μ's&Ours〜歌姫と僕らと〜 (ディルオン)
しおりを挟む

1話 Prologue

背中を見てたら苦しかった

彼はきっと、このまま誰にも見つけられずに、消えてしまうんじゃないか

 

だから私は、声をかけてしまったのでした

 

「あのぉ……」

 

「えっ…」

「あの何か……困って、ません?」

 

話しかけられたら、とても驚いてるみたいだった。

当たり前かな。いきなり声を掛けられたんだから。

私だって戸惑ってるもん。

何で声かけちゃったかな。

 

「あ……!」

「あ、困ってないならいいです。ごめんなさい。突然話しかけて」

「いや……」

 

眼鏡をかけた、同い年くらいの男の子は、しどろもどろに目を伏せたけど、ハッとなった様子で私を見て尋ねた。

 

「あの、実は……困ってます」

「え?」

「道が……分からなくて……」

「………」

 

しばらく声が出なかった私は。

思わず噴出した。

 

「……」

「……」

 

あ、今の私、めちゃくちゃ失礼なことしちゃった

いや、だってしょうがないじゃん……

この世の終わりみたいな顔して、「道が分からなくて」て……

 

「穂乃果、失礼ですよ」

「ご、ごっめんなさい!」

「い、いえ、いいんです…」

 

海未ちゃんに言われて慌てて私は頭を下げる。眼鏡の人も慌てながら手を振った。

 

「あの、田舎から出てきたもので…この辺りの地理が良く……」

「行き先は、どこですか?」

「えっと、四軒茶屋の…」

 

海未ちゃんが率先してその人の行き先を尋ねた。彼はスマホを取り出すと、住所と地図を見せた。

 

「四軒茶屋でしたら田園都市線ですね。ここからだと…」

 

海未ちゃんはテキパキと行先を教えてくれる。とても分かり易い説明で、男の子もふむふむと頷いていた。

さすが海未ちゃん。私も幼馴染として鼻が高い。

えへん、なんてやってたら、ふとことりちゃんと目が合った。

くっと笑うことりちゃんの目に私もへへってなって鼻を擦った。

……一瞬海未ちゃんのジト目が見えたの、気のせいだよね。

 

「どうも、ありがとうございます」

「いえ、どうぞお気を付けて」

「はい」

 

眼鏡の人はそう言って丁寧にお辞儀をすると、私の方へと向き直った。

 

「あの、ありがとうございました」

「え?」

「わざわざ聞きに来てくれて……お陰で、助かりました」

「あ、ううん。良いんです、全然」

 

私はあっけらかんとして答えると、それでも男の子は頭を下げて、お礼を言ってくれた。

それから海未ちゃんが教えてくれた道を進んで行って、地下鉄がある方向へと消えて行った。

私はそれを見送ってから、隣にいる海未ちゃんに向き直る。

 

「海未ちゃんありがとー!」

「別に私は良いですけど。それより穂乃果、ダメでしょう、困ってる人にあんな態度」

「は、は~い……」

 

海未ちゃん、最近私に対してお母さんみたいなんだよな~……このまま歳を取って口うるさい小ばばみたいになるのかなぁ……私は悲しいよ、ことりちゃん。

そんな風にことりちゃんを見た。ことりちゃんも私と同じような事考えてたみたいで、思わず苦笑してた。だよね~

 

「失礼なこと考えてませんか?」

 

あ、心読まれた?え、海未ちゃん、えずぱー?

 

「そ、そんなことないよぉ」

「で、でも穂乃果ちゃんが声かけてなかったら、あの男の人、道に迷ったままだったよね」

 

ことりちゃんがフォローしてくれた。

 

「そ、そうそう。私が見つける、海未ちゃんが助ける。これ、幼馴染のコンビプレー」

「……もう」

 

海未ちゃんは溜息をついた。許してくれるのが海未ちゃんの良い所だよね。

 

「まぁ……穂乃果がキッカケなのはそうですが」

「でしょでしょ」

「でも穂乃果ちゃん、よく分かったね。あの人が困ってるって」

「確かに、穂乃果にしてはよく気が利いたというか、目ざといというか……」

 

私も首を傾げた。そう言えば、何でだろ。

どうして私は、あの眼鏡の彼に

 

(目が離せなかったんだろ……)

 

私がその答えを知るのは、この日からずっと先だった。

一年近くも、後の頃。

私はこの日に出会った本当の意味を、再びこの場所で知ることになった。

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

雨宮蓮はその日、一人で上野を歩いていた。

桜が綺麗に立ち並んで舗装されている道路は、五月にもかかわらず満開だ。今年は例年より遅咲きらしい。

 

「ここが神田かぁ……中々キレイな街じゃないか」

「ああ」

「花が沢山咲いてるな」

 

蓮へとかけたその声の主は、彼の周囲にいなかった。

鞄だ。彼の学生鞄から、やや甲高い声は聞こえる。

だが蓮は疑問に思わずに短く答え、ゆっくりと歩く。街並みを堪能しながら目的地を目指すのは、久しぶりで、どこか贅沢だ。

 

「それで、ゴシュジンの言ってた店ってのは、どこなんだ?」

「…ここから少し先に行ったところらしい」

 

少年はメモを再び開いて住所を確認した。急いで走り書きをしたメモに移っているのは店の名前と住所だった。

 

「ここで手に入るのが、カレーに必要な材料なのか?」

 

声の主が不思議そうに尋ねる。

 

「そうらしい」

「クミン、カルダモン、サフラン……なんだこりゃ」

「香辛料の名前だよ。俺も詳しくは知らないけど、市販のものは駄目なんだって」

「プロのこだわりだな。怪盗として大いに見習うべきところだぜ」

 

その言葉に慌てて蓮は辺りを見渡し、ほっと溜息をつく。

鞄から聞こえる声は、普通の人間には聞き取れない。分かっていた筈だが、やはり落ち着かない。

それ以前に、鞄の中から声がする時点で普通じゃないが、その辺りの感覚がマヒしてる自覚くらいはあった。

 

「まあ、とにかく今はゴシュジンの依頼を片付けようぜ。居候とは言え、訳ありのワガハイたちを置いてくれてるんだ。恩義には忠節で返さないとな」

 

鞄の中で声の主が言った。

時代劇みたいなセリフだ。

春先からの彼の下宿先である喫茶『ルブラン』がある四軒茶屋とは逆方向だが、これには理由があった。

 

『カレーに使ってる材料が切れちまった。今日発注してる分が届く予定だったんだが、運送会社にミスがあったとかでな。明日一日だけ別の所で調達しねえといけねえんだ』

 

昼休みの事だ。携帯に下宿先のマスターから電話がかかってきた。

 

『知り合いの店が神田にあるんだが、さっき電話して、幾らか分けてもらうことになった。俺は店があっていけねえからよ。すまねえが、取りに行ってもらえるか? 電車代の他に、手間賃くらいは出してやるよ』

 

そう頼まれては断れない。

迷いは無かった。頼みを聞かない選択肢は頭に滅多に出てこない。

とは言え、少々せっかちすぎた、と反省している。元々この辺りの土地勘がないうえに、住所だけで探すのは骨が折れた。

近くに交番でも無いだろうか。

そう思い、キョロキョロと辺りを見渡した。すると……

 

「お願いしまーす!」

「放課後、講堂でライブやりまーす!」

「よろしくお願いしまーす!」

 

視線が自分の歩いている歩道の先へと進む。

学校の正門だ。放課後で自由になった生徒たちが次々と門をくぐり、笑いながら下校していく様子が見えた。

だが、気になったのはその点ではなかった。蓮が注意を引かれたのはただ一つ。

 

「ありがとうございます。是非お越しくださーい!」

 

下校していく女学生たちに対して、紙を配り歩いている、一人の少女に向けられていた。

 

(あれは……)

 

気付いた時、蓮の身体は勝手に彼女の方へと歩きだしていた。

本能…というには弱すぎるけれども、まるで、命じられているかのように。

距離を詰められたのはすぐだったけど、その数秒はゆっくりと、舞い散る花弁、車の音、人の喧騒、全てが遠く置き去りにされたように彼の周りで動いていた。

 

「あの」

 

青年が後ろ姿に声をかける。

少女は気が付いて、元気よく振り返った。

 

「あ、はーい! 明日講堂で、私たちのファーストライブやります! ぜひ見に来て……くだ、さ…い?」

 

勢いよく差し出した彼女の右手が空中で静止した。

ポカンと蓮を見つめる栗色の髪の少女。

黄色のリボンで止めたサイドテールの髪が、桜の花びらと一緒に風に揺れている。

間違いない。あの日、自分が初めて渋谷に降り立った時、道に迷っていたところで声をかけてくれた子だ。

 

「あの……」

 

上手く二の句が継げない。

なんていうべきだろう。思わず近づいてしまったけれど、名前だって知らないのに、それでも何か言わないといけないと思った。

でも上手く言葉を作れない彼の表情を見て、少女は目を丸くして顔を覗きこむ。

 

「ん~……あなた、もしかして……」

 

ふと、少女の顔がハッとなって閃いていた。

もしかして彼女も気が付いた? そんな期待を寄せつつ改めて彼女の顔を見ると、栗色の髪の少女は自分を指差して一言。

 

「あ、分かった! 小学校で一緒だった金剛寺君だ!」

「……」

 

全然違った。

いや、ドラマじゃないし、別に分からなくても良いんだけど、その……なんていうかもっとこう……

 

「穂乃果ちゃん?」

「穂乃果、どうしたんですか?」

 

校門の向こう側から、二人の女子が駆け寄ってきた。

長い黒髪が腰まで伸びた清楚な美少女と、サイドポニーが特徴の柔らかな雰囲気が伝わるこれまた可愛らしい子。

きょとん、と二人は自分を見上げた。

 

「穂乃果ちゃん、知り合い?」

「え? えっと……そのはず、なんだけど…」

 

穂乃果と呼ばれた少女が自分を見上げた。

いやそんな、助けを求めるような目線を向けられても……

そもそもなんで俺はこんなに困惑してるんだ?

悪い事はしていない筈なんだけど、でも見た感じ、女子高生に声をかけてる不審者に見えるのかな?

 

「あれ、金剛寺君じゃないのかな?」

 

いや、だから誰それ?

 

「穂乃香ちゃん、金剛寺くんって誰?」

「え、ほら、小学校で一緒だった子だよ。6年の時、私の隣の席にいた」

「えっと……それ多分、近藤君だと思うよ」

「あれそうだっけ?」

 

え、名前違うの?

 

「あの……4月に、道を教えてもらった者です。渋谷の交差点で」

 

埒が明かない。自ら正体……というほどではないが、晒すことにした。

 

「渋谷の交差点?」

「はい。俺が立ち往生してもらったら、あなたに声をかけてもらって」

「……」

 

少女は自分の顔を見ながらえーっと、と思案していた。

気付かないか……当たり前だ。一ヵ月前、自分にとっては忘れられない始まりの日だったが、向こうにしてみれば当たり前の日常の一コマなんだろう。途中で何かしても忘れるに決まってる。

 

「すいません。覚えてないですよね。急に声かけてごめんなさい。もう、行きますから」

 

素早くそう言って離れようとした、その時。

 

「あっ!」

 

空気を突っ切るような叫びが蓮の耳を貫く。目を大きく開いて、セミロングの彼女は叫んだ。

 

「そーだ! あの時の、四茶の行き方分からなくて死にそうな顔してた人!」

「………」

 

びしっを指を突き立てて、先程以上に確信に満ちた眼差しで見つめてくる。

蓮は一瞬たじろぐ。その様子を見て、また間違えたと思ったのか、少女の顔は再び困惑気味になった。

 

「あれ…もしかしてまた間違えちゃった?」

「あ、いえ……その、通りです」

 

何かが、蓮の中で溶けていく感触があった。

思い出してくれたのが素直に嬉しかった。

しかし、『死にそうな顔』……そんな表情をしていたんだろうか?

 

「あ、そうだよ。海未ちゃんが道案内してあげた人だね」

「ああ、あの時の」

 

後ろの二人も得心がいった様子で頷いていた。

 

「ごめんなさい、気付かないで。あの時と全く表情、違ってたから」

「確かに、前にお見かけした時はもっとこう……」

「落ち込んでるって言うか、生気がないっていうか……」

 

……ああ、そうか。

そうかもしれない。顔に引っ付いた花びらを剥がしながら蓮は思った。

 

島流し同然にこの街にやってきて、そんな顔をしていない方が不自然だった。

だから、声をかけてくれたこの人のことを、嬉しく思った。

 

「す、すいません、失礼なことを…!」

「あ、いえ、いいんです、そんな」

 

黒髪の少女が慌てて頭を下げる。こちらも同じぐらい戸惑いながら返した。

 

「俺、確かにあの時は凄い落ち込んでて、気分も悪かったし……酷い顔してても、しょうがないと思います」

「そうだったんですか?」

「はい。でも、今はもう違いますから」

 

そうだ。今は違う。俺はもう、絶望して生きるだけの屍体じゃない。

自分は曲げない、そう誓った。『もう一つの世界』で得た『仮面』がその証。

 

「そうだよね」

「え?」

「あの時より、ずっと生き生きしてる気がする。よく分かんないけど、そっちの方が良いと思う」

 

そう言って少女は笑った。満面の笑みで。

家族と一緒に置き忘れてしまった、温かい、幸せに囲まれている者だからできる、笑顔。

優しさとか、愛情とか、幸運とか……満ち足りているんだろう、この子は。

僻んでいるわけじゃない。純粋にただ羨ましいと、それだけを想った。

 

「あ、そうだ!」

 

少女は手に持っていたA4サイズの紙を一枚、こちらに手渡してきた。

おもむろにそれを受け取って眺める。可愛らしい少女たちのイラストがカラフルに躍っていた。

この描かれている三人は……目の前にいる少女達だ。

 

「これ、良かったら来てください」

「……これは」

「明日、ここの講堂でファーストライブをやるんです」

「ライブ?」

 

ふと黒髪の女の子を見ると、彼女が恥ずかしそうに顔を伏せた。

ライブって言うと……あれのことか? 楽器を演奏したり、歌ったり踊ったりするような…。

チラシを見ると、『μ’s』という一際大きな文字が飛び込んだ。

 

「みゅーず?」

「はい、私たちのグループの名前です」

「石鹸の?」

「違います!」

 

黒髪の子ががばっと顔を上げて叫んだ。

 

「す、すみません……」

「海未ちゃん、またそんな恥ずかしそうにして」

「だ、だってそれは、その…」

 

海未と呼ばれた子は不安げに再び顔を伏せてしまうのだった。

どうしたのかなと思っていると、ふと周りの景色が飛び込んでくる。ああなるほど、道理でさっきから男を一人も見ていないと思った。

 

「あの、俺が来ても大丈夫なんですか?」

「え?」

「女子高ですよね、ここ」

「あ…」

 

真ん中の子……穂乃果はすぅーっと視線を泳がせ始めた。

 

え、ちょ、確認してないの?

 

「こ、ことりちゃん。どうだったっけ?」

 

泳いだ視線の先にいたサイドポニーの子が苦笑しながら言った。

 

「だ、大丈夫だと思うよ? 知り合いとか、父兄の人とかよく来るから。もちろんキチンと言っとかないとだけど」

「よかったぁ~!」

 

ほっと胸を撫で下ろす少女。何とも言えない複雑な表情の自分を見て、すぐに我に返ると、改めて自分に向き直った。

 

「と、というわけで、是非来てください! お友達も誘って、是非!」

「穂乃果……あなた知らずに秋葉原でチラシを配り歩いていたんですか?」

「え、ま、まあ、ほら、結果オーライだったんだし、良いじゃない?」

「もし駄目だったらどうするんですか! 折角来て下さった人を追い帰すことになるんですよ? 失礼です!」

「だ、だって、海未ちゃんの特訓の為だったんだよ…? なりふり構ってられないというか…」

「私を言い訳にしないで下さい!」

「まあまあ二人とも……」

 

『ことり』なる少女が言い合いを宥めるのを尻目に、蓮はチラシに再び目線を移す。

μ'sか……確か、ギリシャ神話に出てくる女神の総称だったかな……うすぼんやり思い出していると、自分の鞄がモゾモゾと動き出し、やがてチャックがジーッと開いた。

 

「なんだ、その紙?」

 

学生鞄の中からひょこっと、黒い塊が飛び出してきた。それは首をもたげるように自分の持つチラシを覗き込む。

蓮は三人に聞こえないよう、黒い塊……鞄の中に潜んでいたそいつに答えた。

 

「ああ、ライブのお知らせだって」

「らいぶ? 歌ったり踊ったりするアレか?」

「ああ」

「へえ、面白そうじゃないか」

「あれ?」

 

ふっと、三人の中から、中心で仲裁をしていたことりという子が、こちらに視線を向ける。彼女の見ている方向は自分の持つ鞄に向けられていた。

 

「わあ、ネコちゃん!」

 

一際黄色い声が聞こえた。

ネコちゃんと呼ばれたそいつ……真っ黒な毛並みのオス猫の姿をした蓮の仲間『モルガナ』は、可愛らしく目を細める。

 

「あ、ホントだ!」

「にゃ、にゃお~ん」

 

女の子たちが目を輝かせて近づく。モルガナは慌てて可愛い鳴き声を作って応えてみせた。

 

(まあ、他の人間には意味ないけど…)

 

モルガナは世にも奇妙な喋る猫だ。

ただし声を聞き取れるのは蓮を含めて三人だけ。他はただの猫の鳴き声にしか聞こえない。

 

「にゃーんにゃーん」

「あなたが飼ってるんですか?」

「飼ってるっていうか……成り行きで拾ったというか…」

「にゃにゃあ、にゃーにゃにゃー(拾ってねえよ、お世話させてやってるだけだぞ)」

「分かってる。同居人だよな、俺達」

「にゃん(その通りだ)」

「え、この猫ちゃんの言葉、分かるの?」

「……分かるって言うか、まあ、何となく」

「へえ、凄い!」

 

モルガナの言葉は聞こえなくても、彼を連れた蓮がどう見られるかは別問題だ。

 

(春先の変な人に見られかねない)

 

ただ穂乃香嬢も深く考えなかったようで、すぐモルガナに向き直る。

 

「この子、名前は?」

「えっと…モルガナって言います」

「モルガナちゃんかぁ……じゃあ、略してモナちゃんだ」

「え?」

「あ、ごめんなさい。駄目ですよね、勝手に略して」

「いえ、良いんです。俺達も、よくモナっていう時があるから、ちょっと驚いて」

 

愛称ではなくて『コードネーム』なんだけど……まあ、良いか。

『あの世界』は話しようがない。

 

「ねえ、撫でてみても良いですか?」

「ああ、うん。どうぞ」

「ありがとう! よーし……よしよーし、ごろごろごろー!」

「にゃにゃにゃにゃ、にゃふふー!」

「あはは、喜んでる。ことりちゃんもやって見なよ」

「うん! よしよし、いーこいーこ…」

「にゃ、にゃお~ん……にゃふ~ん……」

「あは、カワイイ!」

「にゃふふ……」

 

声じゃない。素で漏れた鳴き声だ。

モルガナ自身「これは仮の姿で正体は人間なんだ」と言っているが、この様子じゃ、どこまで本当なのか……

 

「海未ちゃんも、やってみなよ!」

「え、ですが……」

「すっごい可愛いよ! いいからほら!」

「は、はぁ……」

 

戸惑いがちにこっちを見る。可愛いものを見た女子特有の好奇心がありありと浮かんでいる。

こういう反応は田舎も都会も関係ないか。

 

「どうぞ。やってくれると、こいつも喜ぶ」

「で…では、少しだけ……」

 

おずおずと手を伸ばす。

さわり、と指先が毛に触れる。

 

「にゃふ」

「あっ……」

 

思わず声が漏れるモルガナ。

その時、彼女の身体に電流が走った。

 

「……」

 

さわさわさわ

 

「にゃふふふ」

「…………」

 

さわさわさわさわさわさわさわさわ

 

「にゃ、にゃにゃにゃにゃにゃあ!」

「か、カワイイ……」

 

さわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわさわ

 

「にゃ、にゃ、にゃ、にゃふふふふふ、にゃにゃにゃあぁ!!?」

「う、海未ちゃん、あんまりやりすぎると……!」

「うにゃあ!? にゃおーん、にゃんとぉー!?」

「ちょ、海未ちゃん、落ち着いて!?」

 

隣にいた二人が制するも、全く手は止まらない。

 

「にゃーあん、にょわー?(ちょ、苦し、強すぎだ!)」

「あったかくて……すべすべして……もふもふで……!」

「にゃ、にゃにゃ、んにゃ、ふぎゃーご!(い、息が、息が出来ん、死ぬ!)」

「毛並みも柔らかい…!」

「にゃうおーん!? にゃ、にゃあんにゃにゃあ!!(ちょ、ちょっと待て!? れ、蓮、助けてくれ!)」

(そう言われてもな……)

 

ちらりと、撫でまくってる海未嬢を見た。

 

「海未ちゃーん! ちょっと、ちょっとストップ!」

「そんなにワシャワシャしたら可哀想だよ!」

「可愛い……! こんな、こんな感触だったんですね、猫って…!!」

「「うみちゃーん!!」」

 

友達が引き剥がそうとしているがビクともしない。

見かけに反してかなりの筋力だ。

あと、ちょっと顔ヤバい。

 

「にゃおーん!(ダレカタスケテー!)」

「ちょっと待ってて」

「んにゃおー!(待てるかー!)」

 

 

・・・・・・・・・

 

 

「も、申し訳ありません!」

「いや、大丈夫ですよ。気にしないで下さい」

 

ぐったりしたモルガナを抱えて蓮は答える。

さっきまで恍惚とした表情でモルガナを愛撫していた少女……園田海未は地面に頭を擦り付けんばかりの勢いで深々と頭を下げていた。

 

「あんまりふわふわしていたもので……我を忘れて…気が付いたら……」

 

恥ずかしさと情けなさが入り混じった表情に、苦笑いしそうになった。

そんなに気にしなくてもいいのに。

というより、こいつも大概役得だよ、なあモルガナ?

 

「すみませんでした……」

「本当に気にしないで下さい。コイツもそんなにヤワじゃないし、ね?」

「にゃ、にゃおーん…!(あ、当たり前だぜ…!)」

「ほら、結構元気ですよ、これで」

「んにゃ、にゃにょわー……!!(レ、レディに惚れられるとは光栄だぜ……!!)」

「撫でられて嬉しいって言ってます」

「にゃんにゃん、にゃにゃにゃあ…(こんなもん、いつでも、朝飯前だぜ…!)」

「また撫でてくださいだそうです」

「ふぎゃーご、ふぎゃーご(後で覚えとけよ、こいつ)」

「今度また会いに来ます、って」

「ふにゃあ!(お前のことだよ!)」

 

ボロボロの毛並みを撫でて整えながら、蓮はポーカーフェイスを崩さずに続けた。

手元で何か鳴いているが気にしない。

 

「う、海未ちゃん、大丈夫って言ってるし……」

 

サイドポニーの長髪の子……南ことりと言うそうだ……が、必死にフォローしている。

 

「そ、そうだよ。確かに、目ちょっと怖かったけど、しょうがないよ、うん」

 

蓮が最初に声をかけたセミロングの子……高坂穂乃果が海未の肩に手を置いて苦笑しながら励ます。

いやそれ、フォローになってないけどね。

その後、毛並みのブラッシングに三時間かけたが、それは余談。

 

「は、はい……」

 

結局、それ以上謝り続けても相手が困るだけだったので、海未はようやく伏せていた頭を上げた。

 

「ごめんなさいね、モナちゃん」

「にゃあ」

 

海未は改めて最後とばかりにモルガナに声をかける。とりあえず落ち着きを取り戻したらしいモルガナも、気にするな、と軽く鳴き声を返した。

 

(猫相手にここまで……なんというか……)

 

生真面目を絵に描いたような人だ。

腰まで伸びている髪も癖一つなく、清楚な雰囲気は大人びた印象を覚えさせる。

『大和撫子』というのは多分こんな子のことを指すんだろうな。

そんな事をぼんやり思った。実家でも今の高校でも、こんな女性は見たことがない。

 

(こんな大人しそうな人がライブ…)

 

「あの」

 

ふと受け取ったチラシを思い出した。

 

「このライブって言うの、どんなものなんですか? 軽音楽とか?」

「いえ、アイドルです」

 

そう胸を張って答えたのが、高坂穂乃果だった。

 

「アイドル?」

「私たち、この音ノ木坂学院のスクールアイドルなんです」

「スクール…アイドル」

「はい!」

 

アイドルと言うと、よくお茶の間に映っている、可愛かったりカッコよかったする、アレ?

って言うことは、この子たちは芸能人?

いや、それにしてもファーストライブが講堂って……

 

「あの……スクールアイドルって、他のアイドルと違うんですか?」

「え?」

「今度デビューするってことですよね? スクールってことは、学生がメインってことなですか?」

「もしかして……スクールアイドル知らないんですか!?」

「は……はい」

「えーっ!?」

 

信じられない!と穂乃果が叫んで食い入るように自分を見る。慌てて一歩引いてしまった。

 

「スクールアイドルって、今一番人気があって凄いんですよ!」

「そ、そうなんですか?」

「そうです! キラキラしてて、迫力があって、もうとにかくこうバーン!って盛り上がって!」

「は、はぁ…」

「穂乃果ちゃん、それじゃあ伝わらないと思うよ……」

「と言うより、あなたも始めるまで殆ど知りませんでしたよね」

「……」

 

友の言葉を受けて、固まる穂乃果さん。

なるほど、とにかく凄いもので、今流行りなのは分かった。

それ以外は全く伝わらなかったけど。

 

「と、とにかく、感動すること間違いなしです!」

「そんなこと言って……もう」

 

はぁっとため息をつく海未。

彼女は苦労人ポジションなのが分かってしまう。

ウチのメンバーにはいないタイプだ。

 

(ウチのメンバー……そうだ、そう言えば)

 

ふと蓮の頭によぎるものがあった。この東京に来て、初めて出来た二人の友人たちの事だ。

 

「ま、まあ、まだまだ至らないところもありますし、お忙しいとは存じますが……」

「はい、行きます」

「え?」

「まだここに来て日も浅いので、どんなものがあるのか興味があって。知り合いも誘っていきます」

「ホントですか!?」

「はい」

「やったー!」

 

両手を上げて喜ぶ穂乃果。隣の二人も嬉しそうに顔を見合わせていた。

あっとそうだ。これだけは聞いておかないと。蓮は口を開く。

 

「あの、それで……ここの講堂、車椅子とか入れますか? もしかしたら、そういう人も来るかもしれないんですけど」

「車椅子……えっと、どうだったっけ?」

「脇にスロープもあるし、大丈夫の筈だよ」

 

心の内で胸を撫で下ろす蓮。

よし、これで前提条件はクリア。

 

「じ、じゃあ、時間4時からですけど、大丈夫ですか?」

「はい。俺の学校、蒼山一丁目なんで、そんなに離れてないし」

 

土曜だから授業は午前中で終わる。

確か例の病院もこの近くと聞いたし、十分間に合う。

 

「それじゃ、都合がつくようなら、その人も誘ってみます」

「ありがとうございます! やったよ二人とも! 一気にお客さん二人ゲット!」

 

ガッツポーズを取る少女。

それを見て、自分の顔が自然とほころぶのを感じた。

何だろう、この気持ちは…?

俺の周りに、こんな子はいなかった。目の前のことに一生懸命で、とにかく明るくて、幸せを存分に享受している。

 

(本当に…こんな)

「おい蓮」

 

不意にモルガナの声で現実に引き戻された。

慌てて視線を鞄に戻すと、彼は蓮をじっと見ながら言った。

 

「そろそろ行かないと、マズいんじゃないか? ゴシュジン、首を長くして待ってるぜ」

 

そうだった。

ただでさえ厄介者扱いされている身だ。このチラシも大事だが、お使い程度に何時間かけてんだ、とお小言を喰らうのもゴメンだ。

 

「すいません、俺はこれで」

「あ、はい! ありがとうございました!」

 

そう言って、栗色の髪の女の子が深々と頭を下げた。二人の友達も一緒に頭を下げる。

蓮もつられる様にお辞儀した。

 

「それじゃあ、また明日。楽しみにしてます」

「はい、楽しんじゃってください!」

 

その言葉に苦笑して踵を返そうとした時。

 

「あ、そうだ、名前!」

「え?」

「名前、教えてもらっても良いですか」

「あ、ああ」

 

少しばかりの抵抗感を覚えながらも、自分の名を口にした。

 

 

「蓮です。雨宮蓮」

 

 

・・・・・・・・・・・

 

 

国立音木坂学院の校舎裏から、正門にいる生徒を観察する一人の影があった。

日本人とは違う、金色の髪の毛と緑がかったブルーの瞳。見れば一目で心を奪われずにはいられないほどの端正な顔立ちと細い身体。

 

「………」

 

生徒会長の絢瀬絵里は、じっとその場に立って三人の女学生たちを見つめていた。

 

高坂穂乃果、南ことり、園田海未。

 

この学園に新しく発足したスクールアイドル。

 

(上手く行くはずがない……)

 

廃校を阻止するために集まった三人。

学校存続の為、そう言えば聞こえはいい。学園内でも、彼女たちのことはおおむね好意的に捉えられている。

だが絵里はそんな彼女達を認めない。

 

(無茶が過ぎるわよ)

 

もう結果は分かりきっている。それだけ心で呟いて立ち去ろうとした。砂金をちりばめたような美しい髪がふわりと舞う。

その時だった。

 

『あの……』

 

聞きなれない声を耳にして足が止まった。振り返ると、三人は校門より外に出て誰かと話しているのが見える。

どうやら男性みたいだ。

 

(誰? 何でこんな所に男子が……)

 

この音ノ木坂学院に他校からの生徒、それも男性が来るなんて殆どなかった。少なくとも自分が入学してからは一回もない。

昔はお嬢様学校として名を馳せた高校らしいから、出待ちくらいはいたらしいが、今ではお伽噺だ。

 

『あの時の、四茶の行き方分からなくて死にそうな顔してた人!』

 

女子三人の内、リーダー格の高坂穂乃香が声を張り上げていた。行き方分からなくて死にそうって何? と少し思ったが、絵里の疑問は彼の出で立ちだった。

 

(あの制服……秀尽学園の…)

 

私立秀尽学園高等学校。蒼山一丁目に居を構えている都内ではごくありふれた一般の進学校だ。文武両道を謳い、特にスポーツの中でもバレー部は抜きん出ていた。あくまで以前までの話だが……

 

(どういうこと?)

 

「えりち?」

「…っ…!? あ、の、希?」

 

ふと、後ろから声を掛けられた。

 

慌てて振り返ると、そこにいたのは同級生で生徒会副会長の東條希。自分の相方ともいえる存在だった。

 

「どないしたん?」

「えっと……」

 

おっとりとした様子で尋ねる希。

自分と真逆の性格ながらも、よく気が利く彼女は生徒会に欠かせない存在であり、絵里も信頼している。仕事を抜きにしても一番の友人だった。

 

「んん? なんや、あの子たちを見とったん? やっぱり気になるんやろ」

「……そ、そんなんじゃないわ」

 

あの子達というのはスクールアイドルの穂乃果たちだ。会長の絵里とは違い、希は三人の活動に肯定的だった。学園存続のために下手な博打は打つべきではないと考えていた絵里にとって、希の行動は理解しがたい部分もあった。

 

「じゃあ、どないしたん? 興味がないなら見ることもないんやない?」

「…ちょっと別のことが気になって」

「別のこと?」

「あれ」

 

顎でクイッと、正門の方を示す。

希はそちらを覗き込むと、途端に目を丸くした。流石の希も男子生徒が校門前で自校の生徒と話し込んでいるのは新鮮だったようだ。

 

「あら珍しい。ウチのとこに男子が訪ねてくるなんて」

「ええ。それにあの制服、秀尽よ」

「それって、マコちゃんのいる所やんな」

 

マコちゃんとは、秀尽学園の『新島真』だ。

この辺りの学校では、生徒会同士による合同定例会が行われており、より良い学校活動の為に意見交換を行っている。この音ノ木坂も参加しており、絵里はそこで出会った秀尽の生徒会長の真とは旧知だった。

 

『類は友を呼ぶんやねえ』というのが希の談。

 

「向こうの生徒会からお使いでも頼まれたんかな?」

「そう言うのは聞いてないわ。彼女もわざわざ男子を行かせるなんてしないと思うし……それに、あっちも今定例会どころじゃないでしょ」

「そう言えば秀尽学園、今とんでもない騒ぎやもんな」

「えぇ…あれじゃあ真も、しばらく対応に忙しいでしょうね」

「大学の部活動も同じような事件があったばかりやのにねぇ」

「それに……」

 

と、絵里はそこで一旦言葉を濁した。これは余り言い触らすような内容ではない。別に希を信用しない訳ではない。他の生徒から聞いたこの話が余りに荒唐無稽なのだ。

 

「えりち、どないしたん?」

「別に何でもないわ。ちょっと、変な噂を聞いたものだから」

「……もしかして、『心を盗む怪盗団』のこと?」

「え?」

「ウチの耳にも入ってきた。秀尽学園の校舎に、『お前の心を盗んで、罪を告白させる』いう予告状が貼られてたって。数日経ったらホントにその先生、自分のやってきたことを白状したんやって」

 

絵里は希の言葉にハアっとため息をついた。どうもこの子に隠し事は出来ないらしい。思慮深さや視野の広さ、それに観察眼は自分より遥かに上だ。趣味の占い……というだけじゃないんだろう、多分。

 

「不思議な話やね。心を盗むなんて、流石にウチにも分からへんわ」

「まさか希……あなた信じてるの?」

「ウチは見てへんから何とも言えんけど……でもロマンがあるやん?」

「……あなたまでそんなこと言うなんて」

「えりちは、信じてへんの?」

「ただの噂でしょ。誰かのイタズラに、偶然が重なっただけ。それで周りが騒いでるのよ」

 

下らない、とばかりに絵里は切って捨てた。そんな絵里を見て、希はん~、と口元に指を当てる。

 

「せやけど占いにも出とったしなぁ」

 

にこやかな表情を崩さずに言う希。

彼女がおもむろに掲げたその右手には、いつも持ち歩いている占い道具、タロットカードが握られていた。

 

「なにそれ?」

「これ? アルカナ0『愚者』のカード。これが正位置で出ると『未知の可能性』『新しい冒険』を暗示するんよ」

「いえ意味を聞いてるんじゃないのよ。と言うか何回も聞かされたから知ってる。そうじゃなくて……」

「近い将来、この国にトリックスターが現れる」

「え?」

 

希の表情は、どこを見るわけでもない、ただ空を仰いでいた。

 

「トリックスター?」

「定めに抗う、変革を望む者……歪みを直し、運命を変える存在……そう、出とったんよ。何回も何回もやって……それでも」

 

ひゅう、と一迅の風が吹く。この感覚は、どこかで感じた事がある。これは、確か生徒会室で……

 

「こんなにハッキリと出たんは二度目や。あの子たちがスクールアイドルをやるって言い出した、あの時と一緒」

「まさか希……」

 

希の視線は、校門前で男子生徒と話す穂乃香たちに向けられていた。その表情を見て、恐る恐る絵里は尋ねる。

 

「あの三人が、その怪盗団の正体……なんて言い出すんじゃないわよね?」

「………えりち、おもろいこと言うんやね。それは流石にウチも考えつかへんかったわ」

「え?」

「それやったら驚くけど、ふふふ、案外えりちもロマンチストやな」

 

面白そうに自分を見る希。絵里は恥ずかしそうに顔を逸らした。

 

「べ、別に……あなたがもったいつけて話すから、勘違いしそうになるじゃない」

「くすくす」

 

『それじゃあ、俺はこれで』

『はい、ありがとうございました!』

 

そうこうしている内に、謎の男子生徒との会話は終わったらしい。黒い制服に身を包んだ秀尽校の生徒は、そそくさと道を歩いて消えて行った。

 

『やったね、海未ちゃん、ことりちゃん!』

『うん、友達も連れてきてくれるって言ってたね』

『よーし、気合を入れて、まだまだ配ろう!』

『そうですね』

 

どうやら良い返事を貰えていたらしい。三人は顔をほころばせて、チラシ配りを再開する。その様子を見て、絵里の目が細くなった。

 

「お、どうやらあの男の子、ライブに来てくれるみたいやね?」

「……」

「よかったやん、ちょっとずつ成果が出てて」

「一人呼べただけよ。それに来るかどうかなんて、当日にならないと分からないわ。舞台にお客を呼ぶって言うのは、そんな簡単な事じゃないのよ」

「やっぱり、よう分かってるんやね」

「…希」

「ん、ごめん」

 

希はそれ以上言わなかった。多分、今絵里が考えていることに関しては希も同じ考えなんだろう。

あの子たちのライブは上手くいかない。これは意固地でも感傷でもない自らの経験則からくる事実。奇跡でも起こらない限り不可能だった。

腑に落ちないのは、それが分かっていながら、どうして希が彼女達の肩を持つのか、という事だけど……

 

「けど、かのカレは来るよ」

「え?」

「見えるんよ……あの人は他とは違う。あの子たちにとって……ううん、ウチらにとっても、大事な存在になる」

 

そう言う希の目は、今までに見たことのない表情をしていた。

全てを見通す鳥瞰的な視点……でも、なんだろう、これは? こんな顔をする希を、私は知らない。

けど、どうして? 彼女の言葉に、どうしても、首を横には振れない。

男子生徒が去って行った方角を見る。もう姿は消えてしまっていたが、それでも……

 

(……本当に、来るのかしら)

 

その予感を、絵里がハッキリと自覚できるには、まだ時間が必要だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2話 PrologueⅡ

 

翌日の朝、蓮は早速二人の友人を廊下へと呼び出した。

勿論、昨日受け取ったチラシを見せるためだ。

チラシを広げて、友人たちに見せると、ほぉーっと感嘆の声が漏れた。

 

「スクールアイドルのライブ!?」

「ああ」

「マジかよ、お前そんなのと知り合いだったのか?」

 

二人の友人の内の一人、坂本竜司は目を見開いてチラシを手に取った。

 

「知り合いって言うほどじゃない。東京に初めて来た日に道を教えてもらって、昨日偶然また会ったんだよ。そこで、このチラシを渡された」

「すっげえ~」

 

竜司は見た目も派手……というより、どこに出しても恥ずかしくない立派なヤンキーだ。髪は金キラ、制服は着崩し、ズボンは腰パンならぬ腿パンだ。誰がどう見ても問題児にしか見えないし、本人も否定しない。

 

本当は友達思いで面倒見のいい優しい青年なのだが、『ある事件』以降、この姿で通している。

興奮している姿とのギャップも殆どないけど。

 

「スクールアイドルってあれだろ? 今流行りの、女子高生だけのアマチュアアイドル」

「そうらしい」

「そうらしいってお前……もしかしてスクールアイドル知らねえの?」

「彼女達に聞かされるまで、全く」

「嘘だろおい」

 

信じられない物を見る目つきになった竜司。

 

こいつはこういうの好きそうだ。

 

「アンタそういうの好きそうだもんね」

 

一瞬心を読まれたかと思った。

溜息をついて竜司を見たのは、隣にいるもう一人の友人、高巻杏だった。

彼女の言葉を受けて、竜司は不服そうに言う。

 

「だってよぉ、今スクールアイドルっつったら流行の最先端だぜ。テレビとかでも特集やってるし、はっきし言って知らねえ方が少ねえって」

「そうだったのか……」

 

田舎の出身とは言え、どうも自分が不精だっただけみたいだ。

 

「つか、こういうの杏の方が詳しいんじゃねえか? モデルやってるしな」

「だから、私はただの読者モデルだって。それにそういう人とは繋がりないし……あ、でも話は結構聞く。「杏ちゃんはそういうのやらないの?」なんて、カメラマンさんから言われたし」

 

杏は金髪とブルーの瞳が印象的な、見れば誰もが振り向く美少女だった。彼女の髪は竜司と違い、天然ものだ。アメリカ人とのクォーターらしい。その顔とスタイルの良さを生かして、読者モデルのバイトもしている。

『お高くとまってる』なんて陰口を言われることも多いらしいが、彼女も竜司と同じ、素直で友達思いの優しい少女だった。

 

「あ、そう言えば、前に撮影した雑誌なんだけどね」

 

そう言って杏は手元の鞄から、一冊の雑誌を取り出した。彼女が出ているファッション誌のようだ。

 

「この号の表紙に写ってるこの子達、見てみて」 

「A-RISE…」

「……えーりず、か? これ?」

「違うっつの。これで『アライズ』って読むの」

「あ、あー、なるほどな、おー」

 

生返事の竜司。英語力は残念ながら外見通りと言わざるを得ない。

 

「秋葉原にあるUTX学園の芸能科にいる子達で、噂じゃ卒業後はプロダクション入りが内定してるらしいよ」

「うぉー、すっげえ可愛いじゃん」

「歌もダンスも、そこら辺のプロ顔負け。ライブのチケットは即日完売だって」

「マジか…!」

 

竜司がゴクリと息を飲む。大体何を考えてるのか察しはつくが言わないでおこう。

 

「お前そんなのと友達になったのかよ、やべえな!」

「あ、いや、さっきも言ったけど、友達って程じゃ……それに知り合ったのは、この人たちとは違うし、どういうものかまだ……」

「同じスクールアイドルには変わりねーだろ! それにファーストライブってことは、俺達が初めての客ってことだろ? いいじゃねーか、ファン第一号で、色々とお近づきになれるかもしれねーぜ」

「アンタねぇ…」

 

杏が呆れると同時に、蓮の鞄からモルガナがひょっこりと顔を出した。

 

「リュージの発想は単純だな」

「猫に言われたくねえよ」

「猫じゃねえよ! 何回も言わせんな!」

「二人ともうるさい。ここ屋上じゃないんだからね」

 

杏が叱咤し、思わず口をつぐむ二人。

 

以前までは屋上を『アジト』としていたが、生徒会長に見咎められて今は出入り禁止だ。こうして話している分には問題ないが、ネコを連れての登校なんてバレたらコトだ。

それにモルガナの声を人語として解すことができるのは、『力』を持っている彼等だけである。

 

「とにかく…急な話なんだけど、良かったら一緒に行かないかなと思って」

「おお、行く行く! 俺スクールアイドルのライブなんて初体験だぜ!」

「あーえっと、ごめん、私は……」

「杏も、今日は鈴井さんと一緒に出掛ける予定だったんだろ?」

「え…あ、うん」

 

鈴井さん、というのは杏の親友だ。

この学校の元体育教師、鴨志田のセクハラの特に対象となっていた女生徒で、彼女はそれに耐えきれず、半月前にここの屋上から飛び降りてしまった。幸いにして一命は取り留めたものの、まだ回復には至っていない。

 

「お? 鈴井の奴、もうそんなに回復したのか?」

「ううん、まだ全然」

 

竜司の問いに杏は首を振った。

 

「リハビリも、手を動かすとか、それ位。でも、車椅子に乗っての外出許可が下りたから、今日の午後、出かけようって話だったんだ」

「昨日調べたんだけど、この学校、スロープとかのバリアフリーも充実してるみたいなんだ」

「え……」

「入院してる病院からも近いし、気晴らしにはちょうどいいんじゃないかなって思って」

 

杏はチラシに視線を落とした。一応、行く場所は考えていたが、近所の公園を散歩するくらいしか思いつかなかった。

それに改善されつつあっても、この街は障害や怪我を持つ者に優しくない現実がある。

 

「蓮……」

「お、それいいんじゃねえか。こういうのって気分もノッて盛り上がるし、動けなくても関係ねえしよ」

「うんっ!」

 

杏の瞳に、うっすらと涙が滲んでいるのが分かったが、蓮達は気付かない振りをした。

 

「ありがとう! これ、きっと志保も喜んでくれると思う!」

「良かった」

「うっし、決まりだな! 今日の放課後、鈴井の見舞い行ってから、一緒にその学校行こうぜ! あ、ライブってことは色々と準備とかいるんじゃねえか? あの光ってる棒とか、プレゼントとか……」

 

竜司が一人でブツブツと言い始めた。また妙な妄想が始まったらしい。蓮と杏は互いに目を合わせてから苦笑した。

ただ鞄にいるモルガナは呆れたご様子だ。

 

「くれぐれも粗相のないようにしておけよ。お前がバカやってワガハイたちにまで迷惑こうむるのはごめんだぞ」

「あ? お前は留守番だろ?」

「なぬっ!? ワガハイを置いていくつもりか!?」

「たりめーだろ。猫が入れるわけねえっつうの」

「抜け駆けは許さんぞ!」

「おわっ!?」

 

シャーっと、モルガナは前足を出して竜司に突っかかろうとする。

慌てて竜司は手を引っ込めたが、その時勢い余って、手に持っていたチラシまで放り投げてしまう。

 

「あっ…!」

「もー、何やってんのよ」

「俺じゃねえって、こいつが…!」

「アン殿、ワガハイは無実だ!」

 

ぎゃあぎゃあと言い争いと続ける二人と仲裁の杏を尻目に、蓮は溜息をつきながら落ちたチラシを拾おうと落ちた方まで向かう。

数メートル先にまで飛んでしまったそれを拾おうと屈んだ時だった。

 

「ん?」

 

ひょい、と自分よりも先に誰かがそれを拾い上げる。

目線を上にあげると、そこに立っていたのは自分も知っている人物だった。

 

「生徒会長…」

 

チラシを拾い上げたその人は、蓮を見下ろしながら無機質に問いかける。

 

「廊下で騒がないで。他の生徒に迷惑だから」

「……すいません」

「屋上から出てったと思ったら、今度は廊下……ちゃんとルールを守ろうという気があるのかしら?」

「失礼しました」

 

蓮は立ち上がって、チラシを受け取ろうとした。が、目の前に立っている生徒会長、新島真はじっと蓮とチラシを交互に見ている。

 

(なんだ…?)

 

この数週間、蓮達は明らかに警戒されていた。鴨志田が突然改心したことの裏には自分たちが関わっていると踏んでいる。事実その通りだ。

だが『はいそうです』と口を割ってやる義理もない。

 

「あの、それ返してもらっていーっすか? 一応、大事なもんなんで」

「……音ノ木坂学院、スクールアイドル…」

「ちょっと話聞いてんスか?」

 

流石に喧嘩を中断した竜司が食って掛かろうとする。取り敢えずそれは蓮が手で制したが、彼女はとても奇妙なもののようにチラシを一瞥すると、蓮にそれを差し出した。

 

「はい、どうぞ」

「……どうも」

「意外ね。貴方って、こういうの興味ない雰囲気なのに」

「俺よりも、そっちの方が意外なんじゃないですか? 生徒会長も、興味があるように見えましたけど」

 

やんわりと蓮は作り笑顔で返す。『怪盗』をやるようになってから、こういうポーカーフェイスも練習しておけよ、なんてモルガナに言われていたが、こんな所で使うとはな。

 

「もしかして、生徒会長もこういうのに憧れるんですか?」

「え……」

 

新島の顔が僅かに紅潮する。後ろでは竜司と杏が僅かに顔を逸らして噴き出していた。可愛い衣装を着た生徒会長さんでも想像したんだな、きっと。

ただそれはほんの一瞬で、すぐに元の鉄仮面に戻る。

 

「……別に。ちょっと変だなって思っただけ」

「『変』ですか?」

「ええ。音ノ木坂学院って、確かもう廃校になるって話よ」

 

そのワードは蓮や仲間を戸惑わせるには十分だった。

誰もがポカンとした表情で生徒会長を見る。杏が目を丸くしたまま尋ねた。

 

「廃校って……それ、ホントですか? だって音ノ木坂って言ったら、結構有名でしょ。歴史あるし」

「『歴史』は、ね……それだけじゃ生徒は集まらないのよ。都心部は今でも過疎化が進んでるし、統廃合の話があるのはあそこだけじゃないわ。厳密には来年度の入学希望者数が一定数を下回ったらって話だけど……正直、今のあそこに生徒を集められるような実績や制度はないから、殆ど決まりかもしれないわね」

 

そういう新島の表情はどこか寂しそうだ。初めて彼女のそういう部分を見た気がする。

 

「多分、このスクールアイドルって言うのも、生徒の一部が廃校を食い止めようとしてるんでしょうね。そういうのに憧れて入学希望者が増えた所もあるし」

「それが、どこか変なんですか?」

「………あっちの生徒会長とはそれなりに付き合いあるけど、こういうのは嫌ってそうだから、活動を認可するのは意外だなって思っただけ。生真面目を絵に描いたような人だしね」

 

(おい、ツッコミ待ちじゃねーだろーな……イッ!?)

 

竜司がボソッと呟いたのを、蓮と杏が同時に肘に小突く。

 

「まぁ…本当に廃校を阻止するつもりなら、志自体は立派だと思うわ。あちこちイタズラするようなどっかの誰かさん達と違ってね」

 

軽く鼻を鳴らす生徒会長の目は挑発的だった。

 

「……それだけの話よ。邪魔して悪かったわね」

 

生徒会長が踵を返し、近くの階段を登っていった。

 

「なにアレ? 相変わらず感じ悪い」

「俺らがやることは何でも気にくわねーんだろ。教師連中の言うことはホイホイ信用してよ」

 

杏と竜司が会長の消えた先を睨みながら忌々しげに言う。そう言うのもしょうがない。

鴨志田の事件の時、学生代表の生徒会が何も動かなかった。せめて体罰の噂ぐらいは知っていた筈だ。

それだけじゃない。竜司が鴨志田に殴りかかって陸上部が無くなった時も、何の弁護も調査もしなかった。

今回の事件でさえ、むしろ被害者の筈なのに、生徒会長は警戒心を抱き隠そうともしない。

 

(それが狙い、か)

 

あの表情はこちらの様子を窺っている顔だった。何か下手を打てば付け入る隙を与えることになる。

しかし……

 

(…あの人を嫌いになれない)

 

他の生徒と違うことが一つだけある。あの人は自分を色眼鏡では見ない。竜司も杏もレッテルで判断しない。

真面目で頑固、その評価は間違いないんだろう。俺達と方向が違うだけで。こんな形でなかったらよかったのに。

その時チャイムが鳴った。

 

「もう放っておこ。授業始まっちゃうし」

「そうだな。イチイチ相手にすることもねーか。じゃ、放課後に校門前に集合しよーぜ」

「ああ」

 

短く応える蓮。

さっき抱いた気持ちも、心の奥底に仕舞うことにした。

 

モルガナの『あの女は用心しろ』と言った事には蓮も賛成だった。

生徒会長を警戒しなくてはいけないのはしょうがない。

ただ、願う事ならば……

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

スクールアイドルμ's、記念すべき初ライブ。

絶対に成功させよう。できる。私たちならできる。そう心に勢いをつけて、穂乃果たちは奔走した。朝の日課となった階段の上り下り、筋トレ、ダンスや歌の練習もバッチリ。ギリギリまでチラシ配りにも奔走した。

今もクラスメートたちが自分たちに代わって照明や音響のチェックやチラシ配りをやってくれてる。

気合は十分。準備は万端。バックアップも文句なし。

あとは本番を待つのみだ。

 

それなのに……ねえちょっと、

 

「海未ちゃん」

「な、何ですか?」

 

控室代わりに使わせてもらっている小部屋で、穂乃果とことりは既にステージ衣装に着替え本番を待つのみとなった。

そして最後に着替えていた海未を待っ……

 

「なにそのかっこ?」

「ど、どうでしょうか? 似合ってますか?」

「どうでしょうかじゃないよ!」

 

似合う似合わない以前だった。

 

「なにその往生際の悪さ!?」

 

ミニスカートの上にカーキ色のジャージを履いて素足を誤魔化していた海未。

 

穂乃果は呆れた。

完全冬場の渋谷ギャルじゃん。

 

チラシを配ってた時はあんなに張り切ってたのに…

 

「だ、だって……」

「もう……さっきの海未ちゃんはどこへ行ったの?」

「あの、その……か、か…」

「か?」

「鏡を見ていたら……急に恥ずかしくなって……」

「おるぁ!!」

 

四の五の言う前にことりと二人で一気にジャージを引き摺り下ろす穂乃香。

 

「いやあああっ!??」

 

甲高い悲鳴を上げてスカートを抑え込む海未。

穂乃果はしみじみと海未の格好を見た。

なんだ、もしかしたら足が太いのかなとか思ってたけど全然そんな事ない。

 

むしろ一番節制していた分成果は良く表れてる。

 

「別に隠す事ないじゃん」

「そうだよ、海未ちゃん良く似合ってるよ?」

 

ねー! と顔を合わせて笑う穂乃果とことり。贔屓目じゃなくて事実だ。すらっと伸びた手足、腰まで届くストレートヘア、全体から漂う淑やかな雰囲気、ことり特製の青を基調としたステージ衣装にベストマッチだ。

これで恥ずかしがってどうしようというのか。

 

「ほらほら」

「きゃ!」

「海未ちゃん一番よく似合ってるよ?」

「そ、そうでしょうか……」

「それにほら、こうして三人で並べば、恥ずかしくないでしょ?」

「は、はぁ……」

 

大鏡の前まで海未を引っ張って穂乃果とことりは横一列に並ぶ。

ピンクと緑の衣装は、それぞれのイメージカラーを表現したことりのアイデアで、個性を引き立たせた。

 

「そうですね……三人で並べば、確かに」

 

頬を赤くしながらも海未は隣に立つ二人と自分を見比べた。こうして三人で並べば、一人目立つということも少ない……海未はそう思えてきた。

 

「そうそう、赤信号だってみんなで渡れば怖くない! だよ」

「いえ、それは止まりましょうね」

「気にしない気にしない! じゃ、始まる前にもう一回合わせようか!」

「そうだね」

 

穂乃果の言葉に頷いて、ことりも一緒に空いているスペースに立って立ち位置や動きを確認し始める。

海未もそれに倣い、一緒に確認しようとするも………

 

(………やっぱり恥ずかしいです!!)

 

何で二人は平気なんですか!?

 

こんな所でライブなんてできません! 私は実家に帰らせて頂きます!

 

叫びたくなるのを必死で抑えた。

一人だったらとっくに耐えられない。今も回れ右しそうな足を止めるのにどれだけメンタル削ってるか二人は分かってない。

 

「海未ちゃん、どうしたの?」

「早くやらないと間に合わないよ」

「あ、は、はい…!」

 

慌てて弱い考えを振り切った。

もうこうなったらやるしかない。やるしかないんです園田海未!

 

ここまで来て羞恥心で踊れないなんて二人に…特に穂乃果には体力トレーニングでボコボコにした手前、それだけは許されない。

 

良くも悪くも彼女は根が真面目過ぎた。

 

「よし、じゃあここのシーンもう一回やろう」

「うん」

「はい」

 

そうだ、赤信号みんなで渡れば怖くない。

海未はそれをモチベーションにした。

 

確かに、このライブは常に赤信号だった。

 

だが人間、『自分はたぶん大丈夫』なんて高をくくっているものだ。ピンチにならないと置かれた状況が分かるわけないんてない。

 

そう、まさにその通り。彼女達は分かってなかった。

 

『人に自分を見せる』ということの本当の意味が。

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

海未が自分の羞恥心を必死に取っ払おうと奮戦していたその頃。

 

秀尽学園のメンバーは音ノ木坂学院正門前から中に入って行くことに成功していた。

警備の人が、割と優しい。

 

「おい、俺たちスクールアイドル観に来たんだよな」

 

ただ、別の問題が勃発。

 

「そのはずだけど」

「じゃ何で目の前にアルパカがいるんだよ!?」

 

正面、けむくじゃらの四つ足動物を指しながら竜司が叫ぶ。

 

「触ってみるか?」

「やらねえよ!」

 

蓮の言葉にも竜司はちゃんと突っ込む。笑いの相方としても優秀みたいだ。

 

「やっぱりさっきの道反対側だったんじゃないの?戻った方が」

「いやでも案内はこっちだったぜ」

「そうだよね……ってか、ここ広すぎない? 秀尽の倍近くある気がする」

 

杏がため息を漏らしながら言った。

確かにここの敷地面積は自分達の学校を遥かに上回っている。伝統校らしく、校舎も厳かで気品があった。

 

「生徒数減ってんだろ……もうちょい土地削れよ。ちょっとはマシになんじゃねーの? こいつらとかどう考えてもうゔぉわっ!」

 

竜司の顔面に白いネバネバした液体がぶちまけられる。

二匹のアルパカのうち、茶色いふてぶてしい態度の方が唾液を吐きかけたみたいだ。

 

「ぺ! オエ!うゔぇ!? くせ! 何しやがるコイツ!」

「エッエッエッエッ」

 

小馬鹿にしたような態度で鳴くアルパカさん。

いや、割と本気でバカにされた竜司。

その様子をアホらしいと言った様子で見ている杏。

ただ彼女が引いている車椅子に乗った少女、鈴井志保はクスクスと面白そうに笑っていた。

 

「ごめんね、志保。なんかグダグダっていうか……」

「ううん、大丈夫。こういうの久しぶりだったから、なんだか楽しい」

「具合大丈夫? 気分悪くなったらいつでも言ってね」

「うん、平気だよ。みんな、わざわざありがとう。私の為に…」

 

そう言って、僅かに俯く。意識が回復しても、立って歩けるようになるまで時間が掛かるらしい。

数週間前まで昏睡状態だったのを考えれば順調過ぎる回復だが、ここからのリハビリも相当辛いものになるという。

 

(なんで鈴井さんだけこんな…)

 

口では言えないことさえ強要させられ追い詰められ、挙げ句の果てが指を動かすことも満足にできないその身体……

それを思うとやりきれない。

だが、そんな彼女の前に立って、杏は笑いかけた。

 

「志保はそんなの気にしなくていいんだよ」

「そうそう。俺もこういうの興味あったしよ。一緒の方が楽しいだろ、お互い」

 

蓮が渡したタオルで顔を拭いていた竜司が笑いながら手を振って答える。

杏なんて、自分以上に憤っている筈だ。それでも彼女のためにそれを抑えている。

その芯からの強さに、蓮はつい微笑していた。

 

「今日は思い切り楽しもう。その為に来たんだから」

「雨宮くん……うん、そうするね。ありがとう」

 

鈴井さんもそう言って微笑む。彼女も強い人だ。今の状況から必死に抜け出そうとしているのだから。

 

「……っていうかよぉ、しっかし、それはそれとしてどうすっかな? このままじゃ迷子になって終わりだぜ? なぁ?」

 

照れ隠しなのか、竜司が頭を掻きながら言った。

確かにまだ時間に余裕はあるが……と言うか既に迷ってんじゃないか、これ?

 

「ここの人間にもう一回聞いたらどうだ?」

 

と、口を開いたのはさっきから蓮の鞄の中に潜んでいたモルガナだ。

確かに一番手っ取り早い。

 

「近くの人に聞いてみよう。案外近いかもしれない」

「そうだね」

「最初からそうすりゃよかったな」

 

そう言って辺りを見渡したが、中々見つからない。

 

どうも今日は新入生歓迎会らしい。部活紹介や勧誘日も兼ねているようで、生徒の殆どは表の校舎側に集まってる。

どうしたものかと思案していた時だった。

 

 

「かよちん、早く早く!」

「ま、まって凛ちゃん、わ、わたし、あの、講堂に…」

 

 

遠くから女の子の声が聞こえる。見ると制服姿の小柄な女子が二人、奥の方にある建物へと移動しようとしている最中らしい。

ショートカットの女の子が、眼鏡をかけたショートボブの女の子の手を引いていた。

 

「お、ちょうどいいや。俺がちょっくら聞いてきてやるよ」

 

渡りに船とばかりに竜司が二人に駆け寄っていく。この時、恐らく杏は自分と同じ事を考えただろう。

『こんな竜司で大丈夫か?』

 

「あの、すんませーん」

「は、はい……あ、え!?」

 

急に呼び止められて、眼鏡の子は竜司に向き直る。

一瞬で顔がビクッと引き攣った。

 

「ちょっと聞きてーんだけど、いいか?」

「あ、え、あ、あの、私、その……!」

「俺達秀尽から来てて、道教えてほしいんだけど」

「え、あの、えと…!!」

 

嫌な予感的中だ。

根は悪い奴じゃない。悪い奴じゃないけど、あの外見では怯えられても仕方がない。

なんとかフォローしなければ、そう思い前に出ようとするが……

 

「あの」

 

眼鏡の子の手を引いていたショートカットの女の子が竜司の前に立ちはだかった。頭一つ分も身長差がありながら、眼鏡少女を守るようにして立ち、竜司を正面から見上げる。

 

「男の人が何の用ですか?」

「あん?」

「ここ、女子校なんですけど」

「はぁ?」

 

明らかに警戒されていた。まずいな。迷子になった上に不審者に間違えられたらとてもライブの時間には間に合わない。許可を貰ってはいるが、最悪警備員でも呼ばれたら…

 

「あのバカ…あれじゃタダのチンピラじゃねえか」

 

鞄からモルガナが苦言を呈する。このままでは泥沼だ。

 

それに蓮は余り警察には厄介になりたくない…と、いうよりなってはいけない理由がある。

説明しようと前に進み出ようとしたその時だ。

 

「んだよ、おま……ん?」

「あれ?」

 

ふと、二人の反応が変わる。

 

一瞬キョトンとした表情を浮かべた二人は、ジロジロとお互いの顔を見合い、観察している。

急な変化に杏や蓮は首を傾げていたが、突然竜司が何かに気付いたようにはたと手を叩いた。

 

 

「お前……ひょっとして、星空か!?」

「もしかして、坂本先輩!?」

 

 

竜司とショートカット女子が同時に互いの顔を指差しながら叫ぶ。アルパカが後ろでヴェ~と鳴いた。

 

「なんだよ、やっぱ星空じゃねーか! お前音ノ木坂行ってたのか!」

「わぁ!坂本先輩だにゃ! おざっす!」

「おう、おざっす!」

 

唐突な変化に周りが付いていけない中、二人は顔を綻ばせ、ハイタッチを交わす。竜司はいつになく嬉しい表情だった。

こんな風に盛り上がっている竜司を蓮は初めて見た。

隣に立っている杏を見てもどういうことか分からずにキョトンとしている。

 

「り、凛ちゃん、知ってる人…?」

「知り合い?」

 

眼鏡っ子と蓮が質問するのも殆ど一緒だった。

 

「ん? ああ。中学ん時の部活の後輩だ」

「星空凛です。よろしくお願いします! ほら、かよちん、陸上部で一緒だった、坂本竜司先輩だよ」

「え……あ、もしかして、凛ちゃんに走り方教えてくれてた…?」

「そうそう!」

 

凛と呼ばれた少女も、後ろにいた眼鏡の女の子に竜司を紹介する。今までおそるおそる竜司を見ていたが正体がわかって幾分緊張がほぐれたらしい。

 

「でも本当に久しぶりだにゃ。頭キンキラになっちゃって気づかなかったにゃ」

「あーこれ? あーなんつーか…イメチェン、っつうの? まぁそんな感じだ、はは。にしても相変わらずだな、その猫っぽい喋り方」

「えへへ、そうですか? あ!そうだ! あれから凛、またタイム縮んだんですよ!」

「お、やったじゃねーか!」

 

蓮達がぽかんと立っている中で、二人は会話を弾ませていた。相当仲の良かった二人らしい。

と、後ろで見ていた杏が手を叩く。

 

「あ。そうだ、思い出した。どっかで見たことあると思ったら……」

「そう言えば、杏と鈴井さんも同じ中学だったっけ?」

「まあね。陸上部はよく知らないけど、あんな子見かけた気がする。それに竜司、よく後輩の面倒見てたし」

「あれ? そっちの人って……」

 

竜司と話していた凛がこっちを見てまた何かに気付いた様子だった。実際には蓮の隣にいる杏に。

杏は軽く手を振って挨拶した。

 

「あ、こんにちは。私、竜司のクラスメイトで、中学もだったんだけど…」

「高巻さん…?」

 

ぽつり、と凛の後ろから呟くように小さな声が届いた。

さっき手を引かれていた眼鏡の女の子が杏を凛の背中越しにじっと見つめている。

 

「え?」

「高巻杏先輩……ですか?」

「あ、うん、そうだけど……」

「やっぱり!」

 

突然声を張り上げて目を輝かせる少女。しかし杏はあまり思い当たる節がないらしく、ん〜と頭に指を当てていた。

 

「えっと、ごめん、覚えてなくて……もしかして、あなたも同じ中学だったりする?」

「え、あ、はあ、はい、あ、わ、私、そうです…! 小泉花陽と、い、言います……!」

 

ハッと我に返ったようになって慌てて頭を下げた少女。

随分と忙しい子だなぁ、と蓮はぼんやりと感じた。

 

「あ、やっぱりそうだったんだ。ごめんね、すぐ思い出せなくて」

「い、いえ、そんな……私が一方的に知ってるだけですから」

「そうなの?」

 

一瞬きょとんとした杏だが、納得したように苦笑する。

 

「あ、まぁそりゃそっか……私悪目立ちしてたもんね〜…」

「い、いえ、そ、そんなことないです! とっても綺麗で、憧れてました!」

「え?」

「あ……!」

 

勢い良く大声をだして飛び出した主張。

ど直球だなと思う蓮。

三人の視線を受けて、再び顔を真っ赤にして小泉さんは俯いてしまった。

 

「あ、やっぱり、この人ってあの高巻先輩? かよちん、いっつも遠くから見てたよね? 美人で素敵って言ってたにゃ!」

「り、凛ちゃん!!」

「あ〜、えっと、あ、ありがと?」

「い、いえ、そんな……」

 

弱点突かれて1more……

完全に小泉さんは熟れたトマトよりも真っ赤に染まってしまった。

なに、この甘酸っぱい謎の花園感?

 

確かに杏は相当な美人だからファンがいてもおかしくないが……

 

「杏、人気者だね」

「ちょ、ちょっとやめてよ……!」

 

鈴井さんだけが、くすくす笑いながら事の成り行きを見守っていた。

 

「杏に憧れてる子、結構いたよ。口に出してはいなかったけど」

「そ、そうなの……?」

 

彼女の言葉に視線を泳がせる杏。

杏本人の言葉では、あまり友人は多くない印象だったが…少し違うらしい。

 

「あ、あの! あの…ところで、そちらの人って」

 

この空気がいたたまれなかったらしい。

小泉さんはとにかく話題を変えようと目の前の車椅子に座っている少女に視線を移した。

 

「あっ……」

「まさか、高巻先輩と一緒にいた、バレー部の…」

(やべっ…)

(マズイな…)

竜司と蓮が思ったのはほぼ同時だった。

飛び降りた事実を目の前で知られるわけにはいかない。セクハラ被害の事も連鎖的に知られてしまう。

 

「そ、そんなことよりよ、星空、ちょうどよかったぜ! 俺たち、講堂に行きてえんだけど、どこにあんだ?」

「講堂?」

「おう。スクールアイドルのライブがあんだろ? 俺たち、それに来たんだよ」

 

咄嗟に竜司が大声を出す。

すかさず蓮は手元にあったチラシを持って前に進み出た。

 

「ここを通りかかった時に、チラシをもらったんです。これなんですけど」

「あ、これって廊下にも貼られてたやつ…」

「それで今日来たんですけど、道に迷ってしまって」

「はぁ」

 

しみじみとチラシを見つめる凛。キョトンとした目つきだった。

あんまり興味はなさそうだ……

アイドルって言うから、もっとこう、盛り上がっているのを予想してたけど……

その時だ。

真っ赤になっていた小泉さんが、瞬間鋭く目を光らせてこちらへとにじり寄った。

 

「あの!」

「はい?」

「み、皆さんも、それを観に?」

「あ、ああ、そうだけど」

「それでしたら、私、案内します!!」

 

山がそびえ立つごとく挙手をした小泉さん。

思わず蓮は頷いてしまった。

竜司も思いがけない提案に顔を輝かせている。

 

「お、マジで?」

「かよちん、部活は?」

「あ、あとで行くから! こ、こっちです!」

 

そう言うと小泉さんは顔を輝かせて走り出した。ピョンピョン飛び跳ねるように先導する姿はまるで別人だ。

 

「え、ちょっと、かよちん!? あとってな〜に〜!?」

 

慌てて星空さんも後を追いかける。その様子を蓮達はお互いマジマジと観察しながら眺めていた。

 

「な、なんだあれ?」

「急にキャラ変わっちゃった……」

「おい、早く行かないと見失うぜ。こっちはゆっくりとしか行けないだろ」

 

モルガナの言葉でハッと我に帰る一同。杏はゆっくりと志保の乗る車椅子の方向を変えた。

 

「志保、いこっか」

「うん」

 

できる限りのスピードで小泉さんとその後ろにいる星空さんを追いかける3人と一匹。アルパカはそれを遠目で見送っていた。

放課後の音ノ木坂学園の校舎では、あちこちで勧誘の声と生徒の喧騒が響いている。

 

ふっと、蓮は思った。

 

これ、ライブを観に行こうとしてる人の声かな?

いや、それにしてはここに来るまで……

そうだ、今気が付いた。ここの人達、今までに一度もスクールアイドルなんて言葉を口にしてないな…。

ほんの少しだけ嫌な予感がした。

 




今回はここまでです。
更新は不定期になりそうですが、頑張りたいと思います。
竜司・杏と凛ちゃん&かよちんが同じ中学の設定はオリジナルです。
ラブライブってどうも媒体によって設定がまちまちなので、基本骨子はアニメ準拠として、たまに他の媒体の設定やコラボした独自路線で書きたいと思います。
皆さんが感情移入できるように、出来るだけ設定そのものはいじらずに行きたいですが…。

次回、ライブシーンです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3話 PrologueⅢ

これでプロローグは終了です。
以降の連載は不定期となります。
先にもう一つの方を書かなければ… 
とは言え、個人的にこれはお気に入りのssなので、書き続けたいですね。

余り人気がないジャンルかもしれませんが、それでもやり遂げるのが、穂乃果達の信念に通じると信じて!


穂乃果、海未、ことりの三人はステージ上にいた。リハーサルも追えた。衣装と歌の最終確認もバッチリ。

あとは本番を迎えるだけ。

幕が開けるまであと五分という短い時間の中で、穂乃果は深呼吸して心臓の高鳴りを抑える。

スーハ―スーハ―……

 

『スクールアイドルμ'sのファーストライブ、間もなくです! ご覧になられる方はお急ぎください!』

 

アナウンスと音響を買って出てくれたクラスメートの声がマイク越しに響く。

やれるかな。ステップ間違えないかな?途中で転んだらどうしよう?歌声ひっくり返っちゃったらホント恥ずかしい。上手く誤魔化せるかな……色々な不安と疑問の声が湧いては消えていく。

ふと、隣で両手を繋いでいる海未とことりの姿が入った。ことりは緊張してはいるものの、覚悟を決めたようで穂乃果の手をぎゅっと握り返してくる。

 

「いよいよだね……」

「うん」

 

そして海未は……

 

「……っっ!!」

 

緊張でガチガチだった。

 

「海未ちゃん、大丈夫?」

「は、はいっ…!」

 

駄目だこりゃ。

東京は日本舞踊の家元、天下の園田家の次女がどうしたのか……まぁ、こういう所も含めて海未ちゃんか。

穂乃果は苦笑して、海未の手を優しく握る。

 

「大丈夫だよ。私達が付いてるから」

「穂乃果…」

 

だから不安なんです!

近所の裏山を探検しに行った時、同じ事を言ったら海未にこう返された。けど今回は違った。

彼女の顔からは緊張が僅かに和らいでいた。海未が後ろ向きだった時、こうして三人でよく手を繋いだ。そうすると不思議と元気が出た。

 

「けどこういう時、なんて言えばいいのかな?」

「μ's、ファイト、おー! かな?」

「それでは運動部ですよ」

「だよねー……そうだ。番号言うんだよ、皆で!」

「あ、それ面白そう!」

 

取りとめのない会話を続ける。

本番前、本物のアイドルとかだったらこんな事は言わないんだろうな……けど、これはプロじゃない。お金を貰う為じゃなかった。

 

学校を救うためで、皆に見て貰うため、自分たちを見て、この学校に少しでも興味を持ってもらえれば、それで十分。

だから自然体でいよう。それが一番。

 

「じゃあ行くよ! すぅー……いち!」

「に!」

「さん!」

 

思いっ切り息を吸って、三人で掛け声を出す。

………

何にもない。何にも。

ただ一瞬、静寂が自分たちの声で満たされただけ。

ああ、ばかばかしい。ばかばかしいけど……でも、何も恥ずかしいことなんてない。

 

「あはっ……あははっ!」

「……くすっ」

「ふふっ…」

 

私達は今この場に立って、やりたいと思った通りにいる。それは誰に言うまでもない、自分たちが決めたこと。

だからこれでいいんだ。三人は一つ。一つのスクールアイドル……今はもう、余計な事は考えなくていいんだ。

 

「μ'sのファーストライブ、最高のものにしようね!」

「うん!」

「もちろんです!」

 

ブー!っとブザーが鳴る。

繋いでいた手を離した。もう海未の顔にも、余計な不安や怯えは残っていない。弓に打ち込む時と同じ……それ以上に集中しているのが見なくても分かる。

 

(大丈夫……大丈夫…!)

 

最後にもう一回息を吸った。

 

(やれる……やれる)

 

出来る筈だ。私たちなら。絶対に失敗しない。もし間違えても、乗り切って見せる。最初のステップは………

 

(目を閉じて)

 

最初に明るい所にいたから暗転すると良く見えない。まずは目を瞑っておくべきと海未が提案した。それに従う。

緞帳が上がっていく音が聞こえる。瞼越しに光加減が変化していくのが分かる。

 

(緞帳の音が止んだら目を空けて)

 

そうして目を空けたら次は後ろを向く。

音楽が始まったら、後ろを向いて、タイミングと同時に照明がそれぞれに入る筈だからそれで振り返って

 

(あれ?)

 

良し行ける。何も問題なし。大丈夫だ。

でも、あれ? 気のせいかな?

心なしか空気が軽い気がする。こんなものだったっけ?

リラックスしている時の心の空白じゃない。もっとこう、別の、寒い空に立ってるような、じわじわと締め上げられるみたいな…

 

(あれ……あれ? あれあれ?)

 

視界が開ける。

緞帳は完全に開ききっている。

目も暗闇に慣れ切った。

それなのに、どうして?

 

(お客さん、一人もいない?)

 

いない。

さっき自分たちが来た時と同じ。空白に満たされた講堂。誰も座らずにシートが畳まれたままの座席。

 

(あれ、時間間違えた?)

 

ブザーのタイミング、指示違っちゃったかな? 

それともチラシに書いたのが違ってた? 17時と7時みたいな。それとも行動の使用許可証に書いた方かなヤバいどうしようっていうかもし間違えてたらお客さん大迷惑だよどうしようどうしようどうしようどうしよう……

 

「ほ、穂乃果…」

 

隣にいる海未の声が聞こえる。

嫌だなあ、始まってるんだよ、もう。喋っちゃ駄目だよ。お客さんに聞こえちゃうよ……ほら……

 

「穂乃果ちゃん」

 

ことりちゃんまで、何言ってるの?

だってほら、こんなに……こんなに、ガラガラ……だ。

 

(誰も……いない……)

 

視線がふっと、壁面に設置された時計に向いた。

時刻は16時を指している。間違いない。ライブの開始時刻だ。チラシにもそう書いた。配っている時にも絶対にそう言っていた筈だ。間違いなんてありえない。

 

(まさか)

 

いやそんな。

だって、あれだけ頑張って宣伝したんだよ?

チラシだって配ったし、掲示板にも張ったし、直前まであれだけ大声で伝えて回って……ちょっとはいる筈だよね。

十人とか、五人とか……せめて、せめて一人くらい……

 

いない。

一人も、いない。

残酷だった。

これほど痛烈に打ちのめされた事を、穂乃果は知らない。

 

「ごめん……」

 

ふと、客席から声が聞こえる。

一瞬お客さんかと期待してしまった自分がいた。

クラスメートだった。今も外でチラシを配ってくれている筈の……

 

「頑張ったんだけど…」

 

酷い、残念そうな顔をしていた。高1の秋、好きだった他校の先輩にアタックして振られた時もこんな顔はしてなかった。

逆にそれが現実だと分からせてしまった。

ああ、そうか……

自分達は、負けたのだ。

踊りでもなく、歌でもなく、プレッシャーにでもなく、反対していた生徒会長にですらなく、ただただ現実に。

『興味がないものは興味がない』

ただそれだけの単純な世界に、膝を折られた。

 

「あは……あはは」

 

穂乃果は不思議と笑っていた。

 

「穂乃果…」

「穂乃果ちゃん…?」

 

海未とことりが両側から悲しみの表情を向ける。

だって笑うしかない。

こんな……こんな結末予想していなかった。せめて少しでもいいから自分たちが頑張ってきたことを分かって欲しかった。練習して、色んな人に応援してもらって、それで出来上がったモノを見てもらえれば、それで良かった筈なのに……

それすら許されないなんて……あぁ無情……あはは、ウケる。

 

「しょうがない……世の中そんなに、甘くない! ……しょうが、ない、って……」

「……」

「っ…」

 

二人が涙を呑むのが分かる。

いや、違った。

必死に涙を抑えていたのは……

 

「っ…っ…!」

 

酷いよ神様

こんなの、望んでない。

チャンス与えてくれないんですか?

誰かに見てもらうことも、許されないんですか?

私達のやってきたこと、そんなに変でしたか?

こんなのやるために……

こんな景色を見る為に、私は一ヶ月神社の階段走ったんですか? 近所迷惑でしたか? お賽銭足りませんでしたか? 何が駄目でしたか?

教えてください、何でもやります。誰か一人でも来てくれるなら……一人でいい、たった一人でいいですから……

 

「こ、ここです!」

 

(え?)

 

「おー、間に合ったな! おーい、こっちだこっち!」

「かよちーん、足速いよー!」

「あっぶな~、時間ギリギリ!」

 

光が差し込んだ。

校舎と講堂を繋ぐ扉をくぐって息を切らして、走ってきた子が一人。

続けて、金髪に髪を染めた男子と、車椅子を引いた美人と、そして……

 

「………間に合った」

 

後々深い繋がりになる、男の人との、一日ぶりの再会。

たったそれだけ。

でも、高坂穂乃果は、今日という日は絶対に忘れない。

だってヒーローだったから。

困っている人の下へ駆ける人を英雄と呼ぶのなら、彼は紛れもなく。

正義の味方だった。

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

「こ、ここです!」

「おー、間に合ったな! おーい、こっちだこっち!」

「あっぶな~、時間ギリギリ!」

 

最初に飛び込んだのは、真っ黒い空白。

 

「あれ? 私達だけ?」

「時間間違えたか?」

「い、いいえ、そんなはずは…!」

 

その後に分かったのは、舞台に立っている、三人の女の子。

竜司の声が聞こえる。ここまで案内してくれた、小泉さんの声。

何とか裏庭から行動までたどり着いて、けれども見たものは何もない講堂で。

 

「おい、あそこ立ってるの、蓮が言ってたスクールアイドルか?」

「ああ、その、筈だけど……そうですよね?」

「は、はい……」

 

本当に、何もない。

誰もいない客席で、ただただ、呆然と立ち尽くし、

虚空の闇を、見つめていた。

 

「……」

 

目が合う。

蓮の目を、彼女は直視した。

誘ってくれた三人の中で、一番積極的に声を張り上げてチラシを渡してくれた、元気な子。

名前は知らないけど、でも、あの時渋谷の駅で声をかけてくれた人。

その彼女が悲しい顔をしていた。

涙が出るのを必死で堪えて、耐え忍んで、それでも溢れ出る気持ち。

 

一度深い絶望に沈んだ蓮だから分かる。

人の悲しみ、不安、後悔、痛み、内実、悔しさ、苦しさ…。

 

「おい、これ……もしかしなくても、ガラガラじゃね?」

 

隣に立つ竜司が言う。

ああ、たぶん、そうなのだ。

竜司が考えたのと同じ、お客さんが来てないんだ。

 

「……」

 

目を合って、彼女は俯いた。

ファンが一人もつかない、誰もいない講堂で、彼女達は情けない、悔しい思いをしているだろう。

ああ、まさか。こんな光景に出くわすなんて……

 

…なんて、そんなこと

 

「みんな、座ろう」

「え?」

「早くしないと、始まっちゃう」

 

俺は思わない。

 

「つーけどよ、これ」

「貸し切りみたいでいいじゃないか」

「蓮……」

 

杏も竜司も、気まずい顔をする。

本当なら、もっと面白い所まで案内しようとして、こんな所立ち去った方が良い。

この時間だけ切り取って見たら、多分その方が正解だ。

でも……彼女を……あの時自分に微笑んでくれた女の子を、見切りをつけて無かったことにするなんて、できない。

 

「折角来たんだから、楽しんで行こう。ね?」

 

笑って言った。

これも俺の我儘なのかな、

そんな気持ちを、薄っぺらく浮かべたままで、でも間違いだと思わなかった。

信じていたからか、押し付けたのか。

でも……

 

「うん、そうだね。どうせなら、最前列行っちゃおう」

「……しゃーねーか」

「志保、大丈夫?」

「うん」

 

仲間達は応えてくれた。

見よう。最後まで。

まだ始まってない。信じていいかも分からない。

でも決してここに訪れた時間は無駄じゃない。

 

「わ、私も!」

「え、かよちん? ちょ、ちょっと、待って!」

 

小泉さんと星空さんも、続けて最前列の席に座る。

 

「……」

「……」

 

ステージにいる少女と目が合う。

蓮は変えない。自分の意思を。

お客が自分たちだけ? だからなんだ?

俺は観る。観て、彼女を応援する。そう決めた。

 

「……やろう」

 

だからそれも、彼女に伝わる。

本気から、本気へ。

願う者から望む人へ。

想いをバトンタッチする。

 

「歌おう、全力で!」

「穂乃果…」

「だって……そのために今日まで頑張って来たんだから!」

 

来てくれた人がいる。応援してくれる人がある。

今生まれたこの胸の想いは、きっと勘違いじゃない。

 

「……海未ちゃん!」

「…ええ!」

 

そしてそれは友達へ

2人の顔に覇気が戻った。今まで以上の力で。

そうだ、前を見るんだ。

今までやってきたことを信じて。

 

「………」

 

照明が落ちる

室内に訪れる静寂

一気に視界が暗くなったことで、目がそれに追いつけずに全てが暗闇に包まれた。

最初は静かに、ピアノの旋律。徐々に加わるドラムとベース

BGMが色彩を増し、一つの絵を成すように、色とりどりの照明が彼女達を照らし出した。

 

『I say! Hey! Hey! Hey! Start dash!』

 

手を振り上げ、ステップを踏む。彼女達の笑顔が、会場を照らす。

不思議と蓮の顔は、彼女たちに吸い寄せられるようにその場に張り付いて離れなかった。

 

『うぶ毛の小鳥たちも いつか空にはばたく』

『大きな強いつばさで飛ぶ』

 

少女たちは歌う、力強く。夢見た場所は所詮夢だっただろう。今こうして奮い立てている勇気が、あと何回続くだろう。だがこの瞬間だけは、少女たちはそんな事はすべて忘れていた。ただ歌うために、ただ踊るために、ただ自分たちを、ありのままを伝える為に、彼女達はここにいる。

 

『諦めちゃ駄目なんだ その日が絶対来る』

『君も感じてるよね 始まりの鼓動』

 

それは彼女達の心のありよう

人は同じ時間を共有することがその人に近付く第一歩と言うけれど、

今ステージに立つ三人と、今こうして会場に訪れた蓮の心は、どこかで惹かれあっていたのかもしれない。

 

『明日よ変われ』

『希望に変われ』

 

いや、蓮は確かに惹かれていた

この狭い空間で広い客席に向かって必死に何かを訴えかける少女のありように、蓮の心は動かされた。

 

あぁ、もっと、もっとだ、もっと見たい

 

『眩しい光に 照らされて変われ Start!』

 

一気に曲が転調した。

合わせて照明も変わる。

何もかも手作りで、プロなんかとは全然比べ物にならなくて、

彼女たちに出来るのは、ただ己のやってきたことを形にするだけ

ただ自分の限界に挑むのみ

 

『悲しみに閉ざされて 泣くだけの君じゃない』

『熱い胸 きっと未来を 切り開く筈さ』

 

だが、それでも拙いことに変わりはない

客席の空白が、少女たちに重くのしかかる。

広い空間がまるで埋まらない。

まるで広大な砂漠そのものを相手にしているかのような虚しさが、波のように被さっては消えていく。

 

『悲しみに閉ざされて 泣くだけじゃつまらない』

 

だがそれでも進む

そうだ、進むんだ、私達は

たとえどんな道になったとしても

後悔だけはしたくない

くすぶった想いだけを抱えて、終わりになる。それだけは絶対に嫌だ

 

『きっと』

『きっと』

『君の』

『夢の』

『チカラ』

『今を』

『動かすチカラ!』

 

分かる……ああ、分かるとも

俺も君達の気持ちが……痛いほどわかるよ

だって伝わってくるから。

君たちの想いが、夢が、憧れが。そして何より、あの日俺に宿った、何物をも恐れない立ち向かう力が、彼女たちの魂とリンクしている。

大丈夫だ、進め、恐れるな、失敗してもいいんだ。

だって俺が信じてるから

 

『信じてるよ…だからStart!』

 

負けるな、この先何があろうとも

俺は信じてる。

この胸に宿った気持ちは決して手放さない。

ああ、そうだとも。俺は誓う。

見守ろう彼女達を。例えこの心が、暗く冷たい牢獄に囚われ続けたとしても。

 

 

今こうして、誰もいない空間で叫び続ける彼女たちに、仮面を被った男は誓った。

 

 

「……」

 

 

やがて、長い、そして短い時間が終わった。

音が止み、照明は元に戻り、辺りを再び静寂が支配する。

真っ先に拍手を送ったのは、自分たちの隣に座る竜司たちの後輩二人だった。

 

「うわぁ…!」

「おおーっ!」

 

圧倒されて、拍手を送る二人。

続けて、その後ろからも拍手を送る音がする。

蓮が振り返って見ると、そこにいたのは自分達だけではなかった。四人か五人、たったそれだけだが、会場には誰かが訪れていた。

もちろんチラシを配っていた友達もいるだろう。だが通りすがりで来たという人も何人かいる筈だ。

その事に蓮は安堵した。

 

「ほえー…っ! す、すっげえな…! なんつーか、結構良かったんじゃねえか!」

 

と、隣に座っていた竜司が、文字通り空いた口が塞がらないと言った様子で惜しみなく拍手を送っていた。

ついさっきまで渋々、と言った様子だったのに、表情はまるで変っている。

 

「これもしかして、当たりだったんじゃねえか?」

「うん! すっごい! 講堂で、三人だけしかいないのにこんな…!」

 

杏も満面の笑顔で拍手を送っていた。

そうか……まるで意味のないことじゃなかったんだ。

自分と同じ思いを、きっと二人も感じたんだろう。

虐げられて、それを乗り越えた二人だからこそ。

今の歌の歌詞と、そしてひた向きさが、心をプッシュしたのだと思う。

 

「な、蓮もそう思うだろ?」

「……ああ」

 

思わないわけ、ないじゃないか。

だってこんなに……あの日冷たくなった俺の心を、こんなに温かくしてくれたんだから

 

「っ……っ!」

 

その時だった。

 

「…志保?」

「っ…っ……」

 

すすり泣く音が、どこかから聞こえた。

杏の逆隣りでずっとライブを見ていた鈴井さん。

彼女がその両の目から、ポロポロと涙を流して未だに舞台を見つめている。

 

「志保、どうしたの…!?」

「杏……私…!」

「大丈夫!? どっか痛む!?」

 

慌てて杏が立ち上がって彼女の肩に手を置いた。

だが鈴井さんは、違うよと言ってふるふると首を横に振る。

まるで見えない糸に引っ張られるように、彼女の視線は先程まで踊っていた少女たちに繋がって解けなかった。

 

「どうしたの?」

「逆なの、杏……その逆……! 私、こんな気持ち、初めて……! ありがと、杏……こんな素敵なところ、初めてだよ…!」

 

そう言って鈴井さんは、初めて杏の顔を見た。

笑顔だった。

あの事件が起きる前から、彼女の顔からは笑顔が消えていた。心がずっと死んでいたのだ。心無い人間によって食い散らかされ、潰され、弄ばれた。

もう駄目かもしれないと、命を取り戻した後でもずっと心の奥底にその不安を抱えたままで。

だが、笑っている。

彼女が、多分、今までで一番良い表情で。

 

「……うん、そうだね。来て…よかったね」

 

杏がそっと、鈴井さんの掌を優しく包み込んだ。

まだ彼女の手は動かない。拍手を送れないその両手に、自分の熱い体温が宿った手をそっと重ねる。

そして二人が舞台を見た時、ふと上にいる三人と目が合った。

 

 

「あ……」

 

 

車椅子に乗っている少女。

その客席にいる子が、友人に手を動かされて、疑似的な拍手を送る。音も出ないけど、それでも自分たちの踊りに、感謝の気持ちを送ってくれる。

 

「……!」

 

たまらない

たまらない気持ちになった。

 

「ありがとうございました!!」

 

穂乃果が叫んで、思い切り頭を下げた。

二人の親友も、それに続けた。

 

『ありがとうございました』

 

それを聞いて、その場に居た全員が拍手を送った。

技術じゃない、歌唱力じゃない、ましてオーラでもない、ただ、もう少しで何かが花開きそうな『何か』に向かって。

 

「おー、いいぞー! 三人ともー!」

 

金髪の青年が、笑いながら野次を飛ばした。

普段なら恥ずかしいと言って突っ込みを入れるけど、まあ今日ばかりは大目に見てあげよう。

そんな風に側いた彼らも苦笑していた。

 

 

「……それで、どうするつもり?」

 

 

次の瞬間、辺りは再び静寂に包まれた。

突然行動に現れた一人の少女によって。

舞台上に皆が気を取られていたこともあって、蓮達も全く気付かなかったが、振り返って見ると、そこに立っていたのは見るも美しい金色の髪を持った女子生徒だった

 

「生徒会長…」

 

μ'sの一人、中央の子が息を飲む。

蓮は違う意味で突如現れた少女に釘付けになった。

 

(生徒会長…あれが音ノ木坂の)

(新島先輩が言ってた人だよね。スゴイ生真面目っていう…)

(マジかよ、外人だったのか…ってか、むちゃくちゃカワイイな、おい!!)

 

思わず見とれている竜司の手の甲を杏が抓っていたが、それでも気持ちは分からなくはない。確かに目を見張るほどに綺麗な少女だった。『すれ違えば思わず振り返る』というヤツだ。

だがその雰囲気は冷徹そのものだ。今生徒会長は、舞台に立つ三人に対して淡々と言葉を投げかけている。

先程まで僅かに盛り上がった空気など意に介さない風に。

 

「どうするって…」

「自分たちのしていることが分かったでしょう。あなた達じゃ学校は救えない。これが全てよ」

 

そうか。

敢えてこの生徒会長は結果を待っていたんだ。ウチの生徒会長の言ったことが本当なら、彼女はスクールアイドル活動に反対らしい。

 

けれど、根拠を示すため、ワザと止めなかったんだ。

自分達の力不足を、認めさせるためだったのだ。

 

「続けます」

 

だが関係なかった。

 

「……」

「穂乃果…!」

「何故? これ以上やっても、意味があるとは思えないけど」

 

ただ冷静に生徒会長は言った。

もう止めろ。

身の程を知ったのでしょう。だったら諦めなさい。無駄な想いをするだけよ。これ以上辛くなる前に、さっさと止めなさい。

 

(なんだ、この気持ち……)

 

蓮は人の心は読めない。

その人間が『宿している』『何か』を僅かに感じ取るだけだ。

だがどうしてだろう。彼女の中には『何か』がある。

自分達を敵視している新島先輩と同じ。生真面目さと言うだけじゃない、何かが宿っている。

それを真正面から受け止めて、舞台に立つ少女は応えた。

 

「……やりたいからです!」

 

毅然と、彼女は言い放つ。それが、このステージで得た答えの全て。

 

「私、もっともっと歌いたい。踊りたいって思ってます。きっと海未ちゃんもことりちゃんも」

 

そう言って彼女は横に立つ二人を見る。力強く、笑顔で二人は頷いた。

 

「こんな気持ち初めてなんです! やってよかったって、心の底から、そう思えたんです!」

 

もう後ろ向きな気持ちが無かった。生徒会長を真正面から見上げているその表情が、何よりの証拠だ。

 

「今はこの気持ちを信じたい。このまま誰にも見向きもされないかもしれない。応援なんて、全然してもらえないかもしれない。でもとにかく頑張って、一生懸命頑張って、届けたい! 私達がここにいる、この想いを!」

 

ギュッと拳を握りしめて、少女は誓う。夢を諦めない事を。前を向き続けることを。

 

「いつか……」

 

その時、蓮の目には確かに見えた。

困難に立ち向かう心の鎧、彼らがもう一つの世界で『仮面』と呼ぶそれが、もしもこの世界にあるとするならば、

 

「いつか私たち、必ず……ここを、満員にしてみせます!」

 

それは彼女達の、迷いのない鋼鉄の意思を宿した顔のことなんだ。

 

「……」

 

蓮は、もう一回拍手を送った。

続けて竜司が、杏が、

三人に向かってエールを送る。

 

「ガンバレー! 応援してるからねー!」

「俺もだ! 次も見に来るぜー!」 

 

ここに応援する人はいるんだ。

ほんの僅かでも構わない。

これが少しでも、彼女達の心の支えに、

そしてもう一度、素敵な空間を生み出せる手助けになれるように、

蓮は必死に、心の底からそれを祈ったのだった。

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

その後、案内してくれた小泉さんと星空さんに別れを言いつつ、四人は帰路に就こうと校門前へ向かう道を歩いていた。

 

「いやー、面白かったな! 最初はどうなんのかと思ったけどよ。来て良かったんじゃね?」

「そうだね。私、何か感動しちゃった!」

 

結局、生徒会長は何も告げることなく去っていった。

勝手にすればいい、と背中で語りながら。

ライブが終わり、微妙な雰囲気の中で、それでも一同は拍手を送ってその会場を後にした。

 

「お、杏もやってみんのか? スクールアイドル?」

「ああ、いいんじゃない?」

「ちょ、やめてよ!?」

「そうかな? 杏だったら似合うと思うよ?」

「志保まで……もう」

 

杏が顔を赤くしながら苦笑する。

 

「あ、アン殿のダンスと歌!? ワガハイ、是非見てみたいぞ!」

 

鞄の中でにゃあにゃあ鳴きながら話しかけるモルガナを押し込めながら、蓮は音ノ木坂学園の校舎を仰ぎ見た。

 

「……」

「素敵な学校だよね、ここ」

「ああ」

「でもここ、もうすぐ廃校になるかもしれねえんだよな…」

 

竜司が残念そうに呟く。

男の自分達には縁遠い話だが、それでも今日という日を与えてくれたこの学校が無くなるというのは、少し寂しいものがある。

 

「ならないよ」

 

蓮は優しく、力強く言った。

まるで確信しているように。

 

「ここは廃校にはならない。絶対に」

 

校庭を見下ろすように備え付けられた校舎の大時計が、ゆっくりと針を回していく。

下校していく生徒たちを、優しく包み込んでいる。それは自分たちをも歓迎しているようだった。

またおいで、と。

いつでもここは、君達を待っているよ、と。

 

「……そうだね。私もなんか、そんな気がしてきた」

「ああ。こういう場所って、なんつうか、無くしちゃいけねえ気がするぜ。それに、俺達の後輩が通ってる高校だしな。他人事じゃねえっつうか」

 

竜司が鼻を擦りながら、へへっと苦笑していた。普段おばかでお調子者の竜司でも、やはりこういう時は情に厚い一面を見せてくれる。

その時だった。

 

 

「お客さーん!」

 

 

遠くの方から声が聞こえる。

振り返って見ると、後者の方から走ってくる人影が見えた。

 

「あれ、あの人たち…」

「踊ってた三人じゃねえか?」

 

二人が目を丸くして凝視した。

既にステージ衣装から制服に着替えているが、間違いようがない。ついさっき感動を与えてくれたスクールアイドルだ。

 

「はあっ! はぁ! 良かった、追いついた…!」

「だ、大丈夫? そんなに息切らして…」

「平気です…な、何とかお礼、伝えたくて……」

 

呼びかけた杏の言葉に、真ん中の少女は、呼吸を整えながら顔を上げると、四人を改めて見ながら言った。

 

「今日はありがとうございました!」

『ありがとうございました!』

 

並んでいた二人も、同じように頭を下げてお礼を言った。

それを聞いて、蓮達の表情にも笑顔が宿る。

 

「いえ、こちらこそ、楽しませてもらいました」

「私もなんかこう、胸が熱くなるっていうか、こっちまで踊りたいくらい。そんな気持ちにさせてくれた!」

「だよな! 俺こういうノリ初めてだったけど、すげえっつうか、なんかもうヤバかったぜ!」

「お前は凄えとヤバイしか言えんのか」

 

鞄の中からモルガナがひょこっと顔を出してうんざりそうに答える。

ふとそれを見た少女が顔を近づけていた。

 

「あ、モナちゃん! もしかして、モナちゃんも見てくれたの?」

「にゃ、にゃー!」

「ああ。こいつも、とっても楽しかったって、喜んでます」

「そっかぁ! ありがとね、モナちゃん!」

「にゃ、にゃお~ん」

 

文字通りの猫なで声で誤魔化すモルガナ。

こいつ美女とオタカラに目がない正体不明生物だとは言えず、正体を知る三人は複雑な気分だった。

 

「あの……」

 

その時、もう一人モルガナの声を聞き取れない鈴井さんが、三人に言った。

 

「あ……」

「今日はありがとうございました。私、こういうの初めてだったけど、とっても感動しました。本当に素敵でした」

 

鈴井さんの額や腕には、未だ痛々しい包帯や怪我の跡が残っている。

それを見て、一瞬だが少女たちは息を飲む。

多分勘の良い人は、彼女が秀尽の自殺未遂の女生徒だと気付くだろう。ただそれでも鈴井さんは、今日という日の喜びを伝えたかったのかもしれない。

 

「い、いえ、こちらこそ、わざわざ来て頂いて…」

 

黒髪の少女が、慌ててお辞儀をしてお礼を言う。

だが、続けて出た鈴井さんの言葉に、三人は跳び上がりそうになった。

 

「……私、一ヶ月前に飛び降りたんです。学校の屋上から」

「え…」

「私は……秀尽学園の……自殺未遂の生徒です」

 

今すぐ車椅子の手を掴んで回れ右して病院までダッシュで戻ろうかと竜司は本気で考えていたし、二人も少なからず同じ思いはあった。

彼女にとってその話は触れることは勿論思い出すことも恐怖だったはずだ。

医者からも言われていた。事件のことは絶対に口にしないようにと。例の事件で彼女はPTSDを発症していると。

だから杏はその事を蓮と竜司に最初に言っておき、二人は勿論強く承諾した。

 

「自殺未遂って……もしかして、ニュースでやってた……」

「はい、その生徒です。顧問の先生の体罰とか、セクハラに耐えきれなくて……屋上から、飛び降りました……」

 

だが今、鈴井さんは自らの口で事件のことを話し始めていた。

相手の三人はしんと静まり返った。というより、言葉を失っている様子だった。

 

「事件が終わっても、まだ夢に見て……本当にやり直せるのかなって……だから、とっても怖かった……」

 

淡々と、鈴井さんは言葉を紡ぐ。

まさかこんな短時間で……ふとそう思ったが、彼女の手が視界に入った。

震えている。カタカタと、恐れが全身を支配していた。

鴨志田の手によってズタズタにされた記憶が、彼女の心を再び落とそうとしている。

 

「志保…!」

(待って)

 

蓮は静かに、前に出ようとした杏を静止した。

 

「れ、蓮…」

(このまま、もう少しだけ様子を見よう)

 

鈴井さんは言葉を止めない。

立ち向かおうとしているんだ。

彼女は今、この瞬間にも。

それを蓮は杏に目で訴えかける。

 

「……」

 

こくん、と杏は頷いた。

恐る恐る、先を窺うように、彼女は鈴井さんの姿を見守る。

車椅子の少女は、その後も淡々と、スクールアイドルの少女たちに向かって言葉を続けた。

 

「………私、今日ここに来てよかったです……」

 

ゆっくりと、彼女は心の声を伝える。

 

「やり直そうって、心の底からそう思えたんです。だから私……もう、挫けません。時々、立ち止まるかもしれないけど………けど、もう、絶対に自分のことを投げ出さない…」

 

再び、鈴井さんの表情に笑顔が宿った。

傷ついても前に進もうという彼女達の歌と、歓声も響かない講堂でも必死にやり遂げる意思が、力を与えてくれている。

いや違う。

これは鈴井さん自身の心の声だ。

ありがとうと。私も負けないからと。

 

「あなたたちの歌で、本当にそう思えるようになれました……。だから私、今日のライブのことを、絶対に……絶対に、忘れません……!」

 

ぽたり

 

「穂乃果……?」

「穂乃果ちゃん?」

 

ぽたりぽたりと、涙が零れ出た。

鈴井さんじゃない。

目の前で彼女達の言葉を聞いていた、穂乃果と呼ばれた女の子だ。

 

「あ、あれ、変だな……私が泣いたら駄目だよね……ダメ、何だけど……」

 

涙があふれる。

傷ついている彼女を見たから?

怪我をした体で見に来てくれたから?

それを自分たちに言ってくれたから?

彼女の境遇を哀れんだから?

違う

きっと違うよ

だってこれは……

 

「……んっ」

 

目の前の車椅子の少女が、一瞬苦悶を顔に浮かべる。

そして次の瞬間、一同は信じられない物を見た。

 

「志保……?」

「え…!?」

 

杏と竜司が息を飲む。

 

「っ……っっ!」

 

彼女が、全身に力を込めて、

 

(手が……)

 

手を、動かしていた。

 

「志保……」

 

そんな、と杏の顔が驚愕に染まる。

竜司と蓮も見ていた。腕が満足に動かず、だから杏の介助を必要としていた彼女の痛々しい姿を。

 

「今は……これ位しかできないけど……」

 

そう言って、手の形をゆっくりと変えて、小指以外を、弱々しく、それでも必死に握りしめて。

あの日全てを失う筈だった少女が、一歩を踏み出した。

 

「指切り……してもらっていいですか?」

 

そう言って、涙を再び流しながら、少女を一心に見つめて、微笑みかけて言った。

 

「…小指くらいしか動かないけど……でも、約束します……! 私、もう一回立ち上がるから…!」

 

これは奇跡か?

眼の前に居る誰もがそう思った。

 

「その時にはもう一度……ライブを見せてもらっていいですか? 今度は、沢山……沢山、沢山、立って、いっぱいの拍手を、送りますから…!」

 

だが奇跡なんかじゃなかった。

そうだ、あり得ないことなんかじゃないんだ。

人は絶対に立ちあがれるんだ。

彼女達の歌が、そのきっかけを与えてくれた。例え客のない、一人だけを感動させるだけだったとしても。

 

「ありがとうございます……」

「穂乃果…」

「ありがとうございます……! 私たちも、絶対に諦めません……もう一回…ううん、何度だって……何度だって、チャレンジしますから…!」

 

鈴井さんの手を少女が……いや、もうこの名前で呼ぼう……

高坂穂乃果が、彼女の小指を自分のそれで包むように握り合わせて、やがて笑い合って彼女は応えた。

 

「あの講堂を、いつか絶対に満員にして見せます! 歌もダンスももっと上手くなって、お客さんももっと一杯呼んで、この学校を廃校から救います……! そして…そして、また、ライブをやる時は……一番に招待します! だから……だから、一緒に頑張ろうね!」

「……はい!」

 

蓮の隣にいた杏が、大粒の涙を零していた。

 

「……っっ」

「杏……」

「蓮……これ、夢じゃないよね……志保の手……動いてるんだよね……?」

「……ああ」

「動いてるぜ。嘘じゃねえ」

 

夕焼けが辺りを照らす。

オレンジ色の大空に桜が散る。もう春も終わりだ。これから葉っぱがどんどん茂って、青々と力を蓄えていく。

その景色を見ながら、仲間にも同じ気持ちが芽生えていた。

 

 

・・・・・・・・・・・

 

 

誰かに応援してもらえるのって……こんなに素敵で、胸が熱くなることだったんだ!

やってよかった! やってよかった!

心の中で何度もそう叫んだ。

 

「海未ちゃん、ことりちゃん」

「……なんですか?」

「私、今日のこの気持ち、絶対に忘れない」

「……はい。私も、決して忘れません」

「いつかもう一回、ステージで再会しようね。あの人たちと」

「うん!」

 

 

蓮達がいなくなったあと、誰もいなくなった校庭の中でたたずみながら、少女たちは誓いを新たにしていた。

この気持ちを、絶対に忘れないよう、刻み付ける為に。

そしてこの誓いはそう遠くない未来に、実現することになる。

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

「お待たせ!」

「おう、じゃあどっかメシ食ってから帰るか」

「賛成。私もうおなかペコペコ」

「じゃあ、行こうか」

 

音ノ木坂学院から少し歩いたところにある西木野総合病院の待合室で、蓮と竜司は杏を待っていた。

病室まで鈴井さんを送っていった杏を待つためだ。

 

「鈴井さん、大丈夫だった?」

「うん。流石に疲れちゃったみたいで、すぐに寝ちゃったけど、身体の方は大丈夫だって」

 

三人は並んで病院の外へ出ると、駅の方向へと歩き出した。

秋葉原駅の高架下には、再開発の際に美味しくて安い料理屋が沢山軒を連ねることになった。ここを利用しない手は無い。

 

「杏。さっきの、鈴井さんの手のことだけど」

「うん……今日のこと話したら、お医者さんも驚いてた。本当ならあり得ないって」

「俺もな、見ててすげえって思ったぜ。魔法みてえだったもんな」

 

竜司がしみじみと思い出しながら言った。と、その時蓮の鞄の中からモルガナが顔を出した。

 

「魔法なんかじゃねーさ」

「モルガナ……」

「心一つで不可能を可能に変えちまう。人間って言うのはそういう生き物だ。どんな困難だって乗り越えられる。そういう力があるんだよ、人間の中にはな」

 

ネコのお前が言うなよ、と普段の竜司なら言ったかもしれない。

だが、それを聞いて、彼も得心が言った様子だった。

 

「ああ……そうだな。あの歌聞いたら、そう思うしかねえよな。あの三人の歌が、動かしたんだよな」

 

蓮は無言で頷く。

この世界はろくでもない。でも、捨てたもんじゃない。

 

「へへっ……が、柄にもなく臭えこと言っちまったな」

「そんなことないさ。俺も、同じこと考えてるよ」

「そうだよ。それにね、私、ちょっと思ったんだ。あの子達とウチら、ちょっと似てるかなって」

「ん?」

「向こうの生徒会長に言われた時に、言ってたよね。「やりたいからです」って」

 

ふっと、夕焼けの空を見ながら杏は微笑んだ。

 

「見向きもされない、誰も聞いてくれないかもしれない。それでも、今はこの気持ちを大事にしたいって。それって、私たちがやってるコトと、ちょっと似てないかな?」

「…『逆』なのかもしれねえな」

 

そう言ったのはモルガナだった。

 

「アン殿やリュージ……それにあのスズイって子は、その人生を歪んだ欲に汚された。だからワガハイたちは、そんな闇を憎んで壊す。そしてあの子達は、自分の夢を信じて頑張る……道は正反対だが、自分たちの信念がある。だから『逆』だ」

 

黒ネコの言葉に蓮は頷く。

そう考えると……あの時渋谷で蓮が彼女達と出会い、そしてあの校舎で再会してチラシを受け取った事は、偶然ではないのかもしれない。

何処かで運命が……何かが働いたんだろうか。

 

「……私、あの子たちのこと応援したい。これからも、ライブとか活動とかあったら、どんどん観に行こうと思う」

「ああ。俺も、そうするかな」

 

杏の言葉に対して、全会一致だった。

 

「だな。ある意味、似た者同士ってことだろ?」

「リュージは別に似てねえだろ?」

「なんでだよ!? 別にいーだろ!?」

 

竜司の言葉に苦笑しつつ、蓮は宥めるように答えた。

 

「もっと単純でいいんじゃないか? 俺達は、あの子たちのファンってことで」

「そうだね。スクールアイドルμ’sの、最初のファン!」

「お、ファンクラブとか立ち上げちまうか?」

「良いね、それ!」

 

ハハは、と笑いながら、三人は通りを歩いて行った。

夕日が沈む。

暗い帳が下りてくる。

闇の時間だ。悪党が動き出すような、さっき見た光なんて容易に塗りつぶすクズが跋扈する世の中だ。

 

………そんなこと、させるものか。

 

守って見せる、俺達みたいな人間は、もう増やさせはしない。

さっき鈴井さんが取り戻した笑顔は、決して失わせない。

 

あの子たちの夢も、奪わせない。

もしそんな奴らが彼女たちを汚すなら、

 

(死ぬより辛い後悔を味わうだろう)

 

俺達の……心の怪盗団の手によって。

 

 

 

・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・・

・・・・・・

・・・・・

・・・・

・・・

・・

 

 

 

「音ノ木坂学院……あなた、よく彼女たちのいる場所に出入りしていたわね」

 

 

そ……うだ

 

 

おれは……こうして……あの子と……出会っ…て……

 

 

「今時の流行らしいけど……中でも、このグループは特にあなたと密接な繋がりがあった」

 

 

みんなと、一緒に……おう、えん……

 

 

「そして彼女たちの活動と、あなた達怪盗団の活躍は驚くほどにリンクしていた。怪盗団の知名度が上昇すると同時に、彼女達の人気も爆発的に上がっていった」

 

 

どうして……おれは……あの子を……

 

 

「本当に彼女達は無関係だったのかしら? それとも……怪盗団の影の協力者?」

「………違う」

 

 

違う

 

おれは、違う。

 

誓ったんだ……

 

あの時に……それだけを……

 

 

「それはどちらの否定かしら?」

「……」

 

 

彼女達だけは……傷付けないと……

 

ただ、それだけを……俺は……

 

ダメだ…意識が……

 

「まあ、いいわ。全て話してもらうわよ。全てを」

 

いけない

 

踏み止まれ

 

ここで終われない…!

 

俺達は終わらない…必ず、帰る…!

 

 

「心の怪盗団『ザ・ファントム』リーダー……雨宮蓮」

 

皆の、元へ……!

 

(ほの……か…)

 

 

回想は続く。

かの者は抗う。

それは破滅への反逆の為に。

 

己の信じた道の為、あらゆる冒涜を顧みず、彼は進む。

 

これは、数奇で決して交わることのなかった、もしもの物語だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4話 −I'm cheering for you− Sideμ's

続きです。
ラブライブは、まきりんぱな。ペルソナ5は祐介加入編です。
2つの作品がどの様に絡み合っていくのか、お楽しみに。

ちなみにペルソナ5スクランブル、先ごろクリアしました!
めちゃくちゃ楽しかったー!
個人的にはロイヤルよりこっちのが好きですね!
初登場の長谷川善吉やソフィアもとても良いキャラに仕上がってて、戦う敵も魅力的でした。
全国を回る旅も、前作では抑え気味だった青春を楽しむみたいで嬉しい感覚でした。
未プレイの方、是非やってみてください!!あ


スクールアイドルの朝は早い。

高坂穂乃果は日が昇ると同時に起き、急いで身支度を整え、朝食を済ませて急いで家を出た。

はやる心、抑えきれない心拍数、それを軽い足取りに換えて、呼吸を整えながらジョギングで目的地を目指す。

 

「おはよう、海未ちゃん、ことりちゃん!」

「おはよう、穂乃果ちゃん」

「おはようございます」

 

親友二人と挨拶を交わしたのは、神社へと続く細い階段だった。

 

この長い階段…通称『男坂』を登るのが毎朝の欠かせないトレーニングだ。

初めは一回だけで千切れ飛びそうなふくらはぎだったが、今は数回は軽く往復できるまでに成長した。

我ながら素質があるのでは? なんて思ったりもしたが、頑固な幼馴染に言わせると『成長期だからこれぐらい普通』らしい。

ここからが大変になってくるそうだ……彼女は決してほめて伸ばすという事をしない。うへえ。

 

「今日は早いね?」

「うん。何だか最近寝起きが良いって言うか、結構テンション高いんだ。ファーストライブの映像とか見てたら、いてもたってもいられなくって」

 

と、億劫な気持ちも今や過去の自分と共にさよならだ。

今の自分はちょっとやそっとじゃへこたれない自負があった。

 

「穂乃果らしいですね」

「それに約束したから。きっとあの人も今頃頑張ってると思うんだ」

 

思い出したのは、あのライブで来てくれた人たち。

そして、車椅子に乗った女の子との指切り。

『一緒に頑張ること』

『諦めないこと』

『次は絶対に満員にすること』

それをあの場に居る全員が誓い合った。

 

「……そうですね」

「私たちも頑張らないとだね」

「うん! この調子で映像とかネットにアップしたら、もっと興味を持ってくれる人も増えるんじゃないかなって」

 

微笑みながら、海未とことりの二人にも決意の色が浮かんでいた。五月に入り、緑色の葉を茂らせている木々も、三人に触発されているようだった。

と、そよ風が髪を揺らした時、ことりがふと思い出したように口を開く。

 

「あ、それなんだけど……」

 

そう言いながら、ことりは鞄から手作りのチラシを取り出し、二人に広げて見せた。

 

「チラシを色々な所に置いてみるのはどうかなって。お店とか見ると、特にアキバなんかスクールアイドルのチラシとかポスター、貼ってあるの多いんだ」

 

ことりの提案に穂乃果は目を輝かせた。

 

「それいいよ! 流石ことりちゃん!」

 

自分も商売屋の端くれ……の、娘の端くれだ。

老舗と言っても、宣伝というものが如何に大切かくらいは知っている。

 

「地道な方法ですが、そういう積み重ねは大事ですね」

「それじゃあ、早速放課後に近くのお店回ってみようよ」

 

海未も頷き、満場一致でチラシ配りは決定した。

三人はオーッと手をかざして、微笑み合う。

もっともっとお客さんが来てくれるといいな。少しずつでいい。頑張って行こう。

 

(あのガラガラのライブを経験したんだから、そうそう恐いものもないよ!)

 

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

 

……と、この時ばかりは、そう思っていた。

やはり人生、そうそう上手く行く事ばかりではないのだった。

 

「だ…ダメだったね……」

「まさか一軒残らず全滅とは……」

「少しくらいあっても良いと思ったんだけど」

 

敗残兵の如く、三人で身体を寄せ合い、フラフラになりながら、練習場所の神社までたどり着いた三人。

社務所の裏に腰かけると、はぁーっと、深い溜め息をついて壁に背中を預けた。

まさかこんな、圧倒的物量を見せつけられた敗北とは思わなかった。

目の前にはことりが一生懸命作ってくれたチラシやポスターの山がカバンから顔を覗かせている。

お願いそんな目で見ないで……これで私達頑張ったんだよ?

はあ、もうちょっと追い風吹いててもいいじゃない。

ボーナスタイム終わるの早過ぎるよ…

 

「フランチャイズやチェーン系のお店は規約があるから駄目……個人経営の所は全部と言って良いほど別のスクールアイドルのポスターが貼られていました……」

「アキバは殆どがA-RISEだったね」

「考えてみれば、A-RISEのいるUTXは秋葉原ですから、当然かもしれません」

 

海未とことりが今日の釣果がゼロの理由を冷静に分析する。

そりゃそうだ。

そもそも『スクールアイドル』と概念自体を生み出したのがA-RISEだ。他のグループよりあらゆる面で一歩先を行っている。先駆者とはそういうものだ。

それを思うと、ちょっと虫が良すぎたかなとも思う。

 

「アイデアは凄く良いんだけどねえ…」

「ごめんね…二人とも無駄足踏ませちゃった」

「ことりちゃんのせいじゃないよ」

「そうです。それにまだ全部ダメと決まったわけではありません」

 

海未がことりの肩に手を置く。

 

「明日はもっと活動範囲広げてみましょう。外に出てみれば、きっと可能性はあります」

 

海未の言葉に、穂乃果も刺激された。

そうだ。ここで諦めていては廃校を阻止するなんて夢のまた夢。

確かにA-RISEと同じことをしてては駄目だ。しかし継続は力なり、これもまた真実。

 

「よし、今日は気を取り直して、練習しよ!」

「…うん!」

 

穂乃果は立ち上がると、力と気力を漲らせた。出来ることから始める。頭もよくない自分に出来るのは前を走ることだった。

そう思うと、物事の歯車も噛み合い易くなるものだ。

偶然だとしても、動き続ける者たちの方がチャンスをより多く掴みやすいのだ。

 

 

「……あれ? 先客がいるのかな?」

 

 

声を掛けられて、三人は揃って階段の方を見る。

彼女たちが昇って来た方向に、一人の青年が立っていた。

グリーングレーのブレザーを着た、優しそうな面持ちで、セミロングの髪が似合う好青年だ。

というか…結構、いやかなりイケメン。

 

「えっと…」

「ああ、ごめんごめん。この時間帯、ここでよく一人お茶してたんだ。日差しが気持ちいいからね」

「あ、ごめんなさい…」

「気にしないで。僕も最近ご無沙汰だったし、別に食べる場所はここだけじゃない」

「はぁ…」

 

青年は朗らかに笑いながら手を振る。

おずおずと頭を下げる三人だったが、彼のその仕草にも厭味ったらしいところはまるでない。

とても爽やかだ。マンガとかだったら歯が光ってる。きっと。

 

「それに、それだけ頑張ってるってことでしょ? スクールアイドルって、全部自分達だけでやらないといけないから、色々と大変だろうしね」

「い、いや~、実はそうなんですよ…もう授業中に先生の目を盗んで寝るのが大変で……」

「穂乃果」

「じょ、冗談だよ…」

 

隣で海未が目を光らせるのを見て、慌てて穂乃果は手を振った。同じ仕草でも、目の前のイケメンとでこうも違うものか。

 

「あはは。廃校の話、無くなると良いね。君達が有名になったら、もしかするかもしれない」

 

苦笑しながらも穏やかな態度を濁さない彼の言葉に、あれ、と海未は疑問を持った。

 

「あの……私たち、スクールアイドルって言いましたか? それに廃校の事まで……」

 

そう言えば…と、ことりも指を唇に当てる。目の前の青年は表情を崩すことなく答えた。

 

「ああ。君たちの服装とか見て、多分ダンスの練習とかをやってるのかなって。それに音楽プレイヤーも置いてるから、多分今流行りのスクールアイドルだろうなって思っただけさ」

「あ、そっか」

「しかし、どうして廃校と……?」

「いやなに、それこそ初歩的なことだよ」

 

キラン、と目が一瞬光ったような気がしたのは気のせいだろうか。しかし穂乃果の意識はすぐに青年の解説に向けられた。

 

「この時間帯に、こんな神社で練習するってことは、多分人数が少なくて部室がないんでしょ? それを考えると、近いのは統廃合の話が持ち上がっている音ノ木坂学院しかないからね。スクールアイドルの活躍で人気が上がってる学校は沢山あるし、君達もそれが目的でアイドル部を立ち上げた、っていう所かな? 廃校阻止の為に」

「す、すごい…当たってる! その通りです!」

「はは、良かった。ここまで言って外れたら恥ずかしいからね」

 

口を挟む隙も穴もない。立て板に水、とは正にこの事だ。

思わず穂乃果は彼に向かって拍手してしまった。

ことりも海未も彼の流暢に話す様子に一瞬聞きほれてしまったほどである。

 

「まるで漫画に出てくる探偵さんみたい…」

 

と、ことりがポツリとつぶやいた時だった。

神社の境内の方から声がする。

 

「吾郎ちゃん」

 

三人が横を向くと、社務所の影からひょっこりと一人の女の子が現れた。

 

「あ、希先輩?」

 

穂乃果達が通う音ノ木坂学院の生徒会副会長の、東條希だ。彼女はここでバイトをしていて、朝は境内を掃除する彼女と何回か顔を合わせている。

と、目の前にいた青年は何事も無く彼女に向かって話しかけていた。

 

「やあ希ちゃん。こんにちは」

「また日向ぼっこ? お参りもせんで参内するような人、吾郎ちゃんくらいなもんやで?」

「トレーニングのために来る人も、彼女たちくらいだと思うけど」

「この子らはええの。後輩やし、君と違ってちゃんと毎日お参りしとるから」

「相変わらず手厳しいなぁ」

 

穂乃果達が目を丸くしているのを横に、二人はいつもと同じような感覚で会話を続けている。

あれ? 希先輩、この人のこと知ってる?

と、穂乃果が聞く前に、海未が希に向かって訪ねていた。

 

「……あの、希先輩、お知り合いですか?」

「ん? ああ、そう言えば、会うのは初めてやったね。カレ、都内の進学校の三年生で、明智吾郎くん」

「あ、自己紹介が遅れたね。初めまして、明智吾郎と言います」

 

そう言うと、青年がまた朗らかに笑いながら軽く頭を下げる。

あっ、と、ことりが両手を合わせて声を張りながら言った。

 

「それって…もしかして、最近よく聞く高校生名探偵のっ」

「ことり、知っているのですか?」

「あ、私もテレビとかで見た気がする。『探偵たまご』の再来って!」

「それ、多分『玉子』やのうて『王子』やね」

 

穂乃果が間違えたのは『探偵王子』と呼ばれる少し前に有名になった、私立探偵『白鐘直人』である。

高校生ながらにして多くの難事件を解決し、数年前にとある田舎町で起こった奇怪な連続殺人事件の犯人逮捕にも活躍したという噂もある程の天才児が、話題になったことがあるのだ。

彼…『明智吾郎』は、その人物を彷彿とさせる知性とカリスマ性で一躍人気となっている名探偵なのである。

 

「あ、あはは、ご、ごめんなさい」

「いや、いいよいいよ。確かにまだ卵みたいなものだから。あ、これ名刺。最近作ったんだけど、よかったら」

「おお……!」

 

そう言って差し出された名刺には、横書きでプリントされた彼の名前が印字されていた。名刺と言うものを渡されるのも初めてだが、目の前に自分とそう変わらない歳でテレビにも出たことのある人物が立っているのはただ単純に憧れるし、興奮した。

 

「なんか凄いっ。芸能人みたい!」

「そんな大したものじゃないよ。さっきも言ったように、素人に毛が生えた程度の駆け出しさ」

「そんなこと言うて。この間も女の子たちに囲まれてたやないの」

「『囲まれてた』って?」

「吾郎ちゃんのファンのこと。最近テレビにも沢山でとるし、一時この神社に人だかりが凄かったんよ、出待ちの子で溢れかえってて。最近来ないのも、それでやろ?」

「まぁ……宮司さんは何も言わなかったけど、流石に神様相手に迷惑はかけられないからね」

 

そう言えば、近所でやたら人だかりが多かった時期が少し前にあったような…

自分と同い年の女の子から主婦まで女性陣が詰めかけて、一体何かと思った。彼目当ての追っかけだったのだ。

 

「すごぉい……」

 

苦笑する明智を見て目を輝かせる穂乃果。

世俗の流行りごとには疎い海未も、名刺と本人を見比べては感心しながらしきりに頷てる。

 

「僕なんて大したことないよ。彼女の方こそ、僕の分からないことまでバシバシ当てちゃって。希ちゃんが本気出したら、僕は廃業だね」

「せやから言うてるやろ。ウチはそう言う事に占いはやらへん、それは吾郎ちゃんの仕事やって。ウチにわかるんは、今日の君の目当てくらいやな」

 

はい、希は持っていた紙袋を彼に差し出す。

目を輝かせながら、明智はそれを受け取って中を見た。

 

「あ、これ頼んでた奴だね! ありがとう! 僕、ここのどら焼き大好きなんだ」

「…ウチは巫女さんやで。通販サイトでも運送屋でもないんやけど」

「そう言わないでよ。あそこの店、取り置きしてくれないんだ。でもよく分かったね、今日僕が来るって」

「せやから、わざわざ買うておいたんやで。今日あたりに来るって、星が言うとったから」

「星ねぇ」

 

くすくすと笑う明智に対して、希は困ったように笑い返す。

一瞬ポカンとなって、穂乃果は二人の様子を見ていた。この二人、昔からの知り合いなんだろうか?

音ノ木坂は女子高だから男性と触れ合う時間が短い。たまに他校の男子と付き合っているクラスの子の話を聞くとそれだけで話題になるほどだ。

会長の絵里に次いで生徒からの人気が高く、その私生活の殆どが謎に包まれている不思議系スピリチュアル少女、東條希。その一面が垣間見れたのは良いことだが、まさかこんな有名人と知り合いというのはまたも意外な事実である。

彼女は一体何者であろうか……そんな事をぼんやり考えていた時に、希がこちらに声をかけていた。

 

「……あ、そうや。三人とも」

「はい?」

「朝、チラシのこと話しとったやろ」

「チラシ?」

 

明智がふと自分たちの鞄から顔を覗かせているポスターを一瞬見る。

あぁ~、と昼間のことを思い出しながら苦笑いを浮かべる穂乃果。

それを見て疑問符を浮かべる二人に、実は…と海未が代わりに説明してくれた。

 

「なるほど、お店に置きチラシを…あー、それは難しいだろうねえ」

 

話を聞いて、初めて明智は難しい顔をしながら視線を泳がせていた。お店を巡り巡っていて成果なしの自分達と同じ顔つきである。

 

「そうなんです……A-RISEではなくても、他のグループのポスターが貼られてたりして」

 

もう少し活動範囲を広げようかと考えている、と話したところで、希がポン、と手を打った。

 

「吾郎ちゃんに頼んでみたら? こう言うの顔が利くから」

「え?」

 

その突然の提案に、明智は目を丸くして驚いたように希を見る。

 

「吾郎ちゃん、お店巡りが趣味って、前に言うとったやん。隠れた名店とか、それなりに詳しいんと違う?」

「あ、ああ。そう言えば。そう言ったね」

「え? そうなんですか!?」

「うん、まあ…」

「それじゃあ、どこか良いお店とかありませんか!?」

 

穂乃果が食い入るようにして明智に詰め寄る。これこそまさに天の助けだ。

巷で噂の探偵の紹介なら、もしかしたらここから一発逆転あるかもしれない。

一瞬で天高く舞い上がったが、地に叩き落されるのも一瞬だった。

 

「あー……その……大変言い辛いんだけど……」

「はい?」

「えっと……そういうお店は、もう既に知り合いに紹介してしまってて…」

「え…?」

 

目を泳がせながら、気まずそうに言う明智。

出来るだけ、言葉を選んで穏便に優しく言ってあげようという心遣いが読み取れた。いや、見えてしまった。

 

「さっき、言ってたでしょ? 殆どのお店に張られていたって。実は、最近テレビ収録があって、その時の縁で知り合ったスクールアイドルに、同じ話をされたんだ。それで……」

「ま、まさか…」

 

ごくりと息を飲む海未。

ぶっちゃけ嫌な予感しかしない。

 

「うん。お察しの通り、A-RISEにね」

「…」

 

なんてこったい。

こんな風に謎を解いてほしくなかったよ探偵王子様。

つまるところ、話は単純だ。

あれだけお店を回っても一発のヒットもないというのも考えてみれば変な話だ。

幾らA-RISEの本拠地と言っても、秋葉原のお店全部にチラシを置くのは難しい。誰か本人以外の、それも外部に協力者がいたと考えるべき。

つまり……

 

「じゃ、じゃあ、アキバのお店がA-RISE尽くしだったのは、もしかして……」

「ああ、うん……僕のせい、ってことになるのかな……」

「がぁーんッ!! そんなあっ!」

 

がくりとその場に膝をついてうな垂れる穂乃果。

とんでもない話だった。目の前に現れたのは救世主……かと思いきや、商売敵……もとい、目標としているトップスクールアイドルの宣伝隊長だ。

何という皮肉、なんという滑稽。

これじゃ完全なピエロだ。

 

「ご、ごめんよ! まさか、こんな事になるとは思わなくて」

 

すまなそうにしゃがみ込んで穂乃果に声をかける明智。

慌てて海未が横からフォローを入れた。

 

「い、いえ、気にしないで下さいっ。間が悪かったというか、偶然ですから」

「まさかのダブルブッキングなんて……!」

「仕方ないよ、穂乃果ちゃん……考えてみたら、同じこと思った人がいてもおかしくないし」

「そうだよね……そりゃそうだよね…」

 

ことりが、この世の悲劇を一身に受けたような穂乃果の背中を優しく撫でる。

掌の温かさが背筋に伝わって、はらはらと落涙しそうだった。

優しさと愛しさと切なさが今は痛いよ、ことりちゃん……

 

「…参ったなぁ」

 

その様子を見て、さすがに明智も顔に罪悪感の様なものが浮かんでいた。と、後ろから冷やかに希がため息交じりに呟く。

 

「吾郎ちゃん…」

「い、いや、仕方ないじゃないか。僕だって何とかしてあげたいけど、でも……あ」

「あ?」

「いや…そうだな。アリと言えばアリか」

 

ふと何かを考え込み思考を巡らせ始めた明智。何やらブツブツと二言三言呟くと、すぐに三人に向かって言った。

 

「どうしたんですか?」

「置いてくれそうな雰囲気のお店なら、心当たりがあるよ。僕も最近見つけたばかりなんだけど、多分あそこなら、どのグループも手付かずだと思う」

「本当ですか!?」

 

がばっと起き上がって食い入るように明智を見つめる穂乃果。その眼には先程のまで落ち込んだ気持ちは微塵も見受けられない。呆れるほどの変わり身の早さに明智は少し驚きながらも、平静を保って続けた。

 

「ただ、ちょっとここから離れちゃってるんだけど、それでも良いかな?」

「大丈夫です!」

 

そう言うと、穂乃果はことりと海未を交互に見て、微笑んだ。拳を握りしめる。小さいが、確実な一歩だ。

これを機にどんどん増やして…と、上手くいかないかもしれないが、何か掴めるかもしれない。

確かに、三人が彼と知り合えたのは僥倖だった。

これをキッカケに、μ‘sが大躍進を遂げていく。

 

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

 

「ここかぁ」

 

スマホに映し出された文字と、目の前にある店を交互に見比べる。

近くのお巡りさんにも教えてもらったし、目的地で間違いないだろう。

 

「喫茶ルブラン。なんか良い雰囲気かも」

 

『四茶の駅の近くに、小さな喫茶店があるんだ。そこのマスター、無口だけどいい人だから、根気よく話せば協力してくれると思うよ』

 

そう言われて、明智から教えてもらった住所をメモし、翌日の放課後に四軒茶屋まで行くこととなった穂乃果。

本当なら三人で活きたかったのだが、海未は弓道部の練習があり、ことりも次の衣装やらポスターのデザインやらを決めるための買い物に行くと言って、結局一人で向かうことにした。

 

「私一人っていうのが不安で心細いけど……だいじょーぶ! まずは当たって砕けろ!」

 

一番不安で心細そうな顔をしていたのは穂乃果ではなく海未だったが、それを彼女本人が知る由もない。

何はともあれ、まずはマスターに会って相談してみることだ。先日のチラシ巡りで、コツは何となくつかんだし、大丈夫、何とかなる。

意気込み、喫茶店の扉を開けた。

 

「ごめん下さーい」

 

カランカラン、という音とともに踏み込んだ穂乃果を迎え入れてくれたのは、煎ったコーヒー豆の香ばしい香りと、何やら鼻をくすぐる美味しそうで華やかな香り。

エスニックというかオリエンタルというか、ワクワクすると同時に気持ちが穏やかな……ああ、良い気持ち。

と、穂乃果がその匂いにうっとりしていると、店の奥からトタトタと歩く音が聞こえてくる。

 

「あ、はい、すいません。今ちょっとマスターが」

 

と、低い声で奥から一人の青年が顔を出した。

ただ白いシャツに緑のエプロンをつけたその姿を見た時、今まで嗅いだ香りが一瞬で吹っ飛んだのを感じた。

 

「……あるうぇっ?」

「え?」

 

こんな偶然があるもんだろうか。夢中と思って自分の頬を引っ張って見たくなる。

目の前にいた青年は、あの時、渋谷で迷子になり、桜が舞う音ノ木坂の校門前でチラシを受け取ってくれて、そしてお客さんが一人も来なかった講堂に友達と来てくれた、あの眼鏡の高校生だった。

 

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

 

お店には『CLOSE』の看板が掛かっていたのだが、どうやらそれを見落としてしまったらしい。自分も客商売をしているのだからわかりそうなものだが、失敗失敗、と頭を掻いて苦笑しながら謝った。

大丈夫ですよ、と彼は短く応えると、カウンター席まで通してくれた。

 

「いやぉ、びっくりした〜。まさかお客さんのお店だとは思いませんでした…」

「俺も、こんな形で会うのは考えませんでした……どうぞ」

 

と、彼は冷水の入ったグラスを差し出してくれた。それなりに慣れた手つきだ。

 

「あ、どうも。ありがとうございます」

 

それを少し口に運ぶと、ひんやりとした感触と水気が渇いた喉を癒してくれた。はー、と息を吐いたところで、彼がこちらを見て少し申し訳なさそうに口を開く。

 

「すみません。今、マスターが出かけてしまってて。すぐ戻ると思うんですけど」

「あ、もう全然大丈夫です。気にしないでください」

 

慌てて手を振った。

考えてみれば今の時間、この手のお店はだいたいが休憩時間である。

店の人はご飯を食べたり、必要なものを買い出しに出かけたり、あるいは夜の仕込みをしている……しまった、お店の人ってそういう時に来られても困るよね……う~ん、前もって電話しておくべきだった……あ、やば、これ海未ちゃんが居たら怒られるパターン……

 

「どうかしました?」

「あ、い、いえ、大丈夫です。すみません、こんな変な時間帯に来ちゃって」

「ああ、いえ、気にしないで下さい。どうせ俺しかないから」

「あ、あはは。そうですか?」

 

脳内で暴れる海未を何とか手なずけながら、穂乃果は笑顔で務めた。

優しそうな人でよかった。いや、実際優しいんだろう。私達のライブにわざわざ来てくれたのだから。

 

「あの」

「?」

「あの時はありがとうございました。ライブに来てくれて」

「いや、こちらこそ。とってもいいもの、見させてもらって」

「いえ、そんなこと。まだまだ練習不足だし、皆が来てくれたから、何とか頑張れたようなものですし」

 

えへへ、と穂乃果は笑いながらふとお店を見渡した。

 

「……ここ、いいお店ですね。落ち着いてて、ホッとする感じで」

「ありがとうございます」

 

入る時に感じた印象をそのまま告げる。

お店の内装こそ、ごく普通の純喫茶だが、ソファやテーブル、カウンターも綺麗に磨かれているし、奥の棚に並べられたコーヒー豆の入ったビンも趣が感じられる。

こういう個人経営ならではの感覚は好きだ。

 

「お客さんは、ここで…って、今ここでお客さんって言うの、変ですよね」

「ははっ、そうですね」

 

(あ、笑った……この人、こんな感じで笑うんだ…)

 

青年ははにかんだように笑っただけだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。初めて会った時から表情の変化が余り少ないような感じだったが、別に無愛想という感想は持たなかった。むしろなにかこう……秘めている様な

 

(考えすぎかな…あ、そうだ)

 

「名前、言ってなかったですね。私、高坂穂乃果。音ノ木坂学院の2年生です。よろしくお願いします」

「ああ、俺は私立秀尽学園高校の2年、雨宮蓮です。よろしく」

 

挨拶に合わせて、青年…蓮と名乗った彼はぺこりと頭を下げる。

意外な言葉に、穂乃果は驚いた。

 

「え、じゃあ同い年ですか? 大人びてたから、先輩かと思ってた……」

「そうですか?」

「そうだよ。今だって、すっごい落ち着いた雰囲気で…って、あ」

 

くすりと笑って、蓮はお冷のおかわりを注ぎながら言った。

 

「気にしないでください。今は高坂さんがお客様ですから」

「…そう? それじゃあ、私も敬語使わなくて大丈夫だよ。同い年なんだし」

「……それじゃあよろしく、高坂さん」

「こちらこそ、雨宮くん」

 

そう言って手を差し出すと、蓮はゆっくりと手を差し出して、握手する。考えてい見れば、同年代の男の子の知り合いなんて久しぶりにできた気がする。小学校以来だろうか。

 

『次のニュースです。先日、都内で起きたの地下鉄暴走事件で、国交省には大きな波紋が広がっています。自栄党青年部代表の獅童正義氏は、この件に対し…』

 

「えっと……雨宮くんは、ここでバイトしてるの? 田舎から出てきたって言ってたけど」

 

テレビから流れてくる何だか堅そうな、自分とは縁遠く感じる世界のニュースを耳に流しながら尋ねると、いや、と苦笑しながら蓮は答えた。

 

「ここは俺の下宿先。面倒を見てもらってるお礼に、たまに店の手伝いをしてるんだ」

「下宿ってことは、もしかして一人?」

「まあ、一応は」

「へえ〜、偉いねぇ」

 

心の底から自然と出た本音だった。

 

「実家から一人でしょ? ご飯とかお風呂とかどうしてるの?」

「こういう日はマスターが賄い用意してくれるけど、それ以外はコンビニかな。風呂は、近くに銭湯があるから、大体そこで」

「ほへぇ〜、なんか大学生みたい。私なんて朝一人で起きるのも大変なのに」

「俺も朝は苦手だよ。必要に迫られて、仕方なくかな」

「大変だねぇ」

 

自分だったらまず不可能だという自慢にもならない絶対の自信があった。

今言った以外にも確実に何かをやらかし、何故か海未にお説教される図がありありと浮かんだ。

離島や過疎地に住んでいる場所ではそう珍しくないというのを祖母から聞いたが、高校生から東京まで来る人を間近に見るとは思わなかった。

 

「…どうしてわざわざ東京に来たの? 進学のため、とか?」

「……」

「雨宮くん?」

「まあ、そんなところかな。就職するにしても、こっちの方が何かと有利だから」

「そっかぁ」

 

一瞬の沈黙の後、蓮は答えた。

穂乃果は敢えてその垣間見えた「何か」を聞かないようにした。

確かに…あれ?

今何か、大事な事を見落としてしまったような気がする。

この時、一瞬過ったこの想いを、そう遠くない未来で、再び思い出すことになるが、まだそれを語るには時間が要る。

なので穂乃果はこの時、ごく自然と彼の言葉に合わせて話を進めていた。

 

「けど、家族と離れて寂しくない?」

「…まぁそういう時もあるけど。でも、悪いことばかりじゃないよ。友達も出来たし、それにスクールアイドルなんて地元じゃ絶対見られなかったから」

「え、あ、そ、そう?」

 

そう言って微笑を浮かべる蓮。自分のことを話題に振られたというのに気付くには少し時間が掛かってしまった。

 

「あの後、一緒にいた二人ともよく話すんだ。すごい良かったし、これからも応援したいって」

「え、ほんとに!?」

「うん」

「い、いやぁ、て、照れちゃうなぁ、そう言ってもらえるっていうのは…」

 

はにかみながら、えへへと頭を掻く穂乃果。

あの後、反省会もしたし、実際に感想をゆっくり聞く機会もなかったから、こうして改めて意見を聞けるのは嬉しかった。お世辞でも、素直に喜べる。

 

「ん? あれ、ってことは」

 

と、言うよりも……今、自分の耳が正しかったとすれば……

 

「そ、それじゃあ、もしかして……これからもライブとかあれば、観に来てくれたりとか?」

「もちろん、是非」

「えっと…」

 

落ち着けー、落ち着けぇー、わたしぃ~…

ここは慎重に言葉を選ばないと……

しかし高坂穂乃果の頭の辞書に冷静という文字はあっても、本人が滅多に辞書を引かないために表には出てこない。

流行る気持ちを抑えられずに恐る恐る尋ねた。

 

「つまりそれって…私たちのファン………ってことで、良いのかな…?」

「…あ、ああ、うん。そう言うこと、になるかな? 高坂さんたちが良ければ、の話だけど」

 

おずおずと出たその言葉に、天国への扉が開かれたような気がした。今度こそ聞き間違いではない。

ライブを良いと言ってくれた。また来るとも言ってくれた。

そして、そして…

 

「…やった」

「え?」

「やったぁ!! ついに初めてのファン獲得だよぉ〜! ありがとう! そしてありがとう!!」

 

勢いよく跳ねあがって、椅子から跳び上がるように立った。その場でクルクルとバレエのように回転した。

いきなりの変化に蓮は一瞬後ずさるが、そんな事を気にしないぐらいに舞い上がっていた。

 

ファン。ファン、ファン!

 

この言葉をどれだけ待ち焦がれていたことか。あの日秋葉原でA-RISEを見た時のような、彼女達に惹きつけられていた多くの人たち…あんな風に自分たちを見てくれる人がここにいる! しかも三人もだ! こんな素敵な事は無い!

 

「え、あ、え、えっと」

「ああ、この感動、誰に伝えよう!? あとで海未ちゃんとことりちゃんにも教えないと!」

「あ、あの…」

「これからもライブとか見に来てね! 絶対待ってるから! なんなら特典でウチのお店のお饅頭もつけちゃう!」

「もしもーし…」

 

声をかける蓮をよそに、一人はしゃぎ続け、感動の海に溺れる。それは思わず蓮の手をぎゅっと握りしめて、そのままブーンブーンと振り廻すほどだった。

いきなり異性に手を握られては、おまけに急にこんなはテンションになられたら戸惑う。慌てて声を掛けようとした時だった。

 

「あの、高坂さ」

「おい、うるせえぞ。外まで聞こえるじゃねえか」

「あ…」

 

カランカラン、とドアが開くベルが鳴り、蓮の視線は入口の方へ移動する。その先には彼が待っていた人物の顔があった。

 

「やった、やった!」

「一体何騒いでやが…?」

「やっ…へ?」

 

右から聞こえた音と声にふと我に返って穂乃果も入口を見つめる。

そこに立っていたのは、ワイシャツに蓮と同じエプロンを着た中年の男が一人、気難しそうな顔をしてじっとこちらを見ていたのだった。

 

「……」

「……」

 

さっきそのままの姿勢で固まる二人。

目の前に現れた男性、純喫茶ルブランのオーナー兼マスター、佐倉惣治郎はじいっと二人を観察していたが、ややあって目を丸くしながら穂乃果を指差し、素っ頓狂な声を上げた。

 

「…え、カノジョ? お前、いつの間に作ったの?」

「違います」

 

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

 

蓮が即答してくれたおかげで取り敢えず誤解は解けた。

穂乃果は改めて挨拶をし、どういういきさつで彼と知り合い、またここへ来た理由をかいつまんで説明する。

無愛想っぽい第一印象と違い、意外にも惣治郎は穏やかに、それでいて気さくに話を聞いてくれた。

 

「ふーん……スクールアイドルねぇ」

 

穂乃果が渡したスクールアイドルについての特集が組まれた雑誌を読みながら、しみじみと惣治郎は首を傾げたり頷いたりを繰り返している。

 

「今時、何が流行るかわかんねえもんだな。俺の若え頃のアイドルなんつったら、文字通り偶像っつうか、とても手の出せねえ高嶺の花だったんだが、まさか自分たちでなっちまうとはね」

「でも、今はとっても大人気なんです。これのおかげで入学希望者が増えたところだってあるんですよ!」

「そりゃ大したもんだ。で、ライブで知り合ったって話だったが」

 

惣治郎は顎を撫でながら、蓮を指で招きよせると、彼の耳元で囁いた。

 

「……本当に彼女じゃねえのか? こっそり連れ込んだとかじゃなくて?」

「違います。知り合って二週間くらいで、会うのは4度目です」

「…そうか」

 

何やらぼそぼそと話しこんでいるが、良く聞きとなれない。じぃーっと彼等を見ていると、慌てて惣治郎は咳払いをして向き直った。

 

「えっと、それでお嬢ちゃん達は廃校の危機を救うためにアイドルをやって、生徒数を増やそうって訳か?」

「はい! その為にも、是非こちらのお店に、チラシとかポスターとか、置かせていただければと思って……お願いします!」

「…ふうん」

 

勢い良く頭を下げる,

眼鏡の位置を直しながら雑誌や穂乃果を交互に見比べる惣治郎だったが、不意に蓮が口を開いた。

 

「……あの、俺からもお願いします」

「あん?」

「俺も彼女達のライブを観て、本気で応援したいと思いました。俺なんかが頼める立場じゃないのは分ってますけど……どうか、お願いします」

 

そういうと眼鏡を掛けた青年も同様に頭を下げる。

不思議な縁でまた会うことができたとはいえ、殆ど付き合いのない自分の為にここまでしてくれることに、じんと来てしまった。

まさかこんな風にまで思ってくれていたなんて思わなかった。

もしこれでダメだったらどうしよう……

 

「……構わねえよ」

「え?」

「いいんですか!?」

 

ポツリと出たその苦笑を聞き間違える筈もない。パァと顔が明るくなる穂乃果に対して、惣治郎は苦笑しながら雑誌を返す。

 

「ただし、ウチは見ての通りしがねえ個人経営の純喫茶だ。客も常連の中年層しかいねえ。どれだけ効果があるか保証できねえが、それでも良いかい?」

「もちろんです! ありがとうございます!」

 

がばっと満面の笑顔を浮かべながら再び頭を下げた。

まさかこんなに上手く行くとは思わなかった。今まで断られ続けた反動だろうか、初めてオーケーを貰えたことに舞い上がりそうになる。

蓮もゆっくりと頭を下げてお礼を言った。

 

「……ありがとうございます」

「別にお前の為じゃねえ」

 

ルブランのマスターはポリポリと頭を掻く。

 

「女の頼みは断らねえのが俺の流儀だ。それに……俺もあそこがなくなるのは気持ちのいいもんじゃねえからな」

「はい?」

「なんでもねえよ。それより……穂乃果ちゃん、だったっけか?」

「え、はい」

「コーヒー飲めるかい?」

「あ、はい、大好きです」

 

急に名前で呼ばれて戸惑いながらも、穂乃果が真顔で頷くと、惣治郎は面白そうに笑いながら微笑んで言った。

 

「なら良かった。お前この子にコーヒー淹れてやれ」

 

その言葉に蓮の顔に一瞬嬉しさが浮かんだように穂乃果には見えた。

その前に惣治郎が腰に手を当てながら言った言葉に、とても興味が沸いていた。

コーヒーを淹れると言うと、喫茶店でバリスタがやる、あれだろうか。

 

「…良いんですか?」

「そこそこの腕にはなったからな。知り合いに味見てもらうにはちょうどいいだろ」

 

と、そこまで言うと惣治郎は携帯を取り出す。メールの着信があったらしい。画面をしばらく見ていた彼は、首を傾げて唸り声を上げたかと思うと、すぐにポケットへ仕舞った。

 

「すまねえな。ちょっと用事が出来た。俺はまた少し出るぞ……じゃあ、今度チラシとやら持ってきな。場所作っといてやるよ」

「あ、あの! 本当にありがとうございました!」

 

ん、と惣治郎は頷きながら手をひらひらと振って、店を後にする。

カランカランという音が鳴り響き、それが過ぎ去ると、ようやく自分の身に起こった出来事を顧みる余裕ができた。

 

「……いやぁ、良かったぁ。まさかこんなに上手くいくとは思わなかったよ」

 

そう言って再びカウンターの椅子に腰かけると、自然と笑みが零れた。

自然と目はついさっき自分と一緒にお願いしてくれたファン一号へと向けられる。

 

「雨宮くんのお陰だね!」

「俺は何も」

「そんなことないよ。一緒に頼んでくれたでしょ? やっぱり持つべきものは良きファンだね!」

「……」

「?」

 

蓮は応えない。ただ微笑を浮かべてこちらを見てくるだけ。

私何か変なこと言ったかな?

そんな風に首を傾げていると、蓮は苦笑しながらメガネをかけ直した。光の反射で瞳の奥は上手く読み取れなかったが、悪いものではなかった気がする。

 

「何でもないよ。それより、そこに座って。今コーヒー淹れるから」

「え、い、いいの?」

「ああ。マスターに教わって練習してるんだ。まだまだだけど、味見してもらえるかな? 高坂さんが、最初のお客さん」

 

そう言って彼はカウンター奥に置かれている器具の様なものを置き始めた。コーヒーを淹れる用具なのだというのは穂乃果も何となく察しが付く。

喫茶店で本格的なコーヒーを味わうのは初めてだし、遠慮するのも逆に失礼かもしれない。ここはお言葉に甘えちゃおう。

 

「うんっ。じゃあ、ご馳走になろうかな」

「ありがとう。それじゃ、ちょっと待ってて」

 

そう言うと彼はビンを取り出すと、そこからスプーンで台に乗った丸皿のような容器に豆を入れていく。

と蓋をして、一番上に付いた取っ手を回し始めると、豆を削り砕く音と共に香ばしい香りが再び穂乃果の鼻をくすぐった。

テレビで見たことがある。あれだ。豆を挽くヤツだ。

コーヒー豆とは挽くとこんなにいい香りがするものなのか。

少し楽しくなってくる。

 

「…よし」

 

挽いた豆をフィルターに移し、淹れる準備を整える。

お湯の温度を目盛りで測っていたが、いい塩梅になったのか、彼はヤカンを持ち上げて、ゆっくりと粉の上にお湯を注ぎ始めた。

 

「砂糖とかミルクはいる?」

「あ、ううん、平気、苦いの割と好きなんだ」

「そうなの?」

とと

一回目のお湯を注ぎ終えた蓮が尋ねると、穂乃果はえへへと少し得意げに答えた。

 

「ウチ、実は和菓子屋さんなの。ほら、甘い和菓子って、苦いお茶が一緒でしょ? だから結構昔からお茶とかコーヒーは飲んでるんだ」

「和菓子屋さん?」

「揚げまんじゅうが美味しいんだよ。神田にあるから、よかったら一度来てみてね」

「うん。そうするよ」

 

実際は味に飽きて、色々バリエーションを付けようとコーヒーと合わせて飲んだだけなのだが、それは黙っていることにする。

 

「…」

「…」

 

じんわり、暖かで、穏やかに流れていく時間。ここだけ切り離された空間のような、独特の感覚を覚えながら、穂乃果は蓮の手つきをじっと見ていた。まだ少したどたどしいが、それでもコーヒーに集中しているのが分かる。

何処か、父の和菓子を作る手さばきを思い出すような、そんな雰囲気だった。

 

「できた」

 

やがて何度目かをお湯を注ぎ終えると、蓮はドリップされた中身をカップに少しだけ移し、それを口に運ぶ。

目を瞑りながらうんうん、と何度か頷くと、別のカップに茶がかった黒い液体を注ぎ入れ、穂乃果へ差し出した。

 

「どうぞ」

「おお~……いい香りがするね」

「ルブランのオリジナルブレンドです」

「じゃあ、頂きま~す」

 

取っ手を持って口元へ運んでいく。と、蓮と目が合った。

い、いやいや、そんな風に見つめられると、飲みにくいよ? 

確かに他人に初めていれたコーヒーの味がどんなものなのか、それは気になってしまうだろうが…そう言えば、お父さんも新作の和菓子を試食させてくれる時は黙ってじいっとこちらを睨むように観察する。まあ、あれに比べればましか。

一瞬のうちにそんな事を考えつつも、ゆっくりと口の中に蓮の淹れたそれを含んだ。

 

「…」

 

温かい、それでいて柔らかな香りが鼻を吹き抜ける。苦みや酸味も程よく抑えられて、僅かに甘い風味が口当たりを良くしている。

初めてこの店に入った時に飛び込んできた臭いはこのコーヒーの味だったらしい。

 

「どう……かな?」

「何だか……安心する」

 

穂乃果の口から出た言葉は短かった。

 

「ホッと一息って言うか、安らぐって言うか……これ飲んで落ち着いたら、また頑張ろう! っていう気持ちになれるような……そんな感じかな」

 

ボーっと、コーヒーに映った自分の顔を眺めながらそんな言葉を口にする。

安らぐ。それは自分の胸の中の素直な気持ちだった。もちろん美味しいことは美味しいけれど、それよりももっと優しい感触が自分の心の中を撫でてくれるような気がする。

 

「……」

 

と、蓮が沈黙しているので、慌てて穂乃果は我に返った。

しまった。もしかして私、変なこと口にしちゃったかな? もしかして通ぶって訳わかんないこと言っちゃった?

 

「い、いや! そ、そう言う話じゃないよね、これっ」

 

あはははは、と苦笑しつつ、再びコーヒーを飲む。しかし慌てて飲んだせいか、あれ程素直に出た言葉が、ちっとも今度は上手く再現できない。うひゃあ、どうしよう。

 

「ご、ごめんね。私、好きは好きなんだけど、味の評価とは、こういうの苦手で」

「ありがとう」

「え?」

「とっても嬉しいよ」

 

唐突に出たその感謝の言葉に、一瞬キョトンとして彼を見る。それはさっき見た時とも違う、彼の笑顔だった。

味を褒められたから安心した…のとは少し違うような気が一瞬した。そういうのじゃない…もっと何か…救われた、みたいな、雰囲気で…。

 

「お代わり、いかがですか? お客様」

「あ、うん、いただきます!」

 

しかしそれは一瞬だった。

微笑みながらコーヒーの入ったサーバーを手に取った彼を見て、すぐさま飲み干したカップを差し出す。

再び穏やかな時間が流れていく中で、穂乃果は結局彼のコーヒーを二回おかわりしてしまった。

これが、これから先で何度も口にする彼の味。蓮のくれた、苦く甘く、それでいてたおやかな時間の流れを味わいながら、穂乃果は一瞬だけチラシやμ‘sのことは忘れ、ただ朗らかな春の陽気さと不思議な空間に浸る。




スクスタ、上級Sランクがエグすぎるでござる。

ただまぁ、個人的には音ゲーの才能が死ぬ程皆無なので、育成式で音ゲー自体の難易度は低いの方が好きかも、とは思います。
神プレイしてる人は指6、7本あるとしか思えませんww

ともあれ、これで本格的に穂乃果と蓮が出会えました。
ここから他のキャラも絡んでいきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5話 −I'm cheering for you− Sideμ's②

続きです。
最近、感想を下さる方が増えてきたので、とても嬉しいです。
この調子で、シンフォギアの方も書き上げていきますので、皆さん応援よろしくお願いします。

それはそれとしてスクスタのスコアの上げ方が未だにわからん…


「いや~世の中何が起こるか分かりませんなぁ!」

 

誰に話すべくもなく、帰り道をスキップしながら進んで行った。予想以上の成果だ。

チラシを置くことも出来たし、念願のファンも出来た。次のライブも来てくれると言ってくれたし、友達に伝えてくれるかもしれない。

そうして次の集客に繋がればいうこと無しだ。

 

「帰ったら早速、海未ちゃんとことりちゃんにも…」

 

この感動を、いち早く分かち合いたい。

その一心で実家の老舗和菓子屋への道を急ぐ。

とその時、店の前に今心で思い浮かべていた人物が立っている事に気が付く。

 

「穂乃果〜っ」

「海未ちゃん?」

 

玄関前に立って、園田海未が手を振って自分を出迎えてくれていた。

目を丸くして穂乃果は彼女の前へと駆け寄る。

 

「どうしたの? 部活は?」

「中止になってしまったんです。顧問の先生方同士で、急な会議になって」

「会議?」

「あとで説明します。上がってもいいですか? 空いた時間で新しい歌詞を作ったので、見てもらいたいんですが…」

「もちろん! 入って入って!」

 

妙に歯切れの悪い言い方は少し気になったが、グッドニュースを早く伝えたい気持ちが勝った。これを聞けば海未もきっと喜ぶだろう。

そうだ、ことりちゃんも呼ぼう。

買い物も済んでいる頃合だ。

 

「じゃあ、ことりちゃんにも連絡するよ。実は私からもいい知らせがあるんだぁ~!」

「なんですか?」

「うっふっふ。二人揃ってからのお楽しみだよ!」

 

そう言ってスマホの画面を叩いてことりへの連絡を取る穂乃果。

ややあって、ことりは通話に出てくれた。

 

『もしもし、穂乃果ちゃん?』

「あ、ことりちゃん? 今、私の家で、海未ちゃんと一緒にいるんだけど、ことりちゃん、今から来られる? 話したいことがあるの」

『今から?』

「うん。あ、用事まだ終わらない?」

『あ、ううん。ちょっと待ってて。もうすぐ上がりだから』

「え? アガリ?」

『じゃ、じゃなくて『終わり』ね! もうすぐ用事終わって、それから行くから! あ、あと一時間くらいかかっちゃうんだけど…!』

「うん。それ位なら平気だよ。じゃあ、待ってるからね」

 

と、そう言ったところで慌てたように通話は切れてしまった。

なんだろう? あんな風に早口で捲し立てるような態度を取るなんて滅多に無い。

 

「ことり、どうかしたのですか?」

「あ、ううん。もうすぐ用事が終わって、一時間くらいしたら来るって」

「そうですか」

「でもなんか変なんだよねぇ。いつものことりちゃんぽくないって言うか」

 

そう言いつつ扉を開ける。

いつもの彼女ならもう少し疑問に思うところだったが、この時、さっきまでの嬉しさで、別段深く追及はしないことにしたのだった。

 

「ただいま〜」

「お邪魔します」

「おかえり~。あ、海未ちゃん。こんにちは」

「こんにちは、雪穂」

 

店のカウンター側に立って二人を出迎えたのは、和菓子屋『穂むら』のもう一人の看板娘で、穂乃果の妹の雪穂だった。

穂乃果の二つ下で、今年で中学三年生になる。彼女とは対照的で真面目なしっかり者だ。『お姉ちゃんを反面教師にしたからね』というのが本人談だ。

 

「お店番ですか?」

「まぁね。お母さん、今ちょっと買い物に。お姉ちゃん全然頼りにならないから」

「ゆ、雪穂っ!」

「だって本当のことじゃん? 最近スクールアイドルで忙しいみたいだし」

「うぅ〜…」

 

本当のことだけに反論できない穂乃果。

確かに店番やら店の手伝いやらが出来なくなって、しわ寄せが雪穂に言っているのは事実だ。

ただ、隣でそれを見ていた海未は苦笑していた。

雪穂とも長い付き合いの彼女だからよく分かる。『お姉ちゃん、たまには自分がやってよ』と雪穂が言わないのは、姉の頑張ってる姿を応援しているからだ。

とは言え、姉が気付いているかどうかは別問題だ。そういうささやかな機微に関してはとことん疎いのが穂乃果だ。

 

「ぶ~、雪穂ってば、ファーストライブも来てくれなかったし…この間話した人達がいなかったらゼロだったんだよ、お客さん」

「そんな事言ったってしょうがないじゃん。学校説明会だから無理って、前から言ってたでしょ?」

「説明会? この時期にですか?」

「海未ちゃんもそう思うでしょ! やっぱり雪穂、音ノ木坂受けないんだよ!?」

「え、いや、まぁ、それは……なんて言うか…」

 

ビシッと妹を指差して涙交じりに悲痛な叫びをあげる姉。

ほら見たことか。

はあ、と海未は溜息をつきながらフォローすることにした。このままでは店の入り口で姉妹喧嘩が勃発するだろう。

 

「穂乃果、雪穂には雪穂の道があるんです。強制は良くありませんよ」

「でもさぁ…!」

「進路や就職を考えたら、別の高校が有利な事だってあります。穂乃果だって、雪穂には自分の道を頑張ってほしいでしょう?」

「そ、そりゃあ、そうだけど……」

「べ、別に…私だって廃校が良いとは思ってないって」

 

しかし海未の考えとは裏腹に、雪穂は真っ向から言い返すと思いきや、しどろもどろに言い辛そうな表情を浮かべていた。

 

「って言うか説明会は、そういう奴とか、音ノ木坂とか関係ないよ。UTXとも違う学校のだし」

「ふえ?」

 

キョトンとする穂乃果。

これには海未も首を傾げた。確か雪穂はA-RISEの通う学校でもあるUTX高校を受験すると聞いていたが……

 

「雪穂、UTX受けないの?」

「違う違う。滑り止めに決めてた秀尽学園高校、別のにしようってお母さんが」

「秀尽?」

 

あれ…秀尽学園?

その名前、聞いたことがある気がするぞ? 

確かネットニュース? テレビ? 何処かの掲示板?

いや違う…それもあるが、もっと最近……それこそ今日どこかで耳にしたような…

 

「確か、蒼山辺りにある学校ですよね?」

「うん。ほら、ニュースでやってたじゃん。元メダリストの体育教師が逮捕されたって……あ、これこれ」

 

雪穂はスマホを取り出すと、動画配信サイトを開いて、ある一つの動画を二人に向かって見せる。

昼間やっているワイドショーの内容を一部切り取って編集したもののようだった。

 

『今日の特集です。都内の進学校で突然起こった事件は、学校関係者はもちろん、周囲に住む人々にも衝撃を与えました。逮捕されたのは、高校の体育教諭で元金メダリスト、鴨志田卓容疑者です。容疑者は、自らが顧問を務めるバレー部の部員たちに対して、指導と称した体罰を繰り返し、女子生徒へのセクハラや交際を強要していたとされ、容疑者は容疑を全面的に認めているとのことです』

 

「あれ…このニュース、昨日見たような」

「そうですね。弓道部でも話題になってました。今日の会議もきっと」

「え? 海未ちゃん部活休みになったのって、これ?」

「あくまで噂です。でも、この時期に急な話し合いなんて変だと思いましたし、多分、そうではないかと…」

 

その時、画面の向こう側でキャスターが学校の屋上を遠くから撮影した映像を出しながら解説をしているのが目に入った。

 

『えー、ここから女子生徒が飛び降りた屋上が見えます。少女はバレー部でレギュラーを務める程の実力者でしたが、校庭の中庭へ飛び降りたそうです。彼女は執拗に…』

 

「あ、これ…」

 

穂乃果はドキッとして口を噤んだ。

あの時ライブに来てくれた女の子は…やはりそうらしい。ニュースで話題になっていた、自殺未遂のバレー部のレギュラーの子だ。

 

(海未ちゃん)

(黙っておきましょう。おいそれと触れていい物では無いですから)

(そうだね…)

 

胸を締め付けられるような痛みを覚えながらも、穂乃果は彼女との指切りを思い出していた。

 

「どうしたの?」

「あ、ううん、何でもない。それで、雪穂がこの学校受けないのって」

「うん、これのせい。最低だよね、屋上から飛び降りるとか、よっぽどだよ」

「…そうですね。酷い話だと思います」

 

海未の言葉は静かだったが、その奥底には怒りが感じられた。彼女の父親も厳格で、早朝から夜遅くまで弓や日舞の稽古を実の娘に課していたが、それでも健康にはとても気を遣う人だった。そんな家庭で育った海未にしてみれば、ただ己の承認欲求を満たすためだけの行動は道から外れた恥ずべきものだ。

 

「それでお母さんもなんだけど……ついさっき、お父さんの耳にも入っちゃてさ」

「…まじ?」

「まじまじ」

「怒ったよね?」

「干菓子の抜き型、真っ二つに捩じ切っちゃったってお母さんが」

「うわぁ…」

「おじ様なら当然でしょう。娘が行くかもしれない学校でそんな事件があったら……私も、同じ立場ならとても平静でいられないと思います」

 

ため息が出た。頑固一徹の和菓子職人の父がそんなのを耳にすれば怒り狂う。

それに多分、海未ちゃんがお母さんだったら学校に直接乗り込んで教頭先生辺りを1発叩く。グーなのは言うまでもない。

 

「今どうしてるの?」

「厨房篭って、黙々と練り餡作ってる。当分出てこないね、あれ」

「じゃあお母さんの用事って」

「そう、壊しちゃった抜き型の修理頼みに行ったんだ。あれ月島のおじいちゃんしか直せないらしいから」

「それでこの時間に店番を…」

 

穂乃果は腕を組んで奥で平静を保とうとしている父親を想像した。

今度ばかりは雪穂も災難だ。

 

「そ、そう言うわけだったからさ。別に黙ってたわけじゃないんだよ? ちゃんと決めるまでは無暗に話せないし、まだ学校の方からもちゃんとした説明がないからってお母さんが…お、応援は、してるからさ…私だって、音ノ木坂が無くなるのはイヤだし」

「そっかぁ…」

 

雪穂は伏し目がちに穂乃果を見ている。

人の心を察する苦手な穂乃果だったが、こういう時は姉思いの気持ちが伝わる。

子どもの頃から二人揃って、制服を着て歩いているお姉さんたちを見ていた筈なのに、雪穂の中で母や祖母の母校でもある音ノ木坂への憧れが無くなって知ったのだろうかと、それが不安だった。

が、それが間違いだと知ることができただけでもいい。

 

「仕方ないね、そう言うことなら」

「…うん、ありがと」

 

頑張れ、と言った穂乃果は雪穂の肩を叩く。隣では海未が安心したように胸を撫で下ろしながら微笑を浮かべていた。

と、その時流れっ放しだったスマホのニュース映像から、またもキャスターの興奮した声が三人の耳に届けられた。

 

『えー、そして事件の発覚する数日前、奇妙な出来事がありました。学校に対し、怪文書が送られた…ということです』

「かいぶんしょ?」

「あー、これもクラスで話題になってるよ。『心の怪盗団』だって」

「こころのかいとうだん? 何それ?」

 

雪穂の聞きなれない単語を聞いて目を丸くする穂乃果。海未も初耳だったらしく、キョトンとしていた。

 

「なんか秀尽学園の校舎の掲示板に、『お前の心を盗んで、罪を告白させる』いう予告状が貼られてたんだって。で、数日経ったらホントにその先生、自分のやってきたことを白状したんだって」

「…何それ?」

「ほんとだって。その予告状も見せてもらったんだよ! ほらこれ」

 

そう言うと雪穂はスマホを操作して、複写した画像を二人に見えるように再びかざす。

確かにテレビドラマや漫画にあるような切り出した文字で作られた怪文書が映っていたが……

 

「色欲のクソ野郎…鴨志田卓殿……抵抗できない生徒に歪んだ欲望をぶつけるお前のクソさ加減はわかっている」

「だから俺たちはお前の歪んだ欲望を盗って、お前に罪を告白させることにした」

「明日とってやるから覚悟してなさい……心の怪盗団…?」

「何というか…怪盗団という割に、内容が幼稚と言うか…」

「イタズラ書きみたいだね」

 

国語2の穂乃果が見ても、知性は欠片も感じられない。

と、雪穂は珍しく真顔でぐいと顔を近付けた。

 

「実際あんまり信じてる人いないみたいだけど、でも本当に数日経ったら、その先生自首したんだよ」

「ただの偶然ではないですか? 私は、正直こういった物は余り…」

「…」

「穂乃果?」

「私はいると思うけどな」

「またそんな事を言って…」

 

海未があきれ顔で言う。

確かに海未ちゃんの通り、特に根拠があるわけじゃないんだけど……

何だろう。

不思議と目を話すことができない、この気持ちは…どこかで……

 

 

「ごめん下さい」

 

 

意識は、唐突に扉を開いて現れた表れた一人の客人によって引き戻された。

 

「あ、いらっしゃいませっ!」

「どうも」

「ああ、喜多川さん。いらっしゃい」

 

雪穂が声掛けをする。穂乃果も急いで『いらっしゃいませ』と声を這って挨拶をした。そう言えば今も営業中だったことを不意に思い出すと、海未に向かって耳打ちした。

 

(海未ちゃん、私もちょっと店番手伝うから、先の部屋上がってて)

(あ、分かりました。では後程)

 

海未が二階へ上がったのと同時に、穂乃果は雪穂にも耳打ちしていた。

 

(雪穂も、ここは私がやるから、ちょっと休んでていいよ)

(え、いいの?)

(今日も忙しかったでしょ? 少しは息抜きしなって)

(そう…? じゃあ、そうさせて貰おっかな…)

 

最初は戸惑いがちだったが、雪穂も姉の気遣いが伝わったのか、少し笑ってその場を後にした。

 

「すみません、お待たせしちゃって」

「いえ」

 

静かに時間が流れる店内で、穂乃果は脳裏をよぎった怪盗団への気持ちは綺麗さっぱり無くなってしまったのだった。

 

「この詰め合わせを頂けますか?」

「はーい」

 

目の前に現れたのは、白い学ランに身を包んだ長身の青年だった。

名を、喜多川裕介という。

彼は、何度か『穂むら』を訪れている常連だった。

自分が店番をするタイミングといつもズレるから、詳しくは知らないが、それでも母が接客しているのを何度か見たことがある。

 

「おかみさんは、お休みですか?」

「いえ、ちょっと出掛けてて。お一つでいいですか?」

「はい」

 

頷きなから喜多川は答える。

やや痩せ気味だが、顔は整っていた。

と言うより…かなりのイケメンだ。白く透き通った肌が印象的だった。

今朝の明智君といい、最近そう言うのに縁があるのかな、私…?

いかんいかん。

ジロジロ見たら失礼だ。

 

「あ、お包みしますか?」

「ええ。お願いします。あと、熨斗を付けてもらえますか?」

「わかりました。少々お待ち下さい」

 

和菓子屋をやっていると、プレゼントや進物用に買っていく人も少なくない。

手先は不器用な穂乃果だが、実はこの手の冠婚葬祭に関しては雪穂よりも得意だったりする。

 

「種類はどれにします?」

「内祝を」

 

内祝とは、祝事などで貰った品に、返礼として物を送る際に使用する文字だ。

包装紙に箱を包み、後は熨斗紙を貼るのみ…と言う時に、穂乃果の手はピタリと止まった。

 

「あ、お宛名はどうしますか?」

 

この手の商売で少し悩ましい所だ。

大手デパートなどはプリンターが普通だが、東京大空襲さえ生き抜いた老舗和菓子屋『穂むら』にそんな文明の利器はない。

礼儀的な意味もあるから、流石に穂乃果も安易に書くわけにはいかないのである。

大抵は母が書いているのだが…さてどうしたものか。

父も書けないことは無いのだが……例のニュースで怒り心頭の父上に丁寧な字が書けるだろうか…

 

(うーん、いっそ海未ちゃんにでも頼むかなぁ……)

 

と、そこまで悩んだ時。

 

「ああ、結構。宛名は自分で」

「え?」

 

言うが早いか、喜多川は懐から筆ペンを取り出すと、サッと穂乃果から熨斗紙を受け取り、カウンターに用意されている台紙の上に広げる。

そのまま一気に筆を走らせた。

 

「……わっ」

 

思わず目を見張ってしまう。

書き上げられた宛名は、母が書くよりもずっと綺麗で、それでいて繊細だった。

それだけではない。

 

宛名を書き終えると、その横に、更に線を重ねて行く。

 

家紋?文様?よく分からないが、彼が筆ペンを仕舞うと、熨斗紙には見たこともない様な花をあしらったマークが踊っていた。

 

「これで、貼って頂けますか?」

「……え? あ、はいっ。ありがとうございます」

 

慌てて穂乃果は熨斗紙を受け取ると、丁寧に貼り付けていく。

破いたら台無しと思うと少し手が震える。

 

「ど、どうぞ」

「ありがとう」

「あ、あのー」

「ん?」

 

純粋に興味が湧いた。

普段、筆文字を見慣れている筈の穂乃果でさえ見惚れてしまう様な、達筆な出来栄えだった。

いや、達筆と言うレベルじゃない。

これはもう……多分、芸術の域だ。

 

「筆ペン、凄い上手なんですね」

「ああ、どうも」

「習字とかやってらっしゃるんですか?」

「いや、俺は…」

 

と、青年が口を開いた時、

 

「あら? 喜多川さん? いらっしゃい」

 

ガラ、と扉を開けて中へと入ってくる人影。

ふと見ると、そこには見知った顔があった。

 

「あ、お母さん」

「ああ、ご無沙汰してます」

「いらっしゃい、よくきてくださったわねえ」

 

穂乃果の母が大きな紙袋を下げて顔を明るくさせて立っていた。

帰ってきて数秒もたたずに営業スマイルに切り替える辺り、さすが老舗和菓子屋の女将だ。と穂乃果はこの辺り感心している。

 

「今日もお遣い?」

「ええ。先生は、ここの和菓子が大好物で」

「ありがとうございます。主人も喜びます」

「こちらこそ」

 

その後、他愛ない世間話をいくつか交わすと、「それでは、失礼します」とだけ言って、彼は戸をくぐり帰っていった。

慌てて「ありがとうございました!」と後ろ姿を見送った。

 

(さっきの絵、凄く上手だったなあ……)

 

喜多川がいなくなるのを見計らって、ふと母に尋ねた。

 

「ねえねえお母さん」

「ん?」

「喜多川さんって、書道とかやってるの?」

「あら?言ってなかったかしら?そっか、穂乃果は喜多川さんと殆ど話してないものね。彼、画家志望なのよ」

「画家?」

「確か…何とかって言う、有名な日本画の先生のお弟子さんなんですって。美術科のある洸星高校にも通ってて、今は住み込みでお手伝いしながら勉強中なんですって」

「へぇ…」

 

確か洸星高校は、ここと渋谷のちょうど中間点にあった。

割と自由な校風で、白い学ランも特徴的だったから覚えている。

 

(住み込みで勉強中かぁ…雨宮君に似てるかも…)

 

「あっ! ポスター!」

「ポスター?」

 

すっかり忘れてた。

今も海未ちゃんが上で待ってる筈だ。

急いで今日の成果を報告に行かないと。

その時、再び玄関が開いて、遅れてやってきたことりが顔を覗かせた。

 

「こんばんは〜」

「お、ことりちゃんナイスタイミング!」

「ごめんね、遅くなっちゃった」

「ううん、全然! 海未ちゃんも来てるから入って入って!」

「え、ちょっと穂乃果、店番!」

 

急いで穂乃果はことりの手を引くと、そのまま店の奥へ続く暖簾をくぐって自失をへと駆けて行った。

母が「待ちなさい!」と叫んでいたのが聞こえるものの、さっきの青年とのやり取りと一緒に、頭の隅へとすぐ追いやった。

 

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

 

西木野真姫はその日、父親と夕食を共にしていた。

珍しく食事でもどうかと誘われたのだ。

母は仕事が入っていたのだが、父が自分一人だけを食事に誘うのは珍しかった。だが一緒に食べに行く相手を聞かされて、真姫はすぐに頷いていた。その相手というのは、父の古い友人で、その同伴としてついてくる子も、真姫が昔から知っている人だったからだ。

 

「いやあ、それにしても、真姫ちゃんもすっかり綺麗になったね」

「別に、そんな事ないですよ。普通です」

「あはは、そうかい」

 

目の前でワインを傾けながら笑っているのが、父の友達の奥村邦和だ。食品会社の社長をしていて、近年グングンと急成長を遂げているらしい。父とは学生時代からの親友同士だ。

 

「それに成績も優秀だそうじゃないか。お父さんから聞いたよ。学年トップだったってね」

「まあ……って、パパ」

「良いじゃないか、一人娘の自慢くらい」

 

あっはっは、と隣にいる父は笑って流した。父は医者とは思えないほど、デリカシーがない。

思春期の娘の気持ちが分からないでよく院長が務まるものだ。ある意味、感心する。

 

「凄い、真姫ちゃん。将来お医者さん目指しているだけあるわね」

 

ため息をついた時、奥村氏の隣にいた少女が感心しながら口を開いた。

 

「春、お前も他人事ではないぞ。奥村の娘として、恥ずかしくない教養を身につけなさい」

「大丈夫ですお父様。成績については、前にお話しした通りですから」

 

そう言って笑顔を自分に向けてくれているのは、奥村氏の一人娘の奥村春だった。

 

「その点に関しては僕が保証するよ。時々ウチに来て、真姫に勉強を教えてくれるくらいだからね」

「あ、はい。春さん、とっても教え方上手なんです」

「ううん、真姫ちゃんの呑み込みが上手いのよ。それに私も、お返しじゃないけど、ピアノを聞かせてもらっているし」

 

ね? と春はにっこり笑って言った。

春は真姫と歳も近く、今年で高校三年生になる。小さい頃から知り合って以来、ずっと仲良しだった。多分、一番仲の良い友達かもしれない。

学校が変わって以来、会う回数は減ってしまったが、時々こうして食事などを一緒にする。

 

「ピアノと言えば、真姫ちゃんはもうコンクールには出ないのかい?」

「ええ、まあ……」

「あれ? この間、弾いてたじゃない? コンクールの曲じゃなかったの?」

「ああ、あれは……」

「ん?」

 

目をパチクリさせる春。

…少し話辛いというか、普通に弾いてたわけじゃない。

 

「…なんか、2年の先輩に頼まれたの。曲を作ってくれって」

「え? 作曲?」

「うん。イミワカンナイけど、なんかアイドルみたいのやりたいんだって」

「アイドル? それって、スクールアイドルってやつ?」

「春さん、知ってるの?」

「うん。最近、結構有名よね。ネット配信とかもしてて、楽しいんだよ」

 

無邪気に笑う春。

彼女は人を先入観とかレッテルとか、そういうので見ない。

自分よりずっと純粋だった。

 

「アマチュアとか思ってたら、とっても本格的なの」

「ふうん…」

 

彼女も、子どもの頃バレエをやってたんだし、いっそ春が音ノ木坂に来てくれればよかったのに…そうしたら変な勧誘も受けることはなく、真っ先に彼女を推薦した。

あの先輩たち…確か、高坂さんだったっけ? 春さんほどの美人なら一番に誘い入れたに違いない。

 

(そうしたら私だって……)

 

ん?

私、今何考えた?

 

「けど、そうすると、真姫ちゃんは勉強に専念するのかい?」

「ああ。本人はそのつもりみたいだ。なあ、真姫?」

「……うん」

 

止めよう。

気の回し過ぎだ。

こんなもの、多分、ただの感傷だ。

或いは……同情?

あのファーストライブでお客が殆どいなかった彼女達への……

 

『いつか私達、ここを満員にして見せます!』

 

違う。

あの人達は、諦めてなかった。

あの歌の様に。

じゃあ、何…?

私は、あの三人に……

 

「僕はもう少し続けても良いと思うんだけどねぇ。真姫のピアノが聞けないのは残念だよ」

「立派なお医者さんになるには、今から頑張らないとでしょ。パパだって、若い頃は一心不乱に勉強してたって、よく言ってたじゃない」

「まあ、それはそうなんだけどね……」

 

そう言って自分の父は魚料理を一口に口に運んだ。

……不満があるなら言えばいいのに。

私に医者なんて無理…父は心の底でそう思ってるんじゃないか。そんな事ないと分ってる。分かっていても、時々そう感じてしまう瞬間がある。

そんな事ない。私は絶対に立派なお医者さんになる。そう約束したんだ。

 

「確かに、君の集中力には目を見張るものがあったね。あ、いや、一回だけ成績の落ちた時があったな」

「え?」

「お、奥村君、その話は…」

「そんな時あったの? いつだってテストで一番だったって言ってたじゃない」

「あ、いや、それは…」

 

と、奥村が軽く振った話題だったが、珍しく口ごまった自分の父を見て、奥村はにやりと笑った。

 

「ははあ、西木野君…あの話をしていないね? いいだろう、話してあげよう真姫ちゃん」

 

そう言うと奥村は身を乗り出して嬉々として語り始める。

 

「こいつ、学生時代にある女性に一目ぼれしてね。それが原因で食事は喉を通らないし、勉強も手につかないしで、もうボロボロだったのさ。流石に私が心配になって病院に連れて行ったら、先生が『そりゃ恋の病だねえ』なんて、大真面目に言ったんだ。もう傑作だったよ」

「お、奥村君! その話は…!?」

「ふーん……」

 

ほほう。

教育上余りおヨロシクない話を黙ってたみたい。

ジト目で真姫は我が父を睨み付ける。

出会った時からママ一筋だと言っていた姿はウソだったわけか。聞いたらタイソウお嘆きになることでしょう。

 

「ママに言いつけてあげる」

「い、いや、それは…」

「はっはっは、大丈夫だよ真姫ちゃん。その時に一目ぼれした女性というのが、何を隠そう、君のお母さんなんだ」

「え……そうなの?」

 

真姫はポカンとして、耳まで真っ赤にした父を見上げた。

 

「ま、まあ、そうともいえる、かな」

「まあ、素敵です! とっても純粋な恋をなさってたんですね!」

「あ、あはは……そうかい?」

「純粋も純粋だ。食べ物もヘアースタイルも車の趣味も全て彼女に合わせたんだからね」

「そうなんですか、おじ様?」

 

春が目をキラキラさせて父を見つめる。彼女はこういうプラトニックな話には目がない。自分よりもよっぽど乙女だ。

尤も自分も父の初恋がわが母と来れば黙っていられない。

 

「あ、いや……ま、真姫、ママには内緒だからな」

「んー、どうしよっかなぁ」

「わ、分かった。今度、新しい服でも買ってあげるよ。な?」

「…じゃ、今度付き合ってね」

 

おもいっきり高いのをねだってやろう。

ちょっと溜飲が下がった真姫だった。

 

「ん、んん! そ、そう言えば奥村君、身体の方は大丈夫かい? 近頃忙しく飛び回っているようだが」

「平気だよ。健康管理には人一倍気を遣っているつもりだ」

「しかし最近の精神暴走事件のこともある。食品関連企業の重役や社長による交通事故とやらもこのところ増えている。十分気を付けてくれたまえ」

 

そう言った父の目は本気だった。

街の人間がいきなり正気を失って滅茶苦茶な事をしてしまう、という事件がこのところ相次いでいた。ニュースや新聞でも取り沙汰されている。

ここ最近では4月に地下鉄の運転手がいきなりスピードを上げ、駅構内で脱線し転倒、多数の死傷者がでるというとんでもない出来事があったほどだ。

 

「相変わらず母親のような男だね、君は」

 

と、奥村は溜息をつきながらワインを飲んでいたが、父は唸るように捲し立てた。必死に説得する時の癖だ。

 

「僕は気がかりなんだよ、奥村君。僕はね、近頃の一連の事件には裏があるんじゃないかと睨んでいるんだ。運ばれてきた患者を何人か見てきたが、どれも普通じゃない。一体どんな方法を使えばあんな風になってしまうのかまるで分らない。ストレスや過労と言ってしまえばそれまでだが、それにしても度が過ぎる」

「西木野君、それ位にしたまえよ。娘たちの前だ」

「あ……」

 

呆然として父は自分や春の方を見て、そして慌てて我に返った様子だった。

 

「すまない。春ちゃん達には関係ない話だったね」

 

そう言って頭を下げる父。春とふと目が合い、そして苦笑した。父が友人をとても心配しているのは分かっていたから、責める気にもなれなかった。

 

「あ、いえ、平気です。私も最近、学校で同じような事件があったから、少し興味があって」

「事件と言うと、例の体育教師の?」

「はい」

 

春は頷く。このところ話題になっているオリンピックメダリストの件だ。

 

「まったく酷い話だよ。若い頃テレビにかじりついて応援していた自分を殴りたい気分だ。そう思うだろ、君も?」

「確かに、あの選手があんな事件を起こすとはね……君の部屋に押しかけて生中継を夜通し見ていた頃が懐かしいよ」

 

憤慨する父に、奥村氏も同意していた。若い頃は今とは比べ物にならないほど熱血漢だったらしい。

 

「しかし春ちゃん、それとどういう関係が?」

 

父が尋ねると、春は苦笑しながら話し始めた。

 

「……実は噂があって。『心を盗む怪盗団』なんです」

「心を盗む?」

「学校のあちこちに変な紙が貼られてて、『お前の口から罪を白状させる』って言う内容なんですけど……数日後の全校集会で、本当に先生が罪を告白したんです」

「ああ、その話は少し耳にしたな。しかしそんなのをわざわざ貼り付けるなんて、まるで本当に怪盗の予告状だね」

「そうなんです。学校でも話題になっていて」

「何それ、オカルト系?」

 

訝しげに真姫は尋ねた。

今どき怪盗団なんて、中高生向けのライトノベルでもネタにしない。真姫にしてみれば痛々しいにも程がある。

春の父親もこれには同意したようだった。

 

「くだらんな。ただの子どものイタズラだろう」

「私だって、本気で信じてはいないけど……でも……もし本当にそんな人たちがいるんだとしたら……」

「いるとしたら…なんだ?」

「……」

 

父親のその問いに、春は押し黙ってしまった。キョトンとする自分たちをよそに、春は手をぎゅうっと握りしめている。

また…何か背負いこんだんだろうか?

真姫は皿の上に食器を置いて立ち上がると、春の手を取った。

 

「ねえ、パパ。私、ちょっと外を散歩してきても良い?」

「ん? ああ、構わないけど」

「春さん、一緒に行こ? ここ、噴水がとっても綺麗なんだって」

「え……あ、えっと」

「行こう」

 

そう言って強引に春を立ち上がらせると、真姫はレストランを出て、ホテルのラウンジの方まで向かった。

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

多分、自然体で接してくれる数少ない人だったからだと思う。

 

父の同伴で、パーティやら食事会やらに何回か連れてかれたが、どいつもこいつも生まれや経歴を鼻にかけている連中ばかりだった。

大人だけじゃない、子供の間でも既にヒエラルキーが決まっていて、代議士や弁護士、官僚や大手企業の社長の子や孫が王様やその取り巻きの様に振る舞っていた。

 

こんな絵に描いた様なバカ殿連中がいずれ日本を牽引していくと思うと気持ち悪かったが、春は例外だった。

 

自分を「お嬢様」なんて呼ぶ人もいるけど、それはきっと春みたいな人を指すんだろう。

 

 

『はじめまして、わたし奥村春。よろしくね』

 

 

初めて出会ったのは、彼女の祖父が経営していた喫茶店だった。今でもコーヒーの香りを覚えている。

仕事で忙しかった両親に代わって、よく春の祖父は自分の面倒を見てくれていた。

 

『私が2つお姉さんだからね』

 

と、本人も進んで世話を焼いていた。小学生や中学に上がってもそれは変わらなかったが、不思議と真姫は嫌な気分はしなかった。

いつでも優しくて、笑顔が素敵で、お淑やかで、本当にお姉さんのような人だった。

 

そんな春に心底憧れた。

 

いつからだろうか、それが歪になったのは。

 

春の祖父の喫茶店が閉店してからだろうか。

春の父の会社『オクムラフーズ』が徐々に大きくなったのも。

春から笑顔が徐々に無くなっていったのも。

 

「ありがとう、真姫ちゃん」

「え?」

「わざわざ連れ出してくれたんでしょ? ごめんね、変に気を遣わせちゃって」

「べ、別に……気にしなくて良いですよ。一人で来てもつまらなかったから……ですから」

 

不意に意識を昔より引き戻されて、真姫は目を逸らした。

つい春のしぼんだ顔を見て手を取った真姫だったが、何か目的があったわけではなかった。悩みがあるなら聞きますよ、なんてそんな柄じゃないのは分ってる。

だが春はとても感謝したように自分に向かって笑いかけた。

 

「もう、そんな風に敬語使わなくて良いんだよ?」

「で、でも、一応、私よりも年上な訳だし……」

「それこそ気にしないで良いよ。むしろ昔みたいに『お姉ちゃん』って呼んでほしいな、私は」

「そ、それは……その」

 

真姫は赤面した。

子どもの頃、一人っ子だった真姫は姉妹がずっと欲しかった。真姫も同じ気持ちだったらしく、子供の頃は本当に姉妹のように遊んだりしていたが……流石に今そう呼ぶのは気が引けるというか……

 

「流石に、恥ずかしいっていうか…」

「ふふ。そうやって照れるとすぐに顔に出て目を逸らすの、変わらないよね」

「うえっ!?」

「お姉ちゃんはお見通しだぞ」

 

そう言っていたずらっぽく笑う春。

途端に顔が真っ赤になった、恥ずかしさではなく怒りで。

誰の為にここまでしたと思ってるの!?

 

「も、もう! そんな事言うと、次からは助けてあげないんだからね!」

「ごめん、ごめん」

「ふんだ……」

 

こんな顔、絶対に彼女以外には見せられない。クラスの人間に見られようものならばマントルまで直下降で穴掘って沈んでいく。

頬を膨らませた真姫に、春は何度もごめんねと手を合わせて謝ってきたので、ようやく真姫も不承不承ながら頬っぺたを軽く抓るぐらいで許してあげることにした。

 

「おじさまには感謝してるのよ。こうやって食事に招待してくれて」

「親バカなのよ。高校入学くらいではしゃいじゃって」

「そんな事ないよ」

 

それから真姫は頬をさすりっている春と一緒に噴水広場のあるホテルの裏を散歩しつつ、他愛無い会話を続けていたが、ふと春が神妙な顔になって話し始めた。

 

「真姫ちゃんのこと、とっても可愛いって思ってるんだよ? それに多分、お父様の事を気遣ってくれたんだと思う」

「春さんのパパを?」

「お父様、すごく忙しくて、家に帰らない事もしょっちゅうなの」

 

口元だけは笑って居たが、どこか物悲しそうな顔をしていた。

 

「それに、あんな風に笑ってるお父様見るの、久しぶり」

「……でも、私達と会う時はいつもあんな感じでしょ? うちのパパの昔の話とか、喜んでしてくれるし」

「おじさまと真姫ちゃんの前だからだよ。中学生の頃からの付き合いだもん。多分、今のお父様が心を許せる、唯一の人だと思う……」

 

そう言って春は目を伏せた。

 

…春さん、寂しいの?

 

そう訊こうとして、何故か言葉が出なかった。

彼女の顔に映るものが分からない。まるで表面を見えない膜で覆っていて、他人を寄せ付けないように見えて。自分でさえも立ち寄れない何かに、真姫の心はチクリと痛んだ。

 

「……」

「あのね、真姫ちゃん。お願い、聞いてくれる?」

「…なに、いきなり?」

 

恐る恐る尋ねた。

あまり続きを聞きたく無かったけれど。

 

「私ね、お嫁に行くんだ」

「……え?」

「高校を卒業したら、籍を入れる予定」

 

すぐに後悔した

 

……およめ?

 

それって結婚する時のあれ?男女が一緒になってくらして、その為に役所に届け出して、指輪交換の……え、ちょっとまって、え?

 

「有名な代議士の息子さんだって」

「え、ちょっと…お嫁って…?」

 

唐突に出たその言葉に、真姫の頭はパニックになった。

しどろもどろになりながら何とか言葉を探す。

 

「う、うそでしょ? だって、春さんまだ……」

「今のうちに慣れておいた方がいいだろうってお父様が。いずれ、奥村の家に必要な人になるらしいの」

「ま、待ってよ、だからって、そんな……」

「……」

 

待って。

一体何の話してるの?

これなに?

今目の前にいるのは自分の幼馴染の友達で、ずっと仲良しだった人だ。今までもそうしてきたし、これからだってずっと変わらない。大人になっても、その後も、ずっと……ずっとそうなるって、そう思ってきたはずなのに……

 

「おじさんが、決めたの?」

「うん」

「…」

 

信じられない。

あの人が、決めた?

ずっと一人娘だからと、大事に育ててきたはずなのに、それを……こんな歳からお嫁に行かせる?

真姫の心の中は、いつの間にか大きな穴が開いていた。

 

「なにそれ…家の為にって、そんなのおかしいわよ、そんな……春さん、ひとり娘でしょ? いきなり結婚って、いつの時代の話してるのよ?」

「うん…そうだよね。なんだか、笑っちゃうね」

 

そう言って春はこっちを向いた。笑顔で。

 

いや…なに笑ってんの?

ふざけないでよ?

 

「春さん、それで良いの? そんな風になって……だって春さん…!」

「ううん。いいんだよ」

「いいって…っ」

「こうなるような気はしてたんだ。奥村の娘に生まれた時から……私は、きっと自分の人生が決まってたんだって。家のために生まれたんだって」

 

やめて。

そんな話聞いたことない。

そんな話聞きたくない。

 

「ごめんね、真姫ちゃんにそんな顔させたくて。話したんじゃないのに…」

 

そう言って春は自分の頬を撫でた。

 

「…っ」

 

それで気付いた。

自分の頬を一筋、涙が伝っている。

春はそれをそっと拭った。

 

「ごめんね真姫ちゃん」

「私のことなんてどうでもいいからっ!」

 

外だという事も憚らず真姫は叫んでいた。

違う。

こんな事を言いたいんじゃないんだ。

私が言いたいのは……

 

「…そんな……お姉ちゃんがそんな顔してるからっ…」

 

はた目には微笑んで、泣き虫の妹を慰める顔をしていながら、心の奥で泣いてるのは自分のくせして……バカじゃないの? 

どうして自分の為にその気持ちを使わないのよ。馬鹿みたいじゃない。そうして慰められている自分が。

 

「そうだね……ごめんね、真姫ちゃん……ごめんなさい……」

 

春はそっと自分の肩に手を置いた。ぽろぽろ涙が溢れる。別に何も悪いことはしていないのに。心配するようなことだって何もない筈なのに…それでも涙が止まらなくなってしまっていた。

どうしてこんな……わざと自分に悟られない様な、柄でもない演技までして……

 

「真姫ちゃん……さっきのお願いのこと、聞いてくれる?」

「……なに?」

 

涙がしばらくしておさまった時、春は穏やかな口調でそう言った。

 

「もし真姫ちゃんにやりたいことがあるのなら…我慢だけはしないで。それが私の……奥村春としての、最後のお願い」

 

それは唐突に告げられた、『お姉ちゃん』からのお別れの言葉だった。

 

「……誰かが別の場所に連れて行ってくれるなら、迷わずにその手を取って欲しいの。お医者さんになるのも良い。別の仕事をしてもいい。誰かのお嫁さんになるのもいい。でも…もし、私のことを想ってくれたなら……私の分まで、やりたい事を、精一杯楽しんでね」

「……ずるい」

 

こんなの不公平だ。

自分には何も告げずに、一方的に物事が進んでしまって、ただそれを自分は後から言われるだけ。それで何食わぬ顔で世界は変わらずに進んでいく。

理不尽だ、こんなのは……

 

「ずるいわよ、そういうの」

「……本当にそうだね。卑怯よね。こんな風に言うのって」

 

自分の手を握りしめたまま、春は言った。

まるでこの時が、自分に与えられた最後の我儘だとでも言わんばかりに。

…その手がふと、唐突に離された。

 

「ごめんね、今言ったこと、全部忘れて」

 

そう言って、春は背を向けて歩き出した。レストランへ向かう入口へ歩き出して、その背中が小さくなろうとしている。そのまま消えてしまいそうで、真姫は思い切り叫んだ。

 

「お姉ちゃん!」

「……」

 

春は応えない。

ただ立ち止まって、自分が来るのを待っているだけ。

当たり前だ。自分だって、何を言えばいいのか分からないのに。

 

「戻ろう。おじ様、心配しちゃう」

 

そう言って振り返った時、春は元通りだった。さっきまでの壁を作ったような態度も、無理矢理穏やかな風を装ってもいない。

ただ、さっきまでと同じように、普通の友達としての奥村春にしか、真姫には見えない。

もうそういう風にしか、彼女を見られなかった。




今回はここまでです。
問題はこの後のパレス攻略シーンをどうするかが中々悩み所です。
スニーキングしながら探索なんてシーン書いたことないので難解です。
頑張ります。


みなさま、体調にはお気をつけくださいませませ。
では、次回も読んで頂ければ幸いです!


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。