妄想わーきんぐ。ぽぷら (つば朗ベル。)
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(1)  二回目のデート

「ありがとうございましたーー!!」

 そう言って、家族連れのお客さんを見送る。

 ワグナリアは今日もいつも通りそれなりの忙しさだった。わたし、種島ぽぷらはここで働いている。かたなし君や伊波ちゃん。葵ちゃんや、八千代さんと他にも色々な人達と楽しく働いている。わたしはそんな今の毎日がとても大好きだった。

「せんぱいは今日もかわいーなぁ!」

「わっ! かたなし君…」

 裏に戻ると、急にかたなし君がそう言って、わたしの頭を撫でてくる。かたなし君の表情は恍惚とした笑顔で、その指の一本一本が心地よい細微な刺激を与えてくる。最初の頃は恥ずかしかったこのなでなでも、最近では慣れてしまって、恥ずかしさもあまりない。それどころか、撫でられてその気持ちよさにホッとするような自分さえ、心の奥に感じるときもあった。

 

 不意を突いて撫でるかたなし君の技術もあって、つい、されるがままになってしまうのかもしれない。

 昔から……かたなし君が居なかった頃から……ここのみんなは、わたしに優しくしてくれたけど……かたなし君が入ってからは、それ以上にみんなが優しい人になったと……そう思う。

「どうしたんですか? せんぱい……?」

 考え込んだ表情をしていたからだろうか、ふと見上げるとかたなし君がわたしの方を心配そうな目で見ていた。

「……んーー? なんでもないよ! ちょっと、考え事してただけ……」

 かたなし君と一緒にお皿を拭きながら横目で答える。

「なんですか? せんぱいが考え事だなんて、珍しいですね?」

「えーー! なにそれ? わたしを何だと思ってるのーー?」

 わたしだって、考え事くらいするんだから!!

「何を考えていたんですか?」

「え、えっとね。かたなし君がここに来てから、なんだかみんな優しくなったなーーって!」

「えっ!? 俺来る前までは、皆さん、怖かったんですか?」

「んーん、そんなことないけど、かたなし君が来てからはもっと、みんな穏やかになったと思うな?」

 そう、わたしが言うとかたなし君は、少し上を向いた後、こちらに笑顔を向け、

「それは、俺のお陰でみんながせんぱいの可愛さに気付いたってことですね!!」

 と、言って親指を立てて見せた。

「んもう……かたなし君……」

 

 子供の頃から、可愛い可愛いとは言われ慣れているけど、その頃はまだ本当に子供の頃で、最近ではそれほど、特に男の人には可愛いとは言われることは少なくなっていた。私自身、そう言われるのに男女として意識するようになってきていたというのもある。だからかたなし君に出会ってから、男の人に、というか、かたなし君に会う度に何度も可愛いと大きな声で言われることには内心ではくすぐったい思いがあった。

 

 ――かたなし君が、恋愛感情でわたしのことを可愛いと言っている訳ではないことはわたしも知っているし、わたしも年下の男の子は恋愛対象ではない……。

 だけど、それでも、この歳になって『可愛い』と同世代の男の子に言われるのは、恥ずかしいような嬉しいような、何か不思議な気持ちを心に抱くのであった。

「それじゃあ、かたなし君、わたし休憩行ってくるね?」

「あ、はーい」

 かたなし君の返事を聞き、休憩室に向った。

 お茶を入れ、しばらくぼーっとして過ごしていると、制服に着替え終えた伊波ちゃんが更衣室から出てきた。

「あっ! 伊波ちゃん!! おはよーー!」

「おはよーー、種島さん、今日は忙しい?」

 伊波ちゃんは、こちらも向くと、ぱあっと笑顔で、そう聞いた。

「んーー、今日はいつも通りかな? 普通だよーー!」

 そう、わたしが言うと、伊波ちゃんは、「えへっ」っと微笑んでフロアに出て行った。わたしはそんな、伊波ちゃんを見てつい、伊波ちゃんのことをぼんやり考えてしまう。

 

 伊波ちゃん……。かたなし君のことが好きな女の子……。男の人にはすごく恐がられているけど、女の子同士では、本当に良い子だ。ちょっとしたことで気が利いたり、相手の嫌がるようなことはしないし、言わない。そんな子。ここ以外の場所……例えば、学校とか、家とかでは、わたしが気を使う立場になることが多いんだけど、ここでは、伊波ちゃんがいるからわたしはいつもより、気を使わなくてもいい。そんな所があった。男の人を殴っちゃう癖は、男の人にとっては、大変なんだろうけど……本当にいい子なんだから、男の人にも分かってほしいって思う。でも、やっぱり、実際に殴られる立場から見れば、思ってるより大変なのかな……? まあ、男の子なんだから、それくらい我慢すれば……って思うんだけど……。

 そうして、伊波ちゃんについて思い耽っている間に、休憩時間は無くなっていた。わたしは、ちょっと急いで、フロアに戻った。

 いつも通り、お客さんを席に向い入れ、呼ばれたテーブルに注文を受け取りに行ったり、料理を運んだりして、働いていた。

「さっ! 今日もがんばろー!!」

 一人、気合を入れお客様の元へ向う。

 

 今でこそ、こうして慣れた様に仕事をこなせるまでになったが、入ったばかりの頃は、それほど忙しいわけでもないのに、少し仕事が重なっただけで焦って、ミスを連発したこともあった。オーダーミスや、料理を違うお客様に運んでしまったなどの基本的なミスも何度かした。あの時は、自分に自信が持てなくなったり、辞めようか、とも思ったけど、お店のみんなが励ましてくれたり、徐々に仕事を覚えてくると、自分で仕事を出来るという達成感も感じ始めて、仕事が楽しくなった。「同じことやってんだから、嫌でも仕事は覚える」と言ってくれたのは佐藤さんだったか。その後もたまにミスをすることもあったけど、今ではしっかり仕事も覚えて、お店の役に立てている、そんな自分が嬉しかった。

 

 更には、こうして仕事をこなしながら、考え事も出来るほど余裕を持つことも出来る。特に今ではかたなし君や伊波ちゃんが一緒に働いてくれるので、余計に余裕を持って働けることが出来ていた。

「ご注文の品は全てお揃いでしょうか?」

 そう言って、料理をお客様のテーブルに置き、お辞儀をして裏に戻ると、伊波ちゃんがそこで仕事をしていた。丁度、そろそろ時間的にお客様が少なくなってくる頃だ。少しくらい話をしても良いだろう。

 

 ――わたしは伊波ちゃんに少ししてあげたい事があった。それは、かたなし君と伊波ちゃんが上手く行ってほしい……。ということ。伊波ちゃんはほんとに良い子だし、かたなし君も良い人だと思う。そんな二人がくっつくのはわたしも嬉しい。二人は幸せになって欲しい。そう心から思うから。

「い、伊波ちゃん、どう、最近?」

 早速、今の様子を確認しておこうと、当たり障りのないことを言ってみる。

「えっ? どうって? 何が?」

 ポカンと、何のことか分からないような表情で伊波ちゃんが言う。

「その……かたなし君とのこと。最近、どうなの?」

 目と鼻の先で仕事をしているかたなし君に聞こえないように、声量を落として、言った。

「えっ!? 小鳥遊君と? ……。え、えっと、最近は、あんまり、何もないかな……最近はほとんど殴ってないけど」

 かたなし君の名前を出すとビクッと、大げさな反応をして、伊波ちゃんはおろおろしながら答えた。

「そっかぁ……」

 殴ってないのは良い事だけど……進展はないのかぁ……。ていうか、殴ってないっていう事だって、普通の男女の中では当たり前の事だしね……。だから、実際には何も進展してないってことだよね……。

 

 前に伊波ちゃんから、聞いた話では、はっきりは言ってないけど、ほとんどかたなし君本人に、告白みたいなことを言っちゃったって事だったし……。それで、その後をかたなし君の様子は言われて見れば……変だった気がする……。もしかして、かたなし君も割と伊波ちゃんに気があるんじゃ……? どうだろう。そうだったら、良いんだけどね。

「あっ! ……それじゃあ……」手を叩き、見上げてわたしは言った。

 その時、わたしは一つ閃いたことがあった。進展しないのなら、させればいい。前みたいに二人をデートさせれば、また、何かあるだろう。そう思ったのだ。

「どうしたの? 種島さん?」

 伊波ちゃんが不思議そうに聞いてくる。

「えっとね、伊波ちゃん! また……デートしたらどうかな!? かたなし君と!」

 わたしがそう言うと、

「ええぇーー! で、でーと……また……!?」

 赤面して素っとん狂な声を上げる伊波ちゃん。

「だって、何もしないで待ってたって、何も進展しないよ? かたなし君のこと好きなんでしょ!?」

「えっ……、でも、最近は全然、小鳥遊君のこと殴ってないから、嫌われてないと思うし……」

「何言ってるの!? 伊波ちゃん! それって、嫌われてないだけで、全然、前進してないじゃない!」

「う……た、たしかに……で、でも、デートの口実はどう付けるの?」

 頭を抑えるようにして、伊波ちゃんが言う。

「うっ……それは……」

 そこまで考えていなかったよ! デートの口実か……。う~~ん。

「そ、それがなかったら、やっぱり無理だよぉ! それに……は、恥ずかしいし……」

 そう言って伊波ちゃんは恥ずかしがりながらもデートが出来ないことに安堵するようなそぶりを見せる。

「ダメだよ!! 伊波ちゃん! そんな消極的な気持ちだからダメなんだよ! もっと、勇気もって! かたなし君だって伊波ちゃんのこと、嫌いなわけないんだから!」

 嫌いなわけない……多分。好きかどうかはわかんないけど……嫌いってことは……ない。

「そ、そうかな? それじゃあ、わ、わたし頑張ってみるよ!」

 嫌いなわけないと言われたのが嬉しかったのか、伊波ちゃんはキラキラした目で言った。 

「そうだよ! その意気だよ! 伊波ちゃん!」

「ありがとう、種島さん……で、でも、やっぱり、デートの口実は……」

「それは……」

 そこで、詰まって困っていた時、丁度、お客様の接客をし終えたかたなし君がスタスタと歩いてくる。そして、躊躇なくわたしの前まで来ると、

「はあぁ~、せんぱい、撫でさせてくださいーー!」

 と言いながら、わたしの頭を撫で始める。丁度、その時、お客様からの呼び出しがあり、女性客だったので伊波ちゃんが「わたし、行ってくるね」と対応に行った。

 

 ――ああーー、もう! さっきまでどう口実付けるか悩んでいたのに、全部忘れちゃったよ! ああ、もういいや、とりあえず、直接本人に聞いて見れば良いんだよ!

「かたなし君、あのね! お願いがあるの!!」

「えっ、なんですか、せんぱい?」

「そ、その、伊波ちゃんとまた、デートして欲しいの!! ……ダメ?」

「えっ? 伊波さんとデート……ってまたですか? う~ん、そうだなぁ……まあ、凄く嫌って訳ではないんですけど、何か、俺が行きたいような理由がないと、せっかくの休日ですしねぇ……家事とか済ませたいですし……」

 わたしの頭から自分のあごに手を置いて、かたなし君が言う。

「そっかぁ……あ、そうだ! かたなし君、今どこか、行きたい所とかないの?」

 わたしはかたなし君の顔を見上げて言った。

「行きたい所……ですか? そうですね……例えば、せんぱいは何処に行きたいんですか?」

「そうだねーー、やっぱり、もうだいぶ暑い季節になってきたから、プールとか海かなぁ……?」

「海ですか、そういや、俺、海はしばらく行ってなかったのでちょっと行きたいかも知れません」

「ホントーー? じゃあ、伊波ちゃんと行ってきなよ!」

 やった! うまく行きそうだよ!

「そ、そうですね、まあ…………あ、じゃあ、せんぱいも一緒に来ませんか? その方か楽しそうですし」

 かたなし君は、パッと名案を思い付いたかのように、満面の笑みを浮かべて言った。

 えっ……。わたしも!? それって、デートの意味あるのかなぁ……。いや、でも。

 その時、丁度良く戻ってきた伊波ちゃんを引っ張って誰もいない隅に行く。そこで、

「伊波ちゃん……、あのね? かたなし君がデートOKって言ってるんだけど……わたしも来て欲しいって言うの、どうする?」と伝える。

「あ、え、わ、私も種島さんが一緒のほうがいいなぁ……その方が、何かと安心できるし……」

 伊波ちゃんは「二人きり」という状況でなくなったことにむしろ嬉しさを感じているようだった。

 

 ……うーん、本当はわたしが無理にでも二人きりにしなきゃいけなかったんだけど……でも、それがかたなし君の条件って言うなら……しかたないかな、わたしが二人の間を取り持つことも出来るしね……!

 

 

 ――そうして、後日、三人が一緒に海に行くことが決まった。この時はまだ、あの海に行った日を境に、彼ら三人の関係があれほど変化してしまうとは……この時の三人は全く予測しているはずもなかった。



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(2)  楽しかった行きのバス

3行開いた所で、ぽぷら⇒かたなし君 に視点が移動します。


「伊波ちゃ~ん!!」

 待ち合わせの公園に一足着いていた伊波ちゃんに声をかけた。

「あっ、種島さん! おはよー!」

 伊波ちゃんはソワソワした面持ちでいたようだ。私服は白のフリフリワンピースを中心に色々可愛くあつらえていた。

「今日、私服かわいーねぇ!」

「そ、そう? ありがとう……海に行くってことだったから、あんまり厚着してもと思って……」

「それにしても、今日は本当にわたしも来て良かったの? せっかくのデートだって言うのに……」

「え? 全然だいじょうぶだよ! だって種島さんが来ることがデートの条件だったんでしょ? それに、種島さんがデートを取り付けてくれたんだし……」

 

 申し訳なさそうに伊波ちゃんが言う。たしかに、わたしが来ることはかたなし君に言われたことだったけど、どうにか二人で行かせる方法もなかっただろうか? 何て、あれから思う事もあった。やっぱり、二人とわたしを含めた三人とじゃ、結構違うだろうし、伊波ちゃんはああ言ってるけど、多少無理にでも二人で行かせるべきだったんじゃないだろうかとも少し思う。

 ――そんなことを、考えていた時、丁度、向こうからかたなし君がやってくる。わたし達を見ると、少し焦って小走りで駆けて来ると、

「おはようございます、せんぱい! それと伊波さんも。ちょっと待たせてしまいましたか?」と言った。

「うんうん、わたし、15分前からここについてたし……」

 伊波ちゃんが言う。時計を確認すると、待ち合わせの時間の3分前だった。それからわたし達は、バス乗り場まで、一緒に歩く。バスが来るまではまだ10分以上ある。ここからそこまで5分もあれば着くので、話しながらゆっくり歩いた。

 

「海、楽しみだねー! 伊波ちゃん!」

「うん、そうだねー! わたし、昨日からわくわくして寝れなかったよー!」

「へー、伊波さんってやっぱり、子供っぽいんですね、俺より年上なのに」

「やっぱりって、何!? 小鳥遊君、わたしのこと子供っぽいって思ってたの!?」

「ええ、思ってましたよ。だって、伊波さんって歳の割に言動とかしぐさとか、子供っぽいじゃないですか」

「ガーーン! 種島さん、わたしは年下の男の子から子供っぽいって言われちゃったよ……ショックだよ……!」

「い、伊波ちゃん! そんな気にすることないよ! ……ホラ、かたなし君って、小さい子供とか好きなんだから……! 子供っぽいって思われてるってことは、好かれてるって事じゃないの?」

「えっ!?」伊波ちゃんが動揺して言う。

「はっ!? そっ! そんな、俺は無意識の間に伊波さんを褒めてしまっていたのか!? で、でも、せんぱい! 違いますよ! 『子供っぽい』と『子供』では、俺の中では雲泥の差があるんですから!」

 焦った様子でかたなし君が言った。

「で、でも、かたなし君、わたしのことは子供っぽいって思ってるんだよね?」

 わたしがかたなし君にそう聞くと、

「何言ってるんですか! せんぱいは『子供っぽい』じゃなく、『子供』なんです!!」

 力強い拳を握り締めてそう言った。

「ガーーン! 伊波ちゃん、わたしもショックだよ……」

 

 そうやって、三人で楽しく会話しながら、バスに乗り込む。

「ほら! かたなし君、伊波ちゃん! 後ろ空いてるよ?」

 わたしはそう言って、二人を後ろの席に誘導する。右端の窓際にかたなし君。真ん中にわたし。左に伊波ちゃんが座った。本当は伊波ちゃんはかたなし君の隣にしてあげたかったけど、さすがにそれをすると伊波ちゃんがかたなし君を殴るか、気絶するか、どちらにしても厄介なことになるだろう。

 実際、わたしを真ん中に置いたこの距離でも伊波ちゃんは、割といっぱいいっぱいのようだった。

 

 バスが走り出すと、車よりも高い位置から見下ろす光景になんだが、ワクワクした気分になった。いつもと同じわたしたちが住んでいる町なのに、こうして、バスに乗って、みんなと乗っているだけで見え方がまるで違った。休日でいつもより車通りが多いからだろうか。あるいは、この絶好の海日和と言えるほどの、晴天の空にあるのだろうか。『ブォーーン』『プシュー』と言った、普段聞きなれないバスの出すBGMに心を通わせているからだろうか。

 

「まったく、いい天気でよかったですねーー!」

 晴天の青空を見て、かたなし君が言う。

「うんうん! ほんと、絶好の海日和だよ!」

 窓側に身を乗り出してわたしが言った。

「ほんと、いい天気~~」

 伊波ちゃんも同じように思っているようだ。

「そう言えば、かたなし君、今日は家事とかしないで良かったの?」

 足をバタバタさせながらわたしが聞くと、

「ああ、そうですね、今日は天気が良いので、また、梅干してるんじゃないですかね、なずなが」

 と、かたなし君。

 なずなちゃん……梅干すんだ。

「あ、ねえ、種島さん。わたしね、今日クッキー作ってきたの? 良かったらどう?」

 そう、伊波ちゃんがゴソゴソとポーチからラッピングした可愛らしい袋を取り出しながら言った。「はいっ」と、袋をわたしに向けて差し出してくれる。

「ええー? これ、伊波ちゃんが作ったのーー? 凄い! 開けてみていーの?」

「うん、そんなに大げさなものじゃないけど……食べてみて、あっ、た、小鳥遊君も良かったら……」

 いつものように、赤面して伊波ちゃんが言うと、かたなし君は、

「あっ、俺もいいんですか? 丁度、小腹が空いていた所だったので助かります」

 と言って笑った。

 わたしは、クッキーを一つ手に取りそのままパクつくと、袋をかたなし君に渡す。

「お、おいしーい! まだ、温かいんだね!?」

 そのクッキーは、まだ温かくて、手作り独特の生っぽい素材の美味しさがあって、甘さ控えめなのに自然な甘みが引き立っていた。

「これは……プレーンクッキーなのに、やっぱり手作りだと、ここまで美味しくなるもんなんですね? 伊波さん凄いじゃないですか!」

 かたなし君にも高評価なようで、驚きなが言った。

「……そんな、クッキーって意外と簡単だから、そんなに凄くないよーー!」

「いや、それでもわざわざ作る人って案外少ないものなんですよ、その手間を惜しまないのが立派なんですよ」

「そ、そうかな……?」

 いつになく、褒めるかたなし君に伊波ちゃんは初めて見るくらいにのぼせていた。

 しっかり者が好きなかたなし君には、伊波ちゃんは性格の上では相性がいいのかもしれない。二人が素直になれば……案外、すんなり上手くいくような……そんな気がする。

 

 ――わたしは、二人の間を取り持つキーピットになれればいいなって、この時、本気で思っていたんだ……。

 

 

 

 ――なぜ、せんぱいは伊波さんを呼んだのだろう? そして、なぜ俺はせんぱいを呼んだのだろう? 俺はこれ以上にないほどの良い天気で晴れ渡る空を見ながらバスの重低音を聞いて思った。

 ただ、なんてことはない。その理由は分かっているのだ……大体は。ただ、俺は考えることを放棄しているだけ……。伊波さんの気持ちも、それを俺に気付かせようとするせんぱいの気持ちもなんとなく分かってしまっている。だけど、俺は気付かないふりを続けていた。実際に俺の勘違いかもしれないというのもあるし、なんというか、俺なんかで良いのか……とか、色々と理由をつけては、答えを示すのを避けているのだ。

 

 ふと、横に目をやると、せんぱいと伊波さんが楽しくお喋りを続けていた。女の子同士でしか分からない類の会話だった。俺は、一人、海までの到着時間ケータイを見たり、今回のデート(?)の計画を確認していた。

 今回の海の旅では、2時間ほどの時間をかけて、近隣の海水浴場までバスで向う。昼頃には着く予定なので、そこで、海に入って遊んで、遅い昼食として、外でバーベキューでもして、伊波さんの門限の6時までには帰れるように4時前の帰りのバスに乗って帰るのが今回の予定だ。バーベキューの道具は現地で借りて、食べるものは近くで買うことにしていた。

「…………」

 もう一度、二人を見ると、ついさっき程ではないものの、まだ二人で楽しくお喋りをしている。やはり、せんぱいを連れてきて良かった。俺一人では、こういう待ち時間とかに何を話して良いのか分からないものな……。俺は、姉3人と妹がいるおかげで、女性自体には別に免疫はあるけどもそれはやっぱり家族だからで、普通の女性(大半が年増の)にはやっぱり、何を話して良いのか分からない時がある。だから、せんぱいが伊波さんの話し相手になってくれるのは俺としてはとても助かっていた。

「……って、かたなし君! なに、一人でたそがれてるの!? せっかくなんだから一緒にお話しようよ!」

 そんなことを思っていた時、不意にせんぱいが俺に話しかけてくる。子供のようにぶー垂れるように俺を上目遣いで怒ってくるせいぱいは本気で可愛かった。……って、それはいいとして、せんぱいに気を使わせてしまったな。

「ああ、そうですね、でも俺も男ですし、たぶん、お二人の会話には参加できないと思いますけど……?」

「えーー? そんなことないよーー! だって、かたなし君の家族の話だよ!?」

「へ~~それなら、俺も参加……って! なんで、俺の家族の話をしてるんですか!」

 俺の隣でどうどうと俺の家族の話してたのかよっ。

「えっとねぇ~、梢さんが色々なこと教えてくれるとか~~」

「梢姉さんの話はやめてください」

 俺が言うと、

「えーー? じゃあ、誰が良いの?」

 せんぱいは困った表情でそう聞いていた。

「そうですね……じゃあ、一枝姉さんもだめだな……泉姉もアレだし……なずな……って、俺の家族って変人ばっかりだった!?」

 かろうじて許せるのが、なずなだが、それも違う意味で嫌だな。

「そんな、小鳥遊君の家、いい人ばっかりだったよーー?」

 と、小さい声で伊波さんが会話に参加する。

「そうだよ、なずなちゃんとか良い子だよねーー?」

 それに、便乗するようにせんぱいも言った。

「あ、いや、たしかになずなはそんなに変な奴じゃないですけど……俺の妹ですし……」

「まあまあ、かたなし君、結構、シスコンなんじゃないの? これはなずなちゃんルートのフラグだよ!!」

 せんぱいはたまに出るおばさんっぽい口調で言う。

「って、そんなわけないじゃないですか! なんですか! フラグって!」

「……あ、でも、なずなちゃん、この前、わたしに小鳥遊君のこと聞いてきたし……」

 伊波さんが言う。

「伊波さんまで! なに言ってるんですか……そりゃあ、なずなは妹だから大事にはしていますけど……」

「きゃー! めくるめく、妹との愛の逃避行! それはゆるされない禁断の愛だった!」

 伊波さんもノリノリで何言ってんだこの人は……。

「と、とにかく、なずなとは当たり前ですけど、そんなことはありませんよ、今後一切!」

「今後一切って……まるで、昔とか、ちょっと前まであったかのような言い方……きゃー!」

 ダメだ……この人、なんかスイッチ入っちゃってるよ、好きな恋愛小説の影響かなんかなんだろうか……?

 ――ていうか、俺も、伊波さんに言われたからって訳じゃないと思うけど、なんだか、本当に少し前までなずなと何かあった気が……? デジャブ!?

 

 ――まあ、そんな、くだらないけどその時は楽しい、そんな会話を三人で海水浴場に着くまでしていた。なんだか、せんぱいも伊波さんもいつものワグナリアにいる時とは違う一面が見えてなんだか、不思議な気分だった。



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(3)  見方が変わった夏の砂浜

「ふぅ~!」

 俺は一人、広大な海原を見ながら声を出した。照りつける太陽。心地よい微風。北海道にしては暖かい日で、本当に絶好の海日和だった。そうやって、海独特の自然の風に顔を当てて目を細めていた時、

「かたなしく~ん!」

 たったったっと、ビーチに笑顔を振り撒きながら俺の方に向って駆けて来るせんぱい。右手をいっぱいに上に伸ばして、その手を一心不乱にぱたぱたと振っている。俺は思った。せんぱいは本当に罪な子だと思う。だって、こんなに可愛いのに本人はそのことを全然分かってなくて……こうやって、今も不特定多数の人間に可愛さを振り撒いている。

 ――俺には見える。せんぱいの笑顔から発せられる『ぱあぁっ』と踊るピンクの花びらが。

「どう? かたなし君、このみず……」

「せんぱい! 可愛すぎです!!」

 せんぱいの言葉を待たずに感想を言ってしまう俺。

「え~~? あ、ありがと! ……でも、見てる? ちゃんと、水着……」

「えっ? 水着?」

 せんぱいの言葉を聞いて、よく、全身を見るとせんぱいは水着だった(当たり前だ。着替えていたんだから)ブルーのビキニで、上下とも紐で縛るタイプ。シンプルながら女性らしさを引き立てるデザインはせんぱいよく似合っていた。

「せんぱいによく似合っていると思いますよ」

「えへへ~~」せんぱいは照れくさそうに微笑んだ。

「あっ! 伊波ちゃん!」

 ふと、せんぱいは後ろを振り向いてそう言う。俺もつられて後ろを見ると、伊波さんが微妙な顔をしながらこっちに向っている所だった。

「ど、どうかな? た、小鳥遊君……?」

 そう言いながら、伊波さんはもじもじして髪を指でくるくる巻き付けて見せる。

 伊波さんの水着はオレンジのワンピースで子供っぽいプリントが入っているようなものだった。

「こっ……子供っぽい水着だって言うのは分かってるの……でも、その、サ、サイズとか……合うの、あんまり、ないっていうか、買いに行っても流行のやつしかないとか、もう、なんか色々で……」

 なんか、伊波さんはテンパリながら色々、言い訳を言っているようだった。だが、男の俺にはあまり意味はわからない。とりあえず……。

「似合ってると思いますよ、ええ」

 と言っておいた。

 伊波さんは照れているのか、挙動不審にその場を動き回っていた。

 それからはしばらく、自由行動ということにした俺達は各自遊びまわっていた。

 せんぱいはビーチで寝そべっている俺の前で伊波さんと一緒に水の掛け合いっこをしている。その光景はまるで、小学生の妹を相手する姉妹のようだった。「……ああ、せんぱい可愛いなぁ……」自然とそう口にしていた。照り付ける太陽、煌びやかに舞う水しぶき、そして、元気いっぱいのせんぱい。俺の目には今、せんぱいしか映っていない。海水を撒き散らすために元気いっぱいに手をバンザイするその姿が、俺の中でスローモーションのように遅く、鮮明に映し出されていた。

 

 ――そんな、無垢なるせんぱいの姿を見ていると、俺は自然と過去の先輩との想い出が脳裏に思い浮かんできた。

 

 ……せんぱい。出会ったのは、あの、冬の日。「バイトしませんか?」と、腰をつかまれ、振り向くと、そこにはせんぱいの姿が……いや、誰もいなかった。その後、目線を下に向けると、せんぱいが居たのだったか――。

 最初は小学生くらいの子が、ふざけて遊んでいるのかと思った。あと、迷子なのかとも思った。けど、すぐにそうでないと気付く。あの時のせんぱいは可愛かった(今もだけど)俺は、前から小さい物好きだったけども、せんぱいにいたっては特別とも言ってもいいレベルで、俺の可愛い物ランクの順意表を大きく荒らしたほどの逸材だ。あの時ノリで、『バイトします!』なんて言ってしまったけども、今思えばあれは運命だったのかもしれない……いや、運命だったのだろう! せんぱいを俺と引き合わせるための……!!

 

 ぼんやりと、そんなことを考えつつ、照り付ける紫外線を肌に浴びる。せんぱいと伊波さんの事を思い出し、前方に目を凝らすと、二人は泳いでいた。……よく、泳ぐ気になるなと思った。というのも北海道の海は結構冷たいのだ。北海道自体がそれほど暑くはないからである。しかし、ふたりは気持ちよさそうに泳いでいる。定期的に襲ってくる波を顔にかぶるのもお構いなしで「わ~~! つめたーい!」とか言いながら、楽しそうに泳いでいる。しばらくそうして、二人を見ていると、せんぱいと目が合った。すると、

「かたなしく~~ん!!」

 と、せんぱいは大声で俺の名を呼んでくる。

 だが、他のお客の手前、何も返さずに居ると、

「かたなしく~~ん!! 泳ぐと気持ち良いよ~! おいでよ~~!!」

 と、さらに俺を呼んでくる。よほど、気持ち良いのだろう。

「おいでよ~~!」

 と、更に少し、小さな声でせんぱいの左側にいる伊波さんも釣られるように言った。

 しかたないか、と、俺は重い腰を上げると海に向って歩き、足先を波に浸した。

「冷たいが……まだ、行けるか……」

 北海道にしては珍しく、気持ちのいい水温だった。そこで、調子に乗って腰くらいまで浸ってみる。

「うん、ちょっと、冷たいけど、これなら慣れればだいじょ――」

 ――ザバーーン!!

 その時、大波が俺を飲み込んだ。

「ぐはあぁ!?」

 アニメみたいにアホらしい声を上げてしまった。海水に顔をもみくちゃにされ、メガネが外れそうでやばかった。すぐさま、メガネを置いてきて、もう一度入る。

「ふうっ……これならもう、しんぱいな――」

 ――ざばばーん!!

「ごはあぁっ!?」

 漫画みたいにバカらしい声を上げてしまった。なんか、一瞬、海の底を見て、なんか暗くて怖かった。あと、ワカメがいっぱいいた。そして、海はしょっぱかった……。

「あれーー? かたなし君!? もっと、入ってようよ? 気持ち良いよ!!」

 敗戦を覚悟して海に背を向ける俺に対してせんぱいが引き止める。

「い、いえ、俺は……もう、無理です……心が折れましたから……!」

「そ、そんなぁ……、だって、やっと、波も高くなってきたんだし、これからだよ!? 面白いのは?」

 ……って、この人、波をかぶるのを面白がっているのか!!

「いえ……俺は……無理ですよ、せんぱい、この大波には勝てません! 俺はおっきな物は大の苦手なんです!」

 ――ザバババーン!!

「おべらばっ!?」

 また大波を受けて、転倒する俺だったが、せんぱいは、

「ふはぁ! 気持ち良いねーー!」

 楽しそうに波を受けていた。

 

 ――その後、早々に砂浜に非難した俺は、ビーチパラソルの日陰で、休んでいた。思ったよりも早くに着いたこともあり、まだ、時間は1時を少し過ぎた所で時間的にはまだ余裕があった。二人はまだ、楽しく泳いでいるようで、波とたわむれていた。

「…………」

 日陰にいると、ちょうどいい涼しさで、思わず、眠くなってきた。まどろみの中を漂っていると、遠くから小さな声が聞こえてきたような気がしたが、眠気に負けて、起きる気になれない。

「――しく~ん……」

「――たなしく~ん……」

 だんだん、大きくなる声。

 ……ああ、これはせんぱいの声だな。と、気付いたけども、やっぱり、まどろんでいた俺は起きようとはしなかった。

 ……だが、その時、事件は起きた。

 ――たったったったっ、どすっ!!

 だんだん近づいてくる足音と、目の前と思われる付近での砂に足を取られて転倒したかのような鈍い音と同時に襲い掛かったのは、俺の顔面への弾力圧力攻撃……もとい、バーレーボール大の二つの柔らかな双璧……もとい、つまりは、おっぱいだった。せんぱいの胸が俺の顔面にのしかかっていたのである。

 ……な、なんだ……!? この、やわらかさは……!?

 俺は、血の気数多に、一瞬にして目が覚めていた。先ほどまであった、まどろみなど、どこか遠くへ行ってしまった。梢姉さんによく、胸を押し付けられることはあったが、さすがに顔面へのこれほどの圧迫はなかったし、梢姉さんには悪いが、その心地良さは比べ物にはならなかった。とっさに上半身を上げ、せんぱいを見ると、

「……っと、ご、ごめーーん! かたなし君!! こ、ころんじゃった~~!!」

 と言い、いきなり倒れて、俺にのしかかってしまった事をペコペコと謝っている。正座で懇願する時のように両手を合わせていた。

「だ、だいじょうぶ?? かたなしくん!?」

 おろおろしながら、せんぱいが気を使う。

「い、いえ、いいんですよ……怪我も何もしてませんし……」

「……そう? ほんとにゴメンね?」

 上目遣いで、あくせくしながらと聞いているせんぱい。

「そんな、ぜんぜん、怒ってませんよ! ……というか、何をそんなに慌てていたんですか? 俺に何か用事でも……?」

 俺が聞くと、

「えっ? あ、忘れてた! えーっと……どこかな?」

 せんぱいはそう言うと、辺りの砂地をきょろきょろと見始めた。

「……なにか、探しているんですか?」

「うん……さっきね? きれいな貝殻を見つけたの……!」

 俺は、辺りを見回してみた。しばらく探していると丁度、俺の右手の死角になっていた場所にそれらしき物を見つける。

「もしかして、これですか? せんぱい?」

 手にかざして、せんぱいに聞いて見ると、

「あーーっ! それそれ! それだよぉー!! どこにあったの!?」

 せんぱいはまるで、親に欲しかったおもちゃをプレゼントされた子みたいな顔をして喜んだ。

「俺の手の陰にあったたみたいです」

 

 その、貝殻はたしかに綺麗な貝殻だった。巻貝のような派手さは無かったけれど、ほどよい空色と、海の波のようなウエーブ上の柄がとても素敵だった。俺の手の甲を一回り小さくした位の大きさで、裏は綺麗なクリーム色だった。この貝殻をそっと、せんぱいに渡す。渡す時に一瞬、手が触れあう。そんな、ありがちなことになぜか、せんぱいの指の感触を感じ、少し意識してしまう。

「……こうやって、耳に当てるとね……妖精さんの声が聞こえる気がするの……」

 

 そう言って、せんぱいは遠くを見るようにして貝殻を耳に当てた。せんぱいの言っていることは意味不明だったが、その、綺麗な貝殻を耳に当て、俺の目の前で正座をして、笑顔で遠くを見るせんぱいの姿こそ、妖精のように俺には見えた。

 

 ……可愛くて、……可愛くて、そして、先ほどのせんぱいの胸の感触、指の感触……それを思い出すと同時に、つい、目の前のせんぱいの胸に目が行ってしまう。白い綺麗な肌のふくらみと色鮮やかな青の布とのコントラスト。

 うっとりと、しながら貝殻の音を聞き続けるせんぱいをずっと凝視していては、俺は何かに参ってしまいそうになった。

「……あ、そうだ、そろそろバーベキュー始めますから、伊波さん呼んできてください」

 そう、この雰囲気を逸らすようにせんぱいに言った。せんぱいは「そうだったね!」と、我に返ったようにいつもの笑顔を見せると「じゃあ、呼んで来るね!」と、立ち上がり伊波さんの方へ向って走って行った。

 ――その時、俺は冷静を装ったが、内心では正直、先ほどのせんぱいの胸の柔らかな感触と、その後につい、直視しまったせんぱいのブルーのビキニで引き立った綺麗な胸のふくらみが脳裏に焼き付いて離れなかった。前を向いていても後ろを向いていても常にせんぱいの綺麗な白い谷間の映像が離れなかったのだ。俺は、せんぱいが思わず、置いていった綺麗な貝殻を拾いあげると、

「――せんぱいも……立派な、女性なんだな…………」

 と、自然に口をついていた。

 ――ハッ!! な、なにを考えているんだ!? 俺は! せんぱいはミジンコ……せんぱいはマスコットのような存在……で、恋愛感情なんて無かったのに……。この、今の気持ちはなんなのだろう……。どうしようもなく、ドキドキして、せんぱいの顔が頭から離れない……。せんぱいのことしか、考えられない……。

 

 間違えない。俺は、今、女性に目覚めている。そして、せんぱいに女性を感じている。

 

 この時、俺の中で『せんぱい』という存在が、大きく変わった。今までとは違う。せんぱいへの、見方が、大きく変わった。そんな、出来事だったのだ……。

 

 



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(4)  傷心娘と長身太郎

「伊波ちゃ~~ん!!」

 わたしは、一人で砂遊びしていた伊波ちゃんに声をかける。

「あっ! 種島さーん、どこ行ってたのーー?」

「えっ? ああ、ちょっと、かたなし君トコ……」

 ……伊波ちゃん。こんな所で砂遊びしてたんだね……一人で。

「えーー? わたし、気付いたら、種島さんいないから、どこ行っちゃったのかと思ってたよーー!」

 心配そうな目で、伊波ちゃんが言う。

「ご、ごめーーん! 伊波ちゃん! あっ、もう、かたなし君がバーベキューの準備してるから、ご飯食べよっ!? おなかへったっしょ?」

 そう言って、わたしは伊波ちゃんの手を取り、かたなし君の居る方に向う。

「そ、そう言えば、伊波ちゃん? どう? かたなし君と……?」

 砂浜を二人で歩きながらわたしは聞いた。

「え、えぇ~? どう……って。まだ、全然話せてないよぉ……! 最近、ちょっとは良い雰囲気なんじゃないかな……って、思ってるし、今の状況大切にしたいし……だから、あんまり……行動起こせないっていうか……」

「そんな……前にも言ったけど、伊波ちゃん……頑張らなきゃダメだよ……! そんなことだったら、かたなし君だって、他の女の子の方にふらっと行っちゃうかもしれないよ……?」

 いつも通り、はっきりしない口調で言う伊波ちゃんについ、強い口調で言ってしまう。

 ――現状維持も大事だと思うけど……はっきりしない伊波ちゃんもどうかなって思うよ……。

 

 だが、その時だった。伊波ちゃんは考え込むようにして黙った後、不意に足を止める。腕を掴んでいたわたしは必然的に引っ張られる形になった。わたしが、軽く手を引っ張って見せても、伊波ちゃんはその後も動こうとせず足が砂にめり込むだけだった。

「どうしたの……伊波ちゃん……?」

 不思議に思い、わたしが聞くと、

「……そう……だよね。わたしみたいにはっきり、好きって言えない子なんて……小鳥遊君だって、嫌いになるよね……?」

 急に震えた声で言う伊波ちゃん。

「あっ、え、いや、そんなことないよ! 伊波ちゃん! かたなし君だって、伊波ちゃんのこと、好きになるって……!」

「そんなこと言って……本当は、わたしを騙して、あなたが狙ってるんじゃないの!? 小鳥遊君のこと……!」

 ……わたしが、かたなし君のこと……?

「そ、そんな! 違うよ! 伊波ちゃん! わたしは……かたなし君のことなんて……」

 ――嫌い……じゃないけど。

「はっきり、言ってみてよ! 『嫌い』って! ほら、言えないの……!? やっぱり、小鳥遊君がふらっと、行っちゃう子って、種島さんのことなんじゃないの……!?」

 伊波ちゃんの目からは、ぽろぽろと涙が流れる。その涙は、海水浴場のわいわいとした雰囲気とは、けして交わらないほどに、孤立していた。

「伊波ちゃん……ごめん……」

 なんて言って良いのかわからない。今の伊波ちゃんに……かける言葉が見当たらない。

「なに……? ごめんって、今日だって、わたしより、小鳥遊君と話してたじゃない! 楽しそうに……!」

「だって……それは……伊波ちゃんとたかなし君の仲を取り持とうと思って……」

 

 なんだか、わたしの方も泣きそうになってきた。伊波ちゃんの……伊波ちゃんの気持ちが……今になって、心にのしかかって、鉛のようにわたしの心を重くしていた。

 わたしは、甘かった。とても……。伊波ちゃんの気持ちなんて全然分かってなかった。逃げているだなんて、思っていなかったんだ……伊波ちゃんは。

 ……そんなんじゃなかったんだ。伊波ちゃんは本気で――わたしが思っていたよりも、本気で、小鳥遊君とのことを考えているんだ……。

 

 当たり前だ。当事者が、一番、真剣だ――。

 わたしは伊波ちゃんへの配慮が、大きく欠けていたことに気付き、胸が強く締め付けらる思いがした――。

「伊波ちゃん! 本当にごめん! わたし、伊波ちゃんの気持ち全然分かってなかった! ごめんね……?」

 思わず、涙が出てしまう。伊波ちゃんと同じくこの場には、酷くそぐわない涙が――。

「……あっ、種島さん……泣いて……」

 わたしの涙を見ると、伊波ちゃんは、目を丸くしてうつむいた。そして、一瞬、恥ずかしがってから、手の甲で涙を拭くと、

「あっ……やだ、わたしったら! その……ちょっと、不安になっちゃって……お、思っても無いこと言っちゃったみたい……! ごめんなさい! その……今言ったこと、全部……忘れて? 種島さん!」

 そう、笑顔を無理に作った顔で伊波ちゃんが言った。

 だけど、わたしには分かっていた。さっきのは、伊波ちゃんの言いたくても言えなかった本音だったってことは。でも、伊波ちゃんがそう言うのなら、わたしは忘れようと思う。忘れたふりは……しようと思う……。

 

 会話の無いまま二人で歩き、かたなし君の所に着くと、すでにかたなし君が、準備をしている最中だった。よく見ると、食べる食材は既に置いてあるようだった。

「えっ! はや~い! もう、材料買ってきたの!?」

「あっ……せんぱい! 遅かったですね! 実は、近くに丁度よく食材を売っているお店を見つけまして、結構値段も手頃だったので、まとめて買ったんですよ」

 かたなし君が、バーベキュー用のコンロを設置しながら言う。

「いやぁ、ラッキーでしたよ! なんか、ほんとに割りと安く買えて、思ったより出費が抑えられました! えーーと、みんなで、割り勘でいいですよね……?」

 機嫌良さげに、かたなし君が矢継ぎ早に話す。わたしは、なるべく笑顔を装い、自然に見せたが、かたなし君は、わたしと伊波ちゃんを交互に見たあと「どうしたんですか?」と、不思議そうな顔で言った。

 わたしと、伊波ちゃんとの、微妙な距離……そして、伊波ちゃんの落ち着かない様子から、察したのだろうか……。

「もしかして、お二人……なにか、あったんですか……?」

 以外にも……? 鋭い、かたなし君。伊波ちゃんに問い詰めるように手を止めて言った。

「な、な……なんでもないよ!? かたなし君!?」

 わたしは、つい、耐え切れずに言葉を発した。

「すいませんが、せんぱいは黙ってて……伊波さんに聞いてます……!」

 

 かたなし君は手でわたしを制すると伊波さんの方を直視して言う。伊波ちゃんはといえば、相変わらずうつむきながら、口を閉ざしていた。だが――。

「な……、なんでもないよっ……どうしたの? 小鳥遊君? 怖い顔して……?」

 何秒かの沈黙のさなか、そっと伊波ちゃんが口を開き、いつも通りの笑顔で言った。

 それを、合図にかたなし君の顔も緊張が解けたようにゆるまり、

「……どうやら、俺の勘違いだったみたいですね! それじゃあ、せんぱい、伊波さん! お腹も空きましたし、早く、食べましょう?」

 と、材料をテーブルの上に置くと、晴れたような笑顔で口にした。

 

 ――バーベキューが始まる。みんなにならって水着の上からシャツを羽織った。エビやイカなどの海産物はもちろん、焼肉も数多くあった。

「こんなに食べきれないよ~~!」

 網の上、いっぱい食材が踊っていた。

「あまったら、三等分して持ち帰りますから大丈夫ですよ!」

 かたなし君が言う。

「このエビおいしーー!」

 伊波ちゃんも、先ほどのことは忘れたようで、豆乳片手に、一心不乱にご飯をほお張っており、バーベキューを満喫していた。

「あっ! せんぱい、ジュース足りてます?」

「ああ、かたなし君、わたしが家から持ってきたジュース取ってくれる?」

「えっ? ああ、この袋ですか?」

「そうそう、それ!」

 わたしが指差した袋の中身を、かたなし君はゴソゴソと漁ると、

「うわっ! 何ですかこれ!? なんか、変な飲み物っぽいの入ってますけど!?」

 と言って、驚いたようにしてみせる。

「変なものじゃないよ!!」

「え、えーっと『カルシウム100%長身太郎、ミラクル乳酸菌味』……なんか、謎の飲み物出てきましたよ!?」

「謎じゃないよー! それ、案外美味しいんだよ! 一本252円(税込)も、するんだから!」

「うわぁ、なんですか、そのリアルな値段!」

「前に、折り込みチラシであったの!! それ、凄いんだよ! 飲んだ人の身長が3ヶ月で、6.2センチも伸びたんだって!!」

「うわ、それ、なんだか、見なくてもそのチラシどんなのか、凄い頭に浮かびますよ……! たぶん、写真二つの間に矢印とかあって、ギザギザしたようなふきだしの中に『6.2センチアップ!』とかって、書いてて、彼女もゲットしました! とか、書いてあるんでしょ?」

 

 そう言って、かたなし君は一緒に持ってきたわたし愛用のコップにその『長身太郎』を注ぐと、わたしに渡した。

「すごーい!! かたなし君! なんで、見てないのにわかるの!?」

「せんぱい……それ、たぶん……効果な……」

 かたなし君は、尻つぼみに何か、言おうとして……やめた。わたしは渡されたそれを、一口飲む。

「…………? ああ、うん、でもね、これほんとにおいしーの!! 効果はあるかどうかは……わかんないんだけど、美味しいからはまってるんだよ!」

 わたしが、言うとかたなし君は、「ほんとですか……?」と、疑った眼差しだ。

 むう……本当に美味しいのに――。

「ホラ! かたなし君! 一口上げるから、ちょっと飲んでみてよ!」

 見かねたわたしは、かたなし君にわたしのカップを差し出した。

 わたし愛用のカップを差し出されたかたなし君は、「えっ?」っと、言わんばかりの表情で驚いてみせた。

 えっ……? どうしたのかな……?

「ほら! どうしたの? かたなし君?」

 そう言って、もう一度カップを差し出す。

 すると、「それじゃあ……」と、かたなし君が、わたしのカップを受け取る。かたなし君の左手は小皿で塞がっていて、右手に手渡した。かたなし君は、取っ手付きのそのカップを持ちながら、なぜか、真剣な表情で見つめている。……どうしたのだろうか?

「その……」

「どうしたの? 早く飲んでみて!」

 何か、言いかけたかたなし君につい、そう言って急かすわたし。

 すると、かたなし君は諦めたような、意を決したような表情をした後、ゴクッ――。っと、喉を鳴らして『長身太郎』を飲み干した。そして、

「あっ! は、はいっ! せ、せんぱい……!」

 なぜか、急にあくせくしてカップをわたしに返そうとする。

「えっ……? かたなし君、入れてから渡してよ」

「えっ? あ、ああ、そうですね!」

 そう、わたしが言うとかたなし君は焦りながらジュースを手に取り、カップに注ぐ。焦りから、左手に持ったカップが揺れ、今にもこぼれそうになっていた。

「……それで、味は? 美味しかったでしょ?」

 わたしが聞くと、

「あ、味なんて、分かるわけないじゃないですか……!?」

 なぜか、赤い顔をしながら大声でかたなし君がそう言うと、意味深に横を向いて唇に手をやった。

 

 そんな、不思議な出来事があったりして、なぜだかそれ以降、かたなし君はわたしに対して目を合わせないようにしている気がした。受け答えも「そうですね」とか「ええ……」など、短く素っ気無い。いつものような、余裕が無くなり、何か、心ここに在らずといったような感じにわたしには見えた。

 

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎて行き、気が付くと帰りのバスの中だった。行きの時に比べ、日は落ちていて、人も少ないことからバス内は静けさに満ちていた。わたし達は、左の後ろのほうの席に座ると、疲れからか、3人ともあまり喋らずにいた。だが、バスが発ってしばらくすると伊波ちゃんとかたなし君が、楽しく喋りだした。

 行きと違い今は、かたなし君の間にはわたしはいない。さっき、伊波ちゃんに言われたことが気にかかったからだ。

 

 ――だが、二人は特に問題なく、話をしていた。伊波ちゃんがかたなし君の前の席に座り、後ろを見ないようにしていたからである。

 いくら、男の人が近くにいても、見なければ問題ないという所だろうか。わたしが気を回さなくても、本人が何とかするということにわたしは気付くと、何か、自分のしていたことがひどく馬鹿らしく思えてきて、自分がでしゃばっていたような気がして、ちょっと堪えた。

 わたしの方が、かたなし君に近い席の、『隣』に座っていたものの、心の距離は何百キロも遠くに離れているような気がした。

 

 背がもう少し大きかったら、かたなし君もわたしと目線が合って、もっとわたしを見てくれただろうか……? 気分が滅入ると、そんな分かりきった自分の欠点も関係があるような気になってしまう。そんな風に鎖のような心のマイナス達が、繋ぎ合わさるようにして、わたしの心を犯していっているような、そんな、重たい気持ちになった。



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(5)  チーフの機転とぽぷらの転機

「か、かたなし君……おはよ……っ」

「おはようござい……せんぱ……」

 後日、ワグナリアでのこと。

 この前の海に言った日から、初めてかたなし君と一緒のシフトの日だった。

 ワグナリアでは、今まで通りでいられると……そう、思って声をかけてみたのだけれど、かたなし君は、わたしの挨拶に対して、小声で目を合わせずに言った。

 ……どうしちゃったんだろう。かたなし君……。なぜだか、この前の海の日からわたしを避けているような気がする……。

 ……もしかして、わたしのこと、もう、飽きちゃったわけ? もう、どうでも良くなっちゃったわけ?

 ……って、何考えてるんだろ……。わたし。かたなし君の彼女でも、あるわけじゃないのに……。

 あっ……。そっか、伊波ちゃんと上手く行ってるんだね……。そっか、そっか、それなら、安心だよ……。安心……。……むぅ。

 ――なんだろう。この、胸の中のもやもやした気持ちの正体は……。

 

 結局の所、この日、かたなし君とは仕事関係以外で話すことは一度もなかった。かたなし君は、わたしと目を合わさず、口早に必要事項を伝えるとわたしから遠ざかることが多かった。

 

 

 

 ――俺は、店を出るといつも通りの帰り道を歩き出した。

 最近、せんぱいに前までのように接することが出来なくなっていた。あの、海でのことがあったからだ。せんぱいを女性として意識してしまった、あの、海。

 その後、少し、冷静を保って見せたが、あの後のカップを渡された時のこと以降はさすがに恥ずかしくてせんぱいの顔をまともに見れなかった。

 

 ――あの時、左手が塞がっていて止むを得なかったとはいえ、せんぱいと間接キスをしてしまった……。その時のことが今でも気にかかり、せんぱいの顔をまともに見ることが出来なかった。せんぱいは、何とも思っていないようだった。そりゃ、そうか。意識しているのは俺だけなんだから。

 くう、しかし、前までの俺は何だ……。あの、せんぱいを大声で『可愛いー!』なんて、言いながら、頭撫でてたのかよ! 失礼すぎるだろ!? 俺!!

 くそう……。せんぱい……せんぱい……! 可愛い……可愛すぎる……! なんで、今まで気付かなかったんだ……! いや、気付いてたけど! ……もう、ダメだ! ……俺は……せんぱいを……もう、完全に好きになりすぎている……。

 

 元々、せんぱいに好意はあった。でも、恋愛感情は全く無かった。けど、こうしてせんぱいを女性として認識してしまった今では、その感情が愛情にシフトするのは、むしろ、自然なことなのだろうな……。まあ、そんな、冷静に分析した所でどうにもなるワケじゃないのだが――。

 それにしても、暑いな。もう、夏だ。今日も天気が良い……。何気ない帰り道を一人歩き、そう思った。

 

 

 

 わたしはワグナリアに仕事に行く途中の道をトボトボと歩いていた。あれから、何日か経ったけど、状況は変わっていなかった。

 

 かたなし君は相変わらず前みたいに、わたしを撫でることは無くなり、会話自体も少なくなっていた。

 子供扱いされなくなったっていうのは、良い事だけど……なんだか、やっぱり、さびしいな……。なんだろう……。最近、かたなし君のことばかり考えている。

 わたしは……かたなし君をどう思っているのだろう……? ふと、そんなことを考えてしまう。真面目に考えながら、しばらく真っ直ぐ歩いていると、気付けば曲がるべき道を一本通り過ぎていたことに気付く。わたしはきびすを返し、来た道を戻った。

 

 ――店に着く。わたしは、惰性で更衣室に入り、ロッカーを開けると仕事着に着替えた。その後、トイレの鏡で髪を確認し縛り直す。まだ、働く時間には少し、早かったのでいつものようにそのまま休憩室に居ると、八千代さんが何やら、わたしの方を見ながらたどたどしい様子で休憩室に入ってきた。わたしのことで何かあるのかな? と思ったわたしはなんとなく息を飲んで、何かと待った。

「あ、あの、ぽぷらちゃん?? ちょっと、お話があるんだけどいいかしら?」

 八千代さんは、そう言って、慌しくイスを引くと、わたしの前に座った。

「は、はぁ……なんですか? 八千代さん」

「えっとね……? 最近、ぽぷらちゃん、なんか元気が無いみたいだったから……どうしたのかなと、思って……」

 そっかぁ……八千代さんは気付いてたんだ……そ、そうだよね……心配かけちゃったな……。

「わ、わかるかな……? 八千代さん」

「わかるわよぉ……! だって、ぽぷらちゃん、最近、なんだか誰ともあまり、喋ってないみたいだったし……今だって元気ない」

「あ……あははは……」

 笑って誤魔化すことしかできなかった。前までの自分……それが、思い出せない。たしかに前は、わたしはもっと笑っていた気がする。何か、一つ、線がプツンと切れてしまったような、そんな感覚一つで、人はこうも変わるのだなと、ふと、そんなことを思った。

「やっぱり、小鳥遊君とのこと?」

 ふいに、八千代さんが言った。

「えっ!? な、なんでわかるの!?」

 びっくりして、とっさにそう答えてしまう。

「だ、だって、小鳥遊君、最近、ぽぷらちゃんのことを可愛いーって言って、撫でているところ全然見てないんだもん……」

 ま、まさか、八千代さんが気付いていたなんて……意外だよ!

「い、いつから気付いてたんですか……?」

「そうねぇ……というか、相馬君がね、何日も前からそう言ってたんだけど、その時はたまたまだと思って、あまり気にしてなかったの。でも、そう言われて、次の日から観察してると、たしかに撫でてないみたいだったし、ぽぷらちゃんの元気が日に日に無くなっていくじゃない?」

 

 八千代さんはそう言って、口元をほころばせた。

 他の人から見てもわたし、元気なくなってたんだ……。自分でもあまり気付いていなかったことを他人に指摘されると何か、少し恥ずかしい気持ちになった。

「ねぇ……ぽぷらちゃん? おせっかいかもしれないけど、小鳥遊君と……何かあったの?」

 普段見えない目を少し見開いて八千代さんが言った。

「かたなし君と…………わかんないの……何があったのかも……でも……今のままはいやだから……ちゃんと話してみたいって、思ってる……!」

 震える声で、わたしがそう言うと、八千代さんはクスッと笑い、

「そう……ぽぷらちゃんの気持ちはよく分かったわ、それじゃあ、今日はあなた達、同じ時間に上がりだから店が終わったら、ここで少し話し合ってみなさい……? ね?」

「で、でも……かたなし君はわたしをさけて……」

「それは、私が何とかするから。いいチャンスじゃない!」

 そう言って、八千代さんはテーブルの上に置いていたわたしの手を握ってくれた。わたしの手より大きな八千代さんの手からは温もりを感じた。その温もりから元気も一緒に貰ったような気がした。

 今日の、仕事上がり……か。よし……! その時……話してみよう。かたなし君がどうしちゃったのか、わたしのことをどう思っているのか……。

 

 

 

「小鳥遊君! 今日は、お仕事終わったあと、何か用事でもある……?」

 ふいに、チーフにそんなことを聞かれた。俺は、「いえ……」と返事をするとさらにチーフは、

「じゃあ、今日お仕事終わったら、休憩室で待っててくれない? ちょっとお話があるの!」

 と、にこやかに言う。

 どうしたんだろう……。チーフが俺に話があるなんて、おかしくないか……?? そんなこと、今まであっただろうか、いや、ない。まさか、佐藤さんとのことで相談とか? いや、違う相談するとしたらそれは佐藤さんの立場か。でも、佐藤さんが俺にそんなことを相談するなんて、絶対無いよな……って、今は関係ないな。ていうか、あの二人はどこまで進んでいるんだ? そこからして知らないんだが……!?

 

 八千代さんに言われた謎の「お話」が気になり、俺はこの日、そればかり気にしながら仕事を進めていた。幸い今日はそこそこ忙しく、仕事に没頭していればあまり、余計なことを考えずに済むのだった。特に最近は、まだ、せんぱいを必要以上に意識してしまってあまり、顔を合わせたくないのが実情だ。前までは『可愛い』で済んだこの気持ちも今では、頭の中でそう思うだけで顔が赤くなってしまう。まるで伊波さんだ。もう、伊波さんのことは馬鹿には出来ないな。せんぱいには悪いが、せんぱいのことは今日も避けさせてもらう。今日は金曜だから。今日を乗り切れば、休みに入る。来週の月曜までシフトに入っていないので、3日間はせんぱいと会わなくて済む。その間にせんぱいともう少し、冷静に応対できる自分になっておきたいものだ。

 

 ――気付けば、今日も上がりの時間になっていた。

「お疲れ様でーす!」まだ、キッチンで後片付けをしている佐藤さん、相馬さんに挨拶をし、俺は更衣室に向った。さて、今日はさっさと帰ろう。そして、せんぱいをさっさと距離を置いて、一度冷静になるんだ。そんなことを考えつつ、更衣室を出ようとドアノブに触れた時。……ん? なにか、忘れているような……?

 ――あっ。そ、そうだ。チーフと約束していたのか……!

 うわぁ、何だろう、ていうか、今の今まで本気で忘れてたよ……。

 ……まあ、しかたない。約束だし……行くか……。

 

 そんな感じでなんだろうとソワソワしながら、休憩室の扉を開ける。

「チーフ、来ましたよー! 話って何です……か……」

 歩きながら、そう言い、テーブルを見ると、俺はその場で固まってしまった。その場にいたのは、チーフではなかった。そこにはなぜか、今は顔を合わせたくはないせんぱいが不安げな表情でちょこんと座っていた。

 だ、だめだ。まだ、俺はせんぱいを目にすると、やばいんだ……。緊張してしまう。

 俺は咄嗟に、きびすを返して出口に向った。だが、そこにはどこから現れたのか、チーフが出口の前で立っていた。

「ち、チーフ! なんなんですか!? これは! 話があるのってチーフじゃなかったんですか!?」

「た、小鳥遊君! 落ち着いて! えっとね、最近、二人がなんか、仲良くないみたいだったから……ぽぷらちゃんに聞いてみたら、話がしたいって言うから、私が取り繕ったの……!」

「な!?」

 まさか、チーフにまんまと騙されたとは……。まったく……。しかし、そうだったのか……せんぱいは俺と最近話していなかったことを気にして……。

 ――考えた末、俺はせんぱいの待つ、テーブルへと向った。チラッと、せんぱいを確認し、せんぱいの正面の席に、少し横を向いて座る。

「かたなし君……その……迷惑だった?」

 恐る恐ると言った表情でせんぱいが、そう口にした。せんぱいも緊張しているのか、気まずいのか、自信なさげにあちこちに視線を逸らし、元々小さい体を更に小さくして縮こまっている。

「えっ……? め、迷惑だなんて思ってませんよ! なんで?」

 反射的に俺が言うと、

「だって、かたなし君、最近、わたしのこと避けるじゃない? ……その……あたまも撫でてくれないし……」

 恥ずかしいのか、ボソボソと、下を向きながらせんぱいが言った。最後の方は尻つぼみにほとんど聞こえない位の声量だった。

 

 ――うっ、可愛いな……せんぱい……今のは……キタ……。

 というか、そうだったのか……俺が最近、あまりほっといてばかりだったから……拗ねてる……のかな……? ま、マジで? 拗ねてるせんぱい、超可愛ええーーー!!!

 ――って、そんなこと、考えている場合ではない! 割とマジに!

「わ……わたしのこと、嫌いになったの……?」

 何も答えない俺に対し、不安を感じたのか、せんぱいがそう口にする。震える瞳に、チラチラと上目遣いで言うせんぱいに俺は目を合わすことが出来ない。

「あ、えーっと、その、最近ちょっと忙しかったって言うか……あの、せんぱいを嫌いになったわけではないですよ……?」

「ウソ! だって、ここの所、毎日、わたしのこと避けてたじゃない――。仕事のこと意外では何も話してないよ!」

 まさに、その通りであったのだが、さすがに、せんぱいを恋愛対象と見てしまって好きになりすぎて、近くに居るだけで色々抑え切れそうに無くてやばいとか、そんなこと言えるわけが無い。

「あーー、いや、それは、色々、忙しかったんですよ、ええ、まあ」

 全然、なっていない言い訳をし続ける俺であった。

「そんな……わたし……さびしいよ……前みたいに、わたしにかまってよぉ!!」

 駄々をこねる子供のような表情でせんぱいが言う。久しぶりに至近距離から見つめられて、心臓がドキッとする。いつも背丈の差から、距離のあるその瞳が、こう、イスで向かい合っている状態だと、上からあしらうこともできず、より対等な立場になっているような気がした。

 

 俺の、動悸は激しくなる一方だ。せんぱいの伝えたいことは何やら、俺への好意のそれに近い。そのため、ちょっと期待をしてしまう俺だったが、

「その……伊波ちゃんとのことだって、上手く行ってるか気になるし……」

 突然、しおらしい声で言うせんぱい、心なしかその頬が赤くなっている。

 その言葉によって、俺の気持ちは落胆するのだった。

 け、結局、伊波さんとの仲が重要なんだな……せんぱいは……。

 自分への好意だなんて勘違いは恥ずかしかったが、冷静を保つには都合が良かったのであった。

「伊波さんとは……まあ、現状維持でしょうかね……」俺が言うと、

「そ、そう……あ、いや、本当にそうか確かめるために……かたなし君の家で会議だよーー!」

 相変わらず、少し顔が赤いせんぱいだったが、急に元気になると、そんな訳の分からないことを言い出した。

「えっ? 会議って……せんぱいと伊波さんが、俺ん家に来るって事ですか……?」

「い、いやーー?? わたしだけだよーー?」

 なんでだ!? なんで、俺と伊波さんとの仲を上手く行かせるためにせんぱいだけが家に来るんだ!? ……わからない! ……だが、何かせんぱいに考えがあるのかもしれない。伊波さんには言えない秘策とか……? しかし、どちらにしても無理だ。せっかく、せんぱいと距離を置けるっていうのに、自分からせんぱいを家に呼んでどうする!? 

「せんぱ……やっぱ、む……」

「じゃあ、明日が丁度、わたし空いてるの! ね! 明日にしよう?」

 まくしたてるようにせんぱいが言う。先ほどまでのシリアスな雰囲気はどこに行ってしまったのか、せんぱいはウキウキした様子で、もう、ぴょんぴょんとその辺を飛び回っている。ちなみに比喩ではない。本当に跳ねている。

 

 そんなせんぱいの様子を見ていると、俺は断ることは出来なかった。例え、せんぱいが俺の事なんか眼中に無くても、例え、俺が今せんぱいの近くにいるだけで、伊波さん並に上がってしまって、殴らないけど、どうしていいかわからなくなるような状態でも、それでも、断るという選択肢は粉砕され尽くされていた。せんぱいの可愛さによって、全て。

 

 ――話が終わり、帰るため、休憩室の扉を開ける。扉の前で俺達の話を聞いていたチーフが俺の顔を見て「クスッ」っと、笑ったように見えた。

 

「じゃあね~! かたなし君! 明日ね~!!」

 元気いっぱいのせんぱいが、ぴょこぴょこと手を振り、帰って行った。

 俺は、冷静を装いながらそんなせんぱいを見送り、自分の家への帰り道に足を向ける。

 ――ふう。一人で帰り道を歩きながら、一息つく。さっきまで、冷静を装っていたが、実際は内心、緊張で居たたまれなかった。自分で頬を触ってみる。熱い。おそらく、少し赤面していたのだろう。

 ――ああ、チーフは、これに気付いたのか。

 チーフには色々と気付かれてしまったかもしれない。あの人は自分のこと以外は普通程度には鋭いからな……。

 チーフの、微笑を脳裏に浮かべ、今以上に頬が熱くなった。……それにしても熱い。今日も天気がいいのだろう。

 



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(6)  ライバルはなずな??

「ただいまー! お兄ちゃん」

「ああ、ただいま、なずな」

 笑顔で、玄関の前に立つなずなに迎えられ俺は自宅に入る。

 小うるさい梢姉さんを、いつも通り適当にあしらい、俺は晩御飯の支度をするため、キッチンに着いた。

 

 ――冷蔵庫を開けると、入っているものはもやし……鶏肉 (むね)……後は、卵に牛乳……玉ねぎ一玉……。今日の献立は麻婆もやしにしよう。

 献立を決めた俺はご飯がもう少しで炊き上がるのを確認し(ご飯はなずなに頼んであるのだ)早速、準備に取り掛かった。

 冷蔵庫で若干、干からび始めているしょうがとにんにくを取り出す。チューブのやつじゃない、生のものだ。これらの皮を向き、包丁でみじん切りにする。量は少し大め。長ネギがないので玉ねぎで代用。これもみじん切りにする。鶏肉は包丁でミンチにしておく。これらの準備が整ったら次の作業だ。

 フライパンを熱し、なずなが買ってきた徳用ごま油を回し入れ、温度が十分に上がった所で、しょうがとにんにくを入れ、その30秒後に玉ねぎを入れる。玉ねぎに少し、色が付いてきたらミンチにしておいた鶏肉、水少々、しょうゆ、ソース、豆板醤、甜麺醤を入れ、味を付ける。鶏肉に火が通ったら、もやしを投入。サッと火を通した所で水溶き片栗粉でとろみを付けて完成だ。

 

 もやしの火の通し加減が重要である。通し過ぎるとクタっとなり、通しが甘いと生っぽくなる。なずなが辛いのが苦手なので豆板醤は少なめにしている。安い食材でも工夫次第でそれなりに美味しいものが作れるのである。

「よーし、出来たーー」

「あっ、お兄ちゃん、なずながやるよぉ……!」

 麻婆もやしを皿に盛りつけようとした時、なずながそう言って、俺の手伝いを買って出た。最近はなずながこうして色々手伝ってくれることが多い。身長が俺と並んだ成長ぶりにはショックだったが、こういった成長は素直に兄として嬉しい所があった。

 

 俺は、人数分盛り付けしたおかずを、そのままテーブルに運ぶなずなを横目で見ながら冷蔵庫の作り置きのスパゲティサラダを取り出す。それを入れる小皿を持って来ようと、食器棚を見ようとした時、

「あっ! お兄ちゃん、小皿も出しといたからねー、ホラそこ!」

 と言って、なずなが台所の脇を指差した。

 俺はその皿を取って、サラダを盛り付けながら思った。

 本当になずなは気が利くな。姉さん達が自分勝手な性格ばかりだからだろうか。それを反面教師にした結果なのだろうか……? 何にしても大事な妹の事だ。家では親役である俺の監督責任は大きい。ぜひとも幸せになってほしい所である。

 

 ――晩飯の時間が終わった。姉さん達は散り散りに自分の部屋に戻っていく。ちなみに麻婆もやしは割と好評であった。いつものように惰性で食器を洗い始めた俺に、テーブルを拭き終えたなずなが、俺の隣に並ぶ。「えへへっ」っと、意味不明の笑顔を浮かべ、ひょいと、流し場に重なっている食器を手に取った。

「いいのに。俺一人でやるから」

「えっ? 遠慮しないでよ! お兄ちゃん、なずなにおまかせだよ!」

 何が楽しいのか、なずなは笑いながら食器を洗う。

「――雨降ってきたみたいだねぇ……天気予報では雨なんて言ってなかったけど」

 ふいになずながそう言うので、俺は顔を上げて外を見てみた。もう、時間は午後7時を回っていて、辺りもだいぶ暗くなってきていた空からは、たしかに土砂降りとまではいかない物の小雨とも言えない位の雨が外で音を鳴らしていた。

「あーーあ、もっといっぱい降れば、明日の体育、体育館でドッジボールになるかもしれないのになぁ……」

 はあ、と溜息をつきながらなずなが言う。

「なんだ? なずな、明日の体育は外でマラソンかなんかなのか?」

「そう! よく分かったねぇ! お兄ちゃん! そうなんだよー!! なずな本当はドッジボールがやりたいのに~~!」

「ハハハッ! なずなはドッジボールが好きなのか! 雨が降ってグラウンドが使えなくなれば、中で球技確定ってことか」

「いやいや、球技だったら何でも良いって訳じゃないんだよー!」

「えっ? どうして?」

「だって……バレーボールやバスケだったら、背の高いなずなは期待されまくっちゃってプレッシャーかかりまくりなんだよ~~!」

 ああ、なずなって小学生の中では長身だもんな……。

「でも、ドッジボールでも同じじゃないのか?」

「いや、ドッジボールだったら、体が大きい分玉を避けにくくて有利じゃないんだよぉ……」

「なるほど……」

 

 たかだか食器を洗うという一つの家事をこなすだけの事が、こうして妹と二人でやると、俺もなぜだか、遊びみたいに楽しい気分になってきてしまう。普段は聞けないこんな妹の話を聞けたりもして……結構、面白い。こんなことで人間って小さな幸せを感じたりする。そんな風に思うと……人間とは不思議な生き物だな――と、ふいに思うのだった。

 

 晩御飯の後片付けを終えて居間でイスに座り、風呂に入る順番待ちをしている間……俺は、ふと気付けばせんぱいの事を考え込んでいた――。

 

 せんぱいの事を意識してしまったのはやはり、あの海での出来事が皮切りだろう。それまではなんていうか……可愛すぎて、正直、女性として見ていなかったという節がある。可愛すぎて、と言えば、矛盾しているようにも聞こえるが、俺にとって、普通の男が言う女性に対する『可愛い』と俺の中の『可愛い』は全く別物で、俺の中の『可愛い』は言うなれば自分の好きな物に対する気持ちであり、ゲームが好きな人にとってのゲームであったり、スポーツが好きな人にとってのその打ち込んでいるスポーツであったり……である。だから、そんな俺の中での『可愛い』であった今までは、逆にせんぱいを恋愛対象と意識するようなことは無かったのだ。何も、俺は小さなぬいぐるみや虫に恋愛感情を抱くような人間ではないのである。

 ――だが、そんな俺の中の『せんぱいの位置付け』を大きく変えたのが、あの時の海での事だった。何も見ていない状態で――つまり……せんぱいである、という先入観が全く無い状態で、女性の象徴と言っても違いない、あんな、大きな膨らみを顔に押し付けられた時の衝撃と言ったら、俺の中の『せんぱいのイメージ』を大きく改変させるには十分過ぎるほどの破壊力を持っていたという訳だ。

 

 特に、『見えていなかった』というのが大きい。いくら、女性として見ていなかったせんぱいの胸であっても、それがせんぱいと知らない状態で押し付けられたら、そりゃあ、無理やりにでも意識せざるを得ない。男とはそういうものなのだと思う――。

 

 かくして、無理やり突然に女性の胸の心地良さを教え込まれてしまった俺は、その本人であるせんぱいを女性として意識しないなどと言う考えそのものが俺の中から無くなってしまったということである。それに、元々可愛いと思っていたせんぱいである。『自分の小さい物好きという趣味』そして、『女性として意識してしまった』という二点が合致した今、俺は、せんぱいのことが『好きどころの騒ぎではない』と言う状態になってしまったのだ。

 

 そんな、状態になった俺は、それこそ、欲しかったゲーム機を買ってもらって喜んでいたら、そのゲーム機が突然女の子に変わったなんていうそんな心境に近いのかもしれない。正直、俺は今の状態に戸惑っている。せんぱいのことが好きだという気持ちは、完全に分かっているのだが、それに向き合うとか、そんなレベルではない。そんな冷静な考えが出来ない。だって俺は、自分でも生まれて初めての経験をしているのだから――。

 俺はなんだか、急に恋とか、愛とか、そういう事柄に敏感になってしまったようだ。今まで、そんな恋だの愛だのという話をする女という生物を不可思議に思っていた節もあった。――だが、これが、そうか。恋か……。愛なのか……。

 急に自分が乙女チックになった気恥ずかしさと共に、今まで知らなかった事を知り、一皮向けたような気持ちになり、なんだかある意味、大人に近づいたような変な気持ちになり、気付けば頬が温かくなっていた。

 ……今なら、梢姉さんや、伊波さんの気持ちが少しは分かるようなそんな気がしないでもない。

 

 ――ピンポーン。

 インターホンが鳴った事には、居間にいた俺が一番良く分かっていた。だが、せんぱいの事で考え込んでいた俺は、すぐに出る気分にはなれずにいた。台所で牛乳を取り出そうとしていたなずなが、俺が立ち上がらない様子を横目で確認すると、牛乳を慌てて冷蔵庫に戻し、「は~い!」と言いながら玄関にかけて行った。

「わ、わあ~~!! 大丈夫ですか! ……さん!」

 玄関の方では、なずなが何やら騒がしくしているようだったが、距離がありはっきりとは聞こえない。……ていうか、こんな雨の中、誰が来たんだろう?

 なんて、今更になって気になっていた時、

「お兄ちゃ~ん!! ちょっと来て~!!」

 俺を呼ぶなずなの声が聞こえてきた。なずなにしては珍しく慌てた様子に、なんだろう? と疑問を感じながら俺は重い腰を上げ、玄関に向かった。

「――っ! せ、せんぱい!?」

 玄関に着いた俺が見たのは、雨でびしょ濡れになった制服を着ていたせんぱいだった。制服は、雨水を吸って重そうになっており、前髪からも水が滴り落ちている。トレードマークのポニーテールもぐっしょり濡れて垂れ下がっている。

「えっと……ちょっと公園に居たんだけど、気付いたら、雨がすっごく降ってきて……近くに雨宿りするところかたなし君の家くらいしか思いつかなくて、迷惑かなって思ったけど、きちゃったの……」

 そう、小声で言うせんぱいは何だか、いつもより元気が無くて……それは、急な雨に降られたからだけじゃないって――そう、直感で思った。

「いえ、迷惑なんかじゃないですよ……雨……止みそうにも無いですし……まあ、とりあえず上がってください」

 

 俺は、そう言ってせんぱいを家に招き入れた。先ほどまで、せんぱいの顔を恥ずかしくてまともに見れなかった俺も、せんぱいのその様子から自然と冷静に対応することが出来た。

「あ、悪いけどなずな、バスタオル持って来てくれるか?」

 俺のその言葉に、なずなは「あっ! うん!」と、浴室にバスタオルを持ってくるために行った。俺が行かなかったのは、まだ泉姉さんが風呂に入っている事と、せんぱいの近くに居た方が良さそうだったからだ。

「せんぱい……大丈夫ですか?」

「……え? あ、ああ、雨凄いねぇ~! 服、中までびちょびちょだよぉ~~!!」

 俺の言葉に急に、気を使うように大げさなリアクションで言うせんぱい。

「いや、そうじゃなくて……なんだか、せんぱい……元気ないみたいなんで……」

「えっ? あ、そう……見える? あ――っと、ま、まあ、わたしのことはいいよ、それよりかたなし君と伊波ちゃんとの事のほうが……大事……だよ」

 なぜだかせんぱいは、はぐらかすようにそう言った。丁度、その頃、なずながバスタオルを持って戻ってくる。

「はい! たねしまさん!」

「あ、ありがと……」

 小さく、せんぱいが言ってなずなから濃い青色のバスタオルを受け取る。

 ――って、そのバスタオル俺のじゃん!? 何やってんの!? なずな!?

「……っ!」

 思わず、焦って取り乱す俺だったが、そんな事を知らないせんぱいが、当たり前のように俺のバスタオルで、顔や髪を丁寧に拭いていく――。

「……ん? どしたの? かたなし君?」

 つい、せんぱいの髪や肌にまとわりつく俺のバスタオルを凝視してしまう。

 ――大丈夫か? 匂いとか……。というか……俺の匂いが……バスタオルの中でせんぱいの匂いと混ざり合ってる――!?

「あ、はい、これ返すね……? ありがとう」

 そんな俺の妄想を知る由もないせんぱいは、無垢な表情でそう言い、俺にバスタオルを差し出す。それを受け取った俺は、思わずそのバスタオルを一刻も早く、顔に埋めて匂いを嗅ぎたい衝動に駆られたが、グッと堪えた。

「……とりあえず、せんぱい。このままでは風邪引いちゃいますから……お風呂入ってください」

「あ――うん。ご迷惑かけちゃって悪いけど、そうさせてもらおうかな……」

 このままでは、風邪を引いてしまうだろう。丁度、泉姉さんが上がった所だったので、俺はそのまま、せんぱいを浴室に案内した。俺の青いバスタオルは、脱衣カゴの奥に入れておき、その上に来客用の綺麗なバスタオルを棚から取り出し、載せておいた。

 

 せんぱいが、浴室に入って行ったのを確認して、俺はソファに腰を下ろして一息ついた。

せんぱいが家に来た理由……は、なんだろう? 本当に雨に参って、たまたま家に来たっていうこともあるが……それにしても、真っ直ぐ自宅に帰らなかったということになる。

 今日の仕事終わりに、チーフの罠……いや、心遣いで、せんぱいと話した時に、取り付けた「伊波さんと俺との事をたしかめる会議」という理由の訪問も怪しい。もしかすると、……せんぱいは、俺に何か伝えたいことでもある――のだろうか?

 



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(7)  無意識の求愛

 ――せんぱいが、今、家の風呂に入っている……。家族ではない人が家の風呂に入っている。そんないつもと違う光景に、なんだか落ち着かない気持ちになった。

 俺は、せんぱいが風呂に入っている間、普段は見ないテレビ番組なんかを見て待っていたが、その内容はほとんど頭には入ってこなかった。

 そうして、しばらく時間が過ぎた頃、

「かたなしく~ん!! ちょっと~~!!」

 脱衣所の方から、俺を呼ぶせんぱいの声が聞こえた。俺はなんだろうと、脱衣所に向って行った。

 そこには、ちょこん、と、顔だけ脱衣所だけ出して、俺を「はやく、はやく!」と呼ぶ、可愛らしいせんぱいの姿があった。俺はそんなせんぱいを見て、思わず尻込みしてしまう。

 

 そりゃあ、そうである。いくら、少しは冷静にせんぱいと接することが出来るとは言え、こんな、湯上りで火照り、紅く染まった頬と、しっとりと濡れた髪を見せられると、ただでさえ、せんぱいを意識しまくっている俺にとっては、ノックアウト寸前である。

「あっ! かたなしくん! 悪いんだけど……替えの下着、貸してもらえるかな……? ホラ! さっきの雨で、下着まで濡れちゃって……」

 し、下着だと!? ……なんで、びっくりしている場合ではない。そうか、そう言えば、さっき中も濡れたって言ってたか……。しかし、それを想像すると何か、邪な気持ちを抱いてしまう。これだから男ってやつは――。

 

 しかし、なんで俺に言うのだろう? わざわざ男の俺に言うより……なずな……は、もう寝てるか。梢姉さん……を直に呼ぶほど、仲良しでもない……か。

「とりあえず、探してきます!」

 そう言って、その場をまず離れた。身長のことを考えたら、なずなのが良いか――とも、一瞬思ったが、下着のサイズはたぶん、身長はあまり関係ないだろう。

 それよりも……やはり、せんぱいのブ、ブラジャーのサイズを考えると、なずなじゃ無理だろう。ていうか、なずなって、ブラ着けてるのか……? いや、やめておこうこんなことを考えるのは。

 

 ――俺は、洗濯した下着を乾している物干しから、梢姉さんのだと思われる下着を乾いている事を確認してから取った。アイロンがけをしていないやつだけども、そこは勘弁して欲しい。梢姉さんに貸してもらうように直にお願いするもの、正当な理由があるとはいえ、なんとなくしたくはなかった。さらに、まだ部屋に持って行ってなかった、なずなのパジャマも一緒に持っていく。

 

 そして、浴室に戻り、それをせんぱいに渡した時の事だった。「ありがとー!」と言って、焦って取ろうとしたせんぱいが、取りそこなってブラジャーを床に落としたのである。それだけならまだ良かったが、俺が慌ててそれを拾おうとした時、せんぱいがそのまま、ひょいと、浴室を出てきてしまったのだ。

「えっ! せんぱいっ!」

 せんぱいの姿を見た途端、思わず声が出る俺。

 出てきたせんぱいは、全裸――ということはもちろん無く、バスタオルを巻いていたのだが、問題はその巻いていたバスタオルにあった。

 巻いていたバスタオルは、脱衣カゴの奥に入れておいたはずの俺専用の青いバスタオル……来客用にと、上にバスタオルを載せておいたのにも関わらず、なぜ、俺のバスタオルを巻いているのだろう? 俺は不思議に思い、固まってしまった。

「よっと!」

 せんぱいはそう、言って落ちたブラジャーを手に取り、俺の手からショーツとパジャマも取った。

「あの……せんぱい……?」

「んーー?」

「どうして、そのバスタオル巻いてるんですか……? 上に新しいバスタオル用意しておいたんですが……?」

「ああ、分かったけど、なんか新しいやつみたいだったから、使うの気が引けちゃって……それに、このバスタオルね? なんでかな? なんか、嗅ぎなれたような……良い匂いするんだよね……なんの香りか分かんないけど……」

 せんぱいはそう言って、自分の胸に巻いたタオルで鼻を覆って匂いを嗅いだ。

 

 ――それって、せんぱい。だって、そのタオルの匂いって……普通に考えて……それは……。

 せんぱいのそんな言葉にもだったが、視覚的にもやばかった。バスタオル……それを、胸から下に巻かれたその光景は、まさにテレビなんかで見るような温泉に入る美女のそれ。あどけない表情で、肩からは白く綺麗な肌を露出している。それも、普通の白いバスタオルではなく、俺のいつも使っている青いバスタオルである。今、せんぱいの直の肌に、俺のタオルが触れている――!!

 また、そんな、せんぱいの姿を見て俺は先日のプールでの事が、脳裏に浮かんだ。それと共に……あの時の、せんぱいへの気持ちの変化も、だ。

 可愛い……せんぱい、可愛い……ああ、抱きしめたい!! 本当に抱きしめたいっ!!

「あっ……えへへ、ごめんね、こんな格好で! き、着替えるねっ!?」

 そんな、理性が崩壊しそうな俺を横目にせんぱいは、下着とパジャマを持ち浴室に消えていった。

 

 ――後には、俺のバスタオルに染み付いた自分の体臭と、せんぱいの、子供のような甘い匂いが混ざったような、独特の香りが、かすかにそこに残った。

 

 

 

 かたなし君には迷惑かけちゃったな……。

 バスタオルで体を拭き、貸してもらった下着を身に着けながら思った。それにしても、この下着、サイズが大体、丁度だ。フロントホックだから、着けやすくて楽だし……! ……誰のだろう? ……あの、よくうちのお店に来る酒飲みのお姉さんかな?

 ――そんなことを考えつつ、下着と共に受け取った服を広げる。

 うわっ、これ、パジャマだよ! いや、元々泊まる気だったから良いんだけど……、えーっと、あ、名前書いてある……?

 そこには、「なずな」と、ズボンの裏地に書いてあった。

 えっ? ということは、この下着もなずなちゃんの……じゃ、ないよね? ……実は、なずなちゃんは着やせするタイプで、胸も、わたしと同じくらいとか……!? いやいや! そんなまさかっ! もし、そうだったら、総合的にもわたしの方がちっちゃいってことに…………ハッ! ちっちゃくないよ!!

 

 

 頭の中で、そんな一人芝居をしつつ、わたしは浴室を出た。そこには誰も居なかったので、何処に行けばいいのかなと、その辺りをウロウロと歩いていた。すると、二階から、階段を下る足音が聞こえてくるので、わたしは少し、身を構えた。

「あれっ……? たねしまさん? どうしたんですかー?」

 降りてきたのは、可愛いパジャマに身を包んだ、なずなちゃんだった。トイレに来たのか、眠そうな目をしている。

「えーっと、あっ! かたなし君どこか、わかる?」

「え? あ、ああ、兄ですか? えっと、お兄ちゃん自分の部屋にいると思いますよ」

 眠い目を擦って、思い出したようになずなちゃんが言った。

「あ、ありがと! なずなちゃん」

 早速、かたなし君の部屋に行こうとした時、

「あっ! わたしのパジャマ着てるーー」

 なずなちゃんは、わたしの服を見て、ふいに言った。

「あっ、これ? えっと、かたなし君に渡されて……!」

「えへへ、今、なずなが着てるのと柄違いだ!」

 嬉しそうにわたしのパジャマを触って言う。

 なんだか、自分より、大きく年下の子の服を自分が着ているということに、色んな恥ずかしさを感じた。雨で服が濡れてしまって、やむを得ない理由があってもそれとは別に、気になることだった。

「あっ! そういえば、さっき、間違ってお客さん用のバスタオルじゃなくて、お兄ちゃんのバスタオル出しちゃって! ゴメンなさい!」

 急に、忘れていたことのように、なずなちゃんが言った。

「えっ? それって、あの青いバスタオルのこと?」

「ええ、そうですっ」

 それを聞いて、わたしはさっきのかたなし君とのやり取りを思い出し、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。

 

 うわっ! あのバスタオル、かたなし君のだったんだ――!? えっ、わたしあのバスタオルわざわざ体に巻いて、かたなし君の前に――!? そっか……だから、あの時、かたなし君、ちょっとびっくりしたような顔してたんだ……。なんか、新品っぽいバスタオルは使うのに気が引けたし……。ちょっと他のないかなと思って、カゴに下を見たら、最初になずなちゃんに渡された青いタオルがあったから……。

 

 ……えーっと? かたなし君になんて言っちゃったんだっけ!? 『良い匂いがする~』……だっけ? うわぁ~ん!! なに言ってんだよぉ~! わたしぃ! あの匂いって、かたなし君の匂いってことじゃないの~!! 

「……どうしたんですか? なんだか、凄い赤い顔して……?」

「はっ!? たっ、たっ! あ、や! な! なんでもないよ!?」

 すんごい、テンパッてる状態でわたしが言った。

 

 ――なんか、ちょっと、知っているような、ホッとするような、そんな良い匂いだったんだよね……。ああ、分かった……あれって、そうだよ、子供の頃、お父さんとじゃれ付いてた時の匂いにちょっと似てる……。最近はお父さんとそんなことはしないけど……そっかぁ……あれが……かたなし君の……匂い……なのか……。

「なんだか、よくわかんないけど……最近お兄ちゃんも様子が変だし……もしかして、たねしまさん、お兄ちゃんの事、好きになっちゃったんですか?」

 かしげた首と上目遣いでチラッと見やる、なずなちゃんがとんでもないことを聞いていた。

「ええぇーー!! な、なんで、そんな! わ、わたしが、かっ、かたなし君……そんな、ないって! そんなわけないよぉ!!」

 そんな、軽い問いかけにも焦ってしまうわたし。

「……えっ? てきとうに言っただけだったけど……っ」

 なずなちゃんは驚いたように、そう言った後、

「聞いちゃいけないことだったかな……」

 フフッと、笑顔を浮かべながら聞き取れない位の声量でポツリと言った。

 ちょっと、カマをかけられただけなのに、自分でも驚く位に、顔が火照っていた。これじゃあ、かたなし君のことを意識しているのが、自分にも隠せない……。

 でも、違う。そんなんじゃない。かたなし君のことは……気に入っているだけ――なのかな? 自分でもわかんない……。

 

 ……だけど、前に伊波ちゃんに言われた時より……何でだろう? 焦ってしまったわたしが居る――。



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(8)  暗がりの中で

 ――コンコン。かたなし君の部屋をノックする。そして「はーい」と、返事をした、かたなし君がドアを開けた。

「あっ、せんぱい……どうぞ」

 かたなし君に招き入れられ、わたしは部屋に入った。

 かたなし君は、そのまま、机に戻ると先ほどまで読んでいたように開かれて置いてあった雑誌を読み始めた。わたしは、適当な所に腰を落とし、場の雰囲気に習った。

 その場で黙って、少しすると、かたなし君は顔を雑誌に向けたまま、ちらちらと横目でわたしを見ていた。そして、それが何度か続き、わたしの方から何か言おうかなと思ったとき、

「あの……」

 かたなし君が、口を開いた。

「な、なに?」

「今日は何してたんですか? こんな雨の中」

「……ちょっとね、考え事……かな?」

 あの、仕事終わりに八千代さんの取り計らってくれた話し合いの後、まだ、わたしの中で、もやもやしたものが残っていて、思わず、近くの公園で、一人で思い耽っていた。……なんて、自分でもよく分からない説明をしてもしょうがないと思った。

「あの、もう、こんな時間ですけど、泊まっていくんですか?」

「……でっ、出来ればそうさせて欲しいんだけど……ダメかな?」

「……いや、大丈夫ですよ。居間を使ってください。ふとんも用意しますから」

 そう言って、かたなし君は押入れの方へ向おうと、立ち上がる。

「あ、いや、ここで、いいの!」

 が、それを制止するように、わたしが言った。

「…………えっ!? ここって、俺の部屋ですか?」

「うん、ちょっと、伊波ちゃんのこととか色々とお話があるし、えっと、かたなし君の家に行くの明日って言ってたけど、今、その話しちゃっていいかな?」

「……ああ、そうですね、まだ、9時前ですしね。……まあ、いいですよ」

 かたなし君は、机に戻り、頭をかきながら言った。

 

「……で、伊波さんとのことですよね? 何から話します?」

 何から言えば良いか迷っていた私に見かねたのか、かたなし君はそう切り出した。

「うん、じゃあ、まず、伊波ちゃんは最近、男嫌いは良くなった?」

 わたしが言うと、

「……いえ、正直、あまり変わりませんね。今までより悪くなったって事は無いと思いますが、取り立てて、進展が在ったとも言えません」

 はあ、と溜息をつきながらかたなし君が言った。

「そう……、えっと、伊波ちゃんは、好きな人……が居るんだもんね……何か、他の男の人との様子はどうかな?」

 ――好きな人って、かたなし君のことだけど……。

「う~ん……伊波さんって、基本、あんまり俺以外の男の人と接することがないですからね……好きな人っていっても…………うん……」

 かたなし君は、歯切れ悪く口を閉じた。

「あ、あの~? かたなし君?」

 聞いて良いのか……なんとなく、聞いちゃいけないような気がしたけど、わたしにはどうしても聞きたい事があった。

「……なんですか?」

「伊波ちゃんの好きな人のことだけど……誰なんだろうね? なんて……」

 わたしがそう口にした瞬間、かたなし君の顔がうつむき、少し険しい表情になった。

 

 かたなし君に対して今の言葉は……禁句なのかもしれない。けど……何だか、わたしの中の聞きたい気持ちのほうが、上回っていた。前は、こんなこと無かったのに――。

「…………」

 かたなし君は、無言で答えた。それを不安に思ったわたしが、何か口に出そうとした時、

「種島先輩……」

 珍しく、名前を付けて、わたしを呼ぶかたなし君からはいつもとは違う雰囲気を感じた。

「そのことは……聞かないでくれますか?」

 単なる要望だったのだけど、その目には相手を石にするような冷たさが垣間見れたような気がした。

「あっ……ご、ごめん……」

 

 ――結局、わたしはその場の雰囲気に流されて、それ以上は何も聞けなくなってしまった。その後もお互いに無言の時間が過ぎ、10時半を過ぎた所で、かたなし君が、「今日は疲れたので、先に寝てしまって良いですかね?」と、乾いた笑顔を浮かべながら言って、布団に入って横になった。そして、それから少しした時、ふと「……さっきのことは気にしないで下さい。明日になったら忘れてますから……」と、一言、呟いた。

 

 どうやら、かたなし君の中でも、『伊波ちゃんとのこと』には、色々、複雑なことになっているみたいだ。それで、さっき、直感的に分かってしまったのだけども、おそらく、かたなし君は、『伊波さんの好きな人』が誰か、それをもう分かってしまっている。それでなくては、先ほどの話をあんなに、思いつめた表情で、閉じるはずが無い。

 デリケートな話題、ということにはわたしもよく分かっていた。それ故に、言うべきではないこととも、理解していた。だけど……なんでわたしは聞いてしまったんだろう――?

 前のわたしだったら、こんなに他人にズケズケと入り込まなかったと思う。あんなことは聞かなかったと思う。それがなんで……。

 聞いたらだめだって、分かっていたことなのに。なぜ、自分の中で思いとどまれなかったのだろう? 自分の中の、かたなし君のことを『知りたい!』っていう気持ちが、大きくなってる。だから、聞いちゃう――。

 

 ――前から、あの海の日、辺りから、なんだかわからない胸のモヤモヤと、心の疼きが、今でも、全身に居着いている。感傷的な気持ちになると、特にそれが、体の中で大きく疼いた……。

 

 もう、部屋はとっくに消灯し、暗闇だ。そんな中で、時計のカチカチという音と、わずかに外から虫の鳴く声が聞こえた。部屋からは、たまにわたしとかたなし君が布団をかぶり直す、布擦れと音がお互いの距離の近さを感じさせた――。

 

 ――布団にもぐり、30分以上は経ったと思うけど、わたしは眠れずにいた。慣れない場所だったし、かたなし君の部屋だったし……。かたなし君の息遣いや、小さな声とかが気になっていた。それに、やっぱり頭の中を駆け巡るのはさっきのことだったり、今までのことだったり、とにかく、かたなし君のことばかり、考えていた。

 

「……せんぱい? まだ、起きてます?」

 ふいに、かたなし君のベッドから声が聞こえた。

「…………うん」

 ――答えるべきか、――答えないべきか。すぐに答えるのも、変かなとかも思いながら、結局、わたしは、無視したと取られないギリギリ位のタイミングで言った。

「……その……さっきは、すいませんでした」

「えっ? んーん、そんな、別に気にしてないよ」

 布団をかぶり直しながら、わたしが言った。

「……伊波さんのこと…………俺、気付いてて……考えないようにしてる節があるんです……」

 わたしに背を向けながら……暗がりの中、かたなし君が呟いた。

 やっぱり……気付いてる……んだね。伊波ちゃんが好きな人は……自分だって――。

「伊波さんの好きな人って…………その……俺…………なんですよね……?」

 続けてそう口にする。この暗がりと、静寂の中、いつものような恥ずかしさが薄れて、本音を口にしやすかったのかもしれない。

「っ…………」

 わたしは、無言でいた。自分が言っていいものか? 本人がいないこの場で、わたしが、その事実を口にしてしまって良いのだろうか……? 良い訳が無い。だけど……そもそも、この話をし始めたのはわたしだ……。

「……あっ! 答えないでいいです。よく考えたら……それは、せんぱいに聞くべきではないですね……」

 訂正するように、そう、かたなし君が言った。その言葉に結局、ホッとすることになった。

「……伊波さんのことは――」

 また、少し静かになった後、そう一度口にして、区切ってから、かたなし君は、伊波ちゃんの事を語りだした――。

「……伊波さんのことは……その内、はっきりしないといけないとずっと思っていました。

伊波さんは、男性恐怖症であることを除くと……何も悪いとこなんて無い……可愛い女の子だと思います」

 『可愛い』と、かたなし君が言った時、なぜか、わたしは心臓が一瞬、チクリと針が刺さったような感覚がした。なんだろう?

「ほんとに……伊波さんを観察すればするほど……そのこと以外では、何も問題なくて……なんていうか……本当に不憫な女の子だなって……思っていました」

 そうなんだよね。伊波ちゃん、良い子だよね……。

「だから、色々不安だったっていうか……その……その内、伊波さんの男性恐怖症が治ったとしたら……その時、誰かが伊波さんを好きになる可能性だって、十分あるわけじゃないですか?」

「……うん、でも、それでもいいんじゃないのかな? だって、伊波ちゃんの好きな人って……」

 そこまで言って、わたしは口ごもる。

「……いえ、だって伊波さんが今、俺が好きなのは……いや、好きだとして。……それは、俺以外の男と、あまりコミュニケーション取ってないから、だと思うんですよ……」

 ――そっか。たしかに、かたなし君以外の男の人はほとんど殴っちゃってまともに話したことないもんね……。

「……でも、伊波ちゃんの気持ちだって、それでも変わらないかもしれないよ?」

 わたしが口をはさむ。

「そうですね……。だから、結局のところ、伊波さんが本当に俺の事が好きなのか? と、俺が伊波さんのことが好きなのかっていう……そこなんですよ。問題は……」

「そう……だね」

 その問題のどちらも、わたしにはどうすることも出来ない所だ……。

 

 しばらく、かたなし君が天井を見ながら、思い耽っていた。そして、わたしの顔をチラリと顔を傾けて確認した。その時、お互いの目が合って、わたしは少し恥ずかしくなる。

 暗がりだから表情が悟られなくてよかったけど――。

 その後、さりげなくわたしに背を向けるように体勢を変え、布団をかぶり直す。恥ずかしさを誤魔化すようにしたその行為と、横向きに寝たことで見えた肩幅の広さに可愛さと男らしさのギャップを感じた。

「それで……ですね、せんぱい……」

 先ほどの行為を忘れるためか、そう、一呼吸入れるようにして、かたなし君が言った。

「その……さっき言った問題の……後者。つまり、『俺が伊波さんのことが好きなのか』ってことなんですけど…………実はですね。俺、最近、他に気になり始めた女性がいまして……」

 さっきまでと違い、わたしに見えているのはかたなし君の後頭部で、表情は全く見えなかったのだけど、喋り方や雰囲気から、上を向いていた先ほどよりもかたなし君の表情が透けて見えるようなくらい、たどたどしかった。

 ――他に気になる女性。そう聞いて、感じたのは、不安と焦燥、それにわずかな期待だった。

 恥ずかしそうに、話す姿に、もしかしたらわたしの事? と思いもしたけど、かたなし君がわたしのことを『女性』と思っているとは思えないし、最近のかたなし君の態度を考えると、わたしの可能性は低い気がする――。

 

 ……なんだか、そう結論付けると、一気に頭が重くなるような、アレの日の軽い時みたいな、気分の悪さを感じた。

 こんな風に、かたなし君のことで、喜んだり、落胆したりして……。もしかして、わたし、かたなし君の事、好きなんじゃないのかな? …………なんて。

 

 ――かたなし君に対するモヤモヤした気持ちが日に日に大きくなってきている。これが、どの状態まで大きくなれば、その人を『好きか』なんて……わかんない。意識した時点で好きなの? それとも、自分で好き、だってはっきり思えたとき……?

 

 そんな、最近、毎日のようにしている自問自答が頭を駆け巡る。その内、眠気に負けたわたしの脳は、素直に睡眠にスイッチを切り替えた。



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(9)  あの日の想い出

「その、女性って言うのがですね…………せ、せ、せせせ、せん、ぱ……」

 緊張が、極度に達して、もう、逆に研ぎ澄まされたみたいに眠気がふっとんで、心臓がバクバクして、せんぱいの方に耳を傾けると、スー、スー、という規則正しく可愛らしい寝息が聞こえてきた。

 せっかく、暗くて何でも言えそうな、この雰囲気に身を任せて意を決して、言って見たのだけど、どうやら徒労に終わったようだ。しかし、せんぱいは結局のところ、俺に何が言いたかったのだろう? ……やっぱり、せんぱいは、俺と伊波さんに上手く行ってほしいという事しか、思っていないのだろうか?

 せんぱいの事を振り向かせるのには……まだまだ時間が必要そうだった……。

 

 ――チュン、チュン、と、鳥のさえずりが聞こえて、まどろみから目を覚ますと、窓から白い光が顔に当たる。もう、朝になっていた。

 俺は、せんぱいが同じ部屋で寝ているという興奮からか、ぐっすり眠れなかったものの、せんぱいより、早くに目が覚めた。時計を見るとまだ8時前と、土曜の朝としてはまだ寝ていて良い時間だ。

 せんぱいを見ると、布団の乱れはあるものの、昨日、可愛い寝息をたててから見た時の体勢と全く変わっていない。まあ、最も、昨日は暗くて、表情まではほとんど見えなかったのだが。

 昨日は見えなかったその表情を、じっと、見つめる。スー、スー、という昨日と全く同じ寝息も聞こえる。

 

 ――可愛かった。まごうことなき可愛さだった。髪をといている姿が印象的で、別人のようだった。どうやら、昨日、電気を消した後にほどいたようである。

 無造作に肩辺りまでに散ばる黒髪と、なずなのお子様用のパジャマの影響か、いつもより、更に2歳以上は若く見える。というか、もう犯罪レベルだった。犯罪レベルの可愛さだった。――って、俺はロリコンじゃないぞっ!!

 ただ、せんぱいの事が好きな気持ちはもう、変わりようがない。ロリコンと他人から言われる事と、せんぱいを好きになる事、どちらかを選べというのならば、迷うことなく俺は、ロリコンと言われる道を選んでやろう――。

 そんな、決心を、寝てるせんぱいを見ながら思った。

「……うん? かたなしく……」

 自分でも、時間を忘れるほど、せんぱいの姿を観察していたら、急に子犬が目覚めたみたいに、ピクリと体を動かしてせんぱいが、目覚めた。

 虚ろな表情と半開きの目で、上半身を起こす。可愛らしい見た目の割に大きな胸の膨らみが、なずなの子供っぽいパジャマとほどいた黒髪に、ひどくアンバランスだったが、それが返って魅力的に映った。

「あっ! お、起きました? せんぱい」

「うん……おはよー……かたなしくん……」

「おはようございます……」

 せんぱいは、まだ、完全に起きていない様子で、舌足らずな声だった。可愛い。いや、そんなことは分かっていた。

 

 ――それから、しばらくして9時近くになった頃。

 長居するのも悪いから。と、せんぱいは洗面台やら何処へやら、慌しく帰る準備をし始めていた。手持ち無沙汰になった俺は、昨日乾しておいたせんぱいの制服を一階まで、取りに行くことにした。

「乾いているな……」

 干してあった、せんぱいのセーラー服を、触ってみて確認する。確認のためと言え、胸の辺りなんかにふれると、ちょっとドキドキした。

 その後、俺は誰も近くに居ないことをキョロキョロと目をやり確認した後、そのせんぱいのセーラー服に顔面を押し付けてみた。

「…………」

 その後、鼻を押し付けた状態で、鼻から空気を吸ってみる。

 ――思わず一生嗅いでいたくなるほど、良い匂いがした。微かな雨の匂いと、濃縮されたようなせんぱいの匂いが鼻腔をくすぐった。

 ――やばいっ! せんぱい、俺は……! せんぱいの制服に浮気してしまいそうです……!!

 思えば、俺の顔はこの時、凄く赤面していたのかもしれない。

 そうやって、時間を忘れて、せんぱいの制服に顔を埋めて恍惚としていた時、

「……お兄ちゃん……なにやってんの……?」

 引きつったような上目づかいで、俺を見つめるなずなの姿があった――。

「い、いや! なずな! 誤解だ! そんなんじゃない! 決して、せんぱいの制服の匂いを嗅いでいたわけではないっ!!」

 ものすごい、テンパッてる俺。

「……い、いやぁ、そんなに焦ったお兄ちゃん久々に見たよ~! そんなに顔も赤くしてぇ…………うん! いいと思うよ! たねしまさんで!」

 なずなは、そんな事を一人で口にすると、勝手に納得したように、スキップするような足取りで、その場を去って行った。

「……え? ちょ、なずな! なんだよ? いいと思うって? ……おい! なずな! なずなぁーー!!」

 ――な、なんだったんだ。あの、言葉の意味は!? お、俺の妹がこんなに意味深な言葉を残していくわけがない……!!

 

 

「それじゃあ、わたし家に帰るね!」

 制服に身を包んだせんぱいが、俺の部屋で言った。

「はい……別に、昼くらいまで居て、ご飯食べてってもいいですけど……」

「そんなぁ! 悪いよ! ただでさえ、昨日迷惑かけちゃったのに……これ以上かたなし君の家にお世話になれないよ……!」

「そうですか……」

 気にしすぎじゃ? とも思うけど、せんぱいの立場だとたしかにそう思うのだろう。

「ま……また、機会があったら……ね? その時は、もう少しゆっくりしてくよっ!?」

 しゅんとする俺を気遣ってか、せんぱいは、取り繕うようにそう言った。

「ええ、わかりました。じゃあ、次の機会はもっとゆっくりしていってくださいね?」

「うん! ……じゃあ、今日は帰るね?」

 元気よくせんぱいがそう返事をし、俺の部屋を出て行こうとする。その時、俺は少し、さびしい気持ちを感じた。……好きになった人が、離れてしまうという、そんな、名残惜しさからだろうか……?

 

 ――そんな、気持ちに浸っていた時、そういえば、せんぱいに渡さなければならないものがあったことに気が付いた。

 それを思い出した俺は、「せんぱいちょっと!」と、せんぱいを呼び止める。

「どしたの? かたなし君……」

 ドアノブを回した手を離してせんぱいが言った。

「実は、せんぱいに渡しておく物があったんです」

 俺は、机の一番上の引き出しを開けた。そして、そこにあった物をせんぱいに見せる。

「あっ……これ、あのときの貝殻……?」

「そうですよ。あの海に行った日、せんぱい、この貝殻持って行かずに慌てて走って行っちゃったじゃないですか……? ずっと、渡そうと思っていたんですが、機会がなくて……」

 ……本当は、せんぱいを意識してしまって、せんぱいとまともに話が出来なかったからなんだけどな……。

「わああぁ……! これ、欲しかったの! 本当はあの時、持って帰ろう! って思ってたんだけど……どっか、いっちゃったから諦めてたの……!」

 せんぱいは、両手でその貝殻を持ち上げて、目をキラキラさせながら、見ている。

「やっぱ、綺麗だよね~? この貝殻……この空色の模様も、裏のアイスみたいな色も……」

 クリーム色の裏はせんぱいにはバニラアイスの色に見えるようだ。

「そ、そんなに喜んでくれるとは、嬉しいです……」

「えっ? だって、これ、わたしすっごい気に入ってたんだよ~? ありがと! かたなし君、……えへへ」

 せんぱいは、ニッコリと微笑んだ。そして、貝殻を両手にやさしく包み込むと、そのまま自分の胸に当てた。胸に手を当てるせんぱいからは聖母ような、神々しさを感じた。

 ――種島マリア……種島リア…………!? たねし・まりあ!! 

「……綺麗です……せんぱい」

 幻想世界にいっていた俺はつい、思ったことがそのまま口に出てしまう。

「……えっ!? ……あ、ああ、そうだよね? この、貝殻綺麗だよね??」

「あっ……! えっ? そ、そうですね!? 貝殻綺麗です! きれい、きれい!」

 あ、危ない危ない……勢いだけで、せんぱいに告白してしまうところだった……。

 その後、なぜか、お互いギクシャクしてしまって、でも、居心地は悪くない。そんな雰囲気が場を支配していたのだった――。

 

 そして、お互い落ち着いた後。さて、と、言わんばかりにせんぱいが、

「……かたなし君! わたし……この貝殻、一生、大事にするね……?」

 そう、元気よく最後に一言残すと、そのまま、笑顔で我が家を去って行ったのだった。

 



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(10)  恋の一人相撲

 ――翌日のことだった。

 その日も、もちろん、俺はワグナリアで働いていた。ほぼ毎日のように働いていると、なんだか、既に5年くらい居るんじゃないか、と思うくらいに、ここの仕事が手に付きつつあった。今日は平日だったこともあり、比較的暇だった。帰った客の席の片付けをしながらぼんやりとしていると、奥にいるせんぱいの姿を見つけた。せんぱいは俺と同じく、席の片付けをしていた。俺より慣れている仕事のはずなのに、手を抜かずに一生懸命な表情で、テーブルを拭いている。小さな体を使い、手をいっぱいに伸ばしてテーブルを拭く姿は、俺でなくても、つい見つめてしまうような、愛らしさがあった。

 

 そんな、せんぱいをいつも通り眺めていると、いつもとは、違う点があることに気付いた。何か、ひものような物がせんぱいの首からかかっている。なんだろう? それにしても、せんぱいの後姿……ポニーテールに見え隠れする、うなじは綺麗だった。

「せんぱい? その、首からかけている物……なんですか?」

 丁度、自分の仕事が終わったので、せんぱいに聞いてみた。

「……え? ああ、これ? えっとねぇ!」

 せんぱいは、「良くぞ聞いてくれました!」というような、表情で言った。

「……なんですか?」

 と、俺が言ったのだが、せんぱいは急に何か思いついたような顔をして、

「…………うん。やっぱ、かたなし君には内緒だよ~!!」

 そう言って、教えるのをやめてしまった。

 なんだ、なんだ? 気になるじゃないか! あの、首からぶら下げているもの……なんなんだぁ――!!

 

 その後、せんぱいはトコトコと、他のテーブルの片付けに行ってしまった。

「……乙女とのコミュニケーションがなってませんねぇ、小鳥遊さん?」

 憎たらしいそんな声が、後ろから聞こえたので、振り返るとそこには山田がいた。

「や、やまだ!? お前、見てたのか!」

 ――――仕事しろよ。

「ふふん! 小鳥遊さん、たねしまさんとせっかくいい雰囲気だったのに惜しかったですねぇ?」

「なに? 俺がせんぱいとそんな……雰囲気だなんて、誰から聞いたんだ? やまだ!」

 俺が、そう言うと山田は驚いたように、

「へっ? ご存知なかったんですか? もう、お店の中で噂になってますよ? 小鳥遊さんがたねしまさんを見る目が、リアルになったって……」

 なんて、得意げな表情で言った。

 ……リアルて。そうか、最近、せんぱいのこと撫でなくなったし、おおっぴらに可愛いとも言わなくなっていたからな……。俺がせんぱいのことを嫌いになったか、その逆かのどっちかだからな……。

「……所で誰がそんなことを?」

「相馬さんです!」

 ――やっぱりか。

「それより、小鳥遊さ~ん! 本当なんですか? 先日、たねしまさんを家に招き入れて、色々二人の仲が進展したとかしてないとか……」

 うきうきしながら、山田が聞いてくる。

「し、進展なんてしてないよ! ていうか、それも相馬さんから聞いたのかよ!?」

「そ、そうです。一緒の部屋で、一夜を過ごしたんですよね……?」

 ……しかし、そんなまさか! いくら相馬さんでも、そんなことまで把握しているわけがない……もし、そこまで相馬さんが知っていたのだとすれば、俺の部屋に監視カメラが仕掛けられているとしか思えないぞ……!? 

「おい……やまだ? 本当にそのことも相馬さんから、聞いたのか……?」

 いつも山田を叱る時みたいに問いただしてみた。

「あっ、い、いえ、一緒の部屋っていうのは……その、なずなちゃんからで……」

 なずなぁ――――!?

「ま、まさか、なずながそんな……」

「あっ、でも、違うんですよ。……なずなちゃんは、小鳥遊さんとたねしまさんが上手く行って欲しいって思って、皆さんに相談していたみたいなんです……」

 なずなを庇うように、あくせくしながら山田が言った。

 そうか……なずな、俺のためを思って…………いや、それでもダメだと思うケドネ。

「と、とにかく! せんぱいとは何も無かったよ! ちょっと、話してただけだ、それ以外なにもない!」

「そうですか……それは残念でしたねぇ……」

 残念そうな言葉とは裏腹に山田はこちらを見ず、テーブルに体を突っ伏して足をバタバタして遊び始めた。

「ああ、残念だ…………って! やまだ! 何やってるんだ! 早く、仕事しろ!」

 持っていた手帳で山田の尻をはたく。

「きゃん!」

 すると、山田が急に可愛い声で鳴き、

「セクハラですーー! 小鳥遊さん、セクハラですーー! ついに、山田まで、射程圏内に入ったんですねー!?」

 顔をほのかに紅く染めながら、そんなことを言い出した。

 射程圏内ってなんだよ……俺の射程は、今も昔も、せんぱいだけだよ!

「うるさい、やまだ! 仕事量5倍に増やされたくなかったら黙れ!」

「ぐぅ……」

 まさにぐぅの音も出ない山田であった。――いや、出ていた。

「……それにしても、あの首から付けていたアクセサリーみたいのはなんだったんだろう……?」

 そんな、思わず口に出た俺の独り言に山田が、

「えっ? なんですか? アクセサリー?」妙に食いついてきた。

「な、なんでもないよ! お前みたいな女性らしさの欠片もないやつにそんなこと分からないだろ?」

「ひ、ひどいです! 小鳥遊さん! やまだだって、うら若き乙女なんですよ! アクセサリーの一つや二つよく、付けますよ!?」

「うら若き乙女って……そう、言う割にお前がアクセサリーなんて付けている所なんて見たことないけどな?」

「なっ!? そんなことないです! やまだも、たまに色々付けてますよっ!?」

 反抗的に山田が言う。

「――――あーー、そうだな。そう言えば、山田は最高に似合っているアクセサリーをいつも付けていたな?」

「えっ? ……なんのことか分かりませんけど……そうでしょう? やまだも実は色々付けているんですよっ!!」

 褒めたと勘違いされた山田は、うきうきして上機嫌になる。

「何を勘違いしている? やまだ、お前にお似合いっていうアクセサリーはその、制服にいつも付けている研修バッチだよ!!」

「ガーーン!! 山田あお・いき消沈です!」

 ――やまだあお・意気消沈!? 名前まで使った!?

 ……って、なにを山田と戯れているんだ……!? 仕事しよ、仕事……。

 

 ――はぁ……何はともあれ。俺がせんぱいのことを好きになってしまったことは、店のみんなにはバレている……? のかもしれない。しかし、せんぱいの耳にはなるべく入らないように……して欲しいところだな、と思った。

 

 ――それは、そうと、明日は珍しく、バイトが休みの日だった。久しぶりに家でゆっくり出来そうだ。最近は、バイト休みの日に、家事を片付けてしまうのが、恒例となりつつあるが、今回は、いつもよりゆっくり出来る理由があった。実は、昨日、なずなが何を思ったか、「お兄ちゃん、明日はなずなが家事とか全部やってあげるから、家でゆっくり過ごしてね♪」なんて、言ってくれたのだ。なずなめ、可愛いやつだ。そんな、なずなのご好意に乗っかり、明日は家でゆっくり休ませてもらおう。そう、画策していたのだ。

 

 

 

「おはよ~! 葵ちゃん! 今日も頑張ろうね!」

 わたしは、いつもの通り店に入ると丁度、近くにいた葵ちゃんに挨拶した。

「あっ、たねしまさん! おはようございます。……そう言えば、たねしまさん、最近、小鳥遊さんとの調子はいかがですか?」

 なんだか、今、一番の話題みたいな顔をして葵ちゃんが聞いてくる。

「えっ、かたなし君と? ……う~ん、あ、相変わらずだよ~? なんでー?」

 なんで、最近、かたなし君との仲を聞かれることが多いのだろうか……?

「……そうですかぁ」

(……って、相馬さんにあんまり突っ込んで質問しちゃダメなんでしたっ! 山田一生の不覚!)

「なんで、そんなこと聞くの? 葵ちゃん」

「えっ? い、いや、変な意味は無いですよ? たねしまさん! ……や、山田は、ゴミ捨てに行ってきまーす!!」

 わたしが、問いただすと葵ちゃんは、まるで聞いちゃいけなかったことのように、青ざめて(葵ちゃんだけに。……ププッ)焦った様子で、普段は滅多にやらないゴミ捨てに率先して行った。

「山田ストシューーット!!」

 遠くから葵ちゃんの声が聞こえた。

 ――やまダストシュート……!?

 まあ、何はともあれ、今日もお仕事頑張んないとね……!

 先日から首にかけ始めた物を左手で握り存在を確かめ、わたしは持ち場についた。

 

 ――その日は、平日だったが、そこそこ忙しかった。たまにこういう日もある。“夏の北の大地海鮮フェア”が始まったばかりというのもあるのだと思う。

 平日っていうのは、全く暇な日もあれば、変に忙しい日もあるので、かえって休日より面倒な場合もあったりした。

 

 キッチンの方でも忙しいみたいで、相馬さんが一人で、てんてこ舞いだった。ちなみに、今日、佐藤さんは休みのようだ。

 夜のピーク時を過ぎて、少し、落ち着いてきたかな? と思っていた時だった。6名様の団体のお客様が入ってきたと思ったら、その直後、更に4名のお客様が来店したのだ。

 

 当然、料理の注文が重なり、この日の忙しさは、一気にピークに達し、休日でも忙しい日と同じくらいになった。休日ならフロアには2人以上で対応するから何とかなるのだけど、今日、フロアはわたし一人だった。いや、正確には葵ちゃんが居たんだけど、葵ちゃんはフロアには、出ず、裏で皿洗いばかりしている。みんなが、今日はそれに徹した方がいい、と言っていたからだ。少し前に杏子さんが、八千代さんを呼んでくれたけど、まだ、来るまでには時間がかかる。

 どうやら、まだ、しばらくの間、わたしは一人、フロアで走り回らなくてはいけないようだった……。

 ――そんな、お仕事に集中しなくてはならない日、それだったのに私は…………。

 

 6名様の団体客さんは、たまに来るような騒がしいタイプのお客さんで、ファミレスを居酒屋と勘違いしているような男女の団体だった。

 来た時点で、そのタイプだろうか……と経験上思ったわたしは、他のお客さんの迷惑にならないよう一番奥の席に誘導した。その直感は残念ながら当たってしまった訳だけど、わたしの予想以上に騒がしいお客さんで、奥の席に座っている事が全く無意味なほどに店全体にその騒がしい声が聞こえていた。まあ、たまに来るお客さんだ。と思って、わたしを含め、ワグナリアのみんなは特にどうとは思っていなかったとは思うけど……。

 

 もう、だいぶここの仕事も慣れている。そんな自分へのおごりもあったのかもしれない。わたしは、忙しいと思いながらも冷静に仕事をこなし、順々に仕事を処理していった。お客様から注文を取り、キッチンに行き、また、フロアに戻り……。少し暇になれば、帰ったお客差様の席の片付けと。いつも通りの仕事をテキパキとこなしていった。

 途中、一つ先に出来たその例の団体客に料理とお酒を運んだ時、料理名を言いながらそれを置くわたしの声が、一人の客の笑い声に掻き消されて全く聞こえなかったほどに騒がしい団体だった。

 

 そうして、大体の料理を運び終えた後は少し余裕が出来た。それを機にわたしは、気が付けば、最近気になって頭から離れないことを考え始めていた。その事とは、かたなし君との事だった――――。

 

 先日、かたなし君の家にお世話になった時、かたなし君が言っていた、「他に気になりだした女性」……その言葉があの日から頭からついて離れなかった。……分からない。伊波さん以外で、かたなし君が気になる……誰だろう? おそらく、わたしの知らない人なのだろう。だって、思い当たる人が誰も居ない。“女性”と言っていたことからわたしである可能性は低いだろうし、わたしの知っている人でかたなし君と交流のある人なんて、八千代さんと杏子さんと美月さんくらいだろうか。その中で考えられるとしたら、八千代さんくらいだろうか? でも、八千代さんとなんて……。

 

 ……八千代さんとなんて――なんだろう? 付き合っているわけないと考えるのは勝手なイメージなのかもしれない。考えてみれば実は、隠れて付き合っているのかもしれない。付き合っていなくても、実はたまに二人で出掛けているとか、ありえないこともないのかもしれない。あの二人は、わざわざ誰かに自分の事を話すタイプではないし……。

 

 ――そんな、勝手にないだろうと決め付けていた、八千代さんという線が、実際にはもしかしたら……? というくらいに可能性が出てくると、わたしはなんだか心がソワソワした感じになり始めていた。例え、八千代さんでなくとも、かたなし君自身が、店のみんなには内緒で外では、同級生の子とかと付き合っているのかもしれない。遊んでいるのかもしれない……。

 

 急に、そんな当たり前のことに気が付くと、かたなし君と知らない女の子が、楽しそうに制服で歩いている姿が頭に浮かんだ。そして、それを遠巻きに見つめるわたしの姿も……。

 

 



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(11)  好きになったから

「……たねしまさん?」

「たねしまさーーん?」

 キッチンから、わたしを呼ぶ声が聞こえた。

 慌てて振り返ると、相馬さんが出来上がった料理を台に並べている。

「○卓のお客さんの出来たよ!」

「あ……う、うん!」

 ぼんやりしていた自分を起こし、料理を手に持った。その料理は、あの例の騒がしいお客さんのものだった。

 やだなーー。あそこのお客さんとこ行きたくないなーー。

 なんて、少し思ったけど、これも仕事。まあ、料理を置いてしまえば追加注文しない限りはもう、行かなくても良い。そんな風に自分を説得してわたしは、料理を両手に持ち、そこに向う。

 近くに来ただけで、丁度、酒の入ったその団体客はテンションもピークに達しているようで、とても関わりたくないような状況だった。

 わたしは、そんな雰囲気から逃れようと、急いで料理を置き、去って行く。そして、最後の料理を両手に持ち、早歩きでその料理を置こうと、した時だった。

 

 外側に座り、酒が入って一番騒がしかった男性客が、話の流れで大げさに手を持ち上げるようなジェスチャーをした時、丁度、わたしの右手に強く当たり、右手に持っていた料理を床に落としてしまった。

 ――ガシャン! という派手な音と共に床に料理がぶちまけられ、皿の破片も飛び散った。

「あっ……? ……あ! す、直に替えをお持ちしますので!!」

 一瞬、わたしは何が起きたか理解できなかったのだが、床にぶちまけられたハンバーグを見て、その事態に気づいた。

「ちょ! なんだよーー!! 俺のハンバーグ! ああ! ソースとか、スゲー服にも付きまくって……ああ!! もう! ふざけんなよ!」

 こういう事態は初めてじゃなかったけど、あまりのそのお客さんの怒気に満ちた雰囲気にわたしは圧倒され、おろおろしてしまう。頭では、こういう時こそ、冷静に判断しなくちゃいけないことなんて分かっていたけども、恐怖と驚きで真っ白になった頭では、瞬時に動けない。

 

 なんだが、足首がガタガタと震えだしてしまって、それに気付かれないように足を隠しながら、しゃがみ込んで料理を片付けるも、震えた足では、思うように片付けも進まない。

「つーか、お前が悪いんじゃん!? お前が、腕振り回すから、当たったんだろうが、バーーカ!!」

 その団体さんのわたしが料理をぶちまけたお客さんの前にいた女性が、かん高い声で目の前の客に言った。

「……はっ!? うるせーーよ! だいたい、こいつが小さくて見えなかったんだよ!! 手の位置も下の方にあるから、当たったんだろうが!! 俺はそんな腕振り回してねーーよ!!」

 言われた方のお客さんは、酒が入って唯でさえ赤い顔を更に赤くして。酒が入って唯でさえうるさい声を荒げて言った。

 わたしを指差して、店全体に聞こえるように、はっきり罵倒されたことがわたしは何より、恥かしくて、悲しかった。それでもわたしは仕事だから、と自分に言い聞かせて、片付けた料理を急いで運ぶと、相馬さんに同じものを作ってもらうよう、頼みに行った。

 

 相馬さんは、「聞こえていたよ」と、ちょっと、怒ったように言い、「気にしなくていいからね、あんなの」と、言ってくれたのが嬉しくて、泣きそうになった。

 わたしは、おしぼりを持って、お客さんの所へ戻る。それを渡すと、わたしから毟り取るようにそれを取り、服にたいしてかかっていないソースを拭き始めた。おしぼりを取るとき、必要にわたしは睨まれたのもとても恐かった。

 その内、少し前に到着した八千代さんが、援護に来てくれる。恐さに耐え切れずにフロアに出られなくなったわたしの変わりにお客様に謝ってくれた。それも申し訳ないと思った。

 

 結局、その時、他にお客さんが多かった訳ではないことから、わたしはしばらく休憩していて良いと、八千代さんが言ってくれて、そのままわたしの変わって働いてくれた。

 そして、その内、見かねた店長が例によってそのお客さん達を追い払ってくれた。

 

 ――そうこうしている内に、バイト終わりの時間から30分を切っていた。結局、あの時からの一時間余り。わたしは復帰することが出来なかった。途中、暇になった時の数分の間に、八千代さんが、わざわざココアを持ってきてくれたりして、励ましてくれた。店長も、どら焼きをくれた。相馬さんも、声をかけてくれた。

 誰も、わたしを悪いとは言わなかった。そんなみんなは本当に良い人達だなと思った。

ワグナリアは変人ばかりとは言うけど、本当は変人だけど優しい人達の集まりなんじゃないかな……と、思うと、わたしはこんな場所でみんなと過ごせて、幸せだなと思った。

 

 まだ、バイト終わりの時間までは少しあった。そう言えば、八千代さんは「途中で上がって良いから」なんて言ってくれていた。だけどさすがにそれは出来なかったのでわたしは、時間をつぶそうと外の空気を吸うため、裏口から外に出た。

 

 裏口から、外に出てぼんやりと、さっきのことを思い出す。もう一時間も前のことだけど、まだ、わたしの頭から離れない。あの時、罵倒された言葉が、今でも繰り返し頭の中で再生されている。

 ――薄暗くなった夜空と、裏口から見える殺風景な景色を見つめていると、肌寒い風が流れた。熱を帯びた目とは裏腹に、夏でも北海道の夜は涼しい。

 そんな、静けさが心地よくて、しばらくそうしていた。頬がかゆい。風に当たるとひんやりする。そんな中でゆったりと外を見ていた。

 

 ――そんな時。

 誰かが遠くでこちらに向って走っている影が見えた。

 あの人は、何をそんなに慌てているのだろう? そんな風に思った。

 薄暗い中で、しばらくぼんやりとその人を観察していると、なんだか、良く知っているような、一緒にいると、安心するような、心地よくなるようなそんな、感覚を思い出す。

 なぜ、こんな感覚になるのだろう? そう、不思議に思っていた次の瞬間だった。

「あっ……」

 思わず、声が出た。その人はかたなし君だったことに気付いたからではない。わたしのかたなし君への正直な気持ちに自分が気付いてしまったからだ。

 

 ――すがりたい、包み込んで欲しい。あの大きな体で抱きしめて欲しい。そんな風に思ったんだ…………。

「せんぱーーい!」

 走りながら、そう叫んだかたなし君がわたしの前まで来ると、

「だいじょうぶですか!?」

 息切れした自分を庇う素振りを見せず、聞いていた。

「ど、どうしたの? かたなし君……今日はお休みでしょ……?」

「ええ、そうですけど、チーフから連絡を貰ったんですよ! せんぱいがちょっと、落ち込んでるって……。それ、聞いて俺……すぐに飛んできたんですよ……」

「……そう……なんだ、でも、もう、落ち着いてたからっ! だいじょうぶだよ……」

 空元気でわたしは答えた。

「そう……なんですか? でも、せんぱい……? さっきまで、泣いてませんでした?」

 そんな、かたなし君の言葉にドキリとする。そこで初めて気が付いた。わたしの目から涙が頬を伝っていたことに。

「……あれっ? あっ? わたし、泣いてたんだ……」

 そう言って、かたなし君の顔を見上げると、かたなし君は真剣な表情を軽く崩して、微笑むと、

「……いいんですよ、せんぱい。辛い時は、泣いたって……今は、誰も見ていませんから……いくらでも泣いて大丈夫ですよ……」

 そう言って、わたしの頬に左手をやると、親指で伝う涙をぬぐってくれた。

 そして、その大きな手でわたしの頬を包むと、次に右手で頭を撫で始めた。

 

 ――久しぶりのかたなし君のなでなでは、いつものような、可愛がるなでなで、ではなく、いつくしむような気持ちを感じるものだった。

 そんな、なでなでに――わたしの理性は――どこかに行ってしまった。

「――かたなしくん!」

 わたしは、そう言って、かたなし君の胸に飛び込んだ。

 ――包まれたい。――抱きしめて欲しい。

 そんな気持ちが抑えきれなくなった。

「わたし……怖かった! 久しぶりに大きなミスしちゃって……怒鳴られて……睨まれて……ちっちゃいってこと……馬鹿にされて……」

 気付けば、そんな感情も……涙も……全部、抑えきれなくて……あふれ出てくる……。

 不安とか……悲しさとか……ちっちゃいっていうコンプレックスとか……自分への不甲斐無さとか……そんなのが、全部。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ…………。

「せんぱいっ!」

 かたなし君がわたしを抱きしめる腕に力が入った。

 そんな風に……かたなし君が……言葉もなく……ただ、わたしの体を……抱きしめてくれる。包み込んでくれる。――唯それだけで……安心した。

 男の人の体は――思ったより、ずっと大きかった。

 顔がかたなし君の胸に押し付けられる。――すきなにおい。……それを、体全体で感じた。

「……かたなしくん! ……かたなしくぅん!」

 ――求めていた。――すがっていた。この人に、自分の全てを預けたい……。自分の全部を見て欲しい……。そう思っていた。

 かたなし君のことが――好きに。なっていた。

 

 わたしは、その後もわんわん泣いていたばかりで――。

 それでも、かたなし君は、ずっと、抱きしめていてくれて――。

 赤ちゃんの時に戻ったみたいに……ずっと、暖かくて。ホッとして。そんな、気持ちに包まれて……幸せな、今までで、一番に。幸せな瞬間だった――。

 

 

 ――どれくらいの時間そうしていたのだろうか。

 気が付けば、わたしの涙はとっくに枯れ果てていて……腫れぼったくなっている。そんな、目をかたなし君に見せるのは恥ずかしくて、あまり、上を見られなかった。

 ……だから、横を向いて……かたなし君の背中に手を回したままで……。

 

「わたしね……昔、背が小さいことを本気で悩んでいた頃……学校から、泣いて家に帰ったことがあったの……」

 思い出した、昔の記憶。なぜだか、かたなし君に喋っている。かたなし君は、何も言わずに、そのまま聞いてくれた。

「からかった男の子は……冗談で、言ったんだと思うけど……あの時のわたしは、本気で気にしてたし……まだ、言われ慣れてなかったから……ショックだったんだぁ……」

 えへへと、笑って恥ずかしさを誤魔化しながら、続ける。

「それで……わたし、家でもさっきみたいにわんわん、泣いちゃって……悲しんでいたら……お母さんが、わたしを抱きしめてくれたの……今みたいに……」

 顔は見えなかったけど、かたなし君が「フフッ」っと、声に出してほころんだ。

「……その時のこと……思い出しちゃった。それでね? お母さん言ったの。『背が小さくても、心を大きく持てばいい。ぽぷらの心は……ちっちゃくないよ……!』って……」

「えっ? それじゃあ……」驚いたようにかたなし君が言う。

「うん、それからは、誰かに小さい、って言われても、『ちっちゃくないよ!』って、自分で言えば……お母さんの言葉を思い出すの……そうやって、大きな、心で相手を受け止めることが……出来るの……」

「そう、だったんですか……俺、何回もせんぱいにちっちゃくて、可愛いって……」

「いや、いいの! かたなし君は……」

「えっ……だって」

 申し訳なさそうな声になってしまったかたなし君を見つめて、笑顔を送る。

「かたなし君の、ちっちゃくて可愛いっていうのは……最初はなんとも思ってなかったんだけど……その……だんだん、嬉しくなって……そのうち……ちっちゃくてもいいかなって…………ちっちゃくて良かったな、って、そう思うようになったの……」

 そう、言った瞬間、わたしの顔が一気に風邪を引いた時みたいに、赤くなっていくのが自分でも分かった。

「せんぱい……その……今、言うのは……アレかもしれないですけど……でも! 言わせてください、その……赤くなったせんぱい……凄く……可愛い……です」

 ――そんなこと言われると……もっと、赤くなっちゃうよぉ……っ!

「あ、あの……かたなしく……ん、えっと、ちょっと……しゃがんで、もらっていいかな??」

 赤くなった顔で、目をキョロキョロさせながら、わたしが言う。

「えっ? ……こうですか?」

 わたしの意図に気付かない様子でかたなし君は、その場にしゃがみ込んだ。

 ――かたなし君の顔が……目の前に……目の前より、少し下に……あった。

「あの……せんぱい? なにを……?」

 丁度いい位置にかたなし君の肩があるので、手を乗せる。

「わたしをはずかしめたおれいっ!!」

 そう、言ってわたしは、

「――えっ? それ、どういう――」

 何か、言うかたなし君を無視して――

「……んっ……んっ…………」

 かたなし君の唇を奪った。

「……ん……あっ……ぷ、はぁ……!」

 年上だからと、お姉さんだからと、かっこつけたけど、初めてだったから、そんなに上手くはできなかった。つい、息をするのを忘れて、口を離してしまった。

「せん……ぱい……たねしま先輩…………ぽぷら……」

 うわ言のようにかたなし君が言うと、そのまま今度はかたなし君のほうから、キスしてきた。

「……んっ……ん、はぁ、は、あ……んっ……!」

 舌の短いわたしが、出来なかったディープキスの見本を見せるかのように、わたしの口の中にある舌はかたなし君の舌にすぐに見つかり、乱暴に包み込まれ、愛撫された。

 

 それから、わたしはヘニャヘニャになって体の力がほとんど無くなるくらいまで、しばらくの間、かたなし君に口の中を舐めまわされ続けた。

 そんな、わたしの姿に気付くと、やっと、理性を取り戻したかたなし君が、

「……っ! あ、あの……せんぱい……とりあえず……帰りましょうか? 送っていきます……」

 そう言って、わたしの手を掴む。

 

 ――お互いに、火照った顔が、暗さで見えにくかった事が、何より幸いだった。

 



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(12)  一人になっても二人のことを

「あっ……! じゃあ、わたし、こっちだから……」

 街灯が灯り始めるような薄暗がりの中をしばらく歩いて来た後、自分の家の方向を指差してわたしが言った。

「…………家まで送らなくて大丈夫ですか?」

 かたなし君が言う。

「んーん、だいじょうぶ、もう、すぐそこだから!」

 そう言って、繋いでいた左手をほどく。すると、手を覆っていた熱がたちまち寒空に消え、少し寂しい気持ちになった。

「それじゃあ、せんぱい……また、今度」

 テレくさそうにしながら、かたなし君はそう言って左手を上げると名残惜しそうに、その場を去って行った。

 

 ――家までの距離を歩きながら、わたしは今日あったことを思い出していた。

 今日は、色々あった。久しぶりにお店でミスしてしまって……へこんで……悲しい気持ちになって……昔を思い出していた。昔みたいに、わたしが挫けなくなったのは、全部、この店のみんなのおかげだ……。そして……お店をそんな雰囲気にしてくれたのは、わたしの事をいつも可愛いと褒めてくれた、かたなし君のおかげだ……。

 

 そんなことに気付いてわたしは、改めてお店のみんなへの感謝の気持ちでいっぱいになった。そして、かたなし君のことも少しずつ、意識してしまって……気付けば、好きになってしまっていた。

 ――考え事をしながら、歩いていると、既に家の前まで来ていた。わたしは、家に入り、両親にただいまと、あいさつをすると、着替えて晩御飯を食べ始めた。

 お父さんや、お母さんがいつものように、今日はどうだった? とか、テレビのクイズ番組なんかを見ながら、談笑をしている。わたしは、心配されないよう、いつも通り、適当に話に参加しながら、晩御飯を食べた。晩御飯を食べ終えると、お母さんが、食器を洗い始める。わたしは、自分とお父さんの分の食器を流しに置くと、お母さんに一声かけ、自室に行った。

 

 部屋に入ると、電気を付けるのもおっくうで、わたしはそのままベッドにもぐった。

 ベッドに入り、今度は、かたなし君と会った時の事を思い出す。さっき晩御飯を食べている時には考えないようにしていた。本当はすぐにでもそのことで頭をいっぱいにしたかったけど、そんなことしたら、顔が真っ赤になってしまいそうで、お母さんに心配されかねないと思ったからだ。

 あの時、薄暗がりと高ぶった感情に身を任せて、思い切った事をしてしまったことに、わたしって、案外、行動派なんだなぁ……なんて思っていた。

 

「ぽぷら~お風呂沸いたわよーー」

 そうしているうちに、リビングから母の声が聞こえた。わたしは、「はーーい」と返事をし、そのまま浴室に向った。

 浴室で服を脱ぐ。髪留めをはずし、手で髪を梳く。そして、先日から付け始めた物も首から外して、大事に服の上に置いた。

 ガラガラと音をたてて、扉を開くといつも通り、見慣れた我が家の浴槽に湯が張ってある。

 わたしは、桶を使って、浴槽のお湯をすくうと、そのまま体にかけた。

「わっ……! ちょっと、あっつい……!! お母さーーん! ちょっと熱いよ~!」

「あら? あつかった? 水入れなさい、水」

 そんな、無責任な母の声を聞き、わたしは水を入れると、そのまま、浴槽に浸かった。

 お湯の刺激が全身に行き渡り心地いい。

 ――かたなし君……。わたし……かたなし君に……キスしちゃった……かたなし君と……キスしちゃったんだ……。

 少し暑めのお風呂の温度が、ほてった体には丁度良かった……。だって、もし今のわたしの赤い顔を見られても、お風呂が暑いからって、いいわけできるからっ……!!

 

 ――ふと、浴槽に顔を沈めてみた。ブクブクと、鼻から息が泡となって、出ていく。かたなし君も……わたしのこと好きなのかな……? 好き……なんだよね……?

「ぐふっ……ぐふぐふっ…………ぶ……ぷはぁ!!」

 心地よい、気持ちに浸り、お湯の中で息をすることも忘れ、にやけていた。さすがにそのうち息苦しくなり顔をお湯から出した。

 ……こんな顔……誰かには見せらんないよ……へへ。

 しばらく、そんな風にして、にやけた顔を引き締めて……でも、また、へにゃっとした顔になって……その、繰り返しだった。

 

 ――そこまでは、良かった。思えば、わたしは今日、予想外のことが起きすぎて、簡単なことにも全く、気付かずにいた。『そのこと』に気付くと、わたしは一瞬にして、不安の絶頂まで、心が病んだ。

「伊波ちゃん…………」

 わたしは――何をしているんだろう? わたしが、かたなし君を好きになって……あんなことしちゃって……どうするんだろう? 伊波ちゃんは? 伊波ちゃんの気持ちは!?

 ……そんなことにも気が付かなかったなんて、伊波ちゃんの友達……失格だ。わたしは、伊波ちゃんの友達なんかじゃない……。いくら、今日、あんなことがあったからって言っても……許されることじゃないよね……。

 少し前まで、泣いていたためか、伊波ちゃんのことがよほどショックだったのか、もう、枯れ果てていたと思っていた涙が、わたしの両目から、ぽろぽろと流れ落ちる。

 だけど、お風呂だったから、好都合だったかもしれない……。涙をすする嗚咽の音も、赤くなって腫れぼったくなった目も、お風呂の中でなら、どうにか両親にばれずに済みそうだから……。

 

 

 

 ――俺のワグナリアへの道の足取りは重かった。別に、嫌な事があったからという訳ではない。緊張からだと言って良いだろう。当然、その理由に関わって来るのは、せんぱいだ。先日の事。あの夜。俺とせんぱいは……その……き、キスをしてしまった。それも、せんぱいの方から……。

 あれは、何を意味していたのだろう? いや、そんな事は愚問か。薄暗がりの中、何か、幻想的な雰囲気に包まれた幻のような、そんな瞬間だった。正直、俺は、本当にせんぱいと、あんなことがあったのか。つまり、夢ではなかったのだろうかと、そんなアホらしいことを、割と本気で思っていた。……まあ、単なる現実逃避なのかもしれないが……。

 そんな訳で、俺の店への足取りは重い。せんぱいと、どんな顔をして会えばいいのか……何を言えばいいのか……それが、正直分からなかったからである――。

 

 ――店に着く。裏口の扉を開ける。

「あっ……小鳥遊くん……おはよー……」

 休憩中なのか、珍しく相馬さんがその場にいて、にこやかに話しかけてくる。どうして、この人の笑顔はこうも向けられた方は、不安を感じるのだろうか。

「お、おはようございます……相馬さん……今日もいい天気ですね……」

 なんとなく、嫌な雰囲気を感じ取った俺は、ついそんな無難な台詞を口にすると、そそくさとその場を後にしようと更衣室に向う。

「え? ちょ、ちょっと! 小鳥遊くん! そんな、逃げるように行かなくても!? ホラ、まだ、時間あるんだしさぁ……もう少し、話そうよ……!」

 相馬さんは、逃げる俺を呼び止めると、時計を見せて言う。たしかに俺の出勤時間まではまだ、10分ほどある。足取りの重い日でもいつも通りの時間に来てしまうなんて、習慣って恐ろしい。

「……なんですか、相馬さん……手短にお願いしますよ……?」

「うわぁ……なんで、そんな不機嫌なの? ……まあ、いいや。なんかさー最近、だいぶ、種島さんと仲がよろしいみたいだけど、今はどうなってるの?」

 目をキラキラさせて、聞いてくる相馬さん。男の目がキラキラしても気色悪いだけだなと思った。というか、単刀直入にも程がある……。

「あのですね? 相馬さん、当事者にはそんなに面白い問題じゃないんですよ、真剣に悩んでいるんですよ!?」

「そんな、でも、俺だって結構本気で応援してるんだよ? ほら、君と種島さんがくっつけば、佐藤くんの方も上手く行きそうじゃん?」

 ……なんだよ、その理由。俺は、今、佐藤さんのことまで考えられるほど余裕はないんだよ。……でも、相馬さんも、案外、本気で応援してくれている部分も半分くらいはあるのかもしれない。まあ、言っても、悪い人ではないしな……。

「……それで、俺とせんぱい、佐藤さんとチーフがくっつけば、今度は相馬さんと、やまだ……って、ことですか? ああ、相馬さん実は、まんざらじゃなかったんですね? おめでとうございます」

「えっ!? なんで、そうなるの! やめて!? 俺の事はいいからっ!」

 テンぱる相馬さん。……山田ネタは、相馬さんの数少ない弱点だな…………。

 

 ――その日は、暇な日だった。もう、やばいくらい暇な日だった。暇な日って、食品補充とか、チェックとか、今の内に出来ることを当然するわけだけど、暇なので急がずとも、その内終わってしまう。しかも、今日に限って、というか、まあ、大概そうなのだが、せんぱいも同じシフトだ。せんぱいとは、ある意味予想通りというか、助かったというか、つまりは、前みたいにお互いに、緊張してしまって、あまり話せずにいた。

 ――そんな、具合で前に海に行った後と同じように、俺は遠くから、客席で働くせんぱいを遠めで見ていた。

 自分でも思う。同じ事を何度繰り返すのだと。しかし、今回は前とは状況が違う。せんぱいを女性として意識してしまったあの時とは、レベルが違う。せんぱいと……おそらく、両思いに……そして、あんなことまで……。

 

 ……やばい。思い出すと、また、顔が赤くなってしまう。昨日も居間でなんでもないバラエティを見ていたのに顔が赤くなった俺を見て、なずなに「ぐあいわるいの?」と、ひどく心配されたんだっけ。もちろん、理由はあの時のせんぱいとのことを思い出していたからだ。

 ――それに、気掛かりなのはそのことだけではない。そう、伊波さんのことだ。

 俺が好きなのはせんぱいだが、伊波さんとのことにもきちんと、けじめを付けないといけないと思っている。

 ……このままじゃ……いけないな……。

 よし。今日の仕事が終わったら、せんぱいに話してみよう。とりあえず、今の俺がするべき事は……せんぱいとの、仲をはっきりさせることと、伊波さんとのことをどうするかだ。その二つの問題をクリアするためには、まず、せんぱいとの仲をはっきりさせなければいけない……。

 

 ――そう一度、決心してしまうと、案外と心がスッキリしたように、軽くなった。だが、しばらくすると、また不安が心を渦巻いてくる。

 誰か、他の人の意見も聞けたらな……と、なんとなく思った俺は、今日が暇だった事を良い事に、キッチンで暇そうにしていた佐藤さんに声をかけた。

「……佐藤さん」

「ん? 小鳥遊か? ……どうした? ああ、そう言えば、お前に聞いておかなきゃらならないことがあったんだ、この日、何か予定あるか?」

 佐藤さんは、突然そう言うと、カレンダーの休日を指差して言った。

「えっと、その日なら別に用事はないですけど……?」

「そうか、わかった……ああ、それで?」

 その日に何かあるのだろうか? 疑問は浮かんだが、まあ、その内、分かるだろう。今は、せんぱいとの事だ……。

「佐藤さんは……その、チーフのことが好きなんですよね? だから、俺の気持ちも分かるんじゃないかなと……思いまして」

「…………種島のことか?」

 回りくどい俺の聞き方に対し聞きたかったことを簡潔にしてくる佐藤さん。

「……ええ、はい。あの、俺……せんぱいのことが好きなんです……!」

 俺は、近くに誰もいないことを確認して言った。

「…………それで?」

 俺のほうを見ずに、少し間を置くと佐藤さんがそう言った。

「えと、知ってました? ていうか、店のみなさんは、どの程度まで知ってるんですか?」

 俺が言うと、佐藤さんは冷蔵庫を空け、食品の確認をしながら、

「まあ、そういう噂は結構前から、相馬経由で聞いていたよ、まあ、お前が種島を好きになることは、ありえないことじゃなかったし……それほど、驚きはしなかったがな……」

 と言った。

「それで……どう思います? その、佐藤さんは、一番せんぱいを良く知っていると思うので……」

「……どうって。まあ、いいんじゃねーの? 店では恋愛ごとは禁止って言われてるけど……それだと、俺もダメってことになるし……正直、いざこざに発展しなければいいってことだろ?」

「……そうですよね、俺……頑張ります」

 そっけなくも、肯定的に俺の話を聞いてくれる佐藤さんの言葉に自信を持ち、決心したように俺が言うと、

「あー……で? 告白したのか?」

 冷蔵庫をあさる手を止め、こちらを向いて佐藤さんが言った。

「いえ……、その……今日、しようと思います」

「…………そうか」

 佐藤さんがそう考え込むようにして言った後、丁度、お客さんが来た合図が聞こえた。

「あっ……その、ありがとうございました、話、聞いてくださって……それじゃあ」

 そう言って、俺は接客に向おうとする。そんな、俺の背中に、

「……頑張れよ、小鳥遊」

 小さくそっけない、でも、心のこもった一言を貰った。

 ――ほとんど、本当に話を聞いてもらっただけだったけども、言葉の数以上に、お互い通じ合えた気がした。男同士の会話ってそんな独特の物がある。まあ、もちろん相手によっては、そうはならないが……。

 

 佐藤さんのようなタイプは、正直、姉妹達に囲まれて男一人で今まで生きてきた俺には、憧れるような所がある。言葉の重みというか、無駄口を叩かないような、ドライな所なんか素直にかっこいいと俺は思っていた。



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(13)  告白

 ――仕事が終わるまであと、5分を切った。いつもなら、やっとか。と一息つき、今日の晩飯の献立を考えたり、冷蔵庫に残っているものを思い出してスーパーに寄るかどうかを考える時間だ。しかし今日は、当然ながらそうはならなかった。仕事が終われば、せんぱいに話しかけなければいけない。そう決めていたから……。

 そんな、緊張と圧迫感から、逆に時間が流れるのが怖かった。もう、今日はずっと働いていたかったとさえ思っていた――。

 

 そして、終わりの時間になった。店の後片付けはもう数分前に終わらせた所だ。バタバタと、いつものようにみんなが更衣室に向っていく。普通、緊張が解かれ、一番だらけた姿を晒しているこのタイミングで、俺は一人緊張していた。それを悟られないようになるべく隠しながら、更衣室に入り、着替えを始めた。わずかに、女性側の更衣室から、せんぱいや山田の声が聞こえてきていた。普段は聞き流すそんな声も意識してしまう。あまり、遅く着替えると、せんぱいが先に帰ってしまうということも当然ながら気にして着替えるスピードを調節する。まあ、基本的にだらだらと着替えていても男の方が圧倒的に早く終わるのだが……。

 

 なにやら、いつもとは違う雰囲気を感じてか、佐藤さんが不思議そうに俺を何度か見るも、察してくれたのか、何も言わずに先に休憩室に行った。

 その内、着替え終え、俺も更衣室から出て休憩室に入る。そこでは佐藤さんがタバコをふかしていた。俺もおもむろに、イスに座る。こういうとき、タバコを吸っている人は間が持たないという事がないから良いなとふいに思った。

 

 その内、わいわいと、賑やかそうに騒いでいた女子更衣室から、せんぱいを含めた女性メンバーが出てくる。せんぱいは、山田や伊波さんとあいさつを交わすと、一瞬こちらを見たときに俺と目が合った。せんぱいもどんな顔をして俺と向き合えばいいか、図りかねているのだろう。誤魔化すように、視線を散らした。

 そうして、みんなで帰宅する。裏口から出ると、伊波さんなど他のメンバーは先に帰った。そう言えば、いつの日からだったか、今はもう、伊波さんとは一緒に帰っていない。

 せんぱいが「じゃあね~」と手を振り、みんなを見送った。後には、せんぱいと俺と佐藤さんが残った。そして、扉から俺達を見る山田か……。

 なんとなく、俺達のほうを見て、「じゃ、じゃあねっ!」と、誰にともなくせんぱいが言い、帰ろうとする。

 

 ――くぅ、今、せんぱいを止めないと……。

 そんなことは頭では分かっていても、簡単には行動に移せない。……弱いな、俺は。

「ああ……種島」

 急に手を上げて、佐藤さんがせんぱいを呼び止めた。俺は、なんだろうと見ていると、

「小鳥遊が、お前に話があると……」

 左後ろにいた俺を、右手で指差して佐藤さんが言う。

「えっ!?」思わず、声が出た。

「何が、えっだよ、小鳥遊……お前、話あるんだろう?」

「ああ……そうですね、あります!」

 この時、仕事が終わってから初めて俺はまともに話した気がする。

「かたなし君……なにか、あるの……?」

 そう言いながらも、せんぱいにも思う所があるのだろう。少々身構えた様子の上目遣いをしていた。

「あの……とりあえず、一緒に帰りましょうか……?」

 山田には陰になるように背を向け、帰り道を指差して少し小声で言った。

「あ…………う、うん」

 せんぱいも、それに応じるように、恥ずかしがりながらも、俺の隣に移動した。

 なんだか、俺とせんぱいが隣同士に立ち、カップルのような感じになっているなと自分でも思った。そんな光景に照れくさく、さっさと、せんぱいと二人で帰ろうと、早足で去るため、佐藤さんに「そ、それじゃあ、俺達はこれで……」と、手をあげ帰ろうとした。

「お前ら……初々しいカップルみたいだな……」

 自分でも気付いていた恥ずかしいことを佐藤さんに言われ、思わずむせ返った俺だった。それを「大丈夫!? かたなし君?」と気遣うせんぱいと共に、早々にその場を早足で帰ったのであった――。

 

 

 ――横にせんぱいを据えて、暗がりの中、帰り道を歩いていた。お互いに相手のほうへチラチラと視線を向けているようで、たまにそっとせんぱいの方を盗み見ると、せんぱいと目が合ってしまい、慌てて視線をそらすハメになる。そんなことをもう、4回は繰り返しただろうか。お互い、聞きたい事があるはずだった。少なくとも俺にはあるし、その様子から、せんぱいも同じことを聞きたいのではないだろうか、おそらくは。

「あーっ、かたなし君、そう言えばね? 今日、葵ちゃんがねー……」

 

 微妙な雰囲気に耐え切れなくなったのか、せんぱいは、何気ない話を始めた。山田が、店であんなことをした、こんなことをした、などと言った、うちの店のメンバーだったら大体はウケるであろう無難なネタだ。それを俺は、うんうんと、時々相槌を入れながら聞いていた。しばらく、そんな話をするうちに、お互いの間を取り巻く気まずさが、薄れていくのが分かった。それ自体は良いことだったと思うが、こんなことをしていては、一向に俺達は進展しない。帰り道も、残りわずかだ。俺は、せんぱいの話を笑いながら聞きながらも、いつ、踏み込むべきかを、常に考えていた。

「……かたなし君……わたしの話……聞いてるけど、なんだが上の空みたい……」

 そんな時――。ふいに、せんぱいが立ち止まり言った。

「えっ!? ……いや、そんなことないですよ!?」

 とっさに、誤魔化してしまう俺だった。せんぱいは、その純粋な瞳で俺の目を見つめる。俺はせんぱいに心の奥を覗かれてしまいそうな気がして、目をそらした。

「……どうして、目をそらすの? 本当は、何か言いたいことあるんじゃないの?」

「い、いえ…………あ、いや、そう……ですね、あ、あります。言いたいこと……」

 一瞬また、否定しそうになったが、かえって丁度いいタイミングなのかもしれない。そう、思った。

「……えと……なにかな……?」

 困惑した表情で聞いてくるせんぱい。

「えーっとですね……」

 そうだ、いいタイミングだ。言ってしまおう。せんぱいは俺のことどう思ってるんですか? 好きなんですか? って。

「――あ、ごめん……かたなし君に言わせるなんて……ふぇあ、じゃないね……」

 急にせんぱいがそんなことを口にすると、薄く笑って、俺を見上げ、

「わたしからだって……言うことは出来るのに……」

 とポツリと言った。

 

 ……うん? これは……せんぱいは、変に負い目を感じているのか、自分から告白? するつもりなのかもしれない……そんな、男の俺が言うべきことなのに。

「え、えっとね!! わ、わたしはっ、かたなし君のこと――」

 急に、吹っ切れたのか、さっきまでのモヤモヤした様子を払拭し、元気いっぱい、勢いいっぱいで何か言ってしまいそうになるせんぱい。

「ちょ! ちょっと、ちょっと待って! せんぱい! ストップ、ストップ!」

 ――せんぱいに先に言わせるわけには行かないっ……!

「す、好きですっ!! 俺、せんぱいのこと!!」

 ――言った。はっきり。声に出して。

 そう、言った瞬間、俺の体はさながら、200m走を全速力で駆けた後の高揚感に似たような、胸の高鳴りと、熱が全身を包んだ。しかし、そんな一生に何度かしかない体内現象には気を止めている暇はなかった。

「うっ……っ……うう、うっ、うう、かたなしくーん! うわーん! かたなしくーん!」

 そう、目の前でせんぱいが、ビービーと、泣き出してしまったからだ。

「……えーっと、せんぱい? その、涙は……どういう意味でのものですか?」

「……すん……ん……えっと、嬉しさが……半分以上だけど……あとの残りは……なんだろう……わかんないけど、不安……かな……」

 涙目を手で擦りながら、答えるせんぱい。

 ――伊波さんの事……かな? やっぱり、せんぱいも気にしていたんだな……。それで……俺と同じく……店では気を張っていた訳か……。

「あ……これ、ハンカチどうぞ、せんぱい」

「あっ……ありがと」

 とりあえず、ポケットからハンカチをせんぱいに渡すと、

「その……ちゃんと、けじめは付けたいと思っています……」

「……? そうだね……それでいいと思うよ……わたしも……」

 俺の紺色のハンカチを使って涙を拭くせんぱい。その光景を見て、昔はよく泣いていたなずなが、そのハンカチで、涙を拭いていた情景を思い出した。

「えーーっと、それで、せんぱい? さっきの返事……せんぱいからは、何も聞いてないんですけど……?」

 場の雰囲気から、大体分かるものの、ちゃんとした言葉で俺も聞いておきたかった。

「……あっ!? そ、そうだね! わ、わたしったら、自分の中だけで自己完結しちゃって……恥ずかしいっ……」

「あははは……いいですよ、俺も、せんぱいが嬉しいって言ってくれて、嬉しかったですし……」

「いやっ! ダメだよっ! かたなし君、こういうことは、ちゃんとはっきりしとかないとね!」

 せんぱいは、すっかり生き生きした顔になると、そう強く言い、

「…………えっと……わたし、種島ぽぷらは……かたなし君のことが……大好きです!!」

 

 最高の笑顔でそう言ってくれた。



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(14)  『番外』 同日、他のメンバーの様子

 ――同日、他のメンバーの様子。

 

八千代「どうしましょう……困ったわ……」

 

相馬 「どうしたの? 轟さん?」

 

やち 「ああ、相馬くん!? それがね……」

 

そうま「ああ、なんとなく応募した懸賞の家族旅行チケットが当たっちゃったこと?」

 

やち 「なんで、知ってるの!? 相馬くん!?」

 

そうま「そりゃあ、そういうキャラだからさ!」

 

やち 「よく、自覚してらっしゃるわ!?」

 

山田 「なんですか? 相馬さんと八千代さん、楽しそうになに話してるんですか? 山田も混ぜてください!」

 

そうま「山田さん……よくもまあ、いつも働かないで堂々としてられるね……まあ、今日は暇だからいいけど」

 

やまだ「そうです! 今日は暇なのです! だから、いつもの疲れを癒すため、今日は体を休めることに力を入れてるんです!」

 

そうま「いや、山田さんは、いつも働いてないでしょ、怒られるよ~小鳥遊くんとかに」

 

やまだ「大丈夫ですよ、相馬さん。今は、小鳥遊さんは種島さんのことで頭がいっぱいなんです! 山田なんて見えてません!」

 

そうま「ああ、たしかに……今の、小鳥遊くん、色々大変みたいだからね~、もう、種島さんと付き合っちゃえばいいのに面白いから」

 

やち 「そうねぇ……小鳥遊君、最近、いつも考え込んでるみたいで……ぽぷらちゃんもそうだし……色々、大変そうよねぇ……」

 

やまだ「それで、お二人は何を話されてたんですか?」

 

そうま「ああ、忘れてた。轟さんが、家族旅行のチケット当たっちゃったんだよね? それで困ってるみたいで……」

 

やまだ「旅行ですか!? 山田行きたいです! りょこう! チケットいっぱいあるなら、店の皆さんで行けばいいんじゃないですか?」

 

そうま「その手もあるけど……ていうか、返金とかって出来ないの? そういうの」

 

やち 「私も考えたんだけど、他のこの懸賞に応募した人は家族で旅行楽しみにしていた子なんかもいたかもしれないじゃない? なのに、お金に変えちゃうだなんて、その人達に悪いかな? って、思っちゃって」

 

そうま「……う~ん、まあ、轟さんの物だから好きにすればいいんじゃない? じゃあ、さっき山田さんが言った通り、みんなで行く? チケットありすぎて無駄にするのがいやなんでしょ?」

 

やち 「そうなのよ……わたしと、杏子さんだけで行っても、7枚あるから、5枚も余っちゃうし……みんなで行けたら、いいなって思ったんだけど……」

 

やまだ「思ったんだけど……なんですか!?」

 

やち 「わたしと、杏子さんと、佐藤くんと、相馬くん、葵ちゃん、まひるちゃん、小鳥遊くん、ぽぷらちゃんで、一枚、足りないのよ……!」

 

やまだ「これは困りましたね!」

 

そうま「………………」

 

やち 「もう、この際だから、わたしが抜ければ!」

 

そうま「いやぁ、それは色々ダメでしょ、チケットくれた本人差し置いて楽しめないでしょ!」

 

やち 「じゃあ、どうすればいいと思う? 相馬くん」

 

そうま「う~ん、そうだなぁ……ああ、とりあえず、佐藤くんの所に行ってみようか」

 

 ――そうして、みんなでキッチンに向った。

 

佐藤 「どうしたんだ? こんな、大勢で? 山田、仕事しろ」

 

やまだ「なんで、山田だけなんですか!? 相馬さんや八千代さんにも言ってください!!」

 

そうま「そういう、佐藤くんだって、暇そうじゃない?」

 

さとう「まあ、今日は客がいないからな……それで? 何か用なのか?」

 

そうま「うん、実はね……轟さんがっ! 轟さんがっ! 佐藤くんと旅行に行きたいって!!」

 

さとう「なんだと?」

 

やち 「そんな、違うわ! 佐藤くん! わたし、佐藤くんを誘ってなんかいないわ! ……あ、いや、佐藤くんも、誘ったけど、ね? 他のみんなもどうかって話で!!」

 

さとう「おい! 相馬! お前、いい加減なこと言ってんじゃねー!!」

 

そうま「痛い! マジで痛い! 佐藤くん、やめて! 冗談だって!」

 

やまだ「佐藤さん、山田のお兄ちゃんの相馬さんが、死んじゃいます、やめてくださいっ」

 

やち 「さ、さとうくん!? 落ち着いて!」

 

さとう「まったく……それで? 本当のところは?」

 

やち 「実はね、佐藤くん、わたし、懸賞で家族旅行のチケット7枚も当たっちゃったから、お店のみんなで行こうと思ったんだけど一枚足りないの……だからどうしようかと思って」

 

さとう「……と、伊波と…………たしかに、一枚、足りないな。それで?」

 

やち 「うん、どうしようかと思って……」

 

さとう「…………そうか。まず、みんなのスケジュールチェックして行けるかどうかだな、都合会わないやつ居るんだったら、どっちにしてもいけねぇし……」

 

やち 「ああ、そうね! えと、わたしと杏子さんは大丈夫、あと……相馬くんと葵ちゃんは大丈夫、佐藤くんは?」

 

さとう「俺は大丈夫だ、それじゃあ、後は小鳥遊と種島と伊波だな……」

 

やち 「そうね、まひるちゃんとぽぷらちゃんはわたしから聞いておくわ、小鳥遊くんには……」

 

さとう「もう少しで、来るだろうし……俺から聞いておくよ……しかし、全員行けるとして、一人分のチケットをどうするかだな……」

 

そうま「それは、やっぱ、全員でなにか勝負して決めるしかないでしょ!」

 

やまだ「わぁ、チケット争奪ゲームとかですか? 面白そうです! 山田、燃えてきました!!」

 

そうま「そうだねぇ? 二人ペアになって、野球拳対決なんてどうかな? 当然、負けたら一枚ずつ、脱いでくんだよ! よし、佐藤くんは轟さんとペアにしよう!」

 

さとう「ふっ……ぐはぁ!」

 

やち 「大丈夫? 佐藤くん? タバコ体に合ってないんじゃない? ていうか、ここでタバコ吸っていいの?」

 

さとう「大丈夫だ、換気扇回ってるから」

 

やち 「そういうもんだい!?」

 

さとう「つーか、相馬、コラァ!」

 

そうま「痛い!? 二度目だよ! 佐藤くん!? やめて!」

 

やまだ「佐藤さん、もっとやっちゃってください、相馬さんは乙女心が分かってません!」

 

そうま「山田さんにも見放された!?」

 

伊波 「あの~…………」

 

やち 「あっ……まひるちゃん、どうしたの?」

 

いなみ「えっ? なんか、皆さんここで集まってるから何なのかなぁ……って」

 

やち 「ああ、まひるちゃん、この日なんだけど何か予定ある?」

 

いなみ「……いえ、特にないですけど……?」

 

やち 「実はね、かくかくしかじかなのよ……」

 

いなみ「かくか……? え? なんですか?」

 

そうま「伊波さん! そこは、ご都合主義で理解してあげて!!」

 

(※ かくかくしかじかが、通じなかった伊波さんには普通に説明しました)

 

いなみ「はぁ~、そうなんですか、一枚足りない……え、でも、一人分の旅行費いくらか分からないですけど、そのお金を、8人で割って出せば、いいんじゃないですか? そうすれば、そんなにかからない……」

 

やち 「…………それよ! まひるちゃん!!」

 

やまだ「伊波さん、ナイスアイディアです!」

 

さとう「伊波……案外、役に立つんだな……」

 

そうま「……えっ? 佐藤くん、気付いてなかったの?」

 

さとう「……お前、知ってて……どうやら、もう一度、殴られたいようだな……相馬」

 

そうま「えっ!? やめて! もう、ケツ赤くなってるから! やめて!」

 

さとう「しょうがない……この問題に答えることが、出来たら許してやろう……」

 

そうま「なに……?」

 

さとう「パンはパンでも、食べられないパンはな~んだ?」

 

そうま「フライパン!! フライパン! フライパンフライパン、フライパン持ってこっちこないで! 佐藤くん!!」

 

さとう「ハズレだ。……正解は、前に山田がちょっと目を話した隙に、俺が買っておいたパンに勝手にアレンジしやがって俺のパンが無駄になった、納豆パンだ!!」

 

そうま「それ、個人的な好みな上にあてつけじゃん!? ああ、ダメダメ! フライパン振りかぶらないで!!」

 

 ――フライ・パーーン!

 

 



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(15)  覚悟を決めたぽぷらと、ことり

 ――鏡を前に一人、自室で俺は、女装をしていた。胸に詰めたタオルの位置を調節する。

「…………何をやっているんだ……? 俺は……」

 鏡には、長髪と女物の洋服を着こなした自分が立っている。現実逃避しようと、なんとなく自分の後ろを見てみる。……が、もちろんそこには誰もない。

 

 そう、つい先日から俺は、ついに女装癖に目覚めてしまったのだ……! なんて、自虐ネタを言うくらいには俺は、昔のトラウマからは克服しているようだ。だが、もちろん良い気分ではない。中学生になりたての頃、とっくに女装なんてやめていたのに、無意識的に、梢姉さんの下着を自分のタンスに仕舞いそうになった時の絶望感とか、小4の頃、梢姉さんの悪乗りで、ブラジャーを試着してみた事とか、自分の中でも消したい過去でも上位の記憶を思い出したくなくても思い出してしまうんだ。もう、これ以上は思い出させないでくれ、俺の男としての自信が薄れていくから……。

 

 そんな訳で、俺は、女装をし……通称「ことりちゃん」(自分で言っていて恥ずかしいが)の格好で、種島せんぱいを、自宅で待っているという訳であった。

 なぜ、こんなことになったのだろう? 正直、自分でも今思うと、非常に不思議なのだが、遡ること先日の話。丁度、あの後、せんぱいとお互いに気持ちを確かめ合った後のことだった……。

 

 

 ――俺の事が好きだと言ってくれた、せんぱいの顔はまだ、この薄暗がりの中でも、確認できるくらいに赤かった。

「その……せんぱい……嬉しいです。ありがとうございます」

「そ、そんな……面と向かって、喜ばれると……恥ずかしいよ……」

 あくせくしてるせんぱい、可愛い。

「あ……でも、そうなると、また、一つ問題が……」

 せんぱいと、結ばれるのは嬉しいが、伊波さんをどうするか……頭が痛い。

「えっ……? なにが?」

 何の事かと言いたげな表情でせんぱいが言う。

「あのことですよ……」

「えっ? …………あーー……?」

「そうなりますと……また、二人で合わないといけませんね……」

 どこか……邪魔の入らない所で話し合わないと……。

「えっ? …………かたなし君……わたしと、二人で居たいの……?」

 なぜか、また、テレたように顔を赤くして言うせんぱい。

「いや、まあ……ていうか、二人で決めないといけない事だと思いますし……いいですよね?」

「…………あーーっ……えっと……かたなし君……わたし達……いくら、お互い……その……すき……どうし……だからって! えっと、そんな、いきなりは……まずいんじゃないかなぁ……なんて?」

 両手の人差し指を、合わせて、モジモジ……。目もキョロキョロと、落ち着きがない。

 

 ――どうしたんだろうか? ……せんぱい。

「えっと……? せんぱい? なんかよく分かりませんけど、俺もこうなったからにはハッキリさせたいっていうか……まあ、とりあえず、ナアナアにしないでさっさと、やっちゃいましょう!」

 珍しく、ハッキリしないせんぱいに俺は強気で言った。

「えーー? そんなぁ! かたなしく~ん! もうちょっと、ナアナアにしようよ!! わたし、そんなすぐに準備できないよ!!」

「……準備って、会うだけなんですから……準備なんて……」

「そ……そんな、お、女の子には……色々あるのっ……!!」

 プリプリと、怒ったような素振りで言い放つせんぱい。

 色々って……何を言っているんだろう? 何だか、分からないが、せんぱいは恥ずかしがって、俺と会うのをためらっているようだ。俺としては伊波さんとの事は早いうちにハッキリさせておきたい。そのためには、せんぱいとそのことを話し合わないと……そう思っているのだが……。

「えと……ど、どうしても、わたしと会いたいの……? かたなし君……?」

 頬を赤くし上目遣い……少し、斜めから見上げてくるせんぱい、可愛い。

「そうですね……! ハッキリさせたいですから!」

 俺が言うと、せんぱいは困ったように悩んで、しばらく沈黙した後、

「…………そ、それじゃあ、かたなし君が……ことりちゃんになってくれたら……いいか……な……?」

 予想だにしないことを言い出した。

「は……えっ!? な、なにを……!」

「だってだって! わたしだって恥ずかしいし! それだったら、お互いに恥ずかしい格好だったら……いいかなって……わたしも、今、かたなし君と一緒に同じ部屋で二人きりなんて……想像するだけで、緊張しちゃうからっ……!!」

 早口でまくし立てるせんぱい。

 

 ……うう、圧倒され……いや! 女装だぞ!? 俺の大嫌いな……! くそぅ! しかし、俺が女装すればせんぱいも安心して俺と話が出来るって言うし……。

「うーーん、いい……いや、やっぱ! う、うむ……く……!」

 ……スゲー悩むぞ、これは。

「お、お願いっ! かたなし君! …………ダメっ?」

 ――グホぅ! か、かわええ!!

 両手を胸の前で合わせて……上目遣いで言うせんぱい……って、どんだけ俺は上目遣い好きなんだと思うんだけど、もう、その時のせんぱいは可愛くて、いや、元々せんぱいは可愛いのだけども、そういうことじゃなくて、なんていうか、見慣れた可愛さなのに、新しい可愛い小さい物を、ある日、見つけた時のあの、独特の感情みたいな、アレだ。初めてハムスターを見た時のそれ、みたいな、なんていうか、こんなね、言葉なんかじゃ説明できないんだよ。そもそも、言葉で説明しきれるような、そんな、限界があるみたいな可愛さじゃなくて、なんていうか、その、せんぱいは特別っていうか、可愛いし、好きだし、大好きだし、なんていうか、その、なんていうか………………。

 

 ――で、この時の俺は、あんまり記憶がないんだが、どうやら俺は「いいですよ」って、まあ、承諾していたらしい。っていうのが、この後の、せんぱいの、「ほんと!? やったーー!!」という、これまた可愛い表情とせんぱいそのものから、推測できたわけなんだ。そういうことなんだ。ようするに俺はせんぱいに骨抜きなんだっ――!

 

 

 ――思い出すと、今でも顔が熱くなるその日のことを振り返った。

 我に返り女装している自分を思い出すと、俺は、何をしているんだろう? と、心の中で、もう4回目か5回目か……忘れたけども、それくらい何度も思ったことをまた思った。長髪がひじに触れる度に――。視線を下に向けた時に女物の洋服が目に入る度に――で、ある。

 

 ――ピンポーン。

 き、来た! 時間から言って、せんぱいだろう。俺は、あまり他人に見られたくないその格好で、恐る恐る玄関まで行き、扉を開ける。

「あっ……せんぱい……ど、どうぞ上がってください」

 扉の前に立っていたのは、予想通り、せんぱいであった。服装は夏らしい網っぽい白の服の下にプリントTシャツに青いスカートを穿いている。

 よく考えてみると、この時、全然違う来客者だったら俺はどうするつもりだったのだろうと思うが、今となっては後の祭りだ。

「わっ! 久しぶりのことりちゃんだ! 可愛いー!」

 せんぱいは、俺を見るなり、驚いた顔でそう口にする。

「せ、せんぱい……あの、一応、泉姉さんが、居ますんで声を落としてください」

「あっ……そうなの? ごめん、ごめん」

 他の姉達となずなは、外出中だが、泉姉さんだけは、部屋に居る。まあ、締め切りまじかで、基本的には部屋から出てこないのが、救いだ。

 俺は、せんぱいを自分の部屋に案内する。せんぱいは「おじゃましま~す」と言って、階段を上っていった。

 

 俺は、リビングで早々に、二人分の飲み物を用意する。

 ――はぁ、せんぱいに押し切られて、こんな格好をまたしてしまっている訳だが……、なんだが、大丈夫だろうか? なにか、トラブルでも起きやしないだろうか? とても不安だ。不安すぎる。……そんなことを思いながら俺は、二つのコップに麦茶を注ぐと、自室に向った。

「あっ……かっ、かたなしくん……!!」

 麦茶を持って、ドアを開けただけなのに、せんぱいは緊張した面持ちで、その場で、ちょこんと座っていた。ああ、この格好だものな……。

「あっ、これどうぞ、せんぱい」

 せんぱいの前のテーブルに麦茶を置く。

「あっ、ありがとう……」

 俺も、自分の麦茶をテーブルに置くと、せんぱいと向かい合わせになるように座った。

「さっき、言いそびれましたけど……今日の私服……よく似合っていて可愛いですよ」

「えっ? ほんと? あ、ありがとっ!」

 本当に、せんぱいは服もそうだけど、仕草だとか……行動だとか、いちいち可愛いな……好きになった今は、前よりも余計にそう思ってしまう。

「……でっ、その、せんぱい? なんで、今日は、俺にこの格好させたんですか?」

「……えっ? えーっと、その、だって、は、恥ずかしいからって、言ったじゃない」

 このことに関しては、相変わらず、せんぱいの言葉は要領を得ない。

「そ、それより、かたなし君! いや、ことりちゃん! もうちょっと、全身くまなく見たいんだけど……ダメ?」

 あくせくした姿で緊張を誤魔化すように、急にせんぱいが立ち上がり言った。

「……ああ、まあ、はい……いいですけど……」

 俺としては、女装している自分は、あまり好きではないのだが、大好きなせんぱいが、俺のことを見たいと言ってくれるのなら、悪い気はしなかった。俺は立ち上がり、「こうして見て!」なんて、ポーズやら、ターンやら、指示するせんぱいの言う通りに動いたり、ポーズをしたりしてみせた。

 せんぱいは、俺の体を近くでじっくり見出した。女物の俺の着た服を触ったりして色々観察しながら、これが可愛いとか言い、ペタペタ俺の体を触っている。そうこうしている内に、自然とテーブルの無い、ベッドの近くまで移動していた。

「すごい……きれい……! わたし、やっぱり、こんな女の子になりたいなぁ……」

 俺を見て、感傷に浸るようにそう言うせんぱい。

「スタイルも、いいよね! 身長高いし……、スレンダーだし……」

「そ、それは、男ですから……」

「胸だって、丁度いいよね~! えっ、それって、どうなってるの?」

 そんなことを言って、せんぱいは俺の背中を触ってくる。

「わっ! ちょ、ちょっと!? せんぱい? ……どっ、どうしたんですか?」

 さすがに、焦る俺。

「え~? なにが~? ……わたし、身長の割に大きいから……色々大変なの……」

 せんぱいは気付いていないのか、それともわざとやっているのか、俺の背中に抱きつくような感じで、俺の背中をそのしなやかな指で触る。

 そんなことを言いながら、自分の胸のプライベートなことを言われると、文字通り、肉体も心も、心身共に、せんぱいとの距離の近さを感じた。

「……こ、こっちも……!」

 せんぱいは、そのまま俺の体に手を回しながら、俺の胸の辺りも触り始めた。

「――うわっ!」

 予想外の出来事に足元がふら付き、俺はそのまま体勢を崩した。

 

 ――ボフッという音と共に、俺達は柔らかいベッドの上に倒れこんだ。

「……せっ、せんぱい……?」

 せんぱいの様子を確認しようと、無意識的に上半身を上に向けると、俺の背中に張り付いていたせんぱいが、自然と俺の真上にきた。

「……っ!」

 顔を上げた先には、せんぱいの顔があった。その距離、20cmと言った所だろうか。当然、俺は恥ずかしくなり、固まる。せんぱいはと言えば、予想外の展開に、驚きはあるものの、案外、冷静な様子で頬を赤くし、恍惚とした表情で俺を見ている。

「……あっ……あの……せんぱい……?」

 口を動かすことすら、ためらいそうになるほどのせんぱいとの顔の距離で、なるべく、動かないように気をつけながら、俺が聞くと、

「あの……っ、もうちょっとだけ……このまま動かないでくれる……?」

 せんぱいは、小声でそう囁く。蛍光灯の明かりが、せんぱいの顔によって遮断されていた。

 そう言われたことが、返って救いだった。なぜなら、俺はどちらにしても、目の前のせんぱいの可愛くて綺麗な顔を目の前にして、自分の体が動く気なんてしなかったからだ。

 

 ――傍から見れば、どんな光景に移っただろうか? 仲のいい姉妹が、一緒にベッドで寝ている光景だろうか? しかし、そう思ってくれれば良い方だ。勘のいいやつなら、直に、二人の関係は、姉妹のそれではないという事実なんて、透けて見えるだろう。だとすれば、さながらそれは、女同士の禁断の関係だろうか? いや、今の俺の見た目は女性でも、心は男なのだが…………。

 

「……今日ね? すっごい、緊張してたの、かたなし君の家に行く前……。だって、今日は、大事な日…………だったから……」

 ふいに、せんぱいが意味深に話し始めた。

「でもね? かたなし君……わたしの言った通り……ことりちゃんになっててくれた……わたし、なってくれてないと思ってたの……だって、かたなし君、すっごい、嫌そうだったし……」

「そりゃあ、まあ……だ、大好きなせんぱいの要望ですから……」

 自分で言っておいて、かなり恥ずかしかった。

「えへへ……ありがと……わ、わたしね? 実は……前から……かたなし君を好きになってから……かたなし君のこと、意識しちゃって……まともに向き合えなかったの」

 せんぱいも、そう思っていたのか……。

「だから……今日もね? ことりちゃんの格好になってもらったの……それだったら、あんまり意識しないで話せると思って……」

「……あ、ある意味、伊波さんと同じってことですね……?」

「あはは……そうだね……? でも、今日は伊波ちゃんの話は無し……でしょ?」

 ――えっ? 何を言っているんだ? せんぱいは? 

 

 俺は、この時、せんぱいが何を言っているのか意味が分からなくて、本気で混乱した。伊波さんの話はいい? どういうことだ? 今日はその話をするために、集まったっていうのに……ということは、せんぱいには他の目的があって、今日来た? 何の?

「いいよ……かたなし君……」

 お互いの息が当たるほど近い距離でせんぱいが言う。

 俺は混乱で頭が真っ白だった、俺とは裏腹に、せんぱいは、妙にうっとりした表情で、俺を見つめる。

 なんだ? なにが起きているんだ……!? 『いいよ』って、なんだ!?

 ――その時、パニック状態だった俺は、先日のせんぱいの不可解な態度を思い出していた。今、考えてみれば、そう言えば、あの時のせんぱいの様子は何やらおかしかった気がする……。ただ、伊波さんのことを話し合うってだけなのに……必要に、緊張してモジモジして、あの時、せんぱいは勘違いしていた……? なにやら、準備がどうとか……ナアナアにしたいとか――――も、もしや……。

 俺の中でこの時、一つの仮説が生まれたのだけれど、その仮説を断定するには、なかなか勇気のいることだった。

 ――が、今もなお、俺に赤くした頬と、綺麗な瞳を向けてくるせんぱいからは、その仮説が正解だと決定付けるような、雰囲気しか漂ってなかった。

 

 ま、間違えない。せんぱいは……今、この場で……俺に、その身を捧げようとしている……!?



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(16)  ブランコ揺れても決心揺れず

「宗太~、いるの~宗太~!?」

 暗闇の中、俺を呼ぶ声が聞こえた。この声は……梢姉さんだろうか? だが、まだ眠気の残る俺は起きる気になれず、布団をかぶり直し体勢を変える。

「宗太~! そ・お・た~!」

 その、イントネーションでは、『そうた』ではなく、『そおた』になってしまうだろ! と、突っ込みたかったが、眠いので寝る。梢姉さんは、ドンドンドンと、俺の部屋のドアを叩く。迷惑だ。

 ……なんなんだよ、全く。こんな真夜中にそんな大声で、部屋のドアを叩くなんて、非常識だろ!

 そう思っていた時だった。

「か、かたなし君……どうしよう……? 起きたほうがいいんじゃないかな……?」

 ――ん? ああ、せんぱいか。

 俺の隣で寝ていたせんぱいは、この薄暗い中、掛け布団で上半身を隠しながら言った。

 ――えっ? せんぱい? ……なんでこんなところに?

 ――――んん!?

 

 そう言えば、俺はさっきまで、よからぬ夢を見ていた気がする。最近、いつも布団の中で考えてしまっていた罪悪感にまみれた想像……。それの特に鮮明なやつだ。

 えーっと、あのあと、あーーせんぱいと……色々、して……眠くなって寝たんだな……服も着ないで…………ん?

 俺は、なにやら、大変なことに気が付いたような気がして、ケータイで時間を確認する。

 午後7時……20分……。真夜中じゃない!? 夢だけど、夢じゃなかった!?

 そして、隣にいる種島せんぱいを見ると、「やっと、今の状況に気付いたの?」とでも、言いたげな表情で無言のまま俺を見つめる。動揺した俺が少し大げさに体を動かすと、俺の上半身も裸であることに気付いた。

「ま、まじか……」

 思わず、声が出た。そして、下半身も確認しようと、布団をめくると……

「あっ! ちょ、ちょっと、かたなし君!」

 部屋の外にいる梢姉さんに聞こえないようにか、小声でせんぱいが顔を赤らめて怒った。

 あっ……そうか……せんぱいも、全裸なのか……って、全裸? マジで!?

 幸いにも、カーテンを閉めていたため、部屋の薄暗さでなんとか、冷静を装うことは出来たのだけど、夢だと思っていた先ほどの記憶が、現実だったと認識すると、次第に緊張してくる。

「そうたーー! 私、おなかへったぁ~、はやく、晩御飯作ってよー!」

 依然として俺を呼ぶ、梢姉さん。

 そうか、丁度、晩飯の時間だものな……って! それより、やばいだろ! この状況!

 

 ど、どうしよう。このまま、寝たふりするか? いやしかし、なんで、こんな時間に寝てるんだって話しだし……いや、それは今更か。とにかく、せんぱいの存在を気付かれるのは、色々とまずい……!

「か、かたなし君、どうするの?」

「……と、とりあえず、俺は後ろ向いてますから、その間にせんぱいは服を着ちゃってください……」

 そう言って、俺は、後ろを向く。ベッドの下に丁度落ちていたパンツをとりあえず、速攻で身に着けると、後ろを向きながら、

「あーー、梢姉さん! ちょ、ちょっと、まだ、寝ぼけてるから、居間で待ってて! すぐ行くから!!」とドアの外に向って言う。

「うわ~、下着の替え、持ってくればよかったよ~、今度、かたなし君のお家に来るときは、持ってこよっと……」

 なにやら、服を身に付けながらぼそぼそと言う、せんぱい。

 ていうか、それって、今度俺の家に来たときも……その、良いってことですか!?

 ……なんて、今は喜んでいる場合ではない。

「き、着終わったよっ、かたなし君っ!」

 せんぱいにも、テレがあるのだろうか、内緒話のような声でオドオドと言う。

 

 薄暗いベッドで二人きり……。なにやら、映画みたいに、悪の手先から逃げている一場面のようで、スリリングで面白い……なんて、少し、思ってしまう。まあ、そんな映画のヒロインとしてはせんぱいは、余りにも見た目が幼すぎるが……。しかし、そんなせんぱいを俺は好きになったのだ。俺にとっては、どんな有名女優よりも、せんぱいが美しい。

「ど、どしたの? かたなし君?」

「えっ? 何がですか?」

「いや……なんか、にやけてたから……」

 ……どうやら、俺は知らぬ間に、にやけていたらしい。

「……せんぱいと、こうなれて、幸せだなって、そう思ってただけですよ」

「えっ? ちょ、やだ~、な、なに言ってるの~?」

 言った俺も恥ずかしかったが、それ以上に恥ずかしがるせんぱいを見るのが面白かった。

「……ちょっとーー? そうたーー? だれかいるの~?」

 梢姉さん……!? まだ、いたのか!?

「だっ! だれも、いないって! 電話! 電話だよ! い、伊波さんと電話!!」

 ゴメン、伊波さん……なんか、知らないけど咄嗟に伊波さんの名前出ちゃいました。

「あー、そう、伊波ちゃんかー、仲良くやんなよー。じゃあ、私、下行ってるわぁ」

 梢姉さんはそう残すと、階段を降りて行った。

 そして、しばらくの沈黙の最中……

「……かたなし君、伊波ちゃんとよく電話してるんだ……?」

 プリプリとした顔で、俺に視線を送って言うせんぱい。

「えっ!? い、いや、さっきのは口実ですよ!? ただの!」

 思わず、テンパって説明する俺。

 ……ていうか、嫉妬……? してるせんぱい、可愛いな……。

「というかですね? 俺が好きなのは、せんぱいだけですよ……何度も、言わせないで下さい……」

「……じゃあ、『ぽぷら、愛してる』って言って?」

 プイッっと、横を見て言うせんぱい。

 ――ええーー?? せんぱいって、こんなキャラだっけ? お、女の人ってこういうものなのか??

「ぽ……ぽぷら……アイシテイル」

「えへへ! わたしもー!」

 

 ――早くも、尻に敷かれている……!? ああ、でも、いいや、こんな満面の笑みで喜んでくれるんだから……だったら、俺はいくらでも、敷いてくれ。せんぱいの座布団にでもなんでもなってやるよ……。俺は既に『骨抜き』状態なんだから、座布団にするには丁度いいだろう……。

 

 

 

 ――幸せだった。だから、考えないようにしていた。かたなし君が好きだ。大好きだ。かたなし君も、わたしのことを好きと言ってくれている。だったら、もうこれでいいじゃない。もう、難しいことは考えたくはない。今が、幸せならそれでいい。伊波ちゃんには悪いけど、もう、どうすることもできない。伊波ちゃんに、かたなし君を渡すことはできない……。

 

 この日、私は、公園に来ていた。かたなし君と結ばれたあの日、梢お姉さんが部屋に来たりして、びっくりした後、わたしは何とか家の人にばれずに外に出ることができた。2階の窓から、ロープで外に出たのだ。まるで、映画だ。ハラハラして面白かったけど。そうして、その後、かたなし君に「今日の所は帰って」と言われて帰った。

 次の日、話し合いたいことがまだ話せてなかったので、とかたなし君に言われ、今日もかたなし君と、会うことになった。それが、今いる近所の公園だった。

 

 ブランコに一人で座り、キコキコと、上下に揺らしながら地面を見つめる。公園の土は黒くてもう何年も前から整備されてないように見えた。

 昔はよく、お父さんと一緒に公園に来たなぁ、と子供のころの記憶を思い出した。と言っても、もっと、自宅に近いここではない公園だったけど。

 あの頃は、お父さんともよく遊んだっけ。今は、仲が悪いという訳ではないけど、なかなか話をする機会もない。中学生くらいの時から、自然とあまり喋らなくなったし、その頃くらいからは、家族で出かける事も減っていた。その頃はわたしが、変に意識してしまっていた部分が大きし、今では特に意識してはいないけど、今度はバイトや勉強で忙しい事もあり、結局そのまま、今の形になってしまったんだと思う。

 

「すいません! せんぱい! 待ちましたか?」

 好きな人の声が聞こえたと思って、我に帰り顔を上げると、丁度かたなし君が、到着した所だった。

「あっ! かたなしくん、遅いよ~」

「えっ、ああ、ごめんなさい」

「冗談だよ、時間通りじゃん」

「えっ? ああ、そうですよね」

 ほっとした様子でかたなし君がそう言うと、わたしの隣のブランコに座り、わたしの方に顔を向ける。

「えっと、それでですね、せんぱい。今日は、大事な話をしようと思っていまして……実は、昨日もその話をする予定だったんですが、まあ、その……色々、ありましたからね」

 少しソワソワした様子でかたなし君が言った。

「……えと、伊波ちゃんのことだよね……?」

 はっきりとわたしがそう口にすると、かたなし君は予想外だったのか、

「えっ? わかってたんですか?」

 と、目を見開いて口走った。

「うん……本当は、分かってたの……でも、その……逃げてたの……わたし……伊波ちゃんのことから……ずっと……」

 

 もう、誤魔化せない。今日、誤魔化した所で、明日。明日誤魔化した所で、明後日に話をするだろう、かたなし君だったら。いや、それでいいんだ。引き伸ばせば、問題を忘れてしまうような無責任な人ならそもそも好きになっていない。

「……分かっていたんですか。……じゃあ、今までは、分かっていながら気付いていないふりをしていたってことですか?」

「……そういうところもあったよ」

「……そうですか。えと、じゃあ、昨日のことも、分かってて?」

「いや……昨日のことは……その……本当に、わたしの勘違いかな……? でも、伊波ちゃんのことを考えないようにしてたから……勝手に自分の都合の良いように勘違いしちゃったのかもね……」

 そうわたしが言うと、かたなし君は下を見てキコキコとブランコを揺らし始めた。そして、しばしの沈黙の後……

「その……どうしてせんぱいは、伊波さんのことがそんなに気にかかるんですか?」

 見上げるようにこちらを向き、そう聞いてきた。

「……だって、元々、かたなし君と伊波ちゃんをくっつけようとしたのはわたしだもん……二人が上手く行ってほしい……って思ったから、海についてったりしたんだよ」

「……ああ」

 かたなし君は、納得したように何度か頷いた。

「そんな、わたしが……伊波ちゃんから、かたなし君を取っちゃったんだもん……伊波ちゃんに合わせる顔なんてないよ……」

 わたしは、そう言ってうつむいた。

「……せんぱい一人の責任じゃないですよ」

「えっ……?」

「海での、あの時、勝手にせんぱいを好きになってしまったのは俺のほうです。俺がせんぱいのことを一方的に好きになったんです。だから……せんぱいは、何も気に病むことは無いんですよ?」

 

 穏やかな笑顔で……すごく、安心できるような顔で、そう言ってくれる、かたなし君。なんて、この人は優しい人なんだろう。なんで、わたしにこんなにも優しくしてくれるのだろう。

「……で、でも、かたなし君……わたしのほうが、年上なんだし……やっぱり、伊波ちゃんのことは……」

 煮え切らない様子でそう言うわたしを見たかたなし君は、ブランコから立ち上がり、わたしの背後に立った。そしてわたしの腰を両手で掴むと、

「……ふむ、それじゃあ、こうしましょう! 俺達二人に半分ずつ責任がある。だから……一緒に伊波さんに、俺達のこと、伝えに行きましょう? それで、伊波さんが納得できないようでしたら、二人で誤る。それでいいですか?」

 そう言って、軽く、わたしの腰を押した。

 

 ブランコが上下に揺れる。目に見える全ての世界が揺れる。ブランコが後ろに戻ると、また、かたなし君が、軽く前に押す。わたしは、まるで子供扱いをされている自分や、かたなし君のお父さんみたいな所とか、昔、お父さんによくこうして遊んで貰った事とか、色々な事を、一斉に思い出した。恥ずかしさとか、懐かしさとか、かたなし君と一緒にいる嬉しさとか、色んな感情が混ざって、なぜだか心地よい気持ちになった。

「わたしもー! それでー! いいよー! かたなし君とー! 一緒にー! 伊波ちゃんにー! あやまるー!」

 ブランコに揺られながらも、かたなし君に聞こえるように、大きな声で一言ずつ口に出した。すると、急にかたなし君のわたしを押す力がだんだん弱まり、そして、わたしの体を完全に掴んで、ブランコを止めてしまう。そして、後ろから両手で腰に手を回され、そのまま、後ろから抱きしめられた。

「せんぱい…………」

 わたしの頭の上にかたなし君の顎がのっている。かたなし君の体が、わたしの背中に密着している。耐え切れず、わたしは振り返る。すると、かたなし君は、わたしの頭から顎を離し、わたしの方を見た。

「かたなしく…………んっ」

 

 振り返り、かたなし君の顔を見ると、言い終わる前に、かたなし君に唇を盗まれる。お互いの気持ちを確かめるかのように、手を絡ませ、舌を絡ませる。そのキスだけでもう言葉はいらなかった。わたしは、この人と、歩んで行きたい。それが例え、友達を失うことになったとしても――――。

 

 



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(17)  親友との決別

「どうぞ……」

 伊波さんに、コーヒーを出される。俺の隣のせんぱいの前にもコーヒーが置かれ、せんぱいは、「あっ、うん、ありがとう」と、小声で返した。

 

 俺達は、伊波さんに話をするべく、こうして伊波さんの家に出向いていた。伊波さんは、二人で家の玄関にいる俺達を確認すると、「やっと、来たのね」と、小さく言って、そのまま、家の居間へと案内してくれた。

「……今日は、私以外誰もいないから……」

 伊波さんは、相変わらず、笑顔を見せない。かといって、不機嫌な顔をしている訳でもない。隣にいるせんぱいを見ると、伊波さんの前までとは違う雰囲気に、圧倒されているのか、遠慮気味に縮こまっている。

「えと……伊波さん? やっぱり、その、怒ってます……?」

 伊波さんと話し合いをしなくてはいけないことは、既に確定しているのだ。言いにくくても、聞かなければならない。

「……えっ? そんな、やだ、そう見えた? そんなことないよ? いつも通りだよ?」

 指摘された伊波さんは、急に笑顔を作ってそう言って否定した。別段おしゃべりではない伊波さんが、早口でまくしたてる姿を見ると、やはり不機嫌なのだろう。

「えっと、それで――今日は、何の用事かなっ?」

 下手な笑顔で、そう聞いてくる伊波さんは正直見ていられなかったが、その原因を作ったのは俺なのだと思うと、いたたまれなかった。

 その後、俺は出されたコーヒーを一口飲み、

「……伊波さん……えっと、実は伊波さんに言っておかなくてはならないことが……」

 と、切り出した。

 

 はっきり、言ってしまったほうが良い事は分かっているのだけども、いざ、こうして、本人を目の前にすると、なかなかズバッとは言い出せないものだった――。

「……え? うん、なになにー?」

 俺達へのお菓子を用意しているのか、台所のほうで、色々ものを探しながら、こちらを向かずに伊波さんが言った。

 しらじらしく、作りものの、ごきげん声で言う伊波さんの声を聞くと、段々と言い出しにくくなってきた。……だが、せんぱいにも、『俺が言います』と、言ってしまっている。ここで、怖じ気づく訳には行かない。

「その……俺と、せんぱい……種島せんぱいは、その……付き合うことになりまし……た」

 付き合う……と、言った辺りで伊波さんの、台所付近の下の棚を漁る手が止まった。顔は、向こうを向いていて、確認は出来ないが、どんな顔をしているのかは、見なくても、なんとなく想像できた。

 その後、10秒ほどだろうか、外でカラスが、カァーカァーと、鳴いている間も、俺達三人の誰も何も言わない沈黙の時が過ぎた。そして、

「あ――そ、そうなんだー! へぇ! よかったじゃない? うん、よかったよかった……」

 不自然な、沈黙の間なんて無かったかのように、そう言って、伊波さんは棚からお菓子を探す作業を再開した。

 

 その内、せんべいを持って皿と一緒に俺達の前のテーブルまで持ってくる。「良かったじゃない」と言っていた、言葉とは裏腹に、陰りのある表情で冷や汗をかいている。せんべいを持つ手もおぼつかない様子であり、テーブル付近で、せんべいの袋を落としそうになった。

「あっ、危ない!」

 俺は、咄嗟にせんべいの袋を、掴む。その時、伊波さんと手が強く触れてしまった。

「あっ……!」

 咄嗟に、殴られる覚悟を決める俺だったが、いくら待っても、俺は殴られることは無かった。不思議に思い、伊波さんの様子を見てみると、伊波さんはソワソワしつつも、困った様子を見せた後、「はぁ……」と、溜息をつき、何事も無かったかのように、その場に座り、コーヒーを一口飲んだ。

 ……? なんで、俺は殴られなかったんだ? もしや、伊波さんの殴り癖は治った……のか? そうとしか……だって、手が触れ合った訳だし……。

「えと……伊波ちゃん……男の人……大丈夫になったの……?」

 せんぱいも、驚いたのだろう。ここに来てほとんど喋っていなかったのに、思わずそう聞いていた。

 ――だが、その言葉に対し伊波さんは何も答えず、コーヒーに口を付けた。

 

「えっと……そうだ、来週の休みの日、お店のみんなで旅行に行くんだけど、二人も行くよね……?」

 急に、伊波さんが新しい話題を振る。

 旅行……? ……えと、そう言えば、佐藤さんからも、前に言われたな。

「あー、わたしも八千代さんから、話し聞いたけど……」

 思い出したようにせんぱいが言った。

「二人とも、予定大丈夫? あっ、まあ、どっちにしても二人は、休みの日には一緒にいるだろうから、小鳥遊君に聞けばいいのかなっ?」

 伊波さんが、冗談っぽくそう言った。

「い、伊波ちゃん……!」

 そんなのでも恥ずかしいのか、せんぱいは恥ずかしそうに下を見た。

 伊波さん……無理してるんじゃ……。

「まあ、その日は、大丈夫ですけど……せんぱいも、来ますよね?」

 隣にいるせんぱいに顔を向けて言うと、

「そ、そりゃあ、かたなし君が、誘ってくれるなら……」

 顔を赤くして縮こまりながらせんぱいが返した。

 ――ちょ、せんぱい……伊波さんの前で……!

「ふふっ! 種島さん、照れちゃって、かわいー」

 口に手をやって、笑う伊波さん。傍から見れば、カップルをからかう普通の女の子だろう……。だが俺には、そんな伊波さんの行動のどこまでが演技なのか、そればかりが気になっていたのだった。

 

 

「せんぱい……伊波さん……とりあえず、俺達のこと、認めてくれたみたいですね……」

 伊波さんの家を出て帰る俺が、隣に歩くせんぱいに向って言った。

「うん……でも……伊波ちゃん……やっぱり、思うところがあったみたいだね……」

「そうですね……でも、表面上は良かったって、言ってくれましたし……俺達もとりあえず、けじめは付けましたよ……」

「うん、そうだね。でも、結局、伊波ちゃんからたかなし君を奪っちゃったのは事実だから……わたしは、もう一生、伊波ちゃんには軽蔑されて生きて行くんじゃないかな……?」

 せんぱいは、いつもと違い淡々とそう言うと、胸の辺りにある物を服の上からぎゅっと、掴んだ。そう言えば、今日も何か首から付けているみたいだ。まるで願いを込めるかのように、大事そうにそれを握る。よほど、大事な物なのだろうか。

「軽蔑だなんて……そんな……伊波さんだって、せんぱいとはいつも通り接していたじゃないですか……?」

 

 ――あの後、特に喋ることが無くなった俺は、一人で少しの間、外に出ていたのだが、家に戻るとせんぱいと伊波さんは、前みたいに普通に会話しているようだった。それを見て俺は、安心したのだが……。

「うん……まあ、表面上はね……実際、伊波ちゃんは、これからもわたしには普通に接するんだと思う……だけど、心の中ではもう、伊波ちゃんはわたしのこと、友達だなんて思ってない。でも、嫌われることも無い。なぜなら、伊波ちゃんはもう、わたしのことなんて、嫌うほど、意識もしていないからね……」

 ――つまり、せんぱいは伊波さんに呆れられているということか……。

「きっと、恥ずかしいんだよ……わたしに怒ったりしたら、みんなに、今回のことがすごく堪えてるんだって言ってるようなものだから……」

 せんぱいは俺の方をチラリと横目で見ると、達観したようにそう言った。

「……でも、伊波さんが、俺の事が好きってことは、店のみなさんは知っていたんですよね?」

 気付いたように俺が言うと、

「それでも、言いたくないものなんだよ……かたなし君には女心がわかってない!」

 ――珍しくせんぱいにそんな怒られ方をしたのだった。

 

 

 

 ――――小鳥遊君たち……帰っちゃったな……。はぁ……だめだな、私……。あれじゃあ、演技だって、バレバレだよね……種島さんなんか、ちょっと引いてたし……。でも、私のなかでも、そこまで冷静でいられなかった。前々から分かってたのに……あの、小鳥遊君と種島さんと一緒に海に行った後……もう、何日もしないうちに、相馬さんが、佐藤さんとかに、『小鳥遊君と種島さんが怪しい』って、噂してた。それを偶然聞いてしまった私は、思わず、動揺してしまった。けど、あくまでも噂だと思えば、少しは気が楽になった……。だけど……小鳥遊君の様子は観察してみるとたしかに、変になっていた。種島さんを露骨に避けていたし……私と一緒に帰ることも、忘れて一人で帰ってしまった……。次の日に謝ってくれたからその時は良かったけど、その内、また、忘れて帰った日があった。最初に忘れた日から一週間も経ってなかった。その時も小鳥遊君は謝ってくれたけど、前にも忘れたことなんて、気にしたような素振りは見せなくって……。……その時、思った。ああ、この人は私のことなんて何にも考えていないんだな……って。

 

 そして、決定的だったのが、たまたま帰り際、休憩室に立ち寄ろうとした時だ。なぜか、鍵がかかっていることに不審に思っていると、中から声が聞こえてくる。近くに誰も居ないことを確認し、耳を傾けてみると、種島さんが、必死に小鳥遊君にアピールしている所だった。「わたしのこと嫌いになったの?」とか「わたしにもっとかまって」とか……。

 それを聞いた私は、二人ができている、あるいは、いずれそうなることを確信した。その頃から、おそらく、小鳥遊君は、私にその事をいずれ言いに来るのだろうと思っていた。だから、その時から覚悟はしていた。しているつもりだった。

 

 だけど、こうしていざ来ると、やっぱり、わたしは動揺してしまったし、正直、堪えた。小鳥遊君のことは本当に好きだったし、まあ、わたしが小鳥遊君と付き合えるなんて、男性恐怖症なこともあるし、思ってなかった。……けど、やっぱり、どこかでそうなることを夢見ていたし、種島さんとかに、応援されると、柄にもなくその気になっている自分もいた。その時はだいぶ、治ってきたこともあり、結構、望みはあるかな? なんて思ってたりもした。それがこのザマだ…………。

 種島さんに――というのは、前々から思わないことでもなかった。だけども、その時、だいぶ症状が良くなってきたこともあったし、応援してくれる種島さんをそんな風に見るのも失礼だし、良いように捕らえていた。それが甘かったのかもしれない。

 

 ――そして、今日。

 皮肉にも、わたしは小鳥遊君を殴らなかった。いや、殴れなかった。恋人という立場の種島さんを隣において、そんなあまりにも女々しい愛情表現は出来なかったのだ。そう、私は今まで、気付いていなかったのだけど、私が男の人を殴るのは、男の人に対するテレが、少なからず含まれるんだと思う。もちろん、殴った人はみんな好きということではないけど、少なくとも小鳥遊君は好きだから殴っていたんだと思う。

 

 そのことに気付いていたわたしは、さっきのあの場で、小鳥遊君を殴っていなかった。気絶した時を含めなければ、手を触れられて殴らなかったのは初めてだ。あの時、自分でも本当に驚いたんだけど、気付けば私は溜息をついていた。なぜなら、もう、小鳥遊君は自分のものにならないと分かっていたからで、恋人がいる人にその恋人の目の前でする愛情表現ほど、馬鹿らしいことはない。そう思うと、私の心は、これ以上に無いほどに冷め切っていたのである――。



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(18)  旅行の始まり

「着いたよ~、小鳥遊くん」

 相馬さんの声を聞き、アイマスクを外すと、もう、島に到着した所だった。

 ――そうだ。今日は、旅行当日。八千代さんの当てた旅行のチケットで、みんなで、この謎の小島に飛行機に乗ってきた。日本の無人島らしい。いや、普通どこか分かるよなぁ? ってな感じなんだけど、なんか割と、知られてない場所らしくて、とりあえず、沖縄の近くらしいということは聞いた。

 

 あの、伊波さんの家に出向いた日から大体、一週間後くらいの旅行前日に、いきなり旅行の日程を聞かされ、半ば強制的に飛行機に乗せられていたという訳である。まあ、家の前まで迎えが来てとても助かったが。やむをえず、旅行中の最低限の家事はなずなに任せてきた。なずなが居て本当に良かった。

 そう言えば、店の方は臨時休業にしているらしい。まあ、今は夏休みなので平日を使ってこの旅行に来ている。2日程度、臨時休業にすることはそれほど難しいことではなかったらしく、音尾さんも「丁度いい機会だからパァーっと遊んでくるといいよ」なんて言って、承諾してくれたらしい。

 

 バスに乗って、しばらくするとホテルに着いた。ここが予約しているホテルらしい。ホテルの横を見るとそこには、光が反射して綺麗に色づく海と、広大な森が広がっている。なんという大自然だろうか。

「すごい、自然です! これは、北海道も目じゃない景色ですよ!」

 圧倒的な光景に山田が目を輝かせて言う。

 予想通りというかなんというか、この旅行が始まって以来、山田のテンションは常に高い。山田が一人で海に向って走っていくと、かぶっていた麦わら帽子がふわりと風にゆれながら道に落ちた。その麦わら帽子をさりげなく、でも、大事そうに相馬さんが拾う。

「おら、置いてくぞー、やまだー」

 佐藤さんが、そう言って色々荷物を持ちながら海沿いに向う。同じく荷物持ちをさせられている相馬さんも持っていた麦わら帽子を頭にかぶると、その後について行った。

 それに続くように、店長や八千代さん、山田や伊波さんも、歩き出す。

「いこっ? かたなし君?」

 ……そして、せんぱいと俺も。

 なんだか、伊波さんと、せんぱいと三人で海に行った日のことを嫌でも思い出してしまう。おそらく、俺以外の二人もだろう。だか、伊波さんもせんぱいも、そんな様子はおくびにも出さずに他のメンバーとも普通に振舞っている。さすがに女は強い――と言ったところだろうか。

 

 あの、海の日から3週間程度しか経ってはいないというのに、実際にはもっと時間が経っている気がしてならない。まあ、それだけ、重厚な時だったという事だろう。あの、前までは単に可愛いとしか思っていなかった種島せんぱいが、今では恋人だものな……これだけのことがあったのだ、今までが濃い日々だったのは間違えない。

 

 今日はこの海で遊んで泳ぎ疲れたら、みんなでカレーを作って晩御飯を食べるのだそうだ。海の前まで来ると、旅行が始まってから常にワクワクが止まらない山田を筆頭に、女性陣が、キャッキャ言いながら、水着に着替えにホテルに向った。

「女どもはさすがに元気だな……」

 佐藤さんが、女性陣を遠めに見ながら言った。

「そりゃあねぇ、楽しまなきゃ損じゃない? 佐藤くんだって、今日くらいクールに決めてないで楽しんだほうが得だよ?」

 相馬さんがいつもの調子で言った。

「クールになんて決めてねぇよ」

「アハハ……ねえ? 小鳥遊くんも、そう思うよね?」

 ――えっ!? 俺に振るんですか? 相馬さん……。

「ええ……まあ……そうですね、せっかくみんなで旅行なんて、多分もう無いでしょうしね?」

「……いや、小鳥遊くん! 確かにその可能性は高いけど、そんなネガティブな言い方しなくても……!」

「ああ、すいません……」

 俺達、男性陣も着替えるため、ホテルに向って歩く。その歩いている最中、

「まあ、いいや、そう言えば、小鳥遊くん、種島さんとはどうなったの?」

 相馬さんが臆面もなくストレートに聞いてくる。

「……ええ、まあ、割といい感じだと思いますよ?」

 もう、色々してしまっているということが、ばれるのは嫌な俺は、あまり詮索されないよう無難な言い方をした。

「えっ? まだ、そんなに進展してないって事? ああ、でも大丈夫! 今回の旅行で、色々と準備もしてるからね! 種島さんと小鳥遊くんの愛が深まるように!」

 おいおい、相馬さんはいったい何を考えているんだ……? 俺とせんぱいはもう、大丈夫だからあまり、厄介なことはして欲しくないのだが……。

「だっ、大丈夫ですよ、相馬さん、うまくやってますから……」

「ほんとかい? 遠慮しなくても、大丈夫だよ」

 ――アハハハハ。いつもの笑顔で、屈託もなくそう言う。

 ……本当にこの人はなにをする気なんだろう……?

 

 着替え終わり、みんな海で遊んでいた。北海道の海とは違い、とても気持ちいい。これが本州の海か。伊波さんなんかは、あの海の日のことを思い出してしまってあんまり楽しめないんじゃないかと思っていたけど、はしゃぐ山田のおかげか、場の雰囲気も良くなり問題ないようだった。俺は初めて山田が居て良かったなんて思ったのだった。

 

 そんなことを思っていたからだろうか、その辺りを執拗に動き回る山田が、俺の近くに来た。

「やまだっ!」

 呼び止めると、頭に「?」マークを浮かべ、アホ面で俺の前で立ち止まる山田に俺は、

「……ありがとうな」笑顔で言うと、

「えっ……なんですか? 小鳥遊さん、なんでいきなり山田に礼を言うんですか? 気持ち悪いです!」

 ――気持ち悪がられた。

「……も、もしかして、スクール水着姿の山田に見とれていたんですか? ひゃああ!」

 そう言って、山田は胸の前で手を結び、青い顔をして俺から体を遠ざける。

 そんな気持ち毛頭無かったものの、そう言われて改めて山田を見てみると青く競技用水着に似たスクール水着を着ている。いわゆる新スクだ。せんぱいと違い、胸が大きくない山田にはそのワンピースの水着がある意味とても似合っていた。山田特有の黒髪と、独特の昔ながらの日本人女性のような容姿、そして、成熟しきっていない顔と体……。

 ……なんだろう? 案外、可愛くないか? こいつ……。

 

 ――ハッ! なにを俺は、可笑しなことを考えているんだ! 山田だぞ!? あの! ……いや、しかし、せんぱいとは違い、こう、ロリを地で行く山田ならではの魅力というか……いやいや、なにを言っているんだ。おちつけ、宗太。

 も、もしや、俺は今まで、可愛いだけで、恋愛対象ではなかったせんぱいのような存在が恋愛対象に成り代わってしまったことによって、山田のようなタイプにも、良さを見出せるように……!? ――それじゃあ、俺はロリ………………っ!

 ――さて、くだらないこと考えてないで泳ぐか!

 

 一旦、頭の中をまっさらにして海に身を投じる。

 ――海の中はとても気持ち良かった。

 

 

 

 ……んもう……かたなし君ってば、わたし以外の女の子ばっかり目で追って……。そりゃあ、八千代さんとか、スタイル良いし、葵ちゃんの水着姿も初めてだろうから、見ちゃうのはわかるけど……。

 ……って、葵ちゃん? あれっ? かたなし君って、葵ちゃんなんて、全然そんなじゃなかったよね? なんで、葵ちゃんばっか見てるんだろ……? も、もしかして、葵ちゃんの良さに気付いちゃったの? そんなぁ……わたしに続いて葵ちゃんまで、いいなんて言い出したら、ますます、ちっちゃいもの好きってことに…………ハッ!

「ちっちゃくないよ!」

「……ど、どうしたの……? ぽぷらちゃん?」

 黄色の可愛いビキニを着た八千代さんが、突っ込んでくれたのだった。

 

 ――その後、みんなで、海で遊んだ。ビーチバレーなんかもした。まあ、全然バレーにはなっていなかったけど、みんな笑って楽しそうだったから、良かったんじゃないかなと思う。

 ……ちなみに、わたしはバレーは苦手だ。胸元にきたボールを受ける時、胸がじゃまで、レシーブがしにくいからだ。たぶん、胸の大きな子にしかわからない悩みだと思うけど……。

 

 そうやって、みんなで遊んだり、疲れたらパラソルの日陰で休んでいたりしている内に、気付けば、もう、午後5時を回っていたらしい、大勢で遊んでいると時間が経つのが早いなと、身に沁みて思った。その内、佐藤さんや相馬さん、かたなし君の男性陣が晩御飯の準備を始め出した。泳ぎ疲れたわたしも、彼らの元へ向う。

「あっ、佐藤さん、かたなし君、晩御飯の準備するんでしょ? わたしも何か手伝おうか?」

「おう、そうだな……種島……お前、飯盒の使い方、知ってるか?」

 飯盒を持った佐藤さんが言った。

「あっ! 馬鹿にしてるでしょ? 佐藤さん、わたしだって飯盒くらい使えるよ! 小学校で使ったことあるし」

「おお、じゃあ、種島は適任だな……ということは、今年の夏に使ったばかりという事か」

 ポン、と手を叩いて佐藤さんが言う。

「わたし、小学生じゃないよ!」

 まったくもう……佐藤さんは……。

「ホラ、じゃあ、種島、冗談は置いといて、ご飯炊いてくれ、一人1.5合位で計算すればいいだろう……あ、いや、店長がいるから、プラス4合位にしておくか」

「うん、分かったよ!」

 わたしは、飯盒を持って、火をおこしやすそうな所に移動した。それにしても、最近の飯盒は丸いんだな……その、飯盒は最近の物らしい、昔のような長い円のような形ではなく、普通に丸かった。

「せんぱい! 手伝いましょうか?」

 

 と、飯盒を見ながら、さて、どうしようかと思っていた時、かたなし君がやってくる。こう、困ったときには何も言わなくても来てくれる人って本当に良い人だと思う。そして、そんな良い人のかたなし君の恋人の自分は本当に幸せだと思う。

「あ~、うん、えっと、どうすればいいのかなっ?」

「まずは、米を研ぎましょう、そして、水に浸けておくんです」

「えっ? 研いだら直に火にかけないの?」

「ええ、直に火にかけるより、少し水に浸けておいたほうが、ふっくら炊けるんですよ、本当は30分位浸けたほうがいいんですが、15分位でいいでしょう」

「へーそうなんだ」

 近くにあった流しに移動し研ぐ準備をし、腕をまくりながらわたしが言った。

「水は米の重量の1.5倍でOKです。最初は強火で炊いて泡を吹かなくなってきたら、火を弱くしていくんです」

 まるで、慣れた事の様に語るかたなし君。

「なんだか、詳しいね? かたなし君」

「えっ? ああ、実は俺、たまに趣味で飯盒使ってご飯炊くんですよ」

「……趣味で!? 変わってるねぇ……」

 

 その後も、かたなし君の、プロ顔負けの指示を受けながら、わたしは飯盒でご飯を炊いた。かたなし君曰く、飯盒でご飯を炊くと、慣れていない人は大概失敗するのだそうだ。かたなし君自身も、何度も失敗したことがあるらしい。

 

「じゃあ、後は弱火で、ぐつぐつしなくなったら、フタを取って、食べて確認してみてください、炊けてたら、飯盒のフタをしっかり閉めてから逆さにして、10分蒸らしてください」

「フタ取っちゃっていいの?」

 よく、フタは絶対取るなと言うけど……。

「いや、炊き上がった頃だったらいいらしいですよ、じゃあ、後はせんぱいに任せますね、俺は佐藤さんのほうを手伝ってきます」

「あ、うん」

 かたなし君は、そう言うと、佐藤さんのほうに向って行った。

 

 ――かたなし君と、二人でご飯の支度するなんて……なんだか、新婚さんみたい……。ふふ、そんな未来も……悪くない……かな?

 そんな想像を膨らませていると自分の頬が火照って熱くなっていた。恥ずかしくて顔をバタつかせる。

 

 ――それはまるで、今も尚、火にかけられぐつぐつと踊っている飯盒のようだった。



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(19)  シェフカレーと主婦カレー

 ――さて、せんぱいのほうは、もう大丈夫だろう。佐藤さんのほうは、佐藤さんもプロみたいなものだし、問題はないと思うけど、一応手伝えることがあったら手伝おう。

 

 しばらく、歩いた所にある、軽い休憩場のような所で、佐藤さんと相馬さんが、カレーを作っていた。まだ、野菜を切っている段階で始めて間もない。まあ、まだご飯が炊けるまで時間はあるからな、しかし少し遅れ気味かもしれない。

 

「佐藤さん、もうご飯の方、炊いてますから少し急いだ方が良いかも知れませんよ」

「ああ、そうか。まあ、分かってるけど、どうせ、一晩寝かせたカレーは食えないんだ。それに夏なんだし、ご飯が多少冷めても問題ないだろ」

 いつもとは違い、Tシャツ短パンにサンダルというラフな格好で、包丁を握る佐藤さん。店の服以外で料理をしている姿はかなり新鮮だった。

「ああ、そうだ、小鳥遊……ついでだからお前も作らないか? 鍋も二つあるし……」

 ふとこちらに目を向けて言う佐藤さん。

「えっ……でも、せっかく佐藤さんが美味しいカレー作ってくれるのに……俺のカレーなんか主婦のカレーですよ?」

 謙遜したように俺が言うと、

「いや、ていうかな、8人いるんだぞ? しかも、店長いるから12、3人分と言った所か? それを俺一人が作るとなると、大変なんだよ……つまり、最初からお前も手伝わないといけないんだよ……」

 ――なるほど……たしかに。

「でも、野菜切ったりとかすればいいですし……佐藤さんの作るカレー、結構興味あるんですよね、俺」

 俺も、料理は毎日しなくてはいけない家庭の事情で、今では料理は結構好きだった。だから、ワグナリアでバイトを始めたというのもあるし、カレーは作る人によって全然違う味になるから佐藤さんの作るカレーには、結構興味があった。

「……いや、大丈夫でしょ! 佐藤くんもどっちにしても作るんだし、俺は逆に小鳥遊くんの庶民的なカレーのほうが気になるなぁ」

 洗い終えた野菜を持ってきた相馬さんが言った。

 

 ――ていうか、さっきまで、遠くにいたのに聞いてたのか!? この人。

「……えーー、そうですか? う~ん、どうしようかなぁ?」

 正直、いつも、家で料理をしている俺にとって、こういう時くらい他人の作った料理が食べたいという気持ちが強い。

「佐藤くんだって、小鳥遊くんに作ってもらったほうが面白いって思うよね!? それで、二人のカレーを食べ比べるんだよ~、それで、みんなでどっちのカレーが美味しかったか、勝負って言うのも面白くない?」

 突然、思いついたように相馬さんが言う。作業の手を全く休めずに話す所を見ると、さてはこの人、事前に考えていたんじゃないか? この事を…………。

「俺は、そんなつもりで言ったんじゃないんだか……」

 予想通りというか……佐藤さんは、乗り気ではない様子だ。

「えー? ダメだよー、さとうく~ん! ホラ、轟さんに良い所見せるチャンスじゃない? 『やちよ……そのカレー、俺が作ったんだぜ?』『えー? 佐藤くんが!? こんなプロのシェフみたいな味出せるなんて……佐藤くん……好き!』……みたいな感じに……!」

 なぜか、テンション高い相馬さんがそんな風に演技しながらジェスチャーも交えて言う。

「な、なるかよ! そんな上手く……!」

 否定する佐藤さんだが、テレているのか、頬が少し赤かった。

「やっぱり、佐藤さんの手伝いを……」

 俺がそう切り出した時、なにやら、佐藤さんに耳打ちする相馬さん。喋り終えた相馬さんが佐藤さんの元を離れ、しばらく、佐藤さんは無言で人参を切っていた。……そして、

「よし……小鳥遊…………勝負だ!」

 いきなり、俺の方を直視して力強く佐藤さんが言った。

 ――な、なにを言ったんだぁ!? 相馬さん!?

 

 ……そんな訳で、俺と佐藤さんのカレー対決が始まっていた。ま、まあ、良いだろう。勝負となれば、より完成度の高い佐藤さんのカレーが食べれる訳だし、佐藤さんのカレーに俺のカレーがどれほど通用するのかも、ちょっと気になる所でもある。佐藤さんのカレーが『シェフカレー』なら、俺のカレーは『主婦カレー』だ!! 主婦の本気を見せてやるぜ!

 

 

「相馬さん! 相馬さん!」

「なんだい? 山田さん?」

「小鳥遊さんと、佐藤さん、カレー作り出してからは、一切こっちを見ずに真剣に取り組んでますよ!?」

「そうだね~、すごい集中力だね~」

「所で相馬さんは、そんな二人を眺めているだけで楽そうですね? お二人を手伝ったりしないんですか?」

「いやね、野菜全部洗い終わって、この勝負のこと持ちかけたら、もう、二人とも集中するから、一人でやるって言ってね?」

「……まさか、相馬さん。手伝いが面倒だったから、この勝負を持ちかけたんじゃ……?」

「アハハ……まあ、それも計算の内さ、何しろ、今日みたいな日までバイトみたいなことしたくないからね!」

「相馬さん、ほんとにずるっこですね~、山田まみれです……」

「山田まみれ!? 山田さんみたいってこと!?」

「そうです!」

「あっ、そういや、佐藤くんが料理に使うスパイス一個渡し忘れてた! 山田さん、ちょっと佐藤くんに渡してきてくれる?」

「えっ、佐藤さんに? 山田、怒られたりしませんよね……?」

「どんだけ佐藤くん、怖がってるの!? 大丈夫だよ佐藤くんだって、怒られるようなことしなかったら怒らないよ……」

「ですよね! じゃあ、山田行ってきます!」

 相馬は、カバンから、ハーブらしき植物を取り出した。

「ハイ! 山田さん、渡してきて」

「えっ? これ、まさかいわゆる……」

「ちょ、ちょっと! 山田さん! そういうギャグは止めとこう! 違うから! 問題ないから全然!」

「えへへ……すいません。山田とちりでした」

「山田とちり!? ……まあ、いいや佐藤くんに渡してきて」

 山田は、佐藤の元へその植物を渡しに行った。

「おう、悪いな、山田。これ必要だったんだよ……」

「でしょう? 佐藤さん、山田は役に立つでしょう?」

 ――フフン、と、胸を張る山田。

「なに、調子に乗ってるんだ……自分の持ってきたものが何かも分かってないくせに」

 意味深に佐藤が言った。

「へ? そんな、だって山田、相馬さんに言われた通りに……!」

「相馬の差し金かよ……じゃあ、返って相馬に、何だったか聞いてみることだな」

 ――タッタッタッ……山田が駆け足で相馬の元に戻ってくる。

「相馬さん! なんか佐藤さんに馬鹿にされましたけど、さっきの何だったんですか!?」

「ププッ! ああ、あれね、昔、山田さんが悲惨な出来事を経験した時の物だよ」

「……へっ? それって……?」

「シャンバリーレだよ」

「……おべらっ!?」

 

 

 

 なんだか、騒がしいな、特に山田……。

 ――が、よし、後は仕上げにこれを入れて…………よし、まあ、いい味だろう。あと、最後にもう一つ、これを……こんなもんか。最後に、味見して……うん! 悪くない。

 さて、出来た。『宗太必殺主婦カレー』完成だ!

 

 隣の佐藤さんを見ると、どうやら佐藤さんのカレーも完成したようだ。ムッ! なんだ、この本格的なスパイスの香りは……! さすがは、佐藤さんだな……こんな慣れない環境で、きっちり仕事をしてくるとは……。

「おーー! いい匂いじゃない! 二人とも出来たの?」

 遠くで座って見ていたらしい相馬さんが、声をかけてきた。

「俺のほうは……」

 佐藤さんが答えた。

「ええ、俺も出来ましたよ」

 俺が言うと、「みんな呼んできるよ~」と、言って相馬さんが、海に向って行った。

 

 ――腹を空かせたみんながワクワクした表情を見せながら集まってくる。ついに試食の時となった。そう言えば、せんぱいの炊いたご飯はしっかりと出来ていた。水加減もまあ、良好であり、85点と言った所だろうか。そんな位には良い出来だった。その美味しそうなご飯を使い捨て用の紙皿にのせていく。おこげも出来ていて、飯盒で炊いた良さがしっかりと出ていた。

 

 二つのカレーを食べ比べるため、店長以外は軽めに盛った。

「よーし、それじゃあ、早速食べよう! みんな、どっちのカレーが美味しかったか、公平に判断するんだよ!」

 ノリノリで相馬さんが合図をした所で、いただきますという声と共にみんな一斉にカレーを食べ始める。食べる順番は決めていないが、大体の人は、見た目が庶民的なためか、俺のカレーを先に手を付けているようだった。

「美味し~い!」

 自分でご飯を炊いたこともあるのだろう。せんぱいが、顔をほころばせて、美味しい美味しいと大げさに言うと、つられたように、チーフや伊波さんなども、美味しいと言って、嬉しそうにカレーをほおばる。

 なずなや、梢姉さんからは言われ慣れているが、普段聞くことのない人達にこうして、自分の料理を褒められると、どことなくこそばゆい気持ちになった。

 ――続いて、佐藤さんのカレーを食べ始める一同。

 俺も、みんなの反応が気になり、まだ手を付けていなかったが自分のカレーの反応を見た所で、食べようと手に取った。

「これは……」

 佐藤さんのカレーは、見た目は少し黒く、ひき肉と定番の具を一通り入れたカレーだった。とろみがやや少なく、圧巻なのは、カレー専門店顔負けの、スパイスの効いた香りで、食べる前からもう、その香りだけで体が火照るような感覚すらした。早速一口食べてみる。甘さは控えめで、見た目ほど辛いわけではないが、ある程度の辛味と独特の……味――これは、苦味か? が、ある。かといって、きつい味という訳でもなく、野菜の甘さや、各スパイスの味が、際立ち、とても深い味わいだった。おそらく、一晩寝かせて、野菜とこのルーが融合すればもっと美味しくなるのだろう。

 

 これは、完全に負けだな。と、潔く他のみんなの反応を見てみると、以外にも「おいしい……かな」とか「うーん」とか、微妙な反応をしている。山田なんか早々に皿を置いて、俺のカレーをまた食べ始めている。総じて、女性陣には不評なようで、店長以外は、微妙な顔をしている。

「相馬さん、どうなんでしょうか?」

 正直、どういうことかと疑問に思った俺は、違う意味で微妙な顔をしていた相馬さんに声をかけてみた。

「あーー、カレーの評価かい? まあ、見た通りじゃないかな? その顔を見ると、佐藤さんのカレーの方が美味しいと感じたみたいだね? やっぱり、料理している人だからかなぁ」

「えっと、俺、正直、明らかに自分のより佐藤さんの方か美味しいと感じるんですが、相馬さん個人はどうですか?」

「俺個人は、小鳥遊くんのかなぁ。ま、好みだけど、ていうか小鳥遊くんのもかなり美味しいと思うよ? さすがにいつも家で料理してるだけはあるよ」

「はぁ……でも、女性陣の反応は露骨ですね?」

 今尚、微妙な顔をしている女性陣を一瞬確認してから、相馬さんのほうを向きなおして言った。

「まあ、女の子にはあんまり好まない味付けだろうね、これは。佐藤くんのカレーが本格的なのは明らかだけど、女の子は日本風の甘口カレーが好きだからね」

「えと、家にはなずなとかもいますし……まあ、姉達の好みに合わせていますね、ハイ」

「でしょ? だったら、彼女たちの反応は普通じゃないの?」

「けど、作った本人が、負けたとはっきり認識しているのに……なんか、変な感じです」

 

 ……まあ、自分のカレーはいつも食べているから飽きているというのもあるのかもしれないし、実際、なずなや姉達からは評判が良いのはお世辞だと思っていたけど結構本気で言っているのかもしれない。

「それで、なんで相馬さんは微妙な顔をしていたんですか? 他の女性陣とは違う理由ですよね?」

「ああ、俺? 俺はねぇ、よく、佐藤さんはこんな女の子ばっかりの中でこのカレーを出してきたな、と思ってね? まあ、それでも佐藤くんは自分の作りたいものを作ってきたんだろうなってね? 料理でも何でもそうだけど、自分のやりたいことって、自分のやりたいようにしたいものじゃない」

「なるほど……そうですね」

 俺がそう答えると、彼女らの反応を見ても特に驚いた様子もなく佐藤さんがこちらに向ってくる。そして、

「おう、小鳥遊! お前のカレー上手いよ、これは俺の負けだ」

 なんで、残念そうな素振りなんて全く見せずに言った。

「え? あ、ありがとうございます、でも、俺は佐藤さんのカレーの方が断然美味しいと思いましたけど……」

「おっ! マジでか?」

 俺が言うと、佐藤さんは珍しく驚いたように、すぐに聞き返してきた。

「ええ、本気で。だから、彼女らの反応は驚きました」

 俺が言うと、佐藤さんは遠くを見つめ、一呼吸おくと、

「まあ、俺は予想通りだよ。実際、美味しいと言われた事はあんまりないからな」

 と、悟ったように言った。

「けど、このカレー、色々スパイスも良い味を出していますし、野菜の甘みも出ていて、美味しいですよ。この香りはガラムマサラですよね? 他にも色々スパイスが入ってますよね? でも、その割に優しい味わいでもあって、おそらくヨーグルトか、ココナッツミルクも入ってますよね」

「……そこまで、分かるやつはお前が初めてだよ。ただ、それほどスパイスは多くは入れていない。おそらく苦味が少しあるからそう思ったんだろうが、苦味は、ビールで出している」

「ビール? ……なるほど。この苦味はビールで演出していたんですか、黒い色からカレー粉を炒る事で苦味を出していたのかと思っていましたがそうだったんですね」

「もちろん、黒いのはカレー粉を炒っているからだが、ビールを加えることでこの味を出しているんだ。入れるビールも色々試してみたよ」

 ――梢姉さんが、家で飲んでいる安いビールではないだろうな……。

「しかし、お前のカレーも本当に上手いじゃないか? これは庶民的なカレーとは言え、何か工夫をしているだろう?」

「おお、さすが佐藤さん、分かります? 実はこれ、インスタントコーヒーを入れることで、ちょっとコクを出しているんですよ」

「インスタントコーヒー? ……主婦ならではの発想だな」

 驚いたように佐藤さんが言った。

「アハハ、そうですね。なんせ、家計を切り盛りしていますからね、材料費を大きくはかけられないんです。そうなると、家にあるそれほど高くないもので……となる訳です。コーヒーの種類も色々試しましたが、一番ポピュラーな家族で飲んでいるものが良いようですね」

「まさか、そんな低予算でこれほどのカレーを作れるとはなぁ」

「他にも、人参と玉ねぎを多めに使って、先によく炒めておくことで、野菜の甘みが出やすくしています。野菜の甘みが特に出るのは人参と玉ねぎですからね……そして、仕上げに日本風にする必殺の調味料を入れます。それはしょうゆです」

「へー! しょうゆなんて、なるほどねぇ」

 

 遠くから声が聞こえたと思うと、丁度、相馬さんがおかわりを持ってきた所だった。

「しょうゆを入れることで、なんていうか、馴染みのある味になるんですね、しょうゆは減塩のものが特に良いです」

「まあ、そこまで工夫していたんじゃ、どっちにしても俺の勝ちはなかったな」

 佐藤さんはそう言って、ハァと息を漏らすと、タバコをくわえ火を付けた。

「えっ? そんなことないと思いますよ? 俺は完全に負けたと思いましたし」

「ま、お前にそう言わせただけでも、作った甲斐が合ったよ」

 佐藤さんはテレているのか、口元をほころばせながら、横を向き髪の毛をいじった。

「二人とも……もう、勝負はついたような感じでいるけど……まだ、みんなの投票がまだなんだから勝負はついてないよ?」

 苦笑しながら相馬さんが言った。

 

 

 ――作ったカレーが綺麗に全員の胃袋(主に店長の)に収まった所で、相馬さんが手作り感あふれる投票ボックスを、ババーン! と、自分で言いながらみんなの前に出した。普通のメモ帳を裂いただけの工夫のない用紙に全員が、どちらのカレーが美味しかったのかを書き投票する。作った俺と佐藤さんは投票をしないので、店長、チーフ、伊波さん、せんぱい、相馬さん、山田の6人が投票する事となる。

 

 キャキャ言いながら、女性陣が紙に名前を書き込む。その光景はまるで学校で、好きな男子について騒いでいる女子のようだ。

 全員が投票し終わった所で、相馬さんが「じゃあ、おまちかねの~」なんて、テレビの司会者みたいに大げさに言って、場を盛り上げる。が、それが女性陣には好評なようで、ワクワクした顔で見ている。今更、気付いたのだが、相馬さんは今回の旅行でそういう『盛り上げ役』を買って出てくれているのだろう。我ながら、今更気付いたことに恥ずかしかった。

 

 相馬さんの手から、出てきたメモ帳の切れ端が、隣の山田の手に渡り、名前が読み上げられる。山田は本当に相馬さんの事が好きだな――まあ、俺には関係のない事だが。

 俺の名前が、二回連続で呼ばれ、やっぱりそうなのかと複雑な気持ちを抱いたが、その後、佐藤さんの名前が二回呼ばれた。どうやら、俺の圧勝という事でもないようだ。そして、次に呼ばれた名前は佐藤さんだった。「おお!」と、みんながどよめく。これで、俺2、佐藤さん3票。次の最後の投票で決まる。

「ついに最後の一票で決まるね~引き分けか……佐藤君の勝ちか……?」

 相馬さんが、相変わらず場を盛り上げるよう大げさに言った。そして、最後の紙が山田に渡される。

「え~……あ、ああ、これは、小鳥遊さんです!」

 山田はなぜか一瞬、首をひねった後、思い出したような顔で言った。

 それを見て、以外にも佐藤さんが、「おい、ちょっと……」と、山田の元へ向い「見せてみろ」と言って山田から受け取ったその紙を直に見ると、

「あーーこれは、無効票だな!」

 なんて、苦笑いをしながら言い出した。

「えっ? どうしてですか?」

 気になった俺が、聞くと、

「ホラ、小鳥遊……これを見てみろ」

 佐藤さんはそう言って、みんなに見えるようにその紙を差し出した。

 そこには、「かたなし君」と書いてある。しかも名前の後の大きなハートマークが書いてあり、かなり恥ずかしい。

「この、種島の書いた票は名前が間違えている! 無効票だ!」

 かっこよく、佐藤さんが言った。

「え~~! なんで、わたしのって分かったの~!」

 せんぱいは、あくせくしながら言う。

 ――いや! それは分かるでしょう!? せんぱいっ!

「種島、こいつの名前はかたなしじゃない! 小鳥遊だ!」

 佐藤さんが、今更過ぎることを堂々と言った!? ていうか、佐藤さん途中からコレ、やるつもり満々だっただろう……!? 相馬さんも、腹抱えて笑ってるぞ!?

 みんなも、雰囲気から冗談だと気付いたのだろう。せんぱい以外、みんな笑い出した。まあ、佐藤さんも最初から真面目に勝負するつもりもなかったのだろう――。

 みんなが笑い合う中、さりげなく、一枚の紙を佐藤さんに渡す相馬さんの姿が見えた。そこには、「佐藤くん」と可愛らしい丸文字で書いてあり、それを見た佐藤さんの顔がほころぶ。

 ……なるほどな。チーフ以外に佐藤くんと呼ぶのは相馬さんだけで、あの文字を見る限り、あれはチーフのものということか……。

 

 ……しかし、相馬さんが似せて書いたとか……? いや、それはない……よな……?

 ――気付けば、そんな良い雰囲気のまま、そのカレー対決は終了していたのであった。



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(20)  安らぎのとき

 晩御飯を食べ終えた俺達は、そのままホテルの部屋でくつろいでいた。綺麗な畳で、窓を開けると先ほど入った綺麗な海が一望できる風情のある部屋だ。

 部屋には、俺と相馬さんと佐藤さんの3人が居る。女性陣5名は、隣の部屋だ。それなりに良いホテルなので、壁が薄い――ということも無いと思うのだが、彼女らがわいわい騒いでいる様子は、こちら側でもはっきり分かった。

「……よくもまあ、女性陣はこんな何も無い部屋でこれだけ騒げますね……」

 皮肉めいたように俺が言うと、

「……まあ、女の子はおしゃべりだからね……多分、山田さん辺りが、部屋の扉という扉を開けまくってるんじゃないかな?」

 吹き出しながら相馬さんが言った。部屋に入ってから真っ先にタバコをふかし始めた佐藤さんも、「ハハッ」と、その光景を思い浮かべたのか、大きく笑う。それにつられて俺も笑った。

 

 ――ひとしきり笑うと、みんな黙った。もちろん、隣の部屋からは相変わらずドタバタと話し声が聞こえる。こちらの部屋から聞こえるのは、佐藤さんのタバコをふかす息の音だけだ。人数の違いがあると言え、どうしてこうも男女でこれだけ違うのだろう。家みたいに誰かが騒がしくしている訳ではなく、こうも男ばかりだと間が持たない。まあ、落ち着くという意味では最高なのだが、旅行として来ている今はどうなのだろうと思う。

「……あっ、これ……なんか、お茶入ってますね……お二人も飲みますか?」

 

 沈黙に耐えかねた俺は、テーブルに置いて合ったポットに目をやり、二人に言った。なぜだが、家に居る時のように世話を焼かないと落ち着かない。「ああ」とか「うん」と言う二人の声を受け、コップに冷えたお茶を注ぐ。

「……なんか、これ、花の香り……ですかね? ジャスミン茶ですかね?」

「ん、そうだけど、これはさんぴん茶じゃないかな?」

 一口飲んで、相馬さんが言った。

「さんぴん茶?」俺が相馬さんに向って言うと、

「沖縄の方ではジャスミン茶のことをさんぴん茶って言って、結構飲まれているらしいよ?」

「へぇ……さすが、相馬さん、物知りですね……」

「俺は……これは、あんまり好きじゃねぇな……」

 感心していると、佐藤さんがそう言ってお茶をテーブルに戻した。どうやらジャスミン茶はあまり好きではないらしい。まあ、俺も苦手ではないが、それほど好きではない。

「えと……そう言えば、今回の旅行ってこの後、どうするんですか? 俺、ほとんど予定聞いてないんですけど……」

 微妙すぎる雰囲気に耐えかねて俺が、相馬さんに話題を振った。

「ああ、今回はねぇ~、もうちょっと時間がたって暗くなった頃に、きもだめしでもしようと思ってね!」

「えっ……きもだめしって……どこで、ですか?」

 つい怪訝な顔をして言う俺。

「さっき、遊んでた海の右側の奥に大きな森があったでしょ?」

「え、まさか、あそこに入るとか言うんですか!?」

「うん、そう!」

 ――にへら……と、満々の笑顔で即答する相馬さん。

「おいおい、大丈夫かよ? 厄介事はごめんだぜ?」

 遠くで、相変わらずタバコを吸う佐藤さんが、天井を見ながら目だけこちらに向けて言った。

「大丈夫だよ~! 佐藤くん、ホラ、きもだめしと言えば! 男女が二人組でお互いに肩を寄せ合って、キャーって叫ぶ女の子に抱きつかれるものだよ!?」

 佐藤さんの方を向き、人差し指を立てて相馬さんが言う。

「……お前、まさか……どうにかして、お前の思い通りの組にする魂胆なんじゃ……?」

 佐藤さんの言ったことは俺と思った事と同じ――だった。

「えっ? そんなの不公平じゃない! くじだよ、くじ。……あーでも、佐藤くんがどうしても……って、言うなら、俺が裏で細工してもいいけど!」

 ――アハハハハハ……笑いながら、ハイテンションで言う。

「いいよ……そんなこと、しなくても」

 だが、佐藤さんはそう言って突き放す。

「え~? ほんとにいいの? 佐藤くん、だって、もし、種島さんなんかとペアになっちゃったらどうするの? 色々不味いんじゃない?」

 ――どういう意味だよっ!? 俺に気を使ってくれているのだろうか?

「……たしかに、それは悪い気もするなぁ」

「でしょ、でしょ?」

「いや……だが……」

「……ぶっちゃけ、佐藤くんは、轟さんと、一緒になりたくないの?」

「…………いや」

 下を向き、顔を隠しながら佐藤さんがポツリと口にした。

「じゃあ、決まりだね! 小鳥遊くんだって、種島さんとペアになりたいでしょ?」

 ――ここまで、ばれていたら隠す必要も無いか……。

「ええ、そうですね、お願いします」

「おおっ! ほらぁ、佐藤くん! こうやって、小鳥遊くんみたいに堂々としないと! 恥ずかしがらないでさぁ!」

「お……俺と小鳥遊じゃ、立場が違うだろうか! ……でも、まあ……たしかに、俺も、もっと積極的にならないといけないのかも知れないな……小鳥遊を見習って」

 ボソボソと、考え深い感じで佐藤さんが言った。

 ――俺の場合は、もう、行く所まで行っちゃっているからなぁ……。正直、せんぱいとこれからもずっと一緒に居るだろうし……少なくても俺はそうしたいと思っている。俺が心配なのは、せんぱいに飽きられるとか……そんなことだし……。

 

 ――しかし、なぜ、相馬さんは、わざわざこんなことを? そこまで、佐藤さんとチーフをくっつけたがっているのか……あるいは、何か、相馬さんにもメリットが……? なんだろう……俺とせんぱい――佐藤さんとチーフがペアになったとすると――?

 ……もしかして、自分も山田と、ペアになりたかった目的を悟られないように進めている――なんてな。そんなことあるわけないか……。

 

 

「ええ? きもだめし?」

 暗くなったら、きもだめしをする――という八千代さんの言葉に私が反応する。さらに八千代さんは「相馬くんに聞いたのよ」と付け加え、

「なんだかね? 相馬くんが今回の旅行のこと、色々決めてくれてね? ホテルやら飛行機から、行事やら……私、すごく助かっちゃった!」

 嬉しそうに、このホテルの一室を見回しながら言った。

「へ~、相馬さん、頼もしいですね~」

 相馬さん……何が、目的で? ……って、そんな風に考えるのは失礼だよね……!

 ――男女ペアで、きもだめし……か。でも、それだと、女の子が二人あまるじゃない! 多分、杏子さんと……ってことなのかな? いや、普通にくじとかで決めると、当然、杏子さんとペアの男の子なんかも出るかもしれないわけで――やっぱり、これは、相馬さんが、裏で根回しをしているとしか――。

「誰と、ペアになるか楽しみねぇ? 私は杏子さんとがいいわ!」

「えへへ、そうだね……」

 と、言ってみたものの、八千代さんが杏子さんと当たる可能性は低いんじゃ? ていうか、相馬さんが根回ししているとしたら、どういうペアにするつもりなんだろう――?

「ぽぷらちゃんは、やっぱり、小鳥遊くんがいいのよね?」

 八千代さんが言った。ちなみに、伊波ちゃんはさっき、葵ちゃんと一緒にお土産を見るため一階に行っている。

「え……あ……うん、そうかなぁ」

 自分でも歯切れの悪い返事だなぁと思った。でも、わたしはまだ、伊波ちゃんとの事が尾を引いていて、素直に今の状態に喜べない。わたしは伊波ちゃんとは、もう、前みたいに話すことは出来ないのだろうか――?

「どうしたの……? ぽぷらちゃん? なんだか、元気ないみたいよ? 小鳥遊くんと、上手く行ってないの?」

 わたしの陰気な様子を察したのか、八千代さんが不安げに聞いてくる。

「あっ! な、なんでもないよ?」

 即座に手を振って否定して見せたものの、

「いいのよ? 一人で背負い込まなくても、ほら、私に話してみて?」

 優しくそう言ってくれる八千代さんだったが、まだ私が渋っていると、

「……私じゃ、頼りないかしら?」

「えっ? そんな……そんなことないです」

 急にしゅんとした顔を見せるものだから、ついつい八千代さんに乗せられてしまった。

 

 ――でも、考えてみれば、八千代さんは前に小鳥遊くんがわたしのことを無視し出した時に、一緒に話せるように助けてくれたことがあった。言いづらい事だけど、少し話して見ても良いかも知れない……。

「えと、実は……かたなし君とは……その……上手く行ってるんだけど……そのせいで伊波ちゃんと……ちょっと」

 わたしが言うと八千代さんはびっくりしたように、

「えっ? でも、さっきだって、楽しそうに話していたじゃない?」

「……えと……そう見えた……?」

 目を合わせてわたしが聞くと、八千代さんは驚いたようにした後、考えた素振りをし、

「…………言われてみれば確かに、前までと比べて、多くは喋ってないわね……」

 と、事実を噛み締めるように語った。

「わたしは……前みたいに、伊波ちゃんと、仲良くしゃべりたい……友達だから……伊波ちゃんはそう思ってないかもしれないけど……わたしは今でも友達だと思ってるから……」

 俯いて、心に秘めていた想いを口にする。それに対し八千代さんは、

「そう……。じゃあ、私が、二人を仲直りさせてあげる! 前も、小鳥遊くんと仲直りさせて上げたみたいに!」

 手をパン、と叩いて笑顔を見せてそう言う。ぽわぽわして可愛いなぁ……八千代さんは。

「でも、八千代さんにばかり、悪いよ……」

「こ~ら! なにを言ってるの? ぽぷらちゃん? 私たちお友達なんだから、困っている時は助けるのが当たり前でしょう? そこに利害関係なんてないの、私ばかりが助けることになってもなんにも問題なんてないのよ?」

 

 細い目で、にこにこ――八千代さんって……ごめんなさい、あんまり何も考えてないように思ってたけど……凄く――優しい人なんだな……佐藤さんが好きなのも、なんだか、分かる気がするよ…………。

 

 

 

「え~、それじゃあ、外も暗くなってきた所ですし――」

 午後9時過ぎ――。相馬さんが、俺を含むメンバー全員の前で、『きもだめし』の説明をする。その説明によると、今、相馬さんが持っている箱に入っているくじを引き、男女でペアになって、用意された地図を片手にチェックポイントである大木に、それぞれ色分けされたひもを括り付け、帰ってくるということだった。男は相馬さんの持っている箱。女性陣は隣の山田の持っている箱を引くそうだ。

 ――辺りは既に薄暗くなっており、森林からは、サルやトリ……あるいは正体不明の動物の声が木霊している。ていうか、大丈夫なのか!? これ……。

「相馬さん! 本当に危険はないんですか?」

「え? 大丈夫だよ、事前にルートを見てきたから。普通に地図通りに辿って行けば、往復15分もかからない距離だよ」

「でも、動物とかは?」

「大丈夫だって! 調べてみたら、この森には獰猛な動物はいないみたいだから。もし、遭遇してもあっちの方から逃げてくよ。それに危なかったらこっちが逃げればいい。ルートはほとんど真っ直ぐだから」

 覚えてきたことのように、スラスラと相馬さんは語る。相馬さんの言っていることが本当なら、まあ、それほど危険はないようだが……?

「小鳥遊さ~ん、どうしたんですか? もしかして、怖いんですか~??」

 山田が、にやついた表情で見え透いた挑発をしてくる。そんな挑発に乗るなんて事は当然しないが、これ以上言ったら、ビビッてしまっているように見えてしまうのは事実だろう。おそらく同じペアになるせんぱいのためにも、あまり俺がビビッている様子を見せるのは得策ではない。

「それじゃあ、ペア決めるよ~、くじ引いても全員が引き終わるまで見ないでよ~」

 相馬さんがそう言ったのを皮切りに、女性陣は山田の方へ、俺達は相馬さんの方に行く。

「はい、小鳥遊くん、引いちゃって?」

 相馬さんの前に立つと、相馬さんは先と変わらぬ調子でそう言う。

「……相馬さん……例の……細工、の方は問題ないんですか……?」

 たかだか遊びの行事でも、こう不正をするというのは、心中穏やかではない。女性陣の方をチラリと確認してから、口元が読まれないように手で隠しながら俺が言った。

「だいじょうぶだよ~、中に一つしかないから引けばいいよ~」

 ……なんだか、味方にすると頼もしい――いや、実は俺の気付いていない所で踊らされているのか? ――ような、分からないような、とにかくこの人は敵にしたくない以上にある意味、味方にしたくない存在だ。俺は言われた通り、箱に一つしか入っていない事を確認し、そのくじを取り出した。――本当にこれで問題ないんですか? ――そう、聞こうとしたが、くじを手にした俺を見る相馬さんは満面の笑みを浮かべており、それが、心からの物だろうと、偽善の物だろうと、どちらにしても俺は何も言えずに、持ち場に戻った。

 

 続いて、佐藤さんが相馬さんの元へ向う。佐藤さんがくじを引く最中、聞き取れないが、何か話している。おそらく俺と同じことだろう。相馬さんが相変わらずの笑顔で何か言うと、佐藤さんは恥ずかしそうに顔をしかめた。あの、様子を見ると佐藤さんの引いたくじは、八千代さんとペアのもの……つまり、俺のくじも……?

 

 女性陣の方に目を向けると、キャッキャ言いながら、盛り上がっている。よくよく考えてみると、山田の方も細工していないといけないという事になるが、あの山田に任せて大丈夫なのだろうか? 

「小鳥遊くん! ちょっと!」

 山田に対し不安を募らせていた時、相馬さんから声がかかった。

 

 行くと、簡単な荷物の入ったポーチを渡される。中を見ると懐中電灯と発煙筒とが入っていた。リレーのバトンのような物だ。一応非常時に全員に配っている――との事だ。これを見て、万が一の時のために用意がいい――と、取るか、思った以上に危険――と、取るか……まあ、前者だと思っておこう。あまりネガティブな発言をして今回の行事――旅行そのものを台無しにしてしまっては、ここまで用意してくれた相馬さんにも悪いだろう。

「じゃあ、全員にくじが渡った所で、運命のペア決定の瞬間を見てみよう!」

 相馬さんが言う。俺だったら恥ずかしくてとても口に出せない台詞だ。それはそれとして、早速くじを開いてみると……子馬――と、そこには書かれていた。……おそらく、これは種島せんぱいのことを言っているのだろう。せんぱいはポニーテールだから。それに気付いた時、不覚にもちょっと笑ってしまう。

 

 女性側の方ではせんぱいが「ウマウマ」と叫んでいる。いつからせんぱいはネットばかりするようになったのか、いや、違うか。とりあえず、俺はせんぱいとペアであることが確定したようであり良かった。

 佐藤さんの方を見てみる。チーフとペアだろうという事はおそらく間違えないが、なんて書いているのかが気になった。

「佐藤さんどうでした?」

 言いながら、ひょいと、佐藤さんの紙を盗み見るとそこには――黄色、と書いてあった。

 ――動物じゃないのかよ!? 統一性なしかよ!!

 いや……しかし、たしかに二人の共通点という意味では、的確かもしれない――。

 

 ……!? 待てよ。ということは、俺のこの小馬というのも、俺にも当てはまる事――ということなのか……? 子馬……子馬……ハッツ! まさか、俺が既にせんぱいに馬乗りになった事がばれていて――? って、下ネタじゃないか!! 梢姉さんか! 俺は! ……いや、梢姉さんのせいにするのは良くないな……ゴメン、梢姉さん。他の共通点だ! ……えーと……ハッツ! まさか、俺のアレが子馬だと言う――だから、下ネタだべやーー!! 落ち着け……宗太。なまら、落ち着け宗太。あっ、興奮しすぎて北海道弁でちゃった。

 そんな、傍目からは一人百面相でもしているかのような動きをしていた時、

「……おい」

 ポンと肩を叩かれ、前を見ると不思議そうな顔で俺を見る佐藤さんが居た。

「お前、顔色悪いぞ……? 大丈夫か?」

 珍しく心配してくれる佐藤さんに、

「ア、ハイ、ダイジョブデス」

 

 ――手を挙げて、片言でそう返すので精一杯だった。

 



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(21)  油断大敵  

「それにしても、良かったね? 一緒のペアになれて」

 森林の散策を開始して、数分。隣を歩くせんぱいが言った。

「あっ、はい、そうですね」

 俺達は、3組目の順番で、出発していた。1組目に佐藤さんとチーフ、2組目に相馬さんと山田。俺達の後は、店長と伊波さんのペアである。――なんだか、伊波さんには勝手に申し訳ない気持ちになってくる。俺だけが悪い訳ではないのだろうが、なんというか……例えば、今、こうして笑顔を俺に向けてくれるせんぱい――勿論嬉しい事この上ないが――の位置に伊波さんが――伊波さんの場合は怖がってしまっているのだろうか? ――いるような、そんな未来もあったのではないか? なんて考えてしまう……そう思うのもまた、事実だった。

 

「……かたなしく~ん、なにか、考え事でもしてるの~? さっきから、俯いてばかり……」

 もやもやと、そんなことを考えて歩いていたものだからか、頬を膨らませたせんぱいが俺の腕を掴みブラブラ揺れながら言った。

「あっ、ああ、すいません、えと……く、暗いですねえ! 怖いですねえ!」

 正直、前なんて全く見ていなかったが、これはきもだめしである――ということを思い出した俺はとりあえず、そうやって怖がってみる。目の前は薄暗いジャングルだ。

「も~! ほんとは怖がってなんてないでしょ、かたなしくん! こんなの、わたしだって怖くないよぉ~!」

 せんぱいはそう言っては、俺の腕を自分の胸にたぐり寄せて、ブランブラン。全く怖がっている様子がない。それもそのはず、俺達の前に行った2組――佐藤さんとチーフ、相馬さんと山田は、14分程度……で、何食わぬ顔をして帰ってきた。いや、最も佐藤さんやチーフの顔は薄暗くてはっきりは見えなかったが赤くなっていたようにも見えた。ある意味、色々あったからこそ早かったのかもしれない。相馬さんと山田は自分らが指定した目印だったこともあるのだろう。「簡単すぎた」なんて言って苦笑しながら帰ってきた。

 

 そんな、2ペアを既に見ているからか、せんぱいも俺もなんとなく大した事はないのではないか? ――なんて、思ってしまっている。本当にそうかどうかは別としてそういうイメージになってしまっているのだ。

 

「……なんだか、本当にまっすぐ行って、帰ってくるだけっぽいし……つまんないな~」

「……アハハ……でも、いいじゃないですか? 変なトラブルになってもやっかいですし……こういうのは楽しければそれでいいんじゃないですか?」

「だーかーらー! 楽しくないんだってばー!」

 ――なんだか、以前よりも、駄々をこねて子供っぽく……なった気がするな……せんぱい……。

「なんか、せんぱい……前より、子供っぽくなってません?」

 思った通りのことを聞いてみると、

「えっ? そう? ……そうかな~? わたし、子供っぽくなってる??」

 恥ずかしそうに、目をキョロキョロ、手をパタパタさせて、せんぱいが言う。

「ええ、そんな感じがします……前は……なんていうか、先輩風……ってほどでは無いですけど、そんな所が少しかあったって言うか……」

「えっ? わたし、先輩風吹かせてた?」

 驚いたようにせんぱいが言う。

「ああ、いえ! そうではなくて……言い方が悪かったですね……えと、年上として接していたって言うか……」

「あーー、言われてみれば、そうかもしれない……ね。だって、わたし年上だし……でも、今はそんなの、関係ないっしょ? わたし達……こいびと、どうし……だもんね?」

 ――言いながら、エヘヘヘ……と、恥ずかしさを誤魔化すように下を見て笑う。

「あっ……ああ、そう……ですね? でも、女性って……そうやって、男に甘えたいものなんですか……?」

「そうだよー? それが、普通じゃないのぉ?」

 先ほどの恥ずかしさを誤魔化すようにか、少し大きな声でせんぱいが言う。

「いや、俺は男なんでその辺はちょっと疎いですけど、そういうものなんですね……」

「そうだよ~、だって、わた――うわっ!!」

 ――バサバサバサ、せんぱいが喋っている途中、俺達の目の前を何かの鳥みたいのが、突然通り過ぎた。その時、俺は驚きのあまり、持っていた懐中電灯を落としてしまう。

「あっ! どうしたの? かたなし君」

「すいません、懐中電灯を落としてしまったみたいで……」

 辺りは真っ暗とまでは行かないものの、月明かり以外の明かりは無く、とても暗い。俺は慌てて、懐中電灯を拾おうと、辺りを見回し足先を変えた。

 

 ――ゴリッ、その音は、俺の右足に何か大きくて筒のようなものが乗った時に鳴った俺の骨の音だ。その正体は丸い懐中電灯で、俺の足をすり抜けると、コロコロと回りながら直進する。

「ああ! あっち言ったよ!かたなし君!」

 せんぱいが言った。明かりは付きっ放しであるため、どこで動いているかは一目瞭然である。俺とせんぱいはその懐中電灯を追って、走る。予想以上に勢いの付いた懐中電灯はそのまま転がっていく。おそらく坂になっているからであろう。懐中電灯はアレ一つしかない。俺達は焦ってそれを追った。

「わたしに任せてっ!」

 そう言って、せんぱいが前のめりになり手を目いっぱいに伸ばした。そのまま懐中電灯を掴み、「やった!」と、笑みを浮かべ立ち上がった時――足元の石につまずいたのか、そのまま後ろに倒れそうになる。

「せんぱい! 危ないっ!」

 俺は、咄嗟にせんぱいに手を伸ばした。そして、せんぱいを抱きしめる。何も手を突けるものはない。このまま倒れるのは避けられないだろう。だったら、せめて、せんぱいが怪我をしないように……。

 俺はそのまま、倒れる覚悟をした。抱き合った俺達の状態が落ちる――落ちる――まだ、落ちる――あれ? ……おい、長すぎやしないか?

 

 目をつぶっていたが、不思議に思い咄嗟に目を開けると、なにやら、巨大な穴――に落ちている。ええっ! ――と、驚いて状況を把握した次の瞬間には既に、俺達二人の体は地面に落ちる。――ここまで深いと、怪我は避けられないだろうな……嫌なことを確信しながらも、俺は右手を地面に付く。

「…………ッツ!」

 瞬間、尋常ではない痛みが手にかかる。小学生の頃、自転車から転んで腕を折った時の衝撃に似ていた。

「いっ……いたい……いたいよぉ……かたなしくん……」

 地面に落ち、少しすると、せんぱいがそう、すすり泣くような声で言う。

「だ、大丈夫ですか? せんぱい……?」

 俺は左手をせんぱいの肩において、倒れているせんぱいに言った。近くに落ちていた懐中電灯を持ってきて、状態を確認する。

「足……痛みますか……? せんぱい?」

「うん……痛い……右足が特に……」

 ――参った。せんぱいの右足は落ちた衝撃でかなりの怪我を負っているようだ。折れているかは判断できないが、しばらく動かせないのは間違えないだろう。

「すいません……今は、これで……」

 俺は、ポケットに入っていたハンカチでせんぱいの右足から出ている血をぬぐった。幸いすれ傷自体は浅く血は止まったが、中はどうなっているかは分からない。早い内に手当をしなくてはならないだろう。

 

 俺は落ちた場所――周囲を確認する。左右が壁に覆われており、落ちる前にいた場所は見上げた先――10m位だろうか? 俺達が落ちた所は穴の最深部はそれほど広くは無い。家のリビング位だろうか。簡単に言えば、落とし穴のような所に落ちてしまった。という感じのようだった。

 

「すいません……せんぱい……せんぱいに怪我させてしまって……」

「そんな! かたなし君は悪くないよ……わたしをかばって、助けてくれたんだもん……わたし一人で、ここに落ちてたら……」

 せんぱいはそこまで言うと、悲しそうに口を結んだ。

「あの……どうにかして……助けを呼びましょう……幸い、お互いに致命傷という訳ではありません。今回の事故は不運でしたが、そんなに気に病むことはないですよ」

「……もしかして、かたなし君も怪我しているの……?」

 ――しまったと思った。たしかに先ほどの言い方だと、俺も怪我をしているような言い方だった。だが、俺の怪我を隠したままでいる事も難しい。隠し通せるものでもない。

「……えと……まあ、右手がちょっとイッてますね。まあ、しばらく不便なだけで大丈夫ですよ」

 なるべく、前向きな感じで言ってみたのだが、せんぱいにはそう聞こえただろうか? 実際は、この右手は折れているだろう。かなりの痛みが今も感じている。あまり複雑な骨折ではないことを祈るばかりだ。

「ゴメンね? わたしが穴に落ちそうになっちゃったせいで……」

「いや、本当にそんなこと無いですって! せんぱい、自分を責めないで下さい。元はと言えば、俺が懐中電灯を足で転がしたのが悪いんですから……そんなどっちが悪いかそんなこと言い合ってもしかたがないですよ」

「そうだね……ゴメン」

 そう、小さく言うせんぱいの声は、明らかに怪我をする前と比べ落胆した感じが見て取れた。

 

 ――とにかく、みんなに助けを呼ぼう。今回の旅行は大変なことになってしまったなぁ……なんて、漠然と思う。しかし、今はとりあえず助けを呼ぶことが先決だ。怪我をしてしまった事は今更、変えられる訳ではない。とにかく、せんぱいの足は冷やすかなにかすれば、痛みも引くだろうし治りも早いだろう。それが今の最善……。

「あっ……そう言えば……」

 俺は、一つ気付いたことがあった。俺が肩からかけていたポーチ。相馬さんに渡されたものだ。それに、発煙筒が入っていたではないか! それを使えば、直に助けを呼べる――。

 

 辺りを見回すと、発煙筒を発見した。――しかし残念なことに、ポーチからこぼれ落ちた発煙筒は、崖の上の方に引っかかっており、とても手に届く位置ではなかった。

 ――非常時にためのものが、非常時に役に立たない。こんな皮肉があるだろうか。

 発煙筒が使えないとなると、正直な話、みんなが俺達の身に何かあった事に気付いて、助けに来るまで待つしかないだろう。おそらく……というか、ほぼ間違えなく、ここから出来る限りの声量で叫んだとしても、みんなが待っているだろう森林の出口には届かない。既に地下みたいな所に居るわけだし、少なからず、トリや動物の声が響いているからだ。

 

 つまり、まだ数十分……少なくとも十分以上は、ここで待っていないといけないだろう。

 

「……わたし、ばちが当たったんだよ……きっと」

 どうしようかと考え込んでいた時、地面に座り込んだせんぱいが、しゅんとした顔で言う。

「ばちって……そんな……せんぱいが当たるようなこと……」

 俺は振り返り、せんぱいの方を見て否定しようとした時、

「……してるよ」

 俺の言葉をさえぎるようにせんぱいが、

「わたし……伊波ちゃんから取っちゃったじゃない……? かたなし君のこと……」

 噛み締めるようにそう言う。

「そんな……俺は、せんぱいの事が好きで……こうなったんです……俺はせんぱいと恋人同士になれた事に後悔なんてしてませんよ……!」

「ありがと……かたなし君……でも、わたしが伊波ちゃんから取っちゃったのはやっぱり事実だと思うな……だって、わたしが色々伊波ちゃんとかたなし君のこと、勝手に応援して、おせっかい焼いてたのに……そんなわたしが、ダメにしちゃったんだもん……それも、最悪の形で……」

「せんぱいの言う事は……最もかもしれません、けど、それは俺だって同じです。前に、伊波さんに報告に行きましたけど……それでも、なんていうか……俺の方も罪悪感が、いまだにあって……」

 

 ――お互いに、こんなにも好きなのに――伊波さん――という一人の存在が俺達を幸せにしない。けれど、伊波さんが悪いわけではないし……伊波さんは、俺達の事を認めてくれた……表面上は……だけど。

 

 もう、やっぱり、伊波さんとは――なんていうか……友達としては接することは出来ないのだろう……俺もせんぱいも……。何事にも犠牲は付き物だ……とでも、言うのならそれがこれなのだろうか? 仕様がないという事なのだろうか……?

「かたなし君……」

 せんぱいが俺を呼ぶ、子供のような声で――。

「なんですか?」

 俺が微笑んで答えると、

「わたしのそばに……きて」

 風の音にも掻き消されてしまいそうな、かすれた声で……言った。

 ――俺は、ゆっくりとせんぱいのそばまで来ると、せんぱいの隣に腰を下ろした。そして、せんぱいの腰に左手をやり、そっと抱き寄せる。

「……大丈夫ですよ……せんぱい……」

 

 何が、大丈夫なのか……俺にも分からない……が。俺の心のその無責任さがせんぱいに伝わることは無い。伝わるのは……俺の……せんぱいを安心させたいという気持ち。だって、俺は、その事しか考えずに言ったんだから。必然的にそうなるハズ……そう思いたい。



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(22)  背負いたいお荷物  

 ――暫く経った。10分だか、20分だかは分からない。ケータイはどちらも持っていなかった。せんぱいのはホテルで充電中、俺のはポーチの中に入れたままで手の届かないところにある。最もここは圏外なので時間を確かめる事しか出来ないのだが。

 

 こうして、二人とも動けずにただひたすら助けを待つという今の状況は、どうしても心が落ち着かない。そして、つい、ネガティブな気持ちになってしまう。外は先ほどよりも暗くなっており、暗くなり始めると真っ暗になるまでが早い。だが、外が暗くなるにつれ、俺達の気持ちも一緒に暗くなっているという事実には気付かなかった。いつまで、ここで待っていればいいのだろう? 今日中に助けに来るのだろうか? 助けに来るとしてもこの場所が分かるのだろうか? 映画みたいに怖い動物に遭遇したりしないだろうか? そんな、不安に駆られる。先ほどから絶えず聞こえる謎の動物の声、木の揺れる音、月明かり以外真っ暗で、どの暗闇から獰猛な動物が突如として現れるか分からない。男の俺でさえ、これほどに怖くなってくる。せんぱいはもっとだろうか? そう、気付いた時、せんぱいの方に顔を向けると、せんぱいは目を閉じて、怖そうに震えている。それを見た俺は、せんぱいの肩に置いた左手に今以上に、ぎゅっと力を込めた。

「わたしたち……本当にここから助かるのかな……?」

 ふいに、ぼそぼそとせんぱいが、そんな弱気なことを口にする。

「どうしたんですか? せんぱい? 大丈夫ですって、直にみんな助けに来ますよ」

「本当に? ここに居るってどうやって見つけるの? それに見つかってもわたしたち怪我してるんだよ? どうやって、この崖を登るの?」

 すがるような目で俺を見て、不安げにせんぱいが問う。

「それほど、ルートからは遠ざかっていないはず……です。どう崖に登るかは、みんなが何とかしてくれるでしょう」

 ――最悪、見つかりさえすれば、どうにかなるだろう。だが、そんな曖昧な言い方が悪かった。

「何とかって……かたなし君、本当に考えてるの? みんなはわたしたちが怪我していることも、こんなところに落ちてることも知らないんだよ? なのに、何とかしてくれるなんて言えるの!?」

 不安と、怪我の痛みで珍しく苛立ってしまっているのか、せんぱいは怒りをぶつけるように俺に言った。

「そんなこと言いましても、俺だって分からないですよ!? でも、そんなネガティブなこと言ってもしょうがないでしょう? 助かるって信じて待つべきなんじゃないですか!?」

 つい、俺もそんな風に言い返してしまう。気付けば、せんぱいの肩に置いた手も離し、向かい合って、言い合う。

「なによ……そんなに怒って……やっぱり、かたなし君、わたしのこと好きじゃないんだ……? 本当は嫌いなんでしょ? わたしは伊波ちゃんっていう友達まで失ったのに……かたなし君にも捨てられちゃうんだ……?」

 悲しそうにふてくされたように下を向き、目を赤くしてそんなことを言う――。

 

 俺達は何をやっているんだろう? ――こんなことをしても意味が無い。こんな風に二人でいがみ合ってもしょうがない。こんなこと俺は望んでいない。せんぱいとケンカなんてしたくない。

「俺は、せんぱいのこと、好きですよ……それは、いつになっても変わりません。もし、せんぱいが不安になるようでしたら、その度に言ってください。その度に俺は、せんぱいの事が好きだって、そう、言いますから……何度でも」

 俺がそう落ち着いた声で口にすると、

「……ありがとう、かたなし君」

 せんぱいも落ち着いた様子で下を向いてそう答え、胸の辺りのいつも付けているものを大事そうにぎゅっと握った。

「わたし……不安なの……かたなし君が、何度、わたしのことを好きだって言ってくれても……もっと……それ以上に、わたしは好かれたいと思ってるの……」

 

 ――嬉しい事を言ってくれる……と、思うのだけど本人は真面目に言っているのだろう。その、際限の無い俺への愛が返って自分を苦しめて不安を感じている……と。

「でも……せんぱい、せんぱいが俺の事を好きになってくれたのは、俺より、後のことでしょう? 時間が愛の深さ――ではないですが、そういう意味では俺の方がせんぱいへの愛は深いですよ……」

 それは、俺のせんぱいに対する気持ちの大きさを伝えるために言った言葉だったのだが、返ってせんぱいには癪にさわったようで、

「えっ? なに言ってるの? かたなし君……わたしが、かたなし君のことを好きになったのは、あの最初の海の時――かたなし君と同じ時だと思うよ?」

 少し、プンプンと怒ったように頬を膨らませて言う。

 たしかに、俺がせんぱいを意識した時――つまりはせんぱいを好きになった時というのは、海の日の事だ。しかし、その時にせんぱいも……? にわかには信じがたい。

「そんな……それはせんぱいの思い込みでしょう? 好きになってしまってから、前後の記憶が曖昧になるという事は良くあることです、見るからにあの頃のせんぱいは、俺の事なんて――」

「あの時は、自分でもはっきり分かってなかったんだよぉ! かたなし君への気持ちが、好きっていう気持ちだって……! かたなし君だって、そうでしょう? いきなり、はっきりとわたしのこと好きになったの?」

「……たしかに、俺もいきなりって言うことではないですが――」

 

 そう言われても、俺は納得できなかった。あの海の時にせんぱいも俺の事を意識していたなんて……まさか。あの時、俺がせんぱいに何かしただろうか? せんぱいの胸によってせんぱいを意識してしまった時にせんぱいも俺の事を好きになったとでもいうのか? そんなわけがない。

「むぅ~! かたなし君、全然信じてないでしょ?」

 俺の表情から思っている事を読み取ったのか、せんぱいが可愛く怒って言う。

「……でも、だって……あの時からって言われても……」

 そんな煮え切らない俺の返答に、

「たしかに、はっきりと好きだ――って、気付いたのは、店でわたしが失敗しちゃって、お客さんに怒鳴られた時……かたなし君が、抱きしめてくれたこと……あれが、きっかけ……。だけど……そもそも、あの時わたしが仕事に集中できなくって、ミスしちゃったのだって、かたなし君のことをずっと頭の中で考えていたから、なんだよ……?」

 せんぱいは胸に手を当てて、その時の記憶を一つ一つ思い出すように言った。

 

 ――そっか。あの時……せんぱいは、俺の事を考え込んだことが失敗の原因でもあったのか……。それはつまり、それ以前から俺の事が気になっていたという事……。

「ああ、なんか分かる気もしてきましたけど……何か、決定的な事とかないんですか?」

 俺が言うと、

「う~ん、決定的な……あっ、じゃあ、しょうこ見せてあげるよ! しょうこ!」

 急に、ヘヘン――と、笑みを浮かべてせんぱいが言った。足も痛むだろうに、おそらくこうして俺と喋る事で紛らわしているのだろう。俺の右手の痛みと共に……。

 ――しかし、証拠……? なんだろう。せんぱいが俺の事を海の時から気になっていた、証拠…………。

「かたなし君……ずっと、気が付いて無かったみたいだったけど……」

 そう、言いながらせんぱいは、自分の首の後ろに手をやると、ポニーテールをパサッ――と、後ろに放り、その間に手を入れた。そして、最近ずっと、身に着けていたネックレス? のようなものを外す――。

「あっ――!!」

 思わず、びっくりして声が出た。せんぱいが首からずっとかけていたもの……それは、あの海の日に俺が拾った――厳密には渡したのは後日だが――あの、綺麗な貝殻だった。

 

 ――そうか、せんぱいが俺の家に来た時、その帰り際に俺が渡した貝殻――せんぱいが耳に当てて、その音色を聞いていた。せんぱいに良く似合った貝殻――あれを……。

 次の日、仕事の時から、今までずっと……付けていたのか――。

 

 

 

「まったく、気付きませんでした。俺が渡したその貝殻……ずっと大事に身に着けていてくれたんですね……?」

 かたなし君が驚いたようにそう言った。

 ――やっぱり、かたなし君、気付いてなかったんだな……ずっと大事に付けてたのに……。

「その、海の日の俺との思い出のものである、その貝殻……それをずっと身に着けていたことが、その時から俺の事が気になっていたという証拠――って訳ですね?」

 かたなし君は、大事そうにわたしが首から外した貝殻を手に乗せると感心しながら言った。

「そういうこと! ね? これで信じてもらえた?」

 ずっと、お守りだと思って身に着けていたこの貝殻がこんな事で役立つとは思ってなかったけど……。

「そう、ですね。どうやら、俺が間違えていたようです。せんぱいがそんなに早くから俺の事を意識しててくれていたなんて……嬉しいです」

 わたしの方に笑顔を向けて、かたなし君がそう言う。

「だからね? わたし達は同時に好きになった……それでいいんじゃないかな?」

「そうですね、何にしても……俺は、せんぱいの事、これからもずっと好きですよ? だから、何も不安にならないで下さい、何があっても、せんぱいのこと……守りますから」

 

 ――そう、優しく、言ってくれる。幸せだ。こんなにかたなし君に愛されていて…………でも、幸せすぎる。幸せすぎて怖い。……伊波ちゃん。

「伊波さんのことは……俺も一緒に頑張りますから」

 わたしが、伊波ちゃんのことを考えたタイミングで、かたなし君がそう口にして驚く。

「……なんで、わたしが今、そのこと考えてるって分かったの?」

「いや、不安そうな顔してましたし……というか、俺もですけどせんぱいの中で、もう、残る不安と言ったらそれだけじゃないんですか?」

 ――そうだね。でも、唯一にして最大の砦だよ……。

「――しく~ん……」

 

 その時だった。遠くから――とても遠くのほうから声が聞こえた気がした。動物の声ではなく、人の声。耳を澄まして、かたなし君にも声がした事を教える。二人で黙って、耳を澄ませてみると、

「――にいるの~ ――ぷらちゃ~ん」

 今度は、それなりにはっきり聞こえた。多分、八千代さんの声だと思う。

「ここにいまーす!!」

 かたなし君にも教えようとした時。かたなし君にも聞こえていたんだろう、かたなし君は、左手を口に当て、大きな声でみんなが居る穴の上に叫んだ。

「かたなしくん……」

「はぁ~、聞こえましたかね~? 今ので。……多分聞こえたと思うんですけど……」

 ――ここで、聞こえなかったらみんな別の場所に言っちゃうよ……。

「かたなし君、その……かたぐるましてもらえる?」

「えっ? ……ああ。そうですね、なるべく高い位置のほうが、聞こえる可能性が」

 わたしの思惑を理解したかたなし君が、わたしを肩に乗せる。下半身がかたなし君の首や肩に触れて、何だか恥ずかしい――。なんとなく下半身を動かすと、かたなし君は「うっ……」とか「あっ……」とか、小さく声を出す。……可愛い。

「ここにいるよー! だれかきてー!!」

 かたなし君に、肩車されながら、手を口にやり、大声で叫んだ。

 肩車されて見る世界はいつもの高さとは全く違った。月の光以外無かったからあんまりはっきりは見えなかったけど、佐藤さんなんかはいつもこれ位の高さで景色を見ているのかな……なんて思うと、少し羨ましい気持ちになった。それから、みんなの声が近くに聞こえてきて、わたしの声が届いていた事が分かった。かたなし君に、「やったよ! 届いたよ!」と、下を見て報告する。それから何度か声で場所を知らせると、みんながガケの上まで来ていた。

 

 手分けして探しているのだろうか? 来たのは、八千代さんと佐藤さん、相馬さんの三人だった。でも、私達二人は怪我をしている……どうやって、助けてもらえばいいか。そのことを上に居た三人に言うと、

「大丈夫だよ! こんなこともあろうかと……これが!」

 相馬さんがそう言って、長いロープを下に投げた。

「しかし……俺は、右手を……せんぱいは足を負傷していますし……どうやって登れば……」

 かたなし君が考え込むように言って、わたしを肩から下ろした。

 

 足を負傷しているわたしは勿論……左手しか使えないかたなし君も、ロープを登ることは無理だろう。かといって、誰かが一度降りる訳にも行かない。足を踏み外せば私達にみたいに怪我をしちゃったら意味が無いから。

「……こうなったら、俺が、せんぱいを背負って、片手で登るしか――」

 一人でも難しいのに、かたなし君はそんな事を言い出す。自分が助かることじゃなくわたしを助けることを考えていたかたなし君のその気持ちは素直に嬉しかったけど、出来ないことは出来ない。

 ――あっ? そうか、わたしがかたなし君に背負ってもらえば……。

「かたなし君! それでいこう! わたしを背負ってもらえれば二人で、上がれるよ!」

「……せんぱいがそう言うなら……左手が一生使えなくなろうとも頑張ります……!」

 かたなし君は、一瞬驚いた後、決心を固めたようにそう言う。

「かたなし君! 勘違いしないで! わたしが後ろから右手を出してロープを掴むの。そうやって、二人の力で登れないかな?」

「……なるほど、交互に2人の手を使って登るって事ですね! ナイスアイデアです、せんぱい! ……でも、それだと、せんぱいの負担が……一時的とは言え、二人の体重を右手で支えるんですよ?」

 不安そうにかたなし君が言う。

「大丈夫だよ……それに……わたしが背負われて何もしないで居るなんて……それこそ、お荷物じゃない……わたし、これからもかたなし君と、一緒に生きていくんだから……お荷物になんてなりたくない!」

 ――ふたりで……支えあって――生きていくんだから!

「……せんぱい……分かりました。それで行きましょう! でも、無理しないで下さいね!」

 感動したようにかたなし君がそう言うと、今度は顔を引き締めて、わたしを背中に背負った。

「本当は背負いたいんですけどね……せんぱいのこれからの人生、全部を」

 背負って、わたしに顔を見せずにそう言うかたなし君。多分、見せられないくらいに恥ずかしがっているんだろう。でも、その言葉は、言われたわたしも恥ずかしいくらいに、嬉しい言葉だったんだけど……。

 

「……じゃあ、行きますよ?」

 そう言って、かたなし君が下ろされたロープを左手で握る。わたしは、背中でかたなし君の体をぎゅっと、めいっぱいの力で抱きしめ、右手をロープに差し出す。体に力を入れると、足の神経も反応するのか、強い痛みが走る。でも、痛いと言えばかたなし君が気にしてしまうだろうし、かたなし君は言わないけど右手が凄く痛いはずだ。かたなし君とわたしの体……ふたりの力で……ふたりの力でお互いに支えあって……登るんだ!



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(23)  一生のお友達

 かたなし君が左手で体を持ち上げた。次はわたしが右手で支える番だ。

「ううっ……!」

 ……きつい! 思わず、声が出る。かたなし君がなるべく負担がかからないように、すばやく上に左手でロープを掴んでくれるんだけど、二人分の体重を数秒とは言え、支えるのはとても右手に負荷がかかり大変だった。

「大丈夫ですか? せんぱい!」

「うん……だいじょぶ……かたなし君こそ、そんなに左手で止まって大丈夫なの?」

 こう、会話をしている間も、かたなし君が左手で二人の体を支えている。

「俺の方は大丈夫です、まだまだ余裕があります。せんぱいに無理がかからないよう、休み休み行きましょう?」

 辛い筈なのに、そうやって、笑顔でわたしに言ってくれるかたなし君。本当にかたなし君は優しい。だからこそ、無理して欲しくない。わたしも支えてあげたい。そう思う。

「二人とも、大丈夫かい!? 頑張って!」

 相馬さんの声を聴き、上を見ると、相馬さん、佐藤さん、八千代さんが三人でロープを引っ張っている。だけど、二人分の体重は結構重いのか、支えるので精一杯のようだった。

「ぽぷらちゃん! わたしが、あの事、助けてあげるって言ったのに……その前にこんな所から早く出ないと……それどころじゃないわ!」

 八千代さんが心配そうに言った。あの事……って言うのは、さっきホテルに居た時に話した伊波ちゃんとの事だと思う。

 

 ――その後、何度か上に手を伸ばして体を持ち上げる作業を繰り返した。その度に、わたしの右手は限界に近づく。段々と右手の疲労は蓄積して行き、肩の辺りまで重くなってきていた。上を見ると、まだ、半分くらいの位置で、あと半分も登れるのだろうかと不安になる。

「……正直、厳しいですね」

 そんな時、かたなし君が口を開いた。

「……えっ? わたしならまだ、大丈夫だよっ??」

「いえ、見ていたら分かりますよ……せんぱいは、あと、2回か3回しか、右手を使えない。俺はまだ、余裕がありますから支えられますが……」

 かたなし君の言う通りだった。わたしが右手で体を持ち上げる速度は段々と落ちていたから言わなくても気付いたんだ……。

「相馬さん! こっちはもう限界です! そっちで引っ張り上げることはできませんか!?」

 かたなし君が上に向ってそう叫ぶ。

「ごめんね? かたなし君……わたしが力のないせいで……」

「……いえ、女性に力が無いのは普通ですよ、俺だって力があるのは男に生まれたからで……別に凄いことなんてありません。せんぱいが謝る必要なんてありませんよ」

 ――どんな時でも、わたしを攻めないかたなし君は本当に優しかった。

 

「そうだわ! 小鳥遊くん! ぽぷらちゃん! ちょっとの間、我慢してもらえる? 私が、京子さんとまひるちゃんを呼んでくるわ!」

 八千代さんが急にそう言うと、ロープから手を離し、懐中電灯を片手に森に向かって行った。突如ガクンと、一瞬ロープが落ちる。けど、佐藤さんと相馬さんが先ほど以上の力で支えたのか、そのままロープが保持する。

「気をつけろよー! やちよー!」

 そう言った佐藤さんの真剣な表情と声から、めいっぱいの力で今も支えているのだという事がなんとなく伝わった。

「大丈夫? かたなし君……?」

「まだ……なんとか」

 そう言って、かたなし君は、ガケの足場になりそうなくぼみに足をかけ、左手の負担を減らすと、

「ふう……これで、しばらく、休めます」

 そう言って一息つく。

 わたし達より、上で支える相馬さんと佐藤さんが心配だった。

 ――数分後。杏子さんと伊波ちゃんが急いで現場に来る。葵ちゃんも一緒だった。

 今までロープを支え続けていた、佐藤さんと相馬さんに変わって、杏子さんと伊波ちゃん、八千代さん、葵ちゃんの四人でロープを支える。

 けど、先ほどと同じ位の力なのか、ロープは少ししか上がらない。まだ、半分ほどの位置なので、わたし達が自力で登るのも難しい。

「ダメだ。同じ位の力じゃあ、さっきと同じだ。俺達が自力で登るにも限界がある……どうにかなりませんか? 相馬さん!」

 かたなし君が渋い表情で言う。

「そうだね……ロープは崖までの位置を考えると四人しか支えられないんだ……そして、なるべく力のある人が後ろで引っ張るべきだと思う……見た限り、伊波さんだよ、一番力があるのは……でも、それが問題で、伊波さんの前に佐藤君や俺が引っ張らないといけないということになる……それがネックなんだ」

 相馬さんがそう言って、考え込む。そっか。伊波ちゃんの前に男の人を置くと、殴っちゃうから……だから、難しいんだ……だから、伊波ちゃんを前に置くしかない、でもそれだとパワー不足……。

「……わかったわ!」

 その時、急に八千代さんが閃いたようにそう言うと、ロープを掴む伊波ちゃんの元に行き、何か話し始めた。

「……ぽぷらちゃんと……仲直りしたくないの? ちゃんと前みたいに心から話し合えるお友達として一緒に居たくないの……!?」

 崖の上を見ると、八千代さんが細い目で真剣な眼差しを向け、伊波ちゃんを説得していた。

 ――っ! 八千代さん……! わたしのために、そんな……。

「わ、私……は、その……種島さんとは……前みたいに、お喋りしたい。その、私そんなに友達も多くないし……種島さんは大事な友達だったから……」

 真正面から見つめる八千代さんには目を合わさず、下を向きながらぼそぼそと伊波ちゃんが言った。

 ――伊波ちゃん……わたしも、伊波ちゃんと前みたいに心からお喋りしたい……!

「伊波ちゃん! 助けて! わたし……伊波ちゃんのこと、好きだよ! かたなし君は不意打ちみたいに取っちゃったけど……それでも、もし、わたしのこと許してくれるなら……わたしは、伊波ちゃんと前みたいにお友達でいたい――!!」

 気付けば、そう伊波ちゃんに向って叫んでいた。自分で言った言葉に、わたしはこんなにも伊波ちゃんのことを想っていたのだという事を――再認識した……。

「種島……さん……」

 伊波ちゃんはハッとして、下にいるわたしを見ると、うつむいて考え込むように口を閉じる。

 

 そんな様子を見ていたかたなし君が、「俺も一言良いですかね?」と、わたしに言うと、

「あの……伊波さん……聞こえていますか? えと……俺はせんぱいのことが好きです。それは何があろうとも、この先変わらないことだと思います……ですから、せんぱいだけが悪い訳じゃないんです! ……でも……出来れば、前みたいにせんぱいと笑い合える仲に戻って欲しい……その分、俺の事はいくらでも恨んで下さって結構ですし……前以上に殴られても良いです……だから――せんぱいと、仲直りして上げて下さい……お願いします……!」

 そう、上に居る……伊波ちゃんに向けて、言った。

「かたなし君……そんなに、わたしに尽くさないで――! そんなに尽くされると……わたし、かたなし君に甘えてばかり……貰ってばかり、だよ……」

 かたなし君の背中をぎゅっと抱きしめて、その背中に言う。

「えっ? ああ、それじゃあ、せんぱいから俺にも一つ下さいませんか? それでチャラって事で……」

 微笑んでかたなし君が言う。

「……なにかな? わたしに上げられるものだったら……」

「……永遠の愛……ですかね? ――あっ、ちょっと重過ぎますか?」

「ふふふ……ダメだよ。だって、それはもうとっくにかたなし君にあげてるもん!」

「アハハハハ……」

 ――幸せに2人で笑い合った。

「まったくーー!! ひ、人が真剣に考え込んでるのに、このおしどり夫婦がーー! わ、私のことで、話し合ってたんでしょーー!」

 顔を真っ赤にして怒る伊波ちゃんの声が聞こえた。けれども、伊波ちゃんの顔は本気で怒ってなくて……なんていうか……しょうがないなぁ――って感じの顔に見える。

 ――見ると、上にいるみんなもヤレヤレと言った顔で見ている。……恥ずかしい。

「もうっ! ほら! 種島さん? 小鳥遊くん? ほら、一気に行くよ!」

 

 ――吹っ切れた……の、かな? 伊波ちゃんの口元は微妙に微笑んでいて、前までの伊波ちゃんの心の無い名前の呼び掛けではなく、友達に対する呼び掛け――に、戻ったように……わたしには聞こえた。

 

「はい! それじゃあ、準備OKね! 佐藤くん? 相馬くん? もう疲れは引いた? まひるちゃんの前で、引っ張ってもらえるかしら?」

 どうやら、八千代さんの計画通りのようで、そう言ってその場を仕切る。

「え……でも、轟さん? 伊波さんだよ? 男の俺達が行くと――?」

「大丈夫です!」

 相馬さんの不安気なその言葉を遮るように伊波ちゃんがはっきりと言った。

「――えっ? でも……」

 それでも、不安そうな相馬さんだったが、次に伊波ちゃんが取った行動で驚きを見せる。

 ――なんと、伊波ちゃんは、ロープの先端を腕に巻きつけると、そのまま肩に背負い、後ろ向きになって背負い込むようにロープを引っ張る体勢を取ったのである。

 ――か、かっこいい……伊波ちゃん……でも、あの体勢かなりの負荷がかかるんじゃ?

 わたしの不安そうな顔からかたなし君が思っている事を感じ取ったのか、

「大丈夫ですよ……せんぱい。伊波さんのパワーは多分、女性陣が思っている何倍ものパワーを持っています。負荷のかかるあの体勢でも、伊波さんは問題ないでしょう……いや、むしろあの体勢こそが、伊波さんのパワーを最大に活かせる最善に策でしょう! 前まで毎日のように殴られていた俺が保障します」

 と、自信満々にかたなし君が説明した。

「佐藤さん? 相馬さん? 準備いい? いちにのさんでいくよ!」

 両腕にロープを巻きつけて、かっこいいポーズでそう言う伊波ちゃん。

「あ、ああ」

「お、おう」

 佐藤さんと相馬さんも圧倒されながらも、ロープを引く準備をする。

「いち! にの! ――さーーん!!!」

 伊波ちゃんがそう言って、肩にロープを担ぎ込んで腕の力いっぱい使って、背負い投げのようにロープを引いた。佐藤さんと相馬さんも引きずり込まれないよう、何とか堪えて補助する。――わたしに見えたのはそこまでで、次の瞬間からは、縦に揺れる絶叫系のアトラクションに乗った時みたいに、辺りの景色が縦に伸びて体ごと浮き上がった。まるで無重力みたいに風を全身に受けて身が軽くなると、ブワッ――っと、風が鳴った。

 

 その次の瞬間、高々と体が上がった感じが無くなり、見ると、穴の上まで来ていた。

 地面に落下する瞬間、かたなし君がわたしの体を包み込んでくれて、ドシャッ――という音と共に下になったかたなし君が地面にぶつかった。

 ――ワーーッ!!

 わたし達が、穴から救出すると、穴の前に集まっていたみんなが一斉に歓喜する。

「やりましたね! 伊波さん!」

 葵ちゃんが目を輝かせて言った。

「ぽぷらちゃん、怪我は大丈夫?」

 八千代さんも心配そうに言った。

 それに、「なんとかね……」と答えると、相馬さんや佐藤さんも良かった良かったと口をそろえてホッとしていた。

 そんなみんなを見て、わたし達、助かったんだなと実感していた時、伊波さんが考え深い表情でわたしに近づいてきた。

「……伊波ちゃん」

 見上げて、わたしが言うと、

「種島さん……今まで、ごめんね? 私、嫉妬してた。……小鳥遊君のことで。……でも、もうその事はもう吹っ切れたよ! さっき、あなた達二人が、お互いに想い合っているように見つめ合って話すのを見てたら……お似合いだなって、思っちゃった」

 そう言って、えへへと笑い……

「なんだろう? 悲しいのに、嬉しいの……好きな人を取られちゃったのに……でも、私にとって大事な二人が、幸せそうに結ばれているのを見て……嬉しいとも、思うの。私の好きな、小鳥遊君も……種島さんも……幸せそうにしてる……それは、嬉しいなって!」

 言いながら、笑顔でぽろぽろと涙を流し始める伊波ちゃん。それは、悲しさの涙なのか、嬉し泣きなのか――わたしには分かんないけど――わたしから目を逸らさないではっきりとそう言う伊波ちゃんの言葉には強い気持ちがこもっているのは良く分かった。

「伊波ちゃん……ゆるしてくれるの? わたしのこと」

「ゆるすも何も……種島さんは何も悪いことしてないじゃない? 人を好きになる事は……何も悪いことじゃないんだよ?」

「ありがとう……伊波ちゃん……これからも、ずっとずっと友達でいようね?」

 そう言ってわたしは伊波ちゃんの手を取ると、

「うん! 種島さんは……私の大事な、お友達だもん! 当たり前だよ……」

 伊波ちゃんはそう言い、わたしをぎゅっと抱きしめてくれた。

 ――足の怪我は痛かったけど……ずっと、心を蝕んでいた痛みは……いつの間にか、心の奥から……すっかりと消えていた――。

 



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(24)  笑顔のトライアングル

「ほら、かたなし君! あ~ん!」

 そう言って、せんぱいが口を開く。

「……本当にせんぱいは、子供みたいです」

 せんぱいは両手が使えるんだから、俺に食べさせてもらう事も無いだろうに。そう思いつつも俺は、左手を使いせんぱいの小さな口に梨を入れる。そして、俺の指ごとペロペロ。

 ここは、近くの病院。俺達はあの旅行の後、すぐさま病院に検査に行った。もう、あれから10日ほど経ち、俺は自由に外に出られるようになった。と言っても、右手はギプスを付け肩から提げている。せんぱいは、両足を骨折――比較的軽度だが――をしており、病院での生活を余儀なくされている。そのため、俺がほぼ毎日こうして、お見舞いに参じていると言った状況だ。

「かたなし君が食べさせてくれたから美味しいよ~!」

 そんな、子供みたいな事を笑顔で言いながらシャリシャリ……梨をほお張る。

 本当にせんぱいは子供っぽくなってしまった。……いや、むしろ今がせんぱいの本来の姿なのかもしれない。もし、俺の事を対等として見てくれている結果として、本来の自分をさらけ出してくれている――と、考えると実は喜んで良い事なのかもしれない。

 

 ――しかし、問題なのはこうして甘えられると、何も知らない他人には兄弟――勿論、俺が兄だ――に見えやしないか? とか、それならまだしも、俺がかなりの年下の女の子と、付き合っているように見えるとか、そんな不安があったりする。

「もう一個食べますか? せんぱい」

「うん! あっ、でも、かたなし君も食べたいでしょ? はい!」

 急にそう言うと、せんぱいはベッドから身を乗り出し、梨につまようじを突き刺してから、それを俺に差し出す。

「……ああ、有難うございます」

 そう言って、俺が手で取ろうとすると、

「ダメッ! 口であ~ん……って!」

 なんで、そんな恥ずかしいこと……。まあ、いいか誰も見ていないし。そう思い、口を開け、梨を食べようとする――と、なぜかせんぱいはその手を少しずつ自分のほうに遠ざけて、食べさせようとしない。

「えっ……どうしたんですか?」

「ちゃんと、口で追ってよぉ」

 小悪魔のような笑みを浮かべ、そんな風に言うせんぱい。

 ……何がしたいんだ? そんな事を思いつつも、顔をせんぱいの手に近づける。どんどん、自分の顔の方に梨を持っていくせんぱい。そして、せんぱいの顔の近くまで寄った時、

「ちゅ……」

 っと、そんな風に急に体を前に傾けたせんぱいにキスされる。それと同時にせんぱいのパジャマから、ふんわりとせんぱい特有のいい匂いが鼻をくすぐった。

「えへへ……」

 せんぱいは口を離すと、不意打ちみたいにキスしておいた割に恥ずかしそうに頬を赤くして目を逸らした。 

 もう、本当に可愛らしい。俺の好きになった人は本当に可愛い。

 そんな俺の気持ちは言葉にするのも億劫で、俺からもせんぱいの唇を奪う事で、伝える事にした。

「んっ……んっ……」

 せんぱいの口の中は、いつも甘い気がする。……ああ、そうか、さっき梨を食べたからか。この前、キスした時は……アイスクリームでも食べていたっけ? あの時も甘かった。

 

 そんな事を思いながら俺は、自分よりも一回り小さいせんぱいの口を舐め回す。すると、せんぱいも必死になって俺の口を負けじとペロペロと舌を懸命に動かしてくる。それが子犬みたいで本当に可愛い。多分、怒るだろうから本人には言わないけど――。

 そんな風に二人して、お互いの口を舐め回していた時――。

「種島さーん! お見舞いにきたよーー!!」

 そう元気な声で部屋に入ってくる。この声は伊波さんか。

「あっ……もう! また、二人でそんなことしてぇ! 誰も見てないからって! 本当に、あなた達はぁ!」

 そんな風に、伊波さんに怒られる。いつも通り。もう、何度も繰り返された光景だった。

 ――あれから、伊波さんとせんぱいは仲直りして前のように。いや、前よりずっと仲良くなっているように見える。そして、俺とも。

「小鳥遊くんも! そんな、人前でえっちなことしちゃダメじゃないっ!」

「えっ……すいません。伊波さん」

 今では、俺の方が、彼女に怒られることが多いように思う。

 

 ――そうそう、そう言えば、最近、伊波さんの男嫌いもだいぶ良い兆しを見せていて、俺相手にはだいぶ、近づけるようになったし1秒位なら触れるようにもなった。まあ、他の男にはまだまだ近くには行けないけど、拳が出る事は少なくなって、相馬さんも殴られる回数が減ったって喜んでいたっけ。何が、原因なのかは分からないけど、まあ、伊波さんにとって良い傾向なんだから、あんまり詮索しない方がいいだろう。

「はい! 種島さん、今日はチョコチップクッキー焼いてきたよ~」

「わ~! やったぁー!!」

 二人は笑い合って、とても楽しそうにクッキーを食べている。美味しい! と、せんぱいが、パクパクと食べている。

 せんぱい、さっきも梨あんなに食べたのに……。まあ、いっか。伊波さんの焼いたクッキーは美味しいからな。

「俺も一つ貰いますよ~」

 そう言って、返事も待たずにクッキーを口に放り込む。チョコと言っても甘すぎない、ビター気味のほろ苦さが、手作り特有の生地の甘さを引き立てて、市販の物とは違った美味しさがあった。

「さすが、伊波さん! 凄く美味しいです!」

「えへへ……ありがとー!」

 照れながら頬をかく伊波さん。俺はそんな二人を見ながら、漠然と考える――。

 

 ――こうして、伊波さんと笑って話し合える日が来るとは正直、思ってなかった。せんぱいも俺も……伊波さんの事は、ずっと気にかけながら生きなきゃいけないと思っていた。それが、俺達が付き合う代償だと。犠牲だと……。

 

 でも、今の光景がある。伊波さんとせんぱいと、そして俺。三人が笑い合って一つの部屋に居る……。

 俺は、そんな二人に感謝していた。

 

 伊波さん――俺達の事、分かってくれて有難う。

 

 せんぱい――俺の事を好きになってくれて有難う。

 

 そんな気持ちを込めて俺は二人に一言、言った。

 

「伊波さん、せんぱい……これからも、宜しくお願いします」

 

 澄み渡る病院の一室、いつまでも二人は俺に笑顔を向けてくれていた。

 

                                          

                                              了



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