する。

 その代表例が、『坂上田村麻呂』であり、『初代頼光』であり、『渡辺綱』であり、『俵藤太』であり――そして、【安倍晴明】である。
 
 そして――今。
 その『至高の領域』に、新たに足を踏み入れようとしている戦士がいる。

 この時代の日ノ本において、その領域に達する可能性のある、最後の英雄。

 坂田金時――彼は、果たして、その域に達することが出来るのか。
 ただ一つ、確かなのは、そこは只の入口に過ぎないということだ。

 何故なら、彼が正に相対している――仇敵にして宿敵である鬼は。
 正に、その至高の領域に達している――最高峰の化物なのだから。


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妖怪星人編――65 一条戻橋

鬼と人間――果たして、どちらが立っているのが、あの世で、この世なのだろう。


 

 大きな力がぶつかり合ったのを感じる。

 

 今宵、この平安京では、様々な力の激突があった。

 

 だが、たった今、衝突したその莫大なる力を。

 

 解き放たれ、自由になった――その鬼が。

 式神ではなく、ただ一体の鬼に戻った――その鬼が。

 

 茨木童子(いばらきどうじ)という、その鬼が、その力の正体に気付かない筈もない。

 

(――ぶつかっている相手は……坂田金時(さかたきんとき)か)

 

 探し求めた相手の居場所。

 それを遂に察知した茨木童子は、立ち止まり、振り返った。

 

 行かなくてはならない。

 酒吞童子(しゅてんどうじ)が坂田金時に敗北するとは思えない――だが、つい先程まで己を従えていた主、この妖怪大戦争の絵図を描いた陰陽師が、今宵、酒吞童子に対して仕掛けている罠、その詳細を知っている茨木童子にとって、その戦いは、止めるべきものだ。

 

(戦ってはならない。酒吞――例え、それをお前がどれだけ待ち望んでいたのだとしても)

 

 そんな鬼の心理すらも、そんな鬼の深奥すらも――見透かしているモノがいる。

 

 酒吞童子はそれを知らず――茨木童子は、それを知っていた。

 

 そして、そんな茨木童子の心理も、深奥も――その陰陽師は、見透かしている。

 

「――待っていたぞ。我が宿敵よ」

 

 茨木童子が立ち止まり、振り返ったその先に――侍が立っていた。

 

「無粋な真似をするな。未熟な弟分が、長年縛られ続けてきた枷を破り、今、ようやく成長しようとしているというのに」

 

 小さな堀の上に架けられた橋――その両岸に、鬼と人間は向かい合う。

 

「悪いが、お前を行かせるわけにはいかない。その意味は――分かるな、茨木」

 

 一条戻橋(いちじょうもどりばし)

 あの世とこの世を繋ぐ橋という曰くが付く小さな橋。

 

 かつての仕事柄、無理矢理に教え込まれたそんな知識を思い出し、ふと、茨木童子は――綻ぶ。

 

 茨木童子――そして、渡辺綱。

 橋を挟むように両岸に立つ、鬼と人間――果たして、どちらが立っているのが、あの世で、この世なのだろうと。

 

「――無論、理解しているとも。何もかも、分かっていたことだ。お前が俺の前に立ち塞がることということも。そして、()()()()()()――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 安倍晴明(あべのせいめい)――あの男は、きっと全てを見透かしていた。

 

 自分が酒吞童子封印計画を知っていることも。

 そして、それを阻止すべく動くということも。

 

 そして、そして――その上で、茨木童子を解放し、自由の身にした、その上で。

 

 渡辺綱――かつて、茨木童子の右腕を斬り落としたこの男と、再び相対させ――そして。

 

「茨木童子に手を出せば、酒吞童子の逆鱗に触れる――そして、それはまた、()()()()

 

 もし、茨木童子を存命させたまま、酒吞童子を封印することに成功すれば――いつか、茨木童子という鬼が、酒吞童子並みの脅威となって、必ずや、人間達に牙を剥くことになると、妖怪の天敵たる大陰陽師は星詠みした。

 

 安倍晴明とて、永命ではない。

 かの史上最強の陰陽師の式神である間は、茨木童子が例えそのような凶悪極まる怪異と化したとしても制御可能かもしれないが――その後は?

 

 酒吞童子級の最強妖怪と化した茨木童子。

 そんな存在を、安倍晴明以外の陰陽師が制御しきれる筈もない。例え、正式な手順を踏んで、その時代の最高峰の術者に引き継ごうとしても、必ず茨木童子が反旗を翻し――復讐に走る時は訪れるだろう。

 

 つまり、酒吞童子を封印出来た所で、茨木童子が存命ならば意味がない――安倍晴明は、『人間』は、恐らくそう考える。

 

 と、いうことを――茨木童子は、見透かした、上で。

 

 その上で――覚悟を決め、何もかもを理解した上で。

 

 鬼は、今、あの世とこの世の狭間たる橋の上へと、足を踏み出しているのだ。

 

「知っている。理解しているとも。俺は酒吞ではない。全てを知った上で、理解した上で――その上で、俺もお前を待っていた」

 

 そうだ――酒吞童子が、あの幼い妹分が。

 

 過去を、因縁を、宿命を――乗り越えようとしているというのに。

 

 他でもない兄貴分が、それから逃げてどうする。それに立ち向かわないでどうするというのか。

 

「俺も破らなくてはならないだろう――枷を! 殻を! あの日の無様な敗北を!」

 

 茨木童子は、全身を赤く染め上げる。

 

 封じられていた力を、閉じ込めていた――屈辱を、解き放つ。

 

 そして、凄惨な、鬼の笑みを、浮かべて――その言葉を、堂々と返す。

 

「待っていたぞ――我が宿敵よ!!」

 

 笑みを、殺意を、この上なく真っ直ぐにぶつけられた武士(もののふ)は。

 

 その腰に刷いた刀を――目の前の鬼の血を吸い、鬼を殺す概念武装と化した妖刀を解き放ち、告げる。

 

「決着を付けよう――茨木童子」

「望むところだ、鬼殺しよ」

 

 対して鬼は、かつて目の前の刀に斬り落とされて、今宵、遂に取り戻した、その膨れ上がった右腕を構えて、叫ぶ。

 

「――あの日の右腕(借り)を、今こそこの右腕()で取り戻す!!」

 

 あの世とこの世を繋げるという、一条戻橋の上で。

 

 今宵、至高の領域の住人たる鬼と武士が、己が宿命を果たすべく――十年ぶりに、激突した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 近未来的な黒衣から、甲高い音が響き出す。

 

 関節部分にある眩い装置から放たれる青い光が、その輝きをみるみる強くすると――黒衣を身に着けている戦士の筋肉をあっという間に膨張させた。

 

 ある戦士は短銃を、ある戦士は長銃を、ある戦士は黒剣を――目の前で咆哮する怪物へと向ける。

 

 青い惑星から我らが母星にやってきた襲来者に――『星人』に。

 

 いつものように――我らが故郷を守る為に、『戦争』を仕掛ける。

 

 

 そんな黒衣の軍勢を――白い虎は残酷に薙ぎ払った。

 

 

 月面に降り立ち、軍勢が襲い掛かったその瞬間――まるで戦闘態勢に移行したかのように、その身を一回りも二回りも巨大化させた白虎は、己を取り囲んだ黒衣の戦士達を、激しく回転して振り回した、槍のように先端に突起を持つ尾によって一蹴した。

 

 白虎の尾は、爪は、そして牙は、容易く黒衣や漆黒の武具を破壊する。

 黒衣達は露骨に狼狽し、勢いで討伐できる怪物ではないと、組織だった連携を以て対応しようとして――。

 

 

 そんな黒衣の連携を――天翔ける馬は凄惨に吹き飛ばした。

 

 

 白虎に対する隊列を粉微塵にするように、紫電を纏った一角馬が軌跡を描きながら突っ込んで来る。

 

 その強靭な角は当然のように漆黒の武具を破壊し、黒衣の恩恵により超人的な筋力を得た力自慢がその馬の突撃を受け止めようとしても――自身が代わりに宙を舞うだけだった。

 

 ならば先に天馬から始末をと得物を向けても――その背後を白虎が強襲する。

 

 これまで数多の星人の襲来を撃退してきた、月の黒衣の戦士達が――二体。

 

 たった二体の怪物に蹂躙される。

 安倍晴明が最強の式神――『十二神将(じゅうにしんしょう)』――『白虎(びゃっこ)』、そして『天空(てんくう)』。

 

 わずか二体の式神が、惑星防衛戦力と大立ち回りを繰り広げる――その、文字通りの真っ只中。

 

 ぽっかりと開けた、戦場の中心の空間にて、一人の男と、一人の女が向かい合っている。

 

 己自身もその美しい体つきを強調するような光沢ある黒衣を身に纏う女は。

 

 戦場において一切の装備を持たない優雅な束帯を身に付ける男に、言う。

 

「あなた方は――戦争をしに来たのですか?」

 

 漆黒の武具は向けずとも、冷たい何かを突き付けるような、女の言葉に。

 

 男は――藤原道長(ふじわらのみちなが)は――いいや、と。

 

 鷹揚に、けれど、万感の思いを込めて――積年の、想いを込めて。

 

 微笑みと共に、真っ直ぐに告げる。

 

「私は求婚しに参ったのだ。なよ竹のかぐや姫よ」

 

 結婚してくれ。そなたを愛しているのだ――そう、荒れ狂う戦場のど真ん中で、男に告げられた女は。

 

「…………ふっ。地球人に求婚されるのは、果たして何年振り何度目でしょうか」

 

 先程までの冷たい無表情を崩し、綻ばせながら――それでも瞳は、冷たく男を見据えて、返す。

 

「そんな下らないことの為に、こんな下らないことをしたのですか?」

 

 かぐや姫は真っ直ぐ、冷たく、恐ろしく、道長を睨みつけている。

 

 響く剣戟、甲高い銃声、怪物の咆哮――紛れもない、戦争の狂騒曲だ。

 

 それだけではない。

 かぐや姫は無言で糾弾している。

 

 わざわざ、かぐや姫という一人の女に求婚する――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 地球という『星の力』まで捻じ曲げて利用して、その『星』すら飛び出して。

 

 人の身で――『人間』という身分で、こんな遥かなる大地まで――遠い彼方たる『月』まで、やってくるなんて。

 

「ああ――愛の力だ」

 

 そんな無言の糾弾に、堂々と、藤原道長は応える。

 

 胸を張り、声を張り上げ――何一つ、恥ずべきことなどないと開き直って。

 

「私はそなたを、愛しているのだ」

 

 そして、手を差し出す――銃も剣も握っていない、戦場においてまっさらな、綺麗な手を。

 

 未曽有の大戦争を引き起こし、真っ黒に汚れた手を、一切の躊躇なく、愛を語る女に向ける。

 

「かぐや姫よ――どうか、私と共に――地球へと、帰ろうではないか」

 

 月へと帰ったかぐや姫を、地球へと連れ帰る。

 

 ただ、それだけの為に、私は(ここ)までやってきたのだと。

 

「………………」

 

 そんな男に、今度こそ女は――言葉を失う。

 

 真っ直ぐな瞳に、濁り一つなく、美しく黒く染まり切った――その男の、真っ黒な愛に。

 

 かぐや姫は、ただ強く――生唾を、呑み込むばかりで。

 

「――ふざけるなっ! 地球人がッ!!」

 

 戦場の中にぽっかりと開けた空間で睨み合っていた両者――だが、だからといって、二人の会話を互いしか聞いていないわけではない。

 

 白虎と天空が凄まじいばかりに、丸腰で何の戦闘態勢も取っていない道長が放置されていただけであって、かといって、いきなり現れた異星からの来訪者である道長に、何の警戒も取られていないわけではない。

 

 しかも、相対しているのが、自分達のリーダーである女なのだ。

 何かあった時、すぐさま割り込めるように注意を払っている戦士も、当然のように配置されていた。

 

 そして、そんな彼にとって、道長の言葉は、もはや黙って看過できるものではなかった。

 

 女に求婚する――たったそれだけの為に、二体の恐ろしき怪物を引き連れて混乱を持ち込み、それでいて言うに事を欠いて。

 

 かぐや姫を、地球へ連れ帰るだと――。

 

「やめなさい――ッ!」

 

 姫の制止の声も届かず、戦士の黒刃が道長に襲い掛かる――が。

 

「ぐわ――――ッ!?」

 

 弾き飛ばされる。

 戦士の剣が、まるで石の壁に叩きつけたが如く。

 

 己の攻撃の反動で尻餅を着く戦士に、道長は優しく語り掛けるように言う。

 

「いくら私が身の程知らずの恥知らずとはいえ、この星が――『宇宙』という空間が、私という『人間』を拒絶する場所であるということくらいは知っている」

 

 宇宙――『地球』の『外』。

 そこは空気もなく、呼吸も出来ない極寒の空間で、人がそのまま無防備に飛び出せば、容易く命を奪われる――正しく、人の身に、人間の身分に、相応しくない、()()()()()()

 

「だからこそ、今の私は『星の力』を源に編まれた晴明の術によって生かされている。晴明の式神である『白虎』と『天空』をこの場に引き連れ、彼らの力の一部を分け与えられる形で、晴明の術の恩恵を受けているのだ。その術式効果は、単純明快――『死なないこと』。ただそれだけだ」

 

 つまり、『白虎』と『天空』が倒されない限り、道長はこの月面において死ぬことはない。

 

 それは例え『宇宙空間』の苛烈な環境においても、『黒衣の戦士』の凶刃においても――同様にその身から弾き飛ばすということ。

 

 拒絶する――ということ。

 本来であれば、その場所に分不相応な道長を拒絶する要因を、他でもない道長が拒絶する術式。

 

「案ずるな、勇敢なる黒衣の戦士よ。私自身にはそなたらのような――そして、彼等のような戦闘力はない。お主らの見事な黒衣を傷を付けることすら(あた)わぬよ」

 

 道長はそう言って、尻餅を着いた戦士から――己が引き連れた、二体の怪物へと目を向ける。

 

「お主らの相手は彼等がする。その為に連れてきたのだ。存分に戦うがいい。心配せずとも、彼等を倒せば――見るも無残に私も死ぬ。故に、私のことなど放っておいてくれて構わぬ」

 

 私は、ただ彼女(おんな)を口説く為に、月へとやって来ただけなのだから――そう言って、道長は再び、かぐや姫へと目を向ける。

 

 己を襲った黒衣など、そして、自分が連れてきた怪物にさえ、もはや目もくれていない。

 

 ただ真っ直ぐに、己が口説きに来たという、一人の女だけを見詰めている。

 

 数十年間、見上げ続け、見詰め続けた、夜空に浮かぶ月を眺めるように――ただ莫大の、愛が篭った眼差しで。

 

 そんな熱烈な視線を受けて、かぐや姫は冷たい汗を額に流しながら――覚悟を決めたように、瞑目し、そして目を開けて、黒衣に命じる。

 

「――こやつの相手は私がします。あなた方は彼の言う通り、あの二体の獣の相手をしなさい」

「ですが!」

「私も黒衣を着用しています。傷つけられる心配はありません」

 

 それに――と。

 

 女の方も男へ――真っ直ぐに向き直る。

 

 それは、この恐ろしき黒き想いに、真っ向から挑むという覚悟の現れ。

 

 藤原道長という男の戦争に、立ち向かうという――意思の現れ。

 

「このような女の為に、ここまでした男の心を無碍にすることは出来ません。――さあ、行きなさい! これ以上、あのような怪物に、我らが故郷を荒らされてどうするのです!」

 

 かぐや姫の強い号令に、黒衣の戦士は腰を上げて、それでも躊躇を見せるが、最終的には振り切り、白虎と天空が暴れる戦場へと向かう。

 

 そんな彼の後を追うように、ひそかにかぐや姫の護衛を務めていた戦士達も、かぐや姫の睨みを受けて、白虎と天空の討伐へと向かった。

 

「さて――これで、戦場の真ん中に置いて、私達は二人きりになれたわけですが」

 

 かぐや姫がそう切り出した頃には、今度こそ、彼と彼女は戦場の中において孤立した。

 

 誰も二人の会話を聞く者はいなくなり――だからこそ。

 

 かぐや姫は再び、藤原道長に向かって問い掛ける。

 

「それで? 本当の目的は何ですか? ……まさか本当に、私を口説く為だけに、こんな場所まで遥々やってきたと宣うのですか?」

「本当も何も、まさしくそれが本命で、あなたこそが本命で、先程の愛の言葉も残らず全てが本心なのだが――」

 

 

――誓え。

 

 

 道長の脳裏に、とある半妖の若者の言葉が過ぎる。

 

 己と同じく、月まで追いかけると、そう口にして結ばれたその誓いを思い返し――道長は口元を綻ばせて。

 

「……そうだな。――私は、強欲な人間だ」

 

 月へと帰ったかぐや姫を手に入れる。

 そんな荒唐無稽の野心を叶える為に、あらゆる手段を尽くした。

 

 結果、一つの都を地獄へと変えて、一つの国を混乱の渦へと叩き込んで、こうして野望を実現させた。

 

「しかし、当然の報いというべきか。――私は、その責任を取らなくてはならない」

 

――テメェで始めた戦争だ。全部、テメェが何とかしろ。

 

 ああ――全くもって、その通りだと、道長は笑う。

 

 人の身で月へと渡る――そんな傲慢な野望を叶えたのならば。

 

――お前が滅茶苦茶にした平安京を、お前の手でどうにかしろ。

 

 有り得ないようなご都合主義な結末も用意する――そんな更なる傲慢も、藤原道長は成し遂げなくてはならない。

 

「私の目的と聞いたな、かぐや姫。それは無論、御身(おんみ)と――そして」

 

 道長は、かぐや姫を真っ直ぐに指差し――否。

 

 彼女が身に纏う、近未来的な光沢ある黒衣を指差し、言う。

 

 

(あなたがた)が所有する――『()()()()』だ」

 

 




用語解説コーナー65

一条戻橋(いちじょうもどりばし)

 堀川に架けられている一条通りの戻橋。

 夜中に美しい女性に化けた鬼の腕を渡辺綱が切り落としたという伝説が残っている。

 その他にも、橋の下に安倍晴明が十二神将を隠していた、ある父親の亡骸を運んでいた際に遠くに出ていた息子がこの橋の上で父の元に辿り着いた時に父の死体が息を吹き返したと、安倍晴明が橋の上で父を蘇生させた、など、様々な逸話が残された霊的スポットである。


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妖怪星人編――66 黒い球体

我々は、その黒い球体を――『GANTZ(ガンツ)』と、そう呼んでいます。


 

 藤原道長(ふじわらのみちなが)が、まるで銃口を突き付けるように、真っ直ぐに彼女を指差しながら放った言葉に。

 

 黒い球体――その言葉を聞いた瞬間、これまで伏魔殿たる宮中の支配者となった道長をしてすら、何一つ読ませなかったかぐや姫の表情が、確かに、凍った。

 

「黒い……球体? 一体、何のことですか?」

 

 誤魔化すにも余りに下手糞なその反応に、道長は思わず吹き出して言う。

 

「かつて数々の貴公子を手玉に取ったとされる、お主らしからぬ面相だ、かぐや姫。美しい笑みが引き攣って、可愛らしい動揺が隠せておらぬではないか」

 

 道長の童を揶揄うような物言いに、かぐや姫はきっと男を睨み付ける。

 

 くつくつと笑いをかみ殺しながら「いや、しかし、流石のかぐや姫といえど、相手が悪いか」と、スッと目を細めて、道長は、姫の可愛らしい怒りを沈めつつ、それどころか恐れを引き起こすような、冷たい眼差しと共に、独り言のように呟く。

 

「――否。日ノ本という小さな島国から、遥かなる天に浮かぶ月の上すらも見透かしてみせる。あの男こそを褒めるべきか」

 

 はたまた、恐れるべきか――そう、愛する女に微笑みを浮かべながら言う道長は、かぐや姫に向かって優しく、そして容赦なく、続いてこう問い掛ける。

 

「何故――私が待望の月面訪問に、『白虎』と『天馬』を引き連れてきたと思う?」

 

 かぐや姫は――答えることが出来ない。

 それは、問われるまでもなく、彼女の中にとっくに疑問として浮かんでいて、未だに答えが出せていない謎だからだ。

 

 黒衣の戦士の軍勢を率いての待ち伏せ作戦。

 これは未知なる来訪者を迎撃する戦力を配置する為に問った軍事行動だが――同時に、威嚇という意味合いもあった。

 

 敵は――地球人。

 未だ天体望遠鏡すらも開発されておらず、月面に生命が居るということすら把握してない、未開人だ。

 

 そんな彼等が、数々の奇跡を重ねて、有り得べからずな月面訪問に成功したとして――いざ月面に降り立ったその瞬間に、見たこともない光沢のある黒い衣の戦士達に取り囲まれていたら。

 

 混乱するだろう。困惑するだろう。何よりもまず先に――恐怖するだろう。

 

 だが、目の前の男は微塵も動じることなく、そのまま引き連れてきた二体の怪物を軍勢にぶつけ、自身は悠々と、戦場の真ん中を突っ切るように闊歩し、かぐや姫の眼前へと歩み出てきた。

 

 お前達は、何者だ――と、ただ一言も、この男は口にしていない。

 

 まるで、何もかも、分かっていたように――見透かして、いたように。

 

「その通りだ。あの男は全てを見透かしている」

 

 口に出さないかぐや姫の言葉をすら、見透かしているかのように道長は肯定する。

 

「その摩訶不思議な黒衣の能力も、光沢ある漆黒の武具の特性も――それらを生み出す、『黒い球体』の奇跡をも、だ」

 

 黒い球体。

 道長はそう再び口にし、かぐや姫は、まるで己の全てを暴かれたが如く、顔面を蒼白にさせていく。

 

 それでも、道長は、更に鋭く、暴くことを止めない。

 

「黒い球体――それは、死人を蘇らせ、怪物と戦争をさせる、奇想天外な絡繰装置」

 

 死人を蘇らせる。光沢のある漆黒の鎧を、見えない力を飛ばす筒を、怪物を両断する得物を与える。

 

 そして――。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 私は――それが欲しい。

 

 そう、道長は、グッと。

 

 何年も、何年も、何年も――夜空を浮かぶ月に対してそうしていたように、かぐや姫に向かって、何かを掴むように(くう)を握り締める。

 

「この月面訪問において、私は必ずや、かぐや姫(そなた)と、その黒い球体の奇跡を手に入れる。これが私の目的であり、これこそが」

 

 私の戦いであり――私の戦争だ。

 

 道長が、そう強く宣言すると。

 

「……………」

 

 かぐや姫は、一度大きく息を吸い込み――そして、吐く。

 

 己の動揺や混乱を整える所作。

 相手に己の弱みを見せるに等しい行為を、その不利益を理解した上で行い――そして。

 

「なるほど――そういうことでしたか」

 

 一呼吸で、道長にすら何も読み取らせない表情を取り戻し、再び真っ直ぐに、道長に向かって相対する。

 

「現在の日ノ本の文明レベルでは、どう考えても有り得ない月面訪問――その裏には、それほどまでのチートキャラの出現がありましたか」

 

 星が脅威を感じれば、それに対抗するように強力な星の戦士が誕生する。

 その法則に則るのならば、日ノ本に放逐された『三体の真なる妖怪星人』が、それほどまでに『星』の危機感を煽っていたということになる――が。

 

(――これほどまでのチート……『(おのれ)』自身に対しても、相当に危険な諸刃の剣でしょうに)

 

 現に、そのチートの力によって、こうして地球人が別惑星()に渡ってしまう程の、とんでもない奇跡(イレギュラー)が発生してしまっている。

 

 地球人の別惑星への来訪――こんな事態を、星が――地球が、歓迎している筈もない。

 

「ですが、そんな切札がいるのならば、最早――言い逃れは出来ませんね」

 

 かぐや姫は、そんな己の思考を断ち切るように、強く、鋭く、道長に向かって言う。

 

「潔く、認めましょう。あなたの陰陽師の星詠みは、正しく全てを見透かしているようです」

 

 傾国の美女は、己が身に纏う光沢のある黒衣をなぞるように撫でて「この黒衣は、そしてこの身は、この生命は、黒い球体の御業のそれであり――貴方が言う所の、奇跡の力です」と答えて。

 

 そして、その名を――口にする。

 

「……我々は、その黒い球体を――『GANTZ(ガンツ)』と、そう呼んでいます」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 GANTZ。

 その耳慣れぬ響きの言葉に、道長は。

 

「……がんつ」

 

 ただ、そう、反芻することしか出来ない。

 

 そんな道長を、かぐや姫は「ですが、それを知った所でどうするというのです?」と笑う。

 

 黒い球体――GANTZ。

 その実在を、その真名を知った所で――お前に何が出来ると、見下すように、女は男を嗤う。

 

「確かにGANTZは、この月ですら未だ解明不可能な程の、未知なるテクノロジーによって様々な奇跡を引き起こしますが、しかしだからといって、どんな願いも叶える魔法の球体というわけではありません」

 

 そこには、明確で残酷な線引き――確固たるルールが存在する。

 

 黒い球体は、決して万能の願望機ではないと。

 

「藤原道長――貴方が求めるのは、此度の妖怪大戦争に関する人々の記憶操作でしょう?」

 

 貴方が、月へ行きたい、かぐや姫(わたし)に会いたいなどという下らない理由で、あろうことか成し遂げてしまった偉業を――忘れさせたい。

 

 子供の頃の愚かな夢を叶える為に引き起こした、妖怪大戦争という大罪を――なかったことにしたい。

 

 もう、どうしようもなく崩れてしまった日ノ本の、帳尻を合わせたい。

 

 まるで、ぐちゃぐちゃにしてしまった盤面を、手っ取り早く元通りに直したいからと、全ての駒を落として、もう一度初めの形に揃え直すが如き――反則技(チート)を使いたい。

 

「――そうですよね。全ての元凶さん」

 

 かぐや姫は笑う。

 

 純朴な幼子を笑うように――盲目な愚者を嗤うように。

 

「今更ながらに、怖くなりましたか?」

 

 積年の夢を叶えて、大願なる野望を叶えて――いざ、叶えてしまうと。

 

「冷静になって――冷めてしまいましたか? 黒い野心が――燃え尽きてしまいましたか?」

 

 なんてことをしてしまったのだと、怖くなってしまいましたか?

 

 かぐや姫は――笑う。

 

 己を求めて空を飛び出して、宙を飛び越えて――月にまでやってきた、稀代の愚者を。

 

 道を誤った、己が狂わせた男を。

 

 五人の貴公子に対してそうしたように。一人の(おとこ)に対して、そうさせられたように。

 

 愛に狂った――愛によって滅ぶ、愚か者を、笑う。

 

「それでも――後悔するのは、何もかもが遅過ぎます。貴方という男は、とっくの昔に手遅れなのです」

 

 あなたが成し遂げた馬鹿な偉業も、その為に払った無駄な犠牲も、叶えてしまった愚かな野望も、手に染めた数々の悪行も――なかったことには出来ないと。

 

 黒い球体は、貴方の黒い野心が燃やした、黒い地獄を消し去ったりしないと。

 

「貴方は、失敗したのです――『人間』」

 

 黒い球体――GANTZが操作できる記憶は、『戦争(ミッション)』と『戦士(キャラクター)』に関する事柄のみ。

 

 GANTZの記憶操作は、あくまで己の身を守る為の防衛機構。己の秘密を守る為の自己防衛に過ぎない。

 

 己が関わらない、別の惑星の小さな島国の戦争などに、GANTZが守るべき秘密などありはしない。

 

「故にGANTZが手を出す――GANTZが介入する、理由がありません。義理も、ありません」

 

 これが、貴方の戦争というのなら――そう、かぐや姫は、向けられたそれを返すように、道長に向かって、真っ直ぐに、己の細い指先を突き付ける。

 

「――あなたの負けです、藤原道長」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 本来であれば、到達まで、これからおよそ千年は必要としたであろう――月。

 ゴツゴツとしたその地面に、己の足裏を着地させて。

 

 青い惑星――きっと、それが青色であるということ知ることも、本来であれば、まだ途方もない年月が必要だったであろう――地球。

 母なる地球を背に、己が引き連れた二体と怪物と黒衣の軍勢の戦闘音――戦争音を聞きながら。

 

 藤原道長は、ゆっくりと口を開く。

 

 月面来訪。

 その偉業を、その奇跡を成し遂げる為に、夥しい犠牲と、許されない地獄を創り上げた男は「……取り敢えず初めに、一つ、訂正させていただこう」と。

 

 そう、胸を張って――恥ずかしげもなく顔を上げて言う。

 

「私の野心が――黒い野心が燃え尽きた? 馬鹿を言っては困る」

 

 私は、()()()()()()()()()()()()と。

 

 月を目指したことに、その為に払った犠牲に、黒く染めた己が手に、何一つ後悔など抱いていないと。

 

 そう、堂々と言い放ち――そして。

 

「今も尚、此処に至っても尚、私の心には、黒き野心が燃え続けている」

 

 何故なら――そう言いながら、一歩。

 

 道長は、その黒い野心に突き動かされるように、一歩――かぐや姫へ向かって足を進める。

 

「な――」

 

 絶句するかぐや姫に構わず、道長は熱い言葉と、冷たい眼差しを彼女に向かって浴びせかける。

 

「私はまだ、あなたの手を取れていないからだ。この黒く燃え盛る愛を、受け取ってもらっていないからだ」

 

 私の求婚の答えを――聞いていないからだ。かぐや姫よ。

 

 そう、更に一歩、足を進めながら、距離を詰めながら、道長はただ彼女だけを見詰める。

 

「言ったであろう、我が陰陽師(チート)は全てを見透かしていると。黒い球体の奇跡の線引き(ルール)の対象も、無論――見透かしていた」

 

 その上で、私は今、この月面に立っているのだ。

 

 道長は彼女の眼前にまで迫り――青い星を背に、かぐや姫に向かって語る。

 

黒い球体(がんつ)に関わりのない戦争だから、記憶操作は施せない――そういう話だったな」

「……ええ。この星にあるのは、当然ながら『月の黒い球体』。地球で起きた、地球由来の、それも黒い球体の技術が何一つ関わっていない星人戦争なんて、GANTZの管轄じゃないのよ」

「だからこそ――あなたは、()()()()()()()()()()()()?」

 

 道長は――見透かしたかのように言う。

 

 かぐや姫の心の中を、暴くように、真っ黒に語る。

 

黒い球体()の関係者を――無関係の外星(地球)に。送り込んでくれたのだろう?」

 

 奇跡の黒い球体(GANTZ)を、この星の誰よりも支配していた――狂気の天才。

 

「――リオン・ルージュという贈り物を」

 

 リオン・ルージュ。

 紅蓮の吸血姫。傾星の美女。埒外の天才。

 

 つい先日、家出ならぬ星出を敢行した彼女は、赤い流星として地球へと流れ着いた。

 

 そして、その星というのが他でもない――月。

 地球に最も近い星であり、今現在、藤原道長が、こうして足を着けている場所であり――黒い球体のテリトリー。

 

 道長は目撃している。

 その『月星人』たる彼女が、奇妙な運命に導かれるように、墨色の浪人と共に、漆黒の魔人を追って――妖怪大戦争が開催中の平安京へと足を踏み入れるのを。

 

 月へと繋がる『回廊』の中で、藤原道長は確認している。

 

「………」

 

 かぐや姫は、道長の言葉に口を噤む。

 

 リオンは、紛れもなく月の支配者だった。

 執拗に隔離された『子供部屋』の中から、一歩も外に出ず閉じ込められた『箱』の中から、文字通りの『箱入り娘』のままで、その天才的な能力と美貌を以て、星一つを見事に傾けていた。

 

 月の支配者――それはつまり、この星の黒い球体の支配者ということでもある。

 

 理解していたのだろう。把握していたのだろう。支配していたのだろう。

 他の誰も理解出来なかった、この月の誰にも把握出来なかったオーバーテクノロジーである黒い球体を、あの天才だけは紛れもなく支配していた。

 

 何を隠そう、黒い球体は――リオン・ルージュが閉じ込められた『箱』をこそ、『黒い球体の部屋』に選んだのだから。

 

 戦士(キャラクター)ですらないリオンだけを、黒い球体はその部屋の住人として認めていた。

 

 月の住人は、自分がどんな風に運用されているのかすら知ることすらなく、ある日、唐突に戦士に選ばれ、訳も分からぬまま星人との戦争(ミッション)へと送られる。

 

 だが、リオンはそれでも勝利し続けた。

 黒い球体上の記録(データ)でしか知らない戦士達を、まるでチェスの駒のように的確に配置し、行動を指示して、数多の星人を撃退し、月というこの星を守護し続けた。

 

 故に、誰もが理解していた。

 

 リオン・ルージュの『箱』を『黒い球体の部屋』に選んだのは、紛れもなく黒い球体(GANTZ)自身であり。

 

 月を守護るという点においては、リオン・ルージュが『プレイヤー』として、月の住人という『キャラクター』を操作することが、最も効率的な形なのだと、黒い球体(GANTZ)がそう判断したのだということは。

 

 理解していた。だからこそ――恐怖していた。

 

 故に――かぐや姫は、そんな彼女を、今、正に戦争真っ只中である日ノ本へ送り込んだのだ。

 

「リオン・ルージュは最早、月の黒い球体の機密そのものだ。そんな彼女が放り込まれている我が日ノ本(くに)の妖怪大戦争――もはやガンツにとっても、無関係な星人戦争とは口が裂けても言えまい」

 

 黒い球体に口があるかどうかは知らぬがな――そう嘯く、道長の言葉に。

 

 張り付いたように閉じていた口を、どうにか辛うじて抉じ開けたという風に、かぐや姫は掠れた声を漏らす。

 

「なるほど……確かに、私はあの子を(ここ)から追い出したわ。たった一人の天才の、他の誰にも理解不能な運用によって成り立つ世界は、ひどく脆くて不安定だから。……あの子が辿り着いたのが日ノ本であったというのは……奇妙な偶然というしかないけれど」

「いいや。貴女が狙っていた筈だ。そして分かっていた筈だ。彼女を日ノ本へ送れば、必ずや我々が彼女を巻き込むとな」

 

 言葉を濁すかぐや姫を逃がすまいと言わんばかりに、道長は力強く、そう決め付けて断定する。

 

 そんな道長から、かぐや姫はそれでも逃げようとするように目を逸らしながら「……本当に、どこまでも見透かしているのね」と、己を掻き抱くようにして言う。

 

「……確かに、私はあの子を日ノ本へと送った。それでも、あの子が妖怪大戦争に関わることの善し悪しは、私には判断が出来なかった」

 

 日ノ本を黒い球体の関係者にするには、リオンを平安京へ放り込むのが一番手っ取り早い――だが。

 

「リオン・ルージュは、GANTZの奇跡の対象になるということを差し引いて尚、余りある危険な爆弾となるわよ。貴方は、それを本当に理解しているの?」

 

 鋭い眼差しを、かぐや姫は再び道長に向ける。

 道長はそんな刺すような視線を受け止めるように、張った胸をそのままに返した。

 

「それなりに実績のある安全装置(ストッパー)は用意したつもりだ。無論、確実な成功を約束するものではないが――奇跡を買おうというのだ。こちらもそれなりの危険(代金)を支払う覚悟だとも」

 

 道長の震えぬ言葉に、再び目を落としながらかぐや姫は呟く。

 

「…………随分な自信ね。先程も、まるで私がリオンを、貴方達を慮って送り込んだかのように捉えているような口ぶりだったけれど――何かそう思える根拠でも?」

「流石の我が陰陽師(チート)も、ただ『光景』を見透かすことが出来るだけで、その『心中』までも見透かすことが出来るわけではないが――それでも、他でもない、あなたの心ならば、奴より私の方が深く()()()()ことが出来る」

 

 道長は、そう、自信に満ち溢れた口調で。

 穏やかな、優しい、慈愛溢れる――愛に溢れる、表情で言う。

 

「――ずっと、見守ってくれていたのだろう?」

 

 その、言葉に――はっきりと。

 

 かぐや姫は、驚きに包まれ、呆然と目を見開いた。

 

「――――――――何を」

「こうして準備万端に、黒衣を纏った軍勢が我等を出迎えたことが一つの証拠だ」

 

 貴女が地球を――日ノ本を、忘れずにいてくれた証拠だ、と。

 

 藤原道長の月面来訪。

 常識外れの奇跡の宇宙移動に、驚きがなかったのは()()()()()と、道長が言う。

 

「黒い球体が外敵を、星人の来襲を察知しただけの戦争(ミッション)での出陣だったならば、現れたのが地球人であったことに、もっと驚きがあっていい筈だからな。少なくとも――他でもない貴女ならば」

 

 地球という惑星の現在の文明レベルが、宇宙進出になど程遠いことを。

 その星の空気を吸い、地球人と触れ合い、現地の光景を誰よりも知っている、かぐや姫ならば、驚愕があって然るべきだった。

 

 しかし――かぐや姫は驚かなかった。

 

 黒衣を身に着け、軍勢を率いて――誰よりも先に、誰よりも前で、出迎えていた。

 

「あなたはずっと見守っていてくれていたのだ。地球を――否、日ノ本という国を」

 

 愛する人に不老不死の薬を残し――いつか、()()()辿()()()()()()()と。

 

 そう想いを残した彼女は。

 

 そう願いを――夢を。

 あの地に、あの星に、残し、託した、彼女は。

 

 ずっと、ずっと――あの青い星を見上げて、手を伸ばし続けていた。

 

「けれど――あの人は、薬を……燃やした」

 

 かぐや姫は俯く。

 そんな彼女に、道長は優しく残酷な言葉を放つ。

 

「ああ。時の帝は、貴女の願いを汲み取らなかった」

 

 ただただ、愛する人のいない世界に絶望して、日ノ本で最も高い山の頂上で薬を焼いた。

 

 勝手に悲壮感に酔って、まるで見せつけるように、彼女の残した想いを、託した願いを――踏み躙った。

 

 そこにいるのに。

 天に浮かぶ月――手を伸ばせば届きそうな程にはっきりと見える場所から。そこからずっと、見ていたのに。

 

 私はずっと――そこにいたのに。

 

「私に――会いに来てくれは……連れ戻しに来ては、くれなかった」

 

 会いに来ようともしてくれなかった。連れ戻そうともしてくれなかった。

 

 手を伸ばすことも――してくれなかった。

 

 願わず、望まず、ただ――諦めてしまった。

 

 彼女への想いも――彼女の想いも、捨ててしまった。

 

「だが――それでも、あなたは諦めきれなかった」

 

 道長は見透かしたように言う。

 

「黒い球体により、()()()()()()()()()()()()()()と、知ってしまった貴女には」

 

 諦めることなど出来なかった――道長のその言葉に、かぐや姫は何も返すことが出来ない。

 

 魂は質量を以て実在し――()()()()

 黒衣の戦士となって、その真実に辿り着いた時――かぐや姫の心に、消した筈の、期待が蘇った。

 

 まだ――諦めなくていいのかもしれない。

 いつか、あの人が生まれ変わって、この星に辿り着いてくれる日が来るかもしれない。

 

 今度こそ――手を伸ばしてくれるのかもしれない。

 願ってくれるのかもしれない。望んでくれるのかもしれない。

 

 ただ、どうか、もう一度――逢いたいと。

 

 ただ――そう、願って。願わずには、いられなくて。

 

 遥かなる月から、青い星を眺めていた。

 果てしなく遠い日ノ本を――ずっと、ずっと、ずっと。

 

 ただ、真っ直ぐに――『手』を伸ばし続けていた。

 

 そして――遂に、奇跡は起きて。

 

 届かない筈の『人間』は――あろうことか、月へと、辿り着いて。

 

 でも。

 

 でも――。

 

 でも――――ッッ!!

 

「それでも――()()()()()()()()()()()……ッッ!!」

 

 かぐや姫はつんざくように叫ぶ。

 

 違う――違うのだ。

 

 魂は確かに輪廻する。

 あの時、確かにかぐや姫が焼け焦げる程に熱く愛した帝も、いつか生まれ変わるかもしれない。

 

 だが――それは、少なくとも、()()()()()()()()()()

 

 その言葉に、遂に――はっきりと、藤原道長は表情を歪める。

 

「ああ――そうだ! 私は――俺は、帝ではない!!」

 

 分かっている。分かっていた。

 前世の記憶など存在せず、己が魂の由来など知りもしないけれど――これだけは言える。

 

 藤原道長は帝ではない――決して選ばれし主人公ではない。

 

 五男に生まれ、才能にも恵まれず。

 燻り続け、沈み続けて、月どころか、華やかな陽の下にすら届かない筈だった平凡な男。

 

 主人公ではない――だが、()()()()()()()()()()()()と、そう願い望んだだけの男。

 

 燃えたのだ。

 

 あの日――竹取物語に出逢った書庫で、見上げた月に、目を奪われたその時に。

 

 一目惚れだった。

 

 ただただ美しい――輝くモノに憧れた。

 

 天に耀くその月に。

 他人伝(ひとづて)の文章でしか知らない、似顔絵すらない――あまりに美しく愛に生きた女性に。

 

 心の中の――黒い炎が燃えたのだ。

 

 ならば、手を伸ばすしかない。

 伸ばして、伸ばして、伸ばし続けて。

 

「それでも――俺は、貴女に逢いに来たのだ!!」

 

 黒く、黒く、燃える――熱く、熱く、燃え盛る。

 

 その燃えるような野心で――その熱く迸る愛で。

 

 不可能を可能にした。

 奇跡を――起こしてみせたのだ。

 

 月まで連れ戻しに来て。

 そんな、最高難易度の――五人の男どころか、帝すらも叶えることの出来なかった、かぐや姫の無理難題に応えてみせた。

 

 届く筈もない月に、かぐや姫の手に、この手を届かせてみせたのだ。

 

「愛している――かぐや」

 

 藤原道長は、最後の一歩を踏み出し――かぐや姫の手を掴む。

 

 遂に――届いた、それに。

 

 もう、決して放さないという、ありったけの愛と願いを――想いを、込めて。

 

「共に――帰ろう」

 

 戦場の真ん中で、戦火の怒号の中で放たれたプロポーズに。

 

 かぐや姫は、涙を溢れさせながら、それでも力無く――首を振る。

 

「……無理よ。……失敗したの。……このままじゃ――誰も幸せなんてなれない」

 

 ハッピーエンドは訪れないと、かぐや姫は泣きながら言う。

 

「リオンは……私が日ノ本に送り込んだ。日ノ本を守るには……GANTZの庇護下にするには、もうそうするしかなかった。それでも、私は……決心しきれなかった。あの子を直接平安京に落とさなかったのは……私の迷いの――弱さの、現れ」

 

 赤雷の落雷に巻き込まれた赤い流星は――そのまま平安京から遠く離れた蝦夷へと墜落した。

 だが、そうでなくても元々の着弾予定地点も、平安京から少し離れた周辺地域だったという。

 

 直接、平安京へ送り込まず、最後の選択をリオン任せに、時の運任せにしたのは――かぐや姫の、迷いと弱さの現れ。

 

 リオン・ルージュは月の黒い球体における最重要人物だ。

 故に、彼女が星人戦争に巻き込まれたら、GANTZは機密保持に動き出さなくてはならないのは確実である。

 

 しかし、その機密保持の手段は、何も現地人の記憶操作とは限らない。

 

「あの子は余りに天才過ぎた。己の『操縦者(プレイヤー)』として選んだGANTZ自身が、あの子を脅威として判定し始める程の」

 

 己の理解を超えた支配力。

 それに怯え始めたのは、月の住人だけでなく、黒い球体も同様だった。

 

 己が利用しているつもりが――しかし、この操縦者は制御不能(コントローラブル)な脅威であると、黒い球体は判定し始めていた。

 

 星の脅威を撃退する装置であるGANTZが、あろうことか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だと、そう認識し始めていた。

 

「……それに気付いたのは、この星の、最上位戦士(トップキャラクター)たる私だけ。……だから私は、GANTZの矛先があの子に向く前に、あの子を地球へ逃がしたの」

 

 しかし、時機悪く、日ノ本には大規模な星人戦争が勃発しようとしていた――国が傾き、日ノ本が修復不可能な程の大怪我を負いかねない、正しく大戦争。

 

 日ノ本を救うにはリオンを関わらせるしかない。

 どっちみち、リオンは月から一刻も早く脱出させなくてはならない――リオンならばGANTZの襲撃も撃退出来るかもしれないが、そうなった場合は間違いなく月という星が消えてなくなる。

 

 故に――リオンを日ノ本へと送るのが最適解だと、かぐや姫は判断した。

 

 だが、そうなった場合。

 

「GANTZは――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()でしょう。リオンを排除することで、あの子の口を封じることで、己の機密を防衛しようとする」

 

 舞台が地球ならば、月の崩壊も考慮せずに戦争(ミッション)を仕掛けることが可能。

 更に、そんなことになれば――もし、リオン・ルージュが、その敵を迎撃すべく、己が力を、星人としての力を本格的に開放した時は。

 

 リオン・ルージュという傾星の怪物が暴れ始めれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、リオン・ルージュという星人の排除を優先し、彼女を排除しようとする刺客の強化を後押しするかもしれない。

 

「地球という『星の力の加護(バフ)』を受けた『黒い球体の刺客(キャラクター)』が! あの子にきっと襲い掛かる!」

 

 かぐや姫は瞳から涙を溢れさせながら叫ぶ。

 

 こんなことを望んでいたわけではなかった。

 

 かぐや姫は、小さな『箱』の中に閉じ込められ、星の命運などという重過ぎるものを背負わされた、その小さな体に詰め込まれるには余りに大きすぎる力に狂わされた――リオン・ルージュという女の子を、どうにか広い世界に解き放ちたかっただけだった。

 

 それでも――故郷である月と同じくらいに大事な、日ノ本という小さな島国も見捨てられなくて。

 

 最上位戦士として、リオンの代わりに月を守護ることもしなくてはいけなくて。

 

 だから、結局――自分で選ぶことが出来なかった。

 

 こんなことになってしまうと、分かっていたのに。

 それでも、最後の選択はリオンや地球人に託して、ただピースだけを無責任に放り投げて。

 

 結果、笑顔になって欲しかった少女(リオン)に危機が迫るのを止められなくて。

 結果、守りたかった筈の日ノ本が崩壊するような戦争(ミッション)をマッチアップすることになってしまった。

 

 リオン・ルージュという怪物が本格的に暴れたら、下手をすれば日ノ本という小さな島は沈むかもしれない。平安京という小さな都は跡形もなくなるかもしれない。

 

 だが、だからといって、リオンが力を発揮しなくては――彼女は刺客に殺されてしまうかもしれない。

 

 ハッピーエンドなど何処にもない――ただただ後味の悪いバットエンドばかりに、全てが繋がってしまっている。

 

「…………失敗……したの………。私のせい……私の………弱さのせいで……全部……失敗してしまう」

 

 道長の両手が包んでいるかぐや姫の手が震える。

 ポロポロと涙と弱音が零れ、乾いた別面に染み込んでいく。

 

 その時、真っ暗な(ソラ)から一筋の光が降り注いだ。

 

 かぐや姫や黒衣の軍勢の、遥か彼方に落ちるそれを見て――かぐや姫の顔が蒼白に染まる。

 

「………アレは――いや、そんな――」

 

 かぐや姫の表情を見て、道長はすぐに察した。

 あの光こそが、リオン・ルージュへの『刺客』を、黒い球体が平安京へ派遣するそれなのだろう。

 

「………ごめんなさい、リオン。…………ごめん、なさ――」

 

 一つは、自分が日ノ本へと送った紅蓮の姫君に。

 

 そして、もう一つは――涙で溢れた瞳と共に、道長に向けられ、零れそうになっていたそれを。

 

 道長は、愛する女を抱き締めることで。

 涙と弱音を、己が胸の中に押し込めることで塞き止めた。

 

「大丈夫だ、安心するがいい。――ここまでは……『我々』の、計画(プラン)通りだ」

 

 道長は、堂々と。

 

 常にそうしてきたように、主人公の(かわ)を被って言う。

 

「日ノ本も、黒い球体も、リオン・ルージュも。全員が丸く収まる結末を――()()()()()()()を用意している」

 

 だから――と。

 

 道長は、少し彼女を離して、真正面からかぐや姫の泣き顔を見詰めて。

 

 指で涙を掬い上げながら、精一杯に――恰好付けて微笑む。

 

「言ったであろう。私は傲慢なのだ。月に辿り着いただけでは満足などしていない。黒い球体の奇跡、かぐや姫、そしてはっぴーえんど。その全てを手に入れるのだ」

「………それも、安倍晴明(チート)の星詠みですか?」

 

 いや、()()――と、道長は笑う。

 

 安倍晴明の星詠みも、この戦争の終盤(クライマックス)までは詠めていても、その結末(エンディング)までは見透かしていなかった。

 

 それはつまり――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことを意味している。

 

 妖怪大戦争が明けた頃――()()()()()()()()()()()

 安倍晴明は、藤原道長にそう告げていた。

 

 故に、道長のその格好付けた宣言には、何の確約(チート)もない。

 

 だからこそ、道長は力強く、主人公のように胸を張って言う。

 

「それでも――やれることは全てやった。だからこそ、私は信じると決めたのだ」

 

 藤原道長が、熱く語る。

 

 真っ直ぐに向けられる、その黒く燃える瞳に――かぐや姫は、焼き尽くされる。

 

「我が陰陽師(とも)の『星詠み()』を。そして我が『悪運(てんうん)』を」

 

 そして――『人間』を。

 

「私は――心から信じている」

 




用語解説コーナー66

・GANTZ

 対星人用防衛機構装置。
 
 外星人からの侵略危機に見舞われている星に突如として現れ、在来星人に対星人用兵器を提供する謎の黒い球体。

 その真実、ルーツは、依然として明らかになっていない。


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妖怪星人編――67 姉妹喧嘩

世界よりも自己(エゴ)を優先した――醜く、卑怯な、怪物であると。


 

「なるほど……妖怪大戦争。時代も遂にそこまで至ったか」

「楽しそうなお祭りだね! この星の、この島国における最終星人戦争(ハルマゲドン)といったところかな!」

 

 僕、わっくわくしてきたぞ――とはしゃぐ豪奢な衣を纏った紅蓮髪の美女と、はるまげどんとは何だ――と首を傾げる墨色の着流しの浪人。

 

 ちぐはぐな世界観の組み合わせに見えて、どこかぴったりと嵌まっているようにも見える奇妙な二人組。

 

 彼等は自分達の名をリオン・ルージュと京四郎と名乗っていた。

 

 突如、空から飛来して羽衣達の窮地を救った男女は、その見返りにと平安京の現状を教えてくれるように頼み、その流れで一行と行動を共にしていた。

 

「しかし、聞いた話だと、そのお祭りもどうやら終盤みたいだね。だいぶあちこち燃え尽きているし。後はボスキャラを残すのみっていった感じだ」

「分かるのか、リオン?」

「随分とこの国特有の星人の力――妖力っていうんだっけ――が強くて正確な位置とかは分からないけど、もう強い力が数えるくらいしか残ってないっていうのは分かるよ」

 

 京四郎の目当ての魔人も含めてね――そう言って微笑みかけるリオン。京四郎は路の脇に目を逸らし、そこいらに揺らめく黒い残り火を見て、羽衣の方へと目を向ける。

 

「それで――狐の少女。貴女が言うには、魔人はその『祠』という場所を目指しているというが……それは確かなのか」

「……ええ。ですが、狐の少女というのは止めて下さい」

 

 羽衣はこちらに振り向いた京四郎に対し、震える己の心を隠すように前に立つ。

 そんな自分よりも露骨に身体を震わせた詩希、あの平太すらも生唾を呑み込み、詩希と同じく羽衣の脚の裏に隠れている。

 

 無理もない、と思う。

 羽衣ですら――己の中に流れる『狐』の血が、この男を前にすると騒めくのを感じる。

 

 この目の前の男を――畏れるのを感じる。

 

(……これが、兄様と同じ、星に選ばれし最上級の戦士。……『妖怪の天敵』――『怪異殺し』)

 

 同じ血を分け合っただけあって、安倍晴明相手にはここまで反応を示さないけれど――逆にいえば、通常の妖怪は、晴明を前にすれば、こんなにも恐怖を覚えるのかと改めて尊敬する。

 

 彼等を前にすると――妖怪というだけで、目の前の存在が恐ろしくて堪らない。

 

 だからこそ――と。

 羽衣は、明確に言葉に出して、目の前の偉人と相対する。

 

「私の名は『羽衣(うい)』――安倍晴明の妹です。歴史に名高き『怪異殺し』――藤原秀郷(ふじわらのひでさと)様」

 

 その羽衣の言葉に、京四郎は目を細め、隊列を守るように最後尾にいた青年は目を見開く。

 

(『怪異殺し』――藤原秀郷! かの魔人・平将門(たいらのまさかど)を討伐したとされる、伝説の英雄じゃないか!)

 

 それがどうして目の前にいるのだと常識を疑うが――分かってしまう。

 

 曲がりなりにも平安武者の部隊長という立場からか、それなりの修羅場を潜ってきた経験からか――否。

 

 これまで、数多の英雄に身体を貸し――『慿霊(ひょうれい)』させてきたが故に、細胞が理解している。

 

 目の前にいる男は――紛れもなく、伝説の『英雄』なのだと。

 

 だとすれば、彼等の会話に出てくる『魔人』というのは――と、青年が冷たい汗を垂れ流し始めたのを他所に、伝説の英雄と、伝説の英雄の妹は会話を続ける。

 

「……晴明殿の妹。……なるほど、そういうこともあるのか」

 

 京四郎は、鋭く羽衣を見据えながら呟く。

 その眼差しだけでも殺傷力が伴っているかのように、羽衣は身を竦ませたが、京四郎はそんな羽衣に「……そうか。いや、すまなかった羽衣殿。こちらも京四郎と呼んで欲しい。藤原秀郷はもう託した名だ」と言い、そして尋ねる。

 

「それで、羽衣殿。そなたが晴明殿の妹君ということは、そなたが言う、その『祠』とは――」

「……ええ。『祠』とは――かの大妖怪・『(くず)()』が眠りに着く神秘郷の入口」

 

 羽衣は、英雄を前に独白するように語る。

 

 己が母――『葛の葉』の居場所と。

 

 そして――己が、父の目的を。

 

「魔人・『平将門』は、間違いなくその場所に――『葛の葉』の下へとやってきます」

 

 父の仇であり、妖怪の天敵――『怪異殺し』に、明かす。

 

「……………」

 

 恐らくは、その全てを把握している京四郎は、無言でその意味を理解し。

 

「――分かった。では、そこに案内してくれ。道中の護衛は俺が務めよう」

 

 そう言って、そのまま先陣を切るように歩き出す。

 紅蓮髪の美女がその横に並び、二人の童を脚に引っ付けた羽衣がその後ろに続く。

 

 そして、そんな彼等を後方から眺めながら、隊士の青年は続いた。

 

「………………」

 

 元々、彼女等の護衛を引き受けたのは、力を発揮できない羽衣と無力な子供二人の道中を守る為だった。

 

 そして、彼女が安倍晴明の妹と知り、この戦争を終わらせる手段を持っていることが判明し、その為に彼女らを『祠』まで送り届けなくてはならないという――身に余る、分不相応な大任だと明らかになって。

 

――あなたならば、出来ると判断しました。

 

 彼女は、役名なき脇役(モブキャラ)の青年に言った。

 

――お願いです。戦争を終わらせてください。そして、皆を、家族を、平安京を

 

 救ってください――と、

 

「……………」

 

 重い、と、思った。

 荷が重いと。相応しくないと。

 

 誰かがやらなくてはならないのだとしても――それはきっと、僕以外の誰かだと。

 

 事実、あっという間に、遥かに適任の英雄が現れた。

 

 世界が――星が、お前には無理だと、そうばっさりと告げるように。

 

「……………」

 

 京四郎が列の戦闘を歩くことで、下級妖怪は近づきすらしなくなった。

 一般市民を襲っていた妖怪も、蜘蛛の子を散らすように逃げだしていく。

 

 青年が護衛役を務めていた時の牛歩進行が嘘のように――みるみると目的地に近付いていく。

 

「……………」

 

 もう、自分は必要ないのではないかと思う。

 

 そもそもが戦争を終わらせる鍵となる人物の護衛などという、明らかに今宵の戦争の主軸たる場面に、自分のような人物が関わるなど不相応だったのだ。

 

 今、ここには、自分などよりも余程相応しい――『英雄』がいる。

 英雄の力を間借りすることしか出来ない、紛い物の自分ではなく、純正の本物の英雄が。

 

 ならば、傷ついている一般市民の避難を介助しながら、別動隊に合流した方が、余程――。

 

 そう青年が思考の中に落ちていこうとしている――その、最中。

 

 

 辺りを圧し潰すような重圧と共に――再び流星が落ちてくる。

 

 

「な――ッ!」

「今度は何――!?」

 

 羽衣が、詩希が、平太が空を見上げて。

 

 京四郎が――そして、リオンまでもが、険しく表情を引き締め、目の前に落下しようとしている流星を迎え撃とうとしている中で。

 

 青年の背後に、囁くような声が届いた。

 

「――よく分かっているではないですか。それでは、我々のような小物に相応しい戦場へとご案内しましょう」

 

 大丈夫。このパートにアナタは必要ありませんよ――瞬間、まるで羽が生えたかのように、青年が背中から掴み上げられ、落ちてくる流星と反対方向に宙を舞う。

 

「――――!」

 

 自分が何者かに連れ去られようとしていると青年がようやく気付けたのは、自分を攫おうとしている妖怪の片翼が吹き飛ばされたからだった。

 

「――くっ! 流星に完全に気を取られている瞬間を狙い澄ましたつもりですが……流石は伝説の英雄と言ったところでしょうか……ッ!」

 

 妖怪・烏天狗(からすてんぐ)は、片翼を失いながらも、両手はしっかりと青年を抱えたまま、そのまま高度を上げることは出来ずとも、滑空するようにその場から離れようと試みる。

 

 尚も追撃しようとする京四郎を――。

 

「馬鹿! 京四郎、目を離すな!! 分かるだろう!!」

 

 リオンが叫んで制す。

 つまり、目の前に迫る流星は、リオンや京四郎を以てしても、片手間で処理できるようなものではないことを意味していて――。

 

 それを察することが出来た青年は、迷わずに叫ぶ。

 

 自身のことなど度外視にしてしまえる青年は、だからこそ、この時ばかりは英雄に物怖じせずに叫ぶことが出来た。

 

「僕のことはいい! 彼女等を頼みます――『英雄』!!」

 

 その言葉に――そして、その瞳に、英雄は唇を噛み締めて――そして。

 

「羽衣殿! 童等を連れて直ぐに離脱しろ! 力を解放してでも、ここから急いで離れるんだ!」

「京四郎殿! しかし――」

 

 羽衣にも分かっていた。

 こちらに向かって飛来してくる――()()()()

 

 それがどれほど異質で、異様で、異常なものなのか。

 伝説の英雄の京四郎――藤原秀郷が、そして、そんな彼に一切の畏れを抱いていない紅蓮髪の美女が、これほどまでに警戒心を露わにしていることからもうかがえる。

 

 リオン・ルージュと名乗った彼女は――全く妖力を感じない。だからとって呪力も感じない。

 明らかに人間ではないのに、妖怪でもない。かといって平将門のような魔人でもない。

 

(彼女は何者なの――兄様や道長様は知っているの――敵、味方――――あの黒い流星――計画(プラン)にはなかった――私が聞かされていなかっただけ――何が起きて――――あの黒い流星と……リオンという彼女――――何か、近い――――()()?)

 

 黒い流星――その背に、赤い満月が見えて、思考の渦に囚われて、それでも何かに辿り着きそうになった羽衣を。

 

「早く行け!! 邪魔だ!!! 此処はこれから地獄になる!! 失せろッッ!!」

「――ッッッ!!!」

 

 英雄の本気の威圧に、羽衣はすぐさま渦ごと思考を投げ捨て、詩希と平太を両手に抱えて、全速力で離脱した。

 

 羽衣の離脱を確認した後、京四郎は迷わず――その黄金の太刀を抜く。

 

「――――行くぞ、リオン」

「誰に言ってるんだい? ――分かっているだろうけど、本気で行きなよ」

 

 じゃないと、この(みやこ)ごと吹き飛ぶよ――表情を消したリオンの冷たいそんな呟きに、それこそ分かり切っていることと、京四郎は一切動じず。

 

 黄金の太刀を振りかぶり、それを眩く発光させて――全力で振り抜いた。

 

 輝く斬撃が空を切り裂いて宙を進む。

 そして、リオンが放つ紅蓮の炎が黄金の斬撃に纏わって、一体化する。

 

 黄金紅蓮の斬撃が、黒い流星に激突する。

 

 轟音。

 爆裂の衝撃が拡散し、強烈な爆風が吹き荒れる中。

 

 京四郎は、その黄金の太刀を構えたまま。

 

 そして――リオンは、その額に一筋の汗を流す。

 

「……まぁ、こうなるよね」

 

 ゆっくりと、降り立ってくる。

 

 爆煙が晴れて、徐々に晴れてくる世界に――異物が混入される。

 

 世界観が合わない。ここに居てはいけない存在。

 背後に現れたそれに、ゆっくりと振り返りながら――英雄は言う。

 

「――お前の知り合いか? リオン」

 

 それは漆黒の豪奢な衣装を身に纏っていた。

 長い髪は輝くような黒髪で、瞳は白銀。

 

 機械のような無表情な顔つきは――まるで工業製品のように、()()()()()()()だった。

 

「うん、まあ……そうだね。初めて見るけど――」

 

 まるで、こうなることは分かっていたかのように、つまらなそうにリオンは言う。

 

 事実として、こうなることは分かっていたけれど――それでも。

 

 これを差し向けた何某に――強い侮蔑と、嫌悪感を込めて、平淡に呟く。

 

「たぶん――僕の、複製品(いもうと)だ」

 

 月よりの使者は――黒い球体からの刺客は。

 

 まるで、原本(あね)の言葉を肯定するように、優雅にドレスの裾を持ち上げた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平太と詩希を抱えた羽衣は、全速力で平安京を駆け抜ける。

 

 力を開放してしまった以上、もはや下手な出し惜しみは危険を高めるだけだ。

 

(もし、『狐の姫君』が表の平安京の何処かにいるのならば、既に私の呪力――妖力を察知していることでしょう。ならば、私の力を察知した彼女が、私に追いつく前に『祠』に辿り着く!)

 

 青年と京四郎のお陰で、既に『祠』までの距離は決して遠くはなかった。

 ただ歩いていくならまだしも、呪力により強化した羽衣の速度ならば、瞬く間に『祠』には到着する。

 

「ごめんね、少しだけ我慢して! もうあとちょっとだから!」

 

 尋常ならざる高速移動に付き合わされている詩希と平太。

 彼等が見た目通りの(わらべ)であればとんでもないことになっていただろうが――彼らもまた、只の童ではない。

 

 羽衣と同じく――今宵の妖怪大戦争を終結させる為の、紛れもない『鍵』たる童なのだ。

 

(――よし、着い――っ!!?)

 

 そして、あっという間に目的地である『祠』の前へと辿り着く。

 

 だが、そこには羽衣がどうしても避けたかった光景が――恐れていた、先着者がいた。

 

「……あらあら。どうにも馴染みのある『力』が近付いてくると思ったら。お兄ちゃんに続いてあなたにまで会えるなんて。嬉しいわ――『お姉さま』」

 

 急停止して足を止めて、直ぐに二人の童を己の後ろに隠す。

 

 しかし、当然、それを彼女が見過ごす筈もなかった。

 

「それに、まさか『箱』まで届けてくれるなんて。いじわるなお兄ちゃんではなくて、初めからあなたの下に向かえばよかったわ。兄と違って、妹に優しい良い姉ね――羽衣(うい)

「……残念だけれど、あなたの為に連れてきたわけではなくてよ。――『狐の姫君』」

 

 狐の姫君――その言葉に、詩希も平太も身を震わせる。

 

 羽衣達が到着したのは、とても大きな一本の木の前。

 その根元には小さな『祠』があり、それこそが彼女達が目指した――とある『狐』が眠りにつく神秘郷の入口だった。

 

 だが、その前には、別の一匹の『狐』が居た。

 

「あら? こんな状況の妹に、あなたまでもがいじわるを言うの? ――お姉ちゃん」

 

 美しい金色の毛並みを、美しい緋色の血で穢す美女。

 彼女こそが、今宵の妖怪大戦争を引き起こした妖怪勢力の一角の『王』――『狐の姫君』・化生(けしょう)(まえ)

 

 決して、この『祠』の場所を悟られてはならなかった――大妖怪・『葛の葉』の血を引く、ある意味で羽衣の妹とも呼べる存在だった。

 

「我儘を言ってはダメよ、悪い子ね。だから、お兄ちゃんに痛い目をみせられたのでしょう?」

「……あなたもやはり知っていたみたいね。そうなると、本当に全てを見透かしていたのから」

 

 じゃあ、ここは素直に尋ねるとしましょうか――そう言って、血化粧を施された顔に妖艶な笑みを浮かべて。

 

「何もかも見透かすお兄様に、色々と聞かされているのでしょう? 血を分けた妹であり、十二神将筆頭・『貴人(きじん)』でもある貴女ならば――」

 

 己の背に屹立する巨大な一本の木を、視線で指し示しながら、化生の前は羽衣に向かって言う。

 

「――知っているのかしら? あの『祠』から、『葛の葉』が眠る神秘郷の中へ侵入(はい)る方法を」

 

 化生の前の言葉に、羽衣は小さく歯噛みする。

 分かってはいたことだ。いくら何でも彼女が偶然でこんな場所に通りすがったとは思えない。何より目撃された、ここまで全力で向かってきた羽衣の行動そのものが証拠のようなものだ。

 

 しかし――。

 

「実は少し前に辿り着いたのだけれど、どうしても中に入ることが出来ないのよ」

「……どうして此処が、『葛の葉』が眠る場所だと?」

「妹を馬鹿にするのはやめて欲しいわ。これでも『葛の葉』の疑似転生体ですからね。此処から『葛の葉(おかあさま)』の妖力が微かに漏れ出していることくらいは分かるわよ」

 

 まあ、それを感じられるようになったのも、少し前からなのですけどね――そう語る、化生の前の言葉が本当ならば。

 

(私にそれが感じられないのは、混血の私よりも葛の葉単体から生まれた彼女の方が、葛の葉との妖力的な繋がりが強いからだとしても――葛の葉の妖力が漏れ出しているということは……お兄様じゃないから確かなことは言えないけれど……その原因は恐らく……)

 

 平将門の平安京への襲来。

 葛の葉が眠る『神秘郷』の『鍵』を開ける正式な手順は、『葛の葉』の待ち人たる『平将門』が『祠』に手を触れること。

 鍵となる人物がすぐそこまでやってきたことで、封印に罅が入り始めているのかもしれない。

 

(それだけ『葛の葉(おかあさま)』の、『平将門(まちびと)』を求める気持ちが強いということかもしれないけれど)

 

 恋愛脳の母親に振り回される娘の気持ちになって欲しいと、苛立ちを感じながら羽衣は「――教えると思う?」と、髪を掻き毟りながら化生の前に言う。

 

「確かに私は知っているわ。『祠』の鍵の開け方を。正式な手順も、反則的な裏技もね。けれど、残念ながらあなたに教える義理もないし、あなたはその中に入る資格もないわ」

 

 あなたは、『葛の葉』ではないもの――そう、真っ直ぐに見据えながら突き付けられた言葉に。

 

 化生の前は、その血に濡れた前髪で、瞳を隠すように俯きながら。

 

「本当に、何もかも見透かしたように言うのね。あなたたち――『兄妹』は」

 

 掠れるような呟きに、羽衣は訝しげな表情を浮かべるが、化生の前はそれを見せまいとばかりに勢いよく顔を上げて言う。

 

「だけれど――本当に、全てを見透かしているのかしら? 今宵の妖怪大戦争は――」

 

 本当に、何もかも、あの男の『計画(プラン)』通りなのかしら?

 

 化生の前の、妖しい血に濡れた笑みから放たれた言葉に、一度だけ口を閉じながらも、羽衣は言い返す。

 

「……お兄様は、全てを見透かしているわ」

「そう。なら、貴女は知っているの? 妹であり、『貴人』である貴女は、知っているかしら?」

 

 美しき緋色の狐は、その口を妖しく歪めながら言う。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()の正体を」

 

 それは化生の前にとっては鎌かけの意味もあっただろう。

 

 羽衣がそれを知っていればそれでよし。

 知らなくとも、その反応を見ながら、あの異様な安倍晴明の状態に対して推察をする為の情報を手に入れる筈だった。

 

 だが、羽衣の反応は、驚愕でも、困惑でも、情報を悟られまいとする無表情でもなくて。

 

「――――」

 

 目を見開き、歯を食い縛って――まるで、怒りを堪えているような、恐れていた事態の到来に諦観を抱くような、それだった。

 

 その奇妙な反応に、今度は化生の前が訝しむ様子を見せたが。

 

「……素直に言うことを聞くとは思わないけれど、一応、一度だけ、言わせてもらうわ」

 

 一言前置き、懐から光り輝く術符を取り出す。

 

「そこを退きなさい――私はお姉ちゃんよ!」

「退かないわ。はしたないわよ、お姉ちゃん」

 

 明らかなる焦り、そして怒り。

 あの『黒い安倍晴明』――『蘆屋道満』には、羽衣がこれほどに取り乱す何かがあるのか。

 

 しかし、今は『兄』よりも『姉』だと、化生の前は思考を切り替えて。

 

「それとも、力尽くで私を倒してみる?」

 

 胸に手を当てて、艶やかに微笑みながら、化生の前は羽衣に言う。

 

「葛の葉の疑似転生体である純粋な妖怪である私と、魔人と妖怪の混血であるお姉ちゃん。どっちが強いのか試してみるのも一興だけれどね」

「あなたは混血のお兄ちゃんにもうボコボコにされたのだから、その答えは出ているじゃない」

「お兄ちゃんはもう、混血どうこうっていう概念じゃないじゃない。もはやアレは只の『星の戦士(チート)』よ」

 

 それはともかくと、手を叩いて笑顔を振り撒き、化生の前はにこやかに言う。

 

「確かに今の私はお兄ちゃんにいじめられてボロボロ。真っ向から戦ったらお姉ちゃんにも負けちゃうかもね」

 

 でも、私は悪い子だから。こんな風にわがままを通すわ――そう言って、化生の前は力を膨れ上がらせ、ぼこぼこと『赤い妖力の鎧』を纏い、『妖力の腕』をこれみよがしに伸ばす。

 

「もし、お姉ちゃんが私に攻撃を仕掛けたら――私は遠慮なく、そちらの『箱』を奪わせてもらうわ」

 

 どうせ私のものになるのですもの。遅いか早いかの違いよね――妖しく、禍々しく笑う、化生の前のその言葉に。

 

「――っ!」

「ひ――ッ」

 

 平太は詩希を抱きかかえるようにし、羽衣は彼等を庇うように一歩下がる。

 

「……卑怯ね。親の顔が見てみたいわ」

「私もよ。だから、早く『葛の葉(おかあさん)』に会わせてちょうだい」

 

 それに、この程度を卑怯というのは片腹痛いわ――化生の前は、そう羽衣の言葉を嘲笑う。

 

「『狐』も、『鬼』も、そして『人間』も。なにもかもを好き勝手に駒にして――『計画(プラン)』などと称して傲岸不遜にも、まるで遊戯をしているかのように『生命』を動かす」

 

 血に塗れた狐は――人間に追い詰められた狐は、心の底から吐き捨てる。

 

「そんなあなた達の方が――よっぽど卑怯じゃない」

「…………」

 

 化生の前の言葉に、羽衣は何も返さない。

 

 ただ睨み付けるばかりで、更に一歩、童達を守るように距離を取る。

 

「ああ、別に責めているわけじゃないのよ。戦争だもの。卑怯、卑劣――大いに結構じゃない」

 

 綺麗である必要なんてない。白くある必要などないと。

 

 己の中に流れる血を、炎のように赤い血を、自らをおどろおどろしく穢す血を示すように、化生の前は己を掻き抱きながら言う。

 

「私達は――怪物なのだから」

 

 戦争という地獄を作り出し、自らの目的の為に他者を貶め。

 

 世界よりも自己(エゴ)を優先した――醜く、卑怯な、怪物であると。

 

 

「格好つけてんじゃねぇ。どんなお題目並べようが、テメェの戦争(ケンカ)(ガキ)を巻き込んだオメェは、只の小せぇ三下だ」

 

 

 音もなく、その男は現れた。

 

 初めからそこに居たかのように、化生の前が伸ばす妖力の腕を斬り裂き、羽衣と平太と詩希の前に現れる。

 

「――ッ! 鴨桜(オウヨウ)さん!」

 

 平太が叫ぶ。

 詩希と羽衣が瞠目し、化生の前が静かに睨み付ける中――鴨桜に並び立つように、次々と若き妖怪達が空から降り立ってくる。

 

「全く、お前は考え無しか。馬鹿正直に真正面に現れてどうする? 相手は『狐の姫君』だぞ!」

 

 首元に布を巻いた青年――妖怪・首無――士弦(しげん)

 

「どどどどどどどうしましょう!!! 何ですかあの禍々しい妖力! 鎧!? どうするんですかぁぁあああもうおおおおおおお!!」

 

 がたがたと震える青髪白装束の少女――妖怪・雪女――雪菜(ゆきな)

 

「落ち着きなさいよ。妖怪大戦争に参戦するって決めた時から、こうなるかもしれないとは覚悟してたでしょ。――鞍馬天狗の次が、『狐の姫君』だった。そんだけの話よ」

 

 堂々としゃんと立つ黒髪猫耳の少女――妖怪・仙狸――月夜(つきよ)

 

 そんな彼等の到来を確認したかのように、平太の頭の中から小さな雀が現れる。

 

「あ――」

 

 空へ飛び出した途端、その体躯を童ほどに増大させ、その身長よりも大きい刀を背負ったまま、どんどんと高度を上げて――上空をふわふわと泳いでいる一反木綿の下へと辿り着く。

 

「にんむかんりょうしました」

「うむ。ご苦労じゃったの」

 

 平太達に窮地が迫った時の護衛役として同行していた(すずめ)を労うと、夜の闇よりも黒い髪を靡かせる男は、一反木綿の上から、己を見上げる女を見下ろす。

 

「――知らない顔ね。日ノ本の目ぼしい妖怪は配下に置いたつもりだけれど、一体何処の田舎妖怪かしら?」

 

 己の勢力の大幹部の一角であった筈の鞍馬天狗、かつて四国の妖怪勢力を纏め上げた実力者である犬神――そして。

 

 狂い舞う桜吹雪の中での会談以来となる、その妖怪との対面に――化生の前は、凍えるような無表情を、一反木綿の上の黒い男へと向ける。

 

「この儂等を知らぬとは――お主らの方がよっぽど田舎者ではないかのぉ」

 

 見るモノを凍らせるような美貌を放つ雪女・白夜(はくや)と、見るモノをある意味で凍らせるような珍妙な風体の河童・長谷川(はせがわ)を両側に侍らせた、濡れたように漆黒に輝く髪に包まれた男が、日ノ本最大の妖怪勢力の長に向かって言い放つ。

 

「儂等は『百鬼夜行』。お主らよりも百年ばかり、(とかい)暮らしの歴が長い『してぃーぼーい』じゃ」

 

 安倍晴明から教わった言葉を正確な意味も分からず用いて――『百鬼夜行』を率いる男は、「息子に散々先に言われてしまったが、ここは満を持して、『総大将(ちちおや)』らしい姿を見せねばの」と、一反木綿から身を乗り出して。

 

 一切の笑みを消し――『狐の姫君』に向かって、冷たい殺意を込めて、渾身の宣戦布告をぶつける。

 

「『平安京(ここ)』は『百鬼夜行(おれたち)』の縄張り(シマ)だ。土足で踏み荒らした落とし前、つけさせてもらおうか――小娘」

 

 平安京の闇の片隅にて、ひっそりと暮らしていた『百鬼夜行』――今宵の妖怪大戦争における『その他勢力』が、今。

 

 日ノ本最大の妖怪勢力『狐』の『王』――『狐の姫君』に、真正面から抗争を挑む。

 




用語解説コーナー67

・黒い球体の刺客

 電子線により宇宙空間で召喚された『それ』は、そのまま大気圏へと突入し、黒く燃える流星となって、平安京へと真っ直ぐに墜落した。

 かぐや姫が当初の予定通りに平安京へと直接に送り届けることを選んだら、きっと同じことになっていたことを考えると、金時の赤雷は、結果的には正しく京を救ったといえるだろう。周辺地域とはいえ、赤い流星の落下は甚大が被害を齎しただろうから。流石は英雄。
 代わりに赤い流星が落ちた蝦夷は滅んだけれど、まあ英雄も全ては救えないということだろう。世知辛いね!


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妖怪星人編――68 塵捨て場の決戦

あなたの体が目当てなんですよ。


 

 真夜中の黒い空を、一羽の片翼の(からす)が飛ぶ。

 

 その烏は屈強な人間の身体の肉体を持ち、その本来の烏が持ち得ない二本の腕で、一人の青年を抱えていた。

 

 青年は身じろぎしながら、己を(さら)った妖怪に向かって叫ぶ。

 

「くっ――何故だ!? どうして僕を攫う!? 僕の何が狙いで、僕の何が目当てで――」

「――目当て。それは勿論、あなたの体ですよ」

 

 あなたの体が目当てなんですよ――そんな言葉と共に、烏の嘴から吐息が漏れるのを感じたように、ゾッと身を震わせた青年は。

 

 本来の烏ではありえない、人間のような――真っ黒な欲望が詰まった言葉を、その背筋に注がれる。

 

「私は欲しいのです! あなたのその体――体質が! その――『慿霊(ひょうれい)体質』が!」

 

 私は――欲しい。

 

 その言葉と裏腹に、烏天狗はパッと、青年を手放した。

 人間のような欲望を剥き出しに、人間のようなその両手を――青年から離した。

 

 真っ暗な空――遥かなる上空から。

 

「――――な」

 

 先程までその拘束を外そうと暴れていた筈なのに、いざ外れた瞬間――体も頭も凍り付いた。

 

 落ちる。落ちていく――為す術もなく真下に落下していく。

 

 妖怪ならば。

 その翼や妖力で振り解けるかもしれない。

 

 英雄ならば。

 その呪力で勢いを減衰させたり、あるいは地面に叩き付けられてもなんともないかもしれない。

 

 だが――普通の人間は、只の脇役は、当たり前のように――重力の影響からは逃げられない。

 

「がッ――ッ!!?」

 

 空から烏に無慈悲に捨てられた人間が、まるでゴミ捨て場に放棄されるが如く、何の罪もない、この戦争によって強制的に空き家にさせられた家屋に落下する。

 

 既に屋根はボロボロで、それが功を奏したのか、青年の身体を太い柱が貫くといった悲劇は起きず、奇跡的に、自力では不可能だった英雄の御業である落下の勢いの減衰に成功した。

 

 だが、無論――代償はある。

 才能に選ばれなかった凡人(モブキャラ)が、選ばれし英雄と同じ成果を、何の代価もなく獲得できるわけもない。

 

 青年は立ち上がれなかった。

 全身を貫いた衝撃に、肉体が当然のダメージにあっさりと悲鳴を上げている。

 

 頭を少なからず打ったのか視界がぐらぐらと揺れる。

 強烈な吐き気がこみ上げ、全身のどこが痛むのか分からない程に――痛い。

 

(――当たり前だ! ふざけるなよ――妖怪や英雄(おまえら)と一緒にするな……ッ。人間は――高所から落とされたら死ぬんだよ!!)

 

 当然の事実だった。

 今宵の妖怪大戦争において、当たり前のように無視される一般常識。

 

 だが、青年は、その当たり前の常識から逃げられない。

 超常異常が飛び交う、今宵の妖怪大戦争(異能バトル)において――彼の役名は与えられていない。

 

 青年は――脇役(モブキャラ)なのだ。

 物語(ストーリー)主軸(メインステージ)に相応しくない、只の背景(エキストラ)

 

(…………そんな……僕が――)

 

 どうして、こんな所で、こんな目に遭わなくちゃいけないんだ――そう血の味がする口の中を噛み締めながら、少しずつ平衡感覚を取り戻して、震える膝を無理矢理に持ち上げて立ち上がると。

 

 彼を上空から(ゴミ)のように捨てた、烏天狗(からすてんぐ)が、青年を至近距離から見下ろしていた。

 

「やはり、これくらいは生き残りますか。思った通り、それなりの天運は持ち合わせているようですね」

 

 烏天狗は、胃の中のものをぶちまける青年に構わず、両手を広げて、真っ暗な廃屋の中で大仰に言う。

 

「どうですか、この場所は? あなたの望み通り、今宵の妖怪大戦争における隅も隅――大局に何の影響も齎さない物語の影」

 

 既に役目を終えた私と、何の役割も与えられなかったあなたの、決着を付けるに相応しい戦場です――烏天狗の言葉を、青年は揺れる頭で受け止めた。

 

「……僕の……望み……通り?」

 

 確かに、自分はそんなことを思った。

 身に余る重責を背負い、大任に圧し潰されそうになり――弱くも、情けなくも、願った。

 

 自分は、こんな眩しい――戦争の行方を左右する、重要極まる場所には、居たくないと。

 

 だが、何故――それを、この妖怪が知っている?

 

「私は何でも知っていますよ――私は全てを見透かしているのです」

 

 そして、何故と思ったことすらも、烏天狗は――見透かしていた。

 

 まるで――いや、と。

 

 青年は、揺れる頭を更に揺らして思考を断ち切る。

 

 考えても仕方ないことは考えるな。

 凡人にそんないくつものことは出来ない。

 

(コイツが僕の心を読めたってどうでもいい。僕如きを見透かしたところで何になる。それよりも重要なのは――)

 

 突如、青年を拉致した烏天狗。

 慿霊体質が目当てだと言った、この妖怪の目的と、そして正体。

 

「役目――役目を、果たしたと言ったのか。……お前は、一体、何者だ? 『狐』か? それとも『鬼』か?」

「強いて言えば『狐』ですが、それもまた本質ではありませんねぇ。私の正体が知りたいですか? 私の目的が知りたいですか? ――いいでしょう! 何も知らないあなたに、何もかも教えて差し上げましょう!」

 

 何の光も注がない闇の中で、煌びやかな主軸(メインステージ)から離れた真っ暗な世界で、烏天狗は役者のように大きく身振りをしながら語る。

 

「我が名は烏天狗(からすてんぐ)。今宵の妖怪大戦争の舞台を整える為に、かの安倍晴明様から生み出された『三羽烏(さんばがらす)』が一羽でございます」

 

 大幹部として『狐』勢力の中枢に潜り込んだ――『(さとり)』。

 四天王として『鬼』勢力を復興させた――『天邪鬼(あまのじゃく)』。

 

「そして、基本的には『狐』勢力に属しながらも、悪目立ちせずに舞台の細かい調整に励んだ私『烏天狗』。『三羽烏』も残すは私のみとなってしまいましたが、我等がいなければ今宵の妖怪大戦争は完成していなかったと自負しております」

 

 安倍晴明が求める『妖怪大戦争』という舞台を完成させる為に、裏方(スタッフ)として身を粉にして働いたと、そう胸を張る烏天狗は。

 

「魔の森の決戦も、私が演出したものです。あなたのことはそこでお見かけしたのですよ」

「――っ!? ……あれも、お前が――ッ!」

 

 魔の森の決戦。

 青年の運命が、確かに音を立てて変わった日。

 

 それが烏天狗の手引きによるものだったならば――いや、だが、そうなると。

 

「お前が……安倍晴明様の……式神ならば――何故、あんなことをした……何故、こんなことをする……」

 

 息も絶え絶えに言う青年の言葉に、烏天狗はこれまた大仰に首を振って。

 

「我々『三羽烏』は式神ではありませんよ。陰陽師の式神となった妖怪は、その主の陰陽師の呪力混じりの『匂い』がしてしまう。潜入任務を請け負った我々が、そんな匂いをさせて、『狐の姫君(化生の前)』や『鬼の頭領(酒吞童子)』を誤魔化せる筈がないでしょう」

 

 己が真っ黒な羽毛だらけの胸を、人間のような手で抑えながら、烏天狗は言う。

 

「我々『三羽烏』は、正真正銘の妖怪ですよ」

「式神ではない、純正の妖怪? だが、お前は人間から生み出されたって――」

「人間ではなく――『安倍晴明』様。妖怪の血を引きながら、人間として最上級の術士であり、なおかつ星の戦士として妖怪星人の組成式を知るあの御方だからこそ可能な秘術です」

 

 妖怪星人の組成式とは、つまり――『箱』と『魂』である。

 

 これは妖怪星人に限ったことではないが、この世界の生命は全て、質量を持った『魂』と、その容れ物たる『箱』の式で組成されている。

 

 つまり、安倍晴明は、素体となる妖怪から『魂』だけを抜き取り、空っぽの『箱』を用意して。

 そこに己の妖力を漂白して匂いを消し無色な妖力の塊としたものを準備して、そこに専用の術式を『魂』に刻み込み、空っぽの箱に入れて――新たな妖怪として生み出した。

 

 まるで料理の手順を紹介するかのように、滔々と語る烏天狗の言葉に――青年は、ガタガタと己の歯が鳴るのを抑えきれない。

 

「な、何だ……それは。……新しい、妖怪を――生命を作る。そんなの、もはや、人間でも妖怪でもない――」

 

――神、じゃないか。

 

 理解出来ないと、青年はぐらぐらと揺れる頭を押さえる。

 

 ただ一つ、分かるのは、安倍晴明(あべのせいめい)――自分が今まで無条件で敬意を表していた、人間の最高戦力たる男が、自分が思っていた以上にずっと凄まじく、ずっと悍ましい存在であるということ。

 

 そして――。

 

「まぁ、全てを把握する必要はありません。あなたが今、この場で知るべきなのは、私が式神ではなく純正の妖怪であるということと、その上で、創造主たる安倍晴明様から与えられた任務――妖怪大戦争の勢力図の調整という役目は、この妖怪大戦争が終盤戦に突入した時点で殆ど終了しているということ」

 

 つまり、私はもはや、何にも縛られることのない自由の身であるということです。

 

 そう言い放った烏天狗は、全てを語ると言った烏天狗は――それでも一つだけ語らなかった。

 

 己の魂を構築している妖力が、漂白された無色ではなく――真っ黒な塊であるということ。

 

 安倍晴明が生み出し、三つに切り分けられた漂白された妖力の内――二つが黒く塗り潰されていたことを。

 

(あの御方は、それを見透かしていたのでしょうか)

 

 己の中の黒い影が、そっと二羽の烏に手を出したことを。

 

 そして、見透かしていたとして、それは果たしてどこまでなのだろうか。

 

 安倍晴明の全知の星詠みすら届かない、この妖怪大戦争の終盤(クライマックス)にて、己が生み出した烏がこのような暴挙に出ることも。

 

 烏天狗という己が生み出した妖怪が、自身の黒い魂の中に渦巻き、膨れ上がった、このドス黒い欲望に突き動かされることも――あの偉大なる創造主は、見透かしていたのか。

 

(それを確かめるのも、また一興ですね)

 

 果たして、任務を終え、使命を終えて、生み出された意義を成し遂げて――無様に生き残ってしまった一羽の烏が。

 

 荒れ狂う黒い欲望に突き動かされて、あるいは呑まれて――果たして、どこまで飛び続けることが出来るのか。

 

(この生ある限り――どこまでも無様に、走り続けることと致しましょう!)

 

 全知の主を持つが故に、今まで見たことのなかった――未知なる景色を求めて。

 

 烏は今、背中の片翼を羽搏かせて。

 

 青年を一瞬で地面に叩き付けて、その身体を踏みつける。

 

「――――ッッ!!!」

 

 悲鳴も出せない衝撃の中で、青年は鈍くなった思考の中で思う。

 

(……本当に、近頃はどうかしている)

 

 妖怪大戦争などいう前代未聞の大災害の渦中とはいえ――何故、こんなことになっているのだろう。

 

 元・大江山四天王の金熊童子を討伐し。

 十二神将・『貴人』に護衛を頼まれ。

 伝説の英雄・藤原秀郷に遭遇し。

 

 そして、今、安倍晴明が生み出した妖怪に、その身体を狙われている。

 

 目まぐるしくも慌ただしい。

 まるで物語の主人公にでもなったかのようだ。

 

 自分は、何の役名も与えられない、只の端役ではなかったのか。

 

(烏天狗は、自分達に相応しい戦場といったが――こんな場所でも、僕にとっては、分不相応と言わざるを得ない)

 

 青年は、まるでゴミのように踏みつけられながら、己の真上から降り注いでくる烏天狗の言葉を聞いた。

 

「何故、ここまで懇切丁寧に、あなたの疑問にわざわざ答えたか分かりますか?」

 

 分かるものか。もう、何もかも分からないのだ。

 

 何故、こんな端役の自分に、次から次へと異常な出来事が起こるのかも。

 何故、安倍晴明が生み出した妖怪が自分を狙っているのかも。

 

 もう――何も分からない。

 

 もう、何も――考えたくない。

 

 烏天狗は、そんな青年の心中を――心を読んで、その烏顔を不気味に歪める。

 

「『慿霊体質』――平凡なるあなたが、唯一、文字通りその身に宿した特異なる力」

 

 そんないいものではない。

 偉大なる誰かの力を借りることでしか輝けない――平凡な僕にある意味で似つかわしい、無様な力だ。

 

「そう卑下するものではありませんよ。その才能自体は素晴らしい力です。過去の英雄の魂をその身に宿すことが出来る。しかし、稀少な力に相応の危険性も、当然として秘めている」

 

 慿霊体質。

 それはつまるところ、己の『箱』に別人の『魂』を取り込む――別の誰かに身体を明け渡すということだ。

 

 それは鍵も金も貴重品さえもそのままに、己が留守の自宅に見ず知らずの人間を招き入れるに等しい。

 

 当然、招き入れた『魂』が悪人ならば――『箱』たる身体を悪用される危険性を伴う。

 

(確かに、私は覚の、そして天邪鬼の『魂』をこの身に取り込んできましたが――それは同じ『妖力(ルーツ)』を(もと)と『魂』故の、いわば三つ子のような関係だからこそ出来たもの)

 

 その上で、安倍晴明の術式が魂に刻み込まれていたということも大きい。

 三つに分けた手順の逆を辿るだけ――元が一つだったものを、再び一つに戻すだけともいえる。

 

 だからこそ――『慿霊体質』という、この特異な力を手に入れるには。

 

「故に、私も危険を背負いましょうや! あなたの土俵に乗った上で――私は、あなたの特異な体質(才能)を手に入れる!!」

 

 そう叫びながら、烏天狗は――雷を落とした。

 

 自分達のすぐ背後。

 青年が墜落した廃屋の隣家が、その魂に取り込んでいた、()()()()によって一瞬の間に消し炭にされた。

 

 それを青年は、地面に口づけをしながら感じる。

 

「私は、全く同じ妖力から生み出された、三つ子ともいうべき兄弟達の『魂』を二つ取り込みました。そして、そもそもが『魂』を別の『箱』に()()()()()ことで生まれた妖怪です。私は、自分の『魂』の形を自覚している――つまり、自分の『魂』を、自ら『箱』より取り出すことが出来るのです」

 

 そして――と、烏天狗は地面にうつ伏せに倒れる青年の髪を引っ張り、無理矢理に顔を持ち上げた。

 

「『慿霊体質』という、そもそもが他者の『魂』を受け入れることが前提の受け手ならば、こうして触れ合っているだけで、私の『魂』を送ることが可能でしょう。つまり――」

「――お前の『魂』を……僕が『慿霊』しろってことか? ……正気か、お前」

 

 正気かと青年が問うたのは、何もその実現性の話だけではない。

 

 敢えて己の『魂』を『慿霊』させることで――無防備に明け渡された『箱』、つまり身体を乗っ取り、己が『魂』で上書きする。

 

 なるほど、理論上は可能だ。

 妖怪の魂を慿霊したことはないけれど、これだけ自信満々ならばそれも出来るのだろう。

 

 しかし、『慿霊』した『魂』による『箱』の上書きというのはそれほど簡単ではない。

 これまで数々の英雄の魂を慿霊してきた青年の『箱』が、こうしている今も健在なのがその証拠ともいえる。

 

 正式に結びついた『魂』と『箱』の結びつきは、そう簡単に切れるものではない。

 さきほど留守を預けるという例えを出してしまったが、青年の慿霊において、青年本来の魂は、他者に箱を明け渡した後も、箱の外に出るわけではないのだ。

 

 あくまで、操縦席の椅子に他者を座らせるだけで、他者の魂が己の身体を動かしている間も――()()()()()()()()

 

 そして、もし、他者の魂が己の箱を乗っ取ろうとして、所有権争いが勃発したその時は、当然ながら青年の元々の魂と争うことになるのだが――その時、青年の魂と箱の長年の結びつきというのは、圧倒的な力の差となる。

 

 それが、どれほどに強靭な英雄の魂でも、もはや青年の形となった『箱』の中では、青年の魂以上に強大なものはない。文字通りの『本拠地(ホーム)』なのだ。

 

 少しでも青年に抵抗の意思があれば、そもそもが綱渡りのような方法を使っての無理のある占拠だ。人間の箱と妖怪の魂という相性も最悪に近い。容赦なく捻じ伏せられてしまい、下手をすれば元の『箱』に帰れなくなるだろう。

 

 そうなってしまえば、危険なのは烏天狗(おまえ)だけだと、青年は問うている。

 

 烏天狗は、言葉にすらされないそんな問いに。

 

「――だからこそ、こうして丁寧に、一から全てを説明して差し上げたのですよ?」

 

 そう言って、無理矢理に青年の身体を起こし。

 

「――――ごふッ!!」

 

 満足に身体を動かすことすら出来ない青年のどてっ腹に、容赦ない蹴りを叩き込んだ。

 

 紙のように軽々と吹き飛ばされた青年に、あえて翼を使うことなく、人間のように二本足でゆっくりと近付きながら。

 

「これより、あなたに徹底的に精神攻撃を仕掛けます」

 

 そう、強烈な肉体言語を叩き込んだ直後に宣う烏天狗。

 

「あなたの『(からだ)』を乗っ取る上で必要な手順として、まず先に行うべき下処理は、あなたの『魂』の抵抗の意思を奪うこと。つまり――」

 

 心を、徹底的に圧し折るということです――強烈な痛みによってぐしゃぐしゃに掻き回される青年の頭にも、しっかりと染み渡るように烏天狗は優しく語る。

 

「絶望してください――殺しはしません。私はあなたの身体が目当てなのですからね。――つまり、心は必要ない。むしろ邪魔です」

 

 あなたの心を殺します。

 あなたの精神を殺します。あなたの意思を殺します。

 

 あなたの――『魂』を、殺します。

 

 烏天狗は再び青年の頭を掴み上げて、その耳元に嘴を寄せて、愛を囁くように殺意を注ぐ。

 

「私の目的を懇切丁寧に伝えたのは――あなたにそれを理解していただく為です。これより地獄の苦しみがあなたを襲いますが、死んで楽になれるとは思わないでください。思う存分に、恐怖してください」

 

 これはあなたの『(からだ)』を手に入れる為に必要であるが故に、私は一切の妥協をしない――と、烏天狗は宣言する。

 

「私がどんな存在なのか。私がどんな目的を持っているのか。私がどれだけ妖怪で、私がどれだけ怪物で、私がどれだけ――狂っているのか。ここまでの説明で、しっかりと理解していただけたと思います」

 

 がたがたと、青年の身体が震える。

 青年の精神が震える。青年の心が震える。青年の――魂が、震える。

 

 歯がかき鳴らされ、瞳に涙が溢れ出す。

 

 そんな青年の醜態を――烏天狗は醜悪に見下ろし、舌なめずりをした。

 

「あなたの『(からだ)』は私が頂戴します。あなたがこれまで、端役(モブキャラ)ながらに積み重ねてきた人生は何もかもなくなる」

 

 あなたの思いも、あなたも記憶も、あなたの愛も友情も、全て私が凌辱する――烏天狗は、青年の身体を、髪を引っ張りながら軽々と持ち上げて、もう片方の腕で拳を握る。

 

「それをしっかりと理解しながら、それにしっかりと恐怖しながら、これから私が繰り出す攻撃をその身に受けて下さい。そうすれば、それを知らないよりも、ずっと痛くて、ずっと怖くて、ずっと早く――心が折れてくれるでしょう?」

 

 青年は――目を瞑ることも出来なかった。

 

(なんで――こんな、ことに――)

 

 出来たのは、只の――現実逃避だけ。

 

 どうしてこんなことに。どうして――僕が、こんな目に。

 

 僕は――ただの――――端役(モブキャラ)だった、筈なのに。

 

「あなたの役目はここで終わりです。終わったもの同士、誰にも見向きもされない暗がりの中で、誰の得にもならない泥仕合を始めましょう」

 

 大丈夫。

 あなたが死んでいなくなったところで、誰も何も困りませんから。

 

 だから、この不毛な争いを終わらせる為に――さっさと壊れて下さいね。

 

「―――――――」

 

 烏天狗のその言葉によって、青年の心の恐怖を諦念が塗り潰す。

 

 それを後押しするように、烏天狗の拳が無防備な青年の身体に叩き込まれた。

 




用語解説コーナー68

・安倍晴明流妖怪の作り方

①まずは適当にそこいらで妖怪を捕まえます。この際、作りたい妖怪のそれと同種のものが望ましいですが、手間と成功率は下がりますが極論何でも構いません。

②次に、その妖怪の『魂』を抜き取ります。必要なのは『箱』の方ですので、『魂』の方は握り砕いて構いません。

③続いて、自身の妖力を体外に排出し、球状の塊として具現化します。
 この際に妖力を漂白して、自身の色や匂いを完全に落とします。この工程が最も重要ですので、しっかりと手を抜かずに実行しましょう。

④完全に無色無臭になった妖力塊に、術式を刻み込みます。この術式にて、作りたい妖怪の種族や能力や性格などを設定します。一番楽しい工程ですので、思う存分に個性を出しましょう。これが新しい妖怪の『魂』となります。

⑤②で手に入れた空っぽの『箱』に、③で作った『魂』を放り込みます。
 無事に『魂』の形に『箱』が変形したら、新しい妖怪の完成です。
 もし不具合が起きて見るも悍ましいクリーチャーが生まれたら失敗ですので、ちゃんと殺して後始末をして、そこいらで新しい妖怪を捕まえて、もう一度①からやり直しましょう。



 こんな感じで、三羽烏は安倍晴明に三分でクッキングされました。
 その際に黒い方が内二羽につまみぐいするみたいに細工をしましたが、ちゃんと白い方も後で一羽に妖力と呪力を注ぎ込んで自分色に染めてます。後の雷神の件に備えて。

 結果、無色無臭の妖怪を作る筈が、白い烏一羽と黒い烏二羽が生まれただけでした。
 何やってんだコイツ等とお思いでしょうが、そもそも狐の姫君は安倍晴明のスパイが入り込むなんて想定済みで勝手にどうぞって感じでしたし、鬼の頭領もそもそも茨木と金時のことしか眼中にないので同じく勝手にどうぞって感じでした。

 天邪鬼は自覚するまで晴明由来の妖力や呪力を使うなんて発想もしていなかったし、覚や烏天狗は化生の前以外には隠し通すくらいの術式は使えましたしね。

 だからこそ、三羽烏が式神ではなく純正妖怪である理由は――単純に、晴明にとっては『実験』と『偵察』です。

 それは、自身に純正妖怪は作れるのかということと。

 果たして『黒い』自分は、どこまで妖怪大戦争に首を突っ込んで来るのかを、知る為の。


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妖怪星人編――69 必殺の右

己を殺し得る、己が殺すべき鬼が待つ――本物の戦場へ。


 

 局地的に雷の豪雨が降り注いでいた。

 炎に塗れる戦場に、無数の雷柱が屹立する。

 

 灼炎と轟雷が荒れ狂う戦場を――右半身を赤龍へと変えた戦士が突き進む。

 

 頼光四天王・坂田金時(さかたきんとき)は、己が降らせた雷の雨の中を縫うように高速で突き進み、渾身の力で鉞を振り降ろす。

 

 その強烈な一撃を、酒吞童子(しゅてんどうじ)は右手の五爪で受け止める。

 

 激突の余波で、両者を起点にして大地に放射状の罅が走るも、大男たる金時の全身を使った渾身の一撃を、小さな少女鬼はその細い腕と――牙のような爪で以て完璧に防御した。

 

「――――ッ!」

 

 金時は歯噛む。

 

 赤龍の右腕による、渾身の振り下ろしでの一撃。

 様子見などではない。初めから全力だ。目の前の鬼に対して手加減した攻撃など放つ筈がない。

 

 なのに、容易く受け止められた。

 防御姿勢は取らせた。足も止めただろう。だが、それでも――完璧に、金時の攻撃は殺された。

 

()()()は、分からなかった。手も足も出ず、ただ途方もなく強いということしか理解出来なかった)

 

 己よりも遥か高みに居るのだとしか分からなかった。

 そこは自分が倒れ伏せている場所よりも遥かに高い場所で、道中が雲海に遮られて、それがどれほど高い場所なのかすらも分からなかった。

 

 だが、こうして、僅かながらも強くなり、立ち上がって歩みを再開して、やっとこさその雲海を抜けた――今ならば、少しだけ、分かる。

 

 選ばれしモノだけが辿り着ける――至高の領域。

 その高みへの挑戦権を獲得した、今ならば、分かる。

 

 まだ――遠い。

 なんて、高い。

 

 雲海を抜けた先にあったのは――頂上などではなかった。

 

 自分がこれまで昇ってきた山――それよりも高い、もう一つの遥かなる山があった。

 

 雲海を抜けて、ここに辿り着いて、ようやく始まりなのだと、理解させられた。

 

 酒吞童子。

 日ノ本最強の妖怪。真なる外来種。

 

 この少女鬼が、果たして、どれだけ怪物なのかということを。

 

「…………ぼおっ……と……している……暇……あるの?」

 

 地の底から聞こえるような、小さく、恐ろしい呟きと共に――死が迫って来る。

 

 酒吞童子は右手一つで金時の鉞を受け止めた。

 つまり、左手は自由――残った五本の爪が、真っ直ぐに、瞬速で、金時に向かって襲い掛かってきた。

 

「――――ッ!?」

 

 金時は、咄嗟に受け止められた鉞――それを起点にして、縦に回転するように己の巨体を持ち上げる。

 

 瞬間、己の背中すれすれを、酒吞童子の左の突きが擦過するのを感じた。

 

 そのまま遮二無二に距離を取る。

 止まっていた呼吸を再開し、早鐘を打つ己の心臓を思わず叩く。

 

(……アイツ……迷わず、真っ直ぐに――俺の心臓を狙った)

 

 向かい合っていた金時と酒吞童子。

 彼女の自由な左手の最短距離は、金時の右側だった。恐らくそちらを狙われていたら、躱し切れなかっただろう。だが、龍の鱗に覆われている分、致命傷には至らなかった筈だ。

 

 しかし、酒吞童子は金時の左側を狙った。

 未練がましく人間の部分を残した左半身――それも、真っ直ぐに、金時の心臓目掛けて突きを放った。

 

(間違いなく――本気で俺を殺しにきていた)

 

 日ノ本最強の妖怪・酒吞童子が。

 迷いなく、躊躇なく、真っ直ぐに――本気で、坂田金時という『人間』を殺しに来ている。

 

――死んで、金時。

 

 ズキンッと、胸が痛む。

 それは殺意を以て狙われた恐怖による幻痛なのか――それとも。

 

「はっ――」

 

 思わず吐き捨てながら顔を上げる。

 

 ふざけんな。

 覚悟の上だろう。自分で選んだ道だろう。

 

 人間であることを。英雄となることを。選んだのは――自分自身だ。

 

 忘れるな。甘えるな。間違えるな。勘違いするな。

 断ち切ったのは自分だ。捨てたのは自分なんだ。

 

 あの笑顔を――この世から消し去ったのは、紛れもなく坂田金時だ。

 

(酒吞童子は本気で俺を殺しに来てる。なら――俺は?)

 

 まだ、殺せねぇとか思ってるんじゃないのか。

 自分なんぞには到底殺せないと。殺せるわけがないと。

 

(殺したくねぇと――そう思っている自分をこそ殺せ)

 

 金時は、何よりも鬱陶しいそんな自分を噛み殺すように歯を食い縛って、誰よりも己に言い聞かせるように呟く。

 

「俺は――英雄になるんだろう」

 

 右足を引き、腰を落とし、鉞を右肩に乗せるようにして引き絞る。

 

 そして、真っ直ぐに酒吞童子を見据えて――鉞に赤い呪力を掻き集め、纏わせていく。

 

(――赤龍の力。俺は、この力をずっと恐れていた)

 

 坂田金時という存在の中に巣食う――化物の力。

 触れてはいけない高位の力。

 人間でいたいならば、英雄になりたいならば、手を伸ばしてはいけない禁断の力だと。

 

(だが――こんなナリに成っちまった以上、もうそんなふざけたことはいえねぇ)

 

 散々に頼っておいて、窮地を救われておいて、今更、知らんふりは出来ない。

 そんなことをしてしまえば――そんな奴こそ、人間じゃない。

 

 いい加減――認めなければならない。

 受け入れる時だ。自分は赤龍の子なのだと。

 どうしようもなく恐ろしい――化物の血を継いでいるのだと。

 

 その上で。その上で尚――笑うのだ。

 醜い化物に姿形を変えてなお、人間の身体を龍へ化えようと――己は人間だと言い張って見せるのだ。

 

 禁断の力に手を伸ばして尚、その力にどっぷり漬かりきって尚。

 己は人間だと――そう厚顔無恥に言い張って見せろと。

 

 金時は、人間のままの左手で、己の左胸を掻き毟る。

 

 (ここ)が人間である限り――己は人間なんだと、そう胸を張って生きていくのだ。

 

「行くぞ――酒吞!!」

 

 金時は吠えながら、己の中の制限(リミッター)を、また一つ外す。

 

 赤い鱗の侵食が広がり、遂には尾骨から――本物の尾が生えた。

 また一つ、人間ではなくなる。また一段階、龍へと近付く。

 

 それでも――金時は、笑ってみせる。

 俺は、それでも――人間なのだと。

 

 膨れ上がった赤い呪力に任せるがまま、金時は跳躍した。

 生えたばかりの尾で地面を叩き、宙で己の右腕に赤龍の力を集中する。

 

「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 金時の雄叫びに応えるように、黒い空が鳴く。

 そして、振り上げた右腕に――その手が持つ鉞に、赤い雷が落下した。

 

 鉞は、そして赤い右腕は、その赤雷の力をも獲得し、真っ直ぐに酒吞童子に向かって振り下ろす。

 

 この一撃で決める――と、金時は意気込む。

 悪路王との戦いによる損耗は致命的だ。ただでさえとんでもない実力差のある相手、無限の再生力を誇る酒吞童子相手にそもそも長期戦において勝ち目はない。

 

 金時に残された勝機は短期決戦以外にはない。

 今、自分に繰り出せる最強の攻撃を以て酒吞童子は戦闘不能にし、再生するよりも前に、頼光等が待つ封印場所へと連行する。

 

「くらいやがれぇええええええええええええええええええええええええ!!!」

 

 もはや金時自身が一筋の雷光となりながら、酒吞童子に向かって降り注ぐ。

 

 灼熱の赤雷は、そのままこの星そのものを貫かんばかりに迸って、小さな少女鬼と激突する。

 

 酒吞童子は、その赤雷を――ありとあらゆるものを切り裂いてきた最大の武器である爪、ではなく。

 

 その爪が生えた小さな手。

 まるで少女のような手を――開いて。

 

 雷速の攻撃を、その小さな掌で掴んでみせた。

 

 先程の、渾身の鉞の一撃を爪で受け止めた時よりも――完璧に。

 赤龍の力が集結し、赤雷を纏い、雷速で向かってくる、正しく今、金時が振るえる最強の一撃を。

 

 酒吞童子は、その小さな掌のみで、完璧に掴み――殺して見せた。

 

「――――」

 

 無論、無傷だったわけではない。

 その全身を赤雷で灼かれ、小さな身体はズタズタになっている。

 

 出血もしている。火傷も負っているだろう。

 それでも、一切の表情すら変えることなく。

 

 黒く染まった――その枝木のように細い腕で。

 金時の全てを、凌駕してみせたのだ。

 

「…………いい……こうげき」

 

 酒吞童子の可憐な容貌は、その黒く染まった腕を起点に――禍々しく変化していた。

 

 右の瞳は血のように真っ赤に染まり、額の角が捩じれて更に伸びている。

 皮膚も、まるで金時の身体が赤く覆われていくのに合わせるように、より黒く、黒く、どす黒い、漆黒に染まっていく。

 

「強く……なったね、金時」

 

 その口調は、まるであの頃のようだった。

 

 この世界で初めて見付けた同類。

 姉のように慕い、弟のように可愛がった、世界の残酷さを何も知らなかった、無邪気だったあの頃のよう。

 

「…………」

 

 あぁ――クソ、と。

 金時は冷たい汗を流しながら笑う。

 

 分かっていた――分かっていた筈だった。

 

 自分がまだまだ足りないことくらい。

 まだまだ、まだまだ――遠いのだということくらい。

 

(――――だけど……)

 

 こんなに、手応えがないのか。

 こんなに、ビクともしないっていうのか。

 

 金時は、もはや自分の意思では何も出来ない程に固く掴まれた腕を、そして鉞を見て――そして、目が合う。

 

 こちらを真っ直ぐに見据える、かつてと同じつぶらな黄色の右の瞳と、金時が知らなかった血のように赤い左の瞳。

 

 そこからは――何も見えない。

 

 本当に、底が知れない。

 本当に、高く、高く、高く――――遠い。

 

 これが――酒吞童子。

 日ノ本最強の妖怪。鬼の頭領。真なる外来種。

 

 至高の領域に住まう――怪物。

 

「………今度は――こっちの番」

 

 小さな少女鬼の呟きと共に――彼女を取り囲むように、黒い風が巻き起こる。

 

 それは全てを壊し、全てを殺す、抹殺の旋風。

 

「…………死んで、金時」

 

 少女の言葉は、とてもか細く。

 

 黒い風に覆われ、その表情は、金時には見ることが出来なかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一条戻橋(いちじょうもどりばし)を挟んで、渡辺綱(わたなべのつな)茨木童子(いばらきどうじ)は向かい合い続けていた。

 

 両者とも、身じろぎ一つしない。

 だが、両者の間を舞い落ちる枯れ葉は、地面に落ちる前に真っ二つに切れ落ち、また木っ端微塵に弾け飛んだ。

 

 彼等の間の空は、一条戻橋の上は、至高の領域の住人たる両者が放つ――殺気が、弾丸のように飛び交っていた。

 

 極限の達人同士は、ほんの僅かのお互いの挙動や殺気で、未来視が如き想像(イメージ)を共有し合うことができる。

 

 綱と茨木童子は、正しく殺気のみで、互いの出方を伺い、それに対する反撃を予想し――殺気のみで、殺し合っている。

 

「――――ッ!」

 

 そして、先に思わず殺気を仕舞い、一歩よろけてしまったのは――茨木童子だった。

 

(……やはり。綱が振るう鬼切を、完璧に処理する想像が出来ない)

 

 頼光四天王筆頭・渡辺綱。

 至高の領域の住人して――鬼の天敵。

 

 大江山の鬼退治で誰よりも多くの鬼を屠り、十年前、茨木童子の右腕を斬り落とし、その血を吸ったことで、鬼を滅ぼす概念武装と化した呪装・妖刀『鬼切』を振るう鬼殺し。

 

 渡辺綱の『鬼切』は――鬼の妖力を完全無効化する。

 どれだけ強靱な肉体を誇ろうが、皮膚が固かろうが、妖力で強化されていようが、それが鬼由来の力であれば、鬼切は紙のように容易く斬り裂く。

 

 正しく、鬼の天敵――鬼を殺す為に存在する武者。

 

 そして――それは至高の領域の住人であり、この国で最強の鬼の一体である茨木童子であっても例外ではない。

 

 むしろ、茨木童子はその強靭豪傑な肉体を武器に戦う鬼だ。

 鬼として最上級の妖力を持つ茨木童子は、その皮膚であらゆる攻撃を受け止め、その筋力であらゆる防御を貫き殺す。ただそうするだけで彼は負けることはなかったし、ただそうするだけの彼に勝てるモノはいなかった。

 

 だからこそ、茨木童子と渡辺綱の相性は最悪といえる。

 茨木童子の強みであり唯一の武器を、渡辺綱の鬼切は無力化するのだから。

 

「――どうした? 来ないのか? ならば、こちらから行くぞ」

 

 一歩――渡辺綱が踏み出し、一条戻橋へ足を踏み入れる。

 

 近付いてくる――鬼にとっての絶対的な死が。

 

 綱がこれ見よがしに刀を抜く。

 妖刀・『鬼切』――あの刀が届く間合いに入れば、その時点で、茨木童子の死が確定する。

 

「……………」

 

 右腕が疼く。

 かつて渡辺綱に斬り落とされ、今宵ようやく取り戻した右腕――その付け根が脈打つように痛む。

 

「お前程の妖怪が、何の策も無しにこうして向かい合っているわけではあるまい。茨木よ」

 

 見せてみろ――お前の力を。

 そう言い放つ綱に応えるように、茨木童子も歩き出し、一条戻橋を更に一歩、進む。

 

 橋の中央にて、向かい合う両者。

 逃げ場はない――ここは最早、鬼切の間合い内。

 鬼にとって、必殺の間合いだ。

 

 両者が足を止め、静寂が支配し。

 

 一陣の風が、両者の間を通り抜ける。

 

 瞬間――綱の鬼切が閃く。

 

 常人では視認不可能であるどころか、斬られたことにも気付かないであろう、余りにも滑らかで、無駄のない美しい太刀筋。

 

 しかし、茨木童子には、それは渡辺綱の挑発であると理解出来ていた。

 

 さあ――どうする、と。

 

 通常ならば受け止めることなど容易い。

 むしろ、そのまま刀をへし折ることすら可能だろう。

 

 この刀が――妖刀・『鬼切』でなければ。

 

(…………嘗められたものだ)

 

 大江山の決戦時には決して見せることのなかった単純な太刀筋だ。

 両者にとって一撃が致命傷であったギリギリの命のやりとりでは、決して振るわれなかった、何の駆け引きもない低位の攻撃。

 

 今の渡辺綱にとって、今の茨木童子は、この程度の攻撃で十分なのだと言われているような――不愉快な一刀。

 

(――まずは、その認識から改めさせなければな)

 

 源頼光(みなもとのらいこう)が死に、酒呑童子の命にすら届き得る特攻呪具を手に入れたことで――強さに寝惚けている孤独なる強者に。

 

 その目を覚まさせ、俺はお前を殺しにきたのだと理解させる為の一撃を叩き込む。

 

「――――ッ!!」

 

 渡辺綱が振るう、『鬼切』の振り下ろしを――茨木童子は『右腕』で受け止めた。

 

「ッ!?」

 

 その『右腕』は、『黄金』に輝いていた。

 

 綱がその光景に疑問を覚える――それよりも早く、茨木童子の左の拳が綱の身体に深く突き刺さる。

 

「ぐっハァッ!」

 

 そのまま宙を飛び、橋の向こう岸にまで再び戻された綱。

 

 左拳を振り抜いた体勢のまま、茨木童子は静かに語る。

 

「……本来であれば、もう少し秘めておきたかったのだがな」

 

 しかし、この『黄金の右腕』を発動する以外に、やはり渡辺綱の『鬼切』と戦う方法は思い至らなかった。

 だからこそ、茨木童子は初手から切札を発動することを決断したのだ。

 

「貴様も見ただろう。晴明によって作り出された、あの月まで届く『手』を。あの手の起点として使われたのが、貴様が斬り落とした、この俺の『右腕』だ」

 

 月まで届くという奇跡を実現させる為に、『黒炎上跡』に埋められ『星の力』の集約点となったこの『右腕』には、未だにふんだんに『星の力』が詰まっている――と、茨木童子は語る。

 

 故に、鬼由来の力の全てを無効化する『鬼切』ですら、今の茨木童子の右腕は斬り落とせない。

 黄金の星の輝きを放つ――『鬼切』すら超える特級呪装と呼ぶべきものとなっている。

 

「――皮肉だな。かつて俺の右腕を斬り落としたことで『鬼切』となった妖刀が、今や俺の『右腕』だけは斬ることが出来んとは』

 

 立て、綱――茨木童子は一条戻橋の上から、橋から吹き飛ばされた綱を見下ろすように言う。

 

「まだだ。今のは只の左拳――あの日、お前に斬り落とされた、この『右腕』の一撃を叩き込んでこそ、俺の十年に及ぶ屈辱は晴らせるというもの」

 

 俺達の戦いはこれからだ――と、そう全てを呑み込むような、重い、重い殺意をぶつけてくる茨木童子に。

 

 渡辺綱は、歓喜に微笑む。

 

 ああ、そうだ――これこそが戦いだ。

 

 これこそが――戦争だと。

 

「――望む所だ」

 

 最強の鬼殺しは、最強の鬼からの宣戦布告を受けて、ゆっくりと立ち上がり、再び橋へと足を踏み入れ、戻る。

 

 己を殺し得る、己が殺すべき鬼が待つ――本物の戦場へ。

 




用語解説コーナー69

・黄金の右腕

 月へと届かせる『手』を創り出す為に、術式の基点として茨木童子の『右腕』が用いられた。

 土御門邸にはかつて呪いの手を埋め込まれたという土壌があること、同じ『手』という形である方が術式の成功率が上がること、そして、莫大なる星の力の凝縮点として耐えられる呪物としての強度の面から――『茨木童子の右腕』は、これ以上ない一品だった。

 結果、術式が発動を終えても、星の力をふんだんに詰め込まれた、黄金に輝く右腕は土御門邸の庭に残されていて――茨木童子は、それを再び、己が右肩に嵌め込んだ。

 異星人を排除する為の力である、星の力が込められた――右腕を。


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妖怪星人編――70 禁断の複製品

『リオン・ルージュ』の相手なんて、いるとすれば、それは――『リオン・ルージュ』だけだ。


 

「リオンの妹か。ずいぶんと瓜二つだな。双子ってやつか?」

「……まぁ、遺伝子が同一っていう意味なら、確かにその通りかな」

 

 会うのは今が初めてなんだけどね――と、リオンが言うと、京四郎は疑問符を浮かべたような表情で首を傾げる。

 

 そんな京四郎にそれ以上説明することはせず、冷めた眼差しをリオンは自分と同じ顔の美女に向けた。

 

 自分と同じ顔。自分と同じ身体。

 髪の色と瞳の色は異なるが、それこそが逆に自分の複製品(2Pカラー)といった風で露骨だった。

 

(まぁ――こうなることは分かっていたけどね)

 

 隔離された箱の中に閉じ込められ、誰よりも黒い球体について知り尽くし、機密情報を隅々まで暴いた自分が、あろうことか別の惑星に飛び出し、あまつさえ現地の星人戦争に巻き込まれたりすれば、機密保持の為に黒い球体は口封じの刺客を送ると確信していた。

 

 だが、その刺客は、おそらくはかぐやだと思っていた。

 本人か複製品(クローン)か、そのどちらの可能性もあると思っていたが――まさか、戦士(キャラクター)として登録されていない筈の、死人ではないリオン自身の戦士(キャラクター)を作り出し、送り込むとは。

 

「確かに、死に瀕した者を先んじて戦士(キャラクター)として登録してしまった後で、ソイツが一命を取り留めて、結果的に生者の戦士(キャラクター)を作ってしまって()()()()()()()()という事例があったのは知っていたけれど――その不具合(エラー)を意図的に起こしたというわけか。いくらなんでもそれはずるくないかい?」

 

 リオンが失笑交じりにそう言うと、これまで人形のように表情を変えなかったリオンの複製品(クローン)――黒髪銀瞳の『黒いリオン』が、口を開き、不敵な笑みを浮かべながら言った。

 

「――他の者ならこうはいかなかっただろうね。でも、『(ぼく)』が黒い球体の機密情報を知り尽くしているように、黒い球体もまた、誰よりも『(ぼく)』のことを知り尽くしていたんだよ」

 

 あの黒い球体の部屋の中で。リオンとGANTZしか存在しない檻の中で。

 

 その全てを暴いたのは――いつか、こうなると、分かっていたのは。

 

(――僕だけじゃなかった、というわけか)

 

 誰よりも己を知り尽くし、己に触れた存在――だからこそ、黒い球体は月の住人で唯一、リオンだけは、死に瀕した状態でなくとも、戦士作成(キャラクターメイキング)に必要な情報を複製(コピー)することが出来たということ。

 

「悪いけど、見逃すわけにはいかないんだ。こうして生まれた以上、僕も、死にたくないしね。『(ぼく)』を殺してでも、『僕』は生きていたいんだ」

 

 黒いリオンは、微笑みながら己の蟀谷を指差して言う。

 

「例え裏技(チート)により例外的に生み出されたとはいえ、GANTZの戦士(キャラクター)である以上、しっかりと首輪として頭の中に爆弾が埋め込まれている。そして当然、GANTZの『転送』の対象内だ」

 

 つまり、太陽の近くにまで転送されて、頭部の爆弾を爆発させられれば、いくらリオン・ルージュの複製体といえども再生が間に合わずに死んでしまうのは避けられないということ。

 

 あの、リオン・ルージュが、己の生殺与奪の権を握られている――生命を盾に、脅されている。

 

「………」

 

 そんなことを、ニコニコと笑いながら宣う黒いリオンに、紅いリオンは射貫くような冷たい眼差しを向けている。

 

「だから『僕』としては、大人しくGANTZの指示に従って、『(ぼく)』を殺そうと思うんだけど」

「……『リオン・ルージュ(ぼく)』らしくないじゃないか。あろうことか、他者の言うことを大人しく素直に聞くなんて」

 

 例え、『箱』の中に閉じ込められたとしても、『箱入り娘』として月の全土を支配してみせたリオン・ルージュらしからぬ言葉だと、己の黒い複製品に言うリオンに。

 

 黒いリオンは「確かにね」と笑いながら言う。

 

「でも、意外と新鮮なんだよ――支配するんじゃなくて、誰かに支配されるっていう感覚がさ。もしかしたら創ら(生ま)れる際に、にそういう精神操作(設定)もされているのかもしれないけれど。それでもまぁ、飽きるまでは楽しむのもありかなと思っている」

 

 それに、何より――と、黒いリオンは、嬉しそうに――凄惨に笑う。

 

「『リオン・ルージュ(ぼく)』と戦えるんだ。こんなにワクワクすることがあるかい?」

 

 牙を剥き出しに、涎すら垂らしながら、星を傾ける美貌を台無しにして――漆黒の吸血姫は言う。

 

「やっと本気を出せる相手を前にしてるんだ。考えてみれば当然のことだった。『リオン・ルージュ(ぼく)』の本気を受け止めることが出来る相手なんて、いるとすれば、それは――『リオン・ルージュ(ぼく)』だけだ」

 

 ずっと思っていた筈だ。ずっと飢えていた筈だ。ずっと乾いていた筈だ。

 

 ずっと――求めていた筈だ。

 

 己の中に、生まれた時からずっと棲んでいる――生まれた時から備わる、有り余る怪物的な力を、思う存分にぶつけることが出来る相手を。

 

「『(ぼく)』もそうだろう――『リオン・ルージュ(ぼくら)』は、そういう怪物だ。ずっと、ずっと――望んでいた状況じゃないのかい?」

 

 黒いリオンの言葉に、紅いリオンは――何も答えない。

 

 その冷たい眼差しを――哀れな何かを見る目を止めない。

 

「まぁ、けれども無粋なことに、今の『僕』にはそれに加えて、『星の支援』が機能している。よっぽどこの星の危機感を煽る星人戦争が勃発してるんだろうね。たしかにえらいことになっているけど」

 

 そう語りながら、黒いリオンは辺りを見渡す。

 炎上し、崩壊している平安京を――妖怪大戦争に破壊される平安京を。

 

「こんな現場に立ち会い、巻き込まれようとしている、月の全権代理者。己の全ての機密を保持している怪物――月からも地球からも畏れられている『異物』である君を、排除しようとする力が働いている。『僕』の中に注ぎ込まれているのを感じる。嫌われたものだね、『(ぼく)』も」

 

 だから、残念だけれど、本当に残念だけれど、『(ぼく)』に勝ち目はないよ――そう、黒いリオンは真っ黒に笑う。

 

 それは本当に残念そうで、やっと手に入れた玩具が思いの外に脆そうでがっかりしているようで――どこまでも残酷で、どこまでも哀れな子供のようで。

 

 紅いリオンは、まるで鏡を見せつけられているようで――リオン・ルージュという子供が、どこまで愚かであるかを、突き付けられているようで。

 

「それでも、今までで一番本気を出せると思うんだ。だから、なるべく頑張って――」

 

 死なないでね――そう、今から自分が殺そうとしている『(あいて)』に、遊ぼうとしている玩具に対し、何の罪悪感もなく、何の疑問も持たずにそう言い切りながら、黒い炎を放ってくる黒いリオンに。

 

 紅いリオンは――リオン・ルージュは、にこやかに笑って呟いた。

 

「……いやあ。『リオン・ルージュ(ぼく)』って、端から見ればこんな感じ(ヤツ)だったんだね。――イタイな~」

 

 そりゃあ、かぐやも放っぽり出すよねぇ――と、リオンが紅蓮の炎を放ちながら俯くようにそう言う。

 

 黒炎と紅蓮が衝突する。

 そして、黒い炎が僅かに紅蓮の炎を押し返し、その二色の炎の中から飛び出してくる黒いリオンに向かって、紅いリオンは呟くように言う。

 

「確かに、君は僕の複製品(クローン)だ。月に居た頃の『リオン・ルージュ』そのものといっていい。その黒髪は似合っていないけどね」

 

 黒い炎を纏いながら放つ爪の斬撃を、長い脚による刈り取りを、リオンは紅蓮の炎を纏った手で、脚で受け止めて、受け流しながら言う。

 

「その上で『地球(このほし)』の『支援(バックアップ)』を受けているというのも本当なんだろう。――強いね、確かに。真正面の一対一(タイマン)なら僕に勝ち目はないのかもね」

 

 だけどね――と、紅いリオンは、静かに言う。

 

「君はあくまで、()()()()()()()の複製なんだよ」

 

 哀れで愚かな――あの黒い球体しかなかった部屋に閉じ込められて拗ねていた『箱入り娘』に。

 

 天才で、最強で、無敵で――ひとりぼっちだった『リオン・ルージュ』に言う。

 

「僕は――変わったんだ」

 

 かぐやの言う通り――この地球(ほし)で。

 

 数百年間、ずっと、人形のように変わらなかった『リオン・ルージュ(ぼく)』が。

 

 たったの数日で――たった一人との出逢いによって、生まれ変わったんだ。

 

「――姉妹喧嘩に水を差すようで悪いが、俺も急いでいるんだ」

 

 黒い炎も、紅蓮の炎も断ち切るような――黄金の斬撃が迸った。

 

 黒いリオンも、紅いリオンも、その斬撃に動きを止めて、間に入るように――墨色の浪人が現れる。

 

「黒い炎にはいい思い出がないんだ。あんまり振り撒かないでくれるとありがたい」

 

 そう言って、京四郎は黒い炎を太刀で払う。

 常人――どころか、そんじょそこらの戦士であっても、近づく所か呼吸も出来ないであろう、二色の大炎がぶつかり渦巻く戦場に、悠々と飛び込み、あろうことか――戦っている。

 

 戦えている。

 星を傾ける怪物であり、今はそれに星の支援すら受けている黒いリオンを相手に――ただの現地人(地球人)が刃を振るうことが出来ている。

 

(なんだ――コイツ)

 

 只の人間――では、ない。

 星の支援を受けている黒いリオンは、この男もまた星から力を与えられた戦士であることは理解できた。

 

 だが――それだけだ。

 それだけならば、同様に星の力を与えられた吸血鬼である黒いリオンに太刀打ちなど出来ない筈だ。

 

(何で、『僕』の戦いについてこれる――何故、『リオン・ルージュ』と、肩を並べて戦えるんだ!?)

 

 吸血鬼同士の決闘に、何故――只の人間が混ざり込めるのだ。

 

 何故、只の人間が、吸血鬼と――背中を預け合っているのだ。

 

「――残念だけれど、僕はもう知っているんだ。『君』よりも一足先に出逢っているんだ。自分の本気を受け止めてくれる快感も、自分の全力を受け止めてくれる相手にもね」

 

 一対一では敵わない。

 リオンも、京四郎も――黒いリオンには勝つことは出来ないかもしれない。

 

 しかし、自分はもう孤独(一人)ではないと――『月に居た頃のリオン』に向けて笑う。

 

「だから、僕は――『黒いリオン(きみ)』に全く興味がないんだ」

 

 悪いけれど、僕は死なない。月にも帰らない――紅いリオンは、黒い炎を京四郎が切り裂き、開いた突破口に突っ込みながら言う。

 

「この地球(ほし)で、まだまだ京四郎(コイツ)の物語を、傍で見ていたいのさ」

 

 黒い炎の壁を抜けた先で、紅いリオンを待ち構えたように振るわれていた黒い炎の剣の振り下ろし――それを、背後から黄金の斬撃で吹き飛ばしてきた男に対して、紅いリオンは思う。

 

(京四郎――アイツ、強くなっている。いや――取り戻しているのか。本来の自分を)

 

 永い眠りによって鈍り切った身体が、抑えられていた本能が。

 己を追い込む究極の怪物との極限の戦いを通して――目覚めているのか。

 

 星に選ばれた戦士――ただそれだけでは説明不可能な、日ノ本という小さな島国に生まれた謎の怪物が。

 

 ゾクっと、リオンの背筋を震わせる。ああ――やはり、面白いと。

 

(京四郎――君は、『リオン・ルージュ(ぼく)』なんかよりも、ずっとずっと面白いよ)

 

 そして、黒い炎の剣を砕かれて、驚愕している己の複製品(黒いリオン)を見据えると。

 

 紅いリオンは――その表情から一切の温度を失くす。

 

(ああ――邪魔だな)

 

 黒いリオンが黒炎の盾を作り出そうとしているのを、紅いリオンは冷たく見据えながら――己の手の中に眩い光球を作り出す。

 

 紅蓮を圧縮し煌炎へ――範囲よりも貫通力を高め、炎の(ジャベリン)を作り出す。

 

「悪いけど――さっさと死んで(帰って)くれないかな」

 

 その細い腕に煌炎を纏わせる。

 太陽のように眩い光を放つ右腕が、黒い炎の壁を貫いた。

 

「――――」

 

 口を開くように、指が開かれ――その掌から、煌炎の槍が発射する。

 

 それは黒いリオンの豪奢なドレスを纏った身体を貫き、黒いリオンは地面へと落下していった。

 

(僕が――敗けた?)

 

 全身を貫く痛みよりも、その困惑の方が勝った。

 

 能力のスペックならば完全に勝っていた。

 素体(オリジナル)の記憶も継承している。戦闘経験値という意味では大きな差はない筈だ。

 

 何故――敗けた?

 

 黒いリオンは落下しながら――己の貫いた素体(オリジナル)ではなく、ただ一人。

 

 こちらを無感情で見詰めている、どこにでもいるような墨色の浪人を見詰め返していた。

 

 碌に受け身もせず、地面へと叩き付けられる。

 どくどくと血が流れる傷を押さえることもなく、呆然と夜空を見上げていると。

 

 そんな自分を見下ろすように、紅蓮髪の美女が視界に現れて。

 

 眩く輝く右手を――煌炎の槍の発射口を、何も言わずに向けて。

 

「わ――っ」

 

 その右手を、グイッと京四郎が持ち上げた。

 

「何するのさ」

「何をするはこっちの台詞だ。明らかにやり過ぎだろう」

 

 リオンは腕を掴まれたまま「やりすぎって……殺されるところだったんだよ。殺すのが当たり前でしょ」と言うと、京四郎は再び疑問符を浮かべたような表情で。

 

「――? 妹だろう? 只の姉妹喧嘩で、殺すまではいくらなんでもやりすぎだ」

 

 その言葉に、黒いリオンも、紅いリオンも――目を見開く。

 

 再び純粋に首を傾げた京四郎に、腕を離してもらったリオンは「……いや、それは――」と、言葉を探す。

 

 そんな間も、黒いリオンは、京四郎を見上げていて。

 

(……この、人間は――)

 

 黒いリオンは――生後数時間の子供は、生まれて初めて見る、天才の記憶にも知識にもいなかった、己以外の怪物を見て、出逢って――そして。

 

「――――ッ!」

 

 京四郎は瞬時に表情を変えて、二色のリオンから距離を取る。

 

「――? 京四――」

 

 紅いリオンの言葉は、最後まで紡がれなかった。

 

 それよりも早く――黒い何かが通り過ぎていった。

 

 まるでそれは黒い光のようで、気が付いたら、地面に黒い残り火が揺らめく轍だけを残して去っていった。

 

 その轍は、墨色の浪人が立っていた場所を真っ直ぐに通過していて。

 

(あれは――――魔人の接近を察知して、それに京四郎は飛び乗ったってこと? ……相変わらず、後先考えずに無茶をする)

 

 葛の葉という存在を求めて、平安京中を駆け回っている魔人・平将門(たいらのまさかど)

 

 つい先程まで、件の『葛の葉』が眠る『祠』に向かう一行の護衛を務めていた自分達がいる場所にまで、それが近付いてきたということは。

 

(魔人は、遂に自分の求めるモノの居場所を嗅ぎ付けたってことかな。あるいは、自分のすぐ近くまで来てくれた魔人を、御姫様の方が呼んでいるのか。……だとすれば、魔人パートも終わりに近付いているってことかもね)

 

 きっと、京四郎にとっても、大切な戦いが迫っている。

 

 京四郎の物語を誰よりも近い所で見たいと願った自分にとっても、見過ごせない――最終決戦(クライマックス)が。

 

 早く行かないと、特等席が埋まってしまう――そう考えて、紅いリオンはさっさと終わらそうと、再び炎の槍を掌で構築しようとして。

 

「――カッコいい……」

 

 目をきらきらさせて夜空を見上げながら、黒いリオンは――呟いた。

 

「――面白い! 欲しい! 僕、彼が欲しくなっちゃったよ!」

 

 紅いリオンは、その無邪気な子供の言葉に。

 

「………………あ゛?」

 

 蟀谷を引き攣らせながら、思わず綺麗な笑顔を浮かべながら、右手の中の光球を握り砕いた。

 




用語解説コーナー70

戦士(キャラクター)

 黒い球体が対星人用戦力として確保する、在来種である現地星人の『死人』を素体として創り出す複製品(クローン)

 通常は無作為に選出した対象の死亡時に、その死者の『魂』と『箱』の情報を調査(スキャン)し、死亡した時点での記憶などもそのままに複製品を創り出すが、稀に調査(スキャン)を終え、複製品(クローン)を創り出した後に、対象の素体が奇跡的に回復し、素体と複製品が重複してしまうという不具合を生じることもある。


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妖怪星人編――71 殻

どうすれば、使命を果たせる――?


 

 天を貫くような木の下で。

 ひっそりと隠れるように置かれた『祠』の前で。

 

 血塗れの狐を囲むように、ぞろぞろと大挙した色とりどりの妖怪を見て、『狐の姫君』は血塗れに微笑む。

 

「ずいぶんとまぁ、お揃いで。大人しく、京の裏側で桜でも眺めながら隠れていればいいものを」

 

 化生(けしょう)(まえ)は、ひらひらと空を泳ぐ白い布の上から己を見下ろす、黒い清流のような髪に溺れるような男に向かって言う。

 

「結局、こんな所にまで出てくるなんて。ご苦労なことですね――ぬらりひょん」

 

 怪異京のぬらりひょん。

 決して表舞台に現れることはないが、百年も前の『人間』最盛期だった頃の平安京にひっそりと乗り込んで、己の住処にしている妖怪がいるらしいということは――化生の前も事前に把握していた。

 

 勢力を積極的に拡大しようと動いているわけではない。

 けれど、かといって他の勢力に併合されようとしているわけでもない。

 

 ただ――人間達の都に、鏡合わせのように存在する裏側の京を見付け出して、そこを住処としてじっと息を潜めているのだと。

 

 総大将たる妖怪が、あの安倍晴明と繋がっていると知った時――当然、化生の前は、警戒し、あわよくば接近しようと手勢を差し向けたりもした。

 

 だが、結果として――今宵、あの怪異京での桜吹雪の中での会談に至るまで、化生の前がぬらりひょんに遭うことはなかった。

 

 全国の殆どの妖怪勢力を支配下に置いているが故にもはや一妖怪任侠組織にどうこうされるような勢力差ではなくなったということ、百鬼夜行が京を根城にしていることから力尽くで支配下に置こうとするには京に攻め込む必要があったことなどを踏まえ、化生の前が、この妖怪大戦争以前に、ぬらりひょんに対し積極的にコンタクトを取ることはなかった――が。

 

 思えば、不思議な話だ。

 あの安倍晴明と友好を結んでいる、ただ一体の妖怪――そんな情報を掴んでいたのに、そして、その情報だけでも、何があっても絶対にその正体を暴かなくてはならない理由としては十分過ぎるほどなのに。

 

 結果として、この妖怪と決着を付けることが――こんな妖怪大戦争最終盤にまでもつれ込んでしまうとは。

 

 警戒していた筈なのに――警戒しきれなかった。

 注視していた筈なのに、気が付いたら、見失っていた。

 

(認めなくてはならないわね。私は、この妖怪――ぬらりひょんの手玉に乗せられていた)

 

 だが――それでも。

 

 ただ一つ――掴み切れなかった、ぬらりひょんという妖怪の中で、たった一つ、掴んだその深奥がある。

 

「結局、諦めきれなかったということですか? 欲しくなったのではないですか? ――そこにいる、あなたが待ち望んでいたであろう――夢の『箱』を」

 

 ぬらりひょん。

 出自不明。正体不明。

 何処から現れたのか誰も知らず、何処からともなくふらりと現れ――全国を巡り、少数精鋭ながらも仲間を集めて、『百鬼夜行』という妖怪任侠組織を創り上げた下級妖怪。

 

 構成員には、雪隠郷(せついんきょう)の『白夜(はくや)』の雪女、さすらいの用心棒として勇名を馳せていた河童、そして四国の妖怪組織を纏め上げた英雄たる犬神など、妖怪界で名を轟かせた有名どころも多く含まれている。

 

 決して一筋縄ではいかない個性豊かな妖怪達を従えて、誰よりも早く人間達の都に乗り込み、この国で最も妖怪に畏れられる陰陽師、天敵たる『人間』にまで接近することに成功した存在。

 

 そんな男が、そんな妖怪が、何の目的も持っていない筈がない。

 壮大な野望を、絶対に成就させたい願いを――その胸に抱いているに決まっていると。

 

 化生の前は――そして、今、お前の目の前には、それを確実に叶える手段があると囁く。

 

 羽衣が、鴨桜が、平太が、詩希が――この場にいる全ての妖怪達の目線が、闇に溶け込むような真っ黒な男に集結する。

 

 そんな中――ぬらりひょんは、狐の言葉を一笑に付してみせた。

 

「馬鹿にするなよ、小娘。儂の野望は、そんな『玉手箱』で叶えるようなものじゃねぇ。この手で無理矢理に掴み取るもんだ」

 

 そんな『ちーと』で叶えても、はっきり言って、つまらんじゃろ――と、いつの間にか、誰もが見上げて注視していた筈なのに、気が付けば地上に降りて、平太を、詩希を、鴨桜らも背後に庇うようにして、化生の前と向き合っていたぬらりひょんは言う。

 

「それに――子供は使うもんじゃねぇ。守るもんだ。いい大人が、子供に向かって儂の夢を叶えてなんて、情けねぇこと言えるわけがないじゃろうが」

 

 ぬらりひょんは背後をちらりと見ながら、平太と詩希を、そして鴨桜を見ながら笑い――そして、笑みはそのままに、ただ笑みの色だけを変えて、血塗れの狐を見据える。

 

「儂のことより――お前さんはどうするつもりだ? 桜の下ではあれだけ余裕ぶっこいておったが、今のお前さんは、随分とまぁ、ボロボロに見えるぞ」

 

 真っ黒な男は、己が引き連れた『百鬼夜行』を見せつけるようにして、挑発的に笑う。

 

「――詰み、じゃ。『狐』」

 

 ぬらりひょんの、そんな勝利宣言に、『百鬼夜行』が、羽衣が――真っ直ぐに血塗れの狐を見遣る。

 

 化生の前は、己に注がれる圧倒的な敵意に、ふっ――と、妖しく笑う。

 

「全く。寄って集って、こんなか弱い女を取り囲んで――卑怯ですねぇ」

 

 化生の前は、自分に向かって注がれる敵意の眼差しの中から、とある上空から注がれるそれと目を合わせる。

 

「――鞍馬天狗(くらまてんぐ)。あなた、御山に残してきた同胞についてはよろしいのですか?」

 

 本来は『狐』勢力の大幹部が一角であり、己の支配下に置いた筈の妖怪は――かつての主の言葉に、刺々しい敵意だけを返す。

 

「お前が我が同胞に手を掛けるよりも前に、今、ここで貴様を仕留めればいいだけの話だ」

「あらあら悲しい。私を裏切るのですか?」

 

 元より忠誠を誓っていたつもりはない――鞍馬天狗が、軍配団扇を取り出しながら、それを真っ直ぐに化生の前へと向ける。

 

「俺が忠誠を誓うのは――我が『総大将』だけだ」

 

 鞍馬天狗の宣言に、ぬらりひょんはかかっと笑い、化生の前は顔に手を当てながらさしも残念そうでもなく大仰に言う。

 

「おやおや振られてしまいましたか。私の大切な仲間を奪うとは――本当に、卑怯ですねぇ」

 

 そして――ニヤリと。

 

 真っ赤に、妖しく――狐は、笑った。

 

「だが、それでいい。それがいい。それでこそ――妖怪の王を決める戦いに割り込むに相応しい」

 

 化生の前は、滔々と語る。

 

 己を取り囲む敵意を前に、血に塗れる自分を見せつけるように、語る。

 

「今宵の戦争で、妖怪はその数を大きく減らしました。けれど、妖怪という存在に対する人間達の恐怖は、これまでの比ではない程に大きく増したことでしょう」

 

 化生の前の言葉を、羽衣は無言ながらも理解する。

 

 こうして『人間』の中心地であり、絶対の領域であった平安京を凌辱しきった妖怪大戦争は、これ以上なく妖怪という存在に対する恐怖を、日ノ本中の『人間』に刻み込んだであろう。

 

 日ノ本の妖怪勢力の大半を支配下においた『狐』勢力が、今宵の戦争においてその数を大きく減らした――それはつまり、日ノ本の妖怪という存在の絶対数を減らしたのだということは、頭では理解出来ていても。

 

 それでも――心に刻み込まれた恐怖は、簡単には拭えず、決して消えない。

 

「だからこそ――この戦争の勝者が、妖怪という存在の象徴、人間達の恐怖の象徴となるのです。人間達からの、妖怪という存在への畏れを、そのまま我が力に出来る――妖怪の『王』となる」

 

 人間達にとっての恐怖の一夜。

 決して忘れることの出来ない戦争――その象徴たる存在。

 

 今宵、遂に誕生することになる――妖怪の、『王』。

 

 これは、それを決める戦いだと、化生の前は歌うように語る。

 

「ぬらりひょん。そして百鬼夜行達。あなた方が、私が妖怪の王になることを認めないというのならば――妖怪の王を決める戦いの乱入者として、我こそが王だと、そう宣言する確かな覚悟を以て」

 

 私を――殺してみなさい。

 化生の前は、そう艶やかに、真っ赤な血の香りがする笑顔を浮かべると。

 

 己の尻から伸びる九本の尾を、大輪の花を咲かせるように大きく展開した。

 

「――――ッ!」

 

 羽衣が、犬神が、鞍馬が、士弦が警戒するように身を固めて。鴨桜が、そしてぬらりひょんが、目を細めてそれを見遣る。

 

「初めましょう。そして、終わらせましょう。私達の――最後の戦いを」

 

 そう言って、九尾の狐は、その巨大な九本の尾を――己を取り囲むように、丸めた。

 

「え――」

 

 それを見て、身構えていた羽衣は疑問符を浮かべて――次いで、聞こえた呻き声に、化生の前の、その狙いを悟る。

 

「ぐ、――おぉ――ッ!?」

「どうした!?」

 

 突然、苦しみ出したのは鞍馬天狗だった。

 毒を呷ったかのように首を押さえて、ゆっくりと地面に向かって落下していく。

 

 犬神が鞍馬を背で受け止めながら地上に降りてくると、雪菜や月夜が心配そうに駆け寄って――。

 

 羽衣はそれに構わず、化生の前に向かって突撃する。

 それに鴨桜が並びながら「なんだってんだ、『貴人』!」と問い掛けると、羽衣は術符を取り出しながら叫ぶ。

 

「“アレ”を完成させてはいけない! 閉じ籠る前に、化生の前を引き摺り出して!!」

 

 羽衣が紫色の狐火の弾丸を放つ。

 

 その先には、九本の尾で自らを取り囲む化生の前が居て――その尾はやがて、球体の『殻』のように変化していく。

 

「――っ! チィ――!」

 

 それを見て、遅まきながら鴨桜もドスを抜き、化生の前に向かって斬り掛かる。

 

 しかし、一瞬早く完成した『殻』は、鴨桜の斬撃も羽衣の狐火も弾き飛ばし、その表面には傷一つ残っていなかった。

 

 遅かった――と、歯噛みする羽衣に対し、鴨桜は「説明しろ、『貴人』!」と叫ぶ。

 

 羽衣は、未だ苦しむ鞍馬天狗を一瞬だけ見遣りながら、鴨桜やぬらりひょん等に向かって言った。

 

「力が――吸い取られています。平安京にいる『狐』勢力の妖怪――自身の支配下に置いた妖怪の妖力を。化生の前は吸い上げ、己の力とするつもりです」

 

 そんな羽衣の言葉を肯定するように、平安京全土から、『殻』に向かって妖力が集結していく。

 

 鞍馬天狗の身体からも、可視化できる程の妖力の糸が伸びていて、まるでそれは栄養分を集めて孵化しようとしている――悍ましき(さなぎ)のようだった。

 

「ふざけんな! 鞍馬ははっきりと『狐の姫君』を裏切ってたろ!」

「恐らくは一度支配下に置いた時に、この時の為の仕掛けを施した契約を仕込んでいたんでしょう。支配される側の妖怪の意思や忠誠など関係ないのです」

 

 苦しむ鞍馬天狗に細めた眼差しを向けながら、羽衣は淡々と語る。

 月夜や雪菜が心配そうに天狗の元へと駆け寄り、士弦や犬神、白夜や長谷川が険しい表情で見詰めて。

 

 ぬらりひょんは無表情に――化生の前が閉じ籠った『殻』を睨み付けて。

 

 鴨桜は、激情を込めて、心の底から気に食わないとばかりに吐き捨てた。

 

「ふざけやがって――ッッ!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(――あらあらまぁまぁ。(さとり)の脱落は感じていましたが、私が弱っている間に(すず)も負けているとは。情けないですねぇ。道真(みちざね)公の影法師には期待していたのですが……。まぁ、彼等彼女等『四天王』は、そもそも安倍晴明陣営の目論見の元で揃えられた駒でしたでしょうから。最終的には私の力になるからと放置していたにも関わらず、脱落前に吸収しなかった私の失策でしょう)

 

 化生の前は真っ暗な『殻』の中で、どくんどくんと己に注ぎ込まれ続ける妖力に浸かっていた。

 

(それにしても、『四天王』だけでなく、ずいぶんと雑兵の数も減っているわね。誰も彼も情けない)

 

 己に繋がる『糸』の数に、化生の前は露骨にがっかりしながら、それでも妖しく微笑んで見せる。

 

(ええ、それでも――私はあなた方を愛しましょう)

 

 弱くて情けない妖怪を愛しましょう。脆くて儚い妖怪を愛しましょう。

 

 そして、抱き締めるように、己の中に入ってくる妖力を手繰り寄せる。

 

(あなた方の、無力で、無意味な妖力(いのち)に――私が意味を与えましょう)

 

 どくんと、注ぎ込まれる妖力に――化生の前は、陶然と微笑む。

 

 

 

「あの『殻』を突き破ります」

 

 羽衣はそう力強く言う。

 

「このまま放っておけば、化生の前は『狐』勢力の妖怪達の妖力を死ぬまで吸い上げ続けるでしょう。それを止める為には、あの『殻』を破壊し、化生の前を再び外界に引き摺り出す以外に方法はありません」

 

 己が支配下に置く妖怪達からの妖力の吸収には、あの繭のような『殻』の状態が必要なのだろう。

 でなければ、安倍晴明にあれほどボロボロな状態に痛めつけられるより前に、妖力を吸収しつつ回復しながら戦っていた筈だ。

 

「本当は完成するより前に破壊したかったですが、こうなった以上は仕方ありません。皆さん、一斉に攻撃をお願いします。お仲間を救いたいのでしょう?」

 

 羽衣がちらりと鞍馬を見遣る。

 

 それを見て、犬神が、長谷川が、白夜が、士弦が、月夜が、雪菜が――攻撃を一斉に『殻』に向かって放った。

 

 しかし――壊れない。

 犬神と月夜の爪も、長谷川の水も、白夜と雪菜の氷も、士弦の糸も――狐の『殻』は容易く弾き飛ばし、その表面に傷すらも残らない。

 

 そして、再び放たれた羽衣の狐火も、鴨桜の斬撃も、化生の前の『殻』には通じなかった。

 

「――チッ! 固ぇ! 何なんだ、これは!」

 

 吐き捨てる鴨桜の横で、羽衣は納得もしていた。

 

 恐らく化生の前といえど、妖力を集めるのは少なくない時間が掛かるのだろう。

 この行為には、それなりに不利益(デメリット)もある筈だ。自身の手足ともいえる配下の妖怪達を再起不能にしながら妖力を集めるのだから、『狐』勢力の最大の強みである数を失うことになる――つまり、化生の前は言葉の通り、今、この場面を妖怪大戦争の最終盤とみている。

 

 だからこそ、その妖力の吸収をしっかりと最後まで行う為に、『尾』を展開してまで『殻』という盾を作って、その内部に立て籠もっているのだ。

 

 化生の前の『尾』で作り出された『殻』だ。

 それも完全に防御目的で作り出された代物。ここにいる妖怪達は、特に犬神はかなりの上級妖怪だが、それでも『狐の姫君』に及ぶものではない。

 

 この『殻』を突き破るには、抉じ開けるには、それこそ――。

 

(――でも、それをしたら……だけど、こうしている間にも――)

 

 化生の前はみるみる内に回復し――めきめきと強化されていることだろう。

 このままでは、それこそ自分ですらも、どうしようもないような怪物に化生の前は成り果てる――どうする。

 

「…………ッッ!!」

 

 どうすれば――『貴人(わたし)』は、使命を果たせる――?

 

「――慌てるな、狐の嬢ちゃん。アンタなら出来ると見透かしたから、晴明はお前さんに()託したんだろう?」

 

 焦燥する羽衣の肩に、ぬらりひょんがぽんと手を置いた。

 そして、彼女の横に並び立って、飄々と笑みを浮かべながら言う。

 

「『尾』を使いな。お前さんの『尾』なら、化生の前の『殻』もぶち破れるだろう?」

「……でも」

 

 あくまで威嚇として展開するのと、実際に武器として使用して消費するのでは意味合いがまるで違う。

 

 自分にはまだ、果たさなくてはならない『使命』が――。

 

「――大丈夫だ。お前さんがやらなくてはならないことの一部は、儂等が代わりに肩代わりしてやる」

 

 だからお前さんは、お前さんにしか出来ないことだけをしろ――そう言って、ぬらりひょんは静かに構えた。

 

「お前さんは『穴』を開けるだけでいい。そこから先は、儂が抉じ開ける」

「――――分かりました」

 

 全面的に信じることが出来る相手ではない。

 兄の友人ということは知っているが、羽衣自身がぬらりひょんと親交を深めていたわけではないのだ。

 

 だが、こうして懊悩している一秒毎に事態が悪化し続ているのも確かだ。

 あの『殻』に穴を開けられるのが自分しかいない以上、それは――羽衣にしか出来ないことだ。

 

 故に、羽衣はこう言うしかない――だからこそ、はっきりと口に出して言った。

 

 そうさせるのも、また、兄とは違う――上に立つモノとしての、『器』だということなのだろうか。

 

「――信じますよ。『百鬼夜行』の主」

 

 羽衣が尾を広げる――化生の前と同じく、九本の尾を。

 

 そして、振るう。

 鞭のように八本を『殻』に叩きつけ――残る一本を、鋭い剣へと変化させる。

 

 妖狐の尾は――妖力の(タンク)だ。

 より多くの尾を持つ狐こそ、より強大な妖力を持つ上級の妖狐であり、九尾の狐である『葛の葉』の娘である羽衣は、自身も九尾の領域へと辿り着くことが出来た。

 

 しかし、尾はタンクであるが故に、その尾に溜め込まれた妖力を消費して放つ攻撃は強力無比な切札と成り得るが――当然、溜め込まれた妖力を消費すれば、タンクは空となり、尾を失うことになる。

 失った尾を再生させるには長い時間を掛けた回復を行わなくてはならず――戦闘中には自然回復したりはしない。

 

 故に、この場面で『尾』を消費するということは、九尾の妖狐から八尾の妖狐になるということは――この後で行われるかもしれない、一対一の真っ向勝負にいおいて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということを意味する。

 

 だからこそ――羽衣は言ったのだ。

 

 ぬらりひょんに向かって――信じる、と。

 

(任せましたよ――だって)

 

 あの全てを見透かした主が、本来は何のメリットもない筈なのに、ぬらりひょんという妖怪とだけは、個人的な友諠を結んでいたのだから。

 

 きっと、ぬらりひょんにもある筈なのだ――己と同じく、果たすべき使命が。

 

 だったら――信じられる。

 

 よく知りもしない怪しい妖怪のことは信じられなくとも。

 

 他でもない――我が主、我が兄のことならば。

 

 羽衣は、ずっと、ずっとずっと――信じ続けているのだから

 

「――ぬらりひょん!!」

 

 羽衣の『尾』の刃が振り下ろされる。

 

 紫の狐火を纏った刃は、『殻』に直撃し――これまでどんな攻撃も弾いてきた球体に罅を入れた。

 

「よくやった、嬢ちゃん」

 

 そして、その罅にぬらりひょんは――清流のような動きで、その白刃を突き入れる。

 

「――――」

 

 綺麗だ――鴨桜は、己が父の技の余りの美しさに、思わず目を奪われた。

 

 殻が割れる。球体が弾け飛ぶ。

 ぬらりひょんが己が妖力を内部に流し込み、破裂させたのだと、鴨桜は遅まきながら理解した。

 

「割れた!」

「『狐の姫君』は――」

 

 月夜と士弦が思わず声を上げ、全員が割れた『殻』を注視する。

 

 その中身は――何もなかった。

 

「は――?」

 

 鴨桜が訝しげに呟く――と、背後で、ごふっ、と、気が抜けたような、呆気ない悲鳴が漏れた。

 

「え――」

 

 雪菜が、ゆっくりと、振り返った。

 

 すぐ傍にいたのに、まるで、何も、気付けなかった。

 

 つい先程まで、呻き、苦しみ、悶えていた鞍馬。

 化生の前が籠っていた『殻』が割れて、自分の中から何かが抜けていくような痛苦から解放された筈の鞍馬の身体に――穴が空いていた。

 

「がふっ――」

 

 何かが抜けていくのを感じる。

 先程までのような妖力のそれではない――血。

 

 己の中に流れる血が――命が、抜け落ちていく。

 

 化生の前は、自らを裏切った大幹部の身体を、その細い腕で容赦なく貫いていた。

 

「――本来の予定の五割程でしょうか。やはり道真公と鈴を回収できなかったのは痛かったですね」

 

 それでも、あなたの妖力は随分と助かりましたよ、鞍馬天狗――言って、ズボッと、化生の前は手を引き抜きながら言う。

 

「ありがとうございます。これで、裏切ったことはチャラにしてあげますね」

 

 鞍馬さん!! ――雪菜が叫びながら倒れゆく鞍馬に駆け寄り、他の妖怪達は一斉に化生の前を取り囲む。

 

 しかし、先程までのような鋭さの敵意はなかった。

 

 あるのは、鞍馬を害されたことへと怒りと――それ以上の、圧倒的な、畏れ。

 

 化生の前は、百鬼夜行を見渡して、己の手にべったりと付着する鞍馬の血を舐め取りながら言う。

 

「予定よりも物足りないですが、それでも、ここにいるあなた方を、纏めて相手取ることくらいは出来そうな仕上がりです」

 

 ビリビリと、空気が震えているようだった。

 先程までの血塗れで弱弱しい狐は、もう何処にもいない。

 

 目の前にいるのは――最強の妖怪の一角。

 妖怪の王の玉座に届き得る美しき姫君。

 

「さて、どなたから参りますか。妖怪らしく、卑怯かつ卑劣にも、全員で一斉にかかってきても構いませんよ」

 

 妖怪・化生の前。

 その完全体の顕現に、若い妖怪達は目に見えて怯え、百鬼夜行の幹部達も額に冷たい汗を浮かべている。

 

 鴨桜も、自分の掌が濡れていくのを感じていた。

 そして――思わず、父の方を向いてしまう自分に舌打ちをする。

 

 同様に羽衣もまた――その男を見ていた。

 

「…………」

 

 百鬼夜行総大将――ぬらりひょんは、ただ一人、そのドスの柄に手を伸ばして。

 

 

 黒い弾丸が――自分達の横を閃光のように通り過ぎた。

 

 

「――――ッ!!?」

 

 全員の視線が、突如飛来した謎の黒い物体に思わず集まる。

 

 小さな『祠』を掠めるように、巨大な木の幹に激突したそれは――『人間』だった。

 

「――――京四郎殿!?」

 

 その正体に気付いたのは羽衣だった。

 平太と詩希も呆気に取られ――他の面子は、その人間の正体を知らずに呆然とする。

 

「何故――」

「――逃げろ」

 

 どうしてと問い掛ける羽衣の言葉を遮り、肺の空気が押し出されたような衝撃から回復するのも待たずに、京四郎は言葉を搾り出す。

 

 そして、京四郎の次の言葉が――放たれるよりも、前に。

 

「――――ッ!!!」

 

 ドクン、と。

 

 強く、強く――羽衣の体の中に流れる血が、化生の前の体の中に溢れる何かが、反応するように、脈を打った。

 

 そして――京四郎は、自分が立ち上がるよりも早く、全員に向かって叫ぶように言う。

 

「――――来るぞっ!!」

 

 何が――と、問い掛ける間もなかった。

 

 京四郎の横の『祠』が、ガタガタと震える。

 

 近付いてくるそれに、待ち望んだそれに――歓喜するように。

 

 そして、それは――現れた。

 

「クズノハァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 漆黒の――魔人。

 

 黒い炎を迸らせながら、天をつんざくような咆哮を放ちながら――それは、遂に、辿り着いた。

 

 そして――『祠』が、光り出す。

 




用語解説コーナー71

・妖狐の『尾』

 妖狐にとって『尾』とは妖力の貯蔵庫であり、『尾』の数が多ければそれだけ多くの妖力を溜め込んでいる強力な妖狐であるという証である。

 かつて蘆屋道満は、尾を複数本宿す妖狐は『転生』の異能を保持しており、生まれ変わる毎にその『尾』の数を増やす。つまり、多くの尾を持つ妖狐ほど、より強力な転生の異能を持つ妖怪であると語ったが、それは正しくは誤りである。

 かつて、妖狐といえば、それは『葛の葉』のことであり。
 転生する毎に『尾』を増やした葛の葉が、日ノ本の各所で目撃され、異なる怪異譚を残したが故に――妖狐は転生する妖怪であるという逸話が生まれた。

 正しくは、妖狐は一度の生で激しい修行の末に尾を増やすことは可能である――が、それにも個体別に才能的限界がある。

 葛の葉由来の力を持っているとはいえ――六尾まで独力で辿り着けた鈴鹿御前も歴史上に類を見ない天才であり、たった一度の生で九尾まで辿り着けた羽衣や化生の前は常識では考えられない有り得うべからずな怪物である。

 しかし――オリジナルたる『葛の葉』に限界はない。
 転生する度に幾本でも際限なく『尾』を増やし、無限に妖力を膨れ上がらせる、酒吞童子や大嶽丸と並ぶ『真なる外来種』である。


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妖怪星人編――72 紅と黒の激突

紅だろうが、黒だろうが、そんなのは何の関係もない。


 

 地球に向かって電子線が照射され、黒い球体の刺客が放たれた――その後。

 

 月面では、黒衣の戦士達と白虎と天空の戦いが終結を迎えつつあった。

 

「――我らに月面侵略の意思はない。こちらの目的は、月の黒い球体の恩恵に預かることだ」

 

 かぐやが黒衣の軍隊と道長の間に入り、道長が黒衣の戦士達に向かって声を張り上げる。

 

「無論、君達から黒い球体を取り上げるという話ではない。今、あの青き星の我が国で行われている星人戦争――その後処理を頼みたいだけだ。それが叶った後は、速やかにこの星を後にし、二度と脅かさないことを我が命を懸けて約束しよう」

 

 流石だ――と、かぐやは息を吞む。

 宮中という一国を治める政府機関を、何の異能も持たずに支配し続けてきた藤原道長という男の、言葉の魔力というものの凄まじさを、かぐやは改めて目の当たりにしていた。

 

 つい先程まで殺し合っていた戦士達に、その弁舌のみで武器を置かせ、あまつさえ取引すらも成立させようとしている。

 

「私は、貴様がかぐや様を地球へ連れ帰ろうとしていると聞いたぞ」

 

 戦士の一人が、道長に向かってそう言った。

 かぐやは身を震わせたが、道長は一切の動揺を見せずに「その通りだ」と肯定すると。

 

「しかし、それもまた姫の意思に委ねている。こちらの白虎や天空を突き付けての脅迫によって連行するということはしない。私は――この愛を以て、かぐや姫に俺を選んでもらう為にここに来たのだ」

 

 思わず赤面してしまうようなことを真っ直ぐに言う道長の言葉に、心動かされ始めている自分がいることに気付く。

 

 それが計算によるものだとしても、その言葉の魔力に、誰よりも酔わされているのは己だと気付かされる。

 

 男の瞳に渦巻く黒い炎に――魅せられつつあるのだと、思い知らされる。

 

「故に、我らが矛を交えることに、これ以上の意味はない。だから、かぐや姫よ」

 

 道長は、頬を紅潮させるかぐや姫に向かって言う。

 

「連れて行ってくれないか。――黒い球体の部屋へ」

 

 月にまで手を届かせた男が、更に深い()の中へと手を伸ばす。

 

 その手は、その黒い野望は止まることは知らず――遂には、月の深奥にまで、届こうとしている。

 

 しかし、かぐやは「……申し訳ないけれど、それは無理なの」と首を振る。

 

「黒い球体の部屋は、『家主』だったリオン以外は――GANTZに選ばれた戦士(キャラクター)しか入れない。……そして、戦士(キャラクター)となるには、死人でなければならないの」

「……なるほど。つまり、黒い球体の部屋に入る為には、()()()()は、死ななくてはならないということか」

 

 道長は、それを聞いて寸分の迷いなく言う。

 

「――ならば、死のうではないか」

 

 かぐやを初め、月の黒衣の軍勢が、そして、白虎たる公任(きんとう)までもが瞠目する。

 

 そんな彼等に構うことなく、道長は懐から術符を取り出した。

 

「これが、我が命を月面で保たせている晴明の術符だ。これを我が身から離すだけで、俺はその術の恩恵を失い、この身は容易く絶命するだろう」

「ちょ、ちょっと待て、道長!」

 

 白い虎が道長の傍に駆け寄りながら、慌てたように人語で言う。

 

「ここでお前が死んで、本当にその黒い球体とやらが、お前を戦士(きゃらくたー)って奴にするって保証はあんのか!?」

「ないな。その時は無駄死にとなるだろう」

 

 そこで、お主だ――と、道長はその術符を握りながら、白虎の口元にそれを押し付ける。

 

「かぐやよ。黒い球体には、瀕死状態である重傷の者を戦士としながら、その者が奇跡的に生還を果たすことで、結果として()()()()()()()()()()()()事態が発生という例が存在すると晴明が見透かしていたらが――それは(まこと)か」

「……ええ。確かに、そういった例はごく少数ながら存在したわ」

 

 他にも、100点めにゅーというもので戦士として記録されたモノを呼び出すことにより、戦士が重複するという形もあるが――かぐやはそれは説明しなかった。

 

 道長も何かを言い掛けて止めたかぐやを追及することはなく、「――つまり、黒い球体が戦士を作る際に必要な工程は『死に瀕すること』であり、『死亡状態』はそれの方が確実であるというだけで、必須の条件ではないということだ」と語り、そして再び白虎の目を見据える。

 

「つまり、黒い球体が俺を戦士にしないと判断した時点で、お主が私の身体に術符を戻せば、私は息を吹き返し、無駄死を避けることが出来るという寸法だ」

「――――ば、馬鹿かお前は!! そんな都合よく上手くいくわけねぇだろ!! 結局、俺が間に合わなくてお前が無駄死する可能性が一番高ぇじゃねぇか!」

 

 白虎は叫び、突き付けられたその術符を咥えようとしない。

 

 しかし道長は、己の命が掛かった極限の状況ながら、一切の恐怖を見せずに綽々と言う。

 

「案ずるな。俺はお主を信じている」

「……さっき言っていたよな、お前。戦争の終盤の行末は、晴明殿も見透かしていなかったって。つまり、このお前の策が、確実に上手くいく未来を、誰も視ていないってことだろう」

 

 普通に黒い球体が道長を無視して、普通に公任がタイミングを見落として、普通に道長が無駄死にをするというパターンも存在する――いや、むしろ、普通にそうなる可能性が一番高いだろうと、公任は呻く。

 

 理解出来ない。

 この幼馴染が、この親友が、この主が――やはり、自分には理解出来ないと、公任は俯く。

 

 道長は、そんな公任に「――お主を虎にまでしたのだ。俺だけが、いつでも晴明の未来視によって確定した道だけを歩くだけでは誰も納得すまい」と笑ってみせる。

 

「俺にも偶には、命くらい懸けさせてくれ」

 

 道長は術符を白虎に突き付けながら――かぐやの方を振り返る。

 

――これが、私の戦争(たたかい)なのだ。

 

 何の異能も持たず、何の武装も持たず、ただ己が野心だけを燃やして――遂には、月にまで辿り着いた男。

 

 こんな自分に出来るのは、ただ命を懸けるだけだと、男は儚く笑って見せる。

 

「――公任。俺は命を懸けるが、捨てるつもりは毛頭ない。俺の野望は、まだまだ(ここ)で燃え続けている」

 

 道長は、まるで少年のように――真っ黒に燃える溌剌とした笑みを、公任へと向けた。

 

「――もっと面白いものを見せてやる。お前を信じる、俺を信じよ」

「…………」

 

 公任は、かつて己を狂わせた、その笑みを、今再び向けられて。

 

(ああ――理解、出来ない)

 

 そう、改めて――突き付けられる。

 

 理解出来ない。敵わない。

 

 だからこそ――面白いと、そう思ってしまった自分を思い返し。

 

 こんな馬鹿な男が見る景色を観たいと、そう思って、虎に成り果て、月にまで来てしまった自分自身こそを振り返り。

 

(ああ――とっくの昔に、俺も堕ちていたのか)

 

 倫理よりも、常識よりも――己の欲望を優先する、悍ましき獣に。

 

 そう理解させられた公任は、諦めたように笑って。

 

 男の命を繋ぐ術符を――藤原道長から、引き離した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ゆっくりと目を開けると――そこは檻の中だった。

 

 豪奢な天蓋付きの寝台が背後にあり、灯りはなく外から差し込む光だけが光源の暗い部屋だった。

 

「…………ここは」

 

 道長が見渡すと、そこには先程までと同じ黒衣を纏ったかぐやがいて。

 

「…………」

 

 彼女は、安堵したような、それでいて悲痛な眼差しで、ゆっくりと顔を動かして、そこに向かって視線を誘導する。

 

 誘われるがままに、道長がそちらに目を向けると。

 

 

 そこには、無機質な『黒い球体』があった。

 

 

「…………これが」

 

 道長の膝の高さよりは小さいが、平安貴族が蹴り遊ぶ鞠よりもずっと大きい。

 傷一つない光沢を放つ、見るもの吸い込むかのような――漆黒の球。

 

 藤原道長は、理解した。

 これが摩訶不思議な奇跡を起こすという、黒い球体――『GANTZ』。

 

 そして、ここが――『黒い球体の部屋』。

 

「――感謝する。ガンツよ」

 

 道長の言葉に応えるように――黒い球体は虚空に電子線を放つ。

 

 他の戦士を召喚するのかとかぐやは身構えたが、GANTZが虚空に作り出したのは――モニターだった。

 

 その画面に映し出されたのは、紅と黒、二色の傾星の美女の戦い。

 

「――!? リオン!?」

 

 黒い球体は、地球で行われる吸血姫の決闘を映し出しながら、自身の表面に文字列を浮かべた。

 

 

――てめえたちは なにものです

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 地面を貫く轟音が響く。

 

 紅く染まった右の手刀が、ついさっきまで女の美しい顔があった場所を粉々に貫いていた。

 

 跨りながら手刀を繰り出した紅い美女は、横たわる己と同一の容貌の黒い美女に向かって、平坦で低い声で問う。

 

「……聞き間違えかな? 耳障りな戯言が聞こえたんだけど」

 

 紅い美女から無表情で放たれる言葉に、黒い美女はにこやかに返す。

 

「京四郎を、欲しいって言った?」

「言ったとも。当然だろう?」

 

 僕は、(ぼく)なんだからさ――と、黒い美女は黒い炎を、己を包み込むように膨れ上がらせながら、己に跨る紅い自分を吹き飛ばす。

 

 紅い美女は、その黒い炎を瞬時に躱すように飛び退きながらも、黒い美女を――黒い自分を、睨み付けるのをやめない。

 

「僕は君なんだから――僕も、君も、『リオン・ルージュ』なんだから。君が気に入ったように、僕もあの子を気に入るのは当たり前だろう?」

 

 黒いリオンはうっとりとした表情で、まるで恋する乙女のように言った。

 

「一目で心を奪われたよ! ――僕はあの子に会う為に生まれてきたのだとすら感じたね!」

「……違うだろ。勘違いするなよ」

 

 そんな夢見る乙女のように浮つく黒い自分に、紅いリオンは冷水をぶっかけるように水を差し、冷たい現実を突きつける。

 

「君は僕を殺す為に生まれてきたんだ。僕を殺す為に即席(インスタント)で作られた、只の黒い球体の――黒い、人形だよ」

 

 それ以外には何の価値も見出されていない、何も求められていない――只の人形(キャラクター)だ。

 

 真っ直ぐに、冷たく、残酷に明確に――真実を突き付ける、紅い自分に。

 

 黒いリオンは、「……確かにね」と、浮ついた表情を消しながら――それでも不敵に笑って、紅い自分に吐き捨てる。

 

「――でも、それは君も同じだろ? リオン・ルージュ(ぼく)

 

 酷薄に笑い、凄惨に笑い――真っ黒に笑い、真っ赤に笑いながら。

 

 黒いリオン・ルージュは、紅いリオン・ルージュに言う。

 

「役目を放棄し、役割を放棄し――何もかもから背を向けて逃げ出して、月を飛び出した今の『リオン・ルージュ(きみ)』には、一体何の価値があるんだい?」

 

 箱入り人形が、箱から飛び出した所で、所詮、人形は、人形だ――と。

 

 黒いリオンは、まるで着せ替え人形のように色違いの豪奢なドレスを纏った己を見せつけるように、紅いリオンに向かってくるくると踊って、スカートの裾を持ち上げながら言う。

 

「分かっているんだろう? 『リオン・ルージュ』は、天才だから、最強だから、無敵だから、価値があった――存在価値があった。誰にも出来ないことが出来るから。ただそれだけで存在を許されていた。それだけが価値だった。そして――」

 

 黒いリオン(ぼく)は、紅いリオン(きみ)よりも――『天才』で、『最強』で、『無敵』だ。

 

 そう、きゃははと笑いながら、踊りながら言う黒いリオンは――蟀谷から己の頭蓋の中に手を突っ込み、ぐちゃぐちゃに中身を掻き回す。

 

「君に出来ることは僕にも出来るし、君が出来ないことも僕には出来る」

 

 ズボっと、勢いよく手を引き抜く。

 盛大に血液や脳漿が飛び出し――そして、その引き抜いた勢いのまま、取り出した爆弾を放り投げて。

 

 ドガンッ!! ――と、爆弾が至近距離で炸裂したことにまるで構わず、黒いリオンは己を真っ赤に染めながら笑う。

 

「……支配されるのも、新鮮で楽しかったんじゃないのかい?」

「気が変わったよ。それよりもずっと楽しそうなものを見つけたからね。ずるいじゃないか。あんなのを見せられちゃあ――欲しくなるに決まっている」

 

 予定より少し早いけれど、黒い球体の人形は終わりだ――そう、黒いリオンは首輪を外して、笑う。

 

 酷薄に、凄惨に、獰猛に。

 牙を剥くように――残酷に、笑う。

 

「君を殺して――僕が『リオン・ルージュ』になる」

 

 黒いリオンが黒炎を、紅いリオンが紅蓮を放つ。

 

 紅蓮よりも黒炎の方が大きく凄まじいけれど、その分、炎の波は制御しきれず、そのまま大雑把に広がるばかりで肝心な紅いリオンを逃がしてしまった。

 

「いいのかい? 軽率にそんなことをして。首輪を外したら、『GANTZ』はまた新しい刺客を送り込んでくるんじゃないのか? 今度は僕と君を纏めて処分する為の、新しい三色目(3Pカラー)の『リオン・ルージュ』が」

 

 紅いリオンは、黒い炎の波の中に、紅蓮の炎の足場を作りながら黒いリオンに接近する。

 それを黒いリオンは、更に大きな黒い炎の壁を作り、力任せに接近を妨害した。

 

「大丈夫だよ。僕は君と違って地球には興味ないからね。君を殺したら、『彼』を連れて月へと帰らせてもらう。その後は、これまで通り、GANTZとは持ちつ持たれつの関係を築くさ。君と違って、彼が居れば、僕はまだしばらくは大人しく出来る自信があるからね」

 

 紅いリオンは、その黒いリオンの言葉に眉根を寄せる。

 月での記憶しかなく、この地球の数日間の記憶を持たない黒いリオンのその結論に、吐き気がするような不快感を覚える。

 

「そうか――なら、やっぱり、君は、僕じゃないよ」

 

 紅いリオンは、右の掌に紅蓮を圧縮し、煌炎の槍を作り出して黒炎の壁を突き破る。

 

 そして、突き破った先で――黒いリオンは黒炎の巨大槍を構えて待ち構えていた。

 

「――――ちッ!?」

 

 紅いリオンはそれを視認した瞬間に、炎の槍を地面へと向けた。

 そして、黒い炎の巨大槍が放たれるよりも前に、天に向かって己を突き上げるようにして回避する。

 

 黒いリオンは「う~ん、発射が遅かったかぁ」と頭をぽりぽりと掻いた。

 

「持て余してるみたいだね。その『星の力(バックアップ)』」

 

 紅いリオンが、宙へと回避した後、そのまま背に蝙蝠の羽を出して、空から見下ろすようにして言う。

 

 黒いリオンは「まぁねぇ」と、素直にその言葉を認めた。

 

 元々、リオン・ルージュは生まれついての怪物だった。

 努力などしたこともない彼女は、つまり自身の力の増幅ということ自体が初めての経験だった。

 

 完成された天才に、無理矢理に付与された外付けの『(バフ)』。

 ただでさえコントロールの難しい莫大なる『最強』を操るリオンにとって、それは本来邪魔でしかなかった。

 

(力の絶対値が上がっても、使いこなせなければ――只の重い荷物だ)

 

 そうでなければ、リオンと京四郎のタッグとの二対一だったとはいえ、あれほどあっさりと敗北する筈がなかった。

 

 慣れない『支援(パワーアップ)』に戸惑っている今こそ、紅いリオンが黒いリオンを打破できる唯一のチャンス――。

 

「――だよね。だけど、無駄だよ。きみも分かっているんだろ?」

 

 背中に生やした蝙蝠の羽を羽搏かせて、黒い炎の渦の中に突っ込んでいく紅いリオン。

 

 黒いリオンは、黒い炎の中で――勝ち誇ったかのように、凄惨に笑う。

 

「僕は――『天才(リオン・ルージュ)』だ」

 

 黒炎の渦の流れの激しさが増す。

 紅いリオンは異変に気付くが――既に、逃げられない。

 

 渦が急激に伸び上がり――柱となる。

 流れが檻となり、逆巻き――龍をも殺す竜巻となる。

 

「もう――覚えたよ」

 

 外付けの『星の力』。

 それを、既に――完璧に操作方法を把握したと語る黒いリオンの言葉に。

 

 紅いリオンは、それがハッタリではないと悟る。

 他でもない――自分でも、これくらいの時間で習得して見せる自信があるからだ。

 

(コイツは、僕じゃない。だけど――紛れもなく)

 

 天才(リオン・ルージュ)だ――そう、己を潰すべく細くなっていく黒い竜巻の中で、リオンは。

 

「く――――ソ――――が!!」

 

 汚らしく吐き捨てて、紅いリオンは両手に煌球を作り出す。

 紅蓮の炎の圧縮。誰に教わるでもなく、当たり前のように出来ていた応用技。

 

 けれど、それが自分の中の力の貯蔵庫(タンク)のようなものの残量を減らして行う大技であるということを、リオンは直感で理解していた。

 

 多用出来る技ではない。ただでさえ、敵は生まれて初めて出逢う――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それでも、この黒い竜巻に呑み込まれたら、その時点で終わると、そう直感する紅いリオンは。

 両手で作り出した煌球の刃を、竜巻を両断するように振るい――力尽くで脱出する。

 

 その先で――黒い太陽が待ち構えていた。

 

「――――」

 

 疑似太陽。

 リオン・ルージュの最終奥義にして最大攻撃。

 

 それを、黒いリオンは、星の力という異物が混ざり込んだ状態で、いとも容易く顕現させてみせた。

 

「分かっただろ。(ぼく)(きみ)よりも強い」

 

 そう宣言する黒いリオンに、紅いリオンも疑似太陽を作り出して対抗する。

 だが、その聡明な頭脳は、それを振るう前に残酷に答えを弾き出していた

 

 勝てない――このまま、黒い太陽に眩い太陽をぶつけても、最大出力で劣るこちらの太陽は呑み込まれるだけだと。

 

「分かっているだろう。天才じゃないリオン・ルージュに価値はない。最強ではないリオン・ルージュに価値はない。無敵じゃないリオン・ルージュに価値はない」

 

 どちらが先かは関係ない。どちらが原本かは関係ない。

 紅だろうが、黒だろうが、そんなのは何の関係もない。

 

「必要なのは――性能だ。より天才である方が、より最強である方が、より無敵である方が、『リオン・ルージュ』に決まっている」

 

 じゃあね、偽物(オリジナル)――歯を食い縛って、前髪で表情を隠す紅に、黒い複製品は――血塗れのように、真っ赤に笑う。

 

「――僕こそが、『リオン・ルージュ』だ」

 

 黒い太陽と、眩い太陽が激突する。

 

 そして、天地開闢が如き衝撃が轟いた。

 




用語解説コーナー72

・月の黒い球体の部屋

 とある隔離された吸血姫の『子供部屋』。

 ただ外の光のみが差し込む、広大な部屋に天蓋ベッドと黒い球体しか存在しない――檻のような箱。


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妖怪星人編――73 山小屋への招待状

――まさか、もう目覚めたの?


 

 黒い嵐が吹き荒れる。

 

 美しい白い光に向かって、ただ真っ直ぐに猛進する。

 

「クズノハァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 手を伸ばす。ずっと探していた光。ずっと求めていた――白。

 

 真っ黒に染まった己を、綺麗に洗い流してくれるような――暖かい白色に。

 

 魔人は手を伸ばして――そして。

 

 それを邪魔するように、眩い黄金の光が襲い掛かる。

 

「グァァァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 己の身を抉るような灼熱の光。

 漆黒に染まった自分を炙るような、焼き尽くすよな――陽光のような黄金。

 

 ふざけるな――邪魔をするな。

 ようやく辿り着けたのだ。すぐそこにあるのだ。手を伸ばせば届きそうな程に近くに――白が、そこに。

 

「クズノハァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 漆黒の魔人が暴れ回る。

 激情のままに振り撒く黒炎は、己を邪魔する黄金だけでなく、周囲に存在する全てに向かって襲い掛かる。

 

「ちっ――なんだ、コイツは!! 何者なんだ、この真っ黒野郎はよッ!!」

 

 突如として乱入した魔人に対し、百鬼夜行は一斉に距離を取る。

 白夜と長谷川が氷弾と水砲を放つが、魔人はいとも容易くそれを吹き飛ばし、意にも介さず暴れ続ける。

 

「おい、人間! あれはお前の客かよ! 一体全体ナニモンだ!?」

「ああ――あれは、俺の敵だ」

 

 鴨桜は噛みつくように、あの魔人に先んじて吹き飛ばされてきた墨色の浪人に向かって吠えるように問い掛け、京四郎はそれに対し、黄金の斬撃を飛ばして魔人を牽制しながら返す。

 

 そして、京四郎の言葉に繋げるように、百鬼夜行の総大将が、十二神将筆頭『貴人』が応える。

 

「……そういや、百年くらい前、俺が平安京に乗り込む前後くらいか、人間達が大層恐れていた――『魔人』が居たなぁ」

「……ええ。それこそが、目の前にいる蘇った魔人。坂東を支配し、新皇を名乗り、かの安倍晴明様ですら完全に滅ぼすことが出来ず、封印することしか出来なかった大怨霊」

 

 そんな彼等に、続くように――その狐の妖怪は、魔人を見詰めながら、感情を伺わせない声色で言った。

 

「そして、大妖怪『葛の葉』が愛した――ただ一人の男」

 

 予想外の方向から届いた言葉に、羽衣が、鴨桜が、ぬらりひょんが、そして京四郎が――その狐に、目を向ける。

 

 その狐は、その女は――真っ直ぐに、ただ暴れ続ける漆黒の男へと目を向け続けていた。

 

「――――平将門(たいらのまさかど)

 

 彼ら彼女らからは、その狐の表情は見えない。

 

 犬神をはじめとする百鬼夜行が、成す術もなく牽制することしか出来ない程に大暴れする魔人を――どのような表情で見詰めているのかは分からない。

 

「……とにかく、アレがとんでもねぇ、魔人とかいう化物なのは分かった」

 

 鴨桜は吐き捨てる。

 ただでさえ、化生(けしょう)(まえ)という怪物を相手にしなくてはならないのに、それに加えて魔人などという異物が乱入してくるとは。

 

「どうにかして、あの魔人ってヤツを倒した上で、狐の姫君を退治しなくちゃいけねぇってことか?」

「いいえ――無理です。あの魔人は、私達では殺せません」

 

 鴨桜の言葉に、羽衣は狐火の弾丸を魔人に叩き込みながら言う。

 

「――あぁ? そりゃ、どういうことだッ!」

「……魔人・平将門は――不死なのです。……百年前、平将門を魔人とした葛の葉は、自身の不死身の権能を将門に与えた。その呪いが健在である限り…………平将門は、殺せない」

 

 平将門は殺せない――不死。

 そう冷たく言い放つ羽衣に、鴨桜は「はぁ!? なんだ、それは!」とその理不尽に憤り。

 

「…………」

 

 ぬらりひょんは、それを言い放つ羽衣の口ぶりに、何かしらの違和感を感じ取り。

 

「――――」

 

 京四郎は、自らが殺さなくてはならない宿敵の不死が健在であることに目を細めて。

 

「じゃあ、どうすりゃいいってんだ!? あの魔人をこのまま放っておけってのかよ!?」

「……それは――」

「――そうね。私も気になるわ」

 

 化生の前は、その瞳を羽衣へと向けて――狐の微笑みを向けながら、意味深に、覗き込むように問い掛ける。

 

「『お姉ちゃん』。あなたは、どうするつもりなのかしら?」

「…………」

 

 片方の目を、暴れる漆黒の魔人へと向けながら。

 

「『平将門』を――そして、その『不死』を」

 

 あなたは、どうするつもりなのかしら――と。

 

 片方の目を、平将門の娘であり、()()()()()――()()()()()()()()()()()()()()()』を、見据えて、見詰めて、見透かそうとしている。

 

「…………」

 

 そんな姉妹の睨み合いを、ぬらりひょんと鴨桜は見遣って。

 

「――おい、テメェら、いい加減に――」

 

 刻一刻と悪化していく状況に、魔人によって百鬼夜行が圧され始めていく光景に痺れを切らして、鴨桜が口を開きかけた、その時。

 

「――――っ!! ちぃッ、避けろ!!」

 

 京四郎は、背後から――光り輝く『祠』から、何か飛び出そうとしていることに一早く気付く。

 

「な――――!?」

 

 それは――『尾』だった。

 柔らかそうな獣毛に覆われた、太く伸びる――九本の、『狐の尾』。

 

(――――これは!? ――まさか、もう覚醒し(目覚め)たの!? 『葛の葉(おかあさん)』が――!?)

 

 未だ、平将門は、『祠』にその手を触れてはいない。

 

 にもかかわらず、魔人の接近を感知して、『祠』の扉が開けた状態で、至近距離から魔人のエネルギーを感じ続けた結果、本体がその手を触れるよりも早く――『葛の葉』の封印が、解けたということか。

 

 そして、封印から目覚めた『葛の葉』は、将門が入ってくるのを待ちきれず――自ら招き入れようとしている――?

 

 己が眠る、二人が出逢った――特別な思い出の詰まった『山小屋』へと。

 

「いけない! お願い、止めて!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()!! ――羽衣の言葉に、やはり真っ先に反応したのは京四郎だった。

 

 真っ直ぐに将門へと向かって伸びる狐の尾。

 それらを全て、京四郎は魔人へと届く前に両断した。

 

「よし! これでいいか――」

 

 太刀を鞘へと仕舞いながら、京四郎は目線だけで振り返る。

 

 だが――そこでは、平太が、化生の前が、そして羽衣が、『狐の尾』に絡み着かれていた。

 

「――平太!」

「…………へぇ」

 

 平太から引き剥がされた詩希が絶叫し、化生の前は己に巻き付く狐の尾に対し意味深長に微笑む。

 

 そして、羽衣は――。

 

(――しまった! 魔人に伸ばされた尾は『六本』だけ。他の三本は、初めから私達に――)

 

 ただ盲目的に平将門(おとこ)を求めているだけではない。

 冷静に、明晰に――目覚めた後の、これからのことも考えての先制行動。

 

(間違いない――『葛の葉』は、完全に覚醒している――!!)

 

 羽衣はそう考えて、引きずり込まれないように地面に二本の尾を突き刺す。

 

 だが、平太にそのような抵抗も出来るわけはなく、その小さな体は浮かされ、そのまま光る『祠』へと引き摺り込まれていく。

 

「――平太!!」

 

 鴨桜を初め、誰も動くことが出来ない中――ただ一人、誰よりも近くにいた詩希は、平太の脚にしがみ付くようにして、共に『祠』の中へと引きずり込まれる。

 

「だ、駄目だ、詩希! 離れて!!」

「イヤッ!!」

 

 私も、一緒に行く――瞳に涙を一杯に浮かべた詩希に、平太は何も言えず、身動きを封じられて何も出来ず。

 

「――――ッッ!! 平太ッ!!」

 

 ただ、鴨桜に向かって目線で、何かを訴えることしか出来なかった。

 

 そして、化生の前もまた、己を攫おうとする『尾』に対して抵抗のそぶりを見せなかった。

 妖しく微笑みながら――『姉』に向かって、ただ一言だけ。

 

「――先に行きますね。――『お姉ちゃん』」

「――――――ッッッ!!」

 

 そして、平太と詩希と化生の前が、眩く輝く小さな『祠』へと吸い込まれていく。

 

 詩希や平太は兎も角、明らかに成人女性並みの体躯を持つ化生の前は『祠』よりも大きい筈なのに、まるで異次元に吸い込まれるように、あっという間に、その姿を消した。

 

「くっ! どうする!? アンタに巻き付いてるその『尾』も斬り落とした方がいいか!?」

「無駄です。既にこうして対象に届いてしまった『尾』は、例え英雄(あなた)であろう斬れません」

 

 無理に斬ろうとすれば、囚われた対象も傷ついてしまう類の能力だと、羽衣は言う。

 

 舌打ちする京四郎に向かって――覚悟を決めたように、表情を変えた羽衣は、真っ直ぐにその顔を見据えながら言う。

 

「……約束します。いえ、誓います――藤原秀郷(ふじわらのひでさと)殿」

 

 羽衣は、もう託した名だと言われた、その伝説の英雄の名で――平将門を討ち取った英雄の名で、京四郎を呼ぶと。

 

「私が――平将門の『不死』を打ち破ります。……だから、それまで、魔人と戦い続けて下さい」

 

 果たしてどれほど時間が掛かるか分からない。

 その詳細な方法も明かせない。

 

 だが、それでも羽衣は――ただ、託す。

 

 魔人・平将門の相手を――不死身の魔人と戦い続けるという不可能を、成し遂げてくれと。

 

 英雄は――ただ背中を見せて応えた。

 

「――任せろ。俺は、その為にいる」

 

 京四郎はもう振り返らなかった。

 たった一人で、国を揺るがす怪異と対峙する――それこそが己の役割で、今ここにいる存在理由だと言わんばかりに。

 

 そして、そんな英雄と入れ替わるように――羽衣の下へ斑髪の青年が詰め寄った。

 

「おい! 何がどうなってる!? あの尾は!? 平太達はどうなったんだ!!」

「……『祠』の中は、葛の葉の領域となっている神秘郷です。空間の主となった葛の葉の許しがなければ誰も侵入(はい)ることは叶わない」

 

 先程の『尾』は、いわば葛の葉からの強制的な招待状。

 鍵が外され、扉が開いていて、隠蔽が解かれていても尚、葛の葉の許可を与えられたモノ以外は『祠』に触れても神秘郷に入ることは出来ない――それが、神秘郷『山小屋』の侵入条件。

 

「じゃあ、俺達があの『祠』の中に入ることは出来ねぇってことか……ッ?」

「――いいえ。抜け道はあります。先程、詩希さんがそれを、勇気をもって証明してくれました」

 

 羽衣は己を引き摺り込もうとする力に、二本の尾を杭のように地面に突き刺して抵抗しながら言う。

 

「先程の『尾』が許可を与えていたのは、あくまで平太さんでした。しかし、結果として平太さんにしがみ付いた詩希さんも、『祠』の中へと入ることが出来た」

「つまり、許可を与えられたモノと一緒であれば、許可を与えられていないヤツも侵入出来るということじゃな」

 

 ぬらりひょんが羽衣の傍へやって来て言う。

 羽衣は「……ええ」と、ぬらりひょんの方を見ずに――花を咲かせるように、自身の『尾』を広げた。その数は、地面に突き刺している二尾を含めて、先程刃として消費した一尾を除く八尾。

 

「つまり、残る招待券は私に巻き付いている、この『尾』一本です。私と共に『祠』の中へ侵入(はい)りたいという人だけ、その覚悟があるモノだけ、私の『尾』に触れて下さい」

 

 羽衣の両側に立つ、二体の妖怪――否、一体の妖怪と、一体の半妖。

 百鬼夜行総大将ぬらりひょんと、その息子である鴨桜は、額に汗を流す羽衣の言葉に耳を傾ける。

 

「――『祠』の中に飛び込むということは、『化生の前』と『葛の葉』……妖怪王を狙える最上級妖怪を二体、相手にすることになるということです。それも、逃げ場のない、相手の領域たる未知の神秘郷という戦場で。その覚悟があるのなら――」

「うるせぇ。誰にモノを言ってやがる」

 

 羽衣が覚悟を問い詰めきる前に、鴨桜は羽衣の『尾』を乱雑に掴んだ。

 

「俺の仲間(かぞく)が窮地なんだ。ごたごた言ってねぇで、一刻も早くその地獄とやらに連れてけ」

「……そうですね。あなたは、そういう人ですよね」

 

 そういう人で、そういう妖怪ですよね――そう、呆れるような、それでいて微笑むような顔を見せると「――それで? あなたはどうするのですか、お父さん」と、ぬらりひょんの方を向く。

 

「連れていける上限は、お前さんの尾の数かの?」

「……ええ。見ての通り、後七()で満員です」

 

 来るのか来ないのかという話が、あっという間に何体来るのか、誰を置いていくのかの話になっている所に、ああ親子なのだなと羽衣は呆れる。

 

 親子――父と、子。

 

「……………」

 

 羽衣は、一瞬だけ暴れる漆黒の魔人を見据えて――己の心臓の位置を手で押さえて首を振る。

 

「――士弦。お主等はここに残り、鞍馬を怪異京の『姫』の所まで送り届けて欲しいんじゃが」

「……恐れながら。総大将の御命令といえど、平太達を救けに鴨桜が向かうならば、そこに俺達が同行しない理由がありません」

 

 ぬらりひょんの言葉に目を伏せながらも、士弦は、月夜は、雪菜は、総大将の了承を得られるよりも前に、羽衣の尾を掴む。

 

「う~む。羽衣よ。これは、一本の尾に二体以上触れるのはなしかの」

「勘弁してください。七体でも相当に頑張っているんです。これはあくまで裏技なんですから、欲張って全員『祠』に弾き飛ばされても知りませんよ」

 

 そもそも詩希が弾き飛ばされなかったのも、平太と詩希の二体で葛の葉が求める『箱』だと認識されたに過ぎないという可能性もあるのだ。

 

 この裏技が使用できるのも、羽衣の妖力が『祠』の主たる葛の葉の妖力に非常に近しい故の、法則(ルール)の抜け道である。これ以上を求めるのは酷というものだろう。

 

「ふむ、そうじゃな。それでは――」

 

 ぬらりひょんは、そう呟きながら自分もあっさりと尾を掴み、最終決戦への参加権をもぎ取りながら――自らが絶大な信頼を置く幹部らに目を向ける。

 

「犬神、白夜、長谷川、一緒に来い――鞍馬と紅雀(べにすずめ)は留守番じゃ。さっさと怪異京(いえ)に帰れ。そんで、儂らの凱旋を待っとれ」

 

 了解――と、犬神と白夜と長谷川は、共に死ねと言っているに等しい地獄への片道乗車券ともいえる羽衣の『尾』を、何の躊躇もなく握って見せる。

 

 紅雀も「りょうかいです!」と敬礼して、そのまま動けない鞍馬の背後に回り、自分が持つそれよりも遥かに大きい羽を掴む。

 

 そして、この中で最も百鬼夜行歴が浅い鞍馬だけが「ま、待ってください、総大将!」と異を唱えるも――『尾』を握っていない方の手で持ったドスの柄を、ぬらりひょんは鞍馬の額に結構強めに叩き付ける。

 

「阿呆。今のお主が来たところで足手纏い以外の何物でもない。驕るな、新参者が」

「…………」

「忘れるな。()()()()()()()()()()。……儂のモノになった以上、その命を無駄にすることは許さん。――案ずるな。お主は初めてじゃろうが、怪異京も、『(儂の嫁)』も、いい場所で、いい女じゃ。必ずやお主も気に入るわい」

 

 じゃから、頼むぞ――そう言って、ぬらりひょんは鞍馬の肩に手を置く。

 

 鞍馬は「……御意。我が主」と、俯き、震えながら口にして、そのまま紅雀に吊られるがままにして、一反木綿の上に戻り、そのまま彼方へ飛び去って行った。

 

「さて――では、行こうかの」

 

 ぬらりひょんは、士弦を、月夜を、雪菜を、犬神を、白夜を、長谷川を眺めて――そして、鴨桜に目を向ける。

 

 そして羽衣は、京四郎へと目線を送った。

 

 今やたった一人で魔人を相手取る英雄は、羽衣達に目を向けることなく――ただ小さく、微笑んでみせる。

 

 羽衣は、そんな偉大なる英雄に背を向けて、地面に突き刺していた二本の『尾』を外す。

 

「――行きましょう。これが――最後の戦いです」

 

 固定(アンカー)を外した瞬間、狐と、狐の尾に捕まっていた八体の妖怪達は、そのまま渦の中に吸い込まれるように、『祠』の中へと突入した。

 

 こうして、一本の巨大な木の前には、光り輝く『祠』を背に――二人の黒い男が向かい合うのみとなった。

 

 漆黒の炎を振り撒く魔人――平将門。

 

 黄金の太刀を担ぐ英雄――京四郎――藤原秀郷。

 

「――さて。やっと、二人きりになれたな」

 

 今度は、正真正銘の一対一。

 かつてのように三人目を隠して配置したりしていない――念願の、二人きり。

 

 京四郎は、俺が言うのも何だが――と、前置き、黄金の太刀の切っ先を向ける。

 

「今度こそだ。あの時の続きをしよう。――百年も掛かって、本当に悪かった。……俺が、お前を終わらせてやる」

 

 今度こそ――今度こそだ。

 

 そう言って、京四郎は、不死身の魔人に向かって宣言する。

 

「俺がお前を殺してやる――今度こそ、しっかりとな」

 

 魔人もその英雄の宣言に対して、愛する女の名を咆哮したりしなかった。

 

 黒炎を以ても殺しきれない英雄(おとこ)を前に、目の前に迫る愛する女との逢瀬を阻む戦士(おとこ)を前に。

 

 遂に愛に燃えるばかりでなく、意識を――人間性を、取り戻したかのように。

 

 目の前の宿敵に向けて、魔人もまた、真っ黒な殺意を以て宣言する。

 

「――――コロス」

 

 英雄は笑い、魔人は吠える。

 

 そして、漆黒と黄金が激突する。

 

 百年の時を越えて、伝説は――繰り返される。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 小さな『山小屋』の前に、真っ白な老婆が立っていた。

 

 それは、不死を失い、時の流れに逆らえなくなった筈の生命。

 封印が解かれ、再び時が流れるようになった世界で、死を迎える目前の儚い生命。

 

 この国に三体しかいない『真なる外来種』が一体――『(くず)()』。

 

 だが、死に掛けて尚、死に瀕して尚――その凄まじい、空間を揺るがすような妖力は、健在だった。

 

「――あらあら。愛する人の匂いにつられて覚醒し(目覚め)てみれば、生んだ覚えのない娘がいるなんて。ところであなたは何者かしら?」

 

 私の『力』を返してくれないかしら――そう言って、殺意を膨れ上がらせる狐に。

 

 向かい合う狐は、まるで複製品(クローン)のように、瓜二つの、()()()()()()は。

 

「あなたが勝手に生んでおいて、ひどい母親がいたものだわ。まぁ、親がいなくても子供は勝手に育つモノ――私がいらない子ならば、あなたはもう用済みの母なのよ」

 

 愛する男との再会目前で、大変心苦しいのだけれど――そう前置き、化生の前は、笑顔で言った。

 

「――死んでくれないかしら。その残り少ない寿命も含めて、『葛の葉(あなた)』の全部を、『化生の前(わたし)』がいただくわ、『お母さん』」

 

 殺意の篭った狐の笑みを、殺意の詰まった狐の笑みが受け止める。

 

 空間が震える。

 妖怪・『葛の葉』が作り出した神秘郷が、領域の主の感情に呼応するように。

 

 平太は『山小屋』の陰で、詩希を抱き締めながら、空間と同じように震えることしか出来なかった。

 

 そして、二体の狐が――母と娘が激突する。

 

 我こそが『葛の葉』だと――自らを傷付け合うように。

 




用語解説コーナー73

・祠

 妖怪『葛の葉』が創り出した神秘郷『山小屋』の入口であり、鍵。

 神秘郷の主たる葛の葉が認めたモノ以外を弾き飛ばし、その存在を隠匿する結界の基点でもある。

 実際の大きさとしては高さ1m程の小さなそれだが、招待を受けたモノは、まるで祠に吸い込まれるようにして、神秘郷への侵入を果たすことになる。

 また、あくまでその招待方法は、神秘郷に封印が施された状態で、葛の葉が強引に招く際の方法であり、かつて封印が施される前、神秘郷のセキュリティがあくまで結界による隠匿であった頃は、あくまで祠は結界の基点でしかなかった。
 その為、平将門は『祠』の存在や役割については知識とは知らず、あくまで本能で葛の葉の気配を感じ取って、その『祠』に向かって猛進している。


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妖怪星人編――74 赤と黒の告白

それはきっと――紛れもない、愛の形だった。


 

 初めてその鬼に出遭ったのは、坂田金時(さかたきんとき)が平安京に足を踏み入れて間もない頃だ。

 

 母親を殺した人間に連れられて、妖怪だらけの足柄山を下りて、足を踏み入れる初めての人里は、金時にとっては――はっきり言って、居心地が悪い場所だった。

 

 暖かすぎて――気持ち悪い。

 誰も彼もが、熊の一薙ぎでぐちゃぐちゃになってしまいそうな程に脆いのが一目で分かるのに、そんな熊をぐちゃぐちゃにすることが出来る金時に、何の警戒心も抱かずに笑顔を向けて近付いてくる。

 

 特に――子供だ。

 金時にとっては、それは硝子細工(がらすざいく)よりも脆く繊細で。こんな自分が触れていいのかも分からない程に柔いのに――彼等はその暖かい生命そのままに、金時の丸太のような脚に無邪気に抱き着いてくる。

 

 初めてのものばかりだった。

 温かい食事、温かい湯――暖かい笑顔、暖かい空気。

 

 肌に合わない。

 居心地が良すぎて、居心地が悪い。

 

 こんな肌に合わぬ暖かさを、どのような顔で享受すればいいのか分からず――いつも心に疎外感が巣食っていた。

 

 そんな時だ。

 夜間の見回り任務に積極的に志願し、昼間に出歩くことを控えるようになった――ある日のことだ。

 

 金時は鬼に出遭った。

 

 それは黄金の瞳を持つ少女だった。

 

 夜の闇の中でぽっかりと浮かぶように存在するそれに――金時は奪われた。

 

 目も、心も――ひょっとしたら、何もかも。

 

 生まれて初めて――恋をした。

 

 これが、坂田金時(さかたきんとき)酒吞童子(しゅてんどうじ)の出遭いだった。

 

 決して出遭ってはならなかった――鬼と人の邂逅だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黒い風が吹き抜ける。

 少女の身体の周りを渦巻く妖力が、小さな手で縫い留められている大男の身体に――容赦なく浴びせかけられる。

 

「ぐっ――――ァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 強靭な膂力や無限の再生力などは、酒吞童子という鬼の基本状態(ステータス)でしかない。

 彼女がその身を黒く染め、ただ垂れ流すだけの妖力に色を付けてこそ――黒色に染めてこそ、初めて彼女が、目の前の存在を敵と認め、戦闘状態に入ったと言える。

 

 酒吞童子の黒風(こくふう)

 それは全てを(おか)す猛毒の嵐。余りに強過ぎる彼女の妖力は、その真価を発揮したら最後、森羅万象に死を齎す漆黒の嵐となる。

 

(――――くっ――逃げられねぇ!!?)

 

 至近距離から黒風を浴びる金時は、当然逃げようとする――が、その小さな手で、鉞の柄と共に掴まれた右手が、どれだけ剛力を発揮してもピクリとも剥がせない。

 

 その少女の手を――振り解くことが出来ない。

 

「…………」

「クソがぁぁぁぁアアアアアアアアア!!!」

 

 金時は全身を赤雷で包む。

 己の身を灼くことを覚悟で纏った赤雷の鎧は、毒の風から身を守るのと同時に、己を掴む酒吞童子の手を剥がす為でもあった。

 

 だが――酒吞童子は赤雷を浴びながらもその手を離さず、逆に黒風の勢いを強め、赤雷の鎧を突き破って、未だ人間である左半身を蝕もうとしてくる。

 

 逃げなければ。離れなければ。

 

 此処にいては死んでしまう――酒吞童子から、離れなければ。

 

「――――ッ!!」

 

 全身が黒く染まり、金から赤へと変わった少女の瞳が、真っ直ぐに金時を見詰める。

 

 逃げなければ。離れなければ。()けなければ。

 

 これは――――()だ。

 

「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 金時が渾身の力で吼える。

 とにかく遠くへ、少しでも遠くへ。

 

 ここから――遠くへ。

 

 その切実な思いが――金時の背中に、翼を生やした。

 

 赤緋(せきひ)の両翼。

 ごつごつとした鱗に覆われた――龍の翼が、その背から飛び出した。

 

 全てを遠ざけるように、強く、大きく、羽搏かせる。

 

「…………っ」

 

 黒い風が金時から酒吞童子へと吹き荒れる。

 思わず目を瞑ってしまった酒吞童子は、金時の右手と鉞の柄を握る手を、少しだけ緩めてしまった。

 

「あ――」

 

 か細い少女の声が漏れる。

 金時は、酒吞童子の手を振り払い、鉞を手放しながらも――そのまま空高く距離を取る。

 

「――――」

 

 ズキンっと、左胸が痛む。

 見れば、そこは毒が付着していたが――まるで無理矢理に蓋をするように、赤い龍の鱗が上から覆っていく。

 

 翼が生え、心臓も龍となり――また一つ、人間を捨てていく。

 

(ああ――――――醜い)

 

 何とも醜悪な、中途半端な姿だ。

 右半身も、左胸も、尾も翼も生やしておきながら、未だ見苦しく人間の姿を残している。

 

 己の左手を握り締めながら、金時は地上を見下ろした。

 

 そこでは、黒風が渦を巻いていた。

 英雄としての(ほこり)も手放し、少女(ばけもの)を拒絶しておきながら怪物の翼を生やしてまで逃げようとした臆病者を、今度こそ逃がすまいと、真っ赤な双眼で真っ直ぐに見据えながら。

 

 鬼は、死の嵐を育てる。

 ぐるぐると、ぐるぐると、その出力をみるみると上昇させていく。

 

 金時は、そんな黒嵐に対抗するように、龍の右手を砲台のように構えて。

 

「――――うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 特大の赤雷を放つ。

 それは一直線に夜闇を走り、酒吞童子に向かって降り注ぐ――が。

 

 赤い龍の息吹が、黒い嵐に喰われていく。

 

 迸る赤雷が、金時の中の怪物が――それ以上の怪物によって、呑み込まれていく。

 

 右半身が龍。左半身が人。

 そんな醜悪な怪物が放つ異能が――真っ黒な嵐に、呑み込まれていく。

 

(ああ――――)

 

 金時は見る。

 黒い嵐の中心からこちらを覗く、真っ赤な瞳を。

 

 全身が純黒に染まった、一片の濁りもない――小さな鬼を。

 

(―――――綺麗だなぁ)

 

 それは、まるで、あの時のように――目を、心を、全てを奪われながら。

 

 赤い雷は押し返されて、金時は黒い風に呑み込まれていく。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その少女と触れ合ったのは、ほんの数回程度だった。

 

 酒吞童子が妖力操作を出来ない鬼だと判明したのは、それから数年先の未来でのことだった。

 しかし、少年戦士と少女鬼が出遭ったこの時期に限っては、茨木童子が周囲に膨大な影響を与える酒吞童子の妖力の垂れ流しを何とかする為に、必死に妖力操作を教え込んだ結果――無理矢理に抑えようとして、結果として一時的に零になってしまっていた期間であったらしい。

 

 つまり、この時の酒吞童子は、何の妖力も持たない、正しく只の少女だった。

 だからこそ、あの頃は罅もなく健在だった平安京の周囲を囲む結界をすり抜けることが出来た。

 

 あくまで無理矢理に力任せに抑え込んでいただけで、整理整頓を出来ない幼子がおもちゃ箱に無理矢理に中身を詰め込んだまま強引に蓋を締めたような状態であり、遠からず内に暴発することになるのだが――それこそが、坂田金時と酒吞童子の儚い時間の終わりとなるのだが、それまでのほんの数日間は、正しく金時にとっては夢のような時間だった。

 

 生まれて初めて恋した少女との逢瀬の日々。

 自分でもどうしてここまで心惹かれるのか分からなかったが――金時は幸せだった。

 

 彼女と話す何気ない一言が、無口で無感情な彼女が時折くれる小さな一言が、金時の胸を容易く燃やした。

 

 彼女の言葉が、彼女の仕草が、彼女の微笑が、彼女の存在が――金時に途轍もない、安心感を与えてくれたのだ。

 

「――――」

 

 分かっていた。

 本当は、分かっていた。

 

 目と目が合った瞬間――すぐに気付いていた。

 

 ()()()――()()()()()()

 

 妖力は全く感じない。只の少女――――違う。

 

 分かっていた。本当は分かっていた。

 

 ()()()()()――自分は彼女に心を奪われたのだと。

 

 違うからこそ、異なるからこそ――自分と、同じであるからこそ。

 

 坂田金時と同じ、誰とも違う、何とも異なる存在だからこそ。

 

 こんなにも――安心し、心惹かれるのだと、分かっていた。

 

 

 だから――いつか。

 

 こんな日が来るとも――分かっていた。

 

 その日、平安京の片隅で、突如として信じられない程に膨大な妖力が出現した。

 

 そこは金時がいつも少女と逢瀬を重ねていた場所で、息を切らしながら源頼光(みなもとのらいこう)と共にそこに向かうと――。

 

 

 少女は人間を食べていた。

 

 

「え――――」

 

 それが、全てが終わった瞬間だった。

 

 少女としては、蓋が外れ、急激に膨れ上がった妖力の反動で――お腹が空いて、手近にあった人間の子供(しょくりょう)をつまみ食いした、その程度の認識だった。

 

 何かが少し違えば、自分も()()なっていた筈だと、当時の金時は冷静に思った。

 

 金時自身も――酒吞童子と同じように。

 自分と違う、自分と異なる、自分よりも遥かに脆く、遥かに柔く、遥かに弱い、人間という生物を――こんな風に、生命とすら思わず、無感情に踏み躙るようになっていたとしても、何もおかしくなかった。

 

 だから、人間を食べる彼女に、この時の金時は怒りを全く覚えず。

 

 ただ――ただ、悲しかった。

 

「…………」

「あ。金時!」

 

 真っ赤に染まった口元で、酒吞童子は金時に微笑みかけた。

 横にいる頼光など視界にまるで入ってすらいない。

 

 だから、酒吞童子の伸ばされた手を、頼光が斬り落とした時――酒吞童子は、金時に拒絶されたと思っただろう。

 

 金時も反射的に手を伸ばした。

 信じられないという顔をした酒吞に、違うのだと叫びそうになった。

 

 それでも――。

 

――英雄になりなさい。

 

 分かっていた。

 母の言葉に従うならば。母の願いを叶えるのならば。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだということを。

 

「……………………ッッッッッッッ!!!!!!」

 

 金時の中に、幼き時から刻まれた母の言葉と、平安京で共に過ごした子供達の笑顔が蘇る。

 

 戸惑ったけれど、それでも――あの己の身を焼くような暖かさを、捨てることも出来なくて。

 

 向けられた優しさが、与えられた信頼が、贈ってくれた感謝が、振り撒かれた笑顔が。

 

「――――――――――ごめん、酒吞(しゅてん)…………っっ!」

 

 酒吞童子にとっては食糧でも、坂田金時にはもう――人間を、異なる生命とは、思えなくなっていた。

 

 無表情に、無感情に――踏み躙るものでは、なくなっていた。

 

 だから――ゴメンと、そう言って。

 

 坂田金時は失恋した。

 

 伸ばされた酒吞童子の手を掴めずに、代わりに拳を、彼女にぶつけた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だから、これは――――その報いなのかもしれないと、金時は思う。

 

「――――――――」

 

 黒い嵐に全身が呑み込まれる。

 

 赤雷の鎧で全身を包み込んだが――それでも、少しずつ、毒が鎧を突き破って、金時の身体を侵食していく。

 

(結局、俺が酒吞を拒んだのは――我が身可愛さだった。只の巡り合わせで、既に受けれ入れてくれる環境があった俺と……未だ孤独のままだったお前。……何かが違えば、立場は逆だったのかもしれないのに)

 

 それでも、坂田金時は酒吞童子を拒んだ。

 

 あの時――金時に拳を向けられた時の酒吞童子の表情を、金時は今日に至るまで忘れたことはなかった。

 

(どうすればよかった? あの時、頼光の大将に背を向けて、お前の手を取って、二人で逃げればよかったのか? 日ノ本全部を敵に回して――俺達二人で。お互い、ただ一人だけの理解者を抱えて……)

 

 金時は笑う。

 この期に及んで、それも楽しそうだとか思ってしまう、救いようのない人物(おとこ)に心の底から反吐が出る。

 

(――――泣いてる女の子一人救えなかった奴が――英雄になんて、なれるわけがなかったんだ)

 

 結局、みんなを不幸にした。

 

 源頼光も死んで、平安京も救えず、酒吞童子も――――ああ、と。

 

 金時は、黒い嵐の中で目を瞑る。

 

 

 出遭わなければ、よかったんだ――。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――出逢わなければ、よかったんだ。

 

 金時は、十年前の大江山で、そう、滂沱の涙を流しながら悔いた。

 

 大江山の鬼退治。

 酒吞童子が結集させた全国津々浦々の鬼達が住まう御山への強襲作戦。

 

 その御山の中層で、坂田金時は酒吞童子に完敗を喫した。

 

 まるで待ち伏せるように、頂上にいる筈の酒吞童子は金時の前に現れて――けれど、当然ながら、久しぶりの再会に笑顔など向けてくれる筈はなくて。

 

 金時は結局、確固たる決意を持てぬまま戦い――徹底的に打ちのめされた。

 

 手も足も出なかった。

 身動きも取れない程に痛めつけられ、ただ天を仰ぐことしかできない金時に、小さな鬼は、その金時の髪と同じ色の瞳を――金時の蒼いそれに、グイッと近付けて。

 

「金時――――私のものになって」

 

 そう――愛の告白を贈った。

 

 金時は、その告白に。

 

 身動きも取れず、ただただ――無様に。

 

 

「――――――」

 

 

 酒吞童子は、その返答に。

 

「…………そう」

 

 ただ小さく――何の感情も込めずに返して。

 

 もはや金時のことなど振り返りもせずに、動けない金時を放置したまま、本来の自分の居場所である大江山の頂上へと向かう。

 

 金時は――ただただ惨めで、情けなく、滂沱の涙を拭うことすら出来ずに。

 

――出逢わなければ、よかったんだ。

 

 出遭わなければ――こんな思いをすることはなかった。

 

 出逢わなければ――あんな顔をさせることはなかったのに。

 

 中途半端だ――本当に中途半端だ、坂田金時という男は。

 

 確固たる決意もなく鉞の切っ先を向けた。揺るぎない決意を以て拒絶したわけでもない。

 

 そして、今――自分は、殺されなかったことに、あろうことか、安堵までしている。

 

「…………ふざけるな…………ッ!!」

 

 ふざけるな――ふざけるな。

 

 こんな様でいい筈がない。

 こんな有様で、こんな無様で、英雄になどなれるわけがない。

 

 金時は、そう涙を流しながら己を叱咤して、這いつくばりながら、立ち上がりも出来ないままに、這う這うの体で――山を登る。

 

 そして――遂に辿り着いた頂上。

 

 大江山の頂上決戦を目撃した時――金時は。

 

「―――――――」

 

 倒れゆく頼光を。微笑む綱を。吠える茨木童子を――ただ、見ていることしか出来なくて。

 

 そして――――そして。

 

 そこには――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――――ッッッ!!!」

 

 胸に宿ったのは――どうしようもない、嫉妬だった。

 

 恩人たる頼光を殺された憎しみはあった。

 何も出来ずにただ見ているだけだった己へと怒りなど凄まじかった。

 

 それでも――嘘は吐けない。

 

 己の中を満たした感情は。己の中をぐちゃぐちゃに暴れ狂った激情は。

 

 自分には見せなかった顔を見せる酒吞童子と。

 その表情を、そんな酒吞童子を引き出した――至高の領域に立つ戦士達だった。

 

 今の自分では辿り着けない場所で、酒吞童子と戦っている戦士がいる。

 

 未来の自分でも辿り着けないかもしれない領域で、自分よりも、酒吞童子と分かり合えている存在がいる。

 

 そんな、突き付けられた現実に――どうしようもなく、嫉妬した。

 

(ああ――――そうだ。嫉妬だ)

 

 あれから十年が経ち、金時はようやく、それを受け入れることが出来た。

 

(俺は――誰よりも酒吞童子を分かっている存在でありたかった)

 

 なんと醜悪な願望か。

 

 自分でその手を振り払っておいて、拒絶しておいて、それでも尚――自分が最も近い存在でありたいなんて。

 

 悍ましく――禍々しい。

 この世の誰よりも醜い化物だ。

 

(そんな奴が、あろうことか――英雄だと。我ながらなんて気持ち悪いんだ、反吐が出る)

 

 ああ――それでも、もう、逃げることは出来ない。

 

 逃げて、逃げて、逃げて。

 目を逸らして、見て見ぬふりをして――けれど、もう、逃げることは出来なくなった。

 

 ならば――向き合おう。

 

(俺は――強くなりたい。強くなって、誰よりも酒吞童子の近くに行きたい。それが俺の醜悪な我欲だ)

 

 だから――坂田金時は、笑ってみせる。

 

 俺は、それでも――人間なのだと。

 

 例えどこまで至ろうとも――(ここ)が人間である限り、己は人間なんだと胸を張ると決めたのだから。

 

(だから――――もう、いいよな)

 

 強くなったね――金時。

 

 酒吞童子は、そう笑ってくれたじゃないか。

 

 だから――例え、どんな風になろうとも、どこまでも深く堕ちようととも。

 

「本当に……待たせたな、酒吞」

 

 こんなにも女々しい男でごめんな。どこまでも中途半端でごめんな。

 

 十年以上も掛かったけれど――俺も、そこまで、辿り着くから。

 

 

(――――お前のことが、好きだ。酒吞(しゅてん))

 

 

 だから――俺は。

 

 酒吞童子(だいすきなおまえ)を――殺すんだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その時――黒い嵐の中に、天から巨大な赤い雷が落ちた。

 

 小さな少女鬼は、黒い嵐の中でそれを見る。

 

「…………っ」

 

 ぶるりと、震える。

 

 それは、少女の永い生涯において初めての感覚だった。

 

 恐怖なのか――それとも、歓喜なのか。

 

 酒吞童子は、その時。

 

 己が――笑っていることに気付いた。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 黒い嵐が砕け散り――赤い龍が顕現した。

 

 右半身だけではない。尾だけではない。翼だけではない。

 

 それは、牙があり、角が生え、蛇のように長い体の全身が鱗に覆われていた。

 

 天に向かって放たれる咆哮は赤雷の豪雨を降らせ――ただ一点を。

 

 赤い龍は――酒吞童子だけを見据えている。

 

「は――はは――ははは――――はははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」

 

 酒吞童子は、笑う――笑う――笑う笑う――笑う笑う笑う。

 

 生まれて初めて、腹の底から大声で笑う。

 

「金時――金時金時――金時金時金時金時金時―――――!!!!!!」

 

 男の名を叫ぶ。

 

 変わり果てた男を。生まれ変わった男を。

 

 本性を――正体を――遂に露わにした、愛する男の名を叫ぶ。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 最早、人としての言葉を忘れたかのように、赤龍は再び咆哮し――巨大な雷柱を、酒吞童子に向かって振り下ろした。

 

 酒吞童子は、回避することなく、ただ己の細い肩に――鋭い爪を食い込ませて、笑う。

 

「ああ――――わたしも――――――――きんときと―――――いっしょに」

 

 少女の小さな祈るような言葉は、赤雷に呑み込まれて消えて。

 

 そして――少女も、男に続くように正体を露わにする。

 

「GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!」

 

 赤い雷の柱を食い破るように顕現したのは――八つの頭を持つ大蛇だった。

 

 赤い龍と八つ頭の蛇が、赤き雷と黒き嵐が吹き荒れる戦場で向かい合う。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

「GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!」

 

 正体を明かし、本性を剥き出しにする、二体の龍は――この国でたったひとりの同胞を前に、ただ殺意を剥き出しにして殺し合う。

 

 それはきっと、ふたりだけにしか理解できない世界で――紛れもない、愛の形だった。

 




用語解説コーナー74

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)

 日本の神話に登場する、八首の大蛇の怪物。
 
 八つの頭と八つの尾を持つ龍。目は赤く、腹には血が滴っていて、八つの谷と八つの峰を跨る程に巨大であるとされている。どんだけ。

 出雲の斐伊川にて、毎年ひとりずつ美しい娘を生贄として捧げさせていたが、酒吞みという弱点をスサノオに見抜かれて罠に嵌められ、全ての首を斬り落とされる。

 この時、切り落とされた尾からスサノオが手に入れた剣が、かの有名な『天叢雲剣』である。

 酒に酔って奸計によって英雄に退治されるというエピソードが酒吞童子と似通っているが――山神であり水神である八岐大蛇と人間の娘の間に生まれた子供が酒吞童子だという伝説が存在する。

 この世界では、酒吞童子の正体こそが八岐大蛇であった訳だが――。

 その伝説を語る為には、時は遥か昔へと遡る――。


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妖怪星人編――75 少女の笑顔

――お前が笑ってくれたのは、あの時だけだったな。


 

 茨木童子が初めて彼女と出逢ったのは、この世のものとは思えない、神話のような戦場だった。

 

「………………何だ、これは」

 

 これまで周囲から突然変異種と呼ばれて畏れられ、どんな妖怪と殴り合っても負け知らずであった茨木童子(いばらきどうじ)ですら、己の目を疑う光景だった。

 

 八つ頭の大蛇と、八つ頭の大蛇が殺し合っていたのだ。

 

(――八岐大蛇(ヤマタノオロチ)。今や妖怪界に置いてですら伝説扱いの怪物。……二体いるなんて、伝説ですら聞いたことがないが)

 

 こうして、他でもない自分自身の眼で見た光景でなければ一笑に付して終わりだっただろう。

 

 そもそもかの茨木童子ですら、二頭の激突の余波だけで辺り一面の何もかもを吹き飛ばす戦場を、離れた場所から傍観するだけで精一杯なのだから、並大抵の妖怪では目撃することすら出来ないだろうが。

 

「――――っっ!!」

 

 突然変異種たる赤鬼が、己の眼を開くことのみに奮闘しながら傍観していた戦争は――やがて劇的な決着を迎えた。

 

 一頭の龍がもう一方の八つの頭を全て噛み砕き、問答無用で殺し伏したのだ。

 

(――勝負あり、か。結局、何がなんだか分からなかったが……凄まじいものが見れたな)

 

 慢心していたわけではない――が、日ノ本は広い、上には上がいると、気が引き締まる思いだった。

 これまで己に匹敵する妖怪すら見たことがなかったが、こうして神話級の怪物同士の決闘を目撃出来たのだ。

 

 強さを追い求める武者修行の旅としては最高の経験(みやげ)が出来たが、流石の赤鬼もまさか八岐大蛇(ヤマタノオロチ)に勝てるなどと思い上がっているわけではない。

 見つからない内に退散しようと、茨木童子は戦場を後にしようとして――。

 

「――――ん?」

 

 決闘が終わった戦場にて、勝ち残った八岐大蛇が突如――動かなくなった。

 

 まさか相打ちかと、茨木童子が足を止めて戦場を覗き込む――と。

 

「――――ッッ!!」

 

 八岐大蛇の胴体部分から――可憐な少女が飛び出した。

 

 あれほど巨大であった八岐大蛇の身体が、その飛び出した裸身の少女に吸い込まれていく。

 

 美しい体の少女だった。

 凹凸はなく、手足も細い。まるで病弱な娘のようだが、その体皮は濡れているかのように輝いていて。

 

 パチっと、黄金色の瞳を開ける。

 

 それは、遠くの崖上から決闘を目撃していた――茨木童子に向けられていて。

 

「………………だれ?」

 

 距離は離れている筈なのに、その小さな呟くような声はしっかりと届いた。

 

 だが、茨木童子はそれを言葉として聞き取れなかった。

 それは少女が茨木童子が理解出来る言語を話していなかったから――ではなく。

 

「………………ッッ!!」

 

 ただただ――その少女の美しさ、可憐さに、息を吞む程、思わず思考が真っ赤に染まる程に、見惚れていたからだった。

 

 これが、茨木童子という鬼を変えた――あるいは妖怪の、もしかしたら日ノ本をも変えたかもしれない出逢い。

 

 歴史の転換点――運命の出遭いだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんな、最早どれだけ昔のことであるかも忘れた邂逅を、茨木童子は柄にもなく思い返す。

 

 今は、一瞬の思考のずれも許されない、極限の戦闘の最中であるというのに。

 

 一条戻橋(いちじょうもどりばし)の上で閃光がぶつかり合う。

 黄金と白銀。

 茨木童子の『右腕』と、渡辺綱の『鬼切』が、夜闇に絵画を描くように軌跡を残す。

 

「やるな――茨木。期待はしていたが、まさかここまでとは思わなかった」

 

 綱の言葉に、茨木童子は舌打ちだけを返す。

 そんな茨木童子に、綱は尚も楽しそうに、神速で刃を振るいながら言葉を重ねる。

 

「晴明殿の式神として過ごした十年間は、しっかりとお前の成長に繋がったようだな。十年前の大江山の時よりも、お前は遥かに強くなっているぞ」

「――――ッッ!!!」

 

 茨木童子が、より強く右腕を振るい、鬼切を弾く。

 

 十年――十年間。

 

 永き年月を過ごす鬼にとって十年間など、瞬きに満たない時間なのかもしれない。

 数百年の停滞の時を過ごしながら、たった十年間でこれほどまでに強くなれてよかったなと、綱はそんな意味で宣ったのかもしれない。

 

「――ふざけんじゃねぇ」

 

 そんな言葉に、茨木童子はそう返す。

 

 確かに――茨木童子は強くなった。

 十二神将『勾陳(こうちん)』として、安倍晴明によって放り込まれた数々の修羅場は、大江山四天王として部下に指示を出す立場だった頃とは計り知れない戦闘経験を茨木童子に与えた。

 

 至高の領域へ辿り着き、これ以上は強くなれないだろうと、漠然と頂上を見た気でいた茨木童子に、更なる一歩の踏み出しを与えた。

 

 こうしている今、あの渡辺綱(わたなべのつな)と、『右腕』一本で戦えていることが、その何よりの証拠だ。

 

 鬼を殺す概念武装とも言える『鬼切』を弾ける手段を得たとはいえ、それはあくまで『右腕』のみ。それ以外の箇所に刃を入れられたら、茨木童子の屈強な躰は容易く豆腐のように切り刻まれる。

 

 故に、茨木童子は右腕一本で戦うしかない。

 それこそ、己の右腕を刀のように見立てて、目の前で笑う日ノ本一の剣豪と剣戟を交わさなくてはならないのだ。

 

 十年前ならば、既に敗北していただろう。

 安倍晴明の式神として、十二神将『勾陳』として過ごした十年間が、この瞬間の呼吸を茨木童子に許しているといってもいい。

 

 だが――その十年間は。

 

 茨木童子が酒吞童子との誓いを破り、その傍を離れた――許されざる十年でもあるのだ。

 

「お前が――お前と安倍晴明が与えたこの十年が俺に与えたものは!! この煮えたぎる憎悪と憤怒だけだ!! 『鬼殺し』!!!」

 

 黄金の右腕を振るいながら、それでも脳裏に蘇るのは、やはり――あの頃の光景。

 

 ひょんなことから共に行動をすることになった――否、どうしても傍に居たくて、少女の傍に付き纏っていた、あの頃。

 

(酒吞(しゅてん)――お前にとって、あの頃の俺は、なんか付いてくる変な奴って認識しかなかっただろうな。……あの頃のお前は、今以上に妖力操作が下手糞で……それこそ、あの頃のお前が垂れ流していた妖力に耐えられて、傍にいることが出来る奴なんざ、日ノ本中を探しても俺しかいなかっただろうから)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だから、いつも――ふたりきりだった。

 

 あの八岐大蛇のような神話の怪物など滅多に存在しない為、誰も彼女が歩く場所には近付けなかった。

 

 故に、茨木童子は――ずっと、少女を観ていた。

 無口な彼女に頻繁に話し掛けてみるが、誰かと共にいるということに、己に話し掛けられるということに、そもそも慣れていないのか、その殆どに返答はなかったが。

 

 それでも、偶に返してくれる小さな小さな呟きに、茨木童子は胸を締め付けられるような熱さを感じた。

 

 少女は――強かった。余りにも、強過ぎる程に。

 少女は――美しかった。余りにも、美し過ぎる程に。

 少女は――完璧だった。余りにも、完璧過ぎる程に。

 

 そして、少女は――――孤独だった。

 まるで生まれる星を間違えたが如く、少女の周辺はぽっかりと浮いていて、生きる世界が異なっているかのようだった。

 

 茨木童子は――それが、本当に、苦しくて。

 

――お前は、どこから来たんだ?

 

 ある日――そんな、馬鹿なことを聞いた。

 

――分からない。

 

 少女は、本当に長い時間を空けて、茨木童子の方を見ることもせずに、ぽつりと、誰よりも己に向けているかのような呟きを漏らした。

 

 分からない――本当に、少女は何も分からないようだった。

 

 どうして、みんな、そんなに弱いのか。

 どうして、みんな、そんなに醜いのか。

 どうして、みんな、そんなに――不安定なのか。

 

――私は……みんなとは、違うから。

 

 少女は何でも持っていた。

 

 みんなが持っていない強さも、美しさも、何もかもを持っていて。

 

 だから――少女は、ひとりぼっちに呟いた。

 

――私には……何にもない。

 

 そんな、世界からぽっかりと浮いているような、無表情に、無感情に呟く少女が。

 

 茨木童子には、まるで――わんわんとひとりぼっちで泣いている幼子かのように見えて。

 

――お前は酒が好きだろ。

 

 茨木童子は、そう言って少女に瓢箪を渡す。

 

 少女の気を引きたくて、色んな言葉を投げ掛けた。

 少女のご機嫌が取りたくて、色んな食べ物、色んな飲み物も与えて――その殆どが塩対応だったけれど。

 

 唯一、酒だけはお気に召したようで、少女の顔が輝いたことが、何よりも嬉しくて覚えていた。

 

 それだけじゃない。

 朝が弱いことも知っている。

 食べ物に好き嫌いはないけれど、量は凄まじく食べることも知っている。

 

 戦いは好きじゃないことも知っている。

 

 そして――ひとりが寂しいって、思っていることも知っている。

 

――ほら、何もなくねぇじゃねか。

 

 茨木童子は少女の頭を撫でる。

 

 少女は無表情で、無感情に見えるけど――違う。

 

 つまらないって思うし、つまらないって顔をする。

 寂しいって思うし、寂しいって顔をする。

 

 酒を呑んで、美味しいって思うし――美味しいって、顔を輝かせるし。

 

 お前よりもずっと弱い――俺の手を、振り払わないでいてくれる。

 

――お前に名がないっていうんなら、俺がやる。お前は今日から、酒吞童子(しゅてんどうじ)だ。

 

 露骨に自分にちなんだ名を付けながら、茨木童子は少女に笑いかけた。

 

――お前に縁がないっていうんなら、俺がやる。お前は今日から、俺の『家族』だ。

 

 茨木童子は宣う。

 

 たくさんの同胞が集まる家族――日ノ本で一番の家族を作ってやると。

 

――お前は日ノ本最強の鬼、酒吞童子だ。

――…………鬼?

――そうだ。お前には立派な角がある。誰よりも強い力がある。ならお前は、誰が何と言おうと立派な鬼だ。

 

 八つ頭の大蛇になれるとかは関係ない。

 鬼の条件は、何よりもその強さだと。

 

 そして、誰よりも強い少女は、この国の鬼の頭領(かしら)になれると――茨木童子は語る。

 

――みんな、お前の(もと)に集まるんだ。

 

 鬼の頭領になれ、と、茨木童子は言う。

 そうすれば、お前はいつでも――ひとりじゃない。

 

 お前の下に集まった、その全ての鬼が、お前の家族だと。

 

 少女は、そう熱く語る赤鬼に、くりっとした大きな瞳を向けながら、首を傾げて問い掛ける。

 

――なら、茨木(いばらき)は?

 

 少女が茨木童子の名前を呼んでくれたのは、この時が初めてだった。

 

 思わず胸が高鳴り、舞い上がりかける。

 

 そ、そうだな――と目を背け、がしがしと後頭部を掻きながら、茨木童子は思い付いたように言う。

 

――なら、俺はお前の『右腕』になってやるよ。

 

 鬼の頭領として、一座の長となる酒吞童子の――いつでも、誰よりも傍にいると。

 

 そう、少女の右手に触れながら、少女と目線を合わせるように跪いて言う。

 

――ずっと傍にいる。俺だけは、何があっても。

 

 お前に、寂しい思いだけはさせねぇよ。

 

 そう、何気なく――けれど、誰よりも、己の中に深く、深く強く、刻み込んで。

 

 誰よりも――自分自身に、誓った。

 

――そっか。

 

 笑った――笑ってくれた。

 

 酒吞童子は、茨木童子の恥ずかしい台詞に、けれど、何よりも美しく、可愛らしい笑顔を浮かべてくれたのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(――お前が笑ってくれたのは、あの時だけだったな。酒吞)

 

 渡辺綱が幾つもの斬撃を同時に振り降ろす。

 

 思わず距離を取る茨木童子。回避しきれないと判断した筋だけを右腕で弾く――が、見抜けなかった一筋の剣閃を避けきれずに左腕に掠り傷を負ってしまう。

 

 その傷は癒えない。

 ダラダラと血が流れ続ける。

 負傷を再生する鬼と、再生しない人間――その常識が覆る。

 

 だが、茨木童子は構わず拳を握った。

 目の前の怪物は、こんな程度の痛みに顔を顰めていたら一瞬で(くび)を斬られる別格の強者だ。

 

 それでも――茨木童子の頭の中から、その顔は消えない。

 

 酒吞童子の、あの時の笑顔だけが、茨木童子の脳内を占めている。

 

(あれから、俺は個体主義だった『鬼』を纏め上げた。大江山に日ノ本中の鬼を集結させて、お前に『家族』をあげられたと思った)

 

 だけど、酒吞童子は笑ってくれなかった。

 鬼女紅葉(きじょこうよう)には少なからず心を開いてくれたようだったけれど、酒吞童子は変わらず常に茨木童子の傍から離れることはなかった――大江山は、酒吞童子にとっての家にはなり得なかった。

 

(だから、お前には嫉妬したものだ、坂田金時(さかたきんとき)。大江山をちょくちょく抜け出して、お前に逢いに行っていたと知った時は)

 

 酒吞童子が本当に求めていたのは、家族ではなかった。

 真に孤独を、根本的に埋めてくれるもの――少女が欲していたのは、『理解者』だったのだと。

 

茨木童子(おれ)は――酒吞童子(おまえ)の、理解者には……なれなかったな)

 

 分かっていた。

 酒吞童子が手を伸ばす先に――茨木童子はいないことも。

 

 あくまで茨木童子は『右腕』であり、右側にしかいない――酒吞童子の目線の先には、いないのだということも。

 

「だが――それが、どうした……ッッ!!」

 

 斬撃が渦を巻く。

 

 縦横無尽に振るわれる斬撃の嵐に――茨木童子は、その巨体を飛び込ませる。

 

(例え、お前が俺を求めていなかったとしても。俺がお前の求めるものになれなくても――それでも、俺は、あの日の誓いを忘れない!!)

 

 全身に裂傷が走る。

 癒えない傷が、止まらない出血が生じても――その足を止めず、茨木童子は『右腕』を振りかぶる。

 

 例え、他の何を犠牲にしてでも。

 

 酒吞童子の為に作った家も、集めた家族も――『大江山』を見捨てることになろうとも。

 

 この身が、傷だらけになろうとも――生涯消えぬ、傷跡を背負うことになろうとも。

 

「俺はもう二度と!! 酒吞童子をひとりにはしない!!!」

 

 光り輝く『黄金』の右腕が――遂に、渡辺綱の胴体に届く。

 

 そして、振り抜かれる。

 光の柱が迸るが如き右拳が、当代最強の剣豪の刃を掻い潜り――撃ち抜かれた。

 

(だから――待ってろ、酒吞)

 

 お前の右腕が――お前の家族が、今すぐお前の下に駆け付けるから。

 




用語解説コーナー75

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)

 こうして――日本神話に名を残す、八首の大蛇の怪物は。

 水神であり山神――正真正銘の、神であった龍は。

 異星から襲来した――新たな龍によって殺された。

 神殺しを果たした龍は、お前は鬼であると、そう名付けられて。

 己の故郷も正体も何もかもを忘れて――少女は、酒吞童子(酒吞童子)となり。

 今も尚――伝説は、紡がれ続けている。


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妖怪星人編――76 悪夢

これは悪夢だ。


 

 妖怪・(さとり)は、心を読む妖怪であった。

 

 相対するだけで他者の思考を、その奥に隠された感情をも読み取ることが出来る。

 言ってしまえばそれだけの妖怪だが、しかし――それはまだ、覚という妖怪の異能の、ほんの表面、一部分に過ぎなかった。

 

 烏天狗(からすてんぐ)が、覚に加え、菅原道真公の影法師を取り込んだ天邪鬼をも取り込んだことにより――その妖力が大幅に増大した結果。

 

 桁違いの出力を得た覚の異能は、思考や感情に加え、対象の記憶までもを読み取ることも出来るようになった上――。

 

 他者の頭に直接触れることで――精神操作をも可能とするまでに至った。

 

「ぐぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 もはや身動きも取れない程に痛めつけられ、指一本動かすことが出来ない青年の心に、烏天狗は土足で入り込む。

 

「どんなに屈強な戦士も、どんなに強靭な英雄も――心を鍛えることは出来ない。それどころか、どれだけ肉体が無傷でも――心が壊れてしまえば、その人間は死んでいるのと同じなのです」

 

 ばちっ、バチィィ、と。

 烏天狗の掌から雷が瞬く。地に伏せる青年の脳を、鬼の妖力が凌辱する。

 

(恐ろしい異能だ。我々『三羽烏』の中で、あなたこそが最も恐ろしい妖怪としての資質を秘めていたのかもしれませんねぇ。覚よ)

 

 三羽烏の中で最も賢く、最も有能で――最も欲が薄かった妖怪。

 欲望――妖怪として最も必要なその資質のみが欠けていた結果、この場に残っているのは烏天狗となっているが、もしかしたら、何かが少しだけ違えば三羽烏を統一していたのは覚だったのかもしれない。

 

(ならば、彼の分も、私が存分に楽しむとしましょう)

 

 潜っていく――潜っていく。

 無遠慮に、不躾に、青年の心の中へと一羽の烏が潜り込んでいく。

 

「がぁぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 脳に妖力の雷を注ぎ込まれていく青年は、やがて、激痛を忘れて――夢の中へと、堕ちていく。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 気が付けば、そこは家の中だった。

 

「――――え?」

 

 小さな家だ。

 出世の見込みを失った父が、思いつきで武家へと転身し――木っ端微塵にその夢を砕かれ、何もかも失った負け犬の家だ。

 

「………………なんだい。いつの間にか、戻ってきていたのかい」

 

 この家にはもう、母と、妹と、僕しかいない。

 男衆は自分以外の全員が大江山で死んだ。

 

 もう、この家の復興の見込みはない。

 そんな現実をこの上なく残酷に突き付けられた時――母は寝床から動けなくなった。

 

 あの大江山から――既に十年。

 母は一度も、自らの意思で起き上がっていない。

 

「どうせ、アンタも死ぬんだよ。いつかあっさりと殺されるんだよ。何を頑張るんだい。何と戦っているんだい。どうせ、いつか――みんな死ぬんだよ」

 

 それが母の口癖だった。

 毎日、毎日、まるで呪いのように僕に言い聞かせ続けてきた。

 

 それは、もう頑張らなくてもいいと、励ましているようで。

 それは、もう戦わなくていいと、引き留めているようで。

 

 それは、お前のせいで、もう何もかも終わりだと、責め立てているようでもあった。

 

「母上! またそうやって悲観的なことを言う! 私も母上も兄上も、まだこうして死に損なっているのですから、それでも生きなくてはいけないんです! ちゃんと起きて、ちゃんと食べなければ、それこそ本当に死んでしまいますよ!」

 

 壊れてしまった母から逃げるように、日夜『外』に任務に出掛ける僕の代わりに、家と母を支えたのは紛れもなく妹だった。

 

 十年前、父や叔父達が死んでしまったあの日は、両手の指で足りる程度の歳だったのに、あの日から今日に至るまで、動こうとしない母の介護、毎日の食事や掃除、洗濯などの家事やご近所付き合いに至るまで、全て妹がそつなくこなしていた。

 

 偉大な妹だった。頭が上がらない。

 任務を終えて家に帰る度に、感謝の言葉よりも先に謝罪の言葉が先に出てしまう僕に対しても、妹は溌剌と叱るのだった。

 

「兄上は立派です! その手で誰かを守る仕事をしているのですから! だから、家のことは私に任せて下さい! もし、任務よりも我が家を優先するようなことがあれば、それは私に対する侮辱です! 逆にお尻を蹴って追い出しますからね!」

 

 そう言って米を茶碗に山盛りにして渡してくる妹に、僕は苦笑しか返せなかった。

 

 あの頃は小さかった妹も、十年も経てば立派な女だ。

 嫁に出てもおかしくない。いや、兄として妹のことを考えれば、介護や家事から解放させて、婿探しをしなくてはならないのだと思う。

 

 だが、あれから十年が経ち――僕はすっかり、母と向き合う方法を忘れていた。

 妹を介してしか、碌に会話すら出来ていない。

 

 僕は、任務(しごと)に没頭することで、俸禄(おかね)を稼いでくることでしか――家族と向き合えない。

 

 家族の為に戦っているのだと、口ではご立派なことを宣いながら――目を背けているだけなのかもしれない。

 

 十年前、僕の家族(いえ)は終わったのだという現実を、僕はまだ――受け止めきれないだけなのかもしれない。

 

「――――――――」

 

 ザザ――と、()()()()()()()

 

 暗い。

 か細いながらも蝋燭の灯りがあった先程までとは違い、今度の景色は只管(ひたすら)に真っ暗だった。

 

 場所は、同じ――我が家、だと、思う。

 

 無残に破壊され尽くしている。

 扉は吹き飛び、床は割れ、少ないながらも購入した家財は見る影もない。

 

 そして、何より――匂いだ。

 妹が作ってくれる暖かい夕餉の匂いがしない。

 

 代わりに、つんと鼻をつく――嗅ぎ慣れた、血の匂いがする。

 

「………………ないだい。ようやく…………戻ってきていたのかい」

 

 いつも敷かれていた布団もぐちゃぐちゃだった。

 染み込むように真っ赤に血で染まり――その上に、跪いた胴体と、胴体から切り離された、母の頭があった。

 

「――――は、母上ッッ!!!???」

 

 思わず駆け寄ろうとしたが――足が止まった。

 

 落ちて、転がって、尚――口を開く母の顔が、憎悪の表情を、僕に向けていたから。

 

「なんで、アンタは生きてるんだい? いつまでも、無様に生きてるんだい? 何で頑張らないんだい。何で戦わないんだい。なんで、いつも――アンタだけが生き残るんだい」

 

 母の言葉に、心臓が握り潰される。

 

 呼吸が出来ない。死にそうになって、僕は――母から逃げるように背を向ける。現実から逃げるように背を向ける。

 

 けれど――逃げられない。

 振り向いた先に。逃げようとした先に。

 

 槍に身体を貫かれた――妹がいた。

 

 ごふっと、血を吐いた妹は、血のような言葉を、僕に吐く。

 

「兄上。まだそうやって楽観的なことを思うのですか。私も母上も、もうこうして死んでしまいましたよ。起きることも、食べることも出来ない――本当に死んでしまったのですよ」

 

 何もかもから目を背け、逃げ続ける兄を――強く、賢く、美しい妹は許さなかった。

 

 体を貫かれ、血を吐き散らしながらも、その瞳は真っ直ぐに――兄を責め立てるのを忘れなかった。

 

「兄上は無様です。その手で誰も守れない――家族の一人も救えない」

 

 妹が一歩、僕に向かって近付く。それだけで、破壊され尽くされた我が家に、新たにボタボタと大粒の血痕が生まれた。

 

 僕は、そんな妹から、大きく一歩――逃げ出した。

 

「どうして、家のことは私に任せてきりにしたのですか? 家族よりも任務が大事だったのですか? 私の嫁入り(しあわせ)よりも、自分の妖怪退治(しごと)の方が大事だったのですか?」

 

 それは、私に対する迫害です――妹の言葉に、僕は首を横に振ることしか出来ない。

 

 違う――違うんだ、妹よ。

 僕は、お前のことを何よりも大事に思っていた。

 

 お前の強さが誇らしくて、お前の美しさが誇らしくて。

 

 だから――僕は。

 

 僕より強いお前に、僕よりも偉大なお前に。

 

 ずっと、ずっと――甘えて、いたんだ。

 

「なんで! どうして! なんで守ってくれなかったの!! どうして助けてくれなかったの!!」

 

 妹が僕に向かって、何かを投げつける。

 

 それは――血がべったりと付着した、空っぽの、茶碗だった。

 

「あなたが家族(わたしたち)を殺したのよ!! 自分だけ生き残って!! この――」

 

――人殺し!!

 

 妹の言葉は、僕の心臓と肺を貫いた。

 

 呼吸が出来ない。全身の血流が止まったように――寒い。

 

 違う、違うと、僕は無様に首だけを横に振り続けて、妹から距離を取るように下がる。

 

 そして、そんな僕を抱きかかえるように、母の胴体が僕に抱き着き――足下から母の頭部が見上げて、僕に向かって呪いを唱える。

 

「人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺し」

 

 もう、身動きも取れない僕に――正面から妹も吐き捨てる。

 

「人殺し! 人殺し! 人殺し! 人殺し! 人殺し! 人殺し!」

 

 人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。

 

 人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。

 

「違う! 違う!! 違う!!! 違う!!!! 違う!!!!!」

 

 僕はもう目を瞑り、耳を塞ぎ、母の死体を振り払って、妹の死体を突き飛ばして――終わってしまった、我が家から逃げ出す。

 

「違う! こんなのは違う!! こんなのは何かの間違いだ!!!」

「いいえ、何も違いません。これは、あなたが見ようとしなかった、あなたが目を背け続けた現実です」

 

 いつの間にか、逃げ続ける僕の横を烏が並走するように飛んでいた。

 

 ぐらぐらと歪み揺れる世界の中で、耳を塞いでいるのに、まるで脳に直接語り掛けるように、その烏の声だけがやけに鮮明だった。

 

「違う! 違う!! 違う!!! これは夢だ! 幻だ! 僕の心を折る為に、お前が見せている悪夢なんだろ!!」

「そうであって、そうではない。――よろしい。では、連れて行きましょう」

 

 見苦しいアナタを。どこまでも無様に逃げ続けるアナタを。

 

 きちんと終わらせてくれる、その地獄まで――その言葉と共に、パチンと、指を鳴らす音が響く。

 

「………………」

 

 目を――開ける。

 

 そこは、烏の言う通りに地獄だった。

 黒い流星が落下してきたあの時のように、僕は烏天狗に背中を掴まれている。

 

 英雄に捥がれた為に片翼となった為か、あの時程の高度ではないにしろ、妖怪大戦争で破壊し尽くされた街が十分に見渡せた。

 

 肉体的にも、精神的にも嬲られ続けた僕は――遅まきながら、それに気付く。

 

「――――――ッッ!!!!!」

 

 身体が一瞬で冷たくなる――そんなわけがないと、反射的に、また逃げようとして。

 

「そうはさせません。もう、現実から逃避する時間は――夢の時間は終わったのです」

 

 とん、と、崖から突き落とすように、再び烏天狗は僕を堕とした。

 

 指一本動かせない僕は、そのまま受け身を取ることも出来ず――その家へと落下する。

 

 既に僕が落とされ、壊すまでもなく、徹底的に破壊し尽くされた――僕の、家に。

 

「違う……違う……」

 

 落下の衝撃に悶える間でもなく、僕の頭は混乱しきっていた。

 

 分かっていた――上空から見渡した、その時から。

 

 慣れ親しんだ町。何度も足を運んだ区。

 

 夢の中でも、帰った場所。

 

 何もかも壊れ切った、何もかも終わり切った、この場所が――僕の家であるということくらい。

 

「嘘だ……嘘だ……嘘だ」

 

 ピチャ、と。

 生温かい液体が、無様に這いつくばったまま動けない僕の顔に付着する。

 

 指一本動かせない、顔の向きも変えられない僕は――もう、目を瞑ることも出来なかった。

 

 ずっと敷かれ続けた布団。

 その上で、見るも無残な表情で絶命する――母の死体と、目が合った。

 

「あ――あああ――――うわぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 ただ一つ、僕に残されたもの。

 足も手も動かない僕に残された、最後の現実逃避の手段――ただただ絶叫し、目の前の現実を拒絶しようとする。

 

 違う――違う――違う――違う!!!

 

 嘘だ――嘘だ――嘘だ――嘘だ――嘘だ!!!

 

 これは悪夢だ。

 

 僕の心を折る為に、烏天狗が見せている悪夢だ!!

 

「そうだ! そうだ!! そうだろ!!?」

「違いますよ」

 

 烏天狗はそう冷徹に言い、僕の身体を引っ繰り返す。

 

 見上げる妖怪の顔は、言葉の冷たさとは裏腹に――どこまでも、愉悦の感情に満ちていて。

 

 僕の身体に――それを乗せるように放り投げる。

 

「動けないようなので、私が運んで差し上げました。早くお兄さんに見てもらいたいでしょうから」

 

 自分の、とっても綺麗な――死に顔を。

 

 そんな烏天狗の言葉通り、それはとても綺麗だった。

 

 醜悪な恐怖の表情を浮かべていた母とは違い、まるで眠るように――傷一つなかった。

 

 けれど――死んでいた。

 

 そのまるで力が入っていないずっしりとした重さも。

 

 お腹の辺りから流れ落ちている、彼女の血の感触も。

 

 疑いの余地なく――現実だった。

 

「―――――――」

 

 僕の家族が死んでいた。

 

 逃げようもなく、終わっていた。

 

 僕が守りたかったものは。僕が必死に戦っていた理由は。

 

 もう――どうしようもなく。

 

 徹底的に、壊れていた。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 ぶつん、と。

 

 何が――切れる音と共に。

 

 僕の大事な何かが――儚く壊れる音がした。

 




用語解説コーナー76

(さとり)

 生前は三羽烏のリーダー的ポジションであった烏。

 その能力は非常に優秀で、戦闘能力は殆ど皆無であったにも関わらず、その頭脳と弁舌能力で筆頭幹部にまで上り詰め、『狐』勢力と『鬼』勢力の同盟の締結、妖怪大戦争の全体図の作成など、此度の『計画』の要となる重大任務を見事に成し遂げた。

 あくまで頭脳と弁舌で戦ってきた妖怪の為、その異能は思考と感情の読み取り程度にしか育たなかったが――彼の異能の真髄は『心』への干渉であった為、極めれば精神操作、精神支配といった領域にまで届く可能性を持っていた。
 そうなれば、果ては彼の声を聞くだけで、彼の操り人形を量産するといった領域にまで辿り着く可能性もあり――彼に妖怪に相応しいだけの欲望、『野心』さえあれば、妖怪王の座に挑むだけのポテンシャルすらあった。

 烏天狗は、その莫大なる妖力で以て、無理矢理に直接接触での精神支配の領域にまで辿り着いているが、この異能を獲得したばかりで習熟度は未熟である為、声での支配までは辿り着くことは出来ないでいる。


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妖怪星人編――77 超えろ、全盛期!

これまでもそうしてきた。だから、今も――そうするだけだ。


 

 黒い太陽と紅い太陽が激突する。

 

 大気が震え、大地が揺れる。

 だが、徐々に、黒い太陽が紅蓮の太陽を押し始め――。

 

「………………ッッ」

 

 紅いリオンが、二つの太陽の激突現場に、更に追加で鋭い火球を放ち――爆発する。

 

 二つの太陽が破裂し、凄まじい熱風と衝撃が伝播する。

 

 だが、その衝撃は優勢だった黒い太陽ではなく、劣勢であった紅いの太陽――つまり、紅いリオン側に向かって暴れ狂う。

 

「………………まさか。もう終わりかい?」

 

 黒いリオンは、言葉とは裏腹に勝利を確信する。

 疑似太陽は、現在のリオンが放てる最強の技だ。その対決で押し勝った以上、流石のリオンも重傷を負っている筈。

 

 そう確信しながら、煙が晴れた場所を真っ直ぐと見据えたが――。

 

「………………?」

 

 紅いリオンは、手に小さな炎の盾だけを展開して浮遊しており、その盾自体にも罅すら全く走っていなかった。

 

(……どういうことだ? 再生で回復したにしても、ドレスに焼け焦げ一つ残っていないなんて……リオン(ぼく)なら服も再生できるけど――)

 

 訝しげに眉を顰める黒いリオンに、空を飛ぶ紅いリオンから言葉が振り下ろされる。

 

「――確信したよ。やっぱり、君は僕の――『リオン・ルージュ』の複製(クローン)じゃない」

「………………何を言っているんだい? 僕が君の複製じゃなければ、何の――」

「――君は、()()()複製(クローン)だ。妹のデータを元に予測した僕のデータを目標値として設定して強化を加えているけどね」

 

 流石に妹よりは強いけれど――そう前置きし、紅いリオンは失笑するように言う。

 

「だって、()()()()()、君。星の力の支援(バフ)を受けているとは思えないくらいだ」

 

 そんなんじゃ、とてもじゃないけど『リオン・ルージュ』は名乗れない――そう吐き捨てる紅いリオンに、黒いリオンは、絞り出して言葉を返す。

 

「………………何を…………何を――――言って――」

 

 そして、それ以上の言葉を、強制的に口を閉ざさせることで封じられた。

 

「―――――――ッッ!!」

 

 まるで――本当に太陽が間近に顕現したかのようだった。

 

 つい先程まで、自分と同等――否、星の力の支援分、自分の方が確かに勝っていた筈の『力』が、一瞬で膨れ上がっていた。

 

 だが、何度見ても、そこに太陽はない。

 真っ赤な月を背に浮かぶ、豪奢な紅蓮の美女しかいない。

 

「さっきの京四郎を見て思ったんだ。京四郎が戦闘の中で、ブランク明けの鈍った身体を研ぎ澄まして、本来の実力を引き出していったように――僕の中にもまだ、眠っている力が埋まっているんじゃないかってね」

 

 案の定だったよ――と、紅いリオンは笑う。

 

「そもそも、生まれてから一度も全力を出していない奴の全力を、本人すら把握していない潜在能力を、どうやってGANTZが算出するんだい。通常の戦士(キャラクター)みたいに、死亡時に『魂』を採取(コピー)するならいざ知らず」

 

 無論、GANTZもその規格外であろう性能(スペック)を出来得る限り計算し、最大限に高く予測した値を以て、『リオン・ルージュ』を抹殺する刺客として『黒いリオン』を作成したのだろうが。

 

G()A()N()T()Z()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――つまりは、ただそれだけの話ってことだね」

 

 にこやかに笑う紅いリオンに、黒いリオンも引き攣った笑みを浮かべる。

 

「楽しい夢物語だね。さっきまでの劣勢はどう説明するんだい?」

「君と同じだよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だけど、大丈夫、僕は『リオン・ルージュ』だ――そう、言外に、もう慣れたと告げて。

 

「ああ、絶望しないで。まだまだ底は深そうだから。ひょっとしたら浮かれて隙が生まれて、うまくそこを突いて奇跡的に勝てるかもしれないぜ」

 

 だから、希望を捨てないで。頑張ることに意味があるんだからと、紅いリオンは――酷薄に告げる。

 

 もはや引き攣った笑みも引っ込めて、天に浮かぶ紅を睨み付ける黒に。

 

 血のような赤い月を背負う紅蓮の美女は――極寒の冬地のように冷たい笑みを浮かべて。

 

「嬉しかったでしょ、全力が出せるって。僕もそうだよ。もっともっと――全力で戦い(あそび)たいから」

 

 出来る限り、頑張って長生きしてね――そう告げると共に、赤い月を背景に、無数の紅蓮の炎の剣が出現する。

 

「――――ッッ!!」

 

 黒いリオンは、咄嗟に巨大な黒い炎の盾を作ることを選択し――それを却下する。

 聡明な頭脳が――天才を自称する頭脳が、それが正解だと機械的に提案しても――それでも。

 

(――――認めるわけにはいかない……っ。出力で()が負けているなんてことは――ッ!!)

 

 それが示されると――前提が崩れる。

 黒いリオンが――黒い球体の刺客である資格を失う。

 

 だからこそ、黒いリオンは、紅いリオンと同じように。

 黒炎の剣を無数に生み出して、それを赤い月を目掛けて射出する。

 

 二色の炎の剣が、寸分違わない弾道で一直線上を走り、激突して弾き飛ばされる。

 

 それは威力、精度共に互角で、二色のリオンのちょうど中間地点で拮抗する。

 

「はは、やるね! じゃあ――()()()()()()()()()()()()()!」

 

 紅いリオンがそう笑うと、その言葉通り、紅い剣の軍勢が勢いを増し、黒い剣群を徐々に押し返してくる。

 

「――――くっ!!」

 

 黒いリオンは、表情をくしゃくしゃに歪めながら、黒い剣を射出するのと並行して、大きな黒い炎の盾を創り出した。

 

 そして、それが破壊されるよりも一瞬早く、蝙蝠の羽を生やして空へと逃げる。

 

遠距離戦(飛び道具)の次は空中戦かい? いいね! なら、ついでに接近戦縛りっていうのはどう?」

 

 逃げた先の背後で、耳元に囁かれるような声が届く。

 

 反射的に黒い炎の剣を右手に纏わせるように形成して振り回すと――同じく紅蓮の炎の剣を手に纏った紅いリオンが、至近距離で黒いリオンを覗き込んでいた。

 

「――――っっっ!!」

 

 黒いリオンが力任せに紅いリオンを弾き飛ばして距離を取る。紅いリオンは嬉しそうに笑って、黒いリオンと逆方向に距離を取った。

 

 そして、互いに猛スピードで接近し、交錯際に剣を振るって互いを弾き飛ばす。そしてまた反対方向に距離を取って、スピードに乗せた接近と共に剣をぶつけ、また距離を取る。

 

 だが、先に剣に罅が入ったのは――やはり黒いリオンだった。

 

「くっ――!」

 

 新たな剣を作るにしろ、別の武器に変えるにしろ――と、黒いリオンは反射的に盾を作り、一時的に凌ごうとした、が。

 

 黒い炎の盾は、紅い炎の剣――ではなく、炎を纏った紅いリオンの蹴りで砕かれた。

 壊れた盾の欠片の向こうに、口角が裂けたような笑みを浮かべる紅いリオンが覗く。

 

「な――」

 

 そして、新たな武器を作る間も与えられず――何時の間にか作られていた炎の槍が、黒いリオンの羽を貫いた。

 

「遠距離戦も、接近戦も、空中戦も、僕の勝ちだね」

 

 紅いリオンが、羽に槍を突き刺したまま――紅蓮の炎を纏った拳を、黒いリオンの腹に叩き込む。

 

 無理矢理に槍を引き抜かれ、そのまま成す術もなく、皮肉にも地球に来訪した時と同じように、流星のように地面に叩き付けられた。

 

 受け身も取れず、肺の中の酸素を全て吐き出しながら、黒いリオンは――失笑する。

 

(ああ……確かに、『(ぼく)』は――『(あなた)』の、複製(クローン)じゃない)

 

 だって――こんなにも恐ろしい。

 

 体中の細胞全てが、複製された細胞全てが、怖くて、怖くて、怖くて震えている。

 

 きっと、いつかも、『×××・ルージュ(わたし)』は、『リオン・ルージュ(あれ)』を、こんな風に見上げていた。

 

 同じ容姿の筈なのに、同じDNAの筈なのに、こんなにも――――遠い。

 

 地面に叩き付けられながら、真っ赤な月を背に浮かぶ――『オニ』を見上げる。

 

 ああ――なんと恐ろしく。恐ろしいほどに――美しい。

 

 黒い『×××』は、陶然と、見惚れるように。

 

 赤い月に向かって――紅蓮の『オニ』に向かって、手を伸ばしながら、呟いた。

 

「――ああ。やっぱり。あの息も凍るような、美しい『紅』こそが――」

 

 彼女こそが――『リオン・ルージュ』だ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 漆黒の魔人の暴虐的な攻撃を、黄金の太刀でいなし、斬り祓っていく。

 

 太刀を一振りする毎に、剣閃が研ぎ澄まされていくのを感じる――否、かつての輝きを、取り戻していく感覚がある。

 

(ああ――確かに、俺は全盛期に戻りつつある。だが――)

 

 冷静に京四郎は思考する。

 ()()()()――例え、全盛期を取り戻し、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に戻れた所で、目の前の魔人を止めることは出来ない。

 

 百年前――かつて全盛期だった藤原秀郷でさえも、魔人・平将門(たいらのまさかど)を単独で討伐することはできなかった。

 平貞盛(たいらのさだもり)を初め、朝廷軍などの総力を挙げて――囲い込み、袋叩きにし、ようやく首を飛ばすことに成功したのだ。

 

 その上、封印から蘇った将門は――今、目の前にいる魔人は。

 かつての力に加え――リオンの炎の力をも手に入れた黒炎を有している。

 

(ならば――俺も全盛期を超えればいい。ただ――それだけの話だ)

 

 京四郎は、そう決断する。

 超えなければならない――ならば、超えればいい。

 

 ただ、それだけの、単純な話だと――彼はそう断ずることが出来る。

 

(これまでもそうしてきた。だから、今も――そうするだけだ)

 

 やってやるさ――と、決死の覚悟もなく、決意の気合も必要ないとばかりに、京四郎は、そう静かに思考して。

 

 己に向かって放たれた――黒炎の砲撃を最小限の動きで躱す。

 

(――っ! 凄まじいな。それに、この黒炎は対象物を燃やし尽くすまで消えない。だからこそ、生身で受けたら終わり。……確実に太刀で弾かなくてはいけない)

 

 京四郎の装備の中で、黒炎に対抗出来るのは黄金の太刀しかない。

 この太刀のみが、消えない炎である黒炎を弾くことが出来る。

 

(敵の力は文字通りの無尽蔵。ただ受けるだけでは意味がない。勝つ為には、こちらから――)

 

 攻める――と、京四郎は黒炎の砲撃を太刀で受け流しながら、そのまま将門の懐へと一歩で接近する。

 

 縮地と言われる移動術。それを京四郎は天性の戦闘センスで容易く実行する。

 

 だが、将門はその接近を予知していたかのように、そのまま己に近づく京四郎に向かって大振りの拳を振るっていた。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォ!!!」

 

 鋭く、(はげ)しい拳。

 目にも留まらぬ速さ。何よりもその迫力に、強制的に足を止められそうになる魔人の拳を。

 

「――――っ!」

 

 英雄は潜り込むように、流れるように躱してみせる。

 

 魔人の振り抜かれた右手と、そして無防備だった左手の手首から黒い血液が噴き出す。

 京四郎はただ躱すだけでなく、交錯際に将門の手首の腱も切断していた――が。

 

 傷口から黒炎が噴き出し、瞬く間に裂傷は回復される。

 

(人間であれば致命傷だが――やはり魔人には効果はないか。再生の速度も百年前とは段違いだ。小さな傷では動きを止めることも出来ない。再生するとは分かっていても、腕を斬り落とすくらいでないと時間稼ぎにもならないか)

 

 平将門の『不死』が健在である限り、京四郎に根本的な勝利はない。

 だからこそ、『祠』の中へと這入って行った羽衣達が『不死』を無効化するまで、京四郎が為すべきことは基本的に時間稼ぎだ。

 

 目の前の――『祠』へと侵入して、『葛の葉』との再会を目論む『魔人』を、徹底的に足止めすることだ。

 

「――ヒデサト……フジラワ……ノ……ヒデサト」

「っ!」

 

 遂に、魔人が目の前の英雄の名前を口にする。

 放つ言語が徐々に明晰になってくる。

 

 徐々に自我を――そして記憶を、取り戻してきたのか。

 

「――愛する女との再会に対する浮かれも、少しは落ち着いてきたか。ようやく少しは人間らしくなってきたな、魔人。だが、お生憎だな。()()()()――」

 

 俺の名は、京四郎だ――そう、黄金の太刀の切っ先を向けながら言う男に、魔人は、未だ黒炎が噴き出すだけで焦点の合わない瞳を、それでも真っ直ぐに仇敵へと向けながら問う。

 

「ナゼ……マタ……ジャマヲ……スル……」

 

 魔人は黒炎が噴き出しながら言う。

 おどろおどろしく、禍々しい――空間を歪めるような、魔力。

 

 天井知らずに増大する力に、京四郎はただ目を細めながらも――構えを解かない。

 

「ドウシテ……オレノ……マエニ……タチフサ……ガ……ル……」

「――お前を止めると誓ったからだ」

 

 魔人の威圧に、魔人の恐怖に――英雄はまるで揺るがない。

 

 一歩も退かないとばかりに腰を落とし――ただ、不敵に笑って見せる。

 

「何年、何十年、何百年かかろうとも――お前を、解き放つと決めたからだ」

 

 そして、右の親指で心臓を指差して、言い放つ。

 

「この俺の――『魂』にな」

 

 将門は咆哮する。

 地面を抉るように踏み込み、魔人は一直線に駆け出した。

 

(速い――!!)

 

 黒い魔人が加速する。

 速い――また速くなった

 

 消えない炎――黒炎は確かに恐ろしい。

 だが、それは只の追加装備だ。

 

 かつて、たったひとりで国を揺るがした、新皇を名乗る大罪人は。

 この迸る黒い魔力による、怪物的な肉体性能のみで、数多の軍勢を単独で薙ぎ払ったのだ。

 

(この肉弾戦を制せなければ――勝機はない!)

 

 振り抜かれる黒い拳。

 黒い魔力が迸る、恐ろしく鋭く重い一撃ではあるが――それでも軌道が素直過ぎる。

 

 多少の自我を取り戻したとはいえ、未だ本能重視の攻撃。

 京四郎はそれを見極めながら、後方に跳び去ることで回避する。

 

「ウォォォオオオオオオオオ!!!」

 

 だが、将門は躱さされたその拳を、勢いを弱めることなく地面へと叩きつけた。

 

 大地が砕ける――そして、その走る亀裂から、溶岩のように黒炎が噴き出した。

 

「っ!?」

 

 着地する地面を失った京四郎は、その砕けた大地の破片を足場として、一瞬だけ体重を預けて反動を手に入れる。

 

 人間業ではない――が、人間に出来ないことが出来るのが英雄とばかりに、京四郎は表情も変えずに距離を取ろうとする、が。

 

「ッ!!?」

 

 黒炎は未だ割れていない筈の地面からも突き出でて、まるで何本もの柱が迫って来るかのように、次々と黒い炎の木が生え迫る。

 

 そして、その即席の炎の林の中を、将門は猛烈な勢いで駆け出した。

 

(迸る魔力と黒炎――かつての全盛の力(黒い魔力)と、新たに獲得した力(黒い炎)の融合攻撃)

 

 避けきれない――例え、全盛期の自分の力でも。

 

 だからこそ――と。

 京四郎は空中で、黄金の太刀を――()()()()()

 

(ならば――今こそ、全盛期(あの頃の自分)を超える時――ッ!)

 

 機会は、一瞬。

 跳躍した自分に、迫りくる将門と炎の林が辿り着くよりも、一瞬だけ早く、再び地面へと足を着ける――その瞬間。

 

(さあ、藤原秀郷が伝説の英雄だというのなら――その伝説を、超えてみせろ)

 

 今の俺は――京四郎となった俺は。

 

 太陽すら――斬ってみせた男だろう。

 

「――――」

 

 足に呪力を集中する。

 鞘の中に呪力を流し、摩擦を極限まで減らし――抜刀速度を上げる。

 

 太刀の刃にだけ呪力を纏わし――集中する。

 

 そして――視ろ。視ろ、視ろ、視ろ。

 

 相手は魔人――だが、あくまで、同じ人間だ。

 

 腕で走るわけじゃない。脚で殴るわけじゃない。

 性能が違うだけで部品は同じ。ならば駆動も同様だ。

 

 その動き――例え、どれだけ速く複雑でも。

 

 見極められない――道理はない。

 

「――――――――ふっっ!!」

 

 一直線に――駆け抜ける。

 

 魔人と炎の林が迫る同直線上を――重なるような、最小限の回避で。

 

「――――」

 

 かちん、と、()()()()()()()

 

 居合――最速の剣技によって、およそ百年ぶりに、英雄は魔人の首を吹き飛ばた。

 

 かつて出来なかった――魔人の単独での討伐を成し遂げる。

 

(――――俺も、まだ、強くなれる)

 

 かつての頼もしい仲間は、もういない。

 平貞盛も、藤原秀郷の名を継いでくれた――ただ一人の弟子も。

 

 だが、それでも――新しい出遭いはあった。

 

 豪奢な紅蓮のドレスを纏った美女を思い浮かべながら、京四郎は静かに呟く。

 

「お前が強くなるのなら、俺もどこまでも強くなろう」

 

 お前がより凶悪な魔人となるのなら、俺は何度でもそれを止める英雄となろう。

 

 京四郎は、ゆっくりと振り向きながら――鋭く冷たい眼差しを注ぐ。

 

「忘れるな――お前を止めるのは、この俺だ」

 

 首を失った魔人の身体に、幾筋もの剣閃が走る。

 

 そして、その全ての裂傷から――噴き出すように、黒炎が迸った。

 




用語解説コーナー77

・魔人の混乱

 平将門は、魔人となってからも、その強靭な意思によって、自我を保ち続けていた。

 しかし、平安京へと足を踏み入れた途端、葛の葉の存在を明確に感知し、その歓喜と愛――そして、何よりも葛の葉本体の覚醒によって、彼女の呪いが強化され、葛の葉を追い求めることのみに心が支配された。

 そして、その支配を――徐々に、上回り始めている。

 生涯の仇敵、因縁の英雄を前に――魔人もまた、全盛期を凌駕しようとしている。


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妖怪星人編――78 ブッ殺してやる

――お前だけは許さない。


 

「……なるほど。目覚めた『葛の葉(わたし)』の妖力(ちから)がこんなにも乏しいのは……そういうわけなのね、生んだ覚えのない娘さん」

 

 しわがれた老婆は、そう目の前の美女に言った。

 

 かつての自分の写し身のように瓜二つ――そして、ある意味では正しく自分自身といえる『娘』に。

 

「そうね。望んだ子ではなくても、きちんと責任を取って欲しいわ、お母さん」

 

 大妖怪・『葛の葉』の望まれない『疑似転生体』であり、『狐の姫君』として日ノ本の妖怪勢力を纏め上げた美女――『化生(けしょう)(まえ)』は、そう妖しげに微笑む。

 

「生まれてくれと頼んだつもりはないけれど」

「生んでくれと頼んだつもりもないわぁ。全ては親である貴女の責任よ――愛に溺れた、哀れな狐」

 

 本来であれば、死す度に転生を繰り返し、永劫の生に囚われる筈の妖怪・『葛の葉』。

 

 だが、愛を知り、愛に溺れた狐は、その愛を手放すことが出来ず――転生を拒み、愛する人を待ち続けて死せず眠り続けることを選択した。

 

 しかし、永劫の生でなくとも、永遠の眠りを選択した葛の葉は、己を仮死状態にせねばならず――結果、疑似的に死んだ狐は、疑似的に転生することとなった。

 

 それでも――愛だけは手放さず。

 

 結果として――葛の葉としての妖力を受け継いだ転生体(むすめ)が生まれ、仮死状態から蘇った本体にはその残滓(のこりかす)と愛だけが残った。

 

「どうかしら、『葛の葉(お母さん)』。お望み通り、他の全てを失っても、それでも愛だけは失わなかった――その率直な感想は?」

 

 化生の前は、葛の葉にそう皮肉げな笑みを浮かべながら問う。

 

 老婆のような醜い容姿。搾りかすのような乏しい妖力。

 

 かつては『真なる外来種』が一体として。

 化生の前がそうしたように、日ノ本の妖怪勢力を纏めて支配下に置くことも、妖怪王にすらもなれるかもしれなかった程の『器』を有していた大妖怪・葛の葉。

 

 だが、今や見る影もなくなり、全てを手に入れることが出来た筈の力も、国を傾けることの出来た程の美貌も失い、ただ――『愛』だけが残って目覚めた。

 

 その感想を問う化生の前に――葛の葉は、皺だらけの顔を緩ませて答える。

 

「ええ、最高の気分よ。こうして愛だけが残って、私の全部で感じるわ。この愛が、どれだけ素晴らしく、尊いものなのか。これほど愛を感じることが出来て、今、本当に幸せよ」

「――――――」

 

 思わず、言葉を失う。

 

 顔をしわくちゃにして、目の前の望まない転生体に永劫の転生で積み重ねてきた妖力を奪われて――それでも、幸せだと、心の底からそう宣う、その笑顔に。

 

 化生の前は、己の中が騒めくのを感じて。

 

「そう――でも残念ね。本当に残念だわ。それほどまでに素晴らしい愛も――もうすぐきれいさっぱり消えるのだから」

 

 思わず感情的に、殊更に挑発的に、却って己が惨めに感じる程に言葉に棘を含めて言い募る。

 

「百年間、必死で守り続けた愛も、報われることはない! あなたは、結局、愛する人と再会することなく、その生を終えるのだからね! 永劫の生の終わりも、あなたは何も劇的な結末もなく、あっさりと、此処で死ぬのよ!!」

 

 それはまるで――他でもない、己自身を傷つけているようで。

 

「あなたの想いは報われない! あなたの願いは叶わない! あなたの愛は――ここで終わりなのよ!!」

 

 だけど、それは。

 

 どうしようもなく、羨ましく、妬ましく、浅まし――。

 

 

「――どうして? 私の『計画』は、こうして全て上手くいったじゃない」

 

 

 皺くちゃの老婆が、そうしてあっけらかんと言った言葉に。

 

「――――え?」

 

 化生の前だけでなく、離れた所で見ていた平太も、詩希も、訳も分からずに呆けてしまった。

 

「そりゃあ、私もこんな醜いお婆ちゃん状態であの御方と会うことは嫌よ――好きな人の前では、いつだって一番綺麗な私でいたいもの」

 

 かつて大妖怪だった狐・葛の葉は、そうして老婆の見てくれに相応しくない両手を合わせた可愛い子ぶった挙動で――にこやかに、化生の前に言う。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ゾクっ――と、怖気が走った。

 化生の前は、目の前にいる老婆が、得体の知れない怪物へと変貌していくのを目の当たりにした。

 

 いや――変わっているのは。いや――何も、変わっていないのか。

 

 気付いていなかったのは――見えていなかったのは。

 

 その正体を――見ようとして、いなかったのは。

 

「『娘』が二体になっていることは驚いたけれど、結果的に二体ともこうしてここに居てくれているし。ちょっと『妹』の方は遅れているけれど、それでも『尾』が繋がった気配はあるから、直にこっちにくるでしょうしね。あの御方との再会に間に合えば何の問題もないわ」

「な――にを、言っているの?」

 

 見ていられなくて。見ていたくなくて。

 

 化生の前は思わず口を挟んでしまう。

 先程のように棘は含まれていない――ただ、戸惑いと、恐怖だけが、篭った口を。

 

 何って――と。

 葛の葉は、何の含みも含まれていない、ただただ純粋に――思っていることを口にする。

 

 それが世界の理だと言わんばかりに。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 当然のように、必然のように――理のように。

 

 目の前の『母』は――目の前の『娘』に、死ねと言った。

 

「『化生の前(あなた)』を取り込んで(食べて)、『羽衣(あのこ)』も取り込め(食べれ)ば、『葛の葉(わたし)』晴れて元の美しい姿に戻れる」

 

 そうすれば、堂々とあの御方に逢えるわ――そう、無邪気に、まるで無垢なる童のように、老婆は笑う。

 

「『計画』通り、きちんとあの御方を『(ここ)』まで連れてきてくれて。その上で、こんな素晴らしい『(おくりもの)』まで用意して、『お母さん』と『お父さん』の再会を祝ってくれるだなんて! 本当に『親』思いの『娘』を持ったわ。お母さん嬉しい!」

 

 葛の葉は、化生の前の頭を、優しく撫でながら言う。

 

 余りにも■■■■過ぎて、全く身動きが取れなかった。

 怖くて、怖くて、怖くて――堪らなかった。

 

「『晴明(おにいちゃん)』もきちんと褒めて上げなくっちゃね。星の戦士だったから少し心配しちゃったけど――息子を疑うなんて悪いお母さんね」

 

 反省反省――と、そう言ってニコニコ笑う『母』に。

 

 余りにも恐ろしく――余りにも、悍ましい化物に。

 

 化生の前は、勇気を持って、問い掛ける。

 

「ああ――そう。つまりは――こういうこと」

 

 葛の葉は――化生の前が、そして羽衣が。

 

 自分が望まずに生み出した疑似転生体と、自分が己の願いの為に愛する男の不死の鍵とした娘が。

 

 自分の願いを叶える為に粉骨砕身し、母と父を再会させる『計画』を遂行して。

 

 挙句の果てに、母と父の再会を彩るべく、願いを叶える『箱』を添えて、『葛の葉(はは)』の完全復活の為に、その身と命を喜んで捧げるつもりなのだ――と。

 

 そう――思って、いるのか?

 

「当たり前でしょう? 『葛の葉(わたし)』が作った『(むすめ)』なんだから。親の役に立つ為に生きて死ぬのは当然のことでしょう?」

 

 でなくちゃ、何の為に生まれてくるのよ――そう、何の含みもなく、ただただ意味が分からないので首を傾げているといった風の葛の葉に。

 

 化生の前は――大きく、大きく、息を、吐いた。

 

「………………」

 

 ずっと――知りたいと思っていた。

 分からないのは、『愛』を知らないからだと思っていた。

 

 ずっと継承されてきた知識、自意識が途切れて生まれた存在――疑似転生体であった自分には、ずっとぽっかりと虚が空いていた。

 

 だから――探した。

 それが分かるなら、それが手に入るのならば、願いを叶える『箱』に手を出してでも――と。

 

 化生の前はちらりと平太と詩希に目を向ける。

 

 詩希も葛の葉を悍ましいものを見る目で見ていた。平太は、まるで哀れむように、そして何かを諦めるような瞳で、葛の葉を――そして、化生の前を見ていた。

 

 それを見て、化生の前も。

 何かを手放すような表情で、葛の葉と――『母』たる本体(オリジナル)と向き直る。

 

(ずっと知りたいと思っていた。でも、まさか、こんな風に直接向かい合って――突き付けられるとは、思っていなかったわね)

 

 化生の前は、真っ直ぐに、澄んだ瞳で――『娘』を見てくる『母』に、告げる。

 

「……どうかしらね。『化生の前』は、『葛の葉()』に……なったことはないから、分からないけれど」

 

 ずっとなりたいと願っていたけれど。

 

 ずっと、ならなければと、思ってはいたけれど。

 

 それでも――結局、『愛』を知ることは、出来なかったけれど。

 

「それでも――私には」

 

 化生の前から見た葛の葉は。

 

 愛を知らないケモノから見た――愛だけを抱えるケモノは。

 

「とっても醜い――化物(バケモノ)に見えるわ」

 

 え――と、葛の葉は反応出来なかった。

 

 まるで想像もしていない事態(もの)に――突如として襲われたかのように。

 

 成す術なく――化生の前の九本の尾の中に、あっという間に引きずり込まれていった。

 

「な、何を――!!??」

「大丈夫よ、『葛の葉(おかあさん)』」

 

 混乱する『母』に、『娘』は優しく微笑みかける。

 

「今度は――ちゃんと受け継ぐから」

 

 女を()()()()にしてしまう――その悍ましい『愛』とやらも。

 

 醜い所も、汚い所も、見たくないような所も――全部含めて。

 

()()――『()()()()()()()()

 

 葛の葉は、ここに至ってようやく――自分が殺されそうになっていることに気付いた。

 

「―――――ふ」

 

 自分が殺す筈だった娘に、自分の為に死ぬ筈だった娘に――己が殺されそうになっているという現実に。

 

「ふざけるなッッッ!!!!!」

 

 その醜い相貌を、更に醜く歪めて吠える。

 

「ふざけるな!! 娘が母に――親に逆らうのかッッ!! 親の為に死ぬのが子供の役目だろう!! それを放棄するというのかッッ!!」

 

 もしかしたら――そんな未来があったのかもしれない。

 もしかしたら――その為に、化生の前は葛の葉に逢いに来たのかもしれないとも思う。

 

 ずっと、自分には足りないものがあって――引き継がれなかったものがあって。

 

 それを持っている『母』を見て――あぁ、やはり、自分は足りなかったのだと。

 

 こんなにも素晴らしく尊いものが欠けている自分は、やはり不完全で、不安定な――偽物(クローン)なのだと、そう心から思うことが出来たならば。

 

 この身を『葛の葉(オリジナル)』に差し出して、『娘』として『母』の為に死ぬことが出来たかもしれない。

 

「い、イヤ! 嫌だ! 嫌よ!! やっと逢えるのに!! すぐそこにいるのに!! 会いたい逢いたい遭いたい!! 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない逝きたくないぃぃぃいいいいい!!!」

 

 助けて、将門様ぁぁああああああああああ!!! ――と、『母』は。

 

 最後まで――『娘』の名前を、呼ぶことはなかった。

 

「さようなら。逢えて嬉しかったわ、『お母さん』」

 

 頑張って、素敵な『葛の葉(あなた)』になるからね――そう、化生の前は、醜く恐ろしい化物を見たくなくて、俯きながら、『尾』に力を入れて。

 

 ぐしゃっと、九本の尾の中で老婆を潰した。

 

 生まれて初めて、生命を潰して、気持ち悪いと思った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そこは真っ暗な闇の中だった。

 

「ここが、『慿霊空間(ひょうれいくうかん)』――彼の心の世界ですか」

 

 完全に発狂し、精神を崩壊させた青年。

 烏天狗はその隙を逃さず、(さとり)の異能で青年の『箱』――つまりは『魂』の容れ物の中へと己の意識を潜入させた。

 

 烏天狗が足を進めていると、暗闇の中でぐったりと項垂れたまま動かない人影に気付く。

 

「……ふっ。空間の主も、こうなってしまえば、只の人形と同じですね」

 

 それは、本来のこの世界の主である青年の心だった。

 しかし今は烏天狗の言葉通り、侵入者である烏天狗を排除することも、心の核を守る為に行動することしない――出来ない。

 

 まるで人形のように――心を失っている。

 

 そして、烏天狗はそんな青年を無視して、そのまま足を進めていく。

 心の主がここにいるのなら――それはもう近くにある筈だと。

 

 案の定、それはそこからほど近い場所で見つかった。

 

 ただただ真っ暗な闇が広がる中で、ただ一つ、淡い光を放つ球体。

 

「これが――心の核ですね」

 

 本来であれば、青年の心はこの核の傍らに立ち、『慿霊(ひょうれい)』で招いた魂をこの核の下に導いて、一時的に核の主導権を渡す。

 

 招かれた『魂』は、この核に呪力を流すことで慿霊し、この身体の操縦権を手に入れる。

 

 通常ならば、招かれた魂は、この核が壊れない塩梅を見極めて慎重に呪力を流すのだが――生憎ながら、今、この核に触れているのは、そんなお行儀のいい英雄ではない。

 

「ただ呪力を流すわけではない。この核の色を変える程に――己の妖力を流し込み続ける。この淡く儚く頼りない光が、私の妖力と同じくドス黒い色へと変貌を遂げれば、その時こそ! この『箱』の、この『慿霊空間』の主は私となることでしょう!」

 

 烏天狗は邪悪な笑みと共に、心の核を乱暴に掴み上げる。

 

「手に入れるぞ! この『箱』を! この身体を! この『慿霊体質』を!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 暗い。

 

 暗くて、寒くて――何も、感じない。

 

 どうして――こんなことになったのだろう。

 なんで――こんなことになってしまったのだろう。

 

 僕は――何がしたかったのかな。

 僕は――何のために、何をしようとして、何ができなかったのかな。

 

 目を開けている筈なのに、何も見えない。

 耳を塞いでいない筈なのに、何も聞こえない。

 

 ただ――ずっしりと、僕の上に乗せられた、妹の死体の重さだけを感じる。

 

「………………」

 

 ごめん。

 ごめんな――こんなお兄ちゃんで。

 

 何がしたかったかも分からないし、何も出来なかったかもしれないけれど。

 

 それでも――僕は。

 

 僕は――それでも――お前のことだけは。

 

 ああ――何も感じないのに。何も、もう――感じたくもないのに。

 

 お前の、ぽっかりと空いたお腹から流れる――血の感触だけは、やけに鮮明に、何も出来なかった僕に、突き付けるように。

 

「………………?」

 

 血の――感触?

 

 血の感触を感じる。血の匂いも、その特有のぬめぬめとした感じも伝わる。

 

 妹の血は――まだ、固まっていない?

 

 まだ流れ続けている? 殺されてまだ、そんなに時間が経っていない?

 

 なら――まだ、可能性はあるのか? まだ――もしかしたら、助かるかもしれないのか?

 

 まだ――僕は。

 

 間に合うかも、しれないのか?

 

「…………………」

 

 そう、思ったのに。そう、思うことが出来たのに。

 

 僕の現実世界の身体は、僕の精神世界の心は――ピクリとも、その身体を、動かしてくれない。

 

「………………」

 

 ああ――分かっている。分かっているんだ。

 

 動かなくちゃいけないことも――だけど、動いても、無駄だということも。

 

 あれほど、無駄と分かっていても、赤の他人を助ける為なら――偽善だろうとも助けようとしていたのに。

 

 偽善だろうと、動くことが出来たのに。

 

 自分の家族を助ける――その時に限って、もう、心も体も、動けない。

 

 ここから一番近い避難所まで、果たしてどれくらいかかる?

 

 僕の身体は烏天狗に徹底的に嬲られて、もう指一本動かせないんだぞ。

 

 間に合ったとして、妹だけ助けるのか? 母は見捨てるのか?

 二人ともこの出血量だ。運んでいる最中に完全に亡くなる可能性の方が高い。この傷は避難所で助けられる重症度なのか。戦争も終盤だ。治療師も薬も枯渇している。そもそも烏天狗がそれを許す筈がない。僕の死んでいる心を更に折る為に目の前で更に惨たらしく止めを刺すに違いな――。

 

「………………」

 

 ああ――嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 死んでいる心から涙が出るのを止められない。

 

 助かるかもという希望を持つことが――辛くて耐えられない。

 母を、妹を、助ける為に動く理由を否定する自分が耐えられない。

 家族を助ける為に動かない理由を列挙することに腐心する自分が――余りに醜くて悍ましくて耐えらない。

 

 ああ――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 

 死にたい。

 

 死にたい。死にたい。死にたい。殺してくれ。殺してくれ。殺してくれ。

 

 もう――僕は。

 

「………………ごめん」

 

 ごめん。ごめん。ごめん。

 

 駄目なお兄ちゃんで――本当に、ごめんな。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その時――奇跡が起きた。

 

 否――奇跡ではなかったのかもしれない。

 

 例え、青年の心を折る為に。

 

 もう自力では一歩も動くことが出来ない青年の身体の上に、わざわざ烏天狗が、同じく一歩も動けない妹を運んで乗せたことが、偶然だとしても。

 

 たまたまその体勢が、お互いの手が重なり合うような状態であったのが、偶然だったとしても。

 

 そして、更にたまたま、青年の言う通り、殺されてからまだ間もない妹の身体が――ピクリと、僅かながら、動いたことも。

 

 もう、一歩も動けず、立ち上がれず、力も入らず。

 

 指一本動かせない青年の――指に。

 

 ピクリと、動かない筈の指が――妹の、指が。

 

 そっと――偶然、重なり合ったことも。

 

 そして――そして――そして。

 

 何の才能もない、ただ特異な体質を持っていた兄の――妹が。

 

 ほんの少し、呪力を流すことが、今わの際で出来るようになったということも。

 

 全ては偶然で――奇跡ではなない。

 

 しいて、理由をこじつけるのならば――きっと。

 

 それはきっと――たぶん、『愛』の力だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 世界が塗り替えられる。

 

 真っ暗な闇だけで、何も無かった世界が――変わる。

 

「な――なんだ!?」

 

 未だ顔を上げることしか出来ない僕は、ただそれを見ていることしか出来ない。

 

 何もなかった空間に――『家』が現れる。

 

 それはついさっきまで、そして――今、僕が現実世界で項垂れ続けているだあろう場所。

 

「――僕の……家……?」

 

 だが、その家は、未だ破壊されていなかった。

 

 家の中を真っ暗にし、布団の中で抱き合いながらガタガタと震えて――けれど、未だ生きている、未だ死んでいない、もはやこの世界でたった二人の家族。

 

「………なんで」

 

 これは――何だ。何が、一体、どうなっている?

 

 僕は何を見せられている。

 

 これから、一体、何が始まるんだ。

 

 ガタガタと、扉が揺れる音。

 身を竦める二人を安心させるように――あるいは絶望させるように、扉の前から言葉が届く。

 

「――大丈夫。家の前の妖怪は、みんな死にましたよ。安心して出てきてください。まぁ、お兄さんのお仲間の武士達も、ついでにみんな殺してしまいましたが」

 

 母を守るように立つ妹が――鋭い声色で誰何する。

 

 それに応えるように、敢えてゆっくりと扉を開けて、現れた影は――烏天狗(からすてんぐ)だった。

 

「な――!?」

 

 烏天狗――どうして。

 

 いや――まさか――そんな。

 

「私の事情で、お兄さんの心を壊す必要がありまして。その為にうってつけなので、貴女方には死んでもらおうかと思います。よろしくおねがいしますね」

 

 その言葉が言い終わる頃には、母の全身に烏の羽が突き刺さっていた。

 

 母上ッッ!! ――という妹のつんざくような叫びと、烏天狗の愉悦の哄笑が響き渡る。

 

 そして、僕が見つけたあの時のように、母が布団の上に寝転がるように倒れ込む。

 

「――――っ!!」

 

 僕と目が合った。

 

 いや、これはあくまで――きっと、記憶の世界で。

 

 だから僕は、ここにいるけど、ここにいない。

 

 しかし、それでも――母の顔は、あの時に見せられた、烏天狗の幻視そのもので。

 

 なら、もしかしたら――――あれは、烏天狗の作り出した幻、ではなく。

 

 僕が、母の死の瞬間を見ている衝撃と、悲しみと――そして恐怖で、思わず目を逸らしそうになっていると。

 

 今わの際の母は、まるで――僕のことが見えているかのように、涙を流しながら、言った。

 

「……ごめんなさい。最期まで……駄目な、お母さんで」

 

 それは、いつも傍で自分を守り続けてくれた、妹に向けられた言葉なのかもしれない。

 

 だが、ずっと自分を呪い続けていたと思っていた母の目には、薄れゆく命の中で――確かに、暖かい、愛があって。

 

「あなたたちは……私の誇り。……どうか、逃げて。……どうか――生き……て」

 

 母の命が消えた――それを見届けた瞬間、背後から妹の血が降り注いだ。

 

 ゆっくりと振り返ると、そこには倒れゆく妹の身体――そして、その向こう側に、愉悦に表情を染めた、烏天狗がいて。

 

「あ――」

 

 跪いたまま、立ち上がれないまま、それでも受け止めようとした――だが、薄っぺらい僕の身体は、あくまで幻だというように、僕の身体をすり抜けて、妹は僕が見つけたあの時と同じような体勢で、身体にぽっかりと空いた穴を見せつけるように倒れ伏せる。

 

「これで――準備は整いましたかね」

 

 烏天狗はそれだけ呟き、家を無残に破壊して、乱暴に殺害現場を後にした。

 

 残ったのは、母の死体と、妹の死体、動けない兄の幻と――そして。

 

『――――ごめんなさい、兄上』

 

 呆然と跪く兄を――見下ろすように。

 

 自分と同じく透けている、淡い光を放つ――綺麗な妹の姿があった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 烏天狗はその光景を驚愕と共に傍観していた。

 

(まさか、こんなことが――排除するか? いや、()()も私や彼と同じく只の精神体。あれを消す為には、改めて現実世界に戻り、死体に止めを刺さなくてはいけないが――)

 

 既に心の核の侵食を始めてしまっている烏天狗が現実世界に戻るには、この心の核から手を離さなくてはならない。その場合、どんな反発が起こるか予想出来ない。

 

(それに、あの精神体は既に相当に()()()()()。妹の方は、本体も正に虫の息だ。間もなく完全に死ぬでしょうね)

 

 ならば、今は一刻も早く心の核の支配を完了させるべき――そう考え、烏天狗は核に注ぎ込む妖力の出力を更に上げる。

 

 ガラガラと風景が崩れ落ち、再び只の闇へと戻ろうとしている精神世界に「――ごめん!!」と、青年の情けない叫びが木霊した。

 

「ごめん! ごめんな! 僕は――僕は、お前を! 母さんを!!」

『……ううん、いいの。兄上。私の方こそ――本当に、ごめんね』

 

 淡い光を放つ妹は、膝を曲げながら、跪く兄の顔を、優しく包み込みながら、淡い笑顔で言う。

 

『私、家を守れなかった。母上を守れなかった。――家を守るのは私だって、そう兄上と約束していたのに』

 

 兄の顔の血を、汚れを拭きながら――妹は、悲しげな笑顔で、慈しむように言う。

 

『兄上は――こんなにボロボロになるまで、私達の為に戦ってくれていたのに』

 

 兄は、妹の顔が直視出来ない。

 

 違う――違うんだよ、妹よ。

 

 兄は、ただ――何も出来ずに、何も成し遂げることなど出来ずに。

 

「……違う……違うんだよ……僕は――」

『――ううん。もう、いいの。兄上――もう、いいのよ』

 

 妹は、兄の顔を抱き締めながら、もういいのと、優しく包み込んで――許しを、与える。

 

『まだ、おにいちゃんは生きてるじゃない。もう、それだけでいいのよ』

「……ごめん。僕は……本当に……僕は」

 

 こんな時に至っても、立ち上がれない自分が許せなかった。

 

 どれだけ妹が許しをくれても、誰よりも己が許せなかった。

 

 だから――もう。

 

 僕は――もう。

 

『いいよ。戦わなくていい。私達の仇なんて討たなくていい』

 

 私達の為になんて、戦わなくていいから。

 

 妹は、そう微笑みながら、兄の情けない顔を真っ直ぐに見詰めて。

 

 祈るように――願うように、言い遺す。

 

『だから――生きて』

 

 戦わなくていい。立ち向かわなくていい。もう、ずっと、立ち上がれなくてもいいから。

 

 だから――どうか、と。淡い光が、無様な兄を包み込む。

 

『兄上だけでも――幸せになって』

 

 それは、優しくて残酷な呪いだった。

 

 偉大なる妹が兄に残す、呪いのような――愛だった。

 

 光の粒子となって兄を包み込んだ妹の精神体は、消失し――今度こそ、救いようもなく、死んだ。

 

(ああ――本当に、なんと偉大な妹だ)

 

 精神世界に入れたってことは、妹には呪力の才能があったということだ。

 今わの際に、何の修行もしていないのに、これまで自分が『慿霊空間(このせかい)』に導いた数多の英雄と同じ偉業を成し遂げて見せた。

 

(きちんと修行をさせてやれば……きっと、僕なんか及びもつかない戦士に――英雄にだって、なれた筈だ)

 

 僕が家に縛り付けなければ。僕が彼女に甘えて、何もかも押し付けて、その自由を――未来を奪った。

 

 幸せを――奪ったのだ。

 

 僕のせいで、妹は死んだ――そう、青年は唇を噛み締めて。

 

 けれど――()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――――ッッ!!!」

 

 青年は――立ち上がる。

 

 もう立ち上がらなくていいと、言われたからこそ、立ち上がる。

 

 もう戦わなくていいと――仇など取らなくていいと。

 

 そんな愛を貰ったからこそ、青年は――失った心を奮い立たせて、戦う決意を手に入れた。

 

「烏天狗――お前だけは許さない」

 

 心の核をドス黒く染めようとしていた妖怪を、こちらを不敵な笑みで見据えてくる怪物を。

 

 真っ直ぐに指差しながら、凡庸な兄は「僕は――お前に何も渡さない」と、殺意を込めて宣言する。

 

「――ブッ殺してやる」

 

 そして、世界が――眩く発光し、再びその景色を変える。

 




用語解説コーナー78

・青年の妹

 崩壊が確定していた家族を救った英雄。

 とても強く、とても賢く、とても優しく、とても可愛い少女だった。

 家族を心から愛していた為、家事を完璧にこなし続ける日々に不満などなかったが、人並に恋愛にも興味はあった為、兄と母が和解し自立したらお婿さんでも探そっかなくらいに思っていた。兄が悲観するほどこの時代の初婚年齢を過ぎていることを気にしていなかった。家柄ステータスは皆無だが、それでも結婚くらい出来ると思えるくらいには、自分のステータスを自覚していた少女だった。それに何よりもブラコンだった。

 そして、今わの際に判明した通り、呪力の才能もあった。
 兄程にレアな異能を持っているわけではないが、それでもこの時代の日ノ本においては特筆すべき才の持ち主であった――当然、全てを見透かす陰陽師は、この少女の才もまた見透かしていたが、それを見殺しにすることを選んだ。

 この少女の死によって――より特異な才が、覚醒することをも見透かしていたからだ。

 そして今――その特異極まる才能が、歪極まる羽を広げ始める。


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妖怪星人編――79 奇跡の子

――『リオン・ルージュ』。どこにでもいる、ただの女の子さ。


 

 吸血鬼一族は、古くから星々を渡り傭兵稼業を続ける戦闘種族だった。

 

 飛び抜けた肉体性能。

 蝙蝠のような羽による飛行能力。

 自身の影を媒体とする物質創造能力。

 どんな損傷もまるでなかったかのように回復する再生能力。

 そして、吸血による生命エネルギーの搾取、およびそれによる眷属創造。

 

 戦闘能力、繁殖能力共に飛び抜けていて、彼等はあらゆる星々を瞬く間に征服した。

 

 だが、そんな無敵のように思えた吸血鬼一族にも弱点があった。

 

 吸血鬼は総じて強力な能力を持つ反面――個体差が大きかった。

 

 四肢欠損はおろか頭部すらも容易く回復するが、心臓に杭を打たれれば死んでしまう者がいた。

 鉄の弾丸や鋼の刀は容易く弾き返すが、銀で出来た武器にはめっぽう弱い者がいた。

 どんな生物の血でも美味しく吸い尽くすのに、大蒜(にんにく)の匂いを嗅ぐだけで失神する者がいた。

 中には、他人の許可なく家屋に侵入出来ないものや、流れる水を渡れないなどという制約をもって生まれる者までもが現れたこともあった。

 

 そして、最大にして最悪の弱点――無敵に思える吸血鬼を、完全に滅ぼし得る唯一のもの。

 

 それが太陽の光であった。

 どれほど強靭で、弱点となる制約を全く持たずに生まれてくるエリートの中のエリートな吸血鬼でも、日光だけは克服することは出来なかった。

 

 だからこそ、吸血鬼は夜の王と呼ばれるようになった。

 夜の支配者――ナイトウォーカー。

 

 日が沈み、太陽がいなくなると、どこからともなく吸血鬼が現れる。

 数々の星々でそう畏れられ、彼等は瞬く間に夜の支配者から星の支配者へと登り詰めていった。

 

 だが、そんな彼等にも、避けられない未来があった。

 日光以外にも、彼等を滅ぼし得る、致命的な欠陥が存在した。

 

 それが――吸血衝動。

 吸血鬼を吸血鬼たらしめている固有衝動。

 

 生物が生物であるが故の、生殖衝動にして摂食衝動。

 

 吸血鬼は、血を吸わなければ、生きていけないのである。

 

 彼等は数々の星々を渡り歩いた。

 瞬く間に星を支配し――そして、食べ尽くした。

 

 吸血鬼の吸血は摂食行為にして生殖行為。

 搾り尽すか、生み出すか。

 前者は食糧を減らし、後者は消費を増やす。

 

 結果、彼等はその星の食糧たる他種族を全て滅ぼして――また次の星へと向かう。そんなサイクルを繰り返し続けていた。

 

 そんな、ある時――当代の種族長たる男は悟った。

 

 このままでは未来がない。

 遠からず内に、吸血鬼という種族は滅びてしまう。

 

 星々を渡るにつれて、行き場所を失っていた吸血鬼は、みるみる内に――憎き太陽へと近付いていることは分かっていた。

 

 いずれ、逃げられなくなる時が来る――この太陽の光から。

 我等が住まう夜が失われる、その時は目前まで迫っている。

 

 長たる彼は、次の移住を最後にしようと決めた。

 共存するのだと。

 他種族を支配し、食糧として管理するのではない。

 

 共存し、共栄する。

 互いに互いを助け合う関係を構築するのだと――長は、その星へと辿り着いた時、そう決断した。

 

 星の名前は――月。

 憎き太陽の光が、美しく青く輝かせる惑星の衛星である、この小さな星を。

 

 吸血鬼の終の住処にすると、当代の吸血鬼種族の長――ヴィル・ルージュは、そう決死の覚悟で臨んでいた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 種族史上初となる鮮血が飛び交わない会談の結果、吸血鬼種族は月の都市郊外に集落を作り生活することとなった。

 

 種族内からは差別的な隔離だという抗議の声もあったが、ヴィルはそれを無理矢理に抑え込んだ。

 吸血鬼にはこれまで数多くの星を滅ぼした実績があるのだ。恐れるのは当然――これからの働きで信頼を勝ち取るしかないと説得した。

 

 ヴィルは、吸血鬼達の同胞の食糧として、月の民から定期的に輸血を受け取る代わりに、月の民を異星人からの侵略から、月の民によって整備されている軍勢と共に戦う傭兵稼業を請け負うという契約を結んだ。

 

 吸血鬼の戦闘力は既に伝説として星々に轟いている。

 他に出来ることもない以上、戦争屋として星に貢献する以外の道はなかった。

 

 宇宙を渡り他の星を侵略することを生業としているのは吸血鬼だけではない。

 吸血鬼のように生きる為に資源を必要としているもの、住んでいた星を追われたもの、新たな天地を探すもの、単純な好奇心による冒険を夢見るもの、理由は様々だが、それでも定期的に異星人は襲来してくる。

 

 その全てが、当然ながら友好的な関係を築けるもの達ではない。

 

 戦わなければならない――戦争は、起きる。

 その時に、誰よりも頼りになるのが自分達なのだと示す――それがヴィル・ルージュの計画であった。

 

 いつか、必ず都市の中で共に暮らせる時が来る――そう信じ、そう説得し、そして。

 

 

 時が経つにつれ――吸血鬼の集落は、高い高い壁に囲まれていった。

 

 

 そんな中、吸血鬼一族の中で――奇跡の子が誕生する。

 

 長であるヴィルとその妻の間に、およそ有り得ないとされる、吸血鬼同士の吸血ではない性行為による生殖から生まれた生命。

 

 それは――双子だった。

 姉・リオンと、妹・ローラ。

 

 英雄の子たる奇跡の子の誕生が、吸血鬼一族に、更なる変革と――終焉を齎すことになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 吸血鬼は、異星人の侵略が発生する度に戦場に駆り出され――圧倒的な戦闘力を示し続けていった。

 

 それは、戦争に慣れていない月の民から見れば、余りにも凄惨で――悍ましく、残酷で。

 

 吸血鬼の評価は高まるどころか、その恐怖は増大していく一方だった。

 

 そして、一向に改善しない吸血鬼への待遇に、長であるヴィルへの猜疑心も一族の中で高まっていったが、圧倒的な強さを誇るヴィルへ直接的に叛旗を翻すものは居らず――その不満は、いつまでも吸血鬼を認めようとしない月の民へと向かうことになる。

 

 やがて、吸血鬼の中で、月の民に危害を加えるものが現れた。

 それは差別からの抵抗であったり、仲間を害された叛逆であったり、あるいは単純にストレスの解消に利用したりと様々であったが――。

 

 ヴィルは、その全てを許さず――その全員を処刑した。

 

 方法は火炙りならぬ――日炙りであった。

 

 太陽の光が当たる場所に柱へ縛りながら放置し、その吸血鬼の再生力が尽きるまで、どれだけ同胞が絶叫し泣き喚こうとも許さず最後まで灼ききるという凄惨極まりないものだった。

 

 日陰にて吸血鬼の他の同胞全員にその様を目撃させ、月の住人達が野次馬として傍観する中で。

 

 己もすぐ傍で、同じく太陽に灼かれながら。

 

 想像を絶する光景であった。

 処刑される吸血鬼は、日光に肉を焼かれ、炎に包まれながら地獄の苦しみに絶叫し、許しを請い、恨みや憎しみを叫び散らす中。

 

 すぐ傍で同じように灼かれるヴィルは、一切の叫びもなく、ただただ無言で己が処刑している同胞を見詰め――けれど、一切の手心を加えない。

 

 やがて、同胞が灰になって消える中、一族で最高の再生力を誇るヴィルは、身体を燃やしたまま、日陰で同じような処刑を見守った同胞の下へ、野次馬として集まった月の民の下へ戻ってくる。

 

 それには、様々な意味があっただろう。

 噴出しそうになる月の民の吸血鬼への反感情の抑制や、暴走しそうになる吸血鬼の同胞への見せしめなど。

 

 そんな父のパフォーマンスや、一切の表情を崩さないその仮面の内側にて渦巻いているであろう様々の感情に。

 

 彼の双子の娘は――姉は冷たく醒めた眼を向けて。

 妹は表情をぐちゃぐちゃに歪めて――憎悪の篭った目を、月の民へと向ける。

 

 姉は、そんな妹にも――冷たく醒めた眼を向けていた。

 

 

 そして、双子が大人になった頃――父が死んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 吸血鬼の英雄――ヴィル・ルージュの死は、月の民に、そして吸血鬼一族に大きな混乱を呼ぶことになる。

 

 その日も、いつもの戦争であった筈だった。

 

 だが、その時の異星人は、戦闘民族たる吸血鬼と並び立つような、恐ろしく強大な大軍であった。

 

 ヴィルは吸血鬼の同胞の同行を許さなかった。

 全て、自分だけで片付けるからと。

 

 結果として、ヴィルと月の軍勢のみで迎撃に当たった。

 

 しかし――月の軍は、ヴィルと異星人の戦いに、一切の加勢をしなかった。

 

 出来なかった――といってもいい。

 彼等にとっては余りにもレベルの違う戦場で、ただ突っ込んでも犬死するということが明らかであったし。

 

 何より――怖かった。

 かつてないほど強大であった異星人も――それと単独で戦い続ける、ヴィル・ルージュという吸血鬼の、文字通りの鬼の形相も。

 

 怖くて、恐ろしくて、堪らず。

 

 結果――ヴィルが敵の異星人を根絶やしにしたと同時に訪れた夜明けと共に、朝日を浴びたヴィルは灰となって死んだ。

 

 あれほどまでに太陽を浴び続けても健在だった吸血鬼の英雄は、もはや日の出の陽光にすら耐えられない程に――限界だった。

 

 戦い、戦い、戦い続けた英雄は。

 同胞を守る為に同胞を殺し続けた――長の身体と、そして心は、既に限界を迎えていた。

 

 月の戦士曰く、とても穏やかな死に顔であったという。

 

 その報せを受けて、彼の双子の娘は――姉の方は、やはり冷たく白けた瞳を向けて。

 

 妹の方は――激昂し、奮起した。

 

 クーデターを起こすと、妹は宣言した。

 今こそ吸血鬼種族一丸となり、迫害を続ける月の住人を支配下に置くのだと。ヴィルが健在であった時から息を潜めていた反月勢力を纏め上げて、一斉蜂起するのだと。

 

 それに対し、姉は冷たく言った。

 これまでの愚かな歴史の二の舞だと。力で支配しても、反抗勢力は決してなくならない。結果的に食糧たる他種族を根絶やしにし、また星を渡ることになるのが関の山だと。

 

 姉と妹は対立し、妹は――姉に言った。

 

「私達は、双子で生まれてくるべきじゃなかった」

 

 そもそも吸血鬼の子というだけでも本来はあり得ない確率だ。

 吸血鬼のベーシックな繁栄方法は間違いなく吸血であり、性行為は吸血鬼にとって只の娯楽に過ぎない。

 

 にも関わらず、吸血鬼の女の胎に生命が芽生え――子が生まれた。

 

 生まれた双子は、英雄たるヴィル以上の力を備えていた。

 それこそ弱点など陽光しかなく、それ以外の能力も桁違いだった。

 

 正しく――吸血鬼を救う奇跡の子だと。

 

「奇跡の子は――二人もいらなかった」

 

 生まれる前まで双子だと判別されていなかった為に、子に与えられるべく準備された名前は、一つだけだった。

 

 奇跡の子に捧げるべく用意されていた名――『リオン・ルージュ』。

 

「吸血鬼に必要なのは、『リオン・ルージュ』だけだった」

 

 もう後戻りが出来ない程に、追い詰められた吸血鬼という種族――それを救ってくれと、願われて、望まれた存在。

 

 生まれるべきは、それを成し遂げる『リオン・ルージュ(奇跡の子)』だけだったと。

 

「私が、このクーデターで証明してみせる。私こそが、『リオン・ルージュ』に相応しい、生まれるべくして生まれた奇跡の子だと」

 

 双子は天才だった。双子は無敵だった。双子は最強だった。

 

 だけど、『リオン・ルージュ』はひとりでいい。

 

 より天才で、より無敵で、より最強である――ひとりだけでいいと。

 

 そう言い残し、妹は部屋を出て行った。

 

 姉妹に用意された子供部屋。

 

 妹は父が大好きだった。英雄たる父を尊敬し、いつも後ろを付いて回っていた。

 

 対して――姉は怠惰だった。

 部屋を出て行く妹をいつも見送り、ひとりで寝るには大きすぎるこのベッドの上で、いつもだらだらと過ごしていた。

 

 だから、その日も――姉だけが、それを目撃していた。

 

 大きすぎる子供部屋に、電子線と共に現れた――その黒い球体の降臨を。

 

 そして妹は、その子供部屋に戻ることなく――翌日にクーデターを起こした。

 

 月の住人が次々と殺戮され、その死人達は。

 

 この子供部屋――『黒い球体の部屋』へと回収された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 奇跡の双子の子供部屋に過ぎなかった筈のその部屋は、今や阿鼻叫喚の混乱の渦に叩き込まれていた。

 

 突如として発生した吸血鬼一族によるクーデター。

 訳も分からないまま殺されたと思ったら、気が付いたら見たこともない部屋に居て――見たこともない無機質な黒い球体と、見たこともない吸血鬼の美女だけがいた。

 

 現状をまともに把握できるものすらいない。

 訳も分からず紅蓮髪の美女に向かって斬り掛かり――返り討ちにあって部屋の滲みになるものもいた。その滲みも、黒い球体が電子線と共にすぐに消し去るのだから、もうわけがわからなかった。

 

 ようやく事態が動いたのは、短い黒い髪の美女が戦士としてこの部屋に現れた後だった。

 その黒髪の美女も初めは混乱していたが、少なくとも分からないなりに、現状を把握しようと努める冷静さと器を持っていた。

 

 だからこそ、紅蓮髪の美女は、彼女だけには、己の知っていることと、これから起こることの推測を語ることが出来た。

 

「無様に殺されたあなた達は、これからもう一度、私の妹達と戦うことになるらしい。その為に、この黒い球体に戦士(キャラクター)として回収されたみたいだね」

 

 紅蓮髪の美女は、突如として現れた謎の黒い球体を、久々に手に入った新しい玩具として一晩遊び尽くしていた。

 

 目の前の黒い球体自体には何の記録(メモリー)も残っていなかったが、これがある一定の機構で作成された『量産品』であることを早々に見抜き、基本的なルールと使い方は把握することに成功していた。

 

「これは、対異星人用の迎撃装置だ。何処からか吸血鬼の英雄たる父が死んだことで、こうして愚かな妹がクーデターを起こすこと察知した『何者』かが、新しい傭兵作成装置として送り込んだって所じゃないかな?」

 

 その新製品の標的(ターゲット)の第一弾が、前任者たる吸血鬼っていうのは皮肉な話だけどね――と、紅蓮髪の美女は冷たく告げる。

 

 無論、その推理に関しても罵詈雑言の反論と混乱の嵐だったが、紅蓮髪の美女はそれに一切構わずに、会話はこいつとしかするつもりはないと言わんばかりに、黒髪の美女の方だけを向いて話した。

 

 この黒い球体は、死人を戦士として回収し使用すること、そして戦士を標的のいる戦場に送り込み戦争をさせること、その為の漆黒の武器と鎧を提供すること、強い標的を倒せば点数が貰えること、そして、戦士の役目から解放される為には点数を集めなければならないことと、戦争で死ねば――今度こそ本当に死ぬことになるということ。

 

 紅蓮髪の美女の、推測でしかない筈の言葉に、いつしか回収された月の民達は口を閉ざしていた。

 

 彼女の言葉は、只の推測でしかない筈なのに――それを真実だと有無を言わせずに理解させる、圧倒的なカリスマ性に満ちていて。

 

「――そう。あなたが、噂の『奇跡の子』ね。てっきり、私を殺した『あの子』のことだと思っていたけれど」

 

 どっちも合っているし、どっちも間違っているねと嗤う紅蓮髪の美女に、黒髪の美女は言う。

 

「……例え、あなたの言葉が正しいのだとしても、同じことよ。その黒い球体が鎧やら武器やらを貸し出してくれたところで、初めて使う慣れない武器を持って、もう一度あの戦場に送られても、何も変わらない。とてもじゃないけど、月の民(わたしたち)が吸血鬼に勝てるとは思えない。あっさりともう一度、今度こそしっかりと殺されるだけよ」

 

 黒髪の美女の言葉に、紅蓮髪の美女は――冷たく笑って、何もかも見透かしているかのようにつまらなげに、平淡に、まるで分かり切ったテストに応えるかのように言う。

 

「なら、僕が戦士(きみたち)を『操作(プレイ)』してあげるよ」

 

 そう言って紅蓮髪の美女は、黒い球体に向かって戦場をモニター出来る画面を用意出来るかと問うと――黒い球体は電子線を虚空に向かって放ち、今、正に地獄絵図となっている月の都を映し出す。

 

 そこには――紅蓮髪の美女と瓜二つの、正しく化物と呼ぶに相応しい暴れっぷりを披露している黄金髪の吸血鬼がいた。

 

 紅蓮髪の美女は、それを冷たく見据えて、なら、ついでに『黒い球体の部屋(ここ)』から僕が指示を送れるようなイヤホンを人数分用意してというと、再び電子線が黒い球体から照射され、真っ黒なワイヤレスイヤホンが戦士の人数分だけ作り出される。

 

「僕が『黒い球体の部屋(ここ)』から戦士(キャラクター)達に指示を出す。君達はそれ通りに動けばいい。それだけで、僕が君達を恐るべき吸血鬼から救ってあげるよ」

「ちょ、ちょっと待って――」

 

 何かを言い掛ける黒髪の美女の言葉に「どうせうだうだ言っても戦士(きみ)達は戦争(ミッション)に送られるんだ。君の言う通り、ただ送られるだけならどうせ死ぬだけっていうなら、騙されたと思って僕の言う通りに動いてもいいんじゃない」とつまらなげに言う。「まあ、ただただ普通に死にたいっていうなら、別にそれでもいいけどさ」と付け加えて。

 

「そうじゃなくて――どうして? そんなことをしてくれるの?」

 

 黒髪の美女は、そう、畏れの篭った言葉で言う。

 

 まるで、父――ヴィル・ルージュが披露していた、あの同胞の処刑を眺めていた月の民と、同じ種類の視線を――紅蓮髪の美女に向けながら。

 

「……別に」

 

 紅蓮髪の美女は、目線を切って、ただそう口にする。

 

「どうでもいいんだよ。答えが分かり切っているもの程、つまらないものはない」

 

 それ以上、何も答えるつもりはないと、紅蓮髪の美女はベッドに寝っ転がりながら「ただし、無論、条件がある」と指を立てて言う。

 

「君はそれなりに優秀そうだし、月の民の中でもそれなりの地位にいるんだろう? 今回のことで、僕以外の吸血鬼は絶滅するだろう。みんなもれなく馬鹿な妹に唆されたからね。だから、その後の僕の保護を頼みたいんだ」

 

 安心してよ、僕は君達を支配するなんて、つまらないことは企まないから――そう言う紅蓮髪の美女に、信用出来るかという野次が飛ぶ。

 紅蓮髪の美女は、それを目線一つで黙らせながら「……月の民(きみたち)に選択肢はないと思うけどなぁ」と、冷たく言う。

 

「その気になれば、僕ひとりで今回の妹のクーデター以上のことも可能だ。そもそも、今回の『吸血鬼退治』の後、月の民(きみたち)はどうやって異星人(がいてき)から身を守るつもりだい? 吸血鬼も、そして、その黒い球体も無しに、月の民(きみたち)は、(きみたちの星)を守れるのかい?」

 

 紅蓮髪の美女の言葉に、何も言い返すことも出来ない一同に、紅蓮髪の美女は吐き捨てるように言う。

 

「忘れるなよ。これは僕の為じゃない。月の民(おまえたち)の為の契約なんだ」

 

 今更ながらに、彼等は恐怖した。

 

 とんでもない怪物と、密室に同室させられているのだという事実に。

 

 もう、誰も、口を開ける者などいなかった――ただひとり、その黒髪の美女を除いては。

 

「――分かった。約束するわ。だけど、それも全て、ここで私が生き残らなければ何も始まらないわよ」

 

 紅蓮髪の美女は、それを見て、気に入ったと言わんばかりに、彼女に向かって名前を尋ねる。

 

輝夜(かぐや)よ――私の名前。私の名前と生命。それからついでに星の未来。纏めてあなたに預けるわ」

 

 それで、あなたの名前は――そう問うかぐやに、紅蓮髪の美女は、一度だけ閉口し。

 

 妹の言葉を思い出して――告げる。

 

「――『リオン・ルージュ』。どこにでもいる、ただの女の子の、つまらない称号(なまえ)さ」

 




用語解説コーナー79

・吸血鬼の英雄

 ヴィル・ルージュ。
 吸血鬼の長い歴史の中でも屈指の強さを誇り、その別格の戦闘力で以て、これまで何度も種族の危機を救った英雄である。

 頭脳も聡明であり――それ故に、吸血鬼種族の刹那的な生き方が長く続かないことを悟り、長となった時、これまで歴代の吸血鬼達が発想さえもしなかった、他種族との共存共栄の方策を打ち出した。

 彼の唯一の欠点は口下手なことであった。
 例え、側近や家族にすらも自身の考えを多く語ることはなく、その無言の背中で以て他者を引っ張るリーダーであった。
 
 こうと決めたら決してブレることはなく、時には苛烈とも思える行動を取って周囲を怯えさせるが――実際の彼はとても愛に溢れていて、吸血鬼としては珍しいことに愛する女と婚姻関係を結び、娯楽ではなく愛を持って生殖行為に及んでいた。

 結果、偉大なる英雄である彼の『血』を、文字通りに受け継いだ『奇跡の子』が生まれることになる。

 だが、その奇跡の子は、とある青い国の島国においては凶兆とされる――『双子』だった。

 そして、英雄の死は、英雄の血を継いだ奇跡の双子は――英雄が愛した家族を、吸血鬼という種族に。

 皮肉にも、悲劇にも――終焉を齎すことになる。


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妖怪星人編――80 ファーストキス

もう二度と――食べたくないな。


 

 そして――誰もいなくなった、真っ暗な子供部屋で。

 

 黒い球体の部屋となった、無機質な空間で、リオンは黒い球体が映し出すモニターを眺めていた。

 

 不健康そうな青白い光だけが、彼女の美しい顔と髪を照らし出す。

 

「――そう。その後は、そのビルの出入り口を塞ぐんだ。水道管を破裂させて。中にいる吸血鬼はみな流水が弱点だから、後は溺死するのを待つだけでいい」

 

 文字通り、戦争(ゲーム)戦士(キャラクター)を『操作』するように、ぶつぶつとリオンは独り言を呟く。

 

 自分以外は誰もいない部屋に引き籠って――死んだような瞳で『戦争(ゲーム)』で遊ぶ。

 

「――うん。そうすれば後は、その区画に追い詰めた吸血鬼は、みんな十字架が弱点だ。一斉に突入して。十字架を突き付けながらならXガンでも殺せる筈。念の為、その通りにある破壊されたショップから銀の食器も持っていくといい。弱り切った彼等なら、それで頸の血管を切るだけで殺せる」

 

 思えば、自分達『双子』は、昔から仲が悪かった。

 この部屋で一緒に寝て、一緒に遊んだりしたのは数える程だ。妹はいつも父親のベッドに潜り込んで寝ていた。

 

 そう――何も変わらない。

 

 これからもずっと――自分は、この部屋の中で生きて、この部屋で死ぬのだろう。

 

「……私達には、この世界は(ひろ)すぎたんだよ――ローラ」

 

 そして、いつしかモニターには、最後に残された吸血鬼である妹が、満身創痍の戦士達に、それ以上の満身創痍の姿で取り囲まれている景色が映し出されていた。

 

『は――はは―――ははは――――はははは―――――はははははははははははははははははははははは!!!!』

 

 容姿は複製(コピー)のように瓜二つなのに、性格も考え方も何一つ似なかった双子だけれど。

 

 それでも――笑い方だけは、似た――いや。

 

 そう考えて――そもそも『(わたし)』は、あんな風にお腹の底から笑ったことなどないのだと思い至った。

 

『――お姉ちゃん! どこからか見ているんでしょう!! こんなことが出来るのは――宇宙でアナタしかいないものねぇ!!』

 

 ローラ・ルージュは――リオン・ルージュになれなかった奇跡の片割れは、黒衣の戦士に囲まれながら、薄くなった夜空に向かって叫ぶ。

 

『アナタには、私がさぞかし滑稽に見えていたのでしょう! いいえ、私だけじゃない! 他の吸血鬼も、お母様も! あのお父様さえも!! 月の民も、この黒衣達も――アナタにとっては、この宇宙すべてが滑稽で! つまらなくてつまらなくてつまらなくて仕方がないのでしょう!!』

 

 余りに天才で、余りに最強で、余りに無敵なアナタには。

 

 私よりも天才で、私よりも最強で、私よりも無敵な――『リオン・ルージュ』には!!

 

『認めましょう! あなたこそが『リオン・ルージュ』!! 要らない子は私だった!! でもね――今、私は最高の気分よ、お姉ちゃん!!』

 

 そう言って、まるで見えているかのように、モニター越しに真っ直ぐ目を合わせた『妹』は――『姉』に向かって、奇跡の子たる『リオン・ルージュ』に向けて、勝ち誇りながら笑う。

 

『私は今日! 最高に楽しかった!! 生まれて初めて全力で暴れることが出来て、生まれて初めて――スッキリしたわ!! あなたのお陰よ、お姉ちゃん!!』

 

 夜が明ける。

 

 眩い陽光が――まるでディストピアのように、崩壊した月の都を照らし出す。

 

 だが――それでも、星は未だ健在である。

 ローラ・ルージュという怪物が、全力を尽くして暴れても、未だに月は浮かんでいる。

 

 黒衣の誰もが、今や理解していた。

 

 この星が、未だ健在なのは――リオン・ルージュのお陰だと。

 

 この星には、我らが星には――リオン・ルージュが、必要なのだと。

 

 自分達でも、どうして勝てたのかまるで分からない――ローラ・ルージュという怪物が、陽光によって焼かれていく。

 

『最高の気分で殺してくれてありがとうお姉ちゃん!! でも、一つだけ残念だわ――どうせ死ぬのなら!! 私はアナタに食べられて死にたかった!!』

 

 本来はひとつであった筈の生命。

 リオン・ルージュになれなかったローラ・ルージュ。

 

 だから、もし、叶うのなら――『姉』に食べられて、一つになって、『妹』ではなく。

 

『私も――『リオン・ルージュ(あなたのよう)』に、なりたかった…………』

 

 そして、ローラ・ルージュという、本来はいなかった筈の『妹』は死んだ。

 

 黒い球体が映し出すモニター越しに、その死に様を、末期の言葉を聞いたリオンは。

 

「……………」

 

 ヘッドホンを外し、「消して」と冷たく黒い球体に命じてモニタを落して、そして――ゆっくりと立ち上がり。

 

 陽光を拒絶するように――現実を拒絶するように。

 

 部屋のカーテンを閉め切って、広過ぎる冷たいベッドの中に潜った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――今。

 

 月を飛び出して辿り着いた、青い惑星の地面の上で。

 

 かつて自分が死んだ場所、赤く変わり果てた月を見上げながら――あの時の願いが叶えられる瞬間に、ローラ・ルージュの複製(クローン)は歓喜に表情を歪めている。

 

「――何がおかしいんだい?」

「分かるでしょう? おかしいんじゃなくてうれしいのよ。ようやく、私の願いが叶うのだから」

 

 きっと、この時の為に、私は蘇ってきたのね――と、召喚直後の記憶障害から、あるいは自ら願いを込めた自己暗示から完全に解けたらしい、『黒いローラ』が呟くと。

 

 紅いリオンは――真なるリオン・ルージュは、その言葉を、かつてのように冷たい眼差しで否定する。

 

「違う。君が複製されたのは、僕を殺す為に刺客として送り込む為だ。こうしてその使命は果たせぬまま、君はまた死ぬんだけどね」

「あらあら、どうしたのよ、お姉ちゃん。あの時みたいにつまらなそうな顔をして。さっきまでのお姉ちゃんはあんなに楽しそうだったのに」

 

 楽しかったでしょう。全力で遊ぶのは。さっきまでのあなたは、あの時の私のように、本当に楽しそうだったわ――そう、自分と全く似ていない本来の喋り方で、ローラは嬉しそうに笑う。

 

「………何が、おかしいんだよ」

「だから、おかしいんじゃなくてうれしいのよ。吸血鬼(わたしたち)が自由になるのを、吸血鬼(わたしたち)を皆殺しにしてまで止めたお姉ちゃんが、自分だけは楽しく自由を謳歌しているのが、うれしくて仕方ないの」

 

 ねぇ、お姉ちゃん――と、自分に跨る姉の頬を、優しく撫でながらローラは言う

 

「どうしたの? 私の願いを叶えてくれるのではないの?」

 

 初めてじゃないでしょう――(わたし)を殺すのは。

 

 そう言って淑やかに微笑む妹に、姉は――泣きそうな、微笑みを返す。

 

「どう? 自分だけ自由を得た感想は?」

 

 ローラの綺麗な微笑みに――リオンは、まるで口を塞ぐように、やさしく手を添えて。

 

「ああ――最高の気分()()()よ」

 

 リオンは、生まれて初めての吸血(ファーストキス)を、妹に捧げた。

 

「…………………………ぁぁ」

 

 生まれた時には既に父が整えてくれた『輸血制度』があったリオンは、その牙を他者の首に突き付けた経験がなかった。

 

 リオンの強過ぎる力は、誰もリオンに匹敵する眷属となる資格を与えず、当然ながら眷属作りの為の吸血もない。

 

 唯一、自分と同じ世界を共有してくれる筈だった妹は、こうして自分が殺している。

 

 これで二度目だ――妹を殺すのは。

 

 自分と同じ顔で、自分と同じ――飢えと渇きを共有していた、『魂の片割れ(もうひとりのぼく)』を殺すのは。

 

「………………どう? 美味しい?」

 

 ローラは、まるで乳を吸う赤子をあやすように、自分の首元に埋まる姉の頭を撫でる。

 

「大丈夫。大丈夫よ。アナタが自由である限り、黒い球体は何度でも『(わたし)』を『(あなた)』に派遣するでしょう。楽しい楽しい自由を味わえて、美味しい美味しい『(わたし)』も味わえる。ああ――まるで、夢のようね」

 

 あ――と、まるで体の痺れを堪えるように、吸血の快感に、ローラはリオンの紅蓮の髪を握り締めながら言う。

 

「――――今度こそ、さようなら、お姉ちゃん。……それと、また、逢いましょう」

 

 その言葉を最後に、ローラは何も言葉を発さなくなった。

 

 ぐちゃぐちゃと、むしゃむしゃと、リオンは妹の全てを味わい尽くし、生まれて初めての吸血を終えて。

 

 口元を妹の血と肉で汚し、身体を妹だった灰で汚しながら。

 

 血の涙を流して――リオンは呟く。

 

「……うん。美味しかったよ、ローラ。泣きたくなるくらいに」

 

 だけど――と。

 

 リオンは、真っ赤な月を見上げながら言う。

 

「もう二度と――食べたくないな」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――そんな姉妹喧嘩の決着を。

 

 天才の双子の、無敵の双子の、最強の双子の――凄惨な決着を。

 

 かつて、この部屋で、今、画面に映っている紅蓮の美女が見届けたのと同じように――『黒い球体の部屋』で、主がいなくなった子供部屋で。

 

 黒い球体が映し出すモニタを――藤原道長と、かぐやの二人が見届けていた。

 

「…………………っっっっ!!」

 

 かつて、かぐやはこの画面の中にいた。

 

 己も含めた黒衣の戦士達が、今、画面に映っている『奇跡の子』の『操作(しじ)』によって、動かされている自分達には到底理解不可能な軍事作戦を遂行したことによって――討伐に成功した奇跡の子の片割れ、ローラ・ルージュの死に様を。

 

 自分は、誰よりも近くで、真正面から、かの『妹』が灰になるのを目撃していた。

 

(……あの時、あの子は、『子供部屋(ここ)』で……どんな――気持ちで――)

 

 妹の複製の灰を浴びながら、妹の血と肉で汚れた口元を拭っているリオンを、かぐやが胸を押さえながら見遣っていると。

 

 隣に立つ道長が「――決着は付いたな」と、黒い球体に向かって語り掛ける。

 

「さて、どうする、黒い球体(がんつ)。刺客殿の遺言通り、勝てるまで刺客(かのじょ)を送り続けるか?」

「ッ! 待って、それはダメ!!」

 

 かぐやは全力で道長の言葉を、ローラ・ルージュの複製(クローン)の遺言を拒絶する。

 

「おねがい……GANTZ……それだけは――それだけは、やめて……ッ!」

 

 リオン(あのこ)は言った――もう、妹を食べ(殺し)たくないと。

 

 今まで、かぐやは――そして月の民は、リオン・ルージュに星そのものの重みを押し付けてきた。

 

 もう、これ以上――あの天才で、無敵で、最強()()()の女の子を、苦しめることはしたくない。

 

 かぐやが、そう涙ながらに、黒い球体にしがみ付きながら懇願すると。

 

 黒い球体は、再び、己の表面に文字列を浮かべる。

 

『 じ や あ どー する です?』

 

 GANTZはモニタを消し、真っ暗な部屋の中で、ただ淡い光源となる文字で――問い詰める。

 

 己が守護(まも)るべきと()()()()()、月の民の代表者に向かって。

 

『これ から  どーす る つも り デス?』

「………それは――」

 

 かぐやにはGANTZが言いたいことが分かっていた。

 

 奇しくも、あの日、リオンがこの部屋でかぐやに向かって問い掛けた事柄が、長い年月を経て、再びかぐやに向かって問い掛けられている。

 

 吸血鬼一族を失い――そして、今、リオン・ルージュまで失って。

 

 これから、どうやって、異星人と戦っていくのかと。

 

(……本当は、私がリオンの代わりを務めるつもりだった。リオンの操作ありきとはいえ、実際に現場たる戦場に立って、任務をこなしてきたのは私だったのだから)

 

 実際にリオンもかぐやをエースのような立ち位置に置きながら、戦士の操作を行っていた。

 

 これまで数多の戦士をフォローしながら、『卒業』に導いてきた自負もある。

 やれると思っていた。自信もあった。だからリオンを部屋から解放するという選択に踏み込めた。そのこと自体に後悔はない。

 

 けれど――リオン解放からの初めての実戦において、リオンの操作がない戦士達は、横に立つ藤原道長が引き連れてきた『白虎』と『天空』、たった二体の怪物に成す術もなく蹂躙された。

 

(……まさか、あそこまでみんな自分で考えて動けないとは思わなかった。私が実質的に戦闘に参加していなかったとはいえ――今、部屋に残っている戦士達は、みんな誰かの指示がなければまともに戦うことも出来ない)

 

 かぐやも、次回の異星人の襲来時、全く別の星人と戦争(ミッション)となった時、あんな有様の戦士達を現場で指揮しながら勝利に導けるかと問われたら自信がない。しかもこの部屋に残ってモニタで全体を俯瞰しつつ操作するというわけでもないのだ。かといって、現場にエースのかぐやが向かわないということは有り得ない。

 

(だからこそ、それが分かっているから、GANTZはリオンを殺して、最低でも()()()()()()()()()()としたんだ。……本当に、月は、この星は、リオンという箱入り姫によって支えられていた)

 

 それを痛感したからこそ、かぐやは何も口に出すことは出来ない。

 

『あのこ の  かわ  り  い る  DEATH ?』

 

 ギュッと目を瞑り、それでも――と、叫ぼうとしたかぐやの口を閉じるように。

 

「黒い球体よ。()()()、とやらを、もう一度出してくれ」

 

 かぐやの肩に手を置いた道長が、黒い球体に向かって言う。

 

「ただし、映すのは平安京ではない。先程まで私が居た場所――私が死んだ場所だ」

 

 なにを――と、瞳に涙を浮かべたかぐやは、道長の言葉の意味が分からず混乱する。

 

 黒い球体は、文字列を己の中に吸い込ませて――再び虚空にモニタを表示する。

 

「………………え?」

 

 映し出されたそこは、先程までかぐや達がいた、藤原道長一行の月面着陸地点。

 

 月の都の郊外であるこの場所は、これまで数多の異星人を迎え撃ってきた月の戦士達のお得意の戦場。

 

 そこには、かぐや以外の黒衣の戦士達が、そして、天翔ける白馬と、巨大な白い虎――そして。

 

 五体満足で立っている、()()()()の姿があった。

 

「――――なん……で?」

 

 かぐやは、思わず、傍らに立つ道長を見上げた。

 

 まるで――幽霊でも、見るかのような目で。

 

「……どうやら、我が『右腕』は、値千金の奇跡を成し遂げて見せたようだ」

 

 私も負けてはいられないな――そう言って、道長は顔面を蒼白させるかぐやではなく、漆黒の球体に向けて言う。

 

「――がんつ殿。一つ、私と取引してみないか?」

 

 そして藤原道長は、月の黒い球体の部屋にて、交渉という名の戦争に挑む。

 

 これが、戦い続けて、願い続けて、燃やし続けた藤原道長という男の――黒い炎を燃やし尽くした生涯の、最後の戦いとなった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 羽衣(うい)の『尾』に捕まり、鴨桜(オウヨウ)達は『祠』の中――神秘郷『山小屋』の中へと辿り着く。

 

 神秘郷に入り込んだ途端、葛の葉の尾から切り離された羽衣は、そのまましばし呆然と考え込んでいたが――表情を消して、やがてどこかへと駆け出して行った。

 

 途中、鴨桜が何度か目的地を問い掛けたが応答はなく、今は百鬼夜行の全員が、取り敢えず羽衣の後に続くように隊列を組んで駆け続けている。

 

「なんか変な感じ……一瞬、世界がぐるぐるに歪んだみたいな」

「本来、俺等は招かれざる客なんだ。気持ち良く歓迎する義理はねぇってことなんだろうぜ」

 

 頭を押さえながら言う月夜の言葉に返しながら、鴨桜は懐のドスの柄に手を掛けつつ目を細めた。

 

 此処はもう――大妖怪・『(くず)()』が支配する領域。

 出遭った瞬間に、その場で殺し合いになってもおかしくない。

 

(待ってろ――平太! 詩希!)

 

 そして、『祠』の出口から続いていた林の中を一行は駆け抜けた。

 

 開けた場所に到達したその先で、羽衣は立ち止まっていた。

 

 小さく「……やはり――遅かった……っ」と、悔恨と共に呟きながら。

 

「おい! なんだってん――」

 

 鴨桜の言葉も止まってしまった。

 

 林を抜けた先は、この神秘郷の名前にもなった小さな『山小屋』があった。

 

 大妖怪・『葛の葉』が、人間・『平将門(たいらのまさかど)』と恋に落ち、愛を育み――再会を願い、眠りに着いた場所。

 

 そして、今や――墓標とも、なってしまった場所。

 

「あら。遅かったのね、『お姉ちゃん』」

 

 山小屋の後ろには、平太と詩希もいた。

 大層に怯えているが外傷はなさそうで、鴨桜は今すぐにも駆け寄ってやりたかったが――動けない。

 

 一歩でも動いたら殺される――そんな確信が、鴨桜にはあった。

 

「……『葛の葉』を――お母さんを、殺したのね」

「人聞きが悪いわね。一つに戻っただけよ。私も――『葛の葉』の転生体なのだから」

 

 意図せずに分かたれてしまったものが――元に戻っただけ。

 

 不完全な転生体であった化生(けしょう)(まえ)が、殺した葛の葉(オリジナル)を取り込み、吸収し――真の力を取り戻しただけ。

 

 大嶽丸や、酒吞童子と同じく――『真なる外来種』が一体。

 

 妖怪王の器たる大妖怪――『葛の葉』が、今、ここに再び顕現した。

 

「後は――『羽衣(おねえちゃん)』、貴女だけ。『葛の葉(おかあさん)』があなたに託した『不死(もの)』を、今、ここで私が回収させてもらうわ」

 

 さあ――と、化生の前は手招きする。

 

 新たなる葛の葉となった狐は。この領域の新たなる支配者となった妖怪は。

 

 妖艶な笑みを浮かべながら、羽衣を、『箱』を、百鬼夜行を見渡しながら宣言する。

 

「さあ――最後の戦いを始めましょう」

 




用語解説コーナー80

・月の黒い球体

 黒い球体にも個性がある。
 ある特定の『戦士(キャラクター)』を依怙贔屓する球体、
 とにかく毎回部屋の許容量限界まで戦士を補給する球体、
 露骨に戦士を厳選し強い戦士を長いスパンで育てようとする球体、
 そもそも任務に積極的ではなく最悪担当の星やエリアが滅びてもいいと放任主義な球体――様々だ。

 そんな中で、月を担当した黒い球体は、自身の担当エリアを守護する為ならば、多少の特別措置はOKというスタイルの球体だった。

 星を守る上で、月を守る上で、最も効率的かつ確実な方法を探った球体が選んだ手段は――自身を最大限に生かせる操作者(プレイヤー)を用意するというものだった。

 長年に渡り、吸血鬼というチートに頼り切りであった為、自身の戦闘力というものが恐ろしく低下しており、なおかつ人口も少ない為、戦士の素質を持つ者がそもそも少ない――月の民を、ある意味では早々に見限り。

 そんな彼等に指示を出す、非戦士の操作者(プレイヤー)を容認するという、他の黒い球体では恐らくは絶対に採用されない運営方針を打ち出した。
 無論、そこには一切部屋から出ずに外界との接触が殆どゼロであるというリオンの状態を加味して、情報漏洩という面からも問題なしと判断したからだろうが。

 しかし、そんな操作者たる箱入り娘は月から飛び出し――黒い球体の運営方針は破綻を来した。

 途方に暮れる黒い球体に――青い惑星からやってきた、『異星人の戦士』は、怪しい取引を持ち掛ける。

 一国の頂まで上り詰めたその弁舌で以て、戦争を仕掛けられる。

 対異星人迎撃装置たる黒い球体は――そんな異星人の侵略に、初めて己自身で真っ向から立ち向かうことになって。

 そして――まんまと、その口車に乗ることになるのだった。

 黒い球体の、紛れもない、初めての黒星だった。


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妖怪星人編――81 鬼退治

さらば――鬼よ。


 

 世界は美しいものだと信じていた。

 

 努力は必ず報われるし、好意には好意が返ってくるし、善人は幸せになれるものだと信じていた――(よこしま)なものなど存在しないと、無邪気にも信じ込んでいた。

 

 美しい父と美しい母から生まれた美しい子として、渡辺綱(わたなべのつな)は生まれた。

 生まれた時には美しい父は亡くなっていたし、すぐに養子に出されたので美しい母とは美しい思い出は残せなかったけれど――誰もが美しい人だったというから、きっと美しかったのだと綱は信じている。

 

 ちなみに、この時、綱は渡辺ですらなかった。

 

 父を亡くしていた綱は、摂津源氏(せっつげんじ)源満仲(みなもとのみつなか)の娘婿である源敦(みなもとのあつし)の養子となる。

 この時、義母方の故郷である「渡辺」の地に移り住んだことで――己が姓を渡辺としたのだ。

 

 何故なら――美しかったからだ。

 自然も、景色も、住まう人も、育まれる営みも――何もかもが、美しかったからだ。

 

 何と美しい世界なのだろうと、綱は思った。

 父を知らぬ自分を、母と離れ離れになった自分を、こんなにも暖かく迎えてくれて、こんなにも恵まれた環境を与えてくれる。

 

 だから――本当に、裏切られたと感じた。

 

 己を迎えてくれた「渡辺」の地が、鬼という怪物に蹂躙された時は。

 

 生まれて初めて見た妖怪が奴等だった。

 こんなにも醜い化物が存在したのかと吐気がした。

 

 今までこんな美しい世界を生み出してくれたと感謝していた神に失望すら覚えた――どうして、こんな醜悪な怪物を野放しにしているのかと。

 

 神が滅ぼさないのならば――自分で退治しようと思った。

 

 鬼という存在をこの世界から一体残らず駆逐する。

 

 それが、この日、この瞬間から、渡辺綱の生きる理由になった。

 

 結果的に、渡辺の地を襲った鬼は、たった一人の若者に駆逐された。

 

 討伐部隊が近隣住民からの報せを受けて向かった時、彼等が見たのは鬼の死体を叩き据え続ける一人の男の姿だった。

 

 決して大きくはない一つの集落において、たった一人の生き残った男の子であった。

 

 少年が手に持っていたのは、何の変哲もない只の木の棒。

 それは若者の身体と同じく鬼の返り血で真っ赤に染まっていて、鬼から強奪した金棒のようにも見えた。

 

 鬼に金棒を叩き付ける怪物。

 それが、討伐隊が発見した、渡辺綱という少年の第一印象であった。

 

 無表情で、何もかも感情を失ったかのような面相で、鬼の死体への攻撃を止めない綱に誰もが恐怖し、近付けもしない時。

 

 たった一人、血塗れの少年の下に歩み寄る男がいた。

 

――見事な才能だ。どうだ? その才を、その憎悪を、俺の下で存分に振るってみないか?

 

 それは、少年の真っ赤に濁り切った眼に、美しさというものを取り戻してくれた男だった。

 

 美しい――と、思った。

 こんなにも美しいものが存在するのかと思った。

 

 ああ――世界には、まだ美しいものが残っていると、そう思わせてくれて、そう思い出させてくれて、綱は人間で在り続けることが出来た。

 

 その男は、決して見てくれが常人離れに美しかったわけではない。

 容姿ならば美貌の血脈を受け継ぐ綱の方が美しいだろう。

 

 だが、男は存在そのものが輝きを放っているが如く美しかった。

 それはまるで――何かに、選ばれた存在であるかのように。

 

 男の名は――源頼光(みなもとのらいこう)といった。

 綱の養父の義父――つまりは義祖父の実子であり、後に神秘殺しとして名を馳せることになる源氏の棟梁と。

 

 その男の『右腕』となり、後に頼光四天王筆頭と言われ人界最強の剣士となる男――渡辺綱との、これが運命の出会いであった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 渡辺綱は人間である。

 

 茨木童子や酒吞童子のような妖怪ではないし、安倍晴明や坂田金時のように半血ではないし、藤原秀郷や源頼光のように星に愛された戦士でもない。

 

 卜部季武や碓井貞光らと同じく、英雄と言われるほどのある程度の星の恩恵を受けてはいるが――その身は間違いなく、只の人間である。

 

 彼は、ただ、その生来の、生粋の、生まれ持った才能だけで――この領域に辿り着いた、最高の天才だった。

 

 しかし、それでも、只の人間であることには変わりない彼にとって、鬼の攻撃は間違いなく脅威だ。

 綱の『鬼切』が鬼にとって必殺の刃であることは前述の通りだが――それは何も、綱の絶対的な優位性を意味しない。

 

 攻撃を受ければ死ぬ――そんなことは、鬼と相対する人間にとっては当たり前の常識に他ならない。

 

 それも、この国で最上級の鬼であり、至高の領域の住人たる茨木童子の攻撃ならば、尚のこと。

 

 只の人間である綱は――既に瀕死の重体であった。

 

 鬼の左、そして黄金の右。

 たった二発――されど、共に、茨木童子渾身の攻撃。

 

 それをまともに受けた綱は、人間として最高峰の呪力を持っている英雄といえど――いや、だからこそ、こうして立ち上がることは出来るが。

 

 何の変哲もない、混じり気のない純粋な人間の身体は、既に悲鳴を上げていた。

 

 目の前の――鬼から逃げろと、生命の危機を訴え、生物として当然の警鐘を鳴らしていた。

 

 それを――『鬼殺し』たる英雄は、一笑に伏せ、強引に捻じ伏せる。

 己の中の怯えを、恐怖を――圧倒的な憎悪によって圧し潰す。

 

 鬼が目の前にいる。

 ならば殺す。だから滅ぼす。

 

 それ以外の選択肢など、あるものか。

 

 血を吐き、それを手の甲で雑に拭いながら――渡辺綱は、茨木童子に笑みを向ける。

 

 生物として元来の意味通りの笑顔――つまりは、攻撃意思の表明。

 

 死に瀕していようとも、変わらぬ敵意、戦意、そして殺意に。

 

 茨木童子は――化物めと吐き捨てながら、その黄金の右腕を輝かせる。

 

「――流石だ、綱。だが、いくらお前といえど、もう後はあるまい」

 

 一条戻橋の上に立ちながら、右拳を見せつけるように固める茨木童子に――渡辺綱も、笑みを浮かべたまま吐き捨て返す。

 

「……ふっ。後がないのは、貴様もだろう、茨木」

 

 ぐらりとふらつく身体を、強く一歩を踏み出すことで誤魔化しながら、綱はその――『黄金の右腕』を指差して言う。

 

「その『右腕』――その黄金の輝きの源は『星の力』。つまりは外敵を――『妖怪』を排除する力だ。その力を使えば使うほど、それは『鬼』であるお前の身体と生命を蝕んでいくのではないか?」

 

 星の力は、己を脅かす外敵――『星人』を排除する為に、在来種たる『人間』に『星』が与える支援の力。

 

 それを右腕に宿し、武器とするなど、鬼の身体に何も影響を及ぼさない筈がないという綱の指摘に――茨木童子は。

 

「ああ、そうだな――だが、それがどうした?」

 

 茨木童子は、その黄金の右腕で――己をも脅かす灼熱の輝きで以て夜闇を照らしながら、宿敵に向かって堂々と言い放つ。

 

「お前を殺せた後は、この右腕をすぐさまに切り落とし、俺は酒吞の下へ向かう。お前を滅ぼす為ならば、俺は星の毒すらも利用してやる。ただそれだけのことだ」

 

 死に瀕していようとも、変わらぬ敵意、戦意、そして殺意に。

 

 渡辺綱は――その鬼殺しの白刃を向けながら。

 

 ああ、美しいな――と呟きを落とす。

 

 渡辺綱は鬼を殺す天賦の才を持っていた。

 

 それはあの渡辺の地で、生まれて初めての憎悪と殺意の海に潜り、濁った真っ赤な世界に叩き込まれた、生涯初めての鬼殺しの最中に目覚めた才能。

 

 綱には、鬼の命の灯火をその目で見極めることが出来た。

 ここに攻撃を叩き込めば殺せるという急所、隙――どす黒く濁り切った醜い鬼の身体の中で、綱にはそれらが光って見えるのだ。

 

 だからこそ、何の変哲もない木の棒で、体躯も仕上がっていない少年が、何体もの鬼を殴り殺すことが出来た。

 

 だが、目の前に相対する茨木童子――この鬼に対しては、その光が見えない。

 その黄金の右腕の輝きが、その全てを塗り潰す。

 

(思えば――お前は、ずっとそうだったな、茨木)

 

 茨木童子(いばらきどうじ)

 渡辺綱が出遭った中で、間違いなく最強の鬼である宿敵。

 

(酒吞童子……奴は、また――()()。どちらかといえば金時に近い。鬼のようで、鬼ではない。鬼ではないようにみえて、鬼である存在。……鬼に似ているというよりは、()()()()()()()()()()()ように思う。同じではあるが、同じではない。ともなく、奴はそういう怪物だ)

 

 実を言えば、例え『鬼切』であっても、酒吞童子を滅ぼせるかどうかは怪しいと思っている。

 茨木童子の十年間を根本から覆すことになるが、それが綱の正直な思いであった。

 

(だからこそ、俺が知る中で――最強の鬼は、最高峰の鬼は、間違いなく茨木童子だ)

 

 綱の目には鬼は醜悪な泥の塊のような怪物に映る。

 より強大で、より純粋な――鬼であれば鬼である程に、それは醜悪な汚泥となる。

 

 茨木童子は、渡辺綱が出遭った中で、最も醜悪な鬼だ。

 だが、それでいて、その醜悪極まりない鬼は、それでも美しい何かを放っていた

 

 それは――渡辺綱を救ってくれた英雄である、かの星の戦士と同じように。

 

(お前は何よりも醜いのに、その美しい光によって、他の鬼のように欠陥たる隙の光がまるで見えない)

 

 綱の鬼切の刃を、茨木童子の黄金の右腕が弾く。

 そして、醜悪な汚泥の中で――その赤い瞳だけが、綺麗な宝石のように綱を睨み据えている。

 

(ああ――やはり、俺の目は正しかった)

 

 最も醜い鬼でありながら、最も美しい――英雄。

 

 この先、コイツ以上の鬼は決して誕生しないだろう。

 

 だからこそ――。

 

「――お前が俺の終着点だ、茨木」

 

 あの日、あの時――綱は世界が美しいだけでなく、醜いことを知った。

 

 渡辺の地で、鬼を一体残らず駆逐すると決意し、綱は今日まで戦い続けてきた。

 

 だが――いつかは終わりが来る。

 

 いつかは、この復讐を終わりにして――現実と向き合わなくてはならない。

 

 渡辺綱を救ってくれた英雄が、『大江山』へと赴く前に、『髭切』を綱に託したように。

 

 死の間際に――アイツ等を頼むと、そう託して去ったように。

 

 だからこそ――だからこそ。

 

「『茨木童子(キサマ)』を滅ぼすことで、『渡辺綱(オレ)』の『鬼退治(復讐)』は完遂する」

 

 この世で最も強き鬼であり、この世で最も醜き鬼であり――この世で最も美しい鬼。

 

 茨木童子を屠ることで、永きに渡る鬼退治に片を付けると、そう宣言する綱に。

 

「こちらの台詞だ、『鬼殺し』。鬼の天敵であり、最も多くの鬼を滅ぼした仇敵であるお前を殺し――俺の十年の……俺の生涯の、贖罪としてみせる!!」

 

 これが――最後の戦いだ。

 

 そう叫びながら、両者は一際強く、右腕と鬼切を叩きつけ合い――橋の端から端まで距離を取る。

 

「行くぞ――英雄(バケモノ)!」

 

 渡辺綱が妖刀『鬼切』に渾身の呪力を込める。

 

 青白い光が刀身を包み込む。これが、渡辺綱という天才の到達点。

 力の総量では勝負にならない。だからこそ薄く、鋭く、研ぎ澄ます――それが、人間が、鬼に立ち向かう為の唯一の手段。

 

 思い起こすは――己が思い描く最強の存在。始まりの英雄。

 真っ赤に染まり、澱んだ世界に堕ちて行こうとしていた自分を繋ぎ止めてくれた――たった一人の、己が主。

 

 源氏の棟梁。

 

――綱。お前は強くなる。俺よりもずっと、多くを救う英雄になれる。

 

 刀を鞘に納めて――集中する。

 

 一太刀で空間を縦横無尽に切り裂く御業――源頼光の奥義。

 

 神が秘す怪異を切り裂く――その技に、全てを込める。

 

「来い――化物(にんげん)!」

 

 茨木童子が黄金の『右腕』に妖力を込める。

 

 灼熱の光が右腕を包む。これが、茨木童子が手に入れた禁断の力。

 力の影響は我が身をも蝕む。だからこそ大きく、烈しく、膨れ上がらせる――それが、鬼が、英雄に打ち勝つ為の唯一の手段。

 

 思い起こすは――己が思い描く最強の存在。終わりの怪物。

 何色にも染まらず、孤独の世界で死んで行こうとしていた自分を掬い上げてくれた――たった一人の、己が主。

 

 鬼の頭領。

 

――茨木。……私は…………ここに……いて…………いいの?

 

 拳を密に固めて――集中する。

 

 一挙手で空間を問答無用で貫き穿つ力業――酒吞童子が猛威。

 

 神が守る人界を破り砕く――その力を、此処に現す。

 

「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

「がぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!」

 

 眩い拳が迸る。

 

 光が如き速度で放たれた衝撃は、一条戻橋の上を走り――橋の中央で標的に辿り着く。

 

 身体が引き裂かれそうだった。自分の肉体の限界を超えた動きを再現する為に、強靭なだけが取り柄の赤鬼の身体が悲鳴を上げていた。

 

(酒吞――やはり、凄いな、お前は)

 

 茨木童子は酒吞童子にはなれない。茨木童子は酒吞童子の場所にまでは――辿り着けない。

 

 星の力という禁断の支援に手を伸ばしても――たった一度、たった一挙動を再現するので精一杯。

 

 だが――それでも。

 

 あの日、抱いてしまった、憧れを捨てることは出来なかった。

 

 一回――この、一回だけでいいから。

 

 これで終わりする。これで全部、終わりだから――。

 

 だから、これだけは――届いて欲しい。

 

 そう思い、放たれた渾身の右拳を――。

 

 渡辺綱は――――――()()()

 

「――――――――――な」

 

 不可能だ――そう茨木童子は瞠目した。

 

 振り抜いた右拳は、綱の長い髪のみを吹き飛ばした。

 

 馬鹿な――有り得ない。

 光が如き速度で放たれた拳を、太刀で迎え撃つはおろか、人間の挙動のみで回避するなど。

 

 だが、渡辺綱は出来た。

 他でもない、茨木童子の攻撃だからこそ。

 

 あの大江山の頂上決戦にて、誰よりも茨木童子を見据え。

 

 己と同じく、たった一人の主へと向ける――憧憬の視線に気付いていたから。

 

(――お前は、酒吞童子と同じ攻撃に、全てを託すと分かっていた)

 

 たったひとつ――異なるのは。

 

 渡辺綱が選んだ最後の攻撃は――源頼光が、綱ならば辿り着けると遺した技であり。

 

 茨木童子が選んだ最後の攻撃は――酒吞童子が、ただ本能のままに振るっていた、茨木童子では辿り着けない力であったということ。

 

「俺の勝ちだ――――」

 

 茨木童子の攻撃を避け、懐に潜り込んだ綱は――鬼を殺す刃を抜刀する。

 

 刀を振るう――その、数瞬後。

 まるで時が追い付いたかのように、縦横無尽に斬撃が奔る。

 

 鬼の身体をすり抜けるように斬り裂く刃は、茨木童子の赤い肌を面白いように滑り――そして。

 

 茨木童子の『右腕』を、肩関節ごと、宙空へと吹き飛ばした。

 

「ああ――俺の、敗北(まけ)だ……ッ」

 

 赤鬼の(おお)きな身体を、更に赤く染め上げるように鮮血が噴き出す。

 

 ドボンと、一条戻橋から落ちた黄金の腕が、川の流れに乗ってどこかへと運ばれていく。

 

 再び、右腕を失った鬼は、そのまま橋の上で倒れ込み――眠るように、目を瞑る。

 

「さらば――鬼よ」

 

 復讐を終えた武士は、赤い月を見上げながら呟く。

 

 不気味で、異様ながら――美しいと、綱は感じた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 酒吞童子(しゅてんどうじ)は、幼い少女の精神性を有している怪物だった。

 

 無論、実年齢として幼いわけではないけれど、彼女の心は培われることなく成長しない――永遠の少女で、永劫の怪物だ。

 

 彼女は何者にも影響を受けない。

 彼女は何物にも執着を見せない。

 

 彼女の世界は変わらない。

 全てが無色で、あらゆるものが凪いでいる。

 

 そんな彼女の世界において、登場人物として明確に認識されたのは――たった、三体。

 

――俺がお前の『右腕』になってやる。俺が、お前の『家族』を作ってやるよ。

 

 そう言って、ひとりぼっちだった彼女に『家』をくれた鬼と。

 

――あなたが『妹』のように可愛かった。いつかきっと、あなたを救ってくれる『英雄』が現れるわ。

 

 そう言って、冷たかった彼女の身体を抱き締めて『愛』をくれた鬼と。

 

 そして――そして。

 

――――酒吞。

 

 それは、鬼ではなかった。それは、人ではなかった。

 

 それは世界において異質で。それは世界にとって異常で。

 

 それは誰とも違っていて。それは何とも異なっていて。

 

 生まれて初めて出遭った――自分と同じ存在。

 

 自分と同じく、存在しては、いけない存在。

 

 自分が鬼の振りをしているように、それは人の振りをしていて。

 

 だからこそ、ずっとずっと逢いたかったけど――だからこそ、決して遭ってはならなくて。

 

 けれども――出遭ってしまった。出逢ってしまった。

 

 一目で理解した。

 

 真っ暗な闇の中で、灯篭の光だけが照らす夜道で。

 

 ぽつんと、所在なさげに、自分の居場所などないとばかりに孤独に立っていた男。

 図体ばかりが大きくて、けれども心は幼くて――安心できる、拠り所を探していて。

 

 こちらを見て、頬を染めて、陶然と見遣る――それを見て。

 

 酒吞童子は、凪いだ自分の世界に、小さな火種が生まれるのを感じた。

 

―――――あ。

 

 欲しい、と、思った。

 

 何にも影響を受けない筈の少女が。

 何にも執着を見せない筈の怪物が。

 

 欲しいと。手元に欲しいと。近くに居て欲しいと。

 

――私のものになって。

 

 だけど――生まれて初めて欲しいと思ったものは、手に入らなくて。

 

――俺は人間なんだよ。

 

 どうしてそんなことを言うのか。

 

 お前は人間ではない。私が鬼ではないように。

 

――俺は英雄になる。

 

 どうしてそんなことを願うのか。

 

 お前は何者にもなれない。私が何物でもないように。

 

 生まれて初めて――少女は手を伸ばした。

 

 欲しいものに手を伸ばして。手に入らないものに手を伸ばして。

 

 胸の辺りにちくりと感じる、じくじくと消えない――痛みというものを覚えて。

 

 少女は――初めて、少しだけ、大人になった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 八つ頭の蛇が、世界を恐怖で震わせる。

 

 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)

 神々が住まうとされる高天原(たかまがはら)を追放された伝説の英雄・須佐之男命(スサノオノミコト)が退治したとされる神話の怪物。

 

 八つの谷と八つの峰を覆うほどの巨躯を持つとされる、八つの頭と八つの尾を持つ、赤い鬼灯のような眼の大蛇。

 

 眼下の大蛇はその伝説ほどに桁違いな巨きさではないが、それでも赤龍と化した己と遜色ないほどの怪物で――。

 

 金時は思った――このままでは、負ける。

 

 酒吞童子が自分と同じ――()()()()()()()()だとは感じていたが、まさか、ここまでとは思わなかった。

 

(――敗けるのか。……ここまできて……ここまでして……こんなになっても――まだ、届かないのか)

 

 出力が違う。

 ここに至っても、未だ底が見えない妖力。

 

 このまま飛び込んでも、あの八つの頭に食い散らかされて終わりだろう。

 

 だが、『赤龍化』は紛れもなく金時の奥の手にして最終手段であり――金時の『底』である。

 もはや自分は空っぽであり、打つ手などない。

 

 やれることはないし、捨てるものもない。これ以上、何を犠牲にすれば。

 

(俺は――――お前の領域(もと)に行けるんだ……酒吞)

 

 赤龍は咆哮する。

 降り注ぐ赤い雷。そして、赤龍と化した金時は――。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 雷を呑み込むように――その大きな咢を開け、天を仰ぐ。

 

(足りないなら、弱いなら――もっと――もっと――――もっともっともっとだっ!!!)

 

 寄越せ。

 もっと寄越せ。

 

 爪、尾、翼、牙――赤雷――――足りない。まるで足りやしないと。

 

 赤龍は、天に向かって咆哮する。

 

(寄越せ――()()()の力を。俺の何もかもをくれてやる!! だから、もっと寄越しやがれっっ!!!)

 

 高位の力を。赤雷の力を――偉大なる『龍』の力を。

 

 その全てを――この身で受け止めて見せる。

 

 酒吞童子に勝てるのならば。

 

 この少女と――同じ高みへ登り詰めることが出来るのならば――っ!!

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 金時の――『子』の、その決死の咆哮に。

 

 空は蠢き、雲は黒く染まり――雷は、鳴った。

 

 これまでとは比べ物にならない赤雷。

 そのまま振り落ちれば、平安の都そのものが黒い焦土へと変わるであろう稲妻が。

 

 まっすぐに、雨を呑むように大きく開かれた赤龍の口の中へと直撃する。

 

 赤い龍の全身を赤雷が貫く。

 雷は膨れ上がり、龍の身体を貫いて――――そして。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 否――龍の形をした雷と形容すべきか。

 皮膚も、爪も、牙も、尾も、翼も――全てが赤い(いかずち)

 

 己の全身を赤雷に()える。

 これこそが――坂田金時の最終にして最大の攻撃だと。

 

(これが俺の全部だ――――!!!)

 

 もし、これで倒せなかったとしたら――坂田金時に酒吞童子を止める術はない。

 

 この状態が長く保つ筈がない。

 否――あの赤雷を呑み込め、そして形を保って居られている今こそが正しく奇跡なのだ。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 だからこそ、赤龍はそのまま、自らが落雷となったかのように、一直線に八岐大蛇へと突撃する。

 

 これが最大の攻撃――これこそが、坂田金時の最後の攻撃。

 坂田金時の全てだと、真っ直ぐ、己に向かってくる赤龍に。

 

 八岐大蛇は、ただ、天を見据えて。

 

 真っ赤な月を、真っ赤な龍を見詰めて――そして。

 

 

 八つの頭の一つから、真っ裸の少女が飛び出した。

 

 

(――――――――)

 

 龍の中の金時は、その少女が――無垢なる怪物が、ぱちりと目を開けて。

 

「――――――」

 

 己に、微笑みを向けた瞬間を、確かに――見て。

 

(――――酒吞)

 

 そして――少女は。

 

 赤い龍の雷を――回避することなく、ただ受け入れるように、両手を広げて、笑って。

 

「――――――――つよくなったね――――きんとき」

 

 少女の小さな囁くような愛は、赤い龍の口が問答無用で呑み込んで消し去って。

 

 とある怪物達の、哀れるな初恋は、美しい雷に包まれて、壮絶にその結末を迎えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――てん! 酒吞!!」

 

 何もかもが燃え尽きた戦場跡で、金時は少女を膝に乗せるように抱きかかえて叫ぶ。

 

 少女の裸身は見るも無残に焼け焦げていた。

 

 再生は――しない。

 

 それはつまり、酒吞童子の再生力が追い付かない程の重傷を与えて打倒するという、金時の目的が完遂されたことを意味していて。

 

 坂田金時が、酒吞童子に、勝利したことを示していて。

 

 だが、その表情は――まるで、真逆で。

 

(――――ふざけるな!!)

 

 勝者たる英雄は、大粒の涙を流しながら苦渋に表情を歪ませていて。

 

(これの――――どこが勝ちなんだッッ!!!)

 

 敗者たる怪物は、ボロボロに傷ついた顔に穏やかな表情を浮かべていた。

 

「なんでだ――なんで、『大蛇化』を解いたんだ!!」

 

 あの時、酒吞童子に大蛇化を解く理由などなかった筈だ。

 金時が『赤雷の赤龍化』まで辿り着いたとしても、八岐大蛇を打倒しきれるとは限らなかった。

 

 真っ向からぶつかれば、勝率は五分五分だったかもしれない。

 

 酒吞童子が少女体で姿を現した時、金時はまだ奥の手があるのかと恐怖した。

 

 だが、少女は、赤雷と化した赤龍に対して、拳も爪も牙も――敵意すらも向けず、ただ優しく手を広げて迎え入れた。

 

「………………だっ…………て」

 

 いつものたどたどしい喋り方も、今だけは、苦痛で言葉が出し辛い故のようだった。

 

 酒吞童子がこれほどの痛みを、苦しみを覚えるのは、おそらくは生まれて初めてだろう。

 

 だが、まるで、その痛みも苦しみも愛おしいかのように、酒吞童子は優しく微笑みながら言う。

 

「きんとき……は…………ずっ……と…………こう…………した…………かった……でしょ?」

 

 その――拙い、言葉で。

 

 金時は――全てを察した。

 

「――――俺の……為、なのか? ……大蛇化を解いたのも……いや、一度、大蛇化してみせたのも……『坂田金時(おれ)』に……『酒吞童子(おまえ)』を…………倒させる、為……だったって……言うのか?」

 

 酒吞童子は不死身である。

 

 その再生力は群を抜いており、かの源頼光が大江山の頂上決戦において、どれだけ致命傷を与えても再生し続け、『人間』軍に撤退を余儀なくさせた。

 

 かの安倍晴明でさえも、酒吞童子を退治する方法はないと、白旗を挙げた程である。

 

 だからこそ――酒吞童子は、まるで見せつけるように『大蛇化』して、金時に限界以上の力を引き出させた上で、最大の攻撃を喰らう直前に『大蛇化』を解除した。

 

 八岐大蛇と化す『大蛇化』は、酒吞童子にとっても相当な消耗を余儀なくさせる切札であった筈だ。

 無尽蔵とも思える酒吞童子の莫大なる妖力を、限界ギリギリまで消費させた上で、最終奥義たる『赤龍の赤雷化』まで辿り着いた上で、そして、『大蛇化』解除直後の状態で無防備に直撃を受ける条件を用意した上で――やっと。

 

 坂田金時は、酒吞童子に勝利することが出来る。

 

 そのか細過ぎる軌跡を、酒吞童子は実現させた。

 

 坂田金時が――そうしたいと願ったから。

 

 坂田金時が――『英雄』になりたいと、そう願っていたから。

 

 坂田金時を、酒吞童子という怪物を倒した英雄とする為に――酒吞童子は、今宵の妖怪大戦争に参戦したのだ。

 

「――――ふざけるなっっ!!!」

 

 坂田金時は地面を思い切り殴りつける。

 酒吞童子を膝に乗せたままで、右の拳を地に叩き付ける。

 

 右拳は――人間のそれだった。

 赤い血が流れる。だが、すぐにそれを否定するように、右手は龍の鱗に覆われた龍の手となった。

 

「なんで……そこまでする? なんで……こんなことまで出来る? なんで――」

 

 坂田金時(おれ)なんかの為に、そこまでするんだ――そう、酒吞童子の顔に涙を落しながら言う金時に、酒吞童子は、ボロボロの手を、金時の顔に、ゆっくりと伸ばして。

 

 その涙を拭いながら、微笑んで、言う。

 

「もう…………ひとりは…………やだった……から」

 

 何かに影響を受けることを知った少女は。

 何かに執着を覚えることを知った怪物は。

 

 何かを欲し、何かに向かって手を伸ばすことを――そして、それが届かないということを、求めた繋がりが、断ち切られることを知った酒吞童子は。

 

 永遠の少女が、永劫の怪物が、少し大人になって、覚えたことは。

 

 好かれる為の努力――嫌われない為に、頑張ること。

 

 誰かの願いを、叶える為の、自己犠牲。

 

「ずっと……いっしょに……いてくれる……いばらきは…………なら…………きんとき……の………ねがい……かなえて…………」

「――ッ!! ――ダメだ――――酒吞――――待て――――逝くな!!!」

 

 目が虚ろになり、段々と言葉が覚束なくなる酒吞童子。

 

 ずっと一緒に居てくれると言ってくれた茨木童子(家族)を失って。

 

 ずっと優しく暖めてくれていた鬼女紅葉()を失って。

 

 ずっと孤独だった少女は、ずっと極寒で生きてきた怪物は――家族を知り、愛を知ってしまった哀れな鬼は。

 

 変わることを覚えてしまった、不変の化物は――繋がりを求めて、自ら変わることを望んだ。

 

 自らを犠牲にしてでも、好きな『人』の願いを叶える――そんなことが、出来るようになってしまうまでに。

 

 少女は大人に――成長した。

 

「――酒吞! 酒吞!! 酒吞!!!」

 

 分かっている。

 酒吞童子は不死身だ。これほどの重傷を与えても、再生が遅れているだけで、眠りから覚めればまた再生が始まるだろう。

 

 金時の任務は、このまま酒吞童子を眠りに落として、目覚める前に封印場所に連行すること――それは分かっている。分かっているが、金時の中の焦燥感がそれを許さない。

 

「待ってくれ、酒吞――俺は――――俺はッッ!!!」

 

 既に目の焦点も合っていないのか、酒吞童子の伸ばしている手は、金時の顔に向いていない。

 

 それは、遥かなる赤い月か――あるいは、別の何かなのか。

 

 酒吞童子は、小さく、微笑みながら――満足気に目を瞑る。

 

「………………わたし……うまく…………できたかな? ――――いばらき」

 

 お前を決してひとりにはしないと――そう言ってくれた『家族』に向けて。

 

 自分が変われば、戻って来てくれるかもしれないと、そんな願いを込めて、呟かれた、その言葉に。

 

 金時は――瞠目し、そして。

 

「――――酒吞ッッ!!!」

 

 揺さぶるようにして叫び散らすが――酒吞童子は既に、息を引き取るように、穏やかな眠りに着いていた。

 

 金時は――酒吞童子を抱き締める両手が、龍のそれに変わっていることに気付く。

 

 翼が生えた。左手が人に戻った。

 顔の半分が龍に変わり、翼が消えて、尾が生えた。

 

 これは『全身赤龍化』の副作用だ。

 人と龍の境界を行き来しすぎて、形態が安定しない。

 

 身の丈に合わぬ力に手を伸ばした代償。龍の力を御しきれもしないのに、何度も何度も手を伸ばした当然のしっぺ返し。

 龍にも、人にも、拒絶されたかのような、どちらの世界からも拒絶されたかのような――中途半端な、その醜い姿に。

 

 大蛇の身体から抜け出し、何もかもを脱ぎ捨てて、綺麗な少女として眠りに着く酒吞童子に。

 

「………………酒吞。たのむから――」

 

 金時は――ぽつりと、情けなく、呟く。

 

 愛する人の為に、己が全てを捧げてでも変わることの出来た鬼と。

 

 己が欲望を叶える為に、愛する者を拒絶して、こうして中途半端な有様に成り果てた人間。

 

 果たして、どちらが英雄で――どちらが怪物なのか。

 

「――俺を置いて、行かないでくれよ」

 

 その余りに醜悪な独り言に。

 

 金時は――ようやく、自分が人間になれた気がした。

 




用語解説コーナー81

・大蛇化

 酒吞童子にとって『大蛇化』とは、宇宙空間で宇宙服を脱ぐようなものだった。

 真なる外来種たる彼女にとって、八岐大蛇という本性を露わにすることは、外なる星にて擬態を解除するということは、そういうことだった。

 それでも、彼女は脱いだ。
 それでも、彼女は纏った――大蛇という醜悪なる本性を露わにし、愛する人と向き合い、己を全てを曝け出し、その全てを受け止めた。

 全ては――愛する人の願いを叶える為に。

 そして、この世界で最も大切な存在に、変われた自分を見てもらう為に。

 そうすれば、もしかしたら――戻って来てくれるかもしれないと、少女のような夢を乗せて。


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妖怪星人編――82 砕ける黄金

愛とは、何だ。


 

 京四郎(きょうしろう)の居合斬りによって、全身に幾筋もの裂傷を負い、その傷口から黒炎が噴き出す魔人。

 

 無限に再生する魔人にとって、それは大きな傷ではない。

 だが、人間だった頃の名残により痛覚は残っているのか――魔人の動きがピクリと、止まった。

 

「………………? ――――――ッ!」

 

 その反応を訝しんだ京四郎だったが、すぐさまに動きを再起動させた将門が、振り向き様に放った黒炎を放ったことで、すぐに思考を切り替えて回避行動に移る。

 

【――流石だな。あの頃と変わらぬ――いや、それ以上の反応速度だ】

 

 距離を取り、再び相向かった時、魔人は流暢に、その鬼面の下から言葉を放ち始めた。

 

「……どうやら、完全に意識を取り戻したようだな。平将門(たいらのまさかど)

 

 京四郎が居合斬りによって負わせた裂傷は――()()()()()()()。傷口からは黒炎が未だ噴き出し続けてる。

 

(塞がらない傷口――そして、言語能力を完全に取り戻した将門。……もしかすると、不死の呪いが緩んだ――いや、一度、解けたのか?)

 

 だが、黒炎が噴き出し続けて尚、将門の魔力は些かも衰えない。

 そこから考えるに、魔力の再生はこうしている今も続いている――ならば、不死の呪いは一旦解けかけたが、今はまた再開としたということなのか。

 

【合縁奇縁とはこのことか。まさか、死して尚、蘇って尚、こうしてお主と死合(しあ)うことになろうとは】

 

 黒炎が噴き出しながら、魔人は堂々と語る。

 

 己の身体を巡り流れるのが、赤い血ではなく、黒く染まった魔力ですらない炎になった所で、些かも関心がないと言わんばかりの態度で。

 

 だが、己の傷が塞がらないことに関しては、魔人も何か思う所があったようで――しかしそれは、傷の痛みではなく、噴き出す黒炎に関してでもなく。

 

【…………】

 

 魔人は、京四郎の背後の――『祠』をじっと見つめながら、己が傷口を、己の躰に施された不死の呪いを思う。

 

「――気になるか。中の様子が」

 

 京四郎の言葉に、魔人は即答しない。

 そんな魔人に「せっかく、自我を取り戻したんだ。少し聞かせてくれないか、将門」と。

 

「どんな気分だ? 不死身の魔人などという恐ろしい怪物にされて」

 

 京四郎は――魔人に、問う。

 

 お前の、今のその姿は、果たしてお前の望み通りの末路なのかと。

 

「俺は覚えている。お前が己の身に起こったことを自覚した――己が魔人に()()()()()のだということを知った時の、お前の絶望の表情を」

 

 平将門は、決して自分で選んで魔人になったわけではない。

 

 葛の葉という妖怪を愛した結果――愛された結果、永遠に一緒に居たいと願った妖怪の我欲によって、人間ではなく、妖怪でもない、夜にも悍ましい怪異にさせられたのだと、京四郎は突き付ける。

 

「お前は望んでなどいなかった筈だ。その上で、今、俺は改めて問いたい」

 

 平将門(おまえ)は、()だ――葛の葉(ようかい)を愛しているのか。

 

 京四郎は、怪異殺したる英雄は、同じ時代に生きた者として、改めて魔人に問い掛ける。

 

 平将門という――人間だった男に向かって問い掛ける。

 

「百年――あれから百年が経った。俺も、お前も、この時代の異物に過ぎない。世界には明確に百年もの時間が経過している。時代も変わった――妖怪ですら、変わるには十分な時間だろう」

 

 時の流れは全てを変化させる。

 同じであり続けるものなど存在しない。不老の妖怪といえど、決して不変ではない。

 

「ここでお前が俺を倒し、あの『祠』の中へと侵入(はい)れたとしても――お前を出迎える葛の葉は、本当に、お前の知る葛の葉なのか?」

 

 それは、お前が愛した女だと、本当に言えるのか――そう、京四郎は言う。

 

 己が身に起きた変化――己に施された、不死の呪いの、異変。

 

 それを確かに感じ取っている将門は、京四郎の言葉に――何も答えず、拳を、握る。

 

「お前は、それでも――逢いたいと願うのか。あの時と同じ気持ちで――魔人となっても、不死者となってまでも逢いたいと、そう願うというのか」

 

 百年前の、あの時。

 例え――変わり果ててでも、この国の全てを相手取ってでも、葛の葉に逢うのだと、未曾有の『乱』を引き起こした平将門。

 

 その時の覚悟を、京四郎は確かに知っている。

 だからこそ、その時と同じ覚悟を、その時と同じ想いを、百年が経過した、変わり果てているかもしれない葛の葉を相手に抱けるのかと、そう問う京四郎を。

 

【――――ふっ】

 

 魔人は、哀れむように、鼻で笑う。

 

【何を言うかと思えば――的外れもいい所だ、英雄】

 

 貴様は言ったな、と魔人は指差す。

 

 愚者を嗤うように、世界の当然の摂理を語るように言う。

 

 何年、何十年、何百年かかろうとも――ああ、それはその通りだと、しかし。

 

 変わらぬものなどない、不変のものなど存在しない――ああ、それもその通りだと、だが、しかし。

 

【我が愛は、百年程度では些かも衰えない。むしろ、時を経るごとに、時を重ねる毎に、我が愛は大きく燃え盛り続ける。昨日よりも今日、今日よりも明日。我が愛は大きく膨れ上がり続ける】

 

 この身を熱く、燃やし続けていくと、黒炎を噴き出しながら、黒い炎で己が身を焼きながら――魔人は語る。

 

【十年、百年、千年経とうが変わらない。葛の葉がどれほど変わり果てようとも、その新しい姿のまま、私は愛して見せよう】

「……それはもはや、ただ盲目なだけではないのか」

 

 己を魔人へと変え、己を不死へと貶められ――それでも抱き続ける愛はまやかしではないかと、そういう京四郎に、魔人は猶更、哀れむように言う。

 

【……どうやら、百年経とうが、貴様は愛を知らぬままらしい】

 

 愛を解さぬ愚か者に、これ以上は語ることもない――魔人は、そう断じ、己が纏う黒炎を膨れ上がらせる。

 

【そこを退け――英雄。愛の邪魔をするな】

 

 京四郎は黄金の太刀を抜いて、黒い火の粉が舞う戦場にて屹立する。

 

「止めるぞ――魔人。お前達の歪んだ愛は、ここで滅ぼす」

 

 京四郎の言葉と同時に、将門は黒炎を迸らせながら突っ込んできた。

 

 魔人の猛攻をいなしながら、京四郎は思考する。

 

(傷口から噴き出す黒炎――黒炎である以上、触れたら対象を燃やし尽くすまでは消えない特性は健在とみていいだろうな)

 

 さらに、塞がれぬ傷口といえど魔力の無限回復は機能しているだろうから、魔人の弱みにはなりえない。むしろ、近付き難くなった分、却って面倒な状態にしてしまった面は否めない。

 

(それに――将門の意識が覚醒した分、これまで力任せだった攻撃に技術的な意図が含まれ始めた。こちらの意図を汲んだ迎撃、あるいは意図を逆手に取った反撃――厄介さはこれまでの比じゃない)

 

 防戦一方となる京四郎。

 ようやく強化された魔人に追いついたかと思えば、すぐにまた大きく突き放される展開に歯噛みする。

 

(ちっ――だが、まだだ。ならば、こっちももっと強くなればいいだけだっ!!)

 

 再び――視る。

 

 強化された動き、意識を取り戻したことで変化した戦闘方法、傷口から噴き出す黒炎――その全てに再度対応し、それを凌駕する技を放てばいい。

 

 そう考える京四郎に対し、魔人は――。

 

【――なるほど。黒炎――面白い】

 

 己の中に流れる新たなる血潮――その特性や威力を理解し、魔人は己の手の中の黒炎を操って。

 

【ならば――こんなことも可能か】

 

 黒炎の薙刀を作り出し――それを豪快に振るって見せる。

 

「な――」

 

 黒炎の武具。

 将門が自我を取り戻し、意識的に黒炎を緻密に操縦することで獲得した力。

 

 将門は武士だ。

 鎧を纏い、馬に跨りながら戦場を駆け抜ける戦士だった。

 

 だからこそ、長物の扱いには慣れている。

 そして、刀に対してより攻撃範囲の広い薙刀は、非常に有効的な得物となる。

 

「チッ――ッ!」

 

 薙刀の横薙ぎを、京四郎は太刀を縦に構えることで受けた。

 

 が――膂力の差か、弾き飛ばすことが出来ない。

 

 そして――魔人は、その振りを止めることなく。

 

「――――ッ!!」

 

 受け止められた薙刀の刀身から――黒炎を噴射させた。

 

(確かに、厳密には只の薙刀の形をした黒炎。防がれたら形を変えればいい――それでもッ!)

 

 いくらなんでも臨機応変が早すぎる。

 あの『黒いリオン』ですら、突如として強化された己が力に振り回されていた――条件や状況が違うとはいえ、外的要因によって予期せずに手に入れた力という意味では将門の黒炎も同じ筈なのに。

 

(意識がなかったとしても、魔人として平安京に辿り着いてから、将門は黒炎を用いて大いに暴れ回っていた……それで扱い方は習得済だとでもいうのか)

 

 改めて思い知らされる。

 魔人という怪異にとって、黒炎は只の武器でしかなく――本当に恐ろしいのは、平将門という人間の才であると。

 

 もし、境遇や、出会う順番――何かが少しだけ、異なっていたら。

 

 魔人ではなく――英雄として、平将門という名は歴史に残ることになっていたかもしれない。

 

 平将門と、藤原秀郷。

 妖怪に愛されるか、それとも、星に愛されるか。

 

(幸せなのは――果たして、どちらなんだろうな)

 

 薙刀から噴き出す黒炎を、大きく跳躍して回避しながら、京四郎はそんなことを考える。

 

 そして、着地と同時に、黄金の太刀を素早く振り回し、空を奔る斬撃を連続で飛ばした。

 

 黒炎という飛び道具があるが故に、接近戦の方が分があると京四郎は判断していたが――傷口から噴き出す黒炎と薙刀によって、その優位性は消失したといっていい。

 

 だからこそ、一旦仕切り直す意味も込めて、飛ぶ斬撃で牽制しようとしたが――魔人には無意味だった。

 

「――――ッ!!」

 

 接近してくる。

 飛ぶ斬撃を諸共せずに、黒炎の薙刀によって弾き飛ばしながら、魔人は接近戦を仕掛けようと猛追してくる。

 

(ち――その辺りは当然、アイツも察しているか。……ならば――)

 

 迎え撃つ。

 そう考え――京四郎は黄金の太刀を鞘に仕舞った。

 

 居合斬り。

 交錯際にカウンターを入れることによって、魔人の突進をやり過ごしながら攻撃を加えてみせると。

 

 己に向かって薙刀が振るわれる――その瞬間に、京四郎は黄金の太刀を振るった。

 

「――――ッ!!」

 

 京四郎の居合斬りは、全て魔人の身体に刻み込まれた。

 

 全ての太刀筋を――魔人は防がず、その身で受けた。

 更に噴き出す黒炎。増える裂傷――だが、新たに刻み込まれたその裂傷は、魔人の黒炎によって一瞬で修復された。

 

(――ッッ!! そうか――不死力が健在ならば、どんな攻撃も負傷にはならない。それはつまり――防ぐ意味などないということ)

 

 確かに、理屈の上では正しい。

 攻撃を防ぐのは、負傷したくないから――死にたくないからだ。

 

 だが、負傷も瞬く間に無効化し、そもそも死ぬことがないのならば、防御などする意味もないということか。

 

(だが――それでも防ぐだろう。()()()()())

 

 武士としては、傷を負うことは何よりも恐ろしい筈だ。

 人間なのだから。刀や槍で攻撃されたら、生身で受けたら――死んでしまうから。

 

 だからこそ、一撃も貰わないように、反射的に急所を庇う筈だ。

 本能にそれが刻まれている筈だ。

 

 太刀を――首に、脇に、大腿に、頭部に振るわれて、一切の防御姿勢を取らずに、薙刀を振るうことなど、出来ない筈だ。

 

「怖くないのか――元・人間……ッ!!」

 

 ゴロゴロと地を転がりながら、なりふり構わず、太刀を振り抜いた体勢の己に向かって振るわれた黒炎の薙刀の攻撃を避ける京四郎に――魔人は言う。

 

【そんなものは、愛の力で克服した】

 

 黒い炎が広がる戦場で、漆黒の魔人はそう語る。

 

「……何故、こんなにも強くなれる……ッ!」

 

 進化の速度が尋常ではない。

 強化の深度が通常ではない。

 

 これまで――強くなりたいとすら願ったこともなかった。

 

 どんな敵も、どんな怪異も、冷静に視て、分析し対策すれば打倒することは出来た。

 

 魔人も、一対一ではなく軍を率いて対処すれば、その首を切断することも出来たというのに。

 

 何故だ――何故。何故――こんなにも。

 

【理解出来ぬだろう。愛を知らない――怪物にはな】

 

 分からない。理解出来ない。

 

 京四郎には――藤原秀郷には――俵藤太には、一度たりとも、理解出来たことがない。

 

 分からない――分からない――分からない。

 

「愛――――愛とは、何だッッ!!!」

 

 人間ならば誰しもが知っているという。

 妖怪であってもそれを求めるという。

 

 魔人ですら、それを源に――どこまでも、強くなれるという。

 

 愛――それは。

 

【それを知らぬから、お前は――弱いのだ】

 

 黒炎の薙刀が振るわれる。黄金の太刀が迎え撃つ。

 

 二人の英傑が放つ二筋の閃光は、互いに激突し――そして。

 

(―――――――くっ)

 

 拮抗し――僅かに。

 

 黒い闇が、黄金の光を、圧し潰し。

 

(…………………敗ける……のか――!?)

 

 生まれて初めて、時を超えて――初めて抱く、その――――恐怖に。

 

 英雄の心に、微かに、罅が入る。

 

【――――終わりだ】

 

 その致命的な一瞬を、漆黒の魔人は見逃さない。

 

 黒炎が、黄金の光を侵食し――破壊する。

 

「―――――――」

 

 数々の奇跡を引き起こしてきた太刀が、まるで英雄の心を現すように、真っ二つに折れて――勝利し続けてきた黄金が、今、ここに、砕け散った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平安京の中に存在する、小さな隠れ家のような神秘郷――『山小屋』。

 

 永劫の転生を繰り返していた妖怪・葛の葉が、一時の休息を得る為に作り出した、この小さな空間に――今、濃密な妖力が充満している。

 

 その発生源たる妖狐は――葛の葉の望まない転生体でありながら、本体である葛の葉を取り込み、真なる葛の葉として覚醒した『狐の姫君』。

 

 妖狐・化生(けしょう)(まえ)は、妖怪の王座に腰を掛けるに相応しい覇気を振り撒きながら、百鬼夜行の歴々と相対する。

 

「……あなたは、何を望むの? ――化生の前」

 

 羽衣は、己が母親を取り込んだ妖狐に――『妹』に向かって、問い掛ける。

 

「『葛の葉(おかあさん)』を手に掛けて、妖力も――そして、欲しかった『愛』も手に入れたのでしょう?」

 

 これ以上、何を望むの? ――そんな『姉』からの問いに、化生の前は妖艶に微笑みながら返す。

 

「……そうね。確かに、今、私はかつてないほどの――生まれて初めての、転生して初めての充足感に満ちているわ。これが本来の自分であるという感覚……でもね、それでも、私には『愛』は分からないのよ」

 

 化生の前は、豊満な己の胸部に手を当てて、その中にある――否、結局埋まらなかった、見つからなかった、何かについて語る。

 

「恐らくは、疑似転生体『化生の前』として、『葛の葉』とは異なる自我を確立しすぎたせいかしらね。妖力や異能などは簒奪できたけれど、葛の葉としての記憶、そして『愛』といった感情は、『化生の前』には引き継がれなかった。――これこそが、本当の生まれ変わりというものかしらね」

 

 妖怪・『葛の葉』としての妖力的な繋がり――『平将門』や『羽衣』との『不死の呪い』などの繋がりは引き継げたが、その源泉となった『愛』などの感情記憶は引き継げなかった。

 

「……幾度の転生を繰り返してきた不死の妖怪が、有り得ざる、()()()死の恐怖に直面して尚――それでも、最後の最期まで、『葛の葉』は『愛』だけは手放さなかった」

 

 本当に恐ろしい妖怪(おんな)ね――そう、化生の前は、己が取り込み、己が殺した『母』たる妖狐について語る。

 

 羽衣は、そんな『妹』に、冷たい視線を向けながら言う。

 

「……なら、あなたは、今度こそ本当に『愛』を知る為に。引き続き、平太くん達――『箱』を狙うつもりだということ?」

 

 空気が、固まる。

 山小屋の裏に隠れている二人の童が震え、そして、羽衣の隣に立つ鴨桜等の敵意が高まる。

 

 羽衣は気付いていた。

 化生の前は、残された葛の葉の最後の欠片である『羽衣(あね)』を取り込み、完全体となることを宣言した。

 

 そして――()()()()()()()()、平太ら『箱』へと向ける執着も、些かも衰えていない。

 

「――いいえ。確かに、私は『箱』をまだ欲している。けれど、『愛』については、もういいわ。……なんというか、そんなにいいものだとは思えなくなっちゃたから。ないならないで、知らないなら知らないで――もう、いい」

 

 愛というものが、女というイキモノを、あんなにも悍ましい化物へと変えるというのならば。

 

 私は、愛よりも、野望を以て――葛の葉(はは)を超えると、化生の前は宣言する。

 

「愛や感情記憶は引き継げなかったけれど、妖力と一緒に、『葛の葉』からは情景記憶は引き継ぐことは出来たの。お姉ちゃんは知っていたかしら。『葛の葉(はは)』が大陸で遊んで(ヤンチャして)いた前世(かこ)があるということを」

 

 狭い島国たる日ノ本よりも遥かに進んだ文明、長い歴史、広大な土地が広がる――大陸。

 

「他には、そうね。今現在、藤原道長が訪れているという月なんかもいいかもしれないわ。――ねぇ、お姉ちゃん。世界は広いのよ。どこまでも広がっているの。こんな狭い国の小さな都なんかでいつまでも争っているの――とっても、馬鹿馬鹿しいとは思わないかしら」

 

 化生の前は、こうして見上げるととても狭い、息苦しい程に狭い、神秘郷の天井を見上げて、首を傾けながら――真っ赤な月のような瞳で、羽衣を見遣る。

 

「どうせ、これから永劫を生きるのですもの。『葛の葉(おかあさん)』では出来なかったことを、『葛の葉(あのおんな)』が出来なかったことを成し遂げて――『真なる外来種』すらも超える力を手に入れて――」

 

 世界征服――なんて、面白いと思わない?

 

 そう、化生の前は、口が裂けるような妖しい笑みを携えて、うっとりと言った。

 

「……本気で言っているの?」

「座敷童が手繰り寄せた運命の流れ――それがどれほどの力を持つのかは分からないけれど、試してみるのも一興よね。果たして、それがどれだけの世界改変力を持つのか、どれほどの奇跡を起こすことが可能なのか。いずれにせよ、そんな面白そうな玩具を使うのは私でありたいものだわ」

 

 そう言って、狐の尾を伸ばそうとする化生の前に――くだらねぇと、そう言って吐き捨てる半妖がいる。

 

「テメェの老後の楽しみに、(うち)仲間(かぞく)を巻き込まれてたまるかよ」

 

 お前に永劫の時なんざねぇよ――そう、鴨桜はドスの白刃を突き付けて言う。

 

「お前の物語はここで終わり(シメェ)だ。大陸編も、月面編も存在しねぇ」

 

 この狭え神秘郷(せかい)が、お前の終着点(はかば)だ――と。果敢にも、真っ直ぐに殺意を向けてくる若造に、生まれ変わりたての妖狐は、楽しげに微笑んで。

 

「ならば、かかってきなさいな。私が山小屋(ここ)を、あなた達の終着点(おはか)にして差し上げましょう」

 

 空間が歪むような、圧倒的な妖力。

 しかし、鴨桜を初め、百鬼夜行の歴々は戦意を絞り出すように高めて震えずに相向かう。

 

「――お願いします、百鬼夜行の方々! 化生の前を倒せば、魔人の不死も、妖怪大戦争の終結も叶う――私に、その為の秘策があります!!」

 

 羽衣が尾を展開し、叫びながら戦闘態勢を取る。

 

 そして、鴨桜を、ぬらりひょんを横に、百鬼夜行を背後に率いるようにして、先頭に立って、戦闘に臨む!!

 

「これが最後の戦いです! 行きましょう!!」

 

 こうして、妖怪大戦争の大ボスたる『狐の姫君』――葛の葉として覚醒した化生の前との最終決戦が勃発して。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――――百鬼夜行は壊滅した。

 

 

 

 

 




用語解説コーナー82

・黄金の太刀

 藤原の始祖たる『藤原鎌足(ふじわらのかまたり)』から代々受け継がれてきた『星の宝剣』。

 藤原秀郷が『星に選ばれた戦士』である証であり、『星の力』の結集体。

 これが折れるということは――藤原秀郷が、『星の戦士』たる資格を喪失したことを意味している。


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妖怪星人編――83 仇

――仇を取ってください。


 

 赤い月が傾き始め、長い夜の終わりを予感させ始めていた頃。

 旧土御門邸――黒炎上跡にて、四人の武者が、その男の到着を待っていた。

 

「――あ、来ました! 金時です!」

 

 卜部季武(うらべすえたけ)が指差す方向に、全員が目を向け――そして、絶句する。

 

 そこには、黒焦げとなった裸身の少女を抱える一人の男の姿があった。

 

 だが、男の姿は一定ではなかった。

 爪が生え、牙が生え、翼が消えて、尾が消える。

 

 人でありながら龍であり――龍でもなく人でもなかった。

 

 その異様な有様に季武は言葉を失い――碓井貞光が、一歩前に出て、彼を真正面から出迎える。

 

「――酒吞童子(しゅてんどうじ)を、打倒できたのか。金時」

「……………」

 

 貞光の言葉に、金時は何も答えない。

 

 ただ、腕に抱いたぐったりと動かない酒吞童子を、更に強くギュッと抱きかかえて、俯きながら、肩を震わせる。

 

 そして、その子供のように震える大男の肩に、貞光はポンと手を置いて労う。

 

「――よくやった。お前は――俺達の誇りだ」

 

 金時は、そんな貞光の言葉にも顔を上げることは出来ない。

 貞光もまた、自分の手を乗せた金時の肩が――龍のそれに変化したことに、何も言うことはなかった。

 

「――ともかく、これで全員が揃ったな」

 

 源氏の棟梁たる源頼光(みなもとのらいこう)――それを受け継ぎし少年が言う。

 

「貞光、季武――金時。そして――(つな)

 

 頼光は、金時よりも少しばかり早く、この黒炎上跡に先着していた綱の方を振り向き、そして再び全員を見渡して、言う。

 

「これより――酒吞童子の封印を開始する。各自、五芒星の頂点たる持ち場に着いてくれ」

 

 黒炎上跡の敷地内に描かれた五芒星(ごぼうせい)

 

 赤き月へと届いた『黄金の手』の根元たる広大な庭の中の、茨木童子の『右腕』の掘り出し跡を中心に描かれたそれの、円の中に描かれた星の頂点たる五点に、頼光四天王と頼光本人が配置されることで――封印は開始される。

 

「金時。お前は、酒吞童子を中心に寝かしてくれ。その後、空いた点の場所に――」

 

 そう金時に指示を出そうとする頼光の前に、坂田金時はゆっくりと近寄って。

 少年を見下ろすように、彼の顔を真っ直ぐに見据えた金時は――酒吞童子を抱えたまま、「……棟梁」と、大きな体を縮こませながら、絞り出すように声を出す。

 

「――――俺も、酒吞と一緒に封印してくれ」

 

 唐突な金時の言葉に、貞光も季武も、綱も、それぞれの持ち場に向かっていた歩みを止めて――目を向ける。

 

 何も言わず、ただじっと見つめて続きを促す頼光の視線に、金時はぽつりぽつりと、懺悔をするように呟きを漏らす。

 

「……見ての通りだ。俺は、棟梁との――先代とも約束した忠告を破って、一線を越えちまった……それどころか、その奥にまで足を突っ込んじまったんだ。正直、いつ自我を失って、完全な龍になっちまってもおかしくねぇ。今もこうして、龍とも人ともいえねぇ、不安定な状態から立て直せないでいる。……こんな俺は――もう、アンタ達の傍には、いられねぇ……ッ」

 

 だから――俺を、と。

 こんな醜い怪物の居場所なんて、もう何処にも有りやないと。

 

 そう告解する金時の、赤い龍の鱗に覆われた肩を、貞光がそうしたように、頼光もまた、少し背伸びをして俯く大男の肩に手を乗せる。

 

「……我々も、酒吞童子ほどの怪物を、何の代償もなく封印しようと目論んでいたわけではない。酒吞童子を封印する際には、その封印を千年間維持する為、我々もその結界の内側に入って術式を発動し続けることになる――つまり、お前に言われるまでもなく、我々は酒吞童子と共に封印されることになるだろう。お前だけではない」

 

 我々も一緒にだ――その頼光の言葉に、金時は遂に、その情けない顔を上げることになり。

 

「な、なんで!? 棟梁達も一緒に!?」

「この術式が五芒星の頂点を全て埋めてこそ発動することが出来る――つまり、五人で行う必要がある。それに――」

 

 頼光は、金時の不安定な心を現すように、龍と人間の間を行き来するように状態が安定しない金時の身体を見ながら言う。

 

「……金時。お前のその姿は、我々のせいだ」

「ち、違うッ! これは、俺の中途半端さが――俺の弱さがッ!!」

「そう――弱さ、それこそが原因だ。しかし、それはお前だけじゃない。お前を含めた我々――全員が、弱かった。その結果こそが全てなのだ」

 

 酒吞童子という怪物を、誰一人として、打倒することが出来なかった――弱さ。

 それ故に、坂田金時に全てを任せ、全てを押し付けた結果が――今、この状況なのだと。

 

「お前だけに背負わせるつもりはない。お前一人だけ行かせるつもりはない。情けない敗北も、苦い勝利も――その代償も、重みも、共に背負わせろ。――我々は仲間だ」

 

 源頼光の名と、その重責を背負い続けてきた少年は――大きな戦士の身体を背伸びをしながら抱き締める。

 

「――よく戦った。こんなになるまで、よく頑張ったな。……()は、()の自慢の四天王――」

 

――誇り高き、英雄だ。

 

 己が主の、その暖かい言葉と抱擁に――金時は、何も言えず、ただ一筋の涙を流した。

 

「……………」

 

 そして、術式の中心に酒吞童子を横たえて、そのさらさらの髪を僅かに撫でて、その寝顔を露わにさせて。

 

 金時が最後に、一つ空いた頂点の持ち場に立った後。

 

 五芒星の五つの頂点に、頼光四天王と、源頼光の配置が完了し――棟梁たる少年が宣言する。

 

「いくぞ、皆。……封印――――開始だ」

 

 その合図の言葉と共に、五色の呪力が五芒星に流れ込み。

 

 黒炎上跡を包み込むように――(とばり)が降りた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 頭に置いていた手が弾かれる。

 

 精神世界から追い出され、現実へと意識を帰還させた烏天狗は――ぐらりと、己の身体がふらつくのを感じる。

 

(――これは……『魂』が大きく削られている。取り込んだ筈の『(さとり)』の妖力も……『天邪鬼(あまのじゃく)』の妖力も損耗している。……これが、『憑霊空間』にて主に拒絶される危険性(りすく)というわけですか……)

 

 剥き出しの『魂』を傷つけられる危険性。

 もし、烏天狗が覚や天邪鬼を取り込んでおらず、肉付けされていない烏天狗一体分の『魂』のままで挑んでいたら――二度と自我を取り戻せない廃人となっていたかもしれない。

 

(妖力も三羽烏(さんばがらす)として分かたれた当初と同等程度。異能も烏天狗由来のものしか使用できないようですね。――ふふ、振り出しに戻るというやつですか)

 

 面白い――と、烏天狗は笑う。

 

 もう動けない筈の身体を、指一本動かせない程に痛めつけた身体を――そして。

 

 徹底的に砕き、折り、壊した筈の心を――奮い立たせて、立ち上がる青年を見て。

 

「一体の妖怪――烏天狗として、私はアナタに挑みましょう」

 

 不屈の戦士よ――そう不敵に笑う烏天狗に、青年は、ふらつきながらも、地を這うような、低い声で唸る。

 

「……汚い足で、僕達の家に上がるな。……母上から……妹から――離れろ、妖怪!!」

 

 僕達の――家から、出て行けッッ!!! ――叫びながら、青年は『力』を振るう。

 

 屋外へと吹き飛ばされながらも片翼で以て空へと逃げる烏天狗を、追いかけるように屋根と上る青年。

 

 当然ながら――自力ではない。自分の力ではない。

 いくら激昂しようと、心と体を奮い立たせようと、徹底的に蓄積された負債は健在で、青年は自力では指一本動かせない重体のままである。

 

 だから――借りる。だから、助けを求める。

 己の身体を明け渡し、何も出来ない自分の代わりに、何でも出来る『英雄(もの)』にやってもらう。

 

 臆面もなく、己の家族が殺された復讐を他者に委託し――代行させる。

 

 英雄の『魂』を――『慿霊』させる。

 

『一体、これは何という因果なのだろうね』

 

 青年の身体に『慿霊』した『英雄』は、無残に破壊された平安京の街々に目を細める。

 

『私が守れなかった平安京……そして、あの大江山にて、私と共に戦い、そして家族を失った青年の身体を借りることになるとは』

 

 まるで、私が使命を果たせなかった末路を、これでもかと突き付けられているような気分だ――そう己の身体を使って呟く『英雄』に、青年もまた、己の口を使って答える。

 

『……君の家族を殺し、君の家族を壊したのは、ある意味で私といえる。そんな何も出来なかった情けない男に、君は体を貸すことを了承できるのか』

「――僕が、あなたに対して、複雑な思いを抱いていないといえば……嘘になります」

 

 かの英雄が始めた戦争――『大江山の鬼退治』が無ければ。

 青年の家族は武器など手に取らず、武士になどならず、身の程知らずの戦争に参加して――死ぬこともなかった。

 

 だが――武器を取り、武士となることを選んだのも、そして戦って、負けて、死んだのも、最終的には、彼等が選んだ生き様で、死に様だから。

 

「なので、全てをあなたに押し付けるつもりもありません。そして、あなた様が――僕が知る限り、最も強い英雄であることも、また事実だから」

 

 ですので、思う存分、その御力をお貸し下さい――そう呟く青年の言葉に続いて、再び青年の口が勝手に開き、声を発する。

 

 青年の中にあるもう一つの『魂』が、青年が助けを求めた英雄が答える。

 

 これもまた、因果か――と。

 

『……よろしい。我が部下や、我が弟に全てを押し付け、黄泉の国でのうのうと、この非業の大禍を眺めるだけの卑怯者とならずに済む道を用意してもらえたと、言祝ぐべきであろう』

 

 微力ながら、『人間』達の勝利の助力となれるのならば。かつて私が守れなかった戦士の家族というのも、そう考えれば、今宵の妖怪大戦争にて、我が『魂』を預ける『器』に相応しい――そう、静かに語りながら青年は、屋根へと上る際に拾い上げていた、名も無き戦士の遺品たる量産品たる刀を手に取り、その切っ先を妖怪へと向ける。

 

(やはり、既に『慿霊』を済ませているようですね。だが、だからといって『(からだ)』の全てを明け渡しているわけではない。己の自意識も保ちながら、英雄の意識も共有させている――)

 

 つまり、『慿霊(ひょうれい)』の練度が上がっている。

 そして『英雄』の魂との会話から、恐らくは青年が、任意の『英雄』の魂を自ら選択して降ろしているのが伺える。

 

『そういうことだ、妖怪よ。待たせたな――』

 

 戦争(つづき)を始めよう――そう言って、戦闘態勢を取る『英雄』に。

 

「ええ、楽しみましょう。我々の――」

 

 最後の戦いを――その言葉と共に、烏天狗の身体が分裂を始めた。

 

 無数の烏へと変化した烏天狗が、黒い風となりながら青年に向かって一直線に飛んでいく。

 

 青年は――青年の身体を借りた英雄は、名も無き戦士から借り受けた刀を、一度、鞘へと納め。

 

 黒い風との交錯際に――きん、と、一瞬で抜刀して、再び刃を鞘へと戻す。

 

 そして、数瞬遅れで幾筋もの剣閃が舞い、無数の烏が次々と斬り裂かれていく。

 

 生き残った烏が再び一ヶ所に寄り集まって烏天狗の姿形を取り戻していくと――烏天狗は肩の辺りを押さえながら呻く。

 

(今の技は――あの魔の森の決戦で目の当たりにした……なるほど、平安武士たる青年が、その強さを最も信じて、身体を預けることが出来る英雄)

 

 十年前、青年の初陣たる『大江山の鬼退治』にて、かの酒吞童子と死闘を繰り広げてこの世を去った、『神秘殺し』と謳われた大英雄。

 

「源頼光――その初代(おりじなる)ですか……ッ!!」

 

 青年の身体を借りる『英雄』は、己が技に耐え切れずに砕けた刀の鞘を丁寧に地面に置きながら、屋根に突き刺さっていた、やはり量産品たる槍を引き抜く。

 

 そして、烏天狗が放つ突風をものともせずに、その隙間を縫うようにして槍を投擲する。

 

(――ッ! 『慿霊』は、あくまで依代たる青年の身体に魂を下ろす異能。つまり、青年の身体能力で再現不可能な技は出せない筈。その上、今の青年の身体状況は正しく満身創痍。にも、関わらず――)

 

 先程の居合斬りも、投槍も、とてもではないが人間業ではない。

 それを、源頼光という英雄は――身体の負荷を最小限にした、圧倒的な技術で以て可能にしてみせる。

 

 今も安全圏たる空中から攻撃を仕掛ける烏天狗に、屋根の上から、あるいは飛び降りて道の中から、倒れた戦士の傍らから、落ちている武器を素早く拾い上げて、剣だろうと槍だろうと、弓矢だろうと何だろうと、瞬時に使いこなして、的確に烏天狗を撃ち落とす一撃を狙ってくる。

 

(――片翼では高度を出せない以上、空中も安全とはいえない。ならば――)

 

 接近戦を仕掛けるしかない。

 一撃でも重い攻撃を叩き込めば、満身創痍の身体だ――間違いなく、こちらの勝利が確定すると。

 

 烏天狗は懐の巻物から錫杖(しゃくじょう)と扇を取り出して、黒い翼をはためかせ、急降下しながら青年へと急接近する。

 それを『頼光』は、再び近くに落ちていた刀を拾い上げて迎え撃つ。

 

「ふふ――そう来ると思いました――よッ!」

 

 烏天狗は『頼光』が構えた瞬間に、錫杖を持った手と逆の手で扇を()()()振るい、風を起こして突進を加速させる。

 

 それに咄嗟に対応しようとした『頼光』が、攻撃を加速した突進に合わせようと振りを鋭くすべく刀に呪力を流して――。

 

『――――ッ!?』

 

 英雄の一振りの途中で耐え切れず、刀は振りの途中でバラバラに砕けてしまう。

 

「そう! それはそこらの低級戦士の武器たる量産品でしょう! 英雄の呪力(しゅつりょく)に耐えられるような、あなたが生前に振るっていたような名刀ではない!! だからこそ――――ッ!!??」

 

 烏天狗は咄嗟に『頼光』が強い呪力を流すように攻撃に緩急を加えた。

 例え肉体は青年のそれでも、英雄の魂は呪力の()()()()()を覚えている。

 

 青年が未だ十しか引き出せていない肉体(タンク)から、咄嗟に二十の呪力を引き出すことも当然可能なのだ。無論、それは青年の肉体にそれだけの潜在能力があることが前提だが。

 

 それを烏天狗は狙った。

 英雄の豊富過ぎる実戦経験を逆手に取り、咄嗟に、反射的に、()()()()()()で武具の許容量以上の呪力を流してしまう――自爆狙い。

 

 貧弱な『器』と歴戦の『魂』による、ちぐはぐな()()

 

 最も顕著な『慿霊』の弱点を突く、妖怪の目論見は上手くいった――が、その姑息な手段は、『英雄』は欺けても、『愚者』を止めるには至らなかった。

 

 満身創痍のその身体を――更に、深く、致命的に傷つけるように。

 

 流された強い呪力をそのまま留めて、己の拳が砕けるような攻撃を躊躇なく振るう――『愚者』の感情任せの一撃が、烏天狗の頬に突き刺さった。

 

『……無茶をする。もう元には戻らんぞ』

「構わない。どっちみち、ここでコイツを殺せなければ、僕に明日は訪れないんですから」

 

 だから、もっと、もっと、雑に使い壊してください――と、青年は『英雄』に注文を付ける。

 

 そして、曲がりなりにも『英雄』の拳をまともに受けた烏天狗は、ゴロゴロと屋根を転がりながら「……ふ……ふふ」と、ゆっくりと傾くように落ちてくる赤い月を見上げながら呟いた。

 

「ここで負けたら、明日は訪れない。正しくその通り。なればこそ――」

 

 出し惜しみは、何の意味もありませんね――そう呟きながら、烏天狗は己の懐に手を伸ばす。

 

「魔の森の土産です。この戦争が始まる前に、道満様に料理をしていただいたのですが――間に合って本当に良かった」

 

 烏天狗が立ち上がりながら、その新たな巻物を開く――そこから現れたのは、一体の傀儡だった。

 

 既に命のない、只の人形。

 しかし、その莫大な妖力は健在で――『頼光』は、一目でその妖怪の脅威を認識した。

 

 もしかしたら、至高の領域にまで届き得る程の、歴史に名を刻む大妖怪となっていたかもしれない、その怪物の名は。

 

「――大妖怪・『土蜘蛛(つちぐも)』。かの『狐の姫君』すら支配下におけず、かの『安倍晴明』すら計画(プラン)に組み込むことが出来なかったが為に、この妖怪を殺す為に魔の森の決戦という前哨戦を用意した程の怪物です。これはその残り滓ですが、それでも――今の貴方には過ぎた相手でしょう」

 

 大妖怪・土蜘蛛。

 それは確かに、青年では手も足も出ない程の格上だろう。

 

 本来であれば同じ戦場に立つことすら許されない程の存在だ。

 

 こうして満身創痍の中、碌な武具も持たず、しかも土蜘蛛の傀儡だけでなく、それを操る烏天狗を含めて、二体の妖怪を同時に相手取らなくてはならない――正しく、絶対絶命。

 

 ()()()()()()と、青年は吐き捨てる。

 

「……頼光様」

『――何だ、青年』

 

 青年は、まるで――許しを請うように。

 

 己の中の――『英雄』に告げた。

 

「――僕の全部を、あなたに捧げます。だから――」

 

 僕の家族の――仇を取ってください。

 

 そう言って、心の世界で――青年は、己の首に刃を突き立てた。

 




用語解説コーナー83

・慿霊時の呪力

 人間の呪力は基本的にその素質を持つ者の肉体――『箱』に宿る。

 つまり、青年がどれほど凄まじい『英雄』の『魂』をその身に下ろそうとも、かつての『英雄』の御業の全てを再現することは出来ない。

 青年の貧弱な『箱』を壊さない程度の、青年の凡弱な『呪力』を持って可能なそれしか出来ない。

 だが――『英雄』は、呪力の絞り出し方を心得ている。
 数々の修羅場を潜り抜けた経験を、瞬間的な呪力操作を、英雄の『魂』は記憶している。

 しかし、それでも――ないものは絞り出せない。
 その『箱』に、相応の中身が無ければ、どれだけ上手く絞った所で――何も起きない。

 それでも――刃は壊れた。
 凡弱な筈の『箱』から、英雄が絞り出した――それは。

 英雄の輝に比べたら遥かに見劣りするかのしれないが――それは。

 それしかないと判断したらならば、それが家族の仇を討つ為だと確信したならば。

 迷わずに己の首に刃を当てることが出来る、どこにでもいる凡人たる青年の――確かに存在した、光る可能性だったのだ。
 


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妖怪星人編――84 世界の終わり

さらばだ――英雄。


 

 その少年にとって、強さとは生まれつき身に付いているものだった。

 

 血の滲むような修行などしたことがない。特別な血統に生まれたわけでもない。

 

 だが――少年は強かった。

 異常な程に、周囲から、隔絶していた。

 

 まるで、世界に選ばれたかのように。まるで、星に選ばれたかのように。

 

 しかし――その代償というべきか。その代価というべきか。

 

 少年には――感情というものが極端に薄かった。

 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも――その全てが、まるで遠い何処かの出来事のように、実感が湧かなかった。

 

 当然――愛も、知らなかった。

 

 だから少年は――善悪の区別も理解出来ず、ただ、周囲の人間の顔色ばかりを窺った。

 

 人が笑うといいことで、人が泣くとわるいことなのだと学んだ。

 

 故に、少年は人々の涙を止める為の旅に出た。

 

 何でもいいから、自分の強さを何かの為に使いたかった。

 

 自分の強さの理由が欲しかった。

 これはきっと、自分が何かをすべきだから与えられたもので。

 

 その何かを成し遂げれば――もしかしたら。

 

 自分もきっと――それを知ることが出来るのだと信じて。

 

 そうして少年は――俵藤太(たわらのとうた)となり。

 やがては青年へ――藤原秀郷(ふじわらのひでさと)となって。

 

 いつしか――怪異殺しと、そう呼ばれるようになった。

 

 だが、彼は――何時までも、何処までも、ずっといつまでも強かった。

 古今東西、ありとあらゆる怪異を殺して屠って回ったが、彼よりも強いものは何処にも存在しなくて。

 

 怪異を殺しても、滅ぼしても、退治しても――いつまでも、どこまでも、終わりはなくて。

 

 強さはいつまでも磨かれていくばかりで――彼が求めた感情は、探した愛は、どこまでも遠くて。

 

 成果の上がらない旅に、いつしか疲れ果てた時。

 

 怪異殺しは――魔人と出遭った。

 

 生まれて初めて対面する――己よりも強大な怪異。

 

 やっとだ――そう、思った。

 

 自分の強さは――きっと、この魔人を滅ぼす為に渡されたものだ。

 

 この魔人を止めれば、この戦いが終われば――きっと。

 

 きっと――その後は。

 

 

 俺は――――どうすればいいのだろう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黄金の太刀が砕け散る。

 

 これまで数々の怪異を切り裂いてきた――怪異殺しの宝具が、敗北した。

 

(――敗北……? 敗ける……負ける? この俺が――俺は、敗けるのか?)

 

 生まれた時から隔絶して強かった彼も、初めから最強だったわけではない。

 時には当時の自分よりも強大な敵と相向かう時もあった。だが、彼は負けると思うことはなかった。

 

 諦めずに戦い続ければ――彼は必ず勝利できた。

 思考を止めなければ、いつしか弱点を見抜いていて、窮地を切り抜く方策が思い付いた――最終的には、彼はいつも勝者だった。

 

 だが――この時。

 

 生まれて初めて――時を越えて初めて。

 

 真っ暗な――恐怖の、中にいた。

 

(黄金の太刀が砕けた――黒炎を防ぐ唯一の手段――触れたら対象を燃やし尽くすまで消えない炎――もう一撃も喰らえない――不死身――殺す手段がない――――彼女らが不死の呪いを解くまで――――それはいつまでだ――――そもそも可能なのか――――あとどれくらい時間を稼げば――――その為には――取れる手段は――――突ける弱点は――――ない――――ない――――方法の――――可能性も――――勝機も――――ない――――?)

 

 敗ける――――?

 

 俺は――――敗けるのか?

 

 暗い視界の中で、黒炎が瞬く。

 

 顔を上げる。

 

 そこには、漆黒の魔人がいる。

 

 黒い炎を纏う怪異。

 不死身の魔人が、こちらを炎の眼で睨んでいる。

 

 敗ける――殺される。

 

 死ぬ――――ああ、そうか。

 

 これが――恐怖。

 

 これが――――感情か。

 

 ようやく、感情が――英雄に、追い付いた。

 

「うわぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 なりふり構わず、飛び込むようにして黒炎の薙刀を回避する。

 余裕も誇りもない無様な姿に、魔人は怒りすら露わにして追撃する。

 

【どうした!! 随分と情けない姿を見せるではないか――英雄!!】

 

 英雄――怪異を殺して周遊するうちに、いつしかそんな風に言われていた。

 

 なろうと思って英雄になどなったわけではない。

 望んでなどいない。与えられた――押し付けられた。

 

 見ず知らずの誰かに渡された、人並外れた――人間の枠から外された力で。

 

(そういった意味では、俺もお前と同じだった。望んでもないのに、知らない内に――お前は魔人へ、俺は英雄にさせられていた)

 

 京四郎は、はっきり言って――憎んでいる。

 恐怖という感情を理解した今、その気持ちを、その感情を、はっきりと己の内に自覚することが出来る。

 

(俺は――ずっと恨んでいた。この力を与えた何者かを。勝手に与えたくせに、何も教えてくれないソイツを。力の使い方も、力の使い道も――使命も、責務も、何も教えてくれない、その何者かを)

 

 だが、将門は――恨んでいないと言った。

 その者に対する愛は――膨らみ上がり、大きくなるばかりだと。

 

(愛――愛とは何だ! 愛があれば、この恐怖を――この地獄を、乗り越えることが出来るのか!?)

 

 武器もなく、ただ無様に逃げ回りながら、瞳に涙すら浮かべながら、京四郎は懇願した。

 

 この力を与えた何者か――世界だか星だか知らないが、自分を英雄にした何者かよ。

 

(もし、俺に何かをやらせたくて、こんな力を与えたのなら――とっとと出てきて、教えてくれ! 俺に何をさせたい!! 何の為に――俺を英雄にした!?)

 

 何も分からず、まるで子供のように、京四郎は逃げ回った。

 

 その余りにも無様な姿に――怒りを通り越して呆れ果て、失望したように、魔人は踵を返す。

 

【……もうよい。これ以上は、何の意味もない】

 

 魔人はそのまま足を――『祠』の方角へと向ける。

 

 一瞬、助かったという思いを抱いてしまった京四郎だったが――すぐに、自分は魔人を『祠』へ向かわせない為に戦っていたのだと、思い出して。

 

「ま――」

【待つものか。最早、貴様に――】

 

 この私を、引き留める理由も――価値もない、と。

 

 将門は振り向くことなく――黒炎の大波を引き起こす。

 

 これを回避する為には、魔人に背を向けて大きく後退するしかない。

 

 だが、それをすれば、この黒炎の大波が引いた頃には、既に魔人は『祠』を潜っているだろう。

 

「――――」

 

 京四郎の――英雄の、足が止まる。

 

 どうしようもないのではないか、十分に戦ったのではないか、やれることはやったのではないか――これまでの生涯で、一度も自問してこなかった文言が次々と脳裏に浮かぶ。

 

(仮に、この黒炎の波を乗り越えた所で――どうなる? もう、俺には魔人と真っ向から戦う手段などない。ならば、ここは引いて――生き残って――)

 

 それで――どうなる?

 

 ここで生き残って、ここで死に損なって。

 

 自分は――何の為に、生きていくんだ?

 

「――――――」

 

 将門と自分は、この時代の異物。

 そう言ったのは己ではなかったのか?

 

 生き残るというのなら、既に反則のように生き残っている。

 死に損なっているというのなら、既に例外のように死に損なっている。

 

 今、ここで使わないで――どこに使い道があるというのだ――この命は。

 

(怖い――怖いな。死ぬのは怖い。だが――)

 

 それは――当然なのだ。

 生きているのだから。死にたくないに決まっている。

 

 皆、誰しもが、この身と心を震わす恐怖と戦い続けてきた。

 死ぬかもしれない。勝てないかもしれない――敗けるかもしれない。

 

 そんな恐怖と戦って、乗り越えて、戦い続けてきたから――人は、その者を英雄と呼ぶのだ。

 

(何で英雄にした――か。随分とまあ、傲慢なことを考えていたな)

 

 ああ――そういう意味では、自分はそもそも、英雄などではなかった。

 

 ただ、何者かから与えられた強さをひけらかしていただけの子供だった。

 

 随分と時間が掛かったけれど――百年程、掛かってしまったけれど。

 

(この妖怪大戦争を勇敢に戦い抜いている、後輩達を見習って――俺もそろそろ)

 

 英雄になろう――京四郎は、覚悟を固めて。

 

 黒炎の大波の中に、真っ直ぐに突っ込んでいった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黒炎の大波に京四郎が呑み込まれていく様を――魔人は冷めた眼差しで見詰めていた。

 

 百年前の日ノ本。

 あの時代を生きた男達で、俵藤太――藤原秀郷という名前を知らない者はいない。

 

 否、百年後の現代においても、妖怪変化と戦う者達ならば、彼の英雄の名前を知らないものなど存在しないだろう。

 

 なにせ、彼は――怪異殺しにして、龍殺し。

 生涯無敗を誇る最強の英雄――だった。

 

(それが、こんなにも呆気なく――あんなにも無様な最期を迎えることになるとはな)

 

 最強であり、無敵。

 そんな英雄だからこそ――初めて出遭った、己よりも強大な相手には、あんなにも脆い。

 

 平将門は、己の中にある失望から目を逸らすように、再び前に――『祠』へと足を進めようと前を向く、と。

 

 

 そこに、黒炎を纏った京四郎がいた。

 

 

「な――――!?」

 

 硬直する魔人に、いつの間にか将門を追い越していた京四郎は、黄金に光る拳を叩き込む。

 

 世界から選ばれた力――星に選ばれた戦士たる力。

 

 異物を排除する渾身の力を、全てその拳に込めて――放つ。

 

「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 魔人の胴体に英雄の拳が突き刺さる。

 星の力、英雄の呪力、そして黒炎――全ての力を凝集させた拳は、『祠』へと近付いていた魔人を大きく吹き飛ばす。

 

 黒炎の大波が辺り一面に広がり、そこは既に黒炎の湖と化していた。

 

 その中に放り込まれた魔人を見ながら――京四郎は、力無く微笑む。

 

(――――これが、俺の……生涯最期の……攻撃だ)

 

 黒炎の大波に対し、京四郎は何の小細工もしなかった。

 

 触れたら対象を燃やし尽くすまで消えない炎を、その身に浴びながら、ただ真っ直ぐに突っ込み、大波を貫いて魔人の前に回っただけだ。

 

(呪力で一応は体を覆ったから即死は逃れたけれど……案の定、黒炎は呪力の鎧を貫いて、俺の身体を侵食し始めている。出来るかもと思って拳に体に纏わり憑いた黒炎を集中させたりしたけれど、右拳から段々と身体の方にも回ってきた。やはり、この黒炎は、俺の身体の全てを燃やし尽くすまでは消えない仕様みたいだな)

 

 恐らくは右拳を切り落としても無駄だろう。その傷口からこの黒炎は発火するに違いない。

 対象を燃やし尽くすまで消えない炎というのは、そういうことだ。

 既にこの黒炎に一度触れてしまった以上、京四郎の身体は黒炎の燃やし尽くす対象となってしまっている。

 

(――結局、俺は……魔人を止めることは出来なかったな。時まで越えたのに、情けないったらない)

 

 今の一撃は魔人にも相当なダメージを与えただろうが――魔人は不死だ。

 すぐさまにダメージも黒炎も回復して戻ってくるに決まっている。

 

(不死の呪いが解けるまで足止めするって約束も果たせなかった。……このまま魔人が『祠』の中に入って、葛の葉と再会を果たせば――魔人の不死の呪いは永劫に解けなくなる)

 

 羽衣が京四郎に残した真実。

 それは、魔人が葛の葉と再会し、不死の呪いを解く為の『鍵』を取り込んでしまえば、魔人の不死を解く為の条件が魔人を殺すことになってしまう。

 

 死なない魔人を殺せるようにする為には魔人を殺さなくてならない――正に矛盾だ。

 結果、永遠に呪いは解けなくなってしまう。

 

 それを防ぐ為にも、羽衣が不死の呪いを破壊するまで、ここで魔人を足止めしなくてはならなかったが――それはどうも、出来そうにない。

 

(なんとも締まらない、中途半端な結果だ――それでも、最後の一撃くらいは)

 

 英雄らしいことが出来たかな――と、京四郎が力無く笑っている中で。

 

 黒炎の湖から、黒い炎を噴出する魔人が上がってくる。

 

【今のは――見事な一撃だった】

 

 死が迫って来る。

 もう、自分には魔人の攻撃を防ぐ手段がない。

 

 先程までのように逃げ回っても、既に黒炎に侵された身体は、すぐに死を迎えることになるだろう。

 

 ならば――最後くらいは。

 

 宿敵に対して堂々と――英雄らしい姿で相対しようではないか。

 

【許せ――俺は、お前を見下げ果てていた】

 

 魔人が黒炎の薙刀を作り出す。

 まるでそれは、介錯を務めるように、命を奪うのではなく、伝説を終わらせる為の刃であるように感じた。

 

【さらばだ――英雄】

 

 魔人の刃が振るわれる。

 

 英雄は、恐怖を乗り越えて――きっと自分は、生前に出来なかったことをやり遂げた、そんな達成感すら感じながら。

 

(そういえば――感情は、知ることは出来たけれど)

 

 愛とやらは、最期まで、知ることは出来なかったなぁ――と、そんなことを思いながら。

 

 目を瞑り、迫る死を迎え入れるように――。

 

「何やってんの。ダメだよ。折角、更にカッコよくなったのに――ここで死ぬなんてもったいない」

 

 君だけは、生きなきゃダメだよ――そんな言葉が、いつの間にか背後にいた誰かに、抱き着くように、耳元で囁かれて。

 

 黒炎の刃が届くよりも先に――がぶりと、首元に届いた、牙があった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 少しは世界を知っているつもりだった。

 

 世界は理不尽で、世界は暗くて、世界はいつだって――どうしてこんなことにってことばっかりで。

 

 暗くて、辛くて、苦しくて、切ない。

 

 だけど――それでも、暖かい出遭いがあるのだと知った。

 

 自分を抱き締めてくれる、自分を救い上げてくれる――そんな存在と出遭えるのだと知った。

 

 自分の手はちっぽけで、出来ることなんて本当に限られていて。

 

 敵を倒すことも出来ない、武器すら握ることの出来ない――無力な、(こども)で。

 

 だけど――それでも。

 

 自分の中に、それを覆す力があるのならば。

 

 世界で一番大事な存在が、そんな素敵な力をくれたというのならば。

 

 ならば――僕は。

 

 その力を――夜を明ける為に使いたい。

 

 他の誰でもなく――自分自身の、願いの為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 圧倒的な力だった。

 

 安倍晴明の最強の式神『十二神将』筆頭である『貴人』――羽衣(うい)

 

 妖怪任侠組織『百鬼夜行』総大将――ぬらりひょん。

 その右腕であり、かつて四国の妖怪組織を纏め上げた逸材――刑部。

 雪女の里である雪隠郷における『三白』が一角の後継者――白夜。

 さすらいの用心棒として妖怪界にその名を轟かせる一匹河童――長谷川。

 

 そして、経験は浅いが輝く才能を持つ二代目派閥たる面々。

 ぬらりひょんの息子――鴨桜。その傍付きである士弦、月夜、雪菜。

 

 総勢――九体。

 揃いも揃って曲者揃いの九体もの妖怪が、一斉に攻撃を仕掛けて、一蹴された。

 

 手も足も出ないとは、正にこのことだった。

 

 羽衣の狐火も、白夜の氷弾も、長谷川の水砲も、まるで届かず。

 刑部の牙も、士弦の糸も、雪菜の氷刃も、月夜の爪も、見事に弾き返され。

 

 そして――姿を気取られない、殺意すらも気付かせない。

 ぬらりひょんの奥義も、鴨桜の白刃も――狐の尾は、全てを防いだ。

 

 九尾の妖狐。

 その力を取り戻した――妖怪王の器は、百鬼夜行を瞬く間に壊滅させた。

 

「口程にもないとは、正にこのことですねぇ」

 

 死屍累々。

 そう称するしかない地獄絵図が、目の前に広がっていた。

 

 立っているのは、立つことが出来ているのは、九本の尾を広げる――化生の前しかいない。

 

 いや、その狐以外に――もう二体の妖怪。二人の――童。

 

「……何で――」

 

 山小屋の影に隠れていた少年は、そう呆然と呟きながら、一歩、前に出た。

 

「だ、ダメ! 平太、駄目よ! 出てはダメ!!」

 

 必死に平太の服を引っ張って詩希が止めようとするが、まるで引き寄せられるように、平太は化生の前に向かって言う。

 

「何で……こんなことを、するんですか?」

 

 己の目前に、尾が届く範囲内にむざむざと現れた無力な少年に。

 

「ん――今、何か言ったの? ボウヤ」

 

 化生の前は、その妖しい笑みと――濃密な妖力を向けて問う。

 

「ひっ――っっ」

 

 それだけで、詩希は尻餅を着き、ガタガタと震えて動けなくなる。

 

 当然だ。

 狐の姫君――化生の前の、覚醒した今の妖力は、あの百鬼夜行の幹部達ですら、恐怖で動けなくなる程の濃度。

 

 何の戦闘経験もない、妖怪になりたての只の童が、直接向けられて抗えるようなものではない――その筈、なのに。

 

 平太は、歯を食い縛って、一歩だけ足を引いて――けれど、それだけで、尻餅も付かず、膝も折らず、顔すらも上げてみせながら、化生の前に向かって叫ぶ。

 

「なんで――こんなひどいことが出来るのかって聞いてるんだ!!」

 

 その叫びを受けて、詩希は瞠目し――化生の前もまた、目を見開く。

 

(……へぇ)

 

 只の『(いれもの)』だと思っていたけれど。

 座敷童でもない状態で、只の幽霊である状態で、莫大なる『運命の流れ』をその身に宿す『器』として在るこの少年には――何かあるのかもしれないと、化生の前は会話に乗ることにした。

 

「なんでって、聞いていなかったの? 『羽衣(おねえちゃん)』を取り込んで、ついでに『願望機(あなた)』も手に入れて――世界征服をするのが私の目的ですよ」

「……それは聞いていました。でも、僕には、それがあなたの本当の願いのようには思えない」

 

 へぇと、今度は口に出して言って、化生の前は屈みながら――そして、先程まで大人妖怪達を蹂躙していた九本の尾で包み込むようにして、平太と顔を合わせる。

 

 詩希が叫びそうになるが、化生の前は一本の尾の先端を詩希へと向けて黙らせ、平太に向かって優しく問い掛ける。

 

「どうしてそう思ったの?」

「――あなたの言葉には、嘘があったからです」

 

 嘘――その言葉に、化生の前はピタリと、その動きを止める。

 

「……嘘? 何を根拠にそう思ったの?」

「明確な根拠があるわけじゃないです……。でも、あの言葉だけは、間違いなく嘘だと断定できる」

 

 葛の葉――いえ、化生の前さん。

 平太は強く、勇気を込めて、そう呼んだ。

 

 その瞳に――そして、確固たる意志で、口に出した言葉に。

 

「あなたの……本当の願いは――」

 

 化生の前は、その時――確信した。

 

 この子は――()()だ。

 例え、願いを叶える器だとしても――それを、木っ端微塵に破壊してしまうことになっても。

 

 ここで殺さなくてはならない。今、ここで、消さなければならない。

 

 平太という、どこにでもいる、ありふれた座敷童もどきの幽霊は。

 

 きっと、将来――()()()()()()()()()()()

 

 そう考え、詩希に向けていたそれも戻して、計九本の全ての尾で以て、平太を母と同じように圧し潰そうとして――。

 

「――――やめろ」

 

 死屍累々と化した戦場の中で、ゆっくりと――鴨桜が立ち上がった。

 

 既に満身創痍であり、まともに立ち続けることも出来ないが、それでも――その目は、ギラギラと血走らせながら、化生の前を睨み続けていた。

 

「鴨桜さんッ!」

「あら? あなた、まだ息があったの?」

 

 平太が叫び、詩希の瞳にも希望の光が灯る。

 

 まだ――終わっていない。

 もしかしたら、ここからどうにか出来るのだろうか。

 

 物語のような奇跡が起きて、一発逆転の展開が起きるのだろうか。

 

 そんな童女の希望を、化生の前は一笑に伏せる。

 

「無理しない方がいいんじゃないかしら。どうせすぐに死ぬのだから」

「――――え?」

 

 詩希の戸惑いの言葉にも取り合わず、化生の前は淡々と告げる。

 

「まだかろうじて息があるのは、あなたと――あなたのお父様くらいかしら。お姉ちゃんはこれから私が取り込むから辛うじて生かしてあるけれど、他の奴等はみんなとっくに死んでいるわよ」

 

 詩希は、まるで錆び付いた人形のように、辺りを見渡す――血の海のように、真っ赤に染まった世界を見渡す。

 

 刑部、白夜、長谷川。

 百鬼夜行の幹部として圧倒的な実力と経験を誇っていた妖怪が死んでいる。

 ピクリとも動かず、それでも最後まで抵抗し続けた末路か、全身がぐちゃぐちゃになった状態で無残に死んでいる。

 

 士弦、雪菜、月夜。

 常に鴨桜の隣にいた驚異的な潜在能力を誇っていた若き卵達が死んでいる。

 赤き月が昇る前、今朝にも一緒に話をした彼も、言葉を交わした彼女も、笑顔を向けてくれた彼女も、恐怖に表情を歪めて泣き喚いた顔のまま残酷に死んでいる。

 

 死んでいる――死んでいる。

 

 本当に、疑いの余地なく――容赦なく、亡くなっている。

 

(な、なんで――なんで――)

 

 分かっていた筈だ。

 確かに、自分達は守られてばかりだったけれど、それでも、この夜、ずっと――地獄と化した、平安京の中を逃げ回っていたのだ。

 

 分かっていた筈だ――これが戦争だということ。

 あれだけ死んでいたではないか。人も、妖怪も、区別なく、慈悲もなく、そこかしこで死んでいたではないか。

 

 何故――自分の周りの世界だけは、平穏無事で済むと思っていた?

 戦いが起きても、苦戦したとしても、たとえ大怪我を負ってしまっても。

 

 それでも死ぬことはないと――何処かで、そんな風に高を括っていたのか。

 

 自分にとって大事なものは、みんなが大事にしてくれるのだと、そう平和にも思い込んでいたのか。

 

(大事――そっか。もう、とっくに――)

 

 詩希にとっては、平太こそが全てで――それだけが、自分の守りたい世界だと思っていたけれど。

 

 いつの間にか――世界は広がっていて、大事なものは増えていて、なくしたくないものが、多くなっていて。

 

 でも――それに。

 

 なくなってから気付くという――ありふれた、それは悲劇だった。

 

「ああ。だからテメェも殺してやる」

 

 鴨桜は、真っ暗な声で、同じくらい淡々と――感情を感じさせない、殺意だけが詰まった声で返す。

 

 大事なものをぐちゃぐちゃにされて。

 なくしたくないものを全部奪われて。

 

 それでも――これ以上は奪わせないと、とっくの昔に取り返しがつかなくなっていることに、だからこそ、抵抗して。

 

「これ以上……俺の大事なものに手ぇ出すんじゃねよ!!」

「子供ね。これが戦争だということに、自分の言葉がそのまま自分に返ってくることに、まるで気付いていないのかしらね」

 

 どんな育て方をしたの、お父さん――そう、化生の前は、静かに、ゆっくりと立ち上がりながら、それでも、鴨桜と同じく、その目は殺意に満ちている眼差しを己に向ける、ぬらりひょんへと問う。

 

 だが、ぬらりひょんは、鴨桜のように言葉は返さず、ただ殺意の篭った眼差しを化生の前に――そして、そのすぐ傍に居る、平太へと向けた。

 

(な、なんで――何で、平太を)

 

 そんな目で見るのかと、詩希は恐怖と戸惑いを覚えるが――平太は、ぬらりひょんのその視線に気付いているのかいないのか、視線を化生の前に、鴨桜に、そして羽衣にと、せわしなく移しながら、己の思考を纏めようとしている。

 

「まぁ、でも、子の不出来は親の責任ね」

「……それは……何じゃ?」

 

 新しい自己紹介かの? ――ぬらりひょんの言葉に、化生の前は表情を無くし。

 

 次の瞬間、ぬらりひょんの身体を狐の尾が貫いた。

 

「親父ぃぃぃいいいいいいいいいいい!!!」

 

 間違いなく致命傷の攻撃を喰らった父の下に息子が駆け寄ろうとするが、ぬらりひょんは「――――来るなッ!!」と、血と共に咆哮を吐き出し。

 

「テメェは、テメェの家族を守りやがれっっ!!」

 

 家族を守れと、そう父親に命じられた息子は。

 

 歯を砕かんばかりに噛み締めて――その力を入れた足の方向を、父から、童と、急転換させて。

 

「――――ッッ!!」

 

 父と同じく、どてっ腹にどでかい風穴を、狐の尾によって開けられた。

 

 平太を守るように、狐からの盾として、その身を捧げながら。

 

「――――鴨桜……さん…………ッ」

 

 ごふっ、と。鴨桜の口腔内に血が溢れ、零れたそれが、平太の顔に掛かっていく。

 

 だが、平太は、表情を歪めるばかりで――それを拭おうともせず、鴨桜に向かって謝罪の言葉をぶつけていた。

 

「……ごめん……なさい……鴨桜さん」

 

 化生の前が無表情に、そのまま鴨桜ごと平太を殺そうとするのを「――待ちなさいッッ!!」と、羽衣が血まみれで立ち上がりながら叫び止める。

 

「彼等を殺す前に――私を取り込みなさいな!! あなたの優先目的は私でしょう!! さもなくば――あなたが彼等を殺している間に、私はこの身体を木っ端微塵に吹き飛ばして死ぬわよ!!」

 

 羽衣の言葉に、表情を消していた化生の前は「……それもそうね」と口元だけ微笑んで言う。

 

「何を企んでいるかは知らないけれど、あなたを取り込んだ時点で、あなた達の勝機は間違いなく潰える」

 

 奇跡でも起こらない限りね――と、化生の前は、それでも平太を冷たく見据えながら。

 

 鴨桜の身体から尾を引き抜き、そのまま羽衣の下へと向かう。

 

 倒れ込む鴨桜の身体を平太は受け止め、支えようとするが、支えきれずに膝を着いて、そのまま鴨桜の血を全身で浴びることになる。

 

「……ごめんなさい……鴨桜さん。僕が、もっと早く――」

 

 でも、僕は――そう言って、血色の涙を流す平太に。

 

「…………悪いな、平太。……結局、俺は――お前に何もしてやれなかった……ッ」

 

 必ず守ると誓いながら、結局――出来たのは、こうして肉の壁になることだけ。

 

 もう二度と、冷たくなる家族の身体を、平太に抱かせないと誓ったのに。

 

 それでも、鴨桜は――今度こそは、この言葉を贈ると、最期の力を振り絞って。

 

「………平太。――――――生きろ」

 

 鴨桜は、決して、お前のせいだとは言わなかった。

 

 なんでお前だけと――呪わなかった。

 

 血塗れの身体を押し付けながら――少しでも、温もりを残そうとするかのように。

 

 愛を――伝えるように。

 

「――――幸せになれ」

 

 そして、妖怪大将を継ぐモノ、ぬらりひょんの息子――鴨桜という半血の若者は。

 

 平太を抱き締めたまま――眠るように、息を引き取った。

 

 羽衣をも取り込むことに成功したのか、化生の前の高笑いが響く中で――平太は、鴨桜の影に隠れたまま、自分の手を握ってくれている詩希に向かって言う。

 

「……………詩希」

「……なあに?」

 

 詩希は、ただ、ギュッと強く、平太の手を握る。

 

 鴨桜の胸の中に顔を埋めたままの平太が、強く、強く、自分の手を握り返してくれるのを感じながら、努めて優しい言葉を返す。

 

「……僕は、ずっと、ずっと考えていたんだ。僕の中にはどうやら、何でも叶える不思議な力があって。……どうすれば、この力を、最も上手く使えるのかって」

「…………うん」

 

 座敷童見習いの詩希が、平太を救う為に手繰り寄せ続けた――『運命の流れ』。

 

 やがてそれは、世界の法則すらも歪める力となり、遂には妖怪王を狙う狐の姫君にすら目を付けられるものになってしまった。

 

 それでも――肝心な平太自身には、その力の使い方も使い道も分からなくて。

 

 でも――これが、とても重要なものだとは理解出来たから。

 

 この戦争中、ずっと、平安京の中を逃げ回りながら、平太は己の中の力に対して分析を続けていた。

 

 それでも――結局、答えは出なくて。

 

 出した答えに――向き合うことが出来なくて。

 

 自分自身で、それを選び取ることが、どうしても――出来なくて。

 

「……でも、いいのかな? 選んでも。詩希がくれた、こんなにもすごい力を――僕の、身勝手な……傲慢な、願いを――叶える為に、使ってしまっても」

 

 僕が、望む――幸せな未来を、手に入れる為に。

 

 世界を――歪めて、しまっても。

 

「――もちろんだよ」

 

 詩希は、血塗れで、涙塗れの平太に――花が咲くような笑顔を向ける。

 

「私は、平太を幸せにするために――ずっと、そう願って、それだけを思っていたんだから」

 

 だから――いいの、と。

 

 詩希は平太を肯定する。

 平太の願いを、平太の欲望を、平太の傲慢を、平太の自己肯定を――その全てを許容する。

 

「あなたが生きていていいって。あなたが幸せになりたいって。そんな風に思える世界を創る為だったら」

 

 私は――何でもするよ、と。

 

 そう言って、死体に隠れながら、ふたりの童は抱き合い。

 

「……ありがとう。力を貸して、詩希」

「いいよ。私の全部――平太にあげる」

 

 ずっと、ずっと、一緒だよ。

 

 そう言って、ふたりは――幸せになる為に、口付けをした。

 

「――――ッ!!?」

 

 化生の前がそれに遅まきながら気付き、鴨桜の死体に――その中にいる童を殺す為に尾を飛ばすが間に合わない。

 

 こうして――『箱』は、その蓋を開いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――世界が、歪み始める。

 

 

 

 

 




用語解説コーナー84

・黄金の拳

 星に選ばれた戦士の中でも、藤原秀郷と安倍晴明は、正しく枠から外れた特別製の戦士である。

 安倍晴明には明確な役割を『星』は与えたが、秀郷には特別な干渉はせず――ただ、その戦士としての格別な性能のみを与えた。

 その『力』は、正しく怪異に対する人間の『切札(ジョーカー)』である。
 どんな怪異であろうと、その退治方法をすぐさまに導き――『高位存在』たる『龍』殺しにすら至った彼は、正しく反則たる戦士だった。

 そして、彼は最後の瞬間――魔人の黒炎すら操作するまでに辿り着いた。

 もし、何か一つ、因果が違えば。

 母なる『星』が、『人間』の切札として用意した彼という戦士が――魔へと堕ちる、そんな世界線が存在したのかもしれない。

 もし、そんな未来が訪れてしまったならば――それは、どんな鬼よりも、どんな妖怪変化よりも、どんな怪異よりも。

 もしかすれば、龍よりも、魔人よりも恐ろしい――『星人』へと、成り果ててしまうのかもしれない。


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妖怪星人編――85 最強vs最弱

――そこには、願いが込められている。


 

 結論からいえば、平太はどんな不可能なことも可能にする万能の願望機などではない。

 

 むしろ、出来ることは限られている、極めて用途の少ない奇跡の箱だ。

 

 なにせ――平太自身に関することにしか、その効力を発揮しないのだから。

 

 よく考えてみれば至極当然のことだろう。

 そもそもは、詩希が平太を幸せにする為に、手繰り寄せた運命の流れの結晶体なのだから。

 

 詩希自体が決して洗練された座敷童ではなく、むしろ未熟極まりない座敷童見習いであることも加味すれば。

 誰しもが簡単に望むように世界を変えられる願望機など実現できる筈もない。

 

 だからこそ、安倍晴明や藤原道長は、戦争の後始末に平太を利用しようなどとも考えず、月の黒い球体に手を伸ばしたのだ。

 

 他ならぬ平太自身も、この戦争の最終局面に至る前に、その事実には思い至っていた。

 

 これまでに聞いた座敷童という妖怪の異能の仕組み、運命の流れとやらの性質を踏まえた上で――恐らくは、平太という存在に関することでしか、その奇跡とやらは発動しないのだろうと。

 

 だが、しかし、それ故に――平太は思い悩んだ。

 

 例え用途は限られているとはいえ、それでも奇跡の力には変わりない。

 不可能を可能にするという、大層な名分の恐ろしい力を。

 

 あろうことは、自分事などに使ってしまってよいのかと。

 

 だからこそ、必死に考えた。

 どうにか上手く帳尻を合わせて、使い方次第で、叶え方次第で、願い方次第で、もっと相応しい使い方が出来ないかと脳内で模索し続けた。

 

 使い方によっては、この『力』はどんな状況も引っ繰り返せる切札になり得るだろう。機会はたった一度しかない。

 

 それに――何より、自分なんぞが。

 

(僕なんかが――――――僕、なんかが)

 

 ずっと、お前なんかと言われてきた。

 

 お前のせいだと、お前のせいだと、存在を否定され続けてきた。

 痛みと共に、罵倒と共に、自分の存在を否定され続けてきたのだ。

 

 なのに――――だけど。

 

――――幸せになれ。

 

 いいのだろうか――望んでも。

 

――いいんだよ。

 

 許されるのだろうか――願っても。

 

――だって、その為の力なんだから。

 

 こんなにも素晴らしい力を。こんなにも暖かい力を。

 

 あろうことか、僕なんかの為に。

 

 僕なんかの願望の為に。僕なんかの幸福の為に。

 

 世界の法則を無視して――歪めてしまっても。

 

 

――ずっと、一緒にいるから。

 

 

 右手が――暖かい。

 

 この温もりがあれば、なんだって出来る気がした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ならば、かかってきなさいな。私が此処を、あなた達の終着点にして差し上げましょう」

 

 空間が歪むような、圧倒的な妖力。

 

 その中に、紛れ込むように――――平太は、ほんの少し前の、過去へと帰還した。

 

 空間が歪む――世界が歪む。

 

 未来ではなく、()()()()()()

 不可能を可能にし――世界の法則を捻じ曲げる。

 

 運命の流れを――変える。

 

(……本当は、もっと相応しい改変点があるのかもしれない)

 

 けれど、この力はあくまで平太自身に関する事象しか変えられない。

 

 未来に渡る方法はいくらでもある。

 安倍晴明が藤原秀郷や酒吞童子らにしようとしているように封印するという手もあるし、究極的なことをいえば光の速さを超える移動をすれば未来には行くこと自体は可能だ。

 

 しかし、過去に戻ることは出来ない。

 過去は無数の選択の末に出来上がっている代物だ。

 

 故に無限の可能性が存在し、その中の一つの時点を恣意的に選択して渡ることは――正しく奇跡の御業だ。

 

 だからこそ、例え、不可能を可能にする『箱』の力でも、どこまでの過去を遡れるかは分からなかった。

 遠い過去になればなる程、逆行することになる可能性の枝は膨大となり、その中の一つの点に正確に渡るのは難しくなる。

 

 故に――ここなのだ。

 もっと相応しい(ターニングポイント)はあったかもしれない。

 もっと悲劇を減らせることは可能なのかもしれない。

 

 もっと、多くを、劇的に、救える変換点はあるのかもしれないけれど。

 

 それでも、これは――平太の為の力だから。

 

 平太の力で、掴み取らなくてはならないものだから。

 

 だから、平太は――今度こそ、勇気を出して。

 

 自分の力で――戦争を挑む。

 

「――――嘘、ですよね」

 

 化生の前が抹殺を宣言し、羽衣が高らかに一行の戦意を高める鼓舞をする――その間に、挟まるように。

 

 自らの小さな体を、戦場へと、乗り出すように。

 

 平太は――真っ直ぐに、狐の姫君へと言った。

 

「え――――」

 

 誰もが絶句する。

 鴨桜が、ぬらりひょんが、羽衣が、そして化生の前が。

 

 中でも詩希は、正しく顔面蒼白で――絶望と共に少年に手を伸ばしているけれど。

 

 平太は、そんな詩希に、安心させるように笑みを向けて、その手を離す。

 

 行ってくる、と。

 自らの幸福を獲得する為の、生まれて初めての能動的な戦いに出る少年は。

 

 必ずまた、この手を掴みに戻ってくると、そう笑みだけで伝えて――前を向き、足を進める。

 

「……嘘? 一体、なにが嘘だと言うのかしら、ボウヤ?」

 

 平太、下がれっ! ――と鴨桜が叫ぶが、そんな平太に冷たい汗が流れた笑みだけを向けながら、少年は相向かう。

 

 妖怪王の器。狐の姫君。

 座敷童にすらなれなかった幽霊少年とは、天と地ほどに、地上と月ほどに(くらい)に差がある大ボス。

 

 空間が歪むような妖力を前に、呼吸が詰まる――だが、平太は、それでも大きく息を吸う。

 

 これまでずっと守られてきたのだ。ましてや一度は、この場に居る全員を見殺しにしてしまった。

 

 空間が歪むくらいなんだというのか――こっちは、世界を歪ませて、此処に立っているんだ。

 

「明確な根拠があるわけじゃないです……。でも、僕はずっと、他人を観察して生きてきました。……結局、死んでしまったけれど。それでも、一つ、分かった……確かなことは――」

 

 誰しも、必ず――嘘を吐く。

 

 けれど――そこには、願いが込められている。

 

 こうなればいいのに。こうでなければいいのに。

 

 平太は、ずっと――そんな『弱さ』を、観察しながら生きてきた。

 

「あなたは、葛の葉を取り込んでから、やたら己を『葛の葉』だと自称することに拘っていた。まるで、そうしなくてはならないみたいに。まるで――そうしたくないと、思っているみたいに」

 

 最強の妖怪の『弱さ』を、最弱の妖怪が暴く。

 

 平太の言葉に、表情を消した化生の前が、唐突に尾を飛ばした――まるで口を封じるが如く。

 

 だが、それを即座に平太を庇うように前に出た鴨桜の白刃が弾き飛ばした。

 

「ハッ! どうした!? 力の大きさの割には軽い攻撃だな、おいっ!!」

 

 鴨桜さん! と叫ぶ平太に、鴨桜は背中を向けながら叫ぶ。

 

「よく分かんねぇが、お前の言葉は効いてる! ガンガンぶつけろ!! お前のことは、俺達が必ず守る!!」

 

 化生の前が放つ追撃の尾を、今度は士弦の糸が、月夜の爪が、雪菜の氷壁が弾いた。

 

 百鬼夜行の若頭組が、全員で平太を囲むようにして守る。

 

 平太は、彼らの背中に鼓舞されるように、そのまま全力で言葉の弾丸を大ボスにぶつける。

 

「あなたは――『葛の葉』が怖いんでしょう。あの恐ろしい『母親』が――怖くて、堪らないんだ」

 

 だけど、それでも、あなたは『葛の葉』でなければならなかった――そんな平太の口を、強制的に塞がなくてはならないとばかりに。

 

「黙れ、小童(こわっぱ)――――ッッ!!!」

 

 化生の前が力任せに尾を振るう。

 

 それを、背後からの攻撃が吹き飛ばした。

 

「――――っ!!」

 

 犬神の爪が、長谷川の水弾が、白夜の氷刃が、化生の前を囲むようにして攻撃を仕掛ける。

 しかしそれはダメージを与えようというものではなく、狐を牽制しようというもの。

 

 今、化生の前を追い詰めているのは、無双の英雄の剣ではなく――無力な幽霊少年の言葉だった。

 

「あなたは、明らかに、『葛の葉』の『愛』を恐れていた。それでも、あなたは『葛の葉』にならなくてはならなかった。母を取り込み、葛の葉を継いだ以上は――妖力も、寿命も、記憶も――そして『愛』も。あなたは、何もかも、葛の葉にならなくてはいけなかったから」

「――――ッッ!!! それ以上――」

 

 口を開くなッッ!!! ――そう叫ぶ化生の前の顔は、もはや恐怖に満ちていた。

 

 自分よりも遥かに格下、自分が取り込んだ配下の下級妖怪達にすら足下にも及ばない低級怪異に――妖怪の王の玉座に腰を下ろし掛けていた怪物は、明確に恐怖している。

 

 狙いが定まらない。身に付けたばかりの強大無比な力が上手く込められない。

 

 それでも――怖くて。恐ろしい何かを消したくて――無理矢理に振り降ろした尾は。

 

 自分のものではない――狐尾に止められた。

 

 己を追い詰める恐怖の象徴を、守るように。

 

 己と同じ九尾の妖狐が立ち塞がる――自分と同じ――『葛の葉』と、同じ。

 

「――――っっ!!」

 

 己が恐れる『葛の葉(ははおや)』の影の後ろで、その少年は――たった一つの、真実を暴く。

 

「あなたは理解している。見ない振りをしているんだ。その、恐ろしくて堪らない答えを。認めてしまったら――全てが、終わってしまうから」

 

 化生の前は葛の葉を取り込んだ。

 

 それはつまり、妖怪・『葛の葉』の全てを引き継いだということ。

 

 妖力も、権能も――そして、呪いも、繋がりも。

 

 だが、化生の前にとって、それは誤算だった。

 

 葛の葉が死に、それを化生の前が受け継ぐ――その、ほんのわずかな隙間で。

 

 かの魔人が――意識を取り戻したこと。自我を取り戻したこと。

 

 それはつまり、繋がりが一方通行ではなくなったということ。

 

 葛の葉と将門の繋がりは――『葛の葉』と『将門』だからこその繋がりであり、『呪い』の絶対的な前提条件は、『愛』である。

 

 もし、それを受け入れてしまったら。もし、それを自覚してしまったら。

 

 魔人はそれを確実に認めない。そして、今の魔人は、それを確実に――察知するだろう。

 

 だから――言うな。突き止めるな。私に、突き付けるな。

 

 その恐怖を。その拒絶を。認めてしまったら。向き合ってしまったら。

 

 だから――お願い、だから。

 

「……言わないで…………っ」

 

 そんな、最強の妖怪の弱さを。

 

 最弱の少年は――真っ直ぐに、指差し、暴く。

 

「――――()()()()、『()()()()()()()

 

 それは、きっと、平太だからこそ気付けた真実。

 

 親という存在を恐れて、それでも親を愛そうとして――どうしても、出来なくて。

 

 それでも愛さなくてはならなくて。そんな自分から、目を逸らさなくてはならなくて。

 

 だけど――それでも。

 

 いつかはそれを、突き付けられる時が来ると、誰よりも知っているから。

 

()()()()、『()()()()()()()()

 

 平太の隣に駆け寄ってきた詩希が、平太の右手をギュッと握る。

 

 それを――化生の前が、はっきりと、目撃してしまった時。

 

 

 化生の前の身体が、黒い炎に包まれた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黒い炎に包まれる――その激痛が、一瞬で消失した。

 

 消火されていないのに、消失した。

 

 感じるのは、自分の首の中に――自分の身体の中に――自分の生命の中に、ゆっくりと入り込んでくる牙の感触。

 

 搾り取られている。吸い取られている。何もかもを、抜き取られている筈なのに――入り込んでくる。

 

 自分ではないものが。世にも恐ろしいものが。

 何もかもを塗り替えて、造り変えて――生まれ変わっていく。

 

 自分と言う『器』が急速に満たされていく。

 いや、中身が置き換わっていくというのが正しいか。

 

 抜き取られて――満たされていく。

 

 自分という『人間』が消え――別の『何か』が、生まれていく感覚。

 

 これが――吸血。

 吸血鬼の、生殖行動。

 

「――――ッ!!」

 

 紅蓮髪の美女を首元に置きながら、京四郎は左手を差し出した。

 

 黒炎に包まれた左腕。

 否、既に全身が、こんな自分に抱き着いているリオンまでもが、全身漏れなく黒炎に包まれている。

 

 焼かれ、黒焦げになり――そして、再生する。

 

 再生している。人間のように瑞々しい肌が黒炎の中に生まれている。

 

 人間のような左腕が、黒炎の薙刀を受け止め、握り砕く。

 

 黒く燃え、黒く焦げ――そして、再生する、人間の腕。

 

 人間ではない――何かの腕。

 

「――――」

 

 首の右側にリオンが噛付いていたので右腕は振り抜けない。

 

 だから左手を振るった。

 黒炎の薙刀を砕いた左手を、その残骸を放り投げるように振るった。

 

 それだけで、黒炎の湖に波紋を広げるような衝撃波が発生した。

 

 自分に接近していた魔人が、再び黒炎の湖へ放り投げられる。

 

 確かに京四郎は英雄だった。

 呪力で強化していた肉体性能は常人の比ではない――だが、これは、更に、その比ではない。

 

 英雄など比ではない何か――英雄などよりも遥かに凄まじく、悍ましい何かに。

 

 今――京四郎は、生まれ変わっている。

 

 英雄だった人間は死に――別の何かに、生まれ変わっている。

 

「…………おい、リオン。これは――何だ?」

「ぷはっ! ごちそうさま!」

 

 あぁぁぁぁ――美味しかった、と。

 

 リオンは、本当に恍惚に――けれど、どこか、影のある表情で、顔を上げる。

 

「生まれて初めてだけど、うまくいったね。……うん、本当に、運命だって思うくらい」

 

 相性ばっちし――と、妖艶な微笑みを、京四郎の肩に顔を乗せながらリオンは言う。

 

「いや、勝手に満足してねぇで、説明をしろ。これは何だ――俺は、一体」

 

 ()()()()()? ――そう、京四郎は問うた。

 

 黒く燃える身体――白く再生する身体。

 

 不死身の――身体。

 

 俺は、何に堕ちた――と、己の身体から離れた紅蓮髪の美女に問う。

 

「何かと言われれば、吸血鬼だよ」

 

 そう、あっさりと暴く。

 

 たった一つの残酷な真実を。

 

 逃げも隠れもせず――誤魔化しも慰めもせず、堂々と。

 

 いっそ、おめでとうとでも、言うかのように。

 

「…………」

 

 吸血鬼。

 それがどういうものなのかは、京四郎は分からない。

 

 深く知ろうともせずに、ただ殺してきた英雄は――怪異殺しとかいうくせに、世界のことを何にも知らない。

 

 だが、鬼という字くらいは知っている。

 それが怪物であるということを知っている。

 それが化物であるということを知っている。

 

 それが、人間ではないものを指す言葉なのだとは――知っている。

 

 つまり――自分はもう、人間ではない。

 

 英雄ではなかったことは分かった。時を越えて、百年以上も生き延びた分際で、いまさら常人面をするつもりはない。

 

 だが――不死身になるつもりなどなかった。

 

 後悔もあった。使命を遂げられない無力感も学んだ。

 

 だが、だからといって、死にたくないとは言ってない。

 

 不死身の魔人を止めに来たのに、自分が不死身になってしまって――どうするというのか。

 

「――何で、こんなことをした」

 

 首筋を摩りながら――黒く燃え、黒く焦げ、それでも綺麗に再生する肌の中で、いつまでも消えない、いつまでも癒えない、その二本の牙がどっぷりと己の中に入った証である、その牙痕を摩りながら、京四郎は問う。

 

 それは、これまで感情というものを知らなかった、これまで激情というものを知らなかった京四郎という男が、リオンに対して初めてみせる――怒りでもあった。

 

 何で、こんなことをした。

 

 なんてことを、してくれたのか、と。

 

「…………なんで、だろうね」

 

 うーん、分かんないや――と、リオンは天を見上げる。

 

 ゆっくりと、こちらに向かって落ちて来るような、赤い月を見上げる。

 

「生殖本能――なんてものでは、ないと信じたいけれど」

「ふざけんな」

「……うん、本当にそうだよねぇ。ふざけんなだよねぇ。――自分で滅ぼしておいて、いまさら絶滅させるのが怖くなった、なんて『弱さ』じゃ、ないとは思いたいねぇ」

 

 いや、弱さじゃなくて――これこそ、逃避か。

 

 そう呟きながら、リオンは。京四郎から、ゆっくりと距離を取る。

 

「――うん、ごめんね。本当にごめんね、京四郎。でも、君に――死んで欲しくなかったのは、本当だ」

 

 それだけは、僕の、本物の気持ちだと信じたい――そう言いながら、更に一歩下がって、リオンは、真っ直ぐ前を指差した。

 

「言いたいことは、後でいくらでも聞く――恨みも、憎しみも、何なら殺意も、全部、ちゃんと受け止めるから。でも、今は――」

 

 アレの相手をした方がいいんじゃない、と――リオンの指差す先には、黒炎の湖に佇む魔人が居て。

 

 京四郎は、リオンから、魔人へと、その身体と目と意識を向けて。

 

「――ちゃんと、してきなよ」

 

 言いたいことは山ほどある。恨みも、憎しみも、もしかしたら殺意も、あるのかもしれないけれど。

 

 確かに、今は、やらなくてはならないことがある。

 

 京四郎の物語は、あと、ちょっとだけ、続くらしいから。

 

 だったら――果たせなくなった筈の責任を、もう少しだけ、全うしなくてはならない。

 

「…………」

 

 京四郎もまた、黒炎の湖へと足を踏み入れていく。

 

 全身が更に勢い良く黒く燃え上がる。

 黒く燃えて、黒く焦げて――それでも綺麗に、再生する。

 

(――現実感がない。……実感が、ない。痛い筈なのに、苦しい筈なのに――それでも、何も感じないに等しい)

 

 それこそ、深い水の中にいるかのようだった。

 

 全てが遠く聞こえる。ぼんやりと歪んでいるようだ。

 

 世界が、急に、歪んでしまったかのような。

 

「…………」

 

 魔人はピクリとも動かない。まるで飾られた鎧武者のように。

 

 京四郎もまた、重い足取りだった。

 自分の身に起こったこと。自分の世界に起こったこと。

 

 死んだと思っていた自分が生きていて。

 終わったと思っていた物語が続いていて。

 

 どれだけ時間が掛かったのかは分からない――それでも、きっと。

 

 今度こそ、ここが終着点だと。

 

 京四郎は――平将門の前に辿り着く。

 

【…………】

 

 将門は、何も言わない。

 黒く燃え――白く戻る男に、何も言葉を発さない。

 

 だから、先に、京四郎が――口を開いた。

 

「――お前の勝ちだ、将門(まさかど)

 

 黒く燃えながら、白く戻りながら、そんな自分を見詰めながら――京四郎は、力無く言う。

 

「人間は――人間のままでは、俺はお前に勝てなかった」

 

 英雄として、魔人を、止めることは――出来なかったと。

 

 黒く燃えながら、京四郎は白旗を挙げる。

 

「――それでも、俺はお前を止める。そんな資格は、もう俺には無いのかもしれないけれど」

 

 元・英雄として――元・人間として。

 

 英雄失格でも、人間失格でも――それでも、自分は、託された身だから。

 

 時を越えて、魔人を止めろと――せめて、その願いには、応えたいと思うから。

 

 もう、それくらいしか――報いることが出来ないから。

 

「――悪いな、将門」

 

 京四郎は、平将門に、そう謝罪した。

 

 罪を――謝った。

 

 それは、もはや人間ではないくせに、自分も人間ではないくせに、人間面をして――魔人を止めようとする傲慢になのか。

 

 それとも――真剣勝負に、男と男の勝負に、とんでもない反則(チート)を使った身分で、こうして目の前に立っているからなのか。

 

 京四郎は、こう言っているのだ。

 

 もう、魔人(おまえ)に、負ける気がしないと。

 

 もう――平将門(おまえ)とは、勝負にはならないと。

 

 ここから先は只のエピローグで、只のモノローグ処理で、只のダイジェストで、只のナレ死だと。

 

 物語は――ここで、終わりだと。

 

【――謝るな。卑しめるな。英雄よ】

 

 遂に、その、重い口を開いた魔人は。

 

 京四郎を、それでも――英雄と呼び、言う。

 

【それこそが――愛の力だ。愛の力で、魔を滅ぼす貴様は――】

 

 紛れもなく――英雄だ。

 

 そう、重く呟きながら――魔人は英雄に拳を放った。

 

「――――ッ!」

 

 重い拳だ。黒炎の魔力が存分に乗った拳。

 

 京四郎は顔面を抉られ、下顎を粉砕されて――だが、それも黒い炎の中で再生する。

 

 復活した新品の下顎を――歯を食い縛って雑に使用しながら、京四郎もまた拳を返す。

 

「――――っ!?」

 

 京四郎の拳は、これまでとは比較にならない威力だった。

 

 先程の、あの時の己の全てを込めた拳でも吹き飛ばすことが精一杯だった魔人の胴体を――破砕した。跡形もなく、どでかい穴を開けた。

 

 只の、反射的に放ったカウンターの拳でだ。

 改めて――自分がどれだけの怪物になってしまったのかを自覚して、表情を歪めるが、すぐにそれは疑問に変わる。

 

 魔人の身体が――再生しない。

 これまでどんな大怪我も瞬時に回復していた将門の不死力が――低下している。

 

 完全に回復しなくなっているわけではない。

 身体にどでかい穴が開いても即死していないし、動いている――戦っている。

 

 だが、明確に、その傷の治りは遅く――死は近付いている。

 

(『祠』の中に行った彼女(羽衣)達が、その不死の呪いを解き始めているのか――)

 

 不死身になってしまった英雄。

 不死身でなくなり始めた魔人。

 

 拳と拳の語り合いは、拳と拳の壊し合いは――着実に、明確に、終わりへと近付いていく。

 

「…………」

 

 決着は――近い。

 




用語解説コーナー85

・葛の葉の呪い

 平将門の不死の呪いは、葛の葉との愛で繋がっている。

 愛する人に永遠に生きて欲しい――そんな愛で、葛の葉は将門に呪いを掛けて、そんな愛を受け入れたからこそ、将門はその呪いを享受している。

 つまり、将門は愛する葛の葉の呪いだからこそ――魔人であることを受け入れて。
 
 だからこそ――もし、その呪いの繋がる先の妖怪が、己は葛の葉ではないと、そう自覚してしまったら。

 己が葛の葉ではないことに――己が葛の葉であることへの恐怖に、嫌悪に、逃げられなくなった時。

 その呪いの黒炎は――果たして、何処に向かうのか。

 そのたった一つの真実を――最強の妖怪の弱点を、最弱の妖怪もどきは暴き出した。

 黒い炎が支配した戦争――その終わりは、もうそこまで迫っている。


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妖怪星人編――86 狐の呪い

嫌がらせだけは、させてもらう。


 

 真っ暗な世界で、首から血を噴き出しながら死んでいく青年を――源頼光(みなもとのらいこう)は眺めていた。

 

 助けようとしても無駄だ。

 これはあくまで心の比喩の光景。青年の身体も、突如として現れた刃も、青年の心象風景の一部でしかない。

 

 だから、青年は――自害しただけだ。

 自分の心を、自分で壊した――自分で殺した、それだけのことだった。

 

(――そんなことが、可能なのか)

 

 心は体と違って実体がない。

 だから、どんな人間であっても、どんな英雄であっても、どんな妖怪であっても――それを自由自在には扱えやしない。

 

 守ろうと思って――守れるものではないし。

 

 壊そうと思って――殺そうと思って――そう出来るものではない、筈だ。

 

(……いや、この者の心は、とっくに壊れていた。とっくに殺されていた。これまでは、ただ、どうにか――繋ぎ止めていた、だけなのか)

 

 ばらばらに壊れていた心を、ずたずたに殺されていた心を――ただ、どうにか、繋ぎ止めていただけ。

 

 必死に掴んで、力任せに整えて、それっぽい形を、繕っていただけ。

 

 そして、青年は、今――それを離したのだ。

 

 手離した――だが、それは、捨てたのではなく、渡したのだ。

 

 覚悟を決めて――諦めではなく、疲れたからではなく――繋ぐ為に。

 

 殺す――為に。

 

 家族の仇を取る為に――自分自身を、殺したのだ。

 

(……こんな凄まじい戦士の、顔も、名前も――私は知ろうとしなかったのか)

 

 仮にも主であったのに。

 引き連れた部下を――こんな才を持った若者を、認知すらせず、見逃し、見殺しにした。

 

「――――ならば、せめて、今度こそは――主らしいことを、してやらねばならない」

 

 奉公には――御恩を返さねばならないと。

 

 源氏の棟梁は、本来の持ち主が自害した心の核に――己が呪力を注ぎ込む。

 

 主を失い、崩壊しようとしている精神世界で、暗闇を照らす光を放つ。

 

「見るがいい。お主が選んだ『英雄』が」

 

 名も無き青年の『心』――『才能』が。

 

 どれだけの輝きを放つことが出来る――『器』なのかを。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 烏天狗(からすてんぐ)はそれを一目で見抜いた。

 

 青年の身体――全身から噴き出す呪力が跳ね上がっている。

 

 それは明らかに青年の身体の許容量を超えた呪力量。

 心の世界に『同居』している状態ではありえない――本来、烏天狗がそれを目論んでいた筈の『占拠』が実行された証左――否。

 

(己の『操縦権』だけではない――『所有権』すら、手放したとでもいうのか!?)

 

 それも、他者に力尽くで支配されるわけではない――自らの意思で。

 

 自分で自分を殺し、自分の全てを――捧げたというのか。

 

「なんと――――面白いッッッ!!!」

 

 烏天狗は表情をこれ以上なく歪めながら、土蜘蛛の傀儡を差し向ける。

 

「しかし! いくらアナタが完全に所有権を握ろうとも、『身体(うつわ)』が只の凡人(にんげん)であることには変わりはない!! 『源頼光(おとうと)』に斬り刻まれた恨みを、今、ここで『源頼光(あに)』に返すのも一興でしょう!!」

 

 行きなさい、土蜘蛛(つちぐも)!! ――巻物から伸びる糸で傀儡を操りながら烏天狗は叫ぶ。

 

(――そうか。この妖怪を退治したのは……)

 

 見るも無残な骸と成り果てているが、その状態にあって尚――この土蜘蛛という妖怪が生前は途轍もない脅威であったことは容易に想像がつく。

 

 これほどの難敵を――見事に退治せしめる程に、あの『弟』が成長しているということか。

 

(未来は芽吹いてる。そんな後世に、死者が出しゃばり続けることなどあってはならない)

 

 だからせめて――この哀れな骸を道連れに、潔く退場するとしよう。

 

『残念ながら、それは不可能だ。こうして頼りない主が無様に死して尚――私の誇り高い『頼光四天王(かぞくたち)』は』

 

 頼もしく育ち続けている――そう言って、『頼光』は天に手を掲げる。

 

 それを見て、烏天狗も天を仰ぐ。

 

 赤い月が傾き始めている空には、黒い雲が浮かんでいた――バチ、バチと赤い雷が瞬くそれを見て、烏天狗は『頼光』に目を移す。

 

「――――まさか!?」

 

 そのまさかだと、『頼光』は笑う。

 

(あの『雲』を見上げるだけで――坂田金時(あのこぞう)が、どれほど凄まじい戦いを繰り広げていたのかが分かる)

 

 どれほど追い込まれ、どれほどの覚悟で――あそこまで踏み込んでしまったのかが分かる。

 

 恐らくは、目の前の土蜘蛛――それ以上の、遥かなる難敵と戦争を繰り広げていたのだろう。

 

(悪いな、金時。……お前の覚悟を、お前の力を、少しだけ借りるぞ)

 

 天に浮かぶ、赤雷を瞬かせる『赤乱雲(せきらんうん)』。

 本来ならば――金時が『赤龍化』を解いた時点で霧消するものだ。

 

 だが、それがああして、消えずに残っているということは――それほどまでに深い領域にまで『赤龍化』したか――あるいは。

 

(――――だが、そうだとしても。きっと――)

 

 救うだろう。

 自分では出来ないことだが、それでもきっと――救うことだろう。

 

 自分ではない――自分よりも遥かに強い、「源頼光(みなもとのらいこう)」が。

 

『自慢の『弟』達のことを、俺は誰よりも知っている。『赤雷』を生み出すことは出来ないが――それを僅かに導く術くらいは容易いさ』

 

 俺は『お兄ちゃん』だからな――そう微笑みながら『頼光』が使う呪力は、こちらに何かを呼ぶように振る、その右の掌のみ。

 

 そして、それを――渡すように。

 

 こちらに向かって来てくれた赤雷を導くように、投げ渡すようにして、その掌サイズの呪力を、同じくこちらに向かってきていた土蜘蛛に移す。

 

 そして――その呪力を、避雷針のように目掛けて。

 

『ありがとう――俺の誇り高き『英雄(おとうと)』達』

 

 赤雷が――降り落ちる。

 

 烏天狗達が足場としていた屋根と共に、土蜘蛛の傀儡も焼失――消失する。

 

 眩い雷光に目を潰され――気が付いたら、『頼光』は烏天狗の目前に接近していた。

 

(――――ッ!! 巻物が――!?)

 

 何処かで拾い上げていたのか、手に持った矢で貫かれている。鏃に込められた呪力が巻物を燃やす。これではもう土蜘蛛の再召喚は出来ない。

 

(いや、今はそれどころでは―――ッ!?)

 

 土蜘蛛の傀儡を召喚していた巻物を、左手で持っていた矢で貫く『頼光』。

 

 そして、もう片方の――右腕には、新たな刀が握られていて。

 

 英雄の魂が動かす名も無き青年の躰は、既に大きく――振りかぶっていた。

 

「や、やめ――ッ!?」

 

 そして、振り下ろす。

 

 何の力もない筈の只の刀は、『頼光』が最後に残した僅かな呪力を刀身に纏わせており、烏天狗の身体を大きく容易く斬り裂く。

 

「ぐあぁぁああああああああああああ!!!」

 

 紛れもない致命の一撃。

 どくどくと出血し、膝を着いた烏天狗は、荒い息で『頼光』を見上げる――が。

 

「…………」

 

 そこにいたのは――只の青年だった。

 

 何の呪力も感じない、只の抜け殻。

 手に持っていた刀も落とし、呆然と焦点の合わない瞳で、何もない場所を見詰めている。

 

「は……ははは! そう! そうでしょうとも!! 只の人間の身で、赤雷を落とし、巻物を貫き、妖怪を両断する――ここまでやってしまえば、英雄からの借り物の呪力もすっからかんになって当然というものです!!」

 

 つまり、呪力切れ。

 そしてあろうことか、『頼光』は完全に譲られた筈の所有権を――放棄した。

 

 これ以上は、心の核が壊れてしまうという直前で、青年の精神世界から離脱し、元の持ち主に返してしまったのだ。

 

「所詮は『英雄』! 武器の振り方しか知らない素人ですねぇ! 一度、心を壊してまで譲った所有権が――『魂』が! はいそうですかと渡された所で、元に戻るわけがないでしょうに!」

 

 例え、所有権を戻されても、元通りに戻されても――全てが元通りというわけではない。

 

 壊れた心は、殺された心は――もう元に戻らないというのに。

 

 残るのは――只の抜殻だけだというのに。

 

「ですが、正しく私にとっては僥倖ですね。この身体は限界だ。だが、目の前に、これ見よがしに『空き家』があるではないですか!」

 

 烏天狗は、ふらつきながら、壊れたように俯く青年の首へと手を伸ばして――。

 

 青年の手が――先に烏天狗の首へと届いた。

 

「は――」

 

 意味が分からず、呆然とする、烏天狗の――息の根を、止めるべく。

 

「――――っ――――ッッ――――っっっ!!!」

 

 烏天狗の首を締める青年の手が、更に強く、強く締まっていく。

 

「…………空き家………だと――――ふざけるな。ここは――」

 

 僕の――家だ、と。

 

 青年は、焦点の合わない瞳で、何も見えていないかのような目で。

 

 それでも、その手は――――仇を、求めて。

 

 殺さなくてはと、執念で、心を再び――繋ぎ止める。

 

「……………………」

 

 本当に――恐ろしい『英雄(ひと)』だと思う。

 

 身体を貸した代わりに手を貸してくれたけれど――それでも、止めは差さなかった。

 

 最後くらいは、自分でやれと。

 

 そう――後世(こども)を、甘やかさなかった。

 

 必要以上に出しゃばらず、未来に――託した。

 

(僕を――心を――もう一度、奮い立たせる為に……ですか?)

 

 大きなお世話だ。余計な気遣いだ。

 もう、とっくの昔に限界など超えていて、とっくの昔に――終わってくれても、よかったのに。

 

 それでも――甘やかさなかった。

 

 甘えるなと。これ以上、誰かに押し付けず――自分で、やれと。

 

 自分の手で――――仇を、取れと。

 

「――――っ――――――ッッ――――っっっ!!!」

 

 烏天狗は必死に抵抗するが、何も出来ない。

 

 最後に実は『頼光』がまだ僅かに残していたのか――それとも、妹と同じく、僅かばかりに兄にも才能があったのか、青年の手には、絞り出されたように微かにだが呪力が込められている。

 

 既に崩壊寸前だった烏天狗の身体では太刀打ち出来ない。

 ゆっくりと、しかし着実に――妖怪は死に向かっている。

 

 それでも――と、最後の悪足掻きなのか、片翼を羽ばたかせて羽根を飛ばすが、それを刃として青年を攻撃することも出来ない。

 

 ぺちぺちと、まるで無力に、青年の身体を叩くだけだ。

 

「――――ぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 己よりも大きな烏天狗を殺す為に、青年は顔を上げ、雄叫びを上げる。

 

 家族の仇の、最期の断末魔の表情を、己の中に刻み込む為に。

 

 そして、ゴキン、と、その瞬間は、呆気なく訪れた。

 

「――――――」

 

 烏天狗の首が折れる。首が折れれば、普通の妖怪は死亡する。

 

 身体が崩れていく。烏の黒い羽だけが宙を舞い、跡形もなく消えていく。

 

 青年の身体は、最後の力を振り絞ったが故か、腕を下ろすことも出来ず、首を締めた体勢のまま固まっていた。

 

 心が、ゆっくりと、壊れていく。

 

 精神世界の唯一の光源たる、心の核もゆっくりと消えていく。

 

 もしかしたら、もう自分は目覚めることはないのかもしれないと思った。

 

 それでも、仇の断末魔と、命を奪った触感。

 

 そして――家族と同じ場所で死ねるなら、それも本望かと、青年の瞳から光が消えた。

 

 赤雷が堕ち、天井は破れ、何もかもが真っ黒に焦げた世界で。

 

 誰もいなくなった家で。

 

 青年は――烏の羽に包まれながら、天を見上げて、口を開けたまま、まるで死んでしまったかのように、真っ暗に意識を失っていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 化生(けしょう)(まえ)が――黒炎上する。

 

「がぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 己が『葛の葉』ではないと、はっきりと自認してしまったばかりに発生した――()()()()()

 

 化生の前は、葛の葉の『愛』を引き継げなかったのではない――引き継がなかったのだ。

 

 愛というものが、妖怪を――女を、どれほど醜く、恐ろしくしてしまうものなのかを、この上なく、突き付けられてしまったから。

 

 葛の葉を取り込み、葛の葉を継ごうとした――だが、どうしても、それを引き継ぐことが出来なかった。

 

 気持ち悪くて――恐ろしくて。

 

 それを、たった一人の幽霊少年に突き付けられた。

 

「がぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 黒い炎によって燃え盛る化生の前を目撃して、羽衣(うい)は「――ッ!! みなさん、離れてください!!」と指示を出す。

 

「あれは魔人の黒炎です! 対象を燃やし尽くすまで消えない炎――触れれば黒炎が移ります! 触れないで! 逃げて下さい!!」

 

 化生の前の、葛の葉への拒絶は、呪いの繋がりを通して将門へも伝わったのだろう。

 

 そして――それ故に、将門は。

 

 愛する人を失ったことを――受け入れて。

 

 仇を――討つことを決めた。

 

「……なるほど。つまり、あれは魔人の仇討ちということかの」

 

 ぬらりひょんと鴨桜は、羽衣の傍へと集まる。

 詩希と平太は士弦達が保護し、犬神が白夜と長谷川も避難させている。

 

「――で、どうすんだ? このまま放っておけば、あの狐は燃やし尽くされて死ぬのか?」

 

 鴨桜の言葉通り、このままいけば化生の前は死ぬだろう。

 

 不死の呪いはあくまで将門に対するものだ。

 呪いを施した張本体とはいえ、葛の葉は不死身ではない。それを取り込んだ化生の前も言わずもがなだ――しかし、羽衣は首を横に振った。

 

「ダメです。それは待てません。母たる葛の葉は不死身ではありませんが――不死ではあります。このまま化生の前を見殺しにしたら……あの子は『転生』してしまう恐れがあります」

 

 葛の葉は転生妖怪だった。

 死亡する度に新たに生まれ変わることで、結果的に不死の妖怪として永劫の時を生きてきた。

 

 葛の葉は己の『転生』の異能を改変することで、愛する人――『将門』に不死身の身体を与えたが、結果的に疑似転生体たる化生の前が生まれている。

 本体たる葛の葉を取り込んでいる以上――『転生』の異能が復活している可能性も零ではない。

 

「それは不味いのかの? 少なくとも、この場は乗り越えられるじゃろう」

「……いえ、それでは『魔人』の問題が解決しません」

 

 魔人の不死の呪いは、『葛の葉の妖力』が健在である限り解かれないのです――と、羽衣は険しい表情で唸る。

 

「このまま化生の前の転生を許せば、『葛の葉の妖力』を逃がすことになってしまう!」

「……つまり、『狐の姫君』が転生することになったとしても――その前に、『葛の葉の妖力』を回収しなくてはならないということじゃな」

 

 ぬらりひょんが、一歩前に出ながら言った言葉に、「……その通り、ですが……」と、歯切れの悪い呟きを漏らしながら羽衣は返す。

 

 そんな羽衣と、「……何をするつもりだ、親父」と眉根を寄せる鴨桜に。

 

 ぬらりひょんは、笑いながら、豪快に言う。

 

「ここまであんまし活躍出来とらんしの。――儂がいい所を掻っ攫うとしよう」

 

 そう言って、黒炎の中にぬらりひょんは飛び込んでいく。

 

「親父ッ!?」

「御頭っ!?」

 

 妖怪大将のその暴挙に、一様が揃って慌てたが、途端に、髪を振り乱すように暴れる化生の前の動きに同調して、彼女が纏う黒炎の勢いが増し――暴れ狂う。

 

 黒炎を躱すことに精一杯になる一同の心配を他所に――。

 

「――よう。随分と哀れだのぉ、『狐の姫君』」

 

 黒炎に囲まれながらも、ぽっかりと空いた小さな空白地帯に、いつの間にか立っていたぬらりひょんが、黒炎に苦しむ化生の前に語り掛ける。

 

【――――――ぬらりひょん】

 

 最早、かつての美貌は面影もない。

 

 どろどろに溶けた黒い炭のようになりながらも、その膨大な妖力故か、未だ死ぬことが出来ない化生の前は、黒炎の中からぬらりひょんを認識する。

 

「お主は笑っておったな。この戦争の序盤も序盤に、儂の家の自慢の桜の下で。儂の女を――儂の『愛』を。じゃが、どうじゃ?」

 

 今、お主は、あの時に笑った、『愛』によって滅びゆく――ぬらりひょんの言葉に、黒く燃える狐は何も返さない。

 

 そんな化生の前に、ぬらりひょんは「あの時、お主はこうも言ったな。儂にも、野望があるのじゃろう――と」と、続ける。

 

「確かに、儂はかつて身の程知らずの大望を以て、この京に足を踏み入れた。望みに見合った力を持っていた分、お主の方がマシなくらいの愚かさじゃった。しかしの、儂はお主よりも幸運じゃった。お主よりも、少しばかり早く――それに気付き、手に入れることが出来たのじゃ」

 

 それが――『愛』だと、ぬらりひょんは言う。

 

 黒く燃える狐に足りなかったもの――黒炎が届かない空白地点で立っている妖怪が手に入れていたもの。

 

 共に、黒く燃えるような野心を抱えていたながら、片や黒く燃え、片や白く残る――その両者を分けた命運は、『愛』だと、ぬらりひょんは語る。

 

「永劫なんてつまらんよ。野望といえるほど大層なもんではなくなったが……今の儂の願いは、とてもありふれたささやかなものじゃ」

 

 好きな女と幸せに暮らして、一緒に歳を取って、子供に看取られながら死ぬ。

 

 己の野望は、もうとっくの昔に――叶っているのだと。

 

「儂の勝ちじゃ、『狐の姫君』――妖怪の王の座なんぞ、欲しくもなんともないが。貴様がいらんというのなら、貰ってやってもいい」

 

 化生の前は、そう己に向かって不敵に、傲岸不遜に言い放つ妖怪に。

 

【……ふ……はは……ははははははははははははははははははは!!!!】

 

 笑う――笑う――笑う。

 

 黒く燃えながら笑う。黒く焦げながら笑う。――真っ黒に、死にながら、笑う。

 

【――そうね。私は――死ぬわね】

 

 死ぬ――終わる。

 

 化生の前は詰んでいる。『狐の姫君』の妖怪大戦争はここで終わる。

 

 死ぬのが怖くない筈がない。

 そもそもが化生の前自体が疑似転生体――いうならば、転生に失敗した結果、誕生した妖怪だ。

 

 転生にあたって『愛』という感情を引き継ぐことが出来なかった。

 結果、それが死因となって、此度の生を終えることになる。

 

 疑似転生体の自分が転生出来るのか。

 葛の葉であることを拒絶した自分に、葛の葉の異能である転生が発動されるのか。

 

 死んでみないと分からないことが多すぎる。

 恐ろしくない筈がない。

 

 それでも――化生の前は、笑ってみせる。

 

【私の負けね。認めましょう――――それでも】

 

 嫌がらせだけは、させてもらうと。

 

 目の前の勝ち誇っている憎き男に、とびっきりの――呪いを掛ける。

 

 妖怪・『葛の葉』は――そして、妖怪・『化生の前』は。

 

 呪いの石から生まれた――『呪い』の妖怪なのだから。

 

【ァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!】

 

 化生の前は己が纏った黒い炎を膨れ上がらせる。

 己の妖力の全てを混ぜ込み、己が最後の一撃とする。

 

(ぬらりひょん――あなたはこれが狙いだったのでしょう。私を挑発し、大技を使用させ、隙を作り出す。認めましょう、あなたは優れた妖怪だわ。その余りの挑発の上手さに――)

 

 私、かちぃーんと、きちゃった――そう、真っ黒に燃え焦げながら、生涯最期の笑みを作って、化生の前は己の妖力を爆発させる。

 

 愛――己が失ったもの、己が手に入れられなかったもの、そして、己を滅ぼしたもの。

 

 女を化物へと変え、男を魔人へと変えたもの。

 

 そして――妖怪に。

 

(アナタの、その笑顔が――心の底から、妬ましい)

 

 あんな風な、幸せな笑顔を、浮かべさせるもの。

 

(だから呪うわ。力の限りね――恨むべくは)

 

 あなたをそんな笑顔にさせた――『愛』を教えた『人』を恨みなさい。

 

【――――――――――】

 

 そして、化生の前は――爆発する。

 

 黒炎が放射状に広がる。

 

 それはこの小さな箱庭――『山小屋』を黒い炎で包み込む程の大爆発。

 

 化生の前――『狐の姫君』。

 

 愛を求めて、愛に失望して、愛に殺され、愛を手に入れることが出来なかった姫は。

 

 黒い炎に包まれながら、黒い炎を振り撒きながら――その愛されなかった生涯に幕を閉じる。

 

(――――願わくば)

 

 もし、転生が叶うのならば――来世では、どうか。

 

――お主よりも、少しばかり早く、手に入れることが出来たのじゃ。

 

 あんな幸せそうな笑顔を浮かべることが出来る、素敵な愛に、出会えますように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、瞬きの間の出来事だった。

 

 黒い炎の爆発が、神秘郷『山小屋』の全土に広がった――その瞬間。

 

 妖怪大将ぬらりひょんは、放たれ直撃した黒い炎を纏ったまま、一気に化生の前へと接近する。

 

(まさか全方位に振り撒くとは――猶予はない! この黒炎が皆を焼き尽くす前に――抜き取る!!)

 

 ぬらりひょんは気配を消す妖怪だ。

 その異能を極めれば、家主に気付かれずに屋内へと上がることも、知らぬ間に傷を与えることも、他者が己を認識するよりも前に命を奪うことすら可能になる。

 

 そして、ぬらりひょんは――化生の前に気付かれずに、体内に手を入れ、それを抜き取った。

 

(流石の儂も、体内に手を入れるとなると大きな隙が必要になる――が)

 

 結果的に、ぬらりひょんは抜き取ることに成功する――化生の前の中に鼓動する、『葛の葉の妖力』を。

 

 そして、それを抜き取られた化生の前は絶命し――その身体を小さな石へと変えていく。

 

「間一髪――と、いったところかの」

 

 あと一瞬でも遅れれば、化生の前は葛の葉の妖力ごと、その身体を石へと変えていただろう。

 

 間に合った――だが、それは化生の前も同じだった。

 

 全方位に振り撒いた『黒炎の大爆発』――それは神秘郷全土を包み込み、この空間に存在した全ての妖怪に黒炎を浴びせかけた。

 

 それは、呪いの妖怪・『化生(けしょう)(まえ)』――その生涯最期の、渾身の呪い。

 

 ぬらりひょんの、ありふれた、ささやかな幸せ――それを許さない、嫌がらせの呪い。

 

 その事実に、ぬらりひょん達が気付くのは、あと数十年先の未来。

 

 ぬらりひょんの妻――『桜華(おうか)』が亡くなる、その日である。

 

「これで――全部、終わりじゃな」

 

 今はただ、長かった戦いの終わりを、純粋に喜んでいた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 化生の前の躰が崩れ去り――そこには『石』だけが残った。

 

「あ、あれ? 私達――黒い炎をくらっちゃったと思ってたけど……」

「――――消えて、いるな」

 

 雪菜や士弦が自分の身体を見ながら呆ける。

 

 あの化生の前の最期の大爆発によって、黒炎は神秘郷中に広がり、この場にいる全員が黒炎を受けた。

 

 しかし、無論、傷や痛みはあるが、今はもう消えてしまっている――黒炎とは、一度触れると対象を燃やし尽くすまで消えない炎だということではなかったのかと、犬神ら大人妖怪達も羽衣の方を見遣ると。

 

「――最期の大爆発は、あくまで化生の前が己の妖力を黒炎という形で放出しただけの攻撃です。対象を燃やし尽くすまで消えないという性質は、あくまで魔人の黒炎が持つ性質ということでしょう」

 

 魔人の黒炎は化生の前の体を焼いていたそれだけで、大爆発と共に広がった先程の黒炎の殆どは只の妖力波に近いものだった。

 それも、死に瀕した状態での全方位攻撃であったこと――更に、発動直後にぬらりひょんが黒炎の発生源たる()()を抜き取った為に、僅かに含まれていた魔人の黒炎も重傷を負う前に消火されたということなのだろう。

 

 羽衣は、そう淡々と説明しながら、そのままぬらりひょんの下へと歩いていく。

 

「――よう。これだろ? 『葛の葉の妖力』ってのは」

 

 そう言って、ぬらりひょんはその手に持つ『心臓』を手渡した。

 

 どくん、どくんと鼓動を続ける『葛の葉の心臓』。

 それはまるで、こんな有様になっても未だ――『愛する人』との再会を諦めていない往生際の悪さを感じさせた。

 

(…………『お母さん』)

 

 羽衣は、それを直接触れずに尾で受け取って「……ありがとうございます」と告げると、そのまま全員を見渡すようにして言う。

 

「あなた達の協力のお陰で、化生の前――『狐の姫君』は退治出来ました。これより――魔人の『不死の呪い』の解除に移りたいと思います」

 

 葛の葉が平将門に施した――『不死の呪い』。

 

 それは、自身の『転生』という異能を捧げることで、只の人間であった平将門を『不死身の魔人』へと化した、呪いの妖怪・葛の葉における最上級の呪い。

 

「この呪いは、とある限定条件の上で成り立っているの。それは、『葛の葉の妖力』か、『不死の鍵たる生命』。そのどちらかが健在であること。つまり、『不死の呪い』を解くには、その両方を――」

 

 羽衣は、一度、そこで口を噤んで――再び、唇を湿らすようにして、口を開く。

 

「――排除する必要があります」

 

 その不自然な間に眉根を寄せながらも、鴨桜はそのまま羽衣の下へと近付いて言う。

 

「葛の葉の妖力ってのは、こうして親父が手に入れた。なら、その鍵とやらだが――」

 

 それはここにあるのかと尋ねる鴨桜は、既にその検討がついているようだった。

 

 ぬらりひょんも、平太も、またそれを察しているようで、真っ直ぐに――それを見詰める。

 

 詩希や雪菜などはまだ分かっていないようで首を傾げていたが――その光景を見た途端、目を見開いて、絶句した。

 

 羽衣は、尾に乗せていた心臓を――自らの口へと運び、摂取した。

 

「……………ッ!」

 

 咀嚼せず、丸呑みにする――文字通り、最後の晩餐が母親の心臓になることは、ずっと前から覚悟していた。

 

 ごくりと呑み込み、羽衣は真っ直ぐ――鴨桜の方を向いて言った。

 

「『不死の鍵の生命』は私です。私が生きている限り、魔人の不死の呪いは解けません」

 

 今の私を殺せば、『不死の鍵の生命』と『葛の葉の妖力』のどちらも――この世から排除することが出来ると、羽衣は言う。

 

「――鴨桜(オウヨウ)。あなたが私を殺してくれませんか?」

 

 そう微笑む羽衣の言葉を。

 

 百鬼夜行の若き後継者は――表情を消し、舌打ちをしながら受け止めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 いつの間にか、そこにいた。

 

【……ここは――それに、この姿は】

 

 狭間(はざま)の世界。

 

 表の平安京でもなく――裏の怪異京でもない。

 

 どこでもあって、どこでもない。

 

 そんな世界に――蘆屋道満(あしやどうまん)は、老爺の姿で、囚われていた。

 

「長い戦いも、長かった物語も――ここが終着点(ゴール)だ」

 

 祭りの終わりだよ、道満――そう、若い男の声が近付いてくる。

 

 十字架に、まるで罪人のように両手足を縛られている道満も、首だけは動かすことが可能だった。

 

【――――晴明】

 

 安倍晴明(あべのせいめい)

 

 自分が完全にその身体を乗っ取り、勝利してみせたと思った男が、何もかも見透かしたような瞳で己を見詰めていた。

 

「――――夜明けの時だ」

 

 夜が明ける。朝が来る。

 

 終戦の、時が来た。

 




用語解説コーナー86

・狐の呪い

 今わの際――化生の前は、己の身体に纏った黒炎を、呪いの炎に変質させていた。

 正確には、魔人の黒炎に己の妖力を混ぜ込み――そこに、たっぷりと、呪いを込めた。

 黒炎の殺傷力ではなく、己の呪いを、目の前のぬらりひょんに、そしてついでに、その場にいる全員に――漏れなく浴びせかける為に。

 それは、ぬらりひょんの語った、ありふれたささやかなしあわせを奪う為の呪い。

 その呪いは、見事に嫌がらせの効果を、この上なく発揮し――およそ千年に渡り、ぬらりひょんを苦しめ続けることになる。


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妖怪星人編――87 明け星

――帰ろう。我らが暮らす、常夜の世界へ。


 

 ずっと、この時に、死ぬ為に生きていた。

 

 羽衣が『不死の鍵の生命』であることは、母である『葛の葉』がそのまま本人に伝えていた。

 

 あなたの生命はあの人の生命――だから、死んでも、死んではダメよ、と。

 

 死の直前まで、葛の葉は羽衣のことを、愛する人の生命の予備のように見ていた。

 

 己と将門との愛の結晶だと――文字通り、無機物のように、記念品のように扱っていた。

 

 いつか、自分は必ず殺される時が来る。

 それが母である葛の葉に取り込まれる時なのか、それとも魔人を殺す為に英雄に殺されるのか――その二つに一つだと。

 

 そんな自分の心を見透かしたように、救ってくれたのは――あの御方だった。

 

――私も、お前も、初めから使命を……使い方を定められた命として生まれた身だ。

 

 初めから最期が決まっている誕生。

 

 だが、それは、所詮、生まれてから死ぬまでの運命だと。

 

――待っていてくれ。その場所で。全てから解放された時、私達の自由が始まるのだ。

 

 そう――言ってくれた人がいる。

 

 だから、死ぬのは怖くない。

 

 私は、この世界で最も幸福な生命だ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 私を殺して下さい――そう言って、目の前で微笑む白き狐耳の美女に。

 

 鴨桜は、ゆっくりと目を開けながら、問い掛ける。

 

「――何で、俺なんだ?」

 

 睨み付けるように言う鴨桜に「いいではないですか」と羽衣は笑いながら言う。

 

「そもそも、あなた達の今回の戦争参戦の目的の一つに、実績作りがあった筈です。戦争の終止符をその手で打つというのは――この上ない、実績になりませんか?」

 

 確かに、総大将の息子ながら人間との半妖である鴨桜の百鬼夜行二代目襲名における実績作りとして、今回の妖怪大戦争を利用しようという声はあった。

 

 だが、実際に戦闘した幹部級の妖怪は鞍馬天狗のみで、かの妖怪を仲間に引き入れたのは総大将であるぬらりひょん自身だ。

 

 化生の前も止めを差したのはぬらりひょんであり、鴨桜率いる二代目派閥は、此度の妖怪大戦争において確固たる戦果は残せないでいる。

 

 だから、最後の美味しい所はお前にやると言われて「………ふざけんなよ」と、鴨桜は羽衣の胸倉を掴み上げた。

 

「そんなもんをテメェの命と一緒にぶら下げられて、ありがとうございますとでもいって俺がほいほい食いつくとでも思ってんのか……っ!」

「………そうですよね」

 

 あなたはそういう方ですよねぇ――と、羽衣は苦笑しながら言う。

 

 激昂する鴨桜に、「いや、この場面での適任はお前なんじゃ――鴨桜」と、宥める。

 

「儂ではない。犬神でも、士弦でもない。お主じゃ。お主じゃからこそ――狐の嬢ちゃんは、己を殺してくれと頼んどる」

「……どういうことだ。これが、お情け以外の何だってんだ」

 

 鴨桜は、此度の戦争で、自分自身の未熟さを、これ以上なく思い知っている。

 

 自分がいかに足りなかったか――そして、目の前の父親が、どれほどに偉大だったか。

 

 百鬼夜行の二代目にどうしてもなりたいなどとはこれっぽっちも思っていない。

 だが、それでも、この背中を継ぐ日が来るのだとすれば――それは、己の確固たる力で、成長して得た確固たる実績で、周りを納得させなければ意味がないと思っている。

 

 こんな、誰でもいいからやってと言われて手に入れる実績など、屈辱以外の何物でもない。

 

 そう吐き捨てる鴨桜に、ぬらりひょんは言う。

 

 優しい笑顔で――その黒と桜の斑髪を見詰めながら。

 

「今こそ、必要なのじゃ。お前の中に流れている――『人間』の」

 

 我が『愛』――『桜華(おうか)』の力がな。

 

 そう、ぬらりひょんは、本当に美しいものを眺める表情で言う。

 

「……母さん、の?」

 

 鴨桜は羽衣から手を離しながら、その目を真っ直ぐに見詰めて言う。

 

「我が兄にして我が主、安倍晴明(あべのせいめい)様は見透かしていました。……まぁ、そこの総大将殿が兄の下を訪れる度に漏らす惚気話から教わったことも多分にありますが」

 

 羽衣はそう苦笑しながら、笑みで応えるぬらりひょんと目を合わせて――再び鴨桜に向き直る。

 

「あなたの母君――『桜華』殿は、逝去した人の魂を極楽浄土へ送る異能をお持ちだそうですね」

 

 鴨桜の母にしてぬらりひょんの妻――桜華は、亡くなった人の魂を極楽浄土へ送る僧の一族に生まれた少女だった。

 

 彼女は、父や兄がそうしていたように、亡くなった方がいると遺族と共に心から哀しみ、その魂が極楽浄土へ行けるように祈る日々を送っていた。

 

 そして、ある日――安倍晴明が、彼ら一族の元を訪れた時。

 

 少女であった桜華が祈りと共に送った『魂』が、()()()()()()()()()()()()()ことを見透かした。

 

「桜華殿が死者の魂を送っていた『極楽浄土』とは、『魂』だけが侵入(はい)ることを許される異空間だそうです。そういった空間を知覚し、接触することが出来る才を持つ人間が稀に現れると、兄は見透かしました」

 

 例えば、己の中に心の核のみが存在する精神空間を持つ異能力者もいるように。

 

 桜華の場合は、魂だけを異空間に送り込める異能を持っていた。

 

 その異空間は『極楽浄土』と呼ばれ、暖かく、穏やかで、静か――そして、一年中咲き誇る美しい桜の木が森のように広がっている理想郷だという。

 

「悪しき魂が入り込んだ場合は排除される、一度送り込まれると現世には戻れないなどの誓約があるそうですが――その『極楽浄土』では、悪霊になることなく好きなだけ時を過ごし、満たされたら成仏することを選べる……優しい世界だと」

「……それは、聞いたことはある。だが、母さんの家系でも、それは全員に受け継がれていたわけじゃない」

「いや、お前には受け継がれているさ」

 

 その髪の桜が――母譲りの桜が何よりの証拠だと、ぬらりひょんは言う。

 

 確かに、母の家系でも、極楽浄土へ送る力を持って生まれる者は――皆、桜色の髪を以て生まれてきたらしい。

 

「…………」

 

 鴨桜は、ゆっくりと瞑目し、そして開眼して――真っ直ぐに、羽衣を見詰めて言う。

 

「――――いいんだな」

 

 羽衣は、そんな鴨桜に「……優しいですね」と微笑んで。

 

「お願いします。ずっと、待ち続けたい人がいますから」

 

 だから、どうか、優しく殺してくださいね――と、羽衣は笑う。

 

「……分かった」

 

 そう言って、鴨桜は少しばかり、羽衣から距離を取る。

 

 ぬらりひょんは、そんな息子の姿を、ただじっと見つめていた。

 

(……そうだ。鴨桜。お前は――優しい。儂のように黒いだけじゃねぇ。桜華の桜色(やさしさ)も、しっかりとその『血』に受け継いでいる)

 

 鴨桜は、ドスの白刃――ではなく、桜色の脇差を取り出し、構える。

 

(儂はろくでもねぇ男じゃった。斬ることしか知らねぇ。戦うことしか分からねぇヤクザもんじゃ。だが、お前は違う。――弱え俺と違って、本当に強え、桜華の子でもあるんだからよ)

 

 そして、鴨桜がゆっくりと脇差に――母親譲りの、呪力を流し。

 

 羽衣が――その瞼を、静かに下ろす。

 

(今は弱くていい。――強くなれ。そして、いつか、お前ならなれるさ)

 

 桜色の斬撃が振るわれる。

 

 それは羽衣の身体を両断しながらも――傷一つ付けず、痛みも与えない。

 

 空間に、桜の花が咲き誇った。

 

 斬られた羽衣だけではない。

 

 その美しい斬撃を見た、この場にいる全員が――その桜の花吹雪を見た。

 

 (からだ)に傷一つ負わせず、魂だけを切り裂き――極楽浄土へと送る桜色の斬撃。

 

 死者を葬送する――優しい力。

 

(強きを知り、弱きを知る。――妖怪にも、人間にも、寄り添える器。初代(おれ)なんざよりも遥かにでっけぇ、偉大なる二代目に)

 

 羽衣は、最後に目を開き――美しい涙を流しながら、解き放たれた笑顔を向けて。

 

――ありがとう、英雄。

 

 使命から解放された女は、ゆっくりと、その身体を崩れさせていった。

 

 それは美しい桜吹雪に乗って、どこかへと飛び去って行く。

 

 脇差を振り抜いた姿勢で――涙を流しながら歯を食い縛る男を見て。

 

 ぬらりひょんは、思う。

 

(お前は――ぬらりひょん(おれ)と、桜華(かあさん)の息子なんだから)

 

 桜の幻覚が解けていき、何もかもが――終わりを告げる中で。

 

 ぬらりひょんは、ただ未来を、思い浮かべていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――それを感じたように、魔人は動きを止めた。

 

「――――っ!!」

 

 だが、その急停止に京四郎の手は止まることが出来ず、手刀が魔人の腹部を貫く。

 

 否――既に、その男は魔人に(あら)ず。

 

 腹部の出血は止まらず、傷口はまるで回復せず――そこから噴出する黒炎は、ゆっくりと赤い血へと変化していった。

 

 黒い魔力に覆われていた姿は、罅割れ、殻が割れるようにポロポロと落ちていき――元の姿が、かつての人間だった頃の平将門(たいらのまさかど)が露出していく。

 

「…………終わった、ようだな」

 

 その声も、紛れもなく、百年前に、一度しかない筈の生命を謳歌していた頃の、只の平将門で。

 

「――――ああ」

 

 自分は、この日、この時の為に生きてきたのだと思っていた。

 

 だが、こうして将門が魔人から解放された、その時――自分こそが、新たなる魔に身を堕としているとは思いもしなかった。

 

 そして――自分を魔から解き放つに相応しい者は。

 

 既に、この世界の、何処にもいない。

 

 もう間もなく、その資格を持つ者は――いなくなる。

 

「…………世話を、掛けた」

 

 将門は、虚ろな瞳で、己を殺した京四郎の顔を探す。

 

 黒い炎ではなく、赤い血が滴るその手を――京四郎は同じく、魔人の黒炎ではなく、人間の血に塗れた、魔人を殺した手で掴む。

 

「我は……地獄へと堕ちるであろう。……それはいい。もとより、覚悟の上の叛逆であった」

 

 既に将門の瞳には、闇しか映っていない。

 たった一つしかなくなった命が、とくとくと赤い血として流れ出している。

 

「……それでも、一目だけでいい。愛する女に逢いたかったのだ。この愛が、全てを黒く燃やす……許されざるものだとしても……悍ましく……禍々しい……黒炎だったのだとしても」

 

 しかし、その悲願も叶わず――こうして、平将門の乱は失敗に終わる。

 

「あらゆるものを犠牲にして、たったひとつを求めた。……しかし、それも叶わなかった」

 

 百年生き続けた不死身の魔人は、死に逝く人間として、涙と血を流しながら――それを問うた。

 

「俺は……何の為に、生まれてきたのか」

 

 かつて新皇を名乗り、この国の全てを敵に回して――たった一つの為に、あらゆるものと戦った。

 

 朝廷と戦い、英雄と戦い。

 妖怪と戦い、人間と戦い――そして、吸血鬼に殺された男は。

 

 愛に生き――愛を、取り戻せなかった男は。

 

 生涯における最期の問いを、己を殺した吸血鬼に――ただ一人、己を追い続けてくれた英雄たる仇敵に託した。

 

「――俺は、忘れない」

 

 行き場を失くした将門の手を取り、抱き締めるようにして、京四郎は叫び続ける。

 

 死に逝く魔人に――戦い終えた英雄に。

 

「将門。お主は、歴史上に類を見ない大罪人として名を残すだろう。お主は、世にも恐ろしい大怨霊として名を残すだろう。誰も、お前の真実を知るものはいなくなる――だが」

 

 それでも、俺は覚えている――京四郎は言う。

 

 大罪人の平将門を。大怨霊の平将門を。

 

 英傑たる平将門を。そして――愛に生きた、愚かな男であった、平将門を。

 

「俺は不死身の鬼となった。だからこそ、いつまでもお前を覚えていよう。魔人を止める馬鹿な英雄が居たように――いつかこの怪物を、殺しにくる英雄がやってくる、その時まで」

 

 だから――お前は、消えないと。

 

 強く、強く抱き締めて――固く、固く誓う。

 

「この俺が、お前の生きた証を残す。平将門という男がいたことを。お前の生が、何の為にあったのか。それを世界に、この俺が、お前の代わりに問い続けよう」

 

 いつまでも、いつまでも――平将門という魔人の怪談を。平将門という英雄譚を。

 

 語り続けると、そう言って――滅びゆく男を、見送る。

 

 小さく、男は笑ったような気がした。

 

 瞬間――将門の身体が黒く発火する。

 

 それは仇敵に己が死顔を見られなくないという意地だったのかもしれないし、あるいは百年に渡って魔人であり続けた男として、不死の呪いが解けたからといって人間として死ぬのは許されないという自罰だったのかもしれない。

 

 だが、京四郎は、黒く燃える炎が、例え自分ごと焼いているのだと分かっていても――その手を最期まで離さなかった。

 

 将門を荼毘(だび)に付せた黒炎が消えると――そこには、黒い刀があった。

 

 黒炎を纏った、黒炎を凝縮したような――漆黒の刀身を輝かせる刀が。

 

「――――これは」

 

 呆然としながら、それを手に取る京四郎の背後に、リオンがゆっくりと歩み寄りながら言う。

 

「吸血鬼には、物質具現化能力がある。本来は影を媒体に一時的に物を作る力だけれど……君の、魔人くんの生きた証を残したいという想いと……そもそも君が黒炎に纏われながら吸血鬼となったことで……特別な繋がりが生まれて――こんな奇跡が起こったのかもしれないね」

 

 黒炎を纏う黒刀。

 

 太陽の輝きを放つ太刀を失って英雄でなくなり――吸血鬼という怪物となったことで夜闇のような黒刀を手に入れる。

 

 随分と、皮肉な運命だと、京四郎は目を堕として。

 

「――将門は、天に昇っただろうか。まさか、この刀が将門ですなんて話じゃねぇよな」

「……それは大丈夫だよ。あくまでその黒刀は、魔人としての力の継承みたいだし。彼の人間としての魂は、きちんと成仏出来たんじゃないかな」

 

 そうか――と、京四郎は振り返ることは出来なかった。

 

 背後まで近づいてきたリオンは――京四郎の後頭部を殴打し、そのまま気絶させて意識を奪った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 適当な民家――廃屋の中に辿り着くと、リオンは背負っていた京四郎を下ろした。

 

「ごめんね。最期まで何にも断りもなく進めちゃって。本当は色々と説得する文言を考えていたんだけど――時間が来ちゃったからさ」

 

 時間が――時間切れが。

 

 夜が明けて――朝が来る。

 

 太陽が昇る、時間だった。

 

「もう、僕の故郷も見えなくなっちゃった」

 

 正確にいえば、昼間でも月は見えるかもしれないけれど、それは太陽と戦うことが条件になる。

 

 それは、吸血鬼にとっては死刑も同じだった。

 

「まぁ――これから、その死刑に行くんだけどね」

 

 そうひとりで笑いながら――リオンは、京四郎を影の檻に包み込む。

 

「基本的なことも、何にも教えて上げられなかったからね。まあ、太陽が完全に昇れば、吸血鬼の本能で陽光は避けると思うから、これは念の為に」

 

 日の出のとばっちりを避ける為に。

 一応は屋根が健在で、扉も壁も損傷が少ない民家を選んだつもりだったけれど、何分時間がなかったから、セキュリティが万全とは言い難い。

 

 それでも――自分に出来るのは、ここまでだから。

 

「さて――逝こうか」

 

 そして、死のうか。

 

 吸血鬼の死因の最大割合を占める――近年、他ならぬリオンの手によって大幅にその数値を減少させていたけれど、それでも累計でいえば未だにランキング一位に健在のチャンピオン。

 

 自殺――陽光自殺。

 

 箱入り姫たる引きこもりだった自分の死因としては、最高にジョークが効いている。

 

 リオンは最後に、己の最初で最後の眷属となった男が閉じ込められた影の檻を見詰めて。

 

「――ありがとう。君に出逢えてよかった」

 

 図らずも、吸血鬼一族最後の一体の座を押し付けてしまったけれど。

 

 どうか――長生きしてね、と、そんな言葉を遺しながら。

 

 リオンはそのまま屋外に飛び出し、蝙蝠の翼で、空高く飛んで。

 

 その全身で以て――朝の到来を出迎えた。

 

 日の出の時間だ。太陽が昇る。

 

 そして、リオン・ルージュは、生まれて初めて、その身に日光を浴びて――景気よく、それは見事に燃え上がった。

 

 焼身自殺が――始まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 見る見る内に燃えていき、黒焦げになり――そして、再生する。

 

 黒炎を纏っていた時の京四郎も同じような状況だったが、吸血鬼の天敵たる陽光は――魔人の黒炎とは比べ物にならない痛苦を、吸血鬼に与える。

 

「がぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」

 

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!

 

 紅蓮の髪が、豊満な胸部が、妖艶な臀部が、細い腕が、肉付きのいい太股が、傾星の美貌が――燃える。

 

 燃えて、燃えて、燃えて、見るも無残に燃えて、どろどろに溶けるように燃えて――そして、また、再生する。

 

 火達磨になる。

 いつまでも消えない炎で、いつまでも消えない苦痛が続く。

 

 こんなものを――父は、何回も、何十回も、何百回も、味わっていたのか。

 

 妹は――こんな、地獄の中で、死んだのか。

 

(僕が――――殺したのか)

 

 痛くて、痛くて、痛くて、痛い。

 

 苦しくて、辛くて――だけど、もう。

 

 殺さなくて――いい。

 

 食べなくて――いい。

 

 だからこそ――僕は。

 

(今度は――僕を、殺すのだ)

 

 朝陽と共に、平安京に轟く悲鳴。

 

 そして――燃やされ続ける、吸血鬼の灰は。

 

 風に乗って、ゆっくりと、世界中に広がっていく。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 リオン・ルージュの傍迷惑な自殺は、生存者が限りなく少ない戦場跡で実施された。

 

 そして、その限りなく少ない――生存者の中に。

 

 心を壊し、人形のように動けない。

 

 馬鹿みたいに大口を開けて、天に向かって両手を伸ばしながら、突っ立ていた、名も無き端役の青年がいた。

 

 そして、彼にとって、それは幸か不幸か――リオンの自殺場所は、青年の正しく直上で。

 

 自殺に勤しむ吸血鬼の、太陽によって焼かれる身体が――皮膚が剥がれ落ち、流れる血液の一滴が、大量の灰と共に降り注いできた。

 

 そして、それは、青年が怨嗟の叫びと共に開けっ放しにしていた――口の中に、落ちて。

 

 砂漠で飢えに苦しむ民の舌の上に、奇跡の雨が降り注ぐように。

 

 壊れた青年の口の中に――吸血鬼の雫が、届いた。

 

「――――ッッ!!!」

 

 目が覚めた――強制的に、目覚めさせられる。

 

「――――ぁ――――ぁぁ――――ぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 たった一滴の血が、全身に降り注いだ灰が、青年の全てを創り変える。

 

 壊れていた心も、満身創痍だった身体も――何もかもを、造り変える。

 

 一滴の血が大量の灰と共に瞬く間に全身を巡る。

 心臓を、肺を、脳を、神経を、根本から全く違うモノへと――作り変える。

 

 人間から――吸血鬼の――()()()()の、それへと。

 

(何だ――何が――――何が起こっている――――ッッ!?)

 

 当然ながら、青年自身は何も分からない。

 

 自分の口に何が入ったのか、自分の身に何が起きているのか。

 

 何も分からず――何も知らないまま――青年は死亡しようとしていた。

 

「――――ッッ!!!」

 

 リオン・ルージュという吸血鬼の血液に、脆弱な青年の身体が耐えられない。

 

 本来であれば、オニ星人のそれはリオン・ルージュという『始祖』の灰を取り込み、適応することで生まれるというメカニズムになっている。

 

 だが、青年は長い時間をかけて漂った灰の一粒ではなく、発生したてのそれをダイレクトに大量摂取し、しかも灰だけでなく、一滴とはいえ血液までも取り込んでしまった。

 

 これはもはや、オニ星人というよりも吸血鬼そのものに近い。

 

 そして、リオン・ルージュがこれまで眷属作りをしてこなかった理由は、単純明快――『器』が、耐えきれないから。

 

 京四郎という星に選ばれた英雄クラスの人間だからこそ、リオンの眷属となることが出来た。

 

 吸血ではなく輸血、それも一滴だけとはいえ、英雄でも何でもない、只の壊れかけの端役人間に、耐えられるようなそれではない。

 

 元々、死んでいたような人間に――止めが差された。

 ただ、それだけの悲劇として幕を閉じる――。

 

 そう――()、だった。

 

 青年の人生はここで終わる。

 

 端役としてはドラマチックな物語の末路として、それは十分過ぎる程の演出だったけれど――。

 

 それでも――続くのだ。

 

 悲劇は――更なる悲劇として、続いていく。

 

「がぁぁああああああああああああああああああああ!!!」

 

 青年が天を仰ぐ。

 

 先程まで仇敵の首を砕いていた両手を、今度は己の首に添えて、まるで毒を呷ったかのように。

 

 夜が明けた空で、太陽のように燃える美女を見上げながら――がっぽりと、口を開けていると。

 

 そこに――(カラス)が飛び込んでくる。

 

 一羽の烏。

 それは、烏天狗が死の間際、己の羽を無様に羽ばたかせて逃がした、己が妖力の塊。

 

 だが、その悪足掻きは実らず、一羽の烏のみ形成するに留まったけれど――そこに意志は移せなくて。

 

 結果的に、残せたそれは、只の妖力塊としての烏でしかなくて。

 

 このまま時を経て、只の烏としての生涯を終える筈だった妖烏は――しかし。

 

 意思は継げずとも――執念は引き継いだのか。

 あるいは、それは妄念だったのかもしれないけれど――なにはともあれ、その烏は、導かれた。

 

 烏天狗が追い求めた、青年の精神空間――その占拠への妄念に。

 

 大口を開けていた青年の口の中に、吸血鬼の血液に次いで――烏天狗の妖力塊が放り込まれる。

 

「――――ッッ!!!」

 

 壊れかけていた精神を、吸血鬼の血液で無理矢理に造り変えられて――ぐちゃぐちゃになっているどさくさに紛れて――その烏は、辿り着いた。

 

 青年の異能――『慿霊(ひょうれい)』。それを可能にしている、心の核が置かれた空間――『慿霊空間』に。

 

 そして、既に壊れかけているそれに、一目散に飛び込んでいく。

 

 心の核に――意思のない妖力が吸い込まれていく。

 

 結果――ぐちゃぐちゃに掻き回された、青年の身体は――本能を選び取った。

 

 生物として、最も強き本能を優先する――すなわち、生存する為の唯一の道を模索する、生存本能を。

 

 吸血鬼の血液に耐える為の身体が必要だ。それは貧弱なままの人間では不可能。

 

 つまり、青年の身体は心の核の侵食を受け入れ、心の色に合わせての肉体の変化を許容することになる。

 

 この時、青年は、人間から――烏天狗(からすてんぐ)となった。

 

 そして――烏天狗となった身体にて、吸血鬼の血液による肉体改造が再開する。

 

 妖怪の身体は、吸血鬼の血液の一滴に――耐えきった。

 

 こうして、烏天狗となった青年は――烏鬼(からすおに)となった。

 

 人間ではなくなり、烏天狗でもなくなり、けれど正しい吸血鬼ともいえない存在。

 

 ぐちゃぐちゃにされた身体は、ぐちゃぐちゃにされた心は、極度の混乱状態に陥り、訳も分からず自分を攻撃した。

 

 背中から翼が生えた。

 烏のような真っ黒な翼。辛うじて人間の面影を残す顔は、涙や何やらでぐちゃぐちゃに歪んでいて。

 

 そのまま一直線に、空に浮かぶ太陽のように――燃え盛る美女へと突っ込んでいく。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 混乱していた。訳が分からなくなっていた。

 あの美女に攻撃を仕掛けた所で、何がどうなるというわけでもないのに。

 

 それでも――何かにぶつけたかった。

 

 このぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃな――自分に降り注ぐ、意味の分からない現状への混沌を。

 

 殴られた。

 痛みと苦しみで暴れ回る美女の、振り回した拳が青年に直撃する。

 

 リオンはきっと、何かを殴ったことにも気付いていない。

 

 そして、虫けらのように吹き飛ばされた青年は、何処とも分からぬ廃屋の中へと突っ込んでいく。

 二軒、三軒と貫いていく内に――何もかもが、もう、どうでもよくなった。

 

 闇の中へと強制的に堕とされた。太陽に八つ当たりをしようとした男の末路としては相応しい。

 

 しばらく、壊れたように笑い――やがて、疲れ果てて、気絶するように、眠りに着く。

 

 どうか――全て夢であって欲しい。

 

 そうでなければ――どうか、そのまま死んで、目覚めないで欲しい。

 

「――――どうして」

 

 こんなことになったんだ、と、遺言のように呟き、青年は目を瞑った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夜が明けて、朝陽が差し込む。

 

 その瞬間――源頼光(みなもとのらいこう)が、己が四天王に指示を出した。

 

「――日の出だ。発動しろ!」

 

 妖怪は夜に強く、朝に弱い。

 

 とりわけ日の出の陽光を浴びる瞬間は、妖怪の力が最も薄れる瞬間と言われている。

 

「――――ッッ!!!」

 

 酒吞童子を封印の中心に寝かせ、五色の呪力を流し込み、円形の壁で囲む。

 

 ゆっくりと、壁の中に呪力を流し込みながら時を待ち――日の出の陽光が差し込んだ瞬間、その光を閉じ込めるように『蓋』をして、そのまま千年の封印へと入る。

 

 これが――『酒吞童子封印計画』の全容。

 

 長かった戦いも――その最終盤へと至っていた。

 

 そして、これから、永い、永い――戦いが始まる。

 

 仕上げの『蓋』が形成される。

 これが閉じた瞬間、結界は完成し、外部からの干渉は不可能となり、内と外で時間の流れが変わる。

 

 内部での一日は外部での一年となり――頼光と四天王は千日間、呪力を流し続けて結界を維持することになる。

 

 当然、酒吞童子は動けない。

 結界を外部から破壊することは出来ず、内部でも結界を維持する術者以外は動けない。

 

 そう――どんな怪物でも、何体もの鬼であろうとも、だ。

 

 だからこそ、彼のその行為には、何の意味もない筈だった。

 

 結界の蓋が閉じる瞬間――影が差した。

 

 妖怪を最も弱らせる日の出の陽光――それを一身に浴びながら、結界の中に飛び込んでくる影があった。

 

 頼光や四天王に、それを防ぐ手段はなかった。

 既に術式は発動の段階に入っていたし、陽光が差すこの瞬間に結界を閉じてこそ、この封印は最大の効力を発揮する。

 

 故に、頼光は――。

 

「――狼狽えるな! このまま封印を完成させる!!」

 

 己が四天王にそう指示を出し、術式はそのまま――完成に至る。

 

 完全に蓋が閉じられる。

 

 これでもう、誰も外には出られなくなった。

 

 酒吞童子は勿論、術者たる頼光も四天王も――そして。

 

 自ら檻の中に飛び込んできた――その隻腕の赤鬼も。

 

「…………どう…………して」

 

 酒吞童子に覆い被さるように――茨木童子は落下してきた。

 

 その登場に、四天王は――誰よりも、渡辺綱(わたなべのつな)は、絶句していて。

 

「……………はッ。言っただろうが……」

 

 茨木童子は、酒吞童子に覆い被さったまま動けない。

 

 赤鬼の身体は満身創痍だ。右腕を失い、妖力も底を尽きかけている。

 いつ死んでもおかしくない――というよりは、死んでいない方がおかしいくらいの無残な有様。綱が勝負は着いたと、そのまま放置しても納得の仕上がりで。

 

 そんな茨木童子が、妖怪を最大限に弱らせる、日の出の陽光を浴びながらも、逃げ場のない結界の中に飛び込んできた理由とは――。

 

 決まっている――茨木童子は、ずっと、その為に戦い続けてきたのだから。

 

「――ごめんな。来るのが遅くなって。……助けることが、出来なくて」

 

 茨木童子は、覆い被さったまま動けず――けれど、せめてと、残った左手で、同じく動くことの出来ない酒吞童子の小さな体を、精一杯に抱き締めて。

 

 心からの――愛を伝える。

 

「もう――ひとりにはしない。ずっと――――いっしょだ」

 

 結界を閉じる音がする。

 

 封印が始まる。けれど――酒吞童子は。

 

「……………うん」

 

 瞳から、生まれて初めて――涙を流した。

 

 それは――この戦争に、酒吞童子が勝利した瞬間だった。

 

 ずっと、この『右腕』を取り戻す為に、少女は戦い続けたのだから。

 

「…………ずっと……いっしょ」

 

 結界内が、闇に包まれる。

 

 これから術者たる頼光や四天王同士とも、視線を合わせることすら出来ない孤独な戦いが始まる――そんな中で、金時が最後に観た光景は。

 

 初恋の少女が、己が家族と再会し、抱き合いながら――眠りに着く姿で。

 

「…………っ」

 

 金時は、己が救えなかった少女が、最後の最後で、己以外の男に救われた光景に。

 

 ほんの少しの、救われた気持ちと――ほんの僅かな、嫉妬を覚えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 こうして――妖怪大戦争は、終戦した。

 

 めでたしめでたし――――とは、決して言えない、苦い結末。

 

 癒えない傷を負った者もいる。帰らぬ者となった者もいる。

 

 誰しもが犠牲を伴った。得たものは何一つとしてないだろう――どんな戦争にも共通するバッドエンド。

 

 それでも――終わりはやってきて。

 

 夜が明けて――朝はやってくる。

 

 赤い月も黄金の輝を取り戻し――そして、太陽は、また昇る。

 

「……ここは、『祠』の外か」

 

 いつの間にか、百鬼夜行の面々は全員が神秘郷の外へと放り出されていた。

 

 領域の主たる葛の葉の妖力が消えたことで、あの空間はなくなったのか、それとも新たなる主が現れるまで開かれないのか。

 

 ちらりと、士弦が振り返ると、『祠』は何の光も放たれておらず、ただのボロボロの祠にしか見えなかった。

 

「……終わった、のでしょうか?」

 

 雪菜がぽつりと呟く。

 

 戦い続けた夜が明けて。強大な敵もいなくなって。

 

 これで、本当に――戦争は終わったのかと。

 

 それは――誰も教えてくれなくて。

 

 終わりは新たな戦いの始まりかもしれなくて。

 

「………………」

 

 命を奪った感触は、いつまでも消えてくれはしなくて。

 

 鴨桜が、その桜色の脇差を、手の中でじっと見つめていると。

 

「――――分からん。じゃが、儂らがすべきことは決まっておる」

 

 ぬらりひょんが、一同を見渡す。

 

 誰ひとり欠けることのなかった百鬼夜行――己が家族を見渡して。

 

 それでも、失ってしまったモノを思い、顔を俯ける者の顔を上げるように――自身も空を、夜が明けた証の太陽を見詰めて。

 

 明るい星を見上げて。

 

「――帰ろう。我らが暮らす、常夜の世界へ」

 

 人間が、起きるよりも前に、と。

 

 彼らは妖怪らしく、そう今宵を締め括った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、これは戦争が終わった――その後の話。

 

 誰も知らない場所で、誰も視ていない場所で、ひっそりと行われていたエピローグ。

 

 あるいはとあるふたりの馴れ初め。後日談というか、今回のオチ。

 

 その美女は燃え続けていた。

 

 否――既に美女は少女であり、あるいはもはや幼女であった。

 

 あれから何日経ったのか。何日も、何日も経ったのか、リオンには分からなくなっていた。

 

 自殺の日々が続いていた。

 

 日がな一日中、日光浴ならぬ陽光自殺に勤しみ――夜は泥のように眠り、朝は太陽の光を浴びて火達磨になることで目を覚ます。

 

 バッドエンドは続いていく。

 

 みんなが不幸になった、その後の話。

 

 いつまでもいつまでも終わらない私的な死刑。

 

 勢いで死ねると思ったけれど、思い詰めたけれど、不死身の身体は燃え続け、いつまで経っても死ねやしなかった。

 

 悶え苦しみ、暴れ狂う内に、いつの間にか平安京の外に出ていて。

 

 ここが何処かも分からず、今が何時かも分からず、ただ一心不乱に焼身自殺を続ける毎日だった。

 

 どうしても死にたいのに。死にたくて死にたくて堪らないのに。生きているのが辛くて恥ずかしくて堪らないのに。

 

 それでも自殺は終わらず、それでも生命は終わらず――やがては、心が先に、ゆっくりと死んでいって。

 

 太陽に――手を伸ばす。

 

 美しい太陽。届かない太陽。圧倒的な太陽。

 いつか倒してやると、そんな風に息巻いていた宿敵――太陽。

 

 ああ――綺麗だな。ああ――敵わないな。

 

 ああ――――怖いなぁ。

 

 吸血鬼という生物のDNAには、太陽への畏れが刻み込まれている。

 

 どんな怪物よりも、十字架よりも大蒜よりも銀の弾丸よりも――吸血鬼は、太陽が怖い。

 

 何の説明もなしに吸血鬼にされた存在でも、吸血衝動よりも先に太陽への恐怖を覚える。

 

 引きこもりの吸血姫にとっても、あるいはだからこそ、それはそれは――恐ろしかった。

 

 痛くて、辛くて、苦しくて――怖い。

 

 永劫に終わらないと思える地獄の中で――弱り切った、豆腐メンタルは。

 

 遂に、その言葉を――口にして、しまった。

 

 死にたいと思っていた筈なのに。無様にも、そんな弱音を口にした。

 

――たすけて……きょうしろう。

 

 瞬間、であった。

 

 まるで、その言葉を、ずっと待っていたかのように――それは劇的な救出だった。

 

 リオンの身体を包んでいた、火達磨にしていた紅蓮の炎が――黒炎に包まれて焼失した。

 

 炎が、炎によって焼き消された。

 

 消火された――前代未聞の方法で。

 

 黒い炎によって上書きされている中、自身は火達磨になりながら、一人の男が幼女を抱き締める。

 

 そして、雨に濡れた小動物を抱えるように「……ったく。面倒を掛けさせるな」と言いながら、そのまま陽光を遮る山の中へと逃げ込んでいく。

 

「…………なん、で?」

 

 何でここにいる? 何で助けに来た?

 

 何で――そんな顔で、僕を見る、と。リオンが色々な何でを凝縮したよな「なんで」を問うと。

 

「お前の影の檻は、あれからしばらくしたら壊れた。その後にすぐに外に飛び出してみたんだが――まさか太陽の光がこんなにきついものとはな。俺もかなり寝過ごしてしまったのか、お前も平安京にはいなくて、探すのに随分と手間取った」

「い、いや、そうじゃなくて」

「正直、この眷属同士の繋がり、っていうのか。お前の居場所が何となく分かるこの感覚がなければ間に合わなかったかもしれないな」

 

 眷属同士の繋がり。

 そんなものがあるのかと、眷属を作るのも初めてで、自殺に夢中で気付けなかったリオンは驚いたけれど――でも、聞きたいのはそんなことではない。

 

「なんで!!」

 

 幼女姿になったリオンは、日陰でその身体をゆっくりと再生させながら問う。

 

「なんで――僕を、助けたの?」

 

 幼女と同じく全身もれなく爛れさせた男は、同じくその身体を再生させながら、腕の中の幼女に応えた。

 

「――『助けて』って、そう言ったのはお前だろう」

 

 それもまた、眷属同士の繋がりというものなのだろうか。

 テレパシーというのか――言葉にせずとも聞こえてしまう、心の声。

 

「お前がどれだけ死にたいのかは、痛い程に伝わってきた。ずっと、ずっと、何日も、何日もな。――勝手に化物にされた恨みも、憎しみも、憤りもあるさ。もしかしたら殺意も。いくらでも聞くって言いながら、全く聞く耳持たずに逃げ出しやがったことに対するふざけんなもな。だが、まず、何よりもお前に言いたいことはだ」

 

 木々の間の陽光が差し込み、ふたりの身体が再び燃え上がる。

 

 痛い筈なのに、苦しい筈なのに、辛い筈なのに。

 

 死にたくて――堪らない筈なのに。

 

 リオンには、そんな陽光を黒炎で上書きしながら己を守り――見詰めてくれる、男の顔と言葉しか届かなかった。

 

「勝手に人を吸血鬼にして救っておいて、自分だけ死んで楽になろうなんて許さねえよ」

 

 責任取って、俺と一緒に永遠を生きろ――その、真剣な顔で告げられた、男の熱い言葉に。

 

「…………もはや、プロポーズじゃないか……ッ」

 

 炎の中で顔を真っ赤にした幼女は、プロポーズという言葉の意味が分からず首を傾げている男の、首に手を回して思い切り抱き着いた。

 

「――分かったよ。責任を取ろう。僕は――君が死ぬまで死なないよ」

 

 一緒に今日を生きていこう――そう、この宇宙でふたりきりの吸血鬼は誓い合った。

 




用語解説コーナー最終回

・妖怪大戦争

 『妖怪大戦争』って、結局なんだったの?




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妖怪星人編――88 千年後の君へ

 

【妖怪大戦争って、結局なんだったのじゃ?】

 

 世界の狭間で――狭間(はざま)の世界で。

 

 磔にされながら、蘆屋道満(あしやどうまん)安倍晴明(あべのせいめい)に問うた。

 

【冥土の土産に教えてくれんかの?】

「……別にお前は死ぬわけではないだろう?」

 

 殺せるものならとっくに殺している――と、冷たく淡々と言う青年に。

 まあ、そういうな――と、両手足を拘束されながらくつくつと笑う老爺は。

 

【これから長い長い時を、この何もない、誰もいない世界に封印されるのじゃから。お喋り好きの爺からすれば死刑も同然じゃ。じゃから最後に付き合え。答え合わせに。辻褄合わせに】

 

 それを、此度の妖怪大戦争の最終回にして説明回としよう――そう言って、封印されし黒幕は、己を打倒した星の戦士に問う。

 

【此度の妖怪大戦争編は、様々な勢力の、様々な者達の思惑やら使命やら野望やらが入り乱れ、複雑怪奇な物語となった。回収されていない伏線もあるじゃろう。忘れられた設定もあるじゃろう。最後くらいは、読者()の疑問に答える質問コーナーを設けたらどうじゃ?】

「………………」

 

 故に、蘆屋道満は、全てを見通す安倍晴明に問う。

 

 

 妖怪大戦争って、結局なんだったの?

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 昨晩、通り過ぎりの妖怪の軍勢が、それはもう暴れに暴れて、平安京を蹂躙したらしい。

 

 らしいというのは、その妖怪が何とも厄介なことに無力な民達を眠りの世界に誘うという能力を持っていたことで、気が付いたら貴族達は己らの屋敷で眠っていて、目が覚めたら京が崩壊していた――と、いうことになっていた。

 

 そんな報告を、紫式部(むらさきしきぶ)は、何故かボロボロになっていた藤原公任(ふじわらのきんとう)から聞いていた。

 

「――その妖怪の『誘眠』には、どうやら個人差があったみたいでな。効きにくい体質だったみたいなんだ、俺は。他には平安武士のお歴々は、さすがに妖怪のそういった姑息な異能への対策を施していたらしくて、源頼光殿を初め、みなさん命懸けで勇敢に戦ってくださったんだぜ」

 

 そう、公任は光る白馬の首を撫でながら言った。

 

 美しくも強大なその白馬は安倍晴明の式神――十二神将が一体らしく、昨晩は公任や道長を背に乗せて妖怪から逃げ回ってくれていたらしい。

 

「何故、起こしてくださらなかったのですか? そうすれば、我々も共に戦えていたのに」

「敵はあの黒炎上事件の時とは比べ物にならない強敵だった。『鬼の頭領』や『狐の姫君』本体までが出張ってくるほどに混沌とした戦場となった。俺達のような素人に毛が生えたような連中が出張っても武士達や陰陽師方の足を引っ張るだけだと判断したんだ。故に、下手に起こして回るより、晴明殿に守ってもらう方が安全と考えたわけだ」

 

 藤原行成(ふじわらのゆきなり)の言葉に、公任はすらすらと、まるであらかじめ用意されていた台本を読むように答えた。

 

 紫式部も行成も同じように違和感を覚えたが、ある程度の筋は通っていたのでそれ以上は突っ込めない。

 

 あの時と同じだ――土御門邸黒炎上事件と。

 

 自分達の知らない所で脚本は用意され、自分ら役者(キャスト)は己に許された部分の物語しか知らされることはない。

 

 そして、昨晩の戦争において、自分達は役者(キャスト)ですらなかった。

 

 故に、舞台にも上げられず、こうして残された結果だけを受け止めるしかない――ただ、それだけの話だった。

 

「一つだけ……聞かせて下さい」

 

 行成は、紫式部と一度だけ顔を合わせて――ゆっくりと、公任に問い掛ける。

 

「これで――よかったのですか?」

 

 平安京は壊滅に等しい被害を受けた。

 

 ()()()()()()()()()()()――『鬼の頭領』や『狐の姫君』をも退治し、()()()()()()()()()()()

 

 源頼光や頼光四天王を初め、主だった『人間』側の英雄も、()()()()()()()()()()

 

 得たものは多かったのかもしれない。だが、失ったものもまた、甚大な程に大きかった。

 

「……公任様。――道長(みちなが)様は……」

 

 紫式部は、そう心配げに問う。

 

 これだけの被害を齎した現政権の責任を問う声は大きいだろう。

 万全にして盤石の体制を築いた道長勢力にも――あるいは藤原勢力そのものに、暗雲が立ち込めるかもしれない。

 

 だが、紫式部の憂慮の先は、もしかしたら、そんなことではなくて――。

 

「――――ああ」

 

 公任は、紫式部と、行成と同じ方向へ――目を向けて。

 

 何もかもを、呑み込んで――言う。

 

「これで――よかったんだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 新土御門邸の一室にて、一人の女が、昼の月を見上げている。

 

 ずっと共に見上げ続けてきた月。これまでと同じく、遥か彼方に浮かぶ月を。

 

「………………」

 

 顔に皺を刻み込みながらも、柔らかい笑顔を浮かべた女は――月のように、変わらぬ笑顔を浮かべた女は。

 

「――おかえりなさい」

 

 そう、いつの間にか背後に立っていた、男に向かって、そう言った。

 

「……ああ――」

 

 男は――己の野望を支え続けてくれた、最愛の妻に対して、臆面もなく言った。

 

「――――ただいま」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【つまりは――夢オチエンドということじゃな】

 

 蘆屋道満は愉快気に笑う。

 

 相も変わらず縛られたままで、ケラケラと――藤原サイドのエピローグを聞いて。

 

【紫式部や藤原行成――つまりは妖怪大戦争に参加しなかった貴族達には、そのように記憶操作が行われているのじゃな。崩壊している平安京は、源頼光ら武士達が、『鬼の頭領』や『狐の姫君』、そして平安京の全ての民を眠りの世界へと誘った『何か』と激戦を繰り広げた結果じゃと。微妙に嘘ではないから質が悪い!】

 

 日ノ本の妖怪勢力は大きく削れ、全国土に広がっていた妖力の充満も収まった。

 

 もう、一部の人間を除いて、一般市民には妖怪も見えなくなったことだろう。

 

 じゃが、そうなると、こんな当然の疑問が浮かんでくる――と、蘆屋道満は次なるエピローグを求めて、問う。

 

【その記憶操作の方法――そして、月に行った筈の公任や道長が、どのようにして平安京に帰還を果たしたのか。そのネタ晴らしを所望する!】

 

 蘆屋道満は、安倍晴明に語るよう求める。

 

 あの後――あの、『月の黒い球体の部屋』で。

 

 藤原道長(ふじわらのみちなが)は、黒い球体とどのような取引を交わしたのか、と。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 赤から金へ――その色を正しいそれに戻すことに成功した月。

 

 その星の首都たる(みやこ)――その郊外。

 

 四方を壁に囲まれた里の中の、大きな城。

 

 その中の一室――かつては『子供部屋』と呼ばれていた、この星の『黒い球体の部屋』にて。

 

 吸血姫なき後、新たな月の姫(リーダー)となった輝夜(かぐや)と、月面を支配し守護する黒い球体・GANTZ――そして。

 

「……これで、よかったの?」

 

 月面に似合わぬ直衣(のうし)を身に纏う男――藤原道長は、黒髪の美女のその憂いた問いに応える。

 

「無論だ。己が提案した取引の結果なのだから」

 

 男の言葉に――女は、昨晩の光景を思い出す。

 

 藤原道長が黒い球体に提案した、その衝撃の取引内容。

 

 それは――。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「私がこのまま月面に残ろう。リオン・ルージュの代役を、この私が、不足ながら務め上げようではないか」

 

 道長のその言葉に、真っ先に異を唱えたのはかぐやだった。

 

「な、何それ!? そんなのダメに決まっているでしょう!」

「確かに、私はこと戦に関してはずぶの素人だ。リオン殿のようにどんな状況においても勝利に導くなどということは出来まい」

 

 しかし、どんな星にも、リオン・ルージュのような『天才』がいるとは限らないだろう――そう、道長は黒い球体を見詰めながら言う。

 

「この黒い球体が対星人用防衛装置だというのなら、一人の天才がいなければまるっきり機能しないという仕様である筈がない。今は、これまでリオン・ルージュに依存していたが故に、他の戦い方を知らないだけだ」

 

 何事も経験だ――と、道長は言う。

 決して選ばれた才覚の持ち主ではなかった――だが、弛まぬ努力と、黒く燃やし続けた野心を胸に、人臣最高位にまで上り詰めた男は、己が半生を振り返りながら語る。

 

「無論、これまでのように犠牲無しとはいかないだろう。敗れる時もあるかもしれない。だが、それが『通常』で、これまでが『異常』なのだ。数を重ねれれば、必ず月の戦士達も理解する――自分で戦わなければ、自分で自分の命を守らなければ、戦わなければ、生き残ることは出来ないのだとな」

 

 それが、戦争なのだと、月の戦士も理解する――自分は、それまでの繋ぎ役だと。

 

「故に、私がかの吸血姫の代役を務めるのは、月の戦士達が一人前に育つまでの間のみだ。全員が未熟のままだと、流石に全滅の危険性も出てくる。だからこそ、それまでの間は、私がここで『もにたやく』を務めて、俯瞰で戦場を眺めながら指示し、現場はかぐや殿が纏め上げる。こういった体制を置けば、少なくとも全滅は逃れるだろう」

 

 ガンツよ――と、膝を折り、道長は真っ直ぐに黒い球体を見詰めながら言う。

 

「これが、本来の形だ。いや、これでも過保護が過ぎるくらいだろう。戦士が可愛いのは分かるが――」

 

 あまり――甘やかすな。

 

 そう言う道長に「――――ちがうッッ!!」と、かぐやは激昂する。

 

「……あ~、無論、安全圏から指示を出すのは月の戦士達が成長するまでだぞ。その後は、きちんと私も戦場に出るつもりだ。私も今や、ガンツの戦士(きゃらくたー)だからな」

「……ッ!? 違う……違うの、そうじゃなくて!!」

 

 かぐやは首を振って、瞳に涙を浮かべながら言う。

 

「だって、それじゃあ……これじゃあ……地球に帰れないじゃない!?」

 

 言っている本人が泣きそうな――否、はっきりと泣いている、その悲痛な叫びに。

 

 道長は――これまで見せなかった、苦い笑みを堪えたような顔で言う。

 

「……そうだな。お主を地球へ連れ帰るという、約束を守れなくてすまなかった」

「ちがうって言ってるでしょう!! 私じゃない――あなたの話をしているのよ!!」

 

 詰め寄るかぐやに、道長は立ち上がって、その両手を己の両手で包み込みながら言う。

 

「――よいのだ。初めから、俺は言っていた筈だぞ。私は、お前に逢いに、この月までやってきたのだと」

 

 お前と、ずっと一緒に居られるのだ。こんなに幸福な結末もない――そう、優しい笑みで、本当に幸せそうに言う道長に、かぐやは、彼の胸に顔を埋めながら言う。

 

「……奥さんは、どうするのよ。……京には、あなたの家族もいるでしょう?」

「……そう言った意味でも、私は運がいい幸福な男だ。傲慢にも、家族を泣かせる覚悟もしていたのだが――公任が、きちんとそちらも叶えてくれた」

 

 道長が見詰めるモニタには、白虎と天空、そして――藤原道長(ふじわらのみちなが)が映っていた。

 

 戦士(キャラクター)となって黒い球体の部屋に入る為に自害未遂をした道長の命を繋ぎ止めたことで、存在が許されたもう一人の道長(バグ)

 

 本来の――藤原道長。

 

 偽物(クローン)は、自分なのだと、女に触れる男は語る。

 

「……願わくば、彼らだけは、元の場所に帰してやりたい。彼らは私の野望に――子供の我が儘に、付き合ってくれただけなのだ」

 

 かつて、かぐや姫が地球に来られたように。リオンが地球に放り出されたように。

 

 地球から月ではなく、月から地球へのルートは存在するのではないかと、そう問う道長に、かぐやは俯きながら、ぽつりぽつりと告げる。

 

「……あるわ。でもその『回廊』は……直近でリオンが使用したから、もう古い(カプセル)しか残っていなくて――旧式だから、日ノ本のどこに堕ちるかも分からない」

「そこは問題ない。白虎と天空が同行すれば、日ノ本のどこに堕ちようとも、朝までには京に辿り着けることだろう」

 

 かぐやは、道長の胸に顔を埋めながら「……それに――」と、歯を食い縛って、吐き出すように言う。

 

()()()()()()()()()使()()()()の……だから――」

 

 その回廊を、『藤原道長』が通ったら――もう二度と、『藤原道長』には使用できない。

 

 つまり――と、そう言外に告げるかぐやに。

 

 道長は、更に強く、己の中に掻き抱くように、かぐやを己に押し付けて。

 

「――それこそ、問題ない。同じ人物が二人も現れたら、それこそ皆が混乱しよう」

 

 ありがとう、かぐや姫――道長は、そう言って、涙を己に染み込ませるかぐやをいつまでも抱き締めていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、公任達をその『回廊』へと案内する為、泣き腫らした瞼のまま、かぐやが公任達の下へと転送されるのを、真っ暗な部屋のモニタで、道長は眺めていた。

 

 かぐやが白き虎ともう一人の道長(オリジナル)に何事かを告げると、公任は瞠目し――そして、何かを噛み締めるようにして、()()()の方を向き、遠吠えを上げる。

 

 その様に道長は苦笑して、そのままかぐやに連れられて何処かへ行く一行の後姿を、モニタからじっと眺め続けていた。

 

 じ、じじ――と、黒い球体の表面に、文字列が浮かぶ。

 

 それはいつか見たのと、同じ文字列だった。

 

 

――てめーたちは なにもの です ?

 

 

 道長は、そんなメッセージに、真っ暗な部屋で、ひとりごとのように答える。

 

「何者でもないさ。何者にかになれると思う程、流石の私も自惚れていない。……ただ、胸に宿る野心のままに、黒き炎に導かれるがままに、不可能を可能にしてきただけだ」

 

 いつか、私のような愚か者が、再びこの月を訪れるだろう――と、道長は言う。

 

「そうだな。何者かと聞かれれば、こう答えるのが適切だろう。我々は――愚者だ。不可能だと分かっていても挑戦し、何度も何度も失敗しながらも、いつかそれを可能に変えてしまう」

 

 それが、我々――地球人だ、と。

 

 藤原道長は、そう黒い球体に言った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【つまりは――こうして二人はいつまでも幸せに暮らしましたエンドというわけかの】

 

 蘆屋道満は、月面サイドのエピローグを、そう端的に纏めて言った。

 

【己が指揮官として月の黒い球体のミッションに参加する代わりに、平安京の住人達の記憶操作と認識操作を行ったわけか。流石に街々を直すことや、戦士(キャラクター)でもない民や戦士の命を蘇られせることは出来ぬから、ここら辺が落としどころかのぉ】

 

 そう考えると、藤原道長が二人となって、片方が地球に戻ってこれたのは、道長の言う通り僥倖であったな――と、道満は言う。

 

【『酒吞童子』は無事に封印に成功した。『茨木童子』も一緒に封印されるとは思わなかったが、あの状態では封印が解けても動けるかどうかは不透明じゃな。『頼光四天王』も共に千年の眠りへ着いたが――封印出来たからと言って、それで終わりというわけでは勿論、ない】

 

 外部から干渉できないような封印とはいえ、平将門の例を出すまでもなく、封印というのは――いつか必ず解けてしまうものだ。

 

 故に、その危険性を少しでも避ける為に、事後処理というものが必要になってくる。

 

【此度の妖怪大戦争においても、最低でも『黒炎上跡』と『山小屋跡』には、余人は近付けないようにする必要がある。『神社』を建立するにしても名分作りなど一苦労じゃろう。公任だけでは荷が重かったじゃろうからなぁ】

 

 後始末といえば、じゃ――と、蘆屋道満は言う。

 

【人間サイドの後始末は、藤原道長が()()()()()どうとでもなろう。では――】

 

 妖怪サイドはどうするのじゃ――と、ニタニタと笑いながら、小さな老爺は、無表情で己を見上げる若者を見遣る。

 

 もうずっと、何十年も、何百年も――若者であり続ける、目の前の男を。

 

【聞かせてもらおうか。此度の妖怪大戦争――結局の所】

 

 誰が――『妖怪の王』となった?

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「儂ら『百鬼夜行』は、これより――天下取りに乗り出す」

 

 怪異京――百鬼夜行屋敷にて、総大将ぬらりひょんは集結した幹部達に向かってそう宣言した。

 

「『鬼の頭領』と『狐の姫君』――二大巨頭を失い、『鬼』も『狐』もガタガタだ。その総数も大きく減らした。京にはもはや、俺ら『その他勢力』しか残ってねぇ」

 

 人間達の中には、妖怪が絶滅したなんて宣っていやがる奴等もいるみてぇだ――そうケラケラと笑いながら、ぬらりひょんは高笑いし、そして――表情を引き締めて言う。

 

「だからこそ、これは好機だ。人間達の目が届かねえ内に、この京を起点に日ノ本全土へ侵攻を開始する。『鬼』と『狐』の残党共、そんで今回の妖怪大戦争で日和見を決め込んでいた腰抜け共を電光石火で制圧し――」

 

 ぬらりひょんはドスを畳へと突き刺すと、その真っ黒な髪の中から、二列で向かい合う幹部共に告げる。

 

「――俺ら『百鬼夜行』が、日ノ本の妖怪を全て抑え込む」

 

 幹部達は、己が大将の号令に気勢を上げる。

 

 その姿は――正しく、王。

 

 妖怪の――王たる姿だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 常夜の世界で美しく咲き誇る一本の枝垂れ桜。

 その枝に横たわるように、一人の男が木に背中を預けていた。

 

「…………」

 

 清流のような黒髪に、この桜の木のような桜色の髪が斑に混ざり合っている。

 

 己のそんな髪を摘まみ上げながら、屋敷から聞こえる気勢をどこか別世界のように聞いていると――。

 

「――何をいっちょ前に黄昏ているのかしら? この息子は」

 

 己のすぐ下から、そんな声が鴨桜の耳に届いた。

 

「ちょ、母さん!? 何やってんだ、あぶねぇだろ!」

「母親をおばあちゃん扱いするんじゃありません。まだこんな木登りを心配されるような歳じゃないわよ」

 

 それをいうならこんな木登りを嬉々としてするような歳でもないだろと、そんなことを息子が言う前に、「よっと!」と言いながら、鴨桜が横になっていた枝に同じように腰を下ろす。

 

「相変わらず、この桜は逞しいわね。大人二人が一本の枝に座ってもビクともしないんだもの」

「……はぁ。ったく、落ちねぇように気を付けろよ」

 

 鴨桜はそう言いながら腰を下ろすが、背中は幹に預けず、何かあったらすぐに助けられるような体勢で息を吐く。

 

 そんな息子を慈しむ眼差しで見詰めながら「……なにかあったの?」と、母親は息子に問い掛ける。

 

 息子は、そんな母親の視線に耐え切れないとばかりに目を逸らし「……随分とまあ、気合の入った声が響いているな」と話題をずらした。

 

「ええ、そうね。いいの? 未来の総大将様は、あそこに参加しないで」

「……親父が組の士気を上げる為の決起集会ってなら、俺がいない方が、半血(おれ)に変な感情を持っている奴を刺激しないでいいだろ?」

 

 同じような理由で、士弦や月夜や雪菜も参加していない。

 平太や詩希を連れて、混乱が収まらない街の警邏と称して遊びに出ているのだ。

 

 皆さんが怪異京を案内してくれるんですと、早朝の時分に、そう鴨桜に報告しにきた平太の幸せそうな笑顔と、それを見詰める詩希の幸せそうな笑顔は――思い出すだけで、鴨桜の頬も柔らかくなる暖かさだった。

 

「……随分と、思い切ったよな。親父のヤツ」

 

 これまで目立った野心を見せてこなかったぬらりひょんが、ここにきて天下を狙うと明確に宣言した。

 

 それに対し、ぬらりひょんに昔から付き従ってきた古参妖怪達は狂喜乱舞していることだろう。

 

 だが、その急な方向転換に冷めた目を向けているモノもいる――他でもない、息子であり二代目候補である鴨桜もまた、そのひとりだった。

 

 桜華は、そんな息子に微笑みを向けた後で、屋敷の方を見下ろす。

 

「――あの方しかいないのよ。『鬼の頭領』も、『狐の姫君』もいなくなった。でも、強い力は、それだけである程度の『抑止力』にもなっていた筈。それはがなくなったってことは、つまり……」

「強え奴がいるから大人しくしていた小せえ奴等が、これを機に暴れ出すかもしれないってことか」

 

 酒吞童子や茨木童子がいなくなったからといって、大江山から鬼がいなくなったわけでもない。

 頭がいなくなったことで、我こそが新しい鬼の頭だと名乗り出すモノもいるだろう。

 

 化生の前がいなくなったからといって、狐の勢力が一匹残らず潰えたわけでもない。

 姫がいなくなったことで、これを機に独立を果たすモノもいるだろう。

 

 大きく力を減らしたからといって――妖怪はまだ、そこにいる。

 闇がなくならない限り、その中で蠢き潜む怪異は生まれ続ける。

 

 百鬼夜行という妖怪組織が、平安京の裏側で、こうして動き出そうとしているように。

 

「でも、これはあの方がいうように、好機でもあるのよ。妖怪も、人間も、大きく力を減らした今こそが、二つの世界の均衡を保つ好機なの。このままあの方が日ノ本の妖怪を押さえることが出来れば――」

 

 そう言って、桜華は常夜の空を、狂い咲く桜を――そして、黒と桜の斑髪の息子を見詰める。

 

「――『人間』と『妖怪』が、争わずに共存できる世界が、実現できるかもしれない」

 

 桜吹雪の中で微笑む桜華という人間は、妖怪の世界で暮らす人間は、泣きそうにも、笑っているようにも見える、複雑な表情をしていた。

 

 もし、ぬらりひょんが天下統一を目指すのならば、平安京で生まれ育ち、平安京しか世界を知らない鴨桜も、きっと――外の世界を知ることになるだろう。

 

 鴨桜は、自分の手をゆっくりと見詰める。

 

「――母さん。俺は、今回の戦争で、初めて『あの力』を使った」

 

 母たる桜華から受け継いだ力。

 魂だけを、極楽浄土の世界へ送る異能。

 

「命を奪った感触が、まだこの手に残っている」

 

 どれだけ綺麗な言葉で取り繕っても――鴨桜は、羽衣を、殺したのだ。

 

「…………」

 

 桜華は、両親や兄弟にただ言われるがままに、その異能を使ってきた。

 

 ぬらりひょんに攫われるその日まで、自分は何も考えず、ただ魂が安らぎの地へ行けるようにと願っていた。

 

 もしかしたら、あの人達が自分の前に置いていた死体が――眠っているだけの只の人だった可能性もある。

 

 そんなことを思い出しながら、息子を見詰める母を。

 

 静かに見詰め返しながら――鴨桜は、ゆっくりと立ち上がる。

 

「……また、すぐに戦争が起こるかもしれない」

「……ええ。今度は妖怪同士で、また血を流すことになるかもしれない」

「だが、さっさと実現しねぇとな――その、争いのない世界って奴を」

 

 そう言って、鴨桜は桜の木を飛び降りる。

 

 黒と桜――人間と妖怪、その両方の血を流す――共存の象徴たる息子は。

 

「親父が言っていたからな。母さんと一緒に爺婆になって死ぬのが夢だと。そりゃあ、つまり、そんな大層な野望に、五十年も掛けられねぇってことだろ」

 

 つまり、それまでに――自分が。

 

 ぬらりひょんの息子であり、桜華の息子である自分が――ぬらりひょんが安心して後を任せられるような、立派な二代目にならなくちゃいけねぇってことだ、と。

 

 そう言って笑う息子に――悪戯っぽい笑みを浮かべて、母も桜の木から飛び降りる。

 

「ちょ、ま」

 

 鴨桜は慌てて降ってくる母を受け止める。

 魂を極楽浄土へ送る異能以外は只の人間である母は、当然ながら空を飛ぶことも、こんな高さを綺麗に着地することも出来ない。

 

 あぶねぇなと怒鳴ろうとした息子の鼻頭を、ちょんとつつきながら、母は笑う。

 

「私はまだそんな歳じゃないって言ってるでしょ。あなたが立派な二代目になるまで、六十年でも七十年でも、百年だって生きてあげるわよ」

 

 そう言いながら「でも受け止めくれてありがと!」と笑う母に、「……流石に百年は無理だろ」と息子は苦笑する。

 

 地面に下ろしてもらった母は、すくっと立ち上がって。

 

「……ゆっくりと大人になりなさい。期待しているわ――ぬらりひょんと人間(わたしたち)の息子!」

 

 そう言って、いつの間に観ていたのか、息子とくっつきすぎたことでご立腹なぬらりひょんの下に歩いていく母親を、そして、そんな妻を抱き締めながら息子を睨みつけてくる父親を見ながら。

 

 ぬらりひょんと人間の息子は溜め息を吐いて、桜吹雪と常夜の空を見上げながら――笑みを浮かべて。

 

 自身もゆっくりと、妖怪屋敷の中へと戻っていくのであった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【つまり――おれたちの戦いはこれからだエンドというわけじゃな】

 

 妖怪サイド――百鬼夜行サイドのエピローグを聞いて、蘆屋道満はそう纏めた。

 

【妖怪世界の天下統一か。確かに、今こそがその最大の好機であることは否定せぬが――その道は、中々の修羅の道であろう】

 

 日ノ本最強の戦闘妖怪集団――『鬼』勢力は、酒吞童子や茨木童子を失って半壊状態であろう。だが、それはつまり大江山に残っていた鬼達は、茨木童子が纏め上げる以前の、誰の下にもつかない個人主義の妖怪として散開したということだ。

 

 日ノ本最大の妖怪集合集団――『狐』勢力は、確かに平安京へ送り込まれた妖怪達は化生の前に吸収されたことで全滅したといってもよいが、鞍馬山の天狗を代表して首長たる鞍馬のみが参戦していたように、その所属妖怪の全てが平安京に派遣されたわけではない。日ノ本の各地に残された残存勢力は、鴨桜の読み通り内部争いを初めてバラバラになるだろう。

 

 その他にも、ぬらりひょんの言った通り、妖怪大戦争を遠巻きに眺めて日和見を決め込んでいた勢力や、土蜘蛛のように覇権争いになど興味がないと唯我独尊を貫くモノなどもいただろう――それの他にも、まだ知られていない強力な妖怪が出現したり、誰も知らない強力な妖怪が誕生したりするかもしれない。

 

 正しく、百鬼夜行――彼等の戦いは、まだまだこれからなのだ。

 

【妖怪戦国時代、か。それはそれでまた面白いものが見れそうじゃな。『真なる外来種』が三体とも表舞台から姿を消し――ある意味では()()()()()()()()()()とも呼べるモノ達による、覇を争い行われる殺し合い】

 

 ふふ、心躍ると、心などまるでないような笑みを浮かべて言う――蘆屋道満。

 

 三体の妖怪星人――『真なる外来種』と共に来訪し、空っぽの『妖怪星人の器』を日ノ本にばら撒いた、全ての元凶にして黒幕にして物語綴(ストーリーテラー)たる怪物。

 

 老爺は、興味深い書物を眺めるように、地球の日ノ本という島国で繰り広げられる物語を鑑賞している。

 

 そんな、ある意味で最も『妖怪』といえる男を、晴明は無言で睨み付けていると。

 

【――そうじゃ。彼らにはいつネタ晴らしをするのじゃ。自分達が狐の呪いに罹っているということを】

 

 蘆屋道満が言う狐の呪いとは――妖怪・化生(けしょう)(まえ)が散り際に残した嫌がらせ。

 

 あの時、あの場所にいた全ての妖怪が罹患した――呪い。

 

【――『不老』の呪い。母が『不死』ならば娘は『不老』か。ぬらりひょんも愚かなことをした。挑発の意味があったのだとしても、馬鹿正直に己の本当の願いを吐露してしまったお陰で――その願いは、叶うことがなくなったのだから】

 

 妖怪は基本的には肉体が老化することはない。

 だが、無論、子供から成体に成長はするし――子供を作れば、己の血を次代へと継げば、生物として意義を果たしたとして、急速にその細胞は老化していく。

 

 ぬらりひょんは、既に子を成している。

 人間である妻――桜華と共に、老衰で逝くことを夢見ている。

 

 だが、それは果たされない願いなのだということを、蘆屋道満と、そして安倍晴明は、見透かしている。

 

【遠からず内に、あの平太という少年が、『箱』としての役割を果たしても、いつまでも座敷童にならずに幽霊のままであるということを訝しむモノが出てくるじゃろう。いや、あの賢しい童は己で気付くかな? その時、お前の下を訪れるであろう友人に、お主は何と言ってやるつもりかな】

「……………」

 

 つまり、これは、私達はまだ知らなかったエンドでもあるな――と宣う蘆屋道満に、安倍晴明は何も答えない。

 

 くつくつと、くつくつと、磔の老爺は本当に楽しそうに笑う。

 

 それにしても、皮肉なものじゃと、安倍晴明を真っ直ぐに見詰めて。

 

【奴等は此度の戦争で『不老』の呪いを受けた。それに引き換え、お主は此度の戦争で――遂に、『不老』から解放され――】

 

 老いることが、出来るのじゃからな。

 

 安倍晴明は、蘆屋道満のそんな言葉を受けて。

 

 ゆっくりと――その口を、開き始める。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「東西東西。

 

「楽しかったか。自分の思い通りにいかない舞台は。さぞかし新鮮で刺激的だっただろう。

 

「妖怪爺。否――全ての妖怪の生みの親。異星からの侵略者――蘆屋道満(あしやどうまん)

 

「確かに、完全無欠のハッピーエンドでなかったことは認めよう。そもそもが、お前が私――記憶を引き継ぐ星の戦士である『転生人間』の存在を感知したことで、私の『計画(プラン)』は崩れ始めた。

 

「人間の最大の弱点は、その寿命の短さだ。一代で出来ることはどうしても限界がある。まあ、それは人間がもつ最大の美しさであるのだが――お前のように、永劫の寿命を持つ『星の敵』に対抗するには、それは致命的な弱点だった。

 

「ある時は謎の陰陽師に、ある時は国を犯す毒たる怪僧に、変幻自在に姿を変えて――化けて出る貴様のような『侵略者』に対抗するには。

 

「私のように、何代にも渡ってそれをマークする戦士が必要だった。私のような『チート』を用いる戦士がな。

 

「しかし、『和気清麻呂(わけのきよまろ)』から『安倍晴明(あべのせいめい)』として転生を果たした時、まさか『真なる外来種』の子として生まれるとは予想外だったが、それに見合うだけの、否、それでも見合わないような『チート』がこの身に宿っていた時、確かに私は慢心していたのだろう。

 

「現在、未来の日ノ本全土に加えて果ては月まで見透かせる『全知』。どんな不可能も可能にする術式と呪力と妖力を備えた『全能』。こんな『(チート)』があれば何でも成し遂げられる――そう、私は驕っていた。

 

「己の『全知』を掻い潜って私の中に侵入し、己の『全能』を凌駕して私の中に留まり続ける――お前のような星の『癌』の策略に気付けなかったこと。これこそが、安倍晴明唯一にして最大の失態だ。

 

「これほどまでの『チート』が与えられるということは、そうでなくては打破できない『星人』がいるということだと、少し考えれば分かることだろうにな。

 

「結果として、私の寿命は延びた。『不老』の呪い――正しくその通りだが、これは私が使命を果たせなかったからだ。貴様という『癌』を野放しにしていることに対する星からの『(ペナルティ)』。これほどの『チート』を与えたのだから、必ず『安倍晴明(今世)』で決着(ケリ)を付けろというな。何一つ成し遂げられない、我が不甲斐なさの結果だ。

 

「だが、今、ここに私は、使命を成し遂げた。道満――貴様をこの狭間の世界に封印することに成功してな。

 

「ここは私が作り出した狭間の世界。私が見透かした光景が映し出される『星詠(ほしよみ)空間』だ。ネタ晴らしは楽しんでもらえたか? だが、お前がここから脱することはない以上、これはもはや只の映画鑑賞に他ならない。精々、貴様の暇つぶしになることを祈る。

 

「敢えてお前を『表』に現出させ、『力』を消費させ、油断しきった所で分離し異空間に閉じ込める。単純な策であったが、いつだってお前の最優先が『面白いこと』であったが故に用意した策だ。貴様としても満足のいく末路だと私は自負している。

 

「ああ。私は――俺も、満足だよ、道満。我が宿敵にして、我が半身。私の黒を、俺の闇を、担い続けてくれた愛しの怨霊よ。

 

「俺はこれから、貴様の言う通り老いるだろう。既に子を成している俺は、半妖といえど、数百年も生きるということはない筈だ。『狐』の後始末を終えたら、俺はきっと黄泉の国に行く。

 

「妹の待つ――極楽浄土へな。

 

「だが安心しろ。それでも、この狭間の世界は健在だ。我が星詠の映像(ビジョン)は見えなくなるだろうが、この世界は半永久的に揺るがないように作成した自信作だ。退屈を嫌う貴様にとっては、これこそが何よりの拷問になるかもな。そうであれば、俺も嬉しい。

 

「時代は変わる。此度のような星人戦争は、今後千年、この国では勃発しない。『真なる外来種』の影響が消失する以上、『模倣品』たる妖怪も衰退するだろうな。この国ではもう、『安倍晴明』を超える星の戦士は現れまい。

 

「だが、星人はこれからも、世界中に降り立っていくだろう。たかだか極東の島国で、これほどの星人戦争が勃発し、安倍晴明(これ)ほどの星の戦士が出現するのだ。流石の星の力もやがては枯渇し、星の英雄は生まれなくなる。

 

「そうなれば、いずれ地球も、月のように、黒い球体に頼らざるを得なくなるだろう。

 

「だが、それでも、それは地球の――我等の敗北を意味しない。

 

「道長様が、自ら月の戦士を育て上げることを選んだように――星の力なぞなくとも、人間は負けない。

 

「いつか、貴様も――本当の死を迎える時が、必ず来る。

 

「未来に芽吹く若者の才能が、必ずやお前の『不老不死』を砕くだろう。

 

「時代は、流れる。世界は変わる。

 

「忘れるな。お前がニタニタと眺めているこれは。

 

悪魔(おまえ)が死ぬまでの物語だ。

 

「――南北。」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 こうして、真っ暗になった狭間の世界で、悪魔の哄笑が響き渡る中――妖怪大戦争の幕は閉じた。

 

 

 

 その後――藤原道長(ふじわらのみちなが)は息子・頼通(よりみち)を摂政へと任じ、自らは妖怪大戦争の後処理に専念する為、政治の第一線を離れた。

 

 しかし、娘・威子を嫁がせた後一条天皇は、まるで何かに祟られるように早逝の憂き目に遭い、盤石に思えた道長率いる藤原北家勢力は、徐々に隆盛を失っていき。

 

 政治の中心から――『藤原』は、ゆっくりと外されていくことになる。

 

 

 

 やがて、『藤原』の摂関政治ではなく、上皇による『院政』が平安京のトレンドとなっていった。

 

 そんな中、国を傾けるほどの美貌を持ち、若き女性とは思えぬ博識ぶりで、鳥羽上皇の寵愛を受ける一人の女性が現れる。

 

 件の女性は――病に伏せる上皇の傍に侍るようになるが。

 

 やがて――とある陰陽師が、その本性を暴きに現れた。

 

 

 

 

 

 ゆっくりと、静かに息を引き取ろうとする鳥羽上皇(とばじょうこう)は、その痩せ細った手をゆっくりと持ち上げて宙を彷徨わせた。

 

「……玉藻(たまも)……玉藻は、いるか」

 

 金髪の美女は、その手を慈しむように握りながら、ゆっくりとその甲を己が頬に当てる。

 

「ここに居ります。……玉藻は、いつも上皇様の御傍に」

 

 鳥羽上皇は、その温もりに心から安堵したように、瘦せ細った頬を緩めて笑う。

 

「玉藻……お主と共に居れた幾ばくかの時は、この上なく幸福な時間であった――お主と、共に居れたことで」

 

 私は――『愛』というものを、知ることが出来た。

 

 鳥羽上皇の言葉に、玉藻(たまも)(まえ)は息を吞んで、頬に当てたしわがれた手を、己が涙で静かに濡らす。

 

「……玉藻も…………私も――ッ!」

 

 玉藻の前は、感情の昂りの余り――己が頭頂部に狐耳を、腰からは九本の尾を出現させているが、死に逝く鳥羽上皇はそれが目に入っていないか――それとも。

 

「私も――――あなたのお陰で、『()()――()()()()()――――ッッ!!!」

 

 ありがとう――『愛』しています。

 

 玉藻の前の――『狐の姫君』の、その愛の告白に。

 

「――――ああ……美しいなぁ……玉藻は」

 

 そう、静かに――鳥羽上皇は息を引き取った。

 

 暗い部屋の中で、ただ、玉藻の前の啜り泣く声が響く。

 

 やがて――部屋の戸が開き。

 

 老爺となった安倍晴明は、玉藻の前――かつて化生の前と名乗った、『狐の姫君』の転生体に向かって問うた。

 

「……お前は、愛する人に『呪い』を掛けなかったのだな。『狐』」

 

 涙を拭き、ゆっくりと立ち上がった玉藻の前は「……老いましたね。安倍晴明」と、その九本の尾を広げて言う。

 

 今ならば――胸を張って、こう言えると。

 

「私は――『葛の葉(おかあさま)』ではない。美しい――『愛』もあるのだと。鳥羽上皇(このかた)が教えてくれたから」

 

 それを穢すような真似はしないわ――と、泣き腫らした目で、真っ直ぐに晴明を睨む狐に。

 

「ならば、愛する男と共に逝くことを選ぶか?」

「残念だけれど、私はあのぬらりひょん(おとこ)とも違うのよ、『お兄ちゃん』」

 

 玉藻の前――『狐の姫君』は、その妖力を膨れ上がらせていく。

 

 晴明の背後に控えていた平安武士、陰陽師の軍勢に囲まれそうになろうとも、玉藻の前は真っ直ぐに晴明だけを見据えて言う。

 

「それでも私は――永劫を生きるわ! この『愛』は不滅だと、『葛の葉(はは)』の歪んだ愛よりも尊いのだと、この生命を以て証明する!!」

 

 安倍晴明によって正体が露見した玉藻の前は、その後、宮中を追われ、坂東の地まで逃亡し、那須の地で朝廷軍と事を構えることになる。

 

 一度目は八万もの人間軍を撃退するが、二度目の討伐隊によって敗北を喫し――『狐の姫君』は再び殺されて石となった。

 

 人間や妖怪を拒絶する猛毒を放つその石は『殺生石(せっしょうせき)』と呼ばれ、安倍晴明によって――二度と『狐』とならぬよう、京のとある場所で封印されることになった。

 

 

 

 

 

 そこは、かつて『葛の葉』が百年もの時を過ごした神秘郷『山小屋』の跡地であった。

 あれだけ拒絶する母親と同じ場所に封印するということに、安倍晴明の性格の悪さ(ロクデナシ)を垣間見た気がしたが、『狐の妖怪を封印する』という点において、既にこの場所以上に相応しいスポットはなくなっているのだと、一応は釈明した。

 

「すまないね、二代目くん。厄介なことを頼んでしまって」

 

 晴明は封印に同行してもらった、鴨桜に向かってそう言った。

 玉藻の前討伐軍の第二陣には、安倍晴明の指揮の下、こっそりと『援軍』が派遣されていて、鴨桜はその中の一体であった。

 

「……いや、あの『狐』にはうちも借りがあるからな。むしろ、ありがたかった」

 

 そう感情を押し殺しながら、努めて平淡に言う鴨桜に、晴明は再び謝罪の言葉を掛けようとしたが、それは自己満足に過ぎないと口を噤んだ。

 

 晴明のそんな感情を察したのか、あるいはさっさと用件を済ませて帰りたいのか、鴨桜は「それじゃあ――もう一個の用の方も済ましちまおうぜ」と晴明と相向かって、鴨桜は――その桜色の脇差を取り出す。

 

「……本当に、いいんだな」

 

 その切っ先を向けながら、鴨桜は無表情に言う。

 

 晴明はそんな鴨桜に微笑みかけて――鴨桜には、それが、いつかの誰かに重なって見えた。

 

「……ああ。随分と待たせてしまっているからね。最後の使命もこうして終えた今――死ぬのは、出来るだけ、早い方が嬉しい」

 

 そんな晴明に鴨桜は「……本当に、兄妹だな、お前ら」と言う。

 

「私はもう、十分に生きた。生き過ぎたくらいだ。……だから、どうか」

 

 安倍晴明(おれ)が、もう――必要とされない世界を望む。

 

 それを遺言に、安倍晴明を桜色の斬撃が襲い。

 

 美しい桜吹雪の幻覚と共に――『妹』と同じ場所で、安倍晴明は永遠の眠りに着いた。

 

「……どうか、穏やかな、いい死後(ゆめ)を」

 

 重く苦しい使命を果たした兄妹が――今度こそ、楽しい『生』を、謳歌出来ますようにと。

 

 兄も妹もその手で殺した、彼らと同じ半妖の青年は、静かに、瞑目しながら願った。

 

 

 

 

 

 そして、鴨桜と同じく、玉藻の前討伐軍第二陣には彼らも参加していた。

 

 真っ暗な夜道にて、腰に太刀を刷く墨色の浪人の肩に乗るのは、豪奢なドレスを身に纏う紅蓮髪の幼女だった。

 

「まさか、あの安倍晴明って人、僕達の居場所が分かるとは思わなかったよ。あの後、一度も平安京には寄らずに、この日ノ本中を旅していたっていうのに」

 

 今度は海を渡って大陸の方にでも行ってみようか。僕たち別に流水が苦手な吸血鬼じゃないしと、リオンが男の顔を覗くように言うと。

 

「……まあ、これで、あの戦争に関することでの心残りはなくなった。あの『狐』も、やっぱりもう完全に『葛の葉』じゃねぇって確認できたしな。……強いて言うなら――」

 

 そう言って、男は振り返る。

 

 墨色の浪人と紅蓮の幼女の背後には――髪をボサボサに伸ばしたボロ衣の青年がいた。

 

 かつての姿など見る影もない、ある意味では、あの妖怪大戦争の最大の被害者とも言える青年。

 

「あー、そういえば、君って結構な量の僕の灰と、一滴だけとはいえ血も吞んじゃったんだっけ? その上、烏天狗(からすてんぐ)? っていうのも身体の中に入り込んで――なんだかよく分からないことになってるねぇ」

 

 安倍晴明に引き合わされた時に、この青年の事情も聞いてはいるが、いかんせんリオンとしては自分のしでかしたことに自覚はないし、そもそも青年に対して余り興味もないので聞き流していた。

 

 男は、「リオンを……俺達を、憎んでいるか?」と、青年に向かって問い掛ける。

 

 青年は、ボサボサに伸びた髪の中から「……京四郎さんは――」と、問い掛けようとして。

 

「あ! 君、多分だけど、違う方の『きょうしろう』で呼んでいるでしょ!」

 

 リオンが男の肩からビシッと青年を指差して注意する。

 

「もう京四郎じゃないんだよ! まあ読み方は一緒なんだけど」

「……まあ、『京四郎』は、人間時代に、俺の弟子になってくれた奴の呼び名だったからな。他に適当な名も思いつかないから、俺の中で、字だけを変えて、同じ呼び方で名乗ってしまっているが」

 

 一々言い直す必要もないと男は思うが、リオンは自分と一緒に考えた名なので、積極的に言い触らしたいのだ。

 

「――『狂死郎(きょうしろう)』。()(くる)(おとこ)と書いて、狂死郎だ。これから俺は化物として生きていくんだ。人間を捨てるという意味を兼ねて、俺はそう名乗っている」

 

 そう名乗る、京四郎――もとい、狂死郎の言葉を聞いて。

 

 青年は、ああ――この人は、もう鬼なのだと悟る。

 

 英雄というのは、皆、こういう生物なのだろうか。

 

 全てを捨てる決断が出来る――時には、人間性すら、己の過去すら、切り捨てる。

 

 先程の玉藻の前討伐戦においても、狂死郎は人間達を影ながら大勢助けていた。

 人間が嫌いになったわけじゃない。人間を憎んでいるわけでもない。

 

 ただ――化物になった己を、受け容れているだけ。

 

 その牙を使って、もう彼はきっと、化物(じぶん)が生きる為に――人間(しょくりょう)も殺しているのだろう。

 

(……いつまでも、受け容れられない……自分と、違って――)

 

 俯く青年に狂死郎は問い掛ける。

 

「――俺達と一緒に来るか?」

 

 狂死郎の提案に、リオンは「えー」と露骨に不満を現していたが、狂死郎は真っ直ぐに青年だけを見詰めて、彼の決断を待っていた。

 

 いつまで経っても何も決められない、名無しの端役の懊悩を。

 

「………僕は、あなたのようには……まだ、なれません」

 

 やがて、ゆっくりと、その言葉を口にする。

 

 まだ、何も決められないと。

 自分は人間なのか、妖怪なのか、それとも――オニなのか。

 

 リオンを、狂死郎を――憎んでいるのか、恨んでいるのか。

 

 それすらも決められない己から目を逸らすように、リオンと狂死郎に背中を向ける。

 

「……そうか。じゃあ、まだどこかであったら、よろしく頼む」

 

 狂死郎は、そう言ってあっさりと、青年を切り捨てる。

 

 彼は、そういったことが出来る英雄で――今や立派な、化物だった。

 

 それを突き付けられた青年は、ゆっくりと歩き出そうとして。

 

「ねぇ――君の名前は?」

 

 狂死郎の肩から乗り出すように、まだ青年を見ていたリオンは、興味本位といった感じで問い掛けて。

 

(僕の――名前)

 

 そんなこと、もう何年も考えていなかった。

 

 自分の名前を呼んでくれる人など、もうこの世界の何処にもいないと思っていたから。

 

 そして、考える。

 確かに――人間の時の名前など、もう恥ずかしくて名乗れない。

 

 ふと――考えて、真っ先に、思いついたのは。

 

 自分の運命が変わってしまった――あの魔の森の決戦にて。

 

 目の前の英雄と同じ名前を名乗っていた誰か。

 

 自分を助けてくれた英雄――その記憶の中にいた、醜い怪物。

 

 僕はきっと、今、あの怪物のように醜悪なのだろう。

 

 だからこそ――そんな名前の方が相応しい。

 

「――百目鬼(どうめき)

 

 僕は、今後、そう名乗っていくことにします――と。

 

 名も無き青年――改めて、烏鬼(からすおに)百目鬼(どうめぎ)は、そう言って真っ暗な闇の中に消えていった。

 

 リオンと狂死郎はこの後に本当に海外旅行に出かけて、世界中を股にかけて様々な伝説を各地に残していくことになる。

 

 

 

 そして、玉藻の前の封印を最後に――妖怪の伝説はゆっくりと減少の一途を辿っていき。

 

 宮中では院政が崩壊して、時代の中心は――京から関東へ。貴族から武士へ移っていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――時は流れていく。

 

 

 

 

 














――千年後――










「――あぁ。退屈じゃ。退屈――じゃった」

 蘆屋道満は、狭間の世界にて、すっかり慣れたという風に独り言ちる。

「長かった。本当に長かったのぉ。晴明の奴が死んでから、あの何の娯楽もない、映画が終わった映画館のような空間で、孤独に磔にされ続けるだけの千年間は――本当に、死んでしまうかと思ったくらい、退屈じゃった」

 だからこそ――うっかりと。

「――封印を解いてしまったわい」

 そう、日ノ本史上最強の星の戦士たる『安倍晴明』が、脱出不可能と称した戒めから脱け出した『悪魔』は、カカカと哄笑しながら呟く。

「最後の最後でミスをしたのぉ、晴明。何も言わなければ、このまま退屈に殺されてやったかもしれぬのに――あんな次回予告を残されては」

 今後千年、妖怪大戦争のような星人戦争は、この国では勃発しない――それはつまり、裏を返せば。

 千年後たる現在、再びあのような星人戦争(まつり)勃発(かいさい)されるということではないか。

「そんなもの、死ぬよりも観たいに決まっておろうが」

 面白いものが観たい――そんな欲求を原動力に、およそ千年掛けて、安倍晴明の封印から脱け出した『悪魔』は。

 千年前(ぜんかい)の勝者たる『妖怪王』を、およそ千年間に渡り妖怪の王として君臨し続けたぬらりひょんを、この『狭間の空間』へと引き摺り込んで殺害した道満は。

 ゆっくりと、再び黒い糸を引き――真っ黒な黒幕として、舞台の準備に取り掛かりながら。

「しかし、そろそろ『鬼の頭領』と、『狐の姫君』の封印が解かれる頃合いじゃ。奇遇にも、ある意味でタイミングはばっちしと言えるな」

 邪悪な愉悦に表情を歪める。
 持っとるのぉ、儂――と、くつくつと笑って、孤独な空間で宣言する。

 さあ――千年ぶりの、祭りの時間だ。

 今度の祭りには『安倍晴明』はいない。『藤原道長』もいない。

「さて――新たなる英雄(しゅじんこう)は誰かのぉ」

 楽しみじゃ、楽しみじゃと。真っ赤な血で両手を穢しながら。

 物語を綴る宇宙人は笑う。

 異星からの侵略者は、今も、嗤い続けている。





+++





 真っ暗な夜の中で、世界から浮いたように輝く白い京都タワーの上で。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返る、歴史ある街を――妖怪が、闊歩する街を。

「……………」

 腐った双眸で見下ろしながら、黒い光沢のある全身スーツの男が、Z型の大型銃を構えて屹立していた。

 そして、何の感慨もなく――いつものように、孤独に、呟く。

「――――さぁ」


 今日も(ミッション)――戦争をしよう(スタートだ)



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