鬼滅の刃 ──逆行譚── (サイレン)
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鬼滅の刃 ──逆行譚──

アニメですっかり熱が上がってしまって……結構長いです。

※注意!
・ジャンプ本誌の最新話までのネタバレを含みます。
・キャラがブレてるかも
・捏造設定あり

以上が大丈夫な方はどうぞ。








「……義勇……、義勇」

 

 声が聞こえる。

 懐かしい声だ。もう二度と聞けない筈の、目の前で喪った最愛の家族の声。

 

「義勇、起きて義勇」

「…………?」

 

 再度名前を呼ばれて目を覚ます。

 微睡んだ意識が徐々に鮮明になり、瞳がこちらを覗き込む人をはっきりと捉えた。

 

「……蔦子姉さん?」

「お昼寝にしてはぐっすりだったわね。これ以上寝ていると、夜眠れなくなってしまうから起こしたのよ」

 

 穏やかに話す姉の姿に、身体を起こした少年──冨岡義勇は目を見開く。

 手が勝手に姉の顔へと伸びた。蔦子は弟のその挙動を不思議そうに眺めていたが、義勇の指が頰に触れるとくすぐったそうに微笑む。

 

「どうしたの、義勇? 怖い夢でも見たの?」

 

 義勇の手を取り蔦子は両の手で優しく握る。

 暖かい。生きている人の温もりだ。

 義勇はその温度を手放さないように、ぎゅっと握り返す。

 

「ふふっ、義勇はこんなに甘えん坊だったかしらね」

 

 柔らかに笑う蔦子。そんな彼女を見て、目の前にいる姉が本物なのだと義勇は確信した。

 だが、それはおかしい。ありえない。

 姉は八年以上も前に亡くなっているのだから。

 

(これは、夢……か?)

 

 義勇には記憶があった。

 翌日に祝言を挙げるはずだった姉が鬼に殺されたこと。

 鬼殺隊へ入り、最も位の高い柱へと上り詰めたこと。

 運命の歯車を思わせる少年と、鬼と化しながら理性を保つ少女のこと。

 

 義勇にとって悲しいことに、蔦子は過去の存在なのだ。

 だからこそこの状況を夢かと認識した義勇だったが、こうまではっきりと意識を持った夢を見るのは初めてだった。これが俗に言う明晰夢というものだろうか。

 

 現状から判断してそうなのだろうと義勇は仮定する。

 これはひと時の幸せな夢だ。

 ならば義勇は弟として姉に接するべきだろう。

 

「……少しぼーっとしていた」

「起きたばかりだものね。顔を洗ってくるといいわ」

 

 言われた通り、義勇は台所へと向かい顔を水で濡らして眠気を吹き飛ばす。

 顔を拭いて元の場所へと戻ると蔦子が布団を片付けていた。

 

「自分でやる」

「そう? じゃあお願いね。私は夕ご飯の支度をするから」

「何か手伝えるだろうか?」

「なら洗濯物を取り込んでもらえるかしら。それにしても義勇、あなたいつからそんな喋り方になったの? 少し無愛想で私驚いたわ」

「…………」

 

 思わず黙り込む。以前の自分、蔦子がいた頃の自分はもっと快活な少年だったのだから、蔦子が驚くのも無理はないだろう。

 蔦子と錆兎の死を経てすっかりと変わってしまったとこんな時になって思うも、義勇はもう昔の自分に戻れる気がしない。表情筋も舌も上手く機能しなくなって久しいので、いきなり直せと言われてもまず不可能だった。

 

「……ごめん」

「謝る必要はないのだけれど……とりあえず洗濯物をお願いね」

 

 いつもなら無言でやり過ごしていたところを義勇なりに頑張ってこれである。悲惨と言う他ない。

 能面のまま内心凹み、布団を片付けた後に黙々と洗濯物を取り込む。

 今更になって気付いたが、身体もそれ相応の年頃の体格へと縮まっていた。本当によく出来た夢だと義勇は感心する。

 

 そしてふと思い出した。

 

(そう思えば、血鬼術で夢を操る鬼がいたと炭治郎が言っていたな……)

 

 柱稽古を行っていた時分、ひたすら義勇に話し掛けてきた少年の話の中に、確かそんな鬼がいた。

 十二鬼月が一体、下弦の壱。炭治郎や炎柱──煉獄杏寿郎の活躍により討伐された鬼だと義勇は聞いたが、この状況と何か関係があるかを思考する。

 

(最初は夢だと認識していなかったらしく、また認識後は元の姿で夢の中を彷徨ったと炭治郎は言っていたな……)

 

 強く想像すればよいのだろうと早速試してみるが、元の姿には戻らず、日輪刀すらも現れない。これでは解除条件は試せないし、そもそも血鬼術なのかも判断できない。

 

(可能性としてはあり得る。この夢を見る前は何をしていたか……)

 

 最後の記憶を辿ろうと、手をせっせと動かしながら黙考する。

 

(炭治郎と共に上弦の参を斃した。そこまでは覚えている。だがそれ以降が朧げだ)

 

 あの上下左右が滅茶苦茶となった空間には鬼が多数いたと思われる為、敵の術中に嵌っている可能性は大いにあった。自分たちは疲弊していたのもあって、血鬼術に掛かったことを否定するのも難しい。

 だが秩序も何もない乱戦状態のあの状況ならば、こんな回りくどい事をせず速やかに始末してしまえばいいのではと義勇は思う為、一概に断定も出来なかった。

 

「義勇、御飯が出来たわ。一緒に食べましょう」

「分かった、今行く」

 

 考え事を切り上げ、義勇は最後の洗濯物を手に居間へと向かう。

 食卓の上に乗っている夕飯を見て、義勇は何故だか泣きそうになった。

 

「今日は義勇の好きな鮭大根よ。おかわりもあるから一杯食べてね」

 

 姉が作った鮭大根が義勇一番の好物だ。

 もう二度と食べられないと思っていたものを前に暫し固まってしまう義勇だったが、これ以上蔦子に不審がられる訳にもいかない。義勇は座布団に座り、箸を手に持つ。

 

「頂きます」

「はい、召し上がれ」

 

 迷い無く義勇は鮭大根に箸を付ける。鮭をほぐし、大根を切り、一口で食べられる大きさにして摘む。

 様々な感情が去来し、身構える必要もないのに身を強張らせ、一つ息を吐いて口に運んだ。

 口の中に広がるただ一つの懐かしい味。

 

「……美味しい」

 

 自然とその言葉が溢れ出た。どんな高級料理を食べても、こんなに美味しいとは思えない。

 美味しい、美味しい、美味しい。

 気付けば義勇はずっとそう言いながら、一心不乱に姉が作ってくれた料理を頬張っていた。

 

「義勇……」

 

 しばらくして、呆気にとられたような蔦子の声を耳にして義勇は顔を上げる。

 蔦子は目を見開いて義勇を見ていた。どうしたのだろうかと義勇は首を傾げる中、蔦子は心配そうに表情を険しくさせて義勇へ近付く。

 

「義勇、どうして泣いているの?」

「え……?」

 

 手拭いで頰を拭われる。それでも絶え間無く流れ落ちる雫が頰を伝う。義勇は蔦子に指摘されて初めて自分が涙を流している事を認識した。

 義勇は顔をくしゃくしゃにさせながら目を乱暴に擦るが、どうしても涙は止まらない。泣くのなんていつ以来かもう思い出せないからか、止め方を忘れてしまったように瞳から雫が溢れ出続けた。

 

 ぎゅっと、義勇は抱き締められた。

 蔦子は愛おしそうに義勇の頭を撫でて、背中を摩る。幼子をあやすようによしよしと声を掛ける。

 それで何かが決壊したのだろう。

 

「ゔっ、うううぅぅぅッ⁉︎」

 

 堪えるように義勇は声を上げて泣いた。蔦子の着物が歪むくらいに思い切り握り締めて、ごめん、守れなくてごめん、未熟でごめんと義勇は壊れたように叫び続けた。

 蔦子には義勇が何を謝っているのか分からなかった。それでも弟がとても苦しんでとても悔やんでいることだけは理解できた。だから蔦子は何も言わず、ただ義勇を抱き締め背中を摩っていた。

 

 一分はそうしていただろうか。

 平静を取り戻した義勇は身をよじるが、蔦子は断固として離そうとしない。

 

「蔦子姉さん、ごめん、心配をかけた。もう大丈夫だ」

「急に泣き出したのにそんなすぐに安心できません。私がもう少しこうしていたいの、駄目?」

「……いや、駄目ではない」

 

 そう言われては強く出れないと分かっていたのだろう。義勇は抵抗をやめて、成すがままの様子の弟の大きな背中を肩越しに見下ろして蔦子は微笑む。

 

「義勇もこんなに大きくなったのね。もうすぐ私よりも背が高くなるのかしら」

「……男だからな、蔦子姉さんより低かったら凹む」

「そうね、義勇は男の子だもんね」

 

(……温かい)

 

 他人とここまで触れ合った記憶は姉以外だと絶無だった義勇は、人の温もりとはこんなにも暖かいものだったのかと驚く。身も心も安らぐような安堵感が心地良かった。

 

「でも、心配だわ。身体が大きくなっても、義勇はまだ十二歳だもの」

 

 そうか、今の自分は十二歳なのかと、義勇は呆然と思う。本当によく出来た夢だ。

 

「明日は私の祝言なのよ。もう姉離れしないといけないって、義勇も分かってると思うけど……」

 

 

 

 ──義勇は、その言葉に凍り付いた。

 

 

 

 一瞬で心の臓から冷え切った。義勇は思わず蔦子の肩を掴んで引き離し、姉と真正面から向き合う。

 

「蔦子姉さん、今、なんて……」

「そんなに驚かなくても……だから、義勇もいつかは姉離れしなきゃって」

「そうじゃない! 明日、なんて……」

「……酷いわ、義勇。忘れてしまったの?」

 

 本当に傷付いたと蔦子は表情で訴えてから、聞き分けのない子どもを諭すように柔らかに告げる。

 

「明日私は祝言を挙げるのよ?」

 

 義勇は静かに瞳を見開く。

 聞き間違いでは無かったのだ。明日、姉が祝言を挙げる。

 

 つまり今日が、蔦子の命日なのだ。

 

 義勇の身体が細かに震え始め、瞠目したまま顔を険しく歪める。

 弟の尋常ではない様子に蔦子は何を勘違いしたのか、言葉を費やして優しく義勇を説得しようとする。

 

「大丈夫よ、義勇。祝言を挙げると言っても、すぐ別々に暮らすわけではないわ。言ったでしょ、義勇が成人に、十五歳になるまでは一緒に暮らすって。あの人もそれでいいって言ってくれたわ」

 

 目の前で蔦子が何かを言っているが、言葉の内容が義勇の頭には入ってこない。義勇の頭の中ではこの後訪れる悲劇にどう対処するか、それだけしか占めていなかった

 

(どうする、どうする、どうする⁉︎ 今すぐここから逃げるか? 何処に? もう夜だ、近くに鬼がいるなら動くも動かないも危険に過ぎる。なら立ち向かうか? 日輪刀もないのにか?)

 

 時間がない、手段がない。日も沈んだ今ではもう、打てる手が皆無に等しかった。

 それでも諦めることなんて出来ない。例えこの場が夢だとしても、また目の前で最愛の家族を喪うなど義勇には耐えられない。

 

「姉さん! 聞いてくれ! 今から此処に──」

 

 形振り構っている余裕が無くなった義勇は蔦子の肩を強く握り、必死に言葉を募ろうとした──まさにその時だった。

 

 

 

『きゃああああああああああっ⁉︎』

 

 

 

「「っ⁉︎」」

 

 外から悲鳴が響き渡る。切羽詰まったその絶叫は耳にするだけで身が震えるような恐怖を秘めており、何か異常事態が発生したことは想像に難く無かった。

 

(遅かった……⁉︎)

 

 鬼が現れた。義勇は疑い無くそう思い当たった。

 

「……何かしら……」

 

 常軌を逸した叫び声に蔦子は不安に怯えながらも立ち上がろうとする。

 義勇はそれを無理やり押さえつけた。

 

「義勇?」

「姉さん、ここから動かないでくれ。俺が様子を見てくるから」

「駄目よ、義勇。私が行くわ。だから義勇が」

「姉さん‼︎」

 

 蔦子はびくりと震える。これまでずっと一緒にいて、義勇がこれ程感情を荒げて大声を出したことが無かったからだ。

 姉の動きが止まったのを確認して、義勇は素早く玄関へと向かう。立て掛けてあった薪割り用の斧を手に、急いで外へと飛び出し悲鳴の元へと駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 くちゃくちゃと耳障りな音が響く。

 血赤に染め上げられた室内には、三つつの人影があった。

 二人はもう既に息絶えているのだろう。血だらけの男女は微動だにすることなく、床に転がっている。

 

 そしてもう一人、それは何かを貪っていた。

 それは人の肉だった。口元に血を滴らせながら、引き千切った眼下の女性の腕を喰らっていた。

 人肉を喰らう異形、人は彼らを鬼と呼ぶ。千年もの長い間人間を喰らい続け、人類から平和な夜を奪った罪深い存在。

 

「……あぁ?」

 

 外に人間の気配を感じ、鬼は首を上げる。のそのそと立ち、その足で縁側からその家の庭へと出た。

 そこに居たのは一人の少年だった。背格好から成人すらしていないだろう。手に持つ斧が不釣り合いな容貌をしており、そんな見るからに弱者の存在に鬼はせせら嗤った。

 

「なんだガキか。獲物が向こうからやって来るなんてな」

 

 嘲笑を隠しもしない鬼に対し、その少年は奇妙な程に冷静だった。

 瞳は凪のように静謐を保っており、目の前に血で全身を染めた者がいるにも関わらず表情には一欠片の恐怖もない。

 冷徹を宿した眼差しは真っ直ぐに鬼を射抜き、少年は口を開いた。

 

「お前は、鬼か?」

「ほぉ、ガキのくせに鬼を知ってるのか。ならお前がこの後どうなるかも分かるだろう?」

「……聞きたい事がある」

 

 鬼の脅し文句に動揺一つ見せない。少年のその様に鬼は不快そうに眦を吊り上げるが、行動に移るのは少年の方が早かった。

 

「お前、この辺りで何人喰った?」

「……そうだなぁ、もう十人は喰ったなぁ。なんだ、知り合いが死んだかァ? ならそれは俺が喰ってやったさ。此処を縄張りにしてるのは俺だけだからなァ!」

 

 聞いてもいないことを鬼は得意げに話し始めた。見当はずれとは言い難いが、不躾な勘繰りから少年の感情を逆撫でしようとしたのだろう。

 反吐が出る屑だ。だが馬鹿で助かった。聞きたいことを全て暴露してくれたからだ。

 

 方針は決まった。希望も見えた。

 

 斧を柔らかく、されどしっかりと握り締めた少年──冨岡義勇は、決死の覚悟を決めた。

 

「ずっと、思っていた」

「あァ?」

 

 沸々と赫怒に煮え滾る心。しかしそれに支配される愚挙は犯さず、ただ静かに闘志へと変えていく。

 師の教えを義勇は覚えている。水面だ。心に水面を思い浮かべる。心は常に保つもの、水鏡のように静かに、穏やかに。

 

「姉を殺したお前を、この手で滅殺したいと」

 

 恐らくその願いはこの場でも叶えられないだろう。経験も度胸もあれど、今この手には鬼を討つための唯一無二の武器がないから。

 だがもう一つの願い、姉を守り抜くという最上の望みは叶えられるかもしれない。

 

 この状況が夢か血鬼術かなど最早どうでもいい。

 

 理由など知った事ではない。

 やり直せる機会を得たのだ。姉が生きているのだ。自由に動けるのだ。

 

 目の前で悪鬼が嗤っているのだ。

 

 それを殺してこそ鬼殺隊。

 義勇は己の使命を果たすのみだ。

 

「お前は此処で、始末する!」

「何をゴチャゴチャ言ってやがるッ‼︎」

 

 地面がひび割れる程の踏み込みで鬼が飛ぶ。彼我の距離を一歩で零にする人知を超えた挙動だ。人間が鬼に蹂躙される一番の理由が、この身体能力の差異にある。

 普通の人間なら出会った時点で死と直結していると言っても過言では無い。現にその被害は途方も無く、残酷な運命に弄ばれた人は数知れない。

 そんな鬼にも対抗する術が一つだけある。

 

 全集中の呼吸。

 

 体中の血の巡りと心臓の鼓動を早くすることで体温を上げ、身体機能を向上させる技能。これを用いることにより、人のまま鬼のように強くなれるのだ。

 呼吸にはいくつかの流派が存在し、代表的なものでは炎、雷、岩、風──そして、水。

 

 埒外の速さで肉薄する鬼を前に、義勇は静かに深く息を吸う。シィィィイッ、という呼吸音を鳴らし、全身に隈なく血を行き渡らせ、腕を交差させるように斧を構える。

 

 ──全集中・水の呼吸

 

【壱ノ型・水面斬り】

 

 流れる水の如き流麗さで放たれた一閃。

 義勇の一撃は寸分違わず鬼の頸を捉え刎ね飛ばした。

 

「がはっ⁉︎」

 

 義勇の背後で鬼が倒れこむ。地面を血で汚し、動きが止まった。

 それを確かめることも出来ず、義勇は膝から崩れ落ちて両手をついた。

 

「ゲホッ⁉︎ ごほっ、ごほっ! ヒューッ、ヒューッ……はぁーっ、はぁーッ……‼︎」

 

(息が……ッ⁉︎ やはりこの身体では……全集中の呼吸は諸刃の剣か!)

 

 荒れ狂う呼吸は苦しいなんてものではない。全身が悲鳴を上げて、肺が破裂するのでは無いかと錯覚するほどに胸が圧迫されている。

 否、これは比喩では無い。とある日の柱たちによる柱合(ちゅうごう)会議にて、蟲柱である胡蝶しのぶはこう言っていた。肺を圧迫されている状態で呼吸を使うと血管が破裂すると。

 ろくに鍛錬を積んでいない今の義勇の身体では呼吸に耐えられないのだ。こんなところまで現実に即さないくてもいいだろうと愚痴を垂れたいが、使い続ければ確実に内側から壊れるの自明の理。

 

 だが、そんな事情を鬼が知る訳がない。

 

「てめぇえ! よくもやってくれたな!」

 

 義勇は首だけを振り向けて背後を確認する。少し離れた場所で、頸を斬った筈の鬼が頭だけの状態で怒声を荒げていた。

 

「ただの斧で俺を殺せると思うなよ!」

 

 怒鳴り声を撒き散らしながら、鬼の頭からギチギチと不愉快な音が鳴り響く。数秒もしない内に鬼の形態が変化し、首元から腕を二本生やすという異形に相応しい形へと成り果てた。

 鬼は通常の刃物で頸を斬っても殺せない。太陽の恩恵を授かった日輪刀でなければ、鬼は殺せない。

 

 そんなことは分かっている。

 それでも義勇は、手持ちの武器で戦うしか選択肢が無いのだ。

 

 義勇は静かに立ち上がり、必死に息を整えながら鬼に正対する。

 

「どうやら、ヒューッ、俺は……運が、良かった、ようだな」

「……なんだと?」

 

 義勇のその生意気な態度に鬼にこめかみに青筋が浮かび上がる。

 眉間に皺を寄せ険しさを隠す余裕も無い義勇だが、少しでも時間を稼ぐ為に言葉を使う。

 

「お前は、はぁー……っ、血鬼術も使えない、ヒューーッ、……雑魚鬼のようだからな」

「──殺すッ‼︎」

 

 首無しの身体が跳躍。腕を生やした頭も器用に腕を動かして義勇へと迫った。

 敵を増やしたような状況だが、部位が断絶された鬼の戦闘能力は低下するのを義勇は経験上知っている。それが頭ともなれば、身体の動きは只の人間のそれとはやはり比べ物にもならないが、目で追える程度にはぎこちなくなるだろうと見込んでいた。

 基本的には頸を斬って終わりの為、実際にどうなるかはぶっつけ本番の賭けであったが、どうやら女神は義勇に微笑んでくれたようだ。

 

(この程度なら、呼吸を乱発せずとも戦える!)

 

 二対一の戦闘なんて腐るほど経験した。時にはそれ以上を同時に相手取ったことも少なく無い。

 義勇は全神経を集中させて決戦へと臨む。

 

 その瞳には、捨て身の覚悟が宿っていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれほどの時間が経っただろうか。

 十分だろうか、一時間だろうか。時間感覚が狂った義勇にはもはや分からない。

 分かっていることは、限界は刻一刻と迫っているということだけだった。

 

「ハァーーッ、ハァーーッ、……ヒューーッ、ヒューーッ‼︎」

 

 壊れたように息をする。滝のように流れる汗。感覚を失い始めた斧を握る両手。痙攣したように震える身体。もはや立っていることが不思議なくらいに義勇は疲弊していた。

 義勇は冷静に、慎重に、時に大胆に戦闘を運んでいた。基本的には呼吸を使わず、体捌きと培った剣術を斧で実践して鬼の攻撃をやり過ごし、どうしても追い詰められた時にだけ全集中の呼吸を繰り出していた。

 義勇に出来ることは時間稼ぎしかないのだ。日輪刀が無い今、鬼を殺せないから。

 

「ハァーーッ、ハァーーッ……‼︎」

「随分と息が上がっているな。やはり人間は不便だな。この程度でそれ程疲弊するんだからなァ」

 

 頸が元に戻った鬼が義勇を嘲笑う。一時は怒り狂っていた鬼だったが、義勇の息が切れていくに連れて余裕を取り戻したように振る舞いだした。

 義勇の戦い方が露骨なこともあって、既に目的が時間稼ぎだと勘付いているだろうに、鬼はそれに付き合うかのような態度だ。

 事実余裕なのだろう。鬼は体力が尽きる事もなければ、傷も忽ち回復する。例えば四肢を斬り飛ばしても、眼を串刺しにしても、時間があれば再生してしまう。義勇は何度と無く鬼の身体を斬ったが、鬼は今はもう五体満足の状態だった。

 

「お前の狙いは分かるぞ、夜明けを待っているんだろう? だが残念だったな、夜明けまではまだ数時間はある。ここまで良く頑張ったが、もう死ね」

 

 鬼の姿が搔き消える。霞む視界ではその速さについていけず、義勇はこの戦闘で初めて鬼を見失った。

 

(しまっ……ッ⁉︎)

 

 失態を嘆く(いとま)もない。

 咄嗟に、義勇は直感で斧を横に振り抜いた。

 

「ぐっ⁉︎」

 

 斬撃を打つけて運良く直撃は防いだものの、衝撃を殺し切れず義勇は地面と平行に吹き飛ばされる。土埃をあげながら転がり続け、義勇は倒れ伏した。

 起き上がろうと力を入れるも、脚が、手が、まるで重りを幾つもぶら下げたかのように重く動かない。

 義勇の身体はもう限界だったのだ。

 

「義勇!」

「なっ⁉︎ げほっ、ごほっ……姉、さん⁉︎」

 

 悪い事は重なる。家で待機するよう言っていた蔦子がそこにいたのだ。

 無理もない。様子を見に行くと言ったきり弟が帰って来ないのだ。外へと追い掛けて探しに行くのは容易に想像できる事だった。

 

「あァ? なんだお前はァ、こいつの姉かァ? クハハ! いいところに来たなァ〜」

 

 二人の関係性を知った鬼が愉悦に浸った嗤い声を上げる。残虐な性質を持つ鬼のことだ、何を思っているかなど考えるまでもない。

 状況は最悪だ。こうならないように義勇は足掻いていたというのに。

 

「義勇! 義勇っ‼︎」

「ハァーーッ、ハァーーッ! 姉、……さん。ヒューーッ、ヒューーッ……逃げ、ろ! ……逃げて、くれ……ッ!」

 

 此方に駆け寄ろうとする蔦子に義勇は懇願するように逃亡を促すが、全身傷だらけで今にも死にそうな弟を放っておける訳がない。

 義勇が姉を命懸けで護ろうとしたように、蔦子が弟を命懸けで護ろうとするのは当然のことだった。

 

「丁度どう甚振ろうか考えてたところだ。目の前で家族を殺された時、お前はどんな風に泣くのか楽しみだなァ!」

 

 走りだしたのは二人同時だった。義勇へ一直線に向かう蔦子に鬼の魔の手が迫る。

 その光景を前に、義勇の全身は沸騰したように熱くなった。

 

(動け‼︎ 動け動け動け! また殺される! 目の前で人が、姉が殺されるのを黙って見ているつもりか‼︎)

 

 誓った筈だ。もう二度と目の前で家族や仲間を死なせないと。絶対に──何があろうとも!

 震える身体を叱咤して義勇は立ち上がる。壊れてもいい。死んでも構わない。一度は助けられなかった姉を救えるのなら、この身を差し出すのに厭うことなど何もない。

 蚯蚓腫れのような熱が頰を焼き付けるのを感じながら、義勇は片脚だけの踏み込みで鬼との距離を零にした。

 

 ──全集中・水の呼吸

 

【肆ノ型・打ち潮】

 

 淀み無く流れる斬撃が鬼の全身を斬り刻む。その流麗さは蔦子が思わず見惚れるものであった。

 

「ギャアアァァァアアアアッ⁉︎」

 

 頸と手脚を一本ずつ斬り飛ばされ、肩から脇腹まで走る裂傷の痛みに流石の鬼も絶叫する。これ程の重傷なら再生するのに幾分の時間が掛かるだろう。

 頭だけの状態で叫び苦しんでいる鬼に蔦子は驚愕し、それどころではないと急いで義勇に駆け寄る。

 

「義勇! 義勇‼︎」

 

 前のめりに倒れる義勇を蔦子は思い切り抱き締めて声を掛け続ける。もはや焦点すら合っていないのか、ただ眼を開けているだけの状態の義勇に蔦子は身が凍るような寒気を覚えた。

 

「義勇、義勇! お願い、義勇! 返事をして‼︎」

「……………………姉……さん?」

「あぁ! 義勇、良かった……良かった!」

 

 死んでいない。死にそうな顔をしているけれど死んでいない。弟は生きており、触れ合う身体からは確かな鼓動を感じた。

 蔦子には何が起きているのかすら分からない。義勇が斬った相手も、それでも生きているその異常も、現状が危機的状況にあるということも、何一つ分かっていない。

 

「姉……さん、……怪我、は……」

「大丈夫よ! 私は無事よ! 義勇がずっと護ってくれたのね、もう……一人で無茶して……!」

 

 涙を零して蔦子は義勇を抱き締める。本当は無茶したことを叱ってやりたい気持ちもあった。だけど、弟の頑張りを褒めてあげないでどうするというのか。

 義勇はもう指一つ動かせないのだろう。それでも伝えたいことがあってか、辿々しく声を発する。

 

「姉、さん……頼みが……ある」

「何、何でも言って」

「……今すぐに、ここから……逃げて……くれ」

「ごめんなさい、義勇。その頼みは聞けないわ」

 

 泣き笑いのまま断言される。蔦子はいざという時に肝の据わった人だった。恐らく梃子でも動かないだろう。

 しかしそれで困るのは義勇だ。こんな時になって口下手な自分に殺意を覚える。何とか姉を説得しなければ。

 

「……じゃあ、助けを……呼んで、くれ……」

「周りの人達はもう何処かに行ってしまったわ。義勇が何と言おうと、私は義勇と一緒じゃなきゃ何処にも行かないからね」

 

 もうだめだ、打つ手がない。義勇は素直にそう思った。

 

 ここまで来たら、後はもう天命を待つだけか──

 

「……クソがァ、よくも俺をここまで虚仮にしてくれたなァ」

 

 鬼が立ち上がるのが見える。

 蔦子はギュッと義勇を抱きかかえ、恐怖に震えながらも気丈に振る舞った。

 

「あなた、何ですか?」

「あァ? 弟は知ってるのに、姉は知らないのか? 俺は鬼だ、聞いたことぐらいあるだろう?」

「鬼……」

 

 人喰い鬼の噂を思い出す。子どもを躾ける為の作り話かと思っていたが、実際に目の当たりにして蔦子はここ最近の殺人および神隠しと現状を理解する。

 蔦子の判断は早かった。

 

 ──せめて、弟だけは。

 

 蔦子は義勇から手を離して立ち上がろうとした。自分が犠牲になっているうちに、もしかしたら奇跡が起きて救助が来るかもしれない。ならば一分一秒でも時間を稼いでみせる。その心算だった。

 

 だが、蔦子は立ち上がれなかった。

 

 義勇が着物を握り締めていたからだ。

 もう意識すら朦朧としているだろうに、それでも絶対に離さないというように義勇が力強く握り締めていたから。

 

(……義勇)

 

 蔦子は義勇の顔を見詰める。その時になって、義勇が何が呟いていることに気付いた。

 耳を寄せて言葉を聞く。それは義勇の最後の頼み。この場を離れるお願いではなく、蔦子にはよく分からない単語も混じっていたが、その内容をしっかりと聞き届けた。

 

「そのガキもやっとくたばったな。愉しみは減ったが、仕方ねェ。まァ、安心しな。姉弟仲良く喰ってやるよ」

 

 下卑た笑みを浮かべて鬼はゆっくり近付いてくる。

 死が目の前に迫ってくる光景とはこういうのを言うのだろうか。突然過ぎて酷く現実味がないが、実はありふれているのかもしれないと思って蔦子は一瞬だけ笑う。

 

「最後に一つ、いいでしょうか?」

「……いいぜ、人間の最期の言葉を聞くのは好きだからな」

 

 とことん下衆な性格をしている。都合が良いため口には出さないが、蔦子は理不尽な現実に対する怒りで一杯だった。

 こんな奴に自分と弟が殺されるなんて。せめて一矢報いてやりたいが、蔦子にはそんな力は無い。

 

 それでも残された希望はあった。

 弟の言葉が確かな情報を含んでいるのならば。

 

 蔦子は大きく息を吸い、腹に力を込める。眦を決して、気合いを入れる。

 そして、今までの人生で一度も出したことの無い大声で吠えた。

 

 

 

「──助けて下さい、鬼殺の剣士様ぁああっ‼︎」

 

 

 

 

 

 

 

 ──南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

 応える声があった。それもすぐ近くから。

 特徴的なその言葉を耳にして義勇は微笑み、義勇の意識は安心して微睡みに溶けていく。

 

 その刹那、棘だらけの鉄球が鬼を叩き潰すのを確かに見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 真っ白の空間の先に、人が二人立っている。

 烏の濡れ羽色をした黒髪を三つ編みでまとめた優しい面立ちの女性と、右頬から口に大きな傷跡を持つ(しし)色の髪の少年。

 

 二人はこちらに一度だけ振り向き笑顔を浮かべて、光の向こうへと歩き去っていく。

 

 ──待って、待ってくれ!

 

 大きな声を出して駆け出すが、距離は縮まるどころかどんどん広がっていく。

 やっと会えたのに、また会えたのに。もう置いて行かないでくれ。今度こそ、一緒に。

 

 ふと、手を掴まれた。

 

 温かなその温もりに、何故か覚えがあった。

 誰だろうか。そう思い振り向いた。

 

 相手を見て、物凄く驚いた。きっと瞳を見開いていただろう。

 

 そこには、今さっき光の先ヘと歩いて行ったはずの女性がいたから。

 こちらの驚き具合が面白かったのだろうか。万感の思いを秘めた眼をして彼女は柔らかく微笑んだ。

 

 ──ありがとう、義勇。

 

 その言葉を最後に、世界の全てが白く染め上げられていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 ゆっくりと意識が浮上していく。

 ぼやけた視界の中に映るのは、夢の続きではなく、見慣れた白い天井だった。

 

(此処は……蝶屋敷か?)

 

 うっすらと瞼が開いていき、義勇は二度三度と瞬きを繰り返す。

 しばらくそうしていた義勇だったが、ゆっくりと手を付きベッドから身を起こす。

 未だ覚醒しきっていない頭で周囲を見渡すと、窓から差し込む陽光が眩しい。

 どうやら昼時のようだ。

 

(……懐かしい夢だった)

 

 最近までは思い出そうともせずにいた遠い記憶。姉を喪った悲しみに囚われて、何も出来なくなってしまうから。

 

(蔦子姉さん……)

 

 あれは夢だったが、義勇は全霊を賭して戦い、その結果蔦子を死なせず済んだ。最後まで見届けたわけでは無いが、鬼が知人の武器によって叩き潰れるのだけは見届けられた。きっと姉は無事だっただろう。

 

 義勇の目論見は夜明けを待つ事ではなかった。最初から鬼殺隊員が駆け付けて来るのを期待していたのだ。

 あの鬼は戦う前に言っていた。もうこの辺りで十人は喰ったと、縄張りにしているのは自分だけだと。

 それだけの被害が出ていればまず間違いなく鬼殺隊の情報網に引っかかる。単独犯というのも義勇を安心させた要素の一つだった。あの鬼さえ足止め出来れば、他に被害が出ないと分かったから。

 姉が犠牲になった時も、義勇が助かったのは鬼殺隊員が来たからに他ならない。だから義勇は鬼とそれらを狩る存在を知り、育手の元に足を運んだのだ。

 最初から他力本願だったのは情けないが、目的を達成できたことは嬉しい。寝起きが悪い義勇にしては、いつに無いくらいに機嫌がよかった。

 

 気持ちの良い夢を見たと義勇は自然と微笑み、その時になってふと思う。

 

 どうして自分は蝶屋敷で寝ているのだろうか。

 

 寝る前に何をしていたかは、夢の出来事の印象が強過ぎて全く覚えていない。最後の記憶は炭治郎と共に上弦の参を斃したこと。ならば今はあの決戦の後の筈。

 

(戦いはどうなった? 何故俺はこんなところで寝ている。炭治郎は? 鬼舞辻は? みんなはどうなった?)

 

 立ち上がろうとするも身体に力が入らない。思えば身を起こすのも億劫だったと今更な感想を覚えるが、丁度視線の先にあった姿見を見て、義勇は時が止まったかのように静止した。

 

「小さい……なんで?」

 

 素の呟きを漏らした後、廊下から足音が聞こえて視線をずらす。

 

 そして再度静止した。

 

「えっ……?」

 

 開いた扉の先、そこには夢にまで見た女性が、喪ったはずの家族が、姉である蔦子がいたのだ。

 

「蔦子、姉さん?」

「義勇!」

 

 起きている義勇を見て、蔦子は手に持ったお盆を放り投げて義勇に抱き着いた。常にお淑やかであった姉からは考えられない行動に義勇は目を丸くして、感じる温もりが本物だということに頭は混乱の極みに達した。

 

「良かった、良かった……無事で良かった! 一ヶ月も目が覚めないから、このまま……死んじゃうんじゃないかって……!」

 

 感極まって号泣する蔦子。

 理解の外側にある出来事に何が現実なのか分からなくなった義勇だったが、無意識のうちに姉の背中へと手を伸ばしその背を優しく摩っていた。

 

 現状把握はとりあえず後だ。今はまず、姉を宥めることから始めよう。

 

 

 

「あれから大変だったのよ」

 

 落ち着きを取り戻した蔦子はベッドの側の椅子に腰掛け、状況を説明してくれた。

 まず前提として、今はあの夢だと思っていた日の続きらしい。勿論蔦子はこんなこと言っていないが、義勇の理解としてはこう仮定するのが正しかった。

 鬼に襲われ、あわや殺されるといったあの時、本当のギリギリで鬼殺隊員が到着したのだ。獲物から分かっていたが、駆け付けたのは岩柱──この時はまだ岩柱ではないそうだったが──の悲鳴嶼(ひめじま)行冥(ぎょうめい)で、彼のおかげで九死に一生を得たのだという。

 その後瀕死の義勇の治療という名目でこの鬼殺隊専用の治療屋敷(蝶屋敷ではなかった。この時胡蝶姉妹はまだ鬼殺隊員でないのだから当然だった)に運ばれ、義勇はそこで一ヶ月もの間眠り続けていたらしい。蔦子は血縁者ということで、看病のために特別に滞在が許されたのだとか。

 

 病人食を食べながら話を聞いていた義勇は、無視できない事実に思い当たって口を開く。

 

「蔦子姉さん、祝言はどうなった?」

「馬鹿ね、あなたが倒れているのにそんなの挙げられるわけがないでしょう。延期にしてもらっているわ」

 

 それはなんというか、素直に喜べない報告ではあったが、姉の晴れ舞台を見逃さずにすんだ事実には安堵してしまった。

 

「じゃあすぐに挙げよう。俺はもう大丈夫だ」

「馬鹿言わないの。しばらくは絶対安静に決まっているでしょう? 義勇が完治するまでは、待ってもらえるようお願いしました!」

 

 ぷんすかという擬音が鳴りそうな態度で蔦子は少しだけ声を荒げた。生前すら殆ど覚えがないが、義勇は今姉がそれなりに怒っていることを悟って黙り込む。

 二度も馬鹿と言われたと内心凹みまくっていた義勇だったが、新たに現れた第三者の気配を察知して顔を扉へと向ける。

 

「失礼する。少年が目を覚ましたとお聞きした」

「あぁ、悲鳴嶼様! わざわざ足運んで頂けるなんて、ありがとうございます!」

 

 蔦子は立ち上がり、入室してきた青年──悲鳴嶼行冥へ頭を下げる。義勇は姉と鬼殺隊最強が立ち並ぶその光景を見て、「なんか凄い」という阿保みたいな感想を抱いて呆然としていた。

 行冥は蔦子に丁寧に対応し、義勇へと顔を向ける。

 

「初めまして、私は鬼殺隊の悲鳴嶼行冥という」

「……冨岡義勇です」

 

 この頃から南無阿弥陀仏の着物で数珠をじゃりじゃりさせているんだなと義勇はさっきから幼稚な感想しか出てこないのだが、命の恩人である行冥にそんな態度を取っていては姉に叱られる。

 義勇は痛む身体をおしてベッドの上で脚を折り畳み、手をついて頭を下げた。

 

「悲鳴嶼様。この度は、姉を救って頂き、ありがとうございます……本当に、本当にありがとうございます!」

「私からも再度御礼を述べさせてください。悲鳴嶼様。弟を救って頂き、本当にありがとうございます!」

 

 心から謝意だった。これほど嬉しいことはなかった。だからこそこんな素直に礼を言えた。前回は、そんな余裕は無かったのだ。

 盲目の行冥には見えていないが、頭を下げる姉弟を前に口元を緩めた。

 

「その気持ちを確かに受け取った。私こそ嬉しく思う。君たちが無事で、本当に良かった」

 

 その後、しばらく世間話に花を咲かせた。行冥とはあまり絡んだ覚えの無かった義勇だが──むしろ柱で親しくしていた者など強いて言って蟲柱の胡蝶しのぶしかいなかった──話してみると意外と接しやすかった。

 ただ、行冥の目的は談笑することではないというのは分かっていた。

 義勇と蔦子が落ち着いた頃合いを見計らって、行冥はこう切り出した。

 

「少年。君は、鬼殺隊に入る気はないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼の襲撃から三ヶ月経った。

 そして先日、蔦子の祝言が挙げられた。

 見ることの叶わなかった姉の白無垢姿を見て、義勇は泣いてしまった。

 

 思い出とは言うには直近だが、義勇は姉の晴れ姿を思い出して微笑む。

 

「ふぅ……」

 

 姉夫婦と暮らす家の縁側で、義勇はどさりと寝転がる。燦々と煌めく太陽に目を細めながら、これからの予定を考える。

 

 まともに意識があった二ヶ月で、義勇は確信したことがある。それは、この世界は今の義勇の現実なのだということだ。

 夢や血鬼術ではないと決定付けた理由は、二ヶ月寝起きを繰り返しても一向に変わらない日々もあったし、何よりの不可思議は義勇が知らないことがあり過ぎたからだ。

 蔦子の旦那の細かな好みだったり、行冥が鬼殺隊員となった過去であったり、義勇はそれらを知らなかった。夢や血鬼術なら本人の頭の中にある情報から現実が構成されるはずだから、知らない情報が立て続けに出てくるわけがない。待てど暮らせど鬼の気配を感じないこともあって、義勇はこれが現実だと断定した。

 

 時を巻いて戻す術はない。

 

 いつか思ったことを真っ向から否定された形だ。どうやらこの世界には、義勇が知らないことなどそれこそ人の数程に沢山あるらしい。

 

 改めて、この後どうするかを考えて──すぐに結論が出た。

 

 姉の晴れ舞台を観れた今、義勇には思い残すなど何もない。一瞬そう思ったが、心残りはまだまだ一杯あった。

 

 最終選別で錆兎が生きていたら。

 目の前で仲間が殺されていなかったら。

 助けられなかった民を救えてたら。

 

 もしを願うたらればは、数えればキリがない。

 全てを救うのは絶対に不可能だろう。だとしても、この身に宿る経験を活かせば、手の届く範囲の人は救えるのではないだろうか。前回は未熟ゆえに取りこぼした人たちを助けられるのではないだろうか。

 

 己の生き様はなんだ? 義勇は自問自答する。

 答えはすぐに出た。

 

 自分は鬼殺隊の冨岡義勇だ。

 

 ならばもう、迷うことなど無い。

 

「義勇ー、お昼が出来たわー」

「分かった」

 

 自分を呼ぶ姉の声に返答して、義勇は立ち上がる。

 自分の道を定めた義勇は、姉の元へ向かう。

 

 真剣な顔をした義勇を見て一瞬キョトンとする蔦子だったが、察したのだろう。

 真面目な話を聞く姿勢となって、義勇に座るように促す。

 義勇も正座して、蔦子と真正面から向き合う。

 

 そして、自分なりの決意を胸に、義勇は重い口を開いた。

 

「蔦子姉さん、相談がある。大事な相談だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




この後はあれですよ。

さびまこと出会ったり、
胡蝶姉妹にツンツンされたり、
ぎゆしのだったり、
ぎゆカナ(エ)だったり、
炭カナだったり、
煉獄の兄貴と絡んだり、

まぁそんな感じですよきっと。

需要があったら書きます(小声)



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第1話 兄弟子・錆兎と姉弟子・真菰



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調整平均評価8.92

…………義勇さんの人気に驚天動地です。
というわけで続きを書いてみました。あとあらすじに義勇さん(羽織無しver)置いておきました。

あの二人の登場です。





 

 

 空気が特別薄い山中の、そこだけ樹々が一本もない空いた空間に、二人の少年が正対していた。

 両者共に真剣を手にし、静謐でいて力強い闘気を纏っている。

 

「二人共、準備はいいかな」

「あぁ」

「問題無い」

 

 少し離れた大岩の上に立つ少女の確認に短く応え、二人は一分の隙無く構えを整える。

 師の教えを忠実に守った自然体でいて柔らかな構えは、見る者が見れば堅牢な砦と錯覚してしまうだろう。あまつさえ、それが成人にも満たない少年が身に付けていると知ればその驚嘆は計り知れない。

 じり、と地面を鳴らす。即座に飛び出せるよう爪先へ力を込める。

 

「いざ、尋常に……」

 

 ゆらりと少女の手が上がり、向かう合う少年二人の緊張感が最高潮に達した。

 

「──始め!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もういーーーかいっ?」

 

 少女の大声が木霊する。

 樹々に反響して山林に響き渡るその声は幼さを残したものであったが、体格からは想像できない肺活量で発せらる大声であった。

 しばらくして、返答が木霊する。どうやらもう少し準備が掛かるらしい。

 

 待ち惚けをくらう少女だったが、その表情は楽しそうだった。これは鍛錬の最中の息抜きの、謂わばお遊び。率先して兄弟子と弟弟子を巻き込んだのが少女で、その我儘に全力で応えてくれるのだ。楽しくないはずがない。

 

「……もういーーかいっ?」

 

 再度問う。今度は時を待たず了承の返事。

 前から木にもたれ掛かるようにしていた姿勢を元に戻し、少女は目の前に広がる広大な遊び場を見回す。辺り一面山林しかない若干の霧が掛かったその場所。

 準備運動として軽く屈伸をして、チリンチリンと鳴る腰に付けた鈴を一瞥した後、少女──真菰(まこも)は溌剌に笑った。

 

「よーいっ、どん!」

 

 ダンッ、と土を蹴る。零から最高速の全力疾走。その速度は常人とは一線を画した人間離れしたもので、真菰が只人ではないことを一目で理解させられる。

 常識外れの速さで山中を駆け回る真菰。彼女は別に闇雲に走り回っているわけではない。くんくんと鼻を鳴らし、人の気配へと向けて一直線に向かっていた。

 突如、足元に縄が見える。認識と同時に真菰は飛び上がる。一切の無駄無く縄を飛び越え足を付くが、それを見越したように大量の石飛礫が左右から真菰に迫った。

 

「あははは!」

 

 真菰はそれを笑いながら躱し続けた。常軌を逸した高速移動だ。五十は下らない石飛礫を被弾無しで潜り抜け、真菰は駆ける。

 と見せ掛けて、片脚の踏ん張りだけで方向転換。いきなり右方向へと舵を切り、疾風のように樹々の間を駆け抜けた。

 

 驚いたのは近くに隠れ潜んでいた少年だ。

 あの罠だけで此方の正確な位置を把握した姉弟子に内心舌を巻き、隠密しながら逃走を開始する。

 しかし分が悪い。鬼役である真菰に姿を見られた瞬間にこの遊びは一時終了で、即座に別の遊びに切り替わるのだ。いくら視界が樹々や霧で効きにくい山中とはいえ、相手の目に映らずに逃げ続けろというのは無理難題に等しかった。

 

 やがて、抵抗虚しく少年は真菰に見付かった。

 

「義勇、みーつけたっ!」

 

 弟弟子の姿を捉えた真菰は笑顔を浮かべ、そのまま全速力で少年へと肉薄。

 第一の遊びに敗北した少年──冨岡義勇は一瞬で意識を切り替えて、腹に力を込めた。

 

「錆兎! 来いっ!」

 

 合言葉だけを残し、義勇は伸びる真菰の手を手刀で叩き落とす。真菰は崩れた体勢を無理に戻すことなく、寝転ぶような低さで両手を付いて義勇に足払いを仕掛けた。

 義勇はバク転することで躱し、真菰はその一瞬の間隙をもって義勇へと接近。義勇の身体を掴もうと両手を突き出しまくるが、義勇は高速で移動しながら真菰の手を避けて落として弾き続けた。

 

 単純な速さなら真菰に分があるが、体捌きは義勇が優っているためにいつまで経っても決着が付かない。

 このままでは千日手だ。埒が明かない攻防に焦燥を募らせたのは真菰である。時間を掛ければじきに錆兎が合流して乱戦に突入するのは目に見えていた。

 

(これで決める!)

 

 真菰は勝負を仕掛けようと、ぐっと脚を折り畳み発車準備を完了させ。

 

「──隙を見せたな、真菰」

 

 懐に人影が横切るのを視界に捉えた。

 

「あっ⁉︎」

 

 素っ頓狂な声を漏らして真菰が振り向くももう遅い。

 視線の先では右頰に傷を残した宍色の髪をした少年──錆兎が、真菰が腰元に付けていた小さな鈴を手に取ってチリンチリンと鳴らしているところだった。

 

「あー、また負けた〜」

「真菰、お前は一つのことに夢中になると周りの警戒が疎かになる。鱗滝さんにも注意されているだろう」

「えぇー、いつも注意してるよ。錆兎の存在感が薄いんだよきっと」

「いや、錆兎は濃い」

「そうかなぁ?」

 

 緊迫した空気がほぐれ、三人の間に穏やかな時間が流れる。

 ほわわんとした声音で真菰が場を和らげ、厳格な態度で接していながらも思いやりの心意気を忘れない錆兎。

 

 いつまでも変わらない、それこそ思い出通りの二人の姿に、義勇は内心で嬉しい思いを隠せずいた。

 

 

 

 義勇が姉・蔦子の元を離れて二ヶ月が経っていた。

 鬼殺隊への入隊を決めた義勇は蔦子へとその旨を伝え、沢山の約束事を取り付けられながらもなんとか許可を得た後、育手のいる狭霧山へと脚を運んでいた。姉の祝言が終わる時分に世話になった悲鳴嶼(ひめじま)行冥(ぎょうめい)から連絡を貰う約束が功を奏して、迅速に行動することが出来たのは僥倖であっただろう。

 その際、喋る烏という摩訶不思議な生き物に対して蔦子が「あらあらまあまあ」の一言で済ませたことには義勇が驚いた。鬼という喋る生首を見た蔦子にとって、喋る烏など仔猫ほどの可愛らしさに等しいらしい。

 

 次期柱とも言われる行冥は岩の呼吸の使い手だったが、紹介したのは義勇の恩師である水の呼吸の育手──鱗滝(うろこだき)左近次(さこんじ)であった。

 

 人には呼吸の合う合わないがある。

 

 色変わりの刀と言われる日輪刀は、才能がある者が持てばその色を変えてその者が得意とする呼吸の色へと変化するが、生憎これはある程度修練を積んだ者にしか試せない。何の鍛錬もしていない義勇には論外の方法であった。

 では何故行冥が水の呼吸を選んだかと言うと、蔦子の事件当時の証言が大きな理由を占めていた。

 

 義勇が昏睡状態であった一ヶ月の間に、行冥は蔦子への事情聴取を行なっていた。鬼の被害者は大抵が大切な誰かを亡くしているため、遺族を追い詰めるであろう聴取は行わないのが常なのだが、姉弟共に命を拾ったこともあって蔦子の精神状態は比較的安定していたのだ。

 

 聴取を行なった行冥の想いは驚愕、この一言に尽きた。

 

 聴けば義勇が鬼と相対していた時間は三十分以上で、その間斧一つで足止めしていたとのこと。蔦子が駆け付けた時は既にボロボロの状態であったらしいが、常人には決して出来ない所業である。

 最大の驚きはその後。義勇はそんな身体で鬼へと斬り掛かり、一回の攻撃で頸、片腕片脚、身体へと斬撃を撃ち込んだという。蔦子曰く、思わず見惚れる程の流麗な斬撃だったと。

 

 行冥はこれを信じた。そして義勇に限り無い才能を感じ、鬼殺隊へと勧誘したのだ。

 危機に瀕し、突如として覚醒する人間は少なからず存在する。行冥がまさにその類いであったのが、信ずるに足りると判断した理由であった。

 そして蔦子の流麗な斬撃という言葉から、合うのは水の呼吸しかないと鱗滝の元へと導いたのだ。

 

 

 

「じゃあ次は義勇が鬼だね」

 

 頭の横で指を立てて真菰が言う。どうやらまだお遊びを辞めるつもりはないらしい。

 

「義勇、今回は見つかるのが早過ぎたな。もう一回やれる時間はあるだろう」

 

 鈴を義勇へ差し出す錆兎も案外乗り気だ。先程の回はあまり動けず消化不良なのだろう。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「そうだな」

 

 そのまま鈴を受け取った義勇は速やかに大きな木へと向かい、前のめりになって視界を腕で覆う。背後で散開する二人の気配を感じながら、義勇は静かに戦略を練ることにする。

 

 この遊びは義勇が考案したものだ。真菰によって付けられた名前は『(なんでも)ありあり鬼ごっこ』。

 まず第一段階。鬼役は逃げている二人のどちらかを見つける。二人は事前に罠を敷き詰めて様子を伺いながら逃走し、見つかった方は次回の鬼となる決まりだ。

 次に第二段階。鬼役は見付けた相手の身体の一部でも掴めたら勝利であり、逃走組は鬼が腰に付けている鈴を奪えたら勝利となる。この際、鈴を取っていいのは見付からなかった一人であり、もう一人はひたすらに躱し続けなければならない。

 鬼役は如何に早くに相手を摑まえるか、見付かった方は如何に時間を稼げるかが肝なのである。

 

 以前の経験、負傷した際の機能回復訓練を元に義勇がなんとなく提案しところ真菰が大いに気に入り、それ以降三人の中での恒例行事となった。

 この遊びは鱗滝にも好評なので、休憩時間中に行う分には止められることはない。気配察知に隠密技能、対人戦闘に並列思考といった諸々の技能向上が見込めるこの遊びは、実に理にかなったものなのだ。

 

 白熱し過ぎると普通にバテると言う点を除けば、最上の遊びであった。

 

「……もういーーかいっ?」

 

 不慣れな声量で義勇が問う。来たばかりの頃から真菰に「声が小さーい。もっとはきはきー」と揶揄され続け、姉弟子の容赦無さに心が折れそうになりながらも少しずつ矯正を始めた義勇は幾分かはマシになった。

 その他の面でも義勇は真菰によって進化することになるのだがそれは別の話。

 

 声が返る。どうやらもう準備万端のようだ。

 

「……よし」

 

 義勇は振り返り、気合いを入れる。

 樹々に潜む二人の気配探りながら、一目散に駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 鱗滝の元で修行を始めて三ヶ月。

 

「義勇、もうお前に教えることはない」

 

 唐突に招集を受けた義勇、加えて錆兎は鱗滝のその台詞に一瞬だけ呆けた。

 鱗滝はそんな二人の様子を見ても余分な言葉を募るつもりはないようで、そのまま背中を見せて山奥へと歩き出す。

 

「二人共、付いて来い」

 

 黙々と突き進む鱗滝。一度だけ視線を交わした二人は意思疎通を完遂させ、置いてかれぬようにと早足で歩き始める。

 徐々に霧が深くなっていく道無き道を歩み始めてしばらく、目的の場所に着いたのであろう鱗滝の足が止まった。

 側に並び立った義勇と錆兎の目の前にあったもの、それは二人の身の丈を優に超える大岩が二つ。

 

「この岩を斬れたら"最終選別"に行くのを許可する」

 

 鱗滝の言葉に錆兎が眼差しを鋭利にさせ、義勇は凪いだ海の如き静謐を保っていた。

 義勇に驚きや焦燥は微塵もなかった。なぜなら知っていたからだ。鱗滝からの最後の課題も、それを達成するために必要なことも。

 

 それ以上何も言い残すことなく立ち去った鱗滝を見送って、錆兎が大岩に近付く。

 

「義勇、斬れるか?」

「身体が出来ていない。まだ不可能だろう。錆兎の場合は……斬れたとしても刀が保たないか?」

「俺もそう思った。最終選別まではあと半年。それまでに鍛え上げるほかない」

「──当然、私も混ぜてくれるんだよね?」

 

 霧の中から人影が飛び上がり、たんっと大岩の上に着地する。

 見上げるまでもなく分かっていたが、そこにいたのはもう一人の弟子の真菰であり、その表情は膨れ面の不満たらたらであった。

 

「ずるいよ、二人共。私だけ除け者にして」

「鱗滝さんが俺達にしか伝えなかった。つまりはそういうことだろう」

「私が弱いから? 女だから?」

「……いや、年齢だと俺は思う」

「えぇー、じゃあ二人と同い年……あと二年私は最終選別に行けないのー……」

 

 義勇の考えにぶーたれる真菰だったが、この点で駄々をこねても鱗滝は絶対に頷かないだろうことは分かっているのか直談判に走ったりはしなかった。

 

「……まぁ、仕方ないかな。死ぬほど鍛える。結局、それ以外にできることないもんね」

 

 諦めるのも早ければ、ならやる事は決まっていると切り替えるのも早い。

 個性が強烈な三人の中でも、真菰は随一の天然で脳筋だった。

 

「そうだな」

「真菰の言う通りだ」

 

 義勇と錆兎も天然で脳筋だった。

 

「それにしても……まさか義勇が三ヶ月で全集中の呼吸と水の型を身に付けるとはな」

「だよね、私も凄く驚いた。私たちは小さな頃からずっと鱗滝さんに教えてもらってたから出来るけど、骨身に染み込んだのはつい最近だもんね」

 

 すごいすごーいと真菰がはしゃぐ一方、義勇としては褒められても落ち着かない。何せズルしているようなものなのだ。実は未来の経験があるため最初から使えていたと言って誰が信じるというのか。

 義勇からすれば錆兎と真菰の方が末恐ろしい才能を備えていると思えた。義勇の身体が仕上がっていないとはいえ、この歳で義勇に並べる強さなのはもはや可笑しい。

 

 それでいて伸び代はまだまだあるのだから素直に感嘆する。

 せっかくなのだ、二人に技を仕込むのも良い頃合だろう。

 

「錆兎、真菰。以前から気になっていたことがある」

「ん?」

「なーに?」

「二人は全集中の呼吸を、朝も昼も夜も、寝ている間もやり続けているか?」

『…………は?』

 

 凛とした錆兎からは珍しい素っ頓狂な声が漏れ、取り繕うという言葉を知らない真菰は何言ってんのコイツという思いを一切隠さずに首を傾げた。

 真菰は無邪気に義勇の心を痛め付ける天才なのでこの程度で義勇は挫けない。何処かの誰かのように、あなたはみんなに嫌われていると他意悪意増し増しで真正面から告げられるよりかは遥かにマシだった。挫けないったら挫けない。

 

 義勇の声は小さくなった。

 

「……全集中の呼吸を」

「声が小さーい。もっとはきはきー」

 

 義勇は声を大きくした。

 

「全集中の呼吸を四六時中やり続けているか?」

「……していないな」

「私もしてないよ。というより出来るの?」

「……いや、出来る出来ないではないだろう」

 

 錆兎はその歳に見合わない冷静さを持ち、尚且つ頭の回転が相当に早い。義勇が言わんとしていることを即座に理解する。

 

「基本鬼との戦闘は夜だが、不測の事態など幾らでもある。常在戦場。この心得を持つのであれば、戦闘に必須である全集中の呼吸は絶え間無く行うべきだ」

「……確かにそうかも」

 

 納得した真菰がふんふむと頷く。普段は天真爛漫を王道で突き進むちょっと抜けている真菰だが、こと鍛錬及び戦闘のことになると途端に察しが良くなる。天才肌的な脳筋なのだ。

 となればやる事は決まった。

 

「試しにやってみよっか?」

「ああ」

「善は急げだ」

 

 談笑から一変、三人の空気が張り詰める。

 シィィイイッ、という呼吸音が三重奏になって周囲に鳴り響いた。普段は型を繰り出す際にしか使わない全集中の呼吸。それを長く長く、絶えず行い続ける。

 

 一時間もせずに変化が訪れた。

 

「…………死ぬ」

 

 真菰がぶっ倒れた。全身から汗を吹き出しながら恥も外聞も無く真ん前にぶっ倒れた。

 

「くっ、これは……⁉︎」

 

 時置かずして錆兎も片膝を付く。止めどなく汗が流れ落ち、この短時間で肩で息をする程に消耗していた。

 錆兎と真菰は素直に驚く。長年鍛錬を積んできた自分たちが、こうも簡単に息を切らすとは。二人もいきなり出来るとは思っていなかったが、まさかこうまで無様を晒すとは想定外であった。

 

 義勇はまだ立っているというのに。

 

「……義勇、なんでまだ立ててるの?」

「正直もうキツいが……やはりまだ身体が出来ていないな……」

「いやいやいや……」

 

 おかしい、義勇はおかしい。真菰は本心でそう思う。

 此処に来て三ヶ月、つまりそれが鱗滝の元で鍛錬を積んだ期間。だというのに、この差は何だというのか。圧倒的な才能の差というものなのだろうか。近くに錆兎しかいない真菰には分からなかった。

 

 それでも、これだけは言えた。

 奇しくも錆兎も真菰と同じ思いを燃やした。

 

 ──弟弟子に負けてられるか!

 

 煮え滾る執念だけで錆兎と真菰が立ち上がる。義勇も負けじと頑張る。

 

 それから三十分経った。

 

「あはははははやばいやばい心臓やばい耳キーンってするドクンドクンドクンドクンしてなんかすごいあははははは!」

「ゴホッ! 血が出てきた……」

「シィィィイッ! ヒューーッ、ヒューーッ……」

 

 もう三十分経った。

 

「あはははははははははははははは死ぬ死ぬ死ぬ死ぬやばいやばいやばいやばい」

「真菰、ヒューーッ……もう、やめた方がゲホッ! ……良い」

「なぁぁぁに言ってんの義勇がまだ出来てるのに姉弟子の姉弟子の姉弟子の私ががががががが先に参るなんてあぁぁりえなぁぁぁあああああいかぁああらねぇえええええ!」

「そうだ! 男なら、男なら……男ならっ!」

 

 ……結局、全身の震えが止まらなくなり、血反吐を撒き散らしながら漏れ無く全員ぶっ倒れて鱗滝に保護された。滅茶苦茶説教を受けたのは言うまでもなかった。

 

 三人が異常なのは、死ぬほど鍛えるを本当に行えるところなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜天を煌めく星々と満月が狭霧山を淡く照らす。

 並んで鎮座する大岩の上、ごろりと寝転んだ状態で義勇と錆兎は夜空を見上げていた。

 

 最終選別まで残り一ヶ月を切った。

 この頃には既に全集中の呼吸を常時行う技──全集中・常中という名であると後に鱗滝から教わった──を真菰を含めた三人が体得しており、大幅な成長を遂げていた。錆兎と真菰に実戦経験は無いが、雑魚鬼であれば瞬殺できる力量だろう。

 

「すまない、義勇。わざわざ時間を取らせた」

「構わない。用は何だ? 真菰を外すからには、最終選別の話か?」

 

 いつもは何をするにも三人一緒だったが、この場に真菰はいない。錆兎が二人きりで話がしたいと頼んだのだ。

 そのために義勇は内容をそう予見したが、錆兎は緩く首を振った。

 

「いや、違う。酷く個人的な疑問を解消したくて呼んだんだ」

「……俺で良ければ話を聞く」

 

 珍しい。いや、義勇はこんな錆兎を初めて見た。

 錆兎が何かに悩んでいるなんて、察するどころかこれまで考えたことすらなかった。記憶が正しければ、前回は無かった話だ。

 興味が湧いたがそれを表情に出さず、義勇は先を促す。

 意を決した錆兎が空から視線を義勇へと動かした。

 

「義勇。お前は、何を抱いて鬼殺隊へ入隊する?」

「……質問の意味が分からない」

 

 予想だにしない方向からの問いに義勇は質問の意図が掴めない。

 正直過ぎる返答に錆兎が苦笑し、済まないと一言挟んで続けた。

 

「いきなり過ぎたな。話をする前に一つ謝ることがある」

「なんだ?」

「実は、お前が此処に来る前の話を、鬼と遭遇した時の話を鱗滝さんから聞いた」

「……どうせ真菰が詰め寄ったんだろう?」

「その通りだが、気になっていたのは俺も同じだ。お前のいない所で探るような真似をしてしまった。済まない」

「その程度気にしない」

 

 義勇には真菰が鱗滝を質問攻めにしている場面がありありと想像できた。最初は口を噤んでいただろうに、あまりのしつこさと娘可愛さに根負けする鱗滝の姿はむしろ面白くすらある。

 

「それで、それがこの話にどう繋がるんだ?」

「……お前は命懸けで姉を護り、見事達成した。それは男として尊敬する。……だが、お前はその後すぐに鬼殺隊への入隊を決意したと聞いた。何故だ? せっかく助かったのに、何故お前は家族と共に暮らすことを放棄してまで此処に来たんだ?」

「放棄、か……」

 

 義勇は選べる側の人間だった。

 錆兎は失った側の人間だった。

 そして、鬼殺隊は後者の人間が殆どなのだ。

 

 義勇だって、元はそちら側。この世界では姉を救うことができたが、根には姉を喪った哀しみと鬼への憎悪が、鬼殺の魂が染み込んでいる。

 ただこれを言ってもどうしようもない。もう少し時を置けば、きっと錆兎や真菰、蔦子は信じてくれるだろう。今言ったとしたら、真面目な問答をはぐらかしたと思われるかもしれない。

 だから義勇は言葉を選ぶ。複雑な事情を抜きにしつつ、自分を支える芯足りえるものは何か。

 

「……蔦子姉さんと一緒に暮らす。その道もあっただろう。きっと幸せになれただろう。……だが、俺は知ってしまった。その幸福は薄氷の上に成り立ったものであると。この世に鬼という存在がいることを」

 

 鬼殺隊は政府非公式の組織だ。その為、鬼の存在は一般人に確かなものとしては認知されておらず、あくまで噂程度に留まる。義勇もそうだった。

 

「今回は護れたが、次どうなるかは分からない。その時に俺は後悔したくない。姉だけではない、その他の人達の幸福が鬼によって壊されるのを知ってしまった以上、見て見ぬ振りはできない」

 

 いつかの任務の日に同僚に語ったことを思い出す。

 義勇の柱は、失って、喪って、亡って、ようやく出来た自身への誓い。

 

「俺は護るために剣を振るう。民を、仲間を、友を、家族を、()()()()()目の前で死なせないために。だから俺は鬼殺隊へと入る決意をした」

「……そうか。凄いな、義勇は」

 

 答えになっただろうかと、義勇は錆兎に視線を投げる。

 錆兎は淡く微笑んでいた。義勇にはそれが、途方に暮れた子供のように見えた。

 

「錆兎、お前は何の為に剣を振るう?」

「……最近、それが分からなくなっていた」

 

 自嘲するように錆兎は笑い、体勢を起こして瞬く星々を眺める。

 

「はっきり言おう。俺は成り行きで此処にいる。幼い頃に家族を鬼に殺され、鱗滝さんに拾われて今に至る。選択はした。だから鬼殺隊に入る為にこうして鍛錬を積んでいる。だが、何の為に剣を振るうのか。そう問われると、漠然としたものしかない」

 

 指折り数えて整理してみる。

 

「家族が生きていた頃は朧げだが幸せだった記憶がある。それを破壊した鬼はやはり許せない。真菰と出会い、俺以外にも同じ境遇の者が多数いると知った。だからそんな悲劇を少なくしたいと思った。義勇は知らないだろうが、俺達には兄弟子、姉弟子がいて、俺と真菰は二人最終選別へ行く姿を見送った。……だが、二人とも帰っては来なかった。思えば、鬼に対してはっきりと怒りと憎しみを抱いたのはこの時だった」

 

 よくある話だ。鬼の被害者の中で、こういう話は本当にありふれた悲劇だった。

 

「色々あるが……俺にはないんだ。義勇のような確固たる芯が。己を支える柱足りえる強い思いが」

「……そんなことはないだろう。今言った全てが、錆兎を形作っている筈だ」

「そうだろうか……」

 

 弱音に似た何か吐き出した錆兎は、迷子の子供のような表情で遠くを見詰める。

 義勇にはその光景は衝撃であった。

 錆兎ほどの男が……と義勇は刹那思ったが、錆兎だってまだ成人にも満たない子供なのだ。思い出が脚色されて、自分勝手に理想を押し付けていたのだと義勇は自身を恥じる。

 義勇には励ますや慰めるといったことは苦手分野過ぎて実行不可能だ。それでも何か言わなければならない。その思いに突き動かされて、浮かんだのは錆兎の言葉だった。

 

「男なら、男に生まれたなら、進む以外の道などない」

「それは……」

「お前の口癖だ。錆兎、お前は進むべき道を決めたのだろう。ならば、進むしかない。違うか?」

「……ふっ、そうだな。俺としたことが」

 

 吹っ切れたのだろうか。義勇には分からない。

 それでも進むしかないのだ。

 

 最終選別まではもう時がないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、最終選別を二日後に控えたこの日。

 義勇と錆兎は真剣を持って向かい合っていた。

 

「──始め!」

 

 真菰の掛け声と同時、二人が肉薄。銀の軌跡を残して互いの獲物が交わった。

 

「……ふっ!」

 

 止まることなく打ち鳴らされる剣戟。加速する音は二十を超えて火花を散らし、互いに一歩も譲らない。

 

 ──全集中・水の呼吸

 

 両者間合いを空けて構える。シィィィイッ、と呼吸音を鳴らして刀を握り締めた。

 

【壱ノ型・水面斬り】

【弐ノ型・水車】

 

 技の衝突により轟音が爆発。キィンという甲高い音は空気を震撼させてなおも残響する。

 威力は互角。吹き飛んだ二人は器用に空中で姿勢を整えてから地に足を付け、間隙無く地盤を割り砕く踏み込みで飛び出した。

 

(……いいなぁ〜、私も混ざりたい)

 

 審判役を務めている真菰が臀部を付けない状態で折り曲げた膝に肘を乗せ、両手で顎下から頭を支える体勢で二人の戦闘を見守る。

 ここ最近義勇と錆兎の成長が恐ろしく速い。正直真菰では勝てないと思うくらいに二人は先に進んでいた。

 性別の差が顕著に出始めたのだ。男は一般的に十二・三から数年で一気に身体が成長する。体格も大きくなり、筋肉量も莫大に増える。義勇と錆兎も例外では無かった。

 それに比べ女はその頃には大きな成長を終えていることが多い。真菰は今年で十一だ。余程恵まれない限り、これ以上の大きな成長は望めないだろう。

 

(……まぁでも関係ない。修行して、修行して、修行して、修行すれば、私だって強くなる)

 

 真菰は白刃をぶつけ合う兄弟子と弟弟子を静かに見詰める。その瞳には諦めなど微塵も無く、絶対に追い付いてやるのだという熱意と闘気に満ちていた。

 自分ならどう戦うか。自分の長所は何か。女の利点は何か。真菰は考えることを止めない。

 元々鬼と人間の身体能力には歴然とした格差が存在するのだ。たかが性別の違いなど言い訳にすらならない。

 

(真向勝負なんてクソ喰らえだよね。奇襲不意打ち何でもあり。私には速さがある。当たらなければ負けないんだから)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 昏い眼をして凄絶に微笑む。真菰の鬼殺人生はまだ始まってすらいない。

 後に義勇に紹介されたとある少女と親友となる資質をこの時点で備えていたのが、義勇最大の誤算だった。

 

(そろそろ決着かな?)

 

 真菰の視線の先、真剣勝負に幕が閉じる気配を感じて思考を中断した。

 

 ──全集中・水の呼吸

 

 影を残して二人の距離が零になる。

 繰り出す型は同じ。義勇も錆兎も好んで使う水の呼吸唯一の連撃技。

 

【肆ノ型・打ち潮】

 

 肆ノ型の連撃数は個人の力量に左右される。如何に素早く流麗な斬撃を生み出されるかが勝負の鍵となった。

 

 一合、錆兎の袈裟斬りに義勇が刃を流して逸らし。

 二合、空いた胴体を義勇が斬り払うが錆兎が流れに逆らわず斬り上げて防ぎ。

 三合、互いの振り下ろしが火花を散らして。

 四合、素早く一回転して遠心力を乗せた渾身の一閃が激突した。

 

 キィン、と打ち上げられた刀が一つ。

 くるくると回って地面に突き刺さり、その間に空いた首元に刃を置く。

 首筋を冷やす鉄の感触に苦笑し、錆兎は口を開いた。

 

「見事だな、義勇」

「そこまで!」

 

 錆兎の刀を拾って真菰が近付いてくる。受け取った錆兎は負けたのを悔しそうにしながらも笑みを浮かべた。

 

「仕上がりはいい感じだね!」

「ああ、問題ない」

「……じゃあ最後にこれだな」

 

 この半年ですっかり見慣れた大岩を見上げる。

 どうしてだろうか、初めて見た時は抱いていた畏怖と言える感情はもう既にない。

 義勇と錆兎は刀を抜いた状態でゆっくりと歩み寄る。これを斬れたら最終選別へ行く許可が下りるのだと思うと、感慨深いものがあった。

 

 だが、それも一瞬。

 次の瞬間には全てが終わっていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

 向かうは最終選別の舞台──藤襲山(ふじかさねやま)

 

 義勇の記憶の人生で錆兎が命を落とした場所だ。

 

(やれることは全てやってきた。あの時とは違う)

 

 錆兎も強くなったし、何より義勇自身の完成度が段違いなのだ。不足はない。

 

(変えてみせる。蔦子姉さんを救えたように、錆兎も!)

 

 ──生き残る。二人、一緒に。

 

 運命を切り拓く戦いの幕が開ける。

 

 

 

 

 

 

 








閑話を挟んで最終選別になる予定です。
義勇さんと錆兎がイケメンで真菰ちゃんが美少女過ぎる!



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閑話1 真菰がんばります!

 

 その日、新しい家族ができた。

 

「今日からお前たちの弟弟子になる子だ」

「……冨岡義勇だ、よろしく頼む」

 

 親代わり兼師範の鱗滝左近次に紹介されたのは、兄弟子の錆兎と同い年の少年だった。

 烏の濡れ羽色のような漆黒の髪を一つにまとめた、深い海を想起させる静謐な瞳が綺麗な少年。それが第一印象だった。

 ここ数年は三人で暮らしていたが、今日から四人に増える。周りの環境の変化に敏感な年頃の少年少女であった錆兎と真菰だが、義勇のことは盛大に歓迎した。

 

「やったー、弟弟子だー! 末っ子からの脱出だよ錆兎!」

「そうだな、真菰。では姉弟子としてまず礼儀を覚えるべきだ」

「礼儀? 姉弟子の礼儀なんてあるの?」

「普通に自己紹介をしろ」

「……ふふっ」

 

 いつものノリで錆兎と話していたら、微かな笑い声が聞こえた。

 錆兎と揃って発声者へ視線を向けると、義勇がとても柔らかな表情を浮かべていた。

 微笑んでいるとしたら下手くそで、それでも口元は確かに綻んでいて。

 郷愁に駆られたような、嬉しいことがあったのに喜ぶのを我慢しているような。

 そんな不思議な表情をしていた。

 

 どうしてだろうか、その時真菰はふと思ったのだ。恐らく錆兎も同じで。

 

 ──あぁ、義勇と出逢えて良かった。

 

 何故か自然と、そう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 義勇は凄かった。ちんけな表現しか出来ないくらい凄かった。

 育手である鱗滝の元に来た以上、鬼殺隊に入るべく修行するのは当然だったので早速始まったのだが、義勇は初見で教えの全てを熟せていたのだ。体捌きや刀の素振りといった基本は勿論のこと、全集中の呼吸も水の型という奥義を含めて全て。追い付いていないのは身体だけ。

 

 真菰は目が点になった。

 感心するのを超えて危機感しか募らなかった。

 

 弟弟子に負ける?

 姉弟子としての尊厳が失われる?

 ──否、断固として認められない! そんなことはあってはならない! 姉より優れた弟などあってはならないのだ!

 

 真菰は燃えた。錆兎も燃えた。ぶっちゃけ錆兎の方が熱くなっていた。同性で同い年の弟弟子だ。真菰以上に内心焦っていただろうことは冷静になった時に気付いた。

 思えば、この時に無意識に残っていた最後の心の壁が爆散したのだろう。友達として、家族として、真菰と錆兎は積極的に義勇に絡んでいった。

 

 それに加えて、義勇は大人びていた。錆兎も年に似合わない落ち着きを持っていたが、義勇のそれはもはや完成されたものであった。

 何が起ころうと動じることは無く、そんな義勇の新しい一面を見たくて真菰が絡み、決して相好を崩さないがそれすらも微笑ましそうな雰囲気で受け流される。ムキになっても暖簾に腕押しもいいところ。

 錆兎や鱗滝からは完全にお兄ちゃんに構って欲しい妹にしか見えなかっただろう。幸い真菰がその事実を知ることはなかったが。

 

 ともかく、そんなこんなで楽しくも刺激的な毎日を送っていた。

 

 ……いたのだが、真菰にはただ一つだけ不満があった。

 

(義勇が笑っているところを見たことがない!)

 

 元々そういう気質なのだろうが、義勇は表情を変えることが極めて少なかった。変化を見せたのは邂逅したあの時だけ。

 あとは能面、鉄面皮、表情筋が死んでる。この点については大人びているでも子供らしくないでもなく、ただただ異常だった。

 物理的に天狗の面で顔を隠している鱗滝の方がまだ感情の動きが分かるというのに、義勇は偶に顔を見ても何を思っているのかさっぱり分からないのだ。

 

 出会った頃は緊張しているのだろうと錆兎に窘められた。

 しばらく経った後はそういう子もいるからと鱗滝にお小言を貰った。

 

 そして三ヶ月経った。

 この間、義勇は一度も笑わなかった。

 

 最終選別への試練すら除け者にされた真菰の不満は遂に爆発した。

 

(絶対に笑顔を見る!)

 

 真菰の中でこれが至上目的となった。

 手始めに鱗滝を質問攻めにした。何故義勇がここに来ることになったのか、義勇が何故あんな強いのかと一度は聞いてはぐらかされた義勇の過去についてそれはもう問い詰めた。決して八つ当たりではない。

 

 教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えてって言ったら教えてもらえた。

 

 側で見ていた錆兎は鱗滝に合掌していた。錆兎は偶に奇天烈なことをするので真菰は気にしない。

 そういうのを天然と言うらしいと義勇に教えてもらった。普通の人とはちょっと変わった感性を持つ人のことで、指摘しても意味がないと。他の人はともかく俺達は普通に接してあげようという義勇の提案に、「そうだね!」と大きく頷いたのは記憶に新しい。

 

 話が逸れた。義勇の過去の話だ。

 聞いたときはそれはもう驚いた。鬼相手に生き残るどころか姉すらも救ってみせたなんてとんでもない偉業だろう。鱗滝が口を割ったのも、義勇の過去が悲劇ではなかったからだと後になって気付き、軽率な行動だったと真菰は反省した。

 ただこれで義勇には配慮しなければならない過去は特に無いんだと知れたので、真菰は人知れずほくそ笑んだ。

 

 翌日になって、全員揃っての夕餉の時間。

 

「今更だけど、義勇は好きな食べ物とかないの? 前によく食べてたとか?」

 

 鬼殺隊志望の者に対して思い出は禁忌。理由は言うまでもない。義勇が自分から話を振ってくる場合は別として、これまで真菰と錆兎は極力触れないように弁えていた。

 しかしその問題は昨夜解決したばかりだ。突貫せずしてなんとする。

 

 真菰の唐突な質問に対して義勇は一瞬だけ固まるが、ゆっくりと焼き魚を嚥下した後、わざわざ箸を置いて宙空を眺めた。

 

「姉が作ってくれる鮭大根が一番好きだ」

「義勇にはお姉さんがいるんだね」

「あぁ、最愛の家族だ。時間ができたら、みんなにも会ってほしい」

 

 愛おしそうに語る義勇。姉の話をする時は、出会った時と同じくらい口元が綻んでいた。

 真菰はそこに突破口を見出した。

 

「私も会いたいなぁ。どこに住んでるの?」

「ここからは普通なら一週間ほどは歩くが、俺達なら二日とかからない」

「そうなんだ。じゃあ私行きたいなぁ。錆兎も行きたいよね?」

「……そうだな。俺も義勇が太鼓判を押す鮭大根も食べてみたい」

 

 真菰の意図を察したのだろう。錆兎は真菰の提案に肯定を示し、後押しする立場へと便乗する。

 仲間の同意を得られた真菰の行動は早い。

 ささっと身体を動かして鱗滝へと近付いた。

 

「鱗滝さん、四日……ううん、三日間だけ私たちの鍛錬お休みにしちゃだめかな?」

 

 お願いします、と真菰は誠心誠意頭を下げる。これは我が儘だという自覚があるのだ。

 真菰……と義勇が止めようとするのを錆兎が遮る。長い間真菰と一緒に暮らしてきたが、これは初めてと言っていい真菰の個人的な我が儘だ。兄弟子としてせめて助力したいという錆兎の思い遣りだった。

 義勇はそんな錆兎の行動を訝しんでいたが、やがて諦めて成り行きを見守る態勢に入る。

 

 長くも短くもない沈黙の後、鱗滝が口を開いた。

 

「一週間」

「え?」

「一週間鍛錬を休みとする」

 

 厳かな声音でそう言われ、最初は言葉の意味が分からず真菰は放心する。

 だが時が経って許可が出たのだと理解すると、真菰は満面の笑みで鱗滝に抱き着いた。

 

「ありがとー! 鱗滝さん大好き!」

「……迷惑を掛けるんじゃないぞ」

「うん!」

 

 ……こうして、真菰たちは一週間の自由を勝ち取った。

 事態の展開について行けてない義勇だったが、鱗滝から「家族に顔を見せてきなさい」と後押しを受け、(かすがい)(からす)を借り受けて蔦子へと連絡を飛ばす。

 後日、問題無く返信が来て、いつでも来て良いと言われたので、真菰達は迅速に蔦子の家へと走っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえりなさい、義勇。そしていらっしゃいませ、鱗滝様、錆兎くん、真菰ちゃん」

「ただいま、蔦子姉さん」

「突然の訪問、申し訳ありませぬ」

『お、お邪魔します!』

 

 柄にも無く真菰は錆兎と共に緊張していた。友達の家に遊びに行くというありきたりなことが、二人には初めてだったのだ。

 出迎えてくれたのは綺麗な女性だった。白磁の肌が映える義勇と同じ黒髪を三つ編みでまとめた、お淑やかな大和撫子。義勇の姉である蔦子を見た時の偽らざる真菰の感想である。

 

「何もないところだけど、ゆっくりしていってね」

 

 微笑をたたえた蔦子を見て、真菰は母の姿を幻視する。物心つく頃には孤児だった真菰にとって父親は鱗滝だが、母親はいない。どうにも表現できない温かさに気恥ずかしくなって、つい俯いてしまった。

 そっ、と頰に手拭いが当てられる。

 

「えっ⁉︎ あ、あの⁉︎」

「ふふっ。真菰ちゃん、義勇の家族になってくれて嬉しいわ。私、ずっと妹が欲しかったのよ?」

 

 頰に付いた汚れを優しく拭う蔦子と至近距離で目が合う。全てを包み込んでくれるような優しさの匂いに記憶の奥底に眠る郷愁がかりたてられ、何故か真菰は瞳が潤んでいく。

 咄嗟に、真菰は蔦子に抱き付いていた。

 蔦子は少しだけ驚いたようだが、すぐに真菰の背へと手を回す。

 

「可愛い妹が出来て嬉しいわ」

「…………っ」

 

 意識しないように心を押し殺していたのだろうか。気付けば真菰は声を上げずに泣きじゃくっていた。

 心が安らぎを思い出していく。

 

 ずっと、この温もりが欲しかったのだ。

 

 

 

 

 

「恥ずかしくて死にたい」

「真菰が勝手に暴走したんだろ」

「錆兎だって、蔦子お姉さんに抱き締められてたのに」

「……気持ちは分からないでもない。俺も、もう顔も思い出せない母を感じた」

「……うぅ〜〜〜っ」

 

 座布団に顔を埋めてうつ伏せになった真菰に錆兎は苦笑する。余程恥ずかしかったのだろう。錆兎もまさかあそこまで真菰が取り乱すとは想定外であったが、知らぬうちに溜め込んでいたものが吐き出されたのであれば良い事だ。

 今この場には真菰と錆兎の二人のみ。義勇は蔦子の手伝い、鱗滝は買い出しで席を外している。

 当初の予定では保護者役として同道していた鱗滝は三人を送り届けたらとんぼ返りするつもりだったのだが、蔦子との「いえいえそんな」合戦に敗北して残留が決まっていた。義勇曰く、あの勝負で蔦子姉さんに勝てる人はいないとのこと。

 

 声にならない唸りを出し続けてしばらく、真菰はガバリと顔を上げた。

 

「もう忘れた! ……いややっぱり忘れないけど気にしない! 錆兎も分かった?」

「そういうことにしておこう」

 

 真菰はそのまま仰向けに寝転がり、部屋を照らす灯りをぼんやりと眺めて顎に手を寄せる。

 

「でもなぁ〜、やっぱりおかしいよね?」

「何がだ?」

「義勇だよ義勇。義勇がいつも無表情なのは、私はてっきりお姉さんもそうだからって思ってたのに……。何をどうしたら蔦子お姉さんに育てられてあんな風になるの?」

「……どうなんだろうな」

 

 右へ左へごろごろと回転しながら真菰は再び唸る。どうやら錆兎も疑問が深まったらしく明確な答えは出ていないようだ。

 あんな仏のように優しそうな蔦子と一緒に幼少期を過ごしてどうしてああなるのか。さっぱり分からん。もしかして実は怖いのだろうか。

 いや、真菰には匂いで分かる。蔦子は絶対にあれが素で、義勇も蔦子に対して恐怖といった感情は無縁で親愛しか抱いていないのだと。

 

 なるほど、やっぱりさっぱり分からない。

 

「錆兎くん、真菰ちゃん。お夕飯の用意が出来たわ。居間に来てくれるかしら」

「はい」

「すぐ行きます!」

 

 蔦子に呼ばれ二人は移動する。

 着いた場所には既に鱗滝が座っていて、義勇が皿をせっせと配膳しているところだった。

 

「来たか。もう少しだから座って待っててくれ」

「そうか、すまないな」

「手伝おっか?」

「それには及ばない。みんなはお客様だ、ゆっくりしてくれ」

 

 そう言われては強く出れない。根底は似た者同士な義勇と蔦子だ。手段は違えど、どうあっても手伝わせることはさせない気がする。

 というわけで大人しく真菰と錆兎は鱗滝の隣に座って、雑談に興じることにした。

 

「ねぇ鱗滝さん」

「何だ?」

「さっき外に行ってたけど、そのお面って取ったの?」

 

 ゴホッ! と錆兎がお茶を吹き出しそうになって咳き込んだ。

 

「……どうしてそんなことを聞く?」

「私たちは見慣れてるから何とも思わないけど、此処に来るとき凄く見られてたから。薄々思ってたけど、街でお面は普通じゃないのかなぁって」

「……そうか」

 

 鱗滝は答えを言わなかった。

 

「準備ができた。義兄さんの分はどうする?」

「ありがとね、義勇。今日も実家のお手伝いで帰りが遅いらしいわ。先に食べちゃいましょう」

 

 義勇と蔦子が揃ってやって来る。

 あの後決して追求の手を緩めなかった真菰であったが、どうやら時間切れで無言を貫いた鱗滝に軍配が上がったようだ。

 錆兎がまたしても合掌している。錆兎は天然なのだ。

 

「お口に合うか分からないけど……」

「ううん、全部すごくいい匂いです!」

「ありがとう、真菰ちゃん。では、頂きましょうか」

 

 全員が手を合わせ、頂きますと唱和する。

 並んだ数々の品の中で、本命は既に決まっていた。

 

「これが義勇が言ってた鮭大根?」

「ああ、絶品だ」

「義勇、恥ずかしいからやめて」

 

 弟の絶賛に蔦子が顔を紅くする。最愛の弟に褒められて嬉しいのは嬉しいが、お客様の前では羞恥が上回るらしい。

 そんなことは露知らず。真菰たちは一斉に鮭大根を口に運んだ。もぐもぐごっくんと飲み込んで、笑顔の花が咲く。

 

「美味しい!」

「これは……美味いな」

「うむ、美味い」

「ありがとうございます。……恥ずかしい……」

 

 まるで言わせたような状況に蔦子は静かに頭を下げる。勿論三人が本心でそう言ってくれているのは分かっていたが、これは気持ちの問題だ。

 ぱくぱくと箸を進める三人を見て、蔦子と義勇も口許を和らげて手を動かし始める。

 

 その様子を、真菰は横目で凝視していた。

 

(義勇が鮭大根を食べる義勇が鮭大根を食べる義勇が鮭大根を食べる……)

 

 しっかりとご飯を噛みながら決定的な瞬間を見逃すまいと真菰は気を張った。なんだかんだあったが、今回の実家訪問の一番の目的はあくまで義勇の笑顔を拝むことなのだ。

 真菰は此処に来て、蔦子と触れ合って、鮭大根を食べて確信していた。これは鉄壁の牙城を突き崩す一撃になり得る、と。

 果たして、義勇が鮭大根を口にした。

 

 ──その瞬間、真菰たちに衝撃が突き抜けた。

 

 口角が確かに上がった。決して大笑いというわけではない。どちらかといえば微笑みに近いだろうか。だがしかし、今までとはまるで異なる表情の変化だった。ぱぁああっと、周りまで明るくなるような、そんな顔。

 

 人はそれを、笑顔と呼ぶ。

 

「ぎ……」

 

 真菰の言葉が詰まる。呆気に取られているのは真菰だけではない。錆兎も、鱗滝すらも固まっている。

 

 それでも、誰かが言わなければ。

 

 この気持ちを声を大にして発散しなければ。

 

 そしてその役割は、この状況を作り出した真菰にこそ相応しい。

 

 三人の変化にポカンとする姉弟を置いて、真菰の喉が張り裂けんばかりに震えた。

 

「……義勇が笑ったぁあああああああああああああああああああああああああああああああっっっ⁉︎」

 

 ぶっちゃけ近所迷惑だった。

 

 

 

 

 

「大変申し訳ありませんでした」

「弟子が申し訳ありません」

「妹弟子が申し訳ありませんでした」

「姉弟子がごめん」

 

 ご近所へのお騒がせ謝罪回りを終え戻ってきた蔦子に、真菰は完璧なる土下座を決めて頭を下げた。続くように鱗滝と錆兎と義勇が土下座を決める。

 

「近所迷惑という言葉を初めて知りました。言われてみればなるほど、夜に煩くするのはいけないことですよね。本当に申し訳ありませんでした」

「儂の教育が足りぬばかりに」

「いいのよ、真菰ちゃん。そういうこともあるわ。鱗滝様たちも顔を上げてください」

 

 珍しく引き攣った苦笑を浮かべる蔦子。蔦子としては、口調ががらりと変わった真菰に対する動揺の方が大きいくらいだ。

 四人とも足は崩さずに頭を上げ、やっと話が進められるとホッと一息ついた蔦子は小首を傾げた。

 

「それで、その……何がどうしたのかしら?」

 

 当然の疑問だった。

 

「えーとね、実はね……」

 

 代表して真菰が経緯を説明する。

 義勇がこの三ヶ月一回も笑わなかったこと、蔦子の話をした時だけは表情が和らいだこと、鮭大根を食べたら何か動きがあるのではないかと企んだこと、まとめると義勇の笑顔が見たかったのだと諸々の事情を洗いざらい喋り尽くした。

 

「そうだったのね……」

 

 難しい顔をする蔦子と義勇。義勇は義勇で、まさか真菰がそんなことを思っていたとは知らなかったのだから然もありなん。

 

 しかし一転、蔦子は笑顔を浮かべて真菰に詰め寄り、ガシッと両手で真菰の手を取った。

 

「協力するわ、真菰ちゃん!」

「……ふぇっ?」

 

 突然の展開に真菰も呆けた声を出すが、熱が入った蔦子はそのまま思いの丈を伝えるように話し始めた。

 

「実はね、私も心配していたのよ。半年くらい前までは義勇はよく笑う子だったのに、本当に急に……本当に急にこうなってたの! 最初は反抗期なのかなって思ったのだけれどそんな様子ではないし、でも愛想がちょっと……ちょっと足りないし、会話も言葉がちょっと……ちょっと足りなかったりね。家にいた時はちゃんと微笑むくらいはしてくれたから大丈夫かなって思ったけど、真菰ちゃんの話を聞く限り悪化……ちょっと悪くなってるみたいだし……。でも、でもね! 義勇は本当に良い子なのよ! 心根は誰よりも優しいし、言葉にしないだけでいつも周りのことを考えてるのよ。勘違いされやすいのかもしれないけど、義勇は本当にね──」

 

 余程心配を溜め込んで心労を募らせていたのだろう。蔦子はしばらく止まらなかった。それだけで蔦子がどれだけ弟を愛しているかが伺えるくらいだ。

 真菰たちの責める瞳が義勇に突き刺さる。三者三様の熱視線に居たたまれなくなったのだろう義勇は無言のまま、決して目を合わせまいと俯き続けていた。

 

 誰がどう空気を読むべきなのか。

 きっと鱗滝や錆兎だったら、自分たちは義勇のことをちゃんと分かっていると蔦子を安心させる模範解答を導いただろう。

 

 だが、協力を要請されたのは真菰だ。

 

 天然で脳筋で、自分がやりたいと思ったことは割と強引にでも貫き通す性格をした真菰だ。

 

 真菰はキラリと瞳を輝かせて、空いていた手で蔦子の両手を握り返した。

 

「任せて、蔦子お姉さん! 姉弟子として、私が責任持って義勇を立派な人にするから!」

「本当に! ありがとう、真菰ちゃん!」

 

 ひしと抱き合う真菰と蔦子。

 猛烈な悪寒に震える義勇。

 合掌する錆兎と鱗滝。

 

 義勇育成計画はこうして始まりを迎えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 端的に結論を言うと、相手が悪かった。

 

「義勇、試しに鮭大根無しで笑ってみようよ」

「……いや、その、俺は……」

「私からもお願い。義勇、これは大事なことなのよ?」

「姉さん……心配させていたのは謝る。だが……」

「──いいからやって」

 

 短い滞在期間中は真菰と蔦子が手を組んで義勇を追い詰め。

 

「大丈夫だよ義勇! あの時は笑えてたもん。じゃあ心の問題じゃない、やる気の問題だよ!」

「そんな簡単な問題ではないと思う」

「大丈夫だよ義勇! 一回出来たんだもん。もう出来るって分かったもん。じゃあ頑張ればいつでも出来るようになるよ!」

「だから……」

「大丈夫だよ義勇! これも鍛錬と一緒だよ! 死ぬほど練習すれば出来ないことなんてないよ!」

 

 狭霧山へ帰ってからはより一層熱心になった真菰が一切の反論を許さず。

 

「錆兎」

「すまない、義勇。俺にはどうすることもできない」

「……鱗滝さん」

「義勇、頑張れ」

「……………………真菰」

「はい義勇笑ってー」

 

 義勇に味方はいなかった。

 知ってはいたが真菰は容赦というものを知らないらしく、うだうだと逃避に走る義勇を力付くで抑えつける酷烈仕様な育成法だった。

 

「義勇、会話は投げられたら投げ返すものなの! 受け取って返さないとか、頓珍漢なことを投げるとか、伝えなきゃいけないことを省いて投げ返さないの!」

「俺はちゃんとやっている」

「やってないから言ってるの! ……ちなみにさ義勇、私がこうやって頑張ってるのはどう思ってる?」

「……時間の無駄だ」

「……それはあれだよね? 私や蔦子お姉さんの努力が無駄って意味じゃなくて、徒労に終わるから私の時間が勿体無いと思ってて、それなら早く諦めて別のことに時間を割いた方が良いって、そういう意味だよね?」

「……? 今そう言っただろう?」

「言ってなぁああい‼︎」

 

 三ヶ月間、真菰は頑張った。とにかく頑張った。遮二無二頑張った。

 

 成果は出なかった。

 

 真菰はブチ切れた。

 

「あ゛ぁぁぁあああああああああっ!」

 

 鱗滝の教えを忘れ心に荒波を立てまくりながら真剣をブン回す真菰と、それを後ろから羽交い締めにして抑える錆兎。

 そんな二人を見て、義勇はようやく反省の気持ちを抱き始めた。もう少し此方から歩み寄ってもいいのではないかと。

 というより、歩み寄らないと殺されると。

 

「真菰、義勇、やり方を変えるべきだ。ひとまずだが、会話能力は置いておこう。これはもう積み重ねるしか無い」

 

 今までは様子を見守るだけだった錆兎だが、傍観者でいられる時期はとうに過ぎ去ったと本格的に参加することになった。

 

「はっきり言おう、ただ笑えと言われて義勇が笑うことは一生ない」

「俺もそう思う」

「義勇、お前は黙れ」

 

 錆兎も錆兎で手厳しかった。

 

「あとこれは個人的な意見だが、義勇が大笑いする姿がまず想像できないし、したとしたらそれはそれで最早気色悪い」

「それはそうだけどさー」

 

 無邪気に義勇の心を抉るのが真菰の専売特許。

 

「目指すなら鮭大根を食べたあの時の笑顔、微笑むくらいで丁度いいだろう。あれなら違和感なく……は無いが、そこは慣れだ」

「……ふんふむ、分かった。それでどうするの?」

「蔦子さんを想像すれば表情は綻ぶんだ。鮭大根を追加すればいい感じになるだろう」

 

 酷い結論に落ち着いた。

 

 しかし効果は覿面だった。

 

「義勇、今こそ蔦子お姉さんに成果を見せる時!」

「……蔦子姉さん、これでどうだろうか?」

「凄いわ義勇! カッコ良くて可愛いわ!」

 

 錆兎が加わってから一ヶ月で、鮭大根微笑みをモノにした義勇を蔦子が抱き締める。

 本当に姉が喜んでいるのだと分かって義勇は釈然としない想いを抱いていたが、口には出さなかった。

 

 段階は最終戦に入る。

 

「あとは感情の動きに微笑みが付いてくれば完璧だね」

「ああ、だがここが最難関だ。ここを突破しなければ全てが水泡に帰す」

「私たちの精神的にも良くないよね。今後義勇が笑ってたら鮭大根しか浮かばないし、義勇には鮭大根しか浮かんでない。こんなのヤバイよ」

「ああ、ヤバイ」

 

 言いたい放題だった。

 

 とりあえず頑張る三人だったが、何とかしなければという思いとは裏腹に成果は一向に表れなかった。

 

 嬉しい時や楽しい時に笑うことが出来るようになる。

 

 言葉にすると何処から突っ込んでいいのか判断付かない目標に対して、何をどうすればいいのか分からないのだ。

 真菰や錆兎にとってはそれは当たり前過ぎて、何故出来ないのかが分からない。義勇にとっては長年この状態で過ごしてきた感覚が抜け切れず、今更感情の起伏を豊かにしろと言われてもどうすればいいのか分からない。

 そもそも、鱗滝の教え的には義勇の方が正しいのだ。心に水面を浮かべる。つまりは何があっても乱されない強く静謐な精神を保つことこそが水の呼吸の真骨頂。だからこそ義勇も最後の最後で躊躇いが生じていた。

 

「もうムリだな」

 

 錆兎の言葉が重苦しく響き渡った。

 

「えぇー、まだまだ頑張れるよ?」

「確かにそうかもしれないが、医者でもない俺たちでは限界がある。最終選別も近い、一度切り上げるべきだ」

 

 最終選別までは残り一ヶ月といったところ。錆兎と義勇は最後の調整に入る段階で、集中して精神と肉体を研ぎ澄ます期間に突入していた。それが分かるからこそ真菰も引くしかない。

 頰を膨らませて唇を尖らせる真菰の頭に錆兎が手を置く。

 

「義勇も人間だ。閉じこもったこの空間から出て外の刺激を受ければ、自然と笑みを浮かべられるようになる。俺はそう信じてる。そうだろう、義勇?」

「……あぁ、力を尽くす。家族の願いだ、踏み躪ることはしない」

「……分かった」

 

 拗ねた様子のまま、それでも二人を信じる。

 真菰たちは意識を鍛錬一色へと切り替えて、最後の一ヶ月を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして遂に、その日がやって来た。

 朝から身支度を整え、腰に日輪刀を差し、頭に鱗滝から授かった厄除の面を付けた錆兎と義勇が外で立っている。

 

「準備は万端か?」

「はい」

「問題無く」

 

 鱗滝の言葉に二人は力強く頷く。体調は完璧で、気概も充ち満ちていた。

 錆兎と義勇の眼差しを正面から受けて、鱗滝は二人の肩に手を乗せた。

 

「最終選別、必ず生きて帰ってこい。儂も真菰も、此処で待っている」

『──はいっ!』

 

 二人の返事に満足した鱗滝は身を引いて、側に立っていた真菰へと場を譲る。

 前に一歩踏み出した真菰。

 試練に赴く二人を前に、真菰の中で駆け巡るのは濃密な思い出だ。

 朝早くから山を駆け回ったこと。

 刀の素振りを一緒にしたこと。

 水浴びと称して滝に打たれたこと。

 馬鹿やって鱗滝に叱られたこと。

 どれも大切な思い出で、掛け替えのない日々。

 

 大丈夫だ、二人は強い。最終選別の場にいるような雑魚鬼に遅れを取るわけがない。

 

 ……そう信じているのに、思ってしまう。二人が帰って来なかったらと。これが今生の別れになってしまわないかと。

 過去に最終選別へ挑んだ兄弟子と姉弟子は、二度と帰って来なかったから。

 

「錆兎、義勇……」

 

 こういう時こそ笑顔で送り出さないといけない。

 だけど上手くいかなくて。昨日までは平気だったのに、今日になって急におかしくなって。

 それでも伝えたい想いがある。伝えなければならない願いがある。

 

「っ!」

 

 真菰は力一杯二人に抱き着いた。

 潤んだ瞳を見られないように。

 零れる涙を悟られないように。

 

「絶対に……絶対に、帰って来てね……っ!」

 

 真菰の背に、二つの手が回された。

 

「ああ、絶対に帰って来る」

「必ず、二人一緒に」

 

 二人の温もりが背中から全身に伝い、真菰の心を落ち着かせてくれる。

 

 心配は消えない。不安は残る。

 

 でも、涙は引いた。

 

 名残惜しむように最後だけギュッと抱擁を交わした後、真菰は身を離す。

 

 そして、精一杯の笑顔を浮かべた。

 

「行ってらっしゃい、錆兎、義勇!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回、最終選別



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第2話 最終選別

 

 夥しい薄紫が出迎えた。

 視界を染め上げる大量の藤の花。山の中腹へと至る階段を彩るように咲き狂うそれは、鬼を寄せ付けず、鬼を閉じ込める結界となっている。

 

「荘厳だな」

「ああ」

 

 錆兎と共にその景色を見上げる義勇にとって、この光景は二度目だ。

 この場所は変わらない。最初に訪れた時も同じ感想抱いたなと、義勇は一人懐かしい気持ちに浸る。

 

 このひと時だけが最後の静寂だ。

 階段を登り切り、門を模した紅い柱を抜けた瞬間、そこはもう試練の場へと様変わりする。

 

「皆さま、今宵は最終選別にお集まりくださってありがとうございます」

 

 義勇たちが最後だったのだろう。

 広場へと足を踏み入れると同時に、中央にいた女性が凛とした声を発した。

 

(あまね様……)

 

 白樺の木の精と見紛う現実離れした美貌を持つその女性に義勇は見覚えがあった。

 産屋敷あまね。鬼殺隊当主、お館様と慕われる産屋敷輝哉(かがや)の御内儀である。

 

 義勇が知っているあまねはもう少し年を経ていたが、まるで変わらぬ美貌だった。現にあまねの美しさに見惚れてる者も多い。

 ちょっと気になって隣をチラリと見てみると、錆兎は只々真剣な眼差しであまねを見ていた。相変わらずの成熟さである。

 

 義勇は視線をあまねへと戻し、あることに気付いて眼を見張った。

 

(身籠もられている……?)

 

 ほんの少しだけ腹部が膨らんでいる。まさかと思って凝視してみるが勘違いではない。

 記憶を掘り起こして義勇は思い出した。

 

輝利哉(きりや)様か……)

 

 今はあの決戦から八年前だ。年齢的に該当するのは長男である輝利哉しか考えられない。

 自分以外の時間もちゃんと流れているのだなと、義勇はこの不可思議な現象に対して改めて感心する。

 

(身重の身でわざわざ来てくださるとは……)

 

 最終選別には産屋敷家の者が出迎える。これは慣例であった。死をも恐れずこの場に集まってくれた、鬼殺の剣士志望の子供たちに対する最低限の礼節としてだ。

 お館様も体調が良ければこの場にいたのだろうが、居ないのであればそういうことなのだろう。

 

 産屋敷一族の心遣いに感謝を抱きながら、義勇はあまねの言葉を聞いていた。

 

「この藤襲山には鬼殺の剣士様方が生け捕りにした鬼が閉じ込めており、外に出ることはできません。ご覧の通り、山の麓から中腹にかけて、鬼共の嫌う藤の花が一年中狂い咲いているからでございます」

 

 知っている。変わらない条件に義勇の心が波打つことはない。

 錆兎も同様だ。師である鱗滝に事前に聞いていた内容と相違ない。

 補足があるとすれば、この山にいる鬼共は人間を二・三人しか喰っていない雑魚鬼しかいないということ。何体いるのかまでは定かではないが、参加者に対して桁違いの量がいるわけではないだろう。

 

「しかしここから先には藤の花は咲いておりませんから、鬼共がおります。この中で七日間生き抜く。それが最終選別の合格条件でごさいます」

 

 ピンと張った糸のような緊張が場に下りる。

 それは参加者が全員はっきりと条件を理解した証左であり、試練の始まりを感じさせるものであった。

 

「では、行ってらっしゃいませ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終選別初日の夜。

 今この瞬間から命の保証が無くなり、山内に蔓延る鬼共との邂逅が余儀無くされた。

 

 最終選別突破の条件は七日間生き残ること。

 

 それを踏まえた上で、錆兎はこう提案した。

 

「二手に分かれよう」

 

 義勇は無言で錆兎と視線を合わせる。

 錆兎がそう言うだろうことは半ば予想が付いていたが、義勇としては簡単には頷けない。

 

「……何故だ?」

「二人で行動すれば生存率は上がるだろう。事前説明から反則事項ではないとも思う。だが、それで本当にいいと思うか?」

「……思わない。鬼殺隊員として単独で任務に就くことも考えられる。雑魚鬼しかいないとされるこの試練の場で一人で生き残れないようなら、いずれ死ぬ」

「俺もそう思っている」

 

 ずっと自分に言い聞かせていたことだ。錆兎の意見を後押しする発言だが、既に自分で答えを導き出しているだろう錆兎に嘘を吐く意味が無い。そもそも義勇には、相手を口先で言いくるめる技量は皆無だ。

 錆兎の実力も把握している。過去の初陣であるこの舞台でも錆兎は鬼を殲滅していた。

 

 だが、それでも錆兎は死んだ。

 そして、その理由を義勇は知らない。

 

「義勇、お前は何の為に剣を振るう?」

 

 此処でその話を持ち出すのか、と義勇は諦観を覚えた。恐らく錆兎は、義勇が何かに葛藤していることを見抜いているのだ。

 義勇は正直に、語った誓いを反芻するしかない。

 

「俺は護るために剣を振るう。民を、仲間を、友を、家族を、もう二度と目の前で死なせないために」

「ならば尚更だ。俺たちが共に行動しては、救えたかもしれない仲間の命を取りこぼす可能性もある」

 

 反論は、出来なかった。

 

「大丈夫だ、義勇。俺は、俺達は死なない。生きて帰ると鱗滝さんと真菰に約束した」

「……分かった、二手に分かれよう」

 

 信じよう、錆兎を。あの時よりも強くなった親友を、家族を。

 

 突如、殺気が襲い掛かった。

 

『っ!』

 

 即座に散開する二人の間に何かが降ってくる。

 盛大な土煙が上がり視界が遮られる中で、義勇と錆兎は冷静だった。

 

「ゔうぅぅぅぅぅぅぅっ!」

「ガァッ!」

 

 煙幕から飛び出したのは人間に似た容姿を持ちながら、人間には無い角を生やした異形。

 人喰いの化け物、鬼だ。

 どうやら降ってきたのは二体らしい。二人に一体ずつ突っ込んでくるのを、義勇と錆兎は静謐な眼差しで見据えていた。

 

 ──水の呼吸

 

 何百体と鬼を屠った記憶を持つ義勇に恐れは無く、初めての実戦である錆兎にも戸惑いは無い。

 自分たちがこの日の為に、どれほどの修練を積んできたか。

 鬼は敵だ。滅殺対象だ。自分たちの幸せを平然と壊す悪なる存在だ。

 

 振るう刃に迷いなどあるはずが無い。

 

【肆ノ型・打ち潮】

 

 同時に繰り出された奥義が鬼の全身を斬り刻み頸を刎ねる。

 断末魔を上げる暇も無い。頸を斬られた鬼は、さらさらと空気に溶けるように灰となって消えた。

 

「なるほど、これが日輪刀か」

 

 残心の後に納刀した錆兎が呟く。初めての戦闘に対する感想ではなく、日輪刀の力に感心を向けている錆兎は流石だった。

 二人は静かに歩み寄り、真っ直ぐに目を合わせる。

 

「いけるな」

「ああ、問題無い」

 

 意思統一はもう済ませたのだ。

 これ以上は無意味と言葉少なに拳を突き出す。

 

「七日目に此処で会おう」

「……死ぬなよ、錆兎」

「お前もな、義勇」

 

 タンッと拳を叩き合わせて別れとする。

 交差するように互いの真横を通って、二人は真反対の方向へ駆け出した。

 

(……さて、どうするか……)

 

 暗闇の中を走る義勇は鬼の気配を探りながら考えを巡らせる。

 錆兎の説得には失敗した。真菰がいたら「いや義勇説得なんて一言もしてないから!」とどやされるだろうが、義勇的には態度で示した時点で説得なのだ。口下手此処に極まれりである。

 共に行動するのが錆兎を救う最善の手であったが、別れてしまった以上義勇に出来るのは、一体でも多くの鬼を殲滅して同期の仲間を護ることだけ。

 それが巡り巡って錆兎を救うことに繋がるかもしれない。

 

 そう思えばと、先程義勇は何の感慨も無く鬼を斃した。

 記憶にある最終選別で鬼を一体も斬れなかった自分が。

 

(変えられる。蔦子姉さんのように……)

 

「うわぁああああああああああっ!」

 

 行く先で悲鳴が響き渡った。

 思考を打ち切り一歩の踏み込みで距離を潰した義勇は刀を抜き放ち、視界に入った鬼へと肉薄する。

 

 ──水の呼吸

【弐ノ型・水車】

 

 仲間に迫っていた貫手を斬り裂いてすぐに反転。此方に気付いた鬼を無視してへたり込んでいる少年の元へ寄る。

 

「無事か?」

「う、うん! 助かったよ!」

「どうする、一人で斬れるか?」

 

 義勇はあえて問い掛けた。

 義勇にとって目の前の鬼を葬るのは造作も無いことだが、それではこの少年が成長しない。ずっと側で護れないのなら、せめて力を付けてもらうしかないのだ。

 幸い少年は軽傷だ。まだ十分に戦えるだろう。

 

 少年も一度の攻防で義勇と己の力量差を理解していた。同じ場にいることが不自然な程のその強さを。

 少年は立ち上がり、刀を構えてから気合いを入れるように一息吐く。

 

「大丈夫だと言いたいけど……」

「肉を寄越せえええええええええっ‼︎」

『っ!』

 

 理性を失っている鬼が悠長に会話することを許さない。真っ直ぐに突っ込んでくるのを二人は避けて躱し、すかさず義勇が刀を振り上げる。

 

「支援する、お前が頸を斬れ!」

「分かった!」

 

 ──水の呼吸

【参ノ型・流流舞い】

 

 変幻自在な歩法により、流れる水の如き足運びを生み出す回避と攻撃を組み合わせた型。義勇は鬼を撹乱しつつ、相手の両腕を斬り飛ばす。

 

「今だ!」

「はぁああああっ!」

 

 ──全集中・炎の呼吸

【壱ノ型・不知火】

 

 直線に突き進み一閃にて敵を両断する。宙に舞う鬼の頭が少年の勝利を物語っていた。

 灰となって消え失せるのを見届けてから、少年は義勇へと振り向く。

 

「ありがとう! 助かったよ!」

「いや、お前の力だ。冷静になれば遅れを取る程ではないだろう」

「……初めて鬼と向き合って、思わず手が震えたんだ。君がいなかったら死んでたよ」

「もう大丈夫か?」

「……うん、もう大丈夫だと思う」

 

 最終選別で死ぬ者は初戦で恐怖に打ち勝てなかった者が大半だ。だからこそ一度乗り越えられれば、自然と自信も付いてそれが力へと変わっていく。

 この少年の技量もまずまずだ。流石に知り合いの炎柱には劣るが、冷静ささえ保てれば一対一で藤襲山にいる雑魚鬼に負けることないだろう。

 

「そうか、死ぬなよ」

「本当にありがとう!」

 

 最後にそう言い残して義勇は足早にその場から立ち去る。

 鬼の気配は近辺には感じられない。優れた五感など無い義勇は、長年の慣れの賜物である鬼の気配を感知する感覚に頼って探し回るしか無い。

 

 一人でも多く仲間を救う。

 一体でも多く鬼を葬る。

 

 その誓いを胸に、義勇は初日の夜を走り続けた。

 

 

 

 

 打ち合わせた訳では無いが、義勇は東に、錆兎は西に進んでいた。

 最終選別の参加者は夜のうちは東に位置取ろうという者が多い。鬼は陽光の下では行動出来ず、太陽が最も早く登るのが東方なのだから当然の選択であった。

 逆に夕暮れになる頃合いには西に移動する、という者もいる。少しでも夜の時間を短く過ごしたいという思いからだ。だが体力との相談でもあるので、昼夜問わず移動し続けるのは無理な話。

 また鬼の襲撃を受けて現在位置を掴めなくこともざらにあり、強引にまとめてしまえば参加者は臨機応変に対応するのが一番だ。

 

 では、鬼はどうなのか。

 

 答えは無秩序。藤の花に囲まれたこの舞台であれば何処にでもいる。

 最終選別の場にいる鬼は人を二、三人しか喰っていない謂わば雑魚鬼だ。

 鬼は喰った人間の数だけ強くなるし、知能も付く。

 つまり雑魚鬼は弱く知能が低い。理性的な行動など取れるはずもないのだ。

 

 長年この藤襲山で人間を喰って、しぶとく生き残っているような個体がいない限りは。

 

「くくく。まただ、また来たぞ」

 

 異形の鬼は嗤っていた。

 人間の姿形など見る影もない、子供が落書きで描く化け物そのもの。体長は縦も横も成人男性三人分にも達する巨体で、全身のあらゆる箇所から大小の腕を生やした異形の鬼。

 見る者が見れば分かる。この鬼は少なくとも三十人は喰らってきたと。

 確かな理性を保ち、残虐なまでに発達した身体は決して雑魚鬼の括りに収まらない。最終選別に挑む参加者には荷が重すぎるだろう。

 

 その鬼は山の東側にいた。知っているのだ。此方側に馬鹿な獲物たちが雪崩れ込んでくることを。

 早速やや遠い位置に一人の子供を見つけた。どうやら別の鬼と戦闘中らしく、怖気付いた様子で逃げ回っている。

 恐らくあれは介入するまでもなく死ぬだろう。

 だからといって、折角の御馳走を見逃す理由にはならないが。

 

「くくく、さて、喰いに行くか」

 

 異形の鬼は脚を進めようとしたその瞬間──体感したことのない怖気が全身を駆け巡った。

 

(なッ⁉︎ なんだこの感覚は⁉︎)

 

 理性では無く本能で動きを止める。

 下手に行動すれば死ぬ。何故かそれが理解できた。

 

 答えは、たった今見ていた戦場に現れた。

 

(狐面のガキ! 鱗滝の弟子かっ!)

 

 一瞬で感情が憎悪に支配されるも、その少年が一太刀で鬼を屠るのを見て忽ち冷静になる。

 同時に、心中でガンガンと途轍も無い警鐘が鳴らされた。

 

(あのガキはヤバい……勝てない、必ず殺される……っ⁉︎)

 

 通常鬼にとって、人間は食糧以外の何ものでもない。男より女の方が栄養があって美味いとかそういう差異はあるが、基本的には区別なく人肉としてしか見れないのだ。

 それは相手が鬼殺の剣士であろうと変わらない。鬼からすれば訓練を積んでいない人間と鬼殺隊員かの区別など、一目で分かることの方が少ない。

 

 相手が化け物染みた強さで無ければ。

 鬼殺隊最強に座する柱たる者達の強大さを、異形の鬼は思い出した。

 

(あの時の鱗滝と同等、いや()()()()だッ! 無理だ無理だ無理だッ‼︎)

 

 異形の鬼は一目散に逃げる。自分をこんな牢獄に閉じ込めた恨みの元凶である者の弟子であると分かっていながら、恥も外聞も無く逃走していた。

 あの狐面は無理だ。絶対に勝てない。近付いてもならない。気付かれればその瞬間に、自分の頸が刎ねられる。

 

(覚えた、覚えた、覚えたっ! 黒髪を一つに結った狐面。あのガキはヤバい‼︎)

 

 異形の鬼は離れるように東に逃げる。

 そして少年も東に脚を進める。長年の経験だけで此方側に何かいると、直感だけで動き続ける。

 

 立場が逆転した絶望的な鬼ごっこが始まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

 

 少女は肩で息をする。溜まった疲労は抜け切ることはなく、日を跨ぐ毎に着実に増していった。

 

「俺の獲物だァっ! どきやがれ!」

「テメェが消えろォッ!」

 

 五日目の夜、目の前には鬼が二体。

 端的に言えば運が無かった。どうしてか連日連夜鬼と遭遇し、集中を解く暇がなく心休まる時間が皆無だった。全てが一対一だったのが幸いして生き残れたが、此処に来て二体同時に相手取るのは至難である。

 それでも挫けることは許されない。少女には、生きて帰らねばならない理由があるのだ。

 

(キツイけど……私は死ねない。帰らなきゃ、あの子を一人にしちゃうもの!)

 

 最終選別の場に連れて来なかった最愛の家族を想い、少女は気力を振り絞って息を吸う。

 深く、優しく、全身に空気が行き渡るようにと祈りながら。

 

 ──全集中・花の呼吸

 

 フゥウウウッ、と呼吸音を鳴らし、神経を研ぎ澄ます。

 揉めていた鬼達は結局、争うように我先にと詰め寄っていた。連携など何もない、ただ此方に迫るだけ。

 都合が良い。技は連発すればするほど疲れるのだ。一息で頸を断てるのならそれに越したことはない。

 

 肉薄してくる鬼達を静かに、微かな哀れみを瞳に乗せて見据える。

 焦らない。

 死ぬかもしれないという恐怖に打ち勝つ。

 ギリギリまで引き寄せて、そして。

 

「っ‼︎」

 

 少女は一歩踏み込んだ。

 

【伍ノ型・(あだ)芍薬(しゃくやく)

 

 奔る複数の銀閃。桃に色づいた斬撃の数は五を超えて、鬼二体の全身を斬り刻んだ。

 

『ガァッ⁉︎』

 

 最後の横一閃にて頸を断つ。

 唯一の弱点である部位を斬られて鬼は灰となって消滅した。

 その様子を彼らの来世の幸福を願いながら見届けた後、少女は倒れ込むように地面に膝と両手を付いた。

 

「はぁっ、はっ、はぁっ、はっ‼︎」

 

 息が荒れる。落ち着こうと思えば思うほどに呼吸が浅く早くなっていく。

 少女は既に限界を迎えていた。

 

(落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて……まずは息を整えないと。まだ二日ある。とりあえず、朝まで……)

 

「──よォ」

「ッッッ⁉︎」

 

 耳元の声が届くと同時、激烈な衝撃が少女を襲った。

 

「くッ⁉︎」

 

 蹴鞠のように吹き飛ぶ。ごろごろと地面を転がり、痛みを堪えながら何とか体勢を整えて少女は両足を付いた。

 

(腕が……⁉︎)

 

 反射的に構えた日輪刀の柄部分に攻撃が当たったことで運良く致命傷は避けられたが、その一撃だけで両腕が完全に痺れていた。

 少女は自分が元いた場所に視線を走らせる。

 其処にいたのは先程斃した鬼とはまた違う、瞳に理性を宿した鬼だった。

 

「今のを防ぐなんてなァ。女の分際でやりやがる」

 

 鬼は振り抜いた脚を元に戻す。その挙動で少女は初めて自分が蹴撃を受けたのだと理解するも、状況が好転する気配は全くない。

 むしろ逆、絶望的な窮地に堕ちていると知った。

 

(この鬼は強い……今の私じゃ……)

 

 腕は動かない。呼吸は戻らない。視界は霞む。

 気概だけで立ち上がるも、終幕は呆気なく降ろされる。

 

「じゃあ死ね」

「あっ……」

 

 鬼の姿が掻き消えたかと思った次の瞬間には、鬼は目の前で脚を振るおうとしていた。

 眼に映る光景がゆっくりと進んでゆく。

 身体は動かない。

 ただゆっくりと、迫り来る運命を受け入れるしか。

 

 ──死……

 

『姉さん』

 

 思い浮かんだのは、最愛の妹の笑顔。

 これが、走馬灯……

 

 

 

 ──水の呼吸

【漆ノ型・雫波紋突き】

 

 

 

 蒼き流星が視界を横切った。

 その瞬間に、急速に景色が流れていく。

 

「なっ⁉︎」

 

 発生した突風に顔を手で防ぐ。

 突然の事態に驚きながらも、少女は視線を鬼ごと消えた影へと向ける。

 その時には全てが終わっていた。

 少女に見えたのは、誰かが仰向けに倒れている鬼の頸を一閃で斬り飛ばしたところだけだった。

 

(……た、助かったの?)

 

 少女は呆然と、命の恩人たるその人が此方に振り返るのを見る。

 少年だった。特徴的な狐の面を付け、漆黒の髪を一つに結った、蒼の日輪刀と同じ色の静謐な瞳を持つ少年。

 

「無事か?」

「う、うん、大丈夫……」

 

 凛とした雰囲気とは似合わない少し高い声。声変わりも終えていないのなら年下だろうか。

 展開の早さに追い付いていない頭がどうでもいいことを考えてると、静かに歩み寄っていた少年の足が止まった。

 顔を見るに、微かに瞠目しているので驚いているようだ。

 

「お前は……」

 

 その時になって、少女はやっと言うべき言葉を思い出した。

 

「ありがとう……本当、に……」

 

 脚がふらついた。どうやら直前の死の重圧が、少女の気力を根刮ぎ奪い去っていたようだ。

 意識が暗転する。戦場にいることも忘れて、少女は気を失う。

 最後に感じたのは、身体を包む暖かな温もりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼下で眠る少女。突然倒れるように気を失った彼女を咄嗟に抱き支えて、寝やすい姿勢にした後にまじまじとその顔を見る。

 似ている。面立ちも、身に付けている物も。いや、物に関しては同じかもしれない。

 

 紫掛かった黒の長髪。

 蝶の羽を模した羽織。

 硝子細工の蝶の髪飾り、それが二つ。

 

 最初は誰かも分からずに助けたが、月明かりの下ではっきりと顔を見た時には思わず固まった。

 

 ──そうか、同期だったのか……

 

「……んぅ」

「起きたか」

 

 少女の瞳がゆっくりと開く。

 朧になった視界で少女は上手く働かない頭を回転させて、今自分がどういう状況だったのかを思い出そうとした。

 

(……私は、確か……最終選別に……っ‼︎)

 

 眠気が吹き飛んだ。

 ハッとして瞳を見開いた。

 

 目の前にとても綺麗な二つの蒼の宝石があった。

 

「君は、さっき助けてくれた?」

「ああ。どうやら大事ないようだな」

 

 少女は直前の出来事を思い出す。

 

(そうか、私気を失って……)

 

 不覚だ。下手をすれば永遠の眠りに就くところだった。事実、少年の助けが間に合わなかったら死んでいただろう。

 もう一度御礼を述べようと考えた時、ふと自分がどういう状態なのかに意識が傾いた。

 

(温かい……それに、なんか後頭部が柔らか固い……?)

 

 自分は今仰向けに寝転がっている。身体は若干の凸凹の上にあって寝心地が悪いが、後頭部だけは枕とは異なる何かが敷かれていて不思議と落ち着く。

 至近距離で此方を見下ろす少年。

 下半身は見えない。

 後頭部にだけある温かさ。

 

 膝枕されていた。

 今日初めて出会った年下であろう少年に膝枕されていた。

 ぼっ、と顔が紅く燃える。

 

「わっきゃあああああっ⁉︎」

 

 認識と同時に奇声を上げて起き上がる。

 少年は目を見開いて驚いているが、少女は諸々の恥ずかしさが凄まじくて気にしていられない。

 

「大丈夫か? どこかに大きな怪我でもあったか?」

「だだだ大丈夫よ! それより、ありがとね。ホントに助かったわ」

 

 わたわたと両手を振る少女を訝しむ少年だったが、本当に大丈夫なのだろうと判断して立ち上がる。

 少女も紅潮する頰を冷やすように手で仰いだ後に、立ち上がって服に付いた汚れをパッパと払った。

 

「どのくらい寝ていたのかしら?」

「三十分程だ。疲れているのだろうが、日が昇るまでは起きていてくれ」

「うん、もう大丈夫よ。大分楽になったわ」

 

 睡眠時間に反して効果は絶大だったのか、気力が戻った身体を軽くほぐす。

 側に置いてあった日輪刀を拾い上げて、少年に向き直った。

 

「まだ自己紹介してなかったわね。私はカナエ、胡蝶カナエよ。よろしくね」

「冨岡義勇だ」

「義勇くんだね。私のことはカナエって呼んで?」

「分かった」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 少女──胡蝶カナエは、義勇と名乗った少年に微笑む。

 名前を聞き、その笑顔を目の当たりにして、義勇にはやはりという思いが浮かんだ。

 

(胡蝶カナエ……胡蝶しのぶの姉か……)

 

 義勇としては、ほとんど覚えていないというのが率直の感想だ。此処に至るまで、同期だったというのも知らなかった。

 もちろん蝶屋敷に世話になったことはざらにある。むしろ他の隊員より多かったと言っても過言ではないだろう。

 

 最終選別後の数年、義勇は心身共にボロボロだった。

 

 無茶な鍛錬、無謀な鬼殺任務の数、重傷を負った場合を除き、一切の休憩を挟むこと無く奔走していた。

 でなければ思い出してしまうから。最愛の姉を、親友を、仲間を喪った時の悲しみを。

 一度止まってしまったら、もう二度とそこから動けない。そんな強迫観念に囚われていた。

 

 周りの制止の声も顧みず、義勇はがむしゃらに突き進んだ。

 その中にはカナエもいたのかもしれない。しのぶもいたのかもしれない。

 それでも義勇は覚えていなかった。煩わしいとすら思っていたかもしれない。

 周りの人間関係の全てを犠牲にして、義勇は死に急いでいた。

 

 落ち着いたのは、柱を任命されてからだ。

 自分には不相応な立場である。無礼にも数度は断った。それでも尊敬するお館様に強く勧められ、形だけでもと拝命したのだ。

 それ以降も無理は繰り返していたが、ある時お館様にも軽いお咎めを受けた。

 

 上に立つ者は、下の者への手本とならなければならない。

 

 自分が上だなんて微塵も思ったことは無かったが、なまじ立場がある為に反論出来なかった。

 その頃になってやっと周りを少し見回す余裕が出来たのだが、その時には既にカナエは故人だったのだ。

 尤もカナエの存在を知ったのも、妹であるしのぶが蟲柱となってから。

 

 だからカナエと真面に会話をするのはこれが初めてで。

 一番に思ったのは違和感だった。

 

(胡蝶に似ているが……どこか似ていない。カナエの方が笑みが自然で……蔦子姉さんの笑顔に似ている)

 

 しのぶの笑顔を思い出す。

 彼女は基本的には笑みを絶やさない少女だったが、カナエの笑顔を見た後だと思うのだ。何処か空っぽだったなと。

 

 思う所はあったが、今は雑事と義勇は思考を切り替えた。

 

「カナエ、あと二日ある。一人で生き残れるか?」

「……さっきあんな目にあったばかりだからちょっとね……」

 

 面目無いです……と落ち込むカナエ。ある程度快復した今なら先ほどの鬼にも遅れを取るとは思わないが、決して本調子と言える状態ではなかった。

 義勇は咎めない。見れば分かる、カナエは最終選別参加者の中でも強者に当たるだろう。

 むしろ一人で探索したいなどと言われなくて都合が良かった。

 

「なら頼みがある」

「なにかしら? 私に出来ることなら何でも言って!」

「此処から西。最初の広場のほど近くに参加者が集まっている。負傷した者や戦意喪失した者を、幾人かの動ける者で守護してもらっている。カナエにも合流してほしい」

 

 カナエは驚きで瞠目する。

 そんな発想が無かった。最終選別が始まってから今の今まで、自分の安全しか頭の中に無かった。

 率先して他者を慮る余裕など、カナエには無かったのだ。

 

 それを義勇は何ともなしに平然と行なっている。目の前の、年下であろう少年が。

 カナエは無性に情けなくなった。

 

(鬼殺隊に入ろうと決心した時の想いを見失うなんて……)

 

「カナエ……?」

「あっ、ううん。何でもないのよ。話は分かったわ。私もそこに合流して全力を尽くすから」

「感謝する」

「義勇くんはどうするの?」

「俺は今日中に東側全域を回ってから西側に移動する。中央までは既に一掃した。恐らく鬼と出会わずに合流出来るだろう」

「……分かったわ」

 

 なんて気高いのだろうと、カナエは思う。

 義勇は自然体なのだ。それでいて、誰かを護ることを最優先に考えて行動している。

 そしてそれを成し遂げる気概も力も備えているのだ。

 

(思うだけじゃダメなのね。私ももっと強くならないと!)

 

 カナエは最後に微笑んでから、義勇に感謝する。

 

「気を付けてね。さっきは本当にありがとう!」

「ああ、カナエも気を付けろ」

 

 両者共に駆け出して別れる。

 義勇としては付き添っても良かったのだが、妙な胸騒ぎに従って探索を優先した。

 

(初日から感じていた鬼の気配を見失った……西側に逃げられたか……?)

 

 一先ずの方針として東側の鬼を殲滅する。

 この五日で三十体以上屠ったために残りは居ても数匹だろうが、取り零しがないよう念入りに捜索するつもりだ。

 残り二日は西側に進出し、錆兎と合流する。

 

(あの時の最終選別で死んだのは錆兎だけ。鬼の殆どが錆兎によって殺された。……恐らくだが、錆兎は最終日まで生きて居たはずだ)

 

 助けられた義勇が言うのもあれだが、あの時の最終選別での実力者は錆兎ぐらいだったのだろう。次点でカナエがいたのかもしれないが、死者が一人しかいないのというのはつまり、最終日まで参加者を守る存在が必要だったはず。

 

(可能であるならば明日合流したいが……)

 

 神経を尖らせて、義勇はひた走る。

 東側から鬼の姿が一体残らず消え失せるのは時間の問題だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「包帯を取り替えるからじっとしていてね」

「ありがとう、ございます……」

 

 血で汚れ赤く染まった包帯をカナエは優しく巻き取り、自前の新しい包帯を用いて負傷箇所を覆う。

 側でその様子を見ていた少女が感嘆の溜め息を漏らした。

 

「カナエさんは本当に上手です。医学の知識があるのですか?」

「うん、少しだけね。鬼によって孤児になった子を養う屋敷に住んでるんだけど、そこは鬼殺隊員の治療院にもなってるの。私と妹はずっとそこでお手伝いしてたから、自然とね」

「そうだったんですね」

 

 会話を交えながらもカナエの手が止まることはない。

 慣れた手捌きであっという間に包帯を取り替えたカナエは、倒れている少年に声を掛ける。

 

「終わったわ。今日が最終日だから無理はしないで横になっててね!」

「はい……」

 

 処置を終えた少年に寝ているよう言い伝えてからカナエは立ち上がり、他に手当てが必要な者がいないかを見渡す。

 カナエ含めてこの場に十名以上いて、殆どが負傷したか戦意喪失したかで動けない者だ。その他の動ける参加者は護衛と警戒を兼ねてこの場を中心に円状に配置されており、一種の野戦病院として機能していた。

 見回してカナエは安堵する。どうやら致命傷を負った者はいないようで、今夜を乗り越えて適切な治療を受ければ完全回復が可能だと分かったからだ。

 

 死者零人という快挙を成し遂げる立役者となったのは二名の参加者。

 

(義勇くんと、錆兎くんだったかしら?)

 

 狐の面を付けた少年に助けられた。

 此処にいる皆が口を揃えてそう言う。

 一人はカナエも助けられた黒髪の少年である義勇のこと。

 もう一人は右頬に傷跡のある宍色の髪の錆兎という少年らしい。

 

(同じ狐のお面を付けているのなら、きっと同門なんだわ)

 

 持参した包帯や軟膏をテキパキと片付けながら、カナエは二人の関係性に当たりをつける。

 義勇はその目で見たから知っているが、恐らく錆兎も相当の実力者なのだろう。

 

 この臨時的野戦病院はこの二人が示し合わせたように作り上げたものだ。助けを呼ぶ声に応じて二人が鬼を殲滅し、一人二人と増えていった救助者をまとめて守護する為に設けた場所。

 二人が直接居合わせた場面を見た者はいないらしいが、代わる代わる訪れて助けた者たちを預ける姿を目撃している子は多い。

 

 純粋に凄いとカナエは感嘆する。

 どちらもカナエより一つ年下──二人とも十三歳だと聞いたと他の子が言っていた──にも関わらず、こうも完璧な連携で人命救助を行えるのだから。

 

 死者は居らず、気付けば最終日の夜を迎えている。

 このまま無事に過ごせれば、全員で生還できるだろう。

 

 そんなに都合良く終わる筈がないのに。

 

「……何事もなければいいのだけれど」

「──負傷者です! 誰か来てくれませんか⁉︎」

 

 周囲の警戒を行なっていた子の声が耳朶を打った。

 即座に自身の甘い考えを切り捨てて、カナエは急いで声の方へと向かい合流する。

 

「……っ⁉︎」

 

 全身傷だらけの少女を見て絶句した。両腕が膨れ上がるように腫れており、一目で重傷だと分かってカナエは慎重かつ迅速に行動に移す。

 

「横にします! そのまま支えていてください!」

 

 肩を貸していた少年と共にカナエは少女の身体を労わりながら、体勢を横にして寝転がらせる。

 すかさず全身を隈なく確認して、カナエは心中でひとまず安堵した。

 

「……両腕が折れてますが、命に関わりそうな傷は見る限りありません」

 

 あえて断言するように告げると、少年と少女の緊張が目に見えて解けていくのが分かった。

 だからといって放っておいていいものではない。カナエは素早く添え木を用意して適切な処置を施す。

 

「今はこれくらいしか出来ないけど……」

「ありがとうございます……それより、あの人を……」

 

 必死に懇願する少女の言葉を聞いて、心当たりが二人浮かんだ。

 

「あの人って髪は黒色? 宍色?」

「宍色の、錆兎さんという、方です……」

 

 少女は折れている腕を動かして、カナエの羽織を掴む。

 激痛が走っているだろうに、顔を歪ませながらも心の燃料だけで言葉を募る。

 

「錆兎さんを、助けて! 私のせいで、怪我を……すごく大きな異形の鬼に、一人で……っ!」

「っ⁉︎」

 

 飛び出た言葉に驚愕する。

 雑魚鬼しかいない筈のこの藤襲山に異形の鬼など存在しているなんて、冗談にしても性質(たち)が悪い。

 でも分かる。間違いなくそれは存在しているのだと。

 

 ならば救援に向かわなければ。

 

 思考に雑音が混ざる前に、カナエは即断で決心を固めた。

 

「どっちかな?」

 

 少女は震える指をもって戦場の在り処を示す。

 

「ありがとう! この子をお願い!」

 

 側に控えていた少年に言い残して、カナエは全力疾走でその場を離れる。

 

(お願い、無事でいて!)

 

 命の恩人たる義勇の同門を、義兄弟の無事を願いながら、カナエは疾風となって木々の合間を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時を少しだけ遡る。

 

「もうすぐで皆が集まっている場所だ」

「ありがとうございます、錆兎さん。ご迷惑ばかりかけて……」

「気にするな」

 

 最終日の夜。

 錆兎は鬼に襲われ負傷していた少女と合流し、山の中央へと向かっていた。

 最終選別も今夜をもって終了する。

 西側にいた鬼は粗方斃し尽くした筈だ。一応まだ他の参加者がいないかを確かめる為に今日一日で最後の探索を考えていた錆兎だったが、今からでは完遂するには時間が足りない。

 このまま野戦病院の守護に徹するべきだろうかと考えていた。

 

(知る限り死者は出ていない。結局義勇と会うことは無かったが、まぁ問題ないだろう)

 

 気懸りではあったが心配はしていなかった。

 既にこの七日間で何十体と鬼を斬った錆兎だからこそ分かる。義勇がこの程度の相手に遅れを取るわけが無い。

 たった三ヶ月で水の呼吸の教えを全て修得し、その先の可能性すら示し、今では錆兎ととも対等以上に渡り合える義勇だ。例え十対一という状況であろうと、この舞台にいる鬼共など瞬殺できる。

 

 ならば後は今夜を乗り越えて試練の終わりを待つのみか。

 

「……ようやく見つけたぞォ、俺の可愛い狐を」

 

 その思考は突如木霊した不快な声に中断させられた。

 

『っ⁉︎』

 

 異質な声音と発せられる鬼気に警戒心を露わにする。

 二人は自然と背中合わせとなって周囲を見渡し、声の主の姿を待つ。

 

 最初に目視したのは少女だった。

 

「……嘘……なんであんなのが⁉︎」

「……異形の鬼か」

 

 振り向いた錆兎が確認すると、人の身の丈を優に超える、全身から幾多もの腕を生やした異形の鬼がいた。

 内心で己の甘い考えを叱咤し、錆兎は緩んだ気を引き締め直す。

 少女を一瞥する。刀を持った手は震えており、戦意を失いかけているのは一目で理解出来た。

 

 故に結論は早い。

 

「君はこのまま中央に合流し、このことを伝えるんだ。可能ならば距離を取るように言え」

「さ、錆兎さんは……まさか戦うんですかっ⁉︎」

「誰かが相手取る必要がある。俺なら問題無い、行け」

 

 強い口調で告げる。拒否は認めないという錆兎の双眸を覗き見て、少女は唇を噛んで決断するしか無かった。

 己の無力が原因で錆兎の足手纏いになる方が怖い。

 

「必ず救援を呼んできます!」

 

 傷付いた身体を庇いながらゆっくりと駆け出す少女を最後まで見送ることなく、錆兎は異形の鬼と対面する。

 敵意を漲らせて、錆兎は理性ある鬼を真正面から見据えた。

 

「狐小僧。今は明治何年だ?」

「質問に答える義理がない」

「鱗滝の弟子は教育がなってないな。そんなのも分からないのか」

「……どうして鱗滝さんを知っている?」

 

 ピリッ、と張り付く剣気が錆兎から溢れる。

 錆兎は気にしていた。この鬼は錆兎のことを可愛い狐と、狐小僧と連続で呼んだ。

 まるで知己であるかのような、その素ぶり。

 

 久し振りの会話が嬉しいのか、鬼は丁寧に錆兎の問いに答える。

 

「知ってるさァ! 俺を捕まえてこの藤の花の牢獄にぶち込んだ張本人が鱗滝だからなァ。もう四十年程も前になる」

「そうか、その醜い身体と腐敗臭はそういうことか」

 

 ギリギリと怒りで自分の身体を握り潰す鬼に対して錆兎は態度を崩さない。

 生意気な錆兎が気に食わない鬼は血管という血管が全身に浮き上がる。

 

「鱗滝め鱗滝め鱗滝めェ! 俺をこんなところに閉じ込めやがってェ! 許さん、絶対に許さんんんッ!」

「御託はいい、失せろ」

 

 錆兎が日輪刀を構える。

 勝てない相手では無い。厄介な体格をしているが、言ってしまえばそれだけだ。頸を刎ねる隙を作って刃を振り抜くのみ。

 錆兎の様子を見て異形の鬼は忽ち冷静になる。

 そして、クスクスと嗤い始めた。

 

「いいのか?」

 

 全ての手の人差し指がとある方向を示した。

 それは中央に向かった少女の背を指しており。

 

「先にあのガキが死ぬぞ?」

「……きゃああああああああああっ⁉︎」

「っ、貴様っ⁉︎」

 

 恐怖に満ちた叫び声を聞いて錆兎は俊足をもって駆け、五秒もかけずに少女に追い付いて己の失態を悟る。

 少女は地中から現れた巨大な手に握り潰されていた。

 

「痛い痛い痛い痛いッッ‼︎ 誰かぁッッ⁉︎」

 

 ──水の呼吸

【弐ノ型・水車】

 

 縦回転斬りにて巨腕を両断。

 少女を拘束する指を全て斬り刻み、錆兎は跳躍して空いた片手で少女を脇に抱え込んだ。

 

「離してッッ! 離してェェッッ‼︎」

「落ち着け! 俺だ、鬼じゃない!」

 

 あまりの激痛と恐怖で恐慌状態に陥っている。

 そう判断して怒鳴るように宥めるが、錆兎に失策を嘆く時間は与えられなかった。

 

「死ねぇッ!」

「ッ⁉︎」

 

 地中から更に溢れる膨大な手の平。その全てが錆兎に向けて殺到し、矮小な人間を握り潰さんと開閉を繰り返す。

 少女の身を案じて咄嗟に飛んだのは失敗だった。

 地に足が付いていないこの状態では、少女を庇いながら無傷で乗り越えるのは錆兎でも困難。

 

「ッッ!」

 

 それでも空中で振るう刃に迷いはない。

 的確に相手の攻撃を捌いて捌いて捌き切る。

 全てを斬り終えて両足を地面に付けたその時、鬼の薄ら笑いが聞こえた気がした。

 

「さァ、これならどうする?」

 

 ズン、と地面が揺れ、地中より現れる鬼の手。

 錆兎の足元に二つ。

 少女を狙った腕が多数。

 

(此奴ッッ!)

 

 戦い慣れている。四十年此処に巣食ってきたのいうのは伊達ではない。戦闘経験においては錆兎など足元にも及ばないだろう。

 

 本来であれば、この鬼もこんな回りくどい戦闘方法は取らなかった。否、今までは取る必要が無かったのだ。この場に訪れる鬼殺の剣士の卵たちは、実力差で押し潰せるのだから。

 では何故錆兎相手にここまで手の込んだ戦いを仕組んだかと言えば、それはひとえに初日に見た鱗滝の弟子──義勇の存在が大きかった。

 

 錆兎は見ただけで震え上がるような恐怖は湧かなかった。

 だかそれが弱いという同義にはならない。

 むしろ同世代なのだから強者である可能性の方が高いと睨んだのだ。

 

 事実、錆兎は強かった。

 只の参加者ならもう詰んでいる攻撃を、錆兎は捌き続けている。

 

 しかし、この攻撃の悪辣さは錆兎の力を僅かに上回ったようだ。

 

 錆兎は、見捨てるという判断が下せなかった。

 

「はぁあああっ‼︎」

 

 自身の足首を握り潰そうとする手を無視して、錆兎は少女目掛けて襲い来る手の悉くを斬り刻む。

 全てを斬り終えた後に足元を一閃。

 

 その直前に、足から嫌な音が鳴ったのを錆兎は聞いた。

 

「っ!」

 

 渾身の力で錆兎は背後に跳躍。

 地面を削るように制止して、錆兎は脇に抱えていた少女を見る。

 状況を理解した少女は涙目で錆兎に謝り続けていた。

 

「あぁ……っ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいッ! 私のせいで、私のせいでッ⁉︎」

「泣くなっ‼︎」

 

 大音量の一喝に少女がビクンと震える。

 

「君も鬼殺の剣士を目指す者だろう! ならば泣くな! 男も女も関係ない。俺たちが挫ければ、多くの民が死ぬんだぞ!」

「……はいっ、……はいっ!」

「ならば行け! 振り向かずに中央まで走り抜けろ!」

「はいっ‼︎」

 

 解放された少女は走る。折れているだろう腕を懸命に動かして必死に。

 

「逃すと思うかァ?」

「追えると思うなよ?」

 

 鬼の挑発に錆兎は静かに刀を振り上げる。

 

 ──水の呼吸

【捌ノ型・滝壺】

 

 地面が爆砕する振り下ろしで土煙を巻き上げる。

 立て続けに爆音が鳴り響き、土埃が甚大な煙幕として鬼の視界を土色に染め上げた。

 

(クソッ、見失った! 女も狐小僧も!)

 

 錆兎が巻き起こした土埃は少女の足取りを隠すと同時に、錆兎自身の目眩しとしても機能した。

 一瞬の判断で下した攻守備わった一手。

 

 ──水の呼吸

 

「ッッ⁉︎」

 

 真横から襲い来る重圧に気付いた異形の鬼は、動かせる全ての腕で防御に回った。

 

【陸ノ型・ねじれ渦】

 

 土煙を突き破って現れた錆兎が上半身と下半身をネジのように捻り、壁と化した鬼の腕を一太刀で叩き斬る。

 

「ちぃっ!」

 

 仕留め切れなかったことに錆兎は舌を打ち、仕切り直しを考えて間合いを取った。

 鬼から視線を外さずに、錆兎は足の具合を確認する。

 

(痛みが酷い。左は捻挫で、恐らく右は折れているか……)

 

 踏み込むだけで両足共に激痛が苛み汗が止まらない。

 機動力は十全の半分程度にまで落ち込んでいる。

 それでもまだ、錆兎には勝機が見えていた。

 

(呼吸で痛みを和らげる……)

 

 この状態でも冷静に事を運べば十分に対応可能だ。

 少しでも気が散らぬように足の痛みを誤魔化しつつ、錆兎は相手の頸を刎ねる戦術を模索する。

 

 一方、異形の鬼は内心で焦燥に駆られていた。

 

(このガキも異常な強さじゃないかッ⁉︎ 足を折った手応えはあったのにこの動き!)

 

 侮らずに足を奪ったというのに、錆兎はそこらの参加者より依然速い。

 鬼も悟る。未だに分が悪いと。

 だからこそ、鬼は嘲笑を隠さなかった。

 

「やるなァ、狐小僧。お前ほど強い鱗滝のガキはいなかった」

「……なんだと?」

 

 聞き捨てならない台詞に錆兎は反応してしまう。

 異形の鬼は見せ付けるように指折り何かを数え始めた。

 

「九……、十……、十一……、お前で十二だ」

「……何の話だ?」

 

 口振りから予想は出来ていた。

 それでも問わずにはいられなかった。

 錆兎の荒れ狂う心中を想像したのか、異形の鬼は口元に手を寄せてクスクスと嗤う。

 

「俺が喰った鱗滝の弟子の数だよ。アイツの弟子はみんな殺してやるって決めてるんだ」

 

 重苦しい静寂が空間を押し潰す。

 日輪刀の柄の形が変わるのではないかという力が手に込められる。

 一滴の雫が波紋となって、徐々に波がおおきくうねり始める。

 

「目印なんだよ、その狐の面がな。鱗滝が彫った面の木目を俺は覚えてる。アイツが付けてた天狗の面と同じ彫り方だ」

 

 鬼はお喋りを止める気はなかった。

 知っているのだ、この話をすると相手は冷静さを失って、我を忘れて突撃してくることを。

 そうするとどうなるか。簡単だ、手玉に取りやすくなる。

 そうやって殺してきたのだ。

 

「厄除の面とか言ったか? それを付けてるせいでみんな喰われた」

 

 クスクス、クスクスと嗤い続ける。

 

「みんな俺の腹の中だ。鱗滝が殺したようなもんだ」

 

 ブチッ、と何かが切れた。

 

「あいつらの悲鳴は最高だったな。特に手足を引き千切った時は」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 赫怒が燃え上がる。

 過去に無い怒髪天を衝いた形相で錆兎は咆哮した。

 

「貴様ぁあああああああああッッッ‼︎」

 

 怒声が戦闘再開を告げる号砲となり、異形の鬼は多数の腕を伸ばして錆兎を襲う。

 錆兎はそれらを力任せに叩き斬る。身体に染み付いた熟達した剣技が陰るような闇雲な斬撃。

 それでも錆兎の力は相手の攻めを上回り、腕の護りを難無く突破する。

 

 伸び切った腕は直ぐには戻せない。

 これまでの戦闘でその事実を見抜いていた錆兎は躊躇い無く跳んだ。

 

 ──水の呼吸

 

 目の鼻の先に現れた錆兎に鬼は仰天する。

 

(ここまでやってまだ駄目なのか⁉︎)

 

 あり得ない強さだ。

 過去に類を見ない飛び抜けた実力。完全に見誤った。

 

 鬼は咄嗟に可能な限りの腕を集めて頸を覆う。悪足掻きであろうと、これしか出来ることがない。

 

 眦を釣り上げた錆兎は、交差した両腕を一気に振るう。

 

【壱ノ型・水面斬り】

 

 確実に頸を横切る軌道の斬撃。

 死を直視した鬼は、予想外の光景に瞳を見開く。

 

 ──パキンッ!

 

 振り抜いた錆兎の日輪刀が、半ばから折れていた。

 

 実力で言えば、錆兎の圧勝であった。

 万全の状態であったならば勝負にもならなかっただろう。錆兎はこの時点で圧倒的な強者であったのだ。

 

 しかし、足りないものもある。

 戦闘経験および継戦能力。

 この二点が強さとは不釣り合いな程に錆兎には不足していた。

 

 七日間で多数の鬼を斬り、不慣れな空中戦や他人を護る戦闘を行い、怒りに任せた剣で術理を陰らせた。

 

 刀を酷使し過ぎたのだ。

 悲鳴をあげ続ける己が相棒である日輪刀の声を、錆兎は最後の最後で聞けていなかった。

 

 だから、こんな結末になってしまった。

 

「っ⁉︎」

 

 錆兎は驚愕して咄嗟に動けない。

 異形の鬼は自身の勝利を確信して、錆兎目掛けて腕を突き上げる。

 

 迫り来る魔手を前に、錆兎は刀を振るえなかった。

 

 己の死に様を幻視する。

 無念のまま師と妹と弟と、先に逝った兄姉を想う。

 

 思い出に浸る間も無い。

 

 刹那、芳しい花の香りが辺りを包んだ。

 

 

 

 ──全集中・花の呼吸

【肆ノ型・(べに)(はな)(ごろも)

 

 

 

 斬ッ! と鬼の腕が斬り飛ばされた。

 

『っ⁉︎』

 

 勢いが弱まった攻撃を前に、錆兎は顔面狙いであった拳に側頭部を向ける。

 パリンッ、と砕ける狐面。直撃は避けられなかった錆兎は、そのまま成す術なく吹き飛んだ。

 

(錆兎くんっ! ……ッ⁉︎)

 

 死闘へ乱入した少女──胡蝶カナエは錆兎の様子を見ようとするも、伸し掛かる殺気に反応して鬼と空中で正対する。

 

「なんだ、お前は?」

「っ‼︎」

 

 カナエを貫こうと迫る凶手。

 眦を決してカナエは身体を捻る。

 

 ──全集中・花の呼吸

【陸ノ型・渦桃(うずもも)

 

 鍛えられた体幹から繰り出す滞空奥義。身体をひねり回した反動を用いた一閃で鬼の巨腕を斬り裂く。

 追撃の手は緩まない。

 カナエが着地すると同時、今度は数に任せた手の群れが襲い掛かる。

 出し惜しみする余裕など皆無だった。

 

 ──全集中・花の呼吸

【弐ノ型・()(かげ)(うめ)

 

 全方位に対応した相手の攻撃に合わせる連撃技。迫る腕を斬り捨て、返す刃で攻撃の出鼻を挫く。

 鬼の猛攻を耐え切ったカナエは距離を取る為に背後に跳躍。

 真後ろに錆兎がいる位置まで後退した。

 

「はぁっ、はぁっ! 錆兎くん! 聞こえる、錆兎くんっ‼︎」

 

 全集中の呼吸三連発で荒れた息を切らしながら、カナエは大声で呼び掛けるも返事は無い。

 可能性は二つ。気絶しているか、最悪な場合は……。

 

 確認したい衝動に駆られるも、一度でも目を背ければその瞬間に殺される。

 そう確信出来る尋常でない威圧をカナエは全身で感じていた。

 

 ブチブチと耳障りな音が鳴る。

 それは鬼があらん限りの力で自身の身体を握り潰している音だった。

 

「このガキィイイイイイイッ! よくも邪魔をしてくれたなァアアアッッッ!」

 

 突き刺さる殺意が空気を震撼させる。

 その余りの威圧にカナエは一瞬身体を震わせるも、瞳に宿る闘志に翳りは無かった。

 カナエは冷静に、迅速に状況を分析する。

 

(私がこの鬼を斃せるとしたら超短期決戦しかない。だけどそれじゃ錆兎くんを護れない。救助は義勇くん級じゃないと逆に足手纏いだわ)

 

 ならばどうするか。

 カナエの覚悟は疾うに決まっていた。

 

(攻撃の全てを斬り捨てる!)

 

 やれるだろうか? カナエは自身に問い掛ける。

 問いが間違っていた。やれるかではない、やるしかないのだ。

 

(しのぶ、私に力を貸して!)

 

 カナエは鞘に仕込んだ仕掛けを作動させ、ここまで温存していた奥の手を準備する。

 

「狐小僧と共にくたばれェえええええええッッ‼︎」

 

 怒りの咆哮と共に突き出る夥しい数の拳。

 一直線に殺到する絶望的な脅威を前に、カナエはどこまでも冷静だった。

 

 ──全集中・花の呼吸

 

 カナエは思い出す。正確に言えば、思い出した。義勇の雄姿を見て、過去の誓いを。

 両親を鬼に惨殺され、妹と共に九死に一生を得たあの日。カナエは妹と共に誓った。

 

 ──鬼を倒そう。一体でも多く。二人で。

 ──私たちと同じ思いを、他の人にはさせない。

 

 今度は自分の番だ。

 命を救ってくれた義勇へと返そう。

 義勇の義兄弟をこの手で護ってみせる。

 

 護る者を背負ったこの瞬間、カナエは己の限界を踏み越えた。

 

【玖ノ型・千本(せんぼん)(ざくら)

 

 

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 舞のように流麗に、荒波のように激しい目にも留まらぬ剣閃の嵐。

 音を置き去りに、カナエは迫り来る拳を斬って斬って斬り捨てる。

 

 カナエが繰り出した奥義である千本桜。これは鬼殺の呼吸の中でも特異な、護りに特化した守護の型。

 何ものも己の背後へ通さない覚悟をもって振り抜かれる極地に至った剣技。

 

 振り抜いた刃は全ての拳を斬り裂いていた。

 

「なんだとォッ⁉︎」

 

 異形の鬼は驚愕して声を上げる。

 同時に、身体の異変に気付いた。

 

(腕の再生が遅い⁉︎ 身体も上手く動かない⁉︎)

 

 まるで毒にでも侵されたような感覚に鬼は冷静さを失う。

 

 その様子を見て、カナエの判断は早かった。

 

「錆兎くん!」

 

 駆け寄り、脈拍を測る。

 カナエの顔に笑みが溢れた。

 

(生きてる! ちゃんと生きてるっ!)

 

 呼吸も安定している。恐らく軽い脳震盪で気絶したのだろう。

 あの直撃を受けてこれだけで済んでいる錆兎の頑丈さに感謝して、カナエは錆兎の身体を持ち上げる。

 

「待ァああ……てぇえええ……ッ!」

 

 鈍重な動きで此方へ腕を伸ばす鬼を無視して、カナエは走り去る。

 中央から離れるように、カナエは一目散に走り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「錆兎くん、錆兎くんっ!」

 

 樹に背凭れにして座らせた錆兎にカナエは声を掛けるも、未だ起きる気配がない。

 この場を離れるわけにもいかないカナエは、内心かなり焦っていた。

 

(位置的に中央に行けなかった。あの鬼がどう行動するか読めない以上、早く合流しないといけないのに!)

 

 離れ過ぎては中央にいる参加者たちに危険が及ぶ。

 かと言って一人で打倒するにはあの鬼は強大で。

 そもそも錆兎の側を離れて単独行動など論外。

 

 儘ならない状況に焦りが募り、カナエの頰に汗が伝う。

 

 ガサッと音がした。

 警戒心を剥き出しに、カナエは怒鳴るように誰何する。

 

「誰っ⁉︎」

「その声は、カナエか?」

 

 中央から見て更に西側より現れた狐の面を見て、カナエは満面の笑みを浮かべた。

 

「義勇くん!」

 

 救世主だ。この状況を一手で引っ繰り返せる可能性を秘めた存在が現れてくれた。

 漆黒の髪を靡かせる義勇に、カナエは心底安堵した。

 

「義勇くん、力を貸して! 今本当にまずい状況なの!」

「そうか。俺に出来ることなら何でも……」

 

 義勇の言葉が止まる。

 その視線は一箇所に縫い止まり、大きく瞳を見開いていた。

 木の幹が影となって見えなかった錆兎が其処に居たからだ。

 

「錆兎っ⁉︎」

 

 慌てて駆け寄る義勇に、カナエは簡単に説明する。

 異形の鬼がいたこと。仲間を庇って錆兎が足を負傷したこと。あわや命を落とすといった時にカナエの救援が間に合ったこと。一先ず撒いたが、危ない状況であること。

 一つずつ噛み締めるように聞いた後、義勇はカナエに向き直る。

 

「カナエが助けてくれたのか……」

「ギリギリだったけど、間に合って本当に良かったわ」

「ありがとう、カナエ。本当に、ありがとう」

 

 万感の思いを込めて義勇は感謝を告げる。

 また自分の知らないうちに友を、家族を喪うところだった。どれだけ感謝してもし尽くせない。

 カナエは本当に嬉しそうに笑った。

 

「お礼なんて。助けられて、本当に良かった」

「…………うぅ」

「錆兎!」

 

 小さな呻き声に反応して、義勇が錆兎に声を掛ける。

 うっすらと瞳を開けた錆兎は、目の前にいる義勇を見て口を開く。

 

「義勇か?」

「ああ。身体の調子はどうだ?」

「身体……?」

 

 痛みを訴える身体の状態を確かめ、錆兎は何故こうなっているのかと記憶を巡り。

 カッ、と瞳を見開いた。

 

「あいつは何処だ!」

 

 常に冷静な錆兎には似付かわしくない豹変振りに義勇が驚く。

 

「どうした、錆兎?」

「義勇! あの異形の鬼は何処だ⁉︎」

「此処から東にいると聞いた。それよりも落ち着け、何があった?」

「落ち着いてなんていられるか! あいつは鱗滝さんの、俺たちの仇なんだぞ‼︎」

「……どういうことだ?」

 

 しん、と義勇の眼差しが細まる。

 錆兎は感情任せに事情を話す。

 

「あいつは俺たちの兄弟子姉弟子を全員殺したと言った! 嗤いながら、俺たちの家族を皆殺しにして喰った鬼なんだ!」

「……酷いっ……」

 

 カナエは両手で口を抑える。

 一方で義勇は冷静な態度を崩さなかった。

 話を聞いて錆兎が怒り狂っている理由を理解した。

 だからこそ、義勇は同じ言葉を繰り返した。

 

「そうか……。話は分かった。それを踏まえて言う。錆兎、一回落ち着け」

「ふざけるな! 家族の仇を前にして落ち着いていられる訳がない!」

「錆兎、もう一度だけ言う。落ち着け」

「義勇……! お前は何故冷静でいられる! 家族が殺されてお前は何とも」

 

 ──パァン!

 

 甲高い音が鳴り響いた。

 側で見ていたカナエは口元を手で覆った状態で固まる。

 錆兎も声を失っていた。

 

 左頬が痛い。

 

 義勇の平手が、錆兎の左頬を思い切り打ち抜いていた。

 

「ぎ……義勇……?」

「錆兎。呼吸が、心が乱れている。鱗滝さんの教えを忘れたか」

「っ⁉︎」

 

 錆兎はひゅっと息を飲む。

 自分は今まで何をしていた? 怒りで我を忘れて、目の前の友であり家族である弟に何を口走ろうとしていた?

 家族を殺されて何とも思わない者などいない。

 もしいるとすれば、そんなのはもう人間ではない。

 

 義勇をそんな畜生と同じだと、そう言おうとしたのか。

 

 冷や水を浴びせ掛けられたように、錆兎の心が凪いでいく。

 

「……すまない、義勇。俺は……」

「いい、気にするな。落ち着いたか?」

「ああ、迷惑を掛けた」

「言うべき相手が違う。お前を助けたのはカナエだ」

 

 その時になって、錆兎は初めてカナエに気付いた。

 死を直視したあの時に漂った花の香り。

 錆兎は立ち上がって、カナエに頭を下げた。

 

「迷惑を掛けた、すまない。ありがとう、あなたのお陰で命を拾った。俺は錆兎、義勇の兄だ」

「ううん、錆兎くんが生きてて良かったわ。私は胡蝶カナエ、錆兎くんの弟に命を救ってもらった者よ」

 

 錆兎に合わせたようなお茶目な切り返しに錆兎が笑う。

 完全に我を取り戻した錆兎は、転がっていた己の日輪刀を拾い上げて謝罪する。

 

「すまない、俺が未熟なばかりに」

 

 ほんの少しの間だけ黙祷するように瞳を閉じる。

 次に目を開けた時、錆兎の双眸には決意が宿っていた。

 

「状況を説明してほしい」

「危機はまだ去っていない。その異形の鬼が狙うのは俺たちか中央の参加者たちだ」

「そこまで離れてないから今すぐ行けば多分間に合うわ」

 

 話を聞いて、錆兎は思い出した。

 

「そうだ、一人直前に中央に行かなかったか?」

「両腕が折れてた女の子が来たわ。その子から異形の鬼のことを聞いてなかったら、私は間に合ってなかったわ」

「そうか……」

 

 錆兎は少女が彼女自身に課した責務を果たしたのだと深く感謝する。

 

「その子が間に合っているのなら、恐らく中央の参加者は避難しているはずだ。義勇、東側はどうなっている?」

「一体残らず殲滅した。この二日で西側も見たが、恐らくこの山にいる鬼はその異形の鬼で最後だろう」

「嘘でしょう……」

 

 交わされる会話の内容に戦慄するカナエ。可能だろうとは思っていたが、実現されると軽く引く。

 

 整理すると状況は単純明快だった。

 異形の鬼を仕留めるか、今夜だけでも逃げ切るか。

 

 全てを踏まえて、錆兎は決意を口に出した。

 

「あいつは俺が斬る。俺がやらなければならない」

 

 固い意志を感じる言葉。

 義勇は驚かなかった。錆兎ならそう言うだろうと確信していた。

 しかし、一度は敵の術中に嵌って仕損じたのだ。義勇は冷徹に、錆兎の覚悟を問う。

 

「折れた日輪刀でか?」

「そうだ、まだ戦える」

「無謀に近い」

「だが、やる。これは決めた事だ」

「死ぬとしてもか?」

「もう俺は死ぬわけにはいかない。カナエに救ってもらった命でもあるし、何より鱗滝さんと真菰に帰ると約束した」

「そうか……」

 

 自暴自棄になっているわけではない。

 必ず生きて帰るという強い意志を感じた。

 ならば良い。力を貸すことに何の躊躇いも無い。

 

「錆兎」

 

 義勇は鞘ごと日輪刀を引き抜いて、錆兎に差し出す。

 

「日輪刀は、俺たち鬼殺の剣士にとって魂の半分だ」

「義勇……」

 

 錆兎は静かに義勇を見据える。

 

「俺の魂をお前に託す。錆兎、俺たち家族の仇を取ってくれ」

「……ああ、任せろ!」

 

 互いの日輪刀を交換して、錆兎は授かった義勇の魂を握り締める。

 

「勝ってくる」

「ああ」

 

 錆兎はそのまま脚を負傷しているとは思えない速さで駆け出し、樹々の闇を抜けていく。

 

 虚空を見詰めるようにその後ろ姿を眺めていた義勇に、カナエは恐る恐る声を掛けた。

 

「いいの、義勇くん。追い掛けなくて」

「……一応、助太刀に入れるようにはする。だが、今の錆兎なら問題無い」

 

 倒れている姿を見た時は心が凍えた。

 怒りに囚われ、我を忘れた錆兎を元に戻せたのは錆兎のお陰だ。自分がああして目を覚まさせて貰ったのだ。

 不思議と、もう心配していなかった。

 最後の心のつかえがようやく取れた。

 

 義勇はカナエに向き直る。

 

「カナエ、もう一度言わせてほしい」

 

 これまで練習しても一向に出来なかったのに、今は違った。

 自然と、感情が表情に表れた。

 安堵して、嬉しさで満ちて、もう大丈夫だと確信して、義勇は素直に笑うことが出来た。

 

「カナエ。錆兎を、俺の兄を助けてくれてありがとう」

 

 

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 その微笑みの破壊力は凄まじかった。

 

 この短い触れ合いの中で義勇は一度も笑わなかった。せめてもの感情の変化は驚きだけで、それも殆ど表情が変わらない。

 能面で無表情で、冷たい印象すら覚える義勇から溢れた、とても柔らかで真っ直ぐな微笑み。

 

 直視したカナエの胸が高鳴るのも無理は無かった。

 

「えっ、あっ、いや、その、うん! 私こそありがとね! 義勇くんは命の恩人だもん、私の方がお礼を言わないといけないよね!」

 

 真正面から不意打ちを喰らったカナエはあたふたする。それはもう盛大にあわあわした。

 急に顔を紅らめたカナエに義勇は一歩近付く。

 

「大丈夫か? やはりどこか痛めて熱があるのか?」

「そんなことないかなー⁉︎ 元気、私すごく元気!」

 

 両拳を胸の前で握って大袈裟に体調良好を訴えるカナエに、義勇はやや首を傾げるも気にしないことにした。

 カナエが元気と言うなら元気なのだろう。

 

「では行こう。錆兎に追い付けなくなる」

「うん、そうだね!」

 

 すぐに無表情に戻ってしまった義勇を残念だと思う反面、さっきから妙に働き始めた心臓を落ち着かせるのに忙しいカナエは気付かない。

 微弱な甘い電流が流れ始めたことを、まだ誰も知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 錆兎は義勇から授けられた日輪刀を見て笑ってしまう。

 敵わない。一番側で見ていたつもりだったが、まだ義勇の力量を見誤っていたらしい。

 刃毀れが一切無い。刀身の歪みも無く、心なしか鱗滝より預かった時より蒼く輝いている気さえする。

 まるで研ぎ澄まされた義勇の心そのもののような。

 

「魂か、そうかもしれないな」

 

 一度は己の不覚で折れてしまった錆兎の日輪刀。

 あんな風に怒りに飲まれてしまっては折れて当然だ。むしろ最後まで耐えてくれた相棒に感謝こそすれど、悪感情など湧くはずがない。

 

 未熟な自分、弱い自分は折れた。

 消えてはいない。そんな自分を糧に、今の錆兎がいる。

 

 異形の鬼と再び向き合った時、錆兎の心は静謐なままだった。

 

「何処に行く?」

「あァ?」

 

 地響きを鳴らしながら中央へ移動していた異形の鬼は、錆兎の声に反応して振り返る。

 ボロボロに傷付いた錆兎を見て、鬼はクスクスと笑った。

 

「なんだ、わざわざ殺されに来てくれたのか? 馬鹿なガキだな」

「……気持ちは晴れたか?」

「なに?」

「兄弟子、姉弟子を殺して、俺たちの家族を殺して、お前の憎しみは少しでも晴れたのか?」

 

 真っ直ぐと見詰める錆兎の視線に、どうしてか鬼は危機感を覚える。

 だがあまりにも滑稽な質問の内容に、本能の警告を無視して怒り狂った。

 

「晴れる訳がないッ‼︎ こんな場所に閉じ込めた鱗滝を、俺は絶対に許さんぞォッ‼︎」

「……そうか」

 

 会話が可能な鬼は初めてだった。

 復讐心に雁字搦めにされた鬼。それは元凶である家族を殺せば少しは楽になるのか。どうしても気になって問い掛けた。

 

 結果は、残念ながら予想通りで。

 錆兎は心底実感した。

 

 ああ、鬼とはこういう存在なのだな。

 

 人間の成れの果て。

 不幸にも鬼の血に呪われ、食人鬼として宿業を背負った哀れな存在。

 

 もしかしたら人間の頃の記憶があって、人並みに喜怒哀楽があるのかもしれない。

 けれど錆兎には分からない。匂いだけで感情の機微まで把握できる鱗滝や真菰とは違うのだ。

 

 錆兎には救えない。

 鬼を人間に戻すことはできない。

 

 ならば、もう。

 

 烏滸がましい言い方だとしても、救うには殺すしかない。

 

 錆兎は日輪刀を引き抜いた。

 

「もう楽になれ」

「……なんだと?」

「お前の頸は、俺が斬る」

 

 ゾワッ、と異様な威圧感が鬼を襲う。

 静かに、ゆっくりと歩み寄る錆兎に、誰かの姿が重なる。

 初日に見た黒髪の少年が。

 今までに殺してきた鱗滝の弟子達が。

 天狗の面で顔を隠した男が。

 

(鱗滝ッ⁉︎)

 

 鬼となってからの原初の恐怖。

 それを振り払うように、異形の鬼は叫んだ。

 

「鱗滝ィいいいいいいいいいいいッッッ‼︎」

 

 全身から飛び出る手の平。

 目の前の人間を押し潰さんと、一気呵成に錆兎に殺到する。

 

 ──水の呼吸

 

 自然体のまま錆兎は構える。

 義勇の魂たる日輪刀を手に、錆兎はふと思い出す。

 最終選別への最後の調整に入った一月前。

 真菰と共に義勇から授かった、もう一つの可能性を。

 

 見事だった。

 言葉を失う流麗な剣捌き。

 

()()()()──

 

 水の呼吸に存在する型は拾まで。

 鬼殺の長い歴史の中で培われ受け継がれた、必殺の御業。

 それを修行してから一年と経ずに、新たな未来を切り拓いた自身の弟弟子。

 

 この一月密かに鍛錬していたが、錆兎には出来なかった。

 義勇にしか不可能なのか。錆兎と真菰には未来への一歩を踏み出す資格が無いのか。

 否、断じて否だ。これは水の呼吸なのだ。

 出来ない道理など無い。

 

 そして、今この時。

 義勇の魂たる日輪刀を授かった今なら。

 

 錆兎は成功を確信していた。

 

 ──(なぎ)

 

 風が止んだ。

 辺り一帯が無風状態となり、静けさが周囲を包む。

 

 錆兎に迫っていた鬼の手は、跡形も無く消え失せていた。

 

「…………は?」

 

 理解不能な事態に鬼の呆けた声が漏れる。

 この瞬間になるまで、斬られたことすら分からなかった。

 

(き……斬られたのか⁉︎ あの攻撃を、今の一瞬で⁉︎)

 

 異形の鬼は焦燥と恐怖に目を背向けて、すぐに腕を再生させようとする。

 

(あり得ない! 何か仕掛けがあるはずだ! もう一度、もう一度──)

 

 目の前にいた錆兎が唐突に消える。

 視界の端に影を見た。

 

 

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 風切り音を最後に、地面に向かって落ちていく光景が網膜に焼き付いた。

 

「……えっ、」

 

 ごろんごろんと転がる。まるで蹴鞠のように、自身の身体をなぞってごろごろと。

 土埃を上げて着地する。

 見上げた先で、自身の身体が崩壊していく光景が映った。

 

(死ぬ……のか?)

 

 呆然と、鬼は最期を想う。

 ああ、何故こんなことになってしまったんだろう。

 どうして自分は、人を喰っていたんだろう。

 どうして自分は、兄を喰ってしまったんだろう。

 

(兄ちゃん……)

 

 暗闇の中、一筋の光が見える。

 温かなそちらに走り出すと、一人の少年がこちらに手を差し出していた。

 

「兄ちゃん!」

 

 駆け寄って、笑う。

 

「手を握ってくれよ、兄ちゃん!」

 

 少年は微笑んだ。

 

「しょうがない奴だな。いつまでも、怖がりで」

 

 兄に手を引かれて、二人は消えていく。

 鬼の呪縛から解放された少年は、光の中へと溶けていった。

 

 

 

「……」

 

 異形の鬼の最期を見届けて、錆兎は納刀する。

 残心の後、背中から後ろに倒れ込んだ。

 

「終わった……。仇は取ったぞ、みんな」

 

 どっと疲れた。しばらくはこうして寝転がっていたい。

 見上げる空は薄っすらと明るくなり始めている。そう時間を置かずに夜が明けるだろう。

 珍しくぼーっと何も考えずにいた錆兎の顔に影が掛かる。

 

「仇は取れたか?」

「見ていたのなら聞くな、義勇」

「見事な剣技だった」

「……いや、まだまだだ。義勇のとは比較にならない」

 

 偽らざる錆兎の所感だ。自身が放ったあの技は完成とは程遠い。それであの威力なのだから錆兎は苦笑してしまう。

 錆兎は上体だけ起こして義勇と向き合った。

 

「これで終わりだな」

「ああ、帰ろう」

 

 立ち上がるのを手助けする為に差し伸べられた義勇の手。

 錆兎はそれを掴み取ろうとして、キョトンとした顔で驚く。

 

「義勇、上手くに笑えるようになったな」

「そうなのか? それは良かった」

 

 優しげに義勇は微笑んだ。

 

「実はついさっき出来るようになったんだ」

「……ふっ、それは何よりだ」

 

 遥か東方から光が溢れる。

 山林に射し込む太陽の光は祝福の煌めきのようだ。

 

 七日間に及ぶ最終選別はこうして幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「全く、情けない。あんな意気揚々と出てきたというのに、帰りは一人で歩くことも儘ならないとはな。すまないな、義勇」

「気にするな。五体満足で帰れるんだ。これ以上を望んでどうする」

「……それもそうだな」

 

 狭霧山へと続く田畑に囲まれた一本道を義勇と錆兎は歩いていた。

 折れた状態で無理をし続けた錆兎の足は上手く動かず、義勇の肩を借りなければ歩けない程だった。カナエの診断で後遺症は残らずに完全回復が可能だと言われたのは幸いだろう。

 

 二人は一歩一歩、確実に帰り道を進んでいく。

 山の麓に至り、そこから少しだけ登って。

 

 長く暮らしてきた家が見えた。

 

 家の前に、家族がいた。

 

「…………」

 

 心ここに在らずといった様子で真菰は箒を掃いていた。同じ場所を何度も、何度も繰り返し掃き続けている。

 七日間が経って、それから一日過ぎても義勇と錆兎が帰って来ないからだ。

 行きは朝に出て夕方には着く距離に藤襲山はある。

 それなのに、帰って来ない。

 一日経っても帰って来ない。

 

 真菰の不安は最高潮に達していて。

 

 ふと、真菰が顔を上げた。

 くんと鼻を鳴らし、そして、振り向いた。

 

「真菰……」

 

 錆兎がいた。

 義勇がいた。

 

 家族がちゃんと家に帰って来た。

 

 真菰は箒を手からこぼす。からんからんと音を立てて転がる箒を無視して、ゆっくりと二人に歩み寄る。

 

「錆兎、義勇……」

 

 ふらふらとした足取りで真菰は歩を進めて、次の瞬間には走り出していた。

 

「錆兎! 義勇!」

 

 真菰は二人に思いっきり抱きついた。

 握り締められ着物が歪む。それだけで、真菰がどれ程不安だったかを推し測れた。

 

「遅いっ! 遅い遅い遅い遅い、……遅いよぉ……っ‼︎」

「すまない、真菰。心配をかけた」

「本当にすまない、真菰。俺のせいなんだ、義勇を責めないでほしい」

「連帯責任っ‼︎」

 

 理不尽な言い訳無用の両成敗に義勇と錆兎は苦笑して、真菰を抱き締め返す。

 抱き合っていた三人を、今度はまとめて鱗滝の大きな手が覆った。

 

「……よく、帰ってきてくれた」

 

 長い間、本当に長い間弟子が最終選別から帰って来る姿を見れなかった。

 鱗滝の言葉には万感の思いが込められており、天狗の面の下では滂沱の涙を零している。

 

 温かい。家族の温もりがただひたすらに温かい。

 義勇と錆兎の瞳にも涙が浮かんでいた。

 

 しばらくの間、そうしていただろう。

 全員が喜びを噛み締め満足した頃合いになって、あっ! と真菰がしまったという声を出した。

 

「鱗滝さん、ちゃんと言わないと!」

「そうだな、まだ言っていなかったな」

 

 抱擁を解いた真菰と鱗滝は一歩だけ下がる。

 笑顔を浮かべる真菰。

 柔らかな雰囲気を醸し出す鱗滝。

 四人は一番大事なやり取りを忘れていた。

 義勇と錆兎もそれを察して、穏やかに微笑む。

 

 家族が家に帰ってきたのだ。

 

 言うべき言葉は決まっていた。

 

『おかえりなさい』

 

『ただいま』

 

 

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 ──完・結!

 ……って言ってもいいんじゃない? ってくらいには書ききった感あります。
 因みに、カナエさんの【玖ノ型・千本桜】はオリジナルです。



 ここで明治コソコソ噂話
 今回のお話に出てきたヒロイン、実は○ンデレの素質を備えている、かもしれない、らしいですよ?



 次回(需要があったら)
『第3話 胡蝶しのぶ』

 つづく……?






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第3話 胡蝶しのぶ


今週の鬼滅の刃読みました。
ヤバかったです。涙腺が……



話は変わって、この本編は結構長いのであしからず。





 

「これより、柱就任の儀を執り行います」

 

 鬼殺隊本拠である産屋敷邸。

 産屋敷あまねの進行にて、とある式典が開かれた。

 

 式典と言っても大層なものでは無く、参加者もあまね含めて四人だけであり、観覧者などは一人もいない。

 可能であるならば同僚となり得る同格の者たちは参加するべきだが、彼ら柱と呼ばれる者たちは誰もが多忙だ。

 

 柱。鬼殺隊の中で最も位の高い剣士で、純粋に戦闘能力が飛び抜けている一騎当千の猛者。

 文字通り、鬼殺隊を支える柱たる逸材たちだ。

 

 本日は二名の柱が新たに任命される。

 

「悲鳴嶼行冥様、前へ」

「はっ!」

 

 開けた中庭に片膝を付いていた偉丈夫──悲鳴嶼行冥は立ち上がり、数歩前へと進んだ後に縁側の手前で再び片膝を突く。

 

 行冥の目と鼻の先には一人の男性がいた。

 線の細い男性だ。さらさらと流れる黒髪。額が所々が黒ずみ始めており、とても健康とは言い難いが優しい微笑みを浮かべている。

 瞳は黒眼の部分がやや掠れていて、恐らく視力は大分落ちているのだろう。

 一見すると頼りなく思える容姿をしている彼だが、何故だか不思議な魅力をたたえている。人の上に立つ資質を備えもった人とは彼のような人間を言うのだと、そう思わずにはいられない。

 

 彼こそが鬼殺隊創始者の子孫にて現当主である産屋敷輝哉(かがや)である。

 

「行冥。君を"岩柱"に任命する。これからも頼りにさせてもらっていいかい?」

「御意」

 

 簡易的な儀式だが、輝哉から日輪刀を授かる行冥。手の込んだものではないのに、その光景は一種の神聖さを秘めていた。

 刀を受け取った行冥はそのまま下がり、元の位置で片膝を突く。

 

 次は隣で顔を下げている者の番だ。

 行冥と比較すれば大人と子供ほどの体格差がある。行冥が成人男性の中でも大柄な体格であるとはいえ、隣の人間は明らかに小さい。

 それも仕方がないだろう。その者は今年十三となったばかりの紛れも無い少年なのだ。

 一つに結った漆黒の髪。海の底のように蒼い瞳は年齢とは似付かわしくない落ち着きを宿しており、顔付きも少年の趣きを残しているのにどこか大人びていた。

 

「冨岡義勇様、前へ」

「はっ!」

 

 名前を呼ばれた少年──冨岡義勇は立ち上がる。

 行冥と同じように輝哉の元まで近付いて、片膝を突いた。

 

「義勇。君を"水柱"に任命する。君にはその力がある。頼まれてくれるかい?」

「御意」

 

 義勇は刀を受け取る。この儀をもって、義勇は水柱となった。

 

 鬼殺隊史上最年少の柱が誕生した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「驚いた。あの時助けた少年が、まさか一年で私の同僚になろうとは」

「悲鳴嶼様」

 

 柱就任の儀が終わり、二人で話す時間が取れた行冥と義勇。

 懐かしむように視線を空へと上げる行冥だったが、彼は義勇へと顔を向き直す。

 

「敬称は不要だ。同じ柱なのだから、私たちには上も下もない」

「では、悲鳴嶼さんと。呼び捨てにしては、姉に叱られてしまいます」

「蔦子殿は健在か?」

「はい。まだ確実ではないそうですが、俺にも甥っ子か姪っ子が出来そうです」

「そうか。それは喜ばしいことだ」

 

 新しい家族ができると柔らかに微笑む義勇を感じて、行冥もつられて口角が上がる。

 子供とはいつの時代も宝だ。行冥の一番奥底にある想いは、子供が笑っている光景を護ること。

 良い報せを受けて、行冥にもまた一つ新たな活力が湧いていた。

 

「その子が笑える世の中を作る為にも、共に柱として尽力しよう」

「はい。今後とも、よろしくお願いします」

 

 差し出された行冥の手を義勇は握り返す。大きさが違い過ぎて握手というには格好付かないものであったが、宿す熱量は二人とも同等に莫大だ。

 

 最終選別から二ヶ月、義勇は水柱となった。

 日輪刀が手元に来てから正式に活動を始めたため正確には更に短期間だったが、この間に義勇は八面六臂の活躍で鬼殺の任務に取り組んでいた。

 烏が問答無用で言い渡す数々の任務を休息日を挟むことなく超速で処理。各地を走りに走り続けて、片付けた任務は既に五十を超えた。

 

 柱になるには鬼を五十体討伐するか、十二鬼月と呼ばれる鬼の中でも最強格の存在を討ち果たす必要がある。

 義勇は前者の条件を僅か二ヶ月で満たした超新鋭だったのだ。

 当然、その話は一般隊員はおろかお館様である輝哉や柱達にも伝わっていき、あろうことか水柱が直接義勇の元へと出向く事態となった。

 

 そして、義勇と対面した水柱は即座に引退を決意したのだ。

 元々年齢を重ねており引退を考えていた水柱だったが、義勇を見て後顧の憂いが跡形も無く消え失せたらしい。

 

 モノが違う。

 

 齢十三の少年に感じた覇気はそれ程までに飛び抜けていたのだ。

 

 これは義勇も想定外の展開だった。

 次期水柱は錆兎しかいないと勝手に思っていたのに、知らぬ間に水柱が引退を表明。直後にお前がなれと強引に引き継ぎ的な何かをやらされ、仕方ないとそれを錆兎に伝えに行ったら「馬鹿かお前は」とかなり強めにどやされた。

 結局、お館様から直接お願いされる始末となった。

 

 外堀が埋められた状態のため断ることも出来ない。

 自分にはやはり相応しくないと一瞬思うも、ふと気付く。

 

 今は蔦子が、錆兎が、守れなかった少なくない人達が生きている。

 必ずしも全てを自分の手で救えたわけではないが、前よりは良い結果を齎らすことが出来ているのだ。

 

 少しくらい、自分のことを誇ってもいいのだろうか。

 前回と同様に、柱として認めてくれる方がいる。

 義勇を支えてくれる家族が、友が、仲間がいる。

 ならば今度は、前向きに捉えてみよう。

 

 鬼殺隊を支える文字通りの柱として尽力しよう。

 

 義勇は新たに固い決心をして、水柱になることを決めたのだ。

 

 まさか岩柱である行冥と同日に柱就任と相成ったのは驚きではあったが。

 

「冨岡様、よろしいでしょうか。当主の輝哉が呼んでおります」

「今向かいます。悲鳴嶼さん、また」

「ああ」

 

 あまねに呼ばれた義勇は、行冥に頭を下げて別れを告げる。

 

 そのままあまねの後に続く義勇は、更にお腹が大きくなったあまねを見て心配になってしまう。

 実の姉もそうなるかもしれないと考えると、男の身ではどうにもならないその不安の解消法は言葉にする事ぐらいだった。

 

「あまね様、無理をなさらず。身重の身で……大丈夫なのでしょうか?」

「心配してくださりありがとうございます。これでも三人目ですので、そこまで心配なさらないで大丈夫ですよ」

 

 歩きながら振り返るあまねは微笑を浮かべていた。今は柱としての義勇ではなく、子供としての義勇に対して話しているようだ。

 とても経産婦とは思えないあまねだが、既に二人も産んでいて慣れているのだろう。

 表情に乏しい義勇があからさまに不安顔でいたのが面白かったのか、あまねは励ますように言葉を重ねた。

 

「妊婦はあまり動かないのも問題なのです。だからこれは丁度いい運動のようなものだと思ってください」

「そうですか、覚えておきます」

「冨岡様は奥様が出来たら、とても大切にしてくださりそうですね」

「俺には結婚は無理でしょう。近く姉の子供が産まれるかもしれないので、その為です」

「それはおめでたいことですね」

 

 談笑している間に目的の部屋まで着いたのかあまねが立ち止まり、中にいる者に確認を取る。

 

「冨岡義勇様をお連れいたしました」

「入ってくれるかい?」

 

 その声に従ってあまねは戸を開ける。

 足音を立てずに中に入る義勇を待っていたのは、縁側で一羽の烏を撫でていた輝哉だった。

 言伝を頼んだのか、烏は義勇の背後で戸が閉まると同時に空高くへと飛び立っていく。

 その様子を満足そうに見送ってから、輝哉は振り返った。

 

「待たせたようだね」

「いえ」

 

 正座して、義勇は輝哉と正対する。

 あまねと雑談していた先程までの雰囲気を一転させた、常にある凛とした態度の義勇に輝哉は微笑んだ。

 

「義勇、君に水柱としての最初の任務を頼みたい」

「御意、お伺いいたします」

「ありがとう」

 

 柱としての任務だ。余程危険か特異な案件だろう。

 十二鬼月でも現れたのかと義勇は心して臨むが、そんな義勇を見て輝哉は一度だけ手を振って表情を和らげた。

 

「硬くならないでいいよ。戦闘は確かにあると思うけど、主な内容は護衛だからね」

「護衛、ですか……」

 

 護衛とは穏やかではないが、あまり聞き馴染みの無い任務内容に義勇は内心首を傾げる。

 鬼殺隊は政府非公認の組織だ。必然、鬼の存在についても広く知れ渡っているわけではない。

 だから余程の要人でない限り鬼殺隊が動くことはないのだ。そもそも、そのような人達であれば自前の護衛を備えているし、鬼殺隊という信用ならない非公認組織に頼ろうなどとも思わないだろう。

 

 年齢に反して聡い義勇の困惑をはっきりと感じ取ったのか、輝哉は少しだけ双眸を鋭くさせて話を続けた。

 

「少し話を変えるけど、義勇は胡蝶カナエ君と知り合いだったよね?」

「はい、最終選別で友誼を結ばせて頂きました」

「あれからまだ二ヶ月だけど、カナエ君とは会っているかい?」

「いえ。あちらも多忙の身。機会が無くそれきりです」

 

 話題に上がったのは最終選別で知り合った少女のことだ。

 胡蝶カナエ。花の呼吸の使い手にして、義勇の義兄弟である錆兎を救ってくれた恩人。前回の人生の記憶から、蟲柱であった胡蝶しのぶの姉というのも知っている。

 現在は孤児院兼鬼殺隊治療院である屋敷の主人となったと風の噂で聞いた。未来における蝶屋敷となるのだろう。

 

 そんなカナエだが、何故輝哉が話に出したのかは見当が付かない。

 義勇は静かに聞きの姿勢に入った。

 

「実はカナエ君には妹がいてね。しのぶ君というんだが、この二人がある発明をしたんだ」

 

 しのぶと発明。

 この二つの言葉から、あるものが義勇の中で連想される。

 記憶にあるしのぶも自己紹介の際に言っていた。自分はちょっぴり凄い人なんですよと。

 心当たりはあったが今の義勇がそれを知っているのはおかしいので口には出さず、輝哉の言葉を待つ。

 

「その発明とは?」

「うん。胡蝶姉妹はね、鬼に効く毒を創り出したんだ」

「そうですか」

 

 やはりと思うが義勇の鉄面皮に変化はない。

 輝哉や側に控えていたあまねは多少なりとも義勇の表情が変わると思っていたのか、そのあまりにも淡白な反応に苦笑する。

 

「カナエ君から何か聞いていたのかい?」

「いえ」

 

 淡々と義勇は返す。きっとこの場に姉弟子がいたら義勇を張り倒していただろう。

 失礼にも当たりそうな言葉足らずさだが、輝哉は大らかな態度を崩さない。

 

「ここからが本題なんだけど、その毒はまだ鬼を確実に斃せるわけではなくてね。行動を鈍らせたり、再生を遅らせたりっていうのが限界なようなんだ」

 

 もちろんこの時点で凄いことなんだけど、と輝哉は補足して続ける。

 

「胡蝶姉妹、というより妹のしのぶ君が熱心でね。必ず鬼を斃せる毒を開発したいとカナエ君を通して連絡があったんだ」

「……つまり柱としての任務とは、胡蝶姉妹が安全に鬼で実験するための護衛と?」

「察しが良くて助かるよ」

 

 何ともまぁ物騒な任務だな、と義勇は声に出さずに思う。

 仕方ないことだが、どう取り繕ってもえぐい。毒の人体実験ならぬ鬼体実験とは。

 しかし分からぬ話でもなかった。鬼を殺せる毒など今まで存在しなかったのだ。それをこの段階で既に完成への最後の一歩を踏み出そうとしているしのぶの努力は褒めて然るべきだろう。

 毒が完成すれば全ての隊員の助けになる。万全を期して柱が駆り出されるのも分かる話だ。

 

 事情を理解した義勇は頭を下げて了承の意を示す。

 

「承りました」

「ありがとう。あともう一つあるんだけど……」

 

 流れるように話していた輝哉が珍しく言い淀む。

 一体何事だろうかと義勇は気を引き締めるが、飛び出た内容は予想だにしていなかった。

 

「義勇は、この前の最終選別で何体の鬼を斃したのかな?」

「三十五体です」

 

 驚異的な数字にあまねが微かに息を飲む。

 

「ちなみに錆兎君はどのくらいか知ってるかい?」

「二十三体と聞いています」

「うん、……やっぱりそうだね」

 

 言葉を濁した割には世間話のような内容だ。

 義勇は疑問符を浮かべていたが、そこまで状況を説明されてあることに気が付く。

 

「……補足します。藤襲山の鬼は恐らく一体残らず殲滅しました」

「ならもう一つの任務も分かるかな?」

「はい、鬼を藤襲山に補充することかと」

「よろしい。頼めるかい?」

「御意」

「ありがとう。任務についてはカナエ君に伝えてあるから」

「分かりました」

 

 後先考えずに全力を尽くした結果がまさか任務として返ってくるとは。

 正直六十体の鬼の補充など気が滅入るが、カナエとしのぶの実験で生き残ってしまった鬼をとっ捕まえればいいと考えれば幾分楽だ。

 などと考えながら義勇は感情をおくびにも出さず、輝哉から胡蝶姉妹の住んでいる屋敷を教えてもらった後に退室する。

 

 残された輝哉とあまねはその後ろ姿を見送って、どちらともなく目を合わせた。

 

「冨岡様はとても十三歳とは思えません」

「……そうだね」

 

 力もそうだが何よりも佇まいが。

 いくら早熟なのだとしても、成人もしていない少年とは俄かには信じ難い。

 時代が生んだ麒麟児そのものだ。

 

「でもね、これは何かの兆しに思えるよ」

 

 輝哉は果てなく続く蒼穹を見上げる。

 既に大分ぼやけてきた視界ではあるが、透き通るような青はただただ綺麗で。

 義勇の瞳に似たその色を輝哉は静かに見詰め続けた。

 

「彼ならこの停滞した状況を変えてくれる。なんとなく、そんな気がするよ」

 

 輝哉のこういう勘はよく当たる。

 運命すら見通す力を宿しているともいわれる産屋敷一族だ。大きな時代のうねりが義勇を中心にきっと起こる。

 そんな確信の元、輝哉は気持ちを変えて立ち上がる。

 

「さて。あまね、今日もみんなに会いに行こう」

「はい、お供いたします」

 

 輝哉とあまねは日課である墓参りへ向かう準備をする。

 鬼が消えた未来を思って殉職していった者たちへ、二人は今日の出来事を報告しに行くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……変わらないな」

 

 伝えられた道を歩いて到着したとある屋敷。

 記憶と変わらないその建物をしばらくの間見上げた後、義勇は気持ちを切り替えて開放されていた屋敷の戸を潜り抜ける。

 門が開けっ放しというのは些か無用心ではあるが、鬼殺隊後処理部隊である(カクシ)の者が負傷者を緊急搬送してくることも考慮すると仕方がない処置である。そもそも一般人が来れる場所でもないし、招かれざる客が来たところで常人とはかけ離れた身体能力を持つ鬼殺隊員に捕縛されるだけだ。

 

 心安らかにと願われた自然豊かに整備されている何匹もの蝶が舞い飛ぶ道を進んで、義勇は正面玄関へと辿り着く。

 火急の用ならこのまま乗り込むのだが、重要なのは胡蝶姉妹の都合のため義勇が急いでも意味がない。

 ……因みに、義勇が知っている個性豊かな柱たちなら問答無用で上がる。この点義勇はまだ常識がある方なのだ。

 ごく普通の礼儀として、義勇は取り付けられていた呼び鈴を鳴らした。

 

「…………」

 

 手持ち無沙汰のため大人しく待つが、しばらく待っても誰も来ない。

 もう一度呼び鈴を鳴らすが、玄関の向こう側は依然静けさを保ったまま。

 

 一気に面倒な気分になった義勇はもう乗り込むかと戸に手を掛けようと動いたその時、パタパタと走る音が聞こえた。

 直後、バンッ、とそれなりの勢いで玄関が開け放たれた。

 

「はい、どちら様ですか?」

 

 そこには、知っているけれど知らない少女がいた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 毛先が紫掛かった黒髪。

 それを後ろで纏める蝶の髪飾り。

 笑顔とは縁遠い不機嫌そうな表情。

 

(胡蝶……?)

 

 記憶にある知り合いのはずなのに上手く結び付かない。

 少女を前にして義勇は思わず凝視して固まってしまう。

 

 そんな義勇の態度をどう取ったのか、少女は眉間にしわを寄せて口を開いた。

 

「あの、何かご用でしょうか?」

 

 初めて見る光景に能面のまま面食らっていた義勇だったが、露骨に急かす少女に若干弱気になって下手(したて)に出る。

 

「……あぁ、すまない。俺は鬼殺隊の冨岡義勇だ。胡蝶カナエに会いに来た」

「……カナエに何の用でしょうか?」

 

 警戒心が十段階くらい跳ね上がった。

 隠すことなく睨み付けてくる少女に義勇は普通に気圧される。

 想像、というより記憶との差異が凄まじ過ぎて義勇にはどうすればいいのか分からない。

 だから、事務的な回答しか出来なかった。

 

「お前はカナエではないので言えない」

「そうですか、ではお帰りください」

 

 えっ、と驚く間も無く戸がピシャリと閉められた。欠片ほどの躊躇も無い。

 そのあまりにもあんまりな対応に義勇は素で唖然とする。

 口下手言葉足らずあんぽんたんと姉弟子に言われ続けた義勇だったが、今のは絶対自分に非は無いと数秒考えて反省しない。

 それでも傷付いた心を姉弟子からの精神攻撃の時と同様に自分なりに癒して再挑戦。

 

 呼び鈴を鳴らすと少女が戸を開けてくれた。

 

「どちら様でしょうか?」

 

 えっ、そこから? と義勇は思うが、馬鹿正直に二度目の自己紹介をする。

 

「鬼殺隊の冨岡義勇だ。胡蝶カナエに次の任務の件で会いに来た。案内を頼めないだろうか?」

「任務、ですか? ……貴方と?」

「ああ」

 

 義勇の簡素な返答に対し、少女は義勇を上から下まで何故か蔑むような目で見る。

 数秒じっくり見て満足したのだろう。

 莫大な嫌悪感が発散された。

 

「堂々と嘘を吐く方にカナエを会わせる訳にはいきません。お帰りください」

 

 ──ピシャン!

 

 またしても閉ざされた玄関を前にして、義勇は途方に暮れた。

 えっ、どうすればいいの? とかつてない難題を前にして、義勇の諦めと開き直りは早かった。

 

「……失礼する」

「ちょ⁉︎」

 

 強引に突破することにした義勇は玄関を自分で開けて屋敷へと侵入する。

 まさか入ってくると思っていなかったのか、少女は驚いた後に敵意を爆発させた。

 

「失礼な方ですね! 許可無く入るなんて、何を考えているんですか⁉︎」

「胡蝶カナエに会いに来た」

「貴方のような不埒な方々は患者だけで十分です!」

 

 何を言っているんだと義勇は本心で疑問を覚えるが、正直もう話にならないので少女を置いて廊下を進もうとする。

 当然少女は行く手を阻むように義勇の前へと出た。

 

「いい加減にしてください! カナエと任務と言いましたが、そんなわけありません! 私は聞いています、やって来るのは鬼殺隊の中でも最強格である柱の方と──」

「あら、しのぶ。さっきから大声でどうしたの?」

「姉さん!」

 

 背後から自身を呼ぶ声に少女が振り向く。

 義勇は声を聴く前から視界に入っていたので分かっていたが、現れたのは目の前の少女と同じ髪飾りを左右に二つ付けた少女──胡蝶カナエである。

 義勇としては一安心だ。これでようやく建設的な話が出来る。

 

「カナエ」

「義勇くん、久しぶりね。さぁ上がって上がって。ここ、私の屋敷なのよ!」

「知っている。お前の活躍は耳に入ってきた」

「ふふ、ありがとね」

 

 仲睦まじく会話を交わすカナエに少女は嗜めるように距離を詰めた。

 

「姉さん! またそうやって気安く話すから相手が付け上がるのよ!」

「もう、しのぶは最近怒鳴ってばかりだわ。研究が行き詰まってて嫌になる気持ちは分かるけど、そんなに怒ってちゃ眉間のシワが取れなくなっちゃうわよ。姉さんはしのぶの笑った顔が好きだなぁ」

 

 ほわわんとした態度のままカナエは付け足す。

 

「それに言ったじゃない。柱の方が来るからお迎えお願いねって」

「は?」

 

 耳を疑うように素っ頓狂な声を上げる少女。

 本当に意味を測りかねていた少女だったが、カナエも冗談を言っている雰囲気ではない。

 呆気に取られていた少女は、ゆっくりと振り返って義勇を見る。

 その時になって、義勇は思い出したように付け加えた。

 

「鬼殺隊"水柱"の冨岡義勇だ。胡蝶カナエと次の任務の件で話がある」

「…………」

 

 少女は絶句する。

 到底信じられないと心で嘆くも段々と状況が理解出来たのか、油を差し忘れた絡繰人形の如き挙動でカナエへと振り向き直す。

 嘘だと言ってよ姉さん、とその瞳は猛烈に訴えていたが、肝心のカナエ(姉さん)は笑顔を浮かべたまま最後通告を告げるように大きく頷いた。

 

 少女は己の所業を思い出す。

 自身が世話になり、将来的には入隊予定である鬼殺隊。

 その最高幹部である柱を問答無用で叩き出すという暴挙。

 

 サァーッと顔が青く染まる。

 再度義勇に向き直った少女。

 少女の様子を訝しんだ義勇が首を傾げるのと、少女が両膝を床に突くのは同時だった。

 

「大変申し訳ありませんでしたぁあああっ‼︎」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーっ、おかしっ! しのぶったら土下座までするなんて、……ふふふ!」

「姉さんの所為よ! どうして柱の方の特徴を教えてくれなかったの⁉︎」

「あら、ちゃんと言ったじゃない。男性よって」

「同じ年頃のっていう一番大事な情報がないじゃない⁉︎」

「はい、義勇くん。お茶」

「ありがとう」

「姉さん!」

 

 客間へと案内された義勇は配膳された湯のみを手に持ち、ゆっくりと口へと運ぶ。

 来た時と同様に騒がし……賑やかな声を出す少女。カナエが何度も名前を呼んでいるので間違いないのだが、そうと言われても一向に義勇の頭の中では結び付かない。

 義勇にじっと見られていることに気付いたのだろう。

 恥ずかしそうに顔を紅くして俯いた少女に、カナエは助け舟を出すことにしたらしい。

 

「しのぶ、ちゃんと水柱様に自己紹介したかしら?」

「あっ! うん、あっはい、名乗らずにすみません! 胡蝶カナエの妹の胡蝶しのぶと申します! 先程は本当に、申し訳ありませんでした!」

 

 少女──胡蝶しのぶは、記憶の面影が掠りもしない慌ただしい挙動で名乗って謝る。

 そこまで畏まられると義勇としてはやり難いことこの上ない。

 

「鬼殺隊水柱の冨岡義勇だ。カナエの妹であるお前のことは聞いている。今回の任務では二人の護衛を任されている」

「義勇くん本当に柱になったんだねぇ。……くん付けって馴れ馴れしいかしら?」

「好きなように呼べばいい」

「ふふっ、ありがとう」

「……姉さん、なんで水柱様とお知り合いなの?」

 

 さっきからずっと気になっていた疑問をしのぶは口にする。

 例え初対面の相手でもカナエは親しみをもって対応するが、義勇とは一枚壁を越えて仲が良い。

 何処で会ったのだろうか思うのは当然だった。

 

「義勇くんとは最終選別で会ったのよ。私の命の恩人」

「カナエは最終選別で俺の兄を助けてくれた恩人だ」

「…………は?」

 

 今度こそしのぶは固まった。

 即座に理解の及ばない情報に混乱しながらも、一つ一つ言葉にして片付けることにする。

 

「姉さん、最終選別ってこの前受けたあれのことよね?」

「ええ」

「じゃあ水柱様が正式に鬼殺隊に入ったのも同じ時ってこと?」

「そうよ」

「……最終選別って何ヶ月前だっけ?」

「二ヶ月くらい前かしら?」

「…………柱ってそんな簡単になれないもの、でいいんだよね?」

「当たり前じゃない。例えば私としのぶの二人掛かりで義勇くんに襲いかかっても、多分瞬殺されるわよ?」

 

 とんだ化け物じゃないか。

 しのぶは改めて義勇を見てみる。

 

 漆黒の髪にきめ細やかな白磁の肌。

 少年と青年の境い目にある顔立ちと、吸い込まれそうに深い蒼い瞳。

 鬼殺隊の隊服の上に臙脂色の羽織りを着た、一本の芯が通っているかのような凜とした佇まい。

 

「あの、お幾つでしょうか?」

「今年で十三だ」

 

 自分と三つしか違わないのにこの貫禄。

 しのぶは目の前の人物が真に超抜級の実力者なのだと理解した。

 

(私ったらなんて真似を……⁉︎)

 

 出会い頭の対応は世が世なら打ち首もので、普通に説教は免れない行いだった。

 しのぶは後年、義勇に深く感謝することになる。柱の中で如何に義勇が良心的な性格をしているか。

 すっかりと立場的優位が崩壊したしのぶだったが、義勇はしのぶに対しあくまで対等であろうとする。

 

「胡蝶」

「うん?」

「カナエではなく妹の方だ」

「はい、なんでしょうか?」

「敬称は不要だ。カナエと同様、好きに呼ぶといい」

「……では、冨岡さんと」

「ああ」

 

 変わらぬ鉄面皮だったが、幾分か義勇の雰囲気が柔らかくなった。

 そう感じ取ったしのぶは乱れていた気持ちを正常に戻し、真剣な眼差しを浮かべて義勇へと向き直る。

 

「未熟者ですが、護衛のほど、よろしくお願いいたします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 三人は早速屋敷を出て鬼の目撃情報があった地へと向かった。

 今回は質より数だ。雑魚鬼を探し出して拘束し、しのぶが安全に実験できるように側にいる。やることはこれだけ。

 義勇の力があれば造作も無い任務である。しのぶやカナエ自身も自衛の心得は備えており、これまでの任務の中でも最も簡単と言っても過言では無かった。

 

 心に来る何かが無ければ、だが。

 

 ──ブシュ!

 

「グ、ガッ……⁉︎ ウゥゥガァァアアアアッッッ⁉︎」

「うーん、これも駄目。痛みはあるけど死に至る程ではない、と。では次です」

 

 ──ズシュ!

 

「ガッ……ッ⁉︎」

「あっ。冨岡さん、腕を斬り落としてもらえますか?」

「……ああ」

 

 ──斬!

 

「ッ⁉︎ ウッ……ウゥゥウッ……」

「こちらは成功といえば成功。全身の麻痺および再生能力の欠如は確認できました。血鬼術の行使を防げるかは要検討と……。せっかくですし混ぜてみましょうか」

 

 ──ズブシュ‼︎

 

「アガッ……ガァァァァァァァァッッッ……‼︎⁉︎」

「おや? 思ってたより効力がある。……痛みで痙攣するはずの身体が麻痺で抑えられてるからか、何かしらの反応で体組織の破壊に繋がってるのか……これはいいですね、持ち帰り案件です。ついでに血を採取しましょう」

 

 カリカリと手に持った紙に実験結果を愉しそうに書き連ねるしのぶ。

 その様子を何とも言えない表情で見守るカナエ。

 両者の間で日輪刀を手に真面目に仕事する義勇。

 

 想定通りと言えばそうだが、思ってた感じと違う。

 義勇の偽らざる感想である。

 

 義勇の知ってるしのぶは「鬼も人もみんな仲良くすればいいのに」といった台詞を普通に口にしていた。一人も人間も食べず、餓死を選ぶというなら慈愛の心で最期まで看取るとも宣言していた。

 無理やりまとめるなら、しのぶは鬼に対しても哀れみをもって接する器の大きさがあった。義勇の記憶では。

 

 では目の前のしのぶはどうだろうか。

 

 手足を拘束され動けない鬼に一切の躊躇無く毒を滴らせた日輪刀を突き刺し、見て取れる反応に生娘なら生理的嫌悪で吐いてもおかしくないのを、一喜一憂しながら冷たい瞳でじっと観察している。

 

 残虐以外の表現が思い浮かばない。

 カナエを見るに育ちが良さそうな良家の娘だったろうに、見て接する限りその面影は感じられない。

 

 これは鬼が齎した悲劇の具現の一つなのだろう。

 しのぶは正しく狂っていた。

 

「うん! 良い結果です。やはり柱の方がいると実験が捗ります。冨岡さん、しばらくの間よろしくお願いいたします。必ず、必ず鬼を殺せる毒を作ってみせます!」

「ああ、お前なら出来ると信じている」

「はい、ありがとうございます!」

 

 信じるというより知っているのだから、義勇の言葉は本心からだ。

 出会ったばかりではあるが柱たる者に応援されてしのぶもやる気に満ち溢れている。この調子なら近いうちに結果を出せるのではないかと思わせる気迫があった。

 

 義勇はカナエを一瞥して、何か言うのを止める。

 最近苛立っていた妹のご機嫌な様子を嬉しく思うも、微かな哀れみを鬼に加えて妹にも向けているような、そんな目をしていた。

 

「しのぶ」

「なぁに、姉さん?」

 

 笑顔で振り向くしのぶに、カナエは今にも泣きそうな微笑みで話し掛ける。

 

「私はしのぶを応援してるし、手伝えることなら何でもしたいと思ってるわ。だから、鬼が殺せる毒が出来たら……その時はこの前私がお願いしたことも、考えてほしいの」

 

 カナエの言葉に、しのぶの瞳の温度が急激に下がった。

 

「姉さん。私は姉さんが好きだけど、姉さんのその考えだけは理解出来ない。鬼は害悪でしかない。哀れみを持つなんて、無意味どころか無駄よ」

「しのぶ……」

 

 義勇はしのぶの態度に眼を見張った。

 客観的に見て、胡蝶姉妹は仲が良い。余人を許さない信頼関係で結ばれており、互いを愛し合う家族としての強い繋がりがある。

 そのしのぶが姉に向かってこれ程までに冷え切った対応をするとは。

 

 カナエの言うお願いの内容が気になる義勇だったが、家族間の個人的な問題に口出し出来るほど大層な人間ではない。

 流す一択だと判断して、義勇は雰囲気が悪くなった二人の仲裁も兼ねて声を掛ける。

 

「この後はどうする?」

「あっ、うん。えーとね……」

 

 どもりながら会話を続けようとするカナエだったが、どうやら毒の実験についてはしのぶが主たる役割を持っているらしい。

 困り顔であはは……とカナエから笑顔を向けられたしのぶは、一度だけ大きく息を吐いて義勇に向き直った。

 

「今日の結果からまた新たに毒を調合します。なので四、五日は冨岡さんの手を煩わせることはないかと……」

「今後もその流れは変わらないか?」

「はい。実験、調合を繰り返し行う予定です。……長い時間が掛かってしまいます。申し訳ありませんが、お付き合い願えないでしょうか?」

 

 不安そうな顔で上目遣いに義勇を見るしのぶ。

 義勇は新任とはいえ柱だ。鬼殺隊の中でもとりわけ忙しい身分であるし、柱の時間がしのぶ達とは比べ物にならないくらい貴重だと理解もしている。

 

 それでも、これだけは譲れないのだ。

 鬼を殺せる毒の開発は今のしのぶの全てなのだ。

 

 しのぶの心情をどう汲み取ったかは分からないが、義勇ははっきりと頷いた。

 

「当然だ。この実験は鬼殺の新たな未来を切り拓く試みだ。協力は惜しまない」

 

 義勇の真っ直ぐな言葉がしのぶの心に突き刺さる。

 何故か歪む表情を隠して、しのぶは頭を下げた。

 

「ありがとうございます、冨岡さん」

「礼は不要だ」

「カァーッ!」

 

 突如として舞い降りてきた烏にしのぶはぎょっとする。

 一切の驚き無く肩に乗ってきた烏を義勇は一瞥し、別の任務だと察してカナエとしのぶに顔を向けた。

 

「実験を行う日は烏で伝えてくれ。お前たちの屋敷に駆けつける。俺もそれまでに数体の鬼を生け捕りにしよう」

「はい、分かりました。ありがとうございます」

「ああ、また会おう」

 

 別れを告げて、義勇はその場から拘束していた鬼を掴んで搔き消える。

 目で追うのも難しいその速さにしのぶは瞠目した後、カナエへと振り返って笑顔を浮かべた。

 

「じゃあ、姉さん。帰ろう?」

「えぇ、……そうね」

 

 暗い顔を隠してカナエは微笑む。

 カナエはしのぶの笑った顔が好きだが、今のしのぶの笑顔はどうにも好きになれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 義勇が胡蝶姉妹と毒の実験を共にして四ヶ月。

 

「……やった、出来た……遂に出来たー!」

 

 山林の中、目の前で事切れた鬼を見て、しのぶは喜びの声を上げた。

 日輪刀で刺された箇所から皮膚がドス黒く変色した鬼。口からは血が溢れ、もがき苦しむようにその生命活動を止めた。

 一連の流れを始終見届けたしのぶの胸の内には、限りない歓喜しか満ちていなかった。

 

「やった……やったよ、姉さん! 義勇さん、見ててくれましたか!」

「ええ。凄いわ、しのぶ」

「ああ。よくやったな、しのぶ」

 

 二人は素直に祝福する。事実、これは偉業に等しい。

 この四ヶ月、しのぶがどれだけ苦心して毒の開発に取り組んできたかを知っている。鬼殺隊員の治療に全集中の呼吸の鍛錬という熟すべきことに加えて、寝る間を惜しんで藤の花と向き合ってきたのだ。常に一緒にいたカナエは言わずもがな、任務時にしか会わなかった義勇ですらしのぶの努力には驚嘆していた。

 

 そして、遂にその努力が報われた。嬉しくて仕方ないだろう。

 

 しのぶは力強く握り拳を作り、凄烈な意志を瞳に燈らせた。

 

「これで、戦える。……これで殺せる! もっと強い毒を創り出してやる、鬼なんて皆殺しにしてやる!」

 

 昏い眼をして決意を口に出すしのぶ。怒りと憎悪と殺意と、様々な負の感情が綯交ぜになった恐ろしい声音で、しのぶは凄絶に笑っていた。

 

 義勇は何も言わない。所詮他人である自分が宥めるなんてもっての他だ。

 しのぶとカナエは両親を目の前で鬼に殺されたと聞いた。その時の衝撃と悲痛はきっと計り知れないだろう。義勇ですら、姉の死に様を直接は見ていないのに。

 そこから恐怖に屈することなく、奮起して立ち上がった二人には心から尊敬の念を抱く。普通なら、もう一切関わりたくないと眼を背向けてもおかしくないだろう。

 しのぶは更に、鬼殺の歴史上において誰もが成し得なかった鬼を殺す毒を開発したのだ。

 彼女をそこまで駆り立てたのは、ひとえに心に積もり続ける負の感情に他ならない。

 時に怒りや憎悪は信じられない心の原動力になるものだ。

 これまで発散出来なかったその鬱憤を、遂に晴らす手段をしのぶは手に入れた。

 気持ちが昂ぶるのも無理はない。

 

「……しのぶ」

 

 もし、その人が間違った方向に進んでいると感じて、止められるのは誰だろうか。

 義勇は思う。

 

 それはもう、家族しかいないと。

 

「姉さん! 私、頑張るからね! もっともっと強力な毒を創るから!」

「それは分かったわ。でもね、しのぶ」

()()()()()()()()()()()()! あの時の誓いを果たせるんだよ、姉さん! 二人で一緒に鬼を倒そう! こんな奴ら、全員地獄に堕ちるべきなんだよ!」

「しのぶ!」

 

 カナエの大声にしのぶはビクンと震える。

 

「姉さん……?」

 

 どうしてカナエが声を荒げたのか心底分からない。

 しのぶの困惑をはっきりと感じ取ったカナエは、しのぶの両肩に手を置いて優しく話し掛けた。

 

「二人で鬼を倒そうって、あの時誓ったわ。でもそれはね、鬼を憎んでじゃないのよ。私たちと同じ思いを、他の人にはさせない為よ。しのぶは覚えてるわよね?」

「覚えてるよ! だから鬼を殺すの! 一体殺せばきっと何人も、何十人もの命を救える。私たちと同じ思いをする人たちを減らせるわ!」

 

 しのぶの双眸の奥に潜む闇。

 真正面からその澱みを覗き込んで、それでもカナエは言葉を重ねた。

 

「そうだけど違うわ。今のしのぶは違う。今のしのぶは鬼を倒すことしか考えてない。他の人のことを」

 

「──うるさい!」

 

 しのぶの悲嘆に満ちた絶叫が響き渡る。

 呆然と停止するカナエに、しのぶは幼子のように喚き散らした。

 

「どうして⁉︎ どうして姉さん()認めてくれないの⁉︎ 隊員の方々もそう、鬼を殺せる毒を創ってるって言ったらみんな声にしないだけで馬鹿にしてる! 認めてくれたのは義勇さんだけっ‼︎ 姉さんも、心の中で私を馬鹿にしてるんだわ‼︎」

「ち、違うわしのぶ! 私は馬鹿になんて」

「うるさいうるさいうるさいっ‼︎ ()()()()()()()()()()()()って言われた私の気持ちが分からないのよ‼︎ やっと、やっと手に入れたのに、これで私だって鬼を殺せるのに……っ‼︎」

「しのぶっ⁉︎」

 

 カナエの手を振り払い、しのぶは脇目も振らずに走り去っていく。

 一筋の涙だけを残して、その場を静寂に落とし込んだ。

 

 即座に追い掛けようとしたカナエだが、その脚はどうしてか動かなかった。

 力を抜けばへたり込んでしまう。

 そう思う程にカナエは憔悴してしまった。

 

「私は……しのぶが……」

「カナエ」

「っ⁉︎」

 

 ビクリと震えるカナエ。のろのろと覇気の無い挙動で義勇に振り向く。

 これまで姉妹のやり取りには極力関わってこなかった義勇だったが、状況が変わった今声を掛けない訳にはいかなかった。

 

「俺はしのぶを追う。近辺に鬼はいないと思うが万が一もある。だがお前も護衛対象だ、置いていくことは出来ない。どうする?」

「それは……」

 

 一緒に行くしかないのはカナエにも分かっている。

 だがしのぶはあの状態のままだ。今はカナエの言葉になんて聞く耳を持たないだろう。

 義勇の立場も理解している。柱たる彼にとんでもない迷惑を掛けていることも。只でさえ姉妹喧嘩を目の前で見せられて心中穏やかではないだろうに。

 

 それに加えて、更に迷惑を重ねる訳には……。

 

「カナエ、今のしのぶと話すのが怖いのなら、しのぶからは見えない位置にいろ」

「義勇くん……」

 

 真っ直ぐに向けられる蒼い瞳。

 鋭利でありながら不思議と圧迫感のないその優しい目を見て、カナエはつい頼ってしまう。

 

「義勇くん、しのぶと話をしてあげて。私みたいに説得なんてしなくていいから、ただ話をしてほしいの。あの子は、義勇くんのことは信頼してるから」

「……期待はするな」

 

 大の苦手分野に義勇は若干顔を顰める。余程自信がないのだろう。

 だがカナエは心配していなかった。

 確かに義勇は言葉足らずな面もあるが、それを補って余りある優しさで満ちている。

 きっと、大丈夫だ。

 義勇になら任せられる。

 しのぶのことを、任せられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 数分も走らずに、義勇はしのぶを見付けた。

 しのぶはずっと走り続けていたわけではなかった。感情任せに飛び出たものの、すぐに理性が蘇ったのだろう。比較的近くの樹に寄り添うように、膝を抱えて座り込んでいたのだ。

 義勇はしのぶを発見した後、一度だけカナエと目配せして移動する。

 音も無くしのぶの側に降り立って、しのぶが反応するのを静かに待ち続けた。

 

「…………申し訳ありません、義勇さん。迷惑ばかり掛けて」

「気にするな。泣きたい時に泣けるのなら、泣いた方が良い」

「……っ!」

 

 義勇の言葉に、しのぶは嗚咽を漏らしてしばらく泣いた。

 義勇は頭を撫でるでもなくただ側にいるだけだったが、慰められたいわけではないしのぶにはその対応はありがたかった。

 

 時間にして二分もかからずに、しのぶはガシガシと乱暴に涙を拭う。

 その様子を見て、義勇はこの短い間に考えた言葉を投げ掛けることにした。

 

「しのぶ、俺はお前を否定しない」

「っ⁉︎」

 

 バッと顔を振り上げるしのぶに、義勇は視線を合わせる。

 

「怒りや憎しみは時に心の原動力になる。だが、それで冷静な判断力を失うのなら話は別だ」

「うっ……」

 

 図星を突かれてしのぶは縮こまる。

 義勇も別にしのぶを責めたいのではないが、この点についてだけは鬼殺隊員の先輩として注意すべき点だった。兄弟子であり自身と同等以上の強さを誇る錆兎が、冷静さを失って死に掛けたのが理由の大半だ。

 しっかりと反省しただろうしのぶに、義勇は更に言葉を重ねる。

 

「だが、カナエを否定するわけでもない」

「それは……どうしてですか?」

「最愛の家族であるお前に対する言葉だ。その中には必ず、カナエなりの心情が込められている。しのぶ、お前はその想いを無下にするような奴ではない」

「……でも、姉さんは喜んでくれなかった。せっかく毒が完成したのに」

 

 子供のような駄々を捏ねていることはしのぶにも分かっている。しかし、一度あれだけ反発してしまった手前、すんなりと納得することが出来ないのだ。

 しのぶは聡明だが、それでもやはり十になったばかりの子供。

 全てを堪えろというのは酷な話だった。

 

 溜まった不純物を吐き出す場が必要だ。

 

「しのぶ、お前の話を聞きたい」

「えっ……?」

 

 鞘ごと日輪刀を引き抜いて、義勇はしのぶの側に座り込む。

 警戒は怠らないまま、義勇はしのぶの隣で樹々の梢から覗く夜空を見上げた。

 

「俺は話すのが得意ではない。だが、聞き役に徹して話し相手になる事くらいは出来る。しのぶ、不安や不満は今ここで吐き出せ」

「…………ふふっ、義勇さんは不器用ですね」

「知っている」

 

 ムスッと柳眉を寄せる義勇がおかしくて、しのぶの表情に笑顔を溢れた。思えばここ最近は、疲れや苛立ちでずっと笑えてなかった気がする。

 気持ちが少しだけ楽になって、しのぶも夜空を見上げながら話し始めた。

 

「……両親が鬼に目の前で殺されました」

 

 知ってはいたが出だしから重過ぎる。

 この時点で義勇には手に余る案件だと再確認したが、決して表情には出さずに無言で続きを促す。

 

「私と姉さんは鬼殺隊員の救助が間に合って九死に一生を得ましたが、両親はまともな骸も残らなかった。……意味が分からなかった。どうしてこんなことになったのか。私と姉さんはずっと泣いていました」

 

 思い出して、しのぶの頰にまた涙が伝う。

 完全に失敗したと義勇は悟った。自分だって、姉と兄弟子の死を思い出さないようにしていたのだ。気持ちは心から共感できるというのに、わざわざ思い出させるように仕向けてしまった。

 しかしここでやっぱり止めようとは口が裂けても言えない。

 慰めも出来ないまま、義勇は静かに聞き続ける。

 

「だけど、姉さんと誓ったんです。鬼を倒そう。一体でも多く、二人で。私たちと同じ思いを、他の人にはさせない、って。その誓いを胸に、私たちは鬼殺隊の門を叩くことにしました」

「……そうか」

 

 実にありふれた悲劇だ。

 前回の義勇と何ら変わりはない、鬼によって齎されたどうしようもない悲劇。

 

「姉さんと共に刀を握って、全集中の呼吸の鍛錬をして、私は師範に言われました。お前には鬼の頸は斬れないって。……身体が小さ過ぎて、腕力がなさ過ぎて……私には、鬼の頸が斬れないって……っ!」

 

 自身の無力さに殺意すら覚えて、しのぶは爪の跡が残るほど拳を握り締める。

 

 その時しのぶが覚えた絶望は途方も無いものだろう。

 両親の仇と同義である鬼を、姉と共に倒そうと誓った悪鬼を、しのぶはどう足掻いても殺せないと真っ向から意志を否定されたのだから。

 

「……それは早計だと思うが」

「……いえ、なんとなく分かるんです。私はもう、劇的に身体が大きくなることはないんだと。師範もそれを見抜いていたんでしょう」

 

 身体的特徴は手の出しようが無い生まれ持った才能に等しい。姉であるカナエが大きいからといって、妹であるしのぶも大きくなるとは限らない。

 なんで、どうしてと、しのぶは天を呪っただろう。

 そのまま挫けて立ち上がれなくなっても不思議では無かった。

 

 だが、しのぶは諦めなかった。

 身体に恵まれなくても、しのぶには天性の頭脳があったからだ。

 

「……それで毒の開発か……」

「はい。鬼は藤の花を嫌うと初めて聞いた時から興味はあったんです。嫌うということは、何か鬼にとって有害な物質が含まれているんだと。それを解明すれば、鬼に対する毒を生み出せるんじゃないかと」

 

 事実に対して何故と問い、原因を追求出来る人間は少ない。

 義勇には無理だった。義勇が初めて鬼は藤の花を嫌うと聞いた際は、そうなのか、と知識として吸収するだけで終わっていた。

 

 しのぶの理屈は言われれば分かる。

 だからといって、実際に調べるかと言われれば否と答えるだろう。先達もいなければ道が整っているわけでもない。意味ある何かに昇華させるには並大抵の努力では叶わない。

 義勇が考慮する余地もなく捨てた可能性を、しのぶは十にも満たない幼さで突き詰め始めたのだ。

 

「治療院のお手伝いで給金を頂いて、そのお金で機器を買い揃え、藤の花の成分を分析しました。最初は手探り状態で本当に苦労しましたが、該当するであろう成分の抽出に上手くいった時は嬉しかったなぁ……」

 

 その時の気持ちを思い出してか、しのぶの顔がほころぶ。

 たった一言で済ませているが、本当にしのぶは苦労した筈だ。無から有を生み出すには、尋常でない時間と努力が試される。

 形となり、鬼に効く毒の一端を掴んだ

 誰に誇っても咎められない偉業だろうに、しのぶの顔はすぐに曇ることになった。

 

「姉さんは喜んでくれました。良かったねって。私も嬉しくて、他の人にも伝えたくて、でも知り合いもいないから、患者の鬼殺隊員の方々に話したんです」

 

 嬉しさから一転、しのぶの顔には悔しさが滲んでいた。

 

「……思ってた反応と違いました。感心してくれた方もいたけど、多くの方は雑談のタネくらいにしか思ってなかった。口にはしませんでしたが、流石に分かりました」

 

 ──鬼を殺せる毒なんて、創れる筈がない。

 

 心からそう思っている隊員が殆どだった。

 義勇にもその理由と隊員の心境がどういうものかは分かる。

 それは聡明なしのぶも同じ。

 

「鬼を滅殺するには頸を切断するしかない。これが鬼殺隊での常識です。千年で凝り固まった固定観念です。常軌を逸した鬼の生命力を考えれば、頸を斬らないと死なないという考えは分かりやすく、勝利の形として酷く象徴的過ぎました。鬼を斃すには、これしかないと」

 

 しのぶにだって、そんなことは言われずとも分かっている。

 自身が突き進もうとしている道がいわゆる邪道だということも。

 正道を進むことも許されない落ちこぼれだということも。

 何よりも、しのぶが頭に来たのは。

 

「……況してや私のような小娘が鬼に効く毒を開発しているなんて言っても、大抵の人は半信半疑でした。絵空事だとはっきり笑う方もいました」

 

 怨念染みた覇気を感じて、チラリと義勇はしのぶの顔を一瞥する。

 赫怒と悔しさと負けん気と、あらん限りの想いが凝縮された形相でしのぶは目を剥いて口元を歪ませていた。

 

「……絶対に見返してやる。絶対に、絶対に、絶対に見返してやると心に決めました」

 

 ここまで話して、ようやく義勇は理解した。

 しのぶの本性は此方だ。記憶にあるような嫋やかに微笑む女傑ではなく、感情に振り回されがちだが、その分強過ぎる想いを胸に未来へと向かうことが出来る少女なのだ。

 

 義勇の知っているしのぶは、どちらかといえばカナエに近い。

 既に故人だったカナエと、柱となってから知り合ったしのぶ。

 色々と察した義勇は疑問が解消されたことを他所に置いて、口を開くことにした。

 

「凄いな、しのぶは」

「……義勇さんだけです。私を認めてくれたのは」

 

 しのぶは義勇の横顔を眺めて、出会った頃を思い出す。

 

「この任務が始まる前までは、自分で言うのもなんですが相当に鬱憤を募らせてました。進みの悪い実験、治療院としての業務……姉さんに色目を使う男共! 全てが私をイラつかせました」

 

 あの時は不躾な態度を取って本当に申し訳ありませんと再度謝るしのぶに義勇は軽く答え、話の続きを促した。

 

「正直、柱の方が来ると聞いても複雑な想いでした。上は認めてくれたと嬉しくはありましたが、柱の方は、その……個性的な方が多いとお聞きしていたので、絶対に私のことをただの子供としてしか見ないと思っていました」

「その認識は正しい。柱になるような奴らは総じて異常だ」

「……ふふっ。義勇さんもですか?」

「俺は普通だ」

 

 くすくすと楽しげに笑うしのぶ。

 確実に自分も変人の括りにされていると感じて義勇は納得いかないが、しのぶの表情が解れたのを良しとして言及しなかった。

 

「……義勇さんは他の誰とも違いました」

「何がだ?」

「義勇さんの眼は真剣で、私を馬鹿にするような光は一切ありませんでした。……『この実験は鬼殺の新たな未来を切り拓く試みだ』って言ってもらえた時、本当に嬉しかった」

 

 あんなにも真っ直ぐな眼差しで全面的にしのぶの功績を認め、信じていると声にまで出してくれたのは義勇が初めてだった。

 一言一句違わずに頭に染み込んだその言葉を励みに、しのぶはこの四ヶ月頑張ってきたのだ。

 

「予算も降りて精密機器も手に入り、実験回数も格段に増えて、成果は現れてきました。そして今日、やっと、やっと鬼を殺せる毒が完成したんです! これで私を見下していた人達を見返すことができる。鬼を殺せるなら鬼殺隊にも入れる。……それなのに、姉さんの顔は喜びよりも私に対する哀れみに染まってた。それで……」

「……我慢の限界を迎えて堪忍袋の緒が切れた、ということか」

「はい……」

 

 冷静になってしのぶは落ち込んでいた。

 ここ数年は一度も喧嘩なんてしなかった姉に、心にも無い暴言を吐いてしまった。

 話を聞いて、義勇には一つ疑問があった。

 

「しのぶを一番最初に認めたのはカナエではないのか? カナエだって、俺と同じ気持ちを持っていたはずだ」

「……姉さんは私とは違うんです。鬼に対する考え方が根本的に」

 

 しのぶは俯いたまま、自分にも言い聞かせるように話し出す。

 

「鬼は元々人間なのだから、鬼は可哀想な存在なのだと。理解できるけど、納得できなかった。人を殺しておいて可哀想? そんな馬鹿な話はないです。私達の幸せを踏み潰した鬼共なんて、一体残らず滅ぶべきなんです」

 

 しのぶの瞳からは強烈な決意が見て取れる。

 これはカナエが幾ら言葉を尽くしても変わらないだろうと義勇は察した。

 

「カナエはそうかもしれない。だが、それをしのぶに押し付けるような者ではないだろう?」

「はい、姉さんが私をそのことで説得しようとしたことはありませんでした。ただ、毒の開発を進める最中に、姉さんにある頼み事をされたんです。……その内容が、どうしても許容出来ませんでした」

「……初日に言っていたお願いか?」

「はい」

 

 しのぶが明確な拒絶を示したカナエのお願い。

 気にはなっていた義勇だったが、この四ヶ月の間で話題に上がることは一度も無かったので流していたものだ。

 

「姉さんのお願いは『鬼が安らかに逝ける毒を創ってほしい』というものです。……本当に理解できなくて、考えることもせず拒否しました」

「……成る程な」

 

 ようやく義勇の中で話がまとまってきた。

 

「人を殺したのだから、その分苦しんで死ねばいい。しのぶの考えはこうか?」

「概ね正しいです。生まれたことを後悔するくらいに苦しんでから死ぬべきだと思っています」

 

 恐らくこれが、しのぶの中で淀む一番の不満だろう。

 同じ境遇の姉と相容れない考え方の違い。

 今まで堪えていた鬱憤の、その最後の一線を超えた原因であると義勇は断定した。

 

 さて、どうするかと義勇は考える。

 説得はしなくてよいとカナエから言われたが、ここを見過ごしてはしのぶとカナエはいつまでも歩み寄れない。

 互いしかいない大切な家族が仲違いするなんて、義勇には考えられない。そんな不幸なことはない。

 

 口下手な自分ではどこまで力になれるか分からない。

 けれど、似たような話をした覚えはあった。

 姉弟子が自分たちの師範である鱗滝に尋ねたとある話だ。

 

「しのぶ、お前は水の呼吸についてどの程度知っている?」

「義勇さんと知り合ってから少しだけ聞き齧りました。型が全部で拾まであったのを、義勇さんがその先の拾壱の型を生み出したと」

「つまり詳細は知らないんだな?」

「はい」

 

 それが何か、としのぶは首を傾げる。

 疑問を浮かべるしのぶを他所に、義勇は話し始めるための準備を頭の中で進めた。ここは言葉足らずになってはいけない場面だ。ここで義勇が悪気無くしのぶを突き放すような言動をしてしまえば、真にしのぶが報われることが無くなってしまう。

 自分の言葉を交えつつ、義勇は鱗滝の言葉を丁寧に思い出す。

 人を教え導く育手である、偉大なる先達の言葉を。

 

「水の呼吸の伍ノ型は【干天の慈雨】と言う」

「かんてん……干天? 干上がった天気という意味ですか?」

「あぁ、枯れた日に降り注ぐ慈しみの雨という意味だ」

「それは、また……随分と穏やかな名前ですね」

 

 鬼殺の呼吸の型とは信じられない優しい名前だ。本当に型の名前なのかとしのぶですら疑った。

 一体どんな技なのかと興味が湧いて、しのぶは義勇の言葉を待つ。

 今度は義勇が語る番だった。

 

「この技で斬られた者には殆ど苦痛が無い。【伍ノ型・干天の慈雨】は、相手が自ら頸を差し出してきた時のみ使う慈悲の剣撃だ」

「…………え?」

 

 しのぶの表情が固まった。

 なんだそれはと頭が理解を拒否する。

 意味が分からない。

 慈悲の剣撃と義勇は言った。

 何に対する慈悲か。

 

 そんなもの決まっている。

 

 鬼に対する慈悲だ。

 

「っ⁉︎」

 

 真っ赤に燃え上がる心に従って、しのぶは義勇を詰め寄るように立ち上がった。

 

「な、なんでそんな型が存在するんですかっ⁉︎ 慈悲? 鬼に対する慈悲? 意味が分からない! なんで、なんでなんですか⁉︎」

「……鬼は元々人間だ。そして、鬼になった者は二度と人間には戻れない」

 

 一度だけ溜めて、義勇は真正面からしのぶと向き合った。

 

「それが自分の大切な人だったら、しのぶはどうする?」

「っ……⁉︎」

「それが仲間であったら、友達であったら、恋人であったら、……家族であったら、しのぶはどうする?」

 

 答えられない。そんな問い、即答できる筈がない。

 意地の悪い質問だと義勇も分かっている為、しのぶの答えを待たずに先に続ける。

 

「きっと水の呼吸の使い手が、そういう状況に陥ったのだろう。助けられない。人間にも戻せない。だが放っておけば、その大切な人が人を喰らう。ならば鬼殺隊員として、殺すしかない。……だから、せめて苦痛なく旅立ってほしい。今は少し変わって自ら死を望む鬼に対する技だが、根本は変わらない。そういう願いが、この技には込められている」

 

 姉弟子も、兄弟子も、自分も、鱗滝からその話を聞いた時は考えさせられた。相手が子供であっても真摯に向き合ってくれる鱗滝だからこそ、教えてくれたのだ。

 鬼殺隊員として生きていくのなら、切っても切り離せない残酷な問い。

 

「……嫌、嫌だ、嫌だ……っ」

 

 ふらふらと、しのぶは後ずさる。

 信じていた人に裏切られたような、そんな顔でしのぶは首を振る。

 

「義勇さんも、私を否定するんですか……? 私がおかしいって、そう言いたいんですか……?」

「違う」

 

 義勇も立ち上がって、しのぶの肩を優しく掴む。

 

「最初に言った筈だ。俺はお前を否定しないと」

「でも! 義勇さんも姉さんと同じじゃないですか⁉︎」

「いや、俺は鬼を哀れんだことはない。例え家族の前でも、鬼と化し人を喰った者は殺す。【伍ノ型・干天の慈雨】も、使ったことはない」

 

 そういう場面が無かっただけではあるが、細かいことは置いておく。

 義勇はしのぶへ授ける思いを慎重に言葉にする。

 

「しのぶ、お前は俺なんかよりもずっと凄い人間だ。毒を創り出した。鬼を殺すことも出来る。そして何より、傷付いた者を癒すことが出来る。斬ることしか能の無い俺とは雲泥の差だ」

 

 だからこそ、願いを託してしまうのだ。

 

「カナエのように、鬼を斬ることに苦しみを覚える者もいる。そういう者達が心置き無く戦えるように、しのぶにそういう毒を創ってほしい。カナエはきっと、そう思っているんだろう」

「……私には、無理です。心の一番深いところに、どうしようもない嫌悪感がある。どうしても、その気になれません」

「ならば創らなくてもいい」

「へっ……?」

 

 予想外の反応に、しのぶは素っ頓狂な声を出す。

 義勇は何かしくじったと思ったものの、話を強引にまとめた。

 

「そういう者もいるということだ。別にしのぶに無理強いするつもりはない」

「……なんですか、それ……」

 

 力が抜けたしのぶはがっくりと肩を落とす。

 なんかもう一気に疲れてしまった。

 色々と馬鹿らしくなって、しのぶは投げやりに義勇に問う。

 

「結局、義勇さんは何が言いたいんですか?」

「? 俺はお前を否定しないと言っているだろう?」

 

 キョトンとする義勇に、しのぶは大きな溜め息を零しそうになった。

 なんというか、何も解決していない気がする。しのぶとカナエは平行線のまま、何も変わっていない。

 ただ、しのぶの溜め込んでいた思いは外に出た。幾分か、気持ちに余裕が生まれた。

 

 だから、しのぶは最後に義勇に聞いてみたかった。

 

「義勇さん」

「何だ?」

「義勇さんは、何故鬼殺隊に入ったんですか? どのような信念の元に、鬼を倒しているんですか?」

 

 しのぶの問いに、義勇は即答する。

 

「俺は護るために剣を振るう。民を、仲間を、友を、家族を、もう二度と目の前で死なせないために。だから俺は鬼殺隊へと入隊した」

「護るために……」

 

 義勇らしいと、しのぶは思う。

 真っ直ぐに向けられる言葉がしのぶには眩しい。思えば、義勇はいつでもしのぶとカナエの身を慮っていた。身体的な面はもちろん、口下手ではあったが精神的な面も。

 

(私はこんな風になれるかな……)

 

 憧憬を思うも、しのぶの根本はやはり変わらない。

 鬼に対する怒りが、憎しみが、晴れることはきっとない。

 

 だけど、それに囚われたら駄目なのだろう。

 決定的な一線を超えて、しのぶは人から堕ちてしまう。

 カナエがさっき伝えようとしていた想いを感じて、強い後悔と共にすぐに姉に会いたいと思う。

 

「カナエ、もう大丈夫だ」

「っ⁉︎」

 

 バッとしのぶは背後に振り向く。

 其処には、泣いているような、笑っているような、心配そうな、嬉しそうな、様々な想いで彩られたカナエがしのぶを見詰めていた。

 

「しのぶ……」

「姉さん……姉さんっ!」

 

 衝動に駆られて、しのぶはカナエに抱き着いた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ‼︎ 違うの、さっきのは違うの! どうしても、抑えられなくて……ごめんなさい! ごめんなさい!」

「……いいの。いいのよ、しのぶ。……しのぶが戻ってきてくれて、本当に良かった」

 

 背中を撫りながら、カナエは一筋の涙を零す。二人はしばらくの間、固い抱擁をほどくことはなかった。

 そんな美しい家族愛を見て、義勇は思い出す。

 

(カナエは亡くなり、しのぶもあの決戦で命を落とした……)

 

 二人は救えなかった。

 義勇の手の届かないところで、鬼に殺された。

 

 生きていてほしい。

 

 大切な仲間である二人に。

 いつまでも、二人一緒に、幸せになってほしい。

 

 日を追うごとに、義勇の決意は強固なものになっていく。

 

「義勇くん」

 

 泣き止んだ二人が歩み寄ってくる。

 義勇は繋がれた手を見てから、二人と視線を合わせた。

 

「仲直りはできたか?」

「うん、お陰様でね。ありがとう、義勇くん」

「義勇さん、ありがとうございます」

 

 二人揃って柔らかに微笑むカナエとしのぶ。

 在るべき光景に戻ったことを実感して、義勇の心も暖かくなる。

 

 だから、自然と表情がほころんだ。

 

「そうか、それは良かった」

『っ……⁉︎』

 

 微笑んだ義勇を直視して、カナエとしのぶの時が止まる。

 特にしのぶの驚きは一入(ひとしお)であった。

 初めて義勇の表情が変わるのを見た。この四ヶ月、義勇は笑うこともなければ機嫌が損なわれることもなかった。淡々と任務を遂行していたのだ。

 最初はその無愛想さと鉄面皮にやや動揺していたが、「義勇くんはいつもあんな感じだよ」とカナエに教えられてからは慣れ始めていた。

 

 正直、油断していた。

 義勇は笑わないものだと決め付けていた。

 

 だからこそ、美麗とも感じる義勇の微笑みはしのぶの心臓を強く打った。

 

「カナエ、しのぶ」

『はいっ!』

 

 予想以上に威勢の良い返事に義勇は内心首を傾げるも、二人とも元気になった証拠だろうと軽く流す。

 義勇は微笑みを消して、いつもよりも更に真剣な眼差しで二人を見る。

 

「俺は二人も護ってみせる。カナエ、しのぶ。絶対に、死ぬな」

『──っっっ⁉︎』

 

 ──二人は後にこう述懐する。

 

『天然はずるい、義勇はずるい』

 

 あの誓いを聞かされた後に、その台詞はずる過ぎる。真面に顔を見ることも恥ずかしくて堪らない。

 

 とんでもない爪痕を残して、義勇は一人勝手に満足していた。

 毒の開発もこうして完了した。まだまだ調べることやより強力な毒の作成などやる事は沢山あるだろうが、後はしのぶだけでも進められる筈だ。もう二人に付き添う必要はないだろう。

 

 ふと、カナエとしのぶの顔が紅くなっていることに気付いた。

 ここまで色々あったのだ。疲れが一気に出たのだろう。

 キリも良いので、義勇は日輪刀を腰に挿し直して帰る支度を始める。

 

「今日は疲れた筈だ。二人ともゆっくり休め」

「えっ、……あっ、うん! 帰ろっか、しのぶ?」

「……うん」

 

 三人は放置していた鬼の死体の場所へと戻り、義勇が持ち帰る準備をする。貴重な実験結果であるこの鬼の使い道はまだあるらしい。

 いそいそと忙しそうに義勇と一切視線を合わせなくなったしのぶを訝しむも、義勇は義勇で今後の予定を頭の中で組み立てていた。

 

(真菰から鱗滝さんの説得が終わったと先日連絡があった。この任務も終わりだろうから次から合流するとしよう)

 

 ギュッと縄を縛って、帰り支度を完了させる。

 ここ最近は必ず屋敷に帰っている義勇は、既に考えが家での仕事に向いていた。

 

(蔦子姉さんの子供が産まれるのは後何ヶ月だろうか……)

 

「カナエ、しのぶ。準備は終わった」

「ありがとね、義勇くん。それじゃあ帰ろっか」

 

 三人は来た道辿って、未来の蝶屋敷への帰路を進む。

 

「…………」

 

 チラリと、カナエを挟んだ向こう側にいる義勇をしのぶは盗み見る。

 

 その蒼い瞳に映る自分の感情をなんと言うのだろうか。

 

 今は何も分からないまま、帰り道を歩いて行く。

 

 不思議と、気分は悪くなかった。

 

 

 

 

 

 

 











おまけ:チームT推し

♫あなたは今日で真菰推し
 ほらチームT♪

【挿絵表示】

♫あなたは今日でカナエ推し
 ほらチームT♪

【挿絵表示】

♫あなたは今日でしのぶ推し
 ほらチームT♪

【挿絵表示】

♫あなたは今日で蔦子推し
 ほらチームT♪

【挿絵表示】

鬼滅(KMT)48!







 あなたは誰推しですか?
 ちなみに私はぎゆしの好きのしのぶさん推しです^_^

次回(予定)
『閑話2 水柱様のウワサ』




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閑話2 水柱様のウワサ

報告的な色々
・あらすじに挿絵追加してます。まぁここの義勇さんが半々羽織を着ることは……
・サブタイトルで分かる息抜き回。なのにめちゃ長い。
・気づいてる方はいると思いますが、私の趣味嗜好の関係で真菰ちゃん捏造設定過多です。戦闘狂の女の子って可愛くないですか?
・しのぶさんの声優はやみんとか耳蕩ける^_^
・個人的にカナエさんは中原麻衣さんで脳内再生してます^_^



柱になってすぐのこと
義勇「屋敷が手に入った。姉さんたちさえ良ければ一緒に暮らさないか?」
蔦子「待って義勇、どういうことなの?」









「……私は、その……水柱様が……」

「義勇様ね! 分かるわその気持ち〜」

 

 鬼殺隊治療院の一つ。

 屋敷の主人の名前と、敷地内を色とりどりの蝶が舞い遊ぶ光景から『蝶屋敷』と親しまれ始めたその病室の一つにて。

 

 話し声が耳に入り、偶然その一室近くの廊下を歩いていた屋敷の主人たる姉妹──胡蝶カナエと胡蝶しのぶはピタリと足を止めた。

 

「水柱様って新任の冨岡義勇さんのことですか?」

「そうよ! 私も任務で数回会っただけなんだけど、もうなんか色々と凄かったわ。実力は当然として、立ち振る舞いも十三歳とは信じられないくらい大人で、少年と青年の狭間でまだ成長途中なのにどこか色気があるというか……うん、我ながら気持ち悪いこと言ってるわ」

「……でも、分かります」

 

 どうやら中にいるのは三人の女性隊員のようだ。女三人寄れば姦しいとあるように、水柱様のことで盛り上がっているらしい。

 無意識のうちに病室の戸近くに身を寄せていた胡蝶姉妹はそう理解し、一切喋らず気配を殺して聞き耳を立てていた。

 

「それに、水柱様は私たち隠の人にも優しくて……柱の方とは思えないくらい常識的で……」

「あぁ、確かに義勇さんはちょっと言葉足らずだけど良い奴だって言ってたなぁ」

「誰から聞いたのか気になるわね。というより、そういうあんたは誰が良いのよ?」

「えぇっ⁉︎」

 

 一人水柱様に熱を上げていなかった女性が戸惑うように声を上げる。

 恥ずかしがりながら遠回しの拒否を試みるも会話の主導権はないらしく、気の強そうな恐らく先輩女性隊員と隠の少女に詰められて口を開いた。

 

「私は、その……同期で義勇さんのお義兄さんでもある錆兎さんが……」

「錆兎様かぁー、うんうん、その気持ちも分かる。後のもう一人の水柱様って呼ばれるくらいだからねぇ」

「……最終選別のあの出来事があれば、惚れない方が難しいです」

「ちょ⁉︎ それは言わないでってお願いしたのに⁉︎」

「何々、凄く気になるんだけど?」

「うぅ〜〜〜……っ⁉︎」

 

 ここまで聞いて、カナエは同期の少女が二人いることに気付く。

 隠の少女ははっきりとは覚えていないが、錆兎に好意を抱いている少女には大いに心当たりがあった。彼に命懸けで救ってもらった両腕を骨折したあの少女だと。

 問い詰められて惚気話にも近い出来事を話す少女の幸せそうな声音。

 先輩隊員はとてもニヤニヤしてそうな声で嬌声を上げた。

 

「キャー! かっこよすぎるわ錆兎様! それで、進展はあったの?」

「そ、そんな滅相も無い! あれ以来数回しか会えていませんし、それに、私のせいで足を引っ張ってしまった負い目もあって……」

「錆兎様がそんな小さなこと気にするわけないじゃない! あれほど竹を割ったような性格の方は今時珍しいわよ?」

「……同感です。この前お話する機会がありましたが、今も頑張ってるって言ったら嬉しそうに笑ってくれました」

「そ、そうなんだ……えへへ」

 

 溢れる笑い声に少女の雰囲気が明るくなる。

 しかし、次の瞬間にはどんよりとした声が漏れていた。

 

「でも、錆兎さんは真菰さんと凄く仲が良いので……」

「あぁ〜……義勇様の継子の真菰様かぁ〜……」

 

 一人の少女を三人に二人加えて五人で思い浮かべる。

 真菰。水柱様たる冨岡義勇の姉弟子にして錆兎の妹弟子に当たる存在で、数ヶ月程前から義勇の継子として活躍している少女だ。身内とあってか二人とは家族同然の仲の良さで、三人ともまだ子供のため見ていて微笑ましさすら感じる。

 性格は天真爛漫。義勇や錆兎に似て天然な部分もあるが、そこを含めても可愛らしい女の子。

 

 とある一点を除けば、だが。

 

「……真菰様、異常にお強いのよね〜」

「あれで歳下で、しかも正規隊員じゃないなんて、本当に信じられません」

「……今の水の呼吸一門の強さは凄いですよね……」

 

 その小さな身体のどこから……と思ってしまう卓越した力量で鬼の頸をバッサバッサと斬っていく真菰。

 そんな真菰の姿を思い出して、少女たちは苦笑した後に同時に溜め息を吐いた。

 男女問わず、真菰を見て自信喪失した者は少なくない。

 

 

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「柱の任務について行けてる時点で分かってたけど、真菰様も水柱になれるんじゃないかしら?」

「はい。本当にお強いですし、それに何より真菰さんが凄いのは嗅覚です。血鬼術の威力や規模、発動の兆候すら嗅ぎ取るって聞きました」

「……人間業じゃないです……」

 

 義勇や錆兎も年齢に反した実力を誇っているが、真菰はもはや別次元に飛び抜けている。鬼の最大の脅威である血鬼術を察知可能というのは、鬼殺隊員からすれば喉から手が出る程に欲しい力なのだ。

 何処までが本当かは定かではないが、概ね正しいだろう情報に競い合おうという気すら起きない。

 

「でも真菰様はやっぱり羨ましいわ。義勇様といつでも一緒にいられるんでしょ? ……まぁもし私がそうなったら緊張でろくに動けなさそうではあるわね」

「……あのお二人は恋仲なのでしょうか?」

 

 隠の少女の不安そうな質問にビクンと震える二人の少女がいたが、真っ向から否定の意見が上がった。

 

「んー、それは無いと思う。お二人はなんというか、兄妹感? それが強過ぎて、互いを異性として見てないというか……錆兎さんとはそれとも違って夫婦感が……」

「あぁー、勝手に自滅しないの」

 

 先輩隊員がよしよしと言って少女を慰める。

 ズーンと音が聞こえてきそうな様子で思いっきり凹む少女の気を逸らすため、先輩隊員は隠の少女に話を振ることにした。

 

「そう思えば、あなたはどうして義勇様なの? 紳士的な方はまぁそれなりにいるのに」

「えーと、その……言わないとダメですか?」

「ダメ」

 

 にっこり笑顔で二の句を継がせない。

 羞恥から顔を真っ赤にさせながら、諦めと開き直りが混ざった形で少女は口を開いた。

 

「とある任務で重傷を負った隊員がいたんです。助かるか助からないかの本当に瀬戸際で、救援に来た義勇様が応急処置を施した上で自ら負ぶって治療院まで走りました。辿り着くまでずっと「大丈夫だ、死ぬな、諦めるな」って声を掛け続けて、着いた後も邪魔にならないようにずっと手を握っていたんです」

 

 普通、そこまでする柱はいない。

 中には自己責任だと隠に託して別の任務に向かう者もいるし、むしろその方が多いくらいだ。

 手に汗握る緊迫した話に全員が静聴する中、隠の少女は続きを語る。

 

「本当にギリギリでしたが、その方は一命を取り留めました。義勇様の祈りが届いたんだと思いました」

 

 ふっ、と四人の身体から力が抜ける。

 悲劇にならなくて良かったと心底思いながら、先輩隊員が首をかしげた。

 

「義勇様が優しいのは周知の事実だけど、それでなの?」

「いえ。……いや、その! それも勿論あるんですが、本題はここからと言いますか……」

 

 ぶんぶんと両手を振りながら動揺を押し殺して、少女は紅潮した顔を隠すように俯く。

 

「助かったって分かったその時に、義勇様が笑ったんです」

『…………えっ?』

 

 少女二人の呆然とした声が漏れる。

 その反応がよく理解できる隠の少女であったが、自棄になったのか全部ぶちまけてやろうと興奮気味に話し出す。

 

「本当に綺麗な微笑みで、「良かった、良かった、ありがとう」って。まるで自分が救われたように、その方にお礼を言いながら笑っていました。それを見て、その……もう、本当に……」

 

 カァーっと真っ赤になる少女。

 気持ちは心底理解できる。きっとその衝撃は計り知れないものだっただろう。

 何故なら、だって、義勇は。

 

「……えっ? 義勇様って、笑うの?」

 

 先輩隊員の疑問に、同調するようにうんうんと頷くもう一人。

 義勇と少しでも触れ合った人間なら分かるが、義勇は基本的に表情を変えることが皆無だ。常に能面の鉄面皮であり、顔立ちが整っている彼の唯一の欠点として挙げられるものだった。

 そんな義勇が微笑んだと聞いて、黙っていられる鬼殺隊員はいないだろう。

 

「私もその時初めて見ました。……破壊力が違います」

「おおう……そこまで言うか」

 

 断言する隠の少女に先輩隊員は苦笑いを浮かべる。会話に参加していない少女二人も無意識に頷いていた。

 そんな出来事があっては懸想するのも仕方無いことだろう。常に優しいが普段は無表情、本当に嬉しい時にだけ淡く微笑む美少年。

 義勇は天然の人誑しの才能があるようだ。

 

「私も義勇様の笑顔見たーい!」

「私も少し興味あります……あっ、でも……」

 

 何かを思い出したのか少女は一瞬だけ明るくなるも、その後には苦い顔になって黙り込む。

 そんな気になる反応をされて大人しくしていられる訳がない。

 

「なにー? 今この場で義勇様の話題に隠し事はなしよ」

「いえ、でもこれは……」

 

 おどおどと、ちらりと隠の少女を見遣る。

 どうやら耳に入れさせたくない情報があるようだが、ここまで話しておいて何かを秘匿されては気になって夜も眠れない。

 

「私は構いません。……これは恋慕というより憧れに近いので」

「うぅ……それじゃあ言うけどね」

 

 順調に追い詰められた少女は一度だけ大きく息を吸い、意を決して話し出す。

 

「義勇さん、奥様がいるかもしれないんです」

『──っ⁉︎』

 

 飛び出た発言に場が凍る。

 咄嗟に両手で口を抑えて声を出さなかった自分を褒めてやりたいと盗み聞きしていた二人は思う。

 話題性抜群なその餌に、先輩隊員は当然食い付いた。

 

「え、嘘、ホント⁉︎ そんなの聞いたことないけど一体どこ情報よ!」

「落ち着いて下さい! 確定ではありませんし、あくまでかもしれないというだけです!」

「……見たんですか?」

 

 隠の少女の質問に、冷や汗をかきながらもはっきりと頷く。

 

「本当に偶々義勇さんの屋敷近くを通りかかった時なんですけど、歳上の女性と仲睦まじく歩いている姿を見まして……」

 

 そこで一度言葉を区切る。

 何かを言い澱みながら、しかし全部ぶっちゃけると約束した手前発言を止めることは許されず。

 俯いて、若干上目遣いになりながら小さい声で告げる。

 

「その女性の方のお腹が、明らかに膨れていたんです」

「……それはあれよね、恰幅の良い女性という意味じゃないわよね?」

「はい、確実に妊婦さんでした」

 

 最後の希望が打ち砕かれた。

 何故かは分からないが途轍もない喪失感に襲われる少女たち。瞳から一切の光が失われたような、そんな昏い表情。

 完全に手遅れだったが、少女は慌ててぶんぶんと両手を振り始めた。

 

「いえ! 本当に義勇さんの奥様か聞いたわけではないですし、たまたま通りすがりの方と話が弾んだだけかもしれないですし!」

「……ちなみに、その女性の方はどんな方だったの?」

「よく見たわけではないですが、とても綺麗な方でした。義勇さんと同じ漆黒の髪を三つ編みで束ねていて、大和撫子ってああいう方のことを言うんだなーってくらいお淑やかな感じでした」

「もう奥様で決まりでしょ」

「でも義勇さんはまだ十五にもなっていませんし……」

「相手が歳上なら、なくはない話じゃない? いや、でも()()()のかは分からないけど……」

 

 何が、とは言わない。想像だけで顔が赤くなる少女二人に先輩隊員は空気を読んだ。

 

 一通り驚いて一通り盛り上がった。

 大変満足した先輩隊員はぐぐぅーっと身体を伸ばし、全身をほぐしてから寝転がった。

 

「いやーそうかー。義勇様はそうなのかー。まぁ面白かったからいいけど──ん?」

 

 その時になって、ようやく気付く。

 病室の戸の向こうから、常軌を逸した禍々しい気配が迸っていることに。

 残り二人もそのあまりにも歪な威圧感を感じ取って震え始めた。

 

「えっ、何ですか?」

「まさか……鬼?」

「んなわけないでしょ」

 

 不名誉極まりない勘違いをされた誰かは、そのまま何事もなく通り過ぎて行ったようだ。

 気配が薄れて気が抜けた少女たちは目を合わせる。

 何かは分からなかったが、あまりよろしくない雰囲気に屋敷全てが閉ざされたような、そんな感覚に襲われる。

 なんとなくまずいなと判断して、お見舞いで来ていた隠の少女は休憩はこれまでと退室し、負傷からまだ快復していなかった少女たちは一眠りするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「しのぶ、ここで合ってるわよね?」

「うん、ここで合ってる」

 

 立派な門構えの屋敷。見上げるカナエとしのぶは常とは掛け離れた据わった目をしていた。

 まるで怨敵を討ち果たそうぞ、という気概に満ちている理由は二人にもよく分かっていない。今から訪ねようとしている人は別に悪行を犯した過去などないだろうに。

 

 この一月、胡蝶姉妹は大層不機嫌だった。

 任務や業務に私情を持ち込む愚かは優秀な二人に限ってはなかったが、溢れ漏れる怨念染みたナニカは隠し切れておらず、目撃した多くの人を震え上がらせていた。

 

 全ての原因はあの時聴いた会話の内容に他ならない。

 完全な盗み聞きだったがそんな些事は切り捨てる。重要なのは事実の如何だ。

 

 水柱たる冨岡義勇に奥さんがいるかもしれない。

 

 思い出しただけで二人の胸中にムカムカとした気持ちが沸き起こる。

 別に悪い事ではない。鬼殺隊員は結婚してはいけないなどという規則はないし、合意が取れているのなら本人たちの意思次第だ。明日をも知れぬ立場にあるからこそ、という気持ちもあるだろう。別に悪い事ではない。

 

 だが納得できるかと問われれば、何故だろうか、途轍もなく納得がいかない。

 これが全くの他人だったらおめでとうございますの一言くらいあっただろうが、義勇となると途端にその言葉が出てこない。

 

 あんな恥ずかしい告白紛いの台詞を平然と宣っておいて、実は奥さんがいた?

 意識して耳を澄ましていれば随所随所で聞く女性陣からの評判の良さと黄色い声が膨大な義勇に、実は奥さんがいた?

 

 事実なら許されざる所業だ。

 

 義勇に関係する噂の種類。黄色い声の量!

 誑し込んだ女性の数は十や二十では無いはずだ。

 きっとあの天然のことだ。何の悪気もその気もなく行なっているのだろう。問われたところで不思議そうに首を傾げるのだろう。

 だが、「知らない、関係ない、俺は悪くない」などという言い訳は通用しない。大勢の女性の乙女心を奪っておいて、被害者振るのはやめろ‼︎

 

 捻じ曲がった性根だ。

 絶対に許さない。

 

 女の敵め、地獄へ堕ちろ──!

 

 ……と、ここまで思考が暴走する直前でなんとか思い止まった。

 これは確定情報ではない。噂に踊らされて、罪過もない義勇を貶すなど間違っても淑女のする行いではないだろう。

 

 確かめる必要がある。それも早急にだ。

 

 凡ゆる情報網を駆使して水柱の休日を洗い出し、自身の休日も無理やりねじ込んで、予告も無しに突撃して真相を明らかにしなくてはならない。

 逡巡無くその結論に至り、その聡明な頭脳と患者経由の広い人脈を利用して胡蝶姉妹が見事目的を達成したのが今日のこと。

 

 一応相手は上司たる柱だ。手土産は持った。

 もしもに備えて即座に顔面へ投擲可能な饅頭である。カナエとしのぶに死角はない。

 

 大体、あんな恥ずかしい発言をしておいて、任務が終わった途端にパタリと訪問が無くなるとは何事か。

 鬼殺の毒が完成したあの日、一人勝手に満足そうに帰ったのを見送ったのが最後、義勇は殆ど蝶屋敷に足を運ばなかった。強いて言えば怪我人の同伴で来訪したことはあったが、ろくに会話もせずに任務へと飛んでいく。

 それだけで実はなんとなく苛立っていたというのに、致命的な追撃を受けた二人は常識という歯止めが壊れていた。

 

 端的に言えばおかしくなっていた。

 

「乗り込むわよ」

「うん」

 

 カナエを先頭に門を開ける。

 ズンズンと迷い無く玄関まで歩いて、垂らされていた糸を乱暴に引いて呼び鈴を鳴らした。

 

「……錆兎か?」

 

 しばらくして、戸の向こうから声が聞こえた。間違いようも無く義勇の声だ。

 

「義勇くん、カナエとしのぶよ。ちょっと話したいことがあって来たの」

「そうか。戸は開いている。入って来てくれ」

「そう、それじゃあ……」

 

 許可を得た二人は一度だけ視線を合わせ、強い覚悟を持って戸を開ける。

 

『お邪魔しまー……』

 

 二人の訪問の口上が中途半端に止まった。

 目の前にいた義勇を見て停止した。

 

 赤ん坊を抱きかかえていた義勇を見て絶句した。

 

「あぁ、歓迎する」

 

 

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 機嫌が良いのか淡く微笑む義勇に対し、カナエとしのぶの目は死んでいた。

 見詰める先は当然、小さな小さな赤ん坊。

 よだれを垂らしながら、ちっちゃいおててを必死に義勇に伸ばしている。愛らしい顔立ちを彩る義勇と同じ色の蒼い瞳に、烏の濡れ羽色に似た漆黒の髪。

 

 血縁であることが一目で理解できてしまった。

 

 有罪判決を下すのは一瞬だった。

 

 即座にカナエとしのぶは饅頭を握り潰さんばかりに掴んで全力投擲しようと動く。

 その行動を止めたのは奥から聞こえた声だった。

 

「義勇ー。お客様なら私が代わりに……ってあれ? カナエさんとしのぶだ」

「真菰ちゃん……?」

 

 ひょこっと顔を覗かせててとてとと歩き寄ってきたのは、今をときめく話題の少女である真菰であった。

 義勇経由で知り合いになった少女たちに真菰は首を傾げる。

 

「二人ともどうしたの? 義勇に用事?」

「そういう真菰ちゃんこそ……」

「……ま、まさかその子って……」

 

 正常な思考回路がぶっ壊れたしのぶがある結論に至り、顔面蒼白になりながら震える手で赤ん坊を指差す。

 話題の焦点となったのが嬉しかったのか、真菰が義勇から奪い取るように赤ん坊を抱き上げた。

 

「えへへ〜、可愛いよね〜。朝顔(あさがお)ちゃんって言うんだよ〜」

 

 もちもちのほっぺに頬ずりをする真菰。愛おしそうなその表情はまるで母のよう……に、カナエとしのぶには見えた。

 ぷるぷると震え始めたしのぶ。どこか様子がおかしいことにようやく気付いた義勇と真菰は、揃って首をこてりと傾ける。

 

「は……破廉恥です!」

 

 顔を真っ赤にさせたしのぶから飛び出た思いも寄らない言葉に面食らう。

 心当たりの無い糾弾に義勇と真菰は互いに理由を相手に押し付けようと目を合わせるが、その時点で自分たちの無罪がなんとなく証明された。

 息の合った意思疎通を経て結論。

 

 しのぶは今トチ狂っている。

 

「そ、そうよ! その歳で赤ちゃんをつくるなんて、非常識だわ!」

 

 追加、カナエもだった。

 

 互いの間にどうしようもない溝がある。

 認識の齟齬が原因だと義勇と真菰は察するが、二人が何を勘違いしているのかが突然過ぎて把握出来ない。

 

 唖然としている二人を置いて、胡蝶姉妹は矢継ぎ早に話し始めた。

 

「見損ないました! 義勇さんのこと信頼していたのに! 柱になったからってその歳で赤ちゃんをこさえるなんて!」

「しかもよりにも寄って真菰ちゃんを襲うなんて最低!」

「真菰さんは私と一つしか違わないのに! この変態!」

「歳下好き!」

「女誑し!」

「女の敵!」

 

 批判の十割が義勇に殺到していることを理解した真菰は赤ん坊を高い高いして遊び始め、身に覚えの無い全力の誹謗中傷に心が削られて義勇は能面のまま凹む。

 この段階で義勇はともかく真菰は状況を把握していた。何やら愉快な勘違いをしているのだと内心爆笑しそうだったが、放っておくと面白そうなので静観を決め込んだ。

 

「義勇くんのあんぽんたん!」

「唐変木!」

「天然!」

「地獄に堕ちちゃえ!」

 

 その後もカナエとしのぶは収まらず義勇への罵倒が加速し、無表情ながら泣きそうな顔をした義勇は無言で真菰に助けを求めた。

 

「朝顔ちゃん、もうすぐお昼だからね〜。夕方には錆兎お兄ちゃんも遊びに来るよ〜」

「あぅあ〜?」

 

 真菰は無視した。喧しいこの状況下でも一切泣き出す様子の無い赤ん坊を猫可愛がりしていた。

 頼みの綱に一顧だにされなかった義勇は無心になって心を守ろうとするが、視線を真菰に走らせたのが功を奏してか二人の関心が真菰へと移っていたらしい。

 

「大体真菰さんもおかしいです! 十一歳で一児の母になるなんて!」

「そんな素振り全く無かったのに!」

 

 矛先が自分へと向けられたのを感じ取って、真菰は良い笑顔で言い放つ。

 

「うん、とりあえず二人の頭に蟲でも湧いてるってことは分かったよ」

 

 頭大丈夫? と辛辣な言葉で真剣に心配される胡蝶姉妹。

 一向に冷静にならないカナエとしのぶとついでに義勇に見やって、真菰は似合わない重苦しい溜め息を溢した。

 

「はぁ……。あのねぇ、この子が私の子供なわけないでしょ? それと、義勇の子でもないからね?」

『…………えっ?』

 

 素っ頓狂な声を洩らす胡蝶姉妹。

 真菰の子でも、況してや義勇の子でもないと言われて、二人はやっと我に返った。

 それでも完全に疑いが晴れたわけではないためか、カナエがゆっくりと赤ん坊を指差す。

 

「え? いや、でも、……その子、義勇くんにそっくりよ……?」

「そりゃあ血縁だもん。蔦子お姉さんも綺麗な蒼色の瞳だからね」

『蔦子お姉さん?』

 

 新しく齎された情報をカナエとしのぶはキョトンと復唱する。

 そこで義勇がポンと手を打った。真菰の珍しく丁寧な状況解説のお陰で、やっと何が起きていたのかを理解したのだ。

 

 その上で義勇は真菰から赤ん坊を返してもらって、はっきりと告げる。

 

「この子の名前は朝顔。俺の姪っ子だ」

『…………』

「──義勇ー、真菰ちゃーん。お昼の支度が出来たわよー」

『…………』

 

 奥から響いてくる聞き覚えの無い女性の声。

 いつまでも玄関口て騒いでいたのが気になったのだろうか。足音が近付いてきて、曲がり角から一人の女性が現れた。

 

「義勇? 真菰ちゃん? さっきから賑やかだけど、お客様はどうなっ……」

 

 カナエとしのぶは口をポカンと開けてその女性を見ていた。

 漆黒の髪を後ろで三つ編みにまとめた、蒼い瞳が印象的な容貌。醸し出される雰囲気お淑やかで、前情報と何の狂いも無いその美麗さ。

 

 似ている、義勇にとても似ている。

 

 高速で情報処理を終えたカナエとしのぶは、顔色が赤青白と順繰り巡って震え始めた。

 

 自分たちがとんでもない勘違いをしていたと、ようやく気付いたのだ。

 

 一方、現れた女性も固まっていた。

 お客様が来たのは知っていた。隠と呼ばれる方かしらと推測していたのだが、玄関にいたのはお出かけ用の着物を着た女の子が二人。

 

 可愛い女の子が二人。

 

 この屋敷の主人である義勇を訪ねにやって来ただろう可愛い女の子が二人も。

 

 女性の機嫌が急上昇した。

 

「あらあらあらあらまあまあまあまあ‼︎」

 

 口に手を寄せ普段より二倍増しのあらあらまあまあが炸裂して、義勇と真菰は道を譲るように傍にずれる。

 空いた場所に滑り込むような滑らかさで歩いてきた女性は、来客二人に飛び切りの微笑みを浮かべた。

 

「いらっしゃいませ、可愛いお二人さん。お名前は?」

「……胡蝶カナエです」

「……胡蝶しのぶです」

「二人は姉妹なのね。ふふっ、いらっしゃい、カナエちゃん、しのぶちゃん」

 

 えらく上機嫌な女性に何故か気圧されたカナエとしのぶは、助けを求めるように義勇を見る。

 二人の視線をどう取ったのか、義勇は女性と並んだ。

 

「紹介する。俺の姉の蔦子姉さんだ」

「義勇の姉の蔦子です。よろしくね、カナエちゃん、しのぶちゃん」

 

 紹介を受けた女性──蔦子は、淡く優しい微笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

『か、可愛い……!』

 

 冷静になって赤ん坊──朝顔の寝顔見た胡蝶姉妹の第一声である。

 

 あの後、蔦子の強引とも言える引き留めによりカナエとしのぶは昼食にお邪魔し、屋敷に滞在することになっていた。

 真菰とは別枠の新たな義妹候補に蔦子はさぞ上機嫌で、鼻歌を歌いながら洗い物をしている。先程手伝いを申し出た義勇を蹴飛ばす勢いで胡蝶姉妹の持て成しを命じたとはとても思えない。

 義勇も素直に従って茶菓子を用意する中、カナエとしのぶは真菰が抱える朝顔にぞっこんだった。

 

「二人も抱っこしてみる?」

「いいの⁉︎」

「うん、優しくね」

 

 いの一番に食い付いてきたカナエに真菰はコツを教えながら、ゆっくりと朝顔をカナエに移す。

 自身の両腕に収まった小さな赤ん坊を見て、カナエの表情が自然とほころんだ。

 

 こんなに小さな身体なのに、力強い命の鼓動を感じる。

 赤ん坊とはなんて尊いのだろう。

 

 鬼殺隊に世話になってからは、人の死にばかり触れてきた。

 既に失われた命を見たことも、目の前で消えていく命の灯火を見たこともあった。鬼殺隊の治療院で働く以上、回復する人より亡くなった人の数の方が断然多かった。

 その度に心が軋み、悲しみに苛まれて動けなくなる。

 

 しかし、それも最初だけ。

 

 傍らに死が在るのが当然となって。

 いつしか慣れてしまい、我慢出来るようになってしまった。

 

 こんな痛みは知りたくなかった。

 そして、その痛みに耐えられるようになってしまうことも知りたくなかった。

 

 だからだろうか。

 この世界に新しく産まれた命と触れ合えたことに、酷く感動してしまう。どうしてか泣きそうになってしまう。

 

 くしゃりと歪ませた笑顔で、カナエは朝顔を見詰めていた。

 

「ふふっ、可愛いわ……産まれてきてくれて、ありがとう……」

 

 この子の未来に多くの幸あらんことを。

 

 祈りと願いとそして決意を。

 あの時妹と誓った想いを改めて胸に刻み込んで、カナエは新たな生命に感謝を述べた。

 

「姉さん……あの、私も……」

「えぇ、ゆっくりね……」

 

 時間にして一分も経っていないが、充分に満足したカナエは先程からうずうずしていたしのぶの腕に赤ん坊を預ける。

 初めて抱っこする赤ん坊に最初はおっかなびっくりのしのぶであったが、次第に愛しさが上回って素の笑顔が浮かんでいた。

 

「あったかい……可愛いなぁ……」

 

 細い自分よりも更に小さなその身体。産まれたばかりの赤子は『庇護されるもの』として人間動物問わず須らく可愛いものだと何かの文献で読んだ気がするが、あながち間違っていないのかもしれない。

 ゆらゆらと揺らしながら、しのぶはひと時の安らぎを得る。

 

「二人とも慣れるのが早いな」

 

 人数分のお茶と菓子を用意した義勇が三人の卓の向かい側に座り、そう声を掛けた。

 慣れるとは何のことだろうかとカナエとしのぶが首を傾げる中、真菰だけがニタニタと笑っていた。

 

「ふふふ、聞いてよ二人とも。最初抱っこした時は義勇ってば緊張し過ぎで、震えが酷くて朝顔ちゃんに泣かれたんだよ」

「……ふふっ! なんだか眼に浮かぶわ」

「確かに、義勇さんこういうの苦手そうですよね」

「……わざわざ言うな」

 

 思いっきり顔を背ける義勇に少女たちはくすくすと笑う。

 このまま三対一で会話を進められては勝ち目はないと察した義勇は、戦略的撤退を兼ねて話題を変えることにした。

 

「それで、二人は何の用だったんだ?」

『……へっ?』

 

 義勇としては当たり前の疑問だったのだが、問われたカナエとしのぶの反応は至極悪い。何の事? と聞き返されそうな程にキョトンとしている。

 その反応に困惑したのは義勇であった。

 

「話したいことがあると言っていただろう?」

『…………あぁ〜〜〜〜……』

 

 義勇の言葉でやっと何の事か思い至った胡蝶姉妹の声は若干震えていた。

 油断すれば冷や汗をだらだらとかきそうな精神状態を全集中の呼吸を使ってまで平静を保ち、カナエとしのぶは義勇から顔を背けると同時に小声で作戦会議を開く。

 

「えっ、どうしようしのぶ⁉︎ 正直に言う?」

「姉さんは馬鹿なの⁉︎ 言えるわけないでしょ!」

「でも誤魔化す言い訳がないわよ?」

「大丈夫、ちゃんと用意してるわ」

「流石はしのぶ! 私の妹は優秀ね!」

 

 サッと義勇に向き直った二人は笑顔を浮かべていた。

 二人はこんなだったろうかと義勇は当惑するが、口には出さないでおく。

 義勇の動揺など露知らず、貼り付けた微笑のまましのぶが話し始めた。

 

「この度、私たちが開発した鬼殺の毒が正式に認められる運びとなりました。協力いただいた義勇さんに深い感謝をと思い、ご挨拶に参りました」

 

 カナエは感動する。私の妹本当に優秀! と、姉の威厳など一欠片も残っていない心境でしのぶを褒め称える。

 義勇も義勇で相手を疑うということを知らないので、しのぶの言葉をそのまま受けて淡く微笑んだ。

 

「そうか、それは良かった。しのぶ、カナエ、お疲れ様」

 

 真菰と蔦子の教育もあって順調に矯正が進んでいる義勇の微笑みと労いに、カナエとしのぶは顔を紅くする。純粋に嬉しいのもあるし、改めてその柔らかい笑顔を直視して恥ずかしい。

 

 そんな二人の様子を見て真菰は盛大に若気る。

 なんとなく察してはいたが、この瞬間に確信した。

 最悪な相手に最悪な弱味を握られたことを、胡蝶姉妹はまだ知らない。

 

 そして、この場における最強も姿を現した。

 

「私もお喋りに混ぜてほしいわ」

 

 優雅な仕草で義勇の隣へ腰掛ける蔦子。

 雅なその動作に惚れ惚れするカナエとしのぶだったが、蔦子の瞳が常の十倍以上に爛々と煌めいていることには気付けない。

 

 蔦子と真菰の視線がかち合う。

 真菰の一回の首肯で全てを把握した蔦子は、とりあえず隣にいた自慢の弟の肩を叩いた。

 

「もう義勇ったら。こんな可愛い女の子のお友達がいたのなら早く紹介してほしかったわ」

「……女子の友人は紹介した方がいいのか?」

「勿論よ! 姉さんは気になります」

「そうか」

 

 この発言を大いに後悔することを、この時の蔦子はまだ知らない。

 

「それでそれで、三人はどんな関係なのかしら?」

「さっき蔦子姉さんが言った通り友人だが?」

「もう、そんなことは聞いてないのよ。義勇は相変わらずね」

 

 はぁ……、と露骨な溜め息を零す蔦子に解せないという気持ちが義勇の中で湧き起こるが、どう頑張っても勝てないと理解しているため反論しない。

 だからと言って蔦子が求めてる解答を導き出せる訳ではないので、義勇は即座に真菰に助けを求めた。

 

「真菰、助けてくれ」

「しょうがないなー。木偶の坊の弟の代わりに私が説明しましょう!」

 

 好き放題言ってくれる姉弟子にはきっと人の心がないのだ。

 義勇はそうやって自分を励まして黙り込んだ。

 

「まずは義勇とカナエさんの出会いからだね」

 

 そこからは真菰の独壇場。

 悪戯心のみを抱いていた真菰は、義勇や錆兎から聞き齧った内容を大仰に語り始めた。

 

 カナエの命の危機に颯爽と現れた義勇が膝枕をしてカナエを励ました。

 義勇が微笑みを取り戻せたのはカナエの尽力があってこそだった。

 一時期荒れていたしのぶの心を義勇が優しく解いて癒した。

 三人の仲はすこぶる良好で、御礼の為にわざわざ挨拶に来るほどに親しいのだ!

 

 大体合ってるけど何か違う。

 顔を紅くしながら否定の声を上げたい胡蝶姉妹だったのだが、否定の為に言葉を尽くすとそれはそれでボロが出そうで介入出来ない。

 という事情により口をもにょもにょし続けていたカナエとしのぶとは対照的に、蔦子は楽しくてたまらないとばかりに微笑んでいた。

 

「ふふふふふ、あらあらまあまあ。カナエちゃんとしのぶちゃんには随分とお世話になっていたのね。それなのに義勇ったら、一言も言ってくれないなんて」

「すまない、蔦子姉さん。今度からは報告する」

「報告……報告……まぁいいわ。ちゃんと報告してね」

「あぁ」

 

 全力で墓穴を掘っていることを、この時の蔦子はまだ知らない。

 

「さて、それで二人はこの後どうするのかしら?」

 

 話を振られたカナエとしのぶは顔を見合わせる。

 正直に言うと、目的は達した。

 義勇の浮気調査のような何かは蔦子の存在をもって解決しており、真菰以外に特別親しい女の影も見受けられない。今日からは安眠することが出来るだろう。

 

 というわけで帰宅しても構わないのだが、それはそれで勿体無い気がする。

 朝顔を揺らしながら、しのぶが口を開いた。

 

「特に予定はありません。本日は一日お休みを頂いているので」

「ならお夕飯も食べていかない? 今日は義勇も真菰ちゃんも錆兎くんもお休みだから、久しぶりのご馳走を作る予定なの」

 

 

 

 

 

 

 

 

「成る程な、そういうわけで台所が賑やかなのか」

 

 日が暮れた頃、遠地の任務を終えて合流した錆兎は、普段より賑々しい調理場を一度見遣って納得した。

 両手に抱える朝顔を手慣れた様子であやしながら、この後のご馳走に想いを馳せる。

 

「鮭大根は一人二つずつ出るんじゃないか?」

「俺は大歓迎だ」

「まぁそうだろうな」

 

 苦笑して、錆兎が唐突に真剣な空気を醸し出した。

 あまりにも突然だったので義勇は一瞬ポカンとするが、とりあえず義勇も居住まいを正してみる。

 聞く態勢を整えた義勇を見計らって、錆兎が切り出す。

 

「義勇。お前はカナエとしのぶ、どちらが良いんだ?」

「すまない、質問の意味がよく分からない」

「いや、実は俺もよく分かっていないんだが……」

 

 義勇は首を傾げ、錆兎は大きな溜め息を吐いた。

 

 錆兎の服の裾の中にある一つの紙片。これが錆兎の溜め息の理由である。

 父親代わりの鱗滝は不参加であったが、久しぶりの家族団欒の機会とあって錆兎は機嫌の良いまま義勇の屋敷を訪れた。

 礼儀として呼び鈴を鳴らし、しばし待つ。ドタバタと駆ける音がして、真菰は相変わらずだなと苦笑いを浮かべるまでが錆兎の安寧の時間だった。

 

 ふと、おや……? と思う。

 特別聴覚に優れているわけではないが、真菰以外にも誰かが玄関に近付いていることを察する。

 義勇も合わせて出迎えだろうかとやや疑問に思った錆兎だったが、開け放たれた戸の先の光景に目を見開いた。

 

 物凄くキラキラとした表情で錆兎を迎え入れる真菰と蔦子がいたのだ。

 

 なんとなくこの時点で嫌な予感があったのだが、往々にしてそういう時の直感は当たるもの。

 真菰が差し出した紙片が諸悪の根源だった。

 

「おかえり、錆兎。はい!」

「おかえりなさい、錆兎くん!」

「ただいま、真菰、蔦子さん。……で、なんだこれは?」

 

 錆兎の問い掛けに真菰は満面の笑みを返す。

 

「錆兎への特別任務だよ! 私と蔦子お姉さんからだから、断るのはなしで!」

 

 これが真菰のみの頼み事だったら内容次第では突っ撥ねているがのだが、蔦子との連名になると途端にその選択肢が消え失せる。

 そして、こんな事態は今までに起きた事がない。

 盛大に顰め面になりそうなのを強い自制心を持って封じ込め、錆兎は二つ折りになっていた紙片を開いた。

 

『任務その一、義勇にカナエとしのぶどっちが良いの? と聞く』

『任務その二、夕食時、頃合いを見て義勇に好みの女性の特徴を訊ねる』

 

 錆兎の自制心は吹き飛んで思いっきり渋面を浮かべた。

 

「なんだこの巫山戯た任務は?」

「それじゃあよろしく〜!」

「錆兎くん、ゆっくりしていってね」

 

 ピューンと飛んで行く真菰と有無を言わさぬ様子で奥へ進む蔦子。

 ろくな対応もされなかった錆兎は数秒固まり、やがてとても大きな溜め息を零すのだった。

 

 

 

 そんな経緯があったことを知らない義勇は、今度は錆兎がトチ狂ったかと判断して深く考えなかった。姉弟子も姉弟子だが弟弟子も中々に酷い。

 錆兎は真面目に取り組むのがなんだか馬鹿らしくなってきたので早々に任務を投げ出し、癒しを求めて朝顔と遊び始める。

 

「朝顔、お前は真菰のような人間になっては駄目だぞ」

「おいコラどういう意味かなそれは?」

「そのままの意味に決まっているだろう」

 

 兄の自分への陰口を聴いてしまった真菰が笑顔のまま抗議するも、悪怯れる事も無く錆兎は妹を一蹴した。

 

 どうやら夕食の準備が終わったらしい。

 真菰を始め、女性陣が続々と配膳に動き、義勇と錆兎は座布団だけ用意して待機する。

 

「あっ、錆兎くん。久しぶりだね〜」

「ああ、久しいな、カナエ。しのぶも壮健そうで何よりだ」

「はい、お久しぶりです、錆兎さん。申し訳ありません、突然お邪魔してしまって」

「俺は全く構わない。食事は大人数の方が楽しいだろう」

 

 錆兎の好青年振りが発揮された爽やかな応対。客観的に見て、さぞ淑女に人気だろうと伺える。

 やはりこの三兄弟の中で一番まともだけあるなと胡蝶姉妹は改めて感心した。

 

「お待ちどおさま。さっ、用意が出来たから頂いちゃいましょう」

 

 全ての料理を運び終えた蔦子が最後に座り、全員でいただきますと唱和する。

 義勇は真っ先に好物である鮭大根に箸を伸ばす。

 

「美味しい。いつもありがとう、蔦子姉さん」

「どういたしまして。ただ今日は私だけじゃないでしょ。真菰ちゃんにカナエちゃん、しのぶちゃんも手伝ってくれたのよ」

「そうだな。真菰、カナエ、しのぶ、ありがとう」

「お姉ちゃんに感謝して召し上がれ!」

 

 両手を腰に当ててえっへんと宣う真菰に唐突に感謝の念が薄れる義勇だったが、味は確かな為に表には出さなかった。

 その時ふと、料理に手を付けたカナエとしのぶが心無しか凹んでいるように見えた。

 

「カナエ、しのぶ。どうかしたか?」

「あー、あはは〜……真菰ちゃん、料理上手なんだな〜って……」

「嘘です、嘘です……こんなに差があるなんて……」

 

 ずーん、と音が聞こえてきそうな程に暗い目をする二人。胡蝶姉妹にとって、これは大事件であった。

 

 二人はてっきり、真菰は戦闘面に特化した戦乙女で、家事全般といったいわゆる主婦が嗜む技能とは無縁の存在だと思っていた。

 蔦子と料理するとなって、二人は自信過剰にも真菰を支える立場だと勘違いしたのだ。

 

 それが如何に烏滸がましい考えかと思い知らされたのは直ぐのこと。

 

 真菰の料理の腕は二人より遥か上。

 この数ヶ月蔦子と共に料理する機会が多かった真菰は、着実に技量が向上していたのだ。

 

 鬼殺隊に保護されて以降、花嫁修行を疎かにしていた胡蝶姉妹が勝てる道理が無かった。

 

 心的損害は予想を超えて大きい。

 只でさえ鬼殺の面で劣ってるのに、女としても負けては何一つ立つ瀬が無い。

 カナエとしのぶの今後の日常生活に、花嫁修行の項目が捻じ込まれた瞬間だった。

 

 二人の鬼気迫る雰囲気からこれ以上突くのを義勇は止め、黙々と目の前の料理に舌鼓を打つこととする。

 柱となって無尽蔵な資金がある義勇だが、別に肥えた舌など持っていない。一番の贅沢は蔦子の料理だと言い切れるほどに料理に対しての拘りは然程なく、今日の献立もどれも等しく美味しいと思っている。

 

「義勇、醤油取って」

「ああ。真菰、その皿寄せてくれるか?」

「錆兎くん、これ好物でしょ?」

「はい。ありがとうございます、蔦子さん」

 

 それに何よりも。

 こうして家族揃って夕餉を囲める幸せを噛み締められる。

 これに勝る幸福はない。

 

 ほわほわと、花でも咲き始めたのかと錯覚するぐらいに落ち着いた様子の義勇たち。

 そんな彼らと穏やかに過ぎる食卓の光景に、カナエとしのぶは久しく忘れていた家族団欒の心地良さを思い出していた。

 

 どうしようもなく落ち着く。

 家族で寛ぐという当たり前にあった失われた風景。

 こういう何気ない日常を護る為に自分たちは頑張っているのだなと、今日は沢山のことを再確認している。

 今日に至るまでの動機は傍に置いて、此処に来て良かったなと、カナエとしのぶは強く思った。

 

 そうして平穏な食事を過ごしてしばらく。

 何かに急かされた様子の錆兎が大きな吐息を漏らした後、爆弾を放り投げた。

 

「義勇。時に気になったんだが、お前はどのような女性が好みなんだ?」

『ぐふっ⁉︎』

 

 唐突なその話題に胡蝶姉妹が喉を詰まらせる。

 一人ニタァと嗤う少女に気付かず、義勇は兄弟子の頭を心配する。

 

「錆兎、任務で頭を強く打ったのか? 先程から言動がおかしいが……」

「残念ながら俺は平常だ。義勇、男なら細かいことは気にせず質問に答えろ」

 

 いやその理屈は無理やり過ぎるでしょ、と胡蝶姉妹は思った。

 

「そうよ義勇。ここは細かいことは気にしないで答える場面よ」

「そうか、蔦子姉さんがそう言うなら」

 

 思わぬ援護射撃に胡蝶姉妹はギョッとして、納得が早過ぎる義勇にぽかんとした。

 この短い触れ合いでなんとなく察していたが、義勇は蔦子に対してちょろ過ぎる。

 

 カナエとしのぶの困惑を置き去りに、義勇は顎に手を当て頭を悩ませる。

 

「だが、俺はその手のことに関心が無かった。好みと言われてもよく分からない」

「まぁそうだとは思っていた。だからな、えーと……」

 

 錆兎はちらりと隣を一瞥する。

 手の中に新たな紙片を開いていた真菰を恨めしそうに見た後、振り向いて錆兎は続けた。

 

「好感が持てる女性の特徴を聞いてみたいんだ」

「特徴?」

「ん? ……ああ、性格や髪型、体型? に綺麗系か可愛い系? といった感じらしい」

「なるほど……」

 

 例を羅列され考える取っ掛かりを得た義勇は素直にも真剣に黙考し始めた。

 

 思いも寄らない展開に質問を受けている当の本人より恥ずかしくなってきたカナエとしのぶはもじもじし出し、この状況を作り上げただろう元凶である少女へキッと眼光を尖らせる。

 とっくに分かっていた。錆兎が仕方なく真菰の指示に従っていることなど。

 事実、胡蝶姉妹の視線を受けて真菰はニッコリと笑みを浮かべていた。

 邪気に満ちた笑顔だった。

 

「それで義勇、なにか思い付いた?」

「そうだな……」

 

 待ち切れないとばかりに真菰が義勇を急かし、能面のまま義勇は顔を上げる。

 

「考えてみたが、やはり特に思い浮かばない」

「えー、そんなことないよきっと。性格はお淑やかな人が良いとか、髪が長い人が好きとか、お尻が大きい人が良いとか、色々あるでしょ?」

 

 なんてこと聞くのこの子……と胡蝶姉妹は戦慄する。

 

「そうは言われてもな……」

「んー……あっ! じゃあ」

 

 名案閃いたと真菰は手を叩く。

 

「此処にいる四人の中だったら誰を一番奥さんにしたい?」

『──⁉︎』

 

 本当になんてこと言うのこの子⁉︎ と胡蝶姉妹は慄然とする。

 半強制的に矢面に立たされたカナエとしのぶは瞠目して絶句していた。羞恥を通り越してもはや危機感すら覚え始め、この女早くなんとかしなければと切羽詰まった思いに駆られる。

 二人の焦燥を汲み取った訳ではないだろうが、義勇は真菰のこの質問には露骨に柳眉を寄せた。

 

「俺に結婚は無理だろう。それよりも真菰、カナエとしのぶに失礼だ」

「えー、どうして義勇はこういう時だけ常識的なの?」

「俺は常に常識的だ」

「それは嘘だよ。もう分かったよ私は。義勇も錆兎と同じくらい天然だって」

「ちょっと待て、聞き捨てならない台詞が聞こえたんだが」

 

 自身の名誉に関わる発言に錆兎が口を挟む。

 対して真菰は何を今更という態度で鼻を鳴らした。

 

「聞き捨てならないも何も、錆兎が天然だっていうのは周知の事実ってやつだよ」

「いや、それはない。少なくともお前たちに言われるのだけは心外だ。特に真菰」

「真菰はともかく、俺を巻き込むな」

「義勇はともかく、私を巻き込まないで」

「これだけは譲れん。絶対に二人の方が酷いと断言できる」

 

 

 

『──は?』

 

 

 

 三者三様のドスの効いた声が響く。

 しん、と冷える空気。体感温度が急激に下がったと錯覚するほどの冷たい雰囲気に、カナエとしのぶはぶるりと体を震わせた。

 なまじ埒外の存在である鬼を一方的に屠れる三人だ。放たれる威圧感は常人の比ではない。

 話の展開について行けず、どうしてこうなったの⁉︎ と胡蝶姉妹が震慄する中、剣呑な圧を発する水の三兄弟は全面戦争の構えを示した。

 

「今すぐにでも二人をぶちのめして考えを改めさせたいけど、手元に得物がないからなぁ〜」

「ほう。生意気を言うようになったな、真菰」

「俺は二人相手でも構わない」

「末っ子が調子に乗ってるのは後でお姉ちゃんが制裁するとして、ここはそうだね。公平に多数決でいこうよ」

『異論はない』

 

 傍観者の立場からするとこのやり取り自体がアホ丸出しの天然案件なのだが、口出しすると飛び火しそうなのでカナエとしのぶは黙り込む。

 指の差し合いで勝負を決するらしく、真菰の号令が合図。

 

「誰か一番天然かっ! せーのっ!」

 

 ビシッと振り下ろされる三つの手。

 真菰の指が錆兎に突き刺さり、残り二つが真菰を貫いていた。

 

「なんでっ⁉︎」

 

 兄と弟に裏切られた長女が喚くが、男衆は大人気なく敗北者である真菰に見向きもしない。

 

「これではっきりしたな」

「やはり俺は一番普通だった」

 

 一人調子に乗ってる義勇に、外野でありながらやり直しを求めたいカナエとしのぶ。

 その二人に先んじて負け犬である真菰が起き上がった。

 

「これはあれだよ、母数が少ないんだよ! もっと多くの人に聞けば違った結果が現れるはず!」

「往生際が悪いぞ、真菰」

「そうだ、甘んじて結果を受け止めろ」

「んがー⁉︎ 納得いかない! ねぇ、カナエさんとしのぶは誰が一番おかしいと思う?」

 

 問い掛けが直球なものに変化しているが、我が意を得たりとカナエとしのぶは即答する。

 

「ん〜、私はやっぱり義勇くんかな〜」

「私も義勇さんだと思います」

「あはははは! ほら見たことか! これで私と義勇が同点だよー!」

 

 背中から刺されるようにカナエとしのぶに売られた義勇。真菰と同点という言葉の響きが心を抉り抜き、その無様を真菰は高笑いしながら見下ろしていた。

 こうなると一人だけ一票で済んでいる錆兎が気に食わない。

 死なば諸共の精神で真菰は最後の一人に目を向けた。

 

「蔦子お姉さんは? ここはやっぱり錆兎が一番天然だと思うよね?」

 

 眼差しに期待を乗せて、真菰が卓に乗り出すようにぐいと身体を寄せる。

 同調して錆兎と義勇も蔦子へ視線を走らせる。

 

 果たして、ここまで弟妹たちの醜い言い争いをニコニコと見守っていた蔦子は告げた。

 

「私はみんな可愛くて、みんな面白い子だと思ってるわよ?」

『…………』

 

 言外に、お前ら全員天然だよと断言され、水の三兄弟は黙り込んだ。

 結局、義勇の女性の好みについては有耶無耶になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「王手」

「……ありません」

「義勇……お前、弱過ぎるだろ」

「これで詰め将棋が趣味なんて片腹大激痛だよ〜……あはははは!」

 

 弟を甚振る大人気ない姉を赤ん坊を抱えた兄が見守る。

 そんな光景を皿洗いをしながら見詰めていた蔦子とカナエとしのぶは、微笑を浮かべていた。

 

「真菰ちゃんって何でも出来るんですね〜」

「真菰ちゃんはなんていうのかしら……恐ろしく勘が良いのよね。料理もそうだし、ああいう盤上遊戯もやり方を覚えたら器用に熟すのよ」

「規格外ですね……」

 

 愚痴のように零れたしのぶの本音に、蔦子とカナエはしみじみと頷く。

 真菰は間違いなく傑物だ。凡ゆる方面での才能が光り、鬼殺においても例外では無い。強過ぎる義勇や錆兎の所為で勘違いしそうにもなるが、そもこの二人に女の身で追随出来ているのが異常なのだ。

 この話題は続けるとしのぶは無限に凹みそうになるので頭を振って思考を切り上げる。

 せっかく三人きりなれたのだ。

 ずっと気になっていたことを、しのぶは蔦子に尋ねることした。

 

「蔦子さん、お聞きしたいことがあるのですが……」

「あら、何かしら。何でも聞いて?」

 

 柔らかに微笑む蔦子に対し、しのぶは若干表情が暗くなる。

 躊躇いを飲み込んで、しのぶは口を開けた。

 

「蔦子さんは、鬼殺隊のことを、鬼のことを、義勇さんが何をしているかを知っているんですよね?」

「ええ、もちろん知っているわ」

「……義勇さんを止めようとは、思わなかったんですか?」

 

 鬼殺の剣士は常に命懸けだ。

 関わらずに幸せな道を進むことだって選べる。

 カナエとしのぶはその道を選ばなかった。

 鬼という存在を知って、見て見ぬ振りなんて出来なかったから。

 両親を奪った悪鬼を許せなかったから。

 残された二人で手を取り合って決心したカナエとしのぶを、止める者はその場にいなかった。だから二人は鬼殺の門を叩いた。

 

 だが義勇は胡蝶姉妹とはきっと違う。目の前にいる蔦子が何よりもの証拠だ。

 

 どう見ても蔦子は一般人である。

 心優しき姉が、弟が修羅の道を進むと知って、何も言わなかったのだろうか。

 二人で鬼のことなど忘れて、平穏を生きる選択肢はなかったのだろうか。

 どうしても気になったしのぶは蔦子を真っ直ぐに見詰める。

 見返す蔦子の眼差しにも、真剣さが宿っていた。

 

「……そうね、止めたい気持ちは勿論あったわ。この世にあんな存在がいたなんて知らなかったし、鬼を退治するのが命懸けだってのも分かってたもの」

「……もしかして蔦子さん、鬼と遭遇したことがあるんですか?」

「ええ、一年半くらい前に一度だけね」

 

 そう言って、蔦子は義勇へと視線を投げた。

 

「義勇はそういうことを何も言ってないのかしら?」

「そうですね、聞いたことないです」

「……きっと遠慮してるんだわ。恐らくだけど、義勇は鬼殺隊の方々の中では恵まれた方だから」

 

 恵まれてる、その言葉にカナエとしのぶは眉を寄せた。

 そんな訳はないだろう。

 

 だってこの場には、居るべき人が居なすぎる。

 

 直接は聞けないその内容を、蔦子は苦笑を挟んで言う。

 

「勘違いしても仕方ないわね。実はね、私達の両親はもうずっと前に流行り病で亡くなってるのよ。あと、席を外してるだけで、私の夫は普通に生きてるわ」

「えっ……」

「そうだったんですね……」

「ええ。鬼と会った時点で私は義勇と二人暮らしだったから、家族を鬼に殺されたって訳じゃないの」

 

 だから義勇は言えなかったんだと思うの、と蔦子は付け加えて、今度は錆兎と真菰を見る。

 

「錆兎くんと真菰ちゃんは家族を鬼に殺されてる。むしろ鬼殺隊の方でそういった事情がない子の方が珍しいって、義勇から聞いたことがあるから」

 

 蔦子は決して憐憫といった感情を瞳に浮かべなかったが、カナエとしのぶを見る眼差しはどこまでも優しさに満ちていた。

 これだけ育ちの良い子達なのだ。事情は推して知れる。

 

 気まずい、とまではいかないが浮かない表情の蔦子に対し、カナエは心底嬉しそうに笑った。

 

「良かったです。鬼と遭遇して助かったなんて、救援が間に合ったんですね」

「ええ。本当のぎりぎりで、駆け付けてくれたのよ。……ただ」

 

 そこで蔦子は改めて義勇を見た。

 

「義勇が時間を稼いでくれなかったら、確実に殺されていたわ」

「時間を……稼いだ?」

「どういうことですか?」

 

 単純に、理解が及ばなかった。

 鬼と遭遇したのが一年半以上前だとすると、その当時義勇は只の子供の筈だ。

 非力な少年が鬼相手に時間を稼げる訳がない。

 相手が会話が成立する程度の知性がある酔狂な鬼だとしても、保って五分がいいところ。鬼殺隊員からすればもはや誤差の範囲だ。

 

 だからこその疑問だったのだが、それは本当に言葉通りの意味だった。

 

「義勇はね、斧一つで鬼相手に四半刻以上粘ったのよ」

 

 静かに語られる蔦子と義勇の過去に、カナエとしのぶは言葉を失う。

 

 叫び声が聞こえて義勇が様子を見に行った。

 あまりにも帰りが遅い義勇を心配して、蔦子が家を飛び出したのが二十分以上経ってから。

 辺りを駆け回りようやく見つけた現場で、最愛の弟が鬼に蹴飛ばされ倒れ伏した。

 迫る鬼の凶手。蔦子の危機に、満身創痍であった義勇はそれでも立ち上がった。

 

「びっくりしたわ。あんな綺麗な剣舞、見たことなかったもの。況してやそれを義勇が繰り出したものだから、一瞬唖然としちゃったわ」

 

 なんて言ったかしら……と、蔦子は顎に手を寄せる。

 

「確か……全集中、水の呼吸、肆ノ型、打ち潮……だったかしら?」

『──⁉︎』

 

 あり得ないことを聞いた。

 表情から明確にそう察せるだろう驚愕が、カナエとしのぶの胸に沸いていた。

 二人の反応に気付かずに、蔦子は思い出話を締めくくる。

 

「その後に鬼殺の剣士様が間に合ったのよ。今思い出しても、本当に危なかったわ」

 

 こうして長閑に暮らしていける幸せを噛み締めて、蔦子は話を最初に戻す。

 

「その事件の後、義勇は鬼殺隊の門を叩く決意を固めていたわ。自分が護れるかもしれない人がいるなら、護りたい、ってね。あんな目でお願いされたらね、断れないわ」

 

 綺麗な布で皿を拭き終わった蔦子は、曖昧に笑いながらしのぶを見る。

 

「こんな答えでごめんなさいね」

「い、いえ! 私こそ、大変不躾な真似をしました……」

「……ふふっ。でも、良かったわ。カナエちゃんやしのぶちゃんみたいな子が義勇の側にいると分かって」

 

 心底安堵したように蔦子は破顔する。

 相手の身内、更には年長者にそんな風に言われる照れくさく、カナエとしのぶは驚きを余所に顔を赤らめた。

 初々しい反応に蔦子は顔を明るくする。

 しかし、発する声音は些か深刻そうで。

 

「天然かそうじゃないかは置いといて、義勇にははっきり言って異常な部分があるわ」

 

 人格者である蔦子の歯に(きぬ)着せぬ物言いにカナエとしのぶは瞠目するも、蔦子がまとう雰囲気を感じ取って真剣さを帯びた。

 二人の様子に蔦子は声に出さない感謝を込めて、悩みを吐露する。

 

「年の割に成熟してるのはこの際無視して、それを踏まえてもあの子には欲が無さすぎる。今で全て完結してて、満足してる。あと偶にね、私や錆兎くんを見る目がこう、なんて言うのかしら……幸せに満ち足りてるような、そんな目をするのよ。私と錆兎くんの共通点として死の間際に立ったというのがあるから、最初はあまり気にしてなかったんだけど……それでもやっぱり、十五にもなってない子供がする目ではないわ」

 

 蔦子自身も上手く言語化出来ないためか、募る言葉は懊悩の大きさとは反比例に要領を得ないものが多い。

 それでも、カナエとしのぶには伝わった。

 蔦子よりは圧倒的に接した時間は少ないが、義勇のそういった異常さは誰よりも身に染みている。

 

「でも、カナエちゃんとしのぶちゃんと話す時は年相応……とは言えないけど、新しいことに挑戦しているような健気さが垣間見えたの。ちょっと違うけど、朝顔を抱っこした時はそれが顕著だったわね」

 

 思い出し笑いをする蔦子はさぞ嬉しそうで、瞳に澄んだ愛情を乗せて義勇を見詰める。

 

「あの子には出会いが必要なのよ。もっと多くの人と出会って、言葉を交わして、友誼を結んで……家族愛とは違う愛を育んでほしい」

 

 蔦子の言わんとしていることを察してか、胡蝶姉妹の頰が紅潮する。

 

「あの子はさっき、当たり前のように自分は結婚できないって言ってたわ。……私には、それが悲しい。義勇が本気でそう思ってるのが分かるから尚のこと。……でもね、きっと……好きな子でもできたら、義勇だって変われると思うのよ。恋をして、結婚して、子供を産んで……そんな何気ないけど尊い幸せを、義勇には掴み取ってほしいわ」

 

 儚げに微笑む蔦子。慈愛溢れるその表情は、姉であると同時に母として包容力をたたえていた。

 あまりにも綺麗なその容貌にカナエとしのぶは思わず見惚れる。

 一体どれほど時間固まっていたか。

 転瞬、蔦子の笑顔が悪戯っこのようなお茶目なものに変わる。

 

「だからね、カナエちゃんとしのぶちゃんのこと応援するわ!」

「えっ⁉︎」

「お、応援って……」

「ふふふふ、楽しみだわ。ああ、早く義勇がお嫁さんを紹介してくれないかしら。姉さんはもう一人くらい妹が欲しいわ〜」

『〜〜〜〜っ⁉︎』

 

 あたふたとする可愛い女の子を視界の端に、蔦子は訪れるだろう明るい未来を思い描く。

 家族みんなで仲良く暮らす幸福で満ちた尊い日々を、蔦子はいつまでも待ち続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お邪魔しました」

「結局宿泊までさせていただき、本当にありがとうございます。とても楽しい時間を過ごせました」

「私こそ二人が来てくれて楽しかったわ。また来てね」

『はいっ!』

 

 屋敷の門の前。

 朝顔を抱き上げ見送りに立つ蔦子に頭を下げるカナエとしのぶがいた。

 その場にいるのは三人だけで、水の三兄弟は席を外している。

 

「ごめんね二人とも。あの子たちも忙しいみたいで」

「仕方ありませんよ。義勇くんは柱ですし、錆兎くんも既に上位の階級ですから」

「日の出前にも通達が来るのね。もう慣れたけれど、鬼殺隊ってやっぱり大変なのね」

「それは、その……はい、そうですね」

 

 遠い空を眺めながら、想いを馳せるように瞳を細める。

 弟妹の無事を、鬼殺隊員の無事を祈った後、カナエとしのぶに向き直った。

 

「危ないのは知っているわ。二人が覚悟をもってその道を選んだことも。それでも、願わせて。……絶対に、生きて帰って来てね」

「……はい。私たちも、死ぬつもりはありません」

「必ず生き抜いて、鬼を倒してみせます」

「……ありがとう」

 

 朝顔を片腕で支えて、蔦子は一人ずつカナエとしのぶを抱き寄せる。

 ギュッと抱擁を返す二人は、かつては側に寄り添っていた胸に染み渡る暖かさを思い出す。

 この温もりを、覚えていよう。

 喪われた筈の、家族の暖かさを。

 

 二人の姿が見えなくなるまで手を振って、蔦子は一人朝顔を抱きかかえて屋敷へと戻る。

 別れた直後だというのに、思い出すのは可憐な少女たちのことばかりで。

 

「ふふっ、どちらがお嫁さんに来るのかしら……もしかしたら両方?」

「あう〜?」

「そうよね、朝顔もお姉ちゃんが欲しいわよね」

 

 丁度よく反応を返してくれる我が子を愛でて、蔦子は玄関を開ける。

 今日やるべき事を整理して、家族の帰りを待つことにした。

 

 

 

 なお、後日。

 姉の言い付け通り弟が女子限定で友人を紹介し始め、三人を超えた辺りで姉は焦りを覚え、五人目を突破した際に弟へ説得及び説教を断行することになるのだが、それは別の話。

 

 

 

 

 





フラグはばら撒くものさ




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第4話 出会いと別れを繰り返して ①


今更なお願い

可能な限り原作と矛盾なく、分からないところはオリジナルで、という感じで書くつもりだったのですが、ファンブックおよび先週号のジャンプ本誌の話で、考えてたプロットの時系列がメチャメチャになってしまいました……
練り直すのも大変なので、時系列についてはある程度オリジナルで進めさせて頂きたいと思います。
なので、「あれ、なんかちょっと違くね?」みたいな点があっても、暖かい眼差しで見守って頂けると幸いです。
我が儘言ってごめんなさい!

以下本誌ネタバレありの具体的な懸念箇所
見たくない方はスクロールで飛ばして下さい。










義勇さんとカナエ姉さんが柱で同僚の時期あったんかーい⁉︎
つまりカナエ姉さんが亡くなったのは2年以内。
義勇さん公式外伝の時点でしのぶさんが羽織を受け継いでたので、完全にその数年前だと思ってました!













というわけで本編をどうぞ!


※追記 20190808
賛否両論あって、少しだけ加筆しました。




 

 蒼い斬撃が真一文字に奔る。

 寸分違わず鬼の頸を捉えたその一閃。血飛沫と共に切り離された頭が宙を舞い飛び、庭にゴトリと落ちる音が戦闘終了を告げる。

 

 さらさらと灰となって消えていく鬼の骸を見届けて、慣れた手付きで少女は日輪刀を納刀した。

 

「義勇、終わったよ。そっちは?」

「こっちも応急処置は済んだ。立てるか?」

「はい、ありがとうございます。義勇様、真菰様」

 

 負傷した青年は目の前に立つ少年──冨岡義勇と、つい今しがた鬼を屠った彼の継子である少女──真菰に礼を言う。

 一先ずの安全は確保した。

 状況把握の為、周囲の警戒を真菰に任せて義勇は青年に問い掛ける。

 

「被害は?」

「民間人が三人ほど……偶々近くにいた自分が駆け付けた時にはもうこの子しか……」

「そうか……」

 

 青年の側で放心したように微動だにしない五歳ほどの少女。

 彼女の視線の先は血赤に染め上げられた障子があり、その奥の光景は見るまでもなく想像出来た。

 

「おとうさん……おかあさん……おにいちゃん……」

 

 よろよろと立ち上がり、涙の跡も拭かぬまま戸へと近付く少女。

 ついさっき目の前で起きた惨状を信じられず、この戸を開ければ何不自由なく自分へと笑いかけてくれる家族がいる。

 叶わない願いを胸に、少女は腕に力を込めようとする。

 

 義勇はその腕を優しく握り止めた。

 

「はなして……?」

「ダメだ……その戸を開けてはいけない」

「どうして……? おとうさんとおかあさんとおにいちゃんがいるの……」

「……すまない」

「はなして……はなしてはなしてはなして!」

 

 錯乱して暴れる少女。

 空いた手で闇雲に義勇を攻撃し、義勇の顔に引っ掻き傷が生まれるが決して腕は離さない。

 義勇はそのまま少女を抱き締めた。

 

「すまない。俺たちの力不足だ」

「はなしてっ‼︎ おとうさんに、おかあさんに……おにいちゃんに……っ‼︎」

「…………」

「うぅぅぅぅぅぅぅっ‼︎ はなしてはなしてはなしてっ‼︎」

 

 只管にもがき続ける少女を義勇は可能な限り柔らかに包み込む。

 悲壮な眼でその二人を見詰める青年が、柱である義勇にここまでさせる申し訳なさと、自らの不甲斐なさに両膝を突いて頭を下げる。

 

「申し訳ありません! 自分が無力なばかりに……もう少し早く」

「いい、今はよせ」

 

 強い口調で止めつつ、義勇は少女の頭を二度三度と撫でて背中をとんとんと叩く。

 その時、唐突に少女が止まった。

 父のような人の温もりに触れ、母のように頭を撫でられ、兄のように背中を優しく叩かれ、不意に理解してしまった。

 

 もう家族が笑いかけてくれることがなくなったのだと。

 

 見たことも無い大量の赤色に壊れた思考がふいに蘇り、理解してしまったのだ。

 

「……あ゛ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ⁉︎」

 

 狂ったように叫ぶ少女を義勇は今度は強く抱き締める。

 義勇にはこれしか出来ない。

 助けられなかった以上、死んだ人が生き返ることはない。

 生き残ってしまった人を、死なせないように尽くすしか。

 

「すまない……すまない」

「うぅぅぅぅぅっっっ⁉︎ おとうさんっ……おかあさんっ……おにいちゃんっ……うあぁぁあああああぁっ⁉︎」

 

 滂沱の涙を流す少女は泣き叫び続ける。

 自身の痛む心をせめて温もりに変えて、義勇は静かに少女を包み込む続けた。

 

 しばらくして、少女の声が止む。

 精神的にも限界をとうに超え、泣き疲れて眠ってしまったのだ。

 少女の頰に残る涙を義勇は拭き、身体を冷やさぬようにと自身の羽織で少女を包んで抱き上げる。

 

「義勇様……」

「あまり気に病むな。お前が身を呈して庇ったお蔭で、この子は助かった。それがこの子にとって幸せだったのかは分からないが……お前はすべきことを成した。誇れ」

「っ……⁉︎」

 

 義勇の言葉が強く青年の胸を打つ。

 真菰が斃した鬼は謂わば雑魚鬼の範疇に収まるものだった。見る限り、一対一なら青年が遅れを取ることはなかっただろう。

 にも関わらず負傷して危機的状況だったのは、ひとえに青年が命懸けで少女の身を護っていたからに他ならない。

 誰かを護りながら戦うというのは、想像を絶する苦境に相違ないから。

 

「……はいっ……申し訳ありません……ありがとう、ございますっ……!」

「動けるのなら、蝶屋敷へ向かえ。ここから一番近い。後始末は俺たちがやる」

「……はい」

 

 青年が一礼の後に立ち去る。

 入れ違いに義勇へと歩み寄るのは真菰だ。

 義勇の腕の中で眠る少女を痛ましげに見た後、少し見上げて真っ直ぐと義勇の瞳を覗き込む。

 

「義勇もだよ」

「……何がだ?」

「気に病み過ぎちゃダメ。最善を尽くしても、救えない命がある。慣れて何も感じなくなるのも問題だけど、自分が壊れるのも気を付けないと」

「……そうだな」

 

 真菰は少女の乱れた髪を整えて、血赤に染まった障子を開けて素早く中に入り、戸を閉める。万が一を考えて、少女の目に映らないように。

 何も言わずに義勇は縁側へと移動し、澄んだ外の空気を吸いに行く。強過ぎる血の匂いは少女にも毒だ。

 

 時間を置いて戻ってきた真菰の手の中には、簪や数珠といった物が握られていた。

 

「遺品はこれくらいしか……」

「ありがとう、真菰。後は隠に託そう」

 

 呟きと同時、幾つかの影が義勇たちの周りに降り立つ。

 絵巻物に載っている忍者のような黒装束に身を包んだ彼らは、鬼殺隊事後処理部隊である隠の者達だ。

 

「水柱様、ご指示を」

「中に三人、この子の両親と兄だ。丁重に弔ってほしい。遺品についてはなるべく回収を。頼めるか?」

「御意。……その子は」

「この子は俺が直接蝶屋敷へ連れて行く。家は……いつかこの子が戻りたいと思えた時のために清掃を」

「はっ! 承知いたしました」

 

 返答を残して隠の者達は散った。

 夜闇に包まれた家を後にして、義勇と真菰は静かに歩き進む。

 

 人の死に触れるのは鬼殺隊の宿命である。

 何度目とも知れない無力感に二人は一言も喋らず、黙々とただ脚を動かし続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そう、分かったわ。この子の意思次第だけど、望むならウチで面倒を見るから」

「ありがとう、カナエ」

「ありがとう、カナエさん」

 

 蝶屋敷の一室。

 家主である胡蝶カナエの部屋で、義勇と真菰はカナエに頭を下げた。

 

「大袈裟だよ、二人とも。元々此処は身寄りのない子を引き取る場所でもあるんだから。……まぁほとんどの子は看護士さんになっちゃうんだけどね」

 

 苦笑するカナエだったが、その身からは隠し切れない哀愁が漂っている。

 側に敷いた布団で眠る少女。

 彼女は胡蝶姉妹が生み出したくなかった被害者そのものだ。

 

 鬼に家族を殺される、そんな悲劇を一つでもなくせるように。

 

 原初の誓いを胸に日々努力を重ねているのに、現実はこうも胡蝶姉妹の理想を踏み躙る。

 少女のような境遇の人を見る度に、カナエの心は悲しみに包まれ、妹の心には怒りが降り積もるのだ。

 

 この悪循環はきっと終わらない。

 鬼の始祖である男を滅殺しない限り。

 

「…………ぅうん……」

 

 少女から発せられた呻き声を聞いて、三人の空気が一瞬だけ緊張を帯びる。

 即座に穏やかさ取り繕い、少女が起きるのをゆっくりと待つ。

 

「……うぅ、おかあさん?」

 

 目をこすって体勢を変えた少女に、丁度目が合ったカナエは柔らかな微笑を浮かべた。

 

「おはよう」

「……おはよう、ございます……?」

 

 寝惚けた頭で反射的に挨拶を返した少女だったが、相手が見知らぬ他人と気付いてパチクリと眼を開けた。

 首を振って辺りを確認する。

 すぐ側にいるのは三人で、全員が知らない人。

 

 少女の表情に不安が苛み始めた。

 

「みなさんはだれ……? おかあさんは? おとうさんとおにいちゃんもいない……」

 

 記憶が混乱している。

 無理もない。少女はまだ年齢で言えば五歳がいいところ。

 あの現実をすぐさま飲み込めというのは酷な話だ。

 

 暗い感情を全て封じて、カナエは少しだけ距離を詰めて少女に話し掛ける。

 

「私の名前はカナエよ。あなたのお名前は?」

「……きよ」

「そう、きよちゃんね。素敵な名前だわ」

 

 笑顔のまま、カナエは義勇と真菰を一瞥した後に戸に視線を走らせる。

 意図を正確に察した二人は音も立てずに立ち上がり、卓越した隠密技能をもって少女に悟られることなく退室した。

 

「……役に立たないから出てろって酷くない?」

「事実だ。この手のことは俺達ではカナエやしのぶには遠く及ばない。それに見知らぬ年長者三人に囲まれてはあの子も落ち着けないだろう」

「正論過ぎてぐうの音も出ない」

 

 慈愛とは掛け離れた成長を遂げている自分に真菰は若干だが凹む。

 お淑やかという面での指針は間違いなく義勇の姉である蔦子にあるのだが、一生経ってもああなれる気がしない。

 生まれ持った品の良さが違うのだ。

 そろそろ本格的に諦めるかと真菰は開き直った。

 

 無駄口を叩くのを止めて、二人は壁に背を付けて待機する。

 中から聞こえる声に嗚咽が混ざり始め、酷く長く感じる時間の流れと何も出来ない自分がもどかしい。

 戸の開閉音に義勇と真菰は目線をずらした。

 

「どうだったの?」

「……思い出しちゃったみたいでね……精神的に良くないと思って睡眠を誘発させる香で寝かせたわ」

「カナエは大丈夫か?」

「私は大丈夫よ。心配してくれてありがとう、義勇くん」

 

 暗い表情のまま浮かべる無理矢理な笑顔。心の治療とはやはり慎重に行わなければいけないものなのだろう。

 力になれない無力感に義勇は一度だけ奥歯を噛み締め、カナエが抱きかかえていた少女を受け取った。

 

「ありがとう、義勇くん」

 

 

 

「いつまでも落ち込んでたらみんなに心配をかけちゃうわ。気分転換にちょっと見て欲しいところがあるんだけど」

 

 カナエの提案に義勇と真菰は乗る。

 少女を別室で寝かせた後、三人は屋敷に併設された訓練場へと向かっていた。

 

「機能回復訓練? 何それ?」

「あれ? 真菰ちゃんは知らないの? 義勇くんから教えてもらったのに」

「……あぁ、何でもありあり鬼ごっこのこと?」

「そんな物騒な鬼ごっこは知らないんだけど……」

 

 言葉の響きだけでおっかなさが滲み出ている。

 水の呼吸三兄弟はそんな意味不明な鬼ごっこをやっているのかと内心戦慄するカナエだが、流石に慣れてきたのか苦笑一つで片付けた。

 

「鬼ごっこの他に身体のほぐしと反射訓練があるわ」

「へぇ、面白そうだね。カナエさんが相手してくれるの?」

「私がする時もあるけど……見れば分かるわよ」

 

 辿り着いた訓練場の戸をカナエは開ける。

 ぶわっ、と広がる熱気。

 ダダダダダッ、と勢い良く踏み鳴らされる足音。

 

 一般隊士を相手に胡蝶しのぶが互角以上の速さで相対していた。

 

「……あれ? しのぶってあんなに速かったっけ?」

 

 一向に捕まらないしのぶの駿足を見て、真菰はコテリと首を傾げた。

 妹の成長を指摘されて、カナエは上機嫌に胸を反らす。

 

「最近になって義勇くんから教わった全集中・常中が身に付いてね。今じゃしのぶはこの訓練の要よ!」

「ふーん……」

 

 冷静な、というより冷徹な眼差しでしのぶを見定める真菰。

 悪い癖が出始めたなと義勇は思うが、止めるのも面倒なので口出しはしない。

 観衆と化した三人の前で繰り広げられる訓練風景。

 鬼ごっこ及び反射訓練の二つ。相手取る隊士との勝負全てにおいて、しのぶが敗北することは無かった。

 

「はい、次の方!」

 

 大量に滴る汗を拭いながら、貪欲にしのぶは訓練相手を求める。

 しのぶにとってもこれは良い経験なのだ。純粋な技量向上に加えて、今まで虚仮にされてきた鬱憤晴らしにもなるという一挙両得な修練となっていた。

 

 静まり返り訓練場。

 しのぶの声に即座に応える声が無い。

 真菰はニヤリと口元を歪ませて一歩踏み出した。

 

「はいはーい、私がやるー」

「っ……真菰さん、お久しぶりです」

「うん、久しぶりー」

 

 よいしょっ、と卓を挟んでしのぶの前に真菰が座る。

 卓の上には十の湯飲み茶碗があり、中にはそれなりに臭いがキツイ薬湯が入っていた。

 ふんふむと頷いて、真菰は頭と身体を臨戦態勢に移行する。

 

「やり方は分かりますか?」

「今見て覚えたよ。相手に湯飲みを持ち上げさせず、持ち上げられたらぶっ掛けていいんでしょ?」

「その通りです」

 

 肯定を返して、しのぶの双眸がしんと冷える。

 真菰はこれまで対戦してきた隊士とは一線を画す。正式な鬼殺隊員では無いが、この場では恐らく義勇の次に位置する強者なのだ。

 手加減は無用。経験で勝る内に勝負を決する。

 

 互いに準備が整ったことを察して、カナエが声を張り上げた。

 

「両者、いざ尋常に……始め!」

 

 号令と共に、しのぶと真菰の両腕がぶれる。

 直後、ダタタタタタッ! と全ての湯飲み茶碗がほぼ同時に揺れ始めた。

 絶え間無く音が鳴り響き、影としか認識出来ない貫手の応酬。

 高速で交わされる両者の手は、湯飲みを掴んだと思ったら別の湯飲みを押さえている。

 互いに一歩も引かず早々に千日手の様相を生み出すが、その圧倒的速さに場にいた全員が観客となってしのぶと真菰を見詰めていた。

 

「良い勝負だわ! しのぶ頑張って!」

 

 両拳を胸の前で握り締めるカナエは健気に妹を応援する。同年代における女性最強である真菰に一矢報いれるかもしれないと、やや興奮した面持ちで熱が入っていた。

 対して、義勇は時間が長引くに連れて表情が変化してゆき、遂には片手で顔半分覆うことに。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「相変わらずだな、真菰は」

「えっ、何が?」

 

 キョトンと疑問符を浮かべるカナエに、義勇は淡々と説明する。

 

「真菰はもう慣れてしまった。現にしのぶで遊び始めている」

「嘘でしょ⁉︎ いくら何でも早すぎるわよ!」

 

 信じられないとカナエは視線を戻して、数秒観察して息を飲む。

 攻守の切り替わりが不自然だ。

 この訓練は先手と後手が高速で交互に入れ替わるのが特徴だ。持とうとする手をそれを遮る手というのが普通の形で、間違っても両方の手で持とうとしたり防ごうという形にはならない。

 だというのに、目の前の光景はその前提を真っ向から否定している。

 

「くっ……!」

「ふふふ……もっと気張ってよね〜、しのぶ!」

 

 単純明快、真菰が速過ぎるのだ。

 完全に遊戯として勝負を支配下に置いており、真菰が両手で攻めていると思えば、わざと遅く転じて専守防衛の戦術でしのぶを弄ぶ。

 あれ程の境地に至るには並みの経験では済まない筈なのだが、真菰は初戦でしのぶにも勝る動きを見せていた。

 

「しのぶは十秒以内に決めるべきだった」

「確かに真菰ちゃんは凄いけど……しのぶのど根性はこんなものじゃないわよ!」

 

 ハラハラとカナエが見守る中、しのぶの眦が決し始める。

 しのぶは負けず嫌いで案外激情家だ。

 感情の制御がまだ未熟で、しかしそれを冷徹に力へと変換する才能がある。

 

「調子に……乗らないで下さいっ‼︎」

「っ⁉︎」

 

 速度が跳ね上がった。

 一瞬だけ真菰が瞠目して、瞳から遊びの光が消え失せる。

 更に加速する音の連鎖に観客は物音一つ立てることも許されない。

 ピンと張り詰めた緊張がその場を包み、永遠にも続くかと思われたその勝負。

 

 幕引きは呆気なく。

 

「あっ」

 

 体力と集中力の限界が唐突に。

 しのぶの押さえる手が宙を貫いた。

 

 ゆっくりと流れる光景の中、真菰の口角がニヤリと吊り上がる。

 

「まだまだだね」

 

 ビシャアッ! と容赦無くぶっ掛けられる薬湯。

 頭から濡れ鼠となったしのぶ。

 指を差して真菰は爆笑した。

 

「あははははは! はい、しのぶの負け〜。残念だったねぇ、うん、惜しかったよホント」

「…………」

 

 心にも無い励ましを口にしながら真菰はニヤケ続けて、愉しげに追い討ちを忘れない。

 

「うん、この訓練は面白いね。義勇にも勝てそうってのが特に気に入ったよ。しのぶは練習相手に丁度良かったかも」

「…………」

 

 既に眼中に無いことを明言して、真菰は口元に三日月を描いて笑う。

 

「ねぇねぇ今どんな気持ち〜? あんなに連勝してたのに初見の私に負けて今どんな」

 

 ダンッ‼︎ という激烈な踏み込み。

 卓を蹴り飛ばす勢いで飛び出したしのぶは、片手を突き出して真菰に突っ込む。

 完全に動きを読んでいた真菰は全力で回避して逃走を開始した。

 

「──ぶん殴る」

「あはははは! 鬼さんこちら、手の鳴る方へーっ!」

 

 敵意悪意殺意邪気に満ちた殺伐とした鬼ごっこが勃発。

 乱雑に駆け回る二人は隊士たちを縫って飛んで弾いて跳ねてと忙しなく、大嵐の如く辺りの人間を巻き込んでいく

 少女たちの周りを顧みない暴れ具合に、年長者である義勇とカナエは溜め息を吐いた。

 

「あれはしばらく続くな」

「えぇ。しのぶの眼がヤバイわ……」

 

 感情が抜け落ちた修羅の瞳をする妹を見てカナエはがっくりと肩を落とす。

 見てられないと一心不乱に真菰を追って外へ飛び出すしのぶを視界から外し、カナエは上目遣いに義勇を見た。

 

「義勇くんも手伝ってくれないかしら? まだ任務も言い渡されてないんでしょ?」

「ああ、構わない」

 

 小気味好い返答にカナエは笑顔の花を咲かせ、その場にいる者たちへ向けて声を張り上げた。

 

「皆さん、水柱たる冨岡義勇様が訓練相手になってくれますよ! 貴重な体験ですので、どしどし挑戦して下さいね!」

 

 

 

 数刻経って。

 

『……あ、ありがとう、ございました』

「あぁ」

 

 四人掛かりで捕らえきれなかった息も絶え絶えな隊士たちは、義勇へ謝意を述べて傍へと引き下がる。

 同じように座り込む犠牲者は数知れず、その場で立っているのは義勇とカナエくらいだった。

 

「様子を見に戻ってきたけど、相変わらず義勇くんは規格外ね」

「これでも柱だ。簡単に負けては示しが付かない」

 

 至極真面目に返す義勇にカナエは苦笑する。

 死屍累々といった状況の中、訓練場の外から戻ってきたのは真菰だった。

 

「あー、面白かった。はい、カナエさん。これあげる」

「真菰ちゃん、私の妹は物ではないのよ?」

 

 真菰の片腕で小脇に抱えられたしのぶに哀れみを隠せないカナエ。

 素で非情な姉弟子の暴虐に義勇はこめかみが痛い。

 家族の不始末を片付けようと義勇が白眼を剥いていたしのぶを横抱きに受け取って、その光景を少し羨ましそうにカナエが見ているという混沌とした状況で。

 

 突如として勢い良く戸が開かれた。

 

「錆兎、此処が訓練場か!」

「その通りだが……杏寿郎、もっと静かに入れ」

「うむ、それは済まない!」

 

 温度が上昇したかと錯覚する溌剌な声が響き渡る。

 全員が何事かと視線を一箇所に集め、見知った人物を見付けて真菰が口を開けた。

 

「あれ、錆兎だ。どうしたのこんなところに?」

「真菰に義勇か。見舞いついでに今は付き添いだな」

「うん? 錆兎の知り合いか?」

「あぁ、妹弟子と弟弟子だ」

 

 錆兎のその言葉に、隣にいた少年は表情を喜色に染めた。

 視線を義勇に縫い止めて、少年はズイッと肉薄する。

 

「おお! もしや貴殿がかの有名な史上最年少で柱に至った冨岡義勇殿か!」

「あぁ、俺は水柱の冨岡義勇だ」

「よもや! これほど早く貴殿に会えるとは僥倖だ!」

 

 嬉しいという感情を全面に押し出して豪快な笑みを浮かべる少年。

 義勇はこの少年を知っている。

 もう随分と懐かしく感じる少年の姿に、義勇は表情を崩さずに問い掛けた。

 

「それで、お前の名は?」

「興奮して名乗りを忘れていたな! 失礼した。俺の名は煉獄杏寿郎。炎の呼吸の使い手だ!」

 

 少年──煉獄杏寿郎は快活にそう告げ、聞いていた周りの者はとある心当たりに驚愕を露わにする。

 纏う気迫と髪色は例えるのなら揺らめく炎のよう。凄まじい眼力を持つ瞳にも烈火の如き熱が宿り、まるで炎が人の形として顕現したその威容。

 ()炎柱であった者と同じ容貌とその名字。

 少なくない者が杏寿郎の生い立ちに勘付いた。

 

 出会う前から知っていた義勇は能面のままで、ふと関係が気になって錆兎に顔を向ける。

 

「錆兎の知り合いか?」

「ああ、任務で一緒になってな。杏寿郎は見所のある男だ」

「へぇ、錆兎がそこまで言うなんてねぇ」

 

 錆兎が実力において他人に太鼓判を押すのは珍しい。絶大な信頼を錆兎へ向けているからこそ、真菰はその事実に感心する。

 下から瞳を覗き込まれて、杏寿郎は意識を真菰に持っていく。

 

「少女の名は何と言うのだ?」

「私は真菰。水柱の継子だよ。よろしくね、杏寿郎」

「ああ! よろしくな、真菰少女!」

 

 やや癇に触る呼び方に一瞬だけ青筋が浮かび掛けるも、初対面ということもあり真菰は自重した。

 自己紹介を終え、杏寿郎は改めて義勇へ顔を向ける。

 

「ここで訓練をしてると聞いたが、もしや水柱殿が相手をしてくれるのか?」

「構わない」

「本当か! それは何とも運が良い!」

 

 早速やる気満々といった様子の杏寿郎。逸る気持ちを抑えきれずに瞳が爛々と煌めいている。

 因みにだがこのやり取りの最中、義勇の腕の中ではしのぶがずっと横抱きにされている。カナエが綺麗な布でしのぶから滴り落ちる汗やら何やらをせっせと拭いており、やっと満足いったのか微笑のまま大きく頷いていた。

 何故誰もツッコまないのだろうと周りは疑問に思うも、この濃い面子に踏み込む勇気ある者は誰一人いなかった。

 

「訓練とは何をしているのだ?」

「反射訓練と全身訓練だ。前者は湯飲みの取り合い、後者は鬼ごっこだ」

「ふむ……」

 

 端的な説明を受けて杏寿郎は顎に手を寄せて考え込む。

 しばらくの間その姿勢で固まっていた杏寿郎だったが、カラッと表情を変えて顔を上げた。

 

「うむ! どちらも興味はあるが正直勿体無いな! 折角柱と訓練が出来る貴重な機会なのだ!」

 

 決断を終えたのか一人うむうむと首肯し続けて、ギョロリと瞳を義勇へ走らせる。

 

「水柱、冨岡義勇殿。失礼を承知で頼もう。俺と剣で手合わせ願えないだろうか?」

「俺は構わない」

「本当か⁉︎」

 

 一も二もなく返された了承に杏寿郎は驚嘆する。

 ここまで気前の良い柱は滅多にいないと心の何処かで理解しているからこそ、都合の良い展開に杏寿郎は笑みを浮かべた。

 

「カナエ、木刀を借りてもいいか?」

「ええ、構わないわよ。煉獄くん、義勇くんの言う通り、真剣はなしでお願いね」

「ああ、感謝する! では早速」

「──あいや待たれよ〜!」

 

 急に手を挙げて真菰が剽軽な台詞を口にする。微妙に使いどころが間違っているのだが、錆兎が指摘しない時点で誰も何も言わなかった。

 注目が自分に集まるのを待って、真菰は面白げに提案する。

 

「柱の義勇と戦いたいなら、まず継子である私を倒してからにしてもらおうかっ」

 

 キリッ、と決め顔で真菰はそう言った。

 この時点で義勇は、しのぶだけでは飽き足らず遊び足りないのか……と真菰の心中を察するが、止めるのはもはや徒労だと知って泳がせる。

 自然な成り行きに思えなくもない真菰の案。

 杏寿郎は無邪気に答えた。

 

「うむ、拒否しよう! 見る限り君は継子とは言え正式な隊士ではない。歳も俺より下であろうし、何より少女だ! 戦う意味が見出せないな!」

 

 瞬間、空気が死ぬ。

 踏んではならない特大の地雷を全て踏み抜いたその発言に、杏寿郎以外の全員が凍り付いた。

 義勇とカナエは責任の所在を錆兎に持っていく心算で一瞥し、錆兎は錆兎で顔を片手で覆って、無駄と思いながらも真菰の温情に期待する。

 

 返答は埒外の覇気だった。

 

「……へぇ。正式な隊士になっただけでよくそこまで吠えたね」

「っ……⁉︎」

 

 あまりの威圧感に杏寿郎の喉が鳴り、上体が僅かに仰け反るほどに気圧される。

 迸る重圧は間違っても少女から発せられるものではない。鬼殺隊の中でも一定以上の実力を備えた、常人の才能では決して届かない領域のそれ。

 杏寿郎は見誤っていた。

 真菰の才と、継子の力を。

 

「隊士になれたからって一先ず満足しているようなら、その伸びた鼻を私が叩き折ってあげるよ」

「……ふむ。そこまで言われて引き下がれるほど俺は大人ではない! 分かった、試合おうではないか!」

 

 売り言葉に買い言葉の流れで合意となった。

 ピリピリと張り詰める緊張感にその場にいた者達は自然と中央の空間を空けて、物音一つ立てずに観戦の様相を生み出す。

 誰もが思っている。この勝負は非常に興味深いと。

 この一年の間に八面六臂の活躍で鬼を屠り続けた継子と、元柱の実子という約束された才を待つであろう少年。

 どちらが上なのか、鬼殺隊士なら唆られない筈がない。

 

「義勇くん、錆兎くん。此処は治療院の訓練場であって、戦場ではないのよ?」

『すまない、俺たちからきつく言っておく』

 

 木刀を用意しながら互いの保護者的立場にある二人にカナエは不満を言い、義勇と錆兎は逆らうこと一切無く謝罪する。

 優しすぎる屋敷の主人は大きな溜め息を漏らした後、開き直って義勇の隣を陣取った。

 

「……うぅん? あれ、此処は……」

 

 カナエが錆兎に木刀を届けるお使いを命じた後、義勇の腕の中でしのぶがもぞもぞと動き出した。

 

「しのぶ、起きたか?」

「義勇さん……?」

 

 耳朶を打つ義勇の声に反応して、しのぶはぼやけている視界を上へと向ける。

 目と鼻の先にある端整な顔立ちにしのぶはぼ〜っと見惚れ、何がどうしたんだっけと直近の記憶を掘り出す。

 

(確か真菰さんを追い掛けてて、捕らえたと思ったらあんにゃろうの姿が掻き消えて、首裏に衝撃を受けて……義勇さんの腕の中⁉︎)

 

 ハッと意識が覚醒して、しのぶは露骨に狼狽え始めた。

 

「えっ⁉︎ あの、えっ、なっ……なんで義勇さんにっ⁉︎」

「大丈夫か、しのぶ?」

「大丈夫ですけど大丈夫じゃないです⁉︎」

 

 しのぶは瞬間色々と思い出す。

 汗だらだらだったこと。

 薬湯をぶっ掛けられたこと。

 ……えっ、匂いヤバくない?

 ──乙女的に完全に論外な状態で殿方に横抱きにされてるの私⁉︎

 

 しのぶの顔が真っ赤に燃え上がった。

 

「おっ、降ろして! 降ろして降ろして降ろして下さいっ⁉︎」

「一人で立てるか?」

「立てますからぁっ⁉︎」

 

 しのぶの慌てように反して、義勇はそうかの一言だけ述べて淡々としのぶを降ろす。

 顔が鉄面皮過ぎて義勇が何を思っているのかはてんで分からないが、恥ずかしさで弾けそうな気持ちのしのぶはそれどころではない。

 

「うぅぅぅ〜〜ッ! うぅぅぅぅぅ〜〜〜ッ⁉︎」

 

 すぐ隣にいたカナエをしのぶは涙眼でポカポカと叩き始める。

 どうしてあんな状態で放っておいたのっ⁉︎ と羞恥で一杯の声にならない唸りでカナエを責め立てていた。

 

「よしよし、真菰ちゃんに負けたのが悔しかったのね」

 

 慈しみをもってカナエはしのぶの頭を撫でるも、見当違いな愛情にしのぶの目が光を失う。

 姉に慰められてここまで嬉しくないのは初めてだった。

 

「義勇、しのぶはどうしたんだ?」

「真菰に負けたのが悔しかったらしい」

 

 呑気に話す水兄弟の声を聞いて、諦観のまましのぶはうな垂れた。

 気持ちの冷却が終わった後、しのぶはやっと周りの空気が異様だと気付く。

 

「どうしたの、この空気?」

「あの二人がこれから試合するって流れになったの」

 

 カナエが指差す方を見て、しのぶは思い切り顔を顰める。

 怨敵を睨む眼差しで木刀を手にした真菰を見据え、そのまま視線を相対者へとズラした。

 

「煉獄さん? 確かにそろそろ完治の予定だったような……なんであの二人が?」

「色々あったのよ……」

 

 遠い目をするカナエに詳細を聞くのを遠慮して、しのぶは義勇へ時間潰しに問い掛けた。

 

「義勇さん、実際あの二人はどちらが強いのですか?」

「……そうだな」

 

 実力を測るように義勇は目を細めて、剣気を発散する両者を見詰める。

 既に義勇の結論は出ていたのだが、念の為に、己の審美眼が確かなものかもう一度真剣に見定めて、変わらぬ答えを導き出した。

 

「今の煉獄では、万に一つも真菰に勝てないだろう」

『……えっ?』

 

 胡蝶姉妹の驚きを余所に、場が動き出す。

 この状況を生み出した責任感から錆兎が立会人となり、向かう合う両者の間に立つ。

 

「準備は万端か?」

「うん」

「勿論だ」

 

 自然体のまま構える二人。

 徐々に高まる熱気と緊張。

 場を包む緊迫は上昇を続け、最高潮に達する。

 掲げられた錆兎の手が振り下ろされた。

 

「両者、いざ尋常に──始め!」

 

 火蓋が切られた瞬間、動き出したのは杏寿郎だ。

 

 ──全集中・炎の呼吸

【壱ノ型・不知火】

 

 真正面から一直線に肉薄する。

 技の完成度は高い。選別を終えた成り立ての隊士とは思えない洗練された剣技だ。

 速さも充分で、秒と置かずに真菰へとその斬撃は至るだろう。

 刹那にも満たないその時間。

 迫り来る杏寿郎を真菰ははっきりと捉えており。

 浮かんだのは歯を剥いた獰猛な笑みだった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ──水の呼吸

 

 シィィィイッ、という呼吸音の轟き、吸い込む空気の量、放たれる威圧、全てが杏寿郎の比ではない。

 瞬間、真菰の姿がブレる。

 

【拾ノ型()──

 

 水の呼吸の拾ノ型は攻撃特化の技だ。

 刃を身体ごと回転させての連撃技で、一撃目よりも二撃目、二撃目よりも三撃目と威力が上昇してゆき、数を重ねれば大岩すら簡単に断てる。

 しかし技の威力の代償に、水の型の長所である変幻自在な歩法が失われる諸刃の剣でもあった。

 義勇と錆兎はこの技を好んでは使わない。歩法を捨てるのは命取りであり、何より膂力のある二人なら並大抵の相手でもない限り使う必要性が皆無だから。

 

 だが、真菰は違う。

 女性の中でも小さめの身体で、当然力も男性には遠く及ばない。たとえ同じ型を打ち込んでも、義勇や錆兎とは破壊力に歴然とした差があるのだ。

 

 だからこそ、真菰はこの技に目を付けた。

 

 速さを殺すのは真菰にとっても論外だ。巧みな歩法と高速移動こそが真菰の真骨頂であり、この二つを失っては鬼と渡り合うなど夢のまた夢。

 速さを殺さず、歩法も失わないで、斬撃の威力を高める。

 両立することの困難なこの壁を、真菰はその才能で乗り越えた。

 

 ヒュルルンッ、という風切り音が鳴り、真菰の姿が渦巻く影となってブレ続ける。

 持ち前の速さに小柄な体躯、女性特有の柔軟性があって初めて成せる超高速回転。

 距離と時間を使って産み出す水龍の斬撃を、刹那で完成させる真菰の鬼才。

 

 ──生生流転・大車輪】

 

 上段から振り下ろされる烈火の一閃を、空へと昇る水龍の顎門が容易く食い破った。

 

 カァンッ、と打ち鳴らされて弾かれる木刀。

 手元から消え失せた武器に驚く暇もなく、杏寿郎は身動きが取れなくなる。

 喉には、木刀の先端が触れるように突き刺さっていた。

 

「杏寿郎、一つ良いことを教えてあげるよ」

 

 カランカランと杏寿郎の背後で木刀が落ちた音を聞いて、真菰は柔らかな笑みを浮かべた。

 

()()()()に、真正面から小細工無しで突っ込むのは馬鹿のすることだよ?」

 

 たった一合で終わった試合。

 有無を言わせぬ結末に、観戦者は揃って息を飲んだ。

 

「強過ぎます……」

「これが、真菰ちゃんの実力……」

 

 唖然とするしのぶとカナエの呟きが、その場にいる全員の気持ちを代弁していた。

 これが、未だ正式な鬼殺隊士でないにも関わらず『女性最強』と謳われる少女──真菰の力である。

 

 重苦しい静寂の中、この場で最も驚愕しているのは杏寿郎だ。

 感情の乱れを抑え込んで、喉元に切っ先を突き付けられながらも冷静に頭を働かせていた。

 

(うむ、単純に速さが違う。加えて技量も……よもや只でさえ力の入る上段斬りを、振り上げで真っ向から撥ね退けられるとは。これが継子)

 

 実力差をまざまざと見せ付けられた。

 真菰の言う通りだ。現段階では格が違う。

 これで継子と思うと頭が痛い。柱は一体どれ程の高みにあるのかと先が思いやられる。

 ただし良い経験には変わりなかった。真菰は目標の指標となって杏寿郎の糧となったから。

 心の炎がより一層燃え上がる。

 自分もこの高みを目指して駆け上がるのだと情熱が湧き上がる。

 

 欲を言えば、もう一戦戦いたい。

 

 瞳にあらん限りの思いを宿して、杏寿郎は真菰を真っ直ぐに見詰める。

 小馬鹿にされた発言に対する反応とは思えず真菰は一瞬きょとんとするも、杏寿郎は錆兎と同類なんだなと理解して口を開く。

 

「さて、杏寿郎。私の機嫌は良いというわけじゃないけど、これだけ観戦者がいてあれで終わらせるのは興醒めだと思わない?」

 

 木刀を下げて真菰は疑問を呈し、間髪入れず杏寿郎が答える。

 

「うむ、その通りだと俺も思う!」

「なら私に言うことがあるよね?」

 

 こてりと首を傾げる真菰。

 此処で言葉と行動を間違えれば、慈悲無く真菰は立ち去るだろう。その確信が杏寿郎にはあった。

 誠心誠意、己がするべき事を実行する。

 杏寿郎は迷い無く両膝を床に突いて頭を下げた。

 

「先程の無礼な発言、しかと謝罪する。正式な隊士でない歳下の少女と侮り満足に戦えなかった自分の未熟、大変申し訳なかった。今度は此方から頼みたい、もう一戦願えないだろうか?」

 

 果たして、真菰が浮かべたのは満面の笑みだった。

 

「うん、いいよ。水柱の継子たる立場をもって、君を手解きしよう」

「感謝する!」

 

 杏寿郎は走って木刀を取りに行き、すぐさま再戦となって剣戟が鳴り響く。

 鎬を削る様子を各々が夢中で見詰めていた時に、一羽の烏が義勇の肩に止まった。

 

「次の任務?」

「あぁ、どうやらそうらしい」

「気を付けてね、義勇くん」

「また来てくださいね、義勇さん」

「ありがとう、カナエ、しのぶ」

 

 出立の言葉を貰って、義勇は真菰へ視線を走らせる。

 杏寿郎の剣撃を捌いていた真菰は苦笑を浮かべた。

 

「残念だけど次の一撃で最後だよ」

「ならば全力で撃つまで!」

 

 互いに距離を取り、今出せる最強の技を杏寿郎は繰り出す。

 

 ──全集中・炎の呼吸

【伍ノ型・炎虎】

 

 烈火の虎を想起させる凄まじい破壊力を内包した斬撃。

 惚れ惚れとするその剣技に真菰は満足そうに頷いて、全力で応えた。

 

 ──水の呼吸

【拾壱ノ型・凪】

 

 しん、と音が消え去る。

 裂帛の気合いをもって振るった剣撃が、何の手応えも感じず受け流された。

 

「なっ……」

 

 あまりの事態に思考停止する杏寿郎は、状況を理解する間もなく終わりを迎える。

 一瞬の内に懐まで侵入していた真菰が木刀を振り上げる。

 これが杏寿郎が見た最後の光景だった。

 

「またね」

 

 ゴッ、と鈍い音を立てて、杏寿郎の顎下が打ち上げられる。

 避ける動作も防ぐ手立ても無かった杏寿郎は全身が宙に浮き上がり、受け身も取れず背中から崩れ落ちた。

 ヒュンヒュンと左右に木刀を振って残心を示し、真菰は一礼を尽くして義勇の元へ移動する。

 

「ごめん、義勇。遅れた」

「構わない、すぐ出れるか?」

「大丈夫だよ。錆兎ー、杏寿郎のことお願いねー」

「……了解だ」

 

 妹の不始末を片付ける兄の姿が其処にはあり何人かの哀愁を誘っていたが、当の妹は既に関心がなかった。

 お世話になりましたー、と一言残して去る真菰と義勇。

 平穏が戻って、気絶者を囲んだ形で静まり返る訓練場。

 錆兎の溜め息がやけに大きく響き渡った。

 

 

 

 蝶屋敷を出た義勇と真菰は烏の指示に従って走り行く。

 息一つ切れない俊足で駆ける二人であったが、おもむろに義勇が言葉を紡いだ。

 

「真菰」

「ん、なに?」

「お前は強い」

「……ん? それで?」

 

 義勇が能動的に話すのは珍しい。受け答えなら及第点に近しくなった義勇たが、自らの考えを話す際はこの数年で改善されたとはいえ言葉足らずには違いない。

 付き合いの長い真菰でも、これだけでは義勇の真意が分からず問い掛けた。

 

「いずれは柱にもなれると俺は思っている」

「それは義勇がいる限り無理だと思うけど……それで?」

「鬼殺隊は実力至上主義だ。そして、現時点でお前は並みの隊士より遥かに強い。実力の劣る者を手解きするのは悪くはない」

 

 弱ければ死に、足手纏いとなれば仲間すら道連れにする。

 

 そういう世界に鬼殺隊は身を置いている。

 実戦経験を積むことでしか強くなれない環境で、多忙な柱や実力者に鍛えてもらえることはありがたい話の筈だ。命を懸けることなく強くなれるのだから。少なくとも義勇はそう思っている。

 そういう意味で真菰の行動を咎める気はさらさらない。

 

 だが……と、義勇は続けた。

 

「力に問題がないから俺はお前を継子にしているが、まだ正式な隊士でないのも事実。最終選別を突破した者には敬意を払え」

「うっ……」

「仮眠しか取れず疲労していて、あのような現場を見た直後だから鬱憤が溜まっているのは分かっているが、さっきの煉獄に対する発言と態度は目に余る。これは水柱としての言葉だ」

「うっ……ごめんなさい。ついカッとなって……」

 

 シュンと落ち込む真菰。

 今年で十二となった真菰だが、まだまだ幼い精神性なのはどうしようもない。普通これくらいの年の少年少女なら、親の庇護下で愛されて育っている時期なのだ。

 家族を鬼に殺され天涯孤独の身で、独りとなってから学んできたのは鬼殺の心得が殆ど。一年前ほどまでは世俗と離れた山小屋で、たった四人で暮らしてきた真菰に多くを求める方が酷である。

 一つ一つ義勇や鱗滝といった側にいる年長者が諭せばいい。

 真菰は悪い事だと自分で納得すれば一度で理解出来るから。

 

 鬼殺隊は誰もかれもが若過ぎて、悲劇が集約されて成り立ってしまった組織だ。

 歪な成長を遂げ、歪んだ精神性を持つ者は柱にだっている。

 上下関係においても、お館様を例外に完全なる実力至上主義。

 

 そもそも、礼儀作法なんて鬼と出逢えば何の意味も為さない。

 向上心の高い者なら、鬼への憎悪が深い者なら、鬼のいない世界を心より夢見る者なら、第一に求めるのは力である。鬼を滅殺するためなら他は全て二の次になってしまう傾向は、救えなかった命を多く見た隊士に多い。

 

 真菰もそうだ。義勇の継子となってからは特に。

 

 あと数日早ければ。

 あと半日早ければ。

 あと数分早ければ。

 

 取り零した命は両の指ではとっくに足りず、その度に真菰は己を鍛え抜く。

 表面上は明るく振舞っていても、ギリギリの状態である事に違いない。

 

「……任務にひと段落ついたら少し休もう」

「……うん、ありがとう」

 

 その言葉を最後に、二人は無言のまま速度を上げた。

 まずは早急に、この任務を片付ける為に。

 

 

 

「…………はっ!」

 

 勢い良く目を覚ました杏寿郎。

 ガバリと身を起こして周りを確認し、側にいた錆兎と目が合った。

 

「そうか、俺はまた負けたのか!」

「すまないな、杏寿郎。うちの妹は阿呆なんだ」

「そんなことはない。俺はありがたかった!」

 

 快活にそう言って、杏寿郎はふとある疑問に思い当たる。

 

「時に錆兎、錆兎と真菰はどちらが強いのだ?」

「俺と真菰は同等だな。あいつは継子となってからの成長が目覚ましい」

「そうか。では水柱殿と比べるとどうなのだ?」

 

 杏寿郎の純粋な疑問に、錆兎は分かりやすく答える。

 

「俺と真菰の二人掛かりならなんとか……という感じだな」

「ふむ……なるほど。先は遠いな」

 

 目指すべき高みを知って、それでも杏寿郎は呵々大笑と笑う。

 杏寿郎の鬼殺の道はまだ始まったばかりなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼殺の任務を終えて、ひと時の自由な時間。

 夜闇を切り裂く街の灯りを見上げて、真菰は愉快そうに両手を広げた。

 

「文明開化の音がする〜っ!」

「その台詞、大分古いぞ」

「そうなのっ⁉︎」

 

 山育ち故に知らなかった新事実に真菰は仰天するも、未だ見慣れぬ文明の光には興味を隠せない。

 日輪刀を袋で包んで一般人を装い、二人は買い物と洒落込んでいた。

 

「何これ?」

「紅茶という飲み物の茶葉だ」

「あれは?」

「西洋の服だな」

「この食べ物は?」

「ぱんけぇきと言うらしい」

 

 真菰が指差す物を全て義勇が端的に説明して、気になるものがあったら購入という計画性も何もない買い物。

 購入品は揃いも揃って蔦子と朝顔に向けてという無欲なもので、後日大量に渡される土産に蔦子が苦笑するのだがそれは別の話。

 

 移動および突発的な任務に支障の出ない範囲で手荷物を増やした二人は、街の喧騒から少し外れた路地にある屋台のうどん屋に足を運んでいた。

 

「お兄さーん、山かけうどん二つお願いしまーす!」

「あいよ!」

 

 細長い座席に隣り合って座り、義勇と真菰は一息吐く。

 ここ数日、各地を走り回る羽目になる量の任務を烏に言い渡されていたために、流石に疲労が溜まっていた。

 只でさえ柱の警備担当地区は広大な上に、子供の二人の身体はまだ完全には出来上がっていないのだ。

 たまに本気の殺意を義勇の烏に打つける真菰がいる。なので烏は真菰が苦手であった。

 

「あっ、そうだ。もう知ってるかもだけど、次の最終選別に行くことになったよ。しのぶと一緒に」

「そうか。気を付けろよ」

「まぁ一年くらい先の話だけどね〜」

 

 直近の最終選別は一月ほど前だ。

 その回の合格者の一人が数日前に手解きした煉獄杏寿郎だった。彼含めても数人しか突破者がいなかったと考えると、義勇と錆兎が参加した全員帰還の世代はやはり奇跡みたいなものなのだろう。

 

「目標は全員生存で、義勇以上の滅殺数〜」

「言っておくが、そうなると鬼の補充がお前の最初の任務になるぞ」

「なにそれ理不尽……」

 

 がっくりと肩を落とす真菰。

 やろうと思えば恐らく容易いが、ただ頸を斬り飛ばすより面倒さが桁違いだ。

 急にやる気が減少した真菰だったが、美味しそうな匂いに顔を喜色に染める。

 

「へいお待ち!」

「わぁー! ありがとうお兄さん!」

 

 礼を述べて二人は碗を受け取り、まずは汁を飲んで身体を温める。

 

「ふぅ〜、美味しいね」

「あぁ、良い腕だ」

「嬉しいこと言ってくれるねぇ! どんどん食いな!」

 

 義勇と真菰の素直な感想に店主は機嫌を良くし、うどんを食べながら真菰は会話を交わす。

 

「お兄さんはこの街は詳しいの?」

「応よ! 俺は浅草生まれの浅草育ちのうどん打ちだからな!」

「へぇ。突然だけど、最近が人がいなくなったとか、そういう物騒な噂ってあった?」

「いんやぁ、俺が知る限りそんな話は聞かないな!」

「そうなんだぁ〜。それは良かったよ。でも夜は何かと物騒だから、お兄さんも気を付けてね」

「嬢ちゃんとにいちゃんもな!」

 

 こういう情報収集は真菰が同道してから本当に楽になったと義勇は思う。初対面の相手には何故か好かれやすい真菰は、他人の懐に入るのが非常に上手いのだ。

 こういう時は黙っているのが吉と、義勇はゆっくりとうどんを味わう事にした。

 

 しばらくそうして舌鼓を打って、中身が少なくなった頃。

 

「──っ⁉︎」

 

 突如何かの匂いを嗅ぎ取った真菰が瞠目して立ち上がった。

 尋常でないその態度に義勇の表情が険しさを纏い、視線を合わせた後にうどんをかき込む。

 

『ご馳走様でした』

「まいどあり!」

 

 代金を払って二人は歩き去る。

 街灯に照らされる道を進み、周りに人の気配が無くなった瞬間に影となって消える。

 義勇と真菰は近くの家屋の屋根の上に降り立っていた。

 

「何があった?」

 

 義勇には感知できない異常事態が発生したと察して、悠然と問う。

 くんくんと鼻を鳴らす真菰は、少し眉を寄せて懸念を口にした。

 

()()()()匂いがする」

 

 不自然な言い回しに、滅多に動かない義勇の柳眉が明確に寄る。

 

「鬼の気配は?」

「それが全く。血鬼術だけが一人でに歩いている、みたいな?」

「妙だが……確認しないわけにはいかない。追えるか?」

「当然!」

 

 頼り甲斐のある返答に、二人は姿が搔き消える。

 真菰を先頭に、夜の街を移動していった。

 

 

 

 人の活気も静まる真夜中。

 街灯も整備されてない月灯りに照らされた道を、真菰は一人で歩いていた。

 こんな時間帯に少女が一人で外にいること自体が不自然極まり無い。辺りに人の気配が無いのもあって、一種の非日常的な雰囲気が立ち込めていた。

 

 真菰は至って自然を装って小さく手を振って歩いていたが、思考と全身は臨戦態勢を整えている。

 不確かな何かに逃げられないように。

 攻撃を受けても即座に反応出来るように。

 

 真菰の目の前には誰もいない。

 見える範囲には人影は一つもない。

 

 それでも徐々に気配は近付いている。

 

 細心の注意を払って歩を進め、手に持つ得物をいつでも抜けるように準備して。

 一歩、二歩、三歩。

 気配が横切った瞬間、真菰は日輪刀を引き抜いていた。

 

「動かないで」

 

 振り向きざまに虚空に日輪刀を置いて、真菰は警告する。

 他人が見れば少女の頭を心配する場面だろうが、真菰の表情は真剣そのものだった。

 

「姿を現して。無視するのならこのまま頸を断つ」

 

 脅迫紛いの台詞と共に真菰から膨大な覇気が迸る。

 こちらの本気を訴える圧力を発し、真菰は最後通告を言い渡す。

 

「五秒だけ待つ」

 

 その言葉をきっかけに、気配が揺らぐ。

 次の瞬間、風景が水のように波を打った。

 

「っ⁉︎」

 

 初めて見る現象に最大級の警戒を露わにして、真菰は背後に跳躍して距離を取る。

 いつでも動けるように日輪刀を構えながら、変色した光景の中心を見据えた。

 

 現れたのは綺麗な着物を着た女性の後ろ姿だ。

 その時になって初めて女性本人の匂いを嗅ぎ取った真菰は怪訝そうな表情を見せるも、相手が話し始める方が早かった。

 

「振り向いてもよろしいでしょうか?」

「……うん、大丈夫だよ」

 

 ゆったりとした動作で着物から何かを取るように動いた後、振り向く女性。

 思わぬ美麗な容貌に、真菰はぱちくりと瞬きした。

 蔦子に似た雰囲気を醸し出す大和撫子然とした佇まいで、艶のある黒髪を後頭部で一つに纏めている。

 感情の揺らめきがない凪いだ水面のような瞳は幻想的で、鬼とは思えない思慮深さと優しさが同居した理性的な眼だ。

 

 真菰は直感でこの女性が敵対することはないと理解するが、納刀はせずに第一に気になった点を問い掛けた。

 

「貴女は本当に鬼なの?」

「はい、私は鬼で間違いありません。……此方からも何点かお聞きしてよろしいでしょうか?」

「答えられるものならね」

 

 探りを入れられることに不快感はない。

 敵意が全くなく、本当に興味本位の問いだと分かっているからだ。

 

「私の姿や気配といったものは完全に隠蔽されていた筈なのですが、どうやって看破したのですか?」

「……うーん」

 

 真菰は少し悩んだ。

 普通なら鬼相手に自らの手の内を晒す真似など論外なのだが、この女性には言っても問題ないだろうと結論。

 血鬼術の危険性もないと判断して、真菰は意を決した。

 

「私、嗅覚には自信があってね。確かにお姉さんの匂いは分からなかったんだけど、発動してる血鬼術の匂いは嗅ぎ取れたんだ。多分私にしか出来ない芸当だよ」

「成る程……末恐ろしい才能をお持ちなんですね」

 

 納得いったという様子で女性は頷く。

 その反応を見て、真菰は安全を確信した。

 今の言葉は真菰なりにカマを掛けたつもりだった。

 真菰以外には不可能な探知方法とはつまり、真菰を消せば二度と見付けられない事と同義。この女性ならすぐその考えに結び付くだろう。

 

 不穏な気配を僅かにでも感じられたら、真菰は問答無用で頸を()りに動く心算だった。

 しかし、女性から感じられたのは感嘆のみ。敵意や殺意は皆無であり、あるとすれば若干の焦燥。

 

 攻撃の兆候がないなら、得物を握っている必要ない。

 キィン、と真菰は迷い無く刀を鞘に収めるが、その行動に驚いたのは女性の方だった。

 

「……良いのですか? 貴方は鬼殺隊の方ですよね?」

「んーん。私はまだ正式な鬼殺隊士じゃないよ。継子っていう立場なんだけど……知ってる?」

「継子……確か柱の……」

 

 そこまで呟いて、女性の動きが止まる。

 微かな動揺が生まれた表情で、呆然と懸念を口にした。

 

「まさか……今この場に柱がいらっしゃるのですか?」

「うん、お姉さんの真後ろにね」

「っ⁉︎」

 

 びくりと震え、初めて背後の気配に気が付く。

 振り向いた先にいた少年の姿を見て、女性の顔にはっきりとした絶望が浮かんだ。

 

 強い、この少年は強過ぎる。

 一振りの刀のように洗練された佇まい。揺るがぬ信念を胸に鍛え上げられただろうその力。目の前の少年は常人の領域を遥かに逸脱した人間の中の怪物だ。

 少女一人ならまだしも、見るだけで判る超抜級の実力を持つこの少年からはもう逃げ切れない。

 

 道半ばで果てることを覚悟しながら、女性は対話を試みた。

 

「……名乗っていませんでしたね。私は珠世と申します」

「鬼殺隊水柱の冨岡義勇だ」

「私は真菰だよ」

「義勇さんと真菰さんですね。……一つだけお聞かせください。貴方方は私をどうしたいのですか?」

「その問いに答える為に、幾つか貴女に質問したい」

「ええ、構いません」

 

 毅然とした態度を取り戻した女性──珠世は、真っ直ぐに義勇と向き合った。

 まじまじとその顔を見て義勇の内にとある確信が生まれたが、能面のまま問い掛ける。

 

「貴女は人を喰っているのか?」

「……信じられないかと思いますが、私は二百年は人を殺したことも、食したこともありません。ですが、人の血を飲まなければ生きてはいけませんので、輸血と称して人から買っています。私には医術の心得があるのです」

「敵対の意志はあるか?」

「ありません」

「……次が最後だ」

 

 淀みなく進む問答に珠世の緊張感が高まり、冷や汗が頬を伝う。

 誇張ではなく、珠世の生死がここで決まる。

 

「貴女が生きる目的は何だ?」

 

 嘘偽りを許さない真っ直ぐに向けられる眼差し。

 不思議とその瞳には、鬼に対する嫌悪感等は一欠片も存在していない。

 鬼殺隊で柱まで上り詰めた人間とは思えない純粋なる瞳。

 

 ──この少年なら、協力してくれるかもしれない。

 

 珠世は決然とした意志を双眸に乗せた。

 

「私の目的は二つあります。一つは、鬼が人間に戻れる薬を開発すること。もう一つは……」

 

 両の目に宿る様々な想い。

 人だった者としての矜持。

 医者である者の信念。

 

 そして、私人としての憎悪と決死の覚悟。

 

「鬼の始祖──鬼舞辻無惨の抹殺です」

 

 

 

 





長くなったのでここで一旦切ります。

赤面涙眼でポカポカするしのぶちゃん11歳


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第5話 出会いと別れを繰り返して ②

 

 鬼舞辻無惨。

 

 その名前を珠世が口に出した瞬間、側にいた義勇は条件反射で二歩ほど距離を取るように跳躍していた。

 義勇のその行動を見て、珠世はとある事実に思い当たる。

 

「……驚きました。鬼殺隊は鬼舞辻の呪いを既にご存知なのですね?」

 

 鬼は鬼舞辻無惨の名を口に出来ない。

 

 言えば『呪い』が発動するから。

 この呪いは、端的に言えば鬼を死に陥れる。鬼となった際に身体に残留する鬼舞辻無惨の細胞が、その者の身体を破壊し尽くすのだ。

 

 鬼殺隊がこの事実に確信を得たのはつい最近。

 千年に一人の天才である胡蝶しのぶ。

 彼女が開発した鬼専用の毒によって判明したのだ。

 

 以前より疑問ではあった。

 会話が可能な鬼に対して、鬼舞辻無惨について聞いた隊士はごまんと居る。

 回答が得られることは終ぞ無かったが、大抵の答えは同一でどうにも気に掛かる返答であった。

 

 ──言えない。

 

 言わない、ではなく、言えない。

 この二つには天地ほどの差がある。

 

 言わないのは相手の意地だが、言えないは一種の禁忌を仄めかしており、手段を選ばなければ口を割る可能性があるのではないか。

 そう思い至ったしのぶは実験も含めて、脳の機能を狂わせる自白剤のような毒を創り出した。

 

 結果は成功。

 同時に、失敗に終わった。

 

 鬼舞辻無惨の名を口にした鬼は、例外無く内側から悍ましい腕が生えてそれに惨殺されたからだ。

 

 そう、例外は無かった。

 少なくとも試した鬼においては。

 

「……驚いているのは此方だ。何故何もない?」

「簡潔に申すと、私は鬼舞辻の呪いを外しているのです」

「そんなことが可能なのか?」

「可能です。と言っても、今は生きている私しか証明になるものはありませんが……」

「……そうだな、浅はかな問いをした」

 

 表情には一切の変化がないが、義勇は本当に、二重の意味で驚いていた。

 鬼でありながら此方側に与するであろう存在が、こんな身近にいたという事実に。

 

 義勇は珠世に見覚えがあった。

 顔を一瞬見ただけの会話すらした事のない相手だが、場面が場面だけにその相貌は記憶の片隅に刻み込まれていた。

 

 前回の最後の記憶である決戦の場に落とされる、まさにその直前。

 柱たちが鬼舞辻無惨に初めて相見えたあの時に、鬼舞辻無惨の腹を左手で貫いていた女性が珠世だ。

 状況から考えるに、珠世は味方だったのだろう。柱の誰よりも先んじて産屋敷邸にいたということは、お館様と面識があったと考えるのが自然である。

 

 珠世はきっと、鬼舞辻無惨を滅殺する為の重要な役割を担う。

 

 義勇はその直感を信じた上で、珠世の向こう側にいる真菰に視線をずらした。

 

「真菰、どうだった?」

「うん。少なくとも、嘘は一つもついてなかったよ。個人的にも信用できると思う」

 

 交わされる会話の内容に、珠世は小首を傾げた。

 

「あの、どういうことでしょうか?」

「あー、うん。えーとね、私は鼻が良いって言ったでしょ? 実は血鬼術だけじゃなくて、相手の感情も判るんだ。そのお陰で嘘も見破れるのー」

 

 疑問に答える真菰は実にあっけらかんとしていたが、珠世の驚嘆は計り知れないものであった。

 

「ほ……本当ですか?」

「うん。お姉さんは二百年間は人を食べてない、敵対の意志はない、人に戻れる薬の開発に鬼舞辻無惨の抹殺が目的。これには嘘は一つも無かったよ」

「……失礼ですが、真菰さんは本当に人間ですか?」

「面と向かって酷いこと言われたー⁉︎」

「あっ、すみません! 本当に興味本位の問いでして!」

「結構本気で疑われてる⁉︎」

 

 ガーン、と凹む真菰。

 直後に謝り倒す珠世だったが、本心には変わりなく油断すれば冷や汗が浮かぶ真実であった。

 

(なんと恐ろしい逸材……)

 

 あの問答の速さと呆気なさにはそういう理由があったのか。

 恐怖で脅すより確実な識別方法があったからこそ、義勇の問いには淀みが無かったのだ。

 実は義勇がただ一言も二言も足らない人物だとは知らない珠世はそう勘違いして、義勇の評価を格上げする。

 真菰はまだ年相応の可愛げと幼さが見て取れるが、義勇はもう思慮深い大人として対応した方が賢明だと判断した。

 

 然りとて、この場における主導権は珠世にはない。

 死に直結する可能性の分岐点は、既に相手の手の内だ。

 

「真菰さんの仰る通り、嘘はついていません。それで、その……」

 

 話は最初に戻り、自身の運命を義勇に問う。

 義勇は逡巡すること無く、再度口を開いた。

 

「提案がある」

「……聞かせてください」

 

 緊張に苛まれる珠世は一世一代の覚悟をもって、義勇の言葉を待つ。

 

「協力させて欲しい」

 

 放たれた言葉の内容を、すぐには理解出来なかった。

 

「…………えっ?」

 

 思わず素っ頓狂な声が漏れる。

 珠世の様子に相変わらずの欠点が出たかと義勇は察して、毅然とした態度で補足を加えて繰り返す。

 

「鬼を人間に戻す薬の開発に協力させて欲しい。鬼殺隊としての支援は不可能だろうが、俺と真菰個人なら手伝いたい」

「義勇ー、巻き込むのは構わないけど、本当に大丈夫なのー?」

「いざとなれば腹を切る」

「……はぁ。しょうがない弟だなー」

「え? ……え?」

 

 前と後ろを交互に見ながら動揺を隠せない珠世。

 冷静さを無理やりに取り戻して、義勇の提案と二人の会話を脳内で反芻する。

 理解が及んだ後、珠世からは少なくない驚愕とそれを上回る遥かな感謝が浮かんだ。

 

「……ありがとうございます。その提案、此方からもお願いしたく思います」

 

 綺麗な所作で頭を下げる珠世を見て真菰は微笑むも、とある匂いにピクンと反応して一人きょろきょろする。

 そんな真菰に気付かず、珠世は義勇へと向き直った。

 

「詳しいお話をしたいのですが、場所を変えてもよろしいでしょうか? すぐ近くに拠点がありますので」

「構わない」

「では、此方に」

「……ねぇねぇ珠世さん」

「はい。どうかしましたか、真菰さん?」

 

 柔らかな表情で振り返る珠世は直後にギョッとする。

 真菰が日輪刀の柄に手を置いて、臨戦態勢を整えていたからだ。

 すわ何事か身構える珠世に、真菰は空いていた片手で背後を指差した。

 

「さっき珠世さんが使ってた血鬼術の匂いが物凄い速さで此処に迫ってるんだ。なんとなく殺意をビンビンに感じるんだけど、珠世さんの味方? それとも敵? 斬っていいの?」

『…………』

 

 静寂が場に降りる。

 数秒の間キョトンと固まっていた珠世だったが、次の瞬間には顔面蒼白となって握り拳を開いていた。

 

 手の中にはくしゃくしゃになった札が数枚。

 眼のような紋様が描かれているこれこそ、珠世の姿を他者から隠蔽していた血鬼術の正体だ。

 

 実はこの異能、珠世の血鬼術ではない。珠世の同行者の力である。

 他者にも付与可能なこの血鬼術は大変便利で、他にも有能な点としてこの札が破損などで元の形を保てなくなった場合、能力者にその事態が伝わる機能があった。

 

 この機能はどのような時に使うのか。

 そんなもの決まっている。

 緊急事態の伝達だ。

 

 そして鬼にとっての緊急事態など、生命の危機に他ならない。

 

 珠世は真菰に見付かった時に札を握り潰していた。日輪刀を持った人間に血鬼術を看破されたのだから、珠世の判断は当然と言えるだろう。

 不幸中の幸いだったのは、義勇と真菰が滅多に存在しない話の分かる相手だったということ。

 

 今この時点における不幸は、その事実までもが同行者に伝わるものではなかったということ。

 

 ゆらりと日輪刀を引き抜き始めた真菰を見て、珠世は冷や汗を流して盛大に慌てふためいた。

 

「み、み、味方です! 私の協力者です‼︎ ──愈史郎! 止まってください愈史郎‼︎」

 

 お淑やかさを犠牲にわちゃわちゃと手を動かして全身であたふたする珠世。

 その反応が可笑しくてつい気が抜けそうになるが、匂いが分からずとも感じる殺意に薄れる気配が無いため、真菰は刀身を全て晒して向かってくる気配へと正対する。

 

 珠世は信用した。

 だがその協力者にも信が置けるかと問われれば、現段階では否と答えるしかない。

 

 協力者は珠世の危機を察した。

 一刻も早く駆け付けようと剣呑な気配を滲ませるのは仕方の無いこと。

 

 どちらも当然の反応だ。

 両者の気持ちを理解できるからこそ、珠世の恐慌さに拍車がかかる。

 ただ一人この状況を無血で和解に持ち込めるだろう珠世は本当に必死だった。

 

「愈史郎⁉︎ お願いです、愈史郎! 私の声が聞こえているのなら止まってください! お願いですよ! 脅されてるわけではないですよ! 私は安全なんですよ!!」

 

 珠世自身にも同行者の姿が見えないためか、必死に思いの丈を叫ぶ妙齢の女性という構図は実に二分以上にも及んだ。

 涙目で慌て続ける珠世。

 その人間味の溢れる可愛らしい行動を見て、義勇と真菰の信頼度が上がったのは思わぬ収穫ではあっただろう。

 

 その後なんとか落ち着きを取り戻した珠世は、己の醜態を思い出して紅くなる顔を両手で覆うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いつも思うけど、血鬼術はホントに何でもありだよね〜」

 

 珠世の案内に従い、石塀を透り抜けて大きな屋敷と対面した真菰の第一声である。

 義勇も幻影の壁を通り抜けた経験は初めてであった為、能面は変わらずとも不可思議な現象に驚いていた。

 

(この手の血鬼術は厄介だな……)

 

 感覚や精神に作用する血鬼術は、義勇のような歴戦の猛者にとっても鬼門である。上弦以外で柱が敗れるとしたら、これに類する異能の鬼が関わっていることが非常に多い。

 敵に回らなかった結果に安堵しつつ、その能力者へと視線をズラす。

 

 中へと先導する珠世の真後ろに控えた、見た目は少年の鬼。

 珠世の渾身の説得後も不機嫌な様子を露ほども隠さない彼こそがこの血鬼術の使い手。名前は愈史郎と言うらしい。

 先程から義勇に対する眼光が鋭利過ぎて、義勇は内心戸惑っていた。

 

「……真菰」

「ん?」

「俺は彼に何かしたか?」

「……んー、何もしてないと思うよー」

 

 真面目な顔で阿呆なことを心配し出した義弟に、逐一解説するのが面倒な真菰は適当に答える。

 愈史郎の露骨な珠世への好意に気付かない義勇が本気で心配にもなるが、その課題は会話能力向上なんかよりもずっと難関なので真菰は早々に諦めていた。

 恋愛ごとに類する男女の機微については蔦子に一任である。流石の真菰も弟分とはいえ年上の男性にそんなことをもう指導したくない。

 蔦子の最近の胃痛の原因なのは知っていたが。

 

「こちらでしばしお待ちくださいね。お飲み物をお持ちいたします」

「感謝する、珠世殿」

 

 客間へ義勇と真菰を残し、珠世と愈史郎の二人は奥へと姿を消す。

 大人しく畳の上で正座した真菰は、隣で瞑目する義勇へと小首を傾げた。

 

「珍しいね。義勇だったら絶対遠慮すると思ったのに」

「俺たちに必要なのは信頼関係の構築だ。相手から頂くものを出だしで断れば、不和を生む可能性がある」

「なるほど〜。……そういうところには気が置けるのになぁ……はぁ」

 

 小声で囁く真菰は大きな溜め息を吐いて、改めて義勇の両極端な成熟さ具合に頭をひねる。

 礼儀作法などの大人の常識については年不相応なものが身に付いているのに、人間関係に関する能力は多方面においてゴミ同然。

 幼稚なのではなく下手くそ。それも極まった不器用さだ。恋愛ごとにおいては目も当てられない。

 微笑みの爆弾という女性特効兵器を生み出した罪の一端を担っている自覚があった真菰は義勇育成計画に再度尽力したのだが、継子になって半年で匙を投げた。

 

 義勇の中で人は雄と雌ではなく、家族か仲間か護るべき民かの三分だと察した時は両手で顔を覆って蔦子に伝えた。蔦子も両手で顔を覆った。

 決して悪い事ではないけどどうしてこうなった。

 お前本当に思春期の男子かと真菰が疑うくらいだ。

 

 一応出会ってからを考えると素晴らしい進歩はあるのだが、何故だろうか、一定の水準に達してからは一向に成長しなくなったのだ。思わず兄弟子と一緒になんなんだこいつは……と声を揃えたのは記憶に新しい。

 これではあの姉妹を始めとした多くの女性が浮かばれない。

 というか義勇自身が決定的な何かをやらかさないか気が気じゃない。

 蔦子の心労も募るばかりだ。

 

 真菰は割と本気で、義弟が死ぬのは痴情の縺れ

(自覚無し)で背中を刺された時なのではないかと、光を失った瞳で義勇を見た。

 

「……なんだ?」

「義勇、蔦子お姉さんを泣かしたらダメだよ?」

「当たり前だ」

 

 知らぬは本人ばかりなり。

 かつて投げた筈の匙が再び手元に戻ってきたが、真菰は即座に天高く放り投げた。

 

「ごめんなさい、お待たせしました」

 

 上品な陶磁器を四つ乗せた盆を持った珠世が客間に戻り、愈史郎が嫌々一つずつ配っていく。

 嗅いだことのない芳しい香りに真菰の顔に笑みが浮かぶ。

 

「わぁ、美味しそう。これ何ですか?」

「紅茶です。真菰さんにはあまり馴染みが無かったでしょうか?」

「初めてです。へぇ、こんな感じなんだ〜」

 

 陶磁器を覗き込むように見る真菰に珠世は微笑んだ後、綺麗な所作で正座して四人は対面する。

 

「……ん?」

 

 違和感無く過ぎた光景に最初は何も思わなかった真菰だったが、飛び切りの疑問が脳裏をよぎって頭を傾げた。

 

「あれ? ……すみません、改めて確認なんですが、お二人は鬼なんですよね?」

「はい、その通りですが……」

 

 今更何を……といった態度で小首を傾げる珠世。

 その答えに疑問が深まった真菰は素直に聞く。

 

「鬼って紅茶とか飲めるんですか?」

「あぁ……そういうことですか」

 

 納得した珠世は一拍置いて、照れ照れと恥ずかしそうに俯いた。

 

「私は鬼舞辻の呪いを外すと共に身体を随分と弄っています。それでその……紅茶だけ飲めるようにしたのです」

「ほへぇ〜」

 

 感心なのかは分からない相づちを挟んで一言。

 

「珠世さんはすごく可愛らしい方ですね!」

 

 真菰の邪気の無い純粋無垢な言葉が珠世の羞恥心を抉り抜く。

 悪気が無いからこそ響いたその一撃。珠世は頬を真っ赤に染めて、耳の裏から首筋まで紅潮させていた。

 

「おい、お前」

 

 すると、ここまで無言を貫いていた少年──愈史郎が、真菰に厳しい目を向ける。

 

『…………』

 

 無言で真っ向から視線を交わす真菰と愈史郎。

 次の瞬間、ガシッと手を握り合っていた。

 

「お前は見所があるようだな」

「君もね」

 

 魂が共鳴したのだろう二人は一瞬で意気投合した。

 珠世は羞恥にプルプルと震え、両手で顔を隠して更に縮こまった。

 

「真菰、大人をからかうものではない」

「えっ? からかったつもりなんてないよ?」

 

 義勇、渾身の失敗。

 似合わない気の遣い方をして見事に不発に終わり、珠世はもう居た堪れない。

 

「……こほんっ」

 

 回復に少しの時間をかけて、珠世はわざとらしく咳払いする。

 依然頬が紅いままだが、ここで突っ込むほど真菰は天然では無かったようだ。神妙な顔をして背筋をピンと伸ばしていた。

 

「本題に移ってもよろしいでしょうか?」

「お願いする」

 

 義勇の促しで瞬時に纏わせる空気感を変えて、珠世は言葉を紡ぎ始めた。

 

「まずは改めて。私たちに協力して頂けること、深く感謝いたします」

「此方にも利がある。気にする必要はない」

「いえ、そうはいかないでしょう。これからお願いする内容は危険を伴うものとなるのですから」

 

 物騒な言葉を放つ珠世に、先程とは打って変わった静謐を瞳に宿す真菰が口を開く。

 

「そもそも、鬼を人間に戻すなんて可能なんですか?」

「……今はまだその方法が確立されていませんが、私は可能だと確信しています。どんな傷にも病にも治療法があるように、鬼を人に戻すことも可能だと」

「…………」

 

 真菰は無言のまま、くんくんと小さく鼻を鳴らす。

 嘘偽りのない清らかな匂いと、必ず成し遂げてみせるという強い信念を感じる。

 やはり珠世なら信じられると、真菰は義勇を見て一度だけ首肯した。

 協力を持ち掛けた時点で腹を切る覚悟すら決まっている義勇に、躊躇う理由など一つもない。

 

「何が必要となるのか、お教えください」

「……必要なのは鬼の血です。それも沢山の鬼の血液が必要となるでしょう」

 

 特に、と珠世は重苦しく切り出す。

 

「鬼舞辻の血が濃い鬼の血液が欲しいのです」

「十二鬼月からという意味で相違ないか?」

「はい、その通りです。此方の要望が過酷なものだとは理解しています」

 

 申し訳無さそうに話す珠世だったが、義勇と真菰の反応は大したものでは無かった。

 はっきり言うと、二人は拍子抜けしていた。

 

「なんだ、そんなことでいいんだ〜。深刻そうに話すからどんな無理難題かと思ったよ。ね、義勇?」

「あぁ、それなら然程問題は無い」

 

 あっけらかんと了承の意を示す二人に珠世は呆気に取られる。

 

「十二鬼月ですよ? 鬼の中でも最強の十二体なのですが……」

「俺たちは鬼殺隊です。鬼を斬ることが使命であるのならば、避けては通れない」

 

 いずれは戦わなければならない敵だ。

 相手が十二鬼月であろうと、無辜の民の命が脅かされるのならば鬼殺隊士は刃を振るう。

 

 しかし、現実問題として困難な点が存在するのは否めない。

 

「ただ、上弦の鬼の血は約束できない。柱でも、一対一で勝ち切ることは難しい」

「義勇でも無理なの?」

「あぁ。確実を期すなら、柱が三人はいるだろう」

「じゃあ下弦は?」

「相性はあるだろうが、負ける気はない」

 

 繰り広げられる会話に珠世は圧倒されるも、頼り甲斐のある二人に笑みを零す。

 

「因みになんですが、どうやって血を採取すればいいんですか?」

「それは此方をご利用ください」

 

 真菰の問いに珠世は用意していた器具を取り出す。柄が空洞となった小さな小太刀のような物だ。

 

「これを身体に刺すと自動的に血を採取できます。何本か差し上げますので、利用して頂きたいと思います」

「すごーい、こんなの作れるんだ〜」

 

 手に取って興味深そうに眺める真菰は目をキラキラとさせる。物騒な玩具に心惹かれる年頃なのだ。

 義勇も差し出された器具を持って検分してみるも、学の無い義勇では疑問しか浮かばない。

 

(これでどうやって血が取れるのかが分からない……)

 

 しのぶならば即座に理論立てて理解出来るのかもしれないが、如何せん鬼殺に特化した義勇ではこうした科学に疎い。

 そしてそれは真菰も同じ。特殊な刃物以上の感想が浮かばない。

 

 こういう時、脳筋で天然な二人の思考は一致する。

 

 ──よし、一回試してみよう。

 

 義勇はおもむろに隊服の袖を捲った。

 

「真菰」

「ん」

 

 真菰は義勇の意図を察して、何の躊躇いも無く手首の振りで器具を投擲。

 義勇の腕に突き刺さったそれを見て、珠世と愈史郎が微かな悲鳴を上げた。

 

「お、お前っ⁉︎」

「大丈夫ですか⁉︎」

「問題ない。……成る程、取れているな」

「おお〜、便利だね〜」

 

 引き抜いて血が柄に溜まっているのを見て、真菰は無邪気に感嘆する。

 全集中の呼吸を用いて即座に止血する義勇も手早く包帯を取り出して患部に巻き始めるも、視線は血を溜めた器具から離れていなかった。

 ふむと頷いて、満足そうに納得する二人。

 

 直後、おどろおどろしい圧にビクンと身体が跳ねた。

 

「義勇さん、真菰さん。何をしてらっしゃるのですか?」

 

 仄昏い微笑みを浮かべる珠世は端的に言って激怒していた。

 身を竦ませた二人は親に怒られる子供のように上目遣いをしてみるも、得てして母の怒りとはそんな行為で収まるものではない。

 

「義勇さん、真菰さん?」

「…………」

「いや〜、その……どんな感じなのか試してみようかな〜って」

「これは刃物だと分かってましたよね? 真菰さん、躊躇いなく投げましたよね?」

「だって、……義勇がいいって」

「だって?」

「いえ、すみませんでした」

 

 早々に逆らうのを止めて真菰は両手を付く。

 珠世の眼光が無言の義勇を貫いた。

 

「義勇さん?」

「……身に付ける道具の使い方はすぐ覚えるべき」

「貴方は真菰さんを導く立場ですよね? 真菰さんが人を傷付けて何も思わないような人になっても良いと?」

「そういう、わけでは……」

「わけでは?」

「いえ、申し訳ありませんでした」

 

 分の悪さを悟って義勇も土下座の姿勢を取る。

 二人の脳天を冷え切った目で見下ろす珠世だったが、やがて大きな息を吐いて柳眉を和らげた。

 

「貴方方が痛みにも傷にも慣れているのは承知しています。ですがそれは、自らを傷付けていい理由にはなりません」

 

 珠世は義勇の側へと移動して、乱暴に巻かれた包帯を一度解いて新しいものに取り替えてから丁寧に巻き直す。

 

「義勇さんは柱で、真菰さんはその継子。責任があり、人望もある立場でしょう。だからこそ、貴方方が傷付くことに心を痛める人はきっと多いはずです。私もそう。今日出会い、短い触れ合いですが、私はお二人に好感を抱いています。そんなお二人が怪我をしたと聞けば、私はとても悲しい」

 

 蝶屋敷の主人である姉妹よりも卓越した速さと的確さで処置を終えた珠世は、義勇と真菰に顔を上げるように肩を叩いた。

 

「難しい願いとは分かっていますが、それでも言わせてほしい。どうか、ご自愛ください。もっと自分を大切にしてください。傷付くことに慣れ過ぎてしまうと、他人の痛みも分からなくなってしまいます。心も身体も人のまま、生きてください」

 

 鬼となった珠世だからこそ響く言葉を、義勇と真菰は静かに聞き入れる。

 似たような言葉を投げ掛けた者は少なからずいただろう。だが、義勇の柱という立場に対する遠慮が大きくて、身に染みて来なかったと珠世には思えた。

 第三者だからこそ、届く想いもある。

 二人の為人について理解した珠世は義勇と真菰なら珠世の言葉を額面通りに受け取って、可能な限り実践してくれるだろうと表情を綻ばせた。

 

「お説教などしてごめんなさいね。でも、覚えていてほしいの」

「はい、ありがとうございます」

「今後は気を付けます!」

「ええ、約束ですよ?」

『はい、お母さん』

「誰がお母さんですか」

 

 

 

 思いの外キレのあった珠世のツッコミを最後に、四人は今後の動きなどの詳細を詰めていく。

 

「一つ確認したい。鬼殺隊で貴方方の存在を知っている者は他にいるか?」

「恐らくにはなりますが、柱を含めても隊士でご存知の方はいらっしゃらないでしょう」

 

 ほぼ断言に近い発言の後に、一拍溜めてですが……と珠世は続ける。

 

「産屋敷家の当主は私のことを把握してるかと思います」

「そうか。好都合だ」

「好都合、なのですか?」

 

 言い淀んでいた珠世は義勇の反応に呆気に取られる。

 自身が所属する組織の実質的長が鬼の情報を隠していたのだ。これはかなりの衝撃的事実であろうに、義勇には全く意に介した様子はなく、むしろ面倒が無くて有難いと思ってすらいそうだった。

 義勇の真意が汲み取れなかった珠世は疑問を視線に乗せる。

 

「貴方の事はお館様……鬼殺隊当主に報告するつもりだ。知っているのであれば頼み事がしやすい」

「どのようなことを?」

「柱には警備区域が決められている。珠世殿の拠点がある区域を俺の区域にできれば、貴方方におよぶ被害を最小限に留められるだろう」

「成る程、確かにそれはありがたいですね」

 

 鬼殺隊士との偶然の接触が珠世たちの死に繋がる可能性を孕んでいるのだ。協力体制を構築するのであれば、潰せる危険性は潰すべきである。

 その後、考えられる粗方の懸念を摘み終えた義勇は、預かった血液採取の器具を取り出した。

 

「これに血液を採取した場合だが、直接届ければ良いのだろうか?」

「いえ、ご足労頂く必要はありません。此方で連絡手段を用意しております。茶々丸、出ておいで」

 

 そう言って、珠世は虚空へと声を掛ける。

 

「にゃ〜」

「──⁉︎」

 

 刹那、義勇の身体がブレた。

 

 一瞬の風となってその姿がかき消え、突然の事態に目の前にいた珠世と愈史郎はパチクリと目を瞬く。

 ゆっくりと二人一緒に顔ごとズラすと、部屋の角の壁二枚を利用して蜘蛛のように天井近くに張り付いた義勇がいた。

 人間ってそんな姿勢になれるんだ、と珠世たちは思った。

 

「あっはっははははは!! 義勇、いくらなんでもその挙動と体勢は面白過ぎるよ!」

 

 

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 義勇の動きを目で捉えていた真菰は指を差して爆笑し、義勇はここ一番のしかめ面で真菰を睨む。

 

「何故言わなかった?」

「わざとじゃないよ? ここ自体が血鬼術で隠された屋敷だから匂いがあちこちからするんだ。何かいるのかな〜、とは思ってたけど、こんな可愛い猫ちゃんだとは分からなかったんだよ」

 

 そう言って、真菰は突如として現れた闖入者である仔猫を抱きかかえる。にゃーと鳴いたその仔猫は、主人たちと同様に義勇を見てキョトンとしていた。

 状況の理解が及ばない珠世と愈史郎も同じ顔をしている。

 

「あの……義勇さんはどうされたのですか?」

「えーとですね、義勇は犬を筆頭に動物がダメなんです」

「はぁー……柱となられる方にもそんな弱点があるのですね」

 

 義勇とて、普段はここまで過剰な反応は示さない。

 ちゃんと目で確認していればその瞬間に硬直し、恐る恐る近付いて手を伸ばしてみるか、そもそも近付かないで距離を置くかの二択である。なお、前者の場合だと今のところ十割の確率で攻撃される。

 今回は自身の間合いに突如として現れたのがいけなかった。突発的な驚愕ともはや本能にまで刻み込まれた苦手意識が、義勇を蜘蛛へと変化させたのだ。

 

 平静を装った義勇は音も無く着地し、真菰に抱かれた仔猫と視線を合わせる。

 

『…………』

 

 一歩一歩、ゆっくりと仔猫に近付く義勇。

 両者共に一瞬も視線を外さない。

 時が経つに連れ縮まる距離。

 遂に義勇の手が届く範囲に詰まった互いの間合い。

 何故か固唾を飲んで珠世が見守る中、義勇がそっと手を伸ばした。

 

「にゃ!!」

 

 迷い無く仔猫は爪を振るった。

 予想通り過ぎる結末に真菰は身体を震わせて笑いを堪える。

 

「こら、茶々丸! どうして引っ掻くの!!」

「珠世様、初対面であのような態度を取られれば、今の対応は仕方ないかと……」

「どんな理由があろうと暴力はいけないことです!」

 

 めっ! と言って珠世は仔猫を叱り、対して茶々丸はにゃーと鳴く。

 しょんぼりした義勇の頭を真菰は撫でながら、話を本筋へと戻した。

 

「それで、この猫ちゃんが伝達係なんですか?」

「はい。見て頂いた通り、普段は愈史郎の血鬼術で姿を隠して貴方方に同行致します。鬼の血液を採取した時や、私たちに用事がある時はこの子を呼んで下さい。この子が現れる合図は鳴き声です」

「へぇ〜、茶々丸は賢いんだね〜」

 

 空いた手で今度は茶々丸を撫でてみると、擦り寄るように真菰に戯れてくる。

 義勇も触りたそうな目で仔猫を見てみるが、先程の茶番劇が再現される未来しか見えなかったので泣く泣く諦めた。

 

 

 

「では、俺たちは行く。世話になった」

 

 紅茶を嗜んで少し休憩したのち、義勇と真菰は立ち上がって珠世たちに別れを告げる。

 時間としては深夜に違いないが、二人の普段の活動時間はむしろ此処からのため然程問題はない。

 日輪刀を腰に挿して準備を整えた義勇たちに、珠世は突如喉奥に何かが詰まったかのように表情を曇らせた。

 

「どうかしました?」

 

 心配げに真菰が声を掛けて、珠世の中でそれが決め手となった。

 鬼である自分たちにこれほど心地良い信頼を寄せてくれる彼らに、此方も想いを返したい。

 それが例え、二人を死地へと誘うことになろうとも。

 

「……本当は言わないつもりでしたが、一つ、情報提供があります」

 

 重苦しく紡がれる発言に義勇たちの眼光が鋭利となる。

 協力関係といえど隠し事はあって当然。その点を詰め寄る気など二人には毛頭無いが、長年鬼として活動していた善良な心の在り方を持つ珠世が、態度からして此方を気遣って隠匿した情報だ。

 

 鬼が出るか蛇が出るか。

 

「時間としては二日ほど前のことですが……」

 

 言葉を切って、珠世は告げる。

 

「私たちは鬼舞辻無惨を目撃しています」

『──ッ!?』

 

 その内容に、二人は驚愕が隠せない。

 しかし、その感情の揺らぎを瞬時に吹き飛ばす勢いで義勇が珠世へと詰め寄った。

 

「何処だ! 鬼舞辻無惨は何処にいる!?」

 

 こうなることを予想して珠世は口を噤んだのだ。

 言えば二人は必ず踏み込むと分かっていた。

 何も出来ない己の無力を恥じて、されど珠世は毅然と言う。

 

「場所は東京府京橋區。街からは少し外れた、金銭に余裕の無い方々が暮らす住宅地です」

 

 

 

 

 

 

 

 

「わー! 兄ちゃんすげー!」

「えぇー……危ないよー……」

「にいちゃんがんばれー!」

「兄ちゃん、あと少しだよー!」

「すぅ……すぅ……」

 

 子供たちの色とりどりの声が樹々生い茂る山の麓で木霊する。

 下から届くその声を声援に変えて、樹を登っていた少年は幹に張り付くカブト虫へと手を伸ばした。

 

「よし、届いた!」

 

 わぁっ、と歓声が耳朶を打つ。

 右手でしっかりと捕獲したまま、少年は身軽に樹を伝って地面へと着地する。

 駆け寄ってくる弟妹たちに、少年は戦果を見せた。

 

「どうだ、弘。大きなカブト虫だろ?」

「うん! 兄ちゃんすげー! 俺も持っていい?」

「ああ」

 

 少年はねだる弟にゆっくりとカブト虫を手渡して、それを話題にわいわいと盛り上がる家族を静かに見守る。

 その中で一人、一番小さな弟を抱きかかえていた次男が近付いてきた。

 

「兄ちゃん」

「玄弥。悪いな、就也の面倒任せて」

「そんなことねぇって。久々の休みなんだから、俺は兄ちゃんにも楽しんでほしいんだよ」

「……ふっ、生意気言うようになったな!」

 

 ガシガシと乱暴に弟の頭を撫でる。やめろよー、と恥ずかしがっているものの、満更でも無さそうなその様子に少年は笑みを浮かべた。

 

「みんなー、ご飯にするわよー! 手を洗ってきてねー」

『はーい!』

 

 少し離れた場所でお弁当を広げていた母親の声に元気良く返事をして、わちゃわちゃと近くの清流に足を運ぶ兄弟たち。

 手拭いで綺麗に拭いてから母親が待つ場所まで戻ったら、忙しなくいただきますと言ってご飯を口に運ぶ弟妹たちを見て、少年は少しだけ顔を顰めた。

 

「そんなに慌てて食うんじゃねぇよ。まず弁当を作ってくれたお袋にありがとうだろ?」

『かあちゃん、ありがとう!』

「ふふ、どういたしまして。みんな、ゆっくり食べていいのよ」

 

 次男から末っ子を預かった少年の苦言を弟妹たちは素直に受け止めて、母親は慈愛に満ちた微笑みをたたえる。

 一人弁当に手を付けない母親の側に少年は寄って、不満と心配が綯い交ぜになった表情で呟く。

 

「お袋。偶の休みなのに、家で休まなくて良かったのか? わざわざ弁当まで作って、ちょっとした遠出だ」

「お母さんを年寄り扱いしないで! ……って言いたいところだけど、そんなに心配しないでも大丈夫よ。家族みんなでこうして遊んでいる方が、よっぽど明日からの活力になるわ」

 

 そう言って微笑する母は、控えめに言っても酷い環境下で優しく育ってくれた長男に感謝する。

 

「いつもあなたには苦労を掛けちゃうわ。ごめんね、頼りないお母さんで」

「そんなことはねぇ! ……俺だってしたいからこうしてるんだ」

「ふふ……ありがとうね、実弥」

 

 少年──不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)はぶっきら棒に顔を逸らす。

 実弥は家族と過ごすこの何気無いひと時が好きだった。あの男が居なくなってからは尚のこと。

 間違いなく今は、幸せだと言えるだろう。

 

 だけど、人生には空模様があることを知っている。

 それは絶えず移ろって動いていくものだ。

 ずっと晴れ続けることはないし、ずっと雨が降り続けることもない。

 

 そして、幸せが壊れる時には、いつも血の匂いがしていた。

 母から溢れる赤い血の、その匂い。

 

 実弥はそのことを、誰よりもよく知っていた。

 

 

 

 

 

 





時系列については完全にねつ造です。

おまけ:珠世様の血鬼術

──血鬼術
《惑血・視覚夢幻の香》

真菰「珠世さんが自分のことガリガリに傷付けてる……」
珠世「私は鬼ですので……」(目逸らし)


愈史郎「珠世様は今日も美しい。きっと明日も美しいぞ」


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第6話 出会いと別れを繰り返して ③



※読む前の注意
・明治後期から大正にかける教育や職業に軽く触れていますが、にわか知識です。
・不死川母の名前等については、拙作オリジナルです。







 

 

「こんこんこやまのこうさぎは

 なぁぜにおみみがなごうござる」

 

 とんとんと、優しく一定の間隔で仰向けで寝る子供の肩をたたく。

 

「ちいさいとぉきにかあさまが

 なぁがいこのはをたべたゆえー

 そぉれでおみみがなごうござるー……」

 

 この子守唄を歌う時は、自分でも驚くぐらいに穏やかな声が出る。

 続けて二番を囁くように歌い上げて目を開けると、部屋にいた年端もいかぬ幼児たちはみんな眠りに就いていた。

 

 昼食を終えた後の和やかなひと時。

 子供たちの寝顔を一通り眺めて、少年──不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)は淡い微笑みを浮かべた。

 

(よし、みんな寝たな)

 

 実弥は音を立てずに立ち上がり、部屋にいる大勢の子供たちに毛布を掛ける。弟妹たちは手を繋いで寝ていて、他所の子達も仲良く寄り添い合っている光景は見ているだけで自然と心が安らぐ。

 

 小さな部屋には十人近くの、五歳にもなっていないだろう子しかいない。

 実の弟妹以外は近隣に住む、実弥の家族と同様に父親がいない家庭の子供たちだ。

 家族を養うために母親は働いており、その間に面倒を見る者がいない。その問題を解決するために母親間で協力して現在の状況となっていた。

 最初は無償でという話だったのだが、それは流石に悪いと僅かばかりではあるがお金が貰える。義務教育の尋常小学校を卒業した後、小さな家族の面倒を見るために長い時間働けない実弥にとってはありがたい話であった。

 

「ただいまぁ……兄ちゃん?」

「おかえり、玄弥、弘、貞子」

 

 小さな声で実弥は帰ってきた弟たちを迎い入れる。

 尋常小学校から帰ってきた三人の弟妹たち──玄弥(げんや)(ひろし)貞子(ていこ)は、ぐっすりと眠っている子供たちを起こさぬようにと忍び足で部屋を移動した。

 

「お昼寝中?」

「あぁ、今寝かしつけ終えたところだ。後は頼むぞ」

「うん、任せて兄ちゃん!」

「赤ん坊はうつ伏せにさせないようにな」

 

 ふんすと気合いを入れる貞子に母親から教わった要注意事項だけは伝え、実弥は三人に子守を任せて外に出る。

 駆け足で向かう先はこの集落に隣接している比較的大きな街の、人通りの多い道に店を構える安くて美味しいと評判な定食屋だ。

 裏口から入って実弥は素早く母からの借り物である割烹着を着用する。手洗いを済ませて準備を整えたのち、厨房で料理を作り始めていた主人に近付く。

 

「すみません、遅くなりました!」

「おう、よく来たな坊主。まだ混み合う時間じゃねぇから問題ねぇよ。適当に掃除しといてくれ!」

「はい!」

 

 店主の言葉に従い実弥は布巾を持ってせっせと掃除を済ませると、夕暮れ時のいい頃合いになって客足が伸び始める。

 給仕に皿洗いに会計に、必要な知識や対応を慣れた様子で実弥はこなしていく。女子であれば間違いなく看板娘と呼ばれていただろう相応の働きであった。

 

「ありがとうごさいました!」

 

 最後の客を送り出した後に、実弥はふぅーっと大きな息を吐く。

 店主と夫人と一緒に後片付けを済ませ、ありがたく賄いを頂き、ほぼ毎回手土産まで貰えることに感謝する。実弥は、というより不死川家はこの定食屋夫婦に随分と世話になっているのだ。

 

「これ、下の子たちと一緒に食べてね」

「ありがとうございます!」

「お母さんには流行り病の時に世話になったからね。このくらいしか出来ないけど……」

「いいえ、とんでもありません! 俺みたいなガキを雇って頂けるだけで本当に助かっています」

 

 実直な実弥の態度に夫人は柔らかく微笑みを浮かべる。とっさに頭を撫でようとするが、実弥も十四になる少年だ。恥ずかしいだろうと少し残念に思いつつ、これ以上引き止めては悪いと主人に場を譲った。

 

「んでこれが今日の日給だ。また明日も頼むぜ!」

「はい、ありがとうございます! 明日もよろしくお願いします!」

 

 弟妹たち用に貰った手土産と給金を手に実弥は頭を下げて、礼儀正しく店を出る。

 空を見上げれば星々と月の光が眩く輝いており、遅くなったと急いで家族の元へと実弥は走り出した。

 

「ただいま」

『おかえり、兄ちゃん!』

 

 慣れた道程をほぼ全力疾走で駆けて実弥は家へと辿り着く。汗一つかいていないのは彼の身体能力の高さを物語っていた。

 

「すぐ飯の支度するからな、もうちょい待ってろ。貞子、手伝ってくれるか?」

「うん、任せて兄ちゃん!」

 

 かなり早いが花嫁修行も兼ねて長女の貞子に料理を手伝ってもらう。

 定食屋直伝の実弥の料理の腕は中々であり、母親は長男の家事能力の万能さに若干の慄きと果てしない申し訳なさを抱いているのだが、それを知る者はいなかった。

 

 手際良く少ない食材で料理を作り上げた実弥たちは食卓に集まって、頂きますと唱和する。

 次男坊である玄弥ですら九歳で、下の三人──こと、寿美(すみ)就也(しゅうや)は六歳にもなっていない。家族団欒といえば聞こえはいいが、実弥含めて七人も子供がいれば喧しいことこの上ない。長男として、実弥は近所迷惑にならない程度に注意を飛ばし続けることになるのが常だった。

 

「にいちゃんにいちゃん、ごほんよんで」

「あぁ、待ってろ寿美」

 

 晩飯を終えてしまえば後は下の子を寝かし付けるだけだ。

 金銭に余裕は無かったが、読み聞かせをするための本といった細やかな娯楽はある。寝転がる実弥にまるで群がるように小さな三人が寄り添って、実弥が紡ぐお話に耳を傾けた。

 

 しばらくすれば、聞こえてくるのは小さな三つの寝息。

 先程まであれだけ元気いっぱいだったのが嘘のように静かになって、実弥は一度だけ三人の頭を撫でて立ち上がった。

 

「お前らももう寝ろ。玄弥もだ」

『はぁ〜い』

 

 兄の役に立ちたいとせがむ弟妹たちは可愛いのだが、夜更かしさせるなど言語道断とばかりに実弥は布団に入らせた。

 

『おやすみ、兄ちゃん』

「あぁ、おやすみ。玄弥、貞子、弘」

 

 一度布団に入ってしまえば不思議なもので、日中消費した体力を回復させようとしてかすぐに寝入ってしまう。全員が十にも満たない子供なのだから仕方がない。

 一人起き続けている実弥は台所へと向かい、近くの川から汲んできた水を節約しながら使って皿を洗う。

 黙々と作業を進める途中で、玄関の戸が慎重に開かれたのを見た。

 

「ただいまぁ……、実弥?」

「おかえり、お袋」

 

 大分遅い時間に実弥たちの母親──不死川(すず)が帰ってきた。

 隣街の病院で鈴は看護婦として朝から晩までずっと働いている。少し前までは日が暮れる頃には帰宅していたのだが、父親が居なくなって子供たちの危険が無くなってからは働き詰めだった。これも家族を養うためだと思うと、ろくに支えてやれない自分が情けない。

 

「いつもありがとね、実弥。ほら、あなたももう寝なさい」

「これが終わったら寝るよ。お袋もあんま夜更かしすんなよ」

「えぇ、気を付けるわ」

 

 実弥は母の言葉に眉間に皺を寄せた。何度言っても母が早く寝ることはないと確信しているためだ。

 鈴は帰ってきてからも内職している。裁縫の腕が際立っている鈴は手拭い(ハンカチ)の刺繍や着物の繕いといったものにも手を出しており、夜遅くまで起きているのだ。

 そして朝は誰よりも早く起きて洗濯物を洗い、日が昇る頃には干し始めている。本当に、いつ寝てるのかが疑問でならない。

 

「……はぁー。お袋、身体は壊さないでくれよ」

「ふふ、勿論よ。予防には気を付けているわ」

 

 これ見よがしに実弥は大きな溜め息を吐いてみるも効果がないようだ。慈愛を秘めた微笑みを浮かべられては、実弥はもう何も言えない。

 諦念の境地の中で実弥は皿洗いを終わらせ、母の言葉に逆らうこと無く布団に入る。実弥では裁縫は手伝えないし、一度強情張って起き続けようとして気付けば寝落ちしてた恥ずかしい過去もあって、実弥は素直に寝るようになった。

 

「おやすみ、お袋」

「えぇ、おやすみなさい、実弥」

 

 瞼を閉じてしまえば抗いがたい眠気が実弥を襲う。朝から子守をして、夕方からは定食屋で働いているのだ。それ相応の体力は消費している。

 

(起きたら洗濯物を干すのを手伝って、飯作って、あいつら学校に送り出して、他所の子の向かいに行って、それから……)

 

 思考も朧げに、実弥は明日の予定を考えるも限界は早い。

 意識が闇の底に落ちるのを、母だけが静かに見守っていた。

 

 これが不死川家の、実弥の日常だ。

 

 貧乏で生活は厳しいが、家族と共に過ごせる毎日は幸せだった。暴力ばかり振るう碌でなしの父親が刺されて死んでからは、平穏な日々を送れていた。

 ずっとこんな日々が続くのだと、心の底から信じていた。

 

 あの時までは。

 

 

 

 

 

 

 

 

「留学、ですか?」

 

 病院の看護婦用の一室にて。

 夕食を食べていた際に先輩看護婦から話を振られた不死川鈴は、聞き馴染みのない単語をキョトンと復唱していた。

 

「そうなのよ。東京府の病院で働く看護婦の中で希望者を募ってるらしいわ」

「それはまた、夢のあるお話ですね」

 

 看護婦という職業は女性の社会進出の中でも尊敬を集めている職業だ。

 国際組織である赤十字に認知されている国際職であり、明治の文明開化を機に近代化が進む我が国において、女性の社会参画を大いに促進していた。当時の皇后陛下を筆頭に、皇族・華族の方々が赤十字に関わって、女性職としての看護職を奨励したことも背景にあった。

 ましてや留学なんてこの時代の女性ではとんと縁がない話で、鈴の言うように正に夢のある話なのだ。

 

「立候補されるのですか?」

「まさか。まだ子供も小さいもの。不死川さんもそうでしょ?」

「はい。私達には関係ないお話ですね」

「それがそうもいかないのよ。希望者を募ってはいるけれど、やっぱり優秀な人がいいみたいで、関係者のお偉いさん方が病院を回っているらしいわ」

「もしかして、此処にもですか?」

「えぇ、近いうちに来るらしいわ」

 

 先輩看護婦が苦い顔をしている理由を察して鈴は苦笑する。只でさえ日常業務で忙しいにも関わらず、その方々への対応も考えれば気が滅入るというもの。

 

 相手がお偉いさん方というのも懸念である。

 看護婦は国際職として尊敬を集める反面、相当の重労働の割には必ずしも十分な収入が得られるわけではない。独り身ならともかく、家族を養う立場になると物足りない面もある。実際に鈴も副業に手を出しているし、そういう同僚は少なくない。

 

 問題なのはその副業の内容だ。

 

 本当に切羽詰まっている者は売春まがいの行いもしている。文字通り身体を売って稼いでいるのだ。

 女性の社会参画の代表的な職と認知されつつある看護婦に、その手の話は好ましくない。

 だが、ここで給金を上げてと声を出せないのもまた事実。

 留学という一大事業に関わるような方々とお近づきになりたいと思う看護婦は少なからず存在するだろう。その辺りにも目を光らせなければならないと考えると気が重くなる。

 

「失礼いたします」

 

 二人してややげんなりとしていた時に、部屋の戸が開かれた。

 もう交代時間かと思う二人だったが、現れた女性を見て鈴は急いで立ち上がった。

 

「珠世先生、お久しぶりです!」

「はい。鈴さん、お久しぶりですね。突然お邪魔して申し訳ありません。どうぞ楽にして下さい」

 

 畏まった対応を苦手としてか、品のある仕草で入室した女性──珠世は柔らかく微笑む。

 突然の来訪には驚いたが、珠世がこの病院を訪れるのはこれが初めてでない。

 本当にたまたまだったのだが、仕事帰りに鈴が住む集落で珠世が住民に無償の治療を施していたのを目撃したのがきっかけであった。

 医術の心得のある女性はこの時代数えるほどしか存在しない。それが男性よりも優秀となれば尚の事。

 気付けば鈴は珠世に話し掛けていて、同じ医療現場で働く女性同士ということで意気投合するのは早かった。少し強引にこの病院に引っ張ってしまったことは反省しているが。

 

「あの少女はその後どうなりましたか?」

「はい、ついこの間退院されましたよ。珠世先生に会えなくて残念そうにしていました」

「そうですか、治ったのであれば何よりです」

 

 心底安堵したと微笑む珠世は慈母そのものだ。どうしても一回の病診で完治させられなかった子をわざわざこうやって見舞うくらいなのだから、珠世の根は清らかに透き通っているのだろう。

 身元不評、年齢不詳の謎多き神秘的な女性なのだが、鈴個人は珠世のことを好ましく思っていた。

 

「浮かない顔をされてましたが、何かあったのですか?」

 

 二人の気落ちした様子を見たのだろう。

 珠世の問いに鈴は苦笑いを浮かべてあらましを説明すると、珠世も同じような表情で同情を滲ませていた。

 

「それは大変ですね……」

「本当ですよ珠世先生……あっ、珠世先生がお手伝いに来ていただけると助かるのですが……」

「それは、その……」

「先輩、無理を言ってはダメですよ」

「あはは、そうよね。忙しいっていうのにね」

 

 はぁーっと先輩看護婦は頬杖をつきながら溜め息を吐く。

 一度愚痴をこぼしてしまったからか、彼女の口からは止めどなく言葉が漏れ始めた。

 

「赤十字の関係者はまだいいのよ。一応勝手知ったる仲だもの。でもね、お国の偉い人とか、貿易会社の方とか、どう応対すればいいのかしらねぇ」

「皇族・華族の方がいらっしゃるのですか?」

「話によるとね」

 

 鈴はうへぇ、という表情が浮かびそうなのをなんとか堪える。無礼一つでもしようものなら無職になるんじゃないかと、過剰かどうかも分からない懸念に溜め息を漏らす。

 だからこそ、珠世の白磁の肌が更に青白くなったのには気付かなかった。

 

「……貿易会社の方とは?」

「留学に当たっての移動の伝手だそうで、何故かそこの社長の方が各病院に足を運んでいるそうですよ」

 

 付き合いというものなんでしょうねと先輩看護婦は呟き、問いを投げかけた珠世は神妙な顔付きとなる。

 その瞳の奥に宿るのは、紛れも無い焦燥。

 

「ちなみに、会社名などはご存知でしょうか?」

「えぇ、はい」

 

 珠世の只ならぬ様子をようやく怪訝に思いつつも、隠すことでもないと先輩看護婦はあっけらかんと告げる。

 

「鬼頭貿易会社の、鬼頭月彦(つきひこ)さんと仰るそうですよ」

「……そうですか」

 

 ──あぁ、そんな……

 

 人違いであれば、まだ救われたのに。

 

 狂おしい程の罪悪感が珠世の心を焼き尽くす。

 何も出来ない無力な自分に吐き気がする。

 

 悲惨な未来を変える力が、珠世にはないのだ。

 

 人々の何気無く、それでいて幸福な日常が壊れ去るかもしれないことを、珠世だけが理解してしまった。

 

 

 

 

 席を外して浅草の本拠へと向かう帰路にて。

 

「愈史郎」

「はい」

「あの病院に使いを」

「畏まりました」

 

 暗い夜道の中、珠世は一人でにそう命じる。

 声に応じた気配が離れていったのを見計らって、珠世は沈痛な面持ちで俯いた。

 

「……申し訳ありません」

 

 危険だと分かっているのに。

 人としての尊厳を失うかもしれないと知っているのに。

 珠世には何も出来ない。

 

(集めた情報通りなら……)

 

 愈史郎の血鬼術を行使して、宿敵のことは探ってきた。現在其の者が何処にいるか、何をしているか、危機が及ばない範囲で情報収集してきたのだ。

 

(あの男は今、貿易会社を持っているはず)

 

 鬼頭月彦。

 それは偽りの名前だ。幾つも使ってきて、躊躇いなく捨ててきた名前の一つに過ぎない。

 それの正体は、食料としての感情しか抱いていない人間の真似事をして、人の営みの中で暮らす人(あら)ざる化け物。

 

 ──鬼舞辻無惨

 

 其の男こそが諸悪の根源にして、千年もの時を生きる鬼の始祖なのである。

 

(どうか、どうか何ごともなく終わって下さい……っ!)

 

 珠世には、祈ることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「姉ちゃん、危ないって!」

「弘もおいで! 川遊びなんだから川に入らないでどうするの! 寿美も!」

「うん!」

「こと、川の水って気持ちいいだろ?」

「そうだね、玄弥にい!」

 

 子供たちのはしゃぐ声が絶え間なく聴こえる。

 久々の休暇で我が子たちの活き活きとした姿を見て、鈴は昨日の疲れが取れていく気持ちだった。

 

「実弥も一緒に遊んできていいのよ?」

「そしたら誰が就也の面倒を見んだよ」

「それはもちろんお母さんよ」

「今日くらいはゆっくりしろって言ったばかりだろうが」

「……ふふっ、そうね。じゃあお言葉に甘えさせてもらうわね」

「おうっ」

 

 川辺の岩に腰掛けて、鈴は長男である実弥と一緒にパシャパシャと脚で水を弾く。実弥の腕の中では末っ子の就也が気持ちよさそうに寝ており、柔らかな日差しと人肌の温もりに包まれて暫くは目を覚まさないだろう。

 少し過剰なばかりに気を使う長男に年寄り扱いされているような贅沢な不満はあったが、この日の鈴は本当に疲れていた。

 

(お偉いさん方の視察の接待であそこまで気を張るとは思わなかったわ……)

 

 つい先日のことだ。

 いつの日か先輩看護婦から聞いた看護婦の留学話に伴う歴々の視察が、ついに鈴が勤めている病院にも訪れた。

 内容としては大層なことはない。看護婦は日々の業務をこなすだけで、歴々にとってもその様子を見ることが目的。普段の仕事に妙な緊張感が伴っただけで、想像していたよりは遥かに穏当な視察体験であった。

 

 ただ一つの懸念さえなければ。

 

(鬼頭月彦様……あの方がどうしようもなく怖かった……)

 

 他人に刺されて死んだ夫のような残虐な者と長く一緒にいたせいか、鈴は他人の本質、特に心に潜む残忍性には人一倍敏感であった。特技とも言い辛い観察眼であったが、自己防衛にはとても役立つこの技能を鈴は有難く思っている。

 日々の中でならこの感覚が鋭敏になり次第距離を置くのが常なのだが、仕事中はそうもいかない。況してや相手が高いの身分の者なら尚の事。

 

(あの方は絶対に危険……もう関わり合いにすらなりたくない)

 

 得も言われぬ恐怖に鈴は身体を震わせる。

 鈴は直感で理解していた。あの男は既に何人もの人を殺していて、そのことに罪悪感すら抱かない人種であると。

 病院にも患者として明らかに堅気の人でない方が訪れるが、彼等などとは比べることすら烏滸がましい。

 安直な喩えではあるが、蛇に睨まれた蛙とは正にあのことだろうと思う。正直仕事中は生きた心地がしなかったし、そのせいでつまらない失敗を犯してと、とんだ災難であった。

 

「お袋、冷え過ぎたんじゃねえか?」

「えっ?」

「顔色が悪いんだが……」

「あら、そうっ? ごめんね、少しぼぉーっとしてたのよ」

 

 しまったと、鈴は気の緩んだ自分を叱咤する。どうやら実弥に気取られるくらいには消耗しているようだ。

 日頃から気苦労を掛け過ぎている長男にこれ以上の心配はさせまいと、鈴は即座に母親の顔を取り戻した。

 

「さて、そろそろスイカも冷えた頃ね。みんなで食べましょう」

「……そうだな」

 

 実弥は慣れた態度で、母への言及を取り止める。それをありがたいと感謝して、鈴は濡れた足を拭って立ち上がった。

 

「みんなー、戻ってー! スイカを食べましょー!」

『はーいっ!!』

 

 声を張り上げて子供たちを呼ぶと、彼らは我先にと川の中を一目散に駆け寄ってくる。

 その様子に危ねぇだろうが! と実弥が叫び、それにビックリした就也が起きて実弥が慌てるのを横目に、いの一番にやって来た長女の貞子を鈴は抱き締めた。

 

「母ちゃん、私がスイカ切りたい!」

「そう、じゃあお母さんと一緒に切ってみましょ?」

「うん!」

 

 布で何度もぐるぐる巻きにして箱に詰めた包丁を慎重に取り出して、貞子は用意されたスイカへと向き合う。

 実弥の日頃の教えが厳しいからだろう。刃物を手にした瞬間にその眼差しと表情には真剣味が宿り始めた。

 これなら大丈夫かなと思いつつも、心配になってしまうのが母親というもの。

 貞子の後ろから手を重ねるようにして、一緒にスイカを切っていく。

 

「うん。上手に出来たわね、凄いわ貞子!」

「えへへ〜。兄ちゃんにいつも教わってるもん!」

 

 花が開いたような満面の笑みを浮かべる貞子の頭を撫でる。

 されるがままににこにことしていた貞子だったが、離れた鈴の手を見た瞬間に大きく目を見開いた。

 

「あっ!?」

「えっ?」

 

 その素早い動きに呆気に取られた鈴は、隠すことも出来ずに貞子に手を取られた。

 直後、また失敗したと気付く。

 

「母ちゃん手怪我してる!?」

 

 貞子のその叫びに、子供たちは一瞬で表情を変えた。

 

「母ちゃん大丈夫!?」

「痛くない!?」

「かあちゃんっ!?」

 

 子供たちに尋常でない様子で心配され、やってしまったと鈴は自身の迂闊さを後悔するも、安心させるように微笑んだ。

 

「大丈夫よ、昨日のお仕事中にちょっと硝子の破片で切っちゃっただけよ。お母さんは平気よ」

 

 泣きそうな表情をする子供たちの頰を手の平で順繰りにくるむ。側で下の子を見守っている実弥や玄弥も憂わしげな顔をしており、鈴は内心で母親失格だと嘆いた。

 

 夫が、子供たちにとって父が生きていた頃、鈴は夫から家で頻繁に暴力に晒されていた。その矛先が子供たちに向かおうものなら鈴は全身で子供を庇い、その度に少なくない傷を負って流血していた。

 そんな光景を見せ付けられれば、子供たちは当然母親の傷に敏感になる。その結果がこれだ。

 あの家庭環境でよくここまで心優しい人間に育ってくれたと愛おしく思う反面、消えることの無いだろう心の傷を生み出してしまったことには悔恨が絶えない。

 

『かあちゃん、かあちゃん』

 

 くいくいと袖を引く寿美とこと。

 もう隠すことに意味は無いと素直に怪我した手を差し出すと、二人は小さな手で鈴の手を握った。

 

『いたいのいたいのとんでけー!』

 

 パチクリと、鈴は思わず目を瞬いてしまった。

 しかし幼子たちの意思共有は早かったのか、気付けば長男次男を除いて全員が鈴の手を取っていた。

 

『いたいのいたいのとんでけー!』

 

 真面目に、真剣に、母親の手から痛みが消えるようにと。

 祈って願う子供たちの姿に、自然と目頭が熱くなった。

 

「兄ちゃん! 兄ちゃんたち早く!」

「えっ、いや……お前らだけで充分だよ。なぁ玄弥?」

「そ、そうだな、兄ちゃん!」

 

 えーっ!? と駄々を捏ねる下の子たち。

 頰を紅くしてそっぽ向いてる上の子たち。

 愛おしくてたまらない家族の姿に鈴は嬉しくなって、空いていた手で切り傷を摩ってみたりする。

 

「あー、傷が痛いわー! 実弥と玄弥がいたいのいたいのとんでけーってやってくれないからかもしれないわー!」

『兄ちゃんっ!!』

 

 弟妹たちの責める眼差しの効果は抜群だった。

 実弥と玄弥はわなわなと口許を震わせて顔を紅くし、その間にもうるうるとした瞳で一心に見つめてくる幼子たちに早々に観念した。

 

「〜〜〜ッ!? あぁ分かった、分かったからそんな目で見るなッ! 玄弥ァ、いつまで恥ずかしがってんださっさとしろォ!」

「えっ、いや、ちょっ!?」

「痛いなー、手が痛いなー。玄弥がしてくれないと手が痛いなー」

「ッ、分かった、分かったよ!」

 

 玄弥が最後にババっと駆け寄って、子供たち全員で鈴の手に触れる。

 只でさえ小さな鈴の手に七人もの手が重なるも、感じるのはただただ温かな想いだけ。

 

『いたいのいたいのとんでけーっ!!』

 

 唱和されるその言霊には、不可思議な何かが確かに込められていたのだろう。

 元より無かった痛みだったが、昨日の疲れを一気に吹き飛ばす活力が鈴の中で生まれていた。

 

「ありがとう、みんな。お母さん、凄く元気になったわ!」

 

 わぁーっ、と歓声を上げる子供たちにつられて、鈴も柔らかな微笑みを浮かべた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ……こうして家族と仲良く、いつまでも暮らしていけたらいい。

 

 

 

 何気ない日常で願うのは、些細で人としての当たり前な思いだけ。

 

 

 

 共に生きていきたい。

 願ったのは、それだけだったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家族と共に休日を満喫した翌日。

 一昨日の視察の際の顔色の悪さを心配してか、鈴は周りから今日は早めに帰るようにと何度も言われ、心遣いを無駄にするわけにもいかず日が沈んだ頃には帰路についていた。

 

(いつも実弥に任せきりだもの、今日くらいはお夕飯を作らないと……)

 

 集落の入り口まで歩き、あと一刻もせずに家へと着く場所。

 朝食を用意した際の食材の残りを頭に思い浮かべて、晩御飯の献立を考えていた時だった。

 

 ──バチン!

 

「えっ……?」

 

 何かが閉じられた音が聞こえた同時、鈴の身体が異変に包まれた。

 

(身体が、勝手に……ッ!?)

 

 ぐんっ、と力任せに引っ張られる感覚。側はおろか目に見える範囲にも人はいないというのに、あり得ない強制力を持った現象に鈴の混乱は徐々に高まっていく。

 

「えっ、えっ、えっ!?」

 

 現実感がまるで無い状況に何をどうしていいのかが分からない。戸惑うばかりで助けを呼ぶという選択肢すら頭に浮かばない。

 操り人形のように移動していく自分の身体。走らなければ倒れてしまう勢いに逆らえず脚を動かしていたが、行き先が段々と人気の無い場所になっていると気付く。

 

 何処かに誘い込まれていると理解してしまった。

 

 此処にきてようやく本能が警鐘を鳴らした。

 

「だ、誰かっ!! 誰か助け──ッ!!?」

 

 大声を発しようとして、喉が詰まる。

 正確に言えば先程までとは比較にならない力が身を襲い、身体がくの字に折れて声を出せなくなった。

 

「ッッッ!!??」

 

 地面に足が付かない。なのに高速で動き続けている。埒外の力は鈴の身体を宙に浮かした状態で、暴力的な移動を繰り返し始めた。

 方向転換の度に肉と骨が悲鳴を上げる。あまりの激痛に叫び出したいのに、その意思すら押し潰して摩訶不思議な現象は鈴を蹴鞠のように振り回した。

 

「うぐっ……っ!?」

 

 どれだけそうなっていたかも分からない体感時間の中で、唐突に終わりが訪れる。

 投げ出されるように床に転んだ鈴は息も絶え絶えで、それでも常軌を逸した状況への恐怖を押し殺して咄嗟に周りを確認した。

 

(此処は……集落の、廃屋がある一帯……の一つ?)

 

 耳に聞こえる人の気配は微塵も無い。月明かりに頼る宵の内とはいえ、人々の喧騒が全く聞こえないのはつまりそういうことだろう。

 今自分が何に巻き込まれたのか。それが全く分からない。

 

 降り積もった危機感が迷わず告げてくる。

 兎に角此処から逃げなければ。

 

「来たか」

「っ!?」

 

 前方から聞こえた声に鈴は身を震わせる。

 倒れ伏した状態からなんとか姿勢を変え、視線をそちらに向けた。

 

「えっ……?」

 

 見上げたその姿。

 西洋の衣装に身を包んだ、端整な顔立ちの男性。闇のように暗い漆黒の髪に、何処か珠世を思い浮かばせる白磁の肌。

 何よりも恐怖を引き立たせる、妖しく輝く血赤の瞳。

 

「鬼頭……様?」

 

 一昨日出会った、一目で危険だと感じた男──鬼頭月彦が其処にいた。

 なんで、こんなところに、どうして、この状況と何か関係が──

 様々な思考が巡る中で、どうしようもない焦燥が一つの結論に辿り着く。

 

 ──逃げなければ!!

 

 何振り構わず立ち上がろうと鈴はもがく。幸い脚は折れていないようなので、身体に走る痛みさえ我慢すれば何とかなる。

 そう思って脚に力を入れた瞬間、不可視の何かに上から押し潰された。

 

「ぅぐっ!?」

「……ご苦労、もう下がっていいぞ」

「御意」

 

 鬼頭月彦の言葉に、暗闇に影となって控えていた別の男性の声が聞こえる。

 ちらりと見えたその男の掌には、気味の悪い巨大な瞳が刻み込まれていた。

 

「ひっ!?」

 

 あり得ないと無意識に外していた可能性に、鈴はようやく確信へと至る。

 彼等は人間ではない。

 比喩では無く、本当に。

 

 妖怪か妖か、そういう類の人非ざる存在だと。

 

 彼等のような人外が何故、人の営みに混ざっているのか。こんな大胆な行動に出た理由は何なのか。分からないことだらけの中で、悟ってしまった未来が一つだけあった。

 目を付けられた時点で、鈴の命運は決まっていたのだ。

 

「……やはりお前は良さそうだ」

 

 一人、滔々と語り出す。

 

「血の匂いで稀血であることは分かっていた。()()()みて分かったが、過去に見たことがない性質でもある。素体としても充分以上だ」

 

 ……何を、この男は何を言っている。

 稀血という単語がまず分からない。性質とは、素体とは。自分の身体の何を知っているというのか。一体血がどうしたと……。

 

(…………あっ、まさか……)

 

 一昨日の視察の時に、鈴は小さな失態を晒した。目の前の男から感じる恐怖に緊張した身体が震えて、ガラス容器を落としてしまったのだ。

 慌てて拾おうとして、切り傷が手に刻まれた。血が流れて、何かで抑え付けないと考えた時。

 

 この男からハンカチを差し出された。

 

 断るのも無礼だ、必死にいつも通りを取り繕って借り受けた。

 

 そして、返した。

 血が止まったから。親しい仲なら洗浄して返しただろうが、その日限りの出会いと互いが思っていたから。気にせずにと、この男が言ったから。

 

 絶望的な悪寒が背筋を走る。

 人ではない何かに、己の血を採取された。意図的にだったのかは定かでは無いが、もうどうしようもなく手遅れだ。

 

 だから今、こうなっているのだろう。

 

「お前には、血を与えよう」

 

 男の指先から漆黒の荊が生えた。倒れ臥す鈴の首元へと伸び続けて、躊躇いなくその肌を突き抜ける。

 瞬間、度し難い何かが体内へと流れ込んだ。

 

「……ア゛ぁあああああああああああああああああッッッ!!??」

 

 五臓六腑が掻き回されるような感覚に絶叫する。のたうち回ってもその痛みと不気味さは加速度的に増して全身を侵し尽くす。

 肉が、骨が、内臓が、自分の知らないものへと作り変えられていく。人間から逸脱した何かへと変貌を遂げて、ついには心まで侵食された。

 

「ふむ、この量でも壊れないか。良い拾い物だったな」

 

 男の言葉は耳に入らない。その激烈な苦痛に意識を保つ事すら困難で、やがて視界が暗く沈んでいく。

 

 気絶するその間際。

 浮かんだのは愛する子供たちの姿で。

 

 ──あぁ、()()()()()

 

 壊れた心で、鈴はただそう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 













 ──真菰、急ぐぞ!!
 ──うん!!


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第7話 出会いと別れを繰り返して ④

「……おせぇッ」

 

 灯りの消えた部屋の中で一人起きていた実弥は、呟くように小声で愚痴る。それはこの闇の中で否応無く蓄積された不安から来たものであった。

 

(お袋の帰りがここまでおせぇのは初めてだ……)

 

 普段から夜更けに帰宅することが多かった母親だったが、深夜を超えても戻らないのは明らかに異常であった。

 あと数刻で夜も明ける。心配が募って眠気など何処かへ吹き飛んでいた実弥は、悪いとは思いつつも次男の身体を揺すった。

 

「……玄弥、玄弥」

「……ぅぅん? どうしたの、兄ちゃん?」

 

 眠気まなこを擦って上体を起こす玄弥に、決して異常事態だということを気取られないように実弥は表情を和らげる。

 

「お袋がまだ帰ってこないからちょっと探してくる。入れ違いになったら夜明け前には戻るってお袋に言っといてくれるか」

「う、うん。分かったよ、兄ちゃん」

「頼んだぞ」

 

 ガシガシと乱暴に玄弥の頭を撫でて、実弥は家の外へと出て行った。

 

(とりあえず病院だな)

 

 夜闇を照らす月明かりを頼りに実弥は慣れた道を駆け足で進んでいく。

 徒労に終わるのならばそれでいい。少し本気で母親に説教をかませば終わる話だ。

 自身の生活を母に見つめ直してもらう良い機会かと実弥は口角を上げながら思い、人っ子一人いない道を走っていった。

 

 その考えが心の奥底に淀む嫌な悪寒を見て見ぬ振りするための逃避だとは気付かずに。

 

 

 

「えっ、日が暮れる頃には帰ったんですか?」

「えぇ。そう聞いてるわよ」

 

 病院に辿り着き、夜勤担当の看護婦に母の所在を尋ねた返答がこれだった。

 嘘を言っている様子は無い。そもそも嘘を吐く理由がないならば、本当に母は帰路に着いたのだろう。

 

 問題なのは帰宅した姿を見ていないことだ。

 

「……ッ、すいません、ありがとうございました!!」

 

 実弥は即座に身を翻して来た道を引き返す。

 その顔には既に余裕は無く、最悪の想像を打ち消すように集落への道を駆け抜けて行く。

 

(何かに巻き込まれたのか!? 親父に恨みを持つ誰かかっ!?)

 

 他人に刺されて殺されるような男だ。方々で恨みを買って、その怨恨が母や自分たちにまで波及する可能性は零ではない。

 真っ先にその事態を想定した実弥の行動は迅速だった。一度家に戻って武器を手にしたかったが玄弥を起こしてしまった以上その選択肢は外し、身一つで集落の端へと歩を進める。

 家がある中央地帯は比較的安全なのだが、其処から離れた外周部は治安が良くない。破落戸や浮浪者が多く、暴力が物を言うような場所で、よく父親が入り浸っていたと実弥は知っていた。

 

 そんな場所ではあるが、流石に人々が寝静まるこの時間帯では物静かだ。道の端や軒先で眠りこけている如何にも近付いてはならないような人間は多く見かけるが、昼夜には聞こえるだろう喧騒や怒声は一切耳に入らない。

 

(何処だ、何処にいるお袋っ!)

 

 声を出して散策したいのは山々だが、不興を買うことは確実だ。目覚めた住民に絡まれ身動きが取れなくなっては元も子もない。

 実弥は自分で思うより相当に焦っていたのだろう。焦燥が冷静な判断力を失わせて、手かがりが無い状態で闇雲に探し続けてしまい、無為に時間だけが過ぎていった。

 

 気付けば玄弥と約束した夜明けも近くなっていた。

 

(一度戻らねぇと……っ)

 

 どうしてだろうか。

 その時になって、甚大な悪寒が背筋に走った。

 

 最悪を超える絶望的な妄想が頭からこびり付いて離れない。

 行方の知れない母だけでなく、守ると誓った家族全員の身にも何か起こるのではないかという不安。

 

 汗を垂れ流して全力疾走する実弥は視界の先に帰るべきを家を見つける。

 いつもと変わらない、何事もない様子に安堵して。

 

 直後、戸が破壊されるのを見た。

 

 

 

 

「母ちゃん戻ってこないね。大丈夫かな?」

「大丈夫だって。兄ちゃんが探しに行ってくれてるから」

 

 寝そべっていた寿美の言葉に、就也を抱きかかえていた玄弥は当たり前のように返答した。

 実弥が出て行った後に起きていたのは玄弥だけだったのだが、何かおかしいことに全員が寝た状態でも感知したのだろう。時間を置かずに続々と下の子たちが起き出してしまい、家族総出で母と兄の帰りを待つ状況になっていた。

 

「でも……」

「今までこんな遅くなることなかったのに……もう夜が明けちゃうよ」

 

 今にも泣き出しそうなことに続いて、障子窓を開けて外を眺めていた貞子が隠せない不安を言葉にする。

 玄弥も薄々と感じていた。嫌な予感が拭えず、母が何かに巻き込まれてしまったのではないかという胸騒ぎが止まない。

 それでもこの場に残っている年長者として、弟妹たちを安心させなければならない。それが兄との約束だから。

 

「大丈夫だよ。疲れてるだろ、眠れって。起きたら母ちゃんも兄ちゃんも戻ってるよ」

 

 自分にも言い聞かせるようにそう言って、下の子たちに寝るよう促したその時だ。

 ドンドンッ! と、部屋の戸が外から強く叩かれた。

 音に反応した子供たちは狭い部屋の中を一気に駆け出した。

 

「母ちゃんだ!」

「かあちゃん!」

 

 ことと寿美が真っ先に戸へと近付く。

 追って寿美と弘が戸に向かう中、玄弥は深刻な違和感に囚われていた。

 

(母ちゃんや兄ちゃんはあんな風に戸を叩かない!)

 

 淑やかな母親と家族想いな兄だ。あんな乱暴に戸を叩いて帰宅を知らせるなど、万に一つもあり得ない。

 

「待て!! 開けるな!! 母ちゃんじゃないかもしれな……」

 

 玄弥の言葉は最後まで紡がれない。

 それよりも早く、事態が動き出したから。

 

 次の瞬間、()()()()()()がほぼ同時に轟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここだよ! 珠世さんが言ってた大きな病院がある町に隣接する集落は!」

「止まれ!」

 

 夜闇が薄れ、もう半刻もせずに東方から日が昇るだろう頃合い。

 浅草からここまで一心不乱に走り続けていた義勇と真菰は、一度息を整えるために集落の境界線近くで脚を止めた。

 

 静かな空間だ。悲鳴は聞こえないし、人々の営みすら感じない。

 夜明けも迎えていないのだから当然なのだが、どうしてかこの静寂が不気味に思えてしまう。

 

「真菰、何か分かるか?」

 

 鬼狩りとしての強さだけが取り柄の義勇では役に立てない場面。

 このような緊急事態には鋭敏な嗅覚を備え持ち、鬼の痕跡を少ない手かがりから辿れる真菰にほぼ全権を委ねている。

 くんくんと鼻を鳴らす真菰は、苦々しげに表情を曇らせる。

 

「何となくそれかもっていう残り香はあるけど、薄れてて追えない。件の病院の方なら分かるかもしれないけど……」

「一先ずは此処だ。鬼舞辻無惨が用を終えた後にわざわざ足を運んだのなら、何か事が起きていてもおかしくない」

 

 珠世からある程度の話は伺っていた。

 病院への視察が終わり夜も更けた時間に一人でここまで移動したのだと。その場で誰かを鬼にした形跡は見れなかったそうだが、鬼舞辻無惨の心を動かす何かがあったのだろうと推測は立つ。

 

「仕方ない、一通りこの集落を周る」

「うん、それがいいと思う」

 

 鬼による被害が無いならそれに越した事はない。真菰がいれば鬼の気配は察知可能であり、同時に鬼がいないことも確認出来る。

 もう太陽も昇る朝方近くだから鬼の活動も無くなるだろうと、義勇と真菰はほんの少しだけ肩から力を抜いて軽めに走り出した。

 

「にしても、空間を操る血鬼術って本当かな?」

「あり得る話だ。これまで奴の足取りが追えなかった理由としては尤もだ」

 

 珠世によると、この場を訪れた鬼舞辻無惨は突如として消えたのだという。まるで地面の下に落ちるように、唐突に。

 

 義勇はその正体に覚えがあった。

 この世界で目覚める前の、二十一まで生きた鬼狩りとしての記憶。その最終決戦と称すべき戦いの舞台のなった場所が恐らくそれだろう。

 

 上下左右が滅茶苦茶になった空間。

 無限にも思える広大な城。

 

 珠世からの情報も加えて考えるならば、出入り口を神出鬼没に出現させられるのだろう。

 殺傷能力という点では上弦には及ばないだろうが、その有能性は鬼舞辻無惨の部下の中でも随一である。

 

 この鬼を殺さない限り、鬼舞辻無惨を捉えるのは至極困難だ。

 

「結構キツイよね、それ」

「ああ」

 

 真菰も義勇と同様の結論に至って苦虫を噛み潰したような表情をする。

 匂いで追えても逃げられては意味が無い。

 鬼舞辻無惨の追跡に役に立てるかと思っていた真菰は軽く凹んだ。

 

「聞く限り出入り口は無条件なうえに無制限に出せるっぽいし、本当に──」

 

 厄介だよね、と続けようとした真菰が、いきなり脚を止めた。

 

「どうした?」

 

 伴って停止する義勇が真菰を見ると、その瞳はあらん限りに見開かれていて即座に異常事態だと気付く。

 

「え、嘘……まさか……」

 

 くん、と真菰は鼻を鳴らす。間違いであって欲しいという願いとは裏腹に、嗅覚に訴えてくる情報に変わりはない。

 

「真菰、どうした?」

「……今、たった今鬼として目覚めた人が……」

「なっ!?」

 

 驚天動地の思いを抱き、然れど義勇は一瞬で沈めた。

 

「どっちだ!?」

「あっち……」

「走れ!!」

「ッ!?」

 

 怒声にも似た義勇の大声に真菰は我を取り戻し、ダンッ! と地を蹴って遮二無二に駆け出す。寸分の遅滞無く義勇が並走して、二人は集落の中を疾風となって走り抜ける。

 義勇は真菰を一瞥し、声を荒げないように気を付けながら喉を震わした。

 

「真菰、落ち着け。お前だけが頼りだ。状況を説明しろ」

「っ、うん!」

 

 焦りに支配されていた真菰は、義勇の言葉で平静を取り戻す。今まで遭遇したことが無い最悪の瞬間を嗅ぎ取り、茫然自失となってしまった先程の自分を悔いていたのだ。

 今ので十数秒を失った。これが明暗を分けるかもしれないのに。

 

 だが、諦めるのは論外だ。まだ本当の最悪には陥っていない。

 決然とした眼差しで、全ての雑念を排除した真菰は前を向いた。

 

「鬼は目覚めてすぐに移動してる! 私はそのおおよその進行方向に進んでる!」

「人間を襲っているか?」

「ううん、無視してる! 目的があるんだと思う!」

 

 真菰の言葉を飲み込んで義勇は状況を把握。

 これまでの経験とありったけの知識を総動員して、刹那の間に最悪の展開を思い描いた。

 

「狙いは家族か!!」

「っ!?」

 

 義勇の思考の帰結を耳にして真菰は息を飲む。

 あってはならない。その結末だけは阻止しなければならない。

 止める。絶対に止める。止めてみせる。何が何でも。義勇がいるのだ、不可能だなんて考えない。

 

 その為に己が成すべきことを真菰は瞬時に理解した。

 

「私が絶対に家族を嗅ぎ分ける! 集中したい!!」

「──来い!」

 

 真菰の意図を察した義勇は即座に応答し、義勇を信じていた真菰は返答の前に舵を切り、体当たりする勢いで義勇の脇下に飛び込む。

 義勇は片腕で真菰を脇に抱えて、その状態で速度を一切落とす事なく疾走。

 

 これで真菰は嗅覚だけに集中できる。

 

(鬼になって匂いが変化してるけど、衣服に染み付いたそれはまだ変わってない……)

 

 身体の支えを全て義勇に委ね、真菰は己の内へと埋没する。瞳を閉じて光を消し、耳に入る音を削ぎ落とし、全神経を嗅覚に集めて研ぎ澄ます。

 

(違う、違う、違う、違う……これだ!)

 

 鬼の服の匂いを特定し、無限にも等しい匂いを一つ一つ取捨選択して家族の居場所を洗い出す。

 自分たちとの位置関係、目的地までの障害物、建物内の何処にいるか。

 義勇に託すべき全ての情報を選出し終えた真菰は、瞳を見開いて真っ直ぐに正解への方向を指差した。

 

「この方向、此処から家の連なりを五つ超えた、左端から七つ目の二階の部屋! 行って、義勇っ!!」

「任せろ!!」

 

 真菰の最大限の尽力に、義勇は力強く応えた。

 抱えていた真菰を放り、激烈な踏み込みで義勇は宙へと跳ぶ。その類稀なる身体能力は、一息の跳躍で遥か先の家屋の上へと辿り着く。

 

(一つ目、二つ目、三つ目、四つ目!)

 

 一度も止まる事なく疾駆と跳躍を繰り返す。

 鬼が今どうなっているのか義勇には分からない。もしかしたら、もう手遅れになっているのかもしれない。それでも止まるわけにはいかない。不安や焦燥の全てを押し殺して、自身の最大速度を緩めない。

 五つ目の家の連なり。屋根へと足を付けた義勇は視界に映る光景を瞬時に認識。

 真菰の指示を元に飛び込むべき部屋を定めて、素早く日輪刀を引き抜いた。

 

 刃で見立てるは戦場を撃ち抜く鏃。

 空気抵抗を最小限に、宙を奔る一本の矢。

 屋根瓦が割れ砕ける踏み込みで、義勇は真っ直ぐに跳んだ。

 

 ──水の呼吸

【漆ノ型 雫波紋突き・翔】

 

 蒼き流星が、宙を翔け抜ける。

 音を置き去りに蒼の軌跡を残すその威容は、まさしく天空に煌めく雷。

 

 瞬きの間に、義勇は目的の部屋の窓枠へと到達した。

 

「ふっ!」

 

 研ぎ澄まされた感覚で窓枠近くには誰もいないことを察知し、切っ尖が触れると同時に斬り払って部屋へと侵入。

 数瞬遅れて聴こえたのは破砕音。

 床へと片足着地して、確認した前方。

 

 視界に飛び込んできたのは、黒き影が小さな者たちへと凶爪を振るうまさにその瞬間だった。

 

 ──絶対に、守り抜くっ!!

 

 誓いを力に。

 思いを刀に。

 

 意志の強さが奇跡を起こす。

 その瞬間、義勇は誰よりも早く動けた。

 

「っ!」

 

 小柄な影を縫って義勇の突きが鬼の左肩を貫く。これで左手の攻撃を中断させた。

 鬼は態勢を崩すも止まらない。

 振り抜かれる右手。義勇は己の左手を犠牲に、子供の前へと射し込んで爪ごと鬼の手を掴み取った。

 掌の肉が抉られ血飛沫が部屋に舞おうとも、義勇は痛みを感じさせない形相で眦を決する。

 

(放さないっ!!)

 

 紅に濡れようと、五指繋がった左手に宿る力は絶大だ。成り立てとはいえ身体機能が格段に向上した鬼とも互角以上に張り合い、一瞬の硬直が生まれる。

 

「ガァッ!!」

「っ!」

『うわぁっ!?』

『きゃあっ!?』

 

 焦れたように鬼は踏み込んで天井へと跳ね、灯りとなっていた電球がパリンと音を立てて割れた。

 巻き添えを喰らい壁に激突する義勇だが左の拘束は決して解かず、右に持つ日輪刀は肩を貫いた状態を保つ。

 

(ここでは不用意に動けないか!)

 

 状況が悪過ぎた。民間人が、それも子供が六人もいるこの小部屋では鬼を斬るなんてまず不可能だ。

 必要とあれば家族の前でも刃を振り抜く覚悟はあるが、義勇だって出来るならばしたくはない。

 

 この()はまだ、一人も殺していないのだから。

 

「おらぁあああああああッ!!」

「っ!?」

 

 切羽詰まった窮状に現れたのは自分たちに突っ込む第三者。

 新たに部屋へと入ってきたその襲撃者は包丁を片手に、躊躇い無く義勇たちへと突貫してきた。

 豪胆な行動に驚嘆を禁じ得ない。押し飛ばされる立場であるが、そのお陰で状況が最悪からまともな戦況へと好転した。

 

 窓から飛び出る三人。

 地面へと堕ちていく最中で、義勇は襲撃してきた少年だけを技を用いて弾き飛ばす。

 

 ──水の呼吸

【陸ノ型 ねじれ渦】

 

 上半身と下半身の捻りで鬼と一体となって回転。少年が怪我をしないように細心の注意を払いながら、逆らえない遠心力の理でもって少年を地面へと放った。

 義勇はそのまま両足で綺麗に着地して、鬼から日輪刀を引き抜くと同時に卓越した体捌きで鬼の両手首を左手のみで背中側に拘束。ぬるぬると自身の血で滑るのを強力な握力で無理やり固定して、その場から走り出した。

 

「テメェらぁ、待ちやがれぇえええええっ!!」

 

 背後から聴こえる少年の怒声に義勇は苦渋の表情を刻む。出来れば追って来てほしくは無かった。

 家族の前で頸を断つ光景も、陽の光に晒して焼け死ぬ姿も、見せたくはないから。

 それでもやはり、家族だからこそ顛末だけは知っておくべきなのかもしれない。

 

 日の出までに陽光を遮れる場所を目指して、義勇は視界の先に映る森林を目指して走り去って行った。

 

 

 

 

 鬱蒼とした葉によって太陽の光が届かない、朝の輝きで視界だけは確保可能な森林の中。

 足を止めた義勇は追走してきた少年と向き合う。

 

 その顔を見て、心底ぽかんとしてしまった。

 

「不死川……」

 

 相手に聴こえない声で名前を漏らす。

 方々に跳ねた白髪の髪に鋭い目付き。身体や顔に傷はないが、見覚えのあるその容姿。

 

 記憶に残る風柱──不死川実弥に相違ない。

 

「テメェ、俺の家族に何をして……」

 

 途中で止まるあの頃より少し幼い声音を聴いて、そうだったのか……と義勇は微かに俯く。

 左手で拘束したその人。落ち着ける状態で確認して、三十路近くの女性だと判断は付いていた。

 義勇の推測と真菰の割り出した答えは正解であった。この女性は間違いなく、あの場にいた子供たちの、目の前の少年の血縁者。

 

 ならばもう、正体は知れていた。

 

「お、お袋?」

「ウグゥゥッ!! ガァァッ!!」

 

 実の息子の呼び掛けに返るのは、人とは思えない唸り声。

 血管が幾筋も浮いた面貌は完全に正気を失っており、瞳孔はまるで猫のように縦に長くなっている。唾液が零れる口から覗くのは、肉食獣のように尖った牙。いっそ獣だと言われた方が納得出来る、変わり果てたその姿。

 母親の変貌に、実弥は縋るように歩き出した。

 

「お袋……どうしたんだよお袋! なんで、どうして、一体何がっ……ッ!」

 

 その矛先が義勇へと向かうのは、仕方のないことだろう。

 

「テメェッ!! お袋に何しやがったァッ!!」

 

 実弥は義勇に襲い掛かろうと猛然と足を上げるが、義勇の行動の方が遥かに早かった。

 

「動くな」

「ッ!?」

 

 日輪刀を女性の頸に添えて、実弥の動きを封じる。

 冷静でいられるわけもないが、せめて話が可能な状態にする必要があった。

 

(すまない、不死川……)

 

 鬼殺隊はいつも間に合わない。

 鬼の存在が情報網にかかる頃には、もう被害が出た後だ。

 今回は奇跡的に情報を事前に手に入れられた。

 真菰という稀代の逸材がいたから子供たちは救えた。

 

 だが、母親は護れなかった。

 

 怒りの捌け口になるくらいしか、義勇には出来ない。

 

「俺の仕事は、鬼を斬ることだ。勿論、お前の母親の頸も刎ねる」

「なッ!? ふっ、巫山戯るなァッ!!」

 

 淡々とした義勇の言葉に、実弥は感情のままに怒鳴り散らす。

 

「お袋は鬼なんかじゃねェ!! お前が、お前がお袋に何かしやがったんだろ!?」

「違う。俺は鬼を殺す組織に属している。そして、お前の母親は鬼になっている」

「そんなわけがねぇ! お袋は人間だ! ずっと、ずっと一緒に暮らしてきたんだぞッ!!」

「なら、簡単な話だ。昨夜のうちに、鬼の始祖の血が体内に入って鬼となった。人喰い鬼は、そうやって増える」

 

 いつか何処でしたようなやり取りだ。

 あれ以来一切の進歩が見られない自身の不器用さを不快に思う。

 

「お袋は人を喰ったりしねぇ!!」

「先程家族が襲われた場面を見たばかりだろう」

「ち、違ぇ! そんな、そんなわけが……っ!」

「……どんな善人であろうと、鬼となれば理性を失い人を喰らう。だから俺たち鬼殺隊が存在する」

 

 鬼を斬る仕事。

 頸を刎ねる。

 鬼を殺す組織。

 鬼殺隊。

 

 実弥は鬼という存在を知らない。噂話程度には小耳に挟んだかもしれないが、自分たちには関わりがないと興味関心が皆無であった。

 

 だけど、見て分かったのだ。

 今なお声を荒げ暴れ続けている母親が、人から別の生き物に変化してしまったことを。

 鬼と呼ばれる人非ざる何かに、変えさせられたことを。

 

 目の前の、実弥と年の頃が変わらない少年は、母親を斬ると言っている。鬼だから頸を刎ねると。

 母親を人質に取られている以上、実弥が取り得る手段は一つだけだった。

 

「俺が必ずお袋を人間に戻す! 絶対に治すッ!!」

「……鬼がこの世に生まれてから千年経つとされているが、()()()()()()()()鬼となった者が人間に戻ったことはない」

「探す! 俺が必ず人間に戻れる方法を見つけ出すから、殺さないでくれッ!!」

 

 必死に言葉を並び立てるも、義勇の双眸はしんと冷えたままだ。

 何を言い募ろうと淡白な反応しか返らない為に、実弥は段々と焦りに苛まれる。

 

「お袋を鬼にした奴も必ず見つけ出すからッ!! お袋に人を喰わせなんかしないからッ!! 家族も絶対に守るからっッ!! 俺が全部ちゃんとするからッ!! だから頼む、止めてくれッ!!」

 

 如何にその言葉が空っぽなものかを、実弥は知らない。

 未来に於いては定かではないが、今の実弥は余りにも無力。自覚が無い分、法螺吹きよりも性質(たち)が悪い。

 決して実弥が悪だという訳ではない。人々の平穏という視点から見れば、害悪は異論なく鬼であり、元凶たる鬼の始祖である。

 

 それでも、護るべきものがある義勇は選択するしかないのだ。

 

「甘えたことをぬかすな、この愚か者!!」

「ッ!?」

 

 荒々しい激情の発露。迸る威圧感だけで実弥の身体をビリビリと震わせる。

 冷静沈着然としていた義勇からは想像も出来なかった怒声に、実弥は容易く気圧された。

 

「今この場で母親を見逃せば、一体のどれだけの死者が出ると思っている!! 俺が間に合わなければ、お前の母親は子供たちを殺していたんだぞ!!」

 

 容赦の無い事実を突きつけて、義勇は左手に込める力を強くする。

 

「お前の言葉は空虚に過ぎる! 奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者が、鬼となった母親を制御し、剰え救うなど……笑止千万!!」

 

 母親を前へと突き出し、義勇は実弥の双眸を真正面から見据えた。

 

「母親を、家族を護りたいというのなら、生殺与奪の権を他人に握らせるな! 俺を納得させる力を証明してみせろ! その手で俺から、母親を取り返してみせろ!!」

 

 義勇の言葉に、どくんと実弥の心臓が跳ねる。

 弟と約束したばかりだ。

 これからは、これからも、二人で家族を守ろうと。

 例えそれがどれだけ理不尽なものだとしても、実弥が屈するわけにはいかない。

 胸の内から溢れるのは使命感か。

 何も為せない自身への怒りか。

 

 その様子を見て、義勇は刀を構える。

 

(……すまない)

 

 (おもて)には出さない謝罪をもって、義勇なりの誠実とする。

 何も知らない少年を、言葉で無く力で屈伏させる方法しか、義勇には分からない。

 

(俺には、こういう導き方しか、出来ないんだ)

 

「やっ!?」

 

 慌てた声を出す実弥を無視して、義勇は日輪刀の切っ尖で母親の左肩を突き刺す。

 

「ギャアアアッ!?」

 

 血の匂い。母から溢れる紅い命の雫。

 

「やめろォおおおおおおおおおッ!!!」

 

 鮮血を噴き出して絶叫する母親の姿を見て、実弥の箍が外れた。

 

「お袋ォおおおおおおおおおおッ!!!」

 

 悲痛と怒りと愛と願望と、万感の思いを孕んだ声音で実弥は母を呼びながら義勇へと肉薄する。

 包丁を構えているものの、どう見てもそれは感情に任せた単純な突撃だ。

 

 愚かと断ずる他ない。

 

 意識を奪うのを躊躇ってはいけないと義勇は日輪刀を振り上げる。

 その時、何の因果か、母が息子の叫びに呼応するように変化した。

 

「なっ」

 

 ズズズズッと身体が大きくなる。常であればその程度の変化には動揺を示さないが、今だけは勝手が違った。

 成長途上で義勇の手の大きさが心許なかったからか。

 掌から流れる己の血で滑り易くなっていたからか。

 

「ガァッ!!」

 

 僅かばかりに大きくなったその手首。

 切迫した状況では充分以上の変貌であり、不意を衝かれる形で左手の拘束を外されて、鬼の鋭い蹴りが義勇を撃ち抜いた。

 

(しまった!?)

 

 地面と平行に蹴り飛ばされた義勇は即座に空中で体勢を整えて着地するも、陥った状況は最悪だ。

 鬼が自由を取り戻しために発生した予断を許さない三つ巴。

 ()()()同じ失態を犯してしまった義勇は己自身に忌々しげに舌を打ち、猶予の絶無さに日輪刀の握りを強くする。

 

 次の瞬間、義勇目掛けて包丁が飛んできた。

 

「っ!?」

 

 咄嗟に刃を振るって弾くも、生まれた間隙はあまりにも致命的。

 

「お袋ォッ!!」

 

 武器を投擲して無手となった実弥は不用意にも母親へと走り寄り、全身全霊の力を込めて母を抱き竦めた。

 

「ウグゥッ!!」

「お袋! 頑張れお袋! 鬼になんかなるな!! 頑張れ、頑張ってくれ、お袋ッ!!」

 

 実弥は母の口元を自身の胸板に力付くで押さえ付けて噛み付かれるのを防ぎ、鋭利な爪に引き裂かれないように空いた片手で両腕の動きを封じる。

 本当に命懸けの抱擁であった。たった数秒ほどてあったが、只の少年が成し得たとは信じ難いその行為。

 短くともいい。強く優しい母が鬼に負けるなんてあり得ないのだと、実弥は必死に思いの丈を打つけて──現実は無情にも牙を剥く。

 

「ガァッ!!!」

 

 鬼は実弥の拘束を無理矢理に引きちぎる。

 弾かれた実弥はよろけるように後退して、振り抜かれる凶爪に反射で反応してみせるも完全には避けきれなかった。

 

「ッッッ!?」

 

 顔に灼熱の如き激痛が襲う。顔面の右側、額と頰から鼻にかけて二筋の裂傷が刻まれて鮮血が噴き出す。

 致命傷には成らずとも、実弥の動きは既に精彩を欠いていた。次の攻撃はどうあっても避けられない。

 

 ──ここまでかッ!!

 

 此処で実弥を死なすわけにはいかない。

 いつか未来の鬼殺隊として戦力などという点を度外視に、義勇は無辜の民である少年を護らなければならないから。

 義勇の心から日輪刀を真一文字に振りきる躊躇が消え失せた。

 

 ──水の呼吸

 

 迫る母の魔手。

 その背後で刃を振るわんとする鬼殺の剣士。

 

【壱ノ型──

 

 絶望的なその光景を前に、実弥は最後まで奇跡を願っていたのだろう。

 

 

 

「──母ちゃんっ!!!」

 

 

 

 気付けば、そう叫んでいた。

 実弥自身が大きくなったからか、思春期になって恥ずかしかったからか、下の子たちへの示しが付かないと思っていたからか。いつの頃からか呼ばなくなった母の呼称。

 子供が生まれてから一番慣れ親しんだその呼び方が、もしかしたら人としての理性に届いたのかもしれない。

 

「アっ……ゥあッ……」

 

 刹那、彼女──不死川鈴の動きが完全に止まった。

 

「っ!?」

 

 目を見開いて驚愕したのは義勇だ。

 頸を斬らなければ絶対に間に合わなかった。実弥が、人が殺されるならば家族の前でも躊躇いなく鬼へ刀を振るう覚悟でいた。

 実弥の血については勿論知っている。動きが鈍ったのは稀血の効能なのかもしれない。

 

 だが、理由は何でもいいだろう。

 奇跡が起きたことに違いはないのだから。

 その一瞬の猶予が、義勇の振るう手を変えさせた。

 

「ふっ!」

 

 右の刀ではなく、左の手刀。

 女性の首裏に落とした一撃は容易く意識を刈り取る。

 

「あっ……!?」

 

 崩れ落ちてゆく母を支えようと実弥は手を伸ばすも、あと一歩が届かない。

 

「……すまない」

「かっ……ぁ……」

 

 背後に回り込んだ義勇は、同様の手段で実弥の意識を奪う。

 ドサリと、音を立てて前へと倒れる二人。

 投げ出された二人の姿勢は、奇しくも大事な人と繋がるように手を重ね合わせていた。

 

 

 

 

「義勇っ!」

「真菰か……」

 

 慌てたように駆け付けて来た真菰に一瞥だけ向けて、義勇は傷の処置を終えた実弥と鬼となった女性を近くの樹に腰掛けさせた。

 真菰は少年と女性を順々に見つめた後に、匂いを嗅いで安堵の溜息を吐く。

 

「死者はいないんだね」

「あぁ、この()は誰も殺していないし喰っていない」

 

 義勇のその言葉に真菰は微かに瞠目する。

 鬼殺隊士である義勇が鬼に対して人という言葉を使うのを初めて聞いた気がした。その心根は誰よりも優しいと知ってはいるが、義勇の中のそれにはきっちりと区別があった筈。

 何か心変わりする原因はあっただろうかと真菰は思考を巡らせ、然程時間を置かずに思い当たる。

 

 そして、義勇が何を考えているかを察して時を止めた。

 

「義勇、まさか……っ」

 

 その後を続けようとした真菰は咄嗟に口をつぐむ。

 後ろから迫って来た別の隊士の匂いを嗅ぎ取ったからだ。

 

「義勇様、真菰様!」

「お前は、先日会った……」

「あの時はお世話になりました。それよりも、無惨らしき気配を察知したと報せがありましたがどうなりましたか!?」

 

 やって来たのはつい数日前に出会った青年隊士であった。唯一生き残った少女を身を呈して庇った傷は重度のものでは無かったためか、もう前線へと復帰していたらしい。

 二人はこの場所に急行する前に報せを撒いていた。その内容は『鬼舞辻無惨と思われる強大な鬼の気配を察知、近隣の隊士は至急東京府京橋區へ馳せ参じよ』というものだ。

 緊急時であり二羽しかいない烏による情報伝達だった為に間に合ったのは義勇たちだけであったが、青年の様子から相当に急いで駆け付けてくれたと見える。

 義勇と真菰は青年の逸る声に、沈痛な面差しで答えとした。

 

「無惨は逃したようだ」

「……そうですか。もしやその方たちは……」

「今回の被害者と、その子供だ」

「っ!?」

 

 鬼となった女性と顔面を包帯で巻かれた少年を見て、青年は苦渋を飲まされた表情を浮かべる。鬼に殺されなかったのは幸いではあるが、家族の人の尊厳が強制的に奪われた苦痛は想像すら出来ないものだ。

 

「真菰、ほかの家族はどうなった?」

「怪我した子はいなかったよ。なんとか落ち着かせて、窓から外に飛び出たお兄さんが戻るまで絶対に此処から動かないでねってお願いしたけど……」

 

 萎んでいく声を樹に凭れかける二人に向ける。

 鬼となった女性の姿を見て、真菰はこの家族の関係性を把握していた。父親らしき存在は部屋から匂いすらしなかったので、子供たちの境遇に悲哀を感じずにはいられない。

 状況をまとめ終えた義勇は沈思黙考に移り、どう後始末するかに段階を移すと。

 

「義勇様、この場は俺に任せて頂けないでしょうか?」

 

 黙っていた青年がそう発言した。

 進言自体に不自然はないが、この特殊な現場を見られている義勇としては青年の意図が掴み切れなかった。

 何が問題なのかは単純明快で、気絶した鬼をまだ斬っていない現場を見られたことだ。咎められたとしても藤襲山に連れて行くという一応の建前は用意出来ているが、誰にも目撃されないのが最良であった。その他にも子供たちの保護など、やらなければならないこと数え上げればキリがない。

 義勇は静謐な眼差しでもって青年へと視線を合わせ、何かを感じ取った青年も真摯に向き合ってみせた。

 

「説得してみせます。母親について、鬼殺隊について、今後について、説明事項はたくさんありますから。それに、義勇様と真菰様には他に為すべきことがあるでしょう?」

 

 明鏡止水の心の水面に一滴の雫を落とされたような、そんな面持ちで義勇は青年を見返す。

 流石に何をやろうとしているかを察している訳ではないだろうが、断言に近い物言いには少々の焦りを覚えた。そこまで見抜かれ易い表情をしていたのだろうかと思う。

 もしその懸念が筒抜けになっていたとしたら、真菰は鼻で笑っただろう。つまり義勇の鉄面皮はいつも通りである。

 青年の瞳は真っ直ぐに義勇を見ていた。そこに宿るのは優しさや慈しみといった善良な感情のみ。

 己の直感に従い彼なら大丈夫だと即断即決して、義勇は女性を横抱きにして持ち上げた。

 

「この場は任せた。この女性は、俺が()()()()

「畏まりました」

 

 片膝をついて頭を下げる青年に、真菰が家の場所や家族構成などの詳細を伝えていく。

 

「それとですね、これは恐らくになるんですが……」

 

 続く真菰の言葉に青年は瞠目した後に、仔細理解したと首肯する。

 

「もし俺の言葉が届くようなら、すまないと伝えてくれるだろうか?」

「はい、勿論です!」

 

 残る理由が無くなった義勇は最後に実弥を見て、呟くように言伝を口にする。青年はいつか出逢うだろう太陽のような少年みたいに、快活に了承してくれた。

 

 森の奥深くへの進路をとって、義勇と真菰は歩き出す。

 青年は二人の姿が消えるまで見送るつもりだったのだが、不意に義勇が振り向いた。

 

「名を聞き忘れていたな」

 

 目を合わせて問う義勇に、しばしキョトンとしてしまった青年は盛大に慌てふためいた。

 

「これは失礼いたしました!」

 

 まさかそんな基本的なことを疎かにしていたとはと深く反省し、青年は静々と胸に手を当てる。

 

「申し遅れました。自分は──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの場を立ち去った後、義勇と真菰は森の中をしばらく移動し続けた。

 人の営みからそれなりの距離を置いて、頃合いだろうと判断した義勇は脚を止める。

 

「真菰」

「なーに?」

「珠世殿の遣いはこの場に居るだろうか?」

「うん、ちゃんと着いてきてくれてるよ」

 

 集落までは途中から私が持ってたんだけど……という呟きを濁して半ば予想していた問いに真菰は即答して、ここまでずっと寄り添っていた血鬼術の匂いの側へとすすっと動いた。

 その返答に義勇は数秒の間だけ沈黙し、決意を新たにして真菰が示す場所へと向き直る。

 

「音は届かないと思うけど……」

「それでも、俺には声に出して伝えるしか出来ない」

「……分かったよ、義勇」

 

 珠世を見逃している時点で真菰も同罪であり、義勇と共に命を懸ける覚悟は既にしてある。今更一人二人増えたところで変わらないというわけでは当然ないが、ここまで来たらとことんまで付き合うつもりだ。

 一歩離れて真菰が見守る中、選び抜いた言葉を頭の中で反芻し終えた義勇はゆっくりと口を開く。

 

「珠世殿、愈史郎殿。どうか聞いてほしい」

 

 この場にいない者たちの名前を呼び掛け、義勇は真摯に思いを紡ぐ。

 

「貴女方に危害が及ぶ可能性が増すことは重々承知している。無理強いはしないし、断られたからといって貴女方を裏切ることは決してしないと誓う。ただ、それでも願わせてほしい」

 

 横抱きにした女性を前へと出し、義勇は言葉少なく願いを口にする。

 

「この人の理性と記憶を、取り戻してはくれないか」

 

 まるで天上の世界に住むとされる神への祈りのように、陽の差さない薄暗い森の中で義勇は片膝をついて姿勢を低く取る。

 義勇には見えないが目の前にいる協力者の遣いを通して、この女性の顔が良く見えるように。

 

 義勇に出来るのはここまで。

 あとはもう、待ち続けるしかない。

 側に寄り添い義勇と同じ姿勢を取った真菰と共に、虚空へと視線を投げかけた。

 

 実際の時間としては十秒も経っていないだろう。

 永遠にも感じられる沈黙の中。

 

 不意に、さらさらと目の前の空間が波打つように揺らいだ。

 

 現れたのはくりっと可愛らしい瞳を持った一匹の仔猫。今日出会ったばかりの、見覚えのある模様の四足獣。

 珠世から聞いた内容ならば、この仔猫が現れる合図は鳴き声だったはず。

 だが、今回は唐突にその姿を現した。

 

「愈史郎くんが血鬼術を、意図的に解いたみたい……」

 

 真菰の嗅覚はその事実を捉え、義勇の直感もそう訴えかけてくる。

 

 仔猫の意思ではなく、愈史郎もとい珠世の決断。

 

 ぱちくりと瞬きしていた仔猫は、ぐぐっと身体を伸ばした後にとある方向へと歩き出す。

 主人の意向を汲み取ったのだろう。停止していた義勇と真菰へ一度だけ振り返り、まるで着いて来てと言わんばかりににゃーっと一鳴きした。

 

 その様子を見て、義勇と真菰の間に小さくも確かな笑みが溢れた。

 

「ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 側に誰かがいる。目を瞑っているのに、意識は闇に落ちているのに、何故かそう確信していた。

 その人は暗闇の中で、倒れ伏している自分の耳元に顔を寄せた。

 感じるのは限り無い愛情と、ただただ心苦しいという想いのみで。

 

「いつも迷惑ばかりかけてごめんね、実弥」

 

 耳を擽るその声の心地良さを覚えている。

 いつも側で家族を守り支え続けてくれた、優しく強い人の声。

 

()()()()()。それまでみんなのこと、お願いね」

 

 目覚めると同時、勢い良く起き上がった。

 

「母ちゃんッ!?」

 

 実弥は髪を振り回す勢いで辺りを確認する。

 いない。気絶させられる前には目の前にいた筈の母の姿が何処にもない。同時に、自分が集落から程近い森林地帯の端っこにまで運ばれていると気付く。

 

「起きたか」

「っ!?」

 

 聞き覚えのない声にびくりと反応し、培われた危機管理の経験から実弥は発生者から距離を取るように動いた。

 樹の陰にいて見えていなかったのだろう。目線を走らせると、実弥の反応に瞬きして驚いている青年がいた。

 見覚えはないが、先程まで母の頸を斬ると言っていた少年と同じ服装をしている。

 

 実弥にとっては、それだけで敵として認識するに値するその姿。

 

「テメェ、お袋をどうしやがったッ!?」

 

 激情に駆られた実弥は条件反射で殴り掛かろうと動き出し、術理の理の無い我武者羅な拳を振るう。

 対する青年は、迫り来る攻撃に一歩も動くことは無かった。

 

「なッ……」

 

 ゴッ、と嫌な音を立てて実弥の拳撃が青年の頰に突き刺さる。それなりの威力が込められていた一撃に、青年は派手に殴り飛ばされた。

 その成り行きに茫然と止まったのは実弥だ。躱されることも況してや防がれもしないとは、微塵も思ってもいなかったから。

 

「いててっ……流石に無防備に受けるもんじゃないな」

 

 青年は赤く腫れた頰に手を寄せて立ち上がり、真っ直ぐに実弥と視線を合わせた。

 

「君の気持ちは分かる。俺を殴って気持ちが晴れるなら全部受け止めるよ。だから頼む、その後で構わないから俺の話を聞いてくれないか?」

「…………ッ!?」

 

 青年のその言葉に、一瞬だけ収まった怒りが一気に燃え上がった。

 

「何が俺の気持ちは分かるだッ! ふざけんな、ふざけんなよお前ッ!! お袋が、母親が鬼なんて意味分かんねェもの変えられた俺の気持ちがッ、分かってたまるかよ!!」

 

 怒声を吐き散らかして実弥は青年に吠える。

 実弥はもう理解してしまったのだ、母が人外に成れ果ててしまったことを。

 

 そして、この場にもういないということは、()()()()()()なのだということも。

 

 実弥だって、これは夢だと思いたい。

 家に帰れば何事も無くて、弟妹たちが笑っていて、母が優しく微笑んでおかえりと言ってくれる、そんな妄想に閉じ込もりたい。

 でも、もう取り戻せないのだ。

 今までは当たり前だった幸福に過ごせた日常はもう、永遠に失われたのだ。

 

 爆発する感情の奔流に、実弥の瞳からは気付けば涙が零れ始めた。

 気安く気持ちは分かるなんて、吐き気がするような慰めだった。

 この赫怒に任せて再び手が出そうになったところで、青年の囁きが耳朶を打つ。

 

「俺の家族は全員、鬼に殺された」

「ッ!?」

 

 思わず、脚が止まる。

 目を大きく見開いて、まじまじと青年の顔を見てしまう。

 黒の短髪を逆立たせた、左頬に二筋の傷痕を刻んだその面貌は、深い悲しみに彩られていた。

 

「父さんも、母さんも、年の近かった弟も、みんな殺された。一人も守れないで、俺だけが生き残った……っ」

 

 悔やんでも悔やみきれない後悔が滲んでいる。それが嘘ではないことなんて、一目見ればすぐに分かった。

 

「そして、今回も俺たちは間に合わなかった」

 

 実弥の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ後に、青年は両膝を地面に付ける。

 両手を前に、上半身を頭ごと下げ、土下座の姿勢になって。

 

「君の母親を守れなかった。義勇様に代わり、鬼殺隊を代表して謝罪する。すまない」

「ッ!?」

 

 何の躊躇いも無く地に跪いて謝罪する青年に実弥は息を飲んだ。

 怒りも悲しみも困惑も全部が全部どうしようもなく暴走する感情の荒波に、訳が分からなくなってくる。

 

「あ、謝って、どうにかなるもんじゃねェ……ッ! アンタに謝られたって、お袋はッ……もうッ!」

 

 実弥にだって分かっていた。

 初対面のこの青年は何も悪くないことを。先程の少年──義勇が弟妹たちを守ってくれて、母が人殺しへと、家族殺しという最大の禁忌へ触れて堕ちるのを止めてくれたことも。

 自分が何も出来ずにただ八つ当たりに喚いていることも。

 全部、全部、分かっていた。

 

「……クソッ、クソォ……ッ!」

 

 両眼から溢れて止まらない滂沱の涙を流しながら、実弥は地面へと蹲る。

 暴力ばかりを振るう父親がいなくなり平穏が訪れて、弟妹たちに心細い思いをさせないように長男である自分が家族をこの手で守っていくと誓ったのに。

 自らの手が傷だらけになるのも厭わずひたすらに拳を地面へと叩き続けて、己の無力さを呪う。

 

「クソッ、クソッ、クソッ、……クソォッ!!」

「…………」

 

 自責の念に潰れそうになる実弥を見て青年は立ち上がり、側に寄り添って優しく背中を撫でる。

 実弥が泣き止むまでの長い間、彼はずっとそうしていた。

 

 

 

 

「君たち家族は鬼殺隊で保護したい」

 

 目蓋を泣き腫らしつつも落ち着いて話が可能な状態となった実弥に、地べたに並んで座っていた青年はいの一番にそう告げた。

 

「そいつはありがてェが……」

 

 ほぼ無意識のうちに実弥の言葉が濁る。

 見聞きしたこともない鬼殺隊を今の段階で信じるなど無理だ。家族の命を預ける以上、いくら金銭面の憂慮が大きかろうと慎重にならざるを得ない。

 青年も実弥の懸念については察していた。

 

「鬼殺隊には同じような境遇の子が沢山いる。孤児院があるから其処預かりになるか、藤の花の家紋を掲げた鬼殺隊に協力してくれる家の里子となるかが一般的だな」

「……衣食住は?」

「その点はバッチリだ。絶対に不自由をさせないと誓う」

 

 力強く言い切られて、実弥の心情が微かにだが揺れ動く。

 鬼殺隊は信じられなくとも、目の前にいるこの青年は信じられる。直感だったが、間違っていないと思っていた。

 その後も勉学の環境や将来取り得る道についてなど、弟妹たちにとっての幸福を最大限に考えられる要素を聞き取っていく。

 最終的には彼奴らに聞くしかないと実弥が考えを纏めたところで、青年は僅かに顔を歪めて重苦しく切り出した。

 

「出来れば安全が確保しやすい孤児院に入って欲しい」

「……理由は?」

「確定情報ではないと前置きさせてもらうが……」

 

 青年自身はあの方が言うのだから確実だと思いつつも、直前に真菰から伝えられた情報を口にする。

 

「君を含めて、君の家族は鬼に狙われやすい体質をしているからだ」

「なっ……!?」

 

 聞き捨てならない発言に実弥を驚愕を露わにする。

 

「察していると思うが、鬼の主食は人間だ。そして人間の中には鬼にとって栄養価が非常に高い者たちがいるらしい。そういう人たちを稀血と呼んでいるんだが……」

「俺の家族は全員、その稀血ってことか……」

 

 ふざけやがってと、実弥は拳を強く握る。

 それではもう取れる選択肢など無いに等しい。

 

 ──母親を、家族を護りたいというのなら、生殺与奪の権を他人に握らせるな!

 

 脳裏に焼き付いて離れない義勇の言葉。

 出逢いが最悪だったためにいけ好かないという気持ちしか抱けないが、言っていることは真理である。

 

「なぁ……鬼殺隊には孤児院があるって言ったよな」

「ああ」

「鬼ってのは、そんなに多く存在しているのか?」

「そうだな……。被害が無い夜なんてないだろうな」

「そうか……」

 

 湧き上がったのは、許せないという憎悪にも近い怒りだ。

 母親を鬼に変え、家族の運命を無遠慮に踏み躙った者がのうのうと生きているなど、腑が煮えくり返って仕方がない。

 そして尚も家族の命を脅かすというのなら。

 

「俺が家族を守る。鬼殺隊に入って、鬼共を殲滅してやる……ッ!」

 

 確固たる決意を胸に、実弥は己が進むべき道を定めた。

 

「いいんだな?」

「あぁ、今度は俺が絶対に守り抜くんだ……あの野郎みてェに」

「ははっ……義勇様を目標にするなんて、随分と大きく出たな」

「義勇様ァ?」

 

 土下座された時から気になっていたことを今更ながらに思い出す。

 

「アンタの方が年上だろう。なんで敬称なんか使ってやがる?」

「鬼殺隊は実力至上主義でな。冨岡義勇様は鬼殺隊最強格の剣士である柱の一人にして、史上最年少でその地位まで上り詰めた時代の麒麟児なんだよ」

「……そんなにすげェのか?」

「当たり前だろう。……はっきり言うが、義勇様と継子の真菰様……義勇様の愛弟子みたいな立場の方だと思ってくれればいいが、その二人でなければお前の家族は守れなかっただろうな」

「…………」

 

 精一杯の感謝をしなければならないのだろう。一生掛かっても返せない恩があるに等しいのだろう。

 それでも、実弥は憮然とした表情を浮かべてしまった。

 

「……いつか礼はする」

「そうだな、大事なことだからな」

 

 よっと一声上げて、青年は立ち上がる。

 

「それじゃあまずはお前の家族に会いに行かないとな。説得は手伝うさ」

「恩に着る。……なぁ」

「ん、なんだ?」

 

 見上げて、実弥はぼそりと呟く。

 

「アンタ、名前はなんていうんだ?」

「あぁ〜……悪い悪い、まだ名乗ってなかったな」

 

 またやってしまったと青年は頭をがりがりとかく。名乗る丁度いい機会が無くてここまで流れたことに快活に笑う。

 

「俺は粂野(くめの)匡近(まさちか)だ。お前は?」

「不死川実弥だ」

「そうか。よろしくな、実弥!」

 

 実弥と青年──粂野匡近は、二人並んで集落への道を歩き出す。

 今後も肩を並べて戦うことになる二人は、こうして出会ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「珠世殿、愈史郎殿」

「お待ちしておりました、義勇さん、真菰さん」

 

 夜も静まった浅草の一角で、義勇と真菰は珠世たちと合流を果たしていた。

 屋敷へと案内された二人は珠世たちに付き従って階段を降りて行き、現れた地下牢に眼を見張る。

 

「すごーい」

「元からこういう屋敷だったのですよ」

 

 感嘆する真菰に簡単に説明して、珠世は神妙な顔で大きな籠を背負った義勇へと振り返った。

 

「義勇さん、早速ですが……」

「あぁ」

 

 人一人が入れるだろうその籠を開けて、義勇は丁寧に女性の身体を持ち上げる。

 見覚えのあるその姿に、珠世は全身を震わせて駆け寄った。

 

「鈴さん……っ」

 

 義勇に横抱きにされた鈴に縋り付いて、珠世はさめざめと泣く。

 

「申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません……っ!」

 

 己の罪を告白するように、珠世は鈴に謝り続ける。

 痛ましいその姿に愈史郎は目を伏せて、義勇と真菰はまさかの可能性に驚く。

 

「知り合いだったのですか?」

「はい……鬼となって初めて出会えた、友人と、思っています……」

「そうか……」

 

 深く聞くことはしない。双方共に傷付くことが分かりきっているから。

 義勇は余計な勘繰りを打ち消して、必要なことだけを伝える。

 

「この人の理性と記憶を取り戻してほしい。頼めるだろうか」

「……お任せください」

 

 珠世は顔を上げて、決然とした眼差しで義勇を見る。交わる二つの視線に様々な想いが乗って、それだけで意思疎通となり得た。

 

 何の問題もない。珠世なら必ず、この不可能を覆して成し遂げてくれる。

 

 義勇は心から安心して任せられた。

 

「感謝する」

「いえ、感謝は私からしたいです。こうして、友人を救う機会を得られたのですから。本当にありがとうございます」

 

 一度は見捨てたのだ。

 道半ばで斃れる訳にはいかないという自分可愛い言い訳を盾に、友人だと思っている人が危機に陥る可能性があったのに、手を差し伸べることすらしなかった。

 この身に背負う業は甚だしい。人を殺し、人を見捨て、ただ私怨の為に醜くも生き長らえている自分は、死ねば確実に地獄に堕ちるだろう。

 

 それでも、手の届く場所に救える人がいるならば、珠世は全身全霊を尽くせる。

 唯一残った医者として矜持が、珠世の心を最後の一線で踏み留めて人間たらしめている。

 

 鈴を見詰める珠世は、力強く言い切った。

 

「私が、必ず」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







不死川家過去編を含んだこの章はこれでお終いです。
本誌読んで決めたんだ、実弥さんは絶対に幸せにするって。



というわけで派手に予告するぜ!!

いつか絶対にこの展開やります。


【挿絵表示】


【挿絵表示】





……自分で描いといてなんですが、ロリお母様の破壊力がヤバイ……
ちなみにこの状態のお母様は、長男のことを「さねみ、さねみ」って呼ぶよ!

ここで明治こそこそ噂話
義勇さんは左手の傷を珠世さんに治療してもらったために、「これなら蝶屋敷に行かなくても大丈夫だな」という結論に至り、後日『負傷したのに来なかった』という事実が胡蝶姉妹にバレて、しこたま怒られたらしいですよ。

次回 第8話「最終選別、再び」

つづく





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