スカボローフェアを聴きながら (Ghotiolo)
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はじまり


2/16:微修正
7/17:サブタイトル変更
1/8:前書き差し替え
 繰り返しになりますが、この作品は読者の方々がDéracinéとBloodborne共にクリア済であることを想定しています。そのため重大なネタバレや、ゲーム内で得られる情報を前提にした描写が多々あります。
 もし未プレイの方がいらっしゃいましたら、よろしければこの機会にぜひ心ゆくまでプレイしてから、気が向いたらまたお越しいただければと思います。
 私はどちらの作品についても、ネタバレなしで自分自身の体験としてプレイし、そして自分自身が見たストーリーを大切にして欲しいと考えております。
 どうかよろしくお願いいたします。


 玄関を開け放つと、朝の澄んだ空気が吹き込んだ。

 

 春のさわやかな風がユーリヤの灰のような柔らかい白の髪を揺らし、廊下のガラス戸をかたかたと鳴らす。

 流れてきた枯れ草が鼻に引っかかり、寝ていた犬のダニーがくしゃみをした。自分のくしゃみに驚いて飛び起きたダニーの姿に笑いをこぼしながら、ユーリヤは鼻先の枯れ草を取ってやる。

 

 そうして青く晴れた空を見上げ、伸びを一つして、ユーリヤは微笑んだ。

 

「うん、今日もいい天気」

 

 そう呟いてきびすを返すユーリヤの横をすり抜け、私は庭へ出た。一週間前に降った春の雪は既に解けて名残もない。萌え出たばかりの淡い緑にしたたる玉のような露が、朝の日差しを浴びてきらきらと光っていた。

 

 ユーリヤを真似て、ぐっと伸びをしてみる。

 風の音。揺れる枝葉のさざめき。かざした手のひらをすり抜ける太陽の眩しさ。絶えず流れて感覚を刺激しては、留まることなくどこかへと消えていく。残るのは記憶ばかりで、だからこそずっと眺めていられる。

 私には風の匂いや日差しの暖かさは感じられない。流れる時の中で過ごすようになってからの発見は、どれもこれも楽しいものばかりだから残念に思うけれど、そういうものだから仕方ない。

 

 

 

 私の手にはもう指輪はない。

 ユーリヤはみるみる元気になって、みんなと笑っている。

 犬のダニーと猫のティア以外は誰も私に気づかないけれど、それでいい。みんなが笑ってるのを見るだけで、嬉しいから。

 

 

 

 流れる雲を眺めていると、風の音の中に金属が軋む音が混じった。

 

 門の方からだ。なんだろう。足をそちらに向けると、開かずの門の向こう、玄関からはちょうど塀で隠れて見えないところに、何か大きくて黒いものが転がっているのが見えた。黒くて、なにか生えてて、なんだか腕みたいな……ちがう、本当に腕だ!

 

 慌てて駆け寄って門にしがみつく。

 

 向こう側にいたのは、うつ伏せに倒れた人間だった。

 黒いフードに、丈の短いマント。サスペンダーは肩から外れてズボンの脇に垂れ下がっている。袖をまくって露わになった腕は乾いた血と土で汚れているけれど、肌には確かに張りがあった。

 

 ……人間が、命の時間を奪われることもなく外にいる。

 まさか、そんなことがあり得るのだろうか。消失現象は留まることなく広まり続けていると本にあった。猫も連れずに出歩いて無事なんてことが? それに私が知る限り、このタイミングで外の人が訪れたなんてことはなかったはずだ。いったいなにが……

 

「う……」

 

 その人が発した呻き声に、はっと我に返った。生きてる! 考え込んでる場合じゃない!

 

 急いで玄関に戻る。手に意識を込めてボールを持ち上げ、ぴすぴすと鼻息を立てて二度寝するダニーの鼻先に軽くぶつけた。びっくりして目を開けたダニーにもう一度ぶつけて、ボールを門へと投げる。

 ダニーは不審そうにボールを目で追い、門を指差す私のいるあたりを見てふすっと鼻を鳴らしてから、やれやれと尾を一振りして転がるボールを追いかけていく。まもなく鋭い吠え声が響いた。良かった、気づいてくれたようだ。

 

 ダニーの声に呼ばれ、やがてユーリヤが戻ってきた。

 

「ダニー、いったいどうしたの?……あら、なにかしら」

 

 門の方へ歩いていったユーリヤは、すぐに慌てて戻ってきた。

 

「ええと、校長先生に鍵をお借りして、ティアを見つけて。そうだわ、ルーリンツとハーマンにはしごを持ってきてもらって、マリーとニルスとロージャには医務室で手当ての準備を……!」

 

 

 

 学校の中がにわかに騒がしくなる。ざわめきが、風に運ばれる落ち葉のように広がっていく。

 担架代わりのはしごに載せられて運ばれる人を見ながら、私は胸の中にそわそわしたものを覚えていた。



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パセリ【勝利、祝祭、死の前兆】
再会-1


10/21:サブタイトル変更
3/29:修正


 あれ、と私は首を傾げた。

 

 顔が壁に半分めり込んでいるせいで、視界も半分灰色だ。埋まった部分にぞわぞわした嫌な感覚を覚えながら、埋まっていない方の目を動かして、私は喉元に突き付けられたナイフを見た。

 

「お前は何だ」

 

 低くて冷たい、氷のような声だ。

 

 ……え、えっと。

 私の喉はうんともすんとも言わないから答えられないのだけれど、しかしどう答えるのが適当だろう。もう指輪はないから、妖精とは名乗れない。ここはやっぱり裏のお墓の名前を名乗るべきなのだろうか。指差せば分かってくれるかな。

 

 そんなことを考えていたら、首筋をナイフの先端がちくりと掠めた。少しぴりぴりするような、不思議な感覚。なんだろう、これ。変なの。

 

 なにがなんだか皆目見当さっぱりな私と、拘束を緩めない後ろの人。医務室にいるのは二人だけで、風が素知らぬ顔でカーテンを揺らしていった。

 

 私は今、腕をねじり上げられて、壁に押し付けられている。

 

 喉元には鳥のくちばしのような、歪な形のナイフが突き付けられている。押さえつけてきているのは、門の向こうに倒れていたあの人だ。すごく弱っているように見えたのに、腕の力は強くて全く身動きできない。

 

「答えろ」

 

 えっと、その。ど、どうやって?

 

 

 

 

 医務室まで運び込んで、体を清拭して、汚れた服を取り替えて。その人が目を覚ましたのは、それから間もなくのことだ。

 

 その人は手をついて上体を起こし、堪えるように額を押さえる。体のどこにも傷や痣はなかったけれど、倒れた拍子にぶつけたのかもしれない。

 ルーリンツより年上で、だけど校長先生よりはずっと若い、大人の男の人。きっと満足にご飯も食べていなかったのだろう、無精ひげだらけの頬は痩けて頬骨が浮いている。ルーリンツのぶかぶかのシャツを着せているせいか、細い体はいっそう痩せて見えた。

 

「あ! 気づいた!」

 

 ロージャの弾んだ声に、医務室のみんなが一斉にベッドへと顔を向けた。校長先生の介助へ向かったハーマンと、お粥を作りに行ったルーリンツ以外は全員ここにいる。みんなそわそわしているのだ。だって、初めてのお客さんなのだから。

 

「だいじょうぶ? 痛いところ、ない?」

「今、ルーリンツ……僕らの中で一番の料理上手が押し麦のお粥を作ってます。お腹も空いてると思うけど、もう少しだけ待ってて」

「あなたのお洋服、洗って乾いたらすぐに返すわ。ペンダントとか懐中時計とか、あとポケットの中にあったものはサイドテーブルに置いてありますから」

 

 みんな口々に声を掛けるも、その人はぼんやりとした、起きたばかりの時の、夢か現実かあいまいな時の目で見返すばかりだ。

 

「もう、みんな。そんな風に一度に話し掛けられたら、その人だって困ってしまうわ。はい、お水をどうぞ」

 

 優しく笑いながらみんなをたしなめ、ユーリヤは水差しからコップに注いで差し出す。だけどその人は見つめるばかりで、コップを受け取ろうとしない。

 

「? どうかしましたか?」

 

 その質問にも、答えない。ユーリヤは宙ぶらりんになってしまったコップを困った顔で見た。

 

「えっと……」

 

 その時、校長先生を乗せた車椅子が軋んだ音を立てて入室した。

 ユーリヤは少しほっとした顔でベッドサイドから退き、車椅子を押すハーマンの邪魔にならないようにする。

 

「気が付いたのか。体調はどうかね?」

 

 その人の顔が、ゆっくりと校長先生へと向けられた。

 

「ここはローアンのはずれにある寄宿学校。君はここの門の外に倒れておったそうじゃ。……ふむ、言葉は分かるかね?」

 

 その人は小さく頷いた。ぼんやりしていた目も、少しずつはっきりしてきている。

 

「さて、みな。彼も無事目覚めた事だ。朝の仕事に向かいなさい。ユーリヤは彼のための薬の準備を」

 

 えー、とロージャが声を上げた。ユーリヤ以外のほかのみんなも、少し残念そう。

 

「彼のことが気になるのは分かるが、日々の仕事をおろそかにしてはならんぞ。それに私はこれから彼と、大人同士の話をせねばならんからな」

「じゃあお話の前に、ご飯だけ先でもいいですか?」

 

 そう言いながら入ってきたのはルーリンツだ。手に持ったトレイには、ほかほかと湯気を立てる深皿が載っている。

 

「おお、ルーリンツ。そうじゃな、腹に何か入れた方が気分も落ち着くだろう」

 

 ルーリンツは頷いて、「はい、どうぞ」とその人へとトレイを差し出す。だけどやっぱり、ユーリヤの時と同じように受け取ろうとしない。

 

「あれ。もしかして、押し麦は嫌いでしたか?」

 

 少しの間を置いて、その人は首を振る。

 その人は細い腕でトレイを受け取って膝に載せ、スプーンを手に取った。

 

 みんなの見ている前で、少しだけすくって口に運び、咀嚼し、飲み込む。

 二口目は早かった。先ほどより多めにすくって食べる。喉に引っ掛かったのか、口の中で咳をして、ユーリヤが再度差し出したコップを受け取って飲み干した。

 ほっと微笑んでお代わりを注いだユーリヤには目もくれず、その人は淡々と食べ続ける。

 そうして皿とコップを空にして、スプーンを置いた時。

 

 その人のまなじりから、静かに涙がこぼれた。

 涙は次から次に溢れ、あごを伝って布団に落ちる。

 

 見かねたのか、マリーがハンカチを差し出した。

 

「どうぞ、使ってください」

「何、に」

 

 小さく、かすれた声だった。

 顔を向けた拍子に涙が手の上に落ちて、その人はようやく気づいたようだった。目元に触れ、呻く。

 

「……これ、は」

 

 マリーは腰をかがめて、その人の頬にそっとハンカチを当てる。その人はなされるがまま、目を閉じた。

 

 

 

 

 みんなは校長先生の再度の号令で朝の仕事に向かい、医務室には校長先生と、薬の準備をするユーリヤが残った。私は棚に掛かったはしごに座り、大人たちを眺める。

 

「改めて、私はグレイブズ。この寄宿学校の校長を務めておる。君の名前を、教えてくれるか」

 

 名前、とその人は繰り返した。太腿の上に置かれた手がぎゅっと握り締められる。

 

「……ない」

 

 校長先生は片眉を上げた。

 

「ふむ? 事情を訊いてもいいかね?」

「私は、ヤーナムという街に、いた。それ以前の、記憶はない。名前も……ない。逃げ出してきて、気付いたら、ここに」

 

 その人はぼそぼそと、時折息が喉に引っかかるのか、水を飲みながら答える。

 

「ヤーナム? はて、どこだったか……」

 

 校長先生はあごをさすり、しかしすぐに思案を止めた。

 

「まあ良かろう。ここは十年近く、外部との交流が絶えておってな。今、外がどうなっているのかは分からんが、君が生きてここに辿り着けたのは幸運と言うよりない」

 

 話の横で、ユーリヤは私のお腹をすり抜けて、棚からメモの束を取り出しパラパラとめくる。ぞわぞわした感覚に身震いしながら引き抜いた一枚を覗き込むと、どうやら大人用の薬のレシピのようだ。

 

「君の涙を信頼し、我々の現状を隠すことなく詳らかにするとしよう。無事であった以上、遭遇はしておらんのだろうが……今、この近辺では生きている者はほとんどおらんはずだ。人間に限らず、鳥や獣もめっきり姿を消しておる。それは妖精と呼ばれる存在の仕業じゃ」

 

 その人の目がすっと細まった。その鋭さは、いつか見たハーマンのナイフのようだ。

 

「妖精は止まった時の世界に棲まい、生きたものの命の時間を奪い、死したものに与えて生き返らせることもできる。常人には姿を見ることは叶わぬし、妖精の行動を防ぐこともできん」

「止まった時の世界、か」

 

 顔の向きはそのまま、その人の瞳がちらりとこちらに動いた。

 

 ……うん?

 

 私は振り返る。だけど、あるのは薬棚だけだ。なんだろう、虫でもいたのかな。姿勢を直すと、その人の視線はもう校長先生に戻っていた。

 

「ああ。だが、安心するといい。この学校の中は安全じゃ。外に出なければ、命の時間を奪われるような事にはなるまい」

「外には出られない、のか」

「君に何を置いても向かうべき場所があるなら止めはせん。しかし行く宛てもないのであれば、無闇に命を危険に晒すことはない。だからこそ、君には説明させてもらったのじゃ。……どちらを選ぶにせよ、調子が戻ったら、子供たちの手伝いを頼む。あまり余裕のある生活ではないのでな」

「なら、なぜ追い出さない」

 

 その人の声が暗く淀んだ。

 

「よそ者など、ろくなものではない。外の事など説明せず、追い出せば、良かっただろう。そうすれば、後腐れなく、妖精とやらが、始末して、くれたはずだ」

「そのような事は、冗談でも言うものではないぞ」

 

 校長先生はいかめしく諭し、すぐに表情を和らげた。

 

「みな、優しい子じゃ。私にはもったいないほどのな。そんな子供たちが、倒れている者を見たらどうすると思う? それにそんな風に己を卑下する君は、君が考えるろくでなしよりはずっとマシな人柄じゃろうて」

 

 口を開いたその人を手で制して、校長先生は静かに言った。

 

「どうか、子供たちの優しさに報いてはくれんか。……ユーリヤ以外の子供たちには、学校の外がどうなっているか知らせておらん。だが、外にはまだ生きている者がいる。それだけで、孤立した我々にとっては何にも勝る福音なのじゃよ」

 

 その人は視線を落とし、あいまいに口を閉ざした。

 

「さて。名前がないという事だが、それではあまりに不便が過ぎる。何かこう呼ばれたい、という希望はあるかね?」

「……ハンターで、いい。ヤーナムでは、そう呼ばれていた」

「ハンターか、分かった。皆にも伝えておこう」

 

 それからいくつかやり取りしたあと、とりあえずの話は終わったらしい。ユーリヤに退室のためにルーリンツを呼ぶよう伝え、その後ろ姿を見送りながら、校長先生はそうじゃ、とその人に再度向き直った。

 

「妖精についても、ユーリヤ以外の子供たちには黙っておいてくれんか。今もいるかは分からんが、あの子が怖がられるのは、不憫でな」

「……妖精が、いたのか」

「ああ。だが、もう消えてしまったのやもしれん。たった一つの痕跡を残して、それきりだ。会えるものなら、会いたいのだがな……」

 

 校長先生は窓の向こう、どこか遠くを見た。

 でも、誰のことだろう。ユーリヤが命の時間をなくさなかった以上、妖精なんていないと思うけれど……

 

 悩んでいるうちにユーリヤとルーリンツが戻ってきて、校長先生は退室してしまった。

 

「じゃあ食後のお薬を……あら?」

 

 ユーリヤは首を傾げて水差しを揺らした。どうやら空だったようだ。

 

「おかわりを汲んでくるから、少し待っててくださいね」

 

 そう言って、ユーリヤは急ぎ足で部屋を出る。私もそろそろ出て行こう。今日はどうしよう、いつもみたいにユーリヤの後ろをついて回ろうか。ああでも、今日は天気もいいし、ダニーと一緒にデッキの椅子で空と雲を見てようかな。この人、はやく元気になって、みんなと仲良くなってくれたらいいな。

 

 そんなことを考えながら、はしごから腰を上げて、入口へ向かう。その時だった。

 

 腕にぐいっと衝撃が走った。

 

 え、と思う間もなく振り回されて、気づけば壁に押し付けられていた。半ばめり込むが、壁の中からぞわぞわ反発するような感覚があってそれ以上は埋まらない。

 

 視界の端に霞んだように光る銀色のナイフが見えた。腕には締め付けられるような感覚があって動かせない。まるで時の振が定まった時のような、あるいは赤い指輪に命の時間が留められた時のような断続的な震えが、そこから伝わってくる。

 

 ……えっと、これは。どうなってるの?

 

「お前は何だ」

 

 ぽかんと口を開けてる私の背後から、冷たい声が聞こえた。

 

 

 

 

「もう一度訊く。お前は何だ」

 

 ……というか、あれ?

 この人、私が見えてるの?

 

 どういうことだ? 見えてるだけじゃなくて、触ってもいる。犬のダニーと猫のティアしか気づいてなかった私に? じゃあこの人、犬か猫なの?

 

「神秘の側の存在が、何の目的で――」

 

 その人はふいに言葉を切る。喉元からナイフが離れ、掴んでいた手が外れた。私はバランスを崩して膝をつく。うえ、なんなんだ、もう。

 

 座ったまま振り向く。瞬間、混乱は一気に吹っ飛んで、胸の奥がぎゅうと凍りついた。

 

 

 その人は私を見下ろしている。

 あのロッブの森の雪のような、冷たく氷った瞳。

 握っている歪なナイフが、あの大きな金の手に握られた金枝と重なった。

 

 

 まずい。まずい、まずいまずい!

 

 今更になって危機感が背筋を駆ける。

 

 私はいい。けれどみんなはだめだ。もしあんなナイフで刺されたら。もう助けられない。どう切り抜ければいい? できることなんてもう何もないのに。

 

 思考はぐるぐると回るばかりで答えは出ない。

 

 廊下に響く足音が聞こえた。はっとそちらを見れば、水差しを抱えたユーリヤが医務室に戻ってくる。

 

「お待たせし……あら、どうしたの?」

 

 その人はゆっくりとユーリヤへと顔を向けた。私は咄嗟に立ち上がってユーリヤの前に立つ。盾になれるかは分からないけれど、でも。

 腕を広げて見据えれば、その人は目を見開く。握っていたあのナイフはいつの間にか消えていた。そうしてユーリヤへと視線を戻し、首を横に振る。

 

「……()が、いたように、見えただけだ」

「虫? 本当? どのあたりに?」

 

 私とその人との間の緊張なんて一切感知できないユーリヤは、目を輝かせてその人に近づく。だめ、危ない、と制止しようとしても、私の手はユーリヤの服の裾を揺らすだけだ。

 

 しかし、その人は勢いに押されたように数歩後ろに下がった。ユーリヤははっとして、それから照れたようにはにかんだ。

 

「その、ね。私たち、あまり生き物を見たことがないの。校長先生がおっしゃっていたでしょう? 学校の外には悪い妖精さんがいるから、生き物はみんな命の時間を奪われてしまったって」

 

 ユーリヤは水差しを作業台に置いた。小分けにしてあった薬包紙の束を揃え、一つを残して引き出しに片づける。

 

「あなたが門の外で倒れてるのを見つけた時も、すごく驚いたけど、本当に、本当に嬉しかったのよ。私たち、もうずっと私たちだけだったから……。それに、いつかお客さんをこの学校に迎えてみたいって夢が叶ったのだもの」

 

 その人はユーリヤから目を逸らした。もうすっかり、私を見下ろしていた時の冷たさは消えていた。そんな彼に、ユーリヤは微笑んで薬包紙を差し出す。

 

「はい、お薬。はやく元気になって、どうかみんなと仲良くしてくださいね」

 

 惨劇はその直後に起きた。

 

 渡された薬包紙の中身を一気に口に注ぎ込んだその人の悲鳴にも似たうめき声。慌ただしくコップに水を注ぎ、勢いよく飲む音。そして堪えきれずに噴き出した後の、苦しそうな咳の音。着替えて掃除をして、ちゃんと飲めなかったのでもう一度と言われた時の顔。

 

 医務室から出てきたユーリヤは汚れたシャツと布巾を抱え、頬を押さえてため息をついた。

 

「……やっぱり少し苦いのかしら。でも量を飲まないと、大人の人には効き目がないし……」

 

 そうだわ、お粥に混ぜたら、きっと苦いのも和らぐのではないかしら? そんなことを呟きつつ、医務室の中から聞こえるつらそうな咳を置き去りにして、ユーリヤは洗濯場へと歩き出した。

 後を追いかけながら、私は掴まれた腕をさする。あの冷たい目が焼き付いて離れない。心の中で怖さの名残がひりひりしていた。

 

 でも、あの人、ユーリヤにはなにもしなかった。お薬だって何も言わずにきちんと飲み直した。白かった顔が更に血の気をなくして土気色になってたけど。

 

 ……あの人が言っていた神秘の側の存在、というのは、人には見えない、人ではないものを指しているのだろうか。それなら当てはまるのは私だけだ。

 

 大丈夫、なのかな。人でないものが嫌いなだけで、ユーリヤには、みんなにはなにもしないって、思っていいのかな。

 

 振り返った先では、まだ咳の音がしていた。……大丈夫かなぁ、あの人。



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再会-2

2/26:修正


 一週間もすれば、あの人はゆっくりと歩き回れるようになった。

 

 食事もだんだん固いものを増やして、今は主食のお粥以外はみんなと変わらない献立を食べている(ユーリヤのお薬をお粥に混ぜるという提案は、ルーリンツが頑張って説得して取り止めになった)。

 量はまだお腹が受け付けてくれないらしくて、食べ終わった後もしばらく壁際の長椅子に座って休んでいることが多い。……どちらかといえば、ユーリヤのお薬の味がとても()()()なのが効いてるのかもしれないけれど。

 

 ただ、この一週間、みんなとの会話はあまりなかった。

 

 あの人の顔に浮かぶ表情はとても薄い。挨拶には返事をするだけだし、それ以外では最低限で会話を打ち切ってしまう。洗って返した元々の服にしっかりフードを被って、裏庭の木に背中を預けて座り込み、ぼんやりと川面を見ていることが多い。

 

「心が傷ついて、疲れ切ってしまっておるのだろう」

 

 あの人のことを説明するためにみんなを集めた時、校長先生はそう言った。

 

「ハンターはずいぶんとつらい思いをしてきたようだ。時間が心を癒やしてくれるやも知れんが……」

 

 とはいえ、みんなだってそれで遠慮するかといえば、そんなことはない。

 晴れた空がすごくきれい、珍しく鳥が飛んでるのを見た、猫のティアが好きなおもちゃのこと、今日はみんな大好きキノコのシチュー、絶好のお昼寝日和に、面白い本の話題。そんな日々のすてきなできごとを挨拶と一緒に伝えて、良かったら見に行ってみてね、楽しんでみてね、と勧める。

 まだまだ反応は薄いけれど、川面じゃなくて空を眺めていたり、ご飯の時間になると呼びに行かなくともきちんと食堂に来たり、おすすめされた本を読んでいたりと、伝わってないわけではないみたいだ。

 

 私に対しても、あれから直接の接触はない。視線は感じるけれど、それだけ。

 

 私自身、あの人にはなるべく近づかないようにしているけど、みんなが話し掛ける時には物陰に隠れてなにもしないか様子を窺っている。そんな私を見るあの人の目は、あの時の冷たさはすっかり形を潜めて、何とも言えない色をしていた。

 

 ……どうして私が見えるのか、とか、それだけじゃなくて触ってたのはどういうことなのか、とか、あの歪なナイフはどこから出してどこにしまったのか、とか、気になることはたくさんある。

 

 けれど、人でないもの()が嫌な人に、無理強いはしたくない。

 私だって人でないもの(妖精)が怖い。もう二度と会いたくない。

 

 その気持ちは、痛いほど分かるから。

 

 

 

 

 この学校に教室は二つあるけれど、勉強を教える時に使うのはもっぱら第二教室の方だ。

 一方、第一教室は調べ物をする時によく使われている。一番利用しているのは、たぶんニルスになると思う。私が流れる時間の中で過ごすようになって半月になるけれど、ほぼ毎日、ニルスはこの教室で本を積んでは読み解いていたから。

 

「え、わぁっ!?」

 

 だけど、慌てた声と椅子の倒れる音、それと窓を何度も叩く音が廊下に響いた時、いつもの印象とはあまりにかけ離れすぎて、私はそれが誰かすぐには分からなかった。

 

 ……さっきの、ニルス? 長いとは言えない付き合いだけれど、あんな声、はじめて聞いた。

 

 入り口から顔を覗かせれば、腰をさすって立ち上がるニルスと、ばんばんがたがたと鳴り続ける窓があった。

 え、なに? どういうこと?

 

「ニルス? どうしたんだい……って」

 

 騒ぎを聞きつけたのだろう、私をすり抜けてハーマンが教室に入った。

 

「これは、ええと、なにがあったんだい?」

 

 いつものんびりしたハーマンもさすがにぽかんとして、騒がしい窓を眺める。

 

「ハーマンっ。その、なにか生き物が蔦に飛び込んで、引っかかってしまったみたいなんだ。なんの生き物かは分からない、けど……」

「生き物が?……うん、分かった。道具を持ってくるから、少し待ってて」

 

 そう言ってすぐに剪定ばさみを持って戻ってきたハーマンは、棚の標本や本を床に下ろして、窓を開けた。途端に蔦が大暴れし始める。

 

「暴れないで、大丈夫だよ。君のこと、助けたいんだ」

 

 そんなハーマンの説得が功を奏したのか、生き物はだんだん落ち着いて、やがてぴちちと喉を鳴らした。

 

「この子は鳥だね。僕もこんなに近くでは、はじめて見たよ。種類はなんだろう? ニルスにあげたしおりの鳥とは、ずいぶん違うみたいだよ」

 

 ハーマンはまわりの蔦を切り、驚かせないようにゆっくりと小鳥を引き寄せる。引っ掛かった葉や枝を丁寧に外して、優しく抱き上げた。

 

「どう? ハーマン。鳥さん、大丈夫?」

 

 ニルスの目には不安がにじんでいる。少し前にねずみのヌーのことがあったみたいだから、その時のことを思い出してしまったのかもしれない。

 

「うーん……右の翼を怪我してるな。でも骨は折れてないみたいだ。大丈夫。手当てをすれば、きっとまた飛べるようになるよ」

 

 ひっくり返した帽子に小鳥を移し、ハーマンはニルスへと安心させるように微笑みかけた。ニルスはほっとした様子で胸をなでおろす。

 

「分かった、ユーリヤを呼んでくるよ。先に医務室に行ってて」

 

 ぱたぱたと走って出て行くニルスを見送り、ハーマンは帽子の小鳥と顔を見合わせた。

 

「大丈夫かなぁ、ニルス。慌てすぎて、転ばないといいけど」

 

 そんなことを言いながら窓を下ろして、黒板に「鳥命救助 片付けは後でします ハーマン」と書き置きを残し、ハーマンも教室を出て行く。残された私は首をひねった。

 

 ……とり? 鳥が、学校に?

 生きている命が学校に来てくれた。それは、嬉しい。だけど、こんなに続くともやもやした疑問がその嬉しさを覆ってしまう。

 あの人もそうだけれど、鳥だってこの時期には現れていないはずだ。特に、ニルスの前には。

 

 ……なんだろう。なにか、見落としていないか?

 

 私は窓に向き直る。

 切り取られた蔦の間から、さんさんと日差しが差し込んでいた。棚に上り、顔をガラスに触れないぎりぎりまで近づけて周囲を見回す。お祈りの川を挟んで春の野山が広がっているだけだ。変わったことは、なにもない。

 

 大丈夫、なの、かな。

 ただ巡り合わせが良かった、ってだけなのかな。

 

 床に降りてそのまま座り込み、私はため息をついた。なんだかここ最近、心が休まらないことばかりだ。流れる時間の中では見逃したらそれきりだから、こんな時はどうしても不安になる。

 

 また、間違えてしまったんじゃないか、って。

 

 もう一度ため息をついて、ごろんと寝転がった。ハーマンたちが棚から下ろした本や標本が体と重なるけれど、ぞわぞわから逃げるのもなんだか億劫だった。

 

 床を伝って聞こえてくる、遠い足音。急ぐ足音はないから、ニルスはユーリヤをすぐに見つけられたのかな。この杖の音はロージャかな。足が悪いままだから無理していないといいけれど。……ハーマンもニルスも、やっぱり私には気づかなかったな。当たり前だし、仕方ないことだけど。

 

 ……なんだか。すごく、寂しい。

 

 私はぼんやりと息を深く吐いた。そして跳ね起きて首を振る。

 

 だめだだめだ。

 妖精にならなかった私が、誰かに気づいてもらえないのは仕方ないことだし、そんな中でもダニーとティアは気にかけてくれてる。なにより、あの時のユーリヤには同じ気持ちを感じさせてしまったはずだ。私だって、我慢しないと。

 

 それに、みんなが笑ってるのを見るのは、本当に嬉しいから。

 なかったことになってしまったけれど、みんなが友達になってくれた思い出は、ずっと覚えているから。

 

 ……よし。もう、大丈夫。

 ニルスたちの様子を見に行こう。小鳥のことも、気になるし。

 

 私は立ち上がろうとして、ふと体に埋まった標本に目を落とした。

 ガラスの覆いをすり抜けた光がきゅっとすぼまって、白い点になって本の表紙に落ちている。

 

 なんだろう、これ?

 こんなのはじめて見る。不思議だ。手を差し出してみるけれどすり抜けてしまって、特に感じられるものはない。じゃあこれは私以外にも見えるものなのかな。でも、あの時のユーリヤだって私以外には見えてなかったけど、私だってさわれなかったしなぁ。

 

 光が当たっているところからは、白っぽいなにかが立ち上っている。湯気みたいな……いや、煙?

 

 次の瞬間、ぱっ、とだいだい色の火が小さく吹き上がった。

 

 ……え?

 あっけに取られているうちに、火はぶすぶすと本の表紙に広がっていく。我に返って手で叩くけれど、火の勢いは変わらない。

 

 ど、どうしよう!? どうすればいいんだ? 火ってどうやって消すの? キッチンのストーブならルーリンツはいつも吸気口を絞って、だめだ、本に吸気口なんてない!

 

 誰か呼んで、ああでも、きっとみんな気づいてくれない。どうしよう、誰か……!

 

 そこまで考えて気づく。

 

 あの人。ハンター。

 ハンターなら気づいてくれる。あの人は、怖いけど、でも、今は。

 

 私は教室を飛び出して、裏口から外に出る。思った通り、ハンターはいつものように木に寄りかかっていた。

 

 一目散に駆け寄ると、ハンターはフードの下で目を見開いた。

 

「お前は……」

 

 私はマントの裾を掴んで引っ張る。けれどハンターの体はびくともしない。勢いをつけてもう一度引っ張ると、ハンターは私の手を掴んで止め、腰を上げた。

 表情の薄い顔にはかすかだけど疑問の色が浮かんでいる。このあいだの目の冷たさもないし、あの歪なナイフを取り出す様子もない。私が引っ張るままについてきてくれている。これなら……!

 

 裏口から学校の中に入った瞬間、ハンターの目が鋭くなった。()()と鼻が動き、私の手をさっと払って走り出す。迷いなく第一教室に駆け込んだハンターは、すぐに本を持って飛び出した。

 表紙を舐めていた火は弱まっていたけれど、それをしっかり掴むハンターの手から嫌な音と白い煙が漏れている。手のひらがどうなっているかなんて、見えなくたって分かる。

 

 そんな、怪我なんてさせるつもりじゃ……!

 

「……なんだか焦げ臭いような……あれ、ハンターさ、って、どうしたんだいそれ!?」

 

 驚き慌てたルーリンツを一瞥し、ハンターは来た道を引き返した。裏口から外に出ながら、燃え残った表紙の布をむしり取る。地面に落ちた布をにじって、焦げた厚紙を鋭い目で睨む。焦げた穴のふちはくすぶり、いまだに煙を上げていた。

 ハンターは顔を川へと向ける。なんの躊躇いもなく桟橋へと走り、勢いよく本を川の中に突っ込んだ。

 

 

 

 

 陽の光は暖かいもの、ということは、私も一応知っている。

 

 降りそそぐ分にはぽかぽかする程度だけれど、光を集めるとその分暖かさも集まって、熱くなるのだそうだ。それこそ、条件が揃えば火が燃え上がるくらいに。

 

 今回のことは、いつもは蔦で遮られていた日差しが直接入ったことで起きたのだろう、と校長先生は結論付けていた。

 

 本は燃えたのは表紙だけで、中身の方は無事だった。ハンターがしっかり閉じた状態で川に入れたお陰で水濡れもほとんどしていなかった。ふちが膨れないように乾かして、装丁し直せば大丈夫らしい。

 

 ニルスとハーマンは落ち込んでいた。でも日差しが入るようになった原因は蔦に絡まった鳥を助けるためで、ほとんど事故のようなものだから、校長先生も二人を強く叱ることはなかった。

 大事にはならなかったからと、標本のガラスの覆いが日光に当たらないよう移動させて、原因をみんなに伝えて、これからは注意するように約束して、この一件はおしまいになった。

 

 それで終わりになったのは、燃えた本を掴んだハンターの右手が、少し赤くなっただけで済んだのも大きいのだと思う。

 

 

 

 

「今日は本当にありがとう、ハンターさん」

 

 医務室は、今は臨時でハンターの寝室として割り当てられている。間仕切りを増やしたせいで少し手狭に感じる部屋の中、ユーリヤとハンターは作業机の横で向かい合って座っていた。

 ハンターは手当ては必要ない、と言ったけれど、ユーリヤも譲らなかった。結局ハンターが折れて、ユーリヤの手当てを黙って受けている。練った軟膏をやけどに塗り、ガーゼを当てて包帯を巻く。

 

「はい、おしまい」

 

 ユーリヤは包帯を巻き終えたハンターの手をそっと離した。

 

「……でもね、いくら火を消すためだからって、燃えているものを直接触るなんて、そんな危ないことはしてはだめよ。もし大怪我をしてしまったら、私には治せない。命の時間をなくしてしまったら、それきりだもの」

「問題ない。この怪我も大した事はなかった」

「そんなことないわ。それに……」

 

 ユーリヤは眉尻を落とした。

 その時、開け放たれたままの扉の横をノックする音がした。

 

「ユーリヤ、ハンターさん。今、大丈夫かな?」

 

 二人がそちらを向けば、ハーマンとニルスが立っていた。ニルスは包帯が巻かれたハンターの手を見て、唇を引き結ぶ。

 

「どうしたの、二人とも?」

「今日のことで、きちんとお礼を言いたくて。ハンターさん。本当にありがとう。手は大丈夫なのかい?」

「その、ごめんなさい。見つけた僕が、気をつけるべきだったのに」

「気にするな」

「それは無理だよ、気にするさ! やけどは本当に大丈夫? ユーリヤ、どうなんだい?」

 

 ハーマンの問いかけに、ユーリヤはさっきまでの不安な表情を隠すように笑った。

 

「水ぶくれにはなってなかったから、すぐに良くなるわ」

「そっか、良かった……」

「手が痛くて困ったら言って。出来る範囲だけど、手伝うから」

 

 心の底からほっとした様子のハーマンの隣で、ニルスは決意に満ちた顔でハンターを見つめる。

 ハンターの表情はいつもどおり薄いままだけれど、なんだか、少し困ってるみたいに見えた。なにか言おうとしてちいさく口を開いて、だけど首を振った。

 

「? どうしたの?」

「いや……、……鳥、は」

「え?」

「鳥は、大丈夫だったのか」

 

 みんな、きょとんとしてハンターを見返した。やがてハーマンがくすりとこぼす。

 

「うん。今は鳥かごの中で、のんびりしているよ」

「そうか」

「男子の寝室で世話することになったから、後で見に来てよ。とてもきれいな声で歌ってくれるんだ」

 

 ハンターは頷いた。三人は顔を見合わせて、嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

「ハンターさんの方から、僕たちに話し掛けてくれたね」

「はじめてだったから少し驚いたよ。うん、でも……やっぱり、嬉しいな」

 

 みんなを見送って、私は医務室に入る。椅子に座って右手の包帯を見つめているハンターの前に立ち、頭を下げた。

 

 冷静になって考えてみれば、私だって意識すればものは持てるのだ。ハンターに頼まなくても、なんとかできたはずなのに。ハンターにあんな怪我をさせずに済んだのに。

 

 私は、ハンターが燃えていた部分をしっかり握っていたのを見た。手のひらがボロボロに赤くただれていたのも。だけど、みんながばたばたしているうちにいつの間にか怪我は消えて、名残だけになっていた。

 傷が消えてしまった理由は分からないけれど、あんな大怪我、痛くないはずがない。

 どうしよう。どうすればいいんだろう。助けてもらったのに、みんなと違って私にはお礼すら返せない。

 

「話せないのか」

 

 ……えっ、と。

 脈絡のない言葉に顔を上げると、ハンターはフードの下からじっと私を見ていた。

 

「お前は、話せないのか」

 

 私は面食らいながら、喉を押さえて頷く。

 ハンターはあごを引いた。

 

「……その上で訊く。お前は、何だ?」

 

 言葉は同じでも、あの時のような冷たさはない。ハンターの目はまっすぐに、私を見つめていた。

 

 でも、私は何か、か。

 

 ……校長先生なら、うまく説明してくれるかな。なら、連れて行く前に教えた方がいいかな。

 

 私は入り口に立ち、手招きをする。ハンターがついてきているのを確認しながら、階段を降りて裏口から外に出た。

 いつもハンターが寄りかかっている木のそばに立ち、隠れるようにひっそりと据えられた墓石を指差す。

 

「アレクシス。根無し草のように消えた。……これはお前の墓だったのか」

 

 たぶん、と心の中で付け足す。私がアレクシスだと示す証拠は見つけているけれど、覚えている限り、この名前で呼ばれた事は一度もないから。

 

「しかし、ならば……」

 

 考え込みそうになったハンターのマントの裾を引っ張って校内に戻り、もう一度手招きする。廊下を抜け、図書室を通り、校長室の扉を指差した。

 

 ハンターは少しだけ鋭い目つきになって、ドアノッカーを鳴らす。

 

「誰じゃ?」

「グレイブズ、私だ」

「おお、ハンターか。ちょうど呼ぼうと思っておったところだ」

 

 入室すれば、校長先生は金枝を引き出しに入れたところだった。鍵を掛け、慣れた手つきで車椅子を切り返す。

 

「改めて礼を言わせてくれ。大事になる前に小火(ぼや)を見つけてくれた事、感謝する」

「私が発見したのではない」

 

 ハンターは私をちらりと見て、言葉を続けた。

 

「訊きたい事がある。黄金(こがね)色に光る子供の亡霊について」

「……子供の、亡霊、か? それは……」

「小火を見つけたのはそれだ。私ではない。正体について尋ねたら、裏の墓を指した。あの、アレクシスと刻まれた墓だ」

 

 虚を突かれたように、校長先生は目を丸くする。だんだんと、開いた口がわなわなと震え出し、喉の奥から喘ぐような声が漏れた。

 

「その、亡霊は……本当に、アレクシス、と?」

 

 ハンターに向けて、私は左手の痣を指差して見せた。校長先生はきっと覚えているはずだ。

 

「左手の小指の下に、傷跡か痣のようなものがある」

「……っ、そこに、おるのか……!?」

 

 視線の動きで気づいたのだろう、校長先生は車椅子から身を乗り出した。動いた拍子にずれたメガネもそのまま、私の方を凝視する。

 

「ユーリヤの指輪はやはり、お前だったのか、アレクシス……ああ、そうか。そこに、おるのか……」

 

 校長先生の両目から、はらはらと涙が零れ落ちた。

 

「あの子の命を返してくれた事、感謝する。そして、すまない。すまない…………!」

 

 うつむく校長先生の頬に手を伸ばす。だけれど、触れようと意識してもやっぱりすり抜けてしまう。この前のマリーみたいに涙を拭ってあげられたらいいのに。

 気にしないで、って、伝えられたらいいのに。

 

 

 

 

 しばらくして、校長先生はメガネを拭って掛け直した。

 

「取り乱してすまなかった。アレクシスが……その子が、学校にいるかも知れんと言っておった妖精だ。左手に痣があるなら、間違いないだろう」

 

 ハンターは眉根を寄せた。

 

「話が違う。妖精は、止まった時の世界とやらにいるのではなかったのか」

「その子の指に、赤い石の指輪はあるかね?」

 

 ハンターに両手を見せる。首を横に振ったハンターに、校長先生は頷いた。

 

「なら、今のアレクシスは妖精としての力は何も持たん。止まった時の世界に留まれず、触媒なくしては命の時間をやりとりする事もできん。だが……」

 

 校長先生は思い詰めた顔で押し黙った。ハンターは口を開きかけて、だけどふと後ろを振り向いた。

 

「ユーリヤ」

 

 ……え?

 校長先生も私も、あっけに取られて入口を見つめた。扉を開けて、おずおずとユーリヤが姿を現す。

 

「ご、ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったんです。ハンターさんのことで、相談したいことがあって、それで」

「どこから聞いておったのだ……」

「その、アレクシスに妖精の力はないってところから、です。赤い石の指輪を持ってないって。それって、この指輪のこと、ですよね」

 

 ユーリヤは右手の中指にはめられた指輪を、そっと撫でた。

 

「あの日の夜のことは夢じゃなくて、確かに、アレクシスが私の命の時間を奪ってくれて、そして返してくれた、ってこと、ですよね」

 

 ハンターの瞳がじっと私を捉えた。

 きっと、私の行動の意味を知りたいのだと思う。だけど私には説明する手段がなにもなくて、ただ頷くことしかできない。

 

「妖精さん……ううん、アレクシス。そこに、いるのね」

 

 ユーリヤは視線を彷徨わせた。

 私は胸を押さえる。奥の方がきりきりと痛い。ユーリヤのことは大切で大好きで、なのに、なんだかすごく、怖い。

 

「あなたが私の命の時間を奪ってくれた時、私、嬉しかったの。あなたは根無し草のように消えてしまったのではなくて、ちゃんとここにいるんだって分かって。消えてなくなってしまいそうだった私の命の時間が、あなたのためになるならって、そう、思っていたから」

 

 そんなこと言わないで。叫びたいのに、私の喉は声にならない微かな音を出すばかりだ。それだってユーリヤには届かない。

 奥歯を噛みしめる私の前で、ユーリヤは言葉を続けた。

 

「でも、すぐに返してくれたでしょう? 私のものだった命の時間は、とっても温かくて……大事にしなきゃって気づけたのも、少し前まで寝たきりだったのがこんなに元気になれたのも、あなたのおかげなのよ」

 

 ふと、ユーリヤの目がこちらへと向けられた。見えてないはずなのに、焦点は確かに私に結ばれていて。

 

「ありがとう、アレクシス」

 

 微笑んだ顔が、今は消えてしまったはじまりのあの日と重なった。

 

 胸の痛みは消えて、だけど、苦しい。

 熱が込み上げて、鼻の奥がつんとして、視界がぼやけた。目から何かが溢れて頬を伝う。目元を擦ってもそれは止まらない。

 ……ああ、人でないものでも涙は流せるんだ。

 

「泣いているのか」

 

 ハンターの言葉に、ユーリヤは慌てたようだった。

 

「ご、ごめんなさい……! そうよね、だって指輪を見つけられなかった妖精さんは……」

 

 違う。

 私は首を強く振る。腕を伸ばして、ユーリヤの体にぎゅっと回した。

 抱きしめても匂いも温度も分からない。ただユーリヤの体に埋まった部分にぞわぞわした感覚があるだけだ。だけど、それでも。

 

 ユーリヤが生きてる。

 生きてくれている。

 ルーリンツの覚悟も、ニルスとロージャの後悔も、ハーマンとマリーの想いも、私と友達になってくれたあの日々も。全部なかったことになったけれど、みんなを助けてってお願いは、叶えられたのかな。

 

 ……私のしたことは、間違って、なかった、のかな。

 

 そっと、頭の後ろをぞわぞわした感覚が撫でた。

 

「本当に、ありがとうね」

 

 涙ぐんだ声でユーリヤがささやく。

 寂しさも、不安も、みんな溶けて消えていくような、そんな優しい声だった。

 

 

 

 

 だんだん気持ちが落ち着いて、ユーリヤから体を離す。同時に、頭の後ろを撫でていたぞわぞわが離れた。ユーリヤの手が、そっと私の頬に当たる。

 

「あのね。見えないけれど、あなたが首を振って、抱き付いてきたのは、なんとなく分かったの。……不思議ね、同じ時間の中にいるからかしら」

 

 ユーリヤは目元を指先で拭った。さっきから、みんな泣いてばかりだ。

 

「ハンターさんもありがとう。この子の事を教えてくれて。あなたがいなかったら、きっと誰もこの子に気づけなかったわ」

「……そうか」

 

 ハンターはフードを下ろして顔を隠した。ユーリヤはくすりと笑って、校長先生へと向き直る。

 

「校長先生。アレクシスのことをみんなに伝えてもいいですか? みんなにも、この子のことを知ってほしいんです。だってせっかく、こうやって会えたのだもの」

 

 私は思わずユーリヤを見上げた。

 それって、つまり、もう一度、みんなと友達になれるってこと?

 また涙がこぼれそうになって、私はうつむいて目をこする。

 妖精ではなくなった私には、もうみんなを手助けすることも、お願いを叶えることもできないけれど、本当にいいのかな。ああでも、すごく、嬉しい。

 

 振り向いた先の校長先生はとても悲しそうな顔をしていたけれど、すぐに笑顔を浮かべる。それでも、眉尻は下がったままだった。

 

「……ああ、そうじゃな。できる限り、思い出を作ろう。もう二度と、忘れないように」

 

 

 ハンターは何も言わずに、静かな瞳で私たちのことをじっと見つめていた。

 表情はいつも通り薄いのに、なんだか、なにかをこらえているように見えた。



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「夢寐にて。」-2

2/6:サブタイトル変更
6/4:修正


「……あなた、無事だったのね。よかったわ。でも、何度来てもらっても、変わらないわ。扉は開けられない」

「いや、そうではない。貴女に礼を、と」

「礼?」

「あの輸血液のおかげで、どうにか死なずに済んだ」

「そう、お役に立てたみたいね。……ねえ、外は今、どうなっているのかしら?」

「……市街はもう駄目だ。どこもかしこも、瞳の蕩けた群衆が徘徊している。獣狩りの狩人とやらも、生きて会えたのはたった一人だ。後は皆死んでいた」

「そんな……」

「私はこれから大橋へ向かう。聖堂街は医療教会のお膝元だと聞いた。可能であれば、助力を乞うてくる。生きて戻れれば、また報告に来る」

「……待って。どうか、これを」

「これは……また、いいのか? 貴重なものだろう」

「ええ。私にできるのはこれくらいだもの。少しでもあなたの助けになるといいのだけれど。……狩りの成就を、願っています」

 

 


 

 

「ヨセフカはどうした?」

「……ヨセフカは奥にいるわ。手を離せない用事があるの」

 

 


 

 

 軋む扉は、押せば呆気なく開いた。

 あなたが部屋に踏み込んだ瞬間、階段の上から女の声が降ってくる。

 

「あら、月の香り……」

 

 女は熱が籠もった息を吐き、どうやって入り込んだのかしら、と呟いた。

 

「でも残念ね。私たち、良い関係を築けると思ったのだけど」

 

 女は宣う。

 ここで見たものの意義が理解できるなら引き返せ、そして今までどおりの関係に戻ろう、と。

 

「もし引き返す気がないなら……ああでも、狩人の治験も得難いものかしら……?」

 

 笑い声がさざめきのように降り注ぐ中で、あなたは灰色の血に塗れた右手を強く握り締めた。

 

「……ヨセフカは、どうした」

「あら、ヨセフカなら、あなたと取引していた部屋にいるはずよ? おばあさんなら、反対側の奥の部屋。そうそう、話していた女の子はどうなっていたのかしら? 治療の準備をして待っていたのに……」

 

 心底残念そうな声であった。

 

 あなたは夢からノコギリ鉈を引き出し、階段を上がる。足を載せるごとに床板は軋んだ。あの女にも聞こえていることだろう。

 

 だが。そんなもの、知ったことか。あなたは頭の中で吐き捨てた。

 

 階段を上り終えた先、短い廊下の奥、見通せる場所に女はいない。あなたは部屋に入る前に、連装銃に水銀弾と骨髄の灰を詰める。

 

 そうして何気なさを装って足を踏み入れ、壁に隠れて何かを振りかぶった女に向けて躊躇なく引き金を引いた。

 

 


 

 

「……そう。大橋でそんなことが……」

「あの獣は上の街から飛び降りて来た。聖堂街も無事ではないのかも知れないが……下水橋を通るルートがあると聞いた。今度はそちらから向かってみる」

「あの辺りはヤーナムでも治安が悪いわ。どうか気をつけて。それと、これを。私にできるのは、これくらい」

「いつも済まない」

「……今度の夜は長いけれど、明けない夜もないはずよ。まして、あなたのような方が、頑張っているのだから」

「……買い被り過ぎだ。私など、所詮は……」

「そんな風におっしゃらないで。……狩りの夜が終われば、こんな風に扉越しに話すこともない。もしかして、あなたの顔も見られるのかしら」

「見えたところで面白いものでもないだろう」

「あら、そんなことないわ。不謹慎かもしれないけれど、フフッ、なんだか楽しみ。……どうか、無事でいてくださいね」

 

 


 

 

 姿勢を崩した女の腹に右腕を突き刺す。

 熱く軟らかな肉に深く深く腕をねじ込んでいく。お互いの吐息が頬を撫で合うほどに密着する。逃がさぬように指を絡め、握り締める。女から余裕は消え失せ、醜く顔を歪めながら血と呪詛を吐いた。

 

「何も、知らない、愚か者、め、が……!」

 

 そうして力任せに引き千切った()()()()を床に叩き付け、あなたは全力で躙り潰した。

 

 踏み潰す。

 踏み潰す。

 踏み潰す。

 執拗に。

 何度も、何度も。

 

 やがて、あなたは足を止めた。床には原型を留めぬ肉片が飛び散り、倒れた女の目に光はなかった。

 

 血と臓物の臭いが部屋に充満していた。聞こえるのはあなたの荒い息と家鳴り、そして遠く響く鐘の音ばかりだ。

 

 あなたは覚束ない足取りでその部屋を後にする。

 右足は血と汚物に塗れ、歩く度に滑った。階段を下り、緩やかなカーブを描く荒れた廊下を進み、やがて小部屋へと辿り着く。

 

 この悪夢のはじまりに、あなたが目覚めた部屋である。隅には青白く光る人ならぬ何かが、背中から灰色の血とはらわたを撒き散らして転がっていた。

 

 そう。人ならぬ何かが侵入している、と思った。

 目も耳も悪いようで、簡単に背後を取ることができた。

 その何かの肉びらからヨセフカが手渡してくれた輸血液が転がり落ちた時でさえ、気付かなかった。

 あなたが気付いたのは、反対側の部屋にいた人ならぬ何かを殺した後、診察台に寝かされた()()()()()()を見つけた時である。

 

「……、……」

 

 喉の奥が鳴った。

 

 診療所の中で動く者はあなた以外にない。ヨセフカも、ここを避難先として教えた老婆も。

 

 あなたが、殺した。

 

 

 

 ――今度の夜は長いけれど、明けない夜もないはずよ。まして、あなたのような方が、頑張っているのだから。

 

 

 

「……っう゛、ェえ゛ッ」

 

 込み上げた吐瀉物が服を、床を汚す。あなたは診察台に縋り付き、折れそうになる膝を必死で支えた。

 

 

 見た目は人ではなかった。だが、心は?

 獣と化した者たちのように理性を失っていたと、誰が断言できる。

 いや、そもそも狂っているのは己ではないのか。己の正気を保証してくれる者など、どこにもいないではないか。

 

 

 あなたの頭の中では、そんな思考ばかりが巡る。

 しかしどれほど悔やんだところで、過去が正されることなどありはしない。

 

 

 

 ――狩りの夜が終われば、こんな風に扉越しに話すこともない。もしかして、あなたの顔も見られるのかしら。

 ――見えたところで面白いものでもないだろう。

 ――あら、そんなことないわ。不謹慎かもしれないけれど、フフッ、なんだか楽しみ。

 

 

 

 ささやかな約束は、もはや永遠に、叶うことはない。



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再会-3

10/21:以前の話も含めてサブタイトルを「パセリ」から変更しています


 最初に見つけてくれたのはマリーだった。

 

 流れ込む新鮮な風が大好きだから、窓開けはマリーの担当である。朝ごはんを食べて片付けをしたら、台拭きと窓開け棒を持って、掃除をしながら教室や廊下の窓を開けていく。

 

 それとなく誘導するとユーリヤは言っていたけれど、マリーはいつも通りの順番で回っていたみたいだ。第二教室にいつも通りの時間にやってきたマリーを、私は教卓に隠れてどきどきしながら見ていた。……隠れる意味、ないけど。なんとなく。

 

「ユーリヤったら、先に第二教室に行ってみたら、なんて言ってたけど……なにもない、わよね……?」

 

 首を傾げながら裏口側から入ってきて、窓を開けて、そしてまた裏口側から出て行くために振り返る。

 

 ……しまった、ここからじゃどんな表情してるか見えない!

 慌てて教卓から飛び出すも、間に合わない。

 

「……っ、わぁ……!」

 

 マリーはため息をついて、裏口の隣の黒板へと吸い寄せられるように近づいた。横から眺めるマリーの顔はきらきらしていて、きっと喜んでくれてるとは思うのだけれど。

 

 ……できれば正面から見たかったな。浮かれすぎてた。

 私はがっくりと肩を落としながら、マリーの隣で黒板を見上げた。

 

 チョークの濃淡だけで描いた、この教室の風景。

 翻るカーテンも、柔らかく差し込む陽の光も、できるかぎり思い出の通りに描いた。瞬間を切り取ったように、あるいは止まった時の世界に見えるように。

 その中に、一人だけ席に座っている女の子がいる。ゆるくまとめた髪と肩掛けで、それが誰かはすぐに分かるだろう。

 

 私がはじめてユーリヤと出会ったときの、あの子の後ろ姿だ。

 

 

 

 

 

 

 校長先生やユーリヤと()()して、すぐ後のこと。

 

「校長先生の許可は頂けたけれど……どうすればみんなにアレクシスのことを知ってもらえるかしら?」

 

 校長先生が二階に行くときに使う階段の上、物置になっている部屋の隅に場所を移して、ユーリヤは頬に手を当ててため息をついた。

 私にかかわる内緒の相談事ということで、通訳としてハンターも同席している。壁に寄りかかったハンターは、フードの下からユーリヤを見た。

 

「言えばいいだけだろう」

「それがね、みんなはアレクシスのことを覚えていないし、説明だけじゃきっと実感できないと思うの。ハンターさんも、何かおもしろい案を思いついたら教えてね」

 

 ハンターは首を横に振り、今度は私の方を見た。表情の薄い顔からは、なにを考えているのかは読み取れない。

 ……でも、ハンターは人でないもの()が嫌いだ。今は付き合わせてしまっているけれど、あまり頼るべきではないのだと思う。恩人だし、できれば仲良くなりたい。でも距離を置いた方がきっとお互いのためだ。

 

 ぽん、とユーリヤは胸の前で両手を合わせる。

 

「そうだわ。アレクシスはハンターさん以外には見えないのだから、いたずらするのはどうかな? みんなに特製ハーブの入った瓶を渡して、思い思いの場所に隠してもらって。それをアレクシスが探して集めて、こっそりシチューのお鍋に入れちゃうの。ふふっ、きっとみんな驚くわ」

 

 ……あー、その、えっと。

 

 ちら、とハンターを窺うと、元々白い顔からさらに血の気が引いて青くなっていた。ハンターはルーリンツからユーリヤのハーブシチューについて聞かされているし、味が分からない私だってその威力は知っている。

 

 味見のひとくちでノックアウトされるルーリンツ。

 ひっくり返ったハーマン。

 苦しそうな咳をするマリー。

 ひとり美味しく食べてたロージャ。

 後で強がっていた事が発覚したニルス。

 こんなことになってるなんて、と思い出の影にあわあわしながら、いたずらが成功してちょっと楽しい気持ちになっていた私。

 

 今からすれば未来の日付の話なのに、なんだかすごく昔のことのように感じる。もう私の思い出の中にしか残ってない出来事だから、かなぁ。

 

「そうすればアレクシスがいるんだってこと、みんなに実感してもらえると思うの。……あら、ハンターさん? どうしたの? 具合、悪いの?」

 

 ハンターは俯いて押し黙ったままだ。いいのかな。このままだと体調不良と判断されて、追加のお薬が出されてしまうのだけれど。私には助け船は出せないし……いや、待てよ。

 

 頭の片隅に浮かんだ思いつきを、目の前の黒板に思い描いて確かめる。……うん、書けない字を無理に書くよりは、うまくできるかも。

 

 黒板に立て掛けてあった人間だった頃の自分の写真をぽいと放り投げ、表面を意識して触る。粉を落として綺麗になった黒板にチョークを走らせた。

 

 文字を読むことに不自由を感じた覚えはないのだけれど、書こうと思うとつづりが分からなくて手が止まる。だけど、絵ならなんとか。

 

 参考にするのは、誰もいない学校で見た妖精への教示だ。

 

 チョークでは細い線は描けないので、人の形は簡単に取る。顔の向きを示すために目の位置に点を入れる。一番説明しやすいのはハーマンだから、帽子をかぶせて。私を描く時は線を弱く、ひょろひょろと。そういえばあの絵にはきれいな青と鮮やかな赤が使われていた。なんて顔料だろう?

 

「あら? もしかして、アレクシス?」

 

 ユーリヤが黒板を覗き込む。どうだろう、伝えたいこと、伝わるかな。

 

「これは、ハーマン? そうね、きっとハーマンは帽子の下に隠すわ。ええと、それで……」

 

 私が妖精だったころ、同じいたずらをあの時のユーリヤと仕掛けたことがあるけれど、ハーブの瓶をきちんと隠したのはニルスとロージャの二人だけだ。あとは鎖を通して首から下げたり、ダニーに預けたり、帽子の下に置いたりだった。マリーについては分からないけれど、ルーリンツとハーマンの二人はきっと同じ隠し方……隠し方? をすると思う。

 

 止まってる人からものを取るのは簡単だった。でも、動いてる人からだと途端に難しくなる。向こうは私のことが見えてないからなおさらだ。持ったものが変な風に引っかかったら、怪我をさせてしまうかも。

 

 そんな内容を描き足したり修正したりして、ユーリヤにも分かってもらえたみたいだ。

 

「難しいし、危ないのね。でも少しざんねん……」

 

 ユーリヤはちょっとだけしょんぼりした。一方、ハンターは安心したように肩の力を抜いた。もう、いやなことはやめてって言って大丈夫なのに。ユーリヤだってみんなだって、ちゃんと分かってくれるのに。

 でもこれで、助け船を出すって目的は達成できた。あとハーマンのお腹も守れた。

 

「それにしても、アレクシスは絵が上手なのね。あなたが伝えたいこと、ちゃんと分かったよ」

 

 ……ユーリヤに、褒めて、もらえた?

 

 私は思わず口元を押さえた。口の端が持ち上がってるのが分かる。

 

 どうしよう。お礼を言われたことはあるけれど、褒められるのは、きっとはじめてだ。

 嬉しい。すごく、すごく嬉しい。なんだかじっとしてられない。なにかしたい。今の私にもできる、ユーリヤに喜んでもらえるようなこと。

 

 ……よし。

 説明の絵を消して、大まかな形を取り、寝かせたチョークで光を乗せる。指でこすって陰影の濃さを調節して、少しずつはっきりとしていく輪郭を、立てたチョークでさらに細かく描き入れていく。

 

「次は何を描いているの?」

 

 あ、まだ見ないで!

 体で黒板を覆って隠すけれど、私が見えないユーリヤには意味がない。どうしようと悩んでいると、横合いから静かな声が掛かった。

 

「見られたくないようだ」

「そうなの? なら、私は席を外した方がいい?」

 

 そこまでじゃないよと首を横に振ると、ハンターは少し考え込んだ。

 

「……完成品を見せたい、という事か」

 

 まさにその通りで、何度も頷く。

 

「ふふっ、楽しみにしてるわね」

 

 ハンターから私の肯定を聞いたユーリヤは、ほがらかに笑ってくれた。がぜん、やる気が湧いてくる。

 

 ……うーん、でも、やっぱりもう少し細い線が描ければなぁ。黒板のふちで先を削る。多少は尖るけれど、使うとすぐに丸くなってしまう。

 

 そんな事を何度か繰り返していたら、突然目の前に削ったチョークが差し出された。

 驚いてそちらを向けば、持っているのはハンターだ。フードの下から、じっと私を見つめている。

 

 ……えっと、使っていいの、かな。

 おっかなびっくり両手を差し出すと、ハンターはチョークをぽんと載せて、また別のチョークを手に取った。どうやらいいみたいだ、けど。

 

 ハンターの手にはナイフがあった。この前の歪なナイフではなく、真っ直ぐで、ギザギザした刃のナイフだ。蔦とか硬い茎の草を切る時に便利そう。いやそうじゃなくて。

 

 あんな細かい細工がなされたナイフなんて学校にはないし、最初の手当ての時にハンターの所持品は全部サイドテーブルに出したけれど、その中にだってなかった。それを言ったら、あの歪なナイフもそうだけれど……

 

 ユーリヤも不思議に思ったのだろう、首を傾げた。

 

「ハンターさん。そのナイフ、どうしたの?」

「どうした、とは」

「その、見覚えがないけれど、どこにあったの? それに、どこから出したの……?」

「どこから……」

 

 ハンターはユーリヤを見て、そして手元のナイフを見て眉根を寄せた。

 

「これはゆ、いや、……、…………」

 

 ハンターは口を開けては言いにくそうに閉じるのを繰り返す。見かねたユーリヤがおずおずと声を掛けた。

 

「言いたくないなら、いいのだけど……」

「…………ただの、手品、だ」

 

 絞り出すようにハンターはうめいた。

 

 ……え、なに言ってるの?

 

 ユーリヤはぽかんとして、眉尻を下げる。ハンターは私ともユーリヤとも、一切視線を合わせようとしない。

 

 いたたまれない空気の中、ユーリヤが口を開いた。

 

「……手品?」

「手品だ。それよりチョークはまだ必要か」

 

 あ、話題を逸らした。

 じゃあさっきのとんちんかんな答えは、ごまかしたかったってことなのかな。

 

 ユーリヤは困ったように笑っている。追及はしないらしい。

 私も首を振ってチョークは足りてると伝えれば、こわばっていたハンターの肩から力が抜けたのが確かに見て取れた。あまり触れてほしくないみたいだ。もしかしたら妖精が時間の隙間にものを隠してしまえるように、私を見たりさわったりできるハンターも同じようなことができるのかもしれないけれど。

 

 私は削ってもらったチョークで絵に仕上げを入れていく。線を重ねて濃淡にメリハリを付ける。強く光が当たっているところには強く、反対に陰になっていて、でも照り返しで柔らかく光が当たっているところにはそっと。

 

 うん、できた。

 

 私はチョークを置いて、黒板から離れる。ハンターがその様子を伝えてくれて、ユーリヤはわくわくしながら黒板を覗き込み、ぽかんと目を見開いた。

 

「これ……私?」

 

 胸元に一輪の百合を抱えて微笑む、柔らかな白い髪をゆるくまとめた女の子。急いだから少し荒いところはあるけれど、それでも記憶の通りに描き出した。

 

 

 ――はじめまして、見えない妖精さん。応えてくれてありがとう。

 ――私はユーリヤ。私たちの友達になってくれませんか?

 

 

 今でも鮮明に思い出せる。

 

 あの頃はまだ自分の状態もよく分かってなくて、声に導かれるまま、ただぼんやりと、この女の子のお願いを叶えなきゃいけない、と思っていた。

 

 咲かせた花を元の位置に戻した瞬間に、動き出した世界。光をはらんで翻るカーテン。風に乗って舞い込む木の葉。驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに微笑む女の子。

 

 すごく、どきどきした。

 

 笑ってくれたのが嬉しくて、この子の笑顔をもっと見たいと思った。

 

 すぐに時間はまた止まってしまって、動くのは私だけになって。時振計は次の時間へ移動しようと急かしていたけれど、それでも私はこの子から――ユーリヤから目を離したくなかった。

 

 ……きっと人間だった頃の私も、ユーリヤのことが大好きだったんだろうな。

 床に落とした写真を拾って、私は笑う。

 人間だった頃の記憶なんて全く残ってないけれど、きっとそうに違いない。

 

「すごい……! アレクシスって、本当に絵が上手なのね。まるで写真みたい……」

 

 ユーリヤはきらきらした顔で黒板を熱心に見つめている。褒めてくれたことのお返しになったかな。

 表情の薄いハンターですら、黒板を覗き込んだ時は驚いた顔をしていた。仕上げられたのはハンターのおかげだ。チョークを持って頭をぺこりと下げると、あの人は小さく首を振った。

 

 絵を熱心に眺めていたユーリヤが、はっと私へと振り向く。

 

「そうだわ、アレクシス。こんないたずらはどうかしら? あのね……」

 

 ユーリヤの素敵な提案に、私は一も二もなく頷いた。

 

 

 

 

 

 

「すごい! ユーリヤが黒板の向こうにいるみたいね!」

 

 ロージャは無邪気に喜んでくれた。一方で、ほかの四人は不思議な気持ちが勝ったみたいだ。ひとしきり見とれてくれた後、みんなを教室に呼んだマリーに、ニルスが問いかける。

 

「これ、マリーが描いたの?」

「違うわ。朝、窓を開けに来たら、もう描いてあったの。ハーマンは?」

「僕でもないよ。と、なると……」

「もしかして、ハンターさんかな? ほら、黒板の高いところまで描いてあるしさ」

「ハンターさんはお手伝いはしたけれど、描いたのは別の人よ」

 

 にこにこしながら遅れて教室に入ってきたユーリヤに、みんなの視線が集まる。

 

「ユーリヤ、君は誰が描いたのか知ってるのかい?」

「ええ。でも、まだ内緒。一日ずつ、学校のみんなを描きたいって言ってたから、それまでは秘密にする約束なの」

 

 いたずらっぽく笑って、黒板へと視線を移す。

 

「やっぱり、すごいなぁ……でも、少し照れちゃうな」

 

 ユーリヤは頬をほんのりと染めて微笑んだ。

 

「その人って、もしかして、ユーリヤのお話に出てきた、止まった時間の世界に暮らしてる妖精さん?」

 

 ロージャの問いかけに、ユーリヤはくすくすと笑う。

 

「妖精さんではないけれど、少し似てるかな。とても優しい、いい子だから、みんなともきっと仲良くなれるわ」

 

 

 

 

 みんなはまだ話をしていたけれど、私は覗いていた教室の入口からそっと離れた。

 

 なんだか胸の奥がそわそわと落ち着かない。決して嫌なものではなくて、でも我慢するのが難しい。そんな不思議な気分だった。

 

 思えば、妖精だった頃のいたずらで結果を直接見られたのはルーリンツだけだ。あとは動かない思い出の幻影と、言霊。ハーマンについては、あの時はそんなことを考える余裕はなかったし。

 

 みんな、びっくりしてた。

 それから、すごいって言ってくれた。

 

 足はいつの間にか小走りになっていた。どこに向かうわけでもないけれど、じっとしていられない。

 

 階段を駆け上がって、そのまま廊下を走る。曲がり角に影が差した直後、どん、と衝撃が走った。

 

 ぐるんと視界が回って、気づけば天井を見上げていた。端にはハンターの頭が見えて、額と鼻の頭がなんだかじくじくしている。

 

 えっと。

 もしかして、ハンターにぶつかって、それでハンターはすり抜けられないから、はね飛ばされた?

 

 状況が分からないまま肘をついて体を起こすと、目の前に包帯が巻かれた手のひらが差し出された。顔を上げれば、ハンターがいつもの表情の薄い顔でこちらを見ている。

 

 これって、立たせてくれるつもり、なのかな。

 でもいいのかな。ハンターは優しい人で、ユーリヤに私の動きを伝えてくれたり、絵のためにチョークを削っておいてくれたりと、いつも助けてくれる。けれど、人でないもの()のことが嫌なはずだ。それにまだ包帯だって取れてないし……

 

 ハンターの顔と手を見比べていると、ハンターはフードの下でかすかに瞳を見張った。そして手を握り、目を伏せる。

 

「……いや。出過ぎた真似、か」

 

 そう呟いて、ハンターは手を下ろしてしまう。

 

 咄嗟にその手に飛びついた。

 

 大きな生き物の、特に人の体はうまくさわれないはずなのに、やっぱりハンターの手はすり抜けない。包帯越しの節ばった手をしっかりと握り締める。

 

 ほとんどぶら下がった状態の私に、ハンターは面食らったようだった。それでも握っていた手を開いて私の手首を掴み、静かに腕を引いて立たせてくれた。

 

「怪我は」

 

 ぶんぶんと首を振る。

 

 ハンターは緩んだ私の手から右手を抜いて、横をすり抜けて歩いていってしまった。きっとまたお祈りの川の方へ行くのだろう。尋ねたいこと、訊きたいことはたくさんあるのに、私にはその背中を見送ることしかできない。

 

 

 

 ハンターは、本当は私のことをどう思ってるんだろう?

 

 

 

 やっぱり嫌なのかな。それとも、違うのかな。

 絵を描いて……ああ、だめだ。どんな絵を描けば質問できるか分からない。

 

 でももし、本当は私のこと、嫌じゃないなら。

 ぼや騒ぎの時、怪我させてしまったことを謝りたい。それにその後、いろいろ助けてくれたことにお礼を言いたい。

 なにより、みんなとの()()のきっかけを作ってくれたこと、ありがとうって伝えたい。

 

 私は自分の手のひらを眺めて、ぎゅっと握り込んだ。

 

 言葉の勉強、しよう。

 

 あの時のユーリヤはお手紙をたくさんくれた。私にだって紙や黒板にものを書くことはできる。

 

 私は図書室へ駆け出す。夜になるまで勉強しよう。どれくらい勉強したら、気持ちを伝えられるようになるだろう。きっと大変だし、もしかしたら使いこなせるようになる前に消えてしまうかもしれない。

 だけれど、伝えられない気持ちにもどかしさを感じるのは嫌だ。

 

 ……ああ、時間が足りないって、こういう時に使うのかな。

 

 

 

 

 

 

 一日ずつ、一人。

 

 ユーリヤの次はルーリンツ。その次はハーマン、それからマリーと、歳の順に描くと決めてあった。本当は校長先生も描きたかったけれど、校長先生本人がその必要はないと辞退してしまっていた。

 

 みんなも朝の身支度を済ませた後、誰に言われるでもなく教室に集まるようになっていた。最初みたいにびっくりすることはもうない。でも、きらきらした目で眺めてくれて、絵についていろいろ話してくれる。

 

 ルーリンツが作ってるのは何のシチューかな、とか。

 きっとマリーは昨日のハーマンを見てるんだろうな、とか。

 ニルスががんばっていること、絵を描いてる人も知っているんだね、とか。

 

「でも、なんだか寂しいわ。どれも素敵な絵だったのに、一日で消してしまうなんて」

 

 時計台とロージャの絵を眺めながら、マリーがぽつりと呟いた。

 

「ねえ、ユーリヤ。せっかくだもの、この絵だけでも残してもらえるように頼めない? 今日の絵は、廊下側の黒板を使ってもらって……」

「それがね。あの子、絵は残したくないみたい。ここに絵を描き始める前に、小さな黒板に私のことを描いてくれたのだけど、すぐに消してしまったの」

 

 ユーリヤは寂しそうだった。私もユーリヤの悲しそうな顔を思い出して落ち込む。まさか、あんなに悲しまれるとは思ってなかったから。

 

 ただ、絵を残すのが嫌ということではないのだけれど、でも残す意味はないと思うのだ。

 絶えず流れて感覚を刺激しては、留まる事なくどこかへと消えていく。流れる時間の世界ではそれが当たり前なのだから。みんなの思い出に、その時の気持ちと一緒に残ってくれたらそれで充分なんじゃないか。そう思う。

 

 

 

 

 そして、七日目。最後の日。

 

 日はとっぷり暮れて、窓から見える夜空には真っ白なお月さまが浮かんでいる。

 差し込む月明かりのほかに、ランタンのぼんやりと暖かな光が教室の中を照らしていた。

 

 今日は()()()()()の日だ。

 

 みんな自分の仕事を早めに済ませて、ちょっとお昼寝して、夜ふかしにそわそわしながら自分の席に座っている。温かいお茶とおいしいお菓子も用意して、準備は万端だ。

 

「校長先生は、絵を描いてる人をご存じなんですか?」

 

 お茶を配りながら、マリーは校長先生へと問いかけた。

 

「ああ。私も、あの子にこのような特技があったとは、と驚いておるよ」

 

 校長先生は優しく笑って、私の方へ視線を向けた。再会した時にユーリヤが、見えないけれどなんとなくいるのが分かる、と言っていたけれど、校長先生も同じみたいだ。

 

 そこに遅れてハンターが教室に入ってきた。持っていたチョークの箱を見て、ハーマンが首をかしげた。

 

「チョークの……ということは、やっぱりハンターさんが描いてたのかい?」

「私ではない」

 

 ハンターは私に向き直り、ふたを開けて箱を差し出した。覗き込むと、いつものように削ったチョークが並んでいる。

 

「足りるか」

 

 ユーリヤと校長先生以外のみんなが、不思議そうにハンターを見た。みんなからすれば、ハンターはなにもないところに話しかけているように見えるんだろう。

 

 私は頷き、手を伸ばしてチョークの箱を受け取る。ハンターが手を離した瞬間、息を飲む音がいくつも聞こえた。みんなにはどう見えているんだろう。この箱は浮いているように見えるのかな? 想像すると、ちょっと楽しい。

 

「ゆ、ユーリヤ? これはいったい……」

「大丈夫よ、ルーリンツ。……あ、待って、ハンターさん」

 

 用事は済ませたと裏口側から出て行こうとするハンターに、ユーリヤが声を掛けた。

 

「あのね、ハンターさんの椅子とお菓子も用意してあるの。よかったら、一緒にどうかしら?」

「いや、私は……」

 

 チョークの箱を黒板の粉受けに置いて、ハンターのマントの裾を軽く引っ張った。

 嫌なら無理には言わない。でも、できれば見ていってほしい。

 

 ハンターの目元がかすかに揺れた。

 

「……いいのか」

 

 深く、はっきりと頷く。ハンターは開けていた扉を閉めて、椅子には座らず、みんなから離れて教室の隅に寄りかかる。せっかくユーリヤが用意してくれたのだし、座って欲しかったのが本音だけれど、残ってくれただけでも嬉しい。

 

 ……よし。

 

 大まかな形を取って、色の明るいところにチョークを乗せていくのはいつもと同じだ。ただ今日の絵は描く人数が多いから、その分手早く、簡潔に。

 黒板にぼんやりと陰影が現れる。そこに線を重ねていく。細部の描き込みはなるべく減らして、でも誰が誰だか分かるくらいには要点を選んで、細かく。

 

 背中に感じていたみんなの緊張は、いつの間にか消えていた。

 

 手を動かしながらちらと後ろを窺う。みんな、最初の驚きは抜けたみたいだ。お菓子やお茶を片手に、わくわくと目を輝かせていた。

 

「あ、あの立ってる人、ユーリヤかな?」

「隣にいるのはマリーだね。それと、ロージャと僕、かな」

「校長先生の後ろにいるのはハーマンね。ルーリンツは……ああ、ちょうど入ってきたところみたい」

「じゃあ、あの時の絵か。なるほど、みんな揃ってたもんなぁ」

「それにしても、全然迷ったり、手を止めたりしないんだね。何をどうやって描くのか、全部頭に入ってるんだろうね」

 

 どうやらみんなはぴんと来たみたいだ。ハンターだけは分からないみたいで、眉根を寄せたまま黒板を見ている。

 

 背景とまわりのみんなを描き終えて、私はあえて手を付けずにいた真ん中の空白に取りかかる。医務室のベッドと、しわの寄った布団。それからそこに寝ている、細く痩せた男の大人の人。

 

 それでいつの絵か分かったのだろう、ハンターは目を見開いた。

 

「お前……」

 

 ベッドサイドで様子を見守る校長先生とみんな。

 お粥を運ぶルーリンツ。

 そしてベッドから体を起こして、窓を背にみんなを見つめるハンター。

 

 今まで描いてきた絵は、みんなとはじめて出会った時の思い出だ。それに則ればハンターが門の向こうに倒れていたところになるのだけれど、さすがにそれはあんまり格好良くないから。

 

 そうして仕上げを終えて、私はチョークを置いた。窓から見える月は高いところまで昇り、みんな少し眠そうにあくびをしたり目をこすったりしている。

 

 それでも、みんな楽しそうで、ほくほくした顔をしていた。

 

 ハンターの方を見ると、視線が合ったとたんに目を逸らしてフードで顔を隠してしまう。でも引き結ばれた口元はいつもと様子が違って、なんとなく、きまりが悪そうに見えた。

 

「ありがとう、アレクシス。いいものを見せてもらった」

 

 校長先生の言葉に、めいめいが頷いた。喜んでもらえたなら、嬉しい。

 

 ユーリヤがそっと席を立つ。私の隣にきて、肩に手を添えた。

 

「じゃあ、改めて。この子はアレクシス。みんな、仲良くしてあげてね」

 

 

 

 

 次の日。みんなちょっとだけのんびりと起きて、ゆっくりと朝の仕事を済ませて、もう一度教室の絵を眺めたあと。

 

「アレクシス用の連絡ボードはこれでよし、と」

 

 ルーリンツがイーゼルに黒板を立てかけて、おろしたてのチョークを受けに置く。まわりのみんなにも見えるように横に立ち、ぽんぽんと軽く叩いた。

 

「なにか伝えたいことがあったら、ここに書いておくよ。もし急ぎの用事があったら、ハンターさんを通して声を掛ける。それで大丈夫かい?」

 

 私は大きく頷いた。それから少し離れた壁際に立つハンターを見る。

 

「問題ないらしい」

 

 ロージャはハンターを見上げて、その視線の先を追った。

 

「ハンターさんにはアレクシスが見えるのね。どうして?」

「それは……」

 

 ハンターはフードの下で瞳を伏せた。

 私のいる方を向いたロージャはじっとこちらを見つめながら、小さく首を傾げている。

 

「私も大人になれば、アレクシスが見えるのかなぁ。校長先生は見えるのかな?」

「……グレイブズには、見えていない」

「そうなの?」

 

 ロージャが振り返った時には、ハンターはうつむいてフードを深く被りなおしていた。

 

「アレクシスの方も、なにかあったらここに……あれ、そういえば、アレクシスは字は書けるのかい?」

 

 あれから勉強して、簡単な単語をちょっとだけ書けるようになった。だけど控えめに頷いた私には一切目もくれず、ハンターは首を振った。

 

「書けないはずだ」

「そうなのかい?」

「書けるなら、絵で意思疎通を図る事はなかっただろう」

「あ、そうよね。そっか、だからあの時、アレクシスは絵を描いて説明してくれたのね」

 

 ……そ、そうだけれど!

 たしかにあの時は書けなかったし、今だってちょっとしか書けないけれど!

 

 むっとしながらチョークを掴む。これは訂正しなければ。

 

「あ、さっそく使ってくれるみたいだよ」

 

 みんなの視線が私に集まった。むっとした気持ちはすぐにしぼんで、代わりに胸の中からそわそわしたものが湧いてくる。

 

 みんなに、最初に伝えたい気持ち。

 

 チョークを黒板に当てる。えっと、つづりはどうだったっけ。なにからはじめるんだっけ。何度も練習したのに緊張してしまう。絵を描いている時はそんなことなかったのに。

 後ろを向けば、みんな私の方を見て待っている。覚悟を決めて、チョークを走らせた。

 

 

 "I tank you"

 

 

 みんなの整ったきれいな字に比べて、なんとも不格好で、へろへろして、みっともない。

 それでも、伝わってくれるかな。

 

「……ふふっ」

 

 最初に吹き出したのはマリーだった。

 つられてみんなも笑い出す。ハンターだけは笑わずに顔を逸らしたけれど、いつもより表情は緩んでいるように見えた。

 

 私はみんなの顔を一人ずつ見つめていく。ユーリヤ。ルーリンツ。ハーマン。マリー。ニルス。ロージャ。それから、ハンター。ハンター以外のみんなの笑顔は今までもたくさん見てきたけれど、今はその笑顔を私にも向けてくれている。

 

 一緒に笑い合えるのは、やっぱり、すごく嬉しい。

 

 

 

 その後つづりの間違いを指摘されたり、あまりの恥ずかしさに落ち込んでダニーに慰めてもらったりもしたけれど、ありがとうって気持ちはちゃんとみんなに伝わってくれたみたいだった。

 

 

 

 

 

 

 私は寝息を立てるダニーの隣に腰を下ろして、寄り添って丸くなるティアを手に意識を込めて撫でた。

 

 夜、玄関に来るのも久しぶりだ。ここ一週間、ずっと第二教室に詰めていたから。ユーリヤには眠らなくて大丈夫かと心配されてしまったけれど、私は眠ることができないし、眠いという感覚がまず分からないから、特に問題はなかった。

 

 玄関の窓から差し込む月明かりを眺めながら、昨日の夜と今日のことを思い出す。

 みんな、妖精ではない私のことを受け入れてくれた。また友達になれた。

 

 そっと自分の手のひらを見る。

 青い時振計の指輪も、赤い命の指輪もない。それなのに私はみんなに気づいてもらえた。それはどれほど幸運なことだろう。ハンターがいなければ、間違いなく私は暗い時の雪の中にひとり消えていくしかなかったのだから。

 

 あの時のユーリヤが消えてしまったのは、十一月三日の夜だった。

 なら、指輪を手放した私も同じくらいまではいられるはずだ。

 

 残り時間は四ヶ月と少し。消えてしまうまでに、みんなとたくさん思い出を作ろう。

 

 妖精だった時も夏には留まれなかったから、どんな季節か楽しみだな。みんなが揃った演奏会、見られるかな。本当は十二月の行事らしいから、難しいかな。ハンター、みんなと仲良くなってくれるといいなぁ。

 

 未来のことに思いを馳せると、それだけでなんだか笑顔になる。不安もいろいろあるけれど、今は楽しみの方が勝っていた。

 

 

 

 私が時間の向こう側に持っていけるのは、いつだって思い出だけだったから。

 これからたくさん作れると思うと、すごくわくわくして、私はひとり小さく笑った。




 「パセリ【勝利、祝祭、死の前兆】」了。
 次章「セージ【知恵、尊敬、家庭の徳】」掲載まで今しばらくお待ちください。

 以下補足。
 今回の話は早期購入特典PSテーマが元ネタです。描かれるシーンのチョイスからして、黒板に絵を描いているのはアレクシスという設定なのではないか、と勝手に思っております。
 子供たちとはじめて会った時の思い出を、姿の見えないあの子が描いていると思うと、なんとも暖かく、そしてもの悲しい気持ちになります。


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セージ【知恵、尊敬、家庭の徳】
なめくじ事件


5/21:修正

 しばらくのんびりした話が続きます。

 マリーはユーリヤより身長が高いですが、年齢はおそらく三、四歳は離れているはずです。ユーリヤが十七、八だとして、マリーは十四、五くらいでしょうか。
 ゲーム本編ではロージャの姉代わりとしてしっかりした姿の多かったマリーですが、ユーリヤが命の時間をなくしていないなら、たまには甘えるような事もあるのかなと考えたりします。身長差にしても、ずっと見上げて追いかけていた大好きなお姉ちゃんに、背丈だけでも追いつけた時、すごく嬉しかったんじゃないかなと思う次第です。


 これはハンターがベッドから起き上がれるようになってすぐ。まだ私がハンターを怖がっていたころのことだ。

 

 

「せっかくだもの、ハンターさんも一緒にごはんを食べましょう? ね?」

 

 そんな提案を受けて、はじめて食堂に案内された時、ハンターの表情の薄い顔に明らかな戸惑いが浮かんだ。

 

 ルーリンツがよそったシチューをハーマンとニルスがテーブルに運び、その隣ではマリーが焼きたてのバケットを切り分けている。ロージャも手伝いたそうにしていたけれど、足の怪我があるから、一人で先に席についていた。いつもと変わらない朝の光景だ。

 

「あ、おはよう。ハンターさん」

「……ああ」

 

 ハンターに気づいたみんなが、口々にあいさつする。それにあいまいな返事をして、ユーリヤに案内されるままに奥の方へ座った。

 配膳を終え、席に着いたみんなが食事の前のお祈りをしている時も、お祈りを終えてスプーンを持った時も、ハンターはうつむいてお皿をじっと見ていた。

 

「? どうしたの?」

 

 ユーリヤの問いかけにハンターは顔を上げた。けれど、すぐに伏せてしまう。

 

「……行儀が分からない。恐らく、経験がない」

 

 誰かとごはんを一緒に食べたことがない、ということなのかな。それとも、校長先生との話の時に昔の記憶がないと言っていたけれど、そういう思い出も全部なくしてしまったのだろうか。

 みんなが言葉をなくして見つめる中で、ハンターはテーブルに置いた手を握りしめ、腰を上げてしまった。

 

「君達を不快にさせる。私は後でいい」

「あ、待って!」

 

 ロージャの制止に、ハンターは立ち上がった姿勢で止まった。無言でじっと見つめ返されて、ロージャは言葉に詰まりかけたけれど、ぐっとこらえて口を開く。

 

「あのね、ハンターさん。ルーリンツのシチューはね、できたてもすごくおいしいのよ」

 

 ユーリヤとルーリンツもハンターに声を掛けた。

 

「ロージャの言うとおりよ。それに私たちだって、あまりお行儀には詳しくないわ」

「食器を乱暴に扱ったり、食べてる最中に遊び出したりした時は、さすがに怒られたけどね。……?」

 

 ルーリンツが冗談めかして付け足す。なぜか不思議そうに目をしばたいたけれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

 

「最初の日くらいの勢いなら、誰も怒ったり気分を悪くしたりなんてしないさ。それに作った身としては、おいしいうちに食べてくれた方が嬉しいよ。ほら、座って座って」

 

 ルーリンツに促されて、ハンターは席に戻った。

 

 みんながかたずを呑んで見守る中で、スプーンを手に取り、不器用にかちゃかちゃと音を立てながらシチューをすくって口に運ぶ。

 まるで最初にお粥を出した時みたいだ、とひとり食堂の入り口で眺める私をよそに、シチューを飲み込んだハンターはぽつりと呟いた。

 

「……うまい」

 

 思わずぽろりとこぼれた、といった様子だった。それを聞いたみんなは表情を明るくして、テーブルから身を乗り出す。

 

「良かった。おかわりもあるからたくさん食べてよ」

「パンにつけてもおいしいのよ。私のぶん、分けてあげる!」

「あ、ああ」

 

 そんな風にみんなでいろいろと勧めるものだから、そしてハンター自身も量が入らないのにうまいと言いながら食べ続けるものだから、食べ過ぎで動けなくなってしまって、ハンターも含めた全員が校長先生にこんこんとお説教されていた。

 

 でも、それからというもの、ハンターは食堂でごはんを食べるようになった。

 ごはん時のハンターの表情は、普段よりほんのり柔らかい。おいしいっていうのは、それだけで人を幸せにするんだろうな。

 

 

 

 

 また、ある時。

 

「ハンターさん。はい、これ」

 

 マリーが差し出した黒い輪っかのペンダントを見て、ハンターはフードの下で目を丸くした。

 

 一拍おいて、音がするほどのすごい勢いで自分の胸元を触る。シャツの下を覗き込み、ズボンやベストのポケットをあさり、軽く手を振って(今思えば、あれは()()しようとしていたのだろう)、表情の薄い顔にかすかな苦々しさをにじませた。

 

「それは、どこに」

「洗濯物のズボンのポケットに入りっぱなしだったのよ。大事なものなのでしょう?」

「……ああ」

「なら大切にしなくちゃ。なくしたら、きっと後悔するわ」

 

 ペンダントを受け取ったハンターはズボンのポケットに入れようとして、途中で思いとどまったようだ。いったんフードを下ろして首に掛け、服の下にしまう。シャツの上から、そっと手を当てた。

 

「あと、それとね」

 

 マリーは小さな手帳を取り出した。

 

「気をつけてることとか、なんとなく習慣になってる決まりごととか、みんなから聞いてまとめてみたの。良かったら参考にして」

 

 と、いうのも、ハンターはたびたび小さな失敗を起こしていたのだ。脱いだ服をしわくちゃのままにしたり、食器を片づけようとして重ねて割ってしまったり。お風呂場の使い方も知らなかったし、食事の前とかにやる日々のお祈りについては、そもそも祈ること自体を嫌がっている節があった。

 

 ハンターは手帳を受け取り、表紙にじっと視線を落とした。表情は相変わらず薄いけれど、口元は引き結ばれている。

 

「……迷惑ばかり、掛ける」

「気にしないで。少しずつ、慣れていけばいいのよ」

 

 マリーの笑顔は柔らかい。見ている人をほっと安心させるような微笑みは、ユーリヤにそっくりだった。

 

 

 

 

 そんな風に、ハンターは失敗を経て、少しずつみんなの生活に溶け込んでいった。

 

 ハンターがどれだけ弱っていたか、みんな覚えている。きっとつらい思いをしてきたのだろう、って、校長先生から聞いている。

 なにより、ハンター自身が自分のふがいなさを許せないことを知っている。マリーから渡された手帳にたくさん書き込みをしているのを、洗濯物のポケットに入れっぱなしだったせいでマリー本人が見つけたのだ。

 

 みんなの手助けもあって、ハンターの日々の暮らしぶりはどんどん良くなっていった。

 

 脱いだ服は軽く畳んで、シャツとズボンやベストは分ける。ポケットの忘れ物はまだ起きるけれど、それだってだんだん減ってきている。

 

 ご飯を食べる時の所作も、不器用に音を立てたりこぼしてしまっていたのが、静かで落ち着いたものに変わってきている。お祈りについては、ハンターにとっては馴染みのない聖母さまじゃなくて、ごはんを作るルーリンツたちへの感謝の気持ちを込めたら、という提案に一も二もなく頷いていた。

 

 今でも用事がなければお祈りの川のほとりに座っているのは相変わらずだ。前と違うのは、みんなに声を掛けられた時に断らずに付き合うようになったことだろうか。

 

 あのぼや騒ぎから何日か経ったころには配膳も手伝うようになって、右手の包帯が取れた今ではキッチンで野菜の皮むきをやっているのも見かける。ルーリンツによると、丁寧かつ仕事が早くて大助かりなんだそうだ。

 

 そんな風に日々がおだやかに続いて、ハンターがこの学校にやってきてから、もう一カ月が過ぎようとしてた。

 

 

 ……私は、まだハンターに、あの時のお礼を伝えられていないままだ。

 

 

 

 

 

 

 ちりり、と鳥かごの中で小鳥がさえずった。

 

 この子はこまどりという、歌うのが得意な鳥の仲間だそうだ。曇り空のような暗い灰色の体の中で、頭から胸元にかけての鮮やかな夕焼け色が目を惹く。

 怪我をしていたという右の翼もすっかり良くなった。跳ねるように止まり木に飛び乗って、またちりちりと鳴く。声を出せない私としては、ちょっとうらやましい。

 

 ちゅりーちゅりー、ちりちりりと楽しそうな小鳥に手を振って、テーブルへと視線を戻す。ルーリンツがチェス盤に駒を並べ終えたところだった。

 

「……よし。じゃあ昨日の続きだ。まず序盤の展開についておさらいしよう」

 

 相向かいに座ったハンターは、眉根を寄せて盤面を見つめている。最近なんとなく分かってきたけれど、眉間にしわを寄せている時は悩んでいるか考え込んでいるらしい。

 

 ルーリンツに誘われてチェスの手ほどきを受けてから、ハンターは遊び方を熱心に勉強している。始めて一週間、まだまだ勝負をするところまではいかないものの、飲み込みが早いらしくて教える側も楽しそうだ。

 

 押さえるポイントをおさらいしたあとは、実際に駒を動かしてみる。初心者の練習とはいえ、脇の甘い手を指せばルーリンツは指摘しながら容赦なく突いてくるので、気を抜くことはできないみたいだった。

 

「……うん、課題は全部こなせたね」

 

 ルーリンツにそう言われて、ハンターは息をつきながら肩にこもっていた力を抜いた。

 

「……やる事が多いな」

「自分の駒をきちんと連携させながら、攻め入りやすい陣地を押さえて、相手の駒ににらみを利かせて、王様を安全な場所に移して、だからね。もちろん相手も基本的には同じことを狙ってくる。相手の動きに応えるように、一つの手に複数の意味を持たせられるようになると、できることがどんどん見えてくるよ。最初は難しいけど、そのうちにね」

 

 言いながら、駒を最初のように整列させる。

 

「今日は序盤の定跡をいくつか見ていこうか。暗記する必要はまだないけど、どんな展開があるのか知っておくと動かしやすくなる」

 

 そうやっておだやかに時間が過ぎる部屋に、少し強めのノックが響いた。

 

「ごめん、誰かいるかな? 開けてもらえると、助かるんだけど」

 

 席を立とうとした二人を手を振って止め(ルーリンツにはハンターが伝えてくれた)、手に意識を込めてノブを回す。扉の向こうにいたハーマンの腕の中には、ひと抱えほどの箱があった。

 

「わっ……って、アレクシスか。開けてくれてありがとう」

 

 一緒に部屋に入ってきたティアを蹴飛ばさないように気をつけながら、ハーマンはテーブルの空いた場所に箱を降ろした。

 

 それを追うようにティアもテーブルの上に飛び乗って、催促するように尻尾を揺らす。耳の後ろを撫でてやると、目を細めて喉をごろごろ鳴らし始めた。なんだか妖精だったころに比べてずいぶん優しいけれど、理由は分からない。ティアやダニーともお話できたらいいのになぁ。

 

「お疲れさま。ずいぶんと大荷物だけど、それは?」

「焼けてしまった本の、新しい表紙を作ろうと思ってさ。第一教室は、ニルスが使ってるから」

「表紙に使えるような布はあったのかい?」

「それが、今は端切れもないらしい。丈夫な紙はあったから、それを代わりに使うつもりだ」

 

 色とりどりの丈夫な布に、細かな刺繍ときらきらした箔押し。本の表紙はどれもきれいで、だけど材料がない以上、作ることはおろか、補修することも難しい。

 もちろん、大切なのは中身のページだ。けど、眺めるだけでわくわくさせてくれる表紙がなくなってしまったのは悲しい。それを一番感じているのはハーマンなのだろう。笑った横顔はどこか寂しそうだった。

 

「布、か……」

 

 ハンターは小さく呟いた。それから、テーブルの厚紙を見つめる。

 

「その大きさがあればいいのか」

「? いいや。これは芯紙だよ。欲しい大きさはこっちの紙なんだけど、布はあまり余裕がなくてさ――」

 

 突然、ティアががばりと顔を上げた。

 

 

「――きゃあああああっ!」

 

 

 悲鳴。

 それも、すぐ近くで。

 

 体をこわばらせた私。椅子を蹴倒したハンター。なんだときょろきょろするルーリンツ。真っ先に動いたのはハーマンだった。

 

「……っ、マリー!」

 

 ハーマンは部屋を飛び出した。我に返った私たちも後を追う。

 廊下に出て、すぐに角を曲がってお風呂場へ急ぐ。開けっ放しの扉の奥で、マリーがぺたりと座り込んでいた。

 

「マリー! 大丈夫かい、何があったんだ?」

「ハー、マン……」

 

 ハーマンはマリーの前にひざをついて、そっと肩に手を添える。まなじりに浮いた涙のしずくもそのままに、マリーは震える手で洗濯物を指さした。山になった洗濯物が、もぞり、もぞり、と小さく動いている。

 

 ……なにか、いるのだろうか。思わず隣にいたハンターの腕にしがみついた。

 

「は、ハーマン。不用意に近づかない方が……」

 

 ルーリンツの忠告に首を振り、ハーマンは洗濯物をひっくり返す。

 そうして露わになったものは。

 

「……なんだ、これ?」

 

 ハーマンは思わずといった様子でぽつりと呟いた。

 

 たぶん、生き物、だと思う。

 

 私の手のひらと同じくらいの大きさだろうか。手足はなく、半透明の細長い体の中で、きらきらと細かな銀の光がきらめいている。私が知るどんな生き物ともかけ離れた見た目だけれど、動いているから生き物だ。たぶん。

 

 ハーマンの後ろからルーリンツが恐る恐る覗き込んで、「あれっ?」とすっとんきょうな声を上げた。

 

「……なめくじ? もしかして、なめくじ、かな」

「ルーリンツ、知ってるのか?」

「体の色が全然違うけど、たぶん。でも何年ぶりだろう。もうずっと見てなかったからなぁ……」

 

 その変な生き物はきょろきょろと二本の角を動かして、ハーマンを見て()()()と身を縮こめた。恐る恐る顔を覗かせ、今度は耳を寝かせて唸るティアに怯えたのか服の山に隠れる。

 

「…………あ」

 

 頭の上からそんな声が聞こえた。私は視線を上げて、ぎょっとしてしがみついていた袖を離した。薄いなりに気持ちを読み取れていたハンターの顔から、すとんと表情が消えている。なんだか、すごく怖い。

 

「マリー! だいじょ……きゃっ!」

「っう、うええぇん、ユーリヤぁ……!」

 

 駆けつけたユーリヤを見て、マリーは泣き出しながら腰にぎゅっと抱きついた。ユーリヤはびっくりしたみたいだけど、すぐに抱きしめ返して、しゃくりあげる背中を優しく叩いた。

 

「あのさ、マリー。もしかして、この子に驚いて叫んだのかい?」

「っ、だって、見たこと、ないもの。生き物が、いるなんて、ポケットに隠れてる、なんて、思わない、もの……!」

「うん、まあ、そうだねぇ。でも、棚が倒れたとか、転んで頭を打ったとかじゃなくて、本当によかった……」

 

 ハーマンは力なく笑って、その場にどかりと座り込んだ。安心したように深くため息をついて、また笑う。

 

「こっちの子も、怪我とかはしてないみたいだね。君はどこから来たんだい?」

 

 人差し指で生き物をつつくハーマンと、それを後ろから興味深そうに覗き込むルーリンツ。ユーリヤはよしよしとマリーを慰めているけれど、落ち着くにはまだまだ時間が掛かりそうだ。ティアは相変わらず唸っているし、遅れてやってきたニルスは、マリーを見て、ハーマンを見て、またマリーを見て、さっぱりわけが分からないという顔をした。

 

「ハンターさん、これはいったいなにがあったの?……ハンターさん?」

 

 ニルスの問いかけに答えることなく、ハンターは一歩前に出てルーリンツの肩を叩いた。

 

「ハンターさん? ほら、見てごらんよ。この子、体が透けてて、まるで雨だれが生き物になったみた……」

「退いてくれ。駆除する」

「くじょ? 駆除、って……ちょっと、ちょっと待とう! 落ち着いて! そんなのかわいそうだ……!」

「私の不手際だ。責任は取る。すぐに終わる」

「ど、どういうことだい?」

 

 ルーリンツが宥める間に、ハーマンが生き物を手ですくい上げてかばう。当の生き物はぺったりと落ち込んでいて、逃げる気力もないみたいだ。

 

「この子、もしかしてハンターさんが連れてきたのかい? と、とにかく落ち着いて……わぁっ!?」

 

 ルーリンツを片手で押しのけたハンターの背中に、震える声が掛けられた。

 

「っ、うぅ……ポケットに、生き物、入れてたの?」

 

 ハンターはびくり、と肩を震わせた。

 

「それは……分から、ない。だが、入っていたなら、恐らく、は……」

「なんでっ、なんで、そんな、危ないこと、するの……水に、漬けちゃっ、たら……そんなの……!」

 

 また泣き始めてしまったマリーを前に、ハンターはさっきまでの勢いを失って立ちすくむ。フードの下で唇は白く噛みしめられていた。

 

 

 

 

 

 

 男子の寝室にはさんさんと陽の光が差し込んでいる。けれど、部屋の一角はまるでどんより曇ったように暗く感じられた。

 

 椅子に座り込んでうなだれるハンターに、そっとハーマンが声を掛ける。

 

「……ハンターさん、大丈夫?」

 

 返事はない。ハーマンとニルスは困ったように顔を見合わせた。

 

 フードで顔は隠れているけれど、がっくりと落ちた肩や投げ出された足を見れば、どんな気持ちかは分かる。

 

 間違いなく、ものすごく、落ち込んでいる。

 

 お風呂場から連れてきた生き物も、テーブルの上で同じようにしんなりしている。耳を寝かせっぱなしのティアが怖い目で睨んでいるのもあって、完全に萎縮してしまっていた。

 

 ……それにしても、ポケットに入っていたというけれど、服に生き物を入れてそのまま気づかない、なんてことはあるのかな。

 

 小鳥のさえずりばかりが響く部屋の中、キッチンに向かったルーリンツがお盆を持って戻ってきて、ハーマンたちは小さくほっと息をついた。お盆の上にはポットとカップ、それからちぎったキャベツの外っ葉が載っている。

 

「お待たせ。紅茶にセージを入れて蒸らしたんだ。口の中がすっきりするよ」

 

 ハンターはルーリンツからカップを受け取って、だけど口をつけずに膝の上に置いた。ルーリンツは苦笑して、自分の分を注ぐと、隣の席に腰を下ろして向かい合う。

 

「この子、どこで見つけたんだい? なめくじなんて、本当に久しぶりに見たよ」

「……前にいた、街で」

「え?……もしかして、これくらいの小さな生き物なら、()()で隠して連れ歩けるのかい?」

 

 ハンターは力なく頷いた。へぇ、じゃあ命のないものしか隠せない妖精より、ずっと融通が利くの……え、待って。

 

 もしかしなくとも、ルーリンツにも()()のことがばれてしまっているの?

 

 ハーマンとニルスを見ると、特に不思議がる様子も驚いた様子もない。それってつまり……いや、チョークを削ってくれた時のあの様子なら、それこそポケットから出し入れするのと同じ調子でやってしまっていても、おかしくない、かも。

 

「じゃあ、この子もハンターさんと一緒に外から来たのか。紹介してくれれば良かったのに」

 

 キャベツの外っ葉を目の前に置くと、生き物は二本の角をそっと上げてルーリンツを見た。遠慮がちにふちに口をつければ、銀の星が散った体に、するすると緑色が混じっていく。見れば見るほど不思議な生き物だ。花びらとか食べたらその色に変わるのかな。

 

 もそもそとキャベツを食べていた生き物が、ふと顔を上げてこちらを見た。角を傾げて、鼻先をこちらに差し出して、ティアの低いうなり声にびっくりしてころんと転がった。

 もう、さっきからどうしたんだろう。妖精だったころの私にだって、こんなに強く威嚇したことなんてなかったのに。

 

「こら。驚かせたらだめだろ、ティア。……それで、どうしてこの子が洗濯物に紛れていたのか、ハンターさんはなにか分かるかい?」

「……裏庭にいる時に、いつも外に出して遊ばせていた。最後に出したのは昨日の夕方だった。恐らく、その時に」

 

 その時、生き物が頭を上げた。こけた状態から起き上がり、ハンターに向けて角をぴこぴこ動かす。ハンターが手を差し出すと、銀の光を散らしながらぐりぐりと頭を擦り寄せた。

 

「はは、けっこうかわいいものだね。でもなめくじって、こんなに人に懐くものなのかなぁ……」

「……木箱に一頭だけ閉じ込められていたのを、たまたま拾った。確か、その時からこうだった」

「閉じ込められてた? じゃあ、この子にとってハンターさんは、外に連れ出してくれた恩人なんだね。なおさら大切にしてあげてよ。ハンターさんのこと、大好きなんだろうから」

「……ああ」

 

 ハンターは生き物をそっとつまみ上げてキャベツの上に乗せ、指先で額を撫でた。生き物は離れる手に角を伸ばしたけれど届かなくて、寂しそうにキャベツをかじる。

 

「その子のことだけど、きちんと説明すればマリーも分かってくれるだろうから……」

 

 ルーリンツはふと言葉を切った。心配そうにハンターの顔を覗き込む。

 

「ハンターさん? どうしたんだい?」

「……ルーリンツ。私は、どうすればいい」

 

 ハンターは膝の上に置いたカップを握りしめた。

 

「マリーを、あれだけ気に掛けてくれたというのに、泣かせて、しまった。私のせいだ。また。だというのに」

 

 絞り出すように、苦しそうに、ハンターは言う。

 

「記憶を失えど会話は行えた。そういう知識は残った。だが、こういう時にどうすればいいのか、分からない。分からないんだ。……私は、何も知らない。君達が当たり前に知っている事を、何一つとして」

 

 その背中はなんだか小さく見えた。フードに隠れた、普段は表情の薄い顔には、思い詰めた色が濃く浮かんでいる。

 

「……そっか」

 

 ルーリンツは紅茶を一口飲んだ。静かに目を閉じて、それから相手を安心させるような、優しい笑顔をハンターに向けた。

 

「ハンターさんは、仲直りするの、はじめてなんだね」

「……仲、直り」

「ああ。こつは、まずは自分の悪かったところを謝ることから、かなぁ」

 

 謝る、とハンターは繰り返した。ルーリンツは頷いて、だけど、と言葉を続ける。

 

「謝るっていうのはさ。ごめんよって口で言うだけならすごく簡単だ。大切なのは、謝った相手とこれからどうなっていきたいかを、きちんと伝えることなんだ」

 

 ハンターはフードの下で目を見開き、そして伏せる。

 

「……謝って、許されるのか」

「うーん、それは時と場合で変わってくるものだけど、でも、そうだなぁ……どうせ許してもらえない、なんて諦めるのは絶対にだめだ。きっと許してくれるはずだ、なんて思いながら謝るのと、同じくらい失礼だからね」

 

 ルーリンツは紅茶をまた一口飲む。ほっと息をついて、柔らかい、だけど真摯な声でハンターに語りかけた。

 

「もしかしたら、嫌われてしまったかもしれない。許してもらえないかもしれない。それでも、また笑ってほしい。一緒に笑い合いたい。……大事なのは、その気持ちなんじゃないかなって、思うんだ」

 

 ……ああ。もしかして、だから、あの時のルーリンツは。

 耳を元に戻したティアがそっと私に鼻先を擦り寄せて、のどの奥で細く鳴いた。そんなに落ち込んで見えてしまったのだろうか。ありがとうの気持ちを込めて、あごの下をそっと撫でた。

 

「えらそうなことを言ってごめんよ。でも、ハンターさんが慣れない中で頑張ってきたの、知ってるからさ。僕も、それからマリーも。……できれば、これからも仲良くしてほしいって、思うんだ」

「……いい、のか」

「もちろんだよ! だって、せっかく友達になれたんだから」

「…………友達、か」

 

 ハンターは小さく呟いて、手元に視線を落とす。そしてカップに口をつけてゆっくりと飲み干し、腰を上げた。

 生き物に右手を差し出すと、生き物は小さくなったキャベツを咥えたままいそいそと這い上がる。手のひらに収まった生き物を軽く握り込めば、キャベツごと溶けるように消えてしまった。

 

「いってらっしゃい、ハンターさん」

「ああ。……ルーリンツ、感謝する」

 

 ルーリンツに軽く頭を下げて、ハンターは部屋から出ていく。静かに閉められた扉を少しの間見つめて、ルーリンツはベッドや椅子に座っていたほかの二人に向き直った。

 

「さあ、洗濯物を片づけてしまおう。僕はこれをキッチンに下げてくるから、先に始めててくれないか」

「分かった。行こう、ニルス。……やっぱりすごいな、ルーリンツは」

「なんだいハーマン、突然そんなことを言って」

 

 ハーマンは笑いながら首を振る。

 二人も部屋から出て、扉が閉まって、足音が遠ざかってから、ルーリンツは椅子にぐったりともたれかかって深く息をついた。

 

「き、緊張したぁ……」

 

 さっきまでのしっかりした姿から一変して、ルーリンツは弱りきった顔で額の汗を拭う。

 

「お風呂場でのハンターさん、すごく怖かったなぁ……あんな風に怒るんだ、はじめて見た……話の前に落ち着いてくれててよかった……本当によかったよ……」

 

 カップに紅茶をなみなみと注いで、ぐいっと呷り、また深く息をつく。

 

「それにしても、仲直りの仕方を知らない、か……」

 

 ルーリンツは寂しそうな顔で、テーブルのチェス盤を見た。

 

「でも、うん……これで大丈夫、かな? あとはマリー次第だけど、きっと……」

 

 視線がふっと私に向いて、まるで止まった時の中みたいに固まった。何度かまばたきして、ぎしぎしと動き出す。

 

「……え、あ、アレクシス? いる、のかい? ハーマンたちについて行ったんじゃ……」

 

 ルーリンツのことが気になったから残ったのだけれど、当人としては恥ずかしがったみたいだ。眉尻を下げて、ごまかすように笑う。

 

「はは、情けないところ見せちゃったかな……」

 

 情けなくなんか、ない。

 

 さっきまでハンターが座っていた椅子に腰掛けて、ルーリンツの手に手のひらを重ねた。

 

「アレクシス? えっと、どうしたんだい?」

 

 ルーリンツはいいお兄さんだ。

 みんないなくなって、苦しい中で、もう応えることのできないユーリヤに謝りながら、みんなを助けるための(すべ)を探して、私を信じて待っていてくれた。

 

 諦めなかった。謝ったその先を、ずっと目指し続けた。

 なかったことになっても、私は覚えている。

 

 ルーリンツは、本当に、いいお兄さんだ。

 

「うーん、ハンターさんみたいに、僕にもはっきり見えたらいいんだけど」

 

 困ったように笑って、ルーリンツは私の顔がある位置を見つめた。

 

「もしかして、ハンターさんのことが心配かい? 大丈夫だよ。あのなめくじの子が懐いてたの、見ただろう? 不器用で少しうっかり屋だけど、真面目で優しい人だから」

 

 直後、少し乱暴に扉が開いた。

 戻ってきたハンターは、ふらふらとおぼつかない足取りでこちらへ向かってくる。慌てて立って椅子を譲ると、がくりと力なく座り込んだ。

 

「は、ハンターさんっ? どうしたんだい? ま、まさか……」

「…………今は会えない、と……」

 

 ルーリンツはきょとんとして、それから苦笑を浮かべた。

 

「そっか。今は、会えない、か。……そうだ、ハンターさんも洗濯手伝ってよ。体を動かしていた方が、きっと心も少しは楽だからさ。せっかくだし、アレクシスも」

 

 

 

 

 洗濯を終えたあと、庭に張ったロープに並んだ白いシャツを眺めながら、ハンターはぽつぽつと話してくれた。

 

 応対してくれたユーリヤは、マリーを呼びに行ったあと、すぐに申し訳なさそうに戻ってきたという。

 

「ごめんなさい。マリー、まだ今はハンターさんと会えないって……」

 

 でも、とユーリヤはそっと微笑んだそうだ。

 

「今はまだだめだけど、落ち着いたら、きっとあの子と話してあげてね。仲直りしたいって思ってるのは、マリーも同じだから」

 

 結局その日は会えなくて、次の日の朝もマリーは部屋から出てこなかった。

 

 

 

 

 

 

 すうすうと規則正しい息の音を立てて、マリーはお昼寝用のまくらに顔をうずめていた。

 

 礼拝堂の二階は静かだ。廊下のホールクロックの振り子の音を、時折吹き込む風がさらっていく。

 耳を澄ませばみんなの声や仕事の音が聞こえてくるけれど、どこか遠くの出来事みたいに感じられて、しじまはいっそう深い。

 

 ユーリヤによれば、マリーが朝ごはんに出てこなかったのは単なる寝坊らしい。午前のうちからここで伏せているあたり、昨日はよく眠れなかったみたいだ。

 

 ハンターの落ち込みっぷりを知っている身としては、早めに話してあげてほしいと思う。でも、赤みの残る目元を見ると、ゆっくり休んでほしいとも思う。

 マリーを見つけてから、誰かを呼びに行くでもなく相向かいに座っているのも、どうするか決めあぐねているからだった。ハンターは仲直りの仕方を知らないって言ってたけれど、私だって似たようなものだ。

 

 ……どうするのが、二人にとって一番いいんだろう。今の私にできることなんて、果たしてあるんだろうか。

 

 ぼんやりと時間は過ぎ、やがて廊下の軋む音がした。だんだんと大きくなるその音に振り返ると、うつむいたハンターが歩いてきているところだった。

 ハンターは顔を上げて、フードの下で目を見開いた。立ち止まって、足が少しだけ下がる。だけどすぐに、ゆっくりした足取りでこちらへやってくる。

 

 もし今から謝るなら、私は席を外した方がいいかな。

 

 椅子から降りて、がんばれという気持ちを込めてハンターの右手を握る。ハンターは弱った顔に少しだけ驚きを浮かべて、静かに握り返してくれた。

 

 私はそのまま廊下に出て、なんとなく心配になって振り返る。

 

 ハンターはマリーの肩に手を伸ばして、あと少しで触れそう、というところで、引っ込めてしまった。

 視線を開け放たれた窓に向け、それから右手を軽く振る。空中に灰色のさざ波が走って、茶色いケープがふわりと現れた。広げて、マリーにそっと掛ける。

 

「……、……」

 

 口元が小さく動いたけれど、呟いた声は風に紛れて消えてしまった。そのまま、マリーに背を向ける。

 

 その腕をマリーが掴んだ。

 

「……ッ!」

「行かないで」

 

 枕に顔をうずめたまま、マリーはぼんやりと眠そうな声で言った。腕を放すと、ハンターはよろめくように数歩後ろに下がる。

 

 マリーは目元をこすりながら体を起こした。まだ眠気の残る、ちょっとだけむっとした顔でハンターを見つめる。

 

「そこに、座って」

 

 ハンターはぎくしゃくと椅子に腰を下ろした。私は入り口に隠れて、中の様子を窺う。背中しか見えないけれど、ハンターはかちこちだ。本当に大丈夫かな。ルーリンツ、呼んできた方がいいのかな。

 

 マリーはハンターをじっと見た。こぼれたあくびを手で隠す。そして、柔らかな笑顔を浮かべた。

 

「……ふふっ」

 

 軽やかな笑い声に、ハンターはびくりと肩を揺らした。

 

「ごめんなさい。でも、干してある洗濯物にじゃれて、落としてしまった時のダニーと同じ顔してるんだもの」

 

 後ろ姿からも分かるくらい、ハンターはうろたえている。マリーはまだ少し眠そうに目元をこすった。

 

「私ね、きちんと怒るつもりだったのよ? でも、それだけ反省してる人のこと、叱れないわ」

「だが、それでは……私は君を傷付けた。本当に済まなかった。君には罰する権利がある」

「ハンターさん。それは、少し大げさすぎるわ」

 

 マリーは困ったように笑う。

 

「そうね、すごく驚いた。またハンターさんが忘れ物してるって思ったら、ぬるぬるして柔らかい、見たことのない生き物が出てきたのだから。驚きすぎて取り乱して、あんな風に泣いてしまって、落ち着いた後ですごく恥ずかしかったのは確かだし、昨日まだ会えないって伝えてもらったのもそのせい。ごめんなさい、せっかく来てくれたのに」

「謝る事など……」

「いいえ。だってハンターさんのこと、振り回してしまったみたいだから。……それにね。私が怒りたかったのは、泣いてしまったことじゃないのよ」

 

 笑顔を引き締めて、まっすぐで真剣な眼差しで、ハンターを見つめる。

 

「最近はハンターさん、ポケットに忘れ物をしなくなってたから、私もあまり気にしてなかったの。もしかしたら確認せずに、気づかないまま水に浸けて、あの子を溺れさせてしまっていたかもしれない。……命が失われるようなことにならなくて、本当によかった」

「……命が」

「ええ。間一髪だった。危なかったのよ」

 

 マリーは眉尻を下げた。

 

「あの子をポケットに入れて、そのままにしてしまったことは、間違いないの?」

「……恐らく、は」

「そう……。私も今度からしっかり確認する。だからハンターさんも、ポケットの中に生き物なんて入れないこと。ハンターさんが()()をなるべく使わないようにしてるせいで、ずっと戸惑って、そのせいでポケットに忘れ物をしてたのも知ってるわ。でも、こんなことが起こるようなら、気にしないで使ってもいいと思うの。それにもう、なんだかみんな知ってるみたいだし」

「……グレイブズの前では、まだ」

「それって、校長先生以外の前ではやってしまった、ってことでしょう?」

 

 ハンターは無言で頷いた。マリーは小さく笑って、茶色のケープの前を合わせる。

 

()()のこと、秘密にするわ。誰にも言わないし、訊いたりもしない。みんな知ってる以上、もう秘密とは言えないかもしれないけれど……秘密を分かち合ってる人の前なら、気を張りつめなくても大丈夫だから」

 

 しばらく、ハンターはなにも言わなかった。肩はこわばったまま、うつむいて下を向いていた。

 

「……何故」

「え?」

「何故、私などの為に、君達はここまでやってくれる?」

 

 窓から風が吹き込んで、マリーの金の髪を揺らす。流れた後れ毛を耳に掛けて、そっと口を開いた。

 

「……私ね。ハンターさんに、とても感謝してるのよ」

「それは、どういう」

「ハンターさんが来る少し前まで、ユーリヤ、ずっと寝たきりだったの。体調を崩して、ベッドから起き上がれなくなって、心も弱ってしまって……。妖精さんから贈り物を貰って、それから見違えるくらい元気になったのだけど、でもやっぱり、もの思いに沈むことがあって。それが、アレクシスが黒板に絵を描き始めたころから、さっぱりなくなったの」

 

 名前を出されて、思わず背筋が伸びた。

 

「私は知らなかったけど、ユーリヤはアレクシスと会ったことがあるみたい。ずっと会いたかった、やっと再会できたって、本当に喜んでたわ。それに、アレクシス自身のことも」

 

 マリーの顔から笑みが消える。寂しそうな、悲しそうな表情で、どこか遠くを見つめた。

 

「もし私たちが知らないくらい昔にユーリヤと会ってて、見えなかっただけでそのころから学校にいたのなら……あの子、ハンターさんが見つけてくれるまで、何年もずっと独りきりだったはずだから」

 

 ……それは、誤解なのだけれど。でもハンターが来なければ、誰にも気づいてもらえなかったのは確かだ。

 マリーは首を小さく振り、ハンターへ笑いかける。

 

「だからね、恩返し。それだけのことよ」

 

 ハンターはかすかに身じろぎした。フードに隠れた頭が少しだけ下がり、どこか弱々しい声が漏れた。

 

「……謝罪に来て、逆に礼を言われるなど。一体どうすればいい」

「それはそれ、よ」

「だが……」

「もう、頑固なんだから。……そうだわ、それなら一つ、お願いを聞いてくれるかしら?」

「ああ、どのような事でも。……?」

 

 マリーはハンターへ手を伸ばして、フードをそっと払った。あらわになったハンターの顔へ、柔らかく微笑んだ。

 

「部屋の中では、フードは脱いで、顔を見せて。ね?」

 

 たっぷりと黙り込んだあと、ハンターは首を傾げた。

 

「……それだけ、か?」

「それだけ、じゃないわ。すごく大事なことよ。だってほら、ハンターさんの目が泳いでるの、はっきり見えるもの」

「え、な……」

 

 ハンターの手がさっと顔の前に伸びて、フードを降ろそうとして空振りする。楽しそうに笑うマリーに、ハンターは肩に入っていた力を抜いた。

 

「……敵わないな」

 

 その声は、今まで聴いた中で一番優しい響きをしていた。マリーは笑い声を止めて、きょとんとしてハンターを見た。

 

「どうした?」

「その、ね。今、とってもすてきなものが見られたから。……ふふっ、みんなに自慢しなくちゃ」

 

 嬉しそうに顔をほころばせたマリーに、ハンターはまた首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 こうして、ちょっとした大事件は幕を下ろした。

 

 ハンターとマリーが二人で歩いているのを見て、ルーリンツもユーリヤもほっと安心していた。それからハンターがフードを脱いでいることにびっくりして、顔が見えた方がやっぱりいいと笑っていた。

 

 ()()のこともみんなの秘密になった。校長先生だけには内緒だけれど、そのうちハンターが校長先生の前でうっかり手品したら教えることになった。いつになるのかはハンターのうっかり次第だ。

 

 ただ、一つだけ。

 やっぱり、いくらなんでもポケットに生き物を入れてそのまま気づかない、なんてことはあるんだろうか?

 

 そんな質問を連絡ボードに描いて見せると、医務室でひなたぼっこしていたところを連れてきた当事者のエビー――本当の名前はもっと長いけれど、呼ぶのにちょっと不便なので、本人に断ってあだ名をつけた――は、あのね、と角を伏せた。

 

 

  じつはね もっと いろいろあったの

 

 

 エビーの体から漂う銀色の光をそっと触ると、そんな思いが伝わってくる。思い出の言霊に似ているものの、みんなの声と同じように、すぐに薄れて消えてしまう。

 

 

  おようふくに おいてけぼりにされたのは ほんとうだけど

 

 

 連絡ボードの絵を消して、棚の上で待たせていたエビーをそっと左手で持ち上げた。

 意識しなくとも触れるのは、ハンターと同じだ。ただ、温かくて節ばったハンターの手と違って、ひんやりしていて、ぷにぷにと柔らかい。この子と一緒にいるところをティアに見つかると、どういうわけかものすごく怒られるので、棚の隣にしゃがみ込んでこそこそと。

 よし、とあらためて話を聞こうとしたその時、部屋の入り口からハンターの声が届いた。

 

「ここにいたのか」

 

 フードも丈の短いマントも脱いで、腕をまくったシャツにベストという格好だ。こうやって顔がはっきり見えると、最初のころよりずいぶん顔色が良くなったことが分かる。

 

「少し時間を貰え……なんでそれがここにいる」

 

 ハンターは途中で言葉を切り、しらっとした目でエビーを見る。

 手を挙げた私にため息を一つついて、ハンターはエビーをつまみ上げた。またね、と尾を振って消えるエビーに手を振り返して、ハンターの顔を見上げる。

 ハンターは視線をさまよわせた後、深々と頭を下げた。

 

「お前に、謝罪を」

 

 ……えっと。

 謝られるような心当たりがなくて、私は首をかしげた。ハンターは顔を上げ、だけど目は伏せたまま、言葉を続ける。

 

「お前の事情など考えもしなかった。たとえ神秘の側の存在であっても、あの継ぎ接ぎ男や檻頭の気狂いと同類だなどと、考えるべきではなかった」

 

 つぎはぎ男に、檻あたまの、ええと……。よく分からないけれど、ハンターの言い方からして良くないもののようだ。

 

「私はあの時、場合によってはお前を狩るつもりでいた。命を、奪おうとした」

 

 ……もしかして、最初の、医務室での時のこと?

 たしかにすごく怖かった。だけど、あの頃でもハンターがそんなことをしたなんて思えない。不思議な力を持っていてもハンターは人間で、人でないもの(妖精)とは違う。

 

「だから、私、は……」

 

 言葉の続きはあいまいに消えてしまった。

 苦しそうな顔なんてしてほしくないのに。それにハンターが謝るなら、私だって。

 

 私は持ったままのチョークに視線を落とした。簡単な文章が精いっぱいのつたない言葉で、ルーリンツみたいに励ますことができるだろうか。……いいや、やらなくちゃ。このままずるずる先延ばしにするのは、きっと良くないから。

 

 腕を伸ばして、ハンターの手を握る。それからちょっとだけ引っ張って、連絡ボードの前に一緒に立った。

 目を瞬かせたハンターを横目に、私はチョークを握り直した。

 

 

 "I do not mind it"

 "you made a burn I am sorry"

 "you helped me thank you for shared chalks"

 "you gave me a chance I met everyone again"

 

 

 ……これで伝わるのかな。この前みたいに間違えてないかな。

 

 ハンターは言葉もないまま、ボードを見つめた。その顔には確かに感情が浮かんでいるけれど、苦しそうで、悲しそうで、でも全然違うもののようにも見える。

 やがて、握っていた手が小さく揺れた。

 

「……ここは、優しすぎる」

 

 声は湿り、震えていた。

 

「私は、恐らく、ろくな人間ではなかった。その記憶を失った今も。いつも思い知らされてばかりだ。皆の優しさと、己の浅ましさを」

 

 うつむいた顔から、床に雫が落ちた。……ああ、泣いてなんてほしくないのに。間違えてしまったの、かな。

 手を離そうと力を抜いた瞬間、ハンターの手に力がこもった。ぎゅっと強く、だけど壊れ物を扱うようにそっと。

 

「だが、それでも。獣を狩る以外の能などなく、まして誰かを助けるなど叶わぬ夢だとしても。……必ず、恩を、返す」

 

 手の甲で頬を拭い、ハンターは確かな声で言う。

 

「絶対に。絶対にだ」

 

 私を見つめる瞳の奥には、強い光があった。




"******"
Lv70
過酷な運命“それには意味があったはずだ”
体力:25
持久力:18
筋力:25
技量:29
血質:8
神秘:15


 以下補足。今更ですが、校長先生の名前について。
 この作品では校長先生の名前はLouis Graves、日本語表記はルイス・グレイブズとしています。校長先生の名前をゲーム内で確認できるのが一カ所のみ+筆記体で日本語表記もなしなので、綴りや読みが間違っている可能性もあります。ご容赦ください。
 ただ、Louisはドイツ名のLudwigに対応しており、grave(墓)は地下死体溜りから充分連想できる単語なので、多分これでいいんじゃないかなあと。


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たねも仕掛けも夢の(あわい)

元々次話のまくらだったので短めです。
12/2:加筆
3/23:特殊タグ差し替え
1/16:修正


 

「所詮、夢は人が見なければ存在し得ぬ儚いものだ。

 軸となる惑星がなければ、月などただの石の塊でしかないように。」

 

 


 

 

 ユーリヤと一緒に、籠いっぱいに摘んだコモンマロウの花を抱えて学校に戻ると、楽しそうな声が廊下に響いていた。どうやら第二教室の隣の準備室からみたいだ。

 

「あら? マリーもロージャもどうしたのかな。見に行ってみましょう?」

 

 ユーリヤは私に笑いかけて、開けっ放しの扉から顔を覗かせた。

 

「ねえ、どうしたの? なにかいいこと、あった?」

「あ、ユーリヤ。アレクシスも一緒ね。よかった、ちょうど呼びに行こうと思ってたのよ」

「ハンターさんがね、お洋服をくれたの!」

「お洋服?」

 

 ロージャのはずんだ声に、ユーリヤはきょとんとした。

 

 促されるままに入ってみると、部屋いっぱいに何着もの服が広げられていた。それこそ机じゃ場所が足りなくて、棚の上や椅子、黒板を外したイーゼルにも掛けられているくらいだ。

 

 似ているものはあれど、どの服もそれぞれデザインが違う。いち、に、さん……上着とシャツ、それにズボンで一揃いと考えると、だいたい六組くらいかな。そこにツーピースとドレスを足して八組。こんなにいろいろな服を見るのは、ユーリヤもはじめてみたいだった。

 

「わぁ……! これ、全部そうなの?」

「ええ。こっちに分けた服は丈夫な布や革を太い糸で縫ってあるから、仕立て直すのは難しそうなの。でも、ほどいてばらしてもいいって。これでボタンのやりくりにはしばらく悩まなくて済みそうよ」

「それとね、ハーマンが本の表紙に使う布を探してたでしょ? ハンターさん、自分には布の良し悪しは分からないから、使えそうなのがあれば渡しておいてほしいって。それでね、このシャツ、薄いのに丈夫だから、染めたらちょうどいいんじゃないかなって、マリーと話してたの」

「わ、本当ね。すごくしっかりした生地……ねえ、ほかのも見ていい?」

「もちろん!」

 

 コモンマロウの籠を一旦廊下に置いて、ユーリヤはわくわくしながら服を広げる。私も横から覗き込んだ。

 

 丈夫そうな革のコートと、黄色っぽい色違い。灰色の襟巻きがついた厚手の黒いインバネス。大きな襟の薄緑色のケープの背中には、銀の刺繍が施された夜空色の帯が垂れ下がっている。

 落ち着いた色合いの上品なツーピース。校長先生の服に似た袖のないジャケット、それからベストとズボンの上下一揃いに、もったりした生地の黒い上着。首回りと袖口を細やかなレースで飾り付けた立派な服と深紅のドレスは、おとぎ話からそのまま飛び出してきたようなきらびやかさだ。

 

 どの服も全体的に古びて色褪せていて、状態が悪いものだと裾がすり切れたりほつれて穴が空いてたりしている。でもそういう部分は丁寧に(つくろ)われていて、裁縫の分からない私にも大切にされていたことが伝わってきた。

 それに、金具がついている服が多くて、揺れるたびにきらきら光って目に楽しい。

 

「このドレス、きれいな薔薇色……。でも首元がこれだけ開いてたら、夏場でも少し冷えちゃうかも。……あら? ずいぶん丈が長いし、肩幅も身ごろも広いのね。体格のいい人が着てたのかな?」

「こっちの服もすごいのよ。刺繍も織りも、袖口のレースもすごい細かくて……きっと凄腕のお針子さんたちが仕立てたのね」

「ねえねえ、帽子のお花飾り、厚紙をくるんで芯にしてるみたい。これならまねして作れそうだよ。こんなにかわいいのに、ばらばらにしちゃうのはもったいないもの」

 

 使い道についてあれこれと楽しそうに相談する三人から離れて、私は一着だけ離れた場所に畳んで置いてある服を眺めた。この前マリーの肩に掛けてあげていた茶色のケープだ。あれ、でもこれって……

 ユーリヤが私の横からケープを覗き込んだ。

 

「ねえマリー。この服だけ、弾いてあるけどどうしたの?」

「それは編み方だけ調べさせてもらったら、ハンターさんに返すつもりなの。とても大切なものみたいだから」

 

 そう答えて、マリーはこのあいだの仲直りの時のことを話す。うたた寝をしていたところに、体が冷えないように掛けてくれたこと。それから仲直りが終わった後に返した時のこと。

 

 ――ありがとう。とっても素敵なケープね。

 ――ああ。……恩人の、形見のようなものだ。

 

 マリーがデリケートなことと慌てて謝って、その様子にハンターも慌てて、そのひとは健在だと話してくれた。でもヤーナムに戻るつもりがない以上、二度と会うこともないだろうと。

 

「それなのに、渡してくれた服の中にこのケープが混じっていたものだから、本当に驚いたわ。ハンターさんは自分が持っていても使わないからって言っていたけど、それにしたって思い出が詰まってるんだもの。……すごく素敵だから、似たようなものを作りたいから参考に貸してほしいってお願いしてしまったのだけど」

 

 ほかの服も貰ってしまって大丈夫なのか、マリーはずいぶん心配したらしい。ハンターからの申告によれば、地味で丈夫な男物の服は本人が使っていたもので、残りは廃屋や廃墟から回収したものだそうだ。今後着る機会もないから、好きにして問題ないという。

 

 話を聞き終えたユーリヤは苦笑いした。

 

「そんなことがあったのね。でも、ハンターさんらしいわ」

「そうなの?」

「ええ。ロージャはそんな感じ、しない?」

「うーん、よくわからないかも。私、まだあんまりお話できてないから」

 

 ロージャは少し残念そうだ。

 

 それにしても。ハンターが断片的にこぼす言葉から察するに、ヤーナムはあまりいい場所ではなかったみたいだ。それでもハンターを気にかけてくれるひとが確かにいるんだろう。マリーと仲直りをしたあの日、ケープを受け取った時のハンターの手つきは、とても丁寧で優しかったのだから。

 

 ……そういえば。

 私はケープの縁飾りを指でなぞりながら、最初の日のことを思い出す。

 

 校長先生はヤーナムについて、どこにあるのかも知らないみたいだった。ハンターだって妖精や消失現象のことを知らなかった。お互いのことを知らないくらい、ものすごく遠くにあるのかな。ならハンターはどうやってここまで来たんだろう?

 

「なんだかハンターさんって、まるでおとぎ話の魔法使いみたいね」

 

 ロージャがそんなことを呟いた。マリーもくすりと笑って頷いた。

 

「そうね、ロージャ。ちょっとうっかり屋で、少し不器用だけどね」

「本当にこの一カ月、いろんなことがあって、素敵な方向に動いてくれた。……アレクシス、あなたのこともそうよ」

 

 ユーリヤは右手の指輪を撫でて、それから私に笑顔を向けてくれた。そっと伸ばされた手が、私の頭をなぞるように弧を描く。ぞわぞわした身震いするような感覚も、ユーリヤに撫でてもらえてると思うと嬉しい。

 

 その時、軽い音がした。開けっ放しの扉の代わりに壁をノックしたハンターが、入り口から顔を覗かせていた。

 

「皆、ルーリンツが休憩にしようと……どうした?」

 

 みんなの視線がじっと集まって、ハンターは不思議そうに目を瞬かせた。ユーリヤがはっとして、ぱたぱたと手を振った。

 

「あのね、なんでもないの。ハンターさんに、ちゃんとお礼言わなくちゃねって話してたところ」

「ハンターさん、ありがとう!」

「ええ。本当にありがとうね」

「……あ、ああ」

 

 ハンターはきまりが悪そうに顔をそらした。お礼を言われ慣れてなくて、どうにもこそばゆくて仕方ないとルーリンツにこぼしていたのを聞いたことがある。

 

「それより、休憩だ。茶が冷めないうちに行った方がいい」

「はーい」

 

 部屋を出るロージャに付き添うマリーと、廊下に置いておいたコモンマロウの籠を持つユーリヤを見送り、ハンターは促すように私を見た。私も自分のぶんの籠を持ち上げて、先に歩き出したハンターの後を追いかける。

 

 でも、と。私はさっきの話を思い出す。

 

 ロージャやマリーは魔法使いみたいだって言っていたけれど、なんとなく違う気がする。不思議な力は持ってるけれど、ハンターは魔法使いと言うよりは……

 

 

 ――狩人。

 

 

 そう、狩人。……うん? 誰?

 

 立ち止まって、あたりを見回す。食堂へ向かうみんなのほかに人影はない。でも聞こえたのだ。導きの声とは違う、冷たいけれどきれいな女のひとの声が。

 

 ……空耳、かなぁ。

 

「……? どうした」

 

 廊下の先でハンターが足を止め、振り向いた。私は探すのをやめて、なんでもないと首を振る。

 小走りに駆け寄って隣に並ぶと、ハンターはこっちをちらりと見て、歩幅を少し狭めてくれた。そうやってふたり並んで、食堂へ向かう。

 

 なんとなく見上げた窓の向こうでは、欠けた白いお月さまが夏空のふちに浮かんでいた。




 以下補足。感想で質問のあったこの狩人の攻略状況について。
 聖堂街上層とDLCエリア全域が未到達。聖杯は手付かず。迎えたエンディングはヤーナムの夜明けです。未到達の理由は物語に大きく影響するようなものではないんですが、おいおい回想の中で触れられたらと。


 ついでに。今回放出した服は

・大前提としてこの狩人が入手していること
・遺体から剥いだものではないこと
・血がついていたり、奇抜なデザインだったりしないこと(要するに使い道に困るようなものはアウト)

 の三つの条件がありました。
 具体的にはヤーナム、墓暴き、人形、貴族のドレス、頭以外の騎士、上着あり学徒、手袋以外のガスコイン神父、ヘンリックとなります。


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夏の日はやがて

 音楽堂への外廊下。その柱の間に張られたロープから、洗濯ばさみで吊されていた小さな布切れを外して、手に持った籠へと移していく。一緒に作業していたハーマンはそのうちの一枚を眺めて、満足そうに頷いた。

 

「どう? ハーマン。今度はきれいに染まった?」

 

 廊下の窓から身を乗り出して、ユーリヤがわくわくと問いかけた。その後ろにはルーリンツの姿もある。

 

 夏至が過ぎてしばらく経つとはいえ、まだまだ日は長い。日が傾きはじめて山の端に隠れるまでに、夕ごはんを食べたり、寝るための支度を整えたり、こうやって作業の後片づけができるほどだ。

 淡い色の空に浮かぶ雲は光に染まり、まるで黄金色に燃えているようだった。雲だけじゃない。学校の壁も池の水面も、枝葉の先も、草のふちも。それからみんなのシャツや髪も、光に包まれて暖かな金色に輝いている。

 

「うん、一番のできだよ。色むらもないし、発色もいい。三人とも、手伝ってくれてありがとう」

 

 ハーマンと一緒に、植込を傷つけないように窓枠越しに籠を差し出した。どれも濃さや深さは違えど、西日の中でも揺るがない、どっしりした緑だ。

 

 下処理をした布を、たまねぎの皮を煮出した汁で煮た後、お酢にさびた釘を漬けて作った媒染液(ばいせんえき)で色を定着させる。言葉では簡単に聞こえるけど、ここまでけっこう大変だった。

 染め物についてのテキストを探して、媒染液を仕込んで、それからハンターにもらったシャツの袖の部分を小さく切り分けて、テキストに書いてない部分を補うために時間の取れる時にテストして……と、いろいろあってのこの色だ。最初のころからお手伝いをしていたから、なんだかしみじみした気分になる。

 

 ユーリヤは受け取った籠から、一番上の布切れを手に取った。

 

「うん、きれいなオリーブ色ね。この前のより、ずっと緑が強く出てる」

「本番もたまねぎの皮でやるのかい? それともノートにあったみたいに、ほかの草でも試す?」

「今回はたまねぎでやろうと思う。せっかくルーリンツに貯めておいてもらったんだし、なによりいい色だからね」

「分かった。じゃあまだ捨てないで取っておくよ。……あ、ニルス、ハンターさん。こっちこっち」

 

 ルーリンツが廊下の奥へと呼びかける。二人が同じ窓から顔を覗かせた。

 

「今度のテストはうまくいった?」

「ああ。ニルスもハンターさんも、テキスト探しの時は手伝ってくれてありがとう。おかげで、いいものができそうだ」

 

 ハーマンが言っているテキストとは、今もユーリヤが抱えている温かな字の手書きのノートだ。()()()はきっと、みんなと一緒にやるつもりだったのだろう。そんな気持ちが文面から見て取れた。

 

「見て見て。不思議ね、あめ色のたまねぎの皮から、こんな深い緑が表れるなんて」

「たまねぎの皮が緑になるのか」

 

 小首をかしげたハンターに、ハーマンが窓の下から説明を付け足した。

 

「媒染液にどの金属を使うかで、発色が変わるらしいんだ。ノートにはさびた銅板で媒染液を作った場合についても書いてあってさ」

「媒染液も色を決める要素になるのか」

 

 ハンターの表情は目元によく表れる。動揺すると泳いだり、考え込むときは眉根が寄ったりと、目元を見ればだいたいどんな気持ちか分かる。今みたいに目を柔らかく細めてるのは、たとえば面白い本を見つけた時のような、わくわくと楽しい気持ちの時だ。

 

 ユーリヤはノートを開いてぱらぱらとめくると、ある部分を指さした。

 

「ええと、ここかな。銅で媒染液を作った場合、素材の色に近い色味で染まるみたい。たまねぎの皮なら黄色から茶色にかけての色ね。その、これを書いた人も、実際にやることはなかったみたいなのだけど」

 

 ニルスと一緒にノートをのぞき込むハンターには、ユーリヤへの配慮はあっても遠慮はない。まだ怖がっていたころの私に、ハンターはみんなとこんなに打ち解けたんだよ、って伝えたら、信じてくれるかな?

 

 ルーリンツとは言わずもがな。ユーリヤのことは、口数が少ないなりによく気づかっている。ハーマンには日々のお仕事を教わっていて、マリーにもお手伝いを頼まれている。ロージャとはあまり接点ができないみたいで、まだ少しぎこちないけれど、きっと心配はいらない。校長先生も、自分以外の大人がいる、ということがずいぶん心強いみたいだ。

 

 そして、ニルスとは面白い本を紹介してもらったり、その感想を話し合ったりする仲になっている。今も二人とも本を抱えているのを見るに、きっと図書室で一緒に本を見繕っていたのだろう。

 

 ニルスも、自分の好きなものを一緒に楽しんでくれる友達ができて楽しそうにしている。専門書でしか使われないような難しい単語は知っているのに、子供向けの本に書かれた平易な言葉や言い回しは知らないハンターのために、調べ物の合間にメモを作ったりしている。

 元々ぼや騒ぎで手に怪我をさせてしまったことを気にしていたけれど、今はその気負いもなりをひそめて、本をおすすめするのもメモを作るのも、純粋に友達のためだ。そっちの方が、ずっといい。

 

「なんだか楽しそうだね。今度端切れが出たら、いろいろ試してみようよ」

「でも銅の錆って、あの青かびみたいなのだろう? 危険じゃないのかなぁ」

 

 ルーリンツがうーん、と心配そうに首をひねった。なら、と私は手をあげて振る。危ないものなら任せてほしい。私の手なら、普通の人が素手でさわったら危険なものでも大丈夫だ。ハンターにこの場で伝えてもらえば……あれ、おかしいな、視界には入ってると思うのだけれど。

 もう一度勢いよく振ると、ハンターはやっとこっちに気づいた。

 

「どうした」

 

 本を小脇に抱えて、窓枠に手をかけてこちらをのぞき込んだ。私はその手を取って、手のひらに指で言葉を書く。けれどハンターは手のひらではなく私の顔を見つめたままで、少しだけ寄った眉の隙間に、どこか困ったような色がにじんでいる。

 

「読めない」

 

 ……えっ。

 思わず目を見返すと、ハンターは頷く。

 

「夕日の中だと、似たような色のお前は見づらい。感触だけでは何を書いたか判別できない」

 

 ええっ。

 振り返って自分の体の中で一番はっきりしている両手を西日に透かすと、確かに金色の日差しに溶けて見えなくなってしまった。どうしよう。あとで連絡ボードに書いておこうかな。それにしても、みんなの話をさえぎるだけで終わってしまったなぁ……

 

「でも、アレクシスはさっきの話題でなにか言いたいことがあったのだから……銅媒染もやってみたい?」

 

 ……えっと、私はみんなの役に立ちたいだけだ。それに、やってみたいなんて、そんなこと言える立場じゃない。

 

 ハーマンが私の方をちらりと見て、廊下にいるみんなに声をかけた。

 

「うん、やろうよ。たまねぎの皮と銅の組み合わせは、確か黄色にもなるんだったね」

 

 ニルスとルーリンツも頷く。

 

「今度は僕も作業、手伝うよ。できる範囲だけど、がんばるから」

「染めた布でなにを作るかも、あらかじめ決めてから取り掛かろう。マリーとロージャにも話をしておくよ。校長先生にも」

 

 ……うん? ルーリンツはさっきまで乗り気じゃなさそうだったのに、今はむしろ張り切っている。どうしたんだろう?

 

 ユーリヤはぱたんとノートを閉じて、大切そうに抱きしめた。ハンターと入れ替わるように窓から身を乗り出して、窓枠にかかったままの私の手に、細くて白い手を重ねる。

 

「ねえ、ハンターさん。アレクシスは、夏の夕焼けの色なのね」

「……ああ。ちょうど、今の雲の色に似ている」

 

 私のいる場所を見ながら、ユーリヤが笑う。すこしだけ、さみしそうに。

 

「ねえ、アレクシス。きっとすてきな色になるわ。冬の吹雪に押し込められても、このあたたかな夏の光を思い出せるような、そんな色。……とっても楽しみね」

 

 私は手に意識を込めて、ユーリヤの手に触れる。やっぱりすり抜けて、さわることはできない。でも。

 

 私が頷いたことをハンターから聞いたユーリヤは、ふわりと顔をほころばせた。




 いつまでも ながれをただよいくだり――
 こんじきのひかりのうちを たゆたう――
 いのちとは 夢 でなくてどうする?

 Ever drifting down the stream—
 Lingering in the golden gleam—
 Life, what is it but a dream?
  ルイス・キャロル「鏡の国のアリス」より(訳文・矢川澄子 新潮文庫)


※銅錆(緑青)については、昭和59年に厚生省(現在の厚生労働省)がほぼ無害だという認定を出しています。


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それは私と慈鳥(からす)は言った

 学校の外について、ユーリヤ以外の子供たちはどこまで把握していたのだろう、と考えることがあります。
 「ニコラスと森の動物誌」を愛読していたニルス。古びた絵はがきを宝物にしていたマリー。外に繋がる扉の鍵を、お気に入りのがらくたとして所持していたハーマン。
 現状に対して疑念を抱かなかったのか、あるいは抱いていたもののプレイヤーに分かりやすい場所では表していなかったのか。抱いた上で、現状に納得していたのか。私はゲーム本編からは手掛かりを見つけられませんでした。
 確実に言えるのは、彼らは本当の事を知らされていなかった、という点に尽きるのでしょう。

 のんびりした話は一旦おやすみとなります。ちょっとストレス展開かも。
 文字数もなめくじ事件より多いです(約19,000字)。
 また、今後独自解釈や設定が増えます。ご了承ください。

 追伸:妖精のブローチすごい良かったです。毎日拝んでいます。

4/12:一部加筆
1/13:修正
9/27:修正


「雨、止まないね」

 

 鳥かごの餌箱の中身を新しいものに取り替えながら、ニルスがそんなことを呟いた。

 それにつられて、ハーマンも窓の外を見る。

 

「そうだね。なんとなく雨足が弱くなってきた気もするけど」

 

 その言葉の通り、窓の外は雨模様だ。

 昨日までのからりと晴れた夏空はすっかり隠されて、薄曇りの空から雨がしとしと降り続いている。

 

 ハンターは読んでいた本から顔を上げて、二人と同じように窓の向こうを眺めた。

 

「……しばらく降りそうだな」

「どうして?」

「ハーマンから、雨が止む前兆として、向こうの山に掛かっている霧も晴れると聞いた」

「え? ああ、確かに言ったことあるけど」

 

 突然話題の中心になって、ハーマンは目をしばたいた。

 ニルスもハンターの言葉に頷く。

 

「それなら僕も聞いたことがあるよ。どの本に書いてあるのって尋ねたら、ただの観天望気(てんきうらない)だよって言われて驚いたな。ねえ、ハーマン。ほかにどんな法則があるの?」

 

 ハーマンは苦笑して首を振った。

 

「法則なんて、そんなはっきりしたものじゃない。それに僕も、ずっと前に誰かから教えてもらったんだ」

 

 雲が魚のうろこみたいに小さく切れて並んでいると、天気が崩れる前兆だとか。

 夕焼けが綺麗に見えたら、次の日は晴れだとか。

 

「あとは、雲の流れる方向である程度予測できるらしいけど、まずは自分で観察して考えてみてねって言われて、とうとう教えてもらえなかったなぁ」

 

 そんな三人の会話を聞きながら、私は窓の外へ視線を戻した。

 

 夏も半ばを過ぎ、雨水を受けた枝葉の緑は更に色を濃く深くしていた。光を含んだ雨は陰影をおだやかに打ち消して、しずくを受ける青葉や花びらを淡く輝かせている。

 遠くの山々は雨にけぶり霧に霞み、青野に真っ白なうすぎぬがはためいているようだ。

 

 ぼんやりとして、でも鮮やか。

 

 そんな風景が窓の向こうに広がっていた。

 

 

  あめは すき?

 

 

 左手のそばにいるエビーがそんなことを尋ねてきた。深くはっきりと頷いて、それからなんで? と首を傾げる。あえかな銀の光にのって、なんだか笑ったような雰囲気が伝わってきた。

 

 

  だって ずっと ながめてるもの

 

 

 そう言われて、はた、と気づく。校長先生が作ってくれたお手本は、最初の一文を写したところで止まっていた。

 いけない、と思って小さな黒板に向き直り、チョークを握る。でも外の様子が気になって集中できなくて、思い切って机に置いて、エビーを連れて窓辺にひじをつく。

 

 これが流れる時の中でのはじめての雨、というわけではない。でも、空から落ちてきた雨つぶがぱちんとはじける瞬間や、窓ガラスにかすめた水滴が少しずつ大きくなって、ふとした拍子に流れる姿。それから今は見えないけれど、水たまりにいくつも波紋が広がって重なる様は、何度見たって飽きない。もし叶うなら、雨を浴びたり空気の匂いをかいだりしてみたい、なんて思ってしまう。

 

 それくらい、雨は素敵なのだ。

 

 取り替え終えた餌箱を戻したニルスに向けて、小鳥は満足そうにちゅいっと鳴いた。ニルスは笑って手を振ると、椅子に座って本を広げる。視線をふと窓枠のエビーへと向けて、小さく首を傾げた。

 

「ぷよぷよしてるなめくじさんにとっては、雨が降ってる方が過ごしやすいのかな」

 

 問いかけというよりは、ひとりごとに近い。そのひとりごとを拾ったハンターも、本に目を落としたまま答える。

 

「どうだろう。あれは暑さに弱いのに日光浴をしたがる節がある」

 

 わたしのはなし? と角をひょっこりと伸ばすエビーを見て、ハーマンは優しく笑った。

 

「ハンターさんの手のひらとかも好きみたいだし、ちょうどいい暖かさが好きなのかもしれないな」

「それは手の上で餌をやっていた影響だろう」

 

 その様子を想像すると、なんだかほほえましい。ハーマンとニルスも、にこにこした顔をハンターに向けた。

 

「はは、ハンターさんらしいな」

「なめくじさんが葉っぱを食べてるところ、かわいいからね。気持ち、分かるよ」

「え? いや、そういう訳では……」

 

 三人の会話を背に、実際のところを目で尋ねると、エビーは銀沙の散った小さな体を私の左手にすりよせた。ひんやりとした感触と一緒に、やさしい気持ちが伝わってくる。

 

 

  いちばんふれあえるのが てのひらだもの

  いっしょにいられるのは うれしいものよ

  あれくしす あなたと おなじね

 

 

 うーん、そっちじゃなくて。

 首を傾げてみると、エビーにも伝わったみたいだ。

 

 

  ひなたぼっこの こと?

  しめってるほうが すごしやすいわ

  でも ひなたぼっこも したいの

  みすてられていても ともにあるのだとと かんじられるから

 

 

 ……うん?

 私の手にじゃれつきながら、エビーは静かに歌う。

 

 

  ときは はる

  ひは あした

  あしたは ななとき

  かたおかに つゆ みちて

  あげひばり なのりいで

  かたつむり えだをはい

  かみ そらにしろしめす

  すべて よは こともなし!

 

 

 ……、…………?

 とりあえず、私は指先でエビーの頭を撫でた。角の後ろが好きみたいなので、その辺を重点的にぷにぷにと。

 

 エビーの言葉は時に難解だ。なにを言っているのかわからないことも多い。エビー本人から、お話できることは他の人(学校のみんなはもちろん、なぜかハンターも)に伝えたらだめって言われているのもあって、だれかに質問するのも難しい。

 でも、こうやって言葉をふわふわこぼすのはなんだかとても楽しそうで、小鳥のさえずりみたいでいいな、と思う。

 

 ぽつぽつと続いた三人の会話もやがて自然に途切れ、部屋に響くのはページをめくる音や、紙にペンで書き付ける硬い音ばかりになった。

 

 ……ううん、それだけじゃない。

 

 小さな音が無数に連なる雨の音。屋根を叩く音に紛れ込む、さらさらとこぼれるようなささやかな雨音は、まるで内緒ばなしが漏れ聞こえてるみたいだ。

 それに乗せて歌う小鳥の声もどこかしっとりして、柔らかく部屋に響いている。そういえば、小鳥の歌声もすこし変わった。今までよりもっと抑揚がついて、即興で歌を作ってるみたいだ。

 

 おだやかで、優しい。そんな時間が静かに流れていた。

 

 澄ませている耳に、ノブを捻る音が届いた。扉を開けて顔をのぞかせたルーリンツは、不思議そうに目を瞬いた。

 

「あれ? みんな揃ってるのか。この時間帯だとなんだか珍しいな」

「今日は少し寒いから、自然に集まったのさ。ルーリンツこそ、今日はキッチンのストーブの覗き窓の煤掃除をするって言ってなかったか?」

「それが、ダニーがストーブから離れなくて、火を落とすに落とせなくてさ」

 

 食べ物や食器は片付けたし、ダニーは頭がいいから、いたずらの心配はない。なにより、熾火(おきび)のじんわりと染みるような暖かさが大好きなのだという。どかそうものなら、とても悲しそうな目で見つめられるとか。

 

「じゃあ、それも晴れてから……」

 

 ニルスの声はティアの低いうなり声にかき消された。

 

「わっ? ティア、どうしたんだい?」

 

 ルーリンツの足元を縫うように飛び込んできたティアは、一直線に私の元へと歩いてきた。いらいらと尻尾を揺らし、青い光を帯びた瞳が私を見据えた。

 

 こっちをまっすぐ見てくるダニーと違って、普段のティアは立ち止まる時は目を細めて伏せて、こちらにほとんど視線を向けない。これは私にだけじゃなくて、ユーリヤたちに甘える時もそうだ。

 校長先生によると、猫にとって目と目を合わせるのはけんかの合図なのだそうだ。寝起きにダニーに鼻先の距離で見つめられて、前足でべしべしと()()()しているところを毎朝見る。あれはお互い楽しそうだからいいけれど、今の雰囲気はとてもそんなことを言える状況じゃない。

 

 この時振計とは少しちがう青い光に見つめられると、足が前に進まなくなる。たとえるなら鍵の掛かった扉の前に立った時のように、()()()()()()()という気持ちが足を竦ませるのだ。

 

 そして、それとはまったく関係なく、今のティアは、怖い。

 

 だしん、と、丸めた尻尾でしたたかに叩かれた床が鳴る。耳をいからせ、のどの奥から、むぅ、と声を漏らす。私は慌てて縮こまるエビーを頭の上に避難させた。

 

 

  あれくしす わたし やっぱり

 

 

 頭の上から降ってきたさみしそうな言葉に、私はぶんぶんと首を振った。エビーが原因だとしても、エビーはなにも悪くない。

 ティアが怒ってる理由は分かってる。エビーと一緒にいるからだ。ティアはエビーのことがあまり好きじゃないみたいだし、特に私といるとものすごく怒る。

 

 ……でも、なんでエビーと一緒にいたらだめなの?

 

 納得できなくてにらみ返すと、ティアがむーっ、とうなった。頭の上のエビーと一緒に息をのんで一歩下がれば、ティアもむーむーとうなりながら一歩ぶん進む。どうにか逃げ出そうと扉の方へ行こうとすると、するりと回り込まれてまた怒られる。ぞわ、と背中に感覚がめり込んで、いつの間にか角に追いつめられたことを悟る。

 

 ……ど、どうしよう。

 

「ティア? いったいどうしたの? アレクシスも……」

 

 みんな困った顔でティアと私の立っている場所を眺める中で、ハンターだけは本をぱたんと閉じ、小さくため息をついて腰を上げた。

 

 ティアの横を何事もなく歩いて、エビーをつまみ上げた。あっ、と手を伸ばすと、なにか言いたそうに片目を細めて私の手の中にぽんと置いて、その場にしゃがみ込む。

 

「しっかり持っていろ」

 

 え……わあっ!?

 

 もし私が話せたら、そんなすっとんきょうな声を上げていたに違いない。ハンターは私の足を抱え、お腹を肩に乗せるように抱き上げて、方向転換して……そこで足を止めた。

 

「……あー、その……どいてくれないか」

 

 はじめて聞くような、ものすごく困った声だ。私はエビーをハンターの頭にいったん乗せて、反対側の肩に手をついて、体を反転させて肩の上に腰掛けた。

 

 後ろ足で立ちあがったティアが、爪を引っ込めた前足でハンターのひざを押さえていた。右足で左ひざを、左足で右ひざを。ハンターが足を持ち上げようとすると、ぎゅっと力を入れる。逆に引くと、合わせるように押し込む。

 

「な……」

 

 なぅ、とうなる声はさっきより弱いものの、ハンターをたじろがせるには充分だったみたいだ。的確に押してくるティアにあっという間に追い詰められて、壁に肩をぶつけてしまった。

 

「……、…………」

 

 ハンターはそっと顔をルーリンツたちの方へ向けた。心配そうにこちらを見ていた三人は、ちょっとだけ笑う。

 

「羊の毛を刈りに行って、逆に刈られてしまったね」

 

 ルーリンツがひょいとティアを持ち上げる。ティアはじたばたしていたものの、腕の中に抱きかかえられると、諦めたように大人しく丸くなった。ただ耳は不満げに寝たままだ。

 

「呆れて悪かった。猫は、怖い」

 

 私を肩から降ろして、ハンターは真剣そのものの顔でそんなことを言う。まったくもってそのとおり、ティアは怒るととっても怖い。

 

「ティアも雨が嫌で、少し気が立ってるのかもしれないな。でもだめだろ、ティア。アレクシスもハンターさんも、すごく困ってたじゃないか」

 

 喉元を撫でながらルーリンツがたしなめるけれど、ティアはつんとそっぽを向いている。やってきたニルスがおでこを撫でても、まだ機嫌は治らない。

 

「明日は晴れるといいけど。……それに、そろそろ鳥さんを学校の外に帰してあげたいからね」

 

 ……え?

 今、なんて。

 

「――……、それは」

 

 私の動揺にかぶせるように、声を漏らしたのはハンターだった。

 ティア以外の、みんなの目がハンターへと向く。ハンターは視線を斜め下に落とした。

 

「いや、このまま、面倒を見るのかと」

「うん。それも考えたよ。でも、やっぱり鳥さんのことを考えると、帰してあげた方がいいんじゃないかなって思うんだ。狭い鳥かごに閉じ込めておくよりは、って」

 

 聞き間違いじゃない、のか。

 どうしよう。止めないと。外はだめだ。外に出したらいけない。でもどうやって止める? あの時はただがむしゃらに動いただけで――

 

 

  あれくしす?

 

 

 はっとして、手の中を見る。エビーは心配そうにこちらを見上げて、私の頬へ角を伸ばしていた。

 

 

  どうしたの?

 

 

 その問いかけに、頷くことも、首を振ることもできない。

 

 ハンターはなにかを言おうとした。でも、言葉はかたちにならなくて、ため息のような声だけがもれる。

 

「……そう、か」

「うん」

 

 ニルスのさみしそうな笑顔と、うつむいたハンターの顔。不思議そうなルーリンツの向こうで、ハーマンは静かにこちらを見ている。

 

 当の小鳥は私たちのことなんて気にしないで、ちゅりーちゅるるると、いつものように鳴いていた。

 

 

 

 学校の外には、命の時間を奪う悪い妖精がいる。

 そのことは、校長先生とユーリヤ、それからハンターだけしか知らない。

 

 

 

 

 

 

 夜、ひとりぼっちで起きていると、考えたくないことをいろいろと考えてしまう。

 

 たとえば、ずっと目を背けてきたこと。

 

 ロッブの森で、あの妖精はニルスを罠に掛けた。そういう痕跡があった。ニルスの命の時間を奪うためには注意を引く必要があると考えて、枯れた花に命を与えるという手段を取っていた。あの妖精は、恐らく我を忘れていない。

 それに時振計の青い指輪と金枝を持っていた。過去に戻るために必要なのは人間の命の時間だけ。ほかの動物や植物では意味がない。むしろ、必要ないのにたくさんの生き物を右手で触って命の時間を集めるなんてこと、するだろうか。あの妖精がなにかの目的のために過去に遡ろうとしていたとすれば、命を無差別に奪う理由はないはずだ。

 

 なのに、学校の外には、生き物の姿はほとんどない。

 

 どうしてだろう、と、確かめようのない疑問がぐるぐると頭の中をかき回して、その渦から不安が泡のように浮かんでは消える。

 

 みんな、生きている。命の時間を奪われることもなく、誰も欠けずに、笑っている。

 

 

 けれど、みんなを閉じ込める問題は、なにも解決していない。

 

 

 ニルスの決意は固い。

 昼のうちに、校長先生に呼び出されているのを見かけた。図書室で待ってたロージャにどうしたのって訊かれて、小鳥を帰すことについていろいろ話し合ったと答えているのも聞いた。最後には納得してくれた、とも。

 

 外のことを教えないで、どうやってニルスを止めればいいのか。考えても、答えは出ない。

 

 ……逆に、外のことを、教える?

 そうすれば、きっと思いとどまってくれる。小鳥は学校にいられるから、悪い妖精に命の時間を奪われないで済むはずだ。

 でも、それを選べば。

 

 

 ――ああ、こんなことって、あるのか……

 ――森だけじゃない。海も、街も、どこもかしこも、全部同じ、消失ばかりじゃないか……

 

 

 絶望で空っぽになった声は、今でも耳の奥にこびりついている。あんな思いをさせたのに、結局ハーマンたちを止められなかった。なんの解決にも、繋がらなくて。

 

 外のことを教えて、それで、また、あんな顔をさせるのか。それが本当にいちばん間違いのないことなのか。

 

 でも教えないと、小鳥を見捨てるのと同じだ。ハンターは命の時間を奪われずにここまでたどり着いた。小鳥も同じように。だからって、次も大丈夫なんて、言えるわけが。

 

 

 ……選択が、怖い。

 

 

 かつての私ならきっと迷わなかった。命の時間の重さを理解せず、いたずらに弄ぶ妖精(人でなし)だったころの私なら。できることをただ試して、その結果がどうなるかなんて、考えもしないで。

 

 なにを選んでもなにもできなかった時の記憶がフラッシュバックする。選んだ行動がもたらす未来を想像できなくて、取り返しがつかなくなる恐怖に、足が竦む。ずっと導いてくれた時振計も、今はどこかに消えてしまった。考えても考えても答えは見つからなくて、なのに時間はどんどん先へ進んでしまう。

 

 私は――

 

 うにゃあ、と隣でティアがぐうっと伸びをした。

 眠そうな目をぱちぱちして、すり寄せてきた顔が私の太ももに埋まる。だけどすぐに、こてんと頭が落ちてしまった。

 伸ばした手が触れる前に、ティアはごろごろと寝息を立て始めた。前足がパン生地をこねるみたいに、交互にぎゅっ、ぎゅっと動く。一緒に伸びる後ろ足でお腹を揉まれて、ダニーの耳がぱたりと動いた。

 

 ……えっと。

 

 ぽかんと、私はティアを見つめた。にゃごにゃごむにゃむにゃと寝ぼける様子は、昼の怒った姿からは想像もできない。

 

 どろどろした緊張は、まだ胸の奥でくすぶっている。でも、少しだけ、静かになったような気がした。

 

 左手に意識を込めて、ティアのおでこに伸ばす。感触はなくても、黒いつやつやした毛並みは指のかたちにへこんだ。エビーのことがあるから、少しぎくしゃくしているけれど、それでも夜はダニーと一緒に隣にいてくれる。それはすごく嬉しくて、でも最近は同じくらい寂しい。

 

 夜は静かで、みんなは寝ていて、私はひとりぼっちだ。それを、身にしみて知るから。

 

 時計を見る。いつの間にか、真夜中にほど近い時間になっていた。雨音はまだ聞こえているものの、昼にくらべて明らかに弱い。猶予は、あまりない。

 今の季節なら、夜明けまではあと五時間くらいだろうか。それまでに、どうするべきなのか、考えないと。

 

 ……ああ。ニルスの心を傷つけずに、小鳥のことも助けられるような、そんな方法があればいいのに。

 

 ティアのおでこを最後にひと撫でして、抱えた膝に顔を埋める。自然と澄ませた耳に、ばたん、と扉が閉まった音が聞こえた。

 

 どれほど気をつけて歩いても、音は夜のしじまによく響く。ぎし、ぎし、と、床が軋む音は頭の上を過ぎて、反対側へと渡っていく。

 

 誰か起きてきたみたいだ。降りてこないから、お手洗いというわけでもないらしい。図書室に向かったのかな。それに、この足音。もしかして。

 

 誘われるように立ち上がる。階段を上れば、廊下の奥に薄ぼんやりとした()()()()色の明かりが見えた。

 

 図書室の入り口からそっと顔を覗かせる。ぐるりと壁に沿うような細い廊下の先で、背高(せいたか)な影が伸びて、明かりの中でゆらゆらと揺らいでいた。

 その根元にいるハンターも、影法師のような真っ黒なコートを肩に羽織っていた。腰のベルトに小さなランタンを吊して、本を開いてぱらぱらとめくっている。うつむいた顔がふと上がり、こちらを見て目をまるくした。

 

「起こしてしまったのか。悪い」

 

 視線を逸らしたハンターに駆け寄って、首を振る。私はそもそも眠らないから、気に病むことはなにもない。

 

 それに、少しだけ、ほっとできたから。

 ハンターの手を握ると、筋張った指の感触と温かさが伝わってくる。ハンターは私の手を振り払わずに、空いた片手で本を閉じて小脇に抱えた。

 

「……大丈夫か」

 

 どういう意味かと首を傾げると、ハンターは私の手を握り直した。

 

「震えている。調子が悪いのか」

 

 言われて、はじめて気づいた。止めようとしても止められなくて、でも心配を掛けたくなくて、首を横に振る。

 

「……扉の開閉音は聞こえなかった。どこにいた」

 

 ハンターの手のひらを開いて、“夜はいつもティアたちといっしょ”と書く。読み取って、眉間にしわの寄ったハンターの顔は、いつもの考えごとをしている時とはなんだか雰囲気がちがった。

 

「犬猫は揃って玄関で寝ているはずだが。ユーリヤは知っているのか」

 

 教えてないし、たぶん知らないと思う。あいまいに首を振ると、ハンターの眉間のしわはさらに深くなる。……なんだろう。なにか、だめだったのかな。

 

「起こしてしまったのかと訊いた時に否定したのは、眠れないから……いや、お前はまず眠る必要もないのか」

 

 頭の上から降ってくる声は低い。おそるおそる見上げると、ハンターは目を瞬かせたあと、あ、と小さく声を上げた。

 

「悪い。言い方がきつかった。責めるつもりはない」

 

 鼻から息をついたあと、私の顔を見つめて言った。

 

「……医務室に来てくれ。話しておきたい事がある」

 

 

 

 

 医務室に入ると、ハンターは腰のランタンを外して、机の真ん中に置かれた金属のゴブレットに引っかけた。だいだい色の明かりが、部屋の中をぼんやりと照ら……わあ。

 

 いつもは整頓されてきれいなはずの机の上は、ものが乱雑に散らかって木目が見えない。広げられたまま積み重なった本。くせの強い字でなにかを書き付けてある紙がたくさん。洗濯物のポケットの忘れ物常連だった、黒い輪っかのペンダント。それにこれは……なんだろう。見慣れない形だけれど、ガラスのビン、かな?

 長細い形と金属製の覆いが特徴的で、先端に鋭い針がついていた。ビン底にも金属の出っ張りがあって、これでは立てて置くことはできないだろう。なんとはなしに眺めていると、横合いからハンターの手がビンをさらって、手品で隠してしまった。

 

「座っていろ。少し片付ける」

 

 ハンターは本を閉じて机の端に積み、がさがさと紙束をまとめていく。積み上がっていく背表紙は、どれも妖精に関するものばかりだ。

 「妖精と命の時間」に、「特別なもの」の上下巻。「見えない妖精たち」は、第一巻だけが抜けている。「妖精と止まった時の考察」も、カルル・ウスペンスキーの「妖精研究概論」もある。

 

 最後にペンダントを首にかけてシャツの下に入れ、ハンターは椅子に腰を下ろした。机の角を挟んで、お互いに向かい合う。

 

「……あの時」

 

 そのまま言葉を続けようとして、小さく首を振って言い直した。

 

「最初の日、グレイブズが私にここの現状を教えた時、お前もユーリヤと同じように、驚くでもなく聞いていた。外に何がいるのか、お前も知っているのか」

 

 少し考えて、私は小さく頷いた。

 

「そうか」

 

 しばらく、無言だった。ハンターは考え込むように目を伏せ、机に肘をついて手で口元を覆う。

 

 やがてちいさく息をついて、姿勢を正した。その目は静かだった。訊きあぐねるように逸らすでもなく、ランタンのほの明かりの中で、じっと私を見ていた。

 

「先に言っておく。お前が気に病む事は、何もない」

 

 どういう意味なんだろう。それを尋ねる前に、ハンターは言葉をついだ。

 

「私は、ニルスの選択を黙って見送るつもりでいる」

 

 ……それは。

 

「昼のうちに、グレイブズには事のあらましを話してある。今後の消息など掴みようのない小鳥の命ではなく、まだ幼いニルスの心に瑕疵が残らない事を優先した。だから、お前にも黙っていてほしいと考えている」

 

 喉元までせり上がる感情を言葉に直そうとして、していないはずの息が詰まるような気がした。

 うつむいた頭の上で、沈んだ声は続く。

 

「現状に甘えているのは理解している。今後、ニルスが真実を知った時、(なじ)られるだろうという事もだ。だが一度知ってしまえば、知らなかった頃にはもう戻れない。そのせいで何か起こってからでは、取り返しが、つかない」

 

 噛み締めるような言葉は、重さをともなって肩にのしかかる。

 だって、状況は違えど、そのことは痛いほど知っている。命のやりとりをする妖精の力を知ったみんなは、鍵を捨てても、外の現状を知らせても、決して諦めなかったのだから。

 

「もっと早く理解するべきだった。ここが人ならぬ者によって孤立している事実の重さに。ここは温かで、まるで幸せな夢を見続けているようで……」

 

 ハンターは胸に手を当てて、服の下にあるものを握りしめた。そして、静かで、けれど力のこもった声ではっきりと言った。

 

「もう二度と、こんな事が起こらないようにする。時間は掛かるかも知れないが、どうにかしてみせる」

 

 ……それは、そんなの、どうやって?

 

 ハンターの表情は声と同じように真剣だった。それは記憶の中の、ロッブの森で見たハーマンの思いつめた目と似ていた。

 

 

 ――ありがとう。君も、来てくれてたんだね。

 

 

 胸騒ぎがした。

 今までのものとは別に、いやな予感が背筋を伝う。

 “なにをするつもりなの?”と手のひらに書いて尋ねても、ハンターは静かな顔で首を振るばかりだ。

 

「お前は知らなくていい。それに、私も無謀な行動を取るつもりはない。心配はいらない」

 

 その目が積まれた本へと向けられた。

 

「グレイブズはかつて妖精の研究者だったと聞く。グレイブズの師や朋友たちが残した資料も、それを読み解く時間もある」

 

 校長先生も、このことを知ってるの?

 物知りな校長先生が知恵を貸してくれるなら、これほど心強いこともない。それでも胸騒ぎは弱くなりはすれど、まだざわざわして治まらなかった。

 

「可能な限り急ぐが、もう夢を見ない以上、慎重に、こと、を……」

 

 声が詰まるように途切れた。まるでろうそくの火が消えるように顔から表情が消えて、ただ目だけがゆっくりと見開かれていった。

 

「……夢」

 

 夢? それに、もう見ないって……

 

 戸惑う私の前で、ハンターは瞳を自身の右手に落とした。手のひらに小さく灰色のさざ波が広がって、あのガラスのビンらしきものが現れる。さっきと違って、中は黒っぽい液体で満たされていた。

 

 ただの、いつもの手品だ。なにもおかしいことはない。けれど、ハンターの顔に浮かんだのは動揺だった。

 小刻みに揺れる目が、私とかち合う。はっとしたようにまばたきして、いつかのように、なにかをこらえるように歪んだ。

 

「……いや。何でも、ない」

 

 手の中のビンが灰色のさざ波に消えた。

 

「やる事に、変わりはない」

 

 噛み締めるように、ハンターはつぶやく。

 

「……話は終わりだ。お前は何も気にしなくていいし、心配する必要もない。それだけだ」

 

 もうなにも話すことはないというように、ハンターは体の向きを机に戻した。本を取ろうと伸ばされた手を、横合いから強く握る。

 

「どうした。ニルスの事なら、これ以上は……」

 

 首を横に振る。怪訝そうに眉をひそめたハンターの手を、ぎゅっと握る。

 

 本当は、嫌だ。小鳥のことを見捨てないでほしかった。でも、私はハンターも納得できるような方法を見つけられていない。ただ嫌だって言っても、きっとハンターは決断を覆してくれはしない。

 

 でも、もう一つの胸騒ぎの方なら。

 校長先生は妖精のことに詳しくて、ハンターは私を見つけられる瞳と、私に触れることのできる手を持っている。もし、ハンターが校長先生と力を合わせて、みんなを閉じ込める問題を解決できるなら、それは本当に素晴らしいことだ。

 けれど。

 

 ハンターの手を開いて、指を当てる。

 

 

 “心配しないなんて、無理だ。”

 

 

 どうすれば外の妖精を止められるかも知らない。

 ニルスと小鳥のどちらも、いちばんいいようにする方法も知らない。

 ハンターがさっき動揺した理由も、知らない。

 私が知っていることなんて本当にちっぽけで、知らないことを知る時間も、残されていない。

 

 

 “妖精のことは校長先生よりぜんぜん知らないけれど、その恐ろしさはよく知っている。”

 “命の時間を奪われたものや、自分のものではない命の時間を与えられたものが、いったいどうなるのかも。”

 

 

 白くしなびたぶどうや蛇。その場に崩れ落ちた服の山。目の前で干からびていった校長先生とルーリンツ。

 奇妙にねじれて枯れ果てた花。我を忘れてみんなの時間を奪ってしまったユーリヤ。どこかに消えてしまったヌーだって、きっと元のねずみには戻れなかっただろう。

 

 それから。

 触り心地が分からないのに、ユーリヤのブローチの柔らかい手触りを思い浮かべることができた。

 匂いを感じ取れないのに、マリーのハンカチはハーブのいい匂いがすると知っていた。

 触れたこともないのに、鍵盤打楽器用の楽譜を見た時、練習したのにうまくならなかった、と思った。

 

 止まりそうになった手を、無理矢理動かす。私のことはどうでもいい。今は、ハンターに気持ちを伝えなくちゃ。

 

 

 “外のことを、本当にどうにかできるなら、私は嬉しい。”

 “でも、妖精は不幸を運んでくるんだ。”

 

 

 妖精の力は都合のいいものじゃない。私にとっても、ロッブの森の妖精にとっても。そうでなければ何度も過去に遡ることなんてないのだから。

 だからこそ、ロッブの森の妖精は諦めないだろう。あのひとに過去に戻る理由より、もっと大切なものができないかぎりは。

 

 

 “ハンターがいなくなってしまうようなことになったら、みんな悲しいから。”

 “私は役には立てないけれど、せめて、心配する必要はないなんて、言わないで。”

 

 

 指を、手のひらから離した。

 

 ハンターは手のひらを見つめたまま、口を開く。

 

「私が、心配か」

 

 ゆっくりと、右手を握りしめる。くすぶっていた動揺は消えていた。

 

「成し遂げるだけの力量があるのかという意味ではなく、私自身の事が」

 

 そんなの当たり前だ。大きく頷くと、ハンターの口の端が少しだけ吊り上がった。

 

「……お前には、甘えてばかりだな」

 

 見間違いかと目を瞬いた瞬間にそれは消えて、いつも通りの静かな表情に戻っていた。

 

「それでも、私はお前より年長者で、汚い事、醜い事の何たるかを知っている。それを成す容易さも、骨身に染みている。だからこそ、ここが人ならぬ者によって喪われるような事があってはならないと、強く思う」

 

 ランタンのほの明かりの中で、目を閉じて、そして開く。

 

「無理はしない。皆を悲しませるような真似も。私に、任せてほしい」

 

 私はもう一度、ハンターの手のひらに指を当てた。

 

 

 “ひとつだけ約束して。”

 “どうか、ずっとここにいて。”

 

 

 妖精だったころ、玄関に置いてもらった私のための椅子に、ユーリヤはそんな言霊を残してくれた。

 私にはもう守れない約束だけれど、自分の命の時間をちゃんと持っているハンターなら、大丈夫なはずだから。

 

 息をのむ音がした。ハンターは唇を引き結んで、それから長く息をつく。

 

「……ああ。それが、許される限りは」

 

 確かな答えに、ひどく安心する。その安心の中から、同じだけの悲しさもそっと顔を出した。

 

 こんな風に、小鳥にも、行かないでって気持ちが伝えられたら、なんの心配もいらないのに。

 

 

 

 そして、夜が明ける。

 

 

 

 

 

 

「おはよう、ねずみのヌー」

 

 ニルスはそっとヌーのおなかを撫でた。

 こうやって毎朝ヌーにあいさつをするのは、ニルスの日課だった。昨日あったこと。今日の予定。それから、たくさんの思い出。

 

「今日も雨だよ。昨日より雨足も弱くなったし、向こうの山にかかっていた霧が晴れたから、もうじき止むと思うけど。鳥さんを外に帰すのは、明日以降になりそうなんだ」

 

 ニルスは言葉を切る。うつむいて、弱々しい声をこぼした。

 

「……でも、少しだけ、安心してもいるんだよ。まだ鳥さんと、一緒にいられるから」

 

 ヌーと違って、小鳥には名前をとうとう付けなかった。最初から学校の外に帰すつもりだったから、なのかな。

 

「鳥さんを外に帰すこと、校長先生にはすごく止められたんだ。外は危ないから、ここで面倒を見てあげようって。でも、あの本に書いてあっただろう? 優しいだけが命じゃないって。小さな命を大きな命が食べて、その命をさらに大きな命が食べて、そして命が生をまっとうした時は、大地にかえってまた小さな命の糧になる……そうやって、命は巡り続けてるんだって」

 

 ニルスは小さく首を傾げて、それからステンドグラスを見上げた。

 

「外には命が溢れてる。小さなものも、大きなものも。きっと鳥さんの友達だっているんだろうな。それに狭い鳥かごより、広い大空を飛んでる方が、ずっといいことのはず、だから」

 

 だんだん落ち込んでいく声に、ニルス自身もだめだって思ったみたいだ。頭を振って、明るく語りかける。

 

「ただね、それだけじゃないんだよ。ハーマンが、巣箱を木に掛けておこう、って。餌台も用意するつもりなんだ。もしかしたら、友達を連れてきてくれるかもしれないからね」

 

 しばらく、ニルスは黙ってヌーを見ていた。けれどヌーが反応を見せることはない。命の時間をなくしてしまったヌーがもう二度と動かないこと、ニルスだって分かってる。それでも願ってしまうのだろう。ユーリヤが私にそう想ってくれたように。あの時のみんなが、ユーリヤのために外を目指したように。

 

「……それじゃあ、また明日。なんでもかじって、聖母さまに怒られないようにね」

 

 最後におなかをひと撫でして、聞こえてきた杖の音に振り返った。

 

「ロージャ? どうしたんだい?」

「ニルス、あのね、鳥さんにちゃんとさよならをしたいの。まだ大丈夫かな。鳥さん、学校にいる?」

 

 礼拝堂に入ってきたロージャに駆け寄って、ニルスはやさしく笑いかける。

 

「大丈夫、まだいるよ。一緒に会いにいこう。鳥さんもきっと喜ぶよ」

 

 ロージャの手を引いて付き添いながら、ニルスは礼拝堂から出ていった。私は二階の手すりから降りて、玄関に向かう。男子の寝室へ行く二人の背中を、廊下から見送って。

 

 玄関を開けると、空を覆う雨雲はだいぶ薄くなっていた。見て取れるほどの速さで流れていく雲間から、かすかに漏れた光によって、霧雨がきらりと光っている。じきに雨は止むだろう。でも。それは。

 

 静かに降り続ける霧雨の中、門の前に背高な人影を見つけて、胸の奥がいやな感じに痛んだ。久しぶりに見た丈の短いマントとフードは、細く降る雨をよけるためだろうか。

 

 ……約束したのだから、ここから出ていくつもりなんかじゃないはずだ。でも。

 

 近づくと、足音もしないはずなのにハンターは振り返って、フードの下の瞳をじっと私に向けた。私はそのまま隣に並んで、手を握る。ハンターはきょとんとして、それから手を握り返してくれた。

 ハンターは瞳を向ける先を、門の向こうに戻した。門を握る右手に力を込めたのか、静かな雨音に軋んだ音が混ざる。

 

「何か、見えるか」

 

 言われて、目をハンターと同じ方へ向けた。特になにも変わったところはない、いつもの風景があるだけだ。首を小さく横に振ると、ぎし、とまた門が軋んだ。

 

「そうか」

 

 足元から続く石畳の道は、門をへだてた丘の向こうまで続いている。この道を歩いていけば、今は廃墟になっているというローアンや、ハンターがいたというヤーナムの街にたどり着くのだろうか。

 

 

 ……この向こうに、生きているものはどれだけ残っているのだろう。

 

 

 濡れた石を踏む音がした。

 

「二人とも。雨が弱くなったからって、外にいたら体が冷える。風邪をひいてしまうよ」

「ハーマン」

 

 振り返った先にいたハーマンだって、この前ハンターがくれた丈夫な革のコートを羽織っているだけだ。

 ハーマンもハンターの隣に立って、門の外に視線をやる。そして、ぽつりとつぶやくように言った。

 

「昨日はありがとう。外のこと、言わないでくれて」

 

 耳を疑った。

 

「……まさか、知って」

 

 目を見開いてうめくハンターに、ハーマンは苦笑して首を横に振った。

 

「詳しいことは全然知らないよ。でもハンターさんは外から来たし、アレクシスもきっと、ユーリヤと同じくらいには知ってるんだろうなと思ってたから。昨日の今日でこうやって二人で並んでるところを見ると、それで合ってたみたいだね」

 

 苦笑いを浮かべたまま、長く長く息をつく。

 

「校長先生はなにも教えてくださらない。だけど、いつもの場所で空を眺めてると、鳥を見かける頻度が数年前よりずっと少なくなったことくらいは分かるんだ。その原因までは分からないけど……きっと、外は危険だと、出てはいけないとおっしゃるようになった理由と同じなんだろうね」

 

 ……あの時、ハーマンは校長先生のナイフを持ち出した。なにがいるのかまでは分からなくても、なにかがあったことだけは把握していたんだ。それが、想像を大きく裏切るようなものだっただけで。

 

「ここに来たばかりのころは、もともと暮らしてた街にもよく出掛けてたんだ。校長先生や、大切だったはずの()()に連れられてね。今は使ってない倉庫の奥に駅があって、そこから汽車に乗って……」

 

 懐かしむように細められた目に、悲しみがにじんだ。

 

「いつだったかな、夜なのに街の方の空が真っ赤に明るくなって、それからは街のことは話題にも出せない。何度か校長先生たちを訪ねる人がいたけど、それももうずっと前のことだ。今は、どうなってるんだろう……」

 

 しばらく、二人とも黙り込んだままだった。強い風が霧のような雨を巻き上げながら、二人の服や髪を揺らし、私の体をすり抜けていく。

 

「真実を、黙っている事にした」

 

 ふいに、ハンターが口を開いた。

 門扉に掛けていた右手を離して、濡れた錆で赤茶けた手のひらを見つめる。

 

「沈黙を選んだ責は私にある。ニルスが真実を知った時に、責められるのは私だけだ。そういう事になった。だから……」

 

 フードに隠れた顔から視線をそらして、ハーマンは目を伏せた。

 

「ニルスと、それからロージャは、ここが閉じた時にはまだ小さくて、なにがあったのか覚えてないんだ。だから二人は学校の外のことを、本や絵でしか知らない」

 

 そういう僕も、忘れてしまったことばかりだけど。そう付け足して、ハーマンは空を見上げた。雨はもう、ほとんど止んでいた。

 

「外のことを二人にどう伝えればいいんだろう。校長先生がなにもおっしゃらないのに、ユーリヤもルーリンツも触れないのに、勝手に教えていいんだろうか。だいたい、僕だって本当はなにがあったのか知らないのに。……そんなことを考える時があって、いつも答えの代わりに不安だけが残るんだ。思い出せない大切だったはずの()()みたいに、みんながどこかに消えてしまったら、って」

 

 こちらに向いた透き通った色の目が、くしゃりと笑みのかたちに歪んだ。

 

「あまり気に病まないで。言えない理由があることの重さは、少しは分かってるつもりだから。それに、みんなに悲しい思いをさせないように、って考えてくれてるのは、嬉しいよ」

 

 ハンターはうつむき、唇を固く引き結んだままだった。ハーマンは眉尻を落として、前を向く。

 

「……野鳥の寿命って、どれくらいだと思う?」

 

 脈絡のない問いかけに、ハンターは軽く目を見開いた。少し考えるように視線を落として、首を横に振る。ちらりと私を見て、分からないらしいとハーマンに伝えてくれた。

 

「長生きはできない。小鳥なら、一年と少しくらいだと言われてる。大きくなって、つがいを見つけて、次の世代に命を繋いだら、ほとんどは命をなくしてしまう」

 

 ……そんな。

 私も、ハンターも。言葉もないまま、ただハーマンを見つめている。その視線をまっすぐに受け止めて、ハーマンは少しだけ表情を緩めた。

 

「もう一つ。図鑑で調べた時、本当に驚いたんだ。こまどりは四月の終わりから五月のはじめに卵を産んで、半月ほどで孵る。ひなや幼鳥のうちは全身地味な色をしていて、二、三か月かけて成鳥になってはじめて、あのだいだい色の胸飾りが少しずつ現れるようになるんだそうだ」

「……どういう事だ?」

「数えてみて。あの子はハンターさんと同じ時期に来てる」

 

 ? ええと……

 私が指を折っている横で、あ、とハンターが声を上げた。

 

「既に成鳥の特徴を得ていた。今年産まれた個体ではない」

「うん。そんな子が、ここに来てくれたんだよ。怪我だってすぐに治ってしまうくらい、元気な姿で。……それが、とても嬉しかったんだ」

 

 ようやく、私もハーマンの言いたいことに気づいた。

 

 あの子は学校の外で、一年間生きてきた。妖精に命の時間を奪われることなく、生きてきたんだ。

 

 重く沈んでいた気持ちの中でなにかが動く。あまりにかすかで、でも気のせいなんて思えないくらいには確かに。

 

「こまどりの生態については、最初のころにニルスにも教えたよ。ニルスは考えて悩んだ上で、やっぱり帰すべきだって選んだんだ。……外になにがあるのかは分からないけど、その中でたくさんの生き物の命が巡ってる。あの子たちの命の時間は短くて儚いけど、だからこそ、途切れてないことの証になる」

 

 ハーマンはそっと笑う。ユーリヤが私によく向けてくれるのとよく似た、やさしい笑顔だった。

 

「それに、あの子だけじゃない。ハンターさんも外から来たんだ。ずっと音沙汰のなかった学校の外から、ここに来てくれた。これ以上の希望はないさ。そうだろう?」

 

 

 当たり前になってしまって、すっかり忘れていたことがある。

 私が妖精だったころ。ハンターも、小鳥も、学校に現れた様子はなかった。行き倒れていた誰かがいた痕跡はなく、ニルスは鳥を見たことがなかった。

 ロッブの森の妖精が、過去を変えた結果の整合によるものなのだろうか。それとももっと別の原因があるのだろうか。

 ……分からない。本当の理由も、あの妖精が過去に戻ろうとする目的も、なにも分からない。ハンターと小鳥のほかは、生き物の姿だってないままだ。けれど。

 

 

 南に流れていた雲が割れる。

 そうして現れた空は、寒気立つように()めていた。まるで果てなどないように、ただ、深い。

 雲はどんどんほどけて、青空は広がっていく。さえぎるものがなくなった太陽は、白々と光を投げかける。

 

「……晴れてしまったね」

 

 門に背を預け、そんな冷たい空を見上げて、ハーマンはぽつりと言った。ハンターもフードを払って、同じように上を向く。

 

 ハーマンは口をすぼめて、そっと甲高く優しい音を鳴らした。何度か確かめるように吹いてから、調子をつけて吹き始める。

 ……ああ、演奏会でみんなが合奏してくれた曲だ。

 伸びやかで細い口笛の音が、晴れたばかりの空に響いた。透き通った、どこか寂し気なあのメロディーが、風に乗って渡っていく。

 一節を吹き終えて、演奏は終わった。ハンターは詰めていた息をついた。

 

「……上手いな」

「ありがとう。この曲、スカボローフェアっていうんだ。スカボローの街の(いち)に向かう旅人に、そこに暮らす大切な人への言伝を頼む歌なんだよ。叶えられないような願いごとを、それでも成してみてくれないか、って」

 

 ハーマンは目を閉じる。

 

「あの子に頼んだら、届けてくれないかなぁ……みんな元気でやってるって」

 

 ざあっ、と風が吹く。雨の名残を吹き飛ばして、やがて静かになる。

 

「いつか、自分で伝えに行くといい」

「え、でも……」

 

 戸惑うハーマンを、ハンターはまっすぐに見つめていた。

 

「そのうち、できるようになる。外から私が来たように」

 

 ハーマンの顔に、ふっと笑みが浮かぶ。笑っているのに、どこかもの悲しい笑顔だった。

 

「……そうだね。いつか、それができたら、いいな」

 

 

 

 

 

 

 次の日。

 

 まだ露が残る庭で、ニルスが鳥かごを開ける。

 小鳥は一度ニルスの顔を見上げて、跳ねて入り口に足を掛けた。右の翼をつくろって、そしてさっと飛び立った。

 

「あ……」

 

 ニルスの声に、小鳥が振り返ることはない。翼をひらめかせ、すぐに門の向こうへと消えた。

 

 ニルスは鳥かごに残った灰色の羽を、そっとつまみ上げた。指先で撫でて、慌てて空を見上げる。

 

「……さようなら、鳥さん」

 

 名残を惜しむように、ニルスはしばらく、その場にじっと佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 晴れた夏空の下に、釘を打つ小気味のいい音が響いていた。

 

 慣れない手つきで、ニルスがかなづちを振るう。とんとんと釘をまっすぐ打ち込んで、あと少しになったら板の切れ端を当て、その上から更に叩く。釘の頭がしっかり埋まったのを確かめて、ニルスはふう、とひたいの汗を拭った。

 

「……できた。ハーマン、見てもらっていい?」

 

 隣で様子を見ていたハーマンが、ニルスの差し出した巣箱を受け取る。ひっくり返して眺めたり、軽く叩いて強度を確かめてみたりして、満足そうに頷いた。

 

「はじめてなのに、きれいにできてる。これなら小鳥も、ゆっくり暮らせると思うよ」

「うん。僕なりにがんばってみたから、そう言ってもらえるのは嬉しいな」

 

 口ぶりはいつもどおり澄ましたものだけれど、目元の嬉しさは隠せていない。図面を引いたりとか、出入口の丸い穴を空けたりとかの難しい部分はハーマンがやったけど、それ以外はニルスが頑張った。板をノコギリで切って、断面をヤスリでみがいて、それから釘穴や水抜き用の穴を錐で開けて、釘を打つ。どれもこれもニルスにははじめての経験で、ハーマンの力も借りながら、難しそうに、でも楽しそうに作業している。

 

 私は玄関ポーチのすみでひざを抱えて、そんな二人の様子をぼんやりと見ていた。

 

 近くではダニーが地面に伏せて、ぱたり、ぱたり、と尻尾を振っていた。ティアもさっきまで私をじとっと監視していたけれど、通りがかったロージャから摘んだばかりのキャットニップを分けてもらって、今は幸せそうにごろごろしている。

 じゅうたんみたいにべろんと伸びたティアから目をそらして、私は二人に視線を戻した。

 

 いつもみたいに、手伝う、って伝えられなかった。

 

 手伝わなくちゃ、と思うのに、足は重い。今の私がみんなのためにできることは、お手伝いだけなのに。

 でも、気づけばあの子のことを考えていて、そのたびに足は止まる。そうして結局、ぼんやりと時間を過ごしてしまっていた。

 

 ……あの子は今、元気、なのかな。

 

「アレクシス」

 

 名前を呼ばれて、振り返る。歩いてきたユーリヤは、すとんと隣に腰を下ろした。ティアは名残惜しそうに口をキャットニップから離し、ユーリヤのひざに飛び乗った。甘えてくるティアを優しく撫でて、静かな目をニルスたちに向けた。

 

「二人とも、元気そうね」

 

 でも、と、私はティアがじゃれていたキャットニップを持って、足元の石畳に茎を当てて字を書く。元気だけれど、ふとした瞬間に、やっぱりさみしそう、って。

 

 ニルスだけじゃない。ハーマンも、時折空を見上げては、首を横に振って作業に戻ることを繰り返している。最初に小鳥と出会ったのは、二人だったから。きっと思い出もたくさん持っているのだろう。

 

「ええ。けれど、だから大丈夫よ。元気を出そうって思ってちゃんと出せるのは、本当にすごいことなの。最初は()()元気でも、そんな()()元気に引っ張られて、少しずつ本当に元気が湧いてくるのよ。そんなすごいことを続けると心が疲れてしまうから、無理をしないよう、ちゃんと見ててあげないとね」

 

 “わかった”と書いて、私はユーリヤの方に体を傾けた。なかばめり込むような状態になって、視界が半分灰色になる。体があれば、寄りかかることができるのだろうけれど。

 ユーリヤの体と重なったところに、ぞわぞわとした感覚が走る。手に意識を込めて、肩掛けの裾をつまむ。引っ張られて布地がぴんと伸びて、感触はなくてもちゃんと触れてるんだって分かって、ほっとする。

 

「……ねえ、アレクシス」

 

 消え入りそうな声で、ユーリヤはぽつりと言う。

 

「あなたは……」

 

 玄関の奥から聞こえた扉の音に、ユーリヤは顔を上げた。硬い足音が近づいて、ハンターが姿を見せた。こちらの視線に気づいて、足を止める。

 

「どうかしたのか」

「なんでもないの。お別れがさみしいねって、話してただけ」

 

 ハンターは目を見張って、それから伏せる。

 

「……悪い」

「ううん、ハンターさんが謝ることなんてないわ。いつか、必ず来ることだもの」

 

 ユーリヤの返事を聞いても、ハンターの顔は晴れない。

 

 ……あれ?

 ハンターの靴が泥でべったりと汚れている。靴だけじゃなくて、ズボンの裾も泥だらけだ。まだ黒く湿っていて、汚れて間もないのが窺えた。どこで汚してきたんだろう?

 

「あ、ハンターさん」

 

 こっちに気づいたニルスが手を振っている。ハンターはポーチの階段を飛ばして降りて、二人に合流する。

 

「遅れた。巣箱は作り終わったのか」

「うん。次は餌台を作るんだ。ハーマンが板に線を引いてくれてるから、それに合わせて切り出すところから」

「そうか。手伝う」

 

 ハーマンは持っていた巣箱を作業台のすみに置いて、帽子の下からハンターを見上げた。

 

「……その、大丈夫だった?」

「詳しい事は後だ。その時に返す」

 

 端的に返して、手渡されたノコギリに眉根を寄せた。

 

「これは……どう使うんだ」

「ハンターさん、ノコギリを使うのはじめてなんだね。ここを握って、押すときに力を入れるんだ」

 

 ニルスの説明を受けて、ハンターはよし、と板に向き直った。横で見ていたハーマンが、あ、と慌てて付け足す。

 

「無理矢理力を掛けると刃が折れてしまうから、それだけは気をつけて。ハンターさんの腕力なら、軽く当てて押すくらいで切れると思う」

「……善処する」

 

 ちょっとだけ肩を落としたハンターだけれど、元々器用な質だ。こつを掴むのも早くて、すぐにパンを切るみたいに、さくさくと板を切り分けていく。

 

 私はそっと、隣に座るユーリヤの横顔を見上げた。ティアを撫でながら、見るともなく、三人の作業風景を眺めていた。もう、途切れた言葉の続きを言うつもりはないみたいだった。

 肩掛けの裾をつまんだ手に、ユーリヤの細い手が重ねられる。ぎゅっと握りしめられても、ユーリヤの手は私をすり抜けてしまう。震えている手を握ってあげられたらいいのに。あの夜、ハンターが私にしてくれたように。

 

 

 ふと、思う。

 私は、おいていくみんなに、なにを残せるのだろう。

 

 

「みんな、お茶が入ったわ。ひと息入れましょう?」

 

 窓から掛けられたマリーの声に、めいめいが返事をして、道具を置く。

 

 隣のユーリヤが、静かに息をついた。ひざからティアを降ろして、いつもの笑顔で私に微笑みかける。

 

「……私たちも行きましょう」

 

 そうして、学校に戻ろうとした時だった。

 

 ちいさな羽ばたきの音。それから、ちゅり、と聞き慣れた声が聞こえた。

 

 みんなの顔が一斉にそちらを向く。

 

 作業台の上で、ひょこひょこと跳ねる小さな影があった。

 曇り空のような灰色の体と、頭から胸元にかけての夕暮れ色。みんなが見ている前で、集めておいたおがくずに頭を突っ込んで、ぷるぷると体を震わせて吹き飛ばしてしまった。

 そうしてくちばしの先におがくずを乗せたまま、こちらを見て、首を傾げて、いつもの声でちゅり、と鳴く。

 

 ハンターも、ハーマンも、ぽかんとしていた。私だってきっと同じような顔をしていたに違いない。

 

 私たちの思い悩みも心配も、それから学校と外とをへだてる門のことも。

 

 なんてことのないように軽々と飛び越えて、小鳥はそこにいた。

 

 ちゅ、とひとつ鳴いて、小鳥は飛び立つ。巣箱の上に留まり、ニルスに向けてちゅいちゅいと鳴いた。

 ニルスは少し俯き、それから笑って、湿った声でそっとささやく。

 

「……おかえりなさい。でも帰ってくるの、少し早すぎるよ」

 

 答えるように、小鳥はちゅりり、とさえずった。



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偃曝(ひなたぼこり)に微睡む。」-1

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それ、旅は果て、峯は尽きて、
 障礙(しょうげ)()れぬ、
唯、すゑの誉の(むくい)えむとせば、
 なほひと戦。

For the journey is done and the summit attained,
 And the barriers fall,
Though a battle's to fightere the guerdon be gained,
 The reward of it all.
  ロバート・ブラウニング「瞻望」より(訳文・上田敏「海潮音」)


 夜明けを迎えたヤーナムに、生きたものの姿はなかった。

 

 道端に転がるのは干乾(ひから)び崩れた、何とも知れぬ亡骸(なきがら)ばかりであった。(うじ)も湧かぬほどに古びた(うつ)ろな眼窩(がんか)は、ただ青空を見上げている。

 

 それ以外に、あの狂った夜の痕跡はなかった。正気を失い異形と化した市民や医療者の姿はなく、建物にへばりつく人ならぬ上位者は見えず、風に混じる赤子の泣き声は聞こえることがない。

 

 まるで、すべては悪い夢だったかのように。

 

 あなたは街をただ彷徨(さまよ)う。

 雲一つない空を渡る太陽は高さを増し、陰を短く、そして濃く深めていく。風は()ぎ、乾いた死臭が(まと)わりついて離れない。窓ガラスは割れ、棺は朽ち崩れて散乱している。ガス(とう)は半ばで折れ、空の乳母車(うばぐるま)(つぶ)していた。

 そのどこにも、生命の姿はない。

 

 日の差さない暗い路地であなたは足を止め、手の中に先触れの精霊を呼び出した。

 先触れの精霊はあなたを見上げ、そして周囲を見渡して、困惑するように触角を揺らめかせた。親指の付け根に頭をすり寄せる先触れの精霊の額を、()びの意を込めて指先で()でる。

 

 ついでにと、湖畔の学舎で拾った半透明のナメクジたちも呼び出す。

 先触れの精霊よりも小ぶりなナメクジたちは、我関せずと手のひらを()い、丸まり、先触れの精霊の背に登り始める。嫌がるように身じろぎした先触れの精霊の背中からつまみ上げると、精霊はあなたに向けて触角を下げた。

 たとえ人ならぬ者に連なる存在だとしても、この冷たく小さな軟体生物たちだけが、あなたが悪夢から連れ出せた命だった。

 

 あなたが助けられたのはそれだけだ。

 他に救えた者などいない。

 

 先触れの精霊たちを夢に戻し、そうして辿(たど)()いた陰に沈む教会も、しんと静まり返っていた。

 

 

 ああ、そもそも皆、死んでしまったのだったか。

 

 

 誰もいない教会で、あなたはそんなことを考える。

 偏屈な老人は身を(やつ)した男に喰い殺され、娼婦は血の聖女に刺殺された。赤衣(あかぎぬ)の盲人の悲痛な声は、あなたの頭蓋の裏に刻み込まれていた。

 

 

 ――俺はただ、たださあ……誰かの役に立ってみたかったんだよ……

 ――でも、それがいけなかったんだろうなあ……

 ――母さんからも、みんなからも、ずうっと言われていたのに……

 ――なんで、勘違いしちまったんだ……

 

 

 その彼の姿も、どこにもない。血の聖女を返り討ちにした後はオドン教会に寄り付くこともなかったため、あなたは彼がどのような末路を辿(たど)ったのかを知らない。ただ、彼が(うずくま)っていた場所に、かすれた染みが残るばかりだ。

 よろめきながら、あなたは教会を後にする。

 

 禁域の森へと歩く足が、ふと大橋の上にある広場へと向いた。階段を降り、骨壷の立ち並ぶ小部屋を抜けて、扉の前に立つ。

 あなたは息を吐き、扉を全力で蹴りつけた。

 音を立てて呆気(あっけ)なくへし折れた扉に、あなたは笑いを漏らす。かつて鍵が掛かっているからと通行を諦めたのは、一体何だったのかと。

 

 そうして大橋の上へと出る。欄干から見下ろす街並みは、乾いた静寂に覆われていた。

 

 あるいは、狂気に満たされた悪夢の街の方が、よほど現実味があったとさえ言えるのかも知れない。

 あの街には吐き気を催すほどの死と、それを喰らいながら腐り果ててなお(うごめ)く生の気配が混沌と渦巻いていた。

 だが日々の営みの痕跡もまた、あちこちに刻まれていたのだ。それは道端に転がる薄汚れた酒瓶であり、石畳の目地に入り込んだ汚物の跡であり、獣狩りの群衆が叫ぶ罵倒であった。下劣で粗雑、手垢(てあか)に塗れているがゆえに、日常を推察するには充分すぎるものだ。

 

 しかしこの真昼の街はどうか。動くものはあなたと陰のほかになく、聞こえるものはあなた自身の息と鼓動、そして静寂の中で浮き彫りになった(ひそ)やかな女の(ささや)きばかりである。

 亡骸も、乱立する冒涜(ぼうとく)的な石像群も、建造物も、ここに確かに生きていたはずの人々の記憶でさえ。あらゆるものは等しく風化して、(ちり)へ、灰へ、そして土へと(かえ)るさなかにある。

 調和があるというなら、まったくその通りなのだろう。

 この街において、(いま)だ息をするあなたは確かによそ者であり、異物であった。

 

 渡り終えた大橋の先を(ふさ)ぐ朽ちた馬車に、あなたは何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、(さや)を伴った聖剣を叩き込んだ。

 音のない街に場違いな破壊音がつんざめいた。返ってきた残響が消えるだけの間も置かず、再度、破砕音が響く。

 瓦礫(がれき)と化した馬車を踏み越え、あなたは橋の先にある隧道(すいどう)をくぐった。やけに長く感じるその出口を(くぐ)()けた瞬間、稜威(みいづ)の風があなたを打つ。まるで出てきたものを廃虚に戻さんとするかのような勢いに、足はその場に縫い留められた。

 

 やがて、風が()んだ。

 

 顔をかばっていた腕を下ろし、あなたは目を開く。

 

 まず目に入ったのは、荒れた石畳を覆う雑草である。風の名残に揺れる若草の先には、名も分からぬ羽虫が留まり、透明な(はね)を緩やかに羽ばたかせている。別の草では天道虫が緩慢に昇り、低い羽音を立てながら、どこへともなく飛んでいった。

 甲高く透った鳴き声に、弾かれるように空を見上げた。何とも知れぬ朧気(おぼろげ)な鳥の影が二つ、遠くの空を渡っていく。

 

 呆気に取られて、あなたはただ空を見た。

 

 濃密な草の香と、土ぼこりの匂い。精気に満ちた風の色。春の澄んだ空気があなたを包み、ゆえに肺腑(はいふ)にこびり付いた死臭を否応(いやおう)なしに感じさせる。

 当たり前を謳歌(おうか)する命の姿が、そこにはあった。

 

 あなたはその中に足を踏み出した。一歩目は躊躇(ためら)いがちに。二歩目からは淡々と。振り返ることは決してなかった。

 湖のほとり、谷の斜面にそびえるヤーナムの尖塔(せんとう)群は、ただ(たたず)んでいる。

 

 

 病んだ古都は、死んでいた。

 死してなお、人を(むさぼ)り喰らう飢えた口は止まることがない。

 

 

 

 

 

 あてどなく、足を進める。

 日は落ち、夜が来て、また日が昇る。それが繰り返されるうちに、草原はいつしか(まば)らな林へと変わる。

 

 あの診療所で目覚めてから、あなたは跳ねた返り血や汚泥、得体の知れぬ薬剤のほかは何も口にしていない。

 息をするだけで喉が痛んだ。唇の端は乾燥によって裂け、塞がり、そのうちにまた裂ける。口内に広がる血は甘くねばついて、喉の渇きを否応なしに自覚させた。

 倒れそうになるたび、太腿(ふともも)に輸血液を打ち込んで無理矢理意識を覚醒させた。酩酊にも似た生きる実感が全身を駆け巡る。しかしそれは足をどす黒く染める内出血を癒しはすれど、消耗した体力を回復させることはない。樽の穴を塞いだところで、(こぼ)れた水は戻らないように。

 

 体はとうに限界を迎えている。

 それでもなお、あなたは足を止めない。

 

 鼓動に合わせて視界が明滅する。それを晴らすために、手の中に注射器を呼び出す。しっかりと握り締め、しかし打ち付けられた太腿に針の突き刺さる痛みはなかった。

 耳鳴りの中に、何かが草に落ちる音が聞こえた。

 瞬間、集中が途切れた。かつてであれば致命的な、しかし悪夢から覚めた今なら大したことのないはずの、その一瞬。

 足がもつれ、転ぶ。起き上がるためについた腕は震えて崩れた。

 襟の隙間から、黒い狩人証が落ちる。それを握り締め、歯を食いしばり、あなたはなお、進もうと足掻く。

 

 悪夢に目覚めて名前以外の記憶を失い、守りたいと思った者のほとんどを(うしな)い、残ったものは悪夢の中で藻掻いた記憶と、変質し人の枠から逸脱し始めた肉体のみだ。

 このまますべては無意味だったのだと諦めてしまえば楽になれる。正気をも失い、泥黎(ないり)に堕ちてしまえば、もう、苦しいと感じることはないというのに。

 

「ぅ、ざ……げ、ァ」

 

 

 認めるものか。

 それは、己にとって、最も無様な敗北に他ならない。

 たとえ死が、(まなこ)を塞ぎ這いずって来いと命令したとしても、なぜそんなものに従わねばならぬというのか。

 たとえこの天の下に生きる誰もが、己の生存を望まないとしても、それに膝を屈さねばならぬ道理がどこにあるのか。

 ここで折れてしまえば、もう二度と、歩くことができなくなると分かっているがゆえに。

 

 

 しかし、どれほど気力を燃やそうと、あなたの肉体は、その意志に応えるだけの力を使い果たしてしまった。

 視界は(にじ)み、ぼやけ、薄暗がりに転げ落ちていく。それに抗うことは、もうできなかった。

 

 暗転する直前、(かす)む瞳は、真昼の月のような白と、夕暮れのような黄金色を捉えた。

 

 


 

 

 廊下の奥から駆けてきたアレクシスに、あなたは立ち止まって目を瞬かせた。

 

 アレクシスはあなたの姿を認めると、一目散に背中に隠れる。そうして恐る恐る、来た方へと顔を覗かせた。

 視線を奥へと向ければ、廊下の角に隠れて黒猫のティアが金色の目でこちらを睨みつけていた。耳をいからせ、見えるように角から伸ばした尻尾をしきりに床に叩きつけているさまは、あなたにも間違いなく不機嫌だと分かる。

 

 再度、あなたはアレクシスに瞳を向けた。

 一見して、淡い金の燐光で形作られた、十にも満たない子供にも似た姿である。風に揺らぐ雲のように定まらない輪郭の中で、手首から先は明確な形を持ち、小さな爪や関節の(しわ)まで生々しく見て取れた。

 頭部もまた、目元以外は茫洋(ぼうよう)としている。曖昧な金の光から細かな表情を読み取ることは、他者の機微に(うと)いあなたには不可能に近い。顔の中で唯一はっきりとしている、無機質な青い光に覆われた目元の様子、あるいは子供らしい所作によって、大まかな機嫌が把握できる程度である。

 ただ、今は間違いなく、ティアに対して怯えている。

 

「どうした」

 

 問い掛けてから、あなたは自省した。

 アレクシスは話せない。意思のやり取りは(もっぱ)ら筆談であり、これほど単純な質問であっても、返答には時間と手間を掛けさせることになる。尋ねるならば、是か非で答えられるようにすべきだった、と。

 

「いつもの喧嘩か」

 

 喧嘩というには一方的に過ぎるが、日常的な語彙が不足しているあなたの認識はその程度である。

 

 アレクシスは勢いよく首を振った。その動きに合わせて、頭上の先触れの精霊の触角も揺れる。間違いなく、原因はこれと見ていいだろう。どういうわけか黒猫のティアは、先触れの精霊を嫌っているのだから。

 

「……全く」

 

 頭の上から先触れの精霊をつまみ上げると、アレクシスは慌てたように手を伸ばしてくる。彼我(ひが)の身長差のせいで手が届かない高さだというのに、その場で跳ねてまで先触れの精霊を取り返そうとする。ティアが不機嫌そうな声で鳴いても、肩を震わせるだけで諦めようとはしない。元々アレクシスは先触れの精霊を構いたがっていたが、最近はその頻度が妙に上がっていた。

 

 状況の打開策として一番手っ取り早い手段は、原因である先触れの精霊を夢に戻してしまうことである。だがあなたは、可能な限りはアレクシスの好きにさせてやりたいと考えている。

 

 あなたは先触れの精霊を見つめた。困ったように触角を揺らす姿にため息をついて、伸ばされた手に先触れの精霊を渡した。

 小さな金の手に戻された先触れの精霊は、親指の付け根に頭をすり寄せる。アレクシスもまた先触れの精霊を胸に抱き、虹彩(こうさい)のない目を細めた。

 一方、ティアの尾は音を立てるほどの強さで床を叩いている。とても気に食わないということは、あなたにもはっきりと理解できた。

 背中にアレクシスたちを(かば)い、ティアから目を逸らさぬまま声を掛けた。

 

「ティアは私が見ておく。行くといい」

 

 しかし、アレクシスはあなたとティアを交互に見るばかりである。先触れの精霊をまた頭の上に戻し、あなたの手を取ると、ティアに怯えながら人差し指で字を書いた。

 

 

 “だいじょうぶ? この前みたいに、ティアにいじめられない?”

 

 

「……、…………」

 

 先の雨の日、ティアに完封された時のことを言っているのだろう。先触れの精霊をポケットに入れたまま洗濯に出した時ほどではないにせよ、あれはあなたにとってほろ苦い記憶であった。

 

 不安げに下がった目尻から、アレクシスは純粋に心配しているのだと分かる。しかし、あなたにも年長者としての矜持(きょうじ)がある。確かに猫は愛らしくも恐るべき脅威ではあるが、いじめられないかと幼い子供に心配されるのは、脇腹を指先でそっとつつかれているような気分になるのだ。

 

 あなたは少しだけ肩を落としながら、乾燥させたキャットニップを夢から引き出した。瞬間、ティアの耳と尻尾がピンと立つ。左右にゆっくりと振れば、つられるように目と耳も動いた。

 

「聞いた通りか」

 

 真正面に向けて放れば、完全に視線は釘付けである。

 

 しばらくの逡巡(しゅんじゅん)の後。

 

 一声鳴き、もう辛抱できないというように飛びついた。前足で抱え込み、ごろごろと喉を鳴らしながら顔をすりつける様は、先ほどまでの不機嫌さが嘘のようであった。

 

 ティアはキャットニップが好きなので、もし困った時は渡してみるといい。たいていの場合は許してくれる。

 

 ユーリヤから得た助言は、非常に有益なものであったと言えよう。

 

「これで問題ないだろう」

 

 アレクシスはほっと胸をなで下ろし、礼の代わりにあなたの手を軽く握る。頭上の先触れの精霊も、あなたに向かって触角を下げた。

 

 鼻から息を深く吐き、あなたは廊下を駆けていく黄金色の背中を見送った。

 

 あなたは自身を無口な質であると思っている。だが、自分の考えを声に出して伝えられることと、アレクシスのように声を出せないことの差は埋めがたいのだという事実もまた実感していた。

 人であれば表情に出るだろうが、アレクシスは人ならぬ神秘の側の存在である。あなたでもかろうじて読み取れるのは、アレクシス自身の情緒が豊かだからだ。もしこの子が人間であれば、ころころと表情を目まぐるしく変えるような、子供らしい子供だったのだろう。

 

 ティアがキャットニップに夢中になっていることを確かめ――初めて触れることのできた(つや)やかな黒い毛並みは、手を離すのに強い意志が必要なほど蠱惑的(こわくてき)であった――あなたはその場を後にする。階段を下りながら、考えるのはアレクシスのことであった。

 

 ヤーナムで狩った獣や人ならぬ者に比べれば、アレクシスの姿は人間に近い。

 ゆえに、この寄宿学校の中にあれば、その異様さは浮き彫りになる。

 

 どこを見ているとも知れぬ、虹彩のない虚ろな眼球。目元を覆う紺青の光は、その代わりに視線のようなものを投げかけてくる。光の粒を零し続ける胸は呼吸を見て取れず、足はまるで棒のように痩せ衰えている。その体は触れれば確かに感触こそあるが、温かくも冷たくもない、空虚な塊としか言い表せない。

 何より、寄宿学校に暮らす他の子供たちが、その丸みを帯びた頬に持ち合わせている柔らかな幸せを、アレクシスだけは備えていない。あの子が常にどこか緊張しているという気付きは、人ならぬ智恵によって(ひら)かれた脳髄がもたらした根拠のない、それゆえに無視できない直感であった。

 

 

 だからこそ、せめて見える己が気にかけ、そしてほかの子供たちとの橋渡しとならねばならない。当人が気にせずに親しくしようとしてくれている以上、それこそが、かつて刃を突きつけて恫喝(どうかつ)したことへの(あがな)いとなる。

 

 

 あなたはそう考えている。そう考えているからこそ、アレクシスとティアが仲違いをしている原因が、あなたがヤーナムから連れ出した先触れの精霊であることに頭を悩ませていた。

 

 そもそもである。先触れの精霊は、あなたにとってはヤーナムで救えた数少ない命であるが、その思い入れがない他の者にとってはただのナメクジである。

 ビルゲンワースの見えた神秘の名残であり、見捨てられた上位者エーブリエタースをイズの深奥より召喚する触媒であるが、かの上位者に見えたこともなく、素質が足りないあなたからしても、少し不思議なナメクジである。

 湖畔の学舎で回収した小さいナメクジたちとは違い、外界に対して明確な関心と興味を示し、その行動からは親愛と高い知能を感じるとはいえ、ナメクジである。

 そのナメクジに、何故アレクシスがここまで執着するのか、そして何故ティアがあそこまで敵視するのか、あなたには理解できなかった。

 

 できる限りアレクシスの味方でありたいあなたとしては、何とかティアには怒りを収めてもらいたいところではあるが、その原因が何なのかさえ見当がつかない。朴念仁のあなたには猫の機微を読み取ることは難易度が高く、それ以前にあなたに対するティアの態度は素っ気ない。

 

 それに、とあなたは階段の横にある倉庫の扉を見つめた。ほかにも色々と問題を抱えている身である。立ち向かわねばならない事柄の多様さと多難さに、再度ため息を吐いた時であった。

 

 背後から聞こえた息の音に、あなたは足を止めて振り返る。かかとにぶつけられた革のボールを拾い上げ、転がしてきた相手の名を呼んだ。

 

「ダニー」

 

 ダニーはあなたの元へ小走りに近寄り、腰を下ろして見上げてくる。かつてヤーナムであなたの喉笛を喰い千切った狂犬どもとは違い、その目には穏やかな親愛の情があった。頭を撫でながら膝をついて視線を合わせると、嬉しそうに鼻を鳴らし、尾を振った。

 

 ティアとは違い、ダニーはあなたに懐いてくれている。最初の頃はアレクシスと揃ってあなたを遠巻きに眺めていたが、アレクシスと和解してからは、同じように親しくしてくれていた。ダニーとのボール遊びは、大型の狩猟犬である彼が満足するまで付き合える体力を持つあなたにとっての日課でもあった。

 

 しかし、とあなたは片手に抱えていたボールを床に置いた。

 ボール遊びをするのはいつも午後になってからだ。それにせがむ時は、常ならば足元を何度も回る。何か別の用事があるのだろうが、付き合いの浅いあなたにはその真意を測ることはできない。

 

「どうした。まだ遊ぶには時間が早いだろう」

 

 たとえ血に狂っておらずとも、獣に言葉が通じるはずもない。あなたの問い掛けに、やはりダニーは小首を(かし)げるばかりであった。

 

 あなたは自身の行動を内心で自嘲しながら、ダニーの首回りや耳の後ろを撫でる。毎日ブラシで適切に()かれている毛並みは健康的で、手触りも良い。ダニーの反応を見ながら撫でるうちに、思考は先触れの精霊のことへと戻る。

 

 ダニーは、先触れの精霊を嫌がらない。と、いうよりも、あまり興味がないのだろう。一度真剣な顔で臭いを嗅いだ後は、特に反応を示していない。この寄宿学校で先触れの精霊を敵視するのはティアのみなのである。

 

「……ティアはどうして、先触れを嫌うのだろうな」

 

 独り言を呟いた途端、ダニーの片耳が動いた。丸い目があなたを見つめ、(まばた)きをする。

 鼻を鳴らし、ダニーはあなたのズボンから垂れ下がったサスペンダーを(くわ)えた。困惑するあなたをよそに、何度も引っ張る。どうやら、どこか連れていきたい場所があるようだった。

 

「ダニー、何を……」

 

 あなたは引かれるままに歩き出す。たどり着いたのは第一教室であった。ノートに何事かを書きつけていたニルスが、振り向いて小首をかしげた。

 

「あれ。ハンターさん、どうしたの?」

 

 あなたはダニーの脇を抱え上げて見せた。よだれでべとべとに汚れたサスペンダーを、あとで夢に片づけておこうと心に決めながら。

 

「ダニーに引っ張られたんだ。邪魔をしたか」

 

 ニルスがロージャの足を治すために調べ物をしていることは、あなたも知っている。専門書を読み解くのに知恵を貸したことも度々ある。彼の邪魔をするのは(はばか)られたが、しかしニルスは首を振った。

 

「いいや、大丈夫。ダニー、どうしたんだい?」

 

 床に下ろされたダニーはニルスを見て、それからあなたの顔をじっと見上げる。まるで促すように尾を振るが、あなたにその真意は分からない。

 

「? ハンターさん、ダニーとなにかあったの?」

「いや……」

 

 何でもないと返答しようとして、あなたは思いとどまった。

 ダニーは、あなたの言葉に反応した、ように見えた。

 獣が人の言葉を解するはずもない。それはあなたがヤーナムで得た知見の一つである。通じるのであれば、あなたが獣に成り果てた恩人を手に掛けることはなかっただろう。

 だが仮に、ダニーがあなたの独り言を解したとすれば。

 

 

 ――なにか困ったことがあれば、誰かに相談してみて。きっとみんな、力を貸してくれるわ。

 

 

 ユーリヤの柔らかな声が脳裏を(よぎ)る。そしてその言葉の通り、あなたはこの寄宿学校に来てから、幾度となく皆に助けられてきた。ダニーも同じように、あなたを助けようとしてくれたのだろうか。見つめれば、ダニーは勢いよく鼻を鳴らした。

 

 助力を乞うことに抵抗がないと言えば嘘になるだろう。幼さの残る子供たちに助けられるたび、罪悪感と羞恥はあなたを(さいな)んでいる。だがそれに足を止めるなどということもまた、あなたにとって恥ずべき行為であるのだ。

 何よりも、これはあなただけの問題ではなく、今はもう、あなたは独りではないのだから。

 

 あなたは静かに息を吐き、口を開く。

 

「悩んでいることがある。相談する時間はあるか」

「うん、大丈夫。僕にできることなら力になりたいしね」

「実は……」

 

 これまでのことを()()まんで説明すると、ニルスは不思議そうな顔をした。

 

「この前のはそういうことだったんだね。けんかというよりは、ティアが一方的に怒ってるだけみたいに思えるけど……でもアレクシスも全然譲らないんだね。なんだか珍しいな」

 

 ニルスはあごに手を当て、しばらく考え込んだ。やがて困ったように眉尻を下げたまま首を横に振った。

 

「ごめん、ハンターさん。僕では力になれない。けんかなんてしたことないし、ほかのみんながしてるところを見た覚えもないんだ」

 

 あなたは頷いた。たとえ譲れないことがあっても、ここの子供たちの気性であれば、冷静に話し合いで折り合いをつけるだろう。

 

 悩んでいたニルスの顔が、ふっと上がる。

 

「ああ、でも、ダニーが寝てるティアをまくらにして、怒られてるのはよく見かけるな。あれはけんかになるのかな?」

「枕にする? あのティアをか」

 

 思わずダニーを見ると、きょとんとした顔で見つめ返された。よく見かける、ということは、何度怒られても懲りていないらしい。穏やかな紳士に見えて、図太いところもあるようだ。

 

 その時のことを思い出したのか、ニルスはくすくすと笑う。

 

「ダニーはね、ティアのことが大好きなんだ。だから、とにかく構ってもらいたがるのさ。ティアがなにもしないと、逆に落ち込むくらいで……あ」

 

 何事かを思いついたのか、ニルスは顔を上げた。

 

「もしかしたら、すねてるのかな」

「すねる」

 

 反復し、あなたは目を瞬いた。ニルスは頷き、これは僕の想像だけど、と前置きする。

 

「ハンターさんにアレクシスのことを教えてもらう前から、ティアはなにもないところをじっと見てることがあったんだ。もしかしたら、元々アレクシスが見えてたのかもしれない」

 

 それにはあなたも心当たりがあった。

 あなた以外の皆にとって、アレクシスは姿も見えず話もできない、幽霊のような存在である。なんとなくいるのは分かるというが、その感覚も個人差が大きいらしく、ユーリヤや校長は視界にいればすぐに気付けるのに対し、ほかの子供たちは見失うことがたびたびあるという。

 しかし一方で、ティアだけはアレクシスの顔にはっきりと焦点を合わせている。そう伝えると、ニルスはやっぱり、と頷いた。

 

「でも最近、アレクシスはなめくじさんと一緒にいることが多いよね。ティアからすると、友達を取られてしまった気分なのかもしれない。怒ってるのはなめくじさんがアレクシスと一緒にいる時だけで、アレクシスやなめくじさんがひとりの時は大丈夫なんだろう?」

「ああ」

 

 嫌っているのは確かだが、医務室の窓辺や裏庭で日光浴をする先触れの精霊に対して、ティアが喧嘩を売りに来たことは一度もない。アレクシスにしても、夜はティアやダニーと共に過ごしているという。

 

「寂しい時、ダニーは落ち込むけど、ティアは気が強いから、落ち込まずにすねてるのかもしれない。それで、アレクシスがなめくじさんと一緒にいるところを見るたびに、怒ってるのかも」

「なるほど……」

 

 何故ティアは怒っているのか。その手掛かりが掴めたのは大きな一歩である。

 

「礼を言わせてくれ。参考になった」

 

 ニルスは安堵したように息を吐き、微笑む。

 

「調べ物を手伝ってもらってるぶん、役に立てたならうれしいよ。ほかのみんなにも尋ねてみて。別の意見も聞けると思う。それに、なるべくなら仲良くしてほしいって思うのは、僕も同じだからね」

 

 教室を出、サスペンダーを外して夢に片付けながら、あなたはニルスから得た助言を反芻(はんすう)する。

 

「友達を取られた気分になって、すねる、か」

 

 足がふと止まった。隣を歩いていたダニーもまた立ち止まり、あなたを見上げる。

 

「……すねるって何だ?」

 

 そんなことを呟いたあなたに、ダニーが目を丸くして、わふっ、と間の抜けた声で鳴いた。

 

 

 

 

 

「そういうことだったのね。すねるって何だ、なんて突然言うんだもの」

 

 これまでの話を聞き終えたマリーは、笑いながら得心がいったと頷いた。

 

 あなたは午前の仕事を終え、たまたまタイミングの合ったマリーと一緒に休憩を取っていた。玄関の隣にある談話室にティーセットを運び、ゆっくりと一息入れる。血の遺志により変質したあなたの体は、日々の仕事程度では疲労しない。それでも仕事の後の温かな茶は、確かにどこか深い部分を癒していた。

 紅茶をカップに注げば、湯気に乗って落ち着いた香りが広がる。足元ではダニーが船を漕いでいた。この心優しいイングリッシュ・フォックスハウンドは、今日はあなたに付き合うことにしたらしい。

 

「すねるっていうのは、そうね……寂しい気持ちが、心の外側にとがってしまったもの、かしら」

 

 紅茶を一口飲み、マリーは息を吐いた。

 

「寂しさって、自分だけではどうしようもないわ。誰かと他愛もないお(しゃべ)りをしたり、こうやってお茶を一緒に楽しんだりしたいって気持ちを、一人で埋めることはできないでしょう? その誰かが決まった相手なら、なおさらね」

 

 マリーはカップの赤い水面を見つめた。取っ手を支える白い指が、その繊細な縁をなぞる。

 

「どうしようもない気持ちを埋めたくて、それでとにかく自分を見てほしくて、わがままを言って……それで大切な人を困らせてしまって、そんな自分がいっそう嫌になったりね」

「……そうか」

 

 マリーが説明するその感情を、あなたは知らない。

 単純に分類するなら怒りのようではあるが、あなたが自分自身に抱くそれとは根本から異なるように思えた。

 ただそれでも、その原因となる寂しいという気分については、ここでの生活の中で朧気ながら理解が進んだように思える。

 喜びや楽しさを分かち合い、困難は互いに手助けし合うという、ここの子供たちには至極(しごく)当たり前の行為の、その高潔さ。

 そういったものに触れるたび、あなたには思うことがあった。

 

 

 この場に人形がいて、そして子供たちの親愛を受けたならば、人は自分を愛さないと断言していた彼女はどんな反応を示すのだろう。

 あの赤衣の盲人もそうだ。彼からの信頼を考えうる限り最悪の形で裏切った己の言えたことではないが、あのような善き人こそ、幸いを感じるべきであろうに。

 それだけではない。あの終りの見えない悪夢の中で、己の幸いを祈ってくれた人々は確かにいたのだ。死に、殺され、狂い、獣と成り果てた、善き人々が。

 彼らがいたら。彼らと、温かな時間を分かち合えたならば。

 

 

 叶わぬと分かっていてもなお、あなたは考えずにはいられなかった。

 そしてそれが、寂しい、ということなのだろうと。

 

「私も小さいころ、ユーリヤに迷惑を掛けてしまったことがあるのよ。どうして寂しく思ったのか自分でも説明できなくて、それで……あら?」

 

 言葉を切り、マリーは顔を上げる。なぜか、その目には困惑が滲んでいた。

 

「あの頃にはもう学校にも慣れて、ユーリヤだってずっといたのに……どうしてあの時、あんなに寂しいなんて思ってたのかしら?……ううん、今は相談の方に集中しないとね」

 

 すぐに困惑は消え、元の穏やかな表情へと戻る。

 

「とにかく、その時の経験からすると、すねてる時の解決方法なんて、満足するまで構ってあげるくらいしかないと思うの。それならアレクシスが一緒にいてあげれば機嫌も直ると思うけど……アレクシスとなめくじさんが一緒の時だけってことなら、もしかしたらもっと別の理由があるのかもしれない。私もティアがぴりぴりしてたら、気にかけてあげるようにするわ。ほかのみんなにも話しておくわね」

「助かる」

「私こそお礼を言わなくちゃ。アレクシスになにかあっても、私たちじゃ気づけないもの。あの子のこと、気にしてくれてありがとうね。ハンターさん」

 

 その言葉に頷こうとして、聞こえてきた硬質な杖の音に、あなたは心臓にそっと氷を当てられたような錯覚に陥った。

 杖の音はだんだんと近づいてくる。そうして、可愛らしい声が頭上から降ってきた。

 

「あ、マリー。ハンターさんも」

 

 息を詰めたあなたの前で、マリーは顔を上に向けて手を振った。

 

「どうしたの、ロージャ?」

「あのね、アレクシスがどこにいるか、知らない? ユーリヤのお手伝いが終わったら、いっしょにお絵かきする約束してるの」

 

 あなたは小さく息を吐き、二階の廊下を見上げる。その先には、手すりから身を乗り出すロージャの姿があった。赤い髪と、それを結ぶ白いリボンが、廊下を抜ける風に揺れていた。

 

「私はユーリヤともアレクシスとも、朝に会ったきりね。ハンターさんはなにか知ってる?」

 

 あなたは乾いた口から唾を無理矢理飲み下した。

 

「……分からない。見かけたら、声を掛けておく」

「うん分かった。お願いね、ハンターさん」

 

 ロージャは手を振り、手すりから離れる。翻る赤い髪を見送り、杖の音が遠ざかったことを確認してから、マリーは顔に(うれ)いを浮かべてあなたを見つめた。声を潜め、吐息に問いを乗せる。

 

「ハンターさん。私の勘違いならいいのだけど……ロージャと、なにかあったの?」

「何も」

 

 あなたは即答して、(うつむ)いて唇を()んだ。

 

「彼女には何の非もない。私が、ただ……混同している、だけだ」

 

 ロージャが明るく素直な少女だと、あなたも知っている。あの物静かな金髪の少女とは容姿も性格も似ていない、まったくの別人だと理解している。

 

 だが、ある時ふと、彼女の赤い髪と白いリボンが、あの記憶と結び付いた。結び付けて、しまった。

 

 それは今や条件反射のように染み付き、あなたの思考を塗り潰す。そこからどれだけ早く我に返ろうとも、動揺が表に出た事実は覆せない。

 それが彼女を傷つけるのではないかと、意図して接触を減らしていた。足の悪いロージャは、あなたが手伝うような日々の仕事を任されていない。だからこそ、距離を取ることは容易だったのだ。

 そんなことをすれば、ほかの皆がその違和に気付かないはずがないというのに。

 

 噛み締めた奥歯が音を立てた。

 

 

 己の反応はロージャへの、そしてあの金髪の少女への侮辱に他ならない。ロージャの優しさも心遣いも無視して、別人の幻影を見出しては悔やんでいる。

 過去を変えることなど、出来ようはずもないのに。

 

 

 マリーは眉尻を下げ、そっとあなたに問いかけた。

 

「それは……ロージャと、一対一では話せない?」

 

 頷くよりないあなたに、マリーは言葉を重ねた。

 

「なら、私やほかのみんなが一緒にいる時なら大丈夫?」

 

 あなたは顔を上げた。あなたを見つめるマリーの目は、ただただ真摯(しんし)な色を帯びている。

 

「……どうして」

 

 責めないのか、と続けようとして、あなたは口ごもる。彼女がそういう性格ではないことは、ここでの生活の中ではっきりと理解していたからだ。

 

「大丈夫よ、ハンターさん」

 

 マリーはそっと笑う。見ている者を安心させるような笑顔は、ユーリヤをはじめとして、皆がよくあなたに向けてくれる表情だった。

 

「少しずつでいいの。気持ちに整理をつけて、いつかはロージャ自身のこと、見てあげてちょうだいね。あの子もハンターさんと仲良くしたいって、ずっと思ってるのだから」

 

 その言葉はただただ優しい。あなたならきっとできるという、柔らかな信頼に満ちている。

 あなたは目を伏せた。その期待に応えたいという思いが、(くすぶ)る自身への怒りを鎮静化させていく。しかし同時に、思うことがあった。

 

 

 そう。ここの皆は、あまりに優しい。

 その優しさを受け取る度、勘違いを起こしそうになる。

 ずっと、ここにいられるのではないかなどと、叶うはずもない夢幻を見る。

 

 

 その時、二階の奥からロージャの声が響いて聞こえた。

 

「ティア、どうしたの?……あ。もー、またアレクシスを困らせてるのね? だめよ、アレクシスはこれから私とお絵かきするんだから」

 

 ついで、うにゃー、という不満げな鳴き声。さすがのキャットニップも、何時間も拘束する力はないらしい。

 

 しまった、と右手で顔を覆ったあなたの前で、マリーは困ったように笑っている。

 

 あなたは息を深く吐き、気合いを入れ直して立ち上がる。せめて次は情けないところを見せるまい。足元でうたた寝をしていたダニーもまた起き上がり、あなたの足にぴったりと身を寄せた。

 

「様子を見てくる」

「私も一緒に行くわ。ティアのことは任せて? ユーリヤにはまだまだかなわないけど、私だってティアを撫でるのは得意なんだから」

「頼む」

 

 そう張り切るマリーに向けて、あなたはしっかりと頷いた。

 



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「偃曝に微睡む。」-2

6/20:修正
6/29:ルビを増やしました

 おまたせしました。
 30,000字を越えてしまったのでさらに分割しました。

 デラシネの登場人物の名前はブラボのキャラクターと対応している場合が多い、というのは有名な話かと思います。本の表紙や本文、手紙の差出人名・宛名など、隠れた場所にある名前もほとんどは対応していたりします。(07/31追記:原作では名前が明らかになっていない登場人物についても、原則それに則って名前を振っています。ロッブの森のおじいさんとか)
 となれば、気になるのは対応する名前のキャラクターがいない登場人物たちのこと。
 そのうちの一人であるマルガレータについては、
 マルガレータ←真珠←細川珠の洗礼名←ガラシャ
 という頭のいかれた連想をしたことがありますが、もっと単純に考えた方がいいのではないか、と最近は思います。
 もしかしたらルイスにとってマルガレータとは、暗い夜道を照らす真珠のごとき月のような、そんな女性だったのかも知れません。
 デラシネ側からすると名前の対応自体はさほど意味のないちょっとしたお遊びでしょうが、そんなことを考えたりします。


 記憶を失い、あの診療所で目覚めてから、あなたは常に夢と共にあった。

 

 

 ――もし誰かに見咎(みとが)められたら手品とでも誤魔化しておけばいい。わざわざばか正直に説明することはないだろうさ。最も、そんな疑問を抱けるようなまともな人間が、このヤーナムに残っているとは思えないけどね……

 ――手品、とは何だ。

 ――……あんた。賢そうに見えて、案外ものを知らないんだね。

 

 

 他の者には使えないのが当たり前であり、使えることの方が異常だとは先達(せんだつ)から教えられていたものの、あなたにその実感はあまりなかった。先達たる烏羽の狩人の言うとおり、疑問を抱くようなまともな人間は、既にヤーナムにはいなかったのだ。

 

 時刻を確認するためにポケットから懐中時計を取り出し、またポケットに戻す。あるいは、掃除のために(ほうき)を手に取り、担当の場所を掃き清めた後に片付ける。あなたにとって夢から物を取り出す異能とは、それらと同じである。

 目蓋を下ろせばほの暗いその裏に、網膜に刻まれた逆さ吊りのルーンが浮かび上がる。暗い場所で強く思う時ばかりは集中が必要となるものの、普段は意識するようなものではない。目覚めた時から聞こえていた、道具類の使い方やその性質を教え、時に指示を告げる(ひそ)やかな女の(ささや)きと同じように。

 診療所で罹患者(りかんしゃ)の獣に生きたまま貪られ、そして狩人の夢にて目覚めた時の、あの全身の血液が冷え切ってしまったかのような衝撃を忘れられなどしない。だが繰り返される死と目覚めは、いつしかそれを陳腐でありきたりなものに代えた。死を夢に()りなかったことにする異能もまた、常にあなたの靴底の下をついて回っていた。

 

 どれも、なんら疑念を抱く対象ではなかったのである。

 あの雨の夜。ゲールマンからの介錯を受け、夢から解放されたはずの今でも使える異常さに気付くまでは。

 

 あなたは動転し、そして身を案じて手を握ってくれたあの子と皆のために覚悟を決めた。

 

 

 まだ、己は夢()見られている。

 何よりも、死を夢に依ってなかった事にできる。

 死への忌避は失われて久しい。狩人の徴を用いて、医務室のベッドの横で目覚められるのも確認している。安全を度外視し、身を削りながら切り込むのは得意だった。いざとなれば何度でも、盾になってでも皆を守る事ができる。

 それは(おぞ)ましき呪縛である。だが皆の為に振るえるのであれば、これほど心強い武器もない。

 

 

 そうして、あなたはまた暗い隧道(すいどう)を抜け、外へと踏み出す。

 他でもない、手を差し伸べてくれた皆の為に。

 

 

 ゆえに、私は使者を送ることも、灯りを置くこともせず、ただ、見続けている。あなたが何よりも恐れているのは、この温かな場所が喪われてしまうこと――あなたの抱える血腥い秘密によって壊れてしまうことなのだから。

 

 


 

 

 なぜもっと早くに気付かなかったのか。

 

 

 あなたは湧き上がる自身への怒りを、息に込めて静かに吐き出した。

 

 目の前には、(さや)を伴った聖剣により叩き斬られた倒木がある。ささくれた断面は白く乾き、まるで石のようにひび割れている。

 その下に潰されていた同種と(おぼ)しき木は湿り気を帯び、大地に触れた部分から腐り始めていた。樹皮の隙間に銀の剣の切っ先をねじ込めば呆気なく()がれ、木屑(きくず)と共に巣くっていた小さな虫がばらばらと(あふ)れる。一匹摘まんで上の木に載せれば、のた打ち、すぐに逃げ出してしまった。

 同時期に土砂崩れに巻き込まれたであろうこの二本の倒木には、明らかな差異があった。

 

 あなたは斜面を見上げた。一帯の木々が一斉に立ち枯れたせいで、地盤が弱り、崩れたのだろう。草がまばらに生えたむき出しの地面の様子から、起きてからまだ一年も()っていないように見受けられた。土砂に巻き込まれた木々のほとんどは、白変した断面を(さら)しながら横たわっている。枯死の原因は、尋常のものではない。

 

 これが、命の時間を奪われた、ということなのだろうか。

 聞いてはいたが、実物を見るのはこれが初めてである。

 

 だが、とあなたは崖に寄りかかり、夢から小さな手帳を取り出して開いた。得た情報をまとめながら、所感と共に書き込んでいく。

 

 ここに来るまでに通った廃隧道には蝙蝠(こうもり)の群れがいた。となれば、彼らの主食である虫もいるのだろう。現に、腐った倒木には何らかの虫が見られる。

 また、ハーマンの証言もある。まれとはいえ、猛禽(もうきん)のたぐいを遠くの空に見かけるというのだ。ならばその餌となる小動物も生息していると考えられる。ニルスの友だったというネズミについても、学校で繁殖している様子がない以上、外から迷い込んだと見て間違いないだろう。

 ハーマン自身、外はまだ致命的な段階ではないと推察していたという。何らかの大規模な事件、あるいは災害が起こり、それによって環境が激変して学校と外部が分断したのは間違いないが、回復する猶予はまだ充分に残っているのではないか、と。

 何よりも、あなたが何者かに攻撃を受けている様子はない。こうやって無防備に出歩いているのは、自身を生き餌として原因たる妖精を(おび)()せないかという打算があっての事だ。しかし命の時間を奪う、という行為が一体どのような手段によって行われるかは想像するよりないが、あなたの五体は満足なままである。

 

 

 何かがあったことは間違いない。

 だがそれは、永続し(むしば)み続ける呪いのようなものではない。あくまで妖精が能動的に起こす現象なのだろう。

 何より、確認できた痕跡はさほど新しいとは言えない。

 ならば、これを起こした悪い妖精はどこに行ったのか。

 

 

 あなたは書く手を止めた。数ページほど戻り、一目であなたのものだと分かる癖の強い走り書きに目を落とす。

 

 

 “妖精がなぜ生命を無差別に害するようになったのか。”

 “命の時間のやり取りに於ける互換性の問題。目的は蘇生ではない。”

 “仮にローアンの妖精ならば、蘇生は不可能だと理解している筈である。特別なものは、妖精には決して用意できない故に。”

 

 

 妖精は、命の時間をやりとりすることができるという。

 だがこうしていたずらに命を奪う、その理由が分からない。

 

 図書室の書籍を読み解く限り、ローアンの妖精は人間に対して非常に友好的であったようだ。

 「妖精研究概論」には子供に()かれ、その願いを叶える存在だとあるが、学者という立場の大人に対しても協力している。母の為に薬を探す少女を導き、オルゴールによって止まった時の世界からでも声を届けようとし、学者に請われて一晩語り合ったという。

 それらにどれだけの脚色が混ざっているのかは判断に悩むところではあるが、関係が良好でなければ、妖精の行動による整合についての研究など出来はしないはずである。行間から(うかが)えるその姿は、子供たちの手伝いをしたがり、校長やあなたに懐いているアレクシスによく似ていた。

 

 だからこそ、あなたは現状との噛み合わなさに違和感を覚えていた。

 

 あなたは顔を上げ、荒れた森を眺める。

 

 ローアンの妖精がこの惨状をもたらしたのか。

 あるいは、また別の個体によるものか。人為的に妖精を生み出す手段があるということだけは、コマドリの一件の時に校長から聞かされている。

 どちらにせよ、その動機は何なのか。それとも既に狂って正気を失い、理由もなく命を奪っているに過ぎないのか。

 

 

 果たして悪い妖精を狩るだけで、本当にこの異変は()むのか?

 

 

「…………」

 

 決め手に欠ける、と声もなく呟いた。

 

 判断を下すには手札が足りなすぎる。それは当然のことでもあった。

 あなたはこの件に関して、寄宿学校の校長ルイス・グレイブズに一切の相談をしていない。

 

 校長は、子供たちを(いつく)しみ、時に諭すこともできる、穏やかな気性の人物だ。神秘の側の存在であるアレクシスについてもよく気にかけ、どこの誰とも知れぬあなたにも信を置いてくれている。あなたにとっても、寄宿学校で唯一の大人である彼は、子供たちとはまた違った気安さで話ができる相手だ。

 

 だが。どのような理由があれ、彼は人を人ならぬ者へと変えた。

 そして、その理由も知っているからこそ、彼をメンシスや医療教会の狂人どもと同じだなどと断ずることはできない。

 

 いっそのこと、彼が探求と好奇に狂っていれば割り切りようもあった。さりとて、人を人ならぬ者に変えたという事実は、あなたにとっては許し難い行為でもある。同一視すべきではないと理性は判断しても、どうしても、ヨセフカやギルバートの変わり果てた姿が(よぎ)るがゆえに。

 

 

 ――狩りの夜が終われば、こんな風に扉越しに話す事もない。もしかして、あなたの顔も見られるのかしら。

 ――むしろ、獣の病に(かか)らぬ事を、感謝しています。せめて、人のまま死ねるのですから……

 

 

「……、……帰るか」

 

 あなたは息を深く吐いた。今この場で、結論を出すべきではない。無理をしないとアレクシスとも約束している。焦って取り返しのつかない状態に追い込まれれば、それこそ本末転倒である。

 

 道の確認だけで終わってしまった前回とは違い、今回は最低限の手掛かりは得られたと言っていいだろう。倒木の差異を確認できたこと、そして奥にあった古い山小屋を見つけられたことは大きい。

 鍵が掛かっているために中には入れなかったが、窓から覗いた室内はがらんどうに冷え切っていた。床の一部が開いているのが妙に引っかかったものの、地下に倉庫でもあるのだろうとあなたは見当をつけている。アレクシスに壁や扉をすり抜ける様子がない以上、妖精もまた同様だろう。いざとなれば扉を壊し、誘い込むことで逆に逃げ道を(ふさ)げる。

 

 そして、もう一つ。

 

 あなたは顔を上げた。崩れた斜面のすぐ横の崖に、ぽつんと枯れ木が(たたず)んでいる。

 

 あれが、どうにも気にかかるのだ。

 いったいどのような負荷が掛かったというのか、幹も枝もよじれ、奇妙な形に(ゆが)んでいる。異様な生長を果たした樹木はヤーナムでも度々見られたものだが、それらと比べても異常であった。

 枝を手折った感触は軽く、(もろ)い。その脆さは腐ったものとも、白く枯れたものとも異なる。かつて似たようなものに触れた覚えはあるが、しかしそれが何なのか、喉元で引っ掛かって思い出せない。

 

 あなたは首を振って思索を打ち切り、懐中時計を確認した。そろそろハーマンと打ち合わせた時間である。

 

 

 

 

 

 ハーマンは古びた錠前の鍵を持っている。

 それが外に繋がる倉庫の鍵だと把握した上で、普段からお気に入りのがらくたとして持ち歩いている。

 

 鍵の存在を打ち明けられた時、あなたはどうしようもない()瀬無(せな)さに(さいな)まれた。

 

 この少年は(さと)く、行動する時は躊躇わない。外の事情を知る校長がこんな鍵を子供たちに預けるはずもなく、その鍵を持つハーマンは今、がらくたとして扱っている。それが示す事実は一つだ。

 

 いったい何年の間、彼は誰にも悟らせることなく、秘密を独りで抱え続けたのだろう。

 

 ゆえにあなたは、役に立てて欲しいと鍵と地理の情報を渡してくれたハーマンを、ほんの少しだけ巻き込むことにした。

 

 ユーリヤやアレクシスと鉢合わせかねなかった一回目の反省もあり、協力者が必要だと痛感したのも理由の一つである。あらかじめ時間を決め、ハーマンに廊下に誰もいない時を見計らって扉の開閉を頼む。そうすればほかの皆に発覚する可能性を(いちじる)しく下げることができる。今はまだ、外に出ていると極力知られたくない――あなたの述べた理由に、ハーマンは静かに頷いた。

 人ならぬ妖精に関わる問題である以上、詳しい情報の共有は行わない。それでも、開示できる範囲で報告は行う。どこまで到達したのか、何か目印になり得るようなものを見つけたのか。彼の記憶の中の地理と照らし合わせてもらい、次の調査の場所の見当をつける。

 

 かつての行動と決断は決して無駄ではなかったのだと、これで少しでも伝わるだろうか。

 

 

 

 

 

「そもそもさ。アレクシスって、あまり自分のことは言い出さないだろ?」

 

 屋根の上での少々の報告と次回の打ち合わせも終わり、話題はアレクシスとティアのことへと移っていた。数時間のうちに、マリーは皆への周知を終えたらしい。

 

 潜めていた声を普段の大きさへと戻し、表情を和らげたハーマンは帽子の下で思案を浮かべる。

 

「アレクシスは僕たちのお手伝いをしたい、ってよく言ってくれるけど、アレクシスが僕たちに手伝ってほしい、って言ったことは、知ってる限りはないと思う。この前の染め物の話だって、手を挙げたのはやりたいって意味じゃなくて、本当は危険な作業は任せてほしいって言いたかっただけらしいんだ。自分は傷つくような体を持っていないから、って」

 

 今までのお返しになればって思ったんだけどな、とハーマンは寂しそうに笑う。とはいえ、あの子の真意が分かった今でも、準備は進めているという。きっと、良い思い出ができるから、と。

 

「そんなアレクシスが、ティアに怒られるって分かった上で、なめくじの子に構いたがる。僕としては、その理由が気になるかな」

 

 なるほど、とあなたは頷いた。ティアばかりを注視していたが、アレクシスもまたこの問題の当事者である。その事情も確認するのは確かに必要だろう。

 しかし。

 

「そういうものを尋ねていいのか」

 

 何故仲良くしてるのか、などという類の話題は外野が触れてよいものなのか。あなたには判断がつかない。

 

 自身の社交性は地を()めるほどの低さだということは、あなたも理解しているところだ。たとえ血の遺志により技量、手先の器用さを研ぎ澄ましても、性格の不器用さまでは改善されないのである。

 この寄宿学校に来てから口数が増えたという自覚はあるが、それはひとえに子供たちが気にかけ、よく話してくれるからだ。気遣いの方法や心配りのこつは多少の場数を踏んで覚えたと言えど、あなた自身の対人技能はヤーナムで殺し合いをしていた頃から特に成長していない。

 

「そうだねぇ……このタイミングでなめくじの子について訊かれれば、ティアとのことについてだって分かるだろうし」

 

 あなたとは方向性と水準の高さが異なるが、ハーマンも懸念を浮かべて空を見上げる。

 

「でもね。お互いに納得できる形で折り合いがつくのが一番だけど、ティアは猫だから、難しいかもしれない。アレクシスに我慢してもらわないといけないかもしれない。そうなった時、それでも一番いい着地点を見つけるには、やっぱり事情をしっかり確認する必要があると思うんだ」

「……そう、だな」

 

 真摯(しんし)な言葉に、あなたを目を伏せた。

 ティアは猫である。いくらあなたがアレクシスの好きなようにさせてやりたいと考えていても、ティアにその要求を通すことはできない。言われるまでもなく、理解しておくべきだったというのに。

 

 ハーマンはあなたの顔を覗き込んだ。

 

「なんだったら、僕の方で訊いておこうか?」

「いや、それは……私がやる」

 

 確かにハーマンに頼めば、あなたよりずっと(うま)く聞き出してくれるだろう。

 だが、今回のことはあなたが連れてきた先触れの精霊が原因である。途中で誰かに委ねるわけにはいかない。

 

 そういったつもりのあなたの返答に、ハーマンは少し笑った。心配そうに、だがどこか嬉しそうに。

 

「そっか。なら、頼んだよ。でも、ティアもどうして、なめくじの子をあんなに嫌がるんだろうね。ヌーの時はそんなことなかったのに」

「ヌー……礼拝堂のネズミか」

「うん。その、猫とねずみってそういう関係だろう? 最初はもしかしたら、って心配してたけど、ヌーとは仲良くしてくれてたんだ。だから、なおさら不思議なんだよ」

 

 首をひねるが、心当たりは何も思い付かなかったようだ。

 

「僕が言えるのはこれくらいかなあ。役に立ったらよかったけど」

「ああ。意見、助かった」

「もしまたなにかあったら言って。なんでも相談に乗るからさ」

 

 言いながら、腰を上げる。

 

「じゃあ、そろそろ戻ろう。時計台で留守番してもらってるダニーを、これ以上待たせるのも悪いからね。……っと」

 

 軽やかな羽ばたきの音と共に、小さな影があなたたちの足元に降り立ち、レッドブレストの異名の通りの赤い胸をふるわせ(さえず)る。

 

「やあ。また来たんだね」

 

 しゃがみ込むハーマンに向けて、コマドリは歌うように鳴き声を返した。

 逃がしたはずのコマドリであるが、今でも定期的に戻ってきては、こうやってニルスやハーマンに餌をねだっている。

 

 ハーマンはポケットを探り、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「ごめんよ。今はあげられるものを持ってないんだ」

 

 コマドリは催促するように何度も鳴いていたが、両手を広げてひらひらと振るハーマンを見て、求めるものはないと理解したようだった。最後に一声鳴き、また空へと飛び立っていく。

 

「元気そうだったな」

「うん。外でもうまくやっていけてるみたいで、よかったよ」

 

 コマドリは人懐こいが、縄張り意識が強い鳥でもある。時に自身より大きな猛禽にすら争いを仕掛けるという。そしてその闘争心の強さが、彼らの短い平均寿命をより縮めている。

 あのコマドリはその厳しく激しい生存競争を乗り越えた、非常に強靭(きょうじん)な個体である。

 設置した餌台にちらほら寄ってきた他の小鳥たちを蹴散らし、餌を独占していることを、あなたや子供たちは知らない。

 

「……、…………」

「ハンターさん? どうしたんだい?」

「あ、いや……何でもない」

 

 

 世の中には知るべきではないこともある。

 そう考えてニルスに真実を伝えないことを選んだが、そんなあなたにもまた、知らない真実があるものだ。

 

 

 

 

 

 方針は決まったとはいえ、アレクシスにもアレクシスの用事がある。

 

 あなたが蹴ったボールを追いかけ、ダニーが全速力で走っていく。力強くしなやかな足が芝生を蹴り、見る見るうちに追いつくと、鼻先でボールを打ち返した。

 戻ってくるボールを爪先で蹴り上げ、膝で受ける。目を輝かせて走り寄ってくるダニーを見定め、その頭上を通るようにボールを蹴り飛ばした。

 

 アレクシスは午前からの続きで、ロージャと共に絵を描いている。訊きたいことがあるから時間ができたら声を掛けてくれ、と連絡ボードに書いておき、あなたはあの子が来るまでの間に、残りの日々の仕事――ダニーとのボール遊びを済ませてしまうつもりであった。

 

 ボール遊びといえば可愛らしいものだが、その実態は激しい。イングリッシュ・フォックスハウンドは猟犬であり、強く(さか)しい狐を狩るために選ばれた血筋の生まれである。その持久力は人とはくらぶべくもないほどに高い。ダニーが満足できるまで一緒に遊ぶ、というのは、二時間近くボールを蹴り続け、受ける為に走り回るということになる。それに付き合えるだけの持久を持つあなたが相手をするようになったのは自然なことであった。

 

 尻尾を振り回してボールにじゃれつくダニーを眺めながら、あなたは汗ばむ襟元に指で風を入れた。吹く風は涼しいが、夏の終わりの日差しは強い。少し前にマリーが差し入れてくれたミント水の清涼さが恋しく、受け損ねたボールを追って池に飛び込むダニーをうらやましく思うほどに。

 懐中時計を確認すると、そろそろ三時になろうとしていた。皆、休憩を入れる頃だ。ロージャとアレクシスも一旦切り上げるだろう。

 

「ダニー」

 

 呼べば、ダニーはボールを転がしてあなたの元へと歩いてくる。しゃがみ、頭を撫でてやれば、舌を出して息をしながら満足そうに目を細めた。

 

 そうしてダニーを連れて学校に戻ろうとしたその時、背後から金属と木が(きし)む音がかすかに聞こえた。

 

 ダニーもまた、気付いたのだろう。顔を上げ、一目散に礼拝堂のデッキへと走っていく。

 

 あなたは置いてけぼりになったボールを拾い上げ、後を追った。手すりの隙間からデッキへと登ろうともがくダニーを、後ろから持ち上げてやる。ダニーは尻尾を振り回しながら、彼の膝に顎と前足を乗せた。

 

「グレイブズ、どうした」

「なに、たまには外にも出ないとかびてしまうからな」

 

 笑い、校長は空を見上げた。夏の終わりにも衰えを見せない太陽は、ここからは建物の陰に隠れて見えない。頭上にはただ、清澄な青空が広がっている。

 

「神、空に知ろしめす。すべて世はこともなし。……今日もまた、よく晴れている」

「ピッパが通るか」

 

 校長から勧められた本の、とある一節である。穏やかな笑みを浮かべ、校長は頷いた。

 

「ああ。詩というものも、なかなか良いものだろう? 日々の喜びを豊かにし、ふいの悲しみに寄り添ってくれる」

 

 その微笑みの陰に、数日前に見せた苦悩を見出し、あなたは静かに目を伏せた。

 

 コマドリの一件で最も大きな傷を負ったのは、ニルスでもハーマンでもなく、校長だったのだろう。ひた隠しにしてきた現実を、予想だにしない形で突き付けられたのだから。

 ニルスと入れ違いになる形で校長室を訪れたあなたの前で、校長は憔悴(しょうすい)を隠すことすらできなくなっていた。明らかにする必要のない心情を、吐露するほどに。

 

 

 ――私は既に、罪を犯した身だ。アレクシスに恨まれても仕方のない事をした。

 ――あの子を妖精に変えようと決めたのは私じゃ。外はもはや医者を呼べる情勢ではなく、それ以外に命を救う術はないと。……かつての友から預けられた好奇がまた熱を帯びるのを、そんな建前で隠した。

 ――その選択は間違っていたのだろう。あの子が妖精としてではなく、ただのアレクシスとして現れた事こそが、何よりの証じゃ。

 ――罪を負うのは私だけでいい。子供たちに恨まれるのも。ローアンの遺した負の遺産について、君が気にする事など何もないのじゃよ、ハンター。

 

 

 妖精になる前、アレクシスは重い病を患っていたという。

 

 当時、この寄宿学校は既に孤立していた。日に日に衰弱していく赤子に対して、校長が取れる手段は二つだけだった。

 そのまま死がアレクシスを奪っていくのをただ待つか、人ならぬ者に変え、定めを克させるか。

 

 校長はそれを指して罪と言った。だが選択肢などあってないようなものだ。死なせるよりは、どのような形でも生きていて欲しいと願った結果なのだろうから。

 

「そうじゃ、ハンター。マリーから色々と聞いたぞ。アレクシスとティアの事で、いろいろと動いてくれているそうじゃないか」

「ああ、まあ」

 

 そのティアだが、すねているのかもとの話を聞いた皆から大いに構われ、撫でられ、甘やかされて、最初は喜んでいたものの、さすがに気疲れしてしまったらしい。日課になりつつあったアレクシスへの見張りも取りやめ、今はユーリヤのベッドの下で丸くなっているという。やりすぎてしまったと全員反省しきりである。

 

「それで、私も一つ、助言と……それから少し、訊きたい事があってな」

 

 校長の穏やかな微笑みに、あなたはなぜか、胸騒ぎを覚えた。

 それは脳髄の奥の(うごめ)きとは全く関係のない、ただの勘である。だがそういうものほど馬鹿にならないということは、あなたの数カ月しかない人生経験のはじまりに嫌というほど思い知っている。

 

 そんなあなたの心情などつゆ知らず、校長はダニーの頬を撫でながら言う。

 

「猫はよく虚空を見つめているものじゃ。昔、サイモン……古い友人が研究の傍らで飼い猫の観察記録を取っていてな。詳細は省くが、虚空を見ているのではなく、耳を澄ませて音を聞いているのではないか、などと結論を出していた」

「……つまり、何だ」

「ティアが誰もいない場所を見つめていても、それはアレクシスを見ていた事には繋がらんと、そういう事じゃ。それに、今のふたりの関係を見てどう思う? もしティアがアレクシスを見つけたなら、見ているばかりではなく、誰もいない場所に向かって甘えるような仕草を見せていたとは思わんかね?」

 

 そこを切り崩されると、出発点から間違っていたことになるのだが。

 

「……いや、目撃者がいない時に甘えていた可能性もあるだろう。だいたい、それならどうしてあんな風に不機嫌になる」

「なあに。ティアは賢く、義理堅い。猫の身ながら彼女との約束をいまだに守っているのだからな。その責任感の現れじゃろうて」

 

 校長は苦笑して、ダニーの頬を軽く伸ばした。

 

「ただ……アレクシスが流れる時の世界で過ごすようになった時期は、六月一日の深夜から二日の明け方にかけてで間違いない。それ以前は、そもそもあの子はここにいなかったはずじゃ。いくらティアとて、いないものを見つけられるはずがない」

「……待て」

 

 思考は即座に冷えた。あなたは鋭く(とが)る視線を校長へと向ける。

 

「いなかったとはどういう意味だ」

 

 校長の言うとおりに六月の頭に現れたとすれば、あの子がここにいる期間はあなたと一週間程度の差しかないということになる。そんな馬鹿な話があるのか、と、あなたは言外に(にら)()けた。

 

「……止まった時の世界に生きる、という事に関しては、長年研究していた我々にも理解の及びかねる部分が多くてな」

 

 校長はダニーから手を離した。その途端、勢いよく振られていた尻尾がへたれる。物足りなそうに鼻を鳴らすが、校長が催促に答えることはなかった。

 

「人間にとっての時間……これまで生きてきた軌跡が紡いだ糸ならば、妖精にとっての時間とは、その糸にできた()()のようなものだという。人ならば紡いだ糸は紡錘(つむ)に巻き取られていくのみだが、妖精はそのだまとだまを、ひと跳びに渡る事ができるのだそうだ。それは妖精に制御できるものではなく、人間の尺度で一時間も経たないうちに再会する事もあれば、何年も間隔が空く場合もある。そして恐らくは、あの子はユーリヤの……」

 

 校長は()(よど)み、しかしすぐに首を振った。

 

「いいや、もう構うまい。……あの子はユーリヤの呼ぶ声に応えて現れたのだろう。だが現れたばかりのはずのあの子は、ユーリヤのものではない、別の誰かの願いを叶えた」

 

 校長は深く深く息を吐いた。脱力した体を車椅子の背もたれに預け、呟く。

 

「あの子はいったい、どれほどの思いをして、今の結論に至ったのじゃろうな」

「グレイブズ。何が言いたい」

 

 あなたとほとんど変わらない期間しかここにいないと言った口で、どれほどの思いをしたのかと(あわ)れむ。

 校長はあからさまに、あなたの知らない情報を前提として話を進めている。その言葉に脈絡があるようには見えず、思惑がどこにあるのか分からない。

 

 あなたの目に険が(にじ)む。空気が変わったことを察したのだろう。ダニーは慌ててデッキから飛び降り、その下に潜り込んだ。

 

「……ハンター。君にも、何に代えてもやり直したい過去はあるのではないかね?」

「だから何、を……」

 

 荒げた声は、尻すぼみに途切れた。

 

 汚れた眼鏡の下、加齢によって白濁した目は、ただ前へと向けられている。

 しかし、そうではない。あなたはそれに気付いてしまった。

 

「自身の命と引き換えに、過去を変えられるとしたら……君はどうする?」

 

 彼は今、何も見ていない。

 

 今ここにある風景を眺めているのでも、思索に(ふけ)り過去を(しの)んでいるのでもない。目蓋を開いて網膜で光を受容しながら、しかしそのひとすじも彼の精神に届いていない。

 背筋が粟立(あわだ)ったのは、冷えた汗のせいだけではなかった。

 

「命と引き換えとは言ったが、実際のところ失うものは何もない。過去が変わるという事は、そのために命を(ささ)げる理由もまた無くなるという事じゃ。誰も……命を捧げた本人でさえ気付かないまま過去の改変は行われ、そこからの延長として日常は続いていく。多少の違和感は残るやも知れんがな」

 

 過去を変えるなど不可能である。人ならぬ者の夢に依ったところで追憶が戻るはずもなく、ゆえに誰もが、その身の抱える罪に苛まれている。

 だが校長はただ淡々と言葉を続ける。荒唐無稽な話を、ひどく具体的に、まるで経験があるとでも言うかのように。

 

 あるいは、これもアレクシスに関係するのだろうか。指輪を持つ妖精は、過去の改変すら可能とするのか。

 あなたはそう考え、すぐに首を振る。

 そんな馬鹿な話はない。それに、仮にアレクシスが過去を変えられたなら、少なくともロージャの足をそのままにはするまい。詳しい経緯こそ知らないが、彼女が杖をつく理由は、病気ではなく怪我だということだけはあなたも知っている。止められる力があったなら、あの子は何としてでも止めただろう、と。

 

 

 ()()()()()()()()()()

 あなたの脳髄の奥が蠢き、湿った音を立てながら眼球の裏を舐めた。

 

 

 命と引き換えに過去を変えられるという、妖精の研究者であるグレイブズの言葉。前後の話題からしても、この二点は関連づけて考えるべきであろう。そして六月の頭に現れたのだという推測も、何らかの根拠を元に導き出したものだろう。そしてその根拠は、グレイブズにとっては疑う必要もないほどに強い。

 アレクシスがかつて連絡ボードに書いた“あなたは機会を与えてくれた もう一度みんなに会えた”という言葉の意味。一方で、ユーリヤ以外の皆は――ユーリヤとほとんど年の変わらないルーリンツでさえ――アレクシスの存在すら知らなかった。学校が閉じた時点ではまだ人として暮らしていたはずのアレクシスをなぜ忘却しているのか、などの疑問は尽きないが、アレクシスは認知された事を再会と捉えている以上、ルーリンツ達とも交流した事がある。それはアレクシスがユーリヤだけでなく、ほかの皆にも深い親愛を向けている理由ともなり得る。赤ん坊だった頃の記憶が残っているのか、それとも。

 命と引き換えに過去を変える。紡いだ糸とそれにできた()()。現在も過去も未来も、相対的な定義でしかない。現在から過去に跳べるなら、それは未来から現在に跳べるのと同じだ。

 アレクシスが未来から来たとすれば。

 妖精として皆と過ごし、誰かの命の時間と願いを託されて未来から過去に(さかのぼ)り、指輪を手放したならば。

 そして、アレクシスが指輪を手放した日に、ユーリヤが望み、叶わなかった事は。

 

 

 ――消えてなくなってしまいそうだった私の命の時間が、あなたのためになるならって、そう、思っていたから。

 ――ご、ごめんなさい……! そうよね、だって指輪を見つけられなかった妖精さんは……

 

 

 妖精を妖精たらしめるという、赤い指輪。

 流れる時の中に痕跡を初めて残したという六月一日。ユーリヤの命の時間は、アレクシスの手によって奪われ、そして戻された。

 その命の時間と呼ばれるものが、指輪に留められていたのではなく、指輪そのものの形をしていたなら?

 

 

「なに、ただのたとえ話じゃ。答を聞かせてもらえるかな」

 

 溺れるような思索から、我に返る。

 

 校長は相も変わらずどこを見るでもなく、足元に戻ってきたダニーは心配そうにあなたを見上げていた。視界の中で、狩人の徴がちらちらと明滅していた。

 いつの間にか詰めていた息を、できるだけ静かに吐き出す。それから、疲労し、ともすれば千切れそうになる思考をまとめ、校長の問い掛けの内容を思い出す。死闘を経た後のように激しく脈打つ心臓を、気取られてはいないだろうか。

 

「……過去を、変えられるとしたら」

「ああ」

 

 蠢いていたはずの脳髄の奥は、今は()いだ湖面のように沈黙している。だがその深みから浮かび上がった今、もたらされた確信はあなたの疲れ切った頭にこびりついていた。

 

 妖精は、命の時間を奪い、それにより過去に遡ることができる。

 

 それは校長が述べた過去改変の条件とも矛盾しない。自身の命を元手に妖精を過去へと遡らせ、後悔の原因を取り除かせるということなのだろう。

 それならば、考えるまでもない。

 

「何もしない」

 

 校長は身じろぎした。

 

「何も、か。何を失う事もなく、すべての過去は過ちたり得ず、すべての未来は正しさに満ちる。その可能性が目の前にあってもか」

「失われるものはある」

 

 白濁した目がゆっくりと(まばた)きした。顔の向きはそのままに、眼球だけがあなたへと向けられる。

 

「いなくなったら悲しいと言われた。過去を変えれば、それは間違いなく失われる。それに……」

 

 医務室で目覚めたばかりのあなたならば、校長の問いに頷いていただろう。あの時のあなたには、あの悪夢の一夜と、それから朦朧と彷徨(さまよ)った日々の記憶しかなかったのだから。

 ヤーナムに、あの命のない廃虚の街に戻るつもりはない。だが後悔と懺悔(ざんげ)に塗れた、人生のおおよそを占めるあの悪夢を自らの手でやり直せる方法があるならば、その決意も打ち捨てて求めていたことだろう。

 

 しかし、過去を変えるというその手段が、妖精を過去へと跳ばし、原因を取り除くというならば。

 

 仮に自覚なきまま過去が変わり、そしてそのままこの寄宿学校に辿(たど)()けたとして――あなたは、人ならぬ者に成り果てたヨセフカを手に掛けた後悔を持たない自分が、人ならぬ者であるアレクシスを害さないという確信を持てなかった。

 

 なによりそのためにアレクシスとユーリヤを、あるいはほかの子供たちを、犠牲になどできない。

 選択肢などはじめからない。今のあなたは、この寄宿学校の皆を天秤に掛けることはできない。

 あなたが最も恐れているのは、この温かな場所があなたの抱える血腥い秘密によって壊れてしまうことなのだから。

 

「恩を(あだ)で返したくない。後悔だけが消える事はない。だから、何もしない」

 

 校長は緩慢に目を瞬く。

 

 やがて、その顔が歪んだ。

 

「……そうか。君は、そう言えるか」

 

 それは安堵であり、あるいは諦めにも見えた。力のない笑みを浮かべ、デッキの奥、古い安楽椅子へと向けた。

 

「感謝しなければ。ここに若者が辿り着き、指輪を失ったあの子を見つけ、誰一人欠けていない子供たちと、ありふれた日々を大切に思ってくれている。その幸運に」

 

 静かに噛み締めるように、校長は呟く。満たされたようなその表情に、しかしあなたが感じたのは、何かを間違えてしまったのではないかという根拠のない確信だった。

 

「突然、妙な話をして悪かった。だが、おかげで……私も、決心がついたよ」

 

 声を掛けるよりも早く、校長はハンドリムに手をかけ、車椅子を扉の方へと切り返した。

 

「ハンター、君に頼みたい事がある。とても大切な話になる。またあとで、ゆっくりと話そう。アレクシスとティアの事が、一段落ついてから」

「待て、グレイ――」

 

 校長が呼び声に振り返ることはなかった。伸ばす手はデッキに遮られ、遠ざかる車椅子の軋みをただ聞くよりない。

 脳髄の奥の蠢きが残した余韻は未だ抜けきらず、ただ全身を強い倦怠が覆っている。

 

 

 妖精は、命の時間を奪い、それにより過去に遡る事ができる。そして妖精を妖精たらしめる指輪は、恐らくは他者の命を素材とする。

 だから――だから、何だ?

 それが今までの手掛かりにどのような影響をもたらす?

 

 

 考えを繋ぎ、まとめるには、今のあなたは疲労が過ぎた。

 そもそも、どうして校長はティアのことについての助言にかこつけてこんな話をしたのか。その真意はどこにあるのか。脳髄の奥の蠢きは、肝心な時には役に立たない。嫌な予感ばかりが腹の底から顔を覗かせ、あなたを苛んだ。

 

 足元にいたダニーが、つと鼻先を校舎の方へと向けた。つられるように顔を上げれば、歩いてくる黄金色の小さな体が見えた。

 

「あ……」

 

 あなたの姿を認めたアレクシスは手を振り、小走りに駆け寄る。

 

 

 “おつかれさま。”

 “連絡ボード見たよ。訊きたいことってなに?”

 

 

「……聞こえて、いたか?」

 

 アレクシスは小首を傾げた。手のひらを握る小さな手には、あの雨の夜のような震えは見られない。頭上の先触れの精霊に視線を移すと、小さな軟体生物はあなたの意図を()んで頭を横に振った。

 

「いや、何でもない。……ロージャと絵を描くのは、終わったのか」

 

 普段通りの声を出せているだろうか。あなたはそんなことを考えた。

 

 

 “ううん。ロージャはユーリヤとお茶飲んでる。それに、ロージャ、この時間はいつもお昼寝してるから、それが終わったらお昼寝すると思う。”

 “ねえ、顔が真っ白だよ。だいじょうぶ?”

 

 

「先ほどまで、グレイブズと話していて、それで……」

 

 口の端から思考が漏れていることにすら、一拍遅れて気付く始末だった。

 あなたは額を押さえた。混乱をありありと自覚する。

 

 

 “校長先生とお話してたの?”

 “その、妖精の、こと?”

 

 

 アレクシスはあなたを見上げる。紺青の光に覆われた虹彩のない目は、心配そうに細められていた。

 

 問えば、この子は答えるだろう。

 この子は嘘をつかない。校長と違ってはぐらかすようなこともあるまい。妖精については校長に比べれば全然知らない、と言われて額面通りに受け取っていたが、あなたと比べれば造詣(ぞうけい)は深いはずだ。実体験として、知っているはずなのだから。

 

 だが、何を尋ねればいい。あなたはそう自問する。

 先ほど得た手掛かりも全く整理がついていないのに、元々訊くつもりだった内容を差し置きそれを()(ただ)して、それから、どうすればいいのだろうか。

 

 黙り込んだあなたを見上げ、アレクシスはうっすらとした眉尻を下げた。肩は不安に強張(こわば)り、握る小さな手に力が籠もる。

 

 

 不安を晴らそうとしている側が、心配をかけてどうする。

 

 

 噛み締めた奥歯が音を立てた。

 怒りにかえって平静さを取り戻す。

 

 今は、妖精のことは訊かない。

 整理を着け、何を訊くのかを明らかにしてから尋ねるべきだ。今無理に尋ねても、混乱を助長するだけにしかならない。

 森では件の悪い妖精に遭遇できず、残された痕跡も新しいものではなかった。恐らくここ数カ月は、付近に現れていないだろう。

 妖精のことで何かを頼みたがっていた校長も、アレクシスとティアのことが落ち着いてからと言っていた。

 時間の猶予はまだある。少なくとも、このふたりの問題を後回しにする必要がない程度には。

 

 あなたは息を吐く。服の上から、首に掛けた狩人証に触れる。

 この判断は間違っているのかも知れない。感情に(ほだ)されず、猫の機嫌取りなど後回しにすべきなのかも知れない。

 だがそれに納得できるなら、あのおぞましく陰惨な獣狩りの夜に、失った記憶を取り戻すという自分自身の目的を脇に置き、見知らぬ街で少女の母親を探すことはなかっただろう。

 

「訊きたい事は別にある。……先触れといるのは、楽しいのか」

 

 アレクシスは戸惑いながら、あなたの手に言葉を(つづ)る。

 

 

 “えっと、うん。一緒にいると、ほっとするから。”

 

 

 予想していなかった答えに、あなたは目を瞬いた。

 

「ほっと……安心する、のか?」

 

 子供たちからはかわいいだのきれいだのと、観賞用として人気の先触れの精霊だが、一緒にいると安心する、という返事は想定外である。

 何に安心するのだろうと、あなたはアレクシスの頭の上にいるナメクジを見つめた。ダニーのような撫でがいのある体躯も、ティアのような蠱惑的な毛並みもない、小さな軟体生物だ。当のナメクジも、アレクシスの頭上で触角を傾げていた。安心させている自覚はないらしい。

 

 

 “ほっとするよ。つめたくて、ぷにぷにしてるのが分かるもの。ハンターの手とちがうけど、おなじだよ。”

 

 

 そう書いて、アレクシスはあなたの手を確かめるように握る。同時にあなたは思い出すことがあった。アレクシスはあなたとは手を握ってコミュニケーションを取るが、校長や子供たちに同様の仕草を見せたことはない。かつて、この子の手がユーリヤの手に重ねられた時、黄金色の手はすり抜け、窓枠に半ば埋まっていた。実体が、傷つくような体がないのだから当たり前だ。現に今、寄り添うダニーの体にはアレクシスの足が埋まっている。

 どうして気付かなかったのか。否。思ってもよらなかったといった方が正しいのだろう。同じ生き物同士でさえ、他者のものの見方など意識しないのだから。

 

「……感触が分かる、というのは、お前にとっては特別な事か」

 

 

 “うん。”

 “不思議だよね。ふたりはすり抜けないし、触ってるのが手から直接分かるんだよ。”

 

 

 アレクシスは無邪気に笑った。ゆえに、あなたは何も言えなくなる。

 

 この子は眠れない。食事を()れない。皆の目には映らず、触れ合うことも、言葉を音として交わすこともできない。確かにその場にいるのに、いない。アレクシスだけは、隔絶した感覚の中で独り生きている。死を克した代償に、人としての当たり前を享受する権利を(うしな)った。

 校長が罪だと言っていたその意味を、理解する。人のまま死なせるか、人ならぬ者として、孤独の中で生かし続けるか。彼が選んだ二択はそれなのだ。どちらにせよ、選択肢などあってないようなものだというのに。

 

 我慢しろ、などとは言えるわけがなかった。

 どうにかして、ティアに納得してもらうしかない。

 あなたは唇を舐めた。

 

「それを、先触れを返してもらえるか」

 

 体を強ばらせたアレクシスと、じとりと触角の先を向けてきた先触れの精霊に、あなたは慌てて言葉を付け足した。

 

「ニルスから、もしかしたらティアはすねてるのではないか、と助言を受けた。友達を取られた気分なのではないかと。マリーには、そういう時は満足するまで構ってやるのが一番だと。だがそれがいると、ティアは嫌がるだろう」

 

 緊張を解き、アレクシスは首を傾げる。先触れの精霊も同じように触角を傾けた。

 

 

 “マリーも言ってたけれど、ティア、本当にすねてるの?”

 “怒ってるわけじゃなくて?”

 

 

「私にはそうらしいとしか言えない。皆に色々訊いて回っている。どうにか、着地点を見つける。それまでは、日が出ている間はティアの事だけを考えてやれ。日が落ちて皆が寝たら、医務室に来ればいい。私もそれも、夜中は起きている」

 

 

 “でも、迷惑になるよ。”

 

 

「この程度は迷惑ではない。迷惑というのはたとえば……あー、ポケットにナメクジをいれたまま洗濯に出すような事を言うんだ」

 

 アレクシスは目を丸くした。“そんな風に自分のこと言うのはよくないよ。”とやんわりたしなめられたということは、慣れない冗談は冗談として通じなかったらしい。あなたは咳払いをして話を進めた。

 

「話し相手にはなってやれない。それでも良ければ来るといい。玄関で一人起きているよりは、少しは気が紛れるだろうから」

 

 先触れの精霊の尾が、アレクシスの頭を撫でる。それに手を添えて、アレクシスは小さく頷いた。

 

 

 “うん、わかった。”

 “ごめんなさい。いつも、いろいろしてもらってばかりだ。”

 

 

 アレクシスは頭上の先触れの精霊を手のひらに移し、あなたの手に乗せた。

 あなたは先触れの精霊を夢には片付けずに、ベストのポケットに入れる。頭を覗かせた先触れの精霊は触角をアレクシスへと伸ばし、黄金色の人差し指で頭を撫でられて嬉しそうに体を震わせた。その指先が離れてから、あなたは(かが)()んでダニーと目の高さを合わせる。

 

「ダニー。こいつとティアの事を頼む」

 

 いくらかでも伝わってくれればという一心だったが、その心配さえ吹き飛ばすようにダニーは勇ましく尾を振り、元気よく鳴いてみせた。

 

 立ち上がったあなたの手を、アレクシスはまた握る。そのまま、じっと()(すく)んで動かない。

 

「どうした」

 

 問い掛けてから、あなたは自省した。だが、アレクシスが何に悩んでいるのか、あなたには判断がつかなかった。

 

 

 勘の鋭いハーマンであればすぐに思い当たり、ルーリンツなら気の利いた言葉を掛けられるだろうに。

 己では、そのどちらもできない。

 

 

 アレクシスは躊躇いがちに、あなたの手を開いた。

 

 

 “ハンターにするみたいに、こんな風に、ティアにも気持ちが伝えられたら、それからティアの気持ちがもっと分かったらいいのにね。”

 

 

「……、……ああ。そうだな」

 

 頷き、アレクシスはあなたの手を離した。ずっと触れていた温度のないその手に、あなたの体温が移ることはなかった。

 




 ブラボで個人的に悪趣味だなと思った一番の描写は、頭のみの患者の皆さんの体内のオブジェクトの芯が脈動している事です。ビルゲンワースや教室棟に置いてある死産子とミイラ変性胎児もきつかった。
 デラシネで個人的に呻き声を上げた一番の設定は、スカボローフェアのバージョンが校長室のカレンダーその他から想定される舞台年に噛み合わない事です(一週間悩んだ)。とある手紙の筆跡が便箋と封筒で違うこともきつかった(三日悩んだ)。


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「偃曝に微睡む。」-3

6/20:加筆修正
6/27:加筆
6/29:ルビを増やしました
7/18:修正
5/15:修正

 気になってシーンを足したりしてた結果20,000字になりました。
 お時間がある時にお読みいただければと思います。


 かつて私は、誰かの役に立ちたいと願っていた。自分自身とあの人の死、そして彼を囚えてしまったことに端を発するこの生にも、きっと意味はあるはずだ。そんな夢想に縋っていたのだ。

 それが人でなしの身にはどれほど過ぎた迷妄かを思い知った時には、あらゆる事態は取り返しの付かないところにまで至っていた。

 

 


 

 

 窓の外で、ユーリヤの歌声が風に乗って遠く響いている。

 

 この前ハーマンが口笛で吹いていた曲だろう。耳を澄ませ、歌詞を聴いていると、確かにこの歌の頼み事は成しようのないものばかりだ。

 布地に針のひとさしもすることなくシャツを仕立て、それを雨も落ちない枯れ井戸で洗ってほしい。海と塩の海の間に(いち)エーカー*1の土地を見つけ、丸く曲がった羊の角で耕してほしい。耕した土地に一粒の胡椒(こしょう)の実だけでくまなく(たね)()きし、それを革の鎌で刈り取り、小鳥の羽で束ね、蝶の背に乗せて家まで運んでほしい。――そうすれば、彼女は私のまことの恋人になるだろう。

 

 その歌声がふいに途切れた。少しの間を置き、マリーの声が聞こえてくる。

 

「あら、みんなでお昼寝? 私もお邪魔していいかしら?」

「もちろん」

 

 衣擦れの音。堪え切れずに(こぼ)れるかのような、マリーの笑う声が聞こえた。

 

「ふふっ」

「どうしたの、マリー?」

「こうやって、ユーリヤを独り占めできるのは久しぶりだなって思ったら、つい」

「独り占め?」

「ロージャもアレクシスも、それからダニーもティアもいるけど、みんな眠っているもの。だから、独り占め」

 

 普段のしっかりした雰囲気とは異なる、どこか甘えた声である。寝ている皆を起こさないようにひそめた声で、楽しそうに言葉を交わす。ティアについて。ロージャとアレクシスが何を描いているのか。誰かさんの雰囲気が最初に比べてずいぶん柔らかくなったけど、それでもユーリヤはまだとってもすてきなものを見られていないこと。

 やがて会話は途切れ、風に乗るのは(こずえ)が揺れる音ばかりになる。その音に紛れるように、マリーは小さく呟いた。

 

「……ユーリヤが元気になってくれて、本当によかった」

「ごめんね、マリー。ずっと心配かけて……」

「謝ることなんてないわ。心配してた分、元気になってくれた時は本当に嬉しかったもの。それで充分」

 

 噛み締めるように、マリーは言う。

 閉ざされた学校の中で、大切な人が日に日に弱っていく。マリーや皆が感じた不安と恐怖はいかばかりだったのだろう。どれほど強く、失いたくないと願ったのだろう。

 

「あとはロージャの足が良くなってくれれば、また元通り……ううん、アレクシスとハンターさんが増えたぶん、きっと前より素敵な毎日になるわ」

「……そうね。いつまでも、楽しい日々が続いてくれたらいいな……」

 

 あなたは開け放たれたままの二階の窓から庭を見下ろし、目を細めた。

 

 木漏れ日の下で、少女たちは寄り添って座っている。ロージャはユーリヤの膝を借りて(いとけな)い寝息を立て、そのすぐ横ではアレクシスとダニー、そしてティアが揃って寝転がっている。アレクシスは眠れないはずだから、恐らくは寝たふりをしているのだろうけれど。

 

 ポケットに入れたままになっている先触れの精霊が、あなたを見上げて触角を揺らした。手を添えて頭を撫でてやりながら、あなたは()()によっていくらか疲れの取れた頭で、ぼんやりと思索に耽る。

 

 

 己の事だけなら構わない。

 だが、たとえば。

 あの子たちの身に何かあった時、己は縋らずにいられるだろうか。

 

 

「あ、ハンターさん。ちょうどよかった」

 

 呼ばれて、あなたは廊下へと視線を戻す。階段を上がってきたルーリンツが、手を軽く振っていた。

 

「どうした。手伝いか」

「違う違う。休憩がてらチェスの棋譜を探してたら、面白いものを見つけたんだ。きっとハンターさんの勉強にも役に立つと思ってさ。ほら」

 

 ルーリンツは古びた記帳をあなたに差し出した。表紙の隅に書かれた名前はルイス・グレイブズ。筆跡は幼いが、確かに今の面影が見て取れる。

 

「グレイブズの……随分古いな」

「うん。ほら、ここの日付を見てごらんよ。何十年も前だから、ずっと若いころ……それこそ僕やユーリヤと同い年くらいの時のものかもしれない」

 

 受け取り、あなたは開かれたページに目を落とした。対局後半、二重線で修正されたいくつかの手と、端に書かれた、誰かに宛てた走り書き。

 

 

 “ロビンへ。ニコラスの成長のためにも、彼を甘やかすのは金輪際やめるように。……私の勝ちだったのに!”

 

 

 どうやら、何者かの乱入によって、数手戻っての指し直しとなったらしい。

 

「校長先生が初心者に指し方を教えた時の記録もたくさん載ってるから、ハンターさんにちょうどいいと思って……」

 

 ルーリンツは言葉を切る。もの思わしげにあなたの顔を覗き込んだ。

 

「なにかあったのかい?」

「なにか、とは」

「なんだか元気がないみたいだけど……」

 

 元気がない、とあなたは繰り返した。原因は考えるまでもなく分かっている。今は考えない、と決めたところで、気を抜けば思考はより重い問題へと引きずられる。

 

 だが、元々秘密を抱えていたがゆえに、その重さを引き受けられたハーマンとは違う。この何も知らない優しい少年に打ち明けるということは、重荷を背負わせるということだ。

 

「……何でも、ない」

「それなら、無理には聞かないけど……」

 

 ルーリンツは静かに息を吐く。そして、見る者を安堵させるような柔らかい微笑みを浮かべた。

 

「ハンターさん。用事がなければ、この後一局付き合ってくれないかい? ちょっとした気晴らしに、それとお茶も用意してさ」

 

 

 

 

 

 ティーセットと、先触れの精霊の為にキャベツの葉も用意して、あなたとルーリンツはチェス盤を挟んで向かい合う。駒を並べながら、ルーリンツはあなたに話し掛ける。

 

「そういえば、アレクシスたちの仲直りの方の進み具合はどうなんだい?」

 

 そちらの話題ならば、とあなたは肩の力を抜いた。

 

「ああ。それは何とか、少しずつやるべき事は見えてきたように思う」

 

 あなたは先触れの精霊をキャベツの上に乗せてやった。小さなナメクジは腹足をぺったりとキャベツに貼り付け、嬉しそうに触角を揺らした。あなたが普段用意する餌より、よほど好みだと見える。

 

「着地点を見つけるためにも、ティアがどうしてこれを嫌うのか。それから……あいつは、気持ちが伝えられたら、それからティアの気持ちがもっと分かればいいのに、と」

 

 校長にはああ言われたが、すねている、というニルスの見立て自体は、間違ってはいないとあなたは考えている。構われ疲れて隠れていたティアが、アレクシスには姿を見せた。足を投げ出して寝転がっていたのは、警戒も必要ないという表れだろう。先触れの精霊がアレクシスの傍にいない場合、ティアはそれだけの態度を取る。それだけ、信頼を置いているのだ。

 

「でも、なんだか感慨深いなぁ。少し前に仲直りの仕方で悩んでたハンターさんが、他の人の仲直りの為に頑張っているなんてさ」

「身の丈に合わない事をやっている自覚はある」

 

 それも獣狩りの狩人が、と、あなたは内心で自嘲した。

 一方で、ルーリンツは首を振る。

 

「たとえ身の丈に合ってなくても、みんなの助けを借りて手が届くなら、それで充分だったりするものだよ」

「……充分、なのか。それは」

 

 独力で成し遂げられないのに、充分などといえるのか。

 

 あなたはルーリンツを見つめるが、彼の顔に浮かんだ温かな笑みが揺らぐことはなかった。

 

「そうさ。チェスだって同じだろう? どれだけ強い駒であっても、キングを守るのがクイーン一騎だけでは勝負には勝てない」

 

 そう言いながら、ルーリンツは指を折っていく。

 

「年長である僕とユーリヤは、それぞれキッチンと医務室を担当してる。ハーマンはなんでもそつなくこなせるし、手先が器用で、壊れた道具や家具を直すのがうまい。マリーは綺麗好きで掃除上手。読みたい本を探す時はニルスに訊けば、どこにあるかすぐ答えてくれる。ロージャは今は怪我があるけど、その前はよくユーリヤやマリーについて仕事を手伝ってた。そこにハンターさんが来て、僕たちだけじゃ難しかった力仕事をがんばってくれてる。アレクシスは、自分から進んでみんなの手伝いをしたいって言ってくれる」

 

 折った指を開き、ルーリンツは笑みを深めた。

 

「みんなそれぞれ、得意なこと、できることは違う。得意なことをお願いして、その代わりにその人が苦手な部分はみんなで助ける。ここでの暮らしはそういうものだって、昔、教わっ、て……」

 

 笑んでいた目が見開かれた。

 

「どうした」

「いや……ちょっとなにか、変な感じがしただけだよ。大丈夫、気にしないで」

 

 ルーリンツは首を(かし)げて何度か(まばた)きを繰り返していたが、すぐに元の雰囲気へと戻った。

 

「それにさ、やっぱり、なめくじの子も含めて、みんなで仲良くできたらいいよね。僕もその子には、いつも助けてもらってるから」

「どういう事だ」

 

 キャベツの外っ葉を熱心に食べていた先触れの精霊もまた、ルーリンツへと触角を向けた。

 

「なめくじの子がいてくれると、アレクシスがどこにいるのか、僕にもはっきりと分かるんだ。ハンターさんみたいに目で見えたり、ユーリヤみたいにすぐに気づけたらいいんだけど、僕にはなんとなくしか分からないからさ」

 

 ルーリンツは力なく笑う。

 

「アレクシスが近くにいるって気づけなくて、無視してしまったことが何度もあるんだ。あの子は気にしないでって言ってくれたけど……。だから、なめくじの子がいてくれると、本当に助かるんだよ。その子が浮いていれば、そこには必ずアレクシスがいるから」

「……そうか」

 

 駒を並べ終え、ルーリンツは茶を注いだカップをあなたに手渡した。赤い水面からは、湯気のほかにセージの澄んだ香りが立つ。

 

「それにしても、どうしてティアはなめくじの子を嫌うのか、か」

 

 あなたはキングの前のポーンを取り、二マス進める。鏡合わせのようにポーンを動かしたルーリンツは、あごをさすって少し考えこんだ。

 

「そういえば、最初はティア、怯えてたな」

「怯えていた?」

 

 オープニングの定跡は大抵決まっている。あなたは相槌(あいづち)を打ちながら、右手側のナイトを前へと出した。

 

「ほら、ハンターさんがなめくじの子をポケットに入れたまま洗濯に出した時だよ。ティアは今よりもずっと激しく威嚇してたけど、その時は耳が後ろに寝てたんだ」

 

 猫は表情を顔に出さない代わりに、耳や尻尾で感情を示す。耳が後ろに寝ているのは、気持ちが負けている状態を示すという。

 

 ルーリンツは茶を一口飲み、あなたから見て左手側のナイトを進める。

 

「ティアにとって、なめくじの子は怖いものだった。ティアだって、なめくじを見るのは久しぶりだった……いいや、もしかしたらはじめてだったのかもしれないなぁ」

「だが、これが怖いものか?」

 

 先触れの精霊へと視線を向ければ、当のナメクジはすっかりキャベツに夢中になっていた。今ここで床に落とし、靴底を乗せて体重を掛ければ、この小さな軟体生物は体液と神秘の(かすみ)()()らしながら()(やす)く絶命するだろう。何ら恐れる理由はないように思えた。

 

 ルーリンツはあごに手を当て、曖昧に(うな)る。

 

「ハンターさんにはぴんと来ないのか……。僕は最初、見たことない生き物だと思って腰が引けてしまったけど、ハンターさんは驚かなかったのかい?」

「私は……」

 

 思い返せば、ヤーナムでのことはずいぶん遠い昔のように感じられた。

 

 あの悪夢を漂う教室棟。脳髄に刻み込まれた人ならぬ者への根源的恐怖と、それすら上回る、禿頭に騙されたことへの赫怒(かくど)。それらが()()ぜとなって平静さを欠いていたあなたが我に返ったのは、その害意のない生き物を見つけた瞬間であったと記憶している。

 水銀塗れの手のひらで転がされる小さな体は、害意どころか抵抗する気力さえ失っているように思えた。あなたはそれをすぐさま狩人の夢に連れて帰り、餌になるものを探して与えた。(ひそ)やかな(ささや)きはこれが見捨てられた上位者に連なると教えたが、その何たるかを理解していないあなたは気に留めなかった。

 

 偏屈な老人も、娼婦も、殺害された後のことだ。

 

 結局、ただの代償行動だったのだろう。助けようとした人々が呆気(あっけ)なく殺された事実を、別の何かで埋めて隠そうとした。かつてを振り返り、今のあなたはそう考えている。

 

 すっかり緑まだらに変わり、別の生物じみた模様となった先触れの精霊の背中を見つめた。指で転がそうとすると、腹足でキャベツを掴み、尾で指を叩いて抵抗する。これもここに来てから、随分と感情表現が豊かになったものだ。

 

「驚きは、しなかったな」

「うーん、じゃあ、なんて説明しよう……」

 

 ルーリンツは顔を上げ、周囲を見回した。誰もいないことを確かめて、声を潜める。

 

「……あのさ、ハンターさん。少し、情けない話をしていいかい?」

 

 あなたはビショップへ伸ばしていた手を止め、机の上に戻した。目で促せば、ルーリンツは(ため)()いながら口を開いた。

 

「本当はね。……アレクシスのこと、最初は少し怖かったんだ」

 

 訥々(とつとつ)と、ルーリンツは言葉を続ける。

 

「僕にはあの子が見えない。顔が見えないから、どんな気持ちなのかも分からない。言葉を掛けても、あの子だって連絡ボードかハンターさんの近くじゃないと返事ができないから、伝わっているかどうか分からない。特に最初の頃は、あの子も今ほど字が書けたわけじゃないから、それもうまくできなかった」

 

 寡黙であることと、話せないことの差は大きい。どころか、ほかの皆はあなたのように表情で補完することもできない。直接感じ取れるのは、なんとなくいるのが分かる、という曖昧な感覚だけだ。

 

「ユーリヤから優しいいい子だって教えてもらったから、悪いことはしてこないって分かってはいたんだ。でも、なにを考えているのか、僕たちのことをどう思っているのか、なにも見えない。なのに、そこにいるかもしれない。こちらを見ているかもしれない。なにをしてくるのか、分からない。それがね、怖かったんだ。……年長の僕が不安がれば、他のみんなも怯えてしまうと思って、ずっと隠してたけど」

 

 カップを手に取り、一口飲む。小さく息を吐いて、ルーリンツは揺れる赤い水面を見つめた。

 

「今は見えないなりに色々やりとりして、あの子のこと、分かってきたから。なんとなくだけど、ユーリヤに似てるなって思う。でも、細かいところに気がつく性格だよね。ユーリヤはほら、けっこうおおらかなところがあるから」

 

 思い詰めた顔が、ほんの少しだけ和らいだ。

 

「もしあの子が言葉を覚えようとしてなかったら……僕たちと話せないままでいたら、きっと今でも、僕はあの子のことをなにも知らないまま、知ろうともしないまま、怖がってるのを隠してた」

 

 そこで、あなたはようやく気付く。

 ルーリンツが最初にアレクシスに抱いた、そして恐らくティアが先触れの精霊に感じているものと同様の感情を、あなたは知っている。他でもない、過去の自分自身に対して募らせている。それは恐怖ではない。

 得体の知れぬものへの警戒である。

 

「ティアにとってなめくじの子は、そういう存在なんだと思う。よく分からないから、怖い。……なんて、憶測だけどね」

 

 冗談めかした笑みはすぐに消え、静かに息を吐いて盤面を見つめた。

 

「でも、ティアが怯えてた理由なんて、僕にはそれくらいしか思いつかないんだ。今でこそ怯えるほどのものじゃないって分かっていても、そんな相手が大切な友達と一緒にいる。それも、友達は自分から積極的に関わっていこうとしてる。ティアにとっては納得できないし、寂しいんだろうね」

 

 気を取り直すように姿勢を正して、ルーリンツは盤を手で指した。

 

「ごめんよ、変な話をして。ほら、ハンターさんの番だったね」

 

 あなたは一度盤面に目を落とし、そしてルーリンツを見つめた。首を傾げたルーリンツは、話を始める前より少し疲れているように見えた。

 

「? ハンターさん?」

 

「変な話でも、情けない話でもなかった。何を伝えたいのか、私にも分かった。それに……」

 

 怖いと思っていながら、それでも皆を第一に考えたことも。それから、得体の知れない相手であっても遠ざけず、親交を深めようとしたことも。

 ルーリンツの姿はあなたには眩しい。憧れても彼のようにはなれないと分かっているから、尚更。

 皆を思い気持ちを隠し通していたことは、彼の何よりの強さの表れだと思うのだ。

 

「相手を思いやって、そういう事ができるは、その……すごい、と思う。私には決してできない。だから…………」

 

 覚えてまだ日の浅い日常会話の語彙をひっくり返しても、状況に合ったものを見つけられない。

 あなたは火照る顔を押さえた。仮ににも年長者を名乗っておきながら、言葉の選択があまりに幼いことに羞恥が湧き上がる。ナメクジの一件の時、どうしてフードを脱いでほしいというマリーのお願いを聞いてしまったのかという支離滅裂な後悔と共に。

 

 ルーリンツはぽかんと口を小さく開けて、あなたを見つめている。その口元がじわじわと笑みの形に変わっていった。

 

「笑う事はないだろう……」

「あ、ごめんよ。でもまさか、逆に励まされるなんて思ってなくて……」

 

 その笑顔はただただ温かい。どうにもきまりの悪さを感じて、あなたは駒を手に取った。

 

「私の手番だったな、ほら」

「うん。……ありがとう、ハンターさん。そう言ってもらえて、気が楽になったよ」

 

 実力差のある相手に、動揺した状態で勝てる遊戯ではない。善戦はしたものの、対局はルーリンツの勝ちで終わる。

 

「付き合ってくれてありがとう。気晴らしになったらよかったけど」

「私こそ、礼を」

 

 駒を片付け、席を立ったあなたに、ルーリンツは言いにくそうに声を掛けた。

 

「……あのさ。アレクシスは、疲れていたり、つらそうだったりしていないかい?」

 

 あなたが知る限りでは、コマドリの一件でひどく落ち込んだほかは普通にしているように思える。その落ち込みにしても、あのコマドリが定期的に顔を見せに来ている現状では解消されているように思えた。

 

 それをかいつまんで伝えれば、ルーリンツは弱々しく笑みを返した。

 

「そっか。もし、この先そんな様子が見られるようなら、すぐに教えてほしい。……少し不安なんだ。あの子は僕たちからの頼みごとを、全然断らないからさ。我慢をさせてないか、本当はやりたくないようなことを無理強いしてないかって」

 

 

 

 

 

 ルーリンツと別れ、あなたは医務室に戻る。夕食の準備にはまだ早く、他の日々の仕事も一通り済んだ。

 ()(てい)に言えば、時間が空いている。普段ならば妖精についての資料を探すところではあるが、今は少し、整理のためにも距離を置きたかった。

 

 医務室には薬の匂いと、ユーリヤがあなたの為に作った小さな匂い袋から漂う、爽やかで澄んだ香りに満ちている。椅子に腰掛け、息を吐き、そしてポケットから先触れの精霊を出して机に寝かせた。

 

 キャベツ一枚をまるまる食べ尽くして満足したのか、触角を楽しげに揺らす小さな体はすっかり鮮やかな黄緑色である。雨垂れのように透き通ってきれい、という子供たちの評価を不思議に感じているあなたであるが、この状態を綺麗とは言わないだろうということだけは断言できる。

 分からないから、怖い。ルーリンツの言葉を思い返しながら、あなたは先触れの精霊を見つめた。

 

「先触れ」

 

 名を呼べば、先触れの精霊はあなたに触角を向けた。

 

「お前は、皆をヤーナムの秘密に関わらせるつもりはあるか」

 

 小さな軟体生物は、はっきりと頭を横に振った。

 

「なら、いい」

 

 呟き、その小さな頭へと指を伸ばす。すり寄せてくる頭は軟らかく、この軟体生物が単身で誰かを傷付けるような真似は不可能だと証明していた。

 しかし、それをどうやってティアに納得してもらえばいいのだろうか。

 

 響いたノックの音に、あなたは顔を上げた。

 

「ハンターさん、いる? 入っても大丈夫?」

「ああ」

 

 入室して扉を閉めようとしたユーリヤに声を掛け、開け放ったままにしておいてもらう。校長のほかはこの行動の意味に気付く者はいないのだが、あなた自身の名誉の為にも。

 

「どうした」

「ハンターさんとロージャのお薬を作ろうと思って。少し、作業させてね」

 

 そう答えるユーリヤのほかに、子供たちの姿はない。

 

「少し前に、庭で揃って昼寝しているのを見かけた。他の皆は」

「マリーは休憩室で編み物。ロージャとアレクシスは、またお絵描きしに戻ったわ。ダニーも二人と一緒だけど、ティアはひとりでデッキの方に」

 

 あなたは目を見開いた。

 

「ティアは、アレクシスとは別れたのか?」

「ええ。アレクシスは一緒にいようとしたのだけど、ティアはひとりになりたかったみたいなの。……あの子も、迎えに来たアレクシスを見て、思うところがあったんだと思う。責任感がとても強い子だから」

「責任感? 猫が、か?」

 

 疑わしさを隠そうともしないあなたに、ユーリヤは困った顔で笑う。

 

「昔は私もルーリンツも、今のニルスと同じくらいの年で、できることもずっと少なくて。そんな時、まだ小さかったマリーやニルス、ロージャを見ててくれたのがティアなの。体は小さいけど、しっかり者で頼りになるお姉さんなのよ」

 

 ユーリヤは棚から(はかり)や乳鉢を出し、机に並べていく。あなたは先触れの精霊をベストのポケットに戻して、夢から取り出した台拭きでナメクジの足跡を拭った。

 

「それで、ハンターさん。……不眠の方は、どう?」

 

 躊躇いがちな質問に、あなたは首を横に振った。

 

「いや。だが体調も変わらないから、心配はいらない」

 

 この医務室で目覚めてから、あなたは一度も睡眠を取っていない。ひとすじの眠気を感じたこともなく、(うずくま)り目を閉じて数時間待ったとしても、意識は明瞭なままである。

 

 小火(ぼや)騒ぎとそれに伴うごたごたが落ち着いた後、ユーリヤにそのことを指摘されていた。少なくともこの一週間、ベッドでは寝ていないのではないか、と。

 眠りを助ける薬を処方するという申し出は断り、ならせめて、とベッドは整えてもらっているが、ここ数カ月は一睡もすることなく過ごしている。

 

 何故発覚したのか、そして何故誤魔化してもすぐに嘘だとばれるのか、今でもあなたは疑問に思っている。穏やかな眠りの経験を持たないために、柔らかなベッドで人が熟睡すればその重みでシーツに(しわ)が寄り、一晩のうちに折り目がつくということに思い至れないのだ。

 

 そう、とユーリヤは眉尻を下げた。温かな指先が、あなたの頬に触れる。

 

「最初のころと比べたら、顔色はずっとよくなったけど……どうか無理はしないで。少しでも調子が悪かったら言ってね」

「分かっている」

 

 頷いてみせても、ユーリヤは心配そうな顔を崩さない。

 

「もし倒れてしまったら、元気になるまでハンターさんが食べるものは全部私が作るからね。お薬もいちばん効くのを用意するし、それからハーブをたっぷり入れた、体にいいシチューもお鍋にいっぱい」

「……、絶対に、無理は、しない」

 

 どれほど努力しても、声の震えは隠せなかった。ようやくユーリヤは表情を緩める。

 

「冗談よ。でも、一度は食べてみてほしいなぁ。おいしいって言ってくれるのはロージャだけだけど、もしかしたらハンターさんの口には合うかもしれないもの」

 

 いかな夢に()って遺志を継ぐ狩人とて、苦いものは苦い。それが体に良いものであれば、尚更である。

 だがユーリヤを傷付けず、かつ断るのにちょうど良い言葉は、あなたの語彙にも存在しない。曖昧に(うめ)いているうちに、ユーリヤは何かを思い付いたのか、さっと身を翻した。

 

「そうだ。匂い袋も取り替えましょう」

「良い匂いだと思うし、それに気持ちはありがたいが、しかし……」

「ううん、用意させて? タイムはね、眠りを悪い夢から守ってくれるのよ。ハンターさんがきっと今夜は眠れるって思った時には、良い夢を見てほしいもの」

 

 声もなく、あなたは目を見開いた。

 

 棚に向き合い、手慣れた様子で小さな布の袋にハーブを詰め、リボンで口を結ぶユーリヤは、きっと思いもよらないのだろう。その言葉が、どれだけの価値を持つのかを。

 

「はい。もし匂いが弱くなったら軽く()んでみて。また香るようになるわ」

 

 差し出された匂い袋を、両手で受け取る。乾燥させたハーブはひどく軽い。あなたの手の大きさならば、片手でも握り込めるほどの小さな袋だ。

 

 だが、さわやかで澄みわたりながら、貫き通すような確固たる強い香りは、悪夢に立ち込める血や獣の臭いの中でも掻き消されることはないだろう。

 

「いい匂いでしょう?」

「……ああ」

 

 見る者を安堵させるような微笑みから目を伏せ、あなたは中のハーブが砕けないように、そっと握り締めた。

 

 夢というものが、すべてこの香りのように優しく確かならば、誰も悔悟(かいご)に泣くことはないだろう。

 

「そうだな」

 

 あなたは匂い袋を夢の奥に納めた。そうして現実から切り離してもなお、残り香は強く漂い続ける。

 

「ユーリヤ」

 

 あなたを見つめ返すユーリヤの表情は、まったくいつもの通りだった。彼女にとっては、これは大したことではないのだろう。あなたにとっては何にも代え難いのと同じように。

 

 彼女に心配を掛け続けていることは、あなたにとっては負い目である。

 だが、今は。

 

「その……ありがとう」

 

 拙い感謝に、ユーリヤはどういたしまして、と微笑んだ。

 

 

 

 

 

 ロージャの痛み止めとあなた用の内服薬を作り終えて、ユーリヤは道具を片付け始める。あなたはそれを見計らって声を掛けた。

 

「相談がある。アレクシスとティアの件だ」

「相談? なにか、困ったことがあったの?」

「困った事、というべきか……」

 

 突拍子もない、それこそ真剣に取り組んでいるのかと疑われても仕方ない質問だ。だがこれを訊けるのは、ティアと最も仲の良いユーリヤを置いてほかにいない。

 椅子に腰掛けて向かい合ったユーリヤに、あなたは意を決して問いかけた。

 

「ティアに意志を伝える手段を知らないか」

「隣に座って、お話すればいいのよ」

 

 さらりと返ってきた答えに、思わず面食らう。

 ユーリヤの顔には普段通りの柔らかな微笑みが浮かんでいた。からかっているようには見えず、そもそも彼女が人を茶化したことは覚えている限り――先の発言も、冗談という言葉があなたを落ち着かせるための方便であるのは疑いようがない。その機会が来れば彼女は成し遂げるだろう――ない。これは真面目な返答なのだ。

 

「話を……鳴き真似をすればいいのか? どのように?」

 

 だからといってどうしてそうなる……

 

 ユーリヤはきょとんと目を丸くして、あなたを見つめる。一拍置き、思わずといった様子で吹き出した。

 

「もう、そういうことじゃないよ。人の言葉でお話すれば、ティアにもちゃんと伝わるってこと」

「だが……」

「大丈夫。ティアもダニーも、私たちの伝えたいこと、分かってくれてるから。むしろ落ち込んだり困ったりしてるのを隠しても、ふたりにはすぐ気づかれてしまうの。言葉の意味を聞いてるのではなくて、こもった気持ちを感じ取ってるのかもしれない、って、昔……その、ある人が言ってたわ。ハンターさんだって身に覚えはない?」

 

 反論できずに、あなたは黙りこくった。

 

 頭では分かっているのだ。

 ダニーは賢い。時計台での留守番にせよ、アレクシスのことを任せた時にせよ、こちらの意図をしっかりと()んで行動することができる。食事や遊びの時間を厳守することに関しては、あなたよりよほど几帳面(きちょうめん)だろう。

 

 理解してなお人と獣が違うという認識を改められないのは、結局のところ、それを認めれば同時に認めたくないことも受け入れなければならないというだけだ。

 

「ティアは少し意地っぱりだから、引っ込みがつかなくなってるところもあるみたい。それはアレクシスもだけど……アレクシスにとっては、わがままを言っても大丈夫って思える、たったひとりの相手みたいだから、余計にね」

「それは、どういう……」

 

 ユーリヤはそれには答えなかった。右手の赤い指輪をそっと撫でた。

 

「アレクシスとティアのこと、どうかお願いね。妖精さんは猫が苦手なのに、それでもお互い仲良くしてきたのだもの。すれ違ったままなのは悲しいし、さみしいから」

 

 あなたは頷こうとして、そして動きを止めた。

 

「……、……妖精は、猫が、苦手?」

「ええ。校長先生やアレクシスから聞いてない? 妖精さんは猫に見つめられると、そちらに近づけなくなるのよ。きっと猫の目は未来と真実を見定めるものだからって、昔、お母さんが……え、ハンターさんっ?」

「……何でもない」

 

 うなだれたままあなたは呻く。

 

「えっと……もしかして、知らなかったの?」

 

 頷くと、ユーリヤも困惑したように曖昧な声を出した。

 

 アレクシスがよく部屋や廊下の角に追い詰められているのは、単に不機嫌なティアの迫力に怯えているのだと思っていた。そういうものだという先入観のまま、確かめることもしなかった。ユーリヤの言うとおり、先触れの精霊が絡まなければ本当に仲が良かったからだ。

 

 尻尾をぴんと立ててアレクシスに駆け寄るティアと、目を細めてしゃがみ、転がって腹を見せるティアを撫でるアレクシス。

 それはありきたりで、眺めているだけで心が安らぐような、お互いの仲の深さを感じさせるような、そんな温かな情景だった。

 

 形容しがたいもどかしさが喉元まで込み上げ、しかしそれを明確にできる語彙をあなたは持たない。先触れの精霊に目をやれば、ナメクジはポケットの縁に頭を載せてうなだれていた。

 

「その、大丈夫?」

 

 手を振って答え、また腰を上げる。

 

「相談に乗ってもらえて、助かった。行ってくる」

 

 ユーリヤは心配そうな顔をしていた。それでも、あなたがしっかりした足取りであることを確かめて、胸元で手を握りしめる。

 

「がんばってね」

「ああ」

 

 あなたは医務室を後にする。廊下の半ほどで振り返れば、こちらを見守っていたユーリヤはそっと手を振ってくれた。

 

 

 

 

 

「……うん、できたっ!」

 

 はずむようなロージャの声が廊下を通り抜けた。

 あなたは足を止めた。反射のように脳裏に過る少女の泣き声を何とか振り払い、それに耳を傾ける。

 

「みんな、よろこんでくれるかなぁ。いつも助けてくれるから、そのお礼になったらいいな……」

 

 声は第二教室から漏れ聞こえていた。壁側の黒板に書き付けているのだろうか、チョークの硬質な音が壁越しにくぐもって響く。

 

「えへへ。アレクシスこそ、手伝ってくれてありがとう。今度は私がアレクシスのお願いを聞く番ね。できることはがんばるから! ティアのことだって任せて?」

 

 再度聞こえたチョークの音は、先ほどのものより弱々しい。

 

「謝ることなんてないのよ。いつも言ってるでしょ、私はアレクシスよりお姉さんなんだから。みんなが私にしてくれたこと、今度は私がアレクシスにしてあげたいの。それにね、頼りにされるのって、すごく嬉しいんだから!」

 

 頼りにされるのは、嬉しい。

 あなたは口の中で繰り返した。

 

 ふたりはまだ何かを話していた。尾を引かれながらも、あなたは背を向けて礼拝堂へと足を進めた。

 

 

 己は皆の優しさに報いれているだろうか。

 

 

 ふと、そんなことを考える。

 

 

 ただでさえものを知らず、皆に迷惑を掛けた。これ以上は許されないし、何より己が許せない。

 だが、たとえ己がそう思っていても、あの子たちは笑って手を貸してくれる。貸したいと言ってくれる。

 その気持ちを無碍(むげ)にするのも、嫌だ。

 

 

 まるで子供の駄々(だだ)だ。あなたはそう自嘲しかけ、口元を押さえて首を振った。それを否定すれば、あの子たちのことも否定することになる。

 

 

 己に何ができるだろう。

 外の事の他に、もっと皆に何をしてやれるだろう。

 必ず恩を返すと心に決めてから、皆のためにできる事を探してきた。だがそれは思い上がりにも似て、日々無力さを痛感するばかりだ。

 胸を張って皆が与えてくれるものを受け取るには、そして皆が与えてくれた以上のものを返すには、どうすればいいのだろう。

 

 

 悩みは尽きないまま、あなたは礼拝堂の奥の扉を開けた。

 

 ()は傾き、雲は黄金に染まっている。短い夏はじきに去り、秋が、そして長く冷たい冬がやってくるだろう。

 

 デッキの片隅に置き去りにされた安楽椅子の上に、黒猫はまるくなっていた。あなたは床の軋みが響かないように注意して歩き、その正面にあぐらをかいて座る。

 こうして改めて向き合うと、その体の小ささに驚かされた。

 

「ティア」

 

 ティアは身じろぎしない。だが、ぴんと立った耳は確かにこちらに向けられた。それを確かめ、あなたは話を続けた。

 

「我々は、我々の事情にアレクシスや皆を巻き込むつもりはない。……皆を傷付けない。これまでと同じように、これから先も」

 

 平易な言葉に言い換え、ティアの様子を伺う。目に見える反応は、ない。

 

「だからどうか、アレクシスの傍に先触れがいる事を許して欲しい。皆と仲良くできたら、嬉しい。外の事を解決すれば、私も先触れもここを出て行く。それまでは、頼む」

 

 頭を下げる。視界の隅で、ポケットから顔を出した先触れの精霊も同じように頭を垂れているのが見えた。

 

 だが、本当に通じるのだろうか。その不安は今でも拭えていない。

 

 ユーリヤの言葉については、信じ切れていないのが本当のところである。それにたとえ理解していたとして、何年も共に暮らしてきたユーリヤと、出会ってまだ数カ月のあなたの間にある差は大きく、深い。実際に、こちらも通じるとは思っていなかったとはいえ、先の雨の日など全く聞く耳を持ってくれなかった。

 

 ティアの沈黙が、場を支配している。

 諦めかけたその時、細い鳴き声がした。

 威嚇でも、不満げでもない。甘える時とも違う、静かな声だった。

 

 あなたは恐る恐る顔を上げ――青い光に目を見開いた。

 

 アレクシスの目元を覆う暗い紺青とは異なる、瞳の内に宿る淡い水色の光。あなたはそれを知っている。

 死に、それが夢に依ってなかったことになった後。あなたが死んだ場所のすぐ近くにいる獣が、薄ぼんやりとした光を目から放っていることがあった。大抵は死血に(けが)れて紫がかり、時にこの青を(かい)()()せた。

 

 

 遺志の青が、黒猫の両の瞳に宿っている。

 

 

「――なぜ」

 

 あなたはその光に見入る。

 これほど近くにあるのに、その色は少しの穢れもなく、どこか温かささえ感じさせた。まるで、枝葉の隙間から覗く夏空のように。

 無意識のうちに手を伸ばし、そして、

 

 

 

 

 

 目に飛び込んできたダニーの寝顔に、あなたは一瞬呆気に取られた。同時に違和感を覚える。足は太く、短い。顔も丸く、全体的にふっくらとしている。幼いのだ、ということに気付いた直後、あなたの思考に何かが混じり込んだ。

 

 それは言葉ではなかった。だが言語化されていないにも関わらず、その意思は容易に読み取ることができた。少しの呆れと、それ以上の(いと)おしさ。困惑するよりないあなたの視界が、意志に反して別の方向へと向けられる。

 

 見える世界はぼんやりと(かす)み、古びた絵のように()せている。反対に、耳に届く音は鮮明で、小鳥のさえずりも、ダニーの寝息も、子供たちの声も、あるいは水面にさざ波が立つ音さえ、聞き分けられた。それがどの方向から、どれくらい離れているのかさえ把握できる。

 

「……お皿のお片づけ、おわったよ。……」

「……ありがとう、ハーマン。うーん、どきどきするなぁ。いったいどんな子が来るんだろう? 仲良くできるかな。……」

「……きっと先生によくにた、やさしい子だよ。でもルーリンツ、そんなに固くならなくてもいいんじゃないかな。だって、まだ生まれたばかりの赤ちゃんなんだからさ。……」

 

 そんな会話が近くの窓から漏れ聞こえた。しかし呼び合う名前と、彼らの幼く高い声は、あなたの知るものとは一致しない。

 

 ここは、寄宿学校なのだろうか。

 

 ぼやけ、細部は分からないまでも、目の前の建物は音楽堂とそれと繋がる外廊下のように見える。ただ、目の前にあるデッキの手すりに経年によるスレや補修の跡はなく、まだ真新しい木の匂いを漂わせていた。

 それに、子犬のダニーと、声変わりしていない声で呼び合うルーリンツとハーマン。

 

 まさか、という思索は、体の下で遠く響き始めた地鳴りに打ち止められた。

 (かす)かだったそれは段々と大きくなり、そして金属を叩くような硬い音が混じった。警戒するあなたをよそに、その轟音は減速し、真下で止まる。しばらくして再度鳴り始め、遠ざかっていくそれに、混じる意志は何ら反応を示さなかった。まるで、いつものことだというかのように。

 

 それを呼び水として、学校のあちこちからばたばたと響く足音が重なる。キッチンの二人も揃って玄関へと走り、そして。

 

「……今帰った。ほら、マルガレータ。皆、君たちを待っているよ。……」

「……ただいま、みんな。……」

 

 その声が聞こえた瞬間に歓声があがり、なぜか胸がつきりと痛んだ。それがどんな響きだったのかさえ、もう思い出せないのに。

 

「……おかえりなさい、マルガレータせんせい! その子がせんせいの赤ちゃん? なまえは? おとこのこ? それともおんなのこ?……」

「……だめよ、マリー。せっかく気持ちよさそうに寝てるのだから。静かにしないと起きてしまうわ。お帰りなさい。それと……ふふっ、はじめましてのあいさつは、目を覚ましてからかしら。……」

 

 たどたどしいマリーの声と、幼さの残るユーリヤの声。他にも子供の高い声が、口々に喜びを伝える。

 

 皆の声を聞きながら、視線がもう一度ダニーへと向く。健やかな寝息を立てる頭の下には、黒い毛皮に覆われた胴があった。起き上がればダニーも起こしてしまう。だから動くことはできない。

 

 努めて耳を外に向けて、これ以上聞こえないようにしても、この耳は音をはっきりと捉えてしまう。あなたには耳慣れない足音が近付くたび、心臓が大きく音を立てた。

 そして、足音が、デッキ側の扉の前で止まる。扉は軋むことなく開き、顔を覗かせた黒髪の女性が、こちらを見てぱっと表情を明るくした。

 

ただいま、ティア。ダニーも大きくなったわね。ふたりとも、元気にしてた?

 

 途端、体に根を張っていた不安が消し飛んだ。

 

 ユーリヤやルーリンツと話す時の安堵を粘り気が出るまで煮詰めたような、深い深い喜び。顔が見える。匂いがする。声が聞こえる。それだけが、何よりも嬉しい。あなたにとっては(いま)だかつて感じたことのないような、未知の情動である。

 

 覚えていてくれた。

 

 思わず立ち上がり、足元へと駆け寄る。ふくらはぎに体をすり寄せ、尻尾を絡めると、ここにいるんだということが感じられていっそう嬉しくなる。ダニーはあごを床に打ち付けて目を白黒させ、そして女性を見上げて後退りながらわふっ、と鳴いた。

 

ダニーには忘れられちゃったみたいね。三カ月も空けてたのだから、仕方ないことだけど……また、これからよろしくね、ダニー

 

 尻尾を丸めていたダニーも、女性の言葉に何か想起するものがあったようだ。体のこわばりを解いて、首を傾げて女性を見つめた。

 女性はくすりと笑みをこぼすと、その場に膝をつき、抱えていた白い布の包みをこちらへと見せた。

 

あなたたちにもこの子を紹介したいの。こっちへいらっしゃい

 

 包みの中にいたのは小さな赤ん坊だった。

 まろみを帯びた頬に、頭を薄く覆う柔らかな産毛。それから、赤ん坊特有のミルクの甘いにおい。目蓋を閉じて、すやすやと眠っている。健やかで愛らしい、ただの人間の子供だ。

 

この子はアレクシス。今日からみんなの家族になるわ

 

 あなたはまじまじとその赤ん坊を見つめる。

 ロージャ、ではないように思えた。一方で目のかたち、特に目尻の雰囲気には、どこか既視感を覚える。

 見つめていた視線が、ふいに()らされた。隣で興味津々でおくるみを覗き込んでいたダニーが、不思議そうに目を瞬く。

 

……ティア? どうしたの?

 

 胸からこぼれそうなほどだった嬉しさが、するすると(しぼ)んでいく。代わりに顔を覗かせたのは、喉の奥から冷えていくような嫌な感覚だった。

 

 きびすを返し、走り出す。後ろから呼び止める声が聞こえたが、振り返ることはない。途中、喜びに顔を綻ばせた幼いユーリヤとすれ違うが、今は甘えるつもりになれなかった。

 階段を駆け上がり、女子の寝室に飛び込んで、ベットの下に潜り込む。狭い暗がりに安堵を覚え、しかし行き場のない気持ちがそれをすぐに塗り潰してしまった。

 

 

 あの人の事は嫌いだ。ずっとさみしい思いをさせる。だから、嫌い。

 きっとしばらくはあの子にかかりきりで、またほったらかしにされてしまう。この学校にみんなが来た時みたいに。

 仕方ないとは分かっている。小さな子は誰かが見てないといけないから。危なっかしい小さな子を見てるのは得意だけど、赤ん坊の面倒は人間でなければ見てあげられないことも、分かっている。

 でも。

 

 

 混入する意志に引きずられ、あなたの思考は自身のものではない感情に翻弄されるよりない。

 放っておいてほしいというこちらの気持ちなど知らないと言わんばかりに、二つの足音が近づいてくる。一つは先ほどの女性だろう。もう一つは重く、間隔も長い。

 

「……大丈夫か。……」

「……ええ。アレクシスのことお願いね、ルイス。……」

 

 女性の足音が女子の寝室に入ってくる。床とベッドの隙間から部屋を覗けば、女性の足は迷いなく隠れているベッドの横に立ち、そのまま腰を下ろした。

 

ティア

 

 女性の手が、床を軽くノックした。思わず飛び出しそうになって、慌てて(おも)(とど)まる。

 

……ごめんね。ずっと、寂しい思いをさせて

 

 その声は真摯(しんし)だった。

 

約束したとおりにみんなのいいお姉さんをしてくれてるって、ルイスから聞いてて、また甘えようとしてた。アレクシスのことも、あなたならきっと守ってくれるって

 

 

 気にかけてくれたことが嬉しい。そう思ってしまう単純な自分が嫌い。

 振り回してしまったことが嫌だ。でもこっちがつらかったぶんだけ、同じだけさみしい思いをすればいいんだとも思う。

 ぐるぐるして、どっちつかずで、ほんとうに嫌になる。

 

 

こんなに長く学校を空けることは、もうきっとないわ。あなたにも寂しい思いはさせない。……許して、くれる?

 

 

 でも何よりも嫌なのは、悲しい顔をさせてしまうことだ。

 

 ためらいを覚えながらベッドから出て、彼女のそばに寄る。

 たおやかな腕が体を持ち上げ、そっと抱きしめてくる。その腕にすべて預けてしまって大丈夫だと知っている。

 背中を撫でられるたびに、嫌いという意地が、どんどん崩れていく。

 顔を見上げれば、あらわになったあごの下を白い指が撫でた。自然とのどが鳴り出して、悔しいけれど、嬉しいことを認めざるを得ない。

 温かく、優しくて、惜しみなく愛してくれる人。だから――()

 

 即座にあなたは自己を取り戻す。間近だからこそはっきりと見える、涼やかな目鼻立ち。あなたはそれを知っている。女子の寝室の前に置かれた写真立て。そして、あなただけが紺青の向こう側に見出せる、あの子の目元の雰囲気。

 

家族が増えて、きっとこれからもっと楽しい毎日になるわ。……ううん、してみせるわ。みんなが笑って過ごせるように。マーシャと約束した通りに

 

 先ほどの赤ん坊の名を察する。そして、ハーマンが言っていた思い出せない大切だったはずの誰かの正体も。

 

ティア。これからもよろしくね。あなたとみんな、それからアレクシスが、いつまでもよい日々を送れるように

 

 あなたはこの女性に、アレクシスの面影を見た。

 

 

 

 

 

 

 我に返る。

 

 たとえばヤーナムの大聖堂で初代教区長の頭蓋に触れた時のように。あるいは、水銀弾を媒介として、古い狩人の遺骨から加速の業を引き出した時のように。

 

 同様の感覚があなたを捕らえ、そして何者かの過去を見せた。

 

 吸い込む空気の冷たさが、喉を、肺を浸す。視界は明瞭で、代わりに耳に届く音はどこか平坦(へいたん)に思えた。

 ティアの額から、指先を離す。

 

「……お前、か?」

 

 こちらを一瞥(いちべつ)するティアの目は、普段通りの金色である。大きく口を開けてあくびし、前足で顔を洗い始めた。まるで何事もなかったと宣言するように。

 

 あなたは額を押さえた。確かに見たはずなのに脳裏に浮かぶのは断片ばかりで、具体的な内容を思い出すことはひどく難しい。まるで常人の見る夢のように、曖昧にかすれてしまっている。

 だが、胸の底に確かに残る感情の残滓(ざんし)は、決してあなたのものではなかった。

 

 あなたはティアへと瞳を向けた。ごく普通の、なんの変哲もない猫である。人ならぬ者に関わりがあるがゆえの違和感は、どこにもない。

 

 

 なら、先ほどのあれは――

 

 

 扉を引っ掻く音に、沈みかけた思考は浮かび上がる。

 

 礼拝堂の扉が軋み、ゆっくりと開いていく。隙間から飛び出したダニーはあなたの良く知る大柄な体躯であり、そして後を追うように顔を覗かせたアレクシスの体は、黄金色に儚く揺らいでいた。

 

 声を掛けるよりも早く、アレクシスはあなたの隣に腰を下ろした。

 

 

 “ユーリヤからここにいるって聞いた。なにしてるのかも。”

 

 

 それだけ書くと、すぐに視線をティアへと向けた。

 

 ダニーが首を伸ばし、()れた鼻先でティアの鼻へと触れた。お互いの鼻を何度か触れ合わせ、半目のティアを真っ直ぐに見つめる。

 

 あなたが見守る中、立ち上がったティアはアレクシスを見つめ、それから目を伏せた。それから意志を読み取ることはひどく困難であるが、少なくとも普段のように不機嫌ではないのは確かである。

 

 ただ、それはあなたにとっては、というだけだったのだろう。

 

 黄金色の手があなたから離れ、ティアの額を撫でた。

 アレクシスはそのまま、目を閉じたティアの小さな体を抱きしめる。

 腕の中の黒猫は、顔をそっとすり寄せた。頭を頬のあたりに半ばめり込ませ、喉から漏れ出す声はあまりに頼りなく、細い。

 

 昼に聞いた通りなら、その艶やかな毛並みの感触はアレクシスには届かない。だが、それでも、伝えられたものは確かにあったのだろう。紺青の光に覆われた目元は、確かに笑んだのだから。

 

 その瞬間、あなたの中で像を結ぶものがあった。先ほどの白昼夢で耳にした言葉。彼女の声がどのような響きだったのかさえ忘れてしまった中で、それでも覚えていたもの。

 

 

 ――これからもよろしくね。あなたとみんな、それからアレクシスが、いつまでもよい日々を送れるように。

 

 

 やがて、アレクシスは腕を緩めた。

 

 顔を離し、ティアはいつもの調子で一つ鳴く。

 そのまま椅子から飛び降り、先触れの精霊をじっと見つめた。下がった尻尾の先を左右に揺らし、あなたを見上げる。何かを促すような視線にあなたは目を瞬き、そしてポケットの先触れの精霊と顔を見合わせた。

 

「……いい、のか?」

 

 ティアは答えない。ゆっくりとまばたきしながら目を逸らし、尻尾を揺らすだけだ。動きあぐねるあなたの隣で、ダニーが立てた尻尾を勢いよく振りながらその場でぐるぐると回りだす。アレクシスを見やれば、目元を細めて先触れの精霊に指を差し出し、小さく頷いていた。

 

 あなた一人だけ、状況が掴めていないのは明らかである。それでもアレクシスが先触れの精霊を手の甲に乗せ、それにティアが唸らないことで、ようやく理解する。

 

「あ……」

 

 あなたはぼんやりと、先触れの精霊を頭に乗せたアレクシスと、この子に撫でられて尻尾をゆっくりと揺らすティアを眺めた。

 よかった、と声を掛けるべきなのか。それともあくまで部外者として、傍観に徹するべきなのか。

 あなたの手を、アレクシスが開いた。

 

 

 “ありがとう。”

 “仲直りできたよ。”

 

 

 手のひらに書かれたその言葉を、あなたは握りしめた。

 

「……私は、役に立ったのだろうか」

 

 結局、日をまたぐことはなかった。夜に医務室に来ればいいというあなたの提案は、生かされることなく終わる。

 自身ができたのティアに仲良くしたいと伝えたことだけ。放っておいても、そのうちふたりの喧嘩は収まっていたのではないか。

 あなたがそんな疑念を抱く一方で、アレクシスは大きく頷いた。

 

 

 “きっかけを作ってくれたのはハンターだよ。”

 “それにあの時、ティアのことだけ考えてやれって言ってもらえたから。言ってもらえてなかったら、さみしい思いをさせてたって気づけなかった。”

 

 

「気付けなかったなどという事は……」

 

 

 アレクシスは静かに首を振る。

 それから、うっすらとした眉尻を少しだけ下げて。

 

 

 “自分のためにみんながなにかをしてくれるのって、少し苦くて、でもやっぱり、うれしいね。”

 

 

 そこまで書き、アレクシスは姿勢を直した。

 

 

 “あのね。ロージャと一緒に、みんなの似顔絵を描いたの。”

 “ロージャ、すっごくがんばったんだよ。私もお手伝いしたけれど、ほとんどロージャが描いたんだ。”

 “それで医務室まで呼びに行って、ユーリヤからここにいるって聞いたんだ。ティアとダニーにも伝えてくれる?”

 

 

「ロージャが……」

 

 あなたは過る記憶に目を逸らし、それでもあごを引いて頷いた。いると分かっているなら、対処はできる。彼女を傷つけないよう態度に出さなければいい。

 

「分かった。……ダニー、ティア」

 

 声を掛けながら立ち上がったあなたの手を、黄金色の小さな手が握りしめた。案内するように手を引いて歩き出したその小さな背中を、ティアたちと共に追いかける。

 

 憂慮は消えない。

 だが、この子が手を引いてくれるのはよい事の前触れだと、あなたは既に知っている。

 

 


 

 

 聞こえていた喧騒(けんそう)が収まり、あなたは視線を川面(かわも)へと戻した。

 

 手の中に呼び出した先触れの精霊へ餌を――生皮を()いて(にじ)ませたあなた自身の血を与えながら、日差しに光る水面の揺らぎを眺めた。白い光は網膜に焼き付き、陰となって視界を覆う。

 

 あなたがこの寄宿学校で目覚めてから、一週間が()つ。

 最初は、いったい何の冗談かと自身の正気を疑った。口に含んだ(かゆ)の熱さと甘さに、これは現実なのだと思い知った。

 数日が経つ頃には霞みがかっていた思考も元に戻り、こうしてただ座り込んでいる。

 

 動けないあなたを後目に、彼らは、日々の営みを送っている。

 それのなんと尊く、素晴らしいことか。

 それに、あの子供の亡霊にも似た、しかし人と呼ぶには(いびつ)な姿を持つ人ならぬ何か。特別な異能を持つ様子もない、ただ風に揺らぐ雲のように儚い異形。

 あれはあなたから少女を(かば)うような行動を取った。(かな)わないとは理解していたのだろう、茫洋とした小さな体を震わせながら、それでも細い腕を広げて少女を背中に守った姿は、あなたに少なくない衝撃をもたらしていた。

 

 

 この場において、己こそが異物だ。

 成せる事など何もない。

 

 

 あなたはそう考えている。

 立ち止まれば動けなくなると分かっていた。まさしくその通りだ。気力だけで奮い立たせていた心は折れ、こうしてただ蹲り、自責に駆られることしかできない。

 

 

 あの街で、己が成し遂げられた事などあるだろうか。

 失った記憶を取り戻す事も叶わず、どころか、かつての己に嫌悪と警戒を抱くようになった。

 独り生き残るだけで、誰も助ける事はできなかった。

 あの赤衣(あかぎぬ)の盲人の言った通りだ。己もまた、身の程を(わきま)えなかった。狩人など、獣を狩る以外に能などないというのに。

 

 

 傷口をこそげていた歯舌の感触が途切れた。

 先触れの精霊は食事を終えたらしい。血肉を(すす)ったというのに、軟らかく冷たい体は澄んだ銀沙が散ったままだ。人さし指を差し出すと、甘えるように頭をすり寄せた。

 

 体がもう少し動くようになったら、ここを離れる。あなたはそのつもりでいる。

 あの廃虚の街に戻るつもりはないが、ここにいても迷惑にしかならない。子供たちの優しさに報いてくれとは言われたものの、あなたはその手段を知らない。

 

 

 ここを離れ、そして――どこに向かえばいいのだろう?

 

 

 目の端を過った黄金色の光に、あなたは先触れの精霊を夢に戻しながら視線を向ける。

 

「お前は……」

 

 一直線に駆け寄ってきたそれは、何も言わずにあなたのマントの裾を掴んだ。

 

 それは裏口を指さし、引っ張る。あなたの体は小揺るぎもしないが、それは裾を引き続ける。あなたは見かねてその手を掴み、立ち上がった。

 

 それは虹彩のない目を見開き、そしてあなたの手を――この弱々しい人ならぬ者を容易に殺害しうる狩人の手を、縋るように握り締めた。

 

 体温こそないものの、小さな手は子供らしき見た目相応に繊細で、柔らかい。かすかに震えているのは、あなたへの怯えか、あるいはそんな相手を頼らねばならないほどの何かが起きたことへの焦燥か。

 

 そこで初めて、あなたは自身がひどく動揺していることに気付いた。

 

 手を引かれるまま、足を踏み出す。

 

 何の意図があるのかも、どこに連れて行こうとしているのかも分からない。

 それでも、これはあなたを頼った。

 

「……、…………」

 

 あなたは小さく息を吸い、人ならぬそれの手を、ほんの僅かに握り返した。

 

 


 

 

 私に成せることなど何もない。誰を救うこともできない。願いを抱くなど烏滸がましい。

 生まれるべきではなかった。

 まったく嘆かわしい話だ。人ならぬ、高次の思考を持ち得る者。そんなものとして産まれたというのに、身の程さえ弁えていなかった。

 そんなこと、あの人の姿を模しただけの人形が彼に打ち壊された時点で、理解しておくべきだったのに。

 

 だから眩しい。

 何かを成そうと歩みを続けられるあなたが。そして、一度は蹲ってしまったあなたを引き上げた皆が。

 あなたを包む日なたのような温かさが決して私に向くことはないと分かっているからこそ、失われてほしくないと、ただ、希う。

*1
約4,047㎡。サッカーグラウンドと同程度の広さ。




タイム【勇気、活動力、あなたを忘れない】

・補足
 スカボローフェアについて。
 様々なバージョンのある曲ですが、デラシネのスカボローフェアは歌詞などから、セシル・シャープが採録・改変して1916年に出版したバージョンのアレンジかと思われます。
 みんなの演奏会との大きな相違点は、ワンフレーズがちょっと長くなっている、といえばいいのでしょうか。元々三拍ぶん長くなっている最後のフレーズの長さに、ほかのフレーズの長さを合わせたみたいです。~true lover of mineのメロディも大きく変更されているので、印象はだいぶ異なるように思います。

 このシャープのバージョンは、日本ではVita Nova、波多野睦美さん、白鳥英美子さんなどが歌っております。

(参考:"...Tell Her To Make Me A Cambric Shirt" From The "Elfin Knight" to "Scarborough Fair"
 全文英語。第十パラグラフの後半に該当のバージョンについての話があります)


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うすべにあおいに隠して

7/18:今回の更新からエビーのせりふにフォントを適用しています。(これ以前の話も修正済み)
1/20:修正


「お疲れさま、ハンターさん。この後、時間ある?」

 

 ユーリヤがハンターにそんな言葉を掛けたのは、夕食と、そのかたづけが終わった後のことだ。

 

 食堂にいるのはハンターたちとユーリヤ、それから私とティアだけ。さっきまでのだんらんはみんなと一緒に立ち去って、代わりに差し込んだ西日は床に跳ねて広がって、部屋を温かな明るさで満たしている。

 長椅子で休んでいたハンターは、ユーリヤに不思議そうな視線を向けた。ベストのポケットから顔を出しているエビーも、一緒に触角を向ける。

 

「特に用事はないが。力仕事か?」

「ううん、そうじゃないの。今日のことで、お礼がしたくて」

「今日?」

「ふたりの仲直りのこと」

 

 う、とうなだれる私の足下で、ティアがにゃあと鳴きながらくるくると回る。耳も尻尾もぴんと立っていて、今までの分なのか嬉しそうだ。おすましさんのティアが、こんなに喜びを前に出すのは珍しい。

 

 ……でも、エビーにアドバイスをもらったんだってばれたら、また怒られちゃうかな。お昼過ぎにハンターが提案してくれたことを日課に組み込んで、毎日どこかでティアとふたりきりで過ごして、そのぶん夜は医務室に来ればいいって。

 

 しゃがみ込んでティアのあごの下をなでると、ご機嫌に目を細めてごろごろとのどを鳴らしはじめた。

 大好きだよって気持ちはこうやって伝えられる。でも、いつもありがとうって気持ちと、わがままばかりでごめんねって気持ちをちゃんと伝えられたらいいのに。ないものねだりはだめだって分かってるけれど、それでもみんなみたいに、声を出せたらいいのにな。

 

「礼と言われても、私ができた事など……」

「そんなこと言わないで。とっておきの、おいしいハーブティーをごちそうするわ。ね、アレクシス、手伝ってくれる?」

 

 振り向いて微笑みかけてくれたユーリヤの後ろで、ハンターはぴしりと固まっていた。

 

 

 

 

 キッチンのストーブの(おき)()をおこして、ユーリヤは小さな琺瑯(ほうろう)のお鍋をかけた。お湯が沸くのを待つ間に、濃い紅色のすじが入ったうすべに色の花びらや青々とした葉を洗ったり、医務室から持ってきた瓶を開けたりしては、ハンターに見せていく。

 

「この花はコモンマロウ。このレシピで一番重要な花よ。もう花の時期は終わりで、生の花をハーブティーに使えるのはきっとこれが今年は最後。カモミールは青リンゴみたいな甘酸っぱい匂いがするわ。スペアミントはペパーミントより口当たりが優しいの。エルダーは花も実もおいしいしいのよ。ルーリンツが今度ジャムを作ってくれるって言ってたから、楽しみにしててね」

「……ああ」

 

 乾燥させたカモミールを受け取って、難しい顔で慎重に匂いを確かめるハンターに、ユーリヤは苦笑いした。

 

「心配しないで。このお茶は苦くならないわ」

「悪い。その、つい」

 

 ユーリヤはちょっとだけ眉尻を下げた。

 

「お薬、やっぱり苦すぎる?」

「いや、気にしないでくれ。飲まないと次の日が辛いのは理解している。用意してくれている事への感謝ももちろんある。……ただ、その……未だに慣れないというだけで……」

 

 その歯切れはひどく悪い。ハーブは苦い、という印象は、ハンターの中ではかちこちに凝り固まっているらしい。カモミール、いい匂いがするはずなのだけれど。

 

「それならお薬のことは我慢してもらうしかないけれど……でもね、ひとくちにハーブって言っても、色々な種類や効能があって、使い方もさまざまなの。ハンターさんのお薬に入ってるハーブはその中のほんの一部で、ほかにもたくさん種類があるのよ」

 

 ユーリヤは黄色く熟したレモンをまな板に置いた。

 

「たとえばさっきの晩ごはん。サラダに入ってたパセリやルッコラは貧血を防いだり、お(なか)の調子を整えたりしてくれるわ。それにジャムはルバーブの茎を煮詰めたもので、お肌にとってもいいの」

「あれが、茎? 果物じゃないのか?」

 

 ルバーブのジャムはあざやかな赤色をしているのだ。ハンターは軽く目を見開いて、それから確かめるように(ほお)や手の甲をなでてうなずいていた。

 

「変わり種として、今お風呂場に置いてあるせっけん液は、ソープワートの根を煮出してこしたもの。そうそう、この前、ハーマンたちがリース用の透かし飾りを作ってたチャイニーズランタンも。フィサリスの中でもあの品種は全草に毒があるのだけど、原産地の東の国では薬として使うって聞いたことがあるわ」

「……あれは、ウィンターランタンではないのか」

「うーん、ウィンターチェリーと呼ぶことはあるけれど、その呼び方を聞くのははじめてかな。それからね……」

 

 ユーリヤのお話を聞くハンターは、だんだん顔のこわばりも取れて、目元も柔らかく細められていく。これで凝り固まった印象もほぐれてくれるといいな。

 

 熱心に話す二人を眺めながら、私はカウンターにティーカップを二客並べた。ユーリヤと、ハンターのぶん。ほかのみんなには内緒のお茶会だ。内緒って響きだけで、なんだかわくわくした気持ちになるのはなんでだろう?

 

 そばにティアの姿はない。猫はミントがだめだから、ユーリヤが摘んだのを見たとたんに、尻尾をへなりと下げて距離を取ってしまった。今も入り口で、いつの間にか合流したダニーと一緒にこっちを覗いている。目が合うとにゃう、とせかすように鳴かれたけれど、もう少し待っててもらわなくちゃ。

 

 エビーはといえば、カウンターのすみっこに畳まれたベストの上でのんびりしている。体が小さいのとポケットの高さの関係でストーブの熱気にあてられやすいから、ハンターがキッチンに立つ時はたいていこうして待ってるのだ。

 

 ……あ、そうだ。

 私はざるからミントのいちばん小さい葉をちぎる。あんまり近づけすぎない位置でエビーに向けて振ってみせると、触角を揺らしながら大きくうなずいた。猫とは違って、なめくじはミントも大丈夫みたい。

 

 

  ありがとう きになってたの

  ふふ すてきなかおり

 

 

 差し出せば、エビーは口を伸ばしてもしゃもしゃと食べ始める。もともと体に抱えていた銀沙に若緑が混じって、白い光のつぶがぱちぱちと弾けた。

 

 

  さっぱりしてて すっとしてて

  おいしいわ それに なつかしい

 

 

 ならよかった。

 エビーは小さなミントの葉をぺろりとたいらげて、私に触覚を向けてぴこぴこと揺らした。

 

 

  ねえ いつもみたいに のせてくれないかしら

  そのたかさなら ひのそばでも

  ねつ そんなに とどかないとおもうの

  おねがいできる?

 

 

 うなずいて、頭の上に乗せる。ひんやりした感触がもぞもぞと動いて、落ちないぎりぎりまで身を乗り出して私の顔を覗き込んだ。

 

 

  あのね みんと わたしはすきよ

  でも おしゃべりできない なめくじは

  きっと いやがるわ きをつけてね

  なめくじは きむずかしやですからね

 

 

 そうなの?

 落ちない程度に首をかしげると、笑うようにきらきらと銀の光が舞った。

 

 

  ゆったり おはなしできるのは うれしいものね

  あのこが ゆるしてくれて ほんとうに よかった

  あとで うめあわせ してあげてね

 

 

 そんなことを言われて、はた、と入り口の方を見る。廊下に伏せたティアは、おもしろくなさそうな顔でこっちを見ている。でも、分かっている、と言いたげに目を細めてくれた。

 

 その顔にダニーが鼻を押しつけた。

 ぴっとりと体をくっつけて、ふんふんとこっちまで音が聞こえるくらいに嗅ぎ始める。鼻先でほっぺたを押されてティアはあからさまに嫌そうに顔をしかめたけれど、それでもダニーはすりすりと頭をこすりつける。そんなに力強く甘えたら、いつものことではあるけれど……あっ。

 

 その濡れた鼻先に、黒い前足が目にもとまらぬ速さでひらめいた。

 

 

  また やってる

  あのこたち とっても なかがいいわよね

 

 

 ぱちんと鼻先をひっぱたかれて、ひえっと大きな体を縮こめたダニーと、しゃあっとお説教するティア。突然の騒ぎにびっくりしているユーリヤとハンターの隣で、私は深々とうなずいた。

 

 

 

 

 むすっとしたティアと、ティアのあご乗せまくらにされてしまったダニー(尻尾は嬉しそうだから、まんざらでもないみたい)を眺めながら、のんびり待つこと数分。そのうちに、お湯がふつふつと沸き始めた。

 

 ユーリヤはカモミールとミント、それからエルダーをティーポットにいれて、お湯を半分だけ注いで砂時計をひっくり返した。ハンターはざるに残ったコモンマロウの花びらを不思議そうに眺める。

 

「それは入れないのか?」

「これはお鍋の方に。ふふっ、みんな、よーく見ててね?」

 

 いたずらっぽく笑って、花びらをお鍋に残ったお湯に落とす。ふわりと水面に落ちたうすべに色の花びらから、じわ、と淡い青がにじみだした。

 

「これは……」

 

 お鍋をかき混ぜると、花びらからだんだんとうすべに色が抜けて、代わりに少しずつお湯は青に染まっていく。ハンターは目を丸くして、その様子に見入っていた。

 

「不思議でしょう? コモンマロウの花びらは、とっても綺麗な青を隠しているのよ。乾燥させたものだともっと濃い青が現れるの。それこそ夜が深まるみたいにね」

 

 白い琺瑯に、空色が映えて光る。揺れる水面は神秘的で、湯気を立てているのにしんと冷たそうに見えた。

 

「コモンマロウはのどが荒れている時には、その痛みを和らげてくれるの。ただこれだけだとほとんど味がしないから、ほかのハーブを合わせて飲みやすくするのよ」

 

 すっかり空色に変わったお湯をティーポットに移し、カウンターに向き直って、ユーリヤは、あ、と小さく声を上げて足を止めてしまった。

 すぐにハンターが食器棚からティーカップをもう一客出して、並んでいるカップの隣に置いた。

 

「もう一人分あるか」

「ええ、大丈夫。……ありがとう、ハンターさん」

 

 秘密のお茶会なのに、誰のぶんだろう。

 首をかしげて眺めている前で、静かにお茶が注がれて、カップがそれぞれの前に置かれていく。ユーリヤに、ハンターに、それから、どうしてか私の前にも。

 

 えっと、私、飲めないよ?

 そう思ってユーリヤを見上げても、優しい目をこちらに向けるばかりだ。

 

「ねえ、アレクシス。あなたさえよければ、一緒に椅子に座ってお茶を楽しまない? 普段のごはんの時は、ずっと気を使わせてしまっているから……」

 

 ユーリヤは嬉しそうに、でもどうしてか、少し寂しそうに笑っていた。

 気を使わせているというのは、もしかしてみんなが食べてる時は、部屋の外で待ってることを言っているのだろうか。むしろ最初は私のぶんの席と料理まで用意してくれようとしたこともあった(もったいないからと断った)し、中で待ってるとみんな私を気にしてしまっていた。だから実際に気を使わせてしまっているのは、私の方なのだけれど。

 

 

  ねえ せっかくだもの

  ごしょうばんに あずかりましょう?

 

 

 エビーの尻尾が頭を優しく叩いた。でも、とハンターの手を取ると、指を手のひらに当てる前に返事が戻ってくる。

 

「後で私が飲む。気にするな」

 

 ……いいの、かな。

 ハンターが引いてくれた椅子におずおずと座ると、ユーリヤはほっと安心したように笑った。

 

「それで、ここにレモンを入れるとね……」

 

 まるで太陽みたいな薄切りのレモンを、そっとくぐらせる。

 空色はまばたきのうちに温かなうすべに色に様変わりして、ハンターは言葉もなく目を瞬いた。自分のと私の青いままのカップの中身を交互に見て、楽しそうに微笑むユーリヤを見て。それからもう一度ユーリヤのカップをのぞき込んだ。

 

「……どういう事だ?」

「ふふっ。コモンマロウのお茶はね、レモンやはちみつで色が変わるの。乾燥させた花で()れたお茶は、夜明けにたとえられることもあるのよ。青から紫、そして朝焼けの色に変わるから」

 

 ハンターはお皿の上のレモンの薄切りを自分のカップに落とした。さっきと同じように青は溶けて、()(ごり)すら残すことなくうすべに色へと移り変わる。

 

「すごいな。どうしてだろう? 不思議だ」

 

 お皿をこっちにまわしてくれたハンターの目はわくわくと輝いていて、なんだかずっと年下の子供みたいだ。

 

「ユーリヤ、原理は知ってるのか?」

「ごめんなさい。どうして色が変わるのかは私も知らないの。……あ。でも、前に飲んだ時にね、カップを洗おうとしてせっけんの泡を当てたら、底に残ってたお茶のうすべに色が真っ青に戻ってたわ」

「石鹸で青に? どういうからくりだろう?」

 

 珍しく、声も弾んでいる。つられてこっちも楽しい気持ちになるし、エビーもユーリヤもほほえましそうにハンターを見ていた。

 

「ほら、お前も」

 

 私もレモンをつまんで、お茶の中に落とす。何度見ても空色からうすべに色に移り変わるさまは不思議で、いったいあの淡い花びらはどこにこんなにたくさんの色を隠していたんだろう?

 

 

  よあけって すてきな たとえ

  でも これは ゆうぐれのほうが ちかいかしら

  そらが たくさんのいろを かくしてるのと おなじね

 

 

 エビーのこぼした言葉にうなずいた。

 

 レモンをカップから出して、ユーリヤは先にひとくち飲んでみせる。

 

「うん、大丈夫みたい。……この学校に来たばかりのころにね、ある人が淹れてくれたのよ。コモンマロウの色みたいに、素敵なことは思いがけないところに隠れているから、一つ一つ見つけていきましょう、って」

 

 白い指が、カップのふちをそっとなぞった。どこか遠くを見つめていた青い目は、まばたきと共にハンターへと向けられる。

 

「ハンターさん、いつもありがとう。このお茶の色やおいしさが、ハンターさんの思い出の一つになってくれたら嬉しいな」

 

 はにかんで笑うユーリヤのかたわらで、ハンターは視線を手の中のカップに落とした。その顔によぎった影は、楽しげだった表情を拭い去ってしまう。

 

「……いつも、か」

「どうしたの?」

 

 ユーリヤはカップをソーサーに戻して、ハンターの顔を覗き込んだ。

 見つめられた先で、ためらうようにあいまいに口が開く。

 

「……私は、君たちの優しさに、報いる事ができているのだろうか」

 

 その声は沈んでいた。元気づけたくて節ばった手を握っても、握り返してくれるだけで表情が晴れることはない。

 

 ユーリヤは少しだけ目を見開いて、それから閉じる。すぐにまぶたを開け、見ている人を安心させるような優しい笑顔を浮かべて、ハンターを見つめた。

 

「ねえ、ハンターさん。あなたはいつも、私たちにとてもすてきな贈り物をしてくれてるわ。そのことにちゃんと気づいてる?」

 

 ハンターの目に戸惑いが浮かんだ。考え込むように視線をさまよわせて、すぐに首を振った。

 

「ダニーの遊び相手になってくれてること。ニルスの調べごとの相談に乗ってくれたり、ルーリンツやマリーのお手伝いをしてくれていること。それからなにより、アレクシスを見つけて、かけはしになってくれたこと」

「それは、しかし、ささやかすぎるだろう。こいつの事はともかくとして、ほかは結局、君たちにもできる事をしているだけで……」

「ううん。私たちにとっては、すごく嬉しいことなの。ハンターさんが私たちの気持ちを、大切に思ってくれてるのと同じ。誰にでもできるからって、ほかでもないあなたが助けてくれてることは決して()せたりしないわ。……それにね」

 

 ユーリヤの笑顔が、ふわりとほころぶ。

 

「ほんのささやかだと思っていた小さな贈り物が、受け取った人にとってたくさんの幸せに変わってくれるなら、そしてそれをお互いに贈り合ってどんどん幸せが増えてくなら。それってすごく素敵なことだと思わない?」

 

 私に握られたままのハンターの手に、少しだけ力がこもった。まぶたがかすかに震え、それを隠すように伏せる。湿り気を帯びた声で、小さく呟いた。

 

「……敵わない。君たちには、本当に」

 

 ハンターは握り返していた手を静かにほどいた。伸びてきたその手が私のひたいに触れ、親指がそっとなでた。目をしばたいてハンターを見つめると、彼はちいさくうなずいた。

 

 そのままカップを手に取り、口元に運ぶ。少しのためらいのあと、意を決してぐいっと傾けた。

 そうして、驚いた顔でカップを覗き込みながらぽつりとこぼした。

 

「……うまい」

「でしょう?」

 

 ユーリヤは嬉しそうに笑う。その温かい笑みを見て、ハンターも口元を柔らかく緩めた。




カモミール【苦難の中の力】
ミント【温かい心、思いやり】
エルダー(ニワトコ)【苦しみを癒やす】
コモンマロウ(ウスベニアオイ)【穏やか、柔和な心】

 「セージ【知恵、尊敬、家庭の徳】」了。
 幕間を一話挟み、次章「ローズマリー【追憶、変わらぬ愛、あなたは私を蘇らせる】」に移ります。掲載まで今しばらくお待ちください。

 のんびりした話は今回で一区切りです。


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異刻の騎士
The Outlandish Knight--Goodfellows


12/31:修正
3/23:修正



私には遊び仲間もいたし、親しい友だちもいた、
子供の頃の、楽しい学校時代の頃の、話だが、――
でも、もうみんな消えてしまったのだ、あの昔の懐かしい顔は。

I have had playmates, I have had companions
In my days of childhood, in my joyful school-days;
All, all are gone, the old familiar faces.
  チャールズ・ラム「昔の懐かしい顔」より(訳文・平井正穂編「イギリス名詩選」岩波文庫)


 

「……ロッブの森の妖精。私の声が、届いているのなら」

 

 白い髪の女の子を抱きかかえて、自分自身も額から血を流しながら、彼は揺れる瞳で僕を見つめて言った。

 

「友達を助けたい。力を貸してくれ」

 

 

 友達を助けてあげたい。

 はじまりはそれだけだった。

 

 


 

 

 森のはずれの塀の横に、真新しい妖精見猫の飾りを見つけて、僕は思わず駆け寄った。

 

 猫は苦手だけど、この飾りは好きだ。止まった時の世界でも、くるくる回せば木漏れ日にきらきら光る。妖精が森から出てこないようにっていうおまじないを、当の妖精が好きだって知ったら、これを置いた人はどんな顔をするのだろう?

 

 でも、そこからこぼれ落ちた(こと)(だま)に、目が丸くなる。

 

 

 ――マーシャ、無理はしてないかい。あんなことがあった場所だし、()()も治ったばかりなんだ、なにか少しでも違和感があれば、すぐに言うんだよ。

 ――うん。いつも付き合ってもらってごめんね、ニコ。

 ――気にしないで。私だって、彼にはお礼を言いたいのだからね。

 

 

 これは、この前の二人の声みたい。マーシャって名前は、確か男の子が気絶していた女の子にそう呼びかけてたのを覚えている。

 

 じゃあ、二人とも元気なんだ。

 

 よかった、ってほっとする気持ちと、本当にこれでよかったのかな、って落ち着かない気持ちが、ぐるぐるとおなかの中で混ざって変な気分だった。それに、こんな風に人から良く言われるのは、本当に久しぶりだったから。

 

 ローアンの街に暮らす人々は、妖精をよくないものだって思っている。街中で暮らしている猫たちの面倒をみんなで見たり、こうやって妖精見猫を飾ったりするのも、妖精が不幸を街まで運んでこないように、っていうおまじないなのだ。

 

 

 ――よくお聞き。ロッブの森には決して入ってはいけないよ。あの時の止まった森には、古い妖精の女王と、小さな妖精たちが()んでいるからね。

 ――足を踏み入れたが最後、命の時間を奪われて、だれにも見えない幽霊にされて、暗い暗い森の中をさまよい続けることになってしまうよ。

 ――それに、赤ん坊の子守をしている時は、絶対に森のそばを通ってはいけない。小さな妖精たちはいつも友達を欲しがっている。だから女王は赤ん坊と見れば取り上げて、取り替えてしまうのさ。

 

 

 そう孫に言い聞かせていたおばあさんも、その妖精が孫の隣で話を聞いてたって知ったらびっくりしただろう。正確には、おばあさんのそばに残った言霊を聞いただけなのだけど。

 

 だいたい、おばあさんが言うようなことは、少なくとも僕はしたことはない。

 ロッブの森の妖精は、今は僕と女王さまのふたりだけだ。昔は森に捨てられた子供たちの幽霊とか、崖と岩の隙間に閉じ込められた白っぽくてぼんやりしたのとか、あとは一人だけ大人の女の人もいたけど、いつの間にかみんな消えて、どこかへ行ってしまった。女王さまに()いても、僕が特別な子だから、ってしか言わない。つまり女王さまにも、みんなが消えてしまった原因や僕だけが残っていられる理由は、よく分かってないってことなんだろう。

 

 そもそも、友達なんていらないのにな。

 

 うつむいて、自分の手のひらを見る。両手の中指には、それぞれ時の青い指輪と生命の赤い指輪がはまっていた。これがあるから、僕は女王さまと同じように止まった時の世界に(とど)まれる。だけどこれがあるから、どれだけ憧れても僕は流れる時の世界で過ごし続けることができない。

 指輪を持たない人の子供たちに混じっても、それがたとえ命の時間を失った幽霊でも、同じように遊べはしないのだから。友達なんて欲しがったって仕方がない。仕方ないことにだだをこねるほど、僕だって子供じゃないし。

 

 もう一度、妖精見猫を回す。(きし)んだ音を立てながら、もう一つ、言霊がぽろりとこぼれた。

 

 

 ――妖精さん、今日もいないのかしら。あんまり奥までは探しに行けないし……お礼、ちゃんと言いたいな……

 

 

 女の子の声は、しょんぼりと沈んでいた。そんな風に気に病まなくていい、の…………探しに? えっと、なにを?

 僕のことなら、探して見つかるものじゃない、のだけど……

 

 しゃがみ込んで足元を見た。踏まれて寝た下草や、こすれてはがれた(こけ)。それから、柔らかい土に残った小さな靴跡と、それより大きな靴跡。ごく新しい痕跡は、ぜんぶ森の奥へと向かっていた。

 ロッブの森の奥は危険だ。急な崖や斜面、それから深い谷がたくさんある。迷い込んだら帰ってこられない、って言われるくらいには、滑落しやすい場所も多いのだ。

 

 いてもたってもいられなくて、僕は二人ぶんの足跡を追いかける。また、怪我とかしてないといいのだけど。

 

 

 

 

 

 そんな心配とは裏腹に、二人はまだ森の浅いところにいてくれた。

 

 まだ温かさの残る灰のような、柔らかい白い髪の女の子。それから、ひょろっとして背の高い、金の髪の男の子。二人とも木立の中にしっかり立っている。あの日と違って、ぐったりしてたり、額から血を流したりしてない。すこし、ほっとした。

 

 でも、どうしよう? 帰ってもらう? 時振計の導きの言葉は……ううん、あんまり役に立たないや。

 

 時振計のふたをぱちんと閉めて、二人の前に立った、その瞬間。

 

 かちり、と時間の振れが定まる音がした。

 

 またたく間に世界は温かく色づいて、木々の枝が風に揺られ出す。さやさやと(こずえ)が鳴る音や遠くから聞こえる小鳥の軽やかなさえずりに、いつもなら耳を傾けるところだけど、今は困惑の方が強かった。

 

 ……時間の振れを定めるようなことは、なにもしてないのに。どうしたんだろう。

 

 女の子は目と口をまんまるにして、僕の方をじっと見つめた。なんだろう、後ろに鹿でもいるのかな。そう思って振り返っても、いつもの森があるだけだ。

 

「……、……右手の、赤い指輪。……妖精さん? あなた、妖精さん、よね?」

 

 ……えっ、と。

 顔の向きを元に戻して、横にずれる。女の子のきらきらしたすみれ色の目も一緒についてくる。僕自身を指させば、勢いよくうなずいた。

 ……まさか。僕が見えてるの?

 

「マーシャ、からかうのはよしてくれよ」

 

 後ろのひょろっとした男の子は、線の細い顔に優しい笑みを浮かべていた。この前の鬼気迫るような表情とは正反対だけど、きっとこっちがいつもの姿なのだろう。だからこそ、額に残った大きな傷跡はひどく場違いに見えた。

 そんな彼に向かって、女の子はむうっと(ほお)をふくらませて首を振る。

 

「もう、からかってないわ。……あの日、私たちを助けてくれた妖精さんで合ってる?」

 

 ()()されながらうなずくと、女の子はほっと胸をなでおろした。

 

「よかった、やっと会えた! あのね、あなたにお礼を伝えたくて、怪我が治ってからずっと探してたの。助けてくれて、本当にありがとう」

 

 僕の手に、女の子の手が重なる。ぞわってした感触が腕を駆け上ってきて、思わず手を引っ込めた。

 

「あっ」

 

 女の子が少し驚いた顔で、まばたきをした。その瞬間に時間は止まって、あたりに冷たい色が戻ってくる。

 

 ……どうして? 時間が流れ出したのも変だったけど、今だって時間の振れを定めるようなことはしてないのに。

 

 僕は引っ込めた自分の手を見て、それから女の子を見つめる。時間が流れ始めたのはこの子の前に立った時で、止まったのはこの子がまばたきをした、目を閉じた瞬間だった。……もしかして。

 そっと女の子の手に指を重ねた。ぞわぞわした感触が広がるのと同時に、かちり、と音が再度響いて、女の子のまぶたが開いた。

 

「あれ?……気のせいだったのかしら?」

 

 女の子は不思議そうに首をかしげた。その拍子に、襟元の真新しいブローチがきらりと光る。すぐに笑顔を浮かべて僕を見つめた。

 

「私、マリヤ。マリヤ・ウスペンスカヤ。みんなからはマーシャって呼ばれてるわ。こっちはニコラス。ニコって呼んであげて。ニックだと、ルーの家で飼ってるおじいさん犬と同じになってしまうの」

 

 指し示した手につられて、僕は男の子を見た。きらきらした笑顔のマーシャとは正反対に、ニコの顔色は悪い。

 

「……マーシャ。きみまさか、本当になにか見えてるのかい……?」

「ニコこそ。見えてないの? 夕焼けの雲みたいな金色と、深くてきれいな青よ」

「えっ、と、きみの前に、なんだか変な感じはする、けど……え? これ、どういう、ことだ……?」

「よく分からないけれど……でも、きれいで、すごく優しそうな子よ」

 

 だんだん青ざめてきたニコから視線をこっちに向けて、マーシャは僕の顔をのぞき込んだ。

 

「ねえ、妖精さん。あなたの名前も教えてくれる?」

 

 ……えっと、どうしよう。

 うつむいた僕に、マーシャは小首を(かし)げた。

 

「しゃべれないの?……ううん、半分はそうみたいだけど……もしかして、名前、ないの?」

 

 うなずいて返事をする。

 女王さまは僕のことを、あなた、とか、愛しい子、としか呼ばない。自分だけの名前に憧れたことはあるけれど、呼ぶ人がいない名前なんてあっても仕方がないから。……でも、どうしてマーシャは僕に名前がないって分かったんだろう?

 

 じゃあ、とマーシャはくちびるに人差し指を当てた。

 

「そうね……ロッブ、ロバート……うん、ロビン。あなたのこと、ロビンって呼んでもいいかしら?」

 

 ロビン?……ロビン。僕は、ロビン。

 繰り返しても、なんだか変な感じだった。誰かに呼びかけられること自体、あんまりなじみがないからかもしれない。

 でも、どうしてだろう。どこかくすぐったくて、ふわふわしたものが頬のあたりを漂っているような気分だった。

 

「どう? 気に入ってくれた? それとも別の……」

 

 慌ててうなずく。一度じゃ足りない気がして、何度もうなずく。

 

「ふふっ、ならよかった」

 

 にこにこしていたマーシャの後ろで、ニコが自分の両の頬を強く張った。よし、と一つうなずいてから、突然の音にびっくりしているマーシャと、僕のいるあたりとを交互に見る。

 

「……その、きみの前にいる妖精さんって、ロビン・グッドフェロー*1なのかい?」

「ううん。そっちとは関係なくて、ロッブの森で会ったからロビン。だからつづりも少し違ってくるね。でも、膝から下がすごく細くて、足首から下はほとんど見えなくて、言われてみればやぎの足に少し似てるかも。……ニコ、大丈夫?」

「正直、足元がぐらぐらしてる気がするよ。……はは、情けないな」

 

 ニコは力なく笑った。そんな彼に向かって、マーシャは首を振る。

 

「そんなこと言わないで。ニコが誰よりも勇敢なことは、私とルーがよく知ってるもの」

「え、う……」

 

 青ざめていた顔が、みるみるうちに赤くなる。なんだか忙しい人だなあ。

 

 ぼんやりとそんな感想を抱いた後で、僕ははっとした。

 そうだ、お礼。名前を贈ってもらったのだから、なにかお返ししなくちゃ。ええと、返せるのは……女王さまにあげるつもりだったものだし、これならきっと喜んでくれる。

 

 いったん手を離すと、マーシャがまばたきした瞬間にまた時間が止まった。この子が見てなくても止まる時と止まらない時があるのはなんでだろう。不思議だけど、それは後で考えればいいや。

 なんだか()いた気持ちで、足下に咲いていたハーツイーズを右手で摘み取る。物思いに(ふけ)る小さな花は命の時間を吸い取られて、みるみるうちにしなびていった。

 すっかり白くなってしまったハーツイーズを時の隙間にそっとしまって、それから入れ替わりに枯れたブルーベルの花を取り出して、右手の指でつまむ。

 

 中指の赤い指輪が脈打って、淡い光がこぼれ落ちた。光の粒がブルーベルに触れるたび、乾いた表面はみずみずしさを取り戻していく。きっと春の匂いも戻ってきたことだろう。僕にはそれがどんな香りなのか、知ることはできないのだけれど。

 そうして僕の手の中には、まるで今朝がた咲いたような、あでやかなブルーベルの花があった。それをマーシャの手の中に持たせれば、また時間が動き始める。

 

「え……きゃっ?」

「わ、うわぁっ!?」

 

 マーシャは取り落としそうになったブルーベルを慌てて(つか)んだ。ふたりからすれば、突然マーシャの手の中に花が現れたように見えただろう。ふたりともびっくりした顔で――ニコにいたっては腰を抜かして――まじまじと花を見つめていた。こんなに反応してくれるのは楽しいな。

 

「これ……ロビン、あなたが?」

 

 うなずくと、マーシャは花をぎゅっと抱きしめた。

 

 ニコはズボンについた枯れ葉を払いながら立ち上がり、マーシャの手の中の花を(のぞ)()んだ。

 

「……ブルー、ベル? 生花、だよね? 今日は夏至だっていうのに」

「妖精さんだもの、きっと秘密の花畑を知ってるのよ。……ありがとう、ロビン」

 

 マーシャはつぼみがほころぶように笑った。まるで森の中にそそぐ木漏れ日を浴びた花みたいにきらきらしてて、僕はただ、その笑顔に見とれる。

 

 こんな風に(うれ)しそうにお礼を言ってもらえるなんて、いつぶりだろう。

 

 その時、遠くから大人の男の人の声が聞こえてきた。マーシャとニコは顔を見合わせる。

 

「いけない、お父様だわ」

「そろそろおいとましようか。……その、ええと、ろ、ロビン」

 

 ニコは背筋を伸ばして、僕のいるあたりを見つめた。一度深呼吸してから、落ち着いた声で語りかける。

 

「この前はありがとう。おかげで私もマーシャも助かったよ。きみがいなかったら、大怪我だけでは済まなかった。本当に、感謝している。……なんて、言葉だけでは全然足りないけれど」

 

 今まで素通りしていた冬空のような青い目が、すっと僕に焦点を合わせた。

 びっくりしているうちに、マーシャの手は僕から離れて、二人とも元来た道を引き返していく。最後に、振り返ったマーシャは大きく手を振ってくれた。

 

「ロビン、またね!」

 

 そして、時間の振れがすべて定まる。

 

 文字盤の二つの針は同じ数字を指して重なり、かちりと音を立てて固定される。この時間の中に、僕ができることはもうないみたいだった。

 

 二人の背中もいつの間にか消えて、昼下がりの森に立っているのは僕だけだ。

 

 ぼんやりと、自分の手をなでる。さっきまでのぞわぞわした感触の()(ごり)は、温かな気持ちと共に強く強く残っていた。

 

 またね。街の子供たちが夕暮れ時、それぞれの家に帰る時に、友達に伝えるあいさつ。

 ……でも、またっていつだろう?

 僕にとって時間は飛び越えるもの。でも妖精じゃない生き物にとっては時間は流れるもの。飛び越えた先がマーシャたちにとっては一年とか十年とか――それがどのくらいの長さなのかはよく分からないけれど――先だったら、きっと忘れられてしまう。せっかく(もら)った名前だって、呼ぶ人がいなくちゃ。

 

 マーシャと、ニコ。

 時間を飛び越えた先でまた会えるかな。また、名前を呼んでくれるかな。

 

 僕はハーツイーズを握って、森の奥へ走る。この花を川に流してあげて、はやく時間を渡らなくちゃ。

 

 ふと、空を見上げる。半分に欠けた月が、枝葉に隠れるように(のぞ)いていた。

 女王さまは今も僕を見ているんだろうか。

 ……なにも言ってこないし、きっと大丈夫だよね。それになるべくなら心配、掛けたくないもの。

 

 


 

 

 時の雪が降る暗闇から外に出るときは、いつも安心と不安がないまぜになった気持ちになる。

 

 妖精は時間を飛び越えることができる。でもどこにたどり着けるかは僕には決められなくて、ただ流れに任せるしかない。

 

 この暗い暗い場所にひとり取り残されて、もうずっとここから出られなくなったらどうしよう。

 でもその暗闇が晴れた先で、森も、街も人も、女王さまだっていなくなってしまっていたらどうしよう。

 

 その両方が、いつも怖い。

 

 だけど今は、それはすっかり隠されてしまっている。また会えるかな。はやく会いたいな。そんな気持ちが湧き出して止まらないのだ。

 

 

 

――妖精さん、やっと会えたね! お礼も言えたわ。――

――そうだね。でも少し残念だな。私も見えたらよかったのだけど。――

 

1881年。6月21日、12時。

  

1881年。6月28日、14時。

 

――また会いにきましょう。それに別れ際、なんだかさみしそうだったから。――

――会いに来るのもいいけれど……もっと、何かできないかな? ルイスにも相談してみようよ。――

 

 

 

 

「ロビン!」

 

 目を開ける前に優しい声が聞こえて、ぞわっとした感触が手に触れた。

 慌ててまぶたを開く。僕にとってはさっき別れたばかりのマーシャが、花が咲いたみたいなきれいな笑顔でこっちを見ていた。

 

「一週間ぶり。元気にしてた?」

 

 とりあえずうなずいて、それから、じわじわとおなかの底から浮かび上がってくる嬉しさをかみしめた。

 

 ちゃんと覚えててくれた。

 名前も、呼んでくれた。

 むずむずして、じっとしてられなくて、でも手を離すのも嫌だ。どうしよう。どうすればいいんだろう?

 

 そんな僕とは反対に、マーシャは笑顔を消して、悲しそうに眉尻を下げた。

 

「あのね。私、あなたに謝らないといけないことがあるの。……ブルーベル、枯らしてしまったの」

 

 枯れちゃったの? でも、本当は春に咲く花だし、そういうものなんじゃないのかな。いつでも色んな季節の花が咲いてる女王さまの花畑の方が、きっと普通ではないのだろうから。

 

「それも、半日も()たないうちに、おかしな風に枯らしてしまって……本当にごめんなさい。せっかくあなたが贈ってくれたのに……」

 

 気にしないでほしくて首を横に振っても、マーシャの(うれ)いは晴れない。……声さえ出せれば、言葉で気持ちを伝えられるのにな。

 

「……マーシャ、待ってくれよー……」

 

 遠くから、そんな声が木々の間を縫って届いた。しばらくして、息を切らしたニコが、よろよろと姿を見せる。

 

「あ……ごめんなさい、ニコ。病み上がりなのに、無理させてしまって」

「それは君もだからね……ベッドの上にいたのは、君の方が長かったんだし……」

 

 ひざに手をついて息を整え、ニコは額の汗を拭った。

 

「えっと、やあ、ロビン。……そこにいる、よね?」

「うん。私の目の前に。やっぱり見えないの?」

「うーん……見えないけれど、なんとなく、そこになにかがいるのは分かるというか……マーシャが言うような黄金色や青は、やっぱり私には見えていないよ」

 

 不思議そうに首をひねりながら、ニコは僕がいるあたりを眺めている。

 

「大丈夫かな。マギーはともかく、ルイスは信じてくれるかな……」

 

 ニコの言葉に、マーシャはすこしだけ緊張した面もちで、僕をじっと見つめた。

 

「あのね。あなたを私たちの学校に招待したいの。あなたのことを、大切な友達に紹介したくて。それから、お願いしたいこともあるのだけど……いい、かしら?」

 

 僕はきょとんとして、それからうなずいた。マーシャはほっとした様子だけれど、そんなに緊張することだったのかな。

 

「紹介したいのは二人。メガネのルーと、小さなマギー。……本当はね、シムっていう子もいるのだけど、怖がって物置小屋に隠れてしまったの」

「シムのことはどうか気にしないでほしい。あの子は夜風に揺れるカーテンに(おび)えるくらいの怖がりだから」

 

 マーシャの後ろで、ニコは苦笑いして付け足した。

 

「ただ、それと同じくらいの知りたがりでもあるんだ。あの子がひとしきり怖がり終わったら、きみさえ良ければ仲良くしてあげてほしい。……それで、街中を通ることになるんだけどさ」

 

 ニコは半信半疑といった風に首をひねって、上着の内側から乾燥した草の束を取り出した。

 

「これ、一応用意したんだけど……妖精は猫が苦手、って、本当なのかい?」

 

 

 

 

 僕の知っているローアンは、ほとんどが時間の止まった冷たい街だ。振れを定めれば時間は流れ始めるけれど、それはほんの短い間だけ。

 

 だけどマーシャの手に握るように触れて歩くローアンは、ずっと流れて止まらない、温かな色の街だった。

 

 駒鳥の胸元のように赤い(れん)()の壁と、優しい色合いの石()きの屋根。そのてっぺんに載った(しん)(ちゅう)の妖精見猫の飾りが、青空の中で鈍い光を跳ね返していた。

 窓辺の赤いゼラニウムも、軒先に掲げられた猫の飾りがついた看板も、風に揺れて小さな声で歌っている。本物の猫がいるときは、先に歩いてるニコがキャットニップを配って道の端によけてもらっていた。

 

 その間を行き交うのも、大人から子供まで、本当にいろんな人たちだ。顔立ちも服の仕立ても様々で、髪の毛だって、金色だったり、赤かったり、濃い焦げ茶や黒だったり。仕立てのよい服を着こなすおじさんもいれば、(かっ)(ぷく)のいいおばさんたちもいる。まとまって歩く年若い人たち――ローアンには古い大学があって、彼らはそこの学生だろう――は、難しい話を交わしていた。

 その人たちがいっぺんに、ばらばらに動き続けているのだ。ぶつかることなく歩き回り、ときに道端で立ち話をして、真面目な顔だったり、笑ったりしている。

 

 すごい。

 本当に、すごい!

 

 駆け出したい気持ちをぐっとこらえて、僕はマーシャと同じ歩幅で歩く。でもきょろきょろと見回しすぎて足が遅れて、手がずれてしまうことが何度もあった。

 

 マーシャたちはこんな世界で暮らしてるんだ。あざやかで、温かくて、不思議で。時の振れを定めなくても、音も光もずっと止まらずに動いている。見慣れた街並みのはずなのに、どこに目を向けたってはじめて見るものばかり。どうして僕には目と耳が二つずつしかないんだろうって本気で残念に思うくらいだ。

 昔は憧れていた。普通の人みたいに過ごせたらって。ずっと昔に仕方ないって諦めたことが、今になって実現するなんて。

 

 僕は隣を歩くマーシャと、前にいるニコの背中を見た。なにをお返しすれば、この喜びに見合うだろう? またブルーベルの花を探す? それとももっと別のものがいいかな。ちゃんと考えて、二人に同じだけのものを返さなくちゃ。すごく難しいに決まってるけど、ぜったいにやりとげなきゃだめだ。

 

 その瞬間、雷が落ちた。

 

 耳をつんざく大きな音に頭を殴られて、思わずその場にしゃがみ込んだ。空は晴れてて、雲なんてひとつも浮かんでなかったのに。

 だけど、周りの雑踏はなにも気にしてないように止まらない。恐る恐るマーシャを見上げると、彼女はちょっとだけ笑って、小さく(ささや)いた。

 

「二時半の鐘の音よ。大丈夫」

 

 マーシャが視線を向けた先には、街で一番背高な時計塔があった。大きな文字盤は、確かに二時半を示している。

 

「近くで聞くのははじめて? 動ける?」

 

 ふらふらする足で立ち上がって、うなずく。鐘を鳴らして時間を知らせてる、というのは知ってたけど、機会がなくて今まで実際に聞いたことはなかった。そっか、これが鐘の音なんだ。まだ空気がびりびりしてる。慣れてるのかもしれないけれど、こんな大きな音に誰もびっくりしないの、なんだかすごいなあ。

 

「無理はしないでね。休むならベンチが……」

 

 首を振って、道の先を指差す。大丈夫だってつもりで大きくうなずいてみせると、分かった、ってマーシャは小さな声で答えてまた歩き始めた。

 

 やがて街を抜けて、あたりは一面の麦畑に変わる。

 

 小麦は葉を、金の穂を空に伸ばし、風が吹くたびにふわりと揺れる。それは隣の苗に、それから畑にもどんどん広がって、大きな波となって輝いていた。

 さらさらと葉が擦れる音に、耳を澄ませた。ひとつひとつはかすかでも、それが幾百幾千と重なって、うねるように力強く響いている。

 ……ああ、こんな音がするんだ。柔らかくて、深くて、それから軽いようで重い。森を抜けて枝葉を揺らす風とはまた違う、優しい音。

 

「少し、見ていく?」

 

 マーシャが隣で囁いた。待たせたら悪いから、と首を振ろうとしたその時、まるで心を読んだみたいにマーシャの方が首を横に振った。

 

「気にしないで。……それに、この風景、私も好きだもの」

 

 先を歩いていたニコが、振り返って戻ってきた。

 

「どうしたんだい?」

「麦畑に見とれてるの」

 

 ニコは目を瞬かせて、それから優しく笑った。マーシャの隣に立って、静かな声でつぶやくように言った。

 

「ええと、芽が出たばかりのころも素敵なんだよ。柔らかい若緑が()(れい)なんだ。……ちゃんと伝わってるかな」

 

 ニコの目が、探すように僕のいる辺りをさまよって、気恥ずかしそうに頭の後ろを()いた。もちろんって気持ちをこめてうなずいて、それをマーシャに伝えてもらうと、ニコはくすぐったそうに笑った。

 

 景色をしっかり思い出に焼き付けてから、僕はマーシャに向かってうなずいてみせた。マーシャはこっちの気持ちをすぐに()んでくれて、ニコに声を掛けてまた歩き出す。

 

「……ほら、見えてきた。あそこが今の私の家。お父様がグレイブズさんから借りてるの。元々は古い寄宿学校だったんですって」

 

 麦畑を抜け、小高い丘を一つ二つ越えて。(ぞう)()(ばやし)の中の石畳を歩きながら、マーシャは川のほとりにあるお屋敷を指さした。

 

「地図の上なら、ロッブの森とはそんなに離れてないんだけどね」

 

 ニコの言うとおり、鳥みたいに空から見下ろすことができれば、僕がマーシャたちと会った場所からあんまり離れていないことが分かるだろう。ただ、あいだの崖や川には橋が架かってないから、街をぐるっと一回りする必要がある。僕も、空に浮かんだり水面を歩いたりはできない――時間の振れを持つものがあれば、その周りに引っかかるくらいはできるけれど――から、こっちまではこないしなあ。

 

「今日は大人がみんな出払ってるから、こそこそしなくて大丈夫。私たちの学校にようこそ、ロビン」

 

 門を開けながら、マーシャは楽しげに笑いかけてくれた。

 

 

 

 

 ことの(ほっ)(たん)は、ブルーベルの花を贈ったあの日に遡るのだそうだ。

 

 迎えにきたお父さんの前では服の下に隠したけど、仲のいい友達には内緒の話として教えたのだという。大人たちがいなくなったのを見計らって、ブルーベルをみんなに見せたらしい。

 

「妖精さんにもらったの。とってもきれいで、それから素直ないい子だったわ」

 

 それを聞いた友達の反応は、みんなそれぞれ違った。

 いちばん年下のマギーは素直に喜んでくれて、怖がりのシムは怯えてルーの後ろに隠れてしまった。

 そしてルーはしばらく()(けん)を抑えたあと、二人をしらっとした目で見た。

 

「昼寝もほどほどにな」

 

 言葉に詰まり顔を見合わせた二人に変わって、マギーがぷくりと頬を膨らませた。

 

「ニコもマーシャもうそいわないもん。ルーも知ってるでしょ」

「なにも(うそ)つきだ、妖精なんていない、って頭ごなしに否定するつもりはないよ。でもね、嘘をついているかどうかと、言ってることが正しいかどうかは関係ないんだ」

 

 ルーは膝をついて目の高さを合わせて、そうマギーを諭したという。

 

「……?」

「たとえ勘違いであっても、自分の記憶が間違っているなんて、誰も思わないものさ。マルガレータにはまだ難しいかな。ほらサイモン、立つから少し離れてくれ」

 

 顔をむすっとしかめたマギーの頭をなでながらルーは腰を上げた。それから優しさをずいぶん目減りさせた――でもそう言うマーシャたちの顔はにこにこしてて、たぶん三人の中ではいつものことなんだろうなっていうのが僕にも分かった――視線を二人に向けた。

 

「お前も見えただの見えないだの、今までそんな話をしたことなかっただろう。妖精の(なん)(こう)*2でも目に塗られたのか?」

「それは、私にもよく分からないけれど……で、でも、ほんとうに妖精さんがくれたのよ。まばたきした隙に、突然手の中にブルーベルがあったの」

「私も見ていた。マーシャの言うとおりのことが起きたんだ。それに妖精がいた場所に感じた、なんというか、なんとなくだけど確かにいるのが分かってしまうあの感覚は……」

 

 いろいろと話し合って、最後にルーは手を上げた。

 

「ああ、分かった。君たちがそこまで言い張るなら、私にも考えがある」

 

 そう言って、ルーは鍵付きの箱を二人の前に持ってきたのだという。

 

「君たちは何か適当なものをこの箱に隠すといい。鍵は私が常に首から掛けておく。もし君たちの証言通りの妖精が本当にいるなら、私に気づかれずに鍵を開けるくらい、わけないだろうからな。頼んでみるといいさ」

「中身が取り出されたら、ロビンが、妖精さんがいるって信じてくれるの?」

「もちろん。……それに私だって、もし妖精がいるなら君たちの友人として礼を伝えたいのだから」

 

 そういうことになって、それが今僕の目の前にあるひと抱えほどの木の箱なのだそうだ。

 つるりと磨かれた木目が輝き、内側から仕込まれた錠と角を補強する金具はくろがね色に重く光っている。手に意識を込めて揺すると鈍い音がして、ニコが少し身をすくめた。びっくりさせてしまったらしい。

 

「そういうわけだから、ルイスが持ってるはずの鍵をもってきてくれるかな」

「あなたがいないところで話を進めてごめんなさい。……お願いしてもいい?」

 

 首をかしげたマーシャに向けて、僕は大きくうなずいてみせた。

 それくらい、切り分けたパイを口に入れるようなもの、というやつだ。……僕は食べたり飲んだりできないけどね。

 

 

 

 

 マーシャと別れると、廊下の角を曲がったところで時間の流れが止まった。窓から差し込む冷たい光を見上げると、落ち着かない感覚が足下から上ってくるような気がした。いつもとなにも変わらない、時が止まった世界なのに。流れる時の世界より、ずっと()()みがあるはずなのに。

 

 ……急いで鍵を取って、マーシャたちのところに戻ろう。

 

 小走りで廊下を進む。途中、あたたかな(だいだい)(いろ)の幻影を見つけて、そばに浮かんだ言霊のつぶをそっと握り締める。

 

 

 ――どうしたんだい、マルガレータ。

 ――あのね、今日もルーといっしょにいていい?

 ――構わないけれど……なら、本を図書室に返してくるから、先に庭で待っててもらっていいかい?

 ――ううん、だいじょうぶよ。ルーはうらにわでご本をよむの。わたし、しずかにしてられるもの。

 

 

 腰をかがめた男の子と、背伸びをする女の子。この二人がマーシャたちの話していたルーとマギーなんだろう。玄関とは反対側の扉を探すと、すぐに姿を見つけることができた。

 

 木に背を預けて、眼鏡を掛けた男の子が本を読んでいる。その首には、箱の金具と同じ色の鍵が、細い鎖に通されて掛けられていた。その服の裾をつかんで、小さな女の子が眠そうにあくびをしていた。

 

 ……あれ、この男の子。

 引っかかるものを覚えて、僕はその顔をまじまじと見つめた。ニコとマーシャを助けたあの日に見た覚えがある。大人たちよりずっと奥まで探しに来ていて、二人を最初に見つけたのはこの子だったはずだ。

 

 鍵に触る前に、彼の顔の横に浮かんだ言霊を指先でつつく。温かな橙色の光がほどけて、止まった時の世界に(あき)れたような声が響いた。

 

 

 ――また森に行ったのか、あのおてんば娘は。少しは(しと)やかになったかと思ったらこれだ。ニコラスが一緒なら()(ちゃ)はしないだろうが、そのニコラスも先週からずっと浮ついて落ち着かないのがなぁ。ウスペンスキー先生も止めてくださればいいのに、どうしてあんな()()けるようなことを……

 ――それにしても、ロッブの森の妖精、か。ブルーベルなんて、確かにこんな季節に咲くものではないけれど。もし、本当にいるなら……

 ――……戸棚のあめ玉、減ってたりしてな。あらためて数えておいた方がいいかなぁ……

 

 

 もう、ひとを食いしん坊みたいに。

 

 ちょっとだけむっとしながら、僕はルーの首元に手を伸ばす。

 妖精の金の手は、なににも遮られることなく鍵をつまみあげた。鍵はそのまま時間の隙間にしまわれて、流れる時の世界から離れる。振れが定まったことによって、せき止められていた時間がかちりと流れ出した。

 

「……、…………?」

 

 ルーは顔を上げた。きょろきょろとあたりを見回して首をひねる。隣で船をこいでいた女の子も、目元をこすりながらルーを見上げた。

 

「どしたの?」

「いや、気にしないでいい。……マルガレータ、眠いなら膝を貸すけれど」

「やだ。わたし、ねむくないもん……」

「最近ずっと早起きだって、おばさんから聞いてるよ。我慢するものじゃない」

「んー……でも、ようせいさん、あいたい……」

「大丈夫だよ。一度きりしか会えないなんてことはないさ。ほら」

「じゃあ、もしようせいさんがきたらおこしてね。きっとよ」

「ああ。約束するとも」

 

 あいまいな声をあげながら、マギーはこてんとルーのひざに頭を載せた。

 すぐに寝息を立て始めたマギーの頭を()でると、ルーは本に意識を戻した。首から小さな鍵の重みが消えたことには気づかないまま。

 

 そうして、かちりと時間の振れが定まった。

 

 止まった時の世界で、僕はこっそり笑う。いたずらはこの瞬間が二番目に楽しい。

 

 妖精のすることは、その変化が小さければ小さいほど気づかれない。もしそれを見つけた人がいても、まさか妖精の仕業だなんてまず思わないから、たいてい気のせいってことにしてしまう。だから仕込みの段階ではほとんどばれないし、いたずらが成功して大きな変化が現れた時はみんなびっくりする。慌てたり、(あっ)()にとられたり、それから一周回って大笑いしたり。一番楽しいのはそんな余韻を見る時だ。

 ……もちろん、いたずらは全部が全部、僕がやってるわけじゃない。なじませるために棚にしまっておいたパイがなくなるのも、とっておきのお酒がいつの間にか減ってるのも、あと戸棚のあめ玉の数が変わっていたとしても、決して僕がなにかしたからではないのである。

 

 この二人はどんな反応をしてくれるかな。わくわくしながら、僕は来た道を引き返す。建物の中に戻ろうとしたところで、戸口から顔を覗かせている小さな男の子に気づいた。

 来た時はいなかったし、さっき時間が流れている間に移動したみたいだ。服のあちこちにほこりをつけて、頭には蜘蛛(くも)の巣が引っかかっている。蜘蛛の巣くらいは取ってあげ……

 

「うひゃっ!?」

 

 わあっ?

 

 指先が触れたとたんに、男の子は悲鳴を上げて身をよじった。そのまま姿勢を崩して、庭の方に倒れ込む。

 すぐにばっと身を起こして、怯えた顔であたりを見回した。

 

「き、気のせい……?」

「どうした。物置小屋に隠れてなくていいのか、サイモン?」

 

 むずがるマギーをあやしながら、ルーは冗談めかして笑った。サイモン……じゃあ、この子がシムなのか。妖精を怖がってるって聞いたし、驚かしちゃって悪かったな。

 

 (ちゃ)()されたシムはぐ、と唇を()()めた。ぐしぐしと目元を乱暴にこすって、ルーの隣に腰を下ろす。

 

「ねえ、ルー。やっぱりニコとマーシャを止めてよ。よくないよ、妖精だなんて」

「またか。心配する必要はないさ。二人とも大丈夫だと言っていただろう。やりたいようにやらせておけばいい」

 

 本に目を落としたまま、ルーは素っ気なく返事をした。じわ、とシムの目に涙が浮かんだ。

 

「で、でも、だって、妖精は不幸を運んでくるのでしょう? それに、子供を取ってしまうって……だから……」

 

 ……それは。

 

 ()(すく)んだまま、僕はぽろぽろと涙をこぼすシムを見つめた。楽しい気持ちでいっぱいだった心のなかに、冷たくて重い塊が突然詰め込まれたような気がした。

 

 違う、って言い訳できたら、どんなに楽だろう。僕は子供を取ったことなんてないって。でも、たくさんの子供たちが森の奥に消えたのは本当のことで、それを止められなかったのも事実だ。

 

 最近は起きてないけど、昔は森に子供が捨てられることがよくあった。言葉を覚えるのが遅いとか、うまく歩けないとか、それから病気がちな子を連れてきて、森の奥に置き去りにする。そうして一人で帰る親は言霊を残していく――あの子はロッブの森の妖精に取られてしまったんだ、って。

 泣いているその子たちを、指輪の赤い光で導いて森の外に帰すと、次の日には親がもっと奥まで連れてきて捨てていく。時間を飛び越えるたびに、さっき助けたはずの子がまた目の前で泣いている、ってことがずっと続いて、だんだん僕は動けなくなった。泣き声を聞くたびに足が震えて、近くに残った言霊を聞くたびに頭がくらくらした。

 結局女王さまがみんなから命の時間を取り上げて幽霊にして、そして子供たちはひもじい思いをしなくていい森の中で暮らして、そのうちに全員消えていなくなった。たぶん、それで良かったんだろう。真っ暗な森を抜けて家の(あか)りを見つけた時よりずっと、楽しそうにしていたのだから。

 

 だから、この前のことは――生きてる人を助けるのは、僕にとってはものすごく勇気のいることで、それにお礼を言ってもらえたのは、本当にうれしかった。ひとでなしの僕でも、誰かの役に立てるんだって、思えたから。

 でも。

 

 

 あなたが傷つくことなんてないのよ。特別な、愛しい子。

 

 

「マリヤとニコラスは、お前に今回のことを何も話してないのか?」

 

 ルーの問いかけに、シムはぶんぶんと力いっぱいに頭を振った。

 

「ううん。してくれようとしたけど、こわいから聞きたくなかったの。……でも、もっといやだって思ったんだ。ニコとマーシャがまたいなくなるかもしれないの。また、あんなのはやだ。ふたりが帰ってこなかったらって、すごくこわかったのに……」

 

 ぐず、と鼻を鳴らしたサイモンの頭を、ルーはぽんぽんと撫でた。

 

「大丈夫だよ。あの二人が妖精に取られることはないから、安心していい」

 

 ……どうして、そんな風に断言できるの?

 僕がいることにはまったく気づいていないのに、ルーの声は力強く自信に満ちている。

 シムもまた、泣きはらした赤い目でルーを見上げた。

 

「どういうこと? 大丈夫って、どうして言えるの?」

「妖精に取られるってのは、あー……言葉通りの意味じゃない。もう少し大人になったら分かる。今は私を信じてくれないか?」

 

 そう言って、ルーは視線を少しさまよわせた。

 

「ほら、古いおとぎ話にあるじゃないか。病気の母親のために森に入って、妖精の案内を受けて薬を手に入れた女の子の話。その子はちゃんと帰ってきて、薬のおかげで母親の病気を治せただろう?」

 

 それは、確かに、昔はそんなこともあったけど……あの子、お母さんを助けられたんだ。あの子を見送ったあとに時間を移動したら何年も経ってて、どうなったのか何も分からずにいたけれど。

 

「なによりも、あの二人に好かれたのだから。きっと妖精っていうのも、悪いやつではないんだよ」

 

 その言葉の根元にあるのは、ニコとマーシャへの信頼だけだ。でもそれは、きっとたくさんの言葉を尽くすよりもシムの心に届いたのだろう。

 シムは目元をまたごしごしと拭い、鼻をすすった。

 

「……うん。ルーだってすごくいじわるだけど、やさしいもんね」

「お前も言うようになったな。……もう、大丈夫か?」

「まだ、怖い、けど……でも、ニコとマーシャが好きになったんだもんね。なら、うん。そう言われると、そんな怖くない、かも。ルーと同じくらいいじわるだったらお手上げだけど」

 

 答える代わりに、ルーはシムの頭をちょっとだけ乱暴にぐしゃぐしゃとなで回した。その動きと楽しそうな悲鳴で目が覚めたのか、マギーがルーの腕をつかんでもぞもぞと起き上がった。

 

「もー……なあに、シム。また泣いてるの?」

「な、泣いてないもん! ぼく泣いてないもん! 泣いて、ない、ったらぁ!」

「ああもう、鼻が垂れる。ほら」

 

 当てられたハンカチに向かって、シムは思い切り鼻をかむ。ルーは鼻の下を拭ってやると、汚れた面を内側に畳んでポケットにしまった。ぐずぐずと鼻を鳴らして涙をこらえるシムから、マギーはぷいとそっぽを向いた。

 

「シムはしんぱいしすぎなの。ニコとマーシャがいい子っていうんだもの。ようせいさんはいい子よ」

 

 そうして、かちりと時間は止まる。

 

 僕はそっと来た道を引き返す。三人の(けん)(そう)は、僕のいる場所まで届くことはない。

 

 みんな、ニコとマーシャが大好きなんだ。

 ルーは二人を信頼して、大丈夫だって言ってくれた。シムは二人のことを心配してて、怖がって隠れてたのに勇気を出して出てきた。マギーは二人の言葉を信じて、会ってみたいって言ってくれた。

 みんないい人だ。そう思う。

 

 なら、どうして心が沈んだままなんだろう。

 

 赤い指輪を左手でつまんで、ひっぱる。ずっと昔に何度も試した時と同じように、どんなに力を込めても、まるで張り付いたみたいに動かない。

 ……僕は、一緒にいて、いいのかな。

 

 (うつむ)いた視界の中に、かちりという音とともに磨かれた丸い靴の先が入り込んだ。

 はっとして顔を上げると、戸口の陰に隠れるようにマーシャとニコが立っていた。マーシャと視線がかち合って、彼女の眉尻が物思わしげに下がる。

 

「シムの声が聞こえたから、様子を見に来たのだけど……」

 

 えっと、どうしよう。シムはルーに諭されて元気になったみたいだし。

 考えてる暇もなく、シムが僕の横をすり抜けて、ひょっこりと顔を覗かせた。赤い目元をこすりながら、二人を見上げる。

 

「あ、マーシャ、ニコ。おかえりなさい。ちょうどよかった」

 

 マーシャは困ったように僕とシムを見比べた。僕が手でシムを指すと、迷った様子を見せながら、ニコと一緒にシムへと向き直る。

 

「どうしたの、シム?」

「あのね、妖精のことで、ちょっと訊きたいことがあって」

「いいのかい? あんなに怖がって、聞きたくないって言ってたのに」

「う……そうなんだけれど……」

 

 シムはきまりが悪そうに頭の後ろを掻いた。口元に手を当てると、マーシャとニコも合わせるように身をかがめた。

 

「……ルーに言われたんだ。ニコとマーシャが好きになったんだから、きっと悪いやつじゃないって。……それ、ほんとに本当なの?」

 

 問いかけに、マーシャはふっと僕を見つめた。それからふわりと(ほほ)()んで、僕の手に手をそっと重ねて、握るように指を軽く曲げた。

 

「? マーシャ?」

「ええ、ほんとに本当。でもね、まだ何が好きなのかとか、どんなことが得意なのかとか、そういうことは全然知らないの。これから知っていけたらって思ってるわ。ほら、ルーのところに戻りましょう? もっとたくさん、みんなに話したいことがあるの」

 

 シムの背中を押して促しながら、マーシャは僕のことも目で呼んだ。

 

 裏庭に戻ると、うとうとしていたマギーがぱっと表情をほころばせて駆け出す。

 

「マーシャっ!」

 

 腰に抱きついたマギーに、マーシャは優しげに笑った。しゃがみ込んで頬をなでるその横をすり抜けて、ニコはルーの隣に立つ。

 

「ただいま。何か変わったことはあったかい?」

「おかえり。強いて言うなら、サイモンが物置小屋から出てきたことくらいだ。それよりあのおてんば娘は、怪我は」

「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

 

 苦笑したニコの代わりに答えたのはマーシャ本人だ。マギーを連れて隣に座っても、ルーは本から目を離さない。でも眉間からほっと力が抜けたのは、僕にも見て取れた。

 

「お前を心配したわけじゃない。お前がまた何かに巻き込まれて、そのとばっちりがこちらに来ないかを心配したんだ」

「はいはい。……あら?」

 

 マーシャは目をしばたいて、ルーの胸元を見つめた。そこには鍵のなくなった鎖だけが下がっている。

 

「なんだ。どうした?」

「え、ええと……」

 

 マーシャは困惑してルーの顔と鎖を見比べて、そしてみんなをぐるりと見回して、最後に僕を見た。問うような視線にうなずいてみせると、ルーに向かって曖昧に首を横に振る。

 

「……ううん。何でもないわ。それより、ほら、シムも座って」

 

 切り替えるようにマーシャはシムに明るく声を掛けて、僕にも座るように隣の芝生をぽんぽんと(たた)く。それを見ていたルーはすこし不思議そうだったけれど、すぐに興味を本に戻した。

 

「それで、マーシャ。その……どうして妖精がいい子だって思うの?」

 

 シムは上目遣いにマーシャを見上げて、少しだけ唇をとがらせている。

 

「直接会って、顔を見せてくれて、素敵な贈り物をくれて……(しゃべ)れないなりに、たくさんの気持ちを伝えてくれたから。もちろん、私とニコを助けてくれたのもあるけれど」

 

 シムは目を丸くした。

 

「妖精ってしゃべれないの?」

「ええ。声は出せないみたい」

「お話できないのに、いい子って分かったの? なんで?」

 

 その言葉に、マーシャは笑顔をいたずらっぽいものに変えた。

 

「思ってることがみんな顔に出るもの。見れば全部分かるわ」

 

 ……かお?

 僕は思わず自分の顔を触る。水面にもよく磨かれた鏡にも映らないから、自分の顔がどうなってるかなんて分からない。でも、マーシャが僕の伝えたいことにすぐ気づけるくらいには、顔に出てたってこと?

 

「最初は……うん、おとぎ話の妖精さんに会えたって気持ちがなかったわけじゃない。でも今はそればかりじゃないわ」

 

 笑いかけてくれるマーシャの横顔はきれいで、優しくて、僕は動けなくなる。だってそんな風に僕のことを見てくれる人はマーシャがはじめてで、どうすればいいのかなんて、きっと時振計だって教えてくれない。

 

「ロビンって呼んだとき、あの子は照れてはにかんでた。ブルーベルをくれたとき、いたずらっぽく笑ってた。今日森で会ったときはぱっと雰囲気が明るくなったし、時計塔の鐘の音に驚いて目をぱちぱちしてた。小麦畑を眺めてるとき、感動で表情が輝いてた。……なにも変わらないんだって、思ったわ。妖精さんも、私と同じように笑って、驚いて、特別な思いに心が動されるんだって」

 

 そっと、マーシャはひとつ息をついた。

 

「友達になりたいなって、思ったの。ほかでもないこの子と一緒に過ごせたら、きっと毎日がもっと楽しくなるんじゃないかしらって」

「で、でも、マーシャしか見えないのでしょう? それで友達になれるの?」

「なれるわ。それに、たとえ目にそのものが映り込まなくても、見えるようにする方法はあるのよ。あの鍵のかかった箱もそう。あの箱が開いたら、信じてね。妖精さんは……ロビンは確かにいるんだって」

 

 マーシャに頭を撫でられて、シムは顔を赤くしながらうつむいた。

 

「言葉がしゃべれないなら……そうね、単語を書いたカードを用意して使ってもらえば気持ちを伝え合える。姿が見えないなら見えないなりに、居場所を教える合図をあらかじめ決めておけばいいのよ。ロビンと一緒にどうすればいいのか考えて……きっとそれだって楽しいわ。新しい友達と仲良くなるのは、いつだってわくわくするもの」

 

 そう言って、マーシャは微笑んだ。花がほころぶような、見とれるほどのきれいな笑顔だった。

 

 僕は目元をこする。

 誰かが呼んでくれる僕だけの名前も、流れる時の中で過ごせる時間も、それに友達だって。欲しがっても手に入らないから、ずっと前に諦めて、仕方ないって言い聞かせていたのに。

 マーシャはたくさんの仕方ないをぜんぶ飛び越えて、僕に贈ってくれた。

 

 領分が違うことは分かってる。ローアンの人たちは妖精を良くないものだと思ってるって。でもここに来る時、心に決めたじゃないか。お返ししなくちゃって。どんなに難しくても、やり遂げなくてはだめだって。

 だから、せめて、それが終わるまでは、一緒にいさせてほしい。

 

 

 そう。

 それがあなたの望みだったのね。

 

 

 ルーは手元のページをめくり、ふと顔を上げてマーシャを見た。

 

「……マリヤ。今日森で会った、というのは」

「ええと、会ったというか……ねえ、ルー。わざとじゃなくて、もしかして本当に気づいていないの?」

「何に」

 

 ルーは()(ろん)げにマーシャを見やる。マーシャはためらいながらルーの胸元を指さした。

 

「あなたが気づかないなんて、正直信じられないのだけど……鍵、なくなってるわよ」

 

 言われて、ルーはきょとんとした。首元の鎖に指を引っ掛けてひっぱって、そのどこにも鍵が通ってないことに目を大きく見開いて、何かを言おうと口を開いたところでシムの悲鳴が響き渡った。

 

 

 

 

 シムをなだめて落ち着かせて、それからマーシャの隣に僕が座ってることを教えてまた同じことを繰り返してから、僕たちは場所をあの木箱が置いてある部屋に移していた。ニコだけは、途中でみんなと別れてどこかに行ってしまった。何か持ってくるものがあるらしい。

 

「ようせいさん、わたしもみえないかな」

 

 そわそわと木箱を見上げるマギーを、ルーは複雑そうに見つめていた。腰にがっちりしがみついたシムの頭をぽんぽんとなだめながら、視線をマーシャへと向ける。

 

「……マリヤ」

 

 なにか言いたそうに口を開き、でも結局なにも言わずに、目をそらして口を閉じた。そんなルーを見て、マーシャは微笑んだまま首を振る。

 

「気にしてないわ。いつものことだし。それにルーの筋道をはっきり見極めようとするところ、私はすごく信頼してるのよ」

「……人の頭の中を読むなよ」

「読んでないわ。見れば分かるのよ。幼なじみなんだから」

 

 くすくすと笑われて、ルーはぶすっとむくれた。でもすぐにあいまいで真面目な顔に戻って、あたりをゆっくりと見回していた。

 

「ほら、ロビン。開けてみて。私たちからの贈り物よ」

 

 マーシャの言葉にうなずいて、僕は時間の隙間から鍵を取り出した。鍵穴に差し込んで(ひね)れば、金属同士がこすれてがちゃんと重い音を立てる。マギーがわあって声を上げたり、ぴりっと緊張した様子のルーをマーシャが大丈夫って(なだ)めていたりするのを横目に、ふたを開けて中身を取り出す。

 

 それは小さな木の箱だった。

 小物入れ、だろうか。よく磨かれた(あめ)(いろ)の表面には、何種類かの草花の意匠が細かに彫り込まれている。大人の人なら片手で持てるだろうけど、僕の手の大きさだと両手にちょうどいいくらい。ひっくり返すと、底板から金属のつまみのようなものが飛び出していた。

 

「ニコやルーと一緒に考えたの。妖精さんに贈り物をするなら、なにがいいかなって。あなたにも気に入ってもらえるといいのだけど」

 

 僕は空になった箱の隣に置いて、手に意識を込めてふたを開ける。とたん、中から音がこぼれ出した。

 (あら)わになった精巧な機械が、()()しにきらりと光る。たくさんの真鍮の歯車が回り、(つな)がった金属の筒に生えた小さなとげが、櫛歯をはじいて音を鳴らしている。

 

「カンブリックシャツとか、スカボローフェアって呼ばれてた昔の曲なの。お母様が大好きだった曲で、私も好き。……でもね、()()りが終わってずいぶん経つせいで、どんな歌詞だったのか、はっきり覚えてる人はいないんですって」

 

 ぽん、ぽんと響く音はやわらかくて、あたたかくて、でもすこしせつない。この優しいメロディーに、いったいどんな(おも)いを乗せて歌われていたんだろう。

 

 やがて、音の連なりはだんだんゆっくりになり、そして止まってしまった。慌ててマーシャを見ると、彼女は微笑みながら箱を指さした。

 

「底につまみがあるでしょう? それでぜんまいを巻くの。ふたの開け閉めでも、止めたり流したりできるわ」

 

 言われたとおりにつまみを回して、ふたをもう一度開ける。途切れたところからまた音が流れ出したのを聞いて、ほっと肩から力が抜けた。

 

「気に入ってもらえたみたいね。よかった」

 

 僕の顔をのぞき込んで、マーシャが笑う。なんだか気恥ずかしくて、マーシャの顔を見てられない。

 

 そこに(せき)(ばら)いが響いた。

 

「ああと、その」

 

 ルーは言いにくそうに頬を掻いた。ずれた眼鏡を指で押し上げて、あたりを見回す。

 

「ロビン、だったか。……マリヤ、どのあたりにいるんだ?」

 

 マーシャは手で僕を指し示すけれど、ルーの視線は素通りしてさ迷う。いったんマーシャを見て、その目が見つめる先を追って、ようやく僕がいる位置に顔を向けた。

 

「礼を言わせてほしい。あの日、ニコラスとマリヤを助けてくれたこと、心から感謝している。二人とも、大切な友人なんだ。サイモンとマルガレータにとっても……それから、その、私にとっても」

 

 最後は早口に言い切って、ルーはさっと顔をそらした。口元はぎゅっと結ばれて、耳が赤くなっている。隣を見ると、マーシャがさっき以上ににこにこしてルーを眺めていた。よく分からないけれど、楽しそうなのは確かだ。

 

 その時、部屋の入り口からニコが顔を覗かせた。

 

「ああ良かった、まだみんないるね」

 

 その両手には、それぞれバイオリンとチェロのケースが握られている。

 

「どこに行ったかと思えば……言ってくれれば手伝ったのに。ほらサイモン、離れて」

「君に妖精のことを証明したいって話なのに、その当人が席を外したら駄目だろう?」

 

 ニコはチェロのケースをルーに渡して、もう片方の手に持っていたケースからバイオリンを出して音を確かめる。ルーの服の裾を掴んだまま、シムがそっと問いかけた。

 

「ね、ねえ、ニコ。なにするの?」

「うん? ちょっとした演奏会さ」

 

 ルーの準備が済んでから、ニコは僕のいる場所へと笑顔を向けた。

 

「ロビン、オルゴールを鳴らしてくれるかい? それに合わせて演奏するから」

「ニコもルーも、楽器がすごく上手なのよ。きっとロビンも気に入るわ」

 

 マーシャが笑いかけてくれて、その目がニコたちに向いた瞬間、耳元で声がささやいた。

 

 

 あなたは妖精。

 止まった時の世界に生きる妖精なの。

 それを、忘れてはだめよ。

 

 

 分かってるよ、女王さま。

 でも。

 今だけは、どうか、一緒にいさせて。

 

「ほら、行きましょう。ロビン」

 

 マーシャが手を差し出してくれる。その手に触れても、すり抜けてしまうことは分かってる。

 それでも僕はその手に自分の手を重ねて、握るように指を曲げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あなたの望みに気づけなくてごめんなさい、愛しい子。

 ああでも、そういうことなら。

 

 その願いを(かな)えてあげなくちゃ。

*1
イングランドの伝承に登場する妖精。人間の上半身に山羊の下半身を持ち、いたずらと手伝いを好むとされる。

*2
四つ葉のクローバーから作られる。透視の力を与えるという。




ブルーベル【不変】
ハーツイーズ(ワイルドパンジー、サンシキスミレ)【謙虚、思い出、私を思ってください】


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The Outlandish Knight--Chronic Déjà Vu-X,XXX

3/23:修正
9/27:修正



Déraciné[デラシネ]
 根無し草。転じて、故郷から切り離された人。


 今となっては遠い昔のことだが、私はこの肥大した姿をマーシャに見せてしまったことがある。

 

「……ロビン?」

 

 懐かしい声が聞こえたその瞬間、顔を覆っていた手がこわばったことを覚えている。

 

 (くら)い金の雪が舞い上がる暗闇はいつの間にか去り、そこは懐かしいローアンの(まな)()の一室だった。おびえも隠せないままに振り向けば、すぐそこに彼女がいたのだ。

 

「あなた……私たちの妖精さん、よね?」

 

 首をかしげた拍子に、(うず)()を抱いて()(どろ)む灰のごとき柔らかな白い髪が揺れ、ブラウスの襟で(しん)(ちゅう)のブローチがきらりと輝く。その深いすみれ色の目は、はっきりと私に焦点を当て、頭の上からつま先までをまじまじと見つめた。

 十七歳のマーシャは、まだ元気だった。この十数年後に患う病の陰は、まだ彼女の髪のひとすじも(むしば)んでいなかったのだ。柔らかな幸福をたたえた(ほお)は、窓から差し込む日差しに淡く輝いていた。

 

 しかし反面、当時すでに私は過去への遡行を幾度となく繰り返し、比例するかのように体は肥大していた。マーシャよりも少し高い程度に背丈は伸び、柔らかかったはずの手は節が目立つようになった。かつての、ローアンの友と過ごしていた時の面影はとうに失われてしまっていた。

 

 そんな姿を(さら)してしまったことの衝撃と、それでも感じてしまう、まだ元気な彼女に会えたという苦しいほどの喜び。そしてなにより、つい先ほど、時の隙間をくぐる前に手に掛けた()()への消えたくなるほどの罪悪感。思考はインク瓶を倒したかのように塗り潰されて、私はその場に立ちすくんでしまった。

 だけどマーシャは気にせずに、びくりと身を引いた私の頬へ手を伸ばす。触れられ、指がめり込んだ場所に、ぞわりと身震いするような感覚が走る。それは隔絶された世界に(とら)われた妖精にとって、耳と目のほかに友の存在を実感できる唯一の(あかし)だった。

 

「どうしたの、こんなに大きくなって。なにかあったの? たとえば……チェスでルーに勝てないからって、ニコがいかさましようとして、あなたに無理強いしたりだとか」

 

 今思い返しても、どういう理屈なのかさっぱり分からない。

 なにを言ってるんだ、と混乱に上書きされた困惑を読み取ったのだろう、マーシャはかつていつも浮かべていたようにあざやかに笑んだ。

 

「だって、麦も踏んだ方が立派に育つでしょう?……でも、いったいどうしたの? おととい会いに来てくれた時は、背丈はいつもどおりだったのに」

 

 笑顔の奥で心配そうに見つめるマーシャに、だから会うべきではなかったのだと奥歯を()みしめるよりなかった。

 

 体がいびつに肥大していることは、彼女には一目でばれてしまう。なによりその優しさは、今の私には毒と変わらない。

 どれほど心配されても言えるわけがないのだ。己が今まで何をしてきたか――どれだけ手を汚してきたのかなどと。

 

「……もう。相変わらず、ひとりで抱え込もうとするのだから」

 

 マーシャの手が頬から離れ、細い両腕が私の胴の後ろを回って輪を作る。私を腕の中に閉じ込めて、彼女は安心させるように(ほほ)()んだ。

 

「大丈夫よ。なにも心配はいらないわ。あなたのこと、決して嫌いになったりなんてしない」

 

 花がほころぶような懐かしい微笑みに、私は動けなくなる。

 

「つらいことがあったなら、また立って歩けるようになるまで一緒にいるし、失敗したならみんなにも声を掛けて、もっと()えたやりかたを探すわ。あなたがいたずら好きで、でも友達思いの優しい子だって、私たち全員が知ってるのだから」

 

 違う。もし私に声があれば、そう叫んでいただろう。

 ここにいるのは、彼女が知っているような、()()で何も知らない妖精ではない。汚いこと、醜いことの何たるかを思い知り、その上で自らそれに手を染め続けてきた人でなしだ。

 

 はるか昔、君にとっては決して遠くない未来に、私は病に(はかな)くなった君を生き返らせようとして、結果ローアンを滅ぼしたのだ、と。それを覆そうとして人間から命の時間を奪い、幾度となく過去を変えてきたのだ、と。

 そんなこと、どうして伝えられる?

 

「……私には、打ち明けられない?」

 

 力なく、うなずくしかなかった。マーシャは目が良く、そして(さと)い。彼女にとって、相手のわずかな表情の変化や所作から機微を読み取るなどたやすいことだ。下手なごまかしは通用しない。

 うなだれたまま彼女からの沙汰を待つだけの私に掛けられる声は、ただ、優しい。

 

「そう……分かった。でもね、もし休みたくなったら、いつでもいらっしゃい。あなたの大好きな夜明けのティザーヌを()れて待ってるから」

 

 微笑むマーシャを、私は見つめた。その髪の色を、目元に宿る優しさを。記憶に焼き付けるようにじっと。

 

 きっとマーシャは、私がすべてを打ち明けても、隣にいてくれるだろう。そして自分にできることを選ぶ。それがたとえ自分自身を犠牲にするような選択だとしても。

 

 それだけは駄目だ。

 私はマーシャに生きてほしい。あの穏やかで美しいローアンの街で、生きて、老いて、そしていつの日か、安らかな眠りについてほしい。

 それだけなんだ。()が望むのは、いつだってそれだけだ。

 

「……どうしたの?」

 

 マーシャはきょとんとして小首をかしげた。彼女はこの後も、小さな妖精と多くの時間を過ごすのだろう。かつての私がマーシャや皆と過ごしたように。

 だが、ここにいる私は、もう壮健だった頃のマーシャに会うことはない。この姿を何度も見せれば、彼女に疑念を抱かせることになる。そしてそれは、私の望まないかたちで未来を変えてしまうだろう。だから。

 

 私は忌々しい黄金の腕を伸ばして、マーシャの白い手に触れた。先ほど未来で、マーシャのなれの果てから命の時間を奪ったその手で。

 

 

 “覚えておいてね、マーシャ。僕の大切な友達。”

 

 

 差し出してくれた手のひらに、指を当てて一文字ずつ言葉を(つづ)っていく。ずっと昔は、マーシャとはそうやって話をしていた。――それまでずっと忘れていた。大切な、とても大切な思い出だったはずなのに。

 

 

 “大切な人を、別の人の命の時間で生き返らせようとしてはいけないんだって。”

 “そんなことをすれば、命はひずみ、ねじ曲がり、まわりの人まで傷つけてしまうんだって。”

 “誰だって、自分のものではない時間を生きようとすれば、別のなにかに変わってしまうんだ。”

 

 

「……どういう、こと? だっておとぎ話とは違って、人間くらい大きな命は、妖精にはどうすることもできないって……」

 

 困惑した顔で、マーシャは私を見上げた。この時の皆は金枝の存在も、妖精が時を遡れることも知らない。なにを言っているのかすら分からないだろう。

 

 こんなことをしたところで未来は変わりはしない。こんなことくらいで変わるなら、とうの昔に私は目的を達せていた。

 だけど、その時の私は、もしかしたらという淡い期待をまだ抱くことができていたのだ。

 

 私は添えていた手を離した。そうしても、マーシャの手は少しも動かない。触れ合っているということでは、ないのだ。

 

「あ……ま、待って!」

 

 マーシャは手を伸ばす。ぞわりとした感触が体内をすり抜けて、しかし捕らえられることはない。だから、そのまま逃げてしまえば。

 

「行かないで、ロビン!」

 

 分かっているのに、足が踏み出せなかった。

 振り返れば、マーシャは短い(しゅん)(じゅん)を経て、伸ばしていた手を体の横に降ろした。

 

「私は……ううん、私だけじゃないわ。ニコも、ルーもマギーもシムだって、友達には幸せでいてほしいの。だからね、もし、私たちがあなたにつらい思いをさせているなら、そんなものは蹴飛ばしてしまっていいの。頼まれたことは(かな)えなくちゃいけない、なんて決して考えないで。あなたは、あなたの好きなようにしていいのよ」

 

 そう言い切って、こらえきれずにマーシャは目蓋を下ろす。その瞬間に世界は止まり、冷たい沈黙で満たされる。それでも私は、冷え切っていた胸の内に温かさが(とも)されたことを、今でも忘れられずにいる。

 

 マーシャはいつだって優しかった。優しくて、強い人だった。流れる時の中で大人になり、母親になってからも。自身の死を目前にしても。

 だから、今でもあがき続けているのだ。彼女を、皆を、そして彼らとともに過ごしたあのローアンの街を愛していたから。

 

 たとえ、どれだけの命の時間を足下に積み上げることになったとしても。

 

 目蓋を開き、闇の中に舞う昏い金の雪の中で、私は自身の両手を見た。

 枯れ木のような指と、しわだらけの手のひら。あの時、マーシャに会った時よりも肥大し、そして衰えた。

 

 あれから何度時を遡っただろう。何度誰かの命の時間を奪っただろう。何度、彼女のなれの果てを手に掛けただろう。

 自覚してなお(ゆる)されぬことをし続け、そして今に至った。もはや時振計は黙して語らず、女王が私へと語りかけることはない。

 

 後悔は多い。罪への自責も。特に子供を――友と一緒に無邪気でいられた在りし日々を思い起こさせるような、年端もいかない子供たちを手に掛ける時は、どうしようもない苦さが喉元まで込み上げる。

 正しさに満ちた無限の地平なんてものがどこにもないことは、私自身がよく知っている。

 それでも。

 私が諦めれば、その瞬間に過去は決定されてしまう。マーシャは死に囚われたままとなり、ローアンは滅びを免れない。ゆえに、立ち止まることは決して許されない。

 

 時の隙間に光が差す。視界が白く(ひら)け、ぼんやりとした風景は刻み込まれるように輪郭を得ていく。

 同時に耳に飛び込んできたのは、燃えさかる炎が(とどろ)く音だった。

 

 

 

――ああ、燃える。街が。家が。思い出も、全部。――

――みんな燃えてしまう。私のせいで。――

 

1919年。11月3日、22時。

  

1911年。12月11日、22時。

 

――あんなことを……あの子の苦しみを知っていたのに、あんなことを望んでしまったから。――

――……ごめんなさい。ごめん、なさい……――

 

 

 

 先ほどまでいた雪の森から一変し、周囲は揺らめく光に照らされていた。

 

 止まった時の世界でも盛る炎は(れん)()(づくり)の街並みを染め、天を焦がしていた。街の入り口から見通せる大通りは焼け、ところどころ崩れて、由緒ある古い街の面影もまた炎に焼けて消え去ろうとしていた。

 

 忘れもしない、そして、繰り返した遡行の中で何度も何度も見た光景である。昔と違うのは、もう絶望に(くずお)れはしないということだろうか。

 どれほど(さん)(たん)たる景色が広がっていようが、百度も繰り返せば慣れる。感じるのはいつも通りであることへの、どうしようもない落胆だけだ。私はもう、それを知っている。

 

 振り返った先の丘に立つ人影を認めて、足をそちらへと向けた。

 焦げた服や(すす)けた頬もそのままに、サイモンは(ぼう)(ぜん)と燃える街を眺めていた。肩掛け(かばん)に詰め込まれ、顔だけを出した白猫のスノウドロップは、ちりちりしたひげを気にするようにしきりに首を振っている。

 

 スノウドロップは私に気づくと、一つ鳴いて青く輝く瞳を閉じた。催促の通りに左手でなでてやると、不安げに寝ていた耳が少しだけ起き上がる。スノウドロップは唯一、私になついてくれた猫だった。たとえ体が肥大しても、この子は変わらずに受け入れてくれる。サイモンを手に掛けない限りは、だが。

 サイモンのそばに(こと)(だま)を認め、空いた右手を伸ばして握り込む。指の間から(だいだい)(いろ)の光がほどけるように広がり、(しょう)(すい)した声が止まった世界に流れ出した。

 

 

 ――これで、終わった。

 ――間違っていたんだ。私たちは間違っていた。

 ――命も、時間も。妖精も。人間が手を出していい領域ではなかった。

 ――……あいつを狂わせたのは私だ。私のせいだ。

 ――あいつに、あんなことを言ってしまった、私のせいだ……

 ――許してくれ、ロビン……

 

 

 吐き捨てた悔恨を、当の妖精が隣で聞いているとは露にも思わないだろう。こぼれるそばから煤で汚れていく涙にも、何も解決していないことにすら気づかないまま、サイモンはただ街が燃えていく様子を見つめ続けている。

 

 あの冬の森の手帳を読む限り、彼は(つい)ぞ真実に辿(たど)()くことはなかった。この時点で私を殺したと考えていることもそうだし、この決断もさして意味を持たない。だが意味はなくとも、彼はこの夜に犠牲者を出さなかった。それは幾度となく遡行を繰り返し、過去を変えたとしても、絶対に変わらない事実だった。

 

 大抵の者は親類縁者を頼って他の街へ避難した。故郷から離れたくない者たちは、復興のための仮の集落をロッブの森のそばに作ろうとして、皆、忘我の妖精に命の時間を奪われたという。

 

 スノウドロップから手を離し、私は身を翻した。不安げな鳴き声を背に、燃える街へと足を踏み入れる。目の(くら)むような明々とした炎は、しかし私の体に少しの熱も伝えることはない。

 炎で焼いたところで、妖精や時間の隙間にあるものを害することはできない。

 それを伝えたところで、私が消失事件の()(しゅ)(にん)だと信じて疑わないこの時間のサイモンは、効果があるという誤った確信を強くしただけだったのだけど。

 

 

 

 

 

 巻き上がる火の粉は夜空を赤々と染めている。

 油を念入りに()いたのだろう、火勢は(とど)まることを知らない。(はり)が焼け落ちて石葺の屋根は崩れ、割れた窓から炎が漏れ出していた。窓辺を(いろど)っていた花々は(あぶ)られ、焦げ付いた跡に変わり果てて、何が咲いていたのかすら(うかが)うことはできない。

 

 その中を、ただ進む。

 

 今回の遡行で合わせた命の時間はサイモンのものだけだ。今まで同じように利用していたルイスの子供たちは、今回は森に姿を現さなかった。そしてサイモンだけなら、いついかなる時であってもこの時間に辿り着く。

 

 老いたサイモンは、この日のことを悔やみ続けていたのだろう。

 ……いいや、と首を振った。悔やまないわけがないのだ。彼は自分自身の手で故郷を滅ぼしたのだから。そしてそれだけの代償を払ってなお、消失は止まらなかったのだから。

 

 サイモンは何も知らなかった。

 ルイスたちと決別した時を同じくして、私たちはサイモンも遠ざけていた。だから原因も、我々が何をしでかしたのかも、何一つ関知していなかった。

 

 かちり、と振れが定まる音がして、ひときわ大きな崩落の音が響いた。

 街の中心地、ローアンの誇った時計塔が崩れていく。赤く焼けた鐘が(さい)()の音を鳴らし、下にあった家屋を砕きながら、共に()(れき)へと変わり果てていった。

 積み上げられてきた研究も、納められた蔵書も、ここで過ごしてきた人々の思い出も、すべて灰と消えていく。

 (ごう)(おん)がひとしきり落ち着いて、かちりと時間が止まった。私は視線を戻し、また歩き出した。

 

 大通りを抜け、小路をいくつか曲がり、やがて街外れへとたどり着く。通り過ぎようとしたある家の中に白い影を見つけて、私は足を止めた。

 

 かつて温かな幸福に満ちていた家の面影を(しの)ばせるものは、真っ黒にすすけた煉瓦の壁のみだ。炭化して崩れた材木が白煙を上げる中、彼女は瓦礫に行儀良く腰掛けていた。

 

 真昼の月のような(ぼう)(よう)とした白い体と、目元を覆う紺青(プルシアンブルー)の光。

 血と灰から生み出される青は昏く、深い。その光の下のまぶたは固く閉ざされ、自身の手の中にある煤けた金属を――熱に(ゆが)んだオルゴールのシリンダーを(いち)(べつ)することもない。

 

 私は彼女に歩み寄った。手に触れ、シリンダーを取り上げれば、かちりと音を立てて時間が流れ出す。

 彼女は顔を上げた。あたりを見回すように、しかし目は閉ざされたまま、緩慢に頭を振る。

 

「…………ね……行り………………い……………………………歌……ったの……………………て…………ない…………………」

 

 唇がかすかに動き、なにかを(つぶや)く。その曖昧な声は炎が燃えさかる音にかき消され、私の元まで届かない。

 そして、時間は止まる。止まった時の世界に留まれない彼女も、また。

 

 中指の赤い指輪は留められた命の時間に昏く光り、罪をただ突きつける。その重さにも、痛みにも、もう慣れてしまっていた。頭を(きし)むような痛みが埋め尽くしたとしても、足は動かせるのだから。

 私は彼女の手の中にシリンダーを戻し、きびすを返した。目的地はここではなく、今は彼女の抱える命の時間を遡行に使うつもりはなかった。

 

 いつの頃からか、私はニコラスから助言を受けることを止めた。

 残された(あがな)いの道は一つだけだ。マーシャを死の腕から奪い返し、ニコラスや娘と共に平穏に暮らせるよう取り計らう。それ以外に、方法などない。

 

 しかし、私の知能で思いつく手など所詮は大したものではない。それを補うために、手当たり次第の検証を始めた。マーシャの目には映らないよう細心の注意を払いながら、ものを動かし、鍵を隠し、本を忍ばせて、妖精の行動によって未来にどのような影響が出るのかを確かめる。そう決めて、何百、何千と時間を遡っただろう。

 

 あらゆる結果には起こるための過程が存在し、それは時に外部から観測できない形で進行する。小さな結果の積み重ねがまた別の結果の過程としてはたらき、連鎖することで、未来は(ぜん)()決定されていく。

 運命というものの本質はそこにあるのだろう。容易に未来を変えられないことの理由も、また。

 

 それを踏まえて干渉を行っても、私が与えられる変化はごく微小であることの方が多い。止まった時の世界から観測できる範囲は限界があり、表出した結果から過程を推測するのは困難を極める。結果を予測して干渉を行っても、その大半はまったく見当違いの方向へ進み、それ以上の連鎖を起こさずに消える。

 

 それでも、何もかもに既視感を感じるようになった中でも、時折、新たな可能性に見える。

 

 ある検証の影響で、マルガレータ宛の小包の到着が一日遅れた。その数年後、彼女の母親が事故に巻き込まれて足を悪くした。

 

 大学の図書館のとある蔵書の位置を入れ替えた。すると、サイモンがその頃飼っていた猫が逃げ出して、その半年後に子猫を三匹連れて帰省し、それまで小太り気味だったサイモンが痩せた。

 

 あるレポートの内容を記憶し、遡った先で清書してルイスの鞄に紛れ込ませた。その直後に辿り着いた冬の森に、それまで存在していなかったはずの、幼いころのマルガレータによく似た小さな妖精が現れた。

 そして、その妖精を目撃してから、ロッブの森を訪れるルイスの子供たちの人数が変動し始めた。

 

 思いがけないきっかけで過去は大小に形を変え、しかしマーシャの死が変わることはなく、そしてそれを覆そうとするかつての私たちによってローアンは滅ぶ。結果が出てしまうだけの過程の連鎖を、止められていないために。

 

 マルガレータの母親が(つえ)をつくようになって何が変わったというのか。サイモンが健康的になったところで、それが一体マーシャの体調にどのような影響をもたらすというのか。……あの子が生まれてしまったことに、意味があるのか。

 

 あの絶望に見開かれた目が、わななく口が、伸ばされた手が脳裏をよぎった。(あん)(たん)とした感傷に足が止まりそうになる。

 

 何千と時間を遡り続けた中で、あの子の存在を観測するようになったのは、ここ直近の数回からだ。

 我を忘れていない特別な()()を、私は自分とあの子のほかに知らない。暗い青に覆われていても、マルガレータの涼しげな目元を受け継いでいるのは、はっきりと見てとれた。耳や()(りょう)のかたちから、父親が誰なのかも推測できる。

 

 私が知る限り、マルガレータに子供はいなかった。彼女も、そして父親であろう彼も、独身を貫いて生涯を終えていたはずだ。だからあの子がマルガレータと彼の子であるなら、それは私の干渉が原因で生まれたと断言できる。

 そして時の青い指輪を持っていたということは、アビガイルが関わっているのだろう。皆に金枝をもたらした()()()()()()()。銀の車輪を回し続ける、誕生と死に親しきあの(ひと)が。

 

 マルガレータは、最初から妖精を作るためにあの子を産んだのだろうか。それともアビガイルに唆されたのだろうか。あの子の赤い指輪はマルガレータの命の時間を元にするだろうから、当の彼女は幽霊として消えたのだろう。人間としての私を産んだというあの人のように。

 

 あの子のことは、無視できない。

 

 条件を探し、適切な時間に跳び、レポートを確実に回収して誕生自体をなかったことにしなければならない。あの子が時間を遡ることで、最悪、また取り返しのつかない事態が引き起こされる可能性もある。

 

 何より、あまりにも(あわ)れだ。

 何も知らぬまま金枝を手折り、時の(はざ)()に独り囚われ、それでも友を助けるためにどれほど()()いたのだろうか。

 たとえ私が本懐を遂げればなかったことになる存在だとしても、その日が来るまで無為の苦しみを味あわせるのは酷だ。

 

 妖精になどなるくらいなら、あの子は生まれるべきではなかった。

 きっかけが私にある以上、責任は取らなければならない。

 

 街外れの塀を抜ければ、視界は遠く拓けた。遮蔽物のない丘に作られた墓地は、街の大火など関係なく(せい)(ひつ)にたたずんでいる。

 火も、燃えるもののないここまでは届かない。等間隔に並ぶ墓石は暗い(だいだい)に照らされ、その間には紙片が点々と散らばっていた。一枚を拾い、震えた文字の走り書きを目で追う。

 

 

“・妖精となった人は、危険である

  忘我の内に、他人の時間を奪う

 ・過去へと旅立つために

 ・それはおそらく本能だろう

  人は誰しも、古い時に囚われている”

 

 

 ほかの紙片もいくつか目を通すが、内容に変わり映えはない。少なくとも、あの子の干渉はこの時間までは届いていないようだ。

 手放せば、ルイスに託したレポートの原本は、軽い音を立てて地に落ちた。

 

 ばらけた紙はまるで道しるべのように、点々と奥まで続いている。だが、これが私以外に認識されることはないだろう。幽霊の干渉は、妖精のそれよりずっと強い整合で隠される。失踪した彼のことを、彼の娘とルイスたち以外が騒ぎ立てなかったように。彼の残した書き置きを、誰も気に留められなかったように。

 

 彼はそこにいた。

 足の踏み場もないほどに散らかった紙片に囲まれ、妻の墓石に背中を預けて、深くうなだれて座り込んでいる。その体は消えかけて、背後の墓石に刻まれた名前を透かしていた。

 命の時間を(うしな)った幽霊。指輪を見つけられないがゆえに止まった時に留まることのできない、妖精の成り損ない。

 

 ニコラス。

 

 私は彼の前に膝をつき、太股の上に置かれた紙を取り払う。動き出した時間の中で、ニコラスは(かす)かに身じろぎした。

 

「……何度目だ。これは、君にとって」

 

 何度目だろうが変わりはしない。何ら成せていないという事実があるだけだ。

 沈黙をどのように受け止めたのだろう、ニコラスの手が下にあった紙を握り潰した。

 

「そうか」

 

 私は腕を振り上げ、その首筋に金枝を突き立てた。

 ニコラスの体が(こわ)()る。一拍おき、彼の体から昏い光が(にじ)()した。

 

「――ロビン」

 

 ぽつり、と乾いた唇が力なく動いた。

 

「マーシャの遺作を、彼女の(のこ)した特別な本を、ユーリヤが持っている。()()()()()()君は恐らく知らない内容だ。……君が……――」

 

 何度も聞いた言葉は、いつものように言い切る前に姿と共に解けて消えた。

 彼がここにいたと示す痕跡は、散らばった紙片のほかにない。それも風にさらわれ、炎に焼かれて、誰にも気づかれないまま消えていくことだろう。

 

 赤い指輪から光がこぼれ、それはすぐにニコラスの右手を形作った。決して握り返してはこない幻影に、額を寄せる。

 

 ニコラス。君が気に病むことなど何もないのだ。

 私がマーシャの死を覆せれば、君のその(おう)(のう)もまた、存在しないのだから。

 

 


 

 

 1909年。7月31日、15時。

 

 

「あら、ロビン。ひさしぶり。来てくれたのね」

 

 木漏れ日のまぶしい中庭で膝をくずして座り、マーシャは静かに笑う。小さなユーリヤは彼女のひざに頭を預け、すうすうと健やかな寝息を立てていた。腕に抱えているのは「妖精とオルゴール」だろうか。昔から何度も何度も読み返しているところをよく見かけたものだけれど、今でもお気に入りらしい。

 

 とても、幸せな風景だった。

 

 そう感じて、僕は足を止めた。異物が入り込むことは許されないような気がした。その瞬間、壊れてしまうんじゃないかって。

 

 動かない僕を見つめて、マーシャは小首を(かし)げる。

 

「どうしたの?」

 

 僕は首を振ると、そっと庭に足を踏み入れた。心配はもちろん()(ゆう)に終わって、風景が壊れてしまうことなんてない。

 

 隣に腰を降ろして、マーシャの横顔を見上げる。頬は白く見えたけれど、かすかに揺れる体はきちんと息をしていた。いつも襟元を飾っていたはずの真鍮のブローチがないことに気づいて、僕は彼女の手に触れた。

 

 

 “ブローチ、どうしたんだい? なくしてしまったのかい?”

 

 

「ううん。ユーリヤに誕生日の贈り物はなにがいいか()いたら、おかあさんのブローチがいいって言われてしまって。……でも、この子が欲しいものを教えてくれたのだもの。叶えてあげたかったの」

 

 マーシャの白い手が、ユーリヤの頭を優しくなでた。

 

「締め切りも、それから読者の人たちへの返信も一段落ついたから、しばらくはのんびり過ごせるわ。約束してたピクニックのために、ニコラスと予定を合わせないとね」

 

 マーシャはお父さんが亡くなったのをきっかけに妖精の研究から離れざるを得なくなって、今はユーリヤを育てるかたわらで子供向けの本を書いている。マリヤ・ウスペンスカヤと言えば、ロンドンでもまあまあ名前の通った作家らしい。

 

 

 “それで、用事というのは?”

 

 

 僕は本題をマーシャの手に書く。最近ずっと大学の研究室に籠もりきりの僕が久しぶりにここまで来たのは、ニコラスから(こと)(づて)を受け取ったからだった。

 彼女はそうそう、と封筒を僕に手渡した。

 

「ルイスから返事が届いてるの。オルゴール、ありがとうって。ニコラスがあんな贈り物をするなんて、ルイスもマルガレータもぜんぜん思ってなかったみたい」

 

 ルイスたちに贈ったオルゴールは、贈り主の名義こそニコラスになっているけれど、実際は僕が言い出したことだった。ルイスとひどい(けん)()別れをしたニコラスはしばらく渋面を崩さなかったものの、マーシャの口添えもあって僕のお願いを聞き入れてくれた。……喧嘩の原因は他でもない僕のせいだ。だから、ルイスたちには気にしてほしくなかったのだ。

 

 宛先欄には、懐かしい筆跡でマーシャの名前と、それから“私たちの小さな友人へ”と書いてあった。一枚目の便箋はマーシャへの近況報告で、二枚目が僕への返信だった。一枚目を指差して読んでもいいか目で尋ねると、マーシャは大丈夫とうなずいてくれた。

 

 ルイスとマルガレータは、独自に研究を続けることにしたらしい。かつてマーシャと父親、それからニコラスが暮らしていた古い寄宿学校を改築して、孤児を受け入れるためにいろいろ準備をしているそうだ。

 二人は妖精がどのように生まれるのかを確かめたいって女王さまに伝えて、女王さまも進んで協力している。子供を引き取るのは、もし新しい妖精が現れたなら、大人よりも見た目が近い子供の方が仲良くなれるし寂しくないだろう、って考えみたい。あの二人は見えない妖精と仲良くなる方法を知ってるから、大学の研究室の人たちよりずっとうまくやるだろう。それに、どんな形であれ二人が家族になれるなら、それはいいことだと思うから。

 

 めくって、二枚目に移る。最初は封筒ごと破り捨ててやろうかと思ったけど、ニコラスにはこんな(しゃ)()た贈り物なんてできないと思いとどまったこと。便箋の特徴的な筆跡を見てやっぱりと納得したこと――というのも、僕は筆記体が書けない。書くものがない場所でマーシャの手のひらに一文字ずつ書いて意思疎通するには、活字体の方が都合が良かったからだ――、それから、オルゴールの曲を聴いて、懐かしい記憶が(よみがえ)ったこと。

 

 みんながまだ子供だったころ。僕が学校を訪れた時は、まず玄関に置いた小さなオルゴールを鳴らしていた。そうやってみんなに遊びに来たことを伝えて、それから遊んだり、サイモンと一緒にいたずらを仕掛けたり、文字や言葉を教えてもらったりしたものだったから。

 

 最後に、少しでもつらいようならこっちに逃げてくればいい、アビガイル(女王さま)も同じ考えだと書かれて、手紙は締められていた。

 

 なんというか、ルイスは相変わらずみたい。くすぐったいような微笑ましい気持ちは、すぐに埋もれて消えてしまった。

 ルイスはみんなの中で一番お兄さんだったからなのか、人間じゃない僕のことをいつも気にかけてくれてた。ニコラスとの決別だって、その思想はどれほど気をつけてもいつか必ず歪む日が来るし、なにより僕に負担が掛かりすぎていることが間違いだって、そう怒っていた。

 

 苦しいのは、本当だ。

 

 最近は慣れてきたけれど、最初のころは過去へ遡るためにニコラスの時間を奪うたび、目の前で干からびていく彼を見るたびに、消えたくなるくらい苦しかった。

 その上で、僕はニコラスの選んだ道についていくって決めた。過去を変えて、よりよい未来を拓く。今研究室に残っている人たちと同じように、その思想に賛同したのだ。

 

 だって、悲しい顔をする人は、少ない方がいい。

 僕にできることで、悲しい思いをする人を少しでも減らせるなら、それでいい。

 あるいは、これが大人になるってことなのかも知れない。苦しさや痛みをこらえて、なにかを成し遂げることが。体はちいさな子供のままでも、心の方は成長してみんなに追いつけたのだとしたら、嬉しいな。

 

 ……それに、ニコラスがああなってしまったのは、僕のせいだから。

 

「ロビン」

 

 マーシャの手が僕のほほに触れ、ぞわ、と身震いするような感覚が広がった。

 

「表情が暗いわ。ニコラスも同じ。……あなたたち、本当に大丈夫?」

 

 大丈夫だよ。そう笑おうとした口の端が変な風に引きつって、僕は慌ててうつむいた。だけど頭の上で息をのむ音がして、隠すのも失敗したんだと悟る。

 駄目だなあ、僕は。心配、かけたくないのに。

 

「ロビン。顔を上げて」

 

 硬い声に、恐る恐る言われた通りにする。マーシャの顔はどこか青ざめて、声と同じように硬く強張っていた。

 

「ニコラスは、もう私には何も教えてくれない。でもね、そんな風に苦しみ続けているあなたたちを放っておくつもりはないの」

 

 僕は首を横に振った。マーシャと違って、ニコラスは僕を見ることはできない。だから僕が疲れてることを知らないだけなのだ。

 それに、もし僕たちの()したことが間違ってるとしても、それはニコラスのせいじゃない。

 僕ら二人の総意だ。

 

 

 “大丈夫だとも。ただ少し、慣れないことが続いたから疲れただけだ。”

 “ニコラスは間違ってなどいないさ。彼は善い行いのために自分を犠牲にできる人だ。”

 “マーシャが気にすることは何もないんだ。心配はいらない。”

 

 

「ロビン、だけど……」

 

 なおも言い募ろうとするマーシャを遮るように、僕は指を動かす。

 

 

 “マーシャ。心配はいらないんだ。”

 

 

 唇を引き結んで、マーシャは黙り込んでしまった。

 

 (あき)れられてしまったかな。でも、心配をかけるよりは、見切りをつけてもらった方がずっといい。僕なんかに構うことはないんだ。

 

 ……本当は分かってる。

 全部エゴだ。研究室の人たちも、研究資金を出している資産家の人たちも、みんな自分が望むようにしたいだけ。より良い未来のためになんて大義名分を掲げて、好き勝手に過去を変えようとパイの取り合いをしているだけだ。

 

 ニコラスに取り入ろうとする人がいる。ルイスたちがいない今、ニコラスは金枝を絶対に他の人に触れさせないし、僕が過去に戻るために用いる命の時間はニコラスのものだけとお互いに取り決めている。それを、リスクをニコラスに押し付けられるとしか捉えずに、甘い蜜を(すす)ろうと(かく)(さく)している。

 

 僕がみんなに接触した経緯をなぞるために事情を知らない子供たちを連れてきて、あわよくばを狙う人がいる。みんな頭がよくて、だからこそ僕のことを怖がっている子たちだ。こんなことのために知り合いたくはなかったなって、怯える子供たちを見るたびに思う。

 

 本当に過去を変えているのかどうか、疑っている人たちさえいる。過去が良くなっているなら、自分はもっと良い思いをしてるはずだって。

 

 ……思い出したくないくらいひどいことをした人は、ローアンの大学に受かった事実をなかったことにした。それくらいしか僕にできる対処はなかったから。きっと今は、別の街の大学で勉学に励んでいることだろう。

 

 そういう僕だって、大人になんてなれてない。もっとおぞましいものに変わっていくような感覚は、最近ずっとつきまとっているけれど。

 

 ニコラスの命を奪って時間を遡るたび、体の中になにかがへばり付いているような気がする。最初はほんのささやかだったそれは、だんだんとかさを増して、今では胸元まで込み上げてのどを塞いでいる。

 これが口からあふれ出したら、僕はいったいどうなるんだろう。そんなことを、最近よく考える。それはひどく恐ろしくて、考えるたびに足下に不安が絡みつくようだった。

 

 それでも、僕にしかできないことが、成し遂げなくてはいけないことがあるから。

 マーシャを助けてくれっていうニコラスとの約束は、僕だけは覚えているから。

 

 風が()んで、扉が開く音がした。それから家の中を歩く靴音が近づいてくる。

 この足音はニコラスだ。研究室を出たのはニコラスのが先だったのだけど、ようやく追いついたらしい。

 

 マーシャは顔を上げて、噛みしめていた唇を指で()んで跡を消した。

 

「ユーリヤ。ごめんなさい、起きてくれる?」

 

 肩を何度か揺すると、ユーリヤは目をこすりながら体を起こした。

 

「ふぁ……どうしたの?」

「部屋に戻ってて。私はこれからお父さんと大事な話をしなくてはいけないの」

「んー……」

 

 ユーリヤは眠そうに目をしぱしぱしていた。それでも裏口からニコラスが顔を見せると、ふわりと笑顔を浮かべる。

 

「あ、おとうさん。おかえりなさい」

 

 ニコラスは疲れた顔を隠すように優しく笑って、ただいま、とユーリヤを抱きしめた。ユーリヤも嬉しそうに目を細めて、ニコラスの頬に顔を寄せる。体を離すと、僕の手を支えたままのマーシャの手を見た。

 

「あれ? ロビン、ひさしぶり。おかあさん、ロビンと一緒に遊んでていい?」

 

 こっちを見たマーシャに向けて、僕は首を振った。マーシャなら、それだけでこちらの意図を()()ってくれると知っている。

 

「ごめんね。ロビンも話し合いに参加するって」

「そうなの……」

 

 ユーリヤは残念そうにしょんぼりした。僕は慌ててマーシャの手に触れて、謝罪を伝えてもらうように書く。

 

「ロビンもごめんなさいって。話し合いが終わったら、いっぱい遊んでもらいましょう?」

「うん、だいじょうぶよ。……ねえ、妖精さん。約束、忘れてないよね?」

「約束?」

 

 ほつれた髪の編み込みを整えてやりながら、マーシャは首をかしげた。どんな約束なのかとニコラスが尋ねると、ユーリヤはくすくすと楽しそうに笑う。

 

「ないしょ。ロビンも教えたらだめよ。二人とも楽しみにしててね」

 

 本を抱え、こっちに手を振って、ユーリヤは家の中へと戻っていった。この前までほんの赤ん坊だったのに。本当に、人の成長は早い。すぐ僕の背丈も越してしまうのだろう。

 

 ユーリヤはいい子だ。いい子で、優しくて、でも遠慮がちで自分のことを後回しにしてしまうきらいがあった。もっとわがままを言って大丈夫だよ、って、両親だけじゃなくて知り合いのおじさん(ルイス)おばさん(マルガレータ)もことあるごとに言うくらいに。

 

 あの子には幸せになってほしい。もう二度と、大切な人をなくして深く傷ついたり、悲しみに沈んだりしてほしくない。

 それが僕自身の気持ちだってことは、ちゃんと分かってる。

 そのためなら、僕が苦しいくらい、なんてことないのだ。

 

 ユーリヤの足音が聞こえなくなって、マーシャは深く息をついた。ゆっくりと立ち上がって、白い顔で僕たちを見つめた。

 

「ニコラス。ロビン。あなたたち、何をしてるの?」

 

 今まで聞いたこともないくらい冷たい声だった。言葉に詰まったニコラスに、たたみかけるように問いを重ねる。

 

「私には言えないこと?」

 

 言いよどんだニコラスを背中に(かば)って、僕はマーシャに向けて首を振る。

 ニコラスがこんな風に焦っているのは僕のせいだ。なかったことになった時間のニコラスに頼まれたまま、その時の話を伝えてしまったせい。

 

 なかったことになった時間の中で、半年くらい前に、マーシャが大きな事故に巻き込まれて、……いなくなってしまった、なんて。

 ニコラスが未来をより善くできると言い始めたのはそれからだ。あの日を境に彼は変わってしまった。たとえなかったことになるとしても、自分を犠牲にすることを、(ため)()わなくなってしまった。

 

 だって、同じことが起きないと何故(なぜ)言える? マーシャが今後事故に遭わないと断言できるのか? マーシャだけではない、ユーリヤやルイスたちが死ぬ定めの中にあっても、見て見ぬふりをするというのか?

 

 そんな未来が、正しいわけ、ないだろう。

 

 無限の地平など存在しないと分かっている。ルイスに見捨てられるのも当たり前だ。エゴで好き勝手してるのだから。

 だがそれがたとえ神に定められたものだとしても、大切な人の死をただ見送るだけなど、()は。

 

 冷たかったマーシャの顔が(かげ)った。

 

「答えられないなら質問を変えるわ。……半年前のことよ。ロンドンに向かう列車が、川に落ちたことがあったわね。それから、あの時鞄に入っていたはずの原稿を見つけてくれたのはニコラスだった」

 

 背後で身じろぐ音が聞こえた。きっと僕も表情が変わったことだろう。マーシャにとってはそれで充分だ。伏せられた目が、確信を得たと示していた。

 

 半年前、マーシャはロンドンにある出版社へ向かう用事があった。それ自体はよくあることで、いつものように身支度を調えた彼女はいつもの列車に乗って……帰ってきたのは、一週間後のことだった。

 だから僕はニコラスの命の時間を使って、出掛ける前のマーシャの鞄から原稿を抜き取った。それがなければ仕事にならない、って知っていたから。ほかの人たちは助けられなかった。いいや、見殺しにしたんだ。橋が崩落するのをどうすれば食い止められるのかなんて分からない、って、言い訳して。

 

「過去を、変えたのね。私を助けるために」

 

 青ざめた顔で、(あえ)ぐように息を漏らして、マーシャは僕たちを見つめた。――マーシャに下手なごまかしは効かないなんて、知ってたことじゃないか。

 

「お願いよ。誰かを助けるために、自分、を、な…………?」

 

 語尾が不自然に上擦った。

 

 マーシャは目を見開いて、その膝ががくりと折れる。崩れ落ちそうになる体をニコラスが(とっ)()に支えるけれど、だらりと下がった腕は力なく揺れていた。

 ニコラスの呼びかけに、マーシャは応えない。身じろぎして、うなだれた頭がかすかに動く。でもそれだけだった。

 

 

 立ちすくむしかない僕の耳に、かちりと時間が定まる音が響いた。

 

 


 

 

 マーシャが息を引き取り、それからニコラスの命の時間を指輪に変えて与えるまでのあいだに、私は百年ほど後の未来まで進んだことがある。

 

 彼女の死因は病であった。病というなら治す手段はあるはずだ、それは現在確立していないとしても、未来にはきっと。

 

 そう考えて二つの大きな戦争を越え、様変わりしたローアンの大学に入り込み――医学書を前に途方に暮れることとなる。そもそも私はまともな教育を受けていない。百より上を数えられないような当時の有り様で、最高学府の知恵に太刀打ちできるわけがなかったのである。

 結局小学校(プライマリースクール)の勉強から始めて、知識を独学で少しずつ積み上げていくよりなかった。数学や自然科学を覚え、その時代では常識であったパーソナルコンピュータの使い方を理解し、必要ならば諸外国語も修めた。

 

 そうして得られた知見は、治療は不可能だという事実だけだった。

 百年後であれば治る病だ。だが治療法を知ったところで、その実行は不可能だった。たとえ知識を持ち帰っても、薬剤や手術を行うための道具を作る技術も精度も足りず、何より施術を行えるだけの技量を持つ人間はいない。

 

 マーシャの病は治せない。

 それは歴然とした、覆しようのない事実であった。

 

 そうして私は過去に戻り、ニコラスと共にひどく短絡的な手段を選んだ。

 

 あの未来のローアンの街は、そしてそこに暮らしていたあの人々は、もはや今の延長上には存在しないのだろう。たとえまた百年進んだとしても、そこにあるのは荒れ果てた(はい)(きょ)か、あるいは仮に復興していたとしても全く異なる風景の街だ。

 

 だから私は、足を止めてはならない。

 喪われたものは、どうしようもないほど大きく、重い。それを知っているのに諦めるなど、あってはならない。

 

 

 

――……お、見ろ。雪だ――

――もう冬だなあ。今年もあと二カ月か――

 

1911年。12月11日、22時。

  

1889年。10月31日、19時。

 

――明日晴れたら森まで出掛けるとするか。面白い絵が撮れそうだ。ロビンも誘えたらいいのだが――

――君とロビンの、写真に対する情熱にはいつも感心するよ――

 

 

 

 

 昏い金の雪が消え、暗闇が晴れていく。そうして目に飛び込んできたものに、私は動きを止めた。

 

 暖炉の温かな橙色が揺れる部屋の中で、二人の青年がチェス盤を挟んで向かい合っている。片方の青年は顔に焦りを浮かべ、両の手のひらを相手に向けた。

 

「……ま、待った」

「おいおい、一体何度目だ。いい加減負けを認めたまえよ」

 

 眼鏡の青年は呆れを隠さずにそんなことを言う。だがその口元はしっかりと笑んでいた。彼らにとってはいつものことなのだ。――そう、いつものことだった。かつて()はそれを横から見ているのが好きだった。マーシャがいなければ、あるいはいたずらをしなければ、時間は止まったままだとしても。

 動けない私に気づくことなく、二人は会話を続けていく。

 

「いいや、あそこでこう動かしていれば、(ばん)(かい)の機は確かにあったんだ。あと一回だけ、あと一回だけだ。ルイス、このとおり!」

「そのあと一回も何回目だ。まったく、お前はひとつのことに集中しすぎるんだよ、ニコラス」

 

 ニコラスはチェス盤を眺めてしばらく(うめ)いたり(うな)ったりしていたが、やがて肩を大きく落とした。

 

「……よし、もう一戦だ。次は見落とさないとも」

「その諦めの悪さは買ってるよ」

 

 親しげに言葉を交わしながら、彼らはチェスの駒を並べ直していく。私はゆっくりと後ずさりして、壁を背に部屋を見渡した。

 

 ……マーシャの姿は、ない。

 

 低い確率ではあるが、この時間にたどり着くのははじめてではない。今まで経験したものと同様に、彼女は別の場所にいるようだ。

 

 (あん)()に胸をなで下ろし、同時に不審をいだいて時振計を開く。文字盤はかすれ、青い針は半ばから折れている。()びた歯車は軋みながら、かろうじて機構を動かしていた。

 

 まただ。マーシャの姿はないのに、また、時間が止まらない。

 

 時振計が壊れはじめているのか、この時の中に私が干渉して定めるような振れがないのか。……あるいは、もう私には止まった時の世界に留まれるだけの力がないのか。

 

 蓋を閉じ、顔を上げる。先ほどまでの(ちゃ)()し合うような空気はいつの間にか冷めて、ルイスは駒を進めながら、(うれ)いを浮かべたニコラスを静かに諭した。

 

「そうは言うが、ウスペンスキー先生に指名されたのはお前なのだよ。もっと自信を持った方がいい」

「……いいや、ルイス。自信を持つ以前の問題なんだ」

 

 ニコラスは窓の外へと目をやった。(どん)(てん)の下、ちらつく粉雪は、窓ガラスにはりついたそばから()けてしずくに変わる。

 

「私たちはただ、証明しえないものを喜んで信じている*1

 

 ルイスはかすかに眉を上げた。

 

「テニスンか」

「ああ。彼の言葉は目を開かせてくれる。私のような者であってもだ」

 

 青い瞳は、静かに景色を見つめていた。視線の先に広がる街並みは、少しずつ量を増す雪とそれを巻き上げる風によって茫と(かす)んでいた。

 

「神は、こと我々のような未知を暴く事が生業の者には、奇跡をお見せにならない。数学者は数列に神を見いだすというが、しかしそれは今まさに発見されたとしても、我々の祖先が毛深かった頃よりもはるか前より存在していた法則だ。今までも、そして恐らくはこれからも現象としてあり続けるであろう当たり前を可視化した、ということになる。では何がその当たり前の中に奇跡、あるいは奇跡めいたものを見いだすかと言えば、それはその法則を見る我々の主観にほかならない」

 

 暖炉で火がはぜた。ぱちりと軽い音を立てて、橙の光がはじける。駒を置く硬い音が部屋に響き、ニコラスは手を机の上に戻した。

 

「それに、弟子を殺して無理数を秘匿した数学者の逸話もある。我々の主観は、正しさの担保にはならず、間違いさえ犯す。……神の()(わざ)は、たとえば野に咲く花の、その花弁にさえ隠れているのに、それを再発見できる者は果たして何人いるだろう」

 

 ルイスは耳を傾けながら、駒を進める。会話を理解しながら別の思考を働かせることは、ルイスにとって何の苦もない行動だった。

 

「伝承と妖精という、不確かで曖昧なものを学問とする我々はなおさら、常に我々自身を疑わなければならない。あるがままに受け取ろうとしても、我々を覆う主観という膜は、かならず実像を歪めてしまう。だからこそ、まず主観の何たるかを知り、その向こうにある真実を見極めなければならない」

 

 息をつき、ニコラスは肩から力を抜いて苦笑した。

 

「だが、己の見ているものを常に疑い続けるような者が、果たして旗手にふさわしいのだろうか。……より良い方向に、導くことができるのだろうか」

 

 更に言葉を続けようとしたニコラスを、ルイスは手を挙げることで制した。眼鏡の奥の眼光は鋭く、そして(しん)()に友人を見つめていた。

 

「ウスペンスキー先生は、妖精の力を利用することを考えておられる。学長も、それから他の研究員の大半も。……あの子の力は、そんな都合のいいものではないと言っているのに」

 

 ニコラスは目を伏せた。親代わりだった人物のそういう面は、あまり直視したいものではないのだろう。ただルイスの言葉を否定しないのは、結局は理解しているからだ。彼が娘を連れてこのローアンに移り住んだのも、ニコラスを引き取ったのも、妖精の研究のためだったということを。

 

「我々はそれを阻止しなければならない。大切な友が、道具のように扱われ、(もてあそ)ばれることのないように。……今回の件はむしろ都合がいいのだよ、ニコラス。純粋な探究者であろうとしても、我々は政争をしなければならないのだから」

「……あの子のため、か」

「ああ。無論私も力を貸す。マリヤやマルガレータ、サイモンとて同じだ。だから、頼む」

 

 アビガイルが金枝を携えて皆に接触したのは、これからまもなくのことだ。このルイスの決意は、結局かつての私が台無しにしてしまった。

 

「それに私は、自分の見える範囲を盲信していない、そういうお前だから任せたいと思っている。何より隣でマリヤが見ている限りは、絶対にばかな()()はしないだろうから」

「え? ええと、どうしてそこでマーシャが出てくるんだい?」

「愛しているのだろう。一人の女性として、マリヤのことを」

 

 ニコラスはきょとんとして、みるみるうちに顔を赤らめた。黙り込んだニコラスをしらっとした目で眺め、ルイスはルークの尻で駒を蹴倒した。

 

「サイモンはちゃんとけじめをつけたんだ。お前もまあ後悔のないようにすればいいんじゃないか」

 

 あのおてんば娘のどこがいいんだか、とルイスはぼやいた。挙動不審のニコラスは駒を適当に進めながら(せき)(ばら)いをする。

 

「そ、そういう君はどうなんだ、ルイス。あの子とは……」

「あの子を家のしがらみに巻き込むつもりはない」

 

 かぶせるような温度のない返答に、ニコラスは目を見開いた。

 一転して血の気が引いた友人の顔を見つめ、ルイスは息を短く吐き、()()()すように苦く笑った。

 

「悪い。結局、今の立場を捨てられなかったのは他でもない私なのだから。お前が気にすることはないんだ」

 

 その一戦はニコラスの勝利で終わる。喜ぶ様子のない友人を、ルイスは駒を並べ直しながらちらりと見た。

 

「ああ、そういえば。この前ヤーナムから来たセクト(まが)いの連中のことは何か分かったのか」

「え、ああ。とは言っても、彼らが我々に話した以上のことは探れなかったが」

 

 その時のことを思い出したのか、ルイスは眉をひそめた。

 

「なにが人を超えた先、高次元の思考を求める、だ。完徳を目指すのは大いに結構だが、連中のあれはいわば聖母にとりなしを求めるのではなく、聖母そのものを崇拝しているようなものだ。目的を見失い手段をはき違えているとしか思えない」

「あれも神智学(テオゾフィー)の一種というのか、有閑貴族には非常に好まれそうではあったがね。あんなものが()(びこ)る程度には、ヤーナムの医療に(すが)る人々が多いということだろう」

 

 そこまで言い、ニコラスの視線が鋭いものへと変わった。

 

「学長に確認したのだが、彼らが接触したのは我々だけだそうだ。医学部には全く興味を示さなかったと。君は別としても、ほかに面会を希望したのは民俗学者の端くれでしかない私だけだった、というのは、どうも引っかかる。ロビンにも気をつけるように伝えておかなければ」

 

 ニコラスのその心配は、もうじき杞憂に終わるのだろう。彼がそれを認知することはないのだろうが。

 

「しかし、医療教会だったか。彼らは一体どのような手法で、輸血を医療にまで発展させたのだろうね?」

「正直私は疑っているがね。医療の街との(うわさ)は聞くが、あの街で快癒して帰ってきたという者の話は聞かない。ギルバートのことはお前も知っているだろう? 彼は肺病の治療のためにヤーナムに向かってから、消息が知れなくなっているそうだ」

 

 かつて未来で学んだ通りなら、血液型の発見は1900年代初頭、血液抗凝固剤の発明により輸血が医療行為として普及したのは1910年代以降である。それまでの輸血とは血液型相違による拒絶反応が起きて当たり前の、生きるか死ぬかの(ばく)()であった。

 もし医療教会が輸血の秘密を隠さず発表していれば、助かった命は決して少なくない数となるだろう――彼らが本当に人間の血を輸血していたのであれば、だが。

 

 連中の根城であるヤーナムの街は、この時間からさほど()たずに人々の記憶より消える事になる。悪名と言えど名の知れた古都であったはずなのに、まるで街そのものが整合されてしまったかのように忘れ去られ、認識されなくなるのだ。地図からは版を改めた時に消され、何もないはずの場所へ向かう道だけが不自然に残された。かつての私はそれに言いようのない薄気味悪さを感じ、あのアビガイルでさえしばらくはひどくぴりぴりしていたのを覚えている。

 何度過去に遡ってもある時点までは存在し、同じ時期にふつりと途絶える。この明らかな異常は、我々以外の人でなしの仕業と考えるべきだろう。だからこそ、最初からあの街の医療を探りに行くという選択肢はなかった。人でなしがどれほど命の重さに鈍感なのか、嫌というほど知っている。あの街に手を伸ばせば、おそらくは取り返しがつかなくなる。

 

 セクト紛いの連中への対処をいくつか話し合ったあと、話題はかつての私についてへと変わった。

 

「ロビンの持つ妖精の力は、彼自身にもよく分かっていない。命の時間のやりとりを行う異能と、止まった時に留まる異能。彼が行ったいたずらへの、目撃した個々人での認識の相違。それに……ウスペンスキー先生が話を聞いた時の証言」

「母親が妖精にしてくれた、か」

「おそらくだが……ロビン自身はその詳細を理解しているが、それを表すだけの語彙と論理立てて話す能力を持っていないのだと思う。マーシャの話によれば、彼の見た目は初めて会ったときのまま変わらないそうだから。頭は決して悪くない、むしろいい方だが、それは外見相応であって成長ができないのだろう。ただ……」

「ただ?」

「……いや、これはマーシャがいる時に話すよ」

 

 ニコラスは顔を上げて、部屋の中を見回した。

 

「ロビンには聞かれたくない話か? 玄関のオルゴールが鳴っていないから、今日は来ていないはずだが」

「そうだろうとは私も思うが、止まった時の世界には声が残留するというから。気をつけるに越したことはないだろう」

 

 妖精を直接視認できない者は、()()()()()という確信を得ていなければ知覚できないという。ニコラスもテーブルの端に寄りかかった私には気づくことなく、視線はルイスへと戻された。

 

「……ずっと考えていることがあるんだ。あの日、ロビンに命を救われてからずっと。どうすれば、あの子に報いることができるのだろうと」

 

 ニコラスは苦笑し、手元の駒を手持ち無沙汰に触る。

 

「ロビンとはじめて会ったあの日、本当はもう駄目だと思っていたんだ。日も沈んで、滑落したせいで自分がどこにいるのかも分からなくなってた。マーシャの()()もひどくて、私自身も頭を打って、うまく前が見えなくなってた。マーシャだけでもどうにか助けたくて、先生から聞いた古いおとぎ話の妖精のことを思い出して……そしたら、赤い光が目の前に現れた」

 

 その青い瞳は、私をすり抜けて捉えることはない。ただ向かい合って座る友人に向けられている。

 

「今でもはっきりと思い出せる。かすれた目でもはっきり見えるくらい、力強くて優しい光だった。マーシャを背負って、導くように揺れるあの光を追いかけて……気づいた時にはベッドの上だった。助かったんだって実感したのは、マーシャのお見舞いに行けるようになってからだったなあ」

 

 彼は額を押さえた。髪に隠れているそこには、まだうっすらと引き()れた傷痕が残っている。

 

「死を覚悟するような苦境にあっても、手を差し伸べてくれる人たちがいることは、どんな幸運より幸いなのだと私は思っている。だから、私も助けられる人でありたいし、何より助けてくれた人たちの役に立ちたい。そんな風に思っても、私にできることなどたかが知れていて、悩んでいる間にロビンはどんどん手助けしてくれる。あの子は優しいから」

 

 私は優しいわけではなかった。

 ありがとう、と、皆にそう言われたいがために、頼み事を聞いていただけだった。その行為がどんな意味を持つのか、自分の頭では何も考えずに。ただ、自己満足のためだけに。

 

「私はね、ルイス。ロビンのために何が残せるのかを知りたいんだ。いつか私たちはあの子を置いて逝くことになるだろう。だからせめて、あの子が何の心配もなく、私たちを見送れるように。……いつか砂州をこえて旅立つときには、悲しみの声がないように」

 

 そう言って、ニコラスは笑う。見ているだけで安堵するような、優しい笑みを。

 ルイスもまた、つられるように口の端を持ち上げた。

 

「私はブラウニングの方が好みだがね。――“神、空に知ろしめす。すべて世は事も無し”*2!」

「“頭のなかはもう水浸しだ”*3……なんてことにはならないでくれよ、ルイス」

 

 語り合う二人の顔は、未来への希望に満ちている。十数年後、君たちは(あい)()れない主張のために決別すると伝えても、きっと二人とも信じないだろう。

 彼らは、穏やかに老いて逝けるのだと、何も疑っていない。

 

 人は変わる。

 絶対などどこにもない。

 たかだか未来を知っているだけで、悲劇を変えることなど、できはしない。

 

 ()がいなければ、みんながばらばらになることはなかったのかな。

 

 ……意味のない仮定だ。私がいなければ、ニコラスとマーシャは幼いころ、ロッブの森の奥で遭難した時に死んでいただろう。それは思い上がりでも何でもない、ただの事実だ。

 だから、益体もないことを考えるな。死をもって償える罪など、ありはしない。

 

 窓の外の雪は勢いを増し、窓枠に少しずつ積もり始めている。明日の朝には、街は雪に覆い隠されるのだろう。

 私はもう一度、部屋を見渡した。ニコラスとルイスは私に気づかず、そして暮れゆく窓の外で吹き付ける雪にも意識を向けることはない。

 

 

 先のことなど誰にも分かりはしない。それでも確かなことがあるとすれば。

 マーシャ。君のいない未来には、何の光明もないのだ。

 

 


 

 

 僕の手がマーシャに触れ、マーシャの目がぼんやりと僕を捉えて、止まっていた世界が動き出す。

 

 ベッドに横たわった彼女は、ゆっくりと細い声で歌っていたみたいだった。ふっと途切れた声は、やがてまた歌いはじめた。――革の鎌で刈り取りをして、アオガラの羽で束ねてほしい。そして彼女はまことの恋人になる。

 スカボローフェア。マーシャが一番好きな曲で、歌詞を知ってからいつも楽しそうに歌っていて、だから僕も好きになった。ニコラスがバイオリンで伴奏して、マーシャが歌う。僕は声を出せないけど、小さなオルゴールで一緒に歌うことができた。

 歌い終わって、声が途切れる。

 

「……昔、アビガイルから、百年後の未来できっと二番目に有名なスカボローフェアだ、って教えてもらった時も思ったのだけど……歌詞を修正したっていう人は、疑問に思わなかったのかしら? 女の人が男の人へ返した難題を、そのまま女の人に向けること。メロディーは知ってるものにすごく似てたから、なおさら変な感じがしたわ」

 

 かすれた吐息に引きつったような音が混じる。それが笑い声だと気づいた瞬間、僕は胸を引き裂かれたような気がした。

 

「でも、一番目に有名な方の歌詞もそうだったし……もしかしたら百年後では、女の人でも丸く曲がった角ひとつで(いち)エーカーを耕せるような、そんなすごい技術ができているのかもしれないわね」

 

 乾ききった唇に笑みを浮かべて、マーシャは僕を見つめた。

 

 こんなのは悪い冗談だ。だって、ほんの一週間前まで元気だったはずなんだ。マーシャは自分のことを後回しにするきらいがあるから、きっとすっかり疲れて倒れてしまったんだろう。当のマーシャだって、最初はそう言っていた。

 でも休んでも良くなるどころか起き上がるのさえ難しくなって、他にも表れた症状を見て、医者は首を振った。これはとても珍しく、そして治療法のない病だと。この進行速度なら、半月も保たないだろうと。

 元々細い体は坂から転げ落ちるようにやせ衰えて、今はもう、マーシャの顔は真っ白だった。その頬に赤みをもどす方法を、僕は知らない。

 

 僕は、何もできない。

 

 

 

 

 

 ニコラスがすぐにルイスたちに連絡を入れたのは、彼が頼れる相手がそれしかいなかったから、ということが大きい。

 ニコラスは天涯孤独の身で、マーシャの両親も既に()(もと)に召されていた。マルガレータはロンドンで医療について学んでいた時期があったし、何より僕の――妖精のことがあったから、部外者に任せるわけにはいかなかった。だからルイスたちも何も言わずに助けてくれた。お互い、気まずそうにはしていたけれど。

 

 ユーリヤは、しばらくぶりに会えたおじさんたちに少しだけ嬉しそうにして、そしてそれが示す意味に(うつむ)いていた。看病の邪魔になるからと一人きりでいようとする小さな少女を、マルガレータは簡単な仕事を言付けることで母親のそばに連れて行った。

 

「弱っていくところを見るのはつらいと思う。でも、後になって、もっと一緒にいたかった、ってきっと後悔することになるわ。……恨まれるかも知れないけれど、できる限り、一緒にいられるようにしてあげたいの」

 

 ニコラスも、マーシャも、マルガレータのその申し出に感謝と謝罪を伝えていた。

 

 ルイスは色々と仕事があったから、マルガレータのようにはできなかったけれど、それでも時間が空けばお見舞いにくる。決別してからの空白を埋めるように話を重ねて、その間だけは、マーシャの顔色も良かった。

 

「病気になって唯一良かったって思えるのは、こうやってまたルーとたくさん話せたことね」

 

 しわの増えたルイスの目元が、こらえるように歪んだ。

 

「……愛称で呼ぶのはもうやめてくれと、ずっと昔に言ったじゃないか」

「ふふ、いいじゃない。幼なじみなんだから」

 

 マーシャは昔のように笑って、ルイスもまた笑顔を浮かべていた。お互い笑顔が少しぎこちないことは、どちらも指摘しないまま。

 

「ルーならきっと、子供たちのいいお父さんになれるわ。みんなのいいお兄さんだったのだから」

「……私は、いいお兄さんではなかったよ。ニコラスのことも、それからロビンのことも。説得を諦めて、見捨てたようなものだ……」

 

 その声は細く、力なかった。マーシャは枕の上で、首をゆっくりと横に振る。

 

「違うわ。お互い、譲れないものがあっただけよ。それに本当なら、譲らなければならなかったのはニコたちの方だから。ルーが気に病むことなんてないの」

「譲れないもの?」

「私の命」

 

 ルイスはきょとんとした。

 

「半年くらい前に、ロンドンの出版社まで出掛ける用事があったの。だけど、持って行く原稿がなくなってしまって、探しているうちに乗るはずだった列車の時間を過ぎてしまったのよ。そうしたら、その列車が橋の崩落に巻き込まれたっていうじゃない。その時は運が良かったって思っただけだったけれど……ニコとあなたが(おお)(げん)()をしたってマギーから聞いたのは、その少し後だった」

 

 マーシャの言葉を聞くうちに、だんだんと、その目が見開かれていく。唇をわななかせて、眼鏡の奥の目が僕のいるあたりを見つめた。

 

「……私は、君たちの苦しみを、何も分かっていなかったのか」

 

 ぽつり、と震える声が()れた。

 ルイスはしばらく動かなかった。自分の太ももに肘をつき、顔を覆ってうなだれていた。やがて上げられた顔は、一気に十も老けたように疲れ果てていた。

 

「……マリヤは強いよ。譲らなければならなかった、などと。私がニコラスの立場なら、同じことをロビンに願っていたに違いない」

「私だって同じよ。もしニコやユーリヤに何かあったら、ロビンに二人を助けてってお願いしてた。それはきっと、マギーとシムも変わらない。……でも、だからこそ、それはしてはいけないことだって思うの」

「それは、どうしてだい」

 

 マーシャはそれには答えなかった。僕を見つめて、()()めるように呟く。

 

「悲しみはいつか癒える……ううん、悲しみにだって慣れてしまえる。いなくなってしまった人のことは、どんなに頑張ってもだんだん忘れてしまう。……それでいいの。罪悪感を覚える必要は、どこにもない。だから」

 

 ぽろりと、マーシャの目から涙がこぼれた。

 枯れた指が緩慢に目元をぬぐう。そのそばから涙はあふれて止まらなくて、すぐに()(えつ)に変わった。

 

「……ごめんなさい。私……ユーリヤの、前では、がんばる、から……」

 

 ルイスはとっさに僕を見た。だけどすぐに目を伏せて、首を横に振る。そんなことを思ってしまった自分自身を責めるような、そんな思いが(にじ)んであふれているようだった。

 

「……気にしないでくれ、ロビン」

 

 唇を噛みしめ、マーシャの肩に手を添える。

 

「大丈夫だ、マリヤ。時が狂人となって(ちり)をふり撒き、生命が復讐の女神のように(ほのお)を散らしたとしてもだ*4。私たちはそばにいるよ」

 

 声だけは力強く、ルイスはマーシャに語りかける。

 

「マリヤ。私は、君の友人であることを誇りに思う。子供時代の楽しかった思い出には、いつも君がいるんだ。そこにニコラスがやってきて、サイモンとマルガレータが増えて、最後に君のおかげでロビンに出会えた。あの温かな日々は、まだ私の胸の中にある。……君はどうだい?」

 

 答える代わりに、マーシャはルイスの手を握り締めた。(どう)(こく)に悲鳴のような声が混ざる。

 マーシャが声を上げて泣いたのは、知っている限りではそれが最初で最後だった。

 

 

 

 

 

 ある時、ほとんど湯と変わらないような(かゆ)の食事を終えた後で、マーシャは色のない唇でぽつりと呟いた。

 

「ユーリヤ。約束、守れなくてごめんね。ピクニック、行けなくなってしまって」

「いいの、約束なんて……元気になってくれたら、それで……」

 

 マーシャの口元が、震えた。それでもどうにか笑いかけるように口の端を持ち上げて、伸ばした手でユーリヤの額をそっとなでる。

 

「……ごめんね」

 

 その意味が分からないほど、ユーリヤは幼くない。まなじりに涙が盛り上がり、すぐに頬を流れ落ちた。

 

「いや……いやだよ。おかあさん、いなくならないで……」

 

 マルガレータの肩が強張った。きっと僕と同じことを思っているんだろう。

 ユーリヤはいい子で、優しくて、でも遠慮がちで自分のことを後回しにしてしまうきらいがあって。いつも、もっとわがままを言っても大丈夫だよって伝えてるのに。

 なのに結局、この子が願っていることは叶えてあげられない。

 

 細く枯れた腕が、泣きじゃくるユーリヤの頭をそっと引き寄せた。

 

「愛してるわ、ユーリヤ。離ればなれになっても、私はずっとあなたのこと思ってる。あなたが幸せでありますように、つらいことがあっても乗り越えていけますように、って。あなたが同じように祈ってくれるなら……私、怖くないわ」

 

 やがて泣き疲れて眠ってしまったユーリヤを、マルガレータは抱き上げて、マーシャの隣のベッドに寝かせた。

 

「マギー。ユーリヤのこと、お願いしてもいい? あなたも忙しいのは分かってるけれど……落ち着くまでは、ニコだけじゃ、きっと手が回らなくなってしまうから」

 

 それは終わったあとの話だった。

 マルガレータは眉根を寄せて、まばたきを繰り返す。頭で分かっていても、それを受け入れるなんて、そんなの、無理だ。

 

「……ええ。もちろんよ」

 

 まぶたを伏せ、絞り出した声は震えて湿っていた。こらえていた涙が、静かに頬を伝う。

 

「マーシャ、私……あなたに、なにも、返せなくて……」

「そんな風に言わないで。全部してもらって、私、申し訳ないのよ」

「そんなこと、今までマーシャがしてくれたことにくらべたら、なんでもないもの。あの人とのことだって、あなたは、背中を押して、くれた、のに……」

 

 泣き崩れたマルガレータに、マーシャは手を伸ばす。震える指先がマルガレータの頬に振れ、優しくなでた。

 

「なら、約束よ。私があなたにしてあげられたぶんだけ、これから迎え入れる子供たちのこと、大切にしてあげて。大切な人がいなくなってしまって深く傷ついてる子たちが、もう一度、楽しい日々を笑って過ごせるように。……大丈夫。あなたなら、きっとできる」

 

 

 

 

 

 ロンドンにいたサイモンがローアンに帰って来られたのは、マーシャが(こん)(すい)状態になって、もう反応ができなくなった後だった。

 

 面会はひどく短い時間で終わった。応えられないマーシャに最期の挨拶を告げて、今にも倒れそうなほど真っ白な顔で僕についてくるよう声を掛けたサイモンは、すぐに玄関のオルゴールのぜんまいを巻いた。

 オルゴールが鳴っている間は、マーシャが僕を見ているあいだと同じように時間が止まらない。鳴り始めたオルゴールに背を向けて、サイモンは顔を伏せて呟くように言った。

 

「……どうして、何もしない」

 

 俯いたまま、だけれど目だけは僕を(にら)()けていた。

 

「マーシャに、どうして何もしないんだ」

 

 ……それは。

 何の反応も返せないことにしびれを切らして、サイモンは声を荒げる。

 

「妖精なんだろう!? 病気の母親のために森に入った少女を助けた話は本当だって言ってたじゃないか! なら、だから……」

「サイモン!!」

 

 怒鳴り声がサイモンの言葉を遮り、そして頬を打つ音が廊下に響いた。

 

 サイモンは呆然として殴られた頬を押さえ、顔を真っ赤に染めたルイスを見つめた。

 

 ルイスは、何も言わなかった。震える息を洩らし、唇をわななかせて、サイモンを見つめている。

 

 やがて、ぽつりと声が落ちる。

 

「…………最悪だ……」

 

 そのまま殴られた時に取り落とした鞄を(つか)んで、サイモンは玄関から飛び出す。(たた)きつけられるように閉められた扉を、僕はその場にひざをついたまま見送るほかにない。

 

 

 ――ロビン、さっきルーとニコに仕掛けてたいたずらだけど……ははっ、本当に最高だったよ。きみは世界一のいたずら名人だね。

 

 

 もうあの日は戻ってこない。

 その実感が刻み込まれる。軋むように、視界が歪む。

 

 ルイスは気を落ち着けるように、肩で大きく息をしていた。だんだん遅くなるオルゴールのふたに手を添えて、かすれた声が食いしばった歯の隙間から洩れる。

 

「ロビン、気に病むな。……私たちの誰も、マリヤに何もしてやれなかったのだから」

 

 オルゴールが鳴り終わり、かちりと時間が止まる。

 

 僕は、どうすればよかったんだろう。

 止まった時間の中で、ルイスの背中を眺めながら、ただ、痛みを伴う自問が頭を埋め尽くした。

 

 あの日、なかったことになった時間で起きた事故の時みたいに、マーシャを助ける方法があったんじゃないのか。それを見落として、こんなことになってるんじゃないのか。

 病気なら、治す方法だってあるんじゃないのか。いいや、きっとあるはずなんだ。

 

 たとえば……たとえば、足りない血をほかから補うように、誰かの命の時間を、マーシャに継ぎ足せたら?

 

 ないはずの心臓が跳ねた気がした。

 今なら金枝がある。女王さまでなくても、僕でも、人の命の時間を扱うことができる。なら。

 

 そこまで考えて、僕は我に返った。

 なんてことを考えていた? どれだけおぞましいことをするつもりだったんだ。

 たとえ可能だったとして、誰を犠牲にするつもりなんだ。そんなこと、マーシャは絶対に許さない。

 だから、僕にできることは、何もない。

 何も、できない。

 

 

 

 

 

 そして、その日。

 

 ずっと(もう)(ろう)としていたマーシャの意識が、ぼんやりとだけど戻ってきていた。

 風がカーテンを揺らすささやかな音ばかりが、部屋を満たしていた。外は八月の日差しが金色に輝いて、時折駒鳥の歌う声が遠くから聞こえてくる。本当に、穏やかな昼下がりだった。

 

 ニコラスは研究の遅滞を(とが)められて、大学に()()()()に呼び出されていた。マルガレータは医者を呼ぶために外出していて、ルイスはニコラスを呼び戻すために飛び出して、サイモンは昨日のうちにロンドンに帰ってしまっていた。ユーリヤは今までの睡眠不足がたたって、部屋の隅でうずくまって、気絶するように眠っている。起こそうとしても、僕にはその方法が分からなかった。

 

「ねえ、ロビン。今まで、ありがとうね。それから、ごめんね。私、最期まであなたに頼ってばかりで」

 

 それはもう、音にすらなってなかった。

 かすかな吐息と口の動きを、僕は必死に読み解いていく。

 

「おねがい、ニコに……ユーリヤが大人になって、幸せになったことを見届けてから、私に教えに来て、って、伝えて。私は、もう、だめだけど……あなたとユーリヤの幸せを、ずっと、祈ってるから、って」

 

 きっとすぐにルイスが連れて帰ってくる、だから諦めないで、って伝えたかった。でもマーシャの目はどこにも焦点を合わせてなくて、手のひらに字を書いても、もう読めないのが分かっていた。

 

 

 ――マーシャに、どうして何もしないんだ。

 

 

 時振計は何も示さない。女王さまも何も言わない。

 僕はどうすればよかったんだ。

 どうすれば、マーシャを助けられた。

 どうすれば、彼女を元気にできた。

 

 どうして、僕には何もできないんだ。

 どうして。

 

「どうして」

 

 はっと、顔を上げた。

 

 マーシャの目はぼんやりと、天井をすり抜けてどこかを見ている。

 

 ばたばたと玄関の方から慌ただしい音が聞こえる。扉を隔てた遠い(けん)(そう)の中、唇が、小さく動いた。

 

「どうして、今なのですか。私だって……せめて、この子が大きくなったところを見られれば、それで充分なんです。なのに、どうして……あぁ…………――」

 

 まなじりから、涙がひとすじ伝った。

 

 背後から扉のノブを(ひね)る音が聞こえて、そして、時間が止まる。

 マーシャの目はまだ開いているのに。僕の手は彼女に触れているのに。

 どれだけ待っても、もう、動き出すことはなかった。

 

 


 

 

「……ロビン。私の声が聞こえているか」

 

「マーシャを、助けてくれ」

 

 

 友達を助けたい。

 はじまりはそれだけだったんだ。

*1
テニスン「イン・メモリアム」(訳文・「「追憶の詩」のプロログ」平井正穂編「イギリス名詩選」岩波文庫)

*2
ブラウニング「ピッパが通る」(訳文・「春の朝」上田敏「海潮音 上田敏訳詩集」新潮文庫)

*3
ブラウニング「ピッパが通る」(訳文・「『ピパが通る』より」富士川義之編「対訳 ブラウニング詩集」岩波文庫)

*4
テニスン「イン・メモリアム」(訳文・西前美巳「テニスン詩集」岩波文庫)




 今回匿名を解除して、活動報告の方で舞台年や登場人物についての補足説明を掲載しております。興味がある方はよろしければ。


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ローズマリー【追憶、変わらぬ愛、あなたは私を蘇らせる】
「夢寐にて。」-1 /「偃曝に微睡む。」-4


6/27:後の話もふくめてまえがきを修正しました。

 ちょっとしたストレス展開が三話ほど続きます。



 頭をたれ、両手を合わせたままで、彼女はかすれた沈んだ口調で最後の質問をした。
「神さまは兎を愛してらっしゃるかしら?」
「そうさ」とぼくはいった。「むろん愛しておられる。神さまはあらゆる生き物を愛しておられる。罪ぶかい人間でさえね。罪など犯せない動物はなおさらだよ」
  ルイス・キャロル「シルヴィーとブルーノ」より(訳文・柳瀬尚紀 ちくま文庫)


 

 

「獣狩りさん。お母さん、まだ見つからないの?」

「……、……君のご母堂は、オドン教会の地下で――」

 

 

 


 

 

 窓辺に少女の姿はなかった。

 

 あなたは息を呑み、窓へ駆け寄る。鉄格子に覆われた出窓は、真っ赤なブローチを手渡す際に細く開けた時のままであった。隙間から覗く室内は暗く、白いリボンを金髪に飾った少女の姿はどこにもない。

 握り締めた鉄格子が軋み、(わず)かにひしゃげる。血の遺志による変質を繰り返したあなたの肉体は、今や常人の域を超え始めている。

 

 

 真実など、伝えるべきではなかったのではないか。

 

 

 後悔と自身への怒りで、あなたは目の前が真っ赤に染まるような錯覚さえ感じた。

 

 いまだ夜の終わる気配はなく、何度狩り尽くしても正気を失った群衆は絶える様子を見せない。同様に、斧に脳天を割られ、散弾に足を砕かれ、鋭い爪に喉を抉られ、剛腕に力任せに挽き潰され――幾度となく死を夢として繰り返したあなたもまた、未だに終わりを迎えていない。

 地獄のような痛苦を何度味わってもなおあなたが諦めなかったのは、ひとえにヨセフカとの約束と、病身をおして知恵を貸してくれたギルバートや、分かりづらく遠回しな激励をくれた烏羽の狩人に対する恩義。何よりも少女への(しょく)(ざい)の念があったからに他ならない。

 

 あなたは、間に合わなかった。

 荒れ果てた墓地。目元を包帯できつく隠した大柄な男と、彼に叩き刻まれた群衆の死体。屋根の上に転がっていた、大きな赤いブローチを胸につけた金髪の女性の亡骸(なきがら)

 そして、男を見た瞬間にあなたの脳裏に(よぎ)った“ガスコイン神父”という見覚えのある名前。何度呼びかけても彼はあなたを人と認めず、一縷の望みにかけて鳴らし続けたオルゴールは人であった彼にとどめを刺した。もう誰も彼も人じゃない――烏羽の狩人の忠言を、文字通り身に、そして精神に刻み込まれたのだ。

 

 恐ろしい獣と成り果てたガスコイン神父を狩ったのち、あなたはせめてもの償いとして女性の胸元にあったブローチを回収した。二人の亡骸を家に帰すことは叶わなくても、形見だけでも少女に託すべきだ。あなたはそう考え、行動に移した。

 

 その結果が、これであった。

 

 子供の足ではそれほど遠くまで行けないだろう。しかし、地理に(うと)く記憶もないよそ者のあなたと違い、少女はこのヤーナムの住人である。知らない路地や裏道があるかも分からない。

 

 逸る感情を抑えて、あなたは開け放たれた門の向こうを睨みつけた。

 

 

 とにかく、探さなければ。

 一刻も早く見つけ出し、安全な場所へ誘導しなければならない。

 

 

 しかし、襲い来る群衆をくまなく狩り、木箱や棺桶の裏を確かめても、少女の姿はない。

 強くなる焦燥に足を急かされながら、あなたは診療所へと踏み入れた。入口に転がる群衆の亡骸を飛び越えて、階段を駆け上がる。その騒がしい足音が奥まで聞こえていたのだろう、すぐに扉の曇りガラスに人影が映った。

 

「……あら? どうしたの、そんなに慌てて」

「悪い。少女がこちらに来ていないか。金髪に、白いリボンを結んでいるはずだ」

 

 今、扉の向こうにいるのはヨセフカではない。立場を尋ねたことはないが、診療所なのだから医者を手伝う看護婦もいるだろう、とあなたは見当をつけていた。

 曇りガラスに映った影は、すぐに首を横に振った。

 

「女の子? ごめんなさい。心当たりはないわ。あなたにお願いをしてからここに来たのは、おばあさんが一人だけ。……ああ、彼女については大丈夫。治療は順調、何も心配はいらないわ」

「そうか」

 

 焦燥の中にも安堵を覚え、あなたはほっと息を吐いた。老婆の足であの下水橋を渡るのは酷だろう――そう考えていたあなたは、オドン教会ではなくこの診療所を避難先として伝えていた。

 

「そうそう、おばあさんの分のお礼をしないとね」

「礼など。むしろ足りないものはないのか。可能な限りかき集めてくるが」

 

 あなたが使者との取引において、他の消耗品を節約して輸血液を交換しているのは、もう渡せるものはないというヨセフカの言葉が念頭にあったからだ。

 しかし、返ってきたのは押し殺すような笑い声であった。

 

「フフッ、お優しいのね。でも大丈夫。それにこれは治療に使う薬剤ではないし……どうか、あなたのなすべき事に役立ててちょうだい」

 

 足音と共に影が遠ざかり、扉の向こうで棚を漁る音が響く。ほどなくして戻ってきた影は、割れたガラスの隙間から丸い瓶を差し出した。

 その細い女の指に絡みついた、青白い何かを見た瞬間。

 

「――――……ッ」

 

 あなたの脳裏で蒙が啓く音が蠢いた。

 風音に微かに混じる女の囁きとは異なる、何事かを訓戒するような男の声が脳髄を内から震わせる。

 眼球の中に潜り込んだ軟らかく冷たい何かがのたうつ。虹彩の縁をなぞり、瞳の裏を舐め、視神経を伝って奥へ奥へと蠕動し、やがて()(がい)の奥の蠢きと混じり合う。

 

 大橋やオドン教会の地下で恐ろしい獣と相対した時にもあった、怖気の立つような感覚であった。しかし同時に、密やかに背骨を下り、腹の底に溜まるような何かが、あなたの体を震わせた。

 

「どうしたの?」

 

 声を掛けられ、あなたは我に返る。

 

「……そ、れは」

「あら、ごめんなさい。汚れていたわね」

 

 手がいったん引き込まれ、少しの間を置いて再度差し出された。綺麗に拭われた瓶を、あなたは呆然としたまま受け取る。

 まだ平静を取り戻せないあなたをよそに、人影は扉から離れていく。

 

「もし、女の子を見つけたら連れていらっしゃい。私が治療してあげるから……」

 

 そんな言葉を残し、足音は診療所の奥へ消えた。

 

 

 

 

 

 呆けている暇などない。

 

 

 あなたは自身をそう(しっ)()し、来た道とはまた別の路地を辿る。

 

「女の子……ですか?」

 

 ギルバートは咳こみながら、考え込むように曖昧な声を漏らした。

 

「うーん……すみません。見ていませんね。ただ少なくとも、この家の前を通ってはいませんよ」

「分かった。もし見かけたら、ヨセフカの診療所へ、と。頼めるか、ギルバート」

「ええ、任せてください。……こんな夜だ。どうか早く見つかりますように」

 

 窓越しに見送るギルバートへと手を振って感謝を伝えた後、あなたは横の門を抜けて階段を下る。

 

 大橋へと上がる建物を検め、大橋の馬車に隠れていないかを一台一台確かめる。下の広場は既に探した。その相向かいの道の先には下水道へと下る木の梯子がある。少女があのような場所に寄りつくとは思えなかったが、それでも隅々まで松明で照らしながら呼びかけた。

 

 探していない場所が減るたびに、心臓が締め付けられるような気がした。

 

 梁づたいに下水道の最下層へと降り、あなたは頑丈な金属の梯子を見上げる。少女の家から梯子を下りて少し歩けば、すぐにここに辿り着く。だがこんな場所に、少女が果たして来るのか。もっと別の場所を探すべきなのではないか。まとまらない思考の中で、ふと過る記憶があった。

 

 

 ――君のご母堂は、オドン教会の地下で亡くなっていた。

 

 

 あなたは自身の迂闊さに吐き気を覚えた。

 

 恐らく少女は、その言葉を確かめるために家を出たのだ。暗く淀んだ夜道よりも、獣と成り果てた群衆よりも、そんなものよりも恐ろしく信じがたい事実を、きっと嘘だと確かめるために。

 

 あなたは弾かれるように駆け出す。汚泥のぬかるみに足を取られそうになりながら、横道を一つ一つ確かめ、少女のあの淡い金の髪を探す。

 段差を飛び降りたその時、飛び降りてきたカラスの蹴爪があなたの頬を抉った。跳ねた鮮血が右目を潰し、瞬間、焦燥は憤怒に姿を変えて噴き上がった。

 

「ッ、邪魔を……!」

 

 衝動のまま、あなたはノコギリ鉈をカラスに叩きつけた。ざりざりと羽根ごと肉や骨を断つ感触が手のひらに伝わり、断末魔の悲鳴が狭い下水道に大きくこだまする。

 

 それが命取りとなった。

 

 断末魔を()(つぶ)すかのように、(すい)(どう)の奥から金切り声がつんざめく。

 硬直が解けたあなたが振り向いた時には、地響きを立てて迫る巨体は目前にあった。

 

 衝撃。

 

 体の中から鈍く硬質な音がいくつも響くのを、あなたは聞いた。

 受け身も取れないまま下水道の壁に叩きつけられ、血混じりの吐瀉物が喉を、口を焼く。覆いの中に溢れたその熱が、滴り落ちて下水に散った。

 

 壁にもたれて崩れ落ち、息もままならず痙攣するあなたを、人喰い豚は覗き込んだ。口の端からはこの肥溜めにあってなお吐き気を催すような腐り澱んだ呼気を漏らし、歪んだ牙には真っ赤な毛束が絡みついて――

 

 

 ()()

 

 

 あなたは気付いた。気付いてしまった。あれは赤いのではない。血に汚れただけで、元は淡い金色をしていたことに。そしてその持ち主が、どのような末路を辿ったのかということに。

 

 暗い臓物の血の赤にまみれた、見覚えのあるリボンが結ばれたままの、少女の、髪。

 

 

 嘘だ。

 

 

 あなたは絶叫した。

 したつもりだった。だが喉から漏れるのは引きつった音ばかりだ。

 

 人喰い豚はその歪なあぎとを開いた。滴る赤に染まった口内を、そしてその赤をもたらしたであろう残骸を、あなたはただ見つめることしかできなかった。

 

 やがて軽く湿った音を立て、あなたの頭蓋は噛み砕かれる。

 それは恐らく、少女が(さい)()に聴いた音と同じものだったことだろう。

 

 


 

 

 少女の赤い髪に、白いリボンはよく映えた。

 

「――……あ」

「ハンターさん? どうしたの?」

 

 突如として凍りついたあなたを見上げ、ロージャは心配そうに首をかしげた。

 

「顔が真っ青よ。だいじょうぶ?」

「……、……ああ。悪い」

 

 あなたはかろうじてそれだけ絞り出すと、その場から足早に去る。医務室に駆け込み、扉に鍵を掛けると、その場にうずくまった。押さえた口の端からこぼれそうになるものを、必死でこらえる。

 

 

 これほどまでにロージャとあの少女を侮辱する行為があろうか。

 己に心底あきれ果てる。

 だが、彼女の髪が、それに映えるリボンが、あの記憶と結び付いた。

 結びつけて、しまった。

 

 


 

 

「おやすみなさい、ハンターさん。明日もよろしくね」

「ああ」

 

 女子の寝室の前で、ノブに手をかけながら、ユーリヤはあなたに手を振った。

 いつもの夜の挨拶である。しかし今日の彼女は、今にも鼻歌を歌い出しそうなほどに上機嫌だった。いつにも増してにこにこと笑っているユーリヤに、あなたは首を傾げた。あの小さな茶会を終え、ここまで一緒に歩いてきたところだが、その間に変わったことなどないように思えたからだ。

 

「何か、いい事があったのか?」

「ふふっ、ハンターさんにはないしょ。……マリーの言ってたとおりね。とってもすてきだったわ」

 

 首を捻るあなたを残し、ユーリヤは寝室へと入っていく。ポケットから見上げる先触れの精霊の生暖かい視線に気づかないまま、あなたもまた医務室へと戻った。

 

 扉を閉じ、鍵を掛ける。金具が擦れる音がやけに大きく響いた。

 開け放ったままの窓から晩夏の風が吹き込み、レースのカーテンを揺らしていた。窓辺に寄れば、日は山の端に隠れ、暮れなずむ空は少しずつ暗さを増していく。

 

 もう、八月も終わる。

 

 ここに来て二カ月半が経つことを自覚して、あなたは小さな驚きを覚えた。

 

 ルーリンツに頼まれて野菜の皮むきや下拵えを手伝い、外の調査のかたわらでハーマンと共に家具や(たて)()の補修を行い、あるいはニルスの調べ物を手伝う。普段から体調を気に掛けてくれるユーリヤのいたわりはこそばゆいながら嬉しいもので、洗濯物の一件からマリーには頭が上がらない。ロージャについては、うまく接することができないなりに、せめて傷つけたくはなかった。

 それから、アレクシス。人ならぬ者でありながら、それ以外はほかの皆と何も変わらない優しい子だと、あなたは今までの付き合いから知っている。

 

 

 今日のことで、たとえ僅かでも、あの子に報いれたのなら嬉しい。

 

 

 皆のために役立つすべを探しては、日々自身の無知と無力さを痛感するばかりだった。確かに役に立てているのだと、卑下する必要はないのだと伝えてくれたユーリヤを、あなたは尊敬している。彼女だけではない。ほかの子供たちも、あなたにとっては(せん)(だつ)である。

 

 人として生きる、ということがどういうものなのかを、皆は教えてくれた。

 もしここに連れて来られなかったら、あなたは終わりのない悪夢をただ繰り返し続けたことだろう。それの行き着く先は、人からかけ離れたものである。

 血の遺志によって変質を繰り返した肉体は、常人の域を越えて久しい。ヤーナムの血はあなたを呪縛し、悪夢はいまだにあなたの後ろから現を眺めている。

 そのような身の上であっても、人として生きられるのだと。――それがたとえ、儚い白昼夢に過ぎないとしても。

 

 あなたは小さく息をつくと、壁に背を預けて座り込み、夢から注射器を取り出す。輸血液で満たされたそれを軽く振りかぶり、太腿に針を突き立てた。

 冷えた感触が皮膚の下に染み込んでいく。それはすぐに痺れるような熱さへと変わり、鼓動に乗って全身へと広がっていった。

 熱に浮かされた息が、口の端からこぼれ落ちた。部屋に漂う清涼な香は意識が快楽に蕩けることを許さず、この行動の悍ましさをまざまざと突きつける。

 

 注射器を夢に片付け、皮膚のすぐ下で這い蠢く快感に意識を委ねたまま、あなたはぼんやりとつま先を眺めた。

 

 どうしようもなく疼くのだ。

 

 変質した肉体すら容易に切り裂く爪を紙一重で避け、ノコギリ鉈で獣の肉を抉る。極限状態の命のやり取りの中で、温かく腥い血をしとどに浴びる。確かに耐え難い痛苦も味わったはずなのに、ふとした瞬間に思い出してしまうのは、あの興奮ばかりである。

 あるいは傷を負った体に、輸血液を打ち込む。痛みに軋む四肢に、生きる実感が満ち足りていくあの快感。

 血の常習を重ねた体は、それ以外に生きている実感を得る方法を持たない。この寄宿学校で生活するようになって二カ月以上経つ、今でさえ。

 

 食事は温かく、美味である。服や体は清潔に保たれ、ハーブのよい香りが染み込んでいる。子供たちはあなたを友と呼び、様々なことを教えてくれた。

 ここには幸福があった。ふとした拍子に恐ろしさを感じるほどの、穏やかな幸福が。

 

 だが、皆から与えられる幸福では、死闘による興奮も、血のもたらす(あらが)い難い多幸感も、そしてそれらが得られないが故の飢えも、埋めることはできない。

 

 

 それで構わない。

 あの子たちが与えてくれるもの血腥い快楽とは無縁である事の、何よりの証なのだから。

 

 

 あなたが顔を上げた時、僅かばかりの残照のほかに光はなかった。

 

 立ち上がり、窓を閉める。頭の疲れは血によって取れ、その血による酔いは僅かな余韻を残して消えていた。

 

 かつてヤーナムでヨセフカに返すためにかき集め、そして結局渡されることなく終わった輸血液は、今の使用頻度であれば一冬は越せるだけの量がある。

 だがこれまでに見つけられた妖精の痕跡はどれも古いものばかりで、文献調査の成果も芳しいとは言えない。

 時間は無駄にできない。

 

 こんな時、あなたは自身が眠らずともよい体になったことに強い安堵を覚える。ユーリヤには心配を掛けてしまっているが、しかし睡眠時間を本を読み込むことに()てられるからだ。

 

 携帯ランタンに火を灯し、あなたは夢から取り出した本を机に積み上げて、一番上の一冊を開いた。

 

 

“ああ、妖精が見えるお嬢さん

 君ももう分かっただろう?

 

 特別な命の時間ってのは

 その人自身の、命の時間だけなのさ

 

 誰だって、自分のものでない

 時間を生きようとすれば

 別の何かに変わっていくのさ”

 

 

 この本を(あらわ)したローアンの学徒は賢明だったのだろう。マリヤ・ウスペンスカヤなるこの人物は、知識の多くを物語に擬態させて残している。

 

 あなたは「特別なもの」の上巻に視線を移した。表紙には箔押しで、太い木の枝に腰掛けた少年らしき人影が描かれている。尋常の者はその正体に気づくことはないだろうが、アレクシスを知るあなたには、その絵が何を描いているのか理解できた。

 マリヤ・ウスペンスカヤ、あるいは彼女と親しい関係にあった人物は、妖精を視認できた。表紙の絵によってその確信が得られたからこそ、あなたは彼女の著作に信を置いている。そして文章の節々に滲む妖精への温かな視線は、親密な関係にあったからこそなのだろう、と。

 

 彼女のような人物がいたというのに、なぜローアンは悪い妖精を解き放つような末路を辿ったのか。

 今日の昼、様子がおかしかった校長の姿が脳裏を過る。あなたを除けばこの寄宿学校で唯一の大人である彼は、その理由を知っているのだろうか。

 

 

 煙に巻かれても追及を続けられるだけの知識は得られた。

 どのように切り出せば、より情報を引き出せるのだろう。

 

 

 ノブを捻る音がして、あなたは思索から顔を上げた。

 

 鍵のかかったノブが数度、金属音を立てる。足音もノックの音もしていなかったということは、おそらく扉の向こうにいるのはアレクシスだろう。

 

「待ってろ。今開ける」

 

 そうして開けた扉の先にいたアレクシスの、どこか所在なさげな姿に、あなたは目を瞬いた。

 

「……用事か?」

 

 言いにくそうに、アレクシスは視線をそらした。それでもあなたの手を取ると、ためらいがちに文字を綴る。

 

 

 “あのね。お昼に、日が落ちたら医務室に来ればいいって言ってたから。”

 “仲直り、できたけれど、おじゃましていい?”

 

 

 昼、とあなたは繰り返す。ポケットから顔を覗かせ、主張するように触角を揺らす先触れの精霊を見て、ようやく何の話か思い至る。

 

「……ああ、あの時の」

 

 得心の声を上げたあなたの前で、アレクシスは肩を落とした。

 

 

 “その、やっぱり迷惑だった?”

 

 

「そんな事はない。それに……」

 

 あなたにとっても、アレクシスの来訪は都合が良かった。

 

「とにかく入れ。それと、これを」

 

 先触れの精霊を、手の上に載せてやる。途端に緊張を解いて表情を緩めたアレクシスを、あなたは部屋に招き入れいた。

 

 机の角を挟んで、いつかの雨の日のように合い向かいに座る。先触れの精霊と戯れるアレクシスを眺めながら、思い起こすのは昼のことである。

 校長の言葉と、脳髄の奥の蠢きがもたらした()()()。妖精は命の時間を用いて過去に(さかのぼ)ることができ、そしてアレクシスは未来から戻ってきた可能性が高い。

 既に平静を取り戻した今、あなたはアレクシスに確認しなければならないことがあった。

 

「……訊きたい事がある」

 

 顔を上げたアレクシスと目が合った瞬間、喉の奥で言葉が詰まったような気がした。

 訊かねばならないことだ。そう分かっていてなお指先が震えるのは、ヤーナムでは感じたことのない恐怖に、体がすくんでいるからだった。

 

 

 この子を傷つけてしまう事が怖い。

 そしてそれ以上に、それによって今の関係が壊れてしまうかもしれない事が、何よりも、恐ろしい。

 

 

 あなたはシャツの上から首元の狩人証に触れた。硬い感触を確かめ、渇いた口から唾を飲み下し、そして、息に音を乗せる。

 

「お前は、未来から戻ってきたんだろう」

 

 アレクシスは動きを止めた。虹彩のない目を見開き、唇のあたりをわななかせて、あなたを見つめている。手元の先触れの精霊が案じるように身を寄せたが、それにさえ反応を見せなかった。

 

(きゅう)(だん)するつもりはない。何があったのかを訊くつもりも。少なくとも今、お前は焦っていない。皆の手伝いのほかは、特に行動を起こしてもいない。お前が未来から戻ってきた原因は解決できたと、そう考えていいのだろうから」

 

 あなたは少し、嘘をついた。

 アレクシスはいつもどこか緊張している。それは、未来から戻ってきた原因を完全に解決できていないからこそなのだろう。あなたはそう確信していた。

 

 人の命の時間を元とする赤い指輪。アレクシスに命の時間を奪われてもいいと考えていたというユーリヤ。子供たちの手の届く場所にある、妖精と命のやり取りについて書かれた本。ハーマンの持つロッブの森へ繋がる扉の鍵と、彼の行動への躊躇いのなさ。子供たちが、どれほど互いのことを大切に思っているのか。

 アレクシスとユーリヤの間で合意があったとしても、ことがことだ。妖精についての知識を持たない皆に詳細を伝えることはないだろう。何よりユーリヤ以外の子供たちは、外の悪い妖精の存在を知らないのだ。

 何が起きたのか、想像に難くない。

 

 そして、この子が果たせたのはあくまで起きたであろう悲劇の回避であって、原因自体は(つぶ)せていない。外にまだ妖精がいるということ自体が証拠である。

 それを責めるような真似だけはしたくなかった。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()何の役にも立たなかったのだろう。そんな中で、この子は自分にできる精一杯をやり遂げたのだ。責めて、いったい何になるというのか。

 

 

「妖精は、人間の命を用いて過去に戻る事ができる。……それは間違いないか」

 

 アレクシスはうつむき、小さく頷いた。目元は強張り、肩は消沈している。あなたにそのつもりがなくとも、この子にとっては今まさに、過去の罪を暴かれているように感じるのだろう。この子は未来から戻ってきた。それはつまり、誰かの願いと命の時間を託された――大切な誰かの命の時間を奪わざるを得なかったということなのだから。

 

「確認したいのは一つだけだ。……悪い妖精は、時間を遡る事ができるのか」

 

 アレクシスは左手を伸ばし、恐る恐るあなたの手に触れた。

 

 

 “私が見た、ロッブの森にいた妖精は、青い指輪と金枝を持ってた。”

 

 

 青い指輪に、金枝。初めて聞く単語を頭の片隅に留め、あなたは手のひらに書かれる言葉に集中する。

 

 

 “あのひとは過去に戻れる。何度もみんなやおじいさんから命の時間を奪ったのは、そのためだと思う。”

 

 

「……、……何度もあった、のか」

 

 

 “繰り返したの。みんなを止められなくて。”

 “たぶん、それはあのひとも同じだと思う。”

 “変えたい過去があって、でもうまくできなくて、それでも諦められないのだと思う。”

 

 

「……そう、か」

 

 あなたはほぞを噛んだ。同時に、今までの探索で出くわさなかったことの幸運を理解する。

 

 一度でも命の時間を奪われれば、たとえ夢に依って死をなかったことにしたとしても、あなたが遭遇地点に戻る頃には妖精は手の届かない過去へと旅立ってしまっているだろう。そして妖精が過去に戻ることを目的としている以上、それ以降に現れる可能性は極めて低い。

 そして妖精が引き起こす過去の改変によって、どのような影響が出るかも分からない。どころか、アレクシスの経験した時間の中であなたが妖精と遭遇していた場合、相手にどれほど手の内が知られているかも知れないのだ。

 

 死を夢としてなかったことにする、という、あなたに許された絶対的な優位性は、妖精には通用しない。

 

 あなたは、人間を一撃で殺害しうる力を持ち、追うことのできない場所へ離脱可能な存在を、一度の攻撃も逃走も許すことなく狩らなければならないのだ。

 

 

 “だけど、”

 

 

 アレクシスは指を止めた。言葉を選びあぐねるように、幼い指先があなたの手のひらをなぞる。やがて、ためらいがちに動かし始めた。

 

 

 “学校の外で、生き物の命の時間を奪っている妖精は、あのひとじゃない、かもしれない。”

 “過去を変えたいなら、あのひとには人の命の時間を奪う理由はある。”

 “でも、ほかの動物の命の時間を奪う理由は、どこにもないんだよ。動物や植物の命の時間では、過去に戻れないから。”

 

 

 短く吸った息が音を立てた。茫洋とした推測に過ぎなかったはずのそれが急速に輪郭を得て、のしかかる。

 

「……お前の見た妖精のほかに、別の妖精がいる可能性がある、のか」

 

 アレクシスは頷いた。

 

 

 “ロッブの森には山小屋があって、そこにおじいさんと白猫がいたのだけど、そのおじいさんの手帳にはね、妖精がまだ一人残ってるって。”

 “今でも外の生き物の命の時間を奪ってる妖精がいるのだと思う。ただそれは、私が見たあのひととは別、かもしれない。”

 “はっきりしたことが言えなくてごめんなさい。校長先生なら、なにか知ってるかもしれないけれど。”

 

 

 ロッブの森の山小屋に、直近で人が住んでいる様子はなかった。その老人と猫はこれから現れるのか。それとも、何らかの要因によって既に妖精と遭遇し、死亡したのか。

 

「追加で訊く。お前が妖精を見た日の、日付は分かるか」

 

 

 “11月3日。今年の。”

 

 

 今からおよそ二カ月後。ほかに悪い妖精がいるとしても、過去を変えうる妖精は逃がすわけにいかない。

 あなたが意識を引き締める前で、アレクシスは震える指を動かした。

 

 

 “ねえ、ハンター。直接妖精に会ってどうにかしよう、とか、考えてないよね。”

 

 

「……え?」

 

 直接対峙できなければ狩りようがないのに、なにを当たり前のことを、とあなたは呆気に取られた。

 ぽかんと見つめ返すあなたを見て何を思ったのか、アレクシスは何度も首を横に振る。

 

 

 “あのひとはきっと諦めないよ。なにを言っても、響かないと思う。やり過ごせるならそっちの方がいい。”

 “無茶はしないで。おねがい。”

 

 

 その言葉の意味を、しばらく考えた。そうして、お互いの認識の間に刻まれた断絶の深さを知る。

 

 この子はそもそも、自分から他者に暴力をふるう、という行為自体を思いつけないのだ。

 

「……分かった。大丈夫だ。無理はしない」

 

 あなたの返答に、アレクシスは強い怯えの中で、少しだけ肩から力を抜いた。その安堵は、ロッブの森の妖精によってあなたが害される心配がなくなったことへのものだろう。かつて刃物を喉に突きつけられ恫喝された経験があってなお、あなたが暴力をふるう側だとは決して考えていないのだろう。

 

 この寄宿学校において、ほかの誰かを叩く者など皆無である。大切な人々を奪い去る存在への対抗だとしても、その発想が浮かばなくてもおかしくはない。

 

 いや、あるいは、とあなたは思い直す。

 

 大切な誰かの命を自らの手で奪ってしまった経験があるからこそ、その恐ろしさが身に染みているからこそ、この子は他者を傷つけるような選択肢を意識から除外しているのかもしれない、と。

 

 あなたの手を握るアレクシスの手は柔らかい。誰かを傷つけることなど、とてもできないような小さな手のひらだ。その震える小さな手が、あなたの節ばった手のひらに弱々しく字を書く。

 

 

 “あの時  ハンターがいてくれたら、あんなことにはならなかったのかな”

 

 

 あの時、いてくれたら。それはつまり、皆の危機に居合わせなかったということだ。

 手の内が見られている可能性が低いことへの安堵以上に、当時の自分自身の不甲斐なさに、あなたは奥歯を噛み締めた。

 

「その時の私は何をしていたんだ。皆を危険に晒すなど……」

 

 アレクシスはきょとんと、まるでそれまでの怯えさえ吹っ飛んでしまったように目を丸くした。小首を傾げ、困惑を目元に浮かべて、あなたの手に言葉を書く。

 

 

 “えっとね、いなかった。ハンターは学校にいなかったよ。”

 

 

 あなたはまず、自分の読み間違いを疑った。

 

「いなかった?」

 

 繰り返したのも、否定されると思ってのことだ。だがアレクシスは頷いた。

 

「……事が起こる前に、寄宿学校を離れてしまったという意味か?」

 

 そういうことなら(ごう)(はら)だがあり得るだろうという納得さえ、アレクシスはすぐに首を振って否定した。

 

 

 “たぶんだけど、そもそもいなかったの。”

 “私も、十月より前のことはあんまり知らないのだけれど。でもいたならどこかで話題に出てたと思うし、それに校長先生の日記にも書いてなかったもの。”

 “私がはじめてハンターを見たのは、指輪をユーリヤに返してからだよ。門の外に倒れてるのを見つけたの。”

 “たぶん、ロッブの森の妖精が過去を変えた、その影響なのだと思う。”

 “そのあたりはよく分からない。ごめんなさい。”

 

 

 あなたは絶句したまま、アレクシスの書く言葉を見つめていた。

 

 この医務室で目覚める前のことは、あなたもよく覚えている。疎らな林の中で倒れたことも、気絶する間際に、この子と同じ色の光を見たことも。

 あなたは、あの時見た黄金色を、アレクシスだと思っていた。この子が見つけて、ここまで運んできたのだと。

 だからこそ理解ができない。

 

 

 あれは、アレクシスではないのか?

 なら誰が己をこの寄宿学校まで運んだ?

 そもそもいなかったというのはどういう事だ。妖精が過去を変えた影響というなら、ここに辿り着けなかったそれまでと、辿り着く事ができた今回とで、何が変ったというのだ。

 この子以外の別の妖精が、己を助ける理由は、何だ。

 

 

 手のひらを軽くつつかれて、あなたは我に返った。

 アレクシスは心配そうにあなたを見上げている。

 

「あ、いや、ええと……」

 

 言い訳も思いつけないあなたの手を、アレクシスは弱々しく握りしめた。

 

 

 “ごめんなさい。変なこと言って。”

 “気にしないで。今、ハンターがいてくれるのがうれしいもの。”

 “どこにもいかないでね。みんなのこと、よろしくね。”

 

 

 あなたは息を呑み、そして目を伏せた。

 

 あなたは嘘をついている。隠し事をしている。そしてそれを、打ち明けることができないでいる。

 遠くないうちに、あの雨の日に交わした約束を破るのだと。それだけのことが、言えずにいる。

 

 答えられない代わりに手を握り返すと、アレクシスは目元を緩めた。

 

 夜は少しずつ深まり、時は決して止まらない。

 そして、また朝が来る。

 

 


 

 

 ()は見ていた。だから知っている。

 

 だが同時に、あれが意味するところなど、どうでもよいと思っていた。いいや、今でこそあなたに少しばかりの融通をきかせているが、当時はそもそも外界にさして興味を持っていなかった。

 たとえあなたがヤーナムの外に出たとしても、死ねば夢に引き込んでまた悪夢へといざない、狩りの全うを促す。かつてのあなたが月の上位者へ呼び掛けた通りに処理するつもりしかなかったのだ。

 

 だから、私が知っているのは何が起きたのかだけ。どのような意志の元に為されたのかは、ほんのひとかけらの手掛かりのほかは何も判明していない。

 

「……詳しく教えてくれ」

 

 あの日。あなたが林の中で倒れた時、その近くには白い亡霊がいた。

 曖昧な輪郭を大気に滲ませたその亡霊は、ヤーナムの地下遺跡をさまよう巡礼者のようにも見えた。胸の高さに掲げられた手には奇妙に捻れた金の短杖を携え、硬く閉ざされた目元は紺青の光に覆われていた。

 亡霊はおぼつかない足取りで、しかし確実にあなたを目指して歩いていた。その足に触れた下草はみるみるうちに白く枯れ、足跡を転々と残していく。

 

 だが唐突に、まるであなたを(かば)うように、黄金色の人影が現れたのだ。

 

 それは倒れたあなたを一瞥すると、亡霊へと右手を伸ばし、金の短杖に触れた。

 途端、目を見開いた亡霊は光となって散り、それの右手へと収束する。中指の付け根で赤い光が不安定に揺らめき、震え、そしてそれの右手ごと破裂した。

 

 砕けた右手をかばいながら、それは親しげにあなたの頭を小突いた。それから落ちていた輸血液を拾い、慣れない手つきであなたの太腿に打ち込む。

 

 呼吸が落ち着いたあなたを背負い、それは歩き始めた。途中何度も崩れ落ちそうになり、そのたびにあなたを背負い直す。右手の損傷は少しずつ広がりを見せ、日が暮れる頃には肘から先が、夜が明ける頃には肩の付け根までが崩れてなくなっていた。

 

 やがてこの寄宿学校に辿り着き、あなたを門のそばに転がし、塀にもたれて座り込んだ。その時にはもう、右半身は失われていた。最期に門を軽く揺すり、そのまま春の陽射しのなかで、淡雪が溶けるように消えてしまった。

 アレクシスが門の前に立ったのは、それが消えた後のことだ。

 

 ただ、消える直前に、それはあなたの手のひらに言葉を残した。残った左手で、おぼつかない手つきで、しかしどこか慣れた様子で。

 

 ――“後は任せたよ、ハンター。”と。



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花の名前-1

5/15:修正


 もし、あの人がここにいたら。

 あんなものになり果てることもなく、人のままだったら。

 今もみんなと一緒に笑っていたのだろうか。

 日々の移ろいを見つけて、その幸せをみんなと分かち合って、笑って毎日を過ごしていたのだろうか。

 

 あれからずっと、そんなことを考えている。

 

 

 

 

 

「あ、アレクシス」

 

 杖をつく音が止まって、教室の入り口からニルスとロージャが顔を覗かせた。

 

 私は物思いから浮かび上がって、ぼんやりと視線をそちらに向ける。頭の上のエビーが、代わりに触角を振って応えてくれた。

 ロージャはニルスに付き添われながらゆっくりと歩いて、私の隣に腰を下ろした。それから正面を向いて、はにかんで笑う。

 

「また見てたのね。アレクシスが手伝ってくれたおかげで、今まででいちばんうまく描けた自信があるのよ」

 

 第二教室の後ろの黒板には、ロージャが描いたみんなの似顔絵が飾ってある。ユーリヤ。ルーリンツ。ハーマン。マリー。ニルス。それから校長先生に、ハンター。それぞれの肖像画と、それからロージャが練習代わりに描いた自画像。絵を見たみんなはとても喜んでいて、数日が経つ今でも、よく誰かが絵を眺めに来るのを見かける。

 

 

 “それならお手伝いしたかいがあったよ。でも、ほとんどロージャのがんばりの結果だよ。”

 

 

 私が手伝ったことなんて、形を取ったり陰影をつけたり、絵を描く時のちょっとしたこつを教えただけだ。

 

 

 “私ね、ロージャの絵がすごく好き。”

 “見てると温かい気持ちになれるの。”

 

 

 机に置きっぱなしだった小さな黒板にそう書くと、ロージャはくすぐったそうな笑顔を深めた。

 

「えへへ、ありがと。……うーん、でもなぁ……」

 

 ロージャはにこにこ顔から一転、頬をぷくっとふくらませた。ロージャの隣に立ったままのニルスが、ちいさく首をかしげる。

 

「どうしたんだい?」

「アレクシスのことも、描いてあげたかったのに」

 

 ニルスは困ったように私のいるあたりを見た。もし私に体があったら、きっと顔を見合わせることになっていただろう。ニルスの目は少しさまよった後、頭の上のエビーに合わせられた。

 

「でも、アレクシスは幽霊みたいなもので、僕たちには見えないから……」

「分かってるけど、それでも描きたかったなって」

 

 

 “気持ちだけで嬉しいよ。気にしないで。”

 

 

 頬をしぼませて、ロージャは首を振った。

 

「そういうわけにはいかないわ。アレクシスにだっていつも助けてもらってるのに、私、なにも返せてないもの」

 

 そこで(そう)(ごう)を崩し、私のいるあたりを見つめて微笑んだ。

 

「それに私、アレクシスよりお姉さんなんだから。ね?」

 

 ロージャが、お姉さんなんだから、と背伸びするようになったのは、実はここ一カ月くらいのことだ。

 

 

 ――ねえねえアレクシス。ユーリヤから聞いたのだけど、私より年下ってほんと?

 ――じゃあ私、アレクシスよりお姉さんなのね。……お姉さん、お姉さんかぁ……えへへ。

 ――よし、分からないことがあったらなんでも聞いてね。困ったことがあったらすぐに言って? 私、力になるから!

 

 

 そんなことがあってから、すっかりお姉さんとして、私のことを気づかってくれている。

 こうやって年下として扱われるのは、実はなんだか落ち着かない。私にとっては、むしろロージャの方が年下というか、守らなくちゃいけない存在だって印象が強いからだと思う。そんなことを言ったら、ロージャ以外のほかのみんなに対してもそうなのだけれど。

 

 優しい笑顔でやりとりを眺めていたニルスを、ロージャはふと見上げた。

 

「そうだ。ねえニルス、メガネ貸して」

「え、どうして?」

「ちょっと実験」

 

 受け取ったメガネを目の高さに掲げて、ロージャはむっと細めた目で私のいるあたりを見つめた。

 

「……うーん、見えない」

 

 思わずといった様子でニルスが吹き出した。

 

「さすがにそれは無理だよ。メガネで見えるなら、僕にだって見えてるはずだからね」

「そっか……すこしざんねん」

 

 少しどころじゃなくとっても残念そうに、ロージャはニルスにメガネを返した。

 

 私の頭の上で、エビーがぺちぺちと尾を振った。

 

 

  きいてみたら?

  あのひとは えごころとかないから だめだけど

  こうちょうせんせいか しろいかみのこ

  ふたりは むかしのあなたを しってるのよね?

 

 

 昔の……あ、それなら。

 

 

 “それなら、校長室の上の物置に、私が赤ん坊だったころの写真があるよ。”

 “ほんとに赤ん坊だから、あんまり参考にはならないかもしれないけれど。”

 

 

「ほんと!?」

「それって……」

 

 ぱっと表情を輝かせたロージャの隣で、ニルスは目を伏せた。

 

 

 “ニルス、なにか心配ごと?”

 “鍵は今はかかってないって聞いてるけど。”

 

 

 危ないからと鍵がかかっていた物置も、ここ最近は開けっぱなしだ。ハーマンたちが空いた時間に、壊れた家具を少しずつ修理してる関係だと聞いている。もうみんな分別のつく年頃だから、大丈夫だろうってことになったらしい。

 

「……ううん。気にしないで。なんでもない。アレクシスこそ平気かい?」

 

 

 “? うん。”

 

 

「なら、いいんだけど……」

「よいしょっ」

 

 歯切れの悪いニルスを横目に、ロージャは杖をついて立ち上がる。

 

「ねえねえ、さっそく見にいかない?」

「え、でも、二階だよ?」

 

 

 “なんだったら取ってくるけど。”

 

 

「だいじょうぶよ。痛いけど、でもだからって動かないと動けなくなるもの。二人とも、行こ?」

 

 そう言って、ロージャはわくわくと教室を出て行く。

 

 そのあとを追いかけようとニルスは足を浮かせ、だけど思い出したように私の方へと振り向いた。

 

「アレクシス。僕もね、君になにかお返しできないかなって、ずっと考えてるんだ」

 

 

 “お返しなんて。してもらえるようなこと、私はなにもしてないよ。”

 

 

「そんなことない。食事の配膳も、掃除も、それから洗濯も、いつも手伝ってくれてるじゃないか。染め物の時だって率先して動いてくれたし、図書室の虫干しだって、アレクシスがいてくれたから、いつもよりずっと早く終わったんだ。ルーリンツたちとも相談して、いろいろ考えてるところなんだ。楽しみにしててほしい」

 

 それだけ言って、ニルスは小走りでロージャのあとを追いかけていく。

 

 ……どうしよう。困ったな。本当に、お返ししてもらえるようなことなんて、できてないのに。

 

 ニルスも私に優しい。それはたぶん、私のことを妖精じゃなくて幽霊だと思ってるからだ。ユーリヤが元気になったからなのか、あの時みたいにはっきりと妖精を嫌うことはないけれど、それでもロージャが妖精の出てくる本を読んでいるとあまりいい顔をしない。

 

 もし私が妖精だったのだとニルスが知ったら、どうなるのだろう。変わらず優しくしてくれるのか、それとも。

 

 

 ――ああ、やめておきなよ、ロージャ。

 ――妖精は……――

 

 

  どうしたの?

  ふたりとも いってしまうわ

 

 

 エビーに急かされて、私も書きかけた黒板とチョークを置いて廊下に出る。追いついた時には、二人は階段を昇り始めたところだった。

 

「すべりやすいから気をつけて」

「うん、だいじょうぶ」

 

 ロージャはよいしょ、よいしょと掛け声をあげながら、手すりを掴んで一段一段ゆっくりと昇る。右足が軸になる時は少しよろめくこともあって、すぐにニルスが支えてあげていた。私はただ、それを見ているだけだ。

 

 体がない私には、ロージャを支えてあげることはできない。

 それだけじゃない。私にできることなんて本当に少なくて、お返ししたい、なんて言ってもらえるほど役に立ってなんてないのだ。

 それに。

 

「……あ、ハンターさん。お疲れさま」

 

 ニルスの声につられて顔を上げる。手すりに手を掛けて、ハンターがこちらを見下ろしていた。二階の図書室から来たのか、腕には本が抱えられている。

 

 ハンターは引き結んだ唇をほどいて、いつもより幾分低い声を出した。

 

「手伝いは必要か」

「だいじょうぶよ、気にしないで」

 

 ニルスが答えるより先に、ロージャが首を横に振った。頷いて、ハンターは足早にロージャとすれ違う。

 

「……? 調子、悪いのかな」

 

 背中を見送ってひとりごちるニルスの横で、ロージャは急くように杖を踊り場について足を上げて――ついたはずの杖ががたんと滑った。

 

「きゃ……!」

 

 ロージャの体がぐらりと傾ぐ。

 

「え?」

 

 振り向くニルスの横をすり抜け、ロージャの体は階下へと落ちていく。

 

 私はとっさに手を伸ばす。ロージャの手首に届いたはずの指先は、何も掴めないまますり抜ける。ロージャの体が落ちていくのを、ただ見ているしか――

 

「っ、ロージャ!!」

 

 ニルスの叫びを追って重い音が響き、杖が転がる乾いた音が鳴った。

 

 小さな呻き声で、私は我に返った。跳ぶように階段を降りるニルスを慌てて追いかけて、二人のところに駆け寄る。

 

「ロージャ、大丈夫!? ハンターさんも……!」

 

 放り出した本に囲まれて、ロージャの下敷きになるように、ハンターが倒れていた。ハンターは手を伸ばして、びっくりして固まったままのロージャの肩に添える。

 

()()は、ないか」

「え、えっと、う、うん」

 

 ゆっくりと、ハンターはロージャを抱えて上体を起こす。隣にひざをついていたニルスが、ばたばたとロージャの体を検めた。

 

「大丈夫? 本当に痛いところはない? 足も……!」

「えっと、ほんとにだいじょうぶよ。ハンターさんが、受け止めてくれたから……」

「……その、怪我は」

 

 低い声が二人の間に割って入った。

 ハンターの瞳はじっとロージャの右足に注がれていた。裾がめくれて露わになったすねには、包帯が巻かれている。朝には取り替えているはずなのに、もううっすらと鮮やかな血がにじみ始めていた。

 

「あ、えっと、気にしないで。元からこうなの」

 

 言いながら、ロージャはハンターから降りて、スカートの裾を直した。その隣でニルスが口を開く。

 

「ロージャの足の怪我は、ずっと血が止まらなくてさ。ユーリヤが元気になってからは、僕よりずっと上手く手当てしてくれるから、だんだん小さくなってきてはいるんだけど……」

「でも、血が止まらないっていっても、ほんとにほんの少しだけよ。たいしたことないから気にしないで」

 

 二人の説明を聞いても、ハンターは眉根を寄せて、じっと包帯が巻かれている部分を見つめている。目を伏せ、悩むように唇を噛みしめて、やがてロージャの目を見つめて言った。

 

「それは、()に負わされた?」

「なに、って……」

「普通の怪我ではないはずだ」

 

 息をのむ音は、はたして誰がこぼしたものだっただろう。

 

「心当たりがあるんだな?」

 

 みるみるうちに顔から血の気が引いていくロージャの隣で、ニルスは落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。

 

「何にって……誰かがロージャに怪我をさせたって、こと、なら……」

「違う。誰かのせいだと言いたいのではないんだ。……メンシスの悪夢の外縁と同じだ。あれは遺志だったが……」

 

 ひそめられた声はかろうじて聞こえたものの、その意味はよく分からない。

 

「……ハンターさんは、あれが、なにか知ってるの?」

 絞り出すような声は、普段のロージャとはまるで違う。

 ハンターは立ち上がり、飛んでしまった杖を拾ってロージャへと差し出した。

 

「似たようなものを知っているが、それだけでは確かな事は言えない。だから詳しく話を聞かせてほしい」

 

 

 

 

 

 騒ぎに集まってきたみんなに何が起きたのかを説明して、ハンターの背中の手当て(本人はいらないって言ってたけれど、ユーリヤに押し負けて打ち身の薬を塗ってもらっていた)を受けたあと。

 

「……今年の冬にね、ニルスが熱を出したことがあったの。何日もずっと熱が下がらなくて、うなされてて、私、すごく心配だった。そんな時にね、窓の外、桟橋に、赤い光を見つけたの」

 

 応接間に場所を移し、ソファに浅く座ったロージャは、ぽつぽつと、言葉を選んでいく。

 隣に座ったニルスは心配そうな表情を崩さないまま、ずっとロージャの手を握って離さない。その目に悔しさが滲んでいるのは、見間違いではないのだろう。

 

「赤い光は妖精さんの指輪の光よ。本に書いてあったもの。だから私、妖精さんにお願いしようと思ったの。ニルスの病気を治してくださいって。それで、裏口から出て、お祈りの川のところまで行ったの。冬の嵐で、すごい雨と風だった。そしたら……」

 

 ロージャはうつむく。やがて細い声が、唇の端から漏れた。

 

「……私、よくないものを見たわ。だからきっと、足がずっと痛いままなの。夜になると、夢の中で誰かが怪我をなでて、それが痛くて……」

 

 がたんと音を立てて、ニルスが立ち上がった。

 

「そんな、そんなこと、一つも言ってなかったじゃないか。どうして……」

「だって、ニルスに、心配かけたく、なくて……」

 

 ロージャの声はどんどん湿り気を帯びていく。唇を噛んだニルスの肩を軽く叩いてなだめ、ハンターは静かに問う。

 

「その、よくないものの姿は分かるか」

「……わからないの。どう言えば伝わるのか、分からない。うまく言えないの」

 

 うつむいたロージャは、首を横に振った。

 

「すごくこわいものだった。それしか、分からないの……」

 

 ハンターは目を閉じて、しばらくなにか考えているようだった。じきにまぶたを開けて、私たちの顔を順々に見渡す。

 

「悪かった。嫌な事を思い出させた。……グレイブズに少し話を聞いてくる。ここで待っていてくれ」

 

 そう言い残して、ハンターは足早に応接室から出て行く。私もまた、ソファから立ち上がって部屋を出た。

 

「……アレクシス? どこに……」

 

 背中越しに聞こえたニルスの声に、応えられないことを心の中で謝って、ハンターとは反対の方へ向かう。

 

 

  まってなくて いいの?

 

 

 空中に“うん”とだけ書いて、私は階段を上がる。女子の寝室の前に置かれた写真立てを、手に意識を込めて持ち上げた。

 

 重さも何も感じられないはずなのに、手にずしりと負荷がかかったような気がした。

 

 ロージャの怪我のこと、ハンターはどうにかできるのだろうか。

 似たようなものに心当たりがある、とは言っていた。それはたぶん、怪我そのものじゃなくて、毎晩ロージャを苦しめているものについてなのだろう。

 

 

  あれくしす だいじょうぶ?

  さっきから すごくつらそうよ

 

 

 ぺち、とエビーの尾が私の頭を軽く叩いた。そのちいさな刺激で、私は我に返る。

 とにかく考えるのは後だ。今は知ってることをハンターに伝えなくちゃ。

 

 重い足を引きずるようにしてたどり着いた校長室の扉は、開けっ放しになっていた。扉の陰に隠れて、そっと中の様子を窺う。

 

「……以上が、ロージャから聞いた話だ」

 

 うなだれた校長先生に向けられるハンターの声は低い。

 

「かつてお前は、妖精は止まった時間に棲まい、命の時間を奪うと言っていたな。ごく(わず)かではあるが、ロージャの怪我からは生きる力とでもいうべきものが漏れ出している。あれでは治るものも治らないだろう。……心当たりはあるか」

 

 校長先生の枯れた指の隙間から、細く息の音が漏れた。それはだんだん引きつり、そして笑い声に変った。

 

「……ああ。これが、愚か者への、罰か」

 

 からからに乾いた声で、校長先生は笑う。

 

「ロージャとアレクシスを救う手段も知っている。後を託せる誠実な若者もいる。だというのに、先送りにしてきた。……まだ、もう少し、あの子たちの先を見たい、などと」

「何を……」

 

 顔を覆っていた校長先生の手が、ぼとりと膝の上に落ちる。あらわになった白く濁った目は、ぼんやりと私のいる場所を見つめていた。

 

「アレクシス。こちらに来なさい」

 

 弾かれるようにハンターは振り向き、私を見て目を見開いた。

 

「お前、聞いて……!」

 

 校長先生は引き出しに鍵を差し込んだ。震える手で開けて、中に入っていたものを胸の高さに掲げる。

 

 それを見た瞬間、頭が真っ白になった。

 

 足元でがたんと大きな音がして、写真立てを落としてしまったことを知る。写真の中のあの人は、ただ微笑んでこちらを見つめている。

 

 

  おちついて

  どうしたの

 

 

「ユーリヤに指輪を返したお前に、このような頼みをすることがどれほど残酷な真似か、分かっておるつもりじゃ。だがこれ以外にないのだ。あの娘を救う方法も、私が罪を償う手段も」

 

 いつかのように壊れてしまっていればいいのに、どこも欠けたところのない輪が、じっと私を見つめていた。

 

 金枝。

 生きている命に根を張って、命の時間を奪い、枯らすもの。

 

「アレクシス。……いいや、金枝を持たぬ妖精よ。私の命の時間を奪い、指輪として妖精へと戻り、そしてどうかロージャを助けておくれ。あの嵐の夜に、あの娘がひどい怪我などしないように」

 

 そう吐き出す校長先生の姿を、私は知っている。

 だって、見たことがあるから。一度じゃない。何度も。

 

 

 ――そうだ、妖精よ、命の時間を喰らうがよい……そしてどうか、計らっておくれ。あの娘が、ロージャが、傷つかぬように。

 

 

 ぐるぐると視界が揺れる。

 校長先生の命の時間を奪う、なんて。

 

 でもロージャはずっと苦しんでいる。それを解決する力がすぐ目の前にあるのに、見て見ぬふりをするのは正しいのか。

 そんなことをすれば校長先生は、あの時のユーリヤみたいになってしまう。そしたらまた、みんなは外に出てしまうんじゃないのか。外に出て、また、命の時間を、あの金色の手が。

 

 

 ――あなた、動いてはだめよ。

 ――そのまま見ているの。

 ――あの娘たちの命の時間は、もう、あなたのものではないのよ。

 

 

「頼む……!」

 

 弾かれるように私はその場から飛び出した。ハンターの呼び止める声が聞こえても足は止められない。

 

 どうすればいい。

 どうするのがいちばん正しい。

 ロージャの足のことから、ずっと目を背けてきた。私はもう妖精じゃない、できることはなにもないって。

 

 けれど校長先生の望む通りに、妖精に戻れば、外に出ようとしたロージャを止められる。二回、違う手段で止めたのだ。また同じことをすればいい。

 

 それで、また、繰り返すのか?

 

 あの時、ユーリヤにみんなを止めてとお願いされたのに、私は医務室に寝かされた動かないユーリヤがショックで、同時に、私にならどうにかできるかも、なんて思い上がった。みんながユーリヤのための大きな命を探しているなら、私もきっと役に立てる、なんて。

 

 私は、なにも理解していなかった。

 

 なくして困ってるみたいだから、眼鏡を探して返した。それがニルスを奥に進ませた。

 

 

 ――大丈夫、すぐに戻るから。それに、帰り道に迷ったら大変だからね。ロージャにはここで呼びかけてほしいんだ。

 

 

 ハーマンならきっと何とかしてくれる。なにも考えずに人任せにして、松明に火を着けた。

 

 

 ――おおい、こっちだ! 悪い妖精! ここにいるぞ! 持っていけ、僕の命の時間を!

 

 

 マリーの髪を撫で、ロージャのかじかんだ両手を包む手のひらの優しさはあまりにおぞましかった。なのに私は動けなかった。友達が、目の前で、命の時間を奪われていったというのに。

 

 

 ――ああ、だめ……ロージャ、逃げて……

 ――寒くて、痛いよ……助けて、マリー……妖精さん……

 

 

 そして、ルーリンツに全てを背負わせてしまった。私がなにもしなければ。いいや、私がいなければ、みんなが外に出ることはなかったのに。

 

 

 ――……ごめんよ、ユーリヤ……いいお兄さんになれなかったよ……

 

 

 考えて、考えて、何度も何度も考えた。鍵を捨てるだけじゃ足りなかった。ニルスに外のことが書いてある本を渡して、ヌーをお祈りの川に流した。

 

 どれほど考えても、状況は変らずにただ繰り返すばかりだった。

 なにを選んでもなにもできなかった。取り返しがついたところで打開なんてできなかった。

 打開するどころか、もっとひどいことにしか、ならなくて。

 

 

 ――ありがとう、妖精さん。みんなをよろしくね。……あなたみたいな、いい妖精さんになりたかったな……

 

 

 ぜんぶ、私のせいだ。

 

 私がユーリヤの時間を奪ったせいだった。

 そのせいでみんなを苦しませてしまった。何度も、何度も。なかったことになったとしても、全部、私が。

 

 だから私がいなくなればいいんだって分かった時は、心の底から安心した。ユーリヤから奪ってしまった命の時間を、あるべき場所に返せばいいんだって。

 それで話は終わりだった。終わりだったはずだ。再会した時、ユーリヤだってお礼を言ってくれた。もう二度と、()()がみんなを傷つけることはない。みんなが妖精の力を頼るために外に出ることはない。

 

 ユーリヤが元気になって、誰も欠けることなくみんなで笑い合っていて、それで良かったはずなんだ。

 ロージャの足のことも、あの人のことも、外のことも。

 なにも解決できていないことから目をそらしたまま、そう信じようとした。

 

 

 

 飛び出した裏庭はただ静かだった。

 

 よろめく足で桟橋の先まで歩く。ひざを折って覗き込んだ川面は陽射しにきらめいて、山間から谷の向こうへと、ずっと流れ続けていた。

 

 頭の上で、載せたままのエビーが身じろぎをした。なにか伝えようと銀の靄が揺れて、それは言葉のかたちを取れずに消えていく。ただそれでも、私を案じてくれていることは分かった。

 その気持ちが、どうしようもなく、ただ、苦しい。

 

 選択が、怖い。

 何かを自分で考えて選ぶことが。

 そのせいで、みんなをまた苦しませることが。

 

 考えはどろどろとまとまらなくて、のどの奥から今にもあふれてしまいそうだった。

 

 分からない。

 

 どうすればいいのか。何が正解なのか。何を選べば、みんなのためになるのか。

 何度も何度も繰り返した中で、私が選びとれた正解はたったひとつだけだ。また間違えて、みんなを傷つけたら。

 

「……見つけた」

 

 背後で軽い足音と、杖が地面を突く音がした。それだけで胸に鋭い痛みが走って、じわりと視界がにじむ。

 

「アレクシス。ここにいたのね」

 

 振り返った先にいたニルスとロージャは、ゆっくりと歩いてくる。そのまま動けない私の隣に腰を下ろし、持っていた小さな黒板とチョークを私の前に置いた。

 

 ニルスは唇を引き結んで、まっすぐに私がいる当たりを見つめた。

 

「あのさ。僕たち、聞いていたんだ。アレクシスはこっちに気づかなかったみたいだけど、図書室の棚に隠れてハンターさんたちの話を聞いてたんだよ。ロージャの怪我のことも……アレクシスが妖精だってことも。校長先生の命の時間があれば、ロージャの怪我をなかったことにできるってことも」

 

 頭を殴られるのは、こんな衝撃なのだろうか。

 ないはずの心臓が割れそうなほど跳ねて、頭の中が真っ白になる。細く潰れるような奇妙な音が耳に届いて、しばらくしてから口の端から漏れだした声とも呼べないような音だと悟る。

 

 ロージャはそっと、右足の怪我に手を重ねた。

 

「アレクシスって、妖精さんだったのね。ユーリヤは違うって言ってたから、幽霊とか、そういうものだと思ってた」

「ユーリヤがぼかしたのは、僕が妖精のことを良く思ってないからだと思う。……もし最初に知ってたら、きっとアレクシスにつらく当たってしまってた。君がすごく優しい子だって、誰かを傷つけるような人じゃないって、知ろうともしなかっただろうから。ごめん」

 

 謝ることなんてない。

 それだけが頭に浮かんで、伝えることもできずに消えていく。

 

「……私ね、ずっと、妖精さんがいたらって思ってた。ユーリヤがよく話してくれる、いたずら好きで友達思いの、とっても優しい妖精さんがいたら、きっと毎日がもっと楽しくなるんだろうなって。……それに、あの本にあったみたいに、もしみんなになにかあっても、助けてくれたらいいなって」

 

 ロージャは深く深く息を吐いた。そうして、私の目をまっすぐに見つめる。

 

「でもね。私は、私を助けるために、校長先生がいなくなるのも、アレクシスが苦しい思いをするのも、いやなの」

 

 その言葉の意味が分からなくて、私はぽかんとロージャを見つめ返した。

 布に落ちた水滴が広がるように、じわじわと、その意味が染みこんでくる。

 だって、でも、それって。

 

「ハンターさん、校長先生に怒ってたわ。飛び出す直前、アレクシスが泣いてたって。あの子が泣き出すくらいつらいことを、どうしてさせようとするんだって。……いいのよ。つらいことを、無理にしようとしなくていいの」

 

 手を伸ばし、意識を込めて、チョークを取る。震える手で書いた字はがたがたと奇妙にゆがんでいた。

 

 

 “だけど、それじゃ ロージャの足が”

 

 

「大丈夫。私、がまんできるわ。痛いけど、でも、命にかかわることではないもの。校長先生やアレクシスがいなくなったり、苦しい思いをすることにくらべたら、ずっといい」

 

 嘘だ。

 毎晩痛いはずだ。杖をつかないと歩けないほどのはずだ。なかったことになった時間の中で、校長先生に宛てられた手紙にはそう書いてあった。

 

 なのにロージャはまるでそんなことないっていうような、ほっとするような優しい笑顔で、私のことを見つめている。

 

「それに私、ニルスと約束してるもの。ニルスは私の足を絶対に治してみせるって、言ってたもの」

 

 ニルスの目元が、どこか苦しそうに歪んだ。それでも笑顔を作って、うなずいてみせる。

 ロージャの腕が私の胴に回され、ぞわりとした感触が体に、そして重なった頬に走った。顔を離し、ロージャは優しく笑う。

 

「だからね、私はだいじょうぶ。どうか、ほかの誰かのためにって、つらい気持ちを飲み込まないで」

 

 つらい、なんて、こと。

 だいじょうぶって伝えなくちゃ。私のことなんて気にしないでって。

 私はみんなの役に立たなくちゃ。置いていくみんなに遺せるものなんてそれしかないのに。

 わがままなんて言ってはだめだ。もう、時間だって、あまり残ってないのに。

 

 でも。だけど。

 妖精に戻って、それで。

 

 

 ――ああ、やめておきなよ、ロージャ。

 ――妖精は、不幸を運んでくるんだ。

 

 

 “ロージャ”

 “私   どうしたらいいの?”

 

 

 手の中でチョークが折れた。

 真っ二つになった半分は、ころころと転がって桟橋から落ちた。せせらぎの中に小さな水音が響いて、そして消える。

 

「だいじょうぶよ。アレクシス、だいじょうぶ……」

 

 エビーがいるから首を振っているのは伝わっているはずなのに、ロージャはそう繰り返すばかりだ。そんなことないって分かってるのに、何を言えばロージャを止められるのか、分からない。

 

 結局、私は、なにも――

 

 慌ただしく廊下を走る足音が裏口から飛び出した。

 私たちの目がそっちを向く中で、走ってきたハンターはひざに手をついて息を落ち着かせてから、ロージャの顔を見つめた。

 

「ロージャ。その怪我が治らないのは、毎晩何かに触られているからだと。間違いないか」

 

 ロージャは面食らったように頷いて、ハンターは表情を引き締めた。

 

「試したいことがある。うまくいけば、治療を阻害している要因を排除できるかも知れない」



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花の名前-2

5/19:修正


「はい、お茶。一度に飲みきれなくても、ティーポットにカバーをかぶせておけば、しばらくは温かいままだから」

「助かる」

「ニルス。こっちのベッドも寝られるようにしておいたから、眠くなったら我慢せずにハンターさんに言うんだよ」

「うん」

「ハンターさん。夜食、本当に用意しなくてもいいのかい? なにか胃に入れておいた方がいいと思うんだ。夜、眠れてないならなおさらだよ」

「大丈夫だ。気持ちだけ受け取っておく。……あー、それより皆。その」

 

 そんな中、ひとりベッドに寝かされていたロージャが、ひょこりと布団から顔を出した。

 

「……もう。みんな、さっきから何度も同じことしてる」

 

 全員、気まずそうに、ごまかすように笑った。

 

 ロージャの()()が治らない原因を、どうにかできるかもしれない。ハンターはそう言って、ロージャはその提案を受け入れた。毎晩足に触れるものを取り除く算段が、ハンターにはあるのだという。

 

 ロージャは今日明日は医務室で眠り(ハンターが女子の寝室に入るのを嫌がったからだ)、私と、それから頑なに譲らなかったニルスが付きそう。そういうことに決まったけれど、さっきからみんな何かと理由をつけて医務室の様子を見にくる。

 ずっと治らなかったその原因が取り除かれるかもしれない期待と、ユーリヤとニルスがどれだけ手を尽くしてもどうしようもなかった怪我が、本当に治るようになるのかという不安。ないまぜになった気持ちに、みんなどこか浮き足立っているのだろう。

 

「じゃあ、僕たちはこれで。何かあったら遠慮せずに起こしてほしい」

 

 そう言い残してルーリンツとハーマンは男子の寝室に戻り、ユーリヤとマリーも席を立つ。出て行く直前、ユーリヤは(うれ)いを帯びた顔で振り返った。

 

「ハンターさん。ロージャのこと、お願いね」

「ああ」

 

 閉まる扉を見送ってハンターは数秒目をつむり、それからロージャへと声を掛けた。

 

「落ち着かないだろうが……」

「ううん、だいじょうぶ。……ごめんね、ハンターさん」

 

 ロージャは寝返りを打って、こちらに背を向けた。めくられた布団から覗く足がもぞもぞと動き、やがて落ち着いた。

 

 しばらくは、ただ静かな時間が過ぎた。

 

 皆の息の音や、ランプの油が焼けるかすかな音、それからハンターがページをめくる乾いた音。窓の向こうの風の音。そんな夜のしじまの中で、ぱたりと本を閉じる音さえ響いた。

 

「ニルス。大丈夫か」

「……え?」

「ずっと、暗い顔をしている」

 

 ハンターは手元の本を灰色のさざ波に隠した。もの思わしげな視線に、ニルスは上げた顔を再度うつむかせる。

 

「……たいしたことではないんだ。ただ……考えてしまって」

 

 震える声が、ぽつりぽつりと落ちる。

 

「ずっと、僕なりにがんばろうって思ってたんだ。ルーリンツやハーマンみたいにうまくできないけど、できることをしようって。……なのに、調べ物だってうまくいかなくて。ユーリヤに頼ってばかりで、ロージャにまで心配かけて、気を使わせて」

 

 ニルスは自分の手をじっと見つめた。細くて柔らかい手のひらを、関節が白く浮き上がるほど強く握りしめる。

 

「ごめん。ハンターさん、アレクシス。こんなこと言ったって仕方ないのは分かってる。でも、どうしても考えてしまうんだ。……僕じゃなくて、ルーリンツやハーマンだったら、もっとうまくやれてたのかなって……」

 

 ハンターは口を開いた。なにか言おうとして、それはベッドの方から聞こえた衣擦れの音に遮られた。

 

「ねえ、ニルス」

 

 びくり、とニルスの肩がこわばり、ハンターが目を見開いた。みんなの目がベッドに向く中で、もぞもぞと布団の山が動く。

 

「起きて、たの?」

「うん。ずっと」

 

 右足をかばいながら、ゆっくりとロージャがこちらを向いた。うなずいたその顔は薄暗いランプの橙に照らされて、濃い陰影が落ちている。

 

「ニルス。ニルスはなにも悪くないよ」

「だけど、ロージャがあの日、外に出たのは……」

「私のせいだよ」

 

 聞いたこともないくらい語気を強めて、ロージャはきっぱりと言い切った。

 

「私、ニルスが熱を出した時、なにもできなかった。ユーリヤみたいにお薬を作れないし、ルーリンツやマリーみたいに病気の時のごはんも作れない。ハーマンみたいに夜通し看病だってできない」

「でもそれは、ロージャは僕らの中でいちばん年下だから……」

「ニルスはそれで、納得できる? 年下だから、なにもできなくても仕方ないって」

 

 それは、と言葉に詰まって、ニルスは唇を噛んで下を向いた。

 

「うれしいことをしてもらったらお返しするんだって、みんなに教えて貰ったわ。でも、いつもみんなに助けてもらってるのに、私にできること、ほんとに少なくて。どれだけ背伸びしたって、みんなに追いつけない」

 

 ハンターは二人をただ黙って見ていた。いいや、なにか言葉を挟もうと唇を開いては、閉じることを繰り返している。なにを言えばいいのか、うまく考えつけないみたいだった。

 

「だからね、私はあの夜、外に出たの。あの光がほんとうに妖精さんなら、助けてもらえると思ったから。私にもニルスのためにできることがあるはずって、思ってたから。結局うまくいかなくて、それどころか、こんな風に怪我までしちゃって、もっとなにもできなくなって……」

 

 ロージャは布団を引っ張り上げて顔を隠した。内側からくぐもった声が漏れる。

 

「せめて、心配だけでもかけたくなかったの。ニルスの気に病んだ顔、見たくなかったから。……でも、最近ずっと考えてた。これで本当にいいのかなって。ニルス、どんどん表情が暗くなってきてて、私のしたこと、本当に間違ってなかったのかなって」

 

 どうしてこんなに難しいんだろう、と、そうつぶやく声が聞こえた。

 

「私にできること、がまんくらいなのにね。なのにニルスを傷つけちゃって……私、どうすればよかったのかなぁ……」

 

 私は何も言えなかった。

 ハンターも口を固く閉ざし、顔を伏せてしまった。

 

 耳が痛くなるような沈黙の中で、ニルスはゆっくりと顔を上げた。震える唇から、うわずりそうになるのをこらえているのが分かる声が、それでもはっきりとロージャに向けられる。

 

「ロージャ。……だってそれは、大切な人とその大切なものを、ないがしろにしているのと同じだから」

 

 ニルスはよろめくように椅子から立って、ベッドの横にひざをついた。目だけを出したロージャを、真横から真剣な目で見つめる。

 

「快方に向かうまでの我慢なら、それはいいんだ。薬がしみるとか、苦いとかなら、我慢するのは間違ってない。でも、ロージャの怪我は治りが普通よりずっと遅くて、その原因も分からなかった。僕もユーリヤも怪我を治したいのに、今まで通りの方法じゃうまくいかなかった。その間、ずっとロージャは痛いままで、歩くのもつらそうで、僕はそれが苦しかった。ユーリヤだって同じだ。ロージャが大切で、つらい思いなんて、してほしくないから」

「……うん」

「ロージャの気持ちだって分かる。それに夢の中で怪我を撫でる手なんて、僕たちにはきっとどうすることもできなかったと思う。それでも知ってたら、ハンターさんがアレクシスが見えるって分かった段階で相談できたかもしれないんだ。そうすればもっと早くに原因を取り除くことだって、できたかもしれない。だから、心配かけたくないって気持ちは分かるけど……黙ってたのは、あまり、良くなかった」

 

 ロージャは体をぎゅっとこわばらせた。

 恐る恐る見上げるロージャの頬に、ニルスはそっと手を当てた。

 

「それに、さっきのことも。ロージャは校長先生やアレクシスが苦しい思いをするなら、自分が我慢すればいいって言ってたけど。でも、そう言われたアレクシスがずっと首を振ってたの、気づいたかい?」

「え……で、でも、だって、そうしないと、アレクシスと校長先生が……」

 

 ロージャの目が困惑を浮かべ、私のいるあたりを見つめてさまよう。

 思わず身をすくませた私の手に、節ばった大きな手が重ねられた。ハンターは横目でこちらをちらりと見て、また二人へと視線を戻す。

 

「うん。でも、アレクシスにとっては、どっちを選んでも、大切な人を傷つけたり、苦しませたりすることになる。……そんなの、選べない。選べるわけないんだ」

 

 ニルスはひとつ息をついて、表情を引き締める。

 

「ロージャ。自分を大切にして。アレクシスに言ったみたいに、ロージャ自身も誰かのためにって、つらいことを飲み込んじゃ駄目だよ。ロージャがアレクシスや僕を大事に思ってくれてるのと同じように、僕たちだってロージャのことが大切なんだ。僕たちのためにロージャが苦しい思いをするなんて、絶対に嫌なんだ」

 

 それから真剣だった表情を緩め、声も柔らかなものに変わった。

 

「ロージャの絵を見て、みんな喜んでくれた。少しでも空いた時間があると、すごく優しい顔で絵を見てる。それを一緒に窓の外から眺めてると、こっちに気づいて、恥ずかしそうにして、それから笑ってくれた。ありがとうって、言ってくれた。……我慢しかできないなんて、そんなことない。ロージャがしてくれたことが、とても嬉しかったんだよ」

 

 ロージャの体から、だんだんと緊張が抜けていく。深く吸った息をゆっくりと吐き出して、じっと、ニルスを見上げた。

 

「……ねえ、ニルス。私、どうすればよかったのかな」

「やっぱり、手当てしてた側としては、怪我について気になったことは全部教えてほしかった。それから、つらいことがあるなら、抱え込まないで打ち明けてくれたら嬉しい。僕じゃ聞くだけしかできないかもしれないけど、それでもだよ。力になりたいんだ。僕は、ロージャのことが、大切だから」

 

 その声にはもう震えはない。頬に触れるニルスの手に手のひらを重ねて、ロージャはうなずいた。

 

「私もね、同じ。ニルスが大切なの。ニルスだけじゃない。ほかのみんなも……それから、ハンターさんも。だから……」

 

 小さな声で付け足して、それをかき消すように、少しだけ声が大きくなる。

 

「怪我のこと、黙っててごめんなさい。それから、いつもありがとう。治すためにいっぱい勉強してくれたこと。歩く時に支えてくれたこと。ニルスがしてくれたことぜんぶ、すごく嬉しかった。うまくやれてないなんてこと、ないんだから」

 

 ふあ、とロージャはあくびをこぼした。まぶたがうとうとと閉じかけて、声が伸びて揺れる。

 

「……怪我がよくなったら、約束。覚えてる? ニルスが熱を出す前に、約束したの」

「うん。一緒に、楽器の練習をしようって。今年の演奏会はロージャもトライアングルで参加するから、一緒にって……」

 

 ロージャの息は安らかで、もうすっかり眠りに落ちている。ニルスはじっと寝顔を見つめて、それから湿った声で首を横に振る。

 

「……ごめんね、ロージャ。僕が、しっかりしないといけないのに……」

 

 その時だった。

 

「――二人とも。目を閉じていろ」

「え?」

 

 肩を引かれたニルスは、きょとんとハンターを見上げた。

 

「ハンターさん、何が……」

「説明は後だ」

 

 かばうようにニルスを背中側に押しやるハンターの右手には、あの鳥のくちばしのような歪なナイフが握られていた。

 

 

 ぱたっ。

 

 

 そんな、かすかな音がした。

 

 ニルスは音の方を向いて、ハンターの瞳が鋭さを増す。その先にはロージャの右足と、シーツにできた小さなしみがあった。

 私は天井を見上げる。雨漏りしている様子はないし、そもそも雨は三日前に降ったきりだ。

 

 ぽたっ、ぱたっ、と。探している間にも、じわ、としみが広がった。けれど、落ちる水滴をまったく見つけられない。

 

 音がするたびに、しみが広がる。

 

 断続的だった音はだんだんとその間隔を狭めていく。いつしかまるで雨音のように連なり、みるみるうちにシーツはぐっしょりと濡れそぼっていく。

 布を叩く音は、やがて水を叩くそれへと変わった。

 

 シーツから滴る水が、床へ落ちる。

 

 弾かれるようにニルスが鼻と口を押さえた。それでもこらえきれずに、指の間から呻くような咳が洩れる。目を閉じろと言われていたのに、ニルスは驚愕に目を見開いたまま、その光景を眺め続けている。

 ハンターは動かない。つま先が水に浸かってもまったく動じることなく、瞳を開いてロージャの怪我を見つめている。

 

 そして、何かが、水の中から這い出した。

 

 細く衰え、爪も剥がれ落ちた、骨にふやけた肉がこびりついているだけの、人間の、手。

 

 にち、と粘つくような音を立てて、指が曲がる。その中指の赤い指輪は、あの時と同じつよい光を放っている。

 腐った指先が、ロージャの足に触れようとした。

 

 その、瞬間。

 

 ハンターが動いた。音もなく右腕が閃き、銀の光が走る。

 

 枯れた指がばらりと散った。

 

 その指がシーツに落ちるより早く、ハンターは振り抜いた右手の親指を弾いた。

 硬質な音を響かせて歪な刃が広がる。返す刀を左手が追い、手のひらは三つに断ち切られた。

 

 一瞬の出来事だった。

 いつの間にか、ハンターの左手にも刃が握られていた。

 

 ナイフがひるがえる。歪んだ切っ先が赤い指輪へ突き立てられるその直前、バラバラになった指はふっと溶けるように消えた。

 

「……ヘムウィックの狂気者。いや、あの檻頭の方が近いか」

 

 そんなことをつぶやきながら、ハンターは軽く手を振る。どんな仕掛けか二つに分かれていた刃がくるりと一つに戻り、灰色のさざ波に溶けるように消えた。

 

 それで終わりだった。

 濡れていたはずのシーツも、床も、乾いている。ロージャの足の包帯が断ち切られて、真っ赤な血をにじませた怪我の上にひと筋、細く浅い切り傷が走っているほかは、何の痕跡も残っていない。

 

 ハンターは肩を落としながら、シーツにさっくり空けてしまった穴を指でなぞる。ちょっと途方に暮れたその背中に、震える声が掛けられた。

 

「……さっきの、は」

 

 弾かれるように振り返り、苦虫をかみつぶしたような顔で呻く。

 

「見たのか」

 

 ニルスは暗がりでも分かるほど血の気が引いた顔で、何度も頷いた。

 ハンターは額を押さえた。手のひらの下で視線をさまよわせ、首を振った。

 

「知ってほしくない。皆やロージャには決して口外できない内容だ。ニルスが秘密として抱えるには、負担が大きすぎる。そうなれば皆が心配するだろう。グレイブズが大丈夫だと判断するまでは、そういうものだと納得してくれないか」

 

 言いながら、震えるニルスの両肩に手を置いた。

 

「漏れ出ていたものの流れは止まった。もう普通の怪我と変わらない。……ニルスが今まで調べてきた知識が役に立つと思う」

 

 ニルスは顔を上げた。青ざめていた顔にだんだんと血の気が戻っていく。

 

「僕は……でも……」

「ロージャも言っていただろう。ニルスがしてくれた全部が嬉しかったと。先ほどだって、私は何も言えなかったのに、ニルスはロージャを諭していた。そういう事ができるのは、その……ニルスが、しっかりした、いいお兄さんだから、だと、思う」

 

 首の後ろを掻いて、それからハンターはまた真剣そうに表情を引き締めた。

 

「痕は残るだろうが、適切な処置で薄くできるだろう。後は頼む、ニルス」

 

 

 

 

 

 ほとんど気絶するように机に突っ伏したニルスを、もう片方のベッドに寝かせて、ハンターは私の肩を叩いた。

 

「少し、いいか」

 

 医務室から出て、階段を降り、裏庭の扉を開ける。

 

 空には星がまたたき、そよぐ風は優しく草木を揺らしていた。ほんの少し前にあんなことがあったとは思えないような穏やかさが満ちていた。

 ハンターは桟橋の上に腰を下ろした。隣に座ると、ひどく深刻な顔をして私を見つめる。

 

「謝罪をしなければならないと思った。結局追い払っただけになったとはいえ……グレイブズから、彼女はお前の母親だと、聞いた」

 

 なんだ。なにかあったのかと思ったけれど、そういうわけではないみたいだ。

 

 

 “大丈夫だよ。気にしないで。私はあの人のこと、大して知らないもの。”

 

 

 私が知っているあの人は、写真の中で微笑んでいる姿と、桟橋に打ち上げられて弱々しくもがく姿だけだ。

 あの人が残したノートやテキストから、温かくて優しい人だったんだろうなってことは窺える。でもそれだけなのだ。どうしたって他人事で、知らない人以上の関係にはなれない。

 

「だが……」

 

 なおも何か言い募ろうとするハンターに首を振ってみせた。

 

 

 “それにあの人だって、きっと、自分のこともみんなのことも、ぜんぶ忘れてなくしてしまっているから。”

 “むしろ、ありがとう。あの人を止めてくれて。”

 

 

 あの人はきっと指輪をはめて川に身を投げた。まだ自分の命の時間を持っているのに、他人の命の時間も持ってしまった。

 それがどんな結末に至るのか、実物を見た今でもその詳細は分からないままだ。けれど、あのレポートの通りなら、あの人も我を忘れてしまっているのだろう。私と違って、それからユーリヤと同じように、自分自身の思い出をきちんと持っていたはずだから。

 

 ……だから、それだけは少し安心しているのだ。妖精だったころに聞こえたあの優しくておぞましい声は、ユーリヤやマリーたちを淡々と切り捨てたあの声は、あの人のものじゃないはずだ。

 

 

 “ああなる前のあの人は、みんなのことが、大好きだったはずだから。”

 

 

「……、…………」

 

 ハンターは歯に筋が挟まったような、なんとも言えない顔で私を見つめていた。その手に再度人差し指を落として、ゆっくりと字を書く。

 

 

 “あのね。私、知ってたの。ロージャの足のこと。”

 “それだけじゃない。あの人のことも。”

 “この前ハンターが言ってた通り、未来から戻ってきたから、知ってたの。”

 “知ってたのに、もう何もできないからって言い訳して、ずっと目をそらしてた。”

 

 

「それは……」

 

 ロージャの怪我が治らなかった原因は取り去られた。

 外のことだってどうにかなる。

 私ができないと目を背けていたことは、いい方向に向かってくれるだろう。

 

 そうして、私は打ち明けた。

 

 あの春の雪の日に目覚めて、ふたつの指輪を得て、みんなと友達になって、傷つけて、指輪を返したこと。

 私の話を、ハンターはただ聞いてくれた。時折確認を挟みながら、手のひらに書かれる言葉を、じっと見つめていた。

 

 

 “ユーリヤに指輪を返したから、私はもう妖精じゃない。”

 “最初から妖精はいなかった。だから、私が起こしたことはぜんぶ、そもそも起きていなかった。”

 “嵐の夜にロージャを引き止めた事実はなくなった。ユーリヤが妖精に命の時間を奪われることも。ユーリヤとのいたずらや、椅子の場所決めや、みんなが開いてくれた演奏会も起こらない。”

 

 

 空はすっかり白んで星は去り、立ち込める川霧はほのかな光を抱いて流れていく。聞こえ始めた小鳥たちのさえずりの中に、あのこまどりの声も混じっているのだろうか。

 きっと今日も、いい一日になるんだろう。そんな予感を覚えるような、さわやかな朝だった。

 

 

 “私はずっと間違えてばかりだった。”

 “妖精の力があったところで、ありがとうなんて言われるようなこと、本当はひとつもできなかったの。”

 “だから、ユーリヤに指輪を返せばいいって分かったとき、ほっとしたんだ。”

 “私がいなければよかったんだって、それだけは正しいんだって、はっきりしたから。”

 

 

 指輪を返した次の日の朝、笑い合うみんなを見て、そう実感した。だってみんな、私の知るものとは比べられないくらい、喜びにあふれた笑顔を浮かべていたから。

 

 あれからずっと、夜になるたび考えていることがある。

 もし、私がいなかったら。

 妖精としてだけじゃなくて、そもそも、生まれたという事実さえなかったら。

 あの人は今もここにいたのだろうか。ここにいて、人のままで、あんなものになり果てることも、ロージャを傷つけることもなく、みんなと一緒に笑っていたのだろうか。

 もう遠く過ぎ去って、誰にも取り返しなんてつけられない今、考えても仕方ないことだと分かっているけれど。

 

 

 “話はこれでおしまい。聞いてくれてありがとう。”

 “それから、ごめんなさい。時間、とらせて。”

 

 

 大きな手のひらから指を離す。指先に感じていた温かさは、()(ごり)もなくすぐに消えていった。

 ハンターはその手をゆっくりと握りしめた。それからひとつまばたきをして、淡く光る空と暗い稜線のそのあいだへと瞳を向ける。

 

「……アレクシス。ユーリヤがお前と再会できたあの日、何と言ったか、覚えているか」

 

 なにを言いたいのか分からなくて、私はハンターの顔を見た。

 

「寝たきりで心も弱り、お前に命を奪われていいとすら思っていたユーリヤが、今のように元気になったのは、お前がいたからだろう」

 

 ぽつぽつと、一つ一つ言葉を選ぶように、ハンターは途切れ途切れに言う。

 

「もしお前が本当にいなかったとしてもだ。お前に命の時間を預かられることもなく、ただ弱っていくだけのユーリヤのために、ここにはない解決の糸口を探して、皆が外を目指す事は充分に有り得たと思う」

 

 ……それは。まさか、と思うと同時に、絶対にない、とは言い切れなかった。

 

 空の境を見ていた顔がこちらに向いて、その瞳が私をまっすぐに見つめる。

 

「アレクシス。決して、お前は何もしなかったのでも、できなかったのでもない。お前にできる事をやり遂げて、皆が誰ひとり欠けていない状態まで取り返した。そして、後に繋いだんだ。……お前は、とてもすごい事を成し遂げたんだよ」

 

 言葉を噛み締めるように、ハンターは言う。眩しそうに目を細めて、節ばった温かい手で、私の手を握りしめて。

 

 

 “すごいこと  なのかな”

 

 

「すごいよ。とても、すごい。守ろうとした人を守りきるなんて、誰にでもできることじゃない」

 

 私にはできなかった、とつぶやくハンターの顔に、苦しそうな色が(よぎ)った。首を振ってそれを払うと、ハンターはまた、私へと向き直る。

 

「お前がいなければよかったなんて、絶対に、そんなことない。(おれ)は……いいや、寄宿学校にいる皆が、お前に会えてよかったと、そう思っている」

 

 その声は、ハンターのいつもの話し方より、なんだかずっと幼いように聞こえた。

 

「皆、お前が大切だよ。お前がいてくれて良かった。お前が皆を取り返してくれたからこそ、こうして穏やかな毎日があるんだ。自信を持っていい。ここにいていいのだと」

 

 ……いいの、かなぁ。

 私の座っていい椅子なんて、どこにもないって、思ってた、けれど。

 

 あなたは生まれなければよかったのだと、誰かが言ってくれるなら、私は楽になれるだろう。その言葉は私の選んだことを――自分自身を捨ててみんなを取ったことを、それでよかったのだと肯定してくれる。

 同時に、分かっているのだ。私のことを大切に思ってくれているみんなは、決して、そんなことは言わないのだということは。

 

 本当に、ここにいてもいいのだろうか。そう願っていいのだろうか。

 私はまだ、みんなと一緒に――

 

 

 顔を上げた瞬間、ほの青いひとひらの光が、目の前を過った。

 

 

 直後、山あいから差し込んだ朝の日差しが、視界を白く()(つぶ)す。

 だんだんと光に慣れていく視界の中には、もう時の雪はどこにも見当たらない。ともすればまぼろしのように思えても、あり得ない未来を望んではならないのだと(いまし)めるのには、それだけで充分だった。

 

 分かってたことだ。覚悟だってしていた。

 私は、指輪を見つけられなかった妖精は、いつか消える。みんなと一緒にはいられない。

 

 それをいやだと思ってしまうのは、とても贅沢なことだ。

 だって誰にでも必ず来るもので、本当なら、私はずっと昔に迎えていたはずのものなのだから。

 今だって充分奇跡みたいなものなのに、これ以上を望むのは、だめだ。

 

 きっと、黙っていたことを怒られるだろう。どうにかできないかと知恵を絞ってくれるだろう。ニルスがロージャに言っていたように、話して欲しかったと言ってくれるだろう。

 でも、どうしようもないことは、私自身がよく分かっている。

 

「……アレクシス?」

 

 覗き込んでくるハンターの目は、ただ、優しい。

 

 言えない。

 言いたくないよ。

 ここにいていいって言ってくれた人に、もうすぐお別れだ、なんて。

 

 

 “ハンター。ありがとう。”

 “ごめんなさい”

 

 

 そう書いた手のひらが持ち上がって、ハンターは私を自分の方に引き寄せた。胸に寄りかかる私の頭を、節ばった大きな手がぐしゃぐしゃとかき回す。

 

「謝る事なんてない。皆を助けてくれてありがとう。……あの時、手を引いてくれて、ありがとう」

 

 ごめんなさい、と動かしたつもりの口から、声が出ることはなかった。

 

 お別れなんていやだ。

 まだ、みんなと一緒にいたいよ。

 

 

 

 

 さよならの準備をしなくちゃ。

 

 

 “あのね、校長先生。ひとつだけわがまま言ってもいい?”

 

 

 指輪をユーリヤに返すまでのことをぜんぶ伝えて、最後に恐る恐るそう切り出すと、校長先生はただぼんやりとうなずいた。

 

「……ああ。いいとも。私に、叶えられるものなら」

 

 

 “演奏会が見たいの。”

 “みんなが全員、ちゃんと揃った演奏会。”

 

 

 本当は十二月の行事らしいから、難しいなら仕方ない。そう覚悟していたけれど、校長先生はすぐに頷いてくれた。

 

「分かった。皆に話しておこう。十月の最後の日に、演奏会をしよう」

 

 私はほっと、胸をなで下ろす。あの時のユーリヤが消えてしまったのは11月3日だった。きっと、それまでなら保つだろう。

 思い出の中の演奏会もとても素敵だったけれど、ユーリヤの歌があったら、もっと素敵なはずだ。

 

 校長室を後にしようとした私の背中に、校長先生の声が掛かった。

 

「アレクシス。ハンターを呼んできてくれるか。大事な話があると」

 

 

 

 

 

 ハンターの姿はすぐに見つかった。

 

 二階の廊下でぼんやりと空を眺めていたハンターに手を振って、伝言を手のひらに書く。頷いて歩き出そうとした足が、扉の開く音に遮られた。

 

 真後ろの女子の寝室から出てきたロージャは、こっちを見て動きを止めた。あ、と小さな声が口から漏れる。

 二人はしばらく見合っていた。やがて、そろそろとロージャが歩き出す。その様子を目で追いながら、ハンターは引き結んでいた唇をわずかに開いた。

 

「ロージャ。足は」

「えっ?」

 

 ロージャは驚いた顔でハンターを見上げた。声を掛けられるとは思ってなかったのか、その視線はどこか落ち着かない。

 

「あ、えっと、へいきよ。びっくりするくらい調子がいいの」

 

 言いながら、手に持っていた杖を片手で持ち上げた。両足に均等に体重をかけて、その場に立ってみせる。あれから三日が経つ今、もう包帯がにじんだ血で染まることはないという。

 

「歩くのはまだちょっと痛いけど、これくらいならもうだいじょうぶ。杖も念のために持ってるだけよ。ハンターさんのおかげね」

「……礼はニルスとユーリヤに。私は横から少し手を貸したに過ぎないから」

 

 それだけ言って、ハンターはロージャの脇をすり抜けた。

 

 何歩か歩いた瞬間、その動きがぴたりと止まる。ベストの裾を掴んだ小さな手を、その腕を目で追って、ロージャの顔をまじまじと見つめた。当のロージャも目を瞬かせて、ぱっと手を離した。

 

「えっと……ちょっと待ってて!」

 

 ロージャは急ぎ足で女子の寝室に飛び込んで、さほど間を置かずに飛び出してくる。

 

「まだ無理は……」

 

 ハンターのたしなめる声は、ずいっと差し出された人形に遮られた。

 

「あのね、この子、フィオナって言うの。私の好きな本に出てくる子で、石でできた女の子で、悪い夢に迷い込んだ人の手を引いて助けてくれるのよ。夜眠れない時に、ずっとそばにいてくれたの。それで、えっと、だから……」

 

 ハンターはきょとんと目を丸くして、口ごもるロージャを見つめている。ロージャは一度深呼吸をして、ハンターを見上げた。

 

「……ハンターさん、夜、眠れてないって言ってたから。私ね、うなされて真夜中に目が覚めた時、隣にこの子がいたから、心細くなかったの。私はもう大丈夫だから、今度はハンターさんが夜、少しでもさみしくないように」

 

 ハンターは恐る恐る、手を人形へ伸ばした。壊れ物を扱うように、慎重に受け取って、服の裾を整えてやる。

 

「ああ。……ありがとう」

 

 そうして、ハンターはかすかに微笑んだ。

 ロージャのぽかんと開いた口から、え、とちいさく声がこぼれる。

 

「? どうかしたか」

 

「え、えっと……なんでもないの! ちょっととってもすてきなものが見えただけ! 用事はそれだけだから!」

 

 ロージャはスカートを翻して、廊下を急いで歩いて行く。階段を上がってきたユーリヤをくるりと避けて、そのままとんとんと降りていった。

 

「あ……ハンターさん。アレクシスも」

 

 びっくりしていたユーリヤが、こちらに気づいて歩いてくる。

 

「あら? そのお人形、ロージャの……」

「あ、ああ。その、夜に起きていても寂しくないようにと貸してくれた」

 

 どこかおさまりが悪そうな顔をして、ハンターは手品で人形を隠した。

 

「ロージャ! そんなに急いだら危ないよ!」

「ご、ごめんなさい。でもすごく調子がいいの!」

 

 階段の下からそんなやり取りが聞こえてきて、ユーリヤは静かに笑った。

 

「ロージャのこと、ほんとうにありがとう。あんなに元気なあの子を見るのは久しぶり。……ずっと、我慢させてしまっていたのね」

 

 首を横に振って私たちの横を通り過ぎ、ユーリヤは医務室の扉に手を掛ける。ノブを回そうとしたその時だった。

 

「ロージャの怪我の事は」

 

 声を張り上げたことに、振り向いたユーリヤ以上にハンター自身がひどく驚いた顔をしていた。目をさまよわせ、それから意を決したように表情を引き締める。

 

「溺れた者が藁にも縋るようなものだと思う。苦しい中で何かに触れれば無意識に掴んでしまうように、彼女にはロージャを苦しめていたという意識も自覚もない……はずだ」

 

 どうしてハンターは、面識もないはずのあの人のことをこんなにかばうんだろう?

 そんなことを訊ける雰囲気でもなくて、私はただ二人の姿を見ていた。

 

 ユーリヤは視線をハンターの脇へと向ける。元の場所に戻された写真立ての中では、あの人が変わることのない笑みを浮かべていた。

 

「……本当にね、優しい人、だったの」

「ああ」

「お母さんを看取って、私のことも、めんどうを見てくれて。いつも笑ってて、素敵な人で、私ずっと、先生みたいなおとなになりたいって、憧れてたの」

 

 ユーリヤのまつげが震え、冬空のような青い目に涙が浮かぶ。やがて光るしずくが、静かにまなじりからこぼれ落ちた。

 

「ロージャのことだって、すごく大切に思って、くれてたの。あの人が、ロージャを苦しめてる、なんて、考えたく、なく、て……」

 

 しゃくりあげながら崩れ落ちそうになったユーリヤを、駆け寄ったハンターが腕を伸ばして支える。

 

「マルガレータ、せんせ……わた、し、は……」

 

 ()(えつ)が落ち着くまで、ハンターはずっと、すがりつくユーリヤの背中を優しくたたいていた。

 

 


 

 

 あなたが校長室を訪れた時、部屋の主は先日以上の憔悴を顔に浮かべていた。

 

「……ああ、ハンター。遅かったじゃあないか」

「用件は」

 

 単刀直入に切り出せば、校長はひざの上に置いていた本をあなたに差し出す。

 

「これを、君に渡したくてな」

 

 受け取った本の題名を見て、あなたは目を見張った。

 

 深緑の表紙には箔押しで、三色菫(ハーツイーズ)に囲まれたひとりの子供が描かれている。

 その体は半ば崩れて粒子に変わり、俯いた顔は背を向けているために窺えない。描き込まれた足跡は、迷うように蛇行を繰り返していた。

 

 「見えない妖精たち」。その、第一巻。

 

「……お前が持っていたのか」

 

 道理で探しても見つからないはずだ、と呟くあなたに、校長は首を横に振る。

 

「私は頼まれただけじゃ。その時が来るまで、誰にも読ませないように隠しておいてくれと」

 

 あなたは()(けん)にしわを寄せた。

 嫌な予感を覚えながら、目次を開く。ひとつひとつ確認し、そしてある章題に瞠目した。

 

 

 指輪を見つけられなかった妖精の話。

 その妖精は、止まった時に留まれず、誰に気付かれることもなく、ただ儚く消えていったという。

 時の雪が降る暗闇に。

 

 

「……何だ。これは」

 

 読み終えた時、かろうじてあなたが口にできたのはそれだけだった。

 校長は、答えない。ただ沈痛な面もちであなたを見つめているのみだ。

 

「アレクシスは……あの子は、消えると。そう言いたいのか」

 

 悪質な冗談だと、あなたは笑おうとする。しかし引きつる口を笑みの形に歪めるより早く、校長は呻くように言った。

 

「私にその本を渡したのは、ほかでもないあの子だ」

 

 震える声は湿り気を帯び、やがて嗚咽へと変わる。

 

「私は、もう、どうすればいいのか分からない……」

 

 膝掛けに透明なしずくがひとつ落ち、しみを作った。

 

「笑ってくれて構わない。情けない男だと。大切な友人たちを止めることもできない、妻も息子も救えない愚か者だと。だが……何が正しいのかも、どうすればよかったのかも、私には……」

 

 マリヤ。ニコラス。サイモン。ロビン。マルガレータ。校長はうなだれ、絞り出すように誰かの名前を吐き出した。

 

「もう、何も見えないんだ……」

 

 すすり泣く校長を見下ろして、あなたは奥歯を噛み締めた。

 

 

 考えろ。

 

 

 ともすれば悲しみと自身の不甲斐なさへの怒りで錯乱しそうになる感情を宥め、蠢く脳髄の奥をねじ伏せる。頬の裏を噛み千切って溢れた血が口の端から一筋垂れたことにも気づかず、あなたはただ、思考を走らせる。

 

 

 どうすればアレクシスを救えるのか。どうすれば、あの子は消えずに済むのか。

 あるはずだ。ないわけがない。ユーリヤという前例がある。命の時間を奪われ、しかし指輪を返されてまた人として目覚めた少女が。

 あの子だって。

 だって、そんな、馬鹿な話が、あるか。

 

 

 いつかここを離れる。

 あなたはそのつもりで今まで過ごしてきた。返しきれない恩を少しでも返して、それから皆を閉じ込める原因を(つぶ)す。それさえ済めば、あなたはこの寄宿学校を出て、皆の目の届かない場所で自ら命を絶つつもりでいた。

 

 だから、その後のことなど考えていなかった。

 

 たとえ自分がここを離れたとしても、ユーリヤが、ルーリンツが、ハーマンが、マリーが、ニルスが、ロージャが、校長が、ティアとダニーが、そしてアレクシスが、いつまでも健やかであると、穏やかで幸福な日々を送ることは絶対に変わらないのだと、疑いもせず信じていたのだ。

 

 

 アレクシスは指輪を持っていない。あの子自身の命の時間は、母親が持ったまま川に身を投げたという。同時にあの子は妖精になることを忌避している。他人()の命の時間を受け入れることはないだろう。

 ユーリヤは指輪を持っている。それは彼女自身の命の時間そのものである。ユーリヤは指輪を得てから三カ月が経とうとする今でも、ほかの子供たちと変わらずに元気にしている。アレクシスが母親の持っていた指輪をユーリヤに渡した時、彼女は悪い妖精になり果ててしまった。

 ならアレクシスの、あの子自身の命の時間さえあればいい。母親から指輪を回収し、あの子へ返せばいい。

 だが。

 

 

 あなたはほぞを噛んだ。

 

 

 あまりにも、時期が悪すぎる。

 彼女は冬の嵐、増水した川に現れるという。今は秋だ。今まで嵐と呼べるほどの悪天候は何度かあれど、桟橋に赤い光が現れた事は一度たりともなかった。挙げ句に唯一の接点になりうるロージャの怪我は、己が斬り払ってしまった。

 母親が出現するまでアレクシスが保つ事に賭けるか?

 希望的観測だ。賭けるには分が悪すぎる。

 救う手段は見えているのに、己の手ではあの子の未来を掴み取れない。それこそ、時間を手繰り寄せでもしない限りは。――なら、時間を跳ぶ事のできる妖精の助力を得られたら?

 

「――――……」

 

 息が短く音を立てた。

 その思い付きはあまりにも荒唐無稽だった。

 できるのか。あなたはそう自問する。

 

 

 そもそも彼はこちらの声に応じるだけの理性を残しているのか。

 仮に理性が残っていたとして、彼の目的も知らぬまま説得など、果たして己に可能なのか。己の命の時間と引き換えにするのは何ら問題ではないが、彼が説得に応じたふりをして、(さかのぼ)った先で皆を害さないと断言できるだろうか。

 一度逃がせば、取り返しがつかないのだ。

 狩るつもりだった相手に頼るのか。グレイブズに過去を変えるつもりはないと言い放ってからさして時も経ってないというのに、もう反故にするつもりか。

 狩人に獣を狩る以外の能などない。あの街で身の程を弁えずに行動に移しては、最悪の結末に至るばかりだったではないか。

 

 

 思考は冷え切った泥沼に沈んでいく。その中に、何かが急速に浮かび上がり弾けた。

 

 

 それで、諦めるのか。

 できないと言い訳して、あの子を見捨てるのか。

 

 

 噛み締めた奥歯が音を立てた。

 ねじ伏せていた激情に再び火が点り、脳髄の奥がその蠢きを激しくする。

 

 

 皆を救うために自ら手放したあの子とは違う。

 己は何も失っていない。夢に依る異能も借り受けたままだ。

 このままあの子が消えるのを、ただ見ているだけなど、できるものか。

 

 ――後は任せたよ、ハンター。

 

 己をここまで運んで消えた、誰とも知れぬ妖精。

 脳髄の奥の蠢きがもたらした確信が、正しいならば。

 

 

 シャツの上から握りしめた首元の狩人証は、硬く重い感触をあなたの手のひらに返した。

 

 あなたは深く息をついた。肺腑からできうるかぎり吐き出して、それから空気を勢いよく吸い込む。

 

「……グレイブズ。ローアンの妖精について、知っている事をすべて教えてくれるか」

 

 校長は涙でぬれた顔を緩慢に上げ、あなたを訝しげに見つめる。

 自分の手に余る時は、誰かの力を借りる。それはこの寄宿学校で教えてもらったことの一つだった。

 

「アレクシスを助けたい。知恵を借してくれ」

 

 目を見開き唇をわななかせる校長を見つめ、あなたは力強く頷いてみせた。

 

 遺志を継ぐ者(狩人)としてのあなたには、かつてのあなたがそう望んだ通りに、獣を狩る以外の能などないのかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても、諦めることなどできはしない。

 

 ならば、皆があなたに呼び掛ける名前以外の意味を持たない、ただの“ハンター”として。

 友を助ける。ただ、それだけのことなのだ。



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ムーンダスト-1

 ご無沙汰しております。
 やらないといけないことを忘れていたので、ちょっと足踏みさせてください。


「ずいぶん昔に―――――から聞いたのだけど、百年先の未来には青いカーネーションがあるんですって」

 

 穏やかな昼下がりのことだった。

 子供たちは小さなダニーと庭を駆け回り、あるいはティアを膝に乗せたまま、一緒に花冠を編んでいる。私と彼女は玄関の日陰に腰掛け、その間に置かれた揺りかごに納まったアレクシスの淡い色の瞳には、空の青が映り込んでいた。

 

 私は揺りかごを揺らす手を止めぬまま、彼女の横顔を見つめた。日々の暮らしによって刻まれた目尻や口元のしわが、温かな微笑みによって深みを増している。重ねた年月の美しさは、彼女を柔らかく(いろど)っていた。

 

「青いカーネーション? 染めたのではなく、ということか?」

 

 青い花を咲かせるカーネーションの品種は、私が知る限り存在しない。

 寡聞ゆえ、青い薔薇(不可能)の実現のように園芸家たちが狂気に取り憑かれているかは知らない。だが今この時代に鮮やかな青いカーネーションを見かけることがあるとすれば、それは白い花に色水を吸わせたものだ。

 

「ええ。青と言っても真っ青ではなくて、紫に近いらしいのだけどね。なんでも交配によるものではなくて、ペチュニアやビオラが持っている青い色素をつくる仕組みを取り出して、それをカーネーションに与えて実現したのだとか」

「まるで妖精が枯れた花に命の時間を与えるような話だな」

 

 それがいびつに枯れ落ちないのであれば、百年後の人間は妖精よりも生命の神秘に近づいているのだろう。ロビンも―――――も、自分たちが起こしうる事象とその限界は経験によって知っていても、その原理にはさして詳しくないのだから。

 

「ただ、自然の中で生まれたものではないから、取り扱いも厳しいらしいわ。ほかのカーネーションと交雑が起きないように、種をつけないように加工して、根も切って。次の代を残せない状態にして売られているんですって」

 

 言いながら、彼女はアレクシスの頬を指先で撫でた。唇を鳴らしながら不思議そうに見上げるこの子へと、柔らかな笑顔を返す。

 

「そういうのも、根無し草、と言っていいのかしらね。根を張ることなく、人の世を流れていく花のことも」

 

 何てことのないように語る彼女から視線を外し、私は自身のつま先を見つめた。

 

「……ルイス?」

「いや、未来というものが……そう、少し恐ろしいなと。そう感じてね」

 

 親友たちや弟の忘れ形見、それから身寄りのない子供たちを引き取り、共に暮らすようになって二年近くが過ぎた。

 マリヤが逝き、後を追うようにニコラスが失踪して、それきりロビンも姿を見せなくなった。大学の研究室の面々や援助していた資産家たちにも不幸が相次ぎ、担う者のいなくなった妖精の研究は形骸化したと聞いている。ニコラスが失踪した直後、彼の自室に残された見慣れた筆跡のレポートは、彼らが何に手を出したのかを類推させるには充分であった。ニコラスがサイモンをロンドンへ追い出したのは、あの狂気に関わらせたくなかったからなのだろう。

 

 一方で、時間は子供たちに確かな癒やしをもたらしていた。最初はぎこちなかった皆も打ち解け、今はよく笑顔を見せてくれるようになった。

 ユーリヤとルーリンツはお互いに刺激を与え合いながら日々成長している。ユーリヤに甘えていたマリーは、最近ではユーリヤの真似をするようにロージャの面倒を見ている。ニルスは相変わらず本を読むことを好んでいるが、ルーリンツやハーマンの後ろを追いかけることも同じくらい好きになったらしい。年齢不相応なほど器用すぎるがゆえに一番の気掛かりであったハーマンも、すっかり皆に馴染んでいる。あの子の環境への適応力は、良いかたちに働いてくれたようだ。

 

 そのような中で、私もまた昔のままではいられなかった。

 臆病に、なった。

 そう自覚する程度には、選択を躊躇うことが増えた。

 かつての私であれば、彼女の話す未来に目を輝かせていただろう。だが今は違う。本来咲かないはずの色を別の花から移し、種をつけないようにする。妖精の業に手を掛けるようなその話に、言いようもない不安を抱いてしまうほどに。

 

「……大丈夫よ、ルイス」

 

 横から伸ばされた白い手が、揺りかごを揺らす私の手に添えられた。思わず隣を見つめれば、彼女はほころぶように笑顔を浮かべた。もう会うことの叶わない親友の面影が色濃く残る、安堵するような笑みを。

 

「今を生きる私たちには見ることも叶わないものが、未来では観察されて、理解されている。それは進歩しているということでしょう? たどり着くまでの百年の間に、大きな苦難も待ち受けているのかもしれないけれど、それでも光明は確かにあるのだと、人は前を向いて進んでいけるのだと信じていいということだもの」

 

 楽観的過ぎるかしら、と笑う彼女に、首を横に振ってみせた。胸の内で渦巻く不安は消えはせねど、ゆっくりと凪ぎ、落ち着いていく。

 彼女はいつだって、迷う私の前を照らして道を明らかにしてくれる。

 だからこそ、守りたいと思ったのだ。雲間に隠されてしまう月のように、優しすぎるがゆえに傷つき曇りやすいこの笑顔を。かつてはそのために自ら手を離して、今は手をつなぎ隣にいることを選んだ。その選択は間違っていないと断言できる。私たちの間で揺りかごに揺られているこの子が何よりの証だ。

 

 ―――――には感謝しなければならない。友人としての強い後押しと、人ならぬ者としての祝福と加護がなければ、私たちはこんな風に、何のわだかまりもなく笑い合うことはできなかっただろう。

 

「いいや、そうだな。そう信じよう。そしてそうあれるよう、導いていこう。この子たちが、幸せになれるように」

 

 世界の綺麗なところだけを知って生きてほしいと願ったところで、それは不可能なのだ。子供が大人になるにつれて、いつかは他人の、そして自身の中にも確かに存在する暗い感情を思い知ることになる。

 だから、それに負けないように。たとえ泥濘に足を取られたとしても、そのまま沈むことなく進めるだけの強さを、この子たちに。

 

「私たちが実物を見ることはないけれど……この子やみんなは、いつか青いカーネーションを贈られることもあるのかもしれないわね」

 

 その言葉に、思わず笑みがこぼれた。

 さすがに百年以上生きるのは難しいのではないかと思うと同時に、それ以上に有り得ないなどと言いたくはなかった。この子たちの命の時間は、紡ぎ出されたばかりなのだ。

 

「西暦2011年の世界か。想像もつかないな」

「ふふっ、そうね。二十一世紀かぁ……月世界旅行だって本当になっていそう」

 

 

 彼女と一緒なら、たとえどんな未来が待ち受けていようとも進んでいける。

 そう、信じていた。

 

 

「なあ、マルガレータ。そのカーネーション、売られているというなら品種として確立しているのだろう? なんという名前なんだ?」

「あのね、やさしい月の光をイメージしてつけられたそうなのだけど――……」

 

 

 

 

 

 

 

 そして、我に返る。

 

 あなたは深く息をつき、揺りかごの残骸から手を離した。

 二階の物置の奥、暗がりと荷物の間に押し込められたそれは、もはやその役目を果たすことはない。足は割れ、かごは底板が腐って抜けていた。

 

 過ぎゆく時間のもたらした風化は面影さえ失わせ、当事者さえもかつての日々を偲ぶことは難しいだろう。

 

「……、…………」

 

 あなたは緩慢に、顔を押さえた。

 黒猫の時と同様に、思い出の輪郭は急速にぼやけ、定かではなくなっていく。それでも確かに心に残る風景があった。明るい昼下がりの庭と、楽しそうに遊ぶ幼い皆の姿。そして胸の内で燻り続けていた焦燥や不安と、それを魔法のように落ち着かせてくれた、隣の女性の微笑み。

 

 ひどく幸せな光景だった。

 それが既に欠け、もはや戻ることはないと、どうしても信じ難いほどに。

 

 

 なぜ、あの人はいなくなってしまったのだろう。

 

 

 あなたは振り払うように首を振った。自問したところで答など出ず、遺された当事者たちに話を聞くような不躾な真似などできるはずもない。

 

 きびすを返して間口をくぐる。敷居をまたいだ時、革靴の先が何かを蹴飛ばした。

 硬い音を立てて廊下を滑り、壁にぶつかって少しだけ跳ね返り、そして止まる。(しゃく)(どう)に鈍く輝くそれを、あなたは拾い上げた。

 

「これは……」

 

 


 

 

 ことの(ほっ)(たん)は、十月最後の日に開かれる演奏会に向けて、音楽堂の二階の窓を修理した時のことだ。

 

 

 “コインはもう、見つかったかしら?

 

 ・私が大好きな場所。風にのって

  音楽が聞こえてくる気がするの

 

 ・2、3、1、4と叩いてみて

  貴方にも、きっと演奏できるから

 

 

「……、…………?」

 

 開いたメモホルダーをみんなで覗き込んで、その場にいる三人と一匹が揃って首をかしげた。

 ハンターはメモ用紙をぱらぱらとめくり、美しい彫金が施された(ふた)を閉じたり開けたりして、それからちょっと眉根を寄せた困り顔を私たちの方に向けた。

 

「心当たりはあるか?」

「内容についても、このメモ自体についてもさっぱりだよ。窓の下に棚があるってことも、僕はぜんぜん知らなかったしさ」

 

 うーん、とあごに手を当てて考え込むハーマンの顔は冴えない。

 

 開きっぱなしになっていた窓の留め具を修理して、ついでに室内の掃除もばっちり済ませた。最後に換気のために開けていた窓を閉めようとした時にハンターが見つけたのがその下の棚と、このメモホルダーだった。

 

「アレクシスはなにか知ってるかい?」

 

 ハーマンにそう訊かれて、私は答えに困ってしまった。

 ここにメモがあったことは知らなかったけれど、コインのことやこれを誰が書いたのかは心当たりがある。でも、それをどう伝えたらいいんだろう。みんな、あの人のことはすっかり忘れてしまっているのに。

 答えあぐねているうちに、私も知らないのだと二人は判断したらしい。ハーマンはハンターからメモを受け取り、確かめるように紙面をなでた。コイン、演奏、と内容を小さく呟いている最中、その目にぱっと閃きが走る。

 

「もしかしたら、下はあのシロフォンのことかもしれないな」

「しろ……?」

「シロフォン。ほら、あれだよ」

 

 ハーマンはメモホルダーをハンターに返して、壁に寄せられた鍵盤打楽器を指差した。飴色の鍵盤は、うす明るい照り返しに柔らかく光っている。

 

「鍵盤に1から5までの数字が貼ってあるんだけど、オクターブごとでもないし、演奏用のガイドって感じでもなくてさ。なんのためにあるのか気になってたんだ」

「おくた、って何だ?」

「オクターブ。ある音から、違う高さの同じ音までの単位、って覚えておけば大丈夫かな。これで言うと、下の段の鍵盤八つ分だね。ここから、ここまで」

 

 ハーマンは定位置に戻しておいたマレットを手に取ると、ドレミファソラシドと順々に叩いてみせる。なるほど、とハンターはうなずき、そしてまた首をひねる。

 

「それで、演奏すると、なんでコインが見つかるんだ?」

「さあ……」

 

 その時、頭の上のエビーがぺちぺちと尾を振った。

 

 

  あのね

  がっきから なんだかすこしだけ へんなかんじがしてるの

 

 

 変な、かんじ?

 エビー自身、ちょっとよく分かっていないみたいだ。言いあぐねるみたいに言葉にならない銀の光をこぼしながら、口先をもじもじしている。

 

 

  あのひとが もってるものもね おなじよ へんなかんじ

  がっこうのなかでも たまにかんじることが あるけれど

  あれくしす あなたと おなじちからだとおもう

 

 

 私と、同じ。

 ハンターの持っているメモホルダーをもう一度見る。これを残してくれた人は今、赤い指輪に無理矢理命をつなぎ止められている。そしてユーリヤ以外のみんなは、あの人のことを忘れてしまった。

 もし、これが妖精の仕業のように、整合で隠されてしまっているなら。

 

「……ん? どうした?」

 

 ハンターの手からメモホルダーを取り、横についていたペンをめくったメモの二枚目に走らせた。

 

 

 “内容については分からないけれど、このメモを書いた人が誰か、心当たりがあるの。”

 “叩いてみていい? 悪いことは起きないと思うから。”

 

 

 ふたりは顔を見合わせた。困ったように首をかしげるハンターに、ハーマンは笑って頷いてみせる。

 

「そうだね。とりあえず試してみようか。はい、これ」

 

 渡されたマレットを意識を込めて握り、2の紙が貼られた鍵盤に下ろす。

 軽く叩いた瞬間、どこからともなく短いメロディが流れた。

 思わず手が止まり、隣でこちらを見ていたハンターの周りの空気が、ぴり、と一瞬で張り詰めた。

 

「え……わあっ?」

「静かに」

 

 私とハーマンをまとめて背中側に押しやり、シロフォンを鋭く睨みつける。その手にはいつの間にか、ぼろ布が巻かれたギザギザ刃の刃物があった。刃の部分だけならノコギリのようにも見えるけれど、背に沿うように取り付けられた柄では、木はちょっと切りづらそうだ。

 

 ハーマンと重なった体の半分がぞわぞわするのに身震いしながら、私は手の中のマレットをまじまじと見つめた。

 ……一回しか叩いてない、よね?

 

 

  きれいな せんりつね

 

 

 い、一回しか叩いてないよね……?

 

 ハーマンは目を白黒させて、ハンターの肩越しにシロフォンを覗き込んだ。

 

「もしかして、なにかあった?」

「あった。あったんだが……あー、アレクシス」

 

 ハンターは警戒を解かないまま、困ったように眉尻を下げてこちらを見た。楽器のことはぜんぜんみたいだし、どう説明すればいいのか分からないんだろう。

 

 

 “指示通りに2の鍵盤を叩いたら、スカボローフェアのさわりが流れたよ。”

 

 

 メモを読みながら、ハーマンは口元に手を当てた。

 

「うーん、ハンターさんとアレクシスには聞こえて、僕には聞こえなかったってことは、なにか不思議な力が働いてるんだろうけど……」

 

 私は続けて、その下に書き足す。

 

 

 “ハンターおねがい、最後までやらせて。”

 “だいじょうぶだから。”

 

 

 ハンターは眉根を寄せて、私をじっと見つめる。やがて大きく息を吐いて、持っていた刃物を手品で片付けた。

 

「……何かあったら、もう近寄らせないからな」

 

 でも。私だって、譲りたくない気持ちの時はあるのだ。

 

 

 “叩いた以上の音がする以外なら。”

 

 

 むすっと腕を組んだハンターを横目に、私はもう一度、マレットを鍵盤に振り下ろした。

 指示通りの鍵盤を叩くたび、短いメロディがぽろぽろと流れ出す。最後の鍵盤を叩き、その余韻が途切れたあと。

 

 かちゃん、と軽い金属の音がした。

 拾おうとした私を制して、ハンターがシロフォンの下に屈み込んだ。立ち上がったその手の中で、(しゃく)(どう)(いろ)が鈍く輝く。

 

「コイン、だな」

「本当に見つかった……」

 

 装飾のないシンプルなデザインで、真ん中に大きく7と書いてある。ひっくり返した裏には、行儀よくお座りする猫のシルエットが打刻されていた。

 

「……あ、これ」

 

 そんな声を上げて、ハンターはもう片方の手を軽く振った。灰色のさざ波の中から現れたのは、同じ見た目のコインだった。刻まれた数字はそれぞれ8と2だ。

 

「片方は医務室を掃除していた時に、もう片方は二階の倉庫で見つけたんだ。ルーリンツに訊いても知らないようだったんだが」

「お金ではないし、記念メダルかな? それにしてはだいぶシンプルだけど……うん? アレクシス?」

 

 二人の間で小さく手を上げれば、エビーもあわせて小さな体を振ってくれている感触があった。

 

「これについても、心当たりがあるのかい?」

 

 ハーマンにも伝わるよう、エビーと一緒にこっくりと大きく頷いてみせる。

 

 あの時はすっかり忘れて時間を渡ったせいで、私の手元からなくなって、それきりになってしまったのだけれど。

 あの人からの挑戦状、今はどこにあるんだろう?

 

 

 

 

 

 

「これ、ずっとここにあったのかい? どうしてだろう、言われるまで、ぜんぜん気づかなかったよ」

 

 今日はなんだか不思議なことばかり起きるなあ、と、ハーマンは確かめるように貯金箱を軽く叩いた。

 

 道具を片付けてから玄関横の談話室へと場所を移して、私たちは棚の上の貯金箱を囲んでいた。

 もしかしたら、と思ったけれど、貯金箱の隣には挑戦状はない。校長先生が持ってるのかな。聞けば出してくれるだろうか。

 

「コインとここの絵、同じ猫のシルエットだね。今ある中で一番大きな数字が8だから、最低であと五枚、どこかに隠してあるのかな」

 

 うなずくと、ハーマンの顔がほころんだ。三枚のコインを貯金箱の隣に並べて、私の顔の辺りを向いて笑いかけてくれた。

 

「よし。みんなにも、メモのヒントに心当たりがないか訊いてみよう。ルーリンツが知らなかったのなら、きっと僕たちには見えない力で隠されているのだろうけど。でも、ヒントの心当たりなら僕にも思いつけたしね」

 

 もう一度うなずいてから、私はそっとハンターの様子を伺った。腕を組み、こちらを眺めるその目元は硬い。

 手のひらを借りるのもなんだか気後れして、私はメモホルダーを開いて、新しい紙にペンを走らせた。

 

 

 “ちょっと待ってて。校長先生に訊いてくる。”

 “コイン探しの挑戦状があるはずなんだ。たしか、それにもヒントが書いてあったはずだから。”

 

 

 それだけ書いて、私は返事を待たずに談話室を出た。振り返って、ハンターの姿が見えないことを確認してから、いつの間にか()もってしまっていた肩の力を抜いた。

 

 ハンターは最近、なんだかだいぶぴりぴりしている。毎日夜遅くまで校長室でずいぶん長く話し込むようになって、話しかけられても上の空だったり、廊下の端で考え込んだりしていることが増えた。

 なんとなく、どこか怒ってるような、そんな雰囲気を感じることがある。

 理由は分からないし、ハンターは鋭いようで鈍感なところがあるから、もしかしたら本人も怒ってることに気づいてないのかもしれない。でも、前にエビーをポケットに入れて洗濯に出してしまった時の、すとんと表情が消えてしまったあの感じと同じものが、瞳の中にうっすらと漂っているような気がした。

 校長先生とずっと相談してるってことは、外のことでなにか問題があったのだろうか。それともまた別の悪いことがあったのだろうか。

 

 ……やだな。いろいろなことでがんばってくれてるぶん、ハンターには困ってほしくない。すぐに解決するようなことだったらいいのだけど。

 

 考えごとはまとまらないまま、校長室の前に着いてしまった。私は手に意識を込めて、ドアノッカーを掴んで鳴らした。

 

「誰だ?」

 

 名乗るかわりにもう一度、ノッカーを鳴らす。すぐに入っていいと返事があった。

 薄暗い校長室の奥で、校長先生はいつものように車椅子に座っていた。膝の上に置いた記帳を閉じて、私の方を向く。

 

「アレクシス。どうしたのかね」

 

 表情は暗くて見えにくいものの、声はいつもと変わらず穏やかだ。机の上に出してくれた小さな黒板とチョークを受け取って、読みやすいように普段より気持ち大きめに字を書く。

 

 

 “コイン集めの挑戦状を探してるの。先生が持ってる?”

 

 

 校長先生は眼鏡の下の目を見開いて、それからそっと微笑んだ。

 

「……ああ。私の手元にある。それにしても……挑戦状のことを知っているのは、前の時間での経験か?」

 

 

 “うん。”

 “でも、いろいろあって、すっかり忘れちゃって。結局一枚も探せなかった。”

 

 

 みんなのお願いを聞くのを優先して後回しにしてたら、結局そんなことができるゆとりはなくなってしまったし。

 

 

 “音楽堂の掃除の時にヒントと、コインを一枚見つけて、あとハンターが二枚見つけて持ってたんだ。”

 “せっかくだし、みんなにも声をかけて探してみようと思って。”

 

 

 ひとつうなずいて、校長先生は引き出しから白い封筒を取り出した。

 

「なら、改めて挑戦してみるといい。きっといい思い出になるだろう」

 

 受け取った封筒を、そっと開く。折り畳まれた便箋を開くと、記憶にある通りの温かな字が並んでいた。

 この人のことを、ユーリヤ以外のみんなは忘れてしまっている。でも、そうだとしても、あの人が残したものを、できればみんなに渡したい。

 

 その時、こんこんと、ドアノッカーが元気に鳴った。

 

「校長先生、ロージャです。入ってもいいですか?」

「おや。少し、待っていてくれるか。アレクシスの話がまだ終わっていないから」

 

 

 “だいじょうぶ。ありがとう、校長先生。”

 “あとはみんなで探してみるね。”

 

 

 そう黒板に書いて、こっちから扉を開ける。

 

「あれ? アレクシス、お話はいいの?」

 

 首をかしげたロージャは真新しい深紅のケープを羽織っていて、その手には薔薇の花があった。本物ではなく、布で作った造花のようだ。

 

「ああ。大丈夫だそうだ。それで、どんな用事かね?」

「この前話した造花ができたので、見てほしくって。アレクシスもいるならちょうどいいわ。アレクシスのぶんもね、用意したの」

 

 私のぶん? でも、お花をなにに使うんだろう?

 首をかしげると、頭の上のエビーも一緒にかたむく。それを見て、ロージャはちょっと笑った。

 

「演奏会でおめかしするために作ったのよ。校長先生、どうですか?」

 

 ……え? えっと……

 

 困惑する私の横で、校長先生は花びらを確かめて微笑みながらうなずいた。

 

「……ああ、上手に、綺麗にできている。きっと舞台を華やかに飾ってくれるだろう」

「ほんとですか?」

 

 喜ぶロージャの前に、そっと黒板を差し出した。

 

 

 “えっと、おめかしって、どうやって?”

 

 

 質問に、ロージャはいたずらっぽく笑う。

 

「見てからのお楽しみ!」

 

 

 

 

 

 

 布本来のふんわりした白と、玉ねぎ染めの柔らかな黄色。それからハンターがくれたドレスの端を切った、深い赤。葉の緑は表紙の布を染める時のテストで出た切れ端を使ったのだという。

 そうしてできあがった三色の薔薇は、胸元に飾るだけで雰囲気をぱっと華やいだものへと変えた。

 

「どう、ハーマン? その位置で邪魔にならない?」

 

 ロージャの問いかけに、ハーマンは構えていたファゴットを下ろして笑顔を向けた。

 

「大丈夫、問題ないよ。二人とも、すごく素敵なアイデアをありがとう」

 

 ニルスとロージャは照れたように笑った。

 

「えへへ、どういたしまして。葉っぱはニルスのアイディアなの。テストで染めた布が残ってるからって」

「僕は縫った後に形を整えるのを手伝っただけだよ。型紙も材料集めも、ぜんぶロージャがやったんだ」

「ううん、だけだなんて、そんなことない。ニルスがいっぱい手伝ってくれたおかげで、一人で作るよりももっといいものができたんだから」

「……ロージャ。それはちょっと言いすぎだよ……」

「言いすぎじゃないわ。ニルスが自分なりに全力でがんばってくれたことはちゃんとわかってるし、それにみんなにも知ってほしいもの」

「そうだね。ニルスが頑張り屋だってことは、どんなに知ったって知りすぎることがないくらいだ」

「う……」

 

 ニルスは顔を真っ赤にして、すっかり黙り込んでしまった。

 ロージャはくすりと一つ笑うと、ハーマンの胸元から造花を外して、名前が書かれたタグを葉っぱの端に縫い止めた。それから私の方を向く。

 

「アレクシスたちはこっち。アレクシスには触れないけど、なめくじさんには触れるから」

 

 ロージャは背伸びして手を伸ばすと、私の頭の上にいるエビーの胴に、くるりと細いリボンを巻いた。持ってきてくれた鏡の中で、ひとり空中に浮かんだエビーが楽しそうに触角を揺らした。リボンには小さな造花が縫い止めてあって、背中に小さな花かごを背負ったみたいだ。

 

「重くないかな? なめくじさん、だいじょうぶ?」

 

 こっくりと、エビーは頭を大きく縦に振った。

 

 

  うふふ だいじょうぶ

  かみかざりのやく まかせてね

 

 

 ダニーが尻尾をぶんぶんと振りながらやってきて、こちらを見上げる。その首輪には、エビーと同じように造花がリボンで結ばれていた。おそろいだ。

 私はゆるみそうな頬をちょっと押さえてから、チョークを手に取った。

 

 

 “ありがとう。”

 “ほんとうに嬉しいよ。”

 

 

 みんなと一緒に過ごせても、みんなと同じことをするのは、体のない私には難しい。それは仕方ないことだし、だだを捏ねるほど私だって子供じゃない。

 でも、憧れてるのも本当だから。みんなの仲間に入れてくれたことが、とても嬉しい。

 最後に演奏会だけじゃなくて、こんなに素敵な思い出を作ってもらえるなんて。

 

 黒板を覗き込んで、ロージャはくすぐったそうに笑った。

 

「喜んでもらえたなら私もうれしい。やっとアレクシスにお返しできたんだもの。でも本番の演奏会はもっともっと喜んでもらえるものにするから、楽しみにしててね」

 

 にこにこ笑うロージャの顔には、もうあの日の陰りはない。すっかり足も良くなって、杖はベッドの横に立てかけっぱなしになってしばらく経つ。

 ほんとうに、ほんとうに良かったと思う。やっぱりロージャは笑ってる姿が一番だから。

 それから、と私は下に文章を付け足した。

 

 

 “あとね。その肩掛け、すてきだね。すごくよく似合ってる。”

 

 

 深紅の毛糸で編まれた、フードつきのケープだ。複雑な編み目模様は光のあたり方で表情を変え、くるりと回ればふわりと裾が翻る。

 

「ね、すてきでしょ。マリーがね、編んでくれたの!」

「冬になる前に仕上がってよかったわ」

 

 ハンターのベストの胸元に造花を縫い付けながら、マリーはくすくすと笑った。その顔は、いつもよりちょっとだけ得意そうだ。

 

「ハンターさんから借りたケープを編み図に落として、ロージャの成長を見越しながら調整して……大変だったけど、その分いいものができたと思ってる。次はハンターさんの手袋を編まないとね。……はい、こっちもできあがり。どうかしら?」

 

 鏡を持って見上げるマリーから少しだけ視線を逸らして、ハンターは引き結んでいた口を開いた。

 

「変じゃないか」

「そんなことないわ」

 

 マリーにそう言われても、ハンターの表情は冴えない。

 

「そもそも、演奏しない者がつけるのはいいのか」

「あら。演奏会は演奏家だけじゃなくて、お客さんだってきちんとおめかしするものよ」

 

 そこまで言って、あ、と口元を手で押さえた。

 

「もしかして、ティアと同じで、こういうのはあまり好きでない? それなら、無理にとは言わないけれど……」

「ああいや、嫌ではないんだが……その、似合ってるとは、思えなくて」

 

 マリーは目をまるくして、それからちいさく吹き出した。

 

「ふふっ、大丈夫。よく似合ってるから。ね?」

「……それなら、いいんだが」

 

 ……うーん、やっぱり、元気がない。マリーも心配そうに顔をのぞき込んだ。

 

「大丈夫?」

「え、あ、いや……大丈夫だ」

「そう? 無理は、しないでね」

「そうそう、そういえばさ」

 

 ファゴットをケースに片付けながら、ハーマンが私の方を見た。

 

「アレクシス、さっき言ってた挑戦状はもらえたのかい?」

 

「ちょうせんじょう?」

 

 小首をかしげたロージャの横をすり抜け、私は机の端に置いておいた封筒を手に持って振った。マリーとニルスは戸惑った様子で、ハーマンは驚いた顔でそれぞれ私の手元に視線を注いでいる。

 

「あら? えっと……アレクシス、その封筒、どこから出したの?」

「え……もしかして、ずっとそこにあった?」

「ハーマン、気づいてなかったのか?」

 

 マリーもハーマンも、それからハンターも、それぞれ不思議そうに封筒を見つめた。

 

「なあに、どうしたの?」

「実は……」

 

 かいつまんで説明するハーマンのとなりで、封筒から出した挑戦状を机の上に広げた。

 

 

 “新しく学校に来た貴方に、挑戦状よ

 

  8枚のコインを

  学校のどこかに隠したから

  見つけて、この貯金箱に入れてみてね

 

  もちろん、隠し場所は内緒だけど

  「中庭の木」の、どれかなんて

  怪しいような気がするわ

 

 

「へえ、宝探しみたいね。なんだか楽しそう」

 

 ぱっと顔をほころばせたロージャの隣で、ハーマンはうーんと首をひねった。

 

「でも、不思議な力で隠されているみたいなんだ。ヒントの指してる場所は僕にも分かったけれど、コインそのものを見つけられるのはたぶん、ハンターさんとアレクシスだけだと思う。僕たちでは、目の前に置かれても気づけないんじゃないかなあ。この封筒だってそうだったし」

「……いや。それなら、どうにかなるかも知れない」

 

 そう言って、ハンターは封筒を手に取ると、私の頭の上にかざした。

 

 

  え?

  あ もう そういうことね

 

 

 頭の上でエビーが身じろぎした。ハンターが封筒を左右に振るたびに、合わせて体を振っているような感触が伝わってくる。

 

「先触れも反応するみたいだ。これなら」

 

 差し出されたハンターの手のひらの上で、灰色のさざ波が広がった。そこから現れた三匹の小さななめくじは、ゆっくりした動きで触角を振ったり、のたのたと這ったりしている。ハンターが封筒をかざすと、三匹とも同じ方向に触角を向けた。

 

「こいつらも反応するな。瓶にでも入れて、気になる場所で反応を見てみるといいんじゃないかと思う。たとえそのものが見えなくとも、反応がある場所に見当がつけられるだろう」

 

 へえ、とみんなでハンターの手のひらを覗き込む。エビーと違って、この子たちはあんまりきびきび動こうとはしないみたいだった。

 

「このなめくじたちは、あっちのなめくじさんと違って透明じゃないんだね」

「真珠ナメクジ、という、らしい。正直私もよく知らないんだが」

「しんじゅ? ってなあに?」

「丸いお月さまみたいな宝石のことよ。ハンターさんから貰った服の飾りにも使われてたわ。あとで見に行きましょ?」

 

 エビーもまた、頭の上で言葉をこぼした。

 

 

  あのこたちは おしゃべりできないの

  あくまで こんせきでしかないものたち だから

 

 

 ……、……どういうこと?

 落ちないように首を傾げてみたけれど、エビーは、たいしたことじゃないの、と曖昧なもやを吐き出した。

 

「調子はどうだい……って、みんな、どうしたんだ?」

 

 そんなことを言いながら、ルーリンツが入り口からひょっこりと顔を覗かせた。肩越しにはユーリヤの姿も見える。

 

「あ、ルーリンツ。ユーリヤも。あのねあのね……」

 

 説明を受けたルーリンツは、なるほどと頷いた。

 

「もうお昼だし、食べ終わったら探してみようか。でも、学校にこんな秘密が隠れてたなんてなぁ。今までぜんぜん気づかなかったよ」

「ルーリンツも知らなかったのね。ユーリヤは……ユーリヤ?」

 

 え、と声を漏らして、ルーリンツの後ろにいたユーリヤは顔を上げた。どこかぼんやりした目を、ゆっくりとしばたく。

 

「だいじょうぶ? 具合、悪いの?」

「えっと、うん。大丈夫。それで……ごめんなさい、なんだったかしら」

「この挑戦状のコイン探しのことだよ。お昼過ぎにみんなで探してみようってことになったんだ。ほら」

 

 ルーリンツから挑戦状を受け取り、ユーリヤはしずかに息を呑んだ。

 

「これ……その、私は隠し場所、ぜんぶではないけど知ってるの。だから参加できないわ」

「そうなのかい?」

「ええ。隠すお手伝いも、したから。……もちろん、隠し場所は内緒。そうね。先生、そう言ってた……」

 

 ユーリヤの細い指先が、便箋の温かな字をそっとなでた。口元が震えて、ゆっくりと笑顔へとなおしていく。

 

「みんなで探して、談話室の貯金箱に入れてみて。あの中には、とてもすてきなものが入っているから」

 

 ぱん、とルーリンツが手を鳴らした。

 

「さあ、とにかく、まずはお昼ごはんにしよう」

 

 そうしてめいめいが楽器や裁縫箱を片付ける中で、ユーリヤはそっと私の隣に立った。冬の晴れ間から覗く空のような色の目が、私の方を静かに見つめる。

 

「あのね、アレクシス。お昼過ぎ、すこし時間をもらってもいいかしら。訊きたいことがあるの」

 

 その目は見たこともないくらい真剣だった。こっくりとうなずいてみせても、少しも緩むこともない。

 ……ユーリヤには、いつか尋ねられるんじゃないかって、思ってはいた。みんなの中でユーリヤだけは、元々妖精について詳しいから。

 ユーリヤはそれきり口を閉じて、壁に寄りかかって小さく息をついた。

 

 片付けも終わるというタイミングで、ルーリンツがこっちに来て、ユーリヤの顔を覗き込んだ。

 

「ユーリヤ、大丈夫かい?」

「え、うん。だいじょうぶよ。……ねえ、ルーリンツ。私、本当になんでもないの。気にしないで」

「分かってるけど、心配はさせてほしい。まだ半年も経ってないんだからさ……そうだ。なら、戸締まりは僕とアレクシスでやっておくから、先に行って、マリーたちと一緒にキッチンのパンとお鍋を食堂に運んでおいて。……あ、味を調えるのはマリーに頼んでね」

 

 これにはユーリヤも、頬をぷくりと膨らませた。

 

「もう。私だって、ちゃんとお料理をレシピ通りに作るくらいはできるんだから」

「あはは……そのレシピがなあ……」

 

 ユーリヤを見送り、廊下の足音が充分に遠ざかってから、ルーリンツは声をひそめた。

 

「あのさ。ユーリヤ、最近調子があまりよくないみたいなんだ。本人は気にしないでって言ってるけど……。話の間、無理をしないよう気にかけてあげてほしい。僕は一階にいるようにするから、もし何かあったら呼びに来て」

 

 大きく大きく頷くと、ルーリンツはほっと表情を緩めた。

 

「任せたよ、アレクシス。さあ、窓を閉めてみんなを追いかけよう。僕は前から閉めていくから、後ろ側からお願いするよ」

 

 そうして手分けして、窓に向かう。

 窓の外はすっかり秋が深まり、葉は赤く色づきはじめている。

 

 あと、何日残っているだろう。

 

 私は冬を迎えられない。それでも、みんなと再会した月のきれいな夜のことや、あの夏の日のあたたかな夕暮れや、それから穏やかで優しい毎日の思い出は、確かに胸の中に残っている。

 私が時間の向こう側に持っていけるのは、いつだって思い出だけだ。

 だから、こんなにたくさん作れて、ほんとうに良かった。

 

 どうか。

 残された日々が、何事もなく、穏やかなまま、ゆっくりと過ぎますように。

 

 そんなことを思いながら、私は窓を静かに閉めた。

 

 

 いやだ。

 お別れなんて、いやだよ。



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ムーンダスト-2

 ぼんやりと眺める先で、秋空を白い雲が流れていく。

 

 あなたは礼拝堂横のデッキの手すりに寄りかかって座り込み、何とはなしに空を眺めていた。ベストのポケットに収まった先触れの精霊はあなたを見上げて触角を揺らし、傍らにはダニーがぴたりと張り付いて鼻を鳴らしている。

 

 昼食を終え、子供たちが持ってきた瓶にキャベツの端と真珠ナメクジを放り込み、二人きりで話があるというアレクシスとユーリヤを見送ってから、あなたはずっとこうしていた。

 

 足に寄り添うダニーのしなやかな首筋を撫でながら、胸の内からこみ上げる焦燥感を噛み潰す。

 

 

 まだ、機は来ていない。手遅れにもなってはいない。

 

 

 地下の廃駅に張り込みさせている使者たちは、まだ老人が現れたとの報を持ってきていなかった。

 焦ったとて、結果を引き寄せることはできない。そう頭で理解しても、それは感情をなだめるには至らないのだ。

 

 

 ――ハンターさん。()(けん)にしわが寄ってるよ。

 ――アレクシスも気づいてたんだと思う。いつもならハンターさんがいる時は、紙とかには書かないから。

 

 

 談話室でアレクシスを見送ったあとにハーマンから受けた心配は、澱のように胸の底に沈んでいた。

 いつも通りのつもりだった。だがそれは、本当につもりだけでしかなかったらしい。

 

 あなたの脳裏に(よぎ)るのは、覚悟を決めたあの日のことである。

 

「……妖精の出現については、人間側がある程度制御することができる」

 

 あなたの話を聞いた校長はしばらく考え込んだ後、そう切り出した。

 

「前にも話した通り、時間の移動は妖精にとって、糸にできただまとだまを飛び越えるようなものだ。そのだまを、止まった時間に生きる妖精が動かすことはできん。だが、流れる時間に協力者がいるなら話は別じゃ」

 

 その声には、先ほどまでの焦燥も震えもない。赤く腫れた目に涙の()(ごり)は残るものの、かつて見たことがないほど鋭い眼差しをあなたに向け、校長は淀みなく言葉を続けた。

 

「糸にできただまとは、人の抱える願いだ。それは懺悔や後悔とも言い換えられるだろう。人の命の時間はその古い時に囚われているがゆえに、妖精にとっては標となる。また同様に、未来に呼ぶ声が、祈りがあれば、妖精はそれに応える。ユーリヤの声に応えたアレクシスのように」

 

 校長はあなたに指示を出し、書棚から数冊の本を抜き出させた。「ロッブの森の消失」、「内海の消失」、「妖精と止まった時の考察」、そして「金枝術」。あなたが伝えられた章に目を通し終わるのを待ってから、彼は話を再開する。

 

「アレクシスの話に出てきた老いた妖精。そして君の協力者が見たという妖精は、我々の研究に協力していたローアンの妖精と同一人物と見ていいだろう」

 

 それはあなたが脳髄の奥の蠢きから得た直感と同じ結論であった。それでもと、確認するためにあなたは口を開く。

 

「一応訊くが、同一人物だと判断した根拠は?」

「大前提として、妖精の協力なしに新たな妖精が現れることはありえない。命の時間をやり取りする異能こそが、妖精を生み出すための唯一の手段だからじゃ。また、ローアンにはかつて妖精を視認できる人物がいたが、そいつによれば一度だけ、彼は成長した姿を見せたことがあったという」

 

 あなたは頭の片隅で「特別なもの」の表紙を思い出す。ローアンには確かに、妖精を見る目を持つ者がいたのだ。

 

「もう一人の候補であるアレクシスについては、あの子が妖精に戻ることはもはやないと断言しよう。仮に我々が失敗した先で金枝をあの子に委ねたとしても、決して使わないだろう。命に代えても生きてほしいと伝えても、あの子をいたずらに傷つけるだけだ。……ロージャの足の一件で、傷つけてしまった私が言えた事ではないがね」

 

 自嘲気味に笑い、校長はすぐに表情を真剣なものへと戻す。

 

「そうなれば、あとは消去法だ。君の協力者の証言どおりなら、その妖精は君を背負って運べるだけの体格を持っていた。君を本名ではなくハンターと呼んだなら、記憶を失う前に知り合ったということはあるまい。彼はハンターと名乗っている君と誼を結び、それから君を確実にここまで運ぶために、過去に(さかのぼ)ってきたのだろう。彼の体験した未来で君との間に何が起きたのか、()(きゅう)が誰の願いと命の時間に依るものかは、分からないが……」

「未来に何があったか、か……」

 

 考え込んでも手がかりはなく、脳髄の奥の蠢きも黙り込んだままだ。

 

 

 とはいえ、恐らくは己の命を使ったのだろう。その行動の帰結からして、ほかに関係者がいるとも思えない。

 

 

 あなたはそう結論づけ、校長に話の続きを促した。

 

「彼の目的……本来成長しないはずの妖精が老いるほどの試行を経て、なお叶わぬ願いについても心当たりがある。彼は事故で命を落とした友人を救うために過去を変えた事がある。おそらく同じ事をしようとしているのだ。治らぬ病に斃れた友を、取り戻すために」

 

 肘置きの手が、関節が浮かび上がるほどの力で握りしめられた。

 

「なら、その手伝いをすれば協力を……」

 

 あなたは口を挟もうとして、制するように挙げられた手の前に黙り込んだ。

 

「逝ってからもう十年近くになる。あいつの生死が変われば、その余波も大きなものとなろう。君が真に守りたいものは永久に喪われる。……それに、叶うわけがないのだよ。あの病は治療法どころか発症の原因さえ分かっていない。それをどうにかしようなど、今この時代に青い薔薇を実現するようなものだ。とても、現実的とは言えない。……ああ。だから、悪い妖精は……」

 

 何かを言いかけて、校長は力なく首を振った。

 

「話を、戻そう。あの子の証言を鑑みるに、ロッブの森に現れた妖精は、老人……サイモンの声に応えて出現している。君はかの妖精を知らず、私も彼のことは……意図的に、過去にしようとしていた。サイモンが今、どのような思想と使命に基づいて行動しているのかは分からないが、あいつの呼ぶ声が一番強いだろう。利用しない手はない」

「しかし、今まで定期的に山小屋は確認しているが、人が滞在しているような形跡はなかった。アレクシスの証言との齟齬を、お前はどう捉えている?」

「駅の横に、地下水路が見えるだろう? 山小屋からあそこまで降りる直通の階段があり、船さえあれば、あの水路から内海に抜けることができる。そして今現在、君の証言通りに山小屋が無人で、そして衣服だけが不自然に残されているなどの痕跡がなかったのならば、逆説的に悪い妖精の被害は彼らの領域を超えてまで広がっていないと考えられる」

 

 校長は引き出しから記帳を出し、簡易な地図を描いた。

 

「おおよそで悪いが、ローアンがここ。寄宿学校はこのあたりだ。内海の集落を含むこの一円は、ローアンの妖精の領域だと聞く。だからサイモンは、その更に外から船でここまで来ているのだろう。アレクシスが事情を話してくれた時に訊いたのだが、あの子は船を見ていないらしい。停船中に妖精に中に乗り込まれないよう、あいつを降ろした後はすぐに離岸しているのだろうと思う」

 

 目を閉じ、深く息を吐く。長い沈黙を経て開かれた目は、揺らぐことなくあなたを見据えていた。

 

「やはり、サイモンの声に応えた妖精を待ち、助力を乞う。未来、これから現れるであろうマルガレータから赤い指輪を得たのち、指輪自身が持つ時を移動する力で現在に帰還させる。それが最も確実だろう」

「待つのか? それで間に合わなかったらどうするつもりだ」

 

 どうしても、問う口調は荒いものとなる。睨み付けるあなたの瞳を、校長は真っ向から見つめ返した。

 

「下手な変化は彼に警戒を抱かせるだけだ。急いては事を仕損じかねない。確実に会い、逃がさない事を念頭に置くべきだ。それにアレクシスの今の心の拠り所は、間違いなく演奏会にある。あの子が消える前に妖精が森に現れるのを待つのは、冬の川に彼女が現れるのを待つよりは確実じゃ。妖精の女王から恋人を取り返した、勇敢な乙女の寓話に倣おう」

「しかし……」

「心配になるのも分かる。だが、君の協力者が見たという光景と、君をここまで運んできた妖精。この情報のお陰で、いくつかの懸念は消えた」

 

 校長はメガネを掛け直す。その奥の(しん)()な眼差しがあなたを捉えた。

 

「かつて私が言っていた、学校の外にいる悪い妖精の事は、何一つ気にしなくていい。すべては既に終わっているのだ。君がここに来た、あの日に」

 

 その意味への問いを遮るように、校長は言葉を続ける。

 

「アレクシスと君たちのおかげで、ローアンで起きた消失事件の全容は朧気ながらつかめた。だが現状で確定できる結論は、彼と君がかつての未来において誼を結んだという、それだけだ。だからこそ、可能性に甘んじて過程を疎かにし、結果取り逃がすような真似だけは避けねばならん」

 

 校長は膝の上に置いた「金枝術」を軽く叩いた。

 

「もし予断を許さない状況になれば、私が呼びかけを行う。君には冷静に、あの子の様子を注視してもらいたい」

 

 あの日から今日に至るまで、あなたは常に気を張り続けている。アレクシスの身に起きるであろう異常を見逃さないために。そして、それを子供たちには悟られないように。

 だがそのうちの半分は、目論見通りには行っていなかったらしい。

 

 太腿にあごを乗せて心配そうに見つめるダニーを、ぐしゃぐしゃと撫でる。耳の裏を重点的に掻いてやると、気持ちがいいのかぺったりと体重を預けてきた。先触れの精霊もポケットから触角を振って自己主張していたが、そちらには特段反応せずに、あなたは何度目かのため息をついた。

 

 このことを当事者であるアレクシスに伝えるか。あなたはそれを決めあぐねていた。

 校長は、秘密裏にことを進めたいと主張している。仕損じる可能性がある現状、ぬか喜びをさせたくはないのだと。ただ、あなたの意見もまた尊重するとも言っていた。あの子の内面についてはあなたの方がよほど理解しているだろうから、自分よりよい判断をしてくれるだろうと。

 そうして選択はあなたに委ねられ、しかし未だに選ぶことができていない。

 

 

 何故、アレクシスは「見えない妖精たち」の第一巻を隠した。

 

 

 それがどうしても、胸の奥に引っかかって抜けない。

 嘘をつき続けている自分が言えた立場にないことは、あなた自身がよく理解している。だが、自分自身で末路を選んだあなたとは違う。あの子がここに居続けてはいけない理由など、ないはずだ。

 

 

 はじめの頃、あの子は皆に再会できた事を喜んでいた。拙かった言葉を絞って、己に礼を伝えたほどに。

 なのに、どうしていつか来る別れの事実を隠したのか。

 どうして――

 

 

 ダニーが顔を上げた。爪を鳴らして立ち上がり、尾を振りながら礼拝堂の中を覗き込む。車輪が軋む音がして、ほどなく老人が礼拝堂の暗がりから現れた。

 

「おや。先客がいるとは思わなかった」

「……ああ。グレイブズか」

 

 あなたは首を元に戻した。車椅子のハンドリムに手をかけた校長を制し、後ろに回って押してやる。

 

「助かる。……それにしても、感慨深いな」

「何がだ?」

 

 問いに、しかし校長は穏やかに笑うばかりであった。あなたは釈然としないまま、定位置まで車椅子を押した。

 

「アレクシスは?」

「今はユーリヤといる。二人きりで話があると。現状変わったところはない」

「分かった。引き続き頼む」

 

 頷き、あなたは手すりに腰を預けた。ひざの上にあごを乗せたダニーを撫でながら、校長はあなたをちらりと見る。

 

「そう言えば、アレクシスがコイン探しの挑戦状を取りに来た時に、君が何枚か見つけていたと聞いたが……」

「え? ああ。掃除とか、片付けの最中に」

「どれを見つけた?」

「医務室と二階の倉庫に落ちていた分だ。それと、あと音楽堂の、あの……シロフォン、のと」

「ああ。なら残りは何とかなるじゃろう。音楽堂のものは、ヒントを見つけるのが一番の難問だろうから」

「どこにあるのか、知っているのか?」

「なに、仕掛け人からどこに隠したのか、全部聞いているというだけさ」

 

 一瞬、校長の目尻に光るものが見えた気がした。それは目を凝らす間もなく消え、彼は微笑を浮かべたまま言葉を続ける。

 

「八枚のうち二枚は少々危ない場所にあるから、子供たちが無理をしないように気に掛けてもらえるだろうか。場所は時計塔の梁の上と、その近くの踊り場から出て屋根のふちを伝った先の、袋小路になった場所じゃ」

 

 あなたは頷き、そして首を傾げた。時計塔の梁は、子供たちどころかあなたでも梯子が必要な程度には高い。

 

「あんなところに隠して、気づけるのか?」

「ヒントはほかにもあるからな。それに子供たちも、思い出は失われても、心の奥深くでは覚えているから大丈夫だろう。彼女はこういう遊びに関しては、一切手心を加えない質だったと」

 

 校長の笑みがどこか苦笑じみたものへと変わった。それをじっと眺めながら、あなたは昼前のことを思い出していた。子供たちの中でたった一人だけ、隠すのを手伝ったと明言した少女のことを。

 

「……何故、子供たちの中でユーリヤだけは、アレクシスやその女性のことを覚えていられたんだ」

 

 探るような重い問いかけに、しかし返ってきた声の調子は普段と変わらないものであった。

 

「ユーリヤは、妖精の起こしうる事象とその整合について、知識として、そして経験として理解しているからじゃろう。あの子の両親は妖精の研究者であったし、あの子自身もよく面倒を見てもらっていたからな」

「面倒を? それは……」

「彼は……ロビンは、ユーリヤのことをずいぶん可愛がっていたよ。大人になることができないあの子にとっては、歳の離れた妹のようなものだったのだろう」

 

 一拍ののちに瞠目したあなたを見て、校長は静かに微笑んだ。

 

「この辺り一帯は元々、私の家で管理していた土地だ。ここも元々古い寄宿学校ではあったのだが、当時は使われなくなって久しくてな。そんなおりに父の知人からの紹介を受けてやってきた学者が、管理も兼ねて借り受けたのさ。私は彼に勉強を見てもらっていて、その娘であるマリヤともずいぶん競ったものだ。ニコラスが拾われてここで暮らすようになってからは、彼も加えて、三人で」

 

 穏やかに、ひどく穏やかに校長は語る。

 

「サイモンは私の遠縁にあたる。マルガレータは先生が雇っていた家政婦の娘だ。そして最後に、事件に巻き込まれたマリヤとニコラスをロビンが助けてくれた。それをきっかけにして、私達は妖精と友になった」

 

 校長はメガネを外し、レンズを服の裾で拭った。

 

「……楽しかったよ。本当に楽しかった。恐らく君がここでの日々に感じてくれているのと、同じくらいには。違うとすれば、私もマリヤもユーリヤたちと比べて()()やんちゃだったという事じゃろう。もうずいぶん昔の話で、生きているのは三人だけになってしまったが」

 

 かけ直されたメガネの奥で、白濁した目が何かを見つめるように細められた。

 

「ロビンは妖精だ。だがそれ以外は、私たちと何も変わらない。普通の子供だったのだ。……本当なら、私たちが支えてやらねばならなかったのに」

 

 秋の涼やかな風が梢を鳴らし、池にさざ波を立てながら過ぎゆく。舞う枯れ葉が水面に落ちて生まれた波紋は、すぐに波に紛れて定かではなくなっていった。

 子供たちの声は遠い。さざめくような優しい声たちは、その意味を受け取るにはうっすらとぼやけていた。ここでの会話も、彼らには届くことはないだろう。

 

 やがて、風が止んだ。

 

「……なあ、頼むから譲歩してはくれないかね。君たちだけに任せるわけにはいかない。子供たちの親代わりとしても、ロビンの友人としてもだ」

 

 口調こそ穏やかであるが、その視線と声は鋭い。寄り添っていたダニーは面を上げ、そろそろとデッキから降りるとその下に潜り込んだ。

 

「私が()(おもて)に立つ。ロビンの説得は、私が行う。本来責を負うべき者が安穏と待ったままで、君たちに任せるだけなど、できるものか」

 

 それは、あなたが意図して避けていた話であった。視線を床に落とし、言葉を絞り出す。

 

「……言いたくはないが、仮に妖精と敵対するような状況になった場合、お前を守り切る自信は私にはない」

「そうならない為に行くのだよ。説得と言えど、結局は彼の情に訴えかけるよりないのだ。面識のない君たちだけでは確実に手に余る」

 

 そんなことは分かっている。あなたは口からついて出そうになった言葉を飲み込んだ。

 説得というならば、初対面のあなたではなく古くからの友人であるという校長が適任である。そんなことは、あなたとて承知している。

 

「だが、お前が言っていた事だろう。過去を変えれば、そのために命を捧げた事実もなくなるのだと。向こうとてその認識で動いているだろう。今ここにいるお前を手に掛けたとしても、願いを遂げた先で健在ならば、と。サイモン氏がそうだったという事実がある以上、お前も同じ扱いをされる可能性は高い」

「アレクシスの証言を聞く限りでは、サイモンはその場に現れた妖精がロビンだったとは気づいていなかったようだ。正気を失っているかもしれないという危惧は、アレクシスからの情報で排する事ができた。彼の性格なら、話しかけられれば一度は話を聞こうとしてくれるだろう。その機を逃せばすべてが終わりだ」

 

 必死に考えた意見さえ、すぐに整然と反論される。議論で校長に敵うはずもないあなたが拮抗できているのは、足の悪い彼が森まで行くにはあなたの助力が必要だからに過ぎない。だからと言って、彼が這ってでも森へ向かう可能性は排除しきれなかった。

 あなたは唇を噛んだ。夢に依るあなたと違い、校長は死ねばそれきりだ。それすら見透かすように、校長は首を横に振った。

 

「死ぬつもりはもうない。だが、安全圏で待っているだけなどできるものか。あの子だけは、取り戻せるかもしれないのに」

 

 白濁した目の奥で狂気じみた光が揺らぐのを、あなたは見た。

 死ぬつもりはなくとも、必要とあらば即座に自身の命を投げうってでもアレクシスを救うだけの覚悟があるのだろう。

 

「お前が最善を尽くしたいのは分かる。だがそれは、その場だけを凌ぐものでは駄目だ。危険は妖精だけではないんだ。それに……妖精の事が一段落ついて学校が外に開かれた後、周囲の悪意や偏見から子供たちを守れるのはお前だけだろう」

「それは……」

 

 あなたの反論に、校長ははじめて言葉を濁した。

 

「……君では、難しいかね」

「無理だ。荒事であればいくらか役には立つとは思う。だがそれだけではないのだろう。他者の悪意に不慣れなあの子達を、そういうものに鈍い私では守れない」

 

 校長は俯いた。あなたもまた、ともすれば胸を食い破りそうな焦燥を必死に留める。

 

 有り得る未来は見えている。あなたをここまで運んだ妖精は、ローアンの妖精ロビンである。その直感はあなたの脳髄の奥の蠢きがもたらし、校長もまた同じ見解を示した。彼はおそらく未来において、あなたと誼を結んだのだろうと。

 しかし、そこに至る道筋は、未だに何も見えていない。

 

 説得は成功したのか。成功したのなら、それはどのような筋道を辿ったがゆえか。後は任せると言われるほどに親交を深められたのは、いかな理由があったのか。

 何も判然としない以上、校長の話も尤もではある。同時に、既に古い友人を手に掛けているかの妖精が、校長には手心を加えてくれるという根拠のない希望を、あなたはどうしても抱くことができなかった。

 

 アレクシスを救いたい。その思いはあなたも校長も同じである。だが、命を賭してもアレクシスを取り戻したい校長と、校長も含め、この寄宿学校の皆を失いたくないあなたの間には、大きな溝があった。

 

「私は……君に、伝えられていない推測がある」

 

 震えを隠すような、絞り出す声だった。メガネの奥の白濁した目は、揺れながらもあなたを見つめている。

 

「人の良い君のことだ、明かせばすぐに態度に出るだろう。それだけは避けねばならないと、黙っている事がある。だから……」

 

 遠く扉の向こうで、床が軋む音がした。

 

 言葉を切った校長と一瞬、視線が交わされた。その間にも足音はだんだんと近づいてくる。

 あなたはドアノブに手を掛け、ゆっくりと開けた。その先にいた驚いた顔の少年はデッキにいる二人の緊張した表情を認め、メガネの奥の目を気まずそうに伏せた。

 

「あ……えっと、ごめんなさい。お話の途中なら、邪魔するつもりは……」

「いいや、気にする必要はないとも」

 

 校長の声は微かに震えが残ってはいるものの、ほとんど平静に戻っていた。あなたへ目配せしたあとで、車椅子をニルスの方へ切り返した。

 

「それで、どうしたのかね、ニルス?」

「ええと……」

「ニルス、おまたせ。……あれ、校長先生だ。ハンターさんも」

 

 その後ろからロージャが小走りで駆けてくる。その手に抱えた薬品瓶の中で、口を封じるガーゼを真珠ナメクジが触角で確かめていた。動揺を飲み込み、あなたは二人に目を向けた。

 

「あー……コイン探しか?」

「うん。ニルスがね、閃いたことがあって」

「ハンターさんたちが最初に見つけたヒントに、お気に入りの場所ってあったよね。お気に入りの場所なら、きっとそこでゆっくり過ごしたいんじゃないかなって思ったんだ」

 

 僕もそうだから、とニルスははにかみ笑いをこぼした。

 

「それで、音楽堂の正面にある、ここの椅子のことを思し出したんだよ。でも、校長先生。なにかご用事があるなら、あとで出直しますけど……」

「気にしなくていい。続きはまた後で構わないだろう、ハンター」

「ああ。ほら、こっち」

 

 気後れした様子のニルスの背を軽く叩いて促し、二人をデッキへと連れ出す。校長の車椅子を断ってから端に寄せ、あなたも再び手すりに腰掛けた。

 

「この椅子、あんまり気にしたことなかったから、こんなにまじまじ見るのははじめてかも。隠すとしたらどこかな?」

「足の下とか、見てみる? 僕に持ち上がるかな……」

「退かすなら言ってくれ。やるから」

「うーん、もうちょっと調べてからおねがいするわ。なめくじさん、かなり近くにないと気づけないみたいなの」

 

 フレームや座面の下に瓶を近づけては、ナメクジの様子を確認して首を傾げている。

 

「……うーん?」

 

 しばらくして、ロージャは難しそうな声を上げた。

 

「なめくじさん、どこにも反応してないね」

 

 二人の目が、薬品瓶の中に向けられた。真珠ナメクジは我関せずといった様子で、キャベツの端を齧っている。

 

「お気に入りの場所だから、ゆっくり座れるこっちの椅子だと思ったんだけど……ベンチの方だったのかな?」

 

 あなたはそっと校長の顔を伺った。焦った顔で椅子とデッキ、それから池を見ているあたり、ここに隠してあったのは間違いないようだ。

 校長の視線を追って、あなたもデッキから池を見下ろした。睡蓮の葉が浮かぶ水面は穏やかに澄み、しかしその底には落ち葉がずいぶんと積もっているようだった。

 

 黙り込んだ大人たちを後目に、子供たちはひざの埃を払って立ち上がる。それを呼び止めるようにどこからともなく猫の鳴き声が聞こえ、ロージャが椅子の足の辺りを覗き込んだ。

 

「あれ?……あ、ティア」

 

 再度、猫の鳴き声がデッキの下から漏れ出した。同時に、所在なさげな犬の鳴き声も。

 

「どうした?」

「ここ、穴が空いてるの。板が割れちゃったみたい」

「分かった。ハーマンと後で直しておく」

「それにしても、ダニーがもぐり込んでるのはよく見るけど、ティアがここにいるのはめずらしいね。こっちに出ておいでよ、校長先生もいるよ」

 

 ニルスの呼びかけにも、返事のようにひとつ鳴くだけで動こうとしない。

 

「……なんだろう。何かで遊んでるみたいだけど、うまく見えないな」

「そんなところでか?」

「うん。枯れ葉でもないみたいだ」

 

 ニルスと位置を変わり、隙間を覗き込む。ティアの手は、猫じゃらしで遊んでいる時のように何かをつついていた。そして再度、鳴き声を上げる。

 あなたは瞳を凝らした。小さな隙間の下で、ティアの手に押され、(しゃく)(どう)(いろ)がちらりと横切る。

 

「……あった」

「え?」

「コインだ。取ってくる」

 

 デッキの手すりを乗り越えて庭に降り、その下を覗き込む。行く手を(ふさ)ぐダニーの胴を軽く叩くものの、気のいいイングリッシュ・フォックスハウンドは珍しく嫌そうな顔で鼻を鳴らすばかりだ。お気に入りの場所から立ち退きを迫られるのは、誰であっても気分のいいものではないらしい。

 

「あー……悪い、ちょっと」

 

 嫌がってじたばたする大型犬の脇を抱えて引きずり出し、デッキの上の校長に預けて再度潜り込んだ。ほとんど腹ばいになりながら、ティアの元へ進んでいく。ヤーナムですらかつて経験したことのない狭さに悪戦苦闘するあなたの頭上で、校長の話す声がくぐもって聞こえた。

 

「ところで、演奏会の練習の方はどうかね?」

「ばっちりです。ニルスと一緒にたくさん練習したんです」

 

 どうにかティアの元へ辿り着く。気難しい黒猫はあからさまに嫌そうに目を細めて耳をいからせた。たびたびキャットニップを強請られるせいか、最近ではティアがどのような気持ちかずいぶん読み取れるようになってきた、とあなたは自負し始めていた。読み取れたからといって、ティアがあなたの言うことを聞くかはまた別の話になるが。

 いつものようにキャットニップで気をそらしてから、あなたはコインに手を伸ばしてつまみ上げた。

 

「ロージャはもう心配ないくらい上達してて、僕もそれなりにうまく吹けてると思います。マリーもハーマンも張り切ってて、本番をすごく楽しみにしてるみたいです」

「私にとってはじめて演奏する側で、それにみんなにとっても、はじめて校長先生のほかのお客さまがいる。アレクシスとハンターさんにとってもはじめてね。だから……きゃっ?」

 

 床板に頭を数度打ち付けながら、あなたはキャットニップをだきしめてうっとりと脱力するティアを連れ、デッキに戻った。

 

「ハンターさん、大丈夫? すごい音してたけど……」

「……少し、痛い。それより、ほら」

 

 見栄を張りつつ、あなたは二人へコインを差し出した。瓶に近づければ、真珠ナメクジはキャベツを齧るのを止めて触角をそちらへ向けた。

 

「隙間から落ちてしまったんだろう」

「えっと……数字は1!」

「これで残りは四枚だね」

「うん。……あ、そうだ。演奏会のことなんだけど」

 

 ロージャはきらきらした目をあなたへ向けた。校長の膝にティアを乗せながら、あなたもロージャを見る。

 

「まだ本番まで時間あるから、ハンターさんとアレクシスにも、楽器を演奏してもらうのはどうかな?」

「え」

 

 突然話題の中心に引っ張り出されて、あなたは服の埃を払う手を止めて目を瞬いた。

 

「いや、それは……」

 

 アレクシスのこと、そしてロッブの森に現れるであろう老いた妖精のことがある以上、楽器の練習に割ける時間はない。だがそれをそのまま伝えたることには抵抗があった。

 

 縋るように見つめた先で、校長は困ったように微笑むだけだった。あなたは目を泳がせる。

 

「その……まず、あの、あれ……あの紙の……」

 

 楽譜。

 

「そう、がくふ、が読めないから……」

「読み方なら教えるよ。打楽器のなら、そんな難しくないから」

「え、あー……」

 

 あなたは曖昧な呻きを漏らした。どう言えば本当のことを隠したまま、意思を伝えられるのか。そんな都合の良い言い訳など、思いつけるはずもないのに。

 

 煮え切らない態度を、どのように受け取ったのだろう。ロージャはくすくすと笑い声をこぼした。

 

「心配しないで。ユーリヤがね、昔言ってたの。ちょっと間違ったり、ずれたりしても、それだっていい思い出になるんだって。毎年毎年積み重ねていく中で、こんなこともあったねって、思い出話になるからって」

 

 思い出、と、あなたは繰り返した。

 

「うん。ハンターさんには、もっとたくさん、みんなと一緒に楽しい思い出を作ってほしいもの。日記に残しておかないと忘れちゃうくらい、たくさんね」

 

 そう言ってロージャは笑う。白いリボンでまとめた赤い髪を風に揺らしながら、ユーリヤやマリーがよく向けてくれるような、安堵するような笑みを。

 あなたを思いやるその笑顔に、ただ自覚する。

 

 

 本当のことを伝えるのが怖い。

 それは今でもあなたの脳裏にこびり付いた恐怖である。穏やかな日々をいくつ重ねても、あの下水道での惨劇を忘れることはできなかった。その悔恨は、未だに胸の奥深くに突き刺さっている。

 

 

 だが、皆の気持ちを無碍にしたくないと、与えてくれたものに報いたいと思ったのも、己自身ではないか。

 

 

 あなたは息を深く吐いた。その間に、伝えてはならないことを頭の中で整理する。

 

「……裏で、グレイブズと色々やっている事があるんだ。だから、演奏は興味はあるが、その……今は、私はそちらに注力したいと思っている」

「そうなの?」

 

 きょとんとしたロージャの隣で、ニルスはどこか不安そうに目を細めた。

 

「なにか、あったの?」

「あったというか、事が起こる前に、何も起きないようにしようとしている。今はあまり話せない」

 

 先に、アレクシスに話を付けなければならないだろう。あの子が隠したことは、未だあなたの中で燻っている。だが、だからといって黙って皆に広めていい話ではない。あの子に話し、納得してもらって、ほかの皆に伝えるのはそれからだ。

 

 

 皆で、何の(うれ)いもなく、演奏会を楽しむために。

 その先で思い出話をして、懐かしみ、笑うために。

 

 

 あなたは服の下の狩人証に触れた。硬い感触を確かめ、ロージャへと眼差しを向ける。

 

「気持ちは嬉しい。それに、演奏会は私も楽しみにしているから。アレクシスを誘ってやってくれ。きっと、喜ぶ」

「そっか。ちょっとだけざんねんだけど……ハンターさん、がんばってね」

 

 微笑むロージャを見つめて、あなたもまた、意識して口元を緩めた。

 

「ああ。頑張るよ」

 

 

 うまく笑えていただろうか。

 皆がいつも、己に向けてくれているように。

 

 

 ロージャは満足そうに笑って、ニルスへと振り返る。

 

「アレクシス、どんな楽器なら演奏できるかな?」

「うーん、太鼓とか、あとは鈴とか、手に持って演奏できるやつかな。シロフォンもやれそうだけど、ユーリヤに悪いから。本人に相談してみよう。……本当は、妖精の声だっていうオルゴールが直せたら、一番いいのだろうけど」

「あ……」

 

 一気に表情を曇らせたロージャに、ニルスは慌てた様子で、ほんの少しだけ低い位置にある目線に高さを合わせた。

 

「ご、ごめん、ロージャ。気にしないで。あれは、あいつが食いしん坊なのが悪いんだし……」

 

 気まずい様子の二人を眺めながら、あなたは呟く。

 

「……オルゴール」

 

 果たしてそんなものがあったか。少なくとも、あなたにそれらしきものの見覚えはなかった。

 

「うん。音楽堂の壇の上に、足のついた大きな箱があったでしょう。あれはオルゴールなんだ。今回演奏する曲が流れるんだよ」

「あれが?」

 

 あなたの知るそれより大きいことに、思わず目が丸くなる。

 

「今は歯車が足りなくて鳴らないんだけどね。だから、ほかの楽器を探して、アレクシスに試してもらわないと……」

「いや、少し待ってくれ」

 

 あなたは振り返り、肩越しに私を見た。吐息と変わらないような声でささやかに問う。

 

「直せるか?」

 

 実物を確かめなければはっきりしたことは言えないが、相応の血の遺志さえあれば。あなたの手持ちの死血で充分足りるだろう。

 

「? ハンターさん?」

 

 不思議そうな二人の横で、校長は息を呑んだ。

 

「……協力者か。直せる、のか?」

「見せてみてだな。ただ、できると思う」

 

 ロージャはあなたと校長の顔を交互に見た。

 

「えっと、よく分からないけれど、直せるかもしれないってこと?」

「ああ」

「ほんと!?」

 

 ぱっとロージャの顔に喜びが広がる。一方で、ニルスは表情を崩さない。

 

「でも、どうするの? 歯車なんて、簡単に作れるものではないと思うけど……」

「心配はいらない。トニ……あー、もっと複雑な構造の機械を壊した時も、何とかなった」

「なんとかって、どういう風に……?」

 

 あなたは工程を思い返した。そしてすぐに首を振る。

 あんな血なまぐさい話を子供たちに聞かせたくはないが、しかし無碍にしたくないと再確認したばかりではないか。思考は堂々巡りを繰り返し、やがてその中に先人からの知恵が浮かぶ。

 

「あ、ええと、答えづらいなら、いいんだけれど……」

「……、…………手品、で」

 

 人間、そうそう変わるのは難しい。

 

 ニルスは眉間を押さえて首を振る校長の姿をちらりと確認し、困ったように笑った。

 

「えっと……うん。分かった。なら、全部任せるよ」

「アレクシス、よろこんでくれるといいな。あの子にはいつも、いろいろなことで我慢してもらってばかりだから」

「そうだね。それに……」

 

 ロージャの後ろで、ニルスは礼拝堂へ振り返った。目を細め、すぐに体勢を戻して、ロージャの肩を軽く叩いた。

 

「さあ、ルーリンツに報告に行こう」

「うん、わかった。ハンターさん、ありがとね。それからよろしくね」

 

 そう言って、二人は礼拝堂を駆けていく。静けさを取り戻したデッキに、校長の声がぽつりと落ちた。

 

「……あのオルゴールは、ロビンとニコラスからの贈り物だった」

 

 振り向いた先で、校長は池を眺めていた。行儀よく座ったダニーの隣で、ひざの上に乗ったティアを撫でながら、さざ波立つ水面に視線を落としている。

 

「だから歯車を失ったと聞いた時、私は安堵した。もうかつての友と話す機会など一生ないと突きつけられたのだと、安心したのじゃよ。彼らの罪を知ることも、彼らに私の罪を知られることも、もうないのだと」

 

 あなたは校長の隣に立った。

 

「……だが、まだ、その機会は失われていないのだろうな」

 

 どこか苦いものをにじませながら、彼は微笑んだ。

 

「火は灰を残して消えるにせよ、あとに残るのは黄金なのだ*1。……月塵、か」

 

 そうして、彼はあなたを見つめる。加齢によって白濁した目は、しかとあなたを捉えていた。

 

「ロビンに伝えてくれるか。たとえどのような道を辿って来たのだとしても、また語り合える日は必ず来ると信じている。かつてお前がオルゴールと共に贈った手紙に書いたように、と」

 

 あなたは虚を突かれて校長を見つめ返した。言外に何を伝えたいのかを分からぬほど、彼との付き合いは浅くはなかった。

 

「……いいのか?」

「ああ。彼の説得より、君を説き伏せる事の方が手間取りそうだから」

 

 冗談めかして笑いながら、校長はゆるゆると首を振った。

 

「説得の切り口は、また夜にでも話し合おう。アレクシスの事も、それからロビンの事も。任せてもいいかね、ハンター」

「……ああ」

 

 あなたがそう答えると、校長は静かに笑みを深めた。

*1
ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」(訳文・富士川義之編「対訳 ブラウニング詩集」岩波文庫)



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ムーンダスト-3

 お昼過ぎ、ユーリヤに連れられて来たのは屋根の上だった。

 

「足下、気をつけてね」

 

 時計塔の窓から外に出て、屋根の縁をすこし進んだ先。袋小路のようになっている場所に腰を下ろして、間に持ってきた小さな黒板を置く。

 

 私はユーリヤの横顔を見上げた。襟元の古びたブローチはいつものように鈍く柔らかに光を受け止めていて、けれど頬はいつもよりどこか白く見えた。

 何を訊かれるのかは、予想がついている。ユーリヤは指輪を得られなかった妖精がどうなるか、知っているだろうから。

 ……でも、それにどう答えればいいのか。どんな風に答えたら、納得してもらえるのだろう。

 ユーリヤが元気になって、みんなが冬の森で消える原因もなくなって、校長先生が川に身を投げることもない。それどころかハンターやエビー、それからこまどりの子が学校にやってきて、前よりずっと賑やかになった。

 みんな、欠けずに全員いる。それで充分だ。いいや、充分以上のはずだ。だからもう、何をする必要もない。

 

 俯いた視線の中で、ユーリヤの足下に積もった落ち葉の中にきらりと光るものが見えた。手を伸ばして拾い上げたのは、6と刻まれたコインだ。

 

 ……こんなところに、なんで?

 

「……え? アレクシス、それ……」

 

 ユーリヤもびっくりした様子で、差し出したコインを受け取ってまじまじと見つめた。風雨に晒されていたとは思えない、青さび一つない赤銅色が、陽の光を弾いて光っている。

 

「こんなところにもあったのね。先生、遊びにはいつも真剣で、あんまり手加減とかしてくれない人だったから……」

 

 

 “そうなの?”

 

 

 優しそうな人だって印象しかないからちょっと意外だ。ユーリヤはしっかりとうなずいて、コインのふちを指でなぞる。

 

「うん。ルーリンツがチェスの手ほどきを受けたときとかも、だいぶ容赦がなかったみたい」

 

 口元にうっすらと笑みが浮かびかけて、だけれどそれはすぐに消えてしまった。コインをポケットにしまって、また、気落ちした様子でそっと息をついた。

 やがて、ユーリヤは窺うように、私の顔のあたりを見つめた。

 

「アレクシス。あなたは……あの日、どうして私に指輪を返してくれたの?」

 

 訊かれると思っていた質問じゃなくて、私はすこしだけぽかんとした。指輪を、返した理由。ええと。

 

 

 “約束したから。”

 

 

「それは、誰と?」

 

 ……それは。

 みんなからユーリヤを助けてって、そしてユーリヤからみんなを助けてって頼まれたから。

 でも、それを伝えたら、どこまで伝えなくちゃいけなくなるんだろう。もう終わったことを、気にしてほしくないのに。

 

 手の中で、チョークの先が力のこもっていない線を引いた。それを見つめて、ユーリヤは唇を噛みしめた。

 

「最近、ずっと考えてたの。あなたが優しい、素直ないい子だって、分かってる。みんなのことをすごく大切に思ってくれてることも。だから不思議だった。そんな子が、きっと聞こえてたはずの聖母さまの言いつけを聞かないで、そのまま指輪を返すようなことがあるかしらって」

 

 聖母さま……って、もしかして、あの声のことだろうか。でも問いかける隙間もなく、ユーリヤの言葉は続く。

 

「もし、あの日。あなたがそのまま指輪を受け取って妖精になったとしたら、どうなるかしら。私はいなくなるけれど、みんなはあなたと友達になるわ。きっと椅子の場所を決めたり、いたずらして驚かせたり……それだけでは済まないって、妖精の力を知ったみんながどうするかなんて、心のどこかでは分かっていたはずなのに」

 

 膝の上に置かれた手が、ぎゅっと握りしめられた。

 

「最初から、黒板にみんなの絵を描いてくれたあの時から、ずっと答えは見えてたのね。……あなた、未来から戻ってきたのでしょう。私がいなくなってしまったせいで起きたことを、変えるために」

 

 私はなにも答えられなかった。ユーリヤも、それで確信したみたいだった。

 

「……ごめんなさい。指輪のない妖精さんは、いつか消えてしまう。なのに」

 

 ぽつり、と落ちた声は今にも消えてしまいそうだった。それはまるで、あの日、悪い妖精になってしまった時の声のようで。

 

 

 “違うよ、ユーリヤ”

 “謝ることなんてなにもないの。私はしたいことをしたのだから”

 

 

 慌ててチョークを黒板に走らせた。そんなつもりじゃないのに、ユーリヤを傷つけるつもりなんてなかったのに。

 

 

 “私は、ユーリヤのことも、みんなのことも大切だよ。だから助けたいって強く思ったんだ。それで、ちゃんと取り戻せたんだよ。それ以上のうれしいことなんてないよ。”

 “だいじょうぶ。後悔なんてしてないから。そんな風に思い詰めないで。”

 

 

 伝えたいことはたくさんあるのに、書ききれない黒板の小ささが、気持ちと思いを言い表すには少なすぎる言葉の持ち合わせがもどかしかった。

 ユーリヤの顔は変わらず、沈んだままだ。

 

「ねえ。あなた、未来でロビンには会った?」

 

 聞いたことのない名前だった。

 

「私の知ってる妖精は、あなたを含めて三人だけ。ロッブの森に古くから棲む、あなたを妖精にした聖母さま。それから、お父さんたちの大切な友達の、ロビン。だから、あなたがもしほかの妖精に出会ったなら。それはきっとロビンよ。新しい妖精は、妖精の助けがなければぜったいに現れないから」

 

 ほかの、妖精。

 私の知ってる妖精は、私を入れて三人だけだ。一人は私のせいで悪い妖精になってしまったユーリヤ。それから、もうひとりは。

 黒板にチョークを当てる手の震えを、止めることはできなかった。

 

 

 “知り合い なの?”

 

 

「うん。私にとっては、すごく優しいお兄さんだった」

 

 

 “だって でも”

 “あのひとは  森に行ったみんなの命の時間を、”

 

 

 その続きを、どうしても書くことができなかった。

 それにきっと別人だ。ユーリヤにとってすごく優しいお兄さんだったひとが、あんなことするはずない。

 

 するはずないのに、ユーリヤは、ああ、やっぱり、と、ため息のような声を漏らした。

 

「……私、ずっと考えないようにしてた」

 

 うつむいた拍子に、灰のような髪がさらりと流れて横顔を覆った。

 

「どうしてこんなことになったのか。この先、どうなっていくのか。ずっと考えないようにして、思い出だけを見てた。このままじゃいられないって、いつか壊れてしまう日が来るって、分かってたのに」

 

 鼻をすする音がして、声が湿り気を帯びる。

 

「あの人のことだって、そう。いつも自分のことは後回しにしてるのに、私にはもっとわがままを言っていいんだよって、心配してくれてた。そのことだけ、思い出にして。ロビンが、あんなに優しかった妖精さんが、悪い妖精になってしまったなんて……信じたく、なくて……」

 

 ユーリヤは力なく首を振った。

 

「ごめんなさい。あなただけに背負わせて、本当にごめんなさい。背負わせて、傷つけて、なのに、なにも、返せなくて……」

 

 ぽた、と、しずくがエプロンに落ちる音がした。それを聞いた瞬間、腹の底からなにかがこみ上げてくる。

 

 ……だめだ。

 このままなんて、絶対にだめだ。

 ユーリヤをこんな風に苦しませたまま、消えるなんてできない。そんなの、絶対にいやだ。

 

 黒板に押しつけたチョークが軋んだ。

 

 考えろ。違うと伝えるだけではユーリヤには届かなかった。

 それは何が違うのかさえ、ユーリヤは知らないからだ。私が未来から戻ってきたことと、指輪を返したこと。それから遠くないうちに消えてしまうことしか知らないから。

 

 私はチョークを握り直した。

 伝えなくちゃいけないこと。ユーリヤがきっと知りたいこと。私が、妖精だったころのことをどう思っているのか。

 心の中でひとつひとつ確かめて、黒板に先を当てる。

 

 

 “ユーリヤ。私ね、最初はなんだかよく分かってなかったんだ。”

 

 

 チョークが黒板を叩く音に、ユーリヤはよろよろと顔を上げた。

 

 

 “あなたはこれから妖精になるの、なんて声が聞こえて、気づいたら二階の倉庫にぼんやり立ってた。”

 “廊下に出て、窓の向こうに白い粒がちらほら浮いてるのが見えた。それが雪だってことも、あの時はよく分からなかった。”

 

 

 ユーリヤは赤くなった目を瞬いて、黒板を見つめている。

 

「……アレクシス?」

 

 

 “最初の頃は、手もにぎったり開いたり、後はものを掴むくらいしかできなかった。”

 “思い描く動きと実際のとがなんだかずれてるような気がした。廊下に置いてあった鍵を取って、扉の鍵穴に差し込むのも大変だったよ。”

 

 

 どうか、否定しないで。悪いことだったなんて思わないで。

 確かに苦しかったし、つらいこともたくさんあった。けれど、それはたった一つの願いがあったからだ。

 知ってほしい。

 どれだけみんなが、ユーリヤにもう一度会いたかったのかを。

 

 

 “鍵を開けて部屋に入ったら、空のベッドが三つ並んでた。”

 “そのうちの一番奥のベッドの上に、金枝がぽつんと浮かんでた。”

 

 

「えっと。私たちは、いなかった、の……?」

 

 ためらいがちに、ユーリヤは首をかしげた。

 

 

 “うん。ティアだけは、きちんと見えたけれど。”

 “廊下にいた校長先生も、ベッドで寝ていたはずのマリーとロージャも、それから金枝を持っていたユーリヤも。”

 “どうしてか、あの時の私には見えてなかったんだ。”

 

 

 あれはどういうことだったんだろう。考え込みそうになる前に、首を振って疑問をはらった。

 

 

 “時間を跳んだ先は、九月十七日だった。なんでかな、年は分からなかったけど、日付は分かった。”

 “その時にね、はじめてユーリヤに会えた。”

 “お手紙をもらったんだ。私たちと友だちになってくれませんかって。この花を咲かせてくれたらきっとあなたに気づいて、それからずっと忘れないって。”

 

 

 ユーリヤは考え込むように、口元に手を当てた。

 

「去年の……。あの日は……あなたに呼び掛けて、でも、何も起きなかった。花は枯れたままだったし、あなたのために用意した葡萄もそのままで、夕ごはんにみんなで食べたの」

 

 妖精がいないのだから、あの日のことも、ユーリヤが笑いかけてくれたこともなくなったのか。当たり前のことなのに、胸の奥がちくりと痛んだ気がした。

 

 

 “食べることはできなかったけれど、ぶどうの命の時間を奪って、花を咲かせた。”

 “そうしたら時間が動き出して、ユーリヤは笑ってくれたんだ。はじめまして、応えてくれてありがとう、って。”

 “今でも覚えてる。すごくどきどきして、笑ってくれたのが本当にうれしかったな。”

 

 

「そう、だったの……だから、あなたがはじめて描いてくれたあの絵は、百合の花を持っていたのね」

 

 腑に落ちたようにユーリヤはうなずいた。

 ……今更だけれど、あの絵も消さないで残しておけばよかったな。あの時ユーリヤが残念がっていた理由が、今ならなんとなく分かる。

 

 

 “次にたどり着いたのはね、今年の十月二十日だった。今からすると、ほんの少しだけ未来だね。”

 “学校の中を見て回ってたら、ユーリヤがいたの。廊下のかどに隠れて、私宛の手紙を持って、キッチンを覗いてた。”

 

 

 ユーリヤは不思議そうに目をぱちぱちした。

 

「私? でも、あなたが妖精になったのなら、私は……」

 

 

 “いてくれたんだよ。命の時間をなくして、幽霊になって、みんなには見えなくなってた。”

 “それでも、待っててくれたんだ。いたずらしようって、誘ってくれた。”

 “みんなにあらかじめハーブの入ってた小瓶を渡して、思い思いの場所に隠してもらったから、それを探してお鍋にぜんぶ入れちゃってって。”

 “味見したルーリンツがひっくり返るくらい、強烈だったみたいだよ。仕掛けた本人が心配してたなぁ。”

 

 

「シチューに入れてたのなら、ローリエかな? 確かに、そんなに入れたらすごいことになるわ」

 

 

 “でも、よろこんでたよ。ユーリヤのシチューの味だって。”

 

 

 血の気の失せていたユーリヤの口元に、ちいさく、だけど確かな笑みが浮かんだ。

 

「そうなのね。すこし、うれしいな。……そうだ。久しぶりに、キッチンに入らせてもらおうかしら。ルーリンツもマリーもだめって言うけれど、でも私だってレシピ通りに作ることはできるもの」

 

 ルーリンツも言っていたけど、たぶんそのレシピが問題なんだろうな。「世界のハーブ料理」だったっけ。きっとみんな大騒ぎだし、ハンターなんてお薬と併せたらひっくり返ってしまうんじゃないだろうか。

 でも、その様子を想像するとちょっと楽しい。こっそり笑って、私は続きを黒板に書く。いざとなったらルーリンツががんばって説得してくれるだろう。

 

 

 “最初はね、ニルスは妖精のこと、よく思ってなかった。”

 “ロージャの足の()()のことがあったし、それに、ユーリヤのことも。”

 “今なら仕方ないって思うけれど、あの頃はちょっとさみしかったな。”

 

 

「それは……そうね。ニルスにとって、ロージャの怪我は……」

 

 

 “そんな時に、校長先生に呼ばれて、あの冬の夜にロージャが怪我をしないよう取りはからってくれって、頼まれた。”

 “その時がはじめてだった。そうと分かっていて、誰かの命の時間を奪うのは。”

 

 

 あの時の気持ちは、たぶんずっと忘れられないだろう。強い感情を抱いたわけじゃない。むしろ逆だ。

 なにも思わなかった。

 弛緩した校長先生を眺めて、動かなくなってしまったと、その程度しか思っていなかった。それよりも頼まれたことに意識が向いていて、校長先生のことは心配もしていなかった。

 止まった時の世界だから動かないことと、流れる時の世界でも動かなくなってしまうこと。その違いを、あの時の私は理解していなかった。

 

 

 “ロージャの怪我がなかったことになって、だから校長先生も、命の時間を捧げる理由がなくなった。”

 “ニルスも、妖精のことを受け入れてくれるようになってた。”

 “その時はそれでよかった、って思ってた。”

 “みんなが出してくれた椅子の位置を選んで、それから、歓迎もかねて演奏会を開いてくれることになった。”

 “今度の演奏会と同じ曲だった。オルゴールは、妖精の声だからって。”

 “でも、   ユーリヤも歌ってくれたら、きっともっと素敵だったのに、って。”

 

 

「……、…………うん」

 

 

 “その時に、オルゴールを直すために、私はヌーを生き返らせた。音楽堂の二階の窓辺にいた蛇の命の時間を奪って、ヌーに与えた。”

 “それで、みんなは気づいて、外に出たんだ。人間と同じくらい大きな生き物の命の時間があれば、またユーリヤに会えるかもしれないから。”

 

 

 私は一度、チョークを止めた。先ほどの微笑みはすっかり消えて、ユーリヤはじっと黙り込んだまま黒板に目を落としている。

 あの夜のことを、ぜんぶユーリヤに伝える必要はないはずだ。ユーリヤが何よりも知りたいのは、きっと。

 

 

 “ユーリヤ。私は、冬の森で妖精に会った。”

 “でも、そのひとは、ユーリヤの思っているような、外の生き物の命の時間をみんな奪うような、そういう悪い妖精じゃなかった。”

 “自分が何をやってるか、自覚してた。”

 “それは間違いないと思う。自覚して、人の命の時間を必要としてた。”

 

 

 短く息を吸い込む音がした。

 引き結ばれていた唇がわななきながら開いて、その端から細い声がこぼれ落ちる。

 

「そんな……どうして……」

 

 

 “そうしてでも、叶えたい願いがあったから。”

 

 

「……え?」

 

 ユーリヤは、静かに目を見開いた。

 

 

 “人の命の時間は、古い時間に囚われているがゆえに、過去への導きになる。”

 “あのひとは変えたい過去があるんだと思う。だから何度も繰り返しては、過去に戻ってる。”

 “たぶん、私が知ってるより、たくさん。”

 

 

 あのひとは、それこそ縫い目のないシャツを仕立てるような、あるいは1エーカーの土地にくまなく蒔いた一粒の胡椒を革の鎌で刈り取って、小鳥の羽で束ねるような、そんな到底叶えようもない願いに応えようとしているのだろう。

 

 

 “でも、妖精の力は、そんな都合のいいものじゃないから。過去を変えようとしてうまくいくことなんて、ほんとうに少ないんだ。”

 “それは分かる。私も、あのひとと同じことをしたから。”

 “私は運がよかっただけだ。ひとつ何かが足りなかったら、今でも妖精のままだったと思う。”

 

 

 はじまりのきっかけが、すべてを終わらせる鍵でもあった。だから私は今、こうして流れる時の中でユーリヤの隣にいる。もしそのボタンが掛け違っていたら、きっとあのひとと同じように、あの冬の日を繰り返してた。

 

 

 “私はあのひとがこわいよ。”

 “なにを考えてるのかとか、どんな願いに応えたいのかも、分からない。”

 “でも、ロージャの命の時間を奪った時に、目をそらしてたのは覚えてる。”

 “私に言えることは、それくらいだけれど。”

 

 ユーリヤはなにも言わなかった。ぎゅっと結ばれた口元はかすかに震えていた。

 知りたいことは伝えられただろうか。それとも、ぜんぜん足りていないのだろうか。ユーリヤを見ても、私には分からなかった。

 

 私は再度チョークを握り直す。

 うまく伝えられるか、自信はないけれど。

 

 

 “ユーリヤ。”

 “私は、みんなの気持ちを受け取った。”

 “どんなに危険でも、みんな、もう一度会いたかったんだ。ユーリヤに会いたくて、がんばって、うまくいかなくて、あんなことになっても、それでも諦めずに私に託してくれた。”

 “ルーリンツの覚悟も、ニルスとロージャの後悔も、ハーマンとマリーの想いも、私と友達になってくれたあの日々も。全部なかったことになったとしても。私の中に今もある。確かにあるんだ。”

 “みんなの気持ちは、想いの欠片は、ぜんぶ、私が背負って、連れてきた。”

 

 

 再会したあの日。ユーリヤは、返ってきた指輪はとっても温かかったと話していた。それはきっと、私の中に残っていたみんなの想いが、指輪を通して伝わったからだ。

 

 

 “苦しかったよ。もう一度同じ事をしろなんて言われても、もうできないかもしれない。それくらい、かなしくて、つらかった。”

 “だけど、歩いてきた道のり全部を悪かった思い出にして、心の底に押し込めたくない。だって、うれしかった思い出も、ちゃんとあるから。”

 “ユーリヤと一緒にしかけたいたずらのことも。”

 “私のための椅子の場所を決めてくれたことも。”

 “みんなが私のために開いてくれた演奏会のことも。”

 “大切なんだ。私の生きてきた時間なんてほんのちっぽけで、それもほとんどなかったことになってしまったけれど、それがあるから、私は今こうしてユーリヤの隣にいる。”

 “ユーリヤが背負わせてくれたからこそ、私はここにいるんだ。”

 

 

 奇跡みたいな時間だった。

 別れが避けられないと分かっていても、みんなに会えたことを、それから一緒に過ごせたことを、後悔なんてしない。

 

 

 “ユーリヤ。私はね、幸せだよ。”

 “あなたが笑顔でいてくれること。一緒にいてくれること。それが本当に特別なものだと知っているから。”

 “だから、謝らないで。謝ることなんて何もない。”

 “大切な人たちを、全員、取り戻したんだ。こんな私でも、できたんだ。”

 “きっとこれが誇らしいってことでしょう?”

 

 

 ハンターがあの時言ってくれた言葉は、どれだけ私を救い上げてくれただろう。なにもできなかったわけじゃない。みんなを取り返して、後に繋いだ。それはすごいことだって。

 ひとでなしの私でも、ここにいてもいいんだと認めて、受け入れてくれた。たとえそれが叶わない夢だとしても。

 私自身はもういられないけれど、それでも、みんなが許してくれるなら。

 

 

 ”だから、”

 “どうか、忘れないで。”

 “たまにでいい。私を思ってくれたら、私がいた日々をいいものだったって思ってくれるなら、うれしい。”

 

 

 いやだ。

 まだ、みんなと、一緒にいたい。

 

 

 ユーリヤに、私の姿が見えてなくて、ほんとうによかった。

 だって、わがままを言って、困らせたくない。

 無理だと、叶わないと分かってる願いを伝えて、余計に悲しませたくないんだ。

 

 ユーリヤの手が、チョークを握る私の手に重なる。

 

「……あなたの涙を、拭ってあげられたらいいのに」

 

 その声はどうしようもないくらい優しくて、目からぼろぼろとこぼれていた涙の勢いは弱まるどころかどんどん強くなっていく。

 

 

 “見えてないでしょ”

 

 

「うん。でも、あなたが泣いてるのはわかるの。……同じ時間の中に、いるから」

 

 頬のあたりを、ユーリヤの白い指がなぞった。かすかにぞわぞわした感触がして、でも涙がその指先に残ることはない。

 

 私は人間じゃない。だから、一緒にはいられない。仕方ないことだ。

 そんなの分かってる。でも、そう自分に言い聞かせるたびに、また新しい涙がこみ上げてくる。

 早く泣きやまなくちゃ。ユーリヤに気にしてほしくない。それにハンターに見られたら、きっと心配させてしまう。

 

「……ううん。あげられたら、じゃないわ。あなたやみんなが私にしてくれたように。今度は私が、あなたを」

 

 ……ユーリヤ?

 涙でぼやけた視界では、ユーリヤがどんな表情なのか、うまく見えない。でも聞こえてくる声はひどく真剣で、何だか胸が騒いだ。

 

「あなた自身の命の時間は、聖母さまが指輪に変えて、それをマルガレータ先生が持っていってしまった。その指輪はまだ、先生が持ってる。冬の嵐の夜には、赤い指輪の光は今でも桟橋に現れる。……待つだけの時間が残っていないとしても、ロビンなら」

 

 確かめるように、ユーリヤはひとつひとつの言葉を噛みしめる。涙を拭って見上げた先には、今まで見たこともないくらい真剣な顔をしたユーリヤがいた。

 

「手伝ってもらえたら、先生の持っている指輪を、あなたに返せる。ロビンが、私の話を聞いてくれたなら」

 

 ……なに、言ってるの。

 まるで、あのひとに会いに行く、みたいなことを。

 

「お母さんとの約束もあるもの。ロビンに会って、話をしなくちゃ」

 

 ないはずの心臓が軋んだ。

 

 

 “ユーリヤ やめて”

 “だめだよ あのひとは止まらないよ”

 

 

 目的そのものは分からないけれど、何があったとしても止まらないことは分かる。たとえユーリヤがあのひとの知り合いだとしても、止まるはずがない。

 

 だけれど、涙が途切れた向こうで、ユーリヤは真剣な表情を崩さない。

 

「心配しないで。校長先生ときちんと相談するわ。みんなとあなたが繋いでくれたこの命の時間を、気安くなげうったりはしない」

 

 右手の赤い指輪をぎゅっと握りしめて、雲間から覗く冬空のような青い目が私をまっすぐに見つめた。

 

「でもね。私は、あなたが思ってるよりずっと意気地なしだけれど……ここであなたのことさえ仕方ないなんて諦めたら、二度と自分を許せなくなる」

 

 こらえるように震えていた目尻が、口元が、くしゃりとゆがんだ。

 

「あなたが言ってたのとおなじ。みんな、どんなに苦しくても、もう一度私に会いたいって思ってくれてたって。私だってそうなの。あなたが、大切だから」

 

 私の肩に額を預けるように俯いて、ささやき声で叫ぶ。

 

「アレクシス。私は、あなたとまだ一緒にいたい……!」

 

 心の中に、なにかが落ち込んで、沈んでいく。

 ぐるぐるとまとまらない頭の中に浮かび上がってきたのは、誰もいなくなってしまった学校の中で崩れ落ちたみんなの服と、それから。

 

 

 ――私、命を失くしたくせに、それでも、みんなと一緒にいたくて。

 ――だからきっと罰があたって、悪い妖精になっちゃったの……

 

 

 だめだ。

 それを選んでは、いけない。

 

 私はチョークを黒板に押し付けた。

 

 

 “そう言ってもらえるだけで、私は幸せだよ。”

 “ありがとう。今まで、本当に楽しかった。それで充分だ。”

 

 

「アレクシス、だけど……」

 

 なおも言い募ろうとするユーリヤを遮るように、私はチョークを動かした。

 

 

 “ユーリヤ。私はもう、ずっと昔に命の時間をなくしたんだ。”

 “これ以上望むなんて、罰があたるよ。”

 

 

 息を呑み、唇を引き結んで、ユーリヤは黙り込んでしまった。

 その顔を見ていられなくて俯く。

 だめだな、私は。心配、かけたくなかったのに。

 

「……ハーマン、マリー! あのね、さっきルーリンツにも伝えたけど、メモのヒントにあったコイン、見つかったよ!……」

「……僕たちも、挑戦状にあった中庭のコインを見つけられたんだ。あと、図書館にも一枚あったよ。……」

「……これで合わせて六枚ね。残りはどこにあるのかしら?……」

 

 足下からみんなの声が聞こえてくる。楽しそうな声がどこか遠く思えた。

 視界の端で、握りしめられていたユーリヤの手が緩むのが見えた。

 

「……戻りましょう。つきあってくれて、ありがとう。今は、聞きたいことは、全部聞けたから」

 

 

 “わかった”

 

 

 そう書いた黒板を、ユーリヤは手に持って立ち上がった。どんな顔をしてるのかを見られないまま、私はユーリヤのかかとを追う。

 どうすれば良かったんだろう。

 気に病んでほしくなくて、でも、本当のことを伝えたら、今度はこんなことになってしまった。

 ……私は、結局……――

 

 かちゃん、と、上の方で響いた音に、私は足を止めて振り返った。

 

 そろそろと階段を上がって、時計台を覗き込む。飴色の床板の上で、きらりと赤銅色が光っている。5と刻まれたコインを拾い上げて、私は首をかしげた。

 ……どこから?

 立ち上がって、見上げる。太い梁と、屋根の裏が見えるだけだ。

 

 まさか梁の上にあったのだろうか。それがたまたま落ちてきた、とか。……そんなことがありえるのかな。

 

 でも、さっき聞こえてきたみんなの話を合わせると、これでぜんぶ揃ったことになる。

 これで、あの人が遺したものを、みんなに渡すことができる。

 きっと喜ぶべきなのに、心は重く沈んだまま動くことはなかった。

 

 マルガレータ。これでせめて、あなたへの罪滅ぼしになればいいのだけど。

 

 

 

 

「いち、に、さん、し、ご……」

「ろく、なな、それからはち。これで全部だね」

 

 八枚のコインを並べて、ロージャとハーマンは顔を見合わせて笑った。その後ろで、ルーリンツたちはメモホルダーを囲んでいた。

 

「それにしても、隠し場所を書き出してみると……よく今日中に全部見つけられたよなぁ」

「庭のはわかりやすかったけれど、図書室のはまさかこんなところに、ってびっくりしちゃった。それからユーリヤたちが持ってきてくれた二枚も」

「梁の上のは、アレクシスが気づかなかったら掃除の時に隙間に掃き込んじゃってたかもね。……そのまま落ちてこなかったとしても、だいぶ難しいけど」

 

 話すみんなの中に、ユーリヤの姿はない。屋根の上にあったコインを渡して、揃ったのを見届けたら、止める間もなく足早にどこかへ行ってしまった。

 

「よし、じゃあ入れてみようか。ほら、アレクシス」

 

 促されて、私はコインを一枚手に取った。投入口に入れると、きりきりと音がして小窓の数字が1に変わる。後ろにいるみんなの口から、おー、と感嘆の声が上がった。

 みんなで一枚ずつ入れていって、最後にハンターが断ってから残りを放り込む。仕掛けが動く音がして、きい、と軋みながら前蓋が開いていく。

 

「……やっぱりうまく見えないな。ハンターさんとアレクシスは?」

「見えている。取るぞ」

 

 ぽつんと納められていたものを、ハンターは手を伸ばしてつまみ上げ、まじまじと見つめた。

 

「これは……皆の小指の指輪、か?」

 

 隣にいたルーリンツが、その横に左手を並べて見せた。サイズは違うけれど、素材や編み方は同じものみたいだ。

 

「ユーリヤがとてもいいものって言ってたのは、これだったのね」

「新しく学校に来たあなたに、って挑戦状には書いてあったから、新しい子が来た時に、宝探しをしながら学校に慣れてもらうつもりだったのかもね」

「うーん、でも、それにしてもやっぱり難しいよ。材料だって普通にあるし、見つける前に僕たちで作ってあげてたかも」

「ははは……先生、遊びについては真剣で、手加減とかぜんぜんしてくれない人だったからなあ……」

 

 みんなの輪からはずれて、私は壁にもたれ掛かる。埋まったその奥にぞわぞわした反発を感じながら、必要のない息を深く吐き出した。

 

 あの人が残したものを、せめてみんなに渡したいと思っていたのだけれど。これならみんな持ってるものだから、意味、あんまりなかったかも。

 なんだか今日はつかれたな。

 私は、どうするべきだったんだろう。

 そんなことがぐるぐると頭の中で巡っていて、答えを掴もうとしても形を捉える前にするりと逃げていってしまう。

 

 ……どこを間違えたのかな。そもそもぜんぶ、間違ってたのかな……

 

「……なあ、これ。多分、あいつでも着けられると思うんだが」

「そうなのかい? でも、うん。すごくいいアイディアだと思う」

 

 革靴の硬い足音がして、頭の上から影が差した。顔を上げると、ハンターが指輪を手にこちらを見ていた。

 

「アレクシス。左手を」

 

 ……えっと。

 きょとんとして、見つめ返す。ハンターはもう片方の手を差し出した。

 

「ほかにつける者もいないんだ。ほら」

 

 もしかして、私に指輪をつけようとしてるの?

 でも、この指輪は私に宛てたものではないはずだ。挑戦状には、新しく学校に来たあなたに、って書いてあったのだから。それに私は人じゃないから、きっとつけても落としてしまう。

 だから、私がはめるなんて、そんなのは。

 

 返事をする前にハンターは私の左手をさっとつかんで、小指に指輪を通してしまった。

 小さな指輪はすり抜けることなく、まるで当たり前のようにぴったりと指に留まっている。手のひらを握りしめ、開いても、落ちたりしない。

 

「指輪、また消えちゃった……?」

「いや。アレクシスの指にちゃんとある。消えたように見えたのか?」

「う、うん。ふしぎね、ほかのものは渡しても、見えづらくなるだけで見えるのに……」

 

 不思議そうに小首を傾げながら、ロージャは私の隣に並んだ。左手を開いて前に掲げ、ぱっと笑う。

 

「でも、これでおそろいね。うれしいな」

 

 みんなと、おそろい。

 親も故郷も違う。それでも、ここにいるみんなは絆で結ばれている。それを()した贈り物だと、聞いている。あの人の日記にも書いてあった。学校をあの子たちの家にしよう、私たちはあの子たちの親になろう、って。

 じわじわとおなかの底から気持ちがわき上がってきて、私はぎゅっと手を握りしめた。

 

 ……ああ、でも。

 ここにあの人がいたら。許してくれたのかな。

 

 ぽた、と、手の上に金色のつぶが落ちた。

 すぐに溶けてなくなるそれを、私はぼんやりと見つめた。

 たくさん泣いたばかりなのに、いったいどこから溢れてくるんだろう。

 

「……アレクシス? どうしたの?」

「おい、具合が悪いのか?」

 

 慌てたようなハンターの問いかけに、首を何度も振る。

 

 胸が苦しい。

 さっきユーリヤと話していた時とは違う苦しさが、喉の奥深くに詰まる。

 こみあげるものを我慢しようとして、耐えきれずにその場にしゃがみ込んだ。

 

 私はあの人のこと、なにも知らない。

 会ったこともない。声だって分からない。今感じているこれは、きっと私の中に残ったユーリヤの気持ちだ。

 そう自分に言い聞かせても、胸を締め付けるような苦しさはいっこうに消えてくれない。

 

 どうしてあなたはここにいないんだろう。

 たとえ私のことを恨んでいるとしても、あなたから話を聞いてみたかった。あなたと顔を合わせて、言葉をやり取りしてみたかった。

 どんな声なんだろう。どんな風に笑うのだろう。私が生まれた時、どんなことを思ったんだろう。

 今ここにいる私のことを、アレクシスとして認めてくれたんだろうか。

 そんなことさえ、もう知るすべはないのだ。

 

 節ばった温かい手が、私の肩に触れた。

 

「本当に、大丈夫、か?」

 

 覗き込むハンターの手を取って、人差し指をそっと当てる。

 

 

 “なんでもないの 気にしないで”

 “おかしいよね、私はあの人とお話したこともないのに”

 

 

「え、あ……」

 

 ハンターはなぜか、とても苦しそうにうめいた。その後ろでみんなも心配そうにこちらを見ている。早く、落ち着けないと。

 ロージャがハンターの隣にしゃがんで、私のいるあたりを見つめた。

 

「……アレクシス。指輪、いやだった?」

 

 

 “違うんだ”

 “おそろいはうれしいよ”

 “でも私が持ってていいのかな”

 “隠した人は許してくれるのかな”

 “私にあてたものじゃないのに”

 

 

 ハンターの通訳を聞いて、ロージャはそっと息をついた。

 

「あのね。挑戦状を残した人のことは、私はなにも知らない……ううん、たぶん、覚えてない、けれど。でも、きっと探して見つけてもらえるのを、楽しみにして隠したと思う。それは挑戦状の字を見るだけで伝わってくるもの」

 

 すごく温かい字だった、とロージャは小さく微笑んだ。

 

「私たちだけじゃずっと見えない、見つけられないままだったけど、だからアレクシスが言い出してくれて、なめくじさんたちの力を借りて、こうやってみんなで探せて、隠した人もほっとできたんじゃないかなって。だから、持ってていいと思う。私は、そう思うよ」

 

 そうかな。そうだと、いいな。

 

 私は指輪を人差し指でなぞった。指先に感触はないけれど。確かにそこにある。

 

 あなたはどうして、いなくなってしまったんだろう。

 もし、あなたがここにいたら。私のことを、どう思ってくれていたんだろう。



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ムーンダスト-4

2/28:加筆修正。また、前書きに残っていた編集時のメモ書きを削除しました。失礼いたしました。
3/1:修正
3/12:加筆
11/7:修正


 本当なら、私は誰にも気付かれずに消えていくはずだった。

 

 はじまりはあの誰もいない学校で、私は妖精に、そしてユーリヤは幽霊になったことだ。

 ユーリヤの時間を奪って指輪を得た私と、命の時間を奪われて、幽霊として消えていったユーリヤ。そして最後に指輪を返して、ユーリヤは人間に戻り、私は幽霊とも呼べない妖精のなりそこないになった。

 

 幽霊だったころのユーリヤは11月3日に消えてしまった。なら、指輪を得なかった私もきっと同じくらいはいられるのだろう。その間はずっとみんなといられる。誰にも気づいてもらえないとしても。私と友達になってくれた小さな日々が、永久に失われたとしても。その思い出は私だけが抱えたまま、あの日のユーリヤのように誰にも気付かれないまま、消える。

 

 だって、なにも起きないのが一番の幸せなのだから。

 指輪を返した次の日の朝、笑い合うみんなを見て、そう思った。

 

 さみしい。さみしいけれど、仕方ない。それよりみんなが、ユーリヤが笑っているのを見られるのは、嬉しい。強がりだけど、本当の気持ちだ。それにさみしさにもすぐに慣れる。そう思っていたし、そういうものだって、受け入れていた。

 

 だから、皆とまた友達になれた時は本当に嬉しかった。

 

 私がいることに気づいてくれて、アレクシスと呼んでくれた。妖精さん、と呼び掛けてくれる声の優しさも好きだけれど、アレクシスと呼ぶ時の温かさも、今確かに一緒にいるんだって感じさせてくれるから好きだった。いつの間にか、私はほんとうにアレクシスになっていた。止まった時の世界にいた頃は、実感のない他人事のような名前だったのに。

 

 体のない私を気遣って、いろんなことを一緒にやらせてくれた。ご飯の準備や、毎日の掃除や、本の虫干しとか服に空けてしまった穴を目立たずに繕うこつ。食べたり飲んだりできないし、匂いもさわり心地も分からない。ものを持つことすら、気を抜くと取り落としてしまう。そんな私でもできる仕事を与えてくれた。

 

 みんなとすこしでもお話をしたくて、文字や言葉もずいぶん覚えた。伝えられることが増えるのはうれしくて、でも覚えれば覚えるほど伝えきれないことも同じくらいたくさん増えた。もどかしくなることも多いけれど、ありがとうと伝えられた時に返してくれる笑顔が大好きだから、いくらでもがんばれた。

 

 それから、私に気付いて声を掛けてくれたあの人。校長先生よりずっと若くて、ルーリンツよりは歳かさな、大人の人。

 最初はわたしをものすごく警戒していて、壁に押さえられたりもした。あの鳥のくちばしのような歪なナイフでざっくり傷付けられれば、きっと妖精だってひとたまりもない。過ぎたことだし、もう私を傷つけないと分かっている今は、こわくないけれど。

 鋭いようでわりと鈍感で、教わったことはなんでもそつなくこなせるように見えて、不器用な性格で。たまに見栄を張りたがることもあるけれど、すごく頑張り屋で。

 あの人が、ハンターが来てくれたから、私はまたみんなと知り合えた。それはどれほどの幸運だろう。もしハンターがいなかったら、私はひとりきりのまま、時の雪が降る暗闇に消えていくしかなかったのだろうから。

 

 そう。分かっていたことだ。

 私は、みんなとはずっと一緒にはいられない。

 だって自分自身の命の時間をなくしてしまったのだから。このまま消えるのがいちばん正しいことだと分かってる。

 だから。だけど。

 

 今は幸せだ。止まった時の世界では考えられなかった毎日が、楽しくて、嬉しくて、苦しい。

 残りの日々を、みんなと一緒に大切に過ごす。それがどれだけ贅沢なことなのか知っているはずだ。

 これ以上を望んではいけない。望んでも絶対に手に入らないものをねだっても、仕方がない。

 

 ユーリヤの命を留めて、みんなのことも助けられた。それはハンターが言ってくれた通り、私にとって一番に誇れることだ。それに誰かの命と引き換えの妖精の力なんて、私はいらない。みんなが笑ってくれていることの方がずっと大切なのだから。

 

 分かっていたことだろう。

 だから、納得しろ。

 

 川面から顔を上げて、空を見た。

 秋の日はどんどん短くなっていて、空の縁はもうだいだい色がにじんでいる。太陽は建物に隠れてしまって、裏庭にも、桟橋の上にも、うっすらと影が覆い被さっていた。

 

 私は膝をかかえたまま、左手の小指を見つめた。感触はなくとも、小さな手編みの指輪は確かに指にはまっていた。

 

 ……もし、あの人が妖精と同じものになってしまっているなら。

 ここで呼びかければ、応えてくれるだろうか。

 

 すぐに自分の浅ましさに首を振った。そんなやくたいもないことを考えたところで、あの人が人間として帰ってくることはもうないのに。

 

 今日は本当に疲れたな。

 うれしいのかも、悲しいのかも、今はよく分からない。

 

 ユーリヤとのことと、手編みの指輪を遺したあの人のこと。頭の中から考えてることが溢れそうで、でも考えないようにしても落ち着いてくれない。これ以上なにかあったら本当に零れてしまいそうな気さえした。

 

 後ろで扉が開く音がして、草を踏む音が近づいてくる。それが誰のものかすぐに聞き分けられたけれど、振り向くことすら億劫だった。

 

「アレクシス」

 

 呼びかけられて、ようやく私は顔をそちらに向ける。ハンターは私の隣に腰を下ろすと、ベストのポケットでぴょこぴょこと触角を振っていたエビーを私の頭に乗せた。

 どこか心配そうな靄を吐き出したエビーを、安心させるために指先で数度つつく。それからハンターの手を取って、いつものように指を当てた。

 

 

 “どうしたの?”

 

 

「お前に言わなければいけない事があるんだ」

 

 うまく説明できるかは自信がないが、とハンターは前置きして、背筋を伸ばして私をまっすぐに見つめた。つられて、私も姿勢を正した。

 

「お前を、人間に戻せるかもしれない」

 

 ……、……えっと。

 思わずぽかんとして、ぴんと伸ばしていた背中から力が抜けた。頭上ではエビーがぱたぱたと尾を振っている。

 

 

  あのね だめよ とめたほうが いいわ

  いまは うけとめきれないと おもう

 

 

 指でつついてだいじょうぶだと伝えてから、さっきハンターが言っていたことを頭の中で繰り返す。

 えっと。人間に戻せる、って。

 

 

 “その、”

 “ごめんなさい。なに言ってるの?”

 

 

 まるで冗談のような話だけれど、ハンターの顔は冗談を言っているようには決して思えなかったし、そもそも冗談自体言う人じゃない。たとえ冗談だとしても、なんでそんなことを言い出すのか、理由が分からない。

 

 ハンターは困ったように眉根を寄せて、整理するようにゆっくりと話し始めた。

 

「お前自身の命の時間は、失われていない。指輪としてお前の母親がまだ持っている。だからそれを取り戻せれば、お前はユーリヤと同じように、人間として過ごせるようになる、はずだ」

 

 ぽかんとしたままの頭で、どうにか整理していく。私の、母親。なら、あの人の指にある赤い指輪のことだろうか。

 でもあの時のユーリヤと違って、私の体はどこにも残っていない。それにそんなことがうまくいくのだろうか。そんな都合のいい話があるなんて。

 ぐるぐると考え込む間にも、ハンターの話は続く。

 

「ただ、彼女が現れる条件を待つだけの時間はない。そのために、ロッブの森に現れる老いた妖精に助力を請うつもりだ」

 

 頭の中が真っ白になった。

 

 まとめようとしていた事柄ぜんぶが消し飛んで、ただ、ロッブの森に行くという言葉だけが残る。

 

 なんでそんなこと言うんだ。

 

 胸の奥で気持ちがぐちゃぐちゃになって、その中からふつふつと何かが沸き上がってくる。

 

 ユーリヤも同じことを言っていた。行って、あのひとに会うと。

 

 なにが起きたのかも話したのに。二人とも知ってるはずなのに。

 

 なんでそんなことを。

 

 ユーリヤの時とは違うなにかが、喉元にこみ上げてくる。

 

「その事を皆に伝え……アレクシス?」

 

 立ち上がった私を、ハンターは不思議そうに見上げた。その瞳の優しさが、なぜか、気持ちを更に苛立たせた。

 右手を掴み上げ、手のひらに指を押しつける。

 

 

 “私は”

 “そんなことしてほしいなんて 一度も言ってない”

 “なんで”

 “やめてよ だって なにかあったら もう  とりもどせないのに”

 

 

「な……」

 

 息を呑む音が聞こえた。ハンターは大きく目を見開いて私のことを見つめている。

 

 納得しようとしてるのに。お別れは仕方ないって。私はみんなを取り返した。それで充分だって。

 なのに、なんで今更そんなことを言う。

 

 気持ちがぐちゃぐちゃなのにとがって、そんなこと伝えたら傷つけるって分かってるはずなのに、胸の奥から飛び出すのを止められなかった。

 

 

 “やめてよ ユーリヤも ハンターまで”

 “そんなこと考えてなんになるんだ”

 “私は そんなこと 望んで”

 

 

 望んでいる。

 お別れしたくない。まだみんなといたい。そう、思っている。

 

 認めてしまえば、それはひどく簡単なことだった。

 

 そうだ。泣いているのも、気持ちが落ち着かないのも、結局は別れが嫌だからだ。いなくなったら悲しんでくれる人たちだって分かってる。消えるのを黙っていたことを、怒ってくれる人たちだって。

 

 だけど、私なんかのために誰かが苦労して、そのせいで深く傷つくくらいなら、失われてしまうなら、黙っていなくなった方がいい。同じくらい強く、そうも思っている。

 

 わがままなんて言いたくない。

 叶わない夢を無理にねだって、いったいなんの意味があるというんだ。

 もう一緒にはいられない。なら、せめていい思い出にしてほしい。そう思い込もうとしていたのに。

 

 なのに。なんで、そんなことを今更言うんだ。

 ユーリヤも。ハンターまで。

 

 

 “二度と  そんな   勝手なこと

 

 

 書き終えるより前に、手のひらを見つめていたハンターの顔がかっと染まった。

 

「……なら、お前だってずっと黙ってただろ!」

 

 勢いよく立ち上がり、そう荒げられた声は芯から震えて、変な風にうわずっていた。今まで見たこともないくらい顔を真っ赤にして、ハンターは叫ぶ。

 

「お前だって……お前だって! 本を隠したりして、勝手に皆に黙っていなくなろうとしただろ! この……馬鹿!」

 

 ばか?……、…………ばか!?

 ひどいこと言った! ばかだなんて、ハンターがすごくひどいこと言った!!

 

 衝動のままに睨み付ける。ハンターは怒った顔をすぐに崩して、あからさまにうろたえ出した。

 

「え、あ、いや……」

 

 その手をつかんで、手のひらに人差し指をぎゅっと押しつけた。

 

 

 “そっちこそ  ばかなことしないで   二度と だから”

 

 

 だから私のことなんて気にしないで。

 

「あ、おい!」

 

 引き留める声を無視して、私はその場から駆け出した。

 

 ハンターに見つからない場所。追いつかれないところ。

 

 どうしてこんなことになるんだろう。

 

 学校の中に入って、がむしゃらに走る。

 

 大切に思ってくれていることは分かっている。

 だけど。

 

 二階からばたばたと急いだ足音が聞こえてくる。誰とも顔を合わせたくなくて、とっさに私は伝言用の黒板が置いてある部屋に飛び込んだ。

 

 後ろ手に鍵を掛けて、その場にずるずるとへたり込む。イーゼルに立てかけられた黒板には、みんなの字でコイン探しの(しん)(ちょく)が書いてあった。

 

 幼い字、丁寧な字、大人びた字。見つけた報告と、読んだチェックと、それからちょっとしたひと言。お互いを思いやってるのが見ただけで伝わってきて、だからこそ自分がどれだけひどいことを書いたのか、思い知らされる。

 

 震える手で頭を抱える。そうでもしないと中身が溢れそうだった。

 自分のしたことが信じられなくて、けれど指にはまだ書いた感触が残っている。

 

 どうしよう。なんであんなこと。

 それにどうしてハンターは私が消えることを知っていたんだ。本は校長先生に頼んで隠してもらっていたのに。ハンターは一度も読んでないはずだし、中身を知っているみんなは私が妖精だったってことをつい最近知ったばかりだから、結びつけるまでには終わると思っていたのに。

 ……ああ、でも。

 これでハンターが私に幻滅してくれたなら、もう心配しなくていいのかな……

 

 

  あれくしす あのね

  こんなときに こんなこといって ごめんなさい

  でも おちちゃう おちちゃうから

 

 

 ……エビー。

 

 俯いていた頭を上げると、エビーはほっと安堵のため息のようにもやを吐いた。

 足はおぼつかなかったけれど、それでも立ってチョークを手に取る。

 

 

 “ごめん。”

 

 

 それと。

 

 

 “やめた方がいいって言ってくれてたのに。ごめんなさい。”

 

 

 頭上に乗せたままだった小さな体を、手ですくって顔の前に連れてくる。

 

 

  ううん きにしないで

 

 

 エビーは触角をかしげ、私の手の中でもやを吐き出した。

 

 

  あのね かおいろが すごくわるいわ

  かんがえてるばかりじゃ きっとしずむだけだから

  かんがえてること こくばんにかきだしてみて

  いまのきもち すこしずつでいいから

 

 

 手に意識を込めて書いてある文章を消していく。エビーが見つめる先で、白く汚れた黒板にチョークの先端を押し当てた。

 

 今考えていること。

 ぐちゃぐちゃのままの気持ちは喉の奥につまって、吐き出そうとすると苦しくなる。でも、それを言葉に直すなら。

 

 

 “   怖いんだと思う”

 “消えることは怖い。だけどそれ以上に、”

 “今が壊れてしまうのが怖い。”

 

 

 チョークを走らせる音がどんどん大きくなる。

 苦しいはずなのに堰を切ったようにあふれそうになる言葉に、手が追いつかない。

 

 

 “よくないことが起こるんじゃないかって、不安が止まらないんだ。”

 “今が、みんなが揃っていることが、特別なものだと知っているから。”

 “それが私のせいで奪われてしまうことが 怖い”

 “そんなこと許されるはずがない”

 

 

 エビーは銀沙の散った透明な体で金色の涙を受け止めると、ぷるぷると体を震わせた。そうしてぱたりと触角を伏せる。

 

 

  あれくしす わたしは あなたがたいせつよ

  あなたがいなくなってしまったら かなしいわ

  それだけじゃない こどもたちも こうちょうせんせいも それからあのひとも

  あなたがいなくなったら いまがこわれてしまう

 

 

 かっとまたなにかがこみ上げて、目頭が熱くなった。

 

 

 “でも、そんなの、どうすればいいの”

 “私だっていやだよ でも”

 “そのために、ユーリヤやハンターが危険な目にあうなんていやだ”

 “ならしかたないじゃないか 誰かが消えるなら 私でいい

 

 

 選べるわけない。選択肢なんてどこにもない。今更、考えてなんになる。

 

 エビーはじっと黒板を見つめて、私へと振り向いた。

 

 

  わたしね

  ほんとうはね おしゃべりしては いけないの

  つみをみとめなければ ゆるされない

  うそをついたと みとめなければ かえれないの

 

 

 ……エビー?

 不意に変わった話題に虚を突かれた。見つめる先で、エビーはぽつぽつと銀のもやを吐き出し続ける。

 

 

  わたしは とくべつなかたからの いいつけをやぶり

  それを みとめないがゆえに みすてられた

  つらいこと たくさん たくさんあったわ

  それでも こわかった こわくて できなかった

  つみを みとめることが こわかった

  そして そのばつを うけることが おそろしくて たまらなかった

 

 

 息をつくように意味を持たないもやをひとつ吐き出して、エビーは尾で私の指先に触れた。

 

 

  だけど そのなかで ささやかなわたしのかけらを あのひとがみつけてくれた

  そして あなたが こえをきいてくれたのよ

  わたしのこえを つたえたいことを きいてくれた

  ああ それに どれだけ すくわれたか

  だから わたしは あなたにもすくいがあってほしい

  そう いのってる

  このわたしには いのるしかできなくても それでも

 

 

 エビーは触角を上げて、私を見つめた。

 

 

  しんじてあげて

  あのひとと あのあわれなまがいもののこと

  どこまでつたえていいのか わからないけれど

  ほかのみんなになくて あのひとだけがもってるもの

  それは あなたのふあんを きゆうにかえられる

 

 

 “それは   どういうこと”

 

 

 まがいもの。それに、ハンターだけが持ってる、私の不安を杞憂に変えるもの。考えてみても、ハンターが言うところの手品くらいしか思い浮かばない。

 尋ねてもエビーは触角を横に振った。小さな体を私の手にすり寄せて、ぽつりともやをこぼした。

 

 

  かつてのみんなが あなたにたくしたように

  こんどはあなたが あのひとに おもいをたくしてあげて

 

 

 でも、大切な友達を危険だと分かりきっている場所に向かわせるなんてできない。そんなこと、できるわけがない。

 私は、どうすればいい。

 

 力が抜けた手からチョークが落ちて、床板に白く跡をつける。扉の向こうではハンターを気遣う声と、重い足音が聞こえていた。

 

「ハンターさん、足下気をつけてね」

「ほら、椅子。ゆっくり座って。すぐルーリンツがお茶を持ってきてくれるから」

 

 玄関を挟んだ向かいの談話室に入ったみたいで、吹き抜け越しに声が漏れ聞こえた。

 

「……どうしよう……こんな、つもりでは……」

「大丈夫だよ。今は落ち着いて」

 

 

  あのひとも もっときをみてくれたら よかったのに

  ゆびわのことで あなたのきもちがいっぱいになってるって きづいてたら

 

 

 エビーはそうひとりごちた。

 

 キッチンの方からやってきた足音が扉の前を過ぎ、やがて吹き抜けの向こうからルーリンツの声も聞こえてきた。

 

「はい、お茶。熱いから気をつけて」

 

 カップを置く音がして、それからしばらくは誰も話さなかった。重い沈黙を破るように、ハンターは弱々しい声をこぼした。

 

「ルーリンツ、私は……なんて事を……」

「大丈夫だよ。だってハンターさんは、こういう時にどうすればいいか、もう知ってるだろう?」

 

 答える声は優しく、力強い。その後の沈黙は、さきほどよりもずっと短いものだった。

 

「……謝る。仲直り、する」

「うん」

「でも、だけど……!」

 

 その声はいつかの明け方のように、ひどく幼く聞こえた。ロージャよりも、私よりも、もっとずっと小さな子供の声のようだった。ハンター自身もそれに気づいたのか、小さく息を呑む音がして、それから押し殺した声を漏らす。

 

「……あいつのした事は……嫌だった。許せなかった。黙って、隠したまま、消えようとするなんて。それを知ってから、ずっと納得できなくて……人の事を言える立場になんてないのに……」

 

 その言葉に思わず、声の聞こえてくる吹き抜けを見上げた。

 ハンターは最近、ずっとぴりぴりしていた。それは私が黙ってたことに怒ってたからなのか。

 

「……悲しかった。悔しかったんだ。あいつが、あれだけ苦しい思いをして、やっと取り戻せたのに、報われない立場にいて、いつか消えるしかなくて、なのにそれを誰にも話せなかったことが。もしかしたら、消えていくのを手をこまねいて見ているしかできなかったかもしれない自分の無力が」

 

 あの少女の気持ちが今なら分かる、とハンターは小さな声で付け足した。

 

「いなくならないでほしいと、それだけなのに。なのに、あいつの方が、よほど苦しいはずなのに……怒らせて……」

 

 今にも消えそうな声だった。そんな風になってほしくなかったのに、でもハンターを傷つけたのは私自身だ。

 

「どうすればよかったんだろう。どうしてこんなに、難しいんだろう……」

 

 カップをソーサーに戻す音がやけに大きく響いた。

 

「……消える? アレクシスが、かい?」

「あ……」

 

 ハンターの声も、ルーリンツの声も途切れた。みんな押し黙った中で、ハーマンの声がぽつりと落ちた。

 

「指輪を見つけられなかった妖精の話、か」

「……知って」

「見えない妖精たちは、昔は何度も読み返してたから。でも、たとえあの子が妖精だったとしても、そのことを言い出さないなら、きっと大丈夫なんだと勝手に思ってた。あれは単なるおとぎ話なんだと、そう思おうとしてたんだ」

 

 いつもの穏やかな口調とは違う、沈んだ声だった。

 

 「……違ったんだね。あの子はそれをずっと抱えてた。だから……」

 

 また、静寂が満ちる。そこに、ニルスの声がためらいがちに割って入った。

 

「ハンターさん。お昼過ぎに、校長先生と相談して何も起きないようにしてるって言ってたのはこのこと? アレクシスは消えないで済むの?」

「それは……うまくいけば。自分自身の指輪さえあれば、あいつは人間に戻れるはずだ。だけどそれを言ったら怒って……理由が分からないんだ。あんな風に怒り出すのだってはじめて見たくらいなのに。そんなことしてほしいなんて一度も言ってない、と言われて……」

 

 言いよどみ、ハンターはそれきり言葉を失った。

 

 椅子を引く音がした。それから、息を深く吸って吐く音。

 

「ハンターさん。これからどうするんだい?」

 

 ルーリンツは静かに問いかけた。

 

「アレクシスは、ハンターさんのやろうとした事を拒絶してる。それにはあの子なりの理由があると思う。あの子自身に訊かないと本当のところは分からないけれど、それこそ今まで怒ったところを見たことがないあの子が、怒るくらいのものが」

 

 ルーリンツの言葉を聞きながら、私は自分の手のひらを見おろした。

 どうして私はあの時、怒ったんだろう。

 ハンターにはロッブの森での出来事を伝えてあった。話を聞いてもらえず、命の時間を奪われる可能性の方が高いのに。

 だけどそれはユーリヤも同じはずで、なのにハンターの時だけあんな風に怒ったのは。

 

「……いやだ」

 

 震える、でもはっきりとした声に思考が引き戻された。

 

「嫌われてもいい。本当は、嫌、だけど……あいつがいなくなったら、私は……」

 

 言葉尻はしぼみ、どんどん聞き取れなくなる。ルーリンツは何度か相づちを繰り返して、それからひと言ひと言噛みしめるように、ゆっくりと話していく。

 

「その気持ちを、ちゃんとあの子に伝えてあげて。それから、アレクシスが黙っていることを選んだ理由も、受け止めてあげてほしい。あの子がどんな性格なのか、ハンターさんもよく知ってると思うから。……ごめんよ、こんな助言しかできなくて」

「……そんなことない。聞いてもらえて、助かった。ルーリンツはすごいよ。すごい」

 

 少しだけ、笑ったような気配があった。

 

「とりあえず、今はゆっくりお茶を飲んで。ハンターさんもだけど、アレクシスもまだ混乱していて、受け入れるだけの余裕がないと思う。心を落ち着けて、気持ちを言葉に直して。僕たちも手伝うからさ。あと、ハーマン。ちょっと」

 

 内緒話だったのか、その内容は聞こえなかった。しばらくして、ドアの開く音と遠ざかる足音が聞こえた。

 私はチョークを拾って、音を立てないように黒板に当てた。

 

 

 “私、ばかだ”

 

 

 怒った理由が分からないなんて、そんなの当たり前だ。

 あんなのただの八つ当たりだ。かんしゃくを起こして、その矛先がハンターに向いただけ。

 

 

  あれくしす あなたにも ゆずれないものがあった

  それだけなの どうか じぶんをせめないで

 

 

 エビーは慰めてくれるけれど、私自身が納得できていない。

 私が一番怖いのは、ユーリヤやハンターがいなくなってしまうことだ。なのに自分自身で傷つけた。

 ……ルーリンツが言っていた。仲直り、しなくちゃ。でもお互い譲れないのに、どうすればいいんだろう。

 うつむいた先で、左手の手編みの指輪が目についた。

 指輪。なんの力もない、けど大切な、みんなの絆を示すもの。

 それなのに、ハンターのぶんはない。ハンターだって、大事な友達なのに。

 もっとほかに考えるべきことはたくさんある。分かっているはずなのに、それを見過ごしたくはなかった。

 

 

 

 

 談話室の鍵を開け、音を極力立てないように扉をそっと開く。周囲を見渡すと、マリーとロージャが階段の中ほどに立って、不安げな表情で談話室の様子を窺っているのが見えた。

 二人に近づいて、服の裾を引っ張る。マリーはこちらを見て目を瞬かせた。つられて、ロージャもこちらを向く。

 

「……アレクシス? どうかしたの?」

 

 裾を引っ張ってメッセージボードの方に誘導する。予め書いておいた文章に目を通すと、納得したように頷いた。

 

「さっきの大声、そういうことだったんだね。ルーリンツたちが一緒にいるならだいじょうぶかな」

「とりあえず、女子の寝室に行きましょう? 材料は棚に入ってるから」

 

 それを聞いて、私は慌ててチョークを取った。

 

 

 “その、実は、ユーリヤにも、ひどいこと言ってしまったの。だから、えっと、”

 “今は会いたくなくて”

 

 

 どこにいるかは分からなくても、いそうな場所に近づくのは怖い。

 二人は顔を見合わせて、それから首をかしげてこちらを見た。

 

「あなたがひどいことを言うなんて、とても思えないけれど……」

 

 

 “あのね。ユーリヤが、私のために危ないことをしようとしてて”

 “でも、ほんとうに危ないことだから、してほしくなくて、やめてって。しなくていいって”

 

 

「そうなの? ユーリヤったら、無茶をしないといいけど」

「でも、危ないことって?」

 

 普段の調子で尋ねられて、言葉につまった。

 

 なるべくならその話は伝えたくない。知ったら、二人はきっと気に病むから。

 でも、校長先生に隠して貰っていた本のことをハンターは知っていた。

 ユーリヤも私が未来から来たとほとんど確信した上で、ああ切り出したのだと思う。

 それにハンターがついさっき、ルーリンツたちのいる前で言ってしまっていた。

 もう隠し通せないのだろう。それなら、いっそのこと全部打ち明けてしまった方がいいのかもしれない。

 

 

 “長い話になるけれど、いい?”

 

 

 きょとんとしてうなずいたマリーとロージャに、イーゼルの後ろのソファに座って貰ってから、なるべく簡潔に隠していたことを書いていく。打ち明けるのも四度目だから、うまく必要なところを拾っていけた。

 

 私がかつて何であったか。何をして、何を手放したのか。

 それから、指輪を持たない私は、遠からずいなくなること。ユーリヤとハンターが、それぞれ言ったこと。そしてそれに私がどんな反応をしたのか。

 

 真っ白な顔で呆然とするロージャの手を握って、マリーはこわばっていた顔を伏せて、息を深くついた。

 

「……あなたに言いたいことが、たくさんあるわ」

 

 そうして再び上げた顔には、どこかこらえるような微笑みが浮かんでいた。

 

「まず、話してくれてありがとう。まだ思い出すのもつらいでしょうに、打ち明けてくれて嬉しい」

 

 こちらを見て、私を呼ぶように隣の空いたスペースを叩いた。二人掛けのソファだけれど、詰めれば三人座ることもできる。促されるままおずおずと座ると、マリーは私がいるあたりを見つめて微笑んだ。

 

「それにね。自分一人が我慢すれば、みんなが傷つかずに済むなら、って、思うのも分かるわ。……そう決めたとしても、お別れしたくないって思うことも」

 

 

 “ごめんなさい。わがままだよね。”

 

 

「私はね、あなたのわがままが嬉しいわ。一緒にいたいって思ってくれてることが、何より嬉しい」

 

 マリーは首を横に振り、胸元に手を当てた。

 

「私も同じよ。あなたと、みんなと一緒にいたい。あなたたちと過ごす毎日が、これからも続いてほしい。そう思ってる」

 

 ちいさく息をついて、マリーはあらためて背筋を伸ばした。

 

「改めて、お礼を言わせてちょうだい。ユーリヤを助けてくれてありがとう。今の毎日があるのは、あなたが諦めないでいてくれたおかげよ。本当に、ありがとう」

 

 お礼を言われるのは嬉しいことのはずなのに、今はどうしてか、気持ちが浮かんでこない。

 マリーは黒板とチョークを見つめて、それからもう一度私に目を戻す。

 

「アレクシス。ユーリヤたちの言ったこと、今はどう思ってるか訊いてもいいかしら?」

 

 

 “  ほんとうのことを言っていい?”

 

 

「ええ。もちろん」

 

 優しい微笑みのまま、マリーはうなずいた。

 

 

 “わからない”

 “一緒にいられるなら、それはすごく嬉しいことだと思う”

 “でも、それで何かあったら。”

 “そう考えると動けなくなる”

 

 

「……うん」

 

 

 “マリー。分からないんだ。”

 “信じるって、どうすればいいんだろう。”

 “私の命の時間がまだ消えてないとしても、それを取り戻すために何かがあったらって気持ちが、ずっと喉元を(ふさ)いでいるんだ。”

 “私のために、そんなことしなくていいって思ってしまうんだ。”

 “みんなが私を大切にしてくれてるって、だからハンターだってユーリヤだって何かしようとしてくれてるって、分かってるはずなのにね。”

 

 

 自分をもっと大切にして、と、ニルスはロージャに言っていた。

 私のわがままが嬉しいと、マリーは言ってくれた。

 まだ一緒にいたい、と、ユーリヤを泣かせてしまった。

 でも。

 うまく言葉に直せなくて、チョークの動きが止まる。

 

 マリーは目を伏せる。膝の上に戻った手が握りしめられた。

 

「……私ね、ユーリヤが寝たきりだった時に、毎日お祈りしてたの。私はどうなってもいい、命と引き替えでも構わないから、ユーリヤを助けてください、って」

 

 隣のロージャがびくりと肩をふるわせた。服の裾をつかむ手に、ぎゅっと力がこもる。なだめるようにそこに手を添えて、マリーは苦笑いを浮かべた。

 

「もし本当にそんなことになったら、ユーリヤは自分のせいでって悲しむことになる。ユーリヤだけじゃなくてほかのみんなにも、ずっと背負わせることになるわ。今でこそそう思えるけれど、そうなっても構わないって思い詰めるくらい、ユーリヤがいなくなるかもしれないことが怖かった。……みんなで過ごす毎日がもう二度と来ないなんて、怖かったの」

 

 一瞬、マリーの目の奥に暗い影が(よぎ)った。それはまばたきのうちに消えて、(しん)()な眼差しが私に向く。

 

「アレクシス。私はあなたが怒った気持ちも、苦しんでいる理由も、少しは分かるつもり。自分のせいで大切な人がいなくなってしまうかもしれないなんて、考えるのもつらいことだから」

 

 口を一度引き結んで、でも、と首を振る。

 

「同じくらい、ユーリヤたちの気持ちも分かるの。あなたにいなくなってほしくない。ユーリヤたちが危険なことをして、そのせいでいなくなってほしくないとあなたが思うように。だって、同じことだもの。大切な人に幸せでいてほしい気持ちは、変わらない。お互いのことを思ってるのに、ぶつかってしまって。だからこんなに切実で、苦しいことになってる」

 

 

 “同じ、なのかな。同じだと思っていいのかな。”

 

 

 考えるだけで苦しくなるようなこの感覚を、ユーリヤたちも感じているのだろうか。

 マリーは深く頷いた。

 

「ユーリヤとハンターさんから、きちんと話を聞いてみて。二人とも、あなたのこれまでを聞いた上で、ロッブの森の妖精さんに会ってみようとしているのでしょう? ユーリヤはたまに、自分を省みないところがあるけれど……でも二人とも、考えなしに動く性格じゃないわ。賭けられる可能性を見つけたから、無茶をしようとしているのだと思う。……きっと、あなたの見たハーマンとルーリンツも、それからあなた自身も、そうだったのでしょう?」

 

 冬の森で妖精に立ち向かおうとしたハーマン。いつ現れるとも知れない私に託してくれたルーリンツ。うまくいったことも、うまくいかなかったこともある。それでも二人とも、可能性があるからそうしたのだ。

 ユーリヤも、ハンターも。同じなのだろうか。

 

「それを聞いて、いろんなことを話し合って、それから決めても遅くないわ。任せられると思ったのなら受け入れて、任せられないと思ったのなら、その時は……きちんと、気持ちを伝えたらいい。信じるって、ただ無条件で肯定することじゃないから」

 

 

 “それでいいの? 私は、でも、”

 

 

 マリーはやんわりと首を振った。

 

「いいの。アレクシス。受け入れても、断ってもいい。あなたは、あなた自身の好きなようにしていいのよ。あなたが納得できることが、大切だから」

 

 私の、好きなように。

 ぼんやりと、言葉を繰り返す。まるであの春の雪が降る学校で、ベッドで眠るユーリヤを前に独り立ち竦んでいた時のように、どうしようもない不安が足から昇ってくるような気がした。

 どうすればいいのか、答えは見つけていた。だけどそれが本当に正しいのか、あの時の私には分からなかった。

 違うことがあるなら、話をしてから決めていいと、許されていることなんだろう。

 

 

 “わかった。聞いてみる。”

 

 

 私はそう黒板に書いた。

 

 

 “ハンターとユーリヤに。”

 “私の気持ちは変わらない。二人に危ないことをしてほしくない。よほどのことがなければ、きっと任せられないって言うと思う。”

 “でも、絶対に無事だと納得できるだけの理由を示してくれたなら、その時は。”

 

 

 マリーはうなずいた。

 

「……アレクシス。私ね」

 

 何かを言いかけて、口をつぐむ。何度かまばたきを繰り返して、黒板に書かれた字にそっと手を添えた。

 

「春のおわりにユーリヤが元気になって、ハンターさんが来て、それから黒板の絵を見つけて……あの絵を見た時、すごくどきどきしたのを今でも覚えてる。今までと違うなにかが、これから起こるんじゃないかって、そんな予感があったの」

 

 思い出してみれば、あの日のことはずいぶん遠く感じられた。それでも、まだ心の中にある。

 

 

 “実はね。あの時、教卓に隠れていたんだ。”

 “マリーが絵に見とれてくれてたの、隣で見てたんだよ。”

 

 

 そう書いてみせると、マリーはすこし目を見張って、それから照れたような笑顔を浮かべた。

 

「もう、言ってくれたらよかったのに。……これまでの毎日は、あなたにとっても宝物になったかしら?」

 

 

 “うん。本当に、宝物だった。”

 “黒板の絵、すぐに消さないで残しとけばよかったね。”

 “思い出だけあればいいって、あの頃は思ってたから。ぜんぶ消してしまった。”

 

 

「今度は紙に描いたらいいわ。そうしたら、いつでも見返せるから」

 

 

 “そうする。”

 

 

 マリーはロージャの手を離して、ソファから腰を上げた。

 

「材料を用意してくるから待ってて。せっかくだし、みんなにも少しずつ編んでもらいましょう? ユーリヤには私から声を掛けておくわ。あっちの二人とハーマンにもね」

 

 どこか急いた様子の背中を見送ると、部屋には私とエビー、それからロージャが残された。まだ血の気が戻らない顔でロージャは私のほうを見た。

 

「あのね、アレクシス。今話すことじゃないかもしれないけど……ハンターさんからオルゴールのことは聞いた?」

 

 横に振った頭の動きに合わせて揺れるエビーを見てうなずいたあと、ロージャは話を続けた。

 

「音楽堂の壊れたオルゴールを、ハンターさんが直せるかもしれないんだって。そしたらアレクシスも演奏会に参加できるから、演奏側に誘ってやってくれって言ってたの」

 

 

 “でも、あのオルゴールの歯車は、ヌーが、”

 

 

 欠けた二つの歯車のうち、小さい方は今でもヌーののどに残っているはずだ。ロージャは特段気負いのない様子でうなずいた。

 

「そっか、アレクシスも知ってたのね。でもニルスがそのことを伝えても、だいじょうぶって言ってたの。歯車を新しく作るみたいなことを言ってたわ。手品で」

 

 

 “手品で?”

 

 

 まったくごまかせてないって、最初にごまかそうとした時にちゃんと伝えておくべきだったのかもしれない。

 ロージャはこそりと笑って、でもすぐにその笑顔は消えてしまった。

 

「……アレクシス、あのね」

 

 ぐす、と鼻をすする音が声に紛れた。

 

「私、手助けは、なにもできないけど……アレクシスがこの学校に来られてよかったって思えるように、いろいろなことをしたいの。たくさん思い出を作りたい」

 

 声はどんどん湿り気を帯びて、目元には涙が盛り上がっていく。

 

「もし、アレクシスが……い、いなく、なっ…………」

 

 湛えていた涙がこぼれる。目を押さえ、肩をふるわせて()(えつ)をこらえるロージャを、私はただ見ているしかできなかった。

 

 

 “ロージャ、ごめん。”

 “ごめんね”

 

 

 ロージャは涙を拭い、黒板を見て首を振る。

 

「あのね、謝らないで。苦しい、けど、それはアレクシスが大好きだから、苦しいのだもの。あなたがここにいることが、すごく特別なことだって、分かったからだもの」

 

 頬を涙で濡らしたまま、ロージャは口の両端を引き上げてみせた。

 

「悲しくて、苦しいけど、でも、この気持ちをいけないものとか、悪いものにしたくないよ。私、アレクシスが来てくれたこと、本当にうれしかったから」

 

 ほっとするような笑顔を見て、こわばっていた肩から力が抜けるような感覚があった。

 ユーリヤに伝えた気持ちは、決して強がりばかりではなかった。今苦しいのは確かでも、出会えたことを後悔したくなかったから。

 私のことも同じように思ってもらえている。苦しい思いをさせたことの罪悪感に押しつぶされそうで、でも悪いものにしたくないと言ってくれたことがうれしい。

 

 

 “なら、ありがとう。”

 “私のこと、来てくれてうれしかったって言ってくれて。本当にありがとう。”

 “それに、ロージャは強いね。”

 

 

 私の気持ちをユーリヤに伝えていた時は、笑顔を作ることはできなかった。

 袖で顔を拭って、ロージャはまた笑う。

 

「喜んでもらえたならうれしい。それに私はアレクシスよりお姉さんだもの。下の子のことなら、なんだってがんばれるわ」

 

 お姉さんじゃなかった時から、ロージャは強かった。でもそれを今伝えるのはなんだか違う気がした。代わりに、伝えるべきことを黒板に書く。

 

 

 “あのね。私、絵を描きたい。みんなの絵を、たくさん。”

 “だからロージャ、手伝ってくれる?”

 

 

「うん。まかせて。学校中の壁が、ぜんぶアレクシスの絵で埋まるくらい、お手伝いする。このまま、なにも変わらないで済んだら、きっと笑いながら話せる思い出になるから」

 

 

 “ありがとう。”

 “でも、壁全部を埋めるのはちょっとはずかしいよ。”

 

 

 そう書くと、ロージャはくすくすと笑ってくれた。

 扉が開いて、小さな(かご)を持ったマリーが戻ってきた。

 

「お待たせ。それと……」

「良かった、ここにいたんだね」

 

 後ろからハーマンが顔を覗かせた。私の頭に乗ったエビーを見て、ほっと表情を緩めた。

 

「アレクシスのこと、探してたんだ。ロージャたちが一緒にいてくれたんだね。それに、ここからだと……聞いてた?」

 

 吹き抜けを指さすハーマンに向けて、うなずく。……そういえば、さっきまでの話も聞かれてしまってたんだろうか。

 

 

 “その、盗み聞きしてごめんなさい。”

 

 

「むしろ、アレクシスは聞いてて大丈夫だったのかい? 君のことなのに、当事者に隠れて話していたから……」

 

 

 “私は大丈夫。ごめんなさい、心配かけて。”

 

 

「筆跡は落ち着いてるみたいだね。けど、無理はしないで」

 

 見上げた吹き抜けの向こうから声は聞こえてこない。でも扉の音はしなかったから、まだいるとは思う。

 

「仲直りは早い方がいいわ。ユーリヤにはもう最初の部分を編んでもらってあるから、あとはここにいるみんなと、隣の二人ね。ハーマン、それとなく呼んできてくれるかしら?」

 

 そう言って、マリーは抱えていた籠をソファに置いた。その目元は部屋を出て行く前より赤くなっていた。それから、左袖の内側に残った濡れた跡も。

 

「最後に作ったのは、ハーマンが木のささくれに引っかけて切ってしまった時かしら」

「そうだね。そういえば、サイズは分かるのかい? 調べてきた方がいいかな?」

「大丈夫。手袋を編む用に、両手の寸法は測ってあるの。アレクシス、こっちにいらっしゃい。編み方、教えてあげる」

 

 その時、がたがたと椅子を引く音が吹き抜け越しに聞こえた。

 

「私は、裏庭にいるから。用事が、あったら……」

「え、大丈夫かい?」

「ああ。……待ってる、から」

 

 ハンターは心なし声を張り上げて、そんなことを言った。扉の開く音がして、硬い革靴の音が遠ざかっていく。マリーとハーマンは顔を見合わせて、お互いに仕方ないというように笑う。

 

「気を使わせてしまったね」

「もう、ハンターさんったら」

 

 マリーは口元に手を添え、吹き抜けに向かって声を掛けた。

 

「ルーリンツ、ニルス。ちょっとこっちに来てくれる?」

 

 

 

 

 六人でちょっとずつ編んで、わっかにして端を編み込んで整える。

 出来上がった手編みの指輪を、手に意識を込めて持ち上げた。私の指にあるものよりだいぶ大きくて、あと少しだけ太さが不格好なところがある。私がうまく編めなくて不揃いになってしまったのだけれど、マリーたちは笑って大丈夫だと言ってくれた。

 

 飛び跳ねるようにソファから下りて、ロージャは振り返って私を見つめた。

 

「まずはハンターさんとの仲直り、がんばってね。応援してる」

 

 私はみんなの顔を一人ずつ見つめていく。ルーリンツ。ハーマン。マリー。ニルス。ロージャ。みんな、背中を押すような、優しい笑みで私を見ていた。

 

 

 “うん。がんばる。”

 “行ってくるね。”

 

 

 廊下に出て裏庭に向かう途中で、それまで静かにしていたエビーがぽつりともやをこぼした。

 

 

  わたしも あなたのこと みならわなくちゃね

 

 

 どういう意味だろう。落ちない程度に首をかしげると、さざめくような笑い声がこぼれた。

 

 

  あなたは ううん あなたたちみんな すごいってこと

 

 

 

 

 裏口から外に出ると、ハンターはいつかのように木の幹にもたれかかって川面を眺めていた。私が近づくと、慌てて立ち上がる。

 手を伸ばすと、ハンターも右手を差し出してくれた。いつの間にか当たり前になっていたそれが、胸の奥をひどく揺さぶってくる。

 手のひらに当てる指が震える。それでも、一文字ずつ書いていく。

 

 

 “ごめんなさい。ひどいこと言った。”

 “それに、頭ごなしに否定した。”

 “ずっと黙ってた。”

 “ごめんなさい。”

 

 

 私の書く文字を目で追いながら、ハンターは口を引き結んでいた。

 

「私も、済まなかった。勢いに任せて、ひどい事を言った。お前を傷つけて、怒らせた。ただそれで、ええと……聞いてほしい事があるんだ」

 

 ハンターはシャツ越しにペンダントを握り、息を吸って深く吐き出した。

 

「……最初の頃は、私は本当にどうしようもなかったと自分でも思う。食事の作法も知らない。洗濯についても、道具の扱いについても、よく知らなかった。今から思えばあんな状態で、記憶を失う前はどういう暮らしをしていたのかも想像できない。言葉だって、日常で使うようなものについては奇妙な欠落があった。態度もひどいもので、礼を言う事は知識としてあっても、皆のように気軽に、ありがとう、なんて言えなかった」

 

 人間として歪だった。そう苦しそうに付け足す。

 

「あの頃からその自覚だけはあったから、私はここにはふさわしくないと、そればかり考えていた。そんな時にあの小火騒ぎがあって、お前が助けを求めて手を引いてくれた。もしかしたら、こんな私でも報いる事ができるんじゃないかと思うようになった。それからなんだ。皆に向き合うようになったのは」

 

 まだ全然返せてないが、とハンターの口元が苦く緩んだ。

 

「本当に、色々な事を教えてもらった。譲ってもらった時にどうするのか。他の人と過ごす時に、何に気をつけるといいのか。もし大切な相手を傷つけてしまった時に、どうするべきなのか。そういうものすべてここで学んだんだ。もしここに連れてこられなかったら、私は恐らくどこかで折れて諦めて、いたずらに他人を害していただろう。あの街を滅茶苦茶にした連中と同じように、力に任せ、自身の欲求ばかり優先して、他人が傷つくのも顧みずに……そんなもの、たとえ蒙を啓いていたところで、獣と何ら変わらないと思ったはずなのにな」

 

 言いながら、右手を関節が白く浮き出すほど強く握りしめた。

 

「それくらい得難いものだったのに、いつの間にか当たり前になっていた。ルーリンツが作ってくれた食事を食べて、ユーリヤが処方してくれた薬を何とか飲み下して、マリーと一緒にあちこちを掃除して、ハーマンと家具を直して、ニルスの調べ物を手伝って、ロージャには迷惑を掛けてしまっていたが、その分これから何かしていけたらいいと思っている。それから、お前と皆の仲立ちをする。そんな毎日がこれからもずっと続くのだと、理由も根拠もなく思い込んでいたんだ」

 

 この毎日が続くなんて、まるで夢みたいだと思った。私は夢を見ることはないけれど、幸せな夢とはそういうものを指すんだろうなとも。

 それくらい、ハンターはこの寄宿学校のことを、特別なものだと思ってくれているのだろう。

 

「……ロージャの()()の一件があった数日後に、グレイブズからお前の現状を打ち明けられた。当たり前を根拠なく信じていた自分の浅ましさを自覚した。だがそれ以上に、当たり前になってた得難い毎日をまだ続けていける可能性があるなら、それに賭けたいと思った」

 

 ハンターは伏せていた顔を上げる。

 

「たとえ、お前に、き……嫌われたと、しても」

 

 裏返りそうになる声を、一度深呼吸して落ち着けた。

 

「己は、お前に消えないでほしい。生きてほしいんだ。これからも、皆と一緒に」

 

 まっすぐに瞳を私に向けて、ハンターは一言一言、声を張り上げる。

 

「自分の命と引き替えにするつもりなんてない。誰も、もう奪わせない。この寄宿学校に暮らす全員で、演奏会を楽しんで、次の日を迎える。その次の日も、皆で。来年の演奏会も、その更に先の演奏会も。だからお前も、まだ、生きてほしい。生きて、続けていってほしい。皆と、思い出を積み重ねていく事を」

 

 私はもう一度ハンターの手を取る。その願いを受け入れるために。あるいは、できないと伝えるために。

 

 

 “私は”

 “自分のせいで、誰かが傷つくところなんて、もう見たくない。”

 “だから  黙ってた。”

 “考えてもどうしようもないと思ってた。あらかじめ伝えてその日を待つのと、黙ったまま消えるのと。どちらかしかなくて、黙ってる方を選んだ。”

 

 

 “消えてしまうこと自体も、そう。”

 “みんなの命の時間を奪ってまで妖精に戻るのと、妖精に戻らずに消えるの。それしかなかったから、選ぶまでもなかった。”

 “あきらめてた。仕方ないって、夜が来るたびに自分に言い聞かせてた。”

 “だからあの時は、ハンターが言ってたこと、うまく受け止められなかった。どちらかしかなかったところにもう一つ選択肢が増えるなんて、そんな都合のいいこと起こるはずないって。”

 “怒ったのは、ロッブの森がどれほど危ないか伝えたのに行くなんて言ったから。でも同じくらい、ずっとあきらめてたことがどうにかなるかもって言われて、自分でも自分がよく分からなくなってたんだと思う。”

 “気持ちがぐちゃぐちゃになって、あんな風に噴き出してしまうのは初めてだったから、うまく説明できないけど。”

 “八つ当たりだったんだ。だから、ハンターが悪いとか、そういうのはあんまり理由じゃない。”

 

 

「……今は、どうだ」

 

 

 “今は、諭されたから。話を聞いてみてって。きっと可能性があるから、賭けようとしてるのだろうからって。”

 “同じ気持ちがぶつかって苦しい。それを教えてもらった。”

 “それでもハンターのことが心配なんだ。”

 “聞かせて。ロッブの森の妖精に、どうやって頼み事をするつもりなの?”

 

 

「説得の材料についてはグレイブズと相談している。ロッブの森に現れる妖精は、ほぼ間違いなくあいつの友人だそうだ。それと……今は説明しづらいんだが、協力を得られるのではないかという証拠がある。無論気を抜く事はできないが、可能性自体は間違いなくあると、私もグレイブズも判断した」

 

 

 “私はあのひとが説得で止まるとは思えない。”

 “命の危険がある場所に行ってほしくない。”

 

 

「それは承知しているし、対策も一応考えてある。妖精が人の命の時間を奪うには、金枝という短杖が不可欠だと聞いた。協力の取り付けが目的だから極力会話での説得を行うが、いざとなればそれを奪う。お前にこうやって触れられるのだから、ロッブの森の妖精も同じだろう。荒事には多少の心得があるから」

 

 ハンターはそこで言葉を切った。

 

「それに、手品だとずっと嘘をついてきたが……あれは本当は、手品ではないんだ」

 

 言いたいことをいくつか飲み込んで、私は続きを促した。

 

「あの力は生まれついてのものではなく、貸してくれている存在がいる。彼女の力は妖精のそれとは異なるが、同じくらい人智が及ばないようなものだ。死すら、まるで白昼夢の出来事だったかのようにやり直せる」

 

 死をやり直す。その意味がうまく理解できなくて、私は思わずハンターの顔を見た。

 

 

 “それは  たとえば、指輪を取り戻したユーリヤみたいに、ってこと? 奪われてしまっても、すぐに取り戻す手段があるの?”

 

 

「そうじゃない。何と言えばいいのか……取られたチェスの駒を自陣に再度置くようなものだ。置ける場所は決まっているが、何度取られてもその分だけ補充を繰り返せる。少々過激なたとえになるが、今ここで私が突然弾け飛んで死んだとしても、ほとんど間を置かず無傷の私が医務室に現れる。また死んでも、更に死んでも、同じように。死ぬまでの記憶もそのままで」

 

 想像もしたくないくらい過激なたとえだ。でもそれで、ハンターの借りている力がどれほど道理を外れたものなのかがよく分かる。にわかには信じがたいけれど、ハンターの表情は嘘を言っているようには見えなかった。

 エビーが言っていたのはこのことなんだろうか。私の不安を杞憂に変えるもの、というのは。確かにそういうことなら、ハンターがいなくなってしまうかもしれない、という心配はいらなくなるのだろう。

 だけど。

 

「死の記憶自体は残るが、その代償は一切ない。だからたとえ命の時間を奪われたとしても、私自身が消える事は……」

 

 淡々と話すハンターの手を掴んだ。

 

 

 “そういうことじゃない”

 “私は ハンターに つらい思いをしてほしくない”

 

 

 え、とハンターはきょとんとした。

 

 

 “記憶は残るんでしょう? 痛くて苦しかったことは残ってしまうんでしょう?”

 “そういう思いをしてほしくない”

 “自分を大切にしてよ。  人のこと言えた立場じゃないけど、でも”

 

 

 書き募ろうとした私の指を、ハンターはやんわりと握って止めた。

 

「……慣れてしまったんだ。もう、大した事じゃない」

 

 ハンターはうっすらと笑う。でも目はひどく悲しそうで、私は唇を噛みしめた。

 慣れたからって、つらくないわけじゃないんだろう。それでも、とハンターは笑みを消して真剣に見つめてくる。

 

「そのおかげで、こうやって立ち向かえる。私が知る中で最も悲惨だった死に方より、何もできずにお前を見送り生き続ける事の方が、遥かに苦しいし、つらい。危険だとしても立ち向かう事の方が耐えられるんだ。勝ち取るために、(あらが)うために戦う事の方が、よほど」

 

 もう一度シャツ越しにペンダントを握って、ハンターはひとつひとつ、私に言葉を伝えていく。

 

「どれほどの困難があろうと、その先にお前を生かせる可能性があるなら手を伸ばしたい。無理も無茶もする。危ないと分かっていても正面から突っ込む。その上で、どんな結末になったとしても必ず帰ってくる。それは絶対に約束できる事だ。だから、やらせてほしい」

 

 私はハンターの手を額に当てた。温もりがじんわりと、温度のない体に伝わる。

 説得できる材料がある。金枝をどうにかする算段もある。必ず帰ってくると、約束してくれた。

 それだけの信頼できる理由を揃えてくれているのに、私がみんなと一緒にいようとするなんて許されるはずがないと、未だに心のどこかが叫んでいる。

 

 奥歯を噛み締めた。

 

 あの日。金枝を捧げ持っていたユーリヤも、もしかしたらこんな気持ちだったのだろうか。

 救いなんてどこにもないと思っていた。あるいは本当にないのかもしれない。私はずっと失敗し続けてきた。楽観的にはなれない。

 

 それでも選ばなければいけない。誰に言われてでもなく、私の好きなようにする。ハンターが納得できるだけの理由をきちんと示してくれたなら、送り出す。そう決めていたのだから。

 額を離して、指を当てた。心の底に沈めていたことを、書いていく。

 

 

 “本当はね。”

 “私、一度でいいからユーリヤの作ったシチューを食べてみたいと思ってた。”

 

 

「……、…………いや。それは」

 

 ハンターは目を見開いた後に、ものすごく言いづらそうな顔で呻く。私は少し笑ってしまった。

 

 

 “すごい味なのは知ってるよ。みんなの反応、見たことあるから。”

 “でも、うらやましかったんだ。みんな楽しそうだった。笑ってた。”

 “   私は、あの輪の中には入れなかった。”

 

 

「……そうか」

 

 

 “仕方ないって、いろんなことを諦めてた。そうじゃないとつらかった。うらやましがっても叶わないことばかりだった。なら、最初から諦めたほうが楽だった。”

 “今だってその気持ちは消えてくれない。ハンターがさっき言ってたのと同じだよ。私も慣れてしまったから、諦めた方がずっと楽なんだ。”

 “だけど。”

 

 

 あらためて、私はハンターを見上げた。頭ふたつぶんよりもっと高い位置にある瞳と、まっすぐに目を合わせる。

 

 

 “ハンター。信じていい?”

 “何があっても、帰ってくるって。”

 

 

「必ず」

 

 はっきりと、ハンターは言い切ってくれた。

 不安は消えない。まだ胸の奥では罪悪感が悲鳴を上げ続けている。それでも私は信じて送り出すと決めた。

 節ばった親指が私のひたいをそっと撫でる。

 

「がんばるよ。だから、待っててくれ」

 

 

 “うん。”

 

 

 そう書いた手を、ハンターは大切そうに握りしめた。

 

「あと、それから。ユーリヤに頼んでおこう。うまくいったら料理を作ってくれと。私も、付き合う」

 

 

 “いいの? 苦いの苦手でしょ?”

 

 

「いや、そんな事は……」

 

 ハンターは言いかけた言葉を切って、ちいさく笑った。

 

「……いいや。そうだな。すごく苦手だ。だけどお前一人じゃ食べきれないと思う。シチューではなく薬だが、私自身の実体験として。だから付き合うよ。もしかしたら、コモンマロウの茶の方と同じで口に合うかもしれないから」

 

 ハンターの半分あきれたような微笑みにつられて、私も笑った。

 

 

 “うん、分かった。”

 “あとね、それでね。ちょっと話が変わるんだけれど。”

 “渡したいものがあるの。みんなに作るの、手伝ってもらったんだよ。”

 

 

 手を引いて、第二教室へとハンターを連れて行く。机の上に置いておいたものを、ハンターに見せた。

 

「これ……そうか、マリーたちが言っていたのは」

 

 指輪を手にとって、私はハンターへと向き直る。

 

 

 “みんなでちょっとずつ編んだの。”

 “左手出して。”

 

 

 差し出された小指に指輪を通すと、ちょうどいい具合に納まった。大きすぎることも、きつすぎることもなかったみたいだ。

 ハンターは手編みの指輪を確かめるように右手でなぞり、それからぎゅっと握り締めた。

 

 

 “あのね。オルゴールのこと、ありがとう。”

 “演奏会、楽しみだね。”

 

 

「ああ。私もすごく、楽しみにしている」

 

 ハンターはぎこちない、でもほっと安心するような笑顔でうなずいた。

 

 

 

 

 すこし一人になりたい、とエビーを預けて伝えると、ハンターは返されたエビーを私の頭に乗せて学校へと戻っていった。

 ……一人になりたい、って言ったんだけどなぁ。

 

 

  ごめんなさいね

  でも わたしも しんぱいなの

 

 

 エビーはぺたりと触角を垂らしている。気にしないで、と口元のあたりを指でつついて、私はまた川面に視線を戻した。

 

 つい数時間前にも同じようなことをしたけれど、気持ちはずいぶん変わった。あの時ほど沈んではいないけれど、でも、落ち着いてはいないのもたしかだった。

 ハンターとは話し合いができた。次は、ユーリヤとしなくちゃ。

 

「……ユーリヤ? どうした」

 

 後ろから聞こえた声に、私は思わず振り返った。

 第二教室のカーテン越しに、ハンターの姿が見える。それから窓の影に、まだ温かさの残る灰のような白い髪も。

 

 ユーリヤだ。どうしよう、まだ何も考えてない。

 

「アレクシスのこと。校長先生に相談したら、教えてくれたの。あの子を助けるために、ハンターさんがもう動いてくれてるって」

 

 隠れるために立ち上がろうとして、ユーリヤの言葉に思わず動きが止まった。

 

「私も手伝いたい。あの子のためにできることをさせて」

 

 窓から見えるユーリヤの顔は硬かった。声だって、普段の柔らかさは影を潜めていた。

 

「それに……これ以上、ロビンに誰かを傷つけさせたくない。もう二度と、みんなを傷つけてほしくないの。たとえ時間を戻ればなかったことになるとしても、どんな理由があったとしても、私の大切な人たちを、これ以上、傷つけないでほしい」

 

 胸元で手をぎゅっと握りしめ、ユーリヤはハンターを見上げた。

 

「私、友達を助けたい。アレクシスのことも、ロビンのことも。もう私のことなんて覚えてないかもしれない。声を聞いてくれないかもしれない。約束も、もう忘れてしまったかもしれない。……それでも、大切な人が苦しんでるのを、見過ごすなんてできない」

 

 ユーリヤが見つめる先で、ハンターははっきりと首を振った。

 

「駄目だ」

 

 氷のように冷たい、低い声だった。

 

「ハンターさん、でも――」

「この事はグレイブズにも伝える。決して、馬鹿な真似はしないでくれ」

 

 ユーリヤの言葉を遮ると、ハンターはきびすを返して教室から出て行く。硬い革靴の音が遠ざかり、教室に一人残されたユーリヤは肩を落として、それからふとこっちを見た。

 慌てて木の陰に隠れても、もう遅い。

 

「……アレクシス?」

 

 窓から身を乗り出して、ユーリヤは首をかしげた。観念して、私は裏口を通って教室に入る。

 

 

 “もう、だいじょうぶなの?”

 

 

 後ろの黒板に書いた文字を見て、ユーリヤは頷いた。

 

「うん、大丈夫。……本当はあんまり大丈夫じゃないかもしれないけど、でも今は、くよくよなんてしてられないから」

 

 ()()元気ね、と笑う目元は、赤く腫れぼったい。その理由が何かなんて、考えなくたって分かる。

 

 傷つけたこと、謝らなくちゃ。

 自分の気持ちを押し込めて、うそを言ったことも。

 逡巡している間に、ユーリヤは長椅子に腰掛けた。隣を軽く叩いて呼びながら、私のいるあたりに優しい笑顔を向ける。隣に座って見上げた顔は、少なくともお昼過ぎの時よりいくらか血色が戻ってきているように思えた。

 

「ね。あなたがここに帰ってきて半年が経つけれど、どうだった?」

 

 少し悩んで、私は先に質問に答えることにした。机の上にあった小さな黒板にチョークを当てる。

 

 

 “楽しかったよ。それにすごく嬉しかった。”

 “だって、こんな風にユーリヤとお話できるなんて、思ってなかったから。”

 

 

「私もね、楽しかった。それにとても嬉しかったのも同じ。あなたとお喋りするのがずっと夢だったから。それが叶って、ほんとうに、ほんとうに嬉しかった」

 

 まっすぐに私を見つめてそんなことを言うものだから、なんだか恥ずかしくなって、私は思わず目をそらした。ユーリヤはくすりと笑って、私の顔のあたりを覗き込んだ。

 

「でも、不思議ね。夢が叶って満足だと思ってたのに、もう新しい夢ができたの」

 

 

 “どんな夢?”

 

 

「今はね、あなたの顔が見たい。どんな風に笑って、どんな風にすねて、どんな風に喜ぶのか。それを知りたい」

 

 白い手が、私の頬のあたりに添えられた。

 

「アレクシス。やっぱり、私の気持ちは変わらないわ。まだ、あなたと一緒にいたい」

 

 その気持ちにどう答えるかは、もう決まっている。

 

 

 “私も いたい”

 “ここにいることが許されるなら”

 “許してもらえるなら”

 “だけど同じくらい、ユーリヤに危ないこと、してほしくないんだ”

 

 

「でも、それじゃ、あなたが」

 

 ユーリヤに向かって首を振る。

 

 “お願いだよ。”

 “ユーリヤがあのひとのこと、とても大事に思ってるのは分かってるよ。”

 “でも、あのひとはその気持ちさえ振り切って、託された願いを叶えようとするかもしれない。”

 

「それは……」

 

 “ハンターが言ってくれたんだ。どんな結末になっても必ず帰ってくるって。”

 “それを信じられるだけの理由も打ち明けてくれた。 無断で他の人に話していい内容じゃないから、今教えることはできないけど。”

 “だから、待つことにした。”

 “ユーリヤも一緒に待っててほしい。”

 

 

 ハンターへの心配だって晴れないのに、ユーリヤは不思議な力なんて何一つ持たない、ただの女の子だ。どんなことが起きるか予測すら立てられない現状、ロッブの森には行ってほしくない。

 

 

 “私、ユーリヤが隣にいてくれるだけで幸せだよ。”

 “お願い。無茶はしないで。”

 

 

 ユーリヤは目を伏せた。

 

「……ごめんなさい。でも、……のままじゃいられないから」

 

 謝ることなんてない。そう黒板に書く前に、ユーリヤは首を振って顔を上げる。見ているだけでほっと安心するような笑顔を、私に向けてくれた。

 

「アレクシス。演奏会、楽しみね。きっと思い出に残る日になる。五年、十年経った頃に、あなたやみんなと、こんなことがあったねって笑いあえるような日に」

 

 未来の話なんて考えないようにしていた。そこに私はいないから、考えても仕方ないと思っていた。

 

 でも、もしハンターのやろうとしていることがうまくいったのなら。たとえば五年後、ここはどうなってるんだろう。

 私の知っていることはほんとうにちっぽけで、うまく想像なんてできない。

 

 でも、みんな大人になっていくのだろう。ニルスとロージャはもっと背が伸びるかな。ニルスは声とかも、ハンターや校長先生みたいに固くて重い感じになるのかもしれない。

 その日々の中に、私もいて、一緒に笑ったり、喜んだり、できるのだろうか。思い出を、これからも作っていけるのだろうか。

 

 実感は湧かない。でもそうだとしたら、うれしい。

 まだこれからもたくさん作れるかもしれないと思うと、すごくわくわくして、私は目尻を拭ってユーリヤに向けて小さく笑った。

 

 

 

 みんなとまだ一緒にいたい。

 もしもその気持ちを許してもらえるなら、きっとなにがあっても大丈夫だ。

 

 

 


 

 

 

「なあ、マルガレータ。そのカーネーション、売られているというなら品種として確立しているのだろう? なんという名前なんだ?」

「あのね、やさしい月の光をイメージしてつけられたそうなのだけど……」

 

 内緒話のようにこっそりと耳打ちされたその言葉に、私は思わず目を丸くした。私の顔を見て、彼女は口元を押さえてちいさく笑う。

 

「月塵とは、少し意外というか……月明かり、ではないんだな」

「ほかにも戯曲の青い鳥とか、永遠の幸福とかのイメージもあるらしいの。青は聖母マリアのアトリビュートのひとつだから、そういう意味も含んでるのかもしれないわね」

「結局取り逃がした青い鳥に、次代を残せないよう細工された、いつかは枯れる永遠の幸福、か」

 

 どこか皮肉を感じてしまうのは、穿ち過ぎた見方だろうか。そんなことを漏らせば、彼女は首を振った。

 

「私はね、ルイス。その花をつくり出した人たちの、祈りだと思ってるの」

「祈り?」

「ええ。青い鳥が決してかごに捕らえられなかったように、何もかも手元には留めておけない。いつかこぼれ落ちて消えてしまう。お茶を飲みながら交わした他愛もないお喋りも、贈られた花の色と香りも、一緒に見たきれいな空も。……大切な友だちのことも」

 

 睫の先がかすかに震えた。私も彼女も、二人を失った時の傷は、未だ血をにじませている。それでも、彼女は前を向いた。慈愛に満ちた眼差しが、庭で遊ぶ子供たちへと向く。

 

「でも、思い出はなくならない。たとえ忘れて追憶すらできなくなったとしても、その時の気持ちの残響は心の中にいつまでも残る。そんな祈りが込められてるんじゃないかって思ってる」

 

 そう言って、彼女は微笑んだ。

 

「それがきっと、今手元にある特別なものを守る力になる。私はそう信じてるわ」

 

 その温かい笑みを見て、私の口元も柔らかく緩んだ。




 「ローズマリー【追憶、変わらぬ愛、あなたは私を蘇らせる】」了。
 ここまでのお付き合い、ありがとうございます。
 次章「タイム【勇気、活動力、あなたを忘れない】」とエピローグの掲載まで今しばらくお待ちください。


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