焔の海兵さん奮戦記 (むん)
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第1話 はじまり

こちらはONE PIECE×鋼の錬金術師の二次創作となります。
恥ずかしながら処女作です。
温かく見守っていただければ幸いです。



 

 その日の俺は、仕事を終えて夜遅く駅のホームにいた。

 

 年度末で気合いを入れて山積みになった仕事のために残業が続く日々の一コマだ。

 使い過ぎた頭が少し熱っぽく、ふらふらとしている。PCとにらめっこで酷使した目の奥がじわりと痛む。肩や背中の筋に石か何かが詰まったように重苦しい。

 全身が溜まりに溜まった疲労を訴えている。

 自分の身体を労ってやりたいが、後一週間くらいは休めない。せめて早く帰って飯食って寝よう。今は自分を騙し騙し働くしかない。

 でも仕事が落ち着いたら、その時にガッツリと有給を取ろう。自宅でまったりしてもいいし、久しぶりに実家に帰ってみてもいい。

 山、森、海、川と日本で揃う自然は揃っているわりに、不便というほど不便でない実家のある田舎町の風景が頭の中に浮かんでくる。ああ、ひさしぶりにアウトドアがやりたい。大自然の中でのんびりと過ごしたくなってきた。

 故郷に思いを馳せていると、ふいに冷えた夜風が吹き抜けていった。それが一緒に細かな塵でも運んできたのか、チクンと目に痛みが走る。

 唐突な痛みに対して、俺は反射的に目を閉じた。

 

 

 

 そして。

 

 

 

 目に感じた痛みがようやく治まって瞼を開くと、青い空があった。

 嘘みたいな、本当の話。

 一瞬前まで目の前にあった蛍光灯に照らされた駅のホームの風景が消え失せ、南国リゾートの写真もかくやと言わんばかりのコバルトブルーの海と、それよりはいくらか淡い空が視界いっぱいに広がっていた。

 気づけばツンと鼻の奥を突いていた冷気は温く濃い潮の匂いに取って変わり、煌々と白く灯っていた蛍光灯の明かりは燦々と鮮やかに輝く陽光になっている。

 今まで生きてきた中で培った常識を大きく逸脱した現象に立ち竦む。

 どうにか状況を理解しようとしても、あまりの出来事過ぎて俺の脳ミソは情報を処理しきれなくなる。

 やけにデカイ鼓動が耳に付きまとい始めた途端、その早い拍動に合せて重く鈍い痛みがオーバーヒートしてしまった頭の内側から響き出す。

 今まで経験したことのない激痛に堪えきれずにその場で崩れ落ちてしまう。

 身体がピクリとも動かない、声の一つも出ない。

 このままじゃ、死ぬ、死んでしまう……!!

 

「ロイ君!?」

 

 死を意識したところに耳へ滑り込む悲鳴のような少女の声と、こちらに近付く足音が何人か分。

 痛みを堪えて何とか薄く開けた目だけで声と足音の方を向く。

 そこには、見たこともない少年少女が3人。

 高校生だろうか? 逆光で顔とかはよく見えないが、この大人とも子供とも言えない雰囲気はたぶんそうだろう。3人ともそろってライトブルーのラインが入った白ジャージを着ているところからして運動部部員とかかな。

 とにかく人が来てよかった!

 必死の思いで震える腕を動かして手近な少年のズボンの端を掴み、助けを求める声を喉の奥から絞り出す。

 

「たすけ…あたま、われる…っっ」

「頭が痛いのか!?」

 

 問い質してくる声に、こくこくと頷く。

 途端に3人の雰囲気がみるみる強張っていくような気がした。急に倒れて頭が痛いとなったら、ただ事ではないであろうことは誰にでも容易に想像がつくことだ。彼らも状況が極めて悪いと気づいたのだろう。

 

「動かさねえほうがいいだろ、これ」

「そうだな。ヒナ、教官を呼んできてくれ!」

「ええ、待っていて!!」

 

 緊張の走った会話と、バタバタ駆けていく音が頭上を横切っていく。

 これで助かるかもしれない、と思うと一気に張りつめていた緊張が解けた。

 相変わらず頭痛は止まないし、本当に大丈夫かどうかも分からない。けれども、いったん抜けた気は戻らず、するすると体中の力が抜けていった。

 

「おい、ロイ!」

「ロイ、ロイ、しっかりしろっ」

 

 側に残ってくれている少年たちがしきりに叫ぶようにして呼びかけてくる。

 意識を落とすなという、焦っているような、怖がっているようなその呼びかけに申し訳なく思うが、これ以上意識を留め続けることは今の俺には難しかった。

 

(ごめん、少年たち。あとで意識が戻ったら謝るから)

 

 そうして俺は、心の中で必死になってくれている彼らに手を合わせる。

 

(けど……こいつらがずっと呼んでるロイって、誰だ……?)

 

ふと湧き上がる疑問。今もなお少年たちが叫ぶ名は、俺ではない誰かのものだ。

そういえばどことなく彼らが親しげなのも気になる。なんというか、同級生に接するような気安さが感じられるのだ。明らかに赤の他人、それも年上の人間に対する態度ではない。

疑問について考えようと試みる。重大な問題が発生しているような気がする。

だが、やはり機能停止しようとする本能には逆らうほどの精神力はどこにもなく、俺はやむなく大きな力に引き離されるようにして意識を手放した。

 

 

 

 

 

□□□□□□□□

 

 

 

 

 次に目を開けると俺はどこかのベッドに寝ていた。妙に硬いそれは、あきらかに普段使っているベッドではない。

 どこだよ、ここ。なんだか被せられた毛布や頭を載せている枕も薬臭い気がする。

 もしかして、病院、なのだろうか。

 

「オウ、目ェ覚めたか」

 

 ぼんやりと見上げていたやけに高いコンクリ剥き出しの天井を背景に、ひょいっと覗き込んでくる年配の男性が視界に映った。白衣を着ていて、首には聴診器を掛けている。

 多分、このおっさんは医者だ。じゃあやっぱり、ここはどこかの病院なのか。

 

「ここは?」

「医務室だよ」

「どこの?」

「どこって、てめぇ、士官学校のだよ」

「……え?」

 

 俺の質問に怪訝そうな顔をしながらも医者は俺の目玉にライトを当てたり脈を図ったりし始める。

 普通の病人に対する診察なのでされるがままになる。一通り終わったら、気分はどうだとか、頭は痛くないかとか問診され、少し考えてから問題はなさそうだと答える。

 

「ん、低酸素症の症状もだいぶ回復しているようだな」

「は…低酸素…?」

「お前なぁ、自分の能力で倒れるなんざ、身体張ったジョークかよ」 

「……」

「ま、最初は能力者なんか皆そんなもんだ。気にせず制御訓練に励めばいいさ」

 

 カルテに何やら書き込みつつ、ニヤニヤ笑いながら喋る医者に困惑気味の目を向けていると、ぽんぽんと大きな掌が頭のてっぺんに置かれた。

 医者はポケットから出した錠剤を幾つか俺に渡し、それを飲み下すのを見届けると「安静にしていろよ」と言い置いて出ていった。

 バタンとドアが閉まる音がして、一気に室内に静寂が満ちる。

 窓から差し込む仄かな月明りだけの中、俺は深く息をついて目を閉じた。

 ゆっくりと十数えて瞼を上げてみたが、広がる景色は変わらなかった。

 

「やっぱり、夢じゃない…」

 

 どうしたものかと、とりあえず倒れる前の自分の中の記憶をたどる。

 すると、なぜか二人分の記憶が浮かび上がってきた。

 あり得ない出来事に驚いて、慌てて二つの記憶をなぞる。

 その作業によって自分のことを思い出していき、ことの異常さにサァッと血の気が引いていくのを感じた。

 俺の抱えた二人の人間の記憶。

 一つは俺の記憶。ごく普通の日本人男性で、社会に出て数年のサラリーマンである俺自身の二十数年に渡る平々凡々な記憶だ。

 そしてもう一つは、この身体の元の持ち主の記憶。十五歳になる少年で、今年遠い故郷からはるばる士官学校へ入学した、ロイという少年の記憶。

 

 敢えてもう一度言おう。この身体の元の持ち主の名は、ロイ。名前はロイだけだが、あのロイ・マスタングだ。嘘でもなんでもなく、本当にロイ・マスタングだ。

 

 漫画好きな者なら、一度は耳にしたことがあるかもしれない。

 日本で有名な漫画『鋼の錬金術師』の主要登場人物の一人といえば分かるだろうか。

 出世街道驀進中のエリート軍人にして最凶の焔の錬金術を操る有能な錬金術師。

 まさにその人が、この身体の元の持ち主。

 驚くのはそれだけじゃなかった。

 その彼が存在するのならば、それはおそらく今いるここは鋼の錬金術師の世界と皆思うだろう。

 が、このロイの記憶から引き出した情報にはアメストリス、イシュヴァール、錬金術や国軍といった特有の用語が無かった。

 代わりにあった情報は、グランドライン、マリンフォード、悪魔の実や海軍。

 どう見ても別の人気漫画『ONE PIECE』の世界の情報と用語だ。

 身体はロイ・マスタングだけれど、生きている世界はONE PIECEって突っ込みどころが満載だ。

 一番突っ込みたいのは、異世界の赤の他人の身体を乗っ取ってしまった事実だけれども。

 

 

「畜生、一体何がどうなってんだよ…!」

 

 思わず零した言葉がやけに大きく室内に木霊し、また痛み出した頭に響いて気分が悪くなった。

 痛みと吐き気を堪えきれずに、また意識を手放す。どうかもう一度目が覚める時は、元の世界でありますようにと願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 




にじファンからやっと移転してまいりました。
割烹で移転先変更のお知らせを出したとき時間がかかるといいましたがめちゃくちゃ早く移れてしまいました。
更新はゆっくりになりますが、どうぞまたよろしくお願いします。



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第2話 ロイという少年と俺の一歩目

ロイ・マスタングになってから、はや二日。

 俺は医者のオッサンの根城たる医務室で過ごしている。

 体調自体は翌日からそう悪くは無かったが、大事を取るってことでそうなった。

 絶対安静だったので、ひたすらベッドの上でじっとしているのは結構辛かった。

 まあ、面会謝絶でもあって見舞い客が来なかったから、ゆっくりロイについて記憶から情報を引き出して考えることができたのは悪くなかったが。

 

 

 とりあえず記憶を掘り出して、この世界のロイについて得た情報を話していこう。

 

 ロイは今年十五歳の士官学校一年生。

 出身は西の海の大きな王国の首都がある島。

 家族は父方の叔母のみ。両親は幼い頃に亡くなり、父の妹であった彼女が女手一つでロイを育ててくれたようだ。

 それなりに叔母甥で仲良く暮らしていたロイが、規定の入学可能年齢よりも一年早く士官学校に入った理由は、どうも悪魔の実を食ったかららしい。

 

 

 そう、ロイは前にも言った通りこの歳にして悪魔の実の能力者だ。

 

 

 喰った実は超人系エアエアの実。こいつによってロイは空気中にある物質ならばなんでも意のままに操れるという能力を得ている。

 なんというか、役に立つかどうか微妙な能力だ。

 それにエアエアなんて、ぱっと名前だけ聞いたら自然系で身体を空気に変えられる悪魔の実なんじゃと期待してしまうような名前じゃないだろうか。

 俺も実の名前を知ってすぐはチートを期待したから、その後で超人系という情報を思い出してがっかりした。初期値がすでに最強なんてご都合主義はそうそうないもんなんだな。

 そういえば二日前に倒れた原因は、この悪魔の実の能力を無意識に使ったためだと医者が言っていた。知らず知らずのうちに自分の周囲の酸素の濃度を急激に引き下げたせいで、きつめの低酸素症に陥ってしまったのだとか。

 倒れる直前に中身が入れ替わった俺としては、それが本当の原因かどうか疑わしいと思う。急に俺が憑りついたから身体が拒絶反応でも起こしたんじゃないか、本当は。

 

 

 話を戻す。

 エアエアの実を食ったロイは地元の街に居づらくなった。幼少期のニコ・ロビンと同じく、周囲の人間から疎外されるようになったんだ。

 悪魔の実の能力者は、ことごとく姿形を変えたり不可思議な現象を起こしたりと常軌を逸した力を示す。それらは常人に恐怖や嫌悪を感じさせるには十分すぎるものばかりで、ゆえに迫害を受けやすい。

 

 食ったのは本当に不慮の事故としか言いようがないことだったが、ロイも能力者という恐ろしい、厭わしい存在として周囲に睨まれ始めた。

 

 唯一の肉親である叔母は以前と変わらず可愛がってくれたのが不幸中の幸いだったが。

 だが、そんな優しい叔母にも次第に迫害が及び出してしまう。

 そこに至ってとうとうロイは街を出る決意を固め、海軍の門を叩いた。海賊に対してあまり良い印象が無く、能力者でも安心していられる場所を考えた時、海軍が思い浮かんだらしい。

 ロイは島にある駐屯所の本部大佐に海軍に入りたい旨を直訴し、大いに同情してくれた彼から士官学校と奨学金の推薦状を得た。

 雑用での採用でなかったのは、海軍が行っている能力者の囲い込み制度のためみたいだ。

 ロイの記憶によれば、海軍では上に行けば行くほど、事務や艦隊指揮に関する能力と共に本人の戦闘力の高さが求められる組織なのだとか。だから強くなりそうな人間には積極的に士官教育を叩きこんで上に上げて使いたいと考え、能力者の士官学校における優遇制度を用意したそうだ。入学試験免除とか、飛び級入学とか、金銭面の援助とか、いろいろと。

 様々な特殊な力をはなから持っている能力者は、常人よりも強くなる可能性が極めて高い。いわば特大のダイヤモンドの原石だ。磨けば必ず光ること間違い無し。集めて磨かない手はないってことか。

 おかげでロイも簡単な面接と心理テストを受けただけで、難なく入学を許可されて奨学金も下りた。

 

 そしてこの夏、ロイは寂しがる叔母に見送られ、遠いマリンフォードの士官学校に入学した。 

 

 今は入学して約半年ほどらしい。

 鬼のような体力作りの訓練や小難しい座学にも、教官や上級生からの強烈な可愛がりにもようやく慣れ始めた頃だ。

 ロイは街と同じように避けられ嫌われるようなことがないのをとても喜び、毎日が楽しいと心底思って暮らしていたみたいだ。

 ただ、人と関わることには馴れていなくて、いまだに同期たちと少し距離を持っているけれども。

 

 俺がロイに入り込んだ日は、初めて出た航海実習の最終日だった。

 西の海ではあまり船や海と縁がない生活をしていたので、前々から楽しみにしていた実習だったそうだ。

 艦上の業務や航海術の講義を受けつつ、ロイは広大で美しい自分がこれから生きていく場所を大いに満喫していた。

 様々な明るい感情とほんの僅かな不安を胸に秘めながら。

 

 そんな時だったのだ。

 ようやく目の前が開けてきた彼を、俺が乗っ取ってしまったのは。

 

 

 ……うん、適当に楽な道選んでおこう、なんて軽く考えていた最初の俺、本当にロイに謝れ。

 自分の思考が軽薄すぎて、夢や希望を抱えて真剣に生きようとしていたロイに申し訳なさすぎる。

 もう、海軍を辞められない。いや、ロイを止められない。

 これを知ってもなお自分の勝手に面倒事を避けて楽な方へ流れて生きるなんてできない。

 やったら小心者だからでは済まない。本当の最低な糞野郎になってしまう。

 怖いし嫌でたまらないけれど、腹を括らなくちゃいけない。

 これからはロイとして生きていく。真剣に生きる。代わりに生き切ることでロイの未来を奪った罪滅ぼしをする。

 それで許されるはずはないだろうが、そう思わなくちゃ罪悪感で胸が押しつぶされてしまいそうだ。

 

 

 本当にロイ、乗り移っちゃってごめんなさい。

 君のこの身体で、俺は生きるよ。

 君の好きになった海で、大事に生き切らせてもらう。

 だから、今はこれでわかってくれ。

 

 ……やっぱり危険な原作の出来事には首を突っ込まず生きようと思うけど、それだけは許してくれると嬉しいかな。

 

 

 

 

 

 

「よし、もう大丈夫みたいだな。帰っていいぞ!」

「痛ッ!?」

 

 ニッカリ笑って思いっきり俺の背中を叩く医者のオッサン。力加減をしていなさそうな一撃に、一瞬息が詰まりかけた。

 病み上がりになんてことするんだ、オッサン。また体調を崩したらどうするつもりだ。

 

 二日目の夕方にして、ようやく退院許可が出た。

 症状ももう見られないし、後遺症もなさそう。明日から学業に戻りな、とのことだ。

 ようやくロイとしての生活が本格化するのかと思うと少し緊張するが、気を引き締めるにはちょうど良い。

 

「どうした、顔が強張ってんぞ」

「あ、いえ、何でもないです」

 

 いかん、緊張が表情に出ていたようだ。オッサンが不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 慌てて何でもなさそうに笑ってみたが、頬の肉が妙に硬い気がした。緊張し強張っただけじゃなくて、普段あまり笑ってなかったのかもしれない。

 

「そうかぁ? ま、もうちょっとここで待ってろよ、お迎えが来るから」

「へ?」

 

 前みたいにぽんぽん俺の頭を撫でるオッサンを、思わず見上げる。

 は、お迎え? 誰か俺を迎えに来るのか?

そんなことしてくれるような親しい人間はいないはずだけれどな……。

 

「今朝な、てめぇの同室の奴が退院させる時は呼んでくれ、心配だし迎えに行くからって、俺に言ってきたんだよ」

「同室の」

「そうだよ、さっき連絡したからもうすぐ来るから」

 

 良い友達持ってんじゃないか、とオッサンはどこか懐かしそうにまぶしそうに目を細めている。自分の青春時代でも思い出して、微笑ましく思っているのだろうか。

 そんなオッサンの様子を他所に、俺はぼんやり記憶を引っ掻き回す。

 

 寮の同室の奴って誰だっけ? どんな奴だっけ?

 んー、同室の奴は二人いるみたいだな。顔だけぼんやり浮かんできた。

 変だな、こいつらどっちも日本にいた時どっかで見たような気がする。

 あ、あとこいつらの名前はなんだったかな。えっと、確か……

 

 ふいに、コンコンと軽やかにドアを打つ音が病室に響き渡る。

 

 同室の二人の名前を記憶から掬い上げたのは、ノックとほぼ同時だった。

 ちょっと待て、この名前って、本当なのか。俺の同室二人って、まさか。

 

「先生、ドレークです。ロイを迎えに参りました」

「オウ、開いてるから入りな」

「失礼いたします!」

 

 ドアの向こうから聞き覚えのある声がした。

 これは、倒れる前に聞いた少年の声だ。

 オッサンの許可とともに、カチャリと丸みを帯びたドアノブが回って、飴色をした重そうなドアが開く。

 

 開け放たれたドア向こうから、現れた人間は三人。

 スカイブルーのライン入りの白ジャージに、「MARINE」の文字の付いた同じ配色のキャップを被る彼らは、倒れた時に見たあの三人組だ。

 

 あの時は逆光なんかでよく見えていなかった三人の顔が、今はしっかり見える。

 まさかとは思いたかったが、三人ともさっき掘り出したロイの記憶と、俺の原作の記憶の中にかっちりぴったり当て嵌まる奴らだった。

 

「早かったじゃねぇか。お、スモーカーとヒナも一緒か」

 

 うん、もう、なんて言っていいのかな。

 赤旗と白猟と黒檻って、豪勢な同期の桜だこと!!

 

 

 




原作ど真ん中な三人と同期でしたとさ。
スモーカーとヒナの二人とX・ドレークが同期なのはオリジナル設定です。


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第3話 お茶会と友だちと

俺の容姿についてだが、ロイ・マスタングそのまんまだ。

 黒髪に切れ長で一重の黒目、肌は白というよりは象牙色という、東洋系の特徴を押さえた風貌をしている。

 目鼻立ちは整っているが、かなりの童顔でもある。童顔が多いと言われる日本人の目で見ても、絶対に十六歳よりも下では、と思うほどだ。

 おまけに背が高くない。背の順で並んだら一番前、座学の教室でも最前列といった具合だ。この低身長が童顔に拍車を掛けて年齢詐称に貢献している気がする。

 

 急に自分の容姿について言い出して、どうしたんだって?

 別に自慢しているわけじゃない。まぁ昔よりは涼やかな見た目だし、ちょっと嬉しかったけど。

 それは置いといてだ。

 この容姿のどこが問題なのかはだ。

 

 

 

「じゃあコーヒー三つと、ロイはココアでいいな?」

 

 周りからやたらと子供扱いされることなんだ。

 

 メニューを示すドレークが、俺に訊いてくる。

お前って原作では出る度仏頂面ばっかりだったくせに、今の時点は爽やかな笑顔を浮かべていることが多いんだな。

 若々しいし、しっかりしすぎな顎にも、すでに綺麗に割れて六つの腹にもⅩの印が入っていないから、ちょっと前まで本当にこいつがⅩ・ドレークなのかと疑ったものだ。

 将来海軍を辞める時に、相当酷い目にでも遭って荒んだからああなったのだろうか?

 

「…コーヒーくらい飲めるが」

「おい、背伸びしてんじゃねぇぞ。せめてカフェ・オレくらいにしとけ」

 

 

 俺の主張に困った顔をするドレークの横から、面倒くさそうにスモーカーが睨んでくる。

 原作よりも十歳以上若いくせして、こいつだけはあんまり漫画で見たのと変わらない。不機嫌そうな面に、ゴツイ図体、あと煙草。

 今みたいな妙に気を回してくれるところもそのまんま。ズボンがアイス喰っちまったってぶつかってきた女の子に怒らずアイス代やるエピソードに繋がる、子供向けの優しさだ。

 やっぱり俺を子供扱いしてんのか、この野郎。

 

 

「あのな、私はもう十六なんだ。子供扱いしないでくれ!」

「あ?」

「十六歳?」

「えっ、ロイ君って十六歳なの? わたくしより年上なの?」

 

 目を丸くして固まる二人。俺の横ではヒナが、驚愕よ、ヒナ驚愕!!とか騒いでいる。

 あのクールビューティーなアラサー女将校様、学生時代はこんなにまさに女子高生な性格をしていたんだな。今も基本は優等生で冷静だけれど、オフになるとこんな風にしている時もある。

 オンオフを使い分けているのかもしれない。そういや扉絵のスピンオフでそんな一端が見えていたような、いなかったような。

 

「なんなら学生証で確認するか?」

「……」

「あら、本当にそうなのね…」

「……すまん」

「お前ら…私がいくつに見えていたんだ」

「十二、三くらいかと思っていた」

「わたくしもそうだとばっかり」

「俺もだ」

 

 ちょっとこの人たち酷くないですか?

 

 

 本日は待ちに待った休日。

 たまには遊ぶぞってことで、例の赤旗・白猟・黒檻、いや、将来にはそう呼ばれる予定の3人とマリンフォードの繁華街に繰り出してお茶している。

 

 あの日から、もうそろそろ一年が経つ。

 ロイになってぶっ倒れて、彼らに出会って助けてもらって、そして士官学校の苛烈な日々と人間関係にヒイヒイ言っていたら、いつの間にか一年が過ぎていた。

 その濃厚な1年を過ごす内に、俺は三人とこんな風によく行動を共にするようになった。まあ、友達になった、と言っていいのかもしれない。

 

 え、原作になるべく関わらないようにしようって言ってなかったかって?

 予定は未定なんだ。世の中なんかどう転ぶかわからないことだらけなんだよ。

 

 そもそもな、ドレークとスモーカーは俺の寮での同室だ。二人と関わらないでいるという選択ができなかったんだよ。やろうと思えばできたけれども、それができるほど俺は孤独を愛せる人間じゃない。

 徐々に普通に日本での学生時代の友人と接していたようにしていたら、自然と親しくなっていた。

 ヒナに関しても似たような経緯で仲良くなった。彼女も悪魔の実の能力者だったので、特別修練を一緒に受けていた。

 修練を受けているのは俺たちの学年では俺とヒナだけで、もう友達になっとけと言わんばかりの環境だった。それに元から周りよりは若干ロイも彼女に心を開いていたし、難なくよく話せるようになっていった。

 

 そうやっていって今でこそ普通の友人付き合いして気楽に話しているが、最初の頃は三人とも三様の変わった反応を見せてくれたものだ。

 ドレークに座学でわからなかったところを訊ねてみたら、なんだか「クララが立った!」みたいな驚きと嬉しさが混ざり合って滲み出す表情を向けられた。

 スモーカーの時は上級生に手荒く可愛がられそうだったのを助けてくれたので礼を言ったら、ぎょっとした顔をしてまじまじと見下された。

 ヒナは二人と違って特に変わった態度も言動もなかったが、ふと気づけばもの凄く優しげで母性を感じさせるような眼差しで俺を見ていた。

 三人の様子を見る度に、ロイってどれだけ人付き合いが苦手な奴だったんだと愕然とさせられた。

 それなりに近い位置にいた三人にここまでさせてしまうくらいだ。

 怯えるハリネズミみたいに周りを遠ざけようとしてはいるが、周りの人間が心配してしまうような雰囲気を出していたのだろう。

 周りから理不尽に迫害されていた過去のことを考えたら仕方ない部分もあるが、かなり面倒くさい奴だったんだな……。

 

 まあ、三人と親しくなれたことで、最近はようやく他の同期たちとも何の変哲もない付き合いができるようになってきた。

 いわゆるボッチを卒業したと実感した時、感動のあまりベッドの中でちょっと泣いたのは秘密だ。

 

 しかしさ、本当にどうしてこうなったのだか。

 原作で主人公の一味と根深い因縁を作っていたり、明らかに海軍の闇の部分を握ってそうだったりする奴らと仲良しになるなんて思ってもみなかった。

 でも、悪くはないな。みんな基本的に良い奴らだ。友達になって後悔はないし、これからもそうであり続けられればいいと思う。

 

 ただね、スモーカーと一緒にルフィたちと直接ガチでやり合うフラグとか、ドレークと一緒に海軍の暗部を掴んで堕ちた海軍将校になるフラグとか、結構危ないフラグが立った気がしないでもないけれどな!

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 ずいぶん肩の力が抜けた、とでも言えばいいのだろうか。

 拗ねたように尖らせた口でコーヒーを啜るロイを見て俺、X・ドレークは思う。

 

 西の海から来たこの友人は士官学校に入学してからしばらく、人と上手く関われないでいた。悪魔の実の能力者であることで、故郷の島では酷い迫害を受けていたせいらしい。

 そのため常に周りの人間と距離を取ってしまい、時に相手の反応に怯えるような素振りを見せることもあった。

 同室であった俺やスモーカーにさえその調子だ。そうとう酷い目に遭ってきたのだろう。

 

 ロイが好きで人と距離を取っているわけではないことは、しばらく寝食を共にしていてわかった。寮の部屋で俺に話しかけようか迷っている素振りを見せたり、雑談している奴らの輪に入りたそうにしていたりすることが時折あったのだ。

 だから本人に歩み寄る意思があるならば、と空いた距離を縮めようとした。自己満足かもしれないが、一人寂しそうにしているのをどうにかしてやりたかった。そうする度にやはり怖いと思われたのか逃げられていたが。

 そういえば俺がロイを虐めているのではと勘違いしたヒナが、俺とスモーカーに怒鳴り込んできたのも確かこの時だ。能力者同士であり二人でいることが多かった彼女もロイを気にかけていたので、もしそうならばと我慢ならず行動したらしい。

 

 逃げていたロイの方も、俺たちの行動に何か感じるものがあったようだ。

半年ほど過ぎた頃から、徐々に自分からこちらへ歩み寄ろうとし始めた。

 同じ頃に航海実習の時に倒れた彼を助けたことが転機だったのかもしれない。初めてロイの方から出た言葉は、そのことに関する礼だった。

 それからゆっくりと、恐る恐るといったふうにロイは俺たちと会話を交わすようになり、こうして休日に遊びに出るくらいに親しくなった。

 最近では他の同期たちともこれもまたゆっくりと溶け込んでいっている。以前のように寂しそうな顔をすることもなくなった。

 良い傾向だと思う。これから同じ旗の下で正義のために戦うんだ。同期として、戦友として仲良くありたいものだ。

 

 

「そういえば、それは何なのかしら?」

「これか?」

「ええ、珍しくロイ君が武具用品店なんて行くんだもの。何を取り寄せたのかしら」

 

 ケーキを突いていたヒナが、思い出したかのようにロイの足元にある紙袋を指して言った。

 ロイが持ち上げてみせると、興味津々といった体で彼女は頷く。

 薄茶の袋には、さきほどロイの希望で寄った武具用品店のロゴが描かれている。確かご注文の品、とか店員が言ってロイに渡していた木箱が入っているはずだ。

 士官学校生でも、学校の貸し出し品ではなくて自前の武器を用意する者は多い。特に刀や銃器関係をメインに扱う者、または珍しい武器を使う者ほどその傾向にあり、ちょくちょく武具用品店に通っているものだ。

 だがロイはそうした武器を使ってはいなかったと思う。訓練だって、剣術や槍術、銃火器の訓練ではなく、六式とナイフを用いた接近戦用格闘術の訓練に重点を置いているようだった。

 専用のギミックでも仕込んだナイフでも買ったのだろうか?

 

「開けてみるか」

「良いの?」

 

 ちょっと考えた後、ロイは袋から木箱を取り出してヒナに渡した。

 受け取ったヒナは、そっと箱の蓋を外す。

 カコ、と木が擦れ合う小さな音を立てて開いた蓋の下には、白い手袋が一揃い納まっていた。

 武具用品店で手袋? どういうことだろうか。ヒナもスモーカーも、俺と同じように妙な顔をしている。

 触ってもいいと言うので、手に取って検分してみた。手触りは滑らかで織りのきめは非常に細かい。シルクかと思ったが、それにしては生地に厚みがある。

 しかしそれだけだった。表も裏も良く見てみたが、これと言った細工は見当たらない。

 仕立ての良い白手袋。そうとしか言いようがない。これが武器とは到底思えなかった。

 

「ロイ、これは?」

 

 コーヒーを開けたロイと目が合う。

 切れ長の目が愉快そうに細められ、薄い唇の端だけがキュ、と上がった。

 今まで見せたことがない不敵な笑みを浮かべて、ロイは俺の疑問に答えた。

 

「発火布の手袋……私の専用武器だよ」

 

 

 

 

 



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第4話 悪魔の実の能力

焔の錬金術、発射します。


 窓から差し込む爽やかな朝日が差し込む教室には、今俺と能力修練の担当教官だけしかいない。

 

「よく発火布なんて手に入ったねェ~高かったでしょ」

「ええ、本当に能力者への助成金がなかったら私には買えない額でしたよ」

 

 先日届いたばかりの発火布の手袋を摘み上げていろんな角度から眺める教官の中将を前に苦笑を零す。

 発火布の手袋は、本当に高かった。この世界に発火布が存在すると知り、ロイならやっぱりこれだよなと気軽に入手を試みて本当に驚かされた。

 どうも発火布は海楼石並みに希少な繊維らしく、布の状態でも目を見張るような価格で取引されていたんだ。

 その辺をまったく知らなかったもんだから、見積書が来た時に提示された金額のゼロが予想より二桁も多くて十回以上読み返してしまった。

 結局学生課に泣き付いて助成金をもぎ取った上に、十年ローン組んでまでして買った。

 ニコニコとした笑顔にサングラスを掛けた文字通りに上げるほどの長身の中将は、やっぱりねェ~と納得したように溜息を吐いた。

 

「わっしにも事前に相談してくれたら、都合付けてあげたのにィ~……」

「いえ、そこまでしていただくのは気が引けますよ」

 

 時々ビックリするような発言を投下してくる人だ。

 都合付けるってなんだよ。武器開発局とかに口を利いて、裏ルートから調達させてあげたのにってことか。

 それって学生に対して過剰な援助っていうか、他人にバレたら問題にならないのかすごく不安になるよ!

 

「良いんだよォ~? 遠慮なんかしなくてもさァ」

「お気持ちだけでうれしいです、ボルサリーノ中将」

 

 あんたに借りとか作りたくないんです、ってのも本音なんです。

 

 

 

 

 ……もう皆わかったかな。

 俺の担当教官、黄猿なんだ。あ、今はまだ中将だからボルサリーノ中将だけれども。

 

 悪魔の実の能力者の士官候補生には、基本的に能力制御のための特別修練が課され、担当教官として能力者の海兵が個別に当てられている。一対一で無意識に能力を出してしまわないようにする制御のやり方とか、どういう風に持っている能力を使っていくかについて相談に乗ってもらったりとかする。

 その制度によって俺はボルサリーノ中将に師事することになったというわけだ。

 

 初対面の時、内心でなんでだと絶叫しまくってしまった。

 だって黄猿だよ? なんというか、得体が知れなくて恐ろしい人だと思うのは俺だけだろうか。

 

 黄猿大将ボルサリーノ。

 

 シャボンディ諸島でドレークたち億超え海賊四人と麦わら一味相手に無双して、戦争編でも海賊たちを青雉と赤犬と見劣りしないくらいにボコッてたから強いことこの上ない。実力のある人だってことは確かだ。

 けれども、のらりくらりしていて意図が読みにくく、しっかりと自分の正義を掲げる青雉と赤犬に比べて、その正義がよくわからない。とりあえず軍の命令に忠実だってことはわかるが、そこから先、自分の裁量での正義が不透明な気がする。なんなんだ、「どっちつかずの正義」って。

 彼のことは俺の読んでいた辺りまでではわからなくて、それ以降に詳しいことがはっきりする事柄なのかもしれない。

 でもそのはっきりする辺りを知らない俺にとっては、底なし沼みたいに恐ろしい人に見えている。関わったらどうなるのかが読めなさすぎて怖い。

 赤犬が来て今すぐ徹底的な正義に精神を追い詰められるよりは良かったかもしれないが。

 

 とりあえず今の時点では、能力制御なんかの手解きを受けつつ、中将がどういう人なのか探ることにしている。少しでも情報が得られれば、距離を取るかどうかも考えられるんだが。

 畜生、なんで青雉が来なかったんだ。ある程度過去話とか考えていることとか明らかになっている彼なら、こんなに頭使って対応しなくてもよかったのに。

 世の中ってうまくいかないのな。

 

「ま~必要なものも揃ったようだし、今日は試し撃ちしてみようかァ?」

「はい!」

 

 俺に手袋を返しながら、中将が外を指さす。窓の外には、だだっ広いグラウンド、この士官学校の訓練場が広がっている。

 発火布の手袋が手に入り次第、考えていた技の一つを試すと予定していたのだ。

 そう、焔の錬金術の再現技を。

 

 

 

 さて、ここで一つ俺の能力について少しその詳細を語ってみようと思う。

 俺が食った悪魔の実、エアエアの実。

 超人系に属する実で、その力は大ざっぱに言って空気中の物質を意のままに操ることができる。

 ただし、何でもかんでも、どんなふうにでも、ではない。

 訓練していく中でわかったことだけれども、俺の能力には制約がいくつか存在したんだ。

 

 まず、能力で干渉できる物質に関する制約。

 俺は地表面上の大気を構成する成分の物質しか操れない。

 どうも空気=大気という定義らしい。酸素や水素は問題なく弄れたのだけれど、煙草の煙の成分や撒かれた毒ガスの成分には全く干渉できなかった。

 よって俺が使える物は、大気の基本成分である窒素、酸素、二酸化炭素、アルゴン、水素、一酸化炭素、ネオン、ヘリウム、メタン、クリプトン、オゾン、アンモニア、水蒸気、一酸化二窒素の十四種のみ。

 そして実戦でこうした気体を使用するなら、ある程度の攻撃力が望めて、かつ敵に気づかれにくい無色無臭の物の方が望ましい。

 となると実質使えるのは、酸素、水素、水蒸気、二酸化炭素、一酸化炭素くらいになってくる。案外少ないものだ。

 

 次に操作方法にも制約がある。

 まず俺にできる物質の操作とは、具体的に言うと指定した場所とその範囲の内での指定した物質の濃度調整と分解・合成である。

 本当にそれ以外の操作はできない。できるのは、場所と範囲と物質を指定してその中で変化を起こすことだけだ。

 合成・分解も操れる物質の制約との絡みか、大気に存在しない物ができてしまう操作はできない。たとえば水蒸気(H2О)を分解して水素と酸素は作れるが、二酸化炭素(CО2)を分解して酸素と炭素は作れないって具合だ。

 もう一つは、同時に操れる物質は二つまでというもの。これについての理由は仕様ですとしか言いようがない。

 なぜかはわからないが、三つ以上の物質を操ろうとすると二つめの操作は無効化されてしまう。

 修練を続ければその制限も上限が上がるかもしれないが、それも可能かよくわからない。

 

 うん、お前の能力って最強すぎるから、ある程度縛り付けとくよって感じだろうか。

 そんなに完全なチートが嫌いなのか、ここの神様は。

 

 でも、これだけ縛りがあっても恐ろしいほどの殺傷力を秘めた能力であることは確かだ。

 例えば、酸素や二酸化炭素、一酸化炭素を使った制圧や殲滅。

 酸素、二酸化炭素、一酸化炭素は、正常な空気の中では人体に害はない物質だ。だが、その濃度が変わるだけで猛毒に変化する。俺の能力を使えばこれらの濃度を意図的に弄り、低酸素症や酸素中毒、二酸化炭素中毒、一酸化炭素中毒といった中毒症状を対象に引き起こさせ昏倒させることができるんだ。

 しかもやろうと思えば濃度調整の匙加減一つで人を殺せてしまう。こうした中毒は、呼吸器や脳など生命活動に深い関わりを持つ器官へ大ダメージを与えるからだ。

 特に一酸化炭素中毒なんかは手遅れになるまで自覚症状がほとんどでないっていう凶悪な仕様。

 聞いたことはないかな。毎年冬になるとストーブの不完全燃焼とかで発生した一酸化炭素による死亡事故とか結構起きているんだよ。周囲に一酸化炭素が増えていることに気づかないまま吸い続けて、そのまま意識を刈り取られて逃げられず死んでしまうんだってさ。

 これを応用すれば、こっそり敵の周りの一酸化炭素の濃度を上げていき、静かに戦闘も起こさず殲滅してしまうなんて芸当も可能だろうな。

 この使い方は、結構暗殺に向いているかもしれない。

 

 じっくりゆっくりした攻撃ではなく、対象にすぐ大きなダメージを与えたいならば、それこそ今日試そうとしている焔の錬金術だ。

 焔の錬金術の仕組みは、対象物との間の酸素濃度を調節し、宙を舞う可燃性の塵(塵が殆どない場所では水蒸気から引っぺがした水素)を導火線に発火布で出した火花を伝わせて爆発炎上させるというもの。

 俺の能力なら、錬成陣がなくとも点火源さえ確保すれば再現可能だ。

 対象物の周辺の空気に大量の水素を混ぜ込んで爆発力を上げるなんてこともできる。

 さらにその辺の酸素と水素が材料だから弾切れはなく連射が可能。得られる攻撃力は十分すぎるほどだろう。

 白兵戦に有効なのはもちろんだが、戦場に出たらもの凄い戦略兵器になれてしまうぞ、これ。前線に俺が一人投入されるだけで、大砲や火炎放射器十数門分くらいの大火力が唐突に出現するんだ。敵に及ぼす被害もさることながら、戦意をかなり挫けるだろうし、戦局をひっくり返せる可能性すら出てくる。

 本当に最強にして最凶の錬金術だって言われるだけはある。

 まあ、雨の日は導火線が湿気っていてうまく確保できず発動がほぼ不能になるが、それは置いておいて。

 

 やっぱりこの焔の錬金術が俺の主力武器になるだろう。

 俺がロイだから、という先入観もあることにはある。だが、それだけではなくて戦闘に非常に有効だと思える決め手があるんだ。

 それは、大きな攻撃力、派手な効果、発動の容易さ。どれをとってもわかりやすくていい。わかりやすいということは、他者へのアピールになる。

 俺が焔の錬金術を駆使して戦っていたとする。対峙している敵は、よっぽどのことがない限り俺が炎使いか何かだと勘違いするだろう。そして、焔の錬金術での攻撃に意識を向けて対策を練ってくれればしめたもの、能力を使って他の物質を操って敵を落とすことができる。

 つまり卑怯かもしれないが、隠し玉として酸素・二酸化炭素・一酸化炭素での絞め落としを使うんだ。派手な焔の錬金術ならば隠れ蓑に最適だ。

 そういう方向で中将との話も進んでいる。

 こうしたいんですがどうでしょうって相談した時に、君えげつないねって言われたけど気にしない。

 

 

 

 さあ、そうこうしている間に訓練場に到着。

 せっかくだし、はじめては気持ちよくドカンと一発かましてみようか!

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 訓練場のあたりがなんだか騒がしい。

 わらわらとどっから集まったのか知らねェが、結構な人だかりができているのが目に入る。

 何があったってんだ、気になりつつも脇を通り過ぎようとした時、ふいに人だかりの中から聞こえてきた単語に足が止まる。

 

「ロイ……」

「……あの二年生の…」

「…能力使うって……」

「……危ないらしいぞ」

 

 ロイが能力を使う?

 それで危ないらしい?

 確かにあいつの能力は扱いが難しく、一歩間違うと味方や自分にまで被害を及ぼす難儀なもんだが。

 使う、ということは何かしらの技を発動させるってことだろうか。効果の出る範囲のでかい技でも使うから、下手によると巻き添えを食うってことか?

 あの変に人を心配させやがるチビのことと聞いてしまったら、妙に気になってしまった。

 仕方なしに様子を見に人だかりの側に寄ると、見慣れたオレンジ頭とピンク頭が揃っているのを先に見つけてしまった。

 

「おい、お前ら何してんだ」

「あ、スモーカーか」

「貴方も野次馬に来たの?」

 

 無理矢理人混みを掻き分けてドレークとヒナの下に近づく。野次馬という言葉が少々気に障るが、まあ今の状態を言い表すには的確な表現なので黙っておくことにする。

 二人は人だかりの前付近にいた。

 

「ロイ君が能力を使った技を試すんですって」

 

 ヒナの指差す先に目を向ける。

 訓練場の縁のあたりに、ロイとやけにひょろっとしていて馬鹿でかい将校、多分ロイの修練の担当教官だろう、が立っているのが見えた。

 今は何か話し合っているようだ。

 

「どんな技を試すんだろうな? 訓練場にいる生徒は全員追い出されてしまったんだ」

「見るなら距離を取って見るようにまで言われたのよ」

「……なんだそりゃ」

「すごく危ないんだと。巻き込まれたら死ぬかもしれないらしい」

 

 興味津々といった体で訓練場の中を覗き込んでいるドレークの言葉に眉を顰める。

 危ねェの程度がおかしくねェか。なんだよ、巻き込まれたら死ぬかもしれねェって。

 ロイの方を見るが、別段普段と変わらねェように思う。

 いったい何が危ねェってんだろうか。

 話し終わったのか、教官の将校がロイの側から離れて後ろに下がった。どうやら始まるらしい。

 教官が十分に離れたのを確認したのか、ロイが前に向き直る。

 そうして腕を前方へと突出すようにした。遠目にだが、出された手が白い物で包まれているように見えた。

 あれは、こないだの休みにあいつが買ってた手袋か? なんとかって特殊な布で作ったとか言ってた……。

 

 ロイの手の先をよく見ようと目を凝らそうとした瞬間、近くで大砲をぶっ放したより酷い、鼓膜を蹂躙するような爆音が響き渡った。

 同時に視界に強烈な光が叩きつけられ、思わず光から逃れようとして目を瞑る。

 悲鳴やらなんやら周りから漏れる声が聞こえた気がしたが、耳が痛くてそれが本当に聞こえたものか分からなかった。

 冬場に似合わない焼けるような爆風が止んだ後、ようやく目を開ける。

 土煙が濛々と立ち上り、土くれと焼け焦げた嫌な臭いが漂っている。すこぶる悪い視界が広がる中、何が起きたのか確認しようと必死で見まわす。

 

 ロイの奴はどうした。

 何が起きたんだ。

 何をあいつは起こしたんだ!

 

 ようやく薄れ始めた土煙の先に、ロイの姿を認める。

 ペタリと後ろの方に尻餅をついた形で座り込み、遠目にも蒼いとわかる顔でさっきと同じ方向を凝視していた。

 後ろにいた教官の方に目をやると、こちらも同じ方に顔を向けていた。

 

「あ……」

 

 少し耳鳴りが治まってきた耳に、息を飲むドレークの声が聞こえた。

 ドレークもロイの視線の先を見ている。何があるのだろうか。その視線を辿っていく。

 そして、言葉を失ってしまう。

 

「なんだ…これ」

 

 

 

 数秒前まで広がっていた訓練場の風景が、大きく変わっていた。

 どこまでも均等に均されていたグラウンドのど真ん中に、突如巨大なクレーターが出現していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ロイは力加減を間違えたもよう。


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第5話 知らないところで転がりはじめる

この人たちもまだ若い


 クザン中将、ご存知ですか、と何人もの部下が報告してきた。

 海軍本部内で、妙な噂が流れているって。

 

 

 曰わく、今朝マリンフォードを騒然とさせた爆音は士官学校の訓練場で起きた大爆発のものだ。

 

 曰わく、グラウンドを抉り巨大なクレーターを刻んだそれを起こしたのは一人の士官候補生のようだ。

 

 曰わく、その士官候補生はボルサリーノ中将が面倒を見ている悪魔の実の能力者らしい。

 

 

 ……全部本当なら、めちゃくちゃ大事じゃないの。

 そういえば、ボルサリーノ、昼ごろにコング元帥に呼ばれてたな。

 士官学校の校長と教官数名が珍しく本部にいるのも見たし。

 噂はガセじゃないってことか?

 あいつの担当してた学生ね……西の海から来たあの子のことだろうな。

 ロイ君、だっけ。

 去年の夏くらいにチラッと見かけたことがある。ボルサリーノの後ろに縮こまって隠れてた小さな男の子だ。

 あの子の能力ってそんなに凶悪な攻撃力を持ってたのかな?

 ボルサリーノの奴、捕縛と制圧が主体になるんじゃないかって言ってたんだけれど、使い方次第で化けちまったってこと、か。

 

 ……気にかかるね。

 海賊王が処刑されてこの方、海賊は増加の一途を辿っている。

 力のある奴ない奴、有象無象が一斉に海賊王の最期の言葉と時代の熱に浮かされて、力任せに欲望のままに海を荒らしているんだ。取り締まりを強化しているんだけれども、こちらを叩けばあちらで暴れ、あちらを抑えればそちらが蹂躙され、とイタチごっこの様相を呈してやがる。

 人手不足は慢性化しつつあり、借りれるもんなら猫の手でも借りてぇのは否定できない海軍の実情だ。

 最近は革命軍だとかいう連中まで現れ、不穏な動きを見せているしな。こっちに対応する戦力も欲しがられてきている。

 

 こうした状況下で、圧倒的で広範囲に及ぶ攻撃力、敵をいとも簡単に無力化できる力を持つ者が現れたら?

 ましてやそれが海上でも、陸上でも、集団戦でも、白兵戦でも、あらゆる場所や対象に有効な能力であるならば?

 

 断言できる。

 こんな状況にこんな能力者、今すぐにでも欲しいと思うやつは、この海軍には山ほどいると。

 特にあいつや、あいつに近い連中は必ずロイ君に目を付ける。

 そして主張するだろう。即実戦に投入すべし……絶対正義の実現のために、ってな。

 主張を通した後は、無理矢理士官学校を繰り上げ卒業させて、准尉任官。そのまま前線や激戦区に連れて行って、ひたすら悪を焼き尽くさせるってとこだろう。

 ただひたすら、ロイ君は悪を滅ぼすためだけに力を揮わせる。そのためだけの人間兵器となることを強いられる状況に置かれ続ける。

 そんな中で、彼はいつまで自分を保てるかな?

 殺せと言われれば、どんな相手でも、どんな場所でも殺さなければならない。自分の意思など無視されて、正義の名のもとに命をひたすら刈り取るばかりの毎日で、十六の少年は心を死なせてしまうんじゃないだろうか。

 

 うん、ゾッとしねえ未来だな。

 海賊を始めとする悪を打ち倒すために力を揮うって点は否定しないが、だからと言って1人の少年を兵器として扱うってのがいただけねぇ。

 確かに黙って軍の望む通りに敵を薙ぎ払う海兵はさぞ使い勝手がいいだろう。

 そんな海兵を手に入れるために、士官候補生を1人精神的に殺しちまうことがはたして正しいことなのだろうか。

 それは味方を殺すような真似じゃあ、ないのか。

 

 まだ、そうと決まったわけではない。

 けれども、そうなる可能性は高いだろう。

 良いか悪いかは別として、気分が良くない結果になるとわかっているから、できれば止めたいと思う。

 俺が口を挟んで少しでも回避する可能性があるのならば、とボルサリーノの執務室まで来たんだよ。

 直接ロイ君を指導してるあいつを説得して味方に付け、反対すればどうにかなるはずだ。

 ま、あののらりくらりとした男を説得できる自信はあんまりないんだけれどね……。

 

 

「ボルサリーノ、いる?」

 

 勝手知ったる同期の部屋だ。ノックをして、声を掛けつつドアノブを押す。

 開いたドアの向こうには、部屋の主と、いてほしくなかったフード野郎がソファに向かい合って座っていた。

 こちらを向いたサカズキと一瞬目が合ってしまう。

 思わず、眉間に皺が寄ってしまう。サカズキの方は、不機嫌そうに目を逸らした。

 やっぱりこいつ、来てやがったのか。俺は出遅れちまったのか。

 

「あれェ~クザンじゃないのォ。もしかして用件は君もロイ君のこと~?」

「……君もって、そこのサカズキの用件もそうだったわけ?」

「うん、そうだよォ。ちょ~ッと待っててねェ」

 

 もう話は終わるから座ってなよ、と変わらぬゆったりと間延びした口調で勧めるボルサリーノに従い、不本意ながら彼の向かい、サカズキの横のソファに腰掛ける。

 話が終わる、やっぱり出遅れちまったのな、畜生。

 やり場のない気持ちが、舌打ちという形で小さく出てしまう。

 フードの奥から、少し苛立った視線が放たれたが、気になどしてやるもんか。

 

「サカズキ、そういうわけだからァ~了見してくれないかい?」

「……」

 

 話の続きをボルサリーノが始める。

 不満なのかなんなのか、サカズキは黙りこくったまんまだ。

 どういうこと? サカズキの不満に思うことでも起きたのかね?

 いつまでたっても続く言葉を出さない2人。室内の空気が、重苦しく強張っているのに今頃気づかされる。

 手元に用意されていた湯呑に、ボルサリーノが口を付けた。ゆっくりと中身を飲み干して机に静かに戻した時、その表情を見てぎょっとする。

 いつもの貼り付けたような笑顔が、なかった。

 

「……ロイ君の繰り上げ卒業は、わっしが認めない。元帥から同意するって旨の言質も取ってあるから諦めなァ」

「……そうけ、わかったわ」

「じゃあ話すことはもうないねェ~」

「そうだな、邪魔したのう」

 

 サカズキが隣から立って出ていくまで、俺は動けなかった。

 とりあえずロイ君の繰り上げ卒業は回避されたのはわかったけれども、俺が来る前にそれがなされちまったってのが驚きだった。

 これってボルサリーノが、ロイ君を自主的に庇ったってことになるのか?

 一介の士官候補生にここまでこいつがやるなんて、今まであったっけな。多分、なかったと思うんだが。

 

「どういうこと?」

「ん~何が?」

「お前にしちゃ珍しいことしたなあと思ってね」

「そうかな? ま~、ロイ君は良い子だしねェ。わっしも、気に入ってるからさァ」

 

 俺の茶を手ずから注いでくれている同期は、肩ごしにそんなことを言う。

 気に入ってるか、ますます珍しいね。

 

「良い子なんだ?」

「そうだよォ、聡くて臆病で、真っ直ぐな子なんだァ。一生懸命修練にも励んでくれるしねェ」

「へぇ、本当に気に入ってるのね」

「もちろんさァ~彼の臆病なところが特にねェ」

「臆病なのって、そりゃまたどうしてさ」

「自分の力にまで怯えるから、きっと驕ることはない。強すぎる自分に箍を掛けて適切な行動を心掛けてくれるし、周囲への注意を行き届かせることができるからさァ」

「指揮官向きってこと?」

「そうそう、繰り上げ卒業に反対したのもねェ~ちゃぁんと士官のなんたるかを学ばせた方が良いと思ったからねェ」

 

 ただの人間兵器にするには惜しい子だよ、と言いつつ差し出された湯呑を受け取る。

 一口だけ口を付けて向かい合うボルサリーノを見れば、さっきと違って笑ってやがった。

 作ってない笑顔だな、そんな珍しいことしちゃうくらいロイ君のこと可愛がってるってわけね。

 

「……何でそこまで肩入れしてあげるわけ?」

「気になるかぁ~い?」

 

 自分用に新しい茶を淹れ始めた彼に、一番気になる疑問をぶつけてみる。

 やっぱり、これはロイ君を気に入っているってだけでは説明しきれていないと思う。

 気に入ったと言うのは本当かもしれないが、それ以外の計算や意図もあるのではないか、そう勘ぐってしまう。

 気になる、と頷いてみせると、ボルサリーノはにっこり笑って答えた。

 

「内緒だよォ」

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

「日が暮れる……」

 

 鮮やかすぎるほどの夕陽が放つ金朱と夜が連れてきた濃藍が入り混じる美しい空を見上げる。

 冬って日暮れが早いな。

 さっき十六時を告げる鐘が鳴ったところなのに、もう太陽が水平線の向こうにさよならしてらー。

 

 午前中に焔の錬金術もどきを試した。

 広い訓練場で、周りから人を遠ざけて、グラウンドの中心に目印の石を置いて、きっちり被害が他人に及ばないよう注意してだ。

 

 結果は大成功。

 

 狙った場所に酸素と水素を望む通りに展開できたし、発火布の火花もちゃんとそこまで行き着いて爆発してくれた。

 でも、力加減っていうか、思いっきりやってみたら、どうも酸素と水素を多めに撒いちゃったようだ。

 うん……大成功させ過ぎた。失敗じゃない。思っていたより、うまく大爆発が起こってくれちゃっただけだ。

 グラウンドのど真ん中から直径三〇〇メートル程度、抉り取ってクレーター作っちゃっただけなんだ。

 本当にそれだけなんだよって、言い訳になってないですか……?

 

 

『壊したものは自分で直さねェとなァ~、頑張んなさいよォ』

 

 

 試し撃ちの後でボルサリーノ中将に野次馬してた生徒たちと一緒に訓練場の整地を命じられた。すっごくいい笑顔で俺の頭撫でながら、子供に言い聞かせるみたいに。

 しかも何か言う前にピカッと光になってどっか行っちゃったんだ。

 おかげで俺一人で校舎から慌てて出てきた教官たちに事の次第を説明したり、整地を一緒にしろって命じられたいつもの三人を含む野次馬どもに謝り倒したりしなきゃならなかった。

 あの人俺の担当教官なんだから、学校の教官たちへの説明くらいは付き合ってくれてもいいんじゃないか?

 

「オイ、なに黄昏てやがる。とっとと手ぇ動かせ!」

 

 思いっきりイラついていることが丸わかりな怒声が、隣でトンボ掛けしているスモーカーから飛んでくる。

 こいつに怒鳴られるの今日何回目だろ? 十回から先数えてない。

 きっと終わった後にも寮で試し撃ちの詳細をドレークと一緒に根掘り葉掘り聴取されるな。それからそのまま説教されるんだろう、危ないことするなら十分気を付けてやれとか、人に迷惑をかけるんじゃないとか。

 あいつらが俺の友人兼保護者やってるって自他ともに認識される節があるんだよ。一応俺、あいつらより精神年齢だけは十歳以上も年上なんで、お兄ちゃん二人と弟みたいな扱いが少々不満だ。

 

「ああもう! 何でこうなったァァー!!」

「ロイィィっ! 聞いてンのかコラァッ!!」

 

 ちょっとした怒りと悲しみを込めて叫んだ俺の後頭部にスモーカーの拳骨が決まったのは、約二秒後だった。

 

 たんこぶできたよ。超痛い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




知らないところでロイは赤犬にロックオンされた模様です。

三大将の関係、海軍の内情、いろいろ捏造してます。
人間2人集まると派閥ができるってことです。
赤犬好きな方ごめんなさい。


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第6話 南の海にて前編

今回はロイ、現実を知るの巻前編。


 こっちにやってきてから、もう二年近い。

 俺ことロイは無事に二度目の進級試験に合格し、ようやく2回目の夏季休暇を迎えることに成功できた。バンザイ!

 

今回の試験も正直しんどかった。座学や訓練や演習は年を追うごとに厳しくなるもんだから、付いていくのが大変で大変で。

 元々の俺は文系でロイはどうも理系が得意だったから、どうにかこうにか座学は両方の知識と頭脳を総動員し、中の上と中の中でフラフラしながら無難にクリア。

 ただ、問題は実技だ。艦上作業や銃器の扱いはともかく、白兵戦の訓練は死にそうだった。

 学年一小柄な俺vs.理想的な軍人体型のドレークとかいう対戦はザラなんだぞ?

 最初は本気で勝てる気がしませんでした。だって、見上げるほどのマッチョがものすごいスピードで攻撃してくるんだ。もう避けるので精一杯。二分も掛からずホーイと投げ飛ばされて地面に這わされるとか、毎日の話だった。

 

 これには能力者といえども、あまりにもダメすぎると危機感を抱かされた。

 それで六式とナイフによる接近戦格闘術の訓練を付けてもらうことにしたんだ。最低でも接近された時に自分の身は自分で守れる程度の力は付けておくのを目指してね。

 必死で取り組んだ結果、六式は剃、月歩、紙絵を無事に習得できた。

 何で攻撃技を習得しなかったって? それは、俺には焔の錬金術や空気中毒技があるからだ。指銃や嵐脚より攻撃力も発動スピードも上の攻撃できるんだしそっちに比重を置いている。そもそも俺の真価は能力を使った攻撃なんだ。

 鉄塊は訓練を始めて早々に習得を諦めた。直接攻撃を受け止めるって、めちゃくちゃ怖かった。怖い思いするくらいなら当たらないようにした方が断然マシだと思って、剃とかの方に重点を置いたというわけだ。

 ナイフはほぼ急所を狙う一撃必殺系の技を磨いている。刺して相手を動けなくし、追ってこないようにして逃げるためだ。合理的だろう?

 

 逃げてばっかりと言わないでほしい。

 ちゃんと敵に攻撃をして、近づかれたら尻尾巻いて逃げてまた遠距離から攻撃するんだ。如何なる状況でも戦略的撤退を成功させるための技術を磨いてるってだけなんだ。

 ようやく最近では、こうした訓練が功を奏して何とか白兵戦の模擬戦も無難にこなせるようになった。学年の半分くらいには素手で勝てるようになり、試験にも無事合格できる程度にはモノになってきてる感じだ。

 ま、同室のお二人さんにはいまだに勝ててないが。ドレーク相手に引き分けに持ち込んだのがせいぜいで、いまだスモーカーには五分以内に沈められている。あの煙野郎、強すぎだ。

 

 ……別に悔しくなんかない。俺が能力を使えば、まだ能力者じゃないあいつら相手になら有利に戦えるからさ!

 

 

 

 

 

 さて、近況はここまで。

 現在の状況について話していこう。

 今俺は、ボルサリーノ中将と一緒に軍艦に載って南の海を航海中だ。

 夏季休暇初日に寮でゴロゴロしていたら、急に中将が部屋に来たんだ。

それでさ、「ちょっと職場体験しないかい?」ってニッコニコ笑いながら言い出すんだ。

 あんまりにもあんまりに唐突な登場とお誘いに唖然としてしまった。

え、職場体験? 職場体験って何それ、そんな中学校の社会科の行事みたいなもんあったっけ??

 驚きすぎてはいとも何とも言えないまま、ハッと気が付けば部屋から担ぎ出されていた。

 うん、文字通り担ぎ出されていた。俵担ぎにされて士官学校から運び出されたよ。一緒に部屋で寛いでいたドレークとスモーカーにも、廊下や訓練場にいた教官や生徒たちにもドナドナされる子牛を見るような目で凝視されながら。

 そのまま港に直行して艦に放り込まれて、ようやく少し落ち着いて甲板に出たらマリンフォードから結構離れていた。

 それだけでも予想外の出来事なのに、帰港できるのは二週間後だとか。

 ちょっと待って。この夏は遠く西の海の叔母さんに会いに行こうかと計画していた。士官学校の夏季休暇は大体一ヶ月で、故郷の島まで大体片道一週間で、往復なら二週間。完全に帰省は無理じゃないか。

 ロイが出ていって一人で暮らしている彼女に顔を見せてあげるのも大事な孝行だってのに!

 

「そいつァ残念だったねェ~また次の休暇で帰るといいよォ」

「はい」

「便箋あげるから、叔母さんには手紙書いてあげなァ~。何にもしないより喜ぶんじゃねェかァ?」

「お心遣い、ありがとうございます」

 

 海軍オリジナルの青い便箋を渡してくれる中将に向けた俺の笑顔が僅かに引き攣っていたのは、この際仕方のないことだと思う。

 このオッサン、出会ってからこの方、俺を振り回し過ぎだろう。そういうのって、ガープ中将とか青雉辺りの役割じゃないのか。

 でも、悪い人ではない。

 学生の俺に対して、振り回す代わりに懇切丁寧に指導してこまめに相談にも乗ってくれる。フリーダムに見えて案外面倒見がいいんだ。加えて仕事をきちんとこなすってことも今回艦上の業務を側で見学していて良くわかった。その姿勢はワンマンでもなく、丸投げして責任だけ取る方式でもない。部下の人たちともちゃんと言葉を交わしながらことを進めている。自分がやるべきことはやり、任せるべきところは任せ、ちゃんと監督して部下の手に余れば手を差し出す。艦内の気が張りつめ過ぎた時は、適度にとぼけたところを見せたりしてガス抜きしている。

 あれ、ボルサリーノ中将って、理想の上司じゃないか。強くて面倒見が良くて、ユーモアもありちゃんと仕事もしてくれるって、一緒に仕事がやりやすい良い上司だろう。

 学校の中ではなかなか知ることのできない中将の姿を見て、その人物評価を上方修正しておいた。ちょっとだけだけど。いまだに読めない行動や思考が少し不気味だし、ふいに振り回してくるところが困りものだから信用しきれない。どうしたものだろうか。

 

 

「ボルサリーノ中将、失礼いたします」

 

 航海中の俺の学習日程について中将と話し合っていたところに艦長である大佐が入室してきたのは、出航2日目、カームベルトを越えてしばらくした午後だった。

 正義の文字が入った白コートをスーツの上に羽織って『MARINE』のキャップを被る、如何にもONE PIECEの海軍将校といった雰囲気を持つ大佐が、中将にピシリとした敬礼を向ける。

 

「報告します。先ほど見張りの者が、不審な船影を発見いたしました。海賊旗は上がっていませんが、船の形状などから海賊であると予想されます」

 

 海賊船発見!

 海賊船と遭遇するなんて初めてのことかもしれない。ビリッと緊張が背筋を駆け上って、心臓が少しだけ早くなる。

 海兵になったらそうそう珍しい事態でもないんだろう。大佐も中将も落ち着いている。馴れないでビクついているのは俺だけだ。

 どうなるんだろうかと中将の方を見る。目があったら、ニコッと小さく笑いかけられた。

 

「おー…ちょうどいいねェ。とりあえず職務質問のための停船命令出しといてくれないかい?」

「ハッ、直ちに」

「わっしもロイ君連れて甲板に上がるからよろしくねェ~」

 

 見学に組み込むつもりなのか。海兵の代表的職務を知る絶好の機会だもんな。見ないって選択肢はないか。

 停船命令から追撃、それから捕縛かその場で討伐って感じかな。どう艦内が動くか、どういう対処がなされるか、それを実地で知ることができるなんて滅多にない。艦上勤務と事務処理の科目ですごく役立つはずだ。俺って運が良いかもしれない。

 

 

 大佐が退室した後、中将の後ろにくっついて戦闘要員の海兵が揃った甲板に上る。

 揃いの白い海兵服に身を包んだ一般兵と正義コートをはためかせる将校たちが、一斉に中将へ敬礼をする中を足早に歩く。ちょっと張りつめた空気と俺に向けられた好奇の視線が肌を刺激しピリピリするような気がした。

 船縁の近くには大佐と中将の副官の大尉がいた。

 

「不審船はどこだい?」

「1時の方角、約五〇〇メートル先であります」

 

 中将と大佐の会話を聞きつつ、大尉が貸してくれた双眼鏡を覗き込む。

 えっと、一時の方角……あ、見つけた。一見民間船くらいの大きさと船装している船がぽつんと浮かんでいた。報告通り海賊旗は上がっていない。だが自衛の武装にしては大砲が多く装備されているように見える。うん、怪しい船だ。たぶん海賊船なんだろう。

 そうそう、こっちに来て知ったんだが、海賊はいつでも海賊旗を掲げているものではないそうだ。

 原作のルフィみたいに常日頃堂々とあげている奴はもの凄く少ない。普段は隠して海軍の目を逃れたり、狙う船や街に海賊と悟らせず近づいたりするために隠す奴の方が圧倒的多数だ。その代わりに名を売りたい時、誇りを掛けて戦う時は堂々と掲げる。普段は隠してここぞという時に掲げるのが海賊旗、ジョリーロジャーらしい。

 この船もそうなんだろう。って、なんかあの船、急に遠ざかろうとしてないか。

 

「報告します。不審船は停船命令を無視。逃走する体勢にあります」

 

 あ、やっぱり逃げるのな。海賊船確定だ。

 停船命令の手旗信号を送っていた通信兵の報告に、じゃあこれから追跡かと次の艦内の動きを予想しながら双眼鏡から目を離す。

 大尉にお礼を言って借りていたそれを返し、中将を見上げる。双眼鏡を覗き込んだまま指示を出していた。

 

「あ~仕方ないねェ~追跡するよォ。ここからじゃ砲撃も当たんねェもんなァ~」

「ハッ。総員配置に付け、不審船追跡を開始する!」

「「「Aye,Sir!」」」

 

 中将の意を受けた大佐の命令に、搭乗員全員がバタバタと各々の所定の位置に付く。一分も掛からないうちに、軍艦はその航行スピードを上げ始めた。

 さすが中将座乗艦ってところか。戦闘だけじゃなくて航海に関しても本当の精鋭揃いなんだろう。

 多分民間船を改造したであろう海賊船と海軍本部の精鋭軍艦じゃ勝負は見えているというものだ。

 幾らもしないうちに距離は詰まり、こっちの大砲の射程距離に十分入るところまで迫った。目をよくよく凝らせば、なんとか海賊船の上で動く人影が見えるほど近い。

 あっちの甲板の上では慌てたように武器を持った人間が走り回り、大砲がこっちに向けられつつある。逃げ切るのを諦めたみたいだ。返り討ちにするつもりなのか、勝てる気なんかなくてやけっぱちなのかはわからないけれども。

 さぁ、次は砲撃開始か。直接海兵が乗り込まなくても、砲撃だけで沈むと思う。あの程度の船なら、本部の大砲と砲手の手に掛かれば簡単に海の藻屑だろう。

 あ、今2度目の停船命令と武装解除命令を無視したな。しかも大砲撃ってきた。こっちに届いてないけれど。

 海賊の皆さん、御愁傷様。撃沈確定だ。

 

「おーい、ロイ君」

 

 間延びした、いつも通りのボルサリーノ中将の呼びかけに、我に返って海賊船から視線を外す。慌てて横を見れば、中将が俺の方を覗き込んでいた。

 

「ここらで一つ、能力使用の実地訓練やろうかァ?」

 

 ニコニコといつも通り笑って中将が言う。

 大きな手のそれ相応に長い指が、ひょいっと海賊船の方を指し示す。

 

 

「あの船をォ~沈めてくれねェかい」

 

 

 その口調はまるで、そこの書類取ってよ、と頼むみたいに軽かった。

 何の気負いもなくあまりにも自然な様に思わず、「Aye,Sir.」といつものように答えてしまいそうになる。

  

「あー…いつものあれでいいよォ、ここからなら十分届くよねェ~」

 

 いつものあれとは、焔の錬金術の再現技のことだ。

 冬に訓練場を吹き飛ばしたあれならば、あの程度の海賊船を沈めるだけの威力なら簡単に出せる。距離も問題ないだろう。十分届かせる自信がある。

 あれから制御の訓練に力を入れてきたから、それなりに威力も効果範囲も射程距離も思うように操れるようになったんだ。

 海賊船を沈めてしまうなんて、俺には造作もないことだ。

 能力上では、な。

 

「沈める、んですか?」

 

 喉から思ったように声が上がってこない。

 無理に出したら、無様に掠れて萎びた言葉しか出なかった。

 俺が沈める。

 俺があの人間が乗っている船を沈める?

 砲撃ではなく、俺自身が能力で手を下す?

 腹の奥に、重く気味の悪いものが落ちてきたような感覚を覚えた。

 事が俺の中で現実味を帯びた。そういうことなんだろうか。砲撃で撃沈かな、なんてさっきまで軽く思っていたのが嘘みたいだ。

 

「止める、ではな」

「止めるんじゃァなくてェ~海賊共ごと沈めて欲しいなァ」

 

 煩い胸の内のざわめきを抑えて俺が絞り出した言葉を遮るように、中将が言う。

 いつの間にか手にしていた書類を一枚、俺の方へ差し出す。

 これは、報告書?

 

「あの不審船、いや、海賊船についてこっちで目視確認したことと、近隣支部から提供された情報をまとめた物だよォ」

 

 少し読め、との言葉を受けて食い入るように文面を目で追う。

 あの船は海賊船で間違いなかった。乗っているのは、懸賞金八二〇万ベリーの賞金首『野狐』トレイシー率いる海賊団。

 船長のトレイシーが野狐と呼ばれる通り、狡猾で残忍な性質の海賊団としてこの辺りで忌み嫌われ怖れられている悪党らしい。

 今日も民間船のフリをして侵入した近隣の島で略奪行為を行い、島民を多数死傷。討伐に出た支部の部隊を返り討ちにして逃走した。その途中で俺たちの軍艦と行き合ってしまった、ってところみたいだ。

 

「あれに乗ってるのはァ、今まで散々民間人を蹂躙してきたクズ共。捕まえたとこで縛り首さァ~それならロイ君の練習台になってもらった方が有益じゃねェかァ?」

 

 確かにこれだけ悪行を積んでいるのなら、中将が言う通り海賊団丸ごと処刑台送りは確実だろう。ここで討伐してしまおうが、捕縛して地元の司法組織に引き渡そうが、海賊共の死期が僅かに変わる程度の違いしかない。

 だから海賊ごと船を沈めて死体だけ回収して支部に引き渡すでも構いはしない。その方法が軍艦による砲撃ではなく俺の攻撃でも、相手を確実に始末できるなら構わない。

 

「砲手に命令だよォ、只今よりロイ候補生が海賊船に一撃を入れるまで一切の砲撃を禁じる」

 

 中将の命令に一般兵がほんの僅かにどよめく。

 しかし士官や下士官たちは、変わらず各々の配置について平然としていた。もしかして、こうなることを事前に知ってたのか。

 

「さァ、始めようかァ」

「え……」

「やりたくねェのかい?」

「いえ、その」

 

 腹に落ちた気味の悪いものが、身体の中でぐるぐる暴れている。気持ちが悪くて堪らない。口を開けば何か出てきてしまいそうだ。

 そう感じるがゆえに、はからずとも口ごもってしまう。

 いつも通りの笑みを浮かべたままの中将が、自分でも蒼いだろうとわかる俺の顔を覗き込んでくる。

 

「砲手たちに砲撃させるのは良くてェ、自分が手ェ下すのは嫌なのかい?」

 

 心臓が止まるかと思った。

 血が冷たくなってそこに流れ込んでいく錯覚を覚える。

 

 まさに、わかりたくないけれど、俺の本音はそうだった。

 軍艦からの砲撃で海賊船を沈めると聞いても、その準備を見ても、あまり思うところがなかった。当たれば乗っている人間は死ぬか大怪我をする、人死にが出るものだ、とは理解していた。だがそれでも、映画のリアルな戦闘シーンを見ているような感覚しかなかった。

 撃ったところを見ても、海賊船が沈むのを見てもそのままだったろう。

 いくら近くで見聞きしても、俺が直接引き金を引いたわけではない。ゆえにどこか現実味を感じない、というか、当事者意識が湧かないままだろうから。

 

 だから、お前自身が引き金を引け。命じられて初めてそんな自分に気が付かされた。

 自分があの船を沈める。そう思って改めて海賊船を、そこに蠢く人間を見て愕然とした。

 俺は軽くあの船を沈めることができる。人を殺してしまえる。そのための方法だって考えてきたし、実践するための技術も磨いてきた。

 けれども、実際にあそこに乗っている人間を船ごと焼き殺すことは……できるだろうが、恐ろしくてやりたくないと、思った。

 自分の手で人を殺したくない。自分以外の誰かがやるなら、もしくは考えるだけならそれは別に構いはしない。でも自分の手を染めるは、怖いし厭わしいしやりたくない。

 そんな自分勝手な気持ちばかりが、胸を埋め尽くしている。

 

 

 ああ、腹に落ちたと思った気持ち悪いものの正体がわかった。

 俺の中にある殺人に対する忌避感とか醜い身勝手さとか、そういったもの。それと、そんなもの抱えている自分自身に対する反吐が出るような嫌悪感。

 それらがごちゃ混ぜになって俺の腹に落ちてきたってわけなんだ。

 

 

「どっちが撃っても結果は同じだよォ。早くて玉が無駄にならねェから、ロイ君の方が都合が良いけれどねェ」

「都合が、良い」

「そ~……君の能力は高性能で便利な大砲みたいなもんさァ」

 

 中将の言葉がさらに突き刺さる。

 つまり俺は人間兵器、便利な道具と思われているってことか。

 常人が持ちえない攻撃力を持っている時点で、鋼錬のロイ・マスタングの如く今後軍内で俺は兵器扱いされるだろうなとは予想していた。

 頭では分かっている。所属している組織が軍隊である上、兵器扱いは避けられない。それだけの力を示してしまった以上、それを覚悟していなければならないことも。

 それでも、人間として見られず物として扱われることへの苦痛が無視できない。

 

「早くしねェとォ~海賊共の弾が当たっちまうよォ?」

 

 まごつく俺に中将が催促してくる。

 気が付けば、海賊船にさっきよりも近づいていた。砲弾も当たってはいなかったけれど、わりと近くに着弾してその衝撃が軍艦を揺らしている。

 俺が撃たなければ、軍艦に当たるのは時間の問題だろう。

 甲板を見渡せば、そこにいる人間全員が俺と中将のやり取りを見ていた。

 向けられた視線が、早くしてくれと催促しているみたいに思える。

 俺が一撃入れなければ、この人たちは海賊船に攻撃できないんだ。早く討伐を終えたい、何をもたついているんだと皆思っているだろう。

 高々一発撃てば、後は砲撃なりなんなりできる。万一沈まなくてもいいからとにかく撃て、そういう雰囲気が漂い始めるような気がした。

 一発。そうだ、一発でいい。もし沈まなくても、まだ学生だし言い訳は立つ。

 わざとマストに当ててそれなりに被害を与えるだけでもいいんじゃないか?

 周りの声に出さない催促を感じても、自分に色々な言い訳を自分にしても、撃ちたくない気持ちは湧き上がる一方だ。

 

 逃げ出してしまいたい。

 できませんと叫びたい。

 でも、逃げられはしない。

 畜生、どうすればいいんだ……!

 

 

 

「っわ!?」

 

 

 唐突に、足元が激しく揺れた。

 その場に踏ん張りきれず、揺れと一緒にバランスを崩して滑り、倒れ込んでしまう。

 大きな水飛沫が軍艦の真横から飛び上がって甲板めがけ降り注ごうとするのが視界の端に映る。

 咄嗟に倒れ込んだまま身体を俯せにして、身体で手袋をした右手を庇う。

 背中に海水の冷たさと濡れた不快感、能力者ゆえに海水を被って感じる倦怠感があるが、なんとか右手は濡れなかった。

 濡れた床に右手が触れないよう注意しながら起き上り、いまだ大きく揺れる甲板を見て息が詰まる。

 ついさっきの衝撃は、どうやら海賊の大砲が軍艦を掠めて着弾したみたいだ。

 俺が今いる艦首よりも右手の船縁が一部欠け崩れている。そこから揺れるたびに高く波立つ海水が飛び込んできていた。

 

 次は当たる。確実に当たる。

 

 知らず後退りかけて、後ろ足に何かが引っ掛かった。

 ……嫌な予感はしていた。

 でも、恐る恐る後ろを覗き込む。

 そこには、真っ白な海兵服に身を包んだ三等兵が倒れていた。大きな揺れのせいか、掠った砲撃の余波でか、吹っ飛んで床に倒れたのだろう。

 同じように倒れた海兵の姿を、砲弾の掠った付近に幾つも見つけた。単にこけただけの俺と違い、怪我をしているみたいだった。皆痛そうに顔を歪めているのが見て取れ、低い呻き声が耳に届く。

 

 その瞬間、頭がぼうっとなった。

 息が、動悸が、おかしなリズムを刻み出す。

 頭の中で、色んなものが駆け巡る。

 気持ち悪い、怖い、苦しい、泣きたい。

 中将が何か話しかけてくるけれど、耳に膜が張ったみたいに聞き取りづらい。

 

 答えられないまま、視線を後ろの倒れた三等兵にもう一度向ける。

 同い年くらいの彼の額には、真っ赤な血が一筋。

 流れる先にある目が、薄く開いた。

 目が、合う。

 

 

 今の攻撃で、こうなった。

 俺がもたついたから、砲弾が掠って、軍艦も欠けて。

 こいつも他の海兵も怪我をして――

 

 

 

 右腕が勝手に上がる。

 伸ばした先には、近くなった海賊船。

 そこには大砲を装填している人間、何か叫んでいる人間、走り回っている人間が見える。

 もう何も考えられなかった。

 向けた右手の親指と人差し指を重ねる。

 

 

 鮮やかな朱の焔が、躍る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第7話 南の海にて後編

ロイ現実を知る編、周りの海兵さんの回。


 今にも泣きそうな表情だと思った。

 

 海賊の砲撃が掠った場所の近くにいた新米三等兵の俺は、その衝撃で起こった激しい揺れで飛び散る船の木片や仲間と一緒に甲板の上に放り出された。

 木片か仲間に当たったか、床への転がり方が悪かったか知らないけど、飛ばされたと思った次の瞬間、息ができなくなりそうな痛みが襲ってきた。

 痛すぎて、一瞬意識が飛びそうになるのを堪えて、とにかく目を開ける。目を瞑ったらそのまま起きれなくなるかもしれないって怖い想像が頭の中に浮かんだから、必死で瞼を押し上げる。

 ようやくちょっとだけ開けたら、驚いたことにエリート坊やだって先輩の二等兵が言ってた士官候補生の人が俺を見ていて、その視線が重なった。

 不安になるような真っ黒い目が、じっと俺を見下している。

 血が目に入ってよく見えない。霞んでいるはずの視界なのに、候補生の人の顔だけよく見えたような気がする。

 見る間に歪んでいく俺とそんなに年の変わらなそうな顔だけが。

 

 視線が重なったのは、実際ほんの1秒ほどだと思う。

 よくある話だけれど、物凄く長く感じる一秒の後、奇妙な何かが燃えて焦げるような嫌な音がした。

 

 空耳かと思えるくらい遠く聞こえる音に続いて、大砲の重たい音がズシンと傷に響く。

 続けざまに、撃ち続けられているみたいだ。空気が盛大に震えて止まなくて、吹き付ける風が熱い。傷がズキズキ悲鳴を上げる。

 何が起こっているのだろう。

 必死に音のする方向を見上げる。

 ぴんと伸ばされた士官候補生の腕の先から、あの奇妙な音がしていた。

 白い手袋に包まれた手から、朱色の火がヒラヒラと飛ぶ度に、少し間を置いて大砲の音がして熱い風が吹いている。

 まるで、大砲を撃っているみたいだ。

 

 そういえば、この人は悪魔の実の能力者だったっけ。

 ふとまた先輩の言葉が頭に浮かぶ。

 この艦に乗ってる士官候補生は、お偉いさん垂涎の高い攻撃力を持った能力者だって言っていた。

 人間兵器、なんだとか。

 確かにその言葉は正しいかもしれない。一人で大砲を連発するみたいなことができるんだ。十分兵器って言える強さだろう。

 

 

「ハイそこまで~」

 

 ボルサリーノ中将が、いつの間にか士官候補生の腕を掴んでいた。

 白い指先から飛び出していた火は、もう止まっている。

 腕を掴まれたまま、彼は中将を見上げる。

 そしてゆっくりと、その場に座り込んでしまった。

 それと同時くらいに、先輩や同期が俺を助け起こしてくれた。

 座り込んだまま中将に何か話しかけられている彼の背中を見つつ、ぼんやりと運ばれていく中で思う。

 

 

 人間兵器。人の形をした、兵器。

 

 

 あの人にはなんだか似合わない言葉な気がする。

 だって、大砲は攻撃しながら泣いたりしない。

 あの人みたいに、苦しそうにしたり、怖がったりもしないのだから。

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 朱色の蛍火みたいな焔が幾つも舞い飛んで、嫌になるくらい鮮やかに海賊船を燃やし尽くす。

 

「リーヴィス大尉、これは……」

「すごいですねェ、まったく」

 

 隣で絶句している艦長の大佐殿に相槌を打ちつつ、俺も思わずため息を漏らしちまう。

 砲撃なんかしなくても、あれだけ盛大に燃えれば幾らもしないうちに沈むだろう。

 結果は上々だな。ま、ちっとばかり撃ち込み過ぎな気がしないでもないが。弾みがついて止まらなくなっちまったんだな、ありゃ。

 噂には聞いていたけれど、まったくもって規格外な攻撃力だ。さすがお偉いさん方に取り合いをさせるだけはあるってか?

 

 うちのボルサリーノ中将が出航間際に引っ張り込んだ、士官候補生のロイ君。今は2年生、いや三年生目前か、今海軍本部で一番有名な士官候補生だ。

 中将の能力修練の担当学生で、エアエアの実の能力者。

士官学校の訓練場にでかいクレーターを軽く刻めるほど抜群の攻撃能力を有した攻撃特化型の能力者と評判だ。

 そのおかげでサカズキ中将とその周辺が実戦投入したがって繰り上げ卒業をさせようと動き、中将とクザン中将に阻止されたなんて事件もあったな。

 この中将三人が絡んだ事件で、ロイ君の存在は海軍本部中に知れ渡ったんだっけか。

 その後もその後ですごかった。しばらくしてから中将が繰り上げ卒業を阻止した理由が、ロイ君を気に入っているからだって知れて、囲い込みだってサカズキ中将隊の奴が食堂で文句を垂れていた。で、そこを通りがかったクザン中将隊の奴にどの口がほざくかって言い返されて喧嘩になった。

 結構派手な喧嘩だったから本当に目立ったもんだ。下の方まで名が売れちゃった原因の一つがこれだ。上から下までやり合うくらい欲しがられる人材も珍しいし。

 ロイ君が正式に任官する再来年には、仁義なき争奪戦でも起こるんじゃねえかってのが大方の海兵の予測だ。

 

 本人はいたってごく普通の士官候補生なのにね。

 御大層な尾ひれ背びれをビラビラ付けられた噂ばっかりが独り歩きしているロイ君の実態は、かわいそうなほどに普通の少年だ。

 覚悟してたはずの人殺しや兵器扱いに拒絶反応を示す自分に苦しんで、周りや自分の命が危険に曝されて咄嗟に引き金を引いて、自分がもたらした結果に立ち尽くす。

 新兵、いや、士官学校を出たばっかりの奴の方が近いか。若い新米海兵によくいるタイプだ。特に争いごとが少なかったり平穏が保たれていたりする地域から来た奴に多い。

 あいつらも頭では軍にいると殺戮に手を染めなければならないことを理解して覚悟している。そのくせに、いざ直面すると今のロイ君のようになる。

 たぶん、平和な場所で生まれ育ったから、高い倫理観や潔癖さとか人として上等な価値観を深い所まで刷り込まれているせいだと思う。

 それは真っ当な世界で生きていくなら何の不都合もない美点だろう。けれどもその真っ当を守る海軍では、大きな欠点でしかない。そんなもん親の腹に忘れてきたような連中を相手にするんだ。こっちも相応の価値観でぶつかるしかない。

 ゆえに海兵として生きていくため、俺たちはそんな上等な価値観を海の底に捨てちまう。捨てられないと、必要以上に苦しむ羽目になる。人として正しい選択かは何とも言えないが、その方が楽にはなれちまうから捨てることを選ぶ。

 ひっくり返すと、上等な価値観を捨てられるかどうかが海兵であり続けられるかどうかの分かれ目だとも言えるかもしれない。

 捨てられれば、海軍(ここ)で生きていける。捨てられなければ、海軍(ここ)にはいられない。

 現に捨てることができずに退役した奴も知っているだけで両の手に余るほどいる。色んな意味で死んじまった奴らよりは少ないけれど。

 さて、ロイ君はどうなるかね?

 

 

「ハイそこまで~」

 

 これ以上やったら塵も残らないんじゃないかと心配になるほどになって、ようやく中将が止めた。

 中将に右手首を掴まれたまま、ロイ君がその場にへたり込んだ。中将もその傍らにしゃがみ込んで、ロイ君の耳元で何か言い聞かせている。たぶん、今回の命令の目的とかその辺りを教えているはずだ。

 色々限界が近いんだろう。項垂れたまま、顔を上げずに中将の言葉に頷くばかりだ。

 あーもう中将、もっと早くに止めてやってくださいよ。予定よりもロイ君がボロボロになり過ぎでしょうに。

 

「……今日はゆっくり休みなァ、航海中にじっくり悩んだらいいよォ」

 

 ま、一応これで今回の遠征中の目的は一つ達成されたし、今日はここまでってとこかな。

 観察を止めて二人の元へ近づく。

 

「大尉、付き添ってやってくれねェかい?」

「ハッ」

 

 命令を受けて微動だにしないロイ君の右腕を取る。立って歩くように促すと、よろよろと立ち上がり、重たそうに足を動かし始めた。

 脇から支えてやりながら艦内に戻る。扉を潜ってから、少し暗い廊下の途中でロイ君の様子を窺ってきた。

 今にも泣き喚きだしそうな顔してやがる。恐怖とか嫌悪感とかいろんなもんが、心の水嶺線を越える寸前なんだろう。

 

「あー……おつかれさん?」

 

 とりあえず、声を掛けてみる。反応は無し。うん、これ相当キてる。

 

「月並みな言葉で悪ィけどさ、こんなの能力者が任官したら嫌になるほどあるんだぜ?」

「……」

「特にお前さんは目ェ付けられてるし、今のうちにそれを知って悩めるだけマシだって」

「……」

「あ、今回はそれを教えるためにやらせただけだしな。お前が自分の意思でどうしてもやりたいって言わない限り、中将も俺たちも絶対にさせない。信用しろよ?」

 

 これでも返事無しか。今の状態で会話できるとは思ってなかったけれど、フォローのしようがますます狭くなってしんどい。

 しばらく黙ってロイ君に宛がわれた部屋への道程を行く。

 

「……な、海賊船撃ってみて、どうだった?」

 

 掛ける言葉が見つからん。ここは一つ、率直に言ってみるか。

 

「人間や人間が大勢乗ってる船とか焼いたりすんの、今日が初めてだったんだろ?」

 

 目を合わせないまま、訊ねてみる。相変わらず反応はほぼ無い。いや、今肩に添えてやってる手のひらに、心なしか震える気配を感じた。お、脈ありかもしれないか?

 

「どんなふうに感じたり思ったりした? ちょっと教えてくれや」

 

 急にロイ君の足が止まる。その場に氷漬けにされたみたいに動かない。

 無理に動かさず一緒に立ち止まる。

 色の無い目が、下から掬い上げるように見上げていた。相変わらず表情は死にかけだ。

 虐めているみたいで心苦しいな、これ。気まずいわ、馴れねェことはするもんじゃあない。

 でも途中で止めるわけにもいかんし。さっさと続けよう。

  

「怖かった? 苦しかった? 辛かった?」

 

 ロイ君の真正面に立って、虚ろな視線と向き合う。

 

「どうだったのよ? あ、それとも……楽しかったりした?」

 

 俺が言葉を放つのと同時くらいか。

 握りしめられた拳が士官候補生らしからぬ速度で放たれていた。

 でも、俺に止められない速度じゃない。難なく受け止める。

 掴まれた腕が俺の手を振り解こうとめちゃくちゃに暴れるのを後ろ手にひねり上げて、力ずくで壁際に押し付けて抑え込む。

 

「オイオイ、上官に殴り掛かってくるとか……」

「“アレ”が楽しいわけあるか!」

 

 薄暗い軍艦の廊下に、傷だらけの悲鳴が木霊する。

 首を捩って振り返ったロイ君の顔の表情はさっきのように死んでいない。いろんな感情をぶち込んで煮え滾らせたような激情を滲み出させていた。

 

「たった一発で、船も、人も、燃えて、生きたまま燃えて、焼け焦げてく臭いをさせて、恨み言を叫んで、燃えながら私を見て、海に、呑まれて」

 

 叫ぶようにして連ねられた言葉の山が途切れる。

 まだ幼さが多分に残った顔が、遂にぐしゃりと歪む。

 

「一人で、あれだけ簡単に焼いて殺して壊して……楽しいわけ、ない」

 

 手のひらに感じていたロイ君の抵抗する力が抜け落ちる。ガクリ、と項垂れ顔を伏せてしまったせいで、その表情は窺い知れない。

 磨き抜かれた木の床に、さっき被った水飛沫の名残がぽつぽつと零れ落ちていた。

 

「楽しくなかったか」

「当たり前だ」

「そうか」

「そうだ」

 

 それ以上ロイ君の口は開かない。不安定な状態でもぎりぎり語れる言葉が尽きたらしい。

 何とはなしに、自分のコートを頭からひっ被せてやる。

 すっぽりと白いコートに覆われた姿は、守られているようにも、押し潰されそうにも見えた。

 そのまま背中を押せば、また素直に歩き出す。

 二人きりの廊下に下りた静寂に、二人分の足音だけが追ってきていた。

 

「楽しくないのが当たり前って言えるなら、お前さん上等だよ」

 

 頭の辺りに、手を添えて軽く叩いてやる。

 薄く反応があったけれど、拒絶のようなものはなかった。

 すぐに一番右端にある、ロイ君の部屋に着く。ドアの向こうの殺風景な船室に小柄な身体を押し込んでやる。

 

「今日知ったこと、中将の言ったことはな、全部お前さんが抱える現実と問題だ」

 

 ロイ君の振り返るような動作に伴って、被せたコートが滑り落ちる。

 相変わらず悲惨な色をした目に、小さく笑いかけてやる。

 

「ま、せいぜい悩んどけ。今は悩むべき時なんだよ」

 

 制限付きといっても、その答えのない問題に悩むための時間は、たっぷりあるのだから。

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

 ロイ候補生に実戦体験をさせるか否か。

 

 遠征初日、艦長たる大佐の私をはじめとした士官と下士官を幾人か集めての会議の席で中将が持ち出した議題だ。

 規定上、士官候補生は最高学年の最終実習に入るまで戦闘に投入されない。これは能力者であってもそれは非能力者の者と同列に扱うことが原則となっている。戦闘力はあっても精神力が未熟であると、 どちらも似たような程度の戦力にしかならない。だから、最低でも四年かけてとりあえずは両面を鍛えないとまず実戦で通用しないと判断されてこうした取り決めがなされている。

 また下手をすれば、候補生におかしなPTSDを負わせてしまう可能性すらある。そうなっては軍務に就くことができなくなってしまう。せっかくの将来の戦力を早くに潰さないように保護するための規定でもあるのだ。

 全員周知の規定であるから、当然皆反対した。いくら今本部で期待の大型候補生と噂されるようなロイ候補生であろうとも、それは同じだろうと。

 

『でもねェ~……ロイ君の状況で四年生まで待つとか、言ってられねェからさァ』

 

 だがこの時の中将は、代案を出したり出させようとしたりしなかった。とにかく一度だけでもやらせておきたい、と俺たちを説得しようとさえした。

 ほんの半年ほど前、ロイ候補生が有名になったあの繰り上げ卒業騒動は、まだ水面下で続いているのだと言って。

 コング元帥が繰り上げ卒業に同意しなかったことで終結したと思っていたが、ロイ候補生を引き込むことは諦めない人間は、サカズキ中将を含め多かったらしい。彼ら再来年の正式任官の際に自部隊への配属させることを狙い始め、そのために動き出しているそうだ。

 

『下手すりゃロイ君は任官直後から前線行き。これじゃァ~今回繰り上げ卒業止めた意味がないでしょォ~?』

 

 いきなりあの正義を見せつけられるとしたら、その中で人間兵器として戦わせられるとしたら、それはもう正式任官だろうが繰り上げ卒業任官だろうが、ロイ候補生に与える影響はさほど変わらないだろう。

 よほどの人間でない限り、新兵にとって耐えがたい環境と境遇だ。飛び込む前に必ず心の準備が要る。それをやってもなお、あまりの過酷さに打ちのめされる者は多い。

 ロイ候補生は見たところ、少々平和に浸り過ぎている少年。今のまま任官して引っ張られてしまっては、死んでしまうか外れてしまう危険性はかなり高いだろう。

 だからこそ、早めに自分の目の届く範囲内で直面しつつあるそれらについて実践で教え、今から本人に覚悟させておきたい。そう中将は考えているらしい。

 

『それと……ロイ君がどういう反応を示すかも、確かめたくてねェ』

 

 ロイ候補生が命令を受けた時、どうするかについて確かめる。それも今回の実戦体験の目的の一つだという。

 嬉々として撃つか、それとも撃つことを躊躇うか。それに応じてロイ候補生の今後の指導方針を決めたいそうだ。

 前者ならば、以後心配はしない。このまま流れに任せて好きにさせる。

 後者ならば、その後の程度に応じてフォローして今まで通り面倒を見る。

 要はロイ候補生がこのまま手元に置くにふさわしいかどうか考える材料が欲しい、ということだろうか。中将は腹の底を中々見せる人ではないが、少なくともそのあたりが真意ではないかと思う。

 

『つまり、ロイ候補生を試されるので?』

『うん、わっしの読みが当たってりゃァ嬉しいんだけどねェ』

 

 当たっていてほしい中将の読みが何かは知らない。

 そう悪いものではないとは思うが、その確認のために規定を破ってロイ候補生に実戦をさせる必要があるのだろうか。今回の経験で歪む可能性も有るであろうに。

 

『大佐』

『ハッ』

『その時はその時、だよォ』

 

 思考を読まれたらしい。ニッコリとした中将の笑顔に何やら薄ら寒いものを感じた。

 

 

 

 そして翌日、ロイ候補生の実戦体験が行われた。

 海賊船に一撃入れることを命じられた彼は、ひどく動揺し撃つことを嫌がる素振りを見せた。やはり撃てないまま終わるかと思いきや、こちらに被害が出たのを見て攻撃した。味方が傷付けられて反射的に引き金を引いた、というのと同じケースだろう。

 その後は中将が止めるまで悲壮な顔をして焔を舞わせ続け、中将の副官の大尉に連れられ悄然としながら退場。

 その様子に危うさを感じてはいたが、事後処理のために甲板を離れることはできなかった。ロイ候補生の燃やした海賊船と海賊の回収と、こちらの受けた被害の確認と対応などに追われ、一段落させたのがつい先ほど。

 今は中将の執務室において、中将と共に大尉のロイ候補生の様子に関する報告を受けている。

 

「おー…大尉ィ、コートはどうしたんだい?」

「えーっと、ロイ君に貸してきました」

「なら仕方ねェなァ、ロイ君が落ち着いたら返してもらっときなよォ~代わりが要るならわっしの持って行っていいからさァ」

「Aye ,Sir」

 

 軍服をホイホイ他人に貸し与えるのはいかがなものかと思うのは、私だけだろうか。

 ボルサリーノ中将も大尉も揃ってロイ候補生を少々甘やかし過ぎではないかと思う。

 確かに能力者の将校が能力制御の修練生を取ると、その士官候補生に対して愛着が湧き、子や孫、弟妹のように可愛がる例は多い。

 身近で一生懸命な年少者に世話を焼いてやりたい、その気持ちはわかる。気持ちはわかるが、焼き過ぎるのもどうか。一応、今回のような手厳しい方法での指導を選んでもいるから、単に甘やかしているとは違うだけマシかもしれないが。

 

「で、中将ォ、そのロイ君のことですけど」

 

 話題を移す大尉の顔に真面目さが舞い戻ってくる。作戦中に近いその表情にトラブルでもあったのかと自分も聞きの姿勢に入る。

 

「どうかしたのかい?」

「必要だったのはわかりますけど、ありゃやり過ぎです。愛の鞭が利き過ぎてロイ君が虫の息でしたよ」

 

 しかめっ面を見せる大尉に、天を仰いでため息を吐きたくなった。

 多少は心配していたが、この男にそんな顔をさせるほどなのか。

 中将もさすがに困った顔をして、指先で頬を掻いている。

 

「ちょいときつかったかなァ? どういう状態だい?」

「恐怖とか嫌悪感とかいろんなもんで、頭ン中がぐっちゃぐちゃみたいですね。しばらく船室に引き篭もりそうな感じがしますよ」

「立ち直れそうなのか?」

「そのあたりは見当がつきません、大佐」

 

 肩を竦めている場合じゃないだろう、大尉。それは精神的な傷を負った可能性が高い状況ではないか。

 もしPTSDなんて負わせてしまったら、ロイ候補生が軍務に就けなくなる。確実に彼のためにならない。

 

「中将、ロイ候補生は精神にかなりの深手を負っている可能性があります。十分に注意を払われるべきかと」

「そうだねェ~過ぎちまったことだから仕方ねェけど、大佐の言う通りまめに気ィ配ってやってくれる?」

「了解です」

 

 中将も私と同意見らしい。

 ロイ候補生へのフォローを大尉に命じた。おそらく年の近い方が話しやすいだろう。親身に声を掛けてくれる人間がいれば、多少なりとも精神的には良い。悪い方向へだけは転ばないでほしいものだ。

 

 その後細かな対応について少々話している内に、近隣の支部に到着した。

 海賊の遺体と生き残りの引き渡しなどの業務のため、いったん私と大尉は執務室から退室することとなった。

 

「……さっきのことで、唯一の良かったことといえば」

 

 退出する間際、大尉がキャップのつばを弄りながら、ぼそりと呟く。

 

「ロイ君が攻撃して楽しかったと思ってないってことですかね」

 

 じっと中将が、大尉を見つめる。

 おもむろに帽子を脱いで、軽く息を吐いた。

 

「そうかい……なら後は、うまいこと落ち着いてくれたらいいんだけどねェ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第8話 彼らの心配

ロイ現実を知る編。友達三人と副官の大尉さんの回。



「ロイ君がおかしい?」

 

 思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまい、ヒナッ声が大きい、とドレーク君に窘められた。

 

 夏季休暇の折り返し地点を過ぎたある日、こっそりドレーク君とスモーカー君に士官学校の外へ誘われた。

 ちょうど昼から暇だったので二つ返事で承諾して、いつものお店で落ち合ったのだけれど、いつも一緒のはずのロイ君がいない。それだけでも変なのに、二人揃って妙に真剣な顔をしている。

 一体どういうことか分からず戸惑いつつも席に着く。そのまましばらく誰も話さない、居心地も悪い沈黙が落ちてくる。

 あんまりにも気味が悪くて帰りたくなってきた頃に注文したコーヒーが運ばれてきて、ようやくドレーク君が口を開いた。

 ここ何日かロイ君の様子がおかしい、と。

 詳しく聞いていくと、ロイ君がおかしくなったのは、休暇の初日からボルサリーノ中将に同伴して出ていた遠征が早く終わったとかで帰ってきた五日前くらいかららしい。まるで一年生の最初の頃に戻ったみたいに何かに怯えているようで、毎晩真夜中に魘されて飛び起きては寮から抜け出し明け方に帰ってくるのを繰り返しているそうだ。

 

「明らかにおかしいわね……ヒナ心配」

「だろう? 絶対に遠征中に何かあったとしか思えないんだ」

 

 ドレーク君の言うとおりだろう。ロイ君に何か影響を及ぼした原因である可能性があるものは、あの遠征くらいしか思いつかない。

 

「あなたたち、遠征のこと訊いてないの?」

「訊こうにもロイの奴、その話題を持ち出すと煙に巻きやがる」

 

 なるほど、スモーカー君に凄まれても話したくないようなことがあったってわけか。決まりね、ロイ君をおかしくさせているのは、絶対に遠征中のことだ。

 原因の在り処はわかったけれど、ロイ君が遠征中のことを何も話してくれないから、原因が何であるのかわからないまま。

 それで困り果てた二人がわたくしにSOSを出してきたっていうところかしら。

 ドレーク君とスモーカー君を見てみる。どっちも程度には差があるけれど、困ったという雰囲気の顔をしていた。わたくしも二人のことを言えないけれど、ロイ君のことに関しては心配性よね。

 

「何か遠征中のことを聞き出す方法はないかな」

「本人から聞き出すのは無理ね、ヒナ断言」

 

 ロイ君って、滅多なことでは弱みを曝け出したりしない人だもの。

 去年だったかしら。学年末試験の期間に風邪を引いて高熱を出していたのに同室のドレーク君たちにすら隠し通して全日程を終え、試験会場から出た瞬間倒れて医務室に緊急搬送されたの。相当悪くなっていたらしくて、よく我慢していたもんだと保険医の先生に呆れられたほどだった。

 その後お見舞いに行った時に、ロイ君は皆が大変な時期に余計な心配を掛けたくなかったと申し訳なさそうに言い訳していた。

 つまり自分のせいで周りに良くない影響が出ると思うと、弱みを隠して一人我慢してしまう癖がある。

 今回も多分、そのはず。わたくしたちを煩わせたくないとか考えているだろうから、絶対に話してくれないだろう。

 

「方法なんざねえってことかよ」

 

 スモーカー君って本当に気が短い。イライラと睨みつけられて、溜息が零れる。

 

「早とちりしないで、わたくしはロイ君から聞き出すのは無理、と言っただけよ」

「あ?」

「ロイ君以外の人に訊けばいいの」

「……遠征に参加していた誰かに訊く、ということか?」

 

 ちょっとぽかんとしてから、ドレーク君が呟く。

 あら、二人とも目から鱗って感じね。遠征に参加した他の人に訊いてみるって思いつかなかったのかしら?

 でも仕方ないかもしれない。能力者でもなければ教官以外の現職の海兵と親しくなる機会なんて滅多にないし、思いついても伝手がないだろうから選択肢になかったのでしょうし。

 

「話してくれそうな人がいるわ。今から会いに行ってみない?」

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

 昼飯を食って帰ってきたら、客がいると受付のお姉さんが教えてくれた。

 

「おつるさんのとこのヒナちゃん?」

「そうよ、リーヴィス大尉。かっこいい男の子を二人も引き連れて来てるわよ」

 

 大尉のお部屋に通しといたからと楽しげに笑う彼女に礼を言い、割り当てられた副官用執務室に向かう。

 ヒナちゃんか。おつるさんのとこに所属してた時に顔見知りになってたけど、会うのはかなり久しぶりだ。

 確か最後に顔を合わせたのは昇進してボルサリーノ中将の副官に転属する直前だから、もう四ヶ月くらいだっけか。

 

 急にどうしたのだろう?

 転属前に冗談で時間があったらデートしてよって誘ってみたけど、まさかその気になってくれたとか?

 やだ、一六の女の子とデートなんて照れる。未成年相手だし犯罪入ってそうだけど、美少女と仲良くできるって良いかもな。

 ま、野郎二人連れて来ているって時点でありえないだろうけど。ちょっと残念。

 

 部屋のドアを開けると同時に、応接セットのソファに腰掛けていた人影三つが立ち上がる。

 ピンクブロンドの可愛らしいヒナちゃんと、むさくるしい野郎二名がそこにいた。五年前まで来ていた士官学校の夏用制服が懐かしさを覚えつつ、彼らの敬礼に軽く答礼を返す。

 

「お待たせ、ヒナちゃん」

「ご無沙汰しています、リーヴィス大尉。今日はいきなり押しかけてすみません」

「いえいえ、ヒナちゃんならいつ来てくれても大歓迎。ま、立ち話もなんだし座ってよ」

 

 相変わらず綺麗で礼儀正しい子だ。申し訳なさそうにしている姿まで可愛いなぁ、もう。

 応接セットを素通りして、備え付けの冷蔵庫から冷やしておいた麦茶を出す。来客用のグラス四つに注いで戻る。暑い中来てくれたんだし、先輩としてはサービスしてやらんと。

 四人の前にグラスを並べてやって、自分の分を片手に向かいのソファに腰掛ける。

 なんか俺に茶を出されてオレンジ色の髪の奴が恐縮しまくってるのが笑えた。真面目すぎだろ、こいつ。そんながちがちに考えず、普通にしてりゃいいのに。

 隣の白髪頭みたいに煙草を銜えてるのは論外だけど。とりあえずこっちには目の前に灰皿を叩きつけといてやる。

 

「ヒナちゃんは久しぶりだけど、君ら2人には初めましてだよな?」

 

 そういえば野郎2人の名前を知らなかった。麦茶を飲みながら自己紹介してみる。

 

「話しの前に、自己紹介しとこうか。俺はリーヴィス、階級は大尉で今はボルサリーノ中将の副官をしてるよ。前はおつるさんのとこにいたからヒナちゃんと知り合いなんだ」

「申し遅れました。士官学校三年生のⅩ・ドレークと申します」

「スモーカーっス」

「ドレーク君にスモーカー君ね……もしかしてロイ君の友達?」

「はい、よくご存じで」

 

 ビンゴ。どっかで聞いた名前だなとは思ったけど、こいつらロイ君のお友達か。確か遠征前にロイ君が話してた。寮の同室なんだとか言っていたはずだ。

 あ、ロイ君の友達といえば、ヒナちゃんもそうだった。

 もしかして、ロイ君に関係する用件で俺のとこに訪ねてきたのか。

 

 遠征中の実戦が余程堪えたのだろうか。あの日以降のロイ君の塞ぎ込み方は危ないものだった。

 その日から三日ほど船室に引き篭もって食事もろくに摂らず、こっちから呼びかけても反応が薄いまま過ごしていた。ちらっとその時に覗いたが、ベッドの上で毛布を引っ被って丸くなり、時々泣いているようだった。

 さすがに肉体的な健康がヤバイんで、四日目に無理矢理引きずり出して以降は少し持ち直したが、それでも表情に活力はあんまり戻ってこなくて、神経は尖らせたまま。

 これはまずいと中将や大佐たちが判断して、遠征を切り上げて帰ってきたのが五日前のことだ。帰ったらすぐ心療内科に掛からせようとか何とか話し合われていたけれど、帰路の間にロイ君が最初よりはだいぶ回復してきたため士官学校に帰らせてしばらく静観ってことになったんだ。

 寮の方に様子見に行ってきてねって中将に頼まれてたから、今日の夕方か明日辺り行こうと思ってたんだけど。

 うーん、なんかもうロイ君に異常でもあった後なのか、これ。

 

「うん、ロイ君からいろいろ聞いてるからな。じゃあ今日の用件もロイ君のこと、だったりするのかな?」

 

 とりあえず、用件を確認してみる。途端に三人の表情が強張った。マジでロイ君になんかあったんだ。あーあ、嫌な予感が的中するなんて嬉しくない。

 俺の見ている前でお互いの顔を窺いつつ、意を決したようにドレーク君が居住まいを正して俺を真っ直ぐ見てくる。どうも彼が三人の中でまとめ役ポジションらしい。慎重に、真剣に、口を開く。

 

「大尉の仰るとおりです。先日ロイが行った遠征で、あいつに何があったか教えていただきたくて参りました」

「……帰ってきてから、ロイ君に何かあったのか?」

「はい」

 

 士官学校に帰ってきてからのロイ君の様子について、ドレーク君は事細かに話してくれた。

 5日前に帰ってきてからのロイ君は、一年生の最初の頃に戻ったみたいに何かに怯えているような素振りを見せているとか。

 毎晩真夜中に魘されて飛び起きては寮から抜け出し、明け方に帰ってくるのを繰り返しているとか。

遠征のことを訊ねてみても頑なに話してくれず、もしかしたらその遠征中ロイ君の身にあったことが彼の異常の原因ではないかと思うのだとか。

 

 つまり今のロイ君は神経過敏に悪夢、不眠を抱えている、と。

 うん、完全に悩んでドツボに嵌って引き摺ったまんまなんだな、ロイ君。深刻な状況一歩手前、いやもうアウトだったりするかも?

 中将、やっちゃったかもしれませんよ。

 

「そうか、そりゃ心配だよなぁ」

「何があったか、教えていただけますか? あまりにも辛そうで、見ていられない」

 

 三つの視線が、俺に集中する。それぞれに真剣な目をしてやがる。

 本気でロイ君のことを思っているんだな。滅茶苦茶良い友達じゃんか、こいつら。

 ホント、ロイ君は周りの人間に恵まれている。いや、恵まれすぎている、か。

 空になったグラスを弄びながら、しばらく黙り込む。

 さて、ここからどうしようか。

 グラスをローテーブルに戻す。少し下がっていた眼鏡を指先で押し上げる。

 一呼吸置いて、ドレーク君たちにまっすぐ視線を向ける。

 

「うーん、結構キッツイことがあったんだけどね。あ、それを知って、君らどうするつもり?」

 

 できる限り落ち着いた声で、訊ねる。

 不意打ちのような質問に、三人ともきょとんとした目を俺に向けた。

 なんでそんなこと訊かれるかわからないって感じだ。

 

「どうするつもり、とは?」

「遠征中ロイ君に何があったか知って、君ら何をしようって考えてるわけか訊いてるの」

 

 ますます皆、何言ってるんだよこいつ、ってふうに怪訝そうな顔になっていく。

 何を言われているか、理解してないんだろうな。ま、若くて人生経験も浅い子たちだし、わからなくても無理はない。

 とりあえず、今やることは決まったな。ロイ君と親しいこいつらが下手を打たないように釘を刺しとくか。

 

「で、どうするつもり?」

「それは……」

 

 答えあぐねているドレーク君に向かって、大きな溜め息を吐いてみせる。

 

「身勝手な同情を掛けるってなら、教えないからな」

 

 わざと低めた言葉が、室内の気温と目の前の少年少女を固まらせた。

 いきなり変えた俺の雰囲気に戸惑っているのだろう。言葉も出せず動きもできず、ただ俺に視線が集まっている。

 

「苦しむロイ君を見ていられない、だからその原因を知ってどうにかしたい、慰めるなり励ますなりして元のロイ君に戻ってほしい……要はお前ら、そういうことだろ?」

「だったら、どうだというのですか」

「ずいぶん自己中心的で反吐が出る」

「違う、俺たちはロイのことをちゃんと考えています!」

「違わないな、自分がそんなロイ君を見ているのが辛いからそこから抜け出したいってだけだ。ロイ君のことじゃなくて、自分のことばっかり考えてるようにしか見えない」

「そんな」

「慰めて、励まして、ロイ君の抱える苦しみを軽くできると思ってるのか?」

「……」

「軽くなるのはできることはやったって満足感で満たされたお前らの心だけだ」

 

 とうとうドレーク君が口を噤んで俯いてしまう。ヒナちゃんはオロオロとしているし、スモーカー君は今にも咬みつきそうな形相で睨んでいる。

 

 三人の気持ちはわかる。

 俺だって友達が苦しんでいたら優しくしてやりたいし、早く元の状態に回復してほしいと思うさ。苦しむ親しい人間を見ていたい奴なんて、よっぽどのドSでない限りいない。親しいからこそ辛そうな姿を見ると心苦しいし、見続けたくないと思うから手を差し伸べたくなる。

 そうやって庇うこと慰めることで本人に傷から目を逸らさせ癒させる、それも立ち直らせる方法の一つだ。

 でも今回の場合は、ロイ君本人のためにもあいつらのためにもそうやって傷を舐めて目を逸らすのではいけない。キツイけれど、向き合ってもらわなきゃならない。

 一生海軍にいるならば、ロイ君には、人間兵器であることとそれに伴う常人には想像も付かない苦しみが付き纏う。目を逸らしても、いつかは否応なく見せつけられる。逃げられはしない。

 あいつらもロイ君の友達を続けるつもりなら、今回のように苦しむロイ君を側で見続けなければならない。見続ける苦しみから逃げられはしない。

 友達であり続けるならば、目を覆うのではなく、覆ってやるのでもなく、一緒に見続けて抱えてやる覚悟が要る。

 それができないのならば、離れていくしかない。

 

「言っとくがな、あいつの抱えてるもんは生半可なもんじゃないぜ?」

 

 ああ、なんだかロイ君の時みたいに若い子を虐めているような構図になってきた。

 俺、こんなネチネチと偉そうに説教をかます嫌な大人って柄じゃないんだけど。また貧乏くじ引いた気がする。

 ロイ君に続いてまた後輩に嫌われそうだ。ちょっと悲しくなってきた。

 でもここまで来たら、言い切るしかない。

 

「身勝手に同情を掛けるなら、さっきも言ったが話さない。ロイ君の友達も辞めろ」

 

やけに俺の声だけが室内に響く。目の前の三人は一言も返してこない。 

 

「さあ、どうする?」

 

 

 

 

 

 生温い夕凪がカーテンを揺らしている。

 開け放った窓の枠に凭れ掛かって、最近背伸びして吸い始めた葉巻に火を点した。

 重たい煙をゆっくりと吸い込んで、舌先に染み込むシャープな苦さを楽しむ。

 そうしてから、暮れなずむ白い街並みへ向け、夕陽の紅を透かす煙を細く吐き出す。

 窓の下に目をやれば、夕日に伸ばされた人影が3つ士官学校の方へ行くのが見えた。

 俺が話せることは話した。助言できることは助言した。

これからどうするかは、あいつら次第。口を噤んで離れるか、それとも……。

 

「とりあえず、中将に報告しときますかね」

 

 これを吸い終わったら、中将に伝えておこう。

 ロイ君が持ち直すかもしれない、と。

 

 

 

 




完璧な説教回になってしまいました……。
リーヴィス大尉に申し訳ないけど、こういう役回りが必要でした。


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第9話 親友という存在

現時点のロイは登場人物中で精神面が最弱。


 南の海で海賊船を爆撃してから、二週間と少し。

 

 あの時俺がもたらした地獄絵図が、ずっと頭にこびりついている。

 消し炭と言っていいような黒焦げで半分沈んだ海賊船と、海面に浮かぶ幾つもの焼死体や残骸と、いろんなものが燃えた気持ちの悪い臭いが広がる光景。

 到底生身の人間一人がなせる破壊や殺戮ではなかった。壊すため、殺すために誂えられた兵器が生み出したと言った方がしっくりくる。

 自分が自分の知る自分ではない、人間ではない悍ましい存在の証しに思えた。

 呆然としている俺の思考に、追い打ちを掛けるように中将が耳打ちしてくれた言葉が混ざる。

 この恐ろしい力を狙う人間が海軍には山ほどいて、命令のまま動く人間兵器として扱われ続ける可能性が大きいという。

 もしかすると、俺は任官してすぐ人間兵器として戦わせられ続ける。自分の意思を無視されて、強制的に海賊や敵と上が判断したものを焼き続けさせられる。

 俺はその中で、いつまで兵器扱いされる嫌悪感と苦痛に耐えられるのだろうか?

 これから先、それらが薄まることはあっても、きっと感じなくなることはないと思う。細かくなったそれらは、着実に心の中に蓄積されていく。

 だとすれば、いつか俺は心の中に降り積もるものの重みに耐えきれず、精神的に死ぬんじゃ、ないだろうか。

 その時、おそらく俺は命令に従順な人の形をした兵器となる。

 パシフィスタになったバーソロミュー・くまのように、感情も意思も失う。

 

 

 俺が、俺で、なくなってしまう。

 

 

 死ぬほど、恐ろしくなった。

 俺のことも、友達のことも、大切な記憶と感情のすべてが、何もかも俺の中から消されてしまう。

 俺の知らないところで、俺が勝手に動かされ、他人に良いように使われる。

 殺すために、壊すために、俺が消される。殺されて、道具に作り替えられる。

 許容できようはずもない。いつか殺されるのをわかって従えるはずない。

 

 嫌ならば、拒否すればいいのかもしれない。逃げればいいのかもしれない。

 でもそれをしたら、俺の周りの人間にも被害が出る恐れがある。

 たとえば、俺を従わせるために友達を人質に取る、とか。

 有り得そうで非常に恐ろしい結末だ。

 この先いつになるかはわからないが、ドレークとスモーカーは悪魔の実を食べるはずだ。そして希少な動物系古代種と自然系の能力を得る。科学部隊が悪魔の実の研究のために弄繰り回したがりそうな素体になってしまうのだ。

あいつらを俺の脅迫材料兼実験のモルモットにされるなんて、耐え難すぎる。

 友達を人体実験の材料にされたくなければ、と脅されれば俺には拒否など不可能だろう。

こっちに来てから俺の弱っちい心を支えてくれたのはあいつらだ。一番大切で無くてはならない存在になっている。いくらチキンの俺でも、身を挺してでも守りたい領域の人間なんだ。

 身代わりにして逃げるなんて、絶対できない。

 

 この力のせいで、こんな力を示してしまったせいで、俺の大切なものが脅かされている状況に陥るなんて、考えもしなかった。

 

 初めて自分の手で人を殺した嫌悪感や罪悪感はゆっくりと、納得し切れはしなかったが、それでもゆっくりと消化はできた。

 人を殺すことはやっぱり嫌なことだ。だが、嫌だからと言って殺さないでいると、味方が殺される。だって向こうはこっちを殺しに来るんだ。

 殺さなきゃ殺される。必ず人死にが出るのなら、せめて味方が死なないようにした方がまだいい。

俺のせいであの時怪我をした海兵たちを見てそう思った。幸い死者は出なかったけれど、死んだ奴が出ていたらこの罪悪感はもっと耐え難いものになっていたかもしれない。

 味方を守る為に殺す。陳腐でありきたりで、一応は正当な理由だ。俺の気分を少しでも軽くするための方便でしかないが。

 だが中将やその副官のリーヴィス大尉に言われたように、殺人を楽しまなければいいのだからとりあえずこれで良い。

 そう思い込んでおくことで、どうにかこうにか一応自分の中に落とし込んだ。

 しかし、これだけは自分に飲み込ませる方法が見つからない。

 俺が俺を失い、人間兵器となるかもしれないこと。

 友達を巻き添えにしてしまうかもしれないこと。

 吐き気を催す恐怖が這い上がってきて、腹に収められない。

 そうはならない可能性があるとわかっていても、回避する方法も探せばあるとわかっていても、納得しない自分がいる。

 本当に上手くいくのか、回避できるのか、思い通りいかないことの方が多いのではないのか。

 思考が、ずぶずぶと底無しの悲観的な沼に沈み込んでいくばかりだ。足掻いても、足掻いても、同じ暗い場所を廻る。

 繰り返し見る最悪の結末を映した悪夢が、俺の思考を縛り付けている。

 

 できるならば、ドレークたちに全部ぶちまけて縋りつきたい。怖いんだ、助けてくれと泣き付きたい。絶対にあいつらは手を差し伸べてくれる。全力で庇ってくれるし、親身になって慰めてくれる。俺たちの仲が確かな分、断言できる。

 一番俺を癒すには良い方法だ。抱える不安も恐れも格段に軽くなって、今みたいに苦しまずに済む。

とても魅力的な選択肢だが、それをしてしまうことであいつらをもっと深く巻き込んでしまうことが恐ろしい。

 俺が友情に甘えてぶちまけることで、原作であいつらが知るはずもなかったことを知り、関わるはずがなかったことに関わり、不幸にしてしまうのではないかと思うと胸が苦しくなる。

それに俺もあいつらも、まだ海兵ですらない。抵抗しようにも、俺を守ろうにも、上の意向一つで簡単に吹っ飛ぶ。そんな弱い立場であるのに、こんな途方もないリスクを背負わせ、あまつさえ庇護と安心を与えてくれなんて言えない。

 

 離れてしまうべきなんだろうな。

 ゆっくりと距離を取っていって、単なる同期程度の位置まで下がれば、ドレークたちの脅迫材料としての価値は下がるはずだ。

 たまに任務や本部のどこかで会ったら社交辞令程度に挨拶するくらいの付き合いなら、誰も俺を脅すに足り得ると思いはしない。

 あいつらを守るためならば、離れるべきなんだ。

 暫くはどうした何があったと心配してくるだろうが、緩く拒絶し続ければそのうち疎遠になっていくと思う。

 特にスモーカーは感情の機微に聡い。俺の隔意を察して距離を取ってくれるだろう。それに合わせて、ドレークも、ヒナも。

 独りになることで、大切な友達を守れるなら安いもの。もっともリスクが少なくて済むのだと頭の中では計算できている。

 分かっているくせに孤独を厭う感情が邪魔をして実行に移せない俺は、本当にどうしようもない人間だ。

 一応、距離を取る努力はしている。しかし無理にやっているせいでただの挙動不審にしかならず、帰ってドレークとスモーカーを訝しがらせるばかりの結果に終わっている。

 おかげで俺の身に遠征中に何かあったと感づかれてしまい、何があったとか話してみろとか詰め寄られている。

 口を割るわけにはいかないから、黙秘を貫いているがそろそろ限界だ。

 必死で口を噤む俺に、弱い心がそんなに心配してくれているなら話してもいいじゃないか、と囁く。 これで巻き込まれてこいつらが後悔したり苦しんでも、それはこいつらの選択の結果だ。自分のせいじゃない。差しのべられた手にしがみついて引き摺り落としても気に病む必要はない、と。

 グラつく気持ちが誘惑に乗って、もう何度か口を滑らしてしまいかけている。

 口から助けを求める言葉を零しかける度、手が服の裾に縋りつきそうになる度、我に返って慌てて自分を抑えることの繰り返し。

 巻き込むわけにはいかないのに、日々心の中に積もり続ける暗くて重たいものに心が負けそうになる。

 

 

 

 怖い、苦しい、息が、詰まる。

 今の状況は、海の中に溺れて沈んでいくのに似ていた。

 

 

 

 

 

 今夜も悪夢から飛び起き、眠れなくなって寮を抜け出す。

 あの日以来とにかく夢見が悪く、寝れば悪夢しか見れない。一度起きてしまうと、その後は眠れなくなる。最悪の未来の夢を見たくない。

 だが、そのまま一人部屋の中で起きていても手持無沙汰だ。寝ているドレークたちがいる手前、明かりなんかつけられないから本すら読めない。真っ暗なベッドでジッとしていると、それこそネガティブな思考に捕らわれてしまうばっかりでしんどい。

 結局、毎晩カンテラ片手にひっそり窓から抜け出し、いつもの非常用階段の踊り場を目指す。

 外付けの階段のそこは日中もあまり人が寄り付かないし、夜間見回りの連中も手抜きをするポイントだ。隅っこの方で座っていれば、ボンヤリ夜明けに向かって移ろう夜空を眺めて過ごす分にはバレないし静かでいい。

 だからこっちに来て以来、どうしても独りになりたい時はそこに逃げ込むようにしている。

 足音をできるだけ消して階段を上り、目的地にようやく到着。カンテラの火を消して、さて座ろうかとした俺の背中に、よく知り過ぎた声が飛んできた。

 

「やあ、ロイ。ここは涼しくていいな」

 

 振り返ると、寮で寝ていたはずのドレークとスモーカー、どっから出てきたのかわからないヒナがこっちに向かって階段をゆっくり上がってきていた。

 なんで今夜に限って後を付けて来ているんだよ、この三人。

 驚きで走り出した鼓動を抑えつつ、ちょっと警戒して壁際に寄る。

 

「……何しに来た」

「お前がいつも夜どこに行っているのかなと思って付けて来た」

「は?」

 

 軽い調子の答えに、少し戸惑う。

 本当に何をしに来たんだ。今までだってホームシックとかで夜中に抜け出すことはあった。最近は頻度が多かったけれど、いつもそっとしておいてくれたくせに、今更何言ってんだよ。

 眉を寄せて出方を窺うが、やつらは普段とほとんど変わらない様子で結構高いとか、景色が良いとか雑談している。

 いつもと変わらないそれが、逆に怪しく感じられるのは気にしすぎだろうか。とりあえず距離だけは取っておく。

 

「帰ってくれ」

 

 煩くて困る。独りになりたくて、わざと心底嫌そうに言い放つ。

 

「どうしてだ?」

 

 不思議そうに首を傾げる気配がする。

 本当にいつも通りなのが、妙に癇に障った。人の気も知らないで、と。

 

「私は今、独りになりたいんだ。帰ってくれ」

 

 怒鳴り散らしたい苛立ちを何とか腹に仕舞いつつ、必要な言葉だけ絞り出す。

 暗い俺の声が、暗い踊り場に吹き抜ける。

 返事は返ってこなかった 。三対の視線がこちらに向いていることだけは感じる。俺も目を逸らさず、三人を見据える。

 スモーカーのタバコの火だけが、仄かに赤く闇を照らしている。

 滲むような赤い光りの下で、薄い唇が微かに動いた。

 

「そんなに海賊船沈めたのとこれからのことに悩むのが忙しいのかよ?」

 

 心臓が耳元でやけに大きく跳ね上がる。

 今、こいつはなんて言った?

 ドレークもヒナも、驚いた様子はない。

 どういう、ことだ?

 

「何故、お前たちがそれを知っている」

 

 内心戸惑いつつも、問い質す。

 どこから知った。あれは正式な手続きを踏んでいないもので、あの時甲板にいた人間全員に緘口令が敷かれている。

 だから噂になるはずもないし、俺ももちろん話していない。

 一体どこから漏れた?

 ますます険しくなる俺の雰囲気を意に介しもしていないみたいだ。

 気持ちが勝手に毛羽立つ。

 

「リーヴィス大尉から聞いたの」

 

 あの人か。そういえばヒナと面識があったな。それ繋がりで聞き出してきたのか。

 まったく余計なことをしてくれる人だな。こいつらに教えるなんて、いったい何考えてやがる。

 

「遠征中のこと、全部聞いたわ」

「そうか」

「ロイ君が海賊船を撃ったことも、サカズキ中将たちに目を付けられていることも」

「……大尉も中々込み入ったところまで話してくれたものだな」

 

 本当に全部話しちまったのかよ、あの性悪大尉め。そんなとこまで話したら、こいつらのことだ。無理にでも俺に手を差し伸べようとするのがわからなかったのか!?

 巻き込みたくないって俺の思いを踏みにじりやがってと腹が立つ一方で、どうにか突き放す方法を模索する。

 知られたものは仕方がない。だけれど、ここから先には踏み込ませない。それがこいつらのため、俺のためだ。

 

「まあ、色々あったし、今もあるが、心配には及ばない」

 

 一度ゆっくり息を吸って、言葉を紡ぐ。

 突き放すために何を言えばいいか考えながら、ひさしぶりに口元へ微笑を添える。

 

「気遣ってくれて嬉しいが、これは私の問題だ。お前たちには関係ない、放っておいてくれ」

 

 頬が強張って上手く笑えない。まるでこっちに来た時に戻ったみたいだ。

 それでも声と言葉だけは拒否を示せた。明確に拒めば、ちゃんとわかってくれるはず。

 

「嫌なこった」

 

 一番理解してくれるはずの奴の口が、期待に反した答えを不機嫌そうに吐き捨てた。

 予想外の事態に呆気にとられ、せっかく浮かべた笑みが簡単に崩れてしまう。

 

「嫌って、お前」

「確かにてめェの問題に、俺らが口挟んでもどうにもならねェのはわかってるさ」

 

 そう言いながらスモーカーが俺の開けた距離を遠慮なしにズカズカ詰めてくる。

 慌てて距離を取ろうにも、もう後ろはすでに壁で逃げられない。

 せめても俯いて視界から追い出そうとするが、シャツの襟を掴み上げられて無理矢理上を向かせられてしまう。

 

「だがな、いつまでもその湿気た面見せ続けられんのは、気分悪ィんだ」

 

 間近で薄い色の目が苛立たしげに俺を見下す。

 まともに視線を合わせたくなくて、強く目を瞑る。

 

「だったら、無視してくれればいい」

 

 そのまま離れて見なかったことにしてくれれば、こちらとしてはありがたい。

 見ていられないのなら、見ないでくれ。無理矢理俺が見せないようにするよりも、そっちの方が簡単だ。

 

「私のことなど、全部最初から見なかった、知らなかったことにしろ」

「あぁ?」

「お前たちのために一番良い方法だ。私を無視すれば、危険な目にも合わない、嫌な気分も味わわずに済むだろう」

「……本気で言ってんのか、てめェ」

 

 俺が本気でないとでも思ってるのか、スモーカー。何でわかってくれない。お前はそういう面で聡いと思ってたのに。

 じれったい思いを押し込めて、ゆっくりと首を縦に振る。

 

 

「っぐ!?」

 

 

 一拍置いて返されたのは、言葉じゃなかった。

 右頬に鋭い痛みが走る。思わず閉じた目を開くと同時に、思いっきり壁に押し付けられた。衝撃と痛みで息が詰まり、目の奥に軽く火花が散った気がした。

 開けた視界一杯に未だ見たことがない形相のスモーカー。あまりの気迫に、何をするとか、止めろとか、言おうと思っていた言葉が飛び去ってしまう。

 

「ふざけんな、できねェから此処に来てるんだよ」

 

 火の付いたような怒鳴り声ではない、淡々とした静かな言葉の連なりに困惑が増す。

 顔だけ見ればものすごく怒っているのは間違いない。気が短いこいつはこういう時、口角から泡を飛ばす勢いで怒鳴りつけてくるはずだ。

 いつも通りではない。いつも通りでなさすぎて、どう対応すればいいのか判断できない。

 

「他の奴なら、俺たちゃとっくにそうしてる。お前だからできねェ、だから此処にいるんだろうが」

「私、だから……?」

「危険な目? 嫌な気分? それがどうした、ンなもん全部納得済みだ、馬鹿」

 

 全部納得済み? 俺に関わってもデメリットが大きいとわかっていて俺を追ってきてくれた?

 あまりにも俺にとって都合が良さそうなそれに、ますます混乱する。

 本当にこいつら、わかって言ってるのか。大尉の話を聞いて、どう判断したんだ。俺に同情するあまり、リスクを甘く見てるんじゃないのか。

 安い同情で言っているなら、痛い目に遭わないうちに離れてほしい。

 でも、本当にちゃんと理解して言ってくれているのなら?

 縋りついてもいいのだろうか。ぶちまけてもいいのだろうか。そのせいで知らずともいいことを知らせて、巻き込んでしまっても許されるのだろうか。

 もうどうしていいのか、俺にはわからない。

 

「ロイ」

 

 襟元を掴み上げていたスモーカーの手が緩む。支えを失ってよろけた身体を背にした壁に寄りかからせ、ぼんやりと呼ばれた方へ向けば、いつの間にかドレークとヒナも近くに来ていた。

 青い穏やかな視線を俺と同じ目の高さに合わせて、ドレークはゆっくりと噛んで含めるように俺に告げる。

 

「スモーカーの言う通りだ。納得した上で、みんな此処にいる」

「そんな……」

「お前と友人であることで何があっても構わない。受け止めてやる。俺たちにはそれができないほど狭量に見えるか?」

 

 簡単に言うな、と続けかけた口が頭の上に乗せられたヒナの手のひらの温かさに塞がれる。

 いつもなら子供扱いされたみたいで腹が立つ行為なのに、どうしてだろう。陳腐な話だが、今はそれだけで俺は安心しかけている。

 ほっそりした指で俺の髪を梳きながら、ヒナが優しく笑う。

 

「わたくしたち、ロイ君が心配してくれるような目に遭っても、誰も貴方を恨んだり友達であることを後悔したりしないわよ。約束するわ、ヒナ約束」

 

 今日初めて、しっかり三人の顔を見る。

 俺の中でつっかえていた何かが、落ちる音がした。

 つかえたものが取れた後に、久しぶりに温かいものが流れ込んでくる。

 じわりと目の奥から熱が滲み出して、世界の輪郭が柔らかくぼやけた。

 

「わかったら余計な気ィ回してんじゃねェよ。とっとと吐いちまえ」

 

 ぶっきらぼうなスモーカーの言葉に背を押されて、俺は声も出せずに首をもう一度縦に振った。

 

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

 東の空の端が、ほんのりと赤い。滲むような朝焼けが夜の終わりを見せている。

 隣を歩くスモーカーに背負われたロイを覗き込む。童顔の彼は、目を閉じていると更に幼さを感じさせる。

 起きている本人に言ったら烈火のごとく怒るだろうが、泣き疲れて寝たという今の状況は本当の幼子のようだった。

 

 意を決して詰め寄った結果、ロイは抱えていたものをすべて吐き出した。

 

 自分の予想以上の能力に対する畏れ。

 人間兵器として扱われる苦痛。

 この先、自分を失うかもしれない恐怖。

 自分を意のままにするため俺たちに危害を加える輩が出ないかという危惧。

 

 考えすぎているところも多々あるようだが、色んな不安と恐怖が折り重なった状況では冷静な判断が付かなかったのかもしれない。

 すべてが怖いと泣いていた。自分に降りかかることだけでなく、俺たちに降りかかるかもしれないことまでも。

 

「感情も記憶も奪われて人間兵器にされる、俺たちを人体実験に使われるかもしれない、か」

 

 ロイの吐き出したことを、口にしてみる。

 本人が人間兵器にされるという可能性は、確かに大きい。

 それはリーヴィス大尉も言っていた。海兵であるならば、この先何度も、どんなに嫌がっても、ロイは道具扱いされるだろうと。

 しかし、俺たちを人体実験の材料にされるかもしれないというのは、どういうことなのだろう?

 ロイが人間兵器として扱われるのを拒まないよう人質にするとしても、最前線送りにするとか、何かしらの罪を擦り付けて捕まえるとかの方が現実的だと思う。

 どうしてロイの思考はそんな方へ飛んだのだろう。

 

「……この前、本部に行った時、小耳に挟んだことがあるの」

 

 ふいにヒナが口を開いた。少し後ろを歩いていた彼女を振り返る。

 

「最近ね、Dr.ベガパンクという人が、海軍に来たんですって。とても優秀な科学者で、発明家だそうよ」

「その人物がどうかしたのか?」

「色々と海軍や世界政府にとって有益な研究と発明をしているそうなのだけど、今の彼の主要な研究テーマが二つあって」

 

 妙な影をその美貌に浮かべて、躊躇いがちに続ける。

 

「悪魔の実と、人造人間に関するものみたい、なの」

 

 ぴたり、と足が動かなくなる。

 スモーカーも立ち止まり、ヒナを見つめる。俯き加減のヒナは、じっと自分の足元に目を向けていた。

 

「噂よ、あくまで噂。でも、これって、ロイ君が不安に思っていることと……」

 

 なんてことだろう。

 最後まで聞かなくても、ヒナの言わんとするところに思考が行きついて、ひやりとしたものが背中を走る。

 悪魔の実と、人造人間の研究。

 詳しくはわからないが、どちらも生物に深く関係する分野の研究だろう。そういうものには、試行錯誤が重要だ。実験や調査を重ねて、目的に辿り着く道筋を探す過程が無くてはならない。

 この場合の実験とは、おそらく、動物実験や人体実験。

 悪魔の実の能力者や、生きた人間を使った実験が主体となるのではないだろうか。

 そして、俺たちは能力者が一人、健康体の人間が二人。十分に、そういった実験体の条件を満たしている。

 つまり、ロイの危惧はあながち的外れではないということか。

 

「こいつ、面倒くせェ奴らにばっかり目ェ付けられちまってんな」

 

 眠ったままのロイを背負い直しながら、スモーカーが溜息を吐く。

 ロイは知っていたのだろう。Dr.ベガパンクという人物の研究がなんであるのかを。

 その上で、自分だけでなく俺たちにも危害が加えられるのではないかという危機感を抱いた。一人でその恐怖や不安を、抱え込もうとしていた。

 きっとそれは、生半可な恐怖や不安ではない。

 俺たちではどうにもしようがない問題だ。あまりに事が大きすぎるし、得体が知れなさ過ぎる。

 今更大尉に言われた安い同情を掛けるなら止めておけ、という言葉の意味がわかった気がする。

 軽く考えて関わり、取り返しのつかないことになれば後悔するのは俺だけじゃない。巻き込んでしまったという罪悪感がロイを苛む。余計に辛い思いをさせるばかりになるかもしれない。

 

 

『一緒に背負って、堕ちてやるくらいの覚悟を決めてやれよ』

 

 

 一昨日、最後に言われた言葉が耳に返ってくる。

 何が起きても後悔しない。ロイのせいにせず受け止める覚悟を決めろという言葉が。

 

「……二人とも、逃げ出したくなったか?」

 

 俺の問いに、二対の視線が俺のそれに重なる。

 

「ンなわけねェよ」

「絶対ないわ」

 

 明確な答え。聞かずとも、十分に相談し合っているから、答えは既にはっきりしている。

 けれども、改めて聞いておくと安心した。

 

「そういうお前はどうなんだ、ドレーク」

 

 最終確認するかのように、スモーカーがじっと俺を睨みつけてくる。

 真正面からそれを受け止めて、静かに口を開く。

 

「逃げないさ、絶対に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




うちのスモーカーはロイを殴ったりしばいたり拳で語りすぎな気がする。


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第10話 一つ目の岐路

赤犬襲来編です。


 扉を開けると、どこかの組の事務所だった。

 非常に有名なあの一節のパロディが、頭の中を駆け巡る。

 昼食中に呼び出されてやってきた応接室の扉の向こうには、不本意ながら見慣れてしまった応接セット。そのソファの上座には、パーカーにコートを羽織り、海軍キャップの上からフードを目深に被った人物が一人。

 その人の背筋をピンと伸ばして座る様はどっしりとした格好良さがあるが、午後の日差しの逆光で作り出されたシルエット状態では、何やら不気味に見えた。

 扉を開けて絶句している俺の方に向く。物凄く鋭い眼光がフードの奥から飛んできた。

 

 あ、自由業の人だ。

 

 あんまりにも堅気らしくないそれに、脳ミソが勝手に騒ぎ出す。眼光も風格も尋常じゃないよ。明らかに一般人じゃないって。きっと若頭とかそのあたりだ。

 あの、士官学校の応接室は、いつから自由業の人の事務所になったんでしょうか?

 

「どうした? 早うこっちに来んかい」

 

 ドスの良く効いた渋い声が、俺を呼ぶ。

 ……駄目だ、これは逃げられない。逃げたら殺される、きっと。

 

「ハッ、失礼いたします」

 

 動きたくないと泣き叫ぶ身体中の筋肉に鞭を乱打して、室内に足を踏み入れる。無理矢理微笑みを作って敬礼をしてから、下座のソファに腰を掛けた。

 

 

 

 あの夏から、あと二ヶ月でまた二年が経とうとしている。

 暗い海に沈み込んで溺れかけていた俺も、どうにか士官学校を終えようとしている。

 あの時は、殺人のこと、人間兵器のこと、色んな恐怖や不安で本当に押し潰されそうだった。

 どっちを向いても真っ暗で、どこへ行けばいいのかもわからない。

 そんな真っ暗闇の思考の中にいた俺を助けてくれたのは、ドレークたちだった。

 俺の直面した現実や恐怖ごと受け止めて一緒に抱えてやると言ってくれた。余計なことを考えず頼れと言い切ってくれた。

 それが俺の心を引き上げて救ってくれたんだ。最後まで見捨てず、側にいて支えてくれる存在がある。それだけで不安は確実に軽くなった。実際に何が解決するというわけでも、解決してもらえるわけでもない。けれど、最後まで孤独にはならない、手を握っていてくれる人がいるということは、擦り切れそうな俺の心を確実に癒して落ち着かせてくれた。

 おかげで、俺はまだここに居られる。もう一度浮かび上がって、どうにか歩き出せている。

 本当にあいつらには感謝してもし切れないよ。良い友達を、親友を持ったと思う。

 未だあの日の不安は完全に無くなることなく引っ掛かり続けている。だが、整理だけは歪かもしれないが付いた。あいつらがいてくれれば大丈夫だという確信がある。

 

 うん。今は、そんな感じ。

 

 なんだか湿っぽい話になってしまった。

 とりあえず落ち込むこともあったが、この二年近くは平凡な学校生活だった。ちょっと不気味なくらい。いつ繰り上げ卒業させられるかと心の片隅でビクつきながら暮らして損した気分だ。

 まあ何もないおかげで平凡に青春ならではの楽しいことも、嬉しいことも、ワクワクすることも、たくさん味わうことができてよかった。

 特にこの一年、ものすごく嬉しいことが起きていたりするんだ。

 ものすごく俺が嬉しかった出来事といえば、これを置いて他はない。

 それは、身長が劇的に伸び出したことだ。そう、成長期がようやく到来したんだ!

 確か去年の春先あたりから、ガンガンと伸びている。もう毎月背の順で並ぶ度に、後ろへ後ろへ移動していくのが快感だった。もう気持ちよくて堪らなかった。

 ガンガン骨が伸びるに伴って起きる成長痛も、もうなんだかご褒美のよう。マゾじゃないけど、痛むたびに背が伸びるかと思えて顔がニヤけて止まらなかった。スモーカーに「きめェ……」ってナメクジとか見るような目で見られたのも良い思い出だ。

 今の俺はヒナより高い。だいたい頭半分分くらい高くなった。もう見下されてナデナデされたりしないとか最高だ。

 しかも、まだ伸びてるんだ。めっちゃくちゃ嬉しい。

 もう百八十センチ越えてるが、男性海兵の平均身長より低い。もう二十センチは欲しい。目指せ二メートル。

 それからさ。背が伸びるに伴って、体術もぐんぐん上達してきているんだ。六式の精度も上がってきているし、ナイフの扱いも同様だ。

 最近では学年の上位に食い込むレベルまで来た。これには四年生に進級して模擬白兵戦での能力使用が限定解除されたっていう部分が大きいんだけれども。

 そう模擬白兵戦で能力をほんの少しだけ使っても良くなったんだ。能力者の候補生は自分の能力を対人戦闘で実際に使用する予行練習のため、一般の候補生は能力者と如何に戦うか学ぶためにだ。

 最初の頃は対人、それも同期に能力を使うってすごく抵抗があった。もちろん訓練であるし使用制限は掛けてある。焔の錬金術は二発までとか、空気中毒技は禁止とか。それでも失敗したらとかやり過ぎたらとか思うと、もう本当に恐ろしかった。

 けれども訓練は訓練。やらなきゃならないし、とにかく万が一のことが起きないよう必死で能力の修練に励んだ。能力の修練は戦場なんかで敵を倒すためだけのものじゃない。きちんと自分のコントロール下において味方を傷付けないためにするものでもあるんだから。

 これで操作精度とか威力調整とかかなり丁寧に的確にこなせるようになった。

 最近じゃ原作ロイの最終決戦時ほどではないが、それなりの精度のピンポイント爆撃や速射もできる。まだ対人使用はしていないけれど、空気中毒技も目的に必要な濃度の見極めが大体わかってきたし、その他の物質の操作も一応思う通りできるようになってきている。

 任官しても十分やっていけると教官たちから太鼓判をもらえて、ちょっと嬉しかった。

 

 背が伸びたり強くなったりしたのはすごく喜ばしいことだ。

 本当に、喜ばしいよ。何の問題も出なけりゃ手放しに。

 四年生の模擬白兵戦は、今までと少し違うところがある。能力使用の限定解除もその一つだが、時々現職の将校たちが観戦に来るってのがあるんだ。

 何のための観戦か。理由は単純明快だ。勧誘のために他ならない。

 士官候補生は学校卒業後、軍の人事部によって各部隊にランダムで割り振られるのが基本だ。しかし本人が特定部隊への配属希望を提出した場合、それを考慮された上で辞令が下りる。

 勧誘はこれを利用して、卒業前に有望そうな奴を探し、面会して直接本人と話し、自部隊への配属希望を出してもらう将校たちの青田買い行為を指す。

 一人に付き勧誘できるのは三人までとか、無理強いしないで候補生の自主性に任すとか細々とした色々決まりがあるらしいが、有能な奴はどうしても欲しいと思うのか利用する将校はそれなりにいる。

 欲しい士官候補生を探す方法としては、座学の成績や実習の評価、教官の間での評判などを参考にするそうだが、一番よく行われるのが模擬戦の観戦だ。直に実力を確かめられる。

 観戦して良さそうな候補生をチェックし、その人物を調べて良いと思えば声を掛けるってパターンが多いんだとか。

 こうした将校たちの観戦は毎年の恒例行事と化しており、彼らの目が光る中で四年生は模擬戦を行うのが普通になっているんだ。

 

 さて、そういう事情のもとで、模擬戦で派手に勝ちまくる奴がいたら、皆はどうするだろうか?

 あいつ強いな、うちの部隊に来てほしいな、って思うのは当然だ。

 そうだな。インパクト大、攻撃力大の焔で勝ちまくる俺に、勧誘が殺到するのも当然だろうな。

 先月くらいからか。突如俺を訪ねて士官学校に何人もの将校が押し掛け出した。

 それだけでもテンパるのには十分な状況なのに、ほぼ全員が異口同音に同じことを言って迫ってくるんだよ。是非うちの部隊に来い、一緒に絶対正義を貫こうではないか、悪を倒し尽くす力が君にはある、って延々と熱く、時折引くぐらい過激に。

 そんな彼らから、原作で見た赤犬とか戦争編で過激発言かましていた人たちと似た匂いがしたのは、気のせいじゃないと思ったんだ。

 まさかと思ってこっそりボルサリーノ中将の元に相談に行ったら、中将とその場にいたリーヴィス大尉は勧誘に来た将校の名前を聞いて、ほとんどがサカズキ中将隊の人間だと教えてくれた。

 

 気のせいじゃなくて、もう泣きそうになった。

 赤犬やその思想に傾倒している人たちって、俺を前線送りにしたがってるって話を聞く以前から俺としては遠慮したい部類の連中だ。

 彼らの掲げる『徹底的な正義』。正義の持つ顔の一つを如実に表している考え方だ。 

 故事の『秋霜烈日』という言葉が良く似合う。これは司法の平等性とか厳格さを表す言葉だったと思うけれど、秋の霜や夏の日差しが分け隔てなく草木を枯らすのように、分け隔てなく悪を裁くといったところが徹底的な正義そのまんまだ。

 悪くはない。それ自体は悪くはないんだが、あまりにも平等性や厳格さを追い求めすぎている点が俺には受け付けない。あくまで正しくあろうとすると、きっと守るはずのものまでも、自分自身までも傷付けてしまうんじゃないかと不安を覚えるんだ。

 研ぎ澄まされ過ぎた刃のように、すべてを意図せず切り刻んでしまう可能性。俺にはそれが怖くて仕方ない。それに赤犬たちが気づいていなさそうなところも、また制御が利かなそうで怖い。正義に振り回されているようで、側に寄りたくない。

 そんなとこに行きたくないって途方に暮れていたら、やっぱりねェって顔したボルサリーノ中将がアドバイスをくれた。

 勧誘は嫌なら断ってもいいって。勧誘は一方的なものではなく、行使されることが少ないだけで候補生には拒否権がある。ノーを突きつけたところでこちらが不利になることはないのだと。

 ああ、絶対大丈夫って保障したげるよォと言うボルサリーノ中将の笑顔に、目の前が明るくなった気がしたよ。

 後々問題が起きないなら、返事はもう一つしかない。

 帰ってすぐに失礼にならないよう、上から下まで等しくお断りした。

 あんたらの正義に近寄るのも、最初から前線や激戦区に行くのも、人間兵器扱いされるも、まっぴらごめんだ。わざわざ自分で地雷原に突っ込んだりするものか。

 

 そう思って断りまくっていたら、予想外のことが起きた。

 断れば断るほど、勧誘に来る将校が増えたんだ。

 何故に増えるんだよ? 来た人にはどなたの部隊にも配属希望を出す気はありませんって返事したのに、その話を聞いたりしてないのか!?

 来ちゃったものは仕方ないからちゃんと一人一人断るけどさ。そしたらまた勧誘者が増える悪循環。

 これ、物量戦で心を折って頷かせる戦法ですか。そこまでして俺が欲しいんですか。まったくもって嬉しくない。

 最近はさらにドーベルマンとかオニグモとか原作で見た顔まで混ざり始めてきている。中々うんと言わない俺に業を煮やして、大物が出てきているってことなんだろうか。

 そうしてやってくる彼ら高級将校は、どうして勧誘を断り続けているのかをしつこく訊ねてくる。どうやら誰か断るよう吹き込んでいるんじゃないかと疑っているらしい。

 もちろん誰の指示も受けていない、自分の判断だって何度も言ったはずだ。

 あんまり信じてもらえていないけれども。

 嘘つくなよ、脅されてんのか、みたいなことを時に遠回しに、時に直接的に言われるが、生憎本当だから答えはいつも同じだ。

 むしろ脅しに掛かってるのはそちらじゃないですか? って返したくもなるけどグッと我慢して、自分の判断ですの一点張りで対応している。

 あまりのしつこさにグロッキーになりつつあったが、ここ二、三日前からなぜかパッタリ勧誘のための応接室へのお呼び出しが途切れていた。

 ようやく勧誘攻勢は乗り切れたかもしれん。そんなふうに油断してホッとしてた。うん、してしまっていたのが裏目に出たのだろうか。

 

 

 まさか、ここに来て親玉のサカズキ中将が降臨するとは……。

 

 

「どがァした?」

「いえ、何でもございません」

 

 地獄への直行便を前にして何でもないわけあるか、このオッサンめ。

 畜生、正面から向かい合うとやっぱり威圧感が半端ない。

 怖すぎてもう寮の部屋に逃げ帰りたくなってきたよ……マジで泣きそうです。

 

「さて、ロイ候補生」

「はっ」

 

 重く腹に来る低音が、おもむろに俺を呼ぶ。

 思わずビクッとしてしまった。失礼な態度だけどマジで怖いんだから仕方ないだろ。

 

「わしはまだるっこしいのが嫌いでのォ。単刀直入にいきたい。構わんな」

「は、はい!」

 

 返事をする声が若干上ずる。

 単刀直入ね。サカズキ中将らしい。婉曲な言い回しはしなさそうと思っていたけれど、本当に直球ストレートに来るんだ。

 うむ、というふうに頷いて中将は俺をしっかと見ながら口を開いた。

 

「では訊こう。貴様が勧誘を断るのは、誰ぞの指示か?」

 

 ……疑っているんですね、やっぱり。

 誰かに指示されて俺が断っているって、サカズキ中将も思っているんだ。同じことを今まで聞かれたけど答えなかったのは、口止めされてたからだとか、口止めしたのが結構な上位者で俺が話せないんじゃとか推測してついに降臨したってところか。

 でもさ、あいにく誰も俺に指示なんぞ出してないんだよ、中将閣下。だから誰がどうのって迂闊に言えないんだ。

 

「クザンか」

「……いいえ」

 

 答えあぐねている俺に痺れを切らしたのか、とうとうサカズキ中将は青雉、クザン中将の名を挙げた。

 残念ながら俺はクザン中将とほとんど面識ない。一回か二回挨拶した程度の人だ。何か言われるような機会はなかったし、あっちもわざわざ俺にそういうこと言ってくる理由もないだろう。

 たぶん犯人はこいつだって思って来たんだろうな。ソリが合いそうにないみたいだし、自分の邪魔をするならこいつって先入観もあるんだろう。サカズキ中将は確信に満ちた口調だったが、俺の否定で怪訝そうに目を眇めた。

 

「ならボルサリーノか」

「ち、違いますっ!」

 

 ないない。あの人、俺の配属先に関しては好きにしなァって言ってたし。

 俺に自分の部隊へお礼奉公の配属希望を出すようにも言い出さず、良い勧誘話があればそれを選んでもいいし、みんなと一緒にランダム配属でもいいと宣言している。俺の思うようにしろってさ。

 確かに二年前、サカズキ中将が俺を狙っている、意思を無視して戦場を引き回されるかもしれないから気をつけなよって言っていた。でも俺が自らの意思でそれでもいい、サカズキ中将の元に行きたいと望むならそれもまた良しとも言ってる。

 とにかくボルサリーノ中将は配属先に関しては全面的に俺に判断を尊重してくれている。濡れ衣着せられちゃっては気の毒なので、ボルサリーノ中将の関与はしっかり否定しておく。ついでに誰の指示でもないとも言っとこう。

 

「ならば、誰だ?」

「サカズキ中将。どなたも小官に勧誘を断るよう指示をなさっていません」

「誰ぞ庇っちょるわけではないんじゃな?」

「小官の判断でお断りさせていただいております」

 

 窺うように目を覗き込まれる。すべてを見透かそうとするようなその視線に背筋がゾワゾワと粟立ち落ち着かなさを感じる。

 だが此処で目を逸らすと嘘を吐いていると思われるかもしれない。怖かろうがなんだろうが、とにかく視線を合わせておかないと、と必死でサカズキ中将の三白眼を見返し続けた。

 

「なら何故断っちょる、理由を言うてみい」

 

 え、理由? あんたらの正義に近寄るのも、最初から前線や激戦区に行くのも、人間兵器扱いされるも、まっぴらごめんってことなんだが。

 ぶっちゃけてそう言っちゃいたいが、これじゃ真面目に答えんかァってブチギレさせてしまうかもしれない。絶対できない。

 うわ、どうしよう。適当なこと言ってもバレそうだ。ヤバイ、真面目な理由考えなきゃなんないじゃん。

 サカズキ中将は相変わらずすっごい顔で俺を見ている。思いっきり返答待ちの姿勢だ。は、早く答えんと……!!

 焦りでもうオーバーヒート寸前の頭を振り絞るけど、まったく良い案が出てこない。

 八方塞がりの状況で目の前がだんだん暗くなっていくような気がした。

 

 ああ、詰んだ。俺、詰んじゃったよ。無事に俺はこの応接室から出られるんだろうか。

 ……ものすごく不安です。

 

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

 件のロイ候補生が勧誘を断り続けちょると聞いたのはついこの間だ。

 優れた戦闘力を示す彼を、わしらは前々から部下に欲しいと考えとった。二年前、候補生の能力に関する報告を聞いて、それだけの力量を持っとるなら軍内でも有数の海兵になるじゃろうと見たからの。

 鉄は熱い内に打て、というワノ国の言葉がある。なるべく早い内からわしの手元で正義について学ばせるべきじゃと思った。

 絶対正義の何たるかを徹底して教え込み、その力を正しく悪を打倒するために使えるよう指導しちゃれば、将来は海軍を支える有力な上級将校になるはず。

 海軍のためにも、正義のためにも、世界の平和のためにも、ロイ候補生には是非そうなってもらいたいし、そうなるべきじゃろう。

 すぐに繰り上げ卒業をさせようと動いたが、あまりに年少過ぎるという理由で当時のコング元帥や修練の担当教官のボルサリーノ、そしてお節介焼きのクザンなどに強く反対され諦めざるをえんかった。

 だが、正式任官する今ならばもう問題はあるまい。誰の文句も出るまいと、意欲のある若い者をロイ候補生の勧誘に向かわせた。年の近い者の方が、ロイ候補生も親近感があるじゃろうし、比較的話しやすかろう。

 勧誘が断られる例は少ない。すぐに誰かの部隊への配属希望が出ると、思うとったのじゃがな。

 それからしばらくした頃に、ロイ候補生の配属希望が出たという報告の代わりに、ことごとく勧誘を断られたという報告が上がってきよった。

 最初に行った者たちの勧誘が断られた時は相性が悪かったかと思って、別の者を行かせておったそうじゃが、誰に対してもロイ候補生は首を縦に振らん。どう説得しようが『どなたの部隊にも配属希望は出しません』と繰り返す。何故かと訊ねても、勧誘を一切受ける気がないだけというばかり。

 これはおかしい、わしに指示を仰ごうとなったらしい。

 ロイ候補生が勧誘を蹴り続ける原因について、大方の者は誰かに断るよう指示されちょる、もしくは偏った情報を吹き込まれちょるのではないかと言う。頑なな態度からして、おそらくかなりの上位者がきつく言い含めている可能性があるじゃろうとな。

 だとすると、担当教官として側にいるボルサリーノ、もしくはわしと意見が対立しちょるクザンあたりが犯人か。

 いや、ボルサリーノがやっとる可能性は低いの。

 読めん男だが、公平で信用はできる男だ。こういった真似はせん。ロイ候補生の卒業後の進路は本人の意思にすべて任せると言うちょるし、実際に今何かしようとする意思や動きはあれにもその周りにも見られんしの。

 ならばやはりクザンか。あれの周りも勧誘に動いちょるのが幾らかおると聞くし、なによりわしのやることで気に食わんことがあると邪魔しに来よるのはあいつくらいのもんだ。

 二年前のこともある。どうやったかは知らんが、ロイ候補生に接触して忠告とかいう形で誘導しよったのじゃろう。まったく余計なことをしてくれる。ぬるく中途半端なたわけかと思えば、狡猾に物事を進めよるところが憎たらしいわ。

 邪魔をされてはいそうですかと諦めるわけにはいけん。ロイ候補生に偏った認識を持たせたままにもしておけん。

 だからわしが直にロイ候補生と会うことにした。いくら次期大将に言い含められちょったとしても、あれとほぼ同等の立場にあるわしならば真実を話させることは可能じゃろう。

 もし手を回して勧誘の妨害を働いたのが事実とわかれば、クザンに逆撃を食らわせ黙らせられる。ロイ候補生にも妙な障壁を取り払って何が正しいか判断させることができるはずだ。

 話はすぐまとまるじゃろう、そう思って滅多に足を向けん士官学校の門を跨いだ。

 

 

 士官学校の応接室で対面したロイ候補生は、随分と細っこい若者じゃった。

 勝手に屈強な男と思っちょったが、こんな優男だったとはのォ。予想外と言えばそうじゃが、まあそれは良い。見た目と実力など比例するもんのようでそうでもないからの。

 向かいのソファに腰を下ろした小柄なロイ候補生は、儂を前に緊張しちょるらしい。白い細面を少々強張らせ、不自然に身体を固くしちょる。

 まあ若い者相応の反応だの。普通の候補生ならばこうして軍上層部たる本部中将と間近で対面すれば、大抵畏縮してしまう。自分で言うのもなんじゃが、わしのような見るからに厳めしい者を前にすれば、余計にそうなるに違いない。

 が、今のロイ候補生の反応は少し過剰に見えるの。やはり何か吹き込まれているのかもしれん。

 

「さて、ロイ候補生」

「はっ」

 

 おもむろに声を掛けると少年はビクリと肩を震わせ、弾かれたように顔を上げた。そこまでビクつかんでもと思う。

 

「わしはまだるっこしいのが嫌いでのォ。単刀直入にいきたい。構わんな」

「は、はい!」

 

 怯える割にキチンとわしの目を見て話そうとしちょるのは、なかなか見上げた根性だ。面と向かってわしに対応できる若い者は少ない。ロイ候補生の態度に少しばかり嬉しく思う。

 

「では訊こう。貴様が勧誘を断るのは、誰ぞの指示か?」

 

 強張った表情のままロイ候補生は何も答えない。

 しばらく応接室に沈黙が落ちる。どう答えていいのか迷っちょるのかの。息を詰めたような雰囲気でロイ候補生は押し黙っちょる。

 

「クザンか」

「……いいえ」

「ならボルサリーノか」

「ち、違いますっ!」

 

 ボルサリーノの名を挙げると、慌てたように言い返してきおる。師匠に嫌疑を掛けられてはかなわんといったところか。あいつもよう慕われちょるもんだ。

 

「ならば、誰だ?」

「サカズキ中将。どなたも小官に勧誘を断るよう指示をなさっていません」

「誰ぞ庇っちょるわけではないんじゃな?」

「小官の判断でお断りさせていただいております」

 

 あくまで自分の意思で断ったと言い張るか。

 本当かどうか確かめるため、しっかりと黒い目を覗き込んでやる。嘘を吐けば目でわかる。いつも通りの建前でわしを追い返そうとしちょるなら、それはそれで上官に偽りの申告をしたことになるので許せん。

 揺らぐか色を変えるかすると思ったが、意外なことにその目は怯えた色を見せるもののしっかとわしを見返してきおった。

 ふむ、真実嘘ではない、ということか?

 

「なら何故断っちょる、理由を言うてみい」

 

 自分の意思で断っちょる理由とは何かとても気になる。

 一体何がロイ候補生をここまで頑なにさせるか、知っておきたい。これだけの勧誘を片っ端から切り続けるほど固い意思を持たせるのだ。余程のもんなのじゃろう。

 まっすぐわしに視線を向けたまま、ロイ候補生は生唾を飲み込みおる。そして一つ息を吸い込んで、慎重に口を開いた。

 

「……小官自身で正義とは何か考えたいのです」

「正義を考えたいじゃと?」

 

 正義とは何か考える? どういうことだ。何故当たり前のものをわざわざ考える必要がある。

 何をふざけたことを抜かすのかと、自然とロイ候補生をきつく見据える。

 

「意志無き正義より、意志を持って掲げる正義こそが、我々海軍士官には肝要。そう士官学校四年間で繰り返し学びました。この訓示は誰かの正義を鵜呑みにせず、自ら思考し正義とは何か知ることこそが兵を率いる者には重要という意味だと思うのです」

 

 はたして黒髪の少年は俯くことなく見返してきおった。黒い目に揺らぎは一切ない。

 

「小官は訓示の通り、誰かの選んだ正義を勧められるまま掲げるのではなく、まずは自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えて、納得した正義を選び取りたいのです。そのため、すべての勧誘をお断りさせていただきました」

 

 言い切ったロイ候補生はまっすぐわしを見上げる。

 お互いに目を逸らさず、そのまま沈黙が室内に再び戻った。初夏の日差しがじんわりと汗を誘う。

 士官には意志無き正義より、意志を持って掲げる正義、のォ。

 わしも士官教育を受けた際、耳にタコができるほど言い聞かされた訓示じゃな。

 正義を自ら定義することは士官の何たるかの根幹、兵卒を率いる者の心得だ。自らに正義という支柱を持つことで揺らぐことなく戦える、確固たる正義を示すことで指揮下の兵卒の迷いを振り払って戦わせてやれるようになる。それを教えるためのものだとか言うておったな。

 ロイ候補生はこれに従いたいというわけか。そのためには最初からわしらの勧めるままその正義の元へ参じる勧誘を受けず、他の候補生同様各部署を回り軍内の正義を見聞きしたい、と言いたいのじゃろう。

 ふむ、なんとも珍しい若者じゃのォ。

 軍内において、卒業時に勧誘を受けることは即ち出世の足掛かり、という風潮がある。勧誘を受ければ、士官候補生は皆喜び勇んで配属届を出すのが普通になっちょる。

 そんな中で自らの納得いく正義を模索したいと勧誘を蹴る奴がいるとは、思いもよらなんだ。

 尻の青い若造が、士官たるための訓示の意味を正しく理解し、実行に移そうというか。

 なるほど、その意志はわしらの勧誘を断るに足る理由じゃわい。

 こういう者は嫌いじゃあない。何も考えず正義を叫ぶその辺の若手士官や士官候補生共より遥かに見所があるわい。今後どのような正義を選びおるにしてもな。

 

「そうけ」

 

 思わず口元が緩む。近頃にしては珍しく愉快な心持ちだ。

 団栗の背比べのようにどれも変わらん、多少使えるか使えんかの違いしかないと思っちょった士官学校の人間にも、こんな奴がおると知れただけで儲けもんだ。

 

「そんなら、貴様の思っちょるようにしたらええ」

「ありがとう、ございます」

 

 神妙な面持ちでロイ候補生が深々と首を垂れる。

 緊張は切れんようじゃの。仕方あるまいか。中将相手に緊張をせず意見を言えなんぞ無茶にもほどがあろう。

 

「ロイ候補生、貴様は面白い奴じゃの」

 

 今日は珍しいことが次々起こる日じゃわい。ロイ候補生を見ていたら、急に悪戯心が湧いてきおった。

 顔を上げたロイ候補生の頭に手を置いてやり、ニヤリと笑う。

 

「もしも最初の配置がわしの部隊じゃったら、存分に可愛がっちゃるけェの。期待しとれよ」

「ハッ、その際はよろしくお願いいたします」

 

 薄く微笑んでしっかりと答える少年の黒髪をガシガシと掻き回しちゃる。

 ますます目の前の若者に、いつかわしらと共に正義を背負ってほしいと思った。

 

 

 

 

 



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第11話 卒業

士官学校編はこれにて終わり


 遠征から帰ってすぐ、センゴクから執務室まで来いと連絡があった。

 至急儂に相談したい案件があるのだと告げる奴の副官の様子からして、何ぞ厄介なことでも起きているらしい。

 本当は煎餅と茶で一服してからにしてほしいが、仕方なしに本部へ向かうことにした。

 最近移動したセンゴクの執務室のドアを開けると、奴は真新しい元帥の軍装を纏って執務机にしかめっ面を向けておる。

 

 

「遅いぞガープ」

 

 書類から顔を上げんまま開口一番に吐き出されるのは相変わらず文句だ。元帥になってもわしとのやり取りはほとんど変わらんもんじゃな。

 軽く流して適当に執務机近くのソファに腰を下ろす。

 

「何ぞあったか」

「不本意ながらお前に頼みたいことがある」

 

 これを見ろ、と投げつけられたファイルを開く。中身は士官候補生の内申書。記載された候補生の名を見ると、聞き覚えのある名じゃった。

 ふむ、ロイとかいうこの候補生は確か、ボルサリーノが修練指導に当たっとった奴じゃないか?

 

「そのロイ候補生をお前に預ってほしい」

「はあ?」

 

 唐突なセンゴクの発言に思わず間抜けな声が出る。

 士官候補生の卒業直後の人事に、元帥が口を突っ込むなんぞ聞いたこともなくて、さすがの儂も首を捻った。

 予想通りの反応だったのだろう。センゴクの奴はやはりといった感じで溜息を吐きながらその頼みごとの理由を話し出した。

 

「取り合いが起きた」

 

 なるほど。三年ほど前の繰り上げ卒業騒動の第二ラウンドが起きたんじゃな。

 以前からずば抜けた悪魔の実による戦闘能力によって、是非ともロイ候補生を自分の部隊にと望む声は、軍内のあちこちで上がっとった。

 特にサカズキやら過激な奴らが大きな声を上げて強引な手段を取ろうとし、それに嫌悪感を抱いたクザンを始めとする奴らと対立しおってな。

 結局繰り上げ卒業が当時のコング元帥の一声で阻止されてからも、何やかやと揉め取ったんじゃが、案の定勧誘の時期になって再炎上ということか。

 

「クザンとサカズキの周りが揉めて収拾が付かん。サカズキ共の強引な勧誘に対する批判や、クザンたちがそれに対して妨害工作をしているという噂などが軍内で飛び交い過ぎていてな」

「どうにもならんので揉める原因のロイ候補生を、奴らが落ち着くまでしばらく儂預りにして取り上げておくっちゅうわけか」

「ああ、まったくあいつら、面倒事を起こしよってからに……」

 

 頭痛を堪えるようにしてセンゴクは額を抑えつつ、苦虫を噛み潰したような渋面を浮かばせている。

 苦労しとるようだな。組織であるがゆえに主義主張の対立が生まれるのは仕様がないこと。揉め事なんぞ起きないはずがないもんじゃ。

 主張し合っておる立場ならば自分の意志を曲げずに上手くやることだけ考えとればいい。

 だが組織の上に立ってしまうと、それだけではいけない。組織が内部の対立で崩れんように調整する努力が必要になってくる。

 それぞれの主義主張を戦わせるのは組織の健全化のためになるので構わんが、組織のトップは双方がやり過ぎんよう利害調整に走ったり穏当に済ませるよう説得したりすることで組織の形を守るのも重要な仕事なんじゃよ。

 組織が崩れてしまえば元も子もない。主張し合い押し通そうとするものの意味がなくなってしまうからのう。

 今センゴクはその苦労をヒシヒシと感じとるんじゃろう。たった一人の士官候補生の存在だけでこんなに苦労するとは思ってもみなかったに違いない。

 ま、争いの種なんぞそんな些細なもんばっかりなんじゃし、諦めて元帥の仕事を務め切るんじゃな。

 サポートくらいはしてやるから頑張ってほしいもんじゃわい。

 

「で、頼めるか?」

「ええぞ、引き受けてやる。で、どこまで仕込めばいい?」

 

 取り上げるというても、ずっと儂の元に置いておくわけにもいかん。長く見積もって二年か三年ほどか。

 その間にロイ候補生には周りに揺さぶられんよう基本的な海軍の内情などを仕込んでおいてやる必要がある。

 本人がきちんと状況を見て意思を示すことができれば、また取り合われる様な事態になっても比較的マシに収めることができる。最低でも自分にとって何が良い選択かを考えられる程度には持っていってやればいいじゃろうか。

 それに内申書の成績や素行に関する評価からして、彼はそれなりに勤勉で真っ当な倫理観も持った人間のようじゃ。能力者という点を含めれば、おそらく最低でも将官に登ってくるじゃろう。

 つまりは近年稀にみる将来有望な人間というわけじゃ。下手に人間兵器として使い潰されたり、正義と現実の重みに耐えきれず脱落したりせんように慎重に教育をせねばならんと思う。

 

「様子を見ながら、一通りは頼みたいがどうだ」

「二年ならば、万全にフォローできてシャボンディのことまでくらいじゃな」

 

 天竜人関連は、大抵の海兵にマイナスの方面で影響を与えやすい。特に若く無垢な正義感や摩れていない倫理観を持つ者にはきついもんじゃ。事前に指導して帰ってきたらフォローして落とし所を見つけさせるには結構掛かる。

 そう計算するとそこから先、政府関係の胸糞悪い仕事まではどうにも手が回らん。知識として教え込むくらいしかできん。

 

「そこまでできるならば比較的軽めのものを見繕っておく」

「おう。しかし上手く仕込めんかったらどうする?」

「足りんと思えばそれとなくおつるちゃんに頼んでもう二年ほど面倒を見てもらう」

「四年か。不満が上がるぞ」

「……できる限り二年で仕上げてくれ」

 

 これ以上面倒が増えんようになと、長い長い溜息を吐き出しつつセンゴクが呻いた。

 

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

「ロイ、掲示板見に行くぞ」

「嫌だ」

 

 皆さんおはようございます。只今絶賛ベッドに立て籠もり中のロイです。

 士官学校も残すところあと半月で卒業式の時期になった今日の頃。卒業後の配属先が正式決定したらしく、本日掲示板に張り出される。

 さっきから毛布被った俺をガンガン揺すってくれているドレークは、それを見に行こうと誘ってるんだ。ちゃんと確認しておかなくちゃいけないって。

 この顎野郎さっきから本当にしつこいな、もう!

俺の勧誘騒動の裏でちゃっかりしたリーヴィス大尉に勧誘されて配属希望出してるから、まったく掲示を見に行く必要なんかないくせに。俺の世話なんか焼かなくていい。

 

「いい加減出てこい、スモーカーはもう行ってしまったぞ」

「知らん。私は見に行きたくない」

 

 嫌な予感しかしないんだもん。サカズキ中将が来た日のことを思い出しながら、毛布を剥がそうとする手と格闘する。

 あの日、サカズキ中将に何を言ったか実はよく覚えていない。勧誘を断る理由を訊かれた辺りからもう頭真っ白で、気づいたらサカズキ中将に頭を撫で繰り回されていた。

 予想だにしない状況にきょとんとしていたら、妙に楽しげな顔してあのオッサンは言った。

 

 もし最初にうちの部隊に割り振られたら可愛がってやるからなって。

 

 可愛がるって、なんだ。何をしようっていうんだ。

俺が言ったことで何か気に入らなかったりしたのだろうか。こんな甘ったれこってりビシバシしごき上げてやろうって思っちゃったりしてるのだろうか。

 もう死刑宣告された気分だった。とりあえず勧誘を諦めてくれたようだけれど、完全に目を付けられたのだけはわかる。任官してからもずっと睨まれ続けるのは確定ですね、ありがとうございます状態だ。

 その後卒業の前祝って飯に連れ出してくれたリーヴィス大尉の爆笑にもダメージを食らわせられた。

 居酒屋で生中を吹き出す勢いで大笑いしてあの大尉愉快そうに言ってたんだ。理由訊かれたらまずはうちの中将にお礼奉公しようと思ってますって言えばよかったろうにって。

 ……そうだよ、思いっきりお礼奉公とか逃げ道があったこと忘れていた。

 一番真っ当で角が立たない言い訳じゃん、お礼奉公。ヒナがおつるさんとこ行くらしいし、俺もそうするつもりって言っても何にもおかしくない。

 畜生、何で頭からそれを飛ばしてたんだよ、俺!

 しかも誰のとこにも配属届出さないって、ボルサリーノ中将のとこにも出さないってとられてもおかしくない断り方だったことまで思い出した。ランダム配属でサカズキ中将とその仲間の部隊になることもあり得るのに、何で退路断つようなこと言ったんだ、俺。

 ショベルカーで盛大に墓穴を掘ったような状況に自分で飛び込んだことに気づいても、思いっきり後の祭り。

 心の中で転がり回って後悔している内にとうとう今日になってしまった。

 配属先は気になるが見たくない。マジでサカズキ中将の部隊だったらと思うと、ベッドから出る気が裸足で逃げ出すんだ。

 配属されていない可能性も大きい。でもあの人の信奉者って結構多いらしい、どっかで引っ掛かる可能性も同じくらいある。

 うおお、此処から出たくない、というかこのまま時が止まってくれればいいのに。

 

「んだよ、まだ籠ってたのかよ。その馬鹿は」

 

 毛布から顔を突き出すと、そろそろ取っ組み合いになりかけていた俺たちをスモーカーが面倒くさそうに見ていた。

 もう帰ってきたのかよ。早いな、おい。

 スモーカーの方に気を取られていたら、ドレークにベリッと毛布を引き剥がされた。籠っていた湿気が一気に失せて、一瞬だけさらりとした爽快感を感じる。

 

 

「よし、ようやく剥がせた!」

「ちょ、ドレーク、何をするんだ」

「手間取らせるな、ほら、さっさと行くぞ」

「嫌だと言っているだろうが、この顎!!」

「なんだと!?」

 

 俺の暴言にさすがのドレークもイラついたのか、無理矢理腕を掴み上げてドアの方へ俺を引き摺ろうとする。

 連れて行かれてたまるかと必死な俺も、一番近い所にあったドレークの太い二の腕に噛みついてやる。

 痛みに怯んだのか一瞬手が緩んだ。その隙に手を振り払って距離を取れば、怒りに染まりかけの蒼い目に睨まれた。

 こ、怖くなんかない。あんまり怒らないドレークは怒るとかなり怖い。だが怒らせたとしても俺は掲示板を見に行きたくない。

 現実逃避だとしても、現実が変わらないとしても今は目を逸らしていたいんだ。

 

「その辺にしとけ、お前ら」

 

 蚊帳の外にいたスモーカーが、呆れたように溜息を吐き出す。

 二人分の殺伐とした視線を受けても、何ともなさそうにドアに凭れ掛かって煙草をふかしている。

 

「ロイ、行く必要はねェよ」

「スモーカー、お前まで何を言うんだ!?」

 

 お、スモーカーが俺の味方に付いた?

 慌てたようにドレークが咎め、俺は内心親指を立てておく。気が利くじゃないか、今度煙草奢ってやろう。

 

 

「お前の分も俺が確認してきてやったからな」

 

 前言撤回。水蒸気集めてお前のマッチ全部湿気させてやるからな、この裏切り者!

 何してくれちゃってんだ。俺の分とか確認して来なくていい。そんな優しさ要らない。

 

「何だ、そうか。それでロイの配属先はどこなんだ?」

「おう、俺と同じだった」

 

 代わりに慌てだした俺を他所にドレークがスモーカーに訊いた。

 ちょっと待て、なんでお前が訊くんだよ。スモーカーもメモ取り出すな、それに書き留めてきただろう俺の配属先を言うんじゃない!

 

 

 

「ロイ。俺とお前の部隊は、モンキー・D・ガープ中将直卒部隊だとよ」

 

 

 

 ……なんですと?

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

「それではみなさんご一緒に!」

 

 誰か調子のいい奴の音頭に続き、ワァッと盛大な歓声と真っ白な制帽が、抜けるように蒼い初夏の空に向かって乱舞する。

 制帽投げは卒業式の定番だな。

 そう、本日は遂にやってきました卒業式だ。

 とうとう俺も士官学校を卒業して、明日からは正式な海軍本部准尉になる。

 士官学校生活を振り返ってみて、まず浮かぶのは濃密さだ。

濃かった、本当に濃かった。この約三年半は日本で過ごした学生生活よりも濃密で、ボリューム満点だった。

 何の因果かサラリーマンから士官候補生になって、遂に俺も海兵さんか。

 しかも海軍本部の海兵だ、恐ろしいほど遠い所まで来たものだと思う。ここまで来ると、もう日本には帰れないだろうな。

 手にした士官学校修了証書を高揚と僅かな感傷に浸りながら見つめる。

 そこには俺の名と学年の上位四分の一くらいの位置のハンモックナンバー、士官学校の教育課程を修了した旨と准尉に任ずる旨が記されている。任官状も兼ねているんだ。

 四年間の士官学校生活とこれからのキャリアの出発点が詰まっているのかと思うと、重みを感じる気がせんでもない。

 新しい部屋に引っ越したら、額に入れて飾っとこうっと。

 

 結局俺の配属先はサカズキ中将やその周辺のところではなかった。卒業後に即徹底的な正義を押し付けられるフラグが折れたってわけでホッとした。

 代わりにルフィの祖父さんであるモンキー・D・ガープ中将の部隊に配属されていた。

あの海賊王と何度も殺り合って何度も追詰めた海軍の英雄、生ける伝説、全海兵憧れの存在のガープ中将の直卒部隊が俺の配属先なんだ。

 ここ何年か彼の直卒部隊には准尉が配属されることはなかったのに、突然二人も入ることになってちょっとした話題になった。

 どうやって潜り込んだんだとかしつこく聞いてくる奴らもいたが、なんでこうなったか俺は全然わからない。何にもしてないんだからそう答えるけれど、いまいち信用されてないみたいだ。

 どこに行っても上手いことやりやがったって嫉妬とか羨望とかの視線が刺さりまくって、卒業までの数週間は本当に参った。

 でも、この配属は悪くはないと思う。むしろラッキーかもしれない。

 ガープ中将っていい加減なとことか破天荒過ぎるとこがあるけど、根は真っ当で面倒見のいい人だ。無茶なこと、はするかもしれないが、それにしたって味方を傷付けるような真似はしないはず。

 それにガープ中将は海軍の英雄だ。その旗下は海軍の中でも歴戦の精鋭部隊。きっと学ぶことが多いに違いない。士官としての経験値を積むにはお誂え向きだろう。

 当たりって言えば当たりな上官だろう。今から万歳昇進で少尉になるまでの最低一年は精神面の平穏と充実した生活が約束されたようなものだ。

 うん、若干明るい未来が見えてきた気がする。何とか海軍でも生きていけるかもしれない。

 

 

「ロイくーん、記念写真撮りましょう!」

 

 

 手元の証書からふと目を上げれば、校門の前でひらひらと制帽を振りながらヒナが俺を呼んでいた。その側にはいつの間にかスモーカーやドレークもいる。

 その辺に転がっていた自分の制帽を拾い、真っ白な正装のスーツ姿がちょっと眩しい奴らの元に足を向けた。

 遠くに見える海は、今日も今日とて青く澄んで、地平線の彼方まで広がっている。

白い花を乗せた波のきらめきに、不思議と胸が躍った。

 

「ああ、今行く!」

 

 よし、いっちょ頑張って海の平和を守る海兵さんやりますか!

 

 




次回より、新米海兵さん編開始です。


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第12話 東の海での出会い

新米海兵さん編スタート。


 

「おい……俺たちは遠征に来たんだよな?」

 

 手元の作業を止めず、ぼそりとスモーカーが呟く。

 

「そうだな。任官後初の遠征に参加中だよ」

 

 その問いかけに俺は顔も上げずに答える。もちろん作業を続けながら。

 

「海賊の討伐が遠征の目的だったよな?」

「ああ、何個か海賊団を捕まえて今は補給のために、ここの港に停泊しているところだ」

「俺の勘違いじゃねェよな」

「うん、勘違いじゃないから安心しろ」

 

 会話が途切れる。さざ波の爽やかな囁きとカモメの可愛らしい鳴き声に、俺たちの手元からシュコシュコとポンプを押す小さな音が混じるだけの沈黙が流れ出す。

 ふいに一定間隔で聞こえていたポンプの音が止んだ。

 どうしたのかと隣の親友を見上げると、お世辞にも良いと言えない人相をもの凄く凶悪に歪めて震えている。

 

「じゃあ……」

「じゃあ?」

 

 絞り出すように吐き出された言葉を、反射的に鸚鵡返しにしてしまう。

 

「なんで俺たちゃ呑気に風船なんぞ膨らまさせられてんだァァァっ!?」

「知るかーッ、私もその理由を知りたいッッ!」

 

 

 

 やあ、海軍本部准尉のロイです。

 現在俺たちの所属するガープ中将隊は、遠征に出た先の東の海のとある島の港に停泊中だ。

 スモーカーと一緒にここへ配属されてそろそろ半年、正式な海兵になって初めての遠征なんだ。

 結構他所の部隊より遅いらしいけど、今まではガープ中将の予定の都合で遠征が入ってなかった。それでずっと中将の副官をしているボガード中尉に付いて、陸上勤務や事務仕事の手解きを受けていたんだ。

 実のところ、遠征に出られなかった中将の都合ってのは、書類が溜まり過ぎてやばかったからだったりする。

 予想通りというか、中将は事務仕事を溜め込むタイプで、書類仕事がワンサカ山積み状態。中尉に手順を教えてもらって期日が早い順に中将の決済が要る書類を整理し、すぐに逃げ出す中将にサインを書いてもらうため追い掛け回すの繰り返しだった。

 本当にガープ中将は良い意味でも悪い意味でも原作通りの人だよな。快活で気のいい人で、驚くほどにフリーダムだ。

 配属された時からまめに気遣って指導してくれているけど、ちゃんと自分のデスクワークもこなしてくださいってば。

 書類の海に溺れてアンタ探し回って残業って毎日は、けっこう辛いんですから!

 

 でも先日ようやく書類仕事が落ち着いて、遠征の申請に許可が出たんだ。

 遠征先は俺たち見習士官や新兵に配慮して、まずは海賊があんまり強くない東の海を選ばれていた。ちなみに期間は一ヶ月だとか。

 今回の遠征の主な任務は、すごくスタンダードな任務内容だ。最近海賊が増えてきて周辺の島に被害が報告されている地域での海賊掃討だそうだ。

 事前の情報によると最弱の海だからそれほど強い海賊はいないらしいし、こっちには中将をはじめとして腕が確かな将校もそれなりにいる。

 そんなにきつい任務じゃないとボガード中尉が緊張していた俺に言ってくれたが、果たしてその言葉通り四年次の最終航海実習と変わらないものだった。

 艦上攻撃も戦闘もやったが、はっきり言ってどちらも拍子抜けするほどあっさり終わった。

 大砲に混ざって焔を撃たされたり、空気中毒技で制圧戦をやらされたけど、ほとんど投降するとか速攻気絶するんだ。殺し切る前に片が付いてしまうんだよ。昔のことを思い出してドキドキして損した。

 最初は勝手が掴めなくてぎこちなかったが、すぐ無難に俺もスモーカーも任務をこなせるようになった。

 

 そうしてガープ中将から筋が良いとお褒めの言葉をもらったりとか、ボガード中尉から細かい注意や指導なんかを受けたりとかして過ごすこと、二週間。

 遠征も折り返し地点に至り、今朝がた弾薬や食料等の補給のためこの島の港に入った。

 午前中からいろいろ関わってる雑務や中尉のお手伝いなんかのために駆けずり回り、一通り仕事を終えて昼食を摂って休憩をもらったところで二人纏めて中将から呼ばれたんだ。

 何事かと思って行ったら、ほれ、とばかりに小さめの軽い箱を押し付けられた。

 きょとんとしている俺たちに、中将がニカッと明るい太陽みたいな笑顔で命令したんだ。

 

『お前ら、儂が帰るまでにその中の風船を膨らましといてくれ!』

 

 俺の能力でヘリウム入れて浮く風船にしとくようにまで言って、頼んだぞーってバシバシ俺らの肩を叩いてから、バタバタどっかに出かけて行ったんだ。

 呆然としちゃったけどどうにか再起動して箱を開けたら、そこには大量のカラフルなゴム風船と留め具付きの紐が無数に付いた縄みたいなもの、そして空気を入れるためのポンプが二つ。

 マジで風船膨らませっていうのか。しかもこんなにたくさん、ざっと見て百枚以上はあるんじゃないか?

 説明もないままで命令の意味がまったく分からなくて、この時点でスモーカーがイラッとしていた。

 俺ももう少し説明してくれよって思ったが、とにかく上官の命令には従わないといけない。

 こうしてイラつくスモーカーを宥めながら作業を開始し、今に至るって感じだ。

 

 うん、作業をする中でこれをやる理由とか考えてみたさ。でもまったく浮かばなかった。ほとんどの風船を膨らましてしまっても、本当にこれっぽっちも浮かばない。

 スモーカーの方も同じらしく、気が短いこいつは先に痺れを切らしちゃったようだ。

 ポンプを投げ捨てて乱暴な手つきで煙草に火をつけ出した奴を横目に、放棄された風船を取り上げて深い溜息を吐く。俺もそろそろキレたい。

 場所を取る作業だし広い甲板に出てやってるから、通り掛かる人間全員に珍獣を見るような目で見られたり、事情を知らない某少佐に遊んでいるなとどやされかけたりしてるんだ。

 その恥ずかしさやいたたまれなさは、もう若者のデリケートな心を痛めつけるには十分だった。

 くそ、本当にこんな物を大量に作らせて何するんだ? 海賊討伐に使うわけないだろうし、港街の子供に配れってか。

 訳が分からなくて嫌になるが、とりあえず今俺の手にある風船で最後だ。とっとと全部紐に繋いでヘリウムを入れてしまおう。

 手早くポンプで空気を送り込み、口を結んで紐の留め具を填める。よし、全部膨らんだ。

 あとはヘリウムを入れるだけか。入れた途端に飛んで行かれては困るので、スモーカーに風船が大量についた綱を持ってもらう。

 

「気持ちはわかるが私を睨むな。上官命令なんだから」

「チッ、とっととやれ」

 

 機嫌を急降下させるスモーカーに苦笑いをしつつ、風船の大群に向かう。

 範囲指定、良しっと。じゃ、いきますか。

 一つの風船の中に照準を絞り、パン、と両手を勢いよく合わせる。一拍置いてふんわりと空中にその真っ赤な身を浮かばせた。

 成功だな。じゃあ次々行ってみよう。

 パンパンと軽く手を叩きながら、色とりどりの風船にヘリウムを入れていく。

 案外ピンポイント範囲指定の訓練になるかもな、と思いつつ繰り返すことしばらくで、すべての風船が宙に浮き、海風に吹かれていた。

 

「よし、完了だ」

「っと、ロイ、お前も綱掴め! 引き摺られるッ」

 

 全部浮かせると浮力が半端なかったらしい。大量の風船たちは風に煽られ、数の力で行きたい方へ既に結構な筋肉達磨のスモーカーを引き摺ろうとしていた。

 うおッ、なにこれ凄くやばくない? 慌てて俺も縄に飛びつき、体重を掛ける。

 

「ハァ、止まった……」

 

 大の大人の男二人分の体重を掛けて、ようやく風船たちは言うことを聞いてくれた。

 何度目か知らない溜息を吐く。

 

「すっげー!」

 

 ホッとした雰囲気が僅かに流れた俺たちの背中に、突然黄色い歓声が飛んできた。

 軍艦に似つかわしくないそれに驚いて、声のした後ろへ首だけで振り返る。

 

 え、子供?

 

 なんと後ろには俺と同じ黒髪の小さな子供がいた。ぽかんとしている俺たちの方へ、トテトテと可愛らしい足取りで駆けてくる。

 足元まで転がるようにやってきたその子は、近くで見るとどうやら三つか四つくらいの男の子だった。

 キラキラさせた目で鮮やかな風船の大群を見上げて、興奮に頬を上気させている。

 

「ふうせんいっぱい! すげーなあー!!」

 

 子供らしい高音で凄い凄いと連発する様はすごく可愛い。ちょろちょろ動けない俺たちの周りを回っていろんな角度から見上げる姿にめちゃくちゃ和まされる。

 

「なあ、いっこくれよ!」

 

 ちんまりとした手のひらが、ずいっと伸ばされてきた。

 やっぱり欲しがるよな。このくらいの子供にとっての浮く風船なんて、とんでもなく楽しい玩具だものな。

 でもこれ中将に頼まれた物だし、流石に許可を取らないとあげられない。ちょっとかわいそうだけれど、ぴょんぴょん飛び上がって頂戴コールを掛けている男の子に謝る。

 

「すまない、坊や。これは人に頼まれている物だからダメなんだ」

「ええーけちー」

 

 男の子は途端にふっくらした頬をさらにふっくらさせて、俺を上目づかいに可愛く睨んでくる。

 クッ、良心が痛む。そんな目で見ないでくれ。

 

「一個くらい良いんじゃねェか?」

 

 そんな俺と男の子のやり取りを見ていたスモーカーが、煙を吐き出しながら言い出した。

 

「え、でも」

「こんだけあったらバレやしねェよ。おら、坊主、何色が良い?」

「あか!」

 

 こいつってやっぱり子供に優しい男だよ。リクエストされた赤い風船の付いた紐を手早く外すと、男の子に渡してやった。

 ま、確かにこれだけあれば一個くらいわからないか。俺たちが黙ってればいいだけだ。そういうことにしとこう。

 

「しっかり持ってろよ。手ェ放すと飛んでっちまうからな」

「うん! はなさねぇ! ありがとっ」

 

 風船をもらえてとても嬉しいのだろう。男の子はにぱっと太陽のような笑顔を俺たちに披露した。

 あれ、これと似たような笑顔、どっかで見た気がする。

 というか、この子どこから来たんだろうか。急に今更な疑問が浮かび上がってきた。

 この島の街の子が紛れ込んだのか? それともうちの艦の海兵が小さな我が子を乗せてあげたとか?

 とにかく確かめてみよう。キャッキャとはしゃぎ回る男の子に、訊いてみることにする。

 

「坊や、坊や」

「なんだ?」

「坊やはどうしてこの船に乗っているんだい?」

「んー、じいちゃんがのっていいっていった」

 

 風船を持った男の子は、俺の質問に元気よく答えた。

 父ちゃんじゃなくて祖父ちゃんか。乗って良いって言ったってことは、海兵の誰かだな。祖父さんになれるくらいの年齢の人って、今この艦に何人くらい乗っていただろうか?

 たぶんガープ中将隊古参の誰かの孫だろう。あの人たちなら年齢的にいてもおかしくないし、東の海の出だって人もいたはずだ。

 

「坊主、お前の祖父ちゃんの名前は?」

 

 スモーカーも男の子に訊ねる。強面のスモーカーに見下される形になるのに、男の子は怯える気配を一向に見せない。

 マイペースに、うーんと困った顔をしながら首を傾げている。

 まだこの子にとって祖父さんは祖父さんで、その名前なんて聞き覚えていないのかもしれない。

 じゃ、これはどうだろうか。

 

「じゃあ、坊やの名前を教えてくれるかな?」

 

 これならこんなに小さくても答えられるだろう。後で来るだろう中将にこの子の名前を伝えれば、多分古参の人の孫なら知っているだろう。

 自信を持って答えられる内容の質問だったからか、男の子は困った顔を止めてまた太陽の笑顔を浮かべた。

 

「おれ、ルフィ!」

 

 え?

 ニコニコとした男の子は、今なんと名乗ったんだろう?

 もの凄く聞き覚えのある名前を名乗られたような気がするんですが、気のせいでしょうか。

 

「すまないが、もう一回教えてくれるかな? お兄さんさっき聞き逃したみたいだ」

 

 落ち着け。落ち着くんだ、俺。もう一度聞き直すんだ。

 聞き間違いって可能性も有るんだから。似たような名前が波の音に混ざってあの名前に聞こえただけかもしれないから。

 

「おお、ルフィ! ここにおったんか!」

「じいちゃんだー」

 

 聞き慣れたガープ中将の良く通る声が、嬉しそうにその孫の名を叫ぶのが耳に届いた。

 再度名前を言いかけていた男の子は、その呼びかけに嬉しそうな顔をして身を翻して駆けだす。

 中将が男の子に向かってよく似た笑顔を向けながら、飛びつく彼を受け止めていた。

 

 間違いない。この子、ルフィだ。

 原作の主人公で、将来幾つも死線を越えて四億の賞金首になる、あのルフィだ。

 今会っちゃうとか予想もしていなかったよ。

 

 

「お前ら、ご苦労じゃったのう」

 

 衝撃のあまりボーっとしている間に、ルフィを抱えた中将が大股でこちらにやってきていた。

 言葉が何も出ない俺に代わって、スモーカーが中将たちと話し出す。

 

「中将のお孫さんだったんスか」

「おお、可愛かろう!?」

「……元気が良すぎるほどで」

「じいちゃん、おれ、ふうせんもらった!」

「そうかそうか!」

 

 持った風船を見せるルフィを上機嫌で撫でる中将は、孫を溺愛するどこにでもいるような祖父さんにしか見えない。

 ルフィも嬉しそうに中将の手を受け入れていて、すごく仲が良いんだって雰囲気がいっぱい出ている。

 愛情たっぷりだな。漫画で見ている時も愛情が深そうだって思ったけど、実際に見るとすごくそれが伝わってくる。

 微笑ましい光景が目の前に繰り広げられて、ちょっと落ち着いてきた。

 

「ルフィは風船が好きか」

「うん! ぷかぷかしてておもしろい!」

「じゃあもっとたくさん欲しいか?」

 

 ルフィと話しながら、中将はちょいちょいと俺たちを手招きする。

 綱を二人で力いっぱい引きずりながら側まで行くと、中将は俺たちから大量の風船たちのそれを受け取った。

 すごいな。俺たちが二人掛かりで掴んでた風船たちの綱をビクともしないどころか、片手で普通に持ってるよ中将。

 腕力が半端ないんだな。さすが砲弾を大砲以上の速度と威力で投げる男だ。

 

「これ、ぜーんぶルフィにやるぞ!」

 

 ガハハハ、と中将が笑ってルフィに大量の風船たちを揺らして見せる。

 なるほど。孫へのプレゼントだったのか、風船。

 なかなか会えない孫のためにプレゼントを用意するなんて、良い祖父さんだ。

 職権乱用して部下にそれを制作させたり、行き過ぎ感が否めない規模の物を用意しちゃったところはどうかと思うが。

 ルフィもこんなにもらえるとは思っていなかったらしく、目を真ん丸にした後、さっきよりも大きな歓声を上げて中将に抱き着いた。

 

「じいちゃん、ありがと!」

「おうおう、喜んでくれたか」

「うん、こんないっぱいあったら、おそらとべそうだな!」

 

 飛べそうも何もルフィ。成人男性で、しかも軍人である俺とスモーカーですらその風船たちを一人で持ったら飛ばされそうだ。

 確実に小さなお前なんか飛んでいくよ。

 

「よし、ならばちょっと飛んでみるか!」

 

 あれ、今中将は何を言った? なんて言ってるんだ?

 中将の発言があんまりにも軽くてその意味をうまく汲み取れない。

 鼻歌を歌いだしそうな感じで中将が風船たちの綱をグルグルとルフィの胴体に巻きつけていく。

 現実味が無さ過ぎてアニメの中のワンシーンみたいに見えた。

 何、何してるのこの人。自分の孫に風船を繋いで何するつもりだ?

 

「ルフィ、行ってこい!」

 

 中将は高い高いをするみたいにルフィを掴んだ両の手を空に向けて―――放した。

 

「じいちゃぁーんっ、じいちゃぁぁーんっっ」

 

 見る見るうちに風船たちはルフィを連れて、海風に乗って大海原へ向け飛んでいく。

 悲鳴そのものの祖父に救いを求めるルフィの泣き声を聴きながら、中将は小さくなるルフィの姿を眺めて手を振った。

 

「ルフィー! 強くなってこーい!!」

「「中将ーッ!?」」

 

 その瞬間、シンクロ率が百を超えるんじゃないかというほどにピタッと俺とスモーカーの絶叫が重なった。

 

 

 

 

 

 



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第13話 破天荒な祖父心

タイトルの『祖父心』は『じじいごころ』と読んでください。


 最初に動いたのは、ロイだった。

 ポケットから出した発火布の手袋に右手を突っ込むと、流れるような動作で腕を中将の孫を連れて行く風船に向ける。

 

「スモーカー!」

 

 鋭いその声が耳に届くのと同時に俺の身体もようやく動き出した。

 すぐさま船縁を乗り越え、視界の端にロイの焔が飛ぶのを映しながら海に飛び込む。

 間髪入れずあたりに響いた破裂音を合図に、落下していく中将の孫を目指して泳ぎ出した。

 少し遠くに飛ばされてやがるが、幸い波は穏やかだ。それほど流される前に捕まえられた。

 

「坊主! 生きてるか!?」

「う゛ん゛……ッ」

 

 割れた風船と紐に絡まれてもがくチビの襟首を掴んで引き寄せる。持っていたナイフで紐の束を根元で切り取ってやった。

 途端に小さな手を伸ばして俺にしがみついてくる。自分が助かったんだと、どうやらわかったらしい。甲高く絞り出すような泣き声を上げ始めた。

 様子を確認すると顔を涙と鼻水まみれにしているが、水はそれほど飲んでいないようだ。

 たぶんこいつの身体には何の問題はねェだろう。精神的には大ダメージを食らってやがるのは確実だが。

 ったく、あのジジイ何考えてやがんだ。普通自分の孫に風船を括り付けて飛ばすか?

 しかも、強くなってこいとか言って笑ってやがった。それと飛ばすのがどう関係してくるんだよ!?

 これ、新手の虐待とか育児放棄とかじゃねェか。こんなガキを殺しかけといて、あのジジイ、何が海軍の英雄だ。ふざけんじゃねェぞ!?

 

 絶対一発入れてやると濡れてしまった煙草を噛みしめ、いまだに泣き喚く中将の孫を抱えて艦に引き返す。

 春先の海はいくら寒さが和らいできたとはいえ、結構冷たいもんだ。早く上げてやらねェと、こんなチビなんかすぐ低体温症になっちまう。

 できるかぎり急いで泳いでいると、艦の方からボートがこっちに向かってきた。船医の婆さんとボガード中尉が乗っている。

 すぐに俺たちの横に付けてくれたので婆さんに中将の孫を渡し、俺も中尉に引き上げてもらった。

 

「スモーカー准尉、ご苦労さん」

 

 タオルで濡れた髪を拭いていると、中尉が珈琲を渡してくれた。受け取ったマグカップはまだ温かくて、肌寒さがほんの少し和らいだ気がする。

 婆さんたちの方を見ると中将の孫はタオルに包まってまだ泣いていたが、どうやら怪我も何もなかったみたいだ。

 僅かに張った緊張が緩んで、思わず深く息を吐き出す。

 

「心配いらんよ。ルフィ君は無事さね」

 

 視線に気づいた婆さんが振り返ってくすりと口の端を歪めた。

 なんだかばつが悪いような気がして、黙って珈琲に口を付ける。

 むず痒いような気持ちが湧いてきて顔を顰めていると余計に笑われた。

 

「よしよし、怖かったねえ。まったく、ガープも無茶するよね」

 

 泣き疲れたのか大人しくなった中将の孫をタオルごと抱え上げた婆さんは、あやすように小さな背中を撫でさする。まったくその通りだというふうに中尉も肩を竦めてオールを漕ぎ出した。

 おいおい、この二人、反応が軽過ぎねェか。

 海に向かってこんなガキを風船に括り付けて飛ばしたってのに、単に構い過ぎて泣かせたのに溜息を吐くみたいな反応っておかしいだろうが。

 理解できねェという違和感が顔に出ていたのか、婆さんは困ったように笑った。

 

「海兵にしちゃあ奇想天外な奴なんだよ、ガープって男はね。別に虐待しているわけじゃないのさ、これもきっとあいつなりの愛情表現さね」

 

 表現される方にゃ災難でしかないがねえ、と諦めたような溜息と一緒に呟く。

 そんな祖父さんいて堪るかと思うが、付き合いの長いらしい彼女が言うなら本当にそうなのかもしれねェ……のか?

 納得できねェまま艦に戻ると、大声で言い争うのが甲板の方から聴こえてきた。

 その途端に中尉と婆さんが面倒くさそうな顔になる。

 

「……中将と大佐ですな」

「何をやっているのさね。あいつらは、もう」

 

 確かに声の主の一人は中将で、もう片方はこの艦の艦長である大佐だ。

 揉めている理由はなんとなくわかる。行きたくはないが甲板に上がると、いつの間にかそこにはかなりの人間が集まっていた。

 騒ぎはその中心で起きているようだ。先頭の婆さんが声を掛けると、気づいた奴らはさっと道を開けた。

 堂々とそこを中将の孫を抱いて進んでいく婆さんの後ろを、行きたくはないが中尉に促されて付いていく。

 

「中将! 何度も言うが、ロイ准尉に非はないぞ。アンタが全面的に悪い!!」

「なんでじゃい! 儂はルフィを鍛えたいだけなのに、准尉が邪魔したんじゃぞっ」

 

 人だかりの中央では、こめかみに血管を浮かせた大佐と、拗ねた子供のように口を尖らせた中将。そしてその間に挟まれて蒼い顔をしたロイがいる。

 よく見るとあいつは中将に襟首を掴まれ、大佐には腕を掴まれていた。捕まっちまって逃げられねぇのはわかるが、どうしてそうなったと理解に苦しむ状況だ。

 

「あんたら、何してるのさね?」

 

 婆さんの呆れたような大きい溜息に、いがみ合っていたジジイ二人が一斉に振り返る。

 

「おいねちゃん、この馬鹿を止めてくれ。自分の孫を風船で飛ばしたのは強くなるよう鍛えるためだと抜かすんだ!」

「儂はルフィに強くなって立派な海兵になってもらいたいんじゃッ。それのどこが悪い!」

「やり方が全部悪いんじゃ! アンタの孫は何のサバイバル技術も体力もない三歳児だぞ、殺す気かーッッ」

「心配するな、儂の孫だから問題ないわッ」

 

 そんなわけあるかよ。ふんぞり返る中将を見ていたら苛立ちが突き抜けて呆れがやってきた。

 驚いたことに婆さんの言う通りみてェだ。小さな孫を将来海兵にするため鍛えようと風船に括り付けて飛ばしたとかほざく中将には、悪意の欠片がこれっぽっちも見当たらない。やましいことなど何もないと思っているのが嫌ってほどわかる。

 まったく何をどう考えたら普通の三歳のガキを風船に括り付けて飛ばせば鍛えられるって結論に至ったんだよ。いろいろガキにはガキに相応しい鍛え方とかあるだろうが。

 

「はいはい、そこまでにしておきな」

 

 黙って言い合いを聞いていた婆さんが、いつの間にか中将と大佐の間に入っていた。

 二人に掴まれたままのロイをあっさり引っ剥がすと、ポイッと俺の方に押し付けてくる。

 唐突に解放されて呆然としているせいか、ロイの足元がおぼつか無い。支えてやると力なくすまんと呟いた。

 顔色はまだ蒼いが、助かったとでも言うようにホッとした顔をしている。俺が飛び込んだ後にかなり酷い目に遭ったのは間違いないな。

 しばらく婆さんが中将の鳩尾に拳を叩き込むのなんかを遠い目で見ている。

 

「なんかあったか?」

「中将に襟首掴まれて振り回された」

 

 何するんじゃーってな、とロイは笑ったがその黒い目には力がほとんどなかった。

 何するも何もそっちが何するだってんだ。あんなもん見たら誰だって風船割って子供を助けに走るってのがわからねェのか。

 ロイの海兵服の襟周りを見ると襟もスカーフも見事に伸びきって、一部に突き破ったみたいな穴が開いていた。あのジジイ、頑丈なだけが取り柄の海兵服に素手で穴を開けちまうって本当に化け物だ。

 よくそんな化け物に掴み上げられて気絶しなかったな、ビビリのくせに。

 

「首がもげるかと思っていたら、大佐が騒ぎを聞きつけて止めてくれたんだ。それからあんな感じかな……」

「ああ、そうか」

「死ぬかと思った」

「……お疲れさん」

 

 子供を助けようとしてそんな目に遭えば、こいつでなくとも精神的に疲れ果てるだろう。

 察して余りあるほど疲れているであろうロイの頭に手を置いてやる。

 いつもなら振り払うはずなのに、今日は俺の手を乗せたままボーっとしている。そこまで疲れてるのか。

 今日はそっとしといてやろうと思いながら視線を移すと、ちょうど中将は婆さんの前で正座をさせられたところだった。

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

 もうすぐ午前十時か。朝の仕事は一段落したし、そろそろニュース・クーが来る頃なので休憩がてら甲板に出る。

 甲板に通じるドアを開くと、朝の眩しい光とほんの少し暖かくなってきた春の風に全身を包まれた。すごく気持ちが良くて、鼻歌でも出てきそうなくらいだ。

 ぐっと伸びをしてから出ていくと、緩い潮風に乗ってキラキラしたシャボン玉が鼻先を掠めて行った。

 シャボン玉の流れてくる方に振り向くと、そこには船縁に凭れ掛かって煙草を吹かすスモーカー。その足元にはルフィがいて、シャボン玉を飛ばして遊んでいる。

 へえ、今朝は艦内を走り回っていないなと思ったけれど、早くから甲板に連れ出していたってわけか。

 

 ガープ中将がルフィを風船に括り付けて飛ばした事件から三日。

 あの中将の非常識っぷりを証明するかのようなエピソードにまさか遭遇するとは思わなかったよ。しかもその暴挙に加担させられるなんて、もう眩暈がしそうだった。

 飛んでいくルフィの泣き声で反射的に俺が風船を撃ち落として未遂に終わったんだが、やっぱり中将の目的はルフィを鍛えるためだった。

 落ちていくルフィを助けにスモーカーが海に飛び込んだ後、中将が俺の襟首を掴んでせっかく孫を鍛えようと思っているのに邪魔するなとお怒りでな。

 文句言われながらガンガン振り回されて、首はもげそうになるわ、昼飯が口から帰ってきそうになるわ、もう大変だった。

 半分くらい死にかけたところで、なんとか古参組の艦長の大佐と船医のお婆ちゃん先生が中将を止めてくれて助かった。

 結局その二人から拳を交えた説得を受けてしぶしぶ今回は諦めたらしいが、たぶん今年中にまた変な鍛え方をしようとするだろうな。うん、絶対やるつもりだ。

 

 現在この軍艦は進路をドーン島フーシャ村に進路を取っている。目的はルフィを帰すためだが、ここからドーン島までは約四日らしい。

 航海の間、俺とスモーカーはルフィのお守りを命ぜられた。

 今のルフィは三歳。まだ自分の世話をするのもいっぱいいっぱいな幼児だ。付きっきりの世話係が必要だろうってことで、俺たち新米准尉コンビが指名を受けた。

 ちなみに指名の理由は、ちょこまかたくさん動き回るこれくらいの子の相手をするなら若い方が良い、と船医さんに推薦されてしまったからだ。

 そんなわけでその日から通常勤務を大幅に減らしてもらって、代わりに朝から晩までルフィの面倒を見ている。朝起こすところから始まり、夜寝かしつけるまでだ。

 海兵になって保育士の真似事をさせられるなんて予想外にもほどがあったが、二人とも子供は嫌いではないので嫌ではない。

 上官とかに「オイ、保父さん」とからかわれるのにはムカッとするのは仕方ないけれども。

 

「マッチのにいちゃんだー!」

「おはよう、ルフィ。ロイお兄ちゃんだよ」

「うん、おはよう、マッチのにいちゃん!!」

 

 俺の姿に気づいたルフィがこっちに駆けてくる。にぱっと満面の笑みを浮かべて寄ってくる様はすごく可愛いけど、マッチの兄ちゃんって……。

 訂正しても直らないし、諦めるしかないのか。

 ルフィの他人に妙なあだ名をつける癖は、この頃からのものみたいだ。

 俺は現在、ルフィにマッチの兄ちゃんとあんまり嬉しくないあだ名で呼ばれている。

 みんな何でマッチ? と思うだろう。その理由は、俺がランタンとかの照明や煙草の火を焔の錬金術で点けているところをルフィが見ていたからみたいだ。

 その時にすぐ近くで一般兵の誰かが「ロイ准尉ってマッチ要らずで便利な能力者だよなァ」とか言ったのも聞いていたらしい。

 その日の晩には、もうマッチの兄ちゃんと呼ばれていた。初めは訳が分からなくてぽかんとしたが、理由を聞いて何とも言えない気持ちにさせられた。

 だって、マッチだぞ。鋼錬でよく原作ロイがネタにされる「湿気たマッチ」を連想させられてさ。俺も今後そう呼ばれることがあるのかなって、変に憂鬱になってしまった。

 こうして俺は不本意ながらマッチの兄ちゃんなんて呼ばれるようになったわけだが、スモーカーの方は原作通りケムリン呼ばわりされている。

 原作補正ではない。俺がこっそりルフィを誘導しました。

 だってあいつがルフィにスモーカー兄ちゃんて呼ばれているより、ケムリンって見た目に合わない可愛いあだ名で呼ばれている方がしっくりくる気がしたのだ。

 教えてやると、どうやらルフィはケムリンという語感が気に入ったかしたらしい。

 すぐにケムリンケムリンとスモーカーを呼びまくって、周りを笑わせて本人をフリーズさせていた。

 滅茶苦茶面白かった。ケムリンってルフィに呼ばせるようにしたのは、決して憂さ晴らしとか八つ当たりとかじゃない。ないったらない。

 

「子供の前では禁煙しろと言っただろう」

「うるせェよ」

 

 足に絡みついてくる小さな身体を蹴飛ばさないように気を付けながら歩き、船縁で脱力中の白髪頭に携帯灰皿を突き出してやる。

 子供の前ってのもそうだが、まだ見習士官なんだし就業中の喫煙は止めた方が良いと思う。絶対上官の誰かに因縁つけられるんだから。

 いつものスモーカーなら無視するところだが、ルフィがいるからなんだろう。俺の出した灰皿をひったくるとまだそれなりの長さの銜えていた煙草を揉み消した。

 思わずニヤッとしていると、無言で凄まれた。怒るなって、ケムリン。

 ルフィに構ったり世間話をしたりしていると、ようやく待っていたクーッと丸みを帯びた可愛らしいニュース・クーの鳴き声が辺りに響く。

 頭上を旋回していた彼に腕を突き出してやると、ひらりと白い身体を舞い降りさせた。

 毎度っと挨拶をするかのように一声鳴いてくれるのが愛らしい。

 

「ご苦労様、一部貰うよ」

 

 ぶら下げている鞄から新聞を一部だけ抜いて代金を払い、ついでにパンの耳を咥えさせてやる。

 ニュース・クーは嬉しそうにパンの耳を飲み込むと礼を言うように鳴いて、また飛んで行った。

 

「ニュース・クーなんぞ手懐けて何するつもりだよ、てめェは」

「別に何も。可愛いは正義だ」

 

 俺とニュース・クーのやり取りに、スモーカーが変なものを見たような顔をしている。意味わかんねェと言われるのはいつものことだ。無視して新聞を広げる。

 食いしん坊のルフィがパンの耳を食べたがって騒ぐので、代わりにコック長にもらったおやつ用のクッキーを与えて静かにさせた。

 

「うわ、イルトゥリル王国で先住民族との対立激化、か」

 

 そのページを開いた瞬間、自分の表情が渋いものになっていくのを感じる。

 西の海、それもロイの故郷の国の記事が上がっていた。

 どうやら燻っていた先住民族との内戦の兆しが大きくなっているらしい。

 士官学校三年の夏季休暇に里帰りした際に雲行きが怪しそうなことを叔母さんも言っていたが、これはますます不安定な状況になったものだ。

 あの時に見た感じでは相変わらず先住民族や俺みたいな大部分の国民と違う奴には風当たりのきつい国だったけど、先住民族との間の問題はあんまり表面化してなかった。綱渡りながら均衡は保たれていたし、その綱もそれなりに太いって感じだったんだ。

 しかしここ二年ほど不自然な速さで状況が悪化の一途を辿っている気がする。

 裏側で革命軍でも動いているのかな?

 

「もう叔母さんをマリンフォードに呼ぶべきか……」

 

 叔母さんは俺の養母であるし、海兵の家族枠で居住区に引っ越してもらえるはずだ。世界で一番安全な街といっても過言ではないマリンフォードにいてもらえれば俺も安心だし、帰ったらさっそく相談してみるか。

 帰港後のことを考えつつページを繰っていると、明るい日の光に照らされていた紙面が唐突に翳った。

 え、急に曇ってきた? 雨でも降るのかな、と空模様を確かめようと顔を上げる。

 

「ガープ中将!」

「お前ら、ルフィのお守りをご苦労さん」

 

 慌てて直立不動の姿勢で敬礼を取る。

 曇ったんじゃなくて、笑顔のガープ中将が前に立っていた。新聞を横から覗き込んでいたスモーカーも、あからさまにゲッとか言いながらも俺に倣って敬礼をする。

 声を掛けられるのなんて二日ぶりくらいだし、あんなことがあってからだから非常に気まずい。一応部隊の上級幹部全員の判決でお咎めなしだったけれど、中将の意向に逆らったには変わりはないのだから。

 内心ビクビクして中将の出方をうかがう。まさかこんなに日を置いて、中将ともあろう人がたかが准尉二人にお礼参りはないだろうとは思うけどさ。不気味には変わりない。

 

「ルフィ、おはようさん! 祖父ちゃんだぞ~」

「ヒィィィ!!」

 

 中将はそんな俺たちを他所に、影から見上げていたルフィにデレデレとした猫撫で声をかけている。

 だが当のルフィは相当先日のことが、頭にこびり付いて離れていないみたいだ。中将が手を伸ばした途端に悲鳴を上げて、スモーカーのズボンにしっかり縋りつき顔を埋めてしまった。

 

「る、ルフィ!?」

「やっ! じいちゃんこわい!!」

 

 完全に怯えられてるな、中将。そんな切ない顔したってダメです。だったらルフィに怯えられるようなことしなきゃよかったのに。

 漫画ならガーンという効果音が付きそうな、この世の終わりって表情の中将はかわいそうっちゃかわいそうだが、完全に自業自得なのでフォローはしないでおく。

 可愛い孫にちょっと嫌われて多少なりとも反省すればいいと思う。

 しばらく中将はどうにかルフィを振り向かせようと努力していたが、また何かされないかと警戒しているルフィに拒否されまくっていた。

 この人、何しに来たかと思ったけれど、ルフィと仲直りするのが目的なのかな?

 だったらもう少し時間を置いた方がいいし、これ以上やるともっと怖がられるから離れた方が良いのだが。

 

「中将、もうその辺にしておかれては」

「くぅっ、どうしてこうなった……」

「アンタ自身のせいでしょうよ」

 

 俺に止められて嘆く中将はストレートに傷を抉るようなことをスモーカーに言われても聞こえていないようだ。

 とりあえず話を聞いてもらえるかはわからないけれど、何か他に用があったのかどうか聞いておくことにする。

 

「失礼ですが中将」

「なんじゃい」

「我々に何か御用がおありでしたか?」

 

 ハンカチで涙を拭っていた中将は、少し考えるような素振りを見せてから思い出したとでも言うようにポンと手を叩いた。

 

「おお、忘れとったわい。お前らに頼みたいことがあったんじゃ!」

 

 やっぱりね。予想はしてたけれど、やっぱり用件を忘れてたのかい。

 しかし頼みたいことってなんだろう。仕事とルフィの世話で手一杯なのにこれ以上何をしろっていうんだ。

 絶対に厄介ごとを押し付けられるんだろうな。確実に面倒なことを言ってくるに違いないだろうから、身構えつつ中将の言葉を待つ。

 

「ルフィを鍛えるのを手伝ってくれんか?」

 

 世話をするついでに、と軽い調子で言われた頼み事は予想通りといえばそうだった。

 中将がルフィの修行を諦めはしないと思ったけど、まさかそのサポートを俺らに頼むとは思いもしなかった。

 いや、現状から言えば妥当な提案なのかもしれないか。俺たちが中将以外でルフィに一番関わっている軍の人間だし、士官学校で一通りの訓練は受けている。基礎を教えるにはもってこいな人材なのは確かだ。

 

「ルフィを修行に出すなら最初は誰ぞを付けて基礎的な知識や技術を学ばせてからにしろ、と大佐に言われてのう。確かに言われてみればその通りじゃし、ならばまずはサバイバルの基本から学ばせようと思ってな」

「それで我々にルフィ君を指導せよ、と?」

「おう! 頼めるか?」

 

 どうしても鍛えたいって譲らないから、妥協案として誰かに監督させて鍛えるよう提案されたのだろう。保護者付きならなんとか安全確保くらいはできるだろうし、知識を身に着けさせるだけならば、家でもどこでもできる。

 まあ年齢が低すぎるって問題があるが、ギリギリのところで許容範囲ではある。風船に括り付けて飛ばすよりは遥かに良い。

 ちらっと横に視線を上げると、スモーカーと目があった。大丈夫そうか、と目で聞いてくる。

 大人二人で教えるし、内容も基本だろう。艦上でも十分できるだろうし、フーシャ村に着いたらちょっと森の方とか行けば技術の方も教えられそうだ。多分、危なくはないし大丈夫じゃないだろうか。

 いけると思うという意味を込めて頷くと、スモーカーはわかったという感じで中将の方に視線を戻した。

 

「ハッ、我々でよろしければ」

 

 中将がルフィを海兵にしたがったのって、孫くらい自分側にいてほしいって結構切ない理由もありそうだ。常識の範囲内で鍛えるぐらいなら手伝ってあげよう。

 その結果ルフィが将来どうなるかはわからないけどそれは人の人生だし、基本を教えてくれたのが海兵だろうと海賊だろうと、あんまりそこに関係してこないだろう。

 

「よし、じゃあさっそく頼むぞ」

 

 俺たちの了承を聞いて中将は嬉しそうに笑った。

 さっそくって、気が早いなぁ、もう。

 とりあえずどこから手を付けるかなと考えつつ、ちょっと落ち着いたらしいルフィが抱っこをせがむので抱え上げる。

 基本サバイバルの教本をどこに仕舞ったか思い出そうとしていると、いつの間にか後ろに立っていた中将に腰の辺りを引っ張られて足元から床の感触が消えた。

 

「うぇ!?」

 

 いつもより視界が高くなって、驚いた顔をしたスモーカーと目線が同じになっていた。

 足元に目を落とすと、スモーカーの方も宙に浮いている。お互いに掴まれて宙吊り状態だった。

 突然のこと過ぎて何が起きたのか頭が追い付いていかない。何するんですかと言いたいけれど言葉が絡まって、一言もまともに喋れない。

 隣でスモーカーがジタバタと手足を振り回しているが、流石拳骨のガープと言うべきか、ビクともしない。それどころか持ち上げて頭突き食らわせている。

 

「中、中将ッ?」

「あそこの島でサバイバルしてきてくれ」

「痛ェな、クソジジイィッ、放せェッッ!!」

「心配するな、十日後に迎えに行ってやるわい」

 

 硬直したルフィを腕にしっかり抱えて中将の視線を辿ると、そこには無人島らしき島の影が見えた。

 無人島でサバイバルするのは、百、いや、千歩譲ってまだいい。ルフィを連れてって言うものこの際気にしないことにできる。

 でも、どうやってあの島まで行くんだ。ここからたぶん五百メートルは離れているのに、軍艦は島へ近づく気配もないし、ボートも出されてない。

 その状況でこうして掴み上げられているわけだけれど、だんだん嫌な予感がしてきた……!

 

「それッ! 行ってこぉーい!!」

 

 耳元で風が唸った。絶叫マシーンに乗った時みたいな日常では滅多に体験しない浮遊感とスピードが襲ってくる。

 ああ、中将。アンタって人は……。

 

 

 人間で拳骨隕石(げんこつメテオ)をやるとか、マジでふざけるなァァァッッ!!!!

 

 

 ぶっ飛ばされながら目を開くと、ちょうどスモーカーも投擲されたのが視界の端に映っていた。

 

 

 



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第14話 ぼくらの孤島生活

新米海兵さんコンビと幼児ルフィのサバイバル生活。
やたらとまったり。


 何とも言えない色だな、これ。

 青、いや、緑? 微妙に灰色がかっていて、おおよそ植物の色じゃない。

 形的には林檎っぽいけど、葉っぱ的なものがワサワサ生えている。

 それからこれ、この模様だ。よく風呂敷の柄に採用される蔦を意匠化した、いわゆる唐草模様が表面を覆っているんだ。

 明らかにこいつ、例のブツじゃないだろうか。

 

「おい、これってよ」

 

 宝箱に鎮座するそいつから目を離すことなく、スモーカーが呟く。

 

「間違いなく、アレだな」

 

 顔を見合わせると、お互い面倒そうな顔をしていた。

 

「「……悪魔の実だ」」

 

 何だってこんなところにこんなもんがあるんだ。溜息が吐きたくなってきた。

 

 

 

 

 大人二人子供一人で無人島サバイバル生活をする羽目になり、もう五日。

 拳骨隕石・人間ヴァージョンでぶっ飛ばすという酷過ぎる送り出し方をされたけど、とりあえず擦り傷とか青痣ができた程度の打撲で済んだ。投げられた瞬間は死を覚悟したけど、生きていてよかった。

 俺とルフィは島の中心部にある森に墜落した。そこから浜辺に脱出した頃には、海上に浮かぶ軍艦の姿はもう米粒並みの小ささ。確実にさっきより遠くに行っている。こっちに近づく気配は欠片も見えない。

 俺たちを回収しに戻る気はなさそうだな、と強制的に悟らされて少し涙が出た。

 大佐も先生もボガード中尉も、ガープ中将を諌めてくれなかったのか。いや、諌めたけど押し切られたんだろう。本気でこうと決めたらすごく意志が固い人だ。今回は俺たちも一緒だからルフィは大丈夫だろうと判断して中将の主張を認めたってところか。

 なんだかんだ言って、中将のことを大事にしている人たちだ。多少の我侭は通してやるってスタンスなんだろう。

 気持ちはわからんでもないが、とりあえず俺たちのことも心配してほしかったかな。

 

 その後島の反対側の海岸に落ちたらしいスモーカーとどうにか合流して中将への怨嗟が八割の相談をし合った結果、とにかく十日間ルフィの面倒を見つつサバイバルすることにした。

 この辺は大きな人口のある島が無いし、主要航路からもちょっと外れている。そのせいで通り掛かる船が少ない。救出なんて望むだけ本当に無駄だ。十日後に迎えに来るという中将の約束を信じて待つのが一番確実だろう。

 非常に癪だが、中将の無茶振りに付き合うしかない。幸いこの島は自然が豊かで食料となりそうな動植物は豊富みたいだ。十日くらいならどうにでもなる。

 その間は暇だし、ルフィに実践形式でサバイバルを学ばせることにした。今後も中将に一人危ない環境に放り出されるはずだ。せめて最低限一人で生きていけるようにしてやろう。

 

 サバイバル生活はこういう言い方はなんだけどさ、今のところは順調だ。

 元々好奇心旺盛でやんちゃなルフィはサバイバルがすごく楽しいらしく、俺やスモーカーの教えたことをどんどん吸収している。しかも三歳児にしては器用にこなすものだから、舌を巻かされてしまった。

 生きる技術に関してはかなりの才能があるのだ。だからこそ原作では誰の助けも得ずに中将の荒行を耐え抜けたんだろう。そこまで想像したら、なんだか原作におけるルフィの過去に哀愁を感じた。

 そのおかげで最初の三日で一通り基本は押さえてしまった。教えきるまで五日はかかるかと思っていたので本当に驚かされた。

 昨日からはおさらいしつつ覚えておくと便利なこととかルフィが知りたがることとか教えている。

 例えば、食べられる植物とか、簡単な兎とか捕まえる罠の仕掛け方とか。

 あとは、そうそう、文字の読み書き。びっくりなことに、たまたま俺が提案したらルフィが教えてほしいって言ったのだ。

 うん、野生児なイメージと全然違う申し出に度肝を抜かれた。今だって絵本よりボールが好きそうな子供だし提案を受け入れたのが本当に意外すぎた。

 ルフィが文字を読めるようになりたいと思った原因は、俺やスモーカーが文字のいっぱい書かれた新聞を読み始めるとしばらく構ってくれなくなることに対する不満だった。

 無人島に来てからも俺と馴染みのニュース・クーが新聞を持ってきてくれていたから、朝はそれを読むのが相変わらずの日課だ。俺が新聞を読んでいると、スモーカーも横から読みだして、そのまま二人で気になる海賊の情報とかのニュースについて色々話したりしている。この無人島にいては暇で話題も少なくてこうして新聞を読みながら話すのは結構楽しいから、ついついルフィを他所に夢中になり過ぎちゃったみたいだ。

 で、だ。ルフィは自分を放り出して新聞を読む俺たちを見て、俺たちの興味をすべて掻っ攫っちゃう新聞って何? どういうもの? という疑問を覚えたらしい。

 最初は新聞を読む俺の膝に乗り上げて、思いつくままタイトルや写真を指してはあれこれ質問をしまくっていた。

好奇心の塊なだけに、もう、言っちゃなんだけどしつこくて、しつこくて。まともに落ち着いて読めやしなかった。

 こういう時イラッときてしまうけど、ここで怒るのは教育上良くない。良くないけれど、どうにか質問攻勢を鎮めたくて、苦し紛れに提案してみた。

 そんなに新聞が気になるなら、自分で読めるようになってみるか、ってな。

 結果、ルフィはその日から毎日読み書きの練習に励んでいる。嫌がるか面倒くさがるかすると思い込んでいたので、めちゃくちゃ驚かされた。

 いつまでその興味が持つのかは知らないが、今のところものすごく熱心にやっている。自分の名前とか食べ物の名前とかを砂浜に書いたり、俺たちに新聞の簡単な記事を読み聞かせてもらったりして、一生懸命に続けているんだ。

これで読み書きを今からできるようになったら、ルフィって原作開始時にはどんな少年になっちゃうんだろうか?

 

 でも、こんな幼児に勉強させてばっかりもよくない。午前中までで勉強的なものは終わらせて、午後からは自由にさせている。

 目の届く危なくない範囲で遊ばせたり、適当に昼寝させたりしている。遊びや昼寝っていうのは、子供の大きな仕事だ。

ちゃんとそれらをこなすことで、ルフィみたいな子供は身体や精神の健康を維持できているんだから。

 今日も食べたらいけない毒のある植物を教えた後、昼食を摂らせてから遊ばせておいた。

 食料調達にはスモーカーが行ってくれているし、俺はのんびりルフィの面倒を見るだけでいい。昼寝させがてらお伽噺、日本人にはおなじみのはなさか爺さんだ、を聴かせてみた。

 ここ掘れワンワンでお宝が出るところが面白かったのか、話し終った後に俺もお宝掘ってくる! とルフィが言い出した。興奮しきってまったく寝る気配がない。仕方ないんで波打ち際に寄らないことと森に行かないことを約束させて遊びに行かせたんだ。

 

「にいちゃんっ!」

 

 そうして雨風除けに作った簡易な椰子の葉の小屋の下でウトウトしていたら、遊びに行っていたはずのルフィが嬉しそうに走ってきた。

 勢いが良すぎて転びそうになりながら砂浜を駆け抜け、俺たちの前で急停止する。

 全力疾走と興奮で幼い頬を染めて大きな瞳をキラキラさせながら、小さな胸を反り返らせてみせた。

 

「おれ、おたからみつけた!」

 

 えっへんっとばかりに誇らしげに報告してくる姿がもの凄く可愛い。

 寝起きのかったるさも吹っ飛び、頬が一気に緩くなった。

 これくらいの幼児って場を和ませる達人だよなぁ。

 お宝ってのもルフィっぽくて微笑ましい。綺麗な貝や光る石なんかを見つけたのだろうか?

 

「すごいな、ルフィ。どんなおたからを見つけたんだ?」

「でっかいはこ!」

 

 箱?

 ルフィの答えに首を傾げる。

 無人島に箱って、漂着物でも見つけたんだろうか。

 細く短い腕を一生懸命広げてルフィが示す箱の大きさはそれなりの物だ。

 重くて持って来れなかったというし、中に何かが入っている可能性は高い。

 怪しい。かなり怪しい箱だ。海賊が落としたとか隠したとかした物かもしれない。

 

「ルフィ、それどこで見つけた?」

 

 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、小さな手のひらが俺の指を引っ張る。

 

「こっち!」

 

 ぐいぐいと引っ張られて真っ白な砂浜を行くこと数分くらいか。

 砂浜の森に近い場所に、ルフィがほじくり返した穴を見つけた。浅いその穴を覗き込むと、彼の言う通り砂にまみれた箱が一つ。

 ザ・宝箱って誰しもが想像するような箱だ。持ち上げてみると、俺にとってはそう重くはなかったが、中で何かがコトコト存在を主張していた。

 

「おたから? にいちゃん、それっておたから!?」

「そうかもしれないな」

 

 砂に埋まっていたことと言い、中に何か入っているらしいことと言い、これって海賊の隠した略奪品あたりだろう。箱の劣化具合からして、ずいぶんと昔に埋められた物のようだ。埋めた奴が掘り返せなくなって忘れ去られた、って代物かもしれない。

 ここに置いておくのもなんなので、小屋に持って帰ることにした。一応こんなところにある物でも、法律上は遺失物、つまり落し物扱いだ。警察の側面を備える海軍関係者の俺が見つけたからには、いったん預かって内容確認、その後上に報告して指示を仰がなきゃならない。

 

 帰ったらちょうどスモーカーの奴も小屋に戻っていたんで、二人で内容確認してみたのだが。

 まさか悪魔の実が出てくるとは、思いもしなかった……。

 

「なーケムリン。これなに?」

 

 俺たちの間に身体を捻じ込んで箱の中を覗き込んでいたルフィが、不思議そうに悪魔の実を指で突いている。

 目がキラキラしていて、口の端から少し涎を垂らしているところからして、好奇心と食欲を刺激されているんだろう。

 好奇心は良いとして、こんな奇怪な物に食欲を刺激されているって正直引くわ。明らかにヤバイ物だよって警告しているような見た目なのに、ルフィの感性がどうなっているのか不安になる。

 

「こいつは悪魔の実って珍しい果物だ」

「くだもの? くえるの!?」

 

 スモーカーの腕を揺さぶって教えてくれって騒ぎ出した。ほら、やっぱり食べられるかどうか考えていたよ、この子。

 困ったように煙草の煙を深く吐き出し、スモーカーはルフィを宝箱から引き離した。

 

「一応は食えるがな。ルフィ、食うのは止めておけよ」

 

 ちらっとスモーカーが俺の方を見る。悪魔の実を食べるデメリットを経験者に語らせようってわけか。

 食べられるけど食べちゃダメと言われたルフィも、じっと俺にふくれっ面の不満顔を向けている。

 食べないように勧めとくか。図鑑が無いからこの実が何の実かわからない。ゴムゴムの実かもしれないが、そうではない可能性の方が大きい。ルフィがゴムゴムの実以外の悪魔の実を食べてしまうってのはしっくりこないしな。

 

「すごく不味いんだよ、ルフィ」

「まずい? ほんとに??」

「昔食べたことがあるんだが、恐ろしく変な味がした。二度と食べたくない味だったな」

 

 悪魔の実は不味い。食いしん坊のルフィに一番効く言葉だろう。ゲテモノ好みではないのだから、不味い物なんか進んで食べてみようとは考えないはずだ。

 現にルフィも一気に目の輝きが失せ、渋い顔をして悪魔の実を見ている。もう一つ念押しでもしておくか。

 

「あとな、悪魔の実を食べてしまうと泳げなくなるんだ」

「ええ!?」

 

 海好きのルフィが今一番気にしているのは、泳げないこと。泳ぎが下手だから、村の子と遊んでいても楽しめないことがあるらしい。それで俺も泳げるようになりたいって島に来てからもよく泳ぎの練習をしているんだ。

 その努力が一生報われない身体になるなんて絶対嫌だろうし、これも結構良い釘になる。

 

「海に嫌われて一生カナヅチになる。それは嫌だろう?」

「う、うん」

「だったら絶対に喰うんじゃねェぞ、わかったな」

「わかった!」

 

 脅かしすぎたかな? 蒼い顔をして必死で頷くルフィは心底ビビッているみたいだ。

 この様子じゃ絶対に何があってもこの悪魔の実には手を出そうとしないだろう。ひとまずはこれで安心だと思う。

 内心ホッとしつつ、実の入っている宝箱の蓋を閉じた。

 

「とりあえず、それは保管して中将に提出するか」

「そうだな。小屋に放り込んでくるよ」

 

 ガクガク震えてしがみつくルフィを抱えてやっているスモーカーの提案に賛成しておく。下手に自分たちの判断で対処して困ったことになると面倒だ。

 五日後に中将が迎えに来てくれたら、すぐに宝箱を提出。発見した場所と状況、確認した中身について報告しよう。

 それまでは無くしたりしないよう小屋に放り込んで保管しておくか。

 

 

 

 

□□□□□□

 

 

 

 

 ポツン、と額に冷たい物が落ちてきた。

 アッと思う間もなく、足元の砂浜が急にまだらに色を濃くし出す。

 

「雨か」

 

 小屋の中にいたロイが嫌そうに大粒の水滴をばら撒きだした空を見上げていた。

 自分の攻撃力が激減するこの天気が、ロイは大嫌いだ。士官学校時代から雨が降る度に憎たらしそうに空を見ていたもんだ。

 痛いほどの勢いで降る雨粒を避けて、俺も小屋へ避難する。あまりの激しい雨に屋根の椰子の葉も耐え切れないのか、雨漏りが酷い。それでも外よりマシだ。二人で押し合いへし合いしながら小屋に入り込む。

 

「この空模様、にわか雨ではなさそうだな」

「ああ、明日まで降り続けるかもしれねェぜ」

 

 重たそうな暗い灰色の雲は地平線まで延々と空を埋め尽くしている。とても数時間では止みそうにねェだろう。

 まったく無人島生活も明日でおさらばだってのに、最後の最後でこれかよ。ツイてねェ。残り僅かな煙草も湿気っちまって、ニコチン中毒の俺にはツライ。

 ロイの方も雨で焔が使えなくなっちまったことを憂えているらしく、溜息を吐いてやがる。素手でもそれなりに戦う奴だが、やはり数いる今年の新兵の中でも随一と謳われる攻撃力のアレがロイの真価だ。使えないのはかなり痛いんだろう。

 次第にきつくなる雨足を揃って睨みつけていて、ふと静かすぎることに気づく。

 そこらじゅうで響き渡る雨風の音ばかりが煩い。だが、小屋の中がやけに静かすぎる。

 

「ロイ」

「……ルフィが帰ってこないな」

 

 そうだ。飯と寝てる時以外は四六時中はしゃぎ回ってるルフィのお喋りが聞こえてこねェんだ。

 

「どこに行った?」

「わからない。昼ごろに遊ぶと言って出て行ったきりだ」

 

 遠くへは行くなと約束させたんだが、と言うロイの表情が強張っていく。

 ついさっき見ていた小屋の周りや俺が釣りをしていた浜辺の辺りを思い出すが、あのガキの姿はどこにもなかった気がする。

 と、なると、遊びに夢中で遠くまで行っちまいやがったか、それとも森の中に入って迷ってやがるか……。

 拙いな。こんな島の中で迷子になるだけでも危ねェが、この天気だ。身体が濡れて冷えると体力が奪われ、大人であっても場合によっちゃ命に関わる事態になりかねん。

 すぐさま見つけ出してやらねェと、想像もしたくねェような事態になっちまうだろう。

 

「探しに行くぞ」

 

 グズグズなどしていられない。真剣な面持ちでお互い頷き合って、小屋から飛び出す。

 俺は海岸線に沿って浜辺を走り、ロイは森へと分け入って行った。

 ルフィは三歳児だ。そう遠くには行けねェだろう。俺たちで手分けして探せば必ず見つかる。大丈夫だと焦る気持ちに言い聞かせながら、名前を呼んで海岸を駆け回っていく。

 

 バケツをひっくり返したような雨に全身をずぶ濡れにされ、日が傾いてきたのか薄暗い空が一層暗くなり出してもルフィは見つからない。

 クソッ、あのチビはどこにいるんだ。雨と風は止むどころかもっと強くなって、もうすぐ夜になろうとしている。流石の俺でも背筋を寒気が走り抜け、身震いをするほど冷えてきた。これ以上あいつが外にいたら、最悪の事態は避けられん。

 とうの昔に火が消えた煙草を噛み締める。焦りと苛立ちが治まらなくて、近くにあった木に拳を叩きつけた。

 待てよ。もしかしたら、ロイが見つけて小屋に戻っているんじゃねェか?

 思いっきり殴って少しばかり冷静さを取り戻した頭に、良い可能性が過る。

 これだけ探していなかったんだ。森の方に行っていて、ロイが見つけ出して連れ帰っているかも。

 いったん、小屋に戻ってみるのもありか。そう思って、踵を返し元来た道を戻ることにした。

 相変わらず激しい雨に辟易し、視界を邪魔する水滴を拭いながら走ること少し。

 戻った小屋には、ルフィも、ロイすらもいなくて空っぽだった。

 まだ見つけられてねェのか。淡い期待が裏切られ、苦い感情が込み上げてくる。

 

「畜生……ッ」

 

 握り締めた手に爪が食い込む。その痛みすら気持ちを抑えきれなくて、呻いてしまう。

 このままルフィを見つけられずに夜が来たら。ロイまでもここへ戻ってこなかったら。

 ダメだ。悪い方向へとどんどん思考が行きそうになる。

 思考の端に現れたそれが、無視できないほど大きくなるのに耐えきれず、悪い思考を振り払うように森の方へ足を向けた。

 とにかくロイに合流したい。あいつの顔を見れば、少しは気分が楽になるかもしれない。それにロイを探している間に、ルフィも見つけられたりするかも。

 それだけを考えるようにして進んでいると、幾らも行かないうちに雨音に紛れてルフィの泣き声が聴こえたような気がした。

 微かな、聞き逃しても不思議ではないくらい微かに嵐が森を打つ騒音の隙間を縫って、届く幼い悲鳴。

 聞き間違えではない。直感する。声のすると思った方向へ駆け出す。

 

「……に……ちゃ……ぁあ、うあぁ……うぇぇぇんッッ!!」

 

 果たして感は当たっていた。ルフィの泣き喚く声は段々と確かなものになっていく。引き絞るような、聴く者に危機に瀕していることをダイレクトに伝える泣き声だ。

 泣きながらロイを呼んでいるのだろう。マッチの兄ちゃんと何度もルフィが叫んでいる。

 どうなってやがる。状況はよくわからないが、とにかく切迫していることだけは間違いない。

 

「にいちゃん! しんじゃやだぁっ、マッチのにいちゃぁぁん!!」

 

 もどかしい思いを振り払うかのように道を塞ぐ枝を叩き折った先に、二人はいた。

 泥塗れな上に血塗れのロイが地面に倒れ伏して、ルフィがピクリとも動かないその身体に縋りついて泣き喚き、必死で揺さぶっている。

 そして、あいつらの側に信じられないものを見る。

 

 

 今まさに二人へ躍りかかろうと体を屈めた、とてつもなくデカイ狼が、そこにいた。

 

 



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第15話 絶体絶命

スモーカーが完全に主人公。


 荒い呼吸音と、激しい嵐が森を騒がせる音だけが暗闇を支配している。

 雨は止む気配がない。雨脚は強くなるばかりだ。視界を遮られて走りづらくて仕方ない。

 あまりの悪条件に舌打ちを堪えきれず、さっきから何度も打たされてしまっている。

 不意に斜め後ろに奴の気配を感じ、泥濘に足を取られかけながらも何とか横に飛ぶ。

 おかげで避けきれず左脚に掠めた鉤爪に肉を抉られ、転びそうになった。

 

「ぐぁッ……」

 

 本当なら足を止めちまいたいほどの痛みに思わず呻いてしまうが、気合で捻じ伏せてひたすら駆ける。

 楽しむような獣の唸りが背中に掛けられた。振り返ると、闇の中でギラギラと輝く狼の目が俺たちを見ている。

 チッ、あの化け物ッ。わざと決定的な傷を与えず、付かず離れずの距離で追い、弱りながらも逃げる俺で遊びやがって!!

 

「け、ケムリンッ!」

「大丈夫だ、何でもねェ、安心しろッッ」

 

 制服の肩口を小さな手が握り締めてきた。不安と涙に揺られたルフィを落ち着かせるように、抱える手に力を込める。

 頭に血が上って向かってくるのを待っているんだろうが、わざわざ乗ってやるか。

 担いだロイとルフィを落とさねェように、木々の間を駆け抜ける。

 ただひたすら海岸を目指して。

 

 

 

 見たこともねェほど馬鹿デケェ狼。こんな島に、こんな化け物が潜んでいたとは気付きもしなかった。

 いや、子供連れの手前それほど深く森に踏み込まなかったから、単に奴の痕跡を見つけられなかっただけなんだろう。

 それに俺たちは森と海岸の境界線でしか活動しておらず、夜も火を絶やさずに過ごしていた。それで今まであちらが仕掛けてこなかったってところか。

 本当はずっと狙われていたのかもしれない。おそらく、見るからに弱そうな子供のルフィが一人きりで森に入ったのを狙って姿を現しやがったに違いない。

 俺が見つけた時、先にルフィを見つけたであろうロイは既に奴に倒されていた。

 咄嗟のことでルフィを庇うのに精いっぱいで、ろくに能力を使えなかったんだろう。

 制服の背中が無残に引き裂かれ、溢れ出す血で真っ赤に身体を染めてルフィの呼びかけにもピクリとも反応できず倒れ伏していた。

 反射的に飛び出して、止めを刺そうとしていた化け物の前からルフィとロイを拾い上げて逃げた。

 正面から立ち向かおうにも、ルフィたちがいる。弱い者から狙うこうした獣の前で、こいつらを放り出すのは危険だ。それに武器も無いこの状態で勝てるかどうかわからない。結果的に逃げることが一番の方法だった。

 そこから始まったのが、俺たちの命だけが掛かったシャレにならない鬼ごっこ。

 鬼の狼は最初こそ怒りに塗れて俺を追い回していたが、そのうち適度に攻撃しては弱らせ弄びながら追うようになった。

 腹立たしいことに、こいつの前では俺ですらも兎か何かと同じ獲物。体力がある分嬲って遊べて面白いんだろう。進路を邪魔して走りにくい方へ誘導したり、前肢で引っかいては軽く噛みついてみたりと、好き放題してくれる。

 さっきから何度も追詰められそうになり、それを躱すの繰り返し。心も身体もすでにギリギリのところまで追いつめられている。

 でも、ルフィやロイがいる。こいつらを守らなきゃならない。

 その思いで自分を支えて懸命に逃げて続け、ようやく小屋の場所に飛び出した。

 ロイとルフィを抱えたまま、小屋に飛び込む。

 何か武器になる物を探した。武器さえあれば間に合わせ程度だが戦える。ルフィを遠くに逃がすなり、隠れさせるなりする時間くらいなら稼げるはずだ。

 ひっくり返した荷物の中から、軍用ナイフを引っ掴み取る。

 

「ルフィ」

 

 振り返ると、相変わらずルフィは目覚める気配がねェロイにしがみついていた。

 死んじまったみてェだが、ロイはまだ生きている。細く頼りないが呼吸はしている。だが、傷からの出血の具合と体温の低下のせいで、放っておけば死んじまうだろう。

 それがわかっているのか、ロイを温めようとしたり気づかせようと揺さぶったり必死でくっ付いていた。

 そんなチビのびしょ濡れの黒髪に手のひらを置いてしゃがみ込み、目を合わせる。

 

「今すぐこっから逃げろ」

「え……」

「できるだけ遠くに走れ、島の反対側に行けるぐらいな。そんで木に登れ。登り方は教えてやったろ? 登ったら朝になるまで降りるな」

「う、うん、ケムリンとにいちゃんもいく?」

 

 心細そうにルフィの黒目が見上げてくる。

 

「いかねェ。お前一人で行け」

「どうしてっ、いっしょがいいよ!!」

「俺はあの化け物をぶっ倒しに行くからダメだ」

 

 お前を逃がすためにという言葉は飲み込む。後々変なトラウマを残すようなセリフは吐かねェようにしてやるのがルフィのためだ。

 

「でも、にいちゃんは?」

「ロイはどうにかしてお前を追いかけさせるから、心配すんな」

 

 ロイには悪いが、自分で動けねェなら逃がしてやれん。ここで俺と一蓮托生させるしかねェんだ。

 だがそれを言えば、ルフィは今以上に泣き喚いてここを離れなくなるから言わねぇでおく。それにロイにかなり懐いているだけに、見捨てろなんざ可哀想で言えねェってのもある。

 

「ほらさっさと行け! お前がいると足手まといなンだよ!!」

「でも、ケムリンッッ」

「わがまま言うんじゃねェッ……ッッ!?」

 

 

 背筋がぞわりと粟立った。

 

 嫌な感覚を感じると同時に、ロイと何か喚こうとしていたルフィを掴んで小屋の外に投げ飛ばす。

 間髪を入れず屋根の椰子の葉を、狼が突き破ってきた。その勢いのまま、押し倒される。

 右肩から、倒れ込む。ゴキリと骨が折れる音が鈍く耳元に響いた。

 俺を地面に縫い付ける獣の前肢にさらに重量が掛かり、鉤爪に肩口の肉を裂かれて鮮血が噴き出す。

 

「―――――――――――ッッ!!」

 

 全身を焼き尽くされるような経験したことが無い激痛。声も呼吸も奪われた悲鳴を上げさせられる。

 獲物を捕らえた喜びに満ちた咆哮が、嵐の夜を震わせる。

 早い、もう来やがった。

 これじゃルフィを逃がす時間なんか、ろくに作れねぇじゃねェかッッ。

 せめてすぐさま逃げてくれてねェか。そんな微かな期待もすぐ断たれる。

 雷鳴を背景に轟く遠吠えの合間に、ルフィの泣き声が混ざっていた。

 目だけを何とか動かせば、いくらも離れていない場所に投げ出されたロイの側にいる。

 あいつ、逃げろっつったのに……!

 猛威を振るう化け物への恐怖に脚でも竦んだのか、自分だけでは逃げ切れねェと悟って嘆いているのか、小さな子供は震えながら俺やロイの名を叫び続けている。

 

 これで終わりなのかよ、俺は終わっちまうのか。

 こんな場所で、こんな奴に喰われて、終わりなのか。

 守り手ぇもんや、自分すら守れずに死んじまうのか。

 まだ始まって間もないのに、何も為せていないのに。

 

 絶望と悔しさが激痛で痺れた頭に渦巻く。子供も、親友も、自分すらも守れねェ弱い自分を呪って喚き散らしている。

 

「くそォッ……ぁぁあああああああッッ!!!」

 

 泣き喚くルフィ。動かないロイ。殺されかけの俺。

 何もできずただ蹂躙されるだけの状況を呪うように叫ぶ。

 当然それでどうなるでもない。負け犬の遠吠えは、この残忍な化け物を勝利に酔わせるだけだ。

 

 抵抗にもならねェが、苦しくて悔しくて、めちゃくちゃに自由な左腕を振り回した。小屋の木切れや小石に掻かれて傷ついていく。

 あまりの惨めさに視界が歪みかける中、こつり、と何かが振り回した腕の先に触れた。

 何だろう。縋る思いで目をやる。

 赤黒く絶望に染まりかけた視界の先に、ソレは転がっていた。

 

 悪魔の、実。

 

 小屋が壊された拍子に放り出されたのか、あの宝箱の悪魔の実があった。

 考えるよりも先に手が実を手繰り寄せていた。

 力を振り絞って掴み取り、口元に運ぶ。

 一口、一口でいい。このゲテモノを喰えば、何かしらに力が手に入る。

 何でもいい。この状況をひっくり返せるチャンスが欲しい。

 不味かろうが、泳げなくなろうが、どんなデメリットがあろうが構うもんか。

 こいつが倒せるなら、弱い自分から抜け出せるなら、化け物でもなんでもなってやる。

 俺の不審な動きに気づいたのか、不機嫌そうな唸り声とともに狼が腕に噛みついてきた。

 容赦ない噛みつきで、腕の骨が折れる。肉が裂かれる。

 新たに加わる耐えがたい痛みに苦鳴が喉をせり上がるのを、無理矢理噛み殺して悪魔の実に口を寄せた。

 その禍々しい果実に、歯を突きたて齧り取る。

 途端に口内に広がる、えぐみ、渋み、苦み。耐え難い刺激が舌を痛めつける。

 身体が拒絶反応を起こし吐き出そうとするのに全力で逆らう。

 

 ついに一欠片。一欠片だけ、飲み下すことに成功した。

 

 同時に、腕に喰いついていた化け物の咢(あぎと)がついに噛み合わされた。

 畜生ッ、腕を持ってかれた。

 その光景を見た瞬間そう確信した。

 間に合わなかった、隻腕にされちまったと。

 

「あ?」

 

 何だ? どうして腕を落とされた痛みも喪失感もやってこねェんだ?

 薄く目を開けば、噛み切られたはずの腕は、確かにがっつり生臭い吐息を吐き出す化け物の牙の下から見えていた。

 そういや右肩を抑えつけているはずの重量や鉤爪が肉に食い込む痛みも、唐突に消えちまっている。

 驚いてそっちにも目をやれば、デカくて太い前肢が右肩を貫通していた。しっかりとめり込んで、俺の身体を貫いてやがる。

 明らかに動脈やら臓器やらを盛大に傷付けているだろうに、嘘みてェに何も感じられない。

 異常な事態に狼の方も混乱してやがるらしい。

 低く不機嫌そうに唸りながら、更に俺を抑えつけようと体重を掛け、ゾッとするほど鋭い牙を左腕を噛みつけている。

 だってのに何も感じられん。新しい痛みもこねェ、血も吹き出さねェってどういうことだ。

 化け物に食らわせられた苦痛が過ぎて幻覚を見てるようでもねェし、脳内麻薬でも出過ぎて痛覚が麻痺したでもない。

 

 もしかして……悪魔の実の、能力、か?

 

 混乱した頭がようやくその可能性を見つけ出す。

 悪魔の実の能力。あの悪魔の実で得た力が、この状況を生み出しているのか?

 幻覚や脳内麻薬じゃねェってんなら、それしか考えられん。

 こうなりゃ、一か八かだ。

 覚悟を決めて、噛まれている左腕に意識を集中させてみる。

 ロイやヒナが昔に言っていた。能力を使いたい時は、使いたいと思う場所に意識を向けるんだと。それを思い出しながら、縋る思いで左腕を睨み据える。

 

 出やがれ、何でもいい、出てきやがれ! 俺の能力!!

 

 ユラリ、と。

 白く左腕が霞んだ。血塗れでズタボロな腕の輪郭がぼやけた。

 腕が腕で無くなっていき、代わりに腕のあった場所が真っ白に霞み始める。

 揺らぎながら広がるそれに一瞬呆気に取られちまう。

 霧、か? いや、雲?

 違う。揺らぎながら広がっていくそれから、独特の、俺が常日頃から親しんでいる匂いがして、正体を確信する。

 これは……この、匂いは、煙。煙草の紫煙、だ。

 ギャウンッ、と犬が蹴飛ばされたような悲鳴に、ハッとする。

 狼が煙になった俺の腕から口を放して、のた打ち回っていた。

 煙の匂いか。刺激の強い匂いは、鼻が利く狼には耐え難てェもんだ。ましてや、至近距離で大量に嗅ぐ羽目になったんだ。

 ダメージはさぞデカイんだろう。転がるように飛び退り、俺の煙から逃げようとしている。

 巨体が上から退いてすぐ起き上がる。ロイとルフィの方へ走ろうとしているのが目に映った。

 

「オイ、そっちに行くんじゃねェよ!!」

 

 咄嗟に自由になった右手を伸ばす。

 焦るその気持ちのせいか、ボウンッ、と勢いよく右腕も煙に変化しちまった。

 見る間にキツイ風に乗り、狼に絡みつく。

 無意識に捕まえようと思った瞬間、右腕だった煙から固い毛皮の感触が現れた。

 煙のくせに物が掴めるのか。

 なんつうご都合主義の塊だ。悪魔の実の能力ってのは、予想以上にデタラメ過ぎるぜ。

 だが今はそれがありがてェ。

 対抗しようがなかった化け物を、傷一つ負わず抑え込めちまえるんだ。アドバンテージは一気にこっちに傾いた。

 軋む身体を全身煙に変えながら立ち上がらせる。煙になっちまえば折れちまった骨に負担を掛けずに済むみてェで楽だ。

 

「け、ケムリンッ」

 

 真ん丸に目を見開いたルフィが俺を心配そうに見上げていた。

 ロイの手をしっかり握りつつ、片手で恐る恐る近くを漂う煙に触ろうとしている。一応この煙が俺だってわかっているみたいだ。

 場違いに微笑ましい仕草に、ホッとさせられた。

 煙のまま頭を撫でてやる。一瞬だけ、ルフィが身を固くするのを感じた。

 

「大丈夫だ、すぐ終わる」

 

 こくん、と神妙な顔をして頷くルフィをもう一度撫でてやり、バタバタと暴れる感覚が伝わってくる狼の方へ向き直った。

 自分を捕まえた未知の存在に狼狽え悲鳴を上げる奴には、あの嫌味なほどの高慢さや狡猾さは欠片もない。

 さっきまで俺たちを一方的に嬲りまくっていた暴君ぶりが嘘のようだった。

 

「ハッ、ハハハ……ッ」

 

 自然に口角が上がっていく。

 相変わらず身体中とんでもねェ激痛が走ってやがるし、グラグラして今にも意識が飛びそうだ。

 だってのにこの状況が心底愉快で堪らない。こりゃ、脳内麻薬の出過ぎだな。

 

「やられっぱなしってのはよ、性に合わねェんだ」

 

 煙の量が、俺の昂ぶりに合わせて増えていく。

 苦みの強い紫煙の匂いを、折れた肋骨の悲鳴を無視して肺一杯に吸い込む。

 もの凄く、心地よかった。

 

「覚悟はできてんだろうなァ、犬ッコロ!」

 

 さァ、散々嬲ってくれた礼をさせてもらおうか。

 

 

 



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第16話 思い出を繋ぐ約束

ワンピのアニメの第一期EDをBGMにしてもらえるといいかもしれません。


 黒光りする鋭い鉤爪を備えた太い四肢の痙攣が止まった。

 首は明後日の方向へ圧し折ってやったし、これでもう二度とこの化け物は起き上がらねェだろう。

 硬い毛皮に覆われた胸元に、深く刺し込んだ軍用ナイフを抜き取る。流れ落ちるどす黒い血が手を汚した。

 ようやく、狼を倒せた。

 奴が完全に事切れたことを確認した途端に、どっと身体の奥の方から泥のような疲労感が溢れ出してくる。

 足元がふらつき、その場に座り込んでしまった。圧し掛かる疲れが重すぎて、後ろのデカイ死骸に凭れ掛かれて溜まっていた息をすべて吐き出す。

 

「ケムリン!」

 

 いつの間にか風雨が落ち着いて静かになりつつある中に、幼い声が響き渡る。

 重い頭をなんとか上げると、ルフィがこっちに寄って来ようとしていた。

 ロイも運んできたいのか、必死で横たわった身体を引っ張っている。当たり前だが三歳のルフィに大人の男が動かせるはずもなく、うんうんとロイの腕を掴んで唸っているだけだ。

 どうしても煙から戻せなかった左腕を伸ばす。痛みを堪えて二人を側に引き寄せる。

 

「待たせたな、怪我、ねェか?」

 

 煙に掴まれて目をぱちくりさせているルフィの頭に、元に戻せた右手を置く。

 手のひらの下からロイに似た黒い目が俺を見上げる。

 一呼吸、二呼吸。黒目の輪郭が涙にぼやかされ出し、震える感触が手のひらに伝わってくる。

 引っ込んでいた涙を、驚きなんかで塞き止めていた分一気に溢れさせ、しっかりと頷いた。

 泣きながら真っ赤に濡れた右肩近くに、躊躇いがちに手を伸ばしてくる。そっと制服を握り、泣き顔をもっとぐしゃぐしゃに歪めた。

 

「い、いたい? ケムリン、ち、が……いっぱい……!!」

「気にすんな、大したこたァねェ」

 

 ほら、と腕を回してやると、更に泣かれた。おいおい、これくらいの嘘は信じとけよ、ガキのくせに。

 

「そっち、も?」

 

 鼻水まで垂らし出したルフィが、煙のまんまの左腕を指さす。

 相変わらず肩口から先が元に戻らない。意識を集中しても、まったく思う通りにならねェし、能力制御ができてねェってことか。

 これはもう、迎えが来たら海楼石の手錠でも借りるしか、戻す術がなさそうだ。

 

「大丈夫だ、こいつは俺の能力でこうなってんだよ」

「のうりょく?」

「悪魔の実を喰っちまったんだ」

「あくまの……あ、あのへんなの?」

 

 ようやく悪魔の実のことを思い出したらしい。丸く見開いた目が信じられねェもんを見たってふうに俺を見上げてくる。

 そういや悪魔の実を喰ったら特殊な能力が手に入るって教えてなかったか。喰わせねェようにするために、デメリットしか言ってなかったな、ロイの奴。

 

「あくまのみくうと、けむりになるの!?」

「俺の場合は、な」

 

 実にはいろいろ種類があるから手に入る能力も千差万別。説明してもルフィにはよくわかんねェだろうから、とりあえずそう言っておく。俺の喰った実は煙になる能力を寄越してきたんだ。意味は違わん。

 ち、雨が止む代わりに冷えてきやがった。夜になったせいもあってか、ずぶ濡れの身体から容赦なく体温を奪われていく。急いで寒さに震え出したルフィと、ぐったりとしたままのロイをもっと引き寄せて抱え込んだ。

 暖を取ろうにも、火を起こすだけの体力ももうない。できるは三人一塊になってそれぞれの体温で凌ぐぐれェだ。

 俺とロイでルフィを挟むようにして、しっかり抱えた。

 冷えちゃいるがルフィは子供らしい高めの体温を維持していて少しホッとする。だが氷みてェに冷たくなったロイの肌にゾッとさせられた。

 生きてる、よな? 不安になって口元に耳を寄せれば、辛うじてまだ呼吸はしていた。背中の傷も確かめる。鉤爪にやられた傷は痛々しいが、ありがたいことに血は止まっていた。

 それでも目を覚まさねェのは、体力が落ちすぎたせいか、それとも頭でも打ち付けやかったか。

 折れた肋骨やらなんやらが痛むのを堪えて、ロイに回した腕に力を込める。あんまり良い状態じゃねェのは確かだが、ここじゃどうしてやりようもねェ。迎えが来るまで生きててくれって祈るぐらいだ。

狼を倒したってのに、まだ俺はこいつを守り切れてねェって現状が、心底嫌になる。

 

「ケムリン、にいちゃんどうなっちゃうの?」

 

 俺の不安を感じ取ったルフィの揺らぐ目が見上げてきた。

 ロイに忍び寄っている死の気配かなんかがわかるのか、ちいせェ手でロイの顔に触れようとしている。

 

「大丈夫だ、もう少し寝たら、起きるだろ」

 

 声が震えそうになるのを抑えて、いつも通りの調子で返した。

 本当にそうなの? と探ってくる幼い視線を振り払うように、ルフィの頭を自分の腹に押し付ける。温さがもっと強くなった。

 

「俺たちも寝るぞ」

「ええーはらへったー」

「我慢しろ、明日になったらいっぱい食える」

「じいちゃんきたら?」

「ああ、だから今日は寝ちまえ。寝りゃ腹も減らねェ」

 

 空腹に意識を逸らされたルフィがぐずるのをなだめる。

 俺だって腹が減って仕方ないが、飲み水や食えそうなもんはほとんどすべて狼に踏み荒らされてダメになってんだ。今から探そうにも辺りは暗いし、そんな中を動き回れるほど体力もない。

 ジッとして体力を温存しつつ、明日を待つのが得策だろう。腹が鳴って目が冴えて仕方ねェのはわかる。ガキには辛ェだろうが、我慢してもらわざるを得ねェんだ。

 畜生、本当に今日はついてねェな。俺も、こいつらも、何年分の不運が重なったんだって状況で泣きたくなる。

 ぐずぐずと何やら言っていたルフィも、そのうちに静かに寝息を立て始めた。

 疲れが空腹に勝ったんだな。でも少し寒そうに震えている。気休め程度にしかならねェが、自分のスカーフを掛けてやった。

 これで朝まで起きねェと良いが。夜中に小便行きてェなんて言われても、今夜は付いて行ってやれねェし。

 硬すぎてチクチクする毛皮に、更に体重を預ける。辺りは風と波の音ばっかりで、空を見上げると千切れて流れる雲の間に月が覗いていた。明日は晴れるな。

 

「ロイ」

 

 眠る前にもう一度呼んでみるが、返事は当然ない。

 普段より一層白くなったロイの顔を汚す泥を拭ってみる。ほんの僅かに瞼が動いた。大丈夫だ、まだ生きてる。まだ助かる見込みはあるんだ。

 

「生きろよ、ロイ……ッ」

 

 頼むから明日の朝まで持ってくれ、と心臓がせり出しそうな焦燥感を抑えるように願う。

 

 ガープ中将の軍艦が迎えに来たのは、夜が明けてしばらくした頃だった。

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

「やだぁぁぁっ!! おれもマリンフォードいくぅぅぅっ!!!」

 

 金切り声を上げてルフィが泣き叫ぶのに、俺もスモーカーもベッドの上で頭を抱える。

 説得開始からもうすぐ二時間。ルフィはマリンフォードまで何が何でも付いて行くと言って、俺たちの言葉にまったく耳を貸さない。お迎えにきてくれたマキノさんの腕の中で盛大に暴れまくって泣き喚くばかりだ。

 怪我人にはそろそろ精神的にも体力的にもきつくなってきてます。本当に誰かこの子どうにかして。

 

 サバイバル最終日前日に遭った巨大狼襲撃事件のせいで、全治二ヵ月の怪我を負ったロイです。

 あの日、迷子になったルフィを探して森に入ったら、あの有名なアニメ映画の山犬かといわんばかりのデカイ狼にルフィが襲われているところに遭遇した。

 もう俺が来た時には、飛び掛かる一秒前な状況だったんだ。慌ててルフィと狼の間に飛び込んだ。能力を使っている暇なんてない。身を挺していかないとルフィが死んでしまうかもしれなかった。

剃で飛び込んで真っ青なルフィを抱えて庇う姿勢に入ると同時に、背中を凄まじい衝撃と激痛が走った。ルフィを抱いたまま弾き飛ばされて、その先にあった倒木かなにかに強かに頭を打ちつける羽目になった。

しかも運が悪いことに打ち所がよろしくなかったらしく、グワンと視界が揺らぎ、音が全部遠くなってしまった。

 ヤバイ、これはヤバイと思っても、身体中痛くて痺れて言うことを聞いてくれない。ルフィに逃げろって言う間もなく、視界がブラックアウトしちゃったんだ。

 あの時はマジで死んだと思った。狼は倒せてない上に、幼いルフィを守るべき大人の俺は一発KOで沈んでいる。さあ狼さん喰ってくださいと言わんばかりの状況だった。

 だから軍艦の医務室で目が覚めた時は漫画かドラマみたいに、ここは天国か、と言ってしまった。看病してくれていた船医の先生に、馬鹿お言いでないよ、と苦笑いされて恥ずかしかった。

 様子見に来てくれたボガード中尉が教えてくれたんだが、俺が伸された後スモーカーが俺たちを見つけて守ってくれたらしい。

あの化け物狼に一人で立ち向かい、ズタボロにされながらも悪魔の実を喰うことでギリギリ勝ちを拾って、翌朝まで俺たちを守り抜いていたそうだ。

 スモーカーの喰った悪魔の実は、言うまでもなくあの島で拾った奴だ。種類は運命なのかなんなのか、モクモクの実。あいつは煙人間になったことで、俺より酷い怪我を負いながらも狼を絞め殺せたらしい。

 何とも奇跡的な幸運に恵まれたな、とボガード中尉が俺の隣のベッドで高鼾をかくスモーカーを見ながら溜息を吐いていた。

 痛みや出血で意識を飛ばしていてもおかしくない大怪我だったんだとか。なのにスモーカーの奴は迎えが来て中将に簡単にだけど状況を話すまでは意識を保っていた。

俺とルフィを守るって一点で踏ん張っていて、俺たちが無事収容されると同時にぶっ倒れて今に至るみたいだ。

 そこまでして守ってくれたなんて、こいつ本物の男前だわ。原作どうのこうの抜きにして、その男気に惚れそうだ。

 親友でいてよかったと改めて実感するのとともに、起きたらしっかりお礼を言おうと思った。

 スモーカーの怪我は全治四ヵ月だと先生が言っていた。自然系の能力者だけど、実を喰う前に受けた傷は修復されないから治るのに時間が掛かるようだ。

 しばらくは一緒に入院生活して順次リハビリって流れだろう。ここでしっかり治しとかないと、今後の軍務に影響するかもしれないって言われたし、ゆっくり治していくかな。

 

 そうして俺が怪我に伴う発熱でぼんやりしているうちにスモーカーの方も目が覚め、ガープ中将から謝り倒されたり同僚や上官の見舞いを受けたりしてここ数日は過ごしていたんだ。

 当然ルフィも一番に来てくれた。ワンワン涙と鼻水まみれで泣きながら。自分を庇って俺たちが死にかけたのが相当ショックだったらしい。ごめんなさいごめんなさいってそれしか言わず、俺たちの手を握って泣いていた。

 大丈夫だとか、お前が謝ることじゃないとか、二人掛かりで慰めていたんだけど、いまいち効果はなかったようだ。

その日から医務室に泊まり込む勢いで俺たちの側に陣取ってしまった。先生のお手伝いをして俺たちの世話をしたり、暇さえあれば痛くないかと心配しまくって過ごしていた。

 もの凄いトラウマとかの類をルフィに植え付けてしまったようで、泣きそうなルフィの顔を見ていると罪悪感が湧く。将来良きにせよ悪きにせよルフィの人格形成に影響が出たりしないか不安だ。

 この不安が、どうも当たらずとも遠からじって感じであることがわかったのは、早くも昨日のことだった。

 明日にはフーシャ村に着くって先生が教えてくれた途端、ルフィが村に帰らないと言い出したんだ。俺たちを看病するからマリンフォードまで一緒に連れて行ってと。

 

「おれ、ケムリンとにいちゃんのともだちだもん!」

 

 友達か、ちょっと感動するな。ルフィに友達認定されるなんですごくないか?

 まあ、そんなルフィの気持ちは嬉しいのけれど、あっちはこいつの受け入れ態勢が無い。

 中将も一緒に住めればそれに越したことはないんだろうが、如何せん任務で海によく出るし、家にルフィの面倒を逐一見ていてくれるような人がほぼいないそうだ。とてもルフィを一人置いておけるような状況じゃない。

 俺とスモーカーのどらちかが引き取るという選択肢は、端からない。

どらちも男性海兵専用の独身寮に住んでいるからだ。フラットを借りているか、持ち家があったなら何とかなったかもしれないが、あの寮はとても幼児を同居させられない環境だ。主に教育の面での悪影響が心配される。

それにしばらくは入院するだろうし、退院しても子供の面倒見て生活するなんて難しい話だ。

 結局のところ、ルフィにはかわいそうだけど村に帰らせるという選択が一番なのだ。あそこならスラップ村長やマキノさんを始めとした善良な村の人たちが、何くれとなくルフィの面倒を見てくれる。マリンフォードに行くよりよっぽど良い。

 やんわりと一緒に連れて行けないって言ってみたのだけれど、予想通り泣いて拒否された。なんでも我慢してわがまま言わないからとか、自分のことを二人とも嫌いになったのかとか、ずっと俺たちの枕元で叫び続けた。最後は床に転がってバタバタ暴れて手が付けられない状態だった。

 中将はもちろん艦長の大佐や先生、果てはボガード中尉まで総出で言い聞かせようとしたけど効果はほぼ無し。なんて意思の固さだ。

 誰もルフィを説得できないまま、ベッドの柵に齧り付いて梃子でも俺とスモーカーの側から離れようとしない状態でフーシャ村の港に着いてしまった。

 どうしても離れないからマキノさんが乗り込んで連れて帰ろうとしても、嫌がって暴れまくって医務室から出ようとせず泣きまくっている。

 仕方なくしんどい身体に喝を入れて二人揃って宥めたり賺したり叱ったりしても、全然うまくいく気配がない。

 

「ルフィ、もうロイさんとスモーカーさんを困らせてあげないで?」

 

 俺たちの様子を心配そうに見ながらマキノさんがルフィの頭を撫でて諭すように言った。

 まったく耳に入っていないのか、ルフィはもう涙で溺れきった声を張り上げて泣き続けている。いつの間にかもらったらしいスモーカーの海兵服のスカーフを握り締めて、嫌だ嫌だと絶賛駄々こね中だ。

 

「ルフィ、ワガママ言うんじゃねェよ。ここでお別れだっつってんだろ!」

「なんでずっとケムリンいじわるいうんだよぉ!」

「意地悪じゃない、ルフィ。マリンフォードにはルフィのおうちが無いから仕方ないだろう?」

「じゃあマッチのにいちゃんのおうちのこになるっ。そしたらにいちゃんのおうちがおれのおうちだろ!?」

 

 ああ言えばこう言う子だな、もう! ルフィはもう少し子供らしいぽやんとした頭をしているかと思っていた。この数週間の経験で変化でもあったのか?

 泣き声が傷に響いて死にそうだ。だってのに誰も助け舟を出してくれそうな人はいない。皆中将を抑えに行っている。

 中将は早々にルフィから「じいちゃんなんかだいっきらい! つれてってくれなきゃもっときらいになる!!」と宣言されて号泣。説得に参加させると嫌われたくないあまりにマリンフォードに行くのを許してしまいそうなので、大佐と中尉が引き摺って部屋に監禁、拘束した。絶対出てこないよう乗員士官総出で抑えておくから、お前らがんばれ、と中尉が申し訳なさそうに言っていた。

 唯一先生だけは医務室にいてくれるけれど、すでにルフィが言うことを聞かないのがわかりきっているので、溜息を吐きながら雑務を片付けている。

 助けてくださいって言っても、お前さんたちにしかできないことだから、と憐れむような微笑で切り捨てられた。酷いお婆ちゃんだ、この人。

 

「もっといっしょがいい、ともだちだろぉぉーっ!」

 

 しかしルフィ、友達は一緒にいるものだってことにすごく拘わるな。

 三歳児の世界観とか常識とかはよくわからないが、確か幼稚園とか行っていた頃は友達とはいつも仲良くとか、困ったら助け合うものだとか習った気もする。そういう大人の言っていたことからルフィの奴は、仲良くするイコール一緒にいる、困った時に助け合う時には一緒にいないといけないと考えたんだろう。

 同い年の子供同士なら、友達だから一緒にいるは十分に正解なのだと思う。

俺もスモーカーもルフィと違って大人だから、今回に限っては適応されないだけだ。大人になってしまった俺たちは、仕事や生活スタイルやごちゃごちゃ縛られるものが多くて、すごく残念だが子供のように単純にはなれない。

 可哀想なことを言っていると心が痛むが、どうしたってルフィにはさよならを納得してもらわなくちゃならない。

 どうすればいいだろう。離れていても友達ができるってわかってもらえる方法があればいいのだが。

 

「ルフィ」

「つれてってくれる!?」

 

 記憶を引っ掻き回している内に、一つ名案がひらめいた。

 一緒に行こうと言われるのを期待してか、ルフィは涙で潤んだ黒い瞳を輝かせて前のめりに俺の方へ顔を向けた。

 

「文通をしようか」

「ぶんつう?」

 

 初めて聞くであろう単語に、ルフィはきょとんと不思議そうに首を傾げる。

 よし、掴みはバッチリみたいだ。

 

「遠くにいる友達同士で手紙を出し合うんだ」

「てがみ……」

「自分は今何をしているとか最近何があったとか手紙に書いて、教え合うんだよ。そうすれば遠くにいてもお互いが元気かどうかも分かるし、一緒にいる必要がある時に会いに行けるだろう」

 

 俺がひらめいた名案とは、遠距離の友達付き合いの王道、文通だ。

 いやね、小学生くらいの頃もの凄く流行ったのを思い出したんだ。もっともあの時は雑誌で募集し合って顔も知らない子と手紙をやり取りするのが主流だったけれど、転校してしまう友達とやるのも結構あった。今の状況は後者と似たものだ。お互いの近況を報告し合ったり、長めの休みとかにまた会う約束をしたりしていた。

 独特のワクワク感があって子供には楽しい友達付き合いの形態の一つだったから、ルフィも少し文通するには幼すぎるけど興味を持つかもしれない。

 そう思って言ってみたんだけど、どうやら大当たりだったみたいだ。文通の話に惹かれるものがあったらしく、表情に迷うような色を浮かべて、うーんとかでもとか呟いている。

 

「いつも一緒にいられなくても、手紙を通して繋がっていられるんだ」

 

 左の腕を伸ばして、小さな黒髪の頭に手のひらを置く。じんわり伝わってくる温もりに小さな笑みを零れた。

 

「一緒にいるだけが友達じゃない。離れていても友達でいる方法は、文通みたいにいっぱいあるんだ、ルフィ」

 

 目線を合わせて、揺らぐルフィの目を正面から見据える。

 

「マリンフォードに帰ったら、すぐにルフィに宛てて手紙を書こう。だからお前も、私たちに手紙を出してくれないか?」

 

 噛んで含めるようにゆっくりと言葉を繋ぐ。

 返事は返ってこない。ただ、じっとお互いに見つめ合って、医務室は静まり返っている。

 

「ほんとに?」

 

 不安げなか細い声がルフィの唇から零れる。黒い目にはまた涙の膜を張り出していた。

 

「いっしょにいれなくても、ともだち?」

 

 ちら、とスモーカーの方に視線を送る。わかってんだろうな、ケムリン。付き合いが深い分、それだけで俺の言いたいことが何かわかったようだ。スモーカーは軽く口の端を上げて見せた。

 今にも泣き出しそうなルフィの頭にスモーカーの右の手が伸びる。先に乗っかっていた俺の手のひらに、デカイ手のひらが重なった。

 

「もちろんだ」

「だから、心配すんな」

 

 手のひらの下で、ぶるぶるとルフィが震えている。

 やっぱり涙腺を決壊させて、それでも泣き喚きたいのを我慢するように、唇を噛み締めていた。

 泣き虫だよなぁ。頭に乗せていた手のひらを滑らせて頬に宛がい、流れてくる涙を指で拭ってやる。小さな手のひらが俺の手に触れるのがくすぐったくて、ほんのり胸が温かくなった。

 

「ちゃんと手紙、出してやっから」

「おれも、だすっ……!」

「今はさよならだが、また会いに来るから」

「また……っ、あえるの? ほんとに、ほんと?」

 

 まだ心配なのか。俺もスモーカーも、ボロボロ泣きながら念押ししてくる小さなルフィに、思わず笑ってしまう。

 泣き虫で心配性なんて、俺が知っているあのルフィと違うね。悪くはない。小さな弟みたいで、すごく愛おしさみたいなものを感じる。

 重なっていた小さな手を取って、細い細い小指に自分のそれを軽く絡める。約束する時の定番、指切りげんまんだ。

 何のことかわかっていないのか、目を丸くしたルフィにとびっきりの笑顔を送ってやる。

 

「約束するよ。また会おう、ルフィ」

 

 だから今は、これでさようなら。

 俺たちの、小さな小さな友達。

 

 

 




東の海でサバイバル編、これにて終了。


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第17話 海軍の事情

お冷と一緒にメニューを渡され、俺たちは空腹に任せて一斉に主張を始める。

 

「わたくしこの揚げ物三種と今日のカルパッチョが食べたいわ」

「刺身盛り合わせ、それと焼き鳥盛り合わせ、どうだ?」

「いつも通りデラックスで頼んでおこう。あ、ギョーザと春巻きも」

 

 俺が指したのは、どこの大食いメニューですかってくらい焼き鳥は皿てんこ盛り、刺身は船形に山盛りのランクだ。だって軍人らしく健啖家な俺たちだと、普通の量じゃどうしたって間に合わない。追加で頼むくらいなら、最初からガチな量を頼んでおいた方が財布にも優しい。

 

「たこわさ、冷奴、枝豆」

「相変わらず親父くさいな、スモーカー」

「うるせェ」

「じゃがバターと、出し巻き卵も欲しいわね」

 

 ここまで来て一切ご飯系を頼んでないな、こいつら。米喰えよ、米。酒を飲むにしたって米が必要だろうと思うのは、俺が元々日本人だからだろうか。そんなことを考えつつ、ご飯系メニューに目を滑らせる。

 

「おい、海鮮レタスチャーハンを特盛で頼んでくれ」

「はいはい」

「サラダは海藻サラダでいいかしら?」

「ああ、それも特盛でな。飲み物はどうする?」

 

 飲み物のページを見ながらドレークが全員をうかがう。そんなの決まってるじゃないか。飲みに来たんだから、まずはこれから始めるもんだ。

 

「「「生中」」」

「いつも通り生中四つ、と」

 

 すみませーん、と座敷の入り口から身を乗り出したドレークが手を上げると、間を開けずに可愛らしい店員が伝票を抱えて走ってきた。

 うん、すっごく有り触れた居酒屋の風景だ。ストレスでささくれた心が、妙にほっこりした気分になってきた。

 

 

 結構前に万歳昇進で少尉になり、真新しい正義コートにも慣れてぼちぼち経った今日この頃。

 ただいまいつもの四人で飲み会を開催中だ。

 海軍将校のくせにノリが学生とか若いサラリーマンじみているって言わない。まだ俺たちは若いし階級は将校の中でも新米だからこんなものなのだ。

 所属先にもよるけど、月に一回くらいは友達と飲みに行ける程度の暇はあるんだ。忙しいっちゃ忙しいけど、上の人より重責を担ってないし、できることも限られている。

 ちょうど今はみんな本部付将校の部隊にいる。所属部隊が遠征を計画しない限りは陸上勤務だから、案外定時には上がれやすい。事務仕事がメインになるためだ。

 特にさ、今俺とスモーカーはセミナーや勉強会回りをさせてもらっている。だから本当に定時の六時に本部を出て帰れちゃうんだ。中将が書類から逃げてなければだが。

 

 なんでセミナー&勉強会回りなんかになったのかって?

 それは無人島で怪我して以降しばらく遠征に出られなくなった代わりにって、ガープ中将が勧めてくれたからだ。戦術とか部隊運営とかそういうのについて、もっと踏み込んだ勉強をしてこいということらしい。

 海兵、特に将校クラスになると、任官後も常にセミナーや勉強会といった場所で、最新や実戦型の知識を学ばなきゃならない。

 感覚としては企業や役所に勤めていて、例えば業務で必要な資格検定や語学とかのセミナーや勉強会を受けるのに似ているかな。必要な知識や技術をそこで学び取って、仕事の中で効率的に生かす。それが出世の足掛かりにもなりえるから、みんなそこそこ真面目に受けるものらしい。

 能力者は最低でも大佐までは昇格確実といわれる海軍だが、そうした知識や技術を習得しているのとしてないのでは、断然前者の方が扱いは良い。単に個人戦が強い海兵ではなく、個人戦も強い上級指揮官になれるからだ。

 そういう事情もあるし、俺もどうせなら好条件の下で働きたいので、遠慮なく中将の好意を受け取っておいた。

 

 最近は新米専用の奴だけでなく、尉官や佐官の若手士官が参加するようなものにもボガード大尉や中将に頼まれたらしいリーヴィス少佐が連れて行ってもらっている。怪我させたお詫びにたくさん学べるようにって中将が口を利いてくれたのだ。

 ありがたいことだ。確かに新米用の基礎的な知識や技術のセミナーや勉強会のやり方の勉強会みたいなのも大事ではあるよ? でも、そこにプラスで応用の仕方についてのセミナーや実戦経験を基にしたディベートが聴ける勉強会に参加すると、将校たちの生の声を見聞きして学べて結構タメになるのだ。

 しかもこうしたセミナーや勉強会、新米用のと違って紹介制だったり人数制限付き(階級が上から優先)だったりするものが多い。本来なら参加できるようになるまで順番や機会を待たなきゃならない。

それを一足飛びに中将の口利きで潜り込めたんだから、俺たちは運が良い。近年稀に見るVIP待遇だろう。

 これはしっかりやらなきゃいけないぞ、ってことで頑張っている。事務仕事と自主訓練や能力制御の訓練の合間を縫って、二人でせっせと通っているんだ。

 

 

「スモーカー君もロイ君も、なんだか今日は凄い顔しているわよね」

「そうか?」

 

 ふと、向かいの席からヒナが心配そうに俺とスモーカーの顔を覗き込んでくる。

 まずいな、見てわかるほどイラつきとか自己嫌悪とかいろいろ出ているみたいだ。

 

 セミナーや勉強会に出始めて一年近し。最近、段々と組織の黒い部分って言えばいいのかな、なんか嫌なものがくっきりはっきり見え始めてきた。

 具体的にどんなものかというと、たくさんあるのだが、一番目立つのは派閥抗争と嫉妬やっかみだ。

 どんな世界でも、人間が寄り集まると意見の対立が発生し、派閥が湧いて出てくるものらしい。

 薄々気づいてはいたけど今の海軍内では、穏健派に当たるクザン大将率いる青雉派と、過激派に当たるサカズキ大将率いる赤犬派の二つが、勢力争いに精を出していたんだ。

 なんか怖いくらいお互いをライバル視しているといえばいいのだろうか。ディベートすればしつこく噛みつき合うし、嫌味はバカスカ投げつけ合うし。いったいどこの泥沼国会中継だって様相を呈することも珍しくない。

 しかも俺たちを味方に引き込みたいのか、相手を悪い部分を吹き込んできたり、自派の素晴らしさを語ったりしてくる人が多い。あんまりなのは少佐や大尉がシャットアウトしてくれてるけど、気持ち悪いくらいに双方必死でなんか怖いし、煩わしい。

 それから嫉妬やっかみ。ガープ中将やボルサリーノ中将に何くれとなく面倒を見てもらっているせいなのだろうが、俺やスモーカーはだいぶ年や階級の近い海兵に妬まれている。傍から見たら依怙贔屓されているように見えているんだろう。

 中将の側にいる時はさほど気になっていなかったけれど、その側を離れるとそれはもう凄い。嫌味は当たり前に飛んでくるわ、シカトとか陰湿な虐めに遭うわ、もう本当に大変な目に合っている。出る杭が滅多打ち状態だ。

 面倒事は避けたい日本人気質の俺としては、無視して済まそうと思っていたのだけど、あんまりにも酷くて若干グロッキー。短気でこういったのが大っ嫌いなスモーカーの方はもうプッツンときて喧嘩した末に、何度か始末書を書いたり懲罰を受けたりしているのだ。こっちもかなり厄介だし、迷惑させられている。

 何だってこんな目に遭わなきゃなんないんだろうと、時々嘆きたくなる。

 

「今日は勉強会に行っていたんだったよな? 良くないことでもあったか?」

「……まぁな」

 

 俺もスモーカーも溜息を吐いてしまう。あんまりにも腹が立つから愚痴りすらしたくなかったけど、今ぶちまけておいた方が良いかな。

 ドレークの指摘通り、今日出る予定だった勉強会で揉めてしまったんだ。

 リーヴィス少佐とボガード大尉の付き添い無しで行ったら、廊下で感じの悪い人たちに取り囲まれて、嫌がらせされた。

 どうも俺たちが贔屓されているって思って嫉妬しているらしく、やたらとしつこくてさ。ネチネチとちょっとばかり良い能力持っているだけで調子に乗っているとか、ガープ中将のとこに帰って尻尾振ってろとか、言いたい放題だった。

 もちろん最初は穏便に済まそうとした。腹は立つけれど少佐たちに迷惑が掛けるのはいけないし、必死で半ギレのスモーカーを抑えたんだ。でも思うような反応が出ないことで連中の不満を、返って爆発させちゃってさらに酷く罵られた。

 もう、最後の方は放送禁止用語連発で、流石に俺もキレかけた。口にもしたくない下衆の勘繰りもいいところなことを言われた時点で、マジで燃やしてやろうかと発火布を出しかけるくらいに。

 そしたら相手側は喧嘩なら買うぜ! と勝手にヒートアップするし、騒ぎを聞きつけた野次馬は湧きまくるし、あわや乱闘ってことまで行きかけてしまった。

 結局暴力沙汰には及ばなかったけど、騒ぎが大きくなりまくったところでまとめ役の大尉が止めに来てくれて、ついでにやんわり蹴り出されたんだ。

 もう俺たちじゃ収拾できない話になっていて、少佐たちに後始末を押し付ける形になって迷惑掛けちゃったし、もう散々だった。

 そんだけ迷惑を掛けまくったのに、今日はすごく疲れたろうから帰んな、飲みに行って憂さ晴らししといでって言われて帰らされてしまった。残りますって言っても聞いてもらえなくて帰されて……もう、居た堪れない。穴があったら飛び込みたい。

 

「愚痴りたいことがあるなら、聞くぞ?」

 

 俺たちを気遣うようにドレークが優しく言う。

 微妙な空気が湧きかける中、ようやく生中と枝豆が届いた。ハァ、とりあえず飲みながら愚痴らせてもらうかな……。

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

 伝電虫の受話器を置いたと同時に、ヒンヤリと濡れて冷たいもんが頬にくっついてきた。反射的に背筋が大きく震えてしまう。くっついてきた冷たい物を思わず手で掴むと、ガラスの硬質で滑らかな感触がした。

 ガラス瓶? 引っ張るとあっさり俺の手元にやってきたそれは、未開封のコーラ瓶だった。うん、よく冷えてやがる。飲み頃だな。

 

 

「お疲れさん、リーヴィス」

「……びっくりさせんな」

 

 頭上から面白そうな声が落ちてくる。目だけで見上げると、同期のボガードがいた。

 目深に被った帽子のつばのせいで目元は見えないが、口元はしっかり端を上げてやがる。手にコーラ瓶を持っているところからして、さっきのはこいつか。

 

「ボガードー、俺は酒の方が良いんですけどー?」

「馬鹿、まだ残業中だろう」

 

 我慢しろという言葉と一緒に投げてよこされた栓抜きで、瓶の王冠を外す。炭酸が気持ちのいい音を立てて、コーラの甘い香りが広がった。

 ボガードと軽く乾杯めいたもんを交わして、一口。あー、冷えたコーラって美味いわ。ビールだったらもっとよかったけど、そりゃ無い物ねだりか。

 口寂しいので、引き出しから補食用のクラッカーを引っ張り出して、二人してコーラをちびちびやりつつ食べる。

 

「さっきの、どうだった?」

 

 飲み食いしながら、思い切ったようにボガードがさっきの電話の結果を訊ねてくる。

 

「苦情のオンパレード」

 

 受話器越しに今日の勉強会のまとめ役が、申し訳なさそうに告げた内容を伝える。

 

「これからはちゃんと付き添ってやってくれとか、赤犬さんに呼び出されて生きた心地がしなかったとか言って、あいつら泣いてたぜ」

「やはりか。すまん、嫌な仕事を一人でさせてしまったな」

 

 深く息を吐き出して謝るボガードの肩を叩く。

 俺がついさっきまで電話していたのは、今日あったとある尉官用の勉強会で、あのロイ君とそのお友達のスモーカー君が起こしたトラブル関係だ。こいつが中将へ報告している間に、俺が後始末に走っていた。

 苦労性の同期はそこんとこを気にしてくれてるらしい。

 

「別に構わねェさ」

 

 あいつらには好きで世話焼いてるんだし。こういうこともままあるだろうってわかってたさ、気にすんなって。

 

 ロイ君とスモーカー君に海軍の内情を見せる手伝いをしてほしい。

 唐突に海軍の英雄ガープ中将に呼び出され、そう頼まれたのは、一年ほど前だった。

 中将は彼らに、派閥争いを始めとした外に言いづらい組織の事情を教えたいらしい。

 海軍は、表面上は一枚岩に見えているんだけど、実はそうじゃない。背負う正義は同じだが、それをどう解釈して実行するかで常に対立が燻ぶってる。

 前からあったこの問題が、ここ数年で大きく二つの意見に割れて派閥を形成、本部内での対立が目立ってきてる。

 その二つの派閥のうち一つは、最近昇格した赤犬大将サカズキ率いる、秋霜烈日と疑わしきは罰せをとにかく地で往き、悪を裁くに一瞬たりとも臆するなという過激な勢力・通称、赤犬派。

 もう一つは、青雉大将クザンが形成する、緻密な検証や調査、議論を持って物事を見極め、慎重に悪を裁こうという比較的穏当な勢力・通称、青雉派。

 そう、本部大将っていう軍の最高戦力がお互いのやり方に不満を持っていて、あんまり隠すことなく角を付き合せてんだ。

 おかげで対立は、一応水面下ではあるが、うんざりするほど酷い。上から下までどちらの派閥に属しているかで相手を図る、作戦一つとってもどちらの派閥の意見が取り入れられるかで神経を立てる、何か事が起きればどちらの派閥も水面下でお互いの足を引っ張って出し抜こうとする。

 つまり、今海軍本部のどこにいても何していても、赤犬派と青雉派が派閥争いをしているってことだ。

 二つの派閥の言うことはどちらもとも正しいし、どちらも間違っている部分があると思う。今までどちらが絶対正しいって結論が出なかったのは、そのせいだ。

だっていうのに、赤犬派も青雉派もそこのところをわかろうとしない。自分らの主張を繰り返すばっかりで、お互いを必要最低限しか許容しようとしたがらない。

 センゴク元帥と長老格のガープ中将やおつるさんたち、わずかに存在するボルサリーノ中将を慕う中立っぽい立ち位置の連中が、双方を繋いで穏当に済ますよう調整して、なんとか表面上は一枚岩にしている状態だ。

 組織として、どうかと思うって状態が、今の海軍の現状だ。いくら組織に派閥争いは付き物としても、これはない。大海賊時代の弊害って奴なんだろうか?

 で、だな。こうした面倒な二つの派閥が小突き合ってる状況を二人に見せて、その中でどう自身を処するかを考えさせてサポートしたいってのが、中将のご希望だ。

 普通に考えりゃたかだか新米少尉二人には過保護過ぎる対応だが、どっこいこの二人にとっちゃそうでもない。

 まずロイ君は、単純明快。赤犬派と青雉派に取り合われてる。

 最初は単に戦闘能力がずば抜けていて使えそうだからだったが、今じゃ拗れて双方の意地の張り合いって面も大きくなっているのだ。そうした面倒な立ち位置に置かれている上に、次世代を担う素質を備えているので余計ややこしい状況になってしまっている。扱いに気を付けなきゃならんから中将預かりになっているわけだ。

 スモーカー君の方は、出身地が問題の発生源だ。

 彼の出身地は、東の海のローグタウン。海賊王ゴールド・ロジャーに大海賊時代を宣言させてしまった地だ。

そんな場所で生まれ育ったってのに海兵になったスモーカー君は、もの凄いレアケース。その上、士官学校出の優秀な海兵で貴重な自然系の能力者だ。将来的にローグタウンの印象を海賊王の街から、海軍の英雄の街に塗り替えさせ、海軍の失態を名声で覆い隠せる可能性を秘めている、と周囲からは見られている。このせいで手元に置いてその挙げるであろう名声を派閥のものにしたいと、ロイ君よりは静かだが取り合われてたりする。そのために中将は個人的に思うところもあって、ロイ君同様に気に掛ける必要があると思い、手元に置いたんだそうだ。

 こんな感じにどちらも上が育成に気を使いたいのに、派閥の争いに巻き込まれて揉みくちゃにされそうでいるってことだな。

 派閥からいったん距離を置かせて守りながら、派閥の争いを俯瞰させて現状を教え込み、身の振り方を考えさせ、自己防衛の手段を身に付けさせて、地に足の着いた将校に育つよう仕込もうってのが中将の腹だろう。従順で我慢ができる子のロイ君はともかく、特にスモーカー君は道理に合わないことを酷く嫌い、抵抗を示す。早めに自分の目の届く場所にいる内に対処していかないと、悪い方へ転ぶかもしれないとも考えてるようだ。

 中将が俺に求めたのは、派閥の縮図ともいえる研修や勉強会に二人を連れて行き、二人のサポートをしながら様子を観察、それを中将に事細かに報告することだった。些細な変化も見逃さず、できるかぎり万全の体制を整えて二人を育てたいってことか。

 信用できるのが、自分の副官のボガードとボルサリーノ中将の部下で二人に縁を持つ俺の二人しかいない。人が少なくて大変だろうが頼む、とのことだった。

 断る理由もないから了解したよ。妙な縁で知り合った可愛い後輩だし、上に貸しを作っておけるのも悪くはない。何かしら良いリターンはあるだろう。

 そういうことで、ロイ君たちを研修と勉強会めぐりに連れ回して今日までに至るわけなんだが。

 

「しかし、しくじったな。赤犬派のやつだったから、統制だけは取れてると思ったのにさー」

「ああ、やはり行かせなければよかったな」

 

 ボガードがコーラ瓶を握り締めて溜息を吐いた。

 基本的に新米用以外の研修や勉強会には、俺たちがロイ君たちに付き添うようにしている。新米用より派閥色が出ていやすいのと、奇異の目から庇うためだ。

 必要以上に派閥の争いを目にしたり変な話を聞いたりしないように誘導し、何か思うところはないか様子を見て話させることで軌道を逸れないよう見守る。そして傍から見たらお偉いさんに贔屓されて見える二人に浅はかな連中が突っかかってきたり、下衆な奴らが馬鹿なことを吹き込まないよう監視していたんだ。

 だが今日に限って俺もボガードも手の離せない仕事があった。いつもなら今日は欠席させるんだが、もうそろそろロイ君たちも勉強会に出始めて一年が経つ。軍内に派閥があること、気に喰わなくても下手に手を出すと不味そうなことくらいはわかってきていた。一回くらい付き添わずとも大丈夫かと思い、二人だけで行かせてしまったのだ。

 それがまずかったんだな。勉強会に出ず二人が帰ってきたってボガードが連絡してきて、トラブったことがわかった。

 できるかぎり早めに仕事を片付けてから様子を見に行くと、もの凄く腹を立てているロイ君とスモーカー君、それを宥めているボガード。結構危うい雰囲気が漏れていた。

 俺も加わって何が起きたのか訊くと、会議室から締め出されて突っかかられて侮辱されたらしい。

 やった奴は俺も良く知っている、程度が低いので有名な連中。上の人らに目を掛けられたり縁があったりする二人を、お目付け役の俺たちがいない間にイジメようとしたみたいだ。

 会議室前の廊下で二人を待ち構え、取り囲んで嫌味を言いたい放題だったという。

 更に声高に二人に罵声を浴びせまくったせいで、野次馬が集まって更に騒ぎは大きくなり、空気はもう最悪。

 もうロイ君たちの堪忍袋が粉砕寸前にいたって、ようやく駆け付けた勉強会のまとめ役が割って入り、その勧めで二人はそのまままっすぐにガープ中将隊の元に帰ってきたんだそうだ。

 これがトラブルの全容。完全に俺たちのミスだ。ロイ君たちを始めとした多くの人間に迷惑を掛けてしまったとわかり、頭を抱えてしまった。

 とにかく完全に今回は被害者のロイ君たちにフォローを入れて帰らせてあげて、トラブルの後始末に走ったのだ。

 その仕上げに同期でもあるまとめ役にトラブルを起こした謝りを入れるついでに、あちらさんの状況を訊いてみた。

 案の定彼らは悲鳴を上げてた。喧嘩のことで赤犬のオッサンに呼び出されたらしい。勉強会で騒ぎがあったらしいけどロイ君に何かあったのか? と。大尉といえども直接大将とお話しする機会も滅多にない奴らは、それだけでもう死にそうになったらしい。

 大将お気に入りのロイ君に何かあって青雉派に転ばれたら、もう軍内で生きていけない。どうかどうかフォローを入れておいてくれ、俺を助けてくれと泣かれた。

 大げさなとも思うが、あいつにとっては死活問題なのだろう。泣き止ませて落ち着かせるのに一番時間が掛かった。

 

「今後は気を付けよう。こんな騒動になるなんて、もうごめんだしな」

「だな。あ、話変えるけどな。来月のシャボンディ任務の部隊構成が決まったぜ」

 

珍しい自分たちのミスに段々気が重くなってきたんで、話題を転換するため、今日決定された任務関連の話を持ち出す。

クラッカーに伸びかけていたボガードの手が止まった。

 

「シラヌイ大佐が指揮官になった」

「¨昼行灯¨か」

 

 帽子の影から、僅かに目を覗かせる。こいつ独特のびっくりした時の癖だ。

 驚くだろうと思ってたけど、予想通り過ぎて笑えた。

 

「そう、あの昼行灯のシラヌイ。赤犬のオッサン子飼いのな」

 

 来月にシャボンディ諸島における要人護衛任務、つまり天竜人のお守りがある。

 天竜人関連は、ぶっちゃけちまうと政府や軍の黒い部分。正義もクソもない不愉快なもんだが、海兵にとって飲み下さなくてはならない負の部分だ。

 だから定期的に、若手にこれを教えるためのシャボンディ任務が計画される。任官二年目か三年目あたりの若い海兵を集めて事前教育を施し、物のわかった上級将校に率いらせて実地で見せるのだ。

海兵の試練の一つって言ってもいいかもな。

 

「青雉派のモモンガ大佐も候補に挙がっていると聞いたが?」

「こないだお前んとことの合同任務であの人、ロイ君と接触しただろ。そこ突っ込まれて不採用になったみたい」

 

 この世界の理不尽を飲み込まされる試練に、今回の任務でロイ君は挑むことになっている。

 別におかしなことはない。頃合いだから、順番が回ってきたってだけの話だ。

 ただ、周りがざわついている。どっちの派閥の誰が護衛部隊の指揮官に就くかでだ。今回指揮官になると、もれなくガープ中将の目のない所でロイ君と接触することができる。ロイ君の配置換えがもう目の前に迫っている今日この頃、こんなに美味しいポジションはない。ここでアピールして自派閥に引っ張りたい、赤犬派も青雉派もそう考えたようだ。

案の定、双方選りすぐりの人材を幾つも推してきた。

 その中でも一番有力とされていたのが、青雉派のモモンガ大佐だった。良識があって腕も確か、何より部下を大事にする人だ。その頼もしい背中に憧れる奴も多い。他の推薦を受けた将校の誰より、未熟な部下たちを安心させて指導できるだろうと皆思っていたし、俺も同感だった。

 だが蓋を開けてみれば、その彼がまさかの不採用。どうしても青雉派に譲りたくない赤犬派の徹底的な粗探しの結果、先月のガープ中将隊とモモンガ大佐隊の合同任務のことでケチを付けられたらしい。海賊の一斉検挙中、一時的にロイ君が大佐の直接指揮下にいたことを調べ上げてきたんだとか。

 これをネタにもう青雉派はロイ君と任務で密に接触してアピールできてるだろ、こっちにも機会を寄越せコラァ、と赤犬派が上に詰め寄った結果、派閥の均衡調整ってことでモモンガ大佐の指揮官就任はお流れにせざるを得なくなったみたいだ。

 そしてモモンガ大佐の代わりに指揮官の座を射止めたのが、件のシラヌイ大佐。

 赤犬派で、しかも赤犬のオッサンの部隊に任官以来ずっといるっていう、いわゆる子飼いの人物。赤犬派の中でもオッサンに一番信用されている海兵で、数えきれねェほどの戦場へオッサンと共に赴き、その度に徹底的な正義の完遂に貢献している。

 その経歴と立場は、モモンガ大佐に勝るとも劣らない。モモンガ大佐が青雉は一押しの将校であるのと同様に、シラヌイ大佐もまさに赤犬は一押しの人材であろうと思わせる人物だ。

 うん、そう。経歴と立場だけ見れば。経歴と、立場だけ、見れば、ね……。

 

「リーヴィス、こういっちゃなんだが、大丈夫なのか?」

 

 ボガードにしては不安そうな声が訊ねてくる。帽子の奥から送られる視線が心配を満載で俺を直撃している。

 やめろよ。そんな目で見んなってば。副指揮官で参加する俺から、何らかの安全保証が欲しいってのはわかるのだが。

 

「一応、物はわかってる人だしさ、俺がサポートすれば、何とかなる、はず?」

 

 ダメだ、目がどうしたって泳いでしまう。俺も心配すぎて、ボガードの求めるような返事ができない。

 縋るような目でボガードが俺の目を見ようとする。全力で外して明後日の方向を向く。

 ついにボガードが、掌で顔を覆って呻き出した。

 

「不安なことを言わんでくれ、お前はロイ少尉たちが可愛くないのか?」

「戦場にいない昼行燈との任務だぞ? 何の心配もないなんざ、俺にゃ口が裂けても言えねェよ……」

 

 俺も天を仰いで目元を手で覆う。執務室に重たい沈黙が落ちてきた。どちらからともなく漏れ出した心配の溜め息が、蒸し暑い空気に溶けて消えていく。

 そういや明日は、準備会議か。うわ、もう今から気が滅入ってきた。

 とりあえず、今からでもシラヌイ大佐に明日の念押しの電話しといた方が良いかな……?

 

 

 



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第18話 赤犬子飼いの男

遠くで金属を叩く耳障りな音がする。

 ぼんやり聞いていて、目覚ましのベルかとようやく気づく。

 と、言うことは朝か。もう起きなければ。仕事に行く準備をしなければ。

 横になったまま気怠い身体を呻きながら伸ばす。上に向かって伸ばした手と、伸ばした足が、微妙に弾力があって生暖かいものに当たった。

 うへ、気持ち悪い。一体なんなんだ。

 しょぼしょぼする目で見上げる。ドレークの顔面に伸ばした手が乗っかっていた。

 ゆっくりと足下に目をやる。スモーカーの脇腹を伸ばした足が蹴っていた。

 

 なに、この状況。

 

 寝起きの頭が状況を理解できず、クエスチョンマークを飛ばしまくる。とにかく身体を起こし、辺りを見回してみた。

 あれ、ここ俺のアパートの部屋じゃなくて、ドレークの部屋だ。何度か夕飯をたかりに行ったから覚えがある。

 すぐ側にあったローテーブルの上を見る。酒の瓶が何本か転がり、少し飲み残された酒が入ったグラスと、食い散らかされたチータラの袋が放置されていた。

 ここでようやく昨日の晩のことを思い出す。そういや居酒屋で飲んだ後、ヒナを彼女の部屋まで送って、飲み足りないからドレークの部屋で宅飲みしてたんだったか。

 どうやらこの状況は、だらだら話しながら飲んでいる内に全員寝落ちたみたいだ。

 今日も仕事、それも朝イチで臨時召集された任務の事前会議があるってのに、俺たち何やってんだろう。

 先日、シャボンディ諸島における特殊要人護衛任務とやらを命じられた。

 要は天竜人の護衛だと思う。各部隊から若手海兵を集めて行くらしく、俺だけでなくドレークとスモーカーも同じ命令を受けている。たぶん軍の抱えるアンタッチャブルを教え込むためものなのだろうと思う。

 今日はそれに関する準備会議があるんだ。部隊メンバーの顔合わせと当日の配置の打ち合わせ、それからシャボンディ諸島での諸注意をするんだろう。

 正直あの理不尽な島には行きたくないが、上官に行けと言われたら行かなきゃならないのがこの仕事。今日の会議もできれば出たくないが、きちんと出て話を聞いておかなきゃならない。

 家にいったん帰る隙はあるだろうかと考えつつドレークのデカイ図体を跨ぎ、窓際で喚いている目覚まし時計を止めに行く。

 ブルブル震えながらベルを鳴らす目覚まし時計のスイッチをオフにする。

 さて、今は何時かな?

 

 

「へ?」

 

 

 長針と短針が示す時刻を見た途端、俺の口から間抜けた声が零れ落ちてきた。

 目を擦ってみる。しかし時計の盤面の針たちは、変わらず同じ場所をさしている。

 長針は右斜め上、二の数字の上。短針は左斜め下、八の数字の上。

 ただいまの時刻、午前八時十分。そして、例の朝イチの会議の開始時刻は、午前九時ジャスト。

 うん、これ、あ、あはは、はは、は……。

 

「ドレークーッ、スモーカーッ! おき、起きろォォォォォォ!!」

 

 俺の絶叫が近所迷惑を顧みず、狭いワンルームに響き渡る。そしてそこから三十分間、ドレークの部屋が阿鼻叫喚の激戦区と化したのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

「なんでスモーカーもドレークも起きなかったんだ!」

 

 俺の悲鳴が本部の廊下に木霊する。

 俺、スモーカー、ドレークの三人は人目も気にせず、会議室を目指して廊下を全力疾走中。

 廊下は静かに歩きましょう? そんなルール、ぶっちぎり無視だ。

 

「うるせェッ! 俺らが起きないなら、てめェが起きりゃよかったんだろうが!!」

「起きたわ! 真っ先に起きて、お前を起こしてやったのは、この私だ!!」

「じゃあもっと早く起きろ、役に立たねェ奴だな、お前ッ」

「なん、だと!?」

「お前ら、喧嘩してる暇があるなら、もっと、足を動かせ、速く走れ! 遅刻するぞ!?」

 

 ギャンギャン吠え合う俺とスモーカーに、息を上げながらドレークが仲裁する。

 遅れると社会人的にシャレにならないのはもちろんだが、任務のための臨時部隊の副隊長に就いているリーヴィス少佐の怒りが恐ろしい。あの人ネチネチした説教で精神攻撃してくるんだもん。すごく怖い。

 それに今回の俺たちを率いる隊長が赤犬派の人らしい。シラヌイ大佐という、原作に出ていない人だ。

 そのシラヌイ大佐とやらがどんな人かは良く知らないが、あの堅物揃いで妥協を許さない人間が多い、赤犬派だ。

 寝坊で遅刻しましたなんて、許してもらえるはずがない。それどころかもの凄い懲罰を食らわせられる可能性も大きい。

 絶対に遅れたくない。というか、遅れられない。

 

「くそッ、今何時だ!?」

 

 先頭を走るスモーカーが叫ぶ。

 

「八時五十五分!」

「……ねェ」

 

 腕時計を見ながらドレークが叫び返した。三人分の呼吸音がうるさい。

 

「間に合うか!?」

「……ってば」

 

 あと五分か。会議室までここから確か、走って四分のはずだ、ってなんか聞こえた?

 

「たぶん!」

「……っと……ねぇ……」

「よし、急ぐぞ、ドレーク、ロイ!!」

 

 またなんか聞こえた気もするが、多分風を切っている音だ。ギリギリ剃じゃないくらいの速度で走っている。風を切る音なんか聞こえて当然だ。

 

「ああ!」

「間に合えェェェ!!」

 

 スモーカーの声に応じてドレークと俺も叫ぶ。もうランナーズ・ハイ状態だ。

 

 

「ねぇちょっと君たちっ、待ってってばぁーっ!」

 

 

 唐突に、耳元で誰かの声が聞こえた。

 

「ッ!!」

「うわぁあ!?」

「えぇッ!?」

 

 同時に目の前が揺らぐ。ガクン、と一瞬で膝の力が抜かれる。勢いあまって足がもつれ、俺は前のめりに転んでしまった。

 な、何だ今の!? 慌てて顔を上げると、前を走っていたスモーカーも、並んで走っていたドレークも、俺と同じように廊下に転がっていた。

 どっちも何が起きたのかわからないって感じだ。目を真ん丸にしている。

 

「よかった、ようやく止まってくれたぁ~」

 

 のほほんとした声がした。さっきの声だ。

 三人一斉に振り返ると、いつの間にか廊下を知らない将校がテクテクこっちに歩いてきていた。

 三十代くらいの男の人で、俺と同じくらいの背丈。温厚そうな作りの顔に、ホッとしたような表情を乗せている。誰だろ? 見たことのない人だ。

 ぽかんとしている内に、その将校は俺たちの目の前まで来た。

 濃い灰色のくしゃくしゃした髪を掻きながら、いまだに地面に座り込んだ俺たちを覗き込むようにしてひょこっと身を屈める。

 

「ねえ、君たち。第二十六会議室って何処か知らないかな?」

「は?」

 

 第二十六会議室? それって今、俺たちが向かおうとしていた会議室だ。この人も今回の任務に参加する人なのか?

 困惑した俺たちの視線を集めながら、彼はもっと困ったように眉を下げる。

 

「僕ね、そこである会議に参加しなきゃならないんだけどね。迷子になっちゃって困ってるんだ」

「はあ……」

「急いでるとこに覇気なんか当ててごめんよ。でもどう行けばいいか教えてほしかったんだ」

 

 え、さっきの覇気だったのか!?

 どうか教えてくれないかな、と情けない調子で頭を下げたその人を、思わずまじまじと見てしまう。

 今の覇気って、効果的に覇王色だったよな。意識を一瞬揺さぶられたし、心臓もまだ少し飛び跳ねさせられている。少し前にガープ中将が使ったのに居合わせた時の感覚と同じだし、間違いなく覇王色の覇気だろう。

 そんな大層なもん使えるってことは、確実に本部の上級将校だと思う。なのに迷子で遅刻って、いったいこの人、何者だ。

 ますますわけがわからなくなってしまう。

 

「第二十六会議室でしたら、今我々も行こうとしていた場所ですので、ご案内させていただきますが」

「あれ、そうだったのかい? よかった、よろしく頼むよ!」

 

 困惑気味のドレークの申し出に、その人は悲しそうな雰囲気をぱっと一変させ、嬉しそうな雰囲気になる。感情がストレートに出る人なのだろう。

 ぽやぽやとした笑顔を浮かべている彼を見て、俺たちは脱力しかけてしまった。

 

「あの、ですが、会議の時間の方が、もう」

 

 そんな彼に対して、ドレークは申し訳なさそうに腕時計を示す。

 時計の針は、午前九時一分を示していた。念のため俺も懐中時計を確認するが、やはりドレークの時計と同じ時間を表示していた。

 

「うわあ、遅刻だ……」

 

 リーヴィス少佐に、まだ見ぬシラヌイ大佐に絞られる。終わった、と憂鬱な未来を想像してがっくり肩を落とす。

 ドレークの腕時計を見ていたその人も、あちゃーといった感じに髪を掻き回している。

 暢気なその様子に、俺もスモーカーも苛立った視線を送ってしまう。一応この人の方が階級は上なんだろうが、こんな調子の人じゃどうしたってイラッときてしまう。

 どうしてくれるんだよ、あんたのせいで遅刻だぞ。

 

「困ったな。遅刻、だねえ」

「はい」

「仕方ないね。できるだけ早く行って、一緒に謝ろっか」

 

 謝るって、あんた。そんな軽く謝ろうかで済む問題じゃないだろう。

 俺たちの目に不審そうな色が浮かんでいるのに気付いたのか、彼はにっこり笑って見せた。

 

「僕と一緒ならリーヴィス少佐もそんなに怒らないって。どうせ僕が行かないと会議は始まらないし、大丈夫さ」

「へ? それは、どういう?」

「僕が今回の任務の指揮官だからだよ」

 

 今日は晴れているね、とでも言うみたいに軽い調子で彼の口から告げられた言葉に、思わず耳を疑う。

 ドレークもスモーカーも同じみたいだ。きょとんとした顔をして、ぽやんとした彼の笑顔を見返していた。

 

「……もしかして貴方が、シラヌイ大佐で、いらっしゃいますか?」

「うん、僕がシラヌイだよ。はじめまして、かな?」

 

 目が点になるってこういうことか。今、初めて知った。

 

 

 

 

□□□□□□□□

 

 

 

 

 会議室に掛かる時計を見上げる。

 午前九時十五分。

 会議の開始時刻は、十五分前のはずだったよな?

 

「リーヴィス少佐、あの」

 

 俺の近くの席に座っていた中尉がおずおずと声を掛けてくる。

 うっかり今の気分そのままの目のままそっちを向くと、幾つか悲鳴が上がった。

 

「悪りィな、みんな。大佐が来るまで、もう少し待ってくれよ」

 

 できるかぎり穏やかに聞こえるような声で、会議室にいる奴らに言ってやる。

 本当にすまないが、今回の任務の最高責任者がいないと、話しにならないのだから。

 しかし、まあ、やっぱりあの人やらかしてくれたもんだ。

 俺が昨日の晩に伝電虫でくどいくらい明日の会議開始時刻と開催場所を言って聞かせ、メモまで取らせたっていうのに、どうして遅刻しているんだ。

 初っ端からこんな有様とか、予想通りとはいえ不安を煽り立てられてしんどくなってきた。

 一体赤犬派は何を考えて、シラヌイ大佐をこの任務の指揮官に推した。腹が立って仕方がなくて、脳裏に浮かべた赤犬のオッサンを始めとする赤犬派の面々に罵声を浴びせてみる。

 確かに、シラヌイ大佐といえば非常に有能な海軍将校として有名だ。

 生粋の赤犬大将子飼いの将校で、赤犬のオッサン一番の右腕で、天才としか形容しようがないレベルの覇気の使い手。

 だからといって赤犬派によくいる頑固な脳筋ではなく、柔軟性に富んだ参謀タイプで、ひとたび戦場に出れば卓越した計略をもってオッサンの望む通りに勝利を絡め取ってくる。

 同じ参謀タイプの俺としても、戦場に立つあの人は畏敬の念を抱かざるを得ない名参謀。それがシラヌイ大佐だ。そこは紛れもない事実だよ。

 だがな、あの人が戦場以外じゃパッとしないドジな人だってのいうも紛れもない事実だろうが!!

 見知ったはずの本部で迷子、ぼんやりして軍艦から海に落ちる、処理した書類の束にお茶をぶちまける、大砲をぶつかった拍子に建物に向けて誤爆、などなどシラヌイ大佐は日常的にとにかくドジを踏む。

 しかも本人が真面目に真剣に取り組めば取り組むほどそういう結果そうなるのだから、かわいそうでもう目も当てられない。

 おかげで付いた渾名が『昼行燈』。

 戦場という夜闇ではこれでもかと輝き活躍する代わりに、平時という日中では役に立たないどころか邪魔になお荷物という、まことに不名誉すぎる渾名であることは言うまでもない。

 ここまでマイナスな渾名の付いた海兵は、シラヌイ大佐以外に俺は知らない。

 で、だな。この際はっきり言おう。シラヌイ大佐は平時のこんな任務に向かない人だと。

 今回の任務は厄介な天竜人相手だ。シラヌイ大佐がいつもの調子で下手にドジったら、絶対目も当てられねェ結果になる可能性すらある。

 そこんとこわかりきっているはずなのに赤犬派が彼を指揮官の席に押し込んだのは、青雉派への対抗心が勝ったが故なのだろう。

 いくらシラヌイ大佐がモモンガ大佐に功績で張れて、かつ他の赤犬派の連中より物のわかった柔らかい人柄だとしても、他に選択肢がなかったのか。

 もしかして、本当になかったのだろうか。だとしたら、ちょっと赤犬派が哀れな気もする。

 

 つか、遅刻といえばドレーク君たちもなんでか来てねェな。九時になる前から会議室を見回しても、目立つ橙・黒・白の三色頭トリオが見当たらないのだが。

 真面目な奴らだから遅刻とか無断欠勤なんてやらかすはずないし、シラヌイ大佐と違って本部内で迷子になるようなことはありえん。どんな時だってきっちり出勤してくるのが常だ。

 一体どうしたんだろう。まさか、道中でシラヌイ大佐に遭遇して一緒に遅刻する羽目にとか。

 まさかないな、と頭を振ったところで、扉を遠慮がちに開く音が静かすぎる会議室にやたらと大きく響いた。

 

「いやあ、遅れてごめんね」

 

 中にいた全員が一斉に扉の方を向く。扉の影から、シラヌイ大佐が申し訳なさそうな顔を覗かせていた。

 ようやく来たか。深いため息を漏らしそうになる。まあこの人にしちゃ三十分以内の遅れなんか早い内に入るし、一時間遅れなかっただけマシだと自分に言い聞かせておく。

 

「お待ちしておりましたよ、大佐。どうぞ早くこちらに」

 

 努めて冷静に笑顔を作って、とっとと入れ会議始めるぞと言外に言ってやる。

 

「うん、わかったよ。さ、君たちも入ろう。リーヴィス少佐、怒ってないみたいだよ」

 

 ん、君たちって連れでもいるのか?

 扉の影に向かって大佐が声を掛けている。しかし俺が怒ってないって、マジでそう思ってんのか。キレたくてもキレられないの堪えてるだけだぞ、こん畜生!

 扉の影の奴らも一体どこのどいつだ。場合に寄っちゃ会議の後で絞ってやるわ。煮えくり返りかけの腹を抱えながら、扉の方を睨む。

 

「失礼します……遅れて、すみません……」

 

 嘘だぁ……。

 ホッとした様子の大佐に続いて扉の向こうから、聞くからに青ざめた尻すぼみの謝罪と一緒に現れたのは、真新しい正義コートを纏う若い尉官三人。

 真っ青な顔をしたオレンジ頭の優等生と、表情をどっかに落としてきたみたいな黒髪のチビと、仏頂面を隠そうともしない白髪頭の不良。

 ……ドレーク君、ロイ君、スモーカー君じゃあないですか。

 え、さっきの予想通りなわけ? マジでシラヌイ大佐に捕まって一緒に遅刻したのか!?

 

「た、大佐、彼らは?」

 

 とりあえず、事実確認。する必要ないかもしれないが、しないと俺の心が落ち着かない。

 

「ああ、道に迷ってるとこで出会ったんだ。それで一緒に会議室まで来てくれたんだよ、優しい子たちだよねえ」

 

 ねー、とぽやーんとした柔らかな笑顔を青から白に顔色を変えつつあるドレーク君に向けて、大佐は一人嬉しそうにしている。

 怒ってますよね、と泣きそうな目でロイ君がこっちを見てきたが、もうなんだかしんどくなって目を逸らしてしまった。スモーカー君のこの変人どうにかしろと言うような疲れ切った視線も当然無視だ。

 すまん。遅刻は怒らないでやるから、そんな目で見るな。この人に巻き込まれた自分の不運を恨んでくれ。頼むから。

 

「……さ、会議、始めましょーかねー……」

 

 ねえボガード、俺もう帰りたいよ。

 

 

 

 

 カサカサという紙の擦れる音が止むのを見計らって、口を開く。

 

「はい、じゃあみんな手元に資料はありますねー? 部数は一人三部ずつ。赤、青、黄の表紙だ」

 

 会議室全体を見回す。誰も足りない、余っているなどの不備を報告して来ない。これでようやく会議が始められる。

 コホンと一つ咳払い。ゆっくり息を吸い込み、話し出す。

 

「では来月の特殊要人護衛任務の事前準備会議、第一回目を始めたいと思います。

 本日の会議は、部隊構成員の顔合わせと任務概要の説明が主となります。業務の詳細や注意事項の説明などは、それぞれあと三回開く予定の事前会議の中で行いますのでよろしく」

 

 ここでいったん言葉を切る。ちら、と隣に座ったシラヌイ大佐を窺がうと、いつでもどうぞというふうに頷かれた。

 

「それでは、今回の任務において結成される臨時部隊の構成員を確認していきます。まずは指揮官、シラヌイ大佐です」

 

 ゆったりと大佐は立ち上がり、緩く笑いながらふわりと敬礼をして見せる。

 

「指揮官を務めます、シラヌイです。短期間だけれど、どうぞよろしく」

 

 ザッと全員が答礼をする。が、大佐に向けられる視線はあんまり芳しくない。大丈夫かこの人が指揮官で、といった不安感がありありと感じられる。

 あんな姿見せられた直後だから仕方ないか。大佐の方も申し訳なさそうに苦笑して、席に着いた。

 続いては副指揮官、俺の紹介だ。

 

「次に副指揮官を務めますのは、小官、リーヴィス少佐であります。皆さんひとつよろしく」

 

 敬礼に対して全員から答礼をもらう。なんか俺に集まる視線が縋るようだ。

 気持ちはわかるが若者たちよ、そんなあからさまにアンタが頼りって目を向けるんじゃない。こういう時は頼りなさそうでも、大佐を立ててあげてくれ。

 内心溜め息を連発しつつ、名簿の順に部隊構成員を紹介していく。佐官二名に尉官十三名、総勢十五名の紹介はそれなりの時間が掛かった。

 途中大佐に率いられて遅刻したドレーク君たちに何とも言えない視線が集まるなんてこともあったけど、まあ一応つつがなく済んだからよしとしようか。

 

「さて、部隊構成員全員の顔がわかったところで、今回の任務概要と軽い注意事項の通達に移ります」

 

 赤い表紙の冊子の一ページを開くように指示をする。

 

「今回の任務は、簡単に言うと要人護衛任務です。ただし、今回は通常のものとは少々違う」

 

 机の上に開いたページに、目を落とす。面倒な任務地と、護衛対象が変わらずそこに踊っていた。

 何度やらされても、嫌な気分しかしないそれらを口に乗せる。

 

「任務地は、シャボンディ諸島。護衛対象は、天竜人の姫君お二人。職業安定所へ使用人を探しに赴かれる行き帰りの道中の安全確保が、我々の主な任務になります」

 

 ざわり、と初めて天竜人の護衛に参加する若い奴らがざわめいた。歴史や時たま新聞で耳にする程度の雲上人の護衛なんて、青天の霹靂といったとこか。

 隣の奴と顔を見合わせている奴ら、興奮気味の面持ちで話の続きを待つ奴らがほとんどの中、ロイ君だけはなんだか様子が違う。

 ほんの僅かに嫌そうな気配をその表情の奥に見せている。しかも職業安定所、いわゆるヒューマンショップの下りで、すこし眉を顰めた。もしかして、天竜人の護衛任務について多少は知っているのか?

 意外だな。こういうのを正義でキラキラした若い奴らはよく知らないのが多いってのに、どこから知ったんだか。不思議にと思いつつ、話しを続ける。

 

「天竜人の方々は、知っての通り普通の王侯貴族とまったく違う人たちだ。護衛をするにあたっては、いくつも特殊な注意すべき点があります」

 

 まだ少しざわついている奴らを見回す。高揚感というか、誇らしそうな雰囲気が漂い始めている。

 高貴な人々を守ることに価値を見出しているんだろうか。かわいそうだがお前ら、生憎そんな価値なんて何の役に立たない。

 ここにきて、気分の重さに耐えきれず深く溜め息を吐き出す。

 

「耳かっぽじってよーく聞けよ。まず今から言うことは絶対遵守すること、これ鉄則です。さもなければ……」

 

 

 死ぬぜ。

 

 

 しん、と会議室の空気が一気に冷える中、ロイ君だけはやっぱりと苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

 

 

 



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第19話 任務開始、直前

 一、必ず身なりを整え、正装で任務にあたるべし。

 一、天竜人に命じられたことは、何であろうと絶対服従すべし。

 一、任務の出来事は基本的に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)に徹せ。

 一、以上の注意事項は何事があろうとも厳守せよ。

 

 初回の事前会議で配られた注意事項をまとめたメモを見ながら、こっそり何度目か知らない溜め息を吐く。

 とうとう天竜人の護衛任務の日がやってきてしまった。

 前日からシャボンディ諸島の駐屯地に入って準備を進めてきたけれど、どうにもこうにも不快感が拭えない。

 わざわざ胸糞悪い連中を守ってやって、中世ヨーロッパ貴族も真っ青な御乱行を間近で見たい奴がどこにいるか。

 変な話だが、天竜人やシャボンディの実情をよく知らないドレークを始めとした他の奴らが羨ましい。少なくとも任務が始まるまでは、この憂鬱な気分を味わわずに済むのだから。

 それに今回は臨時任務手当とやらと任務後に三日間の休暇が出るってことで、浮かれている奴も多いのだ。確かに昼間の数時間に命の危険がまったくなさそうな仕事するだけで、それなりの手当と休暇がもらえるなんて美味しすぎる。俺だって少しは嬉しいような気もする。

 だが任務が任務だけに、その手当や休暇は口止め料とかそういうのだろうと簡単に予想できる。それがあるから他の奴らみたいに素直には喜べなくて、嫌な気分になるばっかりだ。

 

 本日の任務は午前十時に駐屯地を出発、港で護衛対象の天竜人のお姫様二人をお出迎えして、一番グローブのヒューマンオークション会場までエスコート。

 天竜人が奴隷を買っている間は外で待機し、お帰りの際はまた護衛しながら港まで送る。

 終了予定時刻は午後三時。その後駐屯地に戻って臨時任務手当を受け取れば、任務終了で解散。すぐ帰ってもいいし、一晩シャボンディに泊まって翌日帰るでもいいそうだ。

 俺が想像していた天竜人のお出かけプランそのままだ。任務中どれだけ胸糞悪いものを見せられるのだろうか。不安でいっぱいだ。

 今日もらう手当は自棄酒にパッと使っちゃおうかな、と宿舎の部屋で正装のシャツの襟を直しながら考える。

 白いダブルスーツに、黒シャツとスカイブルーのネクタイの正装。それに正義コートを羽織れば、完璧な海軍本部将校の出来上がりだ。

 正装を身に着けるのは、そういえば士官学校の卒業式以来だ。清廉な感じのする正装は気に入っている。

だから、二度目に着る機会がこんな最低な任務だなんて最悪だ。

 

「ロイ、どうかしたか?」

 

 ひょこっとドレークが俺の顔を覗き込んできた。知らず零していた溜め息に気づかれたらしい。

 何も知らない青く澄んだ目に、心配そうな色を乗せている。相変わらずお人よしの、優しい目だ。

 この目が今日の夕方には濁らされてしまうんだろうなと思うと、沈んだ気持ちがさらに沈むような気がした。

 

「なんでもない。少しばかり襟が苦しくてな」

 

 せめてこんな気持ちを気取らせないように、襟元を指で弄って見せる。

 どうやら上手く誤魔化せたようで、ドレークはそうか、と安心したような笑顔を浮かべた。

 

「でも、緩めるなよ。身嗜みは周到に整えておけとのことだからな」

「わかってるさ」

 

 肩を竦めて制帽である『MARINE』キャップを被る。せっかく心配してくれたドレークに嘘を吐いてしまったことへ、ほんの少しの罪悪感を覚えながら。

 

「さて、もうすぐ集合時間だし行くか。スモーカー、そろそろ煙草消せよ」

 

 後ろめたいそれを振り切るようにして、俺はベッドの縁に腰掛けて煙草をふかしていたスモーカーに携帯灰皿を投げつけた。

 舌打ちしながらもしっかり灰皿を受け止めたスモーカーが面倒くさそうに煙草を揉み消すのを横目に、ドアを開けて廊下に出る。

 廊下の窓の向こうに見える朝の光の中で煌めくシャボン玉が、嫌味なほど爽やかで少し眉を寄せてしまった。

 

「ひゃあああああ!?」

 

 突然ドガシャッと何か重い物同士がぶつかったような痛々しい音と、情けない悲鳴が窓の向こうから届く。

 ……なんだか嫌な予感がする。

 知らず眉間に寄った皺が、更に深くなっていく。そっと窓際へ寄って、ガラスのそれを開け放つ。

 下を見ると、宿舎の外壁に寄せてあった木箱が派手に壊れて崩れ、その残骸のど真ん中に奴が転がっていた。

 思わず目を逸らして顔を引っ込める。おいおい、あれはなんだ。何であんなことになっているのだ。

 一呼吸置いて混乱しかけの頭をなんとか落ち着け、もう一度窓の下を覗き込む。

 埃が舞い上がり壊れた箱の破片や箱の中身が散乱する中から、こちらに気づいた奴が泣きそうな顔でこちらを見上げている。

 

「ろ、ロイ少尉……助けてぇ、痛いよ~っ」

「何をしているんですかッ、シラヌイ大佐!!」

 

 泥とヤルキマン・マングローブの樹液まみれで助けを求めるシラヌイ大佐に、俺は何度目かもう忘れた頭痛を食らわせられた。

 誰かこれは夢だって言ってくれ。

 

「だ、だってここ地面がぬるぬるしてるから、走ったら転けちゃった……」

「昨日この島では走らないでくださいってリーヴィス少佐が言われたでしょう!? 何でちゃんと守らないんですかッ」

「でも、でもね、僕は指揮官だし、早く集合場所にいなくちゃって思ってね……」

 

 少し荒くなってしまっている俺の声に涙目になりながらも、大佐は子供の言い訳めいたことを一生懸命言っている。

 ダメだ、埒が明かない。騒ぎを聞きつけた人間が集まり出している。グズグズ泣きかけの大佐を戸惑うように遠巻きにしてざわついている野次馬どもを見たら、もう色々と我慢できなくなってしまった。

 

「とにかく、大佐! そこを動かないでくださいっ。今そちらに行きますからね。絶対に動くんじゃないですよ!?」

 

 言い聞かせるように叫んで、窓から離れる。振り返るとドレークとスモーカーも、廊下に出て来ていた。どっちも何とも言えない顔をしている。

 

「……ちょっと大佐を保護してくる」

「わかった。シャワーとお前の予備の正装を用意しておく」

 絞り出すように告げると、気遣うようにドレークは頷いた。

 すまんと手を合わせてから走り出すと、黙ってスモーカーも付いて来てくれる。手伝う、と短く言ってくれるのが死ぬほどありがたかった。

 

 あの会議に遅刻した日以来、俺はシラヌイ大佐に妙な縁ができてしまった。

 どういうわけだか、大佐がドジを踏む場面への遭遇率が滅茶苦茶高くなっているのだ。

 あの時のように迷子になっているところへ行き合うに始まり、食堂で昼飯の定食の乗ったトレーをひっくり返したところや、階段から落ちて泣いているところ、中庭のもの凄く浅い池に落ちて溺れているところまで遭遇しまくった。

 大佐は俺のお近づきになりたくない赤犬派らしくないが、れっきとした赤犬派。それも赤犬大将の側近中の側近だ。見捨ててもよかった、というか、赤犬派にお近づきにならないように、見捨てて放っておくべきだったんだと思う。

 でも悲しいかな俺の性格上、困っている大佐をどうしても見捨てられず、その度に片付けを手伝ったり、手当てをしてあげたり、人を呼んであげたりしてしまったのだ。

 そのせいだろうか、いつの間にやら俺は大佐に懐かれていた。犬猫みたいな話だが、すごく懐かれてしまった。

 俺を見かける度に嬉しそうに声を掛け、手を振って寄ってくる。青雉派に睨まれても、嫌味を言われても、まるで気にしていない。というか、気づいていない。俺やスモーカーたちに鬱陶しそうな目で見られていても、こっち来んなって雰囲気を出されていても同じ。

 ロイ少尉、ロイ少尉、と俺を呼んで、ぽやんと柔らかく笑っているばかりだ。

 軍内では謀将として名が売れているらしいので、最初は赤犬大将に命ぜられて俺を懐柔しようと演技しているのかとも思った。

 でもそれは杞憂だったらしい。大佐に懐かれ出してから、時たま遭遇する度赤犬派の人によく謝られる。オニグモ准将とか、ドーベルマン大佐とかにね。シラヌイが迷惑を掛けとるようですまん、あれは本当に素でああいう奴だから許してやってくれと言われた。

 あの謝罪は嘘ではないだろう。皆、目がマジだった。どうも同陣営故に俺と同じような苦労をしているみたいだ。この辺りからもう馬鹿らしくなってきて、大佐を疑うのを止めた。

 まったくドジっ子で天然なワンコって生き物が海軍、それも赤犬派にいるとは思わなかった。これが可愛い女性なら俺としては大歓迎だが、三十代のオッサンがそうとか何の冗談だ。

 マスコットキャラとかのつもりか、赤犬大将。そんなの需要なんかないのだが。

 

「ロイ少尉~っ」

 

 大佐が俺を呼ぶ声がいっそう情けなく耳に届く。

 まったく手のかかる面倒な人だが、どうしてだろう。俺はこの情けないシラヌイ大佐が憎めないでいる。

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

 ロイとスモーカーに救出されてきたシラヌイ大佐をどうにか急いで綺麗にして駐屯地を出発できたのは、午前十時十分。予定時刻よりも十分遅かった。

 事の顛末を聞いたリーヴィス少佐は怒り心頭の様子だったが、時間が押しているので何も言わず、ただ急ぐように全員に命令した。

 どうしてこんな人が任務の指揮官に選ばれたのだろう、と失礼ながら思う。直属の上司である少佐が副指揮官であるために、俺は事前準備の会議以外にも任務関連の雑務で大佐に出会う機会が多かった。 そうして二人を並べてみるたびに思うのは、少佐の方がよっぽど指揮官らしい仕事をしているということだ。

 もしかして大佐はこう言ってはなんだが、お飾り、という奴なのだろうか。上は少佐を指揮官にしたかったが、若すぎて階級が指揮官を務めるには少し足りない。だから大佐をお飾りの指揮官に据えて実際の指揮は少佐に執らせている、とか。

 だがそれならば、もっと面倒事を起こさない、扱いやすいタイプを選ぶはずだよな。常にドジを踏んで少佐やロイの手を焼かせている大佐は、まったくお飾りに向いていないように見える。

 やはり能力で選ばれた、ということなのか。任務本番になれば、指揮官に相応しい能力を発揮できると判断されたからこそ、大佐はここにいるのだろう。

 ……そう思わないと、不安で心臓が潰されそうだ。少佐に小言を言われて頭を掻く大佐の後ろ姿に、こっそり溜め息を吐く。

 

 そうしている間に部隊は港に着いた。時刻は午前十時二十六分。天竜人の方々の到着が三十五分と予定されているから、一応は間に合ったようだ。

 ホッとしたいところだが、時間が無いのには変わりはない。急いで整列し、諸々の最終確認を行った。指示を飛ばしている少佐を窺がう。少し精神的に疲れているようで、心配になってしまった。

 整列が完了して、しばらく。海の向こうからしつこいほど豪奢な船が近づいてきた。優美な船体を港の中へ滑り込ませ、接岸する。そしてこれまた凝った装飾の階が、地上へと下された。

 

「総員、跪け! 天竜人様の御成りだよ」

 

 普段と打って変わった朗々とした良く通る声で、大佐が命令を出す。

 予想通り切り替えのできる人だった、ということか。少し驚いたが、命令に従って跪く。天竜人の前では、許可があるまで跪き顔を伏せるのが基本だそうだ。

 その場の人間すべてが跪き、顔を伏せているせいだろう。一瞬でそれまで周囲に溢れていた音が止まり、今は波のさざめきしか聴こえない。

 

「ご機嫌麗しく、オフェリア宮、メラニア宮。お待ちしておりました」

 

 穏やかな大佐の挨拶が発され、天竜人が姿を現したと知れた。無意識のうちに緊張したのか、自分の身体が強張るのを感じる。

 コツリ、コツリ、と階をヒールの高い靴を先頭に幾人もの人が階を降りる音や衣擦れらしい音などが耳を打つ。

 それに少し遅れて、鎖だろうか? 金属が擦れ合う奇妙で不快な音や人間が苦痛などに呻くような声らしきものがした。

 一体なんなんだ? 非常に気になってしまうが、顔は上げられない。こっそりと目だけで両隣のスモーカーとロイの様子を窺う。スモーカーはその読みにくい表情の中に、俺と同じ僅かな困惑を乗せていた。対してロイの方はというと、嫌悪感、いや、諦観のような表情で俯いている。

 どういうわけだろうか。その顔の理由を訊ねてみたいが、やはり言葉を発することはできないので、押し黙るしかなかった。

 

「貴様らが我らの護衛かえ」

 

 足音が止まり、高い女性の声が落ちてくる。これが天竜人なのだろうか。

 

「海軍本部大佐シラヌイと申します。本日は我が部隊に護衛の任をお申し付けいただき、恐悦至極に存じます」

 

 腰が低い、低すぎるほどの受け答えだ。事前会議の中で最上級の礼を常に取るように、としつこく言い聞かされてはいた。だがこれには、そこまでしなければならないほどなのかと、改めて驚いてしまう。

 鼻を鳴らす気配がして、ヒールが地面を踏みつける音が再び進み始めた。

 

「精々励め」

「ハッ」

 

 言い捨てるような短い言葉に、歯切れのいい大佐の答えが返る。

 流石と言うべきか。人に仕えられ、尽くされることを当然としている生粋の貴種らしい気位の高い、悪く言えば高慢そうな振る舞いだ。

 段々と天竜人たちがこちらに近づいてくる。足音、衣擦れなどに混じって、近寄りがたさを感じさせる芳香が漂い、鼻先に届いてきた。

 

「そこな者」

 

 天竜人の声が、頭の真上に落ちてきた。予想外のことで、心臓が飛び跳ねかける。

 気づけば裾を長く引き摺る衣装とそこから覗く踵の高い女性の靴先が、伏せた視界の端に映っていた。

 近い。いつの間にこんな近くにという驚きと、何か不興を買ったかという焦りで腹の奥にひやりとしたものが落ちてくる。

 

「面を上げりゃ」

 

 ペシリ、と軽く頬を扇のような物で叩かれた。面を上げろ? よくはわからないが、逆らわずにゆっくりと顔を上げる。

 上げた視界の中には、二人の女性がいた。滅多に見ないほどの、どこか作り物めいた雰囲気のある美女と、彼女よりいくらか幼い白磁の人形のような美少女。どちらも気位が高そうだ。

 しかしその美貌よりも、その奇妙な姿に目が行きそうになる。幾重にも重ねられ着ぶくれたような衣装を纏い、シャボン玉ですっぽりと首から上を覆っている様は、異様としか言いようがなかった。

 これが天竜人。内心で呆気に取られていると、年上の方の天竜人が先ほど俺の頬を叩いた扇で顎を持ち上げさせた。

 

「それなり、といったところかえ」

 

 品定めをするかのような目で俺を見下ろして言い放つ。何を言われているのか皆目見当がつかない。

 ゆったりとした動作で天竜人は扇を俺から放すと、そのまますぐ側に跪いていたスモーカーとロイにも同じように頬を打って顔を上げさせた。

 顔を上げた二人も彼女に扇で顎を取られ、不躾な視線を向けられる。どちらも眉が寄りそうになるのを捻じ伏せたポーカーフェイスでそれを受けていた。

 

「貴様ら、今日は我らの側近くに控えさせてやろう」

 

 側近く? 護衛のための陣形の配置を変えろということか?

 さらりと言い放たれた言葉に、俺たちはギョッとしてしまう。事前に決定された護衛のための陣形の配置は、効果的に護衛対象を守る為に計算されて決まったものだ。そう簡単に変えることはできない。

 変更は不可だ、と本来なら言うべきなのだろうが、今回の相手は天竜人。口応えはするなと言われている。彼女の意向に従わなくてはならないのだが、しかし……。

 

「オフェリア宮の御心のままに。ドレーク少尉、スモーカー少尉、ロイ少尉、こちらへ来なさい」

 

 返答にまごつきかけた俺たちに代わってか、彼女らの側に控えていたらしいシラヌイ大佐が口を開いた。

 天竜人の命令を優先しろ、ということか。

 許可が下りた俺たちはすぐに立ち上がり、そして立ち竦んでしまった。

 目の前にいる天竜人たちの後ろにシラヌイ大佐とリーヴィス少佐、すぐその側に天竜人を側近くで守る為に配された数名控えている。海兵だけではなく、幾人ものスーツに身を包んだ使用人も従っていた。

 そして、少し離れた位置にいる使用人たちの方を見て、その場の光景があまりにも常識の外過ぎて思考が止まりかける。

 

 鎖に繋がれた人間が、いた。

 

 見るからに薄汚れ傷だらけの男数人が四つん這いになり、首輪を付けられてそこに繋がる鎖を使用人たちに引かれている。見ればその背に荷物らしきものを背負わされていた。

 奴隷。そんな単語が脳裏に浮かび上がってくる。

 馬鹿な、人身売買は政府が禁止しているはずだ! 奴隷なんてものは、現在存在しない、してはいけないものなのに!?

 理解が追い付かない。違うのではと思いたくても、目に映る彼らは奴隷としか言いようがなかった。

 

「何をしている、早く来い」

 

 困惑している俺たちをリーヴィス少佐が強めの語気で促す。顔つきにほんの僅かに焦りのようなものを見せている。

 天竜人たちが怪訝そうな顔を見せていた。慌てて彼女らの側を固めていた者と場所を変わる。

 

「オフェリア姉さま。そちらの黒髪、あたくしの近くに置いてくださいまし」

 

 俺たちが側に着いた途端、少女の天竜人、メラニア宮がロイを指して強請り出した。

 

「言うと思ったえ。好きにおし」

「ではお言葉に甘えて、お前、あの黒髪と入れ替わるアマス」

 

 近くにいた俺の足を蹴飛ばし、甲高い声でメラニア宮が命じてくる。

 彼女のような子供の蹴りなど痛くもなんとも無いが、予想もしなかった暴挙に内心困惑を深めてしまう。相当我が儘な人々であるとは事前に聞かされていたが、護衛を始めて五分も経たないうちにこれとは、俺の予想が甘かったんだろうか。

 とにかく黙ってロイと場所を変わる。すれ違う時に見えたロイの顔には、うんざりした色がちらりと覗いていた。目も一瞬合う。我慢しよう、とでもいうような目だった。

 

「まったく、お前という子は、細い脆そうな男ばかり囲って。呆れるえ」

 

 その様子を眺めながらオフェリア宮は呆れた顔を見せ、溜め息を吐いた。細い脆そうな男、とは明らかにロイを指して言っているのだろう。

 姉の言葉に機嫌を斜めにしたのか、メラニア宮は白い頬を膨らませてロイを指さして言い返している。

 

「暑苦しいのは嫌アマス。こういう見た目が涼しいのが一番でしょう? 今日はこの黒髪みたいなの買いたいアマス」

「見た目が良くてもすぐ壊れては意味がないえ。侍らせるならこれのような頑丈そうなのにしておきなさい」

「では見目が涼やかで頑丈なのを探すアマス」

「ふん、そう都合の良い者などおらんえ。無駄遣いしないように妾の言うことをお聞き」

「もう! 姉さまは分からず屋アマス!!」

「現実を見ているだけだえ。前の不届きで汚らわしい魚の襲撃のせいで、使えるものが減ったのだから、ただの観賞用は二の次だえ」

 

 おい、一体俺たちをなんだと思っているんだ。アクセサリーや道具扱いか?

 俺たちを指し示しながらなされる天竜人の姉妹のやり取りに、嫌な気分が込み上げてくる。

 世界貴族・天竜人。世界政府を作ったという二十人の王の末裔。この世でこれ以上はいないと謳われる貴種の実態が、こんな嫌悪感を催させるものだったとは……。

 今から数時間は彼女らの側にいなければならないのかと思うと、思わず眩暈がしてきそうだ。

 これ以上不愉快なものを見せられなければいいのだが、何故か嫌な予感がしてやまない。

 歩き始めた天竜人に従いつつ、俺は重い気持ちを紛らわせるためそっと溜め息を零した。

 

 頼むから何事も無く終わってほしい。

 そんな細やかな願いが、わずか数十分後に踏みにじられるとも知らずに。

 

 

 

 

 



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第20話 その島の因習

 パン、と。

 

 

 乾いたピストルの音が、不気味な静けさの中で響き渡る。

 銃弾に頭を撃ち抜かれた女が血を振り撒きながら倒れる様は、糸の切れた操り人形のようだった。

 拍子抜けしそうなほどの軽さで続けざまに続く発砲。ピストルの吐き出した弾のすべてが、地に伏した血まみれの女に吸い込まれていく。当たる度にその身体は跳ねるが、悲鳴一つ上がらない。

 最初の一発目で、死んじまっているからだ。

 

「ドレーク、スモーカー、行くな」

 

 押し殺したロイの声が微かに耳に届く。

 それと同時に手に小さく、それでもハッとするほど鋭い痛みが走った。振り返ればいつの間にかロイがいて、俺とドレークの手を握り締めている。

 爪が喰い込むほどの強さで握られ、その場に俺たちを縛り付けようとしている。

 

「あの女性を助けに行くな」

 

 

 

 

 顔が気に入ったとかふざけた理由で無理矢理護衛の配置を変えて俺たちを側に置いた天竜人の姉妹は、そりゃあもう傍若無人の一言に尽きる奴らだった。

 まず事前に決めてあったルートを歩こうとしない。なんでも気が乗らねェとかで、わざわざ無法地帯の中で遠回りさせられた。

 突然の天竜人の出現に街の人間は慌てふためき、辺りは一瞬騒然となる。天竜人たちはそういう人々のドタバタが面白いのか、やたらと楽しげに眺めて小馬鹿にしたような面持ちで笑ってやがった。

 正規のルートでは、事前に人払いがされているのでこうはならねェのを知って、わざと別ルートを行くことで周囲を混乱させて遊んでるってことか。まったくもって悪趣味な奴らだ。

 姉の方の天竜人、オフェリア宮はそれだけで済んでいるからまだマシ、とは言いたくねェがマシだが、妹の方のメラニア宮はより酷かった。

 行列から外れては、辺りの店先の商品を弄って壊したり、道の端によって首を垂れる通行人にちょっかいを掛けてみたりと、好き勝手暴れ回って手を焼かされた。止めることも叱ることもできない。せいぜいが後を追って見守るぐらいしかできねェもんだから、気が済むまで飽きるまで止めようとしないときた。

 いい加減腹が立ってしようがなかったが、天竜人のすることに口を出すなと口を酸っぱくしてリーヴィスの野郎が繰り返していた。

あの胡散臭いお節介焼きの少佐は、道理に合わねェこと、意味のねェ虚飾じみた理屈は口にしねェ人間だ。そんな奴が守らないと大事になる、理不尽に自身や周囲の身を危うくすると言ったことだ。

 警戒して、守っておく方が賢いだろう。ロイとドレークが近くにいて、俺一人で済む話ではないのなら、なおさらだ。

 だから俺にしては珍しく、苛立ちを捻じ伏せて耐えることを選択した。

  

 そうしてちまちまと天竜人たちが苛立つ行動を繰り返しながら、じりじりと目的地の一番グローブに近づいていく。

 事が起こったのは、一番グローブはもう目の前、という時だった。

 

「キャッ!?」

 

 小さな悲鳴を上げて、メラニア宮がよろめいた。

 側にいたロイが倒れそうになるメラニア宮を、決められた通り的確に支える。おかげで事なきを得たが、予想通り行列の人間に緊張が走る。

 護衛対象の、気を使い過ぎるくらい使うべき天竜人が、あわや転けるところだったんだ。シラヌイ大佐も少佐も、表情を硬くしてやがる。

 

「メラニア宮! ご無事でございますか?」

 

 ロイの腕から離れたメラニア宮の前に、すばやくシラヌイ大佐が膝を付いてうかがう。おい、あんたそんなテキパキした動きができたのか。思わず場違いなことを考えてしまった。

 

「無事に見えるのアマス!? よろけたせいで、服の端が汚れた!!」

 

 眦を吊り上げて叫ぶメラニア宮の足元には、確かにほんの少し泥が跳ねていた。だがそれも、目を凝らさねェと絶対にわからないくらいだ。

 癇を立てて騒ぐほどのもんでもねェってのに、メラニア宮はシラヌイ大佐を蹴飛ばして喚いている。

 しかし、困ったことになった。天竜人を怒らせるのはマズイ。不可抗力とはいえ、どうにか怒りを納めさせちまわねェと、少佐の言ってやがった大事になる。

 一番メラニア宮たちの近くにいるロイと少佐、オフェリア宮の側に止め置かれているドレーク、もう隊員全員の顔が蒼くなっていく。

 理不尽な状況に、堪忍袋が限界に達しそうだ。堪えるために噛み締めた奥歯が、不穏な音を耳元に響かせている。

 

「あれは、何ぞ?」

 

 唐突に、オフェリア宮が呟いた。感情の色のねェ冷たい声だ。

 すっと伸ばされた豪奢な扇の先が、メラニア宮の足元の地面に向いている。そこへ俺を含むこの場の海兵や使用人の視線が、一斉に集まった。

 ぬいぐるみ、だった。

 扇の先に落ちていた物、それは指先ほどの熊のぬいぐるみだった。泥まみれでぺしゃんこのそれは、踏み潰されたとしか思えねェありさまだ。

 こいつをメラニア宮が踏んで、転びかけたってとこか。

 

「どういうこと!? あたくしの道に汚らわしいゴミを置くとは、どういう了見アマス!?」

 

 足元のぬいぐるみに気づいたメラニア宮が、金切り声を張り上げる。

 申し訳ないと平謝りする大佐に気が狂ったかのように怒鳴り散らし、足元のぬいぐるみを踏み躙り出した。

 苛立ちをすべてぶつけるみてェに、靴先に体重を掛けて踏みつけてやがるのが、ここからでもよくわかる。

 あっという間に元からボロかったらしいぬいぐるみは、布が裂けて綿が飛び出し、無残な状態になっていく。

 

 

「やめてぇっ!」

 

 

 細く、幼い悲鳴が、頭を垂れる人垣の中から、メラニア宮の罵声の隙間に滑り込んできた。

 一瞬にして音が周囲から無くなった。空気が凍る、というのはこういうことなんだろうか。得も言われぬ気味の悪い沈黙が、辺りを支配している。

 誰だ。この場で自由に言葉を吐き出せるのは、天竜人共しかいねェはずだ。それ以外は、沈黙して跪き、やり過ごすだけのはずだろうが!?

 予想だにしない事態に、海兵や天竜人の使用人共の表情がさらに凍てつく。

 天竜人たちはというと、呆気に取られたような顔をしている。

 

「無礼者! 誰アマス、今あたくしに指図した無礼者はどこアマス!?」

 

 高慢さが抜け落ちた表情を見せたのはほんの僅かの間で、すぐに先ほどよりも耳に触る悲鳴に近い怒声を上げた。

 明らかに怒りが増している。犯人が見つかれば、ただじゃ済まない。天竜人の側にいる人間も、おそらく道の端にいる通行人たちも、絶対に悪い結末しか考えられなくなって、蒼くなっていく。

 

「おねがい、わたしのクマちゃんいじめな、むぐっ!!」

「リタッ」

 

 メラニア宮の怒声に割り込む、懇願のような悲鳴が今度はハッキリ聞こえてしまった。

 恐る恐る、声の上がった方に目を遣る。

 今にも泣きそうな顔でこちらへ駆け出そうとジタバタする女のガキと、蒼白になりながらガキを抱き締め口を塞ごうとする父親らしき男がいた。

 どうやらぬいぐるみは、あのガキのもんだったみてェだ。よっぽど大事にしてるもんだったから、我慢できず叫んでしまったのか。

 あれくらいのガキなら、普通なら我慢できなくても責められはしない。だが、今は状況が異常な時だ。間が悪すぎる。

 

「貴様、下々民の子供のくせになんて口をっ!」

 

 案の定ガキが言い募る様が、よほど癇に障ったらしい。白い顔を真っ赤に歪めたメラニア宮は、苛立たしげな足取りでガキの方へ向かっていく。

 

「汚らしいゴミをあたくしの道に置いて転ばせようとしたばかりか、身分をわきまえない無礼な振る舞い! 今死ぬ覚悟はできてるアマス!?」

 

 メラニア宮が懐から小ぶりなピストルを、乱暴な手つきで取り出す。あんなもん持ってやがったのかと唖然としている中、真っ青な親子に向かって引き金を引こうと指を掛けやがった。

 ヤバイ! 一番俺たちが恐れていた事態が起ころうとしている。止めねェと確実にあの親子は死ぬ。まったくと言っていいほど悪くない民間人が、殺されてしまう!

 周りの奴らを見回す。苦しそうに顔を歪めながら、あるいは真っ青になりながら、その場に立ち尽くしている。

 止めようという気配は大佐にも少佐にも、他の奴らにもない。天竜人に逆らうなって規則を、まだ厳守しようっていうか!?

 

「む、娘をお許しください、天竜人様! どうか命だけはッ、命だけはお助けをッ」

 

 とばっちりを避けようと周りの人間が逃げ散り、ぽつんとその場に残されて娘を抱き締める父親が、悲壮な叫びを上げてメラニア宮に懇願するのが聞こえた。

 庇うようにガキを抱き込み、必死で頭を下げて言い募る様に、胸の奥に苦いもんが這い上がる。

 本来なら俺たち海兵があいつら民間人を理不尽から守るべきだってのに、それができねェ状況に吐き気が湧く。

 

「あたくしに無礼を働いて許されると思ってるなんて馬鹿アマス。もう父子共々死ねばいいアマス!」

「お待ち、メラニア」

 

 ゆったりとした声が響く。予想外のことが起きた。

 父親の必死の願いを無慈悲に嘲笑い、ピストルの銃口を向けたメラニア宮を、もう一人の天竜人、オフェリア宮が止めた。

 場違いなほど落ち着き払った姉の制止に、甲高い罵声を吐いてたメラニア宮は黙り込んで振り返る。

 嫌味なくらい優雅な足取りで、オフェリア宮は妹と呆気に取られた父子の方へ近づいていく。

 妹の暴挙を止めて、あの父子を庇った? いけ好かねェ天竜人であっても、その程度の慈悲の心はあったってことか?

 そこまで最低な奴らでもねェのか。そんなふうに俺が思いかける中、妹の隣にオフェリア宮が辿り着く。

 

「貴様、面を上げよ」

 

 こちらに背を向けているからよくわからねェが、慌てて頭を伏せていた父親の頬を軍港で俺にして見せたように扇で軽く叩いたようだ。おずおずと顔を上げた父親の顎を扇の先で取り、じっと眺めてやがる。

 何のつもりだかわからず成り行きを見守る中、オフェリア宮がふっと笑う雰囲気を出した。

 しかしそれは、柔らかくも優しくもねェもんだ。どこか薄暗く楽しげな、気味の悪さが漂っている。

 

「確かにメラニアに無礼を働いたこと、まこと許しがたいの。万死に値するえ」

 

 オフェリア宮は穏やかな、怒りを感じさせねェ声色で、不穏なことを口にする。

 やっぱりこいつらは見てきた通りいけ好かねェやつらなんだと、妙な落胆のようなもんを感じた。

 万死に値する、か。どっちにしろ、殺すってことかよ。我慢できず視線が険しくなっちまう。

 

「だが、子供のしたことじゃ。今回に限っては許してやってもよい」

 

 許してもいい?

 先ほどと真逆の言葉に、わけが分からなくなってくる。

 これはあの父子が救われる可能性が出てきたってことになるのか。だとすれば、幸運にもほどがある。

 嫌なもんを見せられずに済むかもしれねェと、苛立つ気持ちが僅かに治まりかけた。

 

「本当ですか!?」

「ああ、貴様が、妾の側に仕えるというのならば」

 

 ねっとりと耳にへばりつく甘ったるい声に、治まりかけた感情がすぐさま炙られだす。

 助かるかもしれないという安堵感と緊張で声を震わせて問う父親に投げ渡されたオフェリア宮の言葉が、嫌味なほどしっかりと耳に届いてしまった。

 

「その辺の下々民にしては見目は良いし、頑丈そうだ。ちょうど今の側仕え共に飽きてきたところ、貴様が妾の側に上がるというならば、子供の命は見逃してやるえ」

 

 鈴を転がすように笑い、オフェリア宮は残酷な取引を父親に突き付けてやがった。

 側仕えになれ。火遊びの相手、自分の玩具になれってことだろう。あの女はガキの命を救いたければ、家族と自由を捨てて自分の所有物なれと言ってやがるんだ。

 腸が煮えくり返る気がした。最低な親の自覚がねェ奴でもない限り、こんな取引を持ち出されたら頷くしかない。

 オフェリア宮はそれをわかってやがるんだ。あの父親はガキを守るために己を差し出し、涙を飲むしかねェとわかって言い放った。

 あくどいにも、ほどがある。

 

「私が、お仕えすれば、娘を見逃してくださるのですね」

「おとうさん?」

 

 案の定父親は、呻くようにして問い返した。不安げにガキに呼ばれても、抱きしめる腕に力を込めて押し黙り、オフェリア宮の言葉を待っている。

 

「そうじゃな。もし拒めば、この場で父子共々、だがのう」

「わかりました。どうぞ私をマリージョアへお連れください。ですから娘をっ」

「フフ、メラニア、銃をお仕舞い」

「もうっ、姉さまったら勝手なお人っ! あたくしの玩具を取っておしまいになるなんて酷いアマス!!」

 

 憤慨しながらもピストルを元に戻す妹を他所に、オフェリア宮がこちらを振り返る。小奇麗な顔に乗せた満足げな笑みが、汚らしく見えて仕方ない。

 使用人を一人呼び寄せて、何事か話し始めた。たぶん、良くないことが起きたとわかったのか泣きだした娘を抱えて蹲る父親の処遇について指示でもしてやがるんだろう。

 血は見なかった。誰も死んでいない。そんなことが起これば最悪だと思っていたことは、何一つ起きていない。

 けれども、てめェのガキのために身を投げ出した人間が出た。それだけで、予想以上の不快感と怒りが湧いてきやがる。

 拳を強く握り締める。いくら不愉快でも、腹が立っても、ここで俺が何かして事態が好転するわけでもない。

 無理矢理自分に言い聞かせ、視界を遮るようにキャップのつばを下ろす。

 

「あなた!」

 

 女の悲鳴が人垣の向こうから飛んだ。

 声の先に、肩で息をした女が一人いた。病気でもしているのか顔色は良くねェが、それでも繊細で儚げな感じのする綺麗な女が、人垣を掻き分けるようにして騒ぎのど真ん中へ行こうとしていた。

 

「シシィ!?」

「ま、ママ!」

 

 よろめきながら駆けてくる女に気づいた父子が叫ぶ。どうやら、ガキの母親らしい。

 女は泣きそうな面持ちで息も絶え絶えに辿り着くと、崩れ落ちるようにして呆気に取られていた天竜人たちの前に這いつくばった。

 

「無礼者! オフェリア宮とメラニア宮の御前であるぞ!?」

「ハァ、ハァ、娘の無礼、幾重にも、お詫びいたします! 天竜人様に対して、ハァ、死をもってしても、償いきれない罪でございますこと、っ重々承知して、おります……ですが!」

 

 使用人の咎める声を振り切り、ガキの母親は血を吐くように謝罪の言葉を立て並べて謝り続ける。不気味に静まり返える中に、悲壮な母親のその様が目立っていた。

 深き、地に付けていた顔を上げ、苦しげに顔を歪めて天竜人共を見上げた。

 

「ですが、夫をお側に召すのだけは、お許しを!」

「なに?」

 

 突然現れ好き勝手に訴え出した母親に、天竜人共は強い不快感を覚えているみてェだ。

 しかし無我夢中なんだろう母親は、それに気づかず言い募る。

 

「夫は、ハァ、我が家の唯一の、働き手なのです。娘は幼く、私は病で、夫が、っいないと生きて、いけないのですっ。ですから、どうか、そればかりはっ……!!」

 

 それ以外ならば何でもします、と泣き崩れながら母親はまた深く地に額を擦りつけた。

 身に詰まるような嗚咽を洩らす母親を見てガキは更に泣き喚き、父親は辛そうに目をきつく閉じている。

 父親が唯一の働き手、か。父親にいなくなられるのは、あの母親とガキにとって本当に死活問題だろう。

 今の状況でいくとおそらく天竜人の側に仕えるっつってもほぼタダ働きで、家族に対して何かが保証されることもないに違いない。愛する男、愛する父親と引き離されるのも耐え難いほどの苦痛を与えられるってのに、今の生活まで奪われ生きていけなくなるなんて悪夢もいいところだ。

 いくら天竜人のすることには一切口を出すなとされていても、居ても立ってもいられず飛び出してしまうのは仕方ないことなのかもしれない。

 

「まことに、何でもするのかえ?」

 

 不機嫌そうに眉根を寄せながらオフェリア宮が呟く。しっかりと母親が平伏したまま頷くのを見て、少し思案すると扇を懐に仕舞った。

 

「では、お立ち」

 

 命じられるのに従って、母親がよろよろと立ち上がる。

 どうなるか予想もつかねェ事態に、側にいる父子も、俺たち海兵も、道の脇の奴らも息を押し殺して事の成り行きを見守る。

 立ち上がった母親は、涙で濡れた白い顔をしっかりと上げていた。どこか凛としたその姿を、オフェリア宮は無礼と騒ぐ妹を制して黙って見つめている。

 

 

 パン、と。

 

 

 いきなり乾いたピストルの音が、不気味な静けさの中で響き渡る。

 

「なら死ぬが良いえ」

 

 銃弾に頭を撃ち抜かれた母親が血を振り撒きながら倒れる。

 扇の代わりに取り出した瀟洒なピストルから硝煙をたなびかせて、オフェリア宮が優雅に微笑んでいた。

 その笑みに何とも言えねェ冷たいものが、背筋を走る。その恐怖に似た感情と一緒に、堪えていた内臓を焼くみてェな怒りも溢れ出してきた。

 

「っ、クソッ」

 

 あまりにも理不尽過ぎる。たかだかぬいぐるみ一つで自由を奪われる奴が出るんだ? どうして死ぬ奴まで出るんだよ!?

 もうこんなもん見ていたくねェ。どうにかしてェッ。

 畜生、今すぐあそこにッッ……。

 

 

「ドレーク、スモーカー、行くな」

 

 

 押し殺したロイの声が微かに耳に届く。続けざまに放たれる銃声ばかりが大きいのに、その声だけがやけにはっきりと聞こえた。

 それと同時に手に小さく、それでもハッとするほど鋭い痛みが走った。振り返ればいつの間にかロイがいて、俺とドレークの手を握り締めている。

 爪が喰い込むほどの強さで握られ、その場に俺たちを縛り付けようとしている。

 

「私だって、お前たちと同じ気持ちだ」

 

 気づけば俺とドレークの足が、半歩ほど動きかけていた。無意識のうちに、あの女のもとに駆けつけようとしていたみてェだ。

 俺たちの手を握るロイの手が、力を込めすぎているせいかいつもより白くなってやがる。必死で俺たちを止めようとしていた。

 

「だが、助けに行ってはいけない。天竜人の不興を買えば、お前たちでも死ぬんだぞ」

 

 硬く冷たい声でもう一度囁かれる。ロイは俯きがちだった顔を上げて、真っ直ぐ俺たちを見据えていた。

 ドレークが、でも、と悲痛な声を零す。いつも強い光を宿している青い目が揺れている。

 ロイは無言で首を横に振った。黒い瞳に苦しげな影を落としながら、ドレークを見据えていた。

 ここまでされても天竜人に憚って見なかったこと、聞かなかったことにしようってのか。まだ胸糞悪いルールを守ろうとするのかと、自然とロイに向ける視線がきつくなる。

 俺に睨まれていることに気づいたのロイは、酷く辛そうに顔を歪めた。

 

「お前たちが死ぬところを、私に見せないでくれ……頼む……っ」

 

 喘ぐように苦しげに呼吸を洩らしながら、懸命に声を絞り出された言葉に、いくつも考えていた罵声が消えていく。

 俺たちの死ぬところを見たくない?

 縋るようなロイの目に、息が詰まる。何も言えなくなってしまう。

 本心からこいつは俺たちが死ぬのを恐れているってわかっちまえば、それを振り切る真似なんて俺には不可能だった。

 

「わかった、行かねェ」

 

 驚くほど力が入らなかった俺の返事と、黙ったままのドレークの小さな首肯を、じっとロイは聞いて、見ていた。

 手を掴んでいた痛いほどの力が、ゆっくりと抜け落ちる。

 オフェリア宮が、ピストルの弾を全弾撃ち尽くしたのとほぼ同時だった。

 

「ママァァァァァッッッ!!!!」

 

 布を引き裂くみてェなガキの悲鳴が、響き渡る。父親の腕を振り切り、血塗れの母親の元に駆け寄って縋りつく。

 オフェリア宮はその様子を冷めた顔で見下し、手にしていたピストルを使用人に投げ渡した。

 衣装の裾を翻し、変わらねェゆったりと上品な足取りで行列の方へ戻っていく。愉快そうにコロコロと笑いながら、その後にメラニア宮が続いた。

 

「病で働けぬ役立たずの足手纏いが死ねば、子供が生きていくぐらいどうにでもなるだろうえ」

「さすがオフェリア姉さま。御自ら役立たずを始末しておやりになるなんて、本当にお優しいアマス」

「ふん、それに妾より美しい下々民の女なぞ、見ていて不愉快にもほどがあるからの」

 

 嫌悪感しか湧かない会話を、さも楽しげに交わす天竜人の姉妹。その後ろでは、いまだ母親の死体に縋って泣き続ける娘と、娘と妻の側に駆け寄ろうとして取り押さえられ暴れる父親の姿があった。

 

「さ、道草を食い過ぎた。急ぐえ」

 

 オフェリア宮の言葉に、行列が進み出す。惨劇に目もくれずに。

 すぐさまあそこへ行けるものならば、どうにかしてやれるのならば、と後ろ髪を引く罪悪感を堪えて、俺たちはその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

□□□□□□□

 

 

 

 

 

 

 悪夢のような任務は、予定通り午後三時に終わりを迎えた。

 

 どうしようもない怒りや行き場のない苦しさに喘ぎながら、任務を終えて駐屯地に辿り着き、手当の金を受け取らされた。

 喜ぶ奴はほぼ皆無。誰もがこの金の意味を理解していたから、喜ぶどころか顔を歪める者ばかりだ。

 

「こんなもんッ…!」

 

 手当の入った封筒を握り締めたスモーカーが、地を這うように低く呻いた。

 いつもより一層険しい表情に、見たこともない苦悶を見せている。ドレークも顔を俯かせて、肩を震わせている。

 今の今まで耐えていたものが出てきたんだろう。

 正義感が強くて優しい奴らだ。本当は殺された女性や残された子供を、すぐ助けに行きたかったはずだ。

 でも、俺が天竜人に逆らうなと必死で縋り付いたから、自分の気持ちを押し殺してくれていた。

 あの一家のことよりも、側にいる親友たちに天竜人の怒りが向くのを恐れた俺の頼みなんかで、あいつ自身の正義を曲げさせてしまったんだ。

 どうしようもない罪悪感と、自己嫌悪と、それらを越えるスモーカーとドレークが死ななくてよかったという安堵を覚えてしまう。

 どうしようもなく自己中心的な自分に気づかされ、更に自分という人間が嫌になった。正義を背負っているはずなのに、自分や自分の周りを優先させるなんて、海軍軍人の風上にも置けない気がする。

 握り締めた封筒を睨み据えていたスモーカーが、急に海辺に駆け寄っていった。

 何をする気だろう。ぼんやりとコートを翻す背中を見ていると、封筒を持つ手を高く振りかざした。

 ああ、捨てるつもりか。こんな胸糞悪い自分の正義に反したことの対価なんか、使いたくもないし、持っていたくもない。

 海に帰して流しちゃうってもの、良いかもしれない。俺も後でやってしまおうか。自棄酒に使うよりすっきりするかもしれない。

 

「はい、ストップ」

 

 海に向かって封筒が投げ込まれる寸前に、ふらっと現れたリーヴィス少佐がスモーカーの腕を掴んで止めた。

 コートを脱いで私服姿になった少佐は、スモーカーの今にも襲い掛かりそうなほどの睨みをさらりと受け流している。

 

「……何すんだ」

「こっちのセリフだっつーの、勿体ねェことすんなよ」

 

 その金自体に罪はねェだろ、と少佐は面倒くさそうにきつく握り締められたスモーカーの太い指を封筒から引き剥がしながら、軽く溜め息を吐いてみせた。

 その様子に、腹の奥がちりちりとする。確かに金は勿体無いかもしれないが、これは感情の問題だ。どうしても持っていたくないから海に流そうが何しようが、俺たちの勝手じゃないか?

 ドレークも俺と同意見らしく、珍しく苛立ったような表情で少佐を見据えていた。

 そんな刺々しい雰囲気を出している俺たちに、少佐は呆れたように肩を竦める。馬鹿にされているみたいで、余計に腹が立ってきた。

 

「思い詰め過ぎだお前ら。健康に悪いぜ?」

「うるせェよ! ほっとけ!!」

「はいはい、お兄さんはお節介焼きだからほっとけないのよ。このニコチン中毒」

 

 あやすような少佐の口調に、遂にスモーカーがキレた。

 もう片方の腕で少佐にホワイト・ブローもどきの拳を向けるが、少佐は覇気でも使ったのか難なく重いその一発を受け止めてしまった。

 その上スモーカーの拳の速さを利用して引き寄せ、腹に膝蹴りを叩き込む。こっちも覇気を使ったらしく、蹴り一発で自然系のスモーカーに膝を付かせた。

 

「カハ……ッ!?」

「スモーカー!!」

 

 慌てて俺とドレークはスモーカーたちの元に駆け寄る。

 苦しげに蹲るスモーカーを俺が助け起こして、ドレークは少佐と俺とスモーカーの間に庇うようにして立ち塞がった。

 張り詰めた空気を纏い出した俺たちを、少佐は落ち着き払った様子で見ていた。

 

「少佐、何をするんですか!」

「おい、スモーカー君。痛みで少しは頭の血ィ下がっただろう?」

「だからといって、蹴ったりしなくたっていいでしょうっ」

「口で言ってわかんないやつには、身体で言うこと聞かすしかないだろうがよォ」

 

 文句を言い立てる俺とドレークに、少佐はやれやれといった感じで額に手を添えて、小さく頭を振った。

 

「ちったァ俺の話し聞けって、な?」

 

 無造作な動きでスモーカーから取り上げた封筒を持つ手を、俺たちに向けてくる。

 予想外の動作にポカンとしている俺たちに、ニィ、と片頬を上げて見せた。

 

「今回の任務の手当、いらねェってんなら、俺が貰ってやるよ」

 

 くしゃりと歪んだ封筒を持つ手が、片手で扇子を開くような動作を見せる。

 そう認識した途端、見えていた皺まみれの封筒の影から、違う封筒が二枚現れた。

 何が起きたか、わからない。思わず悪戯っぽく笑う少佐の手にある封筒三枚を、呆気に取られて見つめてしまう。

 俺が貰うだと。任務の手当を、か?

その貰うっていうのは…あれ?

 我に返って、自分の手元にあるはずの封筒を探す。無い。コートのポケットにも、スーツのポケットにも、キャップの裏にも封筒が無い!

 

「で、気分の悪い金を引き取ってやる代わりにだな、ちょっとお前ら今晩付き合えよ」

 

 いつの間にやら俺とドレークから掏り取った封筒を弄びつつ、性格ばかりか手癖まで悪い少佐は笑う。

 

「私服に着替えて来い、飲みに行くぞ」

 



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第21話 正義を掲げる者の枷

 すっかりと太陽が西を向き、薄く夜の気配が漂い出した頃、俺たちはその店に着いた。

 あの後俺たち三人は、有無言わさない少佐に急かされるようにして私服に着替えさせられ、強引に七十番台のグローブが集まる方へ引き摺って行かれた。

 最初は歓楽街に行くつもりかと思った。七十番台はホテルなどが多い地域として知られるが、夜に営業する綺麗なお姉さんがいるお店も多い。

 種類は豊富で、単にお姉さんたちと酒を飲んでお話しして楽しむ店から、お姉さんととっても良いことができる店まであるらしい。ホテル街の方もそのせいか、仲良くなったお姉さんとアフターで泊まって甘い夜を過ごせるようなのもあるのだとか。

 嫌なことは酒と女で忘れろってことですね。予想通りの対応、どうもありがとうございました、ってか。

 あからさま過ぎてあまりにも王道な解決方法を勧められるのかと思って、少しげんなりした。それは単なる逃げで何の解決にもならない。

 しかし少佐はそんな場所には目もくれず、俺たちにそんなことを勧めもしなかった。

 歓楽街とは全く別方向へ足を向け、何故か寄り道をするとか言って市場に入って食料品や花を多めに買い込んでいった。そしてわけのわからない俺たちに荷物持ちをさせて、花束片手に鼻歌を歌いながら無法地帯との境界辺りをどんどん歩いていく。

 反抗しようものなら覇気付きのデコピンとか膝カックンとかかましてくるから、すでに三人揃ってその意思を放棄している。ほぼヤケッパチ状態で、意味不明な状況や抱えた荷物の重さに溜息を吐くだけだ。

 

 

 

 

 

 

「ハイ、到着~」

 

 そうして歩くこと、買い物を含めて二時間余り。

 もう目の前が無法地帯、十番台のグローブの地域だって場所に、少佐の目的地らしい店はあった。

 暢気な声で言った少佐は、その店の落ち着いた黒茶の木の扉に手を掛けた。

 今日は色んな意味で驚いてばかりな気がする。店を見上げながら、思わず立ち尽くしてしまった。

予想していたような店と全く違う外観に、戸惑いが隠せない。マングローブの根の上にできた少し小さめの島に立つそれは、煉瓦積みの外壁に蔦を絡ませた落ち着いた趣を湛えていたのだ。

 ステンドグラスの窓の向こうには暖色の明かりまでチラつき、どうみても綺麗なお姉さんと遊ぶ店じゃないと無言で語っているかのようだ。

 扉の側に立て掛けてあるキャンバスに、看板のつもりなのか、店の名前が洒落た字体で書かれていた。

 

「カフェ・アウィス?」

 

 明らかにそういった店じゃない店名が。

 驚きのあまり読み上げた声が間抜けてしまう。カフェ、ここは喫茶店なのだろうか。

 揃ってきょとんとしている俺たちに、少佐は面白そうに笑った。

 

「どうした? とっとと入れ、お前ら」

 

 ここまで来て帰るのもなんだし、駐屯地に帰ったって手持無沙汰になるだけだ。仕方なく扉を開いて店の中に滑り込む少佐の背中に続くことにした。

 カランカラン、と軽やかなドアのベルが揺れる。店の中は思った通り、オレンジ色っぽいランプの明かりに満ち、暗褐色の木製の家具でまとめられた室内に暖かな彩りを添えていた。

 いかにも喫茶店といった雰囲気だ。

 扉の正面に備え付けられたカウンターに、女性が二人いるのに気付く。

 碧いウェーブの付いた短髪の女性がカウンターの中にいて、もう一人の黒髪ボブカットの女性はカウンターの席についてカップを手にしている。店主と常連客って感じだね。

 どっちの女性も、入ってきた少佐や俺たちに目を向けている。誰かが来るのが意外だったのか、少し目を丸くして小首を傾げる姿が妙に色っぽい人たちだ。

 

「こんばんは、ヒスイ姐さん」

 

 少佐がひらひらと手を振って笑いかけたら、カウンターの中の女店主さん、ヒスイさんというらしい、は途端に半眼になってしまった。

 腰に手を当てて、唇を突き出すようにする。あんまり歓迎していないらしい。

 

「リーヴィス。今日、定休日なんだけど?」

 

 前髪を物憂げに掻き上げ、きつめの目で少佐をじろりと睨んだ。

 相変わらず大人の色香が漂っているけど、なんだかすごく怖い。ビク、となってしまっている俺を他所に、少佐はヘラヘラ笑ってカウンターに近づいていく。

 

「うん、知ってる」

「じゃ、何しに来たんだい?」

 

 失礼、なんて気取った調子で客の女性に断って少佐は隣のスツールに座ると、ヒスイさんに花束を差し出す。

 

「姐さんの飯と酒を楽し」

「帰んな」

 

 来訪目的を言い切る前に、少佐は強制的に口を閉じさせられた。

 いったん受け取った花束を、ヒスイさんが少佐の顔面に叩き付けたからだ。衝突の衝撃でカウンターの辺りにせっかく買ったカーネーションやガーベラの花が無残に散らばった。

 チッ、と舌打ちをしてさっきより冷たい目で少佐を見下ろして、不愉快そうに細い眉を吊り上げる。

 

「うちはカフェだ。酒場じゃないって、何度言ったらわかるんだい」

「そこをなんとかさ! 姐さんの好きな花も飯の材料も買ってきたんだよ、ね?」

「お黙り、このクソガキ。厚かましいんだよ」

 

 なおも言い募る少佐の花弁を付けた顔を、横から髪を掴んで今度はカウンターに叩き付けた。

 痛い、痛い! と悲鳴を上げ始める少佐を、容赦なくグリグリと艶やかで硬そうな一枚板に押し付けている。

 あまりの暴挙に、俺も、スモーカーも、ドレークも、声すら出せない。結構強い少佐が一方的にやられているって状況もそうだが、やっているのが細身の女性だってことに、より一層非現実感が湧いてくる。

 何者だ、この人。少佐より強いってなんなのだ。

 止めに入ったら、少佐と同じ目に合わされる。そんな予感がして三人とも少佐を助けに動かない。

 困惑いっぱいで成り行きを見守っていると、少佐とヒスイさんのやり取りを面白そうに見ていた客の女性と目が合った。

 ニコッと色っぽく笑いかけられて、どきりと心臓が跳ねる。その様子がおかしかったのか、クスクスと笑われてしまった。

 

「ねえ、あのボーヤたちは誰かしら?」

 

 白くほっそりとした手のひらの下でジタバタしている少佐を覗き込んで彼女が訊ねる。

 ようやく俺たちの存在に気付いたらしい。少佐をカウンターに押し付けたまま、じろりと俺たち三人に目を向けた。

 

「リーヴィス、あの子たちは何だい?」

 

 ようやくヒスイさんはカウンターから少佐を開放した。ほんのちょっぴり険の取れた口調で訊ねる。

 

「部下だよ。今日の任務のさ」

 

 カウンターに押し付けられたせいで汚れた眼鏡を拭きつつ、少佐が俺たちを紹介しくれた。

 今日の任務、という単語に、ヒスイさんの片眉がピクリと動く。

 まじまじと俺たちをもう一度見ると、深く息を吐いた。

 

「そうならそうと言いなよ、もう……ごめんなさい、シャッキー」

 

 カウンターの女性に視線を移す。申し訳なさそうなヒスイさんに彼女は少し微笑み返した。

 カップをソーサーに戻すと、客の女性はスツールから軽やかに腰を上げる。

 

「気にしないで、ヒスイちゃん。そろそろ帰らなくちゃいけなかったしね。今日はうちの人も帰ってるし、お夕飯作ってあげなくっちゃ」

 

 彼女から千ベリー札を受け取りながら、悪いね、とヒスイさんが謝る。

 

「また紅茶とケーキ、いただきに来るわ」

「ありがと。次は貴女の好きなシフォンケーキ用意して待ってるよ」

 

 会計を済ませた女性は、扉近くに立ち尽くす俺たちに、ごゆっくり、と愛想の良い笑顔を一つ残して出て行ってしまった。

 展開が急すぎて付いて行けなくて、なんだか心許ない感じがする。

どうしたものかとカウンターの方へ顔を向ければ、ヒスイさんは母親が泣いて帰ってきた子供に向けるような笑みを浮かべていた。

 

「ほら、こっちおいで、ボーヤたち」

 

 ついさっき少佐を抑えつけていた手が、嘘のような優しさで手招きをした。

 

 

 

 

 

 

「ガープ中将の副官だった?」

 

 予想外過ぎるヒスイさんの発言に驚いて、思わず口に付けかけたグラスが止まる。

 

「そ、ボガードの前任者ってやつだよ」

 

 何でもないことのように言ってのける彼女は、俺たちの驚愕の視線を気にもせずロックアイスを砕いている。

 ヒスイさんは、実はガープ中将の副官を務めていた元軍人だったというが、まだ半分くらい信じられない。

 いや、油断していたとはいえリーヴィス少佐を片手で抑え込めるくらい強いのは見てわかったぞ?

 人は見かけによらないって言うけれど、こんなほっそりした女性があの破天荒を地で往く中将の副官を務めたなんてびっくりじゃないかな。

 

「何だ姐さんのこと知らなかったのかぁ? ドレーク君はまだしも、お前ら二人は中将の直卒部隊所属だろ」

 

 少佐がウィスキーを手酌しながら、さも意外そうに俺とスモーカーを見た。

 

「……ボガード大尉の前任者の話なんか、誰からも聞いたことねェんですけど」

 

 不機嫌そうにスモーカーが答える。

 同じく俺もヒスイさんらしき人物の話を耳にした記憶はない。誰かが話すこともなかったし、特に知る必要が無かったってものあって自分から聞いたこともなかった。

 まあ、大尉は中将の副官の中では二番目に在任期間が長いという話は小耳に挟んだことがあるけれども。

 知らんという返事に少佐は不思議そうにしていたが、しばらくして何か思い当ったのかポンと手を打った。

 

「あ、そっか。中将が隠してんのか、皆気ィ遣って話題にしないのかもな」

 

 中将が隠すか、皆が気を使っている?

 なんだそれ。意味が分からない様子で、ドレークが躊躇いがちに訊ねた。

 

「どういうことです、少佐?」

「いやぁ、中将ってな、三十年近く姐さんを副官にしてたんだけど、その間に三回プロポ、ッぶぎゃッッ!!」

 

 衝撃過ぎる暴露の途中で、またしても少佐は強制的に口を塞がれた。

 少佐の脳天めがけて振り下ろした拳はそのままに、ヒスイさんが凄味のある笑顔を浮かべている。

 

「余計なこと言うんじゃないよ、このメガネザル。アンタたち、今のコレが言いかけた話は忘れてちょうだいな」

 

 アンタッチャブルってやつだな。言われなくともよくわかった。よほど親しくない限り、女性との会話において、年齢バレや男女関係バレとかしそうなネタは好ましくない。

 ガクガク頷く俺たちに、よし、と明るく頷いて、ヒスイさんは備え付けられた棚の奥から酒瓶を取り出した。

 良く見かけるラベルの貼られた焼酎の瓶から、砕いた氷を放り込んだグラスへ注いで一口飲み、話しを続ける。

 

「ま、十年前に怪我のせいで退役して、それからこっちは海軍とあんまり関係ない暮らしをしてたんだ。ボーヤたちがアタシのこと知らなくても無理ないさ」

「十年前、ですか」

 

 海賊王が処刑されたころだな。

 俺もスモーカーもドレークもまだ子供で故郷にいた頃だろうし、当時の本部のことなんかほぼ知れる立場になかった時期だ。

 誰かが教えてくれなきゃ知らなくたって当たり前ってとこか。

 あれ、でもそれなら少佐と同じ時期に軍にいなかったことにならないか?

 少佐は今年で確か二十九歳。そこから逆算すると任官したのは九年前のはずだ。十年前に退役したヒスイさんとは一年違いですれ違っている。

 士官候補生の時に知り合ったと考えられなくもない。でも士官候補生と現役軍人って、能力者でもない限り親族か教官くらいにしか接点がないものなのだが。

 一体どういったわけで少佐はヒスイさんを知っていて、親しくしているのだろう。

 

「リーヴィスと知り合ったのは、海兵辞めてから二年ほどした頃だったかね」

 

 そんな疑問に気付いたのか、彼女はちらっと少佐の方を見る。

 

「天竜人の護衛をさせられてしょげてたアンタとボガードを拾ってやったのが縁だったよな、リーヴィス?」

「そーでしたかねー……」

 

一撃を食らった頭を撫でていた少佐は視線に気づくと、バツが悪そうにそっぽを向いて手元のグラスを煽った。

子供っぽいその仕草を面白そうに眺め、ヒスイさんは言葉を繋ぐ。

 

「今日のボーヤたちみたいに、そりゃもう酷い顔してねえ。喧嘩して酒場から蹴り出されて、路地裏に蹲って泣いてるとこを……」

「すんません、生意気言ってごめんなさい、許して姐さん」

 

もうそれ以上言わないでと、少佐はカウンターに手を付いてヒスイさんに謝り出した。

よっぽど恥ずかしくて思い出したくない過去らしい。珍しく顔を少し赤くして焦った顔をしている。こんな少佐、初めて見たかもしれない。

今日の俺たちと同じように、少佐も天竜人の護衛をして落ち込んだことがあるなんて意外な気がする。

 だってリーヴィス少佐が、だ。いつも飄々とシニカルな笑みを浮かべていて、最近じゃボルサリーノ中将に似た底知れない不気味さまで身に着け始めたあの少佐が、天竜人の御乱行に心を掻き乱されたことがあるって、想像できない。

 

「天竜人関連の任務はね、コイツですら一度はヘコまされるようなもんなのさ。だからボーヤたち、深く悩まないでおきな」

 

 ヒスイさんが諭すように言葉を続けた。

 

「今日のオフェリア姉妹の御乱行は聞いたよ……酷いもんを間近で見たのに、よく耐えたもんだ」

 

 アンタたちえらいよ、と赤みがかった茶色の目が、俺たちを気遣うように細められる。

 褒められているんだろうが、どうにも嬉しくない。

 正義を背負っているくせに、俺は明らかな悪を保身のために見逃し、親友たちにもそれを強要した。

 褒められるようなことなんて、何一つしてないんだと自然に俯いてしまう。

 俺の言うことを聞いたばかりに悪を見逃させられたスモーカーもドレークも、それぞれに暗い目になってしまったのが、ちらっと見える。本当ならそんな顔する必要はなかったのに、とすごく申し訳ない気持ちが湧いてきた。

 

「今日の任務は、軍の矛盾に耐えるための訓練なんだ」

「軍の、矛盾」

「知らんぷりしなきゃなんない悪もあるってこと」

 

 白い喉を逸らせて焼酎を煽ってそう言ったヒスイさんを見るスモーカーとドレークの目が、非難がましい色を浮かべる。

 それに気づいた彼女は、口元を手の甲で拭いながらニヤリと唇の端を持ち上げて見せた。

 

「白いボーヤとオレンジのボーヤは、納得できないみたいだね?」

「……ったりめェだろ」

 

 唸るように答えるスモーカーに、ヒスイさんも少佐も眩しいものを見るような目を向けて苦く笑った。

 

「軍に夢を見過ぎだな、スモーカー君もドレーク君も。人間が寄り集まって掲げたもんが、混じりっ気なしの白なはずないんだよ」

「どういう意味ですか、少佐ッ。我々が掲げる正義が正しくないとおっしゃるのですか!?」

 

 溜め息交じりの少佐の言葉にスモーカーが反応する前に、ドレークが噛みついた。スツールから立ち上がって、強くカウンターテーブルを殴りつけ、息を荒くしている。

 いつだって冷静沈着な奴なのに、よっぽど少佐の言うことが腹立たしかったのだろう。

 

「白黒はっきりしたもんなんか、この世にゃほとんどないんだよ」

 

 なるほど、といきり立つドレークを他所に俺は納得してしまった。

 正義も同じ。少佐の言う通り、白黒はっきりさせられているようで絶対できないものだ。完全無欠に正しいことはないし、正しいからっていつでもその通りにできるもんでもないっていうわけか。

 

「正しくないことも、その方がより都合が良かったり、正すともっと良くないことが起きったりすることもある。だからあえて見逃している場合もある、そういうことですか」

 

 ぽつりと呟くと、四人分の視線が俺に集中した。

 おや、とでもいうような少佐の視線と、面白そうなヒスイさんの視線。それから、何を言い出すんだこいつというスモーカーとドレークの視線。

 

「黒いボーヤは物わかりが良いね。そういうこと。天竜人なんかが良い例だな」

 

 ヒスイさんの言葉に、苦笑いを返しておく。

物わかりが良いって言うか、日本にいた時から引き継いだ経験値で下駄を履いているだけだ。

 俺の精神状態は交友関係なんかの影響で二十代くらいのままだけど、日本での社会人生活とかで培った経験値はそれなりに残っている。世間や組織の面倒な論理も多少経験があるから、そういう擦れたことを考えられるだけだ。

 計算できるその理性に若い感情が追い付かなくて、息苦しくなることもままあるが。

 

「そうそう、天竜人な。お前ら、なんであれだけ好き勝手してあいつらは許されてると思う?」

 

 唐突に少佐が振ってきて、ドキリとする。天竜人が好き勝手しまくれる理由か。

 何となく俺は想像できているけど、スモーカーもドレークもピンときてないみたいだ。難しい顔をして首を傾げている。

 

「世界政府を作った、王たちの末裔だからでは……」

 

 戸惑いを隠せないドレークの答えに、ヒスイさんの細く長い指が左右に揺らされた。

 

「ハズレ。血筋だけなら、とっくの昔に断頭台の露と消えてるよ」

 

 確かに高貴な血筋というだけであれだけ好き勝手していれば、心ある政府内部なんかの人間のクーデターや、民衆による革命が起きて滅ぼされていてもおかしくはない。

 世界政府ができて八百年だったか? あっちの世界の中国とかの歴代王朝の寿命より長いぞ。それだけ長ければ政府という表看板は同じでも、どこかの時代で天竜人が排除されて消え去ってしまう可能性の方が大きい。

 

「じゃあ、何故、あいつらは滅ぼされないんスか?」

「さて、な。でも見当は付くぜ」

 

 怪訝そうな表情でスモーカーが訊ねる。

 姐さんの受け売りだけどな、と前置きをして少佐は手元のグラスの中に目を向けながら答えを口にした。

 

「多分天竜人って奴らは、政府が隠しておきたい、もしくは都合が悪い秘密でも山のように握ってる可能性がある」

 

ドレークにギョッとした顔を向けられ、少佐が予想通りというような笑みを片頬に浮かべる。

 

「本当なら政府はそんな爆弾持ちにいてほしくないし、口封じしてしまいたいんだろう。だが、あいつらは曲がりなりにも政府の創始者の血筋。それを消し去ることは、政府が自身を否定することにも繋がりかねない。必ず混乱が起きる、それも大規模な」

「だから品良く言えば、敬して遠ざけている。悪く言えば……暗愚化して飼殺している」

 

 しん、と店内が静まり返る。少佐とヒスイさん以外の人間の顔が少し蒼くなって見えた。口にしておいてなんだけど有り得そうで俺も怖くなってきて、顔が強張る気がした。

 天竜人は先祖伝来の古代兵器とか、政府創設の重要な闇とかの秘密を盾にして、異常な治外法権を得ているんだろうとは何となく想像していた。

 でもそれなら、あいつらはそうしたものを武器に使っていてもおかしくはないか?

 政府内のどの人間より強力なアドバンテージを持っているのだ。それを武器に要職に就いて、政治ゲームを楽しむような連中がいても不思議じゃない。

 だというのに大半の天竜人は本能のままに欲望を満たして享楽的に生きる、いわゆる我侭なバカ殿様タイプの奴がほとんど。

 いくら経年劣化といっても、天竜人全体がそうなるなんて違和感がある。日本の幕末の頃の大名にしても、フランスの革命の頃の貴族にしても、バカ殿様がいる一方で才長けて活躍した人間もいたのだ。天竜人にだってそういった奴らがいてもおかしくない、というかいないのは変だ。

ではそんな奴らがいない理由は、一体何か。

 

「政府は天竜人に政治に関わってほしくないが、排除はできない。穏便に済ませたきゃボーヤの言う通りになる、かもね」

 

 天竜人が政治経済の場で活躍するのを望まない人間が、政府内に大勢いる。それが優秀な天竜人がいない理由の一つなのだろう。

 真っ当に血筋と秘密を盾と武器に政治や経済を弄ばれないように、と考えているのかもしれない。もっと俗っぽく自分たちより有利な立場で権力を揮う奴にいてほしくない、のかもしれない。

 真相はどうなのかわからないが、そうした政府内の意向が働いている可能性は低くないと思う。

 差別意識を植え付けることで一般の人間と隔離して、刹那的で享楽的になるよう恩恵を与えて贅沢をさせ、政府への反感や秘密を活用させる意思と知恵を奪って管理している。

 だからああいった天竜人が出来上がるって寸法か。

 

「俺たち海軍にしても、政府の一機関。政府に不利なことが起き、倒れられちゃ困るからこそ、正義を曲げても協力してるってとこだ」

 

 デカイ組織と言っても、所詮海軍は政府の一部だ。

 政府という幹にダメージを与えられたら、枝である俺たち海軍も困る。だから、天竜人の悪に目を瞑って黙って守る。

 目を瞑らなきゃならないのは、組織の自衛のため。海軍や海軍の後ろ盾たる政府が倒れてしまえば、それすらもできない。一つの悪に目を瞑ることで組織が守れるなら、それ以外の悪を駆逐して正義を貫ければそれでよしとする。

 今の海軍は、そうして小を見捨てて大を守ることを取っているということだ。

 

「まだ納得できない?」

 

 黙り込んでしまった俺たちの鼓膜を、ヒスイさんの諭すような声が揺らす。

 ヒスイさんの仮説が正しいのならば、組織として、海軍がやっていることは間違っていないと思う。

 誰かを守るには、まず自分を守り切る必要がある。それができなければ共倒れだ。何もかも為せないまま終わることになる。

 天竜人の悪を見逃すことで組織を守って救える人々は、天竜人の被害者と比べると途方もなく多いはず。全体のごく少数が犠牲になっても、それ以外を救えるならそちらの方が効率的だ。

 海軍のやっていることは、少なくとも大勢の人のためのことだ。

 

「それでもいいんだ。今の話も所詮は私が立てた仮説にすぎない。アンタたちが納得いかなくても仕方ないよ」

 

ヒスイさんの言葉が、苦い沈黙に浸み込む。目の前のグラスの中の氷が解けて崩れ、澄んだ音を響かせた。

 納得できないわけじゃない。そんなこと理性はとっくに納得している。

 ただ、感情が追い付かないだけだ。俺も、多分スモーカーも、ドレークも。

 見えない大勢の人間が救えるとわかっても、目の前で壊されたあの家族の姿が頭を離れない。

 ああしたごく僅かな犠牲者たちも救いたい。救えたなら。すくうべきじゃないのか。

そう、考えて気持ちが沈みこんでしまう。

 

「ただな、これから階級が上がる度にそういう見逃さなきゃならない悪は増えていくんだ。増える度にこうやって落ち込んで悩む気かい?」

 

 顔を上げると、ヒスイさんも少佐も目の奥に痛そうな色を湛えていた。

 

「軍で壊れずに生きていこうってんなら、こうやって理屈付けて自分の中に落とし込むしかないんだ。嫌なもんだが、これが処世術ってやつだね」

 

 きっとこの人たちも政府や軍の矛盾や闇を見て、俺たちと同じ思いをしてきたのだろう。最初から割り切れるものじゃない。きっとどっちも迷って悩んで海兵として駆け抜けてきた。

 こんなところで俺たち立ち止まれないことを知っているから、立ち止まらせたくないから、彼らは俺たちにこうして諭している。

 

 処世術、か。

正義のための処世術。海軍で生きる俺たちが必ず身に着けるべきもの。

 嫌なものだな。正義と反する処世術なんかできれば身にも付けたくないが、身に付けなければ正義は貫けない。

 正義とはもっとキラキラしたものだと思っていた。歪んだ部分も納得できないも部分もあるのだろうけど、根幹は純粋なものだと心のどこかが信じていた。

 でも、現実はもっと打算的で、こんなにも残酷なものだった。

 正義、か。何度も口にしてきたけれど、本当の意味でなんなのか俺たちはわかっていなかったんだろうか。

正しいこと、弱者を悪から守ること、海賊を始めとした悪を滅ぼすこと。

 一面的な部分ばかり見過ぎていた、ということなのだろうか。

 

そのせいだろうか。勝手に正義の裏の顔を知らされたことで、胸に何かわだかまったような気がした。

 

 



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第22話 主従の密談

 扉を叩く音に、ペンを握る手を止める。

 壁に掛かった時計を見れば、いつの間にか夜も更けとった。いかん、書類整理に夢中になり過ぎた。どおりで目も乾いてきよったはずだ。

 大将に昇格してからというもの、書類仕事は格段に増えた。中将の地位におった時より、権限も管轄も増えたのだ。当たり前じゃろう。

 その上、必ず参加せねばならん会議や式典も一緒になって増えた。その合間を縫うように書類を裁くものの、どうしても納得いく程度に終わるのは定時を過ぎる。

 センゴクさんやらに適度に肩の力を抜け、と言われたがそれもあまりしとうはない。それをすればだらけたクザンと同じになりそうじゃと思ってしまう。上に立つ者としての示しがつかん気もする。

 とはいえ、今日はやり過ぎてしもうたか。

 

「入れ」

 

 使い過ぎて疲れた目頭を押さえつつ、扉の向こうの奴へ入室を許可してやる。

 ドアノブが回り、扉がゆっくりと開く。その隙間からひょっこりと覗いた灰色の頭に、少しばかり気が抜けた。

 

「サカズキさん」

「シラヌイか」

 

 名を呼ばれてシラヌイは、緩そうな顔に笑みを乗せた。

 シャボンディ諸島の任務に行かせたのに、なぜここにと疑問が浮かびかける。しかしすぐに、こんな時間じゃと思い直す。たしか午後三時に任務終了予定だ、その後真っ直ぐ帰ったならマリンフォードにおってもおかしくはない時間じゃろう。

 嬉しそうにシラヌイは中へ滑り込むと、わしの前で敬礼をした。

 

「ただいま帰りました」

 

 いまだに様にならんそれに苦く笑い答礼をしてやる。ますます懐っこい顔をしよった。

 まるで犬コロじゃのう。二つ名ではわしの方が犬と呼ばれとるが、性質で言えばこいつの方がよっぽど犬だと思う。

 

「よう帰った。無事終わったようで何よりじゃ」

「はい。今日はこっちに死んじゃう人が誰も出なくてよかったです」

 

 ソファに座るようシラヌイに言ってペンを置く。

 仕事を明日に繰り越すのは好かんが、まあ今日ぐらいはええか。シラヌイの顔を見て何とはなしにそう思った。

 書類を片付けつつ話しながら横目で見ると、気を回したのかシラヌイは茶を入れようと給湯スペースに立っとった。

 

「湯呑みは気ィ付けて扱うんじゃぞ、沸いた湯で火傷せんようにな」

 

 やらかしそうなことは先に全部注意しておく。そうしちゃれば、シラヌイの失敗が確実に減る。二十年近く掛け、ようやくたどり着いた失敗対策だ。

 はーい、と暢気な返事をしつつも真剣な様子で薬缶の湯をそろそろ急須に注ぐ姿を確認し、纏めた未決済の書類を引出しに放り込んで鍵を掛ける。

 なんのかんのと後片付けを終えて顔を上げると、失敗もなく茶を入れ終えられたらしいシラヌイが、ニコニコとソファとセットのローテーブルに湯呑みを置いた。

 

「サカズキさん、お茶が入りました!」

「ご苦労、ついでにそこの戸棚から好きな菓子を出してもええぞ」

「はいっ」

 

 嬉しそうに戸棚を開けて茶菓子を物色するシラヌイに少し目を細める。

 しばらく戸棚の前で悩んで、ようやく箱を一つを抱えてソファに戻ってきた。

 やはりこの前おつるさんにもろうた、なんたらっちゅう店のどら焼きか。これにはシラヌイの好きな甘栗入りじゃし、多分選ぶとは思ってはいたが、予想通り過ぎて笑えてしまう。

 

「なんで笑うんです?」

「すまんすまん、気にせんでええから早う食え」

 

 首を傾げる姿が本当に犬のようで余計に笑えた。誤魔化すように食うよう言っちゃると、いそいそと箱を開けてどら焼きを取り出し、美味そうに頬張りおる。

 わしの前にも一つ差し出そうとするのを止めて、茶を飲む。わしは甘いのが好かん。

 もしゃもしゃとどら焼きを頬張り、茶を啜るシラヌイを眺める。

 単純すぎる奴じゃと思うが、そのくらいがわかりやすいしこっちも気楽でええ。小難しいことを考えて複雑な欲を抱える連中と対するように、常に気ィを張らんで済む。

 

「シラヌイ、奇術師の坊主には邪魔されんと、ロイ少尉を見て来られたか?」

 

 どら焼きを一つ食べ終えたのを見計らって、話を切り出す。

 シラヌイはじっとわしを見つめながら、もぐもぐと口の中の物を咀嚼しとる。茶と一緒に喉へ落とし込むと、にっこりと笑う。

 

「リーヴィス少佐ですか? 意地悪しないでくれましたよ、そうしろってガープさんたちに言われていたみたいです」

 

 今回の任務にシラヌイを送り出した最大の目的、それはロイ少尉の偵察じゃ。

 士官学校卒業時の勧誘を断られてから二年と少し。あん時もクザンと勧誘に関してやり過ぎてしまい、結果ロイ少尉はどちらの派閥の元にも配属されなかった。

 少尉の初配属先は、英雄ガープの直卒部隊。

 センゴクさんから、双方頭が冷えるまで手出し無用、と言外に言い渡されたようなもんじゃった。

 そのためじゃろう。ガープ中将はこの二年と少し、わしとクザン、どちらの派閥からも少尉に距離を取らせ、極力目の届く範囲に置き続けた。客観的にわしらを見せてどちらを取るか教育しとったようだ。

 しかしごくごく最近じゃが、中将は少尉を外に出し始めた。例えばどちらかの派閥との合同任務に参加させたりしとる。

 任務に就かせつつ、双方の派閥の人間の指揮下に一時的に入れたり、話しをさせたりし出した。まあ、中将の副官やボルサリーノが飼っとる奇術師とかいう奴を挟んでじゃが。

 そろそろ、少尉を転属させる時期に来ている。この状況を皆そう見ている。

 おそらく今回の転属先の決定権は人事課にない。恨みっこなしにするため、少尉の意志に委ねられとるに違いない。

中将はそのために少尉にどちらが良いか選ばせる判断材料を用意してやるため、外に出し始めたのだと見ていいはずじゃった。

 好機とばかりにどちらも一斉に用意された機会に飛びついた。

今回の少尉の転属で四年に渡る争いの一つに決着が着く、大型新人の一角を派閥に引き込める。そのために本人と接触して売り込もうと、またぞろ大きな騒ぎになっとるんじゃ。

 

「ならよかったのう。で、お前はどう見た?」

 

シャボンディ諸島の任務も、そうした機会の一つじゃった。うちからも行きたがる者が多かったが、わしが強く推してシラヌイを捻じ込んだ。

少尉が今どう育ったのか。それが知りたくて。

クザンの方から推されたモモンガ大佐に功績で張れる奴を選ぶ必要があったこともあるが、わしの意が通じて少尉に警戒されん人間と考えた時シラヌイしか思いつかんかった。

 じゃから、その気のまったくなかったシラヌイに言い聞かせて任務に出した。戦場以外ではからきしの奴で少々心配はしたが、無事に目的は果たして来よったようじゃ。

うーん、と考える素振りを見せたシラヌイは、すぐに一つ頷くと一言で答えた。

 

「良い子ですねえ」

 

 簡潔だが漠然とした返答。他に言うことはないのかと目で促すと、もう一口茶に口を付けてからのんびりとした口調で言葉を続けた。

 

「士官学校の評価にあったように、とっても真面目で、仲間思いですね。命令に忠実で、比較的柔軟な思考をできる子でした。果敢ではないけど、もう繊細さや臆病さはあまりないようです。サカズキさんが気にしていた繊細さは矯正済みで、臆病さが自制心や冷静沈着さに変わりつつある、ってところかな?」

「なるほど、成長はしちょるということじゃな」

 

 気に掛けていたロイ少尉の繊細さと臆病さは、どうやら軍務に就くうちに良い方向へ昇華されたらしい。

 少尉が士官学校ん時にボルサリーノが修練がてら海賊船を攻撃させた際、過剰なほど精神的に落ち込んだという。初めての殺人行為だったそうじゃが、それを差し引いても酷い落ち込みようだったそうじゃ。

軍人にするには少々心が弱すぎるんじゃあないんか、それで軍務に耐えきれるんかと気にしとったが、克服したのであればもう問題なさそうじゃのう。

 

「自主練してるとこ見学してきましたけど、能力の方も実戦に馴染んで性能も上がってるみたいですよ」

「そうけ、ならば上々じゃのう」

 

 能力の方も噂通りより強力になっとるのか。

昔も大砲数門分の威力は確実と言われておったが、それが実戦を経験してさらに洗練された今、どれだけの威力があるんじゃろうか。

少尉が戦場で力を揮うところを早う見てみたいし、力を自分の下で揮わせてもみたいもんじゃのう。

 ああそれから、と思い出したようにシラヌイは付け加える。

 

「僕としては、ロイ少尉には、計略を叩き込んだ方が良いと思います」

「ほう?」

 

 少々意外な提案に片眉を上げる。

あれだけの大火力があるというのに後方で参謀として使えと?

 シラヌイにしてはおかしなことを言うのう。戦のことに関して的外れなことは言わんはずじゃが。

 わしの様子に気づいたのか、シラヌイは困ったように眉を八の字に時に下げて指先で頬を掻いた。

 

「彼は頭もそう悪くないし、指揮能力も中々なんですよ。みんなが考えてるみたいに単なる機動性に富んだ大砲扱いをしたんじゃ、宝の持ち腐れになるかなぁって」

「言われるまま戦う兵ではのうて、自分の能力を最大限発揮できる状態を用意して効率的に戦える指揮官に育てた方がええ。そう言いたいんか?」

 

 わしの言葉に、シラヌイが笑みをいっそう明るくしてこっくりと頷く。意図したところが伝わってよほど嬉しかったのじゃろう。

なるほどのう。あの大火力を如何に扱うか考えるあまり、少尉にどうそれを使わせるかを考えとらんかったかもしれん。

 少尉は物言わん大砲じゃない。れっきとした人間じゃ。儂らが何かせんでも、自ら思考もすれば動きもする。

 ならば、自分で自らの能力を有効に使える場を作り出せるように育てた方が得。戦場を操り兵を指揮できる指揮官に育てられれば、その能力も相まって挙げる戦果は誰かに使われるより大きくできるかもしれん。

 幸い少尉は阿呆でも馬鹿でもないと聞く。むしろ頭は比較的回る方らしい。適性がないならともかく、ありそうならばそちらの方が有益か。

 

「ロイ少尉にそうなってもらえれば、うちは優秀な指揮官と戦略兵器を両方手に入れられますよ」

 

 そう言いつつ何故か少しだけ口を尖らせたシラヌイは、ずいぶん減ったわしと自分の湯呑みに茶を注ぎ直して不満そうに呟く。

 

「それから、うちの仲間って前に出たがる人ばっかりで、僕みたいなタイプ少ないですし。もう少し後ろでの仕事をやってくれる子、いたら楽なのになって思ってたとこですから……」

 

 その言葉に、思わずわしも溜め息を零してしまった。

 ああ、そうじゃった。うちには参謀として後方で図面を引くのや後方支援をするのを厭うもんが多い。

 元から戦場の、それも最前線から這い上がってきたもんが多いせいじゃろうか。戦場を掛けて敵と直接対峙し正義の鉄槌を揮うことに重点を置き過ぎ、仲間全体に後ろより前へ出ることを尊ぶ傾向にある。

 それはそれでええ。臆病風に吹かれたり、決断の時にウダウダして機を逃すより、よっぽどええと思う。

 だがそれをするにしても、参謀や後方支援の仕事抜きでは成果はいまいちになる。やはり事前に緻密な策や補給計画を仕込んでおいた方が、格段に効果は上がる。

 参謀や後方支援の腕っぷしより頭を使う仕事の大切さは、皆一応わかってはいる。じゃが、そうしたもんが得手ではない者や、できてもやりたがらない者ばかりなのも事実。

 今うちが集めるべきなのは、シラヌイのような参謀ができる人間や後方支援ができる人間じゃった。

 

「と、言うこともありますし。だから、サカズキさん」

 

 仕切り直すようにのほほんとシラヌイが明るい声を上げる。

 

「ロイ少尉、僕にくださいね。僕のところで勉強させてあげましょう?」

 

 上目使い気味にわしを見上げるその様は、まるで玩具を強請る子供のようじゃった。垂れがちの目の中に期待がキラキラとしとる。

 

「フ、それが一番言いたかったようじゃのう?」

「だって早くサカズキさんにお願いしないと、クザンさんのとこの人たちや、ドーベルマンくんたちに取られちゃうかもって」

 

 それは嫌だ、とシラヌイは年甲斐もなく頬を膨らませてどら焼きをもう一つ頬張った。

 我慢できなくなって吹き出してしまった。やはり単純すぎる、というか子供じみとるのう、こいつは。

 戦場で見せる顔との差があり過ぎて、その差を面白いと思う。

 天才とはえてして子供じみた生き物じゃと言うが、シラヌイを見とるとそれようわかる気がする。

 

「まだ少尉がうちに来ると決まっちょらんぞ?」

「でも僕はロイ少尉が良いんです。だってサカズキさんの欲しい子だし、僕に優しくしてくれるし」

「ほう」

 

 ロイ少尉が何の弾みかシラヌイに世話を焼いとる。そういう話は確かに上がってきておった。

 こいつか何かドジを踏む度に少尉が居合わせ、見捨てられずに手を貸す内に懐かれて迷惑しとるようじゃと。

 どうにかせんと少尉がうちを厭う原因になりゃあせんかと報告してきた奴らは心配したが、どうやらそうでもないんかもしれん。

 シラヌイの主観の話ではあるが、どうやら少尉は絆されとるらしいことが透けて見える。叱りながらも励ましたり、面倒くさがってもちゃんと心配しとる。

明らかにシラヌイを嫌ろうてはおらん。少尉本人がお人よしというのもあるんじゃろう。それに加えて、こいつの何故だか憎めんところ、捨て置けんところに見事に引っ掛かりおったと見える。

 そういえばシラヌイを支える人間も、必要じゃったな。わしも階級が上がり過ぎて、昔のように構っちゃれんことも多い。

シラヌイは戦場以外では出来があまり良い方ではない、失敗の多い奴じゃ。今後はそうした失敗をフォローしてくれる人間が、わし以外にももう少し要る。

もうこいつも大佐。もう目の前に准将への昇進が待ち構えとる。ついに将官になってしまう。今まで以上に他から粗探しをされ、わしの庇護があっても失敗はあまり許されなくなってくる。

わしのためにもここで沈んでもらっては困る。シラヌイの戦場における能力は日常の失敗を凌駕する価値がある。側に置き続けたい、置き続けるべきじゃと思わせるだけの。

だからこそシラヌイをフォローして守る存在がいる。尻拭い係、と意地の悪い言い方もできるが、そういう部下が必要じゃ。

ロイ少尉にその立場が担えそうならば、それはそれでいいかもしれん。

ちょうどガープ中将とその副官のような関係を、シラヌイと持たせられればしめたもんじゃな。

 

「だからサカズキさん、ロイ少尉が僕のところに来るようにしてくださいね」

 

 念押しするように身を乗り出してくるシラヌイにもう一つ吹き出す。

 

「わかった、わかった。そんなら次の合同任務もお前が行って、少尉を説得してきたらええ」

「はい!」

 

 元気よく返事をして楽しみだとニコニコしている愛弟子を見て、もう冷めてしもうた茶を飲み干す。

 喉も潤ったし、そろそろ帰るかと立ち上がる。

 

「さて、シラヌイ。もうお前も仕事は終わっちょるな?」

「はい、もうないですけど」

 

 きょとんと座ったまま見上げてくる黒い目が忠犬のように純真じゃ。

 

「ほんなら、夕飯でも食いに行くか」

「やった! サカズキさんと夕飯に行くの、久しぶりですよね。嬉しいなあ」

 

夕飯にはしゃぐのに口の端を歪めたまま、くしゃくしゃとした灰色の髪に手を置いて撫ぜる。さらに嬉しげにその目が細まった。

 

「今日はご苦労じゃったのう。ようやった」

 

 途端にシラヌイが満面の笑みを浮かべて見上げてくる。

褒められて喜ぶその様は、昔と寸分変わらんかった。

 



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第23話 任務と転属先探し

 こっちに向かってくる海賊が数名。慌てずに右手を突き出す。

 間髪入れずに発火布の手袋に包まれた親指と中指の先を重ね、勢いよく擦り合わせて導火線に向けて火花を乗せる。

 見えない導火線が朱の焔を伝わらせ、俺に向かってサーベルを振りかざそうとした先頭の海賊の前に辿り着けば、途端に海賊たちを取り囲むように激しい爆炎が巻き起こった。

 その衝撃と爆風で船から悲鳴や罵声が上げて落ちていく奴らを横目に、逃げる海賊船に手だけ向ける。距離は十分射程距離、第二撃目の展開は完了済み。発火布に包まれた指先を摺り合わせる。

 ジョリーロジャーを掲げるメインマストに焔を撃ち込めば、瞬時にマストの根元で焔が弾け飛んだ。鮮やかな朱色の焔が膨れ上がって甲板に広がり、轟音を上げてマストが圧し折れて海上に倒れ落ちる。

 よし、後は他の部隊があの海賊船を制圧する手はずだ。ここでの俺の役目は終わり。それらを背中に、次の標的の元へ向かう。

 

「スゲェー……」

 

 背後から、感嘆と畏怖混じりの小さな声が俺の耳に届く。

 

「……さすが、朱焔(しゅえん)

「化けモンじゃねェか」

「違いねェ」

 

 こそこそ聞こえてくる会話が鬱陶しい。いちいち焔の錬金術くらいで化け物とか言うなっての。

 どうせ騒ぐのなら、その辺で馬鹿でかいガレオン船を真っ二つにしているモモンガ大佐や、覇王色の覇気を使って海賊船に乗り込むだけで制圧しているシラヌイ大佐、今日も元気に拳骨流星群やっているガープ中将にしてろ。

 あの人ら、非能力者だぞ。悪魔の実の力で下駄を履いている俺より、よっぽどお前らの言う“化け物”だ。

 

 

 やあ、海軍本部少尉のロイです。ただいま偉大なる航路の前半某海域で海賊の一斉検挙中だ。

 まだ俺って少尉なのに、いつの間にやら二つ名が付いたよ。普通二つ名ってもっと活躍するようになってから付く物らしいけど、いろいろあって元から有名だったせいで、もう付いたみたいだ。

 で、その二つ名なんだが、“朱焔(しゅえん)のロイ”というらしい。

 奇しくも鋼錬のロイ・マスタングと同じ焔の字を冠する二つ名だ。

 その意味は、文字通り朱い焔。朱い色の焔を操って、海賊どもを爆破し燃やし尽くすところからそう呼び出されたんだとか。短絡的過ぎるだろう。もっと捻れよと思う。

 それは置いといてだ。シャボンディから帰ってきてから、もうすぐ一ヶ月経つ。

 もやもやと胸にわだかまる何かについて悩む暇もなく、ガープ中将から厳しすぎる現実を突き付けられた。

 俺の転属の時期が、もう二ヶ月後まで迫っているんだとか。

 俺が中将の隊にいるのは、赤犬派と青雉派の争いが原因だ。俺の取り合いで揉めるから、いったん取り上げておく意味で配属になったわけだが、その際中将の隊には二年までしかいさせないと取り決めてあったらしい。

 理由は単純。ずっとお預けにすると両派閥が横暴だと騒ぎ出す可能性があったからだ。

 俺が負傷するという不測の事態もあったため、期間が半年長くはなったが来月めでたく俺はどっちかの派閥の部隊に転属させられることに相成ったらしい。

 うん、俺の意思は無視か。転属云々なんて、今の今まで聞いたことなかったんだぞ。急にそんなこと言われてびっくりしてものも言えなかった。

 今回の転属先の決定権は人事ではなく、異例ながら俺に委ねられるそうだ。俺の意思で選び取らせ、どらちが選ばれても恨みっこなしってことにするためだな。

 ちなみに選択肢は、赤犬派か青雉派の二択だ。

 他に選択肢はない。本当にない。

 中将の隊に残留もダメ。ボルサリーノ中将の元に出戻りもダメ。おつるさんやその他中立派の人たちの隊を選んでもダメ。

 必ず赤犬か青雉のどっちかを選べって中将にきつく申し渡された。

 もし二つの選択肢以外を選ぼうとしたら、センゴク元帥と二大将の前に引きずり出されて、楽しく強制四者面談になるらしい。

学校の怪談の赤い紙青い紙も真っ青な究極の二択を本人たちの前でやらされるとか、笑えなさすぎる。本気で笑えない。

 でも、すぐ決めなくていい。そう中将は言ってくれている。判断材料は用意するから、一ヶ月考えろとのことだ。

 その判断材料っていうのが、今やっているみたいな二つの派閥所属の部隊との合同任務だ。両者の生の仕事ぶりを見て、実際派閥の人たちと会話して自分に合う方を選べということだ。

 実は少し前からちょくちょくそんな機会があったんだけど、実はこういう理由があったとは思いもしなかった。

 知っていたらもう少し注意していたのにと不満にも思ったが、とにかく教えてもらってからは頑張って任務をこなしつつ両派閥を観察している。

 喧嘩してばっかしてる印象しかなくてどっちも嫌になってきたが、どっちが俺向きか考え中だ。

 

「ロイ少尉ー! いつもながらすごいねー、早くうちの隊に来て一緒に戦おうねー!!」

「シラヌイ大佐っ、アンタはこっちの担当でしょうがッ! ロイ君誘ってないで自分の仕事やって!!」

 

 ブンブン隣の海賊船から手を振っているシラヌイ大佐と、敵を蹴っ飛ばしつつ叱っているリーヴィス少佐が横目に映る。

 またか。というかこんなとこで勧誘とか何考えているんだ。相変わらずめげないシラヌイ大佐の勧誘に、知らず知らず頬が引き攣る。もう何回となく断るって言っているのに、しつこいことこの上ない。いい加減諦めろよと俺はこっそり深い溜め息を吐いた。

 シャボンディの任務以降、シラヌイ大佐が自分の隊に来てほしいって説得というか、お願いしてくるようになった。

 説得に来た理由は、もの凄くシンプル。面倒をあれこれ見てくれた俺を気に入ったんだとか。世話を焼いたのがやっぱり仇になっているよ、おい。つか、ちょっと構われてすぐ懐くとか、アンタは犬猫か。

 熱心に誘ってもらっておいて悪いんだが、俺としてはシラヌイ大佐の元に行くのは避けたい。

 ああ見えて彼は赤犬の側近中の側近。つまり彼の部隊に行くということは、赤犬の側近くで働くということになる。赤犬派の徹底的な正義のど真ん中に飛び込むようなものだ。派閥の長の隣という特等席で、その苛烈さを学ばされることになるだろうことは間違いない。

 うん、無理だな。今の俺に、あの激しい正義から目を逸らすことなく遂行できる自信はない。甘ちゃんの俺は絶対に心が折れる。命令が履行できなくてダメになる未来しか見えない。自派の奥深くに俺を取り込もうって赤犬たちは思っているのだろうが、そんなに強くない俺は間違いなく醜態を晒す。

 嫌な未来予想図が見える場所に、特に理由もなく行くことはない。だから即お断りした。

 シラヌイ大佐自体は扱いが面倒くさいがそう悪い人でもない。あれで任務中はちゃんと考えて行動しているようだし、脳筋な連中と違って一歩引いて物事を俯瞰するだけの冷静さもある。平時の勤務態度もサボり癖はなく、むしろ真面目にやっている。面倒事は起こしやすいけれども。

 だが、そのポジションが悪い。赤犬派でも赤犬と遠い位置にいれば考えたんだけれど、シラヌイ大佐は赤犬に近すぎる。だからすっぱりと断ったんだけどさ、めげずにさっきのように事ある毎に、うちに来い、うちに来いと繰り返してくるんだよね。駄々をこねる子供並みのしぶとさに、近頃は本当に辟易してる。来てほしいと純粋に思ってくれるのは良いが、正直困る……。

 どうにかキチンと諦めさせる方法はないもんなのかね?

 

 

「少尉、ロイ少尉!」

 

 戦闘の合間のほんの数瞬、考え事をしていた俺の意識が轟くようなガープ中将の声に引きずり戻される。

 何があったんだろ? 慌てて大砲の弾の補充待ちをしている中将の元に駆け寄る。身に染みついた通りの敬礼を送ると、すぐさま命令が下された。

 

「ロイ少尉、今すぐ二時の方角に逃げた海賊船を追え。今回の討伐対象の一人、“血浴”のマリーが包囲網を破りそうじゃ」

 

 中将の言う方向には、薄くなっている軍艦の陣列の間から逃げ延びようとする一隻の海賊船があった。掲げられた海賊旗は中将の言う通り、今回の一斉検挙での討伐優先順位トップの海賊、懸賞金五千九百八十万ベリーの“血浴”のマリーのものだ。

 あれを捕まえろか。少尉には少し大物過ぎるような気がする。もっと上の人が捕りに行くものじゃないだろうか。中将たちが行かないのかと問うと、ちょうど手が空いた者が近場にいないんだと返された。

 

「マリーに関して、昨今巷を騒がせとる麻薬密売に絡んでおる可能性が高いとの情報が入った。ゆえにそっちの捜査のために尋問せにゃならん」

 

 中将は戦場に相応しい不敵な笑みを俺に向け、ゴツイ腕をさあ行けとばかりに勢いよく二時の方角へと振り抜いた。

 

「マリーと幹部クラス数名は殺すな。生け捕ってこい。儂やおつるちゃん、大佐連中がおらんでも、お前ならできると期待しとるぞ。往け!」

「Aye,Sar!!」

 

 その言葉と同時に、躾の行き届いた猟犬のように俺は海賊船目掛けて飛び出す。

 船縁を乗り越え、月歩で空中を駆ける。まだマリーの船はあまり離れていないから、月歩で追いつける範囲だ。幸い薄くなったとはいえ、軍艦の方も粘ってくれている。この調子ならすぐ追いつくだろう。

 

「おい、ロイ!」

 

 空中を踏みしめて駆けること数分。海賊船にそろそろ追いつく辺りで、真下から名前を呼ばれた。

 ふと下に浮かぶ軍艦の一隻に、見慣れた光景を見つける。スモーカーの奴が派手に煙まき散らして、敵を締め上げているその艦の船縁にいったん降り立つ。

 すぐさま立ち込める白い煙の中から、スモーカーが実体化して俺の側に現れた。

 

「派手にやっているな、スモーカー」

「てめェもな。で、次のお前の標的はどれだ? 付き合せろ、暴れ足りねェ」

 

 暴れ足りんて、お前は海賊か。不敵に嗤うスモーカーに、知らず片頬が引き攣った気がした。案外今のスモーカーは血気盛んなんだよな。

 付いて行きたい理由に思うところはあるが、捕縛向き能力者のこいつがいると中将の命令を遂行しやすい。来てもらえると鎮圧後の敵の拘束や、万一の取り零しの対処が楽になる。

 

「……ここの始末は?」

「もう済む。今すぐ行ける」

 

 とりあえず聞いてみると見事に即答された。周りを見れば、バタバタと下士官や兵卒が、煙に捕まった海賊どもに錠や縄を掛けている。スモーカーの言う通りみたいだ。

 こいつが離れても一応問題はなさそう、かな?

 

「じゃあ、協力を頼む」

「ロイ君、わたくしも混ぜてちょうだい」

 

 不意に新たな声が割り込んでくる。声の方を向けば、薄くなりつつある煙幕の向こうからヒナがこっちに駆け寄ってくるところだった。

なんだよ、これでドレークが来たらいつもの同期メンバー勢揃いじゃないか。任務中に揃うのは珍しいな、とふと思う。

スモーカーとは同部隊だから、一緒に任務に就くことは多い。しかしヒナとドレークとは一緒になることがあんまりなかったんだよね。あってもどっちか片方だけの場合がほとんどだったと思う。

 

「ガープ中将から聞いたわ。血浴のマリーの海賊船に行くのでしょう? あれにはわたくしたちの部隊も手を焼かされてきたの、手伝わせて」

 

 俺の真正面に現れたヒナが、瞳に強い炎を揺らめかせて言う。そういや近頃のマリーの出没頻発区域って、おつるさんの管区に引っかかっていたような。

 捕まえようとしてもその都度巧みに出し抜かれていると聞いた気がする。あの大参謀の手から逃れ続けるってかなりの強者だと思うが、その分堪ったおつるさんたちの鬱憤も凄いんだろう。今回もマリーに引導を渡してやるって部隊全体が息巻いていたらしい。そのせいか定期の一斉検挙任務だってのに、彼らはガチで戦争でもするのかというような作戦を推し、採用に漕ぎ着けて今に至る。

 例に漏れずヒナもそうだってわけだな。まあいいか。ヒナのオリオリの能力も、手錠を持ち運ぶ手間が省けて重宝するし、来てもらえるとありがたい。

 

「わかった。では俺が先行して空気毒を使って敵戦力を無力化する」

「ありがとう、ロイ君」

 

 断る理由なんてないので了承すると、ヒナはにっこり艶やかに獰猛に笑った。本気モードだな、これは。ヒナもなんだかんだ言って案外好戦的だったりする。戦場限定だが。

 

「無力化には何秒掛かるのかしら?」

「十五秒は見てくれ。二人にはその後乗り込んでの海賊共の捕縛を頼む」

「おう」

「わかったわ、ヒナ了解」

 

 手短に制圧の手順を二人に伝える。月歩が使えない二人はそこらの船伝いにマリーの海賊船まで渡るために、空から直線距離で向かう俺より到達に時間が掛かる。だから先に出発してもらい、俺は少し間を置いて月歩で走ることとした。

 そろそろ包囲網も破られそうだし、急がなくちゃならないが、まあ大丈夫だろう。二人とも結構な速さで向かっているように見えるし、海賊船と対峙している軍艦ももう少しは粘ってくれるはずだ。焦らないで行動すれば十分対処できるさ。

 さてと。そろそろ俺も行くか。スモーカーたちがじわじわ海賊船に近づいていくのを確認して、再度空中へ踏み出そうと船縁から足を踏み出しかける。

 が、視界の端に映った夕日色に、思わず足を戻してしまった。

 

「ロイ」

「ドレーク?」

 

 甲板の向こうに見慣れた親友の姿。獲物のサーベルとメイスを携えてコートを翻し、こっちに近づいてくるところだった。

 ちょっと息を乱していて、焦っているような色を顔に浮かべている。どうやらここまで急いで来たみたいだ。

 

「どうした、何かあったか?」

 

 珍しいドレークの様子に、内心首を捻りつつ問う。どうしたんだろう。なんか緊急連絡でもあるのだろうか。

 そんなことを考えつつ向き直った俺にドレークは僅かに安堵したような気配を覗かせ、その割に急き込むように話し出した。

 

「急ですまないが、俺も連れて行ってくれないか」

 

 え、と一瞬固まってしまう。自分も制圧に連れて行けって? お前の持ち場はどうするんだよ、おい。

 

「俺の持ち場はあらかた落ち着いてな、良ければ手伝わせてほしいんだ」

 

 浮かんだ疑問を言葉にする前に、ドレークが答えを出してくれた。持ち場が落ち着いて余裕があるのか、なるほどね。でも上司のリーヴィス少佐の許可はどうした。上官の許可なく勝手な行動をすると面倒だぞ。

 

「リーヴィス少佐の許可はもらってあるから大丈夫だ」

 

 あ、やっぱり。あまりの準備の良さに内心ビックリする。さすができる男。準備が常に万端過ぎて尊敬するわ。

 自分の仕事をちゃんとこなして、かつ同僚の仕事状況にも気を配って援護できるなんて素晴らしいよ。自分で手一杯な俺にはできない芸当だ。こいつ将来は結構良い指揮官になるんだろうな。

 さすが俺の親友。未来の海軍本部少将で億超え超新星(ルーキー)。味方だともの凄く頼もしいから、敵に回したくないよ。身近にいるからよくわかる。将来海賊にならないでくれないかな。

 それに人手は欲しかったところだ。三人よりも四人の方ができることは多いんだもんな。スモーカーとヒナは制圧後捕縛に集中するから、船内の探索に当たれない。捕り漏らしがいるかどうか、麻薬売買などの犯罪の証拠がないか俺だけで見なきゃならないのは骨だし、少々危ないのも確かだ。ドレークが来て一緒に似てくれるともの凄く助かる。

 

「じゃあ悪いが、制圧後の船内の探索と万一の捕り漏らしの対処を頼む」

「ありがとう、了解した」

 

 渡りに船とばかりに頼んで、再度空中へ駆け出す。俺にドレークも続いて、空中を走ってくる。最近六式を習得し始めたってのは本当だったのか。やっぱりこいつ才能もあれば適性もばっちりなんだな。

 しかし、まあ、凄いもんだ。通常の武器や徒手での戦闘技術でもあいつは群を抜いているが、それに加えて六式まで習得するとか半端ではない。同期主席なだけはある万能っぷりだ。この調子じゃそのうちに覇気に目覚めるんじゃないだろうか。

 なんにせよ俺より戦果を上げまくって階級を駆け上がるんだろうな。急激に階級が上がるんだとしたら、友人として誇らしくもあるが少し心配でもある。シャボンディで見たような、海軍の矛盾や政府の闇を一気に見せられてしまって、善人のドレークが苦しまないだろうかってさ。そのせいで原作通り海賊に身を堕とされたりしたら、俺は酷く辛い思いをしなくちゃならないだろうなあ。親友を敵だと見なして命を取りに行くなんて、考えたくもないよ。

 ちらっと背後から追ってくるドレークを見る。相も変わらない海兵の見本のような姿に、ほんの少しだけ安心する。

 あいつはまだ海兵だ。俺の仲間で、大事な親友でいられる立場にいる。俺というイレギュラーもいるんだし、ドレークが海軍を辞める結末も回避できる可能性はあると思う。海賊にあいつが身を堕とさないように、できるかぎり足掻いてみよう。

 そっと胸の内で小さく決意し、俺はもう目の前に迫った海賊船に意識を移す。さあお仕事の時間だ。中将の期待に応えられるよう、頑張りますか。

 

「そこまでだ、海のクズ共」

 

 海賊船の甲板の飛び降り、正々堂々と声を張り上げる。

 戦闘真っ只中で刀剣や銃、大砲を抱えていた海賊共の視線が一斉に闖入者の俺へ突き刺さった。それだけで人を射殺せそうな殺気立った視線ばかりだが、戦場の空気でハイになった俺には心地良くすら感じる。

 結構これで、俺も変わってきているんだよな。一般人からかけ離れて、この世界で生きる海兵になってきていると感じる瞬間だ。

 

「一人で何しに来やがった海兵さんよ!」

「そんななまっちろくてひょろいくせに一騎駆けとか死ににきたのかぁ?」

 

 俺が一人だと思って油断したらしい。侮るような空気が流れて小馬鹿にするような嘲笑や挑発が、さっきの代わりに飛んでくる。

 男性海兵には珍しい細面や軍内では細身で小柄な方の身丈は、こういう油断を誘うのに以外に使えるもんだ。まことに不本意だがな!

 俺の容姿を馬鹿にするなと腹の底に湧く苛立ちを抑えつつ、涼しい顔を繕っておく。

範囲指定と一酸化炭素の展開準備、完了っと。吠えて俺を嘲笑う海賊共め、そうしていられるのも今の内だ。覚悟しやがれ。

 

「何をしに来た? 愚問だな――――チェック・メイト」

 

 両の掌を打ち合わせ、能力発動させる。

 範囲は俺の周囲を除く海賊船全体。瞬く間に展開された一酸化炭素は、確実に海賊共の意識を刈り取っていく。一瞬の出来事に驚愕の目を俺に向け、何か言おうとすれどもなす術もなく昏倒した奴らを睥睨して、不敵な微笑を浮かべる。

 

「貴様らを捕らえに、だ」

 

 完全に甲板が沈黙したところで、スモーカーたち三人が飛び込んできた。

 

 

 

 

「呆気ねェな、つまらん」

 

 甲板の海賊共を煙にした腕で捕らえながら、心底つまらなそうにスモーカーが呟く。

 

「当たり前でしょ、これは制圧戦でロイ君がいるのだもの」

 

 戦闘らしい戦闘があるはずないわ、とヒナが呆れたように返して確認を終えた海賊に能力で錠を掛ける。

 戦闘は予定通り呆気なく俺の一撃で幕を閉じた。生け捕り命令が出ていたから、迷わず空気毒で海賊共を気絶させたんだ。スモーカーが望んでいたような暴れられる場面は、結局訪れなかった。

 それが不満らしくうだうだ言いつつ煙草をふかしているスモーカーに、俺も苦笑いを向けておく。曲がりなりにも偉大なる航路の海賊なんだし、俺の技を掻い潜ってくる奴らもいるんじゃないかと思ったんだろうな。俺もその可能性は考えていたし、だからこそ協力を頼んだんだが、予想外に上手くいき過ぎてしまった。任務としては上々、でも思ったように戦えなかったってところだ。

 すまんと言ってやるべきか、ぶーたれるなと言うべきか。とりあえず笑って流して、手配書を基に海賊共の仕分け作業を続ける。気絶してもらってるうちに中将に言われていたマリーと幹部たちと、その他下っ端などを分けておけば、牢にぶち込むとき手間が省ける。

 

「もうすぐこいつらの拘束も終わるし、そうしたら別の現場に行けばいいじゃないか」

 

 終わったら別の現場に行っていいと言ってやったが、舌打ちが返ってきた。もう作戦も終盤近く、包囲網に引っかかっためぼしい海賊は粗方片付いている。別の現場に行っても、大したことはないだろうと予想は付く。だから俺の方に付いて来たってのにって顔をしている。

 慰めにもならないって感じだが、仕方ないか。残念スモーカー、思う存分暴れるのはまた今度だな。

 

「っロイ君!」

 

 唐突にヒナが俺を呼んだ。冷静さを欠いたその声の調子に、ぎょっと振り返る。手配書を片手に、焦りでいっぱいの面持ちのヒナがいた。

 

「捕らえた海賊の中にマリーがいない! わたくしたちが来る前に逃げたか、まだこの船のどこかに隠れているかも!!」

 

 なんだと!? まさかの捕り漏らしが肝心のマリーとか、笑えない事態だ。

 ヒナの言葉に俺もスモーカーも、一気に緩みかけた気を引き絞る。マリーは動物系の能力者らしいし、身体能力は生半可ではないはず。見つけても逃げ切られる可能性は低くないし、どこかに隠れていられて逆襲されたら下手すればスモーカー以外倒されることもあり得る。

 今すぐ四人で固まって警戒しなくちゃ……って。

 

「あ、ドレーク……」

 

 スモーカーとヒナも、俺と同じくぎくりとした表情を見せる。

 今、甲板の上にドレークはいない。一緒に船内の捜索を終えた後、もう一回見て回っておくと言ってまだ帰ってきていないんだ。

 しかも、周到に証拠とかを浚ってもらえるならそれに越したことはないし、俺もこの船の奴らは捕まえたと勝手に油断していたから、ドレークに一人で行かせてしまっている。

 非常に拙い。もしマリーがまだ船にいて、ドレークと遭遇したら拙い。ドレークの力量を疑うわけじゃないが、腐っても相手は五千万ベリーを超す猛者だ。能力者相手で、しかも相手に地の利がある場所で、一対一なんて条件が良くない。

 

「今すぐドレークを探すぞ!」

 

 一気に三人揃って船内に駆け込む。早く見つけてドレークの無事を確認したい。この際任務は達成できなくてもいいから、マリーには船から逃げ出していてほしい。

 正直に言って、ドレークの方が俺には大事だ。親友に危害が加わるのは見逃せないし我慢ならない。もう任務失敗で始末書を書かされてもいいくらいの気分だ。

 船内に飛び込んで、名前を呼びながら次々と船室を覗いていく。いない、いない、ここにもいない。もっと下、船倉まで回っているのか!?

 慌ただしく駆け回り、どんどん下へ三人揃って警戒しながら向かう。薄暗い廊下の中で神経を研ぎ澄ましながら気配を探る。

 ぎしり、と。床が軋む音が鋭角になった聴覚に届く。全員が瞬時に身構える。ギシ、ギシ、と一定の間隔で床を鳴らすのはおそらく誰かの足音。ドレークか、それともマリーか。

 頼むからマリーは出てくるなよ。ドレークで頼む。薄闇の奥から近づく影に目を凝らしてじっと息を潜める。

 

「あれ、ロイか?」

 

 聞き慣れた声に、張り詰めた感覚が少したわむ。果たして現れたのは、ドレークだった。片手に抜身のサーベルを下げ、もう一方に書類らしき紙束を持ってきょとんと俺たちを見ている。

 どうやら無事だったみたいだ。ほっとするのも束の間、俺たちの様子に何かあったことを読み取ったのかドレークも表情を引き絞めた。

 

「何かあったのか」

 

 硬い声で問われ、それにこくりと頷いて見せる。早く伝えてこんな場所から出ないと。

 

「甲板にマリーの姿が無い、逃げたか、まだ……」

「私がどうしたって?」

 

 薄い闇の奥から這いよるねっとりとした囁きが、突然俺の声に重なる。

 

「ッ後ろ!」

 

 ぞわりと嫌な気配が膨らみ、思わず叫ぶ。それと同時に反応したドレークが身を翻す。

 視界の中に踊る、薄闇にも白い正義。コートの後ろ襟から覗く、鮮やかな夕日の色。

 その向こうには、爛々とした猫のような獣の双眸と、振り翳された鉤爪がギラリと不吉に閃いている。

 

「ドレーク!!」

 

 スモーカーの叫び声と同時に、真っ赤な血が飛び散った。

 

 

 

 




来月から年始にかけて多忙につき、更新速度が落ちます。


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第24話 後悔と、不穏と

2年以上ぶりです


 肉を裂く、鈍い音がした。

 スローモーションでドレークが、仰向けに倒れてくる。

 身体が勝手に動いて、ドレークが床に打ち付けられる前に、受け止めた。

 

 俺の視界いっぱいに、真紅の血が、飛び散る。

 

 ドレークは胸から、顔から、見飽きるほど見てきた色で染まっていた。

 

「ドレ……!」

 

 息と一緒に詰まった呼び掛けに、返事はない。

 微かに、白く染まりつつある唇が動いただけ。それだけ。

 

「あらあらぁ、海兵もたわいないねェ?」

 

 頭上に降りかかる耳障りな雑音が、廊下に響く。

 

「本部海兵だってのに、簡単に死ぬんだ? ちょぉっと引っ掻かれたくらいで? ねェ?」

 

 うるさい。雑音が、思考が白くする。

 止めろ、止めろ、今は止めろ。自分に言い聞かせるけれども、雑音は止まらない。

 

「キャハハッ、とんだ雑魚だね!!」

 

 頭の奥が、冷たく焼ける色を見た気がする。

 腕が上がる。後ろでヒナが叫ぶ。スモーカーに腕を掴まれるより、俺は早かった。

 

 高笑いする女海賊に、真朱の焔を、躍らせた。

 

 嘲笑が悲鳴に。そして断末魔に変わるのに、さして時間は必要なかった。

 当たり前だ。手加減など放棄している。死ねない程度に焼いておくつもりだったが、あの女、最後の一言が余計だった。

 ああ、唇がベタついてきた。良い具合に焼き上がっている。もう雑音もない。

 ガープ中将たちからの叱責は決まったのも同然だが、まったく後悔はない。

 

「ろ、い……」

 

 朱の中で大人しくなった炭の塊を見ていたら、袖を引かれた。

 ドレークが俺を見上げていた。

 

「すまん、私の不注意で、酷い目に遭わせて」

「ちが……お、れ、また、おまえの」

「傷に触る、もう喋るな」

「ろ、い」

「すまん、ドレーク、すまんっ」

 

 俺の判断ミスで傷付いたドレークに、申しわけなさが込み上げる。

 必死で謝りながら、ヒナの手も借りてドレークに応急処置を施していく。

 ドレークの碧い眼が、俺に向いている。

 その色合いに自分の未熟さを突き付けられている気がして、胸が苦しくなる。

 

「……私が至らないばかりに、すまん」

 

 辛くてドレークと目を合わせられないけど、後悔と申しわけなさを込めて謝る。

 ドレークが意識を失って。ヒナにその場を任せて病院船に向かって。医者にドレークを預けるまで。

 俺は、ずっと、ずっと謝り続けた。

 

 

 

 

 

 □□□□□□□

 

 

 

 

 気が付くと、目の前には真っ暗な海が広がっていた。

 だいぶ長い時間が過ぎていたらしい。銜えていた煙草はいつの間にやら揉み消してあり、紙コップのコーヒーは冷めきっていた。

 妙に喉が渇く。口でも開けっぱなしにしていたんだろうか。俺らしくねぇと思いつつ冷めたコーヒーを含む。

 とたんに酸味と温さが口に広がった。海軍本部名物と言われるほど不味いコーヒーが、さらに飲む気が失せる液体になり果てている。

 泥水を飲んだ方がマシだと思わされる味だ。こんなことならロイのティーパックをちょろまかせばよかった。

 コーヒーは止めにして、煙草を吸うことにする。

 ポケットからひしゃげた安煙草のソフトケースを出して一本だけ取る。誕生日にヒナから贈られたジッポで火を点した。

 美味くはないが、ニコチンは肺に沁み渡る。まあ満足だ。吐き出した煙が潮風に乗って流れるのを目で追う。

 暗い夜空にぽっかり浮かんだ満月が嫌味なほど明るい。星の小さな光を塗り潰し燦然と輝いている。よく晴れているせいだろうか。

 名月というやつだが、生憎今はそれを楽しむような気分ではない。

 どうしようもなく胸の内がざわついている。ドレークが目の前で負傷した。たったそれだけで。

 任務の終盤、ロイが任されていた血浴のマリー捕縛を手伝う中でのことだった。

 捕り漏らしてしまったマリーに、ドレークは俺やロイ、ヒナの目の前でやられた。

 動物系能力者の刃物のように鋭い鉤爪を容赦なく見舞われ、血塗れになって廊下に沈んだ。

 一瞬、本当に一瞬の出来事だった。ドレークが倒れるさまがスローモーションで見えたほどだ。手も足も出せなかった。

 鉤爪はドレークの胸を大きく裂き、白いコートやスーツを真っ赤に染めかえた。言うまでもなく出血多量。

 ロイが間髪入れずにマリーを焼き殺した後、急いで運んだこの病院船の医者共もどこか険しい顔をしていた。

 万が一を考えろ。医者の憐れむような忠告と、ドレークを乗せて遠ざかるスレッチャー。あの瞬間が目に焼き付いて離れなくなってしまっている。

 士官学校を卒業して二年。俺たちの同期もちらほらと殉職している。

 命を張り続けるのが軍人だ。俺たちはいつだって薄い氷の上を歩いているようなもの。だからいちいち気にしていられない。

 それは理解している。でも、ここまで近しい奴の殉職を目の当たりにするかもしれない機会など俺には初めてだった。

 正直に言う。こんな無力感も後悔も二度と味わいたくない。

 俺たち四人が戦場で逝くのなら、自分が誰よりも先に逝ってしまいたいと考えてしまうほど苦い味がする。

 耐えがたい苦痛だ。俺らしくもなく逃げ出したくなってしまう。

 

 仲間の喪失は、海兵として生きる辛さの代名詞。

 

 誰か年嵩の海兵が嘯いた言葉が過ぎった。

 他人事だった言葉の意味が、今は身に染みた。

 

「スモーカーくん、ここにいたの」

 

 背後で船室のドアが開いた。首を巡らせると、ヒナが息を弾ませていた。

 ドレークの容体が急変したかと不安を覚えたがヒナの表情は明るい。

 

「ドレークくんが目を覚ましたわ」

 

 背負わされた重い石が取り払われ多様な安堵が体中に満ちた。

 知らず深く息を吐くと、ヒナにくすりと笑われた。いつものように突っかかる気は起きなかった。

 

「ようやくお目覚めか、あの野郎……」

「もう面会できるみたいよ、行く?」

「おう」

 

 煙草を携帯灰皿で揉み消して船内に戻る。

 

「思ったより意識回復が早かったな」

「ドレークくんがあの時、反射的に身を引いたのが良かったみたいよ」

 

 なるほど。頭部への直撃を免れたから脳へのダメージは防げた。だから出血多量でもまだ回復は早かったのか。

 突発的な事態で瞬時に回避行動を取れるようになるには相当な訓練が必要だ。ドレークの奴、流石学年主席だけはある。運だけでなく用意まで良い。

 

「不幸中の幸いってか」

「ええ……それにしてもよかった、ヒナ安心」

 

 並んで歩き出したヒナの顔には一つの憂いもない。見た目に反してこういうところは簡単なやつ。ほんの四時間前まで泣きそうになっていたのが嘘みたいだ。

 航海中でも艶やかな髪を撫でてみる。ヒナは擽ったそうに身を捩って「何よ、気持ち悪い」と口を尖らせた。いつも通りのヒナだと確認するには十分だった。

 病院船も兼ねた船の船室は無駄に広い。ドレークは最上階の病室にいるので、甲板からは遠かった。

 ヒナとだべりながら階段を昇っていく。もうドレークの命の心配がないだけで足取りが軽くなっていた。

 

「ヒナ、スモーカー」

「あら、ロイくん」

 

 顔を上げると、ちょうど階段の上にロイがいた。先にドレークの元へ行っていたのだろう。

 ドレークを運んだ時の自分が殺されたみたいな顔色は元に戻っていた。

 表情を緩め、小走りに俺たちの前まで降りてくる。

 

「何だ、お前、先に行ってたのか」

「ああ、説教食らっていたらな、連絡が入ったんだ」

 

 屁理屈こねて切り上げてもらったと笑う顔には疲労が濃いが柔らかい。

 こいつの心配もないな。もう一つ肩が楽になった気がした。

 

「ドレークくんとは話せた?」

「あー……うん」

「どうした?」

 

 僅かな言葉の濁りが、引っ掛かる。海兵にしては繊細な作りの顔を見ると黒い目に睫毛の影が掛かっていた。

 何かあった時の表情だ。俺の視線に気づいたロイは首を軽く横に振った。

 頬を指先で撫ぜて、いや、まぁその、なんて誤魔化すように微笑む。

 

「あいつは怪我人だからな、手短にはしてきたよ」

「そうだったわね、私たちもあまりお喋りはしない方が良いかしら」

「んー、それでいいんじゃないか。明日も面会にこればいいし……っと」

 

 気付いていないヒナに応えつつロイは胸元を探り、懐中時計に視線を落とす。

 

「ガープ中将たちに呼ばれているんだ、すまんが私はこれで」

「まだお説教かしら?」

「それはもう終わり。ドレークが見つけた麻薬取引関連の証拠絡みでごたついているんだよ」

「引き継いだのか」

「証拠の書類があった状況を聞くついでにサインもらってきた」

 

 ロイは片手に持っていたファイルを振ってみせた。

透明なファイルの中にはメモらしき紙切れと、ドレークのサインが入った引継を申請するため書類があった。

 

「じゃあお前ら、今日は振り回して悪かった、また明日な」

「いいえ、ロイくんもお疲れ様」

「無理すんじゃねえぞ」

「はいはい、わかっているさ」

 

 背を向けたまま片手を振ってロイは階段を降りていった。正義の文字が階段脇へ消えるまでヒナと二人で見送る。

 普段通りに見えたロイ。いつもと変わらないあいつの微笑に違和感を覚えた。

 第六感と言えばいいのだろうか、俺の無駄に勘が良い。その勘が、士官学校の頃あいつが俺たちにも何も告げずに一人怯えていた頃と似た雰囲気を読み取っている。

 またぞろロイのやつは何かを隠していやがる。俺に心当たりはないが続くようなら問い質してやらなければ。

 

「スモーカーくん?」

「ぁんだよ」

 

 目の前で白い手がヒラヒラと泳いで我に返る。

 

「ものすごく凶悪な顔になっているわ、貴方」

 

 ほっそりした指が、俺の眉と眉の間を撫でた。

 雪の色にふさわしくひんやりした指の感触がするあたりには深い縦皺が刻まれていた。

 

「気になることでもあったの」

「いや、まだなんでもねえ」

「まだって何が?」

「あーそれよりもドレークんとこ、行くぞ」

 

 面会時間が終わってしまうと訝しげなヒナを急かして再び階段を昇る。

 手が掛かるあいつを悩ましく思いつつ、眉間を指で解して足を動かした。

 ドレークの方では、何事もなければいい。そんな平穏を願う気持ちは、そうそう叶うもんではないらしい。

 

「おい、ドレークっ、あのスカした野郎を殴りに行かせろ!!」

 

 階段を昇りきった途端、殺気立った怒声が飛んできた。

この声は知っている。確か、ドレークと同じ隊の同期の奴だ。

 僅か十秒足らずで、俺はロイ自身に聞くまでもなかったと気づかされた。

 

 

 

 ……やっぱり、揉めたか。

 

 

 

 

 

 

 



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第25話 考えている男、考えすぎる男

ロイ、スモーカー、ヒナ、ドレークの四人の共通点は、クソ真面目。


「何度も言わせてもらうがな! あんなもんにサインする必要なかっただろっっ!!」

 

 かなり離れていても、はっきり言葉が聞き取れてしまうほどの怒声。

 想定外の騒々しさに、俺もヒナも一瞬固まってしまう。この階は重症者病棟だったはずだ。会話制限やらなんやらあって、静まり返っている状態が常である。

 だというのに、こうも騒ぎ立てる奴らがいるというのは、つまり。

 

「先輩が怪我してる隙に手柄を掠めとるなんて、あの人どういう神経してるんだかっ」

「あんな最低な人のこと、庇わないでくださいっ!」

「朱焔なんて呼ばれて調子に乗ってるんだ、コネばっかりのくせに!」

 

 怒声や泣き声が混ざり合った耳障りな騒音が、廊下に響き渡る。

 ヒナが躊躇いがちに俺を見上げた。気持ちはわかる。

 

「スモーカーくん、あれ」

 

 言いたいことはわかる。だが止めないと、際限なく続くだろう。

 行くしかない。肩を竦めると、ヒナは額に手を当てた。

 

「……わたくし、あの人たちは苦手だわ」

「同感だな」

「上官を呼んだら良いんじゃなくて?」

「チクリって言われんだろ」

「つまり突っかかられるのが明日に延期になるだけってことね、ヒナ辟易」

「諦めろ」

 

 大怪我をしているドレークを、こんな喧騒の真っただ中に置いてはおけない。

 傷に響いて悪化でもされたら事だ。多少の嫌味なら聞き流して、ドレークのためにも喧しい奴らは引き剥がさなければ。

 わざと足音を高くして歩き出す。目指すのは仄明るい一番端の部屋。多分、あそこが騒ぎの元、ドレークの病室だ。

 近づくごとに騒がしさが酷くなる。周りの病室のへの迷惑も考えろよ、馬鹿どもが。

 デリカシーの無さに苛立つ気持ちを抑えてドレークの病室の前に立つ。

 

「いいかドレーク、断言してやる! ロイはお前を」

「――ロイがドレークにどうしたって?」

 

 明かりが零れるドアを、思いっきり開く。

 

「スモーカー、ヒナ?」

 

 一斉に室内の視線が俺に向く。中央のベッドに困り顔で横たわる包帯まみれのドレークが、途方に暮れた顔で俺たちを迎えた。

 枕元で捲し立てている最中だった奴は、多分俺たちの同期だ。メソメソ泣いてドレークの手を握っている女と、その肩を抱いている男もいる。

 顔は見たことはないが、口振りからして後輩あたりか。全員がボルサリーノ中将隊所属の人間だ。

 

「……何しに来た、スモーカー」

 

 振り返った同期には予想通り険があった。敵に向けているのかと言いたくなる棘が含まれた視線に、溜め息が出そうになる。

 しかし喧嘩を売っている場合ではない。溜め息を吐きそうになるのを誤魔化して視線をいなした。

 

「見舞いだよ、ドレークが目ェ覚ましたって聞いてな」

「……今更? しかもこんな遅くに来るなんて少尉に迷惑だって、考えられないんですか?」

 

 だが、そう相手の問屋は卸してくれないらしい。

 唇を噛み締めた女の目に軽蔑の色が浮かぶ。あからさまな挑発だ。

 ちらりと隣に目をやる。ヒナは面倒そうに髪を掻き上げていた。

 

「じゃあ、こんな遅くまで側で騒いでいる人も、ドレークくんには迷惑じゃないかしら」

「っ、僕らは少尉と同じ隊の人間です、身内なんだから別でしょう!」

「俺らはそいつと付き合いが長いダチだぜ? 身内の内だろ」

「しつこいぞ、お前ら!」

「貴方たちもね」

 

 ここで騒ぐつもりはなかったのに、乗っかってしまった。

 どうにも止まらない。下手に熱くなりすぎるのは悪手だ。ドレークのためにならないとわかっているが、俺たちから止めると負けた気がしてしまう。早く相手が負けてくれないとどうにもならない。

 

「……准尉」

 

 また元の騒ぎに戻った室内に、掠れた呻きが響く。

 呼吸にも聞こえそうなくらい微かな声量のくせに、しっかりと俺たちに届く。

 ドレークは困り顔を向けて俺たちを見ていた。自然と全員、口を閉じる。

 

「すまないが、席を空けてくれないか」

 

 お前たちも、と振り返った同期と後輩の男にドレークは目をやった。顔を歪ませた女を視線で制す。

 

「スモーカーたちと話したいんだ、ほんの少しでいいから」

「少尉……」

「頼むよ」

 

 あいかわらず口調は柔らかい。しかし有無を言わせない雰囲気を纏っている。

 ドレークの態度に女たちも反論のしようがなくなったらしい。何か言いたそうにしていたが、渋々ドレークに労わる声を掛けて席を外した。もちろん、俺とヒナにガンを飛ばすのは忘れずに。変なところで徹底してやがる。

 病室が一気に静まり返った。空気の緊張が取れて、ようやく息を吐く。

 

「すまん、その、彼らは俺のことを……」

「わかってる、わかってる」

 

 申し訳なさそうにしているドレークの声に、声を被せる。

 

「お前を贔屓し過ぎてるだけなんだろ?」

 

 深い息とともに、ドレークが首を縦に降った。

 ドレークは士官学校を首席で過ごし、卒業した。そのために羨望や尊敬の念を向けられ、否応なしに取り巻きが発生しやすかった。

 特に近頃は、非能力者でありながら同期の中でも最初に中尉に上がるとの噂もある。もしそれが実現すれば、非能力者将校における中尉昇格の最少年記録を塗り替えると聞く。

 つまりドレークは、非能力者の若手にとって期待の星だ。

 勝手にドレークに憧れて取り巻いている奴らが、能力者の中でも頭一つ飛び出したロイを目の敵にしても仕方がない。

 ロイはロイで、有望株。能力も含めての攻撃力は若手最強。頭の出来もそこそこ上等で柔軟。人当たりも悪くなく協調性もあって、大将二人を始めとした上層部に見込まれているときた。あいつは文句なしに若手能力者のトップランナー。ドレークの対極と目されている。

 奴らにとってロイは、ドレークの出世を邪魔する最大の敵に見えるのだろう。ロイに近い能力者である俺たちに噛みつくのも、挨拶程度の行動なのだ。

 

「本当に、すまん……あの、わざわざ来てくれて、ありがとうな」

 

 気まずさを払おうとしてか、ドレークが笑う。ぎこちないのは顎に負った傷のせいだろう。手で顎を抑えている。

 

「おう、気分は――よかねぇか」

 

 ドレークは返事の代わりに肩を竦める動作をしたが、傷に響いたのか顔を顰めた。

 慌ててヒナが起き上がりかけていたドレークをベッドに押し戻した。

 

「ドレークくん、無理しちゃだめ!」

「ヒナ、これぐらいなんともないさ」

「なんともないわけないわ、怪我には無理は禁物なんだから、ヒナ忠告」

 

 唇を軽く突き出したヒナの顔が面白かったのか、ドレークは目を細めた。

 備え付けの丸椅子を二つ、ベッドに寄せて座る。こいつも見下されるよりはいいだろう。

 ヒナに毛布を掛け直されているドレークの様子を窺がう。顔色はまだ少し、血色が悪い。病衣の隙間から覗く包帯や顎に貼られたガーゼには、うっすら赤が滲んで痛々しい。文句なしの重症者の体だ。

 だが、今は生気がある。死の匂いを漂わせていた死の匂いはきれいさっぱりなくなっていた。もう心配はいらないだろう。直で見ての自分の判断に、肩の力を抜く。

 

「地獄遠征は予定は中止みてェだな」

 

 ふたたびベッドに沈んだドレークは目を伏せて、そうだな、と呟いた。

 

「本当に、無事でよかった。ロイくんも喜んでいたでしょう?」

「ああ……一つも、文句を言わずに喜んでくれた、俺、あいつの足手まといになったのに」

 

 呼吸に混じって吐き出される自嘲。ドレークが自然に差し挟んだそれに戸惑って、ヒナは会話を続けられなくなった。

 

「文句もくそもねェだろ、ありゃ事故だ」

「いいや、俺がもっと、もっと気を配っていればよかった、ロイの指示を仰げばよかったんだ」

 

 俺が出した助け舟まで拒否された。睨みつけても効かない。ドレークは目元に腕を押し付けて、俺とヒナを見ようとしない。

 よほどドレークは、今回の失態が堪えているらしい。くそ真面目な分、運がなかったとは思えない奴だ。ある程度人のせいにすればいいものを、優等生の親友は自分を責める方へ向かっている。

 ロイといい、ドレークといい、どうして俺の周りは手の掛かる奴ばかりなのか。

髪を掻き回して天を仰ぐと、何故かまたドレークが謝った。何を勘違いしているんだ。イラッときて軽くゲンコツを落としておく。

 

「~いったぁ!」

「スモーカーくんっ、何するのっ」

 

 すかさず飛ぶヒナの非難に眉を寄せて言い返す。

 

「必要ねェのに謝ってる、このアゴ野郎がわりィんだ」

「それ、理由になってないわよ?」

「なってる。おいドレーク」

 

 額を擦っているドレークを覗き込む。痛みで涙目になった碧眼を覗き込み、言い聞かせる。

 

「グダグダメソメソしてるくらいならさっさと怪我ァ治せ。ロイに申し訳ねェならな」

「だが」

「だがもクソもねェ、気になるんなら治った後であいつの仕事の一つでも手伝えや。それで今回の失敗はチャラだ」

「おい、それ、むちゃくちゃだぞ、スモーカー」

「ウルセェ、俺がチャラっつったらあいつもチャラって言う」

 

 呆れた顔のドレークを、軽く小突いてやる。

 

「考え過ぎんなっての、俺らの仲だろ?」

 

 親友なのだ。過度の遠慮はいらない。持ちつ持たれつ、お互いの失態をカバーし合えるくらいがちょうどいい。ロイだってそうに違いない。

 ドレークはしばらく視線を彷徨わせてから、躊躇いがちに頷いた。

 

「わかった……ありがとう、スモーカー、ヒナ」

 

 まだドレークの中で納得がいっていないのは、目を合わせようとしないからわかる。でも今はこれくらいでいいか。吐きかけた息は飲み込んでおく。

 

「おう、早く切り替えて怪我ァ治しやがれ」

 

 まったく、どいつもこいつも世話が焼ける。

 一度酒でも飲んで腹を割って話した方が良い気がしてきた。次に俺たち四人が揃って休暇が噛み合うはいつだろう。

 ヒナとドレークが話しているのを眺めつつ、俺は頭の中のスケジュール帳を捲った。

 

 

 

 

 

 □□□□□□□

 

 

 

 

 

 スモーカーたちの背中が、ドアの向こうへ消えた。

 病室が一気に静かになる。耳を澄ましていても空調の音しかしない。

 同じ隊の面々は帰ってこないようだ。時間も時間だし空気を読んでくれたか、それとも医療スタッフに追い出されたかだろう。

 ようやく手に入れた静寂に、ホッと息を吐く。真新しい傷が疼いた。ズキズキとした痛みに顔を顰める。鎮痛剤が切れてきたからか、少しばかり辛くて寝つけない。

 早く寝てしまいたいのに、厄介だ。今の俺には身体のために睡眠が必要だ。深い傷や失血で、かなりの負担が掛かっている。身体を休めてやって、自己回復力を応援してやらなくてはいけない。

 目を瞑って身体の力を抜く。寝る姿勢に入っても睡魔は訪れない。そればかりか、意識はどんどん冴えていく。身体の痛み、空気の温度、明るすぎる月明り。すべてを捕らえて眠れない。眠れ、と自分に言い聞かせてもダメだ。意思に反して意識が冴えていく。

 

 眠れ、眠れ。眠ってくれ、俺。

 眠らないと、考えてしまう。昼間のことを、ロイのことを考えてしまう。

 

 今日もまた、ロイの足を引っ張った。

 ガープ中将直々に命じられた任務を失敗させた。俺が犯した失態の始末のせいで叱責まで受けさせて、俺と同じ隊の奴らからの嫌味を浴びさせた。

 また、ロイの迷惑になってしまった。

 

『迷惑なんて思っていない、大変な目に遭わせてすまん』

 

 謝り返されると、胸が軋んだ。

 いっそもう遠慮してくれと言われたかった。そう言われても仕方ないことをした俺に、ロイの優しさは痛かった。

 身の丈に合わない行動をしてしまったとわかっている。力になりたいなんて言っても、気持ちだけで十分と言われるくらい俺の力は足りていない。

 わかっているくせに、そんなことはないと無視をした。その結果が、これ。言い訳できるはずがない。

 

 最近、同期の期待の星だと、周りの奴らが俺を褒めそやす。ロイは能力に胡坐を掻いて俺を見下していると、俺に悪口を吹き込む。

 その度に俺の周りの目は節穴だと頭が痛くなる。自分の力すら見誤って、親友に泥を掛け続けている男のどこが星に見えるのか。そんな男すら庇って気を配ってくれるロイをどう見たら、そんな下衆の勘繰りができるのか。

 

 星は、俺ではない。ロイだ。

 

 ロイは自分の力を知り、余裕を保って駆けている。上の人たちに見込まれて大変そうではあるけど、きちんと期待に答え続けていけている。周囲の人間にも慕われている。

 ロイには、本当の意味での実力も声望もある。いつもギリギリのラインであくせく取り繕っている俺とは大違いだ。嫉妬する気も失せる差が、俺とロイの間には横たわっている。

 

「わかっている、けれど」

 

 俺はロイの足を引っ張る真似をしてしまう。あいつの側をうろついて、失敗して、迷惑を掛けてしまう。止めようと思っても止められず、結局今日のような始末になる。

 愚かな真似を繰り返す自分が、近頃は恐ろしい。ロイを羨んで、困らせて、苦しませたいと心の底で思っているから、こんな行動を取ってしまうのか。

 隠れた最低な本音があるのではという自分への疑いが、俺を支配しようとしている。

 

 息を吐く。夜だからか、思考が暗い方へと進んでしまった。これでは余計に眠れなくなる。

 もう考えるな。自分に厳しく言い聞かせる。これ以上は自分のためにならない。

 考えすぎるなとスモーカーも言っていた。俺たちの仲だ。気にするな、とも。

 

 それで、本当にいいのだろうか。許されるのだろうか。

 

 落ち着かなくて、目を開く。月光に染まって、仄かに青白い病室が視界いっぱいに広がった。顔を窓の方へ倒す。

 窓の向こうには、真円の月があった。

 それは息を飲むほど美しくて、優しく輝いていて。

 

 

 ロイに覚えているものと、同じ種類の気後れを感じさせる月だった。

 

 

 

 

 

 




次回、ゼファー先生の出演があるかも


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