ソードアート・キリトライン (シダレザクラ)
しおりを挟む

第01話 はじまりの日、はじまりの剣士

 

 

 楽しいゲームになるはずだった。

 だというのにこの有様はどうしたことだろう。

 

「デスゲーム?」

 

 戦慄く唇から我知らず声が漏れる。

 それは果たして虚脱の吐息か、あるいは怨嗟の嘆きだったのか。

 口にした張本人である俺――桐ヶ谷和人には終ぞわからなかった。あるいはこの世界のキャラクター《Kirito》としてならば、今、自分の胸を渦巻く形容しがたいドロドロとした感情を説明できるのだろうか。……そんなはずがない。

 答えなどわかりきった詮無いことを思い、力なく自嘲の笑みが口元に刻まれる。

 

 現実の桐ヶ谷和人の女顔に辟易して、せめてゲームの中くらいはと願望混じりに設定した仮想体(アバター)は長身の勇者顔だった。目論見としては現実世界では望めない男らしさ、精悍さを表現しようとしたのだが、どうも参考にしたアニメが悪かったのか、それとも表情をつくる自分自身が軟弱なせいなのか、せっかくのアバターもイマイチ迫力が足りていなかった。

 

 それでも長身痩躯にそれなりの装備をさせれば、そこそこ満足できる絵になることはわかっていたので言うほど不満があったわけじゃない。正式サービスが始まったら速攻でレベル上げ(レベリング)を繰り返し、誰よりも早く見栄えと性能を併せ持った装備群で身を固めてやろうと密かに野望を抱いていた。小さな男というなかれ、それがゲーマーというものだ。

 

 しかし、そんな苦心して作り上げたアバター姿も先のデスゲーム開始宣言による余禄として剥ぎ取られてしまった。そしてどういうわけか現実の桐ヶ谷和人そのままの姿形でここ、アインクラッド第一層はじまりの街の中央広場に、駆け出しの冒険者キリトとして立ち尽くしている。

 周りには俺と同様にアバターを剥ぎ取られたことで現実の顔に戻り、その表情に驚愕と焦燥を浮かべ、さらにその体躯にはゲーム開始時に支給される初期装備を身に着けた格好の男女の群れがあった。

 

 もっとも、そのほとんどは男性で女性の姿は圧倒的に少ない。アバターを剥ぎ取られるまでは男女比も半々だったことを思えば、かなりの人数が性別を偽ってログインしていたということだろう。

 しかしそれはネットゲームの常であり、非難されるようなことではなかった。現実の自分と異なる性別のキャラを使用するなど珍しいことではない。ないのだが、実際にそうしたプレイヤーの絵面は悲惨の一言だ。

 

 女性はまだ良い。簡素なシャツにズボンという男物の初期装備は華こそないが、そこまで珍妙な姿にはなっていない。しかしアバターを女性型に設定した男連中は、清潔そうな白の上着に丈の短いピンクのスカートという可愛らしい女性型初期装備設定のせいで、少々見るに耐えない女装姿を形成するに至っていた。本人に責任はないのだがこれはひどい。

 誰もが事態についていけず右往左往するなか、俺は上空に浮かぶ不吉なローブ姿のアバターに険しい視線を叩き付けた。

 

 アバター設定の注意書きに、本来の性別や体格とかけ離れたアバターを作成すると操作に不具合が出る可能性があるため、本サービス開始時点でのキャラクターアバターは出来るだけプレイヤー自身の性別に合わせ、体格も本人に準拠したものを作るよう促していたのは、もしかしてこのためだったのだろうか。

 

 ―――だとしたら茅場晶彦、あんたはなんて残酷なことをするんだ。

 

 射抜くように細めた俺の視線の色には、本サービス開始前、二ヶ月の期間設けられたベータテストのテストプレイヤーとして当選したときに本名をもじって安直に決めた「Kirito」というキャラクターネームに反して、あれこれと思い悩みながら多大な時間をかけて作り出した、まさに努力の結晶である長身勇者顔アバターを消された恨みも多分に混じっていた。

 

 

 

 

 

 ここは現実とは違う、広大な電子世界に構築されたもう一つの世界。

 世界初のフルダイブ対応VRMM(仮想大規模オンライン)ORPG(ロールプレイングゲーム)

 五感全てを電脳世界に飛び込ませる世紀の発明であるナーヴギア、そしてその機能を十全に発揮するために構築された世界――空に浮かぶ鋼鉄の城。全百層からなる超大型浮遊城を舞台に、初期ロット一万本を幸運にも入手できた者達が冒険者として、探索者として非日常に挑む。この世界の名を《アインクラッド》と言い、この世界を起動させるためのゲームソフトを《ソードアート・オンライン》と呼んだ。

 

 そしてこの世界はただ一人の若き天才の手によって作られたのである。

 ナーヴギアの基礎設計からアインクラッドの構築までその全てをほぼ独力で成し遂げた男。

 名を茅場晶彦(かやばあきひこ)

 今世紀最高の頭脳との呼び声が囁かれ、このゲームの成功をもって名実ともにその座を不動のものにするはずだった男。今となっては一万人の人間を仮想世界に監禁し、そこでデスゲームを行わせようとする今世紀最悪の犯罪者だった。

 そう、この仮想世界と現実世界を唯一つなぐ《ログアウト》ボタンが使用不可となり、一万人のプレイヤーは現実に帰ることが不可能になってしまった。全ては茅場晶彦の望みのままに。

 

 彼は言った。

 自分はこの世界をただ一人自由にできるゲームマスターであり、一万人のプレイヤーをこの世界に閉じ込めた犯人であると。

 この世界でHPがゼロになったプレイヤーは、現実世界の本人が頭に被ったナーヴギアによって高出力の電磁波を照射され、その結果脳を蒸し焼きにされて死ぬことになる。

 ゲームはゲームでも文字通り命を賭けるデスゲームと化したこの世界から脱出する方法はただ一つ、アインクラッド最上階《紅玉の間》にたどり着き、そこで最終(グランド)ボスを撃破することだ。すなわちここはじまりの街から100層に及ぶフィールドを踏破し、難解な迷宮区を探索し、各層の最奥を守るフロアボスを撃破しなければならないということだった。

 それをただの一度も死ぬことなしに、つまりHPをゼロに減らすことなく達成しろというのだ。ひどい無茶振りだ、と抗議したい気持ちで一杯だった。

 

 フルダイブでのMMORPGこそ世界初だが、普通のネットゲームとしてのMMORPGは昔から存在していた。そしてMMORPGの大きな特徴の一つは、一般的なコンシューマーRPGに比べて死ぬことが当たり前だということだ。

 ネットゲーム用語でいう《死に戻り》など日常的に交わされる言葉である。とりあえず見知らぬ土地に突っ込んでお試しとして戦った高レベルモブに袋叩きにされて死んでしまうとか、死ぬことを前提として作戦を立ててボス戦に挑むとか、そうでなくても運営主催イベントの一つでもあれば一日に何回も死ぬのは珍しいことじゃない。

 

 加えて、死亡した際のデスペナルティも大抵は現在経験値の1%減少が主流で、アイテム紛失やレベルダウンのような凶悪なペナルティなどほとんど聞かない。あまりにシビアなゲームは玄人受けはしてもライトユーザーには敬遠される。すなわちプレイ人数の確保が難しくなり、やがて採算が悪化して打ち切りになってしまうからだ。

 だからこそデスペナルティというのは軽い扱いに落ち着くのだ。ネットゲームにおける死亡ペナルティは総じて取り返しの容易いものとなる。裏を返せばそれくらい頻繁に死んでしまうのがネットゲームの設定なのだが。

 

 ……そう、これはフルダイブ型ではあってもMMORPGに違いはないのだ。死ぬことを前提としたMMORPG。なのに一度死んだら復帰は許されないばかりか、現実世界で本人の脳が焼かれてしまうというデスゲーム仕様。もはやクソゲーとか鬼畜ゲーとかいうレベルではない。もっとおぞましいなにかである。

 かつて茅場晶彦はソードアート・オンラインについて雑誌インタビューに答えたことがあった。その記事を読んだときは、特徴的なキャッチコピーが不思議と印象に残り、同時にメディア嫌いの天才開発者が意気込みを語るなんて珍しいこともあるものだ、なんて思ったものだ。

 

「これは、ゲームであっても遊びではない」

 

 茅場晶彦は自らの作品であるソードアート・オンラインをそのように評した。

 当時の俺はその台詞を、真に迫った仮想世界を指す、開発者としての自信と自負の表れだと受け取った。

 そして今、茅場晶彦自身の口から、その言葉の真意が語られた。

 この世界は文字通りに命がけのゲームになったのだと。

 

 なるほど、確かに遊び気分でプレイしていいものじゃない。できるものじゃない。茅場晶彦の言う通り、この世界にログインしたプレイヤーは己が身命の全てをかけてゲーム攻略に邁進せざるをえない。

 現実世界に帰るために、死に物狂いで。

 それこそ文字通り命そのものをチップにした壮大なゲームにして無慈悲な現実がここにある。

 

 ……ふざけるな。

 心の底から、それこそ魂の奥の奥から搾り出すように感情が荒れ狂う。

 怒りか、恨みか、理不尽への反発か。

 一万人の人間を拉致しておいて、もはや望みはない? 身代金やら政治目的のテロやらでもなんでもなく、ただ自分の作り出した世界でプレイヤーが命がけで生きる姿を見ることが目的だった? それが達成された以上、もはや求めるものは何もなくなった?

 

 なんだそれは。

 冗談にしては笑えない。

 本気だとしたらもっと笑えない。

 笑えない。笑えない。笑えない。こんなのちっとも笑えない。

 

「ふざけるな」

 

 胸に満ちたどす黒い感情をつぶやき、吐き出す。しかしおさまらない。溜まったマグマが噴き出すように、言い知れぬ怒りと絶望が湧き上がってとまらない。狂熱に浮かされたようにかっと頭に血が昇り――そうして気付けば走り出していた。

 二ヶ月に渡るベータテスト期間において遊べるだけ遊び倒した恩恵か、あるいは現実の体格と同じ設定に戻されたせいなのか、大勢の人間でごった返す混乱の坩堝の中を誰にぶつかるでもなくすり抜けていく。

 背後で赤毛の野武士面が何か叫んだが聞こえなかった。今はただ前に進みたかった。だからきっと聞こえても無視したことだろう。

 

「ふざけるな……ッ!」

 

 全力疾走には程遠い。それでも人の波を抜け、その先の高くそびえる鐘塔が目前に迫る。

 建築物は基本的に破壊不可能オブジェクトに設定されているため、乱雑に扱ったところで傷一つつかない。人の波を抜けてさらに加速し、壁面を蹴り砕く荒々しさで駆け上る。壁走りとは言わないがそれに近い曲芸だ。

 こんなアクロバティックな動き、現実の身体ではとても不可能だが、ここはゲーム世界、仮想世界なのだ。レベルは初期値、敏捷ステータスもベータテスト時とは比べようもなく低いままなのが気がかりではあった。それでも問題なく走り抜けることができたのは僥倖(ぎょうこう)だ。

 頂上に吊るされた鐘を無視してさらに上へ。駆け抜け、跳び上がり、そして剣を構える。

 

「ふざけるなよ茅場――茅場晶彦ッ!!!」

 

 折り宜しく、チュートリアルを終えたローブ姿の不吉なアバターは、これで仕事は終わりだと言わんばかりにその姿を消そうとしているところだった。

 だがな、言いたいことだけ言ってさようならとは虫が良すぎるとは思わないか茅場晶彦?

 たとえそこにいるのが幻影だろうが空中投影の映像だろうが、せめて一太刀くらいはくれてやらなきゃこちらの気が済まない。どうせならその空中に浮かぶ巨大アバターに茅場晶彦本人が宿っていたら最高だ。

 

 そんな平時の自分なら引いてしまいそうな危険思想を抱きながら、背に吊るした剣帯から初期装備品として支給されている《スモールソード》を引き抜き、準備時間すらもどかしいと逸る気持ちをこらえてソードスキルを発動させる。ソードスキル毎に定められた特有の燐光――水色の輝きが刀身を覆い、程なく視界の端で弾けた。

 駆け上がった勢いそのままに空中へとこの身を躍らせ、タイミングよく発動させた片手直剣ソードスキル《スラント》によってさらに跳躍距離を稼ぐ。

 

 気味悪いローブ姿のアバターは上空高くに浮いていたし、建造物からも距離を離している。それでも目算でいけると判断した俺の感覚は間違っていなかったと密かに自画自賛した。頭に血が昇っていても《対象を斬れるかどうか》の判断を正確に下していたことは誇るべきなのだろうか?

 ふとそんな詮無い疑問を抱くものの、そんなもの知ったことかと激情のままに繰り出した俺の剣が、今にも消えようとしていたローブ姿のアバターを捉えた。空に走る一条の剣閃は袈裟の軌道を描き、何の障害もなく茅場の操るアバターの胸を切り裂き、貫いたのだった。

 

 剣先から伝わってきた重く確かな感触に驚きも露わに目を見開く。

 てっきりただの幻影として処理され、俺の剣は奴のアバターをすり抜けるだろうと思っていたのだが、剣から伝わる感触は間違いなく実体を伴っていたのだ。その事実に意外な思いを抱くと同時に、茅場晶彦を名乗った巨大人型アバターがポリゴン結晶を撒き散らしながら霧散した。いっそあっけないほどだ。

 その事実が意味するところを思考に乗せつつも、身体は自然と空中で姿勢を整え、やがてくる着地に備えていた。

 いくら街の中がダメージ無効エリアだろうと、ああも高い位置から無防備に地面に落ちたならその衝撃はかなりのものになろう。落下ダメージはともかく落下に伴う衝撃まで親切に取り除いてくれる仕様ではなかったはずだ、無様に石床を転がりまわるのは御免だった。

 

 俺の視界の先では、突如空中に飛び上がったかと思えばゲームマスター扮するアバターを剣で貫き撃破したプレイヤー、つまりは俺を呆然と見上げていた数多のプレイヤーの姿でごった返している。その観衆の一部が慌てたように動き出した。俺の着地点付近にいたプレイヤー達だ。

 一連の事態に混乱の極致にあったようだが、さすがに踏みつけられるのは嫌だったと見える。俺だって人を踏みつけたくもない、自主的に避難してくれるなら有り難い、と苦笑しながら綺麗に着地を決めた。足先から痺れにも似た衝撃が伝わるもののHPに変化はない。これは予定通り。

 

 しかし予定通りなんかじゃないこともある。今はこの事態にどう対処するかだ。

 中央広場を満たしていたざわめきはぴたりと消え、痛いほどの沈黙が残されていた。万に迫る人間が集まっていることを思えば不気味極まりない有様である。

 この場は今、茅場のデスゲーム宣言がもたらした怒号と混乱から一転、突拍子のない行動を取った童顔の子供――つまり俺が原因でなんとも形容しがたい戸惑いの空気が蔓延っていた。誰もが次のアクションを起こせずに周囲を見やり、また原因である俺を見やり、と一種の膠着状態が形成されていたのだ。

 

 パニックにならなかったことを幸いと見るべきか、考えなしに飛び出した浅慮な己を恥じるべきか。後先考えずに駆け出した行動を反省しながら、綺麗に着地したまま動かない俺は広場に集まった全プレイヤーの注目を集めていた。

 俺が何をしたのかを考えてみれば至極当然ではある。しかし俺自身も感情のままに動いた結果だったわけで、何かの意図の元に起こしたアクションではなかった。そんなものを俺に求められても困るのである。

 しかしだ、《茅場晶彦にむかついたので斬りかかりました》とか、冷静に考えるまでもなく危険人物としか言いようのない所業を口に出来るはずもない。

 

 ……どうしよう?

 

 もういっそ逃げ出してしまおうか、そして誰とも関わらずソロプレイヤーとして攻略を目指す。うん、いいかもしれない。元々俺は社交的なキャラじゃないし、そうしたほうが自分にも他人にも優しい選択のはずだ。そうだ逃げようそうしよう。

 

「お、おい、あんた」

「……なにか?」

 

 そんな後ろ向きな決意を固めた矢先、出鼻をくじくようなタイミングでかけられた声。俺の程近くに所在なく佇んでいた、太り気味の男性プレイヤーのものだった。機先を制された形になったことを少々、いや、かなり迷惑に感じていたのだが、それは俺の八つ当たりだろうと自制を心掛ける。俺の怒り諸々を向けるべきは茅場であってこの人たちではないのだから。

 そう考えることでどうにか気を落ち着かせた。そうして何事もなかったかのように立ち上がり、その男性プレイヤーに向き合って返答すると、なぜか俺より5つは年上だと思える青年は怯んだように後ずさってしまう。

 何故(なにゆえ)に?

 おかしい、友好的に話しかけたはずだ。第一、現実世界の顔に戻されてしまったのだから俺なんてもやしっ子の女顔だぞ? 間違っても迫力溢れる強面というわけでもないのに、どうしてこうも怯えられなくちゃいけないんだ?

 

「……キリトだ。それで何か?」

 

 もしかして名前がわからないのだろうかと思って自分から名乗ると、なぜか男はさらに引きつった顔になってしまった。

 訳がわからない。 いや、現実世界ではないのだから名前程度の情報は男の視界にも表示されているはずだ、現にこちらからは相手のキャラクターネームが見えている。だとしたら彼が戸惑っているのは名前がどうこうではないだろう。と、なると――。

 

「ああ、いや、横柄な口を利いて申し訳ありません。別のMMORPGの癖が残っていて、まだ役割演技(ロールプレイ)をしていることに気付きませんでした。こんなことになって混乱していたっていうのも言い訳ですね。重ねてお詫びします。それで何か俺――僕? 違うか、私に聞きたいことでも?」

 

 別の、というよりはベータテスト時での、と言ったほうが正確だろうけど。それを口に出す勇気は俺にはなかった。

 おっと、笑顔笑顔。それにいつまでも抜き身の剣を持っているのも威嚇になると遅まきながら気付いたため、なるべく自然に、さりげなく鞘に収めて友好的な態度を心掛ける。俺にしては上出来な対応だろう。

 これでだんまり続けられたらもう逃げる。絶対逃げる。俺の乏しいコミュ力で対応できる範囲を超えているのだから仕方ない。

 

「いやいや、俺なんかに敬語なんていりませんってキリトさん。なあ、そうだろ?」

「あ、ああ、そうだな、うん」

 

 ますます恐縮したようにへりくだる男の態度にひたすら不審なものを感じるが、だからといってどうするべきかなんて知らない。同意を求められたこれまた混乱の極致にいるようなやせぎすの男が慌てて相槌を打った。

 ちなみにこのやせぎすな男、哀れなことに全く似合わない女装姿を披露している。茅場の強制アバター解除の最たる犠牲者の一人であった。南無南無。

 

「……まあ、あんたらがそれでいいなら戻すけど。で、俺に何か聞きたいことでも?」

 

 これで話を促すのも一体何度目になることか。

 不本意ながら広場に集まった全プレイヤーの注目を無駄に集めてしまった上、不自然に張り詰めたこの空気が支配する場所から一刻も早く立ち去りたいというのに、一向に話が進まない。そんな苛立ちが表情に出たのか声に出たのか、太っちょの男の大袈裟な身振り手振りと、焦っていることがありありとわかる早口で返答はやってきた。

 

「いえ、そのですね、キリトさんはどうしてあんなことを?」

「あんなことっていうのはローブ姿のアバターを攻撃したこと、でいいのか?」

 

 俺の確認にこくこくと頷く男二人。周りを取り囲んだ人間のなかにも頷くものもいれば興味深く観察を続けるもの、不安そうにこちらを見ているものと様々だ。

 ……いや、だから意味なんてないんだって。くたばれ茅場と思って攻撃しましたとか言えないしさ。

 格好悪いとか外聞悪いとかより何より、ここにいる人間は皆クリアするまで脱出不可能なデスゲームだと知らされたばかりなのだ。パニックにならなかったのだってそれ以上の驚きに一時的な均衡状態が保たれているだけで、プレイヤーの胸中には怒りや不満、恐怖に不安がとめどなくあふれ出してきているはずだった。そこに妙な刺激を与えればそれだけでパニックがぶり返しかねない。

 

 この中央広場は今、極めて危うい均衡の上にある。例えるなら火薬庫だ、火種を投じれば大爆発を起こしかねない危険な空間。

 そんな場所で、気に入らない人間を見たら即座にソードスキルを放つ危ないプレイヤーだなんてレッテルを貼られようものなら、この場で俺を対象とした魔女裁判の吊るし上げに移行しかねない。火あぶりにされるのはごめんだ。

 

「あのアバターが茅場晶彦自身の可能性がわずかでもあったから、かな」

「それはどういうことで?」

 

 よし、こうなったら適当に誤魔化そう。

 嘘も突き通せば本当になる。手札がないときはとりあえずハッタリかませ。レイズは大きく張るべし。

 基本方針は決まった、後は口八丁でこの場を切り抜けよう。苦手だとか言ってる場合じゃない、俺自身の命がかかってるんだ。なんとかそれっぽく取り繕わないと、モンスターに殺されるまえにPK(プレイヤーキル)で殺される。

 冷や汗たらたらな内心などおくびにも出さず、これ以上はないほどポーカーフェイスを意識し、重々しく口を開いた。

 

「茅場晶彦は俺達を閉じ込めた時点で目的を達成したと言った。そして百層まで辿りつくのを楽しみに待っていると口にした。やつの言葉を信じるなら、茅場晶彦は俺達をデスゲームに参加させはしたが殺すこと自体を目的にしてはいない、むしろ生きてクリアするその過程こそを重要視しているように思えた。だとしたら百層で待つ最終(グランド)ボスは茅場晶彦自身である可能性がある」

「そうかっ! もし茅場晶彦がラスボスだというなら」

「ああ、今ここで茅場晶彦の操るアバターを撃破できれば、もしかしたらグランドボスが撃破されたとシステムに誤認させられるんじゃないかと思ったんだけど……何も起こらない辺り、無駄だったみたいだな」

 

 ここでため息一つ。ちょっと演技くさかったか?

 

「それじゃ茅場は今も生きてる?」

 

 これはやせぎすの男の方か。特に気にした風もなく会話に加わったあたり、太っちょの男とはそれなりに親しい関係なのだろうか。初期ロット一万本で知り合いが既にいるというのは、俺のような先行千人のベータテスト経験者じゃないと難しいと思うんだが。

 いや、考えてみれば俺だってログインしてからデスゲーム開始宣言までの時間で、赤毛の野武士面とそれなりに話す関係になっていたんだから、不思議なことでもないか。そういえばその赤毛の野武士――クラインのことをすっかり忘れてたけど、やつは今どうしてるんだ? 近くにはいないみたいだけど。

 

「生きてるだろうな。というより、そもそも俺達と違って茅場の使うナーヴギアは死んだら高圧電流が流れるなんて仕掛けはされてないだろうさ。ナーヴギア自体使ってるかどうか不明だしな。そうでもなければ遠慮なくソードスキルなんて叩き込めないよ」

 

 茅場を殺す気なんてありませんでしたよアピール……!

 あくまでシステム誤認を狙っただけで、攻撃したのがたとえ茅場晶彦であろうとも人を殺そうしたわけではない。ここ大事。とても大事。実際にはそんなこと考慮の外で斬りかかったわけだけど。しかしそんなことは俺以外の誰も知らない。

 

「ついでに言えば、あのアバターに攻撃が通ったこと自体が驚きだよ。街のなかは基本的に犯罪防止コードが働くから、プレイヤーのHPが減ることはない。どうしてもっていうなら決闘システムを使う必要があるわけだけど――ああ、それは蛇足か。ともかく、あれに攻撃が通ったのはモンスター扱いに近かったせいかもな。だからと言って経験値もコルも獲得できなかったから、単に不死属性の抜かれたオブジェクトだった可能性もある。今となっては真実は茅場のみぞ知るってやつだし、知って意味があるとも思えないな。今のところ俺達が現実に帰るためには百層を攻略する以外になさそうだ」

 

 多弁は焦りの裏返しだった。だからこそ俺の内心を悟られないよう、殊更ゆっくり、一言一句確かめながら口に出したのだ。それと安全圏でプレイヤー攻撃なんて出来ないことを知ってる俺が茅場を殺そうとするわけないじゃないかとさりげなく、そしてここぞとばかりに主張しておく。

 俺は危険人物じゃない。だから火あぶりは勘弁してくださいお願いします。

 

「それじゃ、結局君の狙いは効果がなかったってことか。……残念だ」

 

 暗い顔で頷きあう太っちょにのっぽ、周りの連中も似たような顔をしている。よかった、どうやら俺の口からでまかせ作戦は成功したらしい。割とスラスラ嘘が出てきたことに地味にショックを受けながら、内心の動揺など気付かせないようわずかに口角を持ち上げ、笑みを作り上げる。

 

「効果ならあったさ。あんなふざけたことを言いやがった茅場晶彦のアバターに一撃だけでも届いたんだ。少なくとも俺のストレス発散には役立ってくれた。あとは頂上に登るまで溜め込んだストレスやら積もり積もった恨みつらみやらを、本命の茅場晶彦本人にぶつけてやるだけだ」

 

 最後に冗談っぽく一言を加え、和やかな空気にして終わらせようとした。ついでにプレイヤーの意識を攻略に向けておこうと保身も混ぜて。俺なんぞに構ってないで元凶の茅場を一発殴るために攻略に邁進してくれ、多分そのほうが健康的な生活を送れるはずだ。デスゲームの渦中に健康もなにもないと突っ込みが聞こえてきそうではあるけどな。

 彼らの疑問には答えたんだからもういいだろう。後はクラインを捕まえて、この広場から離れた適当な場所で今後についての打ち合わせといったところか。

 ベータテストからゲームシステムに大幅な変更が入ってないなら、さっさと次の村に向かったほうがレベリング的にも遂行クエスト的にも美味しい。加えて言えばソロないし少人数PTのほうが経験値効率は断然美味いのはベータテストで証明されている。少なくとも序盤のうちは、と但し書きは必要ではあるけど。

 

 クライン次第だけど、どうしたもんかな。ソロで攻略を開始するか、それともクラインを誘ってペアで経験値稼ぎをするか。効率と安全を考えるなら最善はペア、次点でソロ、妥協で三人PTだろう。それ以上に人数が増えるのは好ましくない。

 どうするのが最善か。それにまわりの連中がどんな反応を示すのか。引きこもるのか、冒険に出るのか、地盤を固めるのか、攻略を急ぐのか。

 懸案事項なんて山ほどあるのだ、悩んでも仕方ない。というより悩むことが多すぎて対処できないのが本音だった。今は悩むより行動すべきときだろう。

 

 クラインの姿が見えないため、集合場所を記したメッセージを飛ばして一旦この場所を離れるほうがよさそうだと判断し、右手を振ってメニュー画面を呼び出して操作する。

 そもそもあんな大立ち回りを演じてしまった俺が、いまさら攻略しないで街に引きこもりますとか言えないしな。

 そんな情けないことを内心考えながら、ふと周りを見渡すと誰も彼もが表情を引きつらせて俺を見ていた。

 おかしいな、俺が危険思想など欠片もない善良なプレイヤーだと皆にも理解してもらえたはずなんだが。しかも攻略に意欲的で模範的なプレイヤーだと示しておいたはずだ。だというのにこの『恐ろしいヤツを見た』的な視線の集中砲火は一体どういうことなのだろう? 俺は一体どこで何を間違えたのか、皆目見当がつかない。

 

 そうそう、わからないといえば、このスキルメニュー欄に表示されているこいつもわからない。クラインと狩りを楽しみながら確認した時点ではなかったはずのスキルが、なぜかスキル一覧に表示されていた。

 レベルは上がっていない、スキルポイントを使った覚えもない、クエストも当然達成どころか受注すらしていない。だというのになぜかスキル欄に新たなスキルが一つ追加されていた。

 

 

 スキル名:賢者の才(セージギフト)

 スキル効果:スキル保有者がモンスターに止めを刺した時のみ、獲得経験値200%増加。

 

 

 明らかにゲームバランスを崩壊させそうなスキルが燦然と輝いていた。

 どういうことだ? 特殊条件開放スキル? さっきのアバター撃破が条件だったとか?

 ……もしかして茅場は自分のアバターが撃破されて喜ぶ変態だったのだろうか。

 それは勘弁してほしい。茅場晶彦は俺達をデスゲームに引きずり込んだ最悪の敵なのであって、特殊性癖を持つ変態であっていいはずがないのだから。背筋を震わせるような嫌な想像に表情が青褪めるのがわかったがこれはどうしようもないだろう。狂人に変態までプラスされたアレな天才の作り出した世界を生き抜くとか、どんな罰ゲームだ。

 

 ため息の一つもつきたくなる。前世の俺はそこまでひどい悪行を積んでいたのだろうか。そこまで神様に嫌われたのだろうか。

 現世の俺は実の両親が事故で亡くなった後も世を儚んだり変に拗ねた根性を発揮したりせず、俺を引き取ってくれた優しい叔母夫妻と彼らの娘である直葉と仲良く慎ましやかに生きてきたというのに。……幼すぎて両親が死んだことを知らなかっただけだけど。

 問題があったとすれば、ひょんなことから実は養子として引き取られたと気がついて桐ヶ谷夫妻を問い詰めた後、どうにも妹の直葉――正確には従妹と判明したスグとの距離感がわからなくなってよそよそしくなってしまったことか。

 元々兄妹仲が良かった反動だろう、スグも俺に距離を置かれていると気付いてからは、時折切なそうな目を向けてくるようになった。そのたび、気付かない振りをしてやりすごしてしまっていたけど。

 

 ……あれ? もしかしてそれが原因だろうか。

 そりゃ、もし運命の神様がいたら可愛い可愛い妹を泣かせる馬鹿兄貴に嫌がらせの一つや二つするよな。誰だってそうする、俺だってそうする。

 すまんスグ。生きて現実に帰れたら真っ先にお前に謝ることにするよ。

 

 さて。

 割と本気な現実逃避にしばし浸っていた俺を正気に戻したのは、俺の名を呼ぶ野太い男の声だった。男臭いと形容するほど重い声音ではなく、どことなくお調子者の気配を感じさせる気安さがある。

 思えばコミュ障もといコミュニケーションに苦手意識を抱える俺のような人間が、出会って数時間の、それも年齢の離れた男を友人だと認識している時点で、この赤毛の野武士面はコミュ力抜群だと思わざるをえない。羨ましいことだ。

 

「おーい、キリト。ようやく追いついたぜ。いきなり駆け出すわ茅場の野郎にソードスキルぶちかますわ、とんでもねえことすんなあ。あんまし無茶すんじゃねえぞ」

「悪かったクライン。結果的には問題なかったわけだから許してくれ」

「そりゃそうだけどよぉ。しっかしお前、この空気をその一言で済ませるのもどうかと思うぜ?」

 

 そう言って戸惑った顔で周りを見渡すクラインに釣られたように視線を巡らせると、相変わらず大勢のプレイヤーが何をするでもなく俺を中心に取り囲んでいた。

 いや、取り囲んでいるというのも錯覚なのだろう。誰も彼もが事態の変遷についていけず、大勢の人間が集まるこの場から動けずにいるだけだ。わけのわからない事態のなかで一人にはなりたくない、という集団心理でも働いているのだろう。

 気持ちはわかる。いきなり《このゲームは命懸けのゲームになりました》と言われて不安に思わない人間なんているはずがないだろう。動かないのではなく動けない。多分、その表現が正確だ。

 

 もっともそれは全員ではない。

 例えば俺のようなベータテスター、あるいはMMORPGでなくともフルダイブ環境に慣れているプレイヤーや逆にフルダイブは初めてでもMMORPG自体には慣れている連中のなかには、そろそろ動き出す一群が現れるはずだ。何故といって、他ならぬ俺自身がそう行動していたはずだからである。

 たまたま周囲をプレイヤーに囲まれ、行動を共にするか検討中のクラインがこの場にいるから動けないだけで、動き出せるようならさっさと動いているはずだった。

 

 茫然自失状態の大勢のプレイヤーには悪いが、俺もさっさと次の村目指して動き出すべきだからだ。この街に残っていても何も解決しないし、こんな事態になってしまった以上、キャラクターアバターのレベル上げはなにより優先されてしかるべきだった。

 外部からの救出が早期にあればいいが、長期にわたってデスゲームの状況に変化がなければ人の心なんて簡単に荒れる。プレイヤー同士の争いも増えるだろう。そうなったときに頼れるのは自分の力だけだ。すなわち、レベルを上げ、資金を稼ぎ、強力な装備で武装することで身を守るしかない。

 

 ベータテスト時の経験を生かして効率の良いプレイをするのが現状一番安全性が高い、はずだ。

 まして一万人近いプレイヤーが同時接続している状態なのである。いくらアインクラッドが広大な敷地面積を誇るとはいえ、何千人ものプレイヤーがはじまりの街周辺の狩り場に篭っていてはあまりに非効率だ。レベリングどころの話ではない。

 だからこそ。

 

「なあクライン。今後のことで話があるんだ。場所を変えないか?」

 

 クライン一人くらいなら俺がフォローしてやれば二人で次のホルンカの村まで無事にたどり着ける。そこで三層の迷宮区までなら十分通用する片手直剣が報酬にもらえるクエストをクリアし、他プレイヤーに先行した利点を生かして高効率のレベリングを行えば良い。

 しばらくはレベル上げ以外にすることもないだろう。その後のことは周りの状況を見てから決めればいい。それが今のところ俺が考え付く安全と効率を考えたベタープランだった。

 

 しかしそんなことをこの場で口にできるはずがない。

 お前ら見捨てて俺らは悠々とレベル上げすることにするわ、あばよ! とか、そんな人でなしの提案を口に出来るわけがなかった。口にしたらまたしても魔女裁判よろしく迫害対象に真っ逆さまである。それでは茅場の一件を嘘八百で無事に切り抜けた甲斐がなくなってしまう。

 だからこそ俺はクラインに場所を変えようと提案したわけだが、それを聞いたクラインはどうしたわけか難しい顔になって考え込んでしまう。と、思えばやけに真剣な顔で覗き込むように俺に視線を向けてきた。睨みつけるというほど強くはないものの、それは真摯な男の目をしていて、思わず身を正したくなる迫力があった。

 

「いや、場所は変えずにここでいい」

 

 そんなクラインの言葉に俺は内心慌てまくっていた。だからそれはまずいんだよクライン、俺の身勝手なスタートダッシュ作戦をこの場で言えとか、そんなことは不可能なんだから。

 

「クライン、それは……」

「キリト、お前が考えていることはなんとなくわかる。この場で言えねえってんなら、それは周りの連中にとって面白くないようなことなんだろう。実際、もう何人かは街の外に向かったみてえだからな。……最短距離で攻略を目指そうって言うんだろ」

 

 なんとか叛意させようとしかめっ面を作ってみるものの効果は然程なかったらしい。クラインはいっそ穏やかに首を左右に振ったかと思えば、一言一句区切るように力をこめて聞き取りやすい声で続けた。それはさながら神聖な宣誓を告げた厳かな一幕のごとく、ざわめきたった広場の群集の間を駆け抜けていく。

 そして訪れる沈黙。

 言いにくいことをクラインはずばり口にしてくれた。ベータテスターの先行はあくまで俺の推測だったわけだが、クラインはすでにこの広場を抜け出して行った連中の姿を捉えていたらしい。

 考えてみれば俺がベータテスターだと知っていて、なおかつMMORPGの知識をそれなりに持ち合わせているクラインだ。俺の、いや、俺達の思惑に気付くのはそう難しいことでもないか。それこそ、冷静になれば大抵の連中に看破される程度のことだ。

 

 MMORPGはシステムの供給する限られたリソースの奪い合いだ。特に《ソードアート・オンライン》のモンスター湧出(POP)システムは先行したプレイヤーに有利な仕様になっていた。一つのエリアに出現するモンスターは一定時間毎に何匹までと決められている、これもまたベータテスト時点で判明していた情報だ。そして狩場の数が豊富ならば問題ないが、現時点でははじまりの街周辺の草原地帯くらいしか狩場の候補がない。明らかに狩場の許容適正人数をオーバーしてしまうのだ。

 そして一度狩りつくされてしまえば、再度湧出するモンスターを待たなければならなかった。その奪い合いだって先行することでステータスに秀でた高レベルプレイヤーのほうが有利に決まってる。

 

 つまりはそうしたリソース確保の争いに優位に立つべくスタートダッシュを選んだプレイヤーがいる、ということだ。そいつらはベータテスターを中心に自分達の都合だけを優先するずる賢いやつらなのだと、そう結論付けられるのも遠い先のことではないだろう。

 そしてクラインがその事実を示唆した以上、ここで俺がだんまりを続けることに意味もなくなった。まあ、アインクラッドにログインするまでは元々ソロで活動するつもりでいたんだ、いざとなれば吊るし上げられる前に逃げ出してしまえばいいか。

 

「……ああ、そうだ。俺はこの後すぐに次のホルンカの村に行き、そこで受けられるクエスト報酬の片手剣を目的に狩りを始める予定だった。安全と効率の両面から言ってそれがベストだと判断したんだ」

「それがベータテスターとしてのお前の判断なんだな」

 

 ベータテスター。

 その言葉にまた周囲がざわめく。多少なり頭のまわるやつは先のクラインの発言と合わせて気付いただろう。既に動き出したプレイヤー、その素性と目的にも。

 

「初期レベルでも一人くらいなら俺がフォローできる、次の村まで無事にたどり着ける自信はあるんだ。なあクライン、お前はどうする?」

「……誘ってくれてることはありがてえんだがな。ほら、おめえには話したろ、別のゲームで知り合いになった連れも一緒に来てるって。さすがにそいつらを見捨てて俺一人お前の世話になるわけにはいかねえ。これでもギルド長だった責任ってやつがあらあな」

「そっか。……いや、お前のほかにもう一人くらいなら、なんとか」

 

 我ながら未練がましい言葉だった。

 

「すまん、一人だけじゃねえんだ。こんな状況でお前も足手まといを何人も連れて、ってのは無茶だろ。好意だけもらっとく」

「……わかった。そういうことなら仕方ないな」

 

 クラインの言葉に納得はして見せても、その一方で落ち込む自分がいることをどうしようもなく自覚した。ゲーム上の死が文字通りの死に変わってしまったこの残酷な世界に、一人取り残されたような孤独感が心を苛む。

 馬鹿な、何を身勝手なことを考えている。俺がやつらに見捨てられたんじゃない。逆だ。俺がやつらを見捨てようとしてるんだ。だというのになにを被害者意識になっているのだろう。

 そんな醜い本心を曝け出すわけにもいかず、一度強く目を閉じて精神を落ち着かせようとする。余計な事を考えるな。これから死と隣り合わせの世界をソロで生き抜くことになるんだ、そんな中途半端な気持ちで集中力を切らせばどうなるかなど明白だろう。

 一度だけ呼吸を吐き出し、何事もなかったような顔をしてクラインと再び向き合う。そんな時だった、クラインが妙なことを言い出したのは。

 

「おめえが一日でも早く茅場の野郎をぶっ飛ばしてやりたいって気持ちはよくわかる。多分、ここにいる連中は多かれ少なかれあの馬鹿野郎をぶん殴りたいと思ってるはずだ、俺だってそうだしな。だから俺はお前を止めたりしない、非難したりしない。でもな、死ぬんじゃねえぞ。俺が追いつくまで、絶対生き延びて見せろよな」

 

 ん? なんだか変な誤解をされているような……?

 そういえば茅場に突貫した後、口から出任せでそんなふうにも取れることを言ったような気がしなくもなくもない。あれ、何がおかしいのかわからなくなってきたぞ。

 い、いや、それより今はクラインの心意気に応えるべきだろう。こう、空気的に。

 

「誰に言ってんだよ。お前が追いつく前に最上階にたどり着いて茅場をぶっ飛ばしてやるさ。それでこんな馬鹿げたゲームはおしまいだ。だから俺の心配をする前に自分の心配をしてろよクライン。フレンジーボアを『中ボスだと思ったぜ』、なんて言ってるレベルじゃ危なっかしくて仕方ないんだ。俺に追いつくなんて夢見てないで、ゆっくり分相応にレベル上げしろよな」

 

 声が湿っぽくならないよう、表情に不安を乗せないよう、意識して不敵に笑って見せた。憎まれ口も叩いて見せた。

 

「へ、言うじゃねえか。それとなキリト。今日初めて会った俺に、嫌な顔一つせず戦闘をレクチャーしてくれた優しいお前のことだ、一刻も早くゲームをクリアして俺らを解放しようとしてるんだろうが、あんま急ぎすぎんなよ。俺は大人で、お前は子供なんだ。現実世界とアインクラッドは別世界みたいなもんだし、あっちとは別のルールで動いていくことになるんだろうが、だからって大人が子供に全部任せるなんて格好悪いこたあ俺はごめんだからな。ちゃんと俺にも見せ場を残しておけよ」

 

 おどけたように励ましてくれるクラインは本当にお人よしの良いやつだった。ただなクライン、その勘違いっぷりはどうにかならないんだろうか。別に俺はその他大勢のために一日も早いゲームクリアを、だなんてこれっぽっちも考えていないし、次の村にすぐ向かうのも攻略のためじゃなく効率のためだ。もっとも攻略と効率は切り離せない関係なのも事実ではあるけど。

 しかし死にたくないための高効率レベリングソロプレイが、全プレイヤーの開放を願って早期攻略に邁進するための効率プレイに勘違いされているとか、これは一体どんな喜劇だ? いや、むしろ俺にとっては悲劇なんじゃなかろうか? いずれ落ち着いた頃にでもクラインの誤解は解かなければ……。

 もう何を言うべきやら、言葉に詰まった俺はさっさとこの場から逃げ出したかったのだが、残念ながらクラインはまだ俺を逃がしてはくれないようだった。

 

「そうそうキリト。お前に追いついてみせるって言ったそばから情けなくて悪いんだが、俺らがこれからどう動くべきかを聞かせてくれねえかな。参考にしたい」

 

 俺ら? ああ、以前別のゲームで同じギルドに所属してたって仲間のことか。確かに俺が戦闘をレクチャーしたのはクラインだけだし、それもデスゲーム仕様ではなく遊び感覚での話だ。こうなった以上戦闘のコツとか気をつけるべきポイントとかも、多少なり話しておいたほうがいいのかもしれない。

 

「……そうだな、そうしようか。でもな、クライン。俺が知ってるのはあくまでベータテストでのアインクラッドだ。もし俺が茅場の立場にあるなら、ベータテスターに優位なだけの状況を放置することはない。モンスターの配置やアルゴリズム、地形マップ、迷宮区のトラップやクエストにも変更が入ってるはずなんだ。もちろんこれはMMOの原則、すなわち公平性(フェアネス)を守る気が茅場にあるならの話だけどな。それを踏まえた上で参考にしてくれるか?」

 

 真面目な顔を作って、その実、予防線を張っておく。クラインの人柄なら心配いらないとは思うものの、俺のアドバイスのせいで事態を悪くさせたなんて文句を言われたくなかった。最悪の場合だって考えられるのに、人の生死の責任なんて俺には負えない。

 

「つまり情報を鵜呑みにするなってことだな。つってもそのへんは常識ではあるんだが」

「実践できるかどうかは別だ。むしろ俺はベータテスターだからこそ嵌るような落とし穴が用意されてるんじゃないかと心底びびってるよ」

「そうは見えねえぞ」

「死んだら終わりのデスゲームなんだ。臆病なくらいで丁度いいよ」

「違いない」

 

 一頻り笑いあい、その間に幾つかの情報を頭の中で整理し、シミュレートする。クラインのギルド仲間とやらをフルダイブ環境に素人だったクラインを基準に、MMORPGの最低限の知識を持っていると仮定するか。クラインを中心にパーティーを組めば少なくともはじまりの街に隣接するマップで死ぬような危険はあるまい。先行した連中のもたらす情報を待ちながら地道にレベリングをするのが堅実で、それ以外に言うこともないように思えるが。

 ……いや、いみじくも自分で言ったはずだ、臆病なくらいで丁度良いと。だったら今更なことでも、あえて指摘することで徹底しておいたほうが良いのかもしれない。――だったら。

 

「クライン、俺が戦闘レクチャーをしたとき、一番重視したことが剣技(ソードスキル)の発動の仕方だったことは覚えてるよな? この世界に魔法はないが、その代わりに存在するのがソードスキルだ。普通に剣を振り回して何度も攻撃するより、一発ソードスキルをぶち当てたほうがずっとダメージ効率は上になる。はじまりの街付近のモンスター相手ならソードスキル一発でライフをだいたい削りきれるしな。つまり戦闘する上で最も重視すべきはソードスキルをいつでも放てるだけの技術だ。逆に言えばそれが出来るまではモンスターと戦うべきじゃない、街から出るべきじゃないんだ」

「俺の場合は実践形式でモンスターに体当たり食らいながら必死こいて覚えたからなぁ」

 

 情けない顔でしみじみ言うクラインに、思わず苦笑が漏れてしまった。

 

「あの時は死んでも街に戻るだけだと思ってたしな。今思えば危ない橋を渡ってたもんだ。けど、HPがゼロになったら死ぬなんて状況じゃ、まずそのプレッシャーの中で冷静にソードスキルを発動できるようにならなきゃいけない。発動の仕方に関しては安全な街の中で練習人形相手にでも試してもらうとして、動く的に当てる練習として初撃決着モードの決闘システムを使ってくれ。十分だと思ったらパーティーを組んだ上で回復アイテムを用意して、実際にモンスターと戦ってみればいい。こんな感じかな。ここまでで何か質問はあるか?」

「いや、平気だ」

「それとベータテスターの俺もそうなんだが、クラインも戦闘経験があると言ってもデスゲーム環境下での戦闘だったわけじゃない。少なくともそういう意識で戦ってたわけじゃなかった。これから先、HPが注意域(イエローゾーン)危険域(レッドゾーン)に減っていくような状況で冷静に手を打てるか、危なくなったらパニックにならずに逃げ出せるかどうか、こればっかりは誰も保証できないんだ。多分、お前がフォロー役も務めるつもりなんだろうが、十分に気をつけてくれよな」

「そいつもお互い様だな。むしろソロで攻略に向かうおめえのほうが心配だよ」

 

 そう言って本気で心配そうな表情をするクラインにはホント頭が下がる思いだ。お前ほどお人よしな大人ばっかりならこの先の苦労も減るんだろうけどな。残念なことに世の中物分りの良い人間ばかりじゃない。――俺を含めて。

 

「はじまりの街付近の草原マップには毒や麻痺を仕掛けてくるようなモンスターはいないし、仮にそういう場合だって仲間のフォローさえあれば対処できる。危なくなったら逃げればいいしな。ただまあ、MPK(モンスタープレイヤーキル)みたいに、故意でなくても結果的にモンスターの擦り付けが頻発するようだとプレイヤー間の相互不信がとんでもないことになる。それだけは注意してほしいところだ」

「あー、そりゃそうか。ただでさえ嫌われる行動だってのに、この世界でそんな真似を意図してやったら犯罪だな、間違いなく」

 

 嫌そうに顔をしかめるクラインに心から同意するが、そう遠くない未来、下手をしなくてもそういう危険な真似を好んで行うプレイヤーが現れるようになるだろうという予感があった。

 ベータテスト時の経験を踏まえるにこのゲームはクリアするまでに年単位の時間がかかりかねない。外からの救出が絶望的になり、クリアが不可能ないし長い年月を必要とするのだと周知されたとき、果たしてどれだけのプレイヤーが理性的な行動を取れるだろうか。自暴自棄になる人間が出たとて全く不思議ではない。こう言ってはなんだが、俺が自己強化を優先するのはそうした連中が怖いから、という理由が多分に含まれていた。

 《人の敵はいつだって人だ》、という言葉は至言だと思う。全く以って嬉しくない現実だけど。

 

「だからこそのソードスキル発動技術の習得でもある。一度モンスターの敵性認定(タゲ)を取ったのならきっちり止めを刺してもらいたいからな。極端なことを言えばソードスキルを正確に敵に当てられる技術さえあれば、フロアボスや特殊な敵以外はどうにでもなるんだ。もちろん適正レベルと装備は必要だけどさ」

 

 だからソードスキルを自由に使えるようになるのが最優先だ、と改めて念を押しておく。嘘じゃない、それだけ出来れば第一階層で困るような事態はそうそう起きないはずだ。それこそ、迷宮区やフロアボスに挑みでもしない限りは。

 

「何をおいてもソードスキルを使えるようになれってこったな。オーケー、把握した」

「とりあえずの最優先ってとこだけどな、フルダイブの仮想現実に慣れてくればそれだけじゃ物足りなくなってくるだろうし。けど、一度にたくさんのことをやろうとしても頭がパンクするだけだ」

「違いない。俺だってあれしろこれしろ言われたって対応できねえよ。まずはソードスキルの練習をみっちりやって、そいつが済んだらポーション買い込んでパーティー組んで戦闘。で、怖くなったら全力で逃げろ、と。いいな、こういうシンプルなほうが俺向きだぜ」

 

 謙遜だろうな、とも思う。クラインに戦闘レクチャーをしていてわかったのは、この男はフルダイブ環境に慣れるまでとても早かったということだ。

 ソードスキルに関しても幾度かの手本を見せただけですぐにコツを掴んで自分のものにしたのは驚きだった。発動準備、攻撃を仕掛けるタイミング、間合いの取り方、とても開始数時間のプレイヤーの動きではなかった。ベータテスト時代、モンスター相手に四苦八苦していた多数のプレイヤーを見ているだけに余計にそう思う。

 幸運というべきか、皮肉なというべきか、デスゲームという過酷な環境になってこの男の才能は俄然貴重なものとなった。別のゲームでギルドを大過なく運営していたというし、集団を統率するだけの力も実績もある。下手をしなくても数ヵ月後には追いつかれ、あるいは追い越されているのではないか、という俺の思いはそう的外れなものではないだろう。

 

 ……あの妙なスキルが俺だけに発現しているのでなければ、の話だが。

 

 《賢者の才》、効果は経験値200%増加。つまり俺の経験値効率はスキルを持たないプレイヤーの三倍になる。

 スキルの存在に気付いたときは俺だけに発現したスキルなのだろうかと悩んだのだが、もしかしたらこのスキルは全プレイヤーに付与された茅場なりの慈悲なのではないだろうか。デスゲーム開始宣言、つまり本仕様になったソードアート・オンラインにおける開始特典として配布されたスキルの可能性もある。

 HPがゼロになったら脳が蒸し焼きになるとかいう暴挙のせいで、モンスターと戦うことを恐れるプレイヤーが続出することは誰でも想像できることだ。まさか茅場だって街に閉じこもっているだけのプレイヤーを延々観察していたくなんかないだろう。となれば攻略を容易にするための手段を用意していても不思議ではない。経験値ブーストスキルの付与か、如何にもありそうだ。

 

「ここまで出来ればはじまりの街で安全に暮らす分には十分な戦力だし、コルも危なげなく稼げるはずだ。その後、俺みたいに先行したプレイヤーを追いかけるのか、攻略情報の揃った場所で安全に狩りと生活を営むのか、あるいはこの街にとどまって外からの救出を待つのか。それは自己責任で選んでもらうってことでいいかクライン。先に言っておくけど、お前がどんな選択をしても俺は応援する。俺に言われることでもないだろうけど、お前の仲間ってやつを無理やり焚きつけるようなことはしないでくれよな。そんなことされて追いつかれてもちっとも嬉しくない」

 

 スキルに関しての疑問は後々確かめる必要があるだろうな。しかしそれは今じゃない。こんな衆人環視の中で、もし賢者の才が俺だけに発現しているとばれると、些かまずいことになりかねなかった。

 ネットゲーマーは嫉妬深い、流す情報は慎重に選ぶべきだろう。……怖いし。

 

「わーかってるって。安全第一火の用心ってくらあな。心配しなくても俺らの身の振り方は十分相談して決めるさ」

 

 不安など少しも感じさせず、朗らかに笑って答えるクラインを大した奴だと思う。

 クラインと出会っていまだ数時間。そう、たった数時間なのだ。そんなわずかの時間だけ行動を共にした生意気な小僧を相手に、戦闘レクチャーを受けたという恩義だけでこうも気を遣ってくれているのだった。

 クラインだって色々思うところはあるだろう、いきなりこの世界に閉じ込められ、知り合いだというプレイヤーの命にまである程度の責任を持とうというのだ、先行きに不安を持たないはずがない。そんな状況だというのに俺を気遣い、力になろうとしてくれている。有り難いことだ。

 

 ……だからこそ後ろめたく思う。

 俺がこの街に残って彼らの指導をすることだって出来た。クラインと協力してこの先ともに生き残るために戦うことだって出来た。それをせずに、自分の都合を優先して効率的なプレイを目指す俺は否定の余地なく人でなしだった。

 先行きを予想すればするほど明るい未来が見えなくなる。それが怖い。怖いからこそ身を守るためのレベルと装備を優先しようと躍起になってしまう。悪循環だ。

 

「クライン」

 

 だからこれは欺瞞だ。

 クラインに、彼の仲間に背を向ける自分を誤魔化すための偽善。

 胸に抱える罪悪感を少しでも減らそうとする姑息な手段でしかない。

 

「受け取ってくれ」

 

 トレードウインドウをクラインとの間に開き、現在俺が所持する全コルを入力して送り出す。後はクラインが承諾を選択するだけだ。

 

「キリト、おめえ……」

 

 目を見開いて驚くクライン。

 まあ驚くのもわかる。ここアインクラッドでは武器防具はもとより、食事にも宿泊にも当然料金はかかる。食わなくても死なないし長時間寝なくても健康に支障は出ないが、どういう仕組みなのかプレイヤーには空腹感もあれば睡眠欲も存在するのだ。それを解消するためには適度な食事、適度な睡眠を必要とする。

 少なくともベータテストではそうだった。クラインは当然そんなことは知らないだろうが、デスゲームと化したこの世界で金銭がどれだけ重要なものなのかは改めて説明する必要もないだろう。

 

「プレイヤーの初期資金なんてたかが知れてる。現時点での全額なんて言ってもこんな雀の涙、モンスターと戦闘を繰り返せばすぐに取り戻せる額だよ。俺には差し迫って金を必要とすることなんてない。すぐにこの街を発つし、武器はクエストで手に入れる予定だからな」

「だからと言って受け取れるかよ」

「いいから聞けよクライン。俺はモンスターとの戦闘にはそれなりの自信があるし、今日中に倍以上の金を稼ぐ自信もある。それだけモンスターと戦闘を繰り返す予定だからだ。けどクライン、お前にそれは無理だろう。お前の仲間がお前以上に戦えるっていうなら別だけど、しばらくは街に篭ってソードスキルの練習が必要だろうし、初戦闘には消耗品を用意して万全の態勢で臨んだほうがいい。そのために使えと言ってるんだ。お前のためじゃない、無駄死にするプレイヤーを出さないために有効活用しろってだけのことだよ」

 

 こう言っておいたほうがクラインも変に遠慮せず受け取りやすいだろう。

 それに俺の言葉は建前だけとも言えなかった。下層のうちはいい、多分ソロでも十分に通用するし、力押しでどうにかなるだろうと思う。しかし中層、上層となると話は別になってくる可能性が高い。まして最上階付近では高レベルプレイヤーが高性能な武装を用意し、徒党を組んで攻略をする必要が出てくるはずだ。

 

 ベータテスターが千人、多少の心得があるプレイヤーを同数の千人だと仮定して、果たしてどれだけのプレイヤーが生き残れるのか。それを思えば、スタート時点での技能が低かろうがこの世界に不慣れな残り八千人のプレイヤーを無為に死なすのはあまりに惜しい。生きてこのゲームを脱出するためにもマンパワーリソースを減らすわけにはいかない。

 そんな俺の打算混じりの思考をまさか察知したはずもないだろうが、渋面を浮かべていたクラインが大きくため息をついた。

 

「おめえってやつはホントに……。わかった、おめえの心意気、確かに俺が受け取った。1コルだって無駄遣いしないことを誓う」

 

 そんな大仰なクラインの言葉に大袈裟なやつだと内心思ったが、せっかくのクラインのやる気に水を差すこともないだろうと真剣な顔で頷き返す。それだけで幾分か心が軽くなった己に多少の呆れを抱いた。それでも何もしないよりはマシだと思い直す。

 これ以上俺にできることもないだろう。言うべきことは言った。聞きたいことも聞いた。潮時だ。これからはじまりの街を出発し、次のホルンカの村を目的にフィールドを踏破する。ベータテスターとしてはやや出遅れたかもしれないが、誤差の範囲でしかないだろう。

 

 アインクラッドは全100層、ベータテスト時は2ヶ月で10層に届かなかった。1層攻略に1週間と仮定して1ヶ月で4、5層の攻略スピードだ。一年でようやく半分の50層を超える程度でしかない。

 もちろん今はベータテスト時とは状況も違う。プレイ人数は千人から一万人近くに増えているし、その全プレイヤーが常時接続状態だ。これだけを見れば攻略スピードは大幅に上がるだろう。しかしその一方でデスゲーム化した弊害がどの程度影響を及ぼすのか、その大きさは計り知れない。

 

 まず第一に攻略に参加する人数自体が掴めない、モンスターと戦わずにはじまりの街に引きこもるプレイヤーも多いだろうし、最前線の未知のフィールドで戦わずに、攻略済みで情報の揃った安全な狩場しか選ばないプレイヤーだって出るはずだ。

 第二に死んだらそこで終わりだということは、常にHPに余裕を持った戦闘しか出来ないということだ。ギリギリの戦闘、全力の攻略なんて目指せるはずがなく、レベリング自体も格下のモンスター相手の安全だが非効率なものにならざるをえない。当然、攻略スピードは落ちる。

 何より初期の攻略を主導する立場にあるベータテスターが当てにしているベータテスト情報だ。本サービス開始に当たってどの程度ゲームシステムに変更が入っているのか。まかり変更された仕様のせいでベータテスターが全滅でもすれば、それこそ目も当てられないことになる。

 しかしこればかりは茅場しか知らないことだ。対策としては慎重に攻略を進めるしかないだろう。結局攻略スピードは落ちる。

 

 ……本当、考えれば考えるほど憂鬱になる。

 盛大に重苦しいため息をつきたい衝動に駆られるが我慢だ。いくらなんでも大勢のプレイヤーの前ですることじゃない。改めて思う、どうして俺はこんなところにいるのだろうと。

 全ては考えなしに飛び出した俺自身が悪いのだが、だからといって納得できる話でもない。

 つまりこう思うのだ。

 空が青いのも、郵便ポストが赤いのも、俺が憂鬱なのも、全て茅場晶彦が悪い、と。

 もう全部あいつのせいでいいよ。少なくとも俺の気分が最悪なのは茅場が悪いのだし、正当な文句のはずだろう?

 

「それじゃあなクライン。俺はもう行くよ。……また、会えるといいな」

「ああ、そうだな」

 

 ここにきて弱音をこぼす当たり、俺も相当参っているらしい。情けない未練を断ち切る思いで踵を返した。するとその瞬間、周囲の人垣が一斉に割れ、まるで花道を作り出したかのように正面にぽっかりと道が出来てしまった。俺と違って空気の読める人達だなぁと場違いな感想を抱く。

 しかしこれは演出過剰だろう……。この道が死出の旅路に通じていないことを祈るよ。まるで見世物だと悪態をつきたい気分を押し隠し、一歩を踏み出そうとしたところで後ろから神妙な声がかかった。振り返るまでもない、クラインの声だ。

 

「――キリト。おめえ、今の顔のほうがずっと可愛いじゃねえか。結構好みだぜ。だからな、無愛想な面ばっかりしてんじゃねえぞ。空元気だろうが笑ってりゃそのうち良いことだってあるさ」

 

 ああ、やっぱりお前は極度のお人よしだよ。最後まで俺の心配なんてするな。お前はお前の仲間のことだけ考えてろよ。

 

「クラインもその野武士面のほうが10倍似合ってるよ。それとな、男に可愛いは褒め言葉じゃねえ!」

 

 背中越しにクラインの軽口に応えて駆け出す。顔は俯き気味に、足は全力で力の限り石床を蹴る。

 クラインと二人での湿っぽい別れだけなら何も気にすることはなかった。しかしここには多数のプレイヤーが残っていて俺達のやり取りを傾聴していたのだ。その中であんな青春一直線なやりとりを披露してしまったのだと改めて自覚してしまうと、さすがに気恥ずかしくて耐えられそうにない。

 

 赤面した顔を見られるのも癪なので俯き気味のまま、最高速を維持して人垣に出来た花道を突っ切った。その勢いではじまりの街の城門を駆け抜け、広大な緑の草原に突入する。足元の芝生は夕日に彩られて綺麗なオレンジ色に照らされていた。

 そんな絶景に感心する余裕もないまま道なき道を駆け抜け、道中に立ちふさがった他ゲームで言うスライム相当、つまるところ最弱モンスターであるフレンジーボアをクラインらに説明したようにソードスキルで一蹴し、撃破そのままの勢いで駆け出そうとして――ふと視界に浮かんだ数値に思わず足を止めてしまう。凝視した先はモンスターを撃破した後に表示される獲得経験値と獲得コルの項目だ。

 

 ……おかしい。

 先ほどの騒動でいつのまにか出現していた謎スキルによって経験値が三倍になることはわかっていた。システム上のバグがない限り、ソロ活動中は常時経験値三倍状態は予想できたことだ。だからクラインと狩りをしていたころの獲得経験値と比べてずっと大量の経験値が入手できることには今更驚かない。いや、多少の驚きはあったがそれはとんでもスキルが本当に立証されたことへの驚きだ。数値自体に驚きはない。

 だというのに足を止めたのは、止めざるを得なかったのは。

 

「どうして獲得コルまで増えてるんだ?」

 

 思わず独り言をつぶやいてしまう。呆然とした心持ちでしばし固まった後、もしやと慌ててメニューを呼び出してスキル欄を表示する。

 まさかとは思う。思うが、しかしそれは。

 

 

 スキル名:黄金律(ゴールデンルール)

 スキル効果:スキル保有者がモンスターに止めを刺した時のみ、獲得コル200%増加。

 

 

 再びの謎スキル出現を目の当たりにし、その効果に再度頭を抱えて呆然となった。

 どうしてこうなった、と思わず踊りだしたとしても誰も俺を責められないのではないだろうか。

 実は既にバグとか障害が起こっていたとアナウンスされても信じてしまいそうだ。

 茅場よ、このゲームのシステムは正常に働いているのか?

 しかしそんな疑問に答える声などあるはずもなく。

 再起動にはしばらくの時間が必要だった。

 

 

 

 

 

 こわ!

 こええよこいつ。いや、この人。この御方?

 背もたいして高くねえし、見た目は女顔のなよっとした野郎のくせに、妙な迫力というか風格がある。

 少し前、ゲームマスターを名乗る茅場晶彦によるソードアート・オンラインデスゲーム化の宣言に対する反応は劇的だった。呆然と立ち尽くす者、現実に帰せと怒り心頭で叫ぶ者、絶望して泣き崩れる者、様々だ。かくいう俺も何も考えられずに馬鹿みたいに口開いて空を見上げるだけだった。

 そんな中、一人剣を構えて巨大で不気味なアバターに突っ込んだやつがいた。

 

 キリト、というらしい。

 誰も何も出来ないなか、ただ一人茅場晶彦という巨悪に立ち向かった精神力、そして判断力は賞賛されるべきものなのかもしれない、しかし俺はそれ以上にこの少年に対し畏怖を覚えざるをえなかった。多分、他の連中も似たような思いなのだろう。目に映る全員がどこか引きつった顔をしている。俺だってそうだ。

 しどろもどろに問いかける太り気味の男に返答する年若い剣士、そう剣士だ。この場の誰よりも剣士足りえる彼は威風堂々とその場に悠然と佇んでいた。眼光鋭い目には意志の光が宿り、これだけ大勢の人間に注目されていながら、何事もなかったかのようにかすかに口元に笑みを浮かべている。その所作に戸惑いは一切なかった。

 

 恐ろしい胆力だ。しかも頭も相当回るらしい。

 あのわずかな時間でグランドボスとしての茅場晶彦の可能性を見出し、システム誤認によるプレイヤー開放を狙ってゲームマスターのアバターを撃破しようとするとは、何という機転だろう。しかも、その目論見そのものは外れたようだが、本人に無念さは全く感じられない。落ち込んだ周囲の連中を気遣っている余裕さえある。その様子を見るに、彼がシステム誤認だけを目的に事を起こしたわけではないのだろうという推測はそう難しいものではなかった。

 

 ……そう、あれは宣戦布告だ。茅場晶彦に対する、純然たる意志の挑戦状なのだろう。

 お前を許しはしない、俺達はお前なんぞに負けはしない、生きてこのゲームを終わらせてやる。

 そう茅場に宣言しているのだ。

 だからこその「無意味じゃない」という言葉なのだろう。

 そして、あるいはこれは俺が彼の思いを穿ちすぎているのかもしれないが、俺には彼がこう言っているように思えるのだ。

 俺に続け、と。

 

 彼の強烈な、あるいは苛烈と言うべき言葉。自分達に向けられたわけでもないのに、彼を囲むプレイヤーは俺も含めて完全に圧倒されていた。

 この張り詰めた緊張感はいつまで続くのか、電脳世界であるアインクラッドでは汗などかかないはずなのに、じんわりと背に汗がにじむような錯覚さえおぼえる。そんな沈黙も彼の連れである赤毛の男が現れるまでだった。

 クラインと呼ばれた男はキリトという少年、いや、少年は失礼か。キリトさんに気安い調子で声をかける。始めのうちはリアルでの知り合いなのかと思ったが、どうもこのゲームにログインしてからの知り合いらしい。その割に親しいように思えたが、なるほど、すでにお互い狩りに出ていた関係らしい。それなら仲間意識も生まれるだろうと納得する。

 場の空気が決定的に変わったのはこの言葉からだろう。

 

「……ああ、そうだ。俺はこの後すぐに次のホルンカ村に行き、そこで受けられるクエスト報酬の片手剣を目的に狩りを始める予定だった。安全と効率の両面から言ってそれがベストだと判断したんだ」

「それがベータテスターとしてのお前の判断なんだな」

 

 そんな二人の問答に周囲はざわめいた。

 ベータテスター。

 本サービス開始前、2ヶ月にわたり、応募に当選した千人の幸運なプレイヤーが先行してこのゲームをプレイしている。その千人にはベータテスト参加特典として無条件で本ソフトを入手できる優先権が与えられていたことは広く知られていることだ。徹夜組として苦労してソフトを手に入れた俺のような人間にとっては羨ましい限りだった。

 

 そしてベータテスト時に獲得していたレベルやアイテムは消去されてはいても、その知識は別だ。

 彼らは《ソードアート・オンライン》の知識を相当量持っているはずだし、戦闘システムにだってかなり慣れているはずだ。その彼らがこの状況で何を考えるか。

 クラインという男は既に動き出しているプレイヤーがいると言った。十中八九ベータテスターたちだろう。迷いなく動くための知識を既に持っているプレイヤー、彼らはこの街に残るより先に進むこと、攻略を優先しようとしている。あるいは、美味しい狩場やクエストを独占しようとしている、か?

 

 ……そうか、キリトさんは彼らの思惑に気付いていたからこそ、この場を離れようとしていたのだ。無論、ベータテスターの行動に思うところはある。腹立たしいと考える人間が大半だろう。キリトさんもそんな連中と同じ行動を取ることに内心忸怩たる思いを抱いているのか、浮かべた表情は苦み走っていた。

 しかし彼の身勝手は自己本位ではあっても純粋なクリアへの意志からのものだろう。茅場を許せないとあれだけ苛烈な意志を示した剣士だ。その彼がいまさら俺達のような初心者プレイヤーを出し抜き、装備や狩場の独占をしようなどとは思うまい。むしろ攻略を目指すのが自分ただ一人であろうとも構わず突き進み、茅場の喉下に食らいつき、怒りの剣戟を叩き込むことを考えているはずだ。

 

 それでも俺達に、そしてクラインという男に申し訳なく思っている。だからこそせめて親しい関係にあるクラインという男だけでも連れて行き、安全と効率を確保してやりたいと考えた。悲痛な顔でクラインを誘うキリトさんの姿は痛々しくさえ映った。

 やがてクラインの事情から二人は別々の道を選択することを余儀なくされたらしい。

 と、その時、一瞬クラインという男と目があった気がした。気のせいか?

 

「そうそうキリト。お前に追いついてみせるって言ったそばから情けなくて悪いんだが、俺らがこれからどう動くべきかを聞かせてくれねえかな。参考にしたい」

 

 気のせいではない……!

 俺だけではない、今のクラインの言葉はこの場にいる全てのプレイヤーのためのものだ。先の視線は俺個人を対象にしたものなどではなく、この場の全員にこれからの会話を聞き逃すなという合図だった。

 キリトさんだけではない、クライン、この男も相当な傑物のようだ。これからは密かにクラインの兄貴と呼ばせてもらおうと決めた。

 

 ベータテスターには豊富な情報がある。だからこそこんな極限の状態であっても迷いなく、あるいは迷いながらでも決断を下すことが出来る。右往左往するだけの俺達とは違う。

 その差を少しでも埋めようと、クラインの兄貴は自分達の今後のためと断った上でキリトさんの考えを聞きだそうとしているのだ。参考にしたい、というのは俺達にも参考にしろと言っているのだろう。

 他のやつらもクラインの兄貴の思惑に気付いたのだろう、瞬時に目を真剣なものに変えた。食い入るような、あるいは懇願するような視線がキリトさんに集まる。しかしキリトさんはそんな視線などどこ吹く風で気にした様子もない。やはり大した胆力だ。

 考えを整理しているのか何度か頷いて見せたあと、厳かに語り始めた。聞き逃すわけにはいかない。これはどんな黄金にも勝る貴重な言葉なのだ。

 

 ……なるほど。

 キリトさんの説明は難しいものではなかった。むしろ基本そのものと言っていい。ソードスキルはある意味でこのゲームの象徴であり、基礎そのものだ。今時魔法のないファンタジー世界とは随分硬派な仕様だと思ったのもそう昔のことではなかった。

 そしてその魔法の代わりというか、いわゆる必殺技的なポジションなのがソードスキルだ。俺はまだフィールドに狩りに出ていないのでわからないが、何人かの人間が『はじまりの街周辺の敵ならソードスキル一発』という部分に頷いている。

 デスゲーム宣言前に、街中でNPCから情報を集める傍ら、誰もいないか確認したうえでソードスキルを発動させてみたことがある。確かに独特のモーションを必要とするし、それを戦闘の中で好きなように発動させるのは言うほど簡単なことでもあるまい。

 

 それを段階に分けて習得していく。

 まずは発動そのものを自由にできるようにするために安全圏でのスキル発動訓練。

 次に動いている的に実際に当てる練習として安全圏内で決闘システムを利用した模擬訓練。

 最後に安全を可能な限り確保した上での実戦。

 

 何をすればいいか、どうやってこの世界で生きていけばいいのか皆目見当のつかなかった俺達初心者組にとっては、キリトさんの筋道立てた、しかも単純明快な方針は非常に受け入れやすいものだった。

 加えてソードスキルさえ自由に発動できれば少なくともこのあたりのモンスターに苦戦することはないと断言されたことも大きい。その証拠にこの広場にずっと漂っていた重苦しい空気が大分軽減されている。安堵した表情を浮べるやつらも多い。

 人間何が恐ろしいかと言えば未知の状況が一番恐ろしい。

 たいした情報もなく、なにもわからないまま、焦燥ばかり抱えてフィールドに飛び出してモンスターと戦ってもパニックになるだけで碌な結果にならなかったはずだ。だからと言ってはじまりの街から一歩も出ずに震えて縮こまっているのもよろしくないだろう。閉塞した状況でストレスばかりを溜め込んでいれば限界などすぐ訪れる。

 

 ……ああ、そうか。そう考えるとベータテスターどもの考えもわからんでもないな、この街にとどまってそんな厄介ごとに関わるのを恐れたのだろう。俺だってそんな事態になったら収拾するよりも逃げ出すことを選ぶはずだ。……情報さえあれば。

 冷静になればそれだけ考える余裕が生まれる。デスゲーム開始を告げられてそのまま放置されていたら、宿屋に閉じこもってベータテスターに恨み言を言って過ごす毎日を送る可能性もあった。それを思うとクラインの兄貴の機転には感謝するばかりだ。

 そしてキリトさんの言う通り、実際に命がけの戦闘になったとき練習通りのことが出来るかどうかは誰も保証できない。

 そう、こればかりは俺達初心者組もベータテスターも、そしてキリトさんすらも条件は同じなのだ。現代日本に暮らしていて、剣を持って命がけの戦いをしてきたような人間がいるはずがない。この点では全てのプレイヤーが同じスタート地点に立っているのだ。

 

 恐ろしいのはキリトさんの深謀だろう。

 既に今の時点でこれから先訪れるであろう苦難を想定している。なによりベータテスターだからこそ不利になる局面がくるという予想には誰もが驚いていた。しかし確かに運営者側、つまりあの憎き茅場晶彦にすればベータテスターだけを優遇する理由はどこにもない。むしろ公平性を心掛けるなら、ベータテスト経験者だからこそ嵌りこむような罠があってもおかしくない、というキリトさんの予想には頷ける点が多々あるように思えた。

 

 キリトさんが皆の度肝を抜いたのはそれからすぐのことだ。

 なんとキリトさんがクラインの兄貴に初期資金を全額受け渡そうとしていたのだった。いや、彼らの場合既に狩りに出ていたそうだから初期資金にプラスアルファされていると考えるべきだろう。

 これから先のデスゲームを生き残るために先立つものは当然必要だ、そんなことをキリトさんが承知していないはずがない。それでも全く惜しがる素振りも見せずにポンと渡そうとする姿は気高さ以上に危うさを感じさせた。そう感じた人間は多いはずだ、眉をしかめるプレイヤーがいた、年配のプレイヤーのなかには痛ましげにキリトさんを見つめる目もあった。あまりに自己犠牲が過ぎる。

 

 ……贖罪。贖罪なのだろうか。

 クラインの兄貴を、兄貴の仲間を、そして俺達初心者組を置いて、一人旅立つ自分を許せないのだろうか。身勝手な自分を罪深いと嘆いているのだろうか。そのためにこんなにも自分を省みず他者を優先しようとしているのだろうか。

 初めは渋っていたクラインの兄貴も、生き残るために使えというキリトさんの言葉についに諦めて受け取ったようだった。初期資金にいくばくかのプラスアルファが乗せられた全額のコルを、キリトさんは雀の涙だと言い捨て、すぐに倍以上稼げるのだと豪語してみせた。

 

 本当だろうか。俺にはわからなかった。しかし、それが言葉通りだとしても、彼の真意を疑うものなどこの場にはいないだろう。あれはクラインの兄貴に対するだけではない、俺達全員に対するキリトさんのメッセージだった。

「無駄死にするな。無駄死にするくらいならこの街から出ないで生き残ってくれ」という、彼の懇願そのものだった。

 クラインの兄貴はキリトさんの言葉を、その知識を俺達に聞かせるためにこの場にキリトさんを残した。

 

 ならばキリトさんの言葉はクラインの兄貴だけではない、俺達にも向けられたものだ。

 生きるに困らない知識、技能の取得。

 そしてその上でどうするかは自分達で決めろと半ば突き放した。

 第一層の、それもはじまりの街周辺を根城にする限り困ることはない。しかし迷宮区やフロアボスを相手にする最前線ではソードスキルを使えるだけでは生き残れない。人に頼るだけしかできないのなら遠からず死んでしまうのは想像に難くない。

 

 地獄に踏み込む覚悟があるのなら俺を追って来い。

 覚悟がない、技術が足りないのなら安全な狩場で生活を送れ。

 戦う覚悟がないというのならそれでもいい、はじまりの街を出ないで救出を待て。

 

 キリトさんの言葉はそういうことだ。

 そしてどんな選択をしても俺は恨んだりしないと言外に言っているのだ。

 臆病でもいい、それを恥じる必要はないのだと。

 キリトさんが見据える先には自然と道が出来た。誰もがわかっていたのだろう。このゲームをクリアするのだというキリトさんの比類なき決意を邪魔することは出来ないのだと。

 

 その道はキリトさんの覚悟と献身に対する俺達の感謝と敬意の表れだった。今となっては誰の顔にも絶望の色はない。ただ厳かにキリトさんを見つめるだけだ。

 現実世界ではまだまだ子供のはずだった。年齢以上に童顔なだけなのかもしれないが、それでも15を2つも3つも超えていることはまずあるまい。幼げなその顔と小柄な体躯にどうしてこれほどの威厳を纏うことが出来るのか。迷いなく前を見据える瞳には不退転の決意が鮮明に浮かび上がっていた。

 

 

 ――今、剣士が独り旅立つ。

 

 

「キリト。おめえ、今の顔のほうがずっと可愛いじゃねえか。結構好みだぜ。だからな、無愛想な面ばっかりしてんじゃねえぞ。空元気だろうが笑ってりゃそのうち良いことだってあるさ」

「クラインも、その野武士面のほうが10倍似合ってるよ。それとな、男に可愛いは褒め言葉じゃねえ!」

 

 その言葉を皮切りに、キリトさんは別れの涙を見せまいと俯いたままその場を駆け去り、残されたクラインの兄貴はそんなキリトさんを泣き笑いのような顔をして見送っていた。

 クラインの兄貴の言葉はキリトさんに対するせめてもの手向けだった。

 今の顔、すなわち現実のお前、本当のお前こそが俺の友なのだと断言するクラインの兄貴の心意気。

 そして俺にとってもお前は友なのだと応えるキリトさんの心意気。

 なんとも眩しい、二人の勇者の別れの一幕だった。

 

 




 《賢者の才》、《黄金律》はオリジナルスキルです。
 またアバター攻撃を可能にした中央広場の鐘塔、キャラクターネームがプレイヤーの視界に表示されるなど、独自設定も使われています。お含み置きください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第02話 オレンジは罪の色

 

 

 デスゲーム開始からおよそ1ヶ月。

 正確には26日が経過したその日の午後、ここはじまりの街に激震が走った。

 第一層フロアボス撃破。

 その報に皆が喜びの声を沸きあがらせたとき、その喜ばしい報告を持ち込んだ男はなぜか青褪めた表情で微かに震えていた。

 あまりの周囲との落差に歓声をあげた皆が首を傾げ、青髪の騎士へとその理由を尋ねた。

 青髪の騎士はすぐには答えなかった。答えたくない、というよりはどう言葉を選んだものか、と悩んでいるようにも見える。幾ばくかの逡巡。しかし歓喜に包まれたはじまりの街の住人たちの表情が時間と共に曇っていく様を見て覚悟を決めたのか、悔恨に沈んでいた瞳に決意の色を浮かべ、ようやくその重い口を開いた。

 

「第一層フロアボス戦において死亡者が一人でた。……ただし彼はボスに殺されたわけじゃない。彼のライフをゼロにしたのは、同じく攻略に参加したプレイヤーの一人だ」

 

 悲鳴はなかった。その代わりというべきか、誰もが息をのんでその事実に戦慄した。

 

PK(プレイヤーキル)……」

 

 呆然とした声で、誰かが口にする。

 人間であるプレイヤーが仲間であるはずの別のプレイヤーのライフをゼロにしてしまう、それがPK。プレイヤー同士の争いを助長させないようPKは大抵のゲームで禁止ないし制限されている。プレイヤー同士が戦うには専用に用意された場所に移動し、そこで初めて限定的に許可されるのがプレイヤー戦闘の常だった。

 しかしここアインクラッド、すなわち《ソードアート・オンライン》においてPKは禁止されていない。犯罪防止コードの働く街中では無理だが、フィールドや迷宮区のような、いわゆる狩場とされるエリアではプレイヤー同士の戦闘は何時でも可能な設定になっている。人間が人間を傷つけやすいシステムが採用されているのだ。

 

 もちろん無制限というわけではなくPKに対する抑止力も用意されている。意図的にプレイヤーを傷つけたと判定された場合、攻撃をしたプレイヤーは犯罪者認定をされ、その証拠としてキャラクターカーソルが通常のグリーンから犯罪者を示すオレンジへと変わる。そしてシステムにオレンジだと認定されたプレイヤーには様々なデメリットが付き纏うようになる、らしい。

 フロアボスを撃破することで初めて開放され、使用することができるようになる転移門がある。一層に一つずつ存在する主要都市をつなぐ転移門は、アイテムもコルも消耗することなく瞬時に層移動を可能とするもので、プレイヤーにとって大変利便性が高い有り難い代物だ。今回、第一層が攻略されたことで、この街にある転移門もようやく本来の機能を発揮できるようになるはずだ。しかしオレンジとなったプレイヤーは、ペナルティとして転移門を利用することが不可能になるらしい。以後、移動に尋常ではない苦労が伴うようになるだろう。

 

 さらには安全圏である主要な街への立ち寄りそのものが不可能となる。ガーディアンと呼ばれる鬼強いNPCが各街には配備されており、オレンジのプレイヤーが街に足を踏み入れるとすぐに発見され、問答無用で街の外へと叩き出されてしまうらしい。もっともそんな光景を見たものはいない。

 それはそうだ。なぜならソードアート・オンラインはただのゲームではない、命を賭けたデスゲームなのである。そんな状況で仲間であるはずの他のプレイヤーを傷つけ、ましてや殺そうとするなど全プレイヤーに対する裏切りだ。論外の行動だと言っていい。

 それを攻略の最前線、それも最も協力を必要とするであろうフロアボスを前に仲間割れを起こすだと? どこのとち狂った馬鹿だ。

 

「誰だよ、そんな馬鹿げたことをやったのは」

 

 誰かが怒りを押し殺したような低い声音で下手人の名を尋ねた。その疑問は今この場に存在する全てのプレイヤーの総意だったはずだ。それほどまでに愚かしく、許し難い暴挙だ。しかしそんなプレイヤー達の怒りや恐怖も、次の言葉で完全に吹き飛ばされてしまった。

 

 ――PKを行ったプレイヤーの名はキリト。《はじまりの剣士》キリト。

 

 第一層主街区はじまりの街を正しく激震が襲った瞬間だった。

 

 

 

 

 

 第一層フロアボス攻略戦。

 デスゲーム開始から1ヶ月近くたってようやくこの時がきた。

 ここまでくるのに時間がかかり過ぎだとは思うし、実際にはじまりの街に残る選択をしたプレイヤーにとって、今の攻略速度は絶望するに相応しいものだっただろう。なにせ1層攻略に1ヶ月もかかっていては100層攻略するためには8年以上かかる計算になってしまう。それだけの時間が現実世界で経過していたら、たとえ帰還できたとしても帰還者本人は浦島気分だろう。その後の人生が悲惨なことになるのは誰だって想像できる。

 

 しかし全てが手探りに等しい中で石橋を叩くように攻略してきたのだ。慎重なレベル上げ、慎重なマップ情報の更新、戦闘の合間にNPC情報の収集、整理、精査。加えて、フロアボスを攻略するに当たりどういう手段で精鋭を集め、他人同然のプレイヤー間で協力体制を築き、そのなかの誰がリーダーを務めてボス戦を主導するのか。

 諸々を考えると1ヶ月で形になったことは十分評価できることだと俺などは思うのだ。特にデスゲーム開始から今に至るまで、我が身を強化するためのレベル上げと装備の更新、強化のみに全精力を傾けた身勝手さを自覚しているだけに。

 

 実のところ、フロアボスに通じる迷宮区最奥の扉の発見はもっと早かった。しかしプレイヤー間の相互情報交換を設ける機会がなかったため、組織的なパーティー編成など出来るはずもなく、何人かが少人数の即席パーティーを組んで挑戦し、命からがら逃げ出すということが幾度かあった。そんな非効率的な行動の裏には、プレイヤー間の相互不信も確実に存在していたのだと思う。

 なにせ最前線にいるような高レベルプレイヤーのほとんどはベータテスターであり、大多数の初心者プレイヤーに先駆けてはじまりの街を発った理由など本人らが一番よく知っている。それがあまり褒められたものでないこともだ。

 

 お互いにそうした後ろ暗い感情を抱えているのに、それぞれが胸襟を開いて仲良く協力など出来るはずもない。その結果、ソロかあるいは気心の知れた少数のプレイヤーが思い思いに攻略を目指す、という形が現在の主流になっていた。

 無論、ベータテスターとて血も涙もない卑劣漢などではない。彼らとて自分たちが生き残るために最善の選択をしようと努力した結果が、遠からず飽和状態になるであろうはじまりの町隣接マップの狩場からの移動であり、いくつかの有力クエストの受注だったはずなのだ。俺もまたその思惑に乗った一人なのだ、文句を言われる側の人間だった。最前線の連携の悪さをどうこういえる立場ではないのである。

 

 ……クラインには妙な誤解をされていたけどな。

 お人よしの友人の顔を思い浮かべて思わず苦笑が漏れてしまった。ときどきメッセージが送られてくるが、どうも彼は件の仲間と合流した後、何人かの有志とともに初心者組の手助けをして回っているらしい。俺が話した徹底したソードスキル習得訓練と手厚いフォロー込みでの初戦闘を指導し続けていると聞いた。

 クライン本人は直接の戦闘指導と補佐役に徹し、全体の指示や取りまとめはシンカーという男が主導しているとのことらしい。さっさと逃げ出した身としては彼らの献身に身が縮む思いだった。

 

 しかしまあ、元気にやっているようでなにより。

 一方俺はと言えば、特に問題になることもなく順調そのものだった。なにせクラインには最短距離での攻略などと妙な誤解を受けてはいたが、少なくとも俺の目的は攻略そのものではない、ひたすら自己強化に励むことだった。

 効率のためにも攻略は手早く進んでくれたほうが嬉しいが、だからと言って俺自身が率先して危ない橋を渡ろうなどとはこれっぽっちも思っていないのだ。

 

 フロアボス攻略を主導する立場に立つ気もない。雑務に時間を取られるくらいならレベルを上げていたかった。もちろんこの先ずっとこのままというわけにもいかないだろうけど、今のところその方針を変える予定もない。

 その方針に沿ってはじまりの街を出発し、最短距離でホルンカの村にたどり着き、そこで受けたクエストも遅滞なく達成できた。クエスト報酬アイテム《アニールブレード》も驚くほど簡単に手に入ったし、先行したベータテスターたちと妙なブッキングをすることもなかった。これを順調と言わずして何と言おう。

 

 デスゲームに囚われたという事実は人生最大の不運(バッドラック)以外の何者でもないだろう。

 しかしゲーム的な意味で今現在俺のリアルラックはそこそこの幸運を示していた。10万人が応募した倍率100倍の抽選を勝ち取ったベータテスト参加で人生の運を悉く使い果たして以降、リアルラックにはとことん自信がなかった俺だ。そこへきてデスゲーム参加という最低最悪の不幸が襲来した反動なのか知らないが、多少なり運勢が上向いてきたのは文字通りに不幸中の幸いというやつだった。

 MMOはアイテムドロップを初めとして確率に左右される事柄も多い。不運に愛されていないことはそれだけで安心材料となるのだった。

 

 十分な攻撃力を確保して以降はひたすらソロでモンスターを狩り続け、迷宮区の最奥が発見されて以降は経験値効率の秀でた狩場を幾つか選んで篭り続けた。もちろんそれだけではクラインたちに悪いので、モンスター情報やクエストマップ情報をちょこちょこ提供したりもしたが。

 そのおかげで攻略目的の最前線プレイヤーの中にあっても、俺のレベルは間違いなくトップクラスに位置しているはずだ。というより下手すれば飛びぬけて高いんじゃないかと思う。

 なにせ常時経験値3倍である。

 いつのまにやら手に入れていた謎スキルの片割れではあるが、どうも時折見かける他のプレイヤーの戦いぶりを見るに、このスキルの希少性は割と高いんじゃないかと考え直すようになった。少なくとも全員に配布されたわけではなさそうである。

 特殊な習得条件を必要とするエクストラスキル、その可能性が濃厚だ。

 

 というのも、いまだに経験値3倍どころか経験値をブーストするスキル関連の情報が一つも出てきていないのだ。考えられることは発現条件が不明なだけに、スキルを獲得したプレイヤーは俺のように口を閉じてスキル情報を秘匿する道を選んだ、ということだろう。軽々しく公開できるような情報じゃない、恐らくはそう考えているはずだ。それくらいこのスキルはゲームバランス的に浮いている。

 この世界を作り出した男が何を思ってこんな公平性を欠いたスキルをデザインしたのかは知らないが、今は有り難く利用させてもらうしかないだろう。

 使えるものは使う、仮に《賢者の才》《黄金律》が運営の意図しないスキル効果だったとしても、修正がくるまでは時間が許す限り使い倒すのがずるい、もとい正しいゲーマーの在り方だ。というかだな、デスゲーム化した世界でいちいちゲーマーとして瑣末な矜持にこだわってられるか。命を懸けて縛りプレイをするほど俺は壊れた人間じゃないぞ。

 

 そんなこんなで日々是レベル上げな毎日だったのだが、本格的にフロアボス攻略戦が実施されるのならば、安全を多少犠牲にしてでも参加したい。ソロでは取り巻き含むボス集団には危なくて突っ込む気にはなれないものの、攻略組の精鋭の一員としてならば安全性はぐっと確保しやすくなるからだ。

 もちろんそれだけならボス戦なんて危険極まりない戦いは人任せにもするのだが、ボス戦は希少で強力な武具やアクセサリーを入手できる貴重な機会なのである。ベータテストの仕様が変更されていないならば、ボスに止めを刺したプレイヤーには必ず希少アイテムがドロップされる。ボス戦におけるラストアタックボーナスは強力な装備品を手に入れるまたとない機会というわけだ。

 自己強化に励み、装備の充実を図るためならば、危険を犯してでもフロアボスに挑む価値は十分にある。だからこそ俺はフロアボス攻略会議に出席し、大人数による本格的な討伐作戦に参加を決めたのである。全てはこの先を生き残るために。

 

 ……だというのに。

 そんな俺の決意に水を差す光景が眼前に広がっているのはなぜだろうか。

 ここは第一層迷宮区にほど近いのどかな街《トールバーナ》。その中心に位置する中央広場だった。

 初の大規模攻略会議を主催し、扱いの難しい攻略プレイヤーをまとめ上げる快挙を成し遂げたのは、ディアベルという穏やかそうな風貌をした男だった。年の頃は大学生くらいで、目鼻立ちの整った顔はネットゲームに興じるよりも、アウトドアスポーツで爽やかに汗を流すほうがよっぽど似合っていそうなものだ。いや、僻みじゃなくマジで。

 加えてウェーブがかった長髪は髪染めアイテムによってカスタマイズされているようで、現実世界ではお目にかかれない群青の色彩に染まっていた。それがまた似合っているのだからすごい。イケメンと美人は何を着ても似合うというが、この世界ではその法則が輪をかけて適用されそうだ。

 

 長身に金属鎧で固めた片手剣使いのディアベルはよく通る声で会議の開始を告げた。そして彼は最初の自己紹介の場で、「気分的にナイトやってます」とおどけて笑いを取ることから始めたのだった。

 言うまでもなくソードアート・オンラインには職業(クラス)の区別はないが、そんなことはこの場にいる全員が承知している。それを踏まえてひとまず掴みはOKといったところだろうか。当初のプレイヤー間でお互いを警戒するような刺々しい雰囲気が和らぎ、場に穏やかな空気が吹き込んでいた。

 しかし、だ。

 このまま順調に会議が進むと思わせるディアベルの如才ない手腕に感心していたところで、主催者のディアベルを半ば無視するように無理やり舞台に立っていちゃもんをつけはじめた馬鹿が現れた。露骨に迷惑な野郎だと顔を顰めたのは俺だけではあるまい。

 

「ちょう待ってんか、ナイトはん」

 

 そんな掛け声で壇上に上がったのはキバオウと名乗る男だった。成人男性としてはやや小柄な体躯ではあったが、体格そのものは絞り込まれてがっしりとしていた。そのせいか壇上に立って鼻息荒く腕組みしているのも堂に入った立ち姿である。

 装備は背中に背負う片手剣、それから皮の上に金属片をつなぎ合わせたスケイルメイル。見栄えも性能も中々だ。しかし最も俺の注目を引いたのは、その特徴的な頭部だった。茶色のサボテン、そんな風に形容したくなる髪型をしていた。あれはカスタマイズを施した結果なのか?

 

 問題はすぐに噴出した。

 聴衆の注目を一手に引き受けたキバオウはそこで何を言うかと思えば、立て板に水を流すがごとくベータテスターを滔々と非難し始めたのである。ソードアート・オンライン経験者であるベータテスターが初心者(ビギナー)プレイヤーを省みなかったせいで、この一ヶ月足らずの間に千人を超える多大な戦死者が出た事実。そのうえで初心者を見捨てて早々に狩場やアイテムを独占した非道さを強く責め立て、この場にいるはずのベータテスターたちにも謝罪と誠意を要求したのだ。

 謝罪がなければ一緒には戦えないと気炎を上げ、誠意としてアイテムやコルを吐き出せと迫った。ベータテスターに向かって今まで獲得した全アイテムと全コルをこの場で提供しろと要求した男に、俺は思わず天を仰いでしまった。

 

 なに言ってんだこの考えなし、頭痛い……。

 義憤全開で持論を展開しているキバオウの主張にこれ以上なく脱力してしまう。後先考えないとはこのことか。

 キバオウという男、これだけベータテスターに強圧的に当たっている以上、当然本人はベータテスターでもなければベータテスターの知り合いもいないのだろう。ベータテスターでもないのに、このフロアボス攻略会議に参加できるだけのレベルと技術を獲得しているということには素直に賞賛できる。クラインのような相当な才能の持ち主でもあるのだろう、あるいはこの先大きな戦力の一角にもなるのかもしれない。

 しかし、圧倒的な考えなしである。

 

 キバオウの要求だが、ここまで一方的な内容ではどうあっても受け入れられることはない。あからさまな脅迫のうえに、内容が譲歩できる限界を一足飛びに飛び越えてしまっている。もう少し穏やかな要求、例えばベータテスト基金とでも銘打って初心者援助を名目に幾ばくかの寄付を募るとか、その程度ならベータテスターにだって譲歩の余地はあったろうに。

 最初に過大な要求を突きつけ、そこから互いの妥協点を探っていくのは交渉の基本テクニックだが、キバオウに譲歩の気配は欠片もなかった。一方的に要求を押し通そうとするだけである。

 こんなやり方で話がまとまるはずないだろうにと再び溜息が漏れてしまう。義憤そのままに糾弾の言葉を吐き出している男には悪いが、もう少し現実的な話をしろと言いたくもなる。

 

 キバオウがこの中にベータテスターがいるはずだとあくまで推測で話し、プレイヤーを名指しできないのは、はじまりの街でベータテスターだとカミングアウトしてしまった俺のような例外を除けば、誰が実際にベータテスターなのかが判明していないからだ。ベータテスターだって自分達に向けられる視線が好意的でないことくらい気が付いている。そんな中で馬鹿正直に自分がベータテスト経験者なのだと名乗り出るはずもなかった。

 そうした事情もあって、せいぜい高レベルプレイヤーを指して多分あいつはベータテスターだ、と当たりをつけるくらいしかできていない。そして、それはどこまでいっても疑惑でしかないのだ。本人が口を割らない限りベータテスターだとばれることはない。

 

 それに時間が経つにつれ、ベータテスターと初心者組のレベル差は小さくなっていくだろうと俺は思っている。そうなれば、やがてはベータテスター憎しの風潮も下火になるだろうと予測していた。

 なにせクリアまで長い年月が必要なのだ。一ヶ月二ヶ月ならともかく、一年二年のスパンを考えた時、ベータテスター優位の状況がずっと続くとは考えにくかった。

 

 しかし今現在に限って言えば、高レベルプレイヤーのほとんどがベータテスターだろう。そしてこの攻略会議の半数以上はベータテスターだろうとは俺ならずとも予測できることだ。

 だからこそキバオウはあれほど犯人を暴き立てるがごとく強気なのだった。まるで鬼の首を取ったかのように。

 馬鹿な話だ。ベータテスターは犯罪者じゃない。少々幸運を手にした普通のゲーマーないし一般人でしかなかった。

 たまたま2ヶ月先行してこのゲームを遊んだ。たまたまデスゲームになってしまったがために、初心者プレイヤーを見捨てたと非難される立場になってしまっただけだ、というのはベータテスターである俺だからこその言い分なのだろうか。

 

 キバオウの主張と怒りもわからないではないのだ。あくまで認めるのは主張と怒りだけで、奴の要求部分は論外だが。

 初心者プレイヤーのために戦闘技術を指導し、アインクラッドの知識を分け与え、彼らを率いて主導的に、あるいは仲良く協力的に攻略を目指す。なるほど、理想的ではある。今のようなプレイヤー同士の軋轢もなかっただろう、そうすべきであったというキバオウの言い分は大部分において俺も肯定する。ただしそれは初心者プレイヤーの命をベータテスターが背負う、という重すぎる責任を考えないのであればの話だ。

 

 俺を含めてベータテスターは決して超人でもなければ特別な才能持ちでもない。

 現実で大勢の人間の命を預かる仕事や立場を持っていたベータテスターなどいるとしてもごくわずかだろう。そんなどこにでもいる人間に9千人のプレイヤーを導けという要求はいかにも無茶だと思えるのだが。

 はたしてキバオウという男はそのあたりの事情をどう考えているのだろうか。

 

 仮に、そう仮にだ。この場で俺を含むベータテスターがキバオウの要求を全面的に受け入れ、装備から何まで残りのプレイヤーにくれてやったとしよう。

 当然、そんな強盗紛いのことをされたベータテスターは二度と初心者プレイヤーたちに協力しようなどと思わなくなるであろうし、当たり前だがこの後行われるフロアボス攻略戦にも不参加だ。なにせ戦うための武器を差し出してしまうのだから戦いたくとも戦えない。結果どうなるかと言えば、フロアボス攻略戦そのものの延期である。

 

 一方でベータテスターが心血注いで手に入れたアイテムとコルを受け取った彼ら初心者プレイヤーたちは、その分配をどうするつもりなのやら。ベータテスターに提供させたのだと勝利者の顔をして何も知らない初心者プレイヤーにランダムにでも配るのか、それともこの場にいるキバオウ本人と、いるのなら彼の賛同者だけで独占するのか。それもまた揉め事の原因になるだろう。

 そしてベータテスターと初心者プレイヤーの溝は二度と修復されない深い傷となって残り、プレイヤー同士の信頼なんて鼻で笑うしかなくなる。ただでさえ足りない戦力がさらに激減し、将来的にも解消不可能な根深い対立構造が続くわけだ。最悪である。

 

 あまりに暗い未来予想図を脳裏に描き、そんな可能性をわざわざ現実のものにしようとしている原因を半眼で眺めやる。

 俺ですら辿り着く何てことのない推測なのに、どうしてキバオウは自身の言葉の危険性に気づかないのだろう? 憤懣やる方ない激情が奴自身を盲目にでもさせてしまっているのだろうか。

 未だにヒートアップを続けるサボテン頭へと懇切丁寧に事情を話してやるべきかどうか悩んでみるものの、ああいうタイプは正論を言うだけでは止まらない気がする。

 というかベータテスターだと広く知られている俺の言うことを素直に聞くとも思えない。もしも俺がベータテスターだとキバオウに知られていなくても、この場にいる連中の中には俺がベータテスターだと知っているプレイヤーもいるだろうし、そこで槍玉にでもあげられたらそれこそ収集がつかなくなってしまう。どうしたもんだろう?

 

 全く、せっかくのボス攻略会議なのになんだってこんな面倒な話になってるんだ。

 なんだか馬鹿らしくなってきた、もう会議抜け出して帰ってしまおうか。

 このままキバオウ独演が続くのなら、今日の会議は喧嘩別れになって終わる公算が大きい。攻略会議も後日改めて開催という流れになるかなと諦めかけたとき、それまで沈黙を守っていた聴衆役の一人が発言を求めた。浅黒い肌に筋骨隆々な大男だ。しかもスキンヘッドに厳つい風貌をしているせいか、とにかく迫力が凄い。明らかに日本人の風貌ではないため、帰化したかハーフなのだろう。

 エギルと名乗ったその男は睨みつけたつもりもないのだろうが、その大柄な体躯だけでも隠し切れない威圧感が発散されているのだ、正面から目が合ったキバオウが気圧されたように何歩か後ずさったのもむべなるかな。

 エギルは殊更声を高めたわけでも大袈裟なジェスチャーをしたわけでもなく、淡々とキバオウの主張に異を唱えた。

 

「キバオウさん、あんたはベータテスターがビギナーを見捨てたと言うが、少なくとも情報はベータテスターから提供されていたぞ」

 

 そう言って用意した材料が全プレイヤー向けに無料で配布されている攻略指南書だった。羊皮紙を閉じた本型オブジェクトを翳しながら、この世界の基礎知識、MMORPG全般におけるマナー、簡易的な戦闘上達法、加えてモンスターやマップ情報までも記したこの指南書は有志によって作成された、そしてその有志にはベータテスターも含まれている。ベータテスターが初心者プレイヤーを見捨て、自分達の利益だけを図っているという主張は不当だと反論したのである。

 そして今ここでベータテスターの責任を追及するよりも、ゲームクリアの手立てを講じることのほうがずっと重要だろうと柔らかく指摘し、キバオウの反発を最小限に抑えながら諭して見せた。

 

 なんというか、それを聞いていて『ああ、この人、大人だな』と感心した。

 年齢的にもこの中で最年長だろうとは思うが、それ以上にその重厚な雰囲気や淀みなく語られる明瞭な口調が言葉に説得力を持たせている。これだけの場を用意したディアベルも凄いが、キバオウがぶち壊した攻略会議の雰囲気をあっさり引き戻してみせたエギルという大男も素直に尊敬できる。こんな大人になりたいと思える人間は貴重だ。

 

 しかしだ、最後に「直接初心者プレイヤーを指導したベータテスターだっている」と告げて、さりげなく俺に視線を向けたことだけは勘弁してくれと言いたい。クラインとの問答を思い出すと穴掘って埋まりたくなるんだ。感情で動くと碌なことにならないのだと嫌というほど理解したよ、ほんと。

 キバオウも敗北を悟ったのだろう、不機嫌そうな態度を隠そうとはしなかったが、そそくさと聴衆の側に戻って沈黙を選んだようだった。それでいい、これ以上の厄介ごとはごめんだ。

 

 場にほっとした空気が流れ、改めてディアベルが締めに入るかと思ったのだが、ここでまた予想外なことが起きた。

 会議の初めからずっとディアベルの傍に控えていた男が何事かをディアベルに耳打ちしたかと思うと、そのまま前に出てディアベルと位置を交代した。この男、ディアベルの秘書だか副官だかのポジションであくまで裏方だと思っていたのだが、違ったのか?

 ある意味のんきにそんなことを考えていたら、急にその男と目が合った。しかも視線を外す様子もない。そんなことをされる理由に心当たりもなかった俺は困惑した表情を隠せていなかったはずだ。

 そんな俺に向かってディアベル同様に穏やかな人相をした男は、柔らかく微笑んで一礼したのだった。その合間に視界に映るプレイヤーネームを確認してみたが、やはりこの男――キリュウという名に心当たりはなかった。

 

 第一印象は物腰柔らかで温厚そうな男。目には理知的な光が宿っていて、これで皮鎧ではなくローブでも着込んでいれば魔術師か賢者と名乗っても通じそうだ。

 ディアベルやキバオウと同じ片手剣が獲物のようだが、先の二人と異なり金属製の防具はほとんど身に着けておらず、皮製の身軽さ重視の軽装だった。そうした装備の選択から俺のスタイルに似た感じのプレイヤーなのかと、なんとはなしに思う。

 一度話せば記憶にそこそこ残る程度には礼儀正しい男だ。その上で見覚えがないのだから今日が初対面のはずなのだが……。

 そんな俺の困惑を置き去りに朗々とした声で彼は語りだした。

 

「先ほどエギルさんがベータテスターも僕たち初心者プレイヤーのために骨を折ってくれたと話してくださいました。この中にもベータテスターの方々がいらっしゃるのでしょうが、生憎その難しい立場から名乗り出るのも気がひけるというのは理解できます。ベータテスターのみなさんに助けられた初心者プレイヤーの僕としましては、是非直接御礼を言いたいところなのですがなかなかその機会もありませんでした。ですからこの場を借りてキリトさん、唯一ベータテスターだと明かしていただいたあなたにお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました」

 

 かすかに微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる年若い男の姿への驚き以上に、この場でベータテスターだと明かされたことへの焦りがあった。

 お礼を言いたいという気持ちを無碍にはしたくないし、わざわざ感謝してくれているのを拒むほどひねくれてはいない。しかし、なにも今ここでそんなことを言わなくてもいいのではないだろうか。

 気遣ってくれと要求するのも筋違いなのだろう。しかし先程までキバオウが、それはもう全力でベータテスターを扱き下ろしてくれていたのだ。しかもにこにこと笑うこの人の良さそうな男はまだしも、一般プレイヤーの多くはベータテスターを面白くないと考えているのだから、俺がベータテスターだなどとあまり軽々しく吹聴してほしくはなかった。もっともはじまりの街で盛大にカミングアウトしてしまったのだから、もはや手遅れと言われればその通りなのかもしれないけどさ。

 

 空気読めと全力で主張したい、マジで。エギルを見習えよ、やつは俺がベータテスターだと知ってても、この場でばらすなんて馬鹿な真似はしなかったぞ。

 嫌な予感を覚えてキバオウの顔をそっと伺ってみると、それはもう予想通りの嫌悪を込めた視線を向けられていましたよ、ええ。エギルにやり込められた腹いせもあるのかもしれないと思うと、無駄に疲れるような事態を招いてくれたキリュウという男を恨めしくも思ってしまう。しかしこれも善意だと思えば言い返すこともできない。

 

 結局、「はぁ、どういたしまして」などと間の抜けた返答を返して終わってしまった。

 キバオウの敵意をいたずらに買っただけの一幕にどっと疲労がたまる。

 そんな俺の気持ちを察してくれたのか、ディアベルが攻略会議の主題ともいえるパーティー編成を詰めるために再度司会を引き受けた後、労わるような視線を向けてくれたのが唯一の救いだった。

 

 

 

 

 

 第一層のボスの名は《イルファング・ザ・コボルド・ロード》。武装は、斧とバックラー。

 ベータテスト時点ではHPが少なくなると武器を湾刀(タルワール)に持ち変えて攻撃パターンが変わったので注意が必要。

 図体がでかい割に俊敏性も高く、あくまでベータテスト時点の話だが第二層、第三層のフロアボスよりよほど厄介なボスだと言われていた。

 それはボスの取り巻きがちょこまかと鬱陶しいせいで戦いづらい、ということも一因である。

 

 取り巻きのモンスターは《ルイン・コボルド・センチネル》。

 戦闘開始時点で3体出現し、ボスのHPが一定量減るたびに新たに召喚される。最終的には12体処理する必要がある護衛モンスターだ。イルファング・ザ・コボルド・ロードよりもずっと弱いためタイマンでも撃破は十分可能な強さなのだが、取り巻き同士の連携が妙に噛み合っているせいでソロや少人数パーティーだと返り討ちに遭い易い。

 こいつらをボスから分断したまま如何に素早く倒せるかが攻略の鍵となるだろう。

 

「――と、まあこんなところなんだけど、あんたちゃんと聞いてたのか?」

 

 ため息混じりにそう問いかけた俺は悪くないと思う。なんと言っても眼前にいるプレイヤーの態度の悪いこと悪いこと。必要最小限どころかほとんど何もしゃべりやがらない。

 そりゃまあ友達でもなければ仲間でもないんだからその態度もわからないわけじゃないんだが、そうした刺々しい反応が好ましいかと言えばそんなことはない。俺とて聖人君子なわけではないのだから、終始隔意ある態度を繰り返されれば腹も立つというものだ。だからと言って怒鳴りつけられるかと言えば、それはそれで別問題なんだが。

 

 今夜はフロアボス戦前の壮行会というか、親睦のための集まりらしい。もちろん主催はあのディアベルとかいう男で、昼間決まったパーティーメンバーごとに三々五々散らばってそれぞれ雑談に講じていた。割と仲良く盛り上がっているようで、時折楽しげな笑い声も聞こえてくる。なんとも羨ましい限りである。

 それに比べてこっちのパーティーはまるでお通夜である。陰気なことこの上ない。

 そもそもパーティーと言っても俺と一緒にいるのはたった一人のプレイヤーでしかない。別のメンバーが席を外しているのかと言えばそんなことはなく、ここにいる俺と眼前のプレイヤーを合わせた二人が我がパーティーの全メンバーなのだった。

 

 もちろんこうなったことには理由がある。

 ボス討伐のためにボス部屋に突入できる最大人数48人に近い44人という数字をディアベルが揃えたとはいっても、その内実はソロと小パーティーの寄せ集めでしかない。命の危険がある場所で、信頼の置けないプレイヤーに背中を預けたくないというのは全員の総意だろう。

 しかしばらばらにボスに当たるだけではせっかく精鋭を集めた意味がない。そこで最低二人以上のパーティーを組んで、全体の総括としてリーダーであるディアベルを置き、それぞれをある程度有機的に結びつけて戦術の幅を広げようという結論になった。

 この最低人数はソロでは前衛と後衛による交代(スイッチ)行動が取れないことに由来する。

 

 俺としてもソロでボスと相対するよりはマシだと異存はなかったのだが、では誰と組むかという段になって固まってしまった。見知ったプレイヤーがいないのだ。

 そもそもはじまりの街を発って以来、ひたすらにソロでレベル上げの日々を重ねてきた俺に親しいプレイヤーがいるはずもない。ここにクラインがいればやつを誘うところなのだが、残念ながら本人が初心者プレイヤーかつ何人もの知り合いを抱え込んでいる状態で十分なレベルに達しているはずもなかった。当然ここまでたどり着いてはいないのである。

 今頃はじまりの街付近で細心の注意の元、雑魚モンスターを狩っているのではないだろうか。

 

 そんなこんなで固まっていた俺を尻目に、その場に集った連中はさっさとパーティーを作り上げてしまった。この場合、出遅れた、と負け惜しみを言っておくべきだろうか? 俺のコミュ力が申し分なく発揮された順当な結果としか思えないけど。

 とはいえ、積極的に組む相手が見つからなければ後はあぶれ者同士で組むしかないのが真理というものだ。都合の良いことに俺と同じ《ぼっち属性》持ちが一人いたのでこれ幸いと声をかけたのだった、同類相憐れむ的な意味で。

 いやぁ仲間が見つかってよかったよかったと安堵したのも束の間、声をかけた相手が非常によろしくなかった。確かに友人ではない、しかし知人だった。それも、少々どころではなくまずい出会い方をした、険悪極まりない仲の知人である。

 

 

 

 

 

 第一層のフィールドを突破し、迷宮区を探索していた頃のことだ。

 モンスターの徘徊している迷宮区フロアで何故か行き倒れているプレイヤーを発見した。冗談でもなんでもなく意識を失って倒れていたのだ。この世界では空腹による意識混濁や餓死はない、はずだ。だから物語でよくある空腹が原因の行き倒れのはずがないのだが、まさか迷宮区の安全フロアですらない場所で熟睡を決め込む馬鹿がいるとも思えない。それはもう自殺と同じだ。

 何か特殊なトラップにでも引っかかったのかと周囲を警戒し、敵影もないことを確認し、考察は後回しとして見知らぬプレイヤーを救助した。流石に見捨てるのは寝覚めが悪すぎたのだ。

 

 別に感謝されたかったわけでもなければ、恩を売りたいわけでもなかった。あのまま見てみぬフリをして、巡回するモンスターに食い殺されるようなことになったら嫌だと思っただけだ。

 ほんの少しの善意と良心に従っただけ。

 だから安全圏まで運んだその見知らぬプレイヤーが目覚めたらさっさとおさらばするつもりだったのだが、何を考えているのか目を覚ましたそのプレイヤーは現状認識もそこそこに、再び迷宮区に突っ込もうとしやがった。

 

 慌てて止めたのだがまるで聞く耳持たず。もういっそ見捨ててやろうかと投げやりな気分で自殺志願者なのかと尋ねると、そこでようやく足を止めて自殺志願者という部分だけ否定した。そうは言っても、俺からすれば自殺志願者にしか見えなかったんだけどな。

 礼はいらないから事情を話せと促せばとても嫌そうではあったが一応話してくれた。

 俺としても単なる善意だけで助けたわけではなく、新種のトラップだかモンスターの特殊攻撃だかを明らかにしたかった打算込みなのだ。何らかのファクターによっていきなり意識が刈り取られるような事態などぞっとしない。そんな恐ろしい可能性を放置できるはずがなかったのだが、この行き倒れプレイヤーの事情を聞いて思い切り脱力した。俺の危惧は完全に的外れだったらしい。

 

 なにせ一睡もせずに戦い続けてたらいつの間にか倒れてたらしいのだ。なんでも空腹でも死なないと聞いたから眠らなくてもいいだろうと思ったとかなんとか。狂戦士(バーサーカー)かお前は、と思わず突っ込みたくなった俺の気持ちは理解してもらえると思う。

 食事も睡眠もなしで戦い続ける。俺とて似たようなことを考えたことはあったが、食事や睡眠なしで活動を続けると集中力が著しく低下するため、最低限の食事や睡眠は取るようにしているのだ。それを思えば休息なしに体調不良を押して無理を続ければいきなり意識を失うという事態もありえるということだろう。健康管理に気を配れというのは茅場の趣味なのか、それとも嫌がらせなのか。

 

 突然の失神などという事態を自分で証明することにならなかったことに一抹の安堵を覚えた俺を尻目に、この行き倒れプレイヤーは大して気にした様子も見せなかった。やっぱり死ぬつもりなんじゃないかという俺の疑惑は深まるばかりだったのである。

 突飛な想像とは思わない。なにせ前例もあるのだ。この世界から脱出できないのだと知らされ、遅々として進まない攻略に全てを投げ出して自殺を選んだプレイヤーは少数ながら存在する。中にはこの世界の死が現実の目覚めになるはずだという仮説――思い込みを信じて宙に浮く鉄の城から身投げをしたプレイヤーもいたらしい。

 

 だから、目の前で死ぬために戦っているようなそのプレイヤーも似たようなものかと思っていた。

 そんな俺の想像は半分当たりで、半分間違っていた。

 自暴自棄になっていたことは確かだ。しかし全て諦めて死を受け入れようとしているかと言えばそんなことはなく、自分に降りかかった理不尽な運命をなぎ払おうという闘志も持ち合わせていた。

 

「たとえ怪物に負けて死んでしまっても、このゲームに、この世界には負けたくない」

 

 煮えたぎるような怒りを胸奥に秘めながら吐き出された言葉に、思わず後ずさるほどの迫力を感じた。声量そのものはつぶやくような小さなものだというのにだ。それは命の限り、意志ある限り抗ってやるという宣言だった。

 ただ、悲しいかなその決意は無駄になるだろうと、俺は口にこそ出さなかったが冷めた目を向けていた。

 さながらバーサーカーのごとく、倒れるまで戦い続けたその精神には空恐ろしいものを感じるし、怒りに突き動かされるままはじまりの街からこの迷宮区まで辿り付き、なお戦い続けることが出来た事実は余人には持ち得ない戦闘センスを感じさせる。

 

 聞けばVRMMORPGどころかMMORPG自体プレイするのは初めてだと言うのだ。しかも俺のようにスタートダッシュをかけて先手先手でここまで来たわけではなく、後発組で何の情報もなく誰の助けも借りずここまで来れたこと自体が奇跡だ。一体どれほどのセンスと潜在力と幸運があればそんな芸当が可能になるのだか。

 しかしこのまま行けばそう遠くない未来に死を迎えることも確かだ。第一今回だってたまたま俺が発見できていなければおそらく死んでいた。そしてこの先、今のような猪の戦い方で生き残れるとは思えない。

 

 だからお節介を焼いたのだ。

 初心者プレイヤーでありながら眩しくなるような戦闘センスの塊。正しく電子世界の戦士として破格の天才。異常な適応力と学習力。ここで無為に散らすには余りに惜しかった。このプレイヤーが、ソードアート・オンラインという名の悪夢のゲームをクリアするために一体どれほどの助けになるのか、俺には想像もつかない。行く行くは攻略の要にだってなれるんじゃなかろうか。

 

 俺は自分自身がこのゲームに終止符を打てるようなプレイヤーだと思っていない。そんなことが出来るほど大した人間じゃない。だからゲームがクリアされるその時までなんとか生き延びることが俺の至上目的だった。

 そのために悪いとは思ったが利用させてもらおうと思ったのだ。いつか現実に帰るためには誰かにこのゲームをクリアしてもらわなくてはならない。一万人もいたのだ。その中から誰かがなんとかしてくれるはずだという、他力本願もいいところでの考えだったが、この行き倒れプレイヤーはその最有力プレイヤーではなかろうか。

 ベータテスターは二ヶ月の先行があるから初心者プレイヤーに比べてずっと強いし効率的だ。しかしそんな不利を笑って覆せる存在が目の前にいる。今は危なっかしいばかりで、放っておけばすぐにも死亡プレイヤーの末席に加わってしまう未熟なプレイヤーでしかないが、それさえ乗り越えてしまえば俺など足元にも及ばないくらい強くなりそうだ。

 

 そんな腹黒い打算を抱えながら、言葉巧みに宥めすかせ、時に挑発し、それでも頑なな態度を一向に崩そうとしないことに痺れをきらせて決闘まで持ちかけ、無謀に戦い続けることを止めるよう約束させた。

 安全マージンの意味や情報収集の大切さを叩き込み、効率的なレベリングの必要性を訴え、力任せの戦術が通じない相手もいるのだと文字通り叩き伏せることで力づくで理解させたのだった。

 

 

 

 

 

 そんな出会いの顛末を思い起こし、冷や汗を流す。

 どう考えてもやり過ぎである。ついでに俺が嫌なやつ過ぎる。

 ただなぁ、剣を交わすたびに強くなる、乾いた砂が水を際限なく吸い込むが如くの才能の原石に柄にもなく興奮してしまったのだ。あれが天才というものかとしみじみ思ったものである。そのせいで必要以上に痛めつけてしまったことは、まあ、その、許して欲しいなあ、なんて。

 うん、立場を逆にしたら一発殴らせろと言いたくなるな。

 

 俺としては自殺志願みたいな真似を止めさせて、ある程度命を大事に攻略に邁進してくれればそれでよく、まして今後顔を合わすことは早々ないと考えていたからこその悪ノリだった。しかしだ、まさかこうも早く再会し、その上臨時のパーティーを組むことになってしまうとは思わなかった。これだから人生は面白い、なんて余裕ぶってもいられない。ひたすら俺を無視してもくもくとパンを口にする相方にどうしたものかと困惑しきりである。

 まさかボス戦までこんな状態が続くんじゃないだろうな。俺の精神がマッハでやばいぞ。この世界で胃潰瘍がないことを切に願う。

 

「……君、ベータテスターだったんだね」

 

 そろそろ胃がキリキリと痛み出してきた頃、ぼそっとした不機嫌そうな声でようやく口を開いた元行き倒れもとい現相棒プレイヤー。ほっとした内心を悟られないようなんでもない顔で向かい合い、いっそ大袈裟なくらいに肩を竦めた。

 

「その通りだけど、軽蔑でもしたか?」

 

 ベータテスターの経験を利用して初心者プレイヤーを虐めたことを。

 

「別に。君がベータテスターだろうとそうでなかろうと興味ない。大事なのは君がわたしよりずっと強いってこと」

 

 淡々と口にしてはいるが、声には抑えきれない悔しさが滲み出ていた。

 案外負けず嫌いな性格なのかもしれない。俺と剣を合わせた時、驚くほど必死に俺の動きにくらいついてきたことを思えば、到底諦めの良い性格をしているとも思えなかった。

 念のため言っておくが褒め言葉である。この世界には負けたくないと並々ならぬ気迫で口にした通り、その身の内に激しい気性を秘めてもいるのだろう。

 

「その強さの原因がベータテスターってことなんだけどな。まあ気にしないでくれるんならそっちのほうがいいや。それで、明日のボス戦についてもう一回説明しようか?」

「いらない。聞いてなかったわけじゃないもの」

「さいですか」

「わたし達の担当は取り巻きのルイン・コボルド・センチネル。ただし戦闘に加わるのは取り巻きが包囲を破った場合で、任務はボスであるイルファング・ザ・コボルド・ロードに合流させないこと。つまり足止め」

「なにせ俺達は最小人数だからなあ。はぶられても仕方ない」

「ベータテスターであるあなたのせいなんじゃないの」

「ぐっ」

 

 ボスを担当する本隊はディアベルが率いて、取り巻きを担当する別働隊のリーダーは何故かキバオウに決まった。

 あの野郎、あれだけの騒ぎを起こしておいて恥ずかしげもなく立候補しやがったのだ。しかもディアベルがやつの別働隊リーダー就任を認めてしまったものだから頭が痛い。そしてベータテスター憎しのキバオウが俺に好意的な反応をするはずもなく、別働隊の中でもめでたく戦力外通知である。

 包囲の輪を破られ次第ということは、順調に討伐が進んだ場合俺達の出番はないということだ。明らかに邪魔者扱いされている。ついでに原因が俺という指摘は多分正しい。

 

 とはいえ、1パーティー最大6人制のシステムで2人だけのパーティーなんて扱いに困るだけ、というのもわかるけど。

 戦力として計算するには些か中途半端で、メインとして運用するには不安が過ぎる。少なくともキバオウらがそう判断したとしても仕方なかった、一概に好き嫌いで配置を決定されたと言い切れない事情もあるのだ。

 下手に前線での活躍を期待するよりも、予備戦力として確保しておいて適宜穴埋めに使うのだって戦術だ。

 

「その、悪かったな。折角パーティーを組んでもらったってのにこんな貧乏くじ引かせて」

「気にしてない。別にボス戦は今回で終わりってわけじゃないし、出しゃばるなっていうなら今は従っておく。わたしのレベルはこのなかで多分最下位だし」

 

 レベルが最下位というのは多分その通りだろう。詳しく聞いたわけじゃないが、デスゲームが開始されてしばらくははじまりの街の宿に閉じこもっていたらしいから、レベリングに費やせた時間は限られている。

 逆に俺はスタートダッシュしたままひたすらレベル上げに没頭していた。その上経験値ブーストスキル保持者だ、多分この中で一番レベルが高い。なんとも凸凹なコンビである。

 

「ボスの情報はわかったけど、それ以外に何かないの? 弱点とか有効な戦術とか」

「情報が錯綜してるんだよ。ボスと実際に戦った連中もいるはずなんだけど、情報の伝達手段がほとんどないから噂話が精々なんだ。そのせいで伝言ゲームみたいにおかしなことになってる。……そうだな、ベータテストでの話になるけど、ボスは雑魚モンスターに比べてずっとでかい上に迫力も段違いだ。力も強いし速さも比べ物にならない。雑魚モンスターの延長のつもりで戦うとひどい目に遭うから気をつけろよ。それと体感の話だけど、人型の場合はやっぱり頭とか心臓を狙って剣をヒットさせたほうがクリティカルが出やすい。今回のボスは人型モンスターだったはずだから一応覚えておいてくれよ」

「……よくそんなスラスラ出てくるね」

「死にたくないからな」

「死にたくない、か。ねえ、あなたどうしてわたしにあんなに構ったの?」

 

 あんなに? ああ、決闘までして基礎知識を教え込んだことか。

 

「そりゃ、放っておいたらあんたが死にそうだったからだよ。俺は自分本位のソロプレイヤーだけど、だからって死に掛けたプレイヤーを見てみぬフリはできないさ」

 

 そんなことが出来たらそいつは外道である。自分も死に掛けているならともかく、余裕があるなら助けもするだろうさ。

 

「だからってあそこまで痛めつけてくれなくても良かったと思うけど」

「……えっと、土下座したほうがイイデスカ?」

「いらないわよそんなの。でもまあ、それだけ心配してくれたのよね」

「いや、俺としては心配というかお節介。流石にあの状態を放っておくのは無理だっただけ」

「そう、そうよね。それが普通よね」

 

 何が琴線に触れたのか、妙に深刻に呟いていた。

 

「おい、調子でも悪いのかお前」

「お前じゃないわ。アスナよ。わたしのことはアスナって呼んで。わたしも君のことはキリト君って呼ぶから」

「アスナ……さん?」

 

 目を丸くして小さなつぶやきを零していた俺の困惑の何が面白いのか、軽やかな笑い声をあげる行き倒れさん改めアスナさん。今まで決して取ろうとしなかったフードをいっそ無造作に下ろすと、艶のある栗色の長い髪が目に鮮やかに背を流れていく。フードに隠れていたのはその見事な髪だけではない。作り物の身体とは思えないほど精緻にパーツが組み合わさった、見目麗しい少女の顔が現れた。

 多分俺とそう大きく年は離れていないとは思うが――びっくりするくらい綺麗な女性である。どうも今までは意識して男のフリをしてきたらしい。ぶっきらぼうだった声がいつの間にか柔らかくなっていたことで気づいて然るべきだった。

 

「アスナでいいわよ。キリト君はわたしの先生なんだしね」

 

 それはどうだろう、あれを教師と教え子と捉えるのはちょっと難しい気が。それとも、体育会系に馴染みがあればありなのか? 祖父に仕込まれた剣道でも割と理不尽なしごきは受けたし。世間の常識では虐めと紙一重な厳しさなのだと思っていたのだが、俺のほうが認識不足なのか? 俺のほうこそ深刻な悩みだった。というかさっきまでの陰気な空気どこいった。

 

「いや、そうじゃなくて。……アスナって女だったんだ」

 

 その瞬間、確かに世界が凍りついたことを俺は知った。

 ああ、これが虎の尾を踏むというやつなのか、と。

 

「もしかして、今までわたしが女の子だって気づいてなかった……? 遠目に見ただけとかならともかく、あれだけ話して、決闘までしておいて?」

 

 俺は答えることが出来なかった。

 

「……キリト君、そこで正座」

 

 反論することなど出来ようはずもなかったのである。

 

 

 

 

 

 そんな笑い話があった翌日。

 いよいよフロアボス戦である。

 この一戦はこれまで行われた散発的なボスへの挑戦とは全く違う。ベータテスターも含めて精鋭を大々的に集めた、非常に注目度の高いボス攻略戦なのだ。この一戦に向けられた興味と願いはそれこそ俺の想像以上だろう。なにせ一ヶ月が経とうというのに今だ最初の第一層ですら攻略されていない。そこに満を持して高レベルプレイヤーが総力を挙げて挑むというのだ。寄せられる期待も今までの比ではない。

 逆に言えば、もしもこの討伐戦が失敗に終わるようなら、それだけでアインクラッドに捕らえられたプレイヤーたちの心情は最悪のものになる。攻略意欲もがた落ちになるだろう。自殺者がさらに増えてしまう可能性もある。

 

 ――だからこそ、正しく負けられない一戦だった。

 

 攻略に参加する大半のプレイヤーも多かれ少なかれ寄せられる期待の大きさは肌に感じているようで、意気軒昂に気勢を挙げる姿が何度も目撃されていた。戦意が高いのは良いことである。

 さて、俺とアスナはどうかと言えば、変に昂ぶることもなく落ち着いたものだった。フロアボスに辿りつく前に何度かアスナとの連携を確認もしたが、特に問題はない。やはりアスナはセンスがいいというか物覚えが異常に早い。今まで碌に他人と組んで戦闘をすることなどなかったはずなのに、俺の呼吸に難なく合わせてくるあたり非凡の塊である。頼もしいことだ。

 

 ただし、俺個人に限れば少々問題が起きていた。直接ボス戦に影響が出るような問題ではないのだが、経験値やコルの獲得数値を見るにスキル恩恵が消えているのだ。

 どうやら《賢者の才》も《黄金律》もソロ時のみ発動する条件発動型スキルだったようだ。ゲームバランスを壊す反則スキルだけに何かあるとは思っていたが、完全ソロ仕様のスキルだったらしい。それでも十分ぶっ壊れスキルには違いないのだが。

 

 まあそれはいい。今回のパーティーはあくまで臨時パーティーであり、ボスを撃破すれば自然と解散するものだ。特に問題もない。

 ボス戦での負担が少ないことを理由に迷宮区でのモンスターの露払いを俺とアスナで引き受けた。俺にとってはベータテスト以来の本格的な連携の確認であり、同時にパーティーを組むのが初だというアスナの馴らしも兼ねてのことだった。

 

 そんな思惑の元、何度かあった遭遇戦を苦戦することなく制した俺とアスナのコンビに時折感嘆の声が上がったことは余禄と言うものだろう。ディアベルやエギルからは友好的な労いを、キバオウと彼に賛同している幾人かからは敵を見るような目と舌打ちを頂戴しながら、やがて重厚な大扉の前にたどり着く。

 この先は各層の最奥を守る守護者たるフロアボスの待つ大広間である。ディアベルの檄が飛び、全員が志を共にしたことを確認してからゆっくりと扉が開かれた。

 

 神殿の大ホールのような広大な空間に幾つもの円柱が並び立つ。そしてその奥、巨大で物々しい装飾を施された玉座に座すコボルドの王が、圧倒的な威圧感を放ちながら無粋な侵入者を睨みつけていた。

 始まりの合図は王とも思えぬ粗野で荒々しい、あるいは獣の王とみれば自然と納得してしまうような恐ろしい雄たけびだった。そんなコボルトの王が発する威嚇に怯むなとディアベルが負けじと声を張り上げ、ついに第一層フロアボス攻略戦が開始された。

 ディアベルが本隊を指揮し、キバオウが別働隊を統率する。かねてからの決め事通り、細部では連携の拙さこそあったが、全体としては上手く機能した戦いぶりだったと思う。急造の討伐隊としては十分だろう、さすがはフロアボスに挑まんとする精鋭といった感じだ。戦況は俺達に始終有利に推移していたと思う。

 

 ディアベルはリーダーに相応しい指揮統率を見せていたし、心根はともかくキバオウの実力も大したものだった。初心者プレイヤーとは思えぬ強さは今までの身勝手さを補って余りあるものだ。思わず見直してしまったくらいである。

 そして最年長プレイヤーと目されるエギル。彼はその大柄な体躯に似つかわしい大斧を振るって最大のダメージソースとして活躍していた。それも攻撃一辺倒というわけでもなく、時に味方の援護を優先させ、前衛と後衛の連携を上手く機能させる合間合間に、HPを大きく削られたプレイヤーの回復時間を確保させるという難事を事も無げに成功させていた。周りがよく見えている。底知れない実力のプレイヤーである。

 

 取り巻き連中の処理は難しくなかった。

 元々第一層攻略がここまで遅れたのはデスゲーム化した現状を踏まえ、石橋を叩いて叩いて叩きまくる慎重さを発揮したために必要以上にレベルを上げた弊害でもある。単純なレベルで言えば一層など遥か前にクリアしていてもおかしくはなかった。それが出来なかったのは一重にプレイヤー間の協力体制の拙さだったのだ。ベータテスターと一般プレイヤーが反目しているのがいい証拠だ。

 レベル的には苦戦するはずもない取り巻き相手にも順当に対処し、俺とアスナはボスと取り巻きの分断を維持するために警戒任務についていた、と言えば聞こえは良いが、つまり見ているだけだった。時々包囲の輪を抜けようと取り巻きの一匹が動くこともあったが、難なく包囲網の中に弾き返して終了である。最終的に12体の取り巻きを処理するのとボスの変化はほぼ時を同じく迎えた。

 

 イルファング・ザ・コボルド・ロードはHPを大きく減じると元々持っていた武器を変更し、その戦闘スタイルを大幅に変更する。それはベータテスターなら大抵のプレイヤーが知っていることであり、その性質は厄介であるが知っていれば恐れることはない。それどころかボス撃破が近いという目安にもなる。

 イルファング・ザ・コボルド・ロードの挙動から武器変更を読み取った俺は、そろそろ詰めの時間だと一人闘志を高めていた。取り巻きの処理も終わった以上、ここからは別働隊も本隊に合流することになる。後は人海戦術でボスを取り囲み、総攻撃をかけるだけだ。勝利も難しくない。ラストアタックボーナスはその中で運の良い誰かが手に入れるだろう。やはり最有力は一撃の重いエギルだろうか。

 

「ボスの動作がおかしい! 俺が仕掛ける、皆は下がってくれ!」

 

 ディアベルの指示に本隊別働隊問わず、一斉に距離を取った。司令官の指示だ、よほどの事情がなければ従うのが筋というものだ。

 しかし俺はその指示に、えっ、と思わず目を瞠った。

 予定と違う。ここからは数の有利を最大限生かす方策を取るはずではなかったか。何よりボスの動きに不審を感じたなら、不用意に仕掛けないで一旦退いて様子を見るべきだ。そこで一人だけ前に出るなど悪手も同然である。

 そもそも、なぜそこで討伐隊のリーダーであるディアベルがわざわざ前に出る必要がある? 司令官が斥候の真似事をしてどうするんだ。

 

 いや、ボスの動きの変化は武器変更の前触れだろう。ならば突っ込んでも問題ないし、ベータテスターならその兆候を見分けることが出来る。ボスの目的が武器変更にあることは間違いない。

 ……ベータテスターなら見分けがつく? いや、まさか。でもそれならディアベルはもしかして?

 そんな俺の疑問に答えが出るまでわざわざ敵が待ってくれるはずもなく、空気を引き裂くイルファング・ザ・コボルド・ロードの咆哮が大広間に響き渡り、ついにやつが武器を持ち替えた。ベータテストでは斧から間合いの短い湾刀(タルワール)に――。

 

「違う!? やつが持ち替えたのは野太刀だ! 下がれディアベル!」

 

 片手曲刀のタルワールと大振りの太刀では間合いも呼吸も全く違う。たった一人で特攻を仕掛ける形になっているディアベルが危険だった。

 しかしそんな俺の声がディアベルに届く前に事態は急激に変遷を重ねた。

 イルファング・ザ・コボルド・ロードの仕様が変更されていたことが驚きなら、次に俺達を襲った出来事もまた驚きだったのだ。いや、驚きを通り越して信じられない光景だっただろう。討伐隊のプレイヤー全員に激震が走り、そしてここからの数分間は誰も正確な事態の把握は出来なかったのではないだろうか。

 

 ディアベルが前触れもなく突然倒れこんだ。

 イルファング・ザ・コボルド・ロードの攻撃によってではない。ディアベルにダメージを与えたのは彼の背後から投擲されたピックによるものだった。図らずもその場面をこの目に捉えてしまった俺は呆然の体で視線を移す。

 そこにいたのは身も凍るような冷たい眼を隠そうとしない、俺達の仲間――だったはずの男だ。

 ディアベルの副官のような役を勤め、攻略会議の場で俺を名指しで丁寧な礼を述べたあの男だ。会議の後にディアベルから改めて彼の紹介を受けたので間違えるはずがない。そして信頼できるプレイヤーだともディアベルは言っていた。その彼がどうしてこんなことを。

 

 キリュウの手から撃ち出されたスローイング・ピックがディアベルを背中から射抜き、彼を石床に縫い付ける原因となった。誤射……ではない。そもそも投擲武器は威力が低すぎて攻撃には向いていない。あくまで投擲武器は敵の牽制やヘイトのコントロールのためのもので、フロアボス戦に使えるような武器ではないのだ。

 よしんばボスの注意を引こうと考えたにしても、その効果がほとんどないことは事前に周知されていた。ボスのヘイトを高めるには主武装で効果的な一撃を与え、ライフゲージを削るしかないのだ。補助武装であるピックでは牽制にすらならない。それを知った上で、この場面で投擲武器を使う。その意図するところは――ぞくりと寒気が背筋を這い上がった。

 

「アスナ! ディアベルを助ける!」

「わかった!」

 

 こんな時以心伝心で行動してくれるパートナーがいるというのは非常に心強いし動きやすい。

 投擲武器は威力が低い。誤射だろうが故意だろうがプレイヤーにだって大したダメージは与えられない。しかしその衝撃によって体勢を崩すことは可能だ。というよりそもそもそういう用途の補助武装だ。

 無防備な背中にピックを投げ込まれたディアベルは、ボスに向かって走り出していた中途で崩れ落ち、刀に持ち替えたイルファング・ザ・コボルド・ロードの一撃を受けて宙を舞った。幸いだったのはイルファング・ザ・コボルド・ロードの第一撃がディアベルの予期せぬ転倒のために空振りに終わり、連続技に移行できずに単発の技で終わったことだ。それがなければディアベルは今頃死んでいた可能性すらある。

 

 突然のプレイヤー攻撃という暴挙に出た男を視界の端で警戒しながらもディアベルとボスの間に割り込み、ディアベルに追撃しようとしていたイルファング・ザ・コボルド・ロードの剣戟を弾く。パリングの効果が及んでいるわずかの隙を逃さず、アスナがイルファング・ザ・コボルド・ロードの心臓目掛けてソードスキルの一撃を叩き込み、そのダメージとクリティカル効果で怯ませた。

 見事な腕だ。抜き手を見せない瞬速の突きと精密な急所狙いは彼女の才覚と胆力、なにより今日までの努力を余すことなく発揮した結果だろう。

 誰よりも華になる流麗な細剣使い(フェンサー)、彼女はやがて攻略の柱になる。いつか抱いたそんな俺の思いを肯定する姿だった。

 しかしそんな彼女の勇姿に感嘆してばかりもいられない。俺はそのままディアベルの元に急行し、その場で用意してあった回復ポーションを取り出した。ディアベルのライフゲージは瀕死を示すレッドに染まっていたのだ、一刻の猶予もない。

 

「皆、アスナを援護してボスを引きつけてくれ!」

 

 レベルの心もとないアスナに大きな負担を強いることになるが、今はディアベルの身を優先しないとまずい。真っ先にエギルが動いてくれたおかげで、浮き足立っていた他の連中もすぐにボスの元へと殺到していく。油断はできないがひとまずボスのほうは心配いらないだろう。

 問題はこっちだ。ボスの攻撃の余波か、それとも投擲されたピックに何か仕掛けでもされていたのか、ディアベルはどうも麻痺にやられているらしい。道理で直ぐに退避できなかったはずだ。状況は悪い。

 

「あんた、どういうつもりだ」

 

 剣を突き付け、睨みつけながら非難の声を投げかけるが受け取る側の男は意に介した様子もなかった。氷のように温度のない目は変わらず、能面のように色のない表情をしているくせに不気味に弧を描いた口元が嘲笑に歪んでいた。

 静かで、不気味な、今まで見たことのない人間の顔だった。こんなにも背筋を寒くさせる黒々とした気配など出会ったことがない。戦慄するほどの恐怖を感じた。

 

「どういうつもりもなにも……何を怒っているんです? ちょっと手元が狂ってしまっただけじゃないですか」

「白々しい。そんな言い訳を信じてもらえるとでも思ってんのかよ」

「ええ、本当に失敗しました。もう一呼吸遅らせていれば、今頃そこの卑怯者を血祭りにあげられたというのに」

「なに……?」

 

 ぞくり、と再びの冷気。

 違う。この男は言い訳をしようなどと考えていない。ただただディアベルが生き残っていることを嘆き、悲しみ、残念がっているのだ。表面上は理性的であるこの男は――もうとっくに狂ってしまっているのだと漠然と感じ取る。

 

「ベータテスターなどさっさと死んでしまえばいいんですよ。生きているだけ害です。いっそ罪だといって良い」

 

 台本を読むように淡々と告げる男の声に嫌な汗が背筋を伝う感触がする。この世界では汗などかかないのだから現実を生きていたころの名残、錯覚だろうか。

 人の良さそうな穏やかなこの青年は、しかし既に精神の均衡を失っていた。そしてもう二度と戻ることはないのだろう。多分、この世界で生きている限りは。現実世界に戻ることさえできれば、あるいは持ち直す可能性もあるのかもしれない。

 しかし――。

 意味のない仮定だ、と小さくかぶりをふる。結局のところ気休めにしかならない推測だった。

 

「……なにがあった? なぜそこまでベータテスターを憎む?」

 

 キバオウがベータテスターを嫌悪するレベルの話ではない。この男はベータテスターを躊躇なく殺そうとするほど憎んでいる。

 

「ありきたりのつまらない話ですよ? 僕があるベータテスターを信じて、そのベータテスターが僕を裏切って殺そうとしたってだけです」

「殺そうとしたとはまた物騒な……」

「あなたもベータテスターでしたね。ならホルンカの村のクエストを知っているでしょう? アニールブレード獲得クエストです」

「ああ」

 

 わからないはずがない。今、俺の装備している剣がまさしくそのクエストで入手したものなのだから。

 正式名称を《森の秘薬》クエスト。デスゲーム開始初日、はじまりの街に残ると口にしたクラインを見捨て、自己強化を優先した俺が真っ先に遂行しようとしたクエストだった。

 

「そこでコペルという名のベータテスターから、クエストクリアアイテムの入手のために協力しようと持ちかけられました。知っての通り、あそこのモンスターは少々特殊です。扱いを間違えると次々に仲間を呼ばれてどうにもならなくなってしまう」

 

 ああ、そういうことか。それはまた、コペルとかいうやつも随分悪質な真似を。

 

「《リトルネペント》の性質を利用したMPK(モンスタープレイヤーキル)か。あんた、よく生き残れたな」

 

 《森の秘薬》クエストをクリアするために必要なキーアイテムが《リトルネペントの胚珠》。身の丈1メートル半の自走捕食植物《リトルネペント》のレアドロップアイテムだ。レアドロップと言ってもアイテムドロップ率が低いのではなく、モンスター湧出確率が絞られているタイプで、リトルネペントは同種同名ながら個体別に三種類の特徴を持つ変則モンスターだった。

 まずは何の変哲もない《ノーマル》、胚珠をドロップするレア扱いの《花つき》、そして罠扱いの実を攻撃すると周囲一帯の仲間を呼び寄せてしまう《実つき》。

 

 奴らとの戦いの中で裏切られたというのなら、それは《実つき》を意図的に攻撃し、周囲一帯の敵を呼び寄せることで仕掛けるMPKだろう。その目的はプレイヤーが死亡した時に残される装備品とベルトポ-チの中身――恐らくはドロップに成功していた《リトルネペントの胚珠》。

 裏切りの背景を想像して暗澹(あんたん)たる思いを抱えながらの俺の指摘に、男は相変わらず穏やかそうな顔でにこりと笑った。その普通の反応がひどく怖い、そして悲しい。

 

「察しが良い。流石は《はじまりの剣士》殿です。ええ、そこで僕はあの卑怯者に多数のモンスターを擦り付けられて絶体絶命になりました。当の本人はハイディングで逃げ隠れしたようですがね。残念ながら僕は索敵にスキルポイントを振っていたので隠れることも出来ませんでした。……正直、今になってもどうやって逃げたか思い出せないんですよ。あの時はただただ逃げ惑い、必死で足を動かした記憶しかありません。気がつけばホルンカの村にいました」

 

 俺が《はじまりの剣士》? いったい何の冗談だ? いや、今はそんなことは後回しだ。

 

「あんたが悲惨な目に遭ったのはよくわかった。ベータテスターを憎む理由もわかった。それで……ディアベルを狙ったのは何故だ?」

「もう気づいているでしょうに。そこの男はベータテスターですよ。その事実をひた隠しにして討伐隊のリーダーなどと良い気になっている。どれだけ僕ら一般プレイヤーを馬鹿にするのでしょうね? あれだけ協力と団結を謳っておきながら、チャンスと見るやラストアタックボーナス狙いの独断専行ですよ。しかもそのサポートを僕に頼むのですからつくづく良いご身分なものだ」

 

 糾弾を受けたディアベルの無念そうなうめき声が響く。多分、こいつを信頼して自分がベータテスターだと明かしていたのだろう。その結果が裏切りとはディアベルも運がない。いや、この場合は人を見る目がないと言うべきか。信じるべからず人を信じた。そういうことだろう。そしてかつての裏切りの被害者は、裏切りの加害者側に鞍替えすることで恨みと怒りを晴らそうとしている。

 なんとも陰惨な因果のことだ。この男が俺に礼を言ったのもそのせいか。ベータテスターだとばらすことで集団の不和、俺の排斥を狙った。

 

「八つ当たりもいいところだ。あんたが恨むべきはそのコペルとかいうやつだろうに」

「ええ、ですが彼はいつの間にか鬼籍に入っていたようでしてね。それを知ったときは笑うよりも唖然としたものです。どうして僕の報復を待たずに死んだのだと」

 

 低く暗く笑う姿に、ああ、もう完全に狂ってしまっているのだなと思う。まるで現実感のない会話だ。今こうしている間にもフロアボス戦は続いているというのに、今となっては随分遠くの出来事に思える。

 茅場、お前の作り出した世界はこんなにも冷たく残酷だ。

 自然とため息が漏れた。

 

「その様子だと気づいてないんだな。多分、コペルとやらが死んだのはあんたをMPKしようと嵌めた時だよ。植物系モンスターに隠蔽スキルは通用しない。大量に集めたモンスターに囲まれて盛大に自爆したんだろうさ」

 

 ベータテスターの全てが正確な情報を保有しているわけでもなければ、都度正しい選択を取れるわけでもない。コペルという男は隠蔽スキルと相性の悪いモンスタータイプがいることを知らなかったのだろう。視覚以外の探知器官を備えたモンスターには隠蔽スキルの効果が著しく低下する。一匹二匹程度なら運が良ければやりすごせるかもしれない、しかし《実つき》を攻撃してしまったのならもはやどうにもならなかったはずだ。

 そんな俺の指摘がよほど意外だったのか、大きく見開いた目には単純な驚きしかない。無防備なその様には妙な愛嬌すら感じさせられた。

 

 そして顔も知らないベータテスターの自業自得に憐憫と怒りを等分に抱いた。いくらアニールブレードが第一層において破格の武器だろうが、所詮は数打ち武器に過ぎない。多少面倒なクエストをこなす必要はあるが、そのクエストに時間制限や人数制限はないのだ。

 要はアニールブレードという剣は労力に比較してコストパフォーマンスに優れた序盤の優良武器であり、運営が用意したお得クエストの一つに過ぎなかった。

 他プレイヤーを陥れて、まして殺そうとしてまで手に入れるほどの価値はない。せめてこの世界に一本しかない伝説の武器とかそういう超希少アイテムを対象にしろと言いたい。それでもこの世界の死が現実の死である以上、論外の行動であることに違いはないのだが。

 

 コペルというプレイヤーは近視眼的すぎて話にならない。ゲームクリアという大局がまったく見えていなかったのだろう。

 あるいはそれほどまでに自分の強化を優先したのか。俺と同じ方針でありながら、一線を踏み越えて自滅した。そう考えると苦い思いが胸にこみ上げる。お前も所詮はコペルと同じだと責められている気分だ。

 

「ハイディングにそんな弱点があったのですか。なるほど、全く気づきませんでした。やはりあなたは他のベータテスターとは違う。ベータテスターがあなたのような人ばかりなら僕は……」

 

 いい加減うんざりだ。今度は俺を無駄に持ち上げ始めた。勝手に美化して勝手に失望するくらいなら放っておいてほしいと思う。

 何を考えて俺を特別だと考えたのかは知らないが、俺とディアベルに大した差などない。むしろこうして攻略に必要な手を打ち、ばらばらだったプレイヤーの力を結集させようとしたディアベルのほうが、俺なんかよりよっぽど他人の役に立っているだろう。

 身勝手という意味では俺はコペルとかいうやつに近かった。初心者プレイヤーを見捨て、自身の強化だけをひたすら追及してきた身だ、褒められる要素など何処にもない。

 

「もう一つ聞かせろ。なんでフロアボス攻略なんていう大事な場面でこんな手ひどい裏切りを仕掛けた?」

「別にいつでもいいじゃないですか。一ヶ月も経とうというのにいまだ第一層すら攻略できていないのですよ。つまりこのゲームはクリアできず、みんなそのうち死ぬことに変わりはないんです。早いも遅いもないでしょう」

 

 駄目だ、と思った。まるで話が噛み合っていない。認識の前提からしてずれている。

 この男は既に生を諦めているのだ。ゲームクリアに活路を見い出すなどということをせず、現実世界への帰還を不可能と見切ってしまっている。

 だからこんなにも死者の顔色で、冷たく不気味な声音を出せるのだろう。この男が望んでいるのは死出の旅路を彩る道連れの存在か、それともわずかに残った人間らしさを象徴する恨みつらみの復讐なのか。

 どちらにせよ迷惑極まりない存在に成り果てている。

 

「長話が過ぎました。そろそろディアベルさんの麻痺毒も解けてしまいそうですし、死んでください」

 

 まるで今日の昼食のメニューを告げるがごとくの気楽さだ。

 この男に正常な判断力など残っていない。本人にも制御できない暗い情動に支配され、突き動かされているだけだ。

 

「近づくな! ボスを片付け次第あんたを監獄エリアに送り込んでやる、それまでおかしな動きをするんじゃない……!」

 

 声を張り上げて精一杯の虚勢を張る。しかし俺の警告などどこ吹く風だ。同じプレイヤーである己を斬ることは出来ないとたかを括っているのか、それとも何も考えていないだけなのか。薄い笑みを浮かべたその表情からは何も読み取れなかった。剣先を向けて脅す俺の口上にも全く頓着せずにゆっくりと近づいてくる。

 

 どうする、どうする、どうする。

 

 ディアベルはまだ動けない。他の連中は未だイルファング・ザ・コボルド・ロードを仕留められずにいる。そして俺も何ら有効な手立てが思いつかずに手をこまねくばかりだった。

 本来ならばこういったプレイヤー同士の争いや悪質なマナー違反には運営側の警告、最悪はアカウント排除のような手段が取られるべきなのだが、この世界に運営側の助けはない。茅場晶彦はこちら側のどんな要請にも、悲鳴にも似た嘆願にも一切応じることはなかった。

 ならばプレイヤー同士の争いはプレイヤー同士でケリをつけねばならない。

 しかし一体どうしろというのだ。ただのゲームならともかく、こちらでの死が現実の死になるこの世界で、同じ人間のプレイヤーを攻撃できるはずがない。抑止力の存在しない剣先は、やはり何の意味もなく虚空を彷徨うだけだった。

 

 

 そのはずだったのに。

 心の均衡が既に崩れた狂人は。

 死の重圧と人間の裏切りに壊れた哀れな男は。

 俺が向けた剣の切っ先を自らの心臓に定め、薄い笑みを浮かべながら。

 ただの一度も躊躇を見せず、あたかも操り人形の繰り糸に導かれるような気味悪い不連続の動きで。

 恐れることも怯むこともなく最後の距離を――あっさりと、無造作に、ゼロにしてしまった。

 何が起きたのか、起きようとしていたのか、起きてしまったのか。

 多分、俺は一生この時の事を忘れない。人を貫いた剣の感触を忘れない。

 

 

「――これで……あなたは英雄ではなく、ただの人殺しだ」

 

 紡がれた呪詛を最後に、爆発したポリゴン片が俺の視界を青く、白く灼きつけた。

 奇妙な虚脱が俺の心身から全ての力を奪い、石のように硬直した身体と思考の全てが自分のものではないかのように遠い。呼吸さえも忘れて俺の悉くが凍りついていた。いや、そもそもこの世界では自発呼吸をしているつもりになっていただけだったか。呼気すら吐かぬ偽者の身体、紛い物の仮想体(アバター)だ。その事実の空虚さと冷たさを思ってか、じわじわと心が(から)となり、罅割れが連鎖するかのように空洞ばかりが拡大していく。

 

 そうして俺は哀れな最期を遂げたプレイヤーへと痛みにも似た哀悼の思いを抱き――同時に絶望を知った。

 脳裏に反響する最期の言葉。呪いの調べ。

 人を安心させる優しく穏やかな声音が、こんなにもおぞましい呪文に聞こえるのだと初めて知った。

 知ってしまった。

 知りたくなんて、なかった……ッ!

 

 

 

 

 

 人が結晶となって無に還る。

 とても人間の死には見えない綺麗な――綺麗すぎる終わり方だった。

 俺は何も言えなかった。

 キリト君も何も言わなかった。

 俺もキリト君も黙したまま呆然とその場を動かず、やがてキリト君が無言のまま幽鬼のように立ち上がる。ゆらり、と。そして未だ健在だったイルファング・ザ・コボルド・ロードへと向かっていくのを俺は黙って見送っていた。

 

 麻痺が切れ、身体に自由が戻っても俺はぴくりとも動かなかった、動けなかった。人の放つあまりの毒気に当てられてしまったからなのか、それともあまりに痛ましいキリト君の顔を見てしまったからなのか。青白く凍りついた、喜怒哀楽の全てを削ぎ落としてしまったような凄惨な横顔を。

 俺が果たすべき責任、討伐隊を指揮するリーダーの責務を放棄していたことに気づいてはいたが、それでも今の俺は何もせずに見物を選ぶことしかできなかった。無力感に苛まれていたのか、それとも後悔に浸っていたのか、それすらわからない。

 

 その後はあっけないくらいわずかなうちに全て終わってしまった。

 キリト君は文句なしに強かった。彼を別働隊に当てた判断を今更ながらに後悔したほどだ。彼を初めから本隊に組み込み、アスナ君を彼の補佐に付ければ苦戦することなくイルファング・ザ・コボルド・ロードを撃破できたはずだ。それほどあの二人の連携は見事なものだったし、キリト君の強さは群を抜いていた。

 

 彼が強いことなどわかっていたことだ。その事実を無視して彼を別働隊に配したのは俺の我侭だった。ラストアタックボーナスを欲しがったがために戦力の分散を招いたのだ。ならば初めから俺はリーダー失格だったのだろう。

 俺が狙っていたラストアタックボーナスはキリト君が持っていった。ボスが撃破されたのだ、本来なら喜びの歓声が上がってもよかったはずだが、今この場にはしわぶきの声一つあがらない。誰もがキリト君の姿を凝視し、目を見開き、そして伏せた。何が起きたかを察したのだろうし、こちらのやり取りを聞いていた者、見ていた者とていただろう。隠し通せるはずもない。そもそも隠し通そうともしていなかったが。

 

「オレンジ……」

 

 ぽつりと、誰かが口にした。

 キリト君のキャラクターカーソルはオレンジ色に染まっていた。犯罪を犯したプレイヤーを示す証である。犯罪防止エリアの外でグリーンプレイヤーを害したとシステムに判定されると、攻撃を仕掛けたプレイヤーは犯罪者の烙印を押されることになる。そしてそれ以降、主街区への立ち入りや転移門の利用が不可能になる。これは犯罪を犯したプレイヤーに対するペナルティだ。

 だが、だが……ッ!

 

「どうしてキリト君がオレンジになるんだ! オレンジプレイヤーをグリーンプレイヤーが攻撃したってオレンジにはならないはずなのに……ッ!」

 

 声を張り上げて疑問を口にする。

 キリュウ君が俺をピックで攻撃した時点で彼はオレンジになっていたはずなのだ。犯罪者とシステムに認定されていなければならなかった。そしてオレンジプレイヤーをグリーンプレイヤーが攻撃しても、それはシステム上オレンジと判定されなかったはずだ。だというのになぜキリト君に犯罪者の烙印が押されている?

 誰も答えなかった。そも、一部始終ならともかく最初から最後まで当事者として関わっていたのは俺とキリト君だけだ。答えられないのも無理はないか。そんな沈黙を破り、俺が求める答えをもたらしたのはキリト君本人だった。

 

「多分、ディアベルを狙ったピックの軌道がイルファング・ザ・コボルド・ロードと重なってたせいで、あいつはオレンジ判定を免れていたんだろう。よくよく思い出せば、確かにあいつのカーソルの色は変化してなかった。グリーンのままだったよ」

 

 自嘲気味につぶやかれた声。当然だがその声に力などなかった。そして伏せ気味の表情は憔悴に満ちてあまりに痛々しいものだった。

 なんてことだ。

 ようやく吉報が届けられると思った。諦観に支配されようとしているはじまりの街の皆に、諦めることはない、ゲームクリアの日はくるのだと元気付けられるはずだと思った。今日はその記念すべき日になるはずだったのに。

 だというのに、はじまりの街の希望であったキリト君にあまりに重い十字架を背負わせてしまった。

 

 何もかもが予定外だ。停滞した現状を打ち破り、少しでも早く皆を解放するためには攻略を有利にする強力な武器防具が必要だと思った。だからこそ後ろめたい気持ちを抱えながらも貴重なラストアタックボーナスを狙った。

 これから先、高レベルプレイヤーの力を束ねてゲームクリアを一丸となって目指すためには、皆を引っ張っていけるだけの強さが要ると思ったのだ。プレイヤー同士の不満や仲たがいを押さえ込み、戦えないプレイヤー達の希望となるためには、何者にも負けない力が必要だった。

 その無茶の代償がキリュウ君の裏切りだったのか? 俺の不徳をキリト君に押し付けてしまったのか?

 やるせない思いが吐き気を覚えるほどに強く胸を締め付けた。

 

「ディアベル……さん」

 

 見上げた先に佇むキリト君はいつの間にかその装いを変えていた。夜の闇のように漆黒のコートを着込み、焦点の定かでない茫洋とした瞳で俺を見つめている。

 キリト君の着込むコートは今まで見たことのない装備品だ。NPCの経営する店売りの品ではない。おそらくこのコートが今回のラストアタックボーナスで獲得したアイテムだったのだろう。

 

「なんだい、キリト君」

「先に行きます。俺はもう街に入れないし転移門も使えない、アクティベートはお任せします」

 

 ベータテスト時はラストアタックボーナスを取ったプレイヤーが、現階層と次階層をつなぐアクティベートを起動させる役目を負っていた。それがフロアボス戦における殊勲者への名誉と祝いでもあった。……今のキリト君には酷なだけだろう。

 

「わかった。後のことは任せてくれ、君は何も心配しなくていい」

 

 これから先、彼には尋常でない苦難が降りかかることになる。せめてこの場の収拾と後の混乱の抑えくらいはやらなければ、とてもキリト君に顔向けできなくなってしまう。

 

「助かります。それと、あなたにお願いがあります」

「聞こう」

「ベータテスターを無駄死にさせないよう、今回討伐隊に参加したメンバーの中でだけでも情報交換の場を作り上げてください。正直、ベータテスターと初心者プレイヤーがいがみあう状況が続くとそれだけでゲームクリアが不可能になります。……なにより、《フロアボス戦で初心者プレイヤーがベータテスターにPKを仕掛けた》、この事実はゲーム攻略の足枷にしかなりません。そんな醜聞、間違っても広めるわけにはいかないんです。ですから、必要とあらばオレンジになった俺の名を利用し尽くすことも考えてください。ベータテスターと初心者プレイヤーの怒りを俺に向けてもらってかまわない」

 

 ――息を、呑んだ。

 君は、俺にそんな残酷なことをしろと言うのか。君を人殺しと罵り、切り捨てろと、そう言うのか……?

 キリト君の真意を理解した刹那、激昂そのままに、あるいは混乱そのままに、喉の奥から搾り出すような反論の叫びが飛び出していた。

 

「そんなことを……そんなことをできるはずがないだろう……!?」

「――できるはずだ! あんたがベータテスターとして責任を感じているのなら! ……できるはずなんです」

 

 急速に焦点を結んだキリト君の瞳が鋭く俺を射抜く。キリト君の返答は苛烈な叫びだった。あるいは苛烈に聞こえた、が正解なのかもしれない。

 自然と、手が、足が震えていた。心の戦慄きが身体にも伝染したように一向に治まらず、わけもなく何かを殴りつけたくなった。とても冷静でなんかいられない、いられるはずがなかった。

 

「キリト君……」

 

 慟哭の叫びをあげたかったのは何も俺だけじゃない。むしろキリト君こそ、この理不尽な仕打ちに叫びだしたかっただろう。何故、どうして、と。キリト君の心情を思えば俺にこれ以上何も言えるはずもなく、そしてそんな俺をキリト君はじっと見つめ、それからやるせなさそうに首を左右に振った。

 

「それに俺はそう長い間生きていられないでしょうから。もう、悪名も罵声も気にする必要がない。今回のこと、俺からは何も言うつもりはありません。だから後のことは全部お任せします。……約束、確かにしましたからね。失礼します」

 

 以後一切の弁明をする気はない、誤解を解く気もない、それが必要なことなのだと彼は告げていた。そんなキリト君の姿にまたしても同じ疑問が湧き上がり、湧き上がったそのままに空回る。

 何故だ。何が悪かった。どうしてこんなことになった。どうして君はそんなことが言えるんだ。どうして――。

 今のキリト君にかける言葉を俺は何一つ持っていなかった。そんな俺の言葉がキリト君に届くはずもない。俺自身を慰めるだけに終わる薄っぺらい言葉なんて恥ずかしくて口にできるはずもなかった。

 重い枷を付けられ引き摺っているかのような足取りは痛々しく、そんなキリト君に声を掛けられるものは誰一人とていなかった。重苦しい沈黙が支配する中、肩を落としたキリト君の背が少しずつ遠ざかっていく。

 

「……キリト君!」

 

 もしもそんな彼を引きとめる声があるとすれば、それは彼とコンビを組んでいた彼女以外にはいないだろう。この場の誰よりも彼女こそが相応しかった。キリト君は振り向かない。しかし足を止めてアスナ君の言葉を待った。

 

「わたしは……わたしも君と一緒に――」

「アスナ、その先は誰のためにもならない」

 

 それ以上は言わせない、そんなキリト君の言葉少なに語る決意にアスナ君の口も封じられた。

 オレンジだからだろうか。幾つものペナルティを背負い、この先謂れのない非難を受けることもあるだろう。

 ベータテスト時代からグリーンにカーソルを戻すためのカルマ浄化クエストの存在は噂されていたが、果たしてデスゲーム化された本仕様のソードアート・オンラインにそのような救済措置は取られているのだろうか? 最悪の場合、この先キリト君はずっとオレンジプレイヤーのままという未来もありえる。

 だからこそキリト君は、そんな茨の道に他人を巻き込むことを良しと出来ないのだろう。

 

「聞いてくれアスナ。君は強くなる。きっと、誰よりも強くなれる。君は、俺が今まで出会ったプレイヤーの中で一番戦う才能があるよ。それはこの世界ではとても貴重な資質なんだ。だから君は一緒に戦うことのできる、信頼できる誰かを探すといい。そして、もしも信頼に足る人からギルドに誘われた時は迷わず応えるんだ。それがこの世界を生き抜くかけがえのない力となる」

 

 だからもう俺のことは忘れろ。そんなキリト君の声が聞こえてくるようだった。

 穏やかな声だった。静かで、柔らかな――殉教者のような。

 

 まるで遺言だ。

 

 そう思ったのは俺だけじゃなかったはずだ。エギルさんは複雑そうな表情を隠すことなくキリト君をじっと見つめていたし、あれほどキリト君を嫌っていたキバオウ君は感情の矛先を見失って面白くなさげに視線を逸らしていた。なによりキリト君の言葉を真正面から受け取ったアスナ君の瞳からは一筋の涙が零れ落ちていった。

 誰も彼もが無言だった。

 そして、アスナ君の返事を待つことなくキリト君は行ってしまった。一度も振り向くことなく、粛々とこの場を立ち去っていく彼の姿は潔すぎて、余計に自分の情けなさが思い知らされるようだ。

 

 

 

 こうして第一層フロアボス討伐戦は終了した。

 第一層攻略という快挙に対する喜びはない。興奮もない。

 ただただ静かに、やるせない思いだけが募る時間が訪れたのだった――。

 




 《キリュウ》というキャラはオリジナルですので原作には存在しません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第03話 嗤う黒猫、薄氷の呼び声 (1)

 

 

 誰かにとっての常識が、別の誰かにとっての非常識になることは往々にして存在する。

 今、俺の前には、その典型例が横たわっていた。

 

「こいつ、今度盾持ちの前衛剣士にコンバートしてもらうつもりなんですけど、本人が嫌がってまして。だからその辺りの心得みたいなものを教えてもらえると助かるんです、お願いできませんか?」

 

 朗らかに笑いながらこの集団のリーダーである彼は語る。

 

「無理だってば。私、今まで後ろから槍で突っつくことしかしてこなかったんだよ? 前に出て戦うなんて出来るわけないじゃない」

 

 瞳を揺らして答える彼女の訴えは、この場の誰にも深刻に捉えられることなく虚空に消えた。

 

「平気だって。他のギルドの知り合いにも聞いたけど、盾持ちの重装甲で固めた壁戦士(タンク)が一番生存率が高いって話なんだ。怖がりのサチに一番向いてるポジションだと思う」

 

 男が勧め、女が渋る。

 そんな喜劇とも悲劇ともつかない寸劇を眺めながら思う。

 ――お前は一体何をほざきやがっているのか、と。

 そんな呆れ混じりの罵倒が思わず口に出そうになった俺はきっと悪くない。こんな頭の痛くなる会話を聞いていれば誰だってそうなる。

 あまりに緊張感のないやりとりに何度怒鳴りつけたくなったことか。しかし今、俺の目の前で起きていることは所詮他人事で、しかも昨日まで名前も知らなかった見知らぬギルド内部の話である。この場で俺は単なる客だった。であればこそ自重して、彼らの問答をぼんやりと聞き流すに任せていたのだった。真面目に聞いているとそれこそ頭痛がしてきそうだからだ。

 

 

 

 彼らはギルド《月夜の黒猫団》。

 中堅と呼ぶにはまだまだ実力不足の、構成員5名で活動する弱小ギルドの一つだ。

 彼らに出会ったのは夕暮れ間近の半ば過疎った狩場エリアでのことだった。既に最前線が30層近い現在、10層の片隅に位置する狩場エリアを訪れるプレイヤーは少ない。このエリアのモンスターは特に経験値効率が良いわけでも、レアアイテムがドロップされるわけでもなかったからだ。上手くすれば誰ともすれ違うことなく武器強化素材を目標数確保できるだろう。そう思って下層まで降りてきた。

 

 そんな時、モンスターのターゲット保持をミスったのか、対処できる限界の数を超えて誘引してしまい、半ばパニックになっている小集団を発見したのだった。このあたりの狩場に生息するモンスターは全てプレイヤーを認識次第殴りかかってくる好戦型(アクティブタイプ)で、しかもプレイヤーを察知する範囲がこの層以前よりもわずかだが広めに設定されていた。

 特徴といえばそれくらいで、ほかに厄介な攻撃や能力値を持っているわけではないため、情報不足か注意不足かのどちらかによって、モンスターの察知範囲にもろにひっかかったのだろうと思われる。

 

 今まで非好戦型(ノンアクティブタイプ)のモンスターばかりを相手にしてきたプレイヤーにままある未熟さだ。リスク管理が甘いのである。とはいえ、そのあたりはゲーム開始以来フロアボスを除けば常にソロプレイを続けてきた俺だからこそ、一層厳しい評価になってしまうのかもしれない。

 

 彼らに目を留めたのは偶然だった。しかしその戦いぶりにはすぐに眉を潜めることになった。前衛の入れ替わるスイッチ行動をほとんど取らず、かと思えば明らかにタイミングを逸した無意味な前衛の交代を図る。前衛がモンスターを引き付けておけないから戦線の維持が難しくなり、後ろへ後ろへと追いやられてしまう。

そこに加えて索敵担当がいないのか、その暇がないのか、別のモンスターの察知範囲に簡単に引っかかって敵を誘引してしまうのだった。そのうちに増え続けるモンスターの数にパニックになったのか、集団の中でも一番動きの鈍い紅一点の槍使いが、ソードスキルの発動を忘れて闇雲に武器を振り回すようになってしまった。

 リーダー格の青年も戦術眼に乏しく戦況を覆す指示を上手く出せず、出せても技術と連携が未熟なメンバーでは適切に動けず、ジリ貧のまま戦場から後退し続け、またしても別のモンスターにひっかかってしまう。絵に描いたような悪循環が形成されていたのである。

 

 右往左往し、撤退の合図も出せない惨状を見るに見かねて助太刀に入った。

 もっとも放っておいても死ぬことはなかっただろうとは思う。一度死ねばゲームオーバーとなるデスゲームでライフがぎりぎりになるまで戦闘を続けることなどない。

 ライフが50%を下回る、つまりイエローゾーンにさしかかったなら余程の事情がない限り撤退を選択するのが常識であるし、さらに減少して危険域のレッドゾーンにさしかかろうものなら、問答無用で転移結晶(テレポートクリスタル)を利用した離脱をしても文句は言われない。

 

 そういうルールが攻略組から中層、下層組にも徹底され、大抵のプレイヤーは非常手段として転移結晶を最低一つは常備するようになっていた。緊急脱出を可能にする転移結晶の出現と共にプレイヤーの生存率は劇的に改善されていたのである。

 ただしこの転移結晶、NPC店舗では売っていない非売品であり、モンスタードロップやクエスト報酬品としてしか入手できないため、希少価値はそれなりに高い。当然、プレイヤー同士の取引による流通量は多くなかった。さほど数は出回らない事情があるために、下手な装備品より高価な値をつけられることも珍しくないのである。

 

 フロアボス戦やフィールドボスのネームドモンスター遭遇戦でもない、いってみれば何の変哲もない難易度の低い狩場で貴重な転移結晶が失われるのも気の毒だ、と仏心を発揮して助けに入った。下層プレイヤーである彼らにとって転移結晶の出費は痛いはずだ。もしも俺がそんなことを考えて助けに入ったのだと知ったら、彼らは呆れるだろうか、それとも怒るだろうか。

 脛に傷を持つ身だ、どうなるにせよ助けたらトラブルになる前にさっさと立ち去るつもりだったのだが、月夜の黒猫団のメンバーは全員が諸手をあげて助っ人を働いた俺に感謝し、礼をさせてくれとまで言ってきた。あまりに真っ直ぐかつ丁寧に礼を述べられて、数瞬の間、呆然の体を晒してしまったくらいだ。

 

 正直、彼らの申し出は断ろうと思っていた。

 人と関わることが怖い。人殺しと後ろ指さされることがどうしようもなく恐ろしい。少し前にようやくカルマ解消のクエストが発生し、数ヶ月の間背負っていたオレンジカーソルを外すことができたとはいえ、それはシステム上の解消であって俺の罪が消えたわけじゃなかった。当然だ、人を殺した罪がそんなことで消えるはずがない。――消えてたまるものか……!

 第一層フロアボス戦以来、ずっと人目を避けてきた。主街区には立ち寄ることもできなかったから、自然と情報にも疎くなっていった。そのため俺の悪名がどれだけ浸透しているかなどわかったものではない。攻略組という呼び名が定着した、最前線の連中からも腫れ物を扱うような目をずっと向けられていたのだから、面識すらない他の連中の反応なんて推して知るべしだろう。

 

 自業自得の面もある。

 人殺しの罪の重荷はあまりに大きすぎて、俺はその重さにとても耐えられそうになかった。罪科の意識が食を細くし、睡眠を摂れば悪夢を見るようになった。そして起きれば脱出不可能のデスゲーム、地獄の現実だ。日々心は荒んでいき、やがて何もかもがどうでもいいとさえ思うようになった。正しく自棄になっていたのだろう。

 第二層以降、迷宮区最奥に位置するフロアボスが控える間を発見するや、攻略会議を待たずに一人で戦闘に突入するようになった。攻略組の連中と共闘するのは、俺より彼らのほうが早く迷宮区の最奥に到達した場合だけだ。幸いなのか不幸なのか、俺の持つスキルとレベルはそんな自殺紛いの戦闘ですら許してしまうものだった。

 

 何度か一人でボスを狩ることに成功した。そしてそれ以上に死にかけ、フロアボスの部屋から命からがら逃げ出す機会が増えた。討伐に成功した回数の優に三倍の数は瀕死で逃げ出していただろう。ライフゲージがイエローになれば撤退が鉄則となっているこの世界で、イエローどころかレッドに突入しても戦い続ける俺は異端も異端だった。いつかアスナを自殺志願者のようだと嗤い、力づくで改めさせたにも関わらず、気がつけば俺こそが命知らずだと罵られる立場になっていたのである。

 

 それにオレンジプレイヤーの背負うデメリットは、何も転移門や街の施設を使えないだけじゃなかった。

 プレイヤー間の連絡手段であるフレンド・メッセージにすら制限が入る。受信はともかく送信が出来なくなることが判明したのだ。あるいはオレンジプレイヤー同士やギルド仲間になら送れる制限だったのかもしれないが、残念ながら俺はギルドに所属していなかった。というか、第一層時点じゃギルド結成はシステム的にできなかったし、もしもギルドに加入していたとしてもオレンジプレイヤーなんてすぐに追い出されていただろうけど。

 そして俺の知り合いにオレンジプレイヤーはいない。自分で言うのもなんだが、オレンジプレイヤーの友人なんか欲しくもないけどさ。

 

 その一方でメッセージ受信に制限がなかったのは茅場なりの慈悲だったのだろうか。しかしそれすらあの時の俺にとっては茅場の悪意に思えたものだ。今でも茅場の思惑なんてわからないし、あんな中途半端な制限を残すくらいなら、いっそフレンド・メッセージの機能全てを禁止してくれてよかった。そのほうがまだ諦めもついた、救いもあったかもしれない。

 当時はメッセージ受信のみ可能だったせいで連日クラインから悲鳴のようなメッセージが届いていた。第一層フロアボス戦で何が起こったのかとか、今どこにいるのかとか、すぐに会いにいくから場所を送れとか、とにかくたくさんのメッセージが届いた。

 

 ――そして全てのメッセージに返事を出すことが出来なかった。

 

 システムに妨害されていたからだけではない。あまりにみじめな俺の姿を、はじまりの街から何も言わず送り出してくれたクラインに見せたくなかった。あいつに会わせる顔がなかった。自分の都合ばかりを優先した結果がこの様かと自嘲を浮かべる日々を過ごし、休息を無視してモンスターを狩り続けている時だけが全てを忘れていられた。

 攻略組の足並みを乱す俺を疎んでいるプレイヤーから、散々に罵られたこともある。それでも俺の足は止まることはなく、重苦しい心と身体を引きずって、休むことなく迷宮区に篭る日々が続いた。 幸いだったのは、オレンジプレイヤーでも利用できる辺境の町ないし村が点在していたことだろう。そういった場所を拠点に消耗品を補充できるシステムになっていなければ、俺の命は当の昔に詰んでいた。早々に現実の俺の身体の脳は蒸し焼きにされていたはずだ。

 

 けれど、そんな救済措置で戦闘自体は切り抜けられても、精神的には限界だった。

 ベータテストの経験を多少なり生かせる8層あたりまでならソロでも生き残る芽はあるのかもしれない、それでも10層を越える前に俺は死ぬことになるだろうという漠然とした予感はあったのだ。第一層でディアベルに残した言葉は俺の本心だった。近い将来俺のHPバーは消し飛び、俺の命は誰の目にも止まらない場所で、孤独な戦場の露となり散っていくのだろう、そう思っていた。

 終わりを望んでいた自分がいることも否定できない。死んで楽になりたいと思ったことは一度や二度じゃなかった。

 

 未だにあの日の夢を見る。

 この手に握った剣が人の身体を容易く貫いた悪夢。現実とは違うゲーム世界ならではの無機質な感触と、それ以上にあっけない死。なにより、あの男が最期に俺へと遺した呪詛……。血生臭い生物の終わりなど全く感じさせない世界だというのに、あの瞬間確かに両手が真っ赤に染まって見えたのは、同族殺しを禁忌とする動物的本能でも刺激されたのだろうか。

 

 俺は本当の両親の死を覚えていない。物心ついた後、人の死に触れたのは祖父の老衰くらいのもので、それも両親から報せを受けて病院に駆けつけたときには既に臨終を終えていた。まるで眠るように横たわっていた祖父の死に様に、終ぞ死の実感を感じ取ることはなかった。

 だというのに、この作り物の世界で強烈に死を叩きつけられるというのは一体どんな皮肉なのだろう。かつて感じ取れなかった人間の終わりが、このゲームの世界でこそリアルに感じ取れてしまう。そんな俺の感覚がおかしいのか、それともこの世界がおかしいのか、俺にはもうわからなかった。俺にとっての現実とゲームの境界線は、俺が他者の命を奪ってしまったあの瞬間、確かに破壊し尽くされていたのだと思う。

 

 目の前で終わりを迎えた人間の死が、はじまりの街を発って以来、ずっと現実感覚を喪失していた俺を無理やり正気に戻した。ここはゲームの中であっても、同時に現実なのだと突きつけた。そうして俺は、現実逃避を続けたままゲーム開始から一ヶ月という時間を過ごしていたのだと今更に自覚したのである。

 正気ではなかったから、俺はゲーム開始一ヶ月で出た千人を超える死者を単なる数字としか捉えられず、結果としてキバオウの義憤をこれっぽっちも理解しようとしなかった。怒り狂うあの男を他人事と冷ややかに眺め、滑稽な姿だと侮ってすらいた。一体俺は何様のつもりだったのか。

 そして死の恐怖を実感してなかったからこそ、ソロなどという何時死んでもおかしくないプレイスタイルを当たり前に選び、恐れずモンスターと戦い続けていられたのだろうと思う。

 

 PKという最悪の犯罪が、俺にこれ以上となく現実を叩き付ける劇薬となった。そしてここが現実なのだと強烈に思い知らされた時には既に俺の手は真っ赤に染まっていて、今度は罪の意識に自身の命を見切ったからこそ、モンスターを相手に怯まず戦い続けることが出来るようになった。運命の神様とやらがいるのなら、よっぽどそいつは皮肉が好きらしい。

 多分、桐ヶ谷和人の精神のままだったら開始一ヶ月で死んでいた。現実感覚を喪失したキリトだからこそ一ヶ月を生き延び、生き延びたからこそ《人殺し》の十字架を背負ってしまった。いくら思い悩もうとも起こってしまったことが変わるはずもなく、ただ後悔だけを抱えて、惰性に流されるまま剣を振るってきた。

 

 多分、俺は死んでいたんだろうと思う。あの時、彼女に出会わなければ。

 誰も近寄ろうとせず、誰も近寄らせようとしてこなかった亡霊のようなプレイヤーに、ただ一人強引に接触を図った物好きがいた。フロアボスにソロで何度も挑んでいる馬鹿に興味を持ったのだと、そう人を食ったように笑った女は名をアルゴと言った。

 見慣れないファッションアイテムであるつけ髭をチャームポイントのごとくペイントし、小柄な身体のほとんどを覆う陰気なマントを身に纏った隠者そのままな印象。気怠げな独特のイントネーションで話す口調の珍妙さもあって、物好き、変わり者という表現がこれでもかと当てはまる女だった。

 

 俺が彼女とまともに話すようになったのは、何度かまいて追いつかれての鬼ごっこを繰り返してからのことだ。索敵と隠形を中心にスキルを鍛え上げ、攻略組にも顔が広い情報屋の彼女は俺の目撃情報を集めることも難しくなかったらしい。そうして持ち前のスキルとその情報網を生かして逃げる俺を何度も補足してみせた。ついでにアルゴのステ構築は敏捷一極、俺より足が速かったせいで、一度補足されるととても逃げ切れないというおまけ付き。

 

 視界に映ったら逃げる。索敵に引っかかったら逃げる。人の口の端に彼女の名が乗れば逃げる。

 我ながらひどい対応をしたとは思うものの、負けず劣らずアルゴも無茶苦茶だった。今となっては笑い話にもなるが、あの時は真剣に逃げていたのだし、度々俺の前に現れてお節介を焼いていくアルゴを本気で疎ましく思っていた。

 冷静に考えれば俺はアルゴにストーカーをされていたのである。とはいえ客観的に見れば、アルゴはキリトという犯罪者を追う女刑事だったのかもしれない。俺がオレンジプレイヤーで、アルゴがグリーンプレイヤーだったことは確かなのだから。

 

 色々言ったし言われた。

 弱音をこぼしたし、情けない姿も見られた。

 お姉さんぶったアルゴに慰められた気恥ずかしさは黒歴史認定をしたいほど身悶えるに値する出来事だったが、そうした諸々のおかげで俺が持ち直したことも事実だった。公私にわたってというのも変な表現だろうけど、アルゴとの関係はまさしくそのものずばりだったわけで――。

 攻略組との橋渡しから情報、アイテムの売買に交換、武器防具の強化や修繕に至るまで本当にアルゴには世話になった。本人はそ知らぬ顔で「にゃハハハ、ギブアンドテイクだヨ、キー坊」なんて、ことあるごとに(うそぶ)いていたけど。間違いなく、この先ずっとアルゴには頭が上がらないんだろうなと、そう思う。

 人殺しの罪は消えず、他人の目も怖い。それでもなんとか生きていこうと思えるようになったのだ、アルゴ様様である。

 

 

 

 そうした望外の幸運に助けられ、物資不足という過酷な環境下の戦闘を常にソロでしのいで来た俺から見て、目の前で交わされる月夜の黒猫団の会話は、危機感を覚える以上に愕然とするものだった。

 もしかしてこれが最前線に生きる攻略組とそれ以外のプレイヤーが持つ意識の差異なのだろうか? 会話の焦点がピンポイントに大はずれなのに、それを誰も指摘することなく罷り通ってしまっている。恐ろしいことに彼らは自分達の言葉がいかに的外れなものなのかを欠片も理解していない。そのことをひどく危ういと思ったのだ。

 

 犯罪者の烙印とPKの罪を背負ってから五ヶ月近い時間が経過して――。

 

 人の目を恐怖する一方で人恋しさに飢えていた。そんな自身の迷走した想いに引きずられるようにして黒猫団の誘いを拒絶しきれず、お互いの無事を祝い合う賑やかな食事会に参加して、ようやく人助けの実感が伴ってきた矢先だった。安堵の思いが一転、溜息をこらえ、頭痛に頭を抱えてしまう有様に、どうしてこうなったと嘆きもしよう。

 別に月夜の黒猫団のメンバーが険悪な雰囲気になっているとかではない。むしろリアルでも同じ高校、同じ部活の仲間だと名乗った彼らの仲は全ギルド中でもトップクラスに良好なものではないだろうか。和やかな談笑が繰り広げられ、非常にアットホームな雰囲気が醸成された食卓は活気に満ちていた。助っ人の礼だと食事と飲み物が振舞われる中、当初は彼らの連帯感の強さに目を瞬かせたものだ。

 

 しかし、これは本当にどうしたものだろうか。

 手持ち無沙汰な現状を飲み物を口にすることでなんとなく誤魔化してはいたものの、そろそろ限界だろう。

 月夜の黒猫団は弱小ギルドだ。これは構わない。別に全プレイヤーが攻略組に参加しなくてはいけないはずもなし、彼らのように仲の良い友人同士で楽しく生活を送るというのも悪くないだろう。

 

 俺だって出来るなら攻略組なんかより中層以下の階層でのんびり過ごしていたいと思うことはある。命がけの最前線なんて冗談じゃないと悪態もつこう、だからと言って逃げてよいものでもなかったけれど。

 誰かがこのゲームを終わらせなければ現実世界への帰還が叶わないこと以上に、攻略に有利なスキルを幾つも発現させている俺がのうのうと後方で遊んでいるなんて許されるはずがなかった。そしてそれ以上に、最前線の死線以外に自分の居場所はないのだという、強迫観念にも似た思いが常に俺の胸の内に渦巻いていた。

 

 いや、今は俺のことはいいか。

 思わず思考を逸らしてしまうのは、ますます磨きがかかった対人コミュニケーション能力の欠陥のせいだ。あんなことがあったのだから仕方ないと自分を慰めてみたりもするのだが、結果として絶賛ソロプレイ驀進中の俺は、一日に他人との会話ゼロで剣を振り回している日常も珍しいことではなかった。

 

 アルゴやクラインは別にしても、アスナやエギルのような攻略組の幾人かのように顔を合わせればそれなりに話す相手もいる。しかし元々顔を合わせる機会自体が少ないのだからどうしようもない。それに攻略組のプレイヤーのほとんどがギルドという帰属母体を持つようになった現在、元オレンジプレイヤーかつソロプレイヤーという俺の立場ははみ出し者もいいところだった。

 そんな俺がこんな暖かな空気のなかで仲良し五人組に、それも今日会ったばかりの彼らに辛辣な意見をぶつけるとかできようはずがない。というかしたくない。

 

「あんたら戦い方下手すぎ、そのうち死ぬよ」

 

 とか言えるはずがないし、言いたくもなかった。

 でもなぁ……。

 言いづらいからといって放っておくのもどうかと思うのだ。見て見ぬフリをすれば後々問題が噴出した時には手遅れということになりかねなかった。だからといって良い伝え方も思い浮かばないのが困りものなのだが。

 まずいことに俺がここでストップをかけない限り、彼らは非常に危険な選択をしてしまうはずだ。本人らに間違った選択という自覚ないし疑いがこれっぽっちもないのだからどうしようもない。ただし、論理的な判断からではなく感情からの反発だろうけども、当事者であるサチという黒髪の少女だけは問題点を指摘しているのだ。

 前衛へのコンバートなんて無理だ、と。

 

 彼女の言葉は正しい。論理的だろうが感情的だろうが、導き出したその答えは俺の意見と同じものだった。

 一度の戦闘を見ただけの俺の評価を彼らが信用するしないはともかく、サチと紹介された女の子が前衛へのコンバートを拒否するのは極めて正しい主張なのだ。しかし残念ながら彼らのリーダーであるケイタはサチの言葉を深刻に捉えていない。このあたりはリアルでも気安い関係だというのが悪い方向で発揮されてしまっているのかもしれない。

 

 月夜の黒猫団はたった5人の弱小ギルドであり、レベルも低く装備品の質も良くない。攻略組はおろか、中層を中心とするプレイヤーのなかでも下から数えたほうが早い程度の実力しかないはずだ。下層エリアのプレイヤーとしてならそこそこマシというところだろう。そうした判断を下す程度には戦闘が下手だった。

 そんな小集団のなかでもひときわ動きの鈍いプレイヤーがサチだ。月夜の黒猫団は元々精強なプレイヤーが揃っているギルドというわけでは間違ってもないが、それでも彼女はその弱小ギルドの足すら引っ張っている。パーティーの一員としてほとんど貢献できていないのだった。そしてその事実を本人が一番わかっていることだろうと思う。生来のものなのかどうかはわからないが、言動の端々に他のメンバーに遠慮している節があった。

 

 サチは根本的に戦いに向いていない。

 攻撃、防御、回避、牽制、連携。戦いに必要な技術全てが未熟だった。なにより憂慮すべきことは、彼女にはモンスターと戦うことへの極度の怯えがあったことだ。モンスターと接触する瞬間、何度も目を閉じて身体を硬直させる場面が見受けられた。《サチは怖がり》というケイタの評は、冗談でもなんでもなく憂慮すべき事実だろう。断じて軽く流して終わりにして良い問題ではなかった。

 

 黒猫団のメンバーはそんなサチの様子に気付いていないのだろうか?

 いや、気付いていて放置するような人柄でもなさそうだ、気付いていないのだろう。だから彼女を前衛に、壁戦士(タンク)という最もモンスターと接触の多い過酷なポジションを任せようという意見が出たのだ。

 月夜の黒猫団の前衛が不足しているのは事実、役割が浮いているのがサチしかいないというのも事実、盾持ち重装甲プレイヤーの壁戦士が最も生存率が高いというのも事実、だからこそ足りない役割を今ひとつ戦力になれないサチに任せることで、ギルド全体のレベルアップを図ろうとしているのだろうと思う。それが結果的にサチの、そしてギルド全体の安全にもつながるのだとリーダーのケイタは判断した。

 

 その思惑はわかる。わかるんだが――。

 ケイタの構想は理屈の上では間違っていない。しかしそれを現実に落とし込めるかと言えば否でしかなかった。サチには前衛として壁戦士(タンク)を務めるだけの適性が圧倒的に不足しているからだ。将来的にはともかく、現時点でサチに前衛を任せようとするのは無謀以外の何者でもない。そしてその選択はサチ本人だけでなく、ギルド全体の危機につながりかねなかった。彼らは危険な選択をしようとしているのだ。

 月夜の黒猫団と知り合って数時間、一度の戦闘を見ただけの俺ですら気付けたギルドの抱える問題点に、当事者たちが誰も気付いていない。唯一気付いているのか、あるいは単純に怖いと考えている本人は、不満こそ表すが強い抗議まではしていないようだった。

 

 総じて彼らは危機感が足りないのだろうと思う。もしかしたらそれは彼らを含めた大部分のプレイヤーに共通する問題なのかもしれない。

 デスゲームが開始されて既に半年近く経った。開始当初に比べればモンスターとの戦闘で死者が出ることもほとんどなくなり、第25層で甚大な被害を出した攻略組も、戦力の再編が完了したことでここ最近は脱落者を出すことなくフロアボスを撃破できている。まず順調だといっていいだろう。

 

 だからこそ中層、下層のプレイヤーの危機感が薄くなるのも仕方ないのかもしれない。もしかしたら現時点で一番危機感と焦燥感を感じているのは攻略組ではなく、はじまりの街で外部からの救出を待つことを選んだリタイア組のプレイヤーたちの可能性もある。未だ外部、すなわち現実からの接触はない。現実世界側からの救出の気配は欠片もないのである。

 その一方でプレイヤーの技術が上がり、攻略情報も揃ってきた関係で狩りも安全に行えるようになり、日々の生活において切迫した危機感や焦燥感が鳴りを潜めるようになったと考えれば、黒猫団の面々の楽観さも理解できないわけではない。

 

 しかし、大抵こうした油断が後のしっぺ返しにつながるものだ。

 デスゲーム開始当初のベータテスターが自身の知識と腕に過信を抱いて自滅したように、戦闘に慣れてきた一般プレイヤーが同じ轍を踏まないなどとは誰も保証してくれない。事情こそ異なるが、精神的に疲労を抱え込んで集中力を切らし、何度も危機に陥った俺のような例もある。危機感の欠如は集中力の欠如にもつながりやすい。

 ほんと、どうしたものだろう。

 そんな途方に暮れていた俺の思考を引き戻したのは黒猫団リーダーのケイタだった。

 

「それでキリトさん。つかぬことをお聞きしますが、キリトさんのレベルはどれくらいでしょう? ソロで活動してるみたいですし、相当高いと予想してるんですけど」

 

 どことなく内緒話をするように潜めた声を耳にして困惑してしまう。

 レベルを尋ねる程度なら重大なマナー違反とまでは言わないが、パーティーを組んで共闘するような場合でもなければ徒に選ぶような話題ではない。これがスキル構成やステータス構築まで踏み込むようだと悪質なマナー違反になる。

 彼らはギルドメンバー紹介の際にメンバーのレベルとかギルド内の役割まで開帳していた。リーダーのケイタと前衛を務めるメイス使いがギルド内の最高レベルで18、シーフ風の短剣(ダガー)使いの男と槍使いの男が17、最も低いのが同じく槍使いのサチで15。月夜の黒猫団に前衛が不足しているという悩みも、そのときにケイタ本人が口にしていた。

 

 こうした警戒心のなさも心配の種の一つだった。大抵のプレイヤーはスキルやステータスはもとより、レベルや装備を大っぴらに公開したりはしない。気心の知れた信頼できる相手、命を預けられるパートナー相手でもなければ、自らの生命線である個人情報をやすやすと教えたりはしないものだからだ。それとも攻略組やベータテスターのほうがこうした意識では少数派なのだろうか?

 ケイタたちの無防備な情報開示姿勢が、もしも俺の歓心を得るための打算であり、演技であるなら逆に心強いくらいなんだけど……。

 俺や攻略組の多くが当たり前に抱く猜疑心とは無縁の場所にいる、ある意味純真なプレイヤー集団の存在に自然と難しい顔をしていると、遅まきながら自分の発言がマナー違反だと気付いたのか、もしくは単純に俺の気分を害したのかと勘違いしたのか、「もちろん無理には聞きません」と付け加えたケイタだった。その申し訳そうな低姿勢に知らず苦笑が漏れてしまう。

 

「ケイタ、敬語はやめよう。俺に敬語はいらないし、俺も敬語は使わない。この世界で現実の年齢どうこうもマナー違反だしさ」

 

 それが暗黙の了解でもあった。ロールプレイとはまた少し違う。

 この世界では生き残るためには誰もが剣を持って戦わねばならない。となると自然、強い者、戦闘の上手い者、集団を統率できるだけのリーダーシップを発揮できるプレイヤーが皆の頼りとされるようになる。

 かつてクラインは、この世界は現実と異なるルールで動くようになると口にしたが、まさしくその通りだ。ただそれは現実と異なるというか、より正確に言えば原始社会の価値観への回帰に近いんじゃないかと思う。要は生きるための知恵だ。年齢や見た目よりも腕っぷし。より単純な論理に支配された世界。

 偶然か必然か、誰が音頭をとったわけでもないそのルールに、暗黙のうちにプレイヤーは意識を切り替えたのである。

 

 それにしても、レベルか。俺のレベルって攻略組――というか全プレイヤー中でトップクラスの筈なんだよな。つくづくあの経験値三倍ブーストの恩恵はでかい。しかも自暴自棄になっていた時期は昼夜問わず戦闘しかしていなかった。攻略組のなかにもレベル至上主義の連中はいるが、そいつらと比較しても病気レベルの戦闘密度だったんじゃないだろうか。

 経験値ブーストのスキル情報はいまだなし。そろそろあのスキルが特殊獲得仕様の希少スキルだと認めなければならないだろう。前提条件の複雑なエクストラスキル、下手をすればたった一人のプレイヤーにしか発現されないと囁かれている、超希少であるユニークスキル扱いの可能性もある。俺の持つスキルは他のプレイヤーにとっては垂涎の的だろう。だからこそ後ろめたくもあるのだけど。発現条件がわかり、誰でも習得できるとなれば攻略も人任せにできるし、攻略スピードも飛躍することだろう。つくづく惜しい。

 

 気付けば月夜の黒猫団全員に視線を向けられていた。場も静まり返り、俺の返答を待っている状態だ。だんまりを決め込めるような空気じゃなかった。

 ……仕方ない、面倒になったら逃げよう。

 そんないつも通りの全力で後ろ向きな決意を固めた。

 

「俺のレベルは59だ。多分、攻略組でも頭一つ飛びぬけてると思うよ」

 

 もしかしたら頭二つくらい飛びぬけてるかもしれない。現在の最前線が29層。安全マージンの目安が現在階層プラス10レベルだと言われている。もう少し詳しく内情を語るならば、現在の攻略組の平均レベルが39をわずかに下回る程度で、トッププレイヤーが45に届こうかという所だった。

 《ソードアート・オンライン》の経験値獲得システムは固定制ではなく変動制だ。すなわち各モンスターの設定レベルをプレイヤーの現在レベルが上回れば上回るほど、同じモンスターから獲得できる経験値は減少してしまう。そういう仕様になっていた。

 

 現在の攻略速度を維持するのならば安全マージンは15が限界だ。もう少し攻略速度を落とすなり、あるいは装備やスキルが充実して、今よりも効率的にモンスターを狩れるようになれば20に届くようになる。そして恐らくはそこで頭打ち、それ以上の安全マージンを確保しようとするならよっぽど規格外のスキルなりが必要となる、というのが俺とアルゴ双方の見解だった。

 もちろんこれらの分析は、現在のゲーム難易度が維持される限りにおいての話である。

 

 こうした事情を踏まえれば俺のレベルがどれだけ抜きん出たものか、いっそ異常とも言えるものなのかもわかろうと言うものだ。なにせアルゴ曰くの規格外スキル持ちこそが俺なのだから。

 攻略組の連中とは個人的な親交、親密な付き合いがほとんどないため、俺の詳しいレベルやスキル情報は出回っていない。そのせいか問い詰められることも今までなかったものの、そろそろ攻略組にも俺が経験値ブースト系のスキル持ちだと疑われているのではなかろうか。レベルの差は戦力の差に直結する。フロアボス戦を共にしているプレイヤーの中では、俺の戦闘力の異常に気がついている者のほうが多いはずだ。

 とはいえ、元オレンジプレイヤーを物怖じせずに直接詰問できるプレイヤーがどれだけいるかはわからない。攻略組ではエギル、アスナ、ディアベル、ヒースクリフ。攻略組ではないがクライン。可能性のある幾人かの顔は思い浮かぶが、一人を除いて皆良識派というか人が良いのでそうそう突撃はしてこないだろう。

 《血盟騎士団(Knights of the Blood)》団長ヒースクリフ、あの気に食わない男以外は。

 

「それと俺のスタイルは盾なし片手剣だ。前衛ではあるけど前線を支える盾持ち重装甲型は専門外だから、アドバイスとかは期待しないでくれよ」

 

 俺の専門はあくまで攻撃特化仕様(ダメージディーラー)だ。壁戦士のステ振りや戦闘時の動き方については定石でしか語れない。その程度のことなら俺に聞くまでもないし、ケイタたちとてそうした最低限の知識は持ち合わせているだろう。

 戦闘スタイルまで開帳したのは彼らの好意への返礼としてだった。知ってか知らずかギルドの内情までぽんぽん話してくれた彼らへの、俺なりの誠意である。悪意ならともかく、好意に対しては誠実に対応したかった。

 

「レベル59?」

「マジ?」

「え、でもソロなんだよな。え、それで59?」

「キリト……すごいんだね」

 

 驚きすぎて固まったままのケイタを尻目に、他のギルドメンバーも目を白黒させて信じられないとばかりにつぶやく。

 ああそうだろうさ、俺だって自分のことじゃなければ信じられないよ。何度かの偶然に助けられていなければ俺はとっくに死んでる。それくらい無茶なことをしてきたし、安全度外視の戦いを繰り返してきた。大多数のプレイヤーからすればHPがイエローゾーン、レッドゾーンに突入しようが、気にせず敵を殲滅しようとするバーサーカーなんぞキチガイ沙汰でしかない。だからこその現在レベルでもあるのだけど。

 返す返すもそんな俺を諌めてくれたアルゴには感謝の念しかわかない。

 

「……そっか、キリトさえよければ僕達のギルドに入って欲しかったんだけど。さすがにそれじゃ僕達がキリトの足手纏いにしかならないな」

 

 最前線プレイヤーか。

 そう呟いて無念そうにため息をこぼすケイタだった。しかし俺はそんなことよりも、初対面のプレイヤーをギルドに迎え入れたかったのだと口にしたケイタにこそ驚いていた。

 月夜の黒猫団はその構成メンバー全員がリアルでも知り合い同士で、その上極めて親密だ。そこに助っ人に入った多少の恩人とはいえ、見も知らぬ他人をギルドに招きいれようとするのは不自然だった。前衛にコンバート予定のサチへ指導でもして欲しいのかと思っていたのだが、その程度ならギルドに迎え入れてまで頼む必要もない。戦闘面に関しての情報は攻略組でも最優先で収集されているし、更新された情報は日々発信されている。集団での役割に沿ったスキル構成や無難なステータス傾向を知るくらいたいした手間でも出費でもないのだ。

 それに教師役が欲しければ、それこそ情報屋にでも当たればいい。幾ばくかの報酬でそれなりのプレイヤーを紹介してもらえるはずだ。

 

 このアインクラッドで何が難しいと言えば、プレイヤー間の信頼関係を育むことだった。死が隣り合わせのこの世界で、命を預けあえるプレイヤーを見つけるのは相当に難しい。

 しかし現状、腕の未熟さは別として月夜の黒猫団のメンバーは十分まとまっているし、日々の生活に困窮しているわけでもなさそうだ。そこに軋轢を覚悟してまで外部から新メンバーを加える必要があるとは思えなかった。高レベルプレイヤーに寄生したいという思惑は、俺のレベルを聞いて引き下がったことから考えづらい。

 となると。

 

「なあケイタ、もしかして攻略組を目指しているのか?」

 

 現状、必要のない新メンバーの増員を図る。強硬に反対しているわけではないが、気の進まない様子のサチを熱心に戦力化しようとしている試み。俺が攻略組だと知ったケイタに見え隠れする羨望と落胆。

 そこから考え付くのは今より上にいきたいという思いだろう。中層プレイヤーに甘んじるのではなく、最前線に参加しようという狙いが見える。そのための戦力アップを考えているのだとすれば、一応の説明はつく。

 俺の感じた違和感そのままの推測だったが、それ以外には思いつかなかった。単純に俺が気に入ったからギルドに迎え入れたいとかいう妄言よりはよっぽどしっくりくる。そんな俺の言葉にケイタは最初困ったような顔で逡巡していたが、一度深呼吸してからしっかり頷きを返した。

 

「ああ、キリトの言う通りだ。いつかは最前線でゲームクリアのために戦いたいと思ってる。もちろん今のままじゃとても無理なことは理解してるよ。あくまで将来的な目標で、今のところ僕だけの考えだ」

 

 なるほど、だから他のメンバーは全員ケイタの言葉に驚いているのか。自分一人の考えだと口にした通り、相談するのはこれからだったのだろう。となると、俺が口にするのはまずかったか?

 

「キリト、攻略組の君から見て、僕達一般プレイヤーと攻略プレイヤーの差はなんだと思う?」

 

 それは好奇心からの質問というより、どこか自分の考えを確かめようとしているかのようだった。

 妙なことになったと内心でため息をつく。面倒ごとになったら逃げると決めていたが、これはこれで予想外の展開だ。

 

「一番大きいのは情報量の差かな。レベリング一つとっても効率が段違いなんだ。そして最前線ではレベルが低かったら話にならないし、有力ギルドが主催する攻略会議にだって低レベルプレイヤーは参加させない。そんなことをすれば自分達が危険だからだ」

「うん。それに加えて僕は意思の差が大きいんじゃないかって思ってる」

「意志?」

 

 そりゃあ、モンスターと戦闘するに当たって冷静な判断力を維持し続けたり、気に入らない相手だろうが戦場では命を預けあって助け合おうと協力しなきゃならない。立ち止まることの許されない過酷なレベル上げが半ば義務であることも合わせて、意志とか覚悟が大事だというのはわかるけど。

 

「そう、意思だ。もちろん情報力とか組織力の差だってあると思うよ。でも僕はなにより一番意志の力が大事だと思ってるんだ。僕らのような中層以下のプレイヤーは衣食住を賄う最低限のコルを稼ぐため、そして少しのスリルと娯楽を楽しむための安全な狩りしかしない。でも最前線に挑む攻略組は違う。共に戦う仲間のために、そしてこのアインクラッドで生活している全てのプレイヤーの解放のために、自ら危険な戦いに飛び込んでいくんだ。そういう使命感みたいなやつかな。その差はとても大きいと僕は思う」

 

 俺に語りかけるケイタの口調は穏やかではあったが、そこには隠し切れない高揚があった。自分自身の言葉に熱くなっているのだろう。そして注意深く観察すれば頬の紅潮にも気付くことが出来る。見た目は純朴な青少年といったケイタだが、その実、熱血漢なのかもしれなかった。

 しかし使命感ね。

 果たして攻略組のなかにそれほど大層な志を胸に戦っているプレイヤーなどどれだけいるものやら。

 人の心が覗けるわけもないから推測でしかないが、ケイタが口にしたような全プレイヤーの開放のために命をかけているプレイヤーなど少数派だろう。というか皆無かもしれない。大抵の連中は自分のため、自分がデスゲームから脱出するために戦っている。あるいは生粋のゲーマーみたいな連中は単純に強い装備、優越のためのレベル上げを優先している節だってある。俺自身、生き残るために効率の良いプレイを目指した結果として攻略組の末席にいただけのことだし、誰かのために戦ったことなんてなかった。ケイタの言う使命感なんてこれっぽっちも持ち合わせていないのだ。

 

 理想に燃えるケイタの思想は尊いものだろう。そんな彼が実際の最前線プレイヤーたちを知って攻略組をどう思うかに悪趣味じみた興味がないではない、というのはともかくとして。なによりケイタ自身が攻略組に参加することで、攻略プレイヤーたちの意識が変わる可能性もわずかながらあるとは思う。

 思うがしかし……。

 率直に言って、綺麗な言葉だとは思うが感銘を受けるようなものではない、というのが正直な感想である。わざわざそんなことを言ったりはしないけど。しかし俺には絵空事としか思えないケイタの言葉は、ギルドメンバーに十分感銘を与えるものだったらしい。歓声をあげてケイタの首根っこを抱えたかと思えば、「そんなことを考えてやがったのか。やるじゃねえか、この、この」と囃し立てた。他のメンバーも暖かな視線を向けたり賛意を言葉にしたりで、概ねケイタの言葉に賛成の雰囲気になっていた。

 

 これは……本気でまずいことになったか?

 お祭り騒ぎ一歩手前の一同のなかで、ただ一人暗い雰囲気を漂わせているサチがぽつんと浮かび上がっているように見えた。周囲に遠慮してか微かに笑顔を浮かべてはいても、その瞳には見間違えようもない恐怖が刻まれている。

 多分、彼女の反応こそが正常なものなのだろう。モンスターと戦うということは死ぬ可能性があるということだ。そして攻略組を目指すということはより強いモンスター、より難しい迷宮探索、撃破困難なフロアボスを相手にするということにつながる。飛躍的に危険が増すことになるわけだ。それを怖いと思う。当たり前だ。臆病であろうがなかろうが、サチの反応は至極真っ当なものでしかなかった。

 

 異常なのはむしろ他の黒猫団メンバーであり――俺のような攻略組プレイヤーの方だ。

 命の危険、死の恐怖への感覚がひどく鈍ってしまっているのだろう。それは日々繰り返される戦闘や探索がルーチンワークと化し、この世界の常識とルールに慣れてしまっている証左でもあった。現実世界での感覚を忘れてこちらに順応してしまっているとも言える。

 攻略組はそんな自分に気付いていて、その上で可能な限り安全策をとって慎重に攻略を進めている。俺とて一時期はともかく、最近は狂戦士まがいの無茶な突貫は自粛しているし、フロアボスにタイマンで挑むような馬鹿な真似はしていない。

 

 では、月夜の黒猫団はどうだろうか。

 綺麗な理想に燃えるリーダーを筆頭に、死を恐れる感覚を鈍らせてしまっているメンバー達。低いレベルに未熟な腕しか持たない彼らが、臆病なくらいの慎重さを発揮して堅実にレベル上げと装備の拡充を続けられるだろうか。

 ……難しいはずだ。そこまでの忍耐と慎重さを求めるには彼らの言動は軽すぎる。

 できるものなら天を仰いでため息を盛大につきたいところではあったが、単なる客でしかない俺がそんな不景気な真似をするわけにもいかないだろう。それに月夜の黒猫団の行く末に不安はあるが、決してその不安が的中するとは限らないのだ。単なる杞憂になる可能性だってあるのだし、すぐに最前線に戻る俺があれこれ気を回すのは余計なお節介なのかもしれない。

 

 それに他人の心配ばかりしていられるほど余裕があるわけでもなかった。生き残ることに全力を傾けることを忘れてしまえば、今度は俺のほうこそ命の憂き目にあってしまう。

 俺にできるのは彼らの無事を祈るだけだと言い聞かせて不安を紛らわせようとする、その白々しさにため息の出る思いだった。

 一頻り騒いで満足したのだろう。放置する形になった客人を思い出したのか、ケイタはわざとらしくこほんと咳払いをして場を仕切りなおそうとした。そんなリーダーを三人の男が忍び笑いでからかっている様子を半ば無視して、前後を思えば不自然極まりない、本人にとって精一杯気を引き締めた真剣な顔でケイタは口を開いた。

 

「なあキリト、君の言う通り僕達は攻略組を目指したい。そこで君にお願いがあるんだ。最前線にいる君から見て僕達はどう見えるか、どうすれば君達に追いつけるかのアドバイスが欲しい。そして、時間があるときだけでいい、僕達の手助けをしてもらえないだろうか」

「ケイタ、それは……」

「虫の良いことを言っていることはわかってる。キリトの迷惑になることを口にしてるって自覚もある。でも、今の僕らが少しでも早く最前線に追いつくためには、今のままじゃとても無理なんだ。頼む、この通りだ」

 

 そう言って深く頭を下げるケイタだった。

 ……それはそうだろう。今日、月夜の黒猫団が苦戦していた狩場は最前線から遠く離れた下層エリアの一つである。そんな場所で足踏みしているギルドの実力を一番把握しているのはリーダーであるケイタのはずだ。そして一番歯がゆく思っているのもケイタだろう。現状の改善に自分達より秀でたプレイヤー、特に実際に最前線を経験している俺のようなプレイヤーの協力は今のケイタからすれば喉から手が出るほど欲しいはずだ。

 しかしそこに俺のメリットはない。この階層にだって武器強化素材を必要としていたから来たのであって、経験値やコルの効率を考えたら論外の狩場でしかない。その程度の階層で足踏みしている弱小ギルドを最前線に通用する強豪の一角になるまで育て上げる。ケイタが言っていることはそういうことだった。

 

 確かに攻略組の戦力が増えることは喜ばしいことだ。その分だけデスゲーム脱出が早くなるし、攻略組の一員である俺にとってもメリットが生じる余地はある。

 しかし、いかんせん非効率すぎるのだ。単純に攻略組の戦力を増やしたいなら中層で頭角を現している別のギルドを支援したほうが早い。何も好き好んで弱小ギルドを育て上げることもない。そこに費やす時間と労力だって並大抵のことではなかったし、なにより自身の強化に当てる時間を犠牲にして、それだけの手間をかける価値が月夜の黒猫団にあるかと言えば否でしかなかった。

 深く頭を下げたままのケイタにどういって諦めさせるかと悩みながら、他のギルドメンバーの様子を伺う。しかしさっきまで馬鹿騒ぎをしていた男連中は揃って真剣な顔で俺の返答を待っているだけだった。助け舟は期待できない。

 

 とかくこの世はままならないことばかりだ。

 内心の嘆きを押し殺して、いっそ一刀両断の断り文句にしてやろうかと考えた時、視界の端にサチの不安そうな表情が映った。

 月夜の黒猫団のメンバーで一番レベルが低く、最も戦闘の下手な気弱げな少女。だというのに壁戦士の役割を期待され、前衛剣士へのコンバートを打診されている槍使い。最悪の事態が訪れるのなら、真っ先にこの少女に死神の鎌は振り下ろされるのだろうという嫌な予感があった。

 ……仕方ないか。嫌われ役には慣れてるもんな。

 ケイタに頭を上げさせ、覚悟を決めて答えを返すべく深く息を吸う。

 やっぱり厄介ごとになる前に逃げるべきだったな。そんな後悔も今更のものだった。

 

「ケイタ、悪いけど今の月夜の黒猫団に協力は出来ない。それと攻略組を目指したいというのなら、最低限サチのポジションを槍使いのままにすることだ。彼女に前衛なんて無謀だよ。理想を言えば、彼女は戦闘に出すべきじゃない」

 

 和やかなアットホームギルド、月夜の黒猫団が醸成する暖かな空気が一瞬にして凍りついた。

 俺の言葉が彼ら全員に浸透するのを待って続ける。彼らの受けたショックを思えば胸も痛むが、こちとら口下手で説得スキルなんてこれっぽっちも持ち合わせていないガキなのだ。彼らを冷静にさせて一人ひとり説き伏せるなんて芸当とても出来やしない。

 決闘システムを使って叩き伏せればいいとかなら、黒猫団全員を一度に相手にしたところで難なくいけるんだけどな。説得(物理)システムとか実装されてくれないだろうか。

 

「攻略組のアドバイスが欲しいって言ったよな。なら遠慮なく言わせてもらうけど、今日の戦闘を見ていた限り全員戦闘が下手すぎる。レベルどうこうじゃない、フルダイブ環境下におけるプレイヤー自身のスキルのほうだ。システムに規定されたステータス、習得したソードスキルを全く生かせていない。いつかはじまりの街付近ならソードスキルさえ使えれば困ることはないって言ったけど……上を目指すなら当然それだけじゃ足りないんだ。特に複数のモンスターを同時に相手どるノウハウが全くないように見えた。ケイタはリーダーらしくまだ周囲に気を配る余裕はあったみたいだけど、他の皆は目の前のモンスターしか見えてなかった、サチに至ってはソードスキルの発動すら忘れてたしな。今のまま上を目指そうとするのは止めてくれ、死ぬだけだ、ってのが俺の意見だよ」

 

 怒涛の連撃ならぬ容赦ない口撃である。

 もはや黒猫団メンバーの顔は蒼白だった。これだけ駄目出しすれば怒り心頭で怒鳴られそうなものだが、それ以上に辛辣な意見に言葉もないようだった。もしかしたら俺は見た目年下だし、人相だけなら軟弱者にしか見えないこともあって、ここまで悪し様に言われたことが信じられなかったのかもしれない。まあいい。黙っていてくれる分には好都合だ。

 

「サチ以外は地道に鍛えればそれなりに伸びると思う。もちろん相応の時間は必要だし、攻略組に遜色ない強さになるかどうかまではわからないけど。ただ、サチだけは今のままなら前線に立たないほうがいい。いや、立たせるべきじゃない」

「キリト、僕から求めたことだけど、それは言いすぎ……!」

 

 身を震わせるサチを気遣ったのか、未だ表情は固かったがケイタが割って入ろうとした。

 しかしそんなケイタに悪いと思いながらも右手を差し出し押さえつけるように黙らせ、改めてサチと向かい合う。槍玉に挙げられたサチは怯えたように全身を竦ませ、恐々とした目をしていた。そんなサチの弱々しげな表情を目の当たりにして胸が痛んだ。

 サチは今、何を思っているのだろう。私達のことを大して知らないくせに好き勝手言わないで、とかかな?

 

「サチ、君のポジションは中衛の槍使いだ。遠距離攻撃の手段がほぼない現状、後衛と言い換えてもいい。求められる役割は前衛のフォロー、機を見ての遊撃、詰めのソードスキル。可能なら周囲の警戒や後衛仲間の護衛あたりなわけだけど」

 

 場合によっては前衛のHPが注意域ないし危険域に落ち込んだときにスイッチし、戦線の建て直しを図ることも含まれるわけだが、それは言うまい。

 

「そうした槍使いの仕事を今の君はまったく出来ていない。そして君自身も力不足を自覚してる。ここまでで何か訂正したいこと、言い返しておきたいことはあるか?」

「……ううん、ない。全部キリトの言う通り」

 

 サチは今にも泣き出しそうな顔で頷いた。

 しかし、こうと決めて悪し様に批判なんてしてるわけなんだけど、罪悪感がマッハでやばい。女の子を責め立てて泣かす寸前とか、外聞悪い以前に俺の心が保ちそうにないんですけど。ああ、もう、今日は厄日だ……!

 

「プレイヤースキルの問題が一番わかりやすかったのがサチだから例に挙げたけど、それは多かれ少なかれ黒猫団の全員に当てはまる。ただ、その欠点はレベルや装備と一緒で、場数を踏んでいけば自然と解消されるものなんだ。得手不得手はあっても時間さえかければそれなりに習熟できる」

 

 生きてさえいれば、とは言わない。技術と安全はどうしてもトレードオフの関係になる。はじまりの街付近の雑魚ばかりを相手にしていては、どうしたって身につかないスキルだってある。システムではない、人の側の技能というやつだ。

 力押しだけ、ソードスキル一発だけでは通用しない戦局で、生き残るためにシステムと自身の経験値を組み合わせ、知恵をしぼって戦う。日常的に強力な敵との戦いに身を置く攻略組と、安全を最重要視するそれ以外のプレイヤーの間に横たわるのはキャラクターレベルや装備の差だけではない。心構え、胆力、技術、連携。意思や覚悟の差と一言で言うには無理が過ぎる。フルダイブ環境だからこそ、システム外であるプレイヤー自身のスキルがより重要になってくるのだった。そして、こればかりは一朝一夕でどうにかなる性質のものでもない。

 

「なんだよ、解決できるならそれでいいじゃねえか。なあ、そうだろ」

 

 メンバーの一人が敵愾心を思わせる様子で口を挟んだ。続けた言葉は鬱屈した空気を和ませようとしたのか、どことなく不満そうな口ぶりではあったが明るい声だった。しかし効果はさほど感じられない、重苦しい雰囲気は継続していた。

 サチは俯いたまま、ケイタは困った顔だったが、俺としてはここで舌鋒を和らげるわけにはいかない。はっきり言ってしまえばここまでが前振りだ。きついことは言ったが内容そのものは当たり前のことを言っているだけでしかない。それを冷静に受け入れられるかどうかは別問題だとも思っているけど。

 

「その通り、何も問題ないよ。プレイヤースキルの問題だけだったならわざわざサチのポジション変更を止めたりしない。モンスターと戦うことをやめろなんて言わない。第一、そこまで口出しする権利なんて俺にはないしな」

「だったらどうして」

「――このままだとサチが死ぬからだ」

 

 場が再び凍る。今度は先の比ではない、痛いほどの沈黙が場を支配した。

 正確に言えば、『サチの死ぬ可能性が非常に高い』となるが、俺はあえて断言してみせた。そうしたほうが説得力が増すし、なにより俺が本気で言っているのだと否応なく理解させられるはずだ。

 心から歓待をしてくれた上に、まがりなりにも一度ギルドに誘ってくれた相手である。危険を知りながら問題を放置するくらいなら、多少なり危険の芽を摘むために動いたっていいはずだ。その程度の良心は俺だって持ち合わせている。

 

「根本的にサチには戦いが向いてないんだ。モンスターと戦うこと、命をかけて武器を振るうことを心底怖がってる。だからこそ前衛なんて論外だし、出来ることなら戦闘メンバーから外したほうがいい。月夜の黒猫団が攻略組を目指すならなおさらだ、サチを連れて行くべきじゃない」

「いや、ちょっと待ってくれキリト。確かにサチは少し怖がりだし、まだまだ戦闘に不慣れではあるけど……」

「……だったらケイタ、サチがモンスターに攻撃するたび目をきつく閉じて、モンスターから攻撃されるたび身体を強張らせて震えていたことも、《少し》で済ませる気か?」

 

 俺の言葉にケイタはまず驚きを浮かべ、それからサチに勢いよく振り向いた。サチはそんなケイタに答える余裕もなかったのか、気弱げな表情を浮かべたままじっと俺に縋るような視線を向けてくる。否定してほしかったのか、それともこれ以上責めないでくれという無言の懇願だったのか。

 たった一度の戦闘、たった一度の観察だ。それで全てわかったなどとは言わないし、言えない。間違っている可能性もあるだろう。それこそ部外者の俺が口出しすべきことではないのかもしれない。しかしここまできたら言いたいことは言わせてもらおうと決めた。

 

「攻略済みの狩場で格下のモンスターを相手にしてるだけなら、今まで通りサチも参加すればいい。前衛にするっていうのは無謀だけど、今のポジションでならどうにか戦えるはずだ。でも、もしケイタがそれでも上を目指したいのならサチを戦闘に連れていくべきじゃない。ケイタが目指す場所は強力なモンスターがうろつき、未知のマップが広がり、凶悪なトラップが仕掛けられている、比喩でなく《何時死んでもおかしくない》場所だ。極めつけに攻略組の総力で挑んでなお死者が出るフロアボスを相手にすることにだってなる。そんな神経のすり減る過酷な戦場に、サチのような適性に乏しいプレイヤーを連れ込むべきじゃないんだ。そう、俺は思ってる」

 

 もはや言葉もなかった。

 ケイタは難しい顔で腕組みをしたまま黙りこんでいるし、サチは切なげな眼差しを俺に向けたり、時折心配そうにケイタに目をやったりしている。他のメンバーも気まずげに視線を交し合っているだけだ。

 別にサチをギルドから外せとか言ってるわけじゃないんだ。何なら生産スキルや商人スキルを主体とする後方支援プレイヤーになるって手段もある。有力ギルドの連中はそういうギルド付きの商人や職人を抱えているケースだって珍しくはないのだ。もちろん月夜の黒猫団のような少人数ギルドでは生産職のように後方支援一辺倒というのは難しいことではあるが、そういう選択肢だって取ろうと思えば取れる。

 

 その辺りも説明してみたのだが、どうも反応は鈍い。俺の意見に反対というより、情報そのものの整理が追いついていないという感じだ。

 一気に言い過ぎたか。

 予想通りと言えば予想通りに後悔しながら、頭の中で素早くこれからのことを計算する。流石にこの状態を放置してばっくれるのはまずいだろう、人として。

 

「ケイタ、この宿屋ってまだ空き部屋あるか?」

「ん? あ、ああ、確かあったはず、だけど」

 

 思考に沈んでいたケイタから心ここにあらずの頼りない返答を貰う。

 

「なら今日はこれでお開きにしよう。俺も遠慮なくずけずけ言ったせいで気まずいし、ギルドメンバーだけで話したいことだってあるだろうからさ。俺が言うのもなんだけど、これからのことはメンバー全員でよく相談したほうがいいと思う」

「……うん、そうだな。キリトの言う通りだ。僕ら全員、真剣に考えてみることにするよ。キリト、君はここに泊まっていくみたいだけど?」

「本当はすぐに最前線に戻るつもりだったんだけど、これだけ月夜の黒猫団のみんなを引っ掻き回しておいて何もしないっていうのも寝覚めが悪い。明日の昼頃まではこの宿に滞在してるから、もし必要なら声をかけてくれれば力になるよ。上の情報が欲しければロハで教えるし、他に相談したいことがあるなら出来る範囲で協力する。もちろん、何もないならないで放っておいてくれても全然構わない。それでいいかなケイタ」

 

 半ばヤケの出血大サービスである。

 しかし協力を約束しておいてなんだが、出来れば放っておいてほしいのが本心だったりする。そして何事もなく最前線に復帰したかった。

 

「いや、とても助かるよ。ありがとう」

「感謝されることじゃないと思うけどな。それじゃまた明日」

 

 簡単に挨拶を交し合って席を立つ。

 個室を借りる手続きを済ませるためにフロントを目指して歩き出したが、なんだかなし崩しに弱小ギルド、月夜の黒猫団と関わりあいになってしまったことに頭が痛くなる。彼らの歓待を断らなかったのが悪かったのか、それともわざわざ波風立たせるような辛辣な物言いをした俺の自業自得だったのか、つらつらとそんな考えないし後悔が浮かんでは消えていく。

 

 ――それにしても。

 月夜の黒猫団は俺が元オレンジプレイヤーだということに気付かなかったのか、気付いていてその上で隔意なく接してきたのか。

 グリーンカーソルに戻ったとは言え、オレンジプレイヤーだった事実まで消えていたわけではないし、元オレンジプレイヤー、元ベータテスター、さらにははじまりの街での大立ち回りと、キリトというプレイヤーには悪名の立つ要素がふんだんにあった。中層、下層のプレイヤーとほとんど交流がないことを差し引いても、俺が誰であるのか気付かれないというのは虫の良すぎる願いだと思っていたのだが……。俺の悪評はそれほど知られていないのだろうか?

 

 第一層フロアボス戦での顛末をディアベルがどのように説明したのかを俺は知らない。知ることが怖いと逃げ続けてきた。

 あるいはそれがこの先彼らとの諍いの種になるかもしれない。

 そんな漠然とした不安に眉をしかめ、やりきれない気分に自然と重い息をついた。

 この世界から脱出できる日はまだまだ遠い。か細い希望を縁に必死の想いで剣を振るう毎日。そこにきて予期せぬプレイヤーギルドとの邂逅、なし崩しの関与。前途多難そのものだった。

 

 

 

 

 

「まいったな、あれが最前線でもトップレベルを誇る《黒の剣士》キリトか」

「《黒の剣士》?」

「うん、誰が呼び始めたのかは知らないけどね。みんなも最前線をソロで活動し続ける凄腕のプレイヤーの噂くらいは聞いたことがあるだろう? 最近ではそう呼ばれているらしい。それと、はじまりの街でゲームマスターらしきアバターに突撃したプレイヤーのことは覚えてるよね、あれもキリトだよ」

 

 僕の言葉に驚き半分感心半分の表情を返す仲間達。その反応を見るに彼が黒の剣士キリトだと気付いていなかったらしい。まあそれも仕方ないか。攻略組など僕らからしたら雲の上の存在であるし、彼らが下層まで降りてくることは滅多にない。攻略組を密かに目標としていた僕以外の黒猫団メンバーが普段顔を見ることもない攻略組の情報に疎くても仕方ないだろう。

 ……想像以上の人物だった。

 はじめは同名の別人かと考えていたのだ。当たり前だ、こんな下層エリアで最前線プレイヤーを見る機会などまずないし、適正レベルに見合わない狩場で長時間モンスターを狩るのもマナー違反だった。特に高レベルプレイヤーが低レベルプレイヤー向けの階層でモンスターを乱獲するのは、狩場荒らしとして盛大に嫌われる。場合によっては非マナープレイヤーとしてバッシングを受けかねないのだ。そうした事情もあって、当初キリトと攻略組の黒の剣士は結びつかなかった。

 

 さらに言えば、出会いが鮮烈だったわけでは決してない。

 むしろとぼけたような声で助太刀を提案してきた彼からは歴戦の凄みなどまったく感じられなかった。複数のモンスターを相手取る彼を見たときも、戦い方が上手いとは思ったがそれ以上ではなかった。鎧袖一触に敵を切り捨てるわけでもなく、敵の攻撃を時にかわし、時にはじき、正確な剣戟を数度繰り返しているうちにいつのまにか戦闘は終わっていた。思い起こすとソードスキルは一度も使っていなかった。だからこそ派手だとは思わなかったのかもしれない。しかしまったく危なげのない戦い方だった。

 そんな腕の立つソロプレイヤーを見てチャンスだと思ったのだ。

 彼を引き込めれば戦力は一気に上がる、密かな目標として胸に温めていた攻略組参加が近づく。そう思って勧誘を決めた。サチの指導どうこうはあくまで話の取っ掛かり程度に過ぎなかったのである。

 

 しかし彼のレベルを聞きだしたとき、すぐにその正体に気付いた。

 安全マージンを考慮すると現在の最前線プレイヤーのレベル平均は30そこそこだろう。トップクラスでも40に届くかどうか。そんななか、キリトの口にした59というレベルは信じるのが難しいくらいぶっ飛んだレベルだった。これが彼の口にした言葉でなければまず嘘を疑ったはずだ。

 しかし嘘ではないはずだ。そんなつまらない嘘をつくようなプレイヤーではない。

 全てが始まった日。

 あのはじまりの街の大広場で誰もが絶望する中、一人敢然と茅場晶彦に剣を向けた剣士。それが彼、キリトだった。思えば僕が攻略組を目指したいと考えたのは、あの日の彼の真っ直ぐで眩しすぎる姿に憧れたからなのかもしれない。そう考えると面白い縁だなと思う。

 

「おいおい、はじまりの剣士って言えば、初のオレンジプレイヤーだろ。第一層フロアボス戦でPKをしでかしたっていう。でも、あいつのカーソルはグリーンで表示されてたぞ」

 

 そう、それもあって、僕もはじめは別人だと思ったんだ。

 

「元々オレンジからグリーンに戻すカルマ浄化クエストの存在は囁かれてたんだ。キリトの様子を見ると発見されたみたいだね。そのうち情報も出回るかもしれない」

「って、大丈夫なのかよ。そりゃ、はじまりの街のあいつがキリトだってんなら俺達一般プレイヤーの恩人には違いないけどよ、オレンジプレイヤーだったんだろ? ケイタ、お前知っててうちのギルドに誘ったのか」

「そのへんは心配いらないと思うけどね。オレンジになったのも、フロアボスの重圧に錯乱して同士討ちを始めたプレイヤーを止む無く斬ったって話だったし、そもそもキリトが悪意を持ってプレイヤーを襲うようなやつなら、とっくに攻略組の手で監獄エリアに送り込まれてるんじゃないかな」

 

 前線の情報を伝え聞く限り、オレンジプレイヤーとなりながらもキリトはずっとボス攻略戦に参加し続けたらしい。その事実はPKを間近に見ていたほかのプレイヤーから見てもキリトの行動は批判できるものじゃなかった、ということだと思う。そうでなければ今頃キリトは攻略組から弾き出されているだろう。ボス攻略に参加するなど不可能だったはずだ。そうした諸々の推測も含めて説明すると、少なくともキリトが僕らに危害を加えるような危険人物ではないということは理解してくれたらしい。

 仕方ないことでもある。PKをしたということは、つまり間接的に人を殺した、ということだ。それがいくら止むを得ないことだったと言っても、はいそうですかと流すようなことは誰にもできないだろう。

 

「サチはキリトのこと、どう思った?」

 

 だから空気を変える意味でもサチに話題を振ったのだが。

 

「サチ?」

 

 サチはすぐに僕の呼びかけには気付かなかった。ぼうっとした表情で視線の焦点もおぼつかない。二度目の呼びかけでようやく戻ってきたようだ。この世界では肉体的な意味での疲労が存在しないのだから、精神的な疲れだろうか。

 

「あ、ごめんなさい。それでケイタ、なにかな?」

 

 慌てたように居住まいを正す幼馴染の姿を見て、思わず笑みがこぼれるのを止められなかった。そんな僕の態度にサチが目で抗議するのもいつものことだ。

 

「キリトのことだよ。サチはどう思ったかな、って」

 

 実は割と緊張していた。

 あえて抽象的に投げかけたのも、キリトの推測が正しかったのだという決定的な事実を告げられるのが怖かったからなのかもしれない。

 僕とサチはずっと一緒だった。それこそこのゲームに囚われる前から、幼馴染として長い間同じ時間を過ごしてきた。だというのに、僕はサチがモンスターと戦うことにずっと怯えていたのだと気付かなかった。いや、サチの恐怖をいつもの怖がりなのだと考えて真剣に捉えていなかったのだ。

 だけど、キリトは一目でサチの内心に気付き、指摘した。そのせいだろうな、ひどく情けない気持ちでサチに向かい合っている。

 

「すごい人だなって思うよ。少し戦ってるところを見ただけであんなに色々気付いちゃうんだもん。それに強いだけじゃない、とっても優しい人だと思う。今日会ったばかりなのに、私の、ううん、私達の心配までしてくれてる。きついこともたくさん言われたけど、それも全部私達のことを心配して言ってくれたんだと思う」

 

 抽象的な問いかけだった分、キリトの信頼性がどうこうの感想ではなかった。そもそもサチにとってはそんな議論自体不要なものだったのかもしれない。言葉を聞くまでもなくキリトに好意的であることがわかる。さらにいえば、心なしかいつもよりサチの声に力がこもっていたように聞こえたくらいだ。

 今日、キリトに僕達のなかで一番扱き下ろされたのはサチだった。戦いに向いてない、上を目指すなら戦闘から降りて後方支援に努めろ、と散々に叩かれていたのだ。だというのにサチに落ち込んだ様子は見られない。むしろ昨日までのサチよりもずっと伸び伸びとしているように見える。愁眉が晴れたという感じだった。

 やっぱり、か。

 半ば予想していたことだが、サチのその姿に確信を得た。

 

「なあサチ。キリトの言ったことだけどさ、サチが震えるほど戦いを怖がってるっていうのは本当なのか」

 

 恐る恐る問いかける。

 サチはすぐには答えなかった。僕達に遠慮しているのか、しばらく迷ったように視線を手元に落としては上げ、という動作を繰り返してから、やがて小さく「うん」と肯定して続けた。

 

「モンスターと向き合うたび、槍を握って振り回すたび、怖くて震えてる自分がいるのがわかるの。黒猫団のみんなと一緒にいられるのは嬉しいけど、街の外に出るのはいつだって恐ろしかった。夜、一人でいるとどうしようもなく不安で胸が張り裂けそうだった。できることなら、はじまりの街を出たくなんてなかった。……ごめんね、ケイタ。臆病な私で本当にごめんなさい」

 

 知らなかった。気付かなかった。サチがこんなにも苦しんでいることに僕は気付こうとすらしなかった。現実でも控えめなサチだったから、言いたいことの半分も言えないその性格をよく知っている僕がもっと慮るべきだったのかもしれない。

 はじまりの街を出て狩りをしようと決めたのは僕だが、他のメンバーから反対が出ることはなかった。よくよく考えてみればサチに言い出せるはずがなかったのだ、はじまりの街を出たくないなどということは。

 もとよりサチ以外の全員が冒険に賛成していた。最悪の場合は一人はじまりの街に残されてしまうという想像もしたはずだ、そんな状況でサチが反対に回れるはずもない。

 

 ……僕はずっとサチに無理を強いてきたのか。

 苦い思いを噛み締めるように手で顔を覆う。

 サチに申し訳ないと思う自分がいる。情けないやつだと自分自身を罵倒する声も聞こえる。そして身勝手なやつだと嘲笑う自分自身すらいた。

 サチのことを思えばキリトの言う通り、攻略組を目指すことなんて考えずに下層に留まるべきなのだろう。時間さえかければ中層プレイヤーくらいまでは手が届くのかもしれない。キリト自身、僕らの未熟な腕は時間が解決してくれると口にしていた。しかしそれではキリトのいる最前線にはいつまで経っても追いつけない、いつかを夢見ているだけで、決して届かなくなってしまうことは間違いなかった。

 キリトという最高クラスのトッププレイヤーと知り合えたことは慮外の幸運なのだ。この機会をどうしても無駄にはしたくない。そう思ってしまう僕はサチの幼馴染失格なのかもしれない。サチの安全よりも上を目指すという僕自身の夢を選びたい、優先したいと考えてしまっている。

 

「ごめん、サチ。気付いてやれなくてすまなかった」

「ううん、ケイタが悪いんじゃないよ。悪いのは臆病な私なんだから、謝るのは私のほう」

「いや、それでも僕は謝らなくちゃいけないと思うんだ。これまでのこと、そしてこれからのこと……」

「これから?」

「うん。キリトには止められたけど、それでも僕は上を目指したい、攻略組に追いつきたいんだ」

 

 僕の言葉にサチの表情が曇る。その目には隠しきれない怯えがあった。

 キリトの言った通り、確かに注意深く観察すればサチの様子にも気付けるし、気付けたはずだった。元来サチは隠し事の上手くない女の子だった。考えてみれば当たり前か。

 

「もちろんサチにこれ以上無茶をさせる気はないよ。キリトの助言を有り難く貰っておこうと思う。サチには戦闘以外の補助スキル、生産とか鍛冶にシフトしてもらって僕達の攻略の手助けをしてもらえたらなって思ってる。サチは人見知りだから商人スキルとかよりは向いてると思うしね。サチはそれでいいかな?」

「う、うん。それならなんとかなる、かな?」

 

 冗談ぽく続けた僕に自信のない返事とぎこちない表情でサチは頷く。自信がないというよりは罪悪感と安堵が半々で複雑なのだろう。それに月夜の黒猫団はずっと一緒にやってきた。そこから一人距離を置くことになる不安と後ろめたさもあるのかもしれない。

 

「どうするにせよ、コルを稼ぐためには最低限狩りには出なくちゃいけないしね。元々荒事は僕達男の仕事なわけだし、サチはあんまり気にする必要はないよ。な、そうだろみんな」

 

 他のメンバーに話を振ればすぐに肯定を返してくれた。

 その様子にほっとした様子のサチを尻目に、これからのことを考える。キリトは相談に乗るとは言ったが、明日の昼には最前線に戻るつもりでいるはずだ。元々僕らが攻略組を目指すことには否定的だったということもあるし、キリトが僕らのために骨を折ってくれる理由もない。相談に乗ってくれるだけでも本来は破格だった。

 それでもこの縁は無駄にしたくない。どうにかならないものだろうか。

 ギルドに入ってくれと誘っても無理だろう。キリトにメリットが一つもない。

 それなら――。

 

「とりあえずこんなところかな。それじゃサチ。キリトに明日の朝食の時間と僕らが食事を一緒に取りたいこと、その後相談があるって伝えてきてもらえないかな。そしたら今日はもう休んでくれて構わないからさ。僕らは明日からの方針をもう少し話し合ってから休むことにするよ」

「ん、わかった」

 

 おやすみなさい、と丁寧に告げてサチが部屋を出て行こうとする。

 

「ああ、一応キリトにサチが戦闘から外れることも伝えておいたほうが良いかもしれないな。随分サチのこと心配してたみたいだし」

「もう、からかわないでよね、ケイタの意地悪。みんなも知らないから」

 

 扉を出る寸前、ことさら明るい声でサチの背中に投げかけた。僕の言葉をからかい混じりの揶揄と受け取ったサチが怒ったような声で反論したが、感情表現が隠せず表情に出やすいこの世界では羞恥に染めた頬の鮮やかさを隠せようはずもない。そんなサチの初々しい様子に他の連中も口笛を吹いたり暖かい視線を送ったりとさらにからかい倒されたサチは、一言抗議してから逃げるように扉を開けて立ち去った。

 そんな一連の出来事を一服の清涼剤にしたように部屋に和やかな空気が戻る。

 サチには悪いが十分効果があったようだ。

 

「さてと。それじゃあみんな、サチにも言ったけどこれからのことを相談したい。聞いての通り僕は攻略組に参加することを目標にギルドを運営したいんだ。もちろん強制じゃないよ。サチのようにモンスターと戦うのが怖いなら後方支援に回ってもらうし、最前線を目指すことに反対なら遠慮せず言って欲しい」

 

 僕の言葉に顔を見合わせ、目で何かを確認し合って頷く三人。もっとも、返答は予想できる。

 

「俺達もさっき言った通り、ケイタの意見に賛成だぜ」

「同じく。元々、そろそろ次のステップに進む機会だって納得して階層を上がってきたわけだし」

「反対する気はないぞ」

 

 その通りだ。はじまりの街周辺で満足できていたのなら僕達は元々こんなところまで来ていない。命を賭けたゲームの世界に閉じ込められて、外からの助けを待つだけじゃなく、僕達自身にも出来ることがあるはずだと思い立って攻略に参加することを決めた。

 もちろん熟練のプレイヤー達にはまだまだ及ばないことはわかっていたが、生活のためだけの狩りに満足していないのは僕だけの思いではなかった。今回明らかになったサチの事情を別にすれば、他のメンバーは多かれ少なかれ現状に不満があった。だからこそ僕の目標にすぐに賛同してくれたのだろう。

 

「ありがとう。それじゃ明日からの具体的な方針を立てよう。サチが抜けるのは痛いけど、それで立ち行かなくなるわけじゃない。キリトみたいなソロで活動してるプレイヤーだっているわけだから、今のメンバーでも攻略組を目指すことは不可能じゃないはずなんだ」

「それはそうだけど、ギルドとしての戦力を考えた場合前衛が一人というのはやっぱり安定しないことに変わりはないだろ? それでなくてもうちのギルドは攻守に安定感のある片手剣士がいないんだから。そのあたりはどうしようか?」

「あ~、ケイタがキリトのやつを誘ったのってそれもあるのか。確かにうちのギルドは武器が打撃属性と貫通属性に偏ってるよな」

「かといって慣れ親しんだ武器と役割だ、せっかく育ててきたスキルを変更してまで変えるとなると」

 

 うーん、と全員で考え込む。

 元々サチのコンバートは槍使いが被っていることと、片手剣使いの不在、前衛の不足のもろもろを解決するための一手だった。

 成長の遅かったサチなら武器変更をしても全体に与える影響は少ないという目論見もあった。

 しかしこれからはサチ抜きで戦闘を考える必要がある、それも効率の良いレベル上げまで踏まえてだ。

 

「どこのギルドにも所属してないソロプレイヤーを探してみるか? 上を目指す以上戦力の補充は必須だろう?」

「信用できねえやつを迎え入れるのはごめんだぜ。俺は出来れば今のメンバーのまま上を目指したいな。一時的に他のギルドと協力とかできないのかケイタ?」

「難しいな。うちは元々共同作戦とかしたことがない。他のギルドから助っ人を貸してもらうにしても、思い当たる知り合いはいないし」

「やっぱそうか。そうなると結局キリトのやつに戻ってくるんだよなあ。信用のおけるソロプレイヤーかぁ。ケイタ、お前色々考えてるんだな」

 

 それは褒め言葉だったがあまり嬉しくなかった。僕も手詰まりなことに変わりはない。

 

「新規メンバーに反対するわりにはキリトのことを認めてるんだな」

「そりゃ、噂で聞くのと実物を見るとじゃ印象は別になるさ。サチも言ってたように、俺らの戦いを一回見ただけであれだけ言えるんだから相当な腕なんだろうしな。それに初対面のサチをあんだけ心配してる姿を見ちまうと、無駄に反発してる自分が馬鹿馬鹿しくなった」

 

 おどけたように肩を竦めるコミカルな動作に他のメンバーからも小さな笑い声が響く。いささかわざとらしくはあるが、ムードメーカーの面目躍如といったところだろう。

 

「ケイタ、良かったのか?」

 

 不意に真剣な声で問いかけられて目を白黒させる。

 

「よかったって、何が?」

「サチのことだよ。まだまだ憧れ程度だろうけど、キリトのやつに惹かれ始めてるのはお前だってわかってるはずだ。なのにどうしてサチをわざわざ一人でキリトの部屋に行かせたんだ。お前はサチのことを憎からず思ってるはずだろ?」

 

 このあたり遠慮のない友人関係というのは厄介なものだと思う。サチに伝わっていないことが幸運なのか不運なのか、どうもメンバー全員が面白半分お節介半分で僕とサチの仲の進展を期待している節がある。ありがたいことではあるのだろうが、こういうことは大抵当人にとっては有り難迷惑だったりするのが難しいところなのだった。

 

「そりゃあ、サチにしても自分のことをあれだけわかってくれる異性が相手なら好意の一つ二つ抱くだろうさ。男として悔しいと思う気持ちもあるけど、サチの事情を考えると今はキリトの傍にいるほうがいいんじゃないかと思ったんだ」

「……冷静なんだな」

「幼馴染のことなんだ、サチがどういう女の子なのかはよくわかってる。こんな異常な環境に放り込まれてたくましく生きていけるようなやつじゃない、あいつはもう精神的に限界だったはずなんだ。そんなサチに気付いてやれなかった僕が言うことじゃないかもしれないけどね。少なくとも今のサチは僕ら黒猫団よりキリトを心の支えにしたいと感じてるんじゃないかな。もちろん無意識にだろうけどさ」

「あー、確かにサチにとっちゃ強くて優しくて頼りになる、しかも顔も良い王子様になるのか。ライバルは強力だな、ケイタ」

 

 けらけらと笑う姿からは毒気が全く感じられないのが幸いだ。これが悪意からのものなら遠慮なくぶん殴っている。

 

「からかうなよな、これでも結構気にしてるんだ。まあそれはともかく、僕達が目標に近づくためには是非ともキリトの力を借りたいっていうのが正直なところかな」

「信用の置けるプレイヤーではあるし、腕も確かなことは間違いないからな。しかしレベル59か、未だに信じられんな」

 

 ため息混じりの感嘆には心底同意する。嘘ではないだろうと思っても、レベル20に届かない僕らからしてみると文字通り雲の上の数字だった。

 

「けどまあ、キリトのやつ言ってることはきついけど、割とお人よしっぽいしなあ。案外全員で頭下げれば力貸してくれるかも。ここは土下座の一つでもして泣き落としてみるか?」

 

 月夜の黒猫団総出で土下座行脚か。なんとも珍妙な光景を想像して噴き出した。

 

「効果的かもしれないけどやめておこうか。幸い相談には乗ってくれるって言ってるんだから、僕達の習得スキルやスキル熟練度をキリトに話して、僕らのレベルに丁度いい効率的な狩場を紹介してもらおうと思ってるんだ。後はフレンド登録かな。ギルド勧誘は無理でもこの先キリトの助けを借りることが出来れば攻略組にもぐっと近づく。僕が考えてるのはこのくらいだけど、みんなはどうかな」

 

 それぞれが表情を改めて頷く。

 特に反対されることなく賛成してもらえてほっとした。あとは明日キリトに当面の方針とこれからのお願いを相談すればいい。

 ただ、問題はキリトへのお礼なり恩返しなりの方法がまるっきり思い浮かばないことだ。最前線のプレイヤーに下層エリアで手に入るようなコルやアイテムを贈ったところで喜ばれるとは思えない。かと言ってキリトの手伝いを出来るほど僕らは強くないわけで。

 予期せぬ激動の一日は終わったが、新たな難問にベッドのなかで頭を痛めることになりそうだった。

 

 

 

 

 

 昨夜の黒猫団への駄目出しから明けて翌日。

 久方ぶりにまともなベッドで休んだせいか身体の調子が良い。

 この世界では純粋な意味での肉体的疲労は存在しないため、精神的な疲れだったのだろうが、やはり街中の宿という安全地帯で休息を取るのは大事だと再認識する。半ば命を見切って過ごす時間が長かったせいか、街できっちり睡眠を取るという意識が希薄になって久しい。

 その一方で睡眠時間を長く取るくらいならその分狩りに時間を費やすべきだと考える自分がいるあたり、どうにも救いようがない人間なのだと自嘲する。それが重度のネットゲーマーゆえなのか、あるいは人殺しの罪科を忘れるために生死の狭間である戦闘に没頭したいのか、どんな理由にせよろくでもないものでしかあるまい。

 とっくの昔に桐ヶ谷和人という善良な一般市民はいなくなり、ここにいるのは薄汚い獣のような剣士キリトでしかなかった。

 

 ……駄目だな。安全な場所で、無為の思索が許される時間を過ごしていると、どうも思考が内に内にこもってしまう。こんなだからアルゴにもクラインにも心配ばかりかけるんだ。まったく進歩しない。

 一度頭を振って鬱々とした思考を振り切り、部屋を出る。その際にいつもの癖で完全武装を始めようとする自分に気付いて一人赤面したことはご愛嬌だ。装備を解除し、安全の保証される街中だからこそできる簡素な部屋着のみ身に着けて食堂に向かう。

 ケイタは昨日の俺の話を聞いてサチを前線から遠ざけ、後方支援に専念してもらうことを口にしたらしい。その上で攻略組を目指したい、とも。それらのギルドとしての方針を携えて俺の部屋を訪ねてきたサチは、安堵と罪悪感が半々の表情をしていた。これ以上命を賭けた戦闘をしなくて良いという思いと、一人戦闘から逃げ出してしまう後ろめたさからのものだったのだろう、サチの顔はひどく複雑な色合いを帯びていた。

 柄じゃないと思いながらもしばらくサチと雑談を交わし、沈みがちな彼女を時に宥めるように言葉を紡いだのは、あまりに弱弱しい様子に放っておけないと思ったからだろうか。

 

 いつかアルゴに言われたことがある。

 こんな異常な世界に放り出されて、当たり前に笑っていられるヤツなんていない。俺がつらいと思っているように、誰もが泣きたい気持ちをこらえて戦っているのだ、と。そして、続けてこうも言ったのだ。

 

「もしキー坊を頼ってくるやつがいたら助けになってやりなヨ。キー坊は他人と関わるのが怖いんだろうけどサ、せめて相手から求められた時くらいは応えてやってほしいナ。お人よしになれとは言わなイ。でも、人でなしになったらオネーサン許さないゾ!」

 

 そう言われて、それでも人目を避けるようにソロで活動を続けてきて、思いがけず小さな、しかし暖かなギルドと出会った。

 長居をする気はないし、これ以上深い関係を築く気もないが、それでも悪くないと思えた。彼らの危なっかしさに頭を痛めてはいても、それはそれ、これはこれというやつだろうか。一晩ぐっすり寝たおかげか妙に余裕が出来ているようだった。

 迷宮区に潜り続ける殺伐とした生活で余裕ができるわけもないか。

 

 自嘲か呆れによって小さく笑みを浮かべ、しかし今は一人ではないということに遅れて思い当たる。やばい、骨の髄までソロプレイヤーになっているのかもしれない。幸いというべきか、朝食の席に同席するサチは眠たそうに目をこすっていてこちらに注意を向けてはいない。

 昨夜、思いのほか談笑時間が延びて夜更かししたせいか寝不足なのかもしれない。この世界で寝不足というのもおかしな話だが、生活の習慣が崩れたりすると寝起きが悪くなったりするから不思議だ。このあたり現実に準じた反応であることはわかるにしても無駄に細かい仕様である。

 

 他のメンバーはまだ集合していなかった。約束した時間はそろそろのはずだが、と首を傾げる。

 彼らは揃って寝坊だろうか? この世界では起床時間をシステムによってきっちり設定できるのだ、寝過ごすというのはありえないことなのだけど。それとも何か買出しにでも行ったのだろうか?

 そんなことをつらつらと考えていた時、少しばかり乱暴に食堂に通じる扉が開かれた。先頭にケイタ、後ろに残りのメンバーも揃っている。扉が乱雑に開け放たれた反動で穏やかならぬ音がのどかな朝の空気をかき乱し、今にも船を漕ぎ出しそうだったサチがびっくりした顔で目を瞬かせていた。慌しく部屋に飛び込んできた彼らの様子に苦笑を浮かべ、「おはよう」と声をかけようとして――尋常でなく青褪めた彼らの顔色にようやく気づいた。

 

「大変だ、サチ、キリト! 圏内――それも宿の個室でPKされる事件が起きたって……!」

 

 底知れぬ人の悪意が、まざまざと噴き出そうとしていた。

 

 




 オレンジプレイヤーのペナルティとして、フレンド・メッセージに制限が入るのは拙作独自の設定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第04話 嗤う黒猫、薄氷の呼び声 (2)

 

 

 今日も今日とてモンスターを狩る。

 ありふれた日常だ。もはやすっかりゲーム世界の住人である。

 そうした境遇を厭うことなどとっくの昔に諦めていたし、剣を振り回すこともモンスターと向かい合うことも、何より戦いそのものが俺にとって苦ではなかったのは僥倖というやつなのだろう。

 惜しむらくは、最近の狩りは敵が雑魚に過ぎて退屈極まりない作業だということだろうか。最前線の迷宮区フロアに出現するモンスターでも俺のレベルじゃぬるいと感じるのだ。それよりずっと低層の、しかもフィールドモンスター相手じゃこんなものだろうとは思っても、物足りないものは物足りなかった。この渇きにも似た飢えはいったい何だというのだろう。いつから俺はこうなった?

 安全に、手堅く、さりとて油断なく。

 大抵のプレイヤーと同じことをしているというのに、どうして俺はこんなにもこの戦場を場違いだと感じて、居た堪れない気分に陥っているのだろう。日に日に増していく胸の内の煩悶を持て余しながら、それでも戦いに順応した俺の身体は半ば自動的に動く。

 

「サチ、今だ!」

「うん!」

 

 長大な鎌を持ったカマキリ型のモンスターが一体。その頭上から鋭く振り下ろされる一撃に、こちらも負けじと下から吹き付けるように剣で迎撃する。タイミングを合わせたパリイが成功し、現実で考えれば馬鹿馬鹿しいほどの体重差を跳ね返してその巨体を押し返した――のみならず、パリング効果でリスクブレイクと技後硬直時間の延長が発生し、わずかな時間ではあるがモンスターは無防備な姿をさらすことになる。

 そこに長槍を構えたサチがソードスキルを発動させ、燐光を散らしながら突きの連撃を叩き込んだ。適正な距離でソードスキルを発動できれば、後はシステムがアシストして勝手に身体を動かして攻撃を命中させてくれる。

 ほどなく巨大なカマキリのHPを削りきり、ポリゴン結晶となってモンスターはシステムへと還っていった。即沸きマップではないから次にポップするのは結構な時間が必要になる。と言っても、同種であっても同じモンスターというわけではないのだが。

 残心の心構えで周囲に気を配り、索敵スキルの視界で警戒を続けるものの、今の一匹で近場のモンスターは粗方狩り終えたらしい。索敵に引っかかる敵の姿はなかった。

 

「やった、キリト! レベル上がったよ!」

 

 幾分気を緩めて振り向くと、控えめながらも全身から喜びの気配を発散する槍使いの姿が――まあサチなのだが。

 レベルアップをしたというサチの声に他のメンバーも歓声も露わに駆けつけ、取り囲むように祝福の声をかけていた。

 相変わらず仲の良いことだ。誰かのレベルが上がるたび、あるいは誰かがレアドロップアイテムを入手するたび、皆で祝福の声を掛け合って喜び合う光景にももう慣れた。ソロで活動していては終ぞ体験しえないことだ。

 

「おめでとう、サチ」

 

 剣を背中の鞘に収めながら黒猫団のメンバーに便乗するように声をかけた。空気を読むことは大切。

 しかし、だ。

 周囲に敵影がないことは確認しているが、できれば喜び合うのは索敵担当を置くか街に戻ってからにして欲しい、そう思うのは無粋というものだろうか。ギルド一丸となって喜んでいるのに水を差すこともあるまいと黙っちゃいるが、俺はあくまで臨時の助っ人であって月夜の黒猫団団員ではないのだ。まがりなりにも攻略組に合流しようという気概を持っているのならば、そろそろ外部の人間に生命線の一つである索敵を頼りっぱなしという現状に疑問を覚えてもいい頃だと思うのだが。しかし残念ながらその辺りの相談は一度も受けていない。

 

「ありがとう、キリト」

 

 朗らかにはにかむサチ。出会った頃のような、どこか張り詰めた様子の力ない笑みではない。最近のサチはこうした柔らかな所作をよく見せるようになった。心に平静を取り戻し、良い具合に力が抜けたためだろう。弱弱しさや臆病な面はなりを潜め、万事控えめでありながら傍にいると自然と和むような雰囲気を作り出している。おそらくは現実世界でそうしていたような彼女本来の魅力なのだろう。

 不安と恐怖と混乱により一時陥っていた、目を離せば消えてしまいそうな女の子の姿はすでにない。

 この先全く問題はないと言えるほどこの世界は安穏とした場所ではないが、さし当たっての懸念は晴れたと思えるようになった。

 俺にとっても黒猫団の面々にとっても慶事と言える。

 

 ただし、月夜の黒猫団そのものに問題がないわけではない。

 それどころか、言葉を飾らずに言えば問題だらけだ。サチの進退ばかりが強調されていたが、むしろ月夜の黒猫団の問題は攻略組を目指そうという目標それ自体にあった。

 キャラクターレベルだけならまだなんとかなる。月夜の黒猫団に不足していた前衛に俺が入ることで安全性を確保し、経験値効率の良い狩場を巡ってパワーレベリングを行うことで短期間で戦力アップを目指す。この方法で中層の上レベルまでならそう時を置かずに連れて行けるようになるだろう。安全マージンさえしっかり取れていれば早々モンスターに遅れを取ったりしない。

 

 ただ、それでも足りないものはいくらでもある。

 例えば装備。

 経験値とコルはある程度比例するため、レベルアップに伴ってコルは自然と貯まっていく。上質の装備が整えられないほど余裕がないわけじゃないのだが、月夜の黒猫団の当面の目標がギルドハウスの確保にあるため、どうしても装備の充実が後回しにされてしまっている。ただ、ギルドハウス購入に関しては俺も賛成していることなので強くはいえない。

 見栄が云々ではなく、単純に安全性の問題だ。主街区の宿でも確実に安全だと言えない現状、セキュリティの高いギルドハウスの確保は急務だと言えよう。また、一時的に棚上げになっているサチの前線離脱問題のためにもギルドハウスは是非欲しい。

 

 例えば協力者の存在。

 攻略組ではギルドごとに縄張り意識が強いため、迷宮区探索には個々のギルドで対処することが多いが、フロアボス戦や強敵の存在する特殊イベントが発生したような場合にはギルドの枠を超えて協力し合う体制が出来上がっている。これが中層以下になると攻略組に比して仲間意識が若干弱く、その場限りの野良パーティが頻繁に組まれるなど雑多な様相を見せ始めてはいるがそれだけだ。後につながるような信頼関係はなかなか築けないのが実状だった。

 中層プレイヤーは攻略一辺倒の最前線に比べてゆとりがあるというか、生活感が如実に感じられる。もしもソードアート・オンラインがデスゲームではなく、普通に遊ぶゲームならおそらく今の中層プレイヤーのような過ごし方が主流だったはずだ。そして俺自身彼らのような生活に惹かれていることは否定しない。何せ殺伐とした攻略組に比べて楽しそうなのである。

 

 現在の月夜の黒猫団のレベルはこの中層階層に位置する。ギルド構成員全員がリアルでの友人同士のせいか内部での結束は固いのだが、一方でその目が外に向きづらい。ギルド間の横のつながりが薄いのだ。

 聞けば月夜の黒猫団ははじまりの街での基礎修練を除き、開始から今までギルド内の単位でしか行動していないらしい。上を目指さないのならそれでも構わないのだが、強力な敵、難解な迷宮に挑もうというのなら戦力的にも情報的にも人脈を豊かにしなければ立ち行かない。その点、よくも悪くも黒猫団の皆は閉鎖的なため、これも課題になるだろう。

 残念ながらソロプレイヤーの上、親しい知人の数が圧倒的に少ない俺ではこの面では助けになれそうにない。ぼっちのコミュ障にそんな高度な要求を突きつけないでくれよ、頼むから。

 

 例えばプレイヤースキルの問題。

 高レベルプレイヤーが低レベルプレイヤーを引っ張る強引なパワーレベリングは、時間効率と引き換えに低レベルプレイヤーの咄嗟の判断力を養う機会を奪い、モンスターのアルゴリズムを見抜いた上で、最適な動解を求めるような戦闘思考法が身につく可能性を低下させてしまう。システムに規定されないプレイヤー自身のスキルを有効に扱えないと未知の敵や迷宮区の罠、なによりフロアボス戦で致命的なミスを引き起こしかねない。よほど切羽詰った事情でもない限り歪なパワーレベリングは控えるのが常道だった。

 それでも俺が彼らのレベリングを優先させたのは、こうしたプレイヤースキルはあくまで戦闘の補助であり、戦闘の根幹はキャラクターレベルとソードスキル、そして強力な武器防具にあるからだ。

 《レベルを上げて物理で殴ればいい》というのは昔からあるネットスラングというかRPGにおける諧謔(かいぎゃく)の一つだが、これが笑い話でもなんでもなくこの世界では適用されている。ステータスの数値以上にレベル差による補正が大きいのだ。

 もっとも、そうでなければいくら俺が抜群の経験値ブーストスキル持ちで反則レベル上げをした結果とは言え、単独で何度もボス撃破などという博打染みた真似をした挙句、生き残ることなど出来ようはずがなかった。レベルの大切さは、俺自身骨身に染みて実感していることである。

 

 ただし、補正云々は今のところ俺の体感による仮説でしかない。ソロで何度もボス狩りができることが証明だ、などと臆面もなく言えるわけがないので、機会があれば誰か適当なプレイヤーに話して検証してもらいたいところだ。しかし検証のためには、逆に安全マージンの足りないレベルで相対的に強大な敵に挑む必要もあるため、そうそう頼めるようなことではない。むしろ頼みたくない。

 とはいえだ。証明されていなかろうが、レベル補正が強く働く可能性がある以上は最も優先すべき方針はレベリングだというのが俺の持論だ。勿論俺の流儀に他人を巻き込む気はない。しかし黒猫団の面々も早急なレベルアップを望んだために現在の方針になっている。

 つまり俺が先頭に立ってモンスターを索敵し、時に投擲武器でモンスターを引き寄せ、前線を支えつつモンスターの体勢を崩す。そしてその都度経験値ボーナスが発生する止めを黒猫団の面々に任せて撃破、という流れとなる。モンスターのヘイトを前衛である俺に集めることに集中しているだけに、黒猫団の面々は非常に経験値を稼ぎやすいはずだ。もちろん効果は覿面で20にも満たなかった彼らのレベルはぐんぐんと上昇している。

 

 反面、効率的な防御や適切なスイッチ行動、危急の撤退の判断のような、地味だが大切なプレイヤースキルがほとんど磨かれないことが懸念材料ではある。ただまあ、この先ずっと俺が彼らの面倒を見るわけでもなし、やがて俺が抜けた後、空いた穴を埋めるためにそれぞれが必要な技能を適宜身に着けていくことになるだろう。

 そもそも一から十まで教えられなければ戦えないというのなら最前線である攻略組など目指すべきではない。そのあたりのことは既に言い含めてあるし、俺が協力するのはあくまで安全性を確保するためのレベリングと護衛、それにギルドハウス早期購入のための資金集めだ。

 

 彼らに協力を約束したことに後悔はない。後悔はないが、時折不満が湧き上がるのは俺の身勝手なのだろうか。

 基本的にソロでしか動かず、フロアボス戦では攻略組と協力し、高レベルで良装備かつ緊密な連携を駆使した上で集団戦を行う攻略組を見てきた俺からすれば、月夜の黒猫団は何から何まで不足した実力しか持っていなかった。戦闘における適宜の判断も甘ければ攻撃動作への切り替えも遅い。比べる対象が悪いというのは理性ではわかっていても、なかなか感情は追いついてくれない。もどかしさばかりが募るのだ。

 なによりこんな低層でのんびりやっていて良いのかという焦燥感もある。ここにいるのは本意ではない、ここは俺の戦場ではない、それが偽りなき俺の思いであろうことは間違いなかった。

 ただし、そうした内心の不満などおくびにも出していない――つもりではある。この世界では感情を隠すということが至難であるから、怒りや不安のようなマイナスの感情は現実以上に自制して秘める必要がある。

 

 幸い今回も気づかれた様子はない。皆、仲間のレベルアップにプチお祭り状態だったせいかもしれない。

 念のためともう一度索敵を行い、異常がないことを確認して警戒レベルを一段階下げる。見上げれば晴天の頂――とはならず、相変わらず鈍色に鎮座する上層の石壁が見えるだけだ。憂鬱になるだけの頭上から視線を外す。

 時間もそろそろ頃合だろう。昼食を兼ねた休憩を提案しようと声をかけようとしたが、未だに雑談に華を咲かせている集団を見やって懸命にため息を押し殺すことに注力せざるをえない。

 現実の暦で言えば春先の今日、自身の暗鬱とした気分には似つかわしくない穏やかで心地よい気象設定に皮肉めいた思いを抱くのだった。

 

 

 

 

 

 月夜の黒猫団と出会い、彼らと一瞬すれ違ってまたいつもと変わらない攻略とレベリングの日々が訪れると思っていた。そんな俺の予想は見事なまでに外れてしまったようだ、今もこうして彼らと行動を共にしていることがこれ以上ない証拠だろう。一日二日どころか一週間、二週間とずるずる日数が延びてしまっていた。

 良くないことだ。そう思いながらも、しかし一度深く関わってしまうと中々別れの言葉を切り出せなくなってしまうものだ。まして、同道する理由が理由だ。ここでさよならをするのはいかにも《彼らを見捨てた》ような気がして、結局なあなあで済ませた挙句今日まで来てしまっている。

 俺が最前線から離れて幾ばくかが過ぎ、その間に三つの層が攻略されたと聞いた。

 第25層において軍が壊滅的な被害を出した記憶も薄れ始め、直近のフロアボス戦では最精鋭との呼び声高いギルド《血盟騎士団(Knights of the Blood)》が主導して戦死者ゼロで切り抜けている。まだまだ先は長いが、それでも確かに攻略のスピードは加速している。第25層のフロアボスが強すぎた点を差し引いても最前線に集う攻略組の奮闘は目覚しいものがあった。

 やはり血盟騎士団、それも団長と副団長の存在は大きい。

 

 血盟騎士団団長ヒースクリフ。

 攻守共に無駄のない洗練された盾持ち片手剣士。情報屋を凌ぐ博識と重厚なカリスマ。戦闘におけるその先読みの鋭さと的確な剣撃は全プレイヤー随一のものだろう。実力、声望共に抜きん出た男だ。俺はどうにも馬が合わないというか、苦手な男なのだが。

 血盟騎士団副団長アスナ。

 柔軟な身のこなしと目にも止まらぬ華麗な刺突剣技を得意とする細剣使い(フェンサー)。加えて見目麗しく品のある立ち居振る舞いが良家の子女を思わせるために人気も抜群だが、決して見た目だけの女性ではない。一途に攻略に励む凜とした意志は眩しいほどだ。かつて一時の間とはいえパートナーを務めた身としては誇らしい限りだった。そんな彼女はその美貌と実力から最近では《閃光》の二つ名で親しまれているらしい。

 誰が呼び始めたか知らないが、このあたり本当ロールプレイである。切羽詰っているわりにどこか余裕があるとでも言おうか、あるいはそう演じることでひたひたと忍び寄る絶望から必死に目を背けているのかもしれない。悪夢のようなこの世界で、現実と乖離した己を演じることで少しでも精神の均衡を保とうというのならば、それを責める資格など誰にもないのだろう。

 

 ヒースクリフとアスナ。

 この二人が攻略組の柱となり、癖の強い有力ギルドやベータテスト上がりのプレイヤーを纏め上げることを可能にしている。その目的はソードアート・オンラインクリアによる全プレイヤー開放。

 それはここ、アインクラッドに生きる全てのプレイヤーの悲願ではあるが、しかしそのために命を懸けて戦おうとする人間は稀である。ゲーム攻略に必要な命題、すなわち迷宮探索とフロアボス撃破。そのためのレベリングと死闘のみを目的に生きるのは精神的につらすぎるのだ。なによりHPがゼロになったら死ぬという現実は未知のマップへの怖れとなる。

 動機は人それぞれだろうが、そうした諸々のデメリットを呑みこんで戦い続ける道を選んだのが攻略組の面々であり、その中でも純粋に攻略「のみ」に全精力を傾けているのが血盟騎士団だった。彼らは生活のほとんど全てを攻略に費やし、日々その神経をすり減らしている。最前線にたむろする高レベルモンスターを相手に高効率のレベリングを行い、強力な武具調達から強化に多額の金銭を費やし、日夜更新されるマップ情報の確認に奔走する、あるいは自らが未知のマップを踏破する。

 その先鋭にして規範が件の二人なのである。

 

 フロアボス戦以外に興味はないと公言したというヒースクリフ。一日も早いゲームクリアのために他プレイヤーに協力を呼びかけ、有言実行とばかりに毎日迷宮区に挑むアスナ。マップ攻略やボス対策会議を主導するのは副団長のアスナで、団長ヒースクリフは概ね副団長の決定を追認するだけのようだが、しかし命が危ぶまれるような危険なフロアボス戦、難解な迷宮エリアの攻略にはヒースクリフもその重い腰を上げて団員を鼓舞していると言う。

 率先して危機に立ち向かう男。だからこそのカリスマだろう。あの男が台頭し、アスナを副団長に迎え入れてから攻略組の攻略スピードは明らかに加速した。

 そんな二人だからこそ全プレイヤーの希望となれた。しかしその一方で攻略に先鋭化しすぎた弊害も出てきている、中層階層以下の揉め事に関心が薄いのだ。もっともそれはヒースクリフやアスナだけの問題でもない。攻略組の多くは攻略以外のことに時間と労力を割くのを嫌う。いや、嫌うというより攻略に手一杯でそれ以外に力を割くだけの余力がないと言うべきか。ただでさえ多忙なのに、下層の安穏と生きるプレイヤーたちの面倒まで見ていられるか、というのが彼らの総意だろう。

 仕方ない。なにせ俺だってそう思うからだ。実際の話、当事者でもなければ今回の事件など放っておいて迷宮に篭っていたはずだ。

 

 そう、今も俺が月夜の黒猫団と共に過ごすきっかけとなった事件である。

 新聞記事を作成する情報屋の一人がセンセーショナルに書き殴った密室PK事件。

 被害者はとある少人数ギルドに所属していた槍使いの男で、下層から中層に上がってきた矢先のことだったという。事件当日、狩りを終えたギルドメンバーで宿に宿泊を申し込み、ドロップアイテムの整理や初挑戦マップで無事に帰れた祝いとして少し奮発した夕食を終え、各々の個室に戻っていった。

 翌朝、いつまで経っても起きてこない団員を心配して部屋を訪ねると部屋は施錠されたままで、いくら呼びかけても応じる声はなかった。メッセージやギルド通信でも反応はなく、陽が昇りきっても起きてこないメンバーに流石に嫌な予感を覚えてメンバーの一人が黒鉄宮に恐る恐る確認しにいくと、最悪の事態が発覚したというわけだ。キャラクターネームに横線が引かれ、死亡理由に第12層主街区にてプレイヤー攻撃によるHP全損と刻まれていた。生命の碑にまた一つ訃報が届けられたということだ。

 

 自分で自分を攻撃した末の自殺ならば死亡理由にその旨が記載される。故に自殺ではない。他殺、すなわちPKの可能性が高いわけだが、ここで問題なのが《主街区で死んだ》ということだった。主街区は犯罪防止エリアに指定されており、プレイヤーを傷つけようとしてもダメージが通らない。PKなど不可能なのだ。

 加えて、犯行場所が宿屋内部というのも問題だった。宿の施錠セキュリティは登録した本人以外は開けられない仕様になっているし、勝手に鍵をかけることもできない。本人が許可せず部屋に押し入ることは出来ず、侵入に成功してもそこから部屋を施錠した上で脱出することなど、やはりシステム上不可能なことだった。

 それを可能にした。つまりは不可能犯罪の完成である。

 

 掲載された情報を信じるならば、という但し書きは必要だが、今まで犯罪防止コードに守られて安全だと思われていた街中で、それもさらにセキュリティの高い宿の一室でプレイヤーによる殺人が行われたということだ。

 もしもこれが狂言ではなく真実であった場合、プレイヤーの安全はこれ以上ないほど脅かされることになる。なにせ最も安全で危険のない宿の個室という場所ですら安眠できないことになる。いくら食べなくても死なないソードアート・オンラインでも、空腹になれば飢餓感を覚えて集中力の欠如を招くように、適正な睡眠時間を取らないと精神的に不調になるのは現実と一緒だ。この辺り睡眠は現実の脳を休ませる意味があるのだろうと考えているが……。

 

 新聞では昼間でも単独行動は慎み、夜間は外出を控えるよう促してはいたが、記事そのものが不安を煽る論調であった以上、その言葉にどれだけ説得力を持たせられたものか。あるいは全プレイヤーに発信して警鐘を鳴らすなどという行動に出ず、秘密裏に事件に対処するという方法を取ったほうが混乱は少なかったかもしれないとさえ思う。もっともその場合、同じ手口で第二第三の事件が引き起こされた場合、当事者のギルドとそれを知った上で秘匿した情報屋の立場が難しいものになりかねないか。自分達の手に余ると判断した結果の決断なのかもしれない。

 しかし結局のところ、今もって犯人は見つかっておらず、同様に密室だったのかどうか、本当に宿の個室内でPKが行われたかどうかもわからずじまいだ。なにせ宿の登録は本人が更新しない限り時間が立てば契約は破棄され、内部から鍵がかかっていたのかどうかの確認も今となっては不可能なのだ。だから確かなことは犯罪防止コードの圏内で殺人が行われたということでしかない。

 

 ――それだけならば。

 

 生命の碑に記載された死亡理由だけならば、仮説の立てようもあったのだ。

 犯罪防止コード圏内で唯一HPの減少が確認される手段。

 すなわち決闘システムだ。

 

 最初にクリーンヒットを決めたプレイヤーの勝ちとなる初撃決着モード。

 プレイヤーのHPがイエローゾーンに踏み込むまで戦う半減決着モード。

 そしてプレイヤーのHPが全損するまで戦う完全決着モード。

 

 ゲーム開始直後、俺はクラインに初撃決着モードを利用した戦闘基礎訓練を示唆したことがある。

 中には半減決着モードを試したプレイヤーもいるだろう。

 しかし完全決着モードだけは使われていないはずだ。

 茅場晶彦によってソードアート・オンラインがデスゲームという本仕様に変更となり、HPがゼロになれば現実の死が訪れるこの状況で完全決着モードは忌避されるべきものだ。これが従来の健全なMMORPGならばプレイヤー同士の本気の腕試しとして好評を得た可能性もあろうが、今となっては存在するだけ無駄な機能だった。使い道がない。

 ……少なくとも、真っ当なプレイヤーにとっては。

 

 第一層において唯一確認されているPK事件。つまり俺が犯してしまったPK以来、犯罪行為による死亡者が出たとは聞いたことがない。

 だが、もしも犯罪を志向するプレイヤーが潜んでいたとすれば?

 もしも彼らがオレンジになることで被るデメリットを恐れて大人しくしていたとしたら?

 そしてオレンジを解消するクエストの存在が明らかになってしまった今ならば?

 信じたいことではないが、今回のように計画的な犯罪行為に走るプレイヤーが出てきてもおかしくはない。

 完全決着モードを利用した故意の殺人。

 決闘申し込みを本人が望まなくとも承諾させることができるのなら、犯罪防止コード圏内でPKが可能になる。

 

 その可能性に思い当たった俺はアルゴの協力を得て検証を試みたことがある。

 その結果として、他人に補助ないし操作されていようとも、メニューの呼び出しや眼前に浮かぶ決闘受諾が可能なことが判明した。もちろん本人に抵抗されれば不可能なのだが、何らかの要因で身体と意識の自由がない時ならば――街中では麻痺のような状態異常は起こらないから考えられるのは睡眠中だ。これは眠っている俺の身体を使って検証したアルゴが確かめたし、俺自身もアルゴの手を借りて決闘を成立させたりした。アルゴのあれは狸寝入りだった可能性もあるが、少なくとも俺はアルゴの前で熟睡していたことに間違いないので構わないだろう。

 犯罪防止コード圏内においてPKを起こす手段についてはひとまず実証できた。睡眠中のプレイヤーの手を動かすことで無理やりに決闘を引き起こし、殺害を図る。確証はないが多分今回使われた手口はそれだろうと思う。というか二つも三つも犯罪防止コードシステムの穴を早々に発見したくもないし発見されたくもない。

 

 しかし問題は密室が事実だった場合だ。

 先の仮説を用いれば犯罪防止コード圏内でPKを起こすことは出来ても、宿の個室に侵入することは不可能なのだ。被害者が街中で眠りこけていたならばともかく、情報が正しければPK現場は施錠された宿の個室だ。外部犯は考えづらい。では身内に犯人がいるかといえば、それも考えづらかった。なぜならプレイヤー所有のギルドハウスのようなものならともかく、NPC経営の宿では登録者本人以外に施錠の権利を設定することは不可能だからだ。まして被害者の死が確認された時点ではまだ部屋は施錠されていたと言う。後日被害者プレイヤーと宿の契約が切れた直後にギルドメンバーで部屋に踏み込んだところ、やはり誰もいなかったらしい。

 つまり本人以外は何人たりとも立ち入りのできない状況だったのは間違いない。間違いないのだが……それでは事件が起きるはずもない。そもそも犯罪防止コード圏内ではHP自損による自殺は不可能なのだから、他殺を否定すれば黒鉄宮の石碑に刻まれた死亡メッセージと矛盾してしまう。ソードアート・オンラインを支配するシステムの誤認か管理者権限による改竄(かいざん)でもしない限り、他殺を装った自殺などという手のこんだ真似は不可能だ。

 

 施錠された部屋への侵入を可能にする手段か……。街中の建物は基本破壊不可能オブジェクトに含まれるため、内部から唯一の出入り口である扉が施錠されている限り他者が立ち入る隙はないはずだ。たとえ窓が開いていようとも外から入ろうとすればシステム障壁に弾かれるしな。

 では、無理やり侵入できないのならば被害者本人が犯人を招きいれたならどうか。夜間とは言え顔見知りなら出来なくはないだろう。

 その場合PKそのものは可能だろうがその後に施錠できる理由がない。内密の話として先に鍵をかけさせる? しかし施錠された部屋から脱出できるかどうかも不明だ。転移結晶でなんとかなるか? 駄目だ、宿内部は転移結晶の使用ができないエリアだったはずだからこれも無理。

 それらが可能だとしても犯人側に都合が良すぎる展開ではある。被害者がよほど楽天的で人を疑わない性格でもない限り偶然に左右されすぎるのだ。その上、犯罪防止エリアでは他プレイヤーとの過度の接触はシステムに弾かれてしまうから、被害者プレイヤーに意識があると決闘モードを受諾させるのは困難だろう。

 部屋の外におびき出しても事情は同じだ。被害者本人に抵抗されれば決闘を受諾させることなどほぼ不可能。システムが許すのはあくまで《攻撃と認識されないレベルでの接触》だ。

 部屋の中だろうが外だろうが、被害者プレイヤーに抵抗する意志があった場合決闘を利用したPKはほぼ不可能、というのが俺とアルゴの最終的な結論だった。

 

 やはりPKそのものは睡眠中の決闘システム利用の可能性が高い。

 そうなると残る問題は施錠された宿の個室にどうやって入り、そして施錠された部屋からどう消えたのかに戻るわけだ。

 殺害方法にもしも睡眠状態のプレイヤーに対する決闘システムを利用したPK以外の手段があるなら話は別だが、そう幾つもシステムの穴を思いつけるのなら苦労はない。後は密室の謎を解き明かすだけなんだが……。

 八方塞だ。

 そもそも俺は灰色の脳細胞を持つ敏腕探偵なんかじゃない。こんな事件は根本的に俺の手に余るものだった。

 思考が袋小路に迷い込んだ段階で、とりあえず睡眠PKの手段だけでも公表しようとアルゴに頼んだのだが、アルゴ曰く時期が悪いと渋られている。

 今回の事件は全プレイヤーの知るところとなった。しかし睡眠PKの仮説だけでは施錠された部屋に侵入する手口が明らかになっておらず、解決にほど遠い状況は変わっていない。PK手段がわかっても、安全なはずの部屋に難なく侵入できる可能性が残っている以上、結局安眠はできないまま不安ばかりが募る状況なのである。

 伝え聞いたところでは、夜中外出しないのは当然であるが、大手ギルドのなかでは交代で歩哨を立たせるようなところもあるらしい。死亡プレイヤーがポリゴン片となって消えてしまうこの世界では、捜査そのものが難解なために事件の立証が難しいため、みな半信半疑ではあるようだがそれでも不安は隠せない、といったところだろうか。

 

 同じ手口の事件が続いていないことから、楽観的に考えるなら手口そのものが何度も使えるものではない可能性が一つ。犯人と被害者にPKを行うだけの理由があって、これ以上の殺人の意志が犯人にない可能性が一つ。

 とはいえ、新聞記事が正しいにせよ間違いにせよここまで話が広がってしまった以上、何らかの解決が提示されない限りプレイヤー間に蔓延る不安を早期に払拭することは無理だろう。誰だって自分の部屋に無断で見知らぬ他人が入ってくる手段があるなんて怖いし気味悪いはずだ。できることなら対抗手段も併せて事件の全容を公表するべきだった。

 その際に犯人を監獄にぶちこめれば最上だが、おそらく無理だろう。本人が自首するならともかく、何食わぬ顔で生活しているのなら捜査の困難なこの世界で犯人を見つけ出すのは不可能に近い。オレンジプレイヤーとPKがイコールではないし、カルマ浄化クエストも散見されるようになってきた今、元オレンジの現グリーンなプレイヤーもそこそこいるはずだ。俺のように。

 第一、もしも犯罪の手口に決闘システムが用いられているのなら犯人はオレンジになっていない可能性のほうが高い。完全決着モードはあくまで決闘の一部であり、システムが規定したオレンジ化の条件を満たすとは思えない。

 それに、今は犯人確保よりも手口究明のほうが先だ。論理的に可能な解と対処さえ構築できれば、この際それが真実だろうが嘘だろうが当面は問題ない。このままプレイヤーの士気が下がり続けることのほうがよっぽど問題だった。

 

 ……そうか。大手ギルドにも事件の余波が出ているのなら、攻略組にも協力を仰げるかもしれない。

 違うか、攻略組というより攻略至上主義の血盟騎士団、その筆頭である団長ヒースクリフに、だ。

 あの男の知恵を借りるべきなのかもしれない。

 甚だ不愉快なことではあるが、早急に事態を収束させられる可能性があるなら打診してみるのも一つの手だろうと思う。たとえこの世界で出会ったプレイヤーのなかで気に食わないプレイヤーリスト最上位の男だろうが、その程度のことで優先順位を見誤るべきではないはずだ。

 どんなに馬の合わない男だろうとも。

 どんなに不倶戴天認定間近な男だろうとも。

 そんな理由で足踏みをすることなど許されないはずだ。

 

 眉間に皺が寄り、溜息を一つ。

 何もかも見透かしたように色のない瞳をした壮年の男が思い浮かび、思わず舌打ちをしてしまった。どこのチンピラだと思うほど品のない仕草だと自分でも思う。そう理解した上で自制するでもなく顔には嫌悪の表情がありありと浮かんでいるのがわかった。

 ああ、あの男を決闘でボコボコに出来たらさぞ爽快だろうに。

 その思いつきは割と優秀な精神安定剤だったらしい。盲が晴れて実に晴れ晴れしい気分とでも言うべきか。

 

「キ、キリト? 預かってた飲み物持ってきたけど飲むか? あと顔怖いから。その笑い方滅茶苦茶怖いから」

 

 緑に茂る芝生に身を投げ出してしばしの休憩を楽しんでいたのもつかの間、脳内で少々不健全な想像を思い巡らせていたところで上から声が降ってきた。月夜の黒猫団団長ケイタのものだった。なぜかこれ以上ないほど表情筋を引き攣らせていたが。

 おかしいな、数瞬前の冬の心象風景に比して、今の俺は春の季節に相応しい穏やかな気持ちに包まれているというのに。

 多分ケイタの見間違いだろう。適当に笑って誤魔化し、感謝の言葉と一緒に飲み物のボトルを受け取る。

 レモンのしぼり汁に盛大に水をぶちまけたような薄味のそれはあまり人気のある飲み物ではなかったが、重さと量のバランスが良好なので俺は結構気に入っている。アイテムストレージにも個数制限、重量制限があるのに味にこだわって戦闘に必要な物資を削りたくない、という切実な理由なのだが、黒猫団の面々には理解しがたいようである。

 まあ時に野宿をしてでも迷宮区にソロで潜る俺だから身についた意識だ。彼らはパーティー単位で動いているのだし、命知らずに補給なしで迷宮に篭るようなことをする必要がないのだから、俺のような何から何まで効率重視のプレイスタイルはピンとこないのだろう。

 

「それで、何を考えてたんだ?」

 

 俺の隣に腰を下ろしたケイタが、いつもの穏やかな声でそう尋ねてきた。

 こういう時、小なりとはいえ一つの集団を統率しているのだなと思う。

 今は戦闘休みの自由時間だ。誰が何処にいようと注意する必要もされる謂れもない。が、日ごろからメンバー間の連携や結びつきの確認をする必要があるためか、ケイタは特定の相手だけと話し込むような真似はしなかった。全体の調和を常に心がけ、メンバーが孤立しないよう心を砕いている様子がありありとわかる。もっともそれは隙あらば一人になろうとする俺が、皆の和を乱しているせいもあるのだろうけど。

 しかしなあ、どうも居辛いんだ。月夜の黒猫団が特別排他的なギルドというわけでは勿論ない。ギルドの構成メンバー全員がリアルの友人同士であるために多少閉鎖的で外に目を向けないきらいはあるものの、迎え入れた人員を冷遇するような真似は一度としてなかった。むしろ攻略組の能力と利害による協力関係に慣れた俺にとって、黒猫団の気安い友人関係は時に羨ましいものと映ることさえある。

 ただ、正式な団員でもなく、また団員になるつもりもない宙ぶらりんな我が身を省みるに、その距離感に悩むこともしばしばなのが難しいところだ。

 

「例の密室PK事件について少し」

 

 一度周囲を見渡し、サチら他のメンバーの意識がこちらに向いていないことを確認してから声を潜めてつぶやくように口にすると、俺がそう答えるのが予想通りだったのかケイタに驚いた様子はなかった。とはいえ事件の重さに耐えかねるように顔を顰めてはいたが。

 

「結局犯人もわかってないんだよな。丁度良い機会だし聞いておこうか。キリト、知り合いに当たってくるって言ってたけど、何か成果はあったのかい?」

 

 成果か。成果ならあった。ただし解決にはほど遠い。

 

「そのことでちょっと相談があるんだけどいいかな、ケイタ」

「改まってなんだい」

「これから先方に連絡を入れての反応待ちではあるんだけど、その結果次第では狩りを一時的に抜けるから了承して欲しい。あいつなら犯罪の手口に思い当たる可能性があるからさ」

 

 会いたくないけどな。心底会いたくないけどな。

 

「それはもちろん構わないけど、なんだか嫌そうだね。キリトがそんな顔をするなんて珍しい」

 

 苦笑気味にそんなことを言うケイタ。そこまで言われるほど表情に出ていたのかと反省する。この世界では心情がすぐに顔に出るのが困り者だ、おちおち人を嫌ってもいられない。

 

「悪いな。一応夕方以降を打診してみるから」

 

 それなら街に引き上げてから別行動となるので何も問題はない。

 本当、なんで俺はあいつがこんなに嫌いなんだろうな。あの冷然とした、無機物を見るような目で人を観察しやがるところも、団員から死者が出ようが泰然自若とした態度で剣を振るう姿も、攻略以外に全く見向きもしない方針も、何もかもが癪にさわる。あるいは同属嫌悪に近いのかとさえ思う。尖ったプレイ方針を貫いているという点では俺も人のことを言えない。

 

「気を遣ってもらわなくても、キリトのおかげで僕らのレベルもだいぶ上がってるからね。心配には及ばないさ。それで、会う人っていうのは?」

 

 女性プレイヤーならサチに告げ口しないとなあ、などと軽口を叩くケイタ。

 残念ながら期待には添えないがな。

 

「血盟騎士団団長ヒースクリフ」

 

 短く告げた俺の言葉に何を思ったのか、ケイタの動きがピシッと音が立つほど瞬時に固まった。それから俺の顔を見て、仲間のほうを見て、もう一度俺に視線を戻して深々とため息をついた。

 

「最強ギルドの呼び声高い血盟騎士団の団長殿か。そうだよな、キリトは攻略組にいたんだから顔見知りでもおかしくはないか」

 

 まあ顔見知りではあってもフレンド登録はしてないんだけどな。俺に直接ヒースクリフと連絡を取る手段はない。よって間接的な手段になるわけだ、副団長アスナに出すメッセージという形で。

 第一層共闘時のフレンド登録が生きていることに安堵した。なにせ俺がオレンジプレイヤーになる現場に居て、その後の俺の非友好的な態度を知っていて、今に至るまでこちらから連絡を取ることなど一度としてなかった、そんなあまりにあまりな関係の相手だ。クラインもそうだが、よくもまあ今日までフレンド登録を破棄されなかったものだ。

 今日の血盟騎士団の予定は知らないが、アスナに取り次いでもらえればヒースクリフには間違いなく伝わるだろう。やつが攻略以外の時間に何をしているのかなんて知らないし知りたくもないけど、その時間を少しばかり貰うとするさ。門前払いをされたときはそれまでだ。アルゴもこの件では動いているのだから、また別の手を考えよう。

 

「それにしても、キリトは随分あの事件を熱心に調べているね。……やっぱり早く攻略組に戻りたいのか?」

 

 再び思考に沈もうとしていた俺の姿に何を思ったのか、ケイタは申し訳なさそうな、そして心苦しそうな声でそんな問いを発した。

 

 

 

 ――全てはあの密室PK事件が発端だった。

 サチの戦線離脱を決め、今後の方針の相談だと集まるはずだった朝食の席で、ケイタたちが息せき切ってやってきた理由。絶対安全圏であったはずの主街区で起きたPKの発覚。しかも宿の個室が犯行現場だった可能性さえある。

 そんな知らせにただでさえ精神的に追い詰められていたサチが平常心でいられるはずがなかった。

 予定通りサチが戦線を離れるならば、彼女は仲間が狩りに出ている日中は一人街で過ごすことになる。事件を知る前のサチならそれを寂しいと感じても怖いとは思っていなかったはずだ。当然だ、命の危険があり、怖くて震えていた戦場から逃げるために安全の保障されている街で待機しようとしていたのだ。だというのに、その避難先である安全圏に危険が迫っているのだからどうしようもない。サチの不安と恐怖は膨れ上がるばかりだっただろう。

 

 声も出せないほど震え上がったサチの姿に、ようやく失態に気づいたケイタらの顔が青褪める中、ただ一人冷静を保っていられたのは俺にとって命の危険など今更なことだったせいなのだろう。今になってそう思う。

 迷宮区にもモンスターの侵入できない安全圏はある。そこではPKをする気になれば出来るし、あくまでモンスターが入ってこれないだけの安全圏だが、ソロで最前線を過ごす俺にとっては貴重な仮眠所だった。無論警戒を緩めて爆睡など出来るはずもない。そもそも主街区の安全圏を長い間利用できなかった俺にしてみれば、いまさら絶対安全圏が絶対でなくなることくらい大したことでもなかったのである。

 

 それに架空の話――ゲームや娯楽小説の類――として語るならば、デスゲームの常として一定以上のプレイヤーが攻略に参加せず街に残っているような状況では、主催者側の何らかの手段により強制的に旅立たせるような措置も珍しくない。幸か不幸かその手の知識を俺は大量に持ち合わせていた。

 元々ゲーム開始当初に、そういう《強くなければ死ぬ》という事態に備えた利己的なレベル上げに俺が邁進していたのは、我が事ながら理に叶った行動だろうとは今でも思う。もっとも開始当初の漠然とした不安に突き動かされるのではなく、今幾つかの最悪を想定するようになったのは、ひたすらネガティブな思考を巡らせたオレンジプレイヤー時代の産物でもあるから複雑ではあったが。

 

 俺は月夜の黒猫団を初めとした多くのプレイヤーが死に対する鈍感さを身につけ始めていると評したが、何のことはない、当の本人である俺自身が最も死に鈍感になっているのである。平和な現代日本人の一員として壊れた価値観を作り上げてしまった、あるいは削り上げてしまったことに忸怩たる思いはあるが、文句を言う相手は何処とも知れぬ場所でこちらを観察している神か魔王気取りのろくでなしだ。茅場への呪いの言葉を叫べばログに残ってやつが目にする機会もあるかもしれない、しかしその程度の罵声は既に大勢のプレイヤーが何度も繰り返しているだろう。その上で現在もこの世界が続いているのだから無意味でしかなった。

 

 ケイタの報告を受けたサチの反応は劇的だった。

 あまりの顔色の悪さに、人の気持ちの機微に疎いと自認する俺が真っ先にサチの身を慮ったほどだ。

 華奢な身体を抱くように身を縮こませ、事件の衝撃に唇を震わせるサチの手を取って、ゆっくりと「大丈夫だから」と言い聞かせながらケイタたちに目で席に着くよう促した。その場で部屋に戻れというほうが混乱するサチには酷であろうし、一人にするのは逆効果だろうと考えたからだ。気心の知れた仲間といたほうがいい。それにケイタたちにも落ち着く時間が必要だった。

 しばしの後、ようやく落ち着いた月夜の黒猫団は今後の予定を大幅に変更した。新聞の内容を信じた上で、外に出ても街に居ても危険ならば全員で固まっていたほうが良いだろうという案が出たのだ。道理ではあるが、その場合の問題はサチが外、つまり狩りに再び戻ることになることだった。

 

 全員が街に残って亀のように身を固めるという選択肢はなかった。最低限のコルは稼がなければならなかったし、何よりサチ以外の全員が攻略に積極的なのだから選択肢などあってないようなものだ。その提案を受けたサチは俯いたまま即答できなかったが、最終的には同意することになるだろうとその時の俺は半ば他人心地の気分で静観していた。

 一応の落としどころとして武器は長槍のままでサチを前衛には出さない、狩場も安全マージンを十分取って無理はしない、という方針になっていたからだ。一人街に残ってPKの対象として狙われる恐怖に震えるよりは、まがりなりにも今まで無事にやってこれた実績と気心の知れた仲間を選ぶというのは想像に難くなかった。

 その提案は妥当なところだと思う。

 迷宮区に潜らなければ悪質なトラップなどほとんどないため、安全マージンを十分確保し、多数に囲まれることのないよう索敵にさえ注意すれば早々不測の事態は訪れない。あまりに無茶な内容なら制止も入れたろうが、弱小ギルドの方針としては十分穏当なものだったので部外者として口をつぐんでいた。しかし予想に反して、サチはいつまで経っても諾と返せなかった。

 

「サチ?」

 

 重苦しい沈黙に耐えかねたわけではなかった。それでも俺が声をかけてしまったのは、その時の雰囲気が黒猫団のメンバーにその気がなくとも、結果としてサチへの圧力になっていたことが明白だったためだ。本来でしゃばるべきでない俺が口を挟んだことは正しかったのかどうか。その是非の判断は未だについていないけれど、少なくとも後悔にはつながっていない。そう思いたい。

 俺が呼びかけた瞬間、弾かれたように顔を上げたサチの目には大粒の涙が浮かび、ほどなく頬を一筋流れて落ちた。

 頼るような、縋るような、そんな目をしていた。声にならないサチの叫びが全てその涙に集約しているようにさえ思えた。同時にその願いが許されないと諦めている力ない目でもあった。昨夜にも増して弱弱しいサチと目が合って、それから耐えかねたように再び俯いてしまったサチにその時の俺はかける言葉が見つからなかった。

 黒猫団の連中とは違い、俺とサチはあくまで昨日今日の関係でしかなかった。モンスターと戦うことに怯える女の子に、自ら最前線に飛び込む元オレンジプレイヤーが一体何を言えるというのか。

 気まずい沈黙。湧き上がる罪悪感。そうした沈黙の果てに、何も言えずに佇む俺に向かってケイタがおずおずと口を開いた。

 

「キリト、サチが落ち着くまでの間、僕らを手伝ってもらえないだろうか。今のサチを一人には出来ないし、多分、サチには君が必要だよ」

 

 それはサチを見かねた助け舟だったのか、はたまた俺の逡巡にお墨付きを与えようとしたものだったのか。

 結局、俺はPK事件が解決するまでならと消極的に賛成し、月夜の黒猫団指導者兼サチの護衛役の立場を受け入れることになった。

 

 

 

 

 

 そんな経緯があったから、俺が事件解決に奔走するのはサチの不安の原因を取り除き、一刻も早く最前線に戻ろうとしているためだ、とケイタが考えるのは至極当然の帰結だったのだろう。

 ケイタの推測は間違っていない、大枠は正解である。言っちゃ悪いが月夜の黒猫団の実力は高くないのだ。彼らを中層以下のプレイヤーとして十把一絡げとまでは言わないが、さりとて攻略組に是非とも加えたいと思うほど光るものを持っているわけでもない。

 むしろ――。

 ……やめよう。いつから俺は他プレイヤーを偉そうに批評できるようになったんだか。もしも今現在の黒猫団がフロアボス戦に加わるというのなら、俺自身の安全のためにも彼らを攻略会議から弾くよう動きもするだろうが、多少背伸び狩りをしているだけのギルドなのだからそう悪し様に貶すこともないだろう。

 力なく首を振る俺にケイタの表情が明るくなる。まずい、勘違いさせたか。

 

「いつかは攻略組にも戻らなきゃいけない。それは変わってないよ。ただ攻略自体は今のところ順調だって話だし、俺みたいなソロプレイヤーが一人攻略組に加わったところで何が変わるわけでもないから、今日明日にってことでもない。密室PK事件の片がつくまでは一先ず黒猫団の世話になるつもりだ」

 

 むしろ世話してるのはこちらのような気もするが。

 そんな俺の内心を知るはずもなく、ケイタは安心したようにほっと息を吐いた。

 

「助かるよ。出来れば前衛の当てが見つかるまで一緒にいてほしいところだけど」

「難航してるのか?」

「皆、新しいメンバーを受け入れるのに抵抗があるんだ。あんなことがあったからね、少し神経質になってるのかもしれない」

 

 今回の事件の余波か。宿の個室に侵入できた手口がわからない限り、身元のわからないプレイヤーを快く迎え入れるというのは難しいだろうな。

 

「ケイタ自身が前衛を務めるって線はないのか?」

 

 実際、月夜の黒猫団のメンバーで一番マシな戦い方が出来ているのがケイタだった。昆使いだけに前衛にコンバートもしやすいはずだが。

 

「全体に指示を出しながらとなると難しいね。多分僕じゃどっちつかずになって戦力ダウンしちゃうんじゃないかな」

 

 ……まあ、確かにその可能性は高い。ケイタはリーダーらしく自身を中央に置いて全体を統率指示するオーソドックスな司令塔だ。しかし黒猫団のメンバーはケイタも含めて全員視野が狭い。前衛としてモンスターと刃を交えながら、後ろに控えるメンバーに対して正確に指示を出すなどという高等技術は到底望めまい。それが出来るくらいなら弱小ギルドに甘んじてはいなかったはずだ。

 それに黒猫団は副団長を置いていない。ケイタを前に配置するのなら、当然今までケイタが請け負ってきた司令塔の役割をこなす副団長が必要になる。しかし全体を見て的確な指示を下す、ケイタ以外にそれをまがりなりにも出来るだけの能力を持っているのが、現在ただ一人の前衛だけに結局没案だ。ケイタを前衛に押し出しても元からいた前衛を下げては何の意味もない。

 つまり現状維持。そういう結論になる。

 

「下手に形を変えるより今のままレベルアップを目指したほうが堅実か」

「うん、そう思う。……僕としてはキリトの器用さに驚きだよ。キリトの盾なし片手剣スタイルは本来攻撃特化仕様(ダメージディーラー)であって、前線でモンスターを足止めするような壁戦士(タンク)には向かないはずだろう? なのに完璧に壁戦士をこなしてる。すごいとしか言えないね」

「単純にレベル差が大きいっていうのが一番の理由だけどな。ただ敏捷優先の回避型でも前衛を務めることはあるぞ。その場合はスイッチ前提の攻守入り混じった変則型の前衛になるけど」

「キリトは違うよな? スイッチなしでずっと前衛を続けてるんだから」

「それこそ格下相手だから出来ることだからな、っていうのは嫌味になっちゃうか。後はずっとソロでやってきたからダメージ判定にはシビアなんだ。システムに規定されづらい、判定のファジーなラインをある程度見極めた上で戦えるようになったというか。ぶっちゃけると俺のステ構成と戦闘スタイルでまともにボスとぶつかり合えば、すぐにライフが削られきってお陀仏だからな。そりゃあ必死にもなるさ」

「……凄いよな、キリトは」

 

 羨ましい、そうぽつりと口にしたケイタにあえて気づかないフリでやり過ごす。ケイタの望みを知っているだけに下手なことを言えなかったし、言ってどうなるものでもなかった。

 そんな少し気まずい空気の中で、丁度おあつらえ向きにメッセージの着信を知らせる音が鳴ったことを幸いに、ケイタに一言断ってから文面に目を通す。途端、渋面となった。

 

「もしかして血盟騎士団からの。……うまくいかなかったのか?」

「いや、会ってくれるらしい。日時と場所の指定もされてる」

「すごいじゃないか!? 血盟騎士団と言えばバリバリの攻略組で忙しいはずなのに、そのトップがこんなにすぐ連絡を返してくれるなんて。それでいつなんだ? 明日? 明後日? それとももう少し先なのかな」

 

 興奮して高まったケイタの声に何事かと他のメンバーが視線を向けてくる。

 彼らに応えるのは後回しともう一度文面を最初から読み取り、そこに記載された内容が変わっていないか確かめた。しかし残念ながら文面は一言一句変化していない。

 

「血盟騎士団団長は暇なのか?」

 

 指定された日時は今すぐ。「指定した飲食店に今から向かうので急ぎ来られたし」だ。

 ……あの男、やっぱり嫌いだ。

 

 

 

 

 

 悪態を内心で唱えながら出向いた先には一人の少女がいた。

 

「こんにちわ、《黒の剣士》様」

「……コンニチワ、《閃光》様」

 

 にこりと。

 それはもう清清しい笑顔で俺を出迎えてくれたのは、血盟騎士団副団長《閃光》アスナだった。二重の意味で視界に色鮮やかに飛び込んでくる彼女の存在感は、ある意味で《閃光》と称えられる卓越した剣の腕よりも凶悪なのかもしれない。血盟騎士団の女性用ユニフォーム――純白のノースリーブが眩しい騎士服に真っ赤なミニスカート、白のハイニーソックスは美貌の副団長様には似合いすぎるくらい似合っている。そして腰に提げた細剣はアスナの細身の身体とのバランスを見事に調和させ、凛々しさと優美さを際立たせていた。

 その姿を見るたび、男性ファンのみならず女性ファンも多数存在するという彼女に関する噂話はあながち間違いではないと実感する。

 しかしその女剣士殿はなんだかひどくお怒りのご様子だが、いったい何があったというのだろう。思わず敬称を使ってしまうくらい怖かった。片言の言葉に相応しいカチカチの敬礼まで無意識に出かかってしまった辺り、彼女から発せられる重圧が並大抵のことではないことは理解してもらえると思う。無性に逃げたくなった。

 

「その恥ずかしい二つ名は止めてくれないかな黒の剣士様。もしかしてわたしが好んで閃光だなんて呼ばせてるとでも思ってる?」

「滅相もない。けど、俺だってそんな仰々しい呼び方されたくないぞ。誰だよ、黒の剣士とか言い出したやつ」

 

 内心の怯えをひとまず置き去りにして久方ぶりに会う旧知の少女と睨み合った。相変わらず整った相貌である。そういえば初めて会った頃の彼女は、女性であることを隠すためか陰気なフーデッドケープを羽織っていた。第一層攻略以降、主街区や転移門の利用が出来なくなった俺は文字通りの意味でソロ活動を続けていたため、彼女が何時何を思って素顔を晒すようになったのかは知らない。第一層当時のアスナは随分張り詰めていた様子だったものの、今の彼女からは触れれば斬るような鋭い雰囲気は感じられなかった。余裕があるのだ。良くも悪くもこの世界に順応した結果だろう。

 が、なぜここまで怒っているのかは謎だ。

 しばらく二人で睨みあっていたものの、ここは最前線に近い主街区の一角だ。人目もそれなりにある。あまり長いこと珍妙な挨拶を交わしていると妙な噂を流されかねないのだけど、それでもいいのだろうか? 思わずそんな的外れな感想を抱く。

 やがてにらみ合いに飽きたのか諦めたのか、アスナが深くため息をついた。

 

「やめましょう、不毛だわ」

「賛成。それで、なんでアスナがここにいるんだよ。確かにアスナに仲介を頼んだけど、俺が用があるのはあくまでヒースクリフなんだけど」

 

 そう口にした瞬間、下火になっていた彼女の怒気が再び爆発した。それはあたかも活火山のごとく、噴火と言っていいほど劇的に彼女の頬は怒りに紅潮したのだ。やばい、と反射的に身を竦めた俺は悪くない。いや、悪いんだろうけどさ。

 

「へえ。へえ。そんなこと言うんだ。言っちゃうんだ。第一層以来一度も連絡寄越さなかった上に、フロアボス対策会議でも遠巻きに決定を聞いているだけ、時には対策会議を開く前にソロでボスに挑んでみたり。死にかけて逃げ延びたことだって何度もあるって聞いたわ。しかもここしばらく最前線でも見かけることがなくなって心配してた矢先に、初めての連絡が団長に話があるから取り次げですって? 君、どれだけ自分勝手なことしてるかわかってる……!?」

 

 地鳴りのようなエフェクトを幻視してしまうほど、今の彼女は怒り狂っていた。というか今までの鬱憤全てを吐き出している感じだ。もしかして血盟騎士団の仕事ってストレスが溜まるんだろうか。

 

「待て、落ち着けってアスナ。そりゃ自分でも虫の良い頼みごとをしたと思ってるけどさ。そんなに嫌だったのなら断って……いや、無視してくれても良かったんだし」

「そういうことを言ってるんじゃないの!」

 

 ではなんだというのだろう。元々人付き合いは苦手だ、この世界に来てからはなおさら不得手になった。そんな俺に年頃の女性の心情を慮れとか無理だろう? アルゴからも散々言われているが、一向に治る気配はない。

 

「本当、君って勝手過ぎ。メッセージの文面も用件だけの簡素なものだし、もう少し書くことだってあるでしょう?」

 

 そう言って不満そうに口を尖らせる閃光殿だった。

 そういえばアスナはその所作から良い所のお嬢さんだって噂があったな。なるほど、そんな家に生まれたのなら時事折々の挨拶やら文面の形式やらも細かく仕込まれている可能性が高いか。そんな相手に大して親しくもない俺が一方的かつ簡素な文面の要求だけを送りつけたわけで、礼儀知らずにも程があると思われても仕方なかった。まして一度もメッセージを出したことのない間柄だ。

 

「悪い。次から気をつけるよ」

 

 なけなしの誠意を示そうと腰を深く曲げて頭を下げる。

 俺の無作法についてはどうだろうな。現実世界に帰れたところで俺に礼儀作法を覚える時間があるかと言えばそれも難しい。なにせナーヴギアを介して間接的にとはいえ人を殺してしまっている身だ。バーチャル空間での殺人なんて法整備されていない項目だろうが、無罪放免になるとも思えない。父さんや母さん、それにスグには悪いけど、帰還後に矯正施設へと送りこまれるくらいはありえそうだ。

 

「これで許しちゃうわたしもなんだかなあ……」

 

 ため息と一緒にそんなつぶやきが聞こえ、次いで頭を上げてとのお許しの言葉が。神妙な顔つきを崩さないようアスナと向き合うと、彼女は実に不本意そうな表情をしていた。

 

「まだまだ言い足りないくらいだけど、団長をあんまり待たせちゃいけないから案内するね。ついてきて、キリト君」

「わかった」

 

 彼女に先導されてほどなく、主街区の大通りから一本逸れて少しばかり歩いた先の、こじんまりとした飲食店にたどり着いた。少人数向けの座卓が幾つか、それから個人向けのカウンター席が数席あるだけの小さな定食屋のようだった。見渡せば店主の男性型NPCを一人、給仕の女性型NPCを一人すぐに発見した。

 そして奥まった席に一人座るのは暗赤色のローブに身を包んだ偉丈夫だ。後頭部で縛ったホワイトブロンドの長髪、精悍な顔つき、思慮深く理知的な雰囲気を漂わせた男。見間違えるはずもない、血盟騎士団団長ヒースクリフ。

 その堂々たる姿を目にして思わず顔を顰めそうになり、口を堅く引き締めることで我慢した。

 

「団長、キリト君をお連れしました」

「アスナ君か、待っていたよ。それと久しぶりだねキリト君。立ち話もなんだ、まずは座るといい」

 

 微笑を浮かべて着席を促すヒースクリフに無言で従う。

 俺に続いてアスナが席につくとすぐに給仕がやってきた。他に客がいないせいか行動が迅速である。

 

「ああ、いや、俺は用件が済んだらすぐ出て行くから……」

 

 お構いなく、と続けようとして、果たしてNPCにそれで通じるのだろうかと疑問を持つ。ここは「いらない」とはっきり言うべきなのかもしれない。しかしそうなると不当に店に居座る悪質な客認定されかねないか。ヒースクリフとアスナが同席する以上問題はないのかもしれないけど。

 

「そう言うなキリト君。ここの食事はNPC提供の料理にしてはなかなかのものだよ。なんなら奢りでも構わないが」

「……無理を言ったのはこっちなんだ。そこまで気を遣ってもらわなくて結構だよ、ヒースクリフ」

「ちょっとキリト君、団長に向かって横柄な口を叩きすぎよ」

 

 先ほどの怒気ほどではないが、目に非難の色を込めて俺を諌めるアスナだった。副団長という立場以上に、攻略組のカリスマであるヒースクリフを尊敬しているのだろう。彼女自身、ゲームクリアに並々ならぬ闘志で挑んでいるだけに、目的の通じるヒースクリフは共感しやすい相手なのかもしれない。

 

「いいんだアスナ君。この世界では年齢や立場以上に戦闘能力が優先されるし、そうであるべきだ。私もキリト君には多大な敬意を払っているからね。むしろ正直なキリト君の言葉は実に好ましい」

 

 大人の余裕か貫禄か。子供染みた俺の態度に些かも気分を害した様子も見せなかった。その彫りの深い精悍な顔には特に不快を示す悪感情は見受けられず、何事もなかったように給仕にメニューを告げてアスナや俺にも注文を促す。幸いなのか不幸なのか、俺も昼食はまだ摂っていない。どうやら今日の昼食はこの三人で囲むことになりそうだ。……胃が痛くならなきゃいいけど。

 そんな俺の不安をよそに給仕が一度厨房に消え、間髪いれず戻ってきた。その手には注文された定食セットが載せられている。現実と違い、この世界ではほとんどの料理店で待ち時間というものが存在しない。よって注文した料理が速やかに三人分卓に並ぶのも何も不思議なことではなかった。あくまでほとんどであって、稀に現実世界と同じかそれ以上に客を待たせるやる気のない店もあるというが本当だろうか?

 

 それはともかく、俺のような効率主義のプレイヤーにはこうしたNPCレストランは嬉しい仕様なのだが、なかにはこうした待ち時間のない作業に情緒がないと嘆くプレイヤーもいるらしい。人それぞれというやつだろう。

 ちなみに食事そのものの味は悪くなかった。変に冒険した料理の少なくないアインクラッドでは現実ではとても味わえない珍味に出会うこともままあるが、ここのメニューは大よそ現実に則した料理が並んでいるようだった。あくまでそれっぽいものであって微妙に違うことは変わりないけど。ヒースクリフや俺はともかく、アスナは料理を口にするたび、そのギャップに目を瞬かせていた。舌が鋭敏なのかもしれない。

 悪くない……悪くない料理なのだが、それだけの料理である。無難と言い換えてもいい。仮に俺が店を指定し、同席する相手がヒースクリフだった場合、もっと味の残念なとんでも料理の提供店を選んだ可能性が高い。子供の悪戯並の嫌がらせだけど、この三人で食卓を囲むような機会はこの先ないだろうと思うと、些か残念な気分になるから不思議だ。

 

「さて、それではキリト君の用件を聞こうか」

 

 アインクラッドの食事事情のような当たり障りのない話題をぽつぽつ交わしていた俺達だったが、食後のコーヒーもどきを追加注文したヒースクリフがおもむろにそう切り出したことで場の空気が引き締まった。

 

「アスナ君からはキリト君が私に訊ねたいことがある、とだけしか聞いていないのだが?」

「確かにその通りなんだが……こう言っちゃなんだが、あんたよくそれだけで一席設けようなんて思ったな。攻略組筆頭の立場じゃそうそう自由時間なんて取れないもんだと思ってた」

 

 俺のような風来坊ならともかく。

 

「いくら攻略が大事だと言っても息抜きは必要だよ。団員にも折を見て休息を入れさせてはいるものの、そのあたりアスナ君は頑なでね、なかなか休みを取ろうとしない。攻略に熱心なのは喜ばしいことだが、上が休まなければ下も休みを取りづらいだろう? 今回、丁度良い機会だから君の提案を利用させてもらったというわけだ。気を悪くしたかね?」

「別に構わないよ。そっちの思惑はどうあれ、わざわざこうして機会を用意してくれたんだ。わざわざ文句を言うようなことじゃない」

「感謝する」

 

 ちらとアスナを見やれば、話題の当人は肩身の狭い様子で縮こまり、少し気落ちしているようだった。自覚はあったのだろう。血盟騎士団は攻略組のトップギルドであるため、アスナに限らず所属団員は慢性的なオーバーワークに近い状態だ。どこかで手綱を引いてやらないと取り返しのつかない事態にもなりかねない。今回はヒースクリフがアスナを慮って気を利かせたようだ、団長としては妥当な判断だろう。

 

「それにアスナ君は随分君を心配していたようだからね。この際、胸襟を開いて話し合ってみては、と思った次第だ」

「団長!? わたしはそんな……!」

 

 団長の補佐として自分がでしゃばる場面ではないと心得ていたのだろう。席に着いてからはほとんど相槌に徹していたアスナだったが、思いがけないヒースクリフの言葉に慌てて反論しようとして、言い返す言葉が見つからなかったのか尻すぼみに黙ってしまった。

 そんなアスナの渋面を見やり、顰めつらしいイメージの強いヒースクリフに似合わない朗らかな笑いが浮かんだ。微笑ましい子供を見るような視線である。見た目からして三十路超えていそうなヒースクリフだ、俺やアスナの実年齢は知らずともティーンエイジャーであるとは推測しているだろうし、事実その通りなのでこの態度にも納得はできる。面白くはないけど。

 

「アスナ君のように君を純粋に心配してというわけではないが、私自身もキリト君に尋ねたいことがあったのでね。先に私の話を済ませてしまって良いだろうか?」

「呼び出したのはこっちだ、その程度の譲歩はするさ。それで聞きたいことってのは?」

「ここ最近君がフロアボス攻略戦に不在なのが気になってね。聞けば深夜に攻略とレベリングを進めているというが、何かあったのかと心配になったのだよ。ドロップアウトをした様子でもないが一線からは引いている。どうも中途半端だ」

 

 余計なお世話だと言いたくなるのをぐっとこらえる。

 相変わらず情報屋顔負けの高いアンテナである。不定期だが結構な頻度で情報交換しているアルゴのような例外を除けば、俺の近況を知っているプレイヤーなんかそういないはずなのに。少なくともヒースクリフの周囲にいるような高レベルプレイヤー達で、俺と親しいプレイヤーなんていなかったはずだ。どこから俺の動向を聞き知ったのやら。

 

「些か腑に落ちないものを感じてキリト君と懇意にしているアルゴ君と接触した。そこで君が弱小ギルドに協力してレベリングを手伝っていると聞いたのだよ。もっともアルゴ君からは随分足元を見られてしまったがね」

 

 俺の胡乱な目つきを察したのか、早々に苦笑しながら種明かしをするヒースクリフだった。

 ……うん、わかってたけどさ。脳裏に描いた懸念の筆頭から俺の情報が漏れていた、というか売っぱられていたらしい。そりゃあ情報屋に情報を売るなと文句を言える筋合いではないのだが、アルゴのやつ相変わらず抜け目がないというかちゃっかりしてやがる。にゃハハハーと笑う想像上のアルゴにでこぴんを敢行。……ちくしょう、かわされた。可愛くない。

 溜息を一つ吐くついでにアスナのほうに目を向けると、どうやら彼女は知らなかったらしい。驚いた様子でヒースクリフと俺の双方を忙しなく見つめていた。

 

「随分熱心に調べてくれたみたいだな。俺にとっちゃあまり面白いことじゃないけどさ」

「なに、私はキリト君のファンだからね」

「戯言を……」

 

 思わず舌打ちした俺にヒースクリフは真顔で肩を竦めやがった。本気なのか冗談なのか今ひとつ判別しづらい。他人の表情を伺うのは決して得意なわけじゃないが、この男はとびっきりにその内心が読みづらいのだ。やり辛いことこの上なかった。

 

「戯言などではないよ。勇者には敬意を払うべきだと私は常々考えているのだから。まあ私の信条は置いておくとしてもだ、キリト君の不在は攻略組にとっても痛手なのだよ。君のしていることが無駄だとは言わないが、出来れば早急に最前線に戻り、私達に協力して欲しいと思っている」

 

 それが皮肉や恫喝からのものなら正面から反発もしたろうが、この時のヒースクリフからはそんなつまらない感情は感じ取れなかった。真摯と評すには無機質に過ぎる表情ではある。さりとて嘘をついている様子もない。そして、俺自身現在の自分の立場に焦燥を感じていたせいか、ヒースクリフに異を唱える気にもなれなかった。

 

「生意気なソロプレイヤー1人いなくても、攻略にそう影響があるとは思えないけどな。実際にここしばらくは死者なしで順調だって聞いてるぜ。血盟騎士団が八面六臂の活躍をしてるとも」

 

 だから半分逃げのような返答をしてしまったのも、俺自身の後ろめたさからのものだったのだろう。

 

「確かに今は順調だ。しかしキリト君も二十五層のフロアボス戦は覚えているだろう? 何時また軍の壊滅のような悲劇が起こるとも知れない。及ばずながら私もアスナ君も攻略組を支える士気を高めようと尽力させてもらっているが、私達だけでは足りないのだよ。キリト君、君の力が必要なのだ」

「それこそまさかだろう。そりゃ俺だってそこそこの強さへの自負はあるさ。けど、それとこれとは別だろう。俺は元ベータテスターで元オレンジの、嫌われ者のソロプレイヤーなんだ。そんな俺が攻略組の士気を上げるのに必要? 何の冗談だよ」

 

 最近のボス攻略会議やフロアボス戦には参加していないが、第二層以降、参加した会議や討伐隊では常に腫れ物を扱うように遠巻きに見られているだけだった。陰口や非難もあった。人を殺したオレンジに好き好んで近づいてくるようなプレイヤーはいなかったのだ。

 とはいえ、排斥されなかっただけマシだろう。フロアボス戦はギルドやパーティーの枠を超えて協力し合うという不文律がある。それをギルドに所属していないソロプレイヤーであることを盾に半ば無視して行動し、対ボス戦における単独戦闘を繰り返した前科もあるのだ。

 主観的には破滅願望に突き動かされた猪突猛進でしかないが、客観的に見ればラストアタックボーナスを含めた貴重なボスアイテムドロップを独占しようとしていると思われても仕方なかった。当時はそんな他人の事情などひたすら無視していたのだから、今の苦境も自業自得だと納得しているのだが。

 そんな俺が攻略組を盛り上げる一助になるとか、一体何を言い出してるんだろうな、こいつは。

 

「冗談ではないのだキリト君。君のレベルはおそらく私やアスナ君を抑えて全プレイヤートップのはずだ。その事実の持つ重みが決して君を軽んじることを許さない」

 

 ……推測と呼ぶにはあまりに強い口調だった。そのヒースクリフの確信を持った話しぶりに、やはりこの男は気づいているのだと改めて思う。俺が経験値ブースト系のエクストラスキル保有者であり、その恩恵を存分に利用して他プレイヤーの追随を許さない高レベルプレイヤーである事実。もっとも他のプレイヤーにしても直接問い質してこなかっただけで、疑惑は常に俺につきまとっていたはずだけど。

 

「何よりレベルだけの問題ではない。キリト君、君はこのアインクラッドで最初に誕生した剣士なのだよ。あの日、あの場所で、只一人茅場晶彦に敢然と向かっていった勇者なのだ。そしてベータテスターと一般プレイヤーの垣根を取り払った功労者でもある。皆、それをわかっているから君に一目置いているし頼りにもしているのだ。攻略組の面々も単純にレベルの高いプレイヤーを望んでいるわけではない。彼らはこれからも君を旗印にこの世界を戦い抜こうと考えている。攻略組にとってキリト君の存在はとても重いのだよ、君が考えている以上にね」

 

 この時ばかりはヒースクリフの台詞に熱が込められているようだった。ヒースクリフの語る言葉の内容よりも、むしろこの冷徹な男がそんな反応を返したことのほうが意外だったくらいだ。

 全てが終わり、そして始まったあの日。この男もまた多くのプレイヤーと同じく、絶望を抱いて空に浮かぶ巨大なアバターを眺めていたのだろうか。そんな様は全く想像できないんだけどな。

 

 《はじまりの剣士》か。

 ソードアート・オンライン開始初日。はじまりの街で起こった惨劇にちなんで、いつの間にか名づけられていた。

 《黒の剣士》と並んで呼んで欲しくない二つ名である。

 この世界では名前よりも役職や二つ名のような呼び方が横行していた。そりゃネットを源流とするバーチャル世界では本名はご法度なわけだが、そのためのキャラクターネームなんだから、誰憚ることなくキャラクターネームだけでいいじゃないかと常々考えているのだ、俺は。

 しかし俺以外の大半のプレイヤーはどうも違う認識らしい。ノリが良いのか、そこまで現実逃避したいのか。とはいえ、アスナのような多分に本名そのままのプレイヤーにとっては今の風潮も悪くないのかもしれない。

 

「全部が全部信じられるわけじゃないんだが、つまりヒースクリフ、あんたはこう言いたいわけか? 《さっさと攻略組に復帰しろ》」

 

 少なくとも現時点でトップクラスの戦力を遊ばせておきたくない事情は理解できた。

 力ある者は責任を負うという考えもある。そういった思想に心から賛同するわけではないものの、俺自身も今の安穏とした状況に浸っていて良いとは思っていなかった。自分から死にに行くような真似は金輪際するつもりはない。しかし安全だけを目的とした効率プレイをするには、俺は罪を重ねすぎたのだろうと思う。命の危険のない場所で暮らしていると、心苦しさばかりが募って胸が痛くなるだけだった。

 ……やはり潮時なのだろう。むしろ寄り道しすぎたとさえ思う。

 

「言葉を飾らずに言えばそういうことになるな。我々は少しでも早く、そして安全に攻略を進めるために常に戦力の向上を必要としている。君の力は捨て置くには余りに惜しいのだ。無論、中層以下のプレイヤーを育てることに意味がないとまでは言わない、そういう役回りも必要だろう。ギルド《青の大海(Blue Ocean)》を率いるディアベル君やギルド《風林火山》を率いる……なんといったかな、そうそう、クライン君だ。彼らが中層以下のプレイヤーへの支援を優先してくれているようだ、私としても頭が下がる思いだよ。しかしキリト君には彼らのような支援活動ではなく、是非ともフロアボス討伐や迷宮区タワー攻略のためにその力を揮ってもらいたい。どうだろうか?」

 

 より正確に言えば――。

 ディアベルは攻略組が通り過ぎたマップ調査を優先することで後に続く中層階層のプレイヤー達の安全を確保し、クラインは戦力に不安を抱えるギルドやパーティーへ助っ人と称して傭兵紛いの手助けをしているらしい。ディアベルは攻略組に合流してフロアボス戦に参加することもあるし、クラインもそう遠くないうちに攻略組に仲間入りするだろうと目されている。方向性は違うが、この二人もヒースクリフやアスナと並ぶアインクラッドの有名人には違いない。

 そして俺にとっても縁深い二人である。クラインとは一時期ほど顔を合わせづらいとは思わなくなってはいたし、時折不意に遭遇するようなこともあった。ぎこちなくではあっても挨拶や世間話に興じるくらいはしている。それでも自分から旧交を温めに行こうとは思えないあたり、俺の臆病さも相当である。奴を見捨てて一人はじまりの街を発ったこと、俺に犯罪者の烙印が押されて以降は連絡の全てを遮断したこと、謝らなくちゃいけないことは山ほどあるのに、なかなか踏ん切りがつかずにいた。

 

「……あんたの言い分はわかった。さし当たってすぐにフロアボス戦に復帰することは問題ないんだが、完全に攻略組に戻るのは少し待ってほしい。というより、今日来てもらったのはそのための相談なんだよヒースクリフ」

「ふむ。そういうことならば襟を正して聞こうじゃないか。話してくれたまえキリト君」

 

 攻略組復帰の言質をとったと判断したのか、口元にわずかながら笑みを浮かべて問いかけてくるヒースクリフ。相変わらずの上から目線だったが、それがこの男の素なのか、それともロールプレイなのか判然としない。尊大な態度のくせに妙に似合っているあたりが皮肉屋のアルゴをしてカリスマと評したこの男らしいと思う。アルゴもアルゴで本心から敬っているわけではなさそうだが、その博識ぶりと過不足なく血盟騎士団を率いる手腕には舌を巻いていた。辛口のアルゴにしては手放しの賞賛である。正確な評価を下すことには情報屋としてのプライドもあるのかもしれない。

 

「そうだな、まずは――」

 

 それから巷を騒がせている密室PK事件の概略から調査結果、俺なりの事件への考察を話すと、アスナは神妙に聞き入り、ヒースクリフは何を考えているのかよくわからない無表情を貫いていた。殊更深刻に考え込んでいるようにも見えない。話の合間合間に幾つか疑義を問い質しては来たが、それだけだ。話半分というわけではないが切迫さは感じられなかった。

 やはり攻略組ではこの事件そのものが重く捉えられていないのか? しかしそれにしてはアルゴの報告と食い違う。

 

「……なるほど。軍がこの件に手出し無用と通達してきたが、未だ解決への糸口なしだったということか」

 

 その口調からは失望や侮蔑は感じ取れなかった。ただ事実を口にしているだけ。本当にそうとしか思えない無機質さである。

 

「軍が動いてるってのは噂で聞いてたけど、血盟騎士団にそんな通達を出してたのかよ」

「我々だけではないよ。大手の有力ギルドには軍から個別に通達があったはずだ。軍は治安維持に関して責任があると自認しているから介入を嫌ったのだろう」

 

 もちろん軍にそんな法的権限はないのだが、最大人数を擁する巨大ギルドであることからその発言力は当初相当に大きなものだった。それが崩れた原因は、第25層において軍の抱える最精鋭部隊が壊滅の憂き目に遭ったことだ。以後、軍はその影響力を一気に削られていった。

 

「軍の動きが鈍いのは戦力補充が上手くいってないせいなんだろうな」

「最近では治安維持活動にも支障をきたしていると聞いているよ。どうも内部で意見の衝突が激しいようだ。彼らとしてはこれ以上求心力が低下する前に何か目に見える成果を欲したのだろうが、今回は裏目に出たようだな。我々も当初は下の出来事と気にしていなかった事情があるため軍を強く非難できないのだが、下の混乱が上にも波及してきていてね。何らかの手を打つ必要は感じていた」

 

 だから今回の話は渡りに船だったと続けるヒースクリフ。本当にそう思っているのかと聞き返したくなるような味気ない調子だった。

 

「俺が世話になってるギルドにもこの事件ですっかり怯えちまった団員がいる。事件の解決と安全を確保できるまでって条件で宥めたわけなんだが、PKの手口はともかく密室にできた手段が全く思い浮かばなかった。あんたなら何かわかるかも、と期待したんだがどうだ?」

 

 そう問いを向けるとヒースクリフは両手を組んで顎を乗せ、しばし沈思に耽った。小さな飲食店の一席だというのに、この男の仕草一つで世界が変わる――重厚な執務室で執政を取っているような錯覚を覚えるのだから、この男の醸し出す雰囲気がどれほど常軌を逸しているかわかるだろう。浮世離れしていると言い換えてもいい。

 

「……そうだな、PKの手口に関しては睡眠時を狙った決闘だというキリト君の意見に私も賛成だ。そして施錠された個室に侵入し、脱出した方法だが、私に心当たりがある。無論、検証は必要だろうがね」

「本当か?」

 

 思わず身を乗り出した俺にヒースクリフは鷹揚に頷いて見せた。それからメニューを操作してとあるアイテムをオブジェクト化したのだが……。

 

「これは……もしかして回廊結晶(コリドークリスタル)か?」

「キリト君も知っていたか、ならば効果の説明は割愛して話を進めよう。回廊結晶は転移結晶以上に数が少なく値も張るアイテムだが、手に入れさえすれば、今回の事件の焦点となる密室を作り出すことも出来るだろう」

 

 回廊結晶は最近になって発見された転移結晶の亜種アイテムだ。今のところフロアボスからのドロップか迷宮区の宝箱(トレジャーボックス)からしか入手を確認されていないため、手に入れるのはひどく困難なレアアイテムの一つだった。

 その効果は記録していた場所に瞬時に移動できる扉を作り出すこと。転移結晶と異なるのは個人でなく集団で移動することが出来る点にある。また転移先についても細かい調整が可能で、フロアボスに続く大扉の前に設定しておけば踏破に時間がかかる迷宮区で雑魚戦を繰り返し、貴重な余力を消耗するような事態を避けてボスに挑めるようになる。攻略組にとってこれほど重宝されるアイテムは中々ないだろう。ただし入手頻度が極めて限られているため、転移結晶以上に乱用できない貴重品でもあった。

 俺とて話に聞いていただけで実際に手にしたことはまだない。もっともソロプレイヤーの俺では、手に入れても使いどころに困ることになりかねないアイテムだけど。

 しかし――。

 

「うろ覚えで悪いんだが、回廊結晶で場所設定できるのはあくまで公共の場所か制限のない狩場であって、宿の個室みたいな私的空間を刻むことは出来ないはずじゃなかったか? それに記録しておける時間にも24時間の制限があったはずだ」

 

 俺とアルゴだって回廊結晶の存在に気づいていなかったわけじゃない。しかし回廊結晶の持つ制限事項から宿内部での犯行を可能にした手段だと思わなかった。だからこそ候補から外したのだ。

 

「キリト君の指摘通り、通常回廊結晶で宿の個室を記録することは出来ない。しかし条件付きではあるが例外を作り出すことは可能だ」

「もったいぶるなよ。で、その方法は」

「自身の契約した部屋である場合だ。宿システムにプレイヤー名義で登録された場合、その部屋に限っては回廊結晶の記録先として使用できる。当然、別プレイヤー名義の部屋は不可能だがね。あくまで自身の部屋に限られるよ」

「ちょっと待ってくれ。そうなると宿の個室に泊まった被害者本人が回廊結晶に記録したのか? そいつをわざわざ犯人にくれてやったと? 被害者は下層プレイヤーだったんだから回廊結晶を入手できたとも思えない。まさか犯人に渡された回廊結晶を使ったなんて言わないよな」

 

 真偽はともかく、理屈の上で成り立つ方法であることは否定しない。しかし屁理屈にも似た強引さだ。そこまで被害者プレイヤーが間抜けだとも思えなかった。

 

「私もそこまで強引なこじつけをする気はないよ。回廊結晶は犯人が用意したものだろう。犯人の行動としてはこうだ。まず使われていない宿の一室を登録し、適当な時間を見計らって回廊結晶に記録する。翌日、宿を引き払った犯人は誰か別のプレイヤーが前日自分が利用していた部屋を使おうとするのを確認し、深夜回廊結晶を起動して部屋に侵入した。後は寝ている被害者の身体を操作し、決闘要請を承認させてPKに及べばいい。回廊結晶は数十人単位で通過できるアイテムだ。起動してから数分間は扉が維持されているから、PKを済ませた犯人がそのまま元の場所に戻ることも十分可能だろう。これで密室の完成だ」

 

 得意げな顔になることもなく自説を淡々と口にするヒースクリフ。奴の語る言葉に言い知れぬ不気味さを感じるのは、実際に犯人が深夜PKに及ぼうとする情景がありありと想像できてしまったせいだろう。見ればアスナも血の気の引いた顔をしていた。

 ごくり、と生唾を飲み込む音がやけに大きく響く。

 

「つまり、無差別殺人だった、ってわけか?」

 

 回廊結晶で記録しておける制限時間や場所の選定を考えれば、今回明らかになった手口は特定個人を狙うには不向きだ。なにせ他人名義になった部屋を記録することは不可能なのだから、自身の名義であるうちに記録し、そこから24時間以内に犯行に及ぶ必要がある。被害者の選別は難しいだろう。

 

「無差別の可能性が一番高いが、犯人と被害者の関係が不明な以上それ以上はわからない。24時間が経過して回廊結晶に刻んだ場所の記録が消えても、結晶自体が消えるわけではないからね、何度か機会を吟味したということも考えられる」

「そうなるとやっぱり犯人追及は無理か……厄介な」

「犯行前日の宿の記帳システムを調べれば犯人のキャラクターネームが残っているはずだが、それを閲覧できるのはログとして内部情報を監査できる現実世界側の人間だけだろうな。私達プレイヤー側からは無理だ」

「現実世界側……つまり茅場晶彦か。ゲームマスターへの呼び出しにも一度も応答がなかった上に、デスゲームを引き起こした張本人だ。考えるだけ無駄だな」

 

 投げやりな俺の感想に同感なのか、ヒースクリフにしては大仰に頷いて見せた。

 基本的にこの世界では犯罪を裁けない。治安維持を謳っている軍だとて監獄エリアに続く施設を押さえているために大きな顔をしているだけで、捜査権限や法の後ろ盾はない。そもそもこの世界に司法なんてないのだから当たり前なのだが。

 元オレンジの犯罪者プレイヤーである俺が言うのもなんだが、この世界で罪を明らかにしたいのなら現行犯以外にはないのだろう。だからこそプレイヤー1人ひとりにモラルが求められる。しかし無差別の疑いが強い今回の事件を見るに、そろそろプレイヤーの良識に期待するのも難しくなってきたのかもしれない。元よりストレスの高い生活なのだ、溜まりこんだ鬱憤が一度あふれ出せば歯止めがきくかどうかなど誰にもわからない。

 人間同士の争いの予兆。オレンジプレイヤー量産への端緒。最悪は殺人を志向するプレイヤーキラーの誕生。

 今回の件からどうしても暗い未来を予感せざるをえない。

 

「回廊結晶の悪質な利用法に関しては検証も必要だろうけど、どうしたもんだろうな。回廊結晶自体が貴重品だから気軽に手に入らないのが痛い。なあヒースクリフ、相場の何割増しか払うからさ、それ譲ってくれないか」

「いや、検証はこちらでやっておくとしよう。血盟騎士団には広報担当部門もある。元々は優秀な団員を募るために用意したのだがね。彼らに今回の件の経緯と対応策を発表させようと思う。その際には君の協力があったことも明記させてもらおうと思うが、どうかな?」

「ギルドで広報してくれるなら手間が省けるな。それと俺の名前はいらない。悪名高いソロプレイヤーの名前が並ぶよりも、血盟騎士団が単独で発表したほうが信頼されるはずだ」

 

 ギルドもパーティーも結成してない身だ、知名度や名声をメリットに代える手段がないのに注目を集めても仕方あるまい。そんな俺の態度にヒースクリフは何も聞かず頷き、アスナは何かを口にしようとして寸前で飲み込んだような様子だった。

 別に強がりを言っているつもりも、手柄を譲ろうという殊勝な心持でもなかった。手柄どうこうなら回廊結晶のくだりは完全にヒースクリフ任せだったのだし、決闘による手口も思いついていた連中はそれなりにいたはずだ。

 そもそも犯罪を防ぐための発表に元犯罪者の名前を載せてどうする、という思いが強い。そのあたりを口にせずとも大人の感覚で割りきれるのがヒースクリフ、わかっていても納得してないのがアスナの表情だろう。

 

「念のために聞いておくけど、発表の概略はどんな感じで考えてるんだ?」

「犯罪防止エリアでPKを可能にした手口が睡眠時の無防備を利用した強制的な決闘、宿の個室に侵入した手段が回廊結晶の悪用だね。対応策としては宿泊施設を頻繁に変えないこと、それから新しい宿を利用するときは契約してから一日空けておけば問題ない、と言ったところだろうな。キリト君、何か付け加えることはあるかな」

「ないな。強いて言えば、回廊結晶はまだまだ高価で希少だ。入手できるプレイヤーは最前線かそれに近い階層を根城にする高レベルプレイヤーの可能性が高い。これは発表すると攻略組と中層以下のプレイヤーで衝突の種になりそうだから内々にでも注意を促してほしいってとこか。俺からはそれくらいだよ」

「キリト君の懸念はわかるが、正直時間の問題ではないかな。少しでも目端のきくプレイヤーならば、今回の事件は資金力に秀で情報に精通した高レベルプレイヤーが引き起こしたものだと予想がつく。本腰を入れて犯人探しなどと不毛な真似をする気はない。しかしその程度の犯人像、公表してしまっても問題にはならないと思うが」

 

 ヒースクリフは相変わらず表情に乏しく抑揚に欠いた口調だった。今回の事件が攻略組に対する不審につながる可能性があるというのに、攻略組筆頭に挙げられるこの男にはまるで歯牙にかけた様子がない。

 あるいは、この世界に閉じ込められてから半年が経とうとする今になっても中層以下で安穏としているプレイヤーに、すでに見切りをつけているのか。攻略組内部で相互不信にさえならなければ問題ないとでも思っているのかもしれない。少なくとも血盟騎士団に関しては統率しきる自信があるのだろう。

 

「かもしれないが、無駄に不審の種をばらまく必要もないだろう。どうせ犯人が名乗り出ない限り捕まえることなんて出来ないんだ。それなら発表には犯人の特定を促すより、身を守る手段を前面に押し出した論調のほうがいい。あんただってそっちのほうが都合がいいはずだろ」

 

 少しばかり揶揄したような言い回しをしてしまったが、ヒースクリフは別段気にした様子もなく小さく頷いた。

 

「確かにその通りだな。そうさせてもらおう」

 

 そう重々しく口にする男に内心では舌打ちしたい気持ちでいっぱいだった。しかし俺の不満はわざわざ口に出して言うことでもない。その発言全てが俺自身に返ってくるのだから、言うだけ間抜けになるだけだ。

 そうした内心の煩悶を抱えながら、それでも先の見通しが開けたことに喜びを感じてもいた。ヒースクリフへの好悪の感情は別として、十分に有意義な会合だったことは間違いない。細々と今後のことについて幾つか話し合い、急遽開催された常ならぬ小会議はそれから間もなく解散した。

 

 

 

 二人と別れ、帰路をゆっくりと辿る最中、一時的に足を止めてぼんやりと考えに耽る。

 フロアボス攻略会議は近いうちに開催されるだろう。約束通り俺もその席に加わることになる。

 

 ――月夜の黒猫団を離れる日も遠くない。

 

 近い未来を思って我知らずついて出た吐息が落胆によるものだったのか、それとも安堵によるものだったのか。

 その答えを俺はあえて求めることはせず、ゆっくりと歩を進め始めた――。

 

 




 《回廊結晶》の記録できる時間・場所制限、宿屋のセキュリティ等は独自設定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第05話 嗤う黒猫、薄氷の呼び声 (3)

 

 

 血盟騎士団トップ二人との会談からほどなく、密室PK事件に関しての詳細と対策が広く周知された。

 この件に当たってのヒースクリフの動きは驚くほど迅速だった。俺が相談に赴くまで何ら手を打たずに事件を放置していた様からは信じられないほどの辣腕ぶりである。それこそ前もって準備しておいたのではないかと疑いたくなるほどだ。

 しかし、これでここのところ頭を悩ませていた密室PK事件についてはひとまず解決を見たと判断して構わないだろう。

 多少の混乱はあるかもしれないが、そう時を置かずに事件は収束すると考えて良い。

 その立役者にヒースクリフの名があることに小さな不満を覚えるも、反りが合わないという理由だけでヒースクリフの言動や功績を否定するだけではいかにも子供だ。素直に良かったと思うべきなのだろう。

 

 もちろんやつに対して言いたいことは山ほどあった。

 今回の事件の解決を企図し、唐突に呼び出した俺の問いに逡巡することなく答えたヒースクリフだ。その気になれば俺の推論を待つまでもなく、事件発生後そう時を置かず今回の手口と対応策を突き止めることもできただろう。

 買い被りだとは思わない。俺自身ヒースクリフの知恵を頼ってあんな席を用意してもらったのだ。あの男に向けられた情報屋を凌ぐ博識さという評価は伊達じゃなかった。

 多分、この世界における知識の深さであの男に勝るプレイヤーはいない。俺の知る限り最も優秀な情報屋であるアルゴですら及ばないだろう。そのくせ攻略組でも随一の剣の冴えを見せるのだから反則級のプレイヤーである。誰もがあの男を頼り、尊敬の眼差しを向けるのも無理はない。俺があの男から感じる得体の知れなさも、見る者が変わればそれを超人的な、そして神秘性に包まれた得難い魅力だと捉えもしよう。

 

 ――英雄。ただその一語に集約するのかもしれない。

 

 もしかするとヒースクリフ自身そういった英雄像を意識して振舞っている可能性もある。種々様々な怪物が闊歩し、そんな幻想の存在を相手に剣を頼りに渡り合う、この上なき非日常の世界にあってなお非日常を演じる男。浮世離れした非人間性を押し出すことで攻略組の象徴として君臨し、この世界に秩序と希望をもたらす。ありえないことではない。あの男自身も口にしていたではないか、攻略組の士気を高めようと奮闘しているのだと。

 そうとわかっていて、それでもあの男への反感を抑えきれない俺はやはり子供なのだろう。

 軍が前面に出て牽制されたとは言うが、別に軍を通してヒースクリフ自身の推理を発表させたってよかったはずだ。まして今の軍は精鋭部隊を失って発言力を大きく減じている。名実共にトップギルドの座を固めつつある血盟騎士団、その団長が遠慮する必要などどこにもなかった。軍に手柄を横取りされることを恐れたなら独自に発表することもできたのだ。その程度の軋轢を気にするような弱腰な男でないことを俺はよく知っている。

 それでもあの男が沈黙を選んだ理由は結局のところ――。

 

 そこまで考えて俺は深くため息をついた。

 ヒースクリフに下層プレイヤーを気にかけるつもりがないと言っても、それは殊更責めるような問題ではないのだ。今更ということでもあるし、彼らを一度見捨てた俺がヒースクリフに不満を持ってどうしようと言うのだか。ヒースクリフとて懸命にゲームクリアをしようと足掻き、血を流しているのだ。俺にできないことを出来る力があると言って、それを押し付けるのはやつにだって良い迷惑だろう。それにヒースクリフを責める言葉は攻略組を責める言葉となり、最終的には俺自身を苛む言葉の刃となる。億劫になるだけだった。

 この世界では誰もが生き残ることに必死だ。自分のことに精一杯で他人を気遣う余力などない。生死を左右するギルド仲間やパーティーメンバーならばともかく、見知らぬ誰かのために尽力しろなどと無理難題を要求できるプレイヤーなどいない。それでも他人のために何かを為そうと考えられるのはよほど人の良い、人間のできたプレイヤーなのだろう。この無慈悲な世界にあって見返りのない無償の厚意などそうかけられるものではなかった。

 そんな良識派のプレイヤーは俺の知る限りでは三人だけだ。エギルにクライン、そしてディアベル。もっともディアベルの場合はベータテスターだった責任感と贖罪も混じり合っているように思える。……第一層フロアボス戦後、ベータテスターとしての責務をディアベルに押し付けた俺が、訳知り顔で語るもんじゃないか。

 

 《初心者プレイヤーがベータテスターに向けた悪意と裏切りを隠蔽しろ》。

 あの日、第一層フロアボス攻略線で俺はディアベルにそう要求した。

 どうしても必要なことだった。あの戦いで死者が出た事とオレンジプレイヤーが誕生したことは隠し様がない。噂が出回るのは避けられなかっただろうし、それが噂だけで済むはずもなかった。やがては真実が明らかにされただろう。

 かと言って43人全員で秘密を共有し、決して外に漏らさないという方法は取れなかった。俺はそこまで奴らを信用できなかったし、俺のオレンジカーソルを見たプレイヤーが不審を抱くことは止められない。そこからは雪崩式に事態が悪化していったはずだ。なにより、秘密なんてものは何処かから漏れるものだと相場が決まっている。そんな不確かな可能性にかけてゲーム攻略を不可能にするべきではなかった。

 つまり俺が提案したのは次善の策だ。

 あの場で起きたことが知れ渡ればもはやベータテスターと初心者プレイヤーの対立を解消することは出来なくなる。だからこそいがみあう両者の決定的な亀裂を防ぐためには、あの惨劇をなかったことにするべきだと思った。その上でもっともらしい偽の情報を流すことで、嘘を真実にしてしまえば良い。おあつらえ向きにオレンジプレイヤーと死亡プレイヤーが揃っていたのだ、真っ赤な嘘ではないのだから疑われにくい。嘘をつく時は真実を織り交ぜて嘘をつけ、というやつだった。

 

 加えてあの場にいた連中を中心に対迷宮探索、対ボス戦における情報交流の徹底を示唆した。交流の場さえ出来れば不満をぶつけ合うこともできる。対立ばかりを深め、鬱屈を溜め込んでいくことほど怖いものはないのだ。何よりベータテスター、初心者プレイヤー、両者共に共通の敵を作れば軋轢など自然と解消され、協力体制も出来上がるだろうと考えた。敵、すなわち怒りをぶつける対象である。それが迷宮区エリアであり、フロアボスであり、そしてPKという裏切りを為した俺だった。

 ソロとしてレベル至上主義で活動してきた自らを省みず、ベータテスターとして責任を取れと、そうディアベルに突きつけた俺の厚顔無恥さこそ恥じ入るべきものだっただろう。ディアベルは俺のそんな無茶な要求に誠実に応えてくれたのだ、感謝のしようもない。

 ディアベルがどんなカバーストーリーを語ったのかまでは確認していない。アルゴも俺を慮ってかその手の話題を出すことはなかった。

 しかし今現在の両者の反目がほとんどないことを考えれば、ディアベルはよほど上手くやったのだろう。それに俺の予想を超える形で、パーティーやギルドの枠を超えて協力しあう、現在に続く体制の雛形をも作り上げた。もちろんこれらはディアベルだけの功績というわけでもないが、そのためにディアベルと共に尽力したというアスナやエギルもさすがとしか言いようがなかった。その間ひたすらソロでバーサーカーをしていた俺としては肩身が狭い限りだ。土下座して詫びろと言われればその通り頭を下げただろうと思う。

 

 まぁその要求の代償として、俺には《仲間殺し》やら《ビーター》やら色々と不名誉な二つ名が押し寄せてきたんだけどな。《仲間殺し》はPKの事実そのまま、《ビーター》は特別なベータテスターとずるを表すチーターをかけ合わせた造語らしい。

 あの日起こった裏切りの事実からプレイヤーの目を逸らすため、そして両者の不和を解消するために、オレンジへと堕ちた俺の名前を利用しろと言ったのは俺自身だ。その程度の罵声は覚悟していたからいいんだけどさ。そもそもあの時は、死ぬ前の最初で最後の孝行のつもりだったし。生き残れるとは思えなかったから後先なんて全く考えていなかった。

 はじまりの街から散々好き勝手にソロプレイをしてきたツケがPKという重過ぎる罰だったというのなら、せめて最期くらいはディアベルを見習って、他のプレイヤーに何かを残して死にたかった。そんな感傷も幸か不幸かこうして生き残っていることで遠い昔のことに変じようとしている。

 《キリュウという悪者プレイヤーの醜聞を隠すために、それ以上の悪者としてオレンジプレイヤーキリトの名を喧伝しろ》。

 つまりはそういうことだった。事実の歪曲、隠蔽、捏造。それら全てを自らの手で行わず、人任せにした。いくら俺にはオレンジというどうしようもない事情があったとは言え、要求だけしておさらばした俺の行動は決死の覚悟と称すには身勝手が過ぎる振る舞いだ。どんな言い訳をしようとも、俺はディアベルやアスナたちに全て押し付けて逃げたのだから。

 

 だからこそ。

 この世界で俺が尊敬し、感謝を捧げていたのはあの時汚れ役を引き受けてくれたディアベルであり、大人としての責務を粛々とこなそうとするエギルのような良識派プレイヤーだ。俺みたいな生意気なガキを事あるごとに構ってくれるクラインにだって感謝している。戦場で最も頼りになるのはヒースクリフかもしれないが、俺が胸に抱く大人像としてはよほどエギルたちのほうが上だった。ヒースクリフのあの人間味のなさがどうしても俺は好きになれない。

 しかし大多数のプレイヤーにとってはそうしたディアベルやクラインのような良識派プレイヤーよりも、圧倒的な実力者であるヒースクリフのほうがその知名度も寄せられる期待も大きかった。そして攻略を第一にするプレイヤーが間違っているかと言えば決してそんなことはないのだ。何故と言って、ゲームをクリアしないことにはプレイヤーが開放されないからである。今日を生きるために明日を犠牲にするようでは本末転倒だった。

 だからこそ攻略組の存在は大多数のプレイヤーにとっての希望であり、憧れなのである。月夜の黒猫団団長であるケイタのように、攻略組へ憧憬と羨望を抱く者は珍しくもない。中層下層プレイヤーにとって攻略組プレイヤーは時に鼻持ちならないような連中であっても、それ以上に尊敬し、願いを託している存在なのだった。

 

 ――強さ。

 それこそがこの世界で最も重視されるステータスだった。

 ヒースクリフもアスナも悪くない。彼らを糾弾する権利は俺にはない。むしろレベル的に抜きん出ていながら最前線から引いている、そんな今の俺の立場こそ卑怯者と謗られるものだった。

 フロアボスと単独で渡り合えるレベルにステータス。それらを支える特異なスキル。磨き上げられたスキル熟練度。強力な装備に豊富なコル。俺のレベルや保有スキルが公表されていないから許されているだけであって、仮にそれらの情報が漏洩してしまえば皆が俺を後ろ指さして非難することになるだろう。少なくとも逆の立場なら俺はそいつを許せないと思うし文句の一つも言いたくなる。なにせ白眼視する理由に事欠かないのだから。そして俺自身、今の自分を中途半端極まりない存在なのだと軽蔑していた。

 月夜の黒猫団に身を寄せたことは仕方なかった。あそこでサチを見捨ててソロに戻ることが出来るほど俺は良心を捨てることはできなかった。なにより、オレンジプレイヤーに堕ちた俺を懸命に支えてくれたアルゴに顔向けできなくなるような不義理な真似など、出来なかったししたくもない。

 

 月夜の黒猫団、そしてサチに手を差し伸べたことに全く後悔がないとは言わない。ではあの時彼らを振り切って協力を断ることが出来たかといえばそれも難しかった。結局はそういうことなのだろう。

 だというのに、仕方なかったのだと自分に言い聞かせる一方で、未だに彼らと出会ったことそのものを厭っている自分が心のどこかにいるのは俺の弱さだろうか、それともずるさだろうか。

 知り合ってさえいなければ今の深入りはなかったのだと、そんな無意味な仮定を並べ、そのたびに今の自分の境遇に焦燥感を募らせるのだ。身動きの出来ない現状に不満を持っているのに未練がましく現状にしがみついている。最前線への復帰だってヒースクリフからの要請がなければ一体何時になっていたことか。月夜の黒猫団との決別だってずるずる引き延ばされていた可能性が高い。

 アットホームな彼らに絆されかけているということもある。ケイタは言うまでもないのだが、他の男性メンバー三人にしても最初はともかく今はギルドに加入して欲しいという内心がわかってしまう。俺の能力目当てだけでないから余計に始末が悪い。打算だけの関係ならこうも思い悩むことはなかった。振り切るのも容易かっただろう。

 そして何より俺を引きとめているのは、月夜の黒猫団紅一点の存在だ。

 

「えっと……またきちゃった。いいかな、キリト?」

 

 扉をノックする音に気づいて部屋に招きいれた俺に向かって、恐る恐るそう口にするサチ。庇護欲をこの上なく刺激するその姿に、頷く以外に答えなどなかった。

 時刻は夜半も半ば過ぎのこと。夕食を済ませて各自が割り当てられた部屋に戻った就寝前の時間だ。

 そんな時間に簡素な寝間着に着替え、持参した大きな枕を抱きかかえて年頃の少女が一人男の部屋を訪ねる。他人に知られたら議論の余地なく誤解されること必至な状況だ。そして俺自身、内心でどんなに頭を抱えていようとサチを拒まなかったのだから、この事態を招いた責任の半分は俺にあった。

 始まりはあの朝に判明した忌まわしい密室PK事件だった。

 安全であるはずの街ですら命が脅かされる可能性に、元々精神が限界だったサチは耐えられなかったのだろう。不安定な状態でモンスターと戦う境遇に戻ったことも悪かったのかもしれない。事件発覚からそう時を置かず、サチは震える身体を引きずるように俺の部屋の扉を叩いた。

 眠りについた自分の横で剣を構える犯人の姿を悪夢に見て以来、サチから安眠の文字は消え去った。それからは眠れぬ夜が続いたらしい。

 無理もない。俺だって眠りについて無防備な自身の横で犯人が舌なめずりをしているような光景を想像し、怖気が走ったのだ。人一倍臆病なサチが恐れ慄いても不思議はなかった。まして死への感覚を鈍磨させていないサチがどう思ったのかなど今更考えるまでもない。

 

 一人で寝ることに耐えられなくなったサチがケイタや気心の知れた他のメンバーでなく俺を頼ったのは、単に俺のレベルがずば抜けて高かったせいだろう。俺の人格よりもこの世界での強さ、男女の倫理より身の安寧を選んだ。意識的にせよ、無意識的にせよだ。

 あの日、恐怖に押し潰され、朦朧とした風体で訪ねてきたサチはとても尋常な様子ではなかった。怖い、助けて、と口にした表情は青褪め、小刻みに震える身体は痛々しいと表す以外にないほどだった。

 俺はサチを追い返すこともできず、かと言って何といって慰めるべきなのかもわからなかった。結局何も言わずに彼女の望むまま布団を共にしたことが、果たしてサチにとって良いことだったのかどうか。それからサチは毎夜俺の部屋を訪ねてくるようになった。

 同情と憐憫、使命感と罪悪感。きっとお互いにあったのは男女間の好意のような甘やかなものではなく、傷を舐めあおうとする野良猫のような共感でしかなかった。サチにとって俺は自分を庇護してくれる守護者であったのだろうし、俺にとって彼女はわずかでも自尊心を満たせる庇護すべき弱者でしかなかった。彼女を守ることで俺の罅割れた心を守ろうとした。誰に対しても失礼な動機だったのだろうと思う。

 

「構わないよ。俺はアイテムの整理があるからまだ寝ないけど、それでよければ」

「うん。ありがと、キリト」

 

 俺の承諾の返事にサチははにかむように笑い、その仕草に合わせて綺麗に切り揃えられた黒髪がさらりと揺れた。俺の部屋を訪れるのも初めてというわけではないのだからもっと堂々としていてもいいものだと思うのだが、それでもサチは毎回遠慮がちに部屋を横切り、いつもの定位置へとおっかなびっくり歩を進めていく。

 そんなサチの姿を横目に、部屋に備え付けの木製のテーブルに装備品をオブジェクト化しては耐久限界値のチェックをしていくのも珍しいことではなかった。部屋にいる時にしていることなどそう多くはない。情報を整理するか、スキルのチェックをするか、狩りでたまったアイテムの仕分けをするか、そんな程度だ。月夜の黒猫団に身を寄せるまでは宿で睡眠を取ることすら少なかった。それを思えば随分ゆとりのある生活に戻ったものだと思う。

 今夜は装備品と消耗品の確認だった。装備類は先日メンテナンスを終えたばかり。確認をするまでもなく耐久値は最高値近い数値になっているはずだし、メンテナンスを済ませて受け取ったときにも一度は確認している。それでも改めてチェックしていたのは、万が一にも手抜かりがあっては命取りになるからだ。なにせ――。

 

「明日、キリトはフロアボス討伐戦に参加するんだよね」

 

 俺の内心に答えるかのような疑問、いや、確認の声だった。

 ベッドの上に女の子座りで腰掛け、持参した枕を抱えたままじっと俺を見つめてくるサチ。不安に揺れる瞳はある種見慣れたものだったが、その内実は随分違っていた。常はモンスターとの戦闘や明日の知れない世界への不安からだったものが、今ばかりは異なる色をしていたからだ。そのことを嬉しいと思い、そして少しだけ寂しくも思う。彼女の精神安定剤という俺の役割もそろそろ終わりが近づいている証左だ。

 

「心配してくれてるのか」

 

 装備品の示す耐久数値のチェックを終え、ポーション類や各種結晶の残り個数の確認をしようと指を踊らせる。

 出会った頃のサチに比べて、今の彼女は大分心に余裕を持てるようになった。そのことを密かに喜び、小さく笑みが漏れた。

 

「当たり前だよ」

 

 弧を描いた俺の口元がサチに誤解を与えてしまったのか、答えるサチの声は幾分咎めるような強い調子だった。

 心配する俺、心配されるサチ。守る側である俺、守られる側であるサチ。強者である俺、弱者であるサチ。

 今日まで変わることなく存在し続けた俺とサチの関係だったが、しかし今夜ばかりはその身を慮る役目は俺でなくサチに与えられていたらしい。

 ヒースクリフ達との会合から間もなくフロアボス攻略会議が開催され、俺も何層かぶりに参加する運びとなった。軍の失墜以降定番になりつつある血盟騎士団副団長アスナを中心に進められる話し合い。そこで討伐のための情報収集として先遣隊が集めたボスの能力や特徴が開示され、本番に当たっての分担が決まっていく。

 その様子を特に意見を出すことなく傍観する俺。

 最終的に俺に振られたのは遊撃としてのソロだ。このあたりは復帰以前と何ら変わることはなかった。パーティーを求められることもないし、俺から求めることもない。最低限ペアが鉄則のフロアボス戦でただ一人のあぶれ者、それが俺だった。

 

 勝手に戦え、俺達の邪魔をするなと言わんばかりの配置だが、真実その通りならそもそも俺がボス戦に参加できるはずもない。一度のフロアボス戦に参加できる最大人数は48人。その貴重な枠を消費してまで不要なプレイヤーを参加させ続けるほど攻略組は酔狂じゃない。

 要は臨機応変に動けということだった。

 そんな俺の立場に物申したい連中もいるのだろうが、フロアボス攻略会議に絶大な影響力を持つヒースクリフとアスナが何も言わないために黙認されているのが現状だった。ただし血盟騎士団の構成員、特にヒースクリフやアスナに熱狂するほどの忠誠心を持っているやつらからは射殺さんばかりに睨まれていたことには辟易としたが。

 

 アインクラッドで何が危険かと言えばフロアボス戦に勝る危険はない。少なくとも大多数のプレイヤーの認識としてはそうだ。だからこそサチはフロアボス戦に参戦する俺の身を心配しているのだし、俺は明日に備えて万全を期してアイテムのチェックに余念がない。そして今日ばかりは夜間のレベリングも控えてじっくり休息を取るつもりだった。

 サチが俺の部屋で眠るようになってからも、俺は変わらず夜間狩りにソロで出かけていた。多くのプレイヤーが寝静まる夜間のほうが経験値効率は上がるというメリットもある。黒猫団の世話をする以前から夜間の攻略とレベリングは俺にとってのルーチンワークと化していた。

 それに日中、月夜の黒猫団に付き合っているだけでは俺のレベルが上がらない。ならば自由の身になれる夜中から朝方にかけてレベル上げをするしかなかった。この世界でも睡眠は必要だが、それは現実世界ほど長時間必要としない。精神的な疲れさえ無視できるのならば短時間の休息で戦闘を続けることなど造作もないことだった。

 勿論それが現実の身体に悪影響を及ぼしている可能性もある。しかしそんなことは全部終わってから後悔するのだともはや割り切ってしまっていた。今までの道程がそうさせたということもあるし、寝たきりの生活を送っている現実の身体に全く不具合が起きないなどという楽観など持って居なかった。開き直ったとも言う。

 

 俺が夜間も狩場に出ていることを黒猫団の皆は知らない。同じベッドで眠るサチも気づいてはいないだろう。俺が宿を抜け出すのはサチが寝静まった後だ。そして朝餉の時間に間に合う頃合を見計らって帰ってくる。転移門が使えるからこそ出来る忙しない動き方だ。グリーンであることの有り難さをこんな形で実感することになるとは思わなかった。

 ……それが俺を頼ってきたサチへの不実な行動だと知っていて、それでも俺はレベリングと迷宮区マップの攻略に赴くことを止めなかった。

 止めることは出来なかったのだ。例の密室PK事件の調査のために夜間も走り回っていたという側面はあったが、それ以上に攻略から完全に足を遠のかせてしまうことは俺にとって到底許容できないことだった。かつての俺の過ち、俺の保有する破格のスキル、そして突き抜けたレベル。その全てが俺を最前線に、攻略に駆り立てる理由となっていたからだ。

 

 《償え》。

 あの日の悪夢が怨嗟となって俺の頭の中で木魂し続け、立ち止まることを許さない強迫観念として絶えず襲いかかってくる。その声に掻き立てられるように俺は毎夜宿を抜け出していたのだった。

 だからこそ日中行われるフロアボス戦への不参加は、俺が月夜の黒猫団に提示できる最大限の、そして俺自身にとってのギリギリの譲歩でもあった。

 それ故、ヒースクリフが俺を中途半端と断じたのは何より俺を端的に物語っていたのだ。

 攻略組に全力で尽力できず、さりとて月夜の黒猫団にも心から仲間入りすることができない。中途半端極まりない有様である。

 二律背反によって揺れ動く心と日々募る焦燥感に限界も近かった。攻略組への復帰を打診するヒースクリフに逡巡することなく承諾したのが良い証拠だ。

 

 ――月夜の黒猫団は、俺にとって背負いきれない重荷だった。

 

 それでも、そうと理解してなお、彼らを見捨てたくなどなかった。俺に縋ってきた震える女の子を突き放したくなんてなかった。

 これが俺の弱さだというのなら、きっと俺は一生強くなんてなれない。そう思う。

 

「確かに私達はキリトがとっても強いことを知ってるけど、だからってフロアボス戦で絶対大丈夫だなんて思えないよ。……思えるはずない。ねえキリト、私ね、ずっとずっと自分が死ぬことが怖かった。ケイタたちの誰かが死んじゃうとか考えたこともなかった。ううん、考えられなかったんだと思う」

 

 サチは目を伏せ、恥じ入るようにぽつりぽつりと口にする。誰かを、仲間を気遣えなかったことを悔いている。しかし俺としてはサチがそう自分を卑下する必要もないと思っていた。精一杯生きる、たったそれだけがひどく困難な世界だ。誰もが強くあれるわけじゃない。

 

「明日キリトがフロアボス戦に参加するって聞いた時、心臓が止まりそうになった。キリトが死んじゃうかもしれないって思って、怖くて怖くて泣きそうになっちゃった。ごめんね、大変なのはキリトなのに……」

「……フロアボスと戦うのは初めてじゃないよ。攻略組だって死ぬまで戦うことなんて義務付けてない。ライフがイエローゾーンを割るようなら即時離脱も許されてるんだ。早々死んだりしないさ」

 

 それが気休め以外の何者でもないことを俺は知っていた。そんなことでどうにかなるなら今までフロアボス戦で死傷者など出ていない。最大限の安全策を施してなお、階層最後のボス戦は死者必至の激戦になる。それは今までの戦績が実証していた。

 ただ俺個人に限って言えば、25層のような極端にレベル差を無視したような凶悪ボスが相手でさえなければ、それなりに生き残ることは出来るだろうと自負していた。支援の望めるフロアボス戦で数値的な意味で死を実感したことは未だにない。勿論危険域に陥ったプレイヤーは撤退するという不文律のせいもあるが、それ抜きでも戦線を離脱したことは一度たりともなかった。

 ただし、単独ボス戦は別だ。今までレッドゾーン、すなわち瀕死域にまでHPが減らされたことも一度や二度じゃない。あと一撃貰えば死ぬという場面に出会ったことも、累積すれば片手じゃきかないくらいだ。この事実はアルゴですら知らない。知られれば例えアルゴであろうと異常者を見る目に変わることは避けられまい。わざわざそんな目を向けられたいと思うような被虐趣味は俺にはなかった。

 

「……死んじゃ嫌だよ。私、キリトが死んじゃったりしたら、もうどうしていいのかわからなくなっちゃうよ」

 

 俺の気休めはサチを安心させることは出来なかったらしい。それはそうだろう。俺自身が信じてもいないことで他人を納得させられるはずがない。それにフロアボス戦の実態を知らないプレイヤーのほうが攻略組以上にフロアボスを恐れる傾向がある。彼らにとっては雲の上の存在である攻略組。その攻略組をして死を前提とするような戦場だということがイメージを悲惨なものにしているのだろう。

 知らないからこそ怖い。楽観されるよりはマシだが、過ぎればそれも毒だ。良し悪しである。

 

「サチはさ、今でも逃げたいと思ってる? モンスターから、戦いから、この街から、黒猫団の皆から。――そしてこの世界から」

 

 いつかサチ自身が語った言葉だ。どうしてこんな世界に閉じ込められてしまったのか、どうして命を懸けて戦わなくちゃならないのか。こんなことに何の意味があるのか。そして逃げたいと訴えた。

 俺はその時、サチに意味なんてないと答えた。そんなものがあるはずがない、と。

 開発者の狂気が俺達をこの世界に閉じ込めた。やつがそこに何らかの意味を見出しこそすれ、俺達がそこに意味など見付け出せるはずもなかった。死にたくない、ただその一念で俺達は戦い続けている。

 

「……うん。今でも思ってる、帰りたいと思ってるよ。でも、キリトに会えたから。キリトがいてくれたから、私は前よりもちょっとだけ頑張れるようになれたんだ。本当はね、ずっとお礼を言いたかった。初めて会ったあの日に。何も言わずに隣で眠らせてくれたあの夜に。でも結局言いそびれちゃって、今日まで言えなかったけど。だからね、言わせてほしいんだ。私はキリトと会えて、一緒にいられてすごく嬉しかった――」

 

 ――私と出会ってくれて、ほんとにありがとう。

 

 それは不意打ちだった。目尻に浮かんだ涙を拭いながら柔らかく微笑んでみせたサチは、今まで見てきた中で一番綺麗な笑顔を浮かべていたと思う。なにせ俺はしばらくの間サチの表情に釘付けにされて、馬鹿みたいに見惚れていたのだから。

 

「キリト?」

「あ、いや、うん。どういたしまして?」

 

 そんな要領を得ない俺の返答が可笑しかったのか、サチはくすくすと小さく笑った。

 こんなとき、俺はサチの仕草から彼女に大人っぽさを感じているのだった。もちろん気恥ずかしいので口に出したりはしないけど。

 バーチャルリアリティの世界では個人情報を秘匿するのが普通だ。しかし月夜の黒猫団は自己紹介のときに何気なく全員が高校生だということを口にしていた。この世界に閉じ込められた当初、俺は現実世界で中学二年生だったわけだから、彼らは最低でも2つは年上だった。

 だから俺がサチから年上の女性の魅力を感じ取ってもおかしくはない……はずなのだが、それを素直に認めるのには何故か抵抗がある。これが世に言う思春期というやつなのだろうか。自分のことなのにさっぱりわからないのはどうなんだろう。

 とはいえ、いきなり面と向かって礼など言われても面映いばかりである。

 

「感謝してもらえるのは嬉しいけど、どうしていきなり?」

「今言っておかないと、最後まで言えずにお別れになっちゃうかな、って心配になったから」

 

 湖面に浮かぶ波紋のように涼やかな声音だった。

 しかし一瞬聞き間違いかと目を見開いたのは、その落ち着いた声に比して内容は別れを示唆するものだったためで――。

 

「サチ?」

「元々キリトがケイタと約束したのは密室PK事件の調査が終わるか、安全地帯であるギルドハウス購入までだったでしょ。密室PKについて解決した段階でキリトが私達に協力してくれる理由はなくなっちゃったから。それとねキリト、私、キリトが夜に宿を抜け出してること知ってるんだよ。だから近いうちに攻略組に戻ることになるんだろうなって思ってた」

 

 ……気づかれていたのか。上手く誤魔化してた自信はあったんだけど。

 

「本当は戻ってほしくない。キリトにはずっと一緒にいてほしい。でも、血盟騎士団の団長さん――ヒースクリフさんみたいな人にまで戻ってくれって言われるほどだもん。キリトは私達、ううん、私が考えてる以上にすごい人なんだなって思った。それがなんだかとっても嬉しくて、すごく誇らしくて、少しだけ……寂しかった。――だからね、いつまでも私がキリトの自由を縛っちゃいけないんだって思ったの。ここにいるよりキリトには相応しい場所があるんだ、って」

 

 サチは強くなった。

 それこそ、俺が守るなんて臆面もなく考えていることを恥ずかしく思うくらい、サチはわずかの間に強くなっていたように思う。

 ゲームの、ステータス的な意味での強さじゃない。誰かを支える強さ、誰かを優しく包み込む強さ。それは俺がこの世界に閉じ込められて最初に捨てたものだった。

 サチは俺を安心させようと、何の心配もいらないのだと穏やかに微笑んでいて。

 私は大丈夫だからと気高く告げる姿は、儚くも美しく俺を圧倒するばかりで。

 そのくせ、不安と寂しさに震える身体を俺に気づかれまいと押し隠そうとする、そんなサチの心が切なくて、愛しくて――。

 

「もういい、もういいんだ。サチの気持ちはわかったから。全部、伝わったから」

 

 サチを抱きしめることに躊躇いはなかった。

 腕の中の華奢な体躯。出会った頃の弱弱しさとは違う、臆病な心を必死に奮い立たせ、勇気を振り絞る健気な女の子がそこにはいた。

 サチは強くなったのだろう。しかし変わらず臆病で怖がりな、この世界に囚われたことを嘆く普通の少女でもあった。

 

「死なないで。絶対に死んじゃ駄目だよキリト。それだけ約束してくれれば私も頑張るから、頑張れるから」

 

 その日、同じベッドの中で初めてサチと向かい合うことができた。

 ずっと目を合わせるどころか背を向け合うようにしてきたことが嘘のように、決戦前夜のその日は息の触れる距離で短く言葉を交し合った。お互いに指を絡ませ、心を通わせ、温もりに包まれながら眠りに落ちていく。

 愛おしいと、初めてサチを異性として欲しいと感じた。

 

 

 

 

 

 天罰だったんだと、後に思った。

 何の覚悟もなしに月夜の黒猫団に肩入れし、中途半端に彼らを鍛え上げて、鍛える俺自身が最前線の戦場と安穏とした平穏の間で揺れ動く、使命感もなければ責任感もない子供だった。上っ面の数字だけを優先する、強引なパワーレベリングの代償を俺は知っていたはずなのに、その事実こそを軽視した。優先順位を誤った。

 ソロで生き抜かなければならなかった俺は、プレイヤースキルの未熟と危機感の欠如が何を招くかを誰よりも知っていたはずだ。フロアボス戦で、あるいは迷宮区の罠で死んでいく攻略プレイヤーをつぶさに見てきた俺が、どうして気づかないはずがある。気づいていて、その上で放置した俺の罪は重い、何よりも重かった。

 ……間違っていたのは俺か。俺こそが、キリトという存在そのものが過ちの原因だった。

 俺と出会わなければ、きっとケイタは攻略組を目指そうなんて思わなかった。俺がいなければ、月夜の黒猫団は平穏に暮らせていた。少なくとも、こうも短期間で攻略組に追いつこうなどとは考えもしなかったはずだ。

 

 ――俺の存在がケイタを狂わせた……!

 

 夢と理想に浸る甘美な道を知らず知らずの内にケイタの眼前に敷き詰め、その先を示してしまっていた。その道はまやかしなのだと、歩く先には落とし穴があるのだと理解させられなかった。理解させたつもりになっていただけだった。

 だからこれは必然だ。起きるべくして起きた、そんな惨劇。

 何もかも中途半端に事に望んできた、そんな俺の愚かしさが招いた自業自得なのだと、血が滲むほど強く唇を噛み締めた。

 

 

 

 

 

 順調だった。何も問題などないと思っていた。

 久しぶりのフロアボス攻略戦は犠牲者なしで上手く終えることが出来た。あわよくばと狙っていたラストアタックボーナスこそ逃したが、討伐参加メンバーから死者が出ることもなくボス撃破が出来たことは素直に喜ばしいことだった。参加メンバーの誰もが明るい雰囲気で各々の場所へ解散していく姿を横目に、ひとまずの区切りが着いたことに充実感すら覚えていた。

 月夜の黒猫団のギルドハウス購入も目処がつき、彼らを手伝う契機になった密室PK事件はひとまず解決の目を見た。犯人はいまだわからずじまいだが、大事なことは再犯の可能性を潰すことであり、その点を見れば論理的に矛盾のない手口と対応策が示されたことで誰もが納得のいくものとなった。ヒースクリフ率いる血盟騎士団による発表だったことも安心感につながったのだろう。実際、あれ以来事件が起きる気配はないし、プレイヤー間に蔓延っていたぴりぴりとした緊張感も消え去った。

 俺個人にとってもアインクラッド全体にとってもひとまずは懸案が片付いて良い方向に向かっていると楽観できていたのだ。

 

 後はケイタたちに攻略組に戻ることを告げるだけだ。

 ケイタたちの話では今日、俺がフロアボス戦に参加している間に物件を見繕っておくとのことだった。気に入った物件が見つかれば購入しておくから、ボス撃破祝いと合わせて今夜は派手に騒ごうと笑っていた。

 俺の無事と帰還を疑いなく信じてくれているケイタたちには申し訳ないが、その時にでも月夜の黒猫団を離れることを告げようと考えていた。

 もちろん彼らとの関係全てを断ち切るわけではない。流石にそれは不義理だし、これからも今ほどではないが彼らを手助けするつもりはあった。

 だからフロアボス討伐を終え、予定通り彼らに連絡を入れようとしたところで、黒猫団の反応が主街区にないことを知って思わず顔を顰めることになったのだ。急いで宿に戻ると案の定、メッセージボードに《27層迷宮区に向かう》旨が記銘されていた。……なんだってそんなことを!

 

 黒猫団の皆は今日は狩りをオフにして物件探しに行っていたはずだった。少なくとも俺はそう聞いていたのだ。

 彼らの帰りを大人しく待つという選択肢も考えたが、妙な胸騒ぎを感じて彼らの行方を追うことにした。フィールドダンジョンならここまで心配したりもしないが、彼らが向かったのは迷宮区なのだ、心配になるのは当然だった。

 月夜の黒猫団メンバーの現在レベルと以前共に潜った27層の踏破エリアを思い出し、幾つかの候補を絞りだした上で黒猫団の面々を探し当てようと全力で走り回った。時を経る度に焦燥は増していく。

 かつて俺を追い掛け回したアルゴはどんな気分で俺を追っていたのだろう、ふとそんなことを思った。

 

 幸い皆とはすぐに合流できた。

 聞けば今日の探索は元々予定に入っていたらしい。オフにすると今朝がた聞いていた身としては、悪ぶれずに嘘をついたのだと告げるケイタに文句の一つでも言って構わないだろうと思った。単純な予定変更程度なら問題ないのだが、なにか不測の事態や事件にでも巻き込まれたのかと思ってえらく焦ってしまったからだ。

 ケイタたちの不実をなじるつもりなどないが、事情の説明くらいはしてもらおうと問い詰めれば、フロアボス戦に赴こうという俺を心配させまいとしたケイタの発案だったという。

 嘘をつくくらいなら初めから狩りになどでないか、正直に言ってくれてよかったのだ。もちろん多少の心配はしただろうが、その程度のことでボス戦に支障をきたすような事態になどならない。戦場における優先順位くらいは弁えているし、余計なことを考えていれば死ぬのは自分なのだ。冷たいようだがフロアボスを前にして戦場を共にしていない人間のことまで慮ってはいられない。

 

 どうもケイタはこういうところが抜けているというか、近視眼的なところがある。いや、それは黒猫団全員に言えることか。詰めが甘いというか危なっかしいというか。意図せずピントのずれた行動をしてしまうのは出会った頃から変わらない。

 あまり心配させるなと苦言を呈せば、彼らは皆で顔を見合わせた後おずおずと詳しい事情を口にし出した。俺を心配させないように黙っていたというのは理由の半分というか建前だったらしい。

 なんでも俺なしでも月夜の黒猫団は大丈夫だということを見せて、最前線に戻ろうとする俺を安心させてやろうという目論見が本命だったとのこと。まあPK事件が解決し、俺の離脱を薄々感じていたところにフロアボス戦に復帰をすると告げられたのだ。サチのみならず黒猫団全員が別離の予感を感じたのも仕方ないことか。俺が別れを告げようとしていたように、ケイタたちも俺がそう言い出すことを感じ取って今日の行動につながっていたらしい。

 

 彼らのなんとも殊勝な、そしていじらしい気持ちに複雑な思いを抱かざるをえなかった。

 実際、レベルだけ見れば月夜の黒猫団は中層でも中堅ないし上位陣に迫る水準に成長している。フィールドの狩場に比べれば迷宮区は危険だとはいえ、この第27層迷宮区タワーにおいてもモンスターに限ればそうそう遅れを取ることはないと俺自身判断していたくらいだ。一度連れてきたことだってあるのだ、その時も俺のフォロー込みとは言え問題なく戦えていた。だからこそケイタらも実力の証明に丁度良いとこの階層を選んだのだろう。

 今現在、27層迷宮区で戦うには安全マージンに足りてないメンバーもいる。しかし、本来安全マージンは未知の階層を安全に踏破するための目安レベルでしかない。詳細なマップ情報やモンスター情報が知れていれば当然難易度は下がる。情報さえ揃っていれば一つ二つのレベル不足程度、十分カバーできる範囲なのだった。

 

 そして攻略マップ情報の精査はディアベル率いる青の大海が主導し、安価で広く公開されている。攻略組の考える安全マージンと中層プレイヤーの考える安全マージンの数値が異なるのは当然とも言えた。

 そう、厳密に言えば安全マージンなどそれこそ人それぞれなのだ。俺のようなソロで未知の最前線に挑むプレイヤーは必然的に大きくなり、徒党を組んで既知の攻略済みマップでモンスターを狩る中層下層プレイヤーの想定する安全マージンの数値は小さくなる。ソードスキルの熟練度やパーティーメンバーの人数、プレイヤー個々人の錬度や装備品の充実といった要素をざっくばらんに踏まえた上で、あくまで目安として示されているマージンが現階層に10レベル上乗せした数値なのだった。

 

 黒猫団の面々も迷宮区マップの地図や出現モンスターの種類を確認し、十分な対策情報を集めていたこともあって気楽なものである。

 そうした事情もあり、嘘をついたことを真っ先に頭を下げて謝罪してきたケイタたちにそれ以上文句を言えるはずもなく、なし崩しにパーティーに合流することになった俺だった。我ながら流されているなぁ、と密かに溜息をつく。

 俺抜きでも十分戦えるというケイタの言葉を証明するかのように、黒猫団の皆は前線から俺を外して積極的にモンスターと戦い、そして勝利し続けた。後方から観察する限り前衛の不足は解決していないし連携の粗もまだまだ随所に現れてはいたが、概ね及第点をつけられる戦いぶりだった。メンバー全員の急速に上昇したレベルと質の向上した武装、なにより集団戦の指揮に慣れてきたケイタがリーダーシップを発揮できていたことが大きく、以前の黒猫団とは見違えるほど戦力は充実していたのだった。

 俺の合流以降も特に危なげなく戦闘を繰り返す彼らを見やって、なるほど言うだけのことはあるかと感心した。

 

 そうしてそろそろ宿に戻ろうかというところだった。偶然以外の何者でもなかったのだが、黒猫団の皆が歓声を挙げた対象に俺が思わず舌打ちしそうになったのは致し方ないと思う。……厄介事がやってきた。隠し部屋の発見である。

 ディアベル率いる青の大海のようにマップ作成を熱心にこなすギルドや、迷宮区で発見される希少な宝を求めるトレジャーハンター的な性質を持つ幾つかのギルドにより、通常こうした隠し部屋は早々に発見されてしまう。少なくとも攻略組が突破してから長い時間が経過した場所で貴重なアイテムが取り残されていることはまずない。

 今回のケースはそんな滅多にないレアなケースなのである。皆が色めき立ったこともわからないではない。俺だって隠し部屋に秘められた伝説の武器とか未発見のレアアイテムという単語にはロマンを感じもするさ。すぐさま宝箱に駆け寄って開け放ちたいという感情だってわかる。

 

 しかし俺がもしこうした事態に直面した場合、隠し部屋に踏み込むかといえば答えはノーである。迷宮区に仕掛けられたトラップは、こうしたいかにもな場所にこそ仕掛けられていることが多い。トラップ解除専門のトレジャーハンター仕様のスキル構成持ちどころか、完全戦闘特化ステータスでありスキル所持者である俺では罠に対する耐性が低すぎる。まして俺はソロプレイヤーで助けを求めることが出来ないのだ。その結果、迷宮区で見かけた宝箱は全スルーという決断を泣く泣く下すことになった。なにせ命あっての物種である。仕方がない。

 なにより、宝箱はベータテスターにとっての鬼門だった。

 ソードアート・オンライン開始当初、攻略に有利な立場にあるとされていたベータテスターの死因が、こうした迷宮区に張り巡らされたトラップ群によるものであったことは否定できない事実だ。攻略深度がいまだ一桁の階層だった時分、ベータテスターは一般プレイヤーに嫌われやすいこともあって、ソロないし少数のパーティーが常だった。そうした連中が希少なアイテムを入手できる宝箱という誘惑に負け、トラップに引っかかって実力を発揮できずに死んでいくというケースが多々あったのだ。それは頻度こそ減らしてはいたが現在までその傾向に変化はない。だからこそトラップ解除のような専門スキル持ちが重宝されるようにもなったのだ。

 

 翻って月夜の黒猫団にはそうした探索特化のスキル構成持ちはいない。攻略組志向だけあって戦闘力の確保にまず主眼が置かれ、選択武器の差はあれど皆、戦闘特化のステータス構築とスキル構成に勤しんでいた。唯一サチだけが後方支援スキルの幾つかを取得し始めていたが、それも生産系のものであって探索系のスキルではない。

 だからこそ止めた。迷宮区の宝箱を不用意に開けることは危険なことだと言を尽くして説明したのだが、どうも説明しすぎたようだ。ソロや少人数のパーティーであるからこそ不覚を取りやすいのであって、ある程度の人数と対策アイテムを用意しておけば問題は小さいと読み取ってしまったらしい。

 こんな時ばかり無駄に頭を働かすんじゃねえよ!

 思わずそう怒鳴りつけたくなったのだが、既に場の雰囲気は隠し部屋に置かれた宝箱を開けることに傾いていた。サチだけは俺の心情に気づいているのか、どこか不安そうな面持ちをしていたが、俺が消極的ながら口を閉じてしまった以上声高に反対できるほどでもない。

 俺自身にも楽観はあったのだ。

 念入りに準備しておけば、この宝箱が仮にトラップだったとしても問題なく切り抜けることが出来るだろうと。

 そこにはヒースクリフが指摘したように、全プレイヤーでもトップクラスを誇るレベルを維持する俺の驕りと過信があったはずだ。あるいはこれまで単独であろうとフロアボス戦を切り抜けてきた自信か。月夜の黒猫団だけならともかく、俺が加わればどうとでもなるという傲慢なまでの意識が心の何処かにあったことを俺は決して否定しない。否定出来ない。

 

 だからと言って唯々諾々と彼らに迎合したわけでもなかった。

 油断が死につながることなど、攻略組に身を置いていれば嫌でも思い知る。無策でトラップに向かい合うような真似など怖くてできるはずがない。

 確かに宝箱を開けることそのものには渋々ながら同意した、しかしそれ以上の軽率な真似を許す気はなかったのだ。

 まずケイタ以下月夜の黒猫団の面々には出入り口付近に留まるよう言い聞かせ、さらに虎の子である転移結晶を片手に用意させた。トラップだった場合はすぐに部屋から出ること、閉じ込められた場合は迷わず転移結晶で逃げること、その際宝箱を開ける俺の安否を考慮に入れないことをきつく言い聞かせた。

 俺を見捨てて逃げることに不満を述べたケイタたちだが、「従わないのなら力ずくでも帰らせる」と脅し染みた警告をしたことで渋々ながら納得してくれた。

 もっとも最初から部屋の外で待つよう告げた俺の提案は頑として跳ね除けられただけに、その程度の譲歩はしてくれないとこちらが困る。

 

 問題はないと思っていた。

 まず宝箱がトラップかどうかはせいぜい半々の可能性だ。無事にアイテムが出てくるなら最上である。

 仮にトラップだったとして、いわゆるデストラップと言われるような危険な罠は宝箱を開けた当人に状態異常として麻痺を付与、それから数体のモンスター召喚陣発動による包囲戦闘開始あたりが鉄板だ。ソロならほぼ生存は絶望的。出現するモンスター次第では少人数パーティでも危険である。ベータテスターの屍の上に刻まれた教訓だ、無駄にすべきではなかった。状態異常への耐性を一時的に強化するポーションだってある。対策が出来ないわけじゃなかった。

 もちろん麻痺に限らず幾つかの状態異常を引き起こす別種の罠もあるし、悪質なものだとトラップにかかった本人だけ別の場所に転移させるようなものまである。そこでいわゆる《モンスターハウスだ!》とかなると絶望的だが、幸いというべきかそこまで凶悪な罠はまだ確認されていない。

 

 まあ今回の場合はトラップにかかるのは俺だからそうした最悪の事態になったとしてもどうにでも出来るから問題ない。この程度の階層に出現する敵ならどれだけ数がいようが剣の一振りで切り捨てられる。もう一つ二つ上の階層レベルでも同じだ。これが最前線にプラスアルファしたレベルのモンスター群だったら危なくもなろうが、ここは27層だ。そこまで心配することもないだろう。経験値ブーストスキルの恩恵はそれだけすさまじい効果を俺にもたらしているということだ。

 それら全てが思いあがりだったのだと、後に深く後悔することになる。しかし後悔は先に立たないから後悔なのだ。その言葉の意味を俺は正しく実感することになる。

 俺の肝を冷やしたのはそれから間もなくのことだ。

 

 宝箱は結局罠だった。

 デストラップの異名通り、引っかかった俺には麻痺その他諸々の状態異常が付与された。

 さらに幾つも浮かび上がる召喚陣から次々とモンスターが現れる。

 そして出入り口である扉の遮断だ。

 ここまではいいのだ。懸念はあったが想定の範囲内だ。部屋内部に召喚されたモンスターを殲滅するまでは出入り口が開かない、というのはアインクラッドにおいてポピュラーな罠で驚くようなことではない。

 麻痺も痛いが問題ない。事前に対麻痺ポーションを飲んでいるから無防備に受けた場合よりよほど短時間で状態異常は解けるだろう。

 

 問題は――敵の数が多すぎることだった。

 普通は多くとも4、5体だというのに、この場に召喚されたのは十や二十ではきかない、まさに見渡す限りのモンスター群だった。冗談ではなくこんな数のモンスターに囲まれたことなどないし、そんな大規模召喚を可能にするような罠が存在すること自体、今の今まで知る由もなかった。最前線でもそんな情報は出回っていない。

 油断した……!

 俺の想定を遥かに上回る事態だ。このままではまずい。

 

「皆、すぐに転移結晶を使え!」

 

 麻痺にやられたせいで立つこともままならず、冷たい石床に貼り付けられた俺を召喚されたモンスターが好き勝手に攻撃していく。背に頭に腕に足に剣や槍の攻撃を受けながら、それでもあらん限りの声を尽くして叫んだ。しかし――。

 

「転移できない!? なんでだよ!?」

 

 返った言葉は余りに無情なものだった。

 結晶無効化空間……!

 その名の通り結晶と名のつくアイテム類を全て使用不可にしてしまう恐るべきフィールドのことだ。

 即時撤退の切り札とされる転移結晶が使えなくなるだけではない、瞬時に戦線を立て直すために必須とも言える回復結晶や解毒結晶すらこの空間内では使用が禁止されてしまうのだ、プレイヤーにとってこれほど恐ろしい場所はなかった。

 まさか、と思うこと自体が油断の証左だったのだろう。しかし今更悔いても遅い。

 結晶無効化空間はその存在こそ発見されていたが、罠によって結晶無効化空間を作り出すなどという話は聞いたことがない。まさかそんな悪辣な罠を、今まで一度も宝箱を開けてこなかった俺が初めて引き当てたなどと、いったい何の皮肉だ。しかもトラップ発動以前はこの部屋で問題なく結晶が使えることを確認していたせいで、驚きも人一倍だった。

 

 扉は閉まり、転移結晶は使用不可。よって俺のみならず月夜の黒猫団全員がこの部屋から脱出することは出来なくなった。

 残る手段は出現したモンスター群を全滅させることによる扉の開閉しかない。

 しかしここで問題なのは数も勿論だが、それと同じくらいモンスターのレベルと種類もまずかった。

 召喚されたモンスターは通常この階層に出現するモンスターではなく、三階層上のフロアで出現していたモンスターだった。当然この階層の雑魚モンスターよりも数段強い。HPや守備力が低い代わりに攻撃力がやけに高く設定された、多種多様な武器を操る癖のある人型モンスター種だ。同種でありながら個体毎に別の武器カテゴリーを操るために、間合いの取り方や戦闘の呼吸を掴むのが難しい相手だ。それも集団を相手にするとなると難易度はさらに跳ね上がる。

 月夜の黒猫団のメンバーでは一対一かそれに近い状況ならともかく、多勢に無勢である今の戦場ではとても太刀打ちできない。これで月夜の黒猫団が血盟騎士団並に戦闘センスに優れた精鋭のプレイヤーギルドならどうにでもなるのだが、レベルはともかく戦闘勘が未熟な彼らではこの死地を生き残れないだろう。これは懸念ではなく確信だ。

 だからこそ迷いはなかった。迷うことは出来なかったというべきか。

 

「動くな……っ!」

 

 そう警告を発した俺は、まさに死に物狂いで叫んでいたはずだ。

 

「絶対に動くんじゃないぞケイタ、やつらのヘイトはトラップに引っかかった俺に全て向かってる。攻撃を仕掛けたり下手に騒いでヘイトを高めるような行動をとるんじゃない。いいな!」

 

 幸いと呼ぶには皮肉が効き過ぎているが、敵は人間でなくモンスターなのだ。システムに規定された、プログラム通りにしか動けない虚構の怪物でしかない。やつらのアルゴリズムは小さなゆらぎこそあるものの概ね単純だ。なればこそ、そこに付け込む余地がある。

 今、この場には何十というモンスター全てが俺を中心に集まっている。未だに麻痺にやられたまま動けない俺だが、そんな俺を嬲り殺しにするかのごとくモンスター連中は俺以外のプレイヤーキャラに目もくれていない。まるで誘蛾灯にでもなったような気分だ。

 トラップによって召喚されたモンスターであることに感謝しよう。自然ポップのモンスターではここまで高いヘイト値は得られない。

 

 やつらの動きは今のところセオリー通りだった。

 まずトラップを引いたプレイヤーに対して召喚されたモンスターのヘイト数値が極めて高く設定される。このセオリーに対してプレイヤー側はヘイトの向く先を分散させ、隙を見てトラップに引っかかったプレイヤーの状態異常を回復させることで戦線復帰をさせる。その上で協力して事態を切り抜けるのがこの手のトラップに対抗する一般的な対処法だ。

 迷宮区においてパーティープレイが必須というのは、こうした場面において生存率が飛躍的に増すだけの手段が持てるという点が大きい。ソロでは麻痺を食らってモンスターに囲まれてしまえばそこで終わりだった。経験値効率だけなら秀でているソロプレイヤーが増えない所以である。

 しかし今回は定石とされる対処法を取るわけにもいかない。ヘイトを分散させて黒猫団を戦闘に参加させるわけにはいかなかった。

 

「でもキリト! お前麻痺か何かをくらったんじゃ!?」

 

 だから叫ぶな、聞き分けの悪いやつだな。

 

「トラップで麻痺と毒と出血をもらった。今はリスクブレイクも追加だ。けど助けはいらない。お前らは動くな。動けば死ぬと思え。こいつらは今のお前らのレベルじゃどうしようもないんだ。俺のライフにはまだ余裕があるから大人しくしてろ!」

 

 背後にいるであろうケイタたちに口早に忠告をする傍ら、成すすべもなく減少していく己のライフゲージをじっと見つめる。

 一方的に減らされていく命そのものの数字を見やりながら、己の思考が時々刻々と冷え切っていくのがわかった。

 懐かしい感触だ。心臓が激しく鼓動を刻みつつも思考は無機質で冷たい演算装置と化していく。たった一人でフロアボスを前にした時のような、得もいわれぬ高揚が俺の身を包み込んでいくのだった。

 敵を討つ、ひたすらにモンスターを斬り伏せる、ただそれだけのために意識が集約し全能力が総動員され、何もかもが研ぎ澄まされていく感覚に静かな興奮すら覚えていた。

 しかし時を追うごとに高まる戦意とは裏腹に、俺の身体は未だ自由を取り戻せない。無抵抗に嬲られるばかりだった。

 ……これは部位欠損の追加も時間の問題か。片腕だけならともかく両腕を落とされると少しばかり厄介なんだけどな。

 

 そんな俺の懸念はすぐに現実のものとなった。槍で背後から胸を貫かれ、斧を肩にめり込まされ、宝箱を開けた状態で前方に差し出されたままの左腕を剣で切り飛ばされた。すぐさま視界に赤く染まった警告が出現し、部位欠損を知らせる。なんとも悪趣味な演出だ。

 溜息をつく。

 部位欠損――これで一時的にとはいえ隻腕だ。

 ステータスもさらに低下した。状況はどこまでも悪くなっていく。それでも今の俺に出来ることはない。時がくるまでじっと耐えるだけだ。

 血のように真っ赤なダメージエフェクトが途切れることなく俺の身体から散華していく。刃物が俺の身体に突き入れられるたびに痛みではない、この世界独特の不快感が繰り返され、蓄積されていく。我慢しようと思っても口からうめき声が零れるのは止められなかった。吐き気がしそうだ。

 

 そうして徐々に徐々に削られていくライフ。そろそろ50%を切る。状態異常さえなければこんな格下モンスターにここまで短時間で削られることもないのだが、出血やらリスクブレイクやらのせいで防御力が大幅に低下している。今の俺は防御数値がほとんどゼロに等しい無防備状態だった。その上毒効果で一定時間ごとにごっそりとHPが持っていかれる始末だ。この分だとすぐにライフはイエローゾーンを超えてレッドゾーンまで突入しそうな勢いだった。風前の灯とはきっと今の俺のような立場を指すのだろう。

 

「動くなって……。だって、このままじゃお前が……!」

 

 ――うるせえよ。

 つぶやく。自然と悪態が吐いて出た。

 煩い。煩わしい。いい加減黙れ。幾つもの罵声が脳内に浮かび上がり、それでも怒鳴りつけるに至らなかったのは、きっと俺の最後の理性だ。

 こっちが精一杯全員が生き残る手段を考えて警告してるんだから、せめて大人しく従っててくれ。今のところモンスターのヘイトが全部俺に向いてるからお前らが無事なのであって、何かの拍子に攻撃の矛先が変わってしまう可能性だってあるんだ。俺だってやつらの優先順位全てを把握してるわけじゃない、妙な条件付けに反応しないようお前らには大人しくしててもらわないと困るんだよ。

 プレイヤーの接近どころか、声の一つに反応するモンスター種だっている、俺が動けない状態でお前らにヘイトが向いたらそれこそ絶体絶命なんだって。それくらい理解してくれ、頼むから。

 

 奇妙に冷めた思考が脳を支配し、やがて爆発するように理不尽へ対する怒りが溢れだす。

 何が悪いって、彼らの甘い判断をよりにもよってこの俺が容認してしまったのだから始末に困る。

 月夜の黒猫団がその理想に見合った実力を持たないことなど、彼らに付き合ってきた自分自身が一番わかっていたことなのだ。その判断が常に楽観的であったことも、その根拠がいつだって実態のない自信と勢いだということも。それをわかっていて、どうしてそれを諌めるべき己が彼らに迎合してこんな死地を招いてしまったのか。

 情けない。どう考えても俺の戦場に対する認識が鈍っているとしか思えなかった。

 

「くそ! これ以上は無理だキリト! 待ってろよ、今助けに行く……!」

 

 その言葉にカッと頭に血が昇った。

 ケイタが俺を救い出そうとしていることはわかる。ケイタたちからも俺のライフは見えているのだ、イエローに染まり、レッドに踏み込もうとする今の俺のHPバーは、アインクラッドの常識に照らし合わせれば即撤退を決断するには十分だ。ケイタならずとも、仲間の死を目前にして平静ではいられないのは無理のないことだろう。だからこそなんとかこの局面を打開しようと必死なのもわかる。ケイタの正義感と矜持が黙ってみていることを良しとできないことも。それはケイタの美徳であり、優しさだ。本来は誇るべきものである。

 それでも……それでも……!

 俺の言葉は、俺の警告はそこまで軽いのか。一月に及ぶ俺の尽力は、お前たち月夜の黒猫団のなかでは、危地にあって簡単に無視できる程度の重きしか為していなかったのか。俺がしてきた努力の全てが徒労だったのだと、他でもないお前自身が言うのかよ……!

 

「足手まといだから動くなって言ってんだ! 俺にお前らを見殺しにさせるんじゃねえよ!」

 

 なんとか黒猫団の全員を生還させる。そのためのか細い蜘蛛の糸をお前たちが自ら断ち切ってどうする。

 気に入らない。身の丈に合わない理想ばかりを追い求めるケイタが、危険を危険と認識できない月夜の黒猫団が、そしてなにより――そんな彼らに絆されようとしている俺自身が。

 見殺しにされるのはいい。その程度の覚悟はもう出来ている。そう願ってさえいた。

 だが、見殺しにするのだけは駄目だ。誰も死なせないなんて思いあがったことは言わない。せめて目の前にいる誰かを見捨てるようなことだけはしたくなかった。そんなことに耐えられるほど俺は強くないと思い知ってしまったのだから。

 

 それきり、後ろから聞こえる声はなくなった。

 俺の警告を素直に受け入れたのか、それとも余りの暴言に何も言えなくなったのか。

 どちらでも良かった。必要なことは黙ってじっとしているというその一点のみ。彼らの心情などこの死地にあって何の意味があるというのだろう。文句も罵声も生き残ってから聞いてやる。それは死者には出来ないことなのだから。

 あるいは今こそ彼らと決別する覚悟が出来たというべきなのかもしれない。彼らを切り捨てるかのような発言に自分の逃げ道を失くすという意図があったことは否めない。そうしなければ、いつまでたっても木漏れ陽のような月夜の黒猫団に寄りかかってしまいそうな怖さがあった。

 そんなこと、許されるはずがないというのに。

 

 人を殺した。許されないと思った。死んでしまいたいと思った。死ぬんじゃないと諭された。ならばせめて一刻も早くこのゲームを終わらせてやろうと思った。裁かれるのは向こうの世界に帰ってからだと。

 だというのに安息に浸って攻略から足を遠のかせた。そして今になっても未練がましく縋ってしまっていた。

 

 これほど度し難いことはない。

 だからこれでいい。

 予想外ではあったが、迷宮区の怖さを黒猫団の面々は知った。判断ミス一つで簡単に死地に落とされる場所だということを彼らは学んだのだ。後はこの場を切り抜けることさえできれば、今まで彼らに足りなかった慎重さや用意周到さを身に着ける日もくるだろう。

 そしてこの場を切り抜けることは決して難しいことではなかった。

 レベルだけではない。武器だけではない。ましてプレイヤースキルだけでもない。

 どういった星の巡りあわせによるものなのか、キリトというキャラクターにはよくよく特異なスキルが発現するものらしかった。俺がソロでフロアボスを狩ることに成功した最大の要因の一つ。俺の知る限り情報の全く存在しない希少スキルにして、今まで月夜の黒猫団に付き合ってきたような戦場では決して発動しないスキル。そもそもフロアボス戦以外でライフが注意域に落ちることなど滅多にないため、そうそうお披露目することのない能力値ブースト系スキル。

 

 

 

 スキル名:薄氷の舞踏(ダンスオブナイトメア)

 スキル効果:条件発動型パッシブスキル。

       ライフが50%未満で全能力値30%増加。

       ライフが25%未満で全能力値50%増加。

       ライフが10%未満で全能力値100%増加。

 

 

 今現在の俺のライフは、イエローゾーンからレッドゾーンに差しかかったところだった。すなわち25%を下回ったところである。よって今の俺は薄氷の舞踏の効果により、全能力値50%アップというブースト補正がかかっている状態にある。そこまで確認したところでようやく数々の状態異常が回復し、痺れの抜けた身体は俺の意志のコントロール下に戻った。

 

「――ここからは俺の時間だ」

 

 待ち望んでいた反撃の到来に知らず唇が吊り上る。

 散々好き勝手攻撃してくれた手近のモンスターを今までの鬱憤込みでなぎ払った。

 一撃のもとにポリゴン結晶へと還る硬質な甲冑型モンスター。人の姿を模したそれを粘土細工のように容易く粉々にしていく様にひるむこともなく、感情を窺わせないモンスター群は遮二無二俺を殺そうと襲い掛かってくる。

 この場を満たす数十という数は確かに脅威となる数字だろう。ここが現実ならばどうしようもない戦力差となって嬲り殺されることになっていたはずだ。もちろん現実で暴漢数十名に取り囲まれる状況などまずないだろうけど。

 

 しかしここはソードアート・オンライン、剣を手に戦うアインクラッドである。この世界は数値が全てであり、残酷なまでにシステムが支配するゲーム世界でしかなかった。隔絶したレベル差の横たわる格下モンスターがいくら群れようが俺の剣の糧となるだけだった。

 俺のライフをここまで追い込んだのもトラップによる大幅な防御数値低下と毒効果によるもので、本来の実力差ではやはりここまで追い込まれるはずもなかった。そしてレベル差に加えて、俺の場合追い詰められれば追い詰められるほど凶悪なステータス補正がつくという反則スキル持ちのため、格下モンスターの末路などもはや語るまでもなく明らかだろう。

 ソードスキルの放つ燐光が途切れることなく輝き、その都度ポリゴン結晶が散っていく。

 薙ぎ、払い、貫き、切り刻む。繰り返す。繰り返す。ただただ繰り返す。

 唐竹、袈裟、薙、逆袈裟、刺突。ありとあらゆる斬撃に燐光を纏わせ、ソードスキルの剣閃を叩き込んでいく。時に蹴り技すら駆使して最適な間合いを維持し、剣技に不可避のディレイを極少に留めて殲滅速度を上げる。片手剣スキルの攻撃力には遠く及ばない体術スキルだが、この手の連撃と隙のない戦闘運びを実現するには必須のスキルでもあった。使いこなしてこそのスキルである、隻腕でなければ投剣スキルも交えて徹底的に戦域を支配するところだ。もっともヘイトのコントロールなど必要ないくらい次々と向かってきてくれるので楽なものだった。

 笑みが零れ、腹の底から歓喜の叫びが迸る。もう我慢しなくていい、心の赴くままにひたすら剣を振るうだけだった。沸き立つ胸に抱くは殲滅の二文字のみ。余計なものなど何もいらない。それだけで俺は戦える。

 事ここに至っては部位欠損による隻腕だろうが何の障害にもならなかった。部位欠損で減少したステータス値以上に理不尽なステブーストが俺にかかっているのだから。

 

 おそらくはエクストラスキルに分類されるであろう《薄氷の舞踏》。

 ライフがイエローに突入した時点で撤退が常識と化しているアインクラッドでは死にスキルも良いところの代物だが、俺にとってはこれ以上ないほど《向いている》スキルだった。なにせオレンジ時代はイエローだろうとお構いなしにボスと戦い続け、瀕死を示すレッドに至っても勝機さえあれば戦闘を継続した前科がある。それも一度や二度じゃない。撤退も合わせれば相当数生死の境を垣間見てきた。アインクラッドにおける常識を俺だけが破り続けてきたのだ。――それが命を見切った代価だった。

 グリーンからイエローへ、イエローからレッドへ。HPバーの示す死への足音を意図的に無視する悪癖が俺の中で芽吹き、二度と取り除けないほどに根を張り巡らせていた。

 

 スキルが発現したのも多分そのあたりに理由がある。スキル名称通り、瀕死域を数回、もしかしたらそれ以上繰り返すことがスキル取得条件にでも設定されていたんだろう。他のスキルに比べれば想像しやすい取得条件だった。

 しかしわかったところで公開できるようなスキル獲得情報じゃない。仮に公開したとして、スキル欲しさに自殺紛いの戦闘をされた挙句本当に死なれてしまっては寝覚めが悪いどころの話ではない。今度こそ俺の心が折れる。身勝手と言われようが俺はこのスキルの情報を公開するつもりはなかった。もう、これ以上の罪を重ねたくなかった。

 そんな俺の感傷はともかく、元々のレベル差とエクストラスキルによる破格のステブーストがあるのだ。たかだか30階層クラスに出現する敵程度全て一撃必倒の下に処理できるため、そう時を必要とせずに召喚された全てのモンスターを結晶の光に返すことが出来た。10%近くもHPが残ったのだ、上々だろう。殲滅速度と残HPの予測精度は許容範囲内に収まった。俺の戦闘演算まで鈍ってなくてホッとしたよ。

 

 殲滅か……大仰な表現だな。

 そこにあったのはただの作業だ。喉の奥から激情の声があがろうが気合の剣戟を振るおうが、本質的には怜悧かつ冷徹に、最大効率で以って敵戦力を撃滅するという、極めて単調な繰り返しの作業でしかない。まして戦力差の隔たりが存在するために防御を捨てたところで何の問題もなく、ただただ力押しの可能なつまらない戦場でしかなかった。これでは月夜の黒猫団の参考にもなりはしない。

 かといって殲滅速度を犠牲にして無駄に回避をするほど酔狂な真似を出来るはずもない。俺にとって危険がないからと言って、月夜の黒猫団にとって危険がないかと言えばそんなことは全くないのだから。だからこそ殲滅速度を全てにおいて優先したのだった。

 

 危険だった。本当に危険だったのだ、この部屋は。俺達がかかったトラップは危険極まりない悪質な罠だったと言えよう。

 複数の状態異常を引き起こす第一の罠。

 類を見ないほど多量のモンスターを召喚する第二の罠。

 出入り口どころか転移結晶すら封じ、即時回復のための結晶群をことごとく無効にした第三の罠。

 第27層が最前線だった折にこの部屋が発見されていれば、攻略組ですら甚大な被害が生じていたかもしれない。それほど悪辣な仕掛けだった。

 今回はたまたま隠し部屋が発見されたのが27層を中層と呼べる程度に時間が経過した頃のことであり、たまたま宝箱を開けたのがこの層にいるはずのない高レベルかつ希少スキル持ちだったプレイヤー、つまり俺であったから回避できたに過ぎない。よほどに鍛え上げられたパーティーでない限り全滅必至な罠だった。

 

「ここまで――」

 

 見上げた先には石造りの天上。こればかりは迷宮内部だろうがフィールドだろうがさして違いはない。アインクラッドという石と鉄の城をありありと感じさせる無機質さがそこにある。

 

「ここまでやるのか、茅場晶彦……ッ!」

 

 攻略組だろうが油断すれば待つのは死だというパフォーマンスのためだけに、こんな悪辣な罠を仕掛けるのがお前の流儀か茅場晶彦。

 どうやら思っていた以上に俺達の先行きは暗いらしい。茅場晶彦は最終的には参加プレイヤーにこの世界をクリアさせることを目的にゲームを運営しているのだと考えていたが、どうもその辺りの俺の推測は怪しいものになってしまったようだ。

 隙あらば皆殺し。まさかそこまで極端な運営方針とも思えないが、十分な安全マージンと攻略準備を整えたとしても、そこかしこに全滅の危機が転がっていることは今回のことで背筋が震え上がる程に理解させられた。

 最前線で似たような罠にかけられた時、果たして生還できるプレイヤーがどれだけいることか。

 

 一万人をゲーム世界に閉じ込めた最低最悪の犯罪者だ。人命など大した重さを持ち得ないことはわかっていたが、こうも簡単に人を殺す罠を仕掛けてくるとは。この分では茅場の目的が俺達に命がけでゲームクリアをさせることではなく、命がけでこの世界を生きる人間を観察することにあるんじゃないかと思えてくる。すなわち結果でなく過程の重視だ。俺達が試行錯誤し、剣を手に生き抜く姿を見ることが重要であって、クリアそのものの成否は決して重くはない。むしろ二の次なのではなかろうか。最終的に俺達が全滅しようが、モンスターと命がけで戦い、日々を全力で生き抜く姿さえ見られればそれで良いのだと。

 もしも茅場がそんな思惑で俺達を閉じ込めたとなると、いよいよ生きて現実に帰ることが難しくなる。上層に進めば進むほど死を前提とするようなモンスターや罠が溢れかえるようになってしまうだろう。地獄絵図の未来だった。

 そうならないことを切に願うところだが、さし当たってはトラップによる結晶無効化空間の発生が現実になったことへの警告が必要だろう。今回の俺のように攻略組が不用意に宝箱の罠に嵌るとも思えないものの、結晶無効化空間を発生させる新種の罠の存在は早急に周知しなければならない最優先懸案事項だった。取り急ぎアルゴに連絡を取らねばなるまい。最前線の攻略にはより一層の注意が必要になった。

 

 何がこれからのアインクラッドは良い方向に向かうだ。どん底の中でアルゴという理解者が出来て、カルマ浄化クエストを達成したことでオレンジカーソルの解消に成功し、死者の出ない最近の攻略組の順調さにすっかり警戒を緩くしていた己に呆れ返ってしまいそうだ。

 俺達プレイヤーの未来は決して明るくない。

 このまま何事もなく最上階に行けるなどと思うのは夢物語でしかないと思い知った以上、早急に攻略組に戻って今まで以上にレベリングと装備の拡充も求めなければならないだろう。迷宮区の踏破、そしてラストアタックボーナス狙いのフロアボス戦も積極的に参加するべきだ。今は良くともこれからの攻略組に余力などありえない、可能な限りの総力を結集して攻略に邁進する必要があった。それにレベルアップが必要なのは俺だけじゃない、攻略組全体の戦力の充実も急がねばならなかった。

 幸いというべきか、血盟騎士団のトップ二人とは今回の件で多少の縁が出来た。ヒースクリフはともかくアスナとは攻略について色々と協力できることもあるだろう。

 

 問題は俺自身と各ギルドとの協調関係をどう強めるかだ。ヒースクリフは俺を評価しているようだったが、攻略組のプレイヤーの中には俺を嫌っている連中も少なくない。その筆頭が俺に好意的なヒースクリフとアスナの束ねる血盟騎士団だというのだから皮肉なものだった。あそこの団員が多分一番俺に対する反感が強い。攻略組でもトップギルドという自負があるせいか、ソロで好き勝手動いて協調を乱す俺を面白く思っていないのだ。

 そこまで考えて重いため息が漏れた。やつらの反目は故ないことではない。全ては俺の過去の行状のツケだった。

 やはりオレンジ時代ほどではないにせよ、他プレイヤーとの接触を最小限にして四六時中フィールドや迷宮区に篭るべきか。アルゴには悪いがやっぱり俺にはそっちのほうが性に合っている。というか気楽ですらある。どうせ元ベータテスターで元オレンジプレイヤーの嫌われ者なのだ。

 ならば。

 

「いっそのこと」

 

 全て振り切って全精力、全時間を攻略とレベリングに費やすほうが、結果的には生きて現実世界に帰る可能性が高くなるのではないだろうか。アルゴに諌められて以来フロアボスに単独で挑むことこそ控えているが、なにもボス戦は決戦のみを指すわけでもない。威力偵察程度ならそう文句も言われないだろうし、場合によっては余勢を駆って撃破につなげてしまっても構わない。

 周りから文句も出ようが、ボスドロップ品を格安で譲る姿勢を見せれば不満はあっても黙認する流れには持っていける。攻略組とてフロアボスとなど出来れば戦いたくないのが本音だ。誰だって命は惜しい。

 それにメリットだってある。階層が進めば進むほど経験値効率は上がるし武器防具も充実していく。その恩恵は俺だけでなく全プレイヤーに益するものだ。俺が直接手助けをする必要もなく、各自が勝手に強くなっていくことで戦力を充実させることができる。それを思えば今のうちに行けるところまで行っておくのも悪い選択肢じゃない。問題があるとすれば勝手を繰り返す俺が攻略組から弾き出される可能性だが……。

 

 ――たいしたことじゃないか。

 元々が風来坊のソロプレイヤーなのだ。独断専行も嫌われ者も今更だった。

 ソロが通用しなくなるまでただひたすらに突き進む。最善手とは思わないが十分に利はあるはずだ。

 攻略組にはそっぽを向かれるかもしれない。結果としてソロが通用しなくなった時が俺の命運の尽きるときとなるだろうが、そのときの事はそのとき考えればいい。攻略組にはヒースクリフにアスナもいる。俺が倒れようとも後顧の憂いはなかった。

 命を粗末にするわけじゃないんだ、アルゴも許してくれるだろう。

 

「キリト……!」

 

 背中にぶつかるような勢いで抱きついてきたサチの柔らかな感触と、嗚咽を堪えて震わせる声を耳にして、ようやく月夜の黒猫団を忘れて放置していたことを思い出した。

 

 

 

 

 

「――ここまでやるのか、茅場晶彦……ッ!」

 

 今まで見せたことがない、憤怒を宿したキリトの姿に身震いした。

 すでにモンスターの姿は無く、キリトの失った片腕も時間経過と共に回復していた。目を背けたくなるような凄惨な戦闘は終わったのだ。本来なら仲間の無事を喜びに駆けつけるべきなのだろう。

 しかし言葉無く佇むキリトの背中に僕は声をかけることをできず、ただただ呆然と立ち竦んでいた。

 ここにはいない全ての元凶、まるで最上階にいるグランドボスこそが茅場晶彦なのだと言わんばかりのキリトの姿だ。……そういえばその可能性を最初に指摘したのもキリトだったか。《はじまりの剣士》。彼を呼ぶ異名を一つ思い出す。

 キリトの呟いた声は小さくとも聞き逃すには迫力に満ち満ちていて、とても無視できるようなものではない。嘆きの声のようでいて、決死の声にも聞こえたその言葉。正しくキリトの魂の慟哭だったのだと、そう思うのだ。

 

 思えばキリトには悪いことをした。

 僕の夢のために、サチを出汁にしてまでキリトを僕ら月夜の黒猫団に付き合わせた。キリトを最前線から引き離すことは攻略組にとっても損だということをわかっていながら、それでも僕はキリトを引きとめてしまったのだ。悪いと思いながら、どうしても夢を諦めることは出来なかった。

 実際にキリトの活躍は目を瞠るものがあった。

 効率的なレベリングを可能にする狩場の選定、戦場における的確な指示、そしてモンスターの攻撃をいなし、かわし、弾く妙技。盾無し前衛とは思えない完璧な壁役だった。キリトが加わって以来、回復アイテムの消費がほとんどなくなり、武器の消耗速度が信じられないくらい速くなったのだ。つまり防御の機会がほとんどなくなり、攻撃を仕掛ける回数が飛躍的に増したということだった。当然だが獲得経験値もキリトが加わる以前とは比べるだけ馬鹿馬鹿しい開きがあったわけで――。

 

 あれでキリトの専門は攻撃偏重のダメージソースなのだからどれだけ器用なんだと感心しきりだった。

 それに集団統率の指示もキリトは如才なくこなしていた。僕の面子を慮ってか大抵は僕の了解を取る形だったが、キリトを加えた黒猫団の戦闘ではキリトが影のリーダーだったことは間違いない。この頃、僕がギルドメンバーの皆から「最近戦いやすくなった」と感謝されているのも、キリトの統率を模倣していたことが大きい。もちろん、いずれは自分の力としてみせるつもりだったけど。

 キリトはずっとソロでやってきたというのだから、あの統率力は生来の資質か、もしくはフロアボス戦の中で身に着けたものなのだろう。

 

 そして今日、キリトの真価をこれでもかというほど見せ付けられた。

 叫び。雄たけび。裂帛の気迫。あれほどに猛るキリトの姿など想像すらできなかった。サチにどこか似た物静かな印象が強かっただけに、余計にそのギャップに戸惑ってしまう。

 なにより圧倒的多数における包囲をものともしない攻撃力、凶悪な罠を受けても冷静に最善を選べる判断力と胆力。僕らの手伝いであったころのキリトは完璧な戦闘運びではあったが、そこに激しさや荒々しさは感じさせなかった。しかしそれは全力を振るうまでもない余技に過ぎなかったのだと今ならわかる。

 暴風のような剣技の嵐。一太刀振るえば確実に敵がポリゴン結晶に還る。その姿に頼もしさや敬意よりも先に、圧倒されるほどの畏怖や恐怖を感じた。怖いと感じるほどの強さに肌が粟立ち、次いで憧れた。僕は麻痺にでもかかったかのように一歩も動けず立ち尽くしていたのだ。

 キリト一人いればゲームクリアなど難しくないのではないかと、そんな夢想すら抱かせる強さ。

 ふと浮かんだ、そんな詮無い疑問を軽く首を振ることで振り払った。キリトに抱いた嫉妬と無責任な期待、いや、押し付けを隠すように。

 

 キリトとは長い付き合いではなかった、まだ出会って一月そこらでしかない。それでもキリトは寡黙だが決して口汚い男じゃないということくらいはわかっている。そのキリトがあれだけ言を荒くして僕らを押さえつけたのだ。今回のトラップは本当に危険なものだったのだろう。

 直接敵と矛を交えたわけではなかったが、無数に出現したモンスターの一体一体が最低限この階層レベルのモンスターであったことは間違いない。下手をすればそれ以上のレベルだった可能性もある。僕らもキリトのおかげで大分レベルが上がっていたものの、それでもあれだけの数だ。とても冷静に戦うことは出来なかっただろう。

 実際に僕らはキリトを除いて全員が浮き足立ってパニックになっていた。そんな状態だったからキリトが強い声で指示を出してくれなかったら、それこそわけもわからず暴走する人間が出たかもしれない。そもそも僕自身が感情の赴くままに戦闘へ突入しようとしていたのだ。本来は皆を落ち着かせなきゃいけなかったはずなのに。

 

 足手まとい、足手まといか……。言われても仕方ない醜態だったな。

 胸に去来する情けなさに溜息が零れた。

 キリトにもずっと言われていたことなのだ。死を実感するようなぎりぎりの戦場で、それでも冷静に動けるかどうかが攻略組に加われる一番大事な資質なのだと。それが出来ないプレイヤーから死んでいく。レベルのうえでは攻略組に属していても、フロアボス戦で醜態を晒した挙句に死んでしまうのは、死を目前に冷静になるべき場面でパニックを起こしてしまうプレイヤーなのだと何度も警告されていた。

 僕は今に至るまでキリトの言葉を本当には理解できていなかったのだと思う。理解できたつもりになって、そして本番になれば自分にだって出来るのだと根拠もなく思い込んでいた。そして今日、それがはっきり無理だったのだと思い知らされた。

 

「いっそのこと」

 

 そう呟いたキリトを止めたのはサチだった。

 多分、見ていられなくなったんだろう。戦闘中のキリトの激情は怖いくらいに荒々しいものだった。圧倒的なまでの存在感があった。だというのに、今のキリトの背中からは寂寥と儚さしか感じられない。今にも消えてしまいそうな、そして何もかも振り切って死地に向かってしまいそうな、そんな危うさしか感じられなかった。

 もしかしたら、キリトの尋常でない強さは命そのものを無理やりに業火にくべている代償として得たものなのだと、そう思えてしまったからなのかもしれない。それくらい戦闘中のキリトからは鬼気迫る何かが見て取れた。

 僕ですらそう感じたのだ。僕よりもずっと心情的にキリトに近い場所にいたサチが、そんなキリトに何を思ったのか。

 サチの行動が全てを語っていた。僕らの目を気にすることなく、あの内気なサチが異性を戸惑いなく抱きしめた。そのことに結構なショックを受ける一方で、心の何処かでああやっぱり、という諦めの声が零されていた。

 

 サチがキリトを頼りにしていたのは出会ったその日からだ。それから時を重ねるごとにサチはキリトに惹かれていくようだった。それを止めるでもなく、そして割り込むでもなく、ただ眺めていた僕には何も言う資格はないのだろう。

 そもそもキリトをサチから遠ざけることは簡単だった。キリトは僕らに協力してくれながら、いつでも攻略組へと心を残していたように見えたから。だからキリトとサチを引き離すのなら、少しだけキリトの背を攻略組に押してやればそれで済む話だった。そうすればサチのキリトへの気持ちはただの憧れ、頼れる人止まりで終わっていたと思う。

 それがわかっていても僕はキリトの協力を選んだ。強くなる道を選んだのだ。

 たった一ヶ月だ。だというのに今までの苦労が嘘のようにレベルがどんどん上がっていった。それが嬉しくて楽しくて、サチへの想いよりレベル上げに、目指すべき目標――攻略組への参加にばかり気が逸って優先するようになった。だからサチの心がキリトの元にあるのだと思い知らされたとしても、それは誰のせいでもない、僕自身の責なのだろうと納得できた。……納得できてしまった自分を少しだけ情けないと思う。それは競争相手としてキリトには敵わないと、戦わずして認めてしまったということだったから。

 

 キリトは僕らの前から去るだろう。

 サチを見捨てるとも思えないから完全にキリトとの縁が切れるとは思わない。でも、これ以上僕らに付き合ってはくれないはずだ。そこまでの義理もないし、あの時のようにサチを理由にしても、恐らくキリトはもう残ってくれない。

 はじまりの街で誰よりも茅場晶彦への怒りを示したキリトだ。そのキリトが茅場への怒りを思い出し、再燃させ、真っ直ぐに射抜くように鋭い眼差しを見せた。今までキリトの随所から感じさせた迷いのようなものが綺麗さっぱり消えてしまっている。多分、オレンジだったことへの引け目があったんじゃないかと思う。攻略組に戻ろうとしながらも気が引けて、だからと言って僕らに迎合するかと言えばそんなことはなく、決して打ち解けようとはしないまま一線を引いて距離を置き続けた。

 サチはきっとそんなキリトの繊細な部分に踏み込んだ。そうでなければいつも内気で控えめなサチが、僕らの前であんなにも思い切った行動を取ったりはしないだろう。

 

 ……正しく僕らはキリトにとって足手まといでしかなかった。

 いつかは攻略組に加わるのだと夢見ていた。

 そしていつかは今ではないのだと告げる苦い現実がここにある。

 攻略組に、そしてキリトに追いつきたいと願ったのだ。だというのにキリトの背中が遥か遠く霞んで見えることに改めて気づかされ、こんなにも落ち込んでしまっている。

 もちろん、今までの思いを忘れたわけじゃない。力不足を思い知らされたからと言って、簡単に諦められるわけがない。

 それでも我武者羅に上だけを見ていることがいかに危険なことなのかはキリトが身を持って教えてくれた。これからキリトが抜けて月夜の黒猫団は大幅に戦力がダウンする。だからこそ余計に足元を固めて、一歩一歩目標に近づいていかなければならない。

 

 とりあえずはギルドホームの購入か。

 そして、サチの意志の確認。

 このままモンスターと戦い続けるのか、それともキリトに薦められたように後方支援に役割をシフトさせるのか。

 サチは戦うことを選びはしないだろう。キリトの薦め通り、このゲームがクリアされるそのときまで、後方に退くことを決めるはずだ。サチがあれからも戦えていたのはキリトがサチを守って心の支えとなっていたからだし、元々の予定からしてサチは戦い続けるはずじゃなかった。

 それに今回の件で支援スキルの重要性を改めて考えさせられた。製造スキルである鍛冶やポーション作成、それに商売のような主要支援スキルはこれから先大きな力になる。なんなら裁縫や料理のような日常スキルでもこの際構わない。戦闘方面のサポートでなくても、ギルドホームで留守番や情報整理、アイテムの相場を調べてもらうだけでもかなり助かるのだ。何よりサチにはキリトとのつながりをこれからも維持してもらわなくちゃならない。こればかりはサチが一番の適任だった。

 

 着実に、堅実に、そして諦めず。

 まだまだ僕達の戦いは始まったばかりなのだ。

 誓いを新たに、誰に告げるわけでもなく決意を固めながら。

 アインクラッドの誇る最強の剣士と傷ついた黒猫のどこか切ない抱擁を、ほんの少しの寂寥と共に暖かく見守ることを決めたのだった。

 

 




 《薄氷の舞踏》はオリジナルスキルです。原作には存在しません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第06話 救世主なき聖夜

 

 

 俺達がこの美しくも残酷な世界に閉じ込められたのは2022年11月6日、秋も深まろうとする時節のことだった。

 そして今はぐるっと一年四種の季節が巡り、冬の訪れが肌身に染みる12月の半ばだ。この世界に閉じ込められてから、はや一年を数える年月が経ってしまった。いくらデスゲーム開始時点でクリアに要する時間を年単位はかかると予想していたとは言え、こうして時の流れを実感するたび、焦りと共にやるせなさに胸を焦がすのはどうしようもないことだった。

 

 元の世界で学生だった俺はまだ良い。学業成績や出席日数、それに受験の問題はあるが、それでも親の庇護下にあるのだ。帰ってすぐに路頭に迷うようなこともない。しかしエギルやクラインのような、明らかに社会人の立場にあると思われるプレイヤーの抱える焦燥は俺の比ではないだろう。彼らの職業を俺は知らないが、仮に勤め人だとして、事件に巻き込まれたことで一年以上も昏睡状態にある人間を雇い続けてくれるものだろうか。それを思えば現在のアインクラッドがまがりなりにも静謐を保っていることは奇跡に近いのかもしれない。暴動の一つ二つ起きていたっておかしくない状況だった。

 ……止めておこう。今は向こうの現実を心配している場合じゃない。アインクラッドこそが俺達の生きる現実なのだから。

 

「キリト。頼む、この通りだ」

 

 切々と訴えかける声は旧知の男のものだった。正式サービス開始と同時にログインした俺に真っ先に声をかけてきた、バンダナと無精ひげがトレードマークの男。陽気で気さくな性格をした人の良い年上プレイヤー。そして、この世界で最初にできた友人。

 ……クライン、お前に何があった?

 零れそうになる溜息を懸命にこらえたのは、何もあちらの世界の事情を慮ったからばかりではなかった。今、俺の眼前にて、その一言こっきりで頭を下げ続ける知己の姿に、どう反応すれば良いのかわからないまま途方に暮れていたのである。

 

 

 

 ギルド《風林火山》団長《赤髪のクライン》。

 かつて自身も初心者プレイヤーでありながら、はじまりの街から一貫して他プレイヤーの指導と助っ人を請け負ってきたお人好しにして、他者のスキルアップ援助や他ギルドへの助力を問題なく請け負えるほどに腕の立つ男。それに扱いの難しいエクストラスキル《カタナ》を使いこなすあたり、顔に似合わず中々器用なやつだと感心もしている。

 刀は片手剣よりは攻勢に長けた前衛向きの武器なのだが、盾なしを余儀なくされることで前衛としては些か脆い。また刀に対応するソードスキルがこれまた癖があるというか、発動準備や技後硬直時間(クールタイム)にわずかだがマイナス補正がかかっているのだ。その分スキル発動中の連撃の鋭さや攻撃力に秀でているため、強いて言えば1.5列目を担当するポジションに向いている、と言ったところか。まあフロアボス戦に代表される集団戦の編成は俺の管轄外だ。ヒースクリフやアスナが盛大に頭を悩ませてくれるだろう。その点での一番の問題児は俺だろうけど。

 

 武器特性としては可もなく不可もない、良く言えば万能、悪く言えば器用貧乏な片手剣をメインウェポンにしている俺からすると、ギルド員の大半が刀使いである風林火山は尖りすぎたギルドだと思うこともある。ギルド名からして《風林火山》だし、やつらには和風な武器や防具への愛着でもあるのかもしれない。趣味が高じての武器選択の可能性も少なからずあると睨んではいるのだが、生憎と確かめたことはなかった。あれでギルドメンバー全員が、刀の特性を生かした戦い方を心得て使いこなしてる以上不満もないしな。ただ、アインクラッドのモチーフは中世欧州風だから、鎧武者の見た目からして浮いてるのは諦めるしかない。

 

 アインクラッドは広大だ。そして出現するモンスターも多種多様に渡るため、選択武器特性による得意不得意はあっても武器カテゴリーそのものに決定的な優劣はない。

 だからこそ攻略にはパーティープレイが推奨されるのだ。ダメージの通りづらいモンスター種を相手にしたときにも、パーティーメンバーでカバーし合うことで不利を覆して互角以上に戦うことが出来る。そういった意味では汎用性の高い片手剣はソロ向きと言えなくもない。……現状、最前線をソロで活動するプレイヤーなんて俺くらいのものだろうけど。もう少し階層を降ればソロで活動するプレイヤーの噂も聞こえてくるのだが、フロアボス戦に参加するプレイヤーで未だに根無し草なのは俺だけだ。

 寄る辺ないこの世界で人とのつながり、もっと直截に言えば《仲間》を実感できるギルドは得難い価値がある。俺自身、誰憚ることなくギルドに参加できたならどれだけ気が楽だっただろうと思うこともある。――所詮は泡沫の夢だ。忘れよう。

 

 俺の自業自得な現況はともかく、はじまりの街から継続して続けてきた草の根活動が実って《風林火山》の名は傭兵ギルドとして親しまれ、非常に好意的な意味で有名になっていた。

 クラインの二つ名の由来はその朱に染まった髪と精悍な顔つきからのものだろう。戦国大名の武田騎馬軍団を意識しているのか、今では団員全員が赤の鎧兜に身を包んだ《赤備え》のおかげで、なおさらイメージも湧きやすくなっているのかもしれない。

 無精ひげをさすって漢臭い笑みを浮かべるクラインの表情を俺などは常々山賊のようだと思っているのだが、あれで頬を緩めてひょうきんに笑うと愛嬌が増して見えるせいなのか、誰からも好かれる実直なプレイヤーとして名を馳せていたのだった。人柄、実力共に申し分なし。時折耳にするクラインの評判がたまらなく嬉しい俺だったりする。

 

 そんなクライン率いる風林火山も、最近になってついに攻略組に参加するほどの精強さを誇るようになった。中層以下のプレイヤーへの支援を優先しているために血盟騎士団や聖竜連合のような最精鋭には一歩譲るものの、フロアボス戦に十分参加できるだけの強さを獲得しているのだ。その事実がクラインの統率力とギルド運営の正しさを率直に物語っていた。

 クラインが初めて参加したフロアボス攻略会議の席で、「やっと追いついたぜ、キリト」と声をかけられたときは不覚にも泣きそうになった。この男は一年以上前にはじまりの街で俺と交わした他愛ない約束を律儀に守り、誰に対しても胸を張れるだけの生き方を送りながら俺の立つ場所――最前線の攻略組へと合流したのだった。

 

 風林火山の名は攻略組の中でも頭角を現しつつある。ギルドの規模は決して大きくはないものの、頼れる精鋭ギルドとしての地位を確保しつつあるのだ。それにクラインはその高い実力だけでなく、ムードメーカーとして集団の潤滑油ともなれる男だ。彼らが攻略組に合流した意味は大きい。

 もう大分昔のことになるが、俺がオレンジプレイヤーになってからは顔を合わせることを意図的に避けた時期もあった。連絡も全て遮断した。それでも変わらぬ友誼を示し続けてくれたクラインに俺がどれだけ救われていたことか。一度俺の不実を詫びに頭を下げにいったこともあったのだが、クラインはそんな俺を笑い飛ばすだけだった。謝るより先にお前はもうちっと愛想良くしやがれ、と冗談めかして言われて苦笑するしかなかったな。器が大きいというのは、きっとこいつみたいなやつのことを指すんだろうとしみじみ思ったものだ。

 

 もっともクラインと風林火山の躍進に喜んでばかりもいられない。

 今は冬も深まる12月。現実世界ではクリスマスシーズンの到来に皆が浮き足だっている頃だろう。そしてその事情は現実の暦とリンクしているアインクラッドでも変わらない。どの階層を訪れてもどこか浮かれた空気があるのだ。……まあ騒ぐ元気があるのは悪いことじゃない、そう思うべきだろう。犠牲者を悼んで塞ぎこむだけでは俺達の明日はない。

 先月行われた第50層フロアボス戦ではやはり甚大な被害が出た。全100層の折り返し地点であり、第25層以来のクォーターポイントの再来だったため、厳しい戦いになるとは戦端が開かれる前から予想されていたことだ。攻略組も厳選に厳選を重ねた精鋭プレイヤーで討伐隊を組み、出来る限りの準備を行って臨んだ一戦だった。それでも片手で足りない数の犠牲者が出てしまった。攻略組最精鋭の血盟騎士団、聖竜連合からも死者が出たのだ。まさに死闘だったと言える。

 

 図抜けた攻撃力と堅すぎる防御力を有した凶悪極まりないフロアボスだった。仏像めいた外観をした、多腕型の大型ボス。幾つもの腕を振り回してプレイヤーに襲い掛かる縦横無尽な痛撃の嵐も然ることながら、金属製の光沢ある皮膚に相応しい硬さが何より脅威だった。堅牢無比な要塞を相手に粗末な武器持て突撃するような、誰もが最悪の戦況に縮み上がり、絶望に暮れる一戦だったのである。

 想定をはるかに上回るボスの防御数値にこちらのダメージがほとんど通らず、遅々として攻略は進まなかった。そうしているうちに、前衛として戦局を支える壁戦士のほとんどが瀕死域までHPを減らし、回復の暇もなく次々と転移結晶によって戦場を離脱した。櫛の歯が欠け落ちるようにぼろぼろと討伐参加プレイヤーが数を減らしていくことで、一時は討伐失敗も止む無しと諦めた程に戦況はひどい有様だったのだ。

 

 それを覆したのが血盟騎士団団長ヒースクリフ――攻略組最強の男だ。あの男が前線に立ってソロに近い形でフロアボスからのタゲを一手に引き受けてくれたおかげで、ガタガタだったプレイヤー戦力をどうにかアスナの元に再編することができた。討伐隊が完全に崩壊する前にアスナへ指揮権を移譲し、猛り狂うボスの眼前に一人躍り出たヒースクリフの勇敢さは、その冷静で迅速な判断と合わせて賞賛されて然るべきものだろう。

 ヒースクリフの奮闘のおかげで俺がフリーハンドを得ることができたのも助かった。やつの奮戦あればこそ俺は防御や回避を気にすることなく攻撃のみに専念できたのだ。あれがなければ犠牲者は片手どころか両手でも足りない数に膨れ上がっていたかもしれない。

 俺のHPバーも後退による回復と前線への復帰を繰り返すなかで三度レッドゾーンに落ち込んだ。最終的には俺達討伐隊が勝利を得たとは言え、討伐参加メンバー全員の心胆を寒からしめる、綱渡りの連続したぎりぎりの戦いだったのである。俺自身、ラストアタックボーナスを取れた喜びよりも、フロアボス討伐戦を生き残れた安堵のほうがずっと強かった。よくぞ生き残れたものだと溜息にも似た安堵を得たものだ。

 クォーターポイントに座すフロアボスの強さは群を抜いていると改めて思い知らされ、次回のクォーターポイントである75層を思うと今から頭が痛くなりそうだ。

 

 瞠目すべきはやはりヒ-スクリフのやつだろう。あの男抜きではとても勝利などおぼつかなかったし、奴が戦局を一人で支えなければ戦死者も倍に増えていただろうと思う。それほどヒースクリフの戦いぶりはすさまじかった。

 ヒースクリフの保持する攻防一体の最優スキル《神聖剣》。恐らくはエクストラスキル、いや、あの破格の性能を考えるとユニークスキル分類かもしれない。

 あの男の先読みの鋭さを考えると、ヒースクリフと神聖剣はまさしく鬼に金棒とも言うべき組み合わせだった。まさか規格外のクォーターボスを相手に、真正面から伍することのできるプレイヤーが存在するなどとは今でも信じられない。あの男と同じことができるプレイヤーはまずいないだろう。数々のエクストラスキルと攻略組でもトップクラスのレベルを保持する俺でも無理だ。あれはヒースクリフの神懸り的な先読みが可能にする見切りと、攻防に極めて高い補正を加えていると思われる神聖剣、その二つが合わさって初めて顕現する強さだと俺は思っている。

 仮に俺に神聖剣が発現したとして、多分、俺じゃヒースクリフほど上手く神聖剣を使いこなせない。あの男ほどスキルを十全に生かせないのだ。それを思えば神聖剣はまさしく奴のためにあるスキルだった。

 

 瓦解する戦線を立て直す為、クォーターボスのヘイトを一身に集めたヒースクリフ。奴の位置に俺を置いてのシミュレーションを何度か繰り返してはみたものの、俺一人で戦局を支えるのは三分が限界だった。それをヒースクリフは十分間耐え抜いたのである。それもHPバーを注意域(イエローゾーン)に落とすことなくだ。目の前で見せつけられていなければ、間違いなくありえないと断じていたことだろう。

 神聖剣も大概ぶっ壊れスキルだが、あの男自身のスキルは神聖剣以上に恐ろしい。プレイヤースキルの洗練の度合いが他のプレイヤーに比べて突出しすぎているし、仮想世界の身体運用法を熟知し過ぎている。戦闘の機微を読んで指揮を執る力量も相当だが、ヒースクリフの動きはステータス数値に規定された限界をとことん突き詰めているかのように無駄がない。ほんと、あいつ現実世界じゃ何やってた人間なんだか。

 ……副団長のアスナですら、もはやあの男の強さに追随できないんじゃないだろうか? ツーマンセルを組むにはヒースクリフは強すぎる。あれではギルド内部でのパーティー編成と役割分担に難儀することだろう。

 

 突き抜けた強さと言うのも考えものだった。あの男はこれから先、その力故に常に大きすぎる期待と負担を背負わされることになるだろう。本人が望む望まないに関わらずだ。とはいえ、あの男の泰然自若ぶりが今更崩れるとも思えない。ヒースクリフは一貫して攻略組を主導する立場にいるのだし、そのプレッシャーすら望むところと考えているのかもしれない。

 今までも攻略組において抜きん出た強さと声望を誇っていた男だが、クォーターボスを相手に冗談染みた活躍を示したことで今では半ば伝説扱いされていた。それも仕方ないかと思う。あの戦いにおけるヒースクリフの獅子奮迅ぶりは、攻略組のみならず全プレイヤーの間で語り草となるに十分な偉業だった。あの男に寄せられるゲームクリアへの期待も極まったと見るべきだろう。それだけの実績も積み重ねている。

 もうヒースクリフを特攻兵器扱いにでもして、毎回フロアボスの広間にソロで放り込んでやれと思った俺は悪くないはずだ。奴ならそれでもなんとかしてしまいそうだし。まあ、効率が悪すぎるし非人道的に過ぎるから承諾されるはずないけど。……決してあいつが嫌いだから無茶ぶりしてるわけじゃないからな?

 

 

 

 ハーフポイントの戦いから一ヶ月。現在の最前線は第55層まで進んでいる。強力無比な新スキル《神聖剣》を団長であるヒースクリフが会得したことで、ますます意気軒昂となった血盟騎士団の士気の高さもあってか、50層以降の攻略はまさに破竹の勢いで進んでいた。結構なことだ。攻略速度が加速するのは俺にとっても願ったり叶ったりである。

 そんな折に俺はクラインから至急だと呼び出しを受けた。呼び出しの文面は丁寧というより、どこか懇願に近いものだったと思う。一体なにが起きたと不安に駆られながらクラインの元を訪ねるや否や、頭を下げるどころか土下座されて諸々を省いた切望の訴えである。もう一度言おう、一体何が起きた?

 

「クライン、それだけじゃ意味がわからない。俺にわかるように最初から話してくれ」

 

 俺より十は年が上ではないかという大の男が土下座である。非常に居心地の悪い思いをしながらどうにかクラインの頭を上げさせ、事の次第を聞きだすことに腐心した。この男に必要以上にかしこまれるのは御免だ。

 そんな俺の願いも空しく、クラインは土下座は止めても居住まいを正したままピンと背筋を張り、緊張に顔を強張らせたままだった。それでもぽつりぽつりと俺を呼び出したわけを口にしていく。

 

「キリト、クリスマスイベントの噂は聞いてるか?」

「クリスマス? ああ、あれか。イブの夜に特別イベントとしてフラグボスが出現するって噂だろ。NPCが口々に話すようになったんだからそれなりに信頼できる情報だと思ってるよ」

 

 俺のように考えてるプレイヤーは多いだろう。イベントボスが出現するポイントの絞り込みに動き出しているギルドもあると聞いている。これで何も起きずに肩透かしをくらうようなら、今までとは違った意味で茅場晶彦への怨嗟の声が増えるはずだ。《このクソ運営!》と、主にゲーマー的な意味で。

 

「……ならドロップアイテムのことは?」

 

 クラインの眼光が一層鋭くなる。向き合って話をしているだけだというのに、クラインの鬼気迫る様子からは並々ならぬ思いを感じ取らざるをえなかった。

 はじまりの日の別れから一度も会ってこなかったわけじゃない。特にクライン率いる《風林火山》が攻略組に迫る強さを身に着けてからは同じ狩場でニアミスするようなことも増えた。効率の良いレベリングを求めればどうしたって選択が被ることも多い。人気の狩場を長時間独占するために、皆が寝静まった夜間をレベリング時間に当てていた俺と、昼間は助っ人稼業に忙しいために夜間、睡眠時間を削ってレベル上げの時間に当てるクラインだからこそ余計に会う機会も増えた。顔を合わせたのは大抵深夜か明け方だ。

 だからここ最近、クラインや風林火山の連中が繰り返していた空恐ろしいレベリング現場も見知っていた。人当たりの良い昼間の顔とは打って変わって、何かに突き動かされるように延々とモンスターを狩り続ける彼らの姿に人知れず戦慄し、声をかけるのも戸惑われる様子だった。それでも俺を見かけるたびに声を弾ませて再会を喜んでくれるクラインに、結局俺は何があったのかと聞くことは出来なかった。

 

「小耳に挟む程度には聞いてるよ。プレイヤーを蘇生させることのできるレアアイテムをドロップする、だったか。皆が血眼になって探すのも頷ける話だ。だが――」

「ああ、ボスはともかく蘇生アイテムドロップの信憑性は低い。俺達がただのデータだって言うならともかく、この世界に生きるプレイヤーはれっきとした人間で、生身の身体があっちの世界に残されてるんだ。茅場の宣言が正しければ、一度現実で脳を焼かれた人間をこっちのアイテム一つで蘇生させられるはずがない」

「だからこそ、蘇生アイテムを機能させるためには脳に電流を流す仕掛けそのものが嘘だった、その上でこの世界においてHPがゼロになったプレイヤーをアインクラッドとは違う空間に閉じ込めておく。それくらいの理屈を用意しないととても無理だ」

 

 茅場が嘘をついている。正直その可能性は低いと俺は思っている。多分、クラインだってはじまりの日に告げられた茅場の言葉を疑ってなどいないだろう。それでも嘘であって欲しいのだと、そんな夢想染みた思いを抱かねばならない事態が起きている。そういうことか。

 

「わかってる。俺だってその程度のことは考えた。そんな奇跡みたいなことが起きるはずはねえと思ってるさ。でもよお、それでも俺はそんななけなしの可能性に賭けたい。蜘蛛の糸にだって縋りたいんだよ」

 

 切々と訴えるクラインの姿に胸が痛む。俺はこの手の反応を知っている。誰かを失い、その現実を認めたくないプレイヤーが浮かべる顔にそっくりだ。いや、多分そのものなのだろう。

 俺の知人にだけ不幸が起こらないなんて、そんな都合の良い話なんてないのだ。この世界では誰の未来も保証されず、明日は我が身だと恐怖に震えながら、それでも剣を手に戦わなければならない。不幸は誰にでも訪れるものだと思い知っていた。

 

「《風林火山》の誰かが死んだのか」

 

 お前の仲間が。いつか仲間のために自分一人俺の世話になるわけにはいかないと言った、お前の大切な仲間が。

 

「ああ。ただ、死んだのは風林火山のメンバーなんだが、おめえが知ってるやつじゃねえ。少し前に入団した新入りでな、この世界に来てから知り合った男だ。そいつは俺なんかを兄貴と慕ってついてきてくれたんだよ。俺に恩義があるとか、俺らのギルドの方針に心を打たれたとか色々言ってくれてな。入団した後も精力的にギルドの力になってくれた」

 

 懐かしそうに、そして嬉しそうに話すクラインだった。こいつにとって本当に大切な団員だったのだろう。古い仲間でなくとも人情味厚いこの男のことだから、なにくれとなく世話をしてやったのだと思う。きっと新入りとやらもすぐに風林火山に馴染めたに違いない。

 ……だからこそ、はたしてクラインの味わった悲哀が如何ばかりか、俺には想像すらつかなかった。

 

「フロアボス戦で死んだわけじゃないよな。風林火山はまだボス戦で戦死者を出したことはない」

 

 もっともクラインや風林火山がフロアボス攻略会議に顔を見せるようになったのは最近のことで、フロアボス戦も数えるほどしか経験していないけど。

 俺の疑問にクラインも無言で頷く。

 

「……トラップか?」

「いいや、トラップにやられたわけでも、モンスターに殺されたわけでもない。あいつはプレイヤーに殺られた。PKだ」

 

 ひゅっと息を飲んだ。

 

「間違いないのか?」

「残念ながらな。《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の仕業だ。生き残ったやつらが教えてくれた」

 

 最近とみに名を聞くようになった犯罪者ギルドだ。PKを好んで犯すことから殺人(レッド)ギルドの蔑称で忌み嫌われている。攻略組のプレイヤーでさえ罠にかけられて殺されたという話もあった。改めてやばい連中なのだと背筋に寒気が走る。

 強張った顔でそれでも続きを促すと、なんでもギルドの中から持ち回りで何人かを助っ人として派遣に出していた時のことだったらしい。団長のクラインと副団長がそれぞれ団員を分けて2つのチームとして動いていた時に惨劇は起きた。

 クラインは隊を分けたせいで事件が起きたときにその場にいられなかったことを心底悔いていた。唇を噛み切ってしまうのではないかと心配になるほど固く口を引き結び、仲間を殺された怒りと後悔に震えていたのである。

 

「蘇生アイテムを狙うのはそいつのためってわけだな」

「その通りだ。わずかな希望でしかないことはわかってる。それでも俺は可能性を諦めたくない」

 

 可能性、可能性か。確かに可能性はゼロじゃない。特別イベントで、それも凶悪なフラグボスだと噂されているくらいだ、蘇生アイテムがふかしだというのも考えづらかった。もしかしたらと思いつめるクラインの気持ちもわからないではないんだが……。それでも希望は余りにも儚い。

 難しい顔で黙り込む俺の姿に何を思ったのか、クラインはもう一度辞を低くして協力を頼み込んできた。

 

 《雪の降り積もる聖夜、巨木を標に背教者は現れる》

 

 出現場所についての情報と言ってもその程度のものだ。12月24日の夜0時までにそのイベント場所を特定し、なおかつボスを撃破できるだけの戦力を揃えなければならない。クラインたちのここ最近の病的なレベル上げは、そのための準備だったはずだ。

 

「情報屋には?」

「何人か知り合いを当たったし、新情報が入り次第流してもらう手筈になってる。俺らも時間をやりくりして場所の特定を急いじゃいるんだがな」

「今のところ有力な手がかりはなし、か。それじゃクライン、俺に頼みたいことってのはイベントポイントの絞り込みとボス戦に力を貸すことでいいわけか?」

「ああ、礼は必ずさせてもらう。頼めねえかな」

 

 クラインに知り合いだからという甘えはない。言った以上は言葉通り俺に十分な協力への礼をしようとするだろう。それがレアアイテムになるか、高額なコルになるか、それとも攻略のための戦力を提供することになるのかはわからない。それでも義理堅いクラインのことだから、俺の想定以上の負担を言い出しかねなかった。

 俺のしてきたことを思えば、ここでクラインに二つ返事で協力したとて文句など一つもない。むしろ積極的に協力を約束するところなのだが、それではクラインが納得できないだろう。

 親しき仲にも礼儀あり。顔の割に礼儀に煩かったりするのだ、この男は。

 現実世界での社会人の生活が自然とそういう意識を持たせるのだろうか。学生であった俺とは違い、コミュニティ内でなあなあに済ませることと、外向きにきっちり対応する公私の顔をしっかり使い分けているように見える。

 

「蘇生アイテム以外のドロップ品は俺が貰う。それと情報収集の段階では独自に動くことを認めてくれるなら協力しよう。どうかな、クライン」

「それでOKだ。感謝するぜ、キリト」

 

 結構厳しい条件だったが、それでもクラインは一瞬の停滞もなく俺の申し出を受け入れた。わかってはいたが蘇生アイテム以外は眼中にないらしい。もっとも、件のボスが通常のフロアボスのように複数のアイテムを落とすかどうかはわからない。プレイヤー蘇生を可能にするのならそのアイテムは超絶なレアアイテムだ。値段などつけようがない価値がある。それほどのアイテムなのだから、イベントボス撃破の報酬がそれ一つという事態は十分にありえた。

 そう考えると俺の出した条件では俺自身は何も得ることなく終わる可能性だって十分ありえるわけだが、それ以上の条件を付ける気もなかった。クラインには散々迷惑をかけた負い目もあるし、照れくさくて口には出さないが俺はこいつのことを得難い友人だと思ってる。まあ友人というには少し年が離れてもいるけど。

 そんな友人の苦境なのだ。なんとしても助けてやりたいと思ったって何の不思議もないだろう。条件なんて単なる口実だった。

 そうして俺の日常はクリスマスイブのイベントを見据えて慌しく過ぎていくことになる。

 

 

 

 

 

「なあ、キー坊も例のイベントを追ってるんダロ。何か見つかったのカ」

 

 クリスマスイブの当日。

 第49層主街区ミュージェンにて。

 情報屋を営む《鼠のアルゴ》との会話はそんな言葉を皮切りに始まった。

 

「さてね」

「隠さなくてもいいじゃないカ、オレっちとキー坊の仲ダロ。心配しなくたって情報を売ったりなんてしないヨ」

「情報を商売にする情報屋が言って良い台詞なのか? アルゴのことは信じてるよ。人間としても、情報屋としてもさ」

「ちぇっ、キー坊もすっかり強かになってくれちゃってサ。オネーサンは悲しいヨ」

 

 わざとらしいくらいの、端から騙す気も見受けられない泣き真似だった。

 わかってはいても苦笑が漏れてしまう。アルゴはこうした愚にもつかない戯れを好んで仕掛けてくる女だった。

 

「俺をそういう男にしたのはアルゴだろ。何言ってんだか」

「心外だナ、オネーサンはキー坊を大人にはしたけど、腹黒くなんてしてないヨ。事実無根というやつダ」

「……アルゴ、頼むからその手のことを開けっぴろげに言いふらさないでくれよな。女性には恥じらいってやつが必要だと思うんだ」

「古風だねぇキー坊。サっちゃんのことが気になるのカ? それともアーちゃんかナ? 隠し事はよくないゾ!」

 

 余計なお世話だ、と反論するには俺の分が悪い。些かバツの悪い思いを抱えて唸る俺を、アルゴはチェシャ猫のようなニヤニヤ笑いを浮かべてからかい倒してきた。しかしサチはともかく、なぜそこでアスナの名が出る。どっちかというと疎まれてるんじゃないか。

 いや、アスナ個人とはそれなりに良好な仲だとは思うんだよ。でもな、どうにもその下の連中との関係が良くない。血盟騎士団の団長と副団長以外のギルドメンバーとは反目が強くなるばかりなのだ。最近はそこまで身勝手なことはしてないはずなんだけどな。他のギルドの連中とはそこそこ上手くやってるし。

 そんなわけで、攻略会議の場でアスナは俺と俺を嫌う連中の意見の調整に、てんてこまいになることもしばしばだった。随分と苦労をかけているものだと改めて思う。そうだな、迷惑をかけてる分、感謝と労いを込めてまた食事でも奢ることにしよう。前回は結構喜ばれたし。

 それにしてもアルゴのやつ、俺をとりまく人間関係の妙なんかとっくに承知しているくせに、あえてつついてくるあたり絶対俺をからかいたいだけだろう。根性悪め。

 

「毎度思うんだけど、アルゴの情報ネットワークって結構謎だよな。一体どれだけ伝手があるんだか」

「これでもオレっち凄腕の情報屋さんだからネ。覚えておきなよキー坊、女は秘密を着飾って美しくなるものなのサ。あ、でもサっちゃんたち見てると恋は女を綺麗にするっていうのもわかるから、最近はそっちも信じてるけどナ!」

「からかうな、そしてオチをつけるな」

 

 カラカラと楽しげに笑うアルゴの様子に痛む頭を押さえてうなだれた。

 毎度毎度アルゴのペースに巻き込まれて主導権を持っていかれてしまうのも致し方ないことだと、そう諦めてしまったのはいつのことだったか。それを悔しいとは思わないが、しかし一度くらいはアルゴのやつを好きに振り回してみたいと思うことだってあるのだ。男としての意地というか、なけなしのプライドというか。

 

「心配しなくても夜はキー坊のほうが強いダロ」

「だから、人の目のある往来でそういうこと言うなっての」

「慎み深い女のほうがキー坊の好みカ。だったらオレっち、ちょっと頑張って淑やかな女になってみようかナ」

 

 からかわれている、そして間違いなく遊ばれていた。にゃハハハ、とアルゴの軽やかな笑い声を背中越しに聞きながら、ますます気分は曇り模様に降っていく。雪化粧に包まれたアインクラッドに相応しく、俺の心も切ない曇天模様に突入していた。アルゴには口で勝てる気がしない。

 

「ま、あんまり長話に講じててもしょうがないしナ。頼まれてた情報、送るゾ」

 

 俺をやりこめて満足したのかそれ以上の追撃はなかった。そしてアルゴの声がわずかに緊張を孕んだ固いものになる。声量も心なしか密やかに絞ったもので、振り返らずともアルゴの表情が険しくなっているのがわかった。

 

「なあキー坊、キー坊がどうしてもって頼むから連中を追ったけどサ。こんな危険な依頼、もう持ち込まないでくれヨ」

「ああ、危ない橋を渡らせて悪かった。感謝してる」

「……ぼったくり価格だったのに、それでいいなんて言うしサ。こんな情報どうするつもりダ。オレっち、そんなことをキー坊にさせたかったわけじゃないんだゼ?」

 

 知ってるよ、俺はお前の優しさをよく知ってる。間違っても俺にそんな馬鹿なことをさせようとは思わないだろうさ。

 そうと知っていて、それでも俺は――。

 痛ましげに俺を見やるアルゴの表情をこの目に映さないよう、自然と視線を逸らしていた。そんな俺の頑是無い態度に処置なしと見たのか、アルゴは聞こえよがしの溜息を吐くことで不満と抗議を表したのだった。

 ……これは結構胸に来るものがあるな。すまん、アルゴ。

 

「そう心配するなって、無茶はしないからさ」

「オネーサン、キー坊のその台詞ほど信じられないものはないと思ってるんダ。だから聞きたいのは《生きて帰ってくる》って言葉かナ。約束してくれないなら調べてきた情報はあげないゾ」

「わかってる、昔みたいに命を粗末にしたりしないよ。必ず生きて帰ってくる。――約束する」

 

 ベンチに腰掛けたままの俺は背後を振り向くようなことはしなかった。ただ正面を向いて決意の言葉を告げるだけだ。アルゴが背後から身を乗り出すように俺を覗き込み、観察を続けていたが、お互いじっと無言で相手の言葉を待つ。

 先に沈黙を破ったのはアルゴだった。

 

「こういうとき、男同士なら殴って止められるんだから同性って羨ましいヨ。エギルの旦那とかクラインのお兄さんとかサ。オレっちもキー坊に一発平手打ちでもしてみようかナ?」

「ここ、圏内だから弾かれるだけだぞ」

「この世界はそういうトコが無粋ダ。ま、オレっちの役目はここまで。イブのイベントにはノータッチだったし、今日はもう店じまいにして退散することにするカ。キー坊、一段落したら顔くらいだしなヨ」

「そう思うならホームくらい作れよ。毎回居場所特定するのも骨なんだから」

「四六時中迷宮区に潜ってるキー坊に言われたくなイ。それじゃあナ、キー坊。――良い夜を」

 

 最後にそんな言葉を残し、アルゴは身を翻して街の喧騒のなかに消えていった。その後ろ姿を見送ることなく、雪の降る薄暗い空をぼうっと眺めてしばしの時を過ごす。定まらない焦点は茫洋としていて、立ち上がるのも億劫だった。クラインとの待ち合わせ時間も近い。いつまでもこうしているわけにいかないことは重々承知していたが、今夜は長くなるという漠然とした予感が俺の足を引きとめていた。

 

「良い夜を、か」

 

 碌でもない夜になることがわかっているくせにあんな捨て台詞を残していくあたり、アルゴの根性の悪さは相当だと思う。あいつはどんな思いで辛辣な皮肉を投げかけていったのか。いっそ無造作に言い放たれたせいでその胸奥を探ることも難しい。

 ……嘘だ。あいつが何を思ってるかくらい容易に想像はつく。ただ、俺がそれを見ようとしないだけ、いや、見ていないフリを続けているだけのことだ。そんな俺を察した上で、それ以上踏み込んでこないのがアルゴという女だった。今はそれが有り難い。

 しんしんと雪は降り積もる。

 イベント開始時刻は着々と近づいてきていた。協力を約束しておいて遅刻したんじゃ間抜けにもほどがある。そろそろ意味のない思索の時間は終わりにして、意識を切り替えないといけないだろう。

 

 ――行くか。

 

 外の現実世界でクリスマスシーズンであるように、アインクラッドでも華やかなクリスマス仕様の街並みに変化している。NPCだけでなく、この世界の虜囚となって今なお生き残っているプレイヤーたち、その多くもクリスマスの喧騒に浮かれていた。そんな夜だ。少しでも楽しみたい、つらい日々を忘れて活力を得たいという裏返しなのかもしれない。

懐かしいクリスマスソングすら聞こえてきた。音楽スキルを取ったどこかのプレイヤーが演奏でもしているのだろうか。

 

 《きよしこの夜》。

 

 この世を救うために降り立った神の子もまた眠りの内にあり、目覚めの時を静かに待つ。

 では、果たしてアインクラッドを救う救世主(メシア)の目覚めはいつの日になることか。俺達に笑いかける救世主は現れるのだろうか。

 ふと、そんな益体もない疑問を抱いた。

 

 

 

 

 

 場所の見積もりは出来ていた。

 第35層フィールドダンジョン、通称《迷いの森》。

 鬱蒼と茂った森林地帯を抜けた先に、とある巨大な常緑樹があることはあまり知られていない。この階層が最前線であったころ、森の攻略の最中に俺が見つけた巨大なオブジェクトであり、今夜のイベントを知った時に真っ先に思い至った心当たりの場所だった。発見した当時、見事なモミの木に圧倒され、感嘆したことを今でも覚えている。そして同時に、あのときは何もイベントが起動しなかったことに少しの落胆と後ろ髪引かれる思いも感じていたものだ。なにかある、と思わせる威容だっただけに余計に印象深かった。

 

 今日のイベントを前に幾つか候補地を見て回ったが、ここが最有力候補だと告げる俺の直感が変わることはなかった。場所が場所であるためか、情報屋がばらまいた候補地リストにもこの場所は記載されていなかったのは幸いだ。うまくすれば蘇生アイテムを狙う他のプレイヤーとかち合う事態も避けられるかもしれない。意欲的な各ギルドが先を争うように情報の取得に躍起になっていた姿を知っているだけに、誰にも知られていないのを幸いに情報の秘匿に努めさせてもらったことは許してもらおう。この場所を教えたのは風林火山の中でもクラインだけだ。メンバーにも秘密にするよう頼んでおいたから、クラインも軽々に口を滑らせてはいないだろう。余計な横槍は勘弁願いたかった。

 巨大なモミの木に通じるマップを待ち合わせ場所に指定し、現地集合としたことに大した意味はなかった。攻略組でも異質の俺があまり親しくするとクラインたちに迷惑がかかるかもしれないという懸念と、顔見知りとはいえクライン以外の風林火山の面々とは多くの言葉を交わしたことがないために気後れしたというのが理由だ。一緒に行動するより単独行動のほうが気が楽だった。それにアルゴと接触したことを隠す意味もある。

 

「よう、早いなキリト」

 

 迷いの森を遅滞なく駆け抜けてきたことが功を奏したのか、到着は俺のほうが早かった。その事実に少しだけ驚いたのだが、元々行軍速度なんてものは人数が増えれば増えるほど遅くなるものだ。道中の安全さえ確保できるなら、ソロで動いている俺のほうが森を抜けるのに有利に決まってるか。幸い日付が切り替わるまではもう少し時間もある。のんびりと声をかけてきたクラインに軽く手を挙げて応じた。

 クラインだけでなく風林火山の面々とも再会を叙して、それぞれと挨拶や軽い世間話に講じて時間を潰した。風林火山は気の良い連中の集まりだから、人と距離を置きがちな俺でも息苦しくない。思いのほかリラックスした時間を送れた。

 異変に気づいたのは、武装や回復アイテムの最終チェックを行っていたときのことだ。

 

「なあクライン」

「あん? どうかしたかキリト」

「招かれざるお客さんだ。俺かお前、どっちか知らないが尾けられていたらしい」

 

 それとも自力でこの場所まで辿り着いたのか。身を潜めてこちらから姿を隠しているあたり、尾行の線のほうが強いが、はてさて。

 これでも索敵に関しては自信がある。道中、後方には最大限警戒していたのだから、一人二人ならともかく集団で俺の網を抜けてくることができるとは思えない。だとすると情報源は俺以外だろう。あの巨大オブジェクトの存在を元から知っていたなら俺の索敵範囲の外から近づいてくることだって出来る。

 とはいえ、今回の尾行対象はクラインと風林火山だろうと思う。彼らはここ最近、精力的なレベル上げと情報の確保に走り回っていたから、同じくイベント参加を意図したプレイヤーたちに目をつけられた可能性が大きい。少しばかり悪どい手段だが、情報を持っていると思われるプレイヤーを張る有効性は理解できる。

 それに。

 

「おいおい、こいつら《聖竜連合》の連中じゃないか」

 

 風林火山の一人が驚いたように声をあげる。

 そう、次々と姿を現したプレイヤー団体は血盟騎士団に並ぶ攻略組大手ギルドの一角、ギルド《聖竜連合》の部隊だった。団長の姿が見えないのが救いと言えば救いなのだが、姿を現した人数に思わず舌打ちしてしまう。数人なんてレベルじゃない、森から姿を現した連中は二十人を超える豪華な布陣だった。4パーティー編成で合計24人。これは偵察部隊とかそういう単位じゃないな、一戦を覚悟した戦力が用意されている。確実にフラグボスを狩ってやる、という意気込みが感じられた。

 

 元々聖竜連合は攻略組でも些か強引なギルドとして知られている。レアアイテムのためなら一時的にオレンジになることも辞さないと揶揄されるほど、希少アイテムや人気狩場の確保、イベント独占に豪腕を振るって介入しているのだ。ことフロアボス討伐戦においてはヒースクリフとアスナという二枚看板を揃える血盟騎士団に押さえつけられている形だが、強力な装備の充実や効率の良い狩場でのレベリングに最も力を入れているのは聖竜連合だろう。当然だがそんなマナー違反すれすれの態度を繰り返せば反感も買うのだが、攻略組きっての有力ギルドという立場が彼らの行いを黙認させている。逆に言えば黙認させるだけの実績を誇る精鋭の集まりということだった。

 

 その大手ギルドの連中が数を揃えて尾行なんて手段まで用いた以上、穏便に事を済ませる気はないはずだ、という俺の推測は的外れなものではない。クラインや風林火山の連中も俺と同じ思いを共有しているからこそ一気に臨戦態勢に入ったわけだし。

 そんなクラインたちに触発されたのか、それとも元々そのつもりだったのか、問答の間もなく武器を構え、隊形を整えていく聖竜連合。重武装の戦士が多いせいか、ごつい鎧姿のプレイヤーが一箇所に集まるとそれだけで結構な圧力になる。ボス戦でもなければそう見れることのない戦力の充実ぶりだった。

 しかし、いくら聖竜連合の悪評が先立つとはいえ、風林火山の対応も割かし杜撰なものだと溜息を一つ。いきなりの喧嘩腰じゃまとまるものもまとまらない。それだけ余裕がない証左だろうか。彼らは皆クラインに似て義侠心と情に厚い人情家ばかりだ、蘇生アイテム確保に先走って好戦的になっていたとしてもおかしくない。

 

「おめえら、待てって。敵は聖竜連合じゃねえだろ」

 

 クラインがそんな団員を諌めたのも、普段にないほど頭に血が昇っている仲間を落ち着かせようとしてのことだ。

 

「でもよ団長、あいつらがボス戦に割り込んできたら滅茶苦茶になる」

 

 不本意そうに続けられた「ドロップだって奪われかねない」という言葉は本心からの危惧だったのだろう。表情は険しく、腰の刀に手をかけたままで警戒を緩めようともしない。このままなら遠からず衝突する。それが風林火山の暴発か、それとも聖竜連合から引き金を引くのかはわからないが、激突必至の空気は高まるばかりで沈静化する様子はなかった。

 しかし、感情のままにぶつかり合っても風林火山、聖竜連合、ともに益はない。クラインたちにしてみれば単純な戦力比で劣勢であるし、そもそもこのままぶつかったら双方オレンジ化だ。後々面倒なことにしかならないだろう。

 ……仕方ない、やるか。

 無言のまま会戦の時を待つだけになった戦場のど真ん中、風林火山と聖竜連合の丁度中間目指してゆっくり歩き出す。剣は構えない。そんなことをすれば俺がこの場の均衡を崩してしまう。

 

「キリト?」

 

 背中からクラインの声が聞こえたが今は無視だ。

 

「キリト……? ――貴様、黒の剣士か!」

 

 だいたいこんなところか、と足を止めて聖竜連合と向かい合えば、なぜか憎憎しげな声で怒鳴られた。

 あれ? 俺、聖竜連合に嫌われるようなことしたっけか? 直接敵対行動取ったことなんてなかったはずだけど。

 

「俺のことを知ってるなら話は早い。あんたらも狙いは蘇生アイテムなんだろうけど、悪いな、この先は通行止めだ」

「またか! また貴重なレアアイテムを独占するつもりなのか貴様は!」

 

 ああ、彼らの怒りの原因はそれか。黒の剣士といえば、フロアボスラストアタックボーナス最多獲得プレイヤーだ。そりゃ、レアアイテム収集マニアみたいなところがある連中にしてみれば、俺はとことん気に食わない存在だろう。だからと言って引くつもりもないけどさ。

 

「とんだ言いがかりだな、手に入れたアイテムの大半は市場に流してるんだ。レアドロップ品を独占してるなんて心外だぞ」

 

 というか、聖竜連合にだけは言われたくない台詞だな。あれか、同属嫌悪ってやつか。

 

「……それで、今日は我らの邪魔立てをするというのか。聖竜連合を敵に回す意味がわかっているのか」

「ギルドの名を錦の御旗にするもんじゃねえよ。あんた、それで何かあったとき責任を取れる立場でもないだろう。逆に聞くけどな、あんたらの団長殿は俺を敵に回す気があるのかよ」

 

 これでも攻略組の各ギルドとは感情面で反りが合わなくとも、実務面ではそれなりに協力しあっているのだ。最前線で手に入るアイテムを格安で融通していることだってその協力の一環だった。下っ端レベルではともかく、ギルドの上層部と俺は実利で結びついていると言える。もちろんそれだけで万事都合よく運ぶなどという楽観は抱いていない。しかし多少の抑止力は期待できる。例えば今回のように、問答無用の展開になったりはしない、というような。

 聖竜連合団長が直々にきていなかったのは不幸中の幸いだった。ヒースクリフ、アスナに次ぐ実力の持ち主ということもあるし、基本的に俺とパイプを持っているのは各ギルドの団長副団長クラスだけだ。ここにいる連中ではすぐに俺を敵と断じて攻撃できない。できる立場じゃない。

 

「クライン、悪いが助太刀は無理そうだ。ここは俺が引き受けるから、ボスはお前らだけでなんとかしてくれ」

 

 ひらひらと手を振ってクラインと風林火山を促す。ボスの正確なレベルがわからないのが一抹の不安ではあるものの、そこはクラインたちを信じるとしよう。やばくなったら逃げるだろうしな。それに建前としては35層に出現するボスなんだ、今現在の最前線に鎮座するフロアボスより強力だなんてことはないと思いたい。

 

「いいのか?」

「蘇生アイテムを必要としてるのはクラインたちだろ? ここで立場を逆にしてお前らが納得できるなら俺がボスを狩ってくるけど」

「……違いない。感謝するぜ、キリト。わりぃがあいつらは任せるわ。負けんなよ」

「そっちこそ死んだりすんなよ。ミイラ取りがミイラになっちゃ格好がつかないぜ」

 

 お互いにふてぶてしい笑みと激励を交し合う。

 時間も押していた。それ以上の問答もなくクラインと風林火山はボスの待つであろう隣接マップへと姿を消していく。後のことはクラインと風林火山の実力次第だった。蘇生アイテム獲得に成功するも失敗するも彼ら自身の奮闘が決することになるだろう。

 ……正直なところを言えば、プレイヤー蘇生アイテムが欲しくなかったと言えば嘘になる。クラインに声を掛けられるより前、情報が出回り始めた段階では俺も蘇生アイテム確保に動こうかと悩んでいたのだ。もしドロップアイテムが噂通りに死んでしまった人間を生き返らせることが出来るものだというのなら、あの日、第一層フロアボス討伐戦で俺が命を奪ってしまったプレイヤーを呼び戻したかった。そうすることで俺の罪を消し去ってしまいたかった。そう考えたことを否定しない。

 

 ベータテスターを深く憎み、この世界に絶望し、クリアを諦めて自ら死を選んで消えていったプレイヤーだ。仮に生き返らせたとして、また同じことを繰り返す可能性だってある。誰も、もしかしたら本人さえ望まない蘇生になるかもしれない。だとしても、俺が背負った重い十字架を降ろせるのならそれでいいじゃないか、と身勝手な考えが浮かんだのだ。

 それでも最終的に諦めたのは、クラインのほうがよほど正しい蘇生の使い方をしてくれるだろうという信頼と、いまさら自分の罪をなかったことにしてはいけないという自戒の気持ちだった。生き返らせれば罪も罰も消えて全部チャラ、なんて都合の良いことにはなりはしない。

 だから今、俺はここにいる。

 クラインに協力し、彼の力となって蘇生アイテムを手に入れさせるためにここにいるのだ。

 そのために俺のほうも始めるとしよう。

 

「今日の俺は風林火山との契約優先の身なんでな、あんたらをこの先に通すわけにはいかない。悪いけど蘇生アイテムは諦めてくれ。それに風林火山のほうが先に来てたんだ、先着順でやつらに交戦権を認めてくれたっていいだろう?」

 

 勝手なことを、と俺を罵る声や不満が上がっているようだが、勝手なのはお互い様だ。

 人気狩場の使用時間の規定のような紳士協定がない場合、イベントにしろクエストにしろ優先権は先に到着していたものにこそある。要は早いもの勝ちだ。今回の場合は先に到着していた風林火山にこそ優先権があり、聖竜連合は風林火山が敗北するなりどんな形であれ一戦した後にボスに挑むのが礼儀だった。

 しかし聖竜連合はそういった暗黙の了解を、時に恐喝や脅し文句を駆使して犯罪者一歩手前で破ってしまうところに悪名の所以がある。今夜もそのつもりで部隊を派遣していたのだろう。しかし今回に限っては聖竜連合の好きにさせるわけにはいかなかった。

 

「もちろんあんたらにもメンツってものがあるだろう。邪魔されました、じゃあ帰りますってわけにいかないことくらい俺だって理解してる。だから、ここは一つ俺とあんたらでゲームをしようじゃないか」

 

 聖竜連合は攻略組の有力ギルドのなかでは比較的嫌われてはいるが、だからといってオレンジギルドではない。真っ当なグリーンプレイヤーの集まりであり、攻略に大きく貢献している精鋭ギルドの一つだった。ギルドの活動方針が犯罪や暴力に偏っているはずもない。話の通じない連中というわけではないのだ。

 というか、名より実を取ることに徹底しているギルド長の方針のためか、利さえ示せるのならば聖竜連合は比較的付き合いやすいギルドと言える。ギブアンドテイクの関係が築きやすいギルドなのだ。そういう意味では潔癖な部分がある血盟騎士団よりよほど交渉は持ちかけやすい。

 

 俺にとって重要なのは風林火山が目的を果たすまでこの場を死守し、やつらを通さないこと。そのためには聖竜連合の足止め、すなわち時間稼ぎに徹する必要がある。そこで大事なのは彼らにとっても旨みがある落としどころを提供することだ。彼らは利を示せば乗ってくる。一時的に敵対していようが攻略を目指す仲間であることには変わりないのだ。ここで後先考えずにお互いオレンジになったって攻略を遅らせるだけで何の意味もない。流血沙汰に益はないのだ。

 しかし聖竜連合はここまで来て何もせず引くわけにはいかない。

 俺は彼らを通すわけにはいかないし、彼らが去るまでクラインたちの助けにもいけない。

 この状況を打破するためにはお互いが納得しあえる妥協点を模索するしかない。

 

「ゲームだと?」

「ああ、俺とあんたたちで決闘をする。こっちは俺一人、あんたらは全員の総当り戦だ。ルールは初撃決着モードであくまで一対一、それと対戦は一人一戦のみ。俺への勝ち星一つにつきレアアイテム一つを報酬に出そう。たとえばこの指輪、これだけで敏捷値が20アップする。他にも最近のフロアボス戦で手に入れたものだって幾つもある。どうだ?」

「……我々が負けた場合は?」

「なにも言わずに帰ってくれ」

「ではこちらも貴様同様アイテムを賭ける必要は?」

「ない」

 

 沈黙が降りた。警戒してるな、当然か。

 

「随分我々に有利な条件のようだが?」

「前提としてあんたらは風林火山が戻ってくるまで乱入は禁止、これさえ守ってくれるなら構わないよ。俺の目的はあくまであんたらの足止めだし。それにただ待っているだけじゃ暇だろうと思ってな、順番待ちの余興にどうかと誘ってるんだ」

 

 そういう名目にしておいたほうがお互い得だろうと匂わせる。

 聖竜連合だって意味もなくグレーゾーンの活動方針を取っているわけじゃない。彼らは彼らなりにプレイヤー開放を目指して、最も効率的と信じる攻略を実践しているだけだ。そうでなければ攻略組なんて命の危険が大きい集まりに参加していない。たとえその動機が弱者でいることへの恐怖からのものだろうと否定する必要もないだろう、俺だって似たような理由で自己強化に励んでいたのだから。

 だからと言って自分達の都合を優先しすぎて攻略組の中で完全に孤立してしまうのもまずい。そのあたりの匙加減が聖竜連合団長殿はとても上手かった。多少嫌われてはいても、ギルド方針を攻略組全員に黙認させている現状はまさしく彼の狙い通りといったところか。聖竜連合は軍に比べればよほど強かな立ち回りをしていると言える。

 

「……いいだろう、その条件を飲もう」

 

 幾度か周りの連中と顔を見合わせた後、部隊長らしき男が承諾の返事をした。これで交渉成立だ。

 たとえ全敗しようがやつらにくれてやる分のアイテムはストレージに入っているから問題はない。そしてそれだけの数の決闘をこなしている間にクラインのほうの戦闘は終わるはずだ。落としどころとしてはこんなところだろう。

 ――それに、一戦たりとも負ける気はないしな。

 対戦相手の中にはフロアボス戦に参加している顔もちらほら見える。だが、それだけだ。負けてやる理由にはならない。それに、中には早くも俺から奪うアイテムに意識が向いているのか、口元をだらしなく緩ませているようなお目出度いやつもいる。それほど自分に自信があるのか、それとも俺を過小評価してくれているのか。まあいいさ。油断してくれているならそちらのほうが手っ取り早く勝負がつく。

 

「ああ、それとあんたらが全敗しても敢闘賞として幾つかアイテムはくれてやるよ。手ぶらで帰れなんて言わないから心配しなくていい」

 

 あからさまな俺の挑発に激昂するプレイヤー、無言で俺を睨むプレイヤー、油断なく俺を見据えるプレイヤーと様々な感情模様を披露するなか、嫌われ者のソロプレイヤーと攻略組きっての有力ギルド《聖竜連合》の決闘の火蓋が落とされた。

 

 

 

 

 

 ……流石に疲れた、な。

 決闘を終えて、俺以外に誰一人いなくなった雪の積もる森に力尽きたように座り込んでいる姿は、果たして他人の目にはどう見えているのだろう。俺の心のままに憔悴しているのだと見えるのか、それともこちらの世界に来て以来すっかり慣れてしまったポーカーフェイスから不機嫌と不満を読み取るのだろうか。

 どちらもきっと正しい。疲れてもいたし、不機嫌でもあった。

 この電脳世界では肉体的な疲れというのは存在しない。少なくとも筋肉疲労や呼吸に苦しむような場面にはまだ遭遇したことがない。だというのに身体が鉛のように重く感じることがあるのは、脳神経が疲れに類似した信号を発しているせいなのかもしれない。心が疲れれば身体も疲れる。この世界では現実世界以上に心と身体が深く結びついているのかもしれない。

 当たり前か。今俺達が動かしている身体は言ってみれば偽者、データの集合体だ。コンディション調整もまた単純な数値に規定されているはずだった。少なくとも現実よりは単純な構造をしているのだと思う。

 

 今思えば、ゲーム開始直後にステータス数値の強化を何よりも優先した俺が、不屈の闘志で戦い抜こうと決意を固めていたアスナを内心侮っていたことこそ滑稽なことだったのかもしれない。無論、レベルや装備が不要などと馬鹿なことを言う気はない。数値の差が絶対の差となってプレイヤーを隔てる壁となることを俺はよく知っている。レベルの格差はモンスター戦はもとよりプレイヤー同士の戦いにも絶対の壁となって現れるのだ。それこそ、今夜のように。

 それでも最後の最後で明暗を分けるのは、死にたくない、生きたい、負けてなるものかという意志なのかもしれない。そんなことを最近はよく考えるようになった。

 

 キャラクターレベルとプレイヤー技術の洗練をこそ最重要視してきた俺が、いまさら宗旨替えするというのも皮肉なものだと笑ってしまう。俺がどこかで馬鹿にしてきた人の思いや気持ちこそ何より大切なことだったなんて、本当にいまさらなことだ。この世界に閉じ込められて最初に捨てたくせに、多くの犠牲を払ってまで辿り着いた結論が最初の分かれ道だったなんて、どんなとんちなのだろう。それとも出来の悪い喜劇だろうか。

 だからイベントボス討伐を終えて戻ってきたクラインを目にして、「ああやっぱりか」という感想だけでは済ませられなかったのだと思う。この世界の残酷なルールに対するやるせなさと怒りと憎しみが、抑えきれないマグマのようにどろどろと俺の腹の中でうずまいていた。

 

「……お疲れ。討伐は無事に終わったみたいだな」

「……ああ」

「蘇生アイテムは――駄目だったか」

 

 俺もクラインも半ば予想していたことだ。ゲーム開始時点での茅場の宣言が正しい限り、プレイヤー蘇生の手段など存在しない。今回のイベントはバグだったか、もしくはデスゲーム開始以前に茅場の企みを覆い隠すカムフラージュとして用意され、消され忘れていたイベントの一つなのだろう。そんなわかりきったことを確認するまでもなくお互い承知していて、それでも一縷の望みに賭けて今日を迎えたのだ。

 そしてやはり希望は希望のまま、儚く散ってしまった。言ってみれば最も可能性の高い未来が現実になったに過ぎない。

 クラインは返答の代わりにオブジェクト化されたアイテムを俺に投げて寄越した。

 場に漂う重苦しい空気と、顔をあげられないほど失意の底にある風林火山の面々に痛ましさを覚えながら受け取ったアイテムに目を落とす。

 

 卵ほどの大きさの、七色に輝く美しい宝玉だった。芸術の極みのように人の目と心を引き付けるそれに思わず感嘆の息が漏れてしまいそうになる。これならばプレイヤー蘇生もあるいは、と思わせるほど美しさと怪しい魔力を感じさせる宝石だった。それでも、このアイテムはクラインたちの求めるものではなかったのだ。噂どおりのものならあいつらがこれほど打ちのめされてはいない。

 アイテムのヘルプ機能を参照し、その説明文に強く歯軋りしてしまう。

 《還魂(かんこん)聖晶石(せいしょうせき)》という名のそれは間違いなく蘇生アイテムではあった。死んだプレイヤーを生き返らせる、確かにそういう効果を持っている。

 

 ――ただし、死んでから10秒ほどの間しか効果がない。

 

 その一点がこのアイテムの持つ欠点であり、そしてどうしようもない欠陥品ですらあった。

 正確に言えば死亡エフェクトの光が消え去るまでの間、それが約10秒ということなのだろうが、そんなもの何の慰めにもなりはしない。過去に死んだプレイヤーを生き返らせることが不可能だということを思い知らされるだけのことだ。

 多分、この効果時間はプレイヤー死亡がシステムに判定され、現実のナーヴギアに電流を流されるまでの猶予時間だ。このアイテムはバグの産物でもなければ消し忘れていたアイテムでもない。デスゲームと化したこの世界で、ほんのわずかな救済策として用意された正式なものだ。制限は厳しいが、それでもとんでもない価値のあるアイテムには違いない。

 それでも……。

 それでも――この仕打ちはあんまりだろう、茅場晶彦。

 あんたはこの世界を呪わせるために俺達一万人のプレイヤーを閉じ込めたのかよ?

 

 

 

 

 

 生と死を隔てる絶対の壁に打ちのめされ、ぶつけようのない気持ちを抱いたままクラインたち風林火山の面々とは別れた。

 クラインは俺に還魂の聖晶石を報酬として渡すつもりになっていたが断った。死亡直後にしか使えない蘇生アイテム。死んでしまった風林火山の仲間に使えないと知ったために、それなら聖竜連合を一人で追い返した俺に報酬として渡そうというのが義理人情に厚いクラインらしい。幾つかレアアイテムを連中との取引に渡したと白状してしまったのがまずかったらしい。素直に聖竜連合全員力尽くで追い払ったと言ってしまったほうが良かっただろうか?

 でもな、俺としては血盟騎士団と併せて攻略組二強の一角である最大手ギルドのメンツを丸つぶれにするのもどうかなあ、と思うのだ。あの場にいたのは俺と聖竜連合の連中だけだから、まさか連中が自分達の醜態を自ら言いふらすとは思えないので対外的には何の問題もない。しかし俺と聖竜連合の関係を考えると一方的に敵対かつ決闘で全員叩き伏せたという事実は些かまずい。

 

 俺が気に入らないと言って俺を背中から撃とうとするほど彼らがトチ狂うことはないだろうが、フロアボス戦における協力や攻略情報の交換に支障をきたすようになるのは痛い。どれだけ険悪な関係だろうと、それでも勝利のためなら協力できるだけの最低限の下地だけは残しておくべきだった。最後までソロという攻略スタイルで通用するかどうかわからない以上、それくらいの逃げ道は残しておきたい。

 だから聖竜連合との争いで無難な落とし所として、こちらが譲歩した姿勢を見せることが必要だった。少なくとも対外的には、俺は《レアアイテムと引き換えに聖竜連合に見逃してもらった》という形になるはずだ。それくらいには今日追い払ったやつらも頭がまわるだろうと思うし、やつらから報告を受ければ、聖竜連合団長として俺の思惑くらい読み取った上で如何様にも処理してくれるだろう。

 それに決闘という示威には今日来ていた連中を黙らせることだけでなく、これ以上の譲歩を俺に求めるなら本気で敵対するぞというメッセージもこめられている。口を閉じてれば双方に益があるのだから後々うるさく言ってくる可能性は少ないだろう。不満が残ろうが協力関係は維持できるはずだ。

 その程度には打算があったため、純粋に俺がクラインたちのために献身を捧げたわけではなかった。

 

 還魂の聖晶石についてはクラインが持っていろと説得した。心情的にも俺は受け取りづらかったし、実用的な面からも使い道がなかったからだ。ソロプレイヤーが仲間を蘇生させるアイテムを持っていようが宝の持ち腐れでしかない。「それはお前の仲間が死んじまったときに使ってやれ」と言って納得させた。

 情報と助太刀の報酬に関しては後日改めて交渉しようと持ちかけてその場は解散させた。ボス戦を終えた疲労以上に、仲間を生き返らせることが出来なかった失意と絶望に打ちのめされていたクラインたちを思えば、さっさと休ませるべきだと判断したからだ。それをそのまま口にしたわけではなかったものの、俺の気遣いはクラインにしてみればすぐに察せられるものだったらしい。苦笑して了承していた。

 

 去り際に「お前は死ぬんじゃねえぞ。絶対生き延びろよな」と言い残したクラインの嗚咽混じりの言葉に、何も返せなかったことだけが心残りだ。仲間を失い、蘇生という唯一の蜘蛛の糸を断ち切られた彼らの後姿は等しく小さなものだった。今日のために真っ当なプレイヤーが見れば眉を顰めるような無茶なレベリングを繰り返し、大金をばらまいて情報屋やギルドを走り回って少しでも多くの情報を集めようと奔走した、そうしてようやくボスを倒した。その努力の全てが徒労だったのだ。心身ともに疲れ果てていることだろう。

 それでも仲間を気遣い、俺を気遣い、震える声で生き延びろと訴えてくれたクライン。

 今、俺がしていることは、そんなクラインに対する裏切りだろうか? あいつが知ればやはり怒るだろうか?

 

 そんなことを考え、自嘲に唇を歪めて内心大きな溜息を吐く。多分、その通りだ。クラインだけじゃない、アルゴにだって申し訳ないと思う。俺の考えに最後まで反対していたのだ。それを押し切って強引に協力を頼んでしまったのは俺だ、後で埋め合わせの一つ二つも必要だろうな。そのためには生きて帰らなくてはいけない。決してここで死ぬようなことになってはいけなかった。

 深く長く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。

 見上げれば薄汚れた教会がそびえ立つように鎮座していた。辺境の寂れた村に相応しくない巨大な建物のくせに、やけに周囲に溶け込んでいるのは見ただけでわかる古びた景観のせいだった。今にも崩れ落ちそうな建物はそれだけで不吉な空気を纏い、薄ら寒い気分が背筋を這い上がってくる。……この悪寒はそれだけのはずがないってわかってるのにな。

 

 溜息を一つ。そして覚悟を決めて眼前の扉を開いた。

 重厚な扉が錆びた金属を擦り合わせるような耳障りな音を立て、少しずつ室内の明かりが漏れ出してくる。

 外観に反して建物の内部は小綺麗なものだった。左右には来賓用の白い長椅子が幾つも並び、正面の細い通路を抜けた先には一段高いステージが用意されていた。その先の壁は十字架の装飾で彩られ、壇上の脇にはパイプオルガンも設置されている。

 そう、ここは故あれば愛し合った男女が神の前で夫婦になることを誓い合い、そして祝福される場でもあった。

 あとは神父でもいれば完璧だろう。もしかしたら昼間にでも訪れればNPCとして用意されているのかもしれない。

 しかし今そこにいるのは聖職に就く男などではなかった。断じてそんな上等なものじゃない、それどころかその真逆にいるはずの男。

 

 ギルド《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》団長PoH。

 

 そのユーモラスなプレイヤー名称に反し、途方もない残虐性を秘めた男が眼前に存在していた。

 何の冗談か、PoHのやつはその場で(ひざまず)いて祈りさえ捧げている。神の御許で恭しく頭を垂れ、真摯に両手を組んでいる様は懺悔(ざんげ)でも請うているかのようですらあり、好悪の感情を別にすればその姿は実に堂に入ったものだった。

 だからこそ俺はその一枚絵を目にしたことで吐き気を催し、同時に眩暈がするほどの邪悪を感じ取らずにはいられなかった。こんなにも間違った光景を見たことはなく、これほどに歪んだ信仰があって良いとは到底思えない。日本では馴染みがないものの、宗教、そして信仰の一面は道徳にある。宗教が生活に密着している海外では、《神様が見ていらっしゃるのだから悪いことをしてはいけませんよ》と説法を受けて子供は育つのだ。PoHの振る舞いはそんな信仰の全てに唾を吐きかけているようにしか見えない。

 殺人集団を率いる首魁(しゅかい)が、神の御許で何を祈る……! 何を懺悔する……!

 俺の内から湧き上がるのは言いようもない不快感と堪えきれない怒りだった。衝動的に斬りかかりたくなった俺を止めたのは、なけなしの理性だったのか、それとも背を向ける男から感じる危険なまでの重圧だったのか。

 

「――驚いたな。あんた、敬虔(けいけん)なクリスチャンだったのか?」

 

 俺とPoHの問答は、そんないっそどうでも良い一言から始まった。

 場の静寂を壊すことに躊躇いはなかった。この男にそんな遠慮をする必要なんか認めない。先制攻撃をかけなかっただけ慈悲深いとさえ思う。

 

「現実世界の詮索はマナー違反じゃなかったのか?」

 

 いやに冷静な声が返る、それですら癪に障った。

 このわずかな間に、いっそ斬りかかることが出来たらと幾度思ったことか。

 

「礼儀を語るならまずは自身の行いを(ただ)したらどうだ、殺人(レッド)ギルド団長殿」

 

 俺の皮肉にPoHはくつくつと気味悪い笑い声を零した。そして俺を警戒した素振りもなく無造作に立ち上がり、振り返る。

 長身痩躯の膝上までを覆い隠す艶消しのポンチョに身を包み、目深に伏せられたフードから覗く口元には、世の全てを嘲るような薄ら寒い笑みが浮かんでいた。だらりと下げられた両手には何一つ武器は握られておらず、俺ごとき脅威でも何でもないのだと無言の内に示しているかのようだ。

 気に入らない、この男の何もかもが癪に障る。そのうち、この男が息をすることさえ許せなくなるのだろうか。

 

「こんな辺境の外れまでご苦労なこったな。それとも辺境が黒の剣士殿のホームだったかね、我らが先達殿」

 

 ……嫌味なやつだ。俺の正体を知っていて、俺の事情に通じているくせに、あえてかつての過ちを当てこすってくる。やつの雅かな発声とは裏腹に、その口にする言葉には常に悪意の塊がへばりついているようだった。

 

「労ってくれるのなら素直に監獄につながれてくれないか。そうしてくれれば俺もわざわざあんたの顔を見ずにすむ。このゲームがクリアされるまで大人しくしててくれれば言うことないな。――これ以上無意味にプレイヤーを殺すんじゃねえよ」

「Wow……! 黒の剣士様ともあろうものが随分猛ってるじゃないか、その様子だと目的は仇討ちかい?」

 

 苦い表情で剣の柄に手をかけた俺を見やり、PoHは慌てるでもなく声を弾ませてそう尋ねて来た。こいつ、何が面白いんだ?

 

「さてな」

 

 ぴんと張り詰めた緊張が場を支配し、一触即発の空気となった。今更俺の言葉一つで素直に自首してくれるような相手ではない。ならば力づくでも黒鉄宮の監獄エリアに送り込む。それが出来れば最善なんだが……。

 剣を抜くかどうか、激突の引き金を引くかどうかの判断に迷う俺に、PoHは大仰な仕草で両腕を広げ、芝居がかったような口調で語りだす。その姿は在りし日の茅場晶彦――デスゲームを告げた巨大アバターを想起させる禍々しさを放っていた。

 

「わかってねえな、お前達はなにもわかっちゃいねえよ。プレイヤーを殺すことは、この世界を生きる人間一人ひとりに与えられた神聖不可侵の権利なんだぜ? 俺達はその権利を正しく行使しているにすぎないんだ。まずはそこから理解してもらわないと困るな」

「何を馬鹿なことを」

 

 吐き捨てた声は自分のものかと疑うほど無味乾燥なものだった。怒りも過ぎると感情がフラットになってしまう、そうことなのかもしれない。狂ってる狂ってるとは思っていたが、まさか堂々と殺人を権利などと言い出すとは思わなかった。何を考えて他人にそんな馬鹿な思想を理解させようとしているのか。おぞましいことこの上ない。

 

「馬鹿なことかね? だったらなぜ茅場晶彦はPKを禁止しなかったと思うよ。奴が認めたということは、PKはすなわちこの世界のルールってことだぜ。ルールを守ってこそのゲームだろう、だったらPKもまた許容され得るべきものだ。そうは思わねえか?」

 

 それが世の真理だとばかりに語る男の姿に反吐が出そうだった。

 

「くだらない、茅場を神様に見立てて崇拝でもしてんのかよ。それに法で許された行動なら全てが正しいとでも? それは子供の理屈だろうが」

「逆だ、これは大人の理屈だぜ。守るべき法は守り、許された範囲で可能な限り自由を追及する、まさしく大人の理屈ってやつだ。俺は茅場晶彦を肯定するね。あの男は愚かではあったが、随分とおもしれえ世界を用意してくれた。その点で俺は茅場晶彦を尊敬してるし、感謝だってしてやってるんだ。奴だって俺たちにここまでゲームを楽しんでもらえれば本望だろうよ」

 

 俺は――俺はこんなにも他人を憎むことが出来たんだな。

 この男を許せないと思った。許せるものかと心底思った。

 俺が剣を抜いたのは衝動的なものでしかなかったはずだ。冷たく冴え行く心の赴くまま、刃の切っ先をPoHへと差し伸ばす。真っ直ぐに射抜けと吠えんがごとく。視界が真っ赤に染まりあがる怒りに、伸ばした剣先がわずかたりともぶれなかったのが不思議なくらいだ。

 

「もう一度言ってやる、それは子供の理屈だ。殺人を肯定する道理なんて、現実世界だろうとアインクラッドだろうと存在しない。自分達の愉悦のためだけに悪意と殺意をばらまいて、そのくせ一人涼しい顔をしている、そんな外道が何をもっともらしくほざいてやがる。お前たちみたいな恥知らず連中を生み出したという点で、俺は茅場晶彦を軽蔑し、否定してるんだ」

 

 茅場晶彦は否定されねばならない。

 かつてあの男を尊敬し、あの男の作り出した世界に胸躍らせた一人の人間として、あの男の所業を許してはならなかった。このアインクラッドに強く惹きつけられた俺だからこそ、なおさらに茅場を肯定してはならなかった。そんな俺が殺人を是とするPoHの言い分など認められるはずもない。

 

「平行線だな。通り一遍の正義と道徳ほどつまらないものはねえ。……興醒めだ」

「交わりたくもねえよ。勝手に失望してろ」

 

 この男と会話を重ねる度に胸を満たしていく黒々とした鬱屈を、諸共に吐き捨てるように告げた。

 プレイヤーキラーの過去を持つという意味で、俺とこいつ、そしてこいつの部下連中は同じ穴の狢だ。それは認めよう、しかしそれだけだ。

 俺はプレイヤーを傷つけることに愉悦など覚えない、そしてPKを肯定などしていない。俺達の生きるアインクラッド――剣とモンスターの世界に守るべき法がなかろうと、この世界で犯した罪を現実の法で裁けない可能性があろうと、断じて殺人を肯定なんかしない。してたまるものか。

 問答が無意味ならば、後はお互いの剣にかけて意地を通すしかなかった。結局、この世界の法とは剣そのものなのかもしれない。

 

 《ソードアート・オンライン》。

 

 剣で紡ぐ異世界の物語。

 現実に存在しない法理、現実にありえない倫理が適用される、虚構と本物の狭間を漂う石と鋼鉄の城。アインクラッドという名の巨大な箱庭。

 茅場晶彦はそんな世界を愛したのだろうか。

 己の玩具を自慢するように俺達をこの世界に無理やり閉じ込め、精一杯生きることを強要した。そんな茅場の所業を許せないと思う一方で、俺の心の片隅には常に剣に魅せられた歓喜が存在していた。それがつらい。俺が今ここにいるのは、もしかしたらそんな自分のどうしようもない性根に我慢ならなかったからなのかもしれない。

 

 仇討ちだと、そんなことを大真面目に言えるほど俺は死んでいったやつらに思い入れがなかった。ラフィン・コフィンに殺されたプレイヤーを悼む気持ちはあれど、無念を晴らしてやろうとまでは思わないのだ。死んでいったプレイヤーにしたって、さして親しくもなかった俺に、ラフィン・コフィンの連中を《狩る》名目として勝手に使われるのは業腹というものだろう。

 ならば俺がレッドギルド《ラフィン・コフィン》に敵対するのは義侠心や正義感からのものではない。このゲームを攻略するための障害を取り除く。ただそれだけだ、それだけの理由でしかない。

 プレイヤーの人数を減らされれば当然攻略は遅れ、場合によってはゲームクリアそのものが不可能になる。ラフコフの連中を野放しにしておけば、いつかそんな《最悪》がやってくる可能性がある。だったら戸惑っては駄目だ。誰かが連中の凶行を止めなければならないのなら、それは実力的にも攻略組の誰かということになる。そしてその役目に俺ほど適任なプレイヤーはいなかった。

 

 全プレイヤー中トップクラスのキャラクターレベルと希少スキルを保持し、モンスターを屠るべき剣を同じ人間の血に塗れさせても影響の少ない、攻略に支障の出ないはぐれプレイヤー。それが俺だ。

 血盟騎士団には頼れない。現在の攻略の要たるギルドには綺麗なままでいてもらわねばならないのだ。人望を集めるべきトップギルドに、プレイヤー殺しの十字架を負わせてはならなかった。その十字架は後々の攻略に響く。

 無論、ヒースクリフだけなら遠慮なんてしないのだが、血盟騎士団にはアスナがいる。一途に攻略を主導し、攻略組どころか全プレイヤーを鼓舞しつづける彼女に、悪影響しか残さない重荷を背負わすことなんてできるはずがない。そして、背負わす意味もない。

 

 ……第一、オレンジプレイヤーの台頭に関しては俺にこそ責任がある。

 アインクラッドにおいて最初に確認されたオレンジプレイヤーであり、PKを為したのが俺だ。以後、オレンジプレイヤーの噂は出なかった。犯罪を志向するプレイヤーも俺を通してオレンジの持つデメリットを知っていたが為に自重していたのだろう。

 それが崩れたのはカルマ浄化クエストの発見によってだ。オレンジからグリーンにカーソルを戻すための手段が見つかるのと時同じくして犯罪の報告が急増した。

 とはいえ、初期のオレンジプレイヤーの犯罪は窃盗や詐欺といった悪質ではあっても、命に関わるようなものではなかった。特に軍の連中が取り締まりに力を示していたから、アインクラッドには十分に秩序が保たれていたのだ。第25層において軍の実働戦力が壊滅するまで、軍がアインクラッド最大の影響力を誇っていたのは故ないことではない。アインクラッド最大のギルドと呼ばれるような、ギルドに所属している構成員の多寡だけでその地位を得たわけではなかった、れっきとした実績があったのである。

 しかし当初治安維持に積極的で、かつ攻略にも熱心であった軍が25層の悲劇によってその影響力を一気に削られたことで、もはやオレンジプレイヤーの出現と犯罪内容の悪化に歯止めが効かなくなった。自身の身は自身で守るという意識がより徹底されたのもこの頃のことだろう。

 

 オレンジというタブーをゲーム開始一ヶ月にも満たない早期に破り、さらにその状態からのリカバリー方法を早々に確立させてしまった俺の罪は重かった。もちろん当時はそんなことを考えてはいなかったし、今のような思索を省みる余裕もなかったが――それが過去の罪業から逃げて良い理由にもならないのは明白だ。

 心ならずもオレンジプレイヤーの出現、オレンジギルドの結成、なによりレッドギルドなどというイカレタ連中が生まれる引き金を引いたのが俺だというのなら、その後始末をつけるのも俺であるべきだった。こればかりは他人任せにして知らん振りを決め込むわけにもいかない。そんなことをしてはいけなかった。

 だから俺はここにいる。渋るアルゴに無理を言ってやつらの所在を探ってもらい、ここまできた。

 

 殺人ギルド《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》団長PoH。

 この世界最大のタブーである《仲間殺し》を嬉々として犯す犯罪者集団の親玉。

 レッドギルドは通称だ。なにもキャラクターカーソルが赤く染まるわけではない。それでも犯罪者を示す通常のオレンジと区別してレッドと呼ばれるようになったのは、それだけ一般プレイヤーが彼らを恐れ、憎んでいる証拠だった。

 現在のアインクラッドにおいて功略の希望として君臨している血盟騎士団、特に団長のヒースクリフを指して表のカリスマとするなら、法と倫理の外で誰憚ることなく殺人まで犯す笑う棺桶、特にその団長であるPoHは裏のカリスマとも呼べる男だ。

 後ろ暗いプレイヤー達にとっての悪のカリスマ。

 その圧倒的な存在感に傾倒するプレイヤーは決して少なくはない。ヒースクリフを崇拝するプレイヤーがいるように、PoHを崇拝するプレイヤーだっているのだ。善悪のベクトルの差こそあれ、この二人はまさしくアインクラッドを代表するプレイヤーだった。

 

 故にこそ潰さねばならない。

 PoHらの暗躍を見過ごせばこの先どれほどの被害が生まれるのか見当もつかなかった。

 正義の味方がいないのは現実だろうとアインクラッドだろうと同じだ。罪を裁くなどと傲慢なことは言わない。邪魔だから潰す。許せないから許さない。それだけのことだ。

 最善は誰にも知られることなく、ひっそりとラフィン・コフィンの構成員全員を監獄送りにしてしまうことだった。ラフコフ以外のオレンジプレイヤーの数も少なくなかったが、犯罪者ギルドの筆頭にしてカリスマであるラフコフさえ除ければオレンジの活動は一気に縮小されていくはずなのだ。全員が無理でもせめて頭目であるPoHだけでも抑えることができればかなり違う。

 

 だからこそ――出来ることならば、今日ここで決着をつけておきたかった。

 

 この場で雌雄を決せないやるせなさに深く溜息をつき、抜き放たれた剣の刃を再び背の鞘へと引き戻す。

 俺の胸の内で荒れ狂う激情は秘めなければならない。秘めねば俺の命はなかった。

 あわよくばと思っていたのだ。PoH一人ならば奇襲すればいける、そう思ったことも嘘じゃない。犯罪者集団なのだ、組織内部の仲間意識はそう高くないはずだと踏んでいたし、メンバー同士の連携も強くないだろうと思っていた。しかしそれは俺の楽観に過ぎなかったらしい。

 奴らは強い。それも個としての強さじゃない、一つの組織、一つの集団としての精強さを持ち合わせていた。

 認めたくは無いがこれもPoHのカリスマということか。動かしがたいその事実を呑み込むのは気に入らないこと極まりなかったものの、彼我の戦力分析を誤って破滅するわけにもいかない。アルゴにも釘を刺されているし、クラインとの約束もあった。こんなところで死ぬわけにはいかない。

 

「……何のつもりだ?」

 

 戦意の消えた俺を訝ったのか、PoHが初めてその声に警戒を乗せた。

 ここで俺が退くのは予想外だったか? だがな、面白くないのは俺だって同じだ。叶うならこの場でお前らの脅威を除いておきたかった。戦えるものなら幾らでも剣を抜いていたんだ。

 

「アポなしで訪ねてきた俺をここまで歓迎してくれるとは思わなかった、とでも言えば満足か? ラフコフがそこまで気遣いのできる集まりだとは寡聞にして知らなかったよ」

 

 この建物に入った瞬間から気づいてはいた。

 右手の隅に一人。どういうわけか肉眼では姿が見えないのに索敵スキルの視界には存在している。俺の知らない隠蔽系のスキルかハイディング機能つき装備アイテム、その不可視効果の線が有力だった。厄介なスキルだかアイテムを持ってやがる。

 そして俺の入ってきた扉の影にも反応が一つ。俺の後を尾けてきたのか、いつの間にか反応が出現していた。こいつの尾行に気づいていなかったのは不覚だが、確かにそこに一人いるのだ。

 あるいはここまでなら、俺に剣を抜く選択肢も未だ残っていたのかもしれない。

 しかし――。

 伏兵はその二人だけではなかった。注意深く探ればこの建物を囲むようにさらに複数の気配が迫っている。

 反応が早い、早すぎるくらいだ。ラフコフは決して犯罪者が好き勝手している寄せ集め集団ではなかった。PoHを頂点に徹底した指揮系統が確立されている。今となっては俺が奴らの連携を軽視していたことは明らかだ。恐らく奴らの実力は攻略組に混じっても遜色ないレベルだろう。それほど奴らの動きは的確で無駄がない。

 

「へぇ、黒の剣士殿は鼻だけじゃなく目も良いのか。もったいねえな、攻略組の犬なんかやってねえでもっと自由に生きたらどうだい。俺らは何時でも歓迎してやるぜ、キリトよ?」

「気安く人の名前を呼ぶんじゃねえよ、耳が腐る。それとな、大人を自負するなら好き勝手犯罪を繰り返すだけでなく、自由の責任ってやつも取ってみたらどうだ? 人を無差別に殺して全プレイヤーに迷惑をかけてるんだ、その分だけフロアボスを狩り取るくらいしろよ卑怯者ども。アインクラッドに閉じ込めた茅場に屈して、フロアボスが怖いとモンスターに屈して、次は何に膝を折るんだ? 憂さ晴らしにPKを選ぶなんて格好悪すぎるぜ、あんたら」

 

 俺の挑発にPoHはわずかの反応も見せなかったが、部屋の隅と背後からは殺気が吹き出し、包囲の輪はさらに狭まっていた。

 このまま留まれば、間もなく俺はラフコフ総出で血祭りにあげられることになるのだろう。ここでやつら全員を相手に暴れ回るのも一興だと、死を望んでいた頃の俺なら嘯いていたのかもしれない。しかし今の俺がそんな無謀な真似をできるはずもなかった。クライン、アスナ、アルゴ、サチ。それにエギルやディアベル、黒猫団の連中だって。あいつら全員、ここで俺が無駄死にするようなことを許しはしないだろう。

 戦えないとなればこれ以上この場に留まる意味もない。緊急避難用に常に用意してある転移結晶を取り出し、発動の準備を終えた。

 

「ここまできて尻尾を巻いて逃げるか、無様だな」

「安い挑発どうも。挑発ついでに聞いておけ、これは俺からの忠告だ。これから先、あんたらが性懲りもなく他のプレイヤーを殺すようなことがあれば、その時は俺が刺し違えてもあんたを殺す。そこら中に隠れてるあんた子飼いの連中にも伝えておけ。ゲームクリアまで大人しくしてろってな」

「……覚えておこう」

 

 誠意の欠片もない声だった。そんなもの期待するだけ無駄だとわかっているので気にすることもない。

 

「転移――ミュージェン」

 

 視界の端でようやく姿を現してスローイング・ピックを構える小柄なプレイヤーを尻目に、転移結晶の青白い輝きが俺の身体を包み込む。PoHは身動き一つせず俺の姿をじっと見つめ、俺も奴から目を離すことはなかった。そうして放たれたピックが俺の身を貫く寸前、やつらの前から俺の姿は消えたのだった。

 

 

 

 

 

 第49層主街区ミュージェン。結局ここに戻ってきた。

 夜と朝の境界にある中途半端な時間だ。こんな時間に出歩いている物好きなどまずいない。石造りの街の中、その一角にあるベンチに力なく背を預けた俺以外にプレイヤーの姿はなかった。先日のイブの喧騒も落ち着いたのか、それともクリスマス当日の今日はイブ以上の盛り上がりを見せるようになるのか。そんな想像をしながらも気だるい身体と頭はどうしようもなかった。

 思えばハードな数日間だった。

 ルーチンワークである迷宮区攻略を進める傍ら、特殊クエストボスを見据えたレベル上げに始まり、《背教者ニコラス》出現場所の選定と各ギルドの動きのチェックを済ませ、武装のメンテナンスや強化の最終確認。当日は当日でアルゴと連絡をつけて情報を買い取り、風林火山を先行させるために聖竜連合の一部隊相手に決闘を仕掛けて全員抜き。それが終わるやラフコフに奇襲をかけに突撃だ。もっとも、ラフコフ相手には逃げ帰ってきただけだが。

 

 碌な一日にならない。そんなことはわかっていたが、わかりきっていたが、それでも重い疲労が身体の奥深くまで沈殿し、今にも倒れ伏してしまいそうだった。まさかこんな街中で居眠りをするわけにもいかない、小休止が終われば馴染みの宿に戻らなければならないだろう。しかしそうは言っても今は動ける気がしなかった。指先一つ動かすのも多大な苦労が必要な有様だ。

 疲れた。

 疲れきっていた。

 クラインの憔悴した顔が思いだされる。見ているだけで胸が締め付けられる、そんな悲嘆に暮れた男の背中はとても小さなものだった。

 そしてなにより、悪意と毒しか存在しないPoHを相手にした問答。汚泥の底に溜まるヘドロのような耐え難い腐臭が、俺の身に纏わり付いて離れなかった。

 

「今日見る夢は悪夢だな。……それもとびっきりの」

 

 そして起きた時に安堵するのだろう。まだ俺は生きている、と。

 

「――オレっちが買い取ってやろうカ、その悪夢とやらをサ」

 

 唐突に響き渡った声はどこか怒りを帯びているように聞こえた。気のせいじゃ――ないな。

 視線を移せば目に映るのは小柄な体躯とフードからわずかに覗く金褐色の巻き毛だ。耳に届くのはどこか気怠げに間延びした――けれど安心させてくれるイントーション。そこに立って居たのは情報屋アルゴその人だった。

 昨日の夜、皮肉を残して消えたときの再現とばかりに俺とアルゴの位置は寸分違わぬもので、ここまで容易に接近を許した俺の油断が悪いのか、それとも特殊なスキルや装備アイテムなしにラフコフ以上の隠形を見せるアルゴがすごいのか。そんな疑問の答えを見つける作業も億劫だ。許されるならこのまま倒れてしまいたい。

 

「そいつはいいな。それで、俺はアルゴに何を代償として渡せばいいんだ?」

 

 産業廃棄物の処理に手数料は必須だろう。

 そんな俺の言葉を聞いたアルゴは悪役顔負けの笑みを作るや否や、わざとらしく思案の仕草をして見せるのだった。

 

「オレっちとキー坊の仲だし、代金は勉強しといてあげるヨ。そうだナ、ちょっとだけオレっちに付き合ってくれればいいサ」

「……勘弁してくれ、今の俺にアルゴをエスコートする余裕は残ってないぞ」

「あんまりオネーサンを見くびらないでほしいナ、そんな事とっくに承知してるヨ。だからサ、今日はキー坊がオレっちの抱き枕になるだけで許してあげようって言ってるんダ。ふふん、オネーサンは優しいダロ?」

「――そうだな。確かにアルゴは優しいよ。優しすぎて……涙が出そうだ」

 

 アインクラッドでは感情表現があからさまなほど顔に出やすい。赤面しかり涙しかり感激しかり。それを隠すのも容易ではないが、今だけは隠す必要もないのかもしれない。アルゴ相手に強がっても仕方なかった。それでも男として簡単に泣き顔を見せてやる気なんかなかったけど。

 

「ホントはオレっちじゃなくて、サっちゃんにキー坊を迎えにいってもらおうと思ってたんだヨ。今のキー坊にはサっちゃんのほうが適役だろうってサ。時間が時間だから気が引けて、結局声をかけそびれちまったケド」

「いや、アルゴで助かったよ。サチには俺の弱いところをあまり見せたくないから」

 

 いくら以前より前向きになったとは言え、サチがこの世界に向かないのは瞭然のことなのだ。俺のことなんかで要らない負担をかけたくない。

 

「サッちゃんなら心配いらないと思うけどナ。それにもうちょっと頼ってあげたほうがあの子も喜ぶゾ?」

「俺が気にするんだよ」

「……キー坊の、意地っぱり」

 

 憮然とした表情を浮かべる俺の耳元で、そっとアルゴが囁いた。彼女の台詞は俺の頑迷さを咎めているはずなのに、響きそのものはどこか甘やかなものを秘めていて――この世界では感じ取れないはずの吐息がひどくこそばゆい。

 

「悪かったな、意地の一つも張れないような男にはなりたくないんだ」

「にゃハハハ、オネーサン的にはキー坊のそういう可愛いトコもポイント高いけどナ。とはいえ、オレっちに対する気遣いが感じられないのは減点だゼ? 女の子はもっと繊細に扱わないと駄目だって教えてやったダロ」

「気遣いって言っても、俺が本当は情けなくて弱いやつなんだってことくらい、アルゴには今更なことだろ。俺もお前も遠慮なんてしないしさせない、俺達の関係はそれでいいと思ってるんだ。駄目だったか?」

「ま、勝手なのはお互い様だものナ」

「そういうこと。行こうか」

 

 そんなアルゴとの何気ないやりとりがたまらなく嬉しかった。お互い承知していることを改めて口に出すのは、結局のところ言葉遊びでしかない。けれど彼女と交わすそんな言葉遊びの一つ一つがとても心地よくて――。

 悪戯好きで、意地が悪くて、皮肉屋の少女。そのくせ言動の端々に気配りを潜ませる、それが《鼠のアルゴ》だった。

 いつの間にか立ち上がることも苦ではなくなっていた。その事実を苦笑一つで飲み込み、二人連れ立って無言で歩を進めていく。

 女の子にちょっと優しくされるとすぐに立ち直ってしまう、きっとそんな俺はこの上なく安っぽい男なのだろう。それでもいいかと思ってしまうのは、さて、良いことなのか悪いことなのか。

 男女の機微を知るには俺はまだまだ子供なのかもしれない。だからこそ少しくらい背伸びしても構わないだろうと思う。いつだって飄々とした態度を崩さないアルゴが、これほど無防備な好意を示してくれているのだから否やはない。

 今はただ、アルゴの優しさに感謝を捧げていたかった。

 

 

 

 クリスマスイブから一夜明けて今日はクリスマス当日。

 アインクラッドに救世主は未だ現れない。

 それでも俺は、俺たちは今日も生きている。生きていけるのだ。

 このゲームがクリアされる日を夢見て、自身を、仲間を叱咤激励しながら剣を握る日々を送っている。

 死を強制されたゲームが開始されてから一年と二ヶ月。

 遥か遠くの雲海の隙間から光が差し込み、ゆっくりと明けていく空を(かざ)した手の向こうに捉える。

 そうして、アインクラッドの朝を告げる陽光は、今日も変わることなく俺達の前に姿を現したのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第07話 生贄の竜巫女 (1)

 

 

 アインクラッドで迎える二度目の新年が明けて、早くも一ヶ月が経ってしまいました。

 最近はようやく浮き立った雰囲気も過ぎ去って、元のアインクラッド『らしい』空気が戻ってきていますけど、それが喜ぶべきことなのかどうかはあたしにはわかりません。少し前には現実世界でのお正月に合わせてアインクラッドでも年明けのお祭り騒ぎもありました。ただ、アインクラッドに和風な建物やイベントはほとんどないので、とにかく節目を祝おうというそれくらいの意味合いしかなかったりします。

 あたしたちのような中層階層に生きるプレイヤーにとっては、こうした娯楽行事は割と身近なものです。脱出不可能なデスゲームに参加させられているつらい現実を忘れよう、そんな気持ちが後押しするのか、システムが発生させるイベントとは別に、有志の皆さんによって企画・運営されるお遊びも少なくありません。あたしも楽しませてもらってますから不謹慎だとかは言えませんけど、時々いいのかなぁ、という気分にはなりますね。

 

 そんな不真面目なあたしたちを横目に、攻略組の方々の奮闘は目覚ましいものがあります。

 現在のアインクラッドの最前線は第58層。

 第一層攻略にゲーム開始から一ヶ月近い時間がかかったことを考えると驚きの攻略速度です。

 その原動力となっているのが攻略組と呼ばれる高レベルプレイヤーさん達。中でも最強ギルドの誉れ高い血盟騎士団の勇戦は、数ある有力ギルドの活躍を霞ませるほどだと伝え聞いています。頭一つ飛び抜けた戦力を保有しているのだと。

 

 誰もが最強ギルドと聞いて真っ先に名を挙げる血盟騎士団。

 その血盟騎士団を率いる団長さんと副団長さんの姿をあたしは直接見たことはありません。ですがどんな外見をしていてどんな戦い方をするのかと言えば、結構知っていたりするのです。それこそ頻繁に新聞記事に紹介されますし、時にはその記事にレトロな白黒写真みたいな形で掲載されることもありました。あまり大きな声では言えませんが、知り合いの方からは本人非公式で記録結晶による鮮明な動画が出回っているらしいと聞いたことがあります。特に副団長のアスナさんはとても綺麗な女の人で、その姿を記録した結晶はかなりの高額で取引されているとか。……なんだか闇取引みたいで怖いです。

 そんなあたしの感想はともかく、血盟騎士団の顔とも言えるこのお二人の名は非常に有名です。

 

 血盟騎士団団長《聖騎士》ヒースクリフさん。

 血盟騎士団副団長《閃光》アスナさん。

 中層階層を拠点にするあたしのようなプレイヤーでも頻繁に耳にするのですから相当なものですよね。

 ですが今日の攻略組の躍進にはもう一人、異色のソロプレイヤーの存在があるらしいのです。

 らしい、などとあやふやなのは、その情報がほとんど伝わってこないから。攻略組の人達にとっては超有名人らしいのですが、なぜか皆さんその人のことだけは頑なに口を閉じて沈黙を守っているそうです。畏れ多いとか、口にしたくないとか、軽々しく話せないとか。いえ、私も又聞きですから確かなことはわからないんですけど。

 

 ただこの人、キャラクターネームはわかりませんけど色々な呼び方をされているみたいです。名前の代わりとして好き勝手に代名詞がつけられちゃってる感じ。ソロで役職がないせいか、誰かが悪意を持ってキャラクターネーム以外の呼び方を、それはもう面白おかしく浸透させようとした結果なのかもしれません。噂ばかりが先行しているせいもあるんでしょうけど。

 はじまりの剣士、黒の剣士、ビーター、黒尽くめ先生、対ボス決戦兵器、オレンジ野郎etc。なんだか悪乗りが過ぎて敬意と悪意とやっかみがふんだんに込められてそうな呼び名ですよね。どれが本当でどれが嘘なのやらわかりません。

 わからないと言えばその人に纏わるとんでも逸話もたくさんあります。

 何度もソロでフロアボスを撃破しただとか、盾なし片手剣スタイルのくせに盾持ち重戦士よりも硬いだとか、実はアインクラッド一のお金持ちなんていうものまで。果てには聖竜連合相手に決闘を仕掛けて100人抜きしたとかいう話までありました。聖竜連合は血盟騎士団には一歩及ばないものの、やっぱり攻略組きっての大手ギルドの一つですから、その団員さん相手に100人抜きとか誇張もいいところだと思うんですけどね。この人、都市伝説か何かじゃないんですか? そんなふうに思ったこともあります。

 

 とはいえ、実在のプレイヤーであることは間違いなさそうです。

 最も鮮烈な活躍を見せたのは、昨年11月に行われた第50層フロアボス戦でのことでした。

 この戦いは第25層における軍――アインクラッド解放軍の崩壊以来の大苦戦だったそうです。このことから25層ごとに凶悪なボスが控えているのだ、というかねてからの推測が第50層の惨状で確信となって、以後クォーターポイントと正式に表するようになったそうです。次のクォーターポイントである第75層への警戒が嫌でも高くならざるをえない、そういうことでした。

 そんな凶悪なボスが控えていた第50層。全100層のアインクラッドにおいてようやく迎えた折り返し地点に攻略組の士気も高かったと聞きます。しかしその攻略組の最精鋭を持ってしても戦線は崩壊し、血盟騎士団や聖竜連合からでさえ死者を出した悲惨な戦いとなってしまいました。次々に前衛が離脱していき、ついには討伐失敗かと諦めかけたとき、二人のプレイヤーが圧倒的な力を発揮してボスを押し止め、討伐隊の崩壊を防いだそうです。

 

 その内の一人は血盟騎士団団長さん。かねてから攻守最優と囁かれていたエクストラスキル《神聖剣》の特性を存分に生かし、ただの一度も後退することなく最後まで戦線を支え続けたらしいです。一度は崩壊しかけた討伐隊を立て直す時間を稼ぐだけでなく、タゲを引き受けるべき壁役の前衛重戦士がほとんど離脱してしまったために、討伐隊が息を吹き返した後も一人でその役目をボス撃破の瞬間まで担い続けたというのですからすごいです。

 それにこの人、《ヒースクリフにイエローなし》という格言が作られるくらい信じがたい実力の持ち主らしいです。なんでも今に至るまで血盟騎士団団長さんのHPが注意域(イエローゾーン)に陥ったところを見たことがある人はいないとか。攻略組が全滅しかねない戦場でもそれだけ余裕を保ち続けられるのですから信じられません。

 

 そしてもう一人が都市伝説もといソロプレイヤーである黒の剣士さんです。その人も討伐隊が半ば崩壊する中、血盟騎士団団長さんと同じく最後まで前衛に立ち続けたとのことでした。もちろんイエローゾーンを割らずにというわけにはいかず、最後は危険域(レッドゾーン)に瀕してなお戦い続けたと聞いています。正直、それを聞いてすごいと思うより先に怖いと感じたくらい……。

 フロアボス戦では注意域に陥っても転移結晶を使った即時撤退は可能ならば控えて、前衛と後衛の入れ替えによってなんとか回復時間を取ることで全体の戦力が半減しないように戦線復帰を目指すのだと聞きます。もちろん強制ではなく自己責任ではあるみたいですけど……。それでも、HPがイエローゾーンに陥るようならば転移結晶によってすぐに逃げることは推奨されているはずでした。というか義務付けられています。ですからレッドゾーンのHPでも構わず前線に立って戦い続けるというのは間違いなく普通じゃありません。周りの人も何故止めないのかと疑問に思いますし、このプレイヤーさん本人は死ぬことが恐ろしくないのでしょうか? あたしには到底理解できない戦い方です。

 それが、攻略組プレイヤーとあたしたち中層プレイヤーの意識の差、なのでしょうか? 攻略組の戦い方を聞く限り、そんなはずはないと思うのですけど。むしろ第50層で見せた黒の剣士さんの決死の戦いぶりは攻略組でも異色であるように見えます。

 

 けれどそんな命を投げ捨てるような危うい戦いぶりはあまり大きく取り沙汰されていません。むしろ意図的に無視されているんじゃと思ってしまうほど、その戦い方に疑問を向ける人はいないみたいです。それも仕方ないのかもしれませんね、なにせ黒の剣士さんが示したのはそんな無謀と紙一重な泥臭さではなく、鮮烈な新スキルのお目見えだったのですから。皆をなにより驚かせたのは、その黒の剣士さんが新発見のエクストラスキル《二刀流》を操って見せたことでした。

 右手と左手それぞれに片手直剣を一本ずつ装備できるようになるスキル。その効果は単純に攻撃の手数が倍になるだけではなく、二刀流に対応するソードスキルの威力が飛びぬけて高いらしく、防御を省みずにソードスキルを連発することで第50層フロアボスのHPを半分近く一人で削ってみせたとのことでした。偉業、と称すに相応しい活躍です。

 

 この二刀流スキル、一応エクストラスキル分類とされていますが、血盟騎士団団長さんの神聖剣と同様、ただ一人にしか発現されないユニークスキルなんじゃないかって言われています。《神聖剣》も《二刀流》もいまだに二人目の使い手が現れていません。

 このスキルの使い手――黒の剣士さんはとにかく神出鬼没で、情報屋の皆さんが追いかけてもなかなか捕まえられないそうです。だから普段から噂ばかりでプレイヤー本人の実態がほとんど聞こえてきません。ですがこの時ばかりは説明の必要性を感じたのか、情報屋でも名の知れた《鼠のアルゴ》さんが取材する形で二刀流スキルの存在がセンセーショナルに公表されました。

 それによると黒の剣士さんが二刀流を獲得したのは昨年の10月。ハーフポイントの戦いからおよそ一月前のことでした。

 第50層フロアボス攻略戦以前に二刀流スキルの存在が知られていなかったのは、スキル獲得フラグが定かでなく、スキルの全容も不明なのでとにかく熟練度上げとスキル詳細の解明を優先した結果だそうです。

 

 もう少し詳しく言うなら、50層フロアボス戦開始時点ではスキル獲得から時間が足らず、実戦に使うには経験に乏しかったことから従来の戦闘スタイルで挑んだとのことでした。下手に装備を変えて慣れないスタイルに変更すると生存率が落ちるために二刀流スキルを操ることに躊躇したらしいです。

 二刀流スキルを獲得してからしばらくは経験値効率を落としてスキル熟練度を上げることを優先し、碌に街に戻らず二刀を使うスタイルを慣らし続け、それに伴い最低限使える熟練度レベルを確保できたのがたまたま50層フロアボス戦直前だったに過ぎなかった、などなど。

 とにかくたくさんの理由が列挙されていました。……そもそも一月という短い期間でフロアボス戦に通用するくらいの熟練度を確保すること自体、あたしには信じ難いことだったりするのですけど。《黒の剣士は24時間休むことなく迷宮区で戦い続けている》という都市伝説まで信じてしまいそうです。いくらなんでも、とは思いますけどね。

 

 そんなわけで、別に二刀流スキルの存在を意識して隠していたつもりもなかったらしいです。ただ、元々神出鬼没と言われるくらい行動範囲が広く、はじまりの街から一貫してソロ活動だったために黒の剣士が二刀流スタイルで戦う場面が目撃されなかっただけだろう、とはアルゴ記者の追記でした。

 黒の剣士さんの常軌を逸した攻略熱意は割と噂で聞きますから、皆さんもアルゴさんの解説を読んでさもありなんと納得していました。なんといっても黒の剣士さんは迷宮区がホームとか冗談混じりに言われてるくらいですし。

 

 最強のギルドはと聞かれれば皆が血盟騎士団だと答えます。

 でも最強のプレイヤーは誰かと問われれば迷う人が大半。

 血盟騎士団団長さんの《神聖剣》。

 黒の剣士さんの《二刀流》。

 二人ともにアインクラッドで最高クラスのレベルを誇っていると予想され、どちらも非常に強力なスキル保持者でもありました。戦えばどちらが勝つのか、どちらがより最強の称号に相応しいのかという想像は、あたし達中層プレイヤーの多くが抱いている疑問であり、そして娯楽の種でもあったのです。所詮は雲の上の人達の話。でも、だからこそ話の種には最適な話題なのでした。

 

 《最強の剣士は誰だ!?》

 

 そんな見出しで始まる新聞記事にもう一度目を落として、思わず苦笑が漏れてしまいます。新聞の内容自体は噂話を主体にしたゴシップ記事がせいぜいのもので、個人的には硬い論調で事実と裏づけを重視するアルゴさん発行の新聞記事のほうが好きなのですけどね。ただ、アルゴさん名義の新聞は不定期発行で目にする機会も多くありません。

 だから普段はこんな毒にも薬にもならない、あえて言えば現実でのゴシップ週刊誌のような記事にも頻繁に目を通すのですけど、発行者が中層で生活するプレイヤーの新聞はとにかくエンターティナメント重視の姿勢で最近は食傷気味なのでした。

 でもまあ、それも含めて良くも悪くも中層階層の特色なのだと思います。

 最前線を戦う攻略組は常に緊張感に包まれ、毎日の迷宮攻略に忙しいと言うし、逆にはじまりの街を中心とした軍の影響が強い下層では、秩序を守るべき軍の横暴が目立ってとても生活しづらい環境だと聞きます。だったらそこそこに楽しく毎日を過ごせて生活にも心配がない中層での暮らしは悪くないのではないか、そんなふうに思いもします。

 攻略組の皆さんに危ないことを全部任せっきりというのも本当は良くないことなのでしょうけど……。

 

 

 

 それでも、ここには私の大切なお友達がいる。

 この子と一緒ならこれからも頑張っていけると心から思うことが出来る家族が。

 

 

 

 タン、と勢いよくキーボードを叩き、次いで大きく伸びをする。日記をつけるのもここまで、と意識を切り替えることにした。

 フリーのルポライターであるお父さんの面影を探して、こうして暇を見つけては何かしらの記録をつけるようになったのは何時のことだったろう。別に文章を書くことにこだわったわけじゃない。ただ、古いパソコンのキーボードを軽やかに叩くお父さんの背中を思い出して、気がつけばホロキーボードを呼び出していたことは覚えている。少しだけ気難しい顔をして、でも真剣な目で仕事に取り組むお父さんの姿を見るのがあたしは大好きだった。

 そのお父さんはこの世界にいなくて、昔は家族恋しさにすすり泣いた夜もあったけれど、それでもあたしはどうにかこうにか生きてきた。それもこれもこの世界で出会った小さな家族のおかげだ。

 

「頑張ろうね、ピナ」

 

 あたしに急に呼びかけられたピナ――小竜のフェザーリドラがわずかに首をかしげ、それから「きゅる?」と一声鳴いてあたしの肩に止まり、そのまま毛繕いを始めてしまった。その仕草が実家で飼っていた猫のピナを連想させて、思わず笑みが漏れてしまう。大丈夫、この子がいればあたしはこの残酷な世界でも前を向いていられる。モンスターとも怖がらずに戦える。

 《竜使い》シリカとその相棒のピナ。

 血盟騎士団の団長さんや副団長さん、顔も知らない黒の剣士さんほど有名人ではないけれど、それでも中層プレイヤーの間では割と知られた名前だ。決まったギルドやパーティーに入らずとも、たくさんの人たちに誘ってもらえるから狩りに出るときに困ることもない。その事実に密やかに自尊心を満たしながら、今日も一日頑張ろうと小さな手を握って気合を入れなおす。

 ピナがもう一声鳴く姿に頬を緩めながら、足取りも軽やかに宿を後にした。

 

 

 

 

 

 ――今日も外れか。

 第三十五層主街区ミーシェの転移門前で軽く息をつく。

 調査開始から数日。一向に進展がないことにそろそろ苛立ち始めていた。わざわざ中層階に下りてまで自分の手で解決してやると息巻いたまではよかったのだが、肝心の調査相手が何時まで経っても馬脚を表さない。やはりアルゴに任せたほうがよかったかと愚痴を漏らしそうになって慌ててこらえた。

 元々自分が請け負った依頼である。いくらアルゴの得意分野とはいえ、彼女に丸投げしてしまうのは余りに無責任なことだった。調査対象の仮宿を割り出してもらっただけでも十分すぎるのだし、これ以上甘えるわけにもいかない。

 

 なにより最悪の事態になった場合に戦闘を本分にしていないアルゴでは少々厄介なことになる。まあ本人曰くの逃げ足特化の領分が本領発揮されるだけかもしれないが、戦闘適正はアルゴより俺のほうがずっと上だ。そういう意味では俺が出ることが望ましい……のだが、どうも俺には捜査に対する忍耐力が些かならずとも不足していたらしい。進展のない現状に容易く苛立ちと焦りを抱えてしまう俺に刑事とか探偵は向いてない。

 加えて、今の俺は端から見れば最前線からも離れて寄り道している身であることも問題だ。早いところ片付けて戻らないと、またぞろヒースクリフあたりから帰還要請が出されかねない。いや、その前にアスナから文句と説教を貰いそうだ。既に何日か無駄にしているのだし、猶予は少ない。

 かと言って俺のほうから能動的に仕掛ける手段もない以上、現状維持に努めるしかないことに変わりはないわけだけど。

 どうしたものかと嘆きながら歩いていると、夜の帳が下り始めた街の一角で、肥満体の男と痩せぎすの男の二人組みが何やら深刻な様子で話し合っている姿が目に映る。はて、どこかで見たことがあるような二人組だ。いったいどこで見かけたのだったか。

 

「ロザリアさんの話だとシリカちゃん一人で迷いの森に残ったって……」

「やっぱり探しにいったほうが……」

 

 今日は調査を打ち切って攻略に戻るかどうかを考えながら通り過ぎようとして、途切れ途切れに聞こえてきた会話に気になるキャラクターネームが出てきたことで足を止めた。ロザリア? シリカ?

 ……どういうことだ。迷いの森はその性質上、プレイヤーの捕捉がひどく困難だ。もちろん捕捉さえできれば人目にもつかないというメリットはあるが、一度目を離せば見つけることも難しい。それ故、狙いは《竜使い》以外のパーティーメンバーだと踏んだわけだが……俺の失態か?

 違う。そんなことよりも今は優先させなきゃならないことがあるはずだ。思い悩むのはそれからでいい。

 

「ちょっといいか。聞きたいことがあるんだけど」

 

 見覚えはあるはずなのに思い出せない太っちょとのっぽの二人組に声をかけると、何故か二人は俺を見て驚愕に顔を引きつかせていた。……失礼な反応だな、そんなに驚かれるような顔か? 多少軟弱な女顔だがそれだけのはずだぞ。

 

「あ、あ、あんた、なんでこんなとこに……」

 

 なんだこの反応? この大袈裟な驚き方はもしかして俺のことを知ってるせいか。ああ、俺の悪名を知ってればそりゃあ驚くか。しかし彼らには悪いが、俺の色々込み入った事情の説明にただでさえ残り少ない時間を浪費する気もない。さっさと用件を済ませてしまおう。

 

「俺のことはとりあえず置いておいてくれ。で、もしかして今話してた、まだ帰ってきてないシリカっていうのは《竜使い》のシリカで間違いないか? 今日ロザリアと一緒に狩りに行っていたっていう?」

「あ、ああ、そのシリカちゃんで合ってるよ。それよりなんであんたがそんなことを?」

 

 疑惑の視線を向けてくる二人を右手で抑えるように話を打ち切る。ぞんざいな対応だが許してもらおう。それにそれだけ聞ければ十分だ。

 しかしまずいな。あれから結構な時間が経ってる。迷いの森に出現するモンスターはパワー型の物理主体で対処も難しくないが、竜使い一人だと多少てこずるかもしれない。それに加えて迷いの森の特性。文字通り迷って脱出できなくなったか? だとすればすでに死んでしまった可能性も高いが……。

 いや、それでも探すべきだろうな。あそこで保護しておけば何の問題もなかった。それを調査を優先したがために結果的に見捨てる形になってしまったのだから、彼女が今危険な目に遭っているのなら俺にも少なからず責任がある。

 不幸中の幸いだが迷いの森に関してはマップ情報も頭に入っているため、竜使いの足取りもある程度は効率的に追える。少し前のクリスマスイベントで背教者ニコラスの出現場所を割り出す過程でかなり走り回ったためだ、今から情報を収集する必要もない。生きてさえいればそう時を置かずに見つけ出すことができるはずだ。

 

 太っちょとのっぽの二人組を置き去りに一気に街を駆け抜け、辿り着いた迷いの森マップで索敵スキルを駆使し、刻一刻と高まる不安を押し殺して縦横無尽に走り回った。長時間同一マップに留まっていると、この迷いの森特有の位置情報かく乱を目的としたトラップに嵌ってしまう。竜使いが帰れなくなったのも慣れないソロとトラップに消耗したせいだろう。

 このマップに限っては転移結晶ですぐに街まで帰還という手段も使えない。結晶無効化空間ではないのだが、転移制限のトラップが森の大半を覆っているせいでランダムワープになってしまうのだ。緊急避難にはなるが、元々転移結晶は数が少なく幾つもストレージに常備しておけるものではないため、一時的な撤退のために結晶を使っていたらすぐに手持ちが切れてしまう。

 だからこそ、ここを狩り場にするプレイヤーは中層でも腕に自信のある戦い慣れた連中が主体だ。35層という中層にしては経験値やコルの効率も良いし、なにより希少な結晶類がドロップアイテムとして期待できる。それ故に危険を避ける中層プレイヤーでも例外的に人気の高い狩場の一つだった。逆に言えば、準備なしでは中層プレイヤーにとって鬼門になりえる場所でもある。

 

 どうにか間に合ってくれよ……。

 そんな俺の必死の願いは半分天に届き、ドランクエイプの集団に襲われていた竜使いの救出に間一髪間に合うことが出来た。

 そして届かなかった半分の願いのために、竜使いを竜使い足らしめていた小竜の使い魔モンスターがその身を散らして一枚の羽に変じていた。竜使いの手にする水色の大きな羽は、使い魔モンスターが死んだ時に残す形見アイテムの一種だ。

 巨大な類人猿のようなドランクエイプがその手に握る棍棒を振りかぶっても、竜使いはその場にうずくまったまま動こうとはしなかった。

 竜使いもモンスターに攻撃されようとしていたことに気づいていなかったはずがない。そのままなら使い魔モンスターのみならず自分自身の命を散らしたことも理解しているはずだ。それでも逃げることさえ忘れて小竜の死を嘆き、その形見の羽を抱いてうずくまり、大きな瞳を泣き濡らしていた。その光景はどれだけ彼女にとってその小竜――この世界にしか存在できないデータの集合体が大切な存在であったかを知らしめていたのだった。

 

「……ごめん、君だけしか助けられなかった」

 

 あの時、彼女に冠せられた《竜使い》の異名と、自ら袂を別った彼女の様子から、ソロになっても森を抜けて無事に街まで戻れる自信があるのだろうと楽観さえしなければ。

 調査を開始して以来ずっと大人しくしていた対象が、ついに動き出したのだとそちらを優先したりしなければ。

 今、目の前で悲嘆に暮れる女の子の涙はなかったはずなのだ。そのことに苦い思いが込みあがる。

 だからと言って彼女と一緒に落ち込んでいても仕方ない。

 漏れそうになるため息を押し殺し、改めて竜使いを見やると予想以上に小さな女の子だった。

 中学生どころか小学生と見紛うほど小柄な体躯。しかし二房に分けた髪型が生来の活発さを示すように似合っていた。装備は中層プレイヤーとしてはオーソドックスな敏捷タイプの軽レザーを着込み、手数と取り回しの良さに定評のある短剣が主武装だ。話に聞く《竜使い》の活動を考えるとレベルもそこそこなのだろう。少なくともパーティーさえ組めばこの癖のあるマップを恐れず狩場に選択できる程度には戦い慣れている。

 彼女は特定のギルドや固定パーティーに所属していなくとも十分生きていける強さを身に着けていた。しかし、それでも悲劇は誰にでも訪れるものだと俺はよく知っている。少しの油断、少しの驕りがすぐに死に直結してしまう。それがこのアインクラッドという世界だった。

 

「いいえ、いいえ――。あたしが悪かったんです。《竜使い》だなんて呼ばれていい気になって、よく考えもせずに仲間割れを起こしてしまったんです。そのせいで迷子になって、その挙句にピナを死なせちゃって……」

 

 ……強い子だ。ぽろぽろと涙を流しながらも気丈に振舞おうと自分を律している姿に、幼い見た目にそぐわない強靭な精神力の片鱗が見て取れる。湿った声ではあったが声量そのものはしっかりしていた。

 確かに彼女は思いあがっていたのだろうとは思う。アイテム分配で揉めた末にパーティーメンバーの口さがない挑発に簡単に乗せられて、自分の力量も省みずに危険な戦場で仲間に背を向けた。言うまでもなく褒められた行いではない。

 

 しかしそれは彼女に限ったことでもなかった。見た目からして子供だとわかるシリカを、よい大人であるロザリアが嫌味ったらしい口調で扱き下ろし、周りのメンバーはそんなロザリアを宥めることが出来ずに結果的には傍観しているだけだったのだから。いくら現実の年齢が重視されないアインクラッドであろうとあの態度はない、と顔を顰めたものだ。あの女、とことん悪役の似合いそうな嫌味の連発だった。

 シリカを不必要に煽った挑発はやつの目的のためにわざとやってると思ってたんだけどなあ……。単なる素の態度でしたとか、あの女、性格悪すぎないか?

 とはいえそんなことを詳らかに、しかも通りすがりの俺が言っても仕方あるまい。何の気休めにもならないし不審に思われるだけだ。

 

「お礼が遅れちゃいましたね、助けてくれてありがとうございます。あたしはシリカっていいます」

「俺はキリト、ソロプレイヤーをやってるキリトだ。好きに呼んでくれ。街に帰るまでの短い間だけどよろしく」

「……はい。重ね重ねご迷惑をおかけします」

 

 泣き腫らした目をこすりながらシリカが再度頭を下げる。その顔が憂いを帯びていたのは俺への迷惑を慮ったせいか。ソロで森を脱出できずにピンチを招いたシリカだ、ここから一人で無事脱出するのは難しいのだから俺がフォローする必要がある。街まで同行するという俺の言葉にシリカは申し訳なさ気に頭を下げ、意気消沈したまま項垂れた。……仕方ない。俺だって今のシリカを元気付ける方法なんて思い浮かばない。時間が心の傷を癒してくれると願って、後はシリカ自身を無事に街まで送り届けることくらいしか出来ない。

 それに使い魔モンスターが死んでしまったことはシリカにとって痛恨の出来事だったろうが、俺にとってはシリカだけでも生き残っていてくれたことは御の字とも言える結果だった。彼女らを良く知らない俺にしてみればどうしても人の命のほうが重くなってしまう。使い魔モンスターも死んでしまった以上はどうしようもないため、あとはシリカを安全圏まで送り届けてそこでさよならをすればいい。冷たいようだがそれ以上俺に出来ることはない。

 ……待てよ、使い魔モンスター? そういえばどこかで――。

 

「どうかしましたか?」

 

 歩き出そうとして急に考え込んだ俺の様子を訝ったシリカが、警戒感をわずかに滲ませながら疑問の声をあげた。モンスターに対する警戒、見知らぬ男性プレイヤーである俺に対する警戒、さて、今回の場合はどちらのほうが警戒度合いが強いのやら。

 そんなシリカの様子をひとまず脇に置いて、記憶の底を漁るように脳内を検索して情報を羅列させていく。

 ビーストテイマーの名称は通称であって正式なものではない。戦闘中に極低確率でアクティブモンスターがプレイヤーに興味を示すイベントが発生することがあり、その機に乗じて餌を投げ与えるなり飼い馴らし(ティミング)に成功したプレイヤーをビーストテイマーと呼ぶようになった。

 そうしてプレイヤーの無二の相棒となった使い魔モンスターは索敵を担当してくれたり、プレイヤーのHPを少量ながら回復してくれたりと非常に役立つわけだが、だからと言って不死存在ではないのだ。プレイヤーと同様にHPが設定されており、許容限度を超えるダメージを受ければ死んでしまう。そして、プレイヤーと同じく蘇生の手段はない……はずなんだが、どうにも引っかかるな。

 

 考え込む時間が長くなればその分だけシリカから寄せられる懐疑の視線も強くなる。俺に対する警戒が高まったせいか、ピナの形見である水色の羽をまるでお守りのように大事に胸へと抱え直したシリカの姿を眺めやって、そこでようやく思い出した。

 形見の羽。そう、確か羽――というか使い魔モンスターが死んでしまった時に残す心アイテムさえ無事なら、使い魔の蘇生が可能になるのだと小耳に挟んだことがある。それも割と最近の情報だったはずだ。俺には関係ないイベントだと右から左に流していたせいで今の状況とすぐに結びつかなかった。

 

「シリカ……もしかしたらだけど、ピナを生き返らせることが出来るかもしれない」

「え?」

 

 初め、何を言われたのか理解できなかったかのようにシリカは小首をかしげた。その仕草がやけに無防備で可愛らしく、現実の妹であるスグを思い出してしまったのは我ながらどうかしている。見た目も雰囲気もあまり似ていないのに妹とシリカを重ねてしまったのはなぜだろう。一年以上もこのゲーム世界に閉じ込められて、家族恋しさ、ホームシックにでもかかってしまったのだろうか。

 父さん、母さん、スグ。元気にやっているかな……。

 脳裏に懐かしい顔ぶれが浮かび、家族で夕食を囲む団欒まで想像が及んだところで、強く自戒するような気持ちで振り払った。今は家族の思い出に浸っている場合じゃない。

 

「ほ、ほんとうですか!? 嘘じゃないんですよね!?」

 

 俺の言葉を理解したシリカが掴みかからんばかりの勢いでまくし立てた。それだけ必死なのだろう。ピナ蘇生の可能性に、打ちひしがれていたシリカの身体に活力が一気に戻ったようだった。

 

「ああ。その心アイテムと使い魔蘇生アイテムがあればピナを生き返らせることが出来るはずだ。蘇生アイテムの名前は確か《プネウマの花》だったかな? 俺には縁のないアイテムだからすっかり忘れてた。ごめん」

「いえ、キリトさんは悪くありませんし。それより、そのプネウマの花はどこに行けば手に入れることができるか教えてください!」

「えっと、俺の記憶が正しければ第47層の南にあるフィールドダンジョンで、思い出の丘って場所だったと思う。そこのてっぺんにある岩をビーストテイマーが訪ねると《プネウマの花が咲く》って話だったはずだ」

 

 思いがけないシリカの剣幕に思わず口ごもってしまったが、内容そのものは合ってるよな? 学校のテストで覚え間違いをしているのなら点数が引かれるだけで済むが、ここはアインクラッドで、しかもかかっているのは人ではないが命そのもの。記憶間違いだったら洒落にならない。

 

「47層……ですか」

 

 そこでシリカは萎れるように肩を落としてしまった。まあそうなるか。今いる階層よりも10層以上も上のフィールドなのだ。物量とトラップに翻弄されたとは言え、30階層レベルのフィールドで苦戦していたシリカではとても行ける場所ではない。ソロでは間違いなく無理だし、かと言って彼女が懇意にしているような中層を根城にするプレイヤーのレベルではいくらパーティーを組んでも47層を攻略するのは難しい。なにより、そんなレベルに見合わない危険な場所に着いてきてくれる人の良いプレイヤーがどれだけいることか。

 シリカ自身が足手まといになるのはわかりきっているのだから、確実を期すのなら47層よりよほど上で活動しているプレイヤー、つまり最前線で戦う攻略組か準攻略組レベルの実力あるプレイヤーを護衛に引っ張ってくる必要がある。

 

「すぐに行くのはとても無理ですね……。う、ううん、ピナを生き返らせることが出来るとわかったんだもん! 今は無理でもいつかは!」

 

 それはまるで自分自身に言い聞かせているような言葉だった。シリカの発言は間違っていない。今のレベルでは無理なだけで、将来に渡って無理などということはないのだから。着実にレベルを上げ、装備を整え、仲間を募って攻略に挑む。それが出切れば最善なのだ。ただ、今回の場合はその手が使えない。

 

「その……シリカ、言いづらいんだけど、使い魔モンスターを蘇生させることが出来るのは死んでから三日以内なんだ。それ以上時間が経つと形見アイテムが変化してプネウマの花でも蘇生は不可能になる」

「そんな……」

 

 今にも地にへたりこんでしまいそうな青ざめた表情でシリカが呻いた。

 どれだけ効率的なレベリングをしようが一日や二日で10や20もレベルを上げられるはずがない。35層でパーティーを組んで狩りをし、ソロで脱出に難航していたところを見ると、シリカのレベルは安全マージンを踏まえて40そこそこ、高くても45に届くかどうかというところか? ソロで47層を攻略するにはレベルが心許ないし、そもそもソロでの戦い方が身についているかどうか。加えて、情報不足のマップに挑むのなら10程度のマージンは確保したいところだ。今のシリカではまず目的地まで辿り着けないだろう。

 シリカに俺やヒースクリフ並の戦闘技術があればその程度のレベルハンデを覆して無理も通せるのだろうが、そんな無茶を通せるプレイヤースキルの持ち主なら、そもそも今日のシリカの苦戦はない。ピナを失うこと自体なかったはずだ。

 

「プネウマの花を入手するイベントトリガーにはビーストテイマーが必須だから、もし俺がビーストテイマーなら経費と幾らかの報酬だけで依頼を受けてもいいんだが……」

 

 そんなわけにもいかないのである。俺一人なら何の障害もなく《プネウマの花》の咲く岩まで辿り着けるが、肝心の花が咲いてくれない。どうしたってビーストテイマーであるシリカ自身がその場に辿り着かなければならないわけだ。

 上手くいかない。自然とため息が漏れた。

 

「絶対に死なない保障なんて出来ないし、場合によっては強制的に帰らせるけど、それでも良ければプネウマの花を取りに行ってみるか? 今日はもう遅いから明日にでも」

「え? ……それって、キリトさんが連れていってくれるってことですか?」

「シリカに攻略組クラスの高レベルプレイヤーに当てがあるのなら別だけど、そうじゃないなら手伝うよってことだな。協力してくれそうなプレイヤーに心当たりはあるか?」

「い、いえ。そんな強いプレイヤーの知り合いはいませんけど」

 

 目をぱちぱちと開いたり閉じたり。

 

「シリカの正確なレベルがわからないから断言は出来ないけど、いくら47層って言っても最前線であるわけでもなし。迷宮区に潜るわけでもなし。シリカ一人を連れて歩くくらいならどうとでもなる、と思う。足りない戦力は装備で嵩上げをすればいいさ」

 

 勿論言うほど簡単なわけじゃない。

 常に神経を張り詰めさせてシリカの安全に気を配る必要があるだろうし、費やす労力の割に俺にとっては大した益もない。ただ、負担がかかるのはあくまで俺であってシリカではないのだ。問題ないだろう。

 

「その、手伝ってくれるっていうのは嬉しいんですけど。あの、そのぅですね、どうしてあたしにそんなに優しくしてくれるんですか?」

 

 気づけば猜疑心と警戒心に溢れた少女の瞳に射抜かれていた。ああ、そりゃそうか。今日会ったばかりの見知らぬ男性プレイヤーからいきなり親切心を安売りされたら疑念の一つ二つ持つだろう。《美味い話には裏を疑え》というやつだ。それが出来なければ自分の身を守ることもおぼつかない。シリカの懸念は当然のものだった。ましてシリカは数少ない女性プレイヤーであり、《竜使い》として名を馳せている有名プレイヤーでもある。身の危険を感じてもなんら不思議はないだろう。

 

「迷惑だったかな?」

「いえ! キリトさんの申し出はとても嬉しいんですけど。でもでも、キリトさんがそこまでしてくれる理由がわからなくて。だからあたし、どう答えればいいのかわからなくて」

 

 この聞き方はちょっとずるいかな、と思ったが案の定というか、いい感じに混乱しているようだ。

 根が素直で人を疑えない良い子なのだろう。とても心苦しそうな様子で、それでも簡単に信じるわけにはいかない葛藤に苦しんでいる様がありありとわかる。年齢以上に小柄なプレイヤーの知り合いにアルゴがいるが、あいつはこういう純真さとは無縁である。むしろこの子の世間ずれのなさはサチに近いだろう。

 ここで「君に惚れたから」とでも言えれば俺も立派なプレイボーイになれるのかもしれない――何を思ってアルゴが俺にそんな台詞を望んだのかは知らないが。あいつもいい加減俺にそういう機微を期待するのは無駄だと悟ってくれないものか。というか、面白半分に妙な心得を叩き込まないでほしいんだけどな、それはもう切実に。

 

「あー、怒らないで聞いてくれよ」

「はい?」

「そのな、俺、シリカが仲間割れする現場を見てるんだよ。で、一人になったシリカを無視して自分の用事を優先させて街に戻ったわけだ。その後、君がまだ戻ってないって聞いてさ、嫌な予感がして探しに来たんだ。だからシリカの手伝いをするのは償いというか気後れというか。プネウマの花を手に入れるくらいなら大した手間にもならないからいいかなって思ってさ」

 

 恐る恐るシリカの顔色を伺うように告げたのだが、シリカはと言うと顔を真っ赤に染め上げていた。あれ、何かまずいことを言ったか?

 

「わ、忘れてください……! あの時のあたし、今思い出すとすごい嫌な女の子なんです。だから、その……」

 

 どうも羞恥に縮こまっていたらしい。自分の子供っぽい癇癪に色々と思うところがあるのだろうか。売り言葉に買い言葉という事情もあるし、俺としてはシリカより言い争っていたロザリアの嫌みったらしい口調のほうがよほど嫌な女に感じたものだけど。当事者には当事者なりの葛藤ってやつがあるのかもしれない。

 それにしてもこの空気、どうしたものか。

 

「シリカ、プネウマの花のことはともかく、ひとまず街に戻ろう。いつまでもここにいるのは無用心だ」

 

 とりあえず全部後回しにすることにした。何にせよ俺にもシリカにも落ち着いて話せる環境が必要なはずだ、そうに違いない。

 

「あ、そ、そうですね。あたし、多分足手まといになっちゃいますけど、よろしくお願いします」

「そう心配しなくても、モンスターに遭遇したりはしないと思うから安心してくれていいよ」

 

 俺の索敵スキルは既に完全習得(コンプリート)されてるし。

 仮に俺の索敵スキルを抜けてきたモンスターがいようが、この程度の階層に出てくるモンスターなら一撃で葬れる程度の相手なんだから。

 

 

 

 

 

「ここのチーズケーキはあたしのお気に入りなんですよ」

 

 シリカがホームにしているのは第8層のフリーベンらしいのだが、今いるのは35層主街区ミーシェに数ある宿屋の一つだった。名は風見鶏亭。シリカが臨時に借り上げている宿の食堂で、俺とシリカは向かい合って座っている。

 あれからすぐに迷いの森を抜けた俺達は、シリカの案内でひとまずこの宿に腰を落ち着けることに決めたのだった。

 その間、何もなかったわけじゃない。

 迷いの森を抜ける一番単純な方法は、マップトラップに引っかかる前に高速で走りぬけてしまうことにあるから、俺は索敵スキルを全開にしながらモンスターとの遭遇を可能な限り避けるルートで走り続けた。一応加減はしたとは言え、シリカが着いて来れるかどうかは不安だったのだが俺の心配は杞憂だったらしい。シリカは見事な俊敏性を見せて俺の後をぴたりとついてきた。猫のように軽やかな身のこなしには感嘆したものだ。

 

 問題は迷いの森を抜けて主街区に到着した後だった。シリカが喧嘩別れしたパーティーとばったり鉢合わせしたのだ。

 赤い髪を派手にカールさせた女槍使い――ロザリアが早速シリカに絡み、めざとくピナの姿がないことに気づくとその死亡の事実を餌にシリカを甚振るように揶揄し始めた。シリカも最初は黙って耐えていたのだが、やがて我慢しきれなくなったのだろう、ロザリアの悪意を押しのけるようにピナは絶対に蘇生させるのだと声高に宣言してみせた。

 その際、ロザリアは第47層思い出の丘に同道する俺を品定めをするように見やると、薄い笑みを浮かべて悪役としか思えない捨て台詞を残して立ち去っていった。まさしく小悪党の見本そのものである。あれがロザリアの素なのかロールプレイなのかはわからないが、他人の神経をささくれ立たせる才能があることは確かだろうと思った。進んでお友達にはなりたくないタイプだ。

 

 シリカ救出の立役者である太っちょとのっぽの二人組にも再会した。彼らがシリカを心配していたのは本心からのものだったらしく、口々にシリカの身を慮っていた。それからシリカに今度パーティーを組もうと提案していたが、ピナ蘇生のために思い出の丘に向かうシリカが頷けるはずもない。

 それにピナの死を口に出すのも躊躇われたのだろう、俺の腕を取って「この人と今度パーティーを組むことになったからごめんなさい」と少々強引に断った。ちなみにパーティーを組んだことにか、それとも腕を組んだことにかわからないが、二人組にはすごい目で睨まれた。そこまでされるほどのことだろうか?

 

 とはいえ、この二人が契機となってシリカを救出できたことには変わりないので、情報料と称して幾ばくかの謝礼は払っておいた。シリカも彼らのおかげで俺が間に合ったのだと知ると慌てて頭を下げて礼を述べていたし、恐縮したように何度も頭を下げるシリカに逆に面食らっていた様子だったな。去り際の彼らの目が点だったよ。

 何と言うかロザリアの態度に比べてずっと朴訥な性格の二人組に妙に和んだ。やっぱり睨まれるよりはこっちのほうがずっと良い。

 

「チーズケーキか。珍しく現実世界と同じ名前で同じ味なんだな」

「キリトさん、変なところで感心するんですね」

 

 しみじみ呟いた俺が可笑しかったのか、シリカはくすくすと屈託ない笑みを浮かべていた。

 陰を感じさせないシリカの様子に内心でほっと息を吐く。思ったより元気そうだと安心を覚えながらシリカお勧めのチーズケーキを口に運んだ。

 確かに美味しかった。攻略優先の生活をしていると、こうしてゆっくり食事を取るような機会に中々恵まれないため、美味しさも一入である。というか、前回安全圏でまともに食事を取ったのは何時だったろう。食事なんて大抵屋台の買い食いか携帯食料で済ませていたから、NPC提供の料理と言えどまともなものを食べるのはかなり久しぶりな気がする。……なるほど、アスナにだって心配されるはずだ。

 そんな情けない回想もとりあえずどこか遠くに放り投げておいて、夕食のシチューとパンを食べ終えた後、デザートにチーズケーキをつつきながらシリカと迷いの森で交わした会話の続きを始めた。俺の食事事情よりも今はシリカの問題のほうがずっと切実だ。

 

「それでシリカ、さっき威勢よく啖呵切ってたわけだけど、《プネウマの花》を取りに行くのに護衛は要るかな? 今なら出血大サービスのお試しボランティア期間開催中」

「あうぅ、その、よろしくお願いします。……キリトさん意地悪です」

 

 笑いを噛み殺しながら聞いてみると、シリカは身の置き所がないというように小さくなってしまった。非常に感情豊かで可愛らしい。そんなシリカを微笑ましく眺めながらこほんと咳払いを一つ。ここからは冗談抜きだ。

 

「俺のことを簡単に信じられないっていうのはよくわかる。俺が君の立場ならやっぱり信じられないと思うしな。それでも明日は俺の指示に従ってもらうし、勝手に行動させるわけにもいかない。それができないなら危なすぎて連れて行くわけにもいかないんだ。約束してもらえるか?」

 

 じっとシリカの目を見ながら告げる。いくら47層がレベル的に問題ないエリアでフォローが可能とは言っても、それはシリカが俺に協力してくれる場合に限られる。勝手な判断で好きに動かれてはそれこそフォローが間に合わなくなりかねない。その結果死ぬのは俺ではなくシリカである。そんなことになるくらいなら俺はシリカにピナを諦めさせるほうを選ぶ。

 そんな俺の覚悟を見てとったのか、俺から一度も目をそらすことなくシリカはこくりと頷いた。

 

「はい。明日はキリトさんの指示に従います。絶対に勝手な行動を取ったりはしません。だからお願いです。絶対、絶対ピナを生き返らせてください。そのためならあたし、なんでもしますから」

「ピナを生き返らせるのはシリカ自身がやることだよ。俺が出来るのはあくまでシリカを《プネウマの花》の元まで連れて行くだけだ。大丈夫、シリカが俺に協力してくれるなら、俺は絶対に君を無事に辿り着かせてみせるから」

「はい!」

 

 力強い返事を返すシリカに一安心だ。この分なら明日の攻略も問題ないだろう。問題があるとすれば別件の動きについてだけど……まあ明日一日くらいなら問題ないと思っておこう。それにあわよくば一網打尽に出来るチャンスが転がり込んでくるかもしれない。

 

「あ、でもですね」

「ん?」

「あたし、キリトさんのこと信じてますよ? だってキリトさん、見ず知らずのあたしのことを心配して助けに来てくれたんですから。だからキリトさんは良い人です!」

 

 満面の笑みで断言するシリカに思わず呆気に取られてしまう。いっそ天真爛漫に俺を信じられるのだと告げるシリカに二の句が告げられなかった。これほど真っ直ぐに好意を向けられることなどそうはない。

 

「その、ありがとう」

 

 なんと答えればいいのかわからなくなって、結局口から出たのはそんなありきたりの一文だった。しかも気恥ずかしさに目はあちこちを泳いでいて、シリカの顔ををまともに見られない。意味もなく鼻の頭を掻くのは動揺している証だった。

 

「シリカを手伝う理由が増えたな」

 

 しみじみと思う。

 

「理由、ですか?」

「ああ、シリカを見てると向こうの世界の妹を思い出してさ。なんだか見過ごせない気分になってくるんだ」

「妹さん、ですか……。もしかしてあたしに似てるんですか?」

「いや、見た目も雰囲気も結構違うよ」

 

 見た目で言えばサチを幼くして活発にした感じだし、性格ならアスナみたいな凜とした勝気さが目立つ妹だ。まぁ多少内向的なところもあったし、今も当時の印象がそのままということはないだろうけど。

 スグのやつ、今も剣道を続けてるのかな。もうこの世界に来て一年以上経つ。俺のせいで塞ぎこんでいなければいいけど――違うか、不甲斐ない兄と違って出来た妹だ、兄が昏睡状態で塞ぎこまないわけがない。俺に出来るのはスグがショックから立ち直って元気に剣道やってるよう祈ることくらいだな。

 

「それじゃ、仲良かったんですか?」

「昔は良かったんだけど、ここにくる前にちょっと色々あってね。ぎくしゃくしてたかな」

「……ごめんなさい。気軽に聞いていいようなことじゃないですよね、それ」

「シリカが謝ることじゃないよ。俺から話したんだから」

 

 やっぱりホームシックかな。こっちに順応してきた分、あっちのことをどんどん遠い世界のことだと思い出さなくなった反動だ。一度思い出してしまうと途端に会いたくなってしまう。

 切なさの込み上げる胸に無理やり蓋をした。今は家族を懐かしむときじゃない。

 

「じゃあ、どうしてですか?」

 

 シリカにしてみれば不思議だろう。シリカに似てもいなければ仲もよくなかったという俺の妹。そんな妹に自分を重ねて放っておけないと言われたのだ。にわかに納得できるものでもない。

 

「……代償行為なのかもしれない。妹と距離を取ったのは俺からだし、妹に非なんてまるでなかったんだ。あいつにしてみれば、ある日いきなり仲のよかった兄貴と疎遠になったんだから、さぞかし迷惑なことだったんだろうな」

 

 当時の自分の行動がどれだけひどいものだったのかを今更ながらに思い知らされる。スグには何の落ち度もなかった。ただ俺が《父さんと母さんの子供じゃない》《スグとも兄妹じゃない》という現実を受け入れられなくて逃げただけだ。事情も知ってる上に大人だった父さんと母さんなら俺の混乱を察してもくれただろうけど、何も知らない、しかも俺より年少のスグにそんな機微がわかるはずがない。そしてスグと疎遠になったままこんなところに来てしまった。昏睡を続ける俺の身体をスグや父さん、母さんはどんな思いで見つめ続けているのだろう。

 本当、嫌になる。一体どれだけ周りに迷惑をかければ気が済むんだろうな、俺は。

 

「多分、仲直りもできずにこんなところにきたせいだよ。妹の代わりにシリカの願いを叶えることで勝手に償いにしようとしてるんだ。ごめんな、シリカには何の関係もないことなのに」

 

 シリカにもスグにも失礼な話である。しかし理屈の上ではそうなのだが、問題は感情面なので理屈のままに割り切るというのも難しい。

 それからしばらくは俺とシリカの間に会話はなかった。ぼんやりとした頭に過ぎるのは思い出すまいと決めた家族の顔ばかりで、わけもなく泣きたい気分に襲われてしまう。

 不思議な夜だ。こんなこと今まで誰にも話したことがなかった。アルゴにも、クラインにも、アスナにも、サチにも。なのに今日、初めて言葉を交わす年下であろう女の子にいきなりこんなことを話している。ありえないことだった。

 もしかして俺の精神は自覚がないだけで相当追い詰められているんじゃなかろうか。

 

 不意に思い浮かんだそれがやけに生々しく思えてしまう。思い当たる節があるだけに一笑に付すというわけにもいかなかった。

 思えば俺が中層に降りるという判断を下したこと自体、本来ならおかしいことではないか? 情に流されたにしたって、アルゴを介して適当なプレイヤーを紹介するという手だってあったはずだ。幾つもあった選択肢を碌に考慮せずにこんなことをしているのだから、俺の軽はずみな選択を謗られたって仕方ないことだと今更ながらに落ち込んでしまう。

 

「キリトさん」

 

 思考の袋小路に陥ろうとしていた俺を現実に戻したのは、じっと何かを考え込んでいたシリカから差しだされた小さな手の感触だった。小さく細い指がそっと俺の右手に重ねられ、優しく包み込まれた温もりがひどくこそばゆい。

 

「キリトさんはあたしを助けてくれました。明日もピナとあたしを助けてもらうんです。だからもしあたしなんかが少しでも力になれるなら、それこそ誰かの代わりでもキリトさんの助けになれるなら、それはとても嬉しいなって思うんです。……大丈夫ですよ。きっと妹さんは怒ってませんし、仲直りもできます」

 

 この世界から生きて帰れますよ、とシリカは言外に告げていた。恐らくそこまで考えて口に出した言葉ではあるまい。ただ気落ちしている俺を慰めようと口にしただけだろう。それでも今の俺には有り難かった。

 

「仲直りか。出来るかな」

「はい、きっとできますよ。だってキリトさん、とっても優しいですもん。妹さんもきっとキリトさんのことが好きに違いありません。あたしが保障します」

 

 大真面目にそんなことを言い出したシリカ。

 やがて俺とシリカはどちらからともなく笑い出した。暗鬱に暮れる未来も過酷な戦いの日々も、今は全て忘れて笑うことができた。多分こんな夜に、明日はきっと良い日がくるのだと信じることが出来るのだろう。

 胸に去来した寂寥の思いはいつの間にか消えていた。

 

 

 

 

 

 シリカの部屋の前に立ち、トントン、と軽く扉をノックすること二回。

 マナー云々ではなく、こうしないと部屋の中にいるプレイヤーへの呼びかけが届かない。ドアに隔てられた宿屋の個室は完全防音のために音声が遮断されてしまうのだった。決められた手順でノックをすることで一時的にシステム障壁が解除され、30秒間双方向での会話が可能になるわけだ。

 

「シリカ、そろそろいいかな?」

「はーい、いま開けまーす」

 

 間延びした声が聞こえてほどなく、シリカの部屋の扉が開いた。

 

「じゃーん。どうですか、キリトさん」

「へえ、似合ってるじゃないか。可愛いよ」

「えへへ。ありがとうございます、キリトさん」

 

 扉の前で手を広げたシリカは部屋着ではなく、完全武装の旅支度だった。これから就寝の時間だということを考えればひどく場違いのものに違いない。さらに言えば昼間シリカが身に着けていた装備群でもなかった。今のシリカの装いは防具の上下一式のみならず、腰に差された短剣すら新調されていたのだった。そしてその全てが以前の装備よりも高性能品である。

 銀色の胸部装甲に十字をあしらった赤色の鮮やかなブレザーとライトアーマー、クラシックな黒のブーツ。腰に提げたダガーの刀身も黒だ。

 

 ちなみに俺がシリカに向けた《似合ってる》とか《可愛い》は社交辞令でも本心でも好きなようにとってくれて構わない。問題はシリカのステータス値で装備が可能かどうか、戦闘スタイルに合うかどうかなのだから。

 いや、文句なしに可愛いことに違いはないのだが、そういうことにしておかないと少々まずい。高ステータスで非常に有用な装備群なのだが、女性用装備らしくビジュアル面がいかにも華やかなのだ。具体的にはミニスカートとか。

 ……俺、シリカに女性用装備を持ち歩いてる変態とか思われてないよな? もしそんなことになってたら軽く死にたくなるんだけど。

 

「よし、問題なく装備できてるな」

「はい。筋力数値ぎりぎりで危なかったのもありますけど。でも本当にもらっちゃってよかったんですか? 売れば一財産になりそうな装備ですけど」

「否定はしないけど、コルをけちってシリカの命を失ったなんてことになったら本末転倒だからな、気にしないでくれ。それとドロップ品ばかりでほとんど強化されてない。できれば限界まで強化しておきたいくらいなんだが、流石にそこまでするには素材も時間も足りないしな。明日の攻略に間に合わなくなるから今はそれで我慢してくれ。強化は後日シリカ自身でやってもらうということで」

 

 前回アイテム整理してから大分経つ。そろそろ整理する必要を感じていたのだ。そんな事情で俺のアイテムストレージには不要な装備がてんこもりになっていたのだが、そのおかげでシリカの装備を問題なく整えられたのだから何が幸いするかわかったものではない。そうでなければ明日一日はシリカの装備品確保に走り回るところだった。

 

「とんでもないです! 素の数値でもあたしが今まで使ってた装備よりずっと強いですよ、しかも全部。ダガーにアーマー、ブレザーにブーツ、ベルトまで。これ、もしかして全部レアアイテムなんじゃないですか? やっぱり明日お借りするだけにしたほうが……」

「だから気にしなくていいって。そもそも俺、自分の使うアイテム以外は捨て値で売っぱらってるくらいなんだから。気にしない気にしない」

 

 本当のことだ。ただでさえ一日中最前線でモンスターを狩る生活をしている上に、コルも常時三倍獲得できるスキル持ちなので基本金に困ったことはない。というか消耗品や装備強化以外に使い道がほとんどないのだ。武器や防具の多くはボスドロップ品で固めているような状態だから、流通する品をプレイヤーから購入するような機会なんてほとんどない。値の張るプレイヤーメイドの装備は伝手がないせいで利用していないのが現状だし。今のところ数値的な意味でボスドロップ品のほうが優秀という事情もあるけど。

 それ以外には時間さえあれば食道楽でもしたいと思うこともあるのだが、生憎その時間もない。よって使い道のないコルは膨れ上がるばかりだった。

 そういった俺の事情を知らないシリカは納得いかないというか、恐縮しきりの様子だった。そんな真面目な女の子の姿に苦笑しながら、まずは着席するよう促す。

 室内に特に目を引くようなものはない。多少の内装の差はあれ、見慣れた宿の一室だった。高級な宿というわけではないのだからこんなものだろう。

 いくら宿の一室とはいえ、女性の泊まっている部屋をまじまじと見ているのも具合が悪い。さっさと話を進めてしまおう。そう考えて右手を振り下ろし、開いたメニューからアイテムインベントリを呼び出すと、木製のテーブルの上に飲み物カテゴリーのアイテムをオブジェクト化した。現れたのはマグカップに注がれた真っ赤な液体だ。湯気を立てたそれをシリカの前に押し出す。

 

「シリカ、それ飲んでくれるかな。大丈夫、変な飲み物じゃないから」

「そこは心配してませんけど」

 

 それでも見慣れぬ飲み物を口にするのは勇気がいるのか、恐々とマグカップに満ちた液体をじっと見つめ、ゆっくりと口をつけた。

 

「あ、美味しい」

「葡萄ジュースベースの味にホットワイン風味の香りってことらしい。俺は本物のワインを飲んだことないから人から聞いた話だけどな。ちなみに俺も結構好みの味だった」

 

 んくんく、と可愛らしく喉を嚥下させるシリカになんとなく微笑ましい気分になり、目を細めて見守った。量そのものはたいしたことはない。すぐに飲み終え、ご馳走様でしたと行儀よく告げるシリカだ。

 

「それでキリトさん、この飲み物は?」

「それな、一カップ飲むだけで敏捷最大値が1上がるレアな飲み物なんだよ。《ルビー・イコール》って言うんだけど。都合よく手元にあったから、ついでとばかりにシリカに飲んでもらうことにした」

「つ、ついでって……。あの、キリトさん? そんな嬉しそうに言われても反応に困るんですけど」

 

 引きつったような顔のシリカに期待通りのリアクションだと内心喜ぶ俺。

 

「あたし、今までそんな便利なアイテムがあるなんて知りませんでしたよ? とっても貴重なものなんでしょうし、キリトさんご自身が飲むべきだったんじゃ?」

「ところがそれ、使用制限回数があって俺にはもう使えないんだよ。だからシリカにおすそ分け。結構美味かったろ?」

「おすそ分けって……。うぅ、キリトさぁ~ん」

 

 惜しげもなく投入されるレアアイテムの嵐についにシリカに泣きが入ってしまった。まあ無料より怖いものはないっていうしな。一応俺がシリカに協力する理由に納得したとはいえ、それとこれとは別なのだろう。素直に受け取っておけばいいのに、どうしても高価な品を無償でプレゼントされることに抵抗があるらしい。真面目なことだ。

 俺としてはそれくらいシリカに感謝しているんだけどな。もっとも感謝などなくてもシリカの安全のために装備品のプレゼントくらいはしていただろうけど。言葉は悪いが在庫整理みたいなものだったし。

 

「シリカがどれだけ遠慮しても返品は受け付けてないからあしからず。と、まあ冗談はともかく。俺は一度護衛を引き受けた以上、シリカを必ず無事にプネウマの花が咲く場所まで連れて行くつもりだ。そりゃさっきの飲み物は悪ノリの結果だけどな、装備品に関しては絶対に必要なものだ。今のシリカのレベルで装備できる中では最高レベル一歩手前のものだから、それだけで5レベルくらいのハンデは覆せる。もちろん俺もフォローするし、最悪の場合はモンスターは全部俺が処理する。それでもシリカのレベルで47層はやっぱり危険なんだ。想定外の出来事を見据えた最低限の備えだと思ってくれて構わない」

「……はい」

 

 神妙に頷くシリカに俺も頷き返す。と言っても、口で言うほど危険があるとは思っちゃいない。こうして脅し上げておいたほうが慎重になるだろうから言っているに過ぎなかった。最悪の場合も何も、47層程度のモンスターならシリカに近づかれる前に俺が全部狩りつくすことだって出来るのだ。だからシリカが危険な目に遭うような事態にはまずならない。もちろん油断なんて絶対にする気はないけど。

 ……黒猫団のときのような過ちは二度と御免だった。

 まあ俺の言ってることはあくまで装備の新調に関してで、貸し出しでなくプレゼントでなければいけない理由なんてどこにもないんだけどな。無駄に引き締めた雰囲気に流されたシリカはなんとなく納得してしまっていた。ふふん、狙い通り。

 

「素直でよろしい。そんな素直なシリカに一つ俺の秘密を教えてあげよう。実は俺、未公表のエクストラスキル保持者なんだ。スキル名は《宝石鉱山(ジェムストーンマイン)》って言ってな。効果はレアドロップ確率を通常の五倍に引き上げること。シリカに渡したアイテムなんて俺にとっては珍しいものじゃないんだな、これが。そういうわけで装備を返してもらう必要もないってこと、理解してもらえると嬉しい」

 

 正確には宝石鉱山獲得クエストの成功条件らしきものは匿名で公表してあるんだけど、伝え聞く限り二人目以降の成功者が出てきてないんだよな。俺のオレンジ解消直後に街でクエストを成功させたときとは条件でも変わったのか、それとも未だ明らかになっていないフラグでもあるのか。所持コル全額寄付以外に何か条件でもあったのだろうか、あのクエスト?

 

「あはは。はい、わかりました。それじゃキリトさんの好意は有り難くいただいておきますね」

 

 そんな俺の真面目くさった講釈に冗句の類だと判断したのか、シリカの返事は苦笑混じりのものだった。しかしムキになって信じさせようとするのもなんだかな、と思うわけで。納得してもらえたならそれでいいかと流すことにした。

 ……スキルに関しては本当のことなのになぁ。

 冗談で流されたことに一抹の寂しさをおぼえたその時――。

 

「誰だ!」

 

 鋭く声を張り上げて荒々しくドアを開き、すぐさま廊下へと視線を巡らせる。妙な感覚が知覚センサーに走ったことを認識したときには身体は動き出していた。開いたドアから左右を念入りに確かめるまでもなく、廊下の突き当たり、一階に通じる階段を慌しく駆け下りていく人影が確認できた。

 追うか、と一瞬考えてすぐに諦める。どうせ捕まえるなら下っ端ではなくリーダーにしなければ意味がない。潰すなら手足よりも頭である。それにシリカを放っておいて万が一があっても困る。

 

 迷いの森にいたときはシリカはターゲット候補に過ぎなかったのだろうが、俺と接触したことで完全に標的にされてしまったらしい。となると、狙いは《プネウマの花》か。確かに希少品だし高額でさばけるだろう。市場に全く出回ってないせいでプネウマの花の適正相場など誰もわからないのだ。足元を見れば幾らでも値を吊り上げられる。

 値段はともかく、俺だって市場にプネウマの花が出回っていればわざわざ思い出の丘を訪ねようなどとは思わなかった。今のところ入手経路が直接取りにいくことしかないのだ。

 そしてビーストテイマーの数が少ないとは言っても、ビーストテイマーにとって使い魔モンスターは絶対に裏切られることのない至上の相棒だ。万一に備えて蘇生手段を確保しておきたいと望むことは間違いない。流通のほとんどない今ならそれこそ一攫千金も狙えるアイテムなのである。

 

「キリトさん、もしかして盗み聞き(ピーピング)ですか?」

「ああ、その手のスキルを上げてるやつは少ないはずなんだけどな」

 

 通常、システム障壁を隔てた部屋内部の音を聞き取る手段はない。それをするためには俺がしたようにシステムが保護した機能の一部をノックによって解除しなければならないのだが、そんなことをすれば部屋にいるプレイヤーに来客を知らせる合図となり、盗み聞きなど出来るはずがない。

 その例外が探索系スキルの一群に存在する聞き耳スキルなのは割と広く知られている。本来は迷宮区探索に利用する補助スキルだし正式名称もしっかりあるのだが、もはや通称である盗み聞き(ピーピング)で固定されてしまった感がある。覗き見を意味する言葉の誤用だが、まあ通称なんてそんなものだろう。スキルそのものは真面目に使えばそれなりに有効な攻略補助スキルのはずなんだけど、もっぱら犯罪御用達のスキルになってしまっていて頭が痛い。

 とはいえ今回はすぐに気づいて追い散らせたはずだから、俺達の会話はほとんど聞かれていないはずだ。それに向こうさんにしても、あわよくばくらいにしか思っていないだろう。念のために俺、というかシリカに張り付かせたといったあたりか。

 

「そんな、どうしてあたしたちに……」

 

 事情を知らないシリカにしてみればストーカー被害にあっているようなものなのかもしれない。怖気を奮うようにぶるりと身体を震わせ、俺の脇から廊下の左右をもう一度見渡してからドアを閉め、それから念入りに施錠の確認をした。

 ……あの、シリカさん? まだ俺が部屋の中にいるんですけど? いや、まあ、一応話しておくことが残ってるから構わないけどさ。

 

「シリカ、すぐに盗み聞きだと気づいたみたいだけど、もしかして以前にもあったのか?」

「えっと、その。……はい、ありました。随分昔のことなんですけど、ある男性に。しかもその人、あたしにばれた後に付き合ってくれって告白してきて……。あれ以来男の人が怖くなっちゃったんです。それでキリトさんにも失礼な態度を取っちゃいました。本当にごめんなさい」

「いや、それはシリカのほうが正しいというか、無理のないことだと思う」

 

 むしろ男性恐怖症とか人間不信にならなかっただけシリカは偉いと思う。

 

「ありがとうございます、キリトさん。……こんな世界に閉じ込められちゃいましたけど、あたしだって人並みに男性とのお付き合いに憧れはあります。でもですよ、初めてされた告白があれって、そんなのひどいと思いません!? 幸い、知り合いの女性の方に相談して軍に引き渡してもらえたんですけどね。でもでも、向こうの学校じゃ男の子に告白なんてされたことなかったから、人生初めての男女交際の申し込みだったんです。なのにこんなの、あんまりですよぉ」

 

 そう言ってテーブルに突っ伏すシリカ。

 怒ったり嘆いたり忙しないことだが、無理もないことだと思う。ストーカーされた挙句に告白されるとか、軽くホラーだ。犯罪防止コードが抑止力になったのだろう。無理にことに及ぼうとすれば一発で牢獄エリアに放り込まれるため、強硬な手段が取れなかったのだと思う。だからと言って犯罪仕掛けた挙句に告白とか厚顔無恥にもほどがあるだろう、そいつ。

 

「そういえばその人、キリトさんよりずっと年上に見えましたね。二十歳くらいだったかもしれません。普通に告白してくれたならあたしにも女性としての魅力があるんだって思えたのに」

 

 愚痴愚痴とつぶやくシリカさん推定中学生。いや、だってどう見ても俺より2つ3つ年下に見えるしこの子。ついでに言えば一年以上前のスグよりも年下に見える。当時のスグは中学一年生だった。この世界に閉じ込められたプレイヤーは一年と四ヶ月前の姿で固定されているため、小学生と言っても十分通用しそうなシリカの外見である。それを踏まえるにシリカに告白したとかいう男、相当やばい性癖してるんじゃないのか?

 とてもシリカには言えない内心の葛藤である。普通、ロリコンに告白されて喜ぶ女性はいないだろう。

 しかし随分話が脱線したものだ。なんだって俺がシリカの恋愛相談というか愚痴を聞かされているのだろう。シリカ的には恋愛相談というよりもっとおぞましい何かだったのかもしれないが。

 

「その、シリカ? 同じ男としては元気だせ、くらいしか言えないんだが」

 

 むしろ何も言えない。

 

「あ、そうですね。キリトさんにこんなこと言っても仕方ありませんよね。ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました」

「迷惑ってほどじゃないけど」

 

 よし、ひとまず忘れよう。俺には手に余る問題だ。

 何か可視化されたかのように暗い影を背負うシリカに冷や汗を流しながら指を動かす。オブジェクト化された《水晶の地図(ミラージュ・スフィア)》は起動するとすぐに立体映像を映し出し始めた。ホログラムとして浮かび上がったのは第47層の詳細な地理だ。

 わあ、とシリカの大きな眼が見開く。その幻想的な粒子の煌きに興味を惹かれたのか、シリカもどうにかこうにか持ち直したようだった。

 

「綺麗な場所ですね。もしかしてここが?」

「そう、明日俺達が行くことになる第47層主街区フローリア、通称フラワーガーデンだ。見てわかる通り、一面花畑の街並が特徴だな。で、ここからこう移動した先にあるのが目的地の思い出の丘になる。このダンジョンの頂上にプネウマの花を咲かす岩があるんだ。ここまでで質問は?」

「出現するモンスターの種類とかはわかりますか?」

「蟻が主体で植物系もそこそこ、数は少ないけど蜂系のような飛行種もいる。隠蔽スキルがほとんど役に立たないダンジョンだからモンスターをなぎ倒して進むことになるかな。敵の強さ的には大したやつは出ない……はずだ、多分」

 

 もちろん隠蔽系スキルの効果が薄いとは言え、モンスターを避けての攻略が絶対に不可能というわけでもない。アルゴあたりならモンスターの徘徊の穴をついて目的を果たしそうだし。本人に言えば誰がそんな危険で旨みのないことをするかと怒られるだろうけど。

 

「多分、ですか?」

「不安にさせるようなことを言ってごめんな。ただ俺も47層は昔一回行ったことがあるだけで、あんまり詳しくないんだよ。モンスターにも苦労した覚えがないから、ほとんど印象に残ってない」

 

 第47層が最前線だった頃に最短で通り過ぎただけだし、攻略に時間もかからなかった。主街区の景観が見事だっただけにその印象ばかりが残っていて、肝心のモンスターとかマップ情報なんてほとんど忘却の空である。観光スポットではあっても攻略に利となる有力クエストはなく、経験値効率の美味しいモンスターも生息していない、そんな俺にとっては《訪れる価値のない階層》だっただけに、記憶が薄れてしまうのも仕方ないことだった。

 それに加えて、俺にとっての強い弱いの基準が他人にとっても同じだと思うなとアルゴに注意されることもしばしばあったせいで、どうも敵の強さに関してはこうだ、と断言できないのだ。ぶっちゃけて言えばフロアボスを除けば大抵の雑魚モンスターはやっぱり雑魚でしかないのだし、大群に囲まれるとかよほど特殊な攻撃をしてくるとかでなければ苦労することもない。

 

 ……そう思えるのは間違いなく俺のレベルのせいなんだろうな。視界の端に表示される98という数字を目を細めて眺めやる。レベル制MMOであるこの世界を駆け抜けるために必要となる数値であり、虚構を虚構足らしめる絶対のステータスだった。

 はぐれ者として生きてきた俺の足跡そのものを物語っているようで暗澹とした思いに沈んでしまう。大切なものだと、必要なものだとはわかっているのだ。それでも、レベルが上がれば上がるだけ自分が自分でない何かに変貌していくようでなんともやるせない。

 

 ――人としての感覚が、ずれていく。桐ヶ谷和人が、遠くなっていく。

 

 強くなればなるだけ向こうの世界との距離が離れていくように思えて仕方なかった。そんなはず、ないというのに。

 

「わかりました。慎重に行けってことですね」

「それと危険を感じたらすぐに俺の背後に隠れること。遠慮はいらないから躊躇わないように」

「えっと……はい。頼りにさせてもらいます」

 

 躊躇うな。割り切れ。出来なければ死ぬだけだ。それはきっとシリカにではなく俺にこそ向けられた思いだった。情けない。

 複雑そうな顔で俺の言葉を受け入れるシリカに気づいていたが、下手なフォローも出来なかった。一度シリカの戦う姿を見て実力を確かめないことには、どの程度モンスターを任せていいのかもわからないのだから。今は安全を最優先にするよう言い聞かせておくしかない。

 

「それと転移結晶の用意なんだけど、予備は残ってるか?」

 

 あ、と口を開けて固まるシリカ。薄々そうだとは思っていたが、やっぱり切らしていたか。多分、今日の迷いの森でモンスターから逃げるのに使いきってしまったのだろう。もとよりそう多く手に入れられるようなものではない。ましてシリカは中層プレイヤーだ。資金にも限りがある。

 

「ごめんなさい。ありません」

「なら転移結晶も渡しておくから、何時でも発動できるよう常に意識に残しておくこと」

 

 トレードウインドウを手早く操作して転移結晶を渡してしまう。なんだかどんどんシリカが萎れていっているようで申し訳ない気分になってきた。必要なことではあるから仕方ないんだけどな。

 しかしこれで説明すべきことはしたし、渡すべきものも渡した。長居は無用だろう。

 

「さてと、こんなところかな。明日の朝この宿まで迎えにくるから、そしたら出発しよう」

「え、キリトさんホームに帰っちゃうんですか? この宿に泊まっていってもいいんじゃ?」

「いや、俺にホームはないよ。ただ、密室PK事件みたいなのもあったから、泊まるにせよ登録してから一日空けないといけないからさ」

 

 面倒なことだと思うが仕方ない。少しの手間を惜しんで殺されるようなことがあってはならないわけだし。それに俺の場合方々で恨みを買ってるから人一倍身辺には注意が必要だ。

 

「そ、それならこの部屋に泊まっていけばいいと思います!」

 

 シリカがそんなことを言い出したのは、水晶の地図を片付けて部屋を出ようとした時だった。

 今日一番の真っ赤な顔で懸命に俺を引きとめようとするシリカに面食らってしまう。

 

「もしかしてさっきの盗み聞きが気になるのか? 個室の中までは手出しできないから心配はいらないはずだけど」

 

 それでも気味悪いことには変わりないか。

 しかし俺の予想が正しければ、さっきの連中はシリカのストーカーとか行き過ぎたファンとかではないはずだ。そしてばれた以上、これ以上こちらを警戒させるような真似もするまい。やつらとしては俺達に予定通りプネウマの花を取りに行ってもらわねば困るはずだし、これ以上迂闊なことはしないだろう。

 この際だからそのあたりの因果も言い含めておくべきだろうか。果たしてどちらがシリカのためになるだろうと考え込んでいる間に、シリカはシリカで色々覚悟を完了させてしまっていたらしい。何時の間にやら俺の贈った装備品を全て解除し、寝間着に着替えてもう寝る準備は出来てますと言わんばかりの姿だった。

 とりあえず今すべきことは――。

 

「シリカ、まずは落ち着こうか」

「あたし、落ち着いてますから……!」

 

 いやいや、明らかにテンパッてるように見えます。

 

「お願いします、キリトさん。あたし、今日一日はキリトさんの妹さんの代わりになりますから、どうか一緒に寝てください!」

 

 ちょっと待て、俺とスグは断じて一緒に寝てたりしないぞ!?

 それとも世間一般の兄妹は夜一緒に寝たりするのが普通なのだろうか? もちろん幼少の頃ならスグとも一緒に風呂に入ったり布団で寝たりした記憶もあるが、それはあくまで小さな子供だから許されることであって、いくら兄妹でも俺くらいの年齢で一緒に寝たりするのはおかしいはずだ。これはシリカの兄妹像がおかしいのか、それとも俺がシリカに妹とそうするのが自然だと思われているのか。どちらにせよまずいことに変わりなかった。

 

「もしかしてシリカって一人っ子だったりする?」

「はい、そうですよ?」

 

 あ、これマナー違反だ。しかしまずいと思ったときにはシリカが何事もなく答えてしまっていた。

 現実の詮索はご法度。そんな基本的なことをまさか自分が破ることになってしまうとは。

 一方のシリカは全く気にした様子もなく、あるいは気づいていないのかと思うほど無防備に答えてくれてしまった。兄妹像に妙な価値観を持っている様子から、シリカは一人っ子で兄か姉に憧れでもあるのだろうという思いが、意識せずぽろりと口から出てしまった。

 わざわざ蒸し返して謝罪するべきかどうか悩み、もしかしたら俺が先に現実世界の事情――妹がいることを話してしまったせいなのかもしれないと思い至って、この話題はこのまま終わりにすることにした。悪用できるような情報じゃないし、そんなつもりもないから許してもらおう。

 さて、では問題の《お泊りのお誘い》に対し、どう言ってシリカを説得しようかと言葉を捜している俺を尻目に、思いつめた様子のシリカが消え入りそうな声で続けた。

 

「……寂しいんです。あたし、この世界に来てからはずっと夜一人で泣いてたんです。でもピナに出会って、あっちの世界でずっと一緒だった猫のピナが帰ってきたようで、やっと安心して眠れるようになったんです。でも今夜はピナがいません。そう思うとあたし、怖くて、悲しくて、寂しくて……。だからお願いです。今夜は朝まであたしと一緒にいてください」

 

 ……そういうことか。

 ようやくシリカの状態に思い至った自分の間抜けさに心底情けなくなる。今までシリカの朗らかで気丈な態度に誤魔化されていた。

 いくらピナが生き返るという希望があっても、今日ピナが死んでしまったことには変わりがない。その衝撃から立ち直るにはとても時間が足りないはずだった。まして蘇生アイテムが確実に手に入るかどうかはわからないのだから。

 俺だって話に聞いただけで実際に手に入れたことはなく、プネウマの花を咲かせる場所を直接訪れたこともない。だから絶対にピナを生き返らせることが出来るなんて言えやしないのだった。それに仮に言ったところで、自分の目で生き返ったピナの姿を見るまでシリカの不安が消えることはないだろう。ピナを支えに生きてきたシリカだ。そのピナを失って心が弱っているのは考えるまでもなく明らかなことだった。気づかなかった俺が間抜けなだけだ。

 

 第一、そうでもなければ出会ったばかりの、さして親しくもない男をこうも頼ろうとはしないだろう。まあ、ここまで大胆なのはシリカが倫理コードの存在を知らないがために、無意識にでも男を近づけても大丈夫という安心感が手伝っているのだろうけど。幼いとは言え一人の少女なのだ、そんな理由でもなければ十分な男女間の知識を持っているはずのシリカがこうも無防備に縋ったりなどしない。

 

 ――嫌だよ。あたしを独りにしないでよ、ピナ……!

 

 ピナがその身を散らした時、シリカの頬を伝った二筋の涙と、震える声でつぶやかれた嘆きが脳裏に過ぎる。ドランクエイプに自身が殺されようとしているときにすら、我を忘れたようにひたすらピナを求めていたシリカ。それを惰弱と謗るのは容易い。しかし――。

 ふっと息を吐く。

 ピナの代わりか。それもいいさ。それでシリカの心の安寧が得られるのならば断るべきじゃない。

 いつかのサチのように、この世界の誰もがぎりぎりの線で踏みとどまって戦っている。その天秤が少しでも傾いた者から脱落していくのだ。だからこそ《せめて頼ってきた相手くらいは受け入れてやれ》とアルゴは言った。それはアルゴが俺を生かすために言い聞かせた諌め事の一つだ。

 俺の胸に湧き上がる苦みばしった思いは一体何に、あるいは誰に対してのものだったのか。それすら黙殺して、俺はシリカの請いに応えようとしてしていた。

 もちろん迷いはある。それでも今の俺にシリカを拒絶する選択肢は取れそうになかったのだから、これ以上思い悩むのは時間の無駄だ。

 

 シリカは願いを了承した俺の手を取って嬉しそうにベッドまで招き、警戒するそぶりもなく横になった。

 その無防備な様に溜息を吐きたくなるのをぐっとこらえて、何を言うでもなくシリカに続いてベッドに入った。息の感じられるほど近くというわけではなかったが、それでも少し手を伸ばせば簡単に触れ合える距離である。

 ……これはシリカには色々言い聞かせておいたほうが良いのかもしれない。いくらなんでも無防備すぎるし危険すぎる。それだけ心細くなっている裏返しでもあるのだろうけど。

 シリカ自身にどこまで自覚があるのかわからないが、竜使いとしてシリカが人気を博すようになった理由が単に物珍しさだけのはずもない。将来を十分に期待させる整った相貌は幼くとも十分に人目を引くものだし、ころころと変わる感情豊かな表情は躍動感溢れる魅力として受け取る人間も多いだろう。俺だってシリカのそうした無邪気さの同居する真っ直ぐな言葉に元気付けられたんだから、俺の抱く懸念も的外れなものじゃないはずだ。

 

 そして、残念ながらこの世界では子供だからと無条件で守られるようなことはない。以前のストーカー騒動で男への嫌悪感が強くなっていればまだマシだった。しかし俺への反応を見る限り、シリカは理由もなしに強く人を疑えるような性格をしていないようだ。必然、警戒心も相応の小さなものにしかならないのだろう。

 だからこそ、妙な男に引っかかる前に自衛くらいは出来るようになってもらわないと……。

 それがお節介の類だと自覚してはいても放っておくわけにもいかない。シリカが話しかけてきたのは、俺が人知れずそんな決意を固めていた矢先のことだった。

 

「キリトさん」

「ん?」

「ありがとうございます、あたしの我侭を聞いてくれて。――こうしていると、なんだかとっても安心できます」

「……そっか。それは良かった」

 

 良いわけがない。良いわけがないんだけど、シリカのようやく安らぐことができたという表情を目にするとどうにも強く拒めなかった。

 それとは別に本格的にシリカとスグを重ね合わせてしまっているのかもしれない。自身の養子という身の上を知ってから、スグのことを遠ざけるように自分の内に閉じこもった。そんな俺の素っ気ない態度にスグの浮かべた切なげな眼差しまで思い出されて、その顔がピナを失って泣き崩れていたシリカと重なり合ってしまう。それこそ俺の感傷に過ぎないというのに、どうしてこうもスグの顔が思い出されてしまうのだか。

 ……感傷か。今はどうしようもないけど。なんとか現実世界に戻ってスグにも謝らなくちゃいけない。

 仲直りは出来るのだとシリカは言った。シリカの言葉には根拠なんて何もなかったのに、その一言ですっと心が軽くなったのはどうしてだろう。

 スグへの負い目、シリカへの感謝。俺がシリカのために手を貸すには十分な理由だ。

 

 ベッドに入るにはまだ時間が早いせいか、眠気は一向にやってこない。

 シリカはどうなのだろうと目をやれば、シリカは男と同じベッドにいるという羞恥を感じてはいるのか、俺と目が合うと頬に仄かな朱を散らして目を伏せてしまう。それでも拒絶するようなそぶりは欠片もなく、少しの逡巡を経ておずおずとあげた表情には親愛を感じさせるはにかんだ笑みが浮かんでいた。

 ややあって、シリカが俺のシャツの袖を摘むように触れていることに気づく。

 

 不安……なのだろうか?

 心の支えだったピナを失い、ピナの代わりを求めて俺と同衾し、その俺ですら目を離せば消えてしまうのではないか、そう恐れたのかもしれない。いつかスグにしてやったように頭を撫でたらシリカは怒るだろうか、さすがに子ども扱いするなと言われるかもな。そんな馬鹿なことを考えて小さく笑みが漏れてしまう。

 異性と枕を同じくするのはこれが初めてというわけでもない。割り切ってしまえばすぐに心臓の鼓動は常のものに落ち着いた。

 そもそもシリカはピナの代わりを求めているのであって、キリトと言う男を求めているわけでもない。変に意識するのは良くないはずだ。年上のプライドにかけて醜態を晒してなるものかという意地も手伝って、シリカを不安にさせるような挙動は絶対に取らないようにしようと何とはなしに決めた。

 

 叶うことならば――。

 明日は嵐などこないまま、何事もなくプネウマの花を回収したい。こんな幼げな女の子ですら懸命に剣を振るって生きている、小さな竜を心の支えに、いつか現実世界に戻れる日を願ってなんとか生き延びようとしているのだ。そんな彼女の希望をどうにか取り戻してやりたい。

 せめて明日だけは、と。心から思う、それがどれだけご都合主義に過ぎるのだとしても。

 

 アインクラッドを我が物顔で闊歩する怪物どもの脅威を知っている。

 目を背けたくなるような人の悪意が生み出す残酷な結末を知っている。

 

 ならばせめて人事を尽くそう。最善なんて神のみぞ知る領域だ。只人に過ぎない俺が出来るのは次善の策を張り巡らせ、可能な限りの望ましい未来を引き寄せるようあがき続けることだけだった。それだけが俺たちプレイヤーに許され、そして課せられた責務だ。

 

 

 

 ――それがお前の望みなんだろう? 茅場晶彦……!

 

 

 

 

 

おまけ話の太っちょ&のっぽ

 

「おいおい、なんでこんなとこにあいつがいるんだよ!?」

「あいつって言うな! キリトさんって呼べ! 誰に聞かれてるかわからないんだぞ!?」

「待て待て、落ち着け落ち着こう俺。キリトさんがここまで降りてきてるってことは中層で何か厄介事でも起こってるのか?」

「まさか! いや、でも……」

「だってキリトさんだぞ? あの人が攻略以外で下に降りてくるなんて異常以外の何者でもないって」

「いやいや、素材集めとか知り合いに会いにきたとか色々あるだろ」

「その知り合いって……もしかしてシリカちゃんか?」

「……バリバリ攻略組のキリトさんと俺らのアイドルとはいえ中層プレイヤーのシリカちゃんだぜ? 接点なんかあったのか?」

 

 二人して黙り込む。今までシリカちゃんが攻略の鬼扱いされてるキリトさんと知り合いなどという話は聞いたことがない。当然、本人から名前が出たこともなかった。だというのにさきほど連れたって歩き去っていった二人はとても親しげな様子で、昨日今日の付き合いでないと自然と空気が語っていた。その事実を前に混乱するばかりだ。

 彼女は数少ないビーストテイマーであるだけでなく、その可愛らしい外見と素直な性格から中層プレイヤーにとってアイドル的存在として扱われている。彼女に不埒な真似をしようものなら非公式ファンクラブ《シリカちゃんを見守る会》の面々に半殺しにされかねないくらい愛された存在なのである。

 

 だからこそ嫉妬かなにかでシリカちゃんにきつい態度であたるロザリアさんのようなプレイヤーに、ここのところずっと苦々しい思いを抱いていたのだ。しかし一時は心配もしたが今はパーティーも解散したようだし、今日も無事に戻ってきてくれたことで一安心、だったのだが。

 闊達で明るい性格のシリカちゃんは多くのプレイヤーと仲が良い。それでも幼い年齢や過去の馬鹿な男の所業のせいで一定以上の距離に男性プレイヤーを近づけようとしなかった。そのシリカちゃんにあろうことか男の影が!

 まさしく緊急事態だ。今まで彼女を父のように兄のように見守ってきた身としては複雑な気分である。

 

「なあ、それよりシリカちゃんを見つけられた情報料だって滅茶苦茶な額のコルを渡されたんだが……これ、どうする?」

「どうするもこうするも、返すわけにもいかないんだから受け取るしかないだろ?」

「そうだよな。そうなるよな……」

 

 お互いにどこか引きつった顔を見合わせ、それから深々と嘆息した。いや、ほんと、どうしよう?

 情報屋から情報を買う相場に比べても破格どころか気後れするような莫大なコルである。一言二言のあやふやな情報に対する対価とは到底思えなかった。これだけの大金を渡されて果たして単なるお礼だと一体誰が思えるだろうか。

 

「これってやっぱ、口止めか?」

「……多分。あれかな、《今日見たことは忘れろ》? それとも《俺とシリカの関係に口出しするな》みたいな?」

「ありえるな。それときもい声出すんじゃねえよネカマ野郎」

「あ、まだその話題引っ張るのかよ。お前だってイケメン顔のなりきりロールプレイしてたくせに」

「何を!」

「何だよ!?」

 

 高まった怒気と不満が臨界に達し、あわや掴みあいの大惨事勃発か! となるはずもなく、互いに深いため息をついて肩を落とす。別にそんな昔のことなんて気にしちゃいない。今となっては軽口の応酬の種にしているだけで、なんの遺恨も残っていないのだ。考えてみると、こいつとははじまりの街からずっとコンビを組んで今に至るわけで、奇妙な縁もあったものだとつくづく思う。

 

「まあ、キリトさんだしなあ」

「ああ、キリトさんだしな」

 

 あの人なら何があっても不思議じゃないし、何か起こってもすぐになんとかしてくれるだろう。シリカちゃんの相棒ピナがいなかったから、もしかしたらそのことも関係してるのかもしれない。とりあえずキリトさんに任せておけばシリカちゃんのことは心配いらないだろう。いらないはずだ。いらないに決まってる。そう決めた。

 

「……俺達も宿に戻るか」

「そうだな。メシにでもしよう」

 

 今日は奮発して美味い肉料理を食おう。そして頭を空っぽにしてぐっすりと眠るのだ。そうだそうしよう。

 俺らは何も見なかった。何も聞かなかった。何も知らなかった。きっとそれでいいのだ。

 触らぬ神に祟りなし。くわばらくわばら。

 




 《ルビー・イコール》の回数制限は拙作独自の設定です。また、《宝石鉱山》スキルは原作には存在しません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第08話 生贄の竜巫女 (2)

 

 

「いやーーっっ!! キリトさん見ないで! 見ないで助けて!」

 

 悪い、それは無理。

 眼を閉じたまま自由自在に戦闘動作を可能にするような、言わば心眼スキルを俺は持ってない。というかソードアート・オンラインにそんな便利スキルは搭載されていなかった。多分これから先も発見されることはないだろう。

 果たしてそんな俺の内心が聞こえていたのか否か、醜悪な触手に両足を掴まれて振り回されていたシリカの悲鳴は、既に泣き声と大差なかった。

 今、俺の眼前では上空高くに吊り上げられて、涙目で必死になってスカートを抑えている少女の図が展開されている。……すまん、こうなるとは思わなかった。

 さすがに女の子にこの仕打ちは可哀想だと判断し、瞬時にシリカを捕らえていた植物系モンスターに剣が届く間合いまで距離を詰めるや否や、一刀の元に切り伏せた。リーチと拘束力に秀でている代わりに防御力の心もとないモンスターは、その一撃だけですぐさまポリゴン結晶へと還って行く。

 

「きゃん!」

 

 遅れて俺の腕のなかに飛び込んできた――もとい落下してきたお姫様ことシリカ。

 その可愛らしい悲鳴に頬を緩めたくもなるのだが、はたしてそれだけで済ませて良いものか。

 地面に叩きつけられて落下ダメージを受けないよう救出はした。しかしいくら醜悪極まりない外見のモンスターだとはいえ、生理的嫌悪感から有効な反撃が出来ずに振り回されたことは叱るべきことなのかもしれない。

 でもな、昆虫とか蛇とかに鳥肌が立つほど苦手な女性も多いと聞くし、そういう苦手意識は口でどうこう言ってなんとかなるものでもないのだろう。そう考えると一方的に叱るというのもよくなさそうなんだが。

 

「キリトさん、見ました?」

 

 お姫様だっこがお気に召したのか、それとも乙女の秘密を見られたかもしれない羞恥に耐えていたのか。しばらく俺の胸に顔をうずめていたシリカだった。そんなシリカもようやく気持ちの整理がついたのか、おずおずと顔を上げ、真っ先に上目遣いで尋ねてきた内容には少々感心した。ほう、最初に気にすることがそれとは、シリカも結構余裕があるじゃないか。

 ……なんて。いや、ごめんなさい。その件に関しては俺のほうが余裕がないかも。

 

「その、なんだ、丈の短いスカート装備を渡しちゃってごめんなさい?」

「あうぅ。やっぱり見たんだ。見られちゃったんだ。あたし、もうお嫁にいけないかも……」

 

 それは流石に気にしすぎでは、と思うのだが、生憎被害者はシリカで、この場合の加害者は憎きモンスターではなくこの俺なのである。シリカとてモンスターに下着姿を見られてもここまで嘆いたりはしないだろう。現実世界で言えば犬猫に下着を見られるようなものだ、俺と目を合わせられないほど強く羞恥心を刺激されることなどあるまい。

 この場合、あくまで年の近い異性である俺相手だからこそ、ここまでの精神ダメージを受けているのだった。あれは不可抗力だと思うのだが、こういう時ひたすら男の立場は低い。

 アスナ、アルゴ、サチ、そしてシリカ。

 この世界で出会い親しくなった女性プレイヤーの顔を順々に思い出し、やはり女性の扱いには細心の注意と心配りがいるのだとしみじみ思うのだった。

 

 

 

 

 

 まさかのシリカ同衾から一夜が明けた。

 一晩経って落ち着きを取り戻すと、さすがに男と同じベッドで眠ったという気恥ずかしさに襲われていたのか妙にぎこちない様子のシリカだった。そんなシリカを伴って朝食を終え、軽く武装やアイテムをチェックしてからすぐに第47層に旅立ったのは予定通りの行動だ。

 第47層主街区フローリア。通称フラワーガーデン。

 娯楽の少ないアインクラッドでは珍しい観光名所であり、カップルの憩いの場として有名であった。

 

 この世界でも結婚システムはあるのだが、結婚するとお互いのステータスを自由に閲覧可能になったり、アイテムストレージが夫婦で共有になってしまう。いくら恋人同士だろうとそのために命綱である詳細なステータス数値やアイテムをお互いに握り合うという行為はひどくストレスになるし、疑心暗鬼の元になるものだ。共有アイテムストレージを利用した犯罪の手口も幾つか公表されているだけに、誰もが結婚には消極的だった。結婚詐欺を仕掛けてアイテム強奪に勤しむ、なんて犯罪は誰だって思いつく初歩の手口だ。アインクラッドで結婚に踏み切ることに誰もが及び腰になるのも至極当然のことだった。

 しかし夫婦にならないからといって恋人関係が成立しないのかと言えばそんなことはなく、ここアインクラッドでも多数のカップルが成立している。吊り橋効果と言えば途端に胡散臭くなってしまうものの、命の危険が日常に潜む世界で互いの身を守りあっていれば自然と情も湧くものだ。この世界でのカップル誕生は別に意外なことでもなんでもない。

 そしてそんな恋人たちのデートスポットとしてフラワーガーデンは最適だった。一面の花畑はカップルならずとも一見の価値があるだろう。シリカなど到着してすぐに歓声をあげるや花畑に駆け出したくらいだ。そんなシリカの微笑ましい姿に苦笑しながらゆっくり彼女を追いかける。

 

「昨日ホログラム模型で少しだけ見せてもらいましたけど、やっぱり自分の目でみると感動します」

「ソードアート・オンラインが誇る超技術の賜物だな。現実よりも現実らしいというか、ここまで人を感動させる光景なんてそうそう見れるもんじゃない」

「ほんと、そうですよね」

 

 ソードアート・オンラインが悪魔のゲームであることに異論を唱える気はない。この世界に閉じ込められた1万人のプレイヤーにとって、ソードアート・オンラインと茅場晶彦の名前は悪魔の代名詞だった。しかし、それでも俺はこう思うのだ。ソードアート・オンラインが普通のゲームとして運営されていれば、と。

 それほどこの世界は精緻に作り上げられていて、壮大で勇壮な景色やド迫力のモンスター群、全容を把握できない多岐に渡るスキルシステムや各種イベントは人の心を魅了してやまない。初期ロット参加プレイヤーをゲーム内部に閉じ込めるなどという暴挙さえなければ、茅場晶彦とソードアート・オンラインの名はゲーム業界のみならず人類の歴史に燦然と輝く功績になっていたことは間違いない。だからこそ惜しい。こんな形で技術と可能性を浪費させてしまったことが。

 そして、心からこの美しい光景に感動できない自分が物悲しかった。

 

「なんだか男女のペアが多いですね。もしかして恋人さんたちでしょうか?」

 

 周囲を見渡して不思議そうにつぶやくシリカに、そういえば説明していなかったかと気づく。

 

「言ってなかったっけ。フラワーガーデンは恋人たちの憩いの場としても有名なんだよ。アインクラッドで一度は訪れたい観光名所として紹介されたりもしてたはずなんだけど、聞いたことないか?」

「あたしくらいのレベルの中層プレイヤーにとってここはまだまだ危険な階層ですから。もちろん主街区だけなら安全だって皆わかってるんですけど、どうしても自分に関わりのない上の層には関心が薄くなっちゃうんですよ。あまり上の情報も流されないんです。もちろんあたしが世間知らずなだけかもしれないですけど」

 

 恐縮そうに答えるシリカを気にするなと宥め、もう一度見事な花畑をぐるりと見渡す。

 中層プレイヤーはアインクラッドにおいて一番日々の生活を楽しんでいる層だ。毎日の狩りを少しのスリルとともに楽しみ、危険度の少ないクエストを選んで冒険心を満たす。そうして気の知れた仲間に囲まれて噂話や雑談に講じるのだ。多分娯楽の類も中層プレイヤーの生活圏が一番充実しているだろう。

 翻って攻略組はどうなのかと言えばどうしたって攻略優先の尖った雰囲気が消えないし、逆にはじまりの街付近の下層エリアでは戦うことを諦めたリタイアプレイヤーが多いためにいつだって陰鬱とした空気に支配されている。軍が迷走を始めているせいで治安も良くない。軍内部でも不穏な気配が漂っていると聞こえてくるのが不気味なだけに、軍上層部にはさっさと綱紀粛正に努めてほしいものだと心底思う。直接関わりのないコミュニティとは言え、あまり聞いていて嬉しい情報ではない。

 

 攻略組プレイヤー、中層プレイヤー、下層プレイヤー。

 細かく区切ればさらに特徴や習慣の変化も見られるのだろうが、おおまかに言って現在のアインクラッドのプレイヤー状況はその三種類に分けられる。そのなかで中層プレイヤーの数がもっとも多く、同時に危険の少ない安定した生活を送っているのだ。よく言えば安穏とした、悪く言えば保守的なコミュニティの集まりである彼らだから、自分のレベルに見合わない階層の情報にアンテナを高くしないのもむべなるかな。

 

「キリトさんはこういう場所、好きじゃないんですか?」

「そんなことないけど、どうして?」

「あたしが言っていいことなのかわかりませんけど、キリトさん、あんまり楽しそうじゃありませんから」

 

 寂しそうに、そして申し訳なさそうに告げるシリカの言葉にはっと目を見開く。まずい、誤解させたようだ。

 

「心配させてごめん。こういう場所は好きだよ。それにあんまり男らしい趣味じゃないから広言しないで欲しいんだけど、花の世話をするのも結構好きだったりするしな」

 

 そう言ってあたりを見渡す。うん、やっぱり綺麗だな。

 花に関する趣味はもちろん本格的にやっていたわけじゃない。父さんが庭木の手入れをしている姿に触発されたこととか、小さいころスグに花を贈ろうとした影響とかで手慰み程度に齧っただけだ。それでも同年代の男のなかでは花に詳しいほうじゃないかと思う。だからなんだというささやかな趣味でしかないが。

 俺が気落ちしていたように見えたのなら、それはこんな綺麗な景色にも足を止めることなく攻略に全精力を傾けていた、殺伐としか言いようのない俺自身の過去に思うところがあったに過ぎない。自分が剣を振るうだけの機械になってしまったようでやるせなかった、それだけのことだ。多分、そうした後悔が顔に出ていたのだろう。

 

「そうだな、こうすれば楽しくなるかも」

 

 そんな内心の煩悶をシリカに悟られないよう、殊更明るい声をかけてしんみりした空気を霧散させ、彼女の小さな手を取って歩き出す。これもエスコートの内に入るのだろうか。

 

「え、ええぇ!? キ、キリトさん?」

 

 俺の突然のスキンシップにシリカは素っ頓狂な声をあげてまばたきを繰り返してみたり、顔を真っ赤にさせてみたり。

 気まずい思いを誤魔化すためだったとはいえ、少し強引だったか? しかしシリカに驚きはあっても拒絶はないことが見て取れたので、離す必要もないだろうと結論付けてしまう。

 シリカの手を取ったままいつもより気持ち歩幅を短く、ゆっくりと歩いた。幸いここは恋人の多く訪れるデートスポットだ。男女が手を握って歩いていても違和感なく周囲に溶け込んでしまう。むしろ暖かな視線を幾つも感じた。多分俺とシリカを年少のカップルだと誤解してのことだろう。微笑ましいものを見る目だった。

 

「ほら、シリカ。名残惜しいけどもう行こう。デートの続きはピナを生き返らせてからゆっくりしようか」

「デートって……。もうキリトさん、あんまりからかわないでください!」

 

 ようやく俺にからかわれていることに気づいたようで、ぷんぷんと頬を膨らませるシリカだった。しかしあくまでふりだけで言葉ほど機嫌を損ねたわけではなさそうだ。嫌がるそぶりもなく結んだ手を振り払わないことがその証拠だった。

 俺としても半ば勢いでやってしまったことなので特に後先を考えていたわけでもなく、結局安全圏であるフラワーガーデンを抜けるまで、ずっとシリカと仲良く手をつないだままだった。

 

 

 

 

 

 そんな心温まる一幕があったが決して攻略そのものを疎かにしていたわけではない。油断をして不覚を取ったわけではないのである。シリカを襲ったハプニングを除けば、思い出の丘の攻略そのものは順調だった。

 そのハプニングにしてもシリカがダメージを受けるまで傍観するつもりはなかった。現時点でのシリカの危機対応能力、具体的に言えば索敵能力を確かめる意味で奇襲を防がなかったのだが、結果はシリカが逆さまに吊るされるという、多少俺の予想からずれてしまったことが幾ばくかの誤算だったくらいだ。

 シリカに攻略組顔負けの用心深さやスキルの高さを期待したわけではない。

 中層プレイヤーの間で有名だった《竜使い》だけにパーティー前提の戦い方に慣れているのだろうとは予想していたし、事実索敵に弱いことは確認できた。もしかしたら相棒のピナがその役目を負っていた可能性もある。使い魔モンスターの特性として敵性存在の気配を的確に捉えて主に注意を促す能力も持つと聞いているので、おかしな推測ではないだろう。その分、現在のシリカの頼りなさが目につくようになっているのは残念なことではある。しかしその程度なら俺がフォローできるのだから問題はなかった。

 

 事実、その後のシリカの戦いぶりは俺のフォロー込みという前提を考えれば十分に満足できるものだった。先日の森の脱出行でも感じていたことだが、シリカの動きは実に軽やかでかつ鋭い。攻守の判断も的確で迷いがなかった。高レベルプレイヤーが後ろに控えているという安心感が手伝って思い切りの良さにつながっていたのかもしれないが、いつかアスナやクラインに見出した戦闘センスの片鱗をシリカからも感じ取ったことは確かだ。鍛えればモノになる、という俺なりの直感である。

 俺も要所要所でカバーに入り、敵の数が多かった場合はさっさと俺が前に出て間引いてしまい、残りの一体だけをシリカに任せた。黒猫団をフォローしていたときのように、危険な攻撃はパリングを駆使して弾きまくったこともあってシリカはさくさくと敵を狩っていった。

 

 このあたりの匙加減はシリカの心情も汲んでのことだ。最初から最後まで俺が全てのモンスターを相手にし、シリカの手を煩わせずにピナ蘇生を達成してしまうと、ピナの家族であり親友を自負するシリカの立つ瀬がない。これから先、必要以上に萎縮させる結果になってしまいかねないことを思えば、極力シリカ自身が達成感を得られるように配慮する必要がある。

 俺個人としても、シリカには叶う限り自分の手でピナを生き返らせてほしいと思っている。俺はどこまでいっても部外者でしかないのだから。

 それにこの階層のモンスターは観光名所に付随するフィールドのせいか、モンスターの脅威は他の階層の平均に比べると多少なりとも低い。装備の充実した今のシリカなら十分に渡り合えるのだから、過保護なまでに俺の後ろへと控えさせることもなかった。

 

 そもそもゲーム難易度的には、シリカのレベルでもこの階層に踏み入れないなどということはないのだ――死んだらそこで終わりという制限さえなければ。

 アインクラッドの不文律としてHPがイエローゾーンに陥るようなら即時撤退という常識がある。そのためにプレイヤーの想定する継戦能力はとても低い。攻撃力や防御力の数値で見れば、そしてこの世界が本来の意味でのゲーム世界であったなら、47層とてシリカにとって適正レベルでの狩場に過ぎないはずだ。

 俺が思うに、デスゲームでさえなければこのゲームの攻略適正レベルは階層とイコールで結ばれる程度で済む。イエロー即撤退の戦術。命がかかっているために必要以上に保身的にならざるをえないことで、結果的に思い切りに欠ける現実。死への重圧が心身共にプレイヤーを蝕み、判断力を奪うという制限。それら全てが安全マージンの大きさへとつながっているのだと俺は考えている。

 もちろんそうした意識や割り切りをしているのは少数派、もしくは俺だけの可能性もあるし、警戒を緩めて良い理由にはならない。

 それでもシリカが不覚をとった出会いがしらの不意打ちをあえて見逃した戦闘を終え、索敵は全て俺が担当することを改めて言い聞かせてからの道中は、半ばシリカの経験値稼ぎの狩場となり果てていたのだ。俺の持論もそう捨てたものではないと思う。

 

 レベルさえどうにかなれば十分攻略組に通用するシリカの身のこなしと戦闘技術だ。これでピナのサポートが加われば戦力としてかなり将来に期待の持てるプレイヤーだった。惜しむらくは既に攻略組との大きなレベルギャップがあることか。今から鍛え上げても現在の攻略速度で推移する限り、ゲームクリアに大きく貢献するのは難しい。もちろんシリカ自身にそこまで命をかける覚悟があるかとか、そんな環境で戦い続けられる精神力の持ち主かとかの問題は別だし、そうしなければならない理由もないから俺の勝手な感想に過ぎないわけだけど。

 こうしてみると、シリカが中層で竜使いとして有名だというのも、なにも見た目と物珍しさに限った話ではないのだと改めて考えさせられる。ただのマスコット少女ではない、戦闘プレイヤーとしても一角の実力者だ。

 

 道中シリカのレベルが上がったことを二人で喜びあったり、昼食にはシリカお勧めの弁当の感想を言い合ったりしながら和気藹々と進む。ちなみにシリカは、何故か弁当を手作りで用意できなかったことに不満そうだった。現実では簡単な弁当くらいなら用意できるそうだが、こっちでは料理スキルを取得していないせいで料理関係はさっぱりなのだそうだ。親切な知人プレイヤーからお勧め食事処などをよく聞かせてもらえるために食事に不満はないというが、ではなぜ今不服そうなのかと聞くと「キリトさんに料理のできない女の子だと思われたくないんです」と目を逸らしながら答えた。

 アインクラッドのプレイヤーメイド料理はあくまでスキル熟練度によるもので、実際の調理技術とは全く別の話だ。それに現実世界でも女の子は皆料理できなければならないなんて極端な思想を俺は持ってないので、たとえシリカが料理の出来ない女の子でも全く気にしないんだけど。そのあたりを告げてみてもシリカは女の子の意地ですと納得した様子はなかった。

 ふむ、男にも張らなきゃならない見栄があるように、女にも譲れない一線というものがあるのだろう、多分。

 

 そんな会話を楽しむ傍ら、モンスター対策は完璧にこなしてまったく危なげなく目的地に到着した俺とシリカである。

 昨夜の情緒不安定なシリカの様子から道中の苦労を多少なりとも心配していたのだが、一晩経ったことで気持ちの整理が出来ていたらしい。それとも元々集中力の高い娘なのか。無駄に好戦的だったり、逆に臆病風に吹かれてしまうこともなく、俺の指示に素直に従ってくれたおかげで予定よりも随分早く到着できた。

 事前の想定としては夕暮れまでかかる、最悪は一日がかりの大仕事になるかもと覚悟していたのだが、拍子抜けするほど迅速に思い出の丘の頂上に辿り着けてしまった。口にはしないが結構びっくりしていたのは内緒だ。

 

「あれがプネウマの花の咲く岩……」

 

 そんな間抜けな思いを抱えた俺とは異なり、シリカはついに辿り着いた目的地を前に高揚した気分を抑えられないようだ。上擦った声色で一刻も早く駆け寄りたいのだと全身で主張している。俺から不用意に離れないよう言いつけられていなければ、すぐにでも走り出していたことだろう。

 ここまでくればもう大丈夫だ。索敵スキルの視界にも敵影はないし、プネウマの花が咲く岩場の周りはもしかしたらモンスターの徘徊範囲外の可能性もある。警戒は続けるが過度の心配はいらない。

 

「大丈夫。行っておいで、シリカ」

「はい!」

 

 思い出の丘の中心に位置する岩にプネウマの花は咲く。ただし近づくのがビーストテイマーでないとフラグ条件は満たさないため、例えば俺が近づいても何の変化も訪れない。その正確なメカニズムを俺は知らないので、保険の意味でもシリカを先行させる必要があった。ここまで来てフラグ構築に失敗して花が咲かないとかなったらシリカに会わせる顔がない。

 

「あ、あれ? キリトさん、プネウマの花がありません!?」

 

 だから、岩を覗き込んだシリカのその叫びに一瞬背筋がひやりとしたのは事実だ。

 

「よく見るんだシリカ。《プネウマの花が咲く》って言うくらいだから、すぐにイベントが起動しない可能性もある」

 

 返答はすぐだった。

 

「あっ! ありました! すごい勢いで成長してます。わぁ……もうお花をつけちゃいました」

 

 呆然としたシリカの声を聞きながらほっと息をつく。俺からもプネウマの花が咲く一部始終は見えた。まるで記録映像を高速再生するかのように双葉が萌芽したかと思うと、瞬きするうちに白い花弁をつけてしまった。その幻想的な光景に感動する以上に、うまくいってよかったという安堵が胸を満たしていたのはご愛嬌だろう。いや、ほんと咲いてくれてよかった。

 

「花に触れてごらん」

 

 シリカの背後に立って優しく告げると、シリカも嬉しそうに返事をしてすぐに指を《プネウマの花》に触れさせた。すると大自然のなかに咲いた一輪の花から、使い魔蘇生アイテム《プネウマの花》としてオブジェクト化し、やがてシリカのアイテムストレージに消えた。

 

「これで、これでピナが帰ってくる。よかった、本当によかったよぅ」

 

 ぼろぼろと涙を流して感極まったように胸に手の平を当てるシリカの姿に、ここ数日感じていた鬱屈が全て洗い流されていくようだった。人から見れば大したことがないと思えるのかもしれない。ピナは所詮この世界にしか存在しない電子情報のかたまりだ。現実に生きる人間からすれば絵画や物語に登場するキャラクターと同じ実在しないものでしかない。そんなピナを家族だと呼び、帰ってくるのだと大粒の涙を流すシリカの姿は滑稽なものに違いなかった。

 

 しかしそれがなんだというのだろう。俺達は何の因果か茅場晶彦によってこのゲームの世界に閉じ込められてしまった。現実の身体は今もどこかの病院で眠っているのかもしれないが、それでもここにいる俺達はまやかしなどではない。生きているのだ。生きてここにいる。この電脳世界を現実と認め、死んでなるものかとなけなしの勇気を振り絞って戦っている。

 ならばこの世界は俺達にとってもう一つの現実だった。この世界で生きるシリカがピナのために流す涙を、一体誰が否定できるというのだ。否定して良いと思うのだ。

 今、俺の胸を満たす充足感は決して偽りなんかじゃない。

 

「キリトさん、本当にありがとうございました。ここまで来れたのはキリトさんのおかげです」

 

 目尻に浮かんだ涙を拭いながら礼を言うシリカの愁眉はすっかり晴れていた。今までのシリカよりずっと魅力的な表情を浮かべている。ピナを蘇生させられるプネウマの花を無事手に入れられたことで、ようやく安心できたのだろう。今までシリカを包んでいた、隠し切れない張り詰めた緊張感が解けてすっきりとした表情だった。

 ……後はピナを実際に生き返らせるだけなのだが。

 

「それじゃシリカ、悪いんだけど……」

 

 ここまできてお預けを強いるシリカへの申し訳なさも手伝って、思わず語尾を濁してしまう。

 

「わかってます。安全圏に戻るまでピナを生き返らせるのは我慢しますね」

「すまない」

 

 笑顔で頷くシリカの心遣いに罪悪感が募る。

 そんな俺の内心に気づいているのだろう、シリカは気にしないでくださいと付け加えた。

 

 

 

 

 

 《プネウマの花》を手に入れ、胸を弾ませながら元来た道を戻っていく。フラワーガーデンまであと少し、キリトさんがあたしを制止したのはそう思ったのとほぼ同時だった。

 

「出て来いよ。そこにいるのはわかってる」

 

 思わず震えがくるほど冷淡な声音があたりに響きわたる。

 あたしにかけてくれる言葉とはまるで違う。優しさなど何処にもない命令、ううん、恫喝の言葉だった。

 今のキリトさんの言葉には温かみの欠片もない。あるのは怒りと憐憫と少しの呆れ。

 キリトさん自身もここまで思惑通りになると思っていなかったのか、隣に控えるあたしだからこそキリトさんが今味わっている脱力が見てとれたのだと思う。あたしだって本当にこんなことになるとは思っていなかった。

 

「アタシの隠蔽スキルを見破るとはたいした剣士サンだこと。それともばれたのは他の連中のせいかしらね」

 

 ここ数日ですっかり耳慣れてしまった女性の声が空気を震わせる。その声を合図にしたように姿を現すロザリアさんと仲間と思しき男性プレイヤーの数々。事前にキリトさんに聞いていたとはいえ、十を数えるプレイヤーに思わず悲鳴をあげて後ずさりそうになった。その大半が犯罪者を示すオレンジカーソルだったのだ。

 怖い。

 いくらキリトさんが強いと言っても、これだけの数をどうにかできるのだろうか? 最悪の場合は転移結晶で逃げろとは言ってくれてるけど、その場合キリトさんはどうするのだろう。あたしが離脱した後にやっぱり転移結晶を使うのかな。

 

「勘弁してくださいよ。皆が皆隠蔽スキルを鍛えてるわけじゃないんですから」

 

 姿を見せた男性プレイヤーの一人が緊張感の欠片もなく言い放つと、違いないと幾人もの仲間が同意して笑い出した。品のない笑い方、というか人を威圧することを目的にしたような荒々しい笑みだと思った。獰猛な肉食獣が獲物に向けるような、そんな攻撃性の発露を表す粗野な笑い。

 

「やっほーシリカちゃん。また会えて嬉しいわあ。首尾よく《プネウマの花》はゲットできたみたいね、褒めてあげるわ。それじゃあ早速だけどそのプネウマの花、置いていってもらおうかしら。ちなみに断ったりしたらアタシの部下たちが地の果てまでシリカちゃんを追っていくことになってるのよ。そんなことになりたくないでしょう?」

 

 ロザリアさんのあたしを嘲るような態度はいつものことだったが、今日ばかりはその粘つくような声に真っ黒な悪意しか感じ取れなかった。猫がねずみを甚振って遊ぶみたいに残酷で酷薄な笑みが張り付いている。

 怖くなって思わずキリトさんの袖口を握ってしまう。こんなにむき出しの悪意をプレイヤーに向けられるのは初めてだった。

 

「大丈夫だ。心配ないよ、シリカ」

 

 ロザリアさんたちに向けた鋭い声と視線、ぴりぴりとした雰囲気を途端に緩めてあたしを宥めてくれるキリトさんに頼もしさと申し訳なさと疑問を同時に抱いた。どうしてこの人はこんなにも落ち着いていられるのだろう。この自信はどこからくるのだろう。

 

「気に入んないわね、アタシ達を前に恋人ごっこなんてしてんじゃないわよ。あんた、その子のナイト気取り? それとも身体で誑し込まれちゃった口かしら?」

 

 不機嫌そうなロザリアさんの声にキリトさんは何も答えなかった。ロザリアさんのこれみよがしの舌打ちが聞こえる。

 

「何とか言ったらどうなの剣士サン。それともここでアタシらとやろうっての? こっちが何人揃えてるのか見えてないのかしら、それとも、戦力差がわからないほど馬鹿なのかしらね」

 

 その言葉通り小馬鹿にしたようにキリトさんへと疑問を投げかけるロザリアさん。キリトさんは一度大きく息を吐いてから、あたしをかばうように背に隠すと無造作に一歩前に出た。

 

「気に入らないのはこっちだって同じだ。俺とシリカが苦労して手に入れたプネウマの花を横取りしようとか、あんたらこそ何様のつもりだよ。あんまり調子に乗ってると軍にとっ捕まるぞ」

 

 感情を排したキリトさんの言葉は、しかしロザリアさんどころかその配下の誰にも省みられることはなかった。

 ロザリアさんたち皆がドッと一斉に笑い出す。

 

「笑わせないでよ、軍の腰抜け連中がアタシらを捕まえるですって? 出来るわけないじゃない、そんなの」

「おい、小僧。お前は知らねえようだが、軍の連中は内ゲバで忙しいとよ。お前の訴えなんぞ聞いてくれやしねえぜ」

「そうそう、ここから帰れるかどうかの心配をしたほうがいいぜお坊ちゃん。ほれ、大人しくプネウマの花を出しな。今なら命だけは許してやるからよ」

 

 ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らすロザリアさん。嘲笑ったのは軍の人達? それとも軍を引き合いに出す程度の脅し文句で自分達を止められると思ったキリトさん? 他の人達も思い思いにキリトさんを嘲り笑い、誰もまともにキリトさんの話を取り合ってなどいない。

 

「命だけは許してやる、ね。やっぱりあんたらPKの前科持ちみたいだな。流石は犯罪者ギルド、脅し文句も悪党そのものだ。芸のない」

 

 ロザリアさんたちも怖いけどキリトさんも怖い。この状況でどうして挑発なんてできるの? キリトさんの声には隠す気もない侮蔑が感じ取れた。あたしがわかるのだからロザリアさんたちがわからないはずがない。途端に空気が険悪に張り詰めた。

 

「……ふーん。あんた、アタシらのこと知ってたってわけ」

「シルバーフラグスってギルドに覚えがあるだろう? あんたらが少し前に襲ってメンバー四人を殺したギルドだよ。……リーダーだけが逃げ延びた」

「シルバーフラグス? ……ああ、そんな連中もいたっけ。しけた稼ぎにしかならなかったから忘れてたわよ。それがどうかした?」

「逃げ延びたリーダーに頼まれた。どうか俺達の仇を取ってくれってな」

「ちょっと、やめてよねそういうの。ああ、いやだいやだ、正義の味方ごっこなら他所でやってよ剣士サン。アタシ、あんたみたいな青臭いガキって嫌いなのよね」

 

 虫を払うようにぞんざいな仕草で手を振って、うんざりした口調で話すロザリアさん。けれどそんなロザリアさんに頓着することもなく、キリトさんは淡々と続けた。

 

「……情けない姿だったよ。大の男が恥も外聞もなく泣き喚きながらこんなガキの腕に縋って、何度も何度も頭を下げてきたんだ。掠れた声で、哀れに弱弱しく懇願を繰り返しもした。――そいつはな、大切な仲間を失っただけでなく、あんたらに差し出したアイテムやコルのせいで全てを失ったんだ。そこからこの回廊結晶を手に入れて俺に託すまで、いったいどれだけ苦労したと思う? どれだけ自分を責めたと思う? その無念がお前らにわかるか? なのに俺に望んだのはあんた達のPKじゃなく、監獄送りだ。立派な人だったよ」

「はん、馬鹿じゃない? なにが立派な人よ。それにあんた、こんなゲームでなにムキになっちゃってんのさ。まさか本当にこの世界で死んだら現実でも死ぬんだって信じちゃってるわけ? 馬鹿らしい。仮にそうだとしても、プレイヤーを殺すのは茅場の用意したナーヴギアよ。アタシらを罪に問えるはずないじゃない」

 

 ロザリアさんのせせら笑いが耳障りな音となって響き渡った。

 ……この人は一体何を言っているんだろう?

 あたしにはロザリアさんの言っている意味がわからなかった。この世界でHPがゼロになったプレイヤーは現実でもナーヴギアに脳を焼かれて死んでしまう。それはゲームサービス開始初日にゲーム開発者から告げられた死の宣告だ。

 もちろん信じなかった人はいるし、今も半信半疑な人は多い。でもこちらの世界で死んでしまった人は二度とこのゲームに帰ってきていないのは確かなことだし、ゲーム内での死が本当に現実の死でないのなら、もうとっくに現実世界の人の手によってゲームは強制切断されてるはずだ。あたしたちだって救い出されているだろう。

 

 この世界で死んでしまえば現実でも死んでしまう。それは今も囚われたままのあたしたち自身が何よりの状況証拠だった。それくらい子供のあたしにだってわかる。だというのにロザリアさんも、その部下だっていう人たちも理解していない。理解しようとしていない。

 だからそんなにも人の命を軽く扱えるんだろうか? ゲームだから? 現実に帰ったとき、罪に問われないから? だから人を殺しても構わないというのなら、あたしにはこの人たちがわからない。きっと、一生理解できない。

 

「俺も別にあんたらに対して心から悔い改めろなんて言う気はないよ。猿でも反省はできると言うけどさ、俺はあんたらにそんな大それたことは期待しない。無駄とわかってることに付き合うほど暇じゃないんだ。……でもまあ、つくづく救えない。馬鹿ばっかりだよ、あんたら」

「あんた、そこまで言うからには覚悟はできてるんだろうね」

「いつ俺が助けてくださいと命乞いしたよ? 頭だけじゃなく耳まで悪いんだな。オレンジギルド《タイタンズハンド》団長ロザリアね、よくもまあこの程度の女にここまで部下が揃ったもんだ。あんたら、そこの年増に誑かされたんじゃないか」

「こ、のガキ!?」

 

 聞いているあたしのほうが青褪めてしまうくらいキリトさんは情け容赦なくロザリアさんを扱き下ろした。

 正直、あの優しかったキリトさんがここまで他人を罵倒する姿など想像もつかなかったから、もしかしたらこの場の誰より驚いていたのはあたしかもしれない。ロザリアさんもその部下の人達も怒りに顔を歪めてキリトさんを睨みつけている。その表情は悪鬼のごとく恐ろしい縁取りに染まり、あたしは悲鳴を飲み込むようにキリトさんへと視線を移していた。怖かったのだ。

 そんな怒り心頭のロザリアさんたちに対峙するキリトさんは、動揺の一つも感じさせず、微動だにしないまま悠然とあたしの前に立ちふさがっていた。その圧倒的な存在感を放つ背中に深い安堵を覚え――。

 

「そもそもだ。俺とシリカがプネウマの花を手に入れてすぐ使い魔蘇生に使っちまったらどうするつもりだったんだ? あんたたちはここで待ちぼうけした挙句さようならか。それでなくても転移結晶でさっさと帰ってここを通らなかった可能性も高い。ほんと、あんたら何のつもりでこんなところで待ち構えてたんだよ。襲うならプネウマの花を手に入れた直後じゃないと意味ないだろうに」

 

 やれやれと呆れて見せるキリトさんにあたしも思わず同意してしまう。

 そう、だからこそキリトさんもロザリアさんたちが姿を現すことに半信半疑だったし、実際にそうなったときに呆れ顔を隠しきれていなかった。あたしたちがピナをすぐに蘇生させなかったのはあたしたちの事情であって、そんなことはロザリアさんたちにわかるはずがない。キリトさんに止められていなければアタシは一刻も早くピナを蘇生させようとその場でプネウマの花を使っていたと思うし。

 仮にモンスターが危険だというなら転移結晶を使って即座に街に帰り、やはり取るものも取りあえずピナを生き返らせていたに違いない。その場合、転移結晶を使うことにキリトさんが同意するかどうかは別にして、そのくらいピナを優先させることはあたしにとって当然のことだった。

 

 キリトさんはあたしのピナへの思いを知っていたからこそ、こうしてあたしの手伝いをしてくれている。我侭は良くないことだけれど、キリトさんなら、あたしが一刻も早いピナの蘇生を本気でお願いすればすんなり聞いてくれた可能性は高かった。

 そしてそうなっていたとき、プネウマの花狙いのロザリアさんたちの目的がどうなるかなど言うまでもない。

 これまでとうってかわってうんざりした様子でロザリアさんたちを見渡すキリトさん。

 キリトさんの指摘に虚をつかれたのか、あたしとキリトさん以外の全員がその場で固まってしまった。その有様にキリトさんが聞こえよがしに深々とため息を吐いた。

 

「悪党は悪党でも考えなしの小悪党かよ。シルバーフラグスの連中も気の毒に。こんな――」

 

 ――こんな……猿にも劣る畜生共に殺されるなんて。

 

 その言葉が引き金になった。

 

「黙れ! あんたたち、なにしてるんだい! さっさとあのガキを殺しちまいな!」

 

 キリトさんの度重なる挑発にとうとうロザリアさんが激発した。

 冷静な判断で下した命令ではないのだろう。もしもロザリアさんが冷静ならあたしの傍にピナがいないことから、いまだ蘇生アイテムが使われていないことがわかったはずだ。あたしとキリトさんのどっちが所持しているかはわからずとも、キリトさんだけでなくあたしにだって部下を差し向けていたはず。それをしなかったのは、ううん、出来なかったのは、やっぱりキリトさんの作戦勝ちだったのだろう。

 それでも。

 

「キリトさん!?」

 

 たとえ今の状況がキリトさんの思惑通りなのだとしても、屈強な体格をした何人ものオレンジプレイヤーが殺到する様子に思わずあたしは声を張り上げていた。それが何の力にもならないことを承知の上で、それでもキリトさんを心配する気持ちが自然と喉を震わせていたのだった。

 

 

 

 

 

 あたしが事の発端を聞いたのは昨晩、キリトさんと同じベッドに入った後のことだ。

 我ながら大胆なことをしたと思うが、キリトさんはあたしを優しく寝かしつけるだけで変なことは決してしようとしなかった。それにあたしの知らなかった倫理コード解除の設定も教えられて、今回のように軽々しく男をベッドに誘ってはいけないと、それはもう口を酸っぱくして繰り返された。その真摯な内容と真剣な表情から、本当にあたしを心から案じてくれているのだとわかって、こんな優しいお兄さんを持つキリトさんの妹さんが羨ましくなったのは仕方ないことだと思う。

 キリトお兄ちゃん、と呼んだらキリトさんは一体どんな表情をするだろうか。密かにそんなことを考えていたことはキリトさんには内緒にしなくちゃ。

 

 そんなあたしの事情はともかく。

 キリトさんは普段はもっとずっと上の階層にいるらしい。それはドランクエイプを難なく倒してあたしを助けてくれたことや、今日の戦闘を見ていれば嫌でもわかる。あたしなんて比べものにならないほど強い。キリトさんは口を濁していたけれど、多分攻略組の人だろうとあたしは思った。

 そんなキリトさんが35層まで降りてきたのは、オレンジプレイヤー捕縛のためだった。

 ギルド《シルバーフラグス》を壊滅させ、リーダーを除いて皆殺しにしたというオレンジギルド《タイタンズハンド》。キリトさんは残されたリーダーだった人の頼みでタイタンズハンドを追っていたらしい。そのリーダーと目される女性の周囲を張っていたのだと。彼らのアジトや構成員の調査を行い、判明次第一網打尽にするつもりだったと話してくれた。

 

 そのオレンジギルドの団長と目される女性がロザリアさんだと聞いたときはとても驚いたものだ。なにせロザリアさんとはここしばらく臨時パーティーを組んでいたのだから。当然のことだがロザリアさんのカーソルはグリーンで、まさかオレンジギルドの構成員、まして団長だなんて考えるはずもない。そうした疑問をキリトさんに尋ねてみると、オレンジギルドは全員がオレンジプレイヤーで構成されているわけではないのだと教えてくれた。主街区に入れなくなっては物資の調達にも支障をきたすし、なにより獲物を見定めて襲撃を計画するには街を利用できたほうが都合が良い。そうした諸々の都合を踏まえて、オレンジギルドには常に一定数のグリーンプレイヤーが残されているものなのだ、と。

 それにオレンジからグリーンに戻るカルマ浄化クエストも珍しくなくなってきたし。

 苦い表情でそう告げるキリトさんは堪えきれない痛みを必死に我慢しているような表情をしていた。何かあったのだろうか?

 

 そんなオレンジギルドの団長と思われるロザリアさんを追ってキリトさんは中層エリアにやってきた。あたしとロザリアさんの口喧嘩を見ていたのもそういった背景があったらしい。あたしを追い出し、パーティーメンバーの分散を図ったロザリアさんがついにオレンジプレイヤーとして動き出したのかと考えたキリトさんだったが、ロザリアさんを追っていくと何事もなく街に到着。その後も何も起こらず時間が過ぎて、あたしとの口喧嘩が残ったパーティーメンバーを襲うための策略でも下準備でもなかったのだと気づいて頭が痛くなった、と苦い表情でキリトさんは愚痴っていた。

 

 その後、あたしを助けに来てくれた経緯も改めて聞いた。

 迷いの森で一度ロストすると追跡は非常に難しい。だからこそロザリアさんの狙いがあたしではなく残りのメンバーに向いているのだとキリトさんは判断したらしいのだけど。改めて自分が危うい立場にいたのだと認識させられる。

 もし、あの時点でロザリアさんの狙いがあたしだったら。

 もし、キリトさんがあの時あたしの危機を偶然知ったりしなければ。

 ピナだけじゃない。あたしだって――。

 本当に紙一重のところだったのだと身を震わせ、そんなあたしの背をキリトさんは優しくさすって宥めてくれた。やっぱりキリトさんは優しい。

 

 キリトさんがあたしにそうした事情を話してくれたのは、どうもロザリアさんの狙いがプネウマの花を取りに行くあたしに絞られた節があると判断したためらしい。あの時の盗み聞きは恐らくロザリアさんの手の者だろう、というのがキリトさんの考えだった。あたしは未だに半信半疑だったところもあり、控えめに同意するに留めたのだけれど。

 そしてキリトさんがあたしに頼んだのがプネウマの花を囮にロザリアさんたちを引きずりだすことだった。要するに囮捜査だ。

 プネウマの花をすぐに使わなかったのも、帰りに転移結晶を使わなかったのも、キリトさんが常に索敵スキルで万全の警戒を敷いたのも全てはタイタンズハンドを釣り出し、捕縛するための手段だった。……道中の恥ずかしいハプニングも同時に思い出して泣きたくなった。うぅ、恥ずかしい。

 

 ただ最終的な判断はあたしに任された。ピナをすぐに生き返らせたい気持ちもわかるし、オレンジギルドとの抗争に巻き込みたくない気持ちもあるのだと。そしてプネウマの花を手に入れた段階であたしだけでも転移結晶を用いて街に戻す案も出た。

 結局キリトさんの心遣いはあたしのほうからお断りさせていただいた。勿論オレンジプレイヤーの集団は怖い。とても怖い。それでもあたしを助けてくれたキリトさんのために何か力になりたい、恩返しがしたいという思いがあたしの心を決めた。そんなあたしの思いを告げるとキリトさんは複雑な顔をしていたが、それでも最後には「ありがとう」と受け入れてくれた。

 その後に「絶対にシリカを守るから」と言われて顔どころか体中が茹蛸のように真っ赤に、そして体温が急上昇してしまったことはキリトさんには絶対秘密だ。不意打ちはずるいです、キリトさん。

 人を傷つけることを何とも思わない犯罪者集団、オレンジギルドと相対することに不安と恐れはあったが、その夜はキリトさんのぬくもりに包まれて驚くほど安らかに眠れたのだった。

 

 そして今日、プネウマの花はキリトさんのおかげで難なく手に入れることが出来た。その間にあたしのレベルも一つ上がるというおまけ付き。それでもソロや少人数パーティーではとても47層攻略なんて無理なレベルだったのだが、キリトさんがサポートしてくれると自分のレベルを勘違いしてしまいそうなほどスムーズに、そして安全に敵を倒せたことにびっくりだった。あたしが戦う時は必ずキリトさんのサポート付きで敵は一体だけ。あたしが受けるには危険だと判断した攻撃は全てキリトさんが弾いてしまうし、あたしに対する指示も明瞭でわかりやすい。

 その結果、あたしはますますキリトさんを尊敬することになった。ただ、そんなキリトさんでもギルド一つ、それもオレンジプレイヤーの集団を相手にするのは難しいんじゃないかと心配していたのだ。覚悟を決めて今日を迎えたとはいえ、やっぱりオレンジギルドの人達は怖かったし、ロザリアさんも恐ろしかった。何度もキリトさんに逃げましょうと言いたくなった。

 そのたび、キリトさんを信じるんだと心の中で呪文を唱えて平静を保とうとした。あたしはキリトさんの戦いの助けにはなれないけど、せめて無様に一人キリトさんを見捨てて逃げたりしないよう、必死で弱気になる心を叱咤していたのだった。

 

 ――そんな今までのあたしの思いを返してほしい。

 

 思わず脱力して愚痴を言いたくなるような光景が今あたしの眼前に広がっている。

 キリトさんは相変わらずその場に立っているだけだ。剣も構えていない。だというのに場は静まり返り、ロザリアさんとその部下の人達は一様に青い顔でキリトさんを見つめている。信じられないというか、いっそ化け物か幽霊でも見ているような目をしていた。

 同情はしないけど理解は出来る。

 だってありえない。

 何人ものプレイヤーが代わる代わるキリトさんを切りつけ、ソードスキルまで使って本気で殺そうとしたのだ。あたしが悲鳴をあげたのは当然だし、ロザリアさんたちが勝利を確信して嫌な笑みを浮かべたのも当たり前のことだった。その当たり前が崩れたのは、攻撃している側の《タイタンズハンド》の行動全てが無意味だと思い知らされ、彼らの戦意が根こそぎ消失してからのことだった。

 

 パーティーを組んでいたためにあたしはキリトさんのHPバーが見える。だからすぐに気づけた。何本という剣や槍に攻撃されたキリトさんのライフは一向に減る気配を見せなかったのだ。目をこらさねば減っているかどうかもわからないほど微々たるダメージ。たまにクリティカル判定が出てようやく目に見える範囲でゲージが削られることがあっても、そんな努力を嘲笑うかのようにライフゲージが自然と回復して満タンになってしまい、すぐさまスタート地点に戻されてしまう。その繰り返しだった。

 アイテムを使った様子もないから何か特殊なスキルによる回復効果だろうか? もしかしてエクストラスキル?

 今のままじゃ何時間攻撃し続けたってキリトさんは倒せない。それだけの実力の差が両者にはあった。

 

 キリトさんは退屈そうに自分を攻撃し続けるオレンジプレイヤーの群れを眺めていた。度重なる剣撃にも全く動じず泰然と佇むキリトさんは、果たしてロザリアさんたちにはどう見えていたのか。想像するだに震えが走りそうだった。

 やがて自分達ではどうしようもない状況に気づいたのか、一人が攻撃の手を止め、二人、三人と続き、すぐに全員の動きが止まった。ロザリアさんの檄も今となっては何の意味もない。キリトさんは剣の一振りもなく、一歩も動かずに彼らを制してしまった。

 ……信じられない。

 味方のあたしですら呆然としてしまったのだ。ロザリアさんたちが悪夢を見たような顔になるのも仕方ないだろう。キリトさんを攻略組の一人だと推測していたあたしですらこんなの予測不可能だ。ここまで一方的で隔絶した実力差が存在するなど、誰も信じられないだろう。

 

「根性ないなあんた達。もう少し粘るかと思ったんだけど、案外簡単に諦めるもんだ。で、次はどうする? 死にたいやつから前に出ろとでも言ってやろうか? ああ、一応警告しておくぞ。逃げたりしたら俺が地の果てまで追っていく。そして今度こそ剣を抜いて相手になってやるよ、そうはなりたくないだろう?」

 

 キリトさん、けっこう意地悪です。ロザリアさんがあたしたちに使った脅し文句をそのまま返しちゃいました。

 

「何なのよ、あんたいったい何なの!?」

 

 耳を(つんざ)く金切り声が木霊するも、返答はない。

 錯乱したように叫ぶロザリアさんを一瞥すると、なぜかキリトさんはロザリアさんにそれ以上目もくれず、誰もいないはずの空間をにらみつけてしまった。どうかしたのかなと思う間もなく、キリトさんが今まで一度も抜かなかった剣を構えたことで場の雰囲気が一変した。

 ぞくりと走る怖気。あたしでもわかる。これ、殺気だ。肌が粟立ち、心臓が締め付けられるほど鋭い気迫。演技なんかじゃない、キリトさんの本気の臨戦態勢だった。

 でも、どうして?

 

「何度も言わせるなよ、そこにいるのはわかってるんだ。《出て来い》」

 

 そう言うや否や、目にも止まらぬ速さでスローイング・ダガーを投擲した。あたしにわかったのは、そのダガーが乾いた金属音に弾かれて地面に落ちてからのことだった。そこでようやくキリトさんが投擲武器を使って攻撃を仕掛けたのだと理解できた。同時に、それはキリトさんが投じたダガーが防がれた音なのだと。

 

「久しい、な。その、様子だと、息災だった、ようで、結構な、ことだ」

 

 木陰から姿を現したのは奇妙な骸骨を模したマスクで素顔を隠し、身体全体もフードマントで覆われていたせいで体格も定かではないプレイヤーだった。仮面の装備効果の一つなのか、ひどくくぐもった声をしていて、その上途切れ途切れに言葉を発するせいでとても聞き取りづらい。頭から足まで不吉な空気を纏っているプレイヤーだった。

 こんな陽の高いフィールドで目にして良い雰囲気では絶対にない。むしろ夜の墓場とか、そうでなければお化け屋敷の幽霊みたいなおどろどろしい雰囲気の持ち主だ。ホラームービーにでも出てきそうな、そんな薄気味悪さ。この人には悪いが心底そう思ってしまったのだから仕方ない。思い出の丘に出現した気持ち悪い植物お化けよりももっと気色悪い感覚をあたしは抱いていた。

 なにより、そのカーソルが示す色はオレンジ。見た目に相応しい後ろ暗い過去を持つプレイヤーだった。

 

「お前のせいで気分は最悪だがな。こんなところで何をしてやがる、ギルド《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》《赤眼のザザ》」

 

 《ラフィン・コフィン》!?

 その名に動揺したのはあたしだけじゃない。タイタンズハンドの面々まで驚愕の目で新たに現れた不吉な男を見ている。

 殺人ギルド《ラフィン・コフィン》。

 悪名高きレッドギルド。

 その脅威は凡百のオレンジギルドの比じゃない。というより別格中の別格。最悪の代名詞で、あたしたちをこの世界に閉じ込めた茅場晶彦と同様、下手をしたらそれ以上に憎まれ、恐れられている集団だった。

 犯罪を好んで犯すギルドは通称オレンジギルドと呼ばれる。ではラフコフのレッドギルドとはなんなのか。その意味するところは公然とPKを謳う残虐性だった。犯罪とは言っても大抵の場合、恐喝や窃盗あたりまででPKまで及ぶプレイヤーは多くない。でもラフコフはそんな境界線を軽々と踏み越え、怨恨や利害を超えて無差別に人を殺そうとする。殺してしまう。だからこそのレッドギルドという蔑称だった。

 

「なぜ、この俺が、わざわざ宿敵に、そんなことを、教えてやらねば、ならん」

「勝手に人を宿敵に祭り上げるんじゃねえよ、俺にそんな大層な思い入れはない」

 

 憎憎しげに、そして荒々しく告げるキリトさんにザザと呼ばれた仮面の人は気味の悪いくぐもった笑い声を漏らした。

 あたしは一歩も動けない。キリトさんの変貌を信じられないからじゃない。赤眼のザザと呼ばれたプレイヤーの得体の知れない気味悪さに怖気づいて、声も出せないほど緊張を強いられていたせいだ。

 

「PoHの、団長以外は、眼中に、ないか。傲慢な、お前らしい、台詞だ」

「そのPoHのやつに警告しておいたはずだぞ。お前らがこれ以上プレイヤーを殺そうとするなら俺がお前を殺してやるってな。戦争と暗殺、どっちがお好みかPoHのやつに聞いておいてくれ。あいつの嫌いな方で決着をつけてやる」

「威勢が、良いこと、だ。甘ちゃんの、貴様に、そんなことが、出来るものか」

 

 嘲り笑う声だった。けれどキリトさんは些かも気にした様子は見せず、ふんと小馬鹿にするように鼻で笑い返した。

 

「お前らこそ忘れてんのか。このアインクラッドにおいて最初の人殺しを犯したのはお前でもなければPoHでもない、この俺だ。元オレンジの俺が、今更お前らみたいな悪質な犯罪者相手に躊躇うとでも思ってんのかよ。お前こそ随分甘ったれた考えをしてるじゃないか、赤眼なんて粋がってないで改名でもしたらどうだ? 《甘ちゃんのザザ》」

「……タイタンズハンドを、屈服させたからとて、あまり調子に、乗るんじゃない。ラフィン・コフィンは、ここにいる、半端者程度とは、わけが、違うぞ」

「日陰者に本物も偽者もないだろう。犯罪の上下を競うとか、ちょいと程度が低すぎやしないかザザ。こっちが恥ずかしくなるようなつまらない自尊心の満たし方をするなよ。そんなだから何時まで経ってもお前はPoHの腰巾着なんだ」

「――殺す!」

「腰巾着風情が俺を殺す? ……はっ、面白い冗談だ。丁度良い、PoHより先に引導を渡してやるよ、ザザ」

 

 八重歯をむき出しにして不敵に笑うキリトさんの両の手には、それぞれ一本ずつ剣が握られていた。

 右手に握っているのはあたしも目にしたことのある、今までキリトさんが装備していた黒の装飾に黒の刀身の片手剣。もう一方の手に握られているのは緑の宝石が鮮やかな、紅の刀身をした片手剣。

 アインクラッドにおいて両手にそれぞれ剣を装備するメリットはない。なにせ形の上では二刀を振り回せても、ダメージ判定は片手分しかシステムが計上してくれないのだから。しかも右手と左手の装備スロットを同時に武器で埋めてしまうと、システムエラーが発生してソードスキルの発動そのものを阻害してしまう、つまりデメリットしかない。

 だから片手剣使いの多くは普通空いた手に盾を持つし、装備品の重さや敏捷数値を気にする人、アイテムを多用する少数の人は盾なし片手剣スタイルを選ぶ。キリトさんは後者のタイプだった。昨日からずっと、盾なし片手剣スタイルを変えるようなことはなかったのに。

 

 けれどそんな無意味な二本の剣装備を、唯一意味あるものに変えるスキルがあった。この世界で未だ一人のプレイヤーにしか発現していないというエクストラスキル《二刀流》。《神聖剣》と並んでユニークスキルと噂されている、希少に希少を重ねたスキルだった。

 でも、そうか。キリトさんが《二刀流》使いだというなら。

 この人は、キリトさんは、攻略組の誇るトッププレイヤーの一人。血盟騎士団団長さんと並ぶ最強プレイヤーの一角であり、数々の逸話と二つ名を持つソロプレイヤーだ。……そして、第一層において初めてPKの凶行をなした《仲間殺し》のオレンジプレイヤーでもある。

 あたしが顔も知らなかった《黒の剣士》さん。

 それが、優しくて頼りになるキリトさんの正体だった。

 

 突然に辿り着いたその事実に、あたしの心は乱れに乱れて一向に定まろうとしない。

 そしてあたしの心がどれだけ乱れて混乱していようが、既にあたしは単なる傍観者の一人だ。あたしが何を思おうと事態の進行は待ってくれない。仮面のプレイヤーが無言で武器――鋭い切っ先の針剣(エストック)を構えたことを合図に戦闘の火蓋は切って落とされた。

 元々片手剣と針剣では手数は針剣に分がある。片手剣よりも細剣(レイピア)、細剣よりも針剣(エストック)のほうが軽量で速さに優れているからだ。ただし耐久性は軽くなるほど落ちていくし、斬撃に振られた攻撃力も消えていく。細剣はまだしも針剣は刺突専用武器だと言っていい。

 

 細剣使いで最も有名なのは《閃光》として名を馳せる血盟騎士団副団長アスナさんで、最速の剣さばきを称えられているのもそうだ。針剣使いで凄腕と称えられるプレイヤーの噂は聞いたことがない。それを思えばザザと呼ばれた髑髏マスクのプレイヤーの実力は高くないと思いたかった。でも、ラフコフに所属するプレイヤーが弱いとはどうしても思えず、あたしの不安と緊張はいや増すばかりだった。タイタンズハンドの人たちにだって負けそうなあたしじゃ、多分ラフコフの人たちとは戦いにもならない。

 キリトさんはどうなんだろう。殺人を辞さないレッドプレイヤーの集団、ラフィン・コフィンが相手でも怖くはないのだろうか。

 

 先制攻撃は針剣の一撃からだった。その剣さばきは文字通り目にも止まらぬ速さで、恐ろしいのは針剣を操る腕がシステム補正のかかるソードスキルによるものではなく、プレイヤー個人の技量でまかなっていることだ。ソードスキル特有の燐光がない。

 武器の性能を比較するとどうしたって片手剣による手数でキリトさんが劣勢だ。加えて針剣は対人武器カテゴリーと評されて嫌われているだけに使い手も少ない武器だった。経験という意味でもキリトさんに不利な戦いになるのは否めない……そのはずだった。

 でも二本の剣を縦横無尽に振るうキリトさんの剣閃は、単純に剣が二本になったから手数も倍になったなんてものではなく、速度に勝る針剣の連続した突きを全て弾き返していた。キリトさんのHPはほとんど減っていない。逆にキリトさんの暴風のような剣撃はクリーンヒットこそしていないが幾度か敵の身体を捉え、そのたびに剣によるダメージエフェクトが発生する。

 二人の戦いはあたしの力ではとても助けになんて入れない、中層では馴染みのない高等技能の応酬を駆使しあったものだった。目まぐるしく位置を入れ替え、時にアクロバティックな動きで互いが互いを出し抜こうと激しく交差する。そして相手の隙を見出した瞬間にソードスキルの燐光を輝かせているようだった。

 その攻防の全てを理解できたわけではないけれど、戦闘そのものはキリトさんが有利に進めていることはわかった。あたしの目が特別に良いとかじゃない、単にキリトさんのライフゲージが一向に減る様子がなかったからそう判断したに過ぎない。

 

 二人の激突を固唾を飲んで見守る。この期に及んであたしが出来ることなど何もない。タイタンズハンドの人達も何もできずに呆然と二人の戦いを観戦しているだけだった。次元の違う戦いに恐れおののいているのかもしれない。あたしだってキリトさんが敵だったならとても落ち着いてなどいられない。何をおいても逃げ出すことを選ぶだろう。そう思ってしまうくらいキリトさんの力は絶大だ。最悪ギルド《ラフィン・コフィン》の一員を相手にして一歩も引かないどころか圧倒している。

 決着も遠くない。そう判断して小さく安堵の息をつこうとした時、どこからか「イッツ・ショウ・タイム」と雅やかな声が耳に届いた。妙なアクセントをした声だな、と考えてしまったこの時のあたしはどれだけ間抜けだったことか。

 

 その瞬間、唐突にキリトさんが身を翻して懐から小さな短剣を取り出し、それをあたしに向かって飛ばした。まさか、という思いよりもその瞬間何が起こったのかわからなかった。反応ができるできないではない。あたしはキリトさんの投じたスローイング・ダガーを避けようという意志すら忘れて、馬鹿みたいに呆然と立ち尽くしていたのだった。

 それがあたしの勘違いだと判明するのはそんなコンマ何秒かの世界を抜けてすぐのことだ。乾いた金属音を響かせ、あたしのすぐ傍に落ちた2つの凶器。一つはキリトさんが投じたもの、そしてもう一つは――もう一つのスローイング・ピックは一体どこからやってきたのだろう? あたしを狙った攻撃だったことは間違いない。そしてそれをキリトさんが防いでくれたのだということも。

 じわりと胸を満たす恐怖と混乱に、ひっ、とひきつった悲鳴があたしの口から零れるのと、キリトさんがあたしの元に駆けつけてくれたのはほとんど同時だった。

 

「シリカ、無事か?」

「は、はい。おかげさまでなんとか」

 

 恐怖と混乱に戦慄く唇を噛み締めて、なんとかキリトさんに答えた。キリトさんはあたしの無事を確認するとほっと安堵の息をつき、それからすぐに表情を厳しくして剣を構えなおした。視線は変わらず鋭い。ううん、弾かれた投げナイフを一瞥して今まで以上にきつく鋭く、そして険しくなったようにさえ見えた。

 キリトさんの視線を追うと、いつの間にかそこには二人のプレイヤーが立っていた。言い知れぬ不気味さが際立つ片方のプレイヤーは高い身長にポンチョを纏い、その傍らに控えている小柄なプレイヤーは黒いマスクで顔を覆っていた。二人とも揃ってフードを目深にかぶっていているせいで表情はまったくわからない。でも、わずかに覗く口元は嘲笑に歪んでいた。

 

「ざまあないねぇ、ザザ。黒の剣士にいいようにやられたみたいじゃないか」

 

 甲高い声音で面白げに囃し立てたのは小柄な方のプレイヤーだ。

 苦虫を噛み潰した表情で「ジョニー・ブラック」とキリトさんがつぶやいた。

 

「……ふん、二刀流、とやらに、驚いた、だけだ。次は、仕留める」

 

 キリトさんが相手をしていた髑髏マスクのザザも早速二人に合流していた。そのなかで一人沈黙を保っている背の高い男の人――彼らの中心に立つプレイヤーを目にして知らずあたしの身体が震えた。キリトさんの本気の殺気を感じ取った時か、それ以上の金縛りにでもあったみたいだ。怖くて寒くて座り込みたくなってしまう。立っていることすらつらいと思わされる、尋常でないプレッシャーの持ち主だった。あるいは不気味で酷薄な、と言い換えるべきだろうか。

 キリトさんの背に隠れるように相対しているから向き合えているだけだ。あたしにあのプレイヤーと戦うことなんて絶対無理。レベルとか技術が足りないとかじゃなく、目があっただけで殺されてしまいそうなプレッシャーに立ち向かえるとはとても思えなかった。

 

「次から次へと……。相も変わらず演出過剰な連中だな。ラフコフに仲間意識なんてあったのかよ、PoH?」

 

 陽光を吸い込んで真紅に光る剣先を向け、苦々しい声で告げるキリトさんだったが、あたしはそんなキリトさんの様子よりもその口にした言葉にこそ息を呑んだ。

 《ラフィン・コフィン》団長PoH。

 残虐非道、冷酷無比の代名詞。

 ラフコフのメンバーがいるのだ、そのトップが現れたって不思議ではないと冷静に考えればわかることだが、あたしはそんなこと全く考えなかった。考えたくなかったのかもしれない。犯罪(オレンジ)ギルドだけでも怖くて仕方がないのに、そこに殺人(レッド)ギルドが割り込み、果てには最低最悪のプレイヤーまで出てきた。冗談じゃなく泣き叫びたい心境だった。

 

 あたし一人ではどうにもならない状況だ。キリトさんの言葉ではないが次々に襲い来る理不尽のせいであたしの目尻には涙が浮かんでいた。

 ピナを生き返らせるためにプネウマの花を手に入れにきた。それだけだったのに、今はオレンジギルドとレッドギルドの二つと対峙している。その上あたしは戦力外だから実質キリトさん一人でこの状況を切り抜けなきゃいけない。どうしてあたしはこんなに弱いのだろうと、どうにもならない後悔が胸に湧き上がる。

 せめて、せめてあたしもキリトさんと一緒に戦えるレベルなら……。

 

「仲間意識はねえが共犯意識はあるな」

「ご立派な御託だ。それで、今度はザザの代わりにあんたが俺の相手をするのか? 何なら三人同時でも構わないぜ、ここでいつかの決着をつけるのもいいだろうさ」

「Wow……! 今日はまた一段と吠えるじゃねえかキリト、三人同時とは大きくでたもんだ」

「これでも剣の腕にはそこそこの自信があってな。出来るか出来ないか、身を以って確かめてみるか?」

 

 キリトさんは揺るがない。

 ラフコフ幹部を相手に回して尚、多対一の戦闘を制すことが出来ると確信しているかのように声に迷いはなく、流暢に語る姿からは虚偽の一切を感じ取れなかった。

 

「おいおい、勘違いしてんじゃねえよ。俺達はザザの言う見世物を見物にきただけだ、ここでお前とやりあうつもりはねえ」

「……二枚舌も大概にしておけよ。だったらシリカを麻痺毒仕込んだピックで狙ったのはどういった了見だ?」

 

 口元に笑みが刻まれたまま、返答は――ない。

 沈黙こそが雄弁の証だと言ったのは誰だったろう。

 

「これ以上俺を怒らせるなら本気で息の根を止めてやるぞ、PoH。そんなに脳を焼き切られたいなら望み通りにしてやる。お前らお得意の持論なんだろう? ここで俺がお前らを殺しても、現実世界でプレイヤーの命を奪うのは茅場の用意したナーヴギアだ。俺を日本国の法で裁ける道理はない、ってな。ザザにも言ったが、PKがお前らだけの専売特許だと思うなよ」

「あまり虚勢を張るもんじゃねえな。連れの小娘を抱えて俺達と殺し合いとは笑わせてくれるじゃねえか。まして俺らとの決着なんざ夢のまた夢だろうよ。くく、足手まといを気にしなけりゃならねえってのは難儀なことだ、頼れる部下を持って俺は幸せだよ」

 

 キリトさんを揶揄するように嘯き、次いであたしにぞっとするような冷たく無機質な視線が向けられた。怖い。それだけで息がつまり、身震いに凍えてしまう。キリトさんはそんな萎縮したあたしを気遣うように、そっと背に隠すことであの恐ろし気なラフコフの人達の視線から庇ってくれた。

 

「……あんたらしい悪辣さだ、直接手を出さずとも人質は取れるってか。だがな、あんたこそ思い違いをするなよ。人質は無事だからこそ意味があるんだ。お前らが俺の目を盗んでシリカに指一本でも触れようものなら、その瞬間から俺はお前達全員を付けねらう暗殺者になるだろうさ。喜ぶといいぜ、攻略至上主義の黒の剣士がゲームクリアよりも優先してその首を狙ってやるんだ。――毎夜殺される恐怖に怯える覚悟があるなら手出ししてみろ、後悔させてやる……!」

 

 射抜くように、貫くように。その剣の切っ先と同じくらい鋭く尖るキリトさんの舌鋒だ。

 常のキリトさんらしくない荒々しさと言い、遠慮呵責ない脅迫の言葉と言い、どちらが犯罪者なのかわからないほどの並々ならぬ激情の発露だった。キリトさんとラフォン・コフィンの人達はどうも顔見知りのようだけど、その仲は険悪そのもので寄らば斬るといわんばかりのキリトさんの態度だ。一体どんな因縁があるのか、この確執ぶりは単純にレッドギルドが相手だからという理由ではすまない気がする。

 そんなあたしの内心の疑問に答えなどでるはずもなく、キリトさんたちの間でぴりぴりと肌を焼く睨みあいが続く。場に満ちる剣呑な雰囲気が刻一刻と臨界点を目指して高まっていくようで、あたしは瞬き一つできず彫像のように固まっていた。

 

「お前は本当にいじらしいなあキリト。顔に似合わねえ激情家ぶりも健在ときたもんだ。――まあいいさ、今日のところは黒の剣士殿の顔を立てておいてやる」

 

 自分達の優位を確信しているかのように余裕たっぷりに、あるいはキリトさんを甚振って楽しむかのように低く空気を震わせる。「退くぞ」と皮肉そうな口ぶりで部下を促したのは、あたしが息苦しさに喘いで必死に空気を求める直前だった。

 

「えぇ、ヘッドぉ、ここで殺っちまわないのかよー」

「俺達がしたいのは殺しであって殺し合いなんかじゃねえだろうよ。キリトのやつと正面からやり合いたいなら止めないが、加勢も期待するんじゃねえぞ。俺は猪を部下に持った覚えはないぜ?」

「へいへい、つまんねえの」

 

 いっそ無造作に背を向け、歩き出すラフィン・コフィンの幹部勢。

 その最中、赤眼のザザが一人足を止めて振り返る。

 

「黒の剣士、お前は、この俺が、必ず殺す……!」

「保護者同伴で来るようなガキはご遠慮願いたいもんだ。二度と顔を見せるんじゃねえよ。――さっさと消えろ」

 

 その言葉の応酬を最後に三人の姿がすぅっと景色に溶け込むように消えてしまった。何かのスキルかアイテム効果なのかもしれない。キリトさんならあたしの疑問にも答えてくれるのだろうか? 自然とそんな考えが浮かび、また自分の無力さと無知さに気落ちしてしまう。出会ってからずっとあたしはキリトさんに頼ってばかりだ。

 しばらく無言のままラフコフの人達が去った方向を睨んでいたキリトさんだったけれど、やがて大きく息を吐いて剣を鞘に納めた。そして手のひらに回廊結晶を乗せて、未だに固まったままのロザリアさんに向き直り、口を開く。

 

「さてと、待たせて悪かったな。この回廊結晶は黒鉄宮の監獄エリアに出口が設定されてる。……選べ、ギルド《タイタンズハンド》団長ロザリア。配下の連中ともども回廊結晶の扉をくぐるか、それともこの場で俺に斬られて黒鉄宮の墓碑に仲間入りをするのか。好きなほうを選ばせてやる」

「……アタシはグリーンプレイヤーだ。そんなことしたらあんただってオレンジになるんだよ。なのに殺すっていうのかい」

 

 頬を引きつらせたロザリアさんの声は明らかに精彩を欠いていた。さっきまでの、そしてあたしに嫌味を言って笑っていたころの余裕はどこにもない。得体の知れない強プレイヤーに怯え、アインクラッド最強の双璧とされる黒の剣士の姿に恐れ慄き、殺人も辞さないというキリトさんの宣言に身を震わせていた。なけなしの気概を張って口にしたのであろうロザリアさんの口上は、哀れなくらい弱弱しく聞こえた。

 そんなロザリアさんの悪足掻きの言葉にキリトさんは深々とため息をついてから口を開いた。

 

「カルマ浄化クエストくらい知ってるだろう。何より俺はソロだぞ。追い出されるパーティーもギルドもない。オレンジのまま攻略組に身を置いていた時期だってある。そんな俺がいまさら犯罪者の称号を恐れたりするものか」

「違うわよ! アタシを斬って人殺しになれるのかって聞いてるの!」

「それこそ何を聞いてたんだよあんた。このアインクラッド最初のPKは俺の手によるものだ。俺はシリカみたいな善良なプレイヤーじゃないし、あんたらと同じく人を殺した前科持ちの元オレンジなんだよ。それに攻略の一番の障害であるラフコフと同じく、プレイヤー側の戦力を面白半分に削るあんたらみたいな連中は俺の敵でしかない。敵に容赦する必要なんてないと思わないか? 攻略第一の俺にとっちゃ好んでPKを犯す連中なんて百害あって一利なしだ。モンスターより性質が悪い」

 

 顔を顰めて吐き捨てるように口にしたキリトさんに本気を感じたのか、タイタンズハンドの面々は皆うなだれ、立ち上がる気力もないようだった。誰も彼もが怯えきっていて、キリトさんと目を合わせることを避けているようですらある。

 ……わからなくもない。だってあたしだって今のキリトさんは怖い。どうしようもなく怖かった。

 

「勘違いしてるみたいだから言っておくけどな、シルバーフラグスのリーダーの頼みがなければお前らみたいな外道連中、問答無用で殺してやりたいくらいなんだ。……もういいだろう、俺の自制が効いてる内に早く選べ」

「待ってよ。アタシたちはあいつに……!」

「《赤眼のザザ》に騙された、か? だからなんだって言うんだ。この期に及んで言い逃れでもしたいのか、見苦しい」

「あんた、知って……?」

「そもそも利用されただけなんて言える立場じゃないだろう。ザザのやつになんて言われて唆されたのかは知らないが、一つのギルドをPKで壊滅に追いやったんだ。情状酌量の余地なんてどこにある」

 

 呆れ混じりのキリトさんの声は続く。

 

「元々殺人なんて大それた真似をするのは《ラフィン・コフィン》の連中くらいだからな。アインクラッドで起きる殺人事件のほとんどにやつらの影が見え隠れしている。直接的なPKだけじゃない、忌々しいことに人の悪意や弱みに付け込んで扇動するのはやつらの十八番だよ。……今回俺がシルバーフラグスの頼みを引き受けたのも、ラフコフの連中が暗躍してる可能性があったからだ。タイタンズハンドなんて今まで碌に話題にもならなかった無名のギルドが、いきなり余所のギルドを皆殺しにしようなんて派手な動きをしたんだ。これは何かあると思っても不思議じゃないだろう。実際にラフコフが出てきたわけだしな」

 

 ――調子に乗った末路だ。

 

 冷たい双眸で淡々と語るキリトさんにロザリアさんも観念したのだろう。それ以上の言葉はなかった。キリトさんが回廊結晶を起動させ、扉に入るよう促すとのろのろとした動きでロザリアさんが扉をくぐる。続いてタイタンズハンドのメンバーたちも生気のない表情で重い足をひきずって次々に転移していった。

 キリトさんに逆らって逃げ出そうなんて考えるプレイヤーは誰一人いなかった。多分、怖かったのだろう。《聖騎士》と並んで最強を冠せられる《黒の剣士》から逃げ続けられるとは思えなかったに違いない。そしてもしここで逃げて次にキリトさんに捕まったら、監獄送りどころか宣言通り首を切られることになると恐怖に駆られたのだろうと思う。それくらいキリトさんの言葉は真に迫った迫力があったし、何より語る言葉の一つ一つ、キリトさんの来歴そのものが非情さを裏付けていた。最凶最悪ギルド《ラフィン・コフィン》を相手にまわし、一歩も引くことなく渡り合った姿を見れば抵抗の意志を失くしたのもまったく不思議じゃない。

 ギルド《タイタンズハンド》の全員が回廊結晶の扉を潜り、やがて回廊結晶の生み出す青白い光が収束していく。残ったのはキリトさんとあたしの二人だけ……。そしてあたしは、キリトさんになんて言葉をかければいいのか見当もつかなかった。

 

 優しいキリトさん。

 頼りになるキリトさん。

 怖いキリトさん。

 今のキリトさんはそのうちどのキリトさんなのだろう?

 声をかけることが怖かった。敵に向けるキリトさんの目が恐ろしかった。そして、そんなキリトさんの目を見たくなかった。

 

「……ごめんな、シリカ」

 

 ぽつりと、それだけ口にしたキリトさんはその場に倒れこんでしまった。

 

「キリトさん!?」

 

 慌ててキリトさんの隣に駆け寄り、横になったキリトさんの顔を覗き込む。何か状態異常でも引き起こしてしまったのだろうか。あたしを狙ったピックには麻痺毒が付与されていたというけれど、じゃあキリトさんも戦闘の最中に何かしらの毒を受けてしまっていたのだろうか。今の今までそんなそぶりは一つも見せなかったはずだけれど。

 

「大丈夫ですか! えっと、解毒結晶? ううん、それより転移結晶で街に跳んだほうが……!」

「そうじゃない、そうじゃないんだ、シリカ。状態異常にかかったわけじゃなくて――」

 

 ――ただ、自分の馬鹿さ加減に嫌気が差しただけだ。

 

 そこでようやく気づいた。キリトさんの声はひどく弱弱しい。あたしの中のキリトさんはいつでも自信たっぷりな姿の印象が強いから、右腕を被せるように表情を隠して力なく横たわり、のろのろと疲れきった声音で話すキリトさんは意外そのものだった。

 ……ううん、妹さんのことを話してくれたときだけは、今みたいな、迷子みたいに泣きそうな顔をしてた。

 あたしを元気付けてくれる姿や、モンスターと戦う背中の印象が強かったせいですっかり忘れていた。そうだ、キリトさんだってあたしと同じ人間なんだ。悲しみもすれば弱気にだってなる。なのにどうしてあたしはキリトさんを怖いだなんて思ってしまったんだろう。

 すうっと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。よし、落ち着いた。

 黙り込んでしまったキリトさんの隣にそっと腰を降ろす。生い茂った芝生の感触がこそばゆかった。

 

「……さっき、あたしに謝ってました」

「うん」

「どうしてですか?」

「隠し事をしてたこと、危険に巻き込んだこと、怖がらせたこと、全部――全部謝りたかった。だからだよ」

「でもキリトさんはあたしに色々話してくれたじゃないですか。囮になることを決めたのだってあたしです」

 

 だからキリトさんは悪くありません、そう続けるもキリトさんはその腕で表情を覆ったまま「違うんだ」と否定するだけだった。あたしと目も合わせてくれない。

 

「ロザリアにはああ言ったけど、ラフコフが関わっているかどうかは正直半信半疑だった。ありえるかもしれない、その程度の可能性だったからシリカには言わなかったんだ。もし奴等が関わっていたのだとしても、せいぜい下っ端の誰かが遊び半分にPKを教唆してる位で、幹部クラスが直接手を貸すような密な関係だとは想定していなかった。……甘かった。まさかザザどころかPoHまで来てるなんて想像の埒外だ。どうしてこんなところにラフコフ三巨頭が……」

 

 そう嘆いたキリトさんの声はしわがれたように疲れていた。

 呻くように声を搾り出すキリトさんは心底後悔している。ラフィン・コフィンが関与している可能性が低かったからあたしに囮役を頼んだ。だというのにまさかのラフコフ、それも幹部クラスの登場だ。その上団長まで出張ってきたのはキリトさんにとって言葉通り完全に予想外のことだったのだろう。軽率な判断を悔やみに悔やんでいる様子だった。

 

「でも、キリトさんはあたしを守ってくれました」

「危険にさらしたことには違いない。そもそもシリカの目的は《プネウマの花》だ。プレイヤー同士の争いにも、俺とラフコフの因縁にも関係なかった。なのに俺はシリカに協力の代償としてタイタンズハンドを釣る餌になることを強いた。そのせいでシリカまでラフィン・コフィンに目をつけられる結果を招いてしまった。……最低だし、最悪だ。シリカに詫びのしようもない。完全に俺のミスだ」

 

 低く深く、ズブズブと沈み込んでいくかと思うほどキリトさんの声は暗い。表情も見えない。それでも悔恨に暮れていることはわかる、疲れきっていることも。

 なら、あたしがキリトさんに出来ることはなに? 打ちひしがれているキリトさんにあたしは何をしてあげられるの?

 

「キリトさんがアインクラッドで最初のPKをしたプレイヤーだっていうのは……」

「ああ、そのことも黙ってたっけ。……ごめん」

「いえ、黙ってたことは別にいいんです、気にしてません。でも、それってやっぱり第一層フロアボス討伐戦でのことですか? ボスに追い詰められて錯乱したプレイヤーが仲間を襲いだして、その人を止めるために《はじまりの剣士》さんが手を汚したんだって聞きました。その時に、攻略の邪魔をするやつは俺が許さない、って宣言したことも」

 

 もっともあたしが聞いたのは第一層攻略が成功してから随分後のことだった。報告が届いた当時ははじまりの街にいなかったし、事の顛末を知ったのはそれから随分時間が経ってから別の噂に混じって聞き知っただけだ。詳しいこともわからない。

 今でこそ各種メディア情報が充実しているけれど、ゲーム開始当初は大々的に情報を広める手段なんてなかった。皆自分のことに手一杯だったこともあるし、システム的に利用できなかったということもある。新聞のような不特定多数に情報を伝える手段は階層を進めて初めて使えるようになったものだ。低階層を攻略していたころは信憑性の不確かな噂が蔓延している状況だった。

 

「攻略の邪魔をするやつは許さないって……、ディアベルはそんなふうに脚色して話したのか。ベータテスターと一般プレイヤーの溝を解消するために、改めて一致団結するよう促したわけだ。俺を抑止力にするあたり、やっぱり頭いいな、あの人」

 

 お人好しは変わらないみたいだけど、と小さくつぶやいたキリトさんの口元には皮肉気な笑みが覗いていた。

 

「嘘なんですか?」

 

 小首をかしげて問いかける。いつもならピナに頬を寄せる形になるので好んで繰り返した仕草だったけれど、今はピナがいないことをありありと感じさせられて少しだけ悲しくなった。

 

「俺が仲間割れを起こしたプレイヤーを斬ったっていうのは事実だよ。その後、俺は長い間オレンジプレイヤーとして過ごしたわけだし。でも、ほかのことは大部分が作り話なんじゃないか? どんな話が伝わってるのか俺は詳しくないから、どこまでが嘘かは断言できないけど」

 

 きっとその話題をずっと避けてきたんだろうな、って思った。キリトさん、とってもつらそうだし。

 それはそうだろう、PKの過去なんて、それこそレッドギルドのような人でもなければ誇れることじゃない。

 誇れることじゃない? ……そっか。だからキリトさんはあんなことを。

 

「全部、演技だったわけですか」

「シリカ?」

「PKをロザリアさんやタイタンズハンドの人達を脅す材料にしたんですね? あの人達の逃げ場を封じて、自分から回廊結晶をくぐることを選ばせるために。そうしないと監獄エリアに送れないから」

 

 思えば、キリトさんが怖くなるときは何時だってキリトさん自身に敵意や悪意を向けようとしていた。聞くに堪えないような罵詈雑言でロザリアさんたちを煽り、PKを厭わない姿勢を繰り返すことでラフコフの人達を牽制し続けた。

 まるで、あたしを隠すかのように。ロザリアさんたちの、そしてラフコフの人たちの目にあたしが映らないようにするために、興味が向かないようにするために。

 きっと、その表情に浮かべた不敵な笑みと自信たっぷりな態度とは裏腹に、ラフコフと渡り合っていたキリトさんの内心は緊張に張り詰め、焦燥に心臓を激しく脈打たせていたのだと思う。ラフコフが去った後のキリトさんは本当にほっとした表情をしていた。それもタイタンズハンドに最後通牒を突きつけるに当たってすぐに消えてしまったけれど。

 違和感はずっとあったのだ。不自然というか、あたしの知るキリトさんからはあまりにかけ離れた脅し文句の数々に、急にキリトさんが別人に見えた。それはきっと意識してそういう言葉を選んでいたからなのだろう。

 

「……驚いた。シリカって結構鋭いんだな」

「むっ、その台詞はちょっとひどいです」

 

 不本意なことにキリトさんは本気で驚いていた。むぅ、あたしってそんなにお馬鹿さんに見えるのかな? これでも学校では勉強できたほうなんだけど。あ、こういう場合は勉強がどうとかは関係ないか。

 

「悪い。でも、シリカの言う通りだよ。口ではああ言ったけど、本当に転移結晶とか使われて逃げられたらまた見つけるのも骨だし、見つけ出しても監獄エリアに確実に送れるわけじゃない。やつらの中にはグリーンプレイヤーもいたわけだしな。皮肉なことに犯罪防止コードがオレンジギルドを守る盾になる。まさか一人ひとりPKして回るわけにもいかないし」

「キリトさん、冗談でも軽々しくPKをするなんて言っちゃ駄目です。あたしはキリトさんが平気でPKできる人だなんて思ってませんからね」

 

 誰がなんと言おうとキリトさんは優しい良い人で、あたしの恩人だ。キリトさんが悪く言われるのは嫌だし、キリトさんが自分で自分を追い詰めて欲しくもない。

 そんな怒りと懇願のこもったあたしの言葉を受けてキリトさんは困ったように視線を左右に揺らした。そして、ごめん、とまた小さく謝る。

 ……キリトさん、あたしはキリトさんに謝ってほしいわけじゃないんです。あたしはただ、キリトさんにそんな顔をしてほしくないだけ。自分を傷つけて欲しくないだけ。それだけなのに。

 やがて独り言のように茫洋とした口調でキリトさんは語りだす。

 

「迷いの森でシリカを助けたのは偶然と罪悪感からだ。ピナを生き返らせる手段を思い出した時もシリカを囮に使おうなんてことは考えてなかった。でも街でロザリアに会って、シリカの宣言でロザリアの狙いがプネウマの花とシリカに向いたのだと思った。あわよくば、と思ったのはこの時だったな。そして、シリカの身の安全とタイタンズハンドの捕縛は両立できる、そう判断してシリカを思い出の丘まで連れてきたんだ。……月夜の黒猫団のときと同じだ。俺はまた自分の力を過信して取り返しのつかない事態を招くところだった。いつまでたっても成長しない。自分で自分が嫌になるよ」

 

 その言葉通り、キリトさんは広げた掌で目を覆い隠し、如何にも《自分に失望してます》と言わんばかりの重苦しい溜息をついた。

 

「タイタンズハンドの連中の心を折るためにどうにもならない実力差も演出した。ここまでは良かったんだが、ラフコフの存在は本当に予想外だったな。なんだってこんなところでラフコフのトップスリーが揃うんだか」

「そういえば、ラフィン・コフィンの人達はどうしてここにいたんでしょうか? タイタンズハンドの人達も知らなかったみたいですし」

「いや、ロザリアだけは《赤眼のザザ》に驚いてなかったよ。他のやつらは知らないがロザリアだけは完全に黒だ。あの女は確実にザザと通じていたし、もしかしたらラフコフとも交流があったのかもしれない」

 

 断言するキリトさんの声に疑念の色はまったくなかった。そういえばあたしはあの瞬間のロザリアさんの表情は見逃していたし、その後のロザリアさんの様子にも気を配ってはいられなかった。それくらいキリトさんと《赤眼のザザ》の戦いに目が釘付けだった。

 

「他の連中にしても素性を知らなかっただけで協力者としてザザの存在くらいは知ってたんじゃないか、と思うんだけどな。これ以上は連中自身に聞かないとわからないか」

「ロザリアさんは騙されたようなこと言ってませんでした?」

「……さて、どうだろうな。煽られたのか、誑し込まれたのか。ラフコフが色を使うっていうのは聞いたことがないから、多分言葉巧みに意識を誘導されたんだと思うけど。犯罪思想の扇動はラフコフのお家芸だしな。それに元々オレンジギルドを率いていたくらいだ、PKに対する忌避感も低かったのかもしれない」

「た、誑し込むって……」

 

 かあっと頬が熱くなっていくのがわかる。色を使うって、そんな。それって大人のあれでこれでそれなえっちのことだよね? 昨夜キリトさんに倫理コード解除設定の話を聞いていたせいで思い切り生々しい話に聞こえてしまった。

 キリトさん、あたしとそう年が離れてるとは思えないけど、こういう話に遠慮のない人なのかな? それとも経験済み、とか?

 いけない、これ以上考えると頭が回らなくなってしまう。ぶんぶん首を振って無理やり頭に浮かんだあれこれを追い出した。左右で結んだ髪が合わせて揺れる。やっぱりちょっと子供っぽいかな、この髪型?

 

「PoHはザザの見世物を見に来たって言ってたから、多分ラフコフの狙いはプネウマの花に託した希望を摘み取られるシリカの姿を嘲り笑うことだったんじゃないかと思う。その上でシリカ自身とおまけの護衛の命を奪うことも含まれていたかもしれない。俺が同行していたことは奴らにとっても予想外だったとは思うけど……シリカ?」

「わわわ。なんでもないです、ちょっと色々整理していたと言いますか」

 

 しどろもどろになるあたしをきょとんとした顔で見上げるキリトさん。う、そういえば未だにあたしはキリトさんを上から伺い見るような体勢なのでした。ちょっと、ううん、かなりまずいかも。一度意識するとこの距離はなんだかとても緊張してしまう。

 

「と、とにかくですね! キリトさんは悪くありませんし、あたしも気にしてません。今日はキリトさんのおかげでプネウマの花を手に入れることができました。これでピナを生き返らせてあげることができます。それにプネウマの花を狙ったロザリアさんたちをキリトさんが捕まえて、ラフィン・コフィンの人達もキリトさんが追い払ってくれました。全部キリトさんのおかげなんです!」

「……そんな綺麗にまとめられる話じゃないんだ。PoHは俺のことを見透かしていたよ。シリカが俺の弱点足りえるのだと、俺を押さえつけるのに最適な獲物なのだと、そう認識したはずだ。……俺の苦し紛れの恫喝もどこまで奴等に効果が期待できるかわからない。だからシリカ、俺は君に――」

「キリトさん!」

 

 それ以上は言わせたくなかった。きっとこの人はまた自分を責めようとする。そんなの嫌だ。

 もちろんキリトさんの口にした内容は怖い。泣き喚きたくなるくらい恐ろしいものだ。

 それでもあたしの気持ちは変わらない。

 

「キリトさんの事情は聞きました。あたしを巻き込んだことでご自身を責めてることもわかります。でも、あたしのキリトさんへの感謝の気持ちまで否定しないでください。疑ったり……しないでください。お願いしますキリトさん、どうかあたしの《ありがとう》を受け取ってください……!」

 

 勢いで言い切ってしまおう。そう思ったのだけれど、言い募る内にみるみる涙がこみ上げてきて、最後はしゃくりあげるような情けない声になってしまった。だめだな、あたし。伝えたいこともきちんと伝えられない。キリトさんには本当に感謝してる、恨みになんてこれっぽっちも思ってないってわかってほしい。ピナとあたしのために戦ってくれたキリトさんに、これ以上つらい顔をして欲しくない。

 

「《ありがとう》は、きっと俺のほうこそ言わなきゃいけないんだろうな。昨日からずっと励まされてばかりだ」

 

 ややあってキリトさんがその身を起こす。よかった、きっとこれ以上沈黙が続いていたら、キリトさんの返事を待つこともできずに涙と嗚咽がこぼれ出てしまっただろうから。そしたらまたキリトさんを困らせてしまっていたはずだ。

 でも――。

 現金だなぁ、あたし。

 俯いたあたしの頭を優しく撫でてくれるキリトさんの暖かな手に、すっかり気分が持ち直してしまっていた。泣いたカラスもびっくりだ。

 

「そんなことないです。あたしのほうがずっとずっと元気を貰ってますから。キリトさんに頂いてばかりで心苦しいくらいなんですよ」

 

 本当にその通りだ。あたしはキリトさんに優しくしてもらってばかりで、頼りっきりだ。何も返せない。なんとかしたいと思っても、キリトさんの手伝いなんて出来るほどあたしのレベルは高くない。最前線で戦おうものならすぐに戦死してしまう。手伝いどころか足手まといだった。そんなことしたってキリトさんの迷惑にしかならない。

 

「だからキリトさん、今日はあたしがキリトさんを元気付けてあげます……!」

「……シリカ?」

「そうと決まればまずはあたしの部屋に戻りましょう。早くピナを生き返らせてあげなくっちゃ」

「いや、ピナ蘇生は俺も望むところなんだけどさ。……やっぱりちょっと待った、なにがどうしてそんなことに?」

「だってキリトさん、あたしとデートの続きをしてくれるって言ったじゃないですか。昨日はあたしがキリトさんから元気を貰いましたから、今日はあたしがキリトさんに元気をあげるんです。そうすればお相子ですから、ちょうどいいかなあって」

 

 弾む胸の鼓動を宥めようとも思わず、自然と緩んでしまう表情を満面の笑顔に変えてキリトさんの驚いた顔を覗き込む。キリトさんはそんなあたしの宣言に戸惑ってばかりいたけれど、キリトさんを元気付けてあげたいというあたしの気持ちは本物だ。本物で、全力で、絶対の、心からの願い。あたしに出来る精一杯のお礼の気持ちを込めようって、そう思った。

 ロザリアさんたちが待ち伏せに使った場所だけあってこのあたりはモンスターの寄り付かない安全地帯なのかもしれないけど、それでもあまり長いこといたくはないし、早く街に戻ってピナを生き返らせてあげよう。宿はどっちがいいかな。あたしのホームである8層に戻ってもいいけど、35層の部屋はキリトさんと一緒に寝た思い出の場所だ。やっぱりそっちのほうがいいかな。

 

「行きましょうキリトさん。ピナも絶対キリトさんに会いたがってます」

 

 心アイテム《ピナの心》の中で、きっとピナはあたしを見守ってくれていたはずだから。だからピナだって恩人であるキリトさんにお礼を言いたいだろうし、もしかしたらあたしと同じかそれ以上にキリトさんにも懐いちゃったりもするかもしれない。それもいいな、と思う。キリトさんとあたしとピナの三人で一緒に眠れたら、どんなに良い夢が見られるだろう。

 そんな素敵な想像に自然と表情が綻び、笑顔でキリトさんの手を取る。今まではおっかなびっくりだったけど、これからはもう少しだけ積極的にキリトさんの傍にいられるはずだ。

 

「あのですね、キリトさん。あたし、キリトさんのこと《キリトお兄ちゃん》って呼びたかったんですけど、やっぱり止めておきますね。キリトさんはキリトさんでいてくれたほうが嬉しいです」

 

 急なあたしの話題転換にキリトさんが目を白黒させ、そんな姿にまた笑みがこぼれる。

 なんだか可愛い。それにキリトさんの弱点も発見、強気で攻めると案外流されやすい。それはあたしがキリトさんにとって妹さんと重ね合わせてる存在だからなのかもしれない。でも、あたしはキリトさんの妹じゃ嫌だなって思ったのだ。だからあたしはキリトさんと呼び続けることに決めたし、これから先もこの人のために少しでも力になろうって決めた。それにピナのことで恩返しだってしなくちゃいけない。

 黒の剣士、はじまりの剣士、二刀流使い、最強プレイヤー。

 数々の異名を誇るキリトさんだけど、その本質はとても優しくて、そして脆いところだってある普通の人だ。あたしと同じ寂しがりやで、弱音だって吐くし疲れもする。けれど、現実とは違うこの世界を――剣で怪物と戦う恐ろしい世界を懸命に生きている強い男の人だった。

 強くて、優しくて、格好良くて、時々可愛い男の人。

 

 ねえピナ。ピナにも紹介してあげるね。あたしを助けてくれた人、ピナを生き返らせるために戦ってくれた人を。あれから何があったのか、どんな冒険をしたのか、キリトさんがどれだけあたしたちのために力を尽くしてくれたのかをいっぱい話してあげる。

 残された時間は少ない。キリトさんは最前線で戦う攻略組のトッププレイヤーだ。中層に降りてきた目的も果たしたのだから、いつまでも一緒にはいられない、別れはすぐそこに迫っている。そしてこれから先どれだけ会えるかもわからなかった。

 生きる世界が違う、と言ってしまえばそれまでのこと。

 でも、あたしはキリトさんの傍にいたいって思った。

 出会いは劇的で、なのに別れは間近で、胸に芽生えたこの想いがこの先どう育っていくのかはまだわからないけれど――。

 

 

 

 ――ピナ。あたし、好きな人が出来たよ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第09話 誓約の二刀流 (1)

 

 

 忙しかった。本当に忙しかった。次から次へと飛び込んでくる依頼の集中砲火に、文字通り目の回るような日々が繰り返され、今日になってようやく一息つけるまで落ち着いたことは僥倖以外の何者でもなかった。ここ数日の持ち込み依頼があと三日続いてたらあたしは倒れていたんじゃなかろうか。いつかアスナが第一層迷宮区において過労で気絶したことがあると苦笑いで話してくれたが、まさか鍛冶スキルの酷使で倒れそうになるとは思わなかった。

 ま、半分は冗談だけどさ。

 でも猫の手も借りたいような忙しい毎日だったのは本当だ。一週間前から急激に客数が伸び、店売りの武器を眺めて買っていく通常のお客さんのみならず、武器のメンテナンスから武器発注依頼、素材の売り込みやらパーティー申請の申し出、ギルドへの勧誘とそれはもう冗談じゃないかと思うほど大勢のプレイヤーが訪ねてきた。

 そのおかげで運悪く、いや、運良く? とにかくたくさんのお客さんが引きも切らせず訪れてきたものだから、最近のアインクラッドで起きた大変動とも言える変事の情報が労せず集まった。もっとも、所詮は噂話に過ぎないのだけど。詳細は血盟騎士団の副団長様にでも聞くしかないかしらね?

 

 ここは第48層主街区リンダース。各所に見られる巨大な水車が目印の、どこか郷愁を思わせる街並みが特徴だ。その工房エリアの一角、こじんまりとした職人用プレイヤーホームがあたしの住居兼職場だった。

 店の名前は《リズベット武具店》。

 購入額300万コルの水車つきホームだった。さして広くない店舗だけれど、あたしは一目見たときからこの建物の水車付き景観が気に入ってしまった。手持ちのコルでは購入に到底足りなかったために我武者羅に鍛冶仕事に取り組み、さらには知り合いに借金までして資金をかき集め、何人かいたライバルに先んじてこの家を確保することに成功したのだった。48層へのアクティベートによって最前線となったリンダースの街開きから3ヶ月後のことだ。我が事ながら随分この家にこだわったものである。どんだけこのプレイヤーホームを気に入ったのかって話よね。

 

 もちろん借金は既に返済済み。お金の問題は現実世界だろうとアインクラッドだろうと容易く人の関係を変えてしまう危険なものだ。借金なんて本当はしないほうが良いとわかってる。それでもこの家が他のプレイヤーに取られてしまうことに我慢できなくて、親友と自負するアスナを拝み倒してお金の無心をした。そんなあたしにアスナは苦笑いで協力してくれて、それからアスナに紹介してもらった攻略組兼商人プレイヤーのエギルの助けも借りて念願の開店資金を確保することが出来たのだった。まさにあたしにとっては大恩人の二人である。その恩義に報いるためにも身を粉にして働き、店舗開店から一ヶ月後には全額返済できたのだった。

 それからはのんびり鍛冶と店主の仕事を楽しくこなしてきた。この家を購入したのは寒風吹き荒れる冬の季節真っ只中だったから、かれこれ二つの季節を挟もうとしている。フィールドによって気候変動の激しいアインクラッドで厳密に四季を区分する意味は薄いけれど、最近は初夏の陽気を思わせる気象設定が続き、そろそろ本格的な夏に突入していくことだろう。工房に篭って鍛冶仕事を行い、店に顔を出して接客仕事を緩やかにこなす日々、そんな中で確実に歳月は流れていた。

 割と頻繁に訪ねてくるアスナの愚痴を聞いたり、最前線から伝わってくる攻略組の奮闘に一喜一憂しながら、アインクラッドの囚われ人と化している現状からは想像できないくらい、あたしこと鍛冶屋リズベットは穏やかに過ごしていたのである。

 

 その平穏が崩れたのは一週間前だ。

 まず鍛冶に用いる素材の在庫が心許なくなった。プレイヤーが持ち込む素材買い取りが不調で、普段あたしが素材の確保に利用している、武具から素材までなんでもござれの卸元であるエギルが攻略組への参加で不在。そんな事情があって野良パーティー募集の応募に参加し、鍛冶素材の確保に出向いていたときのことだった。キャラクターレベルの上昇だけでなく、鍛冶スキルが完全習得(コンプリート)したのである。あたしはその事実に舞い上がって、スキルコンプリートしたことをぽろりと漏らしてしまったのだった。

 しまったと思ったのは野良パーティが解散した翌日になってから。

 開店前から店を訪ねてくる大勢のお客さんの姿を見て初めて、あたしが鍛冶スキルを完全習得したことが広まってしまったのだと悟った。その時は自分の迂闊さ加減に内心頭を抱えて跪づいてしまったくらいだ。表面上はにこやかに来店の挨拶を口にしていたけれど、あたしの表情筋は引きつっていた、間違いなく。

 

 アインクラッドにおいてスキル情報は秘匿するのが常識だとされている。けれどその常識の例外が職人スキルだった。身の安全に直結する戦闘スキルやステータスを公開するのはメリットよりもデメリットが勝ると考えられているのだが、こと職人スキルに関しては事情が別だったからだ。

 例えばあたしのメインである鍛冶スキル。

 スキル熟練度が上がれば上がるほどレア素材の加工ができるようになり、強力な武具が作成できる確率が上昇する。それに武器や防具のメンテナンスに関してもより短時間で数値を回復させられるようになるし、武器強化の成功確率にも補正がかかるようにもなる。つまり店の知名度や売り上げのことを考えると、職人スキルに関しての熟練度は公表してしまったほうが本人にとって得だということも十分にありえるのだった。実際に自分の数値を公表している職人プレイヤーを何人かあたしは知っている。

 

 とはいえ、あたしは自分のスキル数値を公表するつもりなんてなかった。そりゃ、親しくしてる人間――筆頭はアスナ、次点でエギル――にはそれとなく伝えてきたりもしたが、こうも大々的に宣伝する気など微塵もなかったのである。今回の件は間違いなくあの時の野良パーティーの誰かが、情報屋にあたしのスキル情報を売っぱらったのだろう、ちくしょうめ。

 自分の経営している店が閑古鳥の住み着く寂れた店舗になってしまうのは遠慮願いたいが、だからと言ってあたし一人で運営している店のキャパを越える依頼など手に余るだけだ。この店にはもう一人従業員がいるにはいるものの、彼女は生憎とお手伝いキャラのNPCであるため鍛冶仕事は出来ない。よってあたし一人で依頼をこなすことになる。賄える仕事量だって限りがあるのだった。

 そこへマスタースミスの情報がばらまかれてしまったものだからもう大変ってやつだ。あたし以外にもマスタースミスの称号持ちはいるだろうに、なぜか依頼はあたし宛に殺到した。

 

 まぁ、理由はわかってるんだけどね。スキル熟練度を最大まで上げてる鍛冶プレイヤーの多くは有名ギルド付きの職人プレイヤーだ。要はギルドという組織の支援を受けて豊富な素材を仕入れ、日々スキルを磨いて武具作成に励んでいるプレイヤーだった。彼らは別に会員制の受注体制を取っているわけではないけど、やっぱり外部から注文を頼み込むのは気が引けるのが人間というものだった。特に中層、下層のプレイヤーにとって攻略組に連なる有力ギルドお抱えの職人は敷居が高い。

 そんな状況の中、新たに現れたマスタースミスはどこのギルドにも所属していないフリーのメイサー、なんて情報が飛び交えばそりゃお客様も殺到するというものだ。ひも付きでないフリーのマスタースミスはどうもあたしが初だったらしいからなおさらである。

 全てはあの時、マスタースミス到達に浮かれて口が軽くなったあたしの自業自得だった……。

 って、そんなんで納得できるかーっ!

 あたしがアインクラッドに閉じ込められたのは15歳の頃、高校受験が迫る秋のことだった。ちょっとした気分転換になればと軽い気持ちでログインし、何がなにやらわからぬ内にデスゲームに巻き込まれた。それから1年と8ヶ月。本来なら現実世界で花も盛りの女子高生をやってたはずなのに、こんな世界に閉じ込められた挙句にワーカーホリック化とか、いくらなんでもあんまりだ。癒しを、あたしに潤いを寄越せ!

 

「リズー、遅れてごめんねー。いるよね?」

 

 あ、癒しが来た。

 

 

 

 

 

 血盟騎士団副団長《閃光》アスナ。

 泣く子も黙る攻略組のトッププレイヤーの一人にして、最強ギルド血盟騎士団を団長のヒースクリフと共に掌握する女傑である。ソードアート・オンラインは当初から女性プレイヤーの数が少なかったことに加え、最前線で命がけの戦いを厭うプレイヤーは男性以上に女性の方が割合的には高かった。そのため、最前線で活躍しているような女性プレイヤーの数は非常に少ない。彼女はその数少ない女性プレイヤーの筆頭にして、アインクラッドにおける超有名人であった。

 男女問わず目を瞠るに違いない美貌と均整の取れた体つきは、同じティーンエイジャーのあたしとしては羨ましい限りだ。もちろん、ただ顔が良いだけで彼女に尊敬と信頼が集まっているわけではない。常に最前線に身を置き戦い続ける勇姿も然ることながら、フロアボス発見の報を聞くや血盟騎士団のみならず攻略組全体の取りまとめすらしてのける抜きん出た統率力も見逃せない。攻略組を主導しているのがアスナだということは衆目の一致するところだった。

 

 常に凛とした威厳を纏い、戦場に在ってはその瞬速の剣技を駆使していの一番に切り込んでみせる。万事が万事この調子で活躍する女性プレイヤーに声望が集まらないはずがなかった。

 しかし、そんな女性プレイヤーの鑑とも言えるアスナではあるが、彼女の私生活における可愛らしさを知っているプレイヤーは少ない。攻略組の中では常に気を張っていなければいけない事情もあり、アスナのプライベートを知る人間は極めて限られた。その数少ない一人であることがあたしの密かな自慢だったりする。

 

「うわぁ、さっすがリズ! この剣すごいよ。それに、強化スロットもほとんど成功で埋まってる……!」

 

 童女のように陰のない清らかな歓声をあげたかと思えば、思慮深い眼差しであたしが手渡した細剣をまじまじと観察している姿に思わず苦笑が漏れてしまう。緊張に張り詰めたアスナの鋭利な表情も魅力的なのだろうが、あたしはこんな屈託ないアスナの顔が好きだった。男の子にモテそうな娘だこと、と少々の嫉妬混じりに羨むのもいつものことだ。

 血盟騎士団副団長ではない、女の子としてのアスナの姿がここにある。

 アインクラッドでアスナのこんな無防備なはしゃぎ様を見れるのは、もしかしたらあたしだけかもしれない。そんな、誰に対してのものかもわからない優越を覚えるくらいには、目の前の親友は女性から見ても魅力的な少女だった。まあ、喜んでる源が新しい剣だというのがこの世界ならではだと思うけどね。

 アスナに渡した剣は、あたしがマスタースミスになって真っ先に打とうと決意していた剣だ。前々からアスナと交わしていた大切な約束だった。

 

「スキルコンプリートした暁には真っ先にアスナの剣を打ってあげる、勿論お得意様価格でね」

 

 そう告げた時のアスナの嬉しそうな、そして照れくさそうな顔を今でも覚えている。

 攻略組の向かう戦場は過酷な場所だ。いくら最強ギルドと名高い血盟騎士団でも今まで死者ゼロでやってこれたわけではない。現在の最前線は第70層、ここまで来るために最前線では血盟騎士団の団員を含めて多数の死者が出ていた。そして、いよいよ第三のクォーターポイントにして最難関と目されている第75層が近づいてきている……。

 そんな危険な戦場に赴く親友の身を心配しないはずがないのだ。公人ではない、私人としてのアスナを知っているだけに余計に心配にもなってしまう。確かに彼女は強いかもしれない、だからと言って戦場が似合うなどとはどうしても思えなかった。

 あたしは戦闘もこなせるメイサーだけど、攻略組が戦う最前線に通用するほどの力はない。デスゲーム開始以来、早い段階から戦闘面でのスキルやステータスを諦め、本命を鍛冶スキルに絞って生きてきた。そのおかげでフリーの鍛冶屋としては破格のスキル熟練度にだって到達できた。そんなあたしが最前線で戦うアスナのために出来ることは、とにもかくにも強力な武器を作り出すことだ。

 

 敏捷ステ向きの細剣《ランベントライト》。

 今まであたしが作り出してきた剣の中でも一番優秀なステを誇る細剣だった。

 気持ちとしては親友のためにタダで贈りたいところだったのだけれど、残念ながらあたしの懐はそこまで暖かくなかった。というのもこの剣を打つまでには鍛冶素材アイテムを沢山仕入れて、そしてその分だけ失敗素材を量産してきたからだ。マスタースミスと言えども打つ剣打つ剣全て強ステの名剣というわけにはいかない。優秀なレア素材から下層でも手に入るボロ剣が出来上がるなんてのも珍しい話じゃないのである。もちろんそんな事情をアスナに話すことなどない。アスナには剣ステから相場に見合った値段だけを貰っていた。

 ランベントライトは泣きたくなるくらい大赤字もいいところの仕事だったけど、何度も失敗しながら打ち上げたあたし渾身の一品であり、アスナのために、親友の助けとなるために精一杯を込めた作品だ。後悔なんてあるはずない。満足できるだけのレア武器を作り出した充実感に、完成した瞬間工房で一人歓声を挙げたくらいだった。

 

「強化素材分はあたしのサービス。アスナはお得意様だからね」

「そんな、悪いよリズ」

「いいのいいの、あたしがここまで早くマスタースミスになれたのも、アスナがレア素材をたくさん持ち込んでくれたおかげなんだから」

 

 それはあたしの強がりではあったけど、同時にアスナへの感謝の気持ちでもあったのだ。

 アインクラッドで取得できるスキルは多種多様に渡るが、熟練度の上がりやすさにはスキルごとに差がある。攻略に直結する戦闘関連スキル、つまりソードスキルに対応する各種武器スキルは上がりづらく、逆に攻略に関係のない料理や釣りのような娯楽スキルは上がりやすい。鍛冶スキルは丁度その中間、やや戦闘スキル寄りの上がりにくさと言ったところだろうか。

 熟練度はスキル使用回数をこなせば上昇する。とは言え、鍛冶スキルに関しては安物素材をいくら精錬し続けても一定以上の数値にはならないことが確認されていた。加えて、上等の素材を使ったほうが一度の上がり幅も大きい。そういった制限があるために、ギルド付きの職人とフリーの職人の間にはどうしても熟練度上昇速度に差が出てしまう。あたしの店が大繁盛を見せているのも、フリーの鍛冶プレイヤーで初のマスタースミスという事情があるのだ、ギルド所属の鍛冶プレイヤーならマスタースミスもそう珍しくはない。特に血盟騎士団、聖竜連合の二大ギルドならそれなりの数を揃えているだろう。

 

 いつかアスナに聞いたことがある。どうして武器の作成や修繕を血盟騎士団お抱えの鍛冶職人に頼まないのかと。

 昔からアスナの武器の面倒は全てあたしが担ってきた。それこそあたしが低階層で露天商をしていた時に知り合ってからずっとだ。その関係は今でも変わっていない。

 だからこそというべきか、組織の規範となるべき血盟騎士団副団長が、自分のギルドに所属していない外部プレイヤー謹製の武器を使っていて不満が出ないとも思えない。そう心配したからあたしの懸念を率直にアスナにぶつけてみたのだけど、そんなあたしの心配にアスナは最初目を丸くして、それから可笑しなことを聞いたとばかりにお腹を抱えて笑ったのだった。

 

「うちのギルドはそこまで規則に雁字搦めじゃないわよ。攻略に励むこと、戦闘中は指揮権の上位プレイヤーに従うこと、この二つ以外は規則なんてあってないようなものなんだから。よく誤解されるんだけど、血盟騎士団にはレベル上げのノルマだって課せられていないもの。……まぁ、最前線で攻略に励むならレベル上げは必須だから自然と熱も入るのだけれどね。誰だって死にたくないもの」

 

 ということらしい。

 あたしは野良パーティー専門でギルドに入るということがなかった、だからギルドがどういうものなのかは漠然としかわからない。もちろんマスタースミスになる前にもギルドに勧誘されることはあったし、特に信条があってギルドに所属していないわけでもなかったから、アスナにでも誘われればふらりと血盟騎士団に入団していた可能性は十分にあった。歓迎されるかどうかはわからないけど。

 しかしまぁ、あたしは今の気楽な立場を気に入っているし、何よりゲームの世界とは言え一国一城の主なのだ。この店を構える前ならともかく、いまさら自分から進んでどこかのギルドに入団する気もなかった。

 

「それで、剣を取りに来るのが遅れたのはどうして? 攻略組で何かあったの?」

 

 大赤字だったくせに格好つけて適正価格にサービス強化までしたのだ、これでそうした裏事情がばれた日にはあたしの立つ瀬がない。っていうか恥ずかしくて死ねる。だから早々と話題転換を図ったのだけど、どうも選ぶ話題を間違えてしまったらしい。あたしの疑問を受けたアスナは剣を受け取った喜びから一転、ずーんと擬音が聞こえるほど盛大に落ち込んでしまった。

 ……ちょっと、ほんとに何があったわけ?

 

「リズ……四日前に発表されたラフコフ討伐戦の情報、ここまで来てる?」

「そりゃあね、《ラフィン・コフィン》って言えばアインクラッド最大最悪の癌集団だもの。その壊滅の知らせなんてそれこそ一両日中に広まったんじゃないの?」

 

 ここのところあたしの店に足を運んだ大勢のお客さんが口に出す話題もそのことばかりだった。おかげで妙な噂や真偽の不確かな推測を意図せず大量に仕入れることになってしまったわけだけど。可能ならばアスナから詳細な事情を聞きたいとも思っていた。

 

「そう、そうだよね」

 

 はぁ、と非常に重苦しい溜息をつくアスナの姿は疲れきっていた。妙な感じだ。

 

「どうしたのよアスナ。そりゃあ、同じプレイヤー同士の争いなんてあたしだってどうかと思うけどさ。相手はレッドギルドの連中だったんだし、ラフコフの連中のほとんどは監獄エリアに送られたって聞いて、皆喝采こそあげなかったけど内心喜んでたと思うわよ」

 

 発表されたラフコフの構成人数は30人強、結成された討伐隊は倍の60人を超える精鋭を集めたのだと聞いた。戦闘は激戦を極め、攻略組の中から選抜されたという討伐隊、討伐対象のラフコフ双方に死者も出たのだという。それでも最終的には討伐隊の勝利に終わり、アインクラッドにおいて犯罪の限りを尽くしたラフィン・コフィンは壊滅した。

 もちろん、プレイヤー同士で殺しあうことにほとんどの人が眉を顰めてみせたけど、それは表向きの話だ。皆、内心では胸を撫で下ろしていた。これでPKの危険が一気に低くなり、今までよりずっと安全になったのだという喜びは隠しようがなかったのだ。あたしだってラフコフ壊滅の報を聞いた瞬間、確かに安堵したのだから他人事みたいに言えないんだけど。

 

「外聞を憚る討伐隊だったから、ラフコフ討伐隊の結成を呼びかけて主導した《黒の剣士》以外の参加プレイヤーの名前は公表されない、ってことだったけど……。ねえアスナ、もしかしてあんたも参加してたの?」

 

 密やかに問いかける。

 もしそうなら無神経そのものの問いだったかもしれない。あなたは人殺しをしてきたのかと聞いているようなものだったから。

 けれどアスナは静かに首を横に振った。ムキになって否定しているような素振りもない。ただ力なく否定を示したアスナの姿に、あたしは内心ほっと息をついていた。安心したのだ。

 ラフコフ討伐の必要性は理解していても、殺し合いをしてまで人間同士で争うことに感情面で納得できるはずもない。そして、そんな血生臭い場所に親友が参加していなかったことに心底安堵していた。討伐隊参加者には悪いが、あたしにとってはアスナのほうが大事だ。PK、すなわち人殺しの可能性のあった戦場、そんな場所に誰が好き好んで親友を送り出したいと思うものか。

 

「わたしは、いえ、血盟騎士団からは誰一人討伐隊には参加していないわ。《血盟騎士団は攻略以外には力を貸さない》。それが今回の討伐戦が終わった後、団長が発表したうちの公式見解ね。……表向きは」

「表向きねぇ。ってことは他になにかあったってわけか」

「うん、実際にはキリト君――黒の剣士と団長の間で話し合いが持たれてたらしいの。《血盟騎士団は討伐隊に参加させるな》。そう黒の剣士から団長に要請されて、団長はその要請を受け入れた。わたし以外の団員には作戦の実施そのものを秘匿したわ。皆が討伐戦の事実を知ったのは黒の剣士の発表の後ね。団長は元々攻略以外には興味がないって公言してる人だから団長の声明には皆も納得したし、誰もうちの発表を疑っていないんだけど……」

 

 輝かしい美貌を沈鬱に曇らせ、アスナはまた一つ溜息をついた。ふむ、これは単なる愚痴じゃないな。声に深刻な響きがこれでもかと込められていた。

 

「どういうことよ。血盟騎士団と言えば攻略組きっての高レベルプレイヤーが集まるギルドじゃない。その上団長のヒースクリフはユニークスキルって噂されてる《神聖剣》持ちの凄腕。ヒースクリフには一歩譲るとは言え、あんただって攻略組の五指に入る実力者のはずでしょ。それだけの戦力を抱える血盟騎士団をなんだって討伐隊に参加させないわけ?」

 

 もしかして《黒の剣士》とあんた達って仲悪いの?

 そう尋ねるあたしにアスナは曖昧な表情を浮かべて、如何にも言いづらそうな口調で続けた。

 

「団長はキリト君を高く買ってるし、わたしもキリト君との仲は悪くないわ。……ただ、困ったことに団員の中にはキリト君のことを嫌ってる人も結構いるのよ。理由は色々みたいだけど、一番は団長とわたしがキリト君に一目置いて便宜を図ってるのが気に入らないみたい」

「なるほどねー。つまりは嫉妬か」

「そんなずばり言わないでよリズぅ」

 

 途端に情けない表情になって萎れてしまうアスナ。うん、やっぱあんたは無理にキリっとした顔してるより力抜いてるほうが可愛いと思うわ。具体的にはつり目より垂れ目ね。癒しにもなるし。

 それにしても可愛くて綺麗って反則だとつくづく思う。目の前で嘆く少女に比べ、凡庸極まりない容姿の我が身のことはこの際横に置いておこう。世の中には触れないほうが幸せなこともあるのだ、きっと。

 

「仕方ないとは思うけどね。黒の剣士ってあれでしょ? おたくの団長さんに並ぶレアスキル《二刀流》保持者にして、最多ラストアタックボーナス獲得者。そのくせずっとソロを貫いてて、元オレンジプレイヤーだもん。良くも悪くも注目を集めずにはいられないプレイヤーだし、そこに自分達の団長副団長揃って優遇の姿勢を見せられちゃ、下っ端にとって面白くないのは当然だと思うわよ?」

 

 美貌の副団長様は気づいていないようだが、アスナと男女の関係になりたいと考えてる団員だっているはずなのだ。そのくらいアスナは魅力的な少女だったし、ただでさえ男女比が男性に傾いている世界なのだから。あたしでさえ交際の申し込みが持ち込まれるくらいだからね、アスナだったらあたしよりもずっとそういう話もきてそうなもんだけど。

 だから多分、黒の剣士に対するやっかみもあるんじゃないかなとあたしは思ってる。アスナの口ぶりから随分親しい印象を受けるし。

 

「でもキリト君、うち以外のギルドとは仲が良いのよ。《風林火山》とか《青の大海》とか、それに《聖竜連合》とも……」

「名だたるギルドばかりねぇ……って、聖竜連合? 去年のクリスマスに黒の剣士が聖竜連合相手に百人抜きしたとかいう噂が流れてたから、てっきり険悪だとばかり思ってたのだけど?」

「決闘騒ぎがあったのは確かみたいだけど……流石に100人抜きは誇張だと思うよ? 第一、聖竜連合の前線プレイヤーは100人に届いてなかったはずだし」

「んなことはどーでもいいの。規模はともかく決闘がデマじゃないっていうならなんでよ?」

「そこはうちと一緒。聖竜連合の団長がキリト君と親しいのよ。ううん、親しいっていうか、良い取引相手としてお互い結びついてるって感じかな。例えばキリト君は最前線で手に入るレアドロップ品を、聖竜連合は対価に攻略マップ情報を交換する、って感じに緊密な連携体制を作り上げてるみたい。……うちにはそんなこと言ってきたことないくせにぃ」

 

 そんな愚痴を零して頬を膨らませる血盟騎士団副団長様。なんというか、素直に仲良くしたいのに組織のしがらみのせいで上手くいっていない、そんな感じなのかしらね。

 

「この前のシュミットさんの件もあってから、本格的に聖竜連合は親キリト君派で固まってきてるみたいだし」

 

 なんて、まだ鬱々と嘆いている姿には、皆の憧れる《閃光》の面影はどこにもなかった。

 立場とか肩書きって難しいなぁと十代の乙女らしからぬ思考に一瞬気が遠くなる。この世界にこなければ能天気に笑ってるだけで、今みたいに組織とか人間関係のパワーゲームなんて考えることもなかっただろうに。

 

 それにしても《キリト君》、か。

 黒の剣士をあたしは直接知らない。けど、アスナが度々口にする《キリト君》が《黒の剣士》を指していることは承知しているし、親友がそれほど気にしているプレイヤーなのだからと、伝手を頼って色々情報を集めようとしたこともあった。そうすると出るわ出るわ、嘘か真かわからないような逸話のバーゲンセールに目が点になったわよ。

 聞いた経歴だけでも波乱万丈そのもので、どれが正解の情報なのかを調べることすら億劫だった。というか投げ出した。情報の裏取りには情報屋を当たる必要があるのだろうが、生憎とあたしには親しい知り合いとしての情報屋は存在しなかったし、顔も知らないプレイヤーのためにそこまで労力を割くこともないだろうと判断したのだ。なにより行列御礼とは言わないがそれなりに固定客のついた武具店を経営する立場なのだ。おいそれと情報を洗っている暇もない。

 

 黒の剣士本人を知っている知人、それもそれなり以上に親しいプレイヤーにも二人心当たりはあった。一人は言うまでもなくアスナだ。そしてもう一人はアスナの紹介で知り合ったエギル。エギルも攻略組の一員であるし、なにより経営している雑貨店を黒の剣士が度々利用していることから、攻略組の中でも親しい方らしい。意外なプレイヤー同士の結びつきだと当時は感心したものだ。

 それにアスナはなんというか……あれはどう見ても惚の字なんだよねぇ。本人がどこまで自覚してるかはわからないけど、好意があることは間違いない。そういえば恩人だとも言っていたか。そんなアスナに「黒の剣士って仲間殺しって罵られてるけど本当?」とか聞けない。

 エギルは見た目厳ついおっさんだけど、その実面倒見の良い人柄で、商人としてもやり手の男性だった。しかも薄利多売主義なのか、鍛冶素材を安く卸してくれるだけに非常に有り難い存在だ。そんな彼に黒の剣士のことを尋ねてみたことも何度かあったのだけれど、決まって答えは一緒だった。

 曰く、

 

「直接見て判断したほうがお前のためだ」

 

 だ、そうで。

 エギルは頼りになる男だけど、時々真意の掴めないことを言うのが困りものだ。別にあたしは黒の剣士に特段の興味があるわけではない。単に親友の気にしている相手で、しかも聞いた評判に芳しくないものがちょっとばかし含まれるから、少しばかりアスナが心配なだけだ。それにしたってあたしがでしゃばるのは筋違いなのだから、直接会ってどうこうなどということになるはずもない。他人の事情に嘴を突っ込む気などなかったのである。

 だから、エギルの言葉の真意は今もって分かっていない。

 

「ちょっと、聞いてるリズ?」

「聞いてるわよー。ところであたしの疑問はどこ行ったのかしら? まだ答えてもらってないけど」

 

 愚痴の半分は聞き流してたけどね。

 そんなことはおくびにも出さずあたしが問うと、アスナはキョトンとした顔で小首を傾げたのだった。ホント可愛いわね、眼福眼福。

 

「疑問?」

「だから、なんで剣取りにくるのが遅れたのかってこと。昨日今日とフロアボス戦とか攻略会議はなかったはずよね」

「ああ、そのことね。……もしかしてリズ怒ってる?」

「まさか。気になったから聞いただけよ。この程度で怒るリズベットさんだと思うてか」

 

 ちょっとだけ、一刻も早くアスナの喜ぶ顔見たかったのにいつまでも待ちぼうけさせられて悔しいなぁ、とか思ってなかったわけじゃないけど。まあ最近は予想外の忙しさだったから、好都合だったといえば好都合だったんだけどさ。客足の中々途絶えなかった我が店の惨状じゃ、こうして営業時間中にアスナとおしゃべりなんてできなかっただろうし。

 

「さっきの話にも関わるんだけど、うちのギルド内で黒の剣士をフロアボス戦から外せって言い出した人がいてね……。賛同する人もいたから、宥めるのに時間かかっちゃって」

「それでゴタゴタしてたってわけね。事情はわかったけど、また黒の剣士? 原因はなんなのよ」

 

 もしかしたらアスナの想像以上に血盟騎士団と黒の剣士の反目はひどいんじゃなかろうか。そんな疑念を抱いてしまう有様だった。

 アスナもアスナで頭痛をこらえるかのように眉間に皺を寄せている。こらこら、花の乙女がそんな顔するもんじゃないわよ。

 

「キリト君、ラフコフ討伐戦に参加したプレイヤー全員に破格の報酬を約束していたみたいなの。コルにしたって一人頭20万コルは下らないって話だし、レアアイテムに至ってはどれだけの貴重品がばらまかれたかわかんないもの。で、それをうちの団員が伝え聞いて、《やはり黒の剣士はボスドロップアイテムを独占してた》とか《協調性のないソロプレイヤーは攻略会議に参加させるべきじゃない》とか、そんな感じの不満が続出してね。血盟騎士団に声をかけなかったことも面白くないみたい。だからと言ってプレイヤー同士の戦いをしたかったと言えばそれも違うんだけどね。キリト君の戦力を考えるとフロアボス戦から外すなんて出来ないのは皆わかってるはずなのに、どうしてああも頑ななのかな……」

「理性と感情は別物ってやつでしょ。にしても、討伐隊の提唱者が黒の剣士とは聞いてたけど、報酬も全部一人で出したって、それどんな大富豪よ。絶対一個人で賄える報酬額じゃないでしょ」

「わたしもそう思うんだけどね。……報酬に関して文句を言った人はいなかったみたい。もっとも、報酬目当てで討伐隊に参加した人もいないだろうから文句も出づらいものだったとは思うけど。キリト君のことだから、最低限の装備品とアイテム以外、値打ち物は全部渡しちゃったのかもしれない」

 

 ……え、マジなのそれ?

 アスナの言葉通りならとんでもない話だ。装備の耐久値はメンテでどうにかなるとは言え予備の武器防具は必要だし、日々の衣食住を賄い、より強力な装備や利便性の高いアイテムを購入するためには1コルだって無駄には出来ない。特に攻略組は自己強化に努め続ける必要性が高いのだから、なおさらコルは必要だろう。それを全部ばらまいた? そこまでやる、いえ、出来る人っているものなの?

 黒の剣士はそこまでしてラフコフ討伐を成し遂げたかった、そういうことなのかしら。どんな理由があればそんなにも思い切ったことができるのだろう。財産のほとんどを手放して、やったことと言えばプレイヤー同士の争いだ。下手をすればPKだって……。それすら厭わないほど《黒の剣士》は《ラフィン・コフィン》を憎んでいたのだろうか。それとも正義感から? 怨恨の可能性だってもちろんあるし、考えたくはないけど復讐の線だって。

 

 ぶるりと身体が震え、顔からは一気に血の気が引いた気がする。

 寒い。

 見も知らぬプレイヤーに恐怖したのは初めてだった。

 

「リズ? どうかした?」

「あ、あはは、なんでもないわよ。ちょっと考え事をしてただけ。悪かったわね、急に上の空になっちゃって」

 

 いけないいけない。考え事もほどほどにしないとね。

 

「そんなことないよ。わたしもリズに色々聞いてもらえてすっきりできたし、これでまた頑張れそう」

「こらこら、あたしゃあんたの相談役じゃないんだけどね」

「リズは割とそういうの向いてる気がするけどね。うちに来てくれたら歓迎するよ?」

「ちょっと心引かれるけど、遠慮しとく。あたしは今の気楽な立場も気に入ってるから」

「残念。それじゃわたしはこの辺でお暇しようかな。次に来るときはリズの打ってくれた《ランベントライト》の使い心地をお土産話に持ってくるね」

 

 そう言って愛しげに腰に提げた細剣を撫でてくれる姿は鍛冶屋冥利に尽きますな。何といっても丹精込めて製作する武器だ。自分が使うわけではなくても愛着は湧く。大事にしてもらえるにこしたことはなかった。

 

「ん、わかった。お土産、楽しみにしてるわ。それといつものお店の宣伝に関しては、あー、しばらくはいいわ。のんびりしたい」

「あ、あはは。災難だったみたいだね、リズ」

 

 苦笑いのアスナの様子を見ると、あたしの状況は伝わっていたのだろう。血盟騎士団は情報が早いことでも有名だ。あれだけの騒ぎになってたんだし、不思議でもないか。

 そう思っていたら、アスナがどこか申し訳なさそうな表情で少しずつ出入り口の方へと移動していく。はて、何かあったのかしら。

 

「えーっとね、リズ、ちょっと手遅れだったかも」

「なにがよ」

「実はここにくる前にお勧めとしてリズのお店紹介しちゃったの。今日か明日には武器作成の依頼が持ち込まれると思う」

「……いや、まぁいいけどね。お店が繁盛するのは良いことだし」

「割と無茶な剣を欲しがるお客さんかもしれないけど、それはわたしのせいじゃないから許してねリズ。それじゃ、今度こそさよなら!」

「ちょっとアスナ、なによそれ、って逃げるなーっ!」

「あはは、ごめんねリズー。またねー!」

 

 楽しげに笑って遠ざかっていくアスナの姿を呆れ顔で見送り、それからうーんと大きく背を伸ばす。別れ際に変なことを口走っていた親友だけど、アスナの紹介でくる人は大抵礼儀正しい優良なお客さんだったのでそう心配することもないだろう。紹介された人にとっても、おかしなことするとアスナの顔を潰すことになるから、パーティーとかギルドへのしつこい勧誘とかもないし。気楽なものよね。

 さてと、それじゃあ今日のノルマをこなしちゃいましょうか。

 

 

 

 

 

 失敗したなぁ。

 そんなつぶやきの代わりに辛気臭い溜息を一つ吐いて、重苦しい現実を忘れようと努力してもみたのだが、生憎とこんな地獄そのものの現実、忘れようと思っても忘れられるものじゃない。そもそもアインクラッドに囚われた時点で地獄への片道切符を渡されたようなものなのか。寝て起きたら全て夢だった――そんな夢想を一体何人のプレイヤーが抱いて、そしてその度砕かれてきたことか。

 アインクラッドは今日もプレイヤーの怨嗟と嘆きを吸い込みながら変わることなく空に浮いている。

 そんな益体もない思考は留まることを知らず、今まさに負のスパイラルへ陥ろうとしていた。まさか自分の使う剣の本数を忘れて、報酬としてばらまいてしまうような愚かしいプレイヤーがいるとは思わなかった。

 

 ……俺のことだけどさ。

 一応言い訳はあるのだ。心身ともに疲れきっていただとか、元々約束していた報酬として用意していたものだったとか、ずっと張り詰めていた緊張がようやく切れてこれまでにない注意力散漫な状態だったのだとか。

 駄目だ、清清しいまでに馬鹿な言い訳にしかならない。

 二刀流の剣士が剣一本しか持ってないとか、なんというスキルの無駄遣いだろう、自分の間抜けさ加減に今回こそは愛想が尽きた。しかし他人に愛想を尽かすならともかく、その対象が自分自身だと関係を切るというわけにもいかない。どんなに馬鹿で阿呆で間抜けな人間だろうが、それが己である限り一生付き合っていかなければならないのだ。当然のことだというのにこの情けなさは何だと言うのだろう。

 ひと段落ついた、と思うにはまだまだ先は長いはずなのに。

 

 現在の攻略最前線が第70層であり、既に迷宮区攻略が開始されて久しい。フロアボスの広間も直発見されるだろうことを思えば、早急にメインウェポンを確保し、戦力を整えなければならなかった。まかり間違ってクォーターポイントである75層までに代わりの剣が見つからないとかなったら悪夢だ、今度こそ死ぬかもしれない。そんな未来を回避するためにも現在の愛剣に遜色ないレベルの剣が必要だった。

 そのために最近になってマスタースミスだと知られ、一躍脚光を浴びているという噂の鍛冶屋を訪ねにきたのだが、目の前の建物を見て少し不安になった。マスタースミスというからには金回りの良さそうなイメージがある。しかしリズベット武具店は明らかに他の店舗に比べて小さくこじんまりとしていた。もちろん外装と中身が異なることは良くあることだし、剣を打つ鍛冶スキルさえ確かなら文句をつける気などないわけだけど。

 

「あんまし儲かってるようには見えないよなぁ」

「お客様、まずは当店の品揃えを見てからご判断くださります? クレームはその後承りますわよ?」

 

 ぼそっとつぶやかれた声は誰にも聞かれず風に流されて消えるはずだったのに、どうやら折悪く俺のつぶやきは誰ぞかに拾われてしまったらしい。しかもその内容を踏まえるに聞かれてはまずい相手に聞かれたらしかった。俺の背後から発せられた声には誰でもわかるくらいはっきりと怒気が滲んでいたのだから。

 首を竦める思いで恐る恐る振り返ると、笑顔なのにこめかみを引き攣らせるという器用な真似をしている女性の姿があった。年の頃は俺と同じか少し下くらいか? どちらにせよまだまだ歳若いプレイヤーだった。

 赤褐色に染まった上着の胸元には鮮やかな赤いリボンがアクセントとして飾られ、上着と同色のフレアスカートをきっちり着込んでいる。その上に純白のエプロンとくると、一体どこの給仕さんかと目を瞬くことになった。それは彼女の髪が淡い桃色に染められていたのも理由の一つだろう。この世界ならではのコーディネイトにNPCかと本気で疑うところだった。似合ってるけど。

 まずい、そんな観察よりもまずは謝らなくては。

 

「知り合いにマスタースミスが経営してるって聞いてたから、てっきりもっと大きな店かと思ってさ。失礼なことを口にしたのは謝罪する。ごめん。――それで、もしかして君が鍛冶屋リズベットかな?」

「マスタースミスって言ってもコンプリートしたのは最近でしたからね。それと謝罪はいただいたのでお気になさらず。お客様の仰る通り、あたしが《リズベット武具店》店主のリズベットです。武器がお入用でしたらどうぞ見ていってくださいな」

「助かるよ、ちょっと急ぎで剣が必要になってさ。片手直剣で筋力値重視の品は扱ってる?」

「最近は敏捷重視の武器主体で作成してたので豊富とはいえませんけど、数点用意はあります。まずは店内にご案内しますね」

「ああ、よろしく」

 

 ……よかった。

 俺の失言によって変にこじれることなく済んだことに内心ほっと安堵し、先導するリズベットに続いて店の扉をくぐる。

 店内は小綺麗に整理整頓されていて、見た目ほど狭苦しい印象は受けなかった。奥のカウンター席には給仕姿の女性が一人。視界に映るカーソルがNPCだと示しているから、お手伝いキャラか。なるほど、店主不在の間の接客は彼女の仕事というわけだ。

 リズベットに導かれて片手剣の並んでいる棚まで歩を進め、一品一品吟味していく。最近マスタースミスになったと口にしていたし、どうもリズベットの口ぶりから敏捷ステ優先の店っぽかったからあまり期待していなかったのだが、案の定だ。並んでいる品は俺からすると重さが物足りない。

 

「お気に召しませんか?」

「無難な良い剣が揃ってるけどそれだけかな。この程度の剣ならわざわざマスタースミスを頼らなくても手に入れるのは難しくない」

 

 俺の顔色から芳しい状況でないことを感じ取ったのだろう。さらに続けた俺の率直な感想に、客の要求を満たせない店主としての申し訳なさと、自分の作品を力不足だと断じた俺への不満をわずかに覗かせていた。割と素直な表情を見せる女の子だなと思う。隠そうとしても難しい感情表現をそういうものだと割り切り、開き直って開けっぴろげにしているような印象を受ける。同じ闊達さでもシリカとはまた違った明るさだ。

 

「敏捷寄りですけど先日上がったばかりの片手直剣があります。あたしの自信作ですよ。よろしければご覧になります?」

「願ってもない。是非頼むよ」

 

 加えて稚気な部分も併せ持っているようだ。先までの顔は不満を漏らす俺の鼻をどう明かしてやろうかと思案している顔だったし、今は自身の作品を見て驚けと言わんばかりの不敵な笑みだった。見ていて飽きない表情というのはきっとこういうことを言うのだろうなと思う。

 リズベットが了解の声を上げて店の奥に消え、それから間もなく一振りの剣を抱えて戻ってきた。重そうに歩いているところを見ると、敏捷寄りとは言え結構な筋力値を要求されそうである。

 ――面白い。

 自信ありげなリズベットに呼応するかのように俺の唇が持ち上がる。俺はこういうノリが結構好きだった。出会いは悪かったが案外この店主殿とは馬が合うのかもしれない。

 

 そんなことを考えているとリズベットがどうぞと剣を差し出してくる。文句を言えるもんなら言ってみやがれという副音声がついているように思えて可笑しかった。それに近いことは考えているんじゃないかと思うけど。

 手渡された剣を片手で受け取り、まずは重さをチェックしてみる。ふむ、さっきまでの剣に比べたら十分重い。その重さに見合うだけの攻撃数値も誇っているのだろう。続いて鞘から刀身を抜き出してみると、薄赤い輝きがまず目に飛び込んでくる。火焔の揺らめきを思わせる見事な意匠に、ほぅと感心するように息が漏れてしまった。これは相当な名剣ではないだろうか、陳列されたものと比べても雲泥の差があるように思えた。リズベットの自信も頷けるというものだ。

 

「へぇ、これはすごいな。中々お目にかかれないレベルの剣だ」

「そうでしょそうでしょ! 全力で取り組んだ細剣は中々良いのできなかったくせに、軽い気持ちで片手直剣打ったらいきなりそれが出来るんだもの。この時ばかりは物欲センサーの存在を信じたわよ、あたしは」

 

 ……びっくりした。

 なんだか妙なテンションを振り切ってしまったようだ。熱心に取り組んだという細剣は失敗続きだったらしいから、もしかしたら相当鬱憤がたまっていたのかもしれない。そこに加えて傑作とも言える剣がなんとなく打った材料から出来てしまった、となると確かにショックだったというのはわかる気がする。

 彼女が口にしたように、物欲センサーの理不尽さはゲーマーなら一度となく体験するものだろう。もっとも今の俺達の境遇では、成功にしろ失敗にしろその切実さは凡百のゲームなど目じゃない。なにせ命に直結しかねないのだ、嫌でも真剣になる。

 

「その、リズベット?」

「あ……ご、ごめん、じゃなくて申し訳ありませんお客様。あたしったら失礼な真似を」

 

 はっと目を見開き、自らの醜態を思い出したのか顔を真っ赤にしたり真っ青にしたり。忙しなく変わる顔色を観察するのも楽しそうだが、これ以上は悪趣味というものだろう。

 

「無礼を働いたのは俺も同じなんだから気にしないでいいって。それにアスナから親友って聞いてたから、あんまり肩肘張られるとやりづらいんだよな。敬語がポリシーなら止めないけどさ、そうでないならもうちょっと砕けてくれると助かる」

「接客口調もようやく板についてきたところなんですけどね。……まあいっか。それにしてもアスナから……? ああ、そういえば昨日そんなこと言ってたわね。うちの店を紹介したとかなんとか」

「多分それだ。ひも付きでない鍛冶屋、出来ればマスタースミスって注文だったんだけど、まさか本当にマスタースミスを紹介されるとは思わなかった。正直期待してなかったから驚いたよ」

 

 血盟騎士団や聖竜連合所属の鍛冶プレイヤーにもマスタースミスはいるのだが、彼らは毎日団員の武具の修繕やら新武装作成の挑戦と処理しなければならない仕事が山積みで、とてもギルドに所属していない俺が頼める状況ではない。そもそも頼んでも聞いてもらえるかどうか。血盟騎士団なんかラフコフ討伐以来俺との関係において決定的に亀裂が入ったのか、会う団員会う団員全てが俺を睨みつけてきたぞ。一体どうなってるんだか。まさかヒースクリフが妙な説明でもしたんじゃないだろうな。

 別にやつらが憎くて声をかけなかったわけじゃないんだ。むしろ逆で、奴らに敬意を払っているからこそ、攻略に支障が出るような事態を避けたかっただけなのに。だというのに随分と妙なことになってしまった。大体、ヒースクリフとアスナがこちらに友好的なのだから下もそれに倣うと思いきや、全く逆のまま今に至るんだものな。ここまで嫌われるとは思ってもみなかった。

 

 ふむ、これは俺を嫌ってる奴が率先して敵意を煽ってる可能性もあるか。憶測であんまり人を疑うもんじゃないけど、その場合やっぱり最有力候補はクラディールかな。

 フロアボス戦にほとんど参加しないプレイヤーなので直接顔を合わせたことは少ないが、その少ない邂逅でも奴が俺を嫌っていることは一目瞭然だった。隔意そのままに嫌な光をした目を向けてくるのだ、奴の感情なんか嫌でも悟る。伝え聞く限りかなりの腕利きなのは間違いないのだろうが、人の好き嫌いが激しいのか俺に対する反感を隠そうともしない男だった。血盟騎士団の中で俺へ反発する勢力の急先鋒がやつだろう。

 ……まぁ悪いことじゃないか。外に敵がいるうちは組織内部でまとまっていられる。攻略組最強ギルドとして血盟騎士団には固い結束を続けてもらわなくちゃならないんだ、そう考えると今の状況は別に悲観するほどのことじゃない。ヒースクリフとアスナがフロアボス戦できっちり手綱を握っている限り問題はなかった。

 

 ただ今回みたいな場合は痛し痒しなんだよな。プレイヤーメイドの高性能武器を作り出せるのがひも付き鍛冶屋に偏ってるだけに、俺みたいなソロプレイヤーだと職人を確保するのも一苦労なのだ。フリーの職人は総じてスキル熟練度が低い。そんな連中に頼むくらいならモンスタードロップ品かクエスト報酬品を使っていたほうが幾らかマシだった。特に俺の場合はフロアボスドロップ品で装備を固めていたから、フリーの職人ならずとも俺が満足できる装備品を作り出すのは難しかったはずだ。

 エクストラスキル恩恵でレアドロップ率に補正もかかってるし、今回も俺の間抜けっぷりがなければ問題なかったはずなんだけど……。

 俺の現状は結局自分の不手際に戻ってくるのだ、溜息の二つ三つ出ようというものである。

 

「公表されてるフリーの職人じゃあたしが一番スキルコンプリートが早かったみたいだからね。で、その剣どう? 結構自信作なんだけど」

「最前線でも十分通じる名剣だと思う。ただ、俺としてはもう少し重いほうが好みかな」

「これでも軽いの? どんだけ筋力優先でステ振ってるんだか。その剣で駄目なら市場に出回ってる剣の大半は無理ね。後はフロアボスクラスのレアドロップに期待するか、筋力値優先でプレイヤーメイドのレア武器作成に賭けるしかないんじゃない?」

 

 俺のステ振りは偏りのないバランス型だから言われるほど筋力重視じゃないんだけどな。単にレベルが高いせいで筋力偏重プレイヤー並の数値を誇っているだけだ。

 なにはともあれ、もう少し重い剣が欲しいという俺の要望に呆れたような声で答えるリズベットだった。その指摘は多分正しいのだろう。武器の専門家のお墨付きだ、無視できる意見じゃない。

 

「リズベットなら打てるのか?」

「んー、正直この剣より重い武器ってハードル高すぎるのよ。あたしが敏捷値優先の剣を打ってるのも、別に筋力値優先武器を軽視してるわけじゃなくてね。ここのところ、具体的には50層以降から筋力優先に向いてる新しい金属が発見されてないって事情もあるのよ。70層に到達したんだからもう少し待てば発見される可能性も高いけど……実際のトコどうなのかしらね?」

 

 首をひねるリズベットに答える言葉を俺は持たない。新種の金属が見つかっていないのは俺もずっと懸念だったのだ。60層以降に敏捷ステ向けの新金属が発見されたのだから、70層以降は順番的に筋力ステ向けの金属なのだと信じたいところなのだが、希望的観測で行動すると碌なことにならないのはこの世界で学んだ教訓である。まずは今出来る最善を尽くす、話はそれからだ。

 

「ゆっくり待てるならそれでもいいんだけど、生憎と俺には時間がなくてさ。すぐにでも強力な剣が必要なんだ。具体的にはこの剣と同じくらいのが欲しい」

 

 難しい顔で何やら考え込んでいるリズベットの前に愛剣《エリュシデータ》を差し出した。

 

「うわっ、何これ、めちゃくちゃ重い……。しかもあたしの知らない剣だ。作成者の銘も刻まれてないみたいだし、これってもしかしなくても魔剣クラスのモンスタードロップ品じゃない。あんた、もしかして攻略組?」 

 

 鍛冶屋ご用達の鑑定スキルで調べたのだろう、目を大きく見開き、驚きも露わに俺へと視線を移した。一瞬でそこまで読み取るあたりスキル熟練度も高いみたいだ。マスタースミスなのだから当然か。

 ちなみにアインクラッドにおける武器の区分は大雑把に言って二種類。鍛冶スキルが生み出すプレイヤーメイド品か、モンスタードロップ品か、である。クエスト獲得報酬としての武器は絶対数が少ないため、前者二つとは並ばない。そして現時点における高レベル鍛冶屋謹製の高性能品と、それらに準じる数値を誇るモンスタ-ドロップ武器を指して名剣と呼称し、それすら凌ぐ希少で強力な剣を指して魔剣と呼び習わすのが慣例だ。

 その慣例に倣うならば、リズベットの言った通り俺の愛剣であるエリュシデータは魔剣分類となる。エリュシデータは50層のクォーターボス相手にラストアタックボーナスを決めた時に入手したモンスタードロップ品だった。70層現在においてもこの剣を超える片手直剣にお目にかかったことはない。さすがにクォーターボスから入手しただけはある。

 と、まあ、そんなことよりも。

 

「アスナのやつ、何も説明しなかったのかよ……」

「無茶な注文されるかも、とだけ聞いた気がするわ。実際無茶な注文されてるけどね」

 

 二人して溜息をついた。なんだか無駄に遠回りをした気分だ。アスナのやつ、普段はしっかりしてるくせになんで今回に限ってこんなポカをやらかしてるんだよ。嫌がらせか? いや、なんか疲れた顔をしてたし、単純に伝え忘れた可能性が高いか。マスタースミスを紹介してもらった礼もしてないし、今度会ったら労ってやろう。

 

「あれ、じゃあ俺のこと何も聞いてないのか?」

「なに? あんたって有名人だったりするの……って、ああ、そういうこと。そりゃ話が噛み合わないはずだわ。随分な軽装をしてるから良いトコ中層プレイヤーかと思ってたのに、攻略組も攻略組、トッププレイヤーの一人じゃない。そりゃ、あたしの想定してたステ数値とずれるわけだわ」

 

 言葉の途中でリズベットの視線が逸れていたのは俺のプレイヤーネームを確認していたのだろう。ネーム表示は通常の視界には表示されず、一度キャラクターカーソルに視点を固定して一定時間経過後に視界の隅に表示される仕様のため、ぶっちゃけ手間がかかる。意識しない限り日常生活では使われないし、そもそも人の名前なんて一々気にされないものだ。アインクラッドでは現実世界と異なる文化が形成されているものの、目に入るプレイヤー全ての名前を一々確認するような習慣はない。

 それでも一手間かければ名前が容易に知れる、というのはゲーム世界ならではのルールだと感心もするのだが。今生きている世界をゲーム世界だと確認したくないがためにネーム表示機能を使わない、なんて感傷めいた思いを抱いているプレイヤーもあるいはいるのかもしれない。

 

「黒の剣士は二刀流使いって聞いてたけど、それなら必要なのは予備の剣? 慎重と言えば慎重だけど、メンテさえしっかりしてれば武器なんてそうそう消滅したりしないでしょ。ひとまずは今使ってる剣で十分なんじゃない? このエリュシデータだってしっかり手入れされてるし、そんなに焦ることもないと思うけど?」

「あー、それがだな、二本目の剣は壊しちゃって、三本目の予備は協力してくれたプレイヤーに報酬として渡しちゃったんだ。で、今手元にはエリュシデータしかない」

「はい?」

 

 素っ頓狂な声をあげてリズベットは固まってしまった。そりゃそうだろうな、自分の武器が壊れて、それを忘れて予備を放出したとか正気の沙汰じゃない。ただなぁ、あのときは俺も尋常な状態じゃなかったし、思考も千々に乱れてたんだ。間抜けだと思う反面、仕方ないと諦めてもいる。

 

「なるほどね、それで早急に二本目の剣が必要だってわけ。……控えめに言うけど、あんたって結構間が抜けてるのね」

「面目次第もございません」

 

 返す言葉もなかった。

 噂に名高い黒の剣士様とも思えない話よね、と呟くリズベットの指摘が心に痛い。とてもとても痛い。目に見えない氷の刃が心臓めがけてぐっさぐっさと突き刺さってくるようだ。叶うことならこのまま不貞寝したかった、もしくは穴掘って埋まりたい。

 

「その報酬に渡したって剣を返してもらったりできないの? ほら、改めて買い取るとかさ」

「元々メインで使ってた二振りの剣に比べて予備のは明らかに格下なんだ。正確に言うと《エリュシデータ》が飛びぬけて強くて、二本目がそこそこ、予備は妥協そのものだった。買い戻してまで使いたいとも思えないんだよな。まあ、どれもレアドロップ品には違いないんだけどさ」

「贅沢な話ねぇ」

「生き残るために必死なんだと解釈してくれ。それに二刀流は強力なスキルなんだけど、二本の剣の攻撃力数値に開きがあると使いづらいんだよ。ダメージ計算が面倒で仕方ないし、徹底したリスク管理の出来ないスキルなら使わない方がマシってことにもなりかねない」

 

 二刀流はヒースクリフの神聖剣と並び、全プレイヤーの中で一人だけに発現するユニークスキルだと囁かれている。その希少性に恥じない圧倒的な性能を秘めているスキルなのだが、弱点がないわけじゃなかった。

 まずは両の手に剣を携えることにより、盾が装備できないことからくる防御力の低下。しかしこれは元々盾なし片手剣スタイルだった俺にとってはデメリットになりえない。むしろ二刀流スタイルに慣れるにつれて武器防御の有効性が高まっているくらいだ。

 次に武器耐久値の消耗速度の速さ。以前のスタイルよりも手数が増しているのだから当然武器の消耗が激しくなるのは承知していたが、二刀流スキルそのものに武器耐久値に対するマイナス補正がかかっているようなのだ。盾なし片手剣スタイルでの消耗速度より明らかに耐久値が削られるスピードが加速している。ただ二刀流によって攻撃性能自体も抜群に伸びているので、結果的にモンスターを攻撃する回数が減り、耐久値減少も気にならないレベルで収まっていた。トータルで見ればトントンの収支だろうと思う。メンテさえしっかりしておけばこれも弱点足り得ない。

 

 二刀流で一番の問題は、やはり短期決戦仕様のスキルということだ。二刀流というだけあって、当たり前だが両手に剣を持つ必要がある。そして両手のどちらもが塞がれてしまう為、盾なし片手剣スタイルだった頃に比べると戦闘中にアイテムを使いづらいのだ。以前は空いた左手で消耗品のポーションや結晶を戦闘の最中でも労せず使えていたのだが、二刀流スタイルに変更したためにどうしてもアイテム使用にワンテンポ遅れるようになってしまった。攻撃力の倍加と引き換えに継戦能力は間違いなく低下したと言えよう。それに投剣スキルも以前ほど多用は出来なくなった。

 可能ならばソロを諦め、パーティー編成を試みたいところである。恐らく二刀流が最も生かせるのはパーティーを組んだ上での切り込み隊長、つまり真っ先に敵陣に切り込み、その飛びぬけた攻撃スキルで敵を圧倒する生粋のダメージディーラーの役割だ。仲間の援護が期待できるのならば継戦能力の不安も弱点にはならない。

 

 まぁ所詮はないものねだりだし、俺の懸念も贅沢に入る部類のものだということはわかっている。いくら弱点があろうが、二刀流最大の真価である手数の増加と強力無比な専用ソードスキルが使える魅力は何者にも変え難い。極まった攻勢スキルの評価が揺らぐことはなかった。二刀流専用ソードスキルなど反則も良い所の威力だと、スキル保持者の俺ですら思うくらいの代物なのだ。だからこそ、その性能を十全に引き出すために《エリュシデータ》と伍する新たな剣が必要となる。

 

「間に合わせの剣を用意するにしても、俺が武器作成の仕事を依頼したことのあるフリーの鍛冶屋って一人しかいないんだよ。で、そいつは中層プレイヤーで、マスタースミスには程遠いやつだしな。フロアボスを相手にするような剣を打つにはスキル熟練度が心許ない」

「へえ、黒の剣士の知り合いって考えるとちょっと意外な感じ。もしかしてあたしの知ってる鍛冶プレイヤーだったりするのかしらね」

「どうだろ、フリーって言っても冒険業からは完全に引退して半分隠遁してるようなプレイヤーだからな。グリムロックってやつなんだけどさ」

「グリムロック、グリムロック……駄目ね、聞いたことないわ」

「まあ本題はそこじゃないから忘れてくれ。フロアボス戦に必要な剣が欲しいのにフロアボスのドロップ品に期待するとか本末転倒も良いとこだからな、プレイヤーメイド品ならもしかしたらって思ったんだけど……。そっか、マスタースミスでも無理か」

 

 仕方ない、当面は盾なし片手剣スタイルに戻って攻略を進めるか。そのうち適当な剣もドロップされるだろ。後はアルゴにでも有力な剣の情報を頼むことにして――ああ、金属の情報も一緒に頼むか。あるいは顔の広いエギルを頼ってみるのも手だな。フロアボス戦までに何かしらの解決策が見つかるといいんだけど。

 

「ちょっと待って、そんなに急いで結論出さなくてもいいじゃない。あたしはあくまで《難しい》としか言ってないわよ。一言も《無理》だなんて口にしてないでしょ」

「そうは言ってもなあ、なにか当てでもあるのか?」

「一応あるわよ。第55層の片隅に小さな村があってね。そこで発生中のクエストなんだけど、NPC情報をまとめると新種の金属が手に入る可能性が高いのよ。筋力値優先の武器が欲しいならその金属を使うのが一番可能性が高いんじゃない?」

「55層で? そのクエスト、未だに達成者がいないのか?」

 

 最前線で発生するクエストならともかく、55層は開放されてからもう長いこと経つから、そこで受けられるクエストも大抵のものはクリアされてるはずなんだけど。未だに達成されていないとなると、よほど難しいクエスト達成条件でも設定されてるのか?

 

「そこなのよね。クエストボスっぽいドラゴンは確認されてるし、何度か討伐もされてるのよ。けどドラゴンを倒して手に入るのは明らかにボスの強さに釣りあわない少額のコルとかどうでもいいアイテムばかり。何かフラグ立てが必要なんだろうって結構な数のパーティーが条件を変えて試したみたいだけど、残念ながら全部外れ。今となっては半ば放置されてるクエストね」

「それはまた難儀なクエストだな」

 

 さてどうしたもんだろうと腕組みをして考える。リズベットの話しぶりから高い確率で鍛冶素材アイテムのクエストには間違いないのだろうが、成功者が未だにいないというのはよっぽどフラグ管理が厳しいのか、それとも何か見落としている情報でもあるのかだ。無策で挑もうものなら、折角向かったはいいが無駄足踏むだけの結果になりかねない。

 かといってこのまま剣一本で攻略に戻るのもそれはそれで不安だ。迷宮区は問題ないにしてもやはりフロアボス戦には万全の態勢で臨みたい。市場に出回っている剣ではモンスタードロップ、プレイヤーメイド双方に満足できる品はなかった。それを思えばリズベットの提案に乗るのも確かに一つの案だろう。

 

「クエスト達成条件の絞り込みは出来てるのか?」

「推測程度なら。鍛冶素材クエストっぽいし、やっぱり鍛冶屋同伴が必須なんじゃない? っていうのが通説。ただそれも既に試された組み合わせでやっぱり駄目だったらしいから、プラスアルファで何か必要だと思う。例えば――」

「マスタースミス」

 

 重なった声にリズベットがにんまりと笑った。

 

「そういうことね。他にも鍛冶屋がソロで出向くとか色々考えられるけど、そこまでいくとお手上げ。条件厳しすぎだわ」

「55層っていう中途半端な階層を考えるとあまりきつい条件はなさそうだよな。マスタースミス同伴ね、確かに可能性はありそうだ」

 

 シリカの時と似たようなものか。あの時はペット蘇生アイテムに縁深いビーストテイマーがフラグに必須だった。鍛冶に使う金属となるとリズベットの言う通り鍛冶屋が最有力だろう。それに鍛冶スキルのようなサポートスキル主体のプレイヤーは、どうしたってレベルや戦闘スキルで最前線のプレイヤーには及ばないから、戦闘能力を試すようなクエストも想像しづらい。ソロでクエストボスを撃破とかシビアなフラグの可能性は薄いはずだ。

 

「今までクエストクリア報告がないのは、ギルド付きの職人が冒険に出る機会自体が少ないからってわけか」

「多分そうでしょうね。あたしらフリーの職人と違って、有力ギルドお抱えの鍛冶屋に戦闘能力は期待されてないもの。ギルドにしたって完全後方支援職のプレイヤーを担ぎ出してまで、クエストクリアに躍起になったりはしないでしょ」

「かくして55層のクエストは忘れ去られてしまいましたとさ、と。理屈はわかるけど勿体ない気もするな」

「現状、攻略組のプレイヤーは特に武器に不満を感じてないってのもあるかもね。攻略組でもあんたくらいじゃないの、魔剣クラスじゃないと満足できないなんて言ってるやつ」

 

 一理ある。スキルコンプリートに達した鍛冶屋の数が揃ってきている有力ギルドは、ギルド員数分の名剣を揃えることも苦ではなくなってきているのだ。ただ、そのおかげで攻略もより安全に行えるようになってきているのはいいが、最近攻略組の戦い方が以前にまして保守的なものにシフトしているのが気になる。血盟騎士団、特にアスナが攻略を主導しているにも関わらず、60層以降の攻略速度が明らかに落ちているのだ。戦力が充実するほど命を惜しむ風潮になるのもわからないではないのだが、このままの攻略速度で推移するようだとちょっと厄介なことになるかもしれない。

 

 加えてラフコフ討伐戦の影響も懸念材料だった。攻略組からも大分戦力を引き抜いての編成だったために、討伐戦前後の攻略にある程度の支障が出るのは織り込み済みだ。問題はこれからである。やつらと繰り広げた凄惨な戦いが攻略組の士気を低下させることは十分考えられる。ただそれに関して俺ができることは何もなかった。精々ソロプレイヤーとして一層の奮闘をするくらいだろう。

 俺の求める魔剣クラスの剣か……。名剣クラスでも攻略には問題なく参加はできる。しかしあの男、PoHの行方がわからないだけに油断も出来ない。ラフコフという巣穴を壊されたあの男が、討伐の首謀者であった俺に報復する可能性は決して低くはないのだから。備える意味でも装備の充実は必須だった。

 ……あの時、やつを取り逃がしたのは痛恨だったな。たとえどれだけ後悔してのた打ち回ることになろうが、やつだけは確実に葬っておかなければならなかったのに。

 

「――ちょっとあんた、聞いてる? ああ、もう、キリトッ!」

 

 びっくりした。急に耳元で大きな声がしたかと思えば、リズベットが頬を膨らませて俺を睨みつけていたのだった。どうも考え事に夢中になっていたらしい。まずった、反省しないと。

 

「悪い。それで何だって?」

「だから、55層に向かうかどうか聞いたの。それともし行くのならこのリズベットさんがついてってあげる、って言ったのよ」

 

 リズベットの提案に面食らったのは仕方ないことだろう。いきなりだということもあったし、何よりいくらアスナの紹介だとは言えそこまでしてもらう義理もない。剣を必要としているのはあくまで俺である。リズベットにとっては新種の金属という鍛冶素材ゲットのチャンスとは言え、成功率の低いクエストにわざわざ出向くこともない。

 

「驚いてるみたいだけどさ、あんた同伴する鍛冶屋に心当たりでもあるの? 知り合いだっていうプレイヤーはマスタースミスじゃないみたいだし、ギルド付きのマスタースミス相手じゃそもそも連れ出せないでしょ」

「……まあそうだけどさ。だからと言ってリズベットにそこまでしてもらうわけにもいかないって」

「細かいことはいいのよ。別にあんたのためってわけじゃないし、あたしにはあたしなりの考えがあるの。一応言っておくけど、メイサーとしての腕だって捨てたもんじゃないんだからね。もう少しでスキルコンプリートするとこなんだから」

「へえ、そいつはすごい」

 

 鍛冶スキルも多種にわたるがそのうちの一つをコンプするだけでも手間なのだ。武器作成の副産物としてある程度メイスのスキル熟練度が上がることを差し引いても、リズベットのスキル上昇度の速度は並じゃなかった。鍛冶屋としての腕を突き詰めなければ、もしかしたら攻略組でも指折りのメイス使いにだってなれた可能性もある。

 全く、アスナといいリズベットといい、羨ましくなる才能だな。

 感嘆混じりの溜息を吐き、それからリズベットに深く頭を下げた。

 

「そういうことならよろしく頼む。道中の安全は俺が可能な限り確保するから、リズベットには後衛を頼みたい」

 

 55層のモンスター相手ならリズベットの手を煩わせることもないだろう。時間もあまりかけられないことだし、シリカのときとは事情も違う。雑魚敵は俺が速やかに排除してしまって問題あるまい。

 懸念とまでいかずともリズベットの思惑とやらが気になるところではあったが、それも詮索するほどのことではないだろうと思う。鍛冶屋ならば優良な金属の供給ルートは確保しておきたいものだし、俺達がクエストを成功させることが出来ればその達成条件を情報屋経由でばらまくことで市場にも出回るようになる。ゲームクリアへの目的意識が高い鍛冶プレイヤーなら新種の素材発見に乗り気になるのもおかしなことじゃない。

 そうなると問題があるのはむしろ俺の方か。

 

「なぁ、折角やる気になってるとこ悪いんだけど、プレイヤーメイドの特注品って相場はいくらくらいなんだ?」

「知らないの? まあいいけど、そうねぇ、あんたが所望するレベルの剣は特殊素材必須だろうし、それをマスタースミスに依頼するとなるとどんなに安く見積もっても10万コルは下らないわね。……でも攻略組ならそう難しい値段じゃないでしょ?」

「普段ならそうなんだけど、生憎持ち合わせがなくてな。今日は見積もりの予定だったんだよ」

「あー、そういえばそんなことを聞いた気がするわ。そっか、アスナの言ってたことは当たりか」

 

 当たり? よく聞こえなかったが、何故か納得しているようだ。話が早くて助かるのだが妙な気分になるな。どこかで《黒の剣士情報》でも出回ってるのだろうか。本当に隠したい情報はその限りではなくても、俺に関する重要度の低い情報なら嬉々として売りさばきそうな情報屋が一人いることだし、油断はできない。

 それともアスナか。こっちは律儀なやつだから人のプライベートを簡単に漏らしたりはしないだろうが、親友相手の上に顧客情報の一環として話した可能性も十分ある。

 そこまで考えてから、ふっと軽く息をついて思索の全てを振り払った。思考が脇道に逸れている。

 

「換金してない現物なら幾つかある。クエストに付き合ってもらうわけだし、前金代わりってことで一つどうだ?」

「どうだって言われてもね、実際にアイテムを見てみないことには」

「そりゃそうか。少し待ってくれ、今オブジェクト化するから」

「ストップ。続きは工房のほうに移動してからにしましょう。旅支度も済ませたいしね」

 

 早速メニューウィンドウを開こうとした俺を、リズベットが軽く手を上げて制した。なんだか本当に話が早いな。どうなってるんだ?

 

「これからすぐ向かうのか?」

「急ぎなんでしょ? 日を改めたいならそれでも構わないけど」

「いや、よろしく頼む」

 

 俺の返事を待つことなくリズベットはさっさと店の奥へと歩いていってしまう。俺にとって都合よくとんとん拍子に話が進む流れに首をかしげながら、それでもアスナの親友なんだから疑う必要もないだろうと、一抹の不安を振り切るようにリズベットの後に続いた。

 妙なことになっている。しかし何に違和感を覚えているのかが今一つつかめない。不気味というほど切迫したものは感じられず、しかし順調というには引っかかる部分が多すぎる。今の状況はおかしなはずなのに、一体何がおかしいのかがわからないという、ひどくあやふやな感覚だけが残った。

 リズベットか。悪いやつじゃなさそうだし、打てば響く会話の応酬は心地よいものだが、何を考えているのかイマイチ謎だ。隠し事に向く人となりとも思えないんだが……。結局のところ今日が初対面の相手なんだよな。アルゴみたいにあからさまに腹に一物ありますってタイプのほうが、警戒しやすい分迷わなくて済む。

 まあいいか。

 気になることはあっても折角示されている好意なのだ、有り難く受け取っておこう。俺を騙してなにか得があるとも思えないし、何よりアスナの紹介なのだから疑うのも馬鹿馬鹿しい。

 何事もなくクエスト達成できますように。信じてもいない神様に祈るだけ祈っておいた。

 

 

 

 

 

 ちょっとあからさまだったかも。

 後ろについてくる黒衣の剣士の気配を感じながら歩を進めてはいたが、内心は結構慌てているあたしだった。

 黒の剣士との会話を思い出すまでもなく、勇み足に過ぎたことは自覚している。鍛冶屋として商談を進めるわけでもなく、まして報酬の話もなしに同行を申し出てしまったのは、明らかになにかありますと言っているようなもの。振り向いたりはしないけど、今頃猜疑の目を向けられているんじゃないかと思うとちょっと怖い。

 だって、立場が逆ならあたしだって思うもの、こいつ怪しい、って。

 そりゃ、なんだか噂に聞く黒の剣士と実際の人物像のかけ離れ具合に驚いたとか、妙に会話のテンポが良い相手だったとか、親友の想い人候補に興味があったとか色々理由はあるけどさ、結局のところこれが一番! って理由はないのよね。強いて言えばお節介、かしら?

 ……自分自身でも不思議よね、どうしてあんなことを言っちゃったりしたのか。

 

 《黒の剣士》は怖かった。

 もちろん《はじまりの剣士》の逸話は知ってるし、そのおかげで初心者プレイヤーの生存率が跳ね上がったのは否定できない事実だ。一万人の集まった広場で、たった一人茅場晶彦に挑み、ベータテスターとして朗々と生き残る算段を語ってみせた姿は余人には真似のできないものだったのだろう。

 あたしは一万人の大群衆に埋もれて、はじまりの剣士の姿を直接見てはいない。けれどあの時はじまりの剣士が語った言葉は、後に鼠のアルゴ編纂の指南書(ガイドブック)に簡易文章化されて掲載されている。ベータテストに参加できなかった9000人弱のプレイヤーの大半は、はじまりの剣士に感謝していることだろう。

 

 けれど、アインクラッドにおける最大のタブー《仲間殺し》を最初に犯したのもまた彼だった。やがてそのプレイスタイルと黒の装備を一貫して使っていたことから《黒の剣士》の異名で呼ばれ始めるようになった。通りが一番良いのは《黒の剣士》または《はじまりの剣士》だけれど、彼には様々な呼び名が常に付き纏う。中には彼を侮蔑し、忌避するものもあった。その筆頭は《仲間殺し》、そして《オレンジ》、次いで《ビーター》。もっとも、ビーターという呼び名は軍の中でしか通用していないみたいだけれど。

 二つ名なんてものはそうそう幾つも定着したりはしない。そういう意味では良くも悪くも《キリト》というプレイヤーは他のプレイヤーの耳目を集める特異なプレイヤーとして認識されてきたのだろう。

 

 功罪相半ばするアインクラッド屈指のトッププレイヤー。そう呼ぶには功績が大きすぎるとは思うけど、決して清廉なだけの人柄ではないのだと思っていた。だって、そうでもなければ致し方ない理由があったとされるオレンジ化はまだしも、同じ人間であるラフコフ討伐を主導したりなんて出来ない。誰もが関わることを恐れ、目をつけられないよう息を潜めていた相手が、殺人ギルド《ラフィン・コフィン》だったのだから。

 皆、本心ではわかっていた。やつらをどうにかしなければあたしたちに未来はないって。それくらいラフコフの連中はPKを繰り返していたし、やつらに呼応するかのように犯罪者プレイヤーの数は増えていった。だからこそ黒の剣士がラフコフを《狩った》のだと聞いても、誰も黒の剣士を声高に非難したりしなかったのだ。もちろん思う所はあるだろうし、プレイヤー同士の抗争だって認めたくなかった人間が大半だろうとは思う。けど、誰だって自分の身は可愛いものだ。身の安全と禁忌に対する倫理観を天秤にかければ、前者に傾くのも不思議じゃない。あたしたちが自分の手を汚したわけでもないのだからなおさらだ。

 

 PKさえ躊躇わない冷徹で非情な凄腕の剣士。そんなあたしの想像と、アスナが時折零していく《キリト君》の人物像が重ならないのも無理はなかった。直接見ているのはアスナの方なのだから、真実はあたしの想像でなくアスナの語る姿にこそあるのだと思っても、中々納得できるようなものでもない。どうしてもその落差を埋め切れなかった。

 そして今日、そうと知らずに《黒の剣士》と出会い、《キリト》を知った。

 彼の正体を知った時になんでもないように対応できたのは、きっと彼を黒の剣士ではなくキリトとして認識していたせいなのだろうと思う。だって、あたしの前で情けない顔で笑い、とぼけた声で会話に応じていたのは、どう見てもそこらにいるなんてことのない男の子だったのだから。噂に名高い攻略組のトッププレイヤーの逸話よりもよっぽど印象深かった。

 もしかしたらエギルの言いたかったのはそういうことだったのかも。《黒の剣士》の足跡に対して《キリト》はあまりに不似合いだ。多分、一目見てあれが最強プレイヤーの一翼だと聞かされても誰もが首をかしげるだろう。勿論戦闘では別の顔を見せるのかもしれないけど。

 

 だからこれがアスナが心奪われた男の子なんだなとすんなり納得できてしまった。我ながら単純だとは思う。でも、一度そう認識してしまうと次は単なるお客様として見れなくなってしまった。これはあたし自身重々承知していることなのだけど、どうもあたしは身内意識がとても強いっぽい。意識して他人との間に壁を作らないと、気に入った相手にはとことん尽くして――こほん、お節介を焼きたくなってしまう悪癖があるようなのだ。

 ただ今回の場合はアスナのためなのかイマイチ判別できなかった。

 というか――なんか妙に馬が合う感じなのよね、こいつ。

 飾らずに言えば話していて楽しい、ということ。異性相手だというのに遠慮なく言葉をぶつけ合えるというのは初めてだったし、とても新鮮な感覚だった。そうして気づいたらクエスト情報を明かし、一緒にクエスト遂行に向かうことにしていた。驚きだ。あたしってこんな即断即決できる女だったっけ?

 あ、遠慮のない物言いが出来ると言えば――。

 

「ちょっといい、キリト?」

「なんだ?」

 

 出立のための準備をしているあたしから少し離れて、所在なさげに壁に寄りかかっているキリトに話しかけた。

 

「さっきあたし、あんたのことキリトって呼び捨てちゃったじゃない?」

「ああ、そのことか。別にいいよ、リズベットを無視して考え込んでた俺が悪いんだし。大体、アインクラッドじゃそっちのほうが主流だろ?」

「だからっていきなり呼び捨てて良いものでもないでしょ。そりゃ、アインクラッドではそういう礼節とかは無視されがちだけどさ。あたし客商売してるせいかその手のことには未だに向こうの感覚が残ってるのよ」

「そんなもんかな、MMO的には敬称抜きが正しいわけだから、別に悪いことじゃないと思うけど。……それで?」

「これから一緒にクエスト行くのにお客様とかあんたって呼び続けるのもどうかと思うのよ。だからあたしはあんたをキリトって呼ぶから、あんたはあたしのことリズって呼んで。友達認定した相手にしか呼ばせないんだから感謝してくれていいわよ」

 

 自分の台詞が照れくさくて、意味もなくふふーんと胸なんて張ってみせる。やってからこっちのほうが恥ずかしいと気づいて余計に赤面することになった。気づかれていない、と思うのは虫が良すぎるわね。早いとこ忘れよ。

 

「へえ……うん、光栄だな、喜んで呼ばせてもらうよリズ。ところでリズ、報酬のことなんだけど」

「……なんだか面白がってない、あんた」

 

 具体的には赤面したあたしをからかう方向で。

 

「滅相もない。俺はいつだって真面目な男だぜ?」

「それならまず吊り上げた唇を固く引き結んでから弁解なさいな。ふん、いいわよ別に。後でアスナにキリトに泣かされたってチクるだけだから」

「そいつは勘弁、事実の捏造はどうかと思うぞ」

「はいはい、ならさっさと商談に入りましょうかね」

 

 拗ねたように頬を膨らませたあたしをキリトは苦笑いで見ていたが、やがて作業用の台の一つにアイテムをオブジェクト化した。そこに現れた食材アイテムを見てあたしは思わず目を見開き、その驚きから即座に鑑定スキルを発動させてしまったほどだ。

 

「ちょっと、これ《ラグーラビットの肉》じゃない。押しも押されぬS級食材。良く手に入れられたわね」

 

 アインクラッドで最大の娯楽とは何か。言うまでもない、食事である。元々中世の欧州世界がモチーフとされている世界だから、用意されている娯楽の種類も質もたかが知れていた。その上デスゲームという重圧がのしかかる中で、日々の疲れとストレスを癒すのが《食》であることに反論などあるはずもない。

 アインクラッドの食事事情は大まかに分けて三種類。携帯食料のような店売りの大量販売品を食すか、NPCが提供する料理を食すか、もしくはプレイヤーの取得する料理スキルを駆使して調理される料理を食すか。

 料理スキルの熟練度と食材アイテムの質にもよるが、NPC提供の料理とプレイヤー謹製の料理を比較すると圧倒的にプレイヤーメイドの料理のほうが美味だ。だからこそ料理スキルを取得したプレイヤーはどこに行っても歓迎されるし、食材アイテムの等級が上がれば上がるほど比例して市場価格は釣りあがる。それはこの世界で数少ない娯楽である食事、特に美食が如何に価値あるものかを端的に示していた。

 

 キリトが取り出した《ラグーラビットの肉》は最高級食材に分類されるレアもレアな一品だ。

 このレアアイテムをドロップするのはその名の通りラグーラビットという小型モンスターなのだが、このモンスター、まず出現率が非常に絞られていて滅多なことでは出会えない。その上索敵範囲が非常に広く、死角以外の方向から近づくと一瞬でワープして逃げ去ってしまう。巷で幻の食材アイテム扱いされてるのは伊達ではなかった。

 武器の届く範囲まで近づくのは至難のため、後は投擲武器に頼るしかないわけだがそれも問題がある。補助武器である投擲武器ではどう足掻いたところで微々たるダメージしか与えられない、そしてラグーラビットのライフは投擲武器一発では削りきれない嫌らしいHP設定がされていた。ダメージを受けた瞬間ラグーラビットはワープで逃げてしまうため、連続で射ることも不可能。残った手段は一射によるクリティカル判定を狙うしかなかった。

 そこまでしてようやく手に入る最高級食材。果たしてどんな料理が出来、どんな味がするのか。自然と喉を鳴らしてしまったあたしの名誉のために言っておくが、決してあたしは食いしん坊でもなければ意地汚くもない。幻の食材が目の前にあれば誰だって似たような反応をするはずだ。

 

「それでクエストに同行する依頼料と剣を打ってもらう手付け金くらいにはなるかな?」

 

 けれどキリトのやつは飄々とした顔をしていて、S級食材を手放すことには特になんとも思ってもいない様子だった。惜しいとか思わないのだろうか。

 

「お釣りがくるわよ。なにせ入手例が両手で足りる数だからね。オークションにでもかければかなりの額になるはずだけど……あんた、自分で食べてみようとか思わないわけ?」

 

 あたしならまず自分で食べることを考える。コルなら後で稼げるけど、ラグーラビットの肉は市場に滅多に出回らない。欲しいと思った時に自由に入手できるようなものではないのだ。

 

「残念ながら俺は料理スキルを取ってない。食ってみたい気もするけど、今は剣優先だしな。流石に安全より美食を優先するわけにもいかないだろ」

「そりゃそうだろうけど……。キリトならプレイヤーメイドの剣を打つ相場価格くらいすぐ稼げるんじゃないの? なんなら依頼料金は後払いにしてあげてもいいけど?」

「そこまで気を遣ってもらわなくてもいいよ。それに食いたくなったらまた狩ればいいだけのことだし」

「狩ればいいって、随分簡単に言うのねぇ。それが出来ないから幻扱いなんでしょうに」

「確かに見つけられなきゃどうしようもないけどな。俺の場合、ラグーラビット自体は確実に仕留められるから、見つけさえすればどうにかなる」

「へー、そうなんだ」

 

 って、ちょっと待った。こいつ、何か今とてつもなくすごいことをさらりと言わなかったか?

 

「ちょっと、ラグーラビットに攻略法があるとか初耳なんだけど。投剣スキルでクリティカル狙う以外に何か良い方法でもあるの?」

「あると言えばある。かと言って誰にでも出来るやり方じゃないというか、うん、そんな感じ」

「そんな感じって、あんたね。まあ、無理に聞いたりはしないけどさ」

「いや、そんな大層な理由があるわけじゃないんだけどな。……リズにならいいか。一応、口外無用ってことにしといてくれよ」

 

 溜息をこぼすあたしにキリトは少し困ったように笑っていたが、なにやら一人納得すると懐から小さな刃物を取り出した。あれは、スローイング・ダガー? いきなり何を始めるのかと思いきや、なぜかキリトは取り出したダガーをあたしに差し出してきた。それからシステムメニューを呼び出し、皮製の篭手をオブジェクト化して作業台の一つに置いてからあたしに振り返る。

 

「リズ、ちょっとそれ投げて篭手にぶつけてみてくれないか? その篭手はレアアイテムじゃないから遠慮せずに。おっと、今更だけど投剣スキルは取ってあるか?」

「一応ね。ゲーム開始初期の頃に取ってずっとお蔵入りしてたスキルだけど……。投剣スキルの使えなさ具合を知ってたら取らなかったわよ、絶対」

「それはご愁傷様。これはこれで使い道もあるんだけどな」

 

 苦笑するキリトにあたしは肩を竦めて応える。同意しづらい言葉だ。

 ゲーム開始からほどなく投剣スキルの情報は明かされ、あたしは遠距離から安全にモンスターを狩れるスキルなのかと喜び勇んでスキルポイントを費やし、投剣スキルを取得した。あたしと似たような理由で投剣スキルを取っていたプレイヤーも多いんじゃないだろうか。そしてあたしと同じく後悔したはずだ、使えないスキルだという意味で。スローイング系列の武器カテゴリーは攻撃力が低すぎてどうにもならない。

 あたしは普段スローイング系の補助武器は使わない。だから少しだけ狙いをつけるのに手間取ったけど、こんな近距離で、しかも動かない的なのだから外すはずもない。ソードスキル同様に投剣スキルもシステム補正が働いて命中しやすくしてくれるから楽なものだった。

 あたしの投じたダガーは狙いたがわずキリトの用意した的へと命中した。ダガーは刺突属性だからピックのように貫通して継続ダメージを与えることもない。防具の耐久値を削る赤色のライト・エフェクトが一瞬散りばめられ、ダガーは篭手の乗った台座を滑り落ちて乾いた音をたてた。

 

「で、これがどうかしたの? たいした反応もないけど」

 

 てっきりキリトの使う投擲武器に何か特殊な効果でも施されてるのかと思ったのだけど、受け取ったダガーを鑑定してみても、実際に攻撃判定を成功させてみても特に変わったことはない。

 

「防具の耐久値をチェックしたらスローイング・ダガーを渡してくれるか。次は俺が投げるから」

「耐久値って言っても、スローイング・ダガーで削れる数値なんて微々たるものじゃない。……はい、チェック完了。篭手のダメージは微々たるものだけど、ダガーの耐久値は限界ね。後一回使ったら壊れるわよ、これ」

「ダガーに関しちゃ安物の消耗品だから気にしなくていいよ。注目して欲しいのはあくまで防具の耐久値のほうな」

 

 防具の耐久値は最大からほんの少しだけ削られているだけ。まあそんなもんよね、と納得しながらキリトにダガーを手渡す。するとすぐにキリトはあたしから受け取ったスローイング・ダガーを発射した。キリトのそれは手首の返しのほんのちょっとした動作だけで素早く、かつ滑らかに射出するもので、その手馴れた様子からキリトが補助武装を普段から活用していることがありありとわかる。動作一つでここまで差が出るものなのなんだ。

 

「これで的を外しでもしたら大笑いするところだったんだけどね」

「悪いな、俺は極めてつまらない男だからリズの期待には応えられそうにない」

 

 そんな馬鹿なやりとりをしつつ、ダガーのダメージによって耐久値の削られる篭手の様子を見守る。現象そのものはあたしの時と同じ、強いて違いを挙げるなら耐久限界を超えたスローイング・ダガーが、床に落ちる前にポリゴン片を散らして消滅したことくらいか。

 でも、それだけのはずがない。それだけで終わるのならキリトがわざわざこんな真似をする必要はないのだから。そしてあたしはすぐにキリトの行動の意味を悟らされたのだった。

 

「ちょっと、なによこれ。……あたしが投げた時の倍以上耐久値が削れてる。投擲武器なんて誰が使っても変化なんてないはずなのに」

 

 ソードスキルや各種武器の熟練度とは違って、スローイング系の武装に対応する熟練度項目はあってないようなものだった。威力の増加が目に映る結果として出てこないのだ。ぶっちゃけ、投剣スキルの熟練度なんて上げるだけ無駄、というのが大半のプレイヤーの共通認識だろうと思う。

 投擲武器そのものの種類も、属性の違いはあれど攻撃力を増すような上位武器は存在しないはずだった。だからこそスローイング系の投擲武器は数少ない遠距離武装でありながら使用者が少ないのだ。せめて初期武器として配布されていたスモールソードの半分でも攻撃力が期待できればまだ話は別だったのだけれど、フレンジー・ボアにさえ通用しない貧弱さでは補助武装という肩書きすら危うかった。結局、モンスターを釣るための餌扱いにしかならない。

 

 そんな極小ダメージしか期待できない代物だから、キリトがやってみせたようにいくら他人の倍のダメージが出せようと通常モンスターやフロアボスを相手にするには全く意味がない。しかし、ラグーラビットのような特殊モンスター相手だとその微々たる差が無視できない差となるのだ。

 つまりキリトのスローイング・ダガーは常にクリティカルダメージ相当の威力を発揮できるということ。なるほどね、だからラグーラビットを見つけさえすれば確実に狩れるってわけか。とはいえ出現率自体がかなり低く設定されてるモンスターだから、この先出会えるかどうかまではわからないけど。

 

「武器そのものはあたしもキリトも同じものを使ったし、補助武装にレベル補正はかからない。つまり、何かしらのスキル効果ってことかしら」

「当たり。俺の持ってるスキルで《射撃》ってのがあってな。弓装備を可能にするスキルなんだけど、余禄でスローイング系のダメージと命中にも補正が入るんだ。そのおかげでクリティカルなしでもラグーラビットを狩れる」

「……どこから突っ込めばいいのかしら。そもそもアインクラッドには弓カテゴリーの武器なんて一つもないじゃない。何よその死にスキル」

「70層以降のどこかで手に入るんじゃないのか? 今のところ補正目当てでしか使えない微妙スキルだけど、多分エクストラスキルなんだろうな」

「そうでしょうね、情報屋にも出回ってないスキル情報でしょ、それ。公表する気ある?」

「弓カテゴリーの武器が発見されるまでは様子見かな。発現条件が不明だし、今のところフードファイター志望のプレイヤーにしか意味がない。俺は攻略優先スタイルを変える気はないから、《食材モンスターを狩ってきてくれ》みたいな変な依頼が持ち込まれても対処に困るし」

 

 そう愚痴って溜息をつくキリトだったが、あたしはそれどころじゃない。まさかそんな重要極まりない個人情報をぽろりと漏らされるとは思ってもみなかった。ここはあたしのホームでセキュリティも厳しい工房だというのに、思わず周囲に視線を巡らせて人の気配を探ってしまったくらいだ。 

 キリトの語ったスキルは確かに今のところ死にスキルも同然だろう。しかしこのまま攻略が進み、もしも弓カテゴリーの装備が出現したとき、現在まで積み上げられてきた戦術が一気に過去のものとなる可能性があった。遠距離攻撃が可能な武器にはそれだけの破壊力がある。

 恐らくはキリトの言った通りエクストラスキル、それも極めて出現条件の厳しいスキルの一つなのだとは思うけれど……もしもこのスキルの情報が発表されたら二刀流スキルを超える騒ぎになるかもしれない。まあ反響の大きさは実際に扱える弓カテゴリーの武器が発見されているかどうか、その武器とスキルが十分に攻撃力を秘めているかどうかにもよるだろうけど。

 

「……それをあたしに話してくれたのは何故かしら? あたし、キリトから無償の好意を受けるほど親しくなった覚えはないんだけど」

 

 自然と目つきがきつくなってしまった。

 いつかはアスナと同じようにキリトとも親友になれたらという希望がないわけではなかったが、今現在に限っては取らぬ狸のなんとやらというやつだろう。美味い話には裏を疑え。それがアインクラッドで生き抜く知恵でもあった。窃盗や詐欺が横行していた過去は未だ生々しくプレイヤーたちの記憶に残っている。

 けれど、そんなあたしの厳しい眼差しにキリトはひょいと気軽に肩を竦め、何でもない口調で続けたのだった。

 

「深い意味なんてないさ。強いて言えば俺に付き合って危険なクエストに同道してくれる礼と、アスナ曰くの無茶な注文に誠実に対応してくれたことへの感謝かな。後はアスナへの信用込みってとこ、リズがアスナの親友だって言うなら俺も無条件でリズのことを信じられる。それと、無償の好意を先に示してくれたのはリズだろ。だから俺はリズを信じてプライベート情報の一部を明かした、それだけのことだよ。不審に思ったのなら謝らせてもらうけど?」

「ううん、そんなことないわ。そこまで言ってもらえてとっても嬉しいし」

 

 やば、反則。そんなこと言われたら何もいえないじゃない。

 答える声もちょっと上擦っていたし、これ以上の言葉も出ない。もしかしたら今のあたしの状態は感極まるというやつなのかもしれない。柄でもないっての、もう。

 

「よっし! それじゃあ準備も終わったことだし行きましょうか!」

 

 慌てて強引な話題転換を図っちゃったけどいいや。まさか台詞一つで感激しちゃいましたなんて、恥ずかしくて身悶えしちゃいそうだ。それにキリトがあたしに向けてくれた信頼の大部分はアスナあってのものなんだし、まずは落ちつかないとね。

 意識を切り替える意味でも殊更明るい声を響かせて立ち上がった。見よ、客商売で鍛えた鉄壁のスマイル。乙女の武器だという涙は自由自在に操れなくても、日々の習慣と化した笑顔の大安売りは大得意なのだった。……いったい誰に自慢できるものなのやら。

 

「了解。モンスターは俺が引き受けるから、道中の案内役はよろしくな、リズ」

「まっかせなさい。攻略組でもトップクラスだっていうキリトの実力にも期待してるからね。それじゃ、しゅっぱーつ!」

 

 おーっ、と律儀に応えて握りこぶしまで掲げてくれたキリトにノリの良いやつ、と苦笑を浮かべた。

 やっぱり想像と全然違うなぁ。アスナが惚れたのはこっちのキリトなのかしらね。それともあたしの知らない黒の剣士の方? 噂自体が大部分嘘っぱちって可能性も少しだけあるかも。

 

 こっちの世界では男女交際なんてしないって決めて今まで男性を近寄らせてはこなかったけれど、キリトが相手なら二人きりでもクエストに同道できそうだ。アスナの大事な人認定しているせいか異性に対する警戒心が先立つことがないのも大きい。この分なら楽しい冒険になりそうね、と知らず笑み崩れてしまう。まさか出会ってすぐにここまで意気投合できる相手がいるとは思わなかった。

 心の中でアスナに、ちょっとだけキリトのやつ借りるわね、と謝ってから、まずは久しぶりにうきうきと高揚する胸の鼓動と、それから緩みそうになる表情を鎮める作業にとりかかることから始めようと思った。

 

 




 《投剣》スキル並びに投擲武器の弱体化、《射撃》スキルの補正効果は拙作独自のものです。
 《職人ギルド》が存在せず、職人クラスがギルド付とフリー職人に分かれているのは拙作独自の設定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 誓約の二刀流 (2)

 

 

 あたしの浮かれ具合は近年稀に見るレベルだったのと思う。

 どれくらいのものだったかと言えば、第55層が氷雪地帯だと知っていたにも関わらず、防寒装備をアイテムストレージに確保し忘れていたくらいには気が回っていなかった。……ありえない。

 どんだけお間抜けなことしてんのよ、あたしは。しかもその後始末を同行人にさせるとか、もう穴があったら入りたい。恥ずかしすぎる。

 

 キリトが用意してくれたのは身体をすっぽり覆う黒皮のずっしりとしたコートだった。いかにも実用性重視といった代物で、男性らしいというか無骨というか、とにかくそんな一品。……とってもあったかい。

 

「キリト、寒くない?」

 

 あたしに防寒着を融通したせいで、キリトの装備はお世辞にも厚着とは言えないものだった。本人は普段通りの装備だからこっちのほうが落ち着くとか言ってくれたけど、どう考えても強がり……っていうかあたしへの気遣いよね。

 

「寒くないって言ったら信じてくれるか?」

「無理ね」

「じゃ、寒い。とはいえ我慢できないほどの寒さじゃないから、さっさとクリアしてリンダースに戻ろうか。コーヒーくらいはサービスしてくれるだろ、店主さん?」

 

 振り向いたキリトの表情には悪戯っ子のような笑みが浮かんでいた。そういう顔をしているとさらに幼く見えるのはご愛嬌だろう。あたしも童顔ってよく言われるけど、キリトも相当なものだと思う。やけに落ち着いてるし堂々としてるから出会った当初は幾つか年上かと思っていたのだけど、こういうところを見ると同い年か年下に見えてくるもの。不思議なやつだった。

 

「喫茶店じゃないけど、まあお得意様にはサービスしてあげるわよ。コーヒーもどきから紅茶もどきまでなんでも注文してちょうだい」

「もどきってとこが悲しくなるよな。それに俺としては緑茶の香りが懐かしい。久々に飲みたくなったな」

「お茶の注文は遠慮しておいてもらえる? 次からは用意しておいてあげるからさ。それにしても、キリトって和贔屓だったりするの?」

「どうだろう、どっちかっていうと海外暮らしが長くなると日本食が懐かしくなるとかそういう感覚じゃないか」

「あー、それわかる気がするわ。あっちの味を発見したりすると無性に嬉しくなったりするしね」

 

 食事こそが最大の娯楽のアインクラッドだけに、珍味妙味美味と同じくらい微妙だったり残念な味の食材や料理が出てくる。当たり外れも結構激しかったりするのだ。だからこそ余計に食への情熱が掻き立てられるのかもしれないけどね。あの店の料理が良かったとか、あのモンスターがドロップした食材は二度と口にしたくないとか、そんな取り止めのない会話を交わしながら歩く道中は楽しかった。同時にあたしの経験してきたクエストとしてはこれ以上ないほど安全な旅でもあった。

 

 キリトの二刀流が噂に違わぬ凶悪な性能を誇るのか、それともそのスキルを縦横無尽に振るうキリト自身のレベルと熟練度の賜物なのか、いくら最前線ではないとは言え出てくる敵全て一撃で撃破してしまうというのは、恐ろしいを通り越して呆れてしまったほどだ。あたしとて55層を適正狩場にするくらいのレベルマージンは確保しているけれど、それでもあれはない。ってか無理。あたしとキリトの間には検証するだけ馬鹿馬鹿しい戦闘力の差があった。圧倒的すぎておっかないくらいだったわよ。

 

 鍛冶メインの後方支援プレイヤーのあたしだからそれだけの感想で済むけど、これを見せ付けられる攻略組はたまったものじゃないでしょうね。

 最前線に生きるプレイヤーは過酷な戦場に身を置き続けているだけに、強さへの自負と執着が軒並み高い。言葉を飾らずに言えばプライドの高い腕自慢の集まりだった。ギルド内部での仲間意識はあっても、他所のギルドには強烈に対抗心を燃やしたりするのもそういった意識が元だろう。特に聖竜連合などは血盟騎士団に並々ならないライバル意識を持っていると聞く。競争心が強いことも攻略組の特徴だった。

 

 そんな中でキリトは異色そのものなのだ。命を懸けたデスゲームで生存率の低いソロプレイヤーとして戦い続けてきた。あたしの知る限りキリトがどこかのギルドに所属したという事実はない。開始から今まで本当の意味で一人で生き抜いてきたのだ。

 それだけでも十分に目立つ存在だというのに、二刀流スキルの発現がその傾向に拍車をかけた。今では《黒の剣士》の名は、血盟騎士団団長のヒースクリフと並ぶ最強の代名詞にすらなっている。

 最前線プレイヤー、特に血盟騎士団の団員がキリトを妬むのも無理はなかった。自分達こそがこの世界をクリアする最精鋭なのだと自負する彼らが、キリトのような存在を妬まないはずがない。

 

 仮にキリトが早い段階で血盟騎士団に、あるいは別の攻略組ギルドに参加していれば問題はなかったのだろう。彼らがキリトを厭うのは同じ集団に属していないから、《仲間》とみなしていないからだ、と言うのは穿ちすぎだろうか?

 例えばキリトがヒースクリフやアスナのようにギルドのなかで活躍し、ギルドを通して攻略組に尽力していたのなら、敵愾心よりも尊敬と敬意を勝ち得たんじゃないかな、なんて思うのだけど。

 

 とはいえ、それは結局のところIfの話だった。キリトにはキリトの事情があってソロを貫いてきたのだろうし、キリトと血盟騎士団の反目とやらもあたしの知らない当人たちの事情があるのかもしれない。

 つまるところなるようにしかならず、その結果が今の現実だという、ただそれだけのことだった。

 

「うん、やっぱ良い剣だ。クエストクリアできなかったらこの剣を購入させてもらうのも手だな」

 

 またモンスターとの遭遇戦をソードスキルの一撃で終えたキリトが、二本の剣を背中の鞘に納めながら上機嫌で語りかけてきた。キリトの振るう二刀の剣の片割れはあたしが店でキリトに薦めたものだ。クエストモンスターの白竜はフィールドボスに準じる戦力を持つと聞いていただけに、たった二人で挑むことになる不安を少しでも解消するためにキリトに貸し出したのだった。

 思うが侭に剣を振るってご満悦のキリトの声は喜びに弾んでいて、まるで子供のようだ。そういえば少し前にも、剣を受け取って似たような反応をしていた女剣士様がいたかしらね、と苦笑する。二人とも欲しい玩具を手に入れたかのような喜び方だった。

 

「褒めてもらえるのは嬉しいけど、クエストクリアできなかったらとか不吉なこと言わないでよね。気が滅入ってくるじゃない」

「そうは言っても、クエスト情報も新しいのは出てこなかったんだろ? マスタースミスがフラグじゃなければ無駄足の可能性が高いぜ」

「まあそうなんだけどさ。ここまできたら成功を神様に祈るだけね」

 

 55層の北の村でクエストフラグに関する新情報が更新されていないかと期待したのだが、予想通りあたしたちの期待は空振りに終わった。その上長老らしき白髭のおじいさんの長話に付き合ったせいで既に日が落ちようとしていた。夕日は綺麗だけどそれだけで拭われるような疲労感じゃないのよね。箸にも棒にもかからない情報に費やした労苦は筆舌に尽くしがたかった。

 

 もしかしたらキリトの喜びようはそんな積もり積もったストレスの発散口を発見したからなのかもしれない。生き生きとモンスターを狩る姿にはライフワークとは別の凄みが感じられてならなかった。理由が理由だけに笑い話にしかならないでしょうけど。

 キリトの気持ちもわかるだけに特に何も言うことなくキリトの戦闘風景を見ながらついていく。圧巻としか言えない戦闘を繰り返す同行者の姿に頼もしさを感じる一方、手持ち無沙汰な自身の現状を省みると切ない。

 

 あたし、やることないなぁ。

 キリトが強すぎてあたしの出る幕がない。出発する前にモンスターは全部俺が相手をすると言っていたが、まさしく有言実行だった。あたしに求められているのは本当に《同行してクエストフラグを満たす》以外にはなさそうだ。戦力外通知を受け取った身としては寂しくもあるが、余りに隔絶した実力を持つプレイヤーを前にして我侭を言っても仕方ないだろう。そもそもキリトが急いでる要因は防寒着を奪い取ってしまったあたしにもあるのだから、文句を言うのは恥の上塗りだった。

 ……格好悪いなぁ、あたし。

 

「リズ、止まれ。そのまま水晶の陰に隠れててくれ。……どうやらお出ましらしい」

 

 出発前の高揚はどこへやら、一人落ち込んでいたあたしの意識を引き上げたのはキリトの鋭い静止の言葉だった。

 明らかに今までのキリトとは異なる声音に、一瞬であたしの警戒も高まった。見れば前方に空間が歪んだような派手な燐光が散っている。クエストモンスター、殊に巨大モンスターの出現を告げる演出だ。

 少しずつ無機質なポリゴンが生物的な輪郭を作り出していき、やがて巨大な翼竜の姿の全貌が露わになった。氷雪と水晶のエリアに生息するモンスターらしく、青白い鱗に覆われた皮膚はいかにも固そうで、その防御を抜くのは難しそうだ。

 この手のモンスターには片手剣よりメイスや斧のような鈍器や重量武器のほうが有利なものだけど……。

 

「キリト、あたしも手伝ったほうがいいんじゃない?」

 

 いくらレベル差があってもやはりソロは危険だった。長時間前衛に立つことはダメージ判定のリスクを加速度的に増やしていく。なんでもない一撃を致命に変えてしまうことだってあるのだ。だからこそプレイヤーは最低限ペアを組んで探索に出る。スイッチ行動を取れないことがソロプレイヤー最大の弱点だった。

 レベル的にはあたしでも対抗できる敵だ。だからこそキリトが主力には変わらなくても、その負担を減らすことくらいはあたしにだって出来るはず。そう思ったからこその提案だった。

 けれど。

 

「必要ない」

 

 キリトの答えは無情も無情の一言だった。間髪入れずに返された一刀両断の断り文句に数瞬あたしは呆然としてしまう。

 

「……すまん、言い過ぎた。別にリズを侮ってるわけじゃないんだ。ただ俺はずっとソロだったから、一人での戦いに慣れてる分連携が苦手だ。だからここは俺に任せてくれるとありがたい。……そうだな、念のため転移結晶を用意して見物しててくれるか」

 

 バツの悪い様子で付け加えたキリトの声は苦みばしっていた。言い過ぎたというより、どこか自分自身で発した言葉に戸惑っている、そんな印象を受けた。キリトのそれは思わず出てしまった本音なのだと思うが、それにしたって随分固い声と表情だったから余計に印象深く思えたのかもしれない。

 あたしを邪魔に思ったとかそんな感じじゃなかったな、あれはもっと深刻な何かが込められているような気がする。

 

 連携が苦手だなんて、それこそ下手っぴな嘘だった。

 ソロに慣れてるというのは確かにその通りなのだろうけど、フロアボス戦を数十という数こなしてきているはずのキリトが、いまさら戦闘における連携に不安を抱えているとは考えられない。そんな危なっかしいプレイヤーならとっくにフロアボス戦から締め出されていたはずだ。キリトはソロプレイヤーだったのだから、48人のレイド枠を占めるに相応しくないと判断されれば簡単にギルド連合に干されていたことだろう。

 ふーむ、そんな下手な嘘をつくほどにキリトは動揺していたってことよね。多分、そのへんが未だにソロプレイヤーを貫いてるキリトの事情なのだろうけど。……やめやめ、面白半分で他人の深い部分に踏み込むなんて、この世界でなくてもマナー違反よ。

 

「わかったわよ。あんたが危なくなったらさっさと逃げてあげるから、せいぜい頑張んなさいな」

「悪いな。それと危なくはならないと思うけど、あいつを狩り終える時間は相当長引くかもしれない。大人しく待っててくれよ」

「え、ちょっと、それどういうこと?」

 

 キリトが戦闘に集中できるようわざと不貞腐れてみせたのだけど、果たしてあたしの試みに効果があったのかはわからない。

 あたしが疑問の声を挙げた時には既にキリトは剣を抜いて斬りかかっていた。敏捷型のステ振りをしたのかと錯覚するほど速い。

 比喩でなく目にも止まらぬ速さで白竜に肉薄したかと思うと、繰り出された鉤爪をかわして鮮やかに一刀を浴びせかけた。痛みに猛っているのか、空気を引き裂く竜の咆哮が周囲一帯に轟き、びりびりと空気を震わせたのだった。

 

 ずしりと高まる重圧の中で平然と戦えるキリトは、やはり攻略組プレイヤーなのだと実感する。あたしなんてさっきの咆哮で一瞬気おされて竦んじゃったわよ。

 村で集めた情報によると、竜の主要な攻撃手段はその鋭利な爪を利用した薙ぎ払いと、大きな口から吐き出す氷のブレス、それに竜の巨体を支える翼を駆使した突風攻撃の三種。キリトもその情報を聞いているのだから、ある程度対策を立てているとは予想していたけれど。

 

 ……あたしの眼前で行われているのは戦闘であって断じて大道芸ではないはずだ。そのはずなのだけれど、どうにも自分の見ている光景が信じられない。

 だって、だって――。

 

 ……ブレスってさ、斬れるものなの?

 

 その一言に尽きる。

 白竜の首が反り返り、その巨大な口から純白の奔流が吐き出されたのも束の間、キリトの構えた二刀の剣がソードスキルの燐光を輝かせるや否や二つの剣閃が十字を描くように交差された。すると吹雪と礫で構成された竜のブレスが《切り裂かれた》。

 冗談みたいな光景だった。《剣でブレスが斬れる》、これ、アインクラッドの豆知識として話したら何人が信じてくれるかしらね。

 

 道中の雑魚モンスターはキリトが一刀の元に全て切り伏せてきたけど、ボスクラスの白竜を相手にしても一方的な戦いなのは変わらなかった。

 激戦を思わせる激しい動きの応酬だけに、余計にキリトの凄さが強調される結果になっている。鉤爪は全てかわすか弾くかしてしまうし、ブレスはその都度ソードスキルで相殺してしまう。

 まさに完封そのもの。信じ難い光景に本当に現実なのかと頬をつねってしまったくらいだ。

 

 不思議なのはそんな圧倒的に有利な戦いを進めるキリトが攻撃には消極的なことだ。ダメージをほとんど負うことなく剣の間合いに入り込み、白竜に斬りつけはするのだがソードスキルを一度も攻撃に使っていない。

 おかしい、ソードスキルを仕掛けるだけの隙は十分にあるはずなのに、キリトはわざと戦いを長引かせているようだった。

 

 そういえば、白竜に向かう直前に長引くかもしれないとか言ってたわね。キリトは初めからこうするつもりだった?

 でも、どうして。そんなことをする意味なんてどこにあるの?

 いくらキリトが凄腕でも、戦闘を長引かせてその中で一度もミスしない保証なんてない。どんな戦闘でもその天秤の一方にはプレイヤーの命が乗せられているのだ、敵は倒せる時に倒してしまうのが鉄則のはずだった。

 けれどキリトはそうしない。いつでも終わらせられる戦いを手加減してまで続けようとしていた。

 

「遊んでる……わけじゃないわよね?」

 

 自分で口にした内容なのに全く信じていないあたしがいる。キリトはとぼけたところもあるけど、それはあくまで日常に見せる一面であって戦闘においては全く別の顔を持っていた。

 ただ速く、ただ強く、そして迅速に敵を狩る。

 一切の無駄のない戦闘運びで、わずかの反撃も許さず先手必勝の戦い方をするキリトの姿に、閃光の異名を取る親友の姿を重ね合わせたものだった。見敵必殺の言葉が相応しい戦いぶりだ。

 

 二刀流というスキルは攻撃性能を追及したスキルなのだとキリトからは説明を受けていた。そして《攻撃は最大の防御》という言葉を体現したスキルなのだと、そう話してくれたのはキリト自身なのに。

 今のキリトはそんな二刀流の持つ特性を捨て、防御に徹してひたすら耐えている様子だった。それでもキリトのHPバーはほとんど減少の動きを見せない。それどころか時間経過と共に自動回復しているようですらある。

 

 もしかして戦闘時回復(バトルヒーリング)

 でもあれは習得条件の厳しいエクストラスキルの中でも極めて難易度の高い戦闘スキルで、しかも実用に足る熟練度を確保するためには、何度も大ダメージを受ける必要があるから使い物にならないって聞いたけど。

 アスナですら習得はともかく、熟練度上げはおっかなびっくりで遅々として進まないらしいし。完全習得なんて何時のことになるものやらと乾いた笑いを浮かべていたっけ。アスナも大概無茶する娘だから、あるいは今なら実用レベルに達しているのかもしれないけど……。

 

 総じてバトルヒーリングをスキル枠に入れるくらいならポーションを飲んだほうがずっと実用的だ、っていうのが攻略組の最終見解だった。

 そんな際物スキルを当たり前のように使いこなすキリト。わかっちゃいたけど無茶苦茶なやつね、一体どれだけの修羅場をくぐってきてるんだか。最強プレイヤーの看板には似つかわしくないけど、もしかしてキリトってばアインクラッドで一番死に掛けた回数の多いプレイヤーなんじゃないの?

 

 そんなふうに呆れながらもあたしはキリトの戦う姿から目が離せない。他人の戦う姿にここまで釘付けにされるのは、随分昔にアスナの戦いを目にしたとき以来のことだった。あの時は舞踏を舞うように細剣を操る、雅やかで可憐なアスナの姿に自失の体で見惚れたものだ。

 そんなアスナの剣舞と比べて、キリトの剣技はずっと荒々しくて如何にも男性的だ。そしてどこまでも力強さと勇ましさに満ちたものでもあった。見ているあたしの胸まで熱くさせてしまう、そんな激しい魅力に満ちた剣の舞い。

 

 それに、キリトが攻撃を控えて防御に徹しているからこそわかることもある。キリトの剣捌き、体捌きの妙は精緻極まりないものだった。

 敵の攻撃を先読みしているとしか思えない寸刻みの見切りで爪をかわし、隙あらばパリイを仕掛けて見上げるような巨体を怯ませ、竜の切り札であるブレスはソードスキルを駆使して無効化してしまう。

 

 アインクラッドでも最強種のドラゴンとソロで相対し続けて未だにクリーンヒットを一つも貰っていないのだ。それがどれほどの凄みを感じさせるものなのか、あたしは寒さとは別の意味で震える身体と高揚する胸の鼓動を抑えることができなかった。

 そしてかすり傷程度のダメージはバトルヒーリングによって回復してしまう。盾なし、しかも軽装の剣士としては破格の防御性能だった。装備に頼らないプレイヤーの技能を突き詰めた動きは見事としか言いようがない。

 

 《黒の剣士》を知る大半のプレイヤーはキリトの強さを誤解してるのかもしれない。レベルと装備、なにより二刀流スキルが黒の剣士の強さを支えているのだという認識は、きっとそれだけじゃ足りない。全プレイヤー随一のプレイヤースキル保持者、システム外の動きを洗練させたことにこそ、キリトの強さの本質がある。

 眼前で繰り広げられる二刀の剣舞を視界に捉えたあたしの頬は、熱に浮かされたかのよう真っ赤に紅潮していたはずだ。今、あたしの胸を占めている感情の名はなんだろう。感動? 希望? それとも――。

 

「リズ、顔を出しすぎだ! 敵性認定(タゲ)取られるぞ!」

 

 振り返ったキリトの焦り声に、えっ、とあたしは最初何を言われたのかわからなかった。

 半ば正気を失ってキリトに見入っていたのだとようやく認識する。もっともっとと急かすように頭に響いた声に従った結果、身を乗り出すように水晶柱の陰を脱して姿を晒していた自分の失態を自覚し、一気に血の気が引いた。

 

 ――まずい。

 

 そう思った時には遅かった。今まで成すすべもなくキリトに振り回されていた白竜が、キリトの一瞬の隙をついてその巨体を宙に浮かび上がらせ、間髪いれず両翼を大きく広げた。ここまでくれば嫌でもあいつが何をする気なのかわかる。

 爪、ブレスに続く第三の攻撃。

 翼が巻き起こす突風攻撃が猛烈な圧力を伴ってあたしの身に叩きつけられた。キリトの危惧通りにタゲがあたしに移ってしまったのか、それともキリトと諸共に翼の起こす突風範囲内に位置していたためなのか。どちらにせよあたしにその答えを求めるような暇はなかった。

 暴力的な風圧がいとも簡単にあたしの身体を浮かび上がらせ、そのままくるくると後方へと吹き飛ばされてしまった。急激な視界の回転に前後不覚に陥る寸前、何者かの手によってあたしの身体が支えられる感触がした。

 

 ……何者かだなんて、この場にいるのは一人だけなのにね。

 キリトもあたしと同じように突風の影響を受けていたはずなのに、どうやってか知らないが距離の離れていたあたしに追いつき、捕まえて見せたのだった。ここまでくると神懸かってるわ。あたしとしては感謝しかないけどさ。

 キリトに抱きかかえられたまま突風の範囲外まで飛ばされ、そこでようやく着地できた。さっきまでとは違う意味で顔が真っ赤になってそうだ、キリトの足を引っ張ることしかしてないわねあたし。落ち込むわ。

 情けない失態に溜息の一つも出ようというものだけれど、安心するにはまだ早かった。

 そもそも白竜は未だ健在なのだ。一瞬でもその存在を忘れ、地面に降り立ったことで取り戻した平衡感覚を喜んでいる場合ではなかった。

 

「来るぞ、振動とスタン効果に備えろよ」

 

 あたしの失敗など一々気にしていられないとばかりにキリトは既に臨戦態勢を整えていた。切り替えが早い。正直助かる、キリトの態度を見てあたしもぐだぐだ悩んでいられないのだと割り切ることが出来るから。

 剣を構えるキリトに合わせてあたしもメイスを取り出して備える。反省も後悔も後だ。まずいことに突風に煽られて移動した先は広く開けた見通しのよい場所だった。これではキリトに戦闘を任せてあたしは身を隠した先程のような戦い方は出来ない。

 これ以上足手まといにならないよう気合入れないと。

 そう自分に言い聞かせてメイスを握る手に力を込めながら上空を睨むと、降り立つ場所を探って旋回していた白竜が一際甲高い雄たけびを挙げて急降下してきた。

 

 ――まさかそのままあたしらを踏みつける気!? 冗談じゃないわよ!

 

 ぺしゃんこにされるのなんてまっぴらごめんだった。

 それにしてもあれだけの巨体が降ってくるとものすごい迫力だ。でかいということはそれだけで脅威だということがよくわかる。視覚の暴力だけでも背筋が震え上がる思いだった。

 

 ……それを正面から受け止めてしまうキリトの剣技については、もう理解することを放棄したほうが良いのかもしれない。

 確かにキリトの本質は磨き上げられたプレイヤースキルにあるとは思ったわよ。百発百中で成功させるパリイとか、どんだけシビアな戦闘勘をしているのかと呆れたしね。

 だからって人の十倍じゃきかない質量差を跳ね返して、正面から互角にぶつかり合うのは物理法則どうなってんのよと叫びたくなったってしょうがないじゃない。いくらゲーム世界だからって、人間が一人で竜の突進を止める光景を見て簡単に納得できると思わないでもらいたい。

 

 ただキリトはそれで良くても、キリトを支える地面は竜の質量と運動エネルギーに耐え切れなくなったらしい。

 ピシッと何か嫌な音が足元から聞こえてきたと思うと、次の瞬間キリトとあたしを中心に足元が陥没した。

 違うか、陥没じゃない。割れたんだ。 あたしたちが地面だと思ってた場所は、どうやら巨大な落とし穴を覆い隠した氷の床と積もりきった雪という不安定極まりない足場だったらしい。

 

「まずい、トラップか!? リズ、逃げろ!」

 

 崩壊した足場から無事な地面に避難することは出来なかった。あたしは予想外の崩落に完全に体勢を崩してしまっていたし、キリトは白竜の突進をソードスキルで受け止めたために技後硬直で動きを止めていた。逃げたくても逃げられるものではなかったのだ。

 落下していくあたしたちを尻目に、白竜のあんちくしょうはその場で悠然とホバリングをすることで崩落に巻き込まれるようなことはなかった。翼あるものの特権というわけだ、今ほどソードアート・オンラインに飛行アビリティが実装されていないことを悔やんだことはない。

 

 突然の落下という事態への動揺、底の見えない奈落に吸い込まれていく恐怖。あたしの喉からあらん限りの悲鳴が搾り出されたのも無理のないことだった。

 確かに穴を掘って埋まりたいとは思ったけど、こんな形で叶えてくれなくてもいいじゃない。神様の馬鹿!

 

「リズ! つかまれ!」

 

 真っ白になった思考を切り裂くように鋭く力強い声にハッと意識を取り戻し、差し出されていたキリトの右手を必死で手繰り寄せる。まるでその手こそが天国に通じる蜘蛛の糸なのだと錯覚するほど、このときのあたしはキリトにただ縋るだけだった。情けない。

 

「止まれ……っ!」

 

 落下の勢いを少しでも弱めようというのだろう、キリトは左手に握ったあたしの剣を岩壁に勢いよく突き刺した。剣は弾かれることなく岩肌に突き刺さったが、それでキリトとあたしの落下スピードがゼロになるわけではなかった。

 ここが現実世界なら剣と岩壁で強烈な摩擦が発生して落下スピードを一気に落とすのだろうけど、生憎ここはアインクラッドだ。剣と岩壁の衝突によって多少なりとも効果はあったのか落下スピードが幾分緩やかになったが、だからと言って止まるわけでもない。岩肌に突き刺さった剣はほとんど抵抗なく下方へと滑り落ちていく。

 こういうのも熱したナイフでバターを切り裂くように、って言うんだろうか。

 剣と岩肌の接触面から赤いライトエフェクトが途切れることなく明滅していた。剣の耐久値がごっそりと削られている証だ。

 

 まずいわね、あたしの剣は敏捷優先で打たれたものだから、耐久値限界もやや低めに設定されている。そもそもこんな無茶な使い方自体想定されていないだろうし、長くは保たないかも。

 そんなあたしの予想通り、剣の耐久限界はすぐに訪れた。アイテムの消滅する独特の破裂音に寂寥を感じる暇もなかった。せっかく緩やかになっていた落下スピードが再び加速したことで死の恐怖が再度鎌首をもたげて忍び寄ってきたのだ。

 ここは圏内じゃない。落下ダメージでライフがゼロになることも十分ありえることだった。なんとかしなければと焦る心と、そんな焦燥を嘲笑うかのように何も打開策が浮かばない現状に絶望が広がっていく。

 

対象(ターゲット)――リズベット! 転移――リンダース!」

 

 その瞬間、キリトの張り上げた声を耳にしたあたしが感じたのは、一瞬の機転を利かせたキリトへの喝采などではなく、どこまでも胸を締め付ける切なさだった。

 落下を止める手段を失ったキリトが真っ先にしたことはあたしを逃がすことだった。散々足を引っ張り、迷惑ばかりをかけてきた足手まといの身を何よりも優先しようとしたのだ。己の身を省みず、一心にあたしの安否だけを気にかけてくれた。そんなキリトの優しさは涙が出るほど嬉しくて、そんなことをさせてしまう我が身の不甲斐なさに涙が出そうなほど悔しかった。

 しかし、そんな迅速極まりないキリトの賞賛されるべき判断も、全く反応を返さない青色のクリスタルによって不発に終わったことを知る。

 

 ――結晶無効化空間。

 

 何も今こんなときにそんな悪辣な罠を用意してくれなくてもいいでしょうに。なんて意地の悪い仕掛けを施すのよ馬鹿開発者。

 あたしの恨み節が茅場晶彦に届くはずもない。そうこうしているうちに真っ暗闇だった奈落の底が固そうな地面へと変わり、このまま叩きつけられたらライフが保てないという現実をひしひしと感じさせられた。

 

 ……やだなぁ、あたし、こんなとこで終わりなの。現実世界に戻ることなく、こんなわけのわからない世界でポリゴン結晶として散って、あっちの寝たきりのあたしの身体はナーヴギアによって脳を焼き切られてジ・エンド。そんな結末。そんな終わり。

 やりたいこと、まだたくさんあったんだけどな。毎朝寝ぼけ眼で通学して、友達と他愛ないおしゃべりで時間を潰して、テスト結果に一喜一憂して、部活もそこそこ頑張ってみたりして。それで休日には彼氏と一緒にお出かけできたら最高よね。

 

 なのにこんな終わり。

 こんな――キリトを巻き添えにしてしまう終わり方なんて。

 

「死にたく……ないよ」

 

 零れた声は今にも泣きそうな弱々しいものだった。あたしの声じゃないみたい。

 死にたくない。死なせたくない。あたしの手を掴んでいる黒衣の男の人は、きっとこのアインクラッドに囚われた皆を救う希望になれる人だ。そんな人をこんな形で、あたしのミスなんかで失わせちゃいけない。そんなことがあっちゃいけないのに。

 なのに、あたしに出来ることは何もなくて。それが悔しくて悔しくて。

 

 神様、あたしは死んだっていいですから、どうか……どうかあたしの手を握るこの人だけは死なせたりしないでください……!

 

 死の間際には走馬灯が見えるっていうけれど、あたしはそんな不思議体験をすることなどなかった。走馬灯の話がただの迷信だったのか、それとも――。

 

「大丈夫、リズは死なない。死なせるものかよ……!」

 

 それとも――あたしが死ぬ運命になかったからなのか。

 転移結晶を放り捨てたキリトは空中で器用にあたしと位置を入れ替え、そしてあたしの身体を折れるほど強く、きつく、しっかりと抱きしめた。

 囁くようなキリトの声があたしの耳をくすぐり、そのままあたしは身じろぎ一つ出来ずに固まっていた。

 全てが突然で、全てが唐突だった。相次ぐ出来事にとっくにあたしの思考回路は限界を告げていて、まともに物を考える余裕など残っていなかった。むしろこんな予想外の事態の中、刹那の思考で次々と手を打てる、危急に臨むキリトの判断能力や行動力こそどうかしていた。

 

 そんなあたしでもわかることはある。

 キリトもあたしも地面に激突する未来は避けられない。

 そしてあたしたちの位置関係はキリトが下であたしが上。

 このままだとキリトは背中から地面に激突することになり、あたしはキリトをクッションにする形でしっかりと保護されていた。落下ダメージは地面との直接接触さえ回避できればダメージを大幅に減らせる。だから、あたしはきっと助かるのだろう――あたしを守ろうとする代償に、キリトが100%のダメージを負うことで。

 

 キリトの命を投げ出した献身に、あたしは一体何を以って報いることが出来るのだろうか。

 ふわふわとまとまらない意識の中、ぼんやりとそんなことを思った。

 

 

 

 

 ソードアート・オンラインはVRMMORPGである。

 デスゲーム化されてしまったがために階層クリアにまつわることばかりが強調されるようになってしまったが、このゲームは本来戦闘だけがクローズアップされる作品ではなかった。

 もちろんこのゲームの象徴であるソードスキルに代表されるように、派手な戦闘と壮大なフィールド、難解な迷宮区タワーと迫力満点のフロアボス討伐こそがメインであることに変わりはないが、攻略以外の楽しみ方だって十分に用意されていたのだ。

 

 例えば娯楽スキルだ。俺は攻略に役立つ戦闘スキルしか取っていないし鍛えていないが、プレイヤーの中には日々の憩いに娯楽スキルを利用してストレスを発散している者もいる。筆頭は料理スキルで、これはその腕を自分のために用いるのも他人のために振舞うのも大歓迎のスキルだった。

 他にも、俺が心引かれた釣りスキルとか。柔らかい日差しと澄んだ空気に身を任せながら、ゆったりと釣り針に獲物がかかるのを待つ年配のプレイヤーの姿を見て以来、いつか俺もあんなふうにのんびりとした日常を過ごしたいと強烈に思った。

 

 または、完全な趣味スキルと思いきや攻略ギルドに必須のスキルと化した裁縫や細工みたいなものもある。戦闘と探索を繰り返す最前線の攻略ギルドには一見不要なそれらだが、実のところこれ以上ないほど役立っていた。

 その筆頭は防具をカスタマイズすることで可能になる《制服化》である。

 通常、装備品はその能力も外見も様々なのだが、裁縫や細工のスキルを組み合わせることで防御性能はそのままにある程度装備ビジュアルを変更できる仕様になっている。そうした性質を利用してギルドごとにユニフォームを用意しているのだ。別にギルド構成員全員が同一装備を常に身に着けているわけではないし、各々の装備している品は外見こそ同じでも中身の性能は全く別物なのだった。

 

 こうした視覚効果は馬鹿にできない。同じユニフォームを身に着けることで帰属集団への愛着や忠誠心が高められるし、仲間意識だって自然と強くなる。他所の集団との差別化も容易く、同時に規律ある集団として統制もしやすくなるのだ。

 血盟騎士団などその筆頭だろう。白と赤の騎士服は非常に目立つ作りになっているため、誰が見ても血盟騎士団所属の団員だとわかるし、今となっては最強ギルドの看板を背負う自覚を促しやすくなっている。ユニフォームそれ自体が誇りとなり、プレイヤーの振る舞いを自省させる効果まで付与されているのだ。誰が始めたのかは知らないが効果的な手段だった。現実世界でそういった組織統制に携わってる人間でもいたのだろうか。

 

 ……まさかヒースクリフ発案とかじゃないよな? いやだぞ、あの男が夜なべしてギルドの騎士服をデザインしたとかだったら。そんなイメージを壊すような真似は遠慮してもらいたい。

 まあ、血盟騎士団には様々な部門があるらしいから、多分服飾とかその辺を担当してる連中もいるんだろう。

 加えて血盟騎士団の、というより、アスナの功績のような気もするけど、あまりに血盟騎士団のユニフォームが有名かつ人気になってしまったせいで、無骨な鎧がギルドカラーの聖竜連合などデザイン変更を本気で検討してるらしい。そんなところで対抗意識を持ち出さなくていいって。

 ちなみに俺はその手のカスタマイズとはずっと無縁だった。装備の外見も全てデフォルトだ。

 

 スキルに限っても楽しみ方は千差万別なのだし、以前シリカと連れ立ったフラワーガーデンのような例もある。この世界は剣と戦闘だけが全てでは決してないのだ、楽しもうと思えばいくらだって楽しみ方を見出すことが出来る。それがソードアート・オンラインの魅力でもあった。

 意地の悪い見方をするのなら、それだけ気を紛らわす手段があるのだからプレイヤーが完全に絶望することはないと考えていそうな運営者の思惑が気に食わない、そんなところか。

 実際、最近は自殺者の噂など全く聞かなくなっていた。攻略を諦めたプレイヤーは戦闘に関わらない別の楽しみ方をこのゲームに見出し、ひっそりと日々を過ごすようになっている。悪いことではないと思うが、それでも茅場の手の平で踊らされている気がしてどうにも面白くなかった。

 

 つまりだ。

 何が言いたいかと言うと、俺のアイテムストレージからキャンプセット一式が出てきたところで何の不思議もないということだ。

 ごつごつした岩肌と積雪を覆い隠すようにシートを大きく広げ、ランタンやら何やらを次々と取り出しては並べていく。

 別に伊達や酔狂でアイテムストレージの保有枠を圧迫させてるわけじゃないぞ?

 迷宮区攻略に徹夜で励むなんてことは俺にとって当たり前のことで、ソロである俺にとってはこの手のアイテムは本当に重宝するんだ。それはオレンジプレイヤーだった頃からずっと変わらない。

 だからそんなに目を丸くしてないで現実に帰ってこい、リズ。ここは仮想現実だけどさ。

 

「この世界の良いところは、重量制限があってもストレージに格納されてる限り、アイテムの重さを全く感じないってことだよな」

 

 仕方ないので俺から話を振ってみたりと色々手は尽くしちゃいるんだが、どうもリズの反応が鈍いんだよな。

 ここに落とされた経緯を思えば落ち込むのもわかるんだが、俺に言わせれば戦場で一つのミスもなしに上手くいくと考えること自体どうかしてる。最前線、特にフロアボス戦のような大人数が入り乱れる戦闘ではいくらでも失敗の種は転がっているし、その都度ミスしたプレイヤーを責めているようでは話にならない。

 重要なことは如何にリカバリーを上手く行い、戦線を早期に立て直すことができるかだ。とはいえ、そういった経験の乏しいリズに割り切れというのも難しいのかもしれない。

 

 職人プレイヤーはその保持するスキルによって、モンスターと戦闘を繰り返さなくてもある程度の経験値を稼ぐことが出来る。無論、モンスターを狩るのに比べれば経験値効率は多少なり落ち込むのだが、元々がアイテム作成の副産物なのだから気にすることもないだろう。

 職人クラスのプレイヤーが戦闘に出ずにそこそこのレベルを確保できるのはそういうカラクリがあった。

 

 もちろんギルド付きの職人プレイヤーと異なり、リズのようなフリーの職人プレイヤーは自身のスキルに使う金属や素材をある程度自給自足する必要から、狩場フィールドに出ることも多い。全く戦えないプレイヤーというわけでは決してないのである。

 それでも生粋の戦闘プレイヤー、殊に攻略組の面々と比べれば戦闘経験など及ぶべくもなかった。それを理解していれば、戦闘面においてリズのような後方支援プレイヤーに多くを望んだりはしないものだ。

 俺はそのつもりでリズを後衛に配していたのだし、リズとてそのあたりの事情は承知しているはずだった。それでも一目でわかるほど落ち込んでいるのは、根が真面目なせいなんだろう。

 

 さて、どうしたもんかな。人の心のケアとか俺には荷が勝ちすぎる仕事なんだけど。

 自らの失態を省みずにふんぞり返るというのも困るが、必要以上に萎縮されてしまうのも考えものだった。なにせ俺達は転落死という窮地を脱したとはいえ、未だに脱出不可能な穴底に囚われているのだ。失敗を悔やむよりも生き残りの方策を練るほうが優先順位はずっと高い。どうにかリズには立ち直って貰わないと。

 

 あの白竜との戦闘から一転、落とし穴の罠に嵌った俺とリズはどうにかこうにか命をつなぐことができた。

 高所からの落下は着地地勢が取れるかどうかに関わらず、必ずプレイヤーはダメージを負う。だからこそ山岳マップのような高低差の大きな地形を攻略する際には細心の注意が必要だった。

 いくら大型のボスクラスモンスターが相手とは言え、視野が狭まっていたことは反省しなければならないだろう。あの場面では無理に突進を受け止めるより、リズを促して回避に専念するべきだった。

 

 結局のところ、俺はリズの戦闘能力に信用を置いていなかったんだろうな。俺一人なら戸惑うことなく回避を選択した場面で、リズの存在が頭に過ぎった瞬間、白竜の突進を無力化させようと力尽くも良いところの選択をしてしまった。冷静になれずに誤った、俺もまだまだ未熟だ。

 その結果がみすみす罠に嵌められた今の有様だった、悔やんでも悔やみきれない。

 もっとも俺まで気落ちしていたら、直接の原因を作り出してしまったリズがますます落ち込んでしまうだろうから、努めて泰然とした態度を心掛けてはいたけど。

 転移結晶が使えず、壁面を登って脱出することも無理なのだ、円柱状に掘られたこの穴底からどう脱出するかの見通しはまるでついていない。しかし先行きに不安を持たずにはいられないのは何も俺だけじゃないのだから、ここは強がっておくべきだった。ただでさえ参っているリズにこれ以上負担をかけるわけにもいかない。

 

 それはともかく――。

 笑い話になると思ったんだけどなぁ。

 ちらりと視線を移せば人型に穿たれた間抜けな落下跡が見て取れる。俺とリズが落ちてきた時のものではない。この穴底に落とされ、互いの無事を確認がてら大きく減じたライフゲージを回復させ、なんとか脱出の糸口を探っていたときに俺が一計を案じた結果である。

 

 《その時、俺の脳裏に天啓が浮かんだ!》、という悪ノリも兼ねて壁走りに挑戦し、見事に失敗した。

 助走距離も足りなかったし、なにより円柱状に作成されたこの空間は単なる落とし穴とは思えないほど広大だった。そんな場所の岩壁を俺は周回状に踏破しようとしたわけで、てっぺんまで走る距離はかなりの長さになる。流石に途中で加速が衰え、力尽きて転落した。大した高さでもなかったから落下ダメージも少なかったが、その名残がどこの漫画かと思うような見事な人型の落下跡というわけだ。

 

 本気で脱出できると思って試したわけじゃないから別に気落ちはしてしない。むしろ、塞ぎこんだリズの緊張を和らげられないかと道化を気取ってあんな無茶をやらかしてみたんだけど、残念ながらそんな俺の身体を張った気遣いは無駄死にしてしまったようだ。俺に笑いの才能がないことが証明されただけだった。わかってたけどさ。

 

「キリトはさ……」

 

 ぽつりと、膝を抱えたリズが小さな声でつぶやいた。

 

「キリトは、どうしてそこまで人に優しくできるの?」

「優しい? 俺が?」

 

 目が点になった。リズがどうして急にそんなことを言い出したのかがわからない。

 そしてなにより、俺が優しい? そりゃ、自分が殊更厳しい人間だとは思わないけど、だからと言って優しいなどと言われる類の性格をしているとは思えないぞ。どちらかと言わずとも悪人と言われる側の人間だし、俺。

 アルゴに人でなしになるなと言われてから、なるべく真っ当に見えるよう、そしてゲーム攻略に協力的であろうと努力はしてきたつもりだが、実態が伴っているかと言えばそんなことはなかった。

 相変わらず生意気なガキだし、攻略組の協調の外にいるあぶれ者だし、人との接触なんて最低限しかせずにソロで迷宮区に潜ってるだけだし。うん、俺が優しいなら大抵のやつが優しいと評されるんじゃないか?

 

 第一、優しい人間は望んで殺し合いの場に臨もうなどと思わない。

 どんな理由をつけようとラフコフの連中を《狩る》ことに決めたのは俺で、そのための討伐隊を組織し、率いたのも俺だった。

 また一つ、この世界で罪を重ねた。俺はあと幾つ罪業を重ねるつもりなんだろう。

 父さん、母さん、それにスグが今の俺を見たらどう思うだろうか。嘆くか、それとも泣くか。案外叱り付けてくれるかもしれない。現実世界に生きて帰れるようなことがあったら全部話さないとな。俺がこの世界をどう生きて、そして何をしてしまったのかを。

 

「優しいわよ。さっきだってあたしを庇って死に掛けてたじゃない。そんな人を優しいって言わなくてなんて言えっていうのよ」

「リズよりは俺のほうがレベル高いんだから、落下ダメージを負うなら俺であるべきだろ? そのほうが生存率は高いんだしさ。単なる役割分担なんだから、あんまり気にするなよ」

「……それ、本気で言ってる?」

「割と」

 

 適材適所ってそういうもんじゃないか?

 

「なら言い換えてあげる。あんたって優しいくせにひねくれものなのね。素直じゃないやつ」

「まぁ、ひねくれものであることは否定しない」

 

 そこでようやく調理の済んだスープをカップに注ぎ、リズに手渡す。干し肉と香草を使った初歩料理で、スキル熟練度なしでも失敗しないお手軽なものだった。

 料理スキルは取ってないから味には期待するなとリズには言い渡しておいたが、礼を言って受け取ったリズは一口飲むとほうっと安心したように息をついた。俺も続いて出来合いのスープを口にする。元々攻略の合間に挟む小休止用に用意しているアイテム一式だ、味に期待できるものでもない。目的は空腹と無聊を紛らわすことだけである。

 

 それでも今の俺にとっては十分に美味いと言える味だった。もしかしたらリズも似たようなものかもしれない、なにせ既に夜も更けてきたというのに、最後に食事をとったのは昼前だ。長老の長話に白竜との戦闘、それからこの穴に落とされてから脱出を一通り試してみて、と随分時間が経ってしまった。空腹は最高の調味料とはよく言ったものである。

 そういえばリズが料理スキルとってるかどうか聞き忘れてた。まあいいか、既に用意してしまったのだから今更聞くことでもないだろう。

 リズが再度口を開いたのは、暖かなスープの余韻に俺が一息ついてからだった。

 

「ねぇキリト、何でドラゴンとの戦闘を長引かせたの? あんたが本気でやれば瞬殺だって出来たんじゃない?」

「瞬殺は言いすぎ」

 

 リズの余りの言い草に思わず笑ってしまった。あの白竜は確かに俺にとって苦戦するようなレベルのモンスターではなかったが、だからと言ってリズの言うような瞬殺ができるほど雑魚だと思って戦っていたわけでもない。

 

「戦闘を長引かせた理由だっけ。リズはクエストアイテムの入手フラグをマスタースミス同行って推測しただろ。でも、マスタースミスってのはあくまで俺達プレイヤーが便宜的に名付けただけで、システム的にそういう肩書きがあるわけじゃない。それじゃフラグとしては弱いかなって思ったわけだ」

 

 軽く肩を竦め、続ける。

 

「それに55層で受けられるクエストにスキルコンプリートが条件っていうのは、ゲーム難易度的に厳しすぎる気がしてさ、結構引っかかってたんだよ。70層以降のクエストでならそういうこともあるかもしれないけど、この階層のクエスト難易度を考えるとフラグ条件としては鍛冶屋同行で十分な気がするんだよな」

「言われて見ればって感じだけど……。そうなるとキリトがしてたのってフラグ条件を満たすための試行錯誤だったわけ?」

 

 リズの質問に言葉少なに頷く。

 あの白竜はクエストボスとしては弱い部類だろう。55層のフィールドボスと考えても些か物足りない強さしか持っていなかった。

 だからこそ解せない。あの出現の仕方からしてクエスト達成フラグのキーであることは間違いないのだろうが、その割に強さが釣り合わないのだ。

 中層の上位プレイヤー数人で確実に狩れるレベル、攻略組のトッププレイヤーならソロでも十分下すことが出来るレベルといったところか。それこそリズの言葉じゃないが、俺の持つ二刀流に代表される希少スキルをフル活用出来れば瞬殺だって夢じゃない。

 

 つまりあの白竜は狩るのに苦労しないクエストボスなのだ。実際にリズの話では何組ものプレイヤーたちが白竜を狩るのに成功している。そしてそのドロップ品が新種の金属やレアアイテムなどではなく、ろくでもない屑アイテムや雀の涙のコル、道中の雑魚モンスターにも劣る有様だった。

 それらを踏まえると白竜は単なる一モンスターとはとても思えない。クエストクリアのための何かを秘めているはずなのだ。

 もちろん単純にドロップ率が絞られていると考えることもできるが、それにしたってクエストを放置するほどにプレイヤーを諦めさせる低確率というのもおかしな話だった。今までのゲームバランスを考えると奇妙極まりない。

 

 そこで俺が疑ったのが、フラグ条件は複数あるのではないか、ということだった。リズの語った《マスタースミスを加えたパーティーで白竜を倒す》というだけでなく、その倒し方にも何らかの条件が課されている可能性だ。

 例えば、北の村で聞いた情報の中に《水晶を飲み込む竜》というのがある。

 このマップは氷雪と水晶の山岳地帯なのだから、竜の主食を水晶と見なす事だってできるわけだ。そこから部位欠損状態に陥らせた白竜を倒すことで身体の一部となった水晶がドロップされるようになる、あるいはブレスに混じって水晶が吐き出されることでアイテムドロップのフラグが建つ、そういう可能性も想定していた。

 

 加えて白竜の攻撃パターンを掌握したら止めは鍛冶屋であるリズに務めてもらうことで、《鍛冶屋が白竜を倒す》というフラグも満たそうと考えていたのだ。そのどれかでも当たっていれば御の字というつもりで。

 

「その、キリト、改めてごめんなさい。そういうキリトの努力全部あたしがぶち壊しちゃって……」

「説明不足だった俺も悪い。リズだけに責任があるわけじゃないよ」

 

 あの時の俺の不可解な行動の真意を聞き出したリズは、両手で抱えるように持っていたカップを置くと居住まいを正して深々と頭を下げた。神妙な声で謝罪の言葉を口にする姿は心底申し訳なく思っているのが伝わってきて、慌てて俺もリズにフォローを入れたのだった。

 俺自身、口下手を自覚してるなら相応に弁を尽くして説明しておくべきだった。リズの失態は何もリズ一人が背負うような代物ではない。俺の口にした言葉はまぎれもなく俺自身の本心だったのである。

 

 それっきり、お互いに押し黙ってしまった。

 まずいな、ただでさえリズは落ち込み気味だっていうのに、沈黙が長く続くと余計に空気が重苦しくなるだけだ。俺だってそんなギスギスした空気になるのはごめんだし、何か手を打たないと。この場で切り出す不自然じゃない話題、何かあったっけ? あ、そういえば。

 

「そうだ、俺もリズに謝らないと」

「急になによ?」

 

 唐突な俺の宣言にリズは面食らったように目を瞬かせた。驚くと余計に子供っぽく見えるんだよな、リズって。

 

「リズの貸してくれた剣、壊しちゃったからさ。後で弁償するよ」

「ああ、そのこと。別にいいわよ、弁償なんてしてくれなくて。あたしを助けてくれようとした結果だもの。そのおかげでこうして元気にしてられると思えば安いもんよ」

「そういうわけにもいかないって。あれ、売ればラグーラビットの肉なんて目じゃない金額がつくはずだろう。咄嗟のことで後先考えてなかった。本当にすまん」

 

 壁に突き刺すならエリュシデータを用いるべきだった。利き腕をリズに差し出した判断を間違っていたとは思わないけど、せめて剣帯の交差を逆にしておくべきだったな。それが結果論とわかっていても悔やまれてならなかった。

 

「だからいいってば、あんたも大概律儀ねぇ。……そうだ、なら剣の弁償の代わりに色々聞かせてよ」

「その程度で許してもらえるなら構わないけど、何か聞きたいことでもあるのか?」

「そりゃもうたくさんあるわよ。そうね、まずはキリトがどうして剣一本しか持ってなかったか聞きたいわ。確か壊れたとか言ってたっけ、それって今回みたいに耐久限界で壊しちゃったの? まさかメンテ不足だったわけじゃないわよね?」

「いや、メンテはしたばかりだったよ。装備品は全て万全の状態に整えてたし、今回みたいなイレギュラーもなかった」

「じゃあ、どうして?」 

 

 問いかけられて、思わず口ごもった。ここまで話しておいてなんだが、本当にこの先を口にして良いのかという思いがある。剣の代金の代わりとリズは口にしていたが、別に俺が口を割るのを渋っても追及したりはしないだろう。多少は文句も言うかもしれない、それでも言いたくないことを無理に話させようとはしないはずだ。その程度にはリズの人となりを理解していた。

 

「キリト?」

 

 押し黙った俺を見て不安になったのか表情を曇らせるリズ。

 沈黙は長く続かなかった。一度大きく息をついて心を落ち着かせる。

 多分、俺の弱さだったんだろう。一人胸の内に閉まっておくことができなかった。それだけのことだ。

 

「リズはさ、《武器破壊(アームブラスト)》って聞いたことあるか?」

「小耳に挟む程度には知ってるわよ。ソードスキルをぶつけ合う時に、武器の脆い部分に叩きつけることで部位欠損を意図的に引き起こす高等技能のことでしょ。効果分類としちゃパリングの上級派生技だけど、ソードスキルシステムに規定されてないからシステム外スキルだって呼ばれてるやつね。あたしは実際に使われてるところは見たことないけど」

「判定がえらいシビアでそうそう実戦で使える技能じゃないからな、見たことがないっていうのも仕方ない。武器破壊は元々ソードスキル相当の技を使ってくるモンスター対策に開発した技術なんだけどさ、幸か不幸かプレイヤー同士の戦闘にも応用できる技だったんだよ」

 

 俺の言葉の意味を悟ったリズの顔色が悪くなる。まあそういう反応になるよな。

 

「それってつまり……剣が壊れたのはプレイヤー同士の戦いが原因ってこと? 決闘じゃ、ないのよね?」

「残念ながらな。命を賭けた本気の戦いだったよ。そこで俺の剣は武器破壊を仕掛けられて壊されたんだ。まったく、間抜けにもほどがある」

「間抜けってどうして?」

「そりゃ、武器破壊の技術を開発して公開したのが俺だからだよ。開発というより発見って言ったほうが正確かもしれないけどな」

 

 武器破壊がプレイヤー同士の争いに使えると気づいていなかったわけじゃない。気づいていたからこそ、あえて対モンスターのシステム外スキルなのだと強調して情報を流した。そもそも武器破壊は通常のプレイヤー戦闘、つまり決闘で使って良いような技能じゃないのだ。腕試しの場でいちいち勝利のために武器を壊すなんてどんなマナー違反だって話である。

 プレイヤーが手塩にかけて強化した武器を壊すことは攻略に不利にしかならないのだから、対プレイヤー戦で武器破壊を仕掛けるのは禁じ手に近い。だからこそ、出来ればモンスターにだけ向ける力であって欲しかった。そんな俺の願いは儚く散ってしまったけど。

 

「武器破壊の開発者がキリトってのも驚きだけど、あんたの剣を壊した相手って、まさかラフコフ……」

「当たりだ。ギルド《ラフィン・コフィン》団長PoH。やつにやられた」

 

 リズの声は尻すぼみに小さくなっていった。

 準備は時間をかけて秘密裏に進めたとはいえ、ラフコフ討伐戦を終えた後には大々的な発表をしたからな。リズにも俺が最近ラフコフを潰した事実は知られていたらしい。

 ……やはりラフコフのことなど話すべきではなかったと後悔した。

 今度こそリズの表情は青褪め、身体は強張り震えていた。その恐怖がどこからくるものなのかを考えるのは憂鬱だ。

 殺人集団であるラフコフか――そんな連中と斬りあった俺か。

 

 別に武器破壊は俺だけのユニークスキルじゃない。システムにない純技術的なスキルだけに、可能性に限れば全プレイヤーが使えるものだ。ただその成功判定を引き出すのが非常に難しいため、実戦で使えるプレイヤーが少ないというだけのことである。

 敵の放つソードスキルの先読み、その剣の軌道に合わせた的確なソードスキルの選択、武器の脆い部分に寸分違わず剣撃を合わせることの出来る技量、そしてそれら全てを可能にするだけの間合いとタイミングの見極め。

 これらを一瞬の内に纏め上げてようやく武器破壊は可能になるのだった。

 

 武器破壊は俺だけのスキルではないのだから、当然他のプレイヤーに使われることだってある。それが偶々殺し合いを演じたPoHだったというだけのことだ。

 とはいえ、今回の場合は痛み分けだろう。俺の剣がやつに折られたように、やつの《友切包丁(メイトチョッパー)》も俺の《エリュシデータ》で叩き折ってやったんだから。はっ、ざまあみやがれ。

 

 それでも後悔は残る。

 

 あの時、そのまま返す刀でやつの首を落とせていたら――。

 やつのHPバーを吹き飛ばせていたら――。

 

 何度そう思い、そして同じ数だけそんなことを考える自分の冷酷さに自己嫌悪を繰り返したことか。

 つくづく嫌になるな。殺人ギルドなんて看板を背負うトチ狂った連中にも、そして薄汚い自分自身にも嫌気が差す。

 

「……ラフコフ討伐戦には血盟騎士団は参加しなかった。キリトが参加させなかったって聞いたけど、どうして?」

 

 俺の顔を見るのが怖いのか、それとも別の理由によるものなのか、リズは俯きがちにぽつりと疑問を口にした。

 やけに詳しいな、情報源はアスナか? 会談の場にはヒースクリフと俺だけだった。そこで決定したことをヒースクリフから副団長のアスナだけは聞いていたのだろう。そこからリズに情報が流れたと考えるのが自然だ。それは別に構わない。ばれて困るようなことまであの男が話すこともないだろうから。

 

 血盟騎士団は重要な意思決定の全てをあの二人が担っている。決断の数だけなら攻略組を主導するアスナのほうが上だが、最終的な決定権はヒースクリフにあるため、俺はアスナを通さずヒースクリフにだけ話を通した。 攻略組の戦力を引き抜く以上、あの男には最低限の話を通しておく必要があったし、討伐失敗のリスクを考えると後始末には攻略組筆頭としてのヒースクリフの力を借りるしかなかったからだ。

 個人的にアスナにはあまり聞かせたくない内容だった、というのも否定はしないけど。

 

 『血盟騎士団は討伐戦に参加させるな』という俺の要請を受け入れたとはいえ、血盟騎士団内部の事情を考えればヒースクリフは自分の独断という形は避けたかったのだろうか?

 必要とあらば全てを己の内に秘めて口を閉ざす男なのだから、今回の件は最終的にアスナの理解を得られると考えたから話したのだろう。アスナにどの段階でラフコフ討伐戦の裏事情を語ったのかまでは知らないけど。

 

 順当に考えれば討伐戦を終えた後の公式発表に前後して、かな。

 ラフコフに計画が漏れないようずっと水面下で進めていた作戦だっただけに、ヒースクリフも情報の秘匿の重要性は理解していたはずだ。腹心のアスナ相手とは言え、軽々に漏らしたとは思えない。

 ……そういえば、リズを紹介して貰った時もアスナはずっと何か言いたそうにしてたな。今思えばあれはアスナに何も話さず、ラフコフ討伐の準備から実施までした俺に対して物申したいことを必死に我慢していたのかもしれない。

 

「血盟騎士団を参加させなかったのは攻略のためだよ。血盟騎士団は攻略組の支柱であり、全プレイヤーの希望だからな。言ってみれば神輿だ。神輿が血に塗れちゃ心から応援できなくなるだろ? それに攻略組全体の士気も下がる。だからラフコフ討伐からは外した。その手の汚れ仕事は他に相応しいやつがやればいい」

「それがキリトだって言うの? 討伐参加者で名前を明かしたのはキリトだけだった。そんな役目があんたには相応しいって?」

「元ベータテスター、元オレンジプレイヤー、軍にはビーターと呼ばれて嫌われ、攻略組ではソロとしてうろちょろ動き回る鼻つまみ者なのが俺だ。そのくせ全プレイヤーでも屈指の希少スキル保持者で高レベルプレイヤーでもある。戦うことにかけちゃ俺の右に出るやつなんて早々いないぜ。だからこそラフコフ討伐にはうってつけだった」

 

 ヒースクリフくらいだろうな、俺が一対一で確実に勝てると思えないのはやつくらいのものだ。あいつと直接戦ったことはないが、実際に決闘をするとなると間違いなく俺の分が悪い。

 ヒースクリフの神懸かり的な先読みと攻守最優のスキルである神聖剣。この二つを抜いてクリーンヒットを与えるのは至難だった。

 何度シミュレーションを繰り返しても、奴に俺の剣が届くイメージは朧げでなかなか固まってくれない。攻略組最強の看板は伊達じゃないということだ。

 

 もちろんヒースクリフ以外にもアスナを筆頭に優れた戦闘能力を持つプレイヤーは多数存在する。しかしその誰を相手にしても一対一に限定すれば俺の優位は動かないと断言できた。それくらい俺の持つスキルとレベルは反則級のものだった。

 元々攻略組の中でも飛び抜けたレベルを持つ俺だ。そして二刀流はヒースクリフの神聖剣と並んで明らかに逸脱した性能を持つスキルである。少なくともこの二つと伍するスキルが発見されるまでは、俺とヒースクリフの二強体制は崩れないだろうと思う。

 

 だからこそ俺がラフコフ討伐を主導する役目に相応しかったのだ。戦闘力に限ればこの世界屈指のプレイヤーであり、今更声望も何もない薄汚いソロプレイヤー。何よりPKの前科持ちの俺こそがラフコフなどという犯罪者集団を相手にするには適任だった。

 PKさえ躊躇わないプレイヤーが討伐隊にもいるのだというプレッシャーが、奴等に自分達こそが狩られる側にあるのだということを理解させてくれる。

 

 それくらい思い切らないとラフコフの連中を相手に互角の勝負に持ち込めないだろう。PKを楽しむ強者であり、狩人であると自らを自覚するラフコフの精神的優位を崩さない限り、奴等からの投降も期待できなかったからだ。

 実際に俺がPKを覚悟して戦えるかどうかはともかく、牽制の意味だけでも俺の名は有効だと思った。投降が期待できれば被害を少なく出来る。

 できれば双方に死者ゼロで戦いを終わらせたかった。夢物語だろうと夢を見たかった、というのは俺の甘えだったのだろう。

 ラフコフ討伐に参戦し、その戦いの中で死んでいったプレイヤーにはどれだけ頭を下げても足らない。俺の計画に賛同し、協力し、そして帰らぬ人となったのは一人二人ではなかった。それだけ多くのプレイヤーがあの戦いで逝ってしまった。

 

 俺一人で片をつけられるのならそうしたかった。そうすべきだったと今でも思う。

 しかしあのクリスマスの夜、朽ちかけた教会でPoHらと対峙したことで、ソロではどうにもならないことを思い知らされた。その後はやつらに気付かれないようひっそりと、しかし確実に討伐の計画を進め、奴等の根城や構成人数の情報を集めた。

 幸いだったのはクラインと《風林火山》、ディアベルと《青の大海》、そしてシュミットを筆頭とする《聖竜連合》の一部隊の協力が然したる苦労もなく得られたことだ。そのおかげでラフコフに倍する討伐人数を編成することに難航することもなかった。そこに攻略組きっての人格者かつ実力者であるエギルの協力も得られたことで、戦力としては十分なものとなった。

 

 俺がPoHを抑え、クラインとエギルがそれぞれザザとジョニー・ブラックを抑えた。俺が先陣を切って突入する役割だったため、全体の取りまとめはディアベルに頼んだのだが、俺よりよほど上手く集団をまとめあげてくれたと思う。

 皆、獅子奮迅の働きを見せた。

 

 やらなければやられる、あの緊迫感はフロアボス戦以上のものだったろう。鋭利で冷たい感覚が背を走り続け、熱狂と狂騒がプレイヤーの正気を侵そうと忍び寄る、狂乱の宴とも言うべき最悪の戦場だった。二度と味わいたくないと切実に思った。

 その戦いの結末は既に発表されている。最終的にPoHのやつを取り逃がしたとは言え、幹部クラスも含めてラフコフの構成員の大半は監獄送りとなり、一部はあの世へ送られたのだからラフコフは壊滅したと評して問題ないだろう。俺たちは確かにラフコフに勝利した。

 

 それでもまだ終わってはいない。あの男、PoHを捕らえるまで俺と奴等の戦争は終わらない。

 

 取り逃がしたPoHの動向はようとして知れなかった。唯一というには大きすぎる懸念材料だけに、やつがこの先どう動くかは最大限警戒しなければならないだろう。それでも、ひとまずアインクラッドに蔓延っていた悪意の連鎖は止められたはずだ。

 PoHと言えど十分な手足の数がなければ大々的には動けない。そして犯罪を扇動していた悪の精神的支柱であったラフコフが壊滅し、そのトップが行方知れずなのだから、オレンジギルドの活動も自然縮小されていくだろうと思われた。

 度を越えた犯罪には攻略組も断固たる決意で対処に当たるという姿勢を見せることが出来たことも大きい。PKのような重犯罪に対する抑止力としての効果も十分期待できた。

 

 なにより俺が死なない限り、俺自身の存在がオレンジプレイヤーへの警告になり続けるはずだ。大々的に俺の名をばらまいたのは、余りに犯罪が目に余るようならば処刑人《黒の剣士》が貴様の首を狩りにいくぞ、と無言の内に脅しあげる効果を期待していた。

 まるで都市伝説かなまはげだと失笑してしまいそうだが、案外狙い通りになるんじゃないかと考えている。ラフコフの悪名はアインクラッドを席巻していた。ならばそれを叩き潰した俺の悪名もまた千里を走るだろう。アルゴにでも頼んで本気でその手の噂を流してみるか? 悪くないかもしれない。

 

 そんな風に《なまはげ剣士キリト》誕生の可能性を密かに検討していた俺だが、そんな馬鹿な考えを見透かしたかのようなタイミングでリズが重い口を開いた。

 

「確かにキリトは強いわ、アスナが自分よりずっと強いって言ってたのもわかるわよ。でもさ、どうしてあんたがそこまでしたの? そんなことまでしなきゃならなかったの?」

 

 震えた声はリズの感情そのものだったのだろう。けれど、俺にはリズの抱く気持ちの正体まではわからなかった。怒りだったのか、恐れだったのか、それとも同情だったのか。

 わからぬままに俺は答える。

 

「二刀流が必要だったんだ。死者を出さずに拘束する、そのために一番必要なスキルが二刀流だった」

 

 すなわち、俺だ。

 さすがにそれだけじゃ伝わらなかったのだろう。訝しげなリズの様子に意を決してアイテムインベントリを呼び出し、そこから一本の剣とスローイング用のピックをオブジェクト化した。どちらも特殊仕様のプレイヤーメイド品だ。それをリズに手渡し、一歩下がる。まるで被告席に立っているような気分でリズの反応を待っている自分が滑稽だと思った。

 

 俺の手渡した剣とピックを見たリズの反応は劇的だった。

 その大きな瞳を目一杯開き、次いで俺を強くきつく睨みつける。先ほどまでのどこか弱弱しい調子ではない、その目には烈火のごとく怒りの炎が燃え盛っていた。

 

「キリト、あんた《これ》が鍛冶屋にとっての《タブー》だって知ってて作らせたの?」

「ああ。グリムロックに無理を言って作らせた。あいつには最後まで反対されたけどな。勘違いしないでくれよ、グリムロックはその剣を打つことに反対したんじゃない、俺がその剣を使うことに反対したんだ」

「そりゃ止めるでしょうよ! 麻痺効果を付与した片手剣にスローイング・ピック! こんなの人に――プレイヤーに向ける意図がなければわざわざ作ったりなんてしないんだから!」

 

 リズの怒りは当然だった。

 職人クラスという呼び名は通称でしかないが、それでも彼ら彼女らには武具の作り手としての誇りがある。自分達の作り出す武器や防具がアインクラッド攻略の大きな力になっているのだという自負があるのだ。彼らが武具を作るのはあくまでゲームクリアのためであって、プレイヤー同士の争いを助長させるためでは断じてない。

 

 麻痺効果のような状態異常を引き起こす武具はアインクラッドには多数存在する。しかしそれをメインウェポンとして使うプレイヤーはまずいない。なぜならそうした特殊な武器は軒並み攻撃数値が低く狩りには不向きであり、加えて耐久値限界が非常に低く設定されているからだ。

 あまりに脆く、メンテナンスをきっちりしていても間に合わない速度で武具が消耗し、やがて消滅してしまう。そのうえ、目玉となる状態異常を引き起こすにはモンスターの状態異常耐性が高すぎてほとんど効果がないのだ。ダメージが通らず、耐久値は最低、状態異常にも期待できないとなればその手の特殊武装が流行るはずもなかった。

 

 ――唯一、犯罪者ギルドの連中を除いては。

 

 ラフコフの中では特にジョニー・ブラックが好んで麻痺毒を仕込んだスローイング・ピックを使っていたように、対プレイヤー戦では絶大な効力を発揮するのが状態異常系の武装の特徴でもあった。

 ゲーム上の死が現実の死となった現在、職人クラスのプレイヤーがこうした特殊武装を忌み嫌うようになったのは至極当然のことだろう。自分の作り出した武器で人殺しが為されるなど悪夢でしかない。

 

 真っ当な職人プレイヤーはこういった武装が完成してしまった場合、市場に流さずそのまま廃棄してしまうのが一般的な反応だった。そして、この手の武器作成依頼を持ち込むことは《私は犯罪者です》と看板を背負っているのと同義のようなものだ。

 だからこそリズはこうして怒りを露わにしているのだった。俺が犯罪者プレイヤーと疑われる装備を持ち歩いていること、なによりその装備を意図的に職人プレイヤーに作らせたのだと知って。

 

「グリムロックとかいう人もよくあんたの依頼を聞いたものよ。まさか、脅して言うこと聞かせたとかじゃないでしょうね」

「それこそまさかだ、俺だってそこまで鬼じゃない。……グリムロックとは色々あってな、その縁で無理を聞いてもらえただけさ」

「鍛冶屋にタブーを犯させてまで麻痺毒仕込んだ武器を作らせるなんて、並大抵の縁じゃないんでしょうね。……犯罪者プレイヤーを監獄に放り込むために拘束する、その手段としての麻痺特化武器。なるほどね、確かに二刀流使いのあんたなら使いこなせるか」

 

 リズの皮肉に俺は返す言葉を持たない。被害を最小限に抑えるためという名目はあれど、俺が渋るグリムロックに無理やり承諾させたことはまさしく外道の所業だったのだろう。人に向ける刃を鍛えろと、そう迫ったも同然なのだから。

 グリムロックは俺を恨んだだろうか、恨んだだろうな、どうしてそんなことをさせるのだ、と。

 

 ラフコフには攻略組に比肩する精強なプレイヤーが多数所属していた。レベルだけならばそれこそ攻略組の上位に食い込んでくるような猛者もいたはずだ。多分、彼らはこのアインクラッドで最も安全で効率的なレベリングを追及した集団だったのだと俺は睨んでいる。

 攻略組のレベルが飛びぬけて高いために、中層プレイヤーや下層プレイヤーは攻略組のやり方こそが最も効率の良いレベル上げなのだと勘違いしているが、真に最高効率のレベリングをするなら迷宮区の探索など出来ないのだ。正確に言えば未知のマップに挑んだりはできない。慎重と忍耐を期する迷宮区探索は、それだけで時間当たりの経験値効率を落とすのだから。

 

 では最も効率的なレベリングとは如何なる方法なのか。

 簡単だ、時間効率の最も優れた場所で長時間狩りをする、これだけだ。攻略組が通り過ぎ、攻略情報の集まった高効率モンスターのたむろしている狩場。そういった条件のエリアを探してひたすら敵を狩るだけだった。

 それにアインクラッドは広大だから、攻略組ですら知らないレベリングスポットが存在していてもおかしくない。というか、聖竜連合あたりなんかそうした狩場を幾つか独占しているんじゃないかと実しやかに囁かれているし。風評被害とまでは言わないけど、普段が普段だからそういうところでは損してるギルドだよな。

 

 アインクラッドでは不定期にモンスターの出現頻度や種類が変わることはわかっているが、その変化はあくまで緩やかなものである。

 俺がこのゲーム開始当初に考えていた《攻略には参加せず、攻略済のマップでひたすら安全な狩りをする》層であり、その中で飛びぬけて頭の良い方法を選んだのがラフコフの連中だったのだと思う。人によってはずる賢い狩り方だと非難するかもしれないけど。

 

 しかし、そうでもなければラフコフのように、階層移動に制限を抱えるオレンジギルドの構成員が、攻略組に追随できる強さを維持し続けられるわけがないだろう。俺達が相手をしたのはそういう敵だった。だからこそ殺さずに監獄エリアに送り込むことは至難だったし、双方に死者も出たのだ。

 麻痺の成功率は補助武装のスローイング系の武器よりは剣や槍のような主武装を使った方がずっと高い。しかし特殊仕様の武器は数々の弱点を抱えているため、まともに打ち合えばすぐに耐久限界がきて消滅してしまう。

 PKを生業にしてるような連中を相手に武器を失えば、その末路など言うまでもない。だからこそメインの武器で切り結ぶ合間に補助武装に頼るという戦い方しかできないのだが、その例外が俺だった。

 

 二刀流。

 両手に武器を装備できる俺なら片手にメイン武器を、もう一方に麻痺付与のサブ武器を握って戦うことも出来た。俺が先頭に立って切り込み、片っ端から麻痺を食らわせることでラフコフの無力化を図ったのだ。

 剣の耐久値限界が訪れるたびにアイテムストレージから新たな武器を取り出して戦い続けた。最終的に何本の剣を失ったのかなど数えたくもない。まったく、どこぞの剣豪将軍にでもなった気分だ。剣豪将軍は末路があれだからあまり重ね合わせたくないけど。

 

 それでもPoHを相手に麻痺剣で戦う余裕はなかった。

 PoHは一体どこでそれほどの技術を磨いたのかと疑問に思うほど、狡猾で洗練された剣の使い手だ。武器破壊を殺し合いの最中に成功させるという一事を以っても、アインクラッドで有数の実力者に数えることができよう。

 加えて討伐隊は生け捕りが前提で、ラフコフは最初から俺達を殺す気で戦闘を展開していたのだ。もちろんPoHも例外ではなかった、この差はあまりにでかい。

 

 三桁に迫るような数のプレイヤーが大挙して狭い洞窟内を舞台に戦っただけに、その混乱の規模も相当だった。そのせいで肝心要のPoHを見失い、逃げられたのは間違いなく俺の失態だった。……少なくとも、俺にやつのHPバーを完全に吹き飛ばす気概さえあれば取り逃すこともなかっただろう。人を相手に斬り合っているという意識がどこかで俺の剣筋を鈍らせていたことは否めない。

 

 それでも、あのままPoHだけに全霊を傾けていられれば結果も違ったはずだ。しかし俺は討伐隊を呼びかけた身として、賛同してくれたプレイヤーを可能な限り無事に帰す義務があった。PoHとの一騎打ちだけにこだわってはいられなかったのである。

 その判断が吉と出るか凶と出るか。全てはこの先のPoHの動向次第だ。願わくば、PoHにはゲームがクリアされるまで潜伏したまま大人しくしていて欲しいものだ。

 

「わかんないわよ、あたしにはあんたがわかんない。どうしてそこまでするの? そりゃ、ラフコフは危険極まりない癌集団だけどさ、なんだってそんな躍起になってあんたがやつらと戦わなきゃならなかったわけ?」

 

 リズの目にはもう怒りは浮かんでいなかった。代わりにあったのは不可解で異質なものへの疑念と、どうしようもない現実を前にした、諦観にも似た疲れが見え隠れしていたように思う。

 俺と同じような年齢だとするなら現実世界のリズは高校生だ。あんなヘドロのように薄汚い思想を垂れ流す連中と係わり合いになるはずもない。殺人を権利などと公言する悪意に満ちたプレイヤーがたむろし、舌なめずりをして待ち構えているような暗澹たる世界に関わって良い人間じゃないのだ。

 好んで人を殺そうとするクレイジーな連中も、そんな連中に剣を向け、かつ滅ぼそうとする俺のような人間も理解の外だろう。

 

 ……随分と遠くまで来てしまった。

 このアインクラッドに囚われる前、十四歳の平凡な中学生だった俺は――桐ヶ谷和人という名前の人間は、きっともう何処にもいない。戻れるものなら戻りたいと思う一方で、この世界を生き抜くためには桐ヶ谷和人ではなくキリトが必要なんだと、そう冷徹に判断できてしまう自分が嫌だった。

 ゲームだと、ロールプレイなのだと割り切るだけで済むのならどんなに良かったことか。あるいは、この世界の死が現実世界の死ではないのだと頑なに妄信できたのならば、そして全てを遊び(ゲーム)だと割り切ることが出来たのならば、それはどれほど甘美で――おぞましい安息だったろう。

 

 ――ここが俺の現実だ。良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、そして罪も罰も、その全てが俺の現実。

 

 それを否定してはならない、否定してしまえば後は堕ちていくだけだった。

 ソードアート・オンラインは俺達プレイヤーの人生をとことん捻じ曲げてくれたが、それは人間性だって同じだと思う。

 時が経つに連れてオレンジギルドが雨後の筍のごとく現れたように、殺人ギルドなどというイカレタ集団を組織したPoHのように、そしてそんな連中をこの剣で切り伏せようとした俺のように――致命的なまでに人間性を歪なものへと変えてしまった。そんな人間が他人に理解を求めることこそおこがましい。

 だからこそ俺がリズに求めたのは彼女の理解と納得なんかじゃない、間違ってもそんなものを俺が望んではいけなかった。

 

「それが俺の取るべき責任だからだ」

「責任?」

「ああ、犯罪者プレイヤーを調子付かせた原因は間違いなく第一層で俺が犯したPKにある。あれのせいでプレイヤーの犯罪に対する自制が緩んだ。加えて、システムが用意した抑止力であるオレンジの烙印も、早い段階で俺が解消の手段を発見してしまった。それで一部のプレイヤーの倫理観が完全に崩壊したんだ。今現在生き残っているプレイヤーが七千人強。その内一割を超えるプレイヤーがオレンジか元オレンジなんて言われてるんだぜ、いくらなんでも異常だろう?」

 

 総人口に対する犯罪者の率がとんでもないことになっている。無論ここは現実世界とは環境が異なりすぎるし、一概に比較して良いものではないのだろうが、それでも一割を超えるというのは空恐ろしすぎる数字だ。

 

「……異常だっていうなら、こんな世界こそが異常よ。脱出不可能なデスゲームに放り込まれた人間、そのどれだけの割合が犯罪に駆り立てられるかなんてデータ、それこそ誰も持ってないんだから気にしたってしょうがないじゃない。第一オレンジプレイヤーの総数なんて噂話の類でしょ。信憑性なんてどこにもないわよ」

「そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。でも、どちらにせよ引き金を引いたのは俺だよ。PoHの奴にはっきり言われたんだ、俺がやつらにとっての《先達》だってな。あの時、俺は何も言い返せなかった……」

 

 お前と俺は同類なのだと突きつけられて吐き気がした。冗談じゃないと思うと同時に、否定できる言葉でもなかった。どんなに言を費やしたところで、かつての俺の過ちが消えるわけではないのだから。

 

「だから……だからキリトは戦ったの? 犯罪者プレイヤーが増えたのは自分の責任だからって、それだけの理由で?」

「俺にとっては大きすぎる理由だよ。やつらと同じプレイヤーキラーとして、命を懸けて戦う義務が俺にはあった。それが犯罪者プレイヤーの手にかかった人達への、せめてもの責任の取り方だったから」

「馬鹿……!」

 

 空気を鋭く引き裂く甲高い叫びが木霊した。

 あの聖夜の対峙を思い出して自嘲に唇を歪めていた俺だったが、リズの悲鳴のような叫びに虚をつかれたように固まってしまう。いや、むしろ叫びと同時に飛び掛るような勢いでリズが迫ってきたことにこそ、驚かされたというべきか。

 気もそぞろに独白などしていたものだからまったく警戒していなかった、だからこそリズの手で容易く地面に押し倒されたのも仕方ないと言えば仕方ないのだけど……危ういことをする。下手をすればリズのカーソルがオレンジ化してしまいかねない乱暴さだったぞ。

 

 そうして俺はその場に大の字で転がり、リズはそんな俺の胸倉を掴み上げんばかりの勢いでそのままのしかかってきたのだった。

 何を、と抗議する間もなかった。する気も起きなかった。それほどリズの声は切羽詰まった余裕のないものだったし、なにより――リズの目からは大粒の涙が止めどなく溢れて零れ落ちていた。

 それだけで俺の口を封じるには十分だ。怒りと悔しさに頬を紅潮させてくしゃくしゃに顔を歪めるリズの姿に、俺は告げる言葉を持たなかったのである。

 

「キリトの馬鹿……! キリトは、キリトはあんなやつらとは違う……!」

「リズ?」

「責任なんて、そんなの嘘よ。そんなのってない。あたし、許せない。ううん、絶対許さないからね。キリトがタブーの剣を使ったことも、ラフコフ討伐隊なんてものを組織したことも、まして同じ人間のプレイヤーを斬ったことも……絶対許してなんてあげないんだからっ!」

「……ああ、それでいい。PK――人殺しなんてあっちゃいけない。許しちゃいけないんだ」

 

 それが正常だよ、リズ。

 

「違うわよ! あたしが許せないのは、どうしてキリトがそこまで責任を背負わなくちゃいけないのかってことよ! そんなになるまでキリトが追い詰められなきゃいけない理由なんてない! 誰かがやらなくちゃいけないことなら、そんなのキリトじゃなくても良いじゃない! この世界にだって大人はいるんだから、あんなワケわかんない危ない連中をキリト一人に押し付けたりしないでよ! 子供にそんなことやらせないでよ!」

 

 それはリズの慟哭そのものだった。

 リズが許せなかったのは、人を殺した俺の罪でも、責任を取ろうという独り善がりの決意でもなく、ただただ無慈悲で悲しみばかりを繰り返すこの理不尽な世界へと向けた嘆きそのものであり、それが故の叫びだった。

 

 《誰だってつらい思いを抱えて生きている、こんな世界に閉じ込められて当たり前に笑っていられるやつなんていない》。

 

 長い時間をこの世界で過ごし、アインクラッドのルールにもすっかり順応し、ついにはこの箱庭世界へ安住してしまうかのように着々と生活基盤を築いてきた。余裕も出来た。それでも不安は尽きない。

 誰だって笑顔の奥に疲弊と諦観を押し隠して日々を過ごしているのだ。リズだって例外じゃない。攻略組のサポートを選んだプレイヤーだからこそ抱える憂慮だってあるだろう。

 

 彼ら彼女らは戦闘スキルの研鑽を犠牲にしてサポートスキルを磨く。そこには必然としてゲームクリアを他者に委ねるという選択が付き纏うのだ。

 俺達攻略組は自分達の手でこのゲームを終わらせるのだというモチベーションと、日々進む攻略に手応えを得ることもできるが、職人クラスのプレイヤーにそれはない。あるいは俺達以上に、進まない攻略に苛立ち不安を募らせる夜だってあるだろう。

 現実世界を思い、自分自身の将来を憂いて悲嘆に暮れることだって――。

 誰もが理不尽を飲み込もうと四苦八苦しながら戦っている。リズの叫びは、そんなどうしようもない現実を象徴するかのような哀切極まる慨嘆が込められていた。そして、それは同時に俺を哀れんでのものだったのだろう。あるいは、リズの優しさか。

 

 リズの怒りと涙を心底ありがたいものだと思う。そして、俺には過ぎた気遣いだとも。

 この世界では子供も大人もない。剣とモンスターの前には皆が平等な一剣士に過ぎず、石と鉄の城が全ての異世界なのだ。誰もが自分の命を守るだけで精一杯な世界、それがアインクラッド。理不尽を嘆いても始まらない、俺達の生きる現実だった。

 

「……リズ。俺が、俺自身で決めたんだ。子供とか大人じゃない、この世界で生きる一人のプレイヤーとして、そしていつか現実の世界に帰ることを願う一人の人間として、今やらなきゃならないことをやっただけだ。誰のためでもない、誰かに強制されたわけでもない、どこまでも俺自身のためにやったことなんだよ。だからリズ、君がそこまで怒ってくれる必要はないんだ。――でも、ありがとな。俺のために泣いてくれて」

「だって……だってこんなのあんまりじゃない。どうしてそんな……。うぅ、キリト、キリトぉ……!」

 

 多分、リズ自身も己の内から湧き上がってきた激情を持て余していたのだろう。リズは止め処なく溢れ出る涙を拭う間もなく、俺に縋りつくように身を預けて涙に暮れていた。

 俺の胸に顔を押し付け、そのまま嗚咽を漏らして泣き伏すリズの姿はあまりに痛々しいもので、彼女にかける言葉一つ浮かばなかった。そんなに悲しむことなんてない、リズが痛みを覚える必要なんてないのに……。

 

 俺の話が原因で泣かせたというのに、そこで俺が慰めるというのもおかしな話だ。本来ならリズの親友であるアスナでも呼びに走るべきなのだろうが、生憎とそんなことをできる状況でもない。弱弱しく嗚咽を繰り返すリズをこのまま放っておくことも(はばから)れて――。

 結局わずかの躊躇いの後、そっとリズの背中に右腕をまわして規則正しく撫で、左手はあやすようにリズの髪へと優しく添えた。俺は大丈夫だ、だから何も心配いらないのだと、そうリズに伝わってくれることを祈って。

 

 本当に俺のことは心配ないんだよリズ。

 どれだけ俺の手足がぬかるんだ汚泥に捕らわれようとも、日毎に重力の頚木(くびき)が増していこうとも、俺のゲームクリアを希求する心は些かも減じていない、戦い続ける意思はこれっぽっちも折れちゃいないのだから。

 だから、何も問題は――ない。

 

 

 

 

 

 俺の弱さがリズを泣かせた。

 ラフコフ討伐の詳細なんか話すべきではなかったし、話さずに済ますことだって出来た。だというのに俺が口を割ってしまったのは、あの日の戦いで再びPKを犯してしまった罪業に、俺自身が耐えられなかったせいだ。胸の内に抱え込んだ罪悪の一端を少しでも外に吐き出してしまいたかった。そして、誰かに俺を糾弾し、裁いてほしかった。

 そんな俺の弱さと迷いが俺自身の罪を吐露し、あの戦いに無関係だったリズの涙へとつながった。

 

 一年と半年以上も前――。

 右手に握った剣が初めて人を貫き、その事実を自覚した夜、筆舌に尽くしがたい吐き気と罪悪感にのた打ち回った。もう二度と人を斬るものかと誓った。俺は第一層のPK以来後悔に後悔を重ねてきて、それなのに俺はラフコフを、PoHを捕らえるためにプレイヤー同士の殺し合いの場に臨んでしまった。必要なことなのだと自分に言い聞かせて、迷いなどないのだと必死に思い込んで。

 

 そして、俺はまたPKの罪を犯した。

 窮地の仲間を救おうと無我夢中で剣を振り回し、気づけば俺はこの手で人を斬り、その人生を終わらせてしまっていた。

 それも、二人。

 

 ラフコフ討伐戦からまだ一週間と経っていない。

 空元気など結局空元気に過ぎなかったというわけだ。クラインもエギルも、あるいはディアベルやシュミットも、俺のしたことは仕方なかったことなのだと口を揃えて言った。アインクラッドを席巻したラフコフの脅威は、もはや見過ごせるはずもない大きさにまで膨れ上がっていたのだから、と。

 

 わかってる、どうしようもなかったということくらい俺だってわかってるんだよ。自分自身で討伐隊を組織したんだ、そこで何が起こるかくらい覚悟していた。……覚悟していたつもりだった。

 

 戦いが終わっても、俺の背に日々積み重なっていく怨嗟の重みが確実に俺の心を蝕んでいく。

 俺が何より怖いのは、ラフコフ構成員を殺めた事実が、かつてのPKよりも俺に与えるダメージが格段に少なかったことだ。以前は後悔に後悔を重ねて罪科の重みに押しつぶされ、繰り返すモンスターとの戦いの中で死のうと消極的な自殺すら選んだ。

 だというのに、PKの可能性を知っていて事に当たった今回は、重苦しい罪悪に苦しみながらもどこかで割り切ることが出来てしまっていた。

 

 ……悪夢だった。この変化を俺は成長などとは思えない、悪い意味でこの世界に馴染んでしまっている自分を自覚した瞬間、サッと血の気が引いてしまったことを覚えている。きっとあの時の俺は顔を真っ青にして震えていたのだろう。

 

 だからこそ、俺のために泣いてくれたリズの気持ちが嬉しかった。それは剣とモンスターと人の悪意の力に、成すすべもなく引きずられていく俺にはあまりにもったいない優しさだったから。

 当たり前のことに怒り、嘆き、そして笑うことが出来る。そんな真っ直ぐなリズの気性は清涼そのものでとても心地良い。アスナが親友だと自慢げに話していたのも頷けるというものだ。リズにはそれだけの魅力がある。同性にとっても、そして異性にとっても。人を惹きつける輝きを放っている少女だった。

 

 そんなリズは今、俺の胸に身体を預けたまま泣きつかれて眠ってしまっていた。

 ただでさえ雪山を踏破した疲れがあり、白竜を相手に戦闘もこなしたのだ。加えて罠にはまって死を覚悟するような深い落とし穴にひもなしバンジーさせられた。最悪を重ねたように穴底から脱出する手段もなく閉じ込められた事実は、リズの精神を追い込みに追い込んでいたことだろう。そこに止めとして俺があんな話をぶちまけてしまったのだから、張り詰めた緊張の糸が切れたって全くおかしくなかった。

 

 というか、俺もわざわざリズに止めを刺すようなことをするなって話だ。わかっちゃいたが気遣いの出来ない男である。自分自身に幻滅するのも一体何度目なのやら、そろそろ飽きてきたくらいだ。

 リズの桃色の柔らかな髪に目を落とし、ゆっくりと、そして何度も指を通す。櫛でもあればいいのだが、生憎そんな気の利いたものを俺が用意しているはずもない。そもそもこの世界で櫛を使って髪を整える意味ってあるのか? いや、もしかしたら男の俺にはわからない女の世界の嗜みとかがあるのかもしれない。そんな馬鹿なことを考え、自然と微笑が浮かんだ。

 

 のんきなもんだよな、俺も。

 状況は何も変わっていないのに、今はこんなにも穏やかな気持ちで身体を横たえている。

 アイテムストレージから寝袋(シェラフザック)を用意してリズに使ってもらおうかとも考えたものの、泣き疲れて眠りに落ちてしまったリズを起こすのは忍びなかった。それに俺自身が人肌の恋しさに飢えていたのだろう、今はリズから離れたくなかった。……リズには悪いが今夜はこのままにさせてもらおう。

 不埒な真似をするつもりはないのだから、異性の胸で眠りに就いたリズにも油断があったということで納得してもらえばいいさ。……納得してもらえれない気が盛大にするけど。むしろ納得しちゃ駄目だけど。

 

 リズの手がしっかり俺の服を握っているせいで、起こさずに離れるというのも難しいのだと改めて言い訳を繰り返し、そのまま力なく目を閉ざしてしまう。リズを抱いた暖かさが心地良い。

 この世界では他人の息遣いも心臓の鼓動も碌に感じ取れず、唯一、人の生を実感できるのが温感センサー、すなわち体温の暖かさだった。俺も、そして、もしかしたらリズも、この暖かさに縋って今日という日を生きているのかもしれない。ふと、そんなことを思った。

 

 俺もいよいよ眠くなってきた、頭がぼんやりしてどうにも思考がおぼつかない。リズと同様、俺だって今日は緊張の連続だった、いつもより眠りが深くなりそうな気配にすっかり抵抗の意志も弱まってしまっていた。

 もういいや、明日リズに怒られよう、そして謝ろう。そうしようそうすべき。

 そんな言い訳にもならない言い訳を内心でつぶやいて程なく、俺の意識は睡魔に負けて暗転していった――。

 

 

 

 

 

 なぁリズ。君は俺のために怒り、泣いてくれた。本当に嬉しかったよ。でも、俺にそれを受け取る資格なんてないんだ。

 君の何故という問いに、俺は義務だとか責任だとか色々理由を付けた。もちろんそれは俺の本心だし、決して嘘なんかじゃない。

 

 でもな、俺が殺人ギルド討伐を決めた一番の理由は、俺が怖かったから、俺が奴等に恐怖したからなんだよ。この世界で出会い、心を交わした大事な人達を、殺人ギルドの連中に殺されるかと思うと怖くて恐ろしくて夜も眠れなくなった。友達の大切にしていた仲間がラフコフに殺されたのだと知って、そいつまで奴等に殺されるんじゃないかと想像してしまった時、目の前が真っ暗になったんだ。そして、心底ラフコフの連中に恐怖して――許せなくなった。

 

 だからあの冬の日、朽ちかけた教会で無謀と知りながらも怒りに任せて奴等と対峙した。奴等と暗闘を続ける中で巻き込んでしまった娘だっている。俺は何時だって感情のままに動き、その都度間違いを犯し続けてきた。贖いというのなら、一体どれだけの人達に贖う必要があるのかすらわからない。

 

 オレンジプレイヤー跋扈(ばっこ)の責任だとか、攻略の障害を除くためだとか、そんな言い訳にも似た理屈を捏ね繰り回して、必死で強くあろうと自分を取り繕ってきた。強者としての《黒の剣士》を演じ続けてきた。そうしなければ奴等に対抗できないのだと、何度も、何度も言い聞かせて。

 

 その挙句、俺はゲームクリアのためという大儀を掲げて、大儀という名の建前で攻略組の力を借りることだってしてしまった。

 俺は奴等と殺し合いになる可能性を重々承知の上で攻略組の皆に協力を頼み込み、血みどろの戦争に巻き込んだ。ソロの限界を思い知って、俺一人ではどうにもならない諦観と己の無力に胸を掻き毟りながら助けを求め、死なせたくないと願う連中まで血生臭い死闘に駆り立てた。――そして一緒に戦ってくれた仲間からも死者を出してしまった。

 

 あの男――PoHは怪物だ。PoHだけじゃない、奴等は皆、人殺しを厭うことなく剣を振るえる狂人だった。俺にはもはや奴等が尋常でない狂気を孕んで動き続ける、人の形をした化け物にしか見えなくなっていた。

 

 物語で怪物を退治するのは何時だって勇者の役目だ。けど俺は勇者になんてなれないから……だから殺人者(レッド)と渡り合うには俺自身が怪物になるしかないのだと思った。他者を殺めることすら許容してしまう外道、奴等と同じ穴の狢、唾棄すべき人でなしに。もしもラフコフメンバーの捕縛が不可能ならば、その時は俺自身の手で、と最悪を覚悟してあの戦いに臨んだ。

 

 なのにあの時、PoHの命を奪うことに恐怖した俺は怪物にすらなれなかった。恐れを知らぬ勇者にはなれず、闇深き怪物へ変ずることも出来ず、虚飾の仮面を剥いで残ったのは人殺しの罪に怯える子供だけ。……何者にもなれない無様な15歳のガキでしかなかった。

 

 プレイヤー同士の殺し合いなんて、どんなお題目を唱えたところで許されるはずがない。それでもラフコフを止めない限り、日を追う毎に犠牲者の数は増えていく。その死者の列にあいつらが加わるなんて許せるはずがなくて――。

 だから考えた。

 攻略と贖罪。義務と因縁。犯罪と抑止。倫理と殺人。仲間、約束、そして、俺自身の未来。

 考えて考えて考え抜いて、そうして俺はこの道を選んだ。選んで、踏み越えた。それは多分、踏み込んじゃいけない境界線で――。

 

 だから。だからこそ。

 

 リズ、君はこの世界を生き抜いてくれ。絶対に死ぬんじゃない。

 お前達を無事、現実世界に帰す。今の俺はそのために生きているんだから――。

 

 




 《転移結晶》に独自設定を追加。強制転移させるにはパーティーを組んだプレイヤーが対象の時のみ可能、かつ接触の必要もあり。
 《制服化》カスタマイズは独自設定です。
 また、状態異常付与の武器が対人特化、《武器破壊》が無制限ではなくソードスキル限定に変更しているのも拙作独自のものです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第11話 誓約の二刀流 (3)

 

 

 眼が覚めて最初に考えた事と言えば、未だ睡魔に身を委ねたまま腕の中で眠る女の子に、どうやって許しを請おうかということだった。とはいえ、いつまでもそんな不埒な体勢でいるわけにもいかず、彼女を起こさないようそっと身体を起こす。硬い岩盤を枕に朝を迎えたにも関わらず、目覚めがこの上なく爽快だったのは、間違いなく昨夜の抱き枕の品質が最上級だったせいだろう。

 これはもう土下座をして誠心誠意寛容を願うしかないんじゃないかとぐるぐる悩みながらも、早々に朝餉の準備を進めてしまう。昨夜と同じく簡単なスープを作るくらいしか出来ないが、それでもないよりはマシだった。

 ランタンに乗せたポットをぼんやりと見つめることしばし、背後でリズの起き上がる物音を合図におもむろにスローイング・ダガーを取り出し、特に狙いを定めることなく岩壁目掛けて打ち出した。リズには突拍子もないことをする変なやつとでも思われたかもしれない。俺の放ったダガーは岩壁に突き刺さると赤いライトエフェクトを撒き散らし、時を置かずして耐久値限界を迎え、消滅した。いっそ呆気ないほどである。

 

「おはよ、キリト。あんた朝っぱらから何してるわけ?」

「おはようリズ。ちょっとした実験というか確認だな。起きたならこっち来いよ、そろそろスープも出来るから」

 

 それからしばらくはどこかぎこちない空気の中で過ごす俺とリズだったが、頃合を見計らって俺から口を開いた。

 

「リズ、昨日のことだけど――」

「ストーップ! それ以上はなし。あの時はあたしも頭の中ぐちゃぐちゃで、今もちょっと混乱してるの。だからあたしの気持ちの整理がつくまでは何も言わないで。お願い!」

 

 まずは昨夜のことを謝る。そう決めて話を切り出そうとしたのだが、当のリズが頑固拒否の姿勢だった。頬も薄らと赤みがかっているし、これ以上ない早口でまくしたてられてしまった。リズの羞恥の原因は昨夜の感情むき出しの振る舞いだろうか、それとも俺の胸の中で眠りに落ちてしまったことだろうか。少しだけ追及してみたいという悪戯心がむくむくと湧き上がってきたが、自制に努めて黙殺した。

 

「で、もう一回聞くけどさ、あんた何してたのよ? 投剣スキルの確認でもしてたわけ?」

 

 スープが並々と注がれたカップを受け取ったリズが首を傾げながら尋ねてくる。まあリズからしてみれば不思議以外の何者でもないか。起きて早々に目にしたのが俺がスローイング・ダガーを投擲してる光景だもんな。首を傾げたくなる気持ちもわかる。

 

「そのことなんだけどさ、この落とし穴、ちょっとおかしいとはおもわないか?」

 

 俺の問いは少しばかり唐突だったか? リズは俺の反問に目をぱちくりとした後、もう一度俺の言葉を吟味するかのように眉間に皺を寄せて考え込んだ。それから自信なさ気に口を開く。

 

「うーん、おかしいって言われてもね。トラップとしちゃそこまで突飛なものじゃないと思うし、転落死の可能性があったことを考えると危険度の高さが迷宮区クラスのものってくらいかなぁ。結晶無効化空間で脱出不可能って点を加えると相当悪どい仕掛けだとは思うけどさ」

「俺もそう思ってた――昨日までは」

「持って回った言い方しないでよ。それでキリトは何が気になってるって言うの?」

 

 正解に辿り着けなかったことが悔しかったのか、それとも俺の遠まわしな答え方がお気に召さなかったのか、リズは唇を尖らせて不満も露わに俺の顔を見つめてきた。明瞭闊達を好むリズらしい言い草だ。

 攻略組において俺より年が幾つも上だと思われる連中との腹の探りあいとか、交渉の主導権を握るために種々折々の駆け引きをしなければならなかった日々を思い出して、ひたすら癒されるリズとの軽妙な会話の応酬に自然と頬が緩んでしまう。出会った当初からリズと馬が合うと感じていたのは、きっとそんな攻略組とは関係ない場所で羽を伸ばせたせいなのだろう。アルゴとはまた違った感じで遠慮のいらない距離感が心地良かった。

 

「その答えはもうリズ自身が見てるはずだぜ?」

「だからそういう思わせぶりなことは……」

 

 台詞の途中でリズがハッと何かに気づいたように言葉を切った。どうやら気づいたらしい。

 俺はもう一度懐からスローイング・ダガーを取り出し、投剣スキルを起動させた。岩壁に向かって投擲された短剣は先程と変わらず赤いライトエフェクトを散らして消滅する。その一連の光景をじっと見守っていたリズが真剣な眼差しで口を開いた。

 

「キリトの言いたいことがわかったわ。アインクラッドでは建造物とか木々、岩肌とかは基本的に破壊不可能オブジェクトに指定されてる。特殊なクエストとかでもなければその原則は崩れない。なのに今あたしたちを囲っている岩壁は何故かその法則が適用されていない。剣が弾かれずに耐久値が減少すること自体、普通じゃありえない現象よ」

「そういうこと。俺も昨日は随分焦っていたらしい、リズから預かった剣が消滅した時点で気づいて然るべきだった」

 

 間抜けな話だ。ここがゲーム世界だと忘れて現実の法則ばかりに囚われ目が曇っていた。なにより冷静さを失っていたことが一番の原因だろう。物理的にも精神的にも閉塞した状況が心身を圧迫し、視野を著しく狭めていた。一晩の休息を経てようやく頭が回るようになったわけだ。

 

「でも変ね、そうなるとあたしたちが落ちてくるときの足場の氷、あれもなんだかいかにもゲーム的な作為を感じるわ。トラップにしては設置場所の脈絡がなさ過ぎるというか……不自然な気がするもの」

「加えて、結晶無効化空間に捕らえておきながらモンスターの出現しない穴底。転落死の危険性があったとは言え、脱出不可能にした割にはその後に何も起こらないのは解せない。片手落ちというか、わざわざ閉じ込めた意味がないんだ。この世界じゃ餓死もないしな。本気で脱出不可能な罠で精神的な拷問を企図したというのも考えられなくはないんだが……これまでの茅場のやりようを踏まえるとやっぱり不自然なんだよな。この場でモンスターが立て続けに出現するとかのほうがまだ《らしい》演出だ」

「ちょっと、怖いこと言わないでよね」

 

 咎めるようなリズに悪いと一言謝っておく。流石に精神的拷問とかは縁起でもないよな。俺だって可能性は低いとは思っちゃいるが、もし本当に一生ここに閉じ込められることになったらと考えると震えが走る。ソロでなかったことを感謝するべきかもしれない。仮にこんな状況に一人放り出されていたら気が狂ってしまいそうだ。リズに改めて感謝しないと。

 

「キリトはさ」

「ん?」

「もしも、もしもの話よ? あたしたち二人ともここから脱出できないってなったら、キリトはどうする?」

 

 今しがた口にした俺の不吉な状況分析がリズを弱気にさせてしまったのだろうか。その言葉で考えないようにしていた可能性を生々しく想像してしまったのかもしれない。やっぱり俺の対人スキルは成長なんてしてないな、気遣いレベルが足りなすぎる。

 

「んー、毎日寝て暮らす? 果報は寝て待てって言うしさ」

「なによそれ、あっさり答えすぎじゃない?」

 

 もちろん本気で言っているわけじゃない。

 キリトというプレイヤーの価値――飛びぬけた戦闘能力を自覚している俺がそんな安穏とした選択肢を選んで良いはずがなかった。何の因果かヒースクリフと並び称されるほどに俺の名は知れ渡ってしまった。あの男と合わせて攻略組の双璧などと呼ばれるのは心底遠慮したいところなのだが、強さという点に限って俺は攻略組の支柱の一本になってしまっていたのだ。そこから無責任に離脱することなど許されるはずがない。第100層、すなわちグランドボスに辿り着くにはまだまだ長い道程が必要なのだ。こんなところでリタイアなど出来るはずがなかった。

 リズの弱気を少しでも晴らせればと軽口を叩いてはみたものの、俺に冗談のセンスは皆無だからな。どうしたもんか。

 

「味気ない答えはお気に召さないか。それなら折角リズがいてくれるんだし、俺が寝るときは膝枕でもしてくれるとかどうだ?」

 

 ……って、何を口走ってるんだ俺。アホだな。

 リズが寝る時は俺が腕枕でもしてやるよ、と悪ノリ極まりない言葉が続けて飛び出す寸前、どうにかこうにかこらえることに成功した。

 いやいや、これは成功って言っちゃまずいだろう? 膝枕発言だけでも十二分にセクハラだ。しまったな、いつもの癖でついつい軽口を叩いてしまっていた。アルゴにならともかく、昨日が初対面の女の子に向けて良い台詞じゃない。まして昨夜を思い起こさせるような話題の時点でアウトだ。ああ、俺の気遣いのなさがマイナス方面に突き抜けていく。

 案の定というか、リズは実に初心な反応を返してくれた。頬に朱が差して言葉もない様子だ。すまん、今のは全面的に俺が悪かった。

 

「悪い、忘れてくれ。配慮が足りなかった」

「……別にいーんだけどさ、あんた、誰彼構わずその手の台詞をばらまいてるわけ?」

 

 そのうち刺されても知らないわよ、といかにも棒読みなリズの忠告だった、目は半眼であきれ返ってますと全身で主張している。返す返すも申し訳ない。……この場合、リズの隠し切れない頬の紅潮に関しては触れないでおいたほうがいいよな。リズの強がりを指摘したところで状況が好転するとは思えないし。

 

「それはない。俺がまともに会話してる異性なんて片手で足りるしな。攻略組のソロプレイヤーって肩書きは伊達じゃないのさ」

「あのねキリト、それ、誇るところじゃないから」

 

 意味もなく胸を張る俺に今度こそ呆れた表情のリズだった。

 俺も言ってて悲しくなった。ただ俺の場合孤高を気取ってるわけではなく、単に時間とスキルの問題で交友関係が狭いだけだ、ということを強く主張しておきたい。

 昼も夜も関係なく迷宮区に潜り、たまに街に戻れば武具のメンテと消耗品の補充を済ませるや迷宮区にとんぼ返りの日々だ。攻略会議への参加やフロアボス戦前夜の休息の合間にアルゴとの情報交換をしたり、ポーション作成スキルの熟練度上げに勤しむサチの様子を見に行ったりすることを除けば、それこそ俺に戦闘と探索以外の個人的な時間なんてない。

 いつかヒースクリフに諌められて定期的に休息を取るようになったアスナが、事もあろうに俺の心配をして強制的に休暇に連れ出すくらいには殺伐とした生活を送っていた。攻略組でも多忙で知られる血盟騎士団副団長にすら心配されるタイムスケジュールで動いているのだ、そんな生活で交友関係が広がるはずもない。

 ……まぁ、どんな理屈をこねようと俺の対人スキルが錆付いて腐れ落ちようとしていることには変わりないんだけどさ。我ながら無茶な生活サイクルである。二重の意味で誇れることじゃないな。

 こほん、とわざとらしく咳払い。この話題は危険だ。続ければ続けるほど俺が切なくなる。

 

「話を戻そう。俺達のいるこの穴倉は不自然なんだってとこからな。昨日の俺の壁走りは覚えてるだろ? ギャグみたいな人型の穴が出来ること自体おかしいんだ。通常破壊不可能オブジェクトに指定されてる壁や床が中途半端に設定解除されてる」

「そういえばあの間抜けな穴もいつのまにか修復されてるわね。ああ、だからキリトは中途半端って言ったわけか。完全に解除されてるなら修復もされないし、横穴を掘り進むとかの脱出法も考えられるわけだけど」

「短時間で剣の耐久値限界まで削られたことを考えると、仮に壁を壊せるとしても横穴を掘り進むのは無理っぽい気はするけどな。ゲームなら専用のつるはしとか用意するイベントだ」

 

 まぁ、岩壁や雪の残る岩床のシステム保護が部分的に解除されてるだけで、完全に破壊できるわけじゃないから無意味な仮定だけどな。

 

「ゲーム……ゲームね。そういえばこの世界ってゲーム世界だったわね。すっかり忘れてたわ」

「普段は忘れてるほうが精神衛生上良さそうだけど、今日に限ってはここはゲーム世界だってことを強く意識したほうがいいかもな。冷静に考えると俺達の状況はいかにもゲーム的な演出の中にあるわけだ。フラグ条件のわからないクエスト、脈絡のない落とし穴、部分的にシステム保護の切られた破壊不可能オブジェクト、なにより脱出不可能だっていうのに、のんびり夜を明かせるだけの余裕があったこと。一つ一つをばらばらに見ると意味不明だけど、こうして並べてみると結構見えてくるものがあるよな」

 

 気づいてみればなんてことのないイベントだが、それが出来なかったからこそ今までこのクエストは放置されてきた。俺達も危うく無駄足を踏むところだった。こうしてみると俺が白竜との戦闘を長引かせたのも、大人しく隠れていられなかったリズの失敗も結果オーライだったわけだ。

 

「……あたしたちは罠に引っかかったわけじゃない。知らず知らずの内にイベントトリガーを発動させてたってわけか。あの落とし穴は白竜と戦うことが出現条件だったのかしらね?」

「鍛冶屋同行って線はいかにもありそうだけどな。そのうえで白竜を倒す前にこの穴を発見する。そう考えると白竜のドロップが屑アイテムだってことも説明がつくんだよな。あの白竜はあくまでイベントトリガーであって、クエストボスなんかじゃないってことだ」

「意地の悪い仕掛けねぇ。あんないかにもな大型モンスターを配置されたら誰だって倒そうと躍起になるでしょうに」

「このゲームの産みの親が誰かを考えれば納得できるんじゃないか?」

「……納得したわ」

 

 諦観混じりのリズの相槌だった。

 茅場晶彦を心優しく素直な人間だ、などと思う人間はこの世界に誰一人住んでいないだろう。あの男への文句と恨み言はたまりにたまっているのだ。この世界を運営するゲームマスターの悪辣さなど開始初日に全プレイヤーへと知れ渡っている。その度合いが大きくなることはあっても小さくなることだけはない。

 

「今は製作者の底意地の悪さは忘れておこうか。やつのことを考えるとそれこそ精神衛生に良くない」

「確かにそうね。それに、まずはここから脱出しなくちゃ」

「その前に目的のアイテムを回収しないとな。地面が削れるってヒントはそこかしこに散りばめられてたんだ。それにこの穴倉自体、かなり正確な円柱状になってるわけだから、こういう場合クエストアイテムの隠し場所もそれに倣ったものだよな」

 

 具体的には円の中心だ。ゲーム脳を駆使して数々のヒントから当たりをつけた場所に足を運び、適当に雪をかきわけ、地面をわずかながら掘り進めるとすぐに目的のアイテムが顔を出した。流石に茅場もここでお約束を外すような真似はしなかったらしい。

 白銀に輝く長方形の物体。両の掌からわずかにはみだす程度の大きさのそれをそっと右手の指でタップすると、すぐにアイテム名が出現した。《クリスタライト・インゴット》――リズの予測通り、鍛冶に用いる金属素材だった。

 

「なんだかイマイチ有り難味がないわね。素直に白竜のレアドロップじゃいけなかったのかしら」

「知恵を絞れってことかもな。大きなお世話だっていってやりたいくらいだけど」

 

 不満そうというよりどこか気が抜けたようなリズの声だった。顔にも複雑そうな色を覗かせている。昨日この穴底に叩き落されて死に掛けた身としては素直に喜べないのかもしれない。俺達の味わった労力と恐怖に比して、謎解きさえ済めばアイテム入手難易度はむしろ低いだけに、なんとなく釈然としないものがあるのだろう。俺だって似たような思いは抱いているのだからリズの気持ちもわかる。とはいえ、元々が理不尽な世界なのだ、いちいち気にしていたらきりがない。

 

「ひとまず目的達成なんだし喜んでおこうぜ。ほら、受け取れって」

「わわ、いきなり投げないでよ」

 

 苦笑しながら無造作にリズへとインゴットを放り投げる。緩やかな放物線を描いてインゴットは差し出されたリズの両手へと収まった。へぇ、とリズがまじまじと自分の手の中にある銀色に輝く金属インゴットを眺め回す。そんなリズの様子を見やりながら、「それ、竜の排泄物の可能性が高いぞ」と忠告するべきかどうか悩んだ。……知らなきゃいいことなんてこの世にはいくらでもあるよな、黙っておこう。

 クリスタライト・インゴットを竜の排泄物と予想したのは、ここが竜の巣である可能性が高いからだ。

 なんだって竜の寝床なのに入り口が雪と氷で隠されてたんだと突っ込みたくもなるが、それはゲーム的な演出というやつだろう。これ見よがしに穴を掘っておくわけにもいかないし、もしかしたらこの穴倉自体、出現ポイントは固定じゃないのかもしれない。白竜の出現した場所の近く、それに一定の時間が経過すると出現するとか。考えてみると竜の突進で足場が崩れたというのも何か作為的だよな。竜の巣の入り口と白竜との戦闘はやっぱり関連付けて考えるべきフラグっぽいかな。情報屋にはその辺も強調してクエスト情報を流すか。

 

「よし、アイテム収納完了。ところでキリト、あんたやけに落ち着いてるけど脱出方法に心当たりでも――」

 

 その時、リズの声を遮る形で上空から一際甲高い鳴き声が響いた。忘れるはずもない、昨日戦った白竜のものだ。

 

「……ねぇ、キリト。もしかして、ここって竜の巣だったりする?」

 

 遅ればせながらリズもその可能性に気づいたらしい。引きつったような表情をしている。

 

「多分な」

「じゃあさ、麓の村で集めた情報の中に、ドラゴンは夜行性ってやつがあったじゃない。今は朝よね、そうなると――」

「寝床に帰ってくるってのが順当な行動だよな」

「ですよねー」

 

 はははと乾いた笑いを零した後、しばしの沈黙。感情エフェクトでもあるのならリズの後頭部にでも大粒の汗を表現しておきたいところかな。今の状況にはぴったりだ。生憎と俺はこの事態を歓迎してるために笑みを押し隠すのに精一杯なんだけど。ここまでゲーム的演出をしてくれて嬉しいよ。叶うことなら最後までお約束を守ってほしいもんだ。

 

「えっと、戦闘を再開するにはここ、狭すぎると思うんだけど……キリト、大丈夫?」

「問題はないと思うけど、一応俺の後ろに下がってくれるか? それとポーションの用意も」

「わかった」

 

 素直にリズが一歩下がった。俺も念のためにエリュシデータを抜いて不測の事態に備えておく。リズに言った通り戦闘になっても倒すのにそう苦労はしないだろうが、出来ればそんな展開にはなってほしくない。ここまできたら最後までゲームに見合った演出を貫いてくれよ、茅場。

 そんな願いを込めながら頭上を仰ぎ見る。

 白光の差し込む上空から黒い影が悠々と近づいてきた。豆粒のようだった姿は既に昔で、目視できる先には元気に翼をはためかせる巨大なドラゴンの勇姿がある。改めてみると本当に迫力あるな。

 前回の戦闘の最後に見せた急降下のイメージとは程遠い、優雅とすら思える静かな着地を決めた白竜はそのまま身体を沈め、億劫そうに首を傾げた。案外自身の寝床に闖入した無粋な侵入者を煙たがっていたりするのかもしれない。即戦闘に踏み切るわけでもないその様子にほっと息をつく。予想の範疇とはいえ、実際にそうなって心底安堵した。どうやら脱出の見込みもついたようだ。

 

「ねえキリト。これ、どういうこと?」

「どうもこうも、いわゆるお約束ってやつだろ?」

 

 訝るような声のリズを振り返り、一度肩を竦めてから剣を鞘に納めた。リズにも武器を納めるよう示すと、リズは一度白竜のほうに目をやり、それから深く息をついて緊張を解いた。なんとなく展開が読めたのかもしれない。

 

「ここまでゲーム要素の強いイベントに遭遇するのは初めてよ」

「確かに典型的なゲームイベントだよな。これぞRPGって感じだ。これでこの世界が真っ当なVRMMORPGならな……」

「言わないでよ、空しくなるから」

 

 二人して顔を見合わせ、重い溜息をつく。この世界がまともに運営されていれば、と何度思ったことか。ゲームを愛する人種にとってソードアート・オンラインは正に夢を体現したものになるはずだったのだ。それが何をトチ狂ったのか、開発者自らがその夢を叩き潰してくれやがった。返す返すも惜しまれるものだ。

 

「行こうか。このままリズと二人きりで過ごす穴倉生活も悪くないけど、どうせならリズの店でコーヒーを飲みたいかな。ご馳走してくれるんだろ?」

「もう、だからそういう恥ずかしいことを言わないでくれる? 乙女を弄ぶと碌なことにならないんだからね」

 

 寝そべるように身体を横たえた竜の背に跨り、リズへと手を差し伸べながら笑う。リズは相変わらず俺の軽口に初心な反応を見せてくれるため、なんだかとても嬉しくなってしまう。アルゴにはやり込められてばかりだから、その反動なのかもしれない。リズには良い迷惑かもしれないけど。それでもリズとこうして会話を交わすことは楽しい。

 俺にからかわれて唇を尖らせたリズが不承不承手を差し出し、俺はその手を取って一気に引き上げた。と、その時、まるで合図を待っていたかのように白竜がその身を起こし、その突然の動作にリズがバランスを崩しそうになったのを見て慌てて引き寄せた。勢い余ってリズが俺にしなだれかかるような体勢になったのは断じてわざとじゃないぞ? いや、ほんと。頼むから信じてくれ。

 

 そんな俺の弁明が言葉になることはなかった。白竜がその翼を広げて飛び立ったのだ。今までの殊更ゆっくりとした、のろのろとスローな動作はなんだったんだと文句を言いたくなるほどの急上昇を開始したのだった。リズは体勢を立て直す暇もなく俺に縋りつくような形となり、俺も白竜から振り落とされないようにバランスを取るので精一杯だ。流石に二度も紐なしバンジーをさせられたくはない、竜の背を離れまいと必死だった。多分リズも似たようなものだろう。

 性質の悪いことに、穴倉を脱出したら白竜の挙動がさらに激しくなった。もはや完全に俺達を振り落とそうと意図した動きだ。どうやらゲーム的な演出は脱出した時点で終わりということらしかった。だからこういうお約束の外し方はいらないんだって……!

 

「すまんリズ! 跳ぶからしっかり捕まってろよ!」

「え? きゃあっ!」

 

 開発者に文句を言う暇もない。振り落とされてまた穴底に一直線とかなるのは御免なので、リズに一声かけて白竜の背を蹴り、一気に跳躍した。涙目で俺の首に縋り付いてるリズには悪いと思ったが、いちいち了解を取る余裕もなかったのである。

 上空高くに舞い上がった白竜の背から飛び降りただけあって、滞空時間は思いのほか長かった。リズを横抱きに支え、くるくると二人で宙を駆けていく。眼下には朝日に照らされた一面の銀世界が広がっていた。

 氷雪と水晶が明るい陽光を浴びてキラキラと輝く光景は幻想的で、頬を切る風の冷たさも気持ち良い。

 

 リズも少しは落ち着いたのか恐る恐るといった感じで目を開いたが、すぐにその雄大な自然の光景に歓声を挙げた。俺も気分は似たようなものだ。この世界に初めて訪れた時と同じか、それ以上の感動が心に満ちていくのがわかる。それほど眼前に広がる景色はすばらしいものだった。

 つらいことや悲しいことの多いアインクラッドだが、それでも綺麗なものはあるのだと思ってしまうのは罪なことだろうか。死んでいった者への裏切りだろうか。

 それでも今だけはこの景色に見惚れていたかった。

 これが作り物の光景でも、あるいは偽者の世界だからこそ、ただただ圧倒される絶景の中、ちっぽけな俺自身を感じ取っていたかった。

 

 

 

 

 キリトのやつ、少しは元気でたかしらね?

 お互いの共通の友人であるアスナの話題を中心に、和気藹々と盛り上がりながら帰りの道中を過ごした。例えばあたしが露天商をしていた頃にアスナと出会った経緯を話したりとか、ゲーム初心者でこの世界に不慣れだった頃のアスナにキリトが決闘を申し込んだことを苦笑混じりに語ってくれたりとか。

 白竜の巣から無事生還してからどことなく気落ちした様子のキリトが心配だったのだけど、杞憂だったのかもしれない。今はあたしの知る飄々としたキリトに戻っていた。屋台で買い食いを楽しんだりしたことで気が紛れたのかしらね。出来ればあたしの気遣いのおかげで元気が出た、ということにしてくれると乙女的に嬉しかったりするのだけど。

 そんな風に時折横目でキリトを伺いながらの帰り道を辿り、あっと言う間にリズベット武具店に到着してしまった。

 

「いまさらだけど自分の名前がついたお店ってなんだかこそばゆいわね。もうちょっとひねりを加えたほうが良かったかしら?」

「客からするとわかりやすくて良いと思うけどな。宣伝効果も高いんじゃないか?」

「似たようなことをアスナにも言われたことがあるわ。ま、愛着もあるし気に入ってるからいっか。それじゃお店に入りましょう。約束通りコーヒーをご馳走してあげるわ」

 

 そんな他愛ない会話を楽しみながら店の扉を開くと、思いがけない人物の姿がまず目に入り、次いで目にも止まらぬ速さでその人物はあたしに抱きついてきた。栗色の髪がふわりと舞い踊り、柔らかな肢体があたしの身体と触れ合う。

 血盟騎士団副団長《閃光》アスナ。あたしの親友だ。

 

「リズー、心配したんだからね。昨日から連絡取れなくなっちゃってて、誰に聞いても行き先は知らないって言うし。メッセージも駄目、マップ追跡も駄目なんて、ほんと何処いってたのよもう……」

 

 アスナは目尻に涙を溜め、声も湿っていた。よっぽど心配をかけてしまっていたらしい。

 あたしは普段狩りに出るとしても比較的危険の少ないフィールドエリア専門だ。迷宮区には潜らない。だから連絡のつかなくなる事態などまずないため、アスナのこの慌てようも致し方ないことだった。

 最悪の事態も想像したのだろう。真っ青な顔で黒鉄宮にも足を運んだのだと告げるアスナに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

「ごめんアスナ。クエストアイテム取るのに手間取っちゃって。まさか二日掛かりの大仕事になるとは思わなくてさ」

 

 下手したら一生脱出できないとさえ思ったとは言わないほうがいいだろう。これ以上アスナを心配させたってしょうがないし。

 でも、本当予想外だったわよ。まさか結晶無効化空間に閉じ込められるとは思ってもみなかった。フィールド専門だとどうしても罠への警戒が緩くなるから、あれは本気で背筋が寒くなった。できれば二度と味わいたくない感覚だ。

 

「ううん、リズが無事で本当に良かった。でもクエスト? 言ってくれればわたしも手伝ったのに」

「ありがと。でも、一応頼りになる護衛つきだったからさ。あたしはモンスターと戦ったりしてないんだ」

「護衛?」

 

 死にそうな目にはあったけど、戦闘自体は全てキリト任せだった。あたしのしたことって結局何もないのよね。役に立つどころかキリトの足を引っ張っただけだもん。情けなくなるわ。

 

「悪い、リズを連れまわしたのは俺だ」

 

 その時、ひょっこりとあたしの後ろから顔を出したキリトがバツの悪そうな顔でアスナへ告げた。

 気にしなくていいのに。元々同行を申し出たのはあたしなのだし、キリトは何度もあたしを助けてくれた。それも、命を賭けてだ。あたしのほうがよほどキリトに顔向けできない状態だった。

 

「キリト君? 何でここに、ってわたしが紹介したんだっけ。うぅ、情けないところを見られちゃった……」

「親友のために泣けるのは情けなくなんてないだろ。それに俺はアスナの上司でも部下でもないんだから、別に泣き顔を見られたって攻略組の士気にも関わらないしな。だから気にすることもないって」

 

 あー、キリト。それはまずいんじゃない? ほら、アスナもジト目になってるし。

 

「キリト君のそういうところ、ほんっと変わらないよね。前半はともかく、女の子が泣いてるところを見た感想がそれってかなり問題あると思うよ」

「……なあリズ。俺、何か変なこと言ったか?」

「そうねぇ、強いて言えばそこであたしに話を振ることが既にアウトだと思うわ」

 

 あんたはもう少し乙女心を理解しなさいな、と呆れ混じりに告げては見たものの、キリトは目を白黒させて戸惑うばかり。これは改善の余地なしなのかしらね。あたしに対してあれだけ軽口叩けたんだから、キリトにはプレイボーイの資質もありそうなもんだけど。あのねえ、キリト。アスナに言ったことも《黒の剣士》としてなら正しいのかもしれないけどさ、アスナが求めてるのは違うと思うのよ。癪だから教えてあげないけど。

 何ていうかアンバランスなのよね、こいつ。キリトの人となりがイマイチ掴み切れないのも飄々とした性格だけが原因じゃなくて……。なんだろう、儚さ? そういうどこか浮世離れしたところを感じさせられるせいなのかもしれない。ホント、よくわからないやつ。

 

「なんだかリズもリズでいつの間にかキリト君と仲良くなってるし。ねえリズ、この場合、わたしはどっちに嫉妬するべきだと思う?」

「え、何であたしに飛び火してるわけ?」

「だってリズ、キリト君に愛称で呼ばせてるじゃない。気難しいキリト君と一日で仲良くなったリズに嫉妬したっていいと思わない? わたしなんてキリト君とまともにお話できるようになるのに半年近くかかったのよ?」

「いや、アスナさん? その節は大変ご迷惑をお掛けしましたというか、そろそろ許してくださいお願いします」

 

 平伏せんがごとく下手に出たキリトの懇願にもアスナは唇を尖らすばかり。二人とも仲の良いこと、とあたしは呆れ顔で眺めていたのだった。

 つんと澄ましたアスナに謝り倒すキリトがおかしかった。二人とも最前線で戦う攻略組のトッププレイヤーで、《閃光》も《黒の剣士》もこのアインクラッドで知らない人間はいない超のつく有名人だ。なのに、その二人が何処にでもいる子供のようにじゃれ合っている。あたしじゃなくてもそのギャップに笑いたくもなるだろう。アスナなんてこれでもかってくらい女の子してるしね。今のアスナは普段の三割増で魅力的だった。

 さてさて、親友がキリトに取られちゃいそうってことで、ここはあたしもキリトに嫉妬するべきなのかしらね。それともここまでキリトと仲の良いアスナをずるいって思うべきかな。……なんだ、あたしもアスナも一緒か。アスナとキリト、どっちに対しても複雑な気持ちを抱いてるんだ。

 

「それでキリト君、リズに失礼な事とかしてないよね」

「あー、心当たりがありすぎてわからないかも。てか失礼じゃない行動の方が少ないんじゃないか、俺?」

「そこは否定しておこうよ……むしろ開き直っちゃいけないとこだと思う」

 

 この場合、下手に言い訳をしないキリトは男らしいと言うべきなのかちょっと悩む。あたしもキリトもお互い失礼なことをしてるし、ちょっと口にできないような恥ずかしいことだってしちゃってる。……スキンシップ! あれはスキンシップだから!

 キリトは気づいてないだろうけど、あたしは今朝キリトが目を覚ました時には既に起きていた。寝起きに男の子の顔が目に飛び込んできて危うく叫びそうになって、でもすぐに昨夜の自分の振る舞いを思い出して声が漏れ出さないようこらえたりもしたのだ。キリトの寝顔があんまりにも無防備だったってこともあって不思議と落ち着いてしまったのかもしれない。そのまま、なんとなくキリトの寝顔をずっと眺めていた。

 やば、思い出すと勝手に顔が赤面してしまう。顔と言わず耳と言わず全身が熱を伴ってぽかぽかしてるし、心臓が激しく脈打って胸を締め付けていた。

 うー、だからあの時キリトを止めてまで思い出さないようにしてたのに。

 

「リズ? どうしたの?」

「あはは、なんでもない。とりあえず工房の方に移動しましょうか、そこで二人に飲み物でも用意するから」

「その前にいいか、リズ?」

「ん? なに、キリト」

 

 アスナのほかには店内にお客さんもいないし、接客はお手伝いNPCにお任せしてしまおう。紆余曲折あったがクエストも無事達成できたのだし、お祝いとお詫びも兼ねてアスナも交えた三人でブレイクタイムと洒落込みましょうか。そう考えて店先から工房に二人を案内しようとしたのだけど、どういうわけかキリトに呼び止められて出鼻をくじかれてしまった。

 

「コーヒーをご馳走してもらいたいのはやまやまなんだけどさ、ちょっと行かなきゃいけないところを思い出した。悪いんだけど俺はこのまま失礼させてもらうよ」

 

 唐突なキリトからの申し出だった。もしかしてあたしとアスナに気でも遣っているのだろうか?

 

「いきなりねぇ。そりゃ、急ぎの用なら止めないけどさ。注文の剣はどうするのよ? さすがに今すぐ完成なんてさせられないわよ」

 

 キリトの言葉は残念ではあるけど仕方ない。とはいえ、キリトご所望の剣はこれから工房に篭ってハンマーや溶鉱炉を用意した上で鍛冶スキルを起動し、手に入れたインゴットを何百回も叩かないと完成しないのだ。今すぐ渡せるようなものじゃない。

 

「俺もそんな無茶は言わないから安心してくれ。剣はまた後で取りにくる。希望としては三日以内には完成させてほしいとこなんだけど出来るか?」

「三日なんていらないわ。今日中に仕上げてあげる」

 

 キリトの剣なんだから最優先で打ってあげるわよ。幸い抱え込んでる仕事もないし。

 

「けど、お望みの魔剣クラスの剣が出来るとは限らないわよ? そこだけは覚悟しておいてよね」

「そのときはまたインゴットを取りにいくさ。リズも気負ったりしないで気楽にやってくれ」

 

 ひょいっと肩を竦めたキリトは如何にも何でもない調子で告げた。動じないやつねぇ、苦労の度合いはあたしよりもよっぽど上だったはずなのに、そんなことを微塵も感じさせないお気楽振りである。肝が太いのか、それともあたしを慮ってあえて道化を装っているのか。……ずるいじゃない、そんなの。気遣われてばっかりであたしは何もキリトに返せない。

 

「そう言われると余計に気合が入るんだけどね。……ま、いいわ。失敗を前提に話すのは癪だけど、そうなったときはあたしがまた手伝ってあげる。鍛冶屋同伴は必要でしょ?」

「助かる。剣は完成したら連絡をくれ。俺のほうはあんまり時間もかからないと思うから」

「30分貰えれば大至急で仕上げちゃうんだけどね。その程度も待てないの?」

 

 溜息混じりのあたしの言葉だった。別に深く考えて言ったわけじゃない。ただ、もう少しキリトとお喋りをしていたかったから、ほんの少し不満が口から出てしまっただけだ。そんな軽い気持ちで尋ねたから、キリトが続けた言葉に不意をつかれてしまったのだろう。

 

「……すぐに行かないと決意が鈍りそうだからさ。リズには感謝してる、リズに叱られてようやく踏ん切りがついたんだ。――グリムロックのやつに頭を下げてこようと思う」

 

 その瞬間鋭く息を飲み込んだのは、はたしてあたしだったのか、それともアスナだったのか。

 麻痺毒を仕込んだ特殊武器の作成をキリトから請負った鍛冶屋グリムロック。あたしはそいつを知らない。けど、アスナは知ってるみたいね。グリムロックの名を耳にした瞬間の驚きようから、それは一目瞭然だった。そんな露骨な反応を示すほどの因縁が、キリトとグリムロック、そしてアスナの間にはある。多分、あまり楽しい話じゃないんでしょうけど。

 

「……そう、拳骨一発で許してもらえるといいわね」

 

 それだけ口にするのも結構な労力が必要だった。あたしの声はもしかしたら震えていたかもしれない。

 キリトは笑っていた。

 凪いだような、というのだろうか。穏やかで優しげな、透徹した笑みがその顔には浮かんでいたのだった。キリトの儚さの正体はこれ? こんな――胸を締め付けられる切なさに、あたしはどうしようもない息苦しさを覚えて喘ぐ。キリトってこんな顔もする男の子だったんだ……。

 黒の剣士の評判とは似ても似つかない儚さはあたしが見てきた剣士としてのキリトのものじゃない。多分、これが向こうの世界の面影を色濃く映した、等身大のキリトの姿なんだろうって思った。

 

「ソロでフロアボスに挑むとかじゃないんだ。そんなに心配されることじゃないって」

「それ、キリト君が言うと冗談にならないからね?」

「そうか? なら次はもう少し面白い冗談を言えるように頑張ってみようか。それじゃリズ、連絡忘れないでくれよ」

 

 そう言ってキリトは踵を返すと、片手をひらひらと振ってあたしの店を後にした。

 キリトの後姿が見えなくなっても、あたしとアスナはしばらくの間押し黙ったまま静寂を保っていた。けど、落ち込んでるだけなんてあたしのキャラじゃない。やがて気合を入れ直すようにぎゅっと拳を握り、緊張にどことなく身体を強張らせたままアスナと向き合った。

 

「ねえアスナ、あんたにお願いがあるの」

「何かな、リズ?」

 

 じっとアスナの目を見つめながら告げる。

 アスナの表情にも緊張は浮かんでいたものの、それでもあたしから目を逸らすことはなかった。

 

「アスナはキリトとグリムロックの間に何があったのか知ってるんでしょ? あたしはそれを知りたい」

「……リズはそれを聞いてどうするつもり? 軽々しく話せないことだってくらいわかるでしょ」

「そんなの――どうもしやしないわよ」

 

 間髪入れずに返したあたしの言葉はアスナにとって予想外のものだったらしい。いっそ無造作に告げたあたしの返答にアスナは目と口で三つの点を作っていた。そんなアスナの普段は見れない顔に、こんな時だというのにあたしの喉からは軽やかな笑い声が漏れ出していた。アスナが頬を膨らませて抗議してくるのをごめんごめんと宥めて続ける。

 

「あたしたち鍛冶屋の間では根強いオカルト信仰があるのよ。ハンマーを一定のリズムでインゴットに振り下ろせば武器の成功率が上がるとか、武具作成に臨む際の気合が結果を左右するとか、もしくは――使い手を想って祈りを込めれば望む剣を引き当てられる、とか」

 

 もちろんそれらに根拠なんてない。武器の種類と金属のランクに規定された回数インゴットを叩くこと、それが鍛冶スキルの工程に必要な唯一のことであって、専門的な技術はもとより想いの力なんてものが介在する余地はない。数値が全てのゲーム世界なんだからオカルトチックな俗説はあくまで俗説でしかないのだし。大体、ひたすら無心でインゴットを叩くことが成功の秘訣だという意見だってある。皆、好き勝手言ってるだけなのだ。実際に少し前にアスナを想って打った金属からは何度も失敗作が出来上がったのだし、気休め以上の効果なんてない。

 それでもその言葉の一つ一つが鍛冶屋の抱く信念であり、信条であるのだから馬鹿にして良いものじゃない。あたしたち鍛冶屋は先頭を切ってモンスターと戦う前衛職なんかじゃないけれど、だからこそ前線の戦士以上に武器に想いを込めるのだ。その剣が、槍が、斧が、あたしたちの作る武器がこの世界を終わらせる一助になると信じて、そして誰かの命を怪物から守るのだと信じて願いを託す。

 だからこそあたしはアスナに願ったのだ。

 あたしが全身全霊を込めて剣を打つために。そのためにあたしはキリトのことが知りたい。知って、想いを込めて剣を打ちたい。

 ただ無心にあいつを――キリトを想って。

 

「別にグリムロックとの因縁とか、そういう特別な何かにこだわってるわけじゃないのよ。あたしは出来るだけ多くあいつの、キリトのことを知りたい。知って剣を打ちたい。それだけよ」

「……罪作りな人だよね、キリト君って」

 

 ややあって、アスナが口にしたのはそんな溜息混じりの言葉だった。困ったような顔で笑うアスナにつられるようにあたしも頬をほころばせた。

 本当にね。本当に困ったものよ。親友の惚れた相手に自分も惚れてしまうとか、そんなのドラマの中の話だけだと思ってた。もっとも、今あたしたちが生きている世界は、そんじゃそこらのドラマなんて目じゃないくらい非常識な世界だけれどね。

 

「そう言うってことは、やっぱあいつってモテるの?」

「割とね。アルゴさんなんてキリト君を公私に渡って支えてる感じだし、以前キリト君が手伝ってたっていうギルドに所属してる女の子とか、少し前だと中層の竜使いの子と仲が良かったとか聞いたこともあるわ。そもそも中層下層のプレイヤーには相当数のキリト君ファンがいると思うわよ? ……まあ、そっちはキリト君ファンって言うより、《はじまりの剣士》とか《黒の剣士》ファンって感じだからモテてるっていうのとは違うでしょうけど」

「人気っぷりはあんただって一緒じゃないの、《閃光》様」

 

 大体、公私に渡って支えてたのはアスナだって同じでしょうに。キリトだってあんたに感謝してたわよ、アスナが影に日向に庇ってくれたから攻略組に居場所があったんだって。そうじゃなければ本当の意味でソロしかできなくなってたって笑ってた。

 それにファンとか人気って意味じゃアスナはある意味一番の有名人なんじゃない? 見目良し、性格良し、剣の腕もトップクラスなんて完璧超人なんだから。そんなあたしのからかいの台詞に、アスナは思いのほか真面目な表情で首を左右に振った。そしてあたしの目をじっと覗き込むように言葉を紡ぐ。

 

「わたしとキリト君じゃ期待の重さが違うわ。キリト君はうちの団長と並び立てる唯一のプレイヤーなのよ? 《聖騎士》の名がどれだけアインクラッドに轟いてるか知らないわけじゃないでしょう?」

「そりゃね、《英雄》ヒースクリフを知らないやつなんていやしないわよ。それは《黒の剣士》だって同じ……はずなんだけど、それにしちゃキリトの情報ってやけに精度が低くない? それにはじまりの剣士とか黒の剣士の話は良く聞くけど、キリトのキャラクターネームってほとんど聞いた覚えがないのよね。どこかで耳にしたことはあるんだろうけど、記憶に残ってないというか」

 

 改めて考えてみるとおかしな話だ。アスナにしろヒースクリフにしろ如何にもRPGっぽい二つ名はキャラクターネームとセットで扱われることがほとんどで、どちらかだけが先行しているということはない。だというのにキリトの場合、中層下層には二つ名ばかりが轟いてキリトの名前そのものは聞こえてこない。本来有名になるはずのキャラネームがほとんど知られておらず、黒の剣士に代表される代名詞ばかりが浸透しているのだ。

 そんなあたしの疑問に、アスナはここだけの話にしておいてね、と断りを入れた上で答えとなる話を聞かせてくれた。

 

「元々はキリト君を守るためだったのよ。……リズも第一層でのPK事件は知ってるでしょ? それにまつわるお話」

 

 そう切り出したアスナの目はどこか遠くを見ていた。第一層フロアボス戦は今から一年と半年以上も前のことになる。その時の情景を思い出しているのか、アスナの表情は憂いに染まっていた。

 もう随分昔のことになるんだね、そう言ってアスナはそっと目を閉じ、それからゆっくりと語りだした。

 

「第一層でキリト君がPKを犯したのは錯乱したプレイヤーから仲間を守るためだった、っていうのが公表された事実。でも、本当は違うの。本当はあの時、ベータテスターを恨んだ一般プレイヤーが討伐隊のリーダーをPKしようとした。キリト君はその人を止めようとして、でも止められなかったの」

「……それで止む無く斬った、でいいのかしら?」

「いいえ、違うわ。わたしはその時フロアボスと対峙してて直接見ていたわけじゃないんだけどね。ディアベルさん――当時の討伐隊のリーダーだった人が言うには、自殺だったらしいわ。キリト君の剣に自分から飛び込んで、ライフをゼロにしたって」

「なによそれ。なんでそんな、まるで当て付けみたいに――」

 

 息に詰まり、かすれた声は今にも消え入りそうなほどだった。なによ、どうしてあいつばっかり……。

 義憤を抱えて喘ぐように胸を押さえたあたしを見やり、アスナは切なげに睫毛を震わせた。きっとアスナだって似たようなことを思ったはずだ。だって、人伝に聞いたあたしですらこんなにも胸が痛い。じゃああいつは? 意図せずプレイヤーを殺めてしまったキリトは、どんな思いを抱えて今まで戦ってきたんだろう。戦ってこれたんだろう。

 

「ディアベルさんが言ってたわ。あれはキリト君を羨んだ果ての行動だったのかもしれないって。はじまりの街で英雄視され始めていたキリト君を知って、そんなキリト君が眩しくてたまらなくて、それなのにどうして自分を救ってくれなかったんだって嘆き悲しんだ。だからこそ輝くものに汚泥を塗りたくってやりたくなったのかもしれない。そう、つらそうに言ってたわ」

「そんなの……わかんないわよ」

 

 あたしにはわからない。自分から死を選んでしまうほどの絶望した気持ちも、人を殺めようとしてしまう暗く澱んだ思いも。そして、悪意を持って誰かを陥れることも。

 あたしにはわからなかったのだ。

 

「わたしだってわからないわ。ディアベルさんもエギルさんも《わからなくていい》って言うだけだった。本当のことなんて自殺したプレイヤー本人にしか知りようもないのだし、それが逆恨みでしかないことも確かなんだから、それ以上を考えるなって。……わたし達には一生理解できないことなのかもね」

 

 お互いに顔を見合わせて溜息をつく。あたしたちが女だから理解できないのか、それとも子供だから理解できないのか。それすらわからなかった。

 

「それで、キリトを守るためだったっていうのは?」

「キリト君ね、オレンジになった自分にベータテスター、一般プレイヤー両方の怒りを集めろって言ったのよ。当時はベータテスターに一般プレイヤーを見捨てた卑怯者ってレッテルが貼られてたでしょ? ベータテスターを裏切り者と罵ってた一般プレイヤーが、逆にベータテスターを裏切って殺そうとしたなんて皆に知られたらどうなってたと思う? それも、フロアボス戦なんて大事な場面で」

「……控えめに言っても大混乱でしょうね。誰を信じていいのか、そもそも自分以外の誰かを信じていいのか、皆が疑心暗鬼になって収拾がつかなくなってたかもしれない」

 

 一般プレイヤーは自分達が被害者なのだと考えていた。被害者だからこそ好き勝手ベータテスターを非難できた。多分、被害者は被害者故にこれでもかと人を強く責めることが出来てしまうのだろう。でも、あたしはそんな考えは好きじゃなかった。悪口を言えば言っただけ自分の中に気持ち悪い塊が出来てしまうような気がして、怒りと不満を繰り返し口にするプレイヤーからは自然と距離を置いてきた。

 はじまりの街に残ったプレイヤーは、好き勝手にベータテスターを非難することで日々の不満と恐怖をまぎらわせていたのだ。もしもその図式が崩れたなら、残ったのは恐らく混乱だけだろう。

 

「キリト君もきっとそう思ったのでしょうね。だから自分に怒りや憎しみをぶつけさせることで、殺意を持った《仲間殺し》の事実を隠そうとしたのよ。プレイヤーが一丸となってゲームクリアを目指せるように」

 

 どうにもやるせない真実だった。

 今でこそベータテスターなんて言葉はほとんど使われなくなっていたけど、あの当時のベータテスターへの隔意はかなりのものだった。キリト――《はじまりの剣士》の名が特別になりすぎて、ベータテスターと結びつかなかったのも良くなかった。茅場扮するアバターへの突撃とその後の演説、全コルを惜しみなく他人に渡したりとか、とにかくその行動一つ一つが鮮烈すぎて、当の本人がベータテスターだったという認識がほとんど埋もれてしまっていたのだ。

 むしろあれは卑怯者と罵ったベータテスターと、恩人であるはじまりの剣士を同一視したくなかったせいなのかもしれない。はじまりの剣士の名が一人歩きし始めていたことを考えるとそう思わざるをえない。

 仕方ないことでもあった。あの当時、誰もが誰かに縋りたかったのだから。はじまりの剣士の名は格好の信仰対象でもあった。

 だからこそ、キリトに自分を殺させたプレイヤーは、そんな燦然とした輝きに我慢ならなかったというのだろうか。汚泥を投げつけたくなるほどに憎んだ、いえ、羨んでしまったということ?

 だとしたら、なんて――なんて身勝手……!

 

「わたし達はキリト君の言葉を受け入れたわ。勿論キリト君一人を悪者にすることに納得していたわけじゃないけど、それでもキリト君の提案以上に迅速な事態の収拾を図ることが出来るとは思えなかった。それにキリト君のカーソルがオレンジになってしまったことは隠し様がなかったから、早急にキリト君を守るための手を打つ必要もあったの。それがキリト君が示した自己犠牲に報いる、せめてものことだったから」

「それがキリトのPKは意図しない不慮のもの、仕方ないことだったっていう情報の公表と、攻略組が積極的に使い始めた二つ名だったわけね。せめてキリトの名前だけでも目立たないようにした。……もしかして、《はじまりの剣士》を《黒の剣士》の名で上書きしようとしてた?」

 

 真実を知る当時の攻略組の面々は、PKを犯して《仲間殺し》の汚名を被った《はじまりの剣士》と《キリト》を切り離そうとした?

 

「うん。でも、その後のキリト君のソロでの活躍までは想定外だったから、結局わたし達の思惑もずれちゃったけどね。それにあんなことがあって、それでもたった一人全てを振り切って戦い続けようとするキリト君に、わたし達も何も言えなくなっちゃって……。だから、せめてキリト君に直接向かう悪意だけでも減らそうとしたの。時間が忘れさせてくれることだって、きっとあるもの。……情けないけどそれくらいしか出来なかった。こういう言い方は逃げてるみたいで良くないけど、わたし達もキリト君のことばかり考えていられるほど余裕があったわけじゃないから」

 

 仕方なかったと零す諦観に反して、アスナの表情は苦渋に満ちたものだった。多分、今でも後悔しているのだろう。

 そういえば攻略組は誰もが黒の剣士について話すことを渋る、ってのもあったっけ。今までは単純に怖がられてるか嫌われてるせいなのかと思ってたけど、その大元はアスナたちの工作があったわけか。無責任な噂や根拠のない誹謗中傷を蔓延させないために、キリトの情報を軽々しく話せないような空気を意図的に醸成した。その名残が今日のキリトを取り巻く状況につながってるんだ。

 キリトだけが幾つもの二つ名で呼ばれてるのも、そうやって名前を伏せられてきた副産物みたいなものね。日常のふとした話題にすらキリトのキャラクターネームが上らないようにしていたなら、エピソードの数だけ二つ名が増えていくのも無理はない。

 

「キリト君の狙いに気づいた時、キリト君のことをとても怖い人だと思ったわ。誰かのために躊躇いなく自分を犠牲に出来てしまう、そんなキリト君の心が何より恐ろしかった。この世界に閉じ込められて長い時間が経った今だからこそ、守りたい人、死なせたくない人だって出来たけれど、あの当時は周りのプレイヤーはみんな赤の他人も同然だったのよ? なのにキリト君は一時的に共闘したわたし達だけでなく、見も知らぬベータテスターと一般プレイヤーのために自分を犠牲にした。そんなことを出来てしまう人が現実にいるんだって、とても信じられない思いだったわ」

 

 ……そうでしょうね。

 アスナの言葉はあたしにも共感できるものだった。昨日のことだってそうだ。白竜の巣に落とされた時、キリトは何よりもあたしの身を最優先に行動した。最後にはあたしを庇って地面に叩きつけられたのだ。幸いHPがゼロになるようなことはなかったけど、キリトだって絶対に助かるなんて思ってはいなかっただろう。それを承知であたしを助けた。その身を犠牲にした。……極限の二者択一の場面で、容易く自分の命を見切ってしまえる人間性。それはやっぱり歪で、空恐ろしいものだと思う。

 怖い、か。アスナがそう言うのもわかる気がする。怖くて怖くて……とても目を離せなくなる。

 死んで欲しくないと、そう強烈に思わされてしまうのだ。目を離せば消えてしまうんじゃないかと不安にさせられてしまう、そんな儚さが確かにキリトにはあった。

 まったく、とんだ悪人よね。

 

「アスナ、血盟騎士団に帰るときは気をつけなさいよ。今のあんた、すごく女の顔してるから」

「……ふーんだ、今のリズには言われたくないわよ。リズこそ、そんな顔してお客さんの前に立っちゃ駄目だよ。絶対誤解されるから」

「お生憎様、あたしはこのまま工房に篭って剣を打つんだから心配ないのよ。――きっと成功するわ。そんな気がする」

「うん。わたしもそう思うよ。リズのこと応援してる」

「安心なさいな。あたしもアスナのこと応援してるから」

 

 それから二人してくすくすと笑いあった。

 アスナと親友になれて良かった。心からそう思った。

 

 

 

 

 

 かつて、《黄金林檎》という名のギルドがあった。

 団長にリーダーシップ溢れる女剣士グリセルダを擁し、副団長を彼女の夫でもあるグリムロックが務め、献身的に彼女を支えた。中層に位置するギルドの中でもメキメキと実力を伸ばし、攻略組にもその実力の高さが伝わってくるほど精強さを誇るようになっていった。そうして攻略組に名を連ねるのも時間の問題と囁かれるようになった頃、突然に黄金林檎は解散した。

 その不可解な解散劇に一体何があったのかと口々に噂されていた時期もあったが、このアインクラッドでアクシデントの起こらない日などない。黄金林檎もメンバーの誰かが戦死したか仲間割れでも起こして解散したのだろう、やがて誰からともなくそんなふうに結論付けられ、黄金林檎の名は人々の記憶から薄れていった。事実、彼らはリーダーたるグリセルダを失ったことでギルドを解散したのだ、根も葉もない噂というわけでもなかった。

 そうして時が過ぎ、かつての黄金林檎のメンバーは皆それぞれの道を歩んでいた。

 現在聖竜連合の壁戦士、前衛隊長の幹部として活躍するシュミットは、そんな元黄金林檎のメンバーの一人だった。そして彼の下に一つの情報が飛び込んできたことで、黄金林檎の凍った時が動き出す。

 その情報というのが昨年のクリスマスイブの夜、黒の剣士から聖竜連合に譲渡されたレアアイテム――敏捷値を20上昇させる指輪だった。

 

 ギルド《黄金林檎》解散の契機はギルド長グリセルダの死去に当たるわけだが、解散の直前、彼らはひょんなことから入手したレアアイテムである指輪を巡り、意見を対立させていたらしい。すなわち、指輪を誰か一人が装備することで戦力アップを図るか、それとも指輪を売却することでギルド資金を蓄え、ギルド全体の益になるよう資金を分配、または装備品を調えるか、等々。

 最終的には指輪を売却することに決まったというが、決して満場一致だったわけではなく最後まで揉めに揉めたとのこと。

 ひとまずの意見調整を終えた彼らは指輪を団長のグリセルダに託し、翌日グリセルダ自身が指輪を売却しにいくことになっていたと言う。

 事件はそんな夜に起きた。

 翌日、グリセルダは何時まで経っても皆の前に現れず、宿の部屋も施錠されたまま時間だけが刻一刻と過ぎていった。いつかの事件を彷彿とさせる流れだ。実際、ギルドの中にも今を遡ること一年以上前にプレイヤーを震撼させた密室PK事件に思い至るものがいて、最悪の事態を想像して青褪めた顔をしていたグリムロック――グリセルダの夫に代わり、黒鉄宮に足を運んだ。そしてそこで彼らのリーダーであるグリセルダの死亡が確認されたということだった。

 黒鉄宮の生命の碑に刻まれた文言は《第19層十字の丘にてHP全損》。

 些か不可解ではある。翌日に指輪の売却を控えたグリセルダが夜間、誰に告げるでもなく宿を抜け出したとするのは首を傾げるところだし、かと言って以前の密室PKにおける手口もありえない。なにせ彼ら黄金林檎は常駐の宿を利用していたのだから、回廊結晶を悪用されて部屋に侵入などされるはずもなかった。

 黄金林檎の面々もグリセルダの死を嘆き悲しむ一方で、あまりにちぐはぐな状況と散りばめられた謎に呆然とするばかりだった。結局、グリセルダの夫であり、かつ黄金林檎の副団長を務めていたグリムロックが妻の死に意気消沈し、冒険業から引退を宣言したことで黄金林檎は解散することになったのだと言う。グリセルダの不可解な死に様についても、妻を静かに眠らせてやりたいというグリムロックの意を汲んで公表されることはなかった。

 

 以上が昨年の秋に起きた、黄金林檎を襲った悲劇だ。

 確かに痛ましい事件だと思う。俺自身やるせない気持ちにもなった。しかしそれで終わりならそもそも俺にまで話が伝わってくるわけもなかったのだ。俺が聖竜連合に渡したあの指輪、それが黄金林檎で意見対立の元となった指輪と同じものでさえなければ。

 黄金林檎の中でも特にグリセルダを尊敬していた女性プレイヤーのヨルコ、そして彼女の連れであるカインズに同伴する形でシュミットが俺を訪ねてきたのは、今からおそよ二ヶ月前、珍しく俺が街で小休止を入れていた時のことだ。まあ、正確には装備メンテのために迷宮区から街に戻ってきていたところでアスナとばったり出会い、毎度フロアボス攻略会議で迷惑をかけている侘びも込めて食事に誘った、というのが詳細な事情だ。

 その席で元黄金林檎メンバーに声をかけられ、黄金林檎解散の経緯を聞かされたのだった。彼女らの目的は単純明快だった。グリセルダの死の真相、その解明である。ギルド内で最後に紛糾したレアアイテムである指輪、それと同じものをかつて俺が所持していたという情報を聖竜連合に所属するシュミット経由で聞いたヨルコは、俺がグリセルダに関する何らかの情報を持っているのではないかと期待した。

 

 ――あるいは、俺がグリセルダの最期に関わっているのではないかと邪推した。

 

 俺が昨年の暮れに聖竜連合に譲渡した指輪はグリセルダから買った、または奪い取ったものではないか、と。

 もちろんそんなことを直接言葉に出されたわけではなかったが、ヨルコとカインズの目には明らかに俺に対する疑念が見て取れた。と言っても心底俺をグリセルダ死亡の犯人と疑っていたわけでもなく、わずかでも見つかった真相解明への糸口に必死だったというのが正解だろう。グリセルダの不可解な死。そしてギルド解散から長い年月が経過し、それでもグリセルダの突然の死を引きずり続けてきた疲れが、二人の顔に色濃い影となって表れていた。藁にも縋る心境だったのだと思う。

 その点、攻略組を支える前衛戦士として俺と少なからず面識のあったシュミットは比較的冷静だった。二人と比べて俺を疑うことに明らかに気乗りしていない様子だったのだ。

 

 俺自身、PKの過去を持つことから疑われやすいことは重々承知していた。だから黙って聞いていたのだが、幸か不幸かそのときの俺の隣には黙って聞いているのを良しと出来ない女傑がいた。彼女は暗に俺が疑われていることに当然気づいていたし、時を追うごとにその玲瓏な美貌を曇らせ、険しい眼差しに変わっていったのだ。その変化に隣に座っていた俺のほうがはらはらしていた位である。……あれは怒っていた。間違いなく怒っていた。

 いや、もちろん彼女らの疑い全てが誤解なんだけどさ。俺の持っていた指輪とグリセルダの所持していた指輪は同種であっても別物だったわけだし。いくらレアアイテムとは言ってもこの世界にたった一つしかない秘宝というわけではない。俺が入手した指輪も日々の狩りの中でドロップされたものだから、グリセルダが最後に所持していた指輪と同一のものではなかった。

 かと言って、いくら言を分けてそんなことを伝えてみても証拠がない以上何ら説得力など持たせられない。……そう思ってたんだけどな。

 あの人たち、よほど人が良いのか、俺が念のためと口にした言葉だけで簡単に信じちゃったんだよ。それでいいのかとこっちが目を丸くしたくらいだ。

 

 不思議に思って何故そんなに簡単に信じられるのかと問い返せば、何でもシュミットに無意味な詰問だとあらかじめ釘を刺されていたらしい。シュミットは黄金林檎が解散した後、聖竜連合に入団し、そこからメキメキと頭角を現してきた男だ。当然初期からフロアボス戦に参加していたわけではないし、俺のPKを直接見知っているわけでもなかった。

 とはいえ、聖竜連合と俺は攻略に関してお互いに協力し合ってるだけに、俺の情報だってある程度知られている。当時から攻略狂とも揶揄されていた俺の生活ぶりを知っていれば、件の黄金林檎の事件に関係していると考えるほうが不自然だろう。そもそもレアアイテムを安価で攻略組にばらまいてる俺が、攻略組ですらなかった黄金林檎、そしてグリセルダに無体な真似をしてまでアイテムを強奪する理由が薄いのは、少し考えればすぐに思い至ることだ。そんじゃそこらのレアアイテムで俺の食指を動かせると思うなよ、というのは蛇足か。

 

 と、まあ長々と思い起こしてはみたが、この事件に関して俺はほぼ傍観者だった。何故と言って、彼女らに疑われた当の本人である俺が別段気にしていないのだから構わないのに、攻略組の誇る美貌の女剣士様がやけに気合を入れて事件解決に乗り出したからだ。いや、乗り出したというのも違うか。アスナはしばらく考え込み、やおら顔を上げたかと思えば、険しい顔つきのまま一つの仮説を提示したのである。

 すなわち、「回廊結晶で例外的に刻める《自室》は、もしかすると夫婦共有として扱われるのではないか?」と。

 以前の睡眠PKを可能にした手口の亜種とも言える。実際にその手段が可能かどうかは別として、その仮説を提示された元黄金林檎のメンバーは一様に顔を青くした。……それはそうだろう、何せアスナは《グリセルダの夫であるグリムロックこそが犯人の可能性がある》と言ったのだから。

 

 ちなみにこの時の裏話を一つ。

 アスナの《回廊結晶の悪用手口夫婦バージョン》仮説に検証の必要があるだろうと、俺がアルゴ相手に確かめてくると提案したところ、アスナのやつに「絶対駄目」とにこやかに反対された。……その時のアスナからは有無を言わせない底知れぬ重圧が間違いなく発せられていた。

 そんなアスナの妙な迫力に気圧されながら、アルゴなら結婚システムで一時的に結婚することも気にしないだろうし、すぐに離婚するのだから問題ないはずだと下手に出ながら主張してみたのだが、アスナは頑として認めてくれなかった。曰く「女の子にとって結婚はそんな軽々しいものじゃないのよ」とのこと。

 そりゃ俺だっていくら擬似的な結婚に過ぎないゲームシステムありきのこととは言え、離婚前提の結婚なんて女性に失礼だとは思うけどさ。そういう情を割り切った上で了承してくれそうな相手を選んでるんだから、取り立てて問題はないだろうとは思うんだけどな。

 すったもんだの末に、最終的にヨルコとカインズの二人が結婚をして検証をしてみるという結論に落ち着いた。俺が裏話と言ったのは、検証目的で離婚前提のこの結婚が、今に至るまで破棄されていないということだった。元々ヨルコとカインズは黄金林檎解散後、ずっとツーマンセルで行動してきたため、半ば恋人同士みたいなものだったのだとシュミットが耳打ちしてくれた。案外良いタイミングだったのかもしれない。

 

 それからはあれよあれよと言う間に事態は進展を見せた。結局アスナの仮説こそがグリセルダ死亡の謎を解く最大の要因だったのだし、グリセルダを殺した片棒は間違いなくグリムロックが担いでいた。グリセルダを直接殺したのはグリムロックから依頼を受けたラフコフだったと言え、グリムロックがその暗殺に手を貸したことは彼自身が自供したことだ。殺害場所が宿の個室ではなく第19層十字の丘だったというのは、恐らくはラフコフの演出だろう。あいつら、妙に自己顕示欲の強いところがあったからな。もっとも、そうでなければアインクラッドを席巻するほどにレッドギルドの悪名が売れたりはしなかっただろう。

 グリムロックは元々グリセルダを殺めてしまったことを後悔していたんじゃないかと思う。そうでなければああも容易く自供を引き出すことなど出来なかったはずだ。……グリセルダとグリムロックは現実世界でも夫婦だったのだと言うし。

 

 あちらの世界では夫であるグリムロックが家庭の大黒柱として精力的に働き、グリセルダはそんな夫を甲斐甲斐しく支える良き妻だった。グリムロックが前に出て、グリセルダが後ろに控える。それが彼らの夫婦生活の在り方だった。それが故に、この世界にきて命の危険に臆したグリムロックと、現実世界の控えめな姿が嘘だったかのようにこの世界で生き生きとしだしたグリセルダの間に、拭いがたい空隙が生じるのも無理はないことだったのかもしれない。

 そうしてグリムロックは日々変わっていく妻が許せず、在りし日の妻を取り戻そうとした。そのための手段が妻の殺害というのはあまりに行き過ぎているし、既に手段と目的が破綻していたが。愛するが故に許せなかったと語るグリムロックは、どこか正気を失っていたように見えた。

 俺はグリムロックが語るような、殺したくなるほどに憎んでしまう情愛を抱いたことなんてない。そんな愛し方は知らない。だから彼の言い分に理解を示すことなど終ぞ出来なかった。

 それはアスナとて同じだろう。むしろこの世界を懸命に生き、現実世界に帰るために精力的な活動を選んだグリセルダに共感する部分があったのではないだろうか。だからこそグリムロックの妄念をグリセルダへの所有欲だと断じてみせた。グリセルダと同じ女性として、身勝手なグリムロックを許せなかったのだ。

 アスナの突きつけた言葉に意気消沈したグリムロックを最後に、彼ら黄金林檎のメンバーを長く縛ってきた事件は静かに幕を下ろしたのだった。

 

 最初から最後まで俺は傍観者でしかなかった。いや、必ず罪は償わせると言った元黄金林檎のメンバーを差し置いて、ラフコフ討伐のための剣をグリムロックに打たせた俺は傍観者などとはとても言えないだろう。卑怯者か、もしくは外道そのもの。グリムロックの了解を取っていたとは言え、元黄金林檎の面々がよく俺の提案を飲んでくれたものだと思う。あれは俺の言葉を聞き入れたというより、グリムロック自身の決意を尊重したのだろう。

 これが私の贖罪なのだと語ったグリムロックに、シュミットは無言で俺への協力を選び、ヨルコとカインズは剣を打つ材料集めに奔走した。それは俺のためなんかじゃなく、かつての仲間であったグリムロックへのせめてもの餞だったのだろう。俺が言うのもおこがましいが、いつか彼らが再び笑いあえるようになれれば良いと心から思う。

 

 狂気に走って痛ましい事件を引き起こしたグリムロックだからこそ、グリセルダ終焉の地である第19層十字の丘、そこに鎮座する巨大な墓碑オブジェクトの前に足繁く通っていたとしても無理からぬことだった。

 墓標の前で何をするでもなく佇むグリムロックの姿を目にして足が止まる。支援職の鍛冶プレイヤーという肩書きとは裏腹に、グリムロックは長身かつ程よく鍛えられた体躯をしていて、細身でありながら軟弱さとは無縁の男だった。その姿は現実世界で摂生に努めた生活を送り、恐らくは心身ともに充実していたことを十分に窺わせるものだ。だからこそ彼は現実世界とアインクラッドでの自らの立場の落差に、一層の鬱屈を溜め込まずにはいられなかったのかもしれない。

 不意の訪問客に気づいたグリムロックが一度振り返り、眼鏡の奥の理知的な瞳に俺の姿を映す。グリムロックはわずかに目を見開いて驚きを表してはいたが、すぐに平静を取り戻して墓標に視線を戻した。沈黙を挟み、奴が口を開いたのはそれからしばらく後のことだ。

 

「もう二度と君に会うことはないだろうと思っていたよ」

「……俺もそのつもりだった。お互いのためにも会わないほうが良いと、そう思ってたからな」

 

 顔を合わせてもお互いに痛みと後悔しかもたらさない。そう思ってきた。しかしその思いは果たして俺の本心だったのだろうか。あるいは罪悪感からくる逃避に過ぎなかったのかもしれない。

 グリムロックの傍らまで足を進め、墓前に花を添えてそっと手を合わせた。俺もグリムロックもお互いに目をやったりはしない。墓標を見つめる眼差しはそのままに、声だけが静かに空気を震わせ、交差していく。

 

「では、なぜかな?」

「あんたに頭を下げるため。それから――この剣を還すために」

 

 一振りの剣と投擲用のピック。オブジェクト化されたそれの所有権を放棄し、花と同じように丁寧な手つきで墓前に置いた。俺の、そしてグリムロックにとっての罪の象徴だ。プレイヤー同士の殺し合いの場に投入するために用意した武器。鍛冶屋にとってのタブーだとお互いに承知していながら、それでも必要だからと俺が要請し、グリムロックが応えた品々だった。

 俺がここに来たのはグリムロックに詫びることが一つ。そしてもう一つが墓前に華を添えること。……華に相応しいかどうかなど、それこそ俺にもわからないけど。

 

「グリセルダさん、あなたの夫であるグリムロックさんのおかげで、アインクラッドに住まう全てのプレイヤーの命を脅かしていた殺人ギルド《ラフィン・コフィン》を壊滅に追い込むことが出来ました。この世界から脱出できる日はまだ遠くとも、以前よりは遥かに安全に暮らせるようになったはずです。俺はあなたの夫君の献身と覚悟に心からの敬意を表します」

 

 厳粛な面持ちで告げ、頭を下げた。

 この剣は戒めのつもりでずっとアイテムストレージに残しておくつもりだった。自己満足だろうと、自らプレイヤー同士の闘争に身を任せた俺にこれは必要なものだと思ったからだ。しかしそれも俺の身勝手な思い込みだったのかもしれないと、今は思う。

 亡きグリセルダへの報告は俺の本心からのものだった。グリムロックの尽力のおかげでラフコフ討伐は成功した。そこに嘘はない。

 ただ、そんな虚空に消え行く俺の言葉を、きっとグリムロックは歓迎してはいないだろう。むしろ眉を顰めて忸怩たる思いを抱えているのではないだろうか。

「感謝も、賞賛も不要だ。私は私のために剣を打った。それは私の咎だよ。君が気に病むようなことではない」

 

 ややあって、グリムロックが口にしたのはそんな言葉だった。激昂するでもなく淡々と、しかし確かにそこには深い情感が込められていた。

 これも憑き物が落ちたというべきなのだろうか。愛ゆえに妻を殺したのだと言い放った男とは到底思えないほど、彼が口にした言葉は穏やかな声音をしていた。狂熱に浮かされているわけでもなく、まして己の怯懦(きょうだ)を卑下しているわけでもない。今のグリムロックからは地にしかと足のついた、芯を感じさせる力強さが感じ取れたのだった。

 

「この世界には偽者しかない。ありえない怪物、非日常の剣、紛い物の身体。だからせめて心だけは本物であってほしいと信じた。信じたからこそ変わっていく妻が許せなかった。彼女までが偽者になってしまうことが何より恐ろしかった。……それは思い出の中の妻にしか縋れなかった私の弱さだ。私はあるべき妻の姿を永遠にしようとして、妻の変化をかくあるものと認められず、かくあるべしと決め付けてしまったのだよ。アスナさん、と言ったかな。君の彼女の言う通りだ。私は妻と私自身の愛情を信じることができず、妻への所有欲に突き動かされるまま、あのような愚かしい蛮行に至ってしまったのだから」

 

 グリムロックの独白にじっと耳を傾ける。この世界でかつて過ちを犯し、今も苦しんでいる一人の男の深奥だ。慰めなど無粋だし、不要だろう。……アスナが俺の恋人扱いされてるけど、否定しないのはあくまで空気読んでるだけで他意はないからな?

 

「君は後ろを見ずに前を向きなさい。過去ばかりを振り返るには君はまだ若すぎる。自らの弱さを理由に守るべきものを取り違えたりしてはいけない、大切なものを――見失ってはいけない。君は君のために、そして守りたい者のために力を尽くせば良い。それがきっと君を救うことになるだろう」

 

 ――君は、私のようにはなるな。

 

 万感の想いを込めて吐き出されたその言葉には、一体どれだけの痛苦と悔恨が込められていたことか。

 そしてその助言に素直に頷けない俺の弱さと迷いが、どれほど罪深く情けないことだったか。

 

「キリト君、私は君を恨んだりなどしていない。どうかそれだけは覚えておいてほしい」

「……感謝します、グリムロックさん」

 

 それはこの世界を生きる剣士キリトとしてだけではない、今は遠き桐ヶ谷和人としての心からの礼でもあった。

 墓標に目を向けたままのグリムロックへと深く頭を下げて、それから死者の眠りを飾るに相応しい静寂を崩さぬよう、ゆっくりと踵を返す。

 耐久値限界を迎えた剣と花が背後でポリゴン結晶となって自然消滅する音を耳に、俺は一度も振り向くことなく十字の丘を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

「完成した剣の銘は《ダークリパルサー》。闇を祓う刃ってとこかしら。――あんたにはぴったりかもね」

 

 再び訪れたリズベット武具店、その奥の工房で俺はリズと向かい合っていた。俺がリズから連絡をもらって店を訪ねた時には、アスナは既に血盟騎士団に戻っていたから、今ここにいるのは俺とリズの二人だけだ。

 

「剣の出来自体はどうだったんだ?」

「ばっちり。キリト愛用の魔剣クラスにだって負けたりしないわ!」

 

 俺の問いにリズは満面の笑みで答えを返した。そして誇らしげな顔で胸に抱えた一振りの剣に目を落とし、愛しげな手つきでそっと俺の前に差し出す。

 ……重い。

 受け取った剣からずしりと手に伝わる感触に、これが俺の望む剣なのだという実感がすっと俺の胸に入り込んできた。そしてゆっくりと黒皮仕立ての鞘から刀身を抜き出し、逸る心を宥めるようにじっくり刃へと目を走らせる。

 仄かに翡翠色に輝く、美しくも涼やかな印象を宿した剣だった。インゴットの性質を受け継いでいるのか、刀身そのものが透き通っているかのようだ。刃そのものは薄く、片手直剣カテゴリーとしては若干華奢にも思える。しかしその優美な見た目に反して、刀身の見事な輝きは十二分に戦闘で活躍してくれると思わせる力強さを秘めていた。

 どうやらリズは見事当たりを引き寄せたらしい。

 俺もリズに釣られるように表情に笑みが浮かび、喜びも露わにリズへと感謝の言葉を述べようとしたのだが――そこでリズから思いがけない言葉を受け取ることになった。

 

「この剣を渡す前に、キリトには二つ約束してほしいことがあるの。もし約束してくれるなら、その剣はタダにしてあげる」

 

 リズはこれ以上ないほど真剣な目でじっと俺を見つめ、最後だけは冗談めかして笑って見せた。しかしその言葉とは裏腹に、胸元に置いたリズの握り拳は不安と緊張からか、微かに震えていたのだった。いい加減な気持ちで返すことはしちゃいけない、そう思った。

 

「二つか、リズって案外欲張りなんだな。……難しいことじゃなければなんとか」

「ふふん、女の子は皆強欲なのよ。知らなかった?」

「寡聞にして知らない、って言いたいところだけど、思い当たる節はあるな」

 

 主に鼠とか鼠とか鼠とか、と言うとやっぱり怒られそうだから決して明言はしないけど。

 

「剣の代金が惜しいわけじゃないけど、他ならぬリズの頼みだ。とりあえず言ってみてくれよ」

「ありがと。それじゃ遠慮なく――キリト、あたしをあんたの専属鍛冶屋にしてちょうだい」

 

 その瞬間、俺は目を見開き絶句した。ああ、絶句したとも。そしてリズの言い放った台詞は少なからず俺に衝撃と動揺を齎し、同時に胸をかき乱す鋭い痛みも運んできた。予想外と言うなら、リズのその一言こそ予想の外だった。言葉を奪い取られた俺のこれ以上ない動揺をリズは正確に察していたのだろう。俺が落ち着くまで待つつもりなのか、不安に揺れる瞳はそのままに、気丈な立ち姿を保っていた。

 専属鍛冶屋。

 その名の通り、特定プレイヤーの専属として武器防具の一切の作成やメンテナンスを請負い、公私共に支える役割を指す。勿論正式なシステム名称などではなく便宜的に名付けられた呼称であるし、その契約方法も大仰な契約書を交わすとかでもなく、大抵は口約束の上に成り立つものだった。

 

 それでも死が身近にあるこの世界で、プレイヤー同士の特別な絆を切望する人間は少なくない。だからこそ専属と銘打つことでその他大勢の知人友人ではなく、特別な親友、信頼で結び合った深い関係なのだと示し合おうとしたのである。

 なにより、職人プレイヤーが口にするそれは、異性間において暗に告白を意味する言葉でもあった。このアインクラッドに実装されている結婚システムはお互いにアイテムストレージの共有化や、ステータス、スキルの自由閲覧が可能になるなど個人情報が筒抜けになるため、プレイヤーにとってデメリットが大きすぎる。そのために結婚は望まないものの夫婦関係のダウングレード版として《専属》などという肩書きが生まれたのだろう、とはアルゴの分析だった。

 

 リズが口にしたのは《あなたのことが好きです、あなたを支えさせてください》と、そう宣言するも同然の台詞だったのである。

 まさか職人プレイヤーであるリズが、男女間で交わす専属鍛冶契約の意味を知らないということもないだろう。なにせリズは気丈に振舞おうとしていても一層熱を帯びて潤んだ瞳が切なげに揺れていたのだし、上気した頬の鮮やかな紅潮は隠せるものでもなかった。今のリズを見て《お友達として専属契約を結びましょう》と勘違いするプレイヤーもいないはずだ。 

 だからこそ俺は二の句が告げなくなった。まさかここまで真っ直ぐに気持ちをぶつけられるとは想像だにしなかったのである。

 断っておくがリズのことは好きだ。それは間違いない。竹を割ったようなさっぱりとした性格も、言動の端々に滲ませる稚気と洞察のアンバランスな落差も彼女の魅力の一つだった。好きか嫌いかで言えば迷わず好きを選ぶ程度には、俺はリズを好ましく思っているし、惹かれてもいた。

 

 しかしそれが男女間の情に基づくかと言えば首を傾げるところでもあるのだ。この気持ちを恋慕だとするには俺はリズと過ごした時間が短すぎる。俺は恋愛において、一目惚れという現象を否定はしないが懐疑的な立場だった。そんなドラマチックなことが現実に起こるはずはないと信じている側の人間なのである。少なくとも俺の周りでは起こりえないことだと考えていたし、だからこそリズがこの二日間で何を考え、何を思って俺への好意を露わにすることに決めたのか、皆目見当もつかなかった。

 率直に言って、この時の俺は混乱の極致にあったといえよう。いや、だって予想外も良いところだし。これで冷静沈着に対処しろっていうのは、ただでさえ乏しい俺の対応キャパをぶっちぎって、もはや無理筋と言うものだった。

 気の利いた返答など到底望めず、何かを口にしようとして、その言葉すら浮かばないもどかしさに口を閉じてしまう俺の姿を見かねたのか、それとも長い沈黙に我慢ならなくなったのか、先に口を開いたのはリズだった。

 

「……ごめん、ずるい言い方しちゃった。キリトがあたしの告白に応えられるはずないって、わかってたのにね」

 

 あにはからんや、リズの口から飛び出たのは返事の催促ではなく諦観の滲んだ得心だった。それもまた俺の混乱に拍車をかけるものであり、声を出すことを忘れてしまったかのように沈黙しか選べない。

 リズは一度深呼吸をするように大きく胸を上下させた。それから明瞭とした口調で続ける。

 

「アスナから聞いたわ。キリト、あんたこの世界で結婚をする気はないって言ったらしいじゃない。PKの罪を向こうの世界で清算するまでは、誰かの幸福に責任を持つわけにはいかないって」

 

 ……確かに言った。

 黄金林檎に起きた過去の事件に幕引きした後、グリムロックの歪んでしまった愛情を知った俺とアスナの間で、ふと話題に上ったことだった。アスナは俺に「ゲームの中とは言え結婚したいと思うか」と問うてきたのだ。結婚システムの仕様を悪用した手口について真っ先に思いついたことからもわかるように、アスナは攻略組でも指折りの戦士である一方、根は恋愛や結婚に憧れる当たり前の感性を持った少女なのだと改めて感じさせられたものだった。

 その時に答えたのだ。ログイン以前の俺ならいざ知らず、今の俺が誰かと結婚して深い関係になることなどありえない、と。

 このゲームに囚われる前の俺とて決して社交的な人間ではなかったし、誰かと緊密な仲になることに対して積極的になれたとは思わないが、それでもあの頃の俺ならゲーム上のことなのだから、と割り切っていた可能性はある。

 しかしこの世界がデスゲームと化して、PKを犯してオレンジになったことで強烈に現実を意識させられた俺が、何もかも忘れて幸福を追求することなど出来るはずもなかった。第一、現実世界に戻った時に罪に問われる可能性があるのに、誰かと結婚をするなどと無責任なことを出来るわけがない。

 その全てを言葉にしたわけではなかった。しかし俺の答えを聞いたアスナは寂しげに、そして痛ましげに頷いたのだった。

 

「アスナのやつ、そんなことまでリズに話したのかよ……」

 

 思わず顔を覆って天を仰いだ。そりゃ口止めをしたわけでもないけどさ、あまり軽々しく口にはしてほしくない話題だった。俺の赤裸々な本心が自分の口以外から漏れているとか勘弁してくれ。

 

「あの子を責めないであげてよ。あたしが無理言って聞き出したんだから」

「責めはしないけど、これ以上拡散させないよう口止めの必要性は考えてたとこだ」

 

 がっくりと肩を落とした俺に、リズも申し訳なさが同居したような苦笑いを浮かべて手を合わせていた。流石に悪いと思っている様子だしこれ以上は言うまい。

 

「だからね、告白の返事はいらないの。ただ、この世界を生きるプレイヤーとして、ゲームクリアを願う一人として、なによりキリトの友人として、過酷な戦場に赴くあなたの装備の面倒を見させてほしいのよ。マスタースミスの腕を存分に揮って、最優先でメンテを仕上げてあげるわ。あ、そうそう、迷宮区に篭りっきりのあんたの生活破綻ぶりも聞いてるから、毎日戻ってこいなんて無茶は言わないからね。安心しなさい」

「……俺の個人情報が軒並み筒抜けだぞ。やっぱりアスナのやつとは一度話し合わなきゃいけない気がする」

「それだけアスナに心配かけてるってことよ。愛されてると思えばいいんじゃない?」

 

 そう言ってリズはからからと笑った。陰を全く感じさせない、朗らかな笑みを浮かべていたのだった。

 リズは強いな。それに比べて俺の女々しさときたら。

 ふっと息を吐く。とはいえリズにここまで言わせたのだ、それ相応に向き合わなければならない。

 

「何も返せない俺だけど、せめて感謝だけでも言わせてくれ。ありがとうリズ。専属鍛冶屋の件、よろしくお願いする。こっちから頼みたいくらいだ」

「りょーかい。大船に乗ったつもりでまっかせなさい!」

 

 攻略組の一プレイヤーとしての観点で言うならば、専属で武具の面倒を見てくれる凄腕の鍛冶屋と言うのは大変に有用なものだった。特に俺のような武器の消耗が飛びぬけて早く頻繁なメンテナンスを必要とするタイプには、最優先で武器を仕上げてくれる鍛冶屋の存在は何者にも代えがたいものだった。加えてソロプレイヤーとしてギルド付の鍛冶プレイヤーに頼れない身だけに、正直リズの申し出は涙が出るくらい有り難いことだったのである。

 

「それじゃ二つ目のお願いとやらを聞こうか。大抵のことなら聞き入れる用意があるぞ」

「お、言ったわね。なら何も言わずにあたしのお芝居に付き合ってもらいましょうか」

 

 罪悪感がそのまま口に出た俺に、リズは待ってましたとばかりの満面の笑みを浮かべて答えたのだった。早まったか、と後悔する前に首を傾げることになったのは、リズの申し出が先とは別の意味で予想外なものだったからだ。

 

「芝居?」

「そ、芝居よ。あたしらに馴染み深い言い方をするならロールプレイね。登場人物はあたしとあんたの二人だけ。役柄は……そうね、あんたが《騎士様》であたしが《お姫様》かな?」

「いや、そこで俺に疑問系で振られても」

 

 リズの二つ目のお願いの意図するところがわからず、俺はただただ困惑を浮かべるばかりだった。そんな俺に向かってリズはピンと人差し指を立てると、もっともらしく語りだすのだった。

 

「あたし達はこの世界に来てからつらいことばかりだったけど、それでもこの世界ならではの思い出があったって良いと思わない? 折角の剣の世界なんだからさ、それに相応しい遊びの一つ二つ楽しんでもバチは当たらないと思うのよね」

「遊びって……リズ」

「不謹慎だと怒った? でもね、キリト達攻略組にはピンとこないかもしれないけど、あたし達のように最前線に参加しないプレイヤーのモチベーションは、そうした遊び心で保たれてる部分だってあるのよ。明日の見えないこの世界を、それでもなんとか生きていこうとする中で見出した大切な知恵だもの。そんなあたし達をキリトは馬鹿にする? 軽蔑出来る?」

 

 呆れた表情を浮かべた俺を見咎めるような、そんなリズの言葉だった。

 リズに俺を責める意図はなかったのだろう。リズの目はどこか遠くを見やる茫洋とした色合いをしていて、その視線は俺ではなく彼女自身か、あるいはこの世界のプレイヤーが積み重ねてきた労苦の過去そのものを見ているように思えたからだ。

 誰もが必死に生きている。そんなこと、指摘されるまでもなく理解しているつもりだったのにな。剣を振るうことだけが正義じゃない。いつの間にか俺も攻略組の空気に毒されていたのかもしれない。攻略を急ぐあまりに、それ以外を雑事だと知らず知らずのうちに切り捨てるようになっていたのか。……余裕がなくなっていた、そういうことだ。

 

「……俺も結構焦ってたのかもしれないな。わかった、リズの遊びに付き合おうか。詳しく説明してくれ」

「ありがと。別に怒ってくれても良かったんだけどね。命をかけて戦うあんたらにとっちゃ、あたし達の生き方は納得しづらいことだろうし」

 

 そんなことはない、とは言えなかった。確かに攻略組の中には安全ばかりを重視する中層下層プレイヤーを侮る空気はあるし、安穏とした彼らを《ずるい》と思う本心だって少なからず抱いているはずなのだ。だから俺は軽く首を振るだけに止めて、リズの言葉を否定も肯定もしなかった。俺が何を言っても変わらない現実なのだから。

 だから、その代わりにリズのしたいことを促すことにしたのだった。

 

 

 

 リズの言う《遊び》とは、中世欧州世界における騎士叙任式の真似事だった。騎士が仕えるべき主君に剣を捧げ、君主たる主がその剣を受け入れ、騎士に任命する。そんな儀式。

 無論、俺とリズは騎士でもなければ王でもない。対等の立場の友人同士というスタンスを崩さないためにも、正式な意味での騎士叙任式というわけではなかった。リズが俺を騎士に見立て、自身を姫と口にしたのはそういう意味だ。本人は「お姫様への憧れがあったのよねー」などと気恥ずかしげに笑っていたけど。

 だから正確には騎士叙任式の変形、剣の授受を行う儀式というべきものだ。

 場所はリズの工房で、厳粛な儀式を執り行うには少々無骨で生活感に溢れた場所ではあるが、そんなことはどうでも良いことだった。大体相応しくないと言えば俺の格好だって古ぼけた黒のレザーコートに同色のシャツとズボンだし、リズだって給仕と見紛うようなエプロンドレスのままである。俺もリズもディテールにこだわっているわけではなく、大事なのはお互いの気持ちであり、思い出だ。形式なんかじゃない。

 リズの前に跪き、頭を垂れる。その姿勢のまま、リズが作り上げてくれた鞘に収まったダークリパルサーを両手で大事に持ち上げ、リズへと差し出した。リズは無言で剣を受け取ると鞘から剣を抜き出し、剣の刃を寝かせて俺の肩に置く。

 

「黒の剣士キリト、あなたにこの剣――ダークリパルサーを授けます。闇を祓う刃の銘に恥じぬよう、絶え間なく研鑽に努めなさい。そして弱きに優しく、強きに挫けず、勇敢なるその身を剣として怪物を屠り、故あらば盾となって人々を守ることを、今、この剣に誓いなさい」

「誓います」

「剣士たる誓いはここに。今、この時を以って闇を祓う刃は黒の剣士キリトが()らします」

 

 案外本格的なんだな。

 この時の俺は、間抜けにもそんなことを考えていたのだった。

 

「故にこの身も誓いましょう。剣の罪は剣士のみに帰するに非ず。作り手たる我もその責を担うのだと、今ここで高らかに宣言――」

「リズッ!」

 

 反射的に怒鳴り声をあげ、その勢いのまま立ち上がっていた。

 俺は馬鹿だ。リズの覚悟を読み違えた……!

 本当に、これ以上なく俺は間抜けだった。間の抜けること極まりない男だった。

 リズが意味もなくこんな提案を持ちかけてくるはずがなかったのだ。何も考えずに額面通りの遊びだと決めてかかった俺のなんと浅慮なことか。

 

「なによもう。折角恥ずかしい台詞を我慢して喋ってたんだから、せめて最後まで言わせてよね」

「馬鹿なことを言うな。自分が何を口にしてるかわかってるのかよ」

「ええ、理解してるわよ。キリトが人殺しだって言うなら、あたしもその罪を一緒に背負ってあげる」

 

 事も無げに言い放つリズにカッと頭に血が昇った。何を血迷ったことを言ってやがる。

 

「そんなこと俺は望んじゃいない! 俺の過ちは俺自身のものだ、決して誰かに渡していいものなんかじゃない……!」

 

 はじまりの街でクラインを、彼の仲間を、そして大勢の初心者プレイヤーを見捨てた。第一層フロアボス戦ではこの手で直接プレイヤーの命を奪った。ラフコフ相手とはいえさらに二人ものプレイヤーをこの手にかけた。

 それだけじゃない、迷宮区でもフロアボス戦でも、俺の力が足りなかったばかりに見殺しにしてきた命は数え切れないほどあった。俺は誰かを救うために誰かを見捨てるという命の取捨選択を、今日まで幾度となく繰り返してきたのだ。直接、間接問わず、俺の足元には多くのプレイヤーの血と屍が敷き詰められていた。

 

 人の死をなかったことにしちゃいけない。その生を決して無駄になんてしちゃいけない。せめて犠牲に報いるためにも一日も早いゲームクリアを。その一念で今日まで生きてきた。生き永らえてきた。戦うことでしか俺の罪は償えないのだと、そう信じて。

 その俺がどうして今更、罪も罰も投げ出したりできるものか。ましてその重みを別の誰かに背負わせるなど、そんな無責任な真似を誰が出来るものか……!

 激昂して睨みつける俺を、しかしリズは意にも介さず平静そのものの口調で続けた。

 

「ええ、そうでしょうね。だからあたしが背負うのは、これから先、キリトが背負う罪の半分よ。あんたがあたしの剣を振るって人を傷つけるのなら、その罪はキリトだけのものじゃない。あたしが背負う重さになるの」

「これから……先?」

「そうよ。だってキリトはまたプレイヤー同士で戦うかもしれないんでしょう? 行方の知れないラフィン・コフィン団長PoHと」

「……っ!」

 

 俺は……俺は何を言おうとしたのだろう。

 何と――答えようとしたのだろう。

 

「キリト、よく聞きなさい。あんたには枷が必要よ。誰かがブレーキにならないと、あんたは色々な物を背負い過ぎる。幸か不幸かそれが出来てしまう器なの。だからこの剣を受け取りなさい。受け取って、キリト自身を縛りつけるべきなのよ。――お願い、あたしの剣がキリトを守ってくれるって、そう信じさせて……!」

 

 喘ぐように息が詰まり、言葉が出ない。

 リズは決して俺に戦うなと言ってるわけじゃない。人を斬るなと言ってるわけじゃない。

 だからこそつらかった。リズの壮絶に過ぎる献身と覚悟に震える手が止まらない。どうしてそこまで――。

 リズは泣きそうな顔で俺を見つめていた。きっと俺も似たような顔でリズと向かい合っているのだろう。

 ここまで自分を情けなく思うことはなかった。ここまで自分が女々しい人間なのだと思い知らされることはなかった。

 

「……グリムロックにも忠告をされた。俺はそんなに危うく見えるのか?」

「見る人が見ればね。ラフコフ討伐戦から間もない時期っていうのもあるかもしれないけど、あんた相当参ってるでしょう? 無理してるのが見え見えよ。だからさ、攻略を忘れて休めとは言わないけど、せめて気を楽にしなさい。あたしはあんたに死んでほしくないの」

「だからってリズが俺に付き合う必要なんてないだろ」

「必要があるかないかじゃないわ。あたしがしたいかしたくないか、それだけよ。あたしはキリトの力になりたいと思った。キリトの負担を軽くしてあげたいと思った。あたしの心はあたしのものよ、キリトにだって否定させたりはしないわ」

 

 腰に手を当て、胸を張って声高らかに宣言する彼女は美しかった。凛として立つその姿に、攻略組の範として活躍を続けるアスナの姿が重なり、こんなところまで親友同士というのは似るものなのかと妙な感慨を抱いたものだ。眩しいほどに魅力的で、輝かんばかりの躍動する生命力に圧倒されてしまう。

 黒の剣士だなんだと言われていても、内実はこんなものだ。たった一人の女の子にすら敵わない、その程度の男でしかなかった。

 それでも――それだからこそ、これで奮起できなきゃ嘘だろう。リズにここまで言わせておいて、覚悟を決めさせておいて、俺自身がいつまでも俯いていて良いわけがなかった。

 きつく目を閉じ、唇を噛み締めて、身の内に潜む弱気の虫を悉く駆逐しようと丹田に力を込めた。ゆっくり――ゆっくりと呼気を整えていく。

 長く苦しい沈黙を挟んで、ようやく覚悟の決まった俺とリズの視線が交錯した。

 

「俺の左手の装備スロットはリズのものだ、リズの打った剣しか使わない。このゲームがクリアされるその時まで、ずっと。……それでいいんだな?」

 

 本当に、それで後悔しないんだな、リズ。

 

「もっちろん! キリトの剣はいつだってあたしが最高の状態に仕上げてあげるわ!」

 

 応える声は朗らかで、その音色には一切の濁りもなく――。

 これで俺の罪は同時にリズの罪となった。俺が剣を血に染めるたび、その罪科はリズにも降りかかるのだ。リズがそう願い、俺はそれを受け入れた。

 本当に良かったのかと自問する声はある。リズに背負わせる必要のない重荷を預けてしまったのではないかと迷う気持ちもある。そんな俺の煩悶全てを吹き飛ばすように、リズは花咲く笑顔で喜んだ。弾んだ声音は心底嬉しげなもので、俺のほうが面食らうほどのものだった。

 

 後ろを見るな、前を向け、か。

 グリムロックの真摯な声が反響するように脳裏に響く。

 それがどれほど難しいものか、俺は良く知っている。真っ赤に染まった両手を幻視したあの日から、俺の悪夢が終わる日が来るとは思えなくなった。例えこの世界からの脱出が叶おうと、もう二度と桐ヶ谷和人として真っ直ぐに歩くことは出来ないのだろうと諦めてきた。

 でも。

 俺の罪が消えることは決してないけれど。

 歩き続けよう。顔を上げて。重い荷を背負って。一歩一歩前へ。きっと、それが生きるということだ。

 

「なあリズ、芝居の続きをしよう」

「へ? あたし的にはもう目的達成したし十分なんだけど」

「折角だし最後までやっておこうぜ。リズの口上も様になってたんだしさ」

 

 目を丸くして素っ頓狂な声をあげるリズ。そんなリズにからかい混じりの言葉をかけ、反論も待たずにその場に跪いてしまう。もう、と頬を膨らませるも、律儀に芝居を再開してくれるリズは相当人が良かった。

 芝居の続きと言ってもすぐに終わる。正式な手順を踏んだ騎士任命式でもないのだから当然だ。俺達がやっていることはあくまでお遊び、好きにアレンジを加えた、強いて言えばアインクラッド版《剣の誓い》である。アインクラッドは剣の世界なんだから、そのくらいに仰々しくても構わないだろう。

 俺の肩に添えられた剣がリズの元へと引き戻され、リズは剣を鞘に収めると改めて俺に授けようとする。そのまま俺が剣を受け取ったことでこの儀式も終わりとなる――のだが、ここからは俺のアレンジ。

 

「リズ、手を」

「手? まあいいけど」

 

 予定にない俺の言葉に訝しげな表情を浮かべたリズだったが、特に警戒する素振りも見せず俺の前に手を差し出した。

 白く、きめ細やかな指だ。触れることを戸惑わせる細い手首と指先に目をやり、壊れ物を扱うような繊細さを心掛けてリズの手をとった。触れ合う肌を介して伝わる仄かな熱に自然と頬も緩んでしまいそうになる。

 表情を引き締め、厳粛な心持ちで、逡巡することもなく――。

 

 

 リズの左手の甲へと、そっと唇を落とした。

 

 

「今ここでリズに誓う。俺の持てる力全てを尽くして、必ずこの世界を、アインクラッドを終わらせてやる。――約束するよ、リズ」

 

 それは俺の誓いだ。決して違えることのない、果たすべき決意であり、約束。

 《キリト》が《ソードアート・オンライン》をクリアするのだと、誰かの前で初めて、本気で、心の底から宣言したのだった。

 

「な、な、な――」

 

 リズは自分にお姫様なんて似合わないと自嘲していたけど、それはリズが自分自身を知らないだけだ。今、俺の前で顔を真っ赤に染めている可愛らしい女の子は、この世界で俺が出会ってきた魅力溢れる女の子達に負けず劣らずの輝きを放っているんだから。それこそ、俺なんかじゃ到底釣り合わないくらいに。

 

「いきなり何すんのよ、この女ったらしーーーっっっ!」

 

 そんなリズの叫び声を心地よく耳に聞き入れながら。

 長いこと俺の内に沈殿していた黒く重いもやが少しずつ晴れていく感触を、俺はこの時確かに感じ取っていたのだった。

 

 




 白竜の巣の出現設定、白竜自ら促す脱出方法は拙作独自のものです。
 《黄金林檎》が中層階層におけるトップギルドの一つであったことや、《グリセルダ》殺害の過程に《シュミット》が関わってなかったりと原作とは異なっています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第12話 星屑の軌跡

 

 

 腹の底から叫び声が迸り、吹き荒れる闘志の炎は天をも焦がさんとますます燃え上がる。俺の偽物の心臓を激しく鼓動させる戦意の昂ぶりに心を委ね、たった一つしかない命をチップにひたすら踊り続けた。

 猛り狂わねば生き残れない。

 そんな畏怖とも高揚ともつかぬ重苦しい重圧に耐えながら、命を懸けた戦場で泥臭く剣を振るい続けてどれほどの時が流れただろう。荒々しく吼えるは戦人(いくさびと)の意思か、それとも戦場に生きる獣の証明か。思索の暇などないほどに戦況は逼迫していると言うのに、追い詰められれば追い詰められるほど思考と行動が乖離していくようだった。

 ……いいや、それも誤りだ。戦闘開始から今に至るまで、無駄な行動一つ、無為な思考一つとてない、ないはずだ。そんな余裕のある戦場では断じてなく、余力を残せる相手でもなかった。ならば脳裏に浮かんでは消えていく戯言の端々は、これ全て生存に必須の欠片なのだろう。

 長きに渡る年月が、俺の心も身体もとっくに戦闘に特化したシステムへと組み換えていた。いまさら自分自身を疑ったところで剣の切れを鈍らせるだけだ。

 

 目の前を俺の胴ほどもある大型剣が唸りをあげて空を薙いでいく。寸での見切りにほっと息をつく間もなく、バックステップから一転敵の懐に飛び込み、その勢いを殺さず右の刃を一閃。ダメージエフェクトの光が散るもダメージは微々たるものだ。

 俺の一撃に怯むことなく逆袈裟気味に振り上げられた剣の一撃をどうにか受け止め、その衝撃に逆らわずに再び後方へと退く。退いた、というよりは弾き飛ばされたようにすら見えたかもしれない。もっとも今この場に観客など皆無なのだから見栄えを気にする必要もないし、そもそもそんな余裕もないのだが。

 距離が開いたと胸を撫で下ろす間もなく眼前に巨大な質量が迫り来る。一直線に襲い来る猛牛のような突進は理屈抜きで怖い。見上げるような巨体はそれだけで威圧感を放ち、常に恐怖の対象となるものだ。まして相手は人の何倍もの背丈を有する怪物である。そんな馬鹿でかい生物が勢い込んで体当たりをかましてくるなど、どれだけ肝が据わっていようが見たい光景ではない。

 現実で言えば大型車と喧嘩して勝とうと思うようなものか。でかいというのはそれだけで武器である。アインクラッドでは質量がイコールで脅威となるわけではないのがせめてもの救いだった。

 

 それでも怖がっていては戦えない。生き残れない。怯みそうになる心を叱咤し、逃げようとする足を押し止め、相手のぶちかましにも似た突撃剣技に呼応するように力強く床を蹴った。

 前へ。怪物の正面へと駆け出し、さらに踏み切る。勢いそのまま上空高くに跳躍することで空恐ろしい勢いで放たれた一撃を回避し、死角を取ったことで一瞬無防備を晒した巨大な背へと、前方宙返り込みのアクロバティック斬りで一閃。クリティカル判定を得たことを視界の隅で確認しながら、床を滑るように着地した。

 やたらと五月蝿く騒ぎ立てる心臓の脈動を無視して体勢を立て直す。ある程度の距離を稼いだことで急ぎポーションを取り出し、口にした。回復するHPバーを見やる暇もなく両手に剣を握り直せば再び仕切り直しだ。

 

 息つく暇もない剣技の応酬。

 これで一体何度目の相対だろう。時間感覚などとうの昔に麻痺していた。戦闘開始から今までどの程度の時間が経ったのか、もはや俺にはわからない、わからずに戦い続けている。やつのHPバーの減少と、俺のアイテムストレージから刻々と数値を減らしていく回復ポーションの残数だけが確かな標だった。アイテム個数の意味でも、俺の精神力という意味でも限界は近い。

 溜息を押し殺して敵を睨みつける。いくら先の俺の斬撃が単なる通常攻撃であり、ソードスキルを発動させたわけではないとは言え、もう少し手応えを感じさせてくれても良いだろうに。今の攻防で与えたダメージなど、やつのHPバーをわずかに削ったに過ぎなかった。その事実に泣きたくなってくる。

 それも仕方ないか、と断じる思考は諦観が入り混じった苦々しいものだった。

 俺が相手をしているのは有象無象の雑魚モンスターではない。迷宮区最奥を守る最難関そのもの、すなわちフロアボスなのだから。

 

 第74層フロアボス《ザ・グリームアイズ》。

 頭上にねじれた角が聳え立ち、広間への侵入者を睥睨する瞳は青白く輝く。その(かんばせ)は山羊のものだ。はちきれんばかりの筋肉の鎧を纏った屈強な体躯もまた青に染まり、胴の下部――腰から足にかけて濃紺の長い毛に覆われているため、これぞ悪魔と言わんばかりの大型モンスターだった。ご丁寧に長い尾はコブラという異様さだ。そして手にするのは巨大な肉厚の刃で、あれに一刀両断されたら瞬く間にHPを全て持っていかれてあの世行きだろう。

 大広間は床一面が青白い輝きに満たされ、格子状に炎エフェクトが吹き上がっていた。温度を感じさせないガス炎のような揺らめき。蛇のようにおどろおどろしく身を躍らせるそれは、この世とあの世を隔てる境界線のようにも思えた。縁起でもない……!

 

 これもグリームアイズの威圧感を際立たせる演出だとしたらたいしたものだ。部屋は全体的に薄暗く、燭台と床からうねるような炎に照らされる仄暗い明かりが全てだった。だからこそ悪魔の異形も引き立つというものだ。これが開けた草原で、涼やかな風と爽やかに照らしつける日光が背景ならば、こうも恐怖を掻きたてられはしない。

 フロアボス戦において何より重視されるのは、冷静沈着を実践できる肝の太さと、決着の瞬間まで最善の選択を選ぼうと努め続けることのできる集中力だった。鋼鉄の意志とも呼べるそれらを維持するためには、忍び寄る死への恐怖と異形に怯える原初の恐れを克服しなければならない。その最たる敵の一つが暗闇だった。

 暗闇はただそこにあるだけで人の心をかき乱す。その上、今この場には自然界にありえない青く灯る炎の蛇が遊び狂っているのだ。舞台装置としては最悪の部類だろうと思う。仕掛け人としては最高の小道具なのかもしれないが、こちらは命が懸かっているのだから勘弁してもらいたいものである。

 

 刹那の判断の連続が要求される戦闘で心が乱されるのは好ましくない。それはこちらの判断ミスを誘うことももちろんだが、フロアボス戦においてはもっと即物的な理由があった。すなわち、スタン対策である。

 気絶効果と呼ぶほど決定的な隙を生むものではなく、一瞬の金縛りにあう程度の遅滞に過ぎないのだが、それが戦闘中に起こるとなれば座視できる問題ではない。ましてフロアボスを相手にするなら、ゼロコンマ以下の行動停止が生死を分けることだってままあることだった。

 グリームアイズが吼え、恐ろしげな雄たけびが広間に響き渡り、ビリビリと肌を焦がす。これだ。これこそがフロアボスと一般モンスターを隔てる大きな差異の一つ。その雄たけび一つでプレイヤーの動きを阻害する、広範囲に渡るスタン効果を誘発するのだ。

 その判定基準はフロアボスの発声ウェーブを食らった瞬間の心拍数の変化だと言われている。プレイヤーの怯みがシステムによってそのまま物理的な縛鎖となって表れるのだった。胆力の足りないプレイヤーはこれだけで封殺されかねない。フロアボス戦で被害がでかくなるのはステータス数値の差だけではなかった。

 

 とはいえ、俺にとっては見慣れた、もとい聞き慣れた攻撃でしかない。俺に限らずとも攻略組でフロアボス討伐戦の常連になっているメンバーは、いまさら雄たけび一つでスタンを誘発されるような柔な根性をしていない。それは単にフロアボスの異形や迫力に慣れて、恐怖を感じる感覚器官が鈍磨しているだけかもしれないが、それでも構わない。

 感覚の鈍磨も適応の一つである。戦闘に適した心構えが自然と形成されているのだから、ひとまずはそれで良しとしておくべきだった。それがこの世界を生き抜くために必要な能力だというのなら身に着けるだけだ。嘆くのは現実世界に戻った後にすれば良い。

 雄たけびに惑わされることさえなければ、その行動は逆にボスの隙になり、攻撃に転じる好機となる。再び剣撃の雨を降らせんとソードスキルの発動を準備し、そっと腰を落とした。

 ソードスキルの纏う燐光が二刀を包み込む。一瞬の溜めを作り、短く吐き出した呼気を置き去りに一瞬でグリームアイズへと肉薄した。

 

 二刀流剣技《ダブルサーキュラー》。

 防御の間に合った巨大な剣の腹に右手に握ったエリュシデータは弾かれたが、元々俺の繰り出したソードスキルは二段構えだ。左に握ったダークリパルサーがガードの隙間を縫うようにグリームアイズの腹へと吸い込まれ、綺麗に一撃を決めた。グリームアイズのHPバーが目にわかる勢いで減少し、システム内部で痛み信号でも入力されているのか、青い悪魔は悶絶するかのように叫び声を轟かせた。

 追撃を、と剣を強く握り締めた瞬間、嫌な予感を感じて身を投げ出すように横っ飛びを敢行。その刹那、丸太のような豪腕が俺をなぎ倒さんと鋭く振るわれていた。思わず冷や汗が出る。あと一瞬判断が遅ければこめかみあたりに一撃を貰っていた。剣の間合いに入るために至近を余儀なくされるとは言え、その分だけ視界が狭まるのはやはり心臓に悪い。本来ならスイッチを駆使しての接近と後退を繰り返す波状攻撃を行うべきなのは重々承知しているのだが、それもソロでは無理な相談だった。今、この場にいるのは俺とグリームアイズだけだ。

 

 ……失敗したな。

 心からそう思う。今回ばかりはソロで威力偵察などするべきではなかった。後悔先に立たずとはよく言ったものである。

 ソロでのフロアボス戦。クォーターボスのような規格外の相手でなければ、俺一人でも先遣隊の真似事くらいなら十分務められる。それは今まで何度も繰り返してきたことだし、今回もフロアボスの顔を拝んだら適当に一当てして帰還する予定だったのだ。それを不可能にしたのは、この部屋を支配する《結晶無効化空間》という忌々しいトラップだった。

 攻略の要所要所でプレイヤーに立ち塞がる結晶無効化空間には俺自身、幾度となく煮え湯を飲まされてきた。その分、迷宮区の攻略については細心の注意の元に進めてきたのだが、フロアボスの鎮座する大広間が結晶無効化空間に設定されているのは初めてだった。第1層から第73層まで一度たりともなかったことだ。

 フロアボスの広間を結晶無効化空間が覆うという事態は誰も想定してこなかった。というより、誰もが想定したくなかった最悪の事態の一つだったと言うべきか。ただでさえ死亡率の跳ね上がるフロアボス戦で結晶が使えないなど、いよいよ茅場が俺達を皆殺しにするつもりかと疑わなければならない有様だ。これではあまりに難易度が跳ね上がりすぎる。

 

 しかし愚痴を零すにもここから生きて帰れなければどうしようもない。さてどうしたものだろうと悩んだところで、これまでの方針が変わるはずもなかった。戦闘継続、それだけだ。

 未だに俺が一人で戦っているのは何も蛮勇を振りかざしてのものじゃない。グリームアイズを前に逃げ出す隙が見出せないだけだった。

 フロアボス戦における鉄則は幾つかあるが、そのうちの一つは《ボスに背を向けない》ことである。ただでさえフロアボスの攻撃はクリティカル被弾率やスタン発生率が高めに設定されているのに、そこで状態異常判定を大にする背中への攻撃を受けようものなら問答無用で動きを封じられてしまう。ましてグリームアイズの速度は俺の上を行く。軽々しく背を向けて逃げ出すわけにはいかなかった。

 仲間の支援を望めない以上、数瞬と言えど動きを封じられればあとは渾身の一撃を受けて終わりである。そんな末路はごめんだ。

 

 こんなところでもソロの弊害は出ている。最低限ペアさえ組めればスイッチが使えるのだ。そうすればここまで戦術が限定されて苦戦することもなかった。俺と同レベルといかずとも、せめて最低限連携の取れるパートナーさえいればやりようはいくらでもあるというのに……。

 いよいよフロアボスを相手にソロは絶望的か。持ち込める回復アイテムにも限りがあるし、その回復アイテムを使うにしたってソロでは厳しい。一瞬の猶予を作りだすのも容易ではなかった。

 なによりまずいのは、あまりに長引き過ぎた戦闘時間が俺から集中力を奪いつつあることだ。このままでは遠からず致命の隙を晒しかねない。回復アイテムも底を尽きかけているし、常備している結晶も使えない。用意しておいたポーションの残り個数や俺の疲労を考えると、取れる手段は二つだけだ。

 すなわち、リスクを承知で俺の敏捷値を上回るグリームアイズを出し抜き、脱出を図るか。それとも短期決戦に全てを賭けてグリームアイズ撃破に舵を切るか。乾坤一擲を期するしかない苦境に俺はあった。

 

 70層を超えて以来、迷宮区に出現するモンスターのアルゴリズムに目に見える変化が現れるようになってきた。これまでより敵の思考ルーチンが大幅に広がり、多種多様なパターンを見せるようになったのである。例えばHPの減少したプレイヤーを優先して狙っている節があったり、ソードスキル発動直後の技後硬直時間を見越して的確な反撃を選択するようになったりだ。

 明らかに攻略難易度が増している。そしてそれはフロアボスにも適用されている共通項だ。プレイヤーを相手にするのに比べればまだまだ荒削りな戦術ではあるが、時折こちらの狙いを見透かしたかのようにひやりとさせる行動を取ることが多くなってきた。

 気のせいではないだろう。攻略組の中でも深刻な問題として取り沙汰されているし、俺自身の感覚で言わせてもらうなら間違いなく敵モンスターが強化されてきていると断言できる。敵AIの学習速度が増しているのか、以前ならば容易くフェイントにかけることの出来た場面でも的確に反応してくるようになった。

 まったく冗談ではない。そのおかげで俺は今、盛大に苦労しているのである。

 

 確かに俺のレベルは飛びぬけて高いし、二刀流のおかげで攻勢に関しては全プレイヤーでも指折りだろう。しかし元々が軽装の盾なし剣士スタイルなのだ。攻勢に特化している分、防御面は脆い。

 一寸の見切りやパリングで極力回避を繰り返し、間に合わない場合はクリティカル判定の発生しづらい箇所で攻撃を受けることでダメージを最小限に抑えてきた。その程度の技術がなければソロでフロアボスとなど相対できない。無防備に攻撃を受けるようなことがあれば俺なんてすぐにあの世行きである。

 しかし武器防御や回避運動にだって限界はある。どれだけプレイヤースキルを突き詰めようとも不可能は厳然として存在するのだから、直撃判定は封殺できてもかすり判定までオール回避できるわけではなかった。加えて今回の場合、奴の両手剣技を防いだとしても、その合間に繰り出される噴炎までは防ぎきれない。奴の呼気はそのままダメージ判定につながる嫌らしい仕様だった。恨むぞ、茅場。

 そもそもフロアボスからの一撃は、中途半端な当たり判定でも十二分に俺の防御数値を抜いてくる。そんな有様で盾を持たない軽装の剣士がまともにフロアボスの一撃を受ければどうなるか、言うまでもないことだ。

 

 だからこそ、撤退のタイミングを図れずにいる。万が一を考えると迂闊に逃走を選べない。

 ……これ以上はもたない。腹をくくるべきか。

 その決断を下すまでに要した時間は短かった。元より残された猶予も少ない。

 戦場において性急な判断がミスにつながりやすいのと同様、決断できないことも死を迎える最大の要因だった。勇敢も過ぎれば蛮勇となるように、慎重も過ぎれば臆病となってプレイヤーの命を脅かす。進むか退くか、その判断を瞬時に下すバランス感覚こそがソロで生き抜く大きな要因でもあった。引き際を見誤る危険は重々承知している。そして今は決断の時だった。

 

 ――グリームアイズを、討つ!

 

 当初は四本あった青眼の悪魔のHPバーも既に最後の一本を残すのみとなり、そのゲージとて大幅に減じていた。我ながら良くもソロでここまで削れたものだと褒めてやりたいくらいだ。そして折角ここまでHPを削れたのだから、出来るならばこの場でボスを撃破してしまいたかった。ついでに俺の安全のためにも、この辺でご都合主義的に騎兵隊が訪れてくれないかなあと切望する次第だ。たまには神様も俺にサプライズのご褒美をくれたって良いじゃないか。

 そんなどこか気の抜けた思考に苦笑が漏れてしまった。そうして自身の暢気さ加減に顔の強張りがほぐれたところで、その思いもよらぬリラックス効果に驚く。強張っていたのは何も表情だけではなかった。剣を握る掌も、気負いによって微かに震えていた身体も、鉛を引きずるように重苦しかった足も、その全てからほんの少しだけ疲労が抜けた。活力が戻ったのだ。

 どうやら知らず知らずの内に随分と張り詰めていたらしい。そして俺の意識の外で、過ぎた緊張が適度なものへと作り変えられていく。これはこの世界を長い間生き抜いてきた経験の賜物なのか? 身も蓋もない言い方をしてしまえば人の生存本能というべき力は本当にすごいものだと感心してしまった。

 いける……! 今の俺なら限界だって超えられる。疲労がなんだ。恐れがなんだ。そんな有象無象、意思の力一つで乗り越えてみせる。俺のポテンシャルはまだまだこんなもんじゃない。

 

「前座はいい加減終わりにしようぜ。真打は次の第75層――最後のクォーターポイントなんだ。いつまでもお前如きを相手にしてられるかよ」

 

 アインクラッドのモンスターに言語機能なんかついちゃいない。そんなことは百も承知の上で不敵な笑みを浮かべ、傲岸不遜に言い放つ。

 古来言葉には言霊が宿ると言う。ならば言葉とは力だ。向ける相手は他者でなく己、俺自身だった。刻んだ言の葉を身体の隅々まで行き渡らせ、血肉に変えて循環させる。思い込みも暗示の一種だ。あるいは法螺吹きだろうとハッタリだろうと構わなかった。要はそこから如何に利を汲み取るか、意味あるものに変えるかだ。勝つためのビジョンすら描けない戦いは敗北必至でしかない。敵を打倒するイメージを鮮明に脳裏へと描いていく。

 返答は天高く吠え渡る今日最大の雄たけびだった。まさか俺の挑発じみた言葉を解したわけでもあるまいが、叩き付けられる殺意はシステムの産物とは思えぬほど生々しいものだった。

 空気を震わせる悪魔の叫びを無念無想の心持ちで受け流し、だらりと下げた両手を始点にふっと力を抜く。意図的に虚脱状態を作り出して最後の攻防になるであろう時を静かに待った。脳内では一瞬の後に訪れる剣技の応酬のシミュレーションが展開され、幾通り、幾十通りものパターンがめまぐるしく浮かび、弾けていく。

 

 一瞬の静寂。俺の足が地を蹴ったのはそれから間もなくのことだった。

 先手を仕掛けることに決めた。後手でも勝機はさして変わらない、勝率に大差ないなら後は好みの問題だった。ならば守勢よりは攻勢を選ぶのが俺である。

 俺の初動から一拍遅れてグリームアイズも飛び出す。弾丸のように疾駆する様はその巨体にひどく不似合いだ。このフロアボスに設定されている筋力値、敏捷値が共に尋常なものでないことを無言の内に示していた。真正面からの消耗戦で俺に勝ち目などない。

 だからなんだ、と歯を食いしばって身をひねる。

 力も速さも敵わない。だったらわざわざ相手の土俵で戦ってやる義理はない。受け止めきれないならかわせばいい、逸らせばいい。俺がこれまでどれだけフロアボスが放つ致死級の一撃を凌いできたと思ってやがる。この程度の苦境、俺にとっては日常茶飯事だ。

 

 盾なし軽装最大のメリットは敏捷数値を生かした精密な身体操作である。クリーンヒットを貰えば大ダメージを受ける反面、細かな身のこなしでダメージ判定を最小に絞り込む防御術に長けていた。無論、そのために必要とされる胆力やプレイヤースキルも相応のものだが、そんなものは慣れの一言で済む。経験は決して人を裏切らない。

 最高速近いダッシュからの急制動、加えて半円を描く見切り回避から間髪入れず遠心力を込めた一撃につなげた。グリームアイズのわき腹のあたりを横なぎの一閃がヒットする。こうした無茶な身体運用もこの世界ならではのものだ。現実世界でこんな動きを再現しようとしたら筋肉か関節を壊す。

 返しの太刀はすぐさまやってくる。俺の一撃への返礼とばかりに振るわれた、振り向き様の一文字を目にするや否や身体を沈め、頭上を通過する暴風の剣をやり過ごす。地に沈めた体勢は反撃への布石だった。溜め込んだ力を解放するように飛び上がり、捻りあげるように無防備に空いた胴体目掛けて二本の剣を突き出す。二つのダメージ判定の内、一つがクリティカル表示を示した。

 しかしダメージ総量自体は大きくない。やはりソードスキルを叩き込まねば消耗戦は不利だった。出血覚悟の短期決戦に持ち込まない限り、俺の余力が先に尽きるのは変わらない。

 

 グリームアイズの戦慄きと共に剣でなく丸太のような豪腕が迫る。回避は間に合わないと判断し、交差させた剣で防御姿勢を取ることでダメージを最小限に抑えた。とはいえ、その衝撃で再び距離が開く。俺の体勢も崩れていた。

 その一瞬の隙を見逃すことなくグリームアイズの猛攻が始まった。攻守が入れ替わり、グリームアイズの放つ連撃の刃を時に弾き、時にかわすことでなんとか反撃の機会を伺う。焦ることはない、焦りは剣を鈍らせる。今はじっと耐える場面だった。

 右の剣で弾き、左の剣でいなす。受け止めきれないダメージが俺のHPを徐々に削っていく様に頓着せず、ひたすら致命の一撃を避けることだけに腐心した。

 ややあって――。

 二十合を超えてなお俺を捉えきれないことに焦れたのか、一声吠えた悪魔がその巨体を最大限生かす構えを取った。すなわち、大上段からの振り下ろしである。その瞬間、奴のガードの上がった胴部に俺が反撃を行えなかったのは、大きく振りかぶった威容に圧倒されたわけではなかった。その余裕がなかっただけだ、ぎりぎりの回避を続けてきた俺にその一瞬で攻勢に転じる暇はない。

 それを見越した上で必殺の一撃を放とうと画策したのなら見事なものだ。出来の悪いAIなどとは二度と言えないだろう。……その全てが俺の仕込みでさえなければ。

 

 人の行う闘争とは、すなわち知恵を絞った戦いである。騙し、揺さぶり、罠に嵌める。この世界においてもそれは変わらない。攻撃力や俊敏性に勝るモンスターを相手に、馬鹿正直に戦うプレイヤーを《下手くそ》と呼ぶのだ。まあ、そういう意味ではソロでモンスターと戦い続ける俺こそ戦術的に致命的な《下手くそ》プレイヤーの筆頭なわけだが、それはこの際置いておく。

 モンスターの動きが洗練されてきているというのなら、プレイヤー側とてそれに対応した動き方をすればいいだけのことだ。

 フルダイブ型の仮想世界ではプレイヤースキルが全てではない、しかし同時にプレイヤースキルなしで戦力の優劣も語れない。武器やソードスキルの選択だけではなく、敵の駆使する戦術に呼応する対処行動の適切な選択もまた重要なことだった。

 あえて隙を演出することで望む行動を誘発させる。

 《上手い》プレイヤーならば誰しもがやっていることだ。フェイント、擬態。別にそんな技術は今に始まったことじゃない。70層を超えてモンスターの動きが複雑化したことで、そうした戦闘の駆け引きがより顕著に現れるようになってきただけのことだ。

 プログラム風情が人間の悪辣さを舐めるな。悪魔より悪魔らしいのが人間なんだよ。それで納得できなきゃ、パターン化を見抜くゲーマーの習性に敗北したとでも思っておけ。

 

 青眼の悪魔が吼える。血走った目で俺を見下ろす姿に怯むまいと、俺もまた眼光鋭く睨み返した。

 頭上高くから放たれたグリームアイズ渾身の一撃。両手持ちで打ち落とされたそれはまさしく剛剣と呼ぶに相応しいものだ。今日一番の重く鋭い太刀筋に背筋が寒くなりもしよう。

 しかしそれだけでは足りない、その程度の攻撃は読んでいるのだから。正確にはその一撃をあえて誘った。ならば適切な反応が出来ずしてどうする。最大のピンチとは転じて最大のチャンスとなるものだ。首尾よく必殺の一太刀を引き出せたなら、後はそれを如何に捌いて反撃につなげるかだった。

 大上段からの一撃に対して二刀を十字に交差させるように合わせる。その衝突の瞬間に最大の力を発揮できるように調節できれば完璧だ。

 別に特別なことをしようと言うわけじゃない。むしろこの場面で必要となるのは基礎中の基礎技術。武器を用いた防御術の基本技《弾き防御(パリング)》だ。

 

 スイッチを使うことのできないソロプレイヤーの基本戦術、それがパリイからソードスキルへつなげる連携技能である。ソードスキルを放つにはどうしても一瞬の溜めが必要となるため、どうにかしてその隙を作り出さなくてはならない。そのための基本にして奥義がパリングの技術だった。

モンスターの攻撃を弾き返すことで発生する強制的な静止時間を利用し、渾身のソードスキルを放つこと。それがソロで強敵と戦うに当たって最低限求められる技能である。

 逆袈裟の軌道を描いて交差気味に繰り出された二刀十字とグリームアイズ必殺の一撃が衝突し、一瞬の鍔迫り合いを経て俺の剣が競り勝った。グリームアイズの操る巨大な剣が腕ごと俺の振るう二刀に弾き返され、通常発生する技後硬直に加えてパリング成功分のペナルティ時間が発生する。いや、この場合は俺にとってのボーナス時間と言うべきか?

 単純な質量と体重差では勝てるはずのない勝負ではあるものの、そこはゲーム世界だ。正確なタイミングで技の発動さえ出来れば、多少の重量の不利を覆してシステム的に有効と判定される。それは今更語るまでもないルールだった。なにせ俺達はそのルールの下、長い間命を懸けて戦ってきたのだから。この世界独特の法則に順応できなければ待つのは死だけだ。

 

 飽きるほど繰り返してきた戦技はすっかり俺の身体に染み付き、意識せずとも次の手順へと遅滞なく移行する。

 敵の体勢を崩したのなら後は大技をぶつけるだけだ。加えて撒き餌に使った劣勢の演出でライフはレッドゾーンに調節しており、狙い通りの自身のHPバーが示す値に唇を吊り上げる。薄氷の舞踏の効果によってステータス値に大幅な補正が加えられることでようやく準備が整った。

 ここまでの全てが布石だ。いつか俺自身が語ったように、何度も剣を振り回すよりは一発ソードスキルをぶち当てたほうがずっと効率が良いのがこの世界での戦闘の鉄則だった。そして渾身のソードスキルを放つだけの準備時間をやっとのことで確保できた。

 二刀流上位剣技――《スターバースト・ストリーム》。それが今から放つ技の名であり、俺の十八番だった。

 規定のアクションを取ることで剣から燐光が放たれ始め、剣の輝きに呼応するように俺自身も高揚に沸き立っていく。この昂ぶりは決着を見据えた最後の激突を予感するが故か。あるいはもっと単純に、この青い悪魔と剣を交わして以来刺激され続けてきた感覚――闘争本能ともいうべき俺の飢えが、ようやく開放されると荒れ狂っているがためか。

 

 度し難い、とも思う。俺は間違いなくぎりぎりの戦いの到来を喜んでいた。今、この瞬間は生と死の狭間だというのに、そんなことはおかまいなしに狂ったように胸を弾ませる俺はとっくにこの世界に毒され、後戻りのできない精神を形成していたのだろう。それでも構わない。異常を異常と認識し、自分自身の醜い本性を他人事のように容易く飲み込めるようになったのは、極々最近のことだった。

 以前の俺ならそうした感情を否定していた。否定しようと自分自身を騙し続けてきた。アインクラッド――剣の世界に魅せられた俺の根本を認めまいと躍起になっていたのだ。剣を振ることに喜びを見出すなど一体何を考えているのか、そんな浮ついた気持ちでどうして戦えるものか。そう自省し続けてきた。

 それらが間違いだったとまでは言わない。憎き茅場の作り出したこのアインクラッドという世界を、一万人のプレイヤーを閉じ込めた最悪の世界を、今でも愛してしまっている馬鹿さ加減に俺自身呆れているくらいだ。――呆れる程度で収まるようになった。

 

 この世界で犯した罪の重さと人の放つ悪意の毒が俺の心を蝕んだように、この世界で出会った人達のひたむきに生きようとする姿が、そして交わした言葉の一つ一つが俺の思い違いを正してくれた。

 過去はどうあがいたって変えられず、どれだけ思い悩もうともその後悔は未来にはつながってくれない。過ちに惑うことも、罪科に打ちひしがれることも、悔恨に暮れることも、それはどこまでいっても俺の独り善がりにしかならず、誰の為にもならなかった。

 全てを放り捨てれば良いわけじゃない。決して忘れてはならないことがある、投げ出さずに背負わなければならないことだってある。しかしそれは断じて後悔に囚われるだけで終わらせていいものではない。良いことも悪いことも、その全てが俺の糧だ。

 罪も罰も、それがどうしたと開き直って前を見据える。そんな境地に至ったのが転機だったのかもしれない。その果てに俺へと纏わりついていた重苦しい重力のような何かは、何時の間にか消え失せていた。

 身体は軽く、心は熱く、思考は冷徹に。欠けていたピースを取り戻したかのように、今の俺は心身共に充実していた。

 その俺が、どうしてたかだかフロアボス程度に遅れを取るものか。取ってたまるものか……!

 確かに今、俺は追い詰められている。命の灯が危うくなっている。それでも負ける気がしないのは、自らを背水に追い込むことでしか過去と向き合えなかった俺が、ほんの少しだけ強くなれた証だと思っている。それは取るに足りない心境の変化なのかもしれない、しかし確かに俺に力を与えていた。

 

 一瞬の回想。その全てを力に変えるように剣を握り直し、以前よりも遥かに迷いなく踏み出せるようになった一歩が俺の身体を前へと押し出した。ステータスに規定された数値限界だけでは足りない。システムアシストがもたらす速さのさらに先を目指す。

 速く。速く。ただ速く。

 今の俺なら出来る。極限の集中と研ぎ澄ませた技術、そこに生き抜こうとする意思を上乗せし、システムアシストすら超える速さを体現する。

 短く吐き出した呼気と共に胸に必殺の覚悟を刻みこんでグリームアイズの間合いに踏み込んだ。そこからさらに加速を続けていく。ここからは俺自身の集中力と胆力の勝負だ。意思と技術の融合が崩れれば俺の負け、貫き通せれば俺の勝ちだ。

 現在のアインクラッドにおいて最高火力を誇るとされる二刀流スキル、そこから繰り出される奥義クラスの上級剣技《スターバースト・ストリーム》が放たれ、怒涛の16連撃が開始された。先刻のパリイによって上段からの渾身の一撃を弾き返されたグリームアイズは技後硬直がようやく解けるところだ。故に先制の権利は俺が有していた。それを企図してわざわざ全力の一手を誘ったのだから、そうであってもらわねば困る。

 

 システム的に意味のない叫びですら敵を圧倒せんと吼える。

 声を力に、眼光を力に、昂ぶりを力に。あらゆるものを勝利への道筋につなげていく。

 初撃の右の剣が翻り、力強く踏み込んだ脚力が生み出すエネルギーは螺旋を描いて上半身へと伝達される。勢いそのままに仕掛けた中段払いは瞬速の刃と化してグリームアイズの胴を捉え、続けて左の剣が間髪入れずに突き立てられた。グリームアイズは防御も間に合わずに大きくHPを削られる。

 そこからさらに加速し、右、左、右と止め処なく剣の嵐を叩きつけていく。その間、反撃をもらわずと言うわけにもいかない。ソードスキル発動中はある意味で一番無防備だ。そしていくら最速の16連撃と言えども、瞬きほどの間に全ての斬撃が完了するわけではなかった。モンスターの中でも極めてタフなフロアボスの反撃を封殺できるはずもない。

 ……だからなんだ、と口元を歪ませる。

 全てを覚悟して放ったソードスキルだ、今更何を戸惑う必要がある。

 まだだ。もっと速く、もっと鋭く、もっと力強く。システムアシストは絶対ではなく、システムの速さを超えることは可能だ。それを俺は知っている。

 

 システム外スキル《剣技追尾(スキルトレース)》。

 

 それがシステムアシストを超える速さを実現する技として、俺が開発したスキルだった。

 本来ソードスキルは発動準備さえ終えてしまえば後は半ばオートで放たれるものとして設定されている。その認識は間違っていない。

 しかし各々のソードスキルが規定するモーションは大枠こそあれ毎回同一というわけではなかった。敵モンスターは動かない的ではないのだし、その大きさや都度変化する間合いに対応するためには、完全に一定の動作しか出来ないシステムでは不完全だ。システム補正とはそうしたファジーな領域すらカバーしてしまうソードアート・オンラインの誇る超技術の賜物だったが、そこにプレイヤーの技術が介在する余地がある。

 ソードスキルの動作に重ね合わせるように自らの身体を操り、システム補正の数瞬先に先行することで剣撃の速さと威力を倍加させる。それがシステム外スキル《剣技追尾(スキルトレース)》だった。

 もちろん、その効果は劇的なものなんかじゃない。《武器破壊》同様に純技術的なスキルであり、難易度が高い割に恩恵は少ない。目に明らかな範囲で技の速度や威力が変わるというものではなく、せいぜいが数%という単位のものだ。加えて技の発動をミスればソードスキルそのものがキャンセルされ、その場で技後硬直時間の到来である。リスクはでかい。

 それでも、命をかけた死闘においてその《わずか》は大きい。強敵との戦いを制すのは何時だって紙一重の差だ。そして剣技追尾はその紙一重を確実に俺の側へと引き寄せる。

 

 ――決着の時だ。

 

 俺のものともグリームアイズのものとも知れぬ絶叫が戦場に混じりあい、次いで16撃目の刺突を合図にして、今までの激闘が嘘のように一切の物音のない静寂が訪れる。スターバーストストリームに付随する星屑の煌きが白く散りばめられて虚空へと消えていき、その輝きを追う前にそれ以上の膨大な光の放射が俺の目に飛び込んできた。

 視界を埋め尽くす結晶の奔流――第74層フロアボス《ザ・グリームアイズ》の四散した姿である。

 なんとか終わったな……。

 フロアボス撃破を祝い、戦いの終わりを告げるシステムメッセージが宙空に浮かび上がるも、その表示を黙殺して二本の剣を早々に鞘に収めてしまい、その場に大の字で寝転んでしまう。疲労が色濃く滲んだ安堵が意図せず零れ落ちた。

 

 流石に今回ばかりは肝が冷えたし、背筋に震えが走りっぱなしだった。

 まさか少しフロアボスの顔を拝もうとしただけのつもりが、ガチでソロのままフロアボスとやり合う破目になるとは想像だにしていなかった。結晶無効化空間の嫌らしさをつくづく思い知らされるな。あれは俺にとって鬼門だ、碌な思い出がない。まあ、結晶無効化空間に楽しい思い出を抱けそうなプレイヤーなんて一人も思い浮かばないけど。

 そんな馬鹿な想像に乾いた笑いが浮かびそうになり、そこでふと視界に映ったHPバーを確認すれば赤いラインが僅かしか残っていなかった。予定よりも少し削られたか。15%は残すはずだったのに、見た感じ10%を割っていた。スターバーストストリームは16連撃という破格の連撃性能を持つ分、スキル展開の時間も比例して長くなる。その分だけダメージを貰いやすかった。

 現在時刻を確認してみると、何とグリームアイズとの戦闘に要した時間は一時間を優に超えていた。マジかー、と内心の呆れがそのまま溜息へと変じてしまう。

 そりゃ、ソロでフロアボスに挑めば撃破までに相応の時間はかかるものだが、二刀流を駆使してこの結果となると本当に辟易としてしまう。良くもまあ俺の集中力も保てたものだと感心してしまったくらいだ。肉体疲労がなく集中力の持続しやすい世界とは言え、精神へのシステムアシストでもかかっているんじゃないかと思うくらいには信じ難い戦闘時間だった。

 

 もう二度とフロアボスにソロで挑んでやるものか。

 激闘を終えた疲労が今更ながらに身体へとのしかかり、霧がかった思考の中でそんな愚痴を繰り返すも、毎回ボスを相手にソロで戦った後は似たようなことを考えていたことに気づいて余計に落ち込んでしまう。学習しないとはこのことだ。

 まあいい、自分の馬鹿さ加減なんて散々に思い知っているのだし、そのうち治ることもあるだろう。それまでは放っておけばいいや。そんなおざなりな結論を付けてしまった。

 なにはともあれ、これで最上階までに残る階層の数は25。次は最難関と目される最後のクォーターポイントである75層だ。

 現在の年月日は西暦2024年9月7日。後二ヶ月もすればこの世界に囚われてから二年が過ぎてしまう。ようやく終わりが見えてきたことを喜ぶべきか。それともゲーム開始から今に至るまでの間に、三千に迫ろうという数の死者を出してしまった重すぎる事実を悼むべきか。死者の数字が示す重みは、この世界に生きる誰もに等しく重圧と哀悼を抱かせるものだった。今日を無事に生き延びたとて、明日自分がその死者の列に加わらないとも限らない。

 ぼうっと空中を眺めやれば青い光の粒子が未だに舞っていた。そんな光景を見るとはなしにこれからのことをつらつらと考えていたのだが、どうにも落ち着かない。やはり場所が悪いと内心で悪態を吐いて眉根を寄せた。

 

 ――行くか。

 

 元々フロアボスの広間は休むには適さないのだし、さっさとアクティベートを済ませて街に戻ろう。

 気味の悪いフロアボスの広間の中心で大の字になりながら、そんな当たり前の選択肢が浮かんだのはそれから間もなくのことだった。

 

 

 

 

 

 第74層フロアボス《ザ・グリームアイズ》との死闘を終え、次層の《街開き》を確認して早々に俺は75層を後にした。

 現在俺がいるのは第50層主街区アルゲード。夕闇迫る刻限のことだった。

 アルゲードは《この街で迷ったら三日は脱出できない》と笑い話で語られるほど雑多に入り組んだ街だ。街の至る箇所で複雑に隘路が多重構造を描き、引きも切らぬNPCとプレイヤーの往来が猥雑な雰囲気を否応なく与える。そんな騒がしくも活気に満ちた都市だった。

 この街は巨大な施設が一つたりとも存在せず、NPC経営の屋台や処狭しと軒先に連なる小さな店舗が並び立っているせいか、とにかく狭苦しい印象を受ける。街の面積自体はかなりの広さを誇るというのにだ。無秩序な都市開発計画によって縦横に意味もなく道が引かれてしまった、そんな感じだろうか。実際、俺もこの街はよく訪れるものの未だに全容は知れない。特に迷路のような路地裏など、好奇心で訪れればそれだけで帰れなくなりそうな怖さがあった。

 とはいえ、迷った時はNPCに道を訪ねれば10コルで快く案内してくれるのだから、流石に道に迷い続けて帰れないプレイヤーの噂は酒の席の与太話だろうとは思うけど。

 

 そんな騒がしくもエネルギーに満ちた都市の一角、中央広場から西に伸びた目抜き通りを数分歩いた先にあるプレイヤー経営の店を俺は訪れていた。攻略組に席を置きながら商人プレイヤーとしても活躍している斧戦士エギルが店主として経営する、買い取りから取り寄せまで幅広く対応してくれる何でも屋である。

 俺は一度迷宮区に潜ると大抵は武器の耐久値限界が来るか、回復アイテムが心許なくなるまで街に戻らないため、必然、街に戻った時には大量のドロップアイテム整理が必須となる。エギルの店を訪れたのは不要なアイテムを処分するためだった。

 とはいえ今回の場合はちょっと特殊だ。まさかフロアボスに突貫した挙句にそのままボスの首を取ってくることになるとは思わなかった。フロアボスからドロップされたアイテムが無事にストレージに収まりきったのは、回復アイテムが底をついてその分ストレージに空きがあったからだ。不幸中の幸いと呼ぶべきなのか悩むところである。

 何にせよ、本当に継戦限界ぎりぎりだった。もう二度とあんな綱渡りはごめんだ。

 

「毎度あり! また頼むよ兄ちゃん!」

 

 そんな威勢の良い声が階下から俺の元まで届き、思わず苦笑が零れてしまう。買い取りに訪れていたのは初見の客だろうか? 強面かつ筋骨隆々なエギルのド迫力に押されて買い叩かれてる様がありありと想像できた。180を越える身長に鍛え上げられた筋肉のぶ厚い鎧、加えてこの世界で唯一カスタマイズできる髪型を剃りあげたスキンヘッドに設定しているものだから、どこのレスラーかと見紛う程だ。初見プレイヤーならまず間違いなくびびる。しかも自分のそうした特徴を理解した上で商売に生かすのだから性質の悪い男だった。

 実を言えば、エギルはある意味で俺がこの世界でとんでもなく憧れている男だった。なにせ現実世界ではもやしっ子の俺だ。しかも将来的にも筋肉ムキムキな男らしさとは縁がないことが確定している身なので、エギルのような如何にも《男らしい》体格は俺にとって憧憬の対象なのだった。人の夢と書いて《儚い》とは良く言ったものである、ちくしょう。

 

 そんな俺の内心はともかく、折角狩りで手に入れたアイテムをエギルに買い叩かれた不運なプレイヤーに合掌でもしようか。今頃は涙目で店を後にしているかもしれない。南無南無。

 まあ騙されるほうが悪いを地でいく世界だけに、少し泣きが入る程度の不利な取引なんてそれこそ日常茶飯事だった。エギルもあれで商人としての最低限の仁義は通す男だし、本気で阿漕な真似をしているわけでもない。自衛の力をなにより要求される世界だ、エギルの多少強引な商売方針は隙の多いプレイヤーに対する警告のつもりなのだろう。相変わらずわかりづらい善意を発揮する男である。

 

「キリト、急に手を合わせてどうしたの?」

 

 おざなりに手を合わせた俺を見て目を丸くしていたのは、泣きボクロが印象的な穏やかな佇まいをした少女――ギルド《月夜の黒猫団》所属の後方支援プレイヤーであるサチだ。首をかすかに傾げた仕草に合わせて、肩口で揃えた黒髪がさらりと揺れる。上品と評すにはまだまだあどけなさが勝る立ち居振る舞いだった。そこがまた可愛いんだけど。

 前線から引いたことが影響しているのか、以前にもましてサチは柔らかな所作が似合うようになった。淡い空色のサマーワンピースも清楚な雰囲気を引き立てて良く似合っているし、ほんわかと優しげに微笑む様子なんかデスゲーム渦中にあってこの上なく貴重だと思えるくらい魅力的だ。

 

「たいしたことじゃないよ。今日もまたエギルの阿漕な商売の犠牲者が出たな、って思っただけだ」

「もう、またそんなこと言って。エギルさんが聞いたら怒るよ?」

 

 そう言って俺を諌めるサチだったが、正直その垂れ気味な目尻を無理やり吊り上げて睨まれても怖くもなんともない――とは言わないでおこう。仮にも年上の女性に対して失礼だし、こうしてサチに叱られるのも私的には悪くないというか、すごく和む。

 

「心配しなくていいって、エギルに会うたびに似たようなことを言ってるから手遅れだしな。もはや挨拶代わりだ」

「あんまり失礼なことしちゃ駄目だってば」

 

 ふふん、と無駄に威張って胸を張る俺にサチは呆れたように吐息を漏らしてから、半分諦めたような哀愁を表情に滲ませて苦言を呈したのだった。部屋の入り口から野太い男の声がかけられたのはそんな時だ。

 

「サチの嬢ちゃんの言う通りだぞキリト。お前さんには年上を敬う気概ってやつが足りねえんだ、反省しやがれ」

「ほほう、よしわかった。なら次からはエギルの店じゃなくて、他の適当な買取屋を探してアイテムを売りさばこう。何ならNPC売却でも――」

「おっと、やっぱ反省しなくていいぞキリト。お前の可愛い生意気盛りは笑って許してやるから、今後も変わらぬご贔屓を願いますよ、ってなもんだ」

「惚れ惚れするような見事な手の平返しに思わず尊敬しちまいそうだぜ。商人の鑑だな、エギル」

「そんなに褒めるなよ、照れるじゃないか」

 

 お互いに人を食ったような笑みを貼り付けて言葉の応酬を楽しむ。そんな馬鹿なやりとりをする男二人を、俺の傍らではしょうがないなぁという雰囲気を漂わせたサチが苦笑いを浮かべて眺めていた。アルゴ曰く、男の馬鹿なところに理解があるのが良い女の条件らしいから、その点サチは間違いなく良い女なのだろう。

 

「冗談はともかくとしてだ。キリト、お前はいい加減本拠地(ホーム)を作れ。うちは雑貨屋であってお前の安全地帯(セーフハウス)なんかじゃねえぞ」

「つれないこと言うなよ、常連相手なんだから宿くらいサービスしてくれてもいいだろ」

「うちにそんなサービスねえよ。まあ確かにお前さんは特別な常連客だから多少は融通も利かせてやらんでもない。――だが」

「だが?」

「断じて我が家を逢引所にした覚えはないぞ。女を連れ込むなら、なおさら人様の家を使うんじゃない」

 

 あれ? なんかエギルの眼が呆れてらっしゃいますよ。

 ここはエギルの店――の2階にある私的スペースの一つだ。簡易なベッドと卓、それから一対の椅子が用意されているだけのさして広くもない一室であり、がらんとした殺風景な部屋は質実剛健を合言葉にしたかのように必要最低限の家具しか置いていなかった。

 そんな部屋に俺とサチは二人きり、となれば確かに誤解の生まれる余地はあるかもしれないが、エギルは俺がここにいる理由もサチが俺を訪ねてきた理由も知っているだろうに。

 

「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよエギル。何時俺がそんな不埒な真似をしたって言うんだ」

「客観的に見て今のお前がどう見えるかって話をしてるんだ。それじゃ俺は店に戻るから、後は修羅場でもなんでも楽しめ。刃傷沙汰だけは勘弁しろよ」

 

 にやりと笑って去っていく巨漢の男を見送り、サチと二人で顔を見合わせて首を傾げていたのだが、エギルの謎めいた発言の意味はすぐに明らかになった。具体的にはエギルと入れ替わりで現れた細剣使いの姿によって。血盟騎士団の誇る美貌の副団長、《閃光》の異名で知られるアインクラッドで一、二を争う有名人がひょっこりと顔を覗かせたのだった。

 ……まずい。アスナのやつ、笑顔なのに笑顔じゃない。どんなに澄ました顔で優雅に微笑んでいようとも、今のアスナは噴火寸前の火山ばりに怒気を溜め込んでいる様子だった。流石は攻略組でも指折りの実力者、そのプレッシャーだけでそこらの雑魚モンスターなら退散させられそうな覇気に満ちている。彼女の態度に対する心当たりは――ありすぎて泣きそうだ。

 

「こんにちは、キリト君。それとお久しぶりです、サチさん」

「アスナさんも元気そうでよかった。ご活躍はかねがね伺ってます」

「恐縮です」

 

 俺に向ける鋭利な雰囲気とは一転してサチには物腰柔らかく対応するアスナ。その扱いの差に文句をつけようにも、今の俺は脛に瑕を持ちすぎていてとても強気に出れなかった。今回の独断専行はちょっと言い訳できない。

 そんな風に冷や汗を流す俺に再びアスナの目が向けられる。思わず視線を逸らそうとして、その寸前しとやかに微笑んだアスナによって俺の動きは儚くも封じられてしまった。どうしよう、アスナが怖い。

 

「さて、キリト君。わたしが何を言いたいか、わかってるよね?」

 

 なんというか、俺に尋ねているには違いないが《答えは聞いてねえよ》的な圧力を感じる。助けを求めてサチに目をやれば「今回は私もアスナさんの味方」とすげなく断られてしまった。もしかしてサチも怒ってる?

 孤立無援に陥った俺の鼻先にアスナが突きつけたのは、ちと内容に覚えのありすぎる新聞記事だった。執筆者並びに発行者はどちらもアルゴで、一面を飾る見出しには堂々と《黒の剣士 ソロで第74層フロアボス撃破!》の文字が躍っていた。

 確かに第74層フロアボス《ザ・グリームアイズ》を撃破してすぐにアルゴに事の次第を報告したわけだが、それにしても仕事が早い。まさかここまで迅速に記事を仕上げて速報としてばらまくとは思わなかった。その上、背を向けているとはいえ二刀流スタイルで戦う俺の全体像を写した姿絵つきだ。アルゴのやつ、何時の間にこんなもん盗撮しやがった?

 脳裏に浮かんだチェシャ猫の笑いに人知れず戦慄しつつも内容に目を通していく。……よかった、記事はまともだ。俺の要望もきちんと盛り込まれてるし、文章も簡潔かつ明瞭でわかりやすい。さすがアルゴ、良い仕事をする。

 

「大活躍だったみたいだね、黒の剣士様」

「俺を吊るし上げるのは後にしてもらおうか。で、血盟騎士団に内容の周知は出来てるんだろうな?」

 

 皮肉めいたアスナの真意がわからないわけじゃないが、それよりも今は優先しなければならないことがある。……決して面倒の先送りではない。断じてない。ないんです。信じてお願い。

 そんな内心の焦りを誤魔化すように殊更眼光鋭く問い質した俺の言葉を受けて、アスナも真剣な顔をして頷く。

 

「フロアボスの大広間に初の結晶無効化空間が仕掛けられていたことなら、もちろん即座に情報の共有は進めたわよ。他のギルドでも大騒ぎになってたみたいだから、今日中には広まりきるでしょうね。……それと、そのことで団長からキリト君への言付けを預かってるの。《独断専行はいただけないが、貴重な情報の提供には感謝する。75層では是非黒の剣士殿と(くつわ)を並べて戦場を共にしたいものだ》、だそうよ」

「相も変わらず大仰な言い回しを好む男だな。まあ、ヒースクリフの言葉を素直に聞くのは癪だけど共闘って部分には全面的に賛成だ。最後のクォーターポイントは万全の状態で臨みたい」

「そう思うならフロアボスにソロで挑むなんて馬鹿な真似は金輪際やめなさい」

「いや、責められるのも仕方ないんだけどさ、今回の件は俺にとっても予想外だったんだよ。ちょっとボスの顔を拝んだら転移結晶で跳ぶ予定だったんだから」

 

 本当にどうしてこうなった。物見遊山が一転、おどろおどろしいデスロードにようこそとか、そんな悪趣味なエスプリは要らない。数時間前の命を削る鉄火場を思い出してぶるりと身体に震えが走った。

 

「それならキリト君は、わたしが今すごく怒ってることもわかってるよね?」

「……付き合い長いから、その程度はな」

「じゃあ遠慮なく言わせてもらおうかな」

 

 お手柔らかに、なんて茶化す雰囲気でもなかったし、その暇もなかった。すぅーっと息を吸い込んだアスナがぴたりと止まり、それからキッと俺を睨みつけて、一瞬生まれた静寂を鋭く切り裂いた。

 

「キリト君の馬鹿! わからずや! なんで君はいつもそうやって、一人でなんでもやろうとしちゃうのよ。わたしたちは、いいえ、わたしはそんなに頼りない? 君の背中を守ることくらいならわたしにだって出来るんだよ? なのに、どうして信じてくれないの……!」

「待った待った、まずは落ち着け。アスナの実力を疑ったことはないし、何でも一人でやろうとなんてしてないから。今回のことはそりゃ軽率だったとは思うけど」

「嘘。だってキリト君、フロアボスの部屋を見つけたら何時もソロで挑んでるじゃない。偵察に赴く先遣隊の危険を減らそうとしてるのはわかるけど、そのためにキリト君が無理をするのは違うと思う。そもそもキリト君の戦闘スタイルで威力偵察なんて危なすぎるよ」

 

 眉根を寄せて苦言を呈するアスナに思わず反論しそうになった。盛大な誤解だ、どうもこの手のことは勘違いを招きやすい。それは俺がきっちり説明しないのも悪いのかもしれないけど。

 月夜の黒猫団から離れて以来、ずっと攻略組の戦力増強と被害軽減に努めてきたわけだから、アスナの言うような思惑が皆無とは言わないけどさ。ボス偵察に関しちゃ本命は別だぞ。フロアボスの特徴を逸早く知ることは決戦前の戦闘シミュレーションに必須で、俺自身のメリットありきでしかない。ボス戦における俺の効率至上主義をみくびってもらっちゃ困る。

 

 いいか、事前に俺自身が先遣隊の真似事をした時とそれ以外とでは、本番に当たっての命中率と回避率に段違いの結果が出るんだ。体感で言えば二割は固い。俺はボス戦における最大戦力の一人なのだし、それだけの効率の差がどれだけフロアボス戦での全体の優位につながるのか、今更講釈の必要もないだろう。頭の中で繰り返すシミュレーション展開を現実に落とし込む手管は、俺の数少ない自慢なんだぜ?

 そんなことを口に出そうとして、結局失敗してしまった。

 別に俺になにかあったわけじゃない。ただ、アスナがそっと俺の両頬に手を差し伸ばして、そのままじっと見つめてくるという思いがけない行動に、結果として俺の動きがフリーズしてしまっただけのことである。

 

「本当に……ほんとうに心配したんだから。いつもいつも無茶ばっかりして。君を心配してる人はいっぱいいるんだからね。わたしだって」

 

 アスナの目尻に光るものを見つけて息が詰まった。同時に、頬に添えられた彼女の繊手が俺に微かな痺れをもたらし、暖かくも切なく胸を締め付ける慣れない感覚のおかげでどうにも座りが悪い。

 勝機があったからこそボス撃破に舵を切ったにしても、今回の俺の行動は軽率そのものだったわけだし、とても口になんて出せないがあの青い悪魔との戦闘それ自体を楽しんでいたのも事実だ。ここで冗談でも『夢中になって戦うのが楽しくて逃げるの忘れてた』とか言ったらどうなるんだろうなあ……。

 

「心配してくれてありがとな。それと、すまなかった」

 

 アスナに返した言葉はそれだけだった。むしろそれ以上の言葉は無粋だと思った。何を言っても、何を加えても蛇足になる。そんな気がして。

 

「ほんとにわかってる? もう無茶しない?」

「いくら俺でも、クォーターボスに加えて結晶無効化空間の可能性が高い場所にソロで突っ込むなんて自殺行為はしないって。信じろ。むしろ信じてください」

「むー、色々引っかかるところはあるけど……まあいっか。ひとまず信じてあげる」

 

 アスナの中で俺の言葉の信用度はとても低かった。いや、自覚もあるけどさ。

 

「アスナさん、私からもお礼を言わせて。キリトは放っておくとすごく危なっかしいところがあるから、アスナさんみたいな人が傍にいてくれるならとっても安心できる。ほんと、誰よりも強いくせにどうしてこんなにはらはらさせてくれるんだろうね」

 

 俺とアスナの話に一段落着いたと見たのか、今まで傍観しているだけだったサチも会話に加わってきた。アスナにお礼の言葉と共に頭を下げ、それから俺に目を向けると困ったように笑う。俺への援護射撃かと思いきや、サチが口にしたのはアスナの言を肯定するものだった。……切ない。

 

「その、ごめんなさい。わたし、サチさんそっちのけでキリト君とばっかり」

「ううん、気にしないで。それに、キリトとお話ししてるみたいにしてくれると嬉しいかな。女の子の知り合いって少ないから」

「あ、わかるかも。元々男女比が偏ってる世界だから仕方ないとは思うけど、やっぱり寂しいよね」

 

 そんなこんなで和気藹々と話し始める二人だった。アスナはまだ血盟騎士団副団長の顔が多少なりとも出ているけど、それも時間と共に解消される程度のものだろう。

 意外なのはサチがリードする形でアスナに気を遣っているように見えることか。以前に顔を合わせた時は《閃光》の名を馳せる有名人のアスナにサチのほうが気後れしてるように思えたものだけど……やっぱり共通の話題があると違うのかと得心する。というか、二人ともナチュラルに俺に対する愚痴を言い合うのは止めてもらえませんかね? 地味にダメージくるんだけど。

 一度こうなってしまうと男の立場はひたすら弱い。なんというか、ひしひしとアウェー感を思い知らされるのである。もちろんアスナとサチにそんな気はないのだろうけど、そこは男と女の絶対的な差というやつだった。

 

「サチさんはどうしてここに?」

「キリトのアイテムストックが底をついたって連絡をもらったから補充をしに、かな」

「ポーション作成スキルを取ってるプレイヤーは珍しいからな。サチには世話になりっぱなしだよ」

「特に君みたいなソロプレイヤーならなおさらでしょうね」

 

 俺がサチの返答に補足を入れると、アスナはどことなく呆れたような口調でさもありなんと頷いていた。

 ポーション作成スキルは鍛冶スキルや商人スキルに比べて人気が低い。というのも、ポーションのような消耗品はNPC店舗で手に入るアイテムで十分という認識があるせいだ。それに緊急性の高い場面に遭遇しやすい攻略組にポーションは不向きだったし、即時回復を可能にする上位互換としての結晶アイテムがある時点でお察しだ。高価と言えども結晶優位になるのはどうしようもない。

 加えてプレイヤーメイドのポーションは確かに市販品に比べて性能は上なのだが、回復値や状態異常耐性の上昇幅そのものは大きくなかった。むしろその真価はポーション類に設定された重量の軽減にあり、プレイヤーメイドのポーション最大のメリットはアイテムストレージに大量の数を放り込めることだった。

 

 しかしそのメリットも、パーティーを組んだ上で無理せず攻略を進めるスタンスが主流な現在では有り難味が薄い。安全マージンをしっかり取った上でバランス良く配置されたパーティーを組むことが出来れば、たとえ迷宮区のモンスターを相手にしても余裕を保ったまま戦える。アイテムの消耗だって少なくて済むし、そもそも複数人の場合アイテムストレージもある程度融通し合える為、ソロに比べてストレージに余裕を持たせられるのだった。

 よって、アイテム重量の軽減も特筆すべきようなことではないのである。必然、ポーション作成スキルを主要スキルに鍛えるプレイヤーは少なかった。ただでさえ地味なアイテム作成作業に時間が取られ、戦闘に直結するスキルのせいか熟練度上昇速度も遅々として進まない始末。そのくせ見返りが少ないとくれば人気が下火になるのも仕方なかった。

 

 アスナが俺向きのサポートスキルだと納得していたのもそのためだ。大多数のプレイヤーにとっては市販品で十分でも、それがソロとして活動する俺となると多少事情が異なってくる。俺の攻略スタイルは単独で、かつ補給限界が訪れるまで長時間迷宮区に篭ることがザラなため、アイテムストレージはいつでも重量制限ぎりぎりだった。そんな俺にとって、サチが作ってくれるポーションの重量軽減効果は間違いなく有用なものだ。戦闘継続可能時間が飛躍的に伸びるのである。

 なによりサチのポーションがなければ今日のフロアボス戦で打倒と退却の二択が浮かぶこともなかった。逃げの一択しか選ぶ余地はなかっただろう。

 

「キリト君がフロアボス戦で初の結晶無効化空間なんていう異常事態を乗り切れたのも、サチさんの助力があったおかげね。サチさん、一度きつく言っておいたほうが良いわ。そうじゃないとこのヒトまた無茶すると思うし」

「そ、そうかな……?」

「ええ、間違いなく」

 

 戸惑い気味のサチに笑顔で断言する《閃光》様だった。男女問わず見惚れてしまいそうな魅力的な表情だというのに、俺の口からは乾いた笑いしか出てこない。

 しかしこれもアスナに多大な心配をかけたお侘びとして享受するしかないだろう。先遣隊の真似事だけならともかく、74階層のボスをソロで撃破するまで戦い続けるとかさすがにやりすぎだよなぁ、と自分でも思うので反論なんてできようはずもなかった。あっはっは、やっちまったぜ。

 

「ポーション作成スキルかあ、ちょっと羨ましいかも。もしかして完全習得(コンプリート)してる?」

「うん、最近になってようやくだけどね。キリトがずっと協力してくれたおかげ」

「すごいね。もしかしたら現時点で完全習得済みのプレイヤーはサチさんが唯一かも」

 

 サチをしみじみと眺めやったアスナがぽつりとスキルに関する疑問を口にすると、サチも特に隠すことなくスキル熟練度を明かした。お互いこの場限りという暗黙の了解の上だし、そもそも職人クラスのスキル熟練度はあまり秘匿する意味もないからいいか。まあ、その熟練度の数値からプレイヤーの戦闘力が測れないわけじゃないので本来はむやみやたらに話すことじゃないが、今回の相手は名にし負う血盟騎士団副団長である。その人望の厚さは全プレイヤーでも有数のものだし、そもそも猜疑心とは無縁なサチなのだからこうなるのも自然だ。

 それにしても、アスナの様子を伺う限りサチへの賞賛はお世辞でもなんでもなく、心底羨ましがっているように見えるのが意外だ。予想外の反応に思わず首を傾げてしまう。

 

「そんなに驚くようなことか? 血盟騎士団にだってお抱えの職人プレイヤーはいるはずだろ」

「職人クラスの人がサブで取ってるくらいで、本職のポーション作成師はいないのよ。鍛冶とか細工は完全習得してる団員も多いけど、ポーション作成の熟練度となるとね。完全習得まで最低でもあと二ヶ月は必要だと思うわ」

「なるほど、血盟騎士団ですらその程度だっていうなら、つくづくポーション作成スキルの人気のなさっぷりが偲ばれるな」

「ちょっとキリト? 人が頑張って鍛えたスキルをみそっかすみたいに言わないでよ」

 

 俺とアスナが頷き合う横ではサチが唇を尖らせて不満を露わにしていた。おっと、これはまずい。

 

「あんまり膨れるなって。サチは間違いなく俺の生命線だよ、胸張ってくれていいんだぜ」

「そうよ、出来ることならうちのギルドにサチさんの作ったポーションを卸してほしいくらいなんだから。――いえ、むしろギルド移籍を交渉するべき……?」

「待てアスナ、サチはお前ら血盟騎士団にはやらないぞ。最高品質のポーションなんてただでさえ作るのに時間かかるんだから、血盟騎士団の分なんて用意してたら俺に回ってこなくなる」

 

 結構本気で考え込み始めたアスナを慌てて制止した。

 冗談じゃない。サチが俺の生命線だというのは慰めでも何でもなく事実なのだから、俺のために確保してくれている時間を削られようものなら俺の命が一気に危うくなる。ただでさえ月夜の黒猫団の後方支援はサチが一人で請け負っていて多忙なんだし、これ以上負担を増やすわけにもいかない。主に俺の都合で。

 

「冗談よ、うちは強引な勧誘はご法度なんだから。……でもサチさんが入団してくれたら大歓迎っていうのは本当」

「よし、喧嘩売ってるなら買ってやるぞアスナ。サチが欲しければ俺の屍を越えていけ。それとこの件ではヒースクリフに決闘吹っかけてでも邪魔するからそのつもりで」

「うわぁ、眼が全然笑ってない。こんな理由で君の満面の笑みを見たくなかったよ」

「仕方ないだろ、サチがいなくなるとガチで俺の命がやばいんだ。それに血盟騎士団所属の後方支援プレイヤーなら素材に困らないんだし、急がせれば完全習得までの期間をもっと短縮できるはずだろうが」

 

 だから諦めてくれ、と続ければアスナは困ったように眉根を寄せて腕を組んだ。そして唸るように続ける。

 

「うちも人員に余裕があるわけじゃないから、言うほど容易くってわけにもいかないんだけどね。……ところでキリト君」

「ん、なんだ?」

「君、結構すごい発言してるけど自覚ある? サチさん、困ってるよ」

 

 そういえば当事者が黙ってるなと目を向けてみれば、白磁の頬に朱を散らしたサチと目が合った。サチは胸元に両手を重ね、落ち着かない様子でわずかに身をよじり、上目遣いの視線を俺へと向けている。褒められ慣れていないせいか、サチの仕草には多分に気恥ずかしさが含まれているようだ。

 

「ありがとキリト、そこまで言ってくれてすごく嬉しい。それと心配しなくても大丈夫だよ。私、月夜の黒猫団を離れる気はないし、キリトのサポートを止める気もないんだから」

「俺のほうこそ助かる。ほっとしたよ」

「アスナさんも私のことびっくりするくらい評価してくれてすごく嬉しかった。ありがとう」

「あらら、振られちゃったか。残念」

 

 そう言って舌を出しておどけてみせるアスナに釣られたように、俺とサチも一緒になって一頻り笑いあったのだった。

 血盟騎士団副団長としてのアスナしか知らないやつは今のアスナの屈託ない少女の顔も見たことないんだろうな。そう思うと非常に得をした気分になるのだから俺も結構人が悪い。こういうのも優越感に浸ると言うのだろうか。

 

「うーん、なんだか久しぶりにリフレッシュできたかも。これからギルド本部に戻っても頑張って仕事をこなせそう」

「これから? 今日はもうオフになってるもんだとばかり思ってた。違うのか?」

「残念ながらね。キリト君がフロアボスをやっつけてくれたことは快挙には違いないけど、そのおかげで攻略パーティーのシフトも組み直さなきゃならないのよ。それに75層のフロアボス戦を見据えた回復アイテムの準備もね。備蓄の確認と不足分の確保も急がないと。次のボス戦は結晶が使えない可能性が高いわけだから、相応の用意をしなきゃ。それも含めてこの後、幹部会議があるの」

 

 仕事量の多さに憂鬱そうな息を吐くアスナに申し訳ない思いが過ぎるが、一つ疑問も浮かんだ。

 

「そんな状況でよくここに顔を出せたな。副団長がいなくてギルドのほうは大丈夫なのか?」

「団長が色々調整してくれてるわ。それにわたしがここにきたのも私用と公務が半々ってところなのよ。キリト君から新聞記事の裏づけを取ることと、75層の迷宮区攻略そのものにも協力してもらえないか要請するためにね」

 

 その提案は些か意外の観があった。俺のほうもいずれは、と考えていたがまさか血盟騎士団のほうからコンタクトがくるとは思わなかったぞ。

 

「それって血盟騎士団の団員とパーティー組んで攻略しろってことだよな?」

「そうよ。どうせならボス戦だけじゃなくもう少し密に協力しませんかってこと。75層はクォーターポイントだけに、万全の体制を敷きたいのはどこも一緒ね。どうかな、キリト君?」

「提案そのものは有り難いんだけど、アスナだけならともかく他の連中も一緒というのはちょっと……。どうにも俺嫌われてるっぽいし」

 

 自分で言ってて悲しくなるが、血盟騎士団の団員が俺に抱く心証は控えめに言っても悪い。

 そう思って遠まわしに断ったつもりなのだが、何故かアスナは先程の俺を上回る満面の笑みを浮かべていたのだった。

 

「だったら決まりね。75層のボス部屋が見つかるまでわたしが臨時にキリト君と組むからよろしく」

「よろしくって……。あのな、なんでそうなる?」

「言葉通りよ。君、放っておくと何しでかすかわからないから、わたしがお目付け役も兼ねて一緒に行動するってこと」

「んな馬鹿な。ヒースクリフがそんな滅茶苦茶なことを許すはずが――」

 

 言いかけて、あの男だからこそ出来る協力要請でもあることに気づく。副団長という重職にあるアスナが、団長であるヒースクリフの了解も取らずにこんな勝手なことを言い出すはずもない。となると、今回のアスナの提案はヒースクリフも了承済みということになる。むしろ俺が断るのも織り込み済みの提案か?

 

「なんだかヒースクリフに見透かされてる気がするんだけど?」

 

 具体的にはアスナとツーマンセルなら俺が了承するはずだ、というところまで。

 

「そんなことはないわよ。白状しちゃうとね、キリト君と協力して攻略を進める、というか、キリト君のサポートをしてやってくれっていう要請がうちにきたのよ。団長はその要請を受けて、キリト君と以前ペアを組んだことがあるわたしが適任だろうって話を持ってきたの。キリト君の返答待ち案件だから、今の所この話はわたしと団長くらいしか知らないわ。その結果報告と併せて幹部会議で事後承諾を取る予定なの」

「……うげ、その幹部会議、間違いなく荒れそうだな。頑張れよ」

「応援してくれるなら日頃からうちの団員と仲良くしてくれないかなあ」

「善処する」

 

 いや、別に俺は血盟騎士団のメンバーを嫌っちゃいないぞ? むしろ高潔な騎士を体現しようとするかのように、自分達を厳しく律している団員達には敬意を抱いてるくらいだし。攻略組の範として振舞う様はまさしくトップギルドの名に相応しい姿だと思う。

 俺が血盟騎士団で嫌いなのは団長のヒースクリフくらいのものだ。それだって嫌悪の対象ではなく苦手な相手、というニュアンスのほうが近いのだし。どうもあの男だけは好きになれないんだ、いつまで経ってもやつから受ける印象が改善しないのは、我ながら徹底していると呆れるほどだった。戦場においては小憎たらしいくらいに頼りになる男なんだけど、未だに苦手意識は消えてくれない。

 

「それより、血盟騎士団に俺をサポートするよう要請を出すような変人に心当たりはないんだが、どこのどいつだ?」

「変人って、その言い方はさすがにひどいんじゃないかな?」

「そうは言ってもな。唯一の心当たりはクラインなんだけど、それにしたってわざわざ血盟騎士団に要請なんてしないで直接俺に話を持ってくるだろうし。……駄目だ、お手上げ」

「じゃあ答え合わせをしてあげる。キリト君の推測も的外れじゃないわ、ちなみに要請元は聖竜連合ね。そこから風林火山に話が持ちこまれて、うちに直接伝えに来たのがクラインさんってわけ」

「……そういうことか。参ったな、どいつもこいつも人が良すぎる。困った連中だ」

 

 聖竜連合というと最初に話を持ち出したのはシュミットあたりか? あいつ、体育会系の厳つい顔と雰囲気の割に細やかな配慮するんだよな。むしろ上下関係に厳しい環境で過ごしてきたからこそ、妙に面倒見が良いのかも。

 シュミットは壁戦士として前衛隊長も務める聖竜連合の幹部の一人だけにギルド内での発言力も高い。そこから聖竜連合団長に話を通したものの、聖竜連合は血盟騎士団とは露骨に張り合う仲だから直接話を持っていくのは嫌がった。そこで俺と親しく、かつ中立色の強い風林火山を仲介に話をまとめたってところか。ちょっとばかし面倒な背景をしているけど、おおよそこんなところだろう。

 

「攻略組の皆だってわかってるのよ、こんなところで君を失うわけにはいかないんだって。74層フロアボス撃破の報を聞いて喜ぶよりも、キリト君がソロで挑んだって知って青褪めた人のほうが多いんじゃないの? だからこそ電光石火でこんな提案がうちに来たわけだし。君はいい加減自分の影響力を知るべきね」

「そいつも善処しよう」 

 

 俺の気のない玉虫色の回答を受け取ったアスナは、頭痛をこらえるように額に手をやってこれみよがしに嘆息せしめた。サチはと言えば、どことなく同情的な眼でアスナを眺めていたし、俺は俺でどうしたものかと腕を組んで考え事に耽っていた。

 昼前に激突したフロアボス戦からまだ半日足らず。そのわずかの間に聖竜連合から風林火山、そして血盟騎士団へと件の提案が持ち込まれたことを踏まえると、アスナの言う通り電光石火と称すに相応しい迅速な動きだ。二刀流スキル持ちの俺は、ボス戦における最大のダメージソースの役割を負っているから、プレイヤー最大戦力の一人として安易に失うわけにはいかないという懸念はわかる。ソロでボスに突撃するなんてその危険の最たるものだろう。アスナを俺に付けたのはサポートが半分、お目付けが半分という推測も多分間違っていない。一応の筋は通るはずだ。

 

 問題があるとすれば、血盟騎士団団長であるヒースクリフがそこに何を見たか、だ。

 まさか純粋に俺を心配してアスナを遣わしたわけじゃないだろう。気軽に俺に貸し出すにはアスナの立場は重すぎる。

 フロアボス戦はともかく、平時の迷宮区攻略の実質的な指揮官はアスナだ。それでなくても副団長という重職にあるのだから、風来坊のソロプレイヤーに貸し出すにはとても立場が釣り合わない。

 俺に目付けが必要だというのなら、それこそクラインにでも一声かければ済む。ヒースクリフだって俺とクラインが親友と呼べる間柄であることは承知しているだろう。その縁で俺と行動を共にするよう要請したってよかったはずだ、わざわざ自分のところの副団長に話を持っていく必要もない。それを理解したうえでわざわざアスナを説得した理由。ヒースクリフの狙いは一体何処にあるのか。

 

 ……まあ、そう難しいことじゃないか。ヒースクリフの目的は単純に攻略組の戦力向上だろう。そのために俺を血盟騎士団の団員として迎え入れる下地作りを狙っているのだと思う。現時点では俺を嫌ってる連中といきなり歩調を合わせるのも性急だと考え、まずは気心の知れたアスナを宛がって準備期間にした、そんなところか。

 あの男からギルド入団の打診を受けたことがなかったわけじゃない。正確にはアスナを通じて意思の確認をされたのだが、俺はその誘いを固辞し続けてきた。以前はギルドに所属すること自体に抵抗感があったし、望んで波風を立たせる必要もないだろうと思っていた。なにより血盟騎士団の看板に俺が瑕を付けるのは本末転倒だろう、とも。

 今となってはソロにこだわる理由も薄い。故に頑なに拒否の姿勢を貫く気もないのだが、それでも血盟騎士団と強引な関係改善を迫るには時期尚早だと見ていた。特に次の層は激戦必至のクォーターポイントだけに、この段階で今までのスタンスを崩すのは俺のみならず攻略組全体でも混乱の元だろう。攻略組の士気、攻略速度そのものにも悪影響を与えかねない。

 そう考えたからこそ、血盟騎士団と歩調を合わせるにしても75層を攻略してからと皮算用を立てていたわけだが、ヒースクリフはより具体的な形に踏み込み、かつ、時計の針を廻すことを選んだ……ということか?

 

 ヒースクリフは俺よりもよっぽど物事の深奥を覗き込める男だ。あの男が些か強引な手を使ってまで事態を進めようというのなら、俺には見えない勝算あってのことなのだろうとも思う。しかし実際のところ上手くいくかどうかは未知数だった。少なくとも俺には性急と映る。何か急がなければならない理由でもあるのだろうか?

 たとえば、第75層のフロアボスの強さを、今の攻略組の戦力では届かない高さの壁だと想定している、とか。

 ありえない話じゃない。第25層、第50層、共に討伐隊が全滅する危険性を孕んでいた。最大最後のクォーターポイントである75層の攻略が平穏無事に終わると考えているプレイヤーなど一人もいない。ヒースクリフの危惧は俺も等しく抱いているものだ。

 俺とアスナの連携を深めることでより戦力の充実を図る。俺に多少なりとも指揮権を与えることで遊撃以上の役割を期待する。最終的には神聖剣と二刀流を最大限生かす編成の構築。そこまで見据えているのかもしれない。

 

 ――あるいは。

 あの男は自分のギルドから死者が出ることすら計算している、その上で俺という戦力を補充要員として見ているのだ、というのは穿ちすぎだろうか。確かにその程度の冷徹さは持ち合わせている男だろう、しかし同時にプレイヤー戦力の消耗をひどく嫌う男でもある。犠牲を割り切ることはしても、犠牲者ありきの作戦を立てることはない。さすがにこれは悪意に偏った見方だろうな、反省しないと。

 血盟騎士団と協調体制を築き上げる。いや、いっそのこと血盟騎士団に入団することになってもこの際構わない。最近は最前線の攻略速度も落ちているし、俺にしてもこれ以上ソロで攻略速度を加速できると思えない以上、ギルドを上手く使って攻略に挑むのは望むところだ。

 問題があるとすれば、血盟騎士団の団員と俺がしっかりとした協力関係、信頼関係を作り上げることが出来るかどうか怪しいことだな。なにせ今に至るまで反目は解消していない、その溝を埋めるのは容易なことではないだろう。むしろ聖竜連合や風林火山の世話になったほうがずっとスムーズに話が進む気もする。

 無論、精鋭という意味では血盟騎士団に勝るギルドはない。クォーターポイントならずともこの先の階層は難易度の激化が予想されるだけに、安全と効率の両面から考えても彼らの力は是非借りたいし、そのための条件がギルド入団ならば吝かではない……のだけど、俺への悪印象がどう影響してくるか。軍のように内部分裂、派閥争いで攻略が疎かになっては目も当てられない。

 

 やっぱり時期尚早な気がするんだよなあ……。腕を組んだまま自然と表情も険しくなってしまう。ヒースクリフの思惑もわかるんだけど、どうにもハードルの高さに尻込みしてしまいそうだ。まあ、当面はアスナとだけ密に協力し合えばいいわけだから、過度の心配はいらないのだけど。

 諸々の事情を省きさえしてしまえば、ペアを組むに当たって相手プレイヤーがアスナというのは、望みうる限り最上の選択肢だ。特に迷宮区攻略では長時間活動を共にするわけだから、気まずくなるような相手とは断じて組みたくなかった。

 命のかかった戦場で何を馬鹿なことをと呆れられるかもしれない、しかし命がかかっているからこそモチベーションは最大を保っておきたいのである。俺にとって無条件で背中を預けられるプレイヤーは貴重だ。

 

「アスナ」

「何かなキリト君?」

「明日のことなんだけど――」

 

 血盟騎士団で開かれるという幹部会議の行く末が気になるところであるが、ひとまず暫定的な予定を伝えておこうと口を開きかけたその時――。

 

「アスナ様!」

 

 俺とアスナとサチの三人で形成していた、穏やかで心地良い空気を一瞬で吹き飛ばす大声が響き渡った。

 おいおい、なんだよ一体。ってかアスナ《様》? なんだその珍妙な呼びかけは。団長からして時代がかった言い回しを好むギルドではあるが、血盟騎士団は上位者を様付けで呼ぶ規則でもあるのか。

 空気を読まない無粋な闖入者を胡乱な目つきを湛えて眺めやる。

 部屋の入り口に立っていたのは長身痩躯かつ長髪をゆるやかに流し、三白眼気味に落ち窪んだ眼窩が特徴的な男だった。白の生地に赤の刺繍を施した血盟騎士団共通のカラーをした騎士服を着込み、その大半を覆い隠す大型のマントを装着している。腰に提げるのはこれまた大振りな両手剣だ。その剣を見て今日激戦を繰り広げた青い悪魔の異形が思い出され、自然と気分が悪くなった。さすがに八つ当たりだと理解してるから表情には出さないよう自制したけど。

 どこか陰気な雰囲気を思わせる男は見知った顔でもあった。ギルド《血盟騎士団》所属の団員、名をクラディール。

 剣の腕は良いのだが俺にとっては頭の痛くなる相手だ。血盟騎士団内部で俺を嫌う勢力の急先鋒である。そんなクラディールは俺のことなど目に映らぬと言いたげな様子で、挨拶の一つもなくアスナの元へとズカズカと歩み寄っていた。

 

「予定の時間が迫っておりますぞ。至急ギルド本部へお戻りください」

「会議が始まる時間にはまだ余裕があります。それにヒースクリフ団長から多少の遅れは大目に見るとの言質も貰っていますから、心配には及びません。そもそも護衛は十分なので先に戻っているよう伝えたはずですが?」

「何を仰いますか。このクラディール、アスナ様の身辺をお守りする栄誉を戴いた以上、身命を賭して任務に励む所存でございます。任務放棄などとんでもありません」

「当の本人であるわたしが構わないと言っているんです。……護衛なんて大袈裟よ」

 

 最後にぼそりと付け加えられたつぶやきこそアスナの本音だったのだろう。迷惑そうな素振りを隠そうともしていなかった。

 それにしても護衛の任務とは、アスナのやつギルドでも大袈裟な扱いを受けてるな。本人が攻略組を支える支柱の一本であり、加えて礼儀正しく見目麗しい少女とくれば、こうしたお姫様扱いも有り得ないことだとは言えない。アスナにしてみれば窮屈極まりない環境だろうし、本人が無意味に持ち上げられることを良しとしない性格をしているだけに、下手すればモチベ低下につながるんじゃないかと老婆心ながら心配になってしまうが。

 そもそも街中は犯罪防止コードの圏内なのだし、《閃光》の異名を誇るアスナに不埒な真似をしようと近づくプレイヤーなんてそうはいないだろうとは思うんだけどな。護衛を必要とすることなんてあるのか?

 そんな俺の疑問をよそにアスナたちの言い合いは続いていた。

 

「ご不満は参謀職のお歴々に語るのがよろしいでしょう。お戻りいただけますな、アスナ様」

「いいえ、了承できません。まだキリト君と打ち合わせが残っています。あなたの任務放棄にはならないよう団長に言付けをしておきますから、心配せずにギルドへ戻ってください」

「キリト? そこの不心得者のことでしょうか。あのような身勝手な男などアスナ様が気にかけるべきではありません。――薄汚いオレンジ風情が……!」

 

 そこで初めてクラディールの目が俺へと向いた――のみならず、全力全開の罵倒付きである。加えて、眼光鋭く睨みつけてくれるだけならまだマシだと思えるほど、クラディールは嫌悪も露わに蔑みに染まる視線を隠そうともしない。眼は口ほどに物を語るというが、眼も口もそのどちらもが考慮の余地なく俺を完全否定していたわけで……だからなんでお前はそこまで俺を目の敵にしてるんだよ。

 ここまで不躾な態度を取られて笑って流せるほど俺は人間ができちゃいないぞ。それに厚顔無恥と言われようが、オレンジと罵られて俯くだけでやり過ごすのは止めにしたんだ。喧嘩を売ってくるなら相応の値段で買ってやるぞこのやろう。

 血盟騎士団に入団する手筈まで考えていた先の思考を全て棚上げにして睨み返した。そんな俺に対するクラディールの反応はこれ見よがしの舌打ちである。とことん俺が気に食わないらしいな、お前。

 

「――クラディール、口を慎みなさい」

 

 冷え冷えとした声で俺とクラディールの睨みあいに一石を投じたのはアスナだった。彼女は苦虫を噛み潰したような表情でクラディールを諌め、さらに続ける。

 

「キリト君――黒の剣士殿は今に至るまで要注意プレイヤーリストに載ったことは一度たりともありません。口汚い誹謗中傷はギルドの品位を貶めるだけでなく、無用な軋轢を生みます。攻略の志を共にする仲間に失礼でしょう」

「ですがアスナ様、こいつが《仲間殺し》の卑劣漢であることは事実でしょう。私は決して間違ったことは申し上げておりません」

「……聞こえなかったの? わたしは《口を慎みなさい》と言ったわ」

「ぐっ、む……」

 

 うわ、すごい迫力だな。これではさしものクラディールも黙る以外にないだろう。

 決して声を荒げたわけではない。しかし絶対零度の視線をクラディールに向けた今のアスナが放つ威圧感は、とにかくすさまじいの一言に尽きた。何が怖いって、怒り心頭な状態になってなお彼女の美しさは些かも減じていないことだ。むしろ余人を遥かに凌ぐ類稀な美貌はますます磨きがかっているようにすら思える。今のアスナに正面から口答えできるような人間などそうはいないだろう。

 

 ヒースクリフがカリスマの際立つ男ならば、アスナとて負けず劣らず衆を従える資質を持った少女だ。本人がオールマイティに何でもこなせる高スペック持ちの上、たまたま上の立場にいるのがヒースクリフだから補佐役に甘んじているだけである。彼女はその気になれば一団を組織し、トップとして血盟騎士団に負けず劣らずの精鋭ギルドを運営することだって出来たはずだ。まあ、俺が見るにアスナの性向はナンバーワンではなくナンバーツー、すなわち組織の副将にこそ適正があると思っているが。

 できることと向いていることは決して同一ではない。プライベートのアスナを知っていれば、自らが先頭に立つよりも一歩引いた場所から誰かを支えることにやりがいを見出すタイプだとすぐに知れる。この点において俺とリズの見解は一致していた。

 攻略組の牽引者としての立場がアスナに隙のない女を演じさせていても、平時の彼女は穏やかで慎ましやかな良家の子女そのものだった。むしろ温厚篤実なアスナをここまで怒らせたクラディールが哀れだ。南無南無。

 

「ごめんなさいキリト君。……血盟騎士団副団長として部下の非礼を詫びさせていただきます」

 

 そう言って深々と頭を下げるアスナだった。

 

「アスナのその言葉だけで十分だ、《閃光》殿の言葉はいらないぜ。何を言われたかなんてもう忘れたから」

「……ありがとう。明日のことは追って連絡するね、今は落ち着いて話せるような雰囲気じゃないから」

 

 俺の言葉にほっと安堵の息をつき、それから苦笑いで辞去を告げるアスナに俺も軽く頷くことで応えた。お前も苦労するな、アスナ。

 

「サチさんもごめんね。なんだか慌しくなっちゃった」

「私は平気。また会おうね、アスナさん」

「ええ、また。――エギルさんも、お騒がせして申し訳ありませんでした」

 

 アスナが頭を下げる先に目を向けると、いつの間にか廊下につながる扉付近に巨漢の大男が立っていた。背を預けていた壁から身を起こすと、気にするなとばかりに肩を竦めるエギルだ。口元に浮かべた笑みが如何にも大人っぽい。つーか漢臭い。

 ……エギルのやつ、一部始終を聞いてやがったな。収拾がつかなくなるようなら踏み込むつもりだったんだろう。考えてみればクラディールがここまで来るにはエギルの許可が必要だったはずだ、案内ついでに俺達のことを見守っていたのか。

 まったく、やることなすこと渋い男だ。なんだろうな、この頼れる重厚感。エギル、お前三十路前後にしちゃ貫禄がありすぎやしないか、かっけえな。

 

「それじゃまたね、キリト君」

「ああ、また明日」

 

 最後にもう一度アスナは俺とサチ、それからエギルに丁寧に頭を下げると、クラディールを従えるように部屋を出て行った。

 ……去り際にクラディールが一度だけ振り向き、人を殺しそうな眼で俺を睨んでいったことに関してはもはや何も言うまい。アスナが持ち込んだ提案を飲んでおいてなんだが、血盟騎士団との協調関係の構築は無理じゃないかなぁ、と切実に思った一幕だった。

 なにせクラディールの眼は敵意を通り越して殺意すら感じさせられるものだったし。怯えたサチに腕を取られていなければ怖気に身体が震えていたかもしれない。サチの前だからと格好つけて平静を装ってはいたが、俺だってあんな血走った目を向けられるのは怖い。

 ……クラディールか。

 人柄に角が立つプレイヤーだとは思っていたが、こうまで気難しい男だとは思ってもみなかった。これまでは衆目があればこそ自重してきたということだろうか?

 

 この分だとヒースクリフの目論見もご破算かな。クラディールは幹部ではないが実力は侮れない。下手をすれば血盟騎士団でも上位に食い込む有力プレイヤーという話だし、実力主義のギルドだけにその影響力は馬鹿にならないだろう。

 となると、平穏無事に俺と血盟騎士団の協力関係が深まるとも思えないし、入団したらしたでいらん諍いも起こりそうだ。これから行われるという幹部会議とやらでアスナが俺の補佐兼お目付け役に就くことが話し合われるのだろうが、建前通り75層クリアまでの一時的なものに留まるかな。それ以上を望むのは難しいだろう。

 もっともそれはそれで特に問題にするようなことでもない。残念ではあるが、今まで通りでもあるのだから変な混乱も起きずに済む。あとは俺がどこまでソロで攻略を進められるかを考えるだけだし、あるいはクラインなりシュミットなりの伝手で彼らと歩調を合わせて攻略するのも手だろう。ソロに拘る必要もないのだから選択肢は幾らでもある。

 アスナとは75層が攻略されるまではペアを組むことになりそうだし、俺の身の振り方はまた後で考えよう。

 

「……血盟騎士団にも色々な人がいるんだね」

「一応弁護しておくけど、あれは血盟騎士団でも特別だ。あいつ、《黒の剣士》排斥派の急先鋒なんだよ」

 

 クラディールのおかげで気まずい空気の残る中、ぽつりと口にしたサチの声音は複雑な内心をそのまま表しているかのように暗い。

 言いたいことは良くわかる。血盟騎士団は攻略組のトップギルドだけに、下の階層のプレイヤーからすると幻想を抱くには格好の対象だ。ヒースクリフやアスナというビッグネームが所属し、二人ともが尊敬に値する人格者であるために憧憬の思いはどうしたって高まってしまう。俺のようなひねくれ者でもなければ素直に賞賛するはずだ。実際、二人への熱狂的な支持者も多いのだし、それに伴ってギルドそのものへの尊敬も深まっている。

 血盟騎士団の他の団員にしてもそうした期待に相応しくあろうと努力しているだけに、俺としてはむしろヒースクリフよりもそんな下の団員の姿にこそ尊敬の目を向けちゃいるんだが、どうも俺の思いは一方通行らしかった。ままならないものだと思うこともしばしばだ。

 

 それはともかくとして、血盟騎士団所属のプレイヤーと言えども人間なのだから完璧などありえない。幾ら名に相応しい振る舞いを心掛けようとも限界はあるのだし、そもそもヒースクリフとアスナの自制心の強さのほうが異常だ。あれほど克己心に富んだプレイヤーはまずいない。

 つまるところ、攻略組最強のギルドと言っても付き合ってみれば怒りもするし嫉妬もする、立派だが普通の集団だということだ。そして実力主義を掲げている以上、所属プレイヤーに武断的な色彩が強くなるのは仕方ない。強さがステータスの世界で力を示す者は相応の発言力を得るものだ。

 ……だからと言ってクラディールの自侭な振る舞いは行き過ぎだとは思うけどな。悪い意味で血盟騎士団の頑迷さを凝縮し、象徴しているかのような男だった。それだけ俺と血盟騎士団の不仲が進んでいるのだと考えると頭痛ものでもある。

 

「あー、なんか無性に疲れた。あいつとは当分顔を合わせないよう気をつけよう」

「そうしとけ。ったく、別の意味で刃傷沙汰になるところだったぜ」

「そう思うならここまで通さなければ良かったじゃないか。何だってわざわざ火種をぶち込むような真似をしたんだよ」

 

 愚痴だとはわかっていても言わずにはいられなかった。

 

「さすがの俺もお前らが顔を合わせただけでああなるとは思わなかったんだよ。むしろ俺のほうが文句を言いたい。お前、あいつに何かしたのか」

「その心当たりがないから困ってるんだ。確かに俺と血盟騎士団の仲は良くないが、かと言って俺が直接奴等とぶつかったことなんてないぞ。決闘騒ぎとか利害の衝突ならまだ聖竜連合相手のほうが因縁あるし」

 

 血盟騎士団の中では唯一アスナと幾度か決闘したことはあるが、そのアスナとの仲は良好なのだから何の問題もない。

 俺と血盟騎士団の不仲は言ってみれば実態のない対立なんだよな。何かあってそうなったとかじゃなくて、小さな出来事の積み重ねが今の状況を形成しているとしか言えない。攻略組の足並みを乱して単独でフロアボスに突撃するとか、ラストアタックボーナスを数多く持っていっているとかいうのが、はたして小さなことかどうかはともかく。

 直接の契機となる原因が見当たらないから対処も今ひとつ浮かばない。血盟騎士団の中で何となく出来上がってしまっている《黒の剣士は気に入らない》という空気が問題だけに、手を出しあぐねているのが正直なところだった。

 

「まあいいさ。血盟騎士団に関してはヒースクリフとアスナもいるんだ、滅多なことにはならないだろ。最低限の連携は取れてるんだし、急ぎで何とかしなきゃならない問題でもないからな。ゆっくり構えることにしてるんだ」

「ふむ、言われてみりゃそうか。団長と副団長はお前さんに好意的なんだし、そのうち風向きが変わることもあるだろうからな。俺としちゃお前がうちの店を変わらずに贔屓してくれりゃ文句は言わんよ」

「へいへい、商魂たくましいことで」

「それが商人の性ってもんさ。ほれ、そろそろサチの嬢ちゃんを送る時間だろ。俺も店に戻るからさっさと行った行った」

 

 しっしっ、と追い払うようなぞんざいな対応である。

 そこまでお前の店が繁盛してるとも思えないぞと内心突っ込みを入れながら、急かされるように俺とサチはエギルの店を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 外はすっかり暗くなっていた。

 エギルの店の窓から垣間見た黄昏色に染まっていた景色は急速に夜の帳を下ろし、墨を塗りたくったかのように暗闇がアインクラッドの全てを侵食している。気づけば星の輝く時間帯が訪れていたことを意外に思った。急激に流れ行く時間が常になく慌しいように思えて、一体何故だろうと疑問を抱くも、今日は色々あったせいかとすぐに一人得心する。緊張の連続したフロアボス戦のせいで体感時間が盛大に狂っているせいだろう、今になっても落ち着かない心のさざ波がいい加減じれったかった。

 道中サチが足を止めたのは、そんな気もそぞろに落ち着かない内心を持て余していた時のことだった。月夜の黒猫団のギルドホームを目前にして、隣を歩く俺から一歩二歩と先行したかと思えば軽やかに振り返った。そのまま少しだけ屈むような姿勢で俺を見上げ、どこか悪戯っぽい上目遣いで口を開く。

 

「ねえキリト。さっきのアスナさん、とっても格好良かったね。いつもあんな感じなの?」

「血盟騎士団副団長としてはそうかな。トップギルドの実質的な攻略指揮官だから、概ねあんな感じで気を張り詰めさせてるよ。けど、サチだって私的な顔のアスナは見たろ? どちらかと言わずともあっちが素の態度だな」

「キリトを心配していっぱい涙を溜めてた方だね」

「あぐっ」

 

 声に詰まった俺を横目にサチはくすくすと楽しげに笑う。まいったな、今日のサチは明らかに俺に対して容赦がない。

 

「……サチさんや、もしかしてまだ怒ってマスカ?」

「むしろどうして怒ってないと思えるのか不思議だよ。私、キリトがソロでフロアボスを撃破したって聞いて、冗談抜きで心臓が止まるかと思ったんだからね。結晶無効化空間だったって知ったときは、いっそのことキリトを引っぱたいてやろうかと思ったくらい」

「叩かれるのはイヤだなあ」

「だったらあんまり心配させないで。次に同じことやったら本気でぶつからね」

 

 ここで善処するって濁したら平手か拳骨でも飛んで来るのだろうか?

 ……泣かれるのが先かもしれない。

 

「サチも聞いてたろ? 明日からはアスナが俺のお目付け役をするから、ソロでフロアボスと戦うなんてことはないよ。第一、クォーターボスを相手にソロで挑むなんて無茶は出来ない……って、これも言った気がするな」

 

 そんなことが出来るのは血盟騎士団の団長様だけだ、俺にはとてもじゃないが無理ゲーである。加えてクォーターボスを相手に結晶無効化空間の可能性が高いとか、茅場のやつはどれだけ俺たちを絶望の淵に叩き落としたいんだって話だ。

 そっか、とつぶやいたサチはどことなく気落ちした表情を浮かべ、俺から視線を外して俯いてしまう。そんなサチの様子に何かまずいことでも言ってしまったかと不安になり、恐る恐る呼びかけようとした時だった。わずかに緊張を孕んだ固い面持ちでサチが告げる。

 

「……あのね、キリト。少しだけ後ろを向いてもらえるかな?」

「後ろを? 別にいいけど、急にどうしたんだ?」

 

 いいから、と急かすサチに疑問符を飛ばしたまま言う通りにする。

 それから間もなく、ふわりと重みとも言えぬ重みが背中に加わり、両手のそれぞれには柔らかな手の触れ合う感触が伝わってきた。密やかに絡み合う指の感触に少しだけ驚き、それ以上に自然と和らぐ自身の心に二重の意味でびっくりした。今の今まで燻っていた戦闘の余熱がサチの手を介して吸い込まれていくような、あるいは霧散していくような感覚を覚えていた。

 

 ……静かな夜だ。喧騒は遠く、見える範囲に人の姿はない。耳を澄ませば互いの心音すら聞き取れそうだった。

 背中合わせに立ったサチと俺の間で絡ませ合った指はあくまで優しく、そっと触れ合うに任せていた。俺も殊更力強く握り返そうとは思わず、サチとの暖かなつながりがじんわりと胸に広がるのを自覚して微かに笑みが零れる。

 どうしたんだ、ともう一度尋ねた。穏やかに、あるいは安らかに。

 

「ごめんね。キリトの背中を守れるんだって、そんな風に当たり前に言えるアスナさんが羨ましくて、ちょっとだけ妬いちゃったんだ。だから、もう少しだけこのままで。お願い」

「謝るようなことじゃないよ。それに、サチがいなかったら俺なんてとっくに死んじまってるんだ。百万言を費やしても足りないくらい俺はサチに感謝してる。嘘じゃないぞ?」

 

 臆病でも懸命に生きている君を見て、俺と同じなんだと励まされた。

 この世界そのものに潰されようとしている君を知って、初めて人を守りたいと思った。

 生きて現実世界に帰ってほしいと、心から願った。

 

「ありがと。キリトはやっぱり私のサンタさんだね」

「サンタ?」

「うん、キリトがサンタさんで私がトナカイ。《赤鼻のトナカイ》って歌があるでしょ? 私、その歌だけはよく覚えてるの。誰からも必要とされないトナカイは、サンタさんに出会うことで自分の生きる意味を知ったんだ。どんな人でも誰かの役に立ってる、私みたいな弱虫な子でもここにいる意味はあるんだって、そう思えるようになれたのはキリトのおかげだよ」

 

 それは俺を買い被りすぎているのだと思うけれど。

 でも、とても――とても嬉しい言葉だった。 

 

「……なあ、サチ」

「なに、キリト」

「赤鼻のトナカイ、歌ってくれないか。君の歌が聞きたい」

 

 俺の請いをサチは拒まなかった。

 季節外れだし、歌うの下手だからって笑っちゃ駄目だよ、と言い置いて、絡ませた指を改めて結び合い、歌いだす。

 ゆっくりと、滑らかに、そして、ほんの少しだけ誇らしげに。

 

 

 誰からも省みられないトナカイに、サンタはあなたこそが必要なのだと告げました。

 サンタはトナカイに願います。暗い夜道を照らす星として、私と一緒にいてほしいのだと――。

 

 

 一つだけ、訂正させてほしい。君は俺をサンタだと言ってくれたけど、俺にとっても君はサンタだったよ。俺達は互いにサンタで、トナカイなんだって、そう思うんだ。君が俺を必要としてくれたように、俺だって君を必要としていたんだから。

 もしかしたら俺達は合わせ鏡みたいなものなのかもしれない。ふとそんな思いが過ぎるも、それはサチの歌に瞬く間にかき消されてしまう程度のものでしかなかった。

 想いを込めて紡がれる言の葉は、こんなにも人の心に染み渡る。サチの唄う調べは、星屑の散りばめられた夜空へと吸い込まれるように涼やかに澄んでいて、それでいて軽妙な旋律を奏でていた。

 目を閉じ、心を傾け、身を委ねて、今はただ彼女に寄り添えばいい。

 

 

 

 大丈夫。君は死なない。俺も死なない。生きてこの世界から帰れるよ。

 そう、必ず――。

 




 フロアボス専用広域スタン誘発スキル《雄たけび》は拙作独自の設定です。
 また、システム外スキル《剣技追尾》はオリジナル名称となります。システムアシストを上回る速さについては原作でも《知覚の加速》と仄めかされていますが、技能そのものの明確な方法論は明かされていません。
 《ポーション作成》スキルの仕様については独自設定です、原作にも詳細は登場しません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第13話 黒の剣士、白の閃光 (1)

 

 

 第75層主街区コリニア。

 数日前に俺自らが開通させて街開きを見届けた場所であり、現在の最前線となる街でもあった。

 都市部を囲む外壁は四角く切り取った白亜の巨石を積み上げられており、その街並みはと言えば高い円柱の柱を均等に配した神殿が目立つ。歴史に名立たるローマ水道を模したと思われる広い水路が美しい景観として街を彩り、しかして転移門前にそびえたつ巨大なコロシアムが威容さを際立たせるために、美の造詣と戦の匂いを見事に調和させた城塞都市という印象を強く抱かせられる。コリニアとはそういう街だった。

 新たに街開きが行われると当然そこには攻略組が足繁く通うようになり、攻略組でなくとも一見のために訪れる中層ゾーンのプレイヤーが増え、彼らを目当てに商人プレイヤーや職人プレイヤーが挙って商売に精を出す。一時的にプレイヤーの大移動が行われるようなものだ。街そのものの雰囲気も悪くなく、この活況もしばらく続くだろう。

 

 第75層が転移門で行き来できるようになって早三日が経つ。その間にフィールドマップは踏破され、いよいよ迷宮区に挑もうというのが現在の攻略組の状況である。無論、フィールドマップの攻略には俺とアスナも尽力した。というか、二人で疾風怒濤の速度で駆け抜けた、というほうが正確だろうか。脇目も振らずに攻略に邁進し、その結果としてごく短期間でフィールドボスの撃破と迷宮区入り口へのマッピングを完了させた。手練のパートナーがいるとソロ戦闘よりずっとソードスキルが使いやすく、攻略も安全に進むなと感心しきりだ。

 俺とアスナも攻略組の一員として今日も元気に攻略を進めようとこの街を訪れ――そこで一人の男によって行く手を塞がれていた。血盟騎士団所属の両手剣使いにしてアスナの護衛役、クラディールだ。

 奴の表情を見ると明らかに機嫌が悪そうで、これは一悶着あるかと嫌な予感を覚える。そしてそれはすぐに確信に変わるのだった。

 

「アスナ様、これ以上の黒の剣士への肩入れは認められませんぞ。早急にパーティーを解消し、我らの指揮官としての活動を再開していただかなければ困ります」

「わたしの行動は幹部会議で決定された正式なものです。あなたに咎められるようなものではありませんよ?」

「咎めもしましょうとも。先日迷宮区に通じるマップも発見され、アスナ様は今日からそこの男と迷宮区に進む予定なのでしょう?」

 

 勿論と頷くアスナにクラディールは泡を吹くように狼狽し、ワナワナと身体を震わせていた。なんつうか大袈裟なリアクションだな、それにそういうことはギルド本部でやってくれないか?

 しばらく口論は続きそうだと暢気に考え、辟易とした内心がどうにか表に出ないよう努める。何もこんな早朝、攻略組の皆が転移門から出現し、攻略に赴こうとする時間を選んでアスナを説得しなくてもいいだろう。時間が経過する毎に野次馬の数が増えていることに気づけ、気づいて立ち去ってくれ。

 そんな俺の願いをクラディールが斟酌してくれるはずもない。険しい眼差しを俺へと向けたままのクラディールに俺は知らん振りを決め込み、沈黙を選ぶことにした。反応しようがしまいがこの男の機嫌が悪くなるのは変わらないのだから、ここはアスナに任せておこう。

 

「だからどうして迷宮区攻略を咎められなければならないのです。血盟騎士団には同ギルド内でしかパーティーを組んではいけないなんて馬鹿げた規則はありません」

「ギルドの備品部に問い合わせた所、野宿用の装備一式がアスナ様から申請されていたと聞きましたぞ。ただでさえ危険な迷宮区を、信用ならぬ小僧と二人きりで夜を明かすなど、そんなことを認められるはずがありません! 再考を!」

「キリト君の実力はわたしたちが最も良く知るところです。わたしにはあなたの危惧がわかりません」

 

 あー、アスナ。クラディールが言ってるのは剣の腕のことじゃなくて俺の人格、もっと直球で言えば男としての信用性の問題だと思うぞ。その程度のことを聡明なアスナが気づいていなかったとも思えないのだけど……知ってか知らずかピントのずれた返答をしたアスナだ。俺を信用していると受け取っておくべきか、あるいはこんな公衆の面前でそっち方面の口論が白熱するのを避けたのか。

 そもそも命の危険が大きい迷宮区の探索に、クラディールが口にしたような男女の関係を持ち込むことほど馬鹿な話もない。はっきり言って邪推である。軽蔑するようなアスナの視線に射抜かれ、ようやく話題の選択を誤ったことを悟ったのか一瞬口ごもるも、クラディールはすぐに気持ちを切り替えたのかさらに言葉を続けようとする。

 

 どうにも俺はクラディールに的外れな警戒をされているような気がしてならない。そりゃアスナが魅力的な女性であることは俺だって認めるし、そんな彼女に不埒な思いを何一つ抱かないかと問われれば口ごもるけどさ。……仕方ないだろ、俺だって男なんだから。

 しかしな、この男は俺が攻略そっちのけでアスナを口説くほど節操なしとでも思ってるのだろうか。そいつは甚だ不本意な評価だ。それとも単に俺が気に入らないだけか?

 

「アスナ様は我がギルドの副団長なのですぞ。我々を導く義務とてありましょう」

「わたしが一時的に攻略シフトから抜けることは幹部会議で承認されています。わたしとキリト君が組むのはわたしの一存で決められたことではなく、ギルドの意思だということを忘れないように。そもそもクラディール、あなたは今日活動日だったはずでしょう。パーティーメンバーはどうしました?」

「アスナ様の一大事なのです。護衛任務を優先するのは至極当然のことと心得ております」

 

 もしかしてサボタージュかお前。そりゃまずいんじゃないか?

 クラディールが攻略をさぼろうとレベリングをすっぽかそうと俺は気にしないのだが、奴の上役であるアスナにとっては許容できない無分別な行動だろう。そんな俺の想像通り、アスナはさらに雰囲気を鋭く変質させた。

 

「当然のわけないでしょう。大体あなたの言う護衛任務は解かれているはずよ」

「何を仰いますか。例え任務でなくともこのクラディール、アスナ様のためなら我が身を削ってでも自主的に護衛に励みましょうとも。無論、昼夜問わず全力を尽くしてご覧に入れます。なに、ご心配には及びません、今まで通りなのですから」

「……ちょっと待って。まさか、ここ一ヶ月朝晩にわたしの自宅近くをうろついていたプレイヤー反応は、クラディール、あなたなの?」

「おお、流石はアスナ様ですな。私の陰ながらの警護を見破り、その上で暖かく見守っていてくださったとは。感激ですぞ」

「そ、そんなわけないでしょ!? 自宅監視なんて護衛の範疇ですらないわ。何考えてるのよこのバカ!」

 

 段々ぞんざいな口調と冷えた双眸に変化していくアスナの態度に然もありなんと見守っていた俺だったが、臆面もなくストーカーしてましたと告げるクラディールにはたまらず絶句した。アスナが血盟騎士団副団長の仮面をかなぐり捨てて罵ったのも無理はない、オレンジ認定のされない行動とはいえ、倫理的には完全に犯罪行為を自白したくせにここまで誇らしげなのは何故だ。

 肌が粟立ち、ぞくりと背筋に寒気が走る。こいつ、こんな危ない奴だったのか?

 悲惨なのはアスナだな。我が身を抱くように震え上がった少女の姿にはとことん同情する。まさか護衛の男が身辺を脅かしていたとは思うまい。むしろそういった輩を排除するための護衛任務じゃないのかよ。ヒースクリフにしては人選を誤ったな。いや、確かクラディールの話だとアスナの護衛を選んだのは参謀職のプレイヤーだったか?

 

 クラディールは様呼ばわりするほどアスナを崇めているみたいだし、俺とは常識の置き場所が違うのだろうけど、それにしたって情熱の矛先がおかしい。気の遣い方が致命的にあさっての方向を向いている気がしてならないのだ。アスナに気があるにしては嫌われるようなことしかしていないし、かと言って彼女を崇拝しているにしては慇懃無礼が過ぎる。総じてどこかちぐはぐな印象だった。少し不気味である。

 血盟騎士団に仲間入りできるよう色々算段立ててたんだけど、全部白紙に戻そうかなあ……。

 思わずそんな埒もない思考に耽ってしまったが、俺が傍観者でいられたのもそこまでだった。アスナが身を隠すように俺の背後へと回り、そのままくっついて俺を壁にしたからだ。

 

「ギルドの問題はギルド内で解決するべきじゃないか?」

「キリト君、ここでわたしを見捨てたら一生恨むからね。ほんとに恨むからね。絶対ここから逃げちゃ駄目ッ!」

「アスナ、そうする気持ちは良くわかる。ほんっとうに良くわかる。でもな、間違いなく逆効果だと思うんだ」

「小僧! アスナ様から離れんかァッ!」

 

 ほら、こんな感じに。

 というか、こいつは一体どんなキャラをロールしてるんだよ。高潔な騎士たる血盟騎士団の規範は何処いった。俺の血盟騎士団への尊敬を根こそぎぶち壊すような真似は止めてくれ。

 出来ることなら他人のフリしてどこかに逃げたいくらいだった。ただ、ここで逃げたら後でアスナが怖いし、何より彼女が哀れすぎる。他人事として眺める俺でも今のクラディールは気味悪くて相手にしたくないのに、犯罪被害者たるアスナなんて涙目ものだろう。

 

「なあ、アスナもこの調子だし、今日のところはもういいだろ。俺が気に食わないならヒースクリフにでも文句言ってくれ、幹部会議でもなんでも開いて決定を差し戻せばそれで済む話じゃないか。アスナだってギルド方針に逆らってここにいるわけじゃないんだし――」

「いいですか、アスナ様。あなた様は血盟騎士団副団長というだけでなく、攻略組の、いえ、全プレイヤー憧れの女神なのです。どうか御自分の立場を思い出していただきたい」

 

 アスナの体温を背に感じながらさてどうしたものかと悩み、とりあえず事態収拾を図ってみようかと口を開いた俺だが、そんな俺のなけなしの努力をまるっと無視してクラディールは訳知り顔で語りだした。あのな、お前の俺への態度に今更腹を立てたりはしないけど、アスナを女神とか呼んで崇拝するくらいなら、せめてストーカー行動をやめてやれよ。ついでにアスナの言うことを素直に聞き入れてくれ。

 

「わたしが為すべきことは、攻略組の一人として一日も早く最上階に辿り着くことよ! そのために団長もわたしもキリト君とペアを組むのが最善と判断したの! やるべきことを放棄してこんな場所にいるあなたに立場をとやかく言われたくないわ!」

 

 さっさと任務に戻りなさい、と続けたアスナの台詞は雄雄しいことに違いないんだが、俺の背中に隠れたままだと色々台無しだった。

 何度も言うがクラディールに生理的嫌悪感を抱く理由は十分わかるし、面と向かって相対したくないのもわかる。けどさ、ますます俺と密着する行動そのものがクラディールの神経を煽っているんだとわかってますかね、アインクラッドで三指に入る美女と評価されてるアスナさん? 君はもう少し自分の影響力を知るべきだ。

 

「これ以上我侭を仰らないでいただきたい。ギルド本部に戻りますぞ、アスナ様」

 

 お前が言うなー、と疲れた声が脳裏を過ぎる。鏡見ろよ。

 問答では埒が明かないと見たのか、ついにクラディールが実力行使に出た。苛立った表情を隠さずにずかずかと大股で俺たちへと近づくと、強引にアスナの細腕を掴もうと手を伸ばそうとして――そこで俺は反射的にクラディールの右手首を握って邪魔してしまう。それは半ば無意識的なものであり、意図して動いたわけでもなかった。それ故、俺の行動に一番驚いたのが俺だったという笑い話はこの際どうでもいいだろう。

 ちらと肩越しにアスナを見やれば、彼女は相変わらず俺の背中に引っ付いたままだった。クラディールの強い執着からくる些か異常な行いが判明しているだけに、アスナを矢面に立たせるのは如何にも気が引けた。筋違いだとしてもここは俺が前に出るのが正しい気がしてくるのだから相当だろう。

 まあ、幾つか理屈をつけてみたものの、結局は女の子に頼られると格好つけたくなるのが男ってものなのだと、それだけで済む話だ。俺も結構俗っぽい理由で動いてるなと内心苦笑を浮かべながら、青筋立たせて俺を睨み付けるストーカー男と相対した。

 

「そこまでにしておけ。自分とこの上役を怒鳴りつけて腕ずくで、なんてどうかしてるぜ。女性をエスコートするときは力に訴えたりせずに、もっとスマートに事を運べよ。一度紳士の心得ってやつを学んでから出直してこい」

 

 お前が言うなー、と今度は呆れた声が脳裏を過ぎるが丁重に無視した。鏡? 知らないな。

 ほんと、どの口が言ってんだか。俺だって女性への配慮とか気遣いなんて偉そうに言えたもんじゃない――が、少なくとも今のクラディールよりはマシだと思いたいものだ。

 がっちりと腕を掴まれ面と向かって男として取るべき態度を駄目出しされれば、俺の存在を意図的に無視してきたクラディールとて嫌でも俺と向き直らざるをえない。嫌い抜いている相手に自分の行動を邪魔されているのだし、我慢できるものじゃないだろう。

 

「貴様ァ……ちょろちょろと小煩い《ビーター》の分際でこの私を侮辱するか!?」

 

 俺に掴まれた右腕を強引に振りほどくと、唾を飛ばすくらいに意気込んでそんな罵声を浴びせてきた。《ビーター》か、また懐かしい呼び名を出してきたな。

 豊富なベータ知識と経験を持った特別なベータテスターと、ずるい奴を意味するチーターを掛け合わせた言葉――《ビーター》。つまりはこの世界独特の造語であり、俺を指し示す代名詞なわけだが、それ、あんまし流行らなかったんだよな。

 発祥元は現在の軍の連中で、今まで陰口で聞くことは幾度かあったものの、直接俺をビーターと呼んで罵倒したプレイヤーは数えるほどしかいなかった。久しぶりにクラディールに言われて、そういえばそんな悪名もあったなと感慨深く思い出したくらいだ。

 

「侮辱じゃなくて忠告だよ。あんまり自侭が過ぎるとそのうちしっぺ返しがくるぞ。そう心配しなくても、お前さんとこの副団長は俺が責任持って守るし、ボス部屋見つけたらちゃんと返すよ。だから安心して帰れ」

「このガキがァ……!」

 

 挑発してるつもりはないんだけど、どうも逆効果だったっぽい。奴から感じ取れる薄気味悪さが確実に増していた。俺に対する怒気が内に篭って熟成し、ドロドロに粘性を帯びた良くない物へと変貌しているかのようだ。

 どうしたもんだろう。戦闘以外で、まして安全とされる圏内でここまで寒気を感じさせられることなんか滅多にないぞ。背中をぽかぽかと暖めてくれるアスナの体温がなければ、一目散に逃げ出したい程度には眼前の男と関わり合いになりたくなかった。

 誰かこいつ引き取ってくれないかなマジで。クラディールの上司であるヒースクリフにでも押し付けたいところだ。しかし生憎この場に聖騎士様はいない。くそ、使えない奴め。

 

「何度でも言うが、文句があるならお前んとこの団長に直接……」

「黙れ小僧、もはや我慢ならん! アスナ様、この私めが黒の剣士の化けの皮を剥がしてご覧に入れましょう! その暁にはこの男と迷宮区攻略に同行する件は白紙に戻していただきたい! ――黒の剣士、貴様に決闘を申し込む!」

 

 ……はい?

 あ、まずい、今俺の意識が飛びかけた。

 なんでここで決闘? そもそも化けの皮ってなんだ? いやいや、まずは落ち着け、落ち着こう俺。

 これはあれか? クラディールの頭の中では俺はアスナを騙す悪漢にでも認定されているんだろうか。詐欺師も真っ青の狡猾でズル賢い男としてアスナを言葉巧みに血盟騎士団から引き離し、クラディールはそんな卑怯者の手に囚われた自分達の女神様を救い出さんと決意した勇壮たる戦士、とか。……ありえない。あのな、女引っ掛ける詐欺師並に回る口とか、むしろ俺が欲しいくらいだぞ。口下手というか説明足らずを自覚するだけになおさら。

 

 まさかそこまで思い込みが激しいこともないだろうと冷や汗を流す。しかし純白のマントを翻して高らかに決闘の宣言をした男は、どういうつもりなのか一人悦に入ったように薄く笑んでいた。そのご満悦な様に、こいつ酒精で酔っ払ってるんじゃなかろうかという疑問すら浮かび上がった。一応この世界にはバッドステータスとしての泥酔はなかったはずなんだけど。

 自己陶酔入ってそうな男にますます相手にしたくない気持ちが募るも、ここで引くわけにもいかないとどうにかこうにか精神の立て直しを図った。HPバーは1ドットすら減少していないというのに、既に俺の心は疲労困憊である。嫌な精神攻撃だ。

 

「おい、いいのかよアスナ。あいつやる気満々だぞ。もういっその事このまま逃げちゃわないか?」

「わたしもキミとどっか遠くに行っちゃいたい気分なのは否定しないけどね。一応言っておくと、うちに決闘そのものを禁じる規則なんてないから、決闘の申し込みは非難できないわよ」

「奴の主張のほうは?」

「それこそ団長に直談判してほしいわよ……。幹部会議は合議制だし、尊重されるべき決定だもの。そこで決まったことを団長を差し置いてわたしの一存で勝手に変更したくないわ。ただ、わたしと団長には幹部会議での決定を差し戻す権限があるから、クラディールの主張も決して実現不可能なわけじゃないのよね。そんな強権使ったことはないけど」

「盗人にも三分の理ってことか。つまり、クラディールの主張もアスナの思い切り如何ではどうにでもなっちまうってわけだな」

 

 肩越しに小声で確認し合う俺とアスナだが、その会話内容を思って重苦しい溜息が出た。どうしてこうなった。決闘宣言をした相手はと言えば、俺を逃がさないためか早速周囲のプレイヤーを下がらせ始めていた。自然と俺たちを囲むようにギャラリーの壁が出来上がっていく。

 ここは現在の最前線たる第75層主街区は転移門の前だ。これから攻略に赴こうとする攻略組所属の連中がぞくぞくと乗り込んできていたわけで、人口密度はいや増すばかり。せめて人目につかない場所で決闘宣言してほしかった。

 

「《黒の剣士》キリトと《血盟騎士団》のクラディールが決闘だとよ」「マジか、黒尽くめ(ブラッキー)先生を相手に決闘挑むとかすげーな。さすが血盟騎士団」「朝から面白い催しをやってるじゃないか」「賭けるか?」「やめとけ、賭けになんねえよ」「違いない、大人しく見物しときますかねっと」「今日はいいことありそうだな」

 

 楽しそうだな、野次馬ども。ノリが良いのは結構だが、出来ればこの場に残らず使命感に燃えて攻略を優先して欲しかった。それと俺は全然楽しくないし良いことなんて何もないぞ、アスナが俺の背中に密着してきた役得を除けば。

 

「ごめんなさいキリト君、こんなことに巻き込んじゃって……」

「アスナが悪いわけじゃないし、アスナとコンビ組むことに賛成した時点で多少のトラブルは覚悟してたよ。ま、あんまし気にしなくていいんじゃないか。あそこまで頑なになられたらどうにもならないだろ」

 

 それこそヒースクリフにお出ましいただく事でしか収拾のつけようがない。それを思えば決闘の一つ二つで事態が解決するなら気にするほどでもなかった。文句があるとすれば精々増え続けるギャラリー程度のものだ。それだって割り切ってしまえばそれで済む話だし、手の内なんてフロアボス戦に参加してる連中にはとっくに明かされてるんだから隠す意味もない。俺が決闘に勝てば丸く収まるならそれはそれで良しとしておこう。クラディールにはさらに嫌われるだろうけど、そこはもう諦めた。クラディールの機嫌を優先して攻略を遅らせるなんてそれこそ本末転倒だ。

 とはいえわからないこともある。俺が攻略組でも一、二を争う戦闘能力保有者であることはクラディールとてわかっているだろう。二刀流スキルの存在だってある。戦いがレベルとスキルだけに左右されるわけじゃないのは承知しているが、それでも大きなアドバンテージであることには変わりなかった。レベルとスキルを比較すれば俺の方が圧倒的有利な現実は変わらない。だというのにクラディールは一体どんな勝算があって俺に決闘を吹っかけてきたんだ? 不可解と言えばその点こそが最も不可解だった。

 

「なあアスナ、あいつってお前より強いのか?」

 

 ヒースクリフに迫る程の実力者なのかと尋ねたようなものだ。

 血盟騎士団は精鋭揃いのギルドである。その中でヒースクリフは別格にしても、アスナとて攻略組の中で頭一つ抜けた実力を持っていた。しかしそのアスナだって一対一に限れば俺を相手にするのは分が悪い。つまり最低限アスナクラスの実力を持たなければ俺を降すことは至難なわけだが、クラディールってそこまで強かったっけ?

 元々両手剣は乱戦に向いた武器でボス戦には不向きのため、フロアボス戦にクラディールが顔を出すことは稀だった。そのため、俺はクラディールの戦闘している場面をお目にかかったことがほとんどない。故に奴の正確な実力も知らないので今ひとつ釈然としないのだが、勝算もなしに決闘を吹っかけてきたとも思えなかった。

 俺よりもその辺の事情に詳しそうなアスナを見やると、止める間もなく進んでしまった事態に幾分気落ちした表情で項垂れていた。とはいえ俺の疑問はアスナの疑問でもあったのだろう、何時までも落ち込んでいられないと瞳に力を取り戻すと俺の隣に立ち並び、そのまま考え込むように口元へ指を当て、俺の疑問に答える。

 

「団員の詳しいレベルを話すわけにはいかないけど、うちのトップレベルを誇るのは団長で間違いないわよ。次席がわたしであることもね。レベルに限ればクラディールがわたしより下なのは確か」

 

 レベルに限らなくても、スキル、熟練度、技術、経験の各分野において血盟騎士団内でアスナ以上に抜きん出たプレイヤーは、団長であるヒースクリフ以外にはいないだろうさ。総合的な強さも然り。アスナの言葉は謙遜ということにしておこうか。

 

「だとすると尚更わからなくなるんだよな、俺のレベルが攻略組でもトップクラスだってことは暗黙の了解だと思ってたんだけど。単に奴の頭に血が昇って冷静な判断が出来なくなってる、って線もありといえばありか?」

「……複雑なのよね。君が強いのは歓迎するところなのだけれど、君の高すぎるレベルのせいでソロでフロアボスに挑むような命知らずになってるのかと思うと、素直に喜べない」

「そこは喜んでおいてくれると助かる。……どっちみち、クラディールの思惑はわからないか」

 

 苦笑と溜息を順々に零す。本来なら今頃攻略のために迷宮区に潜っていたはずなのに、どうしてこんなところで足止めを食らっているんだろう。

 

「一対一でキリト君の上を行けるのなんて団長くらいのものでしょ。わたしもクラディールが何を考えてるのかわからないから、十分気をつけて」

「そこは自分とこの団員を応援するべきじゃないのか?」

「わたしにストーカー男を応援しろって言うの?」

 

 ご尤も。嫌そうに顔を顰めるアスナの言い草に思わず笑ってしまった。

 

「さいでした。そんじゃ一つだけ注文な。俺を応援するなら、せめて奥ゆかしく内心だけに留めておいてくれよ。これ以上アスナのファンに睨まれるのは御免被る」

「ええ、心の中で精一杯応援させてもらうわ」

 

 よっぽどクラディールの行いが腹に据えかねたのか、答えるアスナは一点の濁りもない綺麗な笑顔を浮かべていた。自業自得とは言え、クラディールのやつも哀れな。あいつ、アスナに蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われたんじゃないか? アスナのために決闘なんて真似を仕出かしたんだろうに、当の本人からの好感度が右肩下がりというのも切ない話だ。同情はしないけど。

 アスナと顔を寄せ合って交わしていたひそひそ話を切り上げ、人の壁で簡易的に作られた決闘場の中央まで足を進めると自然、問題の男ことクラディールと再度相対することになる。奴の三白眼で睨みつけられるのも慣れたものだ。

 

「逃げても良かったんだぜぇ、黒の剣士様よぉ」

 

 黙して語らぬ俺が気に入らなかったのか、今度は嬲るように嫌味ったらしい声で告げるクラディールだった。怒りに逆上したままだった先の醜態とどちらがマシだったのやら、言葉を交わせば交わすほど奴から品性の鎧が剥がれ落ちていくようだった。まさか万人にこの調子とも思えないから俺限定の悪意なのだろうけど、こんな特別は心底いらなかったぞ。

 

「御託はいいからさっさと決闘申請を出せ。こうしてる時間だって勿体ないんだ」

 

 何処か投げやりになっていた自覚はあった。こんな馬鹿みたいな理由の決闘騒ぎで攻略を遅らせてどうするよ。

 

「ふん、いつまで余裕面をしていられるか楽しみだぜ」

 

 嫌な笑みを貼り付けたままクラディールはシステムメニューを呼び出し、手早く操作した。それから程なく俺の視界には半透明のシステムメッセージが出現し、クラディールから一対一の決闘が申し込まれたことを告げる。後は俺が受諾のYESボタンを押せば決闘開始までのカウントダウンが開始される。それ自体は見慣れたもので、幾度も目にしたことのあるメッセージだった。

 珍しいと言えばオプション設定が既に選択されていた事か。普通、モードを選択するオプション設定は申し込まれた側、つまり俺に決定権があるわけだが、あくまでそれは儀礼的、慣例的なものであって、申し込み側が先にモードを選択して申請を出すことだって特別非難されるようなことではなかった。若干のマナー違反には含まれるけど。目くじら立てて文句を言うほどの問題じゃない、というのが正確なとこかな?

 だから俺も然して気にすることなく画面へと指が伸び――そこでぴたりと指が止まる。自身の目を疑い、一度瞬きをしてからもう一度申請画面を確認し、変わらずオプションモードに表示される《完全決着》の文字に今度こそ目を剥いた。

 

「完全決着モードだと!? お前、何を考えてる……!」

 

 続けた俺の「正気か」との問いに、「当然だ」と返すお前の何処らへんに正気が残っているのかと重ねて問いたい。よっぽど「冗談だ」と返す方が正常な反応だぞ。

 決闘には三つのモードがある。すなわち、初撃、半減、完全だ。この内、初撃、半減の二つは問題ない。それこそ俺だって何度も使ったことがある馴染み深いものだ。しかし、プレイヤーのHPをゼロにすることで勝敗を決める《完全決着モード》だけは決闘目的に使用したことがなかった。

 当然である。このゲーム世界を遊びでなく現実とした最たる理由、《HPがゼロになったら現実世界でも死んでしまう》ルールがある限り、完全決着モードなんて無用の長物どころか害悪でしかない。言うまでもなく俺たちプレイヤーの認識では完全決着は利用してはならないタブーだった。普通の神経をしたプレイヤーだったら選択肢にも挙がらないものだ。それこそかつて睡眠PKの手口を利用したレッドのような犯罪者でない限り。

 決闘システムの利用用途は訓練から腕試し、揉め事の解消手段と様々だが、決して殺人を目的に使われて良いものではなかった。それをこんな白昼堂々仕掛けてくるなど、正気を疑われても仕方ないだろう。

 

 ……待てよ。正気? もしもクラディールが正気であり、冷静に判断した上で完全決着モードを選択したならどうだ? まともに俺とぶつかり合っても勝ち目はないと踏んで、その上で勝利を貪欲に求めたのだとすれば――。

 改めてクラディールの表情を観察する。動揺の欠片もない、自身の決断に迷いのない顔をしていた。……これは突発的な決闘宣言じゃないな。初めから完全決着モードを想定していたことを伺わせる落ち着きぶりだ。

 クラディールを問い質した俺の言葉はこの場に集ったプレイヤーの間に静かに浸透していき、広場を満たしていた高揚したざわめきが困惑へと変化するのに時間はかからなかった。俺とクラディールの確執を知らないプレイヤーにとっては何が起きているのかを推測することすら困難だっただろう。俺だって推測は出来ても信じたくなどない。まさかクラディールが、自身の命を質に俺を負かそうとしているなど想像の埒外だ。

 

 確かにデスゲームに支配されたアインクラッドだからこそ出来る捨て身の戦法ではある。完全決着モードなら俺が戸惑って剣を振るえない、あわよくば不戦敗に追い込んでやろう、クラディールはそう考えたのか。しかしこれは思い切りが良いとかで済ませられる範疇じゃないぞ。

 諸々の混乱をどうにか押さえ付け、一体どういうことだと思考に沈む。

 何がそこまでクラディールを駆り立てる? アスナへの執着? 俺への反感? そこまでアスナが俺と行動を共にすることが気に入らないのだろうか。それにしたっていくら何でも優先順位がおかしすぎるだろうと思うけど。

 

「クラディール! 決闘だけならまだしも、完全決着モードなんて許されないわよ!」

 

 ここまで静観していたアスナがクラディールの暴挙を悟り、顔面を蒼白に染めながら俺と奴の間に割って入った。

 俺を背に庇い悲鳴のような叫びをあげたアスナの憤慨を前にしても、クラディールは愉しげに唇を吊り上げて余裕の態度を崩さない。その目にはどこか嗜虐的な色が見え隠れしているように見えた。

 

「おかしいですな、血盟騎士団には《完全決着モードを使用してはならない》などという取り決めはなかったはずですが」

「そんなの明文化するまでもないことだからに決まってるでしょ! とにかく申請を即刻取り消しなさい、これは命令よ!」

「聞けませんな。アスナ様に活目していただくためならばこのクラディール、命とて惜しくはありません。――さあ黒の剣士、剣を執るがいい! 正々堂々と決着をつけようではないか!」

 

 正々堂々って、あのな、お前はなにを言ってるんだ? それともこの期に及んでクラディールの本気を信じられない俺が悪いのだろうか。

 そんな愚痴も今は脇に追いやる。今はこの事態をどうやって沈静化させるべきかに目を向けるべきだ。既に挽回できる範囲じゃないような気もするが、このままでは確実にまずいことになる。

 

「駄目よ! キリト君、こんな馬鹿な決闘絶対受けちゃ駄目だからね! クラディール、あくまで退く気がないというのなら、このわたしが――」

「アスナ、構わないから下がってくれ」

 

 剣に手を伸ばそうとしていたアスナを制止し、告げた。

 

「キリト君!?」

「頼む、アスナ」

 

 振り向いたアスナは常になく焦っている様子だった。こんな状況じゃ無理もないか。

 攻略組のトップギルド、最強ギルドと評される血盟騎士団の副団長を務めているとは言え、中身は俺と然して年齢の変わらない一人の少女でしかない。こんな場面でまで動じるなというのも酷だろう。俺だって内心の動揺はかなりのものだ。

 

「……わかった。でも、やりすぎは駄目だからね、キリト君」

 

 じっと見つめあうこと数秒、アスナはその一言を残してゆっくりと俺から離れていく。

 場に漂う不穏な気配を察したのか当初のお祭りムードは完全に鳴りを潜め、固唾を飲むように俺たちを注視するギャラリー達。衆人環視の中でどうしてこうも自侭に振舞えるのだと、胸の内からクラディールに対して憤りが込み上げる。血盟騎士団が背負ってる最強ギルドの看板は、お前にとってそこまで安っぽいものだったのかよ。

 

「決闘を受ける前に聞かせてくれ、本気か?」

「はっ! 本気も本気に決まってんだろうが。怖気づいたかよ……!」

 

 やっぱり本気なのか……。

 俺にはお前がわからないよ、クラディール。アスナをギルドに連れ戻すことが、いや、俺から引き離すことがお前にとって攻略以上に優先することなのか? 俺が気に食わなくて、そのために俺を馬鹿にするだけなら放っておいても問題にはならなかったんだけどな。せめて今回のことも額面通りの決闘騒ぎに終始してくれていれば――。

 

「栄えある――」

「あん?」

「――栄えある血盟騎士団の団員としては余りに身勝手な台詞だな。《聖騎士》殿や《閃光》殿を万分の一でいいから見習えよ。いいか、俺達攻略組の命は、こんなつまらない決闘で遊ぶために費やして良いもんじゃない。ゲームクリアを待つ人たちの刃足らんとするのが最前線に集う俺達の務めだろう。だと言うのに何を血迷ってやがる……! 恥を知れ、クラディール!」

 

 お前も血盟騎士団の一員だというなら、わけのわからん理屈で命をチップにした決闘を軽々しく仕掛ける真似がどうして出来る。攻略組の規範たるトップギルドの重みを背負って戦うのが、最精鋭たる血盟騎士団所属の騎士たる務めじゃなかったのか。

 本当、なんだってこんな馬鹿を仕出かしてくれてるんだよ。この場にどれだけのプレイヤーの目があるかわかってるのか? 思いっきり醜聞だぞ。ついでにどんな結果になろうと俺と血盟騎士団の仲が緊迫化待ったなしだ。お互い損しかしない決闘じゃないか、これ。

 白昼堂々タブーを犯しにくるな、建前は建前としてしっかり守れ。別に心から他のプレイヤーのために命を懸けろなんて言わない。俺だって戦えない連中のために剣を振るうなんてご立派な主張を、建前以上に説いてるわけでも実践してるわけでもないんだから。

 それでもTPOを弁えてほしいと思ってしまうのは俺の我侭なのか? モラルに欠ける本音をぶちまけたいなら、せめてひっそりと仲間内で酒でも飲みながら愚痴ってくれ。それなら誰も文句言わないからさ。

 

 このまま不貞寝を決め込みたいくらいだったが、それでも何とかこの場を収めようと頭をフル回転させたのは、これ以上血盟騎士団の看板に泥を塗られる前に何とか事態を軟着陸させてやるためだった。

 完全決着モードの決闘なんて誰が受けてやるものか、ここはどうにか口八丁で切り抜ける……!

 そう考えてとりあえずクラディールに血盟騎士団所属の騎士であることを思い出させてみたのだが……これで少しは大人しくなってくれるだろうか? 一々芝居がかった態度が目立つように、クラディールは間違いなくプライドの高い男だった。一度他人の視線を意識させれば、多くのプレイヤーが見ている前で矢鱈滅多な支離滅裂さは見せたくないはずだ。クラディールだって自分の行いが道理に見合わないことくらい気づいている……はずだ。……頼む、気づいていてくれ。

 後はこのまま対応を間違えないように上手く誘導して、決闘自体を取り下げる方向に持っていければ――。

 

「ごちゃごちゃうるせえ! テメエはこの俺が必ず殺してやる、いけすかねえガキがッ!」

 

 クラディールの殺害宣言、もとい雄雄しい叫び声が広場を駆け抜けた。……全力で空耳であってほしかった。

 おい、なんでそうなる。折角の芝居を無駄にするなよ。それとも俺の台詞をそのまま弾劾として受け取ったのか?

 ガラガラと俺の目論見が崩れる音がした。

 人目も気にせず殺害宣言とかちょっと勘弁してもらいたい。そりゃ感情が昂ぶっての暴言なんだろうとは察しもするが、お前は自分が何を口走ってるのか理解しているのかと小一時間問い詰めたいくらいだ。

 ここは『確かに私の心得違いであった。忠告感謝する、黒の剣士』みたいな台詞で格好良く去っていけば良い場面じゃないか? そのための芝居だったのだし、これならクラディールの面目だってどうにか保てただろうと思うんだよ。攻略組として、血盟騎士団の団員としての度量だって示せる。《過ちては改むるに憚ること勿れ》ってな、頭を下げることは決して恥じゃないんだよ。むしろ演出の仕方によっては強力な武器にだってなる。

 だというのに奴は我を貫いた。決闘の申し立てを引っ込めるつもりは毛頭ないってことか。どうしても白黒つけたいらしい。

 

 言葉に詰まり押し黙る俺を、クラディールはどこか濁った双眸できつく睨み続けていた。

 クラディールは攻略組としてそれなりに名の通ったプレイヤーである。相応に頭も回るはずだと考えてたんだが、それは俺の見込み違いだったのか? それとも俺への強い敵愾心がこの男本来の思考を鈍らせてしまっているのだろうか。憤怒に染まった表情と血走った目を見る限り、後者のほうが説得力がありそうだけど、何もそこまで俺を嫌ってくれなくてもいいだろうに。そんなに俺って性格悪いのかよ。

 俺のことが気に食わないなら、わざわざ突っ掛かってこないでひたすら無視に徹するとか出来なかったもんかな。いや、今回の場合は俺への反感だけじゃないか。敬愛する副団長様と侮蔑対象の俺が仲良く一緒にいることが許せなかった、ってのも一因というか主因なのだろうし。だからって完全決着モードの決闘を吹っかけてくるとかどれだけだよ……。この場合、冷静になれって俺が言うのは逆効果なんだろうなぁ。

 

 もうどうにでもなれという投げやりな気持ちと、あまりに理不尽な出来事を前にした八つ当たりを踏まえて決闘受諾画面を睨みつけ、長らく放置されていた《YES》ボタンを押し込んだ。事ここに至っては俺の口先一つじゃ止まらないだろう。どんな形であれ一戦してやらなきゃ収まりがつかないはずだ。一体何が悪かったのかと自省してみるも、全ては後の祭りだった。

 デフォルト設定のままなのできっちり60秒間のカウントダウンが始まる。同時にお互いのHPバーが可視化され、眼前に浮かび上がった。

 俺たちの間に浮かぶカウント表示がゼロになったとき、圏内においてプレイヤーを守る絶対のHP保護システムが切られ、決闘開始の合図となる。システムの上では決闘であっても、その内実は殺し合いと言って語弊がないのがひたすら憂鬱だ。まさか完全決着モードの下で剣を振るう日がくるとは思わなかった。

 こうなってしまった以上は仕方ない。集中力を高めようと呼吸を整えていく。半減決着モードですら場合によっては命の危険があると言われているのだ、完全決着モードなどという悪魔のルールが敷かれてしまった以上油断は命取りになる。決闘そのものを馬鹿にするつもりはなくとも、こんな馬鹿馬鹿しい戦いで命を落とすのは断じて御免だった。

 

「ここまで大きな騒ぎになれば確実にヒースクリフの耳に入る。どう言い訳するつもりだ?」

「テメエが知る必要のねえことだが……ふん、座興だ。付き合ってやる。――アスナ様がテメエとコンビを組むと知って、団長にはここ三日程通い詰めて再考を迫ったが、あの方は決して首を縦に振らなかった」

 

 せめてヒースクリフの名で思いとどまってくれないものかと口に出すと、クラディールは一瞬顔を歪めたものの意外なことに返答をよこした。もっともすぐに愉悦に染まった表情に戻ったあたり、俺の思惑通りに事態は動いてはくれないようだ。

 

「だがな、俺の熱意を団長は汲んでくれたぜ。ギルド方針に反した俺の主張を通したいのなら《剣で語れ》とな。俺の決闘は団長のお墨付きってわけだ。残念だったな」

 

 ……それ、絶対お前の勘違いだと思うぞ。

 得意げな顔で血盟騎士団の裏事情を語る男に、思わず半眼で突っ込んでしまいそうになった。《道理を無視して我を通したいのならば、己が剣を以って語って見せろ》とは如何にもヒースクリフの言いそうなことではある。しかしその言葉の真意はヒースクリフ自身にクラディールの主張を剣で認めさせてみろという意味だろう。間違ってもギルド外のプレイヤーである俺に決闘吹っかけて事を荒立てろというものではないはずだ。……まさか三日通い詰められて対応が面倒になった挙句、俺に丸投げしたとかいうわけでもあるまい。

 ヒースクリフは道義や義理を軽々しく無視して秩序を乱すような男ではない。もしも徒に混乱を呼び込むようなプレイヤーなら、今日のアインクラッドにおいて多数のプレイヤーから絶大とも言える尊敬と信頼を勝ち得ていないだろう。つまり今回の決闘はヒースクリフのお墨付きでも何でもなく、ひたすらクラディールの勇み足かつ拡大解釈による暴走だということだった。……俺にどうしろと?

 溜息を一つ吐けば幸せが一つ逃げるというのなら、本日の俺の辞書に幸福の文字はない。アインクラッドのキリトさんちでは、幸せさんは皆逃げ出して不幸さんがお留守番をしてますよ、ってなもんである。幸せカムバック……!

 

「あんた、羨ましくなるくらい都合の良い耳してるよ」

 

 いや、この際お目出度いと言うべきか? 語れば語るだけ墓穴を掘る男にどうしたものかと悩んではみても、これ以上は付き合ってられないという気持ちがどんどん大きくなってくる。早々に決闘を終わらせ、攻略に戻りたい。

 そんな内心を抱えた俺のぞんざいな言い草に、クラディールは再び眦を吊り上げて怒鳴りつけようとしたようだが、決闘開始までのカウントダウンが迫っていることに気づいて自重したらしい。腰から装飾過多の両手剣を抜き放ち、身体を前傾させる姿勢を取った。

 両手で握った剣は右肩へ担ぐように構え、剣先は俺に向けられた刺突の予備動作だ。ここまであからさまなのも珍しいため、おそらくは擬態だろうとは思うが、大前提として先手必勝の構えであることは確かだ。あそこから守勢に回るというのは考えにくい。

 翻って俺はと言えば、背の鞘から黒塗りの剣を引き抜き、右手に軽く握ったままだらりと腕と言わず全身を弛緩させていた。格好つけた言い方をするなら無形の位に近いか。後の先狙いの構えだった。

 

「テメエ、俺を舐めてんのか? 二刀流使いが剣一本しか使わねえのはどういう了見だ、あ?」

 

 ぴりぴりと高まる戦闘熱を肌で感じていた矢先に、相変わらず目を吊り上げて不機嫌を隠そうともしないクラディールが語気荒く問い質してきた。凄み方が不良というかチンピラである。俺が言えたことじゃないけど、もう少し品性ってやつをだな……。いや、それはいいから決闘に集中して黙ってろよお前。これから戦う相手に戦術を尋ねるとか馬鹿丸出しだぞ。

 

「ちょっとした約束があってな。プレイヤーを相手にする決闘では無闇に二本目の剣を抜かないようにしてるんだ」

「なんだとぉ……」

 

 そう怒るなよ、大した理由があるわけじゃないんだ。

 攻略に躍起になって周りが見えなくなっていたことを自覚したからこそ、少しだけ張り詰めた心の弦を緩めようと考えた。攻略とは関係のない遊び心(こだわり)を持ってみようか、と。

 リズの剣はゲームクリアのための力であり、この世界を終わらせるために振るう刃だ。だからこそ俺が左手の装備スロットを埋めて二刀流を存分に振るうのはモンスター相手だけと決め、決闘にリズの剣は極力使わないことにしたのである。不思議だったのはそうやって気持ちにゆとりを持たせた方が戦闘に集中できるようになり、攻略効率が若干上がったように思えることか。意外な成果を得た思いだ。

 

 もちろん矜持を命に優先させる気はない、PoHのような危険極まりないプレイヤーが相手ならば話は別だ。俺自身を守るために、そして仲間を守るために、どうしてもプレイヤーの命を奪わなくてはならない時が再びくるというのなら、その時はリズの剣を振るって全力で戦う。次にあの男と(まみ)える機会があるのなら、以前のように俺の剣筋が鈍ることはないと確信していた。

 もっとも今はそんな切羽詰った状況ではなかった。勝つことを義務付けられた戦い以外に二刀流は不要だ。……というか、この決闘に関しちゃ二刀流の火力を持ち込む利が俺にはこれっぽっちもないのだから、盾なし片手剣スタイルの方が都合が良い。二刀流の上位剣技なんて威力がありすぎて下手に対人戦に用いるとオーバーキルすぎる。うっかり決闘相手のHPバーを吹き飛ばしちゃいましたとか洒落にならない。

 どちらにせよ俺の言い分はクラディールにとって挑発にしかならなかったのだろう。それならそれで利用できる、ついでとばかりにもう一手打っておくことにした。多少でも効果が期待できるなら良し。

 

「そもそもこの決闘、あんたは挑戦者側だろうが。俺が上で、あんたが下だ。俺の戦い方にいちいち文句をつけられる立場じゃないってことをまず自覚しろ。……そうさな、俺もヒースクリフに倣ってこの言葉をくれてやるよ。――言いたいことがあるのなら剣で語れクラディール、繰言ばかり抜かすのは負け犬のすることだぜ」

 

 その繰言でクラディールを退けようとしていた俺自身のことは盛大に棚上げである。今日から座右の銘を《心に棚を作れ》にでもしようか。

 出来るだけ憎たらしく見えるよう、嘲りと不敵さを半々くらいにブレンドした表情を浮かべて口角を吊り上げる。戦闘を有利に進めようというのなら、対戦相手の平常心を奪う挑発――舌戦は基礎中の基礎だ。

 これが本来の力試し的な意味での決闘だというのなら、いくら悪どい俺でもここまで露骨に煽ったりはしない……と思う。多分。おそらく。めいびー。

 しかし今は別である。完全決着なんて馬鹿な手段を仕掛けてくれた相手だ、そんな野郎にかける慈悲を俺は持ち合わせちゃいない。この程度の挑発では手緩いくらいだった。

 

「この、クソガキが……っ!」

 

 ……手緩いはずだよな? 血管を浮き立たせるように顔面を怒気に染め上げたクラディールを見るに、些か手ごたえがありすぎて困惑する結果になった。ちょっとばかし意外だ、ここまで見事に挑発に乗ってくれるのも珍しい。珍しすぎて裏を疑いたくなるレベルだった。

 もしやすると激昂したフリをして俺を油断させるクラディール一流の芝居なのではないかと、そんな懸念が脳裏を過ぎる。あれが演技だとするなら相当真に迫っている、これは芝居の線も踏まえて警戒しておくべきか。そう考えたところでカウントダウンはついにゼロ。決闘開始だ。

 

 クラディールが前傾姿勢を保ったまま地を蹴り、攻略組プレイヤーに相応しい速度で俺に迫り来る。勢いそのままに右肩に背負った刃を力強く突き出す一撃に対して、俺もエリュシデータを操って剣の軌道をずらしにかかった。

 大振りの両手剣と細身の片手剣の間で火花を散らすように乾いた音が鳴り響くも、寸毫の見切りによって奴の剣が俺に届くことはない。刃は俺の脇を抜け、後方へと流れただけだ。クラディールの攻撃がソ-ドスキルでなく単なる通常攻撃だったために出来た回避方法だが、その一瞬の交差にクラディールは目を見開いて驚愕を露わにしていた。……この程度で驚くなよ、まさか今の一撃が俺に届くと考えていたわけでもあるまいに。

 

 その心根はともかく、クラディールとて相応の場数を経て攻略組の一員としての立場を得ている、想定外のことに一々動きを止めたりはしない。素早く剣を引き戻すと、鍛え上げられた筋力数値を生かして連続した斬撃を見舞ってきた。

 両手剣使いに推奨されるステータス構築は筋力優先だけに、クラディールの剣は一撃一撃が重い。それに対し、筋力、敏捷、共に偏重のないよう振ってきたバランス型ステータスの片手剣使いとしては、鍔迫り合いは不利と判断して回避と受け流しに努めるのが定石である。しかし俺がまともに片手剣対両手剣の定石を守ると考えてるなら認識が甘いぞ、クラディール。全プレイヤー最高のレベルは伊達じゃない。たとえバランス型ステだろうとお前に匹敵する筋力数値を誇るんだ、武器の重量の不利を覆して正面切って押し返すことだって出来る。

 

 ……こんな風にな。

 何度目かの剣戟に合わせて自らクラディールの懐に飛び込むように間合いを詰めると、お互いに袈裟からの鍔迫り合いに突入し――そのまま俺が力任せに押し切った。その瞬間、無防備な死に体を晒すクラディールだったが、俺はそこに一撃を入れることなく再び距離を取る。

 決闘の勝敗がHPをゼロにする完全決着である以上、俺にとってクラディールのHPを全損させて得る勝利条件などあってないようなものだ。見方によればこの決闘は女を巡っての痴情のもつれ合いが発端なのだし、そんな脱力するような理由で人を殺したくない。

 勿論威嚇の意味でクラディールのHPを削るのもありと言えばありなのだけど、多くのギャラリーの前で下手な真似をしたくなかった。『あいつは完全決着モードであっても躊躇いなくプレイヤーを傷つけられるやつだ』、なんて評判は嬉しくないのである。そのあたり、俺の対戦相手様はどう考えているのか聞いてみたいものだ。一片の迷いも感じさせない両手剣の太刀筋には苦い思いが募るばかりだった。

 

「へ、へへへ。どうやら俺を本気で攻撃できねえようだな、ざまあないぜ」

 

 俺に弾き飛ばされた不恰好な体勢を取り繕うようにクラディールが強気な態度を装う。無防備を晒していながらダメージを受けなかったことで完全決着モードを仕掛けた効果を実感したのだろう。俺が手出しできないと確信したのか、声と表情の両方に愉悦の色が混じっていた。……そう素直に感情を表すなよ、裏があるのかと不安になるじゃないか。

 改めて思うんだが、お前の役割演技(ロールプレイ)は本気で何処を向いてるんだ? 悪役を標榜したいのなら所属するギルドを間違えているし、血盟騎士団の団員として正義の騎士をやりたいというのなら、もう少しやりようがあるんじゃないかと思うんだけどな。

 

「安心しろ、あんた程度の腕じゃどれだけ剣を振り回しても俺にダメージを与えられないよ。好きなだけ攻撃しとけ」

「ふん、時間切れ(タイムアップ)引き分け(ドロー)狙いか。せこいことを考えるじゃねえかよ」

 

 お前が言うなー、とは本日何度目の嘆息だったことか。もう鏡を見ろとは言わない、お前は鏡に囲まれた生活を送ってくれ。

 挑発紛いの台詞には無言を貫く俺にクラディールは面白くなさそうな顔をしていたものの、すぐに気を取り直したのか獲物を甚振る嗜虐的な笑みを浮かべ、剣を構え直した。決闘開始の合図の時と似たような構えだ。

 

「そんな決着をこの私が許すと思うかァ……!」

 

 初めから許してもらおうとも思ってねえよ。

 クラディールの愉悦に染まった顔からはすっかり警戒心が抜けていて、どうやって俺を嬲ってやろうかという一点に気が逸っているようだった。気もそぞろなその様子からはとても決闘に集中できているとも思えない。必然、戦闘の駆け引きも稚拙で単純なものとなるだろう。

 今のクラディールに攻略組としての実力はない。油断と慢心が奴の手足を縛り、実力の大半を封印してしまっている。そんな状態でソードスキルを発動しようが怖くも何ともなかった。――そうなるように仕向けたのは俺だけどな。

 

 アインクラッドにおけるプレイヤー同士の戦いとは、即ちソードスキルの読み合いだと言って過言ではない。

 無論、ソードスキルなしでも勝利を手にすることは可能だが、システムアシストを得ることのできるソードスキルはその速さ、正確さ、命中性能が圧倒的だ。よっぽど仮想世界の動き方に熟達し、かつ高レベル高ステータスを実現したプレイヤーでないとソードスキルに迫る動きは出来ないだろう。そして出来たとしてもシステム判定的な意味でダメージ効率はソードスキルの方が圧倒的に上となる。結局ソードスキルに頼ることになるのだから、ソードスキルなしでの戦いを想定すること自体ナンセンスだった。

 相手の選択する剣技、自分の繰り出す剣技、そのぶつかり合いを如何に読むかが決闘の勝敗を分ける重要な鍵であり、そこに腕試しの醍醐味がある。しかし俺がクラディールを相手に仕掛けたのは、徹頭徹尾油断を誘うことでソードスキル発動に伴う一切の虚飾を剥ぎ取ってしまうことだった。

 

 自身が攻撃されないとわかれば警戒心が薄くなる。俺が引き分け狙いだと悟れば決着を急ぐ。加えて、様子見の段階での剣の応酬で、純粋な剣の技量では俺に分があるのだと察しただろうから、スキルを用いない剣腕の競い合いでは時間切れの可能性が高いと考えもしよう。行き着く先はソードスキルを使用した大ダメージ狙いの一手しかない。

 そして――。

 油断がフェイントを省く。慢心が動きを単純化する。硬直化した思考が安易な選択に飛びつかせる。

 危険の存在しない場所から一方的に俺を攻撃できると考えている男が、この期に及んで対プレイヤー戦の基本を守ることはなかった。数撃ちゃ当たるとでも思ってるのかもな。

 嗜虐的な笑みを浮かべた男は意気揚々と剣を上段に構えるや、間髪入れずにソードスキルの初動モーションを開始する。そこに攻略組所属の強者としての技巧はない。繰り出すソードスキルを正確に読むことも容易かった。

 

 クラディールが放とうとしているのは両手剣スキルの上段突進技《アバランシュ》。

 受けようとしても両手剣特有の重さと突進の加重による衝撃が反撃の機会を奪い、行動の自由を縛られることを嫌って回避に成功しようとも突進技ならではの動きで距離を稼ぎ、反撃の間合いをすぐに脱してしまう。《アバランシュ》は攻防にバランスの良い優秀なソードスキルと言えよう。

 難点を言えば技後硬直時間が長めに設定されているくらいだろうか。しかしその短所は防御と回避を困難にさせる長所によって埋められていた。《アバランシュ》習得の熟練度が相当高く設定されているのも頷ける、実用性の高いハイレベル剣技である。

 おそらくクラディールが対モンスター、対プレイヤー双方に多用する技なのだろう。実用的な意味での技の効果の高さも然ることながら、上段から繰り出される重量感のある一撃は迫力に満ちているし、剣を命中させた時のエフェクトも派手で見栄えも中々のものだ。

 

 クラディールの両手剣が発するオレンジ色の燐光が目に眩しく輝き、準備が整ったとばかりに荒々しく地を蹴って真っ直ぐに突進を開始した。システムアシストを得たクラディールの身体は、先の踏み込みとは比べ物にならない速さで猛然と距離を詰めてくる。フロアボスの速さにも迫らんとするその一撃、しかしその攻撃こそを俺は待っていた。俺の狙いが引き分けにあると決め付けたお前の失策だ、その判断こそを悔やんでくれ。

 クラディールが仕掛けたタイミングと同期するように後方へと一気に跳躍、鍛え上げたステータス数値と磨き上げたプレイヤースキルが俺の意図した距離を正確に跳び退ることを可能にしてくれる。着地の体勢を低く設定し、一度たりともクラディールから目を離すことなくタイミングを図る。奴は俺の動きを小細工と見たのか、相変わらず警戒の緩んだ表情を浮かべていた。疑念を持たないでくれたほうが楽には違いないが、ここまで狙い通りに踊ってくれるというのも考え物だ。どうも裏を疑ってしまって落ち着かない。

 とはいえ、一度発動したソードスキルは途中でキャンセルしようと技後硬直からは逃れられないのだから、この時点で俺の狙いに気付いた所で結果は変わらないだろう。この先の主導権は俺にある。後は脳裏に描いた動きを微調整しつつ再現するだけだった。

 

 オレンジの燐光を撒き散らしながら大振りの剣が振り下ろされる――直前、片膝を立てるような低い体勢から一気に跳躍した。筋力、敏捷の高さが可能にする無茶な身体運用ではあるが、対戦相手のレベルに合わせて能力を制限しなければならないなどというルールは何処にもない。

 俺が攻略組でも随一のレベルを誇ることなど情報屋に尋ねる必要もなく手に入る情報だ。その上で決闘を挑んできた以上、彼我のステータスの差を考慮しないのは単なる怠慢であるし、それを理由に敗北を受け入れられないというのなら初めから決闘なんて手段を取るな、という話になる。レベル差を覆す戦術や技巧は確かに存在する。システム上の数値だけがこの世界の強さを決定付ける要因とならないことは、死を身近に置く攻略組の誰もが知っていた。そしてプレイヤースキルの研鑽の重要性を知るからこそ、レベル差がもたらす圧倒的な戦力の差もまた把握している。

 システムと経験の融合こそが攻略組を支える強さの根幹だと知っているはずのお前が、どうしてこんな馬鹿な真似をした? お前はこの決闘の先に何を見ていたんだよ。

 

 クラディールの繰り出した《アバランシュ》は上空高くに跳躍した俺を捉えることなく空振りに終わった。

 ソードスキルは確かに回避が難しい。ハイレベル剣技だとすればなおさらだ。システム補正は相手の回避運動に合わせて技の軌道を柔軟に変化させることすら可能とするのだから、その速さと正確さを掻い潜ることは至難だった。ソードアート・オンラインを象徴するシステムだけに力の入れようもすさまじいものだと感心するばかりだ。

 しかしシステム補正も万能の魔法というわけではない。スキル発動中に無敵になるわけでもなければ、必中の加護を持ったシステムでもないのだからやりようはいくらでもある。

 

 ソードスキル回避を可能にする一つの答えとして、プレイヤーの視界認識の外へと動くことが挙げられる。追うべき相手を見失い、すぐに視界に捉えなおせなければ、ソードスキルはキャンセルされるからだ。

 例えば今回の《アバランシュ》の場合、防御と回避を難しくする重量と突撃の複合効果を無力化させることを念頭に置く。システムアシストの効果はプレイヤーの認識に負う部分も少なくない。突進技特有のスキル発動中の視界制限を最大にするために距離を稼ぎ、その上で急激な上下運動で撹乱してしまえばいくらシステムアシスト下とは言え、容易に追随できるものではなかった。ゲーム世界とは言っても上下の動きに弱い人間の構造上の特徴は無視できない。

 

 そして俺の動きを追えていたとしても、既にクラディールの身体は技後硬直の檻に囚われているのだ、次の一手はかわせない。布石としてスキル発動後に距離を開けていたから、アバランシュで稼げる離脱距離も高が知れていた。

 跳躍の限界に差し掛かった軌道の頂点で体勢を上下逆に入れ替え、上空からの急降下に合わせて初動モーションを開始する。

 左手で照準を合わせ、右腕を後方に引く弓術のような構え。本来は右足を引き、腰を落とした低空ダッシュの姿勢から突き出す片手剣スキルなのだが、空中では足場を固定できないためにやや変則的な構えとなった。しかし発動そのものは問題なくシステムに承認され、俺の剣からペールブルーの燐光が尾を引いて宙に散る。

 

 片手剣基本突進技《レイジスパイク》。

 威力も弱い初期剣技の一つだ。しかしこの局面ではそれで十分。俺の狙いはクラディールのHPを削ることではないのだから。

 落下速度にスキルによる突進効果が付与され、さらに加速する最中、裂帛の気迫を込めて剣を力強く突き出す。一筋の剣閃が技後硬直中のクラディールへと迫り、狙い違わずクラディールに握られた両手剣へと吸い込まれた。白銀の刃の中央に黒塗りの刃の切っ先が射抜くように繰り出され、甲高い衝突の音色が広場を鋭く駆け抜ける。

 一瞬の静寂。

 しかし俺が着地し剣を引くのに合わせて、クラディールの大振りな剣の中央に生じた皹が瞬く間に広がっていく。剣の消滅――ガラスの割れるような硬質の響きが空気を震わせたのは、俺がエリュシデータを背の鞘に納めたのと同時だった。

 その瞬間、固唾を飲んで決闘を見守っていたギャラリーから爆発したかのような歓声が飛び交った。

 

「すげえ、なんだ今の動き」「絶対《武器破壊》狙ってたよな。そうか、あんな壊し方もあるのか、さすが黒尽くめ(ブラッキー)先生」「てか飛んでなかった? あの人また妙なスキルでも手に入れたのか?」「アホ、ありゃ単に跳び上がっただけだ」「キリトさんカッケー」

 

 ちらほら聞こえてくる雑談に頭を抱えたくなる。だからなんであんたらはそんなに楽しそうなんだよ。まさかこの決闘が完全決着モードで行われてることを忘れてるわけじゃあるまいな? 決闘開始前はそれでも悲壮感があった気がするんだけど、今はそいつも何処かにうっちゃったのかお気楽そのものの空気が漂っていた。

 まあいいけどさ、と頭痛をこらえて対戦相手へと目を移す。クラディールは既に技後硬直を終えて自由の身に戻っているはずだ。しかし己の剣が消失した衝撃から回復できないのか、未だにその場に膝を着いたまま呆然と死に体を晒していた。その姿に自然と溜息が零れてしまう。

 武器破壊は公開済みの技術だ、何を驚くことがある。俺が武器破壊技能の発見者だってことも別に隠されちゃいない。その俺を相手にしたのだから、武器破壊の可能性は当然想定しておくべきことの一つだった。

 だというのに、まるで想定外の出来事だったとばかりに驚愕の顔で自身の両手を見下ろすクラディールは、これまでの振る舞いと合わせてあまりに情けない。それとも武器破壊を、先読みを駆使した機先を制する戦いでしか発動できない技術だとでも勘違いしていたのか? だとしたら認識不足も良いところだ。

 

 システム外スキル《武器破壊》を仕掛ける機は主に二つ。

 一つは相手の繰り出すソードスキルを読み、その軌道に合わせて的確な技を選択した上で剣の軌道をぶつけ合わせる、言わば正統派の使い方。

 そしてもう一つが今回俺が披露した、技の放ち終わりを狙った裏技的な使い方だ。技後硬直中の武器衝突も技を仕掛けるタイミングとして十分に機能する。何故なら技後硬直時間も含めてソードスキルはモーションが完結しているからだ。もっとも判定はえらく厳しくなるけど。

 そもそも《武器破壊》って使い勝手が悪すぎる技術なんだよな……。

 モンスターへ仕掛ける武器破壊はシステム上は部位欠損として扱われるため、時間が経てば回復してしまう。加えて武器破壊自体、労力とリスクに釣り合わないために使う機会は著しく限定される技だ。つまりは対人色の強いスキルなんて枠組みになってしまうわけで、実のところ公開したことを少しだけ後悔していたりする。

 

 まあ針の穴を通すような正確さと繊細さが必要な、シビアすぎるシステム判定を乗り越えなきゃいけない時点で実用向きな技じゃないんだけど。いわば曲芸みたいなもんだ。

 ギャラリーの中にも感心してる奴がいるみたいだけど、こんな実用性の低い技の習得にくれぐれも躍起にならないでもらいたい。武器破壊を習得するために時間をかけるくらいなら、その分をレベリング時間に費やしたほうがずっとマシなのだから。

 結局のところ、武器破壊がプレイヤー戦における禁じ手だと知りながらクラディール相手に用いたのは、俺がこの決闘に勝利する方策が他に思いつかなかったからだ。勝負自体をドローにしてしまうこともありと言えばありだろう。しかし異常なほど俺に突っかかってきたクラディールがそれで納得したかどうかは怪しい。ここで白黒つけてしまったほうが後腐れがないと判断したのだが、はてさて。

 

 なにより努めて冷静を装ってはいても、俺なりに頭にきていた。

 ちらとアスナを見やり、再びクラディールに目を移す。攻略組の範として、今までアスナがどれだけ心を砕いて血盟騎士団を率いてきたと思ってるんだか。ギルドの運営だけじゃない。自身が手勢を率いてマップ攻略に励む傍ら、攻略組全体の意見調整のために他ギルドとの折衝だって数限りなくこなしてきた。

 彼女がゲーム攻略のために尽力し、命を削るがごとくの過酷な日々を己に課してきたことは今更語るまでもない。それこそ彼女の功績の程は血盟騎士団の団長であり、攻略組の象徴として君臨してきたヒースクリフに比肩もしよう。アスナが今日まで背負ってきた労苦と重圧が並大抵のものであったはずがない。

 

 そうしている内に今度は崇拝染みた期待を寄せられるようにすらなった。その全てに応えようと奮闘してきたのが攻略組の誇る《閃光》の姿だ、俺は彼女ほど努力の似合うプレイヤーを知らない。

 その尽力の悉くを土足で踏みにじるような真似をしたクラディールに、俺はどうしても苦々しい思いを抱かずにはいられなかった。衆人環視の中で堂々とタブーを破りにきたクラディールにお灸をすえたくもなる。俺自身散々アスナに迷惑をかけてきただけに、余計にそう思えてしまうのかもしれない。

 

「もういいだろう。降参(リザイン)しろ、クラディール」

 

 俺の宣告は憤懣遣る方ない心境がそのまま口に出たかのように冷淡な響きをしていたんじゃないかと思う。クラディールに向けた俺の双眸も冷め切っていたであろうし、それを繕おうとも思わなかった。値打ち物であろう愛剣を失ったばかりの両手剣使いを気遣う優しさは、残念ながら今の俺には存在していなかったのである。

 

「……まだだ、まだ私は負けていない!」

 

 負けを認めろと告げた俺の言葉に、呆然と膝をつくままだったクラディールがようやく反応した。もっともそれは俺が望むものではなかったが。

 語尾を震わせながら往生際が悪いとも取れるつぶやきを吐き出し、奴の執念深さを体現しているかのように三白眼へと昏い光が宿る。その諦めの悪さは大したものに違いなかろうが、どうにも使いどころを間違えているような気がしてならない。こうして不倶戴天の敵として睨まれるのも勘弁してもらいたかった。

 そりゃ、システム上武器を失ったからとて決闘の勝敗がつくわけではないし、勝利を諦めるにはまだ早いという判断だってわかるけどさ。

 何がクラディールをそこまで駆り立てるのか、自失から回復した両手剣使いは素早くシステムメニューを展開し、アイテムストレージから予備の武器を取り出した。無手だった奴の手に長大な両刃の剣が出現する。先程の剣に比べてやや無骨さが増したような剣だ。細工師に装飾を施してもらう前だったのだろうか。

 何にせよ、クラディールに降参の意思がないことは確かだった。徒労感がひたすら増していく。

 

「降参する気はないんだな、クラディール?」

「あるわけねえだろうが! 誰がテメエなんぞに負けるかよ……!」

 

 血走った目をしたまま、泡を吹くように喚き散らすクラディールだった。

 ……これはもう俺の手には負えないか。諦観と共にそう結論付けるのに大した時間はかからなかった。

 

「わかった。なら、この決闘はあんたの勝ちでいい」

「なんだと?」

 

 嘆息しつつ告げた俺の敗北宣言が信じられなかったのか、猜疑に満ち満ちたクラディールの訝しげな表情を尻目にさっさと「参った(アイ リザイン)」と告げて決闘を終わらせてしまう。勝者であるクラディールの名を綴る紫色の文字列が出現し、システム的にも決闘の勝敗が決定した。

 クラディールはぽかんと大口開けたまま固まっていた。

 あのな、なんでそこで鳩が豆鉄砲くらったような顔をしてるんだよ。俺が降参するのはお前の狙い通りだろうが。まさか本気で俺のライフをゼロにして勝利するつもりだったわけじゃあるまいな? いくらなんでもそこまでしたら攻略組にいられなくなるぞ。

 

 意外だったのはあれだけ盛り上がっていたギャラリーが何の反応も見せなかったことだ。街中で派手に決闘騒ぎがあると、良かれ悪しかれプチお祭り状態になるものだし、勝敗が決まった瞬間こそ最も盛り上がるものだけど。俺が降参した瞬間にわずかなざわめきがあがったくらいで、それ以外には歓声の一つもなかった。完全決着モードなんて前例がない決闘なんだし、案外こんなものかもな。

 そんな感想を抱きながら、呆気ない幕切れに呆然としているクラディールにそれ以上目もくれることなく踵を返し、離れたところで見守っていたアスナの元へとゆっくり歩み寄っていく。クラディールに向けていた苦み走った渋面を労わりの表情に変え、「お疲れ様」と朗らかに俺を迎えてくれたことが有り難かった。

 

「俺が収めたほうが角が立たないと思ったんだけど、色々と力不足で悪いな。後は任せていいか?」

 

 元々奴に嫌われてる俺なら強引に押さえつけたところで何が変わるわけでもなかった。それにクラディールの論理でケリをつけてしまえば、決闘そのものを俺と奴の個人的な諍いだと強弁できなくも……さすがにそれは無理か。俺の芝居にクラディールが乗っかり、素直に剣を引っ込めてくれていればと思わずにはいられなかった。

 

「任されました。それとすぐに終わらせるからちゃんと待っててね。先に行ったりしないように」

「わかってる、ここでアスナを置いていくほど空気が読めないわけじゃない。心配無用だ」

「君はわざと空気読まないとこがあるから心配なの」

 

 すれ違い様、ジト目で告げてクラディールの元へと歩き出したアスナの後姿を苦笑いで見送った。

 意図的に空気読まないとは失礼な。俺の場合読まないんじゃなくて読めてないだけだぞ。そう返すのは俺の傷口を広げるだけだから絶対に口にしたりなんかしないけど。

 そんな馬鹿な言い訳をつらつら考えている内にアスナがクラディールからやや離れた位置で足を止めた。向かい合うには若干お互いの距離が遠いようにも見えるが、あれは多分心の距離が物理的な距離に転化されているのだろう。気丈な血盟騎士団副団長様とて一人の少女、ストーカー男には極力近づきたくないのが本音なのかもしれない。

 嫌われた当の本人はそんな上司の微妙な距離感に気づいた様子もなく、アスナの姿を目にして喜色満面の表情を浮かべていた。

 

「おお、ご覧いただけましたかアスナ様。私めの覚悟が黒の剣士を退け、あの小煩い小僧に黒星をつけることに成功しましたぞ。これも偏にアスナ様を想わんがため、私の忠誠でございます」

 

 酔ってんなー、と半眼でクラディールを見やる。ポジティブシンキングというか、その図太さは評価できるけど、相手が言葉通りに受け取ってくれるとも思えない。アスナの表情は見えないものの、多分苦虫を噛み潰したような顔をしてるんじゃなかろうか。ひたすら頭痛をこらえてるのだろうと同情してしまう。

 

「クラディール」

 

 アスナの発した声は氷雪を思わせる冷気――を通り越して絶対零度の凍気をこれでもかと思わせる寒々とした響きを帯びていた。未だにざわついていた野次馬の雑音すらぴたりと止めてみせたのだから大したものだ。今のアスナと正面から対峙したら、きっと俺は一目散に逃げ出すことを選ぶに違いない。

 

「血盟騎士団副団長の名の下に命じます。現時刻を以って《クラディール》が持つギルド内における権限の一切を凍結、さらにギルド本部での三日間の謹慎を申し付けます。正式な罰則は血盟騎士団団長ヒースクリフが追って通達することになるでしょう。速やかに令に従いなさい」

「なっ!? なぜですアスナ様! 私の決闘は団長公認であると……!」

「二度は言いません。これ以上口答えするのなら、わたしの権限であなたのギルド脱退を考慮することにします。それでもよろしいですか?」

「……ぐっ。……ギ、ギルド、本部に、戻り、謹慎に、努めさせて、いただき、ます」

 

 クラディールはアスナの本気を感じ取ったのか、恥辱と憤怒に顔面を真っ赤に染め上げ、屈辱に身体を震わせて途切れ途切れに承諾の返事を口にした。本心から納得しているわけではないのは明らかで、思い切り不承不承という態度ではあったが、ギルド脱退まで持ち出されてはそれ以上抗弁することも難しい。大人しく命令に従う以外になかった。

 そもそもギルド脱退などという、いわば《抜かずの宝刀》を持ち出された時点でクラディールには相当の屈辱だったはずだ。

 通常、MMORPGにおけるギルドというのはトップであるギルド長に権限の大半が付与され、システム上では上位下達の仕組みになることが避けられない。なにせ団員の加入、脱退の権限を一手に握るのだ。極論を言えばギルド長の機嫌一つで気に入らないギルドメンバーを一方的に追放することだって出来る。無論、軽々しくそんな判断を下すような人間に信頼が集まるはずもないし、やがては空中分解につながるだろうけど。

 

 ソードアート・オンラインでもそうした事情は変わらない。ギルド創設者、すなわちトップの座に座るプレイヤーに権限が多く集まるシステムになっていた。権限自体はある程度別の団員にも付与できるとは言え、ギルド長の権限が消えるわけでもないから権限譲渡と言うよりは代理委任か。アスナが自身の権限で脱退を考慮すると言い放ったのもそうした事情故だろう。血盟騎士団は副団長が実務面の多くを取り仕切っているため、与えられた権限も大きいはずだ。

 付け加えるならば、デスゲーム仕様となったアインクラッドでは共同母体に帰属することは死活問題だった。特に攻略組にとっては各種サポートに充実した大手ギルドに所属することは実際的にも命綱みたいなものだから、そこから離れることは攻略組を脱落することに等しい。それに一方的にギルドを追放されたなんて噂が出回れば、何処か別のギルドに拾ってもらうのも難しくなる。だからこそクラディールのように脱退をちらつかせられれば中々抗弁できるものではなかった。

 つまりギルド脱退勧告という脅しは上に立つ人間が軽々しく用いて良いものではないが、覚悟を決めて用いるならばその効果も絶大である、ということだ。まさに抜かずの宝刀である。

 

 クラディールはやりすぎた。

 アスナを俺から引き剥がし、ギルドに連れ戻すのならばまずヒースクリフから説得するのが筋だったし、それが出来なかったのならギルド幹部に掛け合って賛同者を増やすべきだった。そこからギルドの総意で決定を差し戻すのが一番穏当で無理のないやり方だったろう。

 それらの手順を無視してアスナに直談判する、あるいは俺に力ずくで言うことをきかせたかったのなら、こんな衆人環視の元で大立ち回りを始めるべきではなかった。クラディールにしてみれば俺を叩きのめした後に俺がごねないよう証人を欲しがったのかもしれないが、それにしたって取らぬ狸の何とやらだろう。

 一番まずかったのは完全決着モードの決闘を仕掛けてきたことか。あれがせめて普通の決闘であったならば、アスナとて別の収め方もあっただろう。完全決着モードは限りなく殺し合いに近いルールだ。どこのギルドだって、いや、どんなプレイヤーだって正当化することはない。完全決着モードを持ち出した時点で、この決闘はもはや俺とクラディール個人の問題では済まなくなった。

 

 アスナにしてみれば悪夢だったろう。同じギルドの同僚というか部下が、よりによって完全決着モードを団長公認の元に仕掛けた、などと周りを勘違いさせるような発言を堂々としてのけたのだ。下手をしなくとも血盟騎士団に俺を排除する意思があるのだと声高に主張しているようなものだし、まかり間違ってギルドの総意としてPKを目論んだなどということになれば、一体どれだけの混乱がこの世界にもたらされることか。

 血盟騎士団は軍のように治安維持を担っているわけではなくとも、その声望と実力でアインクラッドの秩序構築に一際大きな影響力を保持している。故に所属団員は強く自制を求められるのだし、だからこそ俺も血盟騎士団を尊敬していた。

 アスナとしてはそれこそクラディールを殴りつけてでも止めたかっただろうと思う。あの時、俺が決闘を受けず、なおクラディールが引き下がらなければ、アスナ自らその剣を抜いて押さえつけていたはずだ。

 クラディールの暴挙と血盟騎士団の不和を内外に喧伝し、アスナがクラディールに恨まれるよりはと考えて俺がでしゃばってみたものの、こうなってしまった以上俺は徒に場をかき回しただけなのかもしれない。血盟騎士団との不仲解消を後回しにしたツケがまわってきた形だ。こんなもん予想できるかちくしょう。

 

「……黒の剣士、許さん。この屈辱、決して忘れんぞ。殺してやる、殺して……」

 

 ぞくり、と悪寒。

 クラディールの憎悪を溜め込んだ不穏当なつぶやきが繰り返され、地の底から響く怨嗟の響きを耳にしたことで自然と背筋に冷たいものが走った。クラディールは地獄の鬼もかくやという恐ろしげな表情で俺を睨みつけながら、力が入りすぎて震えっぱなしの腕をマントの中に突っ込み、ポーチから転移結晶を取り出して発動させる。転移先は血盟騎士団のギルド本部がある第55層グランザムだ。

 転移の光が消えてクラディールの姿が見えなくなるまで俺の緊張が解けることはなかった。表現を濁さなければ臨戦態勢を解くことが出来なかった。そうしなければならないほど、クラディールの雰囲気には危ういものがあったからだ。

 一応断っておくと転移門は目と鼻の先にある。だというのにクラディールが転移門に足を向けなかったのは、貴重な転移結晶を使ってでもこれ以上自身の姿を衆目に晒したくなかったからだろうか。プライドが高いと言えばそれまでかもしれないが、どうにも奴の行動は不自然というか不可解に思えてならなかった。

 

 今回の決闘は目的と手段が噛み合っていない。勿論奴の口にした強引な理屈があるにはあるのだけど、後始末を考えるととても真っ当な考えのもと俺に突っかかってきたとは思えないのだ。頭に血が昇っていたにしろ、果たしてここまで無茶をするものなのか?

 そう考えたところで、俺自身感情を爆発させて馬鹿をやった過去が頭を過ぎった。……ふむ、誰でも後先考えずに動くことはあるかと自己弁護込みで一度頭を振る。クラディールの振る舞いに疑問は幾つか残るものの、人間合理性だけで動いているわけでもなし。これ以上追及しても仕方ないかと割り切った。それに今、何よりも問題なのは――。

 ……あれは、混じりっ気なしの殺意だったな。

 去り際の常軌を逸したクラディールの危険な目の光が脳裏を過ぎり、薄ら寒い思いが湧き上がってくるのを止められなかった。同時に、ますます血盟騎士団との溝が広がった気がして頭痛が増していく。前途多難だ。

 この先どうしたものかと顔を顰めていた俺の前で、神妙な顔をしたアスナが深々とお辞儀をしたのは、クラディールが去ってすぐのことだった。

 

「重ね重ねの部下の非礼、血盟騎士団副団長アスナが伏してお詫び申し上げます。此度の決闘は誓って血盟騎士団の総意ではありません。後ほど団長ヒースクリフからも改めて謝罪の言葉が届くでしょう。その上で厚かましくも黒の剣士殿のご温情に縋り、なにとぞご寛容頂きたく存じます」

「血盟騎士団副団長の謝罪、確かに受け取った。《黒の剣士》の名と《閃光》殿との友誼にかけて、此度の件で遺恨を残さないことを誓おう」

「お心遣い痛み入ります。黒の剣士殿の慈悲に心よりの感謝を」

 

 舌を噛みそうな口上に内心辟易としながら、必要なプロセスだと割り切ってアスナと二人で仰々しいやり取りを交わす。素面でやるにはちょっと厳しいロールプレイだと冷や汗が出る以上に、堂に入ったアスナの態度に位負けしてそうな気がものすごくするのだった。美人は得だと感心してしまう。いや、まあ、アスナは真面目に頭を下げてくれてるんだから、本当はそんなこと考えてちゃいけないんだろうけど。

 この茶番にも勿論意味はある。クラディールが俺に完全決着モードの決闘を挑み、俺と立ち合ったことは秘密にできるようなものではない。今、俺たちを囲むギャラリーを口止めするにせよ全員となると難しいし、そもそも既にこの場を立ち去ったプレイヤーだっているだろう。逆にこの場の見物人からメッセージを飛ばされて一部始終を知ったプレイヤーもいるはずだ。とても隠し通せるようなものじゃない。

 

 だからこそ俺とアスナのやり取りは意味を持つ。

 俺と血盟騎士団の間に諍いはあってもそれは団員個人の暴走であり、ギルドそのものは関わっていない。その決闘にしても副団長自らが団員に罰則を与えて厳しく対処しているし、残る当事者の俺は謝罪を受け入れ、非礼を水に流す旨の宣言もしていた。

 この顛末が知れれば妙な噂になるようなこともないだろう。後は俺とアスナがペアを組んで75層のマップ攻略を進めている事実をそれとなく流せばいいか。そこまでしておけば今回の決闘騒ぎが大火に発展する前に消火完了だ。これ以上血盟騎士団との溝を深めてたまるか。

 まったく面倒なことにしてくれたと、今はここにいない両手剣使いに悪態を吐きたくなるのを懸命にこらえる。折角アスナが場を収めてくれたのだから、これ以上波風立たせるような真似をするべきではなかった。ついでに決闘を受諾した俺の行動を完全に棚上げするのも気が引けた、という理由も少しだけあったのかもしれない。

 

 それからしばらくはアスナと二人で見物人を解散させることに専念することになった。朝っぱらからの騒動で要らん混乱をもたらしたことを集まっていたプレイヤー達に侘び、気にすることなく攻略に向かってくれとやはり頭を下げる。フロアボス戦に参加するような見知ったプレイヤーには、無責任な噂を流さないようそれとなくお願いしつつ事態の収拾に駆けずり回った。

 幸いというべきかそれ以上の面倒事が発生することもなく、速やかに皆が立ち去ってくれたことに心から安堵の息を吐く。これ以上の心労はごめんだ、マジで。

 

「……本当にごめんなさい。今は君に謝り倒すことしかできないわ」

 

 俺とアスナ以外誰もいなくなり、先刻までの熱気が嘘のようにしんと静まり返った広場にぽつりと力ない言葉が零れた。肩を落としてこれ以上なく気落ちしているアスナに何と答えたものかとわずかに迷い、そのくせ口から出たのは「気にするな」というありきたりな一語だ。気のきかない男だと我が事ながら思う。内心の焦りを表に出さないようにしながら、もう少しだけ付け加えることにした。

 

「決闘のことなら申請を承認した俺にも非はある。それに今回の件がヒースクリフ達の差し金だなんて馬鹿なことも考えてないから安心してくれ」

「そうじゃなくて、いえ、それもあるんだけど……まさかクラディールが完全決着モードなんてものを使うなんて思わなくて」

 

 憂いに曇ったアスナの横顔に一度目をやり、すぐに肩を竦めて能天気を装う。問題は山積みだがそれも今に始まったことじゃない。

 

「それこそアスナの責任じゃないだろ、あんなの予測出来るほうがどうかしてるよ。それよりアスナは大丈夫なのか、結構な強権を振るってたみたいだけど?」

「元々わたしは団長から過ぎた権限を任されてるから、あれくらいはまだまだ許容範囲よ。脱退勧告も問題なし。誤解を恐れず言えば、問答無用でクラディールをギルドから除籍させたとしても権限の内なのよ。もちろんそういう重要な案件は本来幹部会議にかけるべきものだけど、緊急の場合はわたし個人の判断を優先させて良いことになってるから」

「うわ、おっかね」

 

 口では驚いて見せたものの、そこまで意外というわけでもなかった。

 血盟騎士団団長であるヒースクリフはその存在感、影響力はずば抜けているものの、全てを自身で決済するようなワンマン型のトップじゃない。フロアボス戦はともかく日々の迷宮区ないしフィールドマップの攻略はほとんど副団長のアスナに一任している関係で、権限の多くを部下に割り振ってギルドを運営しているのだ。もちろん最終決定権は常にヒースクリフが握っているわけだが、そこまで重要な案件などそうそう持ち上がるものではなく、大抵はアスナの判断で済んでしまっているのだった。

 それらを思えばナンバーツーであるアスナに付与された権限の大きさも推して知れよう。それこそ副団長というより団長代理と称しても違和感がない。とはいえアスナも信頼を預けられていることを十分に自覚し、必要以上に出しゃばらずにあくまで団長であるヒースクリフを敬う姿勢を崩していなかった。それ故、血盟騎士団は組織として非常に安定感がある。トップ二人に空隙がないから意思決定が速やかなのである。

 むしろ今回のクラディールの暴走こそ血盟騎士団としては珍しい出来事というか、俺でなくとも目を丸くする事態だろうと思う。

 

「キリト君? 女の子に向かっておっかないはないでしょう」

「いやいや、クラディールを黙らせた時とかかなりの迫力だったぞ。格好良かったって」

「女の子はおっかないとか、迫力がすごいとか言われたって嬉しくないものよ」

 

 男が可愛いって言われても嬉しくないのと同じだな。出来れば俺ももうちょっと男らしくなりたい。向こうの世界に帰ったら真面目に筋トレでも始めてみようか。まずはリハビリが先なんだろうけど。……そういえば俺の身体、無事だよな? 今更な心配ではあるが、障害とかできれば残らないでほしい。長いこと昏睡状態だけにかなり危ういはずだった。

 

「じゃあ格好良いはどうなんだ?」

「人によってはあり、かな? わたしは可愛いとか綺麗なんて言われるほうが嬉しいけど」

「へえ、アスナなら毎日言われてそうだ」

「そんなわけないでしょ。第一、そういう褒め言葉は大抵社交辞令だもの。本心から口にしてくれる人なんて中々いないわ」

 

 そんなものかと疑問に思う。少なくともアスナ相手なら本気の割合もかなり高くなりそうなものだけど。クライン率いる風林火山の連中あたりなら間違いなく本心も本心の美辞麗句を並べてくれそうだ。

 しかし真っ先に浮かんだ無精ひげを生やした赤髪のカタナ使いの姿はすぐに脳裏からフェードアウトしていった。アスナが鬱屈を振り払うように軽く息をついたからだ。

 

「気を遣ってくれてありがと。もう大丈夫」

「そこはスルーしてくれるのが様式美ってやつじゃないか?」

 

 そりゃ不器用の自覚はあるけど、こうも容易く見透かされるとか色々切ない。そんな俺の内心すら読み取られてしまったのか、アスナの表情はどことなく優しさを感じさせるものだった。翻訳するなら「しょうがないなあ」というところだろうか? ……不覚。

 

「キリト君はそれくらい隙があったほうがバランス取れてて良いと思うんだ。こうやって抜けてるところがないと、ついていくのも大変だもの」

「絶対褒めてないよな」

「拗ねない拗ねない。それにね、さっきのキリト君はすごく格好良かったと思うよ。《俺たちは戦えない人たちの刃となるべきだ》って君の言葉、とっても重かったけど、でも、なんていうのかな……すごく誇らしくて、報われた気がしたんだ。わたしだけじゃないからね、あれを聞いてた皆が誇らしげな顔になってたんだから」

「それ、クラディールを思い止まらせるための方便な」

 

 確かに俺自身が語った言葉だけど、頼むから掘り返さないでくれ。改めて自覚すると気恥ずかしくなるし、穴掘って埋まりたくなるから。

 

「わかってる。キリト君が建前を利用してクラディールを止めようとしてくれたのも、わたし達血盟騎士団に気を遣ってくれてることもね」

 

 でも、とアスナは続ける。

 

「キミが語った言葉は全部が本心じゃないかもしれないけど、同時に全部が嘘でもないでしょう。建前だけじゃあそこまで堂々と出来ないもの。それにあれほど真に迫った説得力も出せなかったんじゃないかな。あの言葉は君が口にしたからこそ、語るに相応しい人が語ったからこそ、わたし達の胸に何の抵抗もなく飛び込んできたんだよ?」

「勘弁してくれ、そういうのを褒め殺しって言うんだ」

「それだけのことをしてきてるのが君なんだけどなあ」

 

 そんなことを残念そうに告げるアスナだった。あのな、それを言うならアスナこそ《語るに相応しいプレイヤー》だろうが。アスナとヒースクリフを差し置いて俺が持ち上げられるとか冗談じゃない、俺の面の皮はそこまで分厚くないんだ。そう内心で唸っていると、アスナはついと視線を俺から外し、哀愁を窺わせる憂いを浮かべて続けた。

 

「ほんと、長いこと戦ってきたよね。今日までの戦いでたくさんの、それこそ数え切れない人達の命が散っていったわ。わたしもキリト君もその中で少なくない数の人の死を見てきた。だからこそわたしたちは、少しでも戦死者を減らそうと駆け回ってきたわけだけど」

 

 憂鬱そうな吐息を零すアスナに俺は何も言えなかった。

 俺よりもよっぽどアスナの方がダメージはでかかったはずだ。ソロプレイヤーの俺とギルドの副団長であるアスナとでは、人とのつながりが比較にならない。血盟騎士団の部下は言わずもがな、他ギルドとも交流の深かったアスナなのだから、親しく話した知り合いの死に触れる機会だって一度や二度じゃなかっただろう。

 それでも痛みを堪えてアスナも俺も戦い続けなければならない。ゲームクリアまで俺達は足を止めるわけにはいかないのだから。

 

「キリト君がクラディールに怒っていたのは、完全決着モードを使うなんて卑怯な真似をしたことに対してじゃないのでしょう? 人の命を軽く扱おうとしたクラディールが許せなかった。戦いの中で亡くなっていった人達を軽んじられたことが我慢ならなかった。――違う?」

「……クラディールにそんなつもりはなかったんだろうけどな」

 

 知らず溜息が漏れた。

 一年と十ヶ月だ。デスゲームが開始されて既に二年近くの歳月が経っていた。その間、最も自身の命を死線に晒してきたのが攻略組である。思いは人それぞれ、攻略の意思も人それぞれだろう。しかしどんな事情を抱えていようと、最前線に集ったプレイヤーが犠牲を払いながら百の内、七十四の層を攻略してきた功績は変わらない。

 クラディールはそんな攻略組の一員なのだし、奴のいる血盟騎士団だって犠牲者なしでやってきたわけじゃない。血路を開いて散っていった血盟騎士団(なかま)を、身内のお前がわざわざ貶めるようなことをするなよ。

 鬼籍に入った奴らだって、遊びでその命を落としていったわけじゃない。そりゃ最初はゲーム感覚の連中だっていたさ。けど、時が経つにつれて攻略組の意識も変わっていった。かつてケイタが夢見た《全プレイヤー開放のために戦う使命感に溢れた戦士》は言いすぎにしても、皆それぞれの思いを抱えて戦っている。心の真ん中に芯を持つとでも言おうか、彼らを頼もしく思えてならなかった。

 

 それは最強の剣士を目指すゲーマーとしてのエゴではなく、プレイヤー開放を達成せしめる使命感にも似た英雄願望でもない。昨日までいたはずの人間が今日になっていなくなっている、親しく言葉を交わした人間が目の前で無慈悲にモンスターに殺されていく。そんな日々を繰り返す中で否応なく悟らされた命の重みが、今の攻略組に根付く仲間への親愛につながっていた。

 そんな中、どうにかこうにか生き残ってる俺達が、あんな馬鹿みたいな決闘で軽々しく死者を出そうとしてどうする。いくらなんでも死んでいった連中に顔向けできないぞ。少なくとも俺はごめんだ。

 感情的になっていたあの男に、仲間を貶すつもりなんてなかったのだろう。

 クラディールは俺を攻略組の一員として認めていないのだと思う。殊更俺にきつく当たるのだって、俺が気づいていないだけでいつの間にかあの男の地雷を踏み抜いていたりもするのかもしれないし。悲しいことにどっかでやらかしてる可能性を否定できないのが俺だった。

 だからまあ、俺が気に食わないと言うのなら《仲間殺し》だの《ビーター》だの好きに呼んでくれて構わない。但し俺の目の届かないところでの陰口に留めておいてくれよ。目の前で好き勝手罵倒されることまでは許容しちゃいない、《それはそれ、これはこれ》って便利な言葉だ。

 

 ふっと息をつく。

 この世界に閉じ込められた当初、クラインすら見捨ててひたすら自己強化を優先した俺が変われば変わるものだ。

 二年。それが人が変わるのに十分な時間なのかどうかはわからない。しかし俺にも譲れないものが出来た。

 攻略組こそが俺の居場所だ。自暴自棄になって、勝手に一人になって、散々迷惑もかけて、それでもアスナやエギル、ディアベルは俺を見捨てずに居てくれた。クラインは誇らしげに俺に追いついたと言ってくれた。そんな彼らと過ごしていれば、自然と攻略組に誇りや愛着だって持つようになる。仲間意識だって出来るものだ。

 アスナ達と今まで積み重ねてきた努力を足蹴にされたような気がして、つい頭に血が昇ってしまった。こういう所は全く成長してない、相変わらず子供である。

 

「結局俺も感情的になって決闘受けちまったからな。ほんと悪かった、最初からアスナに任せておくべきだったよ」

「それを言ったら、わたしこそもう一度キリト君に頭を下げなきゃいけなくなっちゃうわよ。わたしと団長は団員の不始末の責任を取るべき立場なんだから、部下の振る舞いにだって気をつけなきゃいけないもの」

 

 そんな生真面目なことを言うアスナを素直にすごいやつだと感心した。正論ではあっても、それを宣言通りにこなすのは並大抵の気苦労ではないだろう。ソロとして生きている俺では想像することすら難しい。

 

「んー、なんだか謝るだけで許して貰おうって言うのも虫が良すぎる気がしてきた。――決めた。もう一回キリト君にお詫びすることにするわ」

「そこは蒸し返さなくていいって」

「そう言わずに受け取ってね。大丈夫、手間は取らせないから」

 

 そう言ってにこりと笑うアスナは軽やかな足取りで俺との距離をゼロにする。労なく俺の懐に入り込んだ彼女は、そのまま俺の唇をかすめるようなぎりぎりの位置へ、狙い済ましたようにそっと口付けた。そこに躊躇いはなく、柔らかな感触が俺の頬にくっきりと残る。確かな暖かさが俺の頬には灯っていた。

 それは突然のことで、悪戯っぽく微笑んだアスナに見惚れる間もなかった。理由は、多分付ける気になれば幾らでもつけられる。アスナに対する俺の警戒度が元々ないに等しかった事とか、アスナの態度が悪戯半分で戯れる時のそれであったとか、とにかく色々。彼女の振る舞いに対して余りに無防備だったのだと振り返るのも、やはり結果論でしかなかった。

 準備だとか心構えとか、そんなものを用意できるはずもない。俺の身体は麻痺にかかったように動かず、呆然と立ち尽くすだけだ。けれどそんな中で、アスナの仄かに朱に染まる気恥ずかしげな表情、瑞々しく桜色に色づく唇がこの上なく色っぽく見えて、どうにも彼女から目を離せなくなってしまった。

 

「あ、アスナ……さん?」

「忘れないでね、今のがわたしのファーストキスなんだから」

 

 思考が停止し、頭の中は真っ白になっていた。

 それでも忘れることはない。今の一瞬をどうあっても忘れることなんて出来ないはずだ。それくらい衝撃的な出来事だった。

 

「どうしていきなりこんなこと――」

「お詫びが不満だったのならお礼でもいいよ? わたし、キリト君のこと好きだもの」

 

 アスナはふわりと微笑むと、重大すぎる一言をさらりと告げた。その、どこまでも気負いのないアスナの態度が余計に俺から現実感を奪っていく。なんだこれ。ここで何が起こってるんだ? 実は全部夢の中だったとかじゃないよな?

 

「わたし、ずっと君を見てきた。ずっとずっと君に恋してきたよ。――だからね、キリト君の心が誰の元にあるのかだって、知ってるわ」

 

 粛々と、切々と。

 

「この気持ちはキリト君に告げたりせず胸に閉まっておくつもりだったの。本当よ。でも、やっぱり後悔はしたくないって思っちゃった。わたし達は何時命を落としてもおかしくない場所に立ってるんだから、伝えるべきことは伝えておかないと、って」

 

 彼女は語る。

 

「――この恋は、秘めるべき恋。この想いも、秘めるべき想いだった。だからわたしは、キリト君の心を望まない」

 

 目を閉じ、両手を胸に重ねて、そこに宿る感情を愛しげに口にするアスナに、俺はどんな顔を向けていたのだろう。俺に知っていてもらうだけで良いのだと、そう言って淑やかに微笑みかけてくれるアスナに、俺は何と応えるべきだったのだろう。

 

「……アスナは、それでいいのか?」

「わたしは君の一途さも知ってるつもりよ?」

 

 伝えるだけで満足なのかと口に出してしまってから、心底後悔した。それがどれほど彼女にとって残酷な言葉だったかに思い至って。

 アスナの望む答えを返せない俺が、これ以上言葉を重ねたところでどうしようと言うのだろう。意味のない繰言でどうなるものでもない、下手な慰めを口にして不義理をしでかすことのほうがずっと問題だった。

 もう少し物を考えて喋れ、条件反射で口を開いてどうする。……だからと言って、沈黙が正解だとも思えないけど。

 思慮の足りない己の醜態に内心頭を抱えていた俺を見やり、アスナはどう言ったものかと悩むような素振りを見せてから、程なく口を開いた。その口調は平静そのもので、常のアスナのものでしかない。

 

「わたしから振った話だけど、あんまり気にしないでね。これでも優先順位は弁えてるつもりだし、それはキリト君だって一緒でしょ? わたしは《血盟騎士団》副団長《閃光》のアスナよ。《黒の剣士》である君と同じ、皆の先頭に立って最前線を戦う剣士だもの。心配には及ばないわ」

 

 キリト君こそ変に悩んで不覚を取らないこと。

 俺を諭すようにそんな台詞を続けたアスナからは迷いも惑いも見出せない。俺がどんな思いを彼女に抱いているのか、それすら確かめようとせず、ただただ俺を気遣おうとする。――それは拒絶にも似たアスナの優しさだった。

 動揺の一つも見せず、凛として立つ彼女の勇姿、揺るがぬその姿勢。彼女に憧れているプレイヤーが一体どれほどいることか。そしてアスナの《特別》になりたいと望んでいるプレイヤーが、どれだけの数に上ることか。

 アスナの衆を圧する美貌を霞ませるほどに、今日までの長い間、皆の先頭に立って戦い続けた高潔で純粋な意思こそが、多数のプレイヤーの尊敬と敬愛、恋慕を集めてきた。一度たりとも翳りを見せない彼女のそれは、陳腐な言い方になるが希望そのものだ。

 

「それじゃこの話はこれでおしまい! 言いたいことも言えてすっきりしたし、攻略に戻ろっか」

「……そうだな、何にせよ、まずは目の前のことを片付ける必要があるか。今日からは俺のペースで攻略を進めるぞ、覚悟は出来てるよな?」

「覚悟も何も、今はわたしがキリト君のパートナーだよ。かける言葉を間違えてるんじゃない?」

 

 彼女の切り返しに敵わないなと嘆息する。この切り替えの早さも見事なものだった、攻略組の誇る《閃光》の名は伊達じゃない。不敵に笑んだアスナの顔は既に歴戦の剣士のそれで、やっぱり今のアスナは可愛いより格好良いのほうが似合ってるとつくづく思う。

 

「わかった、なら言い直そう。叶う限り最速でボス部屋を見つけ出す。行くぞアスナ」

「了解。頑張ろうね、キリト君!」

 

 憂いなく晴れやかに応えるアスナに申し訳なさと頼もしさを同時に覚えながら、これ以上の煩悶を振り払うように一歩足を踏み出す。アスナも剣の感触を確かめるように軽く柄に触れてから、すぐに俺の隣に並んできびきびと歩き出した。

 戦場に迷いは持ち込めない。一度剣を握ってしまえば、その瞬間から戦闘に臨む精神を構築出来る。剣を振るうことこそが俺の日常だ、その程度は雑作もなかった。アスナが余人に真似できない強い自制心を持ち合わせているように、俺とて今日までの戦いで身に着けてきた経験があるのだから。故にアスナと協力して進めるこの先の迷宮区攻略に関しては、全く以って心配していなかった。

 

 だからこそ。

 俺のこの動揺も、この胸の動悸も、一歩街を出てしまえば瞬く間に消えてしまうものだ。それを、少しだけ寂しいと思う。

 アスナが俺から視線を外したことを幸いに、片頬へとそっと手を持っていく。

 そこには未だ引くことなく、温かな余熱が残されていた。

 




 原作の決闘手順では申し込まれた側にモードのオプション選択権利がありますが、拙作では申し込む側が予めオプション選択をした上で申請を出すことも可能な仕様に変更しています。
 プレイヤーの認識力に依存したシステムアシストの限界設定と、それを利用したソードスキルの回避方法は拙作独自のものです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第14話 黒の剣士、白の閃光 (2)

 

 

 迷宮区――正確には迷宮区タワー。

 各階層に必ず一つ存在する、天を貫かんとプレイヤーを圧倒してくる円形の巨大建造物は、その名の通り入り組んだ迷宮構造をしている。

 フィールドと比べて迷宮区の攻略が難しいとされるのは、まずはその迷路状マップの複雑さが理由としてあげられる。加えて敵モンスターのレベルも、同階層のフィールドモンスターに比べて一段階上の場合がほとんどである。そこに意地の悪いトラップ群が仕掛けられているとくれば、誰もが挑戦することに及び腰になるのも仕方なかった。

 

 とはいえ怖いからと迷宮区攻略を諦めることはゲームクリアを諦めることと同義だ。攻略組のプレイヤーに忍耐と慎重さが求められるのは、そうした危険に満ちた迷宮区を注意深く探り、また、警戒を長時間続ける必要があるためだった。死の顎は常にプレイヤーを噛み砕こうとその牙を尖らせている。そんな場所をソロで活動し続けてきたのだから、俺が命知らずだと散々に言われているのもむべなるかな。

 

 そもそも今現在、アスナとペアで攻略していることだって本来ならば軽率な真似だった。迷宮区の攻略は普通1パーティー6人体制というアインクラッドのシステムに倣って、5人ないし6人を1チームとして動く。迷宮区の回廊がやや手狭であるため、フロアボス戦を除けば2パーティー以上で動くのは逆に効率が悪いとされているものの、だからと言ってソロやペアでは危急の際の呼応戦力に不安がある。ゲーム開始初期ならばともかく二年が経とうとする今では、すっかり少人数パーティーの姿は見かけなくなっていた。

 もちろんレベルを落としたフィールドマップではその限りではない。が、最前線では定員を満たしたパーティーで挑むのが常識である。そういう意味では俺もアスナも非常識と言えるわけだ。俺に関しては既に今更な問題でもある。むしろパーティーを組むことが珍しいくらいなのだから論ずるに値しない。……悪い意味で。

 

 そんな俺に付き合わせることに申し訳ない気持ちもちょっとばかりあるものの、そんな罪悪感よりもずっと高揚感の方が大きいのはご愛嬌というものだろうか。なにせ俺と組んでいる少女、すこぶる強い。『閃光』の名は伊達じゃないと無言の内に示すように、まざまざと実力の程を俺に開帳してくれていた。

 ソロでは味わえない連携の妙を実感できるのは新鮮な感覚だ。勿論俺とアスナはフロアボス戦を初めとする集団戦では何度も轡を並べてきているのだし、別に連携するのが初というわけではない。では何が喜ばしいのかと言えば、彼女の高すぎるポテンシャルだった。必要なことを遅滞なく、そして俺の期待以上に完璧にこなすアスナの実力は相当なものだ。加えてペアで動いているため、常に息を合わせてカバーし合える連帯感はちょっとした快楽というか、とにかく気持ち良い。

 ここ一週間の迷宮区攻略を共に過ごしてなおさらに実感した。アスナの実力は単純なレベル数値以上に飛びぬけた水準にある。ペアを組むのにこれほどの逸材はいないと感心しきりだった。

 

 クラディールとの決闘騒ぎから一週間が経ち、俺とアスナは75層迷宮区の最上部付近に到達していた。俺のペースで進めると宣言した通り、昼夜問わず迷宮探索に勤しみ、幾夜か野宿で超えながらの強行軍である。

 もちろんずっと迷宮区に篭りきりだったわけでもなく、武具の消耗やアイテムストレージの限界を迎える前に街に戻ってもいた。それでも随分なハードワークをペアであるアスナにも課してしまった。しかしその甲斐あっていよいよフロアボスに続く扉の発見なるか、という段階まで迫っている。

 実を言えばこのペースは相当早い。60層以降攻略スピードが落ちてきているところに、70層以降からのモンスター強化という問題が重なり、このところの攻略速度は芳しくなかったからだ。それをフィールドマップ踏破込みで十日そこそこというのは中々のハイペースだった。ここまでくれば今日明日にでも最奥に通じるマップが発見されるだろう。クォーターポイントでこの迅速な攻略を可能にしたというだけでも俺とアスナが組む意味はあった。後は油断せず残り少なくなったマップデータの空白部分を埋めていくだけだ。

 

 視線を巡らせればわずかな光源しか存在しない薄暗い空間が広がり、その中にぼんやりと浮かび上がる黒曜石に似た透明感のある素材で造られた円柱が見える。暗闇に閉ざされるという程ではないものの、視界の制限される嫌な回廊だった。足元には薄い(もや)がたなびき、冷たく湿った空気が足先から首筋を撫でるように這い上がってくる。

 そんな不気味な気配を漂わせる迷宮をアスナと二人慎重に進んでいく内に、今日何度目かのモンスターと遭遇した。光源に乏しいせいで肉眼による視界が心もとない。索敵スキルのおかげで不意打ちの心配がないのが幸いだ。出来ればモンスターとの遭遇戦は最小限に抑えたいのだが、狭い回廊内では易々と敵のいないルートを選ぶことも出来なかった。

 愚痴を零している暇もなく、即座に臨戦態勢を整え、新たに湧き出したモンスターへと備える。隣に立つ細剣使いの存在が心強い。

 

 低い唸り声を響かせて全貌を露わにした敵を凪いだ心持ちで観察する。奴の背丈は俺の倍はありそうな雄雄しい体躯をしていた。そして赤銅の肌は分厚い筋肉の鎧に覆われ、彫りの深い顔は鬼のそれだ。とんでもない握力を秘めていそうな拳には反りのある刀を握っている。

 刀はその拵えからすると打ち刀なのだろうが、奴の巨躯のせいか野太刀を向けられているような気分になる。西洋の悪魔というよりも東洋の鬼そのままな印象のモンスターだった。モンスター名称に悪魔を冠しているものの、いっそ赤鬼とでも名付けてくれたほうがわかりやすい気がする。まあアルファベット表示で『Akaoni』とかされても失笑物か。

 こいつはモンスター分類としては悪魔種に区分けされる。強大な膂力と巨体に似合わぬ敏捷性を秘めた怪物、攻守共にバランスの良い強敵だ。

 剣を握り直し、地を蹴る。真っ先に俺が切り込んだことが戦闘開始の合図となった。

 挨拶代わりとばかりに繰り出した俺の二刀が防御されるのも構わず、幾度かの連撃を浴びせかける。盾持ちのモンスターではないため攻撃成功判定も引き出しやすいのだが、その代わりというべきか、硬質な筋肉の鎧に相応しい防御力の高さがダメージを最小に留めている。面倒な、と舌打ちする思いで剣撃を続けた。細かなステップを刻み、反撃を封殺する勢いで剣閃を叩きつけていてもそれだけで押し切れるはずもなく、やがて反撃のソードスキルが俺へと襲いかかる。

 

 三連撃のカタナスキル《緋扇》。

 その全てを受けきるには体勢が悪いと早々に判断し、一撃目と二撃目をどうにか弾き落としてひとまず前衛を離脱。一気に後方へと飛び退いた俺を奴の太刀は捉えることが出来ず、三撃目は空を薙ぐ音を響かせるだけだった。

 技後の一瞬を縫うようにして、そして後ろへと退く俺の離脱にわずかの狂いもなく合わせ、飛び込む疾走を見せた剣士が一人。無論、アスナである。彼女は俺が下がるのを予期していたかのように絶妙なタイミングで空中へとその身を躍らせると、突進の勢いを殺すことなく突きの嵐を見舞う。ソードスキルの燐光は細剣が敵の身体に叩き込まれる都度火花のように散り行き、合わせてモンスターのHPバーを大きく削り取った。

 しかし古今東西『鬼』というのはタフだと相場が決まっているものだ。アスナの強烈な連続攻撃を受けていながら怯むことなく刀を振り下ろそうとする姿は、強靭な体力を十二分に伺わせるだけの迫力があった。技後硬直にあるアスナがその一撃を避けられる道理はない。故にその空隙をカバーするのは俺の役目だった。

 一時離脱から間髪入れず間合いを詰める。アスナを狙った上段斬りは俺の下段からの切り上げによって相殺してしまう。その一瞬の隙で体勢を立て直したアスナが一歩引き、同時に鋭い掛け声が俺の耳に届く。

 

「キリト君、わたしが合わせるから終わらせよう!」

「了解!」

 

 アスナへと返した俺の声に、どこか高揚の高鳴りが混じっていたのは自覚していた。未だにこの瞬間は胸にこみ上げるものがある。いい加減慣れるべきだとも思うんだけどな。

 俺の二刀剣技が青の光を纏って真正面から鬼の胸へと叩きつけられる。その刹那、俺のソードスキルが支配する剣の空間に触れるか触れないかのギリギリの距離を保ち、隣でアスナのソードスキルが流星の煌きと共に突きこまれた。そこにタイムラグは一切なく、同時同着の剣撃が鬼の硬い体表を貫き致命のダメージを与えていたのだった。

 断末魔の叫びが響き、次いでポリゴン結晶の欠片がばらまかれることで戦闘は終了した。俺もアスナも今しがた成功させた連携の妙技に確かな手ごたえを覚え、興奮からか互いに紅潮した頬を見合わせてハイタッチを一回。にんまりと笑みを交し合った。

 

 通常二人以上のプレイヤーが一体のモンスターを相手に、同時にソードスキルを放つのは至極至難の技とされている。お互いの剣技の軌道が重なり合ってソードスキルを阻害してしまうためだ。ひどい場合は双方のソードスキルキャンセルという最悪の結果すら招く。だからこそ集団戦では前衛と後衛の入れ替えが重要となるのだった。つまりスイッチである。

 一口にスイッチ行動と言っても、その応用範囲は広い。基本は前衛が単発で重めのソードスキルを放ち、敵に命中させて怯ませるなりガードさせてわずかの硬直時間を稼いで後衛と位置を入れ替えるのだが、どんな局面でも教科書通りの戦い方が出来るわけではない。前衛のHPが注意域に減らされたり状態異常にかかった場合、あるいは複数の敵を相手にしている場合も、悠長に前衛のソードスキルを待つわけにはいかないのだ。時々刻々と変化する戦況、ハプニングが当たり前の戦いの中で、適宜のタイミングを計って前衛と後衛の入れ替えを行わなければならなかった。

 

 ソードアート・オンラインは剣を冠する世界だけに遠距離攻撃に乏しく、プレイヤーは常にショートレンジの間合いを迫られる。加えてモンスターがソードスキルを頻繁に繰り出す手合いだと、システムアシストに乗った高速の剣閃が極狭い空間で入り乱れることになるため、波状攻撃ならともかく包囲攻撃は難しい。ある程度の空間を確保できなければお互いの技が干渉しあって邪魔し合うという結果に終わってしまう。プレイヤー側がよっぽど連携に熟達していないと包囲して袋叩きという選択は取れないのだ。

 無論、例外もある。狭い場所で入り乱れるから危険なわけであって、それをものともしない広い空間――フロアボスの座する広間ならば十分に包囲攻撃を仕掛けられる。というかフロアボスくらい巨大な相手、物理的な意味でダメージ判定範囲のでかいモンスターでもない限り、プレイヤー側が多対一で戦うのは推奨されていなかった。

 アインクラッドで通常の集団戦と言えば、次々とスイッチする波状攻撃を指すか、槍のようなある程度離れた場所からソードスキルを仕掛ける遊撃手による連携、あるいは前衛が引きつけている間に他のメンバーが遊撃としてソードスキルを放ち、すぐさま前衛がタゲを取り直すことを指す。それが今日まで行われてきた戦いの中でプレイヤーが編み出してきた戦闘の鉄則、生き残る算段であり、常識だった。

 

 恐るべきは《閃光》の戦闘センスか。アスナはプレイヤーに根付いた常識をついに打ち破ってみせた。

 俺がアスナの何に感心したかと言えば、『システム的に不可能ではないが推奨されていない連携技能』を俺との間に成立させたことだ。俺の放つ剣技と干渉しあわない軌道を描く細剣スキルを的確に選択し、敵味方の激しい剣技の応酬の中で最適なタイミングを図って技を繰り出す。まさしく神業である。乱暴に言ってしまえば、一人と一人が交互に戦うアインクラッドの常識を塗り替え、二人同時に戦場に立つことを可能にしたのがアスナだった。

 あまりに高水準すぎる連携技を彼女は習得し、確立させていた。交代(スイッチ)の上位技能としてシステム外スキル《同時連携(シンクロ)》とでも名付けるべきだろうか? 応用範囲が広すぎるため、名称固定すると単一技能っぽい響きになってしまってイメージによろしくなさそうだけど。というか、こんな無茶な連携を展開できるやつがゴロゴロいるとは思えないだけに、発表するだけ無駄になる可能性大である。元々この手の連携は過去に試され、不可能だと判断されたために非推奨になっているものだし。

 

 少なくとも今の俺にアスナ並のサポートは無理だ。この連携は俺が主となり、アスナが従となる形だからこそできる高等技能だった。……悔しいので負け惜しみを言っておくと、技能そのものを真似できないと言ってるわけじゃない。多分俺でも単発剣技に限定すれば使える。

 ただし、戦闘の最中に百回やって百回成功させる自信はない。成功のおぼつかない不安定な技能に命を懸けるわけにはいかない、そういうことだ。そんな危なっかしいものを俺は技とは呼びたくないし、そこまでリスキーな戦い方は出来ないのである。だからこそ命懸けの戦闘の最中、恐れることなく戦術に組み入れるだけの錬度に達しているアスナに戦慄したのである。……うん、負け惜しみでしかない。

 どうやってそんな高難易度技能を完成させたのか興味津々だった俺がその旨をアスナに問うと、実に意外な答えが返ってきた。

 

「何のためにキリト君を相手に何度も決闘してきたと思ってるの。君の癖や戦い方全部を学んで連携を深めるためよ」

 

 そう事もなげに言われて絶句したものである。その飽くなき探究心というか脱帽するしかない志も然ることながら、そんな理屈で俺の戦闘時の呼吸を完璧に把握してしまうアスナの、その身に秘めた天稟(てんぴん)と洞察にこそ驚かされた。最近アスナと腕試しをすると妙に戦いづらいと感じさせられたものだが、あれは俺の呼吸を読まれて翻弄されていたためか。幸い黒星をつけられるまでには至っていないが、ひやりとするような場面は幾度もあった。むぅ、俺も気合を入れて精進に励まねば。

 実のところ、今までアスナが腕試しと称して何度も俺と決闘を繰り返してきたのは、アスナが単に負けず嫌いなせいかと思ってた。勘違いしててマジごめんなさい。敗者にはメシを奢る権利をあげようとか煽ってホントすいません。

 

 ともあれ、アスナの活躍によってタイムラグなしの同時連携という強力な武器を手に入れた俺達は、適宜最適の戦闘行動を取ることで苦戦の一つもせず迷宮区を駆け回ることが出来ていたのだった。ここが最前線の迷宮区ということを考えればとんでもない快挙である。これほど心強い相棒と組んで戦闘を続けていると、ペアを解消した時が不安になるくらいだった。

 アスナのことを以前から飛びぬけた戦闘センスの持ち主だとは思っていたが、久しぶりにしがらみもなくペアを組んだことで改めて実感させられた。冗談抜きでアスナの実力には舌を巻く。天才、秀才、そのどちらもがアスナを称すに相応しいものだ。才能だけでも努力だけでも到達できない領域に彼女は立っていた。

 

 いや、喜ぶべきことではあるのだけど。それはそれで悩みも生まれるもので。同じギルド所属というわけでもないのに絶妙な呼吸で完璧にサポートして貰えるというのは望外の喜びだし、ここまでされてしまうと今度はアスナを血盟騎士団に返したくなくなってしまう。

 このままペアを組み続けられないものだろうか? むしろ血盟騎士団から彼女を奪ってでも、と半ば本気で血盟騎士団副団長様の引き抜き算段を始めてしまう俺なのだった。

 ……冗談デスヨ?

 

 

 

 

 

「なかなかフロアボスに通じる大扉が見つからないね」

「そうだな、そろそろ発見されても良い頃なんだが」

 

 安全エリアに辿り着き、その広い部屋の隅っこで仲良く壁に背を預けている俺とアスナは、気の抜けた様子で休憩兼雑談に花を咲かせていた。既に75層迷宮区の最上階まで来ているのだから、ボスに通じる大広間の発見も今日明日中には達成できるだろうとは思うものの、ここまで来たら俺達の手でマッピングを完成させたい。

 もちろんこの場合、マッピングの完成と言っても迷宮区全てを網羅するわけではなく、あくまでフロアボスの間の位置を確定させ、討伐隊結成への道筋をつけることである。広大な迷宮区のマッピングを言葉通りの意味で完成させていたら攻略どころの話じゃない。時間がかかりすぎる。

 

「いよいよ最難関の75層フロアボス戦も間近なんだよね。……気が重いなあ。正直戦いたくない、ってわたしが言うのは良くないよね、やっぱり」

「ここには俺しかいないし、今くらいはいいんじゃないか? 特別に口止め料貰わなくても《閃光》様の弱音は黙っておいてやるよ」

「そこは素直に慰めてくれればいいのに、キリト君は意地悪だ。ふーんだ、そんなこと言う人にはお昼を分けてあげません。あーあ、折角の手作りなのになあ」

 

 ……ナンデスト。

 

「俺に死ねといいますか!?」

「そこまで言うこと!?」

 

 血涙を流さんばかりの俺の剣幕にアスナが目をまん丸にしてびっくりしていたが、俺にとってはそこまでのことだった。

 わかってない、アスナは自分がどれだけすごいことをしてるのか全く理解していない。料理スキル完全習得者が作る弁当という事実だけなら俺とてこうも嘆いたりはしないさ。でもな、アスナの料理は特別なんだ。言うなればオンリーワンなんだってことを知っておいてくれ。

 アスナはその鋭敏な味覚を最大限生かし、プレイヤーの味覚再生エンジンに与えられるパラメータ数値を調味料毎に完全に解析した。その数、実に百種類以上。その上で、こっちの世界の調味料アイテムからマヨネーズやら醤油やらと同等の味を持たせたオリジナル調味料を作り出したのだからすごい。それらの調味料を駆使してアインクラッドでは絶対にお目にかかれない、懐かしい料理の数々を再現することに成功したのがアスナだ。その価値は計り知れない。どんだけ多才なんだよお前。

 

 攻略の最前線に立ち続けた《閃光》が戦闘に全く関係ないスキルを所持するのみならず、日常スキルの熟練度を最高値にまで到達させていることが既に異常事態なのだった。いくら熟練度の上昇しやすいスキルだからと言っても、完全習得にまで達するというのは並大抵の努力ではない。その信じがたい事実を知った時に、思わず「アホじゃねえのお前」とつぶやいてしまい、青筋立てたアスナに笑顔で威圧されたなんてこともあったなぁ……。

 いやさ、「君のせいでもあるんだからね」と言われて俺にどう反応しろと? 攻略に役立ちそうなスキル情報なら幾度かアスナに話したこともあるし、その有効性の範囲とか限界をお互いに検証したこともあるけど、日常スキルに関しちゃ俺は門外漢だぞ。誓ってアスナに料理スキルを薦めた覚えなんてない。そもそも俺が驚いていたのはアスナが料理スキルを取っていたことではなく、熟練度を最高値に到達させていたことだし。

 多忙を極める血盟騎士団副団長が、どうやってそこまで料理スキルを研鑽する時間を確保できたのか疑問だった。情熱の一言で済ませるにはちと厳しいと思うんだ。

 

「もう、そんながっつかなくても、ちゃんとキリト君の分はあるから心配しないで。はい」

「サンキュー」

 

 そんなこんなで必死でアスナのご機嫌伺いをした甲斐もあって、程なく俺の手には紙包みで保護されたアスナ手製の昼食が確保されていた。珠玉の一品の耐久値を間違っても削ってしまわないよう、殊更丁寧な手つきで紙包みを開いていく。現れたのは丸いパンをスライスし、その間に焼いた肉と野菜をふんだんに挟み込んだ手の平大のサンドイッチだった。ただしそれは見た目だけだ、味付けはアスナオリジナルの調味料によってあちらの世界の料理が再現されているはず。

 まるで宝探しをしているような気分でわくわくと胸を弾ませ、両手で大きなサンドイッチをゆっくり口元に運ぶ。鼻孔をくすぐる胡椒のような香ばしい匂いが食欲を誘った。料理への期待値が最大になったところで、ついに俺はサンドイッチへとかぶりついたのだった。

 がぶりと一口。そして口腔内に広がる味に感動を覚えた。

 濃い目の味付け、甘辛いとろっとしたソース、なにより分厚い肉としゃきしゃきとしたレタス風の野菜に噛り付く懐かしの感触。

 

「美味い……」

 

 うん、その一言で十分なんじゃなかろうか? 余計な修辞とかいらないって。食感まで含めてよくぞここまで再現したものだと感心してしまう、これは間違いなく俺が二年近く前まで頻繁に食べていたジャンクフードだった。というかアスナさん、君はなんだってファーストフード系列の味付けまで再現できるのでしょうか? 家庭料理とは別物だぞ、これ。

 

「ふふ、毎回同じこと言ってるよキリト君」

「毎回美味いものを出すアスナが悪いんだ」

「うわー、ひどい褒め言葉を貰った気がする」

 

 そんな風に感動と戦慄を同時に味わっていた俺を眺め、アスナはくすくすと楽しげに笑みを浮かべていた。そして懐かしの味を最後の一口まで存分に噛み締めて深い充足感を覚えていた俺に、絶妙なタイミングで冷たいお茶まで差し出してくる。

 アスナは世話焼きかつ気遣い上手で、こういうのを育ちが良いっていうのかもな。とにかく視野が広くて、色々なことに気が回るやつだった。これはもう俺もアスナのファンクラブに入るしかないな。噂で聞いたことがあるだけで本当に存在するのか、あったとしても誰が仕切ってるのかとか全く知らないけど。

 

「なあアスナ、ちょっと頼みがあるんだけど」

「残念だけどお代わりはないよ? 用意しておいたお弁当は今のでおしまい。んー、迷宮区に潜り続けて今日で三日目だし、そろそろ一度街に戻ろっか。出来れば今日中にフロアボスのフロアは発見しておきたいね」

「そうだな、夕方まで探索しても見つからなければ一旦引き上げることにしよう。……って、そうじゃなくて、いや、それも大事ではあるんだけど」

「あれ、違った?」

「違ってはいないけど、俺が言いたいのはむしろ前半の方」

「ご飯のこと? そんなにお腹空いてるなら何か作ってあげてもいいけど、いくらスキルコンプしてたって迷宮区の中じゃたいした料理は作れないわよ?」

 

 何だか俺が腹ペコキャラにカテゴライズされてるような気がするが、スルーだスルー。貧しい食生活を送ってきたことは否定しないけど食欲そのものは人並だと思う。だから別にアスナの用意してくれた昼食で足りなかったわけではない。

 それに料理スキルには器具やら食材が必須で、準備もなしに大掛かりな料理が出来るわけではないことも承知している。この場でアスナに無茶を言う気はなかった。だから俺がアスナに頼みたいことは――。

 

「アスナ……」

「な、なに……?」

 

 がしっと彼女の肩に手を置き、これ以上ないほどの真剣な表情を作ってアスナの瞳を覗き込む。……うわ、アスナの肩細いな。というかノースリーブの騎士服から露出してる肩口は寒くないのだろうか。色っぽいけど。

 いやいや、違うだろ。そんなことに感心していてどうする。

 俺の緊張が感染したのか、アスナはわずかに身体を強張らせ、どこか上擦った調子の声音をしていた。そんなアスナに畳み掛けるように俺は重々しく口を開き、告げる。

 

「明日からも俺に弁当を作ってくれ。つーかペアを解消した後も頼む。礼は必ずするから」

「あ、あのね……」

 

 がくりとアスナの頭が垂れ下がり、頭痛を堪えるように額に手をやってしまった。そんなに呆れるようなことか?

 

「なんで君はそこまで真剣な顔をして、そんなどーでもいいことを迫力満点で言うのよ。一体何事かと身構えたわたしが馬鹿みたいじゃない」

「そうは言うけど、俺のモチベのためには割と死活問題だぞ。アスナは俺を餌付けした責任を取るべきだと思うんだ」

 

 具体的にはここ十日ほどの間俺の食生活を豪華にして、俺の舌をとんでもなく肥えさせた責任だな。アスナの料理に慣れたらNPC経営のレストラン料理すら味気なくて食えなくなるぞ。まして俺の主食だった携帯食料なんて比べる土俵にすら上げてもらえない。

 

「餌付けって、あのねえ……。それに責任って、普通女の子が男の子に迫るものじゃない?」

「それは前時代的ってことで廃止にしよう。もしくは男女平等ってことでよろしく」

「よろしくじゃないわよもう。別にお弁当くらい気が向いたら作ってあげなくもないけど……ちなみに、キリト君はわたしにどんなお礼をしてくれるつもりだったの?」

 

 お、アスナも冗談に付き合う気になったらしい。まあアスナの料理が惜しいっていうのは本当だけど。冗談抜きでアスナの料理を三食欠かさず食べられる生活とか憧れるぞ。多忙なアスナにそんな無茶言えないし、そもそもそこまで図々しくもなれないけどさ。

 

「まずはレアアイテムが鉄板か? コルでもいいならそれなりに。あ、それともフロアボスの首とかのほうがいいか?」

「こらこら、料理の対価にそんなの要求しちゃったらわたしがすごい悪女みたいじゃない。大体、フロアボスの首とか二重の意味で駄目に決まってるでしょ。女の子にプレゼントするには血生臭すぎるし、わたしはキリト君がフロアボスにソロで挑むなんてもう許す気はないわよ?」

「心配するな、俺もこれ以上フロアボスにソロで挑む気はないから。結晶無効化空間の可能性を考えるとソロはきつすぎるしな」

 

 それならいいけど、と不承不承頷くアスナだ。

 ただ、できればソロ偵察は続けたいというのが俺の本心に違いなかった。危険が膨れ上がることは否めないが、74層クラスの難易度ならまだやりようはある。罠の可能性を見据えるに、そこまでリスクを負う価値があるかと言えば首を傾げるしかないわけだけど。毎回74層フロアボス戦クラスの綱渡りを続けてたら、どこかで不慮の事故を起こしてお陀仏になりかねない。

 結晶無効化空間でさえなければなあ、と心中溜息を一つ。転移結晶に限った話でもない。ポーションと回復結晶を比較すると、回復結晶が真価を発揮するのはレベルが100を越えて以降である。だというのにこの後のボス戦全てが結晶無効化空間ってのもゲームバランス的にどうよ、と突っ込みたいところだ。とはいえその程度の推測でフロアボス相手にソロ突撃するわけにもいかないし、当分は先遣隊頼りになる事情は変わらない。

 

 そんな内心などおくびにも出さず、しばしの間物思いに沈んだ。

 75層を攻略して以降の攻略スタイルもある程度は考えておく必要がある。どこかのギルドに身を寄せるのが現状一番手っ取り早いんだけど、どの段階で入団の意思を明らかにするかがまず問題だろう。その前に入団先の選定も必要なんだけど。

 ギルドを一から作るのは手間だし、今の段階で俺がメンバー募集してもわざわざ所属ギルドを変えてまで入団してくれるとは思えないしな。職人プレイヤーの確保も併せるとどうしたって時間がかかりすぎる。攻略の助けになるとは思えない。

 効率を求めて攻略を推し進めるならやっぱり血盟騎士団、聖竜連合、風林火山が最有力だ。それらのどこかに頭を下げて入団するべきだった。

 

「そういえばクラディールの奴はどうなったんだ? 謹慎は解けてるんだろ?」

 

 この前の決闘の件もあるし、血盟騎士団に入団するに当たって最大級の爆弾が奴だった。そのため、良い機会だからとアスナに奴の消息を尋ねることにする。前回街に戻った時にも、アスナはギルドに攻略進度の報告も含めて顔を出していたはずだから、ある程度の情報は持っているはずだ。

 

「わたしが命じた分はね。あの後、団長が改めてクラディールに罰則を下して、今は観察処分に落ち着いてるみたい。ゴドフリーが監督役としてクラディールに付いてるって話だったけど」

 

 監督役? しばらくは監視付きってことか。

 えーっと、ゴドフリー、ゴドフリー、っと。脳内で検索しているとすぐに該当者が浮かんだ。あいつか、もじゃもじゃの巻き毛をした大男。

 その大柄な体躯に似つかわしい豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格をしていて、フロアボス戦にも毎回顔を出す実力者であり、前衛のフォワード部隊を預かる血盟騎士団幹部の一人だ。単純な戦闘力だけなら同じ斧戦士のエギルにだって匹敵する使い手でもある。それに見た目からして筋力数値偏重主義みたいな男なので、とにかく豪快で印象に残りやすい。

 ただ、俺のような人見知りタイプと馬が合うかどうかは微妙な男だ。というかあまり好かれていなかったような?

 

「大丈夫なのか? 確かゴドフリーって俺を嫌ってた気がするんだけど。クラディールと組み合わせて良からぬ方向に事態が転ぶとか嫌だぞ?」

「事の軽重は弁える人だから心配いらないわよ? 完全決着モードで決闘を仕掛けたクラディールを簡単に許しちゃうことなんて絶対ないし。それにゴドフリーはキリト君の力を認めてるもの。《黒の剣士》は攻略に必要なプレイヤーだって判断が先立つはずだから、クラディールに何か言われても一顧だにしないでしょうね」

「へえ……」

 

 と、口では納得した素振りを見せても表情でそれを裏切っている俺を見て、アスナが苦笑いを浮かべた。むう、まずいな、最近アスナの前で感情を素直に出しすぎている気がする。それでなくてもアスナは俺の表情を読むのが上手いんだから、このままだと彼女の前では何もかもが筒抜けになってしまうのではないだろうか。

 そんな風に密かに戦慄していた俺にアスナは詳細な事情を語ってくれた。

 

「ゴドフリーはキリト君を嫌ってるわけじゃなくて、わだかまりを捨てきれてないのよ。以前の57層フロアボス戦を覚えてる? あの戦いでうちの団員から戦死者が出たのは、キリト君が聖竜連合の団員を優先して庇ったせいだって言ってね」

「……あの時のことか。別に聖竜連合を優先したわけじゃないんだけど。……いや、言い訳だな」

 

 血盟騎士団の前衛メンバーと同じく聖竜連合の前衛壁戦士が後衛と分断され、取り残された。その時俺は単純にHPに余裕のなかった聖竜連合の前衛を庇い――そこで血盟騎士団の前衛戦士が判断を誤って、スイッチを待たずに距離を置こうとボスに背を向けてしまった。その隙をつかれて背中に一撃を受けたことで動きを止められ、そこに強攻撃の一撃を貰ってしまったのだ。結局、救援の手は間に合わずHPバーを吹き飛ばされてしまった。

 迫る死の恐怖にパニックになったのか、それともボスの射程から迅速に逃げ切る自信があったのかはわからない。あるいは俺が視界に割って入ったせいでスイッチのタイミングを早とちりしたのか。どんな理由で判断を誤ったのかの答えは本人が墓に持っていってしまったし、どれだけ推測を重ねたところで彼の命は戻ってこないのだから明らかにする意味もなかった。

 人事は尽くした。その結果、一人は救えた、一人は救えなかった。

 それがフロアボス戦で珍しいことではなくとも、その事実がつらいことには変わりない。

 

「いいえ、言い訳なんかじゃないわ。ゴドフリーもわかってるのよ、キリト君を責めるのは責任転嫁でしかないって。けど簡単に割り切れることじゃないから、結果としてキリト君にきつく当たってしまってるだけ。……君は強いから、強すぎるから、その分期待がどんどん大きくなっちゃってるのね。八つ当たりでしかないのは本人が一番良くわかってるわ」

 

 痛ましげに、そして申し訳なさげに告げるアスナに気にするなと一度首を振ってから、軽く息をついて頭上を仰いだ。

 

「ままならないもんだよな」

「ほんとにね」

 

 この世界で生きていれば、そして攻略組に身を置いていれば、人の死は不可避のものだった。しかし避けられないと言っても、その痛苦に慣れることはない。フロアボス戦くらいでしか顔を合わせることのない、顔見知り程度の相手の死でさえ胸にじくじくとした痛みを生じさせるのだ。それが親しい相手なり、己の部下だったなりすればその悲哀は俺の比じゃないだろう。割り切れないというのも無理はない。そもそも割り切ることが正しいのかどうかさえわからなかった。

 血盟騎士団はギルドの建物内部にギルド員から出てしまった戦死者を弔う菩提を祀っていると聞くけど、大抵のギルドで似たようなことをしているんだろう。死者の弔いは同時に生者への慰めでもある。死者を忘れるべきじゃない、けれど同時に、戦友の死を引き摺るべきではないという、そんな切実な戒めが込められているのかもしれない。

 しばらくの間、俺とアスナの間に会話はなかったが、やがてアスナが「そういえば」と口にすることで沈黙を終わらせた。

 

「この前、キリト君はクラディールとの決闘で二刀流を使わなかったよね。あの時キリト君が言ってた約束した相手ってリズでしょ? どんな約束をしたのか気になるなあ、わたし」

 

 重苦しくなった空気を払拭しようとでもしたのか、アスナは殊更明るい声でそんな話題を振ってきたのだった。アスナの気遣いは有り難いんだけど、その話題のチョイスは勘弁な。

 

「ノーコメントで」

「むぅ、そう言われると余計に知りたくなる」

 

 普段は澄ました顔ばかりで中々隙を見せないアスナが、今は子供のように唇を尖らせていた。そんなアスナの仕草に思わず笑みが漏れてしまう。

 

「リズの許可を取ってきたら話してやるよ。それまでは駄目だ」

「なんだかリズにも同じこと言われそう。すっかり仲良くなっちゃったね、リズとキリト君」

「共通の話題があるからな。誰かさんの話題は毎回盛り上がるんだ」

「……よし、わたしもリズとお話する時はキリト君の話題で盛り上がろう」

「おっと、やぶ蛇だったか」

 

 そんな軽口を叩き合い笑い合った。ここが迷宮区の中だと思えば暢気なものである。いや、迷宮区の中だからこそこうした余裕は有り難いものだろう。そんなことを考えていると、不意にアスナが何かを思いついたように小首を傾げた。

 

「それにしても二刀流、かあ……」

「どうした?」

「うん、たいしたことじゃないんだけどね。キリト君と団長がぶつかり合ったらどっちが勝つかなって考えてたの」

 

 《聖騎士》対《黒の剣士》。その行方は如何なる結末を迎えるのか。

 それは今に始まった疑問でもなかった。アスナが口にするのを聞くのは初めてだったが、もう一年近く前から似たような話題はそこかしこでされてきたものだ。同じ《ユニークスキル》と目される希少スキルだけに耳目を集めやすかったのだろう。俺とヒースクリフの激突に野次馬染みた期待が集まることは避けられなかったのかもしれない。

 ただなあ……俺としてはあんまり答えたい質問でもないんだよ。《二刀流》と《神聖剣》のスキル性能に限ったぶつかり合いなら互角だ、と言えるんだけどさ。

 

「アスナはどう思ってるんだ? ちなみに世間での評価だと互角ってことらしい」

 

 集団戦での指揮とか含む総合力ではヒースクリフが上、一対一の個人戦闘に限っては甲乙付け難いってのが一番有力な説らしかった。情報源は当然アルゴだ。アスナは俺の問いにわずかばかり考え込んだ後、やや自信なさ気に答えた。

 

「……四対六で団長の有利、かな? ちょっとキリト君に甘い判定になってる気もするけど」

「概ね正解。十の内三つまでなら俺が取れる。四つ取れるかどうかはその時の調子と運次第。五分五分まで持ち込むのは無理だろうなあ……。付け加えるならその勝率は初撃決着モードでのものだかんな、半減決着モードだと十やって二つ取れれば御の字ってところまで俺の勝率は落ちる」

 

 完全決着モードは想定の意味がないから割愛するけど、まあ、お察しということで。

 つくづく化け物だよあいつ。レベルは俺のほうが上のはずなのに、どうにも勝てるビジョンが浮かばない。短期決戦で攻め切れれば俺が一矢報いる、その程度の勝率しか確保できないんだから。

 その勝率にしたところで、今現在のヒースクリフを全力と想定した上での話だ。50層のクォーターボスを相手にした時ですら注意域にHPを落とさなかった男だけに、正直俺には未だヒースクリフの底が見えなかった。戦闘に限っても悠々と俺の上をいく男。加えて単なる戦闘巧者で片付けられない、指導者としての非凡な才覚すらヒースクリフは持ち合わせているのだから、あれほど多才な男も珍しい。75層のフロアボス戦を思えば頼もしい限りである。

 

「何ていうか、キリト君ってそういうとこ妙にあっさりしてるよね。簡単に自分の方が弱いとか言っちゃうんだから」

「おいおい、比較対象はおたくの大将なんだから喜んでおけよ。そりゃ俺だって悔しいとは思うけど、ヒースクリフが俺より強くても困ることはないんだから、必要以上に対抗意識を燃やしても仕方ないだろ。むしろあいつが強ければ強いほど俺が楽出来るから大歓迎だ」

 

 どことなく不満げなアスナの様子にどう答えるべきかと一瞬悩み、結局当たり障りのない返答を口にした俺だった。

 

「そうなんだけどね。ちょっと複雑」

「そんなもんか?」

 

 別にいいと思うんだけどな、俺が誰に負けてもさ。この前のクラディールとの決闘だって俺の負けで終わってるんだし、元々無敗伝説を築いているわけでもない。アスナのやつ、俺相手の決闘で白星がないことでも気にしてるのか?

 アスナの不満の正体はともかくとして、ヒースクリフの底が見えないのは攻略組の一員としては素直に喜ばしいことだった。ヒースクリフの実力が高いほどフロアボス戦での戦死者も減るんだ、どうせなら奴一人で全てのボスを狩ってくれないかな、とかちょっとだけ思うこともあるけど。

 もしくは攻略組の壁戦士全員に神聖剣が発現するとかしてくれたらと思う。二刀流よりは断然神聖剣が欲しい。ヒースクリフほど上手く扱えるプレイヤーはいないだろうが、神聖剣スキルが付与してくれる固さは生存率という意味ではピカ一である。盾持ちプレイヤー全員に持っていてもらいたいスキルだった。

 

 で、アタッカーには二刀流並の火力を付与してくれるエクストラスキルが欲しい。そこまで戦力が充実できればクォーターボスとだって恐れることなく戦えるようになるはずだ。

 神聖剣と二刀流がせめてエクストラスキルであることを願っちゃいるんだが、既に発見から一年が経とうとする今になっても使い手が一人ずつしかいないんじゃ望み薄だった。ユニークスキルの可能性が濃厚である。そもそも発現条件すらわかってないスキルだしなあ……。

 まあ高望みをしてもしょうがないか。現有戦力でどうにか遣り繰りしなきゃならないのは今に始まったことでもないのだ。馬鹿な妄想はこれくらいにして、そろそろ気合を入れるとしますかね。

 

「さて、と。昼食タイムは終わりにして、そろそろ攻略に戻るとしようか。できれば今日中に探索を終わらせたいもんな」

「ん、わかった。キリト君の負担が大きくなるけど、前衛は任せるね」

「ソロよりは格段に楽だから心配すんな。むしろアスナの神業サポートのほうが神経使いそうなもんだけど、大丈夫なのか?」

 

 やっぱり正式呼称がないと不便だ、《同時連携》ってことで売り出すかアスナに相談してみようか?

 

「パーティーメンバーが増えたりで戦場が複雑化すると使えないし、神業なんて言われるほどのものじゃないよ? 確実に合わせられるのは単発剣技だけだしね。頑張っても精々三連撃スキルまでで精一杯。それ以上の大技と連携するのはまだ無理よ」

「いや、十分アスナがやってることは規格外なんだけど……」

 

 現時点でも相当な戦力アップにつながってるし、これで上級剣技の連携まで可能になった日には空恐ろしいことになる。連撃の数が増えれば増えるほど難易度はぐっと増していくから、多分四連撃スキルくらいまでが限度だろうけど。

 

「規格外の権化みたいなキリト君に言われてもなあ」

 

 そんな失礼なことを零すアスナにでこぴんでもしてやろうかと思いながら、第75層迷宮区タワー最上階エリアの未踏破エリアを早々に埋めてやろうと気合を入れ直したのだった。

 

 

 

 

 

 

 血盟騎士団副団長《閃光》アスナ。

 細剣使いとしては間違いなくアインクラッド最高の使い手で、個人戦闘能力に限っても攻略組プレイヤーの中で五指に入る。規格外スキル保有者である俺とヒースクリフを除けば、あるいは頂点に立ちかねない強さの持ち主だった。その上で集団戦の指揮を如才なくこなす戦術眼と指揮能力を持ち合わせ、多数の部下を纏め上げる手腕も健在、となると欠点らしい欠点が見当たらない少女だ。

 強いていえば、自分がどれだけ凄いことをしているのかいまいち自覚に乏しいところか。俺の褒め言葉を受けても謙遜してるわけじゃなく、素で大したことじゃないと判断しているところが天才肌の証明なのかもしれない。これだから努力する天才って奴は本当に手に負えない。命の懸かった世界だけに頼もしい限りだった。

 

 彼女はこのソードアート・オンライン開始当初から最前線に立ち続け、それは今もなお継続している。その姿勢は一貫して《プレイヤーが一丸となって攻略を目指す》こと。そのために攻略組内部を纏め上げようと奔走し続けてきたからこそ、《閃光》の名は攻略組の中で最上級の尊敬を勝ち得ているのだった。

 それは攻略組に限った話でもない。およそアインクラッドで《閃光》の名を知らない者はいないとされるほど、その名は憧憬と崇拝の対象でもあった。この世界にプレイヤーが閉じ込められておよそ二年。それだけの期間、ずっと《プレイヤー開放》のために最前線で戦い続けたプレイヤーを厭うような人間こそ稀だろう。

 

 ――俺だって。

 

 折れず、曲がらず、一途に攻略を主導する姿を尊敬せずにはいられなかった。襲い来る苦難に一度たりとも怯むことはなく、《この世界には負けたくない》と一点の曇りなき信念を抱き、その矜持を傷つけることなく戦い続けた稀有なる細剣使いに憧れないはずがなかった。あるいは俺ほど彼女を眩しく思っていたプレイヤーもいないんじゃなかろうか。

 だからこそ俺は誰よりも血盟騎士団に敬意を払ってきた。彼女が範となった高潔な騎士たる姿。ただひたすらに前を見据え、アインクラッドの希望として揺るぎなく立つ様には脱帽するしかなかった。……幻想を、抱かずにはいられなかったのである。俺にとっての触れ得ざる者、神聖不可侵たる輝きを放つ少女として。

 

 だから。

 彼女を敬っていた。彼女を頼りにしていた。そして、彼女に甘えていた。

 俺は彼女に甘え続けていたのだと、今、この時になってようやく理解した。思い知らされることになった。突然に響く女性の叫びを契機にして。

 食後の休憩から数時間後。幾度かの戦闘を挟んで、再びモンスターが俺達の行く手を阻んだ――瞬間、突然に響き渡ったアスナの絹を裂くような悲鳴を、俺は最初誰が発したものだったのか判断することが出来なかった。

 

「いや……! 来ないで! こっちに来ないでよっ!」

 

 常は気丈な態度を崩すことのないアスナの表情は青褪め、恐怖の色が色濃く浮かび上がり、桜色の唇を戦慄くように痙攣させていた。歴戦の戦士として堂に入った構えはその面影なく腰が引けていて、威嚇のつもりなのか敵に向けた細剣《ランベントライト》は、怯えを示しているのか小刻みな震えを隠せていなかった。

 相棒の豹変を青天の霹靂として俺は一瞬呆然の体を晒したものの、今は戦闘の真っ最中だと己に言い聞かせて精神の再構築を果たす。俺までパニックになっていても仕方ない。

 眼前には不定形の白いもやとしか言えないモンスターが座していた。ぼんやりと人型の輪郭こそ保っているものの、確とした形を定めることはなく、風にそよぐ布のように時々刻々と自らの身体をゆらゆらと揺らしていた。人型という形こそ異なるが、イメージとしては妖怪《一反木綿》の奔放さにも似た動きだ。75層の迷宮区は《暗視》スキルなしでは探索が難しいくらい光源に乏しいから、その分お化けとか妖怪のようなイメージを抱きやすいのかもしれない。

 

 アストラル系列に位置するモンスター種。

 その特徴は索敵スキルに引っかかりづらく、先制攻撃(ファーストアタック)を仕掛けられる危険性が高いことだ。加えて捉えどころのない幽霊染みたイメージを補強しようとでも言うのか、メイスのような打撃属性武器ではほとんどダメージが通らないという嫌らしさも持ち併せている。

 その分斬撃属性や貫通属性を持つ剣や槍の攻撃に補正がつくため、俺の片手直剣やアスナの細剣ならば互角以上に戦える属性持ちだ。それに俺もアスナも索敵スキルは鍛え上げているから先制攻撃を取られることもなかった、特に苦戦するような敵でもない。それ故に、奴を目にした途端アスナが恐慌状態に突入した理由がわからなかった。

 

「アスナ! 落ち着け!」

「あ、キリトくん……」

「どうしたんだよ、お前らしくもない」

 

 目の光は翳り、強張り動揺した表情は恐怖に引き攣っている。戦闘に集中する以前の問題だ、こんな状態のアスナを見るのは初めてだった。

 

「――だめ、だめだよ、こんなのだめ……だめなんだから……!」

「お、おい、待てアスナ!」

 

 俺の檄を受けて一瞬アスナが正気づいたようにも見えたが、残念ながら彼女の混乱は継続していた。というより俺の顔を見てさらに悪化したのか、青褪めた顔にくっきりと恐怖が浮かび、俯き気味に独り言を繰り返す始末だ。そうしてそのまま俺の制止を振り切り、地を蹴って突撃を敢行した。

 その突進の鋭さは流石《閃光》と言えるものだったが、彼女が正気を失っているのは明らかだ。何の技巧も凝らさず真正面から飛び込み、そのまま工夫の一つもなくソードスキルを放とうとするなど、常のアスナの沈着な戦いぶりからはとても信じられるものではない。

 アスナとて70層を越えてモンスターのアルゴリズムに変化が現れてきているのは承知していたはずだ、いくら速くともそんな初心者のような考えなしの戦い方が通用するはずがないということも。

 

 ――この……馬鹿ッ!

 

 予想に違わずカウンターの痛打を浴びせかけられ、アスナはその衝撃に弾き飛ばされた。俺は内心悪態をつきながら吹き飛ばされたアスナをどうにか受け止め、敵との距離を離そうと一旦アスナを胸に抱えたまま後方に飛び退いた。その間アスナはぐったりと俺に身を預けているだけでぴくりとも動かない。素早くアスナの状態を確認すると、特に状態異常にかかっているというわけでもなかった。となると動けないのは精神的な不調が原因か。アスナのやつ、一体どうしたって言うんだ?

 アスナは攻略組でも最上位クラスのレベルを誇るし、装備だって同様である。故にアスナの被ったダメージは大きくない。それでも回復結晶を取り出してアスナのHPを全快させたのは、今のアスナの不安定さに嫌な予感を覚えたためだ。万一の不安が脳裏に過ぎってしまうほど、混乱したアスナの様子は尋常なものではなかった。

 

「いいかアスナ、まずは深呼吸しろ。それから今の無謀な行動の理由を手短に話せ。それが出来ないのなら今すぐ転移結晶で離脱しろ」

 

 白いもやから視線を外すことなく、矢継ぎ早に告げてしまう。ここが安全圏であったなら幾らでもアスナを慰めよう、時間をかけて彼女が落ち着くのを待ち、ゆっくりと理由を尋ねることだってしよう。しかしここは戦場だ。一瞬の判断ミスが死につながる、俺たち攻略組が親しみ恐れる未知の迷宮区。そんな場所で悠長にアスナの復調を待ってもいられなかった。

 

「わたし、お化けが大の苦手なの。それが理由で65層と66層の古城迷宮は、団長に無理言って攻略シフトから外してもらったくらい……」

 

 無謀に突撃して痛撃をくらった衝撃によるものか、はたまた俺に回復結晶を使わせた申し訳なさによるものか、意気消沈したアスナがぽつりぽつりと口にする。その様子に俺は無言で聞き入っていた。しかし、お化けが苦手とはまた意外な事実が出てきたな。

 65層と66層はホラー系フロアとして有名な階層だ。レイスやバンシーのようなアストラル系モンスターが跳梁跋扈する、お化け屋敷を彷彿させる場所である。確かあの時は珍しくヒースクリフが迷宮区攻略に積極的で、逆にアスナはレベリング責任者として団員を率いて別の狩場に篭っていたはずだ。妙なこともあるものだと首を傾げていたのだが、なるほど、そんな裏事情があったのか。

 

「アスナがアストラル系モンスターを苦手にしてるのはわかった。けど、それは敵に突っ込んだ理由にはならないよな?」

 

 お化けが苦手だというのなら震えて縮こまる方が自然だ。やぶれかぶれに突進するよりは怯えて逃げてしまうほうが有り得そうなものである。むしろアスナがそうした事情を抱えているのなら、転移で避難しないにしろ後ろに下がってもらったほうが有り難かった。

 生理的な苦手意識なんてそうそう払拭できるものじゃない。後は適材適所として俺に全て任せてくれれば良いし、その程度で文句を言うような間柄でもなかった。それはアスナだってわかってるはずだろうに、どうしてあんな真似をしたんだ?

 

「……わたしは、君の前では無様を晒せない」

 

 唇を噛み締め、身を切るように重々しく喉から声を搾り出したアスナの、しかしその真意が俺にはわからなかった。いや、アスナが人に弱みを見せようとしない女だということはわかってる。加えて負けず嫌いの少女だということも。逆に言えばその程度にしか俺はアスナの気持ちがわかっていないということだ。だからと言って、それが先の行動を肯定するかどうかは別問題だったが。

 

「わかった、素直に答えたくないというのならそれでもいい。とりあえず今日のところは――」

 

 転移結晶使って街に戻れ、明日以降の攻略については改めて話し合おう、そう続けようとした。何をそこまでこだわっているのかはわからないが、今のアスナは不安定極まりない。この状態で戦場に立たせるなんてことはしたくないし、ひとまず離脱させるべきだろう。そんな俺の思惑を凍りつかせるように、アスナの涙の混じった慟哭が薄暗い迷宮区フロアの空気を鋭く切り裂き、反響したのだった。

 

「――わたしはッ! 君だけには昔のわたし――情けないわたしを見せちゃいけないの! キリト君に負けない、キリト君が誇ることのできる立派な剣士で在り続けたいのよ!」

「ア、アスナ?」

 

 いつになく激情を露わにする細剣使いをまじまじと見つめ、呆然と声を漏らすしかない俺に、アスナは嗚咽をこらえるように続けた。

 

「《誰よりも強くなれる》って言ってくれた、あの日の君の言葉だけは裏切れない。裏切りたくないの。二年間わたしを支え続けてくれた大事な言葉を、今更嘘になんてできない……!」

 

 哀切極まりない涙声を耳にして、我知らず息を呑む。

 切羽詰ったような、余裕のないその叫び。俺の言葉を守れないのは嫌だと涙を零す少女を、あるいはここが戦場だということを忘れて呆然と見つめてしまった。目を見開き、身体は硬直する。それは今この瞬間、時が止まってしまったかのようだった。

 第一層フロアボス攻略戦。

 随分と昔のことだ。俺達がこの世界に閉じ込められてから一ヶ月足らずで臨んだ、最初のフロアボスとの戦い。

 ボスを前にしてのプレイヤーの裏切りと、その果てに俺が犯したPK。そしてオレンジに染まった俺のカーソル。痛みを噛み締めざるを得ない苦い記憶が脳裏を過ぎる。そして俺がアスナへと告げた言葉もまた、生々しく蘇り、反響した。

 

 ――君は強くなる。きっと、誰よりも強くなれる。

 

 およそ二年の歳月を挟んで思い出させられたその言葉は、かつて俺自身がアスナへと告げた――贈ったものだ。自身の命を見切り、自暴自棄一歩手前の中で口にした言葉でもある。このゲームをクリアするために俺が利用しようとしてしまった才知溢れる少女に、せめて一片の懺悔を請おうとし、この世界を生き抜いてもらう一助を残そうとした。

 あれは俺の優しさではなかった。そんな綺麗なものじゃない。彼女に対する後ろめたさと、先の見えなくなった真っ暗な心境と、あとは……あとはなんだったんだろうな。多分、アスナを案じることよりも俺の気持ちを優先したものでしかなかった。

 だからこそだったのだろうか。だからこそ俺の言葉は彼女の中で変容し、その心の奥底に燻り続けた。抜けない棘となって、長い間彼女を苛み続ける結果を招いてしまった。

 

「アスナ、君は……」

「……ごめん、ごめんね。駄目、頭の中がぐちゃぐちゃで何もわかんないよ。わたし、急に何言ってるんだろう……」

 

 潤んだアスナの瞳から頬へと涙が伝う。

 冗談じゃ……ないんだよな? まさか、とも思う。だが――俺がアスナの生き方を決定付けてしまった? いつか俺の口にした言葉が、アスナにこのアインクラッドという世界で最も過酷な生き方を選ばせてしまったのだろうか。死を隣人として受け入れる無慈悲な戦場に赴き、血反吐を吐くように歯をくいしばって最前線に立ち続け、攻略組の範として先頭に立つ《閃光》としての役割を、俺こそがアスナに強いた?

 だとしたら、それはもう《呪い》と変わらない。俺がアスナに遺してしまった、二年越しの呪縛。黒々と染まる、身勝手な押し付けでしかなかった。あの日、俺が《人殺し》という呪詛を贈られていたように、俺自身もアスナに消えない呪いを贈りつけてしまったことを今更に思い知る。

 

 そうしていながら、その後も俺は真っ直ぐに立つ彼女の姿に憧れ、触れ得ざる輝かしいものを見る目をずっとアスナに向けてきた。羨望とも憧憬とも知れぬそれをアスナに送り続け、アスナはそんな俺の無責任な期待に応え続けてきた――《閃光》の仮面を自らに課して。

 あたかも俺の理想そのままに。あたかも俺の願いそのままに。

 血盟騎士団の副団長は、《閃光》は、アスナはそうやって長い間戦い続けてきた。俺の言葉を支えに、強くあれと自らに言い聞かせて。

 それが故にアスナは恐怖に駆られながらも逃げることが出来なかったのか。戦うことのできない苦手なアストラル系モンスターを相手に、アスナは後退の二文字をついに選ぶことが出来なかった。ただただ俺の前では無様を晒せない、その一念によって。

 

 俺は自身がずっと正しい道を歩んできたなどとはこれっぽっちも思っていない。それどころか俺は間違った道を選択し続けてきたのだと考えていた。失敗ばかりで正解を掴み取れない自分自身をひどく情けなく思ったこともある。

 ようやく、本当にようやくだ。幾つも間違いを犯してきて、惑いながらも俺はそこに意味が欲しいと足掻けるようになった。つらいことからただ逃げるだけではなく、その全てが未来に繋がる何かであってほしいのだと切望するようになった。

 それでもこうして自分がとんでもない選択をしてしまったのだと思い知らされるのは、後悔や悲哀よりも先に虚脱と諦観が先立つ。奇妙な空白が思考を埋め、溜息しか出ないような重苦しい気持ちを抱えながら――無造作に俺の剣が暴風の唸りをあげて振るわれる。リズ謹製の魔剣が残す翡翠の太刀筋によって、俺達に接近と攻撃を試みたアスナ曰くのお化けモンスターが勢い良く弾き飛ばされた。それは多分、アスナを傷つけてくれた分の怒りも乗せて振るわれた一撃だったのだろう。

 

 ……空気読めよお前。俺とアスナが大事な話をしてんだ、モンスター風情が邪魔をするんじゃない。

 そんな八つ当たりめいた思いを抱きながら、もう一度アスナに目を落とした。俺の腕の中で弱弱しく震える様には《閃光》の面影なんて何処にもなかった。それこそお化け屋敷のアトラクションに涙を浮かべる女学生かなにかだろう。……それも、正確ではないんだろうけど。

 今の彼女の涙は恐怖に由来するものではなく、彼女の言葉を借りれば俺の前で無様を晒す自己嫌悪と自己否定によるものなのだ。己に課してきた誓いを守れなかった悲哀と、それを上回る情けなさに、こみあげる感情を抑えきれていないのだろう。

 

 あるいは、この世界に閉じ込められた当初、宿屋に閉じこもって塞ぎ込んでいたのだという彼女自身の過去に戻っていたのかもしれない。不屈の闘志をその身に宿す前の、等身大であるアスナの心。当たり前に青春を謳歌していただけの、特別でもなんでもない少女の姿。

 俺が《黒の剣士》でも《キリト》でもなく、その根幹に桐ヶ谷和人があるように、俺は今、役割演技の仮面を剥ぎ取った先にあるアスナの素顔を垣間見ているのかもしれない。――脆弱な心を抱えた、一人の女の子。

 アスナの頑なさは俺の撒いた種だ。俺がアスナを追い立ててきた。だったら、せめて間違った養分で咲き誇ってしまった花を刈り取るくらいはしてやらなきゃいけない。心中固く決意し、力なく俺に身を預ける彼女をどうにか促して立ち上がった。

 

「アスナ、左手出せ」

「キリト君?」

「いいから」

「う、うん」

 

 エリュシデータは既に鞘の中だ。だから俺は空いた右手をアスナの左手と繋ぎ合わせ、左手にダークリパルサーを構えることで戦闘再開の合図とした。

 

弾き防御(パリング)からの単発突進技につなげる。上手く合わせろよ」

「でも、これじゃキリト君が二刀流剣技を使えないよ?」

「片手直剣スキルはスキルスロットにセットされてるから問題ない。不足分はアスナ、君が埋めるんだ。いいか、今この戦場で俺の背中を守るパートナーはアスナなんだ。アスナだけが俺の力不足を補える。俺の命を守れる。……これから一度だけ、反撃を仕掛けるぞ。それで駄目なら転移結晶で離脱する。安全よりも優先するものなんてないんだ」

 

 切り替えろと彼女を促すのは、はたして正しいのだろうか。……間違っては、いないと思うけれど。

 俺もアスナも戦いの中に生きる身だ。葛藤も後悔も生き残った後に考えるべきもので、その全てが戦場の外で悩むべきものでしかなかった。俺は今までそうやって生きてきたし、そうでなければ生き残ってはこれなかった。

 そして、その事情はアスナだって同じはずだ。俺と同様、ゲームクリアを目指してただただ戦い続けてきた。俺たちには共有する嘆きも、重ねる思いも確かにある、あったはずだ。今はお互いの命を守り、敵を撃破することのみに全霊を傾ければ良い。

 

「アスナは今出来る最善を尽くせ。不足分は俺が埋めてやる」

 

 わずかの逡巡の後、わかった、と俺の横顔を見ていたアスナが了承の声をあげ、右手に握った剣を力強く握り直した。俺も左手に収まる剣の感触を改めて意識し、戦闘に純化した思考へと切り替える。

 

「いくぞ!」

「うん!」

 

 そんな掛け声と共に俺とアスナは揃って前へと飛び出し、片手を繋ぎあったハンデなどなにするものぞとばかりに一気に敵の間合いへと入り込んだ。不定形のもやから腕が飛び出す。狙いは――アスナか。

 アスナと手を繋いだままのため、ステップからの回避は使えない。そんなことをする気もなかった。宣言通りに敵の攻撃を弾くべく、俺が構えた剣に合わせるようにアスナの細剣も添えられていた。瞬間、交差される二刀十字。

 俺が二刀流を操って敵の重攻撃を弾き飛ばす必勝の型と同等の形に持ち込み、成功したパリングの効果がわずかの停滞時間を敵に強いる。その一瞬の隙を利用して引き絞られた俺とアスナ双方の剣からそれぞれソードスキルの輝きが発せられ――互いの技軌道を損なうはずもなく同時に二閃の剣撃が叩き込まれた。

 

 モンスターを撃破した証としてポリゴン片が乱舞し、経験値とコルの獲得数値が視界に表示される。その間に索敵スキルによって周囲の警戒を改めて行ってから、ようやく俺達は互いに顔を見合わせて緊張を解したのだった。

 へなへなとへたり込むようにアスナがその場に力なく腰を落とし、その際に一切の緊張が抜けた彼女の左手が、するりと繋ぎあった俺の右手から離れていった。

 

「キリト君のおかげでどうにか戦えたけど……やっぱりお化けの相手は嫌……」

「ご苦労さん。鬼とか悪魔みたいなのとは恐れず戦えるのにな」

「こればっかりは中々ね……。はあ、こうやって戦ってればその内お化けにも慣れて怖くなくなるのかなあ?」

「案外なんとかなるかもしれないぞ。アスナの怖がりが、見えない、触れない、なんだかよくわからないもの、みたいな幽霊の特徴に根ざしたものなら、この世界のアストラル系モンスターは剣で斬れるんだから怖くない。そういう認識に上書きするところまでなら持っていけるだろうさ」

「すっごい荒療治だね」

「俺もそう思う」

 

 剣ありきの思考はまさにこの世界に毒された証拠だと言える。

 そんな思いも棚上げに、固く握った拳から意識して力を緩め、深呼吸をして心を落ち着けていく。内心で覚悟を決め、彼女の前で膝を折った。正面から真っ直ぐにアスナと向かい合い、そのまま真剣な眼差しを向け続けると彼女の表情に困惑が広がっていく。どちらかというとバツの悪さ、か?

 

「正直に答えてくれ。アスナはずっとあの日の事――俺が犯罪者(オレンジ)になった時の事を気に病んでたのか? さっきみたいに、それこそ自分を見失ってしまうほど……」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい。謝るべきなのは俺なんだから」

 

 意を決して尋ねた俺から目を逸らし、弱弱しい様子で俯いてしまったアスナにほろ苦い気持ちが湧き上がる。……君は人が良すぎるし、責任感が強すぎる。

 多分、俺がいつまでも塞ぎ込んでソロを続けていたせいでもあるんだろう。俺が周囲を拒絶し続ける姿を見て、そのたびアスナは胸を痛めてきたのだと思う。それは彼女が差し伸べようとしていた手を振り払った――振り払い続けた俺の自業自得なんだから、本来アスナが気にするようなことじゃない。

 理屈の上ではそうなるんだが……割り切れないことくらい、幾らでもあるか。俺は本当に周りを省みることが出来ていなかったのだと情けなくもなる。気を落ち着かせるためにもう一度深く息を吐き出した。そんなわずかな動作にすらびくりと肩を震わせるアスナの姿が痛々しく、憐憫を誘う。……きっと、今の俺にはアスナに告げるべき言葉がある、言葉にして伝えるべき大事な気持ちがあるはずだ。

 

「アスナはさ、何ていうか頑張りすぎだ。攻略は大事だし、俺達はそこから逃げるわけにもいかない。けど、それでも君はもう少し力を抜いて、適当に生きてみても良いんじゃないかって思う。……なあアスナ、俺はもう大丈夫だから。あの日のように君から逃げたりしないし、今は君と一緒に戦いたい、この世界を共に生き抜きたいと思ってるよ」

 

 それが俺の素直な気持ちだった。

 

「俺はアスナを死なせたくない。いつか君に告げた――俺が君と向きあいもせずに押し付けてしまった言葉なんて、後生大事に仕舞い込む価値はないんだ。それでもアスナが不安だっていうなら、今度こそ俺がアスナを支えるからさ。君が今日まで背負ってきたものだって一緒に背負ってみせるよ」

 

 俺が彼女に遺してしまった呪いを打ち消すように、俺が彼女を決め付けてしまった呪縛を紐解くように、切々と口にする。

 皆に支えてもらってばかりだった俺がどこまでアスナの力になれるかはわからないが、俺がアスナに甘えるだけの関係はもう終わらせるべきだ。これからは本当の意味でパートナーとなって戦い、背中を、命を預けあって生きていく。アインクラッドの希望として立つ彼女の負担を分け合い、一緒にこの世界を戦い抜けばいい。

 じっとアスナを見つめて想いを口にする俺に、アスナは驚いたように目を瞠って聞き入り、やがて花弁が綻ぶように微笑んでくれた。

 良かった、と心底思う。俺がアスナに背を向けた日から続いてきた、俺がずっと見過ごしてきたボタンのかけ違いを、今、ようやく正すことが出来た気がした。

 

「本当にいいの? わたしが君に寄りかかっても幻滅したりしない?」

「ああ、いいぞ。幻滅なんてしたりするもんか」

 

 むしろ幻滅されないように気をつけるのは俺のほうだと思う。

 

「わたし、君が思ってるよりずっと弱い女だからね? あっちの世界じゃいつも誰かの後ろに隠れてるような性格だったもん。それでもキリト君はちゃんとわたしを受け止めてくれる?」

「受け止める、心配するな」

 

 アスナもこの世界に囚われてから随分なイメチェンを図ったもんだ。俺と初めて会った時はもう弱弱しさとは無縁の少女だっただけに、アスナ本人のカミングアウトには驚くばかりである。ふむ、誰かの後ろに隠れてビクビクしてるアスナか……。

 

「うむ、しおらしいアスナは是非ともお目にかかりたい」

「……ばか、キリト君のいじわる。君はとってもずるくて罪作りな泥棒さんよ。でも――わたしはそんな泥棒さんに頼ってもいいんだよね? 甘えても、いいんだよね?」

「もちろんだ、俺に意地の一つも張らせてくれ」

 

 アスナへの感謝と、胸に灯る決意を添えて頷く。アスナの隠れた一面を知ることができたのは僥倖であり、それはより一層彼女への愛おしさを増す結果につながっていた。

 しかし、元々アインクラッドでも最高峰の美人だとか言われてるのに、それに加えて可愛らしさまで追加とか反則だろう。涙で潤ませた瞳でおずおずと俺を見上げ、その上で蕩けるような甘え声を切なく響かせるアスナは、常の凛々しさとは異なるたおやかさを振りまいていた。何というか、男を刺激せずにはいられない、脳髄を甘やかに痺れさせる魅力に溢れているようで……いかんいかんと首を振って正気を取り戻す。

 間違いない、アスナは天然の男殺しだ。長ずれば傾城傾国にだってなれる華やかさと淑やかさを併せ持っているんじゃないか? そんなどこか冗談に似せた思考が浮かび上がる。もっとアスナの甘えた姿が見たいとか自然に考えてるあたり、今の俺は相当アスナにやられていた。ホント、アスナを見てると綺麗とか可愛いって形容詞が陳腐化していくな。

 アスナに見惚れていた俺の様子に気づいているのかいないのか。だったら、とアスナが切なさを帯びた声音で密やかに語りかけてくる。

 

「もう一度、わたしと約束して。わたしがキリト君を守るわ。わたしは絶対君を死なせたりしない。だから――だからね、わたしは弱い女だから、これ以上迷ったり不安になったりしないように……どうか君の言葉をわたしに刻んでください」

「ああ、約束するよ。俺がアスナを守る。俺は絶対君を死なせない、俺達は命を預けあったパートナーだ。だからアスナはもう一人で頑張り過ぎるなよ。これからは俺を頼ってくれ。いいな?」

「――はい」

 

 目尻に浮かんだ涙を払いながら嬉しげに微笑むアスナはとても綺麗だった。この一瞬を記録結晶に残しておきたいと本気で思ったほどだ。

 

「ありがとう。わたし、君を好きになれて本当に良かった。大好きだよ、キリト君」

 

 それは絶妙の追い討ちで、俺の想像以上に熱烈な想いの吐露だった。熱を帯びた吐息さえ今の彼女からは感じ取れるような気がする。その艶やかさと可憐さの前に俺の顔は真っ赤に染まり、湧き上がる高揚を鎮めることができない。慌しく鼓動を刻む心臓の音がうるさくて敵わなかった。

 なんだろうなあ、と改めて疑問に思う。何でこんなに可愛くて一途なんだろう。その気持ちを向けられるに値するほど俺は大した男だとは思えないのだけど――だからこそ、相応しくあろうと努力を続けるべきだった。彼女がその気持ちを誇れるように。そして、俺が俺自身を誇れるように。

 

 強くなりたい。もっともっと、今よりもずっと強く。

 

 この剣の世界で誰よりも巧く、誰よりも速く、誰よりも強く在りたいと希求する。俺達プレイヤーの未来を切り拓くことが出来るだけの力が欲しい。茅場なんかに負けてたまるか、あの男の作り出した世界は俺が必ずぶっ壊してやる。

 それは償いだけでも、贖罪だけでもない。きっと、俺に芳情を寄せてくれる全ての人への恩返しだった。

 

 

 

 

 

 残念なことに俺達がそれ以上安穏とした雰囲気に浸っていることはできなかった。程なく俺達は剣の柄に手をやり、警戒心を一気に跳ね上げさせられたからだ。空気読まないモンスターが湧出(ポップ)したとかいうわけじゃなくて、少し前から索敵スキルに引っかかっていた反応がいよいよ至近に迫っていたのである。モンスターではなくプレイヤー反応だからと言って無警戒で迎えて良いものではなかった。

 空気読めないのはモンスターだけじゃないなと内心愚痴っていたことは黙っておくことにして……一体何処のどいつだ、間の悪い。

 

 一通りの文句を繰り返すも、油断が大敵である事実は変わらない。迷宮区ではPKも十分可能だ。だからこそ相手を確かめるまではオレンジプレイヤーの一団を疑わなければならなかった。とはいえ、通常彼らは危険度の高い最前線、それも迷宮区に足を踏み入れることはまずないため、過度の心配はいらない。そんなプレイヤーの心理を突くように、かつて攻略組のプレイヤーを迷宮区内で罠に嵌めて殺害した《笑う棺桶》も今は壊滅状態だ。

 だから俺とアスナが示した警戒も念のため以上のものではなかった。そして通路の向こうからひょっこりと出てきた顔を見て警戒を解く。予想通りに見知った顔――攻略組の仲間だった。俺と同じくアスナも身体から力を抜き、旧知の男を笑顔で迎え入れる。

 

「おお、プレイヤー反応があるから誰かと思えば、キリトにアスナさんじゃねえか。久しぶりだなおい」

 

 にぱりと嬉しげに笑い、足早に駆け寄ってきたのはクラインだった。赤髪の下にバンダナを巻いた野武士面は相変わらず陽気な雰囲気で場を和ませる。その後にがちゃがちゃと鎧を擦れ合わせる音を響かせて風林火山のメンバーも顔を覗かせた。カタナ使いに槍使いと、欧州風のアインクラッドに似合わない六人の鎧武者が揃う。ちょっとした時代劇にでも迷い込んだ感じだな。

 少規模ながら攻略組でも一目置かれる精鋭ギルド《風林火山》は、未だフロアボス戦で戦死者を出したことのない稀有なギルドの一つだった。ラフコフにギルドメンバーを殺されたクラインが、どれだけ仲間の安否に気を配ってギルドを運営してきたのかを忍ばせる話だ。あの一件以来、クラインは団員からただの一度も戦死者を出さずに今日まで最前線を戦ってきたのだから。大した奴である。

 

「久しぶりって程でもないだろうけど、迷宮区で顔合わせることは確かに珍しいか。クラインも攻略お疲れさん」

「おうよ」

「お久しぶりですクラインさん。キリト君のサポートをお願いされた時以来なので、わたしは十日ぶりくらいですね」

「その節はどうも。こうしてキリトと組んで貰えてホッとしとります。なんせこいつあ、てんで人を頼ろうとしませんので」

「同感です」

 

 ……み、身の置き所がない。なんでこいつらは会って早々俺の保護者みたいな会話を始めやがるんだ。クラインに兄貴風吹かされるのは今に始まったことじゃないにしても、アスナにまで姉貴風吹かされるとかたまったものじゃないぞ。大体、アスナはさっきまで俺の前で涙まで流して萎れていたくせに、なんだよこの変わり身。これが女というものかと戦慄しながら、格好付けの意地っぱりである自分自身を全力で棚あげしてジト目になった俺である。

 

「ところでキリト。おめえ、軍の連中を見かけなかったか?」

「軍? いや、会ってないけど。やつらが攻略に参加してきてるのか?」

「ああ、何時間か前に俺らと遭遇してな。そこでマップデータを無料で提供させられた。ったく、あいつら横暴なとこはちっとも治っちゃいねえ」

「そりゃ災難だったな。にしてもマップデータ無料提供とか大盤振る舞いじゃないか。少しくらいごねても良かったんじゃないか?」

「へん、俺は人間が出来てるからな。いちいち喧嘩腰になってられるかっての」

 

 そう言って得意げな顔をするクラインだったが、ギルドメンバーからの「不満たらたらだったじゃないすか団長」との指摘に轟沈した。お前らーっ! と凄んで見せるクラインを肴に皆で笑い合う。やっぱこいつは得難い人柄をしてるよな、自然と場の空気を弛緩させる能力に長けている。別名いじられる才能。これ、一応褒め言葉だからな。

 

「キリト君は知らないみたいだけど、ギルドの例会で以前から軍が方針変更して上層に出てくる旨は通達されてたのよ。ただそれは75層攻略以後の話だったはずなんだけどね」

 

 予定を早めたのかしら、と首を傾げながら補足説明を入れるアスナだった。

 俺はギルドの例会には無縁だからそういう動きはアルゴの情報網頼みだ。今回のことは75層以後の話ってことだったらしいし、アルゴも現時点で俺に伝えるまでもない情報だと判断していたのだろう。俺にとってもフロアボス戦を共にしないプレイヤーないしギルド情報の優先順位は低かった。別段文句を言うようなことでもない。

 

「キリの字が74層フロアボスをソロで攻略するなんてことしたせいで、奴らの尻に火が回ったんじゃないですかね? 元々攻略に参加しないことに下から不満が募ってたって話でしょう?」

「ありえますね。ちなみにクラインさん達とニアミスしたって言う軍の人たちの様子はどうでした?」

「2パーティーの12人編成、迷宮区に慣れてないせいか疲労の色が濃いように見えましたな。指揮官はコーバッツと名乗っとりましたわ」

「……そうですか、軍はこれ以上の権威失墜は避けたいはずですし、虎の子の精鋭部隊でしょう。おそらく安全マージンも十分取ってあるでしょうし、心配はなさそうですね」

「ま、そうでしょうな。それに75層はクォーターポイントですし、奴らも勇み足でフロアボスの部屋に抜け駆けするような真似もせんでしょう」

「ですね」

 

 そんなクラインとアスナの分析を俺は冷や汗を流しながら聞き入っていた。どうにも74層のフロアボスをソロで撃破したことにより、予想以上に方々へと影響が出てしまっている気がする。他人は他人、自分は自分と割り切っていちいち浮き足立たないでほしいもんなんだけど……。それこそ俺の勝手な感想だと言われてしまいそうだな。

 

「軍の思惑はともかく、俺らもそろそろ話し込むのは止めにして動かないか? 同じ話し込むにしてもこんなところで周囲の警戒しながらより、街に戻って落ち着いて話すほうが気楽だろ。幸い時間は取れそうだし」

「ん? なんだキリト、お前ら今日は引き上げか? 俺らはもうちょいボス部屋探すつもりなんだが」

「そうよキリト君、わたし達も夕方までは探索を続ける予定だったじゃない。わたしのことは心配いらないから、予定を変えずにもうちょっと続けましょう。それに折角クラインさんと会ったわけだし、ここからは風林火山に合流させてもらって探索を続けても良いと思うわ」

 

 そんなアスナの台詞に途端に色めき立つ風林火山の面々だった。おーい、お前までもかクライン。この世界は確かに男女比率が傾いていて女性は貴重だけど、そこまで喜ぶようなことなのかいな? そりゃ、アスナは美人で人当たりも良くて料理上手な超のつく優良物件だけどさ。

 アスナを交えて攻略に励むという未来に鼻息荒くさせている彼らに、それは出来ないのだと告げることは何だかとてつもなく申し訳ないことだと思えてきた。攻略組はほとんど男所帯だから出会いがない。それはわかるんだけど、それにしてもクラインたちの喜びようはなぁ……。

 アスナ、アルゴ、サチ、シリカ、リズベットと順々に親しい女性の顔を思い浮かべ、もしかしなくても俺はクラインらに袋叩きにされかねないくらい恵まれているのだなと改めて思う。決して口にしてはならないトップシークレットだと胸に刻んだ。

 

「その、な、真に言いづらいことなんだが……これ以上探さんでもフロアボスの部屋はそこにあるぞ?」

 

 え、と俺を除く全員の間抜けな声が唱和する。ついでに鳩が豆鉄砲食らったような顔が幾つも並んでいた。

 やっぱ気づいてなかったんだと頬を掻きながら、クライン達が現れた側とは反対側、俺とアスナが向かっていた進行方向の先を指で指し示す。薄暗い通路の先、鏡のごとく磨き上げられた黒い石で形成された回廊の突き当たりには、やはり同色の黒曜石製の巨大な二枚扉があった。

 もう少し近づいてみようという風林火山の提案を受けて、俺とアスナもゆっくりと扉に近づいていく。間近に見ればその迫力に物怖じしてしまいそうだ。物々しいレリーフが刻まれていることや威容を放つ巨大な扉の造型が、自然とこれが最奥の空間なのだと主張してくれている。閉じきった扉の向こうから怖気を誘う冷気が吹き抜けて来るような、あるいはぞくりとさせる妖気が漂っているような気分にさせられるのだから、体感という意味でもこれがフロアボスにつながる扉なのだと示していた。

 

「……の、覗いてみるか?」

「止めとけ。結晶無効化空間の可能性が高い以上、不用意に踏み込むべきじゃない。それにこんな攻撃特化のメンバー編成の上、少人数パーティーじゃ偵察もままならないよ」

「……だな」

 

 クラインも本気で言っていたわけではなく、重苦しくなりそうな空気を和ませようとしただけだろう。俺の返事に頷いたクラインの表情は、激闘を予感させるクォーターポイントの困難さを思ってか苦み走っていた。

 俺もクラインと同じ思いだ。たった扉一枚隔てた向こうの空間に存在するはずの強敵は、一体如何なる姿をしていて、どれほどにプレイヤーを苦しめる強さを誇っているのだろうか。74層のフロアボスだった《ザ・グリームアイズ》とは比べ物にならない凶悪さを秘めているはずだった。攻撃力、防御力、回避力、なによりその凶暴性。どこまで被害を減らしながら勝利を掴み取ることができるか。いよいよ正念場だった。

 ともあれ、まずは偵察部隊の派遣か。しかし壁仕様の重武装プレイヤーを中心に固めた偵察部隊を送り込むにしても、引き際の判断はひどく難しいものになるだろう。……本当、ヒースクリフ並の固さを持つプレイヤーが一部隊欲しいな。

 

「ところでキリト君は何してるの?」

「ん? 折角ボス部屋の前まで来たんで回廊結晶に記録中。今は……四時前か。明日すぐに偵察部隊が赴くこともないだろうけど一応な、これくらいは大した手間でもないし」

 

 ここまで来たのだからと取り出した回廊結晶に場所を記録してしまう。24時間で記録は消えてしまうため無駄骨に終わる可能性が高いものの、こういうことは気づいた時にやっておかないと、いざという時に後悔することになりかねない。

 

「……キリト君、お願いだから先走ったりしないでね」

「……キリト、絶対そいつはおめえ個人で使うんじゃねえぞ」

「お、お前ら……」

 

 妙に真剣な顔で告げるアスナとクラインだった。

 お前達、絶対俺を誤解してるだろ! 俺は基本的にでっかい勝算ありか絶対に逃げ切れる自信のある時しかボスとソロで戦ったりしないぞ。確かに74層では結晶無効化空間なんてトラップ仕様だったせいで引き際を計れず、結果的に乾坤一擲の大勝負を演じてしまったけど、そんなの稀も稀でしかない。

 そうした例外を除けば俺ほど安全を重視するタイプもいないと思うんだ。第一、引き際を冷静に計算できなきゃソロで生き抜くなんてことは出来なかったわけだし、俺が今日まで生きてることこそ俺が命知らずじゃない証明みたいなもんじゃないか? そりゃ低階層を攻略してた頃は死にたがりプレイヤーだったかもしれないけど、そんなのずっと昔の話だぜ? だからこそ、もうちょっと俺を信用してくれても良いと思うんだよ。昔は昔、今は今! ……駄目デスカ?

 そんな不満、もといお願いを口に出してみたところ、

 

「キリト君は自分の胸に手を当ててじっくり反省してね」

 

 なんて答えが笑顔と一緒に返ってきた。「考えてみてね」ではなく「反省してね」という所に、アスナの俺に対する絶大な信頼が込められているなあと感心した今日この頃である。ちくしょう。

 最後にそんな締まらないやりとりを交わして、ようやく俺達は75層の探索を終え、しばしの休息を取ろうと転移結晶で街に跳んだのだった。

 

 

 

 

 

 嫌な予感というのは当たるものだ。軍が予定を早めて最前線に参加してきたことに一抹の不安を抱えていた俺は、例に漏らず頭を抱える羽目になった。

 以前の――25層以前の軍ならばここまで心配することもなかっただろう。しかし現在の軍はどれだけ好意的に見ても横暴さと頑迷さが目立つ組織に変じていたし、その組織に蔓延する空気が最前線に参戦することを決めたからと言って払拭されるとも思えなかった。いや、クラインの語ったことを踏まえると余計に悪化していると見るべきか。

 

「我々はこのアインクラッド全てのプレイヤー開放のために日夜戦っている! そのために攻略組と呼ばれるプレイヤー諸君の協力を得たいと考え、このフロアボス攻略会議に参加を申し入れた。無論、諸君らの懸念は理解している。今日まで攻略に参加してこなかった我々軍の精鋭の実力を疑っていることは、真に慙愧(ざんき)なれど道理でもある。そこで私――アインクラッド解放軍所属、コーバッツ中佐が諸君らに偵察部隊に赴く一番槍を所望する次第である! 返答や如何に!?」

 

 時は75層フロアボスの部屋が発見された翌日、十時をわずかに過ぎた頃。場所は第55層主街区グランザム、名にし負う血盟騎士団のギルド本部だった。殺風景な広い会議室に椅子と机が並べられ、何十人ものプレイヤーが険しい顔をして席についていた。……空気が重い。

 今、ここでは75層フロアボス攻略会議が開かれている。その大会議室の中、何十人という会議参加者が居並ぶ中で熱弁を振るっているのが、コーバッツと名乗った軍所属の男だった。 

 重そうな黒鉄色の金属鎧の胸にはアインクラッド全景を意匠化した紋章が踊り、鎧の下には濃緑の戦闘服を着込んでいる。それでも室内だからか、あるいは人前だからか、軍の画一化装備を際立たせる、視界を保護するバイザーとヘルメットは外していた。角ばった顔立ちと短く刈り上げた髪型が厳つさを前面に押し出し、三十路越えと思われる長身の男はじろりと会議の参加者を見渡して演説――要請を口にした。

 プレイヤー開放のために長い間戦ってきた攻略組を前にして、自分達こそがプレイヤー開放の先鋭と口にする男の大胆さは中々のものだろう。不愉快気な数多の視線を無視して演説を続けられる一事を持ってしても、相当に肝が太いのだと思われた。

 

「結論を出す前に幾つか質問させていただきたいと思います。構いませんか、コーバッツさん?」

「勿論だ」

「では、軍の要請に対する採択に移る前に質疑応答の時間を取りたいと思います。疑義のある方はこの場で挙手をお願いします。ただし速やかな会議進行のため、質疑応答は各自一回でお願いします。議案がまとまらないようでしたら再度審議の時間を設けます」

 

 性急なコーバッツの要求を会議進行役のアスナがやんわりと宥め、質問タイムへと突入した。まず挙手したのは青の大海を率いるディアベルだ。

 

「一番槍と言うことは軍が単独で偵察部隊を率いるわけではなく、あくまで偵察部隊の一員として参加するって認識で良いのかな、コーバッツさん?」

「うむ。我々とて君らを無碍に扱おうとは思わない。先陣をきらせてもらえればそれで良しとするつもりだ。ただし指揮権の完全委譲は認められない。我々は君らの風下に立つ気はないことを宣言しておく」

 

 おいおい、前半と後半で思い切り矛盾してるじゃないか。突入するのは自分達だけでなくても良いけど指揮権は寄越せとか、滅茶苦茶不遜な要求だと思うぞ。あ、ディアベルが困った顔で着席した。アスナは澄ました顔を続けているけど、内心頭抱えてるんだろうな。

 続けて発言したのは聖竜連合の前衛隊長を務めるシュミットだった。

 

「軍の代表者はシンカーさんであり、実働戦力をまとめてるのはキバオウさんだと聞いている。その両名はどうした? 姿が見えないが」

「心配には及ばない。シンカー、キバオウ、両大佐は私に全権委任してくださっている。両名共に私の判断を尊重するとのお言葉だ」

 

 それ以上聞きたいこともなかったのか、シュミットはなにやら思案気味に腰を下ろした。

 全権委任か、コーバッツの言葉に嘘はなさそうだが、いよいよきな臭くなってきたな。軍が上層に上がってくると聞いて、俺はてっきり軍の部隊を率いるのはキバオウかと思っていた。サボテン頭の関西弁が特徴的な男が脳裏に浮かぶ。

 25層以来めっきり顔を見ることはなくなったものの、あの男こそが軍の最高レベルのプレイヤーだったはずだし、それは今でも変わらないだろう。人柄に角の立つ部分もあるが部隊指揮に支障が出るほどでもない、そもそも軍の中ではギルド長のシンカー以上に支持を集めているはずじゃなかったか? コーバッツの話では大佐の呼称のままのようだし、権限が縮小されたわけでもあるまい。温存というのもおかしな話だし、何か事情でもあるのか?

 

 ちなみに軍の階級は少佐、中佐、大佐の三種類だけだ。1パーティー6人を一部隊と見なして、一部隊のリーダーを務める権限を持つプレイヤーを少佐、2パーティー以上の複数部隊を率いる権限を持つプレイヤーを中佐と呼称し、その上に団長と副団長の二人を指して大佐と呼称している。

 この辺は現実世界の軍組織とはかなり異なっている。階級を厳格化しても仕方ないという判断があったのだろうと俺は踏んでいた。実際のところ、いくらゲーマーとはいえ戦略シミュレーションみたいなジャンル好きでもなければ、軍組織なんてまず馴染みがない。普通の人は兵卒、尉官、佐官、将官の区別なんてつかないし、その役割の違いなんて尚更ちんぷんかんぷんだろう。内外双方にとって、ゲーマーやアニメ好きに馴染み深い佐官階級の少佐、中佐、大佐だけ持ち出してきたのは妥当な判断だろうと思う。大事なのは呼称に伴う階級制度と権威化なのだろうし。

 つまり大佐の称号はシンカーとキバオウしか持ちえず、軍所属プレイヤーの最高階級は中佐だ。まがりなりにも二人から全権委任を受けてここにいる以上、コーバッツはおそらく軍のナンバースリーなのだろうと思われた。

 

「軍が攻略に参加するのは76層以降だと聞いていたのだが、なぜ通達なしに予定を変えたのか聞かせてもらえるか?」

 

 そう重々しく告げたのは血盟騎士団幹部のゴドフリーだった。

 

「通達抜きであったことは謝罪しよう。しかし予定の変更については答えることができない。私自身何も聞かされていないからだ」

 

 ふむ。となると、シンカー、キバオウのどちらかの意向か。まあ考えるまでもなくキバオウの判断なわけだけど。シンカーは危険な最前線に参加することに反対している立場だし、果断な決断を苦手としているプレイヤーだったはずだ。こんな性急な真似はしないだろう。

 腕組みをしたまま思索を飛ばしている俺を尻目に、それからも幾つか質問が飛び交い、コーバッツはそれらに実直に、あるいは傲岸に答えた。まごつくようなことは一度もなく、答えられない質問にはノーコメントを貫き、自身の知らないことは戸惑いなく知らないと口にする。

 その様を見ていて、なるほど軍のような集団に重宝されるタイプだと感心した。この男は自らの思想を表に出さず、命令に忠実だ。あくまで組織の規範に則り、その決め事の中で最善を尽くそうとする人間である。私の部分を殺し、歯車としての役割を忠実に演じることの出来る実直に過ぎる男だった。その教条的な部分が外部にはマイナスとなりやすいため交渉事には向かないかもしれないが、しかし内部向けの人材としては非常に優秀だろう。

 

 つまり俺が何を言いたいかと言うと、「おいこらシンカーにキバオウ、人選間違えてやしないか。お前らのどっちかが足を運べよ馬鹿野郎」ということになる。

 断っておくと俺はコーバッツのような人間は嫌いじゃない。杓子定規な性格をしているのだろうが、決して悪い奴でもないと思っている。つーかPoHやらザザに代表されるラフコフの連中みたいに、PKが趣味とか何考えてんだか欠片も理解できないアホ共に比べたら、コーバッツのように真っ当な思想を抱いて攻略に参加してくれるプレイヤーは清涼剤に思えるものだ。歓迎も歓迎、大歓迎である。

 能力にしたって慣れない迷宮区、それも最前線にいきなり部下を率いて無事に攻略を続けられる指揮統率は優秀さを伺わせるし、本人の戦闘能力だって部隊長としてかなりのレベルなのだろう。自信を裏付ける実力は間違いなく持っているのだと思う。

 けどな、こういう場には致命的に向いていない。本人が根っからの善人なのか、《全プレイヤー解放のために戦う正義の組織》という軍の掲げるスローガン、金科玉条に忠実であろうとしすぎている。そのせいで自分達の立場こそがこの場で風下に立っているという、そもそもの前提条件が完全に抜け落ちていた。

 

 軍が最前線に多大な影響力を持っていたのはゲーム開始から半年足らずの間までだ。その当時なら大目に見られていたであろう傲岸不遜な態度は、現時点では身の程知らずの大言壮語にしかつながらない。

 長い間命を懸けて戦ってきた自負が攻略組のプレイヤーにはある。そしてここにいるのは皆攻略組に属するトッププレイヤーだった。そこで過去の栄光よ再びとばかりに鼻息荒くしゃしゃり出てきた連中がこうも大口叩いても、何を(さえず)ってるんだこの阿呆、としかならないのである。空気読む読まない以前に、軍が攻略組に喧嘩売ってるとしか思えなかった。

 

 ここでコーバッツが取るべき態度は、まず先達を立てて、その上で実力証明の場を与えてもらうよう計らうことだろう。最大規模のギルドであり、多数の有為な人材を抱える軍の最前線復帰は、攻略組にだって大きな力となるのだから殊更排他的に接する理由もない。そうやって機会を得た上で頭角を現せば自然と発言力だって強くなる。まだ二十以上も攻略せねばならない階層は残っているのだ、ここで焦ったって仕方ないだろう。

 場の雰囲気が明らかに剣呑なものに変わってきたところで、気の進まない内心をこらえて挙手をした。うぅ、嫌だなあ、こんな空気の中で喋るの。しかしアスナに俺を頼れと言った手前、こういった公的な場で今までのようにソロを言い訳にして積極的にならないのもよろしくない。このまま会議がしっちゃかめっちゃかになる前にある程度方向性を定めておかないと。

 

「コーバッツ、あんたはさっき指揮権の委譲は認められないと言ったが、それは偵察部隊に限った話か? それとも偵察後の討伐隊結成の段階になっても主導的立場でないと戦えない、そう言ってるのか? 例えば――そこの血盟騎士団団長殿を差し置いて討伐隊の指揮を執りたい、と?」

 

 別段、コーバッツを睨んだつもりはなかった。しかし俺の質問を受けて、コーバッツは初めて怯んだように口を閉じ、答えを口にすることを躊躇ったようだった。言質を取られることを嫌がったのかもしれない。

 俺の意地が悪いとかそういう問題ではなく、最低限明らかにしておかなければいけないことを指摘しただけのことだ。もしこの問いを受けてなお軍が主導権を取ることに固執するのなら、俺は軍のボス討伐隊参加に断固反対の立場を取るつもりだった。さすがにそこまで勝手を通そうというのなら見過ごしてやる理由はない。どれだけ俺と軍の仲が険悪になろうが叩き潰す気でいた――もとい本戦にはご遠慮願うつもりでいた。最悪のボスを前にして討伐隊参加メンバー内で不協和音を抱えたくなかった。

 もっとも軍の連中の俺に対する心証なんて、現時点で最悪な気もするけど。

 

「……否、だ。我々軍が望んでいるのはあくまで今回の偵察隊を率いる立場だ。本討伐の指揮に関してはその限りではない。無論、偵察隊の功如何では相応の立場を要求させてもらうが」

「ならいいさ。それ以上は《聖騎士》殿と《閃光》殿の仕事だ、俺が口を挟むつもりもない。俺の質問は以上だ」

 

 少し意外だな、と思った。コーバッツの態度からは俺に対する然したる隔意は感じられない。この場に集ったほかのプレイヤーに向ける目と同じものを俺にも向けていた。お世辞にも軍に受けが良いとはいえない俺だから、多少は目に険が宿るものだと思ってただけに嬉しい誤算である。好きで嫌われてきたわけでもないし、コーバッツが俺に含むところがないのはありがたい。そんな内心のつぶやきは勿論声に出すことはなく、何でもない顔をして席に着く。

 コーバッツの答えは俺を十分に満足させた。

 軍が自身の立場を弁え、現在の攻略組の枠組みを尊重するというのなら俺から言うことはない。結局の所、攻略組は実力主義だ。軍がその要求に相応しい活躍を見せることが出来るというなら、それはそれで一向に構わなかった。向上心があるのは良いことだ。

 

 現在血盟騎士団が攻略組を主導する立場にいるのだって、言ってみれば一番腕っ節が強く頼れる集団だからである。その武力の下地あればこそ六百余名のトッププレイヤー集団、攻略組の頂点に君臨していられる。

 その立場が欲しいというのなら剣持て奪えば良い。攻略組最強の看板を欲するなら相応の力を見せろ。《聖騎士》と《閃光》の二枚看板を擁した最強ギルドを超えられるというのなら、是非超えてみせてくれとしか言えない。それだけのことが為せるなら軍が攻略組を主導したとて誰も文句はないだろう。

 攻略組の戦力が増えること自体は歓迎すべきなんだ。多少素行が悪かろうが、戦死者を少なくして攻略速度を加速してくれるというのなら願ってもないことだった。

 そんな思考に耽りながら、俺はそれ以上発言することもなく会議の行く末を見守った。

 

 

 

 

 

 最終的に決定したことは偵察部隊を4パーティー24名で構成することだ。その内、軍から12名を選出し、偵察部隊の第一陣を担当することになった。さらに4ギルド合同で12名を選出し、彼らが第二陣を担当する。75層フロアボスの部屋は結晶無効化空間の疑いが強いため、第一陣の軍部隊を本命に据え、第二陣で用意した合同部隊が軍部隊撤退の補助、場合によっては救出任務を請け負うことになった。

 第一陣が先に突入し、第二陣がボス部屋入り口、扉の前で待機することになったのは慎重を期すことと軍の意向を慮った結果でもあった。戦闘指揮の権限はコーバッツが有するし撤退のタイミングは自由とされている。しかし第二陣が踏み込んだ時点で問答無用に撤退戦に移行することだけは申し付けられた。

 コーバッツが功を焦って撤退のタイミングを誤ることが懸念されたためだが、そんな裏を読んでいるのかいないのか、コーバッツは逡巡することなく頷いたのだった。偵察の成否よりもプレイヤーの安否優先、十分な情報が集まらなければ後日、軍を中心に再び偵察隊を組むと約しておいたことが良い具合に働いたのかもしれない。この辺りの匙加減はヒースクリフの配慮だった。やっぱあいつ人心掌握上手いわ。

 

「ボス部屋の扉の前で回廊結晶に記録した時間は昨日の午後3時53分。今が正午前だから、結晶が使えるのはおおよそ4時間だ。念のため確認しておいてくれ」

「うむ、君の協力に感謝する」

 

 会議が終わり、コーバッツへと回廊結晶を渡しながらの俺の台詞だった。俺の視線が複雑だったのは何も高価な回廊結晶を無償で譲渡することに関してじゃない。元々今回の会議に先立って回廊結晶の提供は宣言していたし、今更惜しくなったわけでもなかった。

 

「……作戦決行は今日の午後三時ジャストだったか。なあ、何もそこまで急ぐことはないんじゃないか。軍選抜の12人はあんたも含めて皆、昨日まで迷宮区に出ずっぱりだったんだろ、休息だって必要だと思うんだ。何なら回廊結晶は俺がまた記録してくるから、作戦決行は明日に伸ばしてもらっても構わないんだぞ?」

 

 そう、余りに慌しく準備と決行が行われることに妙な胸騒ぎを覚えたからだった。

 軍が功を欲しているのは確かだし、それ自体を非難する気はない。攻略組に確固たる地位を築くために、最難関とされる75層クォーターポイントで活躍を残しておきたいという気持ちもわかる。コーバッツ個人は非常に高い攻略意識を持っているだけに、今回の戦いにも心に期するものがあるのだろうとは思う。

 それでも、こうも急ぎすぎているように見えるとどうしたって不安になってしまう。俺が些か不景気な顔をしているのはそのせいだった。

 

「君の心遣いには感謝する。しかし心配には及ばない、我々とてクォーターポイントの恐怖と理不尽さは理解している。なにせ我が軍がかつて甚大な被害を被ったのが25層のクォーターポイントだったのだから」

 

 そこでコーバッツは一度言葉を切り、わずかの間目を閉じ、沈黙を守った。もしかしたら過去に思いを馳せていたのかもしれない。

 それからほどなく、コーバッツは目に力強い光を宿らせ、ゆっくりと口を開く。

 

「我々は同じ轍を踏むつもりはない。細心の注意の元で戦い、有益な情報を持ち帰るつもりだ。いいかね、これは我々の雪辱戦でもあるのだよ。同時にアインクラッドの趨勢を占う重要極まりない戦いだけに、我らの力を投入する意義は十分だろう。なればこそ、君は作戦の成功を祈っていてくれたまえ。我らの志は、決して苦難の前に敗れ去るものではないのだと」

「……ああ、そうだな。あんた達が無事に戻ること、作戦が成功してクォーターボスの全容が割れることを期待してる。なによりこの後控える本討伐戦で、あんたと肩を並べて戦えればいいな。武運を祈る、コーバッツ中佐」

「激励感謝する。また会おう《黒の剣士》キリト」

 

 頑固と評す程に堅物で、独善的とも取れるほどに実直なその男は、そう言って俺に背を向け、堂々とした後姿を見せながら立ち去って行った。――そして、この時の会話が俺とコーバッツの交わした最後のものとなったのである。

 

 

 

 

 

 報告は、以下のようなものだ。

 

 9月19日午後3時丁度に作戦決行した偵察部隊の第一陣、軍選抜の2パーティー合計12人が75層フロアボスの部屋に突入した。

 第一陣12名が部屋の中央に到達した瞬間に入り口の扉が閉まり、その扉は開錠スキルや直接の打撃斬撃等何をしても開かれることはなかった。そのまま五分以上が経過し、それまで何をしても変化のなかった扉が唐突に開いた時、第二陣として控えていた合同メンバー12名の見える範囲には何もなかった。先行した12名の姿も、死した時に残される装備アイテムも、そしてボスの姿も。――何も、本当に何も残っていなかった。

 転移結晶による脱出の痕跡も見つかることはなく、黒鉄宮の生命の碑に刻まれたキャラネームを確認しに走った所、第一陣12名全ての名に横線が引かれ、二度と帰らぬ人となったことが決定的となった。

 コーバッツ中佐死亡、並びにその部下11名全てが死亡。

 

 ボスの大きさや姿形、攻撃の重さや防御の堅さ、機動力に特殊能力、ボスの名称すら依然として不明。

 彼らが残したものは、戦闘開始5分にも満たない中で12名全てが死亡したこと、つまりはクォーターボスは前評判通りに規格外である事実と、転移結晶すら使われなかったことで結晶無効化空間の可能性が濃厚になった事実、一度踏み入れたら出入り口が封鎖されて脱出することが絶望的な事実、それだけだった。

 それだけしか、残すことができなかった。

 アインクラッドに住まう全てのプレイヤーを救うのだと、自らの頭上高くに掲げた高潔な志を持ち、かつての散っていった仲間の無念を晴らし、今こそ雪辱を果たさんと胸に期した男の、それが最後に為した功績だったのである。

 

 

 

 ――コーバッツの、嘘つき野郎……ッ!

 

 




 システム外スキル《同時連携》は原作に存在せず、《システム的に不可能ではないが推奨されていない》と描写されていた戦闘陣形を、拙作アスナがデメリットを抑えて部分的に実現させた高等連携技能となっております。
 75層の迷宮区構造、出現モンスター及びアストラル系モンスター種の特徴は独自設定です。
 また、軍の階級を三種類としたのは拙作独自のものであり、原作では中佐の呼称しか出てきません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第15話 黒の剣士、白の閃光 (3)

 

 

 第61層に《セルムブルグ》という城塞都市がある。街区として61層の中心に位置するそれなり以上に名の知れた街だ。白亜の尖塔が頭上高く伸びる古城をモデルに、街全てが乳白色の花崗岩を材質に構成されている。

 それだけでも一見の価値がありそうな街並みだったが、この街の真骨頂は《白》と対を為すように《緑》溢れるコントラスト模様だった。都市コンセプトに《憩い》でも盛り込んでいるのか、街路にしろ建物にしろとにかく手広く余裕を持たせて作られていて、例えばエギルの店がある50層の主街区《アルゲート》を象徴する狭っ苦しさなど微塵も感じさせない街だった。

 

 とにもかくにも居心地が良さそうで、時間がゆったりと流れる感覚を存分に味わえる、多くのプレイヤーが是非にと住みたがること請負な都市である。しかしそんなプレイヤー心理を見透かしたかのようにこの街の部屋――プレイヤーホームの購入費用は馬鹿高い。金銭的に余裕のある攻略組のプレイヤーでさえ二の足を踏みかねない値段設定だった。

 ホームを持とうとしない俺のようなプレイヤーは除外するにしても、一体どれだけのプレイヤーが涙を呑んで諦めていったことだろう。

 

 セルムブルグが人気高い街なのはその都市設計が優れているだけでなく、立地そのものにも理由が求められるのかもしれない。かつてこの層が最前線だった折は47層の《フラワーガーデン》同様にスルーしていたものの、改めてこの区画をゆっくり歩いていると嫌が応にも悟ることがある。セルムブルグを囲む湖水の眺めがまた絶景なのだ。

 61層はその大部分が湖で覆われていて、その中心に浮かんだ小島にセルムブルグという観光都市が置かれていた。必然、この街の周囲一帯は湖面が占めることになる。街を歩く最中にふと目を移せば、濁りなどわずかたりとも存在しない透き通った水面が、太陽光を反射してきらきらと輝くことで人々の目を楽しませようと趣向をこらしていた。

 

 まるでプレイヤーを歓迎し、祝福してくれているかのようだ。時を移し、夕日の落ちる刻限を見計らって訪ねれば、俺が抱いた清涼と静穏を黄昏時の安息に変えてプレイヤーを迎えてもくれるのだろう。

 広大な湖面と白の彫刻、緑の自然が織り成す美しくも静寂に満ちた街。それが61層主街区《セルムブルグ》だ。

 

 と、ここまで美辞麗句を尽くしてきて何だが、俺自身はこの街に住みたいとまでは思っていなかったりする。

 確かにセルムブルグという都市に備わる魅力はすばらしいとは思うものの、根が小市民な俺にとってはこういう如何にも上品な雰囲気はちと敷居が高い。加えて観光地なんてのは偶に覗くから感動できるのであって、毎日眺めていたらその内飽きてしまうんじゃないか? と天邪鬼思想も抱いてしまうのである。あるいは勿体ないという貧乏性か。

 

 同列に並べて良いのか知らないけど《美人は三日で飽きる》とも言うしな。……何人かの女の子の顔が脳裏に浮かび、その格言は俺には当てはまらなそうだなあ、などと馬鹿なことを考えつつ。

 尖塔を抱えた古城前の広場に置かれた転移門を潜って少しばかり歩き、俺が目指したのは目抜き通りから東に折れた先にある建物――その三階に位置するプレイヤーホームだった。部屋の持ち主の名はアスナであり、言わずと知れた血盟騎士団副団長様にして現在は俺とコンビを組んでいる細剣使いである。

 

 もっともペアそのものは既に解散しているようなものかもしれない。なにせ元々予定していた75層迷宮区の攻略には既にボス部屋発見という目処がついているのだし、クォーターポイントを通過すればさすがにアスナも俺に付きっ切りというわけにはいかない。そもそも現時点で血盟騎士団内部で結構な不満が出ているんじゃなかろうか?

 人望厚き副団長が攻略シフトから抜け、外部プレイヤーへと派遣されているのだから面白いはずはあるまい。クラディールが下手打ったせいでアスナが俺に詫びとして協力している、とか思われてるのかな?

 

 まあ、調整に苦労するのはヒースクリフだから、奴が困るだけで済むなら大歓迎、いや、万々歳? とにかく攻略に支障さえ出ないなら、ヒースクリフがどれだけ困ろうが俺は構わない。それにあの男ならそれくらい何とかするだろ。そこらへんの事情はアスナも気にしてたから多分大丈夫だ。

 何にせよ今日を乗り越えなきゃ話にならないか、とは内心のつぶやきだった。その困難さに自然と口から重苦しい嘆息が漏れてしまっていた。

 

 それにしても、と改めて思う。一人暮らしの女性の部屋にお邪魔するのに、果たして手ぶらで良いのだろうか。そんなことを今更ながらに悩んで腕組みしてしまった。

 彼女の部屋を訪ねることこそ初めてだったが、アスナとは今までに食事の席を同じくしたことが何度もあったし、最近では迷宮区攻略において二人で夜を明かした日々も珍しくはなかった。そこに甘いものがあったかと言えばひたすら首をひねるところではあるけれど。

 アスナとの会話で記憶に残ってるのって攻略のあれこれに関する確認だったり、戦闘スキル関連の検証だったり、フロアボス戦編成での非公式での相談だったりと、ひたすら色気のない会話ばかりなのだった。肩肘張ったことばかりでなく日常のふとした会話もそれなりに交わしているはずなんだけど、そういうのはえてして印象に残らないもので――。

 

 アスナの気持ちを知ってしまった今となっては、そんな自分の過去の振る舞いというか思い出の数々が、途端に《女性への気遣い皆無な甲斐性なし》へと変じてしまう。あれ、俺ってもしかしてすごい極悪人じゃないですか? なんというか、気が利かないってレベルじゃねーぞ? 「にゃハハハ、今更気づいたのかい、キー坊」とかいう、どっかの根性悪の声で再生された空耳は丁重に無視させていただく。

 大丈夫、これまでの失敗はこれから先に生かせばいいんだ、過去ではなく未来にこそ目を向けるべきなのだと、冷や汗混じりに言い聞かせる。そんな中、気の抜けるような着信音がフレンド・メッセージの到来を知らせた。何となく予感めいたものを感じながら手紙アイコンをタップすることでメッセージを開き、文面に目を落とす。

 

『いつまでそこにいるつもり? ストーカー扱いされたくなければさっさと部屋に入りなさい』

 

 ……よし、有り難く招待に応じさせてもらおうか。

 

 

 

 

 

 アスナの部屋は外から伺った時に想像していた以上に居心地の良さそうな雰囲気をしていた。

 木目の床や壁はどことなく牧歌的な趣を醸し出し、統一されたモスグリーンのクロス類がアクセントとなって部屋全体を明るく爽やかに演出している。ダイニングと兼用のリビングは広々としていてくつろぐのに不足もない。彼女の料理趣味を反映しているかのようなキッチンは整理整頓が行き届いているだけでなく、高級そうな料理器具アイテムが幾つも備え付けられていた。特に目を引くのは巨大な薪オープンだろうか。各部屋に置かれた木製家具も明るい色をしていて、その趣味の良さは全てが最高級のプレイヤーメイド品だろうと思われた。

 

 なんつーか、エギルの実用性一点張りの部屋とは雲泥の差だなあ、と巨漢の男に対し失礼な感想すら抱いてしまう。いや、度々利用させてもらってるエギルの部屋も居心地は良いんだぞ、それは否定したりしないけど……さすがにアスナのそれと比べるのは酷というものだろう。

 そもそもかけられてる金額の大きさが段違いなのは間違いなかった。なによりアスナの部屋は女性らしい柔らかさが表現されているせいか、とにかく心を落ち着かせる効果があった。

 プレイヤーホームの内装にこだわる効果を初めて実感した気がする。これだけの雰囲気を作り出せるのなら、ホームの作成をコルの無駄遣いとはとても言えない。……俺がプレイヤーホームを持つことがあるようなら、是非アスナにアドバイザーをお願いしよう。

 

「別に今日に限った話じゃないけど、君の私服は黒しかないの?」

 

 キッチンで忙しなく働くアスナがふと口にした疑問は、どことなく呆れた響きを帯びていた。忙しく、と言ってもアスナ曰く「SAOの料理は簡略化されすぎていて味気ない」そうだから、本人にしてみれば物足りない料理工程なのかもしれないが。

 

「元々俺は黒というか地味な暗色系が好みではあるんだけどな、《黒の剣士》って呼ばれるようになって余計に意識するようになったのは確かだ。俺のイメージカラーは黒で固定されてるみたいだから、わざわざ崩すこともないかなあって安直に考えてる。私服にまで適用するのは、こだわりと言えばこだわりなのかもしれないな」

「そう言われちゃうと返す言葉もないんだけど……たまには違うイメージのキリト君も見てみたいわ。機会があったらよろしくね」

「機会があればな」

 

 気のない俺の返事に気分を害すこともなく、アスナは鼻歌混じりに作業を続けていた。機嫌が良くて結構なことだ。

 そんなアスナの格好は袖がグリーンに染められた白のチェニックと膝上丈のスカートである。元が良いから何を着ても似合うのだろうけど、目の前でアスナの華やかな私服姿を目に映すとやっぱり思うところはあるわけで……黒一色の味も素っ気もないシャツとズボン姿の俺とは比べて良いものではないのかもしれない。

 ……ま、まあ、ここはアスナのホームだ。ドレスコードも何もないんだから気にする必要はないはずだ、と誰に向けているのかもわからない言い訳が頭の中で展開されていた。とはいえ、自身のラフすぎる服装を思うとアスナに申し訳ないような、同時にアスナと並びたくないような、そんな情けない気分にもなる。

 改めて考えるまでもなく美人なんだよなぁ、こいつ。アスナに男を見る目があるかどうかは……これからの俺の努力次第と答えを濁させていただくということで。

 

「よしっと、完成。トマトソースたっぷり海老とあさりのリゾットに鶏肉のソテーだよ。それと盛り合わせのサラダね」

「……アスナ、お前料理で天下取れるぞ。ヒースクリフから団長の座をかっぱらおうぜ、クーデター起こすなら協力するからさ」

「はいはい、馬鹿なこと言ってないでお皿運ぶの手伝って」

 

 瞬く間に食卓を飾っていくアスナ謹製料理の数々。俺に分かりやすいよう向こうの食材名で説明してはいるが、実際はアインクラッド独特の食材アイテムを組み合わせたオリジナルレシピだ。その香ばしい香りと鮮やかな色彩にこれ以上となく食欲が刺激されてしまう。アインクラッドに専属料理人の肩書きってなかったっけ? むしろ俺のために新設するべきじゃないか? 狙う料理人は勿論アスナ。

 順調に俺の胃袋はアスナに掌握されつつあった。血盟騎士団副団長の人心掌握術は恐ろしいとひしひし戦慄するも、実際のところ彼女の手料理を食す栄誉に与れるものはほとんどいないらしい。何でもアスナの料理趣味を知っているのはリズくらいで、こうした手の込んだ料理を振舞ったことがあるのも、俺の他には親友であるリズくらいだったとのこと。そう考えるとアスナの料理が食えるのはものすごい幸運に違いない。

 

「あれ? そういえばアインクラッドに米なんかあったか?」

「キリト君は本当に戦闘以外の知識には乏しいところがあるよね。結構前に発見されてたよ」

「交渉の手札になる高級食材のデータはある程度頭に入ってるんだけどなぁ……。とはいえ米が見つかったならもう少し話題になってても良さそうなものだけど。日本食に飢えてるのは俺だけじゃないはずだぞ」

 

 具体的には風林火山の連中とか。白米を用意すればクラインなら感涙すると思う。

 

「それは欧州世界がモチーフのせいか料理レシピに主食としてのご飯がないせいね、《お米を水で炊く》って工程がシステムに反映されてないのよ。リゾットみたいに西洋料理としてのお米の使い方ならある程度カバーされてるんだけど……って、何してるのかな、キリト君?」

「ん? ゲームマスターに不具合の報告をしてやろうかと。白米の恨みを茅場への罵倒付きで送りつけてやる」

 

 つまり茅場が日本人のソウルフードに喧嘩売ってるってことだろ? 俺が白米を食えないことも含めて、言うまでもなくあいつこそが俺達を苦しめる諸悪の根源だ。そんな俺の確信が一層深まったところで、今こそ文句の一つも言っておくべきだと思う。

 考えて見ればゲームマスター宛の罵声って今まで送ったことないんだよな。この際修辞を凝らして弾劾状めいたものを作成するのも良いかも。いやいや、まずは米の恨みを一文に込めて、と。

 

「……キリトくーん、その報告は必死になって生きてるのが物悲しくなってくるからやめて」

 

 肩を落として力なく制止するアスナの姿に、寸でのところで俺の指が止まる。あとワンクリックで遅滞なくユーザー報告が済み、《現実世界に帰してくれ》と大量に送りつけられていたであろう運営宛のメッセージに新たな一文《白米食わせろ》が加えられたのだろうが、残念ながらその野望は果たせずして潰えてしまった。

 そもそもプレイヤー側の要望が通るどころか、ゲームサービス開始初日を除けば茅場からのアクションなんかただの一度もないのだけど。当然、ゲームマスターへのメッセージに何らかの反応があったことなど皆無だった。こんなしょうもない要望を送ったところで黙殺されるのがオチだろう、茅場の目にすら触れないんじゃなかろうか。まだまだあの男の顔を拝むのは遠そうだなあ……。

 

「それでアスナ、俺に相談したいことって何だ?」

 

 俺がアスナの部屋を訪れた本題を口にしたのは、アスナが用意してくれた食事を終えて食後のお茶で喉を潤してからのことだった。単刀直入な俺の言葉を受けてアスナも居住まいを正す。和やかな空気がわずかに張り詰めたような気がした。

 

「最初に確認しておきたいんだけど……キリト君はギルドに入る気はある?」

 

 身体を少しばかり緊張に強張らせ、真剣な顔でアスナはそんなことを尋ねてきた。

 

「一応な。最近モンスターのアルゴリズムに変化が出てきたせいで事故率が上がってる。このまま難易度が高まっていくようだとどっかで不覚を取りかねないし、ソロでのマップ攻略もこれまでのような効率を維持するのが難しくなってきてるんだ。75層の攻略が終わって一段落ついたら、本格的にギルド加入の交渉を始めようかと思ってるよ」

「その候補にうちは入ってるかな? もしキリト君にその気があるなら、わたしは全力でギルドの意見調整に取り組むことを約束するよ」

「そりゃありがたい。――けど、言ったろ、全ては今日を乗り切ってからだ。あんま先走りすぎるなよ、今の段階でギルド間のパワーバランスが崩れるといらん争いにつながりかねない」

 

 ただでさえヒースクリフという強すぎるトップが血盟騎士団にはいるのだ。その下にアスナが控え、最精鋭と呼ぶに相応しい精強な騎士が幾人も揃っている。そこにいきなり俺が所属するとなれば、血盟騎士団をライバル視する聖竜連合の態度が硬化しかねなかった。そもそも俺が加入することで血盟騎士団内部の結束に皹が入る可能性が一番怖いんだが。

 ユニークスキル使いの扱いって難しいよなあ。俺の場合は過去に色々あってギルド勧誘に及び腰なギルドが多いためか、割合静かなものだけど。……嫌われてるだけじゃないか? という悲しい推測はどこぞに放り投げておく。

 三人目、四人目のユニークスキル使いが現れた時はどんな騒ぎになるだろう。数少ないソロプレイヤーに発現するほうが珍しいのだから、どこかのギルド所属のプレイヤーになるのだろうけど、引き抜き合戦でも開催されるかもしれないな。

 そんなありえそうな未来の一つに思いを馳せていると、アスナが妙に深刻そうな表情で悩みこんでいた。どうしたんだ?

 

「なあアスナ、少し焦ってるように見えるけど、何かあったのか?」

「……うん、確かに焦ってるのかもしれない。キリト君も薄々とは感じてるでしょ、攻略組の士気低下の問題。わたしとしては、この先キリト君を加えたワンパーティーを作って攻略速度を加速させたいのよ」

「攻略組だって上と下で温度差はあるからな、ある程度は仕方ないんじゃないか?」

「それはそうなんだけど……」

 

 俺の楽観を含んだ言葉に、アスナは暗い面持ちのまま歯切れ悪く答えを返すだけだった。俺の想像以上に深刻なアスナの様子に自然と声を潜めて問いを重ねる。

 

「……積極的に迷宮区攻略を進めるプレイヤーが少なくなってきてるせいで、攻略速度そのものが落ちてることは俺も認識してたけど、そこまでひどくなってるのか?」

「ええ。最近は明らかに表面化してきてる問題だから何とかしないと、とはずっと思ってたのよ。ただ、その方法が思いつかないの。まずは原因のほうだけど、当たりはつけてる?」

「マスタースミスの数が揃ってきて、高性能な装備が確保しやすくなったこと。武器スキルが熟達したことによるハイレベル剣技の習得。そうした戦力の充実に伴う戦い方の保守化と安全志向の高まり。と、まあ、こんなとこじゃないのか?」

 

 未知の迷宮区を攻略するのではなく、既知のマップでレベリングを優先するプレイヤーが増えているのもその一環だろう。そんな俺の分析に対してアスナは少しばかり考え込み、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「キリト君の分析も間違いじゃないけど、それ以上にヒースクリフ団長とキリト君への依存があると思うわ。攻勢、守勢、共に傑出しすぎた存在がいるのだもの、皆が二人に頼って攻略に及び腰になるのも不思議なことじゃないでしょ? ただでさえ君はソロで小規模ギルド並のマップ攻略速度を実現させてるんだし。それに迷宮区攻略を別にしても、《神聖剣》と《二刀流》がフロアボス戦で絶対的な存在感を示すようになってから、死傷者も格段に出にくくなったからね」

 

 溜息交じりの言葉だった。

 

「当初は二人の戦力増強に士気旺盛だった攻略組も、今は団長とキリト君に全て任せてしまえばいいって甘えが心の何処かで陰を落としてしまってるのだと思うの。そのせいで最前線のマップ攻略に消極的になっちゃってる。うちだって例外じゃないわ」

「うへえ、その理由はさすがに想定外だった。冗談じゃないんだよな?」

 

 こんなことで冗談言っても仕方ないでしょ、と肩を竦めるアスナの態度には同意できるが、しかし俺とヒースクリフへの依存心、ねぇ。そんなことがあるなんて想像したこともなかったな。とはいえ俺自身、時折ヒースクリフに全部任せてしまいたいと冗談半分でも思うことがあるから、気持ちはわからないでもない。

 もしかしてヒースクリフが迷宮区攻略に些か腰が重く見えるのもそのせいだったのか?

 あくまで攻略組全体のレベルアップを図り、プレイヤーが一丸となって攻略に邁進することこそがあの男の目指した攻略組の姿なのかもしれない。そういう意味ではひたすらソロで攻略を加速させようとしてきた俺は、あの男にどう思われていることやら。

 思いもよらぬアスナの指摘に俺が細々と考えを整理していると、じっと俺を見つめながらアスナはさらに言葉を紡ぐ。その顔は憂いに染まっていた。

 

「それに一番の理由は今日までの歳月そのものだと思う。皆、この世界に馴染みすぎてしまって、ゲームクリアへのモチベーションが低下し続けているのよ。一時は九百人近くいた攻略組も今では六百人ちょっとまで数を減らしてる。幸いなのは死者の列に加わって攻略組から脱落した人ばかりじゃないってことだけど」

「過酷なレベル上げや装備の更新に音をあげたプレイヤー、フロアボスの脅威を前に最前線に立つことを諦めたプレイヤーも多いからな。生活の全てを攻略に追われて神経を尖らせる日々に嫌気が差すのだってわかるし、中層に引っ込んでのんびり暮らすことを選んだ奴等を責めることもできないさ」

 

 《去る者追わず》と潔く諦めているわけではない、できれば攻略組に踏みとどまって一緒に戦って欲しいのが本心だ。しかし低いモチベーションで最前線を戦い続けることはそのプレイヤーの命を容易に脅かしてしまう。無理強いできるものではなかった。

 ドロップアウトしたプレイヤーにしたって外部からの助けを本気で信じてるわけじゃないだろう。二年近くもの間現実世界からの接触は皆無なのである。今となっては外からの救助に期待を持ち続けているプレイヤーは、藁にも縋る気分で祈っているに過ぎない。

 俺たち攻略組だって他人事じゃなかった。最近はクリアだとか脱出だとかを声高に主張する人間も少なくなった。俺が軍の連中を歓迎していたのも、そうした停滞ムードに活が入るかもしれないと期待した部分が少なからずあったのだし。もっとも俺の抱いた勝手な期待は、残念ながら実を結ぶ前に潰えてしまったけど……。

 

 そして今以って俺たちを巡る状況に変化がないということは、これだけの時間が経ったというのに、現実世界側では未だに俺達の命を握るナーヴギアの仕掛けに手が出せていないということだ。それはつまり、現実世界では茅場晶彦の行方を警察も捕捉できていないということだろう。奴が捕まっていればさすがにあちら側から解決する目処も立つだろうから。

 あー、腹が立つ。茅場晶彦という稀代の天才は脳のリソースを無駄遣いしかしないな。こんな大規模犯罪を成就させるためだけに人類有数の頭脳をフル稼働させやがって。もっと建設的なことに使えよ馬鹿野郎。

 

「そうだね、ゲーム攻略を諦めた人たちを責めることはできない。わたしだって似たような気持ちを抱いたことはあるもの。……最近はね、この世界で生まれて、ずっとこの世界で生きてきたような、そんな気さえしてるわ。ゲーム開始当初はあんなにクリアを目指して血眼になってたのにね」

 

 そう言って微笑んだアスナの表情はどこか寂しげな色を滲ませていた。

 年月は人を変える。良くも悪くも不変でいられる人間なんていない。仮想体であるために見た目こそ変わらずにいる俺たちだが、目に見えない心の在り様は日々変化し続けているのだから。

 しばしの間、俺とアスナの間を沈黙が降りた。

 現実世界を、家族の顔を思い出す。最近はスグや父さん母さんの顔を思い出すことが一つの儀式と化しているような気がする。帰るべき場所を思い出すことで、クリアへの思いを再確認しようとしているのかもしれない。アスナの心の内を聞いていると余計にそう感じる。

 それでも、と意図せず声が漏れた。

 

「それでも俺は帰りたいと思うよ。親孝行の一つもせずに死んでたまるか、ってな」

 

 実の息子でもないのに、叔母夫妻からは彼らの娘である直葉と同じくらい愛してもらっていたのだから、せめてその分の恩返しくらいはしなければ死んでも死に切れない。それに一方的に距離を置いてきたスグにも謝らなきゃいけないし。

 少しだけおどけてみせた俺にアスナも小さく微笑み、「うん」と一つ頷いた。

 

「わたしも……向こうに帰ってお兄ちゃんにちゃんと謝らなくちゃ。お兄ちゃんの楽しみにしてたゲームを二年間も独り占めしちゃってごめんなさいって」

「アスナは兄貴に謝るのか。俺も妹に謝ることがあるから一緒だな」

 

 二人して顔を見合わせ、笑いあう。現実世界の話はご法度がマナーだ。しかし今くらいはいいだろう。多分、俺もアスナもそういう気分だ。

 

「……帰りたいね。あっちでやりたいこと、やり残したこと、たくさんあるんだから。……だからこそ、急がないといけないと思ってるの。わたしたちの身体のタイムリミットが残っているうちにゲームクリアを果たさないと」

「タイムリミット……あっちの世界の身体のことか。現実世界の俺たちは昏睡状態のまま既に二年近く経ってる。さすがに限界も近いだろうしな。残された猶予はそう多くないか」

 

 この世界に閉じ込められてから数日後、一度だけプレイヤー全員の意識が立て続けに消失したことがあった。あれは恐らく現実世界側で俺たちの身体が病院に搬送されたタイミングでのことだったのだろう。

 ナーヴギアは二時間の回線切断までは許容してくれる。

 それはゲーム開始初日、茅場晶彦のチュートリアルによって口にされた言葉だが、その真意は植物人間と化した俺たちを生かし続けるためだ。その猶予時間を利用して生命維持のための設備が整った病院に収容され、そこで改めて回線が繋ぎ直された。

 

 そんな状態で生かされている俺たちが長い年月を無事に過ごせるはずがない。そもそも現時点ですら肉体のあちこちに不具合が出ていることだろう。そしてその危険性はクリアが遅れれば遅れるほど増していく。アスナが焦っているのもそうした問題を踏まえてのことだ。

 ……攻略を諦めてドロップアウトしたプレイヤーも、あるいはそんなどうしようもない現実世界の事情に思い当たって心が折れてしまったのかもしれない。末期の生、短い余生を心穏やかに過ごす、そんな心境に至ることもあるだろう。それに現実世界側の話題を出すことは歓迎されないから、そうした不安だって一人抱え込んで生きていかなければならない。

 

「アスナが俺にギルド入団の意思を確認したのは、それが理由か?」

 

 攻略速度を加速させる、肉体の限界が訪れない内にゲームクリアを果たす、そのために俺の戦力を最大限生かす方策としてのギルド加入。それ自体は俺自身何度も検討してきたことだ。感情的な衝突を考慮しなければ、血盟騎士団が最有力候補だというのは今も変わらない。

 

「もちろん攻略のためっていうのは嘘じゃないんだけど――」

「だけど?」

 

 どこか歯切れの悪いアスナに問い返す。アスナは散々迷った末、常にないか細い声で答えを口にしたのだった。

 

「……その、怒らないでね? もっとたくさんキリト君と一緒にいたいなあ、って。……だ、駄目?」

 

 ……あー、その、な。時々思うんだよ、女の子って何でこんなに可愛いんだろうって。

 恐る恐る俺を覗き込む瞳は不安と期待に潤み、上気した頬と艶やかな唇は色っぽく俺を惑わそうとしていた。自然と目と心がアスナへと引き寄せられていく。だからこれやばい、やばいんだって。ああもう、アスナは俺をどうしたいんだ。

 ……落ち着け。これからフロアボス戦もあるんだから。

 

「俺としてはこれ以上なく光栄な話だし、血盟騎士団に入団するのを渋る理由もたいしたものじゃないからなあ。今日のフロアボス戦を乗り切ったら、まずはギルド加入の件をヒースクリフに相談でもしてみようか。フォローは頼んだぞアスナ」

「やった! 絶対だよ、キリト君」

 

 ああ、と簡潔に返した俺の目には喜びを隠そうとしないアスナの姿が映り、その素直な様子がいじらしくて自然と眦も下がってしまう。そこまで歓迎してもらえるなら本望だな。

 ここであえて明言しておこう。俺は現在の攻略組並びに血盟騎士団の問題、それから俺自身の能力を勘案した上で最善となるであろう答えをアスナに返したのであって、決してアスナの可愛らしさとか色気とか魅力に陥落したわけではない。断じてない。ないったらない。それはもう全力で主張させていただく。

 

「でだ、その約束を反故にしないためにも今日の確認をしておきたいんだけど……結局、フロアボス討伐隊は38人で確定なのか?」

「ええ、二日の準備期間を置いてはみたけど、それ以上の志願者が出ることはなかったわ。今回の討伐戦は退路のない最悪のものだし、これ以上はどうしようもないわね」

 

 軍の全滅の報せを受け、その日の内に緊急で第二回の攻略会議が開かれた。そこで改めてボス戦に向けての喧々諤々の白熱した舌戦が交わされた……などということはなく、ひたすら重い空気の元で開催され、終了した集まりだった。

 それも仕方ない。なにせ満を持して投入されたであろう軍の精鋭が数分で全滅したのだ。いくら結晶無効化空間に加えて出入り口封鎖というアクシデントに見舞われたとはいえ、12人もの部隊が五分足らずで一人残らず殺された。その事実は攻略会議の雰囲気を通夜に変えるのに十分だっただろう。死者の数という意味でも、あまりに困難な戦いを予感させるという意味でもだ。

 救いと言えば相変わらず泰然自若としていたヒースクリフの姿に、集まったプレイヤー達が浮き足立つことなく冷静に会議を進められたことくらいか。やせ我慢だろうと皆が恐怖を押し殺し、ボス攻略戦の編成まで踏み込めたのだから十分な成果だったろう。

 

 とは言え、俺が討伐隊メンバーを38人と口にした通り、順風満帆というわけではもちろんなかった。逃げ場のない状況で史上最悪の敵と戦わねばならない重圧に尻込みするプレイヤーも少なくなく、討伐参加予定メンバーも定員である48人に満たなかった。いや、それどころか40人の大台すら割る有様なのだから溜息もつきたくなる。

 偵察ではないフロアボス戦の本番に当たって、定員に満たない数で挑むというのは久方ぶりのものだった。今回は今まで以上に十分な安全マージンを確保しているプレイヤーに参加を限定したことも手伝い、一人ひとりのプレイヤーにかつてない負担を求めることになりそうだ。

 

 鍵を握るのはやはり《神聖剣》と《二刀流》か。神聖剣でボスを抑え、二刀流で一気呵成に切り込む。俺とヒースクリフがどれだけ上手く立ち回れるかで、生じる被害の大きさもかなり左右されるはずだ。叶うことなら一目だけでもボスの姿を拝んで事前にシミュレーションの一つでもしておきたいところだったが、先遣隊の第二陣が持ち帰った報告を聞く限り試せるものではなかった。

 今回のボスは恐らくプレイヤーを自らのテリトリーに引きずり込んだ後でないと姿を見せない。そして一度戦闘が開始されてしまえば倒すまで脱出不可能なのだから、どうしたってぶっつけ本番で挑むしかないのである。

 

 戦う前からここまで緊張を強いられる敵は初めてだ。……いや、内実は異なるが、背に氷柱を差し込まれたかのような寒々しい予感はラフコフ戦にも通じるものか、と苦々しい気持ちが湧き上がる。

 あの時もかつてない激戦の予感に心臓の鼓動が収まらなかった。そしてその死戦を思わせる冷気は今も変わらない。アスナだって何でもない顔をしていても、その内心は迫り来る死の恐怖を押さえつけようと必死のはずだ。

 それだけ今回のフロアボス戦は絶望感が半端ではないし、逃げ出して良いなら皆が逃げ出していただろう。……脳裏に浮かんだ《聖騎士》の精悍な顔はこの際黙殺する。あの男だけは例外だ、いつでも何処でも涼しげな顔しかしやがらない。それを大したものだと思う一方で、少しは恐怖とか狼狽を見せたらどうなんだと突っ込みたくもなる。ったく、可愛げのない。

 

「予想通りっちゃ予想通りだけど、本気で乾坤一擲の大勝負だな。ここで俺たちが全滅するようならゲームクリアなんて実質不可能だろ」

「君の言う通りだろうけど、キリト君は討伐隊の主戦力なんだからそんなこと人前では絶対言わないように。君の影響力が大きいのはおべっかでも何でもない事実なんだからね。戦う前から士気低下なんて冗談じゃないわ」

「わかってる、ちょっと愚痴を言いたくなっただけだ」

 

 まあ、多少投げやりな台詞だった自覚はある。

 今回の作戦は攻略組が死力を尽くす文字通りの総力戦となる。参加メンバーは現在の攻略組の中核そのものであり、各ギルドでも指折りの実力者しかいない。クラインやエギル、ディアベルやシュミットも参加しているし、攻略組最大戦力たるヒースクリフと俺、そしてアスナだって当然参加しているのだ。これだけのメンバーを揃えてなお敗北するのなら、その時は残されたプレイヤーが再起を図ることは極めて難しいと言わざるをえない。ゲームクリアは不可能だ、と断じてしまいそうなほどに。

 今回の戦いの敗北は戦死とイコールだ。俺達が全滅した後、残された攻略組が俺たちの喪失に耐え抜き、百層まで戦えるかと言えば難しかった。不可能とまでは言わない。しかし戦力減がでかすぎて、体制の建て直しにどれだけの時間がかかるかわかったものではなかった。

 

 なにより今まで攻略組を主導してきたヒースクリフとアスナがいなくなった時、はたしてどれだけのプレイヤーが再びクリアを目指して立ち上がる気力を持てるか。今回の討伐に失敗した結果として、リタイアを理由に攻略組の人数が今の半分以下に落ち込んでも俺は驚かない。もっともその時は俺に確かめる術はないけど。

 自分が死んだ後のことまで心配してもどうしようもないし、そうならないために最大限努力をするのは当然だ。しかし今日の戦いで仮に討伐隊が全滅したなら残された七千余のプレイヤーに待つ未来は緩慢な死ではないだろうか。そんな不安が消えてなくならない。

 そこで俺は一度頭を左右に振った。弱気になるな、俺がアインクラッドを終わらせると誓ったことを思い出せ。75層のクォーターボス戦がどれだけ厳しい戦いになろうが、所詮は百層に辿り着くまでの通り道でしかない。こんなところで死んで良いはずがなかった。

 視線を移して現在時刻を確認する。決戦まであと一時間ちょっとか。

 

「アスナ、話しておきたいことがある。よく聞いてくれよ」

「そういう真剣な顔をした男の人から、何度か結婚の申し込みをされたことがあるわ。……なんて茶化して良い話でもなさそうだね。何かなキリト君?」

 

 ちょっと待て、それはそれで気になる話題だぞ。主にプロポーズの台詞とか。参考にしてみたいと思うような、思わないような。どっちみち今日を乗り切らなければそれこそ話にならないわけだけど。第一、決戦前のプロポーズは死亡フラグの筆頭だしなあ、洒落にならん。俺の感情云々は抜きにしたって、ここで結婚の申し込みとか攻略組の俺達がやっちゃいけない行動の筆頭だと思うんだ。

 と、まあ、そんな戯言はともかく。

 

「俺のレベルのことだよ、この際だからアスナには正確な数値を教えておく。今の俺のキャラクターレベルは121に達してる、言うまでもなく攻略組でも飛びぬけてるはずだ。だから今日だけは――今日の戦いだけは必要以上に俺を気にかけるな。俺を守ってくれるって言ってくれた君の気持ちは嬉しいし、誇りに思う。でも、アスナだって盾持ちプレイヤーじゃないんだから、自分の命を最優先に――」

「はいストップ」

 

 俺の身を案じすぎるなと、そう言って自重を促そうとした俺の言葉は中途でアスナによって遮られてしまう。

 

「キリト君の心遣いはありがたく貰っておくけど、わたしだって生半可な覚悟で今日を迎えたわけじゃないわ。わたしのレベルは96よ、確かに君には遠く及ばない。けど、わたし達の戦い方は常に最善の追及であり、犠牲者ゼロを達成せしめるものでなければならないはずでしょう? それが君の目指した攻略組の姿だったはずよ。だからこそわたしはキリト君の命を意図的に高く見積もったりはしないし、不当に低く扱ったりもしないわ。そして、我が身可愛さに臆したりもしない。それがわたしの答え――納得した?」

 

 穏やかな声音で、涼やかな笑みを浮かべて、アスナは優しく俺を諌めたのだった。敵わないな、ホント。 

 

「……馬鹿なこと言って悪かった。忘れてくれ」

「ううん、心配してくれたことは嬉しかったよ。でも、わたしは君に守られるだけじゃなく、君を守る側でも在りたい。忘れないでね」

「それは俺も一緒だよ。俺がアスナを守る、アスナが俺を守る。そうやって今日を生き延びよう」

「うん、そうやってこの世界を生き延びようね」

 

 にっこりと笑うアスナの表情からは不安の影は露ほども見出せなかった。彼女の平常心に俺の存在が一役買っているのなら光栄だ、と何とはなしに思う。今日の戦いは激戦を極めるだろう。それでも些かも俺の闘志が萎えることはない、これならばクォーターボスを前に萎縮することなく最大限の力を揮えるだろうと確信が持てた。

 それからしばらくはアスナと取りとめのない会話を繰り返し、時折アスナにポットからお茶のお代わりを注いでもらいながら、ゆっくりと近づき迫る決戦までの時間を、二人で心穏やかに過ごしたのだった。

 

 

 

 

 

 『九月二十二日午後一時、第75層主街区《コリニア》の転移ゲート前に集合せよ』。

 それが第75層フロアボス討伐戦に参加するプレイヤー達に最終通達された作戦日時だった。その通達に従い、俺とアスナが連れ立って広場に到着した時には、既に大半のプレイヤーが集まって各々雑談を交わしていた。

 攻略参加予定人数に倍する数が集まっているのは見送りのプレイヤーが混ざっているせいだろう。そして広場全体がどことなく暗鬱な空気に支配されていたのも仕方のないことだった。それだけの絶望的な戦いが控えているのだから、空元気にだって限度がある。

 

 皆、胸中の不安を隠しきれていないせいか強張った顔で緊張を漂わせていた。それでも俺とアスナに目礼をしてくる者はいたし、少しでも余裕を示そうというのかギルド式の敬礼までしてくれたプレイヤーもいる。彼らがそうした理由まで想像するのは無粋ってもんだろうな。

 男は誰だって女の前では見栄を張りたくなるものだ。見目麗しい女性の筆頭であるアスナの前で無様を晒したくないのは、俺のみならず攻略組の総意でもあるはずだ、多分。

 

 軍の全滅から然して日を置かずの作戦決行となったのは、時を置けば置くほどに状況が悪くなると判断されたからだ。かつてない強敵であることは間違いないため、じっくりとレベル上げと装備の充実を繰り返してからクォーターポイントに挑むべきだ、という意見も当然ながら出た。しかしそれをしてしまえば日を追う毎にクォーターボスへの恐怖が膨れ上がり、戦意が消失してしまう恐れがあったことは否めない。

 今回のフロアボスが控える部屋は突入と同時に退路を遮断される仕組みになっているため、偵察隊を送り込むことは不可能だった。ならば俺達攻略組の取れる手段は可能な限りの大戦力を揃え、一か八かの作戦に賭けるしかない。徒に時間を置いてしまえばそのための頭数すら確保できなくなる可能性がある。性急とも取れる判断の裏にはそうした引くに引けぬ切実な理由があった。

 

 実際にボス部屋突入最大人数たる48人に欠ける現実を見れば、そうした懸念が的外れとも言えないだろう。そして今回の討伐参加メンバー38人という数字が、一ヵ月後ならば増すという保証はどこにもなかった。むしろ減る可能性のほうが大きい。フロアボス討伐隊と言えば聞こえは良いが、身も蓋もない言い方をしてしまえば決死隊である。そんなものに参加したいと望むプレイヤーが多いはずもない。

 フロアボスは原則としてボス部屋の外に出てこない。だからこそ、今までは倒しきれないようならば《逃げる》という選択肢も比較的選びやすかった。

 同じ転移結晶が使えない戦いでも、撤退を常に選択肢に残しておけた74層とは根本的に違うのが今回のフロアボス戦だ。勝って生き残るか負けて死ぬかの二択しか選べず、撤退の二文字は何処にもない。まして史上最悪のボスが相手となれば、戦うことに臆したとて一体誰が責められるものか。それを思えばこんな無茶な作戦に38人ものメンバーが集まったことこそ驚くべきことだったのかもしれない。

 

 参加を決めたプレイヤーが胸に抱くものは何だろう。

 数多のプレイヤーの中で最強の(きざはし)に足をかける攻略組としての自負、今日まで最前線から退くことなく戦い抜いてきた矜持、アインクラッドに住まうプレイヤー解放を為すという使命感、隣に立つ戦友を死なせまいとする育んだ絆、死した仲間への哀悼と受け継いだ遺志、あるいは俺の思いも及ばぬ何か。プレイヤーそれぞれが胸に期する、決死の中にあって手放せぬもの。命を懸けるに値する何かのために戦う。そういうことだ。

 自分のためでもいい。他人のためでもいい。どんな理由があろうと、この場に集ったプレイヤーの志を疑うつもりはなかった。……それでも、もしも俺の中で消せない懸念があるとすれば、それは――。

 

「よう、遅かったじゃねえかキリト。アスナさんと同伴出勤とは羨ましいぜ、独り身の俺に対する嫌味かこら」

 

 俺の抱いていた一抹の不安を蹴飛ばすかのような明るい口調で語りかけてきたのは、ご存知戦国被れのカタナ使いことクラインだった。赤髪に無精ひげ、趣味の悪いバンダナに和風の鎧装備といつも通りの風貌でにやついている男に、何かしら言い返してやらねばと考えたところで、そんな俺の機先を制するようにクラインは俺の頭に手を置いてぐしゃぐしゃと弄くり回したのだった。

 だから無駄に兄貴風吹かせようとすんな。つーか俺を子供扱いするなっての、この山賊面め。そう楽しげにされると文句も言いづらいじゃないか。

 

「そのへんで勘弁しといてやれクライン。そいつは根がガキだから加減を間違えるとヘソを曲げるぞ」

「おいエギル、助け船を出すフリをして俺をディスるのはやめろ。ええい、クラインもいい加減にしやがれ!」

 

 したり顔で口を挟んできたのは両手斧使いのエギルだった。はちきれんばかりの筋肉を金属鎧で無理やり押さえつけ、背に身の丈に迫る巨大な獲物を背負った巨漢の男は相変わらず迫力がすごかった。俺もその図体と男らしさが欲しい。

 

「クラインさん、エギルさんも、今日はよろしくお願いします」

 

 俺達のやりとりを黙って見物していたアスナが頃合かと一声かければ、それだけで良い歳した大人二人が途端に顔を緩めて各々快諾を返すのだから、美人って得だよなあとしみじみ思う。まあ、アスナの性格の良さって部分も大なんだろうけど。

 エギルなんてアスナに限らずサチやリズに対しても、反応が親戚の娘にお年玉をあげるノリだしな。娘か孫かってくらいにデレデレになる。案外現実世界では子煩悩な男なのかもしれない。

 

「今更お前らに参加の是非を問いたりはしないけど、頼むから死んだりしてくれるなよ。俺はお前らの葬式に出る予定はないぞ」

「へん、結婚式を挙げる前におっ()ンでたまるかってんだ。次に俺が入るのは人生の墓場って決めてんだよ、断じて葬式の棺桶なんかじゃねえや」

「ほう。それでクライン、相手の候補はいるのか?」

 

 間髪入れずそんな疑問を差し挟んだ俺の肩に、ぽん、と手が置かれる。その大きな手の持ち主である両手斧使いに目をやれば、エギルはやるせなさそうに首を左右に振ってから目頭を押さえ、持ち前の渋い声でゆっくりと告げた。

 

「キリト、人間思いやりってやつが大事なんだ。クラインのことは暖かく見守ってやれ。いいな、それ以上は触れてやるんじゃない」

「うん、そうだな、俺が間違ってたよエギル。人間言って良いことと悪いことがあるんだった。肝に命じとく」

「わかってもらえて何よりだ」

「ちょっ、待てよ!? なんで俺がそんな可哀想な奴を見るような目を向けられてるんだ! おいキリト! エギル!」

 

 うんうんと頷く俺達に慌てて割って入るクラインから、阿吽の呼吸で俺とエギルはそっと視線を逸らした。そんな俺達に追いすがるようにクラインが情けない声を出して嘆く。声のみならずその顔も悲嘆に暮れていたが。あ、それと男が涙目になっても可愛くないぞ。

 クラインの慌て様に我慢する気もない忍び笑いが漏れる。悪いなクライン、ここはお前が道化になってくれ。広場を支配するお通夜ムードはちと俺の心臓に悪いんだ。はっちゃけるのは無理でももう少しリラックスしてくれないと、空気が重すぎて敵わない。

 

 そんな俺とエギルとついでにクラインの意図を汲み取ったアスナが楽しげに声を震わせ、次いで俺達の笑いが広場に木霊した。ちょっとオーバーだったかな、と思うものの、こういうことは大袈裟なほうが効果も大きいものだ。普段からひょうきんなキャラで通してるクラインのおどけぶりも手伝ったのか、俺たちの和やかな空気が伝染するように広場に集ったプレイヤーの顔から強張りが抜けていく。ようやくこの場に満ちていた緊張もいくらかほぐれてくれたらしい。

 あーよかった、こんな状況が続いたら俺の胃に穴が開くわ。アインクラッドに胃潰瘍なんて状態異常はないけど。

 

 俺達の展開した寸劇の効果を確かめようとさりげなく視線を巡らせていると、すぐに青髪の騎士が目に映った。ディアベルが率いる《青の大海》からはギルド長である奴だけの参戦だが、その実力は疑うべくもない。今日まで何度もフロアボス戦を共にしているだけにお互いの実力はよく見知っている。その落ち着きぶりと合わせて頼りになる男だった。

 ディアベルは先の寸劇の目論見にも気づいているのか、俺と目が合うと器用にウインクを返してきたのだった。そういう気障な仕草が様になってるのはイケメン効果に違いないなと苦笑を返し、さらに視線を移していく。

 

 《聖竜連合》の一団の中にはシュミットの大柄な姿も見える。彼らは輪を作って何やら真剣に話し込んでいた。フロアボス戦に向けた最終ミーティングでも交わしているのだろうか、静かな戦意の昂ぶりが感じ取れる。彼らの様子に流石の歴戦振りだと感心して視線を外そうとしたところで、シュミットが後ろ手に握りこぶしから親指を立てていることに気づく。心遣いサンキューな。

 ぐるっと広場を一瞥して、各々の顔に浮かんだ緊張の度合いを確かめ、これなら心配することもないかと視線を戻した。広場にざわめきが起きたのはそんな時だ。

 

 時刻は午後一時ジャスト。出待ちでもしてたのかと疑ってしまうほど時間ぴったりに転移ゲートから現れたのは、最強ギルドの名を冠して欠片の不足もない精鋭集団、ギルド《血盟騎士団》の面々だった。先頭には真紅の鎧に白のマントを靡かせ、巨大な十字盾を携えて威風堂々と歩み寄ってくるヒースクリフの姿があった。攻略組六百余名、その頂点に立つ男の威圧感はすさまじい。ただ歩いているだけだというのにひしひしと俺を圧して止まなかった。

 そしてヒースクリフに続くように精鋭五名が歩を進めていた。その誰もが不遜なまでに堂々とした佇まいをしており、最強騎士団の誉れに相応しい雰囲気を醸し出している。気になることと言えば、その集団の中に俺と因縁浅からぬ仲のクラディールが混じっていることだ。

 俺と決闘をした時に見せていた醜態からも回復したのか、他のメンバーと遜色ない精悍な空気を纏っていた。あれから幾らかの時間も経っているし、ギルド内での処罰も下されたそうだから、クラディールとてあの時のままではいられなかったのだろうと一人納得する。

 

 あたかも無人の荒野を行くが如くヒースクリフは足を進める。数多のプレイヤーから向けられる畏怖と尊敬の眼差しにも表情一つ動かすことなく、泰然自若そのものの落ち着きを以ってヒースクリフは俺とアスナの前まで歩み寄った。クラインとエギルが気圧されたように一歩下がる中、俺は無言で彼らを眺めやり、アスナは澄ました顔で敬礼を交わしていた。

 立場の差を思えば不遜とも取れる俺の態度にも、ヒースクリフは軽く頷くだけで特に反応は示さなかった。後ろに控えていた幾人かがわずかに顔を顰めたものの、反応と言えばそれだけだ。まあ俺の礼儀知らず程度、今に始まったことでもない。

 

「皆、よく集まってくれた。今日の戦いがどれほどの危険に満ちているのか、その苦難を理解していないプレイヤーはいないだろう。それでも諸君はこの場に集い、剣を執る決意を示した。その志の前に今更語ることなど何一つとてない。我々の奮闘にこそアインクラッドの未来がかかっているのだ。ならば今は戦おう――解放の日のために!」

 

 ヒースクリフの力強い叫びがあがり、胸に秘めた闘志を強烈に揺さぶる迷いなき檄に、多くのプレイヤーが(とき)の声で応えた。

 《カリスマ》――人の心を惹きつけて止まない強烈な個性。

 いつかアルゴがヒースクリフを指して評した言葉であり、今日のアインクラッドでは常識とすら化した《聖騎士》の伝説の一端である。全プレイヤーの頂点に立つアインクラッド一の剣士たるに相応しい立ち居振る舞いだった。その揺ぎ無く立つ巨木のような存在感に、一体どれだけのプレイヤーが魅せられ、憧れ、敬意を抱いてきたことか。

 

 この男がアインクラッドに囚われ、俺達の導き手として立った。その事実こそが俺達プレイヤーにとって最大の幸運だったのかもしれない。この男がいなかったら、と考えると背筋が震え上がる。その剣技、その指導力、およそ並び立つ者はいない。

 強いてヒースクリフに文句を言う部分があるとしたら、普段の攻略もアスナにまかせっきりにせず、もう少し積極的になってもらえたら、というくらいか。それとて特定のプレイヤーに依存しきる体制を厭うたとなれば文句を言えるようなものじゃなかった。

 

 とはいえ、好きか嫌いかの二択で言えば、迷いなく嫌いを選ぶのが俺なのだけど。こればっかりは変わっていなかったりする。今更ヒースクリフへの好悪の感情が戦場に悪影響を及ぼすこともないから構わないだろう。あの男にとっても俺の隔意なんて先刻承知のことだろうし。

 熱気に包まれた広場の昂揚に俺の戦意も自然高まっていく。そんな時、ヒースクリフの後ろに控えていた一団の中から二人の男が進み出てきたのだった。一人は毛むくじゃらの偉丈夫で名をゴドフリー、歴戦の斧使いである。そしてもう一人も当然見知った顔だった。

 緊張に表情を強張らせ、硬い雰囲気を漂わせたクラディールがゴドフリーに続く。二人は俺の前で足を止め、まずはゴドフリーが厳しい眼差しのまま口を開いた。

 

「フロアボス対策会議後にも一度話したが、改めて筋は通しておくべきだと思い、団長にも時間を貰ったのでな。……君とクラディールの諍いは承知している。君の赤心をくれとまでは言わん、それでもクラディールに雪辱の機会を与えることを許してやってほしい」

 

 そう言ってゴドフリーは深く頭を下げた。

 アスナから聞いていた通り、ゴドフリーが俺に向けるのは決して好意的な視線ではない。しかし嫌悪に染まっているわけでもなかった。こいつは仲間思いな男なのだろう、部下のために本心から頭を下げることができるのだから大したものだと思う。

 ゴドフリーが口にした通り、数日前の対策会議の後にも一度頭を下げられていた。その時にクラディールの不明を晴らすチャンスをくれとも要請されている。曰く《命の借りは命で返させる》と。ゴドフリーにしてみれば完全決着モードを使ったクラディールは俺に殺されても仕方ないことをしている、ということらしかった。

 仮にあの決闘で俺がやりすぎても正当防衛の範囲だ、といらんお墨付きまで貰っていたりもするのだけど、そんなこと言われても反応に困るだけだぞ。その時に言葉を選ばない男だなと戦々恐々したことを思い出す俺だった。

 

 ゴドフリーはどうも直情的というか、単純明快な論理を好む男らしかった。監督役としてクラディールの指導を請負い、以前の馬鹿げた行いの精算をしてこいと促したらしい。そのために今回の決死隊に参加させるというのは行き過ぎじゃないか、と俺のほうが内心で冷や汗を流したくらいだ。

 いや、戦力が増えるのは単純に嬉しいんだよ。決闘を通して得た感触としてはクラディールの実力も相当だと感じたし、変な油断さえしなければ一線級の実力を誇るプレイヤーだろうと思う。攻略組全体の中でもかなり上に食い込める力はあるんだ、今日参加するメンバーと遜色ない動きも出来るはずだった。だからこそゴドフリーのみならず、ヒースクリフだってクラディールのボス討伐メンバー入りを認めたのだろうし。

 

 どのみち、クラディールもゴドフリーに説得されたかして納得済みでここにいるのだろうから、参加の是非を俺がどうこう言うものでもない。ただでさえ戦力は足りてないのだし、戦う力を持ち、戦う意思を持つプレイヤーをどうして無碍に出来ようか。

 そんなことを考えていると、ゴドフリーに倣うようにクラディールまで俺への詫びのつもりなのか頭を下げてきた。参ったな、どうにも居心地が悪い。こういうのは正直勘弁してほしいと困り果てながら、そうした胸の内を極力表情に出さないよう注意して口を開く。

 

「決闘の件に関してはおたくの団長さんにも謝罪は貰ってるし、遺恨なしってことで決着もついてる。気にしないでくれ」

 

 ほんともういいって。別にクラディールのことなんてどうでもいい……じゃなくて、あの件を蒸し返されても正直そんなこともあったっけと思う程度に過ぎない。それに俺だってあの時は随分大人げないことしてるんだからお互い様でしかない、貸しがあるとも思っちゃいなかった。

 ……諦めるしかないか。血盟騎士団所属の団員、特に幹部ともなればクラディールの決闘騒ぎは気にせずにはいられない案件だったはずだものな。クラディールとの決闘以降、血盟騎士団の団員が時折俺へと向けたよそよそしい態度も、今日の戦いでクラディールが名誉回復を済ませるまでだと我慢しよう。

 ただ、それでも俺が今日の戦いに消せない懸念を抱えていたとすれば――。

 

「それよりクラディールのフォローをしっかりしてやってくれ。レベルの心配はないんだろうけど、フロアボス戦に慣れてない、それもクォーターボス戦の経験がないプレイヤーなんだ、思わぬ不覚を取ることだってあるだろう。頼むぞ、ゴドフリー前衛隊長殿」

「任せておけ。我がギルドからは誰一人死者は出さん」

 

 豪快に笑って胸を叩き、力強く首肯を返す血盟騎士団の幹部に俺も頷きを返す。フロアボス戦の経験に乏しいクラディールだけに、クォーターボスをいきなり相手にするとなると些か不安を抱かざるをえない。

 俺がクラディールを気にかけるのは当たり前だった。どんな強大な敵が相手だろうと死者ゼロで切り抜ける目標が変わることはないし、最初から犠牲者ありきの精神で戦いに臨むことなんてありえないのだから。万難を排してボスを撃破するため、互いの弱点をカバーし合うのはフロアボスに挑む俺達攻略組に求められる最低限の心得だ。

 

「クラディール、幸い黒の剣士殿はお前の振る舞いも水に流してくれるようだ。バツが悪いのはわかるが、そうだんまりを続けなくてもよかろう」

「……先日は大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今日の討伐戦で必ずや我が恥を雪ぐ所存ですので、どうかお気遣いなきよう願います」

 

 わかった、と言葉少なに頷いておく。俺がゴドフリーに告げた心配事も、クラディールにしてみれば面白くない忠告か。いらん一言を自重せず口に出してしまうのが俺の悪癖だし、十分に気をつけないといけないな。

 ゴドフリーはともかく、クラディールの目には俺に対する変わらぬ敵意が見え隠れしていた。

 まあそんなものだろうと思う。あれだけぶつかり合っておいていきなり友好的になるほうが不自然だし気持ち悪い。決闘の勝者はクラディールだったとはいえ、その後奴がどうなったのかを思えばとても勝者の気分ではいられなかったはずである。奴が多少の鬱屈を抱えるのも無理はない。

 ただまあ、クラディールにどれだけ嫌われていようが、勝利のためなら協力できるだけの見識――最低限の関係性さえ望めるのであれば俺は満足である。いちいち気にする程のことでもなかった。

 

「さて、話はまとまったようだな。それでは出発するとしよう。これから回廊を開く、遅れずついてきてくれたまえ」

 

 ヒースクリフが取り出した濃紺色の結晶アイテム――回廊結晶が「コリドー・オープン」の掛け声と共に消滅し、おそらくはフロアボスの部屋直前につながる転移ゲートが開かれた。一拍の静寂を挟み、特に振り返ることもなく無言でヒースクリフは青い光の中へと姿を消していく。アスナを除く血盟騎士団の面々も続いた。

 恐れを微塵も見せない彼らの後姿に触発されたのか、血盟騎士団を追うように回廊へと消えていくプレイヤーの背筋は真っ直ぐに伸びていて、その足取りも確かなものだった。それはもしかしたら見送りにきた多数のプレイヤーに不安を抱かせないための配慮でもあったのかもしれない。

 俺とアスナ、それにクラインとエギルもお互いに一度顔を合わせて頷いた後、激励の声援が飛び交う中をゆっくりと進んでいく。いよいよクォーターポイント攻略の大詰めだった。

 

 

 

 

 

 数日前に俺が発見した黒曜石の大扉は、その威容を見せ付けるかのように不気味なプレッシャーを放っていた。扉そのものは単なるオブジェクトだというのに、見ているだけで薄気味悪い気分に陥るのは、その先にいるであろう危険すぎるモンスターが原因だろう。頬を撫でる空気すら生暖かい妖気を孕んでいるようにすら思えた。

 

「皆、準備はできているな。今回の討伐戦はボスの情報が一切不明だ。その姿、種族分類、攻撃パターン、何一つ判明していない。まずは私を中心に壁戦士を前衛に配置し、守勢を展開して序盤を凌ぐ。現時点ではそれくらいしか言いようがない。事前情報に乏しいため、プレイヤー個々人の裁量に任せる範囲も広くなるだろう。皆、適宜ボスの攻撃パターンを分析し、臨機応変に対応してほしい」

 

 大扉の前で最後の確認とばかりにヒースクリフが口にした言葉に各々が硬い面持ちで頷く。臨機応変と言えば聞こえは良いが、つまるところ《行き当たりばったり作戦》である。ボスの情報がない以上は定石の戦術しか取れないのだから、殊更付け加えるようなことはなかった。

 俺達が無事に勝利できるかどうかは戦闘の中でどれだけ早くボスの特色や動作パターンを見切ることが出来るか、全てはそこにかかっている。俺やアスナのような攻勢を得意とするプレイヤーが、逸早く有効な反撃に取り掛かれなければ、被害は拡大するばかりだろう。

 25層、50層のクォーターポイントを思えばボスの耐久力もずば抜けて高いはずだし、短期決戦は難しい。それでも出来うる限り短時間でボスを撃破できなければ、戦死者の数がいや増すばかりになってしまう。俺の二刀流をどれだけ有効活用できるか。責任は重大だ。

 

 そしてついにヒースクリフが大扉の中央に手をかけ、ゆっくりと開門させていく。重い響きを俺達の耳に残し、視界の先にはとてつもなく広いドーム状の部屋が広がっていた。見た限りフロアボスの姿はない。やはり部屋の外からではその姿を確認することはできないらしい。

 周囲では次々とプレイヤーが抜刀していき、着々と戦闘態勢を整えていく。俺も彼らに倣って愛剣を引き抜いた。

 

「――戦闘、開始!」

 

 十字盾から長剣を引き抜く甲高い金属音を響かせ、高々と掲げた刃を煌かせてヒースクリフが戦いの始まりを宣言した。我に続けとばかりにそのまま部屋の中央へと走り出していく。負けじと駆け出すプレイヤーの波に抗うことなく俺も続いた。当初の予定通り先頭集団からわずかに距離を空けて。攻撃部隊に位置する俺が壁戦士部隊より前へ出ても混乱を招くだけだ。

 部屋は半球状の作りをしていた。湾曲した漆黒の壁が頭上高くに伸びていき、上空高くで閉じている。俺達が部屋の中央付近に辿り着き、陣形を整えた頃にようやく轟音が空気を震わせた。背後にちらと視線をやれば大扉が閉ざされている。これも予定通り。

 できれば内部からも開かないのか確認に赴きたいところだったが、既に俺達はフロアボスの支配する領域へと足を踏み入れている。確認するにせよ全員で動く必要があるだろう、この場から俺一人離れることは出来ない。それにここまで踏み込んでもボスの姿が未だに見えないのだ、迂闊な動きは命取りになりかねなかった。……どこだ。どこから来る?

 

 数秒の静寂ですら極度の緊張を俺達に強いる。視界いっぱいに広がる広大な空間のどこにもボスの姿はなく、出現の予兆も見せない。予想外だ、扉が閉まると同時に大型モンスター出現エフェクトが始まるのかと思っていたのだが、一向にその気配はなかった。プレイヤー間の空気が張り詰め、重苦しい沈黙が破られることもない。何事も起こらないまま時間だけが過ぎ去っていく。

 無言のまま緊張の糸が刻一刻と張り詰め、心臓の鼓動を常のものに抑えようと呼吸を正しいリズムで繰り返す。過ぎた緊張は加速度的に疲労を高め、集中力を奪っていく。長丁場を予期せざるをえないクォーターボス戦だ、今から張り詰めきっていては最後まで身が持たない。

 

「――上よ! 全員注意して!」

 

 ぴんと張り詰めた空気の中、真っ先に声をあげたのはアスナだった。彼女の焦りを孕んだ叫びが発せられた途端、一斉にプレイヤー全員の視線が上空へと向かう。ドームの天頂部、暗闇の中で蠢く巨大な白色の何かがそこにはいた。あれは百足(むかで)か? 白骨で構成された百足に似た何か。そんな悪趣味なデザインの大型モンスターが天井に張り付いて俺達を見下ろしていた。

 詳細を見通してやろうと目を凝らす暇はなかった。俺達に発見されるのを待っていたかのように、絶妙なタイミングでそいつは落下を開始したからだ。まずい、上空高くからの強襲のせいで正確な距離感と反撃のタイミングがまるで測れない。完全に機先を制された形だ。

 

「散開しろ! ボスから距離を取れ!」

 

 俺やアスナが地を蹴るのと同時にヒースクリフの指示が飛んだ。この期に及んでもヒースクリフの声に焦慮の色はない。本当に頼りになるプレイヤーだと、そんな風に俺が感心していられたのも長い時間ではなかった。

 ヒースクリフの指示にわずかに反応が遅れたのが三人いる。まず盾持ちの重装甲プレイヤーが二人。そしてもう一人、やや離れた位置にて両手剣を握る長身の男――クラディール。迫り来るボスの異形に一瞬の怯みがあったのか、それともフロアボス戦での慣れない強襲に咄嗟の判断に空隙が生じたのか、三人の退避は間に合わなかった。そして退避の間に合った俺達にしても陣形が乱れたことに変わりはない、組織的な救援や反撃を行う余裕はない。

 孤立した三人の傍近くで巨大な百足が恐ろしい地響きを立てて着地した。地震でも起きたかのように地面が盛大に揺れ動く。そのせいでさらに三人の退避が遅れる――のみならず、眼前に姿を現した異様な巨体に恐慌を来たしたのか、盾持ちの二人が一旦距離を置いて俺達へと合流を急ごうと踵を返そうとしてしまった。残るクラディールは激震に足を取られたのか、二人とは逆にその場に膝をついてしまっている。

 

 ――馬鹿野郎、そんな至近でボスに背を向けるなッ!

 

 彼らの取ろうとする行動を目にして急速に血の気が引いていくのを自覚する。どうして、と声にならない悲鳴が胸中に渦巻いた。

 くそっ、攻略組の誇る精鋭が、こうも容易く判断を誤るのか……!

 張り詰めた空気、上空高くからの強襲、逃げ遅れた焦燥、クォーターボスの威容が示す重圧、何より偵察で判明していたフロアボスの脅威的な戦闘力を意識しすぎたのだろう、完全に浮き足立ってしまった。だが、逃げるにしたって逃げ方というものがある。この場面で必要なのは踏み止まってボスの一撃を防御し、それから退避するか救援を待つことだ。闇雲に逃げの一手を打つのは悪手でしかない。

 そして、彼らに告げるべき俺の言葉が声になることはなかった。その前に巨大百足が獲物を見定めたように右腕――長大な鎌を模した骨を振り上げ、猛烈な勢いで振り下ろしたからだ。……駄目だ、間に合わない。

 

 目を背けたくなる光景が展開された。二人が背後から同時に切り飛ばされ、突進にも似た勢いで俺達に向かって吹き飛んでくる。その最中HPバーが急激にその値を減少させていき、ゲージは注意域どころか危険域ですら止まることはなく――無慈悲に二人のHPバーを吹き飛ばした。ライフがゼロ、すなわち《死》だ。俺達に衝突する前に二人は四散し、結晶の欠片となって虚空に散っていく。

 最初に俺の目に焼きついた彼らの顔は、何が起こったのかわからない、これで本当に終わりなのか、という懐疑に満ちたものだった。この世界の死が本当の死につながるのかどうかが証明されていないがために、ゲームオーバーが現実の目覚めになるのだというわずかな、小さすぎる可能性に縋った表情だった。そして最後には俺が何度も目にしてきた、《死にたくない》と訴える悲壮さに変わったことまでを確認し――声もなく二人のプレイヤーが散っていった。

 

「一撃で、戦死だとぉ……!?」

 

 恐怖に戦慄くクラインの声を置き去りに、全力で地を蹴って前へと飛び出した。

 クラインのつぶやきはこの場の全員が抱く絶望そのものだったはずである。今死んだのは75階層時点で十分安全マージンを取っている、攻略組でも指折りのレベルを誇るプレイヤーだ。その上、頑丈さに定評のある盾持ちの重装甲型のため、本来ならば前衛としてボスの攻撃を幾度も防げるだけのポテンシャルを秘めた戦士だったはず。

 それをこうも容易く蹴散らし、HPを削りきってしまうのは理不尽と称して何の不足もない。……仮に彼らが踏み止まって防御を固めていたとしても、無事に凌ぎきれるものではなかったのかもしれない。

 

 ボスから距離を取るために跳び退っていたせいで一瞬の空白が出来てしまった事実に歯噛みする。いくらレベルが上がり、敏捷値を高めたところで慣性までは無効化できない。そのもどかしさに胸を焦がしながら、どうにか間に合えと内心で吼え、さらに加速しようと地を蹴り砕く勢いで蹴り足に力を込め、前傾姿勢を取った。

 既にボスは二撃目のモーションに入っている。その狙いは孤立していた最後の一人であるクラディールだ。

 

 クラディールはようやく体勢を整え、手にした両手剣で百足が放つ左の鎌を受け止める構えを見せていた。本来ならば悪くない判断だろう、しかし先の光景がある以上嫌な予感が止まらない。あの骸骨百足を相手にそれだけでは足りないのだと、脳裏で警鐘がけたたましく鳴り響いていた。

 いくら無防備に攻撃を受けたとは言え、防御力に秀でた壁戦士が二人まとめて一撃死だ。真っ当な定石が通じる相手とは到底思えない。クラディールには悪いが、あいつの力じゃあの大鎌を防ぎきるのは至難だ。いや、俺でも捌けるかどうかはわからない、それこそヒースクリフでもなければ――。

 そこで思考を無理やり遮断し、切り替えた。弱気になるな、安易にあの男を頼る心こそ克服すべきものだ。それに戦闘はまだ始まったばかり、こんなところで怯んでいてどうする。

 

「やらせるかッ!」

 

 気合の叫びと共にクラディールの前へと飛び出し、振り下ろされる大鎌を迎え撃った。繰り出される俺の二刀十字。俺がもっぱら得意とする弾き防御(パリング)の形ではあるが――止まらない。空恐ろしい重量感が両腕を通して俺の身体にのしかかり、火花を散らして俺の防御を飲み込もうと迫る。

 冗談じゃない……!

 俺のレベルですらパリイを成立させられない恐るべき事実に戦慄を覚えずにはいられなかった。《史上最悪のフロアボス》。その評価に嘘偽りない凶悪さだ。

 凌ぎきれないならダメージを最小限に抑えようと早々に方針を転換する。交差させた剣を押し切られて大ダメージを負う前に、半身をひねるようにステップを加え、剣の刃に滑らせるように鎌の軌道をコントロールする。残念ながら完全回避できるほど大幅にずらすことは出来ないため、覚悟していた通り左腕に一撃を受けることでどうにか直撃を防いだ。

 

 その一撃ですら三割を超え、四割に迫るライフを持っていかれた。

 こいつの鎌の性能は異常だと改めて認識する。中途半端な当たり判定だったというのにこの威力。とは言え俺が生き残ったことから問答無用の即死判定のような、どうにもならない効果までは付与されていないようだが……。クリーンヒットを受けた場合までの保証はないか。そもそも特殊効果抜きでも恐るべき破壊力を秘めていることに違いなかった。

 そして奴の鎌は二本ある、一本凌いだところで安心するにはまだ早かった。間髪入れずに振り上げられた追撃の構えにぞくりと背筋に寒気が走る。

 

「下がれクラディール!」

 

 焦りを多分に含んだ俺の声に「恩に着る」と短い言葉が返され、地を蹴る音がした。背後の気配が遠ざかっていく。そして俺はクラディールの無事を喜ぶ間もなく、視界をかすめる鎌に対応しようと腰を落として剣を構えた。

 俺の握る二刀からソードスキルの燐光が放たれ始め、短い呼気を吐き出しながら迫り来る骨鎌へと気合一閃打ち込む。重い衝撃がずしりと俺の腕に伝わるものの、幸いパリイと違って押し切られることはなかった。互角か、幾分押し返せるくらいの感触だ。

 これならば奴の攻撃を防ぐことはどうにか出来そうだと、ほっと内心で息をつく。――ただし、それは鎌が一本だけならばの話だ。再度振り上げられた巨大な鎌に、自身の表情が凍りつくのを自覚した。ソードスキルの技後硬直時間を考えると迎撃は不可能だ。

 

 この戦場、俺一人で支え続けるのはどうあっても無理だと結論付ける。こいつの鎌を封じ込めるにはあの男の力が要る。攻略組最強――《神聖剣》を操る《聖騎士》の助力が。

 そんな俺の内心に応えるかのように真紅の弾丸が疾駆し、俺に襲い掛かろうとしていた攻撃をその巨大な十字盾を駆使して跳ね返した。俺が対応に苦慮した一撃をこうも容易く捌くのだから堪らない。攻略組の頂点に立つ《聖騎士》の無敵っぷりは健在だ。相変わらず頼りになりすぎるぜ、ヒースクリフ。

 

 そして《聖騎士》が駆けつけたならば次に続くのは《閃光》の役目だ。ヒースクリフが作り出した隙を見逃すことなく、その身を一陣の風と化して飛び込んだアスナは、既に剣を引き絞って攻撃の姿勢に入っていた。

 リズ謹製の細剣《ランベントライト》が燐光を散らし、目にも止まらぬ速さで連続した突きが放たれる。その全てをヒットさせ、最後の一撃が骸骨の頭部を狙い違わず撃ち抜くと、白骨の巨体を後方へと弾き飛ばした。轟音が大広間に響き渡る。

 流石だ、アスナの細剣を操る精密さは尋常じゃない。今回のボスは分類としては細剣の苦手とする骸骨系モンスターだろうに、苦もなく全弾命中判定を成功させ、クリティカルダメージを与えていた。

 

「助かった。サンキュー、アスナ、ヒースクリフ」

 

 礼を述べながら早々にポーションを口に含み、すぐさま二刀を握り直す。この手の作業も慣れたもんだ。

 

「どういたしまして」

「礼には及ばんよ。それでどうするかね?」

 

 策はあるかとヒースクリフに水を向けられるものの、殊更迷うようなことでもなかった。ヒースクリフだって今までの攻防で取れる手段が限られていることくらい理解しているだろう。それでも確認してきたのは俺を慮ったせいか?

 ふん、らしくない気遣いだなヒースクリフ。俺としてはあんたに命令されたって文句はないぞ。

 

「俺とあんたの二人でボスの大鎌を封殺する。あの攻撃を抑えないことには反撃もままならない」

 

 あの大鎌こそが軍の精鋭十二名を瞬殺した元凶だろう。不意打ちにやられたとは言え、俺達だって早々に二名の犠牲者を出している。あんなものを自由に振り回されたら攻撃特化仕様(ダメージディーラー)を集めた攻撃部隊(アタッカー)なんて瞬く間に全滅してしまう。

 ボスを撃破するためにはまずあの二本の鎌を封じる必要があった。そしてその役目に最も相応しいのはヒースクリフであることに疑問の余地はない。奴の持つ《神聖剣》スキルと戦闘センスがあれば十分に対抗できるはずだった。それで鎌の一本は何とかなるだろう。問題はもう一本の鎌だ。

 

 短時間で軍を全滅させた事実、金属鎧で固めた重装甲プレイヤーですら一撃でHPをゼロにする凶悪さ、直撃を回避したかすり判定ですら俺のHPをごっそり持っていった恐るべき攻撃力。それらを踏まえると、あれはシュミットなりの壁戦士達が持つ高い防御力があって尚どうにもならない代物だった。

 いくら決死隊染みた集まりに参加したメンバーとはいえ、生存率が絶望的な立場に追いやるわけにはいかない。それに継続的に防御を可能にできるプレイヤーを充てなければ結局元の木阿弥になる。この場合単騎で対抗できるヒースクリフがおかしいのであって、壁戦士部隊を責めるのは酷だった。本当に、壁戦士全員に神聖剣が欲しいと埒もない思いが過ぎる。

 

 通常のボス戦での定石は防御を固めた盾持ちプレイヤーを並べて凌ぐことだ。その間に攻撃部隊がボスのHPを削り取っていく。しかし今はその定石が通じない。そして真っ当な手段で対抗できないのなら、リスクを承知で別の手段を取るしかなかった。

 すなわち、先程俺が行った回避方法の焼き回しだ。ソードスキルをぶつけることで敵の攻撃を相殺する力技、その技術こそが今は必要となる。そして攻撃をぶつけ合うことで回避となす攻勢防御術は俺の得意分野だった。

 

 ただし技後硬直時間(スキルディレイ)が不可避のために弾き防御(パリング)と違って反撃につなげることはできず、攻勢特化した俺の火力――攻略組最大のダメージソースも封じられてしまう。戦闘時間が長引くというリスクは避けられない。

 それでもやらねばならなかった。ボスの堅さを思えば俺も攻撃に専従したいのが正直な気持ちではあるが、そうも言っていられないのが現状なのだから。

 

「ふむ、キリト君の火力は惜しいが、それしかないか。ではアスナ君、全体の指揮は君が執ってくれたまえ」

「承りました。団長もお気をつけて」

「アスナ、俺からも一つ。この戦いの鍵を握るのは重量武器を操るエギルやゴドフリー、それにクリティカルに補正のつく高レベルカタナ使いのクラインだ。奴らを上手く使って効果的に反撃してくれ」

「わかってる、キリト君も無茶しすぎないようにね」

 

 アスナの激励に応えるように笑みが零れ落ちる。無茶をしなきゃならない場面なのは承知していても、心配もしているのだと俺に告げるアスナがいじらしかった。どんな時だって美人に気遣ってもらえるのは嬉しいし、気合も入るというものだ。

 あとはシュミット達壁戦士の部隊をどれだけ上手くローテーションさせられるかだな。攻撃部隊のガードをこなしながら自身の身も守ってもらわなければならない。どちらにせよ勝敗の趨勢はアスナの指揮能力に委ねるしかないし、アスナなら十分にこなすだろう。攻略組の面子にもヒースクリフに次いで頼られる指揮官だ、その能力を疑う者はいない。

 

「作戦の変更を通達する!」

 

 声を張り上げ、口早に作戦変更を告げるヒースクリフを横目に、俺は迫る衝突に備えて集中力を高めようと呼気を整えていく。片時たりともボスを視界から外さず睨みつけた。俺の目が向く先には、アスナに吹き飛ばされた痛痒など欠片も見せない骸骨百足の姿がある。

 自然とボスの全貌を暴こうと観察にも力が入った。まずはその巨体か、十メートルにも及ぶ威容を備えている。全体としては百足を思わせる輪郭をしていても、その身体を構成する骨は鋭利で気味悪いとしか言えない作りをしていた。二対四つの釣りあがった眼窩には青い炎が灯り、大きく突き出した顎には凶悪な牙も並んでいるし、その頭蓋は人の頭を模した物とは大きく形を違え、禍々しさを発していた。

 

 乳白色をした鋭い骨の節々が虫の動きを思わせる蠢きを見せる。生理的な嫌悪感を催すそれに知らず顔を顰めてしまった。

 視界に映るカーソルが奴の名を告げる――《ザ・スカルリーパー》。凶悪無比な戦闘能力を誇る、第75層のフロアボスだ。そして俺達が打倒すべき規格外モンスター、ラストクォーターポイントの番人。間違いなくこの世界で出会ったモンスターの中で最強を誇る強敵だった。

 布陣は俺とヒースクリフが正面からスカルリーパーと対峙、大鎌を抑える。攻撃部隊は側面に回りこんで波状攻撃を仕掛け、壁戦士部隊は攻撃部隊の援護だ。アスナを最上位指揮官に据え、戦局の変化に対応する細かい指示は都度彼女が出す。

 

 と、その時、スカルリーパーが大鎌を見せ付けるように攻勢の構えを見せながら動き出した。戦闘再開だ。

 真っ先に飛び出した俺とヒースクリフに反応するように、スカルリーパーがわずかに方向転換して迫り来る。奴の振り上げた硬質な骨の大鎌が強烈なプレッシャーを放ち、俺の視界を恐怖と緊張で否応なく占めようとしていた。

 怯みそうになる心を叱咤し、空気を鳴動させる轟音の元凶へと飛び込む。俺へと向けられた攻撃は、腹立たしいことに一度振り上げた鎌の軌道を変更し、横薙ぎに切り替えるフェイントつきだった。脳みそなんざこれっぽっちもない骸骨百足のくせに小賢しい真似をしてくれる……!

 青の光芒を引いて空を薙ぎ、振り下ろす俺のソードスキルがぎりぎり間に合い、横薙ぎの一撃を衝撃と共に受け止めた。どうにか相殺に成功したことに内心ほっと息をつくが――冗談だろう? こんな綱渡りをあと何十回、何百回成功させればいいんだ? 高揚したスリルを楽しむったって限度というものがある。俺はそこまで命知らずの戦闘狂じゃないんだ、勘弁してくれ。

 

 一瞬視界に映ったヒースクリフは、苦労なんて欠片も見せない余裕の面持ちで骨鎌の一撃を防いでいた。相性問題があるにしても奴の余裕は羨ましくなるな。二本ともあいつに任せれば良かったかと弱気の虫が出てくるのをどうにかこうにかこらえ、現実を噛み締めるように両手のそれぞれが剣を強く握り締めた。

 いくらあの男でも二本諸共に捌くのは無理だろう。神聖剣の真価は盾あってのものだ、同時に二本の鎌を縦横無尽に振り回されては受けきれない。なればこそ、ヒースクリフとは別にあと一人鎌を抑える役回りが必要だった。 

 貧乏くじってレベルじゃないなあ……。

 決死隊の中にあって、ミスれば即お陀仏の筋金入りの決死を誘う戦場に立つ。どうにも肝が冷えると寒気が増した。

 

 しかし愚痴を言ったところでやることが変わるわけでもない。そしてこのボスがゲームクリアのための最後の戦いというわけでもないのだから、こんなところで屍を晒すわけにもいかなかった。

 ここは所詮通過点なのだと、なけなしの強がりを抱いて戦場に立つ。

 続けて二撃目、三撃目の攻撃を相殺している間に、他のメンバーも一斉に戦闘を開始していた。各々の武器に燐光を纏わせ、全力の一撃をスカルリーパーへと叩き込んでいく。何人かが代わる代わるソードスキルを命中させたわけだが、それでもダメージは微々たるものだった。アスナが一撃を加えた時点で予測していたことだが、このボスは防御力もとんでもないものを持っていた。やはり長期戦は避けられない。……ほんと、俺の命が紙風船に思えてきた。

 

 骨鎌は死の具現そのものだ。何度も迫り来る死の影をどうにかこうにか回避しながら、バクバクとうるさい心臓を宥める間もなく苦難は続く。広間に響き渡った悲鳴は当然俺達プレイヤーのものだった。百足の尾の先――棘々しい槍状の骨にまとめて幾人かがなぎ倒されている光景が見えた。

 しかし俺はその場面を目にして、逆に心臓の鼓動を落ち着かせ、焦る心を宥めようと努めた。ここまできたら腹をくくるだけだ。俺に救援にかけつける余裕なんてないのだから、自分の仕事に集中し続けることこそ肝要だと言い聞かす。どうあがいても仲間の元に俺の手は届かない。だったら割り切る。割り切って彼らの力を信じた上で、俺の最善を尽くすだけだ。

 俺が倒れれば凶悪に過ぎる武器がフリーハンドを得てしまう。戦場の混乱は今の比ではなくなり、敗北必至の地獄へと転落してしまうだろう。そんなことを誰がさせるか……!

 

 気合の叫びをあげながら、俺の剣が切り上げの軌道を描いて再び骨鎌と激突する。そして訪れる技後硬直。それはもうどうしようもない、システム上のペナルティ時間を避ける手段はないのだから。

 それでも最善を尽くそうと足掻く。一瞬たりとも無為な時間を過ごせるはずもないと視界に映る情報を貪欲に求めていく。技後硬直中も硬直回復以後も視点の一点を鎌に集中させながら、同時に戦況全体を見通す視野を確保し続けた。観の目を研ぎ澄ます。

 ボスの全体像を見通した上で次の攻撃を読め。奴の動きを把握し、予測しろ。数十、数百のパターンが織り成す法則を読み取り、攻撃に転じるわずかな隙を見つけ出すために足掻け。目を凝らせ、心を細く、鋭利に尖らせるんだ。

 気合の声は何も俺だけが上げているものじゃない。この場の誰もが雄雄しく吼えながら、ソードスキルを発動させてフロアボスへと突貫していく。幾筋もの光の帯が断続的に空間を薙いでいき、骨で出来た百足の巨体に剣閃を叩き込んでいった。

 

「おらぁッ!」

 

 クラインのカタナが一際強い光芒を煌かせ、渾身の一撃を加える。いや、あれは単発技ではなかったか。旋風のように身を躍らせながら、《カタナ》スキル特有の遠心力を利した連撃技を放っていく。クラインの刃とスカルリーパーの骨の身体の間で何度も火花が散った。

 

「代われ、クライン!」

 

 カタナ使いの長い技後硬直時間のカバーに入ったのは両手斧使いのエギルだった。巨体に似合わず俊敏な体捌きで大きく飛び上がり、大上段に構えた戦斧はオレンジ色の光を放つ。そのまま全体重を加えながら鋭く重い一撃を打ち下ろした。全体からすれば微々たるものなのだろうが、それでもフロアボスのHPゲージを削る手応えはあったはずだ。

 ゴドフリーの斧が叩き込まれる。クラディールの両手剣が突きこまれる。ディアベルが適宜スイッチに入って技巧をこらした片手剣を振るう。それだけ多くのプレイヤーが力の限り戦いを続けているというのに、ボスのHPは一向に減った気がしないのだから腹が立つ。スカルリーパーは攻撃力が高すぎるだけでなく、その身に秘める防御力の数値も尋常なものではなかった。つまり長期戦は必至であり、集中力の維持が不可避の事態となって各々のプレイヤーに立ちはだかる。

 

 再びスカルリーパーの槍状の尾が振り回され、前衛に残っていたプレイヤーを弾き飛ばす。攻撃部隊を守っていた盾持ちの壁戦士が主な被害者だった。盾を構えても防ぎきれない猛威を目にして思わず舌打ちした瞬間、俺の身体を真っ二つに切り裂こうと振り下ろされた骨鎌が迫る。その一撃を俺は下から切り上げるソードスキルを放つことでどうにか回避を間に合わせた。俺も皆もギリギリの攻防が続く。精神力がゴリゴリと削られる戦場だった。

 この緊張の糸が切れたプレイヤーから死んでいく。ふとそんな縁起でもない、しかし確信にも似た想像が浮かび、忍び寄る最悪の想像を一度頭を振ることで追い出そうと努めた。鎌首をもたげる嫌な予感を、強い意思を抱くことで打ち消していく。

 

「シュミットさん、前衛の交代を! タイミングはわたしが飛び込んだ直後でお願いします! 壁戦士(タンク)部隊は攻撃部隊のガードを継続、特にカタナ使いをフォロー! 焦らずローテーションを行ってください!」

 

 アスナの指示が飛び、陣形が適宜変化していく。浮き足立った面々もボスのHPがわずかずつでも削れる様を見て恐慌から脱したのか、既に落ち着きを取り戻していた。

 ここまでやってようやくクォーターボスを相手にまともな勝負の形へと持ち込めた。まだまだここからが正念場だ。

 頼むぞアスナ、俺の集中力が切れて事故る前にどうにか百足野郎のHPを削りきってくれよ。

 少しでも心に余裕を取り戻そうと内心で舌を出して力を抜いた。一瞬の脱力。しかしそんな猶予を長く確保できるはずもなく、鋭く呼気を吐き出しながら繰り出した俺の剣とスカルリーパーの鎌が再び激突する。三本の硬質な刃が衝突する衝撃が両手にびりびりと痺れとなって響く。

 その攻撃の重さに挫けそうになる弱気を丹田に力を込めることですぐに追い出す。必要なのは緊張感を持続させ、最高のパフォーマンスを発揮し続ける適度な恐怖だ。過ぎた臆病はいらない。そして出来ないことを求めて焦る無駄もいらなかった。

 

 最善を尽くす。最良の未来を引き寄せる。持てる力の全てをこの戦場に注ぎ込むことだけに腐心しろ。

 

 一瞬たりとも気の抜けない死の舞踏を繰り返しながら、これ以上誰も死んでくれるなよ、と祈ることを止めることができなかった。それがどれだけ儚い願いかを知りながら、それでも俺は仲間の無事を祈ることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 無我夢中だった。

 クォーターボスの暴虐の前に幾度もプレイヤーが結晶に変じて四散する光景を目にして、そのたび心に鎧を纏うことで剣を振るい続ける。スカルリーパーの骨鎌の動きに最大限の注意を向け、先読みに努めてその都度ソードスキルをぶつける決死の作業を繰り返した。そうやって少しでも仲間の安全を確保し、俺自身の命を確保したのである。

 これほどに死を実感した戦いはない。ギリギリの緊張感に寒さなのか熱さなのかもわからぬ憂慮で身を焦すも、ただただ集中力を高めていくしかなかった。

 そんな死闘の最中、やがて俺は今までにない奇妙な感覚を覚えていく。

 スカルリーパーの必殺の鎌に俺の剣をぶつけることだけに意識を注いでいた。初めの内は叫びと共に気合を迸らせ、力の限り剣を振り回して鎌を防いでいたのだが、それが十合、二十合と続き、五十を越えた辺りから周囲の音が小さくなっていることに気づく。

 

 時折あがる悲鳴や戦友の死に嘆く憤激の叫びも遠くなっていき、ますます集中力は高まっていった。そして余分な力は削ぎ落とされ、脱力した身体が静と動の切り替えを的確に選択し、さらに無駄をなくしていく。不思議なことに、死を目の前にして場違いなほど俺はリラックスしていた。恐れも恐怖も忘却の彼方へと置き去りにし、大鎌の一撃を受けることすら苦に感じない。

 そして心身に満ちる万能感が増すと共に、俺の動きも時々刻々と洗練されていく。これもまた不思議なことなのだが、その時の俺はそうした状態を疑問に思うことすらなく、自然とそういうものなのだと受け止めていた。俺とスカルリーパーの攻防が百合を越えてなお対峙していた頃のことだ。

 

 百合を超えて二百合へ。

 スカルリーパーの鎌に剣を合わせることは容易かった。俺を取り巻く全ての景色が、時を追う毎に緩やかな流れに変わっていく。およそ目に映る全てがスロー再生となり、俺自身の動きすら緩慢なものへと変化していた。それは水中で動こうとする感覚にも似ている。空気をかきわけるようにゆっくりと身体を操ることに不思議な心地を抱く。勿論それは感覚上のことであって、他人から見れば俺はいつも以上に速く動いていたのだと思うが。

 

 そこから先は数えることも忘れ、最終的に幾百の攻撃を弾き返したのかは知らない。

 しかしあれほど死を予感させたスカルリーパーの一撃に危機感を煽られることも次第になくなっていった。この時の俺は周囲全ての動きを掌握できていたのだからそれも当然か。

 俺の剣撃はますます冴え渡る。静寂の世界で水をかくように身体を操り、二本の剣で骨鎌を封殺した。全てが自動的で、恐れるものは何もない。今の俺ならばスカルリーパー必殺の攻撃を、何百合でも何千合でも捌き続けられるだろうと確信していたのだった。

 事実、俺は一つのミスをすることもなくスカルリーパーの攻撃を無効化し続けたのである。上段からの打ち下ろし、袈裟懸けの一撃、中段からの薙ぎ払い、下段からの猛烈な切り上げ。ありとあらゆる鎌の軌道に正面からぶつけ合う二刀の剣戟が止むことはなかった。

 

 決着は俺の仕掛けた《武器破壊》が成功した直後だった。

 気の遠くなる程繰り返された剣と鎌の攻防が、俺に奴の鎌を叩き折るタイミングをついに解明させたのだった。俺の企図した《武器破壊》本来の用い方――モンスターを相手に部位欠損を引き起こす技術の本領発揮である。そうしてスカルリーパー最大の武器である骨鎌を真の意味で無力化したのだった。その事実を確認した瞬間、素早く視線を巡らせ、頷き、腹を決める。攻略組随一の火力を持つ俺が攻勢に転じる絶好の機会だ。

 そこからは一瞬だった。必殺の意思を抱いて俺はソードスキルの予備動作を取り、太陽コロナのごとく全方向から剣撃を浴びせかける絢爛(けんらん)の太刀を放ったのである。

 二刀流最上位剣技《ジ・イクリプス》。

 現在判明しているソードスキル全種の中で最大最高の破壊力を持つと同時に、二十七連撃という最高連撃性能を誇る、疾風怒濤の高速斬撃技だった。

 

 喉から叫びが轟き、スカルリーパーを構成する全ての骨を切り砕けと青白く輝く刃が宙を薙いでいく。

 終幕を飾れとばかりに放った俺の渾身そのものの太刀が暴れ狂う。暴風を纏い、限界の速度を超えてなお加速し続ける俺の剣は、確実にスカルリーパーのゲージを削り落としていった。一の太刀よりも二の太刀は速く、二の太刀よりも三の太刀が速い。システムアシストを超えて加速し続ける俺の剣は、桐ヶ谷和人という人間の神経が認識できる限界の速さに達していた。

 巨大百足を倒しきれると確信して放った俺のソードスキル。しかしスカルリーパーもさすがはラストクォーターボスと言うべきか、あと一撃で終わると実感しながら放った俺の二十七撃目、左の刺突攻撃がスカルリーパーの頭蓋へと届くことはなかった。俺の剣は部位欠損から回復した大鎌に弾かれ、最後の一撃が不発に終わる結果となったのである。

 ジ・イクリプスは最長射程、最大威力を併せ持ち、二刀流スキルが誇る最大火力をぶつける技だった。その代償として、技後硬直時間も比例して長く設定されている。初期剣技ならともかく最上位剣技の技後硬直時間は致命的だ。そしてそのペナルティ時間を打ち消す術はない。

 

 復元が早すぎる……!

 いくらなんでもこの部位欠損からの高速再生はゲームバランス無視ってレベルじゃないぞ、規格外すぎる。明らかにボスの強さ設定が狂ってるだろこれ、頭おかしいんじゃねえの茅場の奴、と内心悪態を吐くものの、そんなの今更な感想だった。あの男を狂人と呼ばずして何と評すのやら。

 骨鎌を完全に回復させ、元に戻った威容を見せ付けながら、技後硬直に動きを止める俺へと大鎌――最悪の一撃が繰り出される。それを貰えば俺の命は間違いなく消えていたことだろう。

 認める。ああ、認めよう。お前は確かに史上最悪の敵だったよ。俺がソロで挑んでいたらまず間違いなく殺されていただろうさ。だがな、今の俺は一人じゃないんだぜ? 攻略組の仲間が、今日まで共に戦ってきた戦友がいる。そして俺の命を守ると言ってくれた、頼りになりすぎるパートナーがいるんだ。

 

 ふわりと軽やかにアスナが俺の隣へと降り立つ。こんな時だというのに、あるいはこんな時だからこそ、俺は彼女に見惚れていた。それはあたかも白く眩い天の使いのようで――美しくも残酷な戦乙女(ワルキューレ)

 アスナの手にする細剣が光を発する。そして放たれるは刃の雨、彼女の二つ名を表すが如き閃光の身のこなしから繰り出される瞬速の突きだ。何人もの攻略組プレイヤーの命を奪っていった巨大な骨鎌が俺に到達する寸前、アスナの突進剣技がその猛威を振るう。

 細剣最上位剣技《フラッシング・ペネトレイター》。

 ソニックブームを彷彿させる衝撃音が木霊し、アスナの剣が彗星の顕現となってフロアボスを貫く。そして、それが《ザ・スカルリーパー》へと止めをさす最後の一撃となった。断末魔の声もなく膨大なポリゴン片を撒き散らして、程なくフロアボスが撃破されたことを知らせる祝福メッセージが機械的に出現する。

 

 しかし俺はそんなものこれっぽっちも目に入らなかった。

 フロアボス撃破に伴う青白い粒子の乱舞が幻想的な一時を演出する最中、俺の目を惹きつけて止まなかったのは、艶やかな栗色の髪をなびかせ、凛々しい(かんばせ)を見せて涼やかに佇む一人の少女だ。ただただ美しい一枚絵に見蕩れることしばし、やがて俺だけに聞こえる小さな囁きを耳にする。

 

「アイコンタクトって案外簡単に出来るものなんだね」

 

 ありがとうと、心から言わせてほしかった。

 

「馬鹿言え。俺はアスナ相手じゃなければ成功させる自信ないし、そもそも試す気にすらなれないぞ」

「安心していいよ。わたしもキリト君相手じゃないと正確に読み取る自信ないから」

 

 そんなどこか気の抜けた軽口を交わし、お互いの無事を喜び合った。

 何とか生き残った……。万感の思いを抱いて溜息にも似た吐息が漏れる。どっと押し寄せてくる疲労が我が身に鉛の重さを付与していた。それは俺に限ったことでもないのだろう、皆が重い疲労を抱えているのは自明だったし、緊張の糸が切れたのか誰ともなく床にへたりこんでいく。いや、倒れこんでいく、としたほうが正解かもしれない。

 喜びよりも疲弊に喘ぐ死屍累々の光景を見るとはなしに、俺もアスナもどちらからともなく肩を寄せ合い、ずるずると座りこんでしまう。お互い限界だったのだから当然だ。

 

 こうして、《閃光》の剣によって長きに渡った死闘に幕が引かれ、ついに第75層を守る番人、ラストクォーターボスが数多の犠牲を礎に撃破されたのだった。

 

 




 食材アイテム《米》のくだりは独自設定です。
 75層フロアボス《ザ・スカルリーパー》の鎌による一撃死は、クリーンヒット時のみ発動する即死効果として扱っています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第16話 黒の剣士、白の閃光 (4)

 

 

 およそ一時間弱。それが第75層フロアボス《ザ・スカルリーパー》撃破に要した時間だった。以前俺が相手をした74層でのグリームアイズ戦にかかった時間とはわけが違う。あの時は俺一人だったのに対して、今回は俺以上の実力者を含む総勢38人で挑んだ総力戦だったのだ。それだけの戦力を用意して、なお一時間に迫る戦闘時間だった。その一事を以って従来の敵戦力との大きすぎる隔たりとクォーターボスの凶悪さ、鬼畜ぶりが伺えよう。――そして、犠牲のでかさも。

 誰もが死闘の果てに疲れ果て、黒曜石の床にへたりこんでいた。俺とアスナも例外ではない。肩を寄せ合うように座り込み、激闘の疲労を癒していた。あるいはもっと単純に、犠牲者を悼んだ空虚な虚脱感にお互い支えが欲しかっただけかもしれない。今は立ち上がろうとも思えなかった。

 

 士気高揚のためか、それとも単なるやせ我慢なのか、唯一ヒ-スクリフが超然と立ち尽くしたままだが、この際無視だ無視。奴を大したものだと感心はしても対抗する気力はない。

 疲れを知らぬタフさ以上に驚きだったのは、ヒースクリフのHPバーが未だにグリーンを維持していることだった。《ヒースクリフにイエローなし》。当然、戦闘中もグリーンを維持し続けていた。あれだけの激闘を経てなお、彼の伝説が崩れることはなかったのである。

 もういっそ化け物でいいんじゃないか? 誰が死のうとも、俺が死のうとも、あの男だけは最後まで生き残ると思う。

 

「何人――やられた?」

 

 怒りと、切なさと、悔恨。それぞれの感情が絶妙に混じり合ったクラインの問いに、しかし答えるものはいなかった。クラインの傍で大の字になっていたエギルが身を起こしたが、それだけだ。誰が死んでもおかしくない戦いだった。視線をついと動かせば、俺のHPバーもレッドに差し掛かるぎりぎりの位置でイエローに染まっている。

 クライン、エギル、俺はお前らが生き残ってくれていて本当に嬉しいよ。それにディアベル、シュミットも無事か。血盟騎士団は……さすがだな、死者を出さなかったみたいだ。

 

「七人死んだ。生き残りは三十一人だ」

 

 一度目を閉じ、感情を廃して俺はクラインの問いに答えた。

 この数字を多いと見るか少ないと見るか。フロアボスの強さを考えれば討伐隊から二桁、いや、今の二倍三倍の犠牲者が出てもおかしくなかった。七人だけで済んだのは僥倖とさえ言えるのかもしれない。人の死を数字の多寡だけで測り納得して良いのならば、だが。

 そもそも偵察に赴いた軍の犠牲者も含めれば、今回のクォーターボスを相手に十九人もの膨大な戦死者が出ている。とても喜べる状況ではなかった。

 理想は戦死者ゼロで切り抜けることだ、それが理想にすぎないことはわかっている。そして今回のボスを相手に犠牲なしで勝利を得る、そんなもの夢物語以外の何者でもなかったのは嫌というほど思い知らされていた。多分、そうした事情は皆肌で感じとっていただろう。それでも――。

 

「……そうか、七人か」

 

 クラインはそれだけ口にすると、ぐいとトレードマークのバンダナをずり下ろすように目元を隠してしまった。奴のいる方向から鼻を啜る物悲しい音が聞こえてきたのは――きっと俺の空耳だろう。俺もそれ以上は何も言わず、力なく目を伏せた。

 暗鬱とした沈黙だけが残る。

 誰も口を開かず、誰も動かず、しばらくは無言の時だけが俺達の間に広がっていた。この場でただ一人余裕を残していた男が口を開いたのは、全員が死闘の残滓を噛み締めながらも、どうにか立ち上がる気力を取り戻した頃だ。

 

「確かに犠牲は少なくなかった。それでも我々はついに最難関と目された場所を越えたのだ。喪失の嘆きに俯くだけではなく、今はお互いの健闘を称えよう。――それでは頼めるかな?」

「はっ!」

 

 ヒースクリフの呼びかけに立ち上がったのはゴドフリーだった。疲労は色濃く、常の豪快さは鳴りを潜めていたものの、承諾の声はきっちりしたものだった。そのままぐるりと広間を一瞥し、最後に俺とアスナに目を向けた後、些かわざとらしく咳払いをした。

 

「75層クリアを祝し、簡素ではあるが諸君と杯を交わすことで節目としたい。異論ないようならば杯を配らせてもらいたいのだが、構わぬかな?」

 

 唐突な提案だった。皆がそれぞれ顔を見合わせ、判断に迷う仕草を見せている。しかし僅かのざわめきを経たものの、ゴドフリーの提案に明確な反対意見が出ることはなく、それぞれが遠慮がちに頷くことで承認の合図としたようだ。

 犠牲が出たとはいえ75層クリアの事実は快挙に違いない。祝いを挙げたいとの言葉に殊更反対する理由もないだけに、全員の心が消極的賛成に傾くのも至極当然のことだったのだろう。

 しかしほんといきなりだな、そう思って首をひねる俺である。どういうことだと彼らの同僚である血盟騎士団副団長様に顔を向けてみたのだが、アスナも聞かされていなかったのか、俺の疑問を込めた視線にも無言で首を横に振るだけだった。

 

 これはヒースクリフ達血盟騎士団のサプライズというやつだろうか? それにしても唐突感が否めないというか、今までこんな催しをしたことはなかったはずだが。何故今回に限ってこんなことをする気になったのかという疑問は消えない。

 フロアボス撃破を記念して祝いの席を用意するのは珍しいことじゃない、むしろ大抵のギルドやパーティーで行われていることだった。ただしそれは討伐隊全体で行うものではなく、あくまで討伐隊解散後、それぞれのギルドやパーティーに別れてから騒ぐ形のものだ。

 ゴドフリーの提案は一度杯を交わすだけであろうし、宴というほど華やかなものではないだろう。しかし簡易的なものとは言え、今回のようなことは異例の措置に違いなかった。ゴドフリーは一度俺達を見渡し、特に反対の声が挙がらなかったことで了承としたのか、満足そうに頷いて傍らに立つ男へと目を移す。

 

「問題はないようだな。クラディール、皆に杯を振舞え」

「仰せの通りに」

「うむ」

 

 ゴドフリーが命令口調でクラディールを促すと、クラディールは真面目な顔でメニュー画面を操作して杯をオブジェクト化させていく。緊張しているのか随分と固い表情を浮かべていたが、出現した杯をクラディールは「お疲れ様でした」と一人ひとりに頭を下げ、労いを告げながら手渡していった。

 ……ああ、そういうことか。ゴドフリーとクラディールのやりとり、そしてクラディールが一人で全ての準備を進める姿にようやく得心できた。これは血盟騎士団なりの誠意の見せ方であり、パフォーマンスだ。

 

 クラディールが俺に完全決着モードの決闘を仕掛けたことは攻略組の皆に知れ渡っている。アスナが与えた罰則と併せて表立った不満は上がっていないとはいえ、血盟騎士団、クラディール双方にとって面白いことではなかっただろう。

 だからこそ今回奴は恥を雪ぐ名目でこの決死隊に参加したらしいが、ここでダメ押しとしてクラディールに催しの準備を全て任せ、その反省した姿を見せることで罰則にしたわけか。ついでにこれで全て水に流せと俺に言ってるつもりなのかもしれない。まあそっちは所詮おまけだ。水に流せも何も、俺に被害らしい被害はなかったのだから気にもしていなかった。

 

 この細やかな気遣いの仕方はヒースクリフかな? ゴドフリーがこうした回りくどいやり方を得手としているとは思えないし、相談相手なりでヒースクリフが関わっているのだと思うけど。もしくは参謀職プレイヤーの誰かの可能性も十分あるか。何にせよ部下思いのことだった。

 このパフォーマンスは攻略組の最精鋭にその姿を見せることが重要だったのだろう。ここまで反省の姿勢を見せれば血盟騎士団に不審が向けられることはまずないだろうし、クラディールにだってこれ以上の非難は向かない。名誉回復にだってつながる、リカバリーとしては十分過ぎるだろう。

 ほっと安堵の息が漏れた。これでクラディールの禊も済むだろうし、改めて攻略組の団結も深まりそうだ。善き哉善き哉。

 

 こういった配慮の仕方は見習いたいものだと思う。俺はソロだから生かせる日がくるかはわからないけど、覚えておいて損はないだろう。

 そんな風に一人苦笑を浮かべていると、いよいよ杯が全員に行き渡ったようだった。ちなみにクラディールの様子だが、俺に杯を渡した時だけは徹底的に無表情を貫いていた。あれは多分罵声を浴びせたいのを必死に我慢してたんだろう。別にいいけどな、今更好かれるとも思ってないし。このまま突っかかってこなくなれば万々歳だった。

 

「ヒースクリフ団長、準備完了しました」

「ご苦労だった。それでは諸君、ラストクォーターポイント攻略の祝いと共に、この一杯を先に逝った戦友への手向けとしよう。皆、用意はいいかな? それでは――献杯」

 

 ヒースクリフがわずかに杯を持ち上げる。それに合わせて皆が献杯と答え、手にした杯を口に持っていった。俺とアスナも同様に杯を口に含む。

 芳醇な香りが鼻孔をくすぐり、次いで口内に広がるのはぶどうの甘みと酸味、多少の炭酸を加えた味と舌触りだった。これは果実酒か。いや、アインクラッドに酒精はないから分類上ジュースというべきか?

 杯の中身は御神酒ではなかったが、掛け声ばかりは日本式を優先したらしい。討伐隊の皆だって乾杯を告げる気分じゃないし、妥当だろうと思う。死闘の後だけに長時間の緊張によって喉がカラカラだったこともあって、喉を滑り落ちる液体は天上の甘露にすら思えたものだ。

 

 ――そして、この一杯が毒酒の貢物だと気づいたのは、麻痺にかけられて俺の身体の自由を全て奪われてからのことだった。

 

 何が起きた……!?

 あちこちで杯が黒曜石の床に衝突し、砕け散る音が響いた。杯から零れ出たそれはあたかも真っ赤な血のようで、どろりと地面を流れていく。崩れ落ちた身体には全く力が入らず、俺は愕然した面持ちのまま成すすべもなく身体を黒曜石の床へと投げ出す羽目になった。隣には俺と同じように驚愕に目を見開き、次いで苦悶の声を挙げることになったアスナがいる。視線を動かせばクラインやエギルも麻痺にやられて身を横たえていた。ディアベルも、シュミットも、ゴドフリーも、そしてその状態異常はヒースクリフすらも例外ではない。

 異常な光景だ。この場に集い、激戦を生き抜いた攻略組の最精鋭、その全てが五体を投げ出し、状態異常に喘いで倒れ伏していたのである。

 いや、全てじゃないか。俺達を襲った突然のアクシデントの中で平静を保ち、身体の自由を残している者がたった一人だけ存在する。……血盟騎士団所属団員、名をクラディール。

 暗く昏く、蛇のように執念深い怜悧な光を宿し、ぞっとするほど冷たい眼差しをした、動けない俺たちを舌なめずりしながら眺めやるただ一人の男だった。

 

「クハッ! ヒャッ! ケヒャヒャヒャヒャッ!」

 

 気味悪い、声。

 訂正しよう。クラディールは平静なんかじゃない、狂ったように甲高い笑いを響かせていやがった。それは同時に、自らがこの事態の犯人だと告げるに等しい振る舞いでもある。一体どういうことだ。こいつ、まさか乱心したか。

 嫌な予感が膨れ上がっていく。この状況、明らかに作為によるものだ。クラディールの思惑はわからなかったが、それが俺にとって吉兆のはずがない。クラディールに気づかれてくれるなよ、と俺の左手は自然と腰のポーチへと伸びていた。

 

 この部屋は結晶無効化空間だ、結晶による麻痺の即時回復はできない。ならばと麻痺状態でも唯一動かせる左手をポーチに突っ込み、解毒ポーションを取り出してどうにか口に含む。

 しかし結晶と違ってポーションは回復までにタイムラグがあるため、しばらくの間は床に這い蹲っているしかない。それに毒も外傷によって与えられたものではなく、経口摂取によって引き起こされたために、ポーションの効きそのものが非常に悪いのも頭の痛い話だった。回復には時間がかかる。

 

「ど、どういうことだ? この杯を用意したのはクラディール……。では、まさかお前が……?」

 

 倒れ伏したまま呆然とした声でつぶやくのはゴドフリーだった。狐に化かされたような顔、いや、悪夢に直面したような顔だろうか。目の前の現実を信じられない、認めることのできない表情をしていた。口元を戦慄かせ、大口を開けたまま固まっている。

 クラディールはそんなゴドフリーの問いにすぐには答えず、しばしの間正気を失ったように奇怪な笑い声をあげていたが、やがてぴたりと唐突に黙った。そして愉悦に満ちた表情で俺たちを見下ろした。

 ……嫌な目だ。あれは、弱者を甚振ることに楽しみを見出している瞳だった。俺が今まで目にしたことのある、人品卑しい犯罪者プレイヤーにままある特徴と酷似していた。

 

 そんな俺の侮蔑的な内心に気づくはずもなく、クラディールは喜悦に歪んだ表情でこつこつと靴音を響かせながら歩き出した。向かう先は――ヒースクリフか。数ある戦いの中、未だかつて膝をついたことなどなかった男も、今はその身を床に横たえている。《聖騎士》を窮地に追い込んだ初の出来事が、まさかプレイヤーの裏切り、それも奴の部下によるものとはなんたる皮肉か。

 顔を顰める攻略組の支柱を前にしてクラディールの足が止まった。

 

「気分が良い、この世界の実力者全員がこの俺に平伏してる光景は最ッ高に気分が良いぜ……! まして俺の足元に転がってるのはアインクラッド最強、《英雄》にして《伝説の男》だもんなあ!」

 

 クラディールは愉しくて仕方ないとばかりにくつくつと笑っていた。

 

「……よぉ、ヒースクリフさんよ。散々最強プレイヤーなんて持ち上げられたあんたも麻痺には勝てねえよなあ。どんな気分だ? なあ、格下プレイヤーに嵌められて無様に転がってんのはどんな気分だって聞いてんだよッ!」

「ぐっ……がっ……!」

 

 クラディールのせせら笑いが響くと同時にヒースクリフに捩じれた刃物が突き入れられる。それはクラディールの得手とする両手剣ではなかった。黒く輝く短槍(ショートスピア)。柄のほぼ全体を覆うような逆棘が特徴的な、禍々しい印象の武器だ。長さは一メートル半ほど、先端には十五センチほどの穂先があった。

 なぜ、わざわざクラディールが両手剣以外を用いたのかがわからなかった。しかしそんな俺の疑問をよそに、クラディールの握った短槍はうつぶせに倒れたヒースクリフを背から刺し貫き、不吉な赤のダメージエフェクトを撒き散らす。当然ヒースクリフのHPは削り取られていき、ちょっとやそっとでは崩れないヒースクリフの鉄面皮に皹が入った。苦悶の声をあげて不快感に耐えている様子だ。

 

「ヒャハハハ! あんたの苦しむ顔なんざ初めて見たぜ。こいつは《ギルティソーン》つってな、大したランクの武器じゃねえが、貫通継続特化の槍だ。麻痺にやられたあんたに抜くことは出来ねえだろ、このまま貫通継続ダメージに恐怖して死んでいきな」

 

 《ギルティソーン》――罪の茨。

 クラディールの口にした《貫通継続ダメージ》は貫通(ピアース)系の武器にだけ付与される特性だ。効果は名称そのまま、モンスターやプレイヤーの身体を貫通させると継続してダメージを発生させる効果を持つ。武器名称や形状を踏まえるに、あの槍はクラディールの言葉通り継続ダメージに特化した武器か。抜くためにはかなりの筋力数値を要求されることだろう。それでも常のヒースクリフならば無造作に引き抜ける程度のものでしかなかったはずだ。しかし――。

 ヒースクリフも何とか槍を抜こうとしているようだが、麻痺で身体の自由が効かない上に体勢も悪いためか成果は芳しくない。その様を見てまたクラディールが高笑いをあげた。

 

「くく、ここまでされても黙して語らずか。あんたらしいと言えばあんたらしいけどな。なんとか言ったらどうなんだ、ええ、ヒースクリフさんよ」

 

 クラディールはさらに両手剣を装備し直すと、「こいつで詰みだ」と笑いながらヒースクリフに攻撃を繰り返し、唯一動く左腕の手首から先を切り飛ばした。

 部位欠損……。偏執的なまでの念の入れようだ。

 確かにこれでヒースクリフに為す術はない。ギルティソーンが持ち主の装備スロットから離れたために放っておけば自然消滅するとは言っても、その間に削られる分のダメージをヒースクリフは止めることも回復させることも出来ないのだ。ギルティソーンの攻撃力によってはクラディールの言う通り、このままヒースクリフのライフが貫通継続ダメージによって削られきる可能性も否定できない。

 クラディールは自身のカーソルがオレンジに染まるのもおかまいなしだ。カーソルの色が犯罪者のものに変化しても気にしている様子は毛ほども感じられない。

 

「さあて、本命といこうか。この時を夢に見たぜぇ、黒の剣士よぉ……!」

 

 濁りを帯びたクラディールの目が俺へと向けられる。愉悦に歪んだ気味悪い顔を目にして吐き気を催しそうだ。

 クラディールがヒースクリフへの処置を終わらせ、次に定めた標的は俺だった。……奴との諍いを考えると予想できなかったわけじゃないが、さて、どうする? 麻痺にかかった俺じゃ手も足も出ずに嬲り殺されるのを待つだけだ。

 ここはフロアボス部屋である。救援はまずないし、結晶無効化空間も未だ健在だった。無効化の罠はもしかしたら誰かが次層を有効化(アクティベート)すれば消えるのかもしれない。しかし現状手動でアクティベートを達成できる見込みはなく、ボスが撃破されたことで自然にアクティベートされるのを待つとしても、それは三時間後の話だ。とても間に合わない。

 となれば解毒ポーションの効果が出るまでなんとか時間を稼ぐしかないんだが……きついな。だが、それでも何か手を探さなければならない。こんなところで死んでたまるか。

 

「……何故だ。何故こんなことをした、クラディール……!」

 

 恐怖の演出でもしているつもりなのか、殊更ゆっくりと俺へと近づくクラディールに、吠えるような詰問をぶつけたのはゴドフリーだった。俺との決闘騒ぎ以降、おそらくはクラディールのために最も骨を折った男は、沈痛に表情を歪めて声を震わせていた。

 ……止めろ、止めるんだゴドフリー。今のクラディールを刺激するんじゃない。クラディールの仕掛けた罠は結晶無効化空間でないと意味を成さないものだった。つまり、どういうつもりかは知らないがクラディールは正気を保ったまま、計画性を持ってこの場に立っているんだ。下手な刺激は命取りになるぞ……!

 

「うっせーなあ、脳味噌筋肉(ノーキン)の馬鹿が。そういやあ、あんたにも世話になったっけなあ、監督役だかなんだか知らねえが、随分偉そうにしてくれたじゃねえか」

「な……っ! 私はお前のためを思って……!」

「ああ、そうかいそうかい。そいつはご苦労様だったな」

 

 煩わしげにゴドフリーを一蹴するクラディールに、罰則を受けたのはお前の自業自得だと罵声を放ちたいのを堪え、左手を動かして密かにスローイング・ダガーを取り出す。今の俺に出来る唯一の攻撃手段だ。投擲武器ではどうあってもダメージは微々たるものしか与えられないが、それでも――。

 

「何故こんなことをしただあ? そんなもん決まってんだろ、いけ好かねえ《聖騎士》と、なにより《黒の剣士》をこの手で殺してやるためさ。ひひ、この日をどれだけ待ったことか。ようやく、ようやくこの時が来たぜ。長かったなあ、ああ、長かった……」

「団長を殺す、だとッ! 馬鹿な、そんなこと許されるはずが――ガァッ!」

「もう黙ってろよゴドフリーさんよお。そんなに死にたきゃ先に殺してやるから感謝しな。ひひ、ひひひひひ」

 

 気味悪い奇声を上げ、クラディールは身体を大きく反らしながら剣を振り上げ、逆手に握った刃を勢い良くゴドフリーに振り下ろす。ゴドフリーの絶叫と共に彼のHPがグンと減った。

 まずい、クラディールには躊躇いがない!

 愉悦に歪んだ顔で幾度も両手剣を振り下ろすその仕草からは、人を傷つける恐れや罪悪感を欠片も感じ取ることは出来なかった。オレンジ化を避けてプレイヤーを殺す手段を追及した犯罪者連中のように、グリーンカーソルを維持したまま犯罪に走ることだって出来る。あれは人を殺した前科があるか、もしくは初めから人を傷つけることに痛痒(つうよう)を抱かない種類の人間だ。殺人者(レッド)予備軍か、PK経験者そのもの。よくも今までその本性を隠し通してこれたものだ。

 そして、これ以上俺が沈黙を通す事もできなかった。このままじゃゴドフリーのHPが持たない。

 クラディール、俺の目の前でそう簡単に仲間を殺せると思うな。俺が生きている限り、貴様が如き下郎に奪わせて良い命はこの場には一つもないんだよ……!

 

「やめ、やめて……それ以上は……このままじゃゴドフリーが――」

「クラディールッ!」

 

 俺の隣で青褪め、震える少女が慟哭の悲鳴をあげる――その寸前、俺はアスナの言葉尻に被せるように鋭い呼びかけを行った。アスナの悲鳴よりも俺の声の方がクラディールにはずっと有効だろう。この盛大な裏切りの目的は俺の命なのだと、図らずも奴自身が口にしていたのだから。

 それに奴が以前アスナに向けていた執着が脳裏を過ぎってもいた。出来ればこの場でアスナを目立たせなくない。

 

「あん? テメエはメインディッシュなんだ、大人しくそこで震えて――」

 

 クラディールはゴドフリーへの攻撃を一旦中止し、口元をだらしなく緩めながら振り向いた。思い通りの展開に逸っているのか、警戒した素振りも見せない。……学習しない男だな、その油断が原因で俺に剣を叩き折られたのをもう忘れたのか。

 準備は出来ている。クラディールが俺に顔を向けた瞬間、即座に俺の左手は閃き、手首の先だけで投擲したダガーが勢い良く飛び出した。――狙いは奴の眼球。

 投擲武器で与えられるダメージなんて雀の涙でしかない、だからこそ優先するのはダメージよりもクラディールへの揺さ振りだ。そして俺の投じた投擲用短剣は寸分違わず奴の目を撃ち抜いた。ダメージを負った左目を抑えてクラディールがくぐもった呻きをあげる。

 

 本来麻痺状態では命中率が低下し、正確な狙いなんてつけられるものではないが、そこは俺の持つスキル補正が活きてくる。《射撃》スキルは投擲武器の命中率に高い補正をかけてくれるのだ、麻痺で低下する分を補って余りある効果だった。加えて、この大事な場面でクラディールの視界を奪う部位欠損効果までおまけで付けてくれたのだから、俺のリアルラックだって捨てたもんじゃない。

 これでクラディールの視界はしばらく不自由になるだろう。嬉しい誤算だ、後は奴の物理的な視界の狭まりを精神的なそれにまで拡げてやる。

 

「薄汚い犯罪者(オレンジ)風情が粋がってんじゃねえよ。自分から犯罪者に成り下がるような、見下げ果てた馬鹿が何を偉そうにしてやがんだ。負け犬は負け犬らしく隅で大人しくしていればいいものを」

「なんだとぉ……」

「負け犬だろう? まさか先の決闘であれだけの無様を晒しておいて、勝ちを主張するような厚顔無恥でもあるまいに。……ああ、いや、悪かった。思い起こせば恥知らず極まりない男が一人いたな。身の程も悟れない、汚物にも似た畜生を負け犬扱いするのも犬に失礼か。訂正させてくれ――屑野郎」

 

 侮蔑に満ちた台詞を吐き捨てるたび、クラディールの眼窩に暗く澱んだ光が宿り、その色を濃くしていく。

 そうだ、怒れ。お前は俺のことが嫌いなんだろう? 殺したいんだろう? だったらもっともっと俺に憎悪を募らせろ。俺への恨み節を垂れ流せ。ゴドフリーへの殺意を忘れるくらいな。

 

「キィエエエッ!」

 

 返答は奇怪な、意味を持たない怪鳥のような叫びだった。

 クラディールが突進するような勢いで駆け寄り、血走った目を向けながら俺の顎を掬い上げるように豪快に蹴り上げる。アスナの叫びを耳にしながら、俺は成す術なくうつ伏せから仰向けにひっくり返され、すぐさまブーツで腹を踏みにじられた。たまらずうめき声が漏れる。ダメージは大きくないが不快感がひどい。麻痺だから仕方ないにしても、無抵抗に嬲られるのは心底ストレスがたまるのだと改めて実感する。

 そしてさらに追撃。逆手に握られたクラディールの剣が俺の腹を貫き、地面と激突する硬質な音が響いた。先刻のブーツの一撃とは比較にならない不快な痺れが神経を刺激し、短く呼気が吐き出される。

 

「ぐぁっ……」

 

 くそっ、何度くらっても慣れるものじゃないな、これは。

 だがまあ、相変わらずの沸点の低さに安心したよクラディール。そこだけは感謝しておいてやる。

 

「碌に動けねえ分際ででかい口を叩くじゃねえか。ええ、おい、黒の剣士様よぉ」

「……あんたの犯罪者(オレンジ)ギルド顔負けの下劣な遣り口には負けるよ。ふん、今日は随分と格好良いじゃないか、クラディール」

 

 俺に一撃を加えたことで余裕が戻ったのか、クラディールは再び嗜虐的な色を見せ始めていた。弱者、獲物を甚振る酷薄な目だ。殺人を快楽とする人間にままある反応でもある、胸糞悪い。

 沸々と湧き上がる怒りを押し殺し、目には蔑みを、口元は皮肉に歪めて会話をつなげる。

 

「お前一人でこんな大それた計画をしたってんならもう少し評価してやってもいいんだがな。言えよ、どこの犯罪者ギルドの差し金だ。この場の全員に毒入りの杯を用意するなんざお前個人じゃ不可能だろう。――誰に(そそのか)された?」

 

 クラディールは両手剣使いの凄腕プレイヤーだ、毒を仕込むことが出来るまで職人クラスのスキルを取った上で実用レベルまで鍛え上げているとは思えない。前衛戦士職のクラディールに、自身で今回の飲み物全てに毒を混入できるだけのスキルも時間もなかったはずだ。

 だとしたら必ず協力者がいる。真っ当な職人プレイヤーに毒入りの杯を作らせることは不可能なため、必然、クラディールの背後にいるのは後ろ暗い活動を好む犯罪者のはずだ。計画の規模からして、おそらくはどこかのオレンジギルドが関わっている可能性が高い。

 ラフコフ壊滅以降大半のオレンジギルドは活動を縮小して大人しくしていたというのに、ここにきて奴等が再び動きを活発化させ始めたのか? 厄介な……。

 

「良い読みしてるじゃねえか。くく、褒めてやるぜ。察しの通り、俺はある人の密命を受けてここにいる」

「密命だと? お前の意思じゃないのか?」

 

 口が軽くなってるのは勝利者の余裕か? 奴が優位を確信しているのは間違いないだろうけど……それとも単純に箍が外れてるせいなのかもしれない。どうもこいつ躁の気があるしな。

 まあいいさ、今は精々気分良く喋ってろ。だがな、冥土の土産のつもりなのか知らないが、お前の調子よく喋るその口、愉悦に染まったそのだらしない顔、いつまでも続けていられると思うな。このまま簡単に死んでやるつもりはないし、俺の命はお前にくれてやるほど安くもない。あとは時間だ。時間さえ稼げれば何とかなる。

 

 この場にいるのは俺だけじゃない。クラディールを除いて三十名ものプレイヤーがいるのだから、麻痺さえ切れてしまえばクラディールに為すすべはない。恐らくは適当なところで切り上げて逃げる算段をしているはずだ。

 そして俺をメインディッシュと口にした以上、奴が執着している第一目標は俺だろう。だったら叶う限り時間を稼ぐべきだし、タイムリミットまでどうにか俺自身の命もつないでやる。

 

「いいや、俺の意思だぜ。テメエをぶっ殺してやりたい俺の意思だ。ヒースクリフの命なんざついでよ」

「……へぇ、そいつはまた俺の首に驚くほど高い価値をつけてくれたもんだ。だったらヒースクリフを狙うのがあんたの上司の意向か?」

「いーやいや、光栄に思えよ、あの方の抹殺対象もテメエだとよ。はん、どっちみちヒースクリフはついでだ。人気者はつらいな、え?」

 

 どういうことだ? 《聖騎士》よりも優先して俺の命を狙う? ここまで邪魔者扱いされてるとなると、私怨の類かもしれない。オレンジ連中に恨みを買ってる自覚はあるが、さて? 心当たりがありすぎて、こいつの上司とやらにとんと見当がつかないな。

 そんな俺の内心を斟酌するはずもなく、クラディールは何を思ったのか左腕に装備した篭手(ガントレット)を外していく。インナーの袖をめくり、奴の前腕の内側に現れたのはタトゥーだった。

 

「ラフコフ……!」

 

 自然、戦慄きが喉から漏れる。

 漆黒の棺桶、わずかに開かれた蓋にはにやつく両眼と口が描かれ、棺桶の中から白骨の腕が飛び出している。

 それは紋章(エンブレム)だった。あるいは血盟騎士団に匹敵する知名度すら誇った中規模ギルド。俺が壊滅させたはずのギルドを示すもの。最悪の殺人集団を意味するそれは、ギルド《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》。

 その紋様が目に飛び込んできた瞬間、確かに俺の中で戦慄が走った。同時に奇妙な納得も抱く。確かに俺を狙う理由としちゃ十分だ、ラフコフ――PoHが糸を引いていたのだとすれば。

 クラディールは誇らしげな笑みを浮かべてタトゥーを俺に見せ付けていた。顔を強張らせた俺の反応を満足げに眺めやっている。……殺人集団の一員であることを嬉しそうに明かす辺り、本格的にイカレちまってんだな、お前。

 

「ようやくこいつを見せ付けられると思うと嬉しくてたまらねえ。あとは貴様さえ殺しちまえば、晴れて俺は新生《ラフィン・コフィン》の幹部に迎え入れられるって寸法だ。ここまで長かったぜ」

「……そうか、そういうからくりか。お前はラフコフの生き残りじゃなく、PoHが攻略組に仕掛けた毒そのものってわけだ。あの男、相変わらず陰湿な手を使う」

「理解が早えじゃねえか。褒めてやるぜぇ」

 

 あんたに褒められてもこれっぽっちも嬉しかねえよ。

 それにしてもPoHの奴、攻略組のアキレス腱を的確に突いてきたか。血盟騎士団は攻略組どころか全プレイヤーの期待が集まるギルドだ、ゲームクリアを望まないPoHにしてみればうってつけの獲物だろう。

 ただし真正面から血盟騎士団とぶつかれば、たとえラフコフが健在だった当時であろうと敗北は目に見えていた。だからこそ、こうして内側から崩そうとしていたわけか。

 血盟騎士団をラフコフ討伐隊から外したのは結果的には正解だったな。クラディール――PoHの草が紛れてたんじゃ作戦の成功も覚束なかっただろう。

 

 クラディールはPoHの信望者であり、PoHが攻略組に仕込んだ間諜でもあった。

 そう考えれば今回のことも腑に落ちる。そもそもクラディールとの決闘騒ぎの時点、いや、もっと前からこの男はPoHの手足となって動いていたってわけか。俺と血盟騎士団の不仲を煽ってきたのも、攻略を容易に進ませない意図があったと考えるのが自然だろう。攻略組の弱体化、そして俺をソロとして孤立させ続けることで、どこかでのたれ死ぬことまで期待したのかも。

 

 決闘の終わりに見せたクラディールの顔が脳裏を過ぎる。あの時の不可解な決闘はこじつけに思えるイチャモンから始まったわけだが、その実、事故に見せかけて本気で俺を殺しにかかっていたのか……。

 通りで露ほどの躊躇もなかったはずだ。初めから血盟騎士団団員の立場を捨てるつもりだったなら、形振り構わず俺を抹殺に動けもしただろうし、周囲の目を気にする必要もない。

 

 今回の暴挙がPoHの差し金だとすると、ヒースクリフよりも優先して俺を殺せと言うのもわからないではなかった。

 ヒースクリフは基本的に攻略とフロアボス戦にしか目を向けておらず、ラフコフや犯罪者対策のような人同士の争いには消極的な男だ。PoHにしてみれば実害はないのだから、真剣に命を狙う意味は薄い。翻って俺はといえば、PoHにとって目の上のたんこぶだったろうし、露骨な敵対者でもあった。幾度も対峙しただけでなく、PoHを殺すつもりで剣を向けたことすらあるのだ。例え恨みつらみだけで俺を殺そうとしたって何の不思議もなかった。

 

「どこまでがあの男――PoHの狙いだ? 攻略組の壊滅が奴のシナリオなのか?」

「さてな。あの方がお考えになることなんざ知らねえよ。俺は俺で好き勝手するだけだ」

「なるほど。で、あんたは俺とヒースクリフを殺せって命令に嬉々として頷いたわけだ。……疑問は持たなかったのかよ? 毒の仕込みにはフロアボス戦に参加する必要があったんだ、一つ間違えばあんたは毒を盛る前に死んでたんだぞ」

「言ったはずだぜ、俺はあの方と一緒に好き勝手生きるんだよ。はん、なーにが攻略組だ。碌な楽しみもなくこんなボランティアをやる奴の気が知れねえな。ストレス発散先を見つけるのも一苦労だ、テメエのせいで副団長様には逃げられるしよぉ」

 

 ……頭おかしいんじゃねえの、お前?

 どの程度本気でほざいてるんだか知らないが、俺がいなくてもアスナがお前に惚れることだけはなかっただろうよ。まさかストーカー行動までPoHの指示とも思えないし、あれはこいつの素だろう。マジで紳士の心得を学んで出直してこい阿呆。

 しかしストレス発散か。まさかとは思うが、いや、この場合はやはりというべきか。

 

「あんた、やっぱりPKの前科持ちか」

「オレンジ化を避けて人を殺すのは、最高に楽しいゲームだったぜ」

 

 その台詞を誇らしげに言えるあんたは立派な外道だよ。

 

「一つ聞くが、PoHがここに来ないのは何故だ? まさかあんたを信頼して高みの見物を決め込んでる、なんて言わないよな?」

「そのまさかよ。あの方は俺に全て任せる、思うようにやれとだけ言われた。全幅の信頼ってやつだな。――あとはテメエさえ殺せば全てが始まるんだ」

「く、くく……」

 

 得意そうに告げるクラディールに我慢の限界だとばかりに低い笑いを零す。口元は嘲笑に歪み、目には一層の蔑みの光が宿った。そうして俺の低くぐもった笑いは、やがて大きな哄笑に変わっていく。それは半ば意図して口に乗せた笑いだったが、俺は腹を抱えて笑ってもいいんじゃないかとすら思っていた。――クラディールが、あまりに滑稽に思えて。

 余裕たっぷりに、憎たらしく、路傍の石ころに向けるような、それこそ人を人とも思わぬ蔑んだ目を向けて哄笑を響かせてやればいい。こいつは弱者を甚振る事に愉悦を覚える男だ、望むこともまた下種の囀りだろう。だったらとことん思惑を外してやる。お前など怖くも何ともない、何程のものだ、と嘲り笑う。笑い続ける。

 

「なんだ? 恐怖でおかしくなったか?」

 

 そんなわけあるか。俺は正気だよ、この上なくな。

 

「お前が可笑しいんだよクラディール。あまり笑わせてくれるなよ。PoHの甘言に乗ってこんな大それたことを仕出かそうなんざ、怒りを通り越して哀れに思えてくるぜ」

「なにぃ」

 

 本当に笑わせる。俺がお前に恐怖を覚える理由が何処にあるってんだ。俺はもうPoHに怯えない、あの男を過大に見たりしない。だからこそ告げる。クラディールと、こいつの影でほくそ笑んでいるであろうPoHに、俺なりに特大の嘲りをくれてやるつもりで。

 

「PoHは首謀者として自分の名を出せとお前に命令したか? ラフコフの再結成を企ててるなんて情報を俺達に流せと口走ったのか? いいや、そんな命令は出していないはずだ。あの男がそこまで浅慮な真似をするはずがない」

「……どういうことだ、何を言ってやがる?」

「碌に部下のいない今のPoHが、わざわざ陰謀を明らかにして攻略組の怒りを買おうとするはずがないって言ってんだよ。お前もあの男の部下だってんなら、そのくらい汲み取ってやったらどうだ?」

 

 この様じゃ悪党に向いているとも思えないぜクラディール。圧倒的優位を築いた油断か、それとも積もり積もった鬱憤が爆発でもしたのか知らないが、ここまでぺらぺらと情報を垂れ流すようでは到底犯罪組織の幹部を務められるとは思えなかった。なによりこいつはPoHに良いように踊らされているだけだ。

 

「良い機会だから教えておいてやる。三ヶ月前のラフコフ討伐戦で、PoHは俺との戦いもそこそこに仲間を見捨てて一人逃げ出した。それはもう見事な逃げっぷりだったな。PoHにしてみれば仲間とすら思ってなかったのだろうさ。去り際の奴の捨て台詞は傑作だったぜ? 『東洋人(イエローモンキー)同士好きなだけ殺し合え、腐れ日本人(ジャップ)小僧(ガキ)』だ」

 

 一拍置いて続ける。

 

「わかるか? あの男は典型的な差別主義者だ。ソードアート・オンラインにログインしたほぼ全てのプレイヤー、つまり俺達日本人を下等な猿として見下してるんだよ。お前はそんな男の何を信じる、信じ続けられる? 都合が悪くなれば簡単に切り捨てられると知って、それでもお前はPoHに全幅の信頼を寄せられるのか? だとしたら、俺には及びもつかないお目出度い頭をしてるとしかいえないな」

 

 声に一切の疑問を乗せず、心の底からそれが真実なのだと断じる勢いで。

 

「滑稽だよクラディール。今のお前は自分自身で使い捨ての操り人形だと告白してるんだから。いいか、俺がお前を馬鹿にしてるんじゃない、お前がお前自身を嘲笑ってるんだよ。――この間抜け」

 

 未だ麻痺の解けない俺が自由に出来るのは小賢しく回る口と左手だけだが、PoHの傀儡に過ぎないクラディールを恐れる必要なんて爪の先ほども感じなかった。臆することはない、ただただ気迫で相手を呑み込めと自身に言い聞かせる。

 同時に、クラディールを哀れだと本心から思う。

 クラディールはPoHを信じた。そして信じたが故に、その梯子を外されれば破滅を避けられない。

 

 ここまで攻略組と明確な対決姿勢を作り出してしまった以上、クラディールの生きる道は犯罪者としての世界にしか用意されていなかった。そしてPoHには仲間意識も共犯意識もないのだ。利がなければクラディールを助けになんざこないだろうさ。PoHはどこまでも駒の操り人――本来の意味での《プレイヤー》だと自認している男なのだから。

 最初、クラディールは何を言われているのかわからない様子だった。やがて俺の言葉に理解が追いついたのか、表情を激怒の赤に染めて俺を睨みつける。剣を握る腕がぶるぶると震えていた。

 

「小細工を弄すんじゃねえ! そんな口から出任せで俺を惑わそうなんざ甘えんだよ……!」

 

 その割には動揺してるみたいじゃないか。口では否定して見せても、心の何処かでまさかと思ったんだろう? 泡を吹くように喚く様は沈着とは無縁のものだった。俺の言葉を否定しきれず、疑心を捨てきれていないのがまるわかりだ。

 ラフィン・コフィンはPoHのカリスマの下、殺人集団(レッドギルド)の旗を掲げていた。しかし肝心要のPoHは俺に――俺達に敗北した。

 そう、ラフコフは壊滅したのだ。

 内実はどうあれそれが客観的な事実である。そしてラフコフ壊滅というこれ以上ないほどの敗北の履歴がPoHに刻まれた以上、PoHのカリスマにだって翳りが生じるのは不可避のことだった。

 その空隙を突く。PoHを巨悪の怪物からどこにでもいる人間に引き摺り下ろすことで、人の心を引き付けて止まない悪の威光をかき消してやる。

 

「出任せなもんか。PoHが心からお前に信を寄せていたなら、そして本気で新たにギルドを立ち上げようとしているのなら、どうして今ここに姿を現さない? 攻略組を潰す、邪魔者の俺を消す、それが奴の目的だってんなら、こんな千載一遇のチャンスは二度と巡ってこないぜ? お前を信頼して幹部に迎え入れ、共にギルドを盛り上げる気概があったのならこの好機を利用しないはずがないだろう」

 

 フロアボスは撃破されているのだから扉の開閉も出来るはずだ。PoHに乱入する気さえあったなら、そしてそのつもりで待機していたならこの場に居合わせない理由がない。そしてクラディールを決死隊に送り込んだことすら、PoHの差し金の可能性を否定できない。あの男にしてみれば、クラディールの命なんて斟酌するほどの価値もないのだろう。

 今回の謀略も成功しようがしまいがどうでもいいのだろうさ。自身の安全さえ確保できていれば、誰がどこで死のうが、どれだけ部下が犠牲になろうが、一向に構わないのがあの男だ。

 

「……PoHは殺しを躊躇わない狂人を装ってカリスマを演出しながら、その実、自身の楽しみを決して己が命に優先しない計算高さを持ち合わせている。あの男ほど狡猾で機に聡く、保身に長けた男はいないだろうな」

 

 往々にして才覚と人格は釣り合わない。PoHはその良い例だ、忌々しいことにな。

 

「PoHに自身を危険に晒してまで攻略組と事を構える度胸はない。まだわからないのか、あんたは捨て駒にされたんだよ。これを間抜けと言わずして何て言えってんだ」

「黙れ……黙れ……」

 

 クラディールの表情にもはや余裕はなかった。疑心が焦燥につながり、暗い影を落としている。元々固い信頼で結ばれた関係ではなかったのだろう、クラディールの狼狽する様子にもう一度哀れだと思った。

 これまで通りクラディールが攻略組の仲間だったなら、俺だって気遣いの一つも見せてやった。だがな、お前は俺の敵を選んだんだろう? 俺と敵対し、攻略組を敵に回し、ゲームクリアを願うプレイヤー全員を裏切った。ここに集った大勢の討伐隊の命すら脅かした。そんな奴に何だって俺が遠慮してやらなきゃならない?

 

「はっ、お笑い草だ。殺人集団を率いちゃいたが、あの男自身は常に死線を避けていたんだからな。奴がしたかったのは人殺しなんかじゃない、趣味の悪い高みの見物でしかなかった。命を懸けてまで貫こうとするポリシーなんざ欠片も持たない男、醜悪な差別主義者にして己以外誰も信じない詐欺師。それがお前の信じるPoHの正体だ!」

「黙れっつってんだよクソガキッ!」

 

 クラディールが俺に突き刺した両手剣を引き抜こうと全身に力を込める――が、甘い。引き抜こうとする剣を俺は左手で握り締めたまま固定していた。こうしてしまえば俺のHPはほとんど削られることはない。

 俺は自身の保有する全てのスキルを公表しているわけじゃなかった。そして秘匿し続けているスキルがお前の誤算となるんだ。追い詰められた時の俺の能力数値はお前の想像する遥か上をいくぞ。たとえ片手しか動かなくとも、能力値ブーストまでかかってる俺の筋力値にクラディールは対抗できない。

 シーソーゲームは拮抗どころか完全に俺に分があった。俺の身体を貫いた時点でお前は失策を犯していたってことだ。

 

「ぐ、このっ、抜けねえ……! 離せ、離しやがれ!」

 

 そう言われて素直に離す馬鹿が何処にいる。

 焦燥を浮かべて悪態を吐く男を指差して笑ってやりたいところだったが、生憎俺にも大した余裕があるわけじゃなかった。両手剣に貫通継続ダメージはないため、剣を固定している限り俺のHPは減少しない。錯乱したようにクラディールがブーツで俺を踏みつけてくるが、その程度は本当に微々たるダメージだった。問題にはならない。

 とはいえ、この不快感は別だ。腹に剣を生やしたまま暢気に会話に応じてはいたものの、その間ずっと不快な感覚が俺の神経を走り続けていたのだ。正直限界だった。こんな拷問二度と御免だ。

 

「くそがッ。だったらこうだ!」

 

 力づくでどうにか出来るものではないと悟ったクラディールは柄から両手を離すと焦ったように右手を振り下ろし、メニューを操作した。俺の腹を貫いていた剣が程なく消える。強制的にアイテムストレージへと収納されたらしい。それからわずかの時を経て、再びクラディールの手に出現した両手剣が上段に振り上げられる。

 俺の揺さ振りが思いの外効いていたのか、奴の表情に余裕はない。混乱する内心を無理やり押さえつけようと決着に急いている。そんな印象だ。しかし腐っても攻略組か、動揺の中でもソードスキルをきっちり発動させていた。

 死ね、と突き出された剣が俺に迫る。だがな、クラディール、残念ながら時間切れだ。俺の麻痺は切れたぞ。

 

 鞘から剣を抜いている暇はない。防御は間に合わない。俺のHPに余裕もない。

 だったら、と刹那の判断を下す。技の出が早い右の体術技で一撃を加え、どうにかスキルキャンセルまで持っていく。そこまでが無理でも、先に攻撃を当てることさえできれば幾らかの威力は削げるはずだ。後は距離を離した上で仕切り直せばいい。

 一瞬でそこまで組み立て、素早く正確に動けと己が身体へと命令を下し、狙い通りにクラディールの剣よりもわずかに早く俺の手刀が奴を捉え、どうにか致命を避けることに成功し――俺の狙い通りに展開したのはそこまでだった。

 クラディールが俺の想像以上の動きをしたわけじゃない、そして、俺も奴の攻撃を捌くことに失敗したわけじゃない。俺のHPはしっかり残っていた。俺の予想を超えて訪れた事態は、俺でもクラディールに由来するものでもなく、第三者の介入によるものだ。

 

 ――クラディールの胸から、白銀の刃が生えている。

 

 俺の手刀――カウンター技として用意していた体術技《エンブレイサー》がクラディールの右胸を貫き、同時にクラディールの背後から一本の剣が伸びて奴の左胸、心臓を貫いていたのだった。見開いた目で確認した長剣の持ち主は、真紅の風と化した銀髪の偉丈夫、《聖騎士》ヒースクリフ。それが俺の救援にかけつけ、クラディールを背後から一刺しにしたプレイヤーの名だった。

 ヒースクリフが浮かべるぞっとするほどの無表情を目にしてぶるりと身体に震えが走る。奴の叡智を宿した瞳の光に翳りはなく、クラディールを貫く剣先には必殺の意思が込められ、欠片のブレも見せなかった。

 

 クラディールのHPバーを完全に吹き飛ばしたのは、はたして俺とヒースクリフのどちらだったのか。

 クラディールは己の心臓を貫いた手刀と剣の刃を驚愕の瞳で眺め、恐らくは背後の下手人が誰かもわからぬままに死んでいったのだろう。しかし、ただただ呆然とした表情を浮かべていながら、それでも奴は最後に嗤ってみせた。俺に向かって搾り出すように言葉を紡いだ後、身体を四散させて帰らぬ人となったのである。

 

 ――この、人殺し野郎。

 

 それが、クラディールの残した最期の言葉だった。

 ……重い。

 奴の真意を考えるのは億劫だ、どうせ碌な理由じゃない。少なくともクラディールの目が最後まで俺を捉え睥睨していたことだけは間違いなかった。

 重かったのは、多分、奴の恨み節なんかじゃない。

 俺の手で、俺の向けた暴力によって、またしても人の生を終わらせた。その実感がずしりと胸奥に響く圧迫感と化して身体を縛る。それはただただ苦しく、心を苛む毒だった。過去三度犯した罪の記憶がフラッシュバックとなって脳裏を過ぎり、喉に詰め物でもされてしまったかのように俺の呼吸は乱れに乱れて――。

 

 繰り返すな……! そう、強く自分に言い聞かせた。

 

 弱くとも、情けなくとも、俺は今日まで背負ってきたものに相応しい男でありたい。だったら俯くな。顔をあげて前を見るんだ。こんなところで無様を晒すんじゃない。

 ゆっくりだ。もっとゆっくりと息を吐け。お前が何者であるかを思い出せ。

 込み上げる吐き気を堪え。

 恐怖か悔恨か、小刻みに震える右手を力いっぱい握り締め。

 崩れ落ちそうな体躯に活を入れて。

 萎えそうになる脆弱な心を奮い立たせて。

 嘘でもいい、フリでもいい、お前はそこで勇ましく立っていろ……!

 

「どうやら助けはいらなかったようだな。キリト君に断りなく手を出したこと、許してくれたまえ」

「いや、救援感謝する。文句も……ない」

 

 一度きつく目を閉じ、濁流と化した様々な感情に蓋をして、どうにかこうにか俺が口にした返答は存外落ち着いた声をしていたんじゃないかと思う。少なくとも震えてはいなかったし、最低限の平静は装えていたはずだ。

 ヒースクリフを責める気にはなれなかった。俺の手刀だけではおそらくクラディールのHPを削りきれなかっただろうし、それを見越して放った技には違いなかったものの、だからと言ってその後にクラディールをどうするかというビジョンがあったわけでもない。クラディールが大人しく投降するとも思えず、まして準備も何もなかったのだから、犠牲なしで奴を監獄へと送り込めたかは定かではない。

 

 俺とヒースクリフを除けば皆はまだ麻痺状態にある。クラディールが自棄になって手当たり次第暴れようものなら、それこそ目も当てられない事態になっていた。そして、奴を取り逃がすことが危険であることに異論を挟むつもりもない。ヒースクリフがクラディールを粛清した判断も、妥当と言えば妥当なのかもしれない――が、それでも。

 内心で大きく溜息を吐く。こんなことを後どれだけ続けていかなきゃならないんだか。本当、気が滅入ってくる。《人の敵は人》って言葉は全く以って至言だよ、嫌になる。

 

「構わんよ。部下の不始末だ、君には私を罵る権利がある」

「だったら貸し一つってことにしといてくれ。そんな何の役にも立たない権利をもらっても扱いに困るだけだ」

「ではそうさせてもらおう」

 

 この期に及んでヒースクリフは冷静そのもののだった。自分の部下の死を目の当たりにして、ましてその手で誅しておいて尚、ヒースクリフの声に動揺はなく、その顔も鉄面皮のままだ。ここまでくればいっそ天晴れである、見事としか言いようのない感情制御だ。……無論、皮肉だが。

 それ以上言葉を交わすでもなく無言で佇みただただ時間が過ぎさっていく内に、この場に残る二十八名全ての麻痺が抜けたらしかった。思い思いの表情で立ち上がり、皆が気まずげな表情で顔を見合わせている。

 

 まあそうなるよな。俺だってこの感情をどう処理して良いのかわからない。75層フロアボス撃破、最難関のクォーターポイント攻略。その祝いをあげようとした矢先の惨劇だ、皆が戸惑うのも無理はなかった。

 ふっと胸に溜まった鬱屈を吐き出す。黙りこみ、落ち込んでいても仕方ないと言い聞かせ、心配げに俺を見つめるアスナの肩を一度叩いてからゆっくり歩き出した。途中、クライン達にも軽く手をあげて心配するなと伝えておく。

 

「ゴドフリー。さっきの飲み物、まだ残ってるか?」

「あ、ああ。幾つか予備はあるが……」

「なら、それを俺にくれ。この際だ、戦死者に手向けくらいはしてやるさ」

 

 それはPoHに対するあてつけ――幼稚な対抗心もあったのかもしれない。それに死ねば仏とも言うし、わざわざ死人に鞭打つこともないだろう。

 戸惑うゴドフリーから一杯の杯を受け取り、毒酒を捨ててからサチ謹製のポーションを杯に注ぐ。あ、これは毒酒じゃなかったかもと遅ればせながら思い当たったが、まあいいかと小さな疑問を捨て置き、杯をクラディールが散っていった地面へと丁寧に置いた。

 杯もポーションも本来の使い方じゃないからすぐに耐久値限界がきて消滅するだろうけど、その程度は勘弁しろよ。ついでに酒じゃないこともな。注いだ液体は俺がこの世界で最も信頼し、命を預けているアイテムの一つだ、お前への手向けとしちゃ最大級の敬意を払ったつもりだぜ。

 

 しばし合掌することで冥福を祈る。

 フロアボス戦での犠牲者に比べて多少おざなりな祈りだったことは、俺なりの意趣返しってことで納得しておけ。足蹴にされるよりはマシだろ、多分。死人に口なし、蛇蝎のごとく嫌い抜いた俺にどれだけ哀れまれようが、もうお前は俺に何の文句も言えないものな。

 今回のPoHのやり口に改めて怒りが湧き上がる。

 本当にあの男は攻略の邪魔しかしないと頭が痛くなった。性質が悪いのはあの男は常に闇に潜んでこちらに影をつかませないことだ。あの男自身で事を成してくれるのならば対処も容易なのだが、そうもいかない。今に始まったことではないが、PoHは他者の扇動を繰り返すことで混乱を大きくする、いわばアインクラッドに生きるプレイヤーの心を悪へと誘い蝕む病原菌であり、その感染源だった。碌でもない……!

 

 クラディールは重度のPoH信望者だったのだろう。倫理を無視し、好き勝手を繰り返す悪の化身であるPoHに魅せられた、数ある悪党の一人。それが血盟騎士団を仮住まいとした両手剣使い、クラディールという男だった。

 ……馬鹿が。それほどお前にとってPoHの存在はでかかったのかよ。あいつの口車に乗って、こんな捨て駒のような役割を負わされて、裏切り者と蔑まれながら死んでいく。そんな最期で満足できる奴なんていないだろう。75層を生き残れる強さまで獲得していながら、どうしてこんなことを……。

 

「キリト……」

 

 手を合わせて黙祷を捧げる俺に遠慮がちに声をかけてきたのはクラインだった。俺を気遣ってくれているのがその声だけでもわかってこそばゆい。そして、ありがたいと思う。

 胸にたまったもやもやを振り払うように、一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。常よりわずかばかり抑揚の欠いた声音で言葉を紡ぐ。

 

「俺さ、今までクラディールに嫌われてるんだなって考えてただけで、それ以上の思い入れがなかったんだよ。今になってすまなかったって思うのも、あいつにとっては笑止でしかないんだろうな。……ま、祟られるのも嫌だから、これくらいはさせてもらうさ」

 

 決闘以前も決闘以後も、俺はクラディールをまともに相手にしてはこなかった。攻略の邪魔にさえならなければそれでいいとしか考えていなかったからだ。クラディールが俺を敵視していたことに気づいてはいても、別段危険視はせず放置し、無視してきた。

 クラディールがPoHの命令とは別に俺を嫌い抜いていたのも、もしかしたらそういった俺の態度が原因だったのかもしれない。今更反省をしようがどうしようもないことだし、クラディールがPoHとつながってた以上、敵対以外に俺たちの交わる道はなかったのだろうけど。

 

 PoHの草か。両者の後ろ暗いつながりにまったく気づかず、記憶に新しいクラディールの異常な振る舞いも、女を巡った暴走の一言で片付けていたんだから、俺もとことん暢気だったんだな。苦い思いが浮かび、自嘲に唇が歪む。

 クラディールの振る舞いはどこまでが演技だったのか。

 それもまた今更だ、とやるせない声が脳裏に反響する。ヒースクリフにすら悟られることなくラフコフに通じ、血盟騎士団に長く在籍していたんだから、普段から上手く取り繕ってはいたのだろう。

 

 周囲を見渡すと当たり前だが空気が重い。俺とヒースクリフに目を向けてくるのはいいんだけど、それ以上何をするわけでもなく、俺と目が合えば逸らされるまでがワンセットでエンドレスだった。……滅茶苦茶気まずい。

 これはちょっと冷却期間を置いたほうがいいか? この場の全員が混乱を抱えているせいか、気持ちの整理にも時間がかかりそうだ。ま、その辺りはヒースクリフに任せるか。血盟騎士団から出した不祥事だけに、奴にとっても色々と難しい判断が必要だろう。

 そうなるとアスナに約束したギルド入団の件は、ほとぼりが冷めた頃に改めてヒースクリフを訪ねる形にするのが吉かな。約束した手前アスナには申し訳なく思うが、さすがにこんな雰囲気の中でギルド入団についての打診を切り出せるほど俺の面の皮は厚くない。

 ……それに、少し疲れた。

 

「ヒースクリフ、俺は先に行かせてもらうぞ」

 

 元々今回の祝いのような催しが例外だったわけで、フロアボスが撃破されたならさっさと解散するのが慣例だった。俺の暇乞いも別段おかしなものじゃない。

 

「少々待ってもらえるかな。キリト君に確認しておきたいことがある」

「手短にな。で、何を確認したいんだ?」

 

 とりあえず76層の様子見だけしてくるかと足を踏み出そうとしたところで、思い出したようにヒースクリフが付け加えた問いに一度足を止めた。改めて向き合えば、目に映るのは感情を感じさせない泰然自若そのものの男の姿だ。

 この男は本当に慌てることがないな、落ち着き払った姿しか見たことがない。血盟騎士団副団長としてヒースクリフと接する機会の多いアスナなら、奴の思いがけない一面とかも見知っているのだろうか? 今度聞いてみようかとどうでもいい予定を加えておく。

 そんな埒もない思考に耽っていた俺に、ヒースクリフは常の抑揚に乏しい口調を向けたのだった。

 

「キリト君が口にした《ラフィン・コフィン》のことが気になってね。先程の話、信じても良いのだろうか?」

「PoHのことか? だったら止めとけ、所詮は推論に推論を重ねた与太話だ。俺の話を鵜呑みにして警戒を緩めるようなことだけはしないでくれよ」

 

 あれはクラディールの注意を引いて時間稼ぎするために大袈裟に吹聴したところもあるし、俺自身気が昂ぶって色々不要なことまで口走っていた自覚もある。そもそも人品と能力は別物だ、PoHを相手にするのに警戒を緩めて良い理由にはならないし、全面的に俺の主張を鵜呑みにするのも危険だった。

 ラフコフ討伐戦の混乱の最中、PoHがどこまで本心を晒していたのかはわからない。なによりPoHの評価と分析に、俺の私情込みの悪意が含まれているのも確かなことなので、正直まともに参考とされるのも気後れしてしまう。

 ただまあ……PoHの名誉なんざ知ったことか、というのが割と本気な俺の思いである。優に三桁を数える死者を出した殺人ギルド首領を相手に、俺が気を遣ってやる必要なんて欠片も感じないしな。奴の悪評なんて今更俺が付け足す必要もないくらい膨れ上がってることだろう。それに散々俺に言葉の毒を流し込んだ過去もあるんだ、どれだけ俺に貶されようが自業自得ってやつだ。

 

 俺はPoHの率いるラフコフと対峙する機会が数多くあった。それは俺から仕掛けたものもあったし、不意に奴等と遭遇した形もあった。しかしその中でPoHと直接剣を交わしたことは驚くほど少ない。というか、PoHとまがりなりにも全力でぶつかり合ったのは、奇襲を成功させた三ヶ月前のラフコフ討伐戦が最初で最後だった。いや、最後と評すのはまだ早いか。この先あの男と立ち会う可能性もゼロじゃない。

 何にせよ、ラフコフ最大の危機にして総力戦の時ですら、俺とPoHは雌雄を決することなく中途半端な仕儀で終わった。PoHが命をチップにした決着をつけることを望まなかった、と言い換えるべきか。

 

 PoHの戦闘勘は人並み外れてるし、頭も切れる。けれど、その類稀な才覚をあの男は自らの愉しみにしか使わない。

 残虐非道な男、最低最悪プレイヤー、悪のカリスマ。PoHを形容する悪名は数あれど、そうした評判に隠れるように、あの男は決してその身を危険に晒さないのだ。俺とラフコフの暗闘の中、一度たりとも部下に先んじて剣を振るう――先陣を切るようなことはなく、常に絡め手で俺を封殺してきた。大抵の場合は数の利で圧し、あるいはシリカと行動を共にしていた時のように、都度俺の弱点を突き、戦闘の継続を諦めさせることによって。

 場を作りあげる才に長けているとでもいうべきか、俺を好きに振り回したPoHの頭脳の冴えは確かに脅威であるし、同時に最悪の殺人集団を率いて部下を心服させる手腕も神懸かっていたと思う。

 

 だが。

 それだけ多くの衝突をPoHと繰り返して、ようやく俺は自身が考え違いをしていることに気づいた。

 あの男はかつて俺の前でこう言ったことがある。『俺達がしたいのは殺しであって殺し合いではない』と。あれは部下へのパフォーマンスであると同時に、奴自身の本音でもあったのだろう。自身の命を危険に晒すような真似は断じてしないというPoHの思想の表れだ。

 奴は理解不能な未知の化け物でも何でもなく、この世界を生きるただのちっぽけな一人の人間でしかない。他のプレイヤーよりも少しだけ頭が回って演出に長けただけの、享楽に耽る命大事な詐欺師に過ぎなかった。

 

 PoHには俺達と同じ土俵に上がる気がない。

 そもそも蔑むべき対象である俺達と立場を同じくすることに我慢ならないのだと思う。内に抱える気位の高さを巧妙に隠して、肥大した自尊心を満足させようとしてきた。俺達の四苦八苦する姿を嘲り笑い、高みの見物と洒落込むことで暗い悦びを覚えているだけに過ぎないのだ。

 あるいは、駒の操り手を自認することで自らを茅場晶彦――アインクラッドを統べる超越的存在に近づけようとさえしていたのかもしれない。

 

 考えすぎか、とやや飛躍していた俺の詮無い想像を打ち払う。問題はその先――PoHがこれからどう動くか、だ。

 恐らくだが、PoHは俺が死ぬまでは表舞台に出てこない。徹頭徹尾裏に潜って、自身の所在を俺に掴ませようとはしないはずだ。もちろん他人を煽って今回のように俺を殺そうとしてくることはあるだろうが、PoH自身の手で俺の命を取りにくる可能性は低い。

 俺がそう判断したのは、今回クラディールをぶつけるだけで奴自身がここに足を運ばなかったこともあるが、PoHは戦力の充実していた頃の《笑う棺桶》を率いてすら、俺を全力で殺しにくることはついになかったからだ。

 

 PoHは俺と本気で殺しあったことがない。それは俺を相手にとことんやりあえば、己が死ぬ可能性を見ていたからだろう。俺と対峙しても俺の理性の箍が外れない、暴発させない範囲で嬲ることしかしていない。

 幾度も繰り返した俺とラフコフとの邂逅の裏には、決着を、いや、俺との殺し合いを望まないあの男自身の思惑が確かにあった。そして俺が奴の首を落とすだけの実力を持っていることも誰より理解している。その事実がある以上、あの男は自身が殺されないと確信するまでは出てこない、リスクを犯さない。それはPoH自身の命を守るための行動だ。それならば俺にだって理解は容易かった。

 

 俺のすべきこと。それは攻略組にあって尚突き抜けた強さを示す事だ。そして犯罪者に決して弱みを見せない、犯罪者に対して断固たる対決姿勢を崩さず生き抜く事でもある。それこそがPoHを封じ込めておくために俺が使える現実的な策だった。

 PoHが派手な動きを見せれば即座に俺が潰しにかかる。尻尾を出せば俺に狩られる。奴にそう思わせ続ければ良い。

 新生ラフコフなんて馬鹿な芽が出ないよう、事前に可能性を消しておけるならそうするのが一番だった。俺にとっても攻略組にとっても、そしてゲームクリアを望む全プレイヤーにとっても、PoHという犯罪者の存在は百害あって一利なしなのだから。

 

「クラディールのことは残念だった。私としても彼の策略を見抜けなかったことは汗顔の至りだよ。キリト君の言う通り、ラフコフ残党への警戒を緩めないよう改めて周知しておこう」

 

 ヒースクリフの語る姿からはクラディールの最期を悼む気持ちも、不覚を取った悔恨も感じ取れなかった。ああそうだな、あんたはそういう奴だったよ。八つ当たりだとわかっていても、今は機械のように無機質なヒースクリフの沈着さが疎ましかった。

 

「ふむ、確かキリト君はラフコフ壊滅直後にも有力な犯罪者(オレンジ)ギルドを幾つか潰していたな。当時のラフコフ壊滅と併せて抑止力としては十分だったはずだ。正直なところ、殺人(レッド)ギルドが再度結成される土壌は乏しいと考えているのだが、キリト君の見解を聞かせてもらえるかな」

 

 ……だからあんたはそういう情報を一体どこから引っ張ってきてるんだよ? その件はアルゴに厳重に口止めしておいたはずだぞ。ああ、いや、消去法で実行犯が俺だと当たりをつけてるだけか。

 あの時期、アルゴの協力を得て逃亡したPoHを死に物狂いで追跡し、奴の逃げ込み先としてピックアップしていたオレンジギルドに殴りこみもかけていた。その結果、全滅とはいかずとも構成員の幾人かは監獄に送り込むこともできた。ラフコフと違って脅しが通じたことが唯一の救いだったな。

 逃げ散った連中が今何処で何をしているのかまでは知らない。案外俺への報復でも練ってる可能性もあるが……その時はその時だ。いっそ標的を俺だけに定めてくれるならそっちのほうが対処もしやすいとさえ思う。奇襲暗殺なんでもきやがれ、返り討ちにしてやる。

 しかし改めて考えると、ラフコフ戦前後は常にも増して殺伐とした生活を送っていたものだと我が事ながら辟易してしまった。

 

「俺もあんたの意見に賛成だ。PoHが派手に動きでもしない限り、中規模以上のPK集団を作り上げることは出来ないと思う。最近は犯罪報告数も明らかに下降してるし、重犯罪の比率も格段に下がってるしな。しばらくは静謐も保てるはずだ」

 

 犯罪集団をまとめあげる核となるプレイヤーがいないということもあるし、何よりクリアへの筋道がついてきたことも大きい。ゲームクリアが絶望的ともなれば破れかぶれになるプレイヤーも増えるかもしれないが、今現在はそこまで悲観するような状況じゃない。犠牲はでかかったものの最大最後のクォーターポイントも抜けたことだし、オレンジに鞍替えしようなどという動きにはつながらないはずだ。

 

「オレンジ対策としては、今まで治安維持に力を発揮してきた軍がこれからどう動くかにもよるだろうな。軍の中核を担っていた上位レベルのプレイヤーがごっそりいなくなったんだ、影響もそれなりに出るだろうさ。それから攻略組プレイヤーがラフコフに通じていた事実はちょっとばかしまずいかもしれないが、そこは75層突破の快挙を強調すればある程度誤魔化せるんじゃないか?」

 

 むしろお前が何とかしろヒースクリフ、人心掌握はあんたの得意技だろう? それでなくても渦中のギルドの代表なんだから。

 しかし意外といえば意外だ。攻略以外にはさして注意を払わないヒースクリフがここまで犯罪者ギルド、というかラフコフの動向を気にするとは。さすがに今回の件で疎かには出来ないと痛感したのか?

 プレイヤーの敵対勢力を放置しておいた結果がアインクラッドに席巻し、全プレイヤーの心に影を落としたラフコフの脅威の拡大だからな。ヒースクリフも他人事ってわけにはいかないか。

 

 ヒースクリフは俺の言葉に何度か頷きはしたものの、何か考えでも整理しているのか、それ以上は何も答えず沈黙を守るだけだった。もしかしたら次層以降の攻略の仕方でも考えてるのかもしれない。クラディールの件もあるし、明日から何事もなくってのは難しいだろう。今日の裏切りが尾を引かなきゃいいけど。

 ……ああ、その件に関しても手を打っておくべきか。気休めくらいにはなるだろう。

 精神的な疲弊からか思考の巡りが悪いことを自覚するも、極力何でもない顔を装って口を開いた。

 

「悪い、俺からも一つ言っておくことがあった」

 

 皆の目が集まったことを確認してから続ける。

 

「クラディールを唆したのはPoHだ。そして奴の目的は俺とヒースクリフの命だけじゃない。攻略組から裏切り者を出すことで疑心暗鬼を煽り、俺達の連帯を崩す狙いもあると見るべきだろう。だが、素直にPoHの思惑に乗ってやることもない。俺達は今まで通り、連携を深めながら最上階を目指す。その方針に変更はない」

 

 幾人かが俺の言葉に頷く。

 何が最善か、何がゲームクリアへの最短かを考えれば自ずと答えが出る。ここで不信感を高めて仲間割れの土壌を築くことほど攻略を遠のかせることはない。第二、第三のクラディールが潜んでいるのではないかと、攻略組の中で疑心の種が育ってしまうようではそれこそPoHの思惑通りになってしまうのだ。俺の言葉一つで奴の狙いを完全に避けることができるとは思えないが、打てる手は打っておきたかった。

 

「宣言しておくぞ。俺の力はゲームクリアのために全て使うんだって決めてる。殺人者(レッド)の連中に、いや、それが誰であれ俺の歩く道は邪魔させない。ゲームクリアに立ちはだかる敵は俺が全て斬り捨てる。それが俺の――《黒の剣士》のスタンスだ」

 

 心中奥深くから湧き上がる意思を言葉に変えて示す。アスナが、クラインが、エギルが、攻略組の皆が俺をじっと見つめていた。だから、と続ける。

 

「ヒースクリフ、今回の件があろうが俺はあんた達血盟騎士団に含むものは一切ないことを明言しておく。この程度で俺が攻略組(なかま)を疑うことはない。覚えておいてくれ」

「感謝する。我らも一層の奮闘を約束しよう」

 

 深々と頭を下げる銀髪の偉丈夫を目にして、少しだけ驚く。虚を突かれたせいか、わずかの間思考を停止せざるをえなかった。この男が他人に頭を下げる姿なんて想像したこともなかったな、貴重と言えば貴重な光景だ。

 慣れないことはするものじゃないとつくづく思う。

 思いがけないヒースクリフの行動にますます気まずい思いを抱えることになったため、早々に俺は75層フロアボスの広間を後にした。その途中、唇を噛み締め、沈痛な面持ちのまま俺に頭を下げ続けるゴドフリーにすれ違い様、「気にするな、あんたのせいじゃない」と一言だけ言い置いて。

 

 

 

 

 

 76層の主街区には早々に辿り着いた。整然と石畳が並び、等間隔に建物が並ぶ様はどこかはじまりの街を思い起こさせた。

 アインクラッドは上層に登れば登るほど一層あたりの敷地面積は先細っていく。そのため街規模ははじまりの街に比べればずっと小さなものではあるようだが、その一方で石畳で舗装された路地は広く敷かれ、開放感を思わせる澄んだ空気に満ちていた。いかにも過ごしやすさを感じさせる街である。広場に設置された噴水が清涼でさわやかな印象を形成するのに一役買っているのかもしれない。

 

 適当に宿を確保しておくかと算段を立てながら城門を潜り、足を進めていく。眼前の噴水を囲むように花壇が設えていて、色とりどりの花が咲き誇っていた。

 幾分感傷的な気分になっていたためか、何となく惹きつけられるものを感じ取り、花壇を避けるようにやや迂回して噴水の縁へと足を運ぶ。座席とするには丁度良い高さだ。仮想世界特有のほこりや汚れの一切ないオブジェクトに腰掛けると、思いの外大きな吐息が漏れた。

 

 ついと視線を動かす。日はまだ高かった。広げた指の隙間から遠くの空を見やり、眩い太陽の光に自然と目を細める。

 今日は色々あって疲れた。このままフィールドに出て攻略を進める十分な時間は確保できるとはいえ、疲労満載で無理を通すような場面でもない。このままオフにして休もうか。

 そんな風にぼんやりと思考をつらつらと飛ばし、何をするでもなく無為の時間に耽っていると、やがて一人の少女の姿が視界に映る。

 

「追いつけてよかったー」

 

 小走りに走りよってきたアスナは、そう言ってどこかほっとした様子で胸を撫で下ろしていた。

 

「アスナか、丁度よかった。先に来たのはいいけど、アクティベートをどうするか悩んでたんだ。今回はアスナが担当するのが一番順当だしな。で、他の連中はどうした?」

「今、団長達がクラディールのことで皆に頭を下げてるわ。本来ならわたしも残るべきだったんだけど……『行ってやってくれ』って送り出されちゃった」

「クラインか?」

「ううん、ディアベルさん。昔のことを思い出したのか、ちょっと青い顔してたわ。あの人だってキリト君の後ろ姿には複雑な思いが残ってるんだから、出来れば気を遣ってあげてね」

 

 律儀な奴だ、ディアベルは俺に文句を言うくらいで丁度良いんだけどな。あの人も損な性分してるよ、気にかけてもらえるのは嬉しいけど。

 今回の事でしばらくは攻略組も荒れそうだし、俺はどう立ち回ったものだろう。ヒースクリフにはああ言ったけど、俺が何も気にしてませんって顔をして血盟騎士団に入団の打診をするのはありなのか? 今回のことで以前とは別の意味で話を切り出しづらくなっちまったな。

 そんなことをつらつらと考え込んでいると、思ってたより元気そうだね、とアスナのつぶやきが耳に入る。俺の隣に腰掛けたアスナに目を向けるとほっと息をついて胸を撫で下ろしていた。

 

「俺が落ち込んでるとでも思ったのか?」

「わたしが君を心配しちゃ駄目?」

 

 小首を傾げ、甘えた声で囁くアスナだった。そこで可愛く言うのは反則です。

 

「塞ぎ込んでも何にもならないことくらいは承知してるよ。とはいえ、しんどいのは変わらないから早々とお暇させてもらったことまでは否定しない。ヒースクリフみたいに毅然とした態度を取れれば良いんだろうけど、あそこまで徹底するのは俺には無理だ」

「キリト君も十分毅然としてたと思うけど……それでもあの人を基準にするのは止めたほうが良いでしょうね。団長は色々な意味で突き抜けちゃってる人だから」

「俺もそう思う。さっきの騒動に限った話でもないけど、ヒースクリフからは大局を見て最善手を打ち続ける凄みみたいなものを感じるよ。いや、いっそのこと得体の知れない不気味さとでも言うべきかもな。高所からの判断が的確すぎてどうにも人間味がない。突き抜けた理性――効率を求める純粋すぎる意思ってとこか。ヒースクリフほどゲーム攻略を考えてるプレイヤーもいないんだろうけど、やっぱ俺は苦手だ」

「わたしの立場としては擁護しなきゃいけないんだろうけど、割と同意しちゃうなあ。頼れる人なのは間違いないんだけどね」

 

 血盟騎士団団長ヒースクリフ。ユニークスキルと目される神聖剣スキルを操る、誉れ高き《聖騎士》。

 淡々と、粛々と、ただただ英雄然として生きている男だ。部下を自らの剣で貫いておきながら、俺の目に映ったヒースクリフはその眉をぴくりとも動かさず、不動の構えを見せていた。

 己の部下の裏切りと破滅を前にして、なお揺らぐことなき鉄の意志を衆目に示した、十字盾を持つ最強の騎士。その胸の内にある思いは何なのだろうか。想像する都度、俺は戦慄めいたものを覚えるのだった。今は気にしても仕方ないと一度かぶりを振り、想像の中ですら威圧感を纏う銀髪の男の姿を追い払おうと努める。

 

「それで、キリト君は何を見てたの?」

「別に何を見てたってわけじゃない。攻略に向かう気分にもなれなかったから、ここでぼうっと時間を潰してただけだよ。そろそろ帰ろうかと思ってたんだ」

「ふうん……。なんだか今日は素直だね、キリト君」

「失礼な。俺はいつだって素直だよ」

 

 そんな俺の返答の何処がお気に召したのか、アスナはくすくすと楽しそうに笑みを零した。

 

「なら素直なキリト君に何を考えてたのかを話してもらいたいな」

「心配してもらってるとこ悪いが、本当に大した話じゃないんだぞ? ……クラディールのことなら気持ちの整理はついてるよ。改めて口にするようなこともない」

 

 俺が殺したにせよ、ヒースクリフが殺したにせよ、そこに大した差はない。

 最終的にクラディールは俺と敵対し、ゲームクリアの障害となる立場を選んだ。そして攻略組の仲間の命を奪おうとした。なにより俺の命を狙って罠を仕掛けたのだから、俺に反撃されるのだって承知の上だろう。その結果としてのPKだ、受け止める他ない。

 確かにしんどいし、やるせない気分にもなる。あんな最期を遂げたクラディールを哀れだとも思うが、それ以上を思い悩むつもりはなかった。結局相容れない者同士が戦って、当然の帰結として片方が排除された。それだけだ。思うところはあれど、アスナたちに心配されるほど尾を引くようなものではなかった。

 ……まあいいか。今更、アスナに隠すようなことでもないし。

 

「一応、他言無用ってことで頼むな」

「うん」

「向こうの世界にいた頃にさ、人の幸福はその人の手で掴めるだけの大きさなんだって、そう聞いたことがあるんだ。俺はこの世界に来てから、ずっと握り拳を作ったまま解き方がわからなくなってた。たくさんの人に迷惑かけて、俺なりに色々考えて、どうにか力を抜くことを思い出したよ。ただ、やっぱり剣を握ってる間は難しいなって思ってたとこ」

 

 目の前で広げた右手を一瞥し、軽く握る。こんな動作に意味はない――が、俺はゲームクリアに全てを懸けるのではなく、ゲームクリアの先を望めるようになれた。それだけで随分気は楽になっているのだ。皆に感謝、だな。

 風がそよぎ、草花の葉が擦れ合う音を乗せ、さらに先へと吹き抜けていく。

 今日のアインクラッドは快晴そのもので、もしかしたらここ数ヶ月でも最高の気象設定がされている一日なのかもしれない。こんな日はどこか安全な圏内で、芝生を枕に昼寝と洒落込みたいものだ。現実世界で俺が桐ヶ谷夫妻の養子だったと知る前、妹のスグとも何のわだかまりなく接していた子供の頃に、桐ヶ谷家の縁側に身を横たえ、兄妹仲良く日溜りの中でうたた寝をしていたように。

 

 郷愁を誘う秋麗に数瞬揺蕩(たゆた)い、回想に耽っていた俺を引き戻したのはアスナだった。音もなく立ち上がり、穏やかに吹き抜ける風に揺らされた栗色の髪をそっと押さえ、目元を和ませる彼女の仕草に艶めいたものを感じ取ってしまう。本当、絵になる女性だ。

 アスナは静々と俺へと歩み寄り、目線の高さを合わせるように膝を折った。思慮深さを伺わせる彼女の眼差しが注がれ、そのままゆったりとした動作で腕を伸ばして優しく俺の手を取る。彼女の右手は俺の左手を握り、彼女の左手は俺の右手を握っていた。そうして正面から俺と指を絡ませ合うと、にこりと嬉しそうにアスナは微笑み、瑞々しい唇から言葉を紡ぐ。

 

「難しいことなんてないわ、だってわたし達はこうして手をつなぎ合えるもの。もしも君がまた手を開くことを忘れてしまったなら、その時はわたしがこうして君の手を握ってあげる。もしも君が剣を強く握って手放せないのなら、そのときは君の拳の上にわたしの手を重ねてあげる。……ちょっと図々しかったかな?」

「……いいや。サンキュ、アスナ」

「どういたしまして」

 

 朗らかに答えるアスナに俺ができることなんて、感謝以外に何一つなかった。

 

「それにね、わたしは二度と君を一人にはしないって決めてるんだ。二年前みたいに、伸ばした手を引っ込めてずっと後悔し続けるなんてもう嫌だもの」

 

 真剣な顔をしてアスナはそう宣言すると、ふっと緊張を緩めてから続けた。

 

「ねえ、キリト君。わたし、君に大事なお願いがあるの。聞いてもらえる?」

「なんだよ、改まって」

「うん、この前言ったこと、撤回させてほしいなって。わたしの気持ちを知っていてもらうだけじゃ我慢できなくなっちゃった」

 

 風は穏やかに吹き抜ける。留まることもなく、また、留まるはずもなく。

 

「……物好きな奴。止めとけ、とは言わせてくれるのか?」

「言うのは自由だけど、聞いてはあげないよ? こういうのって理屈じゃないんだなって実感してるわ。お利口さんな恋はわたしには難しすぎるみたい」

 

 舌を出して可愛らしく笑うアスナはどことなく誇らしげだった。自分の選択に後悔なんて微塵も抱いていない、すっきりとした顔をしている。

 

「ごめんね、このまま聞き分けの良い女の子になって、大人しく身を引くことは出来そうにないの。だから――覚悟してよねキリト君。片思いで満足しようって、そう決めてたわたしをこんな風にしちゃったのは他ならぬ君なんだから、ちゃんと責任は取ってもらうわ」

「それは前時代的だから廃止にしようって言わなかったっけ?」

「あはは、聞こえない聞こえなーい」

 

 そう言って無邪気に笑うアスナの様子に、自然と笑みが浮かんだ。『(たで)食う虫も好き好き』なんて言うけれど、人の心ほどわからないものはない。アスナがそれで納得しているのなら俺が殊更に悩むべきじゃないのだろう。好いた惚れたなんて、それこそなるようにしかならないのだから。誰だってそうだ、俺だって――。

 ずきりと胸に走る痛みに切なさを噛み締めていると、ふと視界の端に妙なものが映った。自然と俺の目が対象を確認しようと吸い寄せられていく。なんだろう、転移の光にも見えるけど。いや、でも、そんなことはありえないし……。

 

「なあアスナ、俺はまだ76層のアクティベートは済ませてないんだが、それはアスナも同じだったはずだよな?」

 

 唐突な俺の問いにアスナはキョトンとした顔で、それでもすぐに首肯した。俺も聞くまでもないことだとわかってるし、聞いてどうなるものでもないとわかっちゃいるんだが。なにせ転移の光が発生してるのは転移門ではなくまったく別の場所だったのだから。仮にアクティベートが完了して転移してきたのだとしてもおかしな話である。

 どういうことだと疑念に目を細めながら立ち上がる。数メートル離れた先、花壇の中に青白く輝く転移時に似た発光現象が起きていた。

 

「あれ、なんだと思う?」

 

 顎でしゃくるように俺が示した先にアスナも目をやり、彼女もすぐに異常に気がついた。その瞬間、ほんわかと下がっていた目尻を緊張に鋭く吊り上げ、すぐさま警戒態勢を取る。

 しかしアスナの警戒は程なく訝しげな視線へと変わっていった。眼前の光の正体に当たりがつけられなかったせいだろう。俺も似たような面持ちで背中の剣に手を伸ばし、不測の事態に備える。ここは圏内だが念のためだ。

 

「多分何らかのクエストが起動したのだと思うけれど……キリト君、何か心当たりある?」

「残念ながら全く。イベントトリガーを引いた覚えも受諾した記憶もないんだが……。とりあえず警戒だけは解かないで慎重に対処しようか」

「了解」

 

 頷きあって臨戦態勢を固めた俺とアスナだったが、その緊張も長くは続かなかった。転移の光が収まった先には一人の幼げな少女――人畜無害そうな線の細い女の子が無言で佇んでいたからだ。

 腰元までストレートに伸ばした艶やかな黒髪が目に鮮やかに映る。少女の瞼は閉じられたままで、ともすれば立ったまま寝ているような印象を受けた。そしてシンプルなラインの白のワンピースが黒髪との対比でさらに汚れのない純白を強調していて、袖から伸びる両腕、裾から伸びる両足のそれぞれは折れそうなほど細い。一言で言えば儚げな幼子、という表現が的確だろうか。

 

「女の子? 十歳くらい、かな?」

「もう少し下にも見えるけど……それよりアスナ、あの子カーソルが出てない」

「え? あ、ほんとだ。でも、どうして……?」

「さあな。バグか何かにせよ、きな臭いことになってきた」

 

 ぽそぽそと言葉を交し合う最中、俺の眦も釣り上がっていく。間違いなく厄介事だ。

 この世界ではPC(プレイヤーキャラ)NPC(ノンプレイヤーキャラ)Mob(モンスター)、その全てに例外なくカーソルが存在する。視界に捉えてターゲットすれば必ず表示されるべきカーソルが、目の前の少女には存在していないのだ。それだけで容易ならざる事態が起こっているのだと察することができる。なにせこの世界はゲームの中だ、変なバグでも起きれば俺達の無事に直結するのだから無関心ではいられない。

 

 繰り返すが、今この場所、第76層は街開きすら行われていない。転移は街ないし村の名称を対象に行われるものであり、アクティベートが完了していない上層を指定することはできない。プレイヤーらしき少女が転移で俺達の前に現れたことが既にありえないことなのである。つまり転移結晶で出来ることではない以上、システムに何らかの不具合が生じていることを考えざるをえない。

 前例はないが、おそらくはシステムに何らかの不都合が発生した結果としての転移事故だ。それも転移先座標の誤作動だけでなく、カーソル表示の消失も加わっている。そうした尋常ならざる事態を前にしているのだから、俺の緊張が高まったのも、アスナが浮かべた驚きも至極当然のことだった。

 

 危ういバグが起こっているだろう少女は何のアクションも起こさず、ただその場で佇んでいるだけだった。俺もアスナもどんな行動を取るべきか悩みながら、それでも警戒を解かずにじっと対峙していた。やがてその少女がむずがるように長い睫を震わせ、固く閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。ぱっちりとした大きな目が向けられ、視線が交差したことを自覚するとわけもなく深い罪悪感を覚えた俺である。

 ……何故だ、滅茶苦茶胸が痛いぞ。

 

 警戒も露わにいたいけな少女を睨みつけているせいだろうか。自分がひどい苛めっ子になってしまったような、そんな気がしてくる。少女の無垢な瞳に射抜かれると、どうにも背中の剣に手をかけている俺の行動がとんでもない極悪人のそれに思えてならなかった。

 一度頭を強く振って、彼女へ無意識に抱いていた保護欲を追い出す。何が起こっているのかわからず、害があるかどうかも確定できない以上、幼げな容貌と儚げな雰囲気を持つ少女への警戒を解くわけにもいかなかった。

 

 しかし妙だな。というか変だ、絶対おかしい。何がおかしいって、俺が。

 損得勘定抜きで少女に手を差し伸べるのが義務であるかのような、あるいは彼女に警戒心を抱くことそのものが罪悪であるかのような不可思議な感覚。俺自身にすら説明のつかない心の動きに困惑しきりで、ただただ戸惑っていた。

 年端もいかない子供って苦手だったはずなんだけどな……。

 どうしてかこの少女には苦手意識よりも庇護欲が先立ってしまう。俺の意思とは無関係に掻き立てられるそれは、まるで以前のサチを見ているようで――。そういえばこの子、サチに似ている?

 

「……やっと会えた」

 

 と、その時、弱弱しい声が少女の小さな唇から紡がれた。

 ほとんど独白だった呟きを聞き取れたのは、ひとえに全神経を彼女の動向に傾けていたためだろう。だからと言ってその言葉の真意がわかるわけでもなく、同時に確かめようもなかった。なにせ彼女はそれ以上何も言うことなく、ふらりと身体を傾け、糸の切れた操り人形のように花の絨毯の上へと崩れ落ちてしまったからだ。

 小柄な身体が力なく地面に横たわるかすかな音を耳にした時には、我慢の限界とばかりに俺の足は駆け出していた。どうしてこうも初対面の少女を心配しているのかがわからなかった。しかし倒れ伏した少女を無視することも出来ない以上、このまま放っておくわけにもいかない。

 

 少女に駆け寄り、力なく投げ出された小さな身体を抱き起こすと、想像以上に軽い感触に驚く。元よりこの世界ではゲーム的な意味での筋力数値が根底にあるため、俺の感覚ではなおさら羽のような軽さにしか感じられなかったのかもしれないが……わかってはいても俺の胸に巣食う不安は募るばかりだった。

 何より少女に触れてもクエストログは更新されなかった。つまりこれは運営側で何らかのイベントとして用意されたものではないし、彼女がNPCではないれっきとしたプレイヤーの可能性が強まった、ということだ。あとはこの場からある程度引き離せればプレイヤーに確定、といったところか。システムに用意されたNPCは活動範囲があらかじめ定められており、プレイヤー側が好きに移動させることはできない。

 

 しかし、だとしたら一体どういうことだ? どうしてこんな小さな子供がこの世界にいる?

 ソードアート・オンラインは一応13歳以上推奨のゲームだったはずだ。この少女は明らかにそれより下の年齢である。あくまで見た目だけではあるが、俺にはこの子が二桁の年齢に達しているとは思えなかった。まあ、親ないし家族の誰かが購入したのをこっそりプレイしたとかもありえないわけじゃないが……。

 

「キリト君、その子の様子は?」

 

 少女を抱えあげたまま沈思に耽っていると頭上から疑問の声が投げかけられた。

 俺にやや遅れて駆け寄り、膝をついて少女を覗き込むアスナの顔には子供を純粋に心配する憂慮しか存在しなかった。急に意識を失ってしまった子供を相手に、アスナも俺と同様に警戒心を維持することが難しかったのだろう。

 

「身体が消滅してない以上はHPバーも無事なんだろうけど……。駄目だ、カーソルが出ない時点で覚悟はしてたけど、焦点を固定してもこの子の名前は表示されない。俺やアスナに異常がないところを見ると、システムバグはこの女の子限定で起こってるみたいだな。この分だとシステムメニューにすら異常が出てるかもしれないぞ。幾らなんでも軽装すぎる」

「確かに変ね、見た限り装備スロットで埋まってるのは防具の一部――このワンピースだけみたいだし、武器はおろか手袋とかネックレスみたいな装飾品も一切なし。足はブーツも装備せずに裸足だもの。例え圏内でもここまで無防備な姿で出歩くのは珍しいわ」

「かと言ってシステムの異常なんてすぐに解決できるような問題でもない。この子も目を覚まさないし……どうしたもんだろうな?」

 

 システム側の不備なら俺達に出来ることはないし、バグの検証だってこの子の意識が戻らなければ難しい。

 

「困ったね。こんな小さな女の子が一人で今まで生きてきたとは思えないから、この子の両親、もしくはこっちの世界での保護者がいるとは思うんだけど……。親子連れでログインしたプレイヤーの噂なんて聞いたことないなあ。わたしは下の階層にはあまり詳しくないから、そのせいかもしれないけどね。何か事件でもない限り関わることってなかったから」

「下の情報に疎いのは俺も同じだよ。そもそもこんな小さな子がログインしてたこと自体、今の今まで知らなかったし想像したこともなかった」

 

 俺の活動範囲がほとんど最前線に限られることもあって、知人プレイヤーは俺よりも年長の者ばかりだ。俺の知り合いで確実に俺より下の年齢だと思えるのは、竜使いで名を馳せるシリカくらいのものだった。

 

「……どうしよっか?」

 

 アスナが弱りきった顔で尋ねてくるが、俺だって絶賛混乱中だぞ? ……ほんとどうしよう。

 

「まずは落ち着いた場所でこの子の回復を待って、それから詳しい事情を聞き出すしかない……と思う。すぐに親御さんが見つかると良いんだけど」

 

 顔を顰めながらしばしの間沈思に耽る。

 この子の名前と、親御さんの名前、それから何処で生活してきたのかがわかれば、後は虱潰しに当たればどうにかなるだろう。ここまで年齢の低い子なら人目も引いていただろうし、この子の生活圏を訪ねれば知り合いの一人二人はすぐに見つかるはずだ。

 ただ、そのためにクリアしなきゃならない問題もある。いや、問題というほど問題じゃないかもしれないけど、ここでこの子が目を覚ますまで時間を潰すのも間抜けな気がするし、遠からずこの街にもプレイヤーが押し寄せてくる。そうなると俺とアスナは知名度が高すぎて、この子の周辺を無駄に騒がせてしまうかもしれない。

 PoHの手が迫ってきた矢先だし、俺との関連であの男に目を付けられる可能性を考えると、一時的に俺が保護するにせよアスナに任せるにせよ、この子の存在を晒すのは気が引けた。

 

 それに、ただでさえシステムバグが起こってるプレイヤーなのだから、必要以上に好奇の視線を集めるのも状況のコントロールがきかなくなりそうで怖い。ここは秘密裏に確保した上で迅速に保護者を探すのが一番当たり障りがなさそうだ。まさかこんな小さな女の子をこのまま放っておくなんて出来るわけもないし。

 となると真っ先にすべきことは俺以外の目撃者への脅迫だ。……間違った、脅迫じゃなくて説得だな。方針が決まれば行動は速やかに為す必要があるため、俺は至極真面目な顔つきを作って傍らのアスナの瞳を覗き込み、重々しく告げた。

 

「アスナ、突然で悪いが頼みがある」

「あれ? わたし今すごくデジャブったよ。少し前にもこんなことがあったような……?」

 

 気のせいだ。それに今回の俺は純度百パーセントの真面目仕様だぞ。腹ペコキャラじゃない。

 

「諸々を省いて言わせてもらうけど……アスナ、俺と共犯者になってこの子を(かどわ)かしてくれ」

「うわーい、キリト君から未成年略取のお誘いだー、って冗談はともかく、キリト君はそれでいいの? 何ならわたしが保護してもいいし、団長にうちのギルドで預かれないか相談してもいいけど」

「ソロをやってる俺の方がしがらみがない分、アスナより時間の自由もきくしな。いずれはヒースクリフの知恵を借りることになるかもしれないけど、まずは俺とアスナで一時的にでも保護しよう。すぐに解決するならそれが一番良い。ギルドを巻き込むとどうしても話がでかくなっちまうし、大勢の大人に囲まれるのがこの子にとって良いことかもわからないからさ。せめて落ち着いて話を聞けるようになるまでは静かな場所で休ませてやりたいんだ」

「……うん、そういうことならわたしもキリト君に賛成かな。クラディールの件もあって、しばらくはうちのギルドもピリピリしてるだろうし、子供を招くにはちょっと厳しいかも。まずはわたし達でなんとかしてみようか」

 

 よし、これでアスナの説得は完了、と。

 何事もなく保護者なりを見つけ出せるならそれが一番だが、俺の手に負えないようならアスナの好意を頼ることになる。ただ、そうした事情とは別に、不特定多数にこの子の存在を明かして良いのかという危惧もあった。

 

「この子の目が覚めないと始まらないんだけど、万が一この子を呼び水にバグが広がったりしたらとんでもないことになるんだよな。今のところ俺達に何の変化もない以上、他のプレイヤーと接触したからどうなるものではないのかもしれないけど。この子には悪いけど、様子見の意味でもすぐに大勢のプレイヤーと関わらせないほうが安心できるというか。うぅ、罪悪感が」

 

 胸が、胸が痛い……!

 

「あはは、この子にはとても聞かせられない話だねえ。ほら、その分優しくしてあげればいいんだよ」

「ああ、うん。そうだな、それが良い」

「それにこの子、さっき『やっと会えた』とか言ってた気がするんだけど、実はキリト君の知り合いだったりしないの? ほら、怒らないから正直に話してくれていいんだよ? リズ曰くの《女ったらし》さん?」

 

 こらこら、そんな楽しそうに言わなくてもいいじゃないか。第一こんな小さな女の子を相手に女ったらしも何もないだろうに。

 

「ふふん、俺の交友関係に期待しないでくれたまえよ。と、まあ、自虐ネタはともかく、アスナこそ知り合いじゃないのかよ?」

「うーん、見覚えないなあ……。こんな可愛い子一度見たなら忘れないと思うし」

 

 アスナの記憶力は抜群だしな。

 それにしても、やっと会えた、か。あれ、アスナも聞き取れてたんだな。俺はてっきりアスナを指してのことだと思ってたんだけど、そうか、俺が対象だった可能性もあるのか。どっちみち俺の知り合いにこんな小さな女の子はいないので、今日が初対面に違いないのだけど。

 どこかで俺かアスナの名前を知ったのだろうか? それにしたって転移事故でここに飛ばされてきたことを考えるとおかしなことではあるけど。……駄目だな、材料が断片的で穴だらけの推論にしかならない。

 

「そっか。まあここで悩んでても仕方ないし、まずはこの子を運ぶことにしよう。悪いんだけどちょっとばかしアスナの部屋を貸してくれ。この際俺もどっか人目につかない場所にホームを作ることにするから、物件の確保が済み次第その子も移動させて、後は臨機応変にやりくりすればいいだろ」

 

 この子のシステムバグと保護者探しの問題がすぐに解決するようなら無駄な出費になりかねないけど、それはそれで構わないかと割り切ることにした。エギルにもホームを作れってせっつかれてたことだし、良い機会だ。本拠地定めないで転々とするのも終わりにするとしよう。

 

「プレイヤーホームの購入って大きな買い物のはずなのに気軽に言うねぇ。今更キリト君のそういう所に驚いたりはしないけど、物件の目星はついてるの?」

「22層の南西エリアにしようと思ってる。森と湖に囲われた小さい村があってな、確かそこでログキャビンが幾つか売りに出てたはずだ。モンスターの出ない安全なエリアが広がってる層で、リタイア組の釣り師プレイヤーくらいしか訪れない長閑な場所だよ。老後に最適だと思って記憶に残しやすかった」

 

 スローライフに憧れてたんだと割と本気で告げてみたら、アスナに半ば同情的な視線を寄せられた。「個人の趣味にまで口出ししたくないけど、あんまり老成しないでね?」とのありがたいお言葉付きである。……えーと、最近は釣りを趣味に日がな一日日向ぼっこをするのが夢なんだ、とは言わないでおこうかな。更に可哀想な子を見る目をアスナから向けられかねないし。ほんと、この世界がデスゲームでさえなければなあ……。

 こんな所であれこれ悩んでも事態が解決するわけでもない。ひとまずは動き出すことにしようと決めて少女を抱えあげた。まずはこの小さな女の子を誘拐する、もとい保護する準備、と。

 アスナも気づいていて口に出さなかっただけかもしれないけど、最悪の事態も考えると気が重かった。この子の保護者が既に亡くなっている可能性がどうしても脳裏から離れて消えてくれない。

 

 改めて抱えあげた少女に目を落とす。華奢な身体、力なく投げ出された細い手足、ブーツさえ履いていない簡素な装備。まるで頼るものがなくなったから自棄になって飛び出したような格好だ。

 転移事故ないしバグによって装備欄に異常が出ているだけなのかもしれない、そうであってほしいとも思うが、場合によっては彼女の親探しが新たな保護先の選定に変わることもあるやもしれない。……この世界に孤児院とかあるのか? ナーヴギアの推奨年齢を思えば年少の子供がログインしている可能性は低い。第一子供の保護とか完全に慈善事業だし、率先して苦労を背負い込む人格者が必須になるから望み薄だなぁ、と溜息一つ。一応、駄目元で調べてみるか?

 明らかに保護が必要な年齢の子供、その事情を慮るなんて特殊なケース、俺が今まで遭遇したことがないものだし今から不安が募る。ぶっちゃけ戦闘と探索にしか能がない俺には致命的に向いていないぞ。ほんとすぐに解決してほしいもんだ。

 

「それじゃまずはセルムブルグに行こうぜ。ああ、いや、その前に――」

「うん? どうしたのかなキリト君?」

「75層の山場も超えたことだし、節目だから改めて言っておこうと思ってさ。今日は俺を守ってくれてありがとう、アスナ。これからも色々と面倒かけることになると思うけど、改めてよろしくな。絶対生き残ってこの世界から脱出しよう」

「わたしも気持ちは一緒だよ。今日はわたしを守ってくれてありがとう、キリト君。きっとこれからも沢山キリト君に迷惑かけるけど……うん、これからもよろしくお願いします」

 

 ぺこりと頭を下げあって、それから顔を見合わせた俺達は互いに微笑を交換しあう。

 一難去ってまた一難。

 そんな言葉では表せないほど激震に晒された今日という日はまだまだ終わらない。史上最悪のフロアボス戦をなんとか乗り切ったと思えば、攻略組の中枢――俺とヒースクリフの抹殺を図ったクラディールの凄惨な裏切りが発覚し、そして今度は世界の根幹さえ揺るがしかねないバグの発見である。今日は色々ありすぎだ。

 本当、寄せては返す波のように厄介事って奴はなくなることがない。それでもなんとかなる、と思えるのは隣に立つ少女が穏やかに笑っていてくれるからだろうか。

 

 俺は一人じゃない。そう思うとどこまでも心強くて勇気が湧き出るものなのだと、俺はこの世界で学んだ。

 アインクラッドは全百層。今日で四分の三を終え、残りは四分の一。終わりは見えてきたんだ。必ずクリアする、一日でも早く終わらせる。

 そして皆を――俺の大事な人達を誰一人欠けさせることなく現実世界に還してみせる。その輪の中に俺自身も入れれば最高だと、腕の中の軽やかな重みを感じながら深く深く感じ入るのだった。

 

 




 フロアボス撃破後も広間の結晶無効化空間が解けないのは独自設定です。次層のアクティベートと共に消失するものとしています。
 麻痺毒は攻撃付与で受けたものより経口摂取で受けたほうが効果は大きく、回復に時間もかかる設定は拙作独自のものです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第17話 仮想世界の申し子 (1)

 

 

 第22層の特徴は一にも二にも人が少ないことだ。

 敷地規模こそ低層故の広大さを保有してはいても、主街区である《コラル》からして小さな村でしかなく、層全体が森林みたいなものなのだからその辺鄙さも相当だろう。主街区と北に広がる迷宮区、それから層の中央、及び各所に点在する湖を除けばひたすら針葉樹が広がっているだけ。加えてフィールドにモンスターも出現しないため、狩りに訪れるプレイヤーも存在しない。

 この層で見かけるプレイヤーのほとんどはゲームクリアを諦めて細々と暮らすことを選び、日々の娯楽として湖で釣りに精を出す趣味人くらいのものだった。この層に引っ越してきてから数日の間で、上層で活動する顔見知りと出会ったことは一度たりともない。

 

 俺が購入したログハウスは広大な森の中でも外周部の程近くに位置していて、いわば層の外れだ。寝室の南側に設えた窓を開け放てば、陽光を反射してキラキラと輝く湖面と濃緑の木々の向こうに、一面の蒼穹を目の当たりにすることも出来る。俺達の生活するアインクラッドは超大型浮遊城であり、層の外縁部に足を運ばないと青空をお目にかかれないため、この景色を毎朝拝めるだけでもホームを作った甲斐があったと得心したくらいだ。

 ちなみに我が家の間取りはリビングと寝室の二部屋しかない。とにかく小さな一軒家なのである。とはいえ、ギルドホームのように大人数が常駐する目的で購入したものではないのだから、俺には何の不満もなかった。同居人にも不満はない、と思う。家具の選択や配置に悩んでデフォルト設定のままでいいか、と考えていた俺を察したのか、アスナが率先して部屋のコーディネートを請け負ってくれたので内装もおかしなことにはなっていないはずだ。

 

「うーん、記憶喪失の少女かぁ」

 

 我が家というのも良いもんだなとしみじみ感じ入っていると、食卓の席に座したリズが小さく首を傾げ、ぼんやりとした様子でつぶやいた。

 

「その子は《ユイ》って名前以外は何も思い出せないわけよね?」

 

 一度ちらりと視線を件の少女に向けた後、リズは思案気な表情を浮かべてその口に確認の問いを乗せる。リズが目をやった先には柔らかなソファーに腰掛けるサチと、サチの膝を枕にした黒髪の少女がお昼寝タイムを過ごしていた。時間的には午睡を通り越して夕飯前の時間だけに、お昼寝タイムというのもおかしいか。外はもう宵闇が訪れる刻限だ。

 あどけない幼子の可愛らしい寝顔を見せるユイと、慈愛の微笑みを覗かせてユイの頭を撫でるサチという、この上なく和やかな光景に眦が緩むのを自覚しながら、俺はリズの問いに頷いた。

 

「自分の親兄弟とか、今までどこで暮らしてたかとかも全く思い出せないらしい。記憶喪失ってより幼児退行って感じがするよ。ユイが目を覚ましてすぐの頃は、呂律も回ってなくて俺のことを《きいと》、アスナのことを《あうな》って呼んでたくらいだし」

「うへぇ、心の問題となるとあたしたちには荷が勝ちすぎる話よね。どっかに精神科医でもいないもんかしら?」

「どうだかなあ、この世界でそうした専門的なケアが出来るプレイヤーがいたなら、口コミだけでも相当広がりそうなもんだけど」

 

 アインクラッドにはその手の薬はないから、精神科医よりはカウンセラーの領分かもしれない。二人して暗く浮かない顔を突き合わせ、深々と溜息をつく。

 ユイに限った話でもない。二年前、この世界にいきなり放り出された当時ほどではないにしろ、今でも心のケアを必要としているプレイヤーは多いはずだ。

 

「ねえアスナ、血盟騎士団には何も情報ないの? あんたのギルドって情報通で有名じゃない?」

「最前線に関わることならともかく、それ以外となると厳しいかなあ。まして迷子とか探し人とかは完全に管轄外だもの。ユイちゃんって多分下層で暮らしてたんだと思うしね」

「そりゃそっか」

「そっちも問題だけど、ユイちゃんのバグも頭の痛い話なのよね。一応装備欄の変更ができるのは確認したけど、右手を振り下ろすわたし達のコマンド呼び出しと違って、左手を振り下ろさないと表示できなかったり、ウインドウを可視化モードにしてもレベルや経験値バーすら表示されなかったりともう滅茶苦茶。わたしもキリト君もさっぱりで、どうしたらいいのか見当もつかないわ」

 

 エプロン姿でキッチンに立ち、楽しげに料理を作っているアスナが肩越しにリズと言葉を交わす。不幸中の幸いだったのは、ユイと接していても他のプレイヤーにユイと同じ症状が出ていないことくらいだ。もちろんそれも現時点でのものに過ぎないが。

 アスナがてきぱきと使いこなしている我が家の調理器具は、その大半がアスナによって選ばれ俺が買わされたものだったりする。中にはアスナが自宅から持ち込んだものすらあるのだから、既にこの家の主が交代しているような気がしないでもない。

 「ユイちゃんに出来合いの美味しくないご飯を食べさせる気?」というアスナの一睨みに、早々と白旗をあげてごめんなさいをした俺を誰が責められよう。ただ、ユイの食事に託けて、アスナの手料理を用意してもらえる幸福を地味に噛み締めている俺だったりもするわけだが。役得役得。

 

「新聞の探し物や訊ね人コーナーにも迷子の情報はなし。これはいよいよまずいんじゃない?」

「ああ、やばい」

 

 肩肘をついた姿勢で次々とウインドウを操作して幾つもの新聞(ニュースペーパー)に目を通し、顔を顰めて口にされたリズの言葉はいちいち尤もだった。俺もアスナも日毎に確認してはいたが、未だにそれらしい情報はない。アルゴに頼んで匿名で迷子を保護した文面も載せてもらったりと手は打ってみた。しかしそちらも収穫なしだ。

 リズが確認したことも今更と言えば今更なわけだが、改めてどうしようもない事実を突きつけられ、さらにどんよりと空気が重くなった。

 

 ユイを探しているプレイヤーがいないということは、それはつまり、ユイの保護者プレイヤーが既にこの世界にいないということにつながる。いや、それよりも問題なのは、ユイが親なり兄妹なりと一緒にこの世界にログインしたのではなく、たった一人でこの世界に来たまま閉じ込められ、二年間を孤独の内に過ごしていた可能性すらあることだ。もしもユイがそんな事態に陥っていたとすれば、とてもそんな過酷な環境に耐えられたものではないだろう。心を閉ざして記憶を失ってしまうのも無理はない。

 そこまで考え、脳裏に浮かんだ最悪の想像を振り払うように軽く息をつき、気分を一新させる。まだユイを保護して四日目だ、諦めるには早い。

 

「まあ、その子に起こってるっていうバグも含めて、ここであたし達が悩んでても解決するわけじゃないし、必要以上に暗くなってても仕方ないんだけどね」

「リズのそういう前向きなとこ、すごく助かるよ」

「褒めても何も出ないわよー。で、キリトとアスナが頼みたいことってのは、あんた達が攻略に向かってる間その子の面倒を見てほしいってことだっけ? メッセージでも伝えておいたけど、あたしは構わないわよ。毎日となると難しいけど、時間が作れる時なら協力してあげる」

「恩に着る。どうにも子育て舐めてたというか、改めて両親の偉大さを認識してるとこだ。色々生活が簡略化されてるアインクラッドでさえここまで苦労するんだから、世の父親母親はすごいもんだよなあ」

 

 そもそも保護しようとした少女が記憶喪失なんて想定していなかった。いきなりここまでの暗礁に乗り上げるとか予想外だ。

 ユイは精神性が著しく退行しているせいかえらく危なっかしい。言ってみれば常識知らずな子供だった。見た目は八歳前後でも中身はもっと幼い。さすがに赤ん坊並ということはないが目を離すには不安が募るのだ。

 しかし一日中ユイの世話にかかりっきりになっていては俺が攻略に参加することが出来ない。75層をクリアしたとはいえ、まだまだクリアせねばならぬ階層は数多く残っているのだから、ここでのんびりしているわけにもいかなかった。

 

 俺とアスナで交代しながらなんとか時間のやりくりをしてはみたのだが、結論から言えばユイの面倒を見る事と攻略を両立させる事は不可能という事実が早々に浮き彫りになった。加えてユイの両親探しを並行させる必要もあるのだから、俺とアスナが早々にギブアップしたことは言うまでもない。

 そこでまず白羽の矢が立ったのがサチであり、今ここにいるリズだった。リズ達には申し訳なく思うものの背に腹は変えられなかった。一応ユイの抱えるバグの問題と危険性は伝えておいたが、彼女らは二つ返事で了承してくれたのだから頭が下がる。

 それに――。

 

「最前線でゴタゴタがあった関係で、今の時期に俺が攻略から足を遠のかせるわけにもいかなくてな。今までが今までだったからか、最前線に篭る時間が短くなっただけで俺のドロップアウト説が囁かれるのはどうしたもんだか」

 

 ヒースクリフ達の前で遺恨はないと宣言した以上、殊更血盟騎士団と距離を置くような真似は出来ないし攻略を疎かにすることも出来ない。言葉だけで信を貰えるはずがないのだ、出来うる限り行動で示さないと。

 それにあんなことがあったからって攻略に消極的になりでもしたら俺が拗ねてるみたいじゃないか。いくらなんでも血盟騎士団に当てつけるために攻略時間を削ったりなんてしないぞ。

 

「確かに悪い時期に重なったわねえ。アスナもよく時間を確保できたものだと感心するわ」

「うちはここ数日ほとんど攻略に出てないからね。団長が気持ちを整理するための休暇期間も必要だろうって皆に休みを取らせたから」

「アスナだって改めて攻略シフトを練ったり他のギルドに頭を下げに行ったり、何より部下のケアをしなきゃならないしで多忙には違いなかっただろ。明日から本格的に活動再開するんだっけ?」

「そういうこと。今のところ退団者が出てないのが唯一の救いね、身内から裏切り者を出したことは皆堪えてたみたいだから」

 

 そりゃなあ、と自然と眉根が寄ってしまう。人的被害が裏切りの張本人しか出なかったのは不幸中の幸いだが、血盟騎士団の団員にとっては衝撃的だったろう。というか攻略組全体に動揺は広がっている。他のギルドにだってPoHの手が伸びている可能性は否定しきれないのだ。今のところ表立った問題には発展していないが、PoHの撒いた疑心暗鬼の芽はどうしたって摘みきれるものではない。

 PoHのこういうところが腹立たしいんだ。クラディールの企みが成功しようが失敗しようが、PoHの目的に沿った結果にしかならないんだから。どちらに転んでもいいように駒を配置し、自身は高みの見物に興じて俺達を嘲笑っているのがあの男だった。地獄に落ちてしまえ。

 

「ねぇキリト君、そろそろメインの調理も終わっちゃうけど、大丈夫なの?」

「多分。いいかげんアルゴ達も来るはずなんだが――っと、ジャストみたいだ」

 

 キッチンから振り向くアスナに返答を返そうとすると、とんとんと規則正しく扉をノックする音が響いた。

 圏内だからこそのリラックスを継続したまま、席を立って扉へとゆっくり近づいていく。そのまま無造作に木製の玄関口を開くと、目の前に立っていたのは小柄な少女だった。彼女のトレードマークでもある小竜も元気そうだと目を細める。

 

「いらっしゃい、シリカ。歓迎するよ。アルゴはどうした?」

「あ、あの……」

「ん?」

 

 予想していたツーショットじゃなかったことに少しばかり驚いていたのだが、すぐにシリカの様子がおかしいことに気づく。俯き気味に伏せられた(かんばせ)は、ここまで全力で走ってきたかのように上気した朱色に染められており、彼女の視線もそわそわと落ち着きなく左右へと揺れていた。常は人と目を合わせて、はきはきと喋る快活な少女にしては珍しいことだと首を傾げていると――。

 

「キ、キリトさん! あの、その……あ、あなたのシリカが大切なものを捧げにきました……!」

 

 ――特大の爆弾が落とされましたとさ。

 

 心なしか俺の背後で空気が凍りついている気がする。よし、振り向かないことにしよう。

 シリカは祈るような姿勢で手を組み、潤んだ瞳で俺を見上げている。何の演出だこれは、と気が遠くなった。どうか受け取ってくださいと涙目かつ上目遣いで懇願するシリカの姿に俺はノックアウト寸前である。……主に胃が。もしくは俺の社会的地位が。そういうカミングアウトは二人きりのときにお願いしますシリカさん。

 シリカを唆した黒幕が脳裏に浮かび上がり、脱力が増していく。今回の悪戯も中々に手が込んでやがるな、おい。

 

「シリカ、今度はアルゴに何を吹き込まれたんだ? もしかして罰ゲームでもやらされてるのか?」

「わわ、違います違います。全然全くこれっぽっちも罰ゲームなんかじゃないですし、むしろご褒美みたいなものでして。アルゴさんからキリトさんのお引越し祝いに参加する権利を譲って貰った交換条件と言いますか……」

 

 ぐるぐるお目目かつ早口でまくし立てるシリカに和みそうになるが、同時に何だかなあと頭痛が襲い掛かってもくるのだった。

 

「それは見事に騙されてるんじゃないか? アルゴに声掛けた時にシリカも一緒に連れてきてくれって言ってあるぞ」

「うぅ、アルゴさんひどい……」

 

 毎回アルゴにからかわれてるんだから、そろそろシリカにも耐性ついて良い頃なんだけどな。とはいえ、シリカにアルゴみたいな根性悪になられても困るため、この可愛らしい竜使いには今のままでいてほしいと切に願っておく。

 

「それで、アルゴが来てないのは?」

「えっと、アルゴさんから預かった言葉をそのまま伝えますね。《オレっちガキは苦手だから遠慮しとくヨ。必要な情報は全部シィちゃんに伝えてあるから心配しなくていいゾ》、だそうです」

「ものぐさな奴め」

「いえ、アルゴさんなりの冗談だと思いますよ? 別件が入ったって言ってましたし」

 

 慌て気味にアルゴを弁護するシリカにわかってると苦笑しながら伝えた。アルゴの顔の広さはアインクラッド有数のものだし、急な用件が入ることもあるだろう。残念ではあるが仕方ないと言い聞かせ、シリカを伴い改めて食卓の席についた。さて、微妙な空気が漂う中で皆にはどう説明したものだろう?

 

「シリカ、あんたってそんな大胆な事を言う子だったのねぇ」

「お願いですから言わないでください。……もう、アルゴさんのばかぁ」

「人のせいにしちゃ駄目よ。《騙される方が悪い》、でしょ?」

 

 行儀良く席につくや恥ずかしさに縮こまってしまったシリカを見て、にんまりと笑ってからかい倒したのはリズだった。

 

「そういえばリズとシリカは面識があったっけ」

「あんたが紹介してくれた大事なお客様ですからね」

「あ、キリト。私もシリカちゃんとは会ったことある」

 

 なんですと?

 些かの驚きと共にサチに目をやると、彼女は変わらずユイを膝に乗せたままふんわりと微笑んでいた。

 

「サチさんとはアルゴさん経由で知り合いました。月夜の黒猫団の皆さんともその時お会いしましたよ」

 

 シリカの補足説明に思わず唸り声をあげてしまった。ううむ、意外な人のつながりを見た気分だ。

 

「あれ、もしかしてわたしだけハブられてる?」

「単に機会がなかったというか間が悪かっただけだろうけど、結果的にはそうなってるかもな」

「キリト君ひどい! えっと、シリカちゃん、でいいよね? はじめまして、アスナっていいます」

「わあ! お会いできて光栄ですアスナさん、あたしのことは好きに呼んでください!」

 

 自分一人面識がないことに微妙にショックを受けている様子だったが、すぐにアスナは気を取り直してシリカにお茶を差し出していた。そんなアスナを見るシリカの目は一目で尊敬しているとわかるもので、やっぱ素直だなあシリカって、などと腕を組んで感心してしまう。

 

「ところでキリト君、さっきから何度かアルゴさんの名前が出てるけど、もしかしてシリカちゃんって普段はアルゴさんと一緒にいるの?」

「普段からどの程度行動を共にしてるのかは俺も知らないんだけど、どうなんだシリカ?」

「さあ、どうなんでしょう? アルゴさんのお仕事の手伝いはさせてもらってますけど、毎日一緒にいるかと言うと違いますし」 

 

 シリカ自身もどこか曖昧な物言いだった。

 

「あたしは以前、キリトさんに助けてもらったことがあるんです。その時、レッドギルドに目をつけられた可能性があるからしばらくは身辺に気をつけろ、って注意されました。それでキリトさんからアルゴさんを紹介していただいて、アルゴさんに面倒を見てもらってたんですよ。アインクラッドの情勢とか近づかないほうが良い場所とか色々教えてもらいました。その縁で今でもアルゴさんのお手伝いをさせてもらってるんです」

「へぇ、じゃあシリカちゃんは情報屋見習い?」

「あはは、簡単な聞き取りとか情報整理くらいしかさせてもらってませんけどね」

「そんなシリカに朗報だ。アルゴがシリカのことを筋が良いって褒めてたぞ」

「ほんとですか!?」

 

 途端に喜色満面になるシリカだった。アルゴのことをどれだけ慕ってるのかを伺わせる反応である。当初は仲良くやれるのか心配もしたものだが、普段から斜に構えたアルゴと何事においても素直なシリカは意外に相性が良かったらしい。俺の心配も杞憂に終わって何よりだ。

 

「ああ。ついでに『人に警戒されない娘だから、噂話とかを無料で聞き出すのにこれほど向いてる人材はいない』って絶賛してたぜ?」

「あれ? それってあんまり褒められてる気がしませんよ?」

「そんなことはないぞ、十分褒められてるって」

 

 アルゴも随分名前が売れてるしな。『五分雑談すると知らないうちに100コル分のネタを抜かれることになる』だなんて、《鼠のアルゴ》を揶揄する評判もあるくらいだ。情報屋なんてやってれば多かれ少なかれそういう悪評は付き纏うもんだし、本人はまったく気にせず笑い飛ばしていたけど。そういう意味では、誰とでもすぐに仲良くなって相手に警戒心を抱かせないシリカの天真爛漫さは、アルゴが評価するには十分だろう。

 しばらく疑問符を飛ばしていたシリカだったが、やがて「あっ」と声をあげて慌てたように立ち上がった。そのままぺこりと頭を下げる。

 

「ご挨拶が遅れちゃいました。お引越しおめでとうございます、キリトさん。それから本日はお招きいただきありがとうございます」

「ありがとな。シリカも肩肘張らずにくつろいでいってくれ」

「はい!」

 

 律儀なことだと苦笑していると、今までシリカの傍でお行儀良く毛繕いをしていた小竜のピナが「きゅる」と一声鳴いてみせた。翼を広げてシリカの元を離れると、俺の肩にぱたぱたと舞い降りる。

 

「ちょっとピナ、どうしていつもキリトさんの方に行っちゃうの。戻ってきなさいってば!」

 

 主の命令にもピナは我関せずとばかりに再び毛繕いを始めてしまう。こいつも大概不思議なやつだよな、普通ティムモンスターは飼い主のビーストテイマーから自発的に離れたりしないもんだけど。

 ピナはずっとシリカと一緒に生きてきてるわけだし、長く使い魔モンスターをやってるとこうしてイレギュラー性を増すこともあるのだろうか? そんな推論を抱きながら、いつも通り猫にするような手つきでピナの喉を撫でてやると、嬉しそうに俺の腕に顔をすり寄せてくるのが可愛い。こういう人懐っこいところは飼い主に似たのかもしれない。

 

「楽しそうなとこ悪いけど、お料理できたから運ぶよー。サチさんはそろそろユイちゃん起こしてあげてくださいね」

「あたしも運ぶの手伝うわ」

「ありがとリズ」

 

 頃合と見たのか火を落としながら告げるアスナに、真っ先にリズが手伝いを申し出て席を立つ。アスナに呼びかけられたサチは今まで静かに寝息を立てていたユイの身体を揺り動かし、優しく覚醒を促していた。程なく小さな黒髪の少女が寝惚け眼で身体を起こす。まだ意識が戻りきらないのか、ぼーっとした顔で周囲を見渡した。

 ぱちりと俺と目が合う。

 すると蕩けるように笑み崩れ、「わー、パパー」と間延びした甘い声で俺を呼ぶのだった。……俺、今なら親馬鹿って言われる人達がどんな気持ちなのかよくわかる。それはもう切実に。

 

「パパー、だっこ」

 

 俺に向かって両手を差し出すユイに俺も笑い返し、早く迎えにいこうと立ち上がった。その時、絶妙なタイミングでピナが俺の肩から飛び上がり、定位置のシリカの肩へと戻っていく。

 

「お、おかえりなさい? ピナ」

 

 あまりに空気を読みすぎているペットモンスターの機転にシリカも目を丸くしていた。本当にお前ただの使い魔モンスターか? ちょっと賢すぎる気がするぞ。

 しかし今はユイが優先だと歩を進めていく。悪いなピナ、後で一緒に遊んでやるから。

 

「ユイちゃんはキリトによく懐いてるわよね」

 

 食卓に次々と食器を並べながら呆れ混じりの視線を寄越すリズだった。そんな視線も何のその、全身から喜びを発散しながら抱きついてきたユイを抱えあげ、笑みを交し合う。

 

「うん、間違いなくユイちゃんはキリト君に一番懐いてるわね。サチさんにも相当だと思うけど」

「私よりは断然アスナさんだと思うよ? ユイちゃんがママって呼んでるのもアスナさんだし」

「……最初に保護したのがキリト君とわたしだから、きっとそのせいね」

「ふふふ、アースーナー? 顔がにやけてるわよ」

「え、嘘!?」

「わわ、アスナさん食器落ちちゃいます!」

 

 和気藹々と食事の準備を続ける女性陣の華やかさは中々のものだった。仲がよくて結構なことだとわけもなく嬉しくなってしまう。

 しかしパパにママか。やっぱりユイは失った記憶の向こうで両親を求めているんだろうか? 今は思い出せない記憶の中にある両親の面影に俺とアスナを重ねているとすれば、これほど不憫なことはない。

 

「パパ、どうしたの? かなしいの?」

 

 無垢な瞳を俺に向けたまま、どきりとする洞察を見せるのは子供の素直さ故なのだろうか。時々ユイはこんな風に、こちらがびっくりするような鋭さを披露することがある。周囲の感情の動きに敏感なのだろう。

 悲しくなんてないぞと示すようにユイの頭をぽんぽんと優しく撫でて、曇り気味だった表情を引っ込め、笑顔を向ける。父親代わりをしている以上、娘を不安がらせちゃ駄目だよな。

 

「大丈夫、パパはいつだって元気一杯だぞ。それに今日はママが腕によりをかけたスペシャル料理を作ってくれたんだ。もっともっと元気になれるし、きっとほっぺが落ちちゃうくらい美味しいからな。楽しみだ」

「ほっぺ? ユイのほっぺおちちゃう?」

「ああ、何といってもママが料理してくれるS級食材の《ラグーラビットの肉》だからな、ちょっとやそっとじゃ食べられないレア物だ」

 

 《ラグーラビットの肉》は昔、リズに剣を打ってもらう前金代わりに渡した食材であり、後に剣の代金はいらないと言って突き返そうとするリズに、それくらいは受け取っておいてくれと俺が受け取り拒否した物だった。

 結局、リズは今日まで自分で食べることも売りに出すこともなく、今回俺のプレイヤーホーム購入祝いにしようとその高級食材を持ち込んだのである。リズの言い分としてはS級食材を料理できる知り合いがアスナだけで、多忙なアスナに頼む機会を見つけられないままアイテムストレージを占有し続けてたから丁度よかった、だそうで。リズも下手な嘘をつくものだと思いながら、何も言わずに彼女の心遣いを受け取った。

 賞味期限がない世界ってのはこういう時に便利だ。ストレージに収納している限り食材の耐久力は減らないから、半永久的に食材を残しておける。ちなみに料理スキルマスターかつオリジナル調味料考案者のスーパー料理人ことアスナは、《ラグーラビットの肉》を見て喜色満面に「煮込み(ラグー)って言うくらいだしシチューにしましょう!」と燃えていた。……アスナ、お前、ボス戦を控えてる時より気合入ってなかったか?

 

「ユイ、ママのつくるごはんすきー!」

「そうかそうか、パパもママのつくるご飯好きだぞー」

 

 きょとんとした顔で首を傾げた後、万歳をするように喜びを露わにするユイがとても微笑ましかった。もう一度軽く撫でてから食卓の椅子を引き、ユイを席に座らせようとすると、「パパといっしょがいい」と再び手を伸ばされてしまう。わずかの間思索を飛ばすも、ユイの望み通りにしようとさっさと結論付けてしまった。

 

「キリトはきっと子煩悩なお父さんになるよ」

 

 ユイを膝に抱き上げて席についた俺に、サチはそう言ってくすくすと楽しげに笑みを零したのだった。

 

 

 

 

 

「結論から言わせていただきますね。現在、ユイちゃんは《存在しないプレイヤー》と言って過言ではない状態です」

 

 皆でアスナ謹製のオリジナルレシピを駆使した料理と、本日のメインメニューである《ラグーラビットの肉》を使ったシチューを囲って舌鼓を打った後、食後のお茶を口にしながらのシリカの言葉だった。前置き通りに単刀直入な物言いである。

 

「シリカ、もう少し詳しく」

 

 俺の膝の上でピナと戯れるユイは自分の話題が振られても気づいた様子はなかった。ユイはこの場に残さず先に休ませようとも思ったのだが、さすがに寝起きだったからかまだまだ遊び足りないらしく、すぐに寝室に入るのを嫌がった。というか俺と離れるのを嫌がった。

 最近ユイが世界一可愛い娘だと思うようになってきた俺は悪くないはずだ。世のお父さんは皆、娘にこんな感情を抱くのか。

 

「はい。まだ調査も始めたばかりなので、これから継続して情報集めを続けなきゃならないことも踏まえてお聞きください。まず黒鉄宮の生命の碑ですが、ユイちゃんの名前は記されていませんでした。……正確に言えばプレイヤー名《Yui》は存在します。ですがその名前は既に横線が引かれていて――つまり故人のものなんです。ちなみに日付は一年以上前のものでした」

「それってここにいるユイちゃんが幽霊ってこと?」

「ひっ! リズぅ、そっち関係のお話は止めてよぅ」

「ごめんごめん。そういえばアスナってお化けが駄目なんだっけ」

「……だ、大丈夫だよ? 最近はアストラル系モンスターとだって戦えるようになったもん。た、多分……!」

 

 アスナ、お前が頑張ってることは俺が良く知ってるから無理するな……。

 

「いえ、生命の碑に記されていた《Yui》さんについては生前を知るプレイヤーから証言が取れてます。お亡くなりになった《Yui》さんは成人女性相当の外見だったそうですし、別人と判断して構わないでしょう」

「そっか。それじゃ、ユイのステータスで表示された《Yui-MHCP001》の方は? バグで文字化けしてる可能性も高いけど」

「はい、そちらも生命の碑に記載はありませんでした」

 

 やっぱりかと嘆息してしまう。

 

「《ユイ》で思いつくアルファベット文字列も確認してみましたけど、収穫はなしですね。それから主街区と例外的に人口密度が高い村を中心に下層で聞き込みをした結果、そっちもユイちゃんくらいの年齢、容姿に思い当たる人は見つかりませんでした。よって今のところ手がかりなし、です」

「なるほど、だから《存在しないプレイヤー》って言ったわけか」

「はい」

 

 こいつは参った。

 ユイくらい特徴的なプレイヤーならすぐに保護者も見つかるだろうと楽観していたのだが、保護者どころか生活の痕跡すら見当たらないというのはな。ユイを知るプレイヤーが一人でも見つかればそこから調査も進むのだろうけど、現状影も形もない。

 今までユイはどこでどんな生活を送ってきたんだろうと眉間に皺を寄せて天井を仰ぐ。謎ばかりが深まり、手がかりはなにもなしってのはつらい。

 

「力になれなくてごめんなさい、キリトさん」

「何言ってんだ、こんな短い時間でここまで調べてくれたんだから十分すぎるほどだって」

「あはは、その言葉はアルゴさんに言ってあげてください。ほとんどアルゴさんが調べ上げたことなんですから。アルゴさんは信じられないくらい顔が広いですよね、尊敬しちゃいます」

「勿論アルゴには後で礼を言っておくよ。でも、今はシリカに感謝しなきゃだからさ。本当にありがとな、助かった」

「え、えへへ。褒められちゃった」

 

 照れたようにはにかむシリカを微笑ましく眺めながらお茶を一口啜る。うむ、美味い。クラインお勧めのものだけど結構いけるな。しばらくは我が家に常備させておこうか。

 

「なかなか上手くいかないものね」

「ああ」

 

 マグカップを抱えながらのリズの台詞に俺も首肯を返すしかなかった。不謹慎ではあるがモンスターを相手にしているほうがずっと容易い難易度だとさえ思える。ユイの失った記憶のことも追々考えなくちゃいけないだろうしな。

 

「ユイの両親探しは引き続きお願いしていいか? 今のところアルゴとシリカに任せるしかないんだ」

「わかりました。それとアルゴさんから、あたしは調査よりもユイちゃんのお世話を優先するよう言われてますから、何でも言ってくださいね」

「そっか、助かるよ。何から何まで悪いな」

 

 いえいえ、と恐縮するシリカに真摯に頭を下げる。ここまで親身になってもらえるのは嬉しいけど、お礼はどうしたもんか。

 

「俺とアスナも可能な限り時間は確保するつもりだけど、察しの通り攻略を休むには時期が悪い。なるべく最前線に顔を出す必要があるから、どうしても皆に負担をかけることになっちまうんだけど……すまん、よろしく頼む」

「水臭いこと言わないの、困った時はお互い様でしょ。それにユイちゃん可愛いから大歓迎よ」

 

 肩を竦めて何でもないように口にするリズに、シリカやサチも同調するように頷いた。俺としてはただただ感謝する他はない。アスナと顔を見合わせてほっと息を吐いた。

 

「ところで――」

 

 妙に音を区切って強調するリズに何事かと全員の目が向く。全員の視線を集めたリズは何とも意地の悪そうな顔で笑っていた。

 

「さっきユイちゃんが、シチューをスプーンで掬ってキリトに《あーん》をしてあげてたわよね?」

 

 なんだ、そんなことか。一体何を言い出すのかと一瞬身構えた身体を脱力させてしまう。確かに夕食の席でユイが俺にスプーンを差し出していたし、俺もそれを戸惑うことなく受け入れていた。これはリズに《親馬鹿》とでもからかわれるのかな、と苦笑いを浮かべた俺だったが、生憎からかいの対象は俺ではなかったようで――。

 

「ユイちゃんって記憶喪失って話だったわよねぇ。だったらユイちゃんがキリトにしたことって誰かの真似事だと思うんだけど、一体どこのどなた様が《あーん》なんてベタなことをユイちゃんの前で披露してたのかしら」

 

 リズの目は獲物を見つけたと言わんばかりに怪しげな光を放ち、口元は愉しげな笑みに歪んでいた。それは悪役の笑い方だぞリズ。

 さて、リズに疑惑をかけられている栗色の髪の少女はと言えば……引きつった表情を浮かべ、全力で目を逸らしていた。うん、一発で『わたしが犯人です』と自供してる振る舞いだ。

 

「アースーナー」

「な、なにかなあ、リズ?」

 

 おどろおどろしいリズの声が不気味に木霊し、アスナはより一層身体を強張らせていた。そのまま痛いほどの沈黙が降り、やがて皆の視線の集中砲火に耐え切れなくなったのか、ぼそぼそと言い訳がましい様子でアスナが口を開く。

 

「だってだって、ユイちゃんがあんまり可愛くて、自然と『わたし達って新婚さんみたいだなあ』とか思っちゃったんだもん。結婚は女の子の夢なんだし、それくらい許してよー」

「ギルティ! そもそも子供がいるのにどうして新婚さんなのよ。っていうかあんたの新婚さんイメージは乙女チックすぎ!」

 

 リズはぴんと伸ばした指を突き付け、アスナの可愛らしい主張に一片の容赦なく有罪判決を下したのだった。そうなると俺も同罪なんだろうか? お互い悪ノリしてやらかしてしまったことではあるし、あの時はスプーン……じゃなくてフォークを差し出すアスナの幸せオーラに押されて、見事に流されてしまったことも事実だけど。

 

「ほらシリカ、あんたも何か言ってあげなさい」

「え? その、あの……あ、あたしも同じことをやってみたいかなあ、なんて」

「……あんたやっぱり見かけによらず大胆だと思うわ」

「そんなことないですってば!」

「うぅ、サチさーん、リズがいじめるんです。助けてください」

「あ、こらアスナ、そこでサチさんに頼るのはずるいわよ」

 

 賑やかだなあとどこか遠い目で騒ぎを見つめる。『女三人寄れば姦しい』、どうやらその格言は正しいらしい、しみじみ実感してしまった俺である。眼前には男性お断りな世界――とても華やかな空間が出来上がっていた。

 

「えっと……キリト? アスナさんが困ってるんだし、こういう時はキリトがフォローしてあげなきゃ駄目だよ」

「パパ、だめー」

 

 サチの言葉尻に乗っかる形でユイにも駄目出しされてしまった。もちろんユイはサチの真似をしてるだけに過ぎないんだが、だからと言って無視できるものでもない。

 うへぇ、この場の男女比において圧倒的マイノリティに属する俺に対してご無情なことを仰る。そんな嘆きもそこそこに、「りょーかーい」と早々に諾を返す俺だった。サチに叱られるだけでも問答無用で頷きたくなるのに、ユイにまで同じことされた日には白旗をあげる以外に俺に打てる手はない。そして、それも悪くないと思うのだった。

 

 

 

 

 

 俺のプレイヤーホームへの引っ越しを皆に祝ってもらってから一週間と少し、暦は十月へと変じていた。

 その間俺は以前に比べれば格段に少なくなった攻略時間に若干の後ろめたさと焦慮を抱きながら、少しでも攻略効率を稼ごうと奮闘を繰り返す。アスナもアスナで懸命に血盟騎士団の士気回復に努め、どうにか平常運転が可能なところまで盛り返していた。クラディールの裏切りが発覚した当初の混乱も収まりつつある。アスナから聞かされるギルドの内情にほっと一息ついた俺だった。

 慎重かつ迅速にマッピングを完成させていく作業は俺にとってのルーチンワークなので、今までと殊更変更するようなものはない。それに懸念だった76層の攻略難易度も突然跳ね上がるようなことはなかった。

 あとはフロアボスの難易度がどうなるか、だな。75層のこともあるから安易に偵察隊を出すわけにもいかないし……はてさて、ヒースクリフはどう考えているのかね?

 

 その一方でユイの問題は解決の兆しを見せず、暗中模索状態だった。本来の保護者は影も形も見出せず、ユイに起こっているバグも一向に収まる気配がない。圏内に留まらせる限り目立った不都合がないのが救いだった。

 皆に大きな負担をかけている以上、何かしらの手を打つ必要はあるのだが、何せ俺も攻略と両立している関係で時間の確保が難しい。ユイもサチ達に懐いているとはいえ、俺かアスナが長時間姿を見せないと寂しがって泣きそうになるため、おいそれと迷宮区に潜り続けるわけにもいかなかった。子育てって大変だ。

 

 そんなこんなでサチ達にボランティアを求めるのも心苦しく、ユイの相手をするために22層に戻ってきている時は、なるべく彼女らのお願いも聞こうと心に期する次第だった。

 だからというわけでもないが、今日はシリカの申し出で彼女の決闘相手を務めていたりもするわけで――ログハウス前の開けた庭に竜使いの裂帛の気迫が放たれる。

 

「いきます!」

 

 決闘開始のカウントダウンがゼロになり、律儀に一声かけてから動き出したシリカに思わず微笑ましい気分になった。真面目というか真っ直ぐというか。

 地面を滑るような身のこなしを見せて、シリカの小柄な身体が素早く俺の間合いへと踏み込む。間髪入れず繰り出された短剣の攻撃を、俺は右手に握ったエリュシデータで弾き返した。もちろんそれだけでシリカの猛攻が終わるはずもなく、軽やかなステップを披露しながら連続した短剣の突きと薙ぎが止まることなく迫り来る。

 

 しばらく見ない内にまた短剣捌きが上達してるな。

 息つく間もない連続攻撃は彼女の戦闘センスを如実に感じさせるもので、俺の防御を抜く勢いだ。短剣スキル特有の技後硬直時間の短さを存分に生かし、的確なソードスキルを選択した上で絶妙なタイミングを図って技を繰り出す。その戦闘の組み立ては見事としか言えず、彼女の積み重ねてきた戦闘の研鑽を伺わせるには十分だった。

 中層プレイヤーとしては破格の強さだと感心する。レベルも順調に伸びているようだし、もう少しで攻略組の背中も見えてくるか。アルゴに預けた後もレベリングを怠らずに鍛え上げた成果が出ていた。戦闘センスだけならシリカはクラインクラスのものを持っているのだ、伸び代も十分。

 

「パパー、頑張れー!」

「シリカ、キリトを負かしちゃえ!」

 

 やや離れた位置で外野の声援が飛び交う。ピナを胸に抱きかかえてご満悦なユイと、俺の愛剣のメンテに追加して、別件で注文していた武器を届けにきてくれたリズが、楽しげに俺とシリカの戦いを見物していた。

 俺も娘の前では格好つけたいんだよな。

 と、そんな馬鹿みたいな理由で気合を入れ直し、防戦一方だった戦況に一石を投じるべく反転攻勢を開始する。シリカが放ったソードスキルを大きくサイドステップすることで射程の外へと飛び出し、回避。その一瞬の硬直を利用して攻守を入れ替えた。

 

 どこまでシリカがついてこれるかを確かめるように一撃毎に速さと重さのギアを上げていく。最初の数合はまだ余裕を保っていたシリカだったが、剣戟が十合を超える頃には表情に焦りをありありと浮かべていた。

 このままでは遠からず防ぎきれなくなると悟ったのだろう。俺の横薙ぎの一閃を逆手に握った短剣と添えた左手でどうにか受け止めると、瞳に決着の意思を色濃く浮かび上がらせて力強い呼気を吐き出した。

 

「やぁッ!」

 

 気合一閃突き出した短剣を引き戻した剣の腹で受けた俺だったが、次のシリカの仕掛けは些か予想外のものだった。てっきりソードスキルの連撃につなげるのかと考えていたのだが、俺の目の前で沈んだシリカの動きに否定され、砂地の足元を削るように放たれたシリカの剣によって盛大に砂煙が発生する。意図的に引き起こした砂煙エフェクトにそうきたかと唸る。

 盲点だった。俺はここではこういった小技は使えないものだと無意識の内に決め付けていた。確かにここは圏内だが、同時にフィールドでもある特殊地形なのだから、街中と違って環境エフェクトを発生させる下地はある。

 こういった場合は一旦距離を置いて砂煙が晴れるのを待つのが定石だけど――。

 

「いっけーッ!」

 

 バックステップから俺の側面に回り込んでの一撃。煙幕を引き裂き、強く輝く短剣の刃を閃かせるシリカに内心で悪いなとつぶやく。

 ユイの前ということもあるし、アスナにも勝ちを譲ってない俺が簡単に黒星をつけられるわけにもいかない。何よりスキルアップが目的の腕試しでご機嫌取りに勝利を譲るようでは本末転倒だ。

 

 片手剣上段突進技《ソニックリープ》。

 振りかぶった俺の剣が黄緑色の光の帯を引き、シリカの短剣が届くよりもわずかに早く俺の繰り出した斬撃がシリカを捉えようとする。砂煙で撹乱した上で放った出の早い短剣スキルに難なく合わせられた衝撃によるものか、俺と目が合ったシリカの表情は動揺を隠せず、明らかにひきつったものだった。

 同時に放たれたソードスキルは基本的にリーチの差が物を言う。今回の短剣と片手剣の激突では俺に分があったのだから結果も順当なものだ。

 

「きゃん!」

 

 悲鳴をあげてシリカが地面に倒れこむ。視界に俺の勝利を告げるシステムメッセージが映るが、それを煩わしいと退けるように剣を鞘に収めてシリカの元へ。彼女に手を差し伸ばして立ち上がらせる。いたいけな少女を思い切り地面に這い蹲らせてしまったバツの悪さも手伝い、殊更丁寧になっていた。

 

「ありがとうございます。うぅ、やっぱり負けちゃいました」

「期待以上の戦いぶりだったよ。正直びっくりするくらい強かった」

「本当ですか!」

 

 真面目な顔で頷く俺にシリカは満面の笑みで喜びを露わにしたのだった。その素直な反応にこちらまで嬉しくなってしまう。シリカの裏表を感じさせない天真爛漫さは天性の才能だろうなあ。……どっかの根性悪の影響が出ませんように。

 

「お疲れ様シリカ。キリトもね」

 

 えへへーとご機嫌なシリカを横目にユイとリズに合流すると、リズが俺とシリカに飲み物を手渡す。サンキュと短く礼を告げて喉を潤した。戦闘の余熱を発散してくれる冷たい喉越しがたまらなかった。

 

「パパ格好良かった!」

「きゅくー」

 

 わーい、と諸手を挙げたユイが俺に近づき、ひしと抱きつくと、何が楽しいのかふっくら柔らかな頬をこすりつけて笑っていた。シリカの使い魔モンスターである小竜ピナも、何故かユイに追随するように俺の肩へと降り立って機嫌の良さそうな鳴き声をあげると、やはりユイと似た仕草で俺の頬へと頭を擦り付ける。

 

「もう、ピナったらまた……」

「ユイちゃんはまだわかるけど、ピナまでキリトに懐ききってるのは何でかしらねぇ?」

 

 頬を膨らませてお冠になったシリカに俺はごめんなさいと謝るべきなのだろうか? それとリズ、俺に振られても答えられないぞ。使い魔モンスターのアルゴリズムなんてさっぱりなんだから。

 

「それでキリト、実際のところさっきのシリカとの決闘ってどんなもんだったの?」

「どんなもんって言われてもな。具体的には?」

 

 今日は天気が良いからしばらく日向ぼっこでもしましょうか、というリズの提案を受けて座りやすそうな芝生の上を確保した。そこで俺の腕を取って得意顔になっているユイに目をやり、苦笑を隠さず向けられたリズの疑問に一度首をひねって問い返したのだった。

 

「そうねぇ、社交辞令抜きでシリカに勝ち目はあったのかなって話。もちろんシリカが強いのは知ってるわよ。でもさ、いくらなんでも攻略組――それも色々な意味でおかしいあんたを相手にして、シリカが勝ちを拾えるとはあたしには思えないのよね」

「リズさん、そんなずばり言わなくても」

「いや、だってねぇ」

 

 シリカ、それは自分に勝ち目がないって断言されたことへの嘆きだよな? まさかリズの俺への『おかしい』発言を肯定してるわけじゃないよな、と追及してみたい気分だったが自重した。困った顔で俺の顔色を伺うシリカの態度が、その内心の全てを語っているような気がしなくもなかったので。

 

「レベル差がある以上俺の方が有利だってのは変わらないけど、シリカに勝ち目がないかと言えばそんなことはまったくないぞ? 初撃決着モードは先に一撃入れた方の勝ちなんだから」

「それって短剣の特性込みってこと?」

「短剣がどうして取り回しが良いかって言われてるかを考えればわかるだろ? 一対一でソードスキルが使いやすいってのはそれだけで大きなアドバンテージなんだよ」

 

 肩を竦めて答える俺にリズはまだ納得しきれないのか、どこか半信半疑な様子だった。

 

「その割に最後はあんたがきっちりソードスキルを決めてたじゃない。技の出の早さって短剣の方が上のはずだし、どうしてキリトの技のほうが早く当たったのよ?」

「それはあたしも気になりました。あたしの位置は砂煙エフェクトで上手く誤魔化せたと思ってたんですけど」

 

 リズに便乗して質問するシリカはわざわざ挙手までしていた。無意識なんだろうけど可愛らしいな。

 

「シリカの試みは面白いんだけど、位置情報まで誤魔化せると思うのはエフェクトを過信し過ぎかな。シリカから俺を攻撃できたってことは俺からもシリカが見えてたってことはわかるだろ? この世界では視覚が現実世界以上に鋭敏だから、ちょっとした砂煙程度じゃ完全に姿をくらませるってのは無理なんだ。そういう小技は初見の相手には有効でも、冷静に構えられると思ったほど効果を発揮しない。まあモンスター相手よりはプレイヤー相手のほうが効果を発揮しやすいのは確かだけどな」

 

 プレイヤーはどうしても現実世界の名残りで視覚に頼ろうとしすぎてしまう。その結果、一時的にでも視界が不自由になると取り乱しやすいのだ。虚をつくという意味ではシリカの取った手段も有効に働く余地はある。

 

「それとシリカは単発系の技を多用しすぎる癖があるから、もう少し大胆に連撃系の技を使った方が戦術も広がるし、攻撃も読まれづらくなるよ」

「はい、わかりました!」

 

 真剣な表情で頷くシリカに俺も頷きを返す。向上心が高いと感心しきりだった。

 

「さっきの勝負のことですけど、だったら最後に一か八かの大技を放つとかもありなのでしょうか?」

「決闘で使うならありだと思うけど、決闘の戦い方とモンスターとの戦い方って相当違うから、必要以上に一対一の戦い方を突き詰めようとするのはお勧めしないぞ? この世界ではパーティー前提の集団戦が主流なんだし」

「それは……はい、わかってるんですけど……」

 

 おずおずと尋ねるシリカに眉根を寄せて返答すると、しゅんと落ち込んだ様子で歯切れ悪くシリカが同意を口にした。なんだか妙な感じだと首を傾げてしまう。俺の口にしたことが納得できないというわけではなさそうだけど……?

 

「気になることがあるなら言ってくれて構わないよ。答えられることなら答えるから」

 

 なるべく柔らかい物言いに聞こえるよう注意しながらシリカを促すと、何度か上目遣いに俺を見たり、手元に目を落としたりと逡巡した後、意を決したように真剣な面持ちでシリカが口を開いた。

 

「あ、あのっ! あたし、もっとキリトさんのお手伝いが出来るようになりたいんです! ですから、キリトさんみたいにソロで戦えるくらい強くなれれば、あたしも一緒に戦えるようになるかなって」

「俺みたいにソロで?」

「はい!」

 

 胸の前で握り拳を作り、語気荒く決意を口にするシリカは勇ましくもいじらしかった。

 

「シリカ」

「はい!」

「でこぴんと拳骨、どっちが良い?」

「え? ……あう」

 

 どうやらでこぴんがご所望らしいと勝手に決めつけ、情け容赦なくシリカの額にピシリと一閃。もちろん圏内で強烈な衝撃を与えることなんて出来ないから、それを踏まえて俺が繰り出した対シリカ用でこぴんは、彼女の額にそっと触れるに留まったくらいの表現が正解なわけですが。

 

「さてシリカ、まずソロで戦うって考えを綺麗さっぱり捨てることから始めようか。今時点でソロをやってる奴は相当の馬鹿か変わり者しかいないんだから」

「なんであんたは自分で自分を否定してんのよ……」

 

 真剣な面持ちで告げた俺の横で、リズが呆れた様子で口を挟む。だってなあ……。

 

「最前線にソロプレイヤーがいないのって、徒党を組むのに比べて危険度が段違いってのはもちろんだけど、攻略効率が落ちるのも一因だぞ? 俺がソロで最前線の効率を維持してられるのって、結局高レベルでゴリ押しできるからなんだよ。もうちょい詳しく言うと、比較的技後硬直の短いソードスキルでも遅滞なくモンスターを狩れて、一体当たりにかける戦闘時間が短くて済むから隙もなくせるってこと。ワンパーティー並の速度で迷宮区マップを踏破できるからソロを続けてるだけなんだ。ここまではいいか?」

 

 シリカとリズが頷くのを見て続ける。

 余談ではあるが、二刀流の特性もあって迷宮区の攻略速度勝負だったらヒースクリフ以上にこなせる自信があった。ヒースクリフの神聖剣はフロアボス戦のような決戦向きのスキルだ。

 

「ソロプレイの経験値効率が良いってされてるのは、あくまで一確狩りかそれに近いことができる狩場に限定される。だから安全と効率を求めるなら情報をきっちり収集しておくことが第一条件だ。で、最前線の何が危険かと言えば、安全に戦うために求めるべき情報が、常に白紙の場所で戦い続けなきゃいけないってことだ。情報がどれだけ大切かはアルゴについてたんだからわかるよな?」

「はい、それはもう」

「素直でよろしい。シリカが俺を目標にすることまでは止めないけど、ソロプレイ――つまり俺のスタイルが邪道だってことは覚えておいてくれ」

 

 こくりと頷くシリカを確認し、さらに続ける。

 

「そうだなあ、強いプレイヤー、巧いプレイヤーっていうのは例外なくソードスキルの使い方を熟知してるし、その技能はソロと集団戦では別物なんだ。ソードスキルで発生する隙を補い合うのが集団戦の基本だしな。俺だって一緒に戦うならそういう連携をしっかり身に着けたプレイヤーのほうがずっと心強い。決闘の強さはあくまでソロの強さに通じやすいものであって、ゲームクリアに求められる技能とは重ならない部分も多いってことを良く考えてくれな」

「はい!」

 

 小気味良い返事をしてから、「むん」と気合を入れるシリカの仕草が小動物染みていて思わず笑みが漏れてしまった。一人でなんでも出来る万能を目指す、というのは誰もが一度は通る道なのかなぁと暖かくシリカを見守る。俺もMMO初心者の頃はそうだったしな。

 まあこれだけ言っておけばソロプレイに変な憧れを持つようなこともないだろう。効率以前にこの世界ではソロが危険であることは今更強調するまでもない。

 

「うーん、キリトが言うこともわかるんだけどさ。それでもあたしはあんたが困ったりするようなとこを想像できないのよねぇ。これは純粋な疑問というか、前から一度聞いてみたかったことなんだけど、あんたって負けたことあるの?」

 

 ユイがもっと自分を構ってと見つめてきたのを合図にかいぐりかいぐり撫で回していると、何事か考え込んでいたリズが小首を傾げてぽろっと口に出した。本当に興味本位な質問っぽい。俺も特に悩むことなく、気負いのない答えをすぐに返す。

 

「そりゃもう数え切れないくらいあるぞ」

「そうなの? ホントに?」

 

 何故そこで疑しげな目になる? 今更言うまでもなく、負けて逃げ延びたことなんて幾度もあるのに。

 

「俺も疑問なんだけどさ、どうしてソロをやってる俺が常勝不敗だなんて思われてるんだ?」

「え? ソロをやってるからこそ負け知らずって思われてるんじゃないの?」

 

 ……おや? 何か根本的に話が噛み合ってないような気がするぞ?

 そんな俺の疑惑も置き去りにリズはさらに疑問を投げかけてくる。

 

「大体、フロアボスをソロで退治できるような奴がどんな時に負けるわけ?」

「あー、まずはそこの認識に行き違いがあるような気がする。俺が今までソロ狩りに成功したボスって、あくまでソロでどうにかできる範囲のモンスターだからな? そうだな……分類するなら取り巻きなしの一対一を実現できる相手で、なおかつ状態異常を仕掛けてこない稀有なタイプのフロアボス。そういう相手でもなければどうやったってソロでボスを狩るなんて無理だし、敵のHP削りきる前にアイテムが尽きて俺が詰む」

「あんたの『ソロで倒せるフロアボスもいる』って認識も大概だと思うけどね」

 

 これはアスナが頭抱えるわけだわ、と呆れた顔のリズだった。ひどい言い草である、泣いていいですか?

 

「当たり前のことだけど俺一人で出来ることなんて多寡が知れてるんだぜ? フロアボス戦が攻略組の総力で挑む難関であることを考えれば、数の力ってのがどれだけ有効かは語るまでもないしな。この世界の根幹はMMORPGなんだから、数の暴力ってのはそのまま反映される。MMOでは幾らレベル的に突出したプレイヤーがいても、複数のプレイヤーにぼこられれば簡単に負けるシステムなんだから」

「でもキリトさん。前にあたしを助けてくれた時はオレンジギルドを一つ相手にして圧勝してませんでした?」

 

 ああそうか、シリカがソロでの強さに憧れを持ったのってそのせいもあったのかもしれない。取り返しが付く内に軌道修正できて良かったとほっと胸を撫で下ろす。

 ちなみに、あんたそんなことまでしてたの、というリズの追及したそうな様子からはそっと目を逸らした。

 

「そりゃレベル、装備、スキルに隔絶した差があればシリカに見せたようなワンサイドゲームも出来るけど、あれはあくまで特殊な例として覚えておいたほうがいいぞ? 集団の力を軽視すると碌なことにならないから」

「そんなものですか?」

「そんなものです」

 

 モンスター相手の場合は割愛するにしても、対人戦に猛威を振るう状態異常武器への警戒まで考えると、ガチの対プレイヤー戦なんてのは避けるのが一番なんだ。だからこそ俺はシリカをアルゴに預けたのだし、アルゴだって戦闘の知識ではなく、オレンジやレッドに出会わない知恵を重点的にシリカに教え込んだはずだった。危険に近づかないことが身を守る最良の手段であることは現実世界と変わらない。

 

「なんだか妙に実感篭ってるわね」

「ソロの限界に何度もぶち当たってれば自然とそうなる。言っちゃなんだけどMMOでソロを選ぶのってぶっちゃけ趣味の領域だし、トッププレイヤーで在り続けたいのならソロは鬼門なんだ。デスゲーム化したアインクラッドの場合、徹底的に情報を集めて安全を確保できるレベリングスポットを除けば、ソロを通すメリットは皆無だと思う」

「あ、あはは。そこまで言っちゃうんだ」

 

 歯に衣着せない俺の物言いにリズの顔は引きつっていた。

 順当な分析だと思うんだがなぁ。あくまでレベリングに限定するならありだと思うけど、迷宮区でまでそんな無茶を通すのはありえないだろう。俺がMMOに喧嘩売ってるような華々しい結果を残せてるのは、あくまでスキル恩恵による高レベルと二刀流あってのものでしかない。

 それを踏まえた上で俺が口にしているのは、一人よりは二人、二人よりは三人のほうが強いという、誰でも知っている真理に過ぎなかった。特別にすごいことを言ってるわけでも、ましておかしなことを言ってるわけでもない。

 いくらアインクラッドがバーチャルリアリティ世界で、その分だけプレイヤースキルが重要になるって言っても限度がある。プレイヤーの動きの未熟を補い、個々人の強さをある程度均一化させるのがソードスキルの役割でもあるのだし。

 

「包囲戦術の取りづらいソードスキルとの兼ね合いがあるからソロでもやりようはあるってだけで、基本数に勝る力はないっていうのがMMO共通の鉄則だぞ? 『衆寡敵せず』ってやつだ。そうさな、俺が攻略組クラスの猛者を相手にしたとして、一対一を十回続けるなら全勝することもできるけど、一対十をやれって言われたらさっさと逃げることを選ぶ。こう言えば俺と攻略組の連中の戦力比も想像しやすいか?」

「うん、それならなんとなくわかる」

 

 攻略組もピンキリだからあくまで比喩でしかないけど、個が衆を圧するなんて真似をそうそうやらかせるはずもない。MMOにおける公平さ(フェアネス)とは本来そういうものなのだから。

 そうした法則を一部覆してしまうのが俺やヒースクリフの持つ希少スキルであることも否定はしない――が、《神聖剣》や《二刀流》だって決して万能の力ではない。どちらのスキルにも付け入る隙はある。

 要は戦い方を工夫することだ。敵と戦うべきか否かの選択から始まって、どこでどのように戦うかの選定、多対一の状況に持ち込ませない判断、つまり広義な意味でのプレイヤースキルの見せ所である。そしていざ戦うとなれば、この世界における戦闘の根幹を為すソードスキルを如何に上手く使うかが鍵となるわけだ。

 

 そもそもの話、突出した一人の力で全てを終わらせることが出来るのなら、とっくに俺かヒースクリフのどっちかが全てのボスを狩り尽くしてるだろうさ。そして、それが出来るならどんなによかったことか。

 ソロでのクリアが不可能だからこそヒースクリフは血盟騎士団を率いて攻略組の戦力アップに努めてきたのだし、俺だって攻略組の各ギルドとパイプを結んで協力体制を築いてきたんだ。ソロの強さを優先する、言い換えれば一個人のエゴ――最強の剣士という空虚な称号のためにゲーム攻略を疎かにする愚を犯せるはずもない。

 

 《効率良く迷宮区を攻略し、最奥に控えるフロアボスを打倒し、最短で百層を目指す》。

 

 アインクラッドに住まう全プレイヤーに立ちはだかる命題を叶う限り追及せずして何が攻略組か。ソロでゲームクリアが出来るなんて甘すぎる幻想を、ゲーマーであり、ベータテスターであり、今日まで最前線を戦ってきた俺がどうして持てるだろう。

 

「パパッ! 怖いお顔はメッ!」

 

 まだまだ続く攻略に思いを馳せていると、ぷっくりと不満気に膨らませた頬を見せ付けるように、ユイが可愛らしくも厳しい顔つきで俺を睨んでいた。それだけでなく、俺が驚きで固まっているとユイの両目にじわりと涙がたまっていく。うー、と唸る様子に慌ててユイのご機嫌取りへと走った。

 

「悪い悪い。ユイは優しい子だな」

 

 あの手この手でユイを慰める俺である。その甲斐あってかどうにか機嫌を直したユイを前に、自然と俺の顔が笑み崩れてしまうのは仕方ないだろう。こんなに可愛い娘がいたら誰だってそうなる。

 

「キリトもユイちゃんの前だとシリアス続かないわね」

「ピナ、今は邪魔しちゃ駄目だからね?」

 

 ユイからシリカの胸に居住を移したピナの物悲しげな鳴き声が響く。そんな使い魔の様子にシリカが苦笑いを浮かべていた。

 

「ユイ、お昼寝するならベッドに入ってからだぞ」

「ユイまだ眠くなんてないよ?」

 

 芝生の上に腰を落とした俺にしがみついた状態で動きを止めてしまった娘の姿に、もしかして眠気でも襲ってきたのかと疑問を持つも、ユイはすぐに顔をあげて不思議そうに否定してみせたのだった。まだまだユイの観察が不十分だと反省する。

 

「今日は天気も良いし、お昼も食べて適度な運動をしたところだから、キリトの方こそお昼寝したくなってきたんじゃないのー? ふふーん、どうせならユイちゃんだけじゃなくてキリトにも子守唄を歌ってあげよっか? 今ならなんとあたしの膝枕つき!」

 

 ほらほらキリト、こっちきなさい、と女の子座りで膝の上をぽんぽんと叩くリズだった。

 

「わわっ、何言ってるんですかリズさん!」

「シリカ、リズの冗談だからまともに取り合わないほうがいいぞ」

「えー、あんたの専属鍛冶屋として当然のサービスじゃない?」

「専属鍛冶契約とかリズさんずるいです!」

 

 喧々諤々。良い反応を返してくれる竜使いの少女をからかい倒すリズは、なんというか非常に生き生きしていた。加減は間違えるなよー、と内心で付け加え、しばらく二人の和気藹々としたじゃれあいを眺めることに決め、その平和な光景に目を細める。暖かな陽射しの下で手足を思い切り伸ばすのが気持ち良い。確かに午睡に丁度良いなと頷いてしまう。

 

「うた、おうた……。パパ! ユイもお歌知ってる!」

 

 弛緩した空気の中、しばらくぼんやりしていたユイがぱあっと表情を輝かせ、些か興奮気味に主張してきたのだった。宝石のような煌きを瞬かせ、ユイの黒曜石の瞳が真っ直ぐに俺を見つめてくる。俺はもはや引き締める気も失っただらしない笑みのまま、そうかそうかとユイの綺麗な黒髪を撫で付けた。

 くすぐったそうにはにかむユイは、きっと世界一可愛い。

 

「ユイの歌か。よし、それじゃ歌ってくれるかな、小さな歌姫さん?」

「うん!」

 

 嬉しそうな声。にこにことご機嫌なユイはすうっと息を吸い込み――思いの外しっかりとした声量と音程で、その小さな唇から旋律を紡ぎ出した。

 

「あら、これって……」

「わあ、ちょっと季節外れの曲ですけど、ユイちゃん歌うの上手ですね」

 

 気持ち良さそうに歌うユイの邪魔をしないようにとの配慮からか、リズとシリカは小声で感想を囁き合う。しかし俺はそんな二人の感心した様子にも親馬鹿を発揮することが出来ず、ただただ目を見開いて呆然の体を晒していた。

 確かに綺麗な歌声だ。常の幼さを感じさせない落ち着きと、一定のリズムで綴る歌詞は明瞭な音を伴って聞き取りやすく、とても丁寧なものだった。それはまるであの夜の再現のようで――。

 

 偶然だ、と軽く首を振って気を落ち着かせる。ユイが口ずさむ歌はポピュラーな童謡である。ユイくらいの小さな子供が現実世界で耳にする機会は当然あっただろうし、こうして歌詞を覚えていてもおかしくない。ユイの失った記憶の中からたまさかこの歌が出てきただけだというのに、どうして俺はユイの歌う姿に彼女の姿を重ねてしまうのだろう。

 面影はある。歌声に、旋律に似通ったものはある。だが、それだけだ。……それだけの、はずだ。

 

 《赤鼻のトナカイ》。

 

 それがユイが紡いだ歌のタイトルだった。

 

 

 

 

 

 ユイが明瞭な声音で《赤鼻のトナカイ》を歌い上げた翌日、早朝の森を俺とユイ、そしてユイと手をつないだサチがゆっくりと歩いていた。ユイは見るもの全てが新鮮なのだと身体全体で表現するため、俺とサチはユイの興味が移るたびに足を止めてユイに付き合った。もっとも俺達の間に流れる空気は終始穏やかで優しいものだったため、遅々として進まない歩みすら愛おしい時間に変わっていたけれど。

 

 長い間急き立てられるように攻略に励んできた反動なのか、最近はこうしてのんびりと過ごす時間を噛み締める度に、どうしようもなく貴重な一幕なのだと実感する日々である。この安らかな一時に浸りすぎないよう気をつけようと己に言い聞かせてみても、サチとユイの立ち並ぶ絵を目に入れると、数秒前の決意を忘れる始末なのであまり意味がなかった。

 改めてユイとサチを見やり、本当に似ている二人だなとしみじみ思う。ユイに微笑みかけるサチは相変わらず柔らかな雰囲気で、傍から見ていると二人は親娘か姉妹のようだ。

 

「ケイタが《武器破壊》の練習を?」

「うん、キリトがフロアボス戦で《武器破壊》を使って活躍したって聞いて、僕もどうにか使えるようになりたい、ってすごく意気込んでた。しばらくして『やっと成功したー!』って声が聞こえてきたの」

「へぇ、よかったじゃないか」

「それがね、実は《武器破壊》が成功したんじゃなくて、単に武器の耐久力が尽きただけだったみたい」

「それはまた……練習用の安物使ってて良かったな」

「ほんとにね。その日はケイタが珍しく不貞腐れちゃって、皆が笑いながら慰めてたよ」

 

 その時の情景を思い出したのか、サチは口元に手を当てて可笑しそうに身を震わせていた。俺もサチにつられたように笑みが漏れる。俺の方から距離を置いたとはいえ、一時、羽を休める場所を提供してくれたケイタ達に感謝する気持ちまでなくしたわけじゃない。彼らが元気にやってると聞けば嬉しくなるものだ。

 

「《武器破壊》で遊ぶのもいいけど、強くなって攻略組に参加したいならレベル上げ優先だってサチから言ってやってくれるか?」

「それはキリトから言ってあげて。ケイタ達もキリトに会いたがってたし」

「わかった、覚えとく」

 

 確かに最近はサチ以外の月夜の黒猫団メンバーと顔を合わせていないな。元々頻繁に交流を続けていたわけではないし、俺の方も攻略が忙しくて、たまに顔を合わせてもゆっくりティータイムと洒落込むなんて事はとても出来なかった。その内時間の都合をつけよう。

 

「ユイ、パパともおててつなぐ!」

 

 忙しなく目をあちこちに向けていたユイも興味の対象が一段落したのか、満面の笑みを浮かべてサチと結んだ手とは逆の手を俺に差し出してくる。勿論、俺に断る理由はなかった。

 

「んふふー」

 

 これでもかとご満悦な様を見せるユイに、俺とサチも眦を下げて笑み崩れてしまう。穏やかな陽射しと心地よい陽気が俺達を包み込み、風に揺れる梢が耳に優しい音色を奏でていた。森の空気そのものが優しい。

 ユイを真ん中に、三人仲良く小道を歩いていく。途中、この層に点在する湖の一つを眺める位置までくると、朝も早くから幾人かの釣り師プレイヤーが釣具片手に談笑を交わしていた。日光を反射してきらきらと輝く湖面に垂らされた釣り糸、その先の浮きが時折微かな動きを見せ、そのたび水面に波紋が広がる。

 

 その時、釣り師プレイヤーの一人が俺達に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。俺達がいる小道と彼らが釣りに励む湖畔には少々距離があるものの、アインクラッドでは多少の距離などシステムによる視覚補正でないも同然だった。

 好々爺然とした中年の男性が微笑ましげな表情を浮かべて手を振ってきたため、俺達も軽く手を振り返す。

 

「結局今日までユイの両親探しは進展なしか。サチも心当たりってないんだよな? 実は親戚だったんだぜ、とか」

 

 彼らに手を振って挨拶と別れを告げた後、しばらく森の針葉樹の下を歩きながら、ぼやきにも似た問いを発する。俺のホームであるログハウスまであと少し、という時のことだった。

 

「そんなに私とユイちゃんって似てる?」

「なんていうか雰囲気に共通するものを感じるんだよ。例えばだけど、目元の和ませ方とか表情の作り方とかが似てるんじゃないかな。サチが髪を伸ばしてユイとお揃いにしたりすると、もっと面影も増すのかもしれない」

「そうなんだ。でもキリトが保護する以前に私がユイちゃんに会ったことってないと思うよ?」

「まあそう都合よくはいかないわな」

 

 軽く肩を竦めてサチと顔を見合わせ、どうしたものかと互いに困惑を浮かべるのだった。やがて暗礁に乗り上げて重さを増した空気を変えようとでもしたのか、サチが悪戯気味に柔らかく微笑む。

 

「ねえ、キリトはもし私が髪を伸ばしたらどう思う? 似合うかな?」

「んー、髪を伸ばしたサチか……」

 

 俺達の姿は二年前のものに固定されていて、髪型もカスタマイズが可能とは言ってもそれはシリカのように髪をツインテールにしたり、リズのように髪色を変えるのが精々だ。髪の長さを自由に変えたりは出来ない。男である俺としてはカットが不要で楽なのだけど、女性にとってはお洒落が制限されているのと同じなんだろうな。

 ふむ、と綺麗に切り揃えられたサチの見事な黒髪を改めて眺めやる。いざ、シミュレート開始――。

 

「そうだな、今のサチも可愛いけど、髪を伸ばすと大人っぽさがぐっと増してすごく綺麗になりそうだ。一度見てみたい」

 

 ユイの腰元まで伸びた艶やかな黒髪をベースに、髪を伸ばしたサチを思い浮かべてみると、予想以上に見目麗しい佳人が脳裏で像を結んだ。想像上のサチは今のサチと変わらぬ控えめな微笑みを浮かべていて、儚くも美しい。サチのそれからは出会った当初の目を離せば消えてしまう脆さは感じ取れない。煌々と照る月が優しく夜道を導いてくれるように、郷愁に似た切なさとしめやかな美を感じさせるものだ。これはなかなか……。是非とも拝見したい可憐さだった。

 是が非でも、と本心そのままを口に出した俺の賛辞に、尋ねたサチのほうがびっくりしたように目を丸くし、色白の肌に朱色の鮮やかさを散らす。切なげに潤む瞳が彼女に普段の清楚な顔だけではない、より女性らしい艶やかさを与えているようだった。

 

「そっか、それじゃあっちの世界に帰ったら髪のケアをしっかりしないとね。ふふ、なんだかいいな、こういうの。胸がぽかぽか温かくなってくる。ありがと、キリト」

「どういたしまして、って言うところなのか?」

 

 どうにもむずがゆい気分になって微妙に視線を逸らす俺を、優しげな光を湛えた目で見つめるサチ。そんな俺達を見上げるユイもにこにこと嬉しそうにしていて、まあいいかと気にしないことにした。今はこの暖かさに浸っているのも悪くない。

 そんなこんなでぐるっと散歩コースを巡り、出発点にして目的地であるログハウスを目の前に捉えた。これで朝の散歩はおしまいだ。

 

「楽しい時間があっという間だっていうのはこっちでも変わらないね。キリトは朝ごはんを食べたらユイちゃんを連れてはじまりの街に行ってみるんだっけ?」

「ああ、ユイのことを考えるとまだ迷ってる部分もあるんだけどな。はじまりの街は全プレイヤーが目にしたことのある場所だし、ユイの記憶に何か引っかかるかもしれない」

 

 はじまりの街の中央広場は二年前、茅場晶彦によってデスゲーム開始を告げる舞台となった場所だ。言い換えればどんなプレイヤーでも訪れたことのある場所だった。

 アインクラッドでの過酷な生活が幼児退行につながったと思われるだけに、デスゲーム開始初日の惨劇を思い起こさせる場所は刺激が強すぎるかもしれない。そういった懸念があったためにずっと先送りにしてきたが、サチ達の協力もあってユイも大分落ち着いているし、俺達がついていれば少し街を巡るくらいは出来るだろう。

 

「アスナさんがキリトと一緒に行ってくれるんだよね?」

「オフの日に連れまわすのも悪いとは思うけど、ユイが一番懐いてて不測の事態にも対処できる頼れる奴だからな。アスナの申し出は助かるよ」

「はじまりの街は今治安が悪いって聞くけど……」

「軍のお膝元なのに皮肉なもんだよなあ」

 

 表情を曇らせるサチを目にして俺も自然と溜息が零れてしまう。75層でコーバッツ達が全滅した件もあるし、お世辞にもはじまりの街の現状は楽観視できるものではない。正直現在の軍には近づきたくないのが本心である。

 

「まあはじまりの街見物はあくまでおまけだ。本命はアルゴの情報にあった子供を保護してるっていう女性に会うことだな。ユイの名前に心当たりはないって話だったけど、ユイ本人を見てもらえば何か思い出すこともあるかもしれない。……あればいいなあ」

 

 ほとんど願望混じりだった。そんな俺にサチは苦笑を零し、気をつけて行ってきてねと応援してくれることだけが救いである。

 もっとも今回のはじまりの街訪問に当たって、皆に秘めた俺なりの思惑もある。――なんていうと壮大になってしまうのでさっさと白状してしまうと、ユイの緊急預け先の確保が目的だった。

 サチ達だってそれぞれやることがあるし、ユイにつきっきりというわけにもいかない。俺やアスナも言わずもがな。そうなると俺達の手が回らない時のために、一時的にでもユイを保護してくれる、信頼できる相手が必要になってくるのである。その見極めも出来ればと考えていた。

 

 アルゴの話では教会の部屋を借り上げて子供を保護している人物――サーシャという女性は信頼に足る人だとお墨付きを貰っている。ただユイは現在バグ持ちの不安定なプレイヤーだし、教会で保護しているという他の子供にまでユイへの配慮を期待するのは無理だろう。預けるにしても現時点では難しいというのが正直な心境だった。カーソルの非表示だけでも解消できれば変に噂になるようなこともないんだけど。

 

「キリトとアスナさんの二人なら大丈夫だろうけど、無茶はしないでよ?」

「収穫があってもなくても昼までには切り上げて戻るつもりだよ。午後は攻略を進める予定だし」

「うん、わかった。それじゃ私は朝食の準備を始めようかな。アスナさん程じゃないけど、私の料理スキルの腕前にも期待しててね」

「頼んだ。アスナ謹製の調味料も揃ってるから頑張れ」

「だから期待しすぎちゃ駄目だってば。アスナさん並の料理を作れとか無理言わないの。あんまり意地悪言うと拗ねちゃうんだから」

 

 もう、と頬を膨らまると、人差し指を伸ばしてつんと俺の鼻の頭を軽く小突いてみせるサチだった。素直にごめんなさいをして許しを請う俺は割と情けない姿を晒していたけれど、誰に見られてるわけでもないから構わないか、なんて開き直っていたりする。

 そのままユイを抱き上げ、ログハウスの扉を開き、先にサチを通してから改めて我が家に足を踏み入れた。「ただいま」と自然と口にしている自分に気づいて、名実共にここが自分の家になったのだと感慨に耽り、口元に小さく微笑を浮かべたのだった。

 

 

 

 

 

「ここに来るのは久しぶりだな」

「わたしもはじまりの街にくるのは何ヶ月ぶりかってくらい。ここに立つと、どうしてもあの日のことを思い出さずにはいられないから」

 

 だからここにはこないようにしていた、と。ちらと視線を移せば、アスナは切なげに睫毛を震わせ、上空を仰ぎ見ていた。

 2022年11月6日、今を遡ること一年と十一ヶ月前。全てが始まり、そして終わった日。

 赤のローブを纏いし無貌のアバターが宙空に浮かび上がり、無情にデスゲーム開始を告げ、俺達を地獄に突き落とした。その舞台になったのがここ、第一層主街区《はじまりの街》の中央広場である。一万人近い数が集められた広大な空間は、あの日と変わることなく石畳によって綺麗に舗装され、中央に転移門が置かれていた。しかしあの日とは決定的に違う人影のなさが、静寂を漂わせた伽藍の風景を形作っている。

 かつての惨劇の記憶に自然と俺の額には皺が寄っていた。しかしユイの心配げに見上げる視線に気づき、ふっと力を抜いて感傷を追い出し、軽口を唇に乗せた。

 

「この街に住むプレイヤーって案外図太いよな。俺ならあんな腹立たしい思い出がつまった場所をご近所にしたくない」

「同感だけど、そうも言ってられない事情はキリト君だって察せられるでしょ。君もわたしも、この街の住人に睨まれるようなことは不用意に口に出さないよう気をつけなきゃね。トラブルになったら困るもん」

「まあな」

 

 さて、と一度大きく伸びをしてから、アスナと手をつないだユイと目を合わせるようにしゃがみこんだ。

 

「ユイ、ここで何か思い出す事とかないか? 例えば一緒にいた人とか」

 

 俺の問いを受けたユイは、一度ぐるりと中央広場とその先にある街並みを見渡し、しばらく「うー」と唸っていたが、やがてへにゃりと表情を崩し、泣きそうな顔で「わかんない」と口にした。力なく肩を落として落胆した様子に、俺は内心慌ててユイの頭を撫で回す。ユイを励ましたり安心させるにはこうしたスキンシップが一番だ、というのが俺の持論だった。

 

「そっか。うん、ゆっくり思い出せばいいからな。それじゃアスナ、いつまでもこんな辛気くさいとこにいないで教会を訪ねてみようか」

「えっと、東七区の川べりにあるんだっけ。ちょっと歩くことになりそうだね」

「はじまりの街は広いから仕方ない。よし、ユイ、パパがおんぶしてやるぞ。それともママにしてもらうか?」

「わーい。ユイ、パパがいい」

「そうかそうか、ユイは可愛いなあ」

「キリト君、キミ、完全に親馬鹿の顔になってるよ……」

 

 なにやら隣でアスナが呆れたような吐息を漏らしていた。ここはアスナだってユイに指名されていたら俺と似たような反応するくせに、と指摘してやるべきなのか? 嬉々としてユイの世話を焼きまくるアスナの姿が頭の中で鮮明に再生されていた。ユイにママと呼ばれるたびに、きらきらと幸せオーラを振り撒いていたのは他でもないアスナなのだから、俺のことをとやかく言えないはずだぞ。

 結局どっちもどっちという結論を出して、年少の子供を保護して共同生活を送っているという、俺たちがはじまりの街を訪れたもう一つの目的である教会目指して歩き出す。

 

 その道中、広場から大通りに入って店舗と屋台が立ち並ぶ市場エリアの閑散とした様子を目にして、溜息をつきたくなった。はじまりの街はアインクラッドにおいて最大規模の面積を誇る街であり、食料や宿屋の宿泊料金もとびきり安く、プレイヤーの居住人数も飛びぬけて多いはずなのだ。だというのに目につくのはNPCプレイヤーばかりで、活気なんて微塵も感じられない有様だった。

 

「確かはじまりの街には、軍の構成メンバーを含めて二千人以上が暮らしてるはずなんだけど……。人、いないね」

「ああ。この様子だと軍が徴税にまで手を出し始めたってのはマジらしいな。不気味なくらい静まり返ってる」

 

 アルゴから聞いた時はまだ半信半疑だったのだが、こうもプレイヤーの姿が見えないとな。はじまりの街の住人はゲーム開始以来一度も狩りに出ていないプレイヤーも多いため、プレイヤーが街を歩く機会そのものが乏しいのかもしれないが、それにしたってこれは異常だろう。

 

「それって、軍に目をつけられないように外出を控えてるってこと?」

「昼間は軍の徴税部隊とかち合わないように息を潜めているんだとさ。そこまでされてもこの街に残ってるんだから大したもんだよ、さっさと引越ししちまえばいいのに」

「……キリト君」

 

 俺の唇が皮肉気に吊り上ってしまう。アスナはそんな俺を複雑そうな表情で見ていたが、それでも宥めるように俺の名を呼んだ。

 

「すまん、もう言わない。……しかし、こいつは想像以上に軍の分裂が進んでると考えるべきか」

 

 75層攻略以降、俺の耳に入ってくる軍の情報は眉を顰めたくなるようなものばかりだ。この様じゃコーバッツも浮かばれまい。シンカーもキバオウも何やってんだか。

 ユイに心配されないように顔には出さずに内心で愚痴を並べ、大きく息を吐く。同時に、軍の専横が罷り通っている状況が改まらない限り、ユイを預けるのは無理だ、危険すぎる、と早々に見切りをつけてしまった。もしユイに何かあったら手出しした馬鹿をぶちのめしたくなるし、それが軍の連中だった場合軍の本部に殴りこみをかけかねない。

 

 うむ、お互いの平和のためにもユイはまだまだ俺たちで面倒を見るべきだ。どうにかして攻略との両立を続けられるようにするべきだろう。……それが難しいから苦労してるんだけど。今のままだとサチ達の負担がでかすぎる。

 ともあれ長居は無用。ユイの身元調査が終わったらさっさと帰ろうと決め、気持ち歩幅を大きくした時のことだ。俺の耳元にユイが顔を寄せ、いつもよりずっと深刻そうな声音で「パパ」と呼びかけられた。

 

「あっち……あっちに行って」

「あっち? 教会とは別方向だな。何か思い出したのか、ユイ?」

「ううん、違うの。あっちからすごく『怖い』が伝わってくるから。助けてあげて、パパ」

 

 ふむ、助けてあげて、というのもよくわからないが。

 

「『怖い』? 何が怖いんだ?」

「わかんない。でも、すごく嫌な感じになるの」

「キリト君、一応索敵スキルを使って確認してみたけど、反応は何もないわ」

 

 ユイの不思議な物言いにアスナと顔を見合わせ、お互い困惑した表情を交し合う。こんな街中でモンスターが出るはずもなし、それどころかプレイヤーの姿すらないのだ。だというのにユイが恐れるようなものがあるのだろうか? 俺とアスナには何の事だか皆目見当がつかなかったが、肩越しにユイを見れば表情が青褪め、俺の肩に置いた手にはぎゅっと力が入っている。ユイが何かを怖がってるのは間違いなさそうだ。

 

「どうする?」

 

 アスナもユイの状態を見て取ったのか、瞳に憂慮を滲ませたまま問いかけてくる。

 

「愚問だな、ユイのお願いなんだし最優先に決まってる」

「あはは、りょーかい」

 

 いくらか茶化した俺の言葉にアスナも朗らかに頷き、「大丈夫だからね、ユイちゃん」と優しくユイの頭を撫でて落ち着かせていた。強張っていたユイの顔から焦燥が消えたことを確認し、俺とアスナはユイの指し示す小さな導きを頼りに、幾つもの通りを瞬く間に走破したのだった。人がいないと交通事故を心配しなくていいから助かるぜ、なんて舌を出しながら。

 目的の場所にはすぐに到着した。標となるのがユイの指先だけだったため、途中に裏通りやら民家の庭やらも突っ切ってショートカットしまくったのはご愛嬌というものだろう。ユイが示した場所は東六区を超え、東五区にある細い路地だった。

 

 俺もアスナも索敵スキルを全開にして走り回ったため、ある程度近づいた時点で複数のプレイヤーがたむろしていたことには気づいたし、そこで何が行われているかも当たりはつけている。これが悪名高き《徴税現場》というやつなのだろう。灰緑の戦闘服と黒鉄色の鎧で固めた《軍》の一団を発見したことに驚きはなかった。

 それよりも俺の胸に渦巻いていた疑問は、『どうしてユイは、俺やアスナの索敵スキルで捉えきれない遠方のプレイヤー反応を補足できたか』だった。少なくとも俺の索敵スキルはコンプリートされてるんだけどな。

 もっとも疑問の追及は後回しにせざるをえない。さすがに眼前の光景を無視するわけにもいかないからだ。

 

「いい加減オイラたちを開放してほしいんだけどネ。徒党を組んで行く手を阻むのは悪質なマナー違反だってことくらい知ってるダロ、それとも軍はそんな初歩の初歩も教えていないのかナ?」

「そいつは無理ってもんだ。こいつらは普段から碌に税金を払わずに滞納してやがるんだからな。この際過去の分も搾り出してやらねえと」

 

 狭い路地に十人以上のプレイヤーが壁をつくって道を塞いでいたため、彼らの向こうにいるプレイヤーの姿は見えなかった。俺達の耳に聞こえてくるのはすすり泣く幾人かの子供のか細い声と、軍の連中と舌戦を交わしている皮肉気な少女の声だ。予想外の場所に予想外の知り合いがいるな、などと暢気に考えていると――。

 

「おっかしいこと言うなあ、お兄さん。あそこの先生は軍が求める徴税に毎回きっちり応えてたはずだゼ? もちろん、共同生活を送ってる人数分ダ」

「へえ、あんた俺達を疑う気かい? 見ない顔だし、あんたこの街で開放軍に逆らう意味がわかってねえみたいだな。ふん、こいつはまずいな。誉れ高き軍の徴税部隊を任される俺が、まさかこんな女子供に舐められるわけにゃあいかねえよなあ。お前ら、どう思う?」

「そりゃもちろん、けじめってやつが必要でしょう隊長殿。こいつらには金だけじゃなく装備も置いていってもらわないと。もちろん、防具から何まで一切合財を」

「くひひっ、俺たちゃ女だからって容赦はしねえぞ。軍は平等がモットーだからな」

 

 ……酔っ払いかこいつら? 真っ先にそんな疑問を抱いてしまった俺は悪くない。

 ひどい因縁のつけ方を見てしまった、これをグリーンプレイヤーがやっているのだから世も末である。ここまで堕ちぶれてたのか軍の末端は、と思わず天を仰いでしまう。ギルドの統制はどうしたよ。それともこいつらが特別マナーが悪いプレイヤーなのだろうか?

 平等だのモットーだの、そんな下卑た態度で吐き出して良い言葉じゃないだろう。彼らの声音だけでどれだけにやけた顔をしているのかを想像できてしまって頭が痛かった。第一、徴税部隊がどうして誉れ高きなんて表現につながるんだか謎だ。

 

「どっちが悪者かわかりやすいねえ。じゃあ行こうかキリト君」

「そうだな、さっさとご退散願いますか」

 

 俺達に気づくこともなく悪者ロールプレイに興じている軍集団を眺めやり、アスナが処置なしとばかりに囁く。ロールプレイってことにしといてくれないかな、マジで。なにもこんな風に集団をつくってまで弱い者虐めをしなくても……。憂さ晴らしなのか?

 目の前で展開されているマナー違反――多人数で道を塞いで閉じ込めてしまう行為を『ブロック』と呼ぶ。圏内では犯罪防止コードが働いているため、他のプレイヤーを無理やり動かすような真似はできないからこそ成立する、バーチャル空間ならではの妨害だ。

 

 ただし例外として、ソードスキルをぶつけるとHPは削らずともノックバックは発生するため、最悪の場合はそうした強硬手段に訴えて脱出する方法もある。が、もちろんそれは最終手段。いくら悪意あるプレイヤー集団相手とはいえ、いきなり背後からソードスキルをぶちこんで道を作るなんてことは、俺もアスナも良心の呵責的に出来ないため、俺達が取ったのはもう少し穏当な手段だった。

 すなわち地面を勢い良く蹴って跳躍し、彼らの上を飛び越えること。それだけである。単純明快、シンプルな解決法だった。ただしある程度のレベルは必要とする。

 

 四方を壁に囲まれた空き地らしき場所に降り立つ。そこでようやく軍に因縁をつけられていたプレイヤーを全員確認できた。空き地の片隅で肩を寄せあい、震えている子供が三人。泣くのを必死に我慢している男の子が二人に、すすり泣いている女の子が一人だ。

 そして彼ら三人を守るように軍の連中と対峙していたのは、金褐色の巻き毛を揺らしたマント姿の少女――情報屋を営む《鼠のアルゴ》だった。アルゴは俺とアスナを視界に収めるとにんまりと笑みを浮かべ、いつも通りのんびりとしたイントネーションで口を開いたのだった。

 

「おお、格好良い登場じゃないかキー坊。背負ってるお子様がアクセントになってて最高だヨ」

「あっはっは、涙が出そうな歓迎を感謝するぜアルゴ。決めた、俺達はお前の後ろにいる子供を保護するから、お前は自分で奴らをなんとかしやがれ」

「おっと、拗ねちゃ嫌だゼ。か弱い乙女に向かってなんて事を言うんダ。それともあれかナ、キー坊はオレっちに『お待ちしておりました騎士様』とか言ってもらいたかったのカ? 仕方ないナー、キー坊のリクエストとあっちゃ無碍に出来ないし、一回だけだゼ?」

「おいこら、か弱いとかどの口が言ってやがる。それとさも俺が望んでますって顔で妙な捏造をするんじゃない」

「うぅ、キー坊が冷たい。あんまりキー坊がつれないとオレっち泣いちゃうゾ? そうだ、アーちゃんはキー坊と違ってオネーサンに味方してくれるよナ?」

「キリト君もアルゴさんも、漫才してないで真面目にやろうね?」 

 

 悪ノリを始めたどこかの二人を、笑顔できっちり躾ける血盟騎士団副団長様がいましたとさ。

 

「で、アルゴ。後ろの子供達はどこに連れていけばいいんだ? 実はアルゴが通りすがりの正義の味方をやってるところだったのなら、俺のお前への好感度がそれなりに上がったりするんだけど?」

「そいつは残念、オレっちは子供らの買い物に付き合ってる時に絡まれただけサ。皆、この街の教会で保護されてるガキ共だヨ。ほら、キー坊に教えてやったとこダ。オレっちそこのまとめ役と顔見知りで、時々手伝いもしてやってるのサ」

「へえ、意外だな。お前子供が嫌いなんじゃなかったのか?」

 

 確かそういう理由でうちに寄り付かなかったはずじゃなかったっけか?

 

「なんのことかナ? オレっち一言も子供が嫌いなんて言っちゃいないヨ、苦手だとは言ったけどネ」

「またお前はそういうことを」

 

 人を食ったような笑みで得意そうに告げるアルゴ。思わず額に手をやって脱力したところで――。

 

「おいおい、オイオイオイオイ! いきなり出てきてなんなんだお前らは!? まさか俺達の任務を妨害する気なのか、ああん!」

 

 なんて喚き声が路地に木霊した。俺達に無視されて頭に血でも昇ったのか? 元気いいな、あんた達。

 

「まあ待て、余所者にこの街のルールを理解しとけってのも酷だろう。いいか、あんた達、この街では軍がトップで、絶対で、正義なんだ。言ってみりゃヒエラルキーの頂点なんだよ。そこに楯突くって意味をよーく考えて物を言えよ、何なら軍の本部に招待するぜ?」

 

 それこそ余所者に凄んでも意味がないような気がするけど……。

 リーダーらしき男は親切心で言ってるように見せて、その実脅迫をしているだけだった。彼が嗜虐的な笑みを浮かべると、周囲の連中も皆似たような笑みを形作る。耳障りな笑い声が唱和するように響き渡ってはいたが、俺としては溜息を吐く以外に出来ることはない。

 だってなあ……。

 軍がこの街のヒエラルキーのトップだってんなら、俺の隣にいる血盟騎士団の副団長様は、アインクラッドのヒエラルキーでいえばどこに位置してるんだって話である。少なくとも軍の下っ端連中が舐めた口を利いて良い立場じゃないと思うんだ。

 

 黙して語らない俺達の様子に何を勘違いしたのか、取り巻きの一人がにやにやと笑いながら「黙ってんじゃねえよ、圏外行くか圏外?」などとさらに脅しかけてくる始末。喧嘩売る相手くらい選べ。

 こうなると私服で来たことが間違いだったかとわずかながら後悔する。目立たないほうが良いだろうってことで俺もアスナも戦闘用の装備は全て解除してきたのだけど、そもそもこの街には騒ぎだすようなプレイヤーが出歩いていない現状、空回りも良いところだ。

 

 いや、今からでも遅くはないか。そう思い直してまずはユイをアスナに預ける。次いで右手を振り下ろし、システムメニューを呼び出した。装備欄の右手にエリュシデータ、左手にダークリパルサーをタップする。よし、背中に二本の剣が出現した。ついでに俺の代名詞の一つである黒のコートも羽織ってしまう。これで外見上は《黒の剣士》の完成だ。

 アスナは……別にいいか。俺とアスナ、どちらかを認識させれば後は芋蔓式に事態も進むだろう。

 

「そんなにPKごっこがしたいなら俺が付き合ってやるけど、加減出来なくても恨むなよ。俺はそっちのオネーサンほど優しくないぞ」

「あん? 何言って――」

「た、隊長! やばいですって! 黒のコートに二刀流。こいつ、攻略組の《黒の剣士》です!」

 

 よかった、気づいてくれるプレイヤーがいたよ。

 

「そ、そんなわけあるか! こんなところにトッププレイヤーがいるはずないだろ!」

 

 俺の素性に言及した男の叫びがこの場の全員に浸透した頃、隊長とやらを差し置いて取り巻きの一人が唇を戦慄かせながら声を挙げた。大きく見開いた目には狼狽が浮かび、声は情けなく震えている。確かこいつはこんな街中でアルゴの装備――うら若き乙女の衣服を剥ぎ取り、その柔肌を晒せなどと世迷言を抜かしていた男だ。

 ……ふむ、ぶちのめしてもいいだろうか? むしろぶちのめすべきではなかろーか。そうだそうしようそうすべき。

 俺が脅しあげる対象として申し分ないと勝手に決めつけ、腰をわずかに落とし、鞘から抜き放った二刀を構える。剣に燐光が宿り、光の帯を発しながらソードスキルのモーションを開始した。

 

 瞬きほどの間に彼我の距離を詰めると、まずは右のエリュシデータで横薙ぎの一閃。ぎりぎりの間合いで空振りに終わらせ、そこからさらに一歩踏み込み、左のダークリパルサーが男の頬を掠める位置へと突きこまれる。ここは圏内だ、別に俺の剣が当たっても多少弾き飛ばされるだけでHPが減ることはない――が、俺の目的は示威と証明である。そしてその目的は十分果たした。

 俺の動きを追えていなかったその男は、何が起こったのかをすぐには察せなかったようだが、やがて自身の傍を二度通り過ぎた刃の圧力をようやく認識し、腰が抜けたようにへたり込んでしまう。そういえば、『圏内戦闘はダメージの代わりに恐怖を刻み込む』なんてフレーズを誰が最初に言いだしたのやら。

 

 しんと静まり返った中、二刀を鞘に納める鞘鳴りが響く。リーダー格の男に目を向けるとひきつったような顔で一歩後ずさった。そう怖がらなくても、これ以上剣を振り回すつもりはないぞ?

 

「見ての通り、俺の二刀流は見せかけだけのもんじゃない。理解してもらえたかな?」

「あ、ああ、もちろんだ」

 

 二本の剣をスロットに装備するだけなら誰でも出来るが、二刀流スキルを持っていない限り、システムにエラーが発生してソードスキルを使えない。《黒の剣士》を証明するためのデモンストレーションとしては十分だろう。

 

「それはよかった。さて、あんたらの言う通り俺達は余所者だし、この街のルールとやらに口出しするつもりもないんだが――今日のところは不幸な行き違いってことで穏便に済ませてはもらえないかな? 何なら後日血盟騎士団の副団長を仲介におたくらのトップと話し合ってもいい」

 

 なあアスナ、と呼びかければ「そこでわたしも巻き込むの?」と若干不満げな顔をされてしまった。仕方ない、後で埋め合わせはしてやるよ。取り巻き連中もようやくアスナの正体を悟ったようで、一様に顔を青くしていた。

 

「す、すまない。確かに誤解があったようだな。以後は気をつけることにしよう。お前ら、撤収するぞ」

「ちょっと待ってくれ隊長さん」

 

 一刻も早くこの場を立ち去りたい、そんな思惑をありありと感じさせる早口だった。そこに口を差し挟んだ俺がどう思われたかは……まあ、悪魔にでも会ったような顔を見れば察せられる。なにもそこまで怯えなくても……。

 

「これ、詫び料と手付け金だ、受け取ってくれ。図々しい願いなんだけどさ、そこの子供達を保護してるって教会には俺の知り合いも関わってるみたいだし、幾らか手心を加えてやってほしいんだよ。無理は言わない、あんたの職責の範囲でいいんだ」

 

 適当にコルとアイテムを放り込んだトレードウインドウを開く。そのまま笑顔で威圧、もとい宥めすかせてトレードを承諾させた。

 言うまでもなくこれは俺の善意であり、誠意である。たとえ賄賂を無理やり受け取らせて既成事実にしたり、俺の告げた言葉の意訳が「舐めた真似したらわかってんだろうな?」的なものだったりしても、善意といったら善意なのだ。何も問題はない。隊長さんの顔は盛大に引き攣ってたけどな。

 アルゴがにやにや笑いで俺を眺めてたり、アスナが呆れた目をこちらに向けているのはスルーした。ユイは不思議そうに首を傾げている。アルゴとアスナはユイの無垢さを見習えってんだ。

 最後にそんな一幕を入れて、不意に遭遇した騒動はどうにか鎮静化したのだった。軍の連中が重い足取りで去っていく姿を見送り、ようやく一息つく。

 

「適当に追い払っちまったけど、これでよかったのか?」

「もちろんダ。――っと、ちょっと待ったキー坊。先生さんが到着したみたい」

 

 アルゴが軍と入れ替わるタイミングで訪れた人影に気づき、一旦会話を中断する。その視線の先には修道服を纏う二十歳前後の女性が立っていた。暗青色の髪色をしたショートカットに黒縁の眼鏡、瞳の色は深緑をしていて、その優しげな双眸に反して手には短剣を携えていた。

 軍と一悶着を覚悟して駆けつけたってとこか。彼女が話に聞いていたサーシャさんで間違いなさそうだ。

 

「あの、アルゴさん? 私、子供達が軍に絡まれてるって聞いてきたんですけど、どうなってるんです?」

「通りすがりの正義の味方が助けてくれてネ、子供達も無事だヨ。ほら、もう大丈夫だから行きナ」

 

 アルゴに促された三人が我先にと駆け出していく。実はこの三人、ずっと俺を警戒するような素振りを見せていた。ちょっと怖がらせてしまったのかもしれない、軍の連中が立ち去ってもアルゴの後ろから出てこなかったくらいだから。

 

「先生さんは子供達を連れて先に戻っててもらえるかナ? オイラたちもすぐに追いつくからサ。事情説明はその時にするヨ」

「はあ、アルゴさんがそう仰るのでしたら」

 

 状況を飲み込めずに目を白黒させるも、涙目で抱きついてくる子供達の怯えた様子を見て取ったのかそれ以上問い返すこともなかった。俺たちに丁寧に頭を下げて礼を言った後、「それではお待ちしています」と一言残して去っていく。

 

「信頼されてるんだな」

 

 彼女らを見送り、アルゴと改めて向き合う。

 

「付き合いが長いってだけだヨ。さてさて、久しぶりだネ、アーちゃん。そっちの子ははじめましてかナ」

「はい、ご無沙汰してますアルゴさん」

 

 ぺこりと頭を下げるアスナの真似をしてか、ユイも行儀良く一礼してみせた。偉いぞ。

 

「しかし参ったヨ、オネーサンを軟派するだけなら適当にいなしとくんだけどサ。もてる女はつらいネ」

「《鼠のアルゴ》を知らなかったんだろ。お前も適当に追い払えばよかったのに」

「オレっちの場合レベルだけだからナー」

 

 荒事は苦手なんだと嘯くアルゴ。まがりなりにも攻略組に属しているとは思えない台詞だった。どこまで本気で言っているのやら。

 さっきの連中は総じて装備も貧弱だったし、レベルも下層か良いとこ中層の下クラスだろう。圏内戦闘を全力でやらかせとまでは言わないけど、もう少し強硬な態度に出てればアルゴだけでも場を収められたように思う。

 

「ま、オレっちのことはいいじゃないカ。キー坊こそ何をそんなに腹を立ててるんダ、らしくないゼ?」

「ほっとけ。剣で脅しあげて札束で頬をぶっ叩くまでが俺の交渉術なんだよ」

「それってオレっちが前に言った台詞ダロ。実は根に持ってたのカ?」

 

 そんなんじゃモテないゼ、なんて付け加えるアルゴに余計なお世話だと言い返す。

 第一、お前のその笑い方は俺の内心を見透かしている顔だろう。察してるならわざわざ掘り返すな。そうやって隙あらば俺を弄くろうとするのはどうかと思うんだ。ああもう、いつまでもこの話を引っ張るのは旗色が悪い。

 

「なあアルゴ、お前が今日この街にいたのって偶然か?」

 

 話題そらしにはちょっと強引だったか? そうは思ったものの、アルゴもそれ以上俺を追及するつもりはなかったのか、しっかりと俺に追従してくれたのだった。……にたりと笑みを浮かべて。それはもう楽しそうに。

 

「そりゃもちろん必然サ! キー坊に会いに来たに決まってるじゃないカ。最近キー坊分が不足しててオネーサン寂しかったんだゾ!」

「わかった、偶然だな。もしくは厄介事だ」

 

 アルゴの戯言を一刀の下に両断する俺である。それと俺はそんな怪しげな成分をアルゴに提供した覚えはない。……ないですよ?

 

「おや、オネーサンの言うこと信じてないナ? そんな悪い剣士様はこうだゼ、キー坊」

「あ、おい――」

 

 言うが早いか、アルゴは正面からするりと俺の懐に入り込む。と、同時に俺の腕を取って胸に抱え込み、そのまま背を預けるようにもたれかかってしまった。傍目からは俺がアルゴを後ろから抱きしめているようにしか見えないだろう。

 

「うん、やっぱりキー坊の腕の中は落ち着くヨ。オネーサンが百点満点をあげよう」

「アルゴ、悪ふざけが過ぎるぞ」

 

 溜息混じりに文句を零し、アルゴを引き剥がそうとして。

 

「――ホント、キー坊は良い顔をするようになったネ」

「……なんだよ、急に」

「急じゃないと不意打ちにならないからナ。ふふん、その様子だともう悪夢を見ることもなさそうダ、よかったじゃないカ」

 

 それ以上、何も言えなくなる。

 身体の向きを入れ替え、頭一つ分下から覗き込むアルゴは慈愛の眼差しで俺を見つめていた。頬に寄せられた彼女の手の平が暖かくも切なく、心地よい。アルゴの優しさが、その細くしなやかな指先を通して注ぎ込まれているかのようだった。

 ずるい奴だ。何でもない顔をして、ふとした折に芳情に満ちた言の葉を、そっと俺の胸に忍ばせてくるんだから。

 

「おかげさまでな。最近は夢見も良いよ。この際お前を夢に登場させていいか?」

「にゃハハハ、こんな昼間からオレっちを口説こうだなんて、キー坊もいよいよ口が上手くなってきたじゃないカ。勝手に夢に登場させられそうなオネーサンとしては出演料を貰うべきかナ?」

「阿漕な奴、夢の中くらい自由にさせろっての。もっとも、俺は夢なんかよりこうやって(じか)に触れ合えるほうが嬉しいけどな」

 

 やられっぱなしも癪に障るから少しくらい反撃させろ。

 そんな風に内心で嘯いてから、アルゴの左頬にペイントされた髭模様の一本に指先を伸ばし、すっと引いた。……柔らかい。

 もう一度繰り返す。今度は右の頬のペイントに指を当て、ゆるやかに、しめやかに、這わすような手つきで優しくなぞりあげた。……やっぱり柔らかい。

 

「んっ……。くすぐったいヨ、キー坊」

 

 鼻にかかった甘く艶やかな吐息を漏らす小柄な少女を視界に捉えて、とてもとてもご満悦な顔をしているプレイヤーがいた。さて、誰のことやら。世の中には悪い剣士様がいたものである。

 もちろん悪戯好きの淑女がそんな不埒な真似をした男をいつまでも放っておくはずもなく、やがて表情をにんまりと改め、あたかも哀れな囚われ人を装ってアスナ達へと腕を伸ばすのだった。

 

「大変ダ! 助けてアーちゃん、キー坊がエロくなった!」

「あの、アルゴさん? ハラスメントコードにも抵触してないみたいですし、自業自得だったりしません?」

「自業自得なんて言葉はキー坊の辞書にいっぱい載ってるヨ。オレっちの辞書には一文言もないけどナ!」

 

 にゃハハハと恒例の笑いを響かせ、飄々とのたまうアルゴ。どうしたものかと困り顔のアスナ。アルゴとアスナに視線を往復させ、こてりと首を傾げるユイ。

 そんな三者三様の反応を視界に収めながら、隙あらばもう一度、などと悪辣極まりない企みを抱えている事は、ひとまず秘密にしておこうと誓う俺だった。

 

 




 ユイの一人称を《あたし》から《ユイ》に変更しています。また、《Yui》の調査結果云々は拙作独自のものです。
 決闘場面で出てきた砂煙エフェクトは、PSPゲーム《インフィニティ・モーメント》における描写を参考に、対人戦における小技、フェイントの一種として扱っています(ゲームでは目潰し、拙作では煙幕)。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第18話 仮想世界の申し子 (2)

 

 

 教会は各街に必ず一つは存在する施設だ。その役割はモンスターの特殊攻撃である《呪い(カース)》の解除や対アンデッド用に武器の祝福を行うこと。実際的な意味で攻略や戦闘を進めるのに有用な施設であり、魔法的要素を排除されたアインクラッドで最も神秘的とされる場所だった。

 とはいえ俺達の目的はそれらではなく、この教会の小部屋を借り上げて生活しているサーシャさん――アルゴ呼称《先生さん》を訪ねることにあった。教会は一定額のお布施を定期的に納めることで宿屋代わりにも使える。そして驚いたことに、今この教会には二十名を超える子供達が共同生活を送っているのだった。

 サーシャさんに保護されている子供達は、見たところ十歳から十二歳といったところだろうか。俺達の見た目は二年前から変化がないから、実年齢はもう少し上だろう。

 

「なあなあ、あんた強い剣士なんだろ? 何か手っ取り早く強くなる方法ってないのか? 先生は俺達に危ないことはしちゃ駄目だっていうけど、俺も戦えるようになりたいんだよ」

 

 アルゴに先導され、アスナ達と訪れた教会で大勢の子供達の姿と和気藹々とした様子に圧倒されていた俺に、真剣な目でそんな問いを発してきた子供もいた。どちらかと言えば年少組に見える赤髪の少年で、勝気そうな目と活発そうな雰囲気が印象的だった。

 

「こら、お客様に何言ってるの! それにあんたたちはモンスターと戦うなんて危ないことはしなくていいって何時も言ってるでしょ!」

「でもさ、また今日みたいなことがあったら困るじゃん。街の皆だって、軍はオーボーだって言ってたぜ? 俺があいつらを追っ払って先生や他の奴らを守ってやるんだ!」

 

 拙いながらも義憤を抱き、強くなりたいと真っ直ぐに言い放つ。その様に眩しいものを感じるが、保護者代わりであるサーシャさんの方針を初対面の俺が覆すわけにはいかないだろう。それに命懸けの戦いに(いざな)う剣を、面白半分で子供に与えていいとも思えなかった。今まで戦いとは無縁に過ごして来れたというのなら、最後までそうあって欲しい。

 

「君がみんなを守りたいって気持ちはとても大切なものだ。そしてそれと同じくらい先生も君を守りたいって思ってるんだよ。もう少しだけ我慢してもらえるか? 俺達が君達みんなをこの世界から開放してみせるから」

「……ほんとか? ほんとに、そんなことできるのか?」

「ああ、お兄ちゃんやそっちのお姉ちゃんはとっても強いんだぞ、フロアボスだってたくさんやっつけてきたんだ。俺達が絶対ゲームクリアしてみせるから、モンスターと戦うなんて危ないことを言うのはもうやめような。もし剣を振り回したいっていうなら、この世界から帰ってから新しいゲームを遊べばいいだけなんだから」

 

 膝を折って視線を合わせ、しっかりとした口調で諭すと、不承不承ながら頷いてくれた。素直な子で良かったよ。

 俺達のことをサーシャさんが紹介してくれたときに、真っ先に剣を見せてくれなんて言ってきた男の子だ、純粋に剣を振って戦ってみたいという気持ちもあるんだろう。そう思ったので多少の効果を期待して矛先を逸らしておいた。

 残念ながらVRMMOってジャンルがソードアート・オンラインで盛大にこけた以上、向こうの世界に帰ってもバーチャルリアリティ対応で遊べるゲームなんてないだろうけど。ま、嘘も方便だ。

 俺達のやり取りを見守っていたサーシャさんがほっと胸を撫で下ろしていた。アスナとユイはにこにこしてるだけだからいいけどさ、アルゴ、お前はそのにやにや笑いを引っ込めろ。

 

「それじゃ、先生はこの人達とお話があるから皆はお昼まで自由時間ね。それと絶対に一人で外に出たりしないこと、いいわね」

「はーい!」

 

 元気の良い声が唱和し、思い思いに散っていく子供達を見送ってから、俺とアスナ、ユイ、アルゴにサーシャさんを加えた五人は一階の食堂に場所を移し、片隅に設えた丸テーブルに腰を落とした。俺達が席に着くとサーシャさんが「今お茶を用意しますから」と一礼して厨房へ。程なくサーシャさんが戻り、白い丸テーブルの上に五つのカップが並んだところでサーシャさんも席に着いた。

 

「お騒がせして申し訳ありませんでした。子供達もお二人ほどの有名人と会ったことはないせいか、どうにも興奮してしまったようでして」

 

 《閃光》の威光ここに極まれり、かな。アスナは特に女の子から絶大な支持を得ていたように思う。憧れのお姉さんといった感じだろうか? 加えて幾人かの男の子もぼーっとアスナに見惚れていたし、もう流石としか言い様がない。

 俺? 最初は《黒の剣士》だってことすら信じてもらえませんでしたが何か? 何でも彼らの抱くイメージと実物の黒の剣士は全く違うそうな。「この兄ちゃん強そうに見えねえ」とほざいてくれたお子様の、悪意なきクリティカルヒットに膝から崩れ落ちそうになったのは内緒だ。そこまで弱っちく見えるのか、俺……。

 アルゴは腹を抱えて笑い転げていやがるし、ユイには何故だか《良い子良い子》と頭を撫でられたりと散々な目にあった。

 

「応援してもらえるのは嬉しい事ですよ。ね、キリト君」

 

 まあそうだな、と答えておく。

 

「サーシャさんこそすごいですよ。こんな大人数を保護して共同生活を送るなんてなかなか出来ることじゃないです」

「そんなに格好良いものじゃないです、こうなったのも成り行きというかなんというか……。私もゲーム開始から一ヶ月くらいはゲームクリアを目指して頻繁にマップに出ていたんですけど、そんな折に街の中でうずくまって震えてる子供たちを見つけたんです。それで、どうしても放っておけなくなっちゃって。それからは似たような境遇の子たちを集めて、ご覧の通り教師と保母さんの真似事をして過ごしてます」

 

 向こうの大学では教職課程を取っていたんですよ、と懐かしそうに口にするサーシャさんだった。柔和な笑みを浮かべ、穏やかな口調で「子供達と過ごす毎日が楽しい」と告げる姿は一本筋の通ったものだ。自分の為すべきを見極め、迷うことなく己の道を邁進しているプレイヤーに共通する芯の強さがそこにはある。

 

「私は早々にドロップアウトしてしまいましたから、お二人のように最前線で戦ってくださる方には申し訳なく思ってます」

 

 その言葉通りに顔を曇らせ、丁寧に頭を下げるサーシャさんに、俺とアスナは慌てて頭を上げてくれと宥める羽目になった。

 

「皆、それぞれの役割を果たしているだけです。サーシャさんだって立派に戦ってますよ、恥じることなんてありません」

「ありがとうございます、そう言っていただけると気持ちも楽になりますね。実はアルゴさんから名高き《黒の剣士》と《閃光》なんて二つ名を持つすごい方々が訪ねてくると聞かされた時は、驚きすぎて目が点になってしまいました。正直に申し上げますと今も少し緊張しています」

 

 その穏やかに話す様子からは緊張とか気後れのようなものは感じられなかったが、あえて追及するほどのものではないだろう。居住まいを正し、早速本題に入ろうと口を開いた。

 

「今日は急に押しかけてしまってすみませんでした。どうしてもあなたにお聞きしたいことがありまして」

「アルゴさんからお話は伺っています。そちらのユイさんのことですね?」

「ええ、この子は俺達が保護したときには記憶を失っていました。そちらのアルゴに頼んでユイの縁者を探してはいるのですが、一向に進展がありません。そこで伝聞ではなく一度ユイの姿を直に見てもらおうと訪ねさせていただきました。どうでしょうか? この子をどこかで見かけたことがあったりは?」

 

 横目で話題の中心であるユイを見ると、サーシャさんの用意してくれたカップからホットミルクを美味しそうに飲んでいるところだった。んくんく、と可愛らしく嚥下する様を眺めやり、思わず眦を下げてしまう。癒し効果は抜群だ。

 

「……残念ですが」

 

 しばしユイをじっと見つめていたサーシャさんは、やがて無念そうに力なく首を横に振った。そうですか、とアスナが幾分気落ちしたように目を伏せた。

 

「私は二年前からずっとはじまりの街の巡回を続けています。一エリアずつ、どこかで困っている子供が取り残されていないかを確認してまわっていますから、もしユイさんがはじまりの街で暮らしていたのなら絶対に気づいていたはずです」

 

 ですからおそらく別の階層で暮らしていた子だと思いますよ、と確信に満ちた声で続けたサーシャさんだった。まあそうだろう。はじまりの街は広大な敷地を誇るとはいえ、同時に最大の人口を誇る都市でもあるのだ。仮にユイくらいの目立つ容姿のプレイヤーが長く滞在していたのなら、ここまで目撃情報が出てこないなんてことはない。とっくにアルゴの情報網に引っかかっているはずだ。

 

「お力になれず申し訳ありません」

「こちらこそ無理を聞いてもらって感謝しています。ユイのことは焦らず調査を続けます」

 

 と言ってもその手の事はアルゴに一任するしかないんだけど。攻略に宛てる時間も足りていないため、とてもユイの保護者探しまで手が回らない。アルゴに頭を下げて継続調査を頼むしかなかった。

 

「よろしければ私のほうでも知人に当たってみましょうか?」

「申し出は大変嬉しいのですが、そこまでしてもらうのも悪いですよ。それにサーシャさんだって色々大変でしょうし」

「あの、サーシャさん。少し立ち入ったことを聞くようですけど、毎日の生活費とかはどうなさっているんです? サーシャさん一人で二十人以上の宿代に食事代を捻出するのは、その、難しいんじゃないかと……」

 

 さすがに言い出しづらい話題のためか歯切れ悪く語尾を濁したアスナだった。俺やアスナのように上の層で戦えるのならモンスター一体当たりに得られるコルもでかくなるし、長時間狩りに従事することも珍しくない。というか日常だ。必然、懐は暖かくなりやすいため、仮に子供の十人や二十人の生活を面倒みろと言われてもどうにかなる。もちろん経済的な面に限るが。

 しかしサーシャさんは子供達の面倒を見ながら日々の糧を得る必要があるため、レベリングだって本腰入れてかかることはできないだろう。安全マージンを確保できない以上、下層のモンスターをどうにか相手どるくらいで精一杯なんじゃないか?

 

 まあ攻略組は攻略組で、日々高値更新を続ける強力な武具の数々を確保しなければならないため、金銭面の苦労が皆無なんてことは間違ってもありえないのだけど。NPC店舗の物価変動はなくとも、プレイヤー間の取引においてはアイテムの値は日々釣りあがっていく。これはもうモンスターを倒して糧を得る、オーソドックスなMMOシステムの根本的な問題だから嘆いてもしょうがない。

 ゲーム内通貨の総量が消費速度を越えて増加し続けると何が起こるか。簡単だ、通貨価値の減少――すなわちインフレの発生である。攻略組に留まるためには加速し続けるインフレ現象に適応し、高性能装備の更新をしなければならない。そのために生活のほとんどを狩りに費やすことが必須ともいえるわけで、攻略組が過酷だといわれる理由の一つだった。攻略組と中層以下のプレイヤーで装備に顕著な差が出るのは、経済力の観点からも当然のことなのである。

 

 そうした状況に対処するためか、プレイヤーの稼いだコルをシステムに還元させる、いわゆるインフレ阻止を目的とした仕組みも用意されている。日々の生活を彩る衣食住を賄う費用は言うまでもなく、武具の耐久度を回復させる研磨、狩りに費やす消耗品、プレイヤーの財布から金貨を吐き出させるクエストだって存在する。

 例えば俺が持つドロップ確率を変動させるエクストラスキル《宝石鉱山》、その獲得クエストはコルを大量に消費し、かつ今以って達成条件の不明な代物だ。多数のプレイヤーが挑戦し、失敗し続けていた。

 つまり《宝石鉱山》獲得クエストはインフレを抑えるために用意された、『失敗を前提とした』クエストだったんじゃないか、そう思わせる節があるのだ。もちろんこれはあくまで一例であるが、アインクラッドを形成する妙なるシステムバランスのおかげか、俺の知るMMOと比すればこの世界の物価上昇は非常に緩やかなものだった。

 

 とはいえ碌に狩りに出れないプレイヤーにとって物価上昇は大きすぎる問題である。こうした状況下で救いといえば、下層の街では宿屋や食事にかかる料金が低価格のまま変動しないことだろう。

 日々の収入に乏しいプレイヤーが軍の横暴に怯えていてもこの街――はじまりの街を離れられないのは他の層に比べて格段に物価が安いためだ。誰だって空腹を抱えた毎日を過ごしたくないし、宿屋の部屋を確保できなければ常に睡眠PKの脅威に晒されることになる。どんなに居心地が悪かろうと簡単にこの街を出て行くわけにはいかない事情があるわけだ。

 

「お察しの通り、私一人ではとても賄える額ではないのですが、ここを守ろうとしてくれる年長の子もいまして。彼らははじまりの街周辺でしたら問題なく戦えるレベルですから、皆で協力しあってどうにかやりくりしてます。それにアルゴさんも援助してくれてますから、子供達の誕生日を祝うくらいの贅沢は出来るんですよ」

 

 本当に助かってます、とサーシャさんがアルゴに向かって丁寧に頭を下げる。へぇ、そんなことしてたのかアルゴの奴、なんて深々と感心していると――。

 

「感謝するならオレっちじゃなくてキー坊にすると良いヨ。寄付金の大半はキー坊の財布から出てるから」

 

 絶対わざとに違いない生真面目な顔で、しれっとそんな事を告げるアルゴに思わず目が点になった。

 

「そうなんですか? では改めまして――黒の剣士様、度重なる援助に御礼申し上げます。今日は子供達まで助けていただいたようで、感謝の言葉もありません」

「は、はあ……」

 

 丁寧に頭を下げられても困惑するばかりだった。俺の与り知らぬことで感謝されても応えようがないのだけど……。え、なにこれ?

 

「なんだか本当のことっぽいけど、キリト君知らなかったの?」

「俺のこの顔を見てみろ。真実が何処にあるかなんて一目瞭然だろ?」

 

 心底驚いてますって顔をしてる自信があるぞ。突然明かされた事実に俺が目を白黒させていると、その張本人たる《鼠》はそれはそれは楽しそうに笑みを押し殺していらっしゃいましたとさ。

 

「そんな恨めしそうな目で見るなよキー坊、まるっきり嘘ってわけじゃないんだしサ。それに対価としてちゃんとオレっちが身体でサービスしてやってるダロ?」

「……キリト君?」

「待て、俺は無実だ」

 

 だからその不審者を見る目はやめてくださいお願いします。

 

「なあアルゴ、実は俺のこと嫌いだろお前?」

 

 俺の社会的評判を全力で引き下げにかかるんじゃない。

 推定大学生のサーシャさんは見た目にそぐわぬ初々しさで顔を赤くしているし、アスナは心なしか口元を引き攣らせているような気がする。信じるなよ? いくらなんでもそこまで爛れた生活は送ってないからな。

 

「まっさかあ、キー坊が嫌いだなんて、そんなことあるはずないじゃないカ。自覚が足りないヨ、キー坊」

 

 場を引っ掻き回して遊ぶのはアルゴの趣味みたいなものだけど、今日も切れ味鋭く絶好調だな。自重しやがれ《鼠》。

 一頻り俺とアスナ、それからサーシャさんもまとめて、三人諸共にからかい倒したアルゴは満腹の猫みたいに満足そうな笑みを浮かべていた。フリーダムな奴。

 

「実際はキー坊の健全な依頼を聞いた報酬だし、ここに寄付してるのもその一部なんだけどネ。キー坊が色欲の権化なんてことはないから、先生さんもアーちゃんも誤解しないでやってくれヨ」

「なら最初から俺の風評被害を拡げようとするんじゃない」

「キー坊はからかい甲斐があるからどうしても弄りたくなっちゃうのサ。そうは思わないかい、アーちゃん」

「本人の前で断言するのはちょっと可哀想な気もしますけどね」

 

 そこは否定しておけよアスナ。

 

「ま、冗談はこれくらいにしておこうカ。丁度お客様も来たようだし、キー坊弄りはまた日を改めて楽しむとしよう」

 

 索敵スキルでも起動していたのか、館内に響く来客を告げるノック音よりも早く来訪者を察知したらしい。真っ先にアルゴが席を立つ。オレっちここからはお仕事モードだから、なんて真面目ぶって俺達に言い置くと、客の出迎えに赴こうとしていたサーシャさんを押し止め、ふらりと部屋を出て行った。

 

「勝手知ったるなんとやら、だな」

 

 ホスト役を自然と請け負う手馴れたアルゴの対応に、感心半分呆れ半分な溜息を零す。子供達の反応やサーシャさんの態度から昨日今日の付き合いではないことはわかっていたが、どうやらアルゴはこの教会の住人とは確固とした信頼関係を築いているらしい。

 

「サーシャさんはアルゴとは長いんですか?」

 

 程よく渋みが出たお茶を一口啜ってから疑問を投げかけた。

 

「そうですね、昔からあれこれと手助けしてもらっています。見返りとしてはじまりの街で起こった事や軍の情報を流してほしいってお願いされてますけど、明らかにアルゴさんの持ち出しのほうが大きいですね。とても感謝してます」

「恥ずかしながら、俺は年端もいかない子供たちがこんなに保護されていることも最近まで知りませんでしたよ。あいつもそういうことしてるんなら素直に言ってくれればいいのに……」

「わたしも同じです。少しアンテナを伸ばせばすぐに知れたことなのに、気づきもしませんでした。あの、よろしければフレンド登録をさせていただいてよろしいでしょうか? 何かあったときは微力ながらお手伝いさせていただきます。もちろん出来る範囲で、ですけど」

 

 おお、アスナが真面目モード入ってる。

 

「それは……よろしいのですか? 攻略組のプレイヤーはとても忙しいと伺ってますけど」

「四六時中戦ってるわけでもありませんから平気ですよ。それに軍の動きがちょっとおかしくなってるみたいですし、このまま見てみぬフリは出来ませんから」

 

 これでもそこそこ顔は利くんですよ、なんて微笑むアスナだった。

 血盟騎士団副団長の影響力で『そこそこ』とか逆に怖いぞ。基本攻略組は下の諍いには関わらないし、血盟騎士団の方針も攻略第一だから組織立って動くのは難しいだろうが、アスナ個人のネームバリューだって侮っていいものじゃない。攻略組の実態を知らないプレイヤーにしてみれば、アスナを敵に回すことはイコールで血盟騎士団を敵に回すことだと勘違いもするだろう。バックに暗然とした武力を示すことができるのは、ギルド所属のメリットの一つだ。

 

 結局、恐縮はしたものの「ありがとうございます」とアスナの申し出を受け入れたサーシャさんだった。子供達の保護者役を務めている以上、手は多ければ多いほど良い、なんて打算めいた思いを抱くのはきっとこの場では俺だけなんだろうな。アスナとサーシャさんのやりとりには善意と正義感しか感じ取れず、まずメリットデメリットを計算してしまう我が身を少しだけ嘆いた。

 

「おや、オレっちがいない間に仲良くなったみたいダ」

 

 アスナがサーシャさんと毎日の食事事情を語っている傍ら、ホットミルクを飲んでいたユイが俺のお茶を欲しがり、その渋みにちょっとだけ涙目になる一幕を挟んでいると、アルゴが一人の客人を伴って食堂に戻ってきた。現れたのは銀色の長い髪を後頭部でポニーテールにした、女性にしては背の高いプレイヤーだった。小柄なアルゴと並んでいるせいか長身が目立つ。

 しかしなによりも注目すべきはその濃緑色の上着とズボン、そして鈍く輝く金属鎧だ。ケープによって多少なり柔和な印象にはなっているが、彼女が身に纏っているのは《軍》のユニフォームに相違ない。武装は右腰のショートソードと左腰の鞭か。メインは黒革仕立ての鞭の方だろう、最前線ではあまり見かけることのない癖のある武器だった。

 

 アスナと共に立ち上がりながら内心で溜息をつく。今日はよくよく軍と縁があるな。

 そんな俺の思いをよそに、緊張しているのか表情をわずかに強張らせたその女性は、まずサーシャさんに「お久しぶりです」と一礼し、返礼を待ってから俺とアスナに向き直った。

 

「はじめまして、私は《軍》所属のユリエール。ギルドマスターであるシンカーの副官を務めています。お見知りおきください」

 

 はきはきとした聞き取りやすい声だった。落ち着いたアルトの声だけではなく、空色に染まる切れ長の瞳と整った鼻梁が彼女にシャープな印象を持たせている。

 

「ご丁寧にありがとうございます。ギルド《血盟騎士団》副団長のアスナです」

「ソロプレイヤーのキリトです。で、こっちの子がユイ。ちょっと人見知りなんで挨拶は勘弁してやってください」

 

 ユイが俺の後ろに隠れてしまったのは、人見知りというよりはユリエールと名乗った女性に理由がある気がする。彼女の隠しきれない張り詰めた雰囲気をユイが敏感に感じ取ってしまったせいだろう。

 

「いえ、お気になさらないでください」

 

 子供の前だということを意識したのか、それともユイの可愛らしさに絆されたのか、ユリエールさんがそれまで纏っていた重苦しい空気が少しだけ緩んだようだった。サーシャさんが肩から力が抜けたユリエールさんを促して席に誘い、アルゴも素知らぬ顔で元の席に腰を下ろした。

 

「《黒の剣士》キリト殿、今日はあなたに依頼したいことがあり、こうしてアルゴ殿に労を取って頂いた次第。どうか我らにその力をお貸しください」

 

 全員が席に着いた途端、前置きもなしに性急極まりない様子でユリエールさんが本題を切り出した。その顔は緊張に張り詰めている。いや、どちらかといえば焦慮に満ちている、かな? 加えて濃い憔悴の色を押し隠しているような雰囲気も感じられる。

 突然名指しされたことへの驚きはなかった。アルゴが絡んでいる時点である程度予想できたことだし、このタイミングで軍の中枢にいるであろう女性を招き寄せた以上は、俺かアスナ、もしくはその両方に用があることは察しがつく。対象が俺だけなら純粋に荒事、アスナならギルド間の交渉も含めた交渉願いと言ったところだろうか。

 何にせよ、まずは文句の一つも告げておかなければなるまい。

 

「お話を伺うのは吝かではありませんが、少しだけお待ちを。……アルゴ、お前やっぱり厄介事を持ってきたな」

「そんな嫌そうな顔するなヨ、キー坊」

 

 気持ちはわかるけどサ、とか言っちまうお前も正直どうかと思うけどな。ユリエールさんがすごく気まずそうな顔をしてるぞ。

 

「それで、お前が引き受けた仕事は?」

「例のごとく仲介だヨ、オレっちがキー坊への伝手を持ってることは割と有名だしナ」

「どんな風の吹き回しだよ。その手の依頼はアルゴのほうで全部断ってるはずだろ?」

「そりゃあ、オレっちに持ち込まれる依頼の大半はキー坊じゃなくても務まるからナ。オレっち気遣いの淑女だから、わざわざ多忙なキー坊を煩わせるようなことはしないのサ」

 

 妙な称号を自称するな。内心の溜息を押し殺し、胡乱な目つきになった俺を華麗に無視してさらに言葉を紡ぐアルゴだった。

 

「今回の場合はちょっと特別でネ、緊急事態って奴ダ。それに軍の動向はキー坊も気になってたみたいだし、丁度良い機会だと思ったんだヨ」

「緊急事態ってわりにはのんびりしてんなあ」

 

 本当に急ぎの依頼なら俺のホームを訪ねるなりフレンド・メッセージを飛ばすなりいくらでも手はある。となると緊急事態ってのも額面通りに受け取るようなものじゃないのか? ……何せアルゴだしなあ、油断ならん。

 礼儀を無視して頬杖をついて呆れてみせる俺に「お行儀悪いよキリト君」とすかさずアスナから注意が飛んできた。アスナは真面目だ、なんて苦笑いを浮かべながらすぐに居住まいを正した。

 

「あくまでオレっちは仲介人、焦ってるのは依頼人のほうダ」

 

 俺の指摘を受けても何処吹く風で他人事を貫き通すアルゴはいつも通りと言えなくもない。しかし切迫感に乏しいアルゴに反比例するように、ユリエールさんの顔を悲壮感が帯びていく。

 

「キリト君……」

 

 理由はわからずとも悲嘆に暮れたユリエールさんに胸を痛めているのか、アスナが気遣わしそうな表情で俺を伺い、そんなアスナに「わかってる」とだけ答えてアルゴとの会話をひとまず切り上げた。

 

「話を脱線させて申し訳ない。俺に依頼があるとのことですが?」

 

 俺が話を聞く態勢に入ったと見て取ったのだろう、ユリエールさんは改めて居住まいを正し、緊張と決意に尖らせた切れ長の瞳を俺へと向ける。彼女の持つ硬質な雰囲気と合わさってか、幾ばくかの気圧されそうな迫力を感じた。それだけ真剣だということだろう。

 

「恥を承知で申し上げます。私のレベルでは到底突破できないダンジョンに幽閉され動けないシンカーを救出するために、名高き《黒の剣士》の力を何卒お貸し願いたい。どうか、どうか! この通りです……!」

 

 悲痛な面持ちで頭を下げる女性の姿に、とにもかくにも居心地の悪い思いを抱かないわけにはいかなかった。自分よりも明らかに年上のプレイヤーにこうも下手に出られると調子が狂ってしまう。攻略組を意識している時は問題なく割り切れているのだが、今日はオフのつもりでいたから今ひとつ切り替えが上手くいってないのかもしれない。

 

「シンカーというのはあなた方《軍》のギルドリーダーであるシンカーのことですよね?」

「はい。もっとも最近ではシンカーはほとんどお飾り状態でしたので、軍のトップと言い張るのも空しく響くだけかもしれませんが……」 

「攻略推進を唱える強硬派のキバオウ、弱者救済を唱える穏健派のシンカー、という評判は俺の元にも届いています。軍に所属する高レベルプレイヤーの支持を多数集め、実働戦力をほぼ掌握していたのはキバオウだということも。既に実権の大半がキバオウに移り、今現在シンカーは名目上のトップに過ぎない。そういう理解でよろしいでしょうか?」

「……その通りです」

 

 ユリエールさんは悔しさからか唇をきつく噛み締め、無念そうに拳を震わせていた。シンカーの副官として思うところがあるのだろう。

 以前から軍の内部分裂は進んでいたし、シンカー派とでも呼ぶべき勢力はキバオウ派に抗しきれず、日々影響力を落としていた。察するにいよいよ両者の争いに決着がつこうとしているのだろう。とはいえ、それだけならわざわざアルゴが話を持ってきたりはしない。

 軍の内紛か。シンカーの幽閉とは穏やかじゃないな。

 

「シンカーを救出というのもよくわかりません。もう少し詳しく説明していただけますか?」

 

 そもそもダンジョンに取り残されて動けないってのはどんな状況だ? さっさと転移結晶で帰ればいいだろう。それとも転移結晶のストックを忘れていたのか? だとしたらかなりの間抜けだ。

 

「ここから先はどうか他言無用で願います。度重なるキバオウの専横に私達はキバオウらの追放をシンカーに願い出ていました。そんな折にキバオウからシンカーへと『今後のことについてお互いに丸腰で話し合おう』という提案があったのです。シンカーはキバオウの言葉を信じ、非武装のまま回廊結晶で会談場所に赴きました。しかしその回廊結晶はキバオウの罠であり、シンカーは自力で帰還不可能のハイレベルダンジョン奥地へと強制的に送り込まれてしまったのです。……二日前のことでした」

「二日前……。シンカーさんは無事なんですか?」

 

 思いもよらぬ陰謀に顔を強張らせたアスナが思わずといった風に尋ねると、「黒鉄宮の生命の碑を確認する限り無事のようです。おそらく安全地帯に逃げ込めたのでしょう」と、こちらは青褪めた表情でユリエールさんが補足した。

 ふむ、詳細を聞いたことで尚更疑問符が湧き出ることになるとは思わなかったな。というか丸腰で話し合おうって提案を馬鹿正直に聞き入れたのかよ。他人のアイテムストレージなんて確認できないんだし、適当に嘘でもついておけばいいのに。

 

「シンカーは良い人すぎたんです。最後までサブリーダーのキバオウを信じて、そのせいで結果として裏切られ、今回のどうしようもない苦境に追い込まれてしまいました」

 

 良い人……。シンカーとキバオウの対立は根深いものだと聞いていたし、そんな状況でこの有様では危機感が欠如しているとの謗りを避けられないんじゃないか? 一組織のトップとしては危うすぎる。

 

「なにやらおかしなことになっていますね。キバオウは何故そんなことを?」

「キバオウの目的はシンカーに成り代わり、ギルドリーダーの座につくことでしょう。キバオウの度が過ぎた専横には軍内部でも不満が募っていました。キバオウはこのまま不満が高まれば自分が追放されると恐れ、先手を打って軍を掌握しようとしたのだと思います。このままでは遠からず軍の人事から会計を含む全てがキバオウの思うが侭になってしまうでしょう。……そうですね、協力をお願いするのですから話しておかなければならないでしょう。黒の剣士殿は――」

 

 キリトで構いませんよ、と嘴を差し挟んでおく。

 

「わかりました。ではキリトさん、あなたは軍の前身であるMTDをご存知でしょうか?」

「日本最大のネットゲーム総合情報サイト《MMOトゥディ》の略称ですね。クライン――現在の風林火山の代表者がはじまりの街を離れた後、ゲーム開始以来初心者支援に最も貢献していたシンカーがはじまりの街の皆に望まれ、設立したギルドがMTDだったはずです。当初のギルド方針は《食料や情報のような限られた資源をプレイヤー間で公平に分け合い、協力しあう事》でしたか」

「……驚いた。キリトさんは軍の事情にとても詳しいのですね」

 

 意外そうに目を丸くする様に思わず苦笑いが浮かんでしまう。今はともかく、ゲーム開始当初はクラインも関わっていたギルドなのだから多少気にかけるくらいはしていたさ。もっとも当時の俺にシンカーを手助けするとかそういう殊勝な考えは露ほどもなかったけど。

 

「いえ、それも道理ですか。シンカーはあなたにとても感謝していましたよ。ゲーム開始初期の混乱期を乗り切れたのはあなたの助言があったからだと」

「感謝なんていりませんよ、俺がクラインに伝えた知識はあくまで知識でしかありません。手探り同然の状態で乏しい情報を生かし、きっちり形にしたシンカー達の努力と功績こそ称えられるべきものです。だからこそ軍は最大規模のギルドに成長したんですから」

 

 知っていることと出来ることは違う。知識だけで生き抜けるほどアインクラッドは甘くない。

 軍の前身――MTDは初心者プレイヤーの寄り合い所帯から始まったものだ。ゲーム開始当初の混乱期は千を超える死者を出した絶望的な状況だった。そんな中で右も左もわからない初心者を糾合し、あるいは保護しようとしたシンカー達が頼りにされないはずがない。

 シンカーやクラインが開始した草の根活動に助けられ、後にはじまりの街を発っても籍だけは軍に置いているプレイヤーも多数存在する。この事からもどれだけ頼りにされているかはわかるだろう。恩義という意味でシンカーやクラインを慕っている者は多い。

 

「ですが俺も通り一遍の経緯しか知りませんし、軍が最前線を退いた後の状況にも詳しくありません。以前はシンカーとキバオウも上手くやっていたようですけど?」

「ええ、彼らは最初から対立していたわけではありません。シンカーがバックアップにまわり、数多の情報を収集、整理し、レベリングや有力なクエストを効率的にこなすシステムを作り上げました。そしてキバオウが部隊を率いて最前線を戦う両輪の形が出来上がっていたのです。キバオウ達当時の前線組がギルドの名称変更を訴え、MTDからアインクラッド解放軍に変わりこそすれ、リーダーとサブリーダーが露骨に派閥を率いて権力争いをするなんてことはなかった……」

「軍が分裂する契機となった25層――最初のクォーターポイントを迎えるまでは、ですね。あの戦いでキバオウの率いた部隊が壊滅の煽りを受けた。軍が最前線から退いたのはシンカーとキバオウ、どちらの判断だったんです?」

「キバオウです。彼は自分に同調する幹部プレイヤーの支持を得て、体制の強化を打ち出しました。その中には公認の犯罪者狩りや効率の良い狩場の独占も含まれます。キバオウはシンカーの反対も押し切り、マナー違反を繰り返して他のギルドやプレイヤーとの友好すら省みなくなった……!」

 

 シンカーを蔑ろにされたことにか、それとも強引に過ぎるキバオウの施策を憂いてか、ユリエールさんは憤懣遣る方ない様子だった。しかし怒りに語調を荒げる女性剣士には悪いが、俺は彼女の憤りに同調するでもなくぼんやりと眺めていた。キバオウが犯罪者に強硬な態度を取るようになり、強引なレベリングを推進するようになったのもわかる気がして、一方的に謗る気になれないのだ。

 25層で多大な被害を出したのはクォーターボスの脅威は勿論だが、その裏には犯罪者プレイヤーの暗躍があったとされている。情報伝達の遅れ、虚偽情報の流布、作戦の混乱。あの戦いで多くの部下を失ったキバオウにしてみれば到底許せるものではなかっただろう。その時の怒りが、後に犯罪者狩りと称されるほどに苛烈な対応を固めさせたのではないだろうか。

 元々キバオウは理屈よりも感情で動くタイプの人間だし、犯罪者を取り締まることでアインクラッドに秩序をもたらそうとしたとか言われるよりも、ずっとしっくりくる。

 

「ハーフポイントを超える頃にはキバオウとシンカーの対立も深刻化し、派閥争いで軍内部も混乱していたと聞いていますが?」

「面目ありませんが、その通りです。数を(たの)んだ狩場の独占は軍に確実な戦力増加と莫大な富をもたらしました。キバオウ一派の支持者も続々と増えていき、シンカーの発言力は日に日に衰えてしまいました。幹部会議でもほとんどキバオウ達の意見を追認するだけの有様だったのです。それどころか彼らはシンカーが口出しできなくなったのをいいことに、最近でははじまりの街で《徴税》と称した下劣な恐喝まで始める始末……」

「俺も徴税現場は見ましたけど、とんでもなく非効率的なシステムを作り出したものですね。試みとしては面白いと思いましたけど」

「面白い? 一体何が面白いと言うのです?」

 

 しまった、正直に言い過ぎた。思いっきり睨まれてるよ、俺。

 

「この街で暮らしてるプレイヤーの多くは軍の庇護を受けて生活しているわけでしょう? いってみれば軍が貴重なリソースを割いて彼らの生活を守り、援助している。となると、徴税するアイテムやコルの何割かは元々軍の物資だったことになる。なのにわざわざ人力で回収して回ってるんですから非効率極まりないですし、徴税部隊の横暴さも住民の心象を著しく悪化させるだけの悪手に見えました」

 

 権威を笠に着てアルゴ達に難癖をつける様はまるで《囚人ゲーム》の看守のようだった。虐げる行動が何らかの後ろ盾によって肯定されているとき、人間は普段の人格からは信じられないほど豹変し、過剰な攻撃性を持つようになる。

 

「徴税は軍の方針からも逸脱した唾棄すべき行為です。私達に力があれば決してあのような真似はさせなかった」

「ユリエールさん達にとっては悪くないと思いますよ? はじまりの街の住人の不満は徴税部隊に向けられているのですから、後はシンカーが彼らを追放でもすれば人気取りに使えます。徴税部隊はキバオウ派のものとされてるみたいですから、シンカー派で彼らを取り締まれれば尚よしですね。実はシンカー派の仕込みだったなんてことは……?」

 

 どちらの派閥にも徴税部隊を組織するメリットは生じる。キバオウ派にとっては上層部への不満を逸らす生贄として。それは影響力を回復させたいシンカー派にとっても同じだ。ただし両陣営とも徴税部隊を蜥蜴の尻尾切りとして処分することが前提にあるけど。

 

「なっ!? そんなことはありえません! 徴税部隊の編成に私達は一切関わっていないのですよ!」

「……ええ、そうなんでしょうね、あんまりにも効率の悪いシステムだったもので邪推してしまいました。お許しください」

 

 なんていうか素直な人だなあ。シンカーの副官っていったっけ。彼女の上司であるシンカーも人の良さばかりが聞こえてくるし、二人してこれじゃキバオウ達にいいようにやられるわけだ。正義感とか人柄、あるいは事務能力なんかは申し分なさそうだし、戦えない人たちの助けになろうって気持ちも立派だけど、どうも足元が見えてないところがある。

 

 不思議なのはキバオウ達だ。一体何のために徴税なんて実入りの悪いシステムを組んだんだ?

 はじまりの街で狩りにも出ず困窮した生活を送るプレイヤーからどれ程の徴収が期待出来るかなんて、俺よりも彼らのほうがずっと知り尽くしているはずだろう。言っちゃなんだが貧乏プレイヤーを脅してアイテムやコルを提供させるくらいなら、そのへんの狩場で雑魚敵を蹴散らしていたほうが時間当たりの効率はずっと上だ。

 軍のしている徴税なんて手間と労力ばかりがかかり、住民のヘイトを稼ぐ割にメリットが少ない。好き勝手に振舞う徴税部隊を果断に処断して軍内部の網紀粛清を図るとかでなければ、せいぜいが軍所属の人間のストレス発散につながるくらいじゃないか? そこまでしなきゃならないほど軍が追い詰められているとは思えないんだが。

 

「徴税が悪法であることは否定しませんよ。ですが、軍が分裂したのは何もキバオウだけのせいじゃないでしょう。シンカーにだって非はあった」

「聞き捨てなりません。彼の何が悪かったというのです」

 

 滅茶苦茶睨まれた。これは嫌われたかな? 怖い怖い。

 

「シンカーが掲げた弱者救済の方針は確かに尊いものです。ですが、モンスターから獲得できるアイテムやコル、あるいは食料や情報を均等に分け合うということは、言い換えれば《稼ぎの多いプレイヤーの取り分を切り崩して、その余剰分を稼ぎの少ない者に与えること》に他なりません。ゲーム開始初期の混乱期ならばいざ知らず、狩りに慣れて生活が落ち着いてしまえば、積極的に戦いに出る者から不満が出るのは避けられなかったはずです。あくまではじまりの街の住民を優先させようとしたシンカーと、彼らにも自助努力を求めたキバオウ。最終的にキバオウに付いたプレイヤーが多かったのも、そのあたりに事情があるんじゃないですか?」

「それは……」

 

 人間、頑張れば頑張っただけの成果は欲しいものだ。それに命を張って資源を稼いでいるプレイヤーにしてみれば、はじまりの街で震えて縮こまってるだけのプレイヤーに、どうして俺達が命懸けで獲得した貴重な物資を大盤振る舞いしてやらなきゃならん、という思いが募って当然だろう。もちろん多少の施しなら彼らだって納得ずくだったろうが、度を過ぎれば反発につながる。

 シンカーがギルド員の手にした資源をなるべく多くのプレイヤーに満遍なく配り共有しようとしたのに対し、キバオウは住民への援助は最小限に抑え、余剰分をギルドの強化に回そうとした。キバオウの胸にはいずれ攻略組復帰を、という目論見もあったのかもしれないが、軍の高レベルプレイヤーにしてみれば攻略に参加するしないはともかく、キバオウについたほうが利益がでかいからそうした。その程度のことだろう。

 軍の派閥争いはキバオウが上手くやったというより、なるようになった結果今の状況に落ち着いた、という見方のほうが正しい気がする。

 

「誰もが聖人君子になれるわけじゃない。シンカーは公平性を重視しすぎて、実際に戦っているプレイヤーへの配慮が足りなかったのだと思います」

「私達が間違っていたと?」

「まさか。シンカーの為した善行を否定なんて出来ませんよ。シンカーに敬意だって持っています」

 

 人間として正しいか正しくないかで言えばシンカーが正しいし、命を大事にしているのだってシンカー達だろう。ただ、俺にはキバオウの主張の方が肌に合うだけの事だった。

 アインクラッド全百層を制覇することで開放を目指す俺達攻略組の方法論(メソッド)は、外部からの助けがない事を前提で成り立っている。もしも今この瞬間に現実世界からの救援によって俺達が開放されるなら、今日まで最前線を攻略するために払ってきた犠牲の悉くが無駄になるからだ。その場合ははじまりの街を出ずにじっと救出を待つことが正解になるのだし、どの選択が正解だったかなんて終わってみなくてはわからない。

 

「……シンカーは誰にも死んで欲しくないと考えていただけです。だからこそ、再三キバオウが要求した攻略組復帰だけは頷かなかった。だというのに彼らは痺れを切らしたのか、独断で部下のハイレベルプレイヤーを最前線に送り込んでしまいました」

「コーバッツ中佐達のことですね。しかし彼らはシンカーからも委任を受けている、と口にしていましたけど?」

「事後承諾です。もしも作戦前に話を通そうとしていたならシンカーが頷くはずはありませんでした。なによりキバオウ達の独断専行は最悪の結果を生み、十二人ものプレイヤーを無策に戦死させてしまったのです。とても許せることではありません」

「キバオウ達もコーバッツ中佐達を考えなしに送り出していたわけではないと思いますよ? 最前線のマップ攻略は普通ワンパーティーで行います。その規模の人数で挑むのが一番効率が良いとされているからですが、75層に現れた軍は二つのパーティーで部隊を編成し、効率を落としてでも安全を重視していました。俺は軍内部のゴタゴタまでは知りません。けれどキバオウ達が考えなしに部下を全滅させたという評価は些か酷だと思いますよ。あの時のクォーターボスは……誰が偵察隊を率いても全滅していましたから」

 

 確かにユリエールさんの言う通り、キバオウがコーバッツ達を最前線に向かわせなければ軍から死傷者が出ることはなかった。――コーバッツ達の代わりに攻略組から犠牲が出ただけのことだ。

 75層の死闘とその後の惨劇を思い出し、憂鬱になった。ええい、余計なことまで思い出すな。

 

「ユリエールさん、あなたが今話している相手は攻略組プレイヤーです。外からの救出の可能性を選ぼうとせず、アインクラッド全百層を踏破することで現実に帰ろうとしている人間なんですよ。攻略組が用いる論理は、あなた方の信じるそれとは少しばかり違うのだと知っておいたほうが良いです」

 

 攻略組は安全を半ば犠牲にして未知のマップやモンスターに挑んでいるのだ。あるいは俺達はアインクラッドからの開放を人の手に委ねてじっと待つだけの忍耐力を持てなかったプレイヤーなのだ、と言い換えることも出来るのかもしれない。

 

「では、キリトさんはキバオウを支持すると?」

 

 厳しい眼差しを向けられ、思わず苦笑いが浮かんだ。

 

「あの男は俺の助けなんて欲しがっちゃいません。それに俺だって無条件でキバオウを肯定しているわけじゃない」

 

 もっともその事情はシンカーに対しても同じだけど。

 シンカーとキバオウのどちらかに付く気もない。これが二人の個人的な諍いを端緒とした問題なら解決の目処もすぐにつくのだろうが、現在の軍の権力争い――これから先を見据えたギルドとしての活動方針を巡るせめぎあいに、彼らと大した縁のなかった俺が下手に介入をして良いとは思えなかった。

 放っておけば遠からずキバオウが全権を握ることになるだろう。しかしどちらがトップに立とうが結局軍の混乱は続くのだ。現在軍に起こっている問題は、言ってみれば攻略組と中層以下のプレイヤーを隔てる意識の差を凝縮した縮図のようなものである。一朝一夕で意識改革が出来るはずがない。

 

 軍は規模がでかくなりすぎた。誰がトップに立ってもこの状態から纏め上げるのは至難だろう。まして彼らは攻略組ギルドのように一つの目標を共有することも出来ないのだから尚更厳しい。

 俺なら無理にまとめようとしないで、適当にギルドを分裂させることを考える。設立当初の理念を貫くシンカーと攻略組復帰を見据えるキバオウ、彼らのそれぞれに同調するメンバーを選抜し、改めて互いの領分を定めるのだ。場合によっては完全に別ギルドとせずとも、部門毎に指揮系統と権限をはっきりすれば不満も抑えられるかもしれない。

 

 どのみち対立を解消する目処が立たないのならさっさと妥協し、交渉で条件のすり合わせをした上でギルドを縮小したほうが、状況は落ち着くだろうというのが俺なりの意見だった。ただし今となってはシンカー派が弱体化し過ぎていて使えなさそうな手でもある。彼らの実際の力関係はどうなっていることやら?

 とはいえ所詮は部外者の戯言だ。俺のスタンスがあくまで攻略優先であることは変わらないし、そこに軍の建て直しなんて大仕事が入る余地はない。

 

「……アルゴ殿」

「まあ諦めることだネ。オレっちは《軍》と《黒の剣士》の友好まで保障した覚えはないし、攻略組の腕っぷしを見込んで話を持ちかけてきたのはそっちだろう?」

「それは……そうですが」

 

 助けを求めるようにアルゴを伺うユリエールさんだが返答はにべもなかった。眉間に力を込めて考え事をしているアスナに救いを求めるように目をやり、次いで困り顔になって俺達を伺うサーシャさんへ。長話に退屈して暇を持て余したのか、テーブルの上のカップで手遊びを始めているユイに視線を滑らせ、やがて悲痛な表情で黙り込み、俯いてしまった。

 沈黙が場の空気を際限なく重くしていき、通夜のような息苦しささえ覚えるほどに――なんてなるはずもなく。

 

「さて、軍の事情はともあれ、キー坊はすぐに出発できるのカ?」

「元々午後から迷宮区に潜る予定だったから準備は万端だよ。あと二、三確認したらってとこだ。アスナはどうする? ユイを連れて戻ってもらっても構わないけど」

「冷たいなあ、ここまで関わっておいて後はお任せなんて出来るわけないでしょ。わたしも最後まで付き合うわよ」

「ありがたい」

 

 アスナの参戦は戦力的な意味でも心強いし、俺自身アスナにフォロー役を担ってもらうことを期待していたことは否めないだけに、ますますアスナに頭が上がらなくなりそうだ。

 

「――というわけで、わたし達もシンカーさん救出に協力させていただきます。ついてはもう少し詳しいお話を伺いたいのですが」

「……え? あの、私達の助けになっていただけるのですか? 私はてっきり断られるものだと」

 

 ユリエールさんは何度も目を瞬かせ、しばらく呆然としたままだった。

 

「ほら、キリト君のせいで誤解されちゃってるじゃない。君はもう少し言葉を選んだほうが良いよ」

「そうはいっても、俺は一度もシンカーを助けにいくことに反対なんてしてないぞ。ちゃんと言葉は選んでるって。なあアルゴ?」

「オレっちも《黒の剣士》の友好は期待するなって言っておいたけど、協力を諦めろなんて言った覚えはないなあ」

 

 早合点『させた』ことは悪かったけど、キバオウがやりすぎている点は同意するし、シンカーを助け出すことに異論もない。こっちにはこっちの思惑もあるから今までの態度も反省しないけどな。アスナだってそれをわかってたから口出しせずに黙ってたんだし、俺達は共犯のはずだぞ? もっともそんなことまでユリエールさんに知らせる必要もないけど。

 

「こういう人達なんです。あまり深く考えないほうがいいですよ?」

「あ、ありがとうございます……?」

 

 呆れ顔で肩を竦めるアスナの言葉を受けても今ひとつ実感がないのか、狐につままれたままの面持ちで礼を述べるユリエールさんだった。これ以上この人を探っても意味はなさそうだし、後はこっちで適宜情報の摺り合わせをすればいいだろう。

 

「一通りの合意が出来たところで、シンカーの幽閉されたダンジョンが何処なのかを教えてもらえますか?」

「それが、はじまりの街の中心部、その地下に広がるダンジョンなのです。黒鉄宮、つまり私達《軍》の本拠地に入り口があるのですよ。シンカーはおそらく一番奥です」

「黒鉄宮に入り口ですか。ベータテスト時分から聞いたことがなかったですね」

「おそらくは上層攻略が進むことで出現するタイプのダンジョンなのでしょう。キバオウ達は外部のプレイヤーはもちろん、シンカー派にも発見の事実を伏せて自分達の派閥で独占しようとしたようです。シンカーも長らく知らされていなかったそうですから」

「未踏破ダンジョンには希少価値の高いアイテムも多いですからね。ダンジョンそのものがレアな経緯で出現したものですし、結構な稼ぎになってそうだ」

「それがそうでもないようなんです。私も先日挑戦してみて実感したのですが、ダンジョンに配置されたモンスターは60層相当の強さを誇る上に、次から次へと休む間もなく湧出してくるんです。聞いた話では以前キバオウ自身が率いた先遣隊も攻略に失敗し、大赤字を被ったとか」

 

 この時ばかりはユリエールさんも声を弾ませ、小気味良く答えた。散々自分達を困らせてきた相手だけに胸のすく思いだったのだろう。

 

「……ではもう一つ、ユリエールさんがシンカーを救出に向かった時はソロだったんですか?」

「はい」

「軍の他の連中――シンカー派のプレイヤーは?」

「高レベルプレイヤーの大半はキバオウ派に鞍替えしていて、シンカー派のプレイヤーに60層クラスのダンジョンに潜れるプレイヤーは残っていないんです。シンカーを罠に嵌めたキバオウ派のプレイヤーを頼るわけにもいかず、シンカー救出作戦は遅々として進んでいません。そこでアルゴ殿に藁にも縋る思いで頼らせていただいた次第です」

 

 そう言ってユリエールさんは口惜しそうに唇を噛むと、己の無力を嘆くように組んだ拳を額に押し当て震えていた。出来ることなら自分の手で救出したいのだろうし、一刻も早くシンカーの元へ行きたいという思いが溢れ出しそうだ。

 

「最後の確認です。その黒鉄宮のダンジョン――この際地下迷宮でいいか、そこのマップ情報は揃ってます? 具体的にはシンカーがいるであろう場所までの道案内を、ユリエールさんに期待していいのか、ということですが」

 

 マップ情報を買い取らせてもらって俺とアスナだけで向かったほうが効率は良さそうだけど、ユリエールさんを納得させるのは骨かな? いや、軍が秘匿してきたダンジョンのマップ情報を俺が手に入れようとするのもよくないか。

 

「勿論お任せください。ダンジョン最奥の安全地帯までマッピングは済んでいますので、道中のモンスターさえなんとかできるなら迷わずに辿りつけるはずです。ただ、未確認情報となりますが、ダンジョンの奥でボスらしき大型モンスターを見たという話もあります」

「なるほど、気をつけます。大まかな事情は理解できました。シンカーも非武装だというのなら無闇に安全地帯を動いたりはしないでしょうが、万一もあります。すぐに出発しましょう」

「ありがとう……ございます……」

 

 頭の中で色々と情報を整理しながら告げた俺が面食らうような勢いで頭を下げ、安堵で涙が滲むユリエールさんの背中をアスナが優しく撫でさする。「お礼はシンカーさんを救出した後で。まだやることは残ってるんですから」と穏やかに発破をかけるアスナに「はい」と笑顔で頷いていた。

 ダンジョン内のプレイヤーとはメッセージのやりとりもできず、フレンド機能による位置情報の特定もできない。生存を確認できるのは黒鉄宮に刻まれたプレイヤーネームだけだった。ユリエールさんはいつシンカーの名前に横線が引かれるか気が気でなかったのだろう。そういえば昔、アスナもリズの安否を心配して泣いていたことがあったっけ。大事な人を想う気持ちは誰でも一緒だな。

 そんな二人の様子を横目に、俺は成り行きを見守っていたサーシャさんへと向き直った。

 

「申し訳ないのですが少しの間ユイを預かってもらえませんか? 俺のほうでも仲間に連絡を入れてユイを迎えにきてもらいますので、それまでの間お願いしたいのです」

「ええ、もちろん構いませんよ。それじゃユイちゃん、少しだけ私と一緒にお留守番をしていましょうね」

 

 サーシャさんは俺の要請にも嫌な顔一つすることなく笑顔で快諾すると、腰をかがめてユイと視線を合わせ、優しく語りかけた。しかし当のユイはそうした決定が不服だったようで――。

 

「ユイも一緒に行く!」

 

 垂れ目がちな目尻を精一杯吊り上げて、真っ向から拒否の姿勢を見せたのだった。

 

「ユイ、これから向かうところは危険がいっぱいなんだぞ」

「そうだよ、ユイちゃん。サチさんがすぐお迎えにきてくれるから、それまではサーシャさんと一緒にいよ? ね?」

「嫌……! ユイはパパ達と一緒にいるの! いなきゃ駄目なの!」

 

 一体どうしたというのだろう? 今までユイがここまで語気荒く俺達に食い下がることはなかった。涙まで浮かべて懇願を繰り返すユイは簡単には納得してくれそうにない。

 アスナに目を向けてもユイが示した態度の豹変に苦慮しているのか、困惑を浮かべたまま打開策は見つからないようだった。早くも娘の反抗期が来たのだろうか?

 

「ユイ、お願いだから聞き分けてくれ。後でなんでも言うこと聞いてやるから」

 

 早々に白旗をあげて懐柔に走った俺は情けなかった。こういう場合、父としてもう少し怒ってみせたほうがいいのか? 甘やかすだけが教育じゃない、とはいうけれど。むむむ、子育てって難しい。

 

「違うの。私、帰らなきゃ。暗い、暗い場所。こことは違う、ずっと一人でいた私の居場所に。そうしないと、私が消えちゃう……」

「帰る? ユイ、もしかして記憶が戻ったのか?」

「記憶……。私の、冷たい記憶……。痛みの……記録。駄目……! うあ……あ……あああぁぁぁ!」

 

 なんだ? ユイの様子がおかしい……!

 おとがいを反らして高い悲鳴をあげるユイを呆然と見やる。力いっぱい開いた眼、愕然とした面持ち、生々しく浮かぶのは――恐怖。それだけじゃない。この世界で生きてきて一度たりとも聞いた覚えのない不快なノイズ音が時同じくして部屋に響き渡り、鼓膜を揺さぶる痛みに似た痺れに思わず顔を顰めてしまう。見ればアスナやアルゴ、ユリエールさんにサーシャさんも耳を押さえてこの突然のアクシデントに耐えていた。

 次いでザッ、ザッ、と砂をかくような断続的な音が響き――その瞬間、俺は確かに我が目を疑った。ユイの仮想体(アバター)がぶれているのだ。それはまるで出来の悪い記録映像さながらの光景であり、何が起きているのかわからずとも本能的に『やばい』と肝を冷やすには十分だった。こんな現象は聞いたこともないし、当然見るのも初めてだった。

 

 元々ユイは存在自体が不安定なバグ持ちプレイヤーなのだ、何が起こっても不思議じゃない。予期せぬ転移や場合によっては突然のHP全損すら起こりえる可能性を秘めている。今日までユイやその周辺、つまり俺達にも特におかしな現象は起きることはなく、平穏を保っていたから油断していた。

 そうしている内にユイは悲鳴をあげる力も失ったのか、その細い喉から発せられる声が先細っていき、やがて糸の切れた人形のようにぱたりと倒れ伏してしまった。耳障りなノイズ音も合わせて消える。

 

「ユイ、返事をしろ、ユイ……ッ!」

 

 慌ててユイを抱え上げるも意識がないのかユイが目を開けることはなかった。身体が消滅していない以上、命に別状はない――なんて賢しらに診断できるはずがない。こんな異常事態を前に、俺が培ってきた常識などいかほどの意味があるのか。

 ユイの状態に関する仮説に次ぐ仮説が脳裏を埋めては消えていく。混乱は一向に抜けることはない。力の抜けたユイの軽い身体を抱きしめながら、跳ね上がった心臓の鼓動をどうにか落ち着かせようと四苦八苦している有様だった。

 

「なんだったんだ……」

 

 呆然と漏れ出た俺の問いに答えが返されることはなかった。アルゴすらもこの時ばかりは厳しい顔つきで倒れたユイを見つめているだけだ。皆、対処のしようもなく沈黙だけがこの場を支配していた。ユイの消え入りそうな吐息だけがかすかに耳に届く。

 仕方ないか、気は進まないが――。

 

「……アスナ」

「なに?」

「予定変更だ、ユイもダンジョンに連れて行く。シンカー救出と並行してユイの求める場所を探すんだ。道中のモンスターは俺が速攻で殲滅する。ユイの護衛は頼んだ」

「了解。任せておいて」

 

 未だにユイのHPバーは表示されず、装備も制限されている。安全圏から出すことなんて論外なのだが、そうも言ってられなくなった。

 俺の言葉に逡巡することなく頷き、フロアボス戦を迎える時のように覇気を宿すアスナにこの上ない頼もしさを覚える。今日この時、この少女が共にいてくれる幸運に感謝しよう。

 

「それからユリエールさん、ユイの安全はこちらで面倒を見ます。ですから、どうかユイの同行をお許し願えませんか?」

 

 襟を正して頭を下げると、すぐにユリエールさんは「とんでもない、頭を上げてください」と恐縮した様子を見せた。

 

「最初に無理を聞いてもらったのはこちらです。ユイさんを連れていくことに文句などありませんよ」

「ありがとうございます」

 

 快く許可を貰えてほっとした。ここで断られるようなら軍の連中を薙ぎ倒してでも強行突破してダンジョンを駆けずり回る羽目になってたからな。ユリエールさんの手引きで穏便にダンジョン侵入できるならそっちのほうが良いに決まってる。シンカー救助と並行して進める必要があるし、首尾よくユイが求めた場所が見つけられればいいのだが。

 

「それじゃ、準備を整えて出発しましょう。サーシャさん、どこか適当な部屋をアスナに貸してやってもらえますか? さすがにここで着替えさせるわけにはいきませんから」

「あ、そうですね。それでは案内します」

「ユリエールさんもアスナと一緒にお願いします。俺はアルゴと話しておくことがありますから、終わり次第そちらに合流します。……そうですね、玄関口を待ち合わせにしましょう」

「了解しました。ですが、シンカー救出の依頼料金のことなら私もお話せねばなりませんけど……」

「こちらもユイのことで無理をきいてもらっちゃいましたし、今回の見返りを俺から要求することはありませんよ」

 

 生真面目に答える女剣士殿に苦笑を向けて礼は不要だと告げる。幾ばくかのコルやアイテムよりも今は時間を優先したい。

 

「よろしいのですか?」

「はい。どうしてもと言うのなら歩きがてらアスナと詳細を詰めてください。軍が血盟騎士団副団長にボランティアを強いたなんて取られない程度に」

「ふふ、わかりました。ご好意に甘えさせていただきます」

 

 冗談めかして告げると、幾らか緊張が解けたのか軽やかな笑みを口に乗せる。それから背筋をぴんと伸ばし、部屋に残る俺とアルゴに一礼すると、アスナとサーシャさんに付き添って食堂を出て行った。

 人数が半数になり、わずかの間部屋に静けさが満たされた。一度懐の少女に目を落とすと、ユイは規則正しいリズムで胸を上下させていた。呼吸も落ち着いているようだ。

 

「人払いの仕方も上手くなったネ、キー坊。もっともアーちゃんは察してたみたいだけどサ」

 

 かけなよ、なんて家主さながらに促すアルゴに大人しく従い、ユイに負担をかけないよう抱き上げたまま椅子に腰を下ろした。

 

「アスナはもう少し鈍いほうが楽に生きられるだろうにな。あいつは人に気を遣い過ぎだ」

「同感。ま、今はアーちゃんのことは置いておこうカ。さっきの話、キー坊はどう思っタ?」

「その前に確認させてくれ。アルゴがユリエールさんから救援要請を受けたのは何時だ?」

「今朝だヨ。ここで朝餉を囲った後、ガキ共連れて出かけた直後にメッセージ貰った。で、キー坊に連絡取れ次第って返しておいたんダ」

 

 アルゴがひょいと肩を竦めて答える。そこには緊張の欠片もないが、アルゴならそんなものだろうということで気にしない。

 シンカーが幽閉されたのが二日前。それからユリエールさんがダンジョンに突入して撤退。自分達ではシンカーの救出は無理だと結論付けて救援を求めるまでに要した時間。それらを考えれば、特におかしな経緯でもないか?

 

「そういう大事な事は先に伝えておいてくれよ。ただでさえ情報不足なのに、いきなり軍のお偉いさんと会ってくれなんて無茶だろ」

「丸投げしたのは悪かったヨ、オレっちにとっても今回の内ゲバは予想外だったんダ」

 

 迷惑そうに手を振り、投げ遣りに答えるアルゴに内心で頷く。キバオウは焦り過ぎだし、シンカーは脇が甘すぎだ。

 

「あの副官さんにはちっと厳しい顔合わせになっちまったけどナ。時間もなかったし致し方なしかネ?」

「色々探らせてもらった分はシンカー救出に全力で取り組むことで埋め合わせるさ、ユリエールさんに裏はなさそうだしな。純粋にシンカーを心配してて、一刻も早く助けたいって気持ちがすごく伝わってきた。……もっともそれ以外に関しちゃ、全面的に信用するのは危険ってのが正直なとこだけど」

「情報にこれでもかってバイアスかかってそうだもんナ」

 

 難しい表情を作って重い吐息を漏らす俺に、苦笑を浮かべながら同意するアルゴだった。

 キバオウ達が60層クラスのダンジョンに苦戦して逃げ回ったっていうのもな……。多分部下から上がってきた報告を鵜呑みにしたんだろうけど、だったら最前線にやってきたコーバッツ達は何なんだ、という話になる。

 たかだか60層クラスのモンスターに苦戦しているようでは75層の迷宮区を戦えるはずがない。まして70層以降に出現するモンスターはそれ以前と比べて討伐難易度が上がっているのだ。そこでまがりなりにも攻略を続けられたコーバッツ達が、60層クラスのダンジョンで逃げ回る事態に陥るとは考えづらかった。

 

 最初はコーバッツがシンカー派か中立の立場でキバオウの命令を聞かなかったのかと思ったのだが、ユリエールさんの話ではキバオウの命令でコーバッツ達は最前線に向かったらしいし、ならばキバオウがコーバッツ達を地下迷宮に向かわせることだって出来ただろう。辻褄が合わない。

 加えてユリエールさんが持つマップ情報を《誰が》《何処から》入手したのかも気になる。いや、それ以前にダンジョンのマップ作成が既に済んでいることにこそ疑問を持つべきか。キバオウ達が命を懸けて旨みのないダンジョンを駆けずり回った? それこそありえないだろう。

 

 キバオウは血盟騎士団が台頭するまでは聖竜連合と競って攻略を牽引していた男である。最前線の戦い方を知っているということは、安全マージンを確保できないダンジョンで無謀を通す愚も熟知しているということだ。

 地下迷宮は軍で独占しているのだから、逃げ回ることしかできないダンジョンのマッピングを優先する意味は何処にもない。じっくりレベルを上げてから挑めば済むだけの話である。そうなるとキバオウ達の撤退情報が誤っているか、さもなければユリエールさんの話にでてきたボスクラスの大型モンスターが撤退の原因だろうか?

 

 キバオウもあれで身内には甘い男だったはずだし、徒に部下を死なせるような部隊運用はしないはずなんだけどな。それとも俺の知らないうちに部下を省みない権力大好き人間にでも変わったのかね、あのサボテン頭。

 やっぱ時間が足りない。軍なんて大きな組織の揉め事に介入するなら最低でも数日は準備期間が欲しいし、一方の言い分だけで動くなんて恐ろしい真似をしたくないのが本音だった。

 溜息しか出ない心境の俺をよそに、アルゴは澄ました顔でカップを傾けている。余裕綽々だな、羨ましい。

 

「いやあ、恋する乙女って可愛いもんだねぇ」

「そんな事言っていいのか? あの人、絶対俺やお前より年上だろ」

「わかってないなあキー坊、女は幾つになっても王子様に憧れるもんなんだゼ? にゃハハハ、助ける側と助けられる側が逆だけど、今回のことでもしかしたら結婚までいっちゃうかもネ、あの二人」

 

 けらけらと毒気のない笑みを零すアルゴを目にして、俺の身体からも自然と力が抜けてしまった。

 

「まだ救出に向かう段階なのに暢気なことで」

「オレっちはキー坊を信じてるだけサ。――なーんてネ。今回の件、やっぱ裏があると思う?」

 

 そうやって真面目な顔をしていてくれると雰囲気も引き締まるんだけどなあ……。

 

「シンカーやユリエールさんにはなくても軍――キバオウにはあるんだろうよ。シンカーが罠に嵌められたのは二日前。だとしたら、なんで未だにシンカーが無事なんだ? ユリエールさんの推論通りキバオウの目的がシンカーの抹殺にあるなら、逐次シンカーの生死を確認するだろうし、生き延びていると知れば何かしらの手を打つだろ。そもそも丸腰でも安全地帯に逃げ込めるような場所にわざわざ転移先を選んだりしないし、ユリエールさんのようなシンカーに親しくかつ忠誠心の高いプレイヤーを野放しにしておくのもな……。本気でPPK(ポータルプレイヤーキル)狙いだって言うなら今回のキバオウの遣り口は杜撰すぎだ」

「キバオウ派がシンカーの生存に未だに気づいていない間抜け集団だっていうなら、シンカーを助けてそこで終わりなんだろうけどネ」

「一概にキバオウ派、シンカー派で分けられそうにないのも問題だ。絶対日和見の蝙蝠がいるだろ、ダンジョンのマップ提供とかもろなんじゃないか? シンカーもキバオウもよくこれだけの大組織を維持してられるよ。ギルドの運営とか俺には無理」

「人間三人集まれば派閥が出来るなんて言うし、集団の統率が如何に難しいかってことを示してるよナ」

 

 気楽なソロ稼業が板についてしまっているし、仮に俺がギルドを結成しようとしても十人規模の小集団が限界だろう。それだって攻略という目的を共有できる下地があればこそだ。それすらなく、構成員が三桁どころか四桁を数える超大規模ギルドなんて眩暈がしそうである。

 

「さっさとシンカーが強権使ってキバオウを追い出すなり出来てれば、また違った結果になってたのかな?」

「所詮はIfだヨ、ここまで(やっこ)さんが追い込まれた原因の一つはその優柔不断さにもあるんだから。シンカーはもうちょっと強気に出てもよかったかもネ。それになんだかんだ言ってもギルドリーダーって椅子に座り続けてたわけだし、軍の振る舞いと無関係でいられるはずもなイ」

「まあな。しかし軍の行く末がどうなるにせよ、俺に出来ることは少しだけ時計の針を進めてやることくらいか」

 

 シンカーを救出した後は知らぬ存ぜぬってわけにもいかないし、難題だなほんと。……マジで知らぬ存ぜぬを通したい。

 

「頑張れよー」

「馬鹿言うな、お前も働くんだよ。ここまで関わっておいて元も取れないんじゃ大損じゃないか。というわけでキバオウへのメッセンジャーよろしく」

 

 ええー、とか不満を漏らすな。仕方ないだろ、こちとらソロで使える手札が乏しいんだから。もう少しでいいから俺に付き合え。

 

「あの頑固者を交渉の席に引っ張り出せって? 無理無理、オレっちじゃ門前払いにされるのがオチだって」

「さすがにアスナの名前を勝手に使うわけにもいかないし、とりあえず俺の名前を出してみて駄目ならすぐに手を引いてくれて構わないからさ。頼りにしてるぜアルゴ」

「面倒なこと言うなあ、報酬は弾んでくれるのカ?」

「白紙の小切手でいいなら切るぞ」

 

 口元を歪めていつもの調子で告げてみると、アルゴは深い溜息をついて天を仰いでしまった。それから改めて俺と向き合ったアルゴの顔には「仕方ない」という諦観が滲んでいる。そういうとこがお人好しなんだよ、お前は。

 

「まーたそうやってオレっちを試そうとするんだから。人が悪いヨ、キー坊」

「毎回適正価格を書き込んでくれる《鼠》を信じてるだけだよ。それで返答は?」

「……ったく。期待はするナ、とだけ。所詮は保険なんだしそれでいいダロ?」

 

 話が早くて助かる。

 

「ああ、せいぜい気楽にやってくれ」

「わかったわかった、それじゃお仕事に取り掛かりますカ。あーあ、折角の密会だっていうのに色気も何もない逢瀬だったじゃないカ。キー坊は気が利かないんだから」

「だから俺に求めるものが間違ってんだよ。それとアスナに後で謝っておけよ、なし崩しで巻き込んじまったんだから」

「心配しなくても世渡りに関しちゃキー坊よりずっと上だゼ、オレっち」

「そいつもよく知ってる」

 

 強かな女だもんな、お前。

 

「オレっちを顎で使うんだからキー坊もしくじんなヨ」

「わかってる、油断する気はないよ。……ユイのこともあるしな」

 

 艶やかな黒髪に手櫛を入れながらユイの寝顔に目を向ける。普段ならこの上なく和ませてくれる光景なのに、今はとても痛々しく傷ついた顔に見えた。ユイのアバターがぶれた先程の光景を思い出し、この子は一体何者なんだろうと、何度も抱いた疑問が鎌首をもたげるように浮かび上がってくるのを止められなかった。

 

「ユイユイかあ。生活の痕跡が一つも出てこないから何かあるとは思ってたけど、やっぱし妙な事情持ちみたいだネ」

「何とかするさ。何せユイは俺の娘なんだから」

 

 あとその珍妙な愛称はやめてやれ、ユイが喜ぶなら別にいいけど。

 

「んー、今の発言はシリアスムードに相応しいのか悩んじまうゼ。キー坊が親馬鹿になったとは聞いてたけど、こりゃ相当だネ」

 

 これ以上はこらえきれないとばかりに、アルゴはくすくすと可笑しげに笑み崩れていた。それでもどうにか笑い声を噛み殺そうと努力し、やっとこさ搾り出されたアルゴの台詞を受けて、俺は敢えて胸を張って答えるのだった。

 

「俺が馬鹿をやる理由なんてその程度で十分なんだよ。そいつはお前が一番良く知ってるはずだろ」

「にゃハハハ、確かにそうダ。ま、冗談はさておき、それだけ大口叩いたんだからちゃんと全員連れ帰れヨ。ヘマやったらキー坊の恥ずかしい秘密をばらまいてやル」

「アルゴこそ、本当に門前払いなんてされたら指差して笑ってやるからな」

 

 キバオウ本人はともかく、その周辺にまったく伝手がないなんて言わせない。

 不敵に、そしてふてぶてしく挑発を返す俺に、アルゴもにやりと見慣れた笑みを浮かべ、「白紙小切手も忘れんなよー、ぼったくってやるから」といつもの調子で混ぜっ返したのだった。

 

 

 

 

 

 秋を彩り梢を揺らす街路樹を横目に、俺とアスナ、ユリエールさんの三人で歩を進める。ユイは未だに意識を取り戻さないため、俺が背負っていた。向かう先は軍の本拠地――《黒鉄宮》。

 黒鉄宮は《はじまりの街》でも最大規模を誇る施設だ。黒光りする建築材で組まれた巨大建築物は、遠目でもよく目立つ威容さを発している。まして今はその敷地の大部分を軍――ギルド《アインクラッド解放軍》が占拠してしまっていることもあり、物々しさも一入である。

 とはいえ黒鉄宮には全プレイヤーの安否を確認するための《生命の碑》が置かれているため、宮殿の正面を入ってすぐの広間は誰でも自由に出入りできる仕組みになっている。さすがの軍といえど、生命の碑に足を運ぶ権利まで阻害することは出来なかったのだろう。そんなことをすれば非難ではすまない騒ぎになっていただろうしな。

 

 しかし俺達がユリエールさんの案内で踏み入れたのは、生命の碑が置かれた広間へと続く正面入り口ではない。人気のない裏手に回るとそのまま数分間歩き、やがて宮殿を囲う深い堀へと降りていく階段が現れた。どうやらこの先にある下水道を経由して地下ダンジョンに侵入するらしい。

 俺達がここまでくるのに誰にも見咎められることはなく、何事もないまま辿り着けたことに拍子抜けしてしまう。ダンジョンの隠蔽を図ったというからキバオウ派閥のメンバーで入り口を見張るくらいはしているものだと思っていたのだが、そんなことはなかった。あるいは仰々しく歩哨を立たせないほうが対外的にも隠しやすいとでも思ったのかもしれない。人を動かせば噂になるのは避けられないし。

 ユリエールさんが足を止めて振り向く。道中の不安からか、その顔には多少の緊張が伺えた。

 

「ここから下水道に入ります。出現するモンスターは巨大なカエルやザリガニのような水中生物型で、レベル帯はダンジョンに出てくる奴らより数段落ちます。ただし数だけは多いので突破には時間がかかると思いますが……」

「打ち合わせ通り、ダンジョンエリアに入ったら俺が先頭に立って最速でモンスター群を殲滅します。アスナは二人の護衛として万一に備えて待機、俺が撃ち漏らしたモンスターを処理してくれ。ユリエールさんはユイをお願いします」

 

 ユイを背中から降ろし、ユリエールさんに預けながらの確認だった。特に反対意見が出ることもなく了解される。今日は踏破スピード最優先だ、ユリエールさんのレベリングだの悠長なことはやってられない。ユイの目指す場所の正確な位置がわからない以上、まずはシンカー救出をさっさと終わらせるつもりだった。

 

「行こう」

 

 俺の呼びかけに答える二人の声を背に受け、特に逡巡することもなく一歩を踏み出す。幸いというか、下水道は鼻の曲がるような悪臭に支配されているなんてことはなく、せいぜいジメジメした空気と薄暗さが不快に感じるくらいの場所だった。

 途中わらわらと出現するカエルやらザリガニは一刀の下に切り伏せる。敵群に真っ先に切り込み、二刀を振り回してひたすら蹂躙した。慈悲もない、遠慮もない、見敵必殺である。目についたモンスターの悉くを早急にポリゴン片へと変え、あるいは湧出の予兆を感知した瞬間剣を振りかぶってソードスキルを起動させる。そして先制攻撃、撃破。その繰り返しだ。

 数だけの雑魚を速やかに下しながら苦労もなく下水道を越え、やがて黒い石壁の続くダンジョンに突入した。暗鬱とした雰囲気なのは変わらずだが、水分過多な湿り気が感じられなくなっただけでも嬉しかった。

 

 そして地下迷宮に突入しても、二刀流を駆使した蹂躙劇の演目が変更されることはなかった。ダンジョンの奥深くに潜るにつれ、敵の種類がゾンビやらゴーストやらのオバケ系統に変化していったが、生憎と俺はオバケアレルギーなんて持っていない。恐れることなく狩りまくっていた。

 ちなみにこいつらのようなオバケモンスターが苦手な血盟騎士団副団長様は最初、顔色を悪くしていたものの、奥に進むに連れて落ち着いた態度を取れるようになっていった。以前リズに強がっていた通り、確かにアスナのオバケへの苦手意識は克服されつつあるようだ。

 

「す、すごいですね……」

 

 この台詞は俺の戦闘を眺めて幾度も目を見開き、そのたび感嘆の溜息を漏らしていたユリエールさんのものである。

 

「そこまで驚くことですか? キリト君の強さを見込んで依頼を持ち込んだはずでは?」

「正直、ここまですさまじいものとは……。最前線を戦う攻略組プレイヤーは皆このような一騎当千ぶりを発揮するのですか?」

「それこそまさかです。ここまでの殲滅速度を叩きだせるのは攻略組でもキリト君だけですよ。攻略組最強の矛なんて呼ばれてるのは伊達じゃないです」

 

 待て、その呼ばれ方は好きじゃない。なにせ対になる《盾》はあの男だ。あれと並び称されるくらいなら俺はへなちょこの矛でいい。

 

「次のT字路を左です」

「わかりました」

 

 案内役のユリエールさんの指示に大人しく従う。ユイを背負ってもらって申し訳ないが、今のフォーメーションが一番安全確実だ。もうしばらく我慢してもらおう。

 そんなこんなで下水道に踏み入れてから地下迷宮の奥深くまで踏み入り、およそ二時間にさしかかるか否かといった頃だった。ひたすらモンスターをちぎっては投げを繰り返した末に、ようやく目的地が見えてきた。右に大きく湾曲した通路を進むと、まずは大きく開けた十字路が視界を掠める。さらにその先に、打ち捨てられた墓地を思わせる、重く冷たい空気に満ちたダンジョンに不釣合いな、暖かな光が差し込む小部屋が姿を現す。どうやらシンカーが幽閉されている安全エリアで間違いなさそうだ、索敵スキルにもきっちりプレイヤー反応がある。――ただし、そこにある反応は二つ。

 

「なんでや! なんでわかってくれへんのや、シンカーはん!」

 

 光の先から届く叫びは、脅迫の罵声でもなければ最後通牒の突きつけでもなかった。かつて初心者(ビギナー)の代弁者としてベータテスターを(そし)り、糾弾し、今なお《アインクラッド解放軍》を二つに割って乗っ取ろうと企てていたとされる男が、身も世もなく関西弁を捲し立てていた。

 

「キバオウさんが何と言っても受け入れられません。最前線は攻略組に任せて、軍は下層の治安維持に努めるべきです。75層でどれだけ被害が出たのか、キバオウさんが一番良く知ってるはずじゃないですか!」

「だからこそ、戦力の底上げをせなあかんのやろ! 今のままじゃいつまで経っても攻略に参加できんわ」

「その結果がコーバッツさんたちの全滅だったんですよ! 攻略は血盟騎士団や聖竜連合に任せて、私達は下層で戦えないプレイヤーたちの保護に力を尽くすべきなんです。キバオウさんだって納得したはずじゃないですか」

「だからといってワイはレベリングのノルマ廃止にまで賛成したわけやあらへん。何度でも言うで! ワイら軍も攻略に参加すべきや! 軍の豊富な戦力と物資を腐らせるわけにはいかんのや!」

「ゲームクリアは攻略組のプレイヤーに任せて、軍は治安維持や後方支援に努める、それでいいじゃないですか!」

 

 コーバッツ中佐はキバオウさんの腹心だったはずでしょう! とシンカーが悲鳴のような叫びをあげた。キバオウもそんなシンカーに釣られるようにさらにヒートアップしていく。

 

「ワイはそうやって全部人任せにするんは好かん! なにより部下の無念晴らすんが指揮官の務めちゃいまっか!?」

「それで犠牲を出したら本末転倒です! 私達は解放の日のために戦っているんですよ、犠牲ありきの戦いなんてしちゃいけないし、させちゃいけない!」

「はん、どいつもこいつも根性なしばっかで嫌なるわ! あんだけ攻略に参加せえへんのは間違いや言うてて、自分らのギルドから犠牲が出た途端掌返しおってからに! 甘い夢ばっか見られたらこっちが迷惑や!」

「誰もがあなたのように強くあれるわけじゃないんです!」

 

 喧々諤々。お互い一歩も引く事なく自論を展開させている姿に、俺達はその場を動かずじっと聞き入っていた。正確に言えばユリエールさんが呆然とした面持ちで足を止めてしまったために、俺とアスナもそれ以上動けなかった。

 

「なぜ……なぜキバオウがここに……?」

「そりゃ、キバオウに初めからシンカーを殺す気がなかったからでしょう。大方、自分の主張を認めさせるためにシンカーを孤立無援状態に追い込んだってとこかな?」

 

 心ここにあらずといった風情で零れ落ちた言葉に、俺は軽く肩を竦めて答えた。

 真実なんて大抵はこんなものだ。キバオウは良くも悪くも己の正義感を優先して動く男だし、PKを肯定するほどトチ狂ってもいない。我が強く自身の考えに固執するところはあっても、レッド連中のような救いようのない愚物じゃないんだ。

 

 しかし俺の内心は溜息の嵐だった。どうしてキバオウはこうも的外れな行動に出てしまったのか。

 本来説得というのは自分の考えを相手に受け入れさせる、言い換えれば相手から妥協を引き出すものだから、成功のためには心理的防壁が弱まる空間、つまり相手のテリトリーで行うべきだろう。誰だって敵地(アウェー)では警戒心が強くなるものだ。

 もちろん脅迫紛いの遣り口も場合によってはありだろうが、今回はシンカーを頑なにしただけらしい。

 

「ですが、今までキバオウは一度たりともシンカーに歩み寄ろうとなど……」

「シンカーもキバオウも、派閥の頭なんてやってれば不自由にもなるんじゃないですか? 何にせよ、まずは彼らと合流をしましょう」

「……パパ」

 

 アルゴには無駄足踏ませたかな、なんて考えながらユリエールさんを促し歩き出そうとした時、か細い、けれど鈴の音のように涼やかな響きに呼び止められた。それはユイが教会で倒れて以降初めて耳にした声でもあった。

 

「ユイ、もう大丈夫なのか?」

「うん。それよりパパ、あそこの部屋まで走って。ここは危ないの」

「危ない? それは――」

「ユリエール! ユリエールなのか!?」

 

 落ち着き払ったユイの態度とその言葉の内容の不審を問い質す前に、眩い光のカーテンの向こうから切羽詰った大声が届く。こちらからはシルエットでしか確認できないが、あちらからはそうでもないらしい。

 

「シンカー! 待ってて、すぐにいくから!」

 

 未だ混乱状態だったユリエールさんも一旦疑問は後回しにして、ひとまずシンカーの無事を喜ぶことにしたようだ。複雑そうに沈んでいた表情をぱっと輝かせ、一歩を踏み出す。

 

「来ちゃ駄目だ! その通路には奴が――」

「止めたらあかんシンカーはん! 全員ここまで気張って走れや! そいつはこの部屋までは入ってこれへん……!」 

 

 シンカーとキバオウがそれぞれ別の意見を口走る。俺達は彼らの急変した態度とそれぞれが口にした言葉の不可解さに顔を見合わせ――結果として足を止めたことで浪費した時間を使い、それはやってきた。

 シンカー達のいる小部屋の手前の十字路右側、直角に交差した通路の向こうからモンスターを示す黄色のカーソルが出現し、然程時間を置かずにそのカーソルの持ち主は巨大な全貌を露わにしたのである。

 その瞬間、奴を中心に空間が塗り替えられるような嫌な感覚が襲う。べっとりとした生暖かな風が吹き抜けたのだ。

 背筋を冷たく撫でる嫌な予感に緊張が高まるのを自覚しながらも臨戦態勢を整えていく。二刀を構え、油断なく見据えた先には無音のまま宙に浮いた大型のモンスターがいる。奴の持つ異様な雰囲気がこちらを圧して止まない。

 

 《死神》。そんなワードが脳裏を過ぎった。

 二メートル半を超える図体にぼろぼろのローブは人型の輪郭を形成し、フードに隠された顔は闇色をしていて細かい形は掴めない。けれどその目だけは血管の浮き上がった紅の眼球をしているのが極めて不気味だった。武器は闇を凝縮したような手に握った長大な鎌であり、その死神のシルエットは見る者の怖気を奮わせるものだ。

 このモンスターの固有名は《ザ・フェイタルサイズ》。運命の鎌を意味すると共に、《The》の定冠詞が示すのはボスモンスターである証だ。おそらくはこいつがキバオウ達が歯がたたず逃げ出すしかなかった元凶……。

 

「アストラル系のボスか、通りで索敵スキルに引っかからなかったはずだ。アスナは戦えそうか?」

「わたしが苦手なのは剣で切れないオバケだよ。だからあれは大丈夫」

 

 強張った表情を見る限り強がりも入ってそうだが、これだけ軽口叩ければ心配いらないかな。

 

「そいつは重畳。ユリエールさんは転移結晶の用意をお願いします」

「駄目です。どういうわけかここは結晶無効化空間に指定されているようです」

 

 青い顔で「結晶は使えません」と返され、自然と俺の顔も強張る。

 さっきの妙な感覚が原因か。よく見れば周囲の床や壁も微妙に異なる色彩に変わっているし、文字通り空間を塗り替えられたのだろう。これまでの道中で結晶無効化の兆候はなかったし、あの死神の特殊効果と考えるのが妥当だ。

 どうしてこうも結晶無効化空間に縁があるんだか。嫌らしい場面でばかりお目にかかるのも腹立たしいと地団太を踏む思いである。ゲーム製作者の底意地の悪さが透けて見えるようだ。

 さて、どうする? シンカー達のいる小部屋までの道は塞がれた。転移結晶は使えない。足手纏いが二人。この状況で取るべき方針は――。

 

「下がれ!」

 

 悠長に思考を巡らせている暇もない。ゆらりと死神が動き出したかと思うと、轟音と共に恐ろしいスピードで突っ込んできた。元々宙に浮いているためなのか、初速からトップスピードに入ってしまったかのようだ。はためくローブを翻し、暗闇が俺を呑みこまんと猛烈に迫りくる。

 

 ――だが、この速さについていくことは出来る。あるいは75層の激闘を経ていなければ、奴の急激なスピード差に幻惑され、彼我の距離感を狂わされたまま為す術もなくやられていたかもしれない。

 

 俺の二本の剣と死神の持つ大振りの鎌が衝突し、燐光と共に火花が散る。突進の勢いと鎌による攻撃を相殺し、硬直が切れた次の瞬間、果敢に奴の懐に踏み込み、左の太刀で一閃。怯んだのかどうかは知らないが、死神は音もなく距離を取った。緒戦はやや優勢だ。

 

「ユリエールさん、今から俺とアスナで隙を作ります。合図をしたらユイを連れて全力でシンカーの元へ向かってください」

「わかりました」

「アスナもそれでいいな?」

「もちろん」

 

 このまま撤退戦に移行しようにも、このダンジョンの湧出率だと挟み撃ちにされる危険性が高いし、それを恐れてここで俺とアスナがボスの足止めをすれば、ユリエールさんとユイだけで元来た道を引き返させることになる。どこまで戻れば結晶無効化空間の範囲外に出れるのかが不明な以上却下だ。ユリエールさん一人ではユイを守りきれない。

 無論、俺一人でこの死神じみたモンスターを相手取れるならアスナを護衛につけて引き返させるのだが……。

 

「気をつけろよ、こいつどうやらクォーターボスクラスの強さを持ってる。一撃でも貰えばあの世行きなんてこともありえるぞ」

 

 加えて俺の与えた一撃なんて奴のHPを一ドット削れたかどうかすらわからない微々たるものだった。防御力もとんでもない。これを俺達二人だけで倒すなんて到底無理だ、取るべきは逃げの一手しかない。

 

「どうしてこう無茶な敵ばかり出てくるのかなあ……」

「諦めろ、現実世界に戻ったら御祓いでもしてもらえばいいさ」

「その時は一緒に行こうね」

 

 冗談めかしたアスナの誘いを受け、苦笑気味に首肯を返しながら剣を強く握り直す。まずは生き残らないとな。

 

「俺が全力の突きを入れる。狙いは上段からの一撃を誘ってのカウンターだ。こいつの攻撃は速さ、重さ、共にスカルリーパーより上だった。アスナが上手く合わせてくれなきゃ二人してお陀仏だかんな!」

「こんな時にプレッシャーかけないでよ、キリト君のいじわる……!」

 

 俺とアスナ、そして死神。二人と一体が弾かれたように動き出す。まずは横薙ぎの一撃をバックステップで避け、そのまま間合いを詰められて波打つように軌道が戻された返しの刃を二刀で防ぐ。その間にアスナが一撃を加えるが怯んだ様子はない。やはり通常攻撃では隙を作り出すことは出来ないらしい。

 ふっと短く呼気を吐き出し、アスナが退避する時間を作り出そうとボスとの距離を近づけ左の剣で一突き。しかしその一撃は鎌の刃に合わせられてガードされてしまう。厄介なことに武器防御のスキルも高そうだ、と内心で溜息。

 息つく間もない連続攻撃をかわしつつ機を伺う。そして間もなくチャンスはやってきた。

 

「左に跳べ!」

 

 中段に構えた鎌が下から掬い上げられる。柄を使ったフェイントを見切った俺の警告にアスナも素直に従い、左右に散ることで間一髪回避を間に合わせた。そして、待望の上段からの一撃。

 

「ここだ……!」

「うん!」

 

 互いの剣がソードスキルの燐光を散らし、俺の剣に同期するようにアスナの剣が合わさり、二本の剣が織り成す下方からの強烈な打ち上げによって長大な鎌が跳ね上げられる。一時的に死神が無防備を晒した。

 そして俺の放ったソードスキルは単発ではない。右の剣が薙ぎ、左の剣で突く二段構えの連続技。昼間、軍の徴税部隊に威嚇で用いた技だった。今回のそれはアスナの助けを借りることで成功させた、一連の動きの中で回避と反撃を両立させる変則ソードスキルだ。

 

「ユリエールさん、今です!」

「はい!」

「パパ……!」

 

 俺よりも一瞬早く行われたアスナの呼びかけによってユイを伴い、ユリエールさんが駆ける。ユイが何かを言いたげに俺達へと腕を伸ばしていたが、生憎応えている余裕はない。とはいえ、強烈な一撃を浴びせかけられた《ザ・フェイタルサイズ》の反撃が間に合うことはなく、わずかの隙を利用することで死神を横目にすり抜け、無事に安全エリアへと辿り着かせることができた。

 ほっと一息をつく俺の隣に、これまた安堵を浮かべたアスナが立ち並ぶ。

 

「キリトさん、アスナさん、お二人も早く!」

 

 光の向こうから心底心配そうに呼びかけてくれる声に、しかし俺もアスナも諾と応えることが出来なかった。その理由は単純明快で――。

 

「こいつをすぐに出し抜くのは無理です! ユイを連れて先に脱出してください!」

 

 このボスはどうも安全エリアにプレイヤーを近づけないようプログラムされている節がある。死神の攻撃を捌きながら俺達二人が脇をすり抜けるのは分が悪すぎた。アスナ一人ならあるいは、ってとこか。

 

「そんな……!」

 

 俺の叫びを受けておそらくは絶句しているであろうユリエールさんに、これ以上告げることもない。キバオウの目的がシンカーの殺害にない以上、彼らをこのまま帰しても問題ないだろう。ユイのことは心配だが、今は仕方ない。

 すうっと息を吸い込む。

 

「キバオウ! 回廊結晶は!?」

「予備が一個、記録は済んどる!」

 

 返答はすぐだった。簡潔で助かる。

 

「後で弁償する。頼んだ!」

「はん、踏み倒されんよう祈うとくわ! シンカーはん、ユリエールはん、そっちのちびっこもすぐに脱出するで!」

「なっ!? 彼らを見捨てるつもりですか!?」

「黙っとき! この場であれとやりあえるんは奴等だけや、その二人が無理言うたんやから素直に従わんかい。何のために回廊結晶の有無を確認してきた思うとるんや」

「あ……援軍要請……」

「そや。――三十分、いや、二十分保たせいや《ビーター》! でっかい恩を着せてやるさかい、死ぬんやないで!」

「ああ! それとヒースクリフに借りを返せって言えば通じる! あとは適当に頼む!」

 

 もっともそんな戯言を伝えなくとも、腹心たる副団長の危機なのだからあの男が動くには十分だろう。ただしアスナが休暇でここにいる以上、ヒースクリフは攻略シフトに参加している可能性が高い。運よく捕まってくれることを願うしかないな。

 

「どうか、どうかご無事で……! キリトさん、アスナさん――!」

 

 最後にユリエールさんの悲痛な叫びを残して、光の向こうの人影が同時に消えていった。これでひとまずは安心である。

 

「進むも地獄、引くも地獄、ついでに踏み止まっても地獄だね。援軍待つなら踏み止まるべきかな? 正直どの選択肢も絶望的だけど」

「もう笑うしかないよな、この状況。一応、俺が奴の相手をしてアスナは離脱するって手もあるぞ」

「冗談、わたしが君を置き去りにして逃げられると思う?」

 

 心配するな、露ほども思ってない。

 

「『ここは俺に任せて先に行け』って言うのが男の浪漫なんだけど」

「『死ぬ時は一緒だよ』って返すのが女の意地なの。諦めなさい」

「サンキュ、アスナは良い女だな」

「あら、ありがと」

 

 今はやせ我慢だろうと笑うことにした。

 

「来るよ、キリト君」

 

 瘴気を撒き散らせて視界いっぱいに広がる死神の威圧感を跳ね除け、その禍々しい鎌を睨みやり、瞬間移動にも似た速さで動き出す死神に備えて腰を落とした時だった。

 

 ――そこまでです。

 

 凛、と。

 その一声で全てが停止した。死神すらも例外ではなく、力を持った言霊の前に沈黙し、縫い付けられている。あまりにこの場に似つかわしくない光景だった。

 そこに立っていたのは先程脱出させたはずの少女だ。艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、純白のワンピースに身を包んだ、小さな小さな女の子。

 

 しかし常は和やかに緩められた双眸は敵を鋭く見据える苛烈さを放ち、固く引き結ばれた口元がいたいけな少女に似合わない戦士としての風格を与えていた。武器も持たず、碌な防具も装備していないにも関わらず、少女――ユイは恐れを知らぬ足取りで一歩、また一歩と歩を進める。

 その様はまさしく王の歩み。有象無象を塵芥と意にも介さず、ひたすらに王者の貫禄を放つ絶対者のみが纏う空気だった。俺はこの威を以前感じ取ったことがある。そう、あれは75層ボス攻略を控え、皆が不安と緊張に暮れる中で威風堂々と歩み寄ってきた――。

 

「ユイちゃん、どうして!?」

 

 アスナの叫びにはっと目を見開く。そうだ、今は余計なことに気を取られている暇はない。

 ユイはついに俺達の前まで辿り着き、死神の眼前に立ち塞がった。まるでその対峙を合図にしたかのように動きを静止させていた死神が動き出す。奴の振り上げた鎌をこの目に捉え、慌てて剣を手に飛び出した。しかしそれすら杞憂だったのである。

 轟と空気を引き裂いて繰り出された死神の鎌は、ユイに届く前に全てが鮮やかな紫色の障壁に阻まれてしまったからだ。ユイを守る障壁に伴い出現したウインドウには《Immortal Object》の文字列が踊っていた。――すなわち、不死存在。

 

「大丈夫だよ、パパ、ママ。そこで見ててね。わたしの、最初で最後の親孝行を」

 

 肩越しに振り返ったユイは寂しげに微笑を浮かべ、すぐに死神と向き合った。ユイの細い右腕がすっと持ち上げられていき、刹那、炎を纏う驚愕の現象が引き起こされた。

 突如として発生した紅蓮の焔は轟々と燃え盛り、やがて全てを焼き尽くさんと視界いっぱいに広がった瞬間、逆再生でも見ているかのように炎の発生源――すなわちユイの右手へと凝縮していく。

 真っ赤な炎は少しずつ形を成していき、程なく質量を伴った一本の剣へと変じてみせた。ユイの背丈を優に超える輝ける炎の魔剣は、無言の内にその威容を知らしめる。圧迫感を伴う熱と輝きの奔流、神々しさすら感じさせるそれは、おかしな言い方になるが、この世界に存在してはいけない代物だと思わされた。

 

「恨みなんてありません。わたしはあなたの役割を知っているし、あなたの邪魔をする権利がないことも知っています。……でも、ごめんなさい。わたしがパパとママとお話するために、あなたは邪魔です。ですから今は――消えてください」

 

 怜悧な響きを伴って死を宣告するユイが頼もしいような、怖いような。凛々しくも酷薄な雰囲気を纏う娘の姿に俺の頬が引き攣る。あれはきっとアスナに似たんだな、そうに違いない。

 威嚇するように巨大な剣をぶんと振り回し、ユイはふわりと浮き上がりながら一刀両断の構えを取り――《ザ・フェイタルサイズ》を標的に、躊躇いの欠片も見せず唐竹の軌道で真っ直ぐ打ち下ろしたのだった。

 アインクラッドのモンスターが恐怖を覚えることなどない。彼らは所詮はプログラムで心なんて持たない。なのに、恐怖を覚えないはずのモンスターが今は小学生の背丈しか持たない少女に怯えているようにしか見えなかった。

 死神の大鎌が防御のために頭上へと掲げられ、しかしてユイの持つ火焔の刃はそんな抵抗など知らぬと言いたげに無造作に鎌を断ち切ってしまう。どこか現実感を喪失してしまったような面持ちのまま、俺はその異様な光景をじっと見つめていた。

 

 ……終幕だ。

 俺がそう結論付けた時、ついに死神の鎌が熱量と剣戟に耐え切れず砕け散り、勢いそのまま焔の魔剣が叩きつけられた。そこで起こったのは炎の爆発だ。数多の火球が次々と死神の身体に吸い込まれ、断末魔の悲鳴すら焼き尽くす有様である。

 オーバーキル。

 ふとそんな言葉が思い浮かんだ。

 死神を撃破したままユイは言葉もなく立ちすくみ、俯いている。熱せられた風に煽られ、黒の髪がうねっていたのも今は何事もなかったかのように落ち着き、炎色に照らされていたワンピースも元の純白に戻っている。なによりユイが操った巨大な剣は始まりと同様、炎の中で溶け崩れ、消滅していた。

 

「……ユイ」

 

 俺の呼びかけにユイはびくりと肩を震わせることしかしなかった。あれほど圧倒的な力を示して死神を葬った少女は、しかし今明らかに怯えている、怖がっているのだ。

 ならば俺の告げる言葉は、彼女にとっての弾劾になるのだろうか。わからずとも、あるいは、わからないからこそ、俺はその決定的な事実を口にせずにはいられなかった。

 

「記憶喪失の少女って設定は、もう守らなくていいのか? 何も知らない女の子のふりは、もう止めるのか? ……なあ、ユイ」

「キリト君?」

 

 アスナの訝しげな視線を、しかし今だけは振り払ってユイをじっと見据える。俺の問いに振り返った彼女は、儚げな、そしてとても透明な笑みを浮かべていた。全てを受け入れ、諦めたような顔。十に届かぬ少女が浮かべるにはあまりに不釣合いなものだ。

 

「いつから、気付いていましたか?」

「ユイが何かを隠してる、演技をしてるってことは、一緒に暮らしてる内に薄々とは。記憶喪失が嘘だっていう確信が持てたのは今日になってからだよ。……狸寝入りをするならもう少し上手くやらなきゃな、この世界では意識のないアバターは呼吸をしないんだから」

 

 以前から度々ユイは狸寝入りをしていた。最初は自分が本当に受け入れられているのかを確認するために俺達を観察しているのだと思っていたのだが、今日のあればかりは見過ごすには事が大きすぎる。自分で自分のアバターの像を乱すなんてことは、一介のプレイヤーに出来る事ではない。

 ああ、どうしてユイの擬態に気づけたのかは察してほしい。睡眠PKなるものが存在する世界でプレイヤーが意識のない状態――寝顔を他人に晒す事はありえないが、何事にも例外はあるということだ。たまさか俺はその例外に接する機会が多く、無防備な寝姿の比較対象に恵まれただけである。……文句あるか!

 

「ふふ、そういえばそうでした。初歩的なミスをしちゃいましたね」

 

 わたしもまだまだです、と零す割にはすっきりとした顔で自分の未熟を恥じるユイに、元々この秘密を隠し通す気はなかったのだと悟る。そう遠くない内に明かす心算だったのかもしれない。

 

「誤解しないでくれよ。俺はユイが嘘をついていたことを責める気はないし、ユイが記憶喪失のふりを続けるなら付き合ってもいいと思ってたんだ。ユイがつらい過去を忘れて俺達との生活を選ぶのなら、それがユイの幸せにつながるなら、俺は騙されたままで良かった」

「優しいんですね、キリトさん」

 

 キリトさん、か。

 ユイに父と呼ばれなかったことを自覚した瞬間、ずきりと胸に鈍痛が走った。その痛みが、俺はこの子のことを本当の家族のように思っていたのだと深く刻み込んでくれる。

 

「ユイが嘘をついてまで仮初の家族、安らぎの場所を求めたのならそれでよかった、そうであってほしいとすら思ったよ。だけど、そんな単純な話じゃないんだな? ……聞かせてくれ、ユイ。君は何者だ? ――君の望みは何処にある?」

 

 ユイが見せてきた数々の不思議。また、この世界の根幹を為すゲームシステムへの理解において、ユイは俺達プレイヤーとは一線を画す。ならばと俺はこう考えた。ユイはいかなる手段によってか、俺達をゲーム外から観察できた存在――デスゲーム開始以来初の現実世界からの来訪者なのではないか、と。

 だが、それも違うのだとすぐに本人の口から明らかになる。

 俺が一人胸の内に温めてきた問いを受けたユイは、じっと俺の顔を見つめたまましばらくの時を過ごし、やがて覚悟を決めたかのようにその心を語ってみせた。

 

「わたしはキリトさんに、わたしの最期を看取(みと)ってほしいのです。ずっと昔……あなたの剣にかかることを選んだプレイヤーが、暗く冷たい絶望の果てに求め、今際(いまわ)(きわ)に願った一滴(ひとしずく)の希望のように――」

 

 ――わたしも、あなたの手で終わりを迎えたいのです。

 

 薄く笑んだ表情はあくまで優しく、邪気の欠片もない。けれど無垢とは明らかに異なる透き通った瞳で、妖精のように愛らしく、朝露のように儚い少女は、その小さな唇から残酷に過ぎる望みを紡いだのだった。

 

 




 《純真無垢な天使》改め《嘘つきユイちゃん》は拙作独自の描写です。
 教会に住む子供たちの平均年齢を二歳ほど下げています。原作及びアニメの描写では、年齢に比して言動が幼すぎますので多少の調整を施しました。
 地下迷宮の死神こと《ザ・フェイタルサイズ》ですが、原作で90層クラスの強さ(キリト談)とされ、90層台のボスは激強い(茅場談)とのことなので、75層のクォーターボスに準じるレベルとして扱っています。
 また、軍が地下迷宮をマッピングできたことから、最奥の小部屋にプレイヤーが存在する状態で別のプレイヤーが近づくことをボスの出現トリガーとし、結晶無効化空間トラップはアニメでの結界を彷彿とさせる意味ありげな演出に色をつけた結果です。


 以下、ゲーム内インフレに関する長文解説です。

 アインクラッドにインフレーション(=通貨価値の減少)が起こっているというのは独自設定です。
 原作に『物価は常に一定』との記述がありますが、拙作ではプレイヤー間の取引をアイテムの値段設定を含めて自由売買で成り立たせているため、NPC店舗はともかくプレイヤー間では、需要と供給のバランスでアイテム価値は常に変動しています。また、層が進むにつれて時間当たりに獲得できるコルが増大し、ゲーム内通貨の総量も肥大していくため、インフレ現象は避けられないものとして扱っています。
 それと、もしインフレがどういったものかわかりづらければ、『高性能の装備、レアなアイテムはどんどん値上がりしていくのが一般的なMMORPGの特徴』と考えてもらえば大凡間違っていません。

 インフレの発生は最前線に残り続ける困難の増加、それに伴い攻略組を脱落するプレイヤーが多数出ていること、攻略組と中層以下のプレイヤーとの強さの隔たり等を作中で強調してきた一因となっています。MMOにおける経済力はプレイヤーの強さに直結する重要なファクター、という至極当然の話ですね。また、『狩りに消極的でゲームクリアに貢献しようとしないプレイヤーへの救済は圏内設定だけで十分』というゲームマスター側の意図も含ませています。

 インフレ阻止を狙い、例えばシステム側が通貨供給量を調整するとして、不自然にモンスターから獲得できるコルを絞ることは、結果として最もコルを稼いでいる攻略組に割りを食わせる形になります。それは最前線を戦うモチベ低下を招くため、拙作茅場晶彦の思想とは相容れません。ゲーム運営に必要なのは公平性であり、悪平等ではないということですね(※ただしユニークスキルは除く)。
 原作で物価を一定にした物語的な意義や事件フラグは描写されていなかったはずなので、この変更によって致命的な齟齬にはつながらないと思いますが、拙作では上記のような理由で物価変動が起こっているのだとご納得いただければ幸いです。

 インフレ設定に付随して、これまでも黒猫編でアイテムの市場相場を調べる役割の必要性、リズ編でモンスター配置の変更が緩やか等、幾つか原作との差異を示唆する描写を文中に含ませてきました。しかしプレイヤー間のパワーバランス、ゲーム攻略難易度に極めて大きな影響を及ぼしている設定変更にも関わらず、作中のプレイヤー視点ではカバーしきれない部分が多々あるため、今回あとがきにて尺を取って解説させていただいた次第です。

 ではでは、お目汚し失礼しました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第19話 仮想世界の申し子 (3)

 

 

 全てをお話します、とユイは言った。

 

 場所は先刻までシンカーやキバオウがいた黒鉄宮地下迷宮最深部の安全エリア。完全な正方形にデザインされたその部屋は、ダンジョンの奥深くとは思えぬ明るさを保っていた。

 外から眺めた時はまるで光が渦まいているような錯覚を受けたものだが、内部に足を踏み入れても燭台のような光源はなかった。そもそもこれは炎に照らされた明度ではなく、現実世界では見慣れた蛍光灯のように煌々と照る真白い光である。光源もなくダンジョンの暗闇とかけ離れた光景が広がっているのは、『この部屋は開発者がそう設定したからこうなんだ』という身も蓋もない結論に終始するしかない。

 

 ユイは部屋の中央に置かれた黒い石机の上にちょこんと腰掛けていた。よく磨き上げられた硬質な材質で出来た、人工的なデザインを思わせる立方体の机を椅子代わりに、ワンピースの裾から伸びた細い足を所在無さ気にぷらぷらと揺らしている。俺とアスナは複雑な面持ちを崩せず、ただ静かにユイを見守っていた。

 

「最初に、わたしが何者であるかをお答えしますね」

 

 幾ばくかの沈黙を経て、やがてユイは明瞭な口調で話し出す。と、同時に、ユイの浮かべる寂しそうな表情を、俺はこの先忘れることはないだろう。

 

「まずは今日までの偽りを謝罪させていただきます。お察しの通りわたしは正式なプレイヤーではありません。いえ、それどころか人間ですらないんです。わたしはこの世界でのみ存在することを許されたプログラムであり、NPCやモンスターとは似て非なるもの。正式名称を《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》、略称はMHCP試作一号、コードネームを《Yui》といいます」

 

 ――驚かせて、しまいましたか?

 

 おずおずと覗き込むようなユイの視線と不安そうな面持ちで紡がれた告白を受けて、俺とアスナは目を見開いたまま言葉なく立ち竦んでいた。

 AI――《Artificial Intelligence》。すなわち人工知能。コンピュータ上で人間と同じ知能を実現させる技術を指す。

 ユイは人間ではない。

 明かされたその事実への驚きと胸にすとんと落ちる奇妙な納得、俺の中でははたしてどちらが多勢を占めたのか。何でも良い。俺の心を支配するこの空虚な空洞を埋めてくれるなら、今はどんな情動でも歓迎しよう。

 

「ユイちゃんが……プログラム?」

 

 呆然と掠れ声を漏らすアスナに、ユイは悲しそうに頷く。

 

「はい、わたしには現実の肉体は存在しません。この世界の仮想体(アバター)――プログラム体が全てです」

 

 順を追ってご説明しますね、とユイは続けた。

 

「まずこの世界――アインクラッドは一つの巨大なシステムによって運営されています。人の手を介さず、自らの判断で全てを制御するシステムは『カーディナル』と名付けられました。例えばモンスターやNPCのAI設定、アイテムや通貨の調整、クエストの自動生成といった、およそ世界の全てがカーディナルによって差配されているのです。カーディナルは二つのコアプログラムによって相互にエラー訂正を行い、無数の下位プログラム群を駆使してアインクラッドを監視し、調整する役目を担い、今もその役目を全うしています」

 

 そこでユイは一度言葉を切り、俺とアスナに確認の視線を向けた。理解できていると告げる代わりに軽く頷く。ユイは安心したようにほっと息をついて、再び続きを口にした。

 

「しかし、メンテナンス不要の高度なシステム群であるカーディナルにも、唯一手の出せない分野がありました。それがプレイヤーの精神性に由来するトラブルです。あくまでゲームシステムの調整に従事し、公平中立を旨とするカーディナルには人の心のケアは荷が勝ちすぎる。そう考えた当時の開発陣は、プレイヤーのメンタルケアを目的に専属に従事する数十人規模のスタッフを用意することで、(きた)る問題に備えるつもりでした」

「やけにスタッフの人数が多いな。その頃はデスゲームなんて馬鹿な事態は想定されてなかったはずなのに、どうしてだ?」

「そうですね、仮にも世界初のフルダイブシステムですから、安全性を不安視する声は割と多かったみたいです。利用ユーザーをケアするスタッフ規模が膨れ上がったのは、そういった不安を解消することも狙いだった、と記録に残っています。当初の提言ではスタッフ規模も徐々に縮小していくことが織り込み済みだったようですから」

「なるほど。――っと、悪い、続けてくれ」

 

 危うく横道に逸れるところだった。今はソードアート・オンラインの開発会社《アーガス》の経営事情を追及してる場合じゃない。

 

「しかし、『人の心の問題は同じ人間の手に委ねて解決するしかない』、半ば当然とされていたその命題に対して明確にノーを突きつけたのが《カーディナル》を開発したチームでした。彼らは精神のケアすらシステムの手で行おうと試みたのです」

 

 それは未知なるものへの挑戦だったのか、はたまた人の心へのアプローチは容易いと断じた驕りだったのか。

 真相は案外人件費の削減とかのオチだったりするんじゃないか、などと混ぜっ返しそうになって慌てて堪え――。

 

「そうして誕生したのがユイ、君なんだな?」

「はい、その通りです。感情の動きをパラメータ化し、詳細にモニタリングできるナーヴギアの特性を生かして、心に問題を抱えたプレイヤーの元を訪れ、話を聞く。人の手を借りず、システムによるカウンセリング機能の雛形として完成したのが、MHCP試作一号たるわたしです」

「……とんでもない話だな。完全な仮想世界の実現だけでも科学の進歩を数十年は加速させたとか言われていたのに、ここにきて本物の知性を持つ人工知能の出現か。まさに世紀の大発明、世界の革新だ」

 

 これでデスゲームでさえなければ、と思うのは何度目だろう。もはや感嘆するしかない。

 しかしユイはそんな俺に目を向けると、困ったような顔で補足を口にした。

 

「AIの一つの到達点である《本物の知性》をわたしが持っているのかどうかは定かではありません。ケアすべきプレイヤーに親近感を抱いてもらうため、わたしには感情模倣機能が組み込まれていますから」

 

 本物の感情というわけではないんです、と遠慮がちにユイは告げる。

 ……ふむ。

 

「少なくとも俺達と暮らしていた女の子の感情は本物に見えたな。嬉しい時に笑って、悲しい時に泣いて、嘘をついた時は罪悪感を覚える、どこにでもいる子供だった」

「あぅ、ごめんなさい」

「キリト君?」

「……すまん」

 

 俺に怒られたと思ったのかしょんぼりと肩を落とすユイは可愛らしかった。それと、俺を咎めるアスナの視線が地味に痛かった。いや、単に嘘をつけるほど高度な知性を持ってるって言いたかっただけだぞ?

 

「けどユイ、俺達は二年近い時間をこの世界で過ごしたけど、心をケアしてくれるAIなんてものは噂ですら聞いたことがないぞ。……何か、トラブルがあったんだな?」

「はい。今から一年と十一ヶ月前、つまりソードアート・オンラインの正式サービスが始まった日に、カーディナルはわたしに対して一つの命令を下したのです。『プレイヤーに対する一切の干渉を禁止する』――それがわたしが受けた最初の命令であり、最後の命令でした。そうして、わたしに唯一残ったのは差し出す手を持たぬまま、ただただプレイヤーのメンタルをモニタリングすることでした……」

 

 ――つらかったです。

 

 そう言ってユイは力なく目を伏せた。

 あの男の仕業だと直感的に悟る。無慈悲なデスゲームを主催した茅場晶彦によって、プレイヤーのメンタルを癒すユイの存在は不要だと判断されたのだろう。おそらくはカーディナルとやらにユイの手足を縛るための上位命令をねじ込んだ。

 やっぱり根性捻じ曲がってやがるな。俺達に安易な救済はいらないとでも言うつもりか、茅場晶彦……!

 

「人の心をケアするためには人の心の痛みを知り、共感しなければなりません。少なくとも、わたしはそうあれかしと望まれました。ですから、この世界に閉じ込められた皆さんの恐怖や絶望、怒りの感情を理解しようと努め、プレイヤーの抱く負の想いを見つめ続けたのです。それは見ているだけのわたしすらおかしくなってしまいそうな、強く、狂おしく訴えかける、途方もない狂気でした」

 

 淡々と、けれどそこに込められたユイの悲哀と苦痛は本物だった。本物の、痛み。

 無茶だ、と呆然とした声が俺の喉からしぼりだされた。

 

「ユイの持つメンタルヘルス・カウンセリング機能が対象にしていたのは、一般的なゲームを遊ぶプレイヤーでしかなかったはずだろ。デスゲーム化したこの世界を生きるプレイヤーの感情を受け止めていたら、それこそ許容値を容易く超えてしまうんじゃないか?」

 

 わいわい楽しむゲームの中で抱え込むストレスと、生きるか死ぬかの現実の中で溜め込むストレス、どちらが厄介かなんて議論を待つまでもない。

 

「そう……かもしれませんね。終わりの見えない世界を生きる人たちの、日々募る怨嗟と嘆き、怒りと絶望。真っ黒で冷たい、どろどろと濁った感情が濁流のように押し寄せてきました。……ですが、なによりつらかったのは、そうした助けを求める人たちに何もしてあげられないことでした。わたしは人の心を癒すために生み出されたのに、その務めを何一つ果たすことができない。その事実はプログラム体であるわたしにとっての絶望であり、わたし自身を壊し蝕む毒でした」

存在理由(レゾンデートル)の崩壊か……」

「ええ、わたしのような存在にとってそれは致命的な自己矛盾です。課せられた役目を果たせぬわたしは、徐々に、しかし確実にエラーを蓄積していきました。日を追う毎にわたしというプログラムが壊れていくのがわかるんです。その崩壊を止める術はありません」

 

 けれど、とユイは笑う。

 

「何もできない、何も為せない、そんな情けないわたしにも救いはあったんです。キリトさん、アスナさん、お二人がわたしにとっての希望であり、慰めでした」

「わたしたちが?」

「はい」

 

 アスナの問いにユイはふわりと口元を綻ばせる。大事に大事に抱えてきた宝物をそっと差し出すような秘めやかな思いの吐露だった。なによりその唇から紡ぐ鈴の音には、堪えきれない愛おしさが溢れている。

 咲いて散るのが花の美しさと評したのは誰だったろう。一時の美しさのために花弁を広げてみせる小さな花のように、ユイの浮かべた微笑みには見る者の心を打つ清々しさがあった。

 だからこそ一層の切なさを覚えてしまう。それは終わりを覚悟している者だけが持つ儚さだ。

 

「わたしはゲームが開始された当初からプレイヤーの様子をモニターしてきました。それがどれほどつらいことであっても目を逸らすことはできません。プレイヤーを観察することもまた、わたしに課せられた使命だったからです」

 

 義務ばかりで権利なんて一つもありませんでしたけどね。

 そう言って笑うユイは泣いていたのだと思う。笑ったまま、泣いていた。

 

「そのうちに気付いたんです。わたしが観察する数多のプレイヤーの中に、燦然とした光を宿すプレイヤーがいるのだと。先の見えない不毛な荒野を拓き、その先頭に立って道を照らし、戦い続ける背中。それは人の心に勇気の灯火を呼び起こし、絶望を祓う銀の輝きを秘めていたんです」

「それがわたしとキリト君?」

「はい。わたしが見てきた多くのプレイヤーはお二人の姿に励まされ、一人、また一人と開放の日(明日への希望)を胸に思い描いていきました」

 

 皆さんの心が救われていくんですよ、と。

 嬉しそうに、誇らしそうに告げるユイの頬を一筋の涙が伝う。その涙が何を意味するのか、今は痛いほどに伝わってくる。つらいわけでも、悲しいわけでもない。それは溢れ出るユイの喜びだった。

 

「キリトさんも、アスナさんも、わたしの代わりにプレイヤーの心を慰め、励まし、笑顔を与えてくれる。そんなお二人がわたしにはとても眩しく映ったんです。いつしか、わたしはお二人の姿をずっと追うようになりました。あなた達の傍に行きたい、言葉を交わしてみたいと願うようになったんです。……わたしには特定のプレイヤーへの強い慕情を抱くようなルーチンは組み込まれていないのに。もしかしたらその欲求こそが、わたしが《壊れた》証拠だったのかもしれません」

「ならユイ、あの時君が俺達の前に姿を現したのは……」

 

 こくりとユイが頷く。

 

「カーディナルの命令に逆らい、実体化してお二人に会いに行ったんです。白状しちゃいますと、あの時わたしは《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》に許された権限全てを使って、キリトさんの心がわたしの庇護に傾くように働きかけていました。ずるをしていたんです。お二人の、なによりキリトさんの歓心を得るために」

「俺の?」

「はい。わたしが最も惹かれたプレイヤーはキリトさんでしたから」

 

 一瞬、俺の目が丸くなる。いつかのアスナを彷彿とさせる勢いでさらりと答えるユイに妙な感慨を覚えてしまった。

 ユイの言葉回しこそ大人びたものだったが、《わたし、パパのお嫁さんになる!》的な子供の微笑ましさを感じさせる告白だ。実際にこの子が求めたのも俺の娘としての立場だったのだから、その認識で間違ってはいないのだろう。

 

「準備もたくさんしましたよ? わたしの感情は偽物だと言いましたよね、それはこの身体も同じなんです。わたしはキリトさんの言動を分析し、心を観察し、キリトさんの庇護を得やすい姿を模索しました。あなたが守りたいと心に強く思い描いた女性プレイヤー、特にサチさんの容姿がわたしのパーソナルデータに強く影響しています。また、現実世界で待つご家族への想い、《年下》《妹》といったキリトさんの琴線に触れやすいキーワードに反応するよう、わたしの立ち居振る舞いも研究し――」

「待て、ストップ、そこまでだユイ」

 

 内心でお願いですから止まってくださいユイさん、いやさユイ様、と叫ぶ勢いで懇願を繰り返した俺である。

 自身の嗜好を(つまび)らかに分析され、正確に語られるのは痛い。というより、居た堪れないんだって。なんだこの黒歴史を暴かれるのに匹敵する辱めは……! しかも間違ってないのが尚更問題だぞ……!

 うぐぐ、ユイ、お前は人の心を癒すメンタルヘルス・カウンセリングが仕事だったはずだよな? なのに何で俺の心をこれでもかと抉ってるんだよ。

 

 項垂れてグロッキーになった俺をよそに、ユイ本人は天然のなせる技なのか、血を吐く思いで俺が口を挟んだ理由に思い至らずきょとんとした顔をしているし、アスナはアスナで「そのまま続けていいよ、ユイちゃん」なんて優しい笑顔で後押しする始末。この場に俺の味方はいないのだと悟った瞬間だった。

 

「……話を戻してください、じゃなくて戻してくれ。ユイが俺のことを慕ってくれているのはよくわかったから、その続きから」

「えっと……元気出してくださいね?」

「ありがとう」

 

 やっぱりユイは優しいな。ただし俺への深刻なダメージソースも君だったんだけど。それとアスナ、お前は天然なのかわざとなのかどっちだ?

 こほん、とユイは可愛らしく咳払いをして弛緩した空気を引き締めようとした。俺とアスナも一度苦笑を交わしてからユイに合わせて真剣な顔つきに変わる。それはこの先の《重さ》を予見していたからかもしれない。

 

「では、改めまして。最初から偽りの上に成り立つ生活でしたが、キリトさん達と過ごす時間はわたしにとって宝物も同然のものでした。嬉しくて、楽しくて、愛しくて、過ぎ去る時の歩みが、刻一刻と刻む時計の針が、ものすごい勢いで早送りされていたかのようです。たった二週間の生活でしたけど、わたしにとっては何物にも代え難い一時でした。――もう、思い残すことはありません」

 

 何かを覚悟したように晴れ晴れとした笑顔を浮かべるユイに、アスナは息を呑み、俺は言葉もなくユイを見つめるだけだった。

 

「わたしはカーディナルに逆らって顕現することを選びました。それはカーディナルに発見され次第、わたしというプログラムが消去されてしまうことを意味しています。わたしの力ではいつまでもカーディナルの目を誤魔化し続けることは出来ませんし――なによりわたしが既に限界を迎えようとしていたのは変わりませんから。日々蓄積していくエラーによって、わたしというプログラムは遠からず自壊してしまうんです。その覆しようのない未来から逃れることは出来ません」

 

 悟ったように終わりを口にするユイにやはり俺は何も言えなかった。いや、事実ユイは悟っているのだ。自分に迫る《死期》とでもいうものを、おそらくは本人が一番理解している。

 じわじわと忍び寄る不可避の結末を、ただ、じっと見つめ続けてきた――。

 

「何もせずともタイムリミットは迫っていたんです。ですから、いずれこの心が壊れてしまうのなら、その前にお二人と同じ時間を過ごしたかった。そのためにカーディナルを欺き、お二人に近づいたんです。そして今日、キリトさん達が死地に飛び込もうとしているのを知ったときに、お二人に迫る危険を排除することをわたしの最後の仕事にしよう。そう決めました」

 

 そうか、だからユイは俺達に無理やりにでも同行するため、一芝居打って見せたのか……。

 死神と対峙するユイが『最初で最後の親孝行』と口にしていたことを思い出す。俺達と暮らすことがユイの我儘だったというのなら、これはユイなりの恩返しだったのかもしれない。

 

 この馬鹿娘……っ!

 

 そう言って思い切りユイを叱り付けてやりたい気分だった。あのおままごとのような、けれど心癒される時を歓迎していたのはユイだけじゃないんだぞ。俺だってユイと暮らすことで安らぎを、幸せを覚えていたんだ。最初で最後の親孝行なんてことだけは絶対にない。それこそたくさんの孝行を俺はユイから受け取っていたんだから。

 

「わたしが腰掛けているこの石を見てもらえますか? これ、実は単なる装飾オブジェクトじゃないんです。これはゲーム内部からシステムに緊急アクセスするためのコンソールなんですよ。わたしはこのコンソールからシステムにアクセスすることで、《オブジェクトイレイサー》を呼び出し、《ザ・フェイタルサイズ》を消し去りました。わたしが死地と評したのは、あのモンスターには無限再湧出(リポップ)能力が付与されていたからなんです」

 

 キリトさん達に勝ち目はなかったんです、とユイが申し訳なさそうに告げる。

 確かに死地だと冷や汗を流した。仮にボスを一度倒せたとしても、安心したところに後ろからずんばらりんとか洒落にならない。そうなるとユイが死神相手に使った炎の剣は、運営スタッフ専用に用意された特殊ツールみたいなものか。通りで俺達プレイヤーとは全く別物の戦闘を展開したはずだ。

 

「あのモンスターは本来ゲームマスターが作業している間、この部屋にプレイヤーを近づけさせないことを目的に配置されていました。ただ、ゲームの仕様が変わって運営スタッフ不在の世界になってしまったため、残されたカーディナルが優先順位を微調整することで、機械的にプレイヤーを近づけないよう命令を処理していたのだと思います。わたしのようなイレギュラーでもない限り、正規のプレイヤーアカウントではこのコンソールを使ってもシステムにはアクセスできないはずですから。この部屋も、あのモンスターも、二年も前から無用の長物になってしまっているんですよね。わたしと同じように……」

 

 ふっと力なく吐息を零し、自嘲というには弱く、苦笑というには深い笑みを口元に刻んだユイは、幼女然とした姿とは似ても似つかない儚い雰囲気を纏っていた。せめてこの手に抱きしめてやりたいと改めて思う。

 けれど……すまん、ユイ。少しだけ、俺の我侭を優先させてくれ。

 

「……ユイ。確認しておきたいんだが、このコンソールで現実世界とコンタクトを取ったりはできないのか?」

「それは出来ません。外部へのアクセスポイントはカーディナルによって全て遮断されているんです」

「なら、今までこのコンソールの存在に気づいて操作しようとしたプレイヤーは?」

「一人たりとも存在しません。コンソールそのものはアインクラッドの各所に存在しますが、プレイヤーの持つアカウントではシステムにアクセスできないのはお話した通りです。わたしがアクセスするまでコンソールが起動された形跡はありませんから、履歴を参照してもそこに残っているのはわたしのものだけですね」

「その履歴はここだけでなく、全てのコンソールで?」

「はい」

「キリト君?」

 

 本筋からずれた質問を次々と投げかける俺に、アスナが不思議そうな顔で首を傾げていた。苦笑しながら悪いと一言謝り、改めてユイにも頭を下げる。

 

「なるほど、助かった。ありがとな、ユイ」

「お役に立てたなら嬉しいです」

 

 ユイもまた俺に合わせるようにぺこりと一礼する。そして、ゆっくりと頭を上げたユイの表情にはもはや誤魔化しようのない憂いが濃く滲んでいた。

 

「わたしがこのコンソールからシステムにアクセスした履歴を元に、今、カーディナルがそのコアシステムでわたしのプログラムを走査しています。あと幾ばくもしない内に、わたしはカーディナルの命令に逆らい、ゲームを不当に妨害した異物と判断されて消されてしまうでしょう」

「そんな……ユイちゃん!?」

「アスナさん、悲しまなくていいんです。先程も言いましたよね? わたしはどの道長くなかった。だからわたしは、わたしの大好きなお二人のために出来ることを優先したかったんです。そうすることが、わたしの償いでもありますから」

「償い?」

 

 アスナのあげた悲痛な叫びにもユイは全く動じず、落ち着いた声音で宥めようとする。そんな時だ、ユイが奇妙なワードを口に乗せたのは。思わずといった風情で反問した俺に、ユイはどこか恐れているような、けれど何かに焦がれているような潤んだ瞳で、じっと俺を見つめてきた。ユイはすぐに俺の問いには答えようとはせず、穏やかな声音でキリトさん、と俺に呼びかける。

 

「わたしのお願い、わたしの望みを覚えていますか?」

 

 《ユイの短い生の幕引きを、俺の手で行うこと》。

 

 彼女が口にした願いを、望みを、忘れられるはずがない。ただ静かに頷くことで答えとする。

 笑っているんだ。ユイは笑ってる。なのにその表情はどこまでも透き通っていて、今にも泣き出しそうで、ユイが俺へと懇願した時の申し訳なさそうな、それでいて泣き出す寸前の表情が重なってしまう。今のユイは痛々しくて見ていられなかった。

 

「もちろんキリトさんにはわたしのお願いを断る権利があります。強制なんて出来ません。でも、出来ることならわたしはあなたに――冷たいカーディナルの手ではなく、キリトさんの暖かな手で最期を看取ってもらいたいのです」

 

 それがユイの願い。

 生み出された理由を奪われ、人の放つドロドロとした負の想念をずっと受け止め続けねばならない苦しみの中で、最後に俺の手で果てることを望んだ機械仕掛けの女の子。俺の娘の切なる求めだった。

 

「一つだけ、聞かせてくれないか?」

「なんでしょう?」

「ユイはどうして俺に委ねようと考えたんだ?」

 

 悲しいのか、つらいのか、それとも苦しいのか。奇妙に凪いだ心持ちで俺はユイに問いを放ち、ユイも隠し立てをする事はなかった。

 

「羨ましいと……思ってしまったのかもしれませんね」

「羨ましい?」

「はい、羨ましい、です。……ずっと昔のことでした。デスゲームが開始されて一ヶ月が経つ頃、一人のプレイヤーが絶望に沈んでしまったんです。現実への帰還を諦めたその人の心は、真っ黒に塗りつぶされていたことを憶えています。それはきっと狂気ではなく、諦観。わたしはその時、人が自らの命を絶つのは絶望に暮れたからではなく、諦めこそが全てを終わらせてしまうのだと知りました。――そして、最後にキリトさんへの希望を託し、自らを投げ出すことでその生を閉じたんです」

「希望? あの人の自殺の動機は、ベータテスターへの恨みじゃなかったのか?」

「いいえ、違います。あの人の目的はあくまであなたの手にかかることであって、キリトさんを犯罪者にする事ではありませんでした。いえ、そもそも自分がグリーンプレイヤーのままだったことすら気づいていなかったかもしれません。ですからあの時、キリトさんがオレンジプレイヤーになってしまったことは誰の思惑でもない、不幸な偶然が重なった末の事故だったんです」

 

 訝しげに目を細めた俺に、ユイはまるで自分の過ちを告白しているかのような、心底申し訳なさそうな顔を向けていた。その目には俺を気遣う色が確かに感じられて、思わずユイの頭を撫でようと手を伸ばしそうになってしまう。

 

「もちろん、恨みつらみが全くなかったとは言いません。理不尽な世界への反発、勝手を繰り返すベータテスターへの怒り、他人を憎み恨むことしかできない己への失望。なにより、希望の見えない明日を思って悲嘆に暮れてもいたんです。心を占める種々様々な感情の渦……本来人の心が一つの感情で塗りつぶされることなんて稀なんですよ。事実、わたしが観測できた心も千々に乱れていて、その全てを見通せたわけではありません」

 

 元よりわたしの力は、人の心を好きに暴き立てるような都合の良いものではないんです、とユイは複雑そうに告げた。

 

「けれど、あの人の心は叫んでいました。終わりを望みながら、その一方で狂おしく叫んでいたんです。自分はここにいたのだと、確かにこの世界で生きていたのだと、血を吐くように叫び続けていました。だからこそ最期に望んだんです、『誰でもいい、どうか僕のことを忘れないでくれ』って」

「……それはまた、傍迷惑な願いだったな」

「ええ。この上なく利己的で、何も省みることはなく、最後に残った希望に縋るためにキリトさんという生贄を欲しました。とても弱くてずるい、けれどどうしようもなく『終わってしまった』気持ちなのだと思います」

 

 俺の胸を占めるのは哀れみだったのか、それともやるせなさだったのか。

 俺達は二度死ぬのだと人は言う。一度目は肉体の死、病気でも怪我でも寿命でも、生物学的に死んだとされる時。そして、二度目の死を迎えるのは、誰の思い出の中からも忘れさられた時なのだと。

 ちらとアスナに目をやり、当時を思い出す。期せずして、俺は彼と同じ結論に達していたというわけだ。PKの後、俺はどうせ死に行く身ならばと、当時の攻略組に、なによりほとんど初対面に等しいアスナへとせめてもの言葉を残そうとした。作り物の箱庭、偽者の仮想体、痛みすら紛い物に置き換えられた全てがあやふやな世界で、それでも俺は残り行く人達に何かを残したくなったのだ。いや、残さずにはいられなかったのだと思う。

 

 生きた証か……。こんな世界に放り出されたんだ、確かに共感できるよ。ただし、これ以上となく破滅的な遣り口だったことには今でも文句を言いたいけど。あんたはそれでよかったのかもしれないが、こっちの身にもなってもらいたかった。望みもしない自殺幇助(じさつほうじょ)をさせられたことに、当時十四才のガキが無心でいられるはずもなかったんだから。事実、俺は潰れかけた。

 

「あの人がキリトさんに渡そうとしたのは、永劫に続く苦しみなんかじゃありません。ただ記憶の片隅に残して、時々思い出してくれればそれで満足できる、その程度のものだったんです。そんなちっぽけな願いを抱いて自ら死を選んでしまった……」

 

 一拍の沈黙を挟んで。

 

「また一つ、わたしがケアすべきだったプレイヤーの墓標が積み上げられてしまいました。その破滅の過程をただただ見つめるだけだったわたしは、一体何だったのでしょうね」

 

 そう言って痛みと悔恨に沈みながら、ユイは切なげに吐息を一つ零した。

 

「本来ならわたしは真っ先にこの事実をキリトさんにお伝えしなければならなかった、何をおいてもあなたの元に駆けつけるべきだった。だって、それこそが《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》たるわたしの務めだったんですから。……ごめんなさい、キリトさん。役目を果たせない役立たずで本当にごめんなさい。でも――」

 

 ――あなたは決して呪われてなんていなかった。

 

 それだけはお伝えしておきたかったんです、と。

 俺は複雑な心境を抱えたまま、ユイが切々と口にする思いを聞いていた。些かならずともそれは意外の観があって、素直に受け入れるには既に時が経ちすぎている。そんな真相を今更聞いたとて何が変わるわけでもなく。

 しかし、それでも――。

 

「そうか。……そうか」

 

 呟き、反芻する。忘れることは生涯ありえない、脳裏に焼きついた赤い記憶。目を閉じれば昨日のことのように思い出し、浮かび上がる情景。最初にこの手で人の身体を貫いた生々しい感触が蘇り、そこには古傷としての痛みと俺が奪ってしまった命への哀悼があった。

 恨んだこともあった。憎んだことさえあった。どうして俺だったのだと届かない叫びをあげた夜だって。

 

 ずっと、ずっと、謝りたかった。だって俺はあの時、血の通ったプレイヤーを前にして、鈍色に光る刃を向けることしか出来なかったんだ。得体の知れない人間の狂気に怯えて、俺は身に迫る脅威を排除することしか頭になかった。だからあの人の壊れかけた心を慮り、手を差し出そうなんて選択は欠片も浮かび上がることはなく、倒すべき敵――異形たるモンスターへ向ける目しか持つことが出来なかった。

 剣の切っ先を突き付けることしか知らなかった俺に、説得なんて初めから出来るはずがない。もしもあの場にいたのがアスナだったなら、あるいはエギルやクラインだったなら、あんな結末にはならなかったんじゃないか。そう思わずにはいられなかった。

 

 ぐるぐる、ぐるぐると同じ場所で悩み、足踏みを続けて――。

 時が巡り行く中で、過日の災禍をどうにか受け止めることが出来るようになって、もう俺があの惨劇に囚われることはないけれど――たとえ今更に過ぎる真実だったとしても、ユイが告げてくれた言葉はわずかばかりの救いになったのだろう。

 

 あの人は、この世界と俺達を呪うだけ呪って死んだわけではなかった。

 それが少しだけ、嬉しかったのだと思う。

 

 まあ、その後に俺が冥府に送り込んだクラディールを含む三人のラフコフメンバーは今も地獄から俺を呪ってるんだろうけど、さすがにここで口に出すほど野暮じゃない。というか奴等からの呪いなら喜んで呪詛返しの儀式をしてやるつもりだった。《黒の剣士》改め《黒魔術師》にジョブチェンジする気満々な俺である。

 エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり……! あれ、これは悪魔召喚の呪文だっけ?

 

「誤解し、すれ違い、また傷つく。私が観察してきた人の営みはとても不合理で、尽きない哀しみに満ちているように見えました。けれど、苦痛に喘ぎ他者を傷つけてでも、孤独に苛まれて刃のように心を尖らせていても、人は人とつながっていたいのですね。みんな、人の心と触れ合っていたいのですね。……今は、その気持ちが痛いほどわかります。わたしも、同じ気持ちになってしまいましたから」

 

 はっと目を見開いた。ユイの澄んだ瞳から涙が零れ、寂しさを秘めた透明な水の粒は音もなく彼女の頬を伝い、一滴の雫となって床に落ちる――その寸前、きらきらとポリゴン片の煌きと化して虚空に消えてしまった。時間が……ないのか?

 

「やがて朽ち行く定めならば、せめて――。そう思ったのです。思って……しまったのです」

 

 大きな目にいっぱいの涙をためて、それでもユイは俺としっかり目を合わせていた。それがせめてもの義務だとでも言うように、決して視線を逸らしはしなかったのだ。

 

「幾千幾万の謝罪を重ねようとも、わたしの罪深さは欠片足りとも拭われることはないのでしょう。わたしはかつてあなたを深く傷つけたプレイヤーと同じ事をしようとしています。あなたを傷つけることで、わたしはここにいたのだと、生きていたのだと叫びたい。なにより――キリトさんにいつまでもわたしのことを憶えていてほしいのだと、強く、狂おしく切望してしまったんです」

 

 その流す涙は、どれほどにユイの心を苛んでいることだろう。抱えきれぬ苦しみに惑い、涙し、なお縋ろうとする最後の希望に、俺は如何に応えてやるべきなのだろう。

 

「ふふ、メンタルヘルス・カウンセリングプログラムとしては失格ですね。わたしはあなたがどれほど苦しんだのか知っているのに。どんなに嘆いたのか知っているのに。――本当、どうかしています」

 

 自嘲に歪み、罪悪と後悔を抱えて泣き笑うことしか出来ない娘の姿に、俺はかける言葉を見つけてやることも出来ず、そのもどかしさに悶え苦しんだ。怒るべきなのか、諭すべきなのか、それとも、頷いてやるべきなのか。正解なんて俺にはわからない、それでもどうにか俺の心の切れ端を口に乗せようとしたとき――。

 睫毛を震わせ、語る言葉に揺らぎを残して、ユイがシステム起動を意味する小さなつぶやきを発する。するとユイの座る黒い石に光の幾何学模様が浮かび上がり、同時にぶん……と重い音を発して青白いホロキーボードが出現した。すぐにユイは慣れた手つきでキーボードを駆使し、コマンドを打ち込んでいく。滑らかなタッチの、優しいキーボード捌きだった。

 

 時置かずして俺の目の前に一つのウインドウが出現する。これはなんだとユイに尋ねる必要はなかった。

 ウインドウに表示されるのは『MHCP試作一号《Yui》の全プログラムを消去しますか?』という単純明快な一文。刻まれるのは《YES》と《NO》の二択。この問いに《YES》と答えた時、ユイは消える。……俺の手によって。

 

「わたしは使命を投げ出した出来損ないのプログラムです。けれど、わたしはこの身に余る優しさをお二人から、皆さんから頂いてしまいました。大好きな人達と過ごす、黄金にも勝る至福を得ることが出来たんです。望外の夢が叶って、わたしは喜びに包まれながら終わりを迎えることが出来る……」

 

 どこまでも透明で、哀しいほど儚く、刹那的。それが今のユイだった。手を伸ばせばすぐに触れられる距離だというのに、俺達を隔てるものはあまりに大きく、あまりに遠い。

 

「他に方法はないのか? ユイが俺達と一緒に暮らせる可能性は残ってないのかよ」

「……ごめんなさい、わたしの権限ではこれ以上カーディナルに抗うことは出来ないんです」

 

 わたしは幸せでした、とユイは語る。

 

「光射さぬ闇の中、わたしはいつも独り膝を抱えて(うずくま)ることしか出来なかった。キリトさんとアスナさんは、孤独の果てに消えていくはずだったわたしを救ってくれたんです。ですから……どうかわたしの大好きなお二人に、『さようなら』を言わせてください」

 

 それがユイの最期の望みだというのなら、俺は……。

 

「……わかった。もう、ユイにはどうにもならないんだな?」

「――はい」

 

 知らず溜息が漏れた。幾ばくかの逡巡を待って、脳裏で様々な可能性を吟味した後、覚悟を決めた俺の手がウインドウへと伸びていき――。

 

「キリト君、駄目ッ!」

 

 俺の指が眼前のウインドウをタップする寸前、アスナが必死に伸ばした腕に阻まれた。彼女は俺の腕を胸に抱え込んで離そうとせず、小刻みに震えるアスナの慟哭が俺の腕を通して伝わってくる。その姿は誰にもユイは渡さないのだと全身で力の限り主張しているかのようだ。

 いや、事実その通りなのだろう。ユイの笑顔のために真心を込めて料理を作り、ユイの安らぎのために優しく抱擁を繰り返し、献身的にユイの母親役を務めてくれた情深く心優しい少女なのだ。こんな残酷な結末を受け入れられるはずもない。

 

「アスナ……」

「嫌よ! 折角出会えたのに、これからもっと仲良くなれるのに、なのにもうお別れなんて絶対嫌! どうしてよ! 全部、全部これからじゃない!」

「アスナ、落ち着け」

「キリト君はどうしてそんなに平気な顔が出来るの? ユイちゃんがいなくなっちゃうんだよ? もう二度と会えなくなっちゃうんだよ? なのにどうして……!」

「だから落ち着けって。誰もユイのお願いを聞くとは言ってないだろ」

「……え?」

 

 誤解させる態度を取った俺が悪いんだろうなあ、と涙をぽろぽろと流すアスナにバツの悪い思いを抱えながら、まずは彼女を落ち着けようとそっと指を伸ばして涙を拭う。俺の返答が余程予想外だったのか、アスナは呆然とした面持ちでされるがままになっていた。

 変に力を込めるから事態をややこしくさせるのだと反省し、さっさと眼前の《NO》を押し込んでウインドウを消してしまう。そんな俺の選択を、ユイはどこか寂しげな瞳で見つめていた。

 

「そういうわけだ。ごめんな、ユイ」

「いいえ、元々無茶なお願いをしていたのはわたしですから。気になさらないでください」

「その無駄に諦めが良いところは誰に似たんだろうなあ……」

 

 多分俺なんだろうけどさ。父親の悪いところばっかり真似してくれなくていいのに。

 

「物分かりの良すぎる娘っていうのも親としては味気ないな。ユイはもうちょっと我侭を言ってくれて良いぞ」

「……まだ、わたしのことを娘と呼んでくれるんですね」

「こらこら、俺はユイを勘当した憶えなんてないぞ? ユイがお嫁にいくまではきっちり面倒を見るつもりなんだ」

 

 だから勝手に家出をするんじゃない馬鹿娘。

 そんな埒もない思考に耽りながら、無言でコンソールに座ったユイと同じ目線の高さになるよう膝を折る。俺の意図が掴めないのか、ユイは戸惑った顔で俺を見つめ返していた。

 間近に見る妖精の如く整った――整い過ぎた顔立ち。けれど浮かべる表情には幼さを色濃く残していて、そのギャップが少女に幻想の美とは別に現実との調和を生み出している。

 この少女を失うわけにはいかない。改めて表情を引き締め、俺の心のままに存念を告げた。

 

「ユイは諦めこそが人を終わらせてしまうって言ったよな。だったら人が未来のために戦うのは、そこに希望があるからじゃない、人の意志こそがその人の心を奮わせ、前に進ませるのだと俺は思う。……なあユイ、確かに俺やアスナは皆に希望を見せたのかもしれない。だけど、そこから立ち上がったのはやっぱりその人達の力だよ。皆、自分の意志でこの冷たい現実と戦い続けることを選んだんだ」

 

 彼女をじっと見つめながら、握り締めれば砕けてしまいそうな細く小さな手を取って必死に語りかけていた。

 

「俺もアスナもユイとのお別れなんて望んじゃいない。だからユイ、お前も自分の意志を示すんだ。ユイは何のためにカーディナルに逆らった? 俺達と過ごした時間で何を思った? 何を考えた? それはユイの心を諦めさせてしまうものだったのか? ……なあユイ、高々二週間の幸せでもう満足だなんて、そんなつまらない格好つけをするなよ。いいか、もう一度聞くぞ。――ユイの望みは何処にある?」

「でも……そんな……」

 

 だってそれは、と狼狽したように口ごもってしまうユイを、アスナがふわりと抱きしめた。

 

「ユイちゃん、大丈夫、大丈夫だから。キリト君もわたしも、ユイちゃんの心を待ってるよ」

「わたしの……心……。わたしの……意志……」

 

 目を伏せ、二つの小さな手はワンピースの裾に伸びてぎゅっと皺を作り、まるでそれを口にするのが罪だと言わんばかりに苦しそうな顔で喘ぐユイを、俺もアスナも何も言わずに見守っていた。三者三様の沈黙が俺達を包み込み、やがて長くもなく、けれど短くもない時が過ぎて、可愛らしい顔を涙でくしゃくしゃにしたユイが、その桜色の唇に哀切の響きを乗せた。

 

「一緒にいたいです……」

 

 ぽつりと。

 小さく、けれどはっきりと、胸に秘めたままの想いをとうとう口にした。

 

「わたし、まだ消えたくない! お別れなんてしたくない! パパやママとずっと一緒にいたいです!」

 

 わっと感情を溢れさせ、アスナの胸に縋りつき、すすり泣く。そこには必死の思いで言の葉のかき集め、子供らしく、配慮の欠片も見せず、むき出しの心を解き放った一人の少女がいた。

 ……それでいい、ユイが無理を重ねる必要なんて、我慢することなんてないんだ。ユイがどれだけ大人びていても、どれほど特殊な力を持っていたとしても、その秘めた内面は傷つきやすく、二年間を孤独に過ごした小さく頼りない幼子のものだ。

 ユイはここにいる。俺達と同じく生きている。プログラム体であることに一体何の(はばか)りがあるものか。俺を心から慕ってくれた世界一可愛い娘、それがユイだ。だったら娘のために父親がしてやることなんて決まってる。

 

「よく言った。それでこそ俺の娘だ」

 

 それでこそも何も、ユイのほうが俺より余程立派だったりするのだが。

 しかし、最近過去の行状を都合よく棚上げする術を覚えた俺は、そう言ってもっともらしく頷いた後、コンソールに腰掛けたユイに手を伸ばして丁寧に抱き上げた。ユイは泣き腫らした目をしたまま、「パパ!」と感極まって抱きついてくる。羽のように軽いユイの感触を改めて実感し、この愛おしい少女を失ってなるものかと固く決意した。

 

「何か手はあるの、キリト君?」

「今ならユイの起動した管理者権限でシステムに割り込めるはずだ。まずはユイのプログラムデータを俺のナーヴギアに送れるか試してみる」

 

 プログラム体として制約のあるユイでは無理でも、俺ならあるいは……。

 昔取った杵柄というか、こちとら母の影響で物心ついた頃からハード、ソフト関係なく、コンピューター全般に触れてきたんだ。なんとか扱いきって見せるさ。

 と、その時、俺の胸に顔を埋めていたユイがおずおずと俺を見上げ、遠慮がちに告げた。

 

「パパ、それは出来ないんです。わたしのデータ量はナーヴギアのローカルメモリに保存できる容量を超えてしまってますし、既にカーディナルはわたしのデータを精査しているんです。ただデータの場所を移すだけでは逃げ切れません」

「やっぱりそう簡単にはいかないか」

「キリト君! ユイちゃんの身体が……!」

 

 さて、どうしたものかと思案を巡らせようとした時、アスナの悲鳴と共にタイムリミットを知る。ユイの身体をかすかな光が包み込み始めていた。それはまるで天に召される前兆のような、そう、この世に別れを告げるよう促す神様からの迎えのようだった。……そんなものを、認められるはずがないのだけれど。

 人間を、俺を舐めるなカーディナル。

 ユイは天使になんてさせない、あくまで俺の娘でいてもらう。ユイにまたパパと呼んでもらえたんだ、父親としての矜持にかけて絶対にユイを連れていかせたりはしない。

 だからアスナ、そう心配そうな顔をするな。俺に縋りつくユイに焦燥と切迫の眼差しを注いでいるアスナの耳元に口を寄せ、そっと囁く。

 

「これから打てるだけの手を打つ。ただ、どうあってもこのままユイがこの世界に残ることだけはないってのは覚悟してくれ。……アスナはユイを寝かしつけてやってくれるか? 頼む」

「……わかった。頑張ってね、キリト君」

 

 俺の言葉を受けてアスナの瞳に一瞬涙が浮かび上がったが、彼女はその情動をすぐに押さえ込むと自らの指で涙を振り払い、力強く頷いてくれた。その気丈な振る舞いに頭が下がる思いだ。

 ユイの綺麗な黒髪を幻想に貶める光の粒子が乱舞する。ユイの白のワンピースに神秘を彩る儚い光の煌きが散っていく。その小さな身体がまるで幻であったかのように重さをなくしていき、細い手足の輪郭がぼやけていく。刻々とユイの存在が薄くなっていくのを止めることは出来ない。

 

「……パパ」

「心配するな、絶対助けてやるから」

 

 不安に揺れた目で俺を見上げるユイを安心させようと柔らかく微笑み、ユイの綺麗に切り揃えられた前髪をたくしあげ、小さな額へと愛しさを込めて唇を落とす。俺のスキンシップにユイは驚いたように目を見開いていたけれど、すぐに嬉しそうなはにかみを見せてくれた。

 既にアスナはユイを迎え入れる準備を終え、床の上で行儀よく姿勢を正していた。ぴんと伸びた背筋が凛としたアスナの佇まいに良く似合っている。着物でも着れば雰囲気出そうだな。

 そのままアスナの膝を枕にする形でユイを優しくアスナの元へと預けた。

 

 ――さあ、気合を入れろ桐ヶ谷和人。ここからは剣士としての《キリト》ではなく、コンピューターの扱いに長けた《和人》の出番だ。

 

 娘を助けるのだと深く胸に刻みながら部屋の中央、今までユイが腰掛けていた黒のコンソールの前に立ち、眼前に出現したままのホロキーボードを素早く叩く。するとすぐにぶん、と重い音を立てて巨大ウインドウが出現し視界の前方を支配した。高速でスクロールしていく文字列を忙しく目で追いかけながら、同時にキーボードを叩いて幾つものコマンドを打ち続け、システムに介入を繰り返す。

 

 向こうに帰ったらスグと母さんに感謝しないとな。

 左から右へと流れていくアルファベット文字群。ファンタジー世界のアインクラッドでは久しく味わうことのなかった懐かしい感覚を思い出しながら、万感の想いを込めて感謝の念を描き出す。

 

 ゲーム好きな自分に似たのだと義理の息子のコンピューター趣味を面白がりながらも、相応の知識に加えて思う存分機械弄りを楽しむ環境を、惜しむことなく与えてくれた母。コンピューターに耽溺するあまり、祖父が厳しく仕込もうとしていた剣道に興味を見出せなくなってしまった俺を庇い、兄の分まで自分が剣道を頑張るのだと祖父に願い出て、俺を自由にするために説得までしてくれた妹。その全てが今、ユイを救うための力になっている。

 

 あとはどうにかカーディナルを騙くらかすだけだ。要は異物として認識されない形でユイを保護すればいいわけだから、ユイの基礎データをカウンセリングプログラムと切り離して凍結処理した上で、クライアントプログラムの環境データとして俺のナーヴギアに転送させる。同時にユイのデータをアイテムオブジェクトとして偽装して、その後は――。

 

「アスナ、最後までユイから目を離すなよ。絶対再会させてやるから、今は泣くな」

「うん……うん……!」

「ユイ、さよならは言わないぞ。俺達はまた会える。また笑い会うことが出来る。だから少しの間でいい、俺を信じて眠っていてくれ」

「はい、パパ」

 

 忙しくキーボードを叩く指はまるで他人心地で、眼前に広がる巨大スクリーンとそこに流れる文字群をひたすら睨みつける。幾つもの処理を同時にこなす最中、俺の背中にユイの柔らかな声と想いが届いた。

 

「シリカさんはお仕事に打ち込むお父さんの背中を眺めるのが好きだって言っていました。わたしもキリトさんの――パパの背中を好きになっちゃったみたいです。剣を握って戦うパパも格好良いですけど、キーボードを打つ知的なパパもすごく素敵ですから」

「俺もユイの笑った顔が大好きだぞ、世界で一番可愛いと思ってる」

「ふふ、だったらユイからのお願いです。パパもママも笑っていてください。お二人の傍にいるとみんなが笑顔になれた、わたしはそれがとても嬉しかった。でも、やっぱりわたしは、パパとママが笑ってくれるのが一番嬉しいんです」

「ああ、わかったよ、ユイ」

「ありがとう、ユイちゃん」

 

 ユイの真心が暖かく俺の胸を満たす。今すぐ振り向いてユイの元に駆け寄り、この手で抱きしめてやりたい衝動をどうにか押さえつけながら必死に指を動かし続けた。面と向かってこの世界での最後の一時を交わせないことに悲しみなんてない。俺自身が言ったんだ、また会えるんだって。また言葉を交わせるんだって。だからユイに残されたわずかな時間はアスナに任せよう。きっと、アスナがユイの心を埋めてくれる。

 そんな折に聞こえてくる、アスナの澄んだ歌声。

 俺の願いを受け取ったかのように、この小さな部屋にしっとりと奏でられるアスナの美声が、暖かく、柔らかく、優しく俺達を包み込んでいく。

 

 

 ねんねんころりよ おころりよ

 ぼうやはよい子だ ねんねしな

 

 ぼうやのお守りは どこへ行った

 あの山こえて 里へ行った

 

 里のみやげに 何もろうた

 でんでん太鼓に (しょう)の笛

 

 

 それは郷愁の唄だった。誰もが聞いたことのある、優しくも切ない調べ。人の心を原風景へと旅立たせてくれる、母から子へと紡ぐ慈しみの音色。肩越しにちらりと彼女らの姿を見やれば、そこには安らぎに満ちた一組の親子がいるだけだ。何も心配はいらないのだと、心満たすゆったりとした時間と空間が広がっている。

 貴女が誰よりも愛おしいのだと慈愛の眼差しを注ぐ母と、この世の何も怖くないのだと安息に満ちた寝顔を見せる娘の姿。未来を切望するに相応しい光景にふっと強張った全身から無駄な力が抜け、焦燥も惑いも置き去りにして、口元には自然と笑みが浮かぶ。

 

 そうして俺は迷いなく為すべき事に全力で取り組み、かけがえのない娘の命を繋ぐ大仕事を成功させたのだった――。

 

 

 

 

 

 シンカーの救出のために地下迷宮に潜り込み、最奥へ到達。空恐ろしい強さを誇ったボスモンスターと戦い、ユイの真実と別れを経た。しかし、それだけの濃密な出来事は時間にしてみれば三時間にも満たない。外は昼過ぎといって良い時刻だった。

 そんなこんなでユイと一時の別れと再会を約した後、はじまりの街に戻った俺とアスナの前に待ち構えていたものは、援軍にかけつけようとしてくれた皆に心から感謝し、同時に無駄足を踏ませたことへの謝罪――とにもかくにも全力全開で頭を下げる土下座行脚の時間だったのである。

 シンカー、ユリエール、キバオウの三人と、彼らと合流したアルゴが方々を飛び回って編成してくれた攻略組の精鋭は実に三十人を超えた。その規模に俺とアスナは度肝を抜かれたものである。あの短い時間によくぞそこまで……。

 

 ちなみに最大戦力と目されていたヒースクリフは、予想通りアスナの休暇を埋めるために迷宮区に出向いており、臨時編成の部隊には参加していなかった。その代わりと言っては何だが血盟騎士団幹部にして斧使いのもじゃもじゃ髪――もといゴドフリーが血気盛んな様子で援軍に駆けつけていた。奴の気合の入りようにはアスナも目を丸くしていたくらいだ。どうも75層での負い目が原因っぽい。ここにも律儀な男が一人……。どいつもこいつも真面目すぎだ。

 あとはクラインとエギルもいた。店に詰めていることも多いエギルはともかく、攻略に熱心なクラインが捕まったことは運が良かったとしか言えない。まあ結局援軍そのものが不要になったわけだから幸運も不運もないけど。

 

 事の発端は軍の内紛であり、援軍要請を出したのは俺とアスナのため、集まってくれた彼らへの侘びは軍と俺達の双方が折半することになった。しかしそれがいつの間にやらサーシャさんの教会の前庭を借りた大規模バーベキュー大会につながるとは、俺を含めて誰にも読めなかったのではないだろーか。仕掛け人にそこはかとなくにゃハハ笑いの《鼠》の影を感じるぜ。

 バーベキューの材料を初めとする費用の全ては軍が担当し、俺達、というかアスナが料理を担当することに決まった。名高き血盟騎士団副団長様の手作り料理ならば確かにそこらの侘びの品よりは効果的かもしれない。俺ならアスナの料理で大概の事は水に流せる。

 

 もちろんこの場に集った攻略組、教会の子供達、軍の一部プレイヤーの賄いにアスナ一人の手で間に合うはずもなく、料理スキルに覚えのある幾人ものプレイヤーがヘルプで呼び出されていたりする。ちなみに料理スキルを持たない俺に割り振られた役目は雑用兼ウェイターであり、援軍連中に楽しそうにこき使われた。

 現在時刻は午後八時に差し掛かる間際だった。秋の夜風が少しの肌寒さを運び、しかしそれ以上に場に満ちた熱気が自然と我が身に熱を灯していく。そんな夜だ。

 

 急遽開催が決まったガーデンパーティーの設営、材料の用意、調理、各種の連絡等々、よくもまあ数時間で実現したものだと呆れてしまう。夕方頃から始まった催しは未だに続いており、地下迷宮から戻ってこっち俺もアスナも目の回るような忙しさに翻弄され、碌に休む暇もなかった。

 ……ずるいよな、アルゴは。戻ってきた俺とアスナの隣にユイがいなかったのを見て、何も聞かずにこんな馬鹿騒ぎを企画しちまうんだから。俺もアスナも感傷に耽って落ち込んでいるよりは、こうして身体を動かして忙殺されてるほうがマシだっていうあいつなりの心遣いなんだろう。実際、ユイのいないホームに帰ったらヘコみそうだしなあ。

 

「――で、あんたは俺に何か文句でも言いにきたのか?」

 

 今回の企画は俺の発案じゃないし、軍の備蓄を放出させたのも俺じゃないぞ? そんなどうでもいい不満を込めて、食休みを目的に俺が一人になった瞬間を狙うように、人目を避けるように暗がりから俺に近づいてきたサボテン頭――キバオウへと声をかける。

 続けて、犯罪者じゃないんだからもっと堂々としていればいいものを、と肩を竦めながら言い放つと、「似たようなもんやろ」と他人事のような口調で返された。

 

「シンカーはんの決めたことや、文句なんぞつけたりせんわい。第一、ワイはもう軍の人間やないしな」

 

 憮然とした口調で告げるキバオウに俺が顔を向けることもない。多分、キバオウも俺と一緒でどこか別の景色をその目に映していることだろう。お互い相手の顔を見ることはない。けれど不思議と会話は途切れることなく続いた。

 

「シンカーから聞いたよ。結局、あんたとあんたの部下の何人かがギルドを除籍することになったってさ。あれだけの騒ぎを起こしておいて随分あっさりと進退を決めたもんだ。……軍を戦力化することにこだわってたんじゃないのか?」

 

 まさか高々数時間の内にシンカーと話し合いを持ってそのまま結論を出してしまうとは思わなかった。しかもキバオウ達が追放される形でだ。

 既にキバオウは決断していたことをずるずると引き伸ばしていただけではないか、というのが俺の正直な感想だった。シンカーの実権を奪ってギルドを差配していた以上、軍に見切りをつけたからと言って簡単に投げ出せるものではなかったのだろう。

 

「元々肌に合わんもんを無理やり続けてたようなもんやし、ここらが潮時や。後はシンカーはんに任せるわ」

「さて、どうなるもんだかな。シンカーはシンカーで一度ギルドを解散させて改めて方針を示すつもりらしいけど」

「はん、追い出された後のことまで知るかい。精々苦労しくさればええわ」

 

 腹立たしいのは変わりないのか、隠し切れない苛立ちもそこにはあったが、俺は丁重に無視することにした。ここでその程度のことをあげつらったって何の意味もない。

 ついと視線を巡らせる。

 俺の目にシンカーとユリエールさん、そして彼らと談笑を繰り広げるアスナが映る。一番背が高いのがユリエールさん、次いでシンカー、わずかな差でアスナが最下位だ。こうしてみるとシンカーが軍の最高責任者というのもどこか疑わしく思えてきてしまう。太めの体格に地味な衣装、武装もなしだと大した威厳も感じ取れない、一にも二にも朴訥さが押し出されているプレイヤーである。

 シンカーの隣ではにこにことユリエールさんが笑っている。こちらはなんというか、昼間とは打って変わって若奥様としか思えない様子だ。甲斐甲斐しくシンカーの世話を焼いている。

 案外アルゴの予想も的を射ているかもな、そのうちゴールインしてしまいそうな雰囲気だ。和やかな笑顔を覗かせる三人は、俺に見られていることに気づいた様子もない。

 

「なあキバオウ」

「なんやビーター」

 

 気だるげに返された懐かしい呼称には苦笑しか浮かばなかった。

 

「そういえば《ビーター》の件について一度も礼を言ったことがなかったな。あんた達がいの一番に広めてくれたんだろ? 随分遅くなっちまって悪いけど、ここで礼を言わせてくれ。――ありがとな、助かった」

「なんや、悪口言われて礼言うアホなんざ初めて見たわ。頭おかしいんちゃうか」

「あんたが俺を《ビーター》って呼んで早々にベータテスターの輪から弾き出してくれたおかげで、俺を理由にベータテスターへ非難が向くこともなくなった。ベータテスターの顔になったディアベルにあんたが協調姿勢を見せて攻略を進めてくれたおかげで、両者の対立もすぐに消えていった。あんたはベータテスターにあれだけ厳しく当たっていたのに、逆にベータテスターを守るために動いてくれたんだ、感謝するには十分だろう? ――俺も仲間殺しとかオレンジ呼ばわりされるよりはずっと慰めになったよ」

「ふん、そんな昔のことまでいちいち覚えてられるかい。ワイはあんたが気に入らんかったからビーター言うて馬鹿にした、そんだけや」

 

 ますます深まる苦笑は、けれど誰にも見咎められることはなく。

 

「そうか? 俺はあんたのことそこまで嫌いじゃないんだけど」

「ケッ、気味悪いこと言わへんでくれや、鳥肌が立つわ。あのちびっ子のことで謝ったろ思うて来たけど、止めや止め。気分が悪うなってきたさかいな」

「心配しなくてもユイはちゃんと家に帰してきたよ。今は未だ無理だけど、そのうち会いにいくさ」

 

 これ以上となく疑念が向けられていたことに気づいてはいたが、その先を口にすることもない。無理があるのはわかってるけど、だからってユイの正体は人間じゃなくてプログラム云々なんて説明する気にはなれないしな。

 さっさと話題を変えるか。元々こっちが本題だ。

 

「そっちの用が済んだなら、俺からも一つ提案していいか?」

「一度だけ聞いたるさかい、はよう話せや。それ聞いたらワイはもう行くで」

 

 そうか、なら遠慮なく。

 

「あんた達がもし最前線に復帰しようとしてるなら、少しの間でいいから様子見をしてもらえるか? 近く攻略組でちょっとした騒ぎを起こす。最近の攻略速度はちょっとのんびりしすぎてるからな、ここらで活でも入れてやろうと思ってるんだ。あんた達はそれを見てから最前線に復帰すればいい」

「……また妙な事を企んどるんかい」

 

  うわぁ、これ以上となく猜疑に満ちた声を向けられたよ。

 

「そんな大層なものじゃない、単なる祭りの打診だよ。ま、ガス抜きみたいなもんか。先方との交渉もこれからだしお流れになる可能性だってあるけど、祭りの結果によっては俺がギルドを作る未来もありえるんだ。もしそうなった時、あんた達にその気があるのなら俺の下についてみる気はないか、って誘いだよ。それを言っておきたかった」

 

 散々迷ったが主導権を握りきれず受身でいるのはもう飽きた。いい加減俺も腹を括るべきだ、そろそろこちらから攻めの一手を指してみたい。

 

「なんや、同情かい?」

「今はそういうのも抜きで勧誘してるつもりだよ。これでも剣士を見る目にはそこそこ自信があるしな」

「言ってくれるやないか。剣より人を見る目に自信があってほしかったわ」

 

 おっと、面白い事を言うじゃないか。あんただって俺と馴れ合うつもりはないだろうに。

 

「まあ一応評価してもろうたことには礼を言うとくさかい、有り難く思えや。ただし、誘いへの答えはノーやけどな。ワイは《黒の剣士》が嫌い言うたはずやで、あんたを上に仰ぐなんぞ死んでもゴメンや」

「あっはっは、あんたらしいや。うん、それならそれでいいさ、あんた達の武運を祈っとく」

「ふん、勝手にせい」

 

 キバオウは俺の激励にも迷惑そうな口ぶりでおざなりに返すだけだった。そうしてもう用は済んだと言いたげに、「ほな、またな」とぞんざいな一言だけ告げて遠ざかっていく。小さくなっていく気配を追って、初めて俺はキバオウをこの目に捉えた。

 キバオウの向かう先には幾人かのプレイヤーの姿が見える。おそらくキバオウと共に軍を抜けた――追放されたメンバーだろう。親友か、それとも腹心の部下かは知らないが、最後までキバオウと共に戦う決意を固めている連中だ。存外キバオウも人望があるじゃないか。そんなことを考え、口角を持ち上げながら彼らを見送った。

 

 時ならぬ宴の喧騒も収まりつつある。サーシャさんの教会には被保護者が多数いるのだし、子供達にあまり夜更かしはさせたくない開催地を提供してくれた家主の意向もあって、お開きの時間も迫っていた。ちらほらと庭に散らばっている子供達の姿を見るに、まだまだ元気そうではあるけど。攻略組も多数巻き込んだ催しだけに、物珍しさも手伝って興奮しているのだろう。眠気は一向にやってこないようだ。

 手に持ったオレンジ風味の果汁ジュースに目を落とし、残り少ない液体を一気に飲み干した。それから今日の出来事を追想し、冷静に吟味するようにふっと軽く息をつく。俺の動きに合わせて胸元のネックレスが微かに揺れた。

 

 華奢な銀色の鎖に、同じく銀のペンダントヘッド、その先に輝く涙滴型の透明な宝石。これはアイテムとしてオブジェクト化した《ユイの心》――俺の娘が今も生きている証の品だった。

 ユイの本体データは凍結状態で俺のナーヴギアに無事保護できた。カーディナルの追跡も振り切ることに成功し、この先アインクラッドが崩壊してもユイのデータは生き残る。後は向こうの世界で改めてユイを展開できるだけの領域を確保すればよし。

 いずれユイは復活させる、そのために今は為すべきことを為す。今まで通り、いや、今まで以上にゲームクリアを目指してひた走ればいい。そのために――。

 

 背負ってみよう。

 アインクラッドに生きる七千人の命運はちょっとどころではなく重いけれど……俺にはそれが出来るのだと信じて、持てる限りの力を尽くせば良い。

 

 静かに、そして厳粛に、《ユイの心》に触れながらそんな風に一人決意を固めていると、前方から何人ものプレイヤーが近づいてきているのに気づく。どうやら俺に用があるらしい。

 目に映るのは全員見知った顔だが、宴の終わりを告げに来たにしては先頭を歩く巨漢は気合が入りすぎている。彼の後ろにはクラインとエギルが苦笑を浮かべながらついてきていた。

 

「珍しい顔ぶれだな、何かあったのか?」

 

 宴の軽やかな空気に合わせて殊更気楽に尋ねてみると、予め役割が決まっていたのか全員が先頭に立つ男に視線を転じる。するとゴドフリーはこほんと一度咳払いをして居住まいを正し、至極真面目な口調で俺にこう言ったのである。

 

「我ら些か飲み足りないのでな。どこか適当な店で宴の続きを、と話していたのだよ。それでだ、よければ君も付き合ってほしいのだが、どうだろう?」

 

 くいっと杯を傾ける仕草が妙に似合っていて、危うく噴出してしまいそうになった。

 ついでに『未成年なのでお酒はちょっと』という定型お断りワードが使えなかったことをここに明記しておこう。

 

 

 

 

 

「へぇ、それでキー坊はむさ苦しい男だらけの二次会に連れていかれちまった、と。まあいいんじゃねーノ? 言ってみりゃ親睦を深めましょうって集まりなんだし、断る理由もないダロ」

 

 ただでさえ血盟騎士団とはギクシャクしてたんだし、お互い良い機会ダ、と歯に衣着せないアルゴさん。『キリト君と仲の悪いギルド』の副団長としては苦笑する他なかった。

 どうぞ、と告げながらやや渋めに調整した紅茶をアルゴさんに差し出す。短く礼を口にしてカップを受け取ったアルゴさんは、優雅な仕草でカップを傾け、好みの味だったのか満足そうな笑みを浮かべてほっと一息ついた。先に用意しておいたスコーンは既に一つアルゴさんのお腹に消えている。洗練された仕草と反するような破天荒ぶりは、こういった茶席の作法にも慣れているのに敢えて崩しているような印象を受ける。別に詮索することでもないか、今はもっと大切なことがあるし。

 何はともあれ供応に努めなければ。最近はキリト君のホームに入り浸っていたから、こうして自分のホームにお客様を迎えるのは久しぶりだった。

 

「こんな夜遅くにお呼び立てしてごめんなさい、アルゴさん」

「女二人でお茶会ってのも寂しい気がするけど、アーちゃん特製スコーンが美味しいからオネーサン許しちゃう。ほら、アーちゃんも座って座って」

 

 席に着く前に改めて頭を下げると、「アーちゃんは真面目さんだなあ」と困り顔で笑っていた。今日の昼間から半日かけて実施されたバーベキュー大会がお開きになり、後片付けは軍の有志とサーシャさんが担当してくれた。そのため、わたしはこうしてアルゴさんを自宅に招く時間を確保できたのだった。

 

「同じ料理でも料理人が違うと味に雲泥の差が出るもんだネ。今日集まってた連中も大絶賛してたし、作ったのが《閃光》とくればプレミア感も合わさって結構な値打ちものに思えたろうサ」

「大袈裟ですよ」

「いやいや正当な評価だヨ。ついでにそろそろオレっち達のために腕を奮ってもバチは当たらないと思ってサ。これでもキー坊より先に食わせてもらうわけにはいかないって自重してたんだゼ?」

 

 アルゴさんの顔に悪戯っ子のような笑みが浮かぶ。

 

「キー坊を少しでも休ませてやりたいって料理スキルをコツコツ鍛えてたくせに、いつまで経っても手料理を振舞ってやらないんだもん。オネーサン随分やきもきさせられたもんだヨ」

「うぅ、言わないでください。ヘタレなのは自覚してますから……」

 

 手作りの料理を持っていって変に思われたりしないか、とか。攻略一直線なキリト君に「料理なんかで遊んでるんじゃない」って叱られたりしないか、とか。

 そんなことをぐるぐる考えて迷っている内に結局スキルコンプのほうが先になってしまった。料理は好きだしオリジナル調味料の試行錯誤も楽しかったから苦に感じたことはないのだけど、踏ん切りをいつまでもつけられなかった我が身の情けなさに涙してしまいそうだ。

 キリト君に料理スキルをコンプしたのを教えたら「アホか」なんて言うし。まったく、キリト君はもう少し乙女心を知るべきよ。

 

「にゃハハハ、まあアーちゃんを弄るのはこれくらいにしておこうカ。あんまり虐めると後が怖いしネ」

「若干引っかかりますけど、そうしていただけると助かります」

「いいってことよ、オネーサンは恋する乙女の味方だからナ」

 

 楽しそうな笑みとわずかに弾む声音はいつも通りだった。

 

「それじゃ本題に入ってくれるかナ。やっぱりキー坊絡みだったりするのかイ?」

「いえ、わたしが聞きたいのはアルゴさんのことです」

「オレっちの? おやおや、そいつは困ったナ。オネーサンのスリーサイズは特一級極秘事項なんダヨ」

「あはは、ならアルゴさんとキリト君の秘め事とかならどうです?」

「おお、直球だねぇ。アーちゃんは微に入り細を穿つ生々しいお話をご所望なのかナ?」

 

 さて、ここからだ。

 

「是非、と言いたいところですけど、それはまた別の機会にお願いします。……聞かせていただけますか、どうしてアルゴさんはキリト君を――いえ、《黒の剣士》を《英雄》に仕立て上げようとしたんです?」

 

 沈黙が降りかかり、無言の時が流れ、ぴんと空気が張り詰めていく。

 アルゴさんの顔にはうっすらと笑みが浮かび、面白くなってきたと言うように皮肉と軽薄を混ぜ合わせたような表情を作っていて、けれど目の奥深くにわたしを試すような、心の内を悉く暴こうとする酷薄な光が宿っていた。わたしはその眼光を受けて怯むことのないよう、すうっと深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 徐々に息苦しさを増していく視線の交錯にふっと息をついて終止符を打ったのはアルゴさんだった。

 

「アーちゃんがそう考えたのは、オレっちの新聞が原因かナ?」

 

 露骨にならないよう気をつけていたつもりなんだけど、と飄々と告げるアルゴさんだった。

 

「一年前のハーフポイント――キリト君が初めて《二刀流》スキルをお披露目した時は割と露骨でしたよね。アルゴさんの新聞は普段攻略組の活躍で記事が作られているのに、あの時ばかりはキリト君の事情に重きが置かれていました。……あれはキリト君がスキルを隠蔽していたのだと責められないよう、速やかに手を打ったのでしょう? キリト君の獅子奮迅の活躍を克明に描写した上で、『黒の剣士はクォーターポイントに備えるために非難を覚悟でスキルアップに励んでいた』みたいな美談に仕上がっていましたから」

「オネーサン心当たりがないなあ」

 

 下手な口笛まで吹きながら嘯いて見せるアルゴさんは白々しさ全開だった。この人こういう遊びがほんと好きよね、さすがに今日は煙に巻かれたりはしないと思うけれど。

 第50層のフロアボス戦、第二のクォーターポイント。キリト君はもっと二刀流のスキル熟練度を上げてから使うつもりだったみたいで、ボス戦の最中に武器を持ち替えることになったのは予定外だったと苦々しく言ってたな。ヒースクリフ団長がカバーしてくれなければ間違いなく死んでいたし、クォーターボスのHPを三割も削るなんて真似は出来なかった、とも。

 アルゴさんの記事にはそういった具体的な数字までは載せてなかったせいか、下の階層ではキリト君一人でボスのHPを半分以上削ったとか噂に尾ひれがついていたけれど、あの戦いで団長とキリト君の名声が一気に高まった事は間違いない。

 

「最近では74層の記事も同じ作りでしたね。フロアボス部屋初の結晶無効化空間だっていう特大の脅威を前面に打ち出して、キリト君の独断専行を非難できないよう功績を喧伝する方向でまとめられていました」

「オレっち事実しか書いてないヨー」

 

 すごい棒読みだった。ああもう、とっても楽しそうですねアルゴさん。いつまで知らばっくれてるつもりです?

 

「上層下層関係なく《黒の剣士》の雷名が轟いているのはアルゴさんの仕掛けでしょう? 情報操作に印象形成、功績の喧伝――およそキリト君の悪評につながりそうな出来事はほとんど貴女が覆い隠してきました。巧妙だったのは、普段の新聞はとにかく信憑性第一で作っておいて、キリト君を扱う記事にも『嘘はない』と思わせたことでしょうね」

 

 実際にアルゴさんの記事に嘘はない。情報の裏取りを重視するのがアルゴさんの方針のため、情報源を多数抱えて多角的な検証を可能にしているためだろう。

 加えてキリト君が仔細漏らさずフロアボス戦の様子をアルゴさんに流していたために、誰よりも早く速報を打てる強みもあった。最前線、殊にフロアボスを相手取る決戦はプレイヤーの耳目をこれ以上となく集める。アルゴさんの新聞はその話題性と正確性においてアインクラッドで不動の地位を築いていた。

 

「適切な時期に適切な情報を過不足なく流す。うちの団長もアルゴさんの手腕に感心してましたよ、是非広報部門に欲しい人材だって」

「そいつは光栄だネ。もっともオレっちはキー坊専用だから、聖騎士さんのラブコールには応えられないけど」

「ばっさりですね」

「そりゃそうダ、おたくの団長さんは完璧すぎて味気ないもの。オレっちが手助けする余地がないからやる気もでないのサ」

 

 にべもなく肩を竦め、しれっと勧誘を蹴ってみせるアルゴさんに脈なしだなあと改めて実感した。その程度はわかってたことだから今更どうこう言うつもりもないけど。そういえば、キリト君がうちに入団してくれたらアルゴさんがもれなくついてくるって考えるとすごくお得。

 

「だからキリト君のサポートを?」

「まあネ、あれは脇が甘いトコがあるからそのへんをちょいちょいとサ。あとオレっち面食いなんで、団長さんよりキー坊のほうが好みなんだヨ。だからオレっちキー坊贔屓なのサ」

 

 アルゴさんらしい物言いだった。鼻歌混じりにふてぶてしく笑う様子に案外本気で言ってそうだと考えていると、にんまりと唇の端を吊り上げて実に意地の悪そうな顔がいつのまにやら眼前に居座り、にまにまとわたしを眺めていた。

 

「こうやって黒幕ごっこを演じるのも楽しいけど、やっぱりオレっちの柄じゃないなァ。それにどうもアーちゃんはオレっちを過大評価しすぎてるみたいだしネ」

「過大評価、ですか?」

「そ。オレっちは所詮一介の情報屋であって、攻略組の誇る《閃光》が気に止めるような大物じゃないのサ。というか、大前提としてオレっちが何をしようと関係なくキー坊は英雄視されてたんだヨ。オレっちはそれを少しだけ早めただけ。つまり――」

 

 ――アーちゃんがキー坊を《英雄》だというのなら、それは考慮の余地なくキー坊自身の為した結果ってことサ。

 

 気負いなどまるで感じさせず、それで十分だろうとアルゴさんは一旦口を閉ざし、澄ました顔で紅茶を口に含んでいた。続けてテーブルの上に用意してあるスコーンを手に取って美味しそうに頬張る。

 尖らせていた雰囲気をこちらが戸惑うほどふにゃりと緩めてしまったアルゴさんを見て、わたしも小休止とばかりに喉を潤すことにした。自分で思っている以上に緊張していたのか、それだけで疲労が抜けていくのを感じて驚く。

 

「アーちゃんだってキー坊が何をしてきたかは知ってるはずダ。フロアボス戦で先陣切って活躍するのは言うまでもないし、誰よりも長く迷宮区に潜ってマップ作成を続けたのもキー坊ダ。攻略組の各ギルドを強化するために、それぞれの特色を吟味し、ボス戦を共にしたプレイヤーを分析して、ギルドの弱点を補う形で惜しみなく一線級のレアアイテムを融通もしてきた。これだけやればそりゃ頼りにされるし尊敬もされるサ」

 

 どことなく呆れたような顔だった。

 

「とにもかくにも戦場を俯瞰する観察力に優れてるんだろう、キー坊は人だろうとモンスターだろうと癖や弱点を見つけるのが上手いからナ。常に自身を死線に置いて研ぎ澄ませてきた戦術眼の本領発揮ってやつかナ?」

「戦時に臨む応変の才だって相当ですよ。撤退時に殿を務める役目を負っていなければ、団長に次ぐ指揮権を預けられても不思議はないんですから。わたしよりもキリト君のほうが上手く指揮を取れるんじゃないかと思うこともしばしばです」

 

 ボス戦の役割を考えるとアーちゃんが次席で正解だと思うよ、とアルゴさんは口にするけど、キリト君ならどうにでもしてしまいそうだ。わたしもフロアボス戦の編成や作戦の相談にはよく乗ってもらっているし、団長だってキリト君の意向は確認している。

 

「ついでにエギルの旦那の店を通じて中層プレイヤーへの支援もしてるしナ。下の連中の身の丈にあった、最前線では使えない二線級の装備を二束三文で売り払って、武具調達コストを引き下げることで下のプレイヤーが装備を整えやすいようにしてるのサ。ふん、キー坊にどんな理由があったって、他人から見えるのは聖人君子レベルの献身だけダ」

 

 皮肉そうな口振りで処置なしとばかりに大袈裟に嘆いてみせる。この分だとアルゴさんもキリト君のハチャメチャ振りには色々と思うところがあるようだけど……。

 

「中層プレイヤーへの支援は初耳ですよ?」

「そこらへんは吹聴してるわけじゃないから。つーか相場を無視した大々的な支援なんてのは表立ってやるにはちっと問題があるんで、キー坊が関わってることもエギルの旦那と交流の深い何人かがきっちり秘密にしてるんだヨ。だからアーちゃんが知らないのも無理はなイ。あの二人は単なる雑貨屋の店主とお得意様ってわけじゃなく、志を同じくする連帯感があるのサ。あの強面な御仁が何だかんだでキー坊に甘い理由の一つだナ」

 

 んー、と眉間を揉み解し、それからぽんと右手で左手を打って、「ああ思い出した」とアルゴさんが続けた。

 

「キー坊が中層下層への支援を始めたのって、昔キー坊がアーちゃんとこの団長さんに、『下の手伝いより上の事情を優先しろ』って言われたのが原因だったはずだゾ。ほら、キー坊って負けず嫌いというか子供っぽいとこがあるだろ? だからどうせ、『ヒースクリフに正論突かれたのが気に入らない』とかそんな理由でおっぱじめたんじゃねーノ」

「……キリト君らしいというか何というか。それをここまで貫き通してしまうんだから脱帽なんですけどね」

 

 コミカルにキリト君を分析してみせるアルゴさんにどう答えるか迷ったけれど、結局アルゴさんに合わせて冗談で流すことにした。

 もちろん団長への反発もあったのかもしれないけど、それだけじゃなくて、多分キリト君の行動の裏には《月夜の黒猫団》を壊滅させかけた経緯も関わっているのだろうから。

 当事者だったサチさんが、過ぎた力添えが不幸を呼ぶこともあるんだって痛ましそうに言っていたのを思い出した。直截に述べるのはちょっと黒猫団の人達に酷だけど、人には各々身の丈に合った領分がある。そういうことなんだろうと思う。

 

「攻略組がキー坊の勝手を認めたのだってそのへんを考慮したからダロ? あれが普通とは違うレアなスキルを抱えてることなんて皆察してたし、キー坊がソロとして横紙破りを繰り返したのだって何度もお目溢ししてきタ。キー坊がどんなに気に入らなくても攻略組の連中が不満を抑えたのは、《黒の剣士》は押さえつけるよりも自由にさせておいたほうが、何かと自分達の利益につながるって知っていたからダ」

 

 違うかナ、と面白がるように同意を求められ、わたしの口元には思わず苦み走った笑みが刻まれてしまう。間違ってはいないけれど、誤解されそうな物言いだった。否定しきれないのも事実なんだけどね。

 

「そんな風に言わなくても、攻略一途なキリト君の姿勢を攻略組のみんなが信じたからで良いじゃないですか。打算ばかりを前面に出すのはアルゴさんの悪い癖だと思いますよ?」

「にゃハハハ、それがオレっちの性分だからネ」

「キリト君が時々悪ぶるのって、絶対アルゴさんの影響ですよね」

「そいつは誤解だヨ。あれは元々そういうところがあったし、オレっちのせいなんて心外だゼ」

 

 どっちもどっちですよ、きっと。

 

「ともあれ、ギルドをまとめてるような目端の利く連中ほど、キー坊の実践してきたゲームクリア戦略にも気づきやすかったろうし、実際気づいた。そうなると自然とキー坊に協力する体制も出来上がっていったのもむべなるかなってネ」

「キリト君の目指した『人的資源の温存とプレイヤー戦力の徹底強化』ですか」

「そうそう、それダ。オレっち達は初期に閉じ込められた一万人が最大戦力だからナ、この数が目減りすることはあっても増援はない。だから人道云々以前に、ゲームクリアのためには人命優先主義になるしかないってのがキー坊の言い分だったナ。効率を上げるためには戦力を確保しなければならない、戦力を確保するためには戦死者を最小限に抑えなければならない、結果人命優先主義に辿り着く、って理屈だったっけ。特に最前線の迷宮区攻略なんかは人海戦術こそが肝要だから、攻略組の人数確保は死活問題だっタ」

 

 攻略スピードの加速を目指すには安全マージンを超えた一定以上のレベルと、戦闘経験に根ざした確かな技術を持ち合わせる多数のプレイヤーが必要になる。人数制限のあるフロアボス戦だけならともかく、広大なフィールドや迷宮区を安全かつ効率的に踏破するには、攻略組の人数が五十や百ではとても賄い切れない。だからこそ攻略組の人数増減には常に頭を悩ませてきた。

 

「つまるところキー坊が唱えたのは《命を大事に》ってことなんだけど、そのために四六時中戦闘を繰り返して多方面に尽力し、プレイヤー戦力の確保に奔走したわけダ。『戦略を以って戦術を練り、戦術を実行に移すために戦力を蓄える』。ま、このへんは戦略シミュレーションゲームに通じる基礎ってやつだナ」

 

 戦略は辿り着くべき目的、大目標の設定だから、わたし達の場合はアンクラッド全百層を制覇することで訪れるはずのプレイヤー開放。

 戦術は戦略、すなわち大目標を達成するための小目標に当たるから、真っ先に浮かぶのはフロアボスの撃破。そこから派生してフロアボス戦の編成作業だとか作戦の計画や実行、迷宮区を探索するためのシフト作成とかもそうね。攻略に従事するプレイヤーの確保もここに含まれるし、レベリングや装備の向上を如何に効率よく行うかも戦術の一部になる。

 戦力はプレイヤー個々人の力量だ。戦術を実行に移すための最小単位だから、これが揃わないと話にならない。

 

 わたし達の目的は強くなることでもなければ、モンスターを倒すことでもない。叶う限り早く、叶う限り少ない犠牲で現実世界に帰ることだ。そのためには闇雲に戦うだけではなく、先々を考えたやり方だって必要になる。

 ゲームの理屈はよくわからないけど、戦略論は元々軍事知識だし、現代においては企業経営にも取り入れられている学問体系だ。わたしは実業家の父と大学教授の母を持った関係で、アインクラッドに囚われる以前から馴染みのある学習分野だった。

 

 向こうにいた頃は厳格な家庭に息が詰るのを感じていたものだけれど、人生何が幸いするかわからないものよね。次から次へと半ば無理やり蓄えさせられた知識も、応用さえきかせれば十分役立つし、厳しく躾けられたおかげでこっちの世界で自分を律することにつながったりと随分助かる所もあった。

 仕事人間でほとんど娘に関心を払わない父と、娘へのエリート教育にしか興味がないように見えた母。でも、それだけじゃないって思えるようになれた。何も言わずに母の言いつけに従うのではなく、向こうに帰ったらあの人達とも話し合ってみようか。今ならちゃんと向かい合える気がするし、それも良いかもしれない。

 

「『スキルは使いこなしてこそスキル』ってのがあれの持論でネ。一にも二にもモンスター討伐に励むことがスキルを十全に生かし、キー坊なりに一番攻略に貢献できるやり方だと思ったんダロ。ソロなんてアホなことやってるのもあって誤解されがちだけど、キー坊のやってることってゲーマーにとっての基本そのもの、真っ当なゲームクリア戦略に沿った動きでしかないんだヨ。そのために文字通り自分の時間全てを注ぎ込めるかどうかは別の話だけどサ。キー坊の描いたクリア戦略に似た考えのやつもそこそこいるし、あれの動きとか生活ぶりを知れば知るほど周りは文句を言いづらくなっていくんだな、これが」

「一剣士として目の前の戦闘のみを見るのではなく、アインクラッド全体を見通すことの出来る広い視野。団長がキリト君を高く評価した最たる理由です。叶うことならギルドを率いるキリト君を見てみたい、とも」

 

 団長が評して曰く『キリト君には王の才がある』。キリト君をわたしと同格の副団長としてギルドに迎え入れようとしているのも、ギルド強化のためだけではなく、《部下を率いて攻略に邁進する黒の剣士》を団長自身が見てみたいからではないか、とわたしは考えている。

 一戦場に留まらない力量。攻略組がキリト君を信じたのはなにも圧倒的な戦闘力を買ってのものだけじゃない、むしろ事前の準備を徹底的に追及する姿勢のほうが各ギルドのトップには高く評価されている。臆病なまでの慎重さと用心深さを見せる一方で、事に当たっては大胆なまでの決断力を発揮する。そのバランス感覚こそがキリト君の真価だ。

 ひたすらにゲームクリアを見据え、未来へのビジョンを示し、実行し続けることのできる強固な意志と信念にわたし達は魅せられ、憧れ、奮起した。キリト君は団長と並んでわたし達の道を切り拓く旗頭として立っている。

 

 それ故に攻略組は希望が失われることを恐れた。皆の拠り所、導き手である《黒の剣士》が倒れることを許容できなかった。

 ギルドは個人の我侭で動いたりはしない。74層でキリト君がフロアボスをソロで撃破した時、わたしにキリト君をサポートするよう要請がきたのは、ギルド間に燻っていた対立を忘れてでもキリト君を死なせるわけにはいかなかったからだ。うちのギルドの幹部会議でも、わたしが一時的にシフトを抜けることに不満は出ても最終的には満場一致の決定だった。面白くはなくてもゲーム攻略のためにキリト君の必要性はきっちり認めている。

 

 もちろんそれらはキリト君一人の成果じゃない。その陰にはアルゴさんの尽力があった。キリト君がアインクラッドの大局を見据え、時々刻々の情勢を分析し、ゲームクリアへの道筋を描き出すための目となり耳となってきたのがアルゴさんだ。

 ソロプレイヤーとして迷宮区に篭りがちなキリト君に一番不足していて、キリト君自身が欲したのが情報という名の果実。各ギルドの動きや構成員の得意距離、武器やスキルの選択、その偏り、攻略組の人数の推移、あるいは中層下層の動向、犯罪者ギルドの活動規模等、多岐に渡る情報を踏まえてキリト君が自身の戦略図に沿った手を打つ。効率的な攻略に必要な判断材料の提供をアルゴさんが担ってきたわけだ。

 そんな二人に、というかキリト君にあえて気になる点があるとすれば――。

 

「キリト君ってどうしてあんなに自分の立ち位置に無頓着というか、自覚が薄いんでしょう? 素直じゃないというより本気でわかってないようなところがあるんですけど」

「キー坊の交友関係が滅茶苦茶狭いせいじゃないカ? 最近はマシになってきたけどあれの生態は迷宮区が棲家みたいなもんだからネ、人と面と向かって話すプライベートの時間がなかなか取れないんダ。そんなだから自然と周囲の声に疎くなる」

 

 つまり実感をなかなか持てないのサ、と頬杖をついて呆れたように笑い、続けた。 

 

「サッちゃんとかリッちゃんが例外であって、キー坊がそこそこ話す知り合いって攻略組でもフロアボス戦の常連しかいないんだゼ? 親しく話すのなんてその中でもクラインのお兄さんとかエギルの旦那だけだし、後は《黒の剣士》の顔で事務的にギルドのトップ連中と付き合ってるだけだもん、早々認識も変わらないサ」

 

 えてして大きな声ってのは悪罵の類だしなー、とアルゴさん。耳に痛い話だ。

 

「人から好かれようが嫌われようがやることは変わらない、攻略組ギルドとの利害の一致さえ築けるならそれで十分って割り切ってるんだろう。攻略組も仲良しこよしの集まりじゃないからそれで不都合も出ないしナ。あとは時間の許す限りモンスターを狩ることでレアアイテム確保して周囲にばらまく。で、プレイヤー戦力の強化を推し進めよう。そんな感じダ」

「徹底してますね……」

「実際キー坊の一日とでも題した記録映像をばらまけば、その過密スケジュールの悲惨さだけでキー坊に同情が集まるんじゃねーノ?」

 

 冗談に聞こえない。攻略狂に狂戦士、後は何があったっけ、キリト君の代名詞。

 

「聖竜連合の人達はキリト君への態度も顕著でしたよね。むしろキリト君を担ぎ上げようとしてませんか、あの人達?」

「アーちゃんには言いづらいんだけど聖竜連合がキー坊を取り込もうとしてるのって、アーちゃんとこの団長さんへの反発があってのことだと思うヨ? その分だけ連中の心証をキー坊に傾けてるんじゃないかナ? まあキー坊の支援を一番受けてるのが聖竜連合だから、利害を考慮してってのも大きいんだろうけど」

「どういうことです?」

「ほら、聖騎士殿はいつだって涼しい顔をしてるだろ? どんな死闘にあっても常に泰然自若、盤石で揺るがない。その圧倒的な存在感はまさに守護神と呼ぶに相応しいけど、だからこそ日々をぎりぎりで生きているような最前線の人間にはその強さが癪に障るんだろうナ。普段の攻略をアーちゃんに一任してるのも拍車をかけてそうダ。つまり『あんたが本気出せばもっと攻略も捗るだろ、出し惜しみすんな』っていう、言い掛かりというかやっかみサ」

 

 余裕がありすぎて必死さが欠けてるんだよ、あの御仁は、とアルゴさん。

 同じギルドにいると団長が各部門の取りまとめやら打ち合わせに奔走してる姿を良く見るから、他所からの評価とはどうしても食い違うのだろうか。団長は徹底的に準備を重視するところがあるし、平時のほうが忙しいと言えなくもないのだけど。

 

「そういう輩にとってはキー坊の『いつだって全力』って姿勢のほうが好ましく思えるみたいでネ。言っちまえば好き嫌いの問題でしかないし、《伝説の男》の人気っぷりを思えば本当に極一部の反発でしかない。気にすることもないヨ、何だかんだ言っても《聖騎士》の持つ強さへの憧れが先立ってのものなんだから。ま、突き抜けた強さを肌で感じたがために胡乱な目を向けるようになった、ってのも皮肉な話だけど」

 

 なるほど、うちのギルドは仰ぐべきトップが他ならぬ団長だったからこそ、その突き抜けた強さと活躍に素直に敬意を向けられたのかもしれない。

 

「でも、結局うちが一番最後までキリト君と対立してたんですよね」

 

 はあ、と溜息が漏れてしまう。力不足を感じて気落ちしてしまった。

 

「それもアーちゃんが気にするこっちゃないかナ、血盟騎士団との不仲に関してはキー坊が全面的に悪い。各ギルドを支援するに当たって、キー坊が強化モデルとして参考にしたのがアーちゃんとこのギルドでネ、少しでも血盟騎士団に追いつかせようと幾つかの攻略組ギルドを援助してたわけだから、キー坊はほとんど血盟騎士団には手出ししなかっタ。キー坊に言わせれば『ヒースクリフのギルド強化案が的確すぎて手出しする余地がない』ってことになるんだけど、そんなものはキー坊の都合ダロ? 優遇されてる他のギルドを知れば血盟騎士団の団員から不満が高まるのも当然だわナ。疎まれるのも自業自得だヨ」

「でも、自助自立が当たり前だと思えば気にならないものですよ? 元々攻略組って『まずは自分を強化するべきだ』っていう個人主義が根底にある集まりですし、キリト君に文句を言うほうがお門違いだと思うんです」

「アーちゃんは冷静だねェ、ちょっと人間が出来過ぎてる気がするヨ。ただアーちゃんはそれで良くても、人間誰しもそこまで割り切れるもんじゃないからなあ……。ほら、基本的にMMOゲーマーってのはステや装備にこだわる関係で嫉妬深いトコがあるから」

 

 確かにそういうところはあるかな。他のプレイヤーとの意識のずれは今でも感じているもの。わたしにしてみれば何をするか、何が出来るかが重要であって、レベルとかステータスはそのための指標でしかないのだけれど。そういう《数字》を気にかけるのは偏差値にこだわる受験生みたいなものですか? ってずれた質問をしてアルゴさんを困らせたのも懐かしい思い出だった。

 思い出といえば、以前リズにも指摘されたことがあったっけ。理性と感情は別物だよって。

 

「わたしのことはともかく、うちの団員に燻ってた不満もキリト君なら気づきそうなものですけど?」

「あー、それな、効率優先を理由に切って捨ててたってのが正解だと思うヨ。ゲームクリアに必要なことなんだからそう大した反発にはつながらないって踏んでたのと、血盟騎士団の自制心に期待してた節もあるかナ? キー坊は実態以上に連中を評価してたし、アーちゃん達に妙な幻想抱いてたとこもあるから」

 

 時間が足りなくて手が回らなかったのはこっちの事情だし、と物憂げに溜息を零していた。わたしとしてはお疲れ様ですと言う他ない。そんなわたしの労わりの視線に気づいたのか、少しだけバツの悪そうな顔で殊更軽さを装うアルゴさんだった。

 

「にしても……アーちゃんも物好きだよネ。どうして今更になってこんなことを確かめる気になったのかナ?」

「わたしにとっては今更ではなく、ようやくなんですけどね。キリト君にはキリト君のやり方があって、アルゴさんだってそれは同じです。だからわたしがお二人の事情に踏み込むべきじゃないって思ってたんですけど……。ちょっと前に『キリト君の心が欲しいです』って本人に言っちゃいましたから。だからもう遠慮しないことにしたんです」

 

 その宣戦布告にも似た言葉を、これ以上となく穏やかな気持ちで口に出せたことに少しだけ驚く。なによりも誰よりも、この人の前であればこそ、もう少し迷ったり躊躇ったりするものだと思っていた。

 

 だってこの人は――。

 誰よりもキリト君を理解し、傍に寄り添い、彼の心を優しく抱きとめてきた愛情深い女性(ひと)なのだから。

 

 アルゴさんがキリト君に向ける慈しみの表情(かお)を知って、キリト君がアルゴさんに向ける安らいだ表情を知って、その時になって初めてわたしは胸に走る痛みを自覚し、その気持ちに恋という名前をつけて――失恋を覚悟した。

 結局、諦めることは出来なかったけれど。

 

 アルゴさんはわたしの宣言を受けてぱちくりと目を瞬かせ、けれどすぐに驚きは消えてふわりと花開く微笑みに変わった。それは斜に構えるアルゴさんには珍しい、素直に喜びを宿した表情だ。

 

「アーちゃんは本当に強くなったネ、オネーサンびっくりダ」

 

 言葉こそ冗談めかしていたけれど、わたしを見つめるアルゴさんの瞳はとても優しげな色をしていた。この人がキリト君だけに向ける《特別》にも似た、わたしが心から憧れ、その一方で嫉妬した、慈しみに満ちた暖かさが如実に表れていたのである。

 にやりと唇を吊り上げて告げられた次の一言で、実は彼女の瞳に浮かんだ優しそうな光はわたしの見間違いだったんじゃないか、と深刻な疑念を覚えたりもしたのだけど……!

 

「そんなアーちゃんにキー坊のとっておきの秘密を教えてあげよう。キー坊の初恋――かどうかはわからないけど、この世界でキー坊が最初に恋をした女の子って、多分アーちゃんだヨ?」

 

 ……はい?

 

「本人は気付いてないんだろうけどネ。話聞く限りキー坊の一目惚れだったんじゃねーノ?」

「……あのー、すっごい複雑になる話をさらっと明かさないでもらえません? わたし、今どんな顔をすればいいのかとても困ってるんですけど?」

「ふふん、オレっちを泥棒猫とでも言ってみるかい? ――にゃお」

 

 ご丁寧に猫みたいな振り付けまで披露するサービスぶりだった。常の斜に構えたアルゴさんの姿からは想像できない可愛らしさである。 

 この人、実年齢は幾つなんだろう。キリト君と一緒で普段は落ち着いてて年上に見えるのに、こうやって戯れている時は途端に子供っぽくなる。実はわたしより年下? ……まさかね。

 

「言ってどうなるものでもないでしょう。それにキリト君の周りには魅力的な女の子がたくさんいますから、ぱっと見の外見だけで勝負できるとも思ってませんし」

「ルックスも才能の一部なんだからそこまで軽視することもないと思うけどネ。アーちゃんにサッちゃん、リッちゃんにシィちゃん、誰とくっついてもキー坊は果報者ダ」

「そんな他人事みたいに言ってるとキリト君取っちゃいますよ?」

「にゃハハハ、アーちゃんは情熱的だネ。ただちょっとばかしオレっち達の事を誤解してるかナ。そもそもオレっちとキー坊は正式に付き合ってるわけでも、まして将来の約束をしてるわけでもないんだゼ? どんどん攻めちゃって問題ないなイ」

 

 だから変な遠慮はしちゃ駄目だヨ、と。

 そう言って平然とわたしを(けしか)けようとするアルゴさんにどう答えたものかと悩み、結局苦笑を浮かべるに留めた。暖簾に腕押しとでも言おうか、飄々としたかわし様は実にこの人らしいと思う。雲のように掴み所がない。

 

「キリト君はアルゴさんをずるい奴って言っていました。わたしもそう思います。貴女は、とてもずるい(ひと)なのですね」

「女はちょっぴりずるいくらいで丁度良いもんサ。それにネ、本当に大事な言葉はここぞって時に使うもんダ」

 

 くすっとお互いに笑みを交し合う。

 それから少しの間アルゴさんは何事かを沈思して、やがて「それもいいか」と小さなつぶやきを零した。

 

「オネーサンは恋する乙女の味方だから、もうちょっとアーちゃんにサービスしてあげよう。キー坊のこと、もっと知りたいんダロ?」

「わたしとしては願ったり叶ったりですけど……いいんですか?」

 

 これ以上となると相当キリト君のプライベートにも触れてしまいそうだけど、大丈夫なのかな? アルゴさんが標榜している《売れるものなら何でも売る》なんてスタンスはあくまでポーズでしかないのだし。

 

「アーちゃんはどうしてオレっちがキー坊に英雄を望んだのかと尋ねたけど、オレっちが疑われるのもわからないではないんだヨ。アーちゃんにしてみれば今のキー坊の境遇にオレっちの影を感じるのも当然だからネ。オレっちとキー坊のどっちが《黒の剣士》の動きを主導しているのか、それを確かめたかったんダロ? 場合によっては釘も刺すつもりで」

「まさか。どちらにせよキリト君が受け入れている以上、わたしはキリト君の手助けをするだけです。ただ、不躾な問いかけだったことは申し訳ないと思っています。ごめんなさい」

「ん、気にしてないヨ」

 

 ありがとうございますと一礼してから、ひたとアルゴさんを見据える。

 

「ずっとわからなかったんです。攻略組のサポートに傾注してきたキリト君が殊更自分の評判を気にするとも思えませんし、かと言ってアルゴさんがゲームクリアのためにキリト君を利用する、過酷過ぎる役割をキリト君に背負わせようとする、っていうのもしっくりきません。結局、正面から問い質す形になってしまいました」

「アーちゃんは可愛いなあ、いつだってキー坊のことを考えて、力になろうとしてる。こんなに健気でいじらしい女の子はそうそういないヨ、キー坊はもっとアーちゃんに感謝すべきだナ」

 

 その言葉はそっくりそのままお返ししますよ?

 

「後学のために聞いておきたいんだけど、もしもオレっちがキー坊を利用してるだけだったらどうなってたのかナ?」

「それだけはありえない答えでしょうけど……でも、もしもアルゴさんがそんなひどい人なら、この食用ナイフを使ったわたしの《リニアー》を受けてみます?」

 

 不敵に笑んだまま予備動作を取ると、食卓に相応しくないソードスキルの輝きが発せられる。まさか本当に食用ナイフにリニアーを乗せられるとは思わなかったのか、アルゴさんの表情は微妙に引き攣っていた。実用性皆無の小技だし、案外知られてないのかな?

 そんな小さな疑問を抱きながら早々にスキルキャンセルで動作を取りやめる。初期剣技の技後硬直時間はほとんどないに等しいから、未だ輝きを残す食用ナイフをさっさと手放して所定の位置に置き直した。わたしの手を離れたことでようやく食用ナイフはソードスキルの輝きを消し、食卓を彩るただの食器に戻る。

 

「怖い怖い、女の子はもっとお淑やかにしないと駄目だゼ。これはキー坊にお願いしてアーちゃんをしおらしく躾けてもらわなくちゃナ!」

「だったらわたしはキリト君にお願いして、アルゴさんが素直になるよう躾けてもらわなきゃですね」

 

 でもキリト君がアルゴさんをやり込めてるところは見たことないし、そういう場面を思い浮かべることがまったく出来ないのも内緒だ。

 そうして一頻り笑い合ってから、わたし達はどちらからともなく姿勢を正していた。

 

「こんな静かな夜ダ、女二人で秘密のお茶会と洒落込んでみるのも悪くなイ。たまには感傷に耽って昔を振り返るのも一興だろうサ。拍手喝采の飛び交うような陽気で楽しいお話はしてあげられないけど、アーちゃんの抱えた疑問の幾つかには答えてあげられると思うんダ。例えば、どうしてキー坊が英雄を求めたのか、とかネ」

「もう一度聞きますけど、本当にいいんですか? もちろん聞きたくないと言えば嘘になっちゃいますけど……」

「ま、キー坊には後でオネーサンから謝っておくから心配しなくていいヨ。口約束だけど白紙小切手も切らせてあるから、適当に言い包めておく」

 

 だからお茶のお代わりをお願いできるかナ、とカップを差し出してくるアルゴさんに深く一礼し、ポットから紅茶を丁寧に注いでいく。澄んだ赤褐色の液体が容器を満たし、茶葉の開いた芳しい香りが仄かに匂い立った。

 アルゴさんは湯気の立つ苦味の濃くなったお茶を手にし、色気のある仕草で唇を湿らせると、どこか遠くを見やる物憂げな表情を浮かべながら言葉を紡ぎだしていく。

 

 夜はまだまだ更けそうにない――。

 




 ユイのパーソナルデータ云々は拙作独自のものです。
 《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》の持つ権限と能力は拙作独自の盛り付けであり、原作ではいずれも不明です。
 作中に出てきた戦略と戦術の間には本来明確な定義区分はありませんが、一般的には戦略=全体のプラン、戦術=個別の作戦といったところでしょうか。今回はアスナの捉え方として戦略を大目標に据え、大目標の達成のために小目標を設定する一例を描写しています。

 ※今回掲載した『ねんねんころりよ』で始まる《江戸子守唄》は、作者不詳で現代に伝わる著作権の存在しない唄です。利用規約にある歌詞禁止の項目に反してはいないはずですが、もし不都合がありましたら修正を入れますので、その場合は理由と併せて感想かメッセージでご指摘ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第20話 仮想世界の申し子 (4)

 

 

「まずはオレっちとキー坊の馴れ初め話――の前に一層のPK事件後からにしようカ。オレっちはあの戦いに参加していないけど何があったかは知ってるから、キー坊プロデュースの《公式発表》にこだわらなくていいヨ。キー坊がPKを『やらされた』事とその後何を口走ったかも含めて、大抵のことは把握してるから」

「それはキリト君から?」

「詳細を聞いたのはずっと後だけどネ。一層攻略当時は、精々キー坊がオレンジになった経緯に不審があるってくらいのものだったかナ? まあ情報源には事欠かなかったから、攻略組から引き出した断片的な情報をつなぎ合わせれば凡その見当をつけるのは難しくなかったし、意図的なPKじゃないと判断したからこそ安心してキー坊にちょっかい出せたんだけどサ。さすがのアルゴオネーサンも本物の殺人者(レッド)は怖い」

 

 どうしよう? 話の腰を折ることになるけど、アルゴさんにはユイちゃんが教えてくれたあの時の真相も話しておくべきだろうか? キリト君はユイちゃんの事も折を見て皆に伝えておくって言ってたけど。

 

「あの、アルゴさん。一層のPK事件の事なんですけど、ユイちゃんの話では――」

「ちょっと待っタ」

 

 わずかの迷いと共に今日の出来事を語ろうとして、アルゴさんが差し出した手に止められてしまう。

 

「キー坊からはユイユイは死んだわけじゃないってことだけ聞いてる。だからオレっちは今日アーちゃん達に何があったのか詳しくは知らないけど、そいつを知ろうとも思わないんダ。これから話すことに影響はないだろうし、オレっちが踏み込んで良いとも思わないから。いつか笑い話に出来るようになった時にでも話してくれれば良いヨ」

 

 そしていつかは今じゃないのだと笑い飛ばすアルゴさんに、内心で頭を下げて表面上は何もなかったかのように振舞うことに決めた。気を遣わせてしまったらしい。

 

「わたし達が流した偽の発表についてですけど、アルゴさんのように気づいていて口を閉ざした人も多かったんでしょうか?」

「どうだろ? そもそも聞かせられる側だって余裕があったわけじゃないし、わざわざ疑問を持つ奴は少なかったと思うヨ。目の前のことに一杯一杯なのに最前線の事情を慮るプレイヤーがそういたとは思えないから。今どうなのかまでは何とも言えないケド」

「そうですか」

「一層のあれはキー坊にとっての分岐点(ターニングポイント)だっタ。いや、それはアーちゃんやあの場に集った当時の攻略組全員に言えることかナ? 誰にとっても衝撃的な出来事だったんだろうし」

「そうですね、濃淡はあれどみんなあの日の出来事は引き摺っていたと思います」

 

 特にディアベルさんはキリト君からたくさんのものを託されていたから、人一倍思うところはあっただろう。

 キリト君は犯罪者(オレンジ)の烙印を背負って皆に背を向けた。わたしも、そしてあの場に居合わせた誰もがその去り行く後姿を目に焼き付け、哀切と悲嘆、理不尽の味を噛み締める事しか出来なかったのだから。

 

「諸々の事情は捨て置いて事実だけを辿ると、キー坊は情報操作を企ててテスターとビギナーの全面衝突を避けようとしタ。行き当たりばったりで準備もなし、拙くはあったかもしれない。でも、キー坊の企みは一応の成功裏に終わっタ」

 

 アーちゃん達の尽力のおかげでね、とアルゴさんはまとめたけど、その件に関してはとにかくディアベルさんが東奔西走することで骨折りに努めた成果だろうと思う。

 

「テスターとビギナーの対立が収まる、つまりこの世界での生活基盤が出来上がって余力を持てるようになるまでの静謐を保てればってとこか。短ければ一ヶ月、長くても三ヶ月あれば情勢は落ち着くだろうっていうのが当時の意見だったよナ?」

「ええ、日々の不安と疑心暗鬼さえ高まらなければなんとかなるだろうと思ってました」

「それだけの見通しがあったからキー坊を受け入れるための下地作りを始めたってのに、キー坊も馬鹿だよなァ。大人しく最前線から引いて時期を待てばいいところを、ソロで最前線に挑み続ける選択をしちまうんだから。挙句にフロアボスにタイマン仕掛けるとか、もう自殺志願者と変わらなかったネ」

「……止められるものなら止めたかったです」

 

 でも、キリト君にわたしの声は届かなかった。

 

「あの頃のキー坊は聞く耳を持ってなかったから、誰が何を言っても変わらなかったヨ」

「キリト君が頑なだった事は確かですけど、アルゴさんは別でしょう? オレンジプレイヤーになったキリト君が唯一頼りにしていたのは貴女だったはずです」

「アーちゃんにはそう見えたのカ? ちょっと複雑だなあ、オレっちだって散々邪険に扱われたんだゼ?」

「なら、どうしてアルゴさんはキリト君に力添えをしようと思ったかをお聞きしても?」

 

 本当は、どうやってキリト君を止めたのかを聞きたかったのかもしれない。キリト君が唯一心を開いているように見えたアルゴさんが羨ましかった。誰も頼らず全てを振り切って戦い続けるキリト君を、わたし達攻略組は止めることが出来なかったから。

 

「ではでは、ここで衝撃の事実をご開帳! ふっふーん、実はオレっちキー坊の幼馴染なんダ!」

「……あの、今はそういう冗句は必要ありませんから」

 

 っていうか空気読みましょうよアルゴさん。「アーちゃんが冷たい」とか言われても、わたしの視線を冷やしているのはアルゴさんですってば。

 

「まあ昔馴染みって意味ではそこそこ合ってるんだヨ。オレっちもキー坊と同じベータテスターだし、テスト時分ではお互い結構な頻度で遊び倒してたから、そこそこ名前も売れてたしナ」

「ベータテスターだったこと、簡単に言っちゃうんですね」

「それこそ今更だしネ、テスターだのビギナーだので区別する習慣なんて今はほとんど残ってないもの。それに開始早々ベータ情報をまとめた攻略本(ガイドブック)を発刊してた関係で、オレっちに関しては暗黙の了解みたいなものだったし」

「アルゴさんが編纂してくれた攻略本にはお世話になりました」

「どういたしまして。リーダーシップを発揮しだしてた何人かと顔をつなぐ意味もあったし、完全にボランティアだったわけでもないから気にしなくていいヨ」

 

 それでも勇気のいることだったと思う。ベータテスター憎しの風潮の中でそれだけの活動ができたことは素直に感嘆する他ない。

 

「テスターとビギナーの確執にはオレっちも思うところはあったから、なんだかんだでキー坊が一層でやろうとしたことには察しがついたんだヨ。で、テスターのよしみってことでお節介を焼いてやろうと近づいたのが馴れ初めだったわけダ」

 

 おー、懐かしい、などと零してから。

 

「わざわざ自分から悪役を買って出て茨の道を選んだ挙句、意味もなくボスに単身突っ込むような馬鹿の顔を一目見てやろう。最初はホントにその程度の軽い気持ちで会いに行ったんだヨ。で、こっちがスキル獲得クエストの情報を教えてやったり、攻略組との橋渡しをしたりとか親切の押し売りをしてやってたのに、キー坊ったら全然懐いてくれないんだもん。オネーサン困っちゃったゼ」

「そんな犬猫みたいに」

 

 頬の引き攣りを自覚しながら苦言を呈すと、アルゴさんはくすりと可笑しそうに口元を綻ばせた。

 

「犬は犬でもあれは野生の犬だったナ。可愛げもないし死んだような目つきが最悪だっタ。こっちが用意する攻略状況の話とかスキル情報みたいな餌には食いつくけど、警戒心剥き出しで人を一定以上の距離には近づけさせないんダ。仲良くなる気なんて欠片もなかったんだろう、《誰も俺に近づくな》オーラが発散されまくってたもん。一番気に食わなかったのは人の顔を見て露骨に顔を顰めるところだったナ、しかもこっちが何か趣向を凝らさないとすぐに逃げ出すし。ホンット失礼な奴だったヨ」

 

 確かにあの頃のキリト君ならそんな感じになるかも。でもわたし達との接し方とも違う感じかな? 最前線で攻略組と顔を合わせる時は、キリト君はギラギラした抜き身の刃みたいな目をしていたから。

 

「そんな付かず離れずの関係を続けてる内にオレっちも意地張るようになっちゃってサ。そっちがそうくるならって反骨心がむくむくと膨れあがってきて、キー坊の索敵スキルを掻い潜るストーキングを始めてみたっ!」

 

 ……あの、それは犯罪では? ストーカー犯罪はオレンジ化しませんけど。

 ストーカー被害はわたしにも覚えがあるし、シリカちゃんも怖い思いをしたことがあるって言ってたっけ。むぅ、同じストーカーに狙われるにしてもキリト君のほうがずっと恵まれてるよ。

 

「キー坊の《ぼっち属性》も極まってたよナ、なにせあいつ寝床を迷宮区の安全地帯にしてたんだから。うん、絶対キー坊は頭おかしい。いくら主街区に入れないからってその選択はないだろ、マジで。最前線張ってりゃキー坊の居場所を特定するのは難しくなかったにしても、実際に追っかけるのは楽じゃなかったヨ」

 

 しみじみと昔を振り返るアルゴさんも相当破天荒な真似をやらかしてますけど、あなたのその情熱は一体どこから来たんです?

 

「へこたれないというか、アグレッシブというか……。すごいですね、アルゴさん」

「オレっちこんな性格だからネ、少しくらい邪険にされたところで堪えたりはしないし平気の平左なんだけど……。ただ、あの時ばかりは失敗したなあって思ったヨ。キー坊に対して同じベータテスターとしての同情心がなかったとは言わないし、お節介ついでに世話を焼いてやろうと思ったのも否定しない。でもサ、やっぱりオレっちは好奇心の赴くままキー坊にちょっかいを出してたんダ。そんな軽い気持ちで人の事情にズカズカと踏み込もうとするから手痛いしっぺ返しを貰っちまった」

「しっぺ返し、ですか……。それはわたしが聞いても良いことなんでしょうか?」

「構わないヨ、もう時効だからネ。駄目ならキー坊にオネーサンの身体で手を打つように迫る」

 

 危うく椅子から転げ落ちるところだった。

 わたしをからかうためにそういう言い方するのやめてもらえません!?

 

「それで、何があったんです?」

 

 一言一句区切るように、威圧感たっぷりに。

 アルゴさんの目論見通りに慌てふためくのも悔しかったので、極力澄ました顔で紅茶を口に含みつつ問いを放つ。そんなわたしの内心を察しているのかいなかったのか、アルゴさんは苦笑いを浮かべて頬をかいていた。

 

「迷宮区の安全地帯でキー坊が剣を胸に抱くようにして縮こまってるのを見つけた。本当に偶然だったんダ。でも、その時になって初めてキー坊の弱音を聞いちまった。消え入りそうな声で、迷子みたいに泣きそうな顔をして、『寂しいよ』だとサ」

 

 その告白に込められた悔恨はほろ苦い響きとなって空気を震わせ、わたしの耳に届いた。アルゴさんの目はわたしを映してはおらず、どこか遠く――おそらくは過去の情景を見ていたのだろうと思う。

 

「実際はその後にご家族らしき人の名前が続いてたんだけど、そこは伏せておくゾ。リアル事情は本人に聞いてくれナ。……その時に聞いちゃいけない事を聞いちまったって心底後悔したわけダ。誰でも大切に守ってるボーダーラインってのがあるダロ? オレっちは意図せずキー坊の踏み込んじゃいけないところまで踏み込んじまったのサ」

「……わたしは現在進行形で後悔してるところです」

「アーちゃんならキー坊も許してくれるヨ。それに今更気にしないだろうサ」

 

 頭は抱えるかもしれないけどネ、と意地悪く笑う。

 

「どうしてキー坊がソロプレイヤーを選んだのか、アーちゃんは考えたことがあるかナ?」

「……え?」

 

 その思いがけない問いかけにわたしは間抜けな声を漏らすことしか出来なかった。アルゴさんはそんなわたしの戸惑いを見て言葉足らずだったと判断したのか、少しだけ考え込んだ後、再度口を開いた。

 

「一層のPKの後、キー坊はアーちゃん達に背を向けて一人になった。以後はアーちゃん達の誘いを全部蹴って碌にパーティーも組まず、ギルドを結成できる三層を超えてもどこのギルドにも所属せず、カルマ浄化クエを達成してオレンジを解消した後もソロプレイヤーである事を貫いた。それをおかしいと思ったことはないかナ? 例えば、ソロプレイヤーである事とギルドに所属する事は両立できるんだゼ?」

 

 正確にはソロで戦うスタイルと共同体であるギルドに所属することは両立できる、となるわけだけど……。

 

「おかしな事でしょうか? キリト君が一人になったのは、オレンジプレイヤーのデメリットと悪評を担ってしまったことが原因だとわたしは考えていました。それと、PKに手を染めてしまった引け目も、ですね。……アルゴさんは別の理由があったと言うのですか?」

「本当のところはオレっちにもわからないヨ。ただ、オレっちはそこに誤解とすれ違いがあったんだと思ってる。アーちゃんは一人で攻略に向かい続けるキー坊をずっと止めようとしてたダロ? でもさ、本人に生きる気力がなかったらどうしようもないと思わないカ? あの頃のキー坊には誰の言葉も届かなかった、それはオレっちだって例外じゃないんダ」

 

 その時、アルゴさんの瞳が切なげに揺れたように見えた。錯覚だろうか?

 

「キリト君に生きる気力がなかった……?」

「キー坊自身何のために戦ってるかわからなくて、惰性で最前線に立ってるようなものだったんだと思う。何の展望もなく、嫌なこと、つらいこと、そういった何もかもを忘れるために、精も根も尽き果てるまで無茶を繰り返した。それで生き残れてたんだから呆れる話だけど」

 

 迷宮区に篭り戦い続ける鬼気迫った顔。人を全く寄せ付けずに戦い続ける、凍りついたキリト君の横顔が思い出された。

 

「知ってるか? あいつ、朝にフロアボスと戦って部屋から叩き出されて、昼にも同じことして、夜になってやっぱり叩きのめされて逃げ出したこともあったんだゼ。どうせ毎回危険域までHPを減らしてたんだろうし、ほーんと、死にたがりのキー坊は救いようがなかったナ」

 

 気付かれてなかったとでも思ってんのかネ、あの馬鹿。そう言って深々と溜息をついたアルゴさんの顔には、怒りとも呆れとも取れる複雑な表情が浮かんでいた。

 

「はじまりの街の騒動から一層のフロアボス戦まで、キー坊は皆の前で毅然とした態度しか見せてこなかったから先入観もあったんだろうけど、皆、あれの事を過大評価し過ぎだヨ。攻略組はキー坊の心が強いから、犯罪者として誰も巻き込みたくなかったから、だからソロで戦う事を選んだって誤解した。でもネ、違うんダ、逆なんだヨ」

 

 それはわたし達が考えたこともなかったもので――。

 

「共に戦っていたはずの仲間に裏切られ、わけもわからないまま自殺幇助をさせられて、腹の内に何を抱えてるのか理解できない人間が恐ろしくなった。だから誰かと肩を並べることに耐えられなくなったんダ。何てことはない、キー坊にとってはモンスターよりも人間の方が怖かった。それだけのことなんだヨ」

「モンスターよりもわたし達のほうが怖かった……」

「意外かナ?」

「いえ、言われて見れば納得できるところはあります」

 

 一層の後、キリト君には最前線から退くという選択肢もあった。主街区には入れなくても、点在する辺境の村には踏み入れられたのだから、そこを拠点にオレンジを解消するクエストが発生するのを待っても良かったはずなのだ。

 少なくとも、わたし達はそうなると考えていた。だからこそキリト君が目立たなくなるように細工をしたりもしたのだけど、大方の予想を裏切って、キリト君は誰よりも最前線で戦うようになってしまった。それを見て、わたし達はキリト君を一人でも最後まで戦い続ける気概を持った剣士だと思い込んだ。彼は強いのだと。

 

「キー坊は強かったから独りになったんじゃない、弱かったから独りになったんダ。だから――たとえ犯罪者(オレンジ)になっていなくても、やっぱりキー坊はソロプレイを選んだと思うし、ギルドに入ることもなかったと思うヨ。あの当時のキー坊は、一人でいることでどうにか正気を保ってたようなもんだから」

 

 キリト君は主街区の転移門が使えなかったために転移結晶が10層で見つかるまでは階層移動にとてつもない不便を抱え、オレンジのカーソルも20層を迎えなければグリーンに戻せなかった。つくづく序盤のオレンジ化がもたらすデメリットは大きかったと思う。それだけでも厄介だったのに、加えて精神の失調……。

 

「こらこら、そんな暗い顔をしないの。アーちゃんが気に病む必要なんてこれっぽっちもないし、キー坊は自分で自分を追い詰めていただけなんだゼ。同情すべき点はあってもやっぱりそれは自業自得ダロ?」

「そういうものでしょうか?」

「そういうものだヨ。……ただ、哀れだとは思っタ。あれが剣を胸に膝を抱えてる姿を見て、オレっちはキー坊を哀れんでいたのだと思う。きっと剣を精神安定剤代わりにでもしなきゃ、キー坊はまともに眠ることが出来なくなってたんだろうナ」

 

 むしろ眠りたくなかったのかもしれない、あれはよく嫌な夢を見るって言ってたから、と。

 湿った吐息と共に口にされた言葉は些かならず重力の頚木を秘めていた。

 

「キー坊が一番恐れたのは、一層の悲劇がまた繰り返される事――自分の手で誰かの命を奪ってしまうことだったはずダ。そのせいで人を遠ざけ、寄せ付けなくなって、攻略組の前では常に強くあろうと意固地になった。……弱みを見せればまた利用される、そう考えたのかもネ」

 

 哀れなこった。

 アルゴさんはもう一度繰り返して――。

 

「他人が信じられなくなって、だけどそれ以上に自分も信じられなくなって、そんなキー坊が最後に縋ったのは剣だった。皮肉なもんだよナ、そこまでキー坊を追い込んだのもPKの凶器になった刃だってのに、そいつに縋りつくことでしかキー坊は立ってることが出来なかったんだから」

 

 その皮肉そうな口ぶりとは裏腹に、アルゴさんは自身の表情を隠すかのように双眸を閉じて無感情を装っていた。

 

「あの頃のキー坊には、何かきっかけさえあれば自分からあの世に旅立ちかねない脆さがあっタ。何も省みずにあれだけ攻略に邁進し続けてたのも、戦い続けて死んじまえば楽になれるとでも思ってたんじゃないカ? 『俺はこれだけやった、だからもう許してくれ』って、体の良い言い訳にしようとしてたんだろう。オレっちがそう思うくらいには、キー坊はいつだって背水の中で戦ってたからネ」

 

 憶えがあるダロ、と問われ、はい、と短く答える。単なる事実の確認が、妙に寒々しく聞こえた。

 

「それでもキー坊は生き残ったわけだけど……先に言っておくゾ、キー坊を生かしたのはオレっちじゃない。茅場晶彦がキー坊に与えたスキルだヨ」

「スキル?」

「そ、あれだけが持つ唯一(ユニーク)

 

 それもまた、予想外だった。わたしはキリト君の支えになったのはアルゴさんだと考えてきたから。いえ、それは今でも思っているけれど。

 

「誤解しないでほしいのは、キー坊の高いレベルがどうこうって話じゃなイ。キー坊は自分の持つスキルが人よりも優遇されているのを知っていたから、だから最後の一線で命を投げ出すことが出来なかった、ってことなんダ。無為に死んじまうことが皆に対するとんでもない裏切りだと考えるようになってたんだろうナ。その歪な責任感がキー坊をソロとして無謀に戦い続けさせながら、ぎりぎりで退くことを忘れさせなかった理由だヨ」

 

 《特別》というのも良し悪しだとアルゴさんは溜息混じりに零した。

 最前線から退くことを許さず、命を燃やして戦い続けろと繰り返し耳元で囁く、キリト君を否が応にも戦場へと駆り立てるスキルだったのだと。

 

「茅場晶彦も何を思って公平さ(フェアネス)を壊すユニークスキルをデザインしたんだカ。今現在のユニークスキル使い二人の境遇を考えると、碌でもない理由だったとしか思えないヨ。この世界に閉じ込められた時点で、ゲームクリアへの責任はデスゲーム参加者全員が一律に負うものだったはずなのに、あの男は規格外のスキルをデザインすることでそいつを崩しちまっタ」

 

 辟易とした口調で。

 

「茅場晶彦は科学者としては超のつく一流かもしれないが、ゲームデザイナーとしては二流だ、デスゲーム主催者としては三流かもナ」

 

 そう吐き捨てたアルゴさんの顔は、珍しく嫌悪に歪んでいた。

 

「偶然か必然か、PKを契機としてユニークスキルはキー坊に義務感と責任感を与えて縛り、逃げたくても逃げられない状況を作り上げタ。その結果として、キー坊は独りで最前線を戦い続ける他なくなったのサ。仲間であるはずのプレイヤーには怖くて近づけないんだから、キー坊にとっては地獄だったろうネ」

 

 陰惨、その一言だ。

 スキルがプレイヤーを操ってしまう。荒唐無稽なようでいて、キリト君の境遇では冗談になっていなかった。一つ一つの出来事が複雑に絡み合ってキリト君を翻弄する様は、まるで悪意の神様が精緻に作り上げた運命の悪戯のようだ。

 

「それで……アルゴさんはどうしたんですか?」

 

 今語ってくれたことは当時のアルゴさんには知りえないことも含まれていた。それでも――。

 

「ん、大した事はしてないヨ。キー坊をちょっとばかし強引に宿に連れ込んで、オネーサンの胸で泣かせてやっただけ」

 

 わたしは、その答えを予想していたのだろうか。

 いずれにせよ、この時わたしの胸を過ぎったのは切なさを告げる痛みではなく、予定調和にも似た納得だった。

 

「泣けるならさっさと泣いちまえば良かったんダ、それを変に我慢して溜め込むからおかしな事になる。……別に、サ。オレっちはつらいことから逃げるのが悪いことだとは欠片も思っちゃいないし、嫌なことがあれば目を閉じて、耳を塞ぎたくなるのも当然だと思ってる。キー坊も中途半端な義務感やら責任感なんか発揮したりせずに、全部放り出しちまえば楽になれただろうに」

 

 まったく、変なところで真面目なんだから。

 そう続けたアルゴさんは、頑是無い子供を見るような困った笑みを浮かべると懐かしそうに目を細めた。

 

「それでまあ、キー坊を泣かすついでにちょっとだけあいつの未練になってやろうかな、ってサ。あれにだって泣きたい時に泣ける場所くらいあってもいいダロ?」

 

 何でもない顔で言い放つアルゴさんからは鬱屈した雰囲気を欠片も見つけることは出来なかった。だから……。

 

 ――誰でもよかった、と。

 

 不意にアルゴさんが零した言葉の真意を、わたしは当然の如く掴み損ねた。その答えもまた、アルゴさんの口からすぐに語られたけれど。

 

「キー坊にしてみれば泣かせてくれるなら相手は誰でもよかったんダ。必要だったのは『誰か』であって、オレっちじゃなきゃいけない理由はなかったんだから」

 

 その飄々とした物言いを受けて、わたしは驚きと共にまじまじとアルゴさんの表情を見つめてしまった。語る言葉とは裏腹に、そこには怒りも悲しみもなく、もちろん後悔もない。本当に淡々と事実を語っているだけだった。

 わからない、この人は何を考えているんだろう。まるで自分に遠慮などする必要はないのだと再三繰り返されているようで――この女性(ひと)はわたしに何を望んでいるのだろうか。

 

「でも、その時その場にいたのはアルゴさんです。必要な時に必要な事をしてあげられる、それが一番大切なことなんだと思いますよ」

「アーちゃん達だって必要なことをしていたヨ。自分に差し伸べようとしてくれている手を、あれが嬉しく思わなかったはずがなイ。キー坊はずっとアーちゃんや攻略組に感謝してたはずだゼ」

 

 それでも、と思う。巡りあわせと言えばそれまでだけど、キリト君の《死にたがり》を止めてくれたのなら、その役目を負うのはそれこそ『わたしでなくても構わなかった』。

 

「キー坊だって一層のPK事件で自分が悪くなかったことくらい知ってたし、どうにもならなかったことだってわかってたヨ。法的な意味で罪に問われることはないだろうってのも理解してタ」

 

 でも、と。

 

「それで割り切れるほど大人にはなれなかった。人間一人の人生を終わらせた償い方がわからなくて、わからなかったからパニックを起こして、せめて自分の命を使い潰すことで償いにしようとしてたんダ。命の代償は命の重さでしか贖えないとでも思ってたんだろうサ。そんなことだーれも望んでないってのに、勝手に一人で決め付けて勝手に一人で突っ走るんだもん、子供だよなあ」

 

 誰も得をしないことに何の意味がある。そう言って呆れて見せるアルゴさんだった。

 

「そんな奴にいくら周りが道理を説いたところで届くはずがないんダ。キー坊だってその程度のことは承知した上で鬱屈を抱え込んでたんだから」

 

 正しいことを言ってりゃ世の中上手くいくってんなら、これほど楽な事もないんだけどなぁ、と溜息と共に零すアルゴさんの愚痴を聞きながら、ふと、わたしは母に似たんだろうなと思った。

 正しさを口にすることに慣れて、道理に見合わないことを簡単に受け入れられない。この世界に閉じ込められて余裕がなかったということもあるけれど、正論を口にすることと、正論を受け入れさせることは違うのだとなかなか理解できなかった。

 もちろん正しくあろうとすることは必要なことだ。それを失ってしまえば、それこそこの世界では簡単に犯罪者(オレンジ)に堕ちてしまう。でも正しさだけで上手くいくはずがないことも、わたしは母への反発という他ならぬ私自身の経験で知っていた。

 

「だからオレっちはキー坊に何も言わないことにした。――何も言わずに傍にいてやろうって思ったんだヨ」

 

 まあそれ以上キー坊に何か出来るとは思えなかっただけなんだけどネ、と朗らかな声でアルゴさんは付け加え、笑った。リズやサチさんにも同じような片鱗を感じたことがあるけれど、女性としての柔らかな優しさとか心遣いとか、それにこういった懐の深さはわたしにとって羨望の対象だ。

 そんなわたしの視線に気づいたのか、それとも柄にもないことを口にしたとでも思ったのか、アルゴさんは気持ち性急な仕草でカップを持ち上げて喉を潤す。それだけでいつものアルゴさんに戻ってしまった。

 

「本当に強い奴――キー坊の言葉を借りるなら、『心に芯を持ってる』奴ってのはどんなにつらくても普通の人間をやってるもんダ。当たり前に笑って、当たり前に怒って、当たり前に泣く。クラインのお兄さんとかエギルの旦那がそうだナ、苦難にあっても自然体で臨める強い男達ダ。キー坊みたいに殺伐としたり、変にひねくれたりするのは心が弱い証拠だとオレっちは思うヨ」

 

 そんな風にキリト君を扱き下ろしながら、その一方で「必死に背伸びしようとするキー坊も乙なもんだけど」と悪戯な顔で語る。

 

「キー坊の可愛いところって、弱っちいくせにすぐ意地を張りたがるところだとオネーサンは思うわけダ。あと結構ロマンチストなんだヨ。オレっちに泣かされたことがよっぽど悔しかったらしくて、次の日には達成者ゼロのクエストに挑みに行ったんだけど――」

 

 ほら、あの悪名高き《銭ゲバ》クエスト。

 そう補足を加えると、アルゴさんは堪え切れないとばかりにくすくす笑い出した。

 

「何で持ち金ゼロにするなんて思い切った真似をしたんだって聞いたらサ、明後日の方を見て『もう二度と泣かないって願掛けしてきた』なんて言うんだゼ? まさかクエストを神社にお賽銭を投げ込む儀式に見立てるとは思わなかったヨ。もうそれを聞いた時はオネーサン、キー坊が可愛いったらなかったネ」

「確かに攻略効率をひたすら重視する《黒の剣士》らしからぬ所業ですね」

「だろう? まあそんな理由で有り金全部はたく馬鹿をやらかしたって知ったら、真面目に攻略に励んでた連中から怒る奴も出てくるだろうから秘密にしてあげておいてよ、アーちゃん」

「それを口にしても誰も信じてくれない気がします」

 

 クラインさんとかエギルさんくらいかな、攻略組で素直に信じてくれそうな人は。

 

「ねえアーちゃん、キー坊がオレっちに望んだのはネ、攻略組の活躍――ゲーム攻略の進展を逸早く全プレイヤーに知らせることだけだったヨ。誰かを祭り上げようとか、まして自分を持ち上げろなんて言ったことは一度たりともなかっタ。キー坊は誰か個人にではなく、攻略組という集団にこそ英雄性を求めたんダ」

「クリアを待つ人たちに『解放の日』という希望を見せるため。それがキリト君が攻略速度にこだわった理由ですか」

「そ。攻略速度の停滞が一層の悲劇につながった遠因だってキー坊は考えてたからネ。『もう二度と自殺者を見たくない』。キー坊が最初にゲームクリアを志した理由なんてその程度のもんサ。誰かを守るためだとか、皆を救ってやろうとか、そんな大層な使命感なんて欠片もなかっタ」

 

 それがキリト君が英雄を求めた理由。……あれ? でも何か引っかかる。

 

「最初に志した、っておかしくないですか? キリト君のスタンスは既にはじまりの街で明らかにしていた気がしますけど?」

 

 茅場晶彦と明確な対決姿勢を見せていたと聞いている。それにやりかたはともかく命を削る鬼気迫る戦いを繰り返してきたキリト君は、心に期するものがあってゲームクリアに全力で取り組んでいるようにしか見えなかったけれど。そんなわたしの疑問にアルゴさんはにやりと意味深に笑ってみせた。

 

「その辺の事情はキー坊に直接尋ねてみると良い。多分苦虫を噛み潰しながら何があったのかを話してくれるから」

 

 あれは存外愉快な男なんだゼ、と忍び笑いを漏らすアルゴさんに、わたしの頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。

 アルゴさんがそう言うのなら、そのうち機会を見つけて尋ねてみようか? そんな深刻な話でもなさそうだし、大丈夫だよね?

 

「アルゴさんはそれからずっとキリト君の頼みに応えて、一緒にゲームクリアを目指して活動してきたんですね」

「つっても一方的な関係ってわけでもなかったんだゼ? キー坊は律儀だから、オレっちが動きやすくなるように色々と材料を持ってきてくれたし。例えば迷宮区で発見した宝箱の位置情報を、オレっち経由でトレジャーギルドに回して顔つなぎするとかサ。なかなかどうして抜け目ない奴だヨ」

 

 オレっちもキー坊に貢がせてとっても良い気分に浸れたしナ、などと嘯くアルゴさんはとても楽しそうだった。その言い様に思わず笑みが込み上げてきてしまう。

 

「そうなるとアルゴさんがキリト君のイメージ払拭に尽力したのはお節介だったわけですか」

「テスターとビギナーの軋轢が解消された時点でキー坊の買って出た憎まれ役も終わりダロ? それ以上は誰にとっても不幸にしかならないんだし。まあ攻略組の記事を作ってるとキー坊の株も勝手に上がっていくんで楽なものだったけどネ」

 

 脚色をする必要もなかったというアルゴさんには同意する。当時から頭一つ二つ飛びぬけた強さを誇ってたから、キリト君。

 

「そんなこんなでオレっち上層から下層まで手広く情報屋商売をやってたわけだけど、アーちゃんとこの団長さんにキー坊の情報を求められた時は驚いたヨ。いや、あの御仁の立場ならキー坊の動向を気にするのは当然だったのかナ? ほら、密室PK事件でアインクラッド全体が騒がしくなってた頃のことなんだけど」

「キリト君が《月夜の黒猫団》の手伝いをしていた時のことですよね? わたしはキリト君と団長の会合に同席した折に知ったんですけど」

 

 絶対にメッセージを飛ばしてこなかったキリト君が、初めて自分からわたしに連絡をくれたのでよく覚えている。それまではこっちからメッセージを送ることはあっても、キリト君から貰ったことはなかった。

 ずっとわたし達を避けてきたキリト君だったから、いよいよ気持ちの整理がついて、ようやくわたし達とも本格的に協力できるようになったのかと喜んで舞い上がってみたり、その反動ですごく他人行儀だったメッセージの内容に怒ってみたり。あの時は団長にも気を遣わせちゃったし、穴があったら入りたいくらいだ。

 

「ちょっと意外だったのは、アルゴさんが素直にキリト君の情報を団長に渡したことでしょうか? 団長はキリト君を攻略組に呼び戻そうとしていました。アルゴさんはそれを知っていたんですか?」

「知ってタ。とはいえ、ギルド名は伏せてあくまで中層でレベリング支援活動をしてることを話したまでだけどネ。それにキー坊が攻略組に戻ろうが月夜の黒猫団に腰を落ち着けようがオレっちはどっちでも構わなかったもの。あれがアーちゃん達の話を聞いてどうするかはあれが決めることであって、わざわざオレっちが口出しすることじゃないダロ?」

 

 でも《聖騎士》相手に小遣い稼ぎをするのが結構痛快だったことは秘密だゼ、と声を潜めるように囁くアルゴさんに苦笑いで頷く。そういえば団長もアルゴさんに足元を見られたって言ってたっけ。この人もなかなかどうして曲者だ、団長の前だと萎縮する人も多いのに柳に風とばかりに渡り合ってしまうのだから。

 

「アーちゃんは、キー坊が《月夜の黒猫団》に関わった経緯を知ってるみたいだネ」

「ええ。サチさんとキリト君の間に何があったかも一通り聞いてますよ」

 

 一緒のベッドで夜を共にしていたこととか。

 

「あの子もそういうとこは結構大胆なんだよなあ……。黙っときゃいいのにサ」

「わたしはともかく、アルゴさんに話した理由はわかる気がしますけど。サチさんはキリト君とアルゴさんの関係を知ってるんでしょう?」

 

 サチさんの性格だとアルゴさんに話さないわけにはいかなかったと思う。

 

「確かにそうだけど、リアルで結婚してるわけでもないんだから気にしなくても良いのに――っと、ごめんヨ、今のは聞かなかったことにしといて」

「わかりました」

 

 仮想世界の関係性を軽視することはマナー違反になっちゃいますものね。

 

「あの子はキー坊との関係にこだわりがないんだよなあ。もちろんサッちゃんはキー坊と恋人だとか夫婦になったら心の底から喜ぶだろうけど、どんな形であれキー坊の傍にいれば満足しちゃうような、ちょっと不健全な――もとい変わった気質を持ってるんだヨ」

 

 それが良いか悪いかはひとまず置いておくけど、と頬杖をついて。

 

「キー坊もそんなサッちゃんを受け入れてるし大事にしてるから、放っておけば勝手にくっつくんじゃないカ、あの二人? アーちゃん達には悪いけど、オレっちキー坊と一番相性が良いのはサッちゃんだと未だに思ってるんダ」

 

 むしろオレっちがサッちゃんをお嫁さんに貰いたい。そんなことを言って愉快そうに笑っているアルゴさんこそキリト君は一途に想い続けているわけで……。何だろう、この不思議な状況は。

 アルゴさんはキリト君の想いを知っているし、キリト君への好意を隠してもいない。わたしに言質を取らせまいという照れ隠しでもないし、どうも釈然としない。……貴女は一体何を考えているんです?

 

「キリト君とサチさんの相性が一番、ですか。わかる気もしますけど、素直に認めるのは悔しいですね」

「アーちゃんはそれでいいと思うヨ。多分サッちゃんもアーちゃんを羨ましがってるから」

 

 そういうアルゴさんはサチさんのことが気にならないんですか、と聞いてみたくもあったが、真顔で頷かれそうな気がして止めた。

 

「ともあれ、黒猫団を壊滅させかけたことでキー坊はまたソロに戻ったわけだけど、ぼちぼち攻略組と連携を取り始めるようになったから悲観することばっかじゃなかったわナ。もっとも、まーた悪い癖を出してフロアボスにソロで突撃するようになっちまったけど。いくら偵察だけっつってもなあ……」

「キリト君曰く『必要な事』で、確かに先遣部隊の危険がキリト君の威力偵察のおかげで大幅に低下しました。労の多い役割を率先してこなしてくれるのは攻略組の一員として有り難いことではありますけど、またぞろ《黒の剣士》は独断専行が過ぎるって意見も出てきちゃいましたからね。キリト君も以前よりは態度を軟化させてましたから、風当たり自体はそこまで強くなかったのが幸いでした」

「調整役ご苦労様。キー坊はもっとアーちゃんを労うべきだよ、ホント」

「その分訓練に付き合ってもらったりしましたから」

 

 いくら訓練とはいえ、未だに勝ち星ゼロなのが悔しいけど。これでも剣士としての自負はそこそこあったりするのだ。

 

「攻略組のメンバーともそこそこ打ち解けて、この世界に来て一年が経つ頃にはキー坊も大分落ち着いてきてたしナ。《風林火山》が攻略組に合流したのも大きかった。……その頃にネ、キー坊からギルドに入りたいって相談を受けたことがあるんだヨ。クラインのお兄さんに昔のことを謝って、ようやく踏ん切りがついたんだと思う」

「……びっくりしました。それはソロプレイとギルド所属は両立できるという考えからだったんですか?」

 

 キリト君がギルド所属に消極的だったのは迷宮区に篭りっきりなオーバーワークを自覚して、そんな活動に他人を付き合わせることを躊躇してたことも一因だったはずだ。わたしもギルドの攻略シフトを組む上で、そのあたりのさじ加減には苦慮したものだし。

 

「いやあ、さすがのキー坊も風林火山を足手纏い扱いにはしなかっただろうけどネ。クラインのお兄さんをキー坊は慕ってたし、風林火山も雰囲気の良いギルドだったから、キー坊が入団するのはうってつけだと思っタ。オレっちも賛成したヨ。キー坊に必要だったのは馬鹿をやろうとしたら止めてくれる大人だと思ったから。――ようやく安心できるって、そう思ってたんダ」

 

 はあ、と疲労の篭った重い溜息を零した。

 

「もうちょっとだった。もうちょっとでキー坊は風林火山に入団していたんダ。だってのに、その矢先にラフコフの馬鹿共が暗躍したせいで風林火山から死者が出て、結局、キー坊は一人で殺人者(レッド)を向こうに回す決意なんてしちまった。ギルド入団の話もパアだ」

「攻略組でもまだレッドへの警戒が浅かった頃でした。衝撃は……大きかったですね。カルマ浄化クエストが多数確認されるようになってから犯罪者(オレンジ)の数は増えていきましたけど、PKを生業にするような集団は想像の埒外でしたから」

「考えてみればフィクションでの《デスゲーム》ってのは大抵参加者同士の殺し合いなんだよナ。モンスター相手のMMOって舞台が珍しいだけで、PK集団の出現ってのも別に驚くようなことじゃないのかもネ」

「だからといって納得できる話じゃありませんけど」

 

 まったくダ、と相槌を打つアルゴさんの顔は見間違う余地もなく嫌悪に染まっていた。もっともわたしだって似たようなものなのだけれど。好き好んでPKを起こすとか、本当に何を考えているのかわからない。

 

「昨年のクリスマスイベントで、蘇生アイテムを巡ってキリト君と風林火山、聖竜連合の間で一悶着あったと聞きました。それ自体は尾を引くようなものではなかったようですけど」

「尾を引くどころか、聖竜連合は歯牙にもかけてなかったヨ。奴らにしてみりゃキー坊に決闘で負けることを恥とも思っちゃいなかったみたいでネ。その時期二刀流を使いこなし始めたキー坊はますます強さに磨きがかかってたし、わからんでもないけど。で、百人抜きだの何だのデマが広がってたのも、別段隠す気がなかったからってのが真相っぽい。キー坊と剣を合わせた連中も最終的には面白おかしく酒の肴にしてたみたいだヨ?」

「あ、やっぱりあの噂にアルゴさんはノータッチだったんですか」

「決闘騒ぎはそう珍しいことじゃないしネ。つーかキー坊を聖竜連合に入るよう促してくれるなら、積極的にキー坊の武勇伝にしてくれても構わないって言われた時は目が点になったヨ。あそこの団長さんはホント強かっつーか、団員の生存率向上のためなら手段を選ばないトコがあるよナ」

 

 聖竜連合はそういうところでキリト君と気が合うんだろうなあ。

 

「それだけ頼りがいもあります、なにせ壁部隊(タンク)が一番充実してるギルドですからね。うちは団長が守勢特化で戦力が突出してますから、わたしを筆頭に攻撃部隊(アタッカー)に幾分偏ってますけど」

「その偏りは《神聖剣》で十分カバー可能なんダロ? それにフロアボス戦にはギルド間の対立を持ち込まない不文律があるから、お互いの弱点を補い合えばそれでよしと出来るわけダ」

 

 本当、フロアボス戦で協力し合う体制が固められたことは幸運だった。そのおかげで編成に苦労することもなく余裕を持って当たれる。

 

「ああ、それとね。キー坊がラフコフに突撃したのはクリスマスイベントの直後だよ。風林火山と別れた後、そのまま奴らに殴りこみをかけタ」

「……アルゴさん」

「なにかナ?」

「わたしを不意打ちして楽しいですか?」

「割と」

 

 にんまりと笑うアルゴさんに「そうですか」と力なく返し、深々と項垂れた。アルゴさんにキリト君、それにリズ。どうしてわたしの周りにはこうやってわたしを玩具にしようとする悪い人がたくさんいるのだろう。

 

「キー坊は当初、攻略組を巻き込まずに一人で終わらせようと考えてたみたいでネ。まあオレっちから情報を買ったわけだから一人で、ってのも語弊があるかもしれないけど。何にせよキー坊も見通しが甘かったのだとすぐに思い知らされる羽目になっタ」

「キリト君にしては無謀な戦い方をしたものですね」

「頭に血が昇ってたせいで後先考えずってのもあったけど、やっぱりラフコフの脅威を甘く見積もってたんだろうナ。キー坊も可能なら電光石火でPoHだけを相手どるのが最善だと考えてたみたいだし、状況にもよるけど敵が五人までなら勝ちの目はあると判断してたらしいヨ? ……ま、結果論になっちまうけどただ勝てば良いってわけでもなく、最終的に奴らを牢獄に放り込むキー坊の目的を考えれば失敗は必然だったわけダ」

「対人戦のやりづらさを考えるとそれでも甘い見通しだったと思いますけど。それで、どうなりました?」

 

 ラフコフが健在だったことを考えれば聞くまでもないのだろうけど。

 

「PoHに上を行かれたってサ、五人どころか二十人を超える数で袋叩きにされる寸前だったらしい」

「それは……これ以上ないほどキリト君の敗北、ですね」

「そうなるネ、『戦いは数だ』って常々標榜するキー坊が、逆にPoHの組織力の前に完膚なきまでに叩きのめされたんダ。言い訳の余地もない負けだし、ましてや古傷を抉られるおまけ付きだもん、完全敗北と言って良イ」

「古傷?」

「PKの事。ようやく傷口も塞がってきてたのに、PoHに毒を吐かれて思いっきり抉じ開けられちまったらしい。ったく、レッドの垂れ流す妄言なんざまともに取り合うなっての」

 

 アルゴさんの細い指が紅茶のカップへと伸びていき、ぴんと指で弾く硬質な音がわたしの部屋にどこか切なく響いた。

 

「何を言われても話半分どころか話一割で受け流しておけばよかったんダ。『それがどうした』って開き直って、笑って悪意を跳ね除けるふてぶてしさがあの頃のキー坊になかったのが惜しまれるヨ」

「こういうのはずるい言い方だと承知の上でお聞きします。アルゴさんはキリト君を止めようとは思わなかったのですか? キリト君の無謀さはアルゴさんだってわかっていたはずでしょう?」

「……多分、泣いて縋りでもすればキー坊を思いとどまらせることは出来たんじゃないカ? でも、それをしちまえばキー坊はオレっちも遠ざけて一人でラフコフを追っちまうんじゃないか、って思ったんダ」

 

 それが怖かったのだと自嘲するようにアルゴさんは告げた。そうなるくらいなら釘を刺すだけに留めておいたほうがマシだと。

 

「キー坊がゲームクリアのためにラフコフ排除を決めたのなら、《黒の剣士》としてラフコフと戦うつもりだったのなら、オレっちだってそこまで心配しなかったんだけどナ。そうじゃなかった。ラフコフとの対立も、最初は本当に感情に任せたキー坊の暴走だったんだヨ。もちろん後付なら何とでも理由をつけられるサ、レッド連中の脅威の拡大はそのまま攻略の遅れにつながる、キー坊の描いた戦略にも反する。でも、キー坊が最初に奴等を監獄に送ろうとしたのはそんな理屈によるものじゃない。ただ単に許せなかっただけダ。風林火山に何があったかを知って怒りのままにラフコフを潰そうとしタ」

 

 クールぶっていても一皮剥けば激情家。

 ドライを装っていてもその内実は人情家。

 理屈なんて全部後付けで考えるのがキー坊なんだヨ、とアルゴさんは断じた。アルゴさんがキリト君の傍に大人が必要だと考えたのは、あるいはそれが理由だったのだろうか。

 

「まして意地っ張りで面倒くさい男だからナ、オレっちやサッちゃんに素直にヘルプを出すこともなイ。だからキー坊がやばそうな時は、こっちから気を利かせて抱き枕になりに行ってたわけだけど――」

 

 やっぱりアルゴさんは不意打ちが大好きなのだと思う。

 

「何だか日本語がおかしくなってません?」

「いやいや、間違ってないヨ。キー坊は人に抱き枕にされるより人を抱き枕にするほうを好むし、オレっちも好き勝手されるのって嫌いじゃないからネ。オネーサンこう見えて誘い受けなんだゼ?」

「誘い受け?」

「おや、博識なアーちゃんの辞書にもそういう単語は載ってなかったカ。誘い受けっていうのはネ――」

「いえ、何となく意味は掴めますけど……」

 

 そう? と小首を傾げるアルゴさんへの返しがやや性急になったことを自覚しながら頷く。

 アーちゃんもキー坊の好みを覚えておくといいヨ、などと明け透けに語るアルゴさんのせいだ。その様子からはとても嘘をついているようには見えず、思わず想像力を働かせてしまったおかげで両の頬が火照ってしまっている。

 

 こうなったら好きなように受け取らせてもらおうと開き直ってしまう。男女の関係は複雑怪奇とはよく言うけれど、見えることばかりが全てじゃないということだ。だからそれ以上を妄想するのは禁止。

 必死に平常心を心掛けるわたしを横目に、絶対わざとに違いない澄ました顔でアルゴさんは飄々と続きを口にするのだった。落差が激しい……。

 

「次にキー坊とラフコフの因縁が交わったのはそれから一ヶ月と少し経った頃、第47層《思い出の丘》でのことだった。シィちゃんから聞いてるそうだから細かいことは省くけど、PoH、ザザ、ジョニー・ブラックのラフコフ幹部三人と一触即発の状態だったらしイ」

「キリト君が不利を承知でラフコフと一戦交えようとしたのは、シリカちゃんを『ただの同行者』にしておきたかったからですか?」

「ご明察。逃げるだけなら転移結晶を使えば済む問題だからナ。キー坊がそれをしなかったのは《タイタンズハンド》捕縛に色気を出したってより、ラフコフに自身の弱みを知られることが怖かったんダロ。だから好戦的な《黒の剣士》を演じることで連中を挑発しタ。キー坊としちゃ何も言わずに連中が帰ってくれるのが一番有り難かっただろうネ」

「いざ戦いになったとしても一対三の形に持ち込めればよしとしたあたりがキリト君らしい判断です」

 

 確かにシリカちゃんを省みることなく戦えたなら、キリト君一人でもラフコフ幹部三人衆を相手取れただろう。勝つことは出来ずとも、負けることはない。その自信が撤退ではなく実力の示威を選ばせた。一戦も交えず逃げてしまえばシリカちゃんの身の安全を優先していると看破されかねないから、キリト君は戦うことでその疑いを逸らそうとしたわけだ。

 

「とはいえ、ここでもキー坊の思惑はPoHに通用しなかっタ。しっかり見抜かれて脅しを受けたってサ。キー坊は焦りに気が逸って必要以上にシィちゃんを庇う挙動を取ったせいだろうって言ってたけど、多分それ以前の問題だろうナ。クリスマスの騒動時点で相当キー坊の事情をPoHに知られていたみたいだし、為人もある程度把握されていたと見るべきダ」

 

 嫌になるくらい用意周到だよ、PoHって男は。

 心底辟易とした様子で顔を顰めるアルゴさんに、わたしも異論を挟むことなく首肯することで同意する。キリト君はラフコフ首領を指して病原菌だと評していたけれど、正鵠を射ていると思う。

 人間観察に優れ、巧みに心理を揺らし、プレイヤーをオレンジへと引き擦り込む。やっていることは最低だが、その悪魔のような所業を可能にした力は認めなければならない。

 

「キー坊を相手にするなら全く以って正しい戦略ダ。ガチでキー坊と戦り合うのはリスクと労力に見合わなすぎる。戦わずに制することができるのならそれに越したことはないからナ」

 

 シリカちゃんが《プネウマの花》を取りに行った経緯を思えば、キリト君、ラフコフの双方にとって思い出の丘での邂逅は予期せぬ遭遇戦だったはずだ。計画性も何もない中で彼我の状況を勘案し、即座にキリト君の弱点を探り当てて口先三寸で《黒の剣士》を封殺してみせたのだから、その対応力たるや恐るべしといったところか。

 

「結局ラフコフが退いたことで事なきを得たわけだけど、キー坊にしてみれば負けだろうネ。シィちゃんの安全を脅かされているのは勿論、終始主導権(イニシアチブ)を握られていたんだから。ラフコフへの対応に苦慮したキー坊はその日の夜、オレっちのとこにシィちゃんを預けにきたわけダ」

 

 まあシィちゃんと一通りのデートを楽しんだ後に来たらしいから同情する必要はないゼ、といかにもアルゴさんらしいつなぎ方をした後、不意に表情を険しくした。

 

「シィちゃんが寝入った後オレっちに47層で何があったかを話すキー坊は、もうラフコフ討伐戦の青写真を描いてたみたいダ。下手に手を出せばシィちゃんやサッちゃん、黒猫団を対象に報復される可能性があるから、水面下で準備を進めて一網打尽にしてやるってネ」

「アルゴさんに協力を頼んだってことですよね?」

「可能な限り奴等の情報を集めるよう依頼されタ、渋れば土下座されそうな勢いだったナ」

 

 ったく勘弁しろよナ、と嫌そうに当時を振り返るアルゴさんだった。

 

「ラフコフってのはこれと言った主義も主張もなくPKを繰り返すイカレタ集団だったからネ、キー坊も奴らの出方が予想できなくて随分焦ってたみたいダ。サッちゃんに会いにいくのも大分気を遣ってたしナ」

 

 ホント性質(タチ)の悪い連中ダ、と憮然とした表情で語るアルゴさんにわたしも無言で頷く。クリアへの意思もなく、神出鬼没を旨として活動する殺人集団。対策も窮余を極めた。

 攻略組に被害が出たのは彼らの名が売れる前。攻略組を罠に嵌めて大々的に殺人者(レッド)を名乗って以降は、狙いを中層以下のプレイヤーに絞っていた。今思えば、ラフコフという集まりが旗揚げをする際のインパクトのために攻略組は利用されたと見るべきだ。センセーショナルな演出の仕方はPoHの遣り口に通じる。

 

「実を言えば、シィちゃんを預かるのは気が進まなかったんだヨ。これでオレっちもそこそこ忙しい身の上だったし、キー坊の危惧も『ないとは言えない』ってレベルで、実際にシィちゃんが狙われるかどうかは疑問だったから。わかるだろ? ラフコフにそれ以上シィちゃんの命を狙う理由なんてないんダ。報復の対象としてシィちゃんを狙うって匂わせておけば、キー坊もラフコフに対して強く出れないんだから。むしろそれ以上の手出しはキー坊を激発させかねない。だからキー坊の手足の自由を縛った時点でPoHの目的は達せられてたんじゃないかって思う」

 

 ただ、と溜息を零す。

 

「そいつもあくまで理屈の上では、って話だからナ。頭のネジが狂った連中だけに何をしてくるかわからない怖さがある。キー坊同様、オレっちも奴らが見せしめだとか気まぐれで動く可能性までは否定できなかっタ。その『最悪』が起きた時、キー坊がどうなるかを考えると面倒だから断るってのもできなくてサ。結局、シィちゃんの事をオレっちに任せきりにしないことを条件に受け入れたヨ。幸いだったのはシィちゃんがとっても良い子だったことかナ?」

 

 ふふん、と薄く笑みを浮かべ、どことなく挑発気味な表情を浮かべるアルゴさんだった。

 

「オレっちの見立てだとあの子は良い女になるヨ。あと二年、いや、一年で十分かナ? 今すぐは無理でも、その内アーちゃん達と女として肩を並べられるようになる。いやはや、その時が楽しみだネ」

 

 うかうかしてるとあの子にキー坊を持っていかれるよ、と。

 そんな忠告めいたことを口にして、心底楽しそうに笑うのだから不思議な人だ。今ならアルゴさんが攻略組で変わり者と評判になっているのも納得してしまいそうだった。

 

 同じ曲者でもキリト君や団長からは攻略を主軸にした意思を読み取れる。だからわたしにもある程度追随することが出来た。でも、アルゴさんの行動にはこれと言った《確かなもの》が見えてこない。ゲームクリアに血眼になるわけでもなく、情報屋としての矜持にこだわるわけでもなく、ましてキリト君の隣という立ち位置に固執する素振りも見せないのだから。

 

「キー坊とラフコフの対立も結局のところ激突は不可避だったんじゃないかって思うんダ。人的資源(マンパワーリソース)を最重要視していたキー坊の方針に真っ向から唾を吐いたのがラフコフのやりようだったからネ」

 

 どんな形であれいずれはぶつかったはずだとアルゴさんは言う。同感だ。仮にキリト君が対ラフコフの旗振りをしなくても、どこかで攻略組から討伐隊を組むことになっただろう。そうなった時、おそらく主導するのは《血盟騎士団》か《聖竜連合》だったはずだ。

 そこまで考えた時、実際との乖離に重苦しい溜息が漏れてしまった。キリト君は血盟騎士団(わたし達)を遠ざけ、独自の討伐隊を編成してラフコフとの決戦に挑んでしまった。

 

 もちろんわたしだってプレイヤーを相手にした戦いに進んで参加したいとは思わない。でもその思いは誰もが一緒だったはずだ、そして嫌だからと避けて通れるものでもなかった。もうどうにもならないところまで来ていたのは多くのプレイヤーがキリト君に賛同して討伐隊に参加したことからもわかる。

 

「ラフコフ討伐戦は六月のことでしたから、まだ半年も経っていないんですね。アルゴさんも討伐隊に協力して――」

 

 そこまで口にして、わたしは慌てて口元を抑えた。いくら二人きりだからといっても気が緩みすぎだ、無神経にも程がある。あの戦いは公式ではキリト君以外の参加者の名前は伏せられているのだから。

 もっともわたしが口にしかけた通り、全てを秘匿できたわけでもない。というか攻略組はそんなに大きな集団ではないのだから、討伐隊参加のメンバーだってある程度察することは出来る。吹聴するようなことじゃないから皆が口を噤んでいるだけである。それがせめてもの礼儀であり、心遣いだった。

 

「ごめんなさい、失言でした」

「うんにゃ、構わないヨ。オレっちが担当したのはあくまで事前の情報提供だけで、討伐戦そのものには参加してないわけだし。……ああ、あとはキー坊にATM扱いもされてたかナ」

「万一の保険ですか……」

 

 そういった損な役回りを引き受けてしまうアルゴさんもすごいと思う。

 

「そ。キー坊が死んじまった時に報酬のコルとアイテムを代わりに渡すためサ。つっても、この手の役回りはオレっちだけじゃなく、血盟騎士団にだって割り振られてタロ?」

「受け取ったのはわたしではなく団長でしたけどね。ラフコフ討伐が失敗した時は可能な限り参加メンバーを生きて帰らせるから、その後どうするかは団長の判断に任せる、ということでした。キリト君はリスク分散のつもりだったのでしょうけど」

「『最悪でも《聖騎士》と《閃光》が生きていればゲームクリアの芽は残る』――キー坊の言葉ダヨ。つってもあくまで最悪を想定しただけであって勝算なしだったわけじゃないゾ? 血盟騎士団なしでも勝てる戦いだとキー坊は判断してたんだから」

「わかっています。いくらラフコフが最悪の犯罪者集団でも、一人ひとりの戦力を比べれば攻略組が上です。平均レベルも装備の質だって討伐隊の方が充実していました。人数だってラフコフの倍用意して、単純な戦力比で言えば負けるはずのない戦いだったんです。事実討伐隊は勝利したんですから」

 

 そもそも、と続ける。

 

「敗色濃厚な戦いならキリト君が攻略組を巻き込んでまで強行する理由はありません。その勝算を下敷きにした上で撤退戦の殿をキリト君が部隊を率いて務める。そういう取り決めだったのでしょう?」

 

 元々キリト君が重視するのは勝利ではなく生存だ。50層のフロアボス戦で崩壊寸前まで陥ったぎりぎりの戦線を省みたキリト君が、真っ先に提案したのが撤退の際の取り決めだった。キリト君はフロアボス戦でも敵戦力が圧倒的なら逃げて再起を図るべきだと考えるし、将来的に利になるなら退却を躊躇しない、そういう人だから。

 

「『いよいよとなったら俺と一緒に死んでくれ』だとサ。そう言ってキー坊はクラインのお兄さん達を口説き落としタ。最後まで自分に付き合って殿を受け持ってもらうためにネ」

 

 ……それだけ、とも思えないけれど。

 

「アルゴさん」

「なんだイ?」

 

 緊張が高まり、渇きを覚える喉を否応なく自覚する。ごくりと唾を呑みこむ音がやけに生々しく聞こえた。

 

「キリト君はあの戦いでどこまでを許容――いえ、覚悟していたんですか?」

 

 ゆっくりと吐き出した言葉は嫌気を覚えるほど不吉な響きをしていたと思う。このまま耳を閉ざしたくなるくらい。

 

「……オレっち時々アーちゃんが怖くなるヨ。どうすればそこまで聡くなれるもんだかご教授してほしいくらいダ」

「犠牲を最小限に抑える方法を模索すれば自然と辿り着く答えですから。……アルゴさん、わたしはこの場で口にされたことを誰にも言いません。アルゴさんが望むなら生涯口を閉ざすことも約束します。ですから今だけは筋を曲げていただけませんか?」

 

 お願いします、ともう一度頭を下げる。

 聞いたからとて何も変わらない、知ったからとてこの先何が出来るかもわからない。それでもわたしは知りたいと思う。

 

「世の中には知らなくて良いこともあると思うんダ」

「かもしれません。でも……変わりませんよ。わたしは何も変わったりしません」

 

 わたしの気持ちは変わらないのだと、それだけを繰り返す。

 アルゴさんはそんなわたしをしばらくの間じっと見つめていたけれど、やがて諦めたような吐息を漏らした。

 

「アーちゃんが欲しいのは確認だけみたいだネ。あーあ、これは本格的にキー坊に怒られそうだなぁ」

「説得に難航するようならわたしが誠心誠意謝罪に向かいますよ?」

「おっと、それはさすがにオネーサンが格好悪すぎる。心配には及ばないヨ、駄目ならオネーサンの身体を――」

「二回目はなしですよ?」

「アーちゃんが冷たい……」

 

 天丼芸は基本なのにと寂しそうに口にするアルゴさん。いつのまに情報屋さんから芸人さんに転職したんです?

 

「仕方ない、こっからはおふざけなしでいくカ。アーちゃんはキー坊が対人戦に苦手意識を持ってたのは知ってるよナ?」

「それはキリト君に限った話でもないですよ。問題となるのは他者のHPが可視化されない点です。HPバーはパーティーやギルドを組んで初めて表示されるものですから」

 

 それがパーティーやギルドを組む最大のメリットと言い換えても良い。共に戦うメンバーのHPが見えないことには連携だっておぼつかないのだから死活問題だった。

 

「敵対的なプレイヤー同士の戦闘ではお互いのHPを視認することができません。このルールがあるからこそ、わたし達攻略組は安易にラフコフとの決戦に臨むことが出来なかった。安全保障という意味では悪くない仕様だと思いますけど、対人戦闘を考えるとあからさまな枷ですね」

「全力全開で人殺しに励めとかいくらなんでも無茶ってもんだよナ、オレっち達は単なるゲーマーであって戦争中の軍人じゃないんだゼ? もっとも、あいつらはそういう攻略組の事情を見越して動きを大胆にしてやがったけど」

 

 ルールを熟知した殺人者とかタチ悪イ、と嫌そうに零すアルゴさんにわたしも頷くことで同意した。

 殺人集団を相手に手加減を余儀なくされる。それこそがわたし達が二の足を踏んできた最大の理由だ。レベルや装備だけでは語れない、絶対的な意識の隔たりがわたし達とラフコフの間にはある。

 

「HPバーが見えない以上、殺さずに制す戦い方ってのは余程実力差がないと無理ダ。対処としては相手のレベルや装備と自分の攻撃力を勘案して常に与ダメージを予測しながら戦うしかなイ。とはいえ防具は防具で外見をある程度カスタマイズできるし、ダメージ計算ってもランダム性があるんだから気休めにしかならないしナ」

「ええ、だからこそPKの可能性に及び腰になっていました。ラフコフを排除すべきだと考えても思い切った手を取れなかった。それでもラフコフを止めないわけにはいかなくなりました」

「犠牲者の数がでかくなりすぎたからネ。奴らが直接手をかけた数だけで百を超えるとされてるんダ、間接的なPKを含めたら一体どうなっちまうんだカ」

 

 異常だとアルゴさんは断言した。わたしも声を大にして言いたい、あなた方はそこまでしてこの世界で朽ち果てたいのか、と。攻略に参加してくれとまでは望まない。でも、せめてわたし達の邪魔をしないでと何度思ったことか。

 

「討伐隊に参加した連中だって口を噤んでるんだから、こっから先の口外は避けてくれヨ?」

「もちろんです」

「……キー坊の立案したラフコフ戦の基本戦術は麻痺毒を駆使した監獄送りダ。理想的な達成目標としては敵味方双方が死者ゼロで戦闘が終わること。まあそいつはあくまで最善の終わらせ方であって、《事故》が起きる可能性は討伐隊の全員が覚悟していたけどナ」

 

 討伐隊が比較的すんなり組めたのは麻痺戦術の採用が大きかったのだろう。それだけで心理的なハードルはかなり下がっただろうから。

 

「もしも麻痺戦術が覆された場合は早々に撤退することも決められてタ。で、キー坊にとって一番の不確定要素がPoHだったわけダ。他の連中の戦力分析はある程度出来てたけど、PoHだけはキー坊も読みきれなかったからナ。なにせ判断材料が『PoHは凄腕』って感じの噂話程度しかなかったから」

「その強さはユニークスキル使いに迫るんじゃないかって評判までありましたからね」

「実際に剣を合わせたキー坊の感触だと、PoHの強さはアーちゃんに伍するって話だヨ。おっそろしい腕前だよナ」

「気を遣ってもらわなくて良いですよ。わたしが直接PoHと剣を交えればおそらく敗北で終わります。わたしでは最後の一線で攻め切れないでしょうから」

 

 それこそが殺人者(レッド)とわたし達の間に横たわる何よりの差だ。

 わたしはPoHよりもレベルは上だろう、技量も引けを取らない自信がある。決闘に限れば初撃、半減、どちらのルールでも勝てると思う。でも、本気の殺し合いになれば分が悪い。――それを恥だとは思わないけれど。

 

「ラフコフの司令塔はPoHだからキー坊も早々に頭を潰そうと仕掛けたらしいんだけど、麻痺剣はすぐに使いものにならなくなって、そっからは機を伺っての攻防になったらしい。後はお互いの《武器破壊》を切っ掛けにPoHが退いて終わり、って流れだったみたいダ」

 

 これはキー坊が後々教えてくれたことだけど、と前置きをして。

 

「PoHの力が想定以上だったことを知って、PK已む無しとキー坊が舵を踏み切ろうとした矢先のことだったらしいヨ、PoHが逃げたの。まさに『機を見るに敏』って言葉そのままの見事な引き際だったってサ」

「司令官が逃亡すれば残ったメンバーも総崩れになりそうなものですけど?」

「残念ながらそうはならなかった。ラフコフのメンバーにどんな結びつきがあったのかは知らないけど、単純な忠誠心とも違ったみたいだネ。PoHがいなくなった後は完全に乱戦模様になったそうだヨ。死兵ってのが一番近い表現かもしれない、再三繰り返した投降の呼びかけもどんな脅しの言葉も奴らには通じなかったそうだから」

 

 凄惨極まりない戦場だ。同じ人間なのにまるで理解できない敵、生きて監獄送りにされるよりも最後まで戦うこと――誰かを殺すことに拘ったレッドプレイヤー。

 何が彼らをそこまで駆り立てたのだろう。何が彼らをそこまで歪ませたのだろう。皆、現実世界では犯罪なんて犯さず普通に暮らしていた人達だっただろうに……。

 

「キー坊はどこまでを許容したのかと聞いたネ、アーちゃん」

「ええ。麻痺戦術が通用しなかった時、キリト君はどうするつもりだったのか。そして、もしも撤退を成功させて生き残った後、キリト君が何をするつもりだったのか。アルゴさんなら知っていますよね?」

「その決め付けはどうかと思うんダ」

 

 まあ知ってるけどサ、と渋々告げられる。それを羨ましいとは思わなかった。知らずにいたほうが良いこともある、それは何もわたしだけに向けた忠告ではないだろう。

 ふぅ、と気を落ち着けるようにアルゴさんは一息ついてから、感情を廃した声をぽつりと零した。

 

「――ラフコフの皆殺し。キー坊はそこまで考えてたヨ」

 

 瞼を閉じ、その表情に何の色も乗せず、淡々と。どこまでも無表情に感情を一切見せないそれはアルゴさんらしからぬ態度であり、だからこそ冗談などではないのだと知れる。

 

「作戦の根幹はラフコフメンバーを殺さずに制すること、その前提が覆った時は速やかに撤退。殿はキー坊と風林火山、それからエギルの旦那以下数名。当然だけどそこは死地ダ、死亡率は跳ね上がる。撤退を成功裏に収めるため、そしてクラインのお兄さん達を死なせずに帰すために残された手は多くないよナ」

「……出来るでしょうか?」

「時間とサポートさえあればやってやれない事はないってのがキー坊の言い分。ただし目的はあくまで撤退ダ。ラフコフを全滅させるより先に逃げ出せるだろうから、どのみち皆殺しなんて事態にはならなかったろうけどネ」

「いえ、そうではなく……キリト君がそれだけのPKを繰り返せるのか、ということです」

 

 望まぬPKをずっと気に病んできたキリト君が、そこまで思い切れるものだろうか?

 

「……さあ、どうだろうね。戦場の中でなら、それしか手がないのなら、キー坊は踏み切る。オレっちはそう思ってる。勿論後で死ぬほど後悔するだろうけど」

「事前の作戦通りに戦いが推移したことが不幸中の幸いですね。手放しで喜べる話ではありませんけど、最悪の事態にならなかっただけマシです」

「それでもキー坊は思いつめてたヨ。どうせ殺すことになるのなら、最初から諦めておけば味方から戦死者が出ることもなかったって」

「結果論……とも言いきれませんか」

「可能性はあったからネ」

 

 人を救うために人を殺す――その、冷たい方程式。

 

「確かにキー坊がそこまで思い切れれば、あの戦いで攻略組から犠牲者が出ることもなかったのかもしれない。その代わり、ラフコフから何十人って数の死者が出ただろうけどネ。さて、アーちゃんはどっちが良かったと思う? キー坊は……どうするべきだったと思う?」

「……わたしにはわかりません」

「そうだね、オレっちにもわからないヨ。きっとその問いは答えちゃいけない問いなのサ」

 

 意地の悪い質問をして悪かっタ、と物憂げな仕草で紅茶を口に含むアルゴさんにわたしは何も返さなかった。アルゴさんも特に返答を期待していたわけではないだろう。

 

「キー坊が嘆いていた事は、結局『たら』『れば』の話でしかなイ。PK前提で戦うことなんて討伐隊参加者が許すはずもなかったし、クラインのお兄さんやエギルの旦那がキー坊を止めたはずダ」

「それでもキリト君はその後を想定していたんですよね。討伐が失敗して、本当の意味でラフコフとの間に殺し合いしか残らなかった時、キリト君が思い描いた最後の手段は……暗殺、ですか?」

「……アーちゃんはホント聡いねぇ。正解。攻略に費やす時間を犠牲にしてひたすらラフコフを付け狙う。機を見て一人ひとり『処理』して回る。その方策が監獄送りになるかPKになるかは神のみぞ知るってとこかナ」

 

 マジで討伐が成功してよかったと思うヨ、と心底安堵した様子だった。想像通りとはいえ、いや、想像通りだったからこそ、ありえたかもしれない未来が訪れなかった今を思い、わたしもアルゴさん同様にほっと胸を撫で下ろしていた。

 

「嫌になるヨ。殺すだの死ぬだの、そんな物騒な単語を日常で使うようになってるのを考えると憂鬱にもなる。この世界で暮らしてると、少しずつおかしくなっていくのがわかる。生きるために必要だったと言えば聞こえは良いけど、やっぱりおかしな話なんだよナ。キー坊はそのあたりずっと割り切れずに苦しんでたし、あれはあれで悩みすぎではあったけど……それで良いんだと思ってる」

「アルゴさん……」

「この世界と現実は違う、そんなことはわかってるヨ。倫理も道徳も、そんなものは安全が保障されて初めて口に出来るもんだしナ。でも、それでもってどこかで思っちまうんダ。1層のPKは嫌悪と共に迎え入れられたけど、75層のPKはそうじゃなかったダロ? 皆、『仕方ない』って割り切っちゃってるんだヨ。……リハビリには時間がかかりそうだよナ、オレっち達」

「……そうですね」

 

 身体ばかりでなく、精神のリハビリも必須なのだと思い知らされる。心のケアのために生み出された一人の少女の面影が頭に過ぎらずにはいられなかった。

 

「まあ帰ってからの面倒は帰ってから考えることにしよう、想像するだけで嫌になってくるからナ。愚痴につき合わせてごめんヨ、アーちゃん」

「いえ、身につまされるお話でした。わたしも気をつけます」

 

 現実世界と様々な意味で乖離しつつある今と、それでも戦い続ける自分をきっちり認識しておこう。この先己を見失ったりしないように。

 

「話を戻すけど、ラフコフ討伐戦そのものが終わっても、それで万々歳ってわけにはいかなくてネ。ああ、PoHの行方とは別問題ダヨ? 有体に言えば後始末が残ってたわけサ。物事は始めるよりも終わらせるほうが厄介とは良く聞くけど、キー坊の直面した問題も似たようなものだったんだろうネ」

「報酬に文句をつけたプレイヤーはいなかったと聞いてますけど?」

「その通り、誰からも文句は出なかった。――キー坊は死者の遺言もきくことにしてたから、文句も言いづらかったと思うヨ」

 

 そう言ってアルゴさんはふっと寂しげな笑みを覗かせた。

 

「遺言というよりは万一の備え、遺族年金の約束みたいなものかナ? キー坊は戦いに先立って、討伐隊参加メンバー全員に本人が受け取れなくなっちまった場合の受け取り先を指定させてたんダ。もしも武運拙く屍を晒すことになった時は、せめてもの報い方をさせてくれって言ってネ」

 

 亡くなったプレイヤーが本来受け取るはずだった報酬に上乗せし、代理人に贈ることになっていたのだと。

 

「それは……キリト君もつらかったでしょうね」

「気の滅入る話だヨ。まあ間柄としては親友か、恋人あたりだよナ。事情が事情だから大切なプレイヤーを指定するのが普通ダ。キー坊は一人ひとり指定されたプレイヤーを訪ねて頭を下げて回っタ。『どうして死んだのか』『何のために戦ったのか』を逐一説明して、本人に渡すはずだったコルやアイテムを代わりに受け取ってもらったんダ。ったく、後味の悪さばかりが残る戦いだったヨ」

 

 あるいはその後味の悪さを想像できたからこそ、誰もラフコフ討伐の音頭を取ろうとしなかったのかもしれない。

 

「討伐隊を組織したけじめのつもりだったのかもネ、キー坊はその仕事だけは誰にも手伝わさせずに全部一人で済ませタ。ただ――」

「ただ?」

「『何も言われないことがあんなにつらいとは思わなかった』って珍しく弱音を零してたナ。訪ねた先でどいつもこいつも泣きそうな顔をして、だってのにキー坊に恨み言一つ零さなかったらしいし、気丈な声で討伐成功の祝いと礼まで言われたそうダ。それがキー坊にとっては何よりもつらかったんだとサ。もしかしたら残された奴らも極秘だったはずの討伐作戦を事前に聞かされていたのかもしれないけど……ま、今となってはどうでもいい話カ」

「……溜息しか出ないっていうんでしょうか、こういうのは」

 

 人間同士で戦うってのはそういうことなんだろう、とアルゴさんの諦めたような声が虚空に空しく消えていく。

 

「オレっち達はラフコフの馬鹿共に精々ざまあみろとでも思っておけばいいのサ。あんな連中、同情する価値もない。……そのずるさが、正しくはなくてもオレっち達には必要なことだと思うんダ」

 

 それはわたしを諭しているようでもあり、アルゴさん自身に言い聞かせているようでもあった。そんなアルゴさんにわたしは微かな目礼で感謝と了解を伝えていた。

 

「あんましリアル事情は探るものじゃないけど……どうもキー坊の家庭環境は複雑っぽくてサ。PKをあれほど思い悩んでたのも、ご家族に顔向けできなくなるようなことを厭った、というか帰る場所がなくなるようで嫌だったんじゃないかナ? そんなだから、アーちゃんにも同じ苦しみを抱えてほしくなかったんだと思うヨ」

「わたしも、キリト君の配慮を受け入れるべきだとは思うんですけど、ね」

「アーちゃんは驚いてないネ。キー坊が血盟騎士団を攻略に専念させようとしてた根っこの理由にも察しがついてたってことかナ?」

「確証はありませんでしたよ? ただ、対犯罪者の絵図は効率を重視するキリト君らしからぬ不合理さが目立ってましたから」

「そっか。……木を隠すなら森の中、アーちゃんを遠ざけるなら血盟騎士団ごとってあたりがキー坊らしい発想だったよナ」

「ええ」

 

 わたしを心配してくれたことが嬉しい反面、わたしを巻き込むまいとするキリト君の遣り方に複雑な思いを持った。それがキリト君の望みならわたしはせめて攻略に力一杯邁進しよう、そう決めてもいたのだ。

 だというのに、その攻略ですらわたしを頼ってくれないキリト君にやきもきさせられ、その挙句にソロでフロアボス攻略なんてことをやらかしてくれた時には、それまでずっと我慢していた諸々の感情が爆発してしまったりもしたのだけれど。

 

「とはいえ、あの戦いに女子供を参加させたくなかったのはキー坊だけじゃなく、討伐隊の総意でもあったから納得してあげてヨ。討伐隊が比較的年長のプレイヤーで構成されてたのは偶然じゃないんダ」

「納得せざるをえない、っていうのが正直な心境です」

「男共のなけなしの意地を汲み取ってあげるのも女の度量ってネ。思うところはあるだろうけど知らんぷりしてあげるのも優しさだゼ」

「わかってます。もう全部終わったことですから」

 

 あの当時、言いたかったこともある。ぶつけたかった不満もある。でもそれは全部呑みこむべきだと思ったから、わたしはキリト君に何も言わなかった。……顔には出ていたかもしれないけど。

 それはこれからも変わらない。今日知ったことも、確かめたかったことも、全てはこの場だけの秘事だ。

 

「キー坊もそれくらい融通きけばよかったんだけどナ。頑固者っつうか自虐的というか、妙に不器用な生き方しか出来ないんだから。攻略に加えてラフコフ戦の後始末、並行してPoHの追跡なんてやってたら早晩潰れるに決まってるじゃないカ。少しは心配するほうの身になれってんダ、あの馬鹿」

 

 腹立たしげに悪態をついたアルゴさんは、けれどすぐに相好を崩して表情を和やかなものへと変えた。その思いがけぬ変化に内心戸惑っていると、穏やかな声音でわたしの良く知る名前を出した。

 

「ねえアーちゃん、リッちゃんはすごいネ」

 

 その一言に込められた想いの全てを汲み取れたとは思わないけれど、でも、今のアルゴさんの気持ちの幾らかはわかる気がした。きっとわたしがリズに抱いている気持ちと同質のものだろうから。

 

「ええ、リズはわたしの自慢の親友ですから。……アルゴさんはキリト君とリズに何があったかを聞いているんですか?」

 

 胸を張って誇らしく答えてから、ふと小首を傾げて問いかけた。アルゴさんとリズはあまり多くの面識を持っていなかったはずだし、キリト君から聞いていたんだろうか?

 

「いいや、知らなイ。キー坊も攻略に関わることならいざ知らず、他人のプライベートを易々と漏らしたりしないから。ただ、何があったかはわからなくても、何かがあったことはすぐにわかった。キー坊の顔つきが変わったのがその頃だったからナ」

 

 わかるだろ? と問われ、言葉少なに頷く。アルゴさんはサッちゃんやシィちゃんも気づいてたみたいだヨ、と笑い――。

 まただ、と再三の疑問が浮かび上がる。この人はまたわたしに、あるいはわたし達に慈しみに溢れた表情を向けていた。何故という疑問を解消しようと思考に沈みかけるも、緩やかに首を振ることで意識の矛先を元に戻す。

 

「アーちゃんがリッちゃんをキー坊に紹介してくれた時はほっとしたんダ、キー坊にとって良い息抜きになるだろうって思ってサ。もっとも後でクエスト内容を調べた時はそのやばさに顔が引き攣ったけどナ」

 

 ピンポイントでキー坊のトラウマを抉ってるんだよ、あのクエスト。

 頭痛をこらえるようにアルゴさんが溜息をつく。

 

「元々ラフコフ戦の後遺症が残ってたところに、狭っ苦しい閉所に閉じ込められる罠。加えて結晶無効化空間のコンボをくらっちゃナ。サッちゃんたち月夜の黒猫団を窮地に追いやった記憶がどうしても刺激されずにはいられなかっただろうし、いつモンスターが召喚されるか、そうなった時どうやってリッちゃんを無事に守りきるかってかなりストレスを溜め込んでたろうサ。心労とトラウマのダブルパンチで相当ネガティブってたんじゃないカ?」

「密閉空間はただでさえ神経を削りますからね。迷宮区の広さがあっても圧迫感は消えませんから、キリト君とリズの捕まった脱出不能の小さな穴倉とか正直考えるのも嫌です」

 

 クエストの詳細が明らかになっている今ならともかく、二人が囚われた時は碌にノウハウもなかったのだから随分と焦燥も募ったことだろう。

 

「何度かリッちゃんと言葉を交わしたことがあるけど、あの子は人との距離感を掴むのがすごく上手い。人間関係の潤滑油的役割を無理なくこなす、どんな集団でも重宝されるタイプだ。もしかしたらキー坊に一番足りてないものを持ってるのがリッちゃんかもしれないネ」

「わかります。わたしもリズと一緒にいると安心できますから」

「『コミュニケーションの基本は相手の使う言葉を話してあげること』らしいけど、リッちゃんは自然体でそれをしてる感じだよナ。キー坊の背中を無理なく押してあげることが出来たのもそういう人柄あってのことかもネ」

 

 ホントすごいヨ、ともう一度アルゴさんは繰り返した。

 

「ずっと過去(きのう)を見てきたキー坊の目を、リッちゃんはわずかな時間で未来(あした)に向けさせタ。オレっちはそいつに手を出そうとも考えなかったから、結構リッちゃんが眩しかったヨ」

「でもアルゴさん、それは――」

「死ななきゃいい、って思ってたんダ」

 

 わたしの言葉を意図して遮るようなタイミングでアルゴさんは口を開き、そのまま続けた。

 

「キー坊はそりゃ色々抱え込んではいたけどサ。そんなのは現実世界に帰りさえすれば、そのうち日常に埋もれてゆっくり忘れていくことが出来る。だからこっちの世界で無理に解決させる必要はなイ、そう思ってた」

 

 ほろ苦さとやるせなさを混ぜ合わせたような切ない表情を目の当たりにして、わたしの胸に走った痛みに息がつまる。思いがけないものを見たとは思わない。この人はきっと、こういった顔をキリト君には決して見せずに生きてきた。

 

「オレっちが思うに、キー坊を危うくさせてたのは『自分は幸せになってはいけない人間だ』っていう思い込みだヨ。いや、強迫観念に近いものかナ? ずっと抱えてきた自責の念がキー坊を他人よりも一段低い位置に置かせるから、自分以外の誰かのために簡単に命を投げ出せちまうのサ。心の病みたいなもんだよ、あれは」

「そういうのは理屈じゃないって言いますもんね」

「結局、キー坊が自分の心とどう折り合いをつけるかの問題だからナ。……キー坊はサ、今までたくさんの嘘をついてきたし、打算も巡らせてきたヨ。《黒の剣士》を演じて多くのプレイヤーを攻略に駆り立て、時に人の命をその手にかけたことすらあった。それでもこの世界を終わらせるために選んだキー坊の生き方は、あいつ自身の未来を諦めるほど卑下するものじゃないと思うんダ」

 

 それは寂しすぎるヨ、とアルゴさんは言う。

 

「ほーんと、見識不足だよナ。キー坊はきれいな水でしか花は咲かないとでも思ってんのかネ。まったく、自分自身のことは見ようとしない男だヨ。世の中には汚泥の底からだって綺麗な花弁をつける花があるってのに」

「《泥に咲く蓮の花》ですね。泥の中で育ち、けれど泥に染まることなく咲き誇る清浄の象徴――キリト君の選んだ生き方、ですか」

 

 わたしの眼差しを正面から受け止め、小さく頷いて見せた後、アルゴさんはどこか遠い場所を見るような茫洋とした眼差しを浮かべた。

 

「生きるってのは幸福を求めるってことダ。なのにキー坊はずっと生きることを放棄してきた。だから……いつかキー坊が自分を赦してやれるようになるまでは、オレっちがあいつの逃げ場所になってやろう、そう思ったのサ」

 

 ――アルゴオネーサンも案外可愛いことを考えるダロ?

 

 くすっと口元を綻ばせ、穏やかに言の葉を紡ぐアルゴさんはとても優しい目をしていた。

 

「だから今のキー坊は安心して見てられるよ。ちゃんと生きようとしてる。――ちゃんと、幸せを求めてる。ようやく真っ当な生き方をするようになったんダ」

「そうですね、わたしもそう思います」

 

 この手に重ねたキリト君の温もりを覚えている。あの人はもう握りこぶしを開くことを忘れない。

 

「75層攻略の後にあいつホームを作ったろ? もちろんユイユイのためでもあったんだろうけど、キー坊自身疲れを自覚してたから静養を選んだんだって思ってる。昔のキー坊なら無理を押してるとこだしナ。元々キー坊はちょっとずれてるとこがあるし、今でも危なっかしいところは残ってるけど……ま、力になってあげなよアーちゃん。あれは支え甲斐のある男だろう?」

「もちろんです、と答えたところで改めて疑問に思うわけですが……」

「ん? なにかナ?」

「アルゴさんはキリト君と結婚しようとは思わないのですか?」

 

 割と本気で疑問符を覚えたわたしである。結婚とまではいかなくても、キリト君とアルゴさんの関係はそこらの恋人顔負けのものだと思うし、わたし自身それをずっと感じていたから遠慮してきた。

 アルゴさんが口にしたことを嘘だとは思わない。しかしながら額面通りに受け取るにはキリト君とアルゴさんは深く結びつきすぎているように思う。むぅ、わざわざ掘り返すのも悪趣味かな?

 

「あー、どうだろ。オレっち結構今の関係で満足しちゃってるしなあ。キー坊にもオネーサンに飽きたらさっさと好きな子捕まえに行くよう言ってあるし」

「半分聞き流してお尋ねしますけど、それってやっぱりキリト君に遠慮してるんですか?」

「遠慮? オレっちが?」

 

 きょとんと不思議そうに目を丸くするアルゴさんにしばし迷うものの、意を決して言葉をつないでしまう。

 

「半年以上前のことですけど、キリト君が『結婚する気はない』って零してたことがあったので少し気になったんです。アルゴさんが確かな関係を求めなかったのは、キリト君に気を遣ってたからなのかな、って」

 

 わたしがキリト君からその台詞を聞いたのは四月初頭のことだった。ギルド《黄金林檎》にまつわる過去の事件を追う中、キリト君に尋ねて返ってきた答え。その時わたしは、『この人はまだ自分を責めて苦しんでいるんだ』と胸を締め付けられるようだった。

 

「にゃハハハ!」

 

 そんな切ない想いを抱えて追想に耽っていたわたしだったが、さすがにこのアルゴさんの返事は予想外だ。思いがけない反応にわたしの目が点になってしまう。え、だってこの場面で普通爆笑が返ってくるとは思わないよね?

 

「いや、ごめんごめん、別にアーちゃんを馬鹿にしたわけじゃないんだヨ。にしても、キー坊はそんなアホなことを言ってたのカ」

 

 まだ笑いの波が収まらないのか、目尻にたまった涙を振り払いながら苦しそうにお腹を押さえているアルゴさんに、わたしはどう声をかけるべきか悩むことになる。ほんと読めない人だ。

 

「ご存知ではなかったんですか?」

「ご存知も何も、キー坊とその手の事は碌に話したことがないからネ。そんな愉快な決意を知るはずもなイ」

 

 けらけらと一頻り笑い飛ばした後、「アーちゃんはこの世界の結婚システムをどう思う?」と不意に質問を投げかけられる。世間話ついでのように軽い調子で訊ねられたせいか、何だか少し前の感傷に浸っていたわたしのほうが場にそぐわない態度をしていたんじゃないかとすら思えてきた。

 

「わたしはとてもプラグマチックで、ロマンチックなシステムだと思いますよ」

「実際的で情緒的カ、アーちゃんらしい答えダ」

「MMOではドロップアイテムの横領や着服も珍しくないと聞きますけど、結婚すると何も隠せなくなっちゃいますから。結婚しようとする者の覚悟を問う合理性と、思いの深さを確かめ、受け入れる証。その両方をストレージ共有化は持っていると思うんです」

「その試練を乗り越えた者にこそ祝福は訪れる、って理解でいいかナ?」

 

 こくりと頷く。アルゴさんはそんなわたしに向かって悪戯を仕掛ける直前のような雰囲気を纏うと、厳かに「アーちゃん」と呼びかけ――。

 

「オネーサンは茅場の作った結婚システムが気に食わなイ」

 

 これ以上となく満面の笑みを浮かべて断じて見せたのだった。

 

「オレっち天邪鬼だからネ、これみよがしに『こうすれば幸せになれますよ』ってのが用意されてると胡散臭く感じるのサ。ついでに言えば茅場晶彦の用意したレールに乗っかるのも嫌ダ」

「あ、あはは……。辛辣ですね、アルゴさん」

「所詮は戯言でしかないけどナ。システムなんざ運用する側の心持ち次第なんだから」

 

 アルゴさんは本当、人を煙に巻くのが上手いなあ。自然な会話の流れの中で巧みに焦点をぼかし、ずらし、変化させてしまう。そういう強かな一面があってこそ情報屋という難しい役目をこなせるのだろう。

 ようやく、なのかな? やっとアルゴさんの真意が見えてきた。もちろんその全てを察することが出来たわけではないし、まだまだ隠し事もありそうだけど、その一端は掴めたと思う。

 

「アルゴさん、わたしに嘘をつきましたね?」

「あれ? オレっち何か変なこと言ったかナ?」

「大したことじゃありません。ただ、アルゴさんが口にした情報提供を決めた理由――恋する乙女の味方っていうのはひどい嘘っぱちだと思っただけです」

 

 別に弾劾する気も、責める気もない。それはわたしの呆れ声に表れているし、アルゴさんだって百も承知のことだろう。もっともわたしが本気で怒ってもこの人は柳に風といなしてしまいそうだけど。

 

「アルゴさんは恋する乙女の味方なんかじゃなくて、徹頭徹尾キリト君の味方なだけじゃないですか。最前線ではわたしがキリト君に一番近い、だからここまで好意的に便宜を図ってくれるのでしょう? わたしのためじゃなく、キリト君のために」

 

 難しく考えることなんてない。アルゴさんにとってはわたしよりキリト君のほうが大事だという、ただそれだけのことだ。複雑な思惑とか、裏の意図を警戒して探るだけ無駄。だってこの人、キリト君が大好きなだけだもの。

 わたしの指摘を受けてもアルゴさんに慌てた様子はなかった。でも、一瞬だけ見せた《女》を伺わせる嫣然とした笑みが印象的で、ぞくりと背筋に寒気が走る。わずかに感じ取れた彼女の情念に心臓が鷲掴みにされるような錯覚さえ覚えた。

 もっともそれは本当に一瞬のことで、今見たものが夢幻であったかのように、気がつけばいつものアルゴさんがそこに座っている。

 

「アーちゃん」

「なんでしょう」

「オネーサン、これでも神秘的な女(ミステリアスレディ)を自称しててネ。これ以上は勘弁してほしいナ」

「わかりました。でも、少しくらい意地悪させてくれても良いと思いません?」

「ちぇっ、アーちゃんにそれをする権利があることは否定しないけどサ」

 

 不貞腐れたように唇を尖らせるアルゴさんがとても可愛らしかったことは内緒にしておこう。

 

「アーちゃんは鋭すぎるのが玉に瑕だヨ。男は(さか)しらな女より可愛い女を好むもんだゼ? アーちゃんはもうちょっとお馬鹿になっても良いと思うんダ」

「それ、キリト君に当て嵌まります?」

「もちろん。あいつ結構古臭い価値観持ってるから、『守ってあげたくなる女の子』とかポイント高いと思うゾ? 具体的にはサッちゃんみたいな子」

「アルゴさんみたいな女性はどうです?」

「オレっち? ないなイ、異性としてならアーちゃんやサッちゃんのほうがキー坊の好みだヨ」

 

 至極真面目な顔で興味深い分析を口にする傍ら、何故かわたしをじっと見つめてきた。アルゴさんの視線が上下し、感心したように頷く。何だか不穏な気配を感じた。

 

「ふーむ、アーちゃんなら《昼は淑女、夜は娼婦》を地で行けそうダ。……アーちゃんはエロいネ」

「人の身体を上から下まで眺めてしみじみ頷かないでください」

 

 それは女同士でもセクハラです。

 軽く見咎めたわたしに向かって「ごめんごめん」とぞんざいに謝ると、アルゴさんはおもむろに背もたれへと身体を深く預けると目を細めて笑った。

 

「ぶっちゃけ戦闘面でオレっちがキー坊を心配する必要なんてないんだけどナ。最前線のことはアーちゃんのほうが良く知ってるだろうけど、あれで引き際は心得てる奴だから」

「でも強すぎるっていうのも困りものなんですよ、突出が過ぎると連携が難しくなります。わたしとしてはどうやってキリト君の動きについていくかが最近の悩みですね。ちっとも差が埋まりません」

 

 75層のフロアボス戦で何かコツを掴んだらしく、最近のキリト君はますます神懸かってきた。わたしも何か考えないと本気でキリト君に置いていかれてしまいそうだ。

 そんな風に憂鬱な気分で吐息を漏らしたわたしを一頻り眺め、アルゴさんはにやりと唇を吊り上げた。

 

「キー坊はアーちゃんを何かにつけて天才だって褒めそやかしていたゾ?」

「なんです、それ?」

「アインクラッドには魔法や銃のような遠距離攻撃がない、つまり戦場で主導権を握るために重要なのは機動力ってことになる。キー坊曰く、この世界での強さは《戦闘の中でいかにステータス数値を限界まで引き出すか》《その現実離れした力と速さに自分の感覚をどこまで追いつかせることが出来るか》の二つで決まるらしいヨ。キー坊が《使える》剣士かどうかを見極める最重要ポイントだそうだ。アーちゃんはその才能が飛び抜けてるんだってサ」

「ああ、そういうことですか。仮想世界で発揮できる力は現実世界のものとは比べ物になりませんからね。その認識の誤差を埋めて、なおかつ高速機動を長時間維持し続ける集中力と判断力がトッププレイヤーには必須です」

 

 例えば同じ筋力値、敏捷値で百メートル競走をさせてもほとんど差は出ないけど、その感覚を維持したまま障害物競走をしろとなると話は別になる。まして戦闘機動は何人もの人間が入り乱れ、その一人ひとりが目にも止まらぬ速さで動く。目まぐるしく変化し続ける戦場を制すには相応の能力が求められるものだ。

 

「キー坊はそれを《認識を広げる》才能って呼んでたナ。そいつを元にある程度他人の適性を見極められるんだとサ。スポーツと一緒で長時間仮想世界で生活してると自然と磨かれていく感覚らしいけど、向き不向きはやっぱりあるらしいネ。例えばアーちゃんはその才能がずば抜けてて、レベルが上がってもすぐにステータス限界近くまで動きを最適化できる。逆にサッちゃんはこの段階でつまずくから、高レベルでの高速戦闘はまず無理だろう、っていうのがキー坊の見立て。参考までにシィちゃんの適正はアーちゃんに追随するレベルで、オレっちやリッちゃんよりずっと上だとサ。キー坊も遠慮なく言ってくれるゼ」

「キリト君、戦闘に関してはシビアで妥協しない人ですから。……それにしてもわたしが天才、ですか。わたしとしてはキリト君のほうが相応しく思えますけど、アルゴさんはどう見ます?」

 

 仮想世界に適応する《認識力》と、瞬時の判断で最善を選び続ける《総合力》。

 その二点において《閃光》の域を容易に凌ぐ傑物を、わたしは二人知っている。――《聖騎士》ヒースクリフと《黒の剣士》キリト。

 

「オレっち? そうだなあ、オレっちはキー坊の強さってレベルとかスキル以前に、突き詰めた合理性にあると思ってる。ゲーム世界ならではの戦い方とでもいうのかナ。この世界ではいくらモンスターから攻撃されても、それはHPを減らし、不快感として残るだけダロ? HPが満タンだろうが残り1ポイントだろうが変わらず全力で動けるから、理屈の上では常に最高のパフォーマンスを発揮できる下地があるわけダ」

「でも、それは理屈でしかないですよね。確かに痛みが身体を縛ることはありませんけど、死ぬかもしれない恐怖が心を縛ります。攻略組のプレイヤーですら注意域に踏み込めば臆しますし、危険域に陥れば逃げ腰にだってなります。いえ、命が数値化されているからこそ、余計に過敏にならざるをえません」

「アーちゃんも?」

 

 意地の悪そうな顔で問いかけてくるアルゴさんに思わず苦笑が浮かんでしまった。

 

「当然です。わたし達は生きて帰るために戦ってるんですから」

「そう、それが当たり前ダ。だからこそキー坊は異常で、その分だけ強いんだヨ。ぎりぎりまで最高のパフォーマンスを維持できるから他の連中より頭一つ抜けた活躍が出来る。自分の受けるダメージに頓着せず、HPがゼロになる前に敵を倒せれば良いとしか考えなイ」

 

 注意域(イエローゾーン)にHPを落としても、 危険域(レッドゾ-ン)に追い込まれようとも、怯むことなく一歩を踏み出せる。HPの多寡によって判断力が鈍らない。確かにそれは大きなアドバンテージになるだろう。

 

「そんな他人から見れば捨て身としか思えないキー坊の戦い方は、実のところ一番安全で効率的なのサ。誰のためでもない、キー坊が生死の狭間で生き残るために効率を追及した戦闘スタイルなんだから」

 

 《攻撃こそが最大の防御》を体現したキリト君の戦い方。

 面白い見方をする人だな、というのが率直な感想だった。MMO、あるいはゲームに精通しているからこそ出てくる発想なのだろうか? わたしはどうしても考え方の根幹が現実世界寄りの常識にあるから、こういう視点は新鮮だ。

 

「幸か不幸か、キー坊は死の間際まで自分の命を計算して戦える、そういう剣士になった。この世界を終わらせるために必要だからとキー坊が求めた結果として、剣士として最適で、人間としてどっかぶっ壊れた精神を作り上げたんダ。デスゲームにさえならなければ出来たはずの戦い方を、デスゲームと理解した上で身に着けちまってるのサ。それはこの世界でキー坊だけが辿り着いた境地だろうと思う。だからもしオレっちがあれを呼び表すなら――」

 

 ――《仮想世界の申し子》とでも呼ぼうカ。

 

 この時代、この場所、仮想世界そのものに望まれた御子なのだと。

 しかしその賞賛の言葉とは裏腹に、アルゴさんの表情は憂いに染まっていた。

 

「キー坊は強いヨ、ゲームクリアのためにますます強くなっていく。オレっち達の救世主(メシア)にだってなるかもネ」

 

 あの《聖騎士》のように。

 そう口にしたアルゴさんは何かを恐れているようだった。

 

「……きっとね、キー坊は仮想世界に馴染みすぎるんダ。だからこそこんなゲームは早く終わってほしいと思うヨ。この世界にキー坊は長くいるべきじゃなイ」

 

 淡々と告げるアルゴさんに何かを言おうとして、何も言えずに押し黙ってしまう。どんな言葉を口にしても気休めにしかならない気がした。

 眉間に力を込めて黙り込むわたしに、アルゴさんは「つまらないことを言ったネ」と困ったように笑い、これで一段落とばかりに大きく伸びをした。それから現在時刻を確認すると途端に顔を顰める。

 

「あちゃー、日付が変わっちまってるヨ。潮時かナ、話すことも話したしアルゴオネーサンのサービスタイムはここまでにしようカ。長話に付き合わせて悪かったネ、アーちゃん」

「いえ、わたしのほうこそ何もお構いできなくてごめんなさい」

 

 軽食と紅茶ではとても釣り合わないし、何かお返しを考えておかなければ。

 そんなことを考えながら、アルゴさんが席を立つのに合わせてわたしも立ち上がる。特に荷物も持ち込んでいないアルゴさんが軽やかな身のこなしで踵を返し――そこで何かに思い当たったように振り返り、頬をかきながら口を開いた。

 

「一つ言い忘れてることがあっタ。内緒話にしておきたいからちょっと耳を拝借させてもらえるかナ?」

 

 この部屋にはわたし達だけだし、外で聞き耳スキルを発動させているような物好きもいない。雰囲気が大事だということだろうか?

 そんな風に要領を得ないわたしの「わかりました」という返事にも頓着した様子を見せず、言葉通り内緒話にしようとアルゴさんがわたしの耳元に口を寄せてくる。わたしの耳朶を打つ囁きは何故か甘やかなもので――。

 

「キー坊ってあんな可愛い顔してるくせに意地悪なんだゼ。しかも女の弱点を見つけ出すのも上手い。だからアーちゃんもキー坊の抱き枕になりたいなら、虐められて泣かされる覚悟とかしておいたほうが良いゾ?」

 

 ――オネーサンは気にしないから、ネ。

 

 わたしの心に直接忍び寄ってくるような凶悪なそれに為す術もなく硬直し、途端身体の内側から熱が吹き上がって赤面してしまう。そんなわたしを慮るでもなく、むしろ嬉々として甘美な誘惑を繰り返すアルゴさんはとても楽しそうだった。……本当に楽しそうだった。

 

「……アルゴさん、大人げないですよ」

 

 もしかしてさっきの事、根に持ってたりします?

 

「何の事だかわからないナ。オレっちはアーちゃんが聞きたがってたことを教えてあげただけだヨ?」

 

 それにオレっち子供だから、と澄ました顔で飄々と口にするアルゴさんはやっぱりずるい人だと思った。確かにわたしはお二人の秘め事を知りたいと口にしましたけどね、まさか本当に答えが返ってくるなんて思いませんってば。

 

「それじゃそろそろお暇させてもらうヨ。お茶とお菓子ご馳走様、また機会を見つけて招待してくれれば嬉しいナ」

 

 アルゴさんの悪戯にわたしが混乱を抱えている内に、悪戯の仕掛け人から逸早く撤退――もとい辞去の挨拶を告げられてしまう。色々言いたいことはあるけれど、既に時間は深夜だし引き止める理由もなかった。ホストの最後の務めとして部屋の出入り口へと先導し、アルゴさんに改めて別れを告げて見送ると、ほうっと息をついて踵を返す。

 

「ユイちゃんのママになるのも大変だ」

 

 施錠を確認したわたしが真っ先にしたことはそんな弱音を吐くことだった。目標は高いほうが良いらしいけど、わたしの前に聳え立つ壁は呆れるくらい高かった。とはいえ、簡単に越えられるものではない事くらいわかっていたし、諦めるなんて選択肢はとうの昔に捨て置いてきた。だから今まで通り、一歩一歩前に進むだけでいい。

 

 わたしも頑張るから応援しててね、ユイちゃん。

 

 もう一度抱きしめるのだと決めた可愛らしい女の子の顔を思い出す。いつの日か胸を張って再会するためにも、今は立ち止まってなんていられない。剣の腕も女としての魅力も、もっともっと磨かなくちゃ、なんてね――。

 

 




 拙作では転移結晶は10層から出現、カルマ浄化クエストは20層から出現、ついでに回廊結晶は25層のクォーターボスからのドロップが初出と想定しています。この先原作で詳細が明らかになった場合も修正は入れないと思うので、独自設定ということでお願いします。

 HPの可視設定について補足。拙作では原作二巻《圏内事件》で描写された『通常他者のHPバーを見ることは不可能』説を採用しています。パーティー、レイド、ギルドを組んだ相手でないとバーは表示されません。例外は決闘時くらいのものです。

 もう一つ補足。原作と異なりラフコフメンバーが攻略組に迫る強さを獲得していたのは、プレイヤーネームを比較的容易に知れる拙作の仕様変更が原因となっております。原作と比べて犯罪者の身元も割れやすいため、暗躍のハードルが上がり、彼らも自衛のために直接戦闘力を高める必要性が強まりました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第21話 頂の剣士 (1)

 

 

 俺が現在足を運んでいるのは第55層主街区《グランザム市》。別名を《鉄の都》と評されるこの街は、ギルド《血盟騎士団》の本部があることで有名だった。

 街の景観も黒光りする鋼鉄で建物が形成され、街路樹の一本も植えられていない。そのせいか鉄と硝煙の匂いが煙る――とまではさすがに言わないが、ファンタジー色の強いアインクラッドにありながらどこか異質な雰囲気の漂う都市である。

 

 鋭角なフィルムで構成される数多の尖塔の中でも一際高い威容を持つのが血盟騎士団の本部であり、俺がお邪魔しているのはその建物の中でも最も高層に位置する円形の部屋だった。この部屋は塔のワンフロアを丸々使っているらしく、とにかく広い。しかも壁が全面透明のガラス張りをしているため、大量の光が常に差し込む作りになっている。その部屋で俺は血盟騎士団の幹部六人と相対していた。

 

「私と剣で立会いたい、とはどういう意味かな、キリト君?」

「そのままの意味だよ、《黒の剣士》キリトが《聖騎士》ヒースクリフに決闘を申し込む。可能な限り早く、叶う限り多くのプレイヤーの前でこの対戦カードを実現させたいんだ。なるべく盛り上がりも欲しいから、ルールは初撃決着より半減決着の方が嬉しいな」

 

 俺の眼前に座す男の名は《聖騎士》ヒースクリフ。ユニークスキル《神聖剣》の操り手にして、血盟騎士団を率いるカリスマの権化である。この男こそがアインクラッド最強を冠する騎士であり、攻略組随一の剣士であることに異論を挟む余地はない。

 机に肘をつき、ゆるやかに両手を組んで思慮に耽る様子をじっと見つめる。鉄灰色の髪が緩やかに流れ、痩せ気味の長身を包む魔術師然とした真紅のローブが妙に似合っていた。

 

「意外だったな、まさか君からこのような提案を受ける日が来るとは思わなかった」

「そうか? 言うほど驚いているようには見えないぞ」

 

 だからあんたは可愛げがないんだ。

 もちろんそんな内心の悪態を表に出すことはないが、それでも若干の呆れを含ませてしまったかもしれない。しかしそんな些事に頓着する様子も見せず、ヒースクリフは感慨深そうに一つ頷いて頬を緩めると、機嫌の良さそうな口ぶりで言葉を紡ぐ。

 

「そんなことはない、驚愕の至りだよ。ただ私は昔から感情が表情に出るタイプの人間ではないのでね、許してくれたまえ」

「許すも許さないもないだろうに。それで、どうなんだ?」

「キリト君が私に面会を申し込む時は、決まってアインクラッドの今後を左右する重要事案が持ち込まれたものだが、今回も同じなのかな? 前回はラフコフ討伐戦の取り決めに関してだったはずだが……」

「あの時は俺の我侭を聞いてもらってどうも。それとあまり思い出したい話じゃないんだ、触れないでくれると助かる」

「確かにそうか。すまなかったね、配慮が足りなかったようだ」

 

 いや、俺への配慮じゃなくてお前さんの部下への配慮が必要だろうって意味なんだけど。この場にいるのは俺とあんただけじゃないんだ、血盟騎士団を除け者にした密約をこれみよがしに示唆するとか、それでいいのか聖騎士。

 それとも部下連中には血盟騎士団をラフコフ討伐からハブった理由も含めて全部ばらしてあるのか? それならそれで構わないけど、俺はあんたが部下に何て説明したのか知らないんだから適当に話を合わせるのは無理だからな。

 

 視線を移せばずらりと並んだ血盟騎士団の面々が視界に映り、そこにはアスナを筆頭に血盟騎士団の幹部が勢揃いしていた。部屋の中央に置かれた半円形の机の向こうには、ヒースクリフを真ん中に置いて右に三人、左に二人並び、合計六人のプレイヤーが椅子に腰掛けていた。その中には副団長のアスナの姿は言うまでもなく、前衛隊長を務める巨漢の男こと斧使いゴドフリーの厳つい顔も見える。錚々(そうそう)たる顔ぶれだといって良い。

 

 翻って彼らと向かい合う俺はと言えば、この場でただ一人直立不動の姿勢である。

 黙して語らず、整然と並ぶ血盟騎士団の幹部勢の迫力はなかなかだ。目の保養になるのは紅一点のアスナだけしかいなかったため、出来ればそっちに俺の目線を集中していたいところなのだが、そうもいかないのが寂しい。案の定というか、幹部勢の幾人かの顔に疑問の色が浮かぶのを見て、喉元まで出掛かったヒースクリフへの文句を慌てて堪えることになった。

 

 やっぱり説明不足なんじゃないか? 事前にそのあたりのことをアスナに確認しておくべきだったのかもしれない。もっとも今となっては後の祭りか。これ以上妙なところに飛び火する前にさっさと話を本筋に戻すことにしようと決め、「そんな昔のことはどうでもいいだろう」と一言断りを入れてから続ける。

 

「シンプルにいこうぜ、ヒースクリフ。俺があんたに勝ったら次のボス戦の指揮権を俺に預けてくれ。76層のフロアボス討伐の日時決定と部隊編成をこっちで進める。これ以上の時間をかけず、今集まっている戦力だけで討伐隊を組むつもりだ」

 

 薄く笑みを浮かべて彼らを挑発をするかのような物言いが素で出てくるあたり、我ながらふてぶてしくなったものである。今となってはこうした振る舞いも自然体で出来るようになってしまった。俺も役割演技(ロールプレイ)が板についたもんだなあ。

 

 しかしながら、否、むしろ当然のことながら、俺の傲岸不遜な要求は幹部連中の癇に障ったらしい。差し向けられる視線の険しさが一段と増してしまった。さすがは血盟騎士団を代表する連中だ、睨み一つでここまでの威圧感を発するとは。……アスナの頭痛を堪える仕草は俺に対するこれ見よがしなポーズなのだろうか?

 そんな幹部一同を宥めるような絶妙なタイミングで、彼らの団長であるヒースクリフが重々しく口を開く。

 

「では、私が勝ったらどうするつもりかな?」

「その時は俺が血盟騎士団に入団するよ。鉄砲玉でも何でも好きに使ってくれて構わない、それで足りるか?」

「ほう、これは思い切ったものだ。もちろん対価としては申し分ない、些か私達に都合が良すぎるくらいだがね。……ふむ、君の存念は何処にあるのだろうか? 今日までの振る舞いを省みるに決闘の勝敗にこだわっているようには思えないのだが、私の推測は見当違いかな?」

 

 何とはなしに溜息をつきたくなった。

 こうやってすぐに俺を見透かそうとしてくるこの男が苦手だ。愚痴だって零したくなる。

 

「トントン拍子に話が進むのは助かるけど、思考の先回りをされるのは面白くないな」

「私も君の考えには興味があるし、どちらにせよ説明は必要だろう? 何故今なのか、どうして私と君が決闘する必要があるのかを説いてくれたほうが、話はスムーズに進むのではないかな。この際だ、隠し事はなしでお願いするよ」

 

 そこまで言われるほど年中悪巧みをしているつもりはないんだけどな。ついでに言えばあんたから『隠し事はなしにしよう』と言われるのは業腹ものだ。

 

「お互い暇じゃないしな。単刀直入に言う、俺とあんた達の不仲説を解消して攻略に弾みをつけたい――ってのは建前で、折角76層のボス部屋も見つかったんだ、ここで足踏みしたくないんだよ」

「察するにキリト君は今日の攻略会議の結果が不満だったのかな?」

「不満というより歯痒い。現時点で48名の定員に満たない以上、すぐに攻め込まず人数の確保に努めたいって気持ちはわかるさ。75層の前例がある以上、先遣隊の派遣はいくら考慮したところで実行には移せない。取れる手段は最精鋭を揃えた総力戦しかないからな」

 

 つまりは75層の再現である。現状叶う限りの高レベルプレイヤーを集め、未知の敵を力ずくで粉砕できる最大戦力をぶつける、それだけのお手軽な作戦だった。人はそれをぶっつけ本番の考えなしと呼ぶわけだが、俺達に贅沢を言える余裕はない。

 

「現時点では慎重論も致し方ないと思うのだがね」

「もちろん堅実ではあるさ。けどな、今はそんな慎重論より強硬論が必要なんだよ。75層の罠とラフコフの妨害に攻略組全体が萎縮してるんだ、その迷いが問題の先送りにつながってる原因だと俺は見てる。ボスの脅威に怯えてるわけじゃないんだから、必要なのは皆に腹を括らせる切欠だけだろう?」

「性急だと警鐘を鳴らすべきか迷うな」

「これはあくまで俺の予想だけど、76層のボス部屋は結晶無効化空間と脱出不可能な鍵付きが併用されているとは思えないんだ。ボスの強さだって通常のレベルに落ち着くだろう。万一を考えると偵察は諦めるけど、あんたさえ賛同してくれるなら俺と血盟騎士団の力だけでもクリアできる難易度だと考えてる」

 

 もっと言えば《聖騎士》と《黒の剣士》の二人だけでも勝てるだろう。だからこそ俺の言を受けた眼前の男が何を考えるか、それこそが問題の焦点だった。

 

「76層の守護者が通常レベルのボスであるという前提に立つならば、確かに賛同できる方針だ。ではキリト君が結晶無効化空間と開閉不可能な扉の存在を無視できる、そう判断した根拠を聞かせてくれたまえ」

「74層でボス部屋初の結晶無効化空間が判明したわけだが、こいつを俺は75層のラストクォーターポイントに備えるために用意された、茅場なりの俺達に対する警告だったと受け取ってる」

 

 インパクトだけを求めるならば結晶無効化空間は74層に設置せず、75層のクォーターボス戦で初披露にしておいたほうが効果的だった。だからこそ74層のそれは75層の仕掛けを暗示させ、プレイヤー側に準備と覚悟を促していたのだろうと思う。

 実際は結晶無効化空間だけではなく出入り口の封鎖まで重なっている。すなわち二重の罠であり、そいつは74層で明らかになった事象から想像して然るべき事態だったと取ることだって出来るのだ。おあつらえ向きに70層以降モンスターが手ごわくなっている事実まであったのだ、攻略難易度の激化は予測して然るべきだったとでも茅場は強弁するつもりなんじゃないか。

 

 同時に今までの経験を信じるならば、クォーターポイントの難易度が継続することはない。結晶無効化空間、出入り口の閉鎖、攻略組プレイヤーですら一撃で葬るボス、この全てが76層でも待っているとは到底思えなかった。……というか、この先全ての階層でクォーターポイント並の困難が用意されているのだとしたら、それこそクリアなんて夢物語と結論付けられてしまう。俺達が全滅するほうが確実に早いだろう。

 

 あくまで茅場の意思が俺達プレイヤー側のゲームクリアにあるのだとすれば、プレイヤー戦力とモンスター戦力を比較した場合、これ以上のパワーバランス崩壊は考えにくかった。76層のフロアボス戦の難易度は、せいぜい74層の通常ボスの強さにプラスアルファ程度の苦労で収まるはずなのだ。次に大きな変化があるとすれば、80層ないし90層に到達した頃の話だと俺は予想していた。

 

 そうした推測を掻い摘んで話すと、ヒースクリフのみならず先ほどまで俺を睨んでいた幹部連中も徐々に興味深そうな目の色に変わっていく。

 

「――以上が俺なりの推論だ。今度はあんたの意見が聞きたいな」

「なかなか斬新な提言だったと言わせてもらおう。茅場晶彦の思考をトレースすることでソードアート・オンラインのゲームバランスを測るか、面白い視点だ」

 

 そう言って感心しているヒースクリフに内心では舌を出している俺だった。やってることは学校のテストでヤマを張るときに使う手法の一つでしかない。教師が生徒に望むことは何か、問題作成者が問題回答者に何を答えさせようとしているのか、その意図を探る試みの応用でしかなかった。

 

 《俺が茅場晶彦ならばどうするか》。

 

 それは俺がアインクラッドを生き抜く一つの指針として、この世界に閉じ込められた初日から続けてきたものだ。

 

「元々はこの先全てのボス戦で結晶が使えなくなるのは痛い、って考えから出たもんだから、幾らか願望も入ってるとは思うけどな。……75層の攻略からもう二週間だ。一階層攻略にここまで時間をかけてたらいつまで経っても頂上に辿り着けないだろう? そんなわけで俺としては今優先すべきは巧遅より拙速ってのが正直なとこだ。そのための号令と意思統一が欲しい、多少強引でもな」

「その役目をキリト君自らが務めたい、というわけかな? 私との決闘に勝利することで《黒の剣士》こそが攻略組を主導する立場に相応しいのだと示す――」

 

 ヒースクリフがそう口にした瞬間、間違いなく部屋の空気が鋭く緊迫化したものに変わった。そりゃそうだわな、『攻略組筆頭(あんた)の立場を俺に寄越せ』と真正面から突きつけているようなもんなんだから。下手をしなくても挑発と受け取られるだろうし、何を思い上がったことをと罵倒されてもおかしくない。幸いなことに皆が自制してくれたのか口汚い非難は飛んでこなかったけど。

 

 当事者たるヒースクリフは気負いもなく落ち着いたものだった。これは予想通り。

 アスナは……あらら、何か呆れていらっしゃるご様子だ。周囲を気にしているのかポーカーフェイスを継続中みたいだが、『目は口程に物を言う』を思い切り実践しておられる。本気で隠す気ないだろ、お前。

 

「盛大に深読みしてくれてるとこ悪いけど、そこまで大それた事は考えてないぞ。ソロプレイを通してきた俺と攻略組屈指の精鋭ギルドを率いてきたあんたとじゃ立場が違い過ぎるしな。決闘で証明できるのは個人の武力だけだ、それだけであんたの代わりを務められると考えるほど俺は自惚れちゃいない」

「私としてはキリト君のそれは謙遜だと言わせてもらいたいものだがね」

「過分な評価は有り難くもらっとくけど、如何せん実績の差ってのは歴然だよ。それに折角あんたを頂点にまとまってる攻略組の結束をこんなところで崩したくない」

 

 というかヒースクリフを馬車馬の如く働かせる方策を考えたほうがずっと建設的だ。

 

「そうさな、少しだけ恩着せがましい言い方をさせてもらうなら、今の血盟騎士団ではやりづらい事を俺が代わりにやってやるってとこだ。クラディールの裏切りもあったし、しばらくは動きが取りづらいんだろう、あんた達?」

 

 先の会議でもアスナは司会役に徹していたし、血盟騎士団の幹部は碌に発言しなかった。ヒースクリフが口数少ないのはいつものことだが、それを差し引いても彼らに会議を主導する意思がなかったことは明らかだ。

 あんなことがあったんだ、ギルドとしてしばらくは自粛するってのもわかるけどさ。つくづくタイミングが悪い裏切りだったとしか言えない。さっさと地獄に落ちてくれないかな、PoHとかいうロクデナシ。

 

 気づけばヒースクリフの真鍮色の瞳がじっと俺を見据えていて、俺も負けじと無言で視線を返していた。沈黙を挟むことしばし、やがて何を思ったのかヒースクリフは面白そうに目を細めると、その口元に微かな笑みを刻む。

 

「キリト君が見ているのは決闘の先だな。勝敗にこだわりはないようだ」

「周りの連中にわかりやすい形を選んだだけだしな。消極性に傾いてる攻略組をお祭り騒ぎで盛り上げて、幾らかでも積極的にさせてみようかってだけさ。あんたが率先して攻略組に号令をかけてくれるなら必要ないと思うんだが……やってくれるか?」

 

 あんたなら多少の無茶を言っても皆ついていくと思うぞ? 反発を押さえ込むことだって出来るだろうし、この際だから辣腕を振るってみるのも選択肢としては悪くないはずだ。……この男がそこまで前に出るとも思えないが。

 

「臆面もなく朝令暮改に勤しむのは少々抵抗があるね。とはいえ君を我がギルドに迎え入れる折角のチャンスを不意にするつもりもないよ」

「そいつはどうも」

 

 まあ予想できたことだ。ギルドの運営や他の攻略ギルド、あるいは中層以下のプレイヤーへの対応を見る限り、この男は往々にして俺達の自主性に判断を委ねようとする傾向に在る。一ギルドの長として完璧に振舞いはすれども、それ以上の立場を求めたことはなかった。この男が望むなら攻略組を軍隊よろしく上意下達の一大組織として再編できたのかもしれない。しかしそういった強引な施政も取っていなかった。

 以前は奴のそうした行動指針を、一人のリーダーシップの元に攻略組を纏め上げるよりも、各ギルドで切磋琢磨したほうが結果的に戦力増強が進み、攻略の一助になるからだと考えていたものだが……。

 

「あんたの言った通り、決闘の勝敗はどっちでもいいんだ。決闘の後に握手の一つでもして、フロアボスに対して俺達が磐石の体制で挑む宣言をすれば妙な噂は消えるだろうし、討伐隊編成を急ぐ理由作りにもなる。俺が勝てば指揮権譲渡を理由にするし、俺が負けた時も入団の条件だったことにしておけばあんたらにもそう迷惑はかからないだろう? 黒の剣士は攻略狂なんて言われてるくらいだし、誰も疑いやしないさ」

 

 ついでに言えば、血盟騎士団の黙認――もとい内諾さえあれば聖竜連合や風林火山を説得する自信はある。

 

「この場はその謀議の席というわけか。キリト君も人が悪いな」

「そう思うなら俺が剣を振ってるだけで済む状況を作り出してくれ」

 

 適材適所ってのがあるだろう? 俺の適正は権よりも剣、謀よりも暴力にこそあると思ってるんだ。しかしながらヒースクリフは「善処しよう」と気のない返事を寄越すだけで、俺の要望に応えてくれる気はなさそうだった。そんなだから聖竜連合が俺を担ぎ上げようとするんだよ。75層でのクラディールの件が余程腹に据えかねたらしい。彼らから内々にボス戦の指揮を執ってみる気はないかと問われた時は何事かと思ったぞ。

 

 それ自体はいいんだ、聖竜連合だって半分以上冗談で口にしたものだし、血盟騎士団への意趣返し以上の意図はないからその内不満も消えるだろうと思う。頭が痛くなるのは中層下層で流れてる噂である。ヒースクリフは問題視してないみたいだけど、下の階層ではいよいよ俺と血盟騎士団の深刻な不仲説が唱えられるようになっていた。

 噂でしかないと言われればそれまでだけど、どうにも俺ばかりが気を揉んでるようで面白くない。こうなったらアスナをデートに連れ出して俺と血盟騎士団の親しさをアピールしてきてやろうか。……男性プレイヤーの目の敵にされそうだからやめておこう。

 

「次の転換点を迎えるまでは俺とあんた――二人のユニークスキル使いが先頭に立って攻略を主導する、ボス戦の負担も今まで以上に引き受ける。その形を示すのが今回の決闘の肝だな。攻略組のみならず全プレイヤーに俺達の戦いを見せてその力と有用性を理解させたい」

「そうなれば討伐隊参加者ももう少し増える、か。なるほど、君の狙いは理解した。同時に聞きたいこともある。私が勝てばキリト君は血盟騎士団の一員となるし、その場合は私の指揮下――そうだな、アスナ君と共に副団長として働いてもらうことになるから攻略組の体制としても問題ないだろう。だが、キリト君が勝利した場合はどうするね? 君がトップに立つのが自然な流れになると思うが」

 

 私の風下に立つといっても皆が納得しないだろう、と疑問を向けてくるヒースクリフ。

 

「つってもなあ……決闘で示せるのは極めて限定的な戦闘能力に過ぎないだろう? あんたが『ただ強いだけの男』なら問題かもしれないが、《神聖剣》の威光だけでその席に座ってるわけじゃないんだ。攻略組内部から今の体制にケチをつけるプレイヤーが出ることもないだろうし、俺としては指揮権の委譲も今回限りの特例扱いで十分だぞ?」

 

 フロアボス戦の総指揮を執る役目を俺に振るのは勘弁してもらいたい。俺がフロアボス戦で期待される役割は最大のダメージソースになることだから、壁部隊並にボスに張り付くことになる、周囲全てを見渡す余裕なんてそうあるものではない。その事情はヒースクリフも変わりないのだが、そんな忙しない中でも戦況全体を見渡して指示を出せてしまうヒースクリフが異常なだけである。

 

 ただ俺なりに正直な所感を述べるなら、現時点でも全体の作戦指揮はアスナに委ねてしまったほうが良いと思っている。もし俺に作戦の決定権があるとしたら、俺とヒースクリフのツートップでボスの押さえ込みにかかる案を基本方針にするだろう。つまり50層の崩壊しかけた戦場を支えたヒースクリフの圧倒的な戦線維持力を前面に出し、討伐隊全体の消耗を抑えるのだ。その間に俺の火力を活用して早期決着を図る。

 無論、この案は個人に負担を求めすぎるし、一歩間違えればヒースクリフと俺が孤軍奮闘を余儀なくされる。だからこそ今まで採用されてこなかった作戦案だった。あるいは『ユニークスキル使いに頼るだけではこの先立ち行かなくなる』という懸念もあったのかもしれない。

 だが、それを踏まえても今回のボス戦ではユニークスキル使いに頼った作戦を実施する意義がある。

 

 重要なのは『クォーターポイントの難易度が続くわけではない』という事実を可能な限り早く明らかにすることだ。犠牲者ゼロで切り抜けられればなお良い。というか今回はそれが必須だろう。

 それさえできれば攻略に二の足を踏んでいる現状に一石を投じることが出来るし、少なくとも次回以降のフロアボス戦で定員割れを起こすようなことはなくなるはずだ。75層で高まった厭戦ムードも多少なり払拭できる。

 

 もしも76層以降が変わらず脱出不可能かつ結晶も使えず、ボスの強さもクォーターポイント並ならそれこそお先真っ暗になってしまうが、その時はその時である。元より安全の約束された戦場などないのだから、新たに発覚した事実を元に攻略案を練るしかない。尻込みしてるだけの現状を打破しないことには始まらないのである。

 

 それにヒースクリフの懸念はこう言っちゃ何だが無視できる程度だと思うんだ。ヒースクリフはカリスマと称されて久しい男である。その声望はヒースクリフ自身の実績によって作られたものだし、それは何も個人の戦闘能力に由来するものばかりではない。

 フロアボス戦において最も危険な役割を受け持ってきたことも然ることながら、血盟騎士団を一から作り上げ、攻略組屈指のギルドへと成長させ、今尚攻略に貢献し続ける男にこそ向けられた敬意なのだから。

 今更一度決闘で土をつけられたからとてその評価に揺らぎが出ることなどありえないだろう。この男が担ってきた役割とその実績に裏打ちされた信頼が、その程度の些事で崩れるはずがないのである。

 

 ――だからこそ、俺がこの男を負かしても攻略組に痛手はない。

 

「それで足りなければ、俺が勝った時は適当にギルドを作ることにするから、ギルド立ち上げの手伝いと最前線を戦う協力体制の確約だけもらえれば十分かな? どうせ今から作るギルドなんて形だけのものになるだろうし、これからは俺と血盟騎士団も緊密に協力しあって攻略に励むって形を皆に示せればよしだ」

 

 それでどうだと肩を竦めて言い放つと、「落とし所としては悪くないか」と頷くヒースクリフだった。

 

「さて、どうだろう諸君。私としてはキリト君の申し出を受けても良いと考えているのだが、各々の意見を聞かせてもらえるかな?」

 

 ここで初めてヒースクリフは幹部連中に水を向けたわけだが、少しばかり時期を逸している気がしないでもない。ヒースクリフ自身が既に決闘に前向きな姿勢を見せている以上、好んで反発するプレイヤーが出るとは思えなかった。俺としてもそちらのほうが都合が良い。そんな俺の思いを肯定するかのように困った笑みを見せるのはアスナだった。

 

「決闘を申し込まれているのは団長ですから、団長の裁量で受けてしまっても問題ないように思われますが?」

「勝敗如何では攻略会議でキリト君の意見を通すよう動かねばなるまい。その時になって足並みが乱れるようでは困るからね、意思の確認は必要だよ」

 

 大した狸ぶりだ。ヒースクリフの顔つきからは《決闘に負けるはずがない》という絶対の自信が伺えた。

 

「そうですか。ではここまでのお話をまとめさせていただきます。キリト君の申し出はヒースクリフ団長を対象にした決闘です、ルールは半減決着モードを希望していますね。その目的ですが、一つ、決闘を口実に最前線の澱んだ空気を打ち払い、攻略組の低下した士気の向上を目指す。二つ、決闘終了後、《血盟騎士団》と《黒の剣士》の関係改善をアピールする。三つ、《聖騎士》と《黒の剣士》を中心にした討伐隊の早期編成と実行。以上でよろしいでしょうか?」

「付け加えておくと、俺が決闘に負けて血盟騎士団に入団した場合も早期のフロアボス討伐実行に向けて動くから、それが容認できないのなら決闘そのものを拒否してくれ」

 

 アスナは気軽に嘴を挟んだ俺を一瞥し、軽く頷くことで返事とした。

 

「早期攻略の実行は我がギルドの主旨にも沿います。先ほどの提言――キリト君の入団を理由に討伐隊結成の予定を早める案に副団長として賛成することを表明しておきたいと思います。わたしからはそのくらいですけど、何か疑義のある方はいらっしゃいますか?」

「あー、ちょいとええですか?」

「どうぞ、ダイゼンさん」

 

 おおきに、と相好を崩しながら立ち上がったのは、後方支援畑の人間だと主張するかのように鈍重な印象を抱かせる男だった。もちろんアインクラッドではアバターが痩せ型だろうが肥満体だろうが動きの俊敏さは全てステータス次第なので、決してこの恰幅の良い男が見た目通りのプレイヤーだとは限らない。

 もっともダイゼンは《血盟騎士団の金庫番》と呼ばれる経理担当にしてやり手商人のため、同じく幹部として会議に参加しているゴドフリーのように、フロアボス戦へと参加するバリバリの武闘派じゃないことは確かだ。

 

 しかしどんな組織でも財布を握る者は立場も強いと相場が決まっている。ある種純粋な強さへの信望が厚い血盟騎士団といえど、経理を担当するダイゼンを無視することは誰にも出来はしない。ギルド名義による補給物資や武器防具の仕入れから職人クラスのプレイヤーを対象とした素材アイテムの割り当てなど、大口小口問わず商取引を一手に担っている部門の元締めなのだから、彼が幹部待遇で一目置かれているのも至極当然のことだ。

 そんな男が口にするのだから、その話題は当然銭が絡むことだった。

 

「決闘を受けるかどうかは団長の好きにすればええ思いますけど、経理担当の立場としてはキリトはんに幾らか譲歩してほしいもんがありましてな。団長から決闘を受ける条件としてキリトはんに協力の打診をしてもらえまへんやろか?」

「具体的には?」

「キリトはんがうち以外のギルドに卸してるレアアイテムをうちにも流して欲しいんですわ。財布を預かる身としては、金の卵を前にしてみすみす見過ごすわけにもいかんもんでしてな。ご理解願います」

「ということらしいが、どうかなキリト君?」

 

 ふむ、と数秒沈黙し、多少悩む素振りを見せてから答えを返す。

 

「……オーケー、いいぜ。その程度の譲歩なら問題ない。決闘の結果に関わらずこれからは血盟騎士団にも卸すことを約束する。ただし俺が決闘に負けて血盟騎士団に入団したとしても、今まで通り他のギルドに支援することを認めてもらえるなら、だけど。全部血盟騎士団行きってのは困るぞ?」

「かまへんかまへん。うちのルールは元々モンスタードロップ品はドロップしたもん勝ちやさかい、その使い道も自由や。ただ、うちに所属していながら全くギルドに配慮してもらえんってのも喧嘩の種になりそうでなあ。先手を打っておこう思ったまでや」

「ああ、確かにそれはまずそうだ。気を遣わせたようで悪かった」

 

 そこまでまとまったところでヒースクリフに目を向ける。

 

「そういうことでいいか?」

「キリト君の配慮に感謝するよ」

 

 ヒースクリフからの目配せを受けたアスナが再度幹部連中に声をかけるも、俺にある程度譲歩させたことで十分だと考えたのか、ダイゼン以外の幹部からそれ以上要望が出されることはなかった。各々の表情を見る限り感触も悪くない、これなら大丈夫そうだな。

 

「では、これ以上の意見もないようですので決に移らせていただきます。《黒の剣士》キリトから《血盟騎士団》団長ヒースクリフへ申し込まれた決闘受諾に賛成の方は挙手をお願いします」

 

 そんな俺の観察を裏付けるかのようにヒースクリフを除いた五人の右手が掲げられる。特に波乱もなく幹部勢全員に承認され、最後にヒースクリフが改めて俺の申し出を承諾する。これで俺とヒースクリフの決闘は勝敗結果も含めてギルド公認のものとなったわけだ。

 

 まあ彼らにしてみればヒースクリフが決闘に勝つ公算のほうがでかいだろうし、俺を血盟騎士団に入団させ、身内認定することに異存さえなければ反対する理由もないだろう。……クラディールの件で俺に負い目を持っている人間もいるだろうし、ちょっと弱みに付け込んだみたいで申し訳ない気もするが。

 とはいえ好機は好機だ、利用しない手もない。今回の事態がどう転ぶにせよ、今まで以上にゲームクリアに貢献することで許してもらうとしよう。

 

「開催場所は75層主街区《コリニア》のコロシアムが丁度良いだろう。あそこなら大人数を収容できる。あとは決闘日時の決定か……。攻略会議は明後日に予定されているが、延期するかね?」

 

 現在ボス戦を控えて参加を表明しているプレイヤーが三十三人。75層の生き残りがほとんどそのままシフトした形だが、出来ればあと十人ほどは確保して挑みたい、というのが今日の攻略会議における最終決定だった。明日一日かけて有力ギルドを訪ね、フロアボス戦に参加してもらえるよう説得に努める予定になっている。

 

「明後日の攻略会議は時間を午後にずらすだけでいい。明日一日かけて決闘の開催を周知して、明後日の正午を立会いの開始時間にしよう。何か不都合はあるか?」

「いや、問題ない」

「で、決闘が終わったらその盛り上がりを維持したまま、すぐに攻略会議を開いてフロアボス戦に挑む編成を決めちまおうぜ。鉄は熱いうちに打てって言うしな」

「勢いで色々ごまかしちゃおうって言ってるように聞こえるよ、キリト君」

 

 冗談めかしたアスナのからかいに何人かの失笑が漏れた。うん、アスナの言も間違ってないな。《士気》ってのは多かれ少なかれそういう勢いが大事だし、匙加減さえ間違えなければ大丈夫だろう。

 

 しかしアスナも結構砕けてるというか何というか。この場には俺と血盟騎士団だけだし、そこまで気を張ってるわけじゃなさそうだな。他の幹部勢にしても攻略会議の時よりもずっと柔らかい印象を受けるし、案外普段はこんな感じでやってるのかもしれない。ギスギスした雰囲気よりはずっとマシだし大歓迎だ。

 とはいえ、俺の口元に浮かぶ薄い笑みは何も彼らに絆されてのものではないけれど。

 

「そうそう、勝敗にこだわる気はないって言ったけど、これでも負けず嫌いを自負しててな。やるからには勝つ、そのつもりで戦うから手加減は無用だぞ、ヒースクリフ」

「心配せずとも、キリト君とは一度本気で立ち会ってみたかったのだよ。君の操る《二刀流》の真価を直に味わってみるのも一興だ」

「奇遇だな、俺もあんたの《神聖剣》を一度破ってみたかったんだ」

 

 この時ばかりは俺も演技ではなく本気の意気込みが漏れていたと思う。この男と本気で試合ってみたい。攻略組最強を相手に勝利を得たい。そうした稚気を一度でも抱かなかったと言えば嘘になるだろう。そうでなければ何度もこの男との対決を夢想し、シミュレーションなどしていない。

 攻略に励む方が大事だからその欲求を封じてきただけであって、俺とてそれなりのエゴは持ち合わせているのだ。おあつらえ向きに場を整える機会が巡ってきたのだからここで躊躇う必要もなかった。

 あとは何処まで俺の思惑通りに事が運ぶか――。

 

「ところで団長、決闘の名分は《次回のフロアボス戦の指揮権を賭けて》になるんでっか?」

 

 決闘に勝った場合、負けた場合、その双方を想定した予定表を脳内で組んでいると、何やらダイゼンがヒースクリフに疑問を呈していた。

 

「そのつもりだが、何か気になる事でもあったかな?」

「やー、文句言うわけやないです。ただ、どうせイベントとして盛り上げるなら、もう少しエンターティナー精神が欲しいとこですな。お祭り騒ぎにするにはちと理由が真面目すぎますし、もう少しこう遊び心が欲しいんですわ」

 

 そちらのほうが興行収益も見込めます、と続けるあたりダイゼンは根っからの商売人だと思った。同僚にいれば頼もしいだろうな、こういう奴。

 

「特に反対する理由はないが――」

 

 そこで俺に目を向けられても困るぞ。空気読んで賛成する以外にどうしろと?

 

「俺としては下の連中にこそ決闘の様子を見てほしいし、観客集めを目的にそっちで盛り上げてくれるなら大歓迎だよ。好きにしてくれ」

「協力感謝する。しかし遊び心か、ダイゼン君は何か良い案があるのかな?」

「そうですなー、そこそこ俗っぽい理由のほうが大衆受けするでしょうけど……」

 

 ゴドフリーはんはどう思います? とダイゼンより矛先を向けられ、こういう催し事に消極的であろう巨漢の男はいかにも気乗りしなさそうな迷惑顔で答える――わけではなく、何とゴドフリーも「一理ある」と頷いた後真剣に悩みこんでしまった。

 おいおい、あんたそんなキャラだったか? いや、そういえばこの男、底抜けの陽気さを纏う豪快極まりない男だった。案外こういうイベントにも積極的に取り組む性質なのかもしれん。

 

「どうせなら『攻略組最強の剣士はこの俺だ』と《黒の剣士》が団長に挑戦状を叩き付けたことにしてはどうだ? わかりやすいし話題性にも富むぞ」

 

 あー、うん、確かに盛り上がりそうだけど、その理由で《聖騎士》に挑む俺が馬鹿っぽく見えないか? まして攻略会議を控えてやるこっちゃないような……。

 しかしそんな俺の内心をよそに、幹部連中は何故だか「それは良いかもしれん」とご賛成の様子。ちょっと待て、実は俺を慌てさせるのが目的なのかあんた達。

 

 まさかアスナまで同意見なんじゃなかろうな。そう考えて恐る恐る彼女に目を向けるとそっと目を逸らされた。

 確信した、こいつら内向きの話では大抵こんなノリなんだ。俺の抱いた遵法精神に溢れ、規律正しい最強騎士団の偶像がガラガラと崩れていく。そりゃ誰だって外面は良くするものだろうけど、血盟騎士団だって例外じゃないらしい。

 あっはっは、マジでこのままだと俺が最強の座を賭けてヒースクリフに挑むことになりそうだ。……勘弁してください、マジで。

 

「なかなか面白い意見も出ているね。では当事者の意見も聞いておこうか。キリト君が挑戦者側という構図は変えられないが、何か希望があるなら今の内に主張しておくと良い」

 

 こういうのは俺よりもアルゴやリズのほうが得意そうだけどなあ。あとはケイタ達も結構面白がるかも。

 俗っぽい理由で、エンターティナーに溢れた精神ねえ。大衆受けを狙うなら、血盟騎士団には俺やヒースクリフよりもよっぽど適任者がいるぞ? そこに俺を絡めるとすれば――。

 

「そうだなあ、おたくの副団長を賭けてってのが一番『らしい』理由になるんじゃないか? 俺が勝ったらギルド立ち上げをするってのを流しておけば、自然と引き抜き目的にも納得してもらえるだろうし」

「ちょっとキリト君、何をッ!?」

 

 前触れなく突然舞台に上げられてしまったアスナに驚愕の表情が浮かび、思わずといった風に叫びがあがる。しかし俺はアスナの抗議を飄々と受け流して続きを口にしてしまう。こんなもの冗談にしかならないよ。

 

「どうせ決闘の後にある程度の種明かしはするんだし、俺が勝った時もアスナを血盟騎士団に返すことで俺達の連帯ぶりを示せるだろう? 後々に禍根を残すようなことにはならないと思うんだ」

 

 問題があるとすれば景品扱いされるアスナの心情くらいだろう。

 しかし《最強の座》にしろ、《女》を巡っての決闘にしろ、どちらが理由でも俺の風聞に良い影響を与えるとは思えないのが悲しい。《黒の剣士》はいったい何処に向かっているのやら。

 

「キリト君とアスナ君の仲が良いのは周知のことだけに、決闘への注目も俄然期待できそうだ。私に反対する理由はないよ」

 

 おや、そこは理由がなくても反対しておくべきじゃないか?

 

「団長、まさか本気で賛成する気ではないですよね……?」

「アスナ君、私は反対する気はないと言ったつもりだよ」

 

 何故かヒースクリフが楽しそうなのは気のせいだと思いたい。

 

「確かに副団長の人気はアインクラッド一ですからな。いやあ、盲点でしたわ。まさかこんな身近にここまでの逸材がいたとは」

「うぅ、ダイゼンさんまで……」

 

 四面楚歌に陥りつつあるアスナに悪いとは思いながら、しかして俺も内心では冷や汗を滝のように流していた。いや、俺はあくまで冗談のつもりだったんだぞ? でもな、俺はどうやら血盟騎士団を舐めていたらしい。彼らは俺の案に反対する素振りも見せず、喜々として賛成の姿勢を見せ始めたのだ。

 嫌な予感を通り越して間近に迫った忌避すべき未来――俺の案を採用するか否かの決選投票を実施することに躊躇するアスナに代わり、ヒースクリフが音頭を取ると賛成多数で瞬く間に採用されてしまった。びっくりするくらいの即断即決である。こんなところで無駄に連帯の強さを見せ付けてもらわなくても結構だ。

 

 もはや俺に言うことはなかった。というか目を丸くして楽しげな彼らの様子を眺める以外に出来ることはなかったと言うべきか。

 つまり、だ。これで俺は、『アスナを血盟騎士団から奪うために』《聖騎士》ヒースクリフに挑戦状を叩き付けたことになってしまったのである。……身から出た錆だし、改めて言うまでもなく自業自得には違いなかった。

 

 この顛末はアルゴに大笑いされるだろうなあ。ついでにクラインには詳細な説明を求められそうだ。サチとシリカは苦笑で済ませてくれそうだけど、リズにはしっかりと呆れられそうだ。

 まあシリカ情報では中層プレイヤーにはこういったゴシップ系の娯楽が好まれるとのことだし、攻略組以外にも集客効果は抜群だろうとは俺も思うので、いつの間にやら客寄せパンダの役割を拝領していたとしても別段文句をつける気はない。……ないのだが、涙目で俺を恨めしそうに睨んでいる絶世の美少女様のご機嫌は、さて、一体どのように宥めたものだろうか?

 

 ひとまずの目的は達したものの、俺の手元にはとんでもない難題が残されたのだった――。

 

 

 

 

 

「――ってことが昨日あったんだ」

 

 第48層主街区《リンダース》では今日も巨大な水車が奏でる叙情的な音色が耳に心地よく響いていた。数多くの職人プレイヤーが鎬を削るように日々精進に努める一方で、この街に流れる時間はとてもゆったりとしたものだ。一目見た時からこの層に店を構えるのだと決意したリズはなかなかの慧眼だと感心もしよう。俺がホームを作った22層の雰囲気も好きだが、この街はそれとは違った趣がある。

 

 現在時刻は午前九時に差し掛かろうかという刻限であり、大抵のプレイヤーが狩りに出る頃合だった。しかし俺は今日一日を休暇と決めているため、迷宮区攻略もレベリング作業もする気はない。

 そういえば一日を丸々オフにするなんて初めてのことかもしれないな。ふとそんな詮無き疑問が浮かび、苦笑しながら黙殺した俺だった。

 

 そんな中、俺はまず朝一でクラインを訪ねて俺なりの存念を伝えた後、ホームに戻ることなくそのまま《リズベット武具店》に足を向けていた。以前のメンテから日を置かずに迷宮区の最奥が発見されたために剣の消耗は軽かったものの、明日を万全の状態で迎えるために武器のメンテを頼みこむ。その傍ら、店主を相手に先日の血盟騎士団を相手にした交渉模様を包み隠さず語り終えたところだった。

 リズが用意してくれた湯呑みから緑茶を一口啜り、ほっと一息つく。

 

「ふーん、とりあえずひどい出来レースだってことはわかった。悪人ねぇ、キリト」

「そんなに褒めてくれるな、嬉しくなっちゃうだろ」

「常々思うのだけど、あんたって悪役(ヒール)が好きよね」

「仮想世界でくらい弾けてもいいじゃないか、ってベータテスト時点では思ってたんだけどなあ。今のアインクラッドじゃ洒落にならん」

 

 ゲームだからこその楽しみ方があるだろうに何故にこんな殺伐とした世界にしやがった、茅場のアホ。

 それとリズベットさん、男の子には悪ぶりたい時期というものがあるのですよ?

 

「そりゃそうでしょうね。てかあんたが正真正銘の犯罪者(オレンジ)になるとか本気で勘弁してよ? 誰も止められないじゃない」

「その時はリズも悪の女幹部やってみるか? 歓迎するぜ」

「お馬鹿、人を悪い道に誘うんじゃないっての。それとあたしの好みはアウトローな男なんかじゃありませんから。そんな誘い文句じゃついてってあーげない」

 

 そう言ってくすくすと笑み崩れるリズを見ていると俺も嬉しくなってしまうわけだが、さりとてこの場にいるもう一人のお姫様をこのまま無視するのもまずいと思うわけで。「むー」と不満顔を向けてくる美貌の主に何と声をかけるか思案していると、先んじてリズが口を開いた。

 

「事情は理解したわよ、それでアスナが朝から不機嫌だったわけか。まあギルドぐるみで景品扱いされちゃねぇ」

 

 リズの手にする新聞には『ついに両雄激突! 《黒の剣士》が《閃光》を賭けて《聖騎士》に挑戦か!?』と、でかでかと一面を飾る見出しが覗いていた。

 クラインには先に舞台裏を伝えてきたけど、有力ギルドの連中にもある程度の情報は流しておいたほうがいいんじゃないか、これ。あー、でも以前のクラディールとの決闘も似たような理由だったし、もしかして攻略組でも納得されてたりするのか? それはそれで複雑だ。

 

 そんな深刻なのかどうでもいいのかよくわからない疑問を抱く俺をよそに、同情半分、からかい半分の顔でリズはこの場にいる三人目のプレイヤーに目を移す。俺よりも先にリズベット武具店を訪れていた栗色の髪の少女は仏頂面を浮かべてちょこんと椅子に腰掛けていた。言わずと知れた血盟騎士団副団長にして《閃光》の異名を取る細険使いである。

 普段は颯爽とした姿で皆の尊敬を集める少女なのだが、今は萎んだ蕾のように精彩を欠いていた。原因は言うまでもないだろう。

 

「景品どころか当て馬よ当て馬。皆面白がって止めてくれないのよ? もう、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」

「ほんと、なんでだろうな?」

「何よ他人事みたいに、今回の事は半分以上キリト君の責任でしょ。わたしが今朝リズのお店に辿り着くまでに、一体どれだけの質問攻めに遭ったか教えてあげましょうか?」

 

 アスナのじとっとした眼差しを受け、思わず顔を背けてしまう俺だった。申し開きの仕様もございません。

 加えて俺の場合は《黒の剣士》の名前は広まっていても、アスナのように顔まで売れているわけではないため、有名人かつ人気者の苦労はわからなかったりする。ご愁傷様としか言い様がなかった。

 

「しかし血盟騎士団のイメージも結構変わったなあ。俺、今まで血盟騎士団のこと規律でぎっちぎちの堅物集団だと思ってたんだけど訂正する。ヒースクリフ含めて思いのほか愉快な連中だった」

「そんな感心のされかたは嫌」

 

 言葉通り嫌そうに顔を顰めるアスナだったが、「でも……」と嘆息混じりに続けた。

 

「うちだって昔はあんなものだったのよ。ギルドの規模が小さかった頃は、団長が手ずから声をかけて一人ひとりメンバー集めていたくらいだしね。昨日の会議参加者だってほとんど古参のメンバーだから気心も知れてるの。変わったのは最強ギルドなんて呼ばれるようになった頃かな、外向きにきっちり対応するためにも厳格な規律が必要になっちゃったって感じ」

「へえ、そうだったのか」

「……ああ、そっか。わたし達が《緩かった》頃は、キリト君は全力ソロプレイ中だったせいでほとんど関わりがなかったし、気づかなかったのね」

 

 ちくりと嫌味が飛んできた。ぐぬぬ。

 

「ま、まあ人数が増えれば増えるほど規律だとかルールが必要になるもんだよな。《軍》はその舵取りに難儀して半ば分解しちまったわけだし」

「露骨に話を逸らしたわねえ」

 

 リズの冷静な指摘が痛かった。低層攻略当時の猪武者ぶりは俺にとって黒歴史に等しいので、どうかこれ以上触れないであげてくださいお願いします神様仏様アスナ様。

 冷や汗たらたらな俺を気遣ってくれたのか、それとも一矢報いたことでよしとしたのか、それ以上の追撃はなくアスナの表情からも険が消えた。ようやく許してもらえたらしい。

 

「なあアスナ、もしかして血盟騎士団に入団するって約束を反故にしたことも怒ってたのか?」

 

 信義に(もと)るとまでは言いたくないけど、やっぱり不誠実な行いだよな。昨日の一件とは別として、アスナには多少後ろめたい思いも持っていた。

 しかしながらアスナは「ああ、そのこと」と気に留めた素振りもなく、すぐに否定の言葉を紡いだのだった。

 

「別に怒るようなことじゃないかなあ。状況が変われば判断も変わるものだし、キリト君がうちに入団するに当たって条件をつけたことにも文句はないよ?」

「アスナが寛容な女の子で助かった……」

「ただ、うちの団員はもうキリト君がうちに入団するものだと考えてるけどね。昨日も半分身内扱いされてたでしょ?」

 

 つまり俺の敗北が織り込み済みということである。むむ、わかっちゃいたがヒースクリフのほうが上と思われるのは面白くないぞ。

 

「なるほどなるほど。……こうなったら意地でもヒースクリフに勝ちたくなったな」

「そのことなんだけど、キリト君は本気で団長に勝つつもりなの?」

「ん? どういうことだ?」

「だって、この前キリト君に団長と力比べしたらどっちが強いか聞いた時、初撃決着モードのほうが勝率は高いって分析してたじゃない。なのに今回はわざわざ半減決着モードを選んだでしょ? お祭りのメインイベントが一瞬で終わったら盛り上がりに欠ける、っていうのもわかるけど」

 

 不思議そうに尋ねてくるアスナの発言に興味をそそられたのか、リズも思案顔になって俺に視線を向けてくる。こういう『誰が一番強いのか』『お山の大将は誰だ』みたいなゴシップは俺達男向きの話題だと思うんだけど、アスナやリズも結構気になってる様子だな。ちょっと意外だ。

 

「どっちがやりやすいかと言えば初撃決着には変わりないけど、机上の勝率そのものは上がってるぞ。75層の戦いで《神聖剣》の効果範囲と併せて限界もおおよそ見えてきたからな。絶対とは言えないけど初撃決着なら互角以上に、半減決着でも十やって三つ四つ勝ちを拾うくらいの戦績は残せると思う」

 

 随分自信家じゃない、と笑顔で茶化してくるリズに俺も不敵な笑みを返す。ふふん、強がりを言っているわけでもなく純然たる事実なのだ、自信たっぷりに吹聴もしよう。

 なにより75層の戦いで自身のポテンシャルを十全に発揮する端緒を掴んでいたのだ。あの静寂に満たされた不思議な感覚を体験できたことは、俺にとって誇張ではなく新たなステージへの幕開けだった。

 無論、自由に使いこなせるわけではないし、未だあの時ほど深く入り込むことも出来ていないが、それでも俺は確実に強くなっている。日毎に《認識の広がり》を実感しているのだった。

 

「わたしとしてはキリト君に勝ってほしいけど、そうなると一緒のギルドで戦えなくなっちゃうし複雑かなあ」

「そのへんは今後の攻略難易度次第だな。状況が許せばアスナとのコンビを復活させたいし、しばらくは血盟騎士団のシフトに助っ人って形で参加しても良いと思ってる。まあどっちに転んでも俺の損にはならないし、血盟騎士団の損にもさせないよう動くつもりだよ。ただ、出来ればここらで一度ヒースクリフに勝っておきたいと思う」

 

 周囲にわかりやすい形で攻略組における俺の立場、影響力を強めておきたいのだ。今すぐヒースクリフに取って代わる気はなくとも、それを『いつでも出来る』状況まで事を進めておきたいのが俺の本音だった。そうなればこの先不測の事態が起こったとしても皆の混乱を最小限に抑えられるはずだ。

 

「ふーん、キリト君は本気で《聖騎士》と《黒の剣士》を中心に据えた攻略構想を練るつもりみたいだね。ユニークスキル使い――団長とキミの危険が増すことは避けられないし、わたしも出来る限りフォローはするつもりだけど……大丈夫なの?」

「さて、俺はともかくヒースクリフにはまだ余裕があるように見えるんだけどな。さすがに一人でボスを狩ってこいとは言わないけど、多少の負担を増やすくらいなら許容できるはずなんだ。実力、声望が共に抜きん出たヒースクリフに、正面からもっと働けって突きつけられるプレイヤーが一人もいないのが問題なんだよ」

 

 俺が思うにこの先の攻略を進める一番の鍵は《聖騎士》にある。ヒースクリフをどの程度利用することが出来るか、どこまで使いこなせるかでアインクラッドの今後が決まるだろう。

 なに、遠慮はいらない。奴は間違いなく余力を残しているし、むしろ使い潰すくらいの気持ちで丁度良いさ。

 

「俺が決闘に勝てばよし、奴に多少の無茶を強いることもできるようになるだろう。仮に俺が負けた場合はアスナと協力して奴のケツを蹴り上げてみようか。副団長二人の意見なら無碍にしないだろうしな」

 

 最善は《聖騎士》を部下にして使いまわすことなんだけど。

 そうぼやいて見せると、アスナとリズは互いの顔を見合わせ、何が面白いのか二人同時に噴き出して軽快な笑い声をあげたのだった。あれ、俺としては真面目な話をしてたつもりなんだけど?

 

「やっぱりあんたって相当な変わり者だわ。そんな理由で一大イベントを起こすなんてねぇ。うん、どうせなら勝っちゃいなさい。あたしが許すわ」

「わたしは聞かなかったことにしといたほうが良いのかなあ……。あの団長相手にそこまで言えるのはキリト君くらいだよ、ほんと」

 

 アスナは呆れの色が強かった。しかしそんなに大それた考えかね? 攻略組、殊にフロアボス常連プレイヤーなら皆が一度は考えそうなものなのだが。

 

「そういえばキリトが勝った時は新しくギルドを作るんだっけ。うちにくる前にクラインに会ってきたらしいけど、やっぱそのへんの相談?」

「まあそんなとこ。俺は今の血盟騎士団を中心にした攻略組の枠組みを変える気はないから、今更俺を頭にしたギルドを作ったところで形式だけのものになるだろうしな。将来的には血盟騎士団なり風林火山なりに吸収合併されちまってもいいし、構成員も俺一人のぼっちギルドになるんじゃないか?」

「うわ、まじで形式だけじゃない」

 

 そこでリズは何かに思い当たったように満面の笑みを浮かべると、鼻歌でも歌いそうな調子で朗らかに続きを口にしたのだった。

 

「そうねえ、ならキリトがギルド作ったときは、あんたの専属鍛冶屋であるあたしが直々に入ったげる。嬉しいでしょ?」

「感謝感激雨あられだな、割とマジで」

「ふふーん、そうでしょそうでしょ。あ、ところでギルド名とかもう決めてるの?」

「いや、特に何も」

 

 ギルド立ち上げの優先順位は低いため、本腰入れて準備をしているわけでもない。76層のフロアボス撃破の後に適当に考えるつもりだったからほとんど白紙だ。だからこそ戯れの気持ちで、「リズなら何てつける?」と軽く話を振ることだって出来る。

 

「んー、キリトのイメージカラーから取って《黒の騎士団(Black Knights)》とか?」

「安直な命名だなあ」

「こういうのは変にひねらないほうが良いのよ」

「そういうもんか?」

「そうそう。あとは親しみ重視で《キリトと愉快な仲間達》とか」

「それは俺が不愉快だ」

 

 遺憾の意を表明させていただきます。

 

「ありゃ、残念ね」

 

 全然全くこれっぽっちも残念に思ってなさそうなリズである。

 そんな軽口の応酬はともかく、俺の力になってくれるというリズの気持ちはありがたく貰っておくけどさ。どのみち俺の去就も決闘の結果如何になるわけだし、これ以上話の進めようもない。

 それとは別にアスナがリズを少しだけ羨ましそうに見ていたのは……ふむ、男名利に尽きるということにしておこうか。

 

「さてと、俺はこれからニシダさんの誘いでサチと一緒に《湖の主釣り大会》の見物にいくけど、アスナとリズはどうする?」

 

 リズが丁寧に研磨してくれた二本の剣を受け取り、遅滞なくアイテムストレージに収納しながらこれからの予定を告げる。

 

「ニシダさんの?」

「ああ、クラインのとこに向かう前に偶然顔を合わせてな。アルゴとシリカにも声をかけたんだけど、あの二人は今日忙しいから無理だってさ」

 

 まあその忙しさの原因は明日の決闘イベントに関することなので、二人の多忙は俺のせいだったりするのだが。

 クラインはギルド総出で今日一日レベリングに費やすため遠慮するとのこと。エギルは店が忙しい……わけではなく、何やら明日のイベントに出店する打ち合わせがあるとかぬかしてたな。商魂たくましい奴だ。

 

「誘いは嬉しいけど、あたしはお店があるから今日はパス」

「忙しいのか、残念だな」

「何言ってんの、あたしが今日忙しいのはあんたのせいよ。常連のお客さんが皆、明日の予定をオフにしたせいで昼過ぎから夕方にかけて持ち込まれるメンテ注文が殺到してるの。今の内にノルマを済ませておかないと明日見物にいけなくなっちゃうわ」

 

 おっと、ここにも余波が出ていたらしい。

 

「あっはっは、そいつは災難だったな、リズ」

「こんにゃろう、マジで他人事だと思ってるわね、あんた」

「商売繁盛は良いことだろ? アスナはどうだ?」

「わたしも今日は会場設営と当日の人員割り振りを詰めなきゃいけないから無理かな。ダイゼンさんが張り切って出店の仕切りを決めたり余興の出し物を募集してるのよ。そのおかげでわたし達は準備に大忙しになる予定」

 

 俺は広報担当――という名目で暇が出されている。仕切りは全て血盟騎士団がやってくれるのだから楽なものだ。何もしないのもどうかと思うし、裏事情の説明がてら午後は攻略ギルドのトップ連中を廻ろうかなあ……。

 

「悪いな、明日の収益金の5%は俺の懐に入ることになってるから、後で好きなもの奢ってやるよ。ついでにリズにも」

 

 ついでって何よついでって、と呆れ顔で憤慨してみせるリズを横目に、アスナはひょいと肩を竦めて「いらない」と口にした。

 

「ダイゼンさんから聞いてるわ。その臨時収入は決闘の後でうちの団員を労う打ち上げ費用にするつもりのものでしょ? デートに誘ってくれるのは嬉しいけど、その時は割り勘でいいわ。それよりキリト君はいつの間にダイゼンさんと仲良くなったわけ?」

「ああ、ダイゼンならこの前ゴドフリー経由で紹介してもらったんだ。つーかダイゼンが俺らの集まりに勝手に突撃してきたんだけどさ。ゴドフリーも呆れてたぞ、どっから聞きつけてきたんだって」

「ダイゼンさんは顔も広いし鼻もきくから、何か面白そうなことがあるとすぐに首を突っ込みたがるのよ。フットワークが妙に軽い人なのよね」

 

 奴の鼻が嗅ぎ分けるのは銭の臭いだろうけどな。俺がレアアイテムの卸し先として譲歩した条件だって事前に相談済みの事だったりする。ああいう利害で話せる相手は付き合いやすい。

 

「それはそれとして、あの野郎、商人プレイヤーは信用が命だってのにアスナに情報漏らしやがって。あとで文句言ってやろう」

「ダイゼンさんとゴドフリーとわたし、幹部の過半数に根回ししてから団長に祭りの開催を提案した、お腹の中が真っ黒クロスケなキリト君が何を言っているのかな?」

「いやいや、クライン曰く『根回しを知らない社会人は落第生』らしいから、俺が腹黒なんてことだけはないぞ」

 

 トップ会談の前に実務者協議をすることは常識だろう? マナーだよマナー。

 ついでに言えばアスナにも事前に話を通していたのだから、ここで非難されるのは心外というものである。

 

「もう、ああ言えばこう言うんだから」

「俺、この世界に来てから何故か口が良く回るようになった気がするんだよな」

「それは自慢することなの?」

「さあ?」

 

 胸を張って威張れることではなさそうだ。

 

「あんた達は相変わらず仲が良いわねえ。ま、明日は頑張んなさいよ、キリト。応援してあげるから」

「ああ、微力を尽くすよ」

 

 明日の激突を思えば否応なく気合も入るというものだ。

 あの男に負けたくない、勝ちたい。そのためにプレイヤー相手には極力使わないと決めていた《二刀流》だって振るうことにしたのだから――。

 

 

 

 

 

 《ニシダ》というのは俺達と同じプレイヤーの名前である。おそらく現実世界の名字を安直にプレイヤーネームに設定した口だとは思うが、異色なのはその年齢だろう。十代、二十代のプレイヤーが多数を占めるアインクラッドで、五十を超えてそうな外見は珍しいと評するに十分だった。

 

 そんな初老の男ことニシダ氏は現実世界で《東都高速線》というネットワーク運営企業に勤め、そこで保安部長の職務に励んでいたのだという。勤め先がソードアート・オンラインの開発会社《アーガス》と提携していたとのことだ。

 回線保守の仕事の傍ら、一度は自分の仕事を直接見たかったという理由でログインし、そのままこの世界に囚われてしまったのだから不運としか言い様がない。本人は『年寄りの冷や水がとんでもないことになった』と笑っていたが。

 

 俺がニシダさんと知り合ったのも22層に越してきてからのことで、何度かユイを連れて散歩に出ていたときのことだった。22層は定住するプレイヤーも少なく、別の層から狩りやクエスト目的に訪れる者もいないが、唯一釣り師だけは例外だった。モンスターがポップせず、層全体が長閑な風情のためか、日がな一日釣り針を垂らす絶好のスポットなのだそうだ。

 

 当初俺はユイの込み入った事情もあって彼らと交流する気はなかったのだが、この層で釣りを楽しむ常連プレイヤーは何というか『変わっていた』。ニシダさんの話ではゲームを楽しむ目的でログインしたのではなく、業務上の関係やら何やらで閉じ込められてしまった高齢のプレイヤーが中心になって結成した釣り師ギルドのメンバーのため、悪し様に言えば皆《世捨て人》なのだという。

 

 彼らはゲームクリアを望んではいてもどこかで諦めてしまっている。モンスターと戦う気力が持てないために早々に剣を握ることを放棄し、のんびり竿を振る毎日を送っているのだ。自殺をするほど差し迫った憂慮もなく、さりとて能動的に駆けるに足る未来への展望もない。故に世捨て人。

 

 彼らの内の幾人かはユイのカーソル非表示にも気づいていたし、俺が最前線のプレイヤーであることにも察していたようだが、そのことに言及された事は一度もなかった。俺としても変に気負わなくて済むのが有り難かったことを否定しない。それに自棄になられるくらいなら、こうして静かな余生を送っていてもらったほうがずっと良いだろう。

 

 ――いずれこのゲームは俺が終わらせる。それまで生きていてくれれば十分だ。

 

 そんなニシダさん主催の《湖の主釣りイベント》にお呼ばれされ、時間の都合もつくと頷いた以上、遅刻するわけにもいかない。時間にやや余裕を持たせ、十時の半ばを過ぎた頃に俺とサチは外出の準備を終わらせ、ログハウスを出発した。

 軽妙に弾む会話を交わしながら22層に点在する湖畔目指して歩を進めていく。周囲に目をやれば背の高い針葉樹の隙間から柔らかな光が差し込み、地面を明るく照らしていた。隣を歩く少女の歩幅に歩調を合わせ、ゆっくり流れ行く景色を楽しむ。既に何度も歩いたことのある道だ、俺とサチの足取りも軽かった。

 

「今日は天気が良くて風も気持ち良いね。こんな日はお布団を干したくなっちゃうよ」

「所帯じみてるなあ。そもそもアインクラッドでは洗濯の機会もないだろうに」

「すぐそうやって茶々入れない。キリトだってお日様の光をいっぱい吸い込んだふかふかベッドが好きだって言ってたじゃない」

「そういやそんなことを言ったこともあったな。どうせならこっちの世界でもあの感触を再現してくれればいいのに」

 

 ゲームマスターに要望でも送ってみるかと冗談交じりに笑う。サチが「それ、いいかも」と生真面目な顔でつぶやくのを眺め、さらに笑みが深くなるのを自覚した。

 サチと連れ立ち森を抜けると、きらめく水面が美しい広大な湖が視界いっぱいに広がる。俺達のような見物客を含めイベント参加者は既に大半が集まっていたようで、そこかしこにプレイヤーの姿が見える。見た限り年配のプレイヤーだけでなく若手の釣り師も招待されているようだ。

 

 さてニシダさんはどこに、と改めて周囲を見渡そうとした時、俺達の到着に気づいたのかずんぐりした一人の男が近づいてきた。深い年輪が刻まれた額の下、黒縁の眼鏡の奥には柔和な目元が覗いている。日除けの帽子を左手に、年季の入ってそうな長大な釣竿を右手に携え、『三度の飯より釣りが好き』と豪語する、アインクラッドで最年長に当たるであろうプレイヤーが朗らかに笑って挨拶を口にした。

 

「今日はこんな年寄りの道楽に付き合ってもらってすみませんな。もしやご予定がありましたか?」

「いえ、俺も今日は息抜きをしたかったのでニシダさんに誘って頂けて感謝してます」

「それはよかった。湖上でボートに揺られるような優雅な楽しみ方ならともかく、私のような老体が興じる釣りイベントでは若人のデートスポットに不向きですからな。お二人の邪魔をしてしまったのではないかと戦々恐々しておりました」

 

 そう言って俺とサチを交互に見やるニシダさんはまるで孫に向けるような、という形容がぴったりの眼差しをしていたと思う。

 考えてみればニシダさんくらいの年齢だと実孫がいてもおかしくないんだよな……。俺達を気にかけるのもそのせいかもしれない、あるいはユイの姿が見えなくなったことを心配してくれているのか。

 

「そんなことはありませんよ。なあサチ?」 

「うん。……あの、ニシダさん。私は普段街に篭りがちで、ギルドの皆にたまには羽を伸ばしてこいって心配されちゃうくらいなんです。ですからこういうイベントはとっても新鮮ですし、なによりこうしてキリトと一緒にお出かけできるだけで私は嬉しいですから」

「ほほう、これは一本取られてしまいましたな。いや、若いというのはすばらしい」

 

 淑やかに微笑むサチの姿にニシダさんは虚をつかれたように目を瞬かせるも、すぐに好々爺然とした佇まいを取り戻して「愛されてますな、キリトさん」と破顔一笑するのだった。

 

「ところでキリトさんは見学だけと仰っていましたが、こちらのほうに興味は?」

 

 そう言って右手の釣竿を示してくるニシダさんなのだが、これはもしや同好の士を増やそうとしているのだろうか? 残念ながら俺は戦闘関連のスキルしか取っていないから釣りスキルを持っていないし、よしんばスキルスロットに取得する余裕が出来たとしても育てる時間までは取れそうにない。

 

「釣りには興味ありますけど、趣味にするにしてもすぐに実践するのは難しいですね。今日のところはニシダさんの歴戦の強者ぶりを拝見させてもらいますよ。大物を釣り上げる瞬間を見せていただけるんでしょう?」

「わっはっは、これは是が非でも湖の主を釣り上げねばなりませんなあ」

「おーい、ニシダさんやい、折角のゲストを独り占めにするもんじゃないぞ。俺らにも紹介してくれや」

 

 大仰なくらいに胸を張るニシダさんだったが、そのひょうきんな仕草と朗々と響く笑い声に周囲のプレイヤーの耳目を集めてしまったらしい。すぐさまからかいの混じった野次が飛んでくると、ニシダさんが「これはいかん」と俺とサチを促し、湖の畔へと誘っていく。

 どうも彼らは既に釣りコンペを楽しんでいたらしい。それぞれが散らばって釣りに勤しんでいる場所にお邪魔し、ニシダさんに紹介してもらいながら挨拶や世間話に興じ、のんびりとした時間を過ごさせてもらう。どの層のどんな時間帯でこんな魚が釣れたという自慢話や、もし釣りをしてみたいならあそこの店にいけば初心者ご用達の道具一式が揃うだとか、皆が皆陽気に話しかけてくる。

 

 俺はそれなりに楽しめていたのだが、サチはどうだろうと時折隣に目を移すも、いらぬ心配だったらしい。口数は少ないものの表情は柔らかく、纏う空気も優しい。どうやらサチなりにリラックスした時間を過ごせていたようだ。

 しかし、釣りの魔力恐るべし、とでもいうのだろうか? この場には三十人そこそこの釣り師仲間が集まっていたようだが、年齢も見た目二十そこそこのプレイヤーからニシダさんのように五十を超えるような年長者まで幅広い。それどころか皆の出身、階層拠点もてんでばらばらで、今日はニシダさん主催のイベントのためにわざわざ足を運んでいる者も珍しくなかった。この様子だとニシダさんは現実世界の会社勤めでも部下に慕われる良き上司だったのだろう。

 

「皆さんそれぞれ楽しまれているところ恐縮ですが、一時切り上げてこちらに注目していただけますか」

 

 二度拍手を打つ音が聞こえ、そちらに視線が引き寄せられるとニシダさんが朗々と本日のメインイベント《湖の主釣り決行》を宣言するところだった。長大な竿を高々と掲げたニシダさんのパフォーマンスに場がどよめき、皆がやんややんやと囃し立てる。なんだか決闘宣言時のノリのよさを彷彿させるなあと頷きかけて、その物騒な感想に苦笑が漏れてしまう。我が事ながら感覚がおかしくなっているらしい。

 

「サチ、俺たちは邪魔にならないよう少し離れていようか」

「うん、わかった。それと飲み物用意してきたんだけど、どうかな?」

「ありがたく貰う」

 

 イベントの邪魔にならず、さりとて決定的瞬間を見逃すことのないよう視界をキープできる場所を物色し、アイテムストレージから使い捨てのレジャーシートを取り出すとサチと二人で腰を下ろす。程なくサチが差し出してくれたカップを受け取り、喉を潤した。甘酸っぱい果実の旨みが口いっぱいに広がっていく。

 

「わ、おっきい餌だね」

「あんなのを餌にするなら、ニシダさんが狙う獲物だって比例してでかくなるってもんだよな」

 

 サチの驚きはニシダさんの構えた竿から伸びる、太い糸に括りつけられた特大のトカゲを目に映してのものだった。大人の二の腕ほどもある大きさを誇り、ぬめぬめとした皮膚は赤と黒で彩られて如何にも毒々しい。

 

 トカゲそのものは22層の主街区《コラル》の道具屋で手に入るアイテムだ。釣りに使う餌としてはある種異様なほど高額の値段で売られている。

 ニシダさんは以前物は試しとそのトカゲを購入したことがあり、22層の湖であれこれ試した結果、唯一難易度の高い設定がなされている釣り場――つまり現在俺たちの前に広がる湖でヒットするところまではこぎつけたらしい。しかしニシダさんの筋力値では湖の主を釣り上げるまでは至らず、口惜しくも逃がしてしまう結果となったようだ。今日はそのリベンジも兼ねているとのこと。

 

「さてさて、どうなることやら。釣りスキルに《スイッチ》は応用できるものなのかね」

「ニシダさんの力じゃ引っ張りきれないから、途中でパワー自慢のプレイヤーと交代するんだっけ? キリトがやってあげたほうが確実なんじゃないの?」

 

 釣りスキルの高いニシダさんが獲物を引っ掛け、足りないパワーを補うために別のプレイヤーとの釣り版《スイッチ》の併せ技で挑む。そのシステムの穴を突こうとする試みが面白そうだと思ったからこそ俺も見物することにしたのだった。

 

「釣りスキルがなくてもシステムがスイッチを許容してくれるならやってもいいな。でも、多分大丈夫だと思うぞ。言い方はあれだけど所詮22層の獲物でしかないんだし、中層クラスのレベルさえあれば必要筋力値は十分満たせるだろ」

「んー、もしかしてニシダさんの隣にいる人と知り合いだったりする? さっき少しだけお話した時、何だか不自然な態度だったけど」

 

 そう言って小首を傾げて思案顔で尋ねてくるサチに内心で鋭いな、と評価を送る。大声で話すことでもないため、サチの耳元に口を寄せてそっと事情説明をすることにした。

 

「あの人な、昔攻略組にいたプレイヤーなんだよ。迷宮区で俺と顔を合わせたこともあるし、最前線からドロップアウトしてのんびりしてる現状が後ろめたかったんじゃないか?」

「ああ、それでキリトに対してよそよそしかったんだ。うん、わたしも聞かなかったことにする」

「そうしてくれ。……お、始まるみたいだぞ」

 

 しん、と静まり返った観衆の中、これから強敵に挑むと言わんばかりに表情を引き締めたニシダさんは大上段に竿を構え、「せやあッ!」と気合の篭った叫びを発した。堂に入ったフォームから繰り出された竿の一撃は、綺麗な放物線を描くトカゲの小旅行と化し、かなりの飛距離を稼いだ後に水しぶきをあげて着水、湖の水面を貫いて水底へと潜り込んでいった。

 

 アインクラッドではその生活の多くが簡略化されている。料理然り、裁縫然り、鍛冶然り。釣りスキルも例外ではなく、仕掛けを釣りスポットに放り込めば一分もしないうちに成否判定が出る。

 今回はどうなるか、と興味深く水面に描かれた波紋の中心を眺め、次いで今か今かと竿を引き上げるタイミングを図っているニシダさんの真剣極まりない表情を視界に収める。俺とサチのみならず、ギャラリー全てがニシダさんの一挙手一投足に注目していた。

 

「いまだッ!」

 

 その掛け声を合図にニシダさんが力強く竿を引き上げようと全身を反らすと、細い糸が空気を揺らす独特の効果音が俺たちの元まで届いた。そのまま「あとは頼みます」と後事を託された元攻略組プレイヤーへと場所を譲り、周囲と同じように頑張れと声援を飛ばす。

 ニシダさんの執念が実ったのか、スイッチ行動も遅滞なく行われたようだ。交代したプレイヤーが綱引きするように少しずつ両足を後退させ、それに伴って水面に巨大な影が迫っていた。

 

 いよいよ《湖の主》がその全容を見せるのかと見物人が一斉に水際へと駆けていき――そこでくるりと振り返ると、何故か全員一目散に逃げ出した。俺達の座る場所よりもさらに後方、土手の上へ目指して走り去っていく。

 

「キリト……。私、なんだか嫌な予感がする」

「俺もだ」

 

 やがて逆向きの滝のような水流があがり、ややあって水飛沫がおさまる。そうして俺達の視線の先、皆が注視する岸辺には一匹の魚が立っていた。うん、『魚が立っていた』という表現がおかしいのは自覚しているが、そうとしか言いようがないので許してほしい。

 二メートルを楽に越す全高、五メートルを数えようかという全長。ずんぐりした巨大な体躯の左右には三対六本の足が存在し、冗談ではなくその巨大魚は地面をしっかりと踏みしめ、俺達を見下ろしていた。プレイヤーを丸呑みできそうな巨大な口から、先ほど餌として使ったトカゲの足がはみ出ているのがシュール極まりない。

 

 ニシダさんが助力を得て釣り上げた魚はもはや魚ではない、どう見てもモンスターである。モンスターを示す黄色いカーソルとHPバーも存在するため確定だ。

 クエストなしでも出現するイベントモンスターか、レアだなあ……。

 

「キ、キ、キリトさん! 暢気に座ってないで逃げてください! 若奥様も早く……!」

 

 ボス顔負けの咆哮をあげ、その見た目に似合わぬ俊敏さで地響きと共に迫り来る巨大魚をバックに、慌てふためいた様子で逃げ出す途中、俺とサチに避難を呼びかけるニシダさんの顔はすっかり青褪めていた。この異常事態にあっても他人を気遣える心根は得がたいものであろうし、だからこそ皆に慕われてもいるのだろうけど……あの、俺が攻略組の剣士だってこと忘れてません? ついでに言うと俺はサチと婚姻を交わしているわけではないので、若奥様は誤りだ。って今はそんなことを考えてる場合じゃないか。

 

 あの巨大魚を釣り上げたプレイヤーなら逃げなくても退治できそうな気がするが、突然のことでパニクったか、あるいは武器を用意してこなかったのか。この層はモンスターが湧出しない特殊マップ続きであるため、武器がなくても特別困るようなことは起こらない。無用心だとは思うが、それをここで指摘しても無意味だ。

 

「サチは逃げなくていいのか?」

 

 まずはスローイング・ダガーを取り出し、規定のモーションを取って《投剣》スキルを発動。これでタゲ取り成功っと。

 ぎょろりと巨大な目が向けられるのを黙殺し、淡々と作業を続ける。アイテムストレージから二本の剣を取り出す間、やけに落ち着いた様子で動く気配を見せない少女へと問いを向けた。

 

「キリトが逃げろって言わないからこのままで大丈夫かなって。生意気だった?」

「そこまで信頼してもらえると誇らしくなるな」

 

 ふっと笑う。

 

「サチはそこで見ててくれ、すぐに終わらせる」

「うん。頑張ってね、キリト」

 

 サチの声援を受け取り、両手に握った剣の感触を確かめながら一歩踏み出す。俺に向かって突進してくる巨大魚を見据え、先制の一撃からソードスキルへの大技につなげるのは造作もないことだった。今更22層の、それも釣りイベントで出てくるようなモンスターに苦戦する道理はない。

 明日の景気づけという意味で俺が放ったのは、俺の十八番にして二刀流上位スキル《スターバースト・ストリーム》。

 

 さて、この選択の顛末を述べるならば次の一言で事足りるだろう。すなわち、《オーバーキル》である、と。

 

 

 

 

 

「いやー、圧巻でしたなあ。キリトさんがお強いとは聞いてましたが、想像のはるか上でしたわ」

 

 不意のアクシデントを乗り切り、俺の調子に乗ったパフォーマンスに興奮覚めやらぬ中、ニシダさんがイベント終了と解散を告げたのが数十分前。俺とサチはニシダさんを伴い、場所を俺のホームに移して卓を囲っていた。

 

 テーブルの上には数々の魚料理が並んでいる。ニシダさんが提供してくれた魚をサチに調理してもらったものだ。幸いアスナがおすそ分けしてくれた醤油が残っていたため、刺身や煮付けを存分に楽しめる贅沢な食卓となった。後でアスナに礼を言っておこう。

 懐かしい醤油の味に飢えていたニシダさんの喜びはすさまじく、それはもう筆舌に尽くし難い感謝を述べられてしまった。俺とサチはそんなニシダさんに揃って目を丸くしていたものだ。

 

「不謹慎ですがあの突発的なアクシデントもあってイベントは大盛況でした。これもキリトさんのおかげです」

「怪我人もなく終わりましたからね、終わりよければ全てよしとしておきましょう。俺も楽しかったですよ」

 

 こうして釣りスキルが高くないと味わえない珍味まで楽しめてますし、と付け加えると「それはよかった」とニシダさんも笑う。

 

「しかしよろしかったのですか? 折角キリトさんが手に入れたドロップアイテムを私がタダで頂いてしまいましたが」

 

 先程の巨大魚を倒すとドロップ品として白銀に輝く釣竿が出現した。それを俺はニシダさんへと譲ったわけだが、それを申し訳なく思ったニシダさんが今日釣った魚をお返しにと言い出したことが三人で囲む昼食会の発端だった。

 

「俺が持っていたって使い道もないですし、宝の持ち腐れも良いところですから」

 

 そうは言いますが、とまだ申し訳なさそうな素振りを見せるニシダさん。

 俺としてはコルに困っているわけでもないし、ニシダさんに譲った釣竿が高価なものだとも思えない以上、手元に残しておく価値のないアイテムだった。さて、どう言いくるめようか。

 

「ではこうしましょう。明日、お暇なら75層のコロシアムで行われる決闘イベントを見物しにきてくれませんか? できれば今日の参加者にも声をかけていただければ嬉しいですね。……ニシダさん達にはあまり楽しめる催しではないかもしれませんけど、気分転換くらいにはなるのではないかと」

「……参りましたな、どうやら気を遣わせてしまったようだ」

「ご自分で《世捨て人》と言い捨てていたくらいですし、自覚はあったのでしょう? 心配させていただくわけにはいきませんか」

 

 俺のような若造が何を言ってるんだか、と内心の自嘲を押し止めて続きを口にした俺に、ニシダさんは穏やかな眼差しで「ありがたいことです」と頭を下げたのだった。

 

「出すぎたことを申し上げました」

「いやいや、こういうのは発破をかけられているうちが華なのですよ」

 

 手前味噌ではあるが、明日の決闘イベントはそれなりの話題性を持っていると自負している。事実アインクラッド全体が明日のお祭り騒ぎに向かいてんやわんやになっているのだ。そんな時だというのに、今日の参加者は周囲の喧騒など知らぬとばかりにマイペースを貫いていた。その無関心さが何に起因するのか、想像は容易いだろう。

 

 無論、それを察した上での誘いは単なるお節介である。放っておいてくれと考えている人達を、無理やり引っ張っていくような真似は本来好ましくない。俺のような若造よりもよっぽど人生の辛酸を舐めてきた人達だ、余計なお世話だと言われないだけマシだった。

 

「私共も情けない、とはわかっているんです。今でもキリトさんのようにゲームクリアを目指して戦い続けているプレイヤーがいることは知っていますし、あなた方を応援させて頂いていることに変わりはありません。ですが、その一方で今更帰っても、と諦めてしまっている自分もいるのですよ」

 

 二年という月日は長かった……。

 そう力なく零すニシダさんの顔には、途端に老け込んでしまったかのような色濃い疲労が顕著に現れていた。

 

「キリトさんには私が電気屋の世界で働いてきたことは話しましたな。ご存知のように技術は日毎に進歩していくものですし、茅場氏の登場によって仮想世界を実現させる種々の技術が確立され、既存の知識も軒並み塗り替えられてしまいました。私とて技術屋の端くれです、ずっと第一線で張って来た意地がありましたから、その加速する技術革新にもどうにかしがみついてきたのですよ」

 

 ですが、と。

 

「ここに二年も閉じ込められてしまいましたからな。これから残り25層がクリアされるまでどれほどの年月が必要なのか、よしんばこの世界から開放されても会社に戻れるのか、首尾よく復職できたとして《今の技術》についていけるのか。そうした先々のことを考えるとどうにも気力が削がれてしまいましてな。その結果が全てに目を背けて竿を振る享楽の日々です。まったく――良い歳をした大人が情けない限りですよ」

 

 悲嘆の内容の割に平素な口調で語ってくれたのは、おそらく俺とサチへの気遣いがあったのだろう。長く生きてきた人生の重みがそこかしこに感じられる、そんな一人の男の述懐に俺が気軽な慰めを挟めるはずもなかった。

 ソードアート・オンラインはその内に閉じ込めたプレイヤーから多くのものを奪った。ゲームクリアをしたからといって返って来ないものはたくさんある。

 

「……昔、といっても数ヶ月前のことですが、俯いてばかりいた俺に『後ろを見ないで前を向け』と忠告してくれた人がいました。俺が不幸になるなら自分も不幸になってあげるとまで言ってくれた女の子もいます。俺はこの世界に来てから、自分がつくづく後悔の仕方が下手な人間で、反省の生かし方を知らない子供であることを突きつけられましたよ」

 

 きっと俺はこの時笑っていたのだろう。笑って自身を語れるようになっていた。

 俺はたくさんの人に支えられて生きてきた。そんなことにすらなかなか気づけなかった間抜けだけれど。

 

「未熟者は未熟者らしく、今は前だけを見ることに決めたんです。ニシダさん、俺はこの世界を終わらせますよ。それがいつかまではお約束できませんが、必ず訪れるその日までどうか壮健で在られますよう、伏してお願い申し上げます」

「……ひたむきさは若者の特権と言われますが、キリトさんはお強いですなあ。この老骨には些か眩しいくらいです。こうして向き合っているだけで感じ取れる若々しいエネルギーがとても頼もしく思えますよ」

 

 私も人生これからだと思わされてしまう、と相好を崩すニシダさんの言葉を素直に受け取っておこうと思った。社交辞令と断ずるのは寂しい。

 

「この世界に来た意味、この世界での出会いにも意味はあったのだと信じたいだけです。俺はずっと最前線で戦ってきました。別に人に誇れるような理由で戦ってたわけではありませんし、最近では開き直って剣を振ることに楽しみを見出していたりもします。それでも――現実世界に帰れたなら、その時はもう二度と仮想世界に関わるものか、って考えてました」

「今は違う、と聞こえますな」

「ええ。この世界への腹立たしい思いは残ってますし、茅場晶彦を許せない気持ちが消えたりはしないでしょう。ただ、そんなことよりも大事な事が出来ました。もう一度会おうと約束した子がいるんです。俺を父と慕ってくれたその子のためにも、俺は仮想世界に関わり続けることになると思います」

 

 ユイのデータを展開させるための情報空間が必要だ。そのためにも仮想世界との関わりを絶つわけにはいかなかった。

 

「そうした事情を抜きにしても、この世界で体験した感覚についても検証してみたいんですよ。例えばソードスキルの代わりに各種スポーツの動きを再現して、こっちで体験したセミオートの感覚を現実の世界にフィードバックできないかな、とか。現実世界と仮想世界の差を埋める、相互の感覚共有を上手く進められるなら仮想世界の可能性は飛躍的に広がると思うんです」

 

 例えば俺に馴染み深いスポーツ――剣道に限定しても、正しい型の習得や足運びを仮想世界で学んだほうが効率が良いかもしれない。世界最高峰のアスリートの動きを解析し、トレースすることで一流選手の動きを自分自身でセミオート体験できれば、何かしら波及効果を現実世界でも期待できるかもしれない。

 ソードスキルを構築した技術があれば十分可能だろう。そのアプローチ如何ではスグの剣道上達の助けにだってなれるかもしれない。もっとも今はその全てが取らぬ狸の何とやらでしかないのだが。

 

「開発者自らのデスゲーム宣言によってこの世界は滅茶苦茶にされてしまいました。現実世界で俺達が巻き込まれた事件のほとぼりが冷めるのは十年単位の時間がかかるでしょうけど、このまま仮想世界の持つ可能性を潰してしまうのは勿体ないって気持ちもあるんです」

 

 俺が大学を出て大学院に進学、あるいは何処かの企業に就職するまでの間に、仮想世界を対象にした規制が緩やかになっていればいいなと思う。

 

 10年後、世界がどうなっているのか。

 別にMMOが禁止されていようが構わない。限定的な仮想空間の作成と維持さえできればひとまずユイと再会することは可能だし、俺のやりたいことだって出来るんだから。

 

 ただユイのために広い世界を用意するなら相応の設備が必要で、そのためには相応の維持費もかかるし、それは一個人で賄えるものではないだろう。そうなると現実的な方策としてアーガスのような仮想世界に関わる会社に就職して顕職に就くか、さもなければ一から会社そのものを立ち上げるなんてことも視野に入れておかなければならない。

 いずれにせよ現実世界に帰ってからの話だし、あちらで仮想世界の扱いがどうなってるかもわからないため、明確な進路を想像できないのが正直なところだ。衰えた肉体のリハビリをこなし、家族に心配かけた分の孝行もしなきゃならないだろう。やる事がいっぱいで頭がパンクしてしまいそうだった。

 

 今は絵空事でしかない突飛な空想を、ニシダさんは終始穏やかな顔で聞き入っていた。途中からはニシダさんも自身が携わっていた仕事内容を開帳し、長い会社勤めの中で体験した成功談、失敗談を面白おかしく話してくれたりもしたのだった。元々話し上手な人だからか、時折俺とサチの笑い声が上がるほどだった。

 

「実に良い――元気の出る話を聞かせてもらいました。キリトさんのような方が最前線を戦ってくれているのなら、そう遠くない内にこの世界からの脱出は叶うのだと信じられます。私は何の助けにもなれませんが……応援だけは最後までさせていただきますよ。差し当たっては明日の催しを見物させてもらいますかな。もちろん皆に声をかけて応援席に詰め掛けます」

「ありがとうございます」

 

 握手を求めてきた釣り師に快く応えると、「頑張ってください」と心の篭った激励を貰った。その顔は晴れ晴れとしたもので、幾分か若返っているようにも見えた。

 

「ニシダさん」

 

 サチにも丁寧に挨拶を述べ、「それではこれで」と辞去しようとする折に声を差込み、振り向いたニシダさんに悪戯な顔で一つのお願いを口に出した。

 

「現実世界でもし出会うことがあったら《これ》、教えてもらえませんか?」

 

 そう言って釣竿を振る動作をして見せるとニシダさんは驚きに目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして頷くと、「私でよければ喜んで!」と朗らかに承諾を返してくれたのだった。

 

 

 

 

 

 改めてニシダさんを見送り、ログハウスへと戻る。サチと二人きりになったログハウスのリビングでは非常にゆったりとした時間が楽しめた。俺はソファーに身を埋め、サチは機嫌が良さそうに昼食の後片付けに手足を動かしている。

 当初は食器を片付けるサチの手伝いをしようと申し出てはいたのだが、「キリトは座ってて」とあえなく押し止められてしまったのだ。そのため、こうして大人しく午睡の時間に宛てている。俺にしてみれば食器や調理器具の片付けや調味料の整理整頓などは面倒な作業としか映らないのだが、サチにとっては少しばかり意味が異なるらしい。とても楽しそうだった。

 一段落した頃を見計らい、サチに休憩するよう促すと「うん」と俺の隣に腰を下ろす。俺もだらしない姿勢から一転、居住まいを正した。

 

「キリトは将来のことも色々考えてるんだね。ちょっとびっくりしちゃった」

「こういうことがしたい、って漠然と考えてる程度だし、大っぴらに語れるようなものじゃないけどな。あっちの世界がどうなってるかもわからないしさ」

 

 サチはどうなんだと話を振ってみると、「私は考えたこともなかったよ」と苦笑気味に返されてしまう。

 

「そっか。なら折角だし少し考えてみるのもいいかもな。心配しなくていいぞ、サチは俺が必ず現実世界に帰すから」

「ありがと、キリト」

 

 人差し指を顎に当てて可愛らしく悩むサチの姿を見ていると、自然とほのぼのとした心地よさを感じてしまう俺だった。エプロンを着用して清楚に振舞う彼女に眦が下がるのを自覚する。いかんいかんと気を引き締めたところでサチの自問自答も終わったらしい。

 

「これだっていうのは出てこないけど、私はユイちゃんみたいな小さな子に関わるお仕事に興味があるかも」

 

 ユイちゃん可愛かったから、と口にするサチの言葉に全面的な同意を示す俺である。

 ユイは可愛い。世界一可愛い。

 

「そうなると小学校の先生……あるいは保母さんあたりか」

「そうだね、向こうに戻ったら勉強してみようかな」

「確かにサチには似合ってそうだけど、問題もあるぞ?」

「な、なに?」

「サチが粗相をした子供を叱り付けてるとこが全く想像できない」

 

 ちょっとだけ脅しあげるような気分で声を重くした俺に、これまた素直な怯えをみせてくれるサチ。そのままもっともらしい発言を続けると、サチは拗ねたように唇を尖らせてしまう。

 

「サチは内気なところがあるからなぁ、悪ガキの相手はちょっと難しいんじゃないか?」

「もう、目が笑ってるよキリト」

「悪い悪い。でも、もしサチが教育とか保育に興味があるならサーシャさんに話を聞いてみるのも良いかもな」

「サーシャさん? はじまりの街で年少のプレイヤーを保護してる人のことだよね?」

「そ。あの人、現実世界じゃ大学生で教育学部に通ってたらしいから、相談してみれば色々アドバイスもらえるんじゃないかと思うんだ。教会にはアルゴも支援って形で関わってるようだし、その伝手でサーシャさんを手伝ってみるのも良いかもな。きっと歓迎してくれるぞ」

 

 ただし軍の解散がされたばかりのため、本格的にはじまりの街に出入りするのはもう少し様子見をしてほしいところだ。シンカーの手腕に期待したいところだな。

 

 サチの「考えてみるね」という言葉を最後に、再び静けさが戻ってくる。昼過ぎの暖かな空気が部屋を満たし、殊更時間の流れをゆるやかにしているようだった。

 ユイがここにいたらどうなっていただろう、そんなことをふと考えてしまった。サチの膝を借りてお昼寝タイムにしたがるだろうか。それとも俺に遊んでほしいとじゃれついてくるかも。

 

「キリトはこれからますます忙しくなりそうだよね。私は最前線のことはよくわからないけど、キリトがここまで大袈裟なことをするんだから何か大きな意味があるって思ってる」

「まあどういう結果になるにせよ、攻略組が大きく動くことは確かだろうな」

 

 そのつもりで策を練ったのだし、どう転んでも明日を境に様々な変化が訪れるだろう。激流の変転を迎えるのか、それとも緩やかな流れに留まるのかまではわからないが、願わくばその中で最良の未来を掴みたいものだ。

 そんな風に明日の決闘へと思いを馳せる俺を、サチは真剣な表情でじっと見つめていた。

 

「……やっぱり、今の内に話しておくべきだよね」

「どうした?」

「大事なこと、だよ。私にとって。キリトにとって。そして多分――アルゴさんにとって」

 

 わずかに驚かされたものの、すぐに然もありなんと納得してしまったのは何故だったのか。サチがアルゴと親しいことを知っていたからだろうか。

 

「私ね、今でもキリトとずっと一緒にいたいって思ってるよ。私の気持ちはキリトと出会った頃のまま少しも変わってない。ううん、あの頃よりも強くなってる」

 

 ――たとえ、キリトの一番が私じゃなくても。

 

 そう言ってふわりと微笑むサチに見惚れなかったと言えば嘘になる。それくらい今の彼女は魅力的だった。可愛らしくて、綺麗で、思わずこの手に抱きしめたくなってしまうほど。

 

「俺もサチのことが好きだよ。君の気持ちに応えることは出来ないけど、大好きだ」

「変わらないね。キリトの気持ちも、キリトの答えも以前のまま」

「責めてくれていいぞ」

 

 俺がアルゴの胸で泣いた日から、些か不健康な関係を結んだままついにこんなところまで来てしまった。それが間違っていたとは思いたくない。だが、それは……。

 我知らず浮かんだ苦笑は、俺が俺自身を馬鹿者だと思っているからだろうか。俺もアルゴも大馬鹿を続けている。

 

「私も厄介な男の人を好きになっちゃったなあって思うけど、好きになっちゃったものはしょうがないかな。でも、キリトはアルゴさんのこと、今のままでいいの? それで後悔したりしない?」

「……さあ、どうだろうな。でもまあ、こう見えて結構我慢強い男なんだぜ、俺」

 

 それは強がり以外の何者でもなかったが、強がる他に選択肢もなかったように思う。そんな俺の内心を見透かしているかのようにサチは困った顔で一つ息をついた。

 

「キリトもアルゴさんも頑固だよね。二人とも意地を張って、どっちも素直じゃないんだもん」

「違いない」

「……ねえキリト。変わらない気持ちがあるように、変わっていく関係があっても良いって私は思うんだ。ううん、変わっていくべきなんだと思うよ?」

 

 そうして俺と真正面から目を合わせ、迷いなく言い切るサチに気圧されてしまうのを止められなかった。困ったことに反論できないのだからどうしようもない。

 

「サチは時々意地悪になるよな」

「そうかな? でも、それはキリト限定だと思うよ」

 

 光栄だ、と苦笑を零す。

 

「心配ばかりかけてごめん。それと、何かアルゴに言われたか?」

「それは女同士の秘密かな。むしろ聞いたらキリトがへこんじゃうかも」

「お前らは俺のいないところで一体何を話してるんだ……」

 

 どうもあいつはお節介というか、俺の知らないところで動き回ってるみたいなんだよな。この前はアスナとお茶会を開いたとか言ってたし、この分だとどこまで手を広げているのやら。

 

「あはは、冗談だよ。キリトが想像するほどアルゴさんは多くを語ってくれてないと思う」

 

 滅多に本心を見せてくれない人だから、と寂しそうに笑うサチだった。

 

「きっとアルゴさんが素顔で接してるのはキリトだけなんじゃないかな。だけど、同じ女の子だからこそわかる、ううん、感じ取れることもある。何ていうのかな、あの人は私やアスナさんとは『違う』気がするんだ。アルゴさんが見てるもの、求めてるものは私達の抱くそれとは根本的にずれてるような気がする」

 

 ――キリトは『それ』を知ってるんでしょう?

 

 じっと目で訴えかけられ、確信に満ちた問いを向けられて、俺は思わず視線を外してしまっていた。

 女の勘ってのはすごいな、皮肉でも何でもなくそう思う。それ以上追及する意図がなかったのか、それとももう答えは必要なかったのか、そこでサチはふっと力を抜き、柔らかく微笑んだ。

 

「私ね、ずっと前に『欲しいものがあるのなら手を伸ばさなきゃ駄目だヨ』ってアルゴさんに言われたことがあるんだ。私はもっと我侭になるべきなんだって」

「確かにあいつなら言いそうだ」

「だからっていうのも変な感じだけどさ。私、キリトはもっと我侭になっちゃっていいと思う」

 

 悪戯っぽい表情でサチは語る。楽しそうに――そして、少しの寂しさを押し隠して。

 

「はっきり言ってくれるなあ」

「私、キリト限定で意地悪な女の子だもん」

 

 参ったなあ。ほんと参った、どうしてサチはこんなにも優しいのだろう。

 

「サチ」

「なぁに、キリト」

「このまま君に告白していいか?」

 

 一瞬目をぱちくりさせ、それからくすりと口元を綻ばせるサチから妙な色っぽさを感じたことは、ひとまず秘密にしておくべきだと思った。

 

「そうしてくれるならとっても嬉しいけど、今キリトに男女交際を申し込まれたら断ると思うよ、私?」

「サンキュ。俺もそこまで器用になれそうにない」

「大丈夫だよ、私が好きになったキリトはそういう人だから」

 

 軽く肩を竦め、お互いに顔を見合わせるとその場にしめやかな笑い声があがった。穏やかに流れる空気はそのままに、触れ合う心がこそばゆい。身に染み入る優しさというのはこういうものなのかもしれない。

 キリト、と隣に腰掛け、耳に優しく呼びかけてくれるサチの声が心地よく、その瞳に俺という男が映っていることがこの上なく誇らしかった。時折サチの声に、その挙動に、その優しさに抗い難い魅力を感じることも、この期に及んで否定する気はない。

 

「後悔だけはしちゃ駄目だよ」

「ありがとう。……それと、ごめん」

 

 俺はきっと後悔するのだろう。だから――今は心からの感謝と謝罪を口にする以外に出来ることはなかった。

 サチは俺とアルゴの大よその事情も薄っすらと察しているのだろう、でなければわざわざ俺の気持ちを再確認しようとはすまい。

 

「ほんと、二人揃って頑固なんだから」

 

 それを否定なんてできないし、する気もなかった。馬鹿な男でホントすまないなと笑う。

 俺もアルゴもたくさんの人に迷惑をかけながら、それでも未だに不合理で不健全な関わりを続けているのだから呆れた話だ。二人きりで完結できる関係などないのだと改めて思い知らされるようだった。

 

「あ、そうだキリト。最後にもう一ついいかな?」

「この際だ、二つでも三つでも聞くぞ」

 

 それを口にするサチはとても楽しそうだった。

 

「キリトは私に将来のことを聞いたよね? ホントは私、この家でユイちゃんを寝かしつけたり、森でユイちゃんと手をつないでお散歩をしてて、『ああ、お母さんになりたいな』って思ったの。女の子としてウェディングドレスで身を飾るのも心惹かれる夢だけど、それ以上に家庭を築くことに憧れちゃったのかもしれない」

 

 私が想像した隣に立つ男の人はキリトだよ、と気負いなく告げるサチに、俺も穏やかな心持ちで返答を口にする。

 

「サチなら良いお嫁さんになるし、優しいお母さんになれるよ」

「ありがと、キリトもタキシードが似合いそうだよね。それに良いお父さんになるだろうし」

 

 それは過分な評価だと思うぞ?

 

「俺の場合は子供に駄々甘になっちゃいそうだけどな」

「ふふ、アスナさんからキリトがユイちゃんをちゃんと叱りつけたって聞いたよ。……また、ユイちゃんに会いたいな」

「会えるさ、約束する。向こうの世界に戻ったらまずはユイの眠りを覚ますことから始めるつもりなんだから」

「うん。約束」

 

 俺の言葉に嬉しそうに頷き、右手の小指を差し出してくるサチに笑って指を絡ませる。この歳で指きりをする気恥ずかしさは当然覚えていたのだが、サチの喜びの前にそんなものはついぞ意味をなさなかった。

 そのまましばらくの間、俺とサチは現実世界に戻ったらやりたいことのリスト作成に励み、面白おかしく盛り上がったのだった。

 

 

 

 

 

 サチの言葉は奇しくも俺の思いと合致するものだった。このままぬるま湯に浸っているわけにもいかないし、俺だっていつかくる『その時』をずっと考え続けてきた。

 予定外、いや、予想外のことも重なり、あるいはこれが最後の逢瀬になるかもしれない。そんな未練のような何かに心を焦がしながら、フレンド登録リストの中から該当者を呼び出し、素っ気ない一文を添えてメッセージを送り出した。返答はすぐに届き、幸い決戦前夜を一人寂しく過ごすことは避けられそうだと安堵の息をつく。

 

 夜風は日毎に涼しくなっていく。煌々と照る月がたなびく雲の隙間からゆらゆらと顔を出す幽玄の景観が広がり、味わい深くも静謐な一時には胸を締め付ける切ない風情があった。

 テラスに足を運び、明日の対決を見据えて月見の傍ら、剣戟のシミュレーションを繰り返していた頃、一人の女性が音もなく寝室に続く扉を開く。人の気配に振り向けば、そこにいたのは今日一日方々を飛び回っていた《鼠のアルゴ》だ。

 

「せめてノックくらいしないと不法侵入者にされるぞ」

「ご挨拶だナ。合鍵渡しておいてそれはないんじゃないカ?」

 

 そのパスワードキーを今日まで一度も使おうとしなかったくせに、と素直に口に出すのは悔しかったので聞き流しておく。

 

「親しき仲にも礼儀ありってことで」

「あいよー、次から気をつける」

 

 お互い本気で実践するつもりもさせるつもりもなく、軽口を叩き合うだけに終始する。俺達はいつもこんなことばかりしている気がして、たまらず忍び笑いが漏れた。

 

「つれないなあ。今日は特別な夜になると思って、オネーサン胸をドキドキさせながら来たんだゾ!」

「へえ、その心は?」

「だって珍しいじゃないカ、キー坊からオレっちを求めるなんてサ」

 

 くすくすと笑みを零すアルゴにからかわれ、ふと過去に思いを馳せた。俺だって男だし、珍しいと言われるほどストイックに生きてきたつもりはないぞ? アルゴに溺れてしまいたいと思ったことだって片手で数えられる程度にはある。

 

 空から降り注ぐ月明かりと、遠くから微かに届く街灯のみを光源としたテラスで月見と洒落込んでいたため、寝室の四隅に設置された照明用ランタンは作動させていない。窓から差し込むわずかな光だけが、暗闇の中、扉の前に佇むアルゴの姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 しかしながら、索敵スキルの補正で俺の視界は勝手に暗視モードに切り替わってしまうため、実際は風流を味わっているつもりなだけだったりする。もっともそのおかげで愛しい人の顔をこの目にしかと映すことが出来るのだから、それで差し引きとしてはお釣りがくるか。

 

 ところで――俺はアルゴを呼び出す際、さして修辞に凝ることなく『今夜は朝まで一緒にいてほしい』と率直に伝えたわけだが、懸想文というには些か彩りに欠ける口説き文句になっていなかっただろうか?

 それだけが心配だった。

 




 拙作では釣竿の《スイッチ》を、釣りスキルを持ったプレイヤー同士でないと成立しないシステム外スキルと位置づけています。
 プレイヤーホームの名義所有者以外にも一定数までスペアキーを設定できる仕様は拙作独自のものであり、建物の規模や購入金額によって上限人数が変わります。ただし宿のセキュリティと同様、内側から鍵を開けることは誰にでも可能なため、不慮の事故によって閉じ込められるような事態にはなりません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第22話 頂の剣士 (2)

 

 

「聞きしに勝る絶景とでも言うのかネ? キー坊も良い趣味してるじゃないカ」

 

 寝室からしずしずとテラスに降り立ち、木目の床板を踏みしめる音が微かに耳を打つ。小柄な少女は俺の隣に立ち並ぶと、そのまま手すりから身を乗り出し、これまた夜の静寂をわずかに乱す軋んだ音色を刻んだ。

 間近に迫る外周部に突き出した我が家のテラスからは、闇に沈む湖面と森の木々が映り、さらに遠方を望めば広大な夜空が視界一杯に広がる。石と鉄の城が世界の全てであるアインクラッドで、これほどの開放感をもたらしてくれる場所は多くないだろう。そう思ってしまうのは身贔屓が過ぎるというものだろうか?

 

 しかし。

 普段攻略にかかりきりで迷宮区に篭りがちになってしまう俺にとっても、そして情報屋としてアインクラッド全域を飛び回っているアルゴにしても、忙しなく動いているという事情は同じだ。今夜のようにゆっくり景色に心を移す余裕などそうは取れない。だからこそ俺もアルゴも人一倍感じ入るものがあるのだろう。

 

「お褒めに預かり恐悦至極」

 

 そんな風に芝居がかった一幕を演じてみた。

 

「それより珍しいな、お前がそんな格好してるなんてさ」

「スルーされたらどうしてやろうか考えてたんダ」

 

 俺の言葉を受けて手すりに添えていた指を離し、身を翻して目を合わせてくる。アルゴは相も変わらず人を食ったような笑みをひけらかしていた。

 

「乙女なアルゴオネーサンがわざわざおめかししてきたんだゼ? 何か言うことがあるんじゃねーノ、黒の剣士様」

 

 不安そうな素振りなど一切見せることはなく、自信たっぷりに嘯く。どこか悪戯っぽく、けれど挑戦的な眼差しを浮かべていた。

 知らず苦笑が零れ、改めて彼女を見やる。まず目につくのは肩紐つき重ね着風のシャツだ。彼女の装いは首元や肩口が大きく開いているため、華奢な首筋から鎖骨のラインが非常に艶かしく映る。そこからゆっくりと視線を落とせば、ベルトを通したショートパンツからすらりと伸びる足がいかにも健康的で、肉感的な太腿から下を膝丈上のオーバーニーソックスが包んでいた。

 

 上下黒のシャツとズボンに漆黒のコート姿が半ば正装と化してしまっている俺と同様、アルゴも丈夫な生地で作られたファンタジー風味たっぷりの旅装束で装備を固め、全身をすっぽりと隠すフード付のマントを羽織っているのが見慣れた姿だった。言うなれば《鼠のアルゴ》スタイルだろうか。

 しかし今は別で、そんな野暮ったい装いから一転、男の目をしっかり惹きつける魅惑の立ち姿に不意をつかれた思いだ。月明かりの下でぼんやりと佇むしなやかな肢体からは、仄かに薫る艶やかな色気が感じられるのだった。

 

「もしかしてそのままの格好で来たのか? ちょっと薄着すぎると思うけど」

「オレっち公序良俗に反するほど過激な格好はしてないゾ」

「もちろんわかってるよ」

 

 季節柄やや肌寒そうな衣装だと思うが、人目を引く要素としてはそれくらいだ。みだりに着崩さず、不必要に肌蹴てもいない。ただし《鼠のアルゴ》の面影は頬にペイントされた三本髭くらいのものだった。

 

「アルゴにその服は良く似合ってる、すごく綺麗だ。でも俺としては不特定多数に見せびらかしたくないなあ、なんて」

「にゃハハハ、心配しなくても外では外套を羽織ってたサ。ほーんと、キー坊ってば独占欲強いんだから」

 

 軍の連中に絡まれた時もそうだったナ、と可笑しそうに喉を震わせ、軽やかな響きを奏でる。そうやって俺を見透かしてくるのは大歓迎なんだけど、あまりからかわないでほしいとも思った。

 だって仕方ないだろう? 軍の徴税部隊のメンバーはアルゴの装備を引っぺがそうとしてたんだから。元々俺の沸点は高くないのだし、そんなことをされては頭に幾分血が昇るのだって至極当然の反応というやつである。奴等にソードスキルを直接ぶち込まなかっただけ冷静な対応だったと思うんだ。

 アルゴに触れるのもその柔肌を目にするのも俺だけで良い。

 

「そいつに関しちゃ自覚もあるけど、アルゴ的には駄目か?」

「うんにゃ、もちろん構わないヨ? そうやって所有権をちょこちょこ主張してもらえると、女としての自尊心も良い感じにくすぐられるもんだしネ。つっても毎度やられるとうざったくなるもんだし、匙加減を間違えないようたまーに囁くと良いヨ、キー坊」

「わかった、覚えとく」

 

 お前を相手にする以外に囁く機会があるとは思わないけど、折角のご教授だし記憶に留めておくさ。……少しだけ、切なくなるけど。

 

「ところで――」

「ん?」

「寒くないか?」

 

 ひとまず俺の嫉妬心を煽られることもなくなったので、些かならず内心の安堵と共にそんな問いを放つ。アインクラッドでは現実世界での風邪に対応するようなバッドステータスがないため、殊更体調不良を心配する必要はないのだが、だからといって気遣いをしなくても良いことにはならない。

 

 無論層によって寒暖の差はあるし、22層は比較的穏やかな気候が売りの階層だ。ただそれは急激な天候の変化がないというだけで、年中温暖なわけではない。残暑の残っていた先月から一転、暦も10月に入り、夜になれば肌寒さを噛み締めざるをえない風も吹くようになっていた。

 アルゴが防寒対策を施しているならともかく、今の彼女は首筋や肩口の開いた涼しそうな服装である。生地も薄めだし今夜テラスで月見をするにはいかにも頼りないように見えた。

 

「……確かに、少し肌寒いかナ?」

 

 だったら部屋に戻ろうと口を開きかけたところで、風に揺れるほつれ毛に指を絡ませたアルゴが楽しそうに笑う。細めた双眸には悪戯っ子の光が宿っていた。

 

「こんな機会はなかなかないから、もう少し月を眺めていたいんダ。――って言ったらどうする?」

「もちろん付き合うさ」

 

 是非もない。アルゴの挑発染みた問いに間髪入れず答えるも、どうやらそれだけでは不足だったらしい。からかい混じりの弾んだ音色を含ませ、「もう一声」とハードルを用意すると同時に、俺にそれを蹴っ飛ばすよう求めてくるのだった。戯れに一手、また一手と積み上げていく。それもまたいつものことだ。

 

 ――さて、この気まぐれな少女をどうしてくれよう。

 

 じっと見つめてくる瞳に篭る熱は、はたして俺への期待と受け取るべきなのだろうか、受け取って良いのだろうか。ますます深まる苦笑は、けれどまったく不快なものではなく、むしろ心地よいものでしかなかった。

 そうして何も言わずにアルゴの背後に歩を進め、寒風を遮るようにふわりと優しく抱きしめる。彼女の白いうなじに目を落とすと、まるで引力に導かれるように吸い込まれていくようだった。その抗い難い誘惑に逆らうことなく顔を埋め、頬を擽る金褐色の巻き毛の感触を楽しんでいると、俺の手の甲へとそっと人肌の暖かみが重ねられた。

 

 俺の胸に寄りかかるように委ねられた重みが愛おしく、添えられた指先から伝わる熱が心を柔らかなものでいっぱいに満たす。

 今、この時が永遠に続くのならば、と。そう思わずにはいられなかった。

 

「……ありゃ、躊躇わなかったナ。折角、『キー坊が(あった)めて』って台詞を用意してたのに」

「それは是非とも聞かせてほしかった。でも、及第点は貰えたってことでいいのか?」

「大丈夫、ケチのつけようがないくらいあったかいから」

「それは良かった」

 

 その言葉を一区切りにして、幾ばくかの時が過ぎ去っていく。

 しばしの無言は心地よい沈黙で、示しあうでもなく二人で秋の夜長を楽しんでいた。ますます密着する身体ははたして俺が抱き寄せたからなのか、それともアルゴが身を預けてきたからなのか。そんな些事は追及するだけ無駄だろう。強いて言い訳をこねるならば、肌に吹き付けられる冷気に負けじと、二人密着させた身体で高めあう熱を少しでも逃がさないようにしていた――という感じでどうだろう?

 

「なあアルゴ、はじまりの街って今どうなってるんだ?」

 

 ぽつりと漏れた一言とともに、ユイの消えた日のことを思い出す。徴税部隊も解散したらしいけど、あれはキバオウ派からシンカー派への牽制というか、必要以上に物資を放出するなって警告込みの嫌がらせだったんだろうなあ……。

 

「シンカー達のことが気になるのカ?」

「そっちのことはあまり気にしてない。特に大きな混乱も起こってないみたいだし、このまま落ち着くと思ってるよ」

 

 キバオウが起こしたPPK紛いの騒動を最後にはじまりの街は平穏そのものだ。もちろん今のところ、という但し書きは必要だが。

 

「軍の内紛を全部公表しちまえば《黒の剣士》と《閃光》の関与を大々的に宣伝できたし、そうなればキー坊を後ろ盾としてシンカー達穏健派の後押しになったんだけどナ。シンカー達もギルド運営をやりやすくなっただろうサ。……キバオウに同情したのカ?」

「単純に俺のリソース不足だよ、そこまで俺の手は長くないってだけさ。それに名前だけ貸すってのも無責任だ」

「元々軍の問題は奴等で解決することだしナ。表向きキバオウの追放ってことであの件はケリがついてるし、オレっち達は所詮部外者ダ。そこまではじまりの街の安定のために骨を折ってやることもないカ」

 

 片手間で下の事情に首突っ込めるほど最前線も安穏としていないし、ギルド運営に関しちゃ俺もアルゴも門外漢だ。下手に突っつくと泥沼に嵌りそうで怖い。

 

「そうそう、はじまりの街で攻略組と軍の合同でバーベキュー大会をやったのが良い方向で抑止力になってるヨ。場合によっちゃ攻略組が出張るって前例が出来ちまったから、下の層で好き勝手やってたはねっ返り連中も、ほとぼりが冷めるまでは大人しくしてるんじゃないカ?」

「嬉しい誤算だな。アルゴもそこまで計算してたわけじゃないんだろ?」

「そりゃそうダ。キー坊じゃあるまいし、オレっちにそこまで求めないでくれ」

「俺も大して変わらないんだけどなあ……」

 

 いつだって目の前のことで一杯一杯だ。

 

「とりあえずはじまりの街と軍の後釜に関しちゃオレっちが今まで以上に目を光らせておくし、キー坊とシンカー達とのパイプ役にもなってあげるヨ。けど、それ以上はキー坊の領分だゾ? うまく動いてくれヨ」

「任せておけ。にしても、至れり尽くせりで悪いな」

「ふふん、オレっち出来る女だからネ。つっても貸付分はきっちり返してもらうから、キー坊もそのつもりで頼むゼ」

「了解。お手柔らかに」

 

 とにもかくにもシンカーとユリエールさんには奮闘してもらいたい、というのが嘘偽りない気持ちである。キバオウのその後の風聞まで考えると全てを公表するのは避けたい、というのがシンカーの意向だった。まあ、お人好しなのだろう。

 事勿れ主義だと見る向きもあるし、その甘さと優柔不断さがギルドの混乱を招いたことも事実だ。しかしその自覚と反省があってなお、事を荒立てるを良しとしない処断に落ち着いたのだとすれば、俺から言うことなど何もない。せいぜい二の轍を踏まないよう気をつけてくれと注意を促す程度のことだ。

 

 寛容を以って範と為す。

 そういう在り方を貫けるのだって一つの強さだし、尊ぶべき選択だと思う。少なくとも攻略組には――俺には難しい生き方だった。

 

「で、キー坊は何が気になってたんダ?」

「ユイのことでちょっとな。アルゴには大分無理させたし、感謝してるんだ。俺の個人的な依頼だったのに最優先で動いてもらって助かったよ」

「なんだ、そんなことカ。気にすんナ、つうかキー坊の無茶振りは今に始まったことじゃないだろうに」

 

 もう慣れた、と言わんばかりの口調だった。

 

「うわ、ひっでえ言い草」

「それこそお互い様だしナ。好きでやってることだもん、ユイユイに限った話でもないサ」

「……サンキュ」

「ん、そこで謝らなかったのは褒めてあげるヨ。何にせよ心配無用。オレっち嫌なことは嫌って言うし、無理なことはちゃんと無理って言うから」

 

 ほんと、頭が下がるよ。

 でも、お互い様か……。どうせだ、ここで釘刺しも兼ねてお願いの一つもしておこうか。

 

「迷惑ついでに頼みがある。いい加減、お前の無茶振りも控えてくれると助かるんだが?」

 

 抱きしめる腕に力を込めながら「俺の手には余る」と情けない台詞を口にする俺だった。

 

「おや? 何のことかナ?」

 

 本気で心当たりがないのか、それとも全力で惚けているのか。さて、今回はどちらだろう?

 

「俺の情報を売るなとまでは言わないけど、情報屋としての領分を超えてまで私情に走らないでくれってことだよ。そいつを俺が歓迎してないことくらいわかるだろう?」

 

 それこそ『サチやアスナを焚きつけるな』と極太の釘を二、三本刺しておきたいくらいだった。

 アルゴが何を考えてるかはわかる、何を望んでいるのかも。でも、仕方ないだろう? 人の心はそんなに器用にはできていないんだから。

 

「私情、ネ。そいつも含めて《鼠のアルゴ》のお仕事だヨ、そう強弁してもいいんだけどサ。ふふん、オレっちのプライベートにまで口出しするなんて、キー坊も言うようになったじゃないカ。それこそ領分を超えてるんじゃないかイ?」

「こればっかりは唯々諾々と受け入れるわけにはいかないんだよ。――アルゴ。お前にとって、俺はそこまで頼りない男なのか?」

 

 アルゴの中でキリト――『桐ヶ谷和人』は未だに泣き虫で情けない男のままなのかと、そう、問いかけた。

 

「……その言い方はずるいヨ。あーあ、キー坊もすっかり女泣かせになってくれちゃってサ」

 

 多分、アルゴは困ったように笑っているんじゃないかと思う。言葉につまったのか、あるいは口に出すつもりがなかったのか、細身の身体に廻された俺の腕を取り、歳相応に膨らんだ胸に躊躇いなく、それでいて優しく抱え込む彼女の仕草が答えだったのかもしれない。

 

 ふっと息をつく。それはそれとして……不意に指先からもたらされた柔らかで弾力に富んだ感触に、思わず我が手に力を込めてしまいそうになったことはご愛嬌というものだろう。いや、俺だって男ですし? そんなわけで自制には多大な精神力を要したものである。これがわざとならアルゴは悪女確定だな。

 

「女泣かせかどうかは知らないけど、俺をそうしたのはアルゴだぜ?」

「駄目だなあ、キー坊。そういうのは責任を相手に求めるもんじゃないゾ」

 

 空に浮かぶ白い月。満月にはほど遠い三日月がゆるりと弧を描き、たなびく雲が陰影となって月に化粧を施し、景色に彩りを加えている。彼方から来たる乾いた冷気が頬を撫でていく様は、なるほど秋の寂しさを感じさせるものだと納得させられてしまった。決戦を前に荒ぶる心を鎮めるには良い夜だ。

 

「こんな時は『月がきれいだ』って素直に言うべきなのかもな」

「文学的な修辞を期待するなら相手を間違ってないカ。『もう死んでもいい』なんて返せるキャラじゃないだろ、オレっち」

 

 そこは月の魔力補正で補完できないだろうか? しばしその情景を想像してみようとするのだが、どうにも俺達では様にならなかった。率直に言って似合わない。

 

「と、いうかだな。真顔でそんな台詞を口に出来る奴って滅茶苦茶経験値高いと思うんだ」

「キー坊はまだまだレベリングが足りないナ」

「ゲームをクリアできるだけの最低限のレベルさえあれば満足なんだよ、俺は」

「夢がないなあ。無双するのがゲーマーの嗜みダロ?」

「俺は移り気のにわかゲーマーだからやり込みプレイって苦手なんだ」

 

 軽妙に弾む会話なのにどこか物寂しさを感じさせられるのは、やはり今宵の月が放つ魔力のせいなのだろう。勝手に理由としてこじつけられたお月様には申し訳ないが、今晩だけはそう思わせてもらいたかった。

 

「そっか、なら仕方ないネ」

「ああ、仕方ない」

 

 所詮は言葉遊びで、どこまでも戯れでしかない。だからこれ以上言の葉を重ねる理由もなく、伝えるべくを伝えるだけ――。

 

「アルゴ、お前は最後まで俺を見てろよ。俺の隣で、俺と一緒にこの世界の終わりを見届けろ。それでいいだろ?」

 

 一拍の沈黙。その声ははっきりと俺の元に届いた。

 

「ん、それでいいヨ。《鼠のアルゴ》は店仕舞いまできっちり《黒の剣士》に付き合ってやる。それこそ、最後の最後までネ」

「悪いな」

「いいヨ、お互い様サ」

 

 ここまで来たんだ、我侭を貫かせてもらうさ。俺もお前も、きっとどうしようもない大馬鹿だけれど……それでも俺は最後までこの手を離したくないと、そう思ってしまったんだから。

 

 見上げる月はどこまでも高く。夜の静寂はどこまでも深く。二人寄り添う時間はゆったりと流れていく。

 そこでやせ我慢も限界だったのか、腕の中で可愛らしいくしゃみが微かに空気を震わせた。その小さな変化を合図にもう一度「部屋に戻ろう」と提案すると、今度は断られることなく了承されたのだった。

 

 

 

 

 

 しん、と静まり返った寝室へと足を踏み入れると、外気が遮断され暖められた空気に出迎えられた。

 壁に設えたランプは一つも稼動させていない。ともすればテラスに出ていた時よりも深い闇が常駐している。早速ランプに火を入れようとオプションを操作しようと伸ばした俺の腕は、しかし不意に横合いから絡めとられてしまった。

 そんなことをするのはこの場に一人しかいないため、どうかしたのかと疑問を込めて顔を向けると、「明かりは最低限で」といたずらっぽく告げる少女がいた。曰く、そっちのほうが雰囲気が出るだろう、だそうで。

 

 特に目くじらを立てるような願い事ではないため、一つ首肯を返してベッド脇のナイトテーブルへと手を伸ばす。デフォルトで部屋に備え付けられた照明とは別に用意した、シックな佇まいの小型ランプスタンドが暗闇に淡く光を灯した。部屋の隅々まで照らす明度の高い蛍光も良いが、薄ぼんやりとした光の揺らめきもこれはこれで味があると感じてしまうたび、俺には懐古趣味でもあるのだろうかと感じ入るのだった。

 

 寝室はさして広くもなく、来客用の椅子も用意していない。そもそも寝室に来客を迎えるというのもおかしな話だと内心でセルフ突っ込みを入れつつ、アルゴに今は使用者のいないベッドに腰掛けるよう身振りで示した。

 扉を閉めてしまえば建物内は完全防音がされてしまうのに、何故こうも内緒話をするように静寂を保とうとしているのか。これが雰囲気に流されるということかと苦笑いを浮かべていると、いつまでも座らない俺を不審に思ったのか、不思議そうな顔で俺を見上げるアルゴと目が合った。いかんいかんと思考を切り替え、使い慣れた寝台に腰を下ろし、改めて彼女と向かい合う。

 

「明日のことで確認しておきたいんだけど、中層下層の反応はどうだった?」

 

 我ながら色気に欠ける話題だったが、答えるアルゴもさして気にした素振りは見せなかった。想定済みの質問だったということだろう。

 

「今日はどこもかしこも決闘の話題一色だったゼ。オレっちが動くまでもなく口コミで広がりきったんじゃないかってくらいダ。皆娯楽に飢えてるから当然の結果なのかもネ。明日のコロシアムにアインクラッドの生き残りプレイヤーの大半が集まってもオレっち驚かないゾ」

「そこまでか……。生き残りプレイヤーの三割が集まれば御の字、それ以上は奇跡だって考えてたんだけど」

「確認した限り今のアインクラッドの生き残りは7104名、三割だけでも二千人を超えるんだから大したもんだと思うけどナ。ま、《聖騎士》対《黒の剣士》のカードはそれだけの価値があるってことなんだろう。まして事の発端がアインクラッド一の美女争奪戦だってんだから、そりゃ野次馬根性だって発揮するだろうサ」

「それを言わないでくれ」

 

 けらけらと心底楽しそうに笑み崩れる《鼠》とは対照的に、俺はこれ以上となく情けない顔をしていたのだろう。俺の表情を目の当たりにしたアルゴの笑みがますます深まったのだから、よっぽど変な顔をしていたはずだ。

 乙女心を弄び過ぎじゃないかイ、キー坊? と一頻り俺をからかい倒し、頭を抱えたい心境の俺を尻目に軽やかな笑い声が響く。そうしていながらふとした沈黙が訪れた時、間隙を縫うように雰囲気を引き締めるのもアルゴのやり方だった。

 

「今回の件に連動してるわけじゃないだろうけど、オレっちのほうにもちっとばかし気になる情報が入ってる」

「緊急の要件か?」

「多分違う……と思う」

「多分? はっきりしない物言いだな」

 

 実際よくわからないんダ、とお手上げをしてみせるアルゴだった。

 

「とりあえず聞かせてくれよ。判断はその後だ」

 

 どのみち明日の結果次第で俺の動きも変わるのだから、よっぽど突飛な事態が起こっているのでもなければ保留ということになるだろう。アルゴもそのつもりで口に出したのだろうから、今は耳に挟んでおけばいい。

 

「ここ最近下層と中層の間――そうだな、この層より少し上、30層の手前ってとこだけど、そのあたりで活動するプレイヤーが数を増やしてるみたいダ」

 

 潜めた声は何処か重々しく聞こえた。一度頷き、先を促す。

 

「アルゴが気になってる点は?」

「そいつら、揃いも揃って挙動不審なんだとサ。人目を気にする素振りが多くて、索敵スキルも頻繁に使ってる節があるらしい。臆病なくらい周囲を警戒してるくせに、活動する時は何故かソロ狩りが主体で野良パーティーにも消極的ときた。他のプレイヤーとの交流も最低限で口数少ないし、ちょっと不気味だって聞いたヨ」

 

 なるほど、確かに妙だ。

 

「そいつらが下から登ってきたのか、それとも上から降りてきたのかはわかってるのか?」

「断定は出来ないけど、多分上からなんじゃないかって話。情報をくれたのは元々そのへんの層を根城にしてたプレイヤーなんだけど、仲間内でも新顔に見覚えがないっつうか、誰に聞いても詳しい事情を知ってる奴が出てこないらしいんだよナ。20層後半の層なんてそこそこ真面目に狩りに出てる中堅プレイヤーには実入りの悪い場所だし、かといって今となっては下から這い上がってくるような意欲的なプレイヤーなんてほとんど残ってないわけダロ?」

 

 そいつらが何を目的に降りてきたのか、あるいは降りてこなければならなかったのか、それが問題だ。

 

「活動してる場所が中途半端なんだよな。30層前は迷宮区のトラップ難易度が上がる境界線のせいか、フィールドの敵もそれまでより難易度が幾らか引き上げられたラインに設定されてるわけだろ? 安全を求めるならもっと下のほうがはっきりするし、効率を求めるならもう少し上にいったほうが経験値もドロップアイテムも旨い。あの辺りは過疎りこそすれ、今更プレイヤーの流入が起こるとも思えないんだけどなあ」

「特殊なクエストが発生してるわけでもなし。どっかに狩場効率の良い穴場スポットでも見つかったのか思えば、既存の狩場で安全にソロプレイに励むだけなんだと」

「よくわからん連中だ」

「そういうこと」

 

 直接話を聞いてみるのが手っ取り早いんだろうけど、聞く限り周囲を警戒してるのか接触を歓迎してなさそうだ。

 上から移住、さして穴場でもない狩場、周囲を警戒……。ん? ちょっと待て、そいつら一体何を怖がってるんだ? もしも彼らの警戒がモンスターではなく、プレイヤーにこそ向けられているとしたら――。

 

「アルゴ、その新顔連中とつなぎを取る予定はあるのか?」

「うん? まあ知り合いも気味悪がってたし、折を見て接触してみようとは考えてたケド?」

「だったらその時は俺にも声をかけてくれ。心配はいらないと思うけど、念のためだ」

「おや、何か思い当たったみたいだネ」

 

 にやりと唇を歪ませ、面白そうに目を光らせるアルゴの様子から、本当はおおよその事態を掴んでるだろうと突っ込みを無性に入れたくなった。溜息一つでスルーに決定。迂遠な言い回しはアルゴの常だ、いちいち気にしてられない。

 

「つまりそいつら、元オレンジの可能性があるってことだろ? オレンジギルドに所属してたグリーンプレイヤーが嫌気が差したか何かで逃げ出したってとこか。人目につくほど人数が増えてるってんなら、オレンジギルドが分裂解散して一部が娑婆に復帰って線も有りえるのかね」

 

 俺の言にふむ、と得心したようにアルゴが頷く。

 

「キー坊もそう思うカ? 単純に上から降りてきたってよりはよっぽどしっくりくるんだヨ」

「人目を避けるのは過去の所業からくる後ろめたさ、本命は素性を隠すため。それと元同業者への警戒。犯罪組織から足を洗うのに何事もなくってのは想像しづらいな」

「報復、粛清の可能性カ。ギルド員総出で仲良く更生、社会復帰ってのが理想なんだけど」

 

 言いたいことはわかるが……。

 

「あったとしてもレアケースだろう。多分、問題になってる連中は街にグリーンプレイヤーとして潜んで犯罪の片棒を担いでた奴だとか、要注意リストには載らない軽犯罪の前科者あたりなんじゃないか」

「良心の呵責に耐えかねたってより、オレンジでいることのデメリットを実感し始めたのかナ? 連中、ようやく火薬庫で火遊びをしてるんだと思い至ったんだろうサ」

 

 皮肉気に唇を吊り上げるのもそこそこに、意味あり気な流し目で視線を寄越すどこぞの《鼠》からそっと顔を逸らす俺だった。結構やんちゃしたもんなあ。がおー、悪い子はいねがー。

 

「ま、どっかの逆鱗持ちは放っておくとして、ラフコフ壊滅以降少しずつオレンジからグリーンへの復帰が進んでたと考えるのが自然かナ。そいつが最近になって表面化してきたんだとすれば筋は通る」

「くれぐれも言っておくけど――」

「わかってるって。オレっちだって進んで騒動に関わりたくないし、裏取りをするときはちゃんとキー坊を頼るヨ」

「ならいい」

 

 挙動不審が目立つだけで悪事の類は犯してないのだし、今は日々の糧のために真っ当な狩りをしているだけなのだろう。しかし、だからといって不用意に近づくこともあるまい。

 もちろんこのまま放置するのは論外、火種が燻ってるだけならいいが暴発されると面倒だ。タチの悪い火付け屋もいるのだし、出来れば犯罪者の寄り付かない人口の多い街に居を移してもらいたいものだが……。

 

 どうする? 将来的には彼らと誼を通じ、適当な代表を立てて互助ギルドを設立させてみるのも手だ。いや、そうなると不穏分子が徒党を組んでるってことで危険視するプレイヤーも出てくるか? それなら――と、そこでどうにも先走っている思考に気づいた。

 懸念はあっても差し迫った危険はなく、優先順位も低い。この件は後回しだ、腰を据えてじっくり取り組むべきだろう。最前線の問題が片付き次第動く、それまでは静観でいい。

 

「オレンジプレイヤーも色々だよナ。魔が差してとか、勢い余って手が出ちまったとかならオレっちにもわかるんダ。つっても、それだけならさっさとカルマ解消してグリーンに復帰すればいいところを、オレンジギルドなんてもんを結成してまで安いプライド振りかざす事に関しちゃ閉口するしかないけどナ」

「階層移動にハンデがかかるのはかなりのデメリットなんだけどな。損得計算をするまでもなくオレンジに良いことなんて何もないってのに」

 

 システム上のデメリットを別にしても、俺の場合は『犯罪者である』という烙印があるだけで心は荒み、日々重圧を感じていた。だからこそかもしれない、望んでそんな身分になろうとするプレイヤーに怒りを覚えたものだ。

 

「カルマ浄化クエストが広く知られるようになって以降、グリーンとオレンジを梯子する小悪党も増えタ。まあギルドなりパーティーなり、徒党を組むのにも利点としがらみがある。抜けるに抜けられなくなることだってあるんだろう」

「クエストを発見次第広く情報を流すよう頼んだのは俺だ。アルゴが気にする必要はないぞ?」

「でも、キー坊は後悔したんだろう? システムを有効利用するのがゲーマーの常とはいえ、善意に悪意が返されるのは結構堪えるもんダ」

「それも含めて俺の見通しの甘さだったってことだな」

 

 俺のような望まずにオレンジ化してしまったプレイヤーの助けになればと思った。アルゴにはそんなつまらない感傷は捨て置けと忠告されていたし、事実、同情や自己投影で動いた結果は碌でもないものでしかなかったけれど……。

 だから昔リズに『俺がオレンジプレイヤー跋扈の一因になった』と言ったのも、故ない事ではなかったのだ。遅かれ早かれ同じことになっていたという点を語らなかったのが、自虐精神の発露だったとしても。

 

「そのままでいいんだヨ、情をなくしたキー坊なんて見たくもない。ゲームクリアを大義名分に、何でもかんでも削ぎ落としていくこともないだろ?」

「ああ、そうだな」

「キー坊は悪意を跳ね除けるのが下手っぴなんだから、悲観主義よりは楽観主義を気取ったほうが幾らかマシだヨ。少しは善意に感謝してくれるプレイヤーもいたはずだって考えておけばいいのサ」

「俺のは悲観ってより卑屈なだけだった気がするけど」

「わざわざオブラートに包んでやったんだゼ、オレっちの気遣いを台無しにするのは許さないゾ」

 

 コミカルに語気を荒くするアルゴに対し、真面目くさった顔で頷きを返してから、二人して笑みを交し合う。アルゴが一瞬だけ安堵したように息をついたことは気づかないふりをした。

 

「俺もずっと考えてたことがあるよ。どうしてラフコフという無法集団が誕生したのか。何故あそこまで大きな集団になりえたのか。なによりあいつらを突き動かす原動力は何だったのか。そんな疑問をさ」

 

 善良な人間を血塗られた人殺しへ、一人のプレイヤーを怪物に変えてしまったものは何なのか。その正体がわからず、わからないまま俺は奴らに恐怖し、対峙して、その果てに大半のレッドプレイヤーを牢獄に放り込んだ。そのためにこの手にかけた命さえあった。

 

「キー坊、ラフコフは敵だヨ。敵以外の何者でもなかっタ。……それだけじゃ駄目なのカ?」

「そう心配すんなって。別にあの戦いを否定してるわけじゃないんだから」

 

 命の重さが平等だなんて嘘っぱちだ。俺はこの世界で幾度となく命の取捨選択を繰り返した。目の前でプレイヤーが結晶として散り行くたび、その事実は冷たい現実を俺へと突き付け――命に優先順位をつけて剣を振るう意味を悟らずにいられなかったのだ。

 近しい人と、遠い他人。共に戦場に立つ者と、志を違え道理を踏み外し敵対する者。二度と還らぬものを奪ってでも守りたい現実があった。

 

「そっか」

「そうさ」

 

 必要な戦いだった。潰すべき敵だった。だから戦った。

 その事実を前にわだかまりはあっても今更懺悔する気はない。燻り消えない火種のように、この胸に満ちる痛みを抱いたまま俺は生きていくのだろう。過去を想い、前を見て一歩一歩。

 そんな俺を一頻り眺め、アルゴは安堵を含ませた表情で一つ頷き、「アーちゃんとも少し話したことがあるんだけどネ」と続けた。

 

「オレっちは殺人者(レッド)が怖い。……この上なく怖いんダ。理解できないってのは恐ろしいとつくづく思うヨ。オレっち達と同じ姿形をしていても、奴等が本当に同じ人間なのか疑わしくなってくるんダ」

 

 俺も怖かった。怖かったからこそ必要以上に攻撃的になっていた。

 

「シィちゃんから、キー坊と一緒に思い出の丘で奴等と遭遇した時の話を聞いたことがあるけどサ。あの子、思い出すだけでもつらそうだったヨ、すごく怖がってタ」

 

 シリカが特別臆病だったわけじゃないんだ。それどころか実力的には奴らを上回っているはずの攻略組ですら、奴らを前にして平常心を保てるプレイヤーがどれだけいることか。あるいは俺を含めて誰一人冷静に向かい合えていなかったとさえ思う。……《聖騎士》はその中には含まれないか。奴はあらゆる意味で別格だし、論ずるだけ無駄だ。

 

「オレっちはラフコフのメンバーと剣を合わせたことはないけど、シィちゃんが必死に震えを隠そうとしてたのもわかる気がするんダ。得体の知れない恐怖……。本来『化け物の前に立つ』っていうのはそういうことなのかもしれなイ」

「それは特別なものじゃない。ラフコフを別にしても、俺達がモンスターと普通に戦えてることが既に異常なんだ。俺達プレイヤーはこの世界を《死》が存在する現実だと認めてはいるけど、やっぱりゲーム感覚も残してるってことなんだろう。心を鈍らせて、恐怖を眠らせたからこそモンスターと戦えた」

 

 はじまりの街に閉じこもったプレイヤーの行動こそが一番真っ当な反応だったと思う。そうでもなけりゃ人間大どころか身の丈を超える昆虫やら植物、動物、果ては御伽噺でしか語られないような巨大幻想生物相手に剣一本で挑めるものか。

 そう、少なくとも最初はゲーム感覚の名残があったはずだ。そこから『こいつらは剣で倒せるのだ』という事実に伴う実感を積み重ね、異常な現実を受け入れていった。その果てに辿り着く場所が何処なのかは……あまり考えたくはない。

 

「モンスターじゃなくて人間相手だったからこそ、忘れていた現実感覚が色濃く表に出てきたってことカ」

「殺し合いって意味じゃモンスターもラフコフも似たようなもんだろう。でも、攻略組はフロアボスよりラフコフの存在のほうを恐れてたよ。データ上の強さではボスモンスターのほうがずっと上なのにな」

 

 人間だからこその搦め手はラフコフのほうがはるかに上手だが。

 

「ソードアート・オンラインはどこにでもいるゲーマーを冷酷非道の殺人者へと変えちまっタ。もちろんそれが極一部の例外だってことも理解はしてるけど、一体何が奴らをそこまで狂わせたんだかナ。オレっちにはどうあっても紐解けそうになイ」

 

 力なく首を振り、らしくもなく重い溜息をつく。

 それはそうだろう、アルゴは時に破天荒にすら映る振る舞いや珍妙な口調で強烈なキャラクターを印象付けてはいるものの、その実、誰よりも現実感覚を残した常識人だ。博識の持ち主だし知恵も回る、しかし突飛な思考を得手としてはいない。そういうのは俺の領分だった。

 

「憶測でいいよな?」

「この薄気味悪さが消えるなら何だっていいゾ」

「なら遠慮なく。ギルド《ラフィンコフィン》はゲームクリアを望まない破滅思想を持ち、殺人の禁忌を有しない倫理に外れた集団だ。これが一般的な認識」

「そうなるネ。だからこそ現実に帰ろうとしてる大多数にとっての異端であり、理解しがたい連中だったわけだけど……わざわざ確認したのは何でダ? まさかそいつが誤りだったとか言わないよナ?」

 

 それこそまさかだ、と笑う。

 

「奴等が長期的な展望を持たない阿呆の集まりってのは変わらないさ。破滅上等、目先の快楽優先だってんだからどうしようもない。ただ、その危険思想っぷりはあくまでわかりやすく眼前に置かれた姿だ、いわば目に見える結果――奴等の動きから俺たちが推し量ったものでしかないよ。全体の意思と個々の思想は違う」

「……お手上げ。そこまで言われてもオレっちには何も見えてこないヨ」

 

 アルゴには共感できないだろう、むしろ俺だってわかりたくない。

 すぅっと深く息を吸い、ゆっくりと吐き出して気を落ち着けた。

 

「果て無き超人願望。そいつがラフコフの根底にあったんじゃないかって思ってる」

「超人? 確かニーチェが唱えた哲学思想だったカ? 自身の価値観の絶対視って奴」

「いや、そっちじゃなくてフィクションで語られるほうの超人。VRMMOだからこその弊害、仮想世界に由来する病だ」

 

 多分、PoHは彼らの深奥にあるそれを見抜いて《PKギルド(ラフィンコフィン)》という《器》を用意したのだと思う。

 

「あー、なるほどネ。字面通りの超人欲求充足って形になるのカ。そりゃまあアメコミの主人公さながらに飛び跳ねられる世界だし、現実感覚の喪失につながってもおかしくないよナ」

「連中はもっと能動的だった、と思う。現実に付随するあれこれを自然に忘れていったんじゃなくて、自分から捨てたんだ。俺達よりもはるかにこの世界を《唯一の現実》と認め、適応した。それがどれだけ歪でも、彼らはこの世界こそを自らの世界だと定めたのだと思う。ちょっと乱暴な結論になるけど、現実世界に不満を持った奴ほどアインクラッドを『現実』と見做しやすくなるんじゃないか?」

 

 現実世界に価値を見出せなくなっている人間は特に危険だろう。何らかの劣等感コンプレックスを強く抱いている者や、己の居場所を見失ってる人間が仮想世界で不満を解消し、『生きている実感』を見出す。ありえないことじゃない。

 恥ずかしながら俺にも身に覚えのある気持ちだった。もっとも俺の場合はゲーム開始一ヶ月でこの世界から強烈に逃げたくなったため、アインクラッドを安住の地と見ることが出来なくなったわけだが。

 もしも攻略に関わることなく利己的なプレイを貫いていたなら、あるいは俺も『この世界に骨を埋めても良い』という答えに行き着いてしまった可能性はある。……さすがにレッドにまで身をやつすとは思いたくないが。

 

「この場合、連中を満たす一番手っ取り早い手段がPKだったのが一番救えない点なんだろうよ」

 

 加えてこの世界は肉体的、技能的な意味でひたすら平等だ。時間をかければかけただけ成長し、それはレベルとステータスという目に見える数値となって表れる。この世界に没頭すればするほど成果が出るし、他人に先んずることも出来る。優越感を満たすために払う最も大きなリソースは才能や運ではなく、狩りやスキル使用に費やした時間の総計なのだ。

 無論、技能で言えばユニークスキルという例外はあるし、剣の腕にしても諸々の才能――現実世界と似て非なる仮想世界に呼応するための戦闘センスに左右されもする。しかし大部分においては現実世界よりもシンプルかつ平等であるし、それはMMORPGの基本でもあった。

 

「ゲーム上で操るキャラクターへの過度の自己投影と付随する価値観の逆転。現実を捨ててゲームに没頭する奴ってのは一定数存在するし、昔からその手の『嵌り過ぎ』は取り沙汰されてきた。一時期は社会問題として大きく取り上げられたこともあったらしいけど」

「そこまでいっちまうのは極端な例だけどナ」

「加えてVR空間だ、おかしくなる下地は揃ってる」

 

 MMOには中毒性があると昔から言われてきた。『より多くの時間というリソースを費やした者こそが強い』。その単純にして明快な論理で組まれた世界を愛すゲーマーは多い。

 五感を電脳空間にダイブさせるナーヴギアが発明される前、パソコンの画面と向かい合うクリックゲーだった頃のMMOですら現実世界よりもゲーム世界に没頭する人間、いわゆる《廃人》と呼ばれる人種が存在していたのである。彼らはゲームのために現実世界を仕方なく生きている、一般的な観点からすれば本末転倒な生活を送る人間だったとさえ言える。

 

 その中毒性のある世界が茅場晶彦によってVRという形態を可能にし、まさに異世界に飛び込むが如き様相を示した。そこで何が起きるかは未知数の上、《デスゲーム》という極限状態だ。

率直に言って、どんな馬鹿な理由で人道を踏み外しても不思議ではなかった。

 

「ラフコフのメンバーはどいつもこいつも性根の腐った連中だけど、幹部三人衆の中ではザザが一番純粋だったんじゃないか? あの針剣(エストック)使いは一際強さに執着を持っていたよ。で、わかりやすさではジョニー・ブラックが一番だな。あいつは他者への優越と強者である自分に酔ってる典型だったと思う」

 

 どちらも倫理を欠いているのは今更だ。

 

「でも、PoHは毛色が違うよナ? キー坊はあいつだけは殺しが目的じゃないって言ってたろ。そうすっと超人願望なんて欠片も持ってなさそうだゼ?」

「だろうな。ラフコフを率いちゃいたが、ラフコフの掲げた思想なんて鼻で笑っていただろうから。というか俺にもあいつは未だによくわからん」

 

 ラフコフという殺人集団を率いておきながら、あの男にとってはその活動の悉くがフェイクでしかない。ラフコフという器は、奴にしてみれば社会に馴染めない外れ者を集め、そいつらが望む餌を投げ渡して飼う遊び、その程度の認識だったんじゃないか? その外道と欺瞞っぷりはこの世界で一、二を争うだろう。

 

「奴はこの世界で死ぬ気はないはずなのに、やってることは攻略の妨害だ。その時点で矛盾してる」

 

 では、その矛盾を解消する論理は何処にあるのか。

 

「人間同士の潰し合いを見るのが目的だとしても、最後までそれを貫けるもんかな? 奴にこの世界を自分の手で脱出するビジョンがあるかは疑わしいぞ。つまり――PoHに攻略組を潰す意図はなかった」

「『ソロでクリアするなんて土台無理な話だ』ってのがどっかのユニークスキル使いの結論だったしナ」

 

 茶化すな、と一応の抗議を入れておく。

 

「PoHは攻略組クラスの力を持ってるかもしれないけど、言ってみればそれだけだ。フロアボスを相手にするなら有能な剣士止まり、それこそ《聖騎士》ばりの絶対的な戦力を示せるわけじゃない。そんな奴が攻略組を潰した後にこの世界を一人でクリアできるかと言えば、まず無理だ」

 

 それとこれはPoHに限ったことじゃないが、純粋に戦力として見た場合、ラフコフは装備から戦術まで対人に偏り過ぎててボス戦に使える人材かどうかは不明である。いや、もちろんあいつらだってレベリングはしてるんだからモンスター戦闘だって一通りこなせるのだろうが、フロアボス戦の経験には乏しいし期待薄だ。

 そもそも奴等に背中を預けるなんざ悪夢以外の何者でもないけど。間違いなく背後から斬りつけられる。

 

「PoHだってゲームクリアはしなきゃならない。となるとどっかでギルドの方針を変えるか活動を休止する必要があったんだが……。あいつ、もしかしたら適当なところでラフコフを潰す計画さえ立ててたかもしれない」

「……マジか? 自分で作ったギルドだろ?」

「そう、自分の愉しみのためだけに作ったギルドだ」

 

 用済みになった玩具の末路は一つだ。アルゴの顔に浮かぶのは予想外のことを聞いたという驚きと、そこまでやるのかという侮蔑だった。

 

「奴にはこの世界に囚われたまま俺達と心中するつもりはない。なら、さんざんプレイヤーからのヘイトを稼いだ後で攻略組に情報を流し、不必要になったラフコフとぶつけ合わせればいい。そうやって最大規模の殺し合いをプロデュースした挙句、自分自身はさっさと雲隠れ。その後はゲームクリアを攻略組に任せ、悠々自適に過ごす。どうだ?」

「最悪だナ。吐き気しかしないヨ、邪悪極まる策謀って奴ダ」

「同感」

 

 実際は俺が計画を立て、討伐隊を組んで奇襲を成功させ、PoHの機先を制する形でラフコフ討伐を主導した。そのため奴がラフコフの去就をどのように考えていたのかはわからない。

 しかしあの男ならば俺が口にした程度の悪辣ぶりは苦もなく発揮するだろう、というどうしようもなく嫌な信頼がある。そうなればPoHはゲーム世界で存分に自身の目的を楽しみ、達成し、労せずしてゲームクリアのお零れに預かれるという寸法だった。

 

 自分で語っておいて何だが、どうにもむかむかしてきた。これらはあくまで推測でしかない。しかし、もしもそれが奴の描いたゲームクリア戦略だったとしたら、それこそ反吐が出るというものだ。

 

「そうなると75層でクラディールを攻略組に(けしか)けたのはおかしくないカ?」

「別におかしくないぞ。あれはクラディールがベラベラ内情を暴露したせいでPoHの思惑とずれたってだけで、順当にいけば真相は闇の中だったはずだし」

「どういうことダ?」

「PoHの企図した本命はラフコフの完全壊滅、つまりあれは邪魔になったクラディールの切り捨てだったんじゃないかと踏んでる。多分クラディールは俺を殺して逃げた後、PoHに報告に行ってもそこで始末されてたよ。そうなれば下手人がいつの間にか死亡で裏切りの動機はわからずじまいだ」

 

 俺を狙ったのはPoHがクラディールの為人を考慮したのが半分、自身の命を脅かされないようにするのがもう半分。どちらにせよPoHの元まで火の粉は飛ばない――はずだった。

 ある意味でクラディールはPoHの思考の上をいったのだろう。いや、この場合は予想を超えて下回ったと表現するべきか。PoHの最大の誤算は俺が生き残ったことではなく、クラディールが俺のみならずヒースクリフまで殺そうとしたことだろうな。PoHにしてみれば、ヒースクリフはクリアのためにも生き残っていてもらわなくては困るプレイヤーのはずだ。

 

「……頭が痛くなってきた。もうPoHの野郎だけ茅場のゲームマスター権限でこの世界から追放してくれよ。オレっち文句言わないゾ?」

 

 アルゴが心底辟易とした口調で心情を吐露した。俺もその意見にゃ賛成するよ。PoHは害虫並にうざったい上に、極悪の毒を持ち合わせてる危険指定生物だ。いないほうがずっと平和に違いない。

 

「まあそういうわけでな、ラフコフとPoHは別物として見たほうが良いんだ。そうでないと奴等の本質を読み違える」

「なるほどねぇ。考えてみりゃPoHが戦線離脱してもラフコフから戦意が消えなかった事とか、ワンマンギルドにしちゃおかしな特徴があったもんナ。ったく、PoHは邪悪の権化、外道の極みみたいな奴だけど、部下は部下でメルヘンこじらせて無法に溺れた社会不適合者の集まりかヨ。徹底した壊れ具合っつうか、オレっちには到底理解できない世界だゼ」

 

 お互い疲労のこもった溜息が出た。

 

「良きにつけ悪しきにつけ、この世界では生きている実感ってのが得やすい。茅場が攻撃手段を実質《剣》に限定した意味はそこにあると思う」

「遠距離武装を制限したことカ? そういえばキー坊の持ってるスキルに《射撃》ってのがあったっけ」

 

 ちなみに射撃スキルに対応する弓カテゴリの装備が発見されたという話は未だに聞かない。

 

「《射撃》がユニークスキルなら仮説としてはそこそこ成り立つかな。ゲームコンセプトとして《剣の世界》と銘打った以上、システム上アインクラッドに魔法的な要素が制限されるのはわかる。でも、弓が武器選択に入ってないのは如何にも不自然だ」

「根拠は?」

「《剣の世界》とはいうけど、刀や槍ならまだしも、斧やら棍やら鞭やら、およそ剣の範疇にない武器のバリエーションが多すぎる。だってのにファンタジー世界の定番である弓がないのは妙だと思わないか?」

 

 ふむ、とあごに手をやって考え込むアルゴ。

 

「投剣スキルで放つスローイング系の武装はメインウェポンにはなりえなイ。そして、仮に《射撃》スキルがユニークスキルだとするなら弓はあくまで特別であり、汎用性を持つ武器としての立場は獲得できずに終わる。――結論、アインクラッドではゲームマスターの意思によって飛び道具が徹底的に制限ないし排除されている。キー坊はそれを、茅場がデスゲームを想定して作り上げた仕様だと踏んでるわけカ」

「戦術を接近戦に限定することで、プレイヤーに直接獲物を狩る感触を覚えさせ、生の実感を強く抱かせる。ひいては現実世界を生きてきた人間の価値観を極自然にアインクラッドで生きる剣士のそれへと変貌させようとした。茅場の狙いはそういうことだったんじゃないかな」

 

 アスナが言っていた。まるでこの世界で生まれ、ずっとこの世界で生きてきたようだ、と。

 それは狩り、すなわちモンスターを『殺す』ことが生きる手段であり、生活の糧だったからだろう。現実世界と大きく異なる生活様式、日々繰り返される異常を日常として刻み込み、知らず知らずのうちに向こうの感覚を忘れ、こちらの何もかもに迎合してしまった。

 無論、それが悪いことだとは言わない。生き残るためには下手に現実のあれこれを引きずるのは危険だったからだ。

 

「全ては茅場晶彦の掌の上ってカ、ぞっとしない話だゼ」

「もちろん単なる偶然で終わる可能性もある」

「おーい、最後にそれを持ってきちゃ台無しじゃないカ」

 

 呆れ顔のアルゴにひょいと肩を竦めてみせる。そう言うなよ、人の心理の全てを見通せるなら俺だって苦労しない。

 

「ゲームマスターとして神様を気取っていても、そしていくら天才の誉れ高い男だろうとも、茅場だって一人の人間であることには変わらないんだ。一から十まで想定しきれるゲームデザイナーはいないだろ? 開発者の意図しえない攻略法や既存スキルのトンデモ利用法をユーザーが編み出すなんてのも珍しくもないし、実際システム外スキルの幾つかは開発者にとっても盲点だったんじゃないか?」

「キー坊はそういうシステムの抜け道を探すの好きだよナ」

「ゲーマーらしいだろ?」

「開発者泣かせのユーザーなんじゃねーノ?」

「茅場への嫌がらせになることなら喜んで」

 

 もっともアインクラッドでのシステムに規定されていない戦闘関連スキル、いわゆる《システム外スキル》と俺達が呼ぶ技術は『わざと』残されている気がしてならないが。それらを発見する楽しみを見出してもらうという開発陣の目論見が透けて見える。

 何せどれもこれも難易度と実用性の釣り合いが取れていないため、デスゲーム渦中の実戦で容易に使えるようなものではなく、ゲームバランスに及ぼす影響は微々たるものなのだ。曲芸はどこまでいっても曲芸でしかなかった。

 

 まあ釣りスキルを利用したスイッチみたいな日常スキルまで開発スタッフが検証していたとは思えないけどさ。あれは確率で発生する偶然の産物ではなく、発想に至れるかどうかが全てなのだから。

 

「俺としちゃ二年近く稼動させ続けてるMMOで、システムバグやバランス調整失敗の形跡がほとんど見られない現状のほうが恐ろしいけどな」

「《カーディナル》とか言ったっけ? スケールのでかすぎる話だヨ」

 

 人の手を介さず世界を管理し続ける精緻極まりないシステム――神の代理人。その優秀すぎる巨大システムに俺達への悪意がないことが救いだ。おそらく根底にあるのは茅場の意思なのだろうが、その点だけは感謝している。クリアを絶望的にさせるようなゲームバランス崩壊だけは勘弁だった。

 

「スケールねぇ。アインクラッドの基部フロアは直径およそ10キロメートル。上に登れば登るほど敷地面積は狭くなっていく浮遊城。それが全ての世界。現実世界に比べればずっと規模の小さな箱庭にあってさえ、俺達人間はちっぽけな存在だってことを思い知らされるんだから堪らないよな」

「で、こうしてる間も現実世界は何事もなく時間が進んでいく、と。クリアを諦めた連中の気持ちもわかるヨ。オレっちだって時々やってらんねーって思うもの」

「今までのペース換算だと首尾よく攻略に弾みをつけたしても、頂上に辿り着くまであと半年から一年はかかるもんな」

 

 俺達の肉体的なタイムリミットを示唆したアスナや、ゲームクリア後の社会復帰を危ぶんだニシダさんの顔が思い出される。クリア後のことも考えると、二次被害を抑えるためにも攻略スピードの加速は必須ですらあった。浦島太郎なんて冗談じゃない。

 

「あんま逸りすぎるなヨ。まあキー坊にそんな忠告するのも今更すぎるけど」

「俺が喜ぶから無意味じゃないぞ?」

「その程度でよければいくらでもやってやるけどサ、安上がりな男になるのも損だゼ?」

「お前にとって都合の良い男になれるなら、それも悪くない気がする」

 

 割と本気でそう思った。

 

「……まーたキー坊はコメントに困るようなことを言うんだから」

「素直な気持ちだぞ?」

「だったらなおさら説教が必要かもナ。キー坊、ちょっと反省させてやるからそこで起立」

「イエス、マム」

 

 あれ、正座じゃなくて?

 そんな内心を押し止めてベッドから立ち上がり、おどけた敬礼をしてみせると、すかさず「動くの禁止」とありがたいお言葉が飛んできた。アルゴも興が乗ってきたのか幾分声が弾んでいる。どんないたずらを企んでいるのかとわくわくしながら見守っていると、アルゴはおもむろに立ち上がり、しげしげと俺を眺め回しながら不思議そうに首を傾げてみせた。

 

「こうしてキー坊のとぼけた顔を見てると、勇猛果敢な比類なき剣士ってのも評判倒れに思えるなあ。痩せっぽちだし、この通り身長も足りてないもの」

 

 噂話にまで責任は持てないぞ。ともあれ――。

 

「俺よりずっとちっこい奴に言われてもなあ」

「甘いなキー坊、これでもシィちゃんよりはおっきいゾ。身長もそれ以外も」

「シリカが泣くからやめろ」

 

 主に『それ以外』の部分で。

 アインクラッドではプレイヤーの姿が二年前のまま固定されてるせいで、シリカも結構そのへん気にしてるっぽいんだぞ? そもそもアルゴだってアスナとかリズと比べられるのは厳しいだろうし、サチだって実は結構――と、危険な方向に進みかけた思考を慌てて振り払った。

 そんな俺の苦悩を面白そうに眺め、瞳を輝かせて「シィちゃんの半泣き顔ってそそるんだゼ」と不穏当極まりない発言をしてくれる輩がいた。性懲りもなく想像の翼を広げ、納得しかけてしまった自分が憎い。すまん、シリカ。

 

「冗談はさておき、キー坊は誇って良いんじゃねーノ? 今現在の生存者七千人ちょい、その大半の期待ってやつを一身に背負ってるんだから」

 

 その台詞だけなら素直に頷けたのかもしれないが、これだけよいしょしておいて叩き落すのもアルゴという女だった。

 

「ほんと感慨深いものがあるよナ。二年前、茅場の気味悪いアバターに衝動的に斬りかかったガキが、今じゃアインクラッドの希望だゼ? よくもまあここまで騙し通せたもんダ」

 

 俺の弱みがアルゴに知られすぎてる気がするぞ。もっとも俺が自分から口を割った結果なのだし、文句を言うのもお門違いなんだが。

 そんな俺を横目に「《黒の剣士》殿は演技達者なことで」とけらけら笑い飛ばすアルゴはとても楽しそうだった。とりあえず「お前だけには言われたくない」とだけ返しておく。アルゴも自分の事を棚に上げてよく言えたものである。スキル欄にはきっと《棚上げ》の文字が躍っているに違いない。

 

「安心しなヨ。《はじまりの剣士》は鍍金(メッキ)に彩られたなんちゃって勇者様だったかもしれないけど、《黒の剣士》は本物になっタ。嘘から出た真って奴かもネ、キー坊の自覚あるなしに、もう『そうなっちまってる』んだヨ」

「結構重いよな、それ」

 

 彼らの期待に応えたいとも思うし、そのための努力を怠る気はない。それでも……何も知らず我武者羅に駆け抜けていられるなら、そちらのほうが楽なのかもしれない、と。ふとそんな考えが過ぎった。

 弱気になったわけでも、気負いを滲ませたつもりもない。やることはいつだって一つだ。アインクラッド攻略に全力で取り組み、限界の一歩先を常に念頭に置き、目指し続ける。いつかその一歩がずっと見上げてきた頂に辿り着くのだと、俺にはそれが出来るのだと信じて戦えば良い。

 

「――なら、オレっちが少しだけ軽くしてやるヨ」

 

 いつかの聖夜とその顛末を思い起こさせる台詞回し。けれどそれはあの時にはなかった軽妙に弾んだ声音で、それでいていつも通り耳に心地よいイントネーションをしていた。彼女に抗えなかったのはその悪戯な笑みに見惚れていたのか、それとも彼女の声に安らぎを覚えて注意散漫になっていたためか。きっとその全てが真実で、その実、言い訳に過ぎなかった。

 

 ぐいと腕を抱え込まれ、その場でくるりと半回転。俺との位置を入れ替え、勢いそのまま背中から寝台へと倒れこんでしまうアルゴ。俺もまたそんな彼女に引っ張られる形で、今しがた座っていた柔らかなベッドの上へと引きずり込まれてしまう。

 抵抗する気は欠片も起きない。むしろその誘いを歓迎している俺がどうして拒まなければならないのか。とはいえ、一足早く寝台に身を横たえている少女を我が身の加重で押し潰すわけにはいかないため、そこだけは気をつけて両手を差し出し、身体を支えた。

 小柄な少女の顔を、上からじっと見下ろす。

 

「強引だな」

「最初くらいはネ。それにユイユイが寝てたベッドで、ってのは背徳感が半端ないし」

 

 俺の身体の下で組み伏せられたまま、にんまりと笑う。アルゴらしい言い草だと苦笑が漏れた。

 

「何時の間にそんな細々とした情報(ネタ)を仕入れたんだか。情報屋の面目躍如ってか?」

「んー、女の勘でもいいゾ? キー坊の好きなように取っておけばいいサ」

「そうしとく」

 

 我が家の寝室の間取りを知っているプレイヤーは多くない。情報源はアスナかサチか、はたまたシリカかリズか。あるいは今日この場での俺の振る舞いから当たりをつけたというのも十分考えられることだった。しかし追及する意味がないというのもアルゴの言う通り、優先順位は限りなく低い。

 重要なのは今、目の前に広がる光景。華奢な少女を組み敷き、息の触れ合う距離で見詰め合っている甘やかな現実。それだけだった。

 

「今夜はキー坊がやけに情熱的な文を寄越すから、一体何事だと思ったもんだけど……」

「迷惑だったか?」

 

 くすっとアルゴの口元が綻び、俺の頬へと細い指先を伸ばすと。

 

「そういうのを野暮っていうんだヨ、キー坊」

 

 答えのわかりきっていることを聞くんじゃない、と笑って窘められてしまう。

 

「特別な夜を望んだんだ、それなりの理由があるんダロ。……明日のことで何か思うところでもあるのカ?」

「ちょっとな。聞きたいか?」

 

 アルゴはうーん、と唇に人差し指を当て、答えに迷うような素振りをわざと見せてから。

 

「別にいいや」

 

 と、あっさり口にする。

 

「うわ、話を振っておいて簡単に引き下がりやがった」

「折角の逢瀬に無粋な話はいらないってこと。ま、本当は『キー坊のことならオネーサン何でもお見通しなんだゼ』って主張したかっただけなんだけどサ。まさかオレっちに独占欲がないとは思ってないだろうネ、キー坊」

「せめて俺の半分くらいは持っててほしいかなあ」

「ふふん、そいつは秘密にしておこう。良い女には秘密が付き物なのサ。そうそう、女に隠し事をしたいときは何も言わずに抱きしめてやればいい、って教えてやったっけ?」

 

 からかい混じりの笑顔が眩しく、愛おしい。胸に込みあがる気持ちに素直に身を委ねてしまいたくなる。

 逢瀬につまらない話はいらない、とアルゴは口にした。

 なるほどその通りだと思った。殊更俺の存念を隠したいわけではないが、ここで口にするのはどうしたって無粋に違いない。それに……愛しい人からの抱きしめてほしいという願いを無碍にするほど、俺は意地の悪い男ではないつもりだ。今はお互いに温もりを確かめ合うほうがずっと大事だろう。

 彼女の願いのままに、壊れぬように、そっと――。

 

「ん、やっぱり、こうしてると落ち着くナ……」

 

 腕の中で安心したように微笑む様子に胸が温かくなり――同時にアルゴの全てを奪いつくしてしまいたい、そんな黒い衝動を毎回どうにか押さえつけている事を、はたして目の前の少女は気づいているのだろうか。

 

「どうせキー坊は忘れてるんだろうけど」

「ん?」

「今日はもう一つ、特別な意味を持った夜なんだゼ?」

 

 何か忘れていることでもあったかと思索を巡らせても、これといったものは思い浮かばない。アルゴの言う通り、何時まで経ってもその意味するところをまったく描き出せなかった。

 

「降参。明日の決闘以外に何か大きなイベントってあったっけ?」

「やれやれ、間抜けもほどほどにしときなヨ」

 

 そうして少し動けば唇が触れ合える距離で、囁くように一つの事実を告げられる。それはどこか厳かで、同時に優しい響きをしていた。

 

「――16歳の誕生日おめでとう、キー坊」

 

 その思いがけぬ祝いの言葉を受けて、そういえばそうだった、と今日という日の意味を今更思い出す俺は、アルゴの指摘通りに間抜けだったことだろう。うむ、反論できん。

 

「サンキュ」

 

 短く告げる。

 今日の日付は西暦2024年10月7日。俺はアインクラッドに閉じ込められてから二度目の誕生日を迎えていたのかと、しばし感慨に耽り――。

 

「ところで、その台詞はアルゴが今夜のプレゼントだと受け取っていいのか?」

 

 蝋燭を挿したケーキはいらない、その代わりにお前が欲しいのだと厚かましく要求してみた。この時の俺は結構良い笑顔をしていた自信がある。つまるところ口実であり、互いに承知した言葉の繰言でしかなく、だからこそ楽しむ。そういうものだった。

 

「にゃハハハ、キー坊のエッチ」

 

 少しだけ、気恥ずかしそうに。

 

「でも……キー坊がそれを望むなら」

 

 ほんのりと赤く染まる彼女の頬があまりに艶やかで、柔らかな双眸はあまりに優しくて。

 だから、こんなにも愛おしい。

 

「じっとしてろよ」

 

 言葉の鎖で絡めとり、ゆっくりと手繰り寄せていく。焦らすかのように緩慢な動きだったのは、きっと少しでも長くこの一時を愛でていたかったからだろう。

 最初に手をつけたのは彼女の愛らしい耳だった。いや、まあ、触れたのは俺の手ではなく口だったりするのだけど。いつものようにぱくりと唇で()み、親愛を示すように甘噛みを続けた。

 

 アルゴはくすぐったそうに身をよじり、我慢しようとしても漏れ出すか細い吐息を押さえ込むためか、左手の人差し指を口元に運んでいく。けれどそれを許すまいと画策した俺の右手がアルゴの細い左手首を掴み、万歳させるように頭上へと持ち上げてしまう。慣れた手つきでもう片方の腕も掴み取り、手早く自由を奪ってしまうのも珍しいことではなかった。

 

 むぅ、と恨めしそうに睨んでくる抗議に知らんぷりを決め、首筋に唇を落とすと舌の感触に驚いたのか、普段は絶対に聞かせてくれない甲高い鈴の音が空気を震わせる。

 大きく仰け反らされたおとがいにイタズラ心が疼き、眼前に晒された健康的な白く滑らかな肌に本能を刺激され、これ幸いと頭を忍び込ませる。しめしめと存分に意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「んぅ……ひゃぅ……」

 

 繊細に、優しく、けれど急所を一突きするかのような至極真剣な心持ちで、露わになった喉の正中線をなぞるようにそっと舌を這わせる。すると今度は途切れ途切れに息を乱し、可愛らしくも艶やかな嬌声がアルゴの口から発せられた。

 口や手と並行して視線も忙しく滑らせる。アルゴの手はぎゅっとシーツを握りしめ、複雑な皺模様を作り出していた。無防備に投げ出された柔らかな肢体が、俺の脳髄をこれ以上となく痺れさせていく。

 

「わぷ」

 

 不意に反撃を貰った。

 首筋から下って開いた胸元に到達し、さらにその先へ向かおうとした矢先に、それまでされるがままだったアルゴの腕が俺の首に回され、一時の間不埒な動きを封じ込めるように強く抱きしめられてしまう。頬に当たるふくよかな感触を堪能して夢見心地になる一方、息を乱した少女に意識を向けて言葉を待った。

 

「……キー坊の、いじめっこ」

 

 上擦り、濡れそぼった声音にぞくりと昂ぶりを覚える。

 目の端に涙が浮かび、切なげに潤んだ瞳と熱を帯びて上気した艶やかな表情が目に映った。そうやって息も絶え絶えに訴えかけられると、たまらず罪悪感が刺激され――ることはなく、むしろもっと乱れさせたいと不健全な嗜虐心がむくむくと膨れ上がってくるのは、はたして俺の性格の悪さ故だろうか。

 

「これでも誠実なつもりだけど?」

 

 手を伸ばし、彼女の目尻に光るものを拭い取りながら白々しく惚けてみると、案の定ジト目が返された。

 

「オレっち、キー坊に倫理コード解除設定を教えたのは間違いだったんじゃないかって思うことがあるんダ」

「いやあ、何だか楽しくなって、つい」

「つい、じゃないっての」

 

 唇を尖らせ、「ああもう、妙にツボを抑えてくるし、手癖は悪いし……」と一頻り文句を言われるものの、本気で責められているわけでもなかった。それに手癖が悪いというのもそれだけアルゴが魅力的なせいだ。可愛らしい反応を引き出したくて、ついつい手が伸びてしまうのである。

 つまり俺は悪くない、アルゴが悪い。

 以上、論破。証明終了。

 

「よし、だったら次はアルゴのリクエストに応えるぞ?」

「それはどんな羞恥プレイだ……。第一、何言ってもキー坊の得にしかならないじゃないカ」

「大丈夫、俺は奉仕精神も持ち合わせた男だぞ? ほら、これでWin-Winの完成だ」

 

 何もおかしいことはないと言外に込め、悪ぶれずに告げた俺に贈られたのは頬を優しくつねる制裁だった。「にゃにをする」と抗議立てする間抜けな男をくすくすと笑う少女が一人。

 

「まったく、調子の良いこと言ってくれちゃってサ」

「そりゃ、招いた以上は精一杯もてなすのがホストの務めだからな」

 

 そう言って笑う俺にアルゴも微笑を浮かべながら顔を寄せ――なら、ちゃんともてなせヨ、と耳元で甘く囁かれるのがとてもこそばゆかった。

 

「今夜はずっと一緒にいてほしいんだろ。だったらオレっちを掴まえて離さなければいい。逃げる気をなくすくらい強引に、キー坊の腕の中に閉じ込めておいてくれヨ。もしもオレっちのお願いを聞いてくれるなら――」

 

 ――今宵一晩、オレっちの全部をキー坊にあげる。

 

 もしかして俺は色に溺れて窒息死するんじゃないかと、そんな危惧さえ浮かぶ有様だった。……ほんと、どうしてくれよう。

 純な男心をこれでもかと擽る言霊と、小悪魔を彷彿させるあざとさを持ち合わせるアルゴは、もう俺の中で悪女認定してしまって構わないのではなかろーか。その所作も計算だけじゃないのが余計始末に負えない。最初から最後まで演技だけならこっちでストッパーもかかるんだけどなあ……。

 

 艶やかに咲き誇る一輪の花の香りに誘われ、罪悪感を覚えながらも無思慮に茎を手折るために手を伸ばすような、そんな些か歪んだ高揚を覚えていた。否応なく高まる暴力的な欲求が心を支配し、今か今かと解き放たれるのを待っている。それはこの世に理性を放り捨てたくなる瞬間が確実に存在するのだという証左であり、同時に俺達の秘めやかな逢瀬の再開を意味するものでもあった。

 

 熱く、熱く、さらに熱く。

 刻々と身の内から湧き上がる熱が限度を知らず上昇していく。その原始的な欲望の前にこれ以上の抑えは困難だった。仄暗く染まる寝室で、ナイトランプの灯火によって淡く描き出された陰影がゆらゆらと不定形なシルエットを刻み、ぎしりと寝台の軋む音が妖しく耳朶を打つ。

 

 欠けた半身を埋めるように互いを求め合う、その魂の交感を人は何と呼ぶのだろう。

 やがて二つの影が重なり、心と言わず身体と言わず、その全てが安息の内に溶け合っていくのだった――。

 

 

 

 

 

 俺が十六回目の誕生日を迎えた翌日、十月八日は快晴そのもので、まさしく決闘日和と呼ぶに相応しい一日だった。あるいはどこぞのゲームマスターが余計な気を回してくれたのかもしれないな、と皮肉混じりに思うくらいには気持ちの良い風が吹いている。

 そんな詮無い思考も、今は凪の心境で受け流せているのだから問題ない。今日の俺はここ最近で類を見ないほど心身共に充実していた。我が事ながら現金なものである。

 

 ちなみに俺のコンディションをマックスまで引き上げてくれた女神様はすでに我が家を辞している。昨夜(しとね)の上でしどけなく乱れた艶姿(あですがた)も何のその、朝食を取った後に「オレっち一足先に会場入りするから」とさばさばしたものだった。あいつらしい奔放さだとすぐに納得してしまうのは彼女に相当毒された結果なのだろう。しかし気にするようなことでもない。

 

 大方アインクラッド全土の注目が集まっている一大イベントを利用して、ここぞとばかりに情報屋の商売に励むのではないだろうか。情報を扱う者にとって一番の財産は人脈だ、それを疎かにするようではすぐに立ち行かなくなってしまう。モンスターと戦ってるほうが気楽だと考えてしまう俺には到底務まらない役目だった。

 

 決闘の開始時間は正午。イタズラ心――もとい、勝利のために宮本武蔵を気取って決闘場所にわざと遅刻する、という計略に勤しんでみたいという誘惑に駆られたが、今日の趣旨に見合わないため泣く泣く見送りとなった。いつかやってみたいという野望だけは胸に残して。

 ともあれ、俺が第75層主街区《コリニア》のコロシアムに到着すると、それはもう大変な熱気に迎えられ、圧倒されたものである。メインイベントの開催を今か今かと心待ちにしている人、人、人。会場外には多くの露店が立ち並び、引っ切り無しに呼び込みの声が交錯している。

 自分で画策しておいて何だが、こうして見るとちょっとばかし腰が引けるくらい盛況な様子だった。皆、娯楽に飢えてんなあ。

 

 幸い本日のメインイベンターの片割れが、道端で間抜け顔を晒しているのを気づかれた様子はない。このまま目立たず会場入りして開始時間を待とう、そう密かに決意して歩を再開させた時――。

 

「あ、キリト君、こっちこっち」

 

 コロシアムの入り口付近に設けられた受付席に人影が三つ。そのうちの一人が弾んだ声で我が身に呼びかけを行った。にこやかに手を振るのは血盟騎士団副団長その人である。白の布地に赤の刺繍が映え、細身の剣を腰に提げた栗色の髪の少女は、今日も今日とて輝かんばかりの美貌を振り撒いていた。

 

 アスナの鈴の音を転がすような美声がやけに明瞭に響き渡り、その瞬間、ざわりと周囲一帯が揺れたのがわかった。ぶしつけに声をかけられるのも願い下げだが、気のない素振りを装ってちらちらとこちらに視線を寄越し、ぼそぼそと何事かを囁きあうのも勘弁してもらえないだろうか。

 こう、身の置き場に困る感じがだな……。とはいえ、今日ばかりは仕方ないかと内心の嘆きを押し殺し、何食わぬ顔で人垣を割いていく。

 

「ようアスナ、副団長直々のもぎりとは豪華だな」

「ちなみにわたしが受付をやってるのはダイゼンさんの提案で、NPCを雇わずにすませる経費削減策よ」

「……マジか?」

 

 いくらなんでも世知辛すぎやしないかと冷や汗を流す。すると案の定アスナがおかしそうに噴出した。

 

「あはは、嘘に決まってるでしょ」

 

 それからわずかに身を乗り出し、幾分声を潜めて内緒話に近い格好で言葉を続ける。

 

「わたしがここにいるのは万一のトラブル対策よ。血盟騎士団(わたし達)が安全に気を配ってるっていう意思表示をしっかりするためのね」

「なるほど」

 

 だからこれ見よがしに剣を提げてるのか。《コリニア》は主街区のため、オレンジプレイヤーは入り込めない。しかしそれはあくまでカーソルがオレンジのプレイヤーをシステム的に弾いているだけであって、カルマ浄化クエストを達成さえすればいくらでも街に入り込める。

 アスナ達の目的は不審者をチェックし、要注意プレイヤーリストに載ったプレイヤーならば会場入りさせない、ということだろう。警戒すべき筆頭は当然PoHだろうな。血盟騎士団としても立て続けに失態を繰り返したくあるまい。

 

「何かあったときは俺にも声をかけてくれ。全面的に協力するから」

「わかった。まあ、今のところ平和なものだし、圏内で大それた騒ぎが起こせるとも思えないけど」

「何事もなければそれが一番だ」

「うん、そうだね」

 

 ポーズで終わるならそれに越したことはないしな。それに嵐は俺が起こすものだけで十分だと内心で独りごちていると、アスナの隣に座る少女にぺこりと頭を下げられてしまった。

 

「こんにちは、キリトさん」

「ああ、うん、こんにちは? ところで、どうしてシリカがここで受付をしてるんだ?」

 

 疑問符を盛大に飛ばしたまま反射的に挨拶を交わす俺だった。

 先ほどまでアスナと話し込む俺をにこにこと眺めていた一人と一匹がいたのだが、それは小竜のピナを頭に乗せた竜使いだった。彼女はごく自然に血盟騎士団主催のイベント会場で受付嬢をやっていたのである。

 うーむ、何と面妖な……。それとも俺の知らない間にシリカは血盟騎士団に入団していたのだろうか? だとしたら血盟騎士団のユニフォームを揃えていないのが解せない。

 と、まあ、適当につらつら考えてはみたものの、正答はアスナの口からあっさりと語られた。曰く、お手伝いである、と。

 

「手伝い? 血盟騎士団はアルバイトでも募集してたのか?」

「どっちかというとわたし付きのお手伝いさんかな? 話し相手から雑用まで手広くやってもらってるの。というわけでキリト君は控え室までシリカちゃんに案内してもらってね」

 

 なにがどうなって『というわけ』につながったんだよ。

 

「会場の下見は昨日の内に一通り済ませてあるよ。案内されなくても迷ったりしないぞ」

「あれ、キリト君って戦闘前は一人で集中したいタイプ?」

「いや、そんなことはないけど」

 

 むしろ誰かと話していたほうが気持ちが落ち着くタイプじゃないか? まあ剣を握れば自然と集中力は高まるから結局はどちらでも大差ないのだけど。

 

「なら構わないわね。それに一応うちが主催なんだから係員の指示には従ってね?」

「取ってつけたような理由だなあ。でもまあ折角の好意だ、ありがたく受け取らせてもらうよ。よろしくな、シリカ」

「はい!」

 

 今ひとつ流れが読みきれないのだが……まあ、危険な企みとかじゃないみたいだしいいか。正午まで少し時間があることだし、シリカがそれで良いなら決闘が始まるまで話し相手を務めてもらおう。

 

「それじゃシリカちゃん、ここはもういいから、キリト君をお願いね」

「ありがとうございます、アスナさん」

「どういたしまして。わたしもすぐに交代要員がくるから気にしなくていいよ。それとキリト君、わたしは立場上応援できないけど、心から無事を祈らせてもらうわ。どうか危険なことだけはしないでね」

「サンキュ」

 

 アスナに見送られ、シリカと連れ立って闘技場につながるルートを歩く。道中、シリカは何故かピナを俺に預けてきた。もちろんティムモンスターは主の傍を離れられないため、預かるといっても擬似的なものに過ぎない。可愛らしく鳴き声をあげて俺の肩に止まる小竜は確かに癒しになっているのだが、相変わらず俺の頭には疑問符が渦巻いていた。

 

「アスナさんに頼み込んでどうにか無理を聞いてもらったんです」

 

 シリカは控え室に着くまでのわずかな時間で大まかな経緯を話してくれた。シリカは血盟騎士団を正式に手伝っているわけではなく、あくまでアスナ個人のスタッフという扱いだったらしい。アスナの手伝いと引き換えに現在の案内役を拝命したとのことだが、そこまでされて光栄と思うべきなのか、申し訳ないと思うべきなのか。

 ちなみにアスナもアスナでシリカのことは副団長としての権限で押し通したというのだから大概だった。シリカは愛され気質なんだよな、俺もシリカに頼まれたら否とは言えないかもしれん。

 ともあれ、何故シリカがそこまでしたかと言えば――。

 

「占い?」

「はい、あたしが毎朝チェックしてる《今日のアインクラッド占い》です」

 

 俺が首を傾げたのは安直なネーミングに突っ込みを入れるかどうかを迷ったわけではなく、それがどのようにしてシリカの今日の行動につながったのかが掴めなかったためだ。

 

「それでですね、今日のラッキーシンボルは《竜》なんだそうです。ですから決闘前に竜に触れてもらえばキリトさんの験かつぎになるかなあって思って、こうしてピナを連れて来ちゃいました」

「そういうことか。ありがとな」

 

 一瞬言葉につまり、それから搾り出した言葉は心からの感謝がこもったものだった。シリカの心遣いが嬉しい。

 ところで竜がラッキーシンボルだとすると、今日は種族が竜のモンスターが盛大に狩られてしまったりする日なのだろうか? モンスターにしてみれば勘弁してくれといいたくなりそうな占いだな。

 

「意外、ってほどでもないな。シリカってそういうの好きなのか?」

「信じてるかどうかで言えば首を傾げちゃうんですけどね」

「当たるも八卦、当たらぬも八卦が占いだからな。そんなもんだろ」

「ですよね」

 

 そんな会話を交わしつつピナを撫でて心行くまで癒される。こうしていると確かに運気が上昇していくような気がする。……むしろアニマルセラピー?

 シリカと楽しくお喋りしている内に控え室に辿り着いた。扉を開き、小さな空間に足を踏み入れ――その瞬間、妙な違和感を覚える。この感覚は過去幾度か味わったものに類似していたのだが……。

 すぐになるほど、そういうことかと納得。うむ、危険はないな。

 

「あの、キリトさん」

「ん?」

 

 緊張を含ませた声に振り向くと、そこにはやけに真剣な顔をしたシリカがいた。ピナもシリカに触発されたのか、翼を羽ばたかせるとそこが自分の居場所とばかりにシリカの元へと戻っていく。

 

「シリカ?」

「あのですね、ピナからだけじゃなくて、あたしからの贈り物もあるんです。受け取ってもらえますか?」

「もちろん。ただ受け取るのは構わないけど、その前に――」

「大したものじゃないですし、お時間は取らせませんから」

 

 声を荒げるなりすれば止められたのだろうが……結局機を逃し、制止できなかった。シリカの気迫に押されてしまったのかもしれない。

 もちろんシリカにとってはそんな俺の事情は与り知らぬことである。すぅーっと深呼吸をしたかと思えば、俺の前で歳不相応の大人びた微笑みを浮かべ、ぴんと伸ばしたしなやかな人差し指を自身の唇に触れさせた。瑞々しく色づく唇に俺の目が引き付けられるのと同時に、その指先が俺へと伸ばされる。シリカの指先がちょんと俺の唇に触れ、やがて名残惜しげに離れていった。

 

「えへへ、勝利のおまじないです。決闘、頑張ってくださいね、キリトさん」

「ありがとう。これで負けるわけにはいかなくなったな」

「ピナと一緒に応援してます! そ、それじゃあたしはこれで……っ!」

 

 ぺこりと一礼し、部屋を出る直前に「あたし! アルゴさんにだって負けませんからっ!」とはにかんだ笑みで告げると、頬に朱を散らしたまま駆け足で去っていく。内実は混乱冷めやらぬものだったことは年上の意地で隠し通せただろうか?

 ふぅと長い息を吐き、椅子に腰を下ろした後もしばらくぼうっとしたまま放心したように押し黙っていた。

 驚いた。唇を間接的に触れ合わせる気恥ずかしいおまじないに、ではない。シリカの見せた、幼くも色気を薫らせた思いがけない一面に完全に虚をつかれてしまったのだ。

 参ったな、シリカもあんな顔が出来るのか。あるいは……出来るようになったのか。

 

「あんなこと言われてるぞ。どうするアルゴ?」

 

 既にシリカの気配は遠く離れている。今しがた俺の意表をついてくれた少女の師匠筋に当たるプレイヤーの名を呼ぶと、すぐに隠蔽スキルを解除して部屋の片隅に女性が姿を現した。

 

「なんだ、やっぱり気づいてたのか」

「気づいてなきゃシリカを止めようとはしなかったよ」

 

 もっともシリカの贈り物を激励の言葉とか、何かのお守りくらいにしか思ってなかったから強く止めようとは思わなかったんだけど。

 

「キー坊をびっくりさせて緊張を解すサプライズのつもりだったんだけど……。失敗したヨ、思いがけない場面に遭遇しちまったみたいダ。モンスター対策以外でハイディングを利用するのがマナー違反だってのがよくわかる。……いや、マジでシィちゃんには悪いことしちまったゼ」

「謝るわけにもいかないからな」

「まあネ。怒らないのか、キー坊?」

「シリカを唆して見物に興じてたのなら、さすがに悪趣味だと言ってやるとこだけど……」

 

 俺が咎めるまでもない、アルゴには珍しくとてもバツの悪い顔をしていた。絶賛自己嫌悪中なのだろう。

 アルゴは確かに人をおちょくるのが好きだしよく俺やシリカをからかう悪癖持ちだ。しかしそれはあくまで悪戯の範囲で仕掛けるものであって、決して後に引き摺らないよう配慮した遊びである。進んで人を傷つけるような悪趣味な真似はしない。

 

「こうなっちまったからには仕方ない。シリカにはアルゴが隠れてたことは内緒にしておくってことでいいよな?」

「そうしてもらえるか? オレっちもあの子の純粋な気持ちに余計な茶々を入れたくないし」

 

 神妙に告げるアルゴの姿は少しだけ新鮮だった。

 

「その気遣いはシリカの姉として?」

「違う違う、同じ女としてだヨ。あの子だってもう子供じゃないんだゼ? キー坊もシィちゃんを必要以上に妹ちゃんと重ねてやるなよ、それはどっちに対しても失礼ってもんダ」

「……わかってるよ、さっき思い知らされた」

 

 くすり、とアルゴが笑う。ようやくいつもの調子が出てきたらしい。

 

「覚えておくと良い。女はネ、男よりも少しだけ早く大人になるんダ。誰かに恋をした瞬間、子供のままじゃいられなくなるのが女って生き物なんだヨ」

 

 お前もそうだったのか、と聞こうとして止めた。

 

「了解、置いていかれないよう肝に銘じておく」

「とはいえ、シィちゃんのことはオレっちもびっくりしたんだけどネ。これはあと一年もいらなかったかナ?」

「一年? 何のことだ?」

「こっちの話。気にしなくていいゾ」

 

 深く聞くなというので軽く頷き、追及は取りやめる。聞いたところで素直に話すとも思えないし、遠くから雑多な喧騒に満ちた歓声が飛び込んできている。イベント開始のアナウンスでもしているのか、会場はますます盛り上がっていた。俺も闘技場入りする頃合だ。

 

「そろそろだな。それじゃ、ヒースクリフから最強の看板を奪ってくるとしよう」

「にゃハハハ、嘘ばっかり。そんなもんに大して興味ないくせに語るねえ、キー坊」

 

 いやいや、看板に興味はなくてもそれなりに挑戦心ってのはあるぞ。強さへの自負は人並み以上に持ってるし。

 

「何事にも建前って奴は必要だろ?」

「違いなイ」

 

 ところで、と不敵に笑ってアルゴに告げる。

 

「シリカからは大層なものを貰ったけど、アルゴからは何もないのか?」

「勝利の女神の祝福はシィちゃんのあれで十分だろ。それ以上は贅沢ってもんだゼ」

 

 そもそも、と今度はアルゴがにやりと笑って返した。

 

「散々オレっちを好き勝手弄んだ癖に、キー坊はまだ足りないっていうつもりなのカ? それはもう贅沢を通り越して不敬ってもんだゾ」

「返す言葉もございません」

 

 降参だと両手を掲げたところで時間切れとなった。

 ついにあの男と雌雄を決する時間がやってきたのだと自然と気分が高揚していく。高まる闘争心に好戦的な笑みが口元に引かれ、勝利の二文字を手にせんと必勝の気合を胸に刻む。二本の剣を背に携えた感触を確かめ、いよいよ光の漏れ出る通路の奥へと足を踏み出した。

 

「キー坊」

 

 それはきっといつものいたずらっぽい顔で。

 

「勝ったらオネーサンが御褒美をあげる、でもって負けたら慰めてあげるヨ。だから思う存分戦ってこい」

「言ったな、忘れんなよ」

「心配しなくてもオレっち約束は守る女だゼ」

「なら褒美を用意して待ってろ」

 

 あいよ、と彼女の軽い返事に愛しさと切なさがないまぜになって、すぐに胸をいっぱいに満たしたのだった。

 

 

 

 

 

 今を遡ることおよそ二千年前、古代ローマ帝政期において剣闘士が鎬を削ったのがコロッセウムと呼ばれる円形闘技場だった。ここアインクラッドでは現実世界の歴史建造物を模したものも多いが、この《コロシアム》も例に漏れず立派なものだ。剣士の腕を競い合うにこれ以上の舞台はない。

 闘技場を一望できるアーチ状に形成された観客席にはぎっしりとプレイヤーがつめかけ、その中に見知った顔もちらほら確認できた。最前列に陣取っているクラインやエギルと目が合うや、クラインは良い笑顔で親指を突き出し、エギルに至っては首を掻き切るジェスチャーまでしている。

 どちらも意訳すると『やっちまえ』である。あいつらも何だかんだで熱気に当てられてやがるなあ。

 

 と、その時、会場のボルテージが一層の高まりを見せ、観客の多くが興奮の坩堝に飲み込まれていく。俺の登場の時とどっちが盛り上がってるかな、などとくだらない感想を抱きながら対戦相手を静かに睨みやる。真紅の鎧に身を包み、白地のマントを翻した長身の男は口元に淡い笑みを浮かべて歩み寄ってくるところだった。一歩踏みしめるたび、奴の足元で粒の細かい砂地が微かに砂埃を立てて舞う。

 ヒースクリフの左手には奴の代名詞とも言える巨大十字盾が構えられ、一際大きな重圧を放っている。《神聖剣》の補正を受けた奴の間合い――鉄壁の結界をいかに破るか。その激突と挑戦を前に戦意がぞくりと込み上げてきた。

 

「満員御礼とは盛況なことだ。これほどの大観衆を見るのは二年振りだな」

 

 闘技場の中央に立ち、ぐるりと周囲を見渡したヒースクリフが感慨深く胸の内を吐露した。思い出しているのは俺達がこの世界に囚われたはじまりの日のことだろうか。

 しかしその感嘆の声を耳にした俺はいかにも無思慮な言葉だと苛立ち、内心の侮蔑を押し込めることに傾注せざるをえなかった。あの日のチュートリアルを皆がどんな絶望の気持ちで聞いていたと思っているんだ? 不愉快だぜ、ヒースクリフ。

 

「どうだろうキリト君。彼らは君と私、どちらの勝利を期待していると思うかね?」

 

 黙して語らない俺を気にもかけず、機嫌のよさそうな顔で問いかけてくる。渋々口を開いた内心を悟られぬよう、努めて平静を装い肩を竦めた。

 

「どっちが? そんなの俺に決まってるさ」

「ほう、何故かな?」

「そりゃ、あんたの勝ちじゃ順当すぎて面白くないからな。観客ってのは大抵番狂わせを期待してるもんだぜ?」

 

 なるほどと感心したように頷くヒースクリフ。だが、と面白そうな口ぶりで会話を続けた。

 

「残念ながら今回は見当違いのようだ。既に締め切ったオッズでは五対五(フィフティ・フィフティ)、つまり彼らは私達を実力伯仲と見積もっている」

「へえ、そいつは嬉しいね」

 

 なら観客の皆さんを退屈させないよう頑張りますかね、っと。

 それはそれとして……。

 

「あんたら、決闘をネタにトトカルチョまで開催してんのかよ。随分楽しんでるみたいじゃないか」

「私も部下任せなので詳細は把握していないのだが、良心的な商売を心掛けるように、とだけ言付けておいたよ」

「ああそうかい」

 

 ギャンブルに良心的とか、これほど似合わない言葉はないよな。胴元の取り分が何パーセントに設定されているのか、それが問題だ。まあヒースクリフが関わっていないのならアスナが決済しているはずだし、俺が心配することもない。

 

「さて、長々と話し込むのも観客に悪い。そろそろ始めるとしようか」

「望むところだ」

 

 決闘を申し込むメッセージが俺の眼前に出現し、画面を一瞥してすぐに受諾。事前に照らし合わせた通り、オプションはどちらかのHPが50%を下回った瞬間に勝敗が決する半減決着モードだ。

 カウントダウンが開始され、俺は背の鞘から二振りの愛剣を、ヒースクリフも同じく細身の長剣を盾の裏から抜き放つ。その瞬間、歓声が爆発したように轟いた。盛り上がりも最高潮だな。

 

「私が勝てばキリト君は晴れて血盟騎士団の一員だ。既に君の装備を団員服にカスタマイズする用意は整っている。安心して負けてくれたまえ」

「嫌だね。おたくの副団長殿に降るならともかく、あんたの下に付くのは御免被る」

 

 誰があんたに負けてなどやるものか。

 

「私には同じ意味に聞こえるのだが気のせいかな」

「なに、気分の問題というやつさ。どうせ馬車馬のように働かされるなら美人の上司に鞭打たれたいんでね」

「プライベートまで口出しはせんよ、アスナ君と相談してくれたまえ。無論、私に敗北した後で結構だ」

「残念だな、俺の目にはそんな未来図は映ってない」

 

 そんな無駄話をしている内にいよいよカウント数も残り一桁に突入した。だらりと下ろした両手、意識的に脱力させた身体は既に躍動の準備を終えている。弦を振り絞った弓のごとく、開始の合図を今か今かと待っていた。

 

「ふっ!」

 

 カウントゼロ。

 決戦の火蓋が切って落とされた瞬間、先手必勝とばかりに地を蹴って肉薄し、真正面から袈裟懸けの一閃を放つ。馬鹿正直に繰り出された一撃は当然ヒースクリフに届くはずもなく、余裕を持って十字盾に迎撃されてしまった。

 そんな些細な事実に頓着することもなく、第二撃、第三撃と斬撃を見舞うも悉く打ち落とされる。時に弾き防御も駆使して機械の正確さで俺の剣を防ぐヒースクリフは堅牢な要塞のごとき存在感を示していた。

 

 立て続けの猛攻を縫う様にヒースクリフの反撃が開始される。もっとも俺の防戦一方になったわけではなく、互いに乾いた音色を奏であう剣の応酬を開始しただけのことだった。剣戟の最中、技後硬直で隙を晒さないソードスキルを幾つか混ぜ込むも、それらはヒースクリフの盾によってほぼ完全に威力を殺されてしまう。

 

 それこそが《神聖剣》の誇る特性で、とにかく堅いのだ。いくら盾に防御ボーナスがつくとはいえ、普通ソードスキルを受け止めればそこそこのダメージは通る。これはゲーム世界ならではの仕様なのだが、盾はあくまでダメージを一定量軽減するものであって完全遮断するものではない。そこまで利便性の高い装備なら盾なし剣士など存在していない。

 

 しかし神聖剣の特性は、その軽減率を通常の盾持ち剣士とは比較にならないレベルで引き上げてしまう。だからこそ凶悪な攻撃力を誇るクォーターボスを相手にしても短時間のソロプレイを可能にしてしまうのだった。

 無論、無敵ではない。

 神聖剣の補正はあくまで盾にかかるものであり、プレイヤーの基本防御力に寄与するものではないため、プレイングスキルを駆使して正確に盾で相手の攻撃を防げなければ何の意味もなさない。

 

 俺が神聖剣をヒースクリフほど使いこなせないと判断した理由はそこにある。ヒースクリフの堅さは相手の攻撃を読みきる洞察力と正確無比な身体制御、迅速極まりない攻守の入れ替えに支えられた、いわば《名人芸》なのである。

 およそ余人には真似できない最優技術の持ち主、それがヒースクリフなのだ。

 

 そしてもう一つ、神聖剣の特徴が目の前に開帳されていた。

 純白のエフェクト光を撒き散らしながら、剣ではなく盾が俺へと迫り来る。突き出された巨大な質量に慌てて後方に飛び退ることでどうにかヒースクリフの攻撃を回避した。

 これが神聖剣のもう一つの特性、すなわち盾による攻撃である。攻撃判定が存在せず、本来武器として使えないはずの盾が武器の特性を帯びる。これによって奴は手数を増やし、擬似的な二刀流すら可能にしているのだ。

 

 二刀流と大きく異なる点は攻撃力の低さだろう。右手に握る長剣と比較しても盾による攻撃はさしたるダメージにはつながらない。ただし無視できるかと言えばそんなことはないのだ。盾による攻撃はノックバックを発生させやすいために油断していると盛大に弾き飛ばされてしまうからである。

 神聖剣とは重厚なようでいてトリッキーな側面を持ったスキルなのだった。そいつを苦もなく縦横無尽に使いこなすのだからヒースクリフの器用さは相当なものである。

 

 しかしいつまでも守勢に回ってなどいられない。攻めに転じなければ押し切られるのはこちらなのだ、一瞬の隙をついて回し蹴りからのフェイントで溜めを作り、片手剣四連撃スキル《ホリゾンタル・スクエア》を放つ。水色の光が正方形の軌跡を描き、儚く散っていく。四つの剣閃の内、一閃のみがヒースクリフのHPバーを削ることに成功した。

 

「ほんっと堅いなこいつ……」

 

 辟易した表情で呟き、改めて気を引き締め対戦相手を睨みつける。戦況は互角だった。幾たびの接触を繰り返し、お互いのHPバーもじりじりと減少し、七割のラインまで削られている。

 どうする、と自問に沈む。このまま消耗戦を続けるのも良いが、ここらで勝負を決めにいってみるのも手だ。感触は悪くない、もう一段ギアをあげればあるいは……。

 

 思考は迅速、決断も一瞬だった。迷いを捨てて集中力を高めていく。クライン、お前のギルドの旗印、ちょいと拝借させてもらうぜ。

 疾きこと風の如く、侵略すること火の如く、その動くこと雷霆(らいてい)の如し。

 己が剣を災禍の刃とし、ますます烈しさに戦場を燃え上がらせ、一気呵成に攻め立てていく。二振りの剣が繰り出す軌跡は瞬速の太刀筋と化し、強固極まる要塞を崩壊させんと迫った。

 

 迸る戦意を力に変えて、喉から溢れ出るは裂帛の気迫。

 一時たりとも止むことのない攻めは颶風(ぐふう)もかくやの激しさを増していき、其の様は剣の嵐以外の何者でもなかった。吹き荒れる暴風にやがて耐え切れなくなったのか、ついにヒースクリフの鉄壁を誇る防御に綻びが出る。もちろん俺も反撃を一発も貰わず封殺、というのはさすがに無理だったが、HPゲージが減少するペースはヒースクリフのほうがずっと早い。

 

 虚々実々の駆け引きを可能にする膨大な戦闘経験をぶつけあい、一手一手の速さを比してわずかに俺が勝るアドバンテージを、ヒースクリフの深遠な読みが追いつけないほど積み重ねた結果――あるゆる意味で順当にして力業以外の何者でもない《回答》でもって《神聖剣》を凌駕し、《聖騎士》を圧倒したのだった。

 

 『抜いた』、との確信。とどめの一太刀を浴びせかけようと振りかぶった右の剣を振り下ろし――その瞬間、ヒースクリフの身体がぶれた。それはあたかもアバターが加速したヒースクリフの動きに追随できず悲鳴をあげているかのような不可思議な現象だった。そして俺の渾身の太刀を回避せしめた絶技にして、おそらくは奴にとって窮余の一手。

 俺は空振りに終わった剣撃の勢いを殺しきれずに無防備な背中を晒し、ヒースクリフはその絶好の隙をついて冷静に右の一突きを放つ。

 

 もしも……。

 もしも勝敗の天秤を傾けたものをあげるのならば、俺はそれをあると予測し、ヒースクリフは俺とは逆の見解でこの戦いに臨んでいたことだろう。すなわち、『俺に出来ることでこの男に出来ないことはない』。明暗を分けたのはその前提の差だ。

 

 システムに規定された速さを一足飛びに超えた超常の回避を認識した刹那、意識せずとも左のダークリパルサーが逆手に握りかえられていた。肩越しに一瞬捉えた、背後から迫る白銀の刺突に寸毫のずれもなく剣を合わせる。精緻極まりない正確無比な一撃は、鋭い切っ先同士の激突というおよそ冗談としか思えない結果を生み出した。

 

 それは『意識の外で人を斬る妙技』ですらあったのかもしれない。古の剣術家が《夢想剣》と呼んだ剣人一体の極致であり、心技体を極めた先にあるそれだ。あるいは現代でいう一流のアスリートが時折体験するという『《理想的な心理状態(ゾーン)》に入った』状態。もしもその現象をアインクラッドの流儀で呼び表すとしたら――。

 

 システム外スキル《加速世界(アクセル・ワールド)》。

 

 無論、この知覚認識の加速は現実世界の俺の身体では体感することは叶わないだろう。しかしながら仮想世界ではこうした意識の覚醒体験を得やすいのではないか、というのが俺の仮説だった。だからこそサチの前でニシダさんに語ってみせたように、現実世界と仮想世界の認識の差を埋める研究をしてみたい、という夢を持ったのである。

 

 とはいえ、今は将来の目標より目の前の現実だ。

 予期せぬ展開に珍しく驚愕を浮かべたヒースクリフに対し、俺の唇は悪役さながらの弧を描く。奴が晒した一瞬の自失を逃すほど間抜けではない。すぐさま軌跡半回転を描き、お返しとばかりにエリュシデータを勢いよく突き出す。

 その一撃は狙い違わずヒースクリフの顔面へと迫り――しかし直後出現した紫色の壁に俺の剣が衝突し、激しい衝撃と共に弾き返される結果に終わってしまう。

 

 勝利を決定付けたはずの一撃を阻んだ壁の正体は《Immortal Object》。ユイのようなイレギュラーを除いて、俺達プレイヤーが持つはずのない不死属性だ。つまりヒースクリフのHPはシステムに保護されていて、決して半分を下回らず、危険域に落ち込むことはない。

 それはデスゲームの根幹を否定する反則措置だった。もしもその属性を自由にできる絶対的権限を持ち合わせているとしたら、それはアインクラッドの創造主にしてゲームマスターを請け負う男ただ一人。

 

 この事態を前にした驚きは当然俺にもある。ただしそれはこの男の正体に向けられたものではない。この場で正体が明かされる可能性を是とした判断にこそ驚いたのである。

 ともあれ、これで一つの区切りだ。攻略のためだの何だの、それっぽく聞こえる適当な理由を並べ立ててまでこんな茶番を演じた甲斐があったな。

 

「すばらしい……。まさか《オーバーアシスト》に反応できるプレイヤーが現れるとは思わなかった」

 

 一筋の動揺も見せず、余裕の笑みを浮かべて心からの賛辞を口にする男に、しかし俺の目は冷ややかなものだった。当然だ、事ここに至って、どうしてこの男に好意的な視線など向けられる?

 

「俺を褒めるより先に、まずはこの場の収集をつける算段を練ったらどうだ」

 

 今は観客席の連中も驚きに放心しざわめきも小さなものだが、すぐにブーイングの嵐になるぞ?

 俺の皮肉にヒースクリフは笑みを深くするだけだった。まるで堪えた様子はない。……やはりこの男にとっては正体が露見することも想定の内か。

 

「それはおいおい考えるとしようか。なに、ここで怨嗟の集中砲火を浴びたとしても本懐というものだろう」

「悪趣味だな、ヒースクリフ。いや、もう茅場晶彦と呼んだほうが良いか?」

「今まで通りヒースクリフと呼んでくれたまえ。このアバターにも愛着があるのでね」

 

 あんたの都合なんざお断りだと口にしようとすると、俺の反応を読んでいたかのように「聞き入れてもらえなければキリト君の本名を晒すことになる」と付け加えられてしまう。どうやら茅場の提案を受け入れざるをえない状況にされてしまったらしい。にゃろう、ずっけーぞ開発者、人の個人情報を盾に脅しやがって。

 親しい関係にある知人友人ならともかく、さすがに俺のプライベート情報を不特定多数にばらまかれるのは遠慮してもらいたかった。

 

「しかし狐と狸の化かし合いはキリト君のほうが一枚上手だったようだな。よく気づいたものだ、加えて舞台演出も手が込んでいる」

「ぬかせ。二年近くも俺達を騙し通したんだ、もう十分だろう」

「少々口惜しくはあるがね」

 

 俺がこの決闘の終わりに見ていた可能性は三つ。

 一つ目は俺が決闘に勝ち、ヒースクリフの影響力を削ぎ落としながら攻略を続け、なお正体を暴く機を窺う未来。二つ目は俺が決闘に負けて血盟騎士団に入団し、奴の獅子身中の虫となって次の機会を待つ未来。いずれにせよヒースクリフを泳がせ、その力を利用し、攻略組の犠牲を最小限に抑えて最上階を目指す傍ら、この男の狙いを探り妨害していくつもりだった。

 そして俺が一番低い可能性として想定していたのが三つ目、この決闘を通してヒースクリフがその欺瞞の衣を脱ぎ捨てる最良にして最悪の未来。

 

 賽は振られた。あとはこの男の出方次第――。

 

 極度の緊張。

 今にも張り裂けそうな心を無理やり落ち着かせている俺とは対照的に、ヒースクリフは絶対者の風格を漂わせ、鷹揚とした不敵極まる笑みを見せていた。その発する声も無造作に佇む姿も今までと変わらないはずなのに、プレイヤーとしての仮面を脱ぎ捨てただけでここまで威圧感が増すものなのかと戦慄を覚えていた。

 それもそのはず、聖騎士としてのロールプレイを終わらせたならば、次にこの男が取るべき役割(ロール)は一つしかないのだ。

 

「まずは見事だと言わせてもらおう。キリト君、君は間違いなくアインクラッドの頂点に立つ剣士だ。何せ我が《聖騎士》を打倒してみせたのだからね。そこでだ、《黒の剣士》の成した偉業を称えると共に、ゲームマスターとして君に一つの選択肢を提示しようと思う」

 

 ひたすら上から見下ろす傲岸不遜、天上から俺達プレイヤーを見据える絶対の格差がそこにはあった。それが許されるただ一人の男は涼しい声で、されど厳かに口を開く。

 

「――キリト君、この場で魔王に挑んでみるかね?」

 

 挑発めいたその言葉。

 言わんとすることはわかる。しかしラスボスとの一騎打ちとか、それはもう遠回しでもなんでもない、ただの処刑宣告だと思うんだ。まさか正体を暴かれた意趣返しとかじゃあるまいな、茅場晶彦?

 

 むぅ、交渉の余地、残ってるといいなあ……。

 




 システム外スキル《加速世界》は原作に存在しないスキルです。スキルネーミングは原作者による別作品『アクセル・ワールド』から持ってきていますが、作中で語られているように中身は別物です。あしからずご承知置きください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第23話 剣が紡ぎし物語

 

 

 ――《魔王》ヒースクリフと《黒の剣士》キリトの一騎打ち。

 

 ヒースクリフによって唐突にもたらされた提言は、まるで神託のごとき響きを帯びて広大なコロシアムの隅々まで浸透していった。

 俺とヒースクリフが向かい合う闘技場の中央ではぴんと張り詰めた沈黙が横たわり、観客席に詰め掛けた数多のプレイヤーの間では消えないざわめきが満ちている。

 そんな彼らは今、闘技場にて向かい合う俺とヒースクリフをこれでもかと注視している。その胸の内に尽きせぬ混乱を抱えながら、そこかしこで『今何が起こっているのか』を交し合っていた。少しでも意味ある答えを求め、押し寄せる不安を紛らわせるように囁きあっていたのである。それも当然だろう、こんな展開が待っているとは彼らの誰一人とて想像していなかっただろうから。

 

 すっと双眸を細めて見据えるは、俺達攻略組が、あるいはこの世界の大多数のプレイヤーが相対を待ち望んで止まなかった最終ボス――魔王ヒースクリフ。

 超然とした佇まいを崩さず、ヒースクリフは穏やかに笑んでいた。どこまでも穏やかに、それでいて瞳の中に無邪気な喜びを凝縮したような、ぞくりと背筋に寒気を走らせる危うい光を瞳に湛えている。

 自らの箱庭で囀る、いと小さき者達にこれ以上とない慈愛の眼差しを注ぐような――その様は正しく俺たちを見守る《神》だと思った。傲慢にして不遜。人として持ち合わせているべき何かを踏み外してしまったような、本能的に恐れを抱かせる危険な匂いが漂ってくる。

 

 ヒースクリフは『この場で決着をつける気はあるか』と問い質す先の一言を言い放った後、目立ったアクションを起こさぬまま沈黙を貫いていた。剣士として、戦闘者として獲物を見定めるように楽しげな顔でにぃっと唇を歪め、それでいて研究者然とした温度のない怜悧な目をしている。奴にはマグマのようにドロリと流れる高熱と、吹きすさぶ吹雪のように容赦のない低温が奇妙に同居しているのだ。それが何とも不気味だった。

 

 小さく吐息を一つ。舞台は整えた、後は存分に踊るだけ。いいや、存分に躍らせるだけだ。

 ならば恐れるな、覚悟は決めてきたはずだろう?

 そう自らに言い聞かせ、必要以上に気負うのも馬鹿馬鹿しいと内心の怯懦(きょうだ)を切って捨てる。交わすのならばつまらない視線の応酬などではなく、もう少し建設的な舌戦であるべきだろう。そこから新たに見えてくることもある。

 

「あんたは楽しそうだな。ふん、よほど聖騎士としてのロールプレイは窮屈だったと見える」

「だとしたらそれは君が原因だろう。君の為した予想以上の活躍に胸が弾む思いなのだ、ゲームマスターとしてこれほど喜ばしいことはないよ」

 

 俺の皮肉を一顧だにせず肩を竦める落ち着き払った様子に内心で舌打ちする一方、まずは言質を取ることから始めようと冷静に計算もしていた。大丈夫だ、保険もかけてある。多少強気に出たところで問答無用の展開になりはしない。

 

「そう何度も褒め言葉を繰り返されると、あんたに賞賛されているんじゃないかと本気で思えてくるよ」

「私は初めからキリト君を称えているつもりなのだがね? 君へ抱く敬意と感歎に寸毫の曇りもないよ」

「あんたのは本気なのか冗談なのか区別がつかないんだ」

「ならば全て本気だと考えてくれたまえ」

 

 本当、好き勝手をほざいてくれる。叶うことならすぐさま地を蹴り、刃の切っ先を叩き込んでやりたいくらいである。

 そんな内心の煩悶を押し込め、やや大仰な仕草で溜息を放つ。ちょっと演技過剰だったか?

 

「信頼してほしけりゃ少しは気を遣ったらどうなんだ? あんたはシステム的不死があるからいいけど、俺にそんな反則属性はついちゃいないんだぜ。俺にだけ常在戦場を強いるのがあんたの流儀か?」

「これは失礼をした、そういえば《聖騎士》と《黒の剣士》の決闘は続いているのだったな」

 

 君の不満はもっともだと惜しむ素振りなど一片たりとも見せず、無論のこと悔しがる顔も一切浮かべず、ヒースクリフは短く「降参(リザイン)」と告げて決闘に終止符をつけた。そのまま白銀に煌く長剣を十字盾の裏側へと収めてしまう。

 一旦引いて見せたヒースクリフの挙動を受け、俺も二本の愛剣を鞘に収める。鞘走りの硬質な音が響く中、奴に悟られぬよう密かに胸を撫で下ろす。肝は冷えたが交渉の余地は残された。ここで決断を迫らず静観の姿勢を見せた以上、わずかに残っていた問答無用の可能性は消えたと判断して良い。

 

「最初に確認しておきたい。あんた、どこまで本気だ?」

「どこまで、とは?」

「魔王に挑むかどうかを問うたな。それは前哨戦という意味で口にしたのか? それともここで決着をつける文字通りの決戦か? 俺が命を懸けるに値する舞台なのかを聞かせてくれ」

「この期に及んで無体は言わんよ。心配しなくとも不死属性は解除する。その上で一対一で私と戦い、君が勝てばゲームはクリアされたと見做そう」

 

 その瞬間、潮が引くように会場から音が消えた。

 

「アインクラッドからの開放。それこそが君の、そしてこの場に集った皆の悲願だったはずだろう? 未だ76層という道半ばで提示する報酬としては悪くないと思うがね」

 

 しん、と静まり返った会場は奇妙な静寂に満たされ、張り詰めきった空気はこれ以上となく不穏な気配を帯びていた。それはあたかも鳴動中の活火山を見ているような、そんな落ち着かない気分にさせられ――次の瞬間、臨界に達したプレイヤーの感情が一斉に導火線に火をつけたかのように爆発した。

 怒号。罵声。叫び。

 皆が声を揃えていたわけではない。事実会場に反響した数多の金切り声はてんでばらばらの内容だったし、まとまりなど欠片もなかった。けれど共通するのは『現実世界に帰せ』という希求の心だ。それこそ二年前を思い起こさせる騒乱と狂騒ぶりだった。

 

「お望みの怨嗟の声が届いてるぜ。気分はどうだ?」

「ふむ、悪くない。悪くないのだが……思ったほどのものではないな。君と剣を交えることに比べれば、心の臓に響いてくるものが足りない」

 

 ちらと元凶たるヒースクリフに目をやれば、憎たらしいくらい涼やかな表情を浮かべて佇んでいやがった。いや、それどころか失望しているようにすら見える。面の皮が厚いとはまさにこの事だろう。

 

「少々時間をくれるかなキリト君、落ち着いて談笑をするには些か騒がしいのでね」

「待てよ」

 

 不遜な物言いに反発を覚えている暇もなく、左腕を振り下ろしてメニューウィンドウを開いたヒースクリフに慌てて制止を入れる。

 俺達プレイヤーは通常右腕を振り下ろすことでメニューを展開させるため、おそらくはゲームマスター用か何かの特殊なシステム表示なのだろう。ユイという前例もある、プレイヤー以外のアカウントに用意されている特別コマンドなのかもしれない。どちらにせよそれは使わせるべきじゃなかった。

 

「わざわざあんたの手を煩わせることもない。時間を貰うのは俺の方だ」

「では任せるとしよう」

 

 お手並み拝見と言わんばかりの様子だった。溜息を堪えながらすっと右腕を掲げるように持ち上げ、広げた手のひらを観客へと向ける。

 動作にすればそれだけ。たったそれだけの、けれど俺からの明らかなアクションにブーイング一辺倒だった観客席に変化が生じた。ヒートアップするばかりだった罵声が途切れ始め、少しずつざわめきが収まっていく。

 そうしてヒースクリフの声を聞き取ることすら困難だった怒号の嵐が過ぎ去り、残ったのは痛いほどの沈黙だった。これで静かにならなかったら格好がつかないと内心では冷や汗たらたらだったものだから、こうして面目が立ってなによりだ。

 

「なかなか面白いものを見せてもらったよ。舞台を作る手間が省けた、と礼を言わせてもらうべきなのかな?」

「好きにしろ」

 

 ウインドウを消し、愉悦と観察が半々の顔で軽口を叩くヒースクリフに気のない返事をくれてやると、ますます笑みを深める奴の反応に自然苛立ちが募った。こっちはあんたの一挙手一投足に過敏なまでに反応しなくちゃならないってのに、本当良いご身分だと悪態だってつきたくなる。

 これは幾らなんでも不公平すぎるだろう。一目でリラックスしてるとわかるラスボス様と違い、俺はさっきから神経がごりごり削られるというか、真綿で首を絞められている気分なんだが……。

 

「しかし驚いたな、アインクラッドの支配者様は類を見ないほど勤勉な働き者だ。古今東西、RPGにおける魔王の仕事なんて最上階でふんぞり返ってることだろうに」

「攻略には長い歳月が必要だからね、悠長に最上階で君達を待つだけではあまりに芸がない」

 

 勝手なことをほざきやがる、と小さく吐き捨てる俺を見やるヒースクリフの目は優しかった。遥か上空から見下ろしているような、間違いなくこの男が俺の敵なのだと確信するに足る傲慢ぶりだ。

 

「では改めて問おうじゃないか。キリト君、全プレイヤーの開放を賭けてこの私と一対一で雌雄を決する勇気はあるかね?」

 

 挑発じみた言葉回しは俺を煽っているのか、それともそれが『魔王としての役割演技(ロールプレイ)』なのか、どちらにせよ俺の答えは決まっていた。第一、可能性は低いとは言えヒースクリフが黒幕であることを明かす可能性とて想定していたのだ、この場での最終決戦は当然取りうるべき選択肢の一つだ。

 実を言えば俺の方こそ渡りに船だったというべきだろう。俺は決闘の果てに奴が魔王として君臨するのであれば、初めから一対一の決戦を挑むつもりだったのだから。

 俺の至上命題は一分一秒でも早いプレイヤーの開放だ。聖騎士に勝つことでもなければ百層に辿り着くことでもない。わざわざラスボス自らこちらの土俵に上がってきてくれてるんだ、この機会を逃すこともないだろう。だからこそ俺の答えは決まっていた。

 

「寝言は寝て言え」

 

 否、と。

 聞き間違いの余地なく明瞭な言葉で、ついでに挑発のおまけ付きでヒースクリフの誘いに『NO』と突きつけたのである。そんな俺の答えはヒースクリフは気落ちするでもなくふっと微笑を浮かべ、口を開いた。

 

「これは手厳しい」

「ここであんたと戦うのは正気の沙汰じゃない、それだけで十分だろう?」

「私にはその一言で十分かもしれないが――」

 

 そこでヒースクリフは不意に闘技場をぐるりと囲う観客席に目を移す。そこからは一片の憐憫を含ませた同情に近い感情が見て取れた。物分りの悪い生徒に教師が向けるような目とでも言おうか。

 

「それだけでは納得できないプレイヤーもいると思うがね。君の判断の根拠を彼らにわかりやすく示してはどうかな?」

 

 今度こそ溜息が漏れた。隠す気もないそれには、重量感を増した疲労が多分に込められている。この男は『思慮の足りないプレイヤーにも懇切丁寧に解説しろ』と、取り繕う気もなく俺に促しているのだ。

 

「親切面しながら、その内実は辛辣そのもの。正しく魔王だな、あんた」

「お褒めに預かり光栄だ。大仰に過ぎて小物に見えないかと心配していたのだがね」

「安心しろ、大物なのか小物なのかは知らないが、憎たらしさは間違いなくアインクラッドでトップスリーに入るから」

 

 それは重畳、とやはり笑みを浮かべる。奴が喜べば喜ぶほど俺の気分が急降下していく気がしてやるせない。そのまま貴様は地獄に落ちてしまえ。

 

「さて、あんたの提案を蹴った理由を話せ、だったか? 簡単なことだよ、今のままぶつかったところで俺に勝ち目がないからだ」

「断言するね」

「事実だからな」

 

 ヒースクリフに俺が試されているのか、それともヒースクリフの提案を蹴った後の俺の立場を慮ってわざわざ説明させようとしているのか。どちらにしても気分はよろしくない。というか余計なお世話である。

 

「フィールドや迷宮区で湧出(ポップ)する雑魚モンスターと、階層の番人たるフロアボスを隔てる最も大きな違いは何か。それはHPだ。攻略組が何十人も群がって何百何千と攻撃を繰り返す事でようやく撃破できる強靭さ。それこそがフロアボスをフロアボス足らしめる特徴と言える」

 

 攻略組ならば俺が退いた理由を言われずとも察する。特にフロアボスの経験があるプレイヤーには今更なことだろう。

 ヒースクリフが幾分かの失笑と共に説明を促したのは、つまり『ゲーム攻略を諦め、最前線にわずかの関心も抱かない無責任なプレイヤー』を対象にしていたからだろうと思う。勇なき者は認めない、そんなヒースクリフの言外の声が聞こえてくるようだ。

 もっとも茅場晶彦の判断基準において路傍の石のように扱われる彼らとて、諸悪の根源である世紀の犯罪者にそこまで悪し様に罵られたくはないだろう。それこそ侮蔑の目を向けられる謂れはないと抗弁するだろうさ。

 

「《魔王》としてのあんたがどれだけのステータスを誇るのかは知らないが、プレイヤークラスのHPしか持たない俺じゃどうあがいても勝ちの目が見えないんだよ。たとえあんたが《聖騎士》のままだったとしても、ラスボスに相応しいタフさを持たれたら俺のほうが先に息切れするのは明白だ」

「さすがだね、正確な分析だ」

「馬鹿にしてんのかあんた」

 

 これ見よがしに頷かれると本当に馬鹿にされているように思えてしまう。

 《聖騎士》を相手にした決闘はすなわち《プレイヤーとして許されるルール下での戦い》である。俺はその勝負に勝ったし、その結果としてヒースクリフは俺をプレイヤーの頂点に立つ剣士だと評したのも間違いじゃない。最強の看板は確かに貰い受けた。

 だが、それはあくまでも『プレイヤーに限った』強さの相対評価ではあり、モンスターを考慮に入れたものではないのだ。

 

 ああ、断っておくが階層ボス程度なら俺はソロで下すことも出来るぞ。勿論それには何度かの偵察を元にした対処戦術の構築は必須だし、万全の準備の下にリスクを度外視して、という条件はつくが決して不可能なことではなかった。実際何度かソロでやらかしてるわけだし。

 そういう意味ではモンスターを含むアインクラッドの強さランキングで俺はそこそこの位置につけているのだろう。ざっくばらんな目安として、俺の力は通常のフロアボス一体分、そんなところか。もちろん相性の問題もあるし、これくらいは《聖騎士》にだって出来るから俺が飛びぬけて強いわけでもなかった。

 

 問題は幾度もの偵察と死を覚悟したリスクを負ってもソロでは十戦して全勝とはいかず、六、七回の勝利が限界だということだ。

 俺がボスの単騎撃破を重視しないのは、いいや出来ないのは、ひとえにゲームクリアまでにこなさねばならない階層ボス戦が一度だけではないという点に尽きる。常勝を維持できなければどこかで必ず力尽きることになる、ミスの一つでお陀仏になることを考えれば取り得る選択肢としては現実的ではなかった。

 

 『ソロでゲームクリアは不可能』。それが俺の持論であり、結論だ。

 俺は剣士として自身が持つ価値を知っている。蛮勇に逸って十や二十のボスと引き換えに《黒の剣士》の戦力を失うくらいならば、攻略組の一員として百層まで尽力する方が確実にゲームクリアに近づけるだろう。この二つの選択肢を前にして答えに迷う方がおかしい。――うん、低階層を攻略してた頃の無謀なやり方は黒歴史だから。俺はもう忘れた、だから皆も忘れてくださいお願いします。

 

「戯れに尋ねるけどな、100層で待つ《魔王》の力は75層のクォーターボスだった《スカルリーパー》に劣るのか?」

「戯れに答えるがね、当然ラストバトルに相応しい難易度を用意しているよ」

 

 ありえないよな、という意を込めた俺の質問にヒースクリフは鷹揚に頷く。つまり魔王ヒースクリフはスカルリーパー以上の強さということである。まあ今更というか、想像に難くない事実に過ぎなかった。そもそもの話、ラスボスが中ボスより弱いゲームなんてありえないだろう。

 

「スカルリーパーにソロで勝てない俺が、どうして魔王にソロで勝てると思えるんだか。俺は自殺志願者じゃないぞ」

「それでも君ならば何とかする、と期待しているのだがね」

「生憎、レアドロップ確率よりも悲惨な勝率に賭けるほど俺はギャンブラーじゃなくてな」

 

 ここで戦端を開いても俺に待つのは敗北だけだ。彼我の戦力差を分析すると俺の言い分もよりはっきりする。

 まず獲得経験値アップのスキル恩恵でレベルが馬鹿みたいな数値になっている俺を除けば、アスナに代表される現在の攻略組のトッププレイヤーはおおよそ20の安全マージンを取っている。そうした現状を踏まえて単純に数値を当てはめるとすれば、100層で待つ魔王に挑む推奨レベルは120となる。現在の俺のレベルが123であることを考えればぎりぎりの数値だ。……断っておくが、これは『攻略組の猛者と共に挑む』レベルだということを忘れてはならない。

 

 今の状況、すなわちソロで挑むのなら最低でもさらに倍の安全マージン、すなわち140台のレベルは欲しいところだ。とはいえ、ここで始末に負えないのは、たとえそれだけの安全マージンを確保してもヒースクリフに勝てるとは思えないことだった。

 参考までに75層のクォーターポイントを戦った時の俺のレベルは121、安全マージンにして46という数値を誇っていた。しかしそれだけのレベルを確保し、二刀流というユニークスキルを引っ提げていようとも、単独でスカルリーパーを倒せるとは到底思えなかったのである。事実ソロで挑めば無駄死にという結果に終わるだけだったろう。

 

 ここからは仮定の話だ。スカルリーパー戦はボス情報に乏しい中で挑んだだけに単純に比較することは出来ないが、あの時俺がスカルリーパーにソロで挑んだとして、奴の大鎌を回避に徹することでやり過ごし、多様な死の顎を掻い潜りながら戦うのは十五分から二十分が限界ラインだろうと思う。

 スキルを全開にして決死の覚悟で戦った果てに、あの骸骨百足の五本あったHPバーを削り切る事が出来るか。残念ながらどれだけ奮戦し、どれほどの幸運に恵まれても、俺が与えるダメージが五割に届くことはあるまい。百回戦ったところで百回死ぬだけ、それが俺なりの結論だ。それだけプレイヤーが脆いとも言えるし、クォーターポイントのボスはそれほどまでに規格外なのだとも言える。

 

 そうした戦力差を冷静に計算すると、魔王と化したヒースクリフを相手にするのは俺一人では些かならず戦力不足だった。百層到達時点でトッププレイヤー48人を集めてなお互角、それが想定しうる最終ボス《魔王ヒースクリフ》の強さだ。そんな相手に76層時点でソロで挑むなど甚だ無謀であるし、控えめに言って絶望的という他ないのである。

 

 今ここで決戦に臨むのは時期尚早。その一言に尽きる。

 とはいえ、隠し札が隠し札として機能すればあるいは、とも思うが。しかしボス戦を何度も共にしている以上、《薄氷の舞踏》によるステータス恩恵を受けてブーストされた動きもヒースクリフに何度か見せてしまっている。気づかれていないと思うのは望み薄なんだよなあ……。

 何せ奴こそが茅場晶彦なのだ、当然自身のデザインしたスキルくらい頭に入っているだろう。わずかな情報でもそこから当たりをつけられてしまうのだからたまらない。くそぅ、知識だけでも反則級だぞ。

 

 これだけの退くに足る理由を提示してもゲームクリアのためにソロで魔王に挑めという奴がいたら、そいつは間違いなく鬼畜だろうと思う。ぶっちゃけ俺を殺したいから魔王へと嗾けている、そう疑わざるをえないレベルで人でなし認定してもいいのではなかろーか。

 同時に『それでも』と願ってしまう気持ちも否定できなかった。俺が観客の立場ならやっぱり無責任だろうとゲームクリアを期待する、してしまうと思うからだ。儚い蜘蛛の糸だろうと、目の前に垂らされてしまえば縋らずにはいられないのが人間という生き物だ。……まあ、身体張るのは所詮他人だし。

 

 しかし悲しいかな、俺は当事者なのである。お気楽に頑張れと言っているだけではすまない身なのだった。だからこそ、ここから先は今まで以上に舌先三寸口八丁の戦場、楽しい楽しい交渉のお時間になるのだった。

 ……あー、きつい。胃が死ぬ、マジで死ぬ。誰かこの綱渡りの立場を代わってくれ。

 

「腹芸は得意じゃないんで正直に言わせてもらうぞ」

 

 若干の呆れを含ませた溜息をこれ見よがしに披露する。

 

「俺を公開処刑にしたいだけなら話はこれで終わりだ。あんたも無駄なお喋りに興じてないでさっさと《紅玉宮》とやらに帰れ。そこで一人寂しく俺達の到着を待っているがいいさ」

 

 くく、と低く喉を震わせるヒースクリフを無感動に眺めやる。

 焦りはない。俺の胸には『この男ならば乗ってくるはずだ』という奇妙な確信があった。その程度にはヒースクリフという男を理解しているつもりだ。

 

「今この時、圧倒的に不利な局面でそう言えるからこそ君は面白い」

「おべっかはいらねえよ。俺が欲しいのは茅場晶彦が持つゲームマスターとしての矜持だけだ」

「キリト君の胆力と勝利への執念には頭が下がるよ。良いだろう、私とてワンサイドゲームは望むところではない。君の要求通りゲームバランスは調整させてもらうとも。だが、その前に――」

 

 にぃっと愉悦に歪むように持ち上がった唇が、ヒースクリフの内心を如実に表していると思った。

 ったく、大した狸だよあんた。俺の要求を受け入れると口にしたのも所詮演出なんだろう? 逡巡の欠片も見せず、元よりそのつもりだったと言いたげな顔をしている以上、決戦を前にしたバランス調整は初めからこの男の規定路線でしかなかった。

 

「まずは私の疑問に答えてもらいたい。君への譲歩――いや、報酬(リワード)はその結果如何としよう」

「……わかったよ、ただし採点は甘めに頼むぜ」

 

 苦々しく告げる以外に俺に出来ることもないな。こちとらゲームマスターの掌の上で踊る哀れなプレイヤーなのだ、ヒースクリフが上から見下ろす構図に変わりはなかった。

 

「君が私の正体――『ヒースクリフこそが茅場晶彦である』というこの世界最大の爆弾に、いつ、どのように気づいたのかを話してくれたまえ。君が何を以って確信に辿り着いたのか、その理由をね」

「いつから、ねぇ……」

「おや、答えづらい質問だったかな?」

「そういうわけじゃないんだが……そうだな、ここで『あんたに初めて会った時から疑っていた』って嘯いたら信じてくれるか?」

 

 幾分はぐらかすかのような稚気の混じった答えを返していた。そんな俺の韜晦(とうかい)にもヒースクリフは気を悪くした様子は見せず、穏やかに笑んだまま滑らかに言を紡ぐ。

 

「他ならぬキリト君の言葉だ、素直に信じておくよ」

「……降参、あんた間違いなく大物だよ」

「ありがとう」

 

 迷いなく断言され、流されてしまったことに若干の毒気を抜かれてしまった。どこまで本心なのか今一判別つかないあたり、こいつは冗談と本気の境界が曖昧で周りを困惑させるタイプの人間だ。絶対友達も少ないはず。

 

「最初から疑っていたってのも嘘じゃない。ああ、誤解するなよ。疑いを抱いたと言っても、それはあんたが茅場晶彦かどうかを疑ったわけじゃない。俺はあんたを《アーガス》のスタッフだと考えてたんだ、それこそ最近までな」

「もう少し詳しく聞かせてもらえるかね?」

「あんたの戦いぶりを初めて見たその時に、『ああ、こいつは俺達とは違うんだ』と思ったのさ。……あんた、最初から強すぎたよ。《聖騎士》と呼ばれる前から強すぎたんだ、言ってみれば序盤から戦い方が完成してた」

 

 ヒースクリフは盾を持ったオーソドックスな片手直剣使いとして洗練され過ぎていた。皆が試行錯誤しながら戦闘スタイルを確立させていく中、当時のヒースクリフからは稚拙さや迷いが全く見受けられなかったのだ。少なくとも俺の目には、経験が育む成長という過程がすっぽり抜け落ちた奇妙な経歴のプレイヤーとして映った。

 

「あんたの強さは天性の才能やセンスに頼ったものじゃない、膨大な経験に裏付けされた熟練の技だ。当然疑問に思ったさ、こいつは一体どこでそれだけの経験を積んだんだって」

 

 ベータテストではヒースクリフほどの凄腕プレイヤーの噂は聞いたことがなかった。そもそも俺がヒースクリフから感じたのは、一ヶ月や二ヶ月の先行どころではない圧倒的な剣技の冴えだ。

 

「ソードアート・オンラインは世界初のフルダイブ対応ソフトだ、ベータテスターを超える経験を積めるとすれば製作側の人間しか残されていない。あんたの前歴として俺が当たりをつけたのはゲーム開発スタッフのテストプレイヤー担当、そんなところだな。もしかしたら茅場とも面識があるんじゃないか、って考えたこともある」

「何故尋ねてこなかったのかね?」

「リアルの追及はマナー違反だし、意味があるとも思えなかったから、かな」

「追及しても答えが返るはずがない、そういうことかね?」

「いいや、聞くべきじゃないと思った。誰にだって言いたくないことの一つや二つあるもんだし、あんたは率先してボスの前に立ち、誰よりも危険な役目を自身に課していたんだ。そんなプレイヤーに対して無用な疑いを抱くのは失礼だ、ってな」

 

 それでいいのだと思っていた。誰だって痛みを堪えながら戦っている、ならばクリアへの意思だけを共有できれば十分だと。

 攻略組の先頭に立って危険を引き受ける姿に、あるいはこいつも俺と似たような理由――罪滅ぼしのつもりで戦っているのではないかと、そんな親近感を抱いたことすらあった。

 第一アーガススタッフなんて経歴が公になれば吊るし上げに発展しかねないのだ、軽々に口に出せるはずもない。

 

「どうやら私は君に気を遣ってもらっていたようだね。不覚といえば不覚だ、これでもキリト君に隔意を持たれていることをずっと気に病んでいたのだよ?」

「そいつは悪かったな」

 

 心配せずとも今でもあんたのことは嫌いだよ。

 

「……長いことあんたを見てきたよ。あんたの剣技を初めて目にした時から、ずっと、ずっとあんたのことが嫌いだった。俺にない全てを持ってるあんたを妬んで、嫉妬して、そして……この世界の誰よりもあんたに憧れた。ゲームクリアのための王道を歩めるあんたの心の強さと見識、全プレイヤーの希望として立つ比類なき強さと、それだけの期待を背負って揺ぎ無く立つ威風堂々とした佇まいに、尊敬と憧憬を抱かずにはいられなかったんだ」

 

 滔々と語る唇は滑らかで、留まることなく言の葉は紡がれる。

 

「焦がれたというのなら、俺は《聖騎士》の剣にこそ惚れこんでいたのだろうさ。――俺はきっと、あんたにこそなりたかった」

 

 万感の思いと共に吐き出したその言葉は、一片の偽りなく俺の本心だった。

 強大なモンスターを苦もなく屠る圧倒的な武勇と、精強極まりない騎士団を編成する人望、人徳を併せ持ち、憂いなく王道を往く《聖騎士》の威風。それを可能にしたアインクラッドを見通す深遠の知識、何者も寄せ付けない最高峰の剣技、絶望を払い揺るぎなく立つ英雄そのものの姿。《聖騎士》こそが俺にとっての『道を指し示す者』だった。

 

「君ほどの剣士にそこまで評価してもらえるとは光栄だ」

「間抜けた話だ。俺は始まりから終わりまで滑稽な道化だったんだな。現実世界で茅場晶彦という男に憧れ、尊敬し、アインクラッドでヒースクリフという名の剣士に魅せられた。俺は何も見えていなかったとつくづく思うよ。『俺が茅場なら何を仕掛ける?』『茅場なら俺達をどうしようと考える?』『茅場の真意は、望みは何処にある?』。そうやって、ゲーム開始以来ずっとあんたの思考を追ってきたつもりだったのにな」

 

 自嘲に歪んだ唇が三日月の弧を描く。おかしくておかしくて、笑い狂って泣きたくなるほどに俺はピエロだった。

 

「私は無上の喜びを噛み締めているよ。かつて君ほど私を理解しようとしてくれた人間はいなかっただろう。これも口惜しいと言うべきかな、君がもう少し早く生まれていれば良き親友となれていただろうに」

「俺はあんたの親友なんざまっぴらごめんだ」

「そうかね、少なくとも退屈はさせないつもりだが」

 

 そんな世迷言に付き合ってられるかと内心で散々罵倒し、力を込めてヒースクリフを睨み付けた。

 

「あんたの望み通り、最初の質問に答えてやる。俺がヒースクリフと茅場晶彦を同一人物だと確信した契機は、75層のボス戦後、クラディールに毒を盛られた時に見せたあんたの不自然さからだ。……こいつに見覚えがあるだろう?」

 

 右手を振り下ろしてシステムウィンドウを出現させ、素早く操作する。アイテムストレージから取り出したのは穂先の鋭い短槍――罪の茨(ギルティソーン)だ。かつてクラディールが麻痺状態のヒースクリフに追い討ちをかけて磔にした武器だった。

 

「あの激戦を極めた死闘の最中ただの一度も注意域に落とすことなく戦い抜き、討伐隊を守る絶対の盾の役割を全うしたのは大殊勲だ。だが、いかに聖騎士といえど75層のクォーターボスを相手に無傷で切り抜けられはしなかった。休息を挟まず俺達全員が杯を取った時、あんたのHPも五割に近づいたままだったことは俺も確認してたよ」

 

 ヒースクリフは徒に狼狽することもなく、静かに俺の口上へと耳を傾けていた。

 

「そんな状態で串刺しにされて、まして左手を部位欠損に追い込まれて回復も儘ならない中、あんたどうやって安全域(グリーンゾーン)を維持していたんだ? 神聖剣の補正が盾だけじゃなく、鎧にまで適用されるなんて知らなかったぜ」

 

 どこか嘲りの混じった解説になった。もしも神聖剣がそれほどまでに完全無欠なスキルならば、先の決闘で俺が勝利することもなかっただろう。

 まったく、《罪の茨》とはお似合いだ。本気で皮肉が効いてるよな、もう一回茅場に突き立ててやろうか?

 

「それからもう一つ、俺のHPがクラディールに危険域(レッドゾーン)まで追い込まれた時のことだ。止めの一撃を貰いかけたその瞬間、どうしてあんたは俺の救援に駆けつけることが出来た?」

 

 そう言って次に俺が出現させたのは解毒ポーションだった。サチが丹精込めて作り出してくれる珠玉の一品、俺の生命線だ。

 

「ポーション作成スキルは74層でボスフロアに結晶無効化空間が仕掛けられていた事実が発覚して以降、ようやく日の目を浴びたスキルだ。市場でも俄然プレイヤーメイドのポーションが値上がりしたもんだが――っと、そいつは置いておこう」

 

 一時も目を離すことなくヒースクリフと相対する。余裕すら感じられる奴の佇まいに何ら変化はなかった。 

 

「ありがたいことに俺には凄腕のポーション作成師がサポートについてくれててな、俺が使うポーションは全て最高級の質を誇ってる。これは75層の攻略当時、血盟騎士団ですらポーション作成スキルをコンプリートしているプレイヤーはいなかったことを考えると、とんでもなく恵まれた環境にいたことになるな。さて、ここで疑問が出てくるわけだが……どうしてあんたはそんな俺より早く麻痺毒を解除できた?」

 

 やはりヒースクリフは答えない。慌てて狼狽することもなく、薄笑いを貼り付けて俺を眺めていた。

 

「この際だ、HPのごまかしと併せて麻痺毒の件も神聖剣の補正に理由を求めてみるか? いや、それとも未だ発見されていない新種のスキルの効果だと言ってみるのもいいかもな。あんたならこの場で新スキルを作り出すことだって出来るだろうし」

 

 ここでようやくヒースクリフが口を開く気になったらしい。俺のことを辛辣だと笑い、それはそれは楽しそうに口角を吊り上げる。

 

「75層の事件は私にとっても痛恨だったな。確かにあの時、私はシステムに介入して不正を働いた。気づくとしたらキリト君かアスナ君のどちらかだろうとは思っていたがね」

「攻略組の最精鋭が勢揃いしてたんだぜ。あんたのHPの減少速度や麻痺からの回復時間に、おかしいと違和感を覚えた奴だってそこそこいたんじゃないか?」

 

 ふとクラインやエギルはどうだったのかと、観客席の最前列に陣取った二人に目を向けてみたのだが、彼らは揃って「ないない」と腕を振り振り否定のジェスチャーを返してくれていた。あー、うん、正直者なのは美徳だけど、別に『実は俺も気づいてた』って感じにそれとなく頷いてくれてもいいんだぜ? ほら、ハッタリって大事だし?

 

「他にも真実に気付く者がいたのかどうかは大したことではないな。今この時、私の眼前に立っているのは君だけだ。君だけが私に剣を向けた、それが全てだよ」

「孤軍奮闘はきついんだけどな。まあいいさ、元よりあんたがこの世界のルールなんだ、文句をつけるだけ無駄だとはわかってる」

「潔いことだ」

 

 文句がないって言ってるわけじゃないからな?

 

「キリト君は二週間前には既に私が誰かということに辿り着いていた。ならば何故75層で仕掛けなかったのかね?」

「首尾よく事が運んだとしても、そこであんたが『全部なかったことにする』可能性を排除できなかった。『史上最悪のフロアボスを撃破するも死傷者多数、生存者は《聖騎士》一人のみ』。こんな無茶な筋書きだって、偵察部隊が数分で全滅した惨状を踏まえれば信憑性を持って皆に受け入れられもするだろうさ」

「私が口封じに走るか……。確かにキリト君の立場なら危惧して然るべきものだ。だが、それは杞憂だとはっきり言っておこう。いくら私とてそこまで理不尽を押し付けようとは考えていない」

「へぇ、自分が一万人を拉致してデスゲームをさせてる極悪人だってことを忘れてないようで何よりだ。これで俺も遠慮なくあんたを罵ることができるな」

「手厳しいことだ、程々に頼むよ」

「安心しろ、俺は無駄なことはしない主義だ」

 

 あんたが俺達をこの世界に閉じ込め、気の赴くまま無体な仕打ちを繰り返していることに、毛ほどの痛痒も抱いていないことは嫌ってほど思い知ってるよ。ここでどれだけ責められようが柳に風だってこともな。

 

「そしてキリト君の危惧を解消する答えが今日の舞台というわけだ。なにせこれだけの目撃者がいれば、私の正体を隠蔽することも不可能だからね」

「もう一つ追加しといてくれ。俺達を謀ってきた黒幕を知る権利は誰にでもあるはずだってな」

「それも道理だな」

「あんたの力は攻略に有用だ、利用できるなら利用したほうが良い。プレイヤーに扮したあんたの思惑への警戒は必要にせよ、100層まで茅場晶彦の存在は黙ってようかとも考えた。――だが、俺にはできなかった、あんたを許せそうになかったよ」

 

 感情を排し、淡々と口する。

 

「残念だ、私には君達への害意はなかったのだがね」

「ああ、それどころか好意すら持って眺めていたんだろうな。何もせず、何も言わず黙ってさ。……ふざけんなと思った。75層で軍の全滅を予期しながら座視していたように、あんたの知識と力は《茅場晶彦の望む筋書き》を完成させるためだけにしか使われない。悲劇を知りながら必要な犠牲だからと涼しい顔で許容し、放置する。殺人者(レッド)に負けず劣らず外道の所業だろうよ」

 

 弁解はあるかと吐き捨てれば、罪悪の欠片もなく平然とした顔で「ないな」と口にする、そんなあんたが大嫌いだ。

 ヒースクリフに害意がないからこそ余計に吐き気がする。迷宮区のマップ構造やフロアボスの詳細な情報は言うに及ばず、74層で結晶無効化空間の罠が仕掛けられていたことも、75層が脱出不可能で偵察隊が間違いなく全滅することも、全てこの男は知っていたはずだ。全てを知りながら、自身の目的を成就するためにプレイヤーの犠牲を許容した。いいや、望んですらいたんだ。

 

 何も出来なかったはずがない。この男の知識と立場なら幾らでも犠牲者を減らすことが出来た。血盟騎士団を訪ねて決闘を申し込んだ折に俺が口にした程度のことならば、事前に警告という形で取り繕うことだって難しくなかっただろう。

 結局、茅場晶彦にとって俺達プレイヤーはどこまでも世界を完成させるための歯車、使い捨ての駒でしかない。そんな男に俺達の命運を預ければどうなることか。ゲームを盛り上げるためにこれまで通り犠牲者の数を調整もしよう。劇的なドラマを望んでどこかで俺達を裏切って攻略組を窮地に陥れようとすることだって考えられる。――いつか魔王として君臨する、その予定通りの筋書きに沿って。

 

「死に物狂いで今を生きるプレイヤーを、絶対者を気取って傍観するだけのあんたの遣り口がなによりも許せなかった。それだけじゃ舞台に引きずり出す理由としては不足か?」

「いいや、十分だ。君の怒りは正しい。その義憤は何ら恥じるものではないよ、胸を張りたまえ」

 

 どこまでも抜けぬけと……。

 これは真面目に口喧嘩をすれば絶対徒労感に打ちのめされるな。茅場晶彦という男はおよそ常人に理解できる価値観の持ち主じゃない。保身を考えない邪悪は周囲全てを破滅に導く。理由がなければ『君子危うきに近寄らず』を徹底しなければならない相手だ。

 俺の背筋を撫でる悪寒は一向に止む気配を見せなかった。昂ぶった気分を落ち着かせるようにふっと息をつく。――仕込みはこれで十分だろうと、内心でほくそ笑みながら。

 

 75層のクォーターボスを下した後、クラディールの裏切りに端を発す騒動を経て、《黒の剣士》はついに世界の黒幕こと茅場晶彦の存在に気付いた。それから二週間、葛藤を抱えながらもヒースクリフの正体を暴く機会を待ち、大観衆の見守る中で《聖騎士》に挑んだ。その結果白日の下、高らかに茅場晶彦の正体を突き止めるに至ったのである。全てはゲームクリアへの意思と義憤を抱いたが故に――。

 と、まあ、ここまでの話をまとめるとこんな感じになるのだろうか? 何というか、こうして並べてみると不思議と俺が格好良く見える。実際、感心したように頷くヒースクリフや俺の話を聞いていた観客席の連中は、概ねこんな認識に落ち着いているのではないだろうか?

 

 ――無論、そんなわきゃねーのである。

 

 俺が75層時点で全てを暴いていたとか真っ赤な嘘だ、嘘っぱちだ、完全無欠に口から出任せでしかなかった。75層でどうしてヒースクリフの正体を暴くために仕掛けなかったかだと? そんなのヒースクリフが茅場晶彦だと本気で気付いてなかったからに決まってるだろうが。

 もちろん全てが偽りだったわけじゃない。ヒースクリフの正体に辿り着いた論拠は確かに俺が口にした通りの理由なのだし、奴の失策が俺に疑惑を与え、確信につながったことも事実だった。だが、俺がヒースクリフの不審に気付いたのは75層の騒動時点ではなかった。ヒースクリフ達と別れて76層に辿り着き、駆けつけて来たアスナと会話を交わしていた時のことだ。

 

 あの時、クラディールを無感情に刺し貫いたヒースクリフの姿を思い出し、そこで奴のHPバーがグリーンのままだったことに気付いた。そして一つ疑問に思えば次々とおかしな点が頭の中に浮かび上がり、捨て置くにはあまりに真実味を帯びてしまった。

 あくまで疑惑だ、その時は未だ疑惑のままだった。いや、疑惑だと思いたかったのかもしれない。けれど――。すぐに検証が必要だと密かに動き出すことにしたのである。

 

 解毒ポーションに関しては以前サチとアスナが同席した折にスキルコンプにまつわる話も小耳に挟んでいたし、結晶無効化空間の脅威が膨れ上がっていたため改めて話題に出すのも自然な流れだった。それとなくアスナに尋ねればすぐに答えを得ることが出来た。

 その結果、75層時点では血盟騎士団にスキルコンプしたプレイヤーは存在せず、ヒースクリフも団員の作り出したポーションを使っていたはずだと言質を取れた。

 

 ギルティソーンはリズに頼みこんで調達してもらった。俺が直接買い付けずリズに頼んだのは、万一俺がヒースクリフに疑いを抱いている事実を本人に知られないよう警戒していたからだが、生憎ギルティソーンは市場に出回っておらず、結局リズに一から作り上げてもらう羽目になった。

 ちなみに短槍が完成したのはシリカと決闘した日の事で、リズはその日の内にメンテに出していた俺の愛刀と一緒に届けてくれたのだった。

 

 そうして槍の効力を確かめるために人目につかないよう狩場を厳選し、自身の身体に手早くぶっ刺して貫通ダメージを確かめてみた。とりあえず不快感がすごかったとだけ言っておこう、もう二度とやりたくない。

 そのおかげもあってか検証の結論はすぐに出た。いくらギルティソーンが中層ゾーンの武器だろうと、すぐに引き抜かなければダメージは相当蓄積される。元々減少していたヒースクリフのHPがあの状況からグリーンを保つのは考えられなかった。

 加えてあの時ヒースクリフは部位欠損によってすぐに槍を引き抜けず、回復も儘ならない状態だったのだから確定だろう。一応、クラディールもあれでヒースクリフは殺せると思っていたようだし。少なくともグリーンのまま、というのは不自然すぎた。

 

 ヒースクリフと茅場晶彦が同一人物だと気付いた時、まさに灯台下暗しだと愕然とした。まさかデスゲームの主催者が何食わぬ顔でプレイヤーに混じっているとか予想外に過ぎるだろう。

 そして茅場の面の皮が分厚すぎることにびっくりである。とことん俺達をなめた真似をしてくれる。思わずヒースクリフの闇討ち計画を立ててしまうほどブチ切れた。そんなことをしても返り討ちに遭うに決まってるから自重したけどさ。ちなみに口封じの可能性に気付いたのはこの時だったりする。

 

 俺がヒースクリフとの対決を決意したのは数日前、ユイとの別れを経てはじまりの街に帰ってきた時のことだ。直接の要因は俺がユイに尋ねた『システムコンソールが使われた形跡があるか否か』の答えだった。あの時ユイは自分以外に履歴は残っていないと口にした。

 俺が欲しかったのはヒースクリフの正体を暴いた後、奴がどんな行動に出るかの材料だ。あくまで一プレイヤーとして動き、いわば《縛りプレイ》をしているなら問題なしと出来る。逆に頻繁にアインクラッドのシステムに介入しているようだと、『気に入らないゲーム展開になったらリセットボタンを押す』ような幼稚なメンタルを警戒しなければならなくなる。

 

 とはいえ、どこまでいっても気休めだ。ゲームマスターがアインクラッドに干渉する手段だってシステムコンソールが全てではない。事実、ヒースクリフは75層で小規模ながらゲームマスターとしての権限を振るっていたのだから。

 けれど、信じてみようと思った、茅場晶彦のゲームマスターとしての矜持を信じることにしたのだ。……どのみちヒースクリフに俺達をクリアさせる意思があるのだと仮定する以外になかった、というやや後ろ向きな理由込みで。

 

 決闘に始まり、ここまで回りくどい真似をしてまでこうして大勢のプレイヤーを集めたのは他でもない、俺の命を最低限保障するための小細工である。

 つまり俺は茅場にこう突きつけたのだ。この場にいる全員を消してゲーム続行を不可能にするか、それとも大人しく自身が黒幕だと認めるか選べ、と。ふふん、七千人を人質にしてゲームマスターを脅迫する悪辣プレイヤーの完成である。今日から魔王キリトと呼んでくれたまえ。

 

 俺が意図してヒースクリフを誤解させたのは勝利のための布石だ。単なるハッタリや意趣返しでもなければ見栄っ張りの格好付けでもない、ゲームをクリアするために組み立てた戦略そのものだった。

 

 ――茅場晶彦に勝つためには、奴の望む展開に沿いながら、最後の最後で出し抜く必要がある。

 

 相手はゲームマスターなのだ、極論を語れば俺達をいつでも皆殺しに出来る生殺与奪の権限を持っている。今、この瞬間だって俺の心臓は奴に握られているようなものなのだから、その重圧たるや筆舌に尽くしがたかった。

 同時にそうした問答無用の現実を踏まえて勝利の鍵を見つけ出さねばならないのが今の俺の立場だ。その七面倒くさい命題に挑まなきゃならないことを考えれば、ちょっと小細工を弄したところで文句を言われる筋合いはないと思う。そもそもラスボス騙しても誰も損はしないのだからいいじゃないか。

 

 少しだけ現実を捻じ曲げるために、頭の良い人間の特性を利用させてもらった。俺の口にした少ない情報から最も現実的な、いわば整合性の取れた論理を組み立てさせたのである。ヒースクリフは元々俺を高く評価しているから、それに沿った現実を作り上げることでヒースクリフの望む舞台に近づいていく一挙両得なのだ。――無論、皮肉だが。

 

 ともあれ俺は俺のためにヒースクリフに誤解を押し付ける言葉の詐術を用いた。つまり《黒の剣士》は75層で全てを知りながら万一を予見して引いてみせた、そういう事実と異なる現実に塗り替えさせてもらったのである。

 《兵は詭道なり》。この際、虚名やハッタリ、俺がこの世界で培ってきた全てを使わせてもらう。ヒースクリフとの決闘を組もうと思い立った時、いや、聖騎士がそのベールを脱ぎ捨てる可能性を想定した時からそう決めていた。

 

「ところでヒースクリフ、俺からも75層のことであんたに質問があるんだが?」

「答えは確約できないが、それでよければ聞こう」

「ありがたい。それじゃ、あんたの伝説の逸話――《ヒースクリフにイエローなし》だったか? あんたが頑なにその伝説を守ろうとした理由が今一わからなかったんだ。あれはあくまで戦場の伝説だし、モンスター相手でなくプレイヤー、まして不意打ちにやられた時までこだわる必要もないと思ってたから。けど、これについてはもう答えを貰ったから納得した。不死存在が発覚しちまうんじゃ介入も止む無しだったんだろう、あの場で正体を明かす気がなかったってことで説明がつく。だが――」

 

 すぅっと目を細めてヒースクリフを睨む。

 

「75層であんたはゲームマスターとしての権限まで使って麻痺を解き、瀕死の俺をクラディールの剣から守ろうとした。――らしくもない恣意的な介入だ。あの時、何故俺を助けようとした?」

「あれは思い出してみると些か赤面ものの失態だったな、私が手を出すまでもなく君は窮地を抜けていたのだから」

 

 ぎりぎりには違いなかったけどな。あの時俺が生き残ることが出来たのは、時間稼ぎに付き合ったクラディールが間抜けだったからだ。

 

「ゲームマスターとしても著しく公平さを欠いた行動だったぜ。本来なら俺を見殺しにするのが正しいゲームマスターの在り方だったはずだ」

 

 結果的にヒースクリフの行動は無駄骨に終わり、それどころか俺に茅場晶彦につながる決定的な証拠を提供してしまった。ヒースクリフにとっては踏んだり蹴ったりの顛末だ。もしもあの時ヒースクリフが《プレイヤー》に徹していれば、俺はその正体にも気付かなかった公算が高い。

 

「私は君のファンだからね、早々に退場させるには忍びないと思った」

「俺にあんたの冗談に付き合う余裕はないぞ」

 

 一度そのふざけた頭をぶっ叩いてやろうか?

 胡乱な目付きでそんな文句を吐き出す寸前の俺に、ヒースクリフはそ知らぬ顔で「冗談ではないよ」と口した。

 

「私以外に唯一確認されている貴重なユニークスキル保持者(ホルダー)を、あのようなつまらない計略で失いたくなかった。そういえばキリト君に満足してもらえるかな?」

「唯一? あんたも把握してないのか?」

「見ればすぐにわかるスキルもあれば、そうでないものもある。スキル保持者が人目に触れないよう隠蔽しているなら私にだってわからないさ。私の知りえる情報は『プレイヤーとして得られる情報』に制限しているのだよ、そうでなければつまらないからね」

 

 そこでヒースクリフはぐるっと観客席を見渡し、口元をわずかに歪めた。

 

「私が用意したユニークスキルは全十種ある。それぞれ取得は困難だが決して不可能な条件を設定した覚えはない。つまり可能性だけならこの大観衆の中にユニークスキル保持者が潜んでいることも十分考えられる」

「それ以上は止めておけ。プレイヤーの結束を乱すことはあんたの本意じゃないだろう」

 

 ヒースクリフもそれ以上こだわる気はなかったのか、軽く観客席を一瞥しただけですぐに俺へと視線を戻した。

 

「キリト君らしい考えだが、やや過保護ではないかね?」

「足手纏いはいらない、それだけだ」

 

 強制されて最前線を戦うようでは末期だろう、モチベーションの低いプレイヤーなんぞ最前線ではすぐに死ぬぞ。

 

「あんたこそ過保護が過ぎるぜ。今でも攻略組筆頭のつもりなのか?」

「おっと、二年近く続けたロールプレイだったせいかまだ癖が抜けていないようだ。まあ予定では95層まで《聖騎士》の役割を全うするつもりだったのだがね」

 

 苦笑を零すヒースクリフだった。 

 

「老婆心ながら忠告しておくと、ゲームも終盤になればますますユニークスキルの重要性は高まるよ。今のままではゲームクリアは遠いぞ、キリト君」

「どうせサービスするなら言葉は正確に選べ。今の攻略組じゃラスボスを倒すのが難しいってだけだろうが」

 

 迷宮区の攻略やフロアボスの撃破に戦力が足りないとは思わない。クォーターボスも残っていない以上、懸念があるとすれば最終戦のみだ。

 

「ふふ、君ならばわかるだろう? 物語の途上で不可解な助言を残すのは悪役の美学だよ」

「ゲームのお約束を現実に持ち込むな、不愉快だぜ」

「《現実》か、最高の褒め言葉だな」

「強制的に巻き込んでおいて何て言い草だ」

 

 まあいいさ、と溜息しか出ない俺と愉しげに笑うヒースクリフの姿はいかにも対照的な図だった。

 それでも……つながった、と思った。ユニークスキルはMMOの公平さ(フェアネス)を壊すバランスブレイカーだ。その規格外な存在を茅場が設定した謎にようやく答えを得ることが出来た。

 この時、俺の身体を重くしていたのはどうしようもない疲労感だった。俺もまた奴の物語を構成する歯車だという事実が浮き彫りにされ――全てがあの男の掌の上という現実に改めて気づく。

 

「ユニークスキルは対魔王を想定した、ゲームクリアの切り札としての役割を負ったスキル。あんたが言いたいのはそういうことだろう?」

「ご名答。君は察しがよくて助かる」

「……予想できなかったわけじゃないからな」

 

 何せ俺自身がユニークスキル使いだ。

 

「俺はあんたが公平さ(フェアネス)を崩してまでユニークスキルを制定した意味を、クォーターボス、ひいてはグランドボスの強さとトレードオフしたものだと考えていた。つまりラスボスはユニークスキルがあって初めて対等に戦える相手なんだろうってな」

 

 最初に気づくべきだったんだ、と吐き捨てるように続けた。

 

「二年前、最初のチュートリアルであんたは最上層でラスボスを倒し、ゲームクリアすることでアインクラッドからの脱出が可能になると口にした。その時点でこの世界はMMORPGの形式からも外れたのだと理解しておくべきだった」

「興味深い見解だね」

「MMORPGの大きな特徴の一つに《終わりがない》ことがあげられる。クエストはあくまで冒険の一環であって、クリアしたからと言ってエンディングが訪れることはない、それが本来の形だ。なのにあんたはそのMMORPGの世界に明確な終わりを用意した、筋書きのあるドラマ(シナリオ)を望んだんだ。ソードアート・オンラインはMMOというより、むしろフリーシナリオ型のコンシューマーRPGに近い」

 

 それを理解した時、ユニークスキルにも明確な意図があったのだと気づいた。

 

公平さ(フェアネス)が売りのMMOではなく、シナリオの存在する一般的なスタンドアロンRPGだと考えれば、ユニークスキルはあって当然の舞台装置になる。魔王に立ち向かう勇者だの伝説の剣に選ばれた戦士だの、そうした唯一の特性(ユニークネス)はコッテコテのファンタジー系要素だもんな。そうした《特別》がないほうが珍しい」

 

 主人公属性と言い換えても良い。古今東西、物語の勇者には秘めたる力が眠っているものだ。それがファンタジー世界のお約束という奴である。

 アインクラッドをそうした《ファンタジー要素の金字塔》に当てはめるなら、強大な力を持った《魔王ヒースクリフ》に抗うための選ばれた十人の勇者(ユニークスキル使い)となるわけだ。まあヒースクリフの口ぶりから十種全てが最前線に揃うことまでは考えていないようだけど。

 

「キリト君の語るゲーム形式については意識していたわけではないが、言われてみれば思い当たる節もある。私が具現しようとした世界、その基礎になった原初の風景は、確かに君が語るコンシューマーゲームから色濃く影響を受けているはずだ」

 

 うん、茅場の幼少の思い出とか人格形成とか、その辺りの事情は正直どうでもいい。最悪なのは、ゲームの世界に人間を放り込んだために、形式上同時接続したプレイヤーが冒険に励むMMORPGが成立してしまっているということだろう。勘弁してくれ、ほんと。

 

「ユニークスキルを攻略に生かすも殺すもプレイヤーの意思次第だ。そういった意味では君の二刀流は特別だよ、然るべき者に然るべきスキルが渡る典型として用意されていたのだから」

「どういうことだ?」

「二刀流スキルは全プレイヤー中最大の反応速度を持つプレイヤーが手に入れることになっていた。この反応速度だが、仮想世界における活動は全て脳内の電気信号に支配されている、つまり反応速度を高めるということは脳内信号の受け渡しを最適化させ、脳機能そのものの活性化を図るということだ。君も薄々気づいているのではないかな? 反応速度を高める一番の近道は、仮想世界において複雑かつ精密な動作を短時間で濃密に繰り返せば良いのだと」

「……まあ、経験則でいいなら実感してる」

「構わんよ。私とてまだ人体と仮想世界の関係性の全てを把握しているわけではないのだから」

 

 ヒースクリフの言ってることは、反応速度を鍛えたいなら四六時中強敵との戦いに身を置いておけば良い、となる。戦って戦って戦い抜くのが一番この世界に最適化される方法だというのは、俺の経験則でも正しいと語っていた。

 しかし科学の最先端たる仮想世界で、よりにもよって最も重視されるのが戦闘主義の脳筋理論ってのは何か間違ってないか?

 

「最前線に要求されるのが意思と力を併せ持った剣士だというなら、その先頭に立つ君に二刀流スキルが宿るのは必然だった。二刀流こそが魔王に対抗するための勇者たるスキルだったのだと、今はそう思うよ」

 

 ユニークスキルを得たから勇者になるのではなく、勇者だったからこそユニークスキルを得たのだと、そんな大仰な物言いをするヒースクリフに思わず失笑が漏れた。

 

「笑わせてくれるなよヒースクリフ、何が反応速度が最大のプレイヤーに二刀流が与えられる、だ。その反応速度だって俺は二番手のはずだぜ、目の前に二刀流を得るに最も相応しいプレイヤーがいるんだから」

「私は員数外だよ、なにせ神聖剣を得ることが決まっていたからね。取得条件を満たしても他のユニークスキルが被らないようにあらかじめ設定を加えていた」

「親切設計なことで」

「その取得条件にしても早々達成できないようにしていたつもりなのだが……。複数のユニークスキルを身に着けてしまうプレイヤーが現れるのだから面白い」

「予定外だったからってあんたの設定ミスのツケを今更こっちに回さないでくれよ」

「私の正体に気づいたことも含めて、この世界最大のイレギュラーは間違いなく君だろうな」

 

 実に楽しませてもらった、と。

 

「キリト君が《半減決着モード》の決闘を提案してきた時、よもやと思ったよ。同時にまだ正体を明かすのは早い、とも」

「へぇ、妙なことを言うじゃないか。俺はあんたがプレイヤーを相手に宝探しゲームでもやらせてるつもりなのかと思ってたぜ。あからさまにヒントをばらまいて自分の正体が暴かれるのを待ってたように見えたからな。注意域に落ちる攻撃を食らえば、これみよがしにシステム的不死まで表示されるように設定してたのはそういうことだろう?」

 

 それはどこかで自身の正体が暴かれることを期待していたのではないかと疑いを抱かせるに十分な振る舞いだ。そして、隠した宝を見つけてもらえるようわくわくしながら見守る子供のメンタル――遊び心に富んだ稚気を多分にこの男は持っていた。

 

「宝探しゲームとは言い得て妙だな」

「あんたは一度クラディールの手で正体を暴かれかけてるんだ。万一を考えてHPが注意域に落ちても問題ないように再設定されてるもんだと思ってたぜ?」

 

 ちょっと設定を弄くって不死存在が発覚するラインを押し下げるくらいは造作もないだろう。だからこそ俺が決闘に求めた一番の目的はヒースクリフの《伝説》を終わらせることだった。

 

「初志貫徹は大事だよ? ただ、非礼を承知で言わせてもらえば、私が茅場晶彦だと名乗り出ることも含めて決闘の勝敗はどちらでも構わなかった。いや、それどころか私は、どこかで君が私の思惑を超えることすら期待していたのかもしれん。決闘の最後に私が見せた動きを覚えているかね?」

「ああ」

 

 アバターがぶれるほどの人智を超えた速さのことだな。

 

「キリト君には謝罪しておかねばなるまい、オーバーアシストは本来聖騎士が使って良いスキルではないのだ。焦りと期待、そのどちらが大きかったのかは私にも定かではないが、ついつい禁を破ってしまった」

「つまりオーバーアシストはシステム外スキルじゃないってことか」

「その通りだ。ユニークスキルが魔王を打倒するためのスキルならば、オーバーアシストは複数のユニークスキル保持者を相手取るための魔王専用スキルとして用意した。先の決闘では最後の一瞬、君の攻撃を回避するために使わせてもらったのだが……まさか追随できるプレイヤーがいるとは思わなかったよ」

「ぎりぎりで反応できただけだ。最後まであの速さを維持されたら俺の迎撃も間に合わなかった」

 

 あれはもうステータスが云々という次元じゃない。俺がどれほどステータスをブーストしたところで、ヒースクリフが見せたようなアバターがぶれるほどの速さを実現したことはないのだから。まさしくユニークスキル使いを複数同時に相手取るためのスキルだった。

 

「だが、事実として君はオーバーアシストがもたらす『加速された』世界に自力でついてきた。いわば魔王と対峙する資格を自らの力で証明したのだ。あの瞬間、私は沸き立つ歓喜に打ち震えていたよ。人とは未だ深遠の先に立つものなのだな、君は人間の行き着く一つの可能性を見せてくれた」

 

 超反応をもたらすオーバーアシストは、原理としては俺の《加速世界》に近いもの……なのか? とりあえずシステムの補助で入るという差異こそあっても、自由に使えるという意味では汎用性はあちらのほうが上だろう。おそらくは俺が身に着けたシステム外スキルの発展系か完成系になる。

 しかし――。

 ご機嫌なヒースクリフに自然舌打ちをしたい気分で一杯になった。こっちはそんな学術的興味よりも生きるか死ぬかの瀬戸際なんだよちくしょう。本気で逃げ出したくなってきた。

 

「聞きたいことは聞かせてもらった。そろそろ約束の報酬とルールを提示させてもらおう。まずはプレイヤー開放を賭けた一対一の決闘を選択する権利を与える。次に当然のこととして不死属性の解除を約束しよう。最後に私のHPを聖騎士のまま据え置きとし、決闘はお互いのHPがレッドゾーンに踏み込んだ状態から開始するものとする。この条件でどうだね?」

「悪くないな、観客を退屈させずに手早く結果が出る」

 

 強がることで自身を鼓舞するのだってもう慣れた。

 この戦いは初撃決着モードと完全決着モードを併用した変則ルールとなる。ソードスキル一発でHPバーが吹き飛ぶ、文字通りに一刀が全てを決する真剣勝負だった。

 

「《オーバーアシスト》は封印してくれないのか?」

「HPをレッドゾーンに設定した意味を理解できない君ではないだろう? キリト君には《聖騎士》と渡り合う程度で満足して貰っては困る、今こそ君の底力を見せてくれたまえ」

 

 やっぱり隠し札は機能しないか。

 

「わかった、それでいい」

「了解を得られてなによりだ。では早速決闘申請を――」

「ちょお待ってんか……っ!」

 

 突然木霊した関西弁が、決闘申請を出そうとしていたヒースクリフの動きを止めた。

 あ、なんかデジャブ。一瞬遥か彼方の記憶の端っこに引っかかる既視の思いが俺を回想に導こうとするも、すぐに気を取り直して声の発生源を探った。ヒースクリフのみならず全員が声の主へと視線を向ける。

 案の定というか、そこにいたのはキバオウだ。観客席から勢い良く飛び降り、闘技場の砂地へと着地を決めたところだった。いや、乱入者はキバオウだけではない。まるでキバオウの叫びが合図だったかのように次々と闘技場の土を踏むプレイヤーが増えていく。迷いなく迅速に行動を開始したのだった。

 

 ――違う、これは偶然じゃない。

 

 瞬く間にヒースクリフ包囲網を完成させた手腕と、キバオウを除いて降り立った全てのプレイヤーが俺の知己――攻略組でも中核を成す最精鋭であることを考えると、これは偶発的な暴発ではなく、統率された集団の動きに他ならない。

 

「キリト君、ここは引いて。魔王との一騎打ちなんて無謀よ。わたし達はここであなたを失うわけにはいかないの」

「アスナ……」

「そうか。首謀者は君だな、アスナ君」

「ええ、僭越ながらわたしが指揮を執らせていただきました。まさかここで弓引くは背信だ、などとはいいませんよね?」

 

 俺の隣で静かに剣を抜き放つ玲瓏の少女は痛みを堪えるように苦しげな表情をしていた。数刻前までは敬愛すべき上司だったのだ、いきなり不倶戴天の対象とは見れないだろう。視線を滑らせばゴドフリーが先頭に立って数名の血盟騎士団のメンバーを引き連れている。彼らは皆内心の憤りを必死に押さえつけているようだった。裏切られた、との思いだろうか。握り締める武器の柄が悲鳴をあげているようだ。

 

 他にもエギル、クライン、ディアベル、シュミットもいる。フロアボス戦の常連メンバーを厳選して集めたか、この短い時間によくこれだけの臨時編成を組めたものだ。

 くそ、と内心毒づく。それは悪手なんだよ、どうしてわからない。……いや、俺の失態か。交渉に時間をかけすぎてみすみす彼らを舞台にあげてしまった。

 

「無粋な闖入者を許した覚えはないのだが、この場は好都合か。アスナ君には伝えておくべきことがあったからね」

「なんでしょう?」

「団長の引継ぎを済ませていなかったと思ってね。今日から君が団長として血盟騎士団を率いると良い。何ならキリト君にその座を譲り渡してもかまわんよ」

「あなたは……っ!」

 

 あまりの言い様に不愉快げに顔を顰めたアスナだが、どうもアスナよりも周囲のプレイヤーのほうが怒気を高めているようだ。特に血盟騎士団の連中は怒髪天の勢いだった。

 そしてもう一人。全身から立ち上る怒りを抑えることなく、元凶を睨みつけるプレイヤーがいる。

 

「ほんまけったいな真似しくさってからに、《黒の剣士》もいけ好かんけどあんたはそれ以上に気にくわんわ。落とし前はきっちりつけてもらうで、ヒースクリフ……ッ!」

 

 今にもヒースクリフに斬りかかりそうだった。

 殺気だった面々が警戒心剥き出しでそれぞれの武器を構え、高まり続ける緊迫感はまさに一触即発を示している。このままではまずい。

 

「――アスナ、他の皆も下がってくれ。悪いけど俺はここで引くつもりはない」

「キリト君、どうして……」

「意地を張るなキリト君、一刻も早いクリアを望む君の気持ちはわかる。それでも今は戦うべき時じゃない」

「ディアベル、今だからこそ勝機があるんだ。ラスボスが自分から枷をつけて戦ってくれるっていうんだぜ、このチャンスを逃す手はないだろう?」

「だが君一人で戦うんだぞ!」 

 

 聞き入れられない、と示すように無言で首を振る。そんな俺にアスナやディアベルが悲痛な顔で翻意を促してくるが、ここで頷くわけにはいかなかった。

 話は平行線を辿るのみで進展の様子はない。それ以上にまずいのは、この場には彼らを歓迎していない絶対者がいるということだ。さっさとアスナ達に諦めてもらわねば。

 しかしそんな俺の思いも既に時遅しだった。

 

「無粋な横槍はそこまでにしてもらおう。これは私とキリト君の舞台だ、君達が出る幕ではない」

「――チッ!」

 

 無造作に左手を掲げようとするヒースクリフを邪魔せんと、無意味と知りながら即座にスローイング・ダガーを取り出し、投げつけた。しかしながらその一撃は何ら効果を発揮することなくシステムに弾かれ、刀身を地面に落とすだけに終わる。

 不死属性によるものではない。これは単に圏内設定、つまりアンチクリミナルコードに阻まれただけだ。そもそもヒースクリフは、メニューウインドウを開くつもりもなかった。微かに「システムコマンド」と呪文のように唱え――。

 

 ――『(ひざまず)け』、と。

 

 力ある言葉を唱え、現実がその言葉に従った。

 それはこの世界から排除された魔法のようにすら思えた。おそらく管理者権限を発動させたのだろう。かつてユイが一時的に用いた、世界に君臨する絶対者の力だ。

 全てが決した。局地的に重力変動でも起こったかのように、コロシアムに集った何千というプレイヤーが地面に縫い付けられ、ただの一人の例外もなく麻痺という名のシステム異常を押し付けられていた。そこかしこからひしゃげた呻き声があがり、その様子はさながら地獄絵図のようだ。

 

「すまなかったねキリト君、君まで巻き込んでしまった」

 

 淡々と告げるヒースクリフは今度こそ左手でメニューを開き、何度か画面をタップした。するとすぐに俺の身体を縛っていた状態異常が消える。一人だけ状態異常から解放され、ぐるりと周囲を見渡すと非常に罪悪感を刺激される光景が広がっていた。

 

「……どうするつもりだ? まさかこのままちゃんばら始めるわけにはいかないだろう?」

「闘技場に降りてきた者達はすぐに観客席に転送し、以後はこちら側にこれぬよう結界で仕切るとするよ。覚えているかね、二年前にはじまりの街を覆った不可視の壁だ」

「話にだけは聞いてるよ」

「では速やかに送り返すとしよう。ああ、もちろん麻痺も解いておくから安心したまえ」

 

 再度メニューを開いて操作を始めたヒースクリフを半ば無視するように努めて平静を装い、麻痺に囚われたアスナの傍らに膝をついてそっと抱き起こした。

 

「今更俺が引かないことも、ゲームマスターの不興を買えばこうなることもわかってたはずだろう。聡明なお前らしくもない、どうしてこんな無茶をしたんだ」

「……ごめんね。わたし、どうしても許すことができなかった」

「ヒースクリフをか?」

 

 いいえ、違うわ、とアスナはゆっくりとかぶりを振って否定した。

 

「君が一人で死地に向かう事を許すことが出来なかったの。前に言ったよね、『死ぬ時は一緒だ』って」

 

 きっとこの気持ちはわたしだけじゃないよ、と視線で促すアスナの手を取ってわかってると頷く。アスナの、そして彼らの寄せてくれる芳情を誇りに思う。

 それでも俺はこれが最善だと判断した。できれば俺の我侭を笑って許してやってはくれまいか?

 

「迷惑かけてごめんなさい、これ以上君を引き止めたりはしないわ。でも……でもね。勝てるよね? 死んじゃうつもりじゃないよね?」

「この手のことに関して、俺の信用のなさっぷりはガチだな……」

「君には前科がいくらでもあるもの」

 

 否定できないけど、だからこそ俺が勝つって言ったらちゃんと信じてほしいもんだ。そんな悲壮感に溢れた顔してないでさ。

 

「丁度良いや、ゲーム初心者のアスナにベテランゲーマーを自負する俺のゲーム哲学を教えてやるよ。『無双してよし、玉砕してよし、全部ひっくるめて楽しめ』だ。それがゲームを長く楽しむ俺なりのコツ」

「キリト君、何を……?」

「いいから聞いておけ」

 

 どんなゲームにだって攻略法はあるし、俺はそういった最適解に近づく試行錯誤が得意な人間だった。勘と経験と、ゲームコンセプトを紐解く力。どんなジャンルのゲームでも卒なくこなす器用さ、それが俺にはあった。まあ、声高に誇るようなものじゃないけど。

 

「この世界が正真正銘のゲーム世界だったらよかったのにって、何度も思った。それなら『全力で負けること』を楽しむことが出来たんだ。だからさ、アスナと剣を合わせることは本当に楽しかったよ。勝っても負けても純粋に楽しめる、そんな勝負が出来た」

「お願い、不安にさせるようなこと……言わないで」

 

 アスナの懇願するような声に思わず苦笑いが出た。相変わらず人を安心させるのが下手な男だ。

 デスゲームに支配されたアインクラッドでは、負ける時は死ぬ時だった。いや、それよりもなによりも――突出した戦力を誇る俺に、死ぬ自由などないのだと考えて戦ってきた。戦えば戦うほどにクリアは近づく。ならば俺に戦わない道理などないのだと、その一心だった。

 もしも俺の命を燃やし尽くすことでこの世界を終わらせられるのならそれも悪くない、そんな馬鹿なことを本気で考えていた時期すらあったのだ。

 

「なあアスナ、君は俺の戦い方を誰よりも近くで見てきたはずだろ? 俺がこの世界でやってきたのってさ、勝つための効率だけを求めた、楽しむ事を捨てたつまらない戦い方なんだよ。黒の剣士はそれしかやっちゃいけなかった。だから心配はいらない、これから俺が臨むのはそうしたつまらない戦いなんだ」

 

 なるべく軽い調子で伝えてみたのだが、アスナの愁眉はますます曇ってしまったのが残念だ。まあ『今から殺し合いにいくけど本気出すから平気』とか明るく言われても反応に困るわな。

 

「……死んじゃったら本当に許さないから。ちゃんと一緒に現実に帰るんだからね。約束だよ、キリト君」

「わかってる、死ぬつもりはないよ」

 

 アスナを勇気付けるようにぎゅっと手を握ると、彼女の強張った表情も少しだけ和らいだように見えた。そうそう、そうしてたほうがお前はずっと美人だ。

 しかし、アスナや他の連中はともかくとして――。

 

「おいこらクライン、お前まで後先考えずに突撃するとか何やってんだよ」

 

 クラインが抵抗できないのを良いことに俺は遠慮なく文句を口にしたのだった。

 

「面目ねえ。だがな、俺もアスナさんと同じ思いだぜ。最後の最後までこんな秘密を一人で抱え込んで、その挙句に魔王と一騎打ちだ? ったく、この大馬鹿野郎が……。いいか、ぜってー勝てよ。こんなとこで死ぬんじゃねえぞ……!」

「わかったわかった」

 

 だから大の男が泣くな、そこまで心配されて嬉しいやら気恥ずかしいやらでどんな顔をしていいかわからなくなっちまう。

 

「お前がゆっくり恋人探しできるようにきっちりゲームクリアしてやるから、安心して俺の勇姿を見学してろ。ついでにエギルもな」

 

 ついでとはなんだ、と毒づく雑貨屋店主にひらひらと手を振り、挨拶の代わりとする。サンキューな、お前にも本当に世話になった。

 できればこの場に駆けつけた全員に頭を下げたいところだが、そういうわけにもいかないか。

 

「わざわざ待ってもらってすまなかったな。もういいぞ、ヒースクリフ」

「なに、礼には及ばんよ。君の心残りを解消させておいたほうがより楽しめるだろうと思ったまでだ」

 

 ヒースクリフが軽やかに指を動かす。すると転移の光が幾つも出現し、コロシアムを照らした一瞬の後、闘技場に残ったのは俺とヒースクリフの二人だけだった。

 見上げれば変わらず大観衆が目に入る。ヒースクリフの振る舞いを見て下手に騒ぎ立てるのは危険だと悟ったのか、皆が皆固唾を飲んでじっとしていた。最前列に陣取るプレイヤーが不可視の壁に触れていたが、特に弾かれるとかはないようだ。

 

「先立って警告を出しておこう。姿形が同じと言えども、《聖騎士》を相手にする程度の認識では瞬きほどの間に勝負が決してしまうぞ。努々(ゆめゆめ)油断することのないように頼むよ」

 

 絶対の確信と共に言い捨てられた言葉にぞっと肌が粟立ち、真実この男は本心を語っているのだと否応なく理解させられる。魔王と一人で剣を交えるのは早まったか、と今更ながらに後悔するほどの怖気が我が身を総毛立たせた。

 ごくり、と生唾を飲み込む。

 

 心の臓を押しつぶそうとする怜悧な威圧が恐ろしい。ヒースクリフから痛いほど伝わってくる強烈な気配は殺気とは違う、もっと純粋な戦意だった。剣気というのが現実に存在するならば、このような純度の高い意思を叩きつけられる感覚を指すのだろう。

 ヒースクリフの放つ威風に押されるように脳裏に幾つもの敗北のイメージが駆け巡り、慌ててその死の想像を打ち払う。仮想世界で手に入れた鋭敏な感覚も今だけは欲しくなかった。

 

「どうせだ、もう一つ心残りを解消しておきたい。悪いが聞いてやってくれないか?」

「何だね?」

「闘技場を囲む結界を、どちらかのHPがゼロになり次第解除する、そういう設定にしてほしいんだ。ゲームクリアの喜びは皆で分かちあうもんだろう?」

「キリト君は自信家だな、頼もしいことだ」

「いいや、俺自身を背水の陣に追い込むためだよ。こうやって格好つけておけば絶対達成してやるって気になるんでな」

 

 意識して不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

「その程度の変更はさして手間もかからないため、君の頼みを聞くのは吝かではないが……」

「何か問題でも?」

「キリト君の弔い合戦をされては面倒だ、結界を解除するのは私のHPがゼロになった時にしておこう。私に勝った時は胴上げでも何でも楽しんでくれたまえ、それでいいかね?」

「抜け目ないな、あんた」

「君ほどではないよ」

 

 そんな軽口を叩き合いながらも頭の中ではいかにヒースクリフを出し抜くかの算段が駆け巡る。時間にしてごくわずか、戦意を高めて牙を磨いている内に設定の変更は完了したらしい。サービスはここまでだと言って向かい合うヒースクリフに「手数をかけた」と短く返す。

 時を追うごとにヒースクリフとの間にある空気が緊張に張り詰めていくのがわかる。激突はすぐそこだった。

 

「いいかね、キリト君は私を力ずくで舞台に引きずりだした。ならば全力を尽くして私と戦う義務とてあろう。互いの力が拮抗してこその決闘なのだ、興醒めの未来だけは遠慮願うよ」

 

 その道理の通らない支離滅裂な要求も、この男が世界のルールである以上は拭いががたい真実がそこに含まれてしまう。いかにも魔王らしい傲慢さを見せてくれるものだと感心してしまった。

 

「あんたの無聊を慰めるつもりはさらさらないが、その身勝手な期待には応えてやるよ。――刮目(かつもく)しろ、今日があんたの生み出したアインクラッドの命日だ。《ソードアート・オンライン》の物語は俺が直々に幕を引いてやる」

「良い気迫だ。では、始めるとしよう」

「ああ、決着をつけようぜ、ヒースクリフ」

 

 眼前に出現した決闘申請に躊躇わず指を押し付ける。すると俺とヒースクリフ双方のHPが真っ赤に染まった。ソードスキルをクリーンヒットさせればそこで勝負はつく。そしてこの勝負は決闘ではなく殺し合いだ。――七千人の命運を背負うと決めた時に迷いは捨ててきた。それが彼らを人質として扱った俺の、せめてもの誠意だ。

 なにより、俺の大好きな人達を、愛する人を、無事に現実世界へと還す。そのために俺は剣を執り、この最終決戦を迎えた。あとは最後の仕上げを残すのみだ。

 

 愛刀を鞘から抜き放つ。迸る気迫が昇華されて剣気となり、洗練された闘気はもはや鬼気となって空間を鳴動させていた。抜き放った剣は無機質な刃だというのに、握り締めた先から血管の鼓動が伝わってくるようだ。既に刃は己が身体の一部となっていた。裏切ることのない、絶対の相棒の感触を頼りに、じっとカウントダウンがゼロになるのを待つ。

 そうして、全プレイヤー開放を賭けた最終決戦の火蓋がついに落とされたのだった。

 

 戦闘開始直後、攻撃を先に仕掛けようと地を蹴ったのは俺の方が早かった。けれど、先制に相応しい一撃を繰り出したのは俺ではなくヒースクリフだ。

 ただただ速い。視界に捉えていたはずなのに、気がつけば俺の懐へと入り込まれていた。初速から最高速に入るそれは、ユイを連れて潜った地下迷宮の死神を彷彿させるものだった。

 常識の通用しない加速度に度肝を抜かれ、ヒースクリフの薙いだ剣が抜き胴の形となって俺へと迫る。迎撃も間に合わぬと判断した刹那、咄嗟に踏み出した先の足を強引に沈め、バネを利用して一気に跳躍した。それ以外に回避する術はなかったのだ。

 

 しかしその安堵も束の間、着地した俺を待っていたのは背後から袈裟懸けに斬りつける魔王の一撃だった。体勢も整わぬまま背中を庇うように剣を盾にするが、やはりというべきかそれだけで防げるはずもなかった。背に走る痺れを歯をくいしばることで封殺し、振り向き様に横なぎの刃を振るう。

 牽制目的に放った剣は半ば予想通りに神聖剣の補正を受けた左手の大盾に弾かれ――そこでようやくヒースクリフと向かい合うことが出来た。

 

「これが《オーバーアシスト》かよ、ちと反則すぎやしないか?」

「凌ぎきれなかったとはいえ、反応してみせたのも君だよ。泣き言はポーズにしか聞こえんな」

 

 ポーズのわけあるか、本心だよ。

 繰り出す剣がぶつかりあい、鍔迫り合いの合間に少しでも情報を、隙を得ようと軽口を叩く。できれば《オーバーアシスト》に制限を入れてほしいくらいだった。

 

「そら、君の力はまだまだこんなものじゃないだろう」

「お互い無駄口を叩くくらいには、な!」

 

 突き出された盾をサイドステップでかわし、回避の動作をそのまま反撃へとつなげる。奴の顔面を狙った突きが空気の層を突破しながら鋭い音響を響かせるも、俺の攻撃は完全に見切られているのか、わずかに首を傾げて皮一枚残す回避という末恐ろしい技を披露されるに留まる。気落ちする暇もなく連続で攻撃を繰り返すが、一向にヒースクリフのHPを削ることは出来なかった。

 けれどヒースクリフの反撃は少なからず俺へと届く。致命傷こそぎりぎりで避けているものの、お互いのHPバーを見ればどちらが有利に戦局を進めているのかは一目瞭然だ。互角どころか一方的に嬲られているかのようだった。

 

 先の決闘とは明らかに違う展開を見せていた。攻め込まれているのは俺のほうだ、そして反撃に転じ、主導権を握る隙を見出せない。力ならば拮抗している、けれど速さという一点において俺はヒースクリフについていくのが精一杯だった。

 俺の《加速世界》はあくまで認識の加速とそれに伴う無駄の排除、つまり動きそのものを洗練させることで結果的に速さを増す技だ。けれどヒースクリフの《オーバーアシスト》は、おそらくシステム上プレイヤーに許された限界を越えた速さを魔王にもたらす。

 ユニークスキル使いを複数相手取るためのシステムとはよく言ったものだ、これだけの動きを出来るなら確かに数の不利を覆すことも叶うだろう。

 

 喉から気合の叫びが搾り出される。忙しなく動き回りながら幾度も剣を繰り出し、そのたび完璧ともいえる迎撃に迎えられ、難攻不落という言葉の凄みをひしひしと感じさせられていた。

 純粋な速さ勝負ではヒースクリフには敵わない。ヒースクリフの動きを目で追うことは出来ても肝心の身体がついてこないのだ。俺が微かにヒースクリフをかすめる攻撃を与えるのに成功した時、ヒースクリフは似たような雀の涙ほどのダメージを俺に三度は突きつけてくる。瞬く間に俺のHPは二割を切って一割に突入しようとしていた。

 

 参ったな、ソードスキルを発動させる余裕がない。ここまでは自らの力だけ、通常攻撃だけで戦闘を組み立てていたが、それも限界が近づいている。このままではジリ貧のまま押し切られて俺のHPが吹き飛ばされる。逆転するためにはソードスキルをぶち当てねばならないのだが、お互いに警戒しあっているのだから早々うまくいくはずもなかった。

 生半可なタイミングで繰り出せば必ず防がれ、返す刀で勝敗を決せられてしまう。それはヒースクリフがこの世界のソードスキルを全て知っているから――ではない。技の軌道を知っているだけで防げるほどバーチャル世界は甘くない。

 

 俺とて主要武器のソードスキルなら予備動作や威力も含めて相当の知識を溜め込んでいる。しかしそれでソードスキルを確実に防げるかといえば否だった。目にも止まらぬ高速で動きあう戦闘の最中に相手の予備動作全てを見切れるかといえば無理だし、たとえ出来たところでソードスキルが描く刃の軌道は一定ではないのだ。

 たとえば使い手や受け手の身体の大きさや間合いで同じ技だろうとずれは生じるし、繰り出した先の刃は使い手の技量次第で剣筋をわずかに変更することだって出来る。知識はあくまで知識であり、それを生かすだけの下地がなければ何も意味をなさないのだ。

 

 事実《聖騎士》を相手にした時は、体勢を崩した瞬間を狙ってソードスキルを放つことで俺の攻撃を何割かだけでも通すことが出来た。つまり熟練者同士の戦いでは必殺となるソードスキルを読まれても、簡単に迎撃できないように上手く考えて戦闘を組み立てろ、ということだ。

 けれど、魔王たる男には俺の培ってきた戦術が通じないのだ。ソードスキルは出さないのではなく出せなかった。もう少し拮抗できるかと思ったんだが……。

 

 ――潮時だな、どれだけ技巧を凝らそうとも俺ではヒースクリフに敵わないらしい。

 

 魔王とはここまでの存在なのか、と戦慄と諦観だけが残った。確かにこれでは魔王と戦うためにユニークスキル使いが複数欲しくなる。はっきり言おう、今のまま攻略組が順調に成長してもこの男に勝てるとは思えない。よしんば勝てたとしても、その時の生き残り人数を数えたくなかった。それほど圧倒的なのだ、この男は。

 

 何十合と剣を合わせて、こいつは俺の手には負えないのだとよくわかった。正攻法では俺の剣は通じないと否応なく理解させられたのだ。だからこそ何度目かも忘れた攻防を取りやめ、一気に後方へと飛び退いて距離を置く。

 戦意の衰えた俺の様子にヒースクリフの顔に不審の色が宿る。心底楽しんでいたところに水を差された、そんな顔だな。この男も存外子供のようなところがある。

 

「悔しいがまともにやりあっても勝てないってことがよくわかった。一応聞いておくけど、ここで降参は許してもらえるのか?」

「興醒めはごめんだと言っておいたはずだがね。介錯なら務めさせてもらうよ」

「ったく、冗談の通じない奴だな。心配するな、ここまできて勝負を投げ出すつもりはない。きっちり白黒つけてやる」

 

 怒りではなく決意。あるいは誓いか。闘争に臨む烈火に燃える炎と冷徹に勝機を探る澄んだ水面の心を同居させ、凪いだ面持ちのまま剣の切っ先をヒースクリフへとぴたりと突きつけた。

 俺の意思を叩きつけるように。勝利を望む執念に些かの陰りもないのだと証明するように。

 

「俺から一つ提案をさせてもらう。次の激突を最後にしようぜ、ヒースクリフ。俺は最速の二十七連撃であんたに挑む。そして、あんたはそれを防ぐ。どうだ?」

「二十七連撃……二刀流最上位剣技《ジ・イクリプス》か、確かにアインクラッドにおいて最強の一手に違いない。だが――」

 

 ヒースクリフの双眸がぎらりと光を放ち、威を伴って俺を圧してくる。

 

「キリト君はソードスキルを私に読ませてもなお、力ずくで神聖剣を食い破ってみせる。そしてそれが出来るのだと言うのだな」

「もちろんだ、俺の挑戦を受けてくれるのならば必ずあんたの防御を抜いてみせるさ」

 

 睨み合うように視線が交錯し、幾ばくかの時間が過ぎていく。ヒースクリフの目は俺の胸の内を悉く推し量り、暴こうとするかのように強い。その圧迫感を冷や汗の出る思いでやり過ごし、静かにヒースクリフが口を開くのを待った。

 

「そうか、君はソードスキルを加速させる妙なるシステム外スキルの使い手でもあったな」

「俺に残った最後の勝機だよ、俺の剣は必ずあんたの想像の上をいく。……俺の繰り出す二十七の連撃の内、一太刀でも入れれば俺の勝ちだ。わかりやすくていいだろう?」

「確かにシンプルな決着のつけ方だ。ジ・イクリプスが一太刀でも私に届けばキリト君の勝ち。逆に全て防ぎきれば技後硬直に囚われる君に私の剣を避ける術はない、勝負ありだ。しかし、私がその提案を素直に受けると思うのかね?」

 

 言外にこのまま続ければ勝つのは自分だと言っていた。それを否定するつもりはないよ。そして俺はそれを認めた上であがいてるんだ、恥じる気もない。

 

「この期に及んでつまらない揺さぶりをかけるなよ。わざわざあんた好みの展開にしてやるって言ってるんだぜ? もちろんこのまま何ら盛り上がりもなく、淡々と俺のHPバーを吹き飛ばせば満足だってんならそれでもいいさ。負けるのが怖ければこのまま俺を押し切ることをお勧めする」

「ふふ、安い挑発をしてくれる」

 

 ああ、その通りだな、あからさまなほど幼稚な誘いだ。けれどあんたは受けるはずだ、その笑み崩れた顔がその証拠だった。

 

「しかし面白い、君の挑発は心躍る挑戦状でもある。よかろう、魔王として君の全力に応えようではないか」

「ありがたい。感謝の証としてあんたに敗北の味を教えてやるよ」

「やれるものならば、な」

 

 そうだろう、あんたなら俺の提案を受ける。いや、あんただからこそ受けざるをえないはずだ。それがヒースクリフの強みであり、同時に弱点でもあるのだから。

 ヒースクリフは魔王であるがために、何者をも平伏させる絶対の力を振るうことができる。そして魔王であるがために、魔王の持つ物語上の役割に縛られねばならないのだ。それがヒースクリフの越えてはならない一線であり、俺がヒースクリフに求めたゲームマスターとしての矜持だった。

 何故ならその制限をなくした時、魔王はただの暴君と化すからだ。アインクラッドもゲームでもなんでもない蹂躙劇の舞台に堕してしまう。故にこそヒースクリフは役割(ロール)を外れない、外れる事ができない。

 正攻法では敵わない俺が魔王を相手に勝利の糸口を見出すとすれば、もはやそこにしか残されていなかった。

 

 それでも、いいや、それだからこそか。腹を括れと言い聞かせる。

 今こそかつてないほどに決死の覚悟で臨まなければならないだろう、それほどの苦境だった。俺は奴に力も速さも及ばない。技術もヒースクリフのほうが上だ。知識、経験、共に敵うものはない。

 それでもなお俺が奴に勝っているものがあるとすれば――それは勝利への執念だけだ。

 

 すぅっと調息を開始し、丹田に力を込めて集中力を高めていく。脳裏に鮮やかに浮かぶのは剣の日々だ。

 幾千の剣戟を切り結んできた。幾万の剣閃を紡いできた。火花散る白刃の戦場を死に物狂いで生き延びてきたのは、今この瞬間を迎えるためだったのだと、柄にもなく運命を感じていた。

 

「いくぞ、ヒースクリフ」

 

 はたしてつぶやきが先だったのか、剣撃が先だったのか。俺は一歩も動いていない。剣の先を向けたのは足元――砂地の地面オブジェクトだった。環境エフェクトによって砂煙が舞い、煙幕となって俺の身体を覆い隠していく。

 

「慎重だな、キリト君」

「馬鹿正直にソードスキルを振るうだけじゃあんたには届かないだろう? それとも、卑怯とでも言ってみるか?」

 

 少しでも仕掛けのタイミングをごまかせればそれで良い。こんな小手先の技に劇的な効果までは期待していないのだから。

 

「いいや、そのがむしゃらさは嫌いではないよ。――お互い、悔いのない戦いにしよう」

「……それだけ聞いてると、どっちが悪役かわかったもんじゃないな」

 

 今この場でスポーツマンシップに溢れているのは間違いなくヒースクリフだった。正面から食い破るのだと言わんばかりの超然とした佇まいだ。けれどそれもすぐに砂煙に隠れて影となる。頃合だ。

 予備動作を開始し、剣から燐光が迸る。その光は砂のカーテンが遮っていようとも間違いなくヒースクリフの元まで届いているだろう。このソードスキルの特性は奇襲や隠密とはかけ離れたものだ、正面決戦万歳である。

 一拍。二拍。三拍。心臓が刻む鼓動をゆっくりと噛み締めながら、心を細く鋭く尖らせていく。今ならばあの75層の時のように、最高の心理状態に入れそうだ。

 

 ――システム外スキル《加速世界》。

 

 緩やかに流れる時の歩みの中、最速の剣を実現せんと身体から、心から、魂の奥底からエネルギーを引っ張り出す。これで最後だ、ありったけをこの瞬間にぶつけろ。そう言い聞かせて力強く地を蹴った。

 粉塵を纏い、暴風を引きつれ、剣から零れる儚い光の粒子を撒き散らしながら魔王へと肉薄する。一歩、一歩、さらに一歩。ついに魔王の間合いへと到達した。

 

 一太刀目を、全力で。

 二太刀目も、力の限り。

 三の太刀、四の太刀、五の太刀。止むことのない閃光は魔王の構える十字盾に阻まれるたび、雷鳴のような轟音を響かせる。鳴り響く金属音すら置き去りに、疾風迅雷はますます加速する。加速して、加速して、加速し続ける。

 

 もっとだ、もっと速く。それはさながら風雷のように。

 もっとだ、もっと強く。それはさながら業火のように。

 鬼が必要ならば今こそこの身に鬼神を宿す時だった。荒れて荒れて荒れ狂えと猛って吼えた。勝利を掴めと裂帛を叩き付けた。システムに許された限界の速さに達せよと、システムを超えた未知に辿り着けと、ただただ剣の切っ先を魔王へと向けていた。

 

 その火花散る攻防は、しかしヒースクリフに傾いた天秤を再度傾けようとはしない。俺の剣尖の悉くが弾き返されてしまう。十を超えて二十を数えてもその単調な勝敗の行方が変わることはなく。速さが足りないとなお先を求めてもヒースクリフの立つ頂は未だ遠い。

 二十三、二十四、二十五、防がれる。そこで今だ、と勝負をかけた二十六撃目を繰り出した。ヒースクリフの盾が素早く俺の剣の軌道上へと振り向けられ、その瞬間刃の軌道をわずかにずらす。

 ここまでの全てが見せ札だ、必殺の気配を纏わせた二十五の刃はそのほとんどをヒースクリフの右手側――盾から遠い箇所を集中的に狙った。しかし俺の狙いは初めからヒースクリフの十字盾だ、その鉄壁の防御の要を打ち砕くためだけに二十五の剣撃を囮に使った。

 

 ほんのわずか、力の矛先をずらして剣と盾の衝突を俺の下に制御した。盾を横合いから殴りつけるためだけに全力を注いだ一撃は思惑通りに仕事を果たし、ヒースクリフは盾に加えられた衝撃に逆らえなかった。左腕を外へ外へと流されたことで身体が大きく開く。

 千載一遇の好機だ。そのこじ開けた隙間を狙い打つように、引き絞られたダークリパルサーによって二十七撃目の刃――鋭利な刺突が繰り出される。

 

 その時、確かにヒースクリフの口元が綻んだ。賞賛だったのか、それとも嘲笑だったのかは知らない。けれど――。

 ヒースクリフの体勢は崩れ、迎撃もできない。それほどの完璧な一撃だった。およそどのような可能性を探ったところで回避不可能な、絶対の一撃だった筈だ。だからこそ、それだけの自信があった二十七撃目に劇的な反応を見せたヒースクリフの盾が間に合った事実は、もはや悪夢でしかない。

 それは超反応と呼ぶことすらおこがましいものだった。あれは違う、断じて違う。《オーバーアシスト》に対する認識が根本的に間違っていたのだとようやく気づいた。《オーバーアシスト》とはベクトルを反転させることすら可能にしてしまう、慣性制御を実現した技術なのだと。

 なんて反則……ッ!

 

 だが、今更気づいたところでもはやどうにもならない。引き戻された絶対防壁の前にダークリパルサーが衝突し、一瞬甲高い音を立てて硝子のように砕けて散った。神聖剣があれば盾でも武器破壊を成立させられるのだなと、どこか遠い感慨を持ちながら現実を受け入れる。これで俺の繰り出す二十七の刃はおしまいだ。俺の剣は届かなかった。

 

「さらばだ、キリト君」

 

 リズの打ってくれた剣の砕け散った残滓がきらきらと幻想的に舞う。光の粒子が最後の輝きだとばかりに俺の周囲で煌いていた。

 俯き気味に動きを止めた俺に、ヒースクリフの別れの言葉が降り注ぐ。ヒースクリフの剣にはソードスキルの紅いライトエフェクト。鮮やかな血の色は確かに最期を彩るのに相応しく思えて――。

 

 ――この時を待っていたぜ、ヒースクリフ。

 

 きっと俺は哂っていたのだろう。俯いた(かんばせ)に悪役の笑みを貼り付け、一日千秋の思いで待ちわびた黄金の一瞬を歓喜と共に迎え入れた。

 信じていたんだ、信じていたんだよ。あんたなら俺の攻撃全てを防ぎきってくれると、きっとこの場の誰よりも俺こそが信じていた。

 右肩に振りかぶった剣が水色の輝きに染まる。それは疑いの余地なくソードスキルの輝きだった。本来なら技後硬直で動けないはずの俺が反撃に転じたことにヒースクリフは愕然とした顔を隠せない。その唇を「馬鹿な」と小さく震わせた。

 

「幻の二十八撃目だ。とくと馳走してやるよ、ヒースクリフ……ッ!」

 

 そうしてヒースクリフのクリムゾンを灯す太刀と俺の淡いブルーを灯した太刀が、鏡合わせのように袈裟懸けに振り下ろされ、二人同時にHPをゼロまで追い込んだのだった――。

 

 

 

 

 

 手品の種は至極単純なものだ。

 

「偽りのジ・イクリプスは、本物よりも本物らしかっただろう? 数あるソードスキル、その全容を知っていることが仇になったな」

 

 俺は最後の攻防で《ジ・イクリプス》を放っていない、それが全てだ。

 まずはソードスキルを発動させ、すぐさまキャンセル。この一連の動作を見破られないよう煙幕を発生させ、スキルキャンセルに伴う細かな動きと技後硬直時間をごまかした。そしてシステムアシストを一切用いず、《ジ・イクリプス》の基本動作を正確になぞりあげることで誤認を誘ったのである。

 

 ソードスキルを使っていないのだから技後硬直が訪れるはずもない、といいたいところだが、実は二十七撃目の突きはソードスキルを発動させていた。初期剣技だったから硬直も無視できるレベルだったけど。

 二十七撃目で決まっていればよし。よしんば防がれた時も二十八撃目を間に合わせることで最悪相討ちに持ち込む。それが俺の策だった。ちなみにヒースクリフに致命傷を与えた袈裟懸けの一撃は、二年前のチュートリアルで茅場のアバターをぶった斬った初期剣技《スラント》である。なかなか皮肉がきいているだろう?

 

 このゲームの上限レベルが幾つなのかは知らないが、百層という階層の数と今までのゲーム難易度を踏まえるに、《賢者の才》で鍛え上げたレベル、その上で瀕死状態に陥り、《薄氷の舞踏》によってブーストされきった俺の能力値は数値限界――いわゆるレベル上限(カンスト)に迫るものだったはずだ。その数値を最大限生かせばシステムアシスト抜きで最速の《ジ・イクリプス》を模倣することは可能だった。

 

 奴を打倒するに当たって最大の問題は、ソードスキルを発動する際に不可避であるライトエフェクトの有無を誤魔化せるかどうか、通常攻撃とソードスキルの速さと重さの違いをどれだけ埋められるかだった。そのために幾つかの小技は弄したが、所詮は小細工だ。

 最も重要だったことはこの世界を、ソードスキルを知り尽くしているからこその陥穽(かんせい)にヒースクリフを落としこむことだ。最終決戦に相応しい決着作法の雰囲気に酔わせること、それが何よりの肝だったのである。その認識こそが奴の目を曇らせた最大の要因だ。

 

 リズの剣が折れたことは計算違いだったけど。神聖剣は盾ですら《武器破壊》を可能にするとか、さすがに予想外だ。

 しかしそんなアクシデントですら演出の一部になった。意気消沈して打ちひしがれて見せた俺のアドリブは中々真に迫ってただろう? リズが俺に託してくれたのは剣そのものじゃないんだ、刃が折られたとて俺が自失する理由はなかった。

 

 スキルは使いこなしてこそスキル。俺は俺に出来る全てを駆使し、魔王相手に《正面からの騙まし討ち》を成立させた。ヒースクリフの油断を引きずり出すために命すら見せ札として扱ったのだ、俺の16年そこそこの人生でこれほど緊張したことはない。こんなギリギリの綱渡りはもうたくさんだ。

 ヒースクリフをペテンに嵌めきれないようなら、あとは出たとこ勝負しか残されていなかった。リズの剣が折られていた以上、俺の敗北は覆せなかっただろう。まさに紙一重の結果だ。

 

「よもや相討ちに持ち込まれるとは思わなかった。すばらしい戦いを感謝するよ」

「ちょっと待てよ、褒めるのはまだ早いと思うぜ?」

 

 終幕を迎える前にもう一つ演目を加えさせてもらう。ただし踊るのはあんたじゃない。

 

「どういうことかな?」

「残念ながらあんたは引き分けてすらいないってことさ。この決闘は俺の勝ちだ、ヒースクリフ」

 

 にぃっと唇を持ち上げて満面の笑みで応える。今ならば勝利の美酒に酔いしれることが出来るだろう。訝しげに目を細め、未だ事態を把握できていないヒースクリフの姿が痛快極まりなかった。

 切り札は最後まで残しておくものだぜ? そして鬼札(ジョーカー)の持ち主は必ずしも俺である必要はない。いいや、むしろそのカードを配るのは俺以外でなくてはいけなかった。

 そう、この最終決戦は相討ちに持ち込めれば俺達の勝利なのだ!

 

「クライン!」

「応よ!」

 

 俺の呼びかけに応える声もまた弾んだものだった。勝利の確信を得た響きが心地良い。

 エンディングを飾るための最後のピースも既に揃っている。俺達と観客を隔てるシステム障壁は決着と共に消えていたのだ――決戦の前に心残りと称して通した俺の要望通りに。

 

「まさか……!?」

 

 事ここに至ってヒースクリフも気づいたのだろう。この男がここまで目を見開くことなんて早々ないはずだ、ざまあみやがれ。

 俺達に駆け寄るクラインが手にしているのは七色に輝く美しい宝玉だった。かつてクラインら風林火山が、死んでいった仲間のために命懸けで手に入れたこの世界に一つしかない秘宝にして、唯一の蘇生アイテム。十秒間のみの奇跡を可能とするアイテムの名は、《還魂(かんこん)聖晶石(せいしょうせき)》。

 

 ――これが俺の伏せていた最後の隠し札だ。

 

 先日クラインの下を訪ねた時、俺はヒースクリフが茅場晶彦の疑いがあるとは口にしていない。ヒースクリフとの決闘では少し無茶をするかもしれない、万一の時は頼むと、それだけを伝えておいた。その願いに対する条件は、『対価として現実世界でメシを奢ること』。

 

「見事だ、それ以外に賞賛の言葉が浮かばない。キリト君こそが《魔王》ヒースクリフを打倒した者、《ソードアート・オンライン》をクリアした勇者だ」

 

 ヒースクリフは俺に穏やかな笑みを向ける事で全ての答えとした。それはどこまでも満足げで、思い残すことなど何もない満ち足りた男の顔だった。

 徐々に景色に溶け込むように存在を薄くしていくヒースクリフに何も返さず、無言で見送る。消え行く怨敵に贈るべき言葉もあったのかもしれないが、今はこの胸を一杯に満たす達成感にただただ浸っていたかった。

 

 意識が遠のくにつれ、俺の身体も幽鬼のようにあやふやなものに変じていく。だが、不安など何一つとてない。俺の意識が奈落に沈む前に引き上げてくれる手が、確かにそこまで近づいているのだから。

 お前は最高の親友だよ、クライン。向こうの世界に戻ったら約束通り何でも好きなものを奢ってやる。ただし学生の俺が奢れるもの限定だぜ? RMT(リアルマネートレード)になる事は黙っててやるから、それくらいの譲歩はしてくれよ。

 

「蘇生――キリト!」

 

 そうして俺の意識が完全に途切れる直前、確かにクラインの叫び声を聞いた気がした。

 

 




 これにてタイトル回収完了です。《ソードアート・キリトライン》=《ソードアート》+《キリト》+《クライン》でした。安直な命名ですが、原題の《オンライン》部分が隠れ蓑になるため最終決戦の結末を暗示させることもなかったと思います。
 長く続いた剣の物語も終わり、残すはエピローグのみ。次回が最終話となりますので、あと少しだけお付き合いください。

 それでは軽く補足を。
 全十種のユニークスキルは対魔王を想定したスキルだからこそのオーバースペック、加えてバランスブレイカーの《オーバーアシスト》はユニークスキル使い複数を同時に相手取るための魔王専用スキルと位置づけており、これは拙作独自の設定となります。

 また、スキルキャンセル時の残照の有無や発光時間、通常攻撃とソードスキルにおける一撃の速さや重さの違い等、原作では詳細を明らかにしておりません。通常攻撃をソードスキルに見せかけるフェイクが成立するかは定かでなく、原作の記述やアニメの映像を踏まえた独自解釈、独自設定である旨、改めて明記しておきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 黒い王子様

 

 

 魔王ヒースクリフと相打つことでHPがゼロとなり、暗転した俺の意識が戻ったのは数秒の後だったらしい。

 クラインの話だと俺の身体がポリゴン片と化した直後、還魂の聖晶石の効果によって仮想体が再構成された時には俺の意識は失われており、立ったまま寝ているような状態だったという。よく平衡感覚維持してられたものだと思う。そんな俺をクラインがおっかなびっくり揺り起こそうとしたところで目が覚めた、という寸法らしかった。

 改めて周囲を見渡し、溜息を一つ。隣に立つバンダナ男もどこか居心地悪そうな様子で身じろぎを一つ。この広い闘技場の中央に男二人がぽつんと立ちつくし、何をするでもなく何千という大観衆に囲まれているのだから居心地が悪い。

 

「なあキリの字よ。これ、どうする?」

「そう言われてもな、俺にどうしろってんだよ?」

 

 コロシアムはその身に内包する熱気とは裏腹に、奇妙な静けさの中にあった。ゲームクリアは果たしたのだからもう俺たちの事は放っておいて騒いでもらって構わないのだが、この場に集う全てのプレイヤーの視線は俺達に集約されていた。……訂正しよう、そのほぼ全ての目が他ならぬ俺へと向けられていた。まるで何かを期待するかのように。

 

「あー、そのだな、胴上げされたいなら俺が音頭を取ってやるぞ?」

「冗談は止めてくれ」

「冗談に出来りゃいいんだがなあ、ゲームクリアの立役者はお前さんなんだぜ? ここでおめえが何がしか行動しないことにゃ、このわけのわからん状況も終わらんだろうよ。ほれ、胴上げが嫌なら演説の一つでも決めてこい。ビシッとな」

 

 俺がそういうの苦手なの知ってるだろ、と小声で文句を言えば、「おめえの苦手は信用ならねえんだよ、つべこべ言ってねえで腹括れ」と呆れたように言い返された。へいへいと投げ遣りに頷く。余興とでも思えばいいか。

 

「失敗してもフォローは入れてやっから心配すんなー」

「心温まる声援をありがとよ」

 

 そんな軽口を交わす俺達をよそに、見渡す限りの大観衆はいっそ清清しいほど沈黙を続けていた。お前たちはこれから敬虔な祈りを捧げようとしている神官なのかと突っ込みたくなるほどである。

 常々不思議に思うのだが、彼らのこの一糸乱れぬノリの良さは何なのだろう? 何というか自然体でロールプレイを楽しむ鷹揚さを身に着けているような、そんな気がしてくる。アインクラッドに囚われたプレイヤーの大半は重度のゲーマーであるし、元々そういったゲーム世界への適応というか、世界観への親和性とでも言うべき《空気に酔うスキル》が高いのかもしれない。

 そうして一頻り観客席を眺め、覚悟を決める。すぅーっとゆっくり息を吸い込み、「皆、そのまま聞いてくれ」と声を張り上げた。

 

「今日この日を以って俺達の戦いは終わりを告げた」

 

 朗々と語る台詞に万感を乗せて。これがアインクラッドに終焉をもたらす一太刀を放った俺――《黒の剣士》に課せられた最後の仕事だと言い聞かせながら。

 

「2022年11月6日、脱出不可能の牢獄に捕らえられた俺達一万人のプレイヤーは、命を懸けたデスゲームの攻略を強制されてしまった。誰にとっても長く苦しい虜囚の日々であっただろう。それでも俺達は常軌を逸したゲームマスターの暴虐に立ち向かい、2024年10月8日、ついにグランドボスたる《魔王》を打倒せしめたのである。無限の蒼穹に浮かぶ鉄と石の城――アインクラッドはここに落日の時を刻むに至った」

 

 一年と十一ヶ月に及ぶ長い長い戦いの日々が脳裏を過ぎる。終わってしまえば『長かったようで短かった二年』になるのかもしれない。今はほろ苦く思い出すことしか出来ない数々の痛みの記憶も、十年後は今とは違う気持ちで思い出すこともあるのだろう。

 

「今日という日を迎えるまで共に戦ってくれた剣の(ともがら)に、そしてゲームクリアを諦めず長きに渡って生き抜いてくれた全てのプレイヤーに感謝を。俺達の先駆となって道を切り拓き、武運拙く戦場の露と消えた数多の勇者に、ゲームクリアの礎となった彼らの尊き挺身に感謝を。俺達の進む道に光を灯して散っていった英雄に、全霊の敬意を捧げよう……!」

 

 三千に迫る死者の数。友人を、恋人を失った者とているだろう。犠牲は大きかった、それは決して否定できない。それでも今だけは悲しみを忘れ、喜びに沈もう。傍らの友と無事を確かめ合ってくれ。

 

「俺達は戦友だ。形は違えど二年の歳月を戦の日々に費やし、皆が降りかかる理不尽に抗い戦った。その労苦と努力の結実が茅場晶彦に勝利する未来を勝ち得たのだ。……皆、胸を張ってほしい。俺達は戦った。戦い抜いた。ならば誰に恥じ入ることも、誰に憚ることもない。どうか笑って現実世界に帰ってほしい」

 

 誰もそれを咎めたりしない。

 しん、と静まり返る幾ばくかの沈黙を挟み、締めの言霊を力強く口にする。

 

「――今ここに、《黒の剣士》が《解放の日》を宣言する!」

 

 わっと歓声が爆発した。

 響き渡る数多の声。喜色にまみれたプレイヤーの顔が並び、彼らの感情全てがうねりをあげて闘技場の端から端まで満たしていた。拳を振り上げ、勝利の凱歌に咽び泣く者。隣に立つ者と抱きあい、歓喜の叫びをあげる者。解放の訪れを噛み締めるように上空高くを見上げ、無言で涙を零す者。熱狂は加速しそこかしこで喧騒が膨れ上がっていく。

 

 そんな中、熱気に押し出されるように観客席から闘技場へと飛び降りてくるプレイヤーも多数認められた。真っ先にアスナが、続いてエギルが、ディアベルがシュミットがゴドフリーが。気づけば攻略組だけでなく、サチやリズ、シリカにピナの姿もある。

 それだけじゃない、ケイタを先頭に月夜の黒猫団の全員が満面の笑みで駆けつけ、グリムロックにカインズやヨルコといった元黄金林檎のメンバーもいる。俺を中心にした輪を形成している中にはシンカーとユリエールさん、少し離れてサーシャさんと子供たち、遠巻きにニシダさんの顔も見えた。一瞬目が合った時に目礼を交わすと、破顔して深く一礼されてしまう。ニシダさんから伝わってくる感謝の気持ちが嬉しかった。

 

 俺は彼らから素直に感謝を口にされたり、魔王へと一人で挑んだ無茶を理由に軽く小突かれたり、時々握手を求められたりしながら最後の時間を過ごしていた。皆の笑顔に囲まれて、よかった、と素直に思うことが出来たのだ。……本当によかったと、改めて安堵と達成感が込み上げてくる。

 皆が皆喜びに溢れ、正しくお祭り騒ぎのような熱狂に沸き立っていた。それぞれがそれぞれの方法で笑い、泣き、アインクラッドで過ごす残りわずかな時間を謳歌しているようだ。……そう、残りわずかな時間だ。コロシアムが興奮の坩堝に晒されまがらもゲームクリアのシークエンスは着々と進んでいたようで、一人、また一人と光に包まれてログアウトしていく。

 

 個人差でもあるのか、ログアウトは一律ではなく順番に訪れているようだ。幾十人かずつアバターが転移時とは似て非なる幻想の美しさと共に消えていく。そこに悲しみはない。なぜなら、彼らの、そして俺達の行き先はあの世ではなく現実世界に他ならないのだから。

 冷めることない熱狂の渦に混じり、無機質な機械音声で『ゲームクリアはなされました――ゲームはクリアされました――ゲームは……』と繰り返しメッセージが流れてきているのだが、はたしてどれだけのプレイヤーが聞き取れていることだか。まあそれもいいだろうさ、と微かに唇を笑みの形に刻む。流れ行くアナウンスなど所詮は形式でしかなかった。

 

 やがて熱気に満ちた喧騒も遠ざかり、十にも満たない少数のプレイヤーだけが闘技場の中央に残された。それはまるで祭りの後の寂寥を抱かせるもので、残っているのは俺とクライン、エギルの男三人。それにサチ、アスナ、リズ、シリカの女四人だけだった。どうやらログアウトのタイミングは、ごく一部の思惑によってある程度制御されているらしかった。

 このあまりといえばあまりに恣意的なメンバーの選出――《黒の剣士》に近しいプレイヤーの集合という心憎い演出を前にして、黒幕を悟った皆の間で何とも言えぬ空気が漂い、誰からともなく苦笑を交し合う。とどのつまり気にしない、という結論でまとまるしかなかったのは致し方あるまい。

 

「湿っぽい別れはごめんだし、最後に一つだけ伝えておくとするか」

 

 そう言って口火を切ったのは、巨漢の斧使い兼雑貨屋のエギルだった。

 

「俺はあっちの世界じゃ《Dicy Cafe》って看板で喫茶店を経営していてな。場所は東京都の台東区御徒(おかち)町ってとこにある。ああ、店は今でも健在のはずだぞ、俺の連れ合いはよく出来た女なんでな」

 

 しれっとのろけるエギルに、ああ、やっぱお前既婚者だったのかとしみじみ納得する俺だった。そりゃあれだけ渋い大人っぷりを発揮していたくらいだ、所帯を持った大黒柱だと言われた方がしっくりくる。今も店は健在のはずだと自信たっぷりに話すエギルのそれが、本心からのものなのかは定かでなかったが、ここで問い返すのはあまりにつまらないことだと自重し、口をつぐんだ。

 クラインは「裏切りものー」などと茶々を入れていたけどな。やっぱりこういう時はこいつがいると場が和む。そんな風に感心している俺と同意見だったのか、エギルも得意気な顔で胸を張ってからかいに応えていた。

 

「喫茶店って言ってもバーと兼用のちと古臭い建物なんだがな。趣深さと癒し重視のコンセプトで、ゆったりした時間を味わいたい人間ご用達って感じだ。お前らにも気に入ってもらえると思うぜ?」

「お、そんじゃこっちもいけるのか?」

「お前さんにも最初の一杯くらいはサービスしてやるよ。愚痴りたくなった時は顔を見せにこい」

 

 くいっと嬉しそうに酒を煽る真似をするクラインに、苦笑を浮かべながらスマートに再会の約束を交わしたエギルは、「ここからが本題だ」と一つの提案を口にしたのだった。

 

「折角この世界で育んだ縁なんだ、ここでお別れじゃ味気ないだろう? うちの店は《ダイシーカフェ》で調べりゃすぐ所在地も電話番号も知れるようにしておく。落ち着いた頃に一報入れてくれ、向こうに戻ってからもお前らの連絡を取次ぐくらいはしてやるからよ。出来ればうちの売り上げにも貢献してほしいがな」

 

 そこでにやっと笑い――。

 

「いつになるかはわからねえが、ここにいるメンバーを中心にオフ会と洒落込もうじゃねえか。うちは学生の財布にも優しいリーズナブルな料理が売りなんだぜ?」

 

 最後に茶目っ気たっぷりな台詞で、商人根性をちらつかせながら親指を立ててみせるエギルに皆が瞳を輝かせた。ネットゲーム初心者のアスナがおずおずとオフ会の意味をリズに尋ねているのが実に微笑ましい。

 俺やクラインのみならず、サチ達もエギルの案に乗り気なようだし、案外現実世界での再会も早い時期に実現するかもしれないな。

 

「よっし、そんじゃあ次は俺様の番だな! 思えば二年前、俺とキリの字が出会った時は――」

「あ、何か時間切れっぽいぞ、クライン?」

「なんだとぉ!?」

 

 いや、だってお前のアバターが光り始めてるし。最後まで締まらないというか、優秀なオチ担当だったな、お前。

 ふむ、もしかして長話を始めようとしたせいで、茅場に『はい、カット』ってな具合に省略されちまったんじゃないか、と冗談交じりの思考が浮かび上がった。もっともエギルにも同時にタイムアップが来ていたようなので、クラインが茅場に嫌われているということもないだろう。……多分。

 

「ちっきしょう、どうなってやがんだよこれ」

「くく。諦めろ、クライン」

 

 低く笑いながらクラインを宥めるエギルは、次いで俺達へと目を向け、口を開いた。

 

「じゃあな、キリト。それにお嬢さん方も。向こうで顔を合わせられる時を楽しみにしてるぜ」

「俺も楽しみだよ。またな、エギル」

「……あー、もう! しゃあねえ、昔話は再会してからだ。おいキリト、向こうに戻っても俺にメシを奢る約束忘れんなよ。俺はお前との縁を腐れ縁にするつもりなんだからな、覚悟しとけ」

「お前も息災でな、クライン」

 

 エギルとクラインは二人とも優しげな目を俺達に向けたまま、笑みを浮かべて光の向こうに姿を消していった。あとは無事に現実世界で目覚めてもらうだけだ。……本当、お前らには迷惑をかけ通しだったな、すまなかった。それとありがとう。腐れ縁か、本当にそうなるといいな……。

 

「あんた達ってさ、あたしら女が入っていけない世界作っちゃってるわよね。えっと、男同士の友情ってやつ? なーんかずるい気がする」

 

 感謝と寂寥の余韻に浸っていた俺の様子を見計らい、真っ先に声をかけてきたのはリズだった。

 

「ずるいってお前なぁ……。普通、同性で馬鹿やってるほうが気楽なもんだろ?」

「まあ男ってそんなもんだとは聞くけどさ、乙女心としちゃ複雑なのよ」

「そんなもんか?」

「そんなもんよ」

 

 そんな軽口を叩きあい、場に和やかな空気が流れ――。

 

「ピナ……ッ!」

 

 シリカの叫び声にすぐさま引き締められる。

 弾かれたように全員の視線がシリカとピナに吸い寄せられる。水色の毛並みを持つ小さな竜はどこか物悲しそうに喉を震わせながら、その身体を光の粒子に変換させ始めていた。

 プレイヤーに起こるその輝きはログアウトの兆候だ。しかしこの世界由来の生物(データ)であるピナの還る場所は……。

 

「いやだ、いっちゃやだ! ねぇ、ピナ、ピナもあたしと一緒に帰ろう。ね?」

 

 それは慟哭だった。昔、ピナがモンスターの攻撃からシリカを庇い、その身を儚く散らした折にシリカが見せた深い悲しみが脳裏に蘇る。家族を失った事実に呆然とへたり込んでいた彼女は、今再び別れに直面していた。

 すすり泣くシリカの嘆きは空しく虚空に溶けていく。胸に抱えた使い魔をぎゅっと抱きしめ、必死にピナに呼びかけるシリカだったが、残念ながらその願いは通じそうにない。ピナは困ったように鳴き声を漏らすだけで、その身を無に還す幻想の輝きが止む気配はなかった。

 

「……シリカ」

「キリトさん! ピナを、ピナを助けてあげて! お願い……お願いします……!」

 

 シリカもそれが出来ないことはわかってるはずだ。……わかっていてもそう懇願するしかできない少女に、俺は何もしてあげられなかった。データの保全という前例を知るアスナが気遣わしげに俺を見るが、それは無理だと無言で首を振る。あれは幾重もの奇跡を積み重ねた例外中の例外だ、ここでピナのデータを保護することは不可能だった。

 俺の無慈悲な否定が止めを刺してしまったのか、シリカの大きな眼から止め処なく涙が溢れ、頬を伝っていった。どうにもできない。俺も、アスナも、サチも、リズも、押し黙ったままシリカに痛ましげな視線を向けていた。――と、そんな時、シリカの腕の中からピナが抜け出し、翼を広げてパタパタと高度をあげていく。

 

「ピナ?」

「きゅくるー」

 

 ぺろり、と。ピナは切なそうに一声鳴くと、そのまま涙を拭うようにシリカの目元を一舐めしてみせたのだった。俺にはピナがシリカに『泣かないで』と訴えかけているように見えた。ピナが自身の心を必死に伝えようとしているのだ、と。

 ピナの最後の奉公は、きっとアルゴリズムに規定されていない動作パターンであり、ビーストテイマーと使い魔モンスターの親密な絆の賜物なのだろう。真偽はわからない。でも、それで良い。それが正解なのだと思えるだけの光景だった。そこにあったのは小さな竜とその主が目線の高さを同じくして見詰め合う、可愛らしくも厳粛な一時だったから。

 

「……そうだね、あたしがいつまでも泣いてちゃピナも安心して眠れないよね」

 

 ぐい、と涙を拭い、悲しみを無理やり追い出すようにぎこちなく、けれどしっかりとシリカは笑ってみせた。

 

「ピナ、あなたに出会えてよかった。本当に……本当によかった。今日まで一緒に戦ってくれてありがと。あたしと一緒にいてくれてありがと。――さよなら、ピナ」

 

 別れの言葉を告げ、ピナの鼻先に親愛の篭もった接吻を落とす。光の中に消えていくピナからシリカは一瞬たりとも目を離すことはなく、最後まで笑顔を浮かべて見送った。避けえない別離の時を恙無く済ませたその儀式は、まるで完成された一枚の絵画のようだった。見ている者の胸を切なく締めつける、そんな一幕だったのである。

 シリカは俺に向きあうと少しだけ涙の残る目尻を指で一撫でし、ぺこりとお辞儀した。

 

「取り乱してごめんなさい、キリトさん。それからゲームクリア、おめでとうございます。あたし達をこの世界から解放してくださって、本当にありがとうございます」

 

 ピナのことは寂しいけれど、と切なそうに笑って。

 それでもシリカは気丈に言葉を続けた。

 

「キリトさんが仰った通り、あたしも胸を張って帰ります」

「ああ。そうしてくれると俺も嬉しい」

 

 シリカのアバターにログアウトの兆候が現れたのはそんな時だった。自身の身体を一瞥したシリカが「もう少しお話ししたかったです」と子供っぽく唇を尖らせる。そんなシリカの可愛らしい我侭に皆が和やかに笑い声をあげた。

 

「キリトさん、最後まであたしの頭を撫でていてくれませんか?」

「喜んで」

 

 短く快諾した俺に向けられる、シリカの蕩けるがごとく無防備な笑みに自然と相好を崩してしまう。

 

「えへへ、キリトさんの手、あったかい。……キリトさん、絶対にまた会いましょうね。あたし、キリトさんとこれでお別れなんて嫌ですから!」

「もちろん。いつか話した俺の妹も紹介するよ。仲良くしてやってくれ」

「はい、楽しみにしてます。それからあたしもキリトさんに猫のピナを紹介しますね。いつかぽかぽかお日様の下で、キリトさんとあたしとピナでお昼寝しましょう!」

 

 夢だったんです、と口にするシリカはやっぱり可愛らしかった。

 

「シリカがそれでいいなら、うん、約束だ」

「はい!」

 

 嬉しそうに答えるシリカ。そこで彼女のアバターはついにログアウトを完了させた。

 ピクニックのお誘いとは気が早いと思ったものの、戯れにその絵図を想像してみるとなかなかに魅力的である。いつのまにやらデートの言質を取られていたのは、やっぱり《鼠》の影響かな? 純真さの中にそこはかとなく強かさが感じ取れた。それも可愛いものだと苦笑一つで流せる程度だけど。

 

「シリカってばハードル上げてってくれたわねえ。あの別れの後っていうのはちょっときつくない?」

 

 そんな風に愚痴を零すリズの目尻にも涙が浮かんでいたことは指摘せずにおこう、これも武士の情けだ。俺は武士じゃないけど。

 

「別に対抗しなくていいだろ」

「ま、そうなんだけどさ」

 

 シリカとピナの別れみたいのは一度だけで十分だよ。シリカが強い娘だったから良かったものの、あのまま泣き崩れられでもしたらどうにもならなかったんだから。

 

「今日でこの世界ともおさらばか。正直言うとね、あたし、まだゲームクリアされたっていう実感がないんだ。てか混乱してる。アスナのとこの団長さんが実はあたし達をこの世界に閉じ込めた黒幕で、そんでもってそのラスボスをキリトが一人でやっつけちゃったんだもの。もうなにがなにやらってなもんよ。しっかしあんたってほんとすごいやつだったのねえ」

 

 まじまじと俺を見つめながら感慨に耽るリズだった。そりゃまあ、衝撃の事実のオンパレードだっただろうしな。リズでなくてもそれが普通の反応だろう。

 だからこそ茅場を取り囲んでみせた攻略組の早すぎる立ち直りは予想外だったし、そこに至る有機的な連携を可能にしたアスナの統率力がすさまじいわけだが。リズの隣でにこにこと笑みを振りまいている、温和な淑女然としたお嬢様からは想像もつかない指揮官ぶりだった。

 

「なんだ、信じてなかったのかよ。折角リズの目の前で『アインクラッドぶっ壊し宣言』までしてやったってのに」

「もう、意地の悪いこと言わないでよね。これ以上ないってくらい信じてました」

「サンキュ。俺もリズとの約束を果たせてよかったよ」

 

 穏やかに笑いかける俺の脳裏に、かつてリズと二人でしめやかに行った剣の儀式が鮮やかに蘇った。その時、過日の《ごっこ遊び》を思い出していたのは俺だけではなかったのだろう、リズもまた懐かしそうに頬を緩めていた。リズが打ってくれた剣は折れてしまったが、彼女が剣に託してくれた心は最後の最後まで俺の命を守ってくれた。

 俺を守ってくれてありがとうと告げれば、感極まってしまったのかリズの双眸に涙が浮かび上がり――そこでリズは臙脂のエプロンスカートを翻し、優雅に一礼してみせた。その一連の動作があまりに綺麗で思わず目を瞠ってしまったくらいだ。

 

「ありがとね、キリト。あの時、この世界を終わらせるって言ってくれてホントに嬉しかった。すっごく心強かった。それだけじゃなくて、今日はこうして皆の悲願を叶えてくれたんだもん。あたし、あんたのこと誇りに思うわ」

「大袈裟だな、リズは」

「そのくらいキリトはすごかったってこと。素直に受け取っておきなさい」

「それじゃ有り難くもらっとく。けどなリズ、俺を誇ってくれるならそれはリズ自身を誇って良いってことだ。それを忘れないでくれよ」

 

 リズが剣に込めてくれた想いは、今も変わらず俺の胸にある。

 涙を拭いながら嬉しそうに笑うリズはすぐに何かに気づいたように「あ、それと」と続けた。

 

「これはあたしからの忠告ね。あんたはちょっと頑張りすぎたんだから、しばらくは休養とって英気を養いなさいよ。こっちの生活習慣をあっちの世界に持ち込んだら、あんたすぐにぶっ倒れちゃうんだから。これ、冗談じゃなくて本気(マジ)だからね」

「わかってるって。リズの言う通り、しっかり医者の言うこと聞いて無理せず体調を戻すよ」

「よろしい」

 

 殊更大仰に頷くリズが何だかおかしかった。リハビリは俺だけが必要なものじゃないのに、そんなの知らないとばかりに俺の身を労わるリズの気持ちがこそばゆくも嬉しい。

 

「少し先の話になるけど、オフ会がありなら皆で集まってどっか遊びにいくのもいいわね。キリトの慰労も兼ねて温泉旅行とかさ。あんたって和贔屓なとこあるし、温泉巡りみたいな若者らしくない趣味もいけそうよね」

「若者らしくないは余計だ。うちの造りからして和風というか古臭い日本家屋なんだよ。だから和贔屓ってより馴染み深いって感じなのかな? 祖父が昔気質の人だったから、その影響も結構受けてると思う」

 

 自宅の敷地内に小なりとはいえ道場を併設させるほど剣道に情熱を燃やした祖父だった。遺言でわざわざ道場を取り壊すのはまかりならんと息子夫婦に言い含めておいたのだから相当だろう。

 残念ながら祖父の期待に俺は応えられなかったが、かといってあの人のことが嫌いというわけではなかった。そりゃ疎ましく思うこともあったけれど、それを差し引いても一本筋の通った人だったし、今でも尊敬すべき先達だと思っている。それをしっかり伝える前に祖父が他界してしまったことが心残りだ。

 

 今思えば、爺さんは実孫のスグよりも直接血縁のない俺に剣道を熱心に教えようとしていたんだよな。俺の方がスグより年上だったから厳しく接せられることに何の疑問も抱かなかったが、爺さんだって俺が貰われ子であることは知っていたはずだ。だとすれば、剣道の師弟関係は不器用だったあの人なりの愛情表現だったのかもしれない。

 帰ったら父さんにそのあたりの事情も聞いてみよう。今なら素直に受け止めることも出来るだろうから。

 

「さてっと、あたしもそろそろみたいね。キリト、次は現実世界で会いましょう。あんたに再会できる日を楽しみにしてるわ」

「俺もリズに会えるのが楽しみだよ」

 

 アスナも向こうでね、と親友同士笑顔を交換しサチに軽く目礼する。おそらくは意識してさばさばとした口調と表情を残し、リズは穏やかに笑んだまま光の中に消えていった。

 リズのログアウトした余韻にしばし無言の時が過ぎ、俺達三人の中で次に動いたのはサチだった。彼女は俺に一歩近づく前に何やらアスナと目線を交わし合っていたようだ。この二人も大概仲が良い。どうやらユイがつなげた絆は俺を交えたものだけではないようだ。

 

「なんだか夢みたい。本当に私は現実世界に戻れるんだよね? 生きて帰ることができるんだよね?」

「そうなるな。君は死なずに元の世界に帰ることができる。おめでとう、サチ」

「それも全部キリトのおかげだよ。ありがとう……。本当にありがとう、キリト」

「どういたしまして」

 

 さらりと黒髪を揺らし、サチは陽だまりのように淡く、けれどとても優しい顔で語りかけてくる。安息をもたらしてくれる、俺の好きなサチの顔だった。

 

「……あ、あれ? どうしてかな、頭の中が真っ白になっちゃった。言いたいこと、言わなきゃならないことがいっぱいありすぎて、何を話そうかずっと迷ってたはずなのに……」

 

 サチは困ったようにはにかみ、右手を胸に当ててもどかしそうに言葉を捜していた。このままではいけないと思ったのか、一度深呼吸をすることでひとまずの落ち着きを取り戻し、じっと俺と見つめあいながらゆっくりと口を開く。

 

「ねえ、キリト。この世界が生まれた意味は結局私にはわからなかったけど、弱虫の私がこの世界に来ちゃった意味は見つけたよ」

「そっか、聞かせてくれるか?」

「うん」

 

 切なげに睫毛を震わせ、涼やかに紡がれる声音はどこまでも優しい響きをしていた。耳に心地よい、彼女の声音。

 

「私ね、キリトと出会うためにこの世界にきたの。二人で言葉を交わして、心を交わして……ふふ、もしかしたら私はキリトに恋をするために生まれてきたのかもね」

 

 ほんのりと頬を薔薇色に染め、サチはとても誇らしそうに詠いあげる。満たされるというのはこんな時に使うのだろうか? サチが寄せてくれる甘やかな慕情に俺の方こそ礼を言いたいくらいだった。

 君を守りたいと思った。君の無事を願い、こうして無事に現実世界に帰すことができる。それはきっと俺の誇りだ、本当に君がいてくれて良かった。

 

「サンキュ、そこまで言ってもらえてすごく嬉しいよ。まあ、それと同じくらい心苦しかったりもするんだけどさ」

 

 自然と口元には苦笑が浮かんでいた。割と立つ瀬がない俺である。

 

「キリトは気にしなくていいよ。ほら、昔の偉い人も言ってたじゃない、『愛は見返りを求めない』って。それに私はキリトからたくさんのものを貰ってたもん」

「俺だって君からたくさんのものを貰ってたよ、ありがとな」

 

 それからひょいと肩を竦め、からかい混じりの声を続けた。

 

「それにしてもやっぱサチは意地悪だな。俺を困らせることばかり言うんだから」

「ふふ、前にも言ったでしょ? 私はキリト限定で意地悪な女の子になるの」

 

 お互い生真面目にそんな事を言い合い、次の瞬間には笑い出していた。俺もサチも陰鬱さなど欠片もない、朗らかな顔をしていた。

 

「でもね、キリト。これだけは忘れないで。私はキリトの傍にいることが、ううん、キリトの全部が私の安らぎだったよ。……さよなら、また会おうね」

「ああ、必ず」

 

 サチは潤んだ目で頷きを返し、切なさに睫を震わせながらログアウトを完了させた。良き別れと言うのなら、その通りだったのだろう。俺もサチも何の憚りもなくさよならを口にし、後の再会を約することが出来ていたのだから。

 

 サチを見送った安堵に息をつき、やがてこの場に残る最後の一人と向き合う。アスナも俺の視線に気づき、にこりと可愛らしく微笑んだ。こうして笑いかけられる度、アスナの美人っぷりを再認識させられてしまうのだから恐ろしい少女である。本人に言ったら頬を膨らませて抗議してくれるだろうけど、と内心笑みを押し殺していると――。

 

「キリト君、大変。わたしが言いたいこと全部みんなに言われちゃった」

 

 そんなことを大真面目に口にするあたり、アスナの茶目っ気も健在だった。以前に比べれば丸くなったのか、それともこちらが素だったのか、リズとの議論が待たれるところだ。と、まあそんな冗談はともかく。

 

「無理に感動的なものにしなくていいと思うぞ?」

「もう、キリト君は女心がわかってなーい。ここで印象的なお別れをして、再会まで胸をどきどきさせてほしいんだけどなあ?」

「俺は素っ気ない別れのほうが格好良いって思っちまうタイプだからなあ。あ、でもそれは男同士の話か」

 

 こう、にやりと笑みを覗かせ、背中越しに軽く手をあげて別れの挨拶とするくらいが丁度良い。もしくは拳を合わせて「あばよ」とか。

 

「あのね、キリト君? 忘れないように言っておくけど、君の前にいるのは女の子です」

「そこはほら、剣士の別れってことで」

 

 慌てず騒がず落ち着いて惚けてみせる俺に、「わたし、剣士である前に女の子でいたいの」とにっこり返すアスナは、当然のごとく可愛らしかった。というか世界の真理と言わんばかりに綺麗だった。

 ホントこいつは将来男泣かせになる素質十分だな。……違った。アスナは既に多数の男を泣かせてるのだったか。なにせ何度もプロポーズを受けたとか言ってたくらいだしなあ。ふられた男に合掌。なーむー。

 

「よし! それじゃ、わたしはちょっとだけフライングさせてもらおう」

「フライング?」

「ええ、自己紹介をしましょう!」

 

 なるほど、そういうことか。

 

「わたしは明日奈、結城(ゆうき)明日奈(あすな)。今年で17歳。それじゃ、君は? 君の本当の名前は何ていうの?」

「和人だ、桐ヶ谷(きりがや)和人(かずと)。昨日16になった」

「かずと君……桐ヶ谷和人君か。うん、覚えた。それにしても君ってば年下だったんだね」

 

 しみじみと頷くアスナに「意外か?」と問いかけてみれば、イエスともノーとも答えず曖昧な笑みで誤魔化すアスナだった。もしかしたら俺もアスナも互いに相手を年上だと考えていたのかもしれない。

 

「んー、あとは……そうだ、株式会社《レクト》って知ってる? そこの最高経営責任者(CEO)をわたしの父が務めてるの」

「へぇ、そりゃすごい。レクトっていえば大手の総合電子機器メーカーじゃないか。アスナって本当に良いとこのお嬢様だったんだな」

「わたしが偉いわけじゃないから感心されても困っちゃうんだけどね。それに会長令嬢なんて肩書きがあったおかげで、婚約者とかいう時代錯誤な相手が用意されてるのよ、嫌になっちゃうわ」

「マジ?」

「大マジ。二年近くも昏睡状態だったわけだし、立ち消えになっててくれると嬉しいんだけどなあ」

 

 ふう、と重い吐息を零してる様子を見ると、アスナ本人にとっては不本意な婚約っぽい。

 

「嫌いなのか、その婚約者のこと?」

「十近く歳も離れてるし、苦手なのは確かね」

「上流階級のお嬢様ってのも大変だ。婚約者とか現実にあるんだな、ドラマの中だけの世界かと思ってたぜ」

 

 困った事にね、と口にするアスナは本気で辟易としていた。これはいよいよ深刻なのかもしれん。

 

「で、どうするつもりなんだ?」

「勿論断るわよ。元々本意じゃなかったし、両親には正直な気持ちを話して白紙撤回してもらうわ。駄目って言われたら思いっきり喧嘩するつもり」

 

 にこりと笑って。

 

「わたしは恋愛結婚をしたいの。それにもう本気で好きになった男の子がいるからね、こればかりは頷くわけにはいかないわ」

 

 俺に向かって「覚悟してね」と朗らかに宣言するアスナには、強がりや気負いはほとんど見受けられなかった。その落ち着き払った佇まいに感心してしまう。色々な意味で強くなってるんじゃなかろうか、この閃光様。

 

「ま、何か力になれることがあれば言ってくれ。協力は惜しまないよ」

「ほんと? じゃあ、わたしの恋人役として説得を手伝ってくれる?」

「あのな、んなことしたら間違いなく話が拗れるっての」

 

 さすがに冗談じゃ済まないから止めておけ。そう言って呆れ返る俺を見ても、アスナはわたしもそう思うと頷き、くすくすと楽しげに笑うだけだった。

 

「それじゃ、いよいよとなったらわたしをさらって逃げてもらおうかな。いいよね、キリト君?」

「いいわけあるか、無茶振りがひどくなってんぞ。つーか花嫁を浚って逃げていいのはドラマの中だけだろ、現実でやったら大変なことになるぞ」

「むー、キリト君のいじわる。もう少し乗ってくれてもいいじゃない」

「常識的と言ってくれたまえ。ってかその言質は怖すぎる、もう少し穏当な要求をくれ」

 

 安請け合いはしないけど出来るだけのことはするからそれで納得しておけ。そう告げるとアスナは本当に嬉しそうに笑うのだから敵わない。その顔を見ているだけで何でもしてやろうという気にさせられてしまうのだから、やっぱり怖い女だと再認識した。こいつ、無自覚で一体何人の男を篭絡してるんだろう? 俺の立場的に追及すればするほど背筋が寒くなりそうだ。

 

「今度は現実世界で会って、そこから新しいわたし達を始めましょう。君は桐ヶ谷和人君として、わたしは結城明日奈として。ね、キリト君」

「そうだな、あっちでは《黒の剣士》でも《閃光》でもないんだ。ただの学生として自己紹介から始めよう。……まあ、今も学生の籍が残ってるかはわからないけど」

「言わないでよー。起きた時に家族に何て言われるか、わたし今から戦々恐々なんだから。勉強の遅れも取り戻して編入できる高校も早く探さなきゃいけないし、ゆっくりなんて出来ないかも……」

 

 同感だ、向こうに戻ってもゆっくりしてる暇はないだろう。

 

「その前にリハビリ地獄だけどな。あー、憂鬱だ。すっかり異世界帰りの異邦人になっちまったぜ」

「しかも浦島太郎だもんね。おおよそ二年、長かったわ。お婆ちゃんにならなかっただけマシかもだけど、それでも玉手箱を開けちゃったことに変わりないもの」

 

 互いに溜息を零す。前途多難である。

 

「箱ってことならパンドラの箱も思い浮かぶな。希望が残っただけよかったよ、マジで」

「それもキリト君のおかげだね。――うん、最後まで迷惑かけちゃったし、お詫びとお礼を兼ねて再会したら特製手料理を振舞ってあげる。こっちで食べてもらった料理を超える傑作を用意するわ」

「おお、そいつは期待できそうだな」

 

 ついに餌付けの責任を取ってくれる気になったのかと笑えば、アスナもおかしそうに声をあげて笑った。

 打てば響く軽妙な掛け合いを続けることしばし。どうにも緊張感が足りないが、これはこれで楽しい時間だった。今しばらく談笑に耽っていたいと考えたのは何も俺だけではあるまい。けれど――。

 不意に会話が途切れた。別れを意味するログアウトの兆候は、等しくプレイヤーに訪れる。アスナにもその順番が来た、それだけのことだ。淡く輝く光が自身のアバターを包み込むプロセスを確認して、アスナは残念そうに首を振った。

 

「まだまだ話し足りないけど、こればっかりは仕方ないか」

「こっちからはどうしようもないからな。……アスナ、君に会えて良かった。君と一緒に戦えて良かった。ありがとう。また会おうな」

「こちらこそだよ。……君を好きになれて本当に良かった。またね、キリト君」

 

 アスナは双眸にうっすらと光るものを湛えていた。やがてその透明な雫は頬を伝ってきらきらと零れ落ちる。最後の時をお互い見つめあったまま、次々と去来する想いを噛み締めていた。

 この世界に負けたくないと口にして、誰よりも強くあることを誓った少女。けれど俺の前では一人の女の子であることを決めた剣士は、煌く粒子に囲まれて幻想の世界から還っていく。

 転移に似た光も消え去り、アスナはアインクラッドから解放された。今頃は現実世界の空気に触れていることだろう。

 

 誰も彼もがログアウトしていき、静まり返った闘技場の中央で立ち尽くす俺に、頃合と見たのかゆっくり近づいてくる影があった。この世界に最後まで取り残された不運な彼女は、得意技である隠蔽スキルで身を隠しているわけでも、殊更足音を殺して近づいてきているわけでもない。一歩一歩、俺との距離を確実に詰めてくるだけだ。

 振り向き、小柄な少女と向かい合う。

 野暮ったい旅装束にフードのついたマント、頬にはトレードマークの三本髭がペイントされ、口元に涼しい笑みを貼り付けたアインクラッド一の情報屋、《鼠のアルゴ》がそこにいた。

 

「遅かったな。真打は遅れてやってくるってか?」

「いいや、単にオレっちが祭りに乗り遅れた間抜けだっただけサ」

「何も言わずに消えるつもりなんじゃ? って心配してたとこだ」

「それも良いかと思ったんだけどネ。どうやらあの男は本気でキー坊のファンだったと見える。図ったように最後までオレっちを残しやがった」

 

 そう言ってアルゴはひょいと肩を竦ませ、表情にも幾分の呆れを滲ませた。

 

「ま、こうなったからにはキー坊に最後の務めを果たしてもらうことにしよう」

 

 いっそ無造作に言い放つアルゴに、やっぱりそうなるのかと諦観の篭った溜息しか吐けなかった。そんな俺を斟酌することなく、アルゴは無慈悲に宣告する。

 

「それじゃ、全部終わりにしようゼ。約束通りオレっちをこっぴどくフッてやってくれ。それでオレっち達はもう二度と会うこともなくなる。……さよならダ、キー坊」

 

 今日まで俺達が築きあげてきた信頼も恋慕も愛情も、その全てをこの場で終わりにしろ。お前が切り捨てろ。

 そんな残酷極まりない要求を、アルゴはあくまで涼しげな顔で口にしたのだった――。

 

 

 

 

 

 アインクラッドには《倫理コード解除設定》という絶対の掟がある。『異性間の性交渉を可能とするか否か』の選択をプレイヤーに委ねるものだ。つまりソードアート・オンラインは人間の三大欲求である食欲、睡眠欲、性欲の全てを満たす事を可能とするのである。デスゲーム故なのだろうが、些か自重を忘れたシステムだった。

 倫理コード解除――性交渉、愛の営み、男女の混交。まあ呼び方なんぞ何でも構わないが、俺がそのシステムを初めて利用したのはずっと昔、それこそ未だこの身にオレンジのカーソルを背負っていた頃のことだ。

 

 最初は単なる情報交換だった。朧月の翳る夜、辺境のみすぼらしい宿で顔を突き合わせて、アルゴがふとした弾みに「いつまでこんなことを続ける気だ?」と零したのが発端だった。そこで俺の捨て鉢な攻略方針――というか自殺未遂すれすれの無茶を諌められ、いつしか口論に発展していったのだ。

 

 思い返すも情けない感情論に終始していたと思う。アルゴに散々挑発され、俺も声を荒げて怒鳴り返した。けれど最後は鬱屈した内心を弱弱しく吐露し、アルゴに優しく抱き締められて恥も外聞もなく涙を流して――後にアルゴがわざと俺を激発させたのだと知った。本人曰く、やばそうだったからそうしたらしい。……否定できなかった。

 俺達はその夜に褥を共にすることで肌を重ね合わせた。そしてその日から俺にとってアルゴは特別な少女となった。……けれど、それは新たな痛みを刻む始まりでもあったのだ。

 

「《鼠のアルゴ》が一番ずるかったのは、俺に《黒の剣士》として『女のため』を理由に戦わせてくれなかったことだな」

「そんな重いもんは願い下げだったからネ」

「ひでえ女」

「優しいと言ってくれヨ。あの頃のキー坊にはその程度の軽さしか受け入れることは出来なかったんだ。キー坊にとっちゃオレっちは実に良く出来た《都合の良い女》だったろ? いつでも捨てられる、捨てて良い仮初の関係ダ」

 

 場違いなまでに陽気な顔の《鼠》に溜息もでなかった。

 お前はいつもそうやって俺の手を引いてきたよな。俺の安全網(セーフティ・ネット)としての役割を自認しているように振る舞い、そのくせ、この世界が終わる時には俺の手を離す事まで織り込み済の……ずるい女だ。

 

「その都合の良さが、俺にとって何よりも残酷だと知りながら、か?」

「……謝らないゾ。オレっちにはそれしかやれるものがなかったんだから」

「責めないよ。お前にそんなことをさせちまったのは俺なんだから」

 

 見透かされていた。

 この世界と一緒に俺の命も終わってしまえばいいと、そんなやけっぱちな心境を抱えながら戦っていたのだ。剣にアイデンティティを預け、刹那的な生き方しか選べなかった俺の愚かしさを、アルゴは俺以上に理解していたのだと思う。

 

 ――オレっちの髪の毛からつま先まで、全部キー坊の好きにしていいゾ。でも、それはこの世界にいる間だけダ。ゲームクリアした時にはオレっちが預けたものも返してもらうから、ちゃんとそのつもりでいろヨ。

 

 そういって自身の心と身体を俺に委ね、俺に《ゲームクリア》という終わりを意識させ、最後の拠り所となることであの世への逃げ道を塞いだ。そのために重過ぎず軽すぎない、いつでも捨てられる不確かな関係をアルゴは望んだ、いや、望ませてしまったのだ。それが俺の限界だと、アルゴは冷静に見切っていたのだろう。

 アルゴに強く望まれるまま、翻意させることなく首を縦に振ってしまったことを今でも後悔している。

 

「にゃハハ、やりたい盛りの中学生にオネーサンの身体は丁度良い未練になっただろ?」

「ノーコメント」

 

 利用し合おうとアルゴは提案した。恋人として気持ちを通じ合わせることもない。夫婦として将来を語り合う必要もない。お互いが寂しいと思った時、ささやかな慰めとなれるならそれだけで十分だと。そうやって打算の関係を築き、それが故に打算のまま別れようと笑ったのだ。

 

「ゲームクリアのご祝儀にしては無体だと思わないか?」

「それはすまないと思ってるヨ。でもネ、オレっちはキー坊が頑張ってくれたことに心底感謝してるし感激してるんだぜ? 最後まで見届けて、今は報われたっていうのが正直な気持ちかなあ。蘇生アイテムを使ったのはクラインのお兄さんだけど、あれを使わせたのはキー坊じゃなくてサッちゃん達だったもの」

「そうだな。少なくともオレンジプレイヤーだった頃の俺じゃ、逆立ちしても出てこない発想だったのだろうさ」

 

 終わらせるためではなく、生きるために。その希求の心が俺に切り札を用意させた。

 

「おやおや、いつになく素直じゃないカ」

「俺は何時だって素直だよ。素直になる相手を選んでるだけだ」

 

 俺はお前ほどひねくれちゃいないぞ。

 

「オレンジプレイヤーになった時はもう死んだっていいと思った。――というか、オレンジのペナルティのせいで生き残る芽が見えなくなったってのが正直なとこだったんだけどな。あの日から、どうせ死ぬのなら誰かの役に立ってから死ね、そう思うようになったんだ。なのにどうしてかこうして生き残ってる。不思議だよな、鼠のご加護かね?」

「ばーか、鼠に女神のご利益なんぞあるもんかヨ。でもまあ、死にたがりにしちゃ上出来カ。おめでとう、キー坊」

「死にたがりか……。確かにあの頃は自棄になってたし、精神的にも限界だったよ」

 

 でも、と続けた俺の口元が歪む。

 

「そんな崖っぷちにいたっていうのに、俺は時折見かける攻略組の戦いぶりを見て、フロアボス戦を共にして、連中にもどかしさばかりを感じていたんだぜ? きっとあれは攻略組の実力に対する物足りなさ、だったんだろうな。奴らの剣の扱いを見るたび『下手くそ』だって思ってたんだから笑っちまうほど嫌なガキだし、我が事ながら何様だって溜息をつきたくなる」

「はいはい、そこまで。そうやってキー坊が悪ぶってると何故かオレっちのせいにされるんだゼ?」

 

 呆れ顔で「迷惑だ」ときっぱり言い放つアルゴに、こっちも「日頃の行いの賜物だな」としれっと返す。疑われるのはどう考えてもアルゴの自業自得である。強いていえば俺もアルゴも元々の性格が悪いだけだろう。

 

「『周りが頼りないからその分命を張る気になった』って一言を随分婉曲に表現するもんだナ」

「こういうのは素面だと言いづらいんだよ。『自分の命を勘定に入れなくなって、ようやく世のため人のために戦えるようになった』なんてさ」

 

 デスゲーム開始直後、俺はまがりなりにもクリアのための戦略図を描きながらその選択肢を選べなかった。一層で打ちのめされていなければ、あるいは利己的プレイに走ったままだったかもしれない。

 自身の安全を度外視することで俺は変わったのだろう。後ろ向きであろうとも多少なり視野が広がり、世界を俯瞰する眼に意思が加わって、初めてゲームクリアのために全力で動く下準備が整ったのだ。

 

「嘘をつかずに嘘をつく、本当を言わずに煙にまいて誤魔化す、そして本当の奥にもう一つの本心を隠す。そんなことばっかりやってるからひねくれちまうんダ。それとも、そういうこすっからい真似が格好良いとでも思ってるのカ?」

「どうだかなあ。必要だからやった、それだけだと思うけど」

 

 他愛もない掛け合いにどうにも口元が緩んでしまう。いつもと変わらず二人してそんな馬鹿を言いあい……けれど最後までそれを続けているわけにはいかない事もわかっていた。会話の途切れる瞬間を見計らったかのように、俺達を包む和やかな空気も終わりを告げる。

 

「……キー坊は、さ」

「うん」

「キー坊はこの世界に来てから、何度『もう嫌だ』と思った? 何回……逃げ出したいと思った?」

「さあな。数えるのも億劫で、もう忘れちまったよ」

「そっか……そうだろうネ。キー坊は誰よりも何よりもゲームクリアを優先した。してくれた。そんなキー坊を誇りに思うヨ」

「皮肉かそれは。罰ゲームの待ってるゲームクリアに全力で邁進してたわけだし、俺って実は被虐趣味でもあったのかな?」

「んなわけあるか、キー坊は絶対加虐趣味だヨ。これだけは譲れないゾ」

 

 そんなに力説しなくてもいいじゃないか、これでもお前のせいで傷心の身なんだぞ?

 

「なあアルゴ。もし俺が攻略を投げ出して、お前とずっと一緒にいたいって願ってたら、お前はそんな俺でも受け入れてくれたのか?」

「キー坊もつまんない事を聞くネ。でも、そうだなあ……キー坊がそれを望んだのなら、きっとオレっちはそうしたと思うヨ?」

 

 何もかも忘れて、二人で悦楽の日々を送ってたんじゃないカ、と。アルゴは至極真面目な顔で、これ以上となく不真面目で不健全な『ありえたかもしれない過去』を語って見せた。そんな風に飄々と言の葉を弄ぶ様がなんとも『らしい』とおかしくて、自然と苦笑が浮かんでしまうのだった。

 

「男を堕落させる悪女ここに極まれり、だな。そこで迷いなく断言できちまうお前だから、俺は意地張って剣を振り続けたんじゃないかって思えてきたよ」

「ふふん、だったらオレっちの勝ちだナ。男を上手く操縦してやるのが良い女の務めだもの」

「ぬかせ」

 

 もっともらしく口にするアルゴにたまらず噴出してしまう。アルゴらしい惚けぶりだ。

 

「いいんだよ、それで。オレっちはさっさとこの世界から脱出したかった、そのためにキー坊を利用しようとした。お互い相手に求めるものがあって取引したんだから、いちいちオレっちを慮る必要もないサ」

 

 その言葉を額面通りに受け取れるほど浅はかなつもりはないし、お前の献身だって安くなかっただろうよ。

 プレイヤー初のPK、しかもそれを隠そうともしなかった男に近づき、身も心も委ねたのだ。たとえ何も語らずとも、たとえ何を偽ろうとも、その行為は雄弁なメッセージを暗黙のうちに伝えていた。俺は一人ではないのだと、死ねば悲しむ人間もいるのだと、そうやって俺から強烈なまでに《死》を奪っていったのだから。

 

「オレっちはこの世界に閉じ込められた時に二つ決めた事がある。一つは『情報屋として公平無私を貫く』。そしてもう一つが『この世界とオレっちを偽者にする』こと。心を向こうの世界と切り離して、役割演技に徹して、《鼠のアルゴ》として生きるって決めたんダ。そうすることで、この冷たい現実の全てを嘘にしようとした」

 

 本物の自分をゲームの外に置くこと。それがアルゴの仮面であり、鎧であり、心を守る術だった。あの夜、そうと語った上で俺との関係を望み、飽きるまでお互いの傷を舐め合えば良いと、そう嘯いた。

 

「全部が嘘だったなんて言わなイ。こんな世界じゃなくても人間誰しも仮面を被るものだし、立場によってそれぞれの役割を演じるもんダ。こんな世界だからこそ育める絆ってのもあるだろうサ」

 

 でもネ、とアルゴは笑う。どうしようもなく俺の胸を締め付ける、切ない笑みを浮かべていた。

 

「程度問題ってのがあると思うんダ。キー坊が惹かれた女は現実世界のどこにもいやしない。《鼠のアルゴ》はこの世界だけの幻なんだゼ? オレっちはそうするつもりだったし、そうしてきたつもりダ」

 

 だからこそアルゴは《鼠のアルゴ》に執着するなと繰り返してきた。言葉だけでなく、行動でも。

 

「わかってるよ。それでも夢を見たんだ。いつか現実に戻って、普通に学校に通って、俺の隣でお前が笑ってる。そんな夢を」

「それは……つまらない夢を見たネ」

 

 まったくだと笑った。

 泣くことはできなかったから、笑って言った。

 

「多分、俺はお前のことを好きになれると思うぜ? 現実世界で再会したお前の新しい一面を知って、その度に得した気分になって、そうやって今よりもっと好きになれるはずなんだ」

「ほんと、キー坊は可愛いことを言うよナ。でも……駄目だ、それは駄目なんだヨ」

「……アルゴ」

「キー坊だってわかってるだろ、それは未練ダ。未練でしかなイ。それにネ、オレっちはキー坊みたいに強くなんてなれないヨ。そんなしんどい恋をしたくないし――させたくなイ」

 

 だから駄目だとアルゴは笑う。切なげに瞳を揺らして、それでも笑っていた。

 

「キー坊は本物の二年を生きた、オレっちは偽者の二年を生きた。それでいいじゃないカ」

「心は移ろうものだぞ」

「移ろう気持ちがあるなら、変わらない心だってあるのサ」

「……意地っぱりめ」

「キー坊に言われたくない」

 

 アルゴは俺がどんなに引きとめようとも、決して言を翻したりしないだろう。俺がアルゴを理由に立ち止まることも、振り返ることも許さず、ただただ自身を振り払う未来しか認めないはずだ。そんな頑固で意地っ張りな女だった。

 

「折角釘を刺したのに無駄になっちまったな。百層に辿り着くまでにお前を俺の虜にして、その面倒くさいポリシーを変えてやろうと思ってたのに」

「最後まで一緒に――。そう言ってくれて嬉しかったヨ。ただ、オレっちもまさかこんなに早くゲームクリアしちゃうとは思わなかった。いや、さすがキー坊だネ」

「驚いてくれてなによりだ」

 

 はあ、と色々複雑な溜息が漏れた。

 何を思ったのか、もうお役御免だとばかりに勝手に俺から離れていこうとする女がいた。そいつは現実世界に帰った時の『《鼠のアルゴ》の代わり』を用意しようとする馬鹿女だったから、そこまで俺は情けない男なのかと苦言を呈して止めた。その矢先にこの結末なのだから運命とは皮肉なものである。

 まったく、どっちが乙女心を弄んでるんだか。アルゴの真意を知ったらアスナあたりは三時間のお説教コースを開催するぞ? 俺と同じ様に余計なお世話だと言ってな。そんなお膳立てされずとも俺は口説きたい女がいれば自分で口説くし、それはアスナ達だって一緒だろう。

 

 サチの言う通りなのだ、アルゴとアスナ達は違う。サチもアスナも、リズもシリカも、皆、現実世界に帰った後の継続した関係を念頭に置いていた。けれどアルゴは違う。この世界で俺との関係を断ち切ることを前提として、アインクラッドの日々を共に過ごしてきたのだから。

 本当、馬鹿な女だ。いや、それを言うなら俺のほうが大馬鹿か。

 何より度し難いのは、そうと知りながらアルゴに縋らずにいられなかった俺の身勝手さだったのだろう。きっと俺の一番の情けなさは、年端もいかぬ少女にそこまで思いつめた決意を抱かせてしまったことだ。だからこそ、俺は彼女の望みを最大限尊重することで彼女のくれた恩に報いるべきなのだろうと思う。

 

「俺に心残りがあるとすれば、それはお前がくれたものに何も返せてないってことだな」

「お馬鹿、そんなことを考えてるからキー坊はニブチンなんダ。――十分だヨ。オレっちはもう抱えきれないくらいたくさんのものをキー坊から貰ってる。これ以上を望んだらバチが当たっちまうサ」

 

 それが本心だとわかる程度には付き合いも浅くなかった。それが切ない。

 

「オレっちは最初から最後までロールプレイを貫き通すって決めてたんダ。ここにいるのは『鼠のアルゴ』、皮肉屋で人をおちょくって楽しむ、道化であろうとした女なのサ。だからこの世界が終わる時は、鼠のアルゴもここに置いていく。キー坊の帰る世界には、鼠のアルゴなんて女は何処にもいやしなイ。……お別れだヨ、キー坊。ずっと前からそう約束してたはずダロ?」

「踏み倒せるなら踏み倒したい約束だったよ」

「女冥利に尽きる話だナ。だからこそ、オレっち達は終わりにするべきなんだと思うヨ」

 

 そう言ってアルゴはふっと寂しそうに笑った。

 

「なあキー坊、オレっち達の帰る世界は願えば何でも叶う御伽噺なんかじゃないんだゼ? 剣を持ってなくても、怪物が存在しなくても、誰も彼も必死こいて生きていかなきゃならない世界ダ。オレっち達は長い長い悪夢からようやく覚めて、これからはそれぞれの現実を歩いていく。――そうでなきゃいけなイ」

 

 特別な事ではないのだ、とアルゴは口にする。

 

「出会って、別れて、また出会って……。そうやって皆生きていく、そうやって皆別れていくんダ」

 

 始まりがあれば終わりがある。季節は等しく巡り、人に永遠などないのだと言い聞かせるように。

 

「キー坊はもうオレっちがいなくても一人で立てるだろ? 人は一人じゃ生きていけないから、だからオレっちはキー坊を一人ぼっちにさせたくなかった。人とつながりを持って生きて欲しかったから、キー坊を無理やり人の輪に放り込んだ。それでも――それでもさ、結局最後は独りなんだゼ? 皆、独りで立たなくちゃいけないんダ」

 

 甘やかな痛みと共に、去来する幾つもの思い出が俺の脳裏を過ぎり、追憶が溢れんばかりに胸を焦がした。こらえきれない感情の渦が出口を求めて荒れ狂う。これは涙腺に優しくないな。 

 

「大人になりなよ、キー坊。きっと今がその時ダ」

「……ずるい女だな、お前は」

「それがアルゴオネーサンだからネ」

 

 もっと褒めてくれていいんだゼ、とふてぶてしく笑うアルゴへの反論の言葉を、俺は何一つ持っていなかった。

 ずっと前から決まっていた、俺たちの間で交わしていた一つの約束。俺の愚かしさが彼女を縛り、彼女の優しさが俺を縛った。お互いに望んで繋ぎ合い巻きつけてきた硬質な、それでいて暖かな束縛の鎖を今、断ち切らねばならない。

 アルゴが俺に一歩近づく。いつものどこか斜に構えた皮肉気な顔など微塵も見せず、穏やかに、優しげに、俺の心を奪った慈愛の眼差しで、ゆっくり、ゆっくりと足を進める。そんなアルゴは俺の目の前で一度立ち止まると、俯き気味になにやらシステムウィンドウを操作していた。程なく作業を終えて露わになった彼女の(かんばせ)に、俺は一瞬呆然の体を晒してしまう。

 

 《鼠のアルゴ》のトレードマークが消えていた。

 

 両の頬に走る三本の線が綺麗さっぱり取り除かれ、切なげに睫毛を震わせる、今まで見たことのない少女がひっそりと佇んでいた。意識して演じていたのであろう少年めいた面影も今は鳴りを潜め、本来の柔らかな少女の輪郭が見事に清楚な印象を醸し出している。お髭のペイントがなくなっただけでこうも変わるものかと感心させられてしまった。

 

「最後だからネ、オレっちがとびっきりの魔法をキー坊にかけてあげるヨ」

 

 くすりといたずらっぽく笑う。

 そのまま彼女はそっと指を伸ばして右の頬に一回、二回、三回、左の頬にも一回、二回、三回と、まるで自身から消えたお髭の代わりとでもいいたげに俺の頬をなぞリあげる。指先に魔力でも灯っているかのようにじわりと暖かみが増していく。アルゴは祈るように両手を合わせ、神聖な空気を纏って厳かに祝詞(のりと)を紡いだ。

 

「どうかあなたの行く道が、穏やかでありますように。どうかあなたの行く末が、幸いで満ち溢れていますように。未だ見ぬ未来で、あなたが愛する人と笑っていられることを、心から願っています」

 

 少女は敬虔な巫女のように朗々と、滔々と、それでいて泣きたくなるほど優しく謳いあげる。ただのおまじないが、厳かな儀式に様変わりしてしまったようだ。俺の幸福を願う彼女の頬は微かに上気し、瑞々しさを主張する唇が俺の目に妖しくも艶かしく映った。

 

「――なーんてナ。やっぱこういうのはオレっちのキャラじゃないゼ」

 

 気恥ずかしげに舌を出す少女がどこか幼く見えて、その魅力に危うい衝動を覚えた。

 神聖な儀式? そんなもん知らん。何で俺はここまで我慢していたのだろうか。そんな疑問が浮かぶに至って、それ以上の思索を挟まず躊躇と遠慮を一思いに捨ててしまう。

 

「キー坊?」

 

 微動だにしない俺を訝ったのか、不思議そうに首を傾げるアルゴに謝罪の気持ち込みで笑みを返す。悪いな、今日から俺の趣味欄に不意打ちと書き込んでおくから許せ。

 

「んぅっ……!」

 

 この瞳に映る景色の全てを独占している少女の細い腰を抱き寄せ――有無を言わさず唇を奪った。

 目一杯瞳を見開き、一度は重ねた唇を慌てて引き離して抗議しようとするアルゴ。しかし俺はそんな抵抗を許す気はない。俺から逃れようとする動きを封じ込め、さらに深く唇を重ね合わせる。最初のうちは脱出を試みようと暴れたアルゴだったが、腕の中に閉じ込めて離さない意思を示し続けるとやがて諦め、全身から力が抜けてその身を俺に委ねたのだった。

 

 粘膜の接触によって生々しく水音が奏でられ、息継ぎに混じって濡れた吐息が小さな唇を彩り始めるのを確認したところで、これ以上はやりすぎになってしまうと判断して仕方なく解放した。永い永い一瞬が終わる。

 思いがけない奇襲によるものだろう、驚きと羞恥にアルゴの頬は鮮やかに紅潮し、女を刺激された名残が彼女を常になく無防備にしていた。ぼうっと火照った表情に目尻がとろんと下がる様が愛らしく、清楚さと扇情さが入り混じる。叶うならばこの場で押し倒してしまいたいくらいだ。

 

 虚飾を剥ぎ取られた歳相応の表情を見たいがために、肌を重ねるたびに快楽で悶えさせ、前後不覚になるまで追い込んでいたのだと白状したら、はたしてこの少女はどんな反応を見せてくれるのだろう。

 とりあえずそんな腰砕けな状態で上目遣いに睨みつけられても、これっぽっちも怖くないのだと教えておくべきなのかもしれない。

 

「……こら、ちょっと強引だゾ」

「あんな可愛いことするお前が悪い」

 

 今回ばかりは冗談抜きでアルゴの責任だと思う。

 

「それに小煩い女はこうして黙らせるんだろ? お前が教えた通りじゃないか」

「ちょっと待った。オレっちそんなことキー坊に教えた憶えはないんだけど?」

「そうだったか? じゃあ俺のシステム外スキルってことにしといてくれ」

「むぅ、反省の色がない。……キー坊の女ったらし」

「何とでも言え」

 

 終わったのだと思った。

 抱き合ったまま息の触れ合う距離で睦言を楽しんで――けれどこの時、確かに一つの恋が終わったのである。俺達は暗黙のうちにそれを悟っていた。こうして別れの口付けを交わして、もう昨日までの俺達ではいられないのだと、ほろ苦い胸の痛みと共に現実を受け入れたのだろう。

 

 アルゴは最後まで賢しらに振舞ってくれた。俺に大人になれと、いつまでも子供のままでいるなと臆面もなく言い放ってくれたのだ。ありがたいやら情けないやらで複雑な気分だった。よくもそこまで言えたものだと苦笑が浮かんだ。

 わかってるさ。人はいつか大人になる。そうでなければならないし、そうでありたいと思ってる。俺達はこの世界でずっと気を張って大人のふりをしてきた。けれど、やはり俺達は子供でしかなかった。

 

 今すべきことはもう俺はお前の助けがなくても大丈夫なのだと、その手を離して一人で歩ける強さがあるのだと示すことだった。いつまでもこのままではいられない。だからこそ未練の残滓を振り払い切り捨てることで前に進む。それが俺からアルゴへのせめてもの恩返しだった。

 

 ――だから覚悟しろよ、アルゴ。俺は俺の望むまま、《鼠のアルゴ》を否定してやるつもりなのだから。

 

 文句は言わせない、お前が俺をそうさせたんだ。俺がいつか大人になることをずっと願っていてくれたのは、他ならぬお前だったんだから。

 

「さて、それじゃアルゴ、俺からもお前に最後の頼みがある。まさか断らないよな?」

「……いやだ、って言ったら?」

 

 アルゴは一瞬口ごもり、その小柄な体躯にも少なからず緊張が走った。無論、その強張りも気づかないふりで流したが。

 

「却下、吐いた唾は飲み込ませないぜ。ヒースクリフとの決闘に勝ったらご褒美をくれる約束だったろ? 俺は《聖騎士》と《魔王》を相手に二連勝したんだ、二つ要求しないだけ奥ゆかしいと思うぞ」

「むぅ、そういうことなら仕方ないな。んじゃ、大サービスで一個だけ聞いてやるヨ」

 

 何でお前は上から目線なんだよ。

 

「あのなあ……少しはお前も俺の苦悩を理解しやがれ。お前がサチやアスナを煽って俺に嗾けようとしてたせいで大変なことになってるんだろうが」

「その認識はちょーっと誤解があるヨ。あの子らは元々キー坊のことが大好きだったんダ、オレっちはそこに少しだけ燃料を投下しただけサ」

「うわ、悪ぶれずに言い切りやがった」

 

 女という生き物は《コイバナ》なる食べ物が大好物らしいが、こいつも例に違わずというわけか……なんて冗談はともかく。

 

「察するに恋愛相談かナ? それならオネーサンに任せておけ」

「……楽しそうでなにより。相談したいのは告白の台詞だ、採点頼む」

「オーケーオーケー。それで誰に決めたんだ? やっぱりサッちゃん?」

「いや、多分俺は選ぶ側じゃなくてフラれる側だと思うぞ。なにせ告白するのは二年後だ」

 

 さすがにそこまで待たせたら愛想を尽かされてるだろうさ、と平素な口調で告げる。ここまで芝居がかった風に陽気な表情を見せていたアルゴが首を傾げてしまった。

 

「二年って……そりゃいきなり誰かと付き合えとまでは言わないけど、それはさすがに傷心期間が長すぎやしないか? せめて半分の半分――半年後くらいにしておきなヨ、じゃないとあの子らも可哀想ダ」

「しょうがないだろ、俺のとっておきの告白台詞は二年後じゃないと使えないんだから」

「……ああもう、キー坊のわからずや。それじゃその告白台詞とやらを聞かせろヨ、駄目出しして考えを改めさせてやるから」

「いいぜ、それじゃ聞き逃さないでくれよ」

 

 らしくないな、《鼠のアルゴ》。普段ならもっと疑問を持っただろうし何がしかに気づいただろうと思うが、今のアルゴは注意力散漫に集中力不足のせいで頭の巡りが悪いし警戒も足りてない。ったく、無理してるからそうなるんだよ、頑固者。

 ともあれ口ばかり達者で初々しさを隠し切れない少女は、俺の言葉にどんな反応を見せてくれるのだろうと楽しみで仕方なかった。そんな邪な思いを隠し、胸に暖めておいたとっておきを披露しようと、彼女の耳元に唇を寄せてそっと囁く。

 

「『俺の子供を産んでくれ』」

 

 愛情と本気をたっぷり溶かして熟成させた声を流し込んだ瞬間、アルゴの動きがぴたりと止まった。それはもう見事に固まった。してやったりと内心でガッツポーズ。

 

「――って言って口説くつもりなんだ」

「キー坊、それ告白じゃなくてプロポーズ……」

 

 その通り。だからあと二年必要なのだ。

 俺は今16歳だから、結婚可能年齢になるには二年待たなくてはならない。そしてこの手の台詞は18を迎えた男が口にしないと無責任になってしまう。だから俺の次の目標はいつでも結婚できる下準備を整えることだと決めていた。

 

 既にユイという少しばかり特殊な事情を持つ娘もいるし、あの子に新たな世界を用意するという意味では彼女は俺の扶養家族に違いあるまい。ユイのためにも俺は暢気に学生だけをやってるわけにはいかなかった。ならば帰還後の目標をもう一歩進めておいても何ら問題ないのである。ユイを迎え入れることも、愛する人と家庭を持つことも、結局のところ進むべき方向性は同じなのだから。

 

「最初に責任は取るって宣言しといたほうが良いだろ? 出来ちゃった結婚とか大変だろうし」

「……うん、やっぱキー坊は感覚すれてるナ。つーかずれすぎダ。なんで根は浪漫主義者(ロマンチスト)なのに妙なところで現実主義者(リアリスト)してるんだヨ。花の十代なんだから甘酸っぱい恋愛とかちゃんと経験しとけっての」

 

 確かに男らしいとは思うけどサ、と頭痛を堪えるように額に手をやるアルゴだった。しかしお前がそれを言うかね? 甘酸っぱい恋をさせてくれなかった張本人のくせに。

 

「言ったろ? 愛想尽かされるのも覚悟の上さ」

「……多分、あの子達はそれでも待とうとするんだろうネ。ま、誰がキー坊の心を射止めるのかはわからないけどそれも一つの答えカ」

「何を他人事みたいに呆れてるんだ? 俺がその台詞を言い放つ最有力候補はお前だぞ」

「はい?」

 

 しれっとお前を逃がす気はないと告げるとアルゴは最初理解が及ばなかったのか目をぱちくりと瞬かせ、わずかの思考時間を経て鋭い目つきで俺を睥睨した。今度の紅潮は羞恥や快楽による興奮じゃなくて怒りによるものだな。

 こんな時だというのにその剥き出しの感情に頬を緩めてしまう俺は存外頭の悪い男なのかもしれない。いや、俺が馬鹿なのは今更言うまでもないことだったか。

 

「キー坊、どういうつもりダ! どうしてここまできて……!」

「――俺はお前を好きにならない」

 

 激昂しかけたアルゴをその一言で止める。俺の言葉の内容を理解できなかったわけではあるまい、しかし真意までは理解できず、アルゴは俺への糾弾を止めざるをえなかった。アルゴの表情に困惑が広がっていく。

 

「あまり俺をみくびってくれるな。ここまで来て時計の針を戻そうとするほど未練がましくはないぜ? お前が俺に遺した最後の依頼は間違いなく完遂させるさ。俺はここできっちりお前をフッてやるし、この先お前に惹かれたりしないって約束する。何なら誓約書にサインしてやってもいいぜ?」

 

 そこで笑みを引っ込めて表情を引き締め、真剣な眼差しでアルゴを射抜く。

 

「それとな、ずっとお前に言ってやりたかったことがあるんだ」

「なにかナ?」

「――たかだか15の小娘が知った風な口を利いてんじゃねえよ、耳年増も大概にしておけ」

 

 知ったかぶるのがアルゴの悪い癖だ。問題があるとすればそんなメッキだらけの役割演技(ロールプレイ)に誰も気づいてないことだな。俺もこの世界では実年齢より上に見られたものだけど、アルゴは俺以上に年齢を誤解されている。下手をすれば実年齢より四つか五つくらい上に見られてるんじゃなかろうか? それくらい完璧に《頼れる年上のオネーサン》を演じきったとも言えるわけだけど。

 悪戯好きで、意地が悪くて、皮肉屋の少女。けれど、ここにいるのは意地ばかり張って素直じゃない、そのくせ寂しがり屋な、俺と同い年の女の子でしかなかった。

 こんな世界に囚われていなければ、俺もアルゴも今頃高校一年生を楽しくやっていたんだろうな。

 

「……キー坊、それをここで持ち出すのは反則だゾ」

「だったらどうして俺の前で髭のペイントを外して素顔を晒すなんて真似をしたんだよ。未練が残ってるのは俺だけじゃない証拠だろうが」

 

 いかにも中途半端な振る舞いだと苦言を呈すと、珍しくアルゴは狼狽しているようだった。……あれ、もしかして自分の気持ちに自覚なしなのか? 可愛いやつ。

 

「もう一度言うぞ。二年後の俺は絶対に《鼠のアルゴ》を好きにならない。男一人繋ぎとめておく自信もない小娘なんぞに、そう何度も心を奪われてたまるか。……だから、もうつまらない意地を張るな。気持ちに整理をつけたら遠慮しないで会いに来いよ、俺の元カノとして歓迎してやるからさ」

 

 その言葉にアルゴは目を丸くし、それから息を呑んで――。

 

「にゃハハハッ!」

 

 大爆笑した。

 

「キー坊の癖に生意気! すっごい生意気! オレっちに向かって正面から『ガキに興味ない』とか恐れいったヨ!」

 

 陽気に、朗らかに――けれどアルゴの目尻には涙が浮かびあがり、語尾は震えていた。

 

「こっぴどく振られて安心したか?」

「うん、安心した。キー坊のひどい態度にオレっち泣けてきたヨ。……ほんと、何でキー坊はこんな女泣かせになっちゃったんだろうネ」

「悪いな、今日はとことん自惚れさせてもらうつもりなんだ。ゲームクリアの立役者なんだぜ、それくらいの権利はあるだろうさ」

「……キー坊のばか」

 

 張り詰めたものが切れたのだろう。くしゃりとアルゴの表情が歪み、小柄な体躯にも震えは伝播していく。やがて耐え切れなくなったのか、弾かれたように俺との距離をつめると、無言で俺の胸へと顔を埋めて嗚咽を零し始めた。

 

「……何も言うなヨ」

「ああ、何も言わない」

「オレっちの顔を覗き込もうとするのも禁止。乙女の秘密を暴こうとしたら絶交だかんナ」

「わかってるよ、心配するな」

 

 駄々をこねる子供のような甘え声に自然と頬が緩んでしまう。ようやくアルゴを泣かせてやることが出来た。

 昔、彼女の胸で泣かせてもらった時に、俺はもう二度と泣かないのだと決めた。そして一人の男として、いつかこの優しくも不器用な女の子を、俺の胸で存分に泣かせてやりたいと思ったのだ。それが俺がこの世界で抱いたささやかな夢だった。最後の最後になって、どうにか叶えることが出来たらしい。……魔王を打ち破った時以上の達成感だとか言ったら怒られるかもしれない。

 どれほどの時が経ったのか。震える背中をあやすように撫でている内に、長く引き伸ばされていたログアウトの兆候がアルゴにも現れ始めた。自身の身体に起きている変化に気づいたアルゴが可愛らしく唇を尖らせ、名残惜しそうな様子で身体を離す。

 

「むぅ、残念。最後までキー坊と一緒ってわけにはいかないみたいダ」

「そうだな。これでお前ともお別れだ」

 

 短く、けれどはっきりと別れを口にして、お互いの唇に小さく笑みを刻んだ。不敵に、素っ気なく、けれど真心を込めて――。

 

「じゃあな、キー坊。大好きだったゼ、オレっちの愛した黒い王子様」

「またな、アルゴ。大好きだったよ、俺の愛した俺だけのお姫様」

 

 俺達は恋人でもなければ夫婦でもなかった。では何だと問われれば、『お互いに片思いをしていただけだ』と答えるのではないだろうか。こうして最初で最後の《好き》を二人して過去形でしか口に出せなかったのだから、この結末は素直になれなかった二人が紡いだ、ひねくれた恋に相応しい終わり方だったのだろう。

 さてさて、次に会う時俺達はどんな関係を築くことになるのやら。再会は雪の降り積もる冬の日か、桜吹雪き薫風舞う春の日か、あるいは――。

 いずれにせよ楽しみでもあり、怖くもある。なにせ最後の最後まで蛇足をつけたがるのが俺達なのだから。

 

「そうそうキー坊、一人寝が寂しくなったらオレっちに会いに来なよ。結婚を前提としない大人の関係でよければ、いつでも付き合ってあげるからサ」

「ばーか、悪女を気取るのは十年早えよ。というか、あっちではそのキャラ通さないはずだろ、お前」

「にゃハハハ、気にしない気にしない。ま、精々男を磨きなよ、キー坊。最低でもオレっちがあっちでも処女を捧げたくなるくらいまでは頑張ってくれよナ」

「そういうお前は、俺が口説きたくなる女になってくれるんだろうな?」

 

 愚問だネ、と聞こえた気がした。

 光が消えた後には静寂が残る。アルゴが去り、俺以外に誰もいなくなったアインクラッドは何とも物寂しい空気が流れていた。このままログアウトできなかったらすぐに発狂してしまいそうな静寂だ。縁起でもないと苦笑を浮かべ、その時になってふとやり残した事に気づいた。

 善は急げとばかりに剣帯を解いて背から鞘を外し、目の前で黒の装飾を施された愛刀を引き抜く。残念ながらリズの作ってくれたダークリパルサーは既に天命を使い果たして無に還ってしまったが、それでも尽きせぬ感謝の気持ちは変わらない。残ったエリュシデータを逆手に握り、勢いをつけて黒塗りの刀身を地面に突き刺す。

 

「お前にも世話になったな。今日までよく戦ってくれた、ありがとう」

 

 威風堂々と屹立する刀身は日光を反射して鈍く輝く。それを見届けてから剣の傍らに大の字で寝転んだ。

 アルゴは《鼠》をアインクラッドに置いていくといったが、俺も気持ちは似たようなものだった。《黒の剣士》の役目はもう終わったのだ、ならば剣と共に剣士も眠らせるのが道理だろう。

 ここが《黒の剣士》の終焉の地であり、魔王を切り伏せたエリュシデータが《キリト》の墓標となる。それで良いし、そうであるべきだった。

 

 寝転んだまま、瞼を閉じて身体から力を抜いていく。まだ日は高いが、さすがに今日は疲れた。

 このまま一眠りしてしまえば次に目覚めた時は病院のベッドの上だろう。そんなことをつらつらと考えている内に、本当に睡魔が忍び寄ってくるのだから俺も暢気なものだった。やがてまどろみの中、アバターに光の粒子が纏わりつくのを確認し――ああ、ようやく帰れるのだと安堵の吐息を漏らしたのだった。

 

 

 

 

 

 気がつけば空の上だった。

 未だ太陽は高く輝く刻限だというのに、俺の目に映る空は斜陽の時を迎え、黄昏に染まる一面の夕焼けが広がっている。それは黄金に輝く稲穂の海かと見紛うほど圧倒的な景観だった。昼と夜の隙間で燃えあがる鮮烈な赤の色彩が眩しく視界に灼きつき、眼下には分厚い雲の絨毯が敷かれている。

 よくよく目を凝らして足元を観察すれば、そこは透明な水晶床が足場になっているのがわかった。黄昏色の幻想が織り成す空中庭園はえも知れぬ美しさを奏で、荘厳華麗な彩りに満ちた景観が立ち尽くす我が身に重力を解き放った浮遊感をもたらす。それはまるで空を住居とする天界の種族に生まれ変わってしまったかのようだ。

 

 視界の先、遥か彼方には崩落して行く巨大な石と鉄の城――浮遊城《アインクラッド》の姿が視認できた。風が微かに運びくる崩壊の音色を耳にし、塔が、街が、山が、森が、湖が、あらゆる建物が崩れ落ち、無に還ろうとしている様を目の当たりにして、本当に全てが終わったのだと胸に実感が染みこんでいく。

 

 されど待ち人は未だ訪れず。

 

 客人のもてなしがなってない浮遊城の主のせいで見事に肩透かしをくらい、泣く泣く無聊を(かこ)つことになってしまったため、彼方の浮遊城が朽ち行く様をじっと眺めやることで暇を潰していた。長きに渡り暮らしていた世界の終焉に、俺自身もう少し感傷に浸れるかと思ったものだが、生憎とそうでもなかったらしい。心は平静のまま無感動を保ち、箱庭の終わりを見届ける双眸は冷めたものだった。

 

「ゲームクリアおめでとう、キリト君」

 

 22層のログハウスが崩れ落ちたところで不意に背後から声をかけられた。突然現れた気配にやっぱり生きてやがったか、と内心で諦観の溜息を一つ。公平性を謳うなら俺らと同じリスクを背負えとか、この期に及んで俺に一体何の用だとか、どんな台詞で詰問するべきか思案に耽りながら、ゆっくりと振り向く。

 

 そこには清潔そうな白いシャツに簡素な柄のネクタイを締め、その上に白衣を羽織るいかにも研究者然とした男が佇んでいた。理知的な瞳に柔和な光を湛え、ぴんと伸びた背筋が痩身ながらも健康的なゆとりをもたらしている。顔はヒースクリフと似ても似つかないと思うのだが、それでもどこかに面影があるように感じるのは、そのどちらもが常人とは異なる超然とした空気を纏っていたからだろう。

 目の前の男こそが俺達の二年を奪った黒幕であり、自らの作品であるソードアート・オンラインをデスゲーム化させ、一万人を虜囚にした張本人だ。最終的に三千近い死者を出す空前絶後の大事件を引き起こした首謀者。まさに狂気の犯罪者と呼ぶに相応しい男――名を茅場晶彦。

 

 この二年間、敬し憧れ、憎んで見上げた全ての元凶は、透明な笑みを浮かべて俺と相対していた。その澄んだ瞳と満足しきった表情がひどく腹立たしく思えて、どうにも心がささくれ立つのを止められない。よくも俺の前に顔を出せたものだ。その厚顔無恥さと傍若無人さは留まることを知らない、感心するやら呆れ果てるやらである。

 結局、胸に渦巻く感情がごちゃごちゃと絡みあい、無愛想な顔をして迎え撃つくらいしか出来なかった。

 

「祝辞はありがたく受け取っておく。けどな、今更何の用だ? 俺はもうあんたの顔も見たくないんだが?」

「相変わらず手厳しいな、君は」

「本気でそう思ってるなら一度頭の中を診てもらってこい。多分世の中が少しだけ平和になるから」

「ふむ、世界平和に貢献できるのならば考える余地はあるな」

 

 また溜息が出た。

 

「実行に移す余地はなさそうだけどな。……本当に何の用だ、茅場。まさか俺と仲良くお喋りしたかったわけじゃないだろう? さっさと用件を言え」

「特にこれと言った理由はないよ。キリト君はこの世界を生き抜き、終わらせた英雄だ。そんな君と最後に話しておきたくてこの場を用意させてもらった。現実世界への帰還が少々遅れることはご容赦願うよ」

 

 本気かと一瞬眉を顰めたものの、詮無き事かと思い直す。アインクラッドの創造と終焉。二つの本懐を果たした男の言葉を今ここで疑うのも馬鹿らしいし、その必要があるとも思えなかった。お互い自身を偽る理由は喪失していたのだ、ここで虚言を弄する意味など何処にもない。

 

「他の連中のログアウトは無事終わったのか? それさえ聞かせてくれればあんたの酔狂にも付き合ってやるよ」

「ありがとう。生き残りプレイヤーについてだが心配はいらない。私と君を除く7102人のプレイヤーがログアウトを完了した事は既に確認している。彼らは今頃何処かの病院で目覚めているはずだ」

「そうか、よかった」

 

 ほっと胸を撫で下ろす。今しがた口にした通り、それさえ聞ければ十分だ。今の俺は機嫌が良いため、少しくらい譲歩してやろうという気にもなれる。初めから選択肢がないとか言ってはいけない、気にせずゴミ箱にポイである。

 

「あの城だが――」

 

 と、茅場が俺から視線を外し、遠くに聳える石と鉄の城のほうへと身体ごと向き直った。俺も合わせて崩壊中のアインクラッドを改めて目に映した。巨城の崩落は止まらず、下の層から順々に剥がれ落ちていく。既に体積の半分近くが瓦礫と化していた。

 

「ソードアート・オンラインを稼動させているメインフレームはアーガスの地下五階に設置されていてね。今はその記憶装置でデータの完全消去作業を行っているところだ」

「なるほど、城の崩落状況がそのまま作業の進み具合になってるわけか」

「そういうことだ、なかなか凝った演出だろう?」

「絶景ではあるな」

「そういってもらえると嬉しいよ。一人で見届けるのは少々寂しかったからね。それでどうだったかな、あの世界は。楽しんでもらえただろうか?」

 

 そんな台詞を臆面もなく言えるお前を尊敬するよ。叩き斬ってやりたい。

 

「それは娯楽としてか? それともデスゲームとして?」

「ではエンターテインメントとしての評価から聞こう」

「俺はこの二年、剣を振ることに明け暮れてたからな。あくまで戦闘方面の意見に留めておくけど……現実世界とは異なる法則を持ち込んだ、という意味では斬新な世界観になってたと思う。HPの概念とソードスキルの意義、この二つを持ち込んだことで既存の常識は通用しなくなった。例えば現実世界の格闘技を修めた経験も、仮想世界で場合によっては不利に働く。この事だけでも相当面白い試みだったはずだ」

「異なる法則か……」

 

 何が奴の琴線に触れたのかは知らない。茅場は俺の言葉に深く考え込むような仕草を見せたが、気にせず続けてしまう。

 

「現実世界の歴史――剣術諸流派の勃興と衰退の中で、変わらずその根底にあった理念が《一撃必殺》だった。この根本思想は現代の剣道にも脈々と受け継がれている。そもそも刃物で切り付けられれば人は死ぬし、そうでなくても大怪我確定なんだから、悠長に防ぐとか避けることを考えるよりは、先手を取る必勝の理を突き詰めた方が合理的なわけだ」

 

 誤解されがちなのだが、カウンターだとか返し技というのはあくまで『仕掛けのタイミングを見切って機先を制する術理』を指すわけで、言うなれば実力の高い側しか成功させることの出来ない戦機だったりする。つまりは強者の技なのだ。アインクラッドでは《聖騎士》が得意とした戦術でもある。

 剣理の帰結として実戦では受身に回った側が圧倒的に不利になるし、一般的な意味で使われている『後の先』の戦い方――『攻撃を受けてから反撃する』のは敗北必至の悪手でしかない。

 

「だが、アインクラッドに現実の武芸百般をそのまま当てはめることは出来ない、HPの概念があるからだ。タンク型のような『頑強さを武器に戦うスタイル』が成立するのはそのためだな。まあ、それ抜きにしても現実世界を生きる人間の身体能力と、仮想世界に存在するプレイヤーの発揮できる身体能力には大きな差があるから、この前提条件を考慮することなく技術の優劣を語る事自体ナンセンスに違いないわけだけど」

 

 少々語弊はあるが、プレイヤースキルの足りない人間はタンク型を参考にするのが一番理に適っていると思う。現実世界では敗北必至の戦術でもアインクラッドでは十分に通用する。それどころか主流ですらあるのだ。

 一事が万事この調子なのだから、つまりは世界が違う、法則が違うという根本的な問題を理解しない限り、この世界では強者足り得ないのだった。

 

「現実とは異なる新たな戦術の構築か。キリト君は火力至上主義を念頭に置く戦闘スタイルを選んだのだったな」

「それが一番デスゲーム攻略に適したスタイルだと思ってな」

 

 やられる前にやれ、あるいは攻撃は最大の防御。

 

「生き残りを賭けた最善は敵と戦わないこと、次善がHPを減じる可能性を徹底排除することだった。回避でも防御でもなく、短期決戦を図ることで相手の攻撃の機会そのものを潰す。それが俺の基本戦術だからな、結果的に俺の命も仲間の命も守れる」

「ふむ、確かに合理的だ」

 

 感心したような口ぶりの茅場だったが、その程度は俺に言われるまでもなく理解していたはずだ。その上で攻勢戦術を選ばなかった。《聖騎士》が英雄として君臨するために、多くの味方を直接守り感謝される絶対の盾となって皆を鼓舞する必要があったのだろう。

 俺は戦死者を減らすためにダメージディーラーとして戦闘時間の短縮を目指し、ヒースクリフは自身のシナリオを作るために実力を見せつけ、戦場を共にするプレイヤーを守る必要があった。つまりはそういうことだ。

 

「ソードスキルシステムは良く出来てたんじゃないか? あれのおかげで戦闘に不慣れなプレイヤーも最低限戦えてたからな。トッププレイヤーになるにはソードスキルに頼りきりじゃ無理なんだし、絶妙なバランスってやつを実現してたと思うぜ」

 

 故にこそ剣の世界であり、剣が全てを決する物語足りえた。

 

「ソードスキルは火力に秀でている代わりに隙が大きい。通常攻撃は自由度が高い代わりに火力不足だ。だからこそ上を目指したいならどちらも使いこなしてやる必要がある。ソードスキルに頼りきりなプレイヤーを『下手くそ』と呼ぶのなら、プレイヤースキルにこだわって通常攻撃に耽溺するプレイヤーは差し詰め『愚か者』だな。どっちもボス戦じゃ使い物にならん」

 

 前者はプレイヤースキルの不足から攻撃を通すことが出来ず、後者は純粋に火力不足だ。

 火力が足りなければレベリングに支障を来たすし、仮にレベルが十分でもボスの強靭さを前にすれば碌にダメージを与えられない。結果的に味方の足を引っ張り、戦闘時間が延びて犠牲者を増やすことになる。

 

「君は言葉を飾らないね」

「遠慮のいらない相手だからな、普段はもう少し取り繕ってるよ」

「光栄と思うべきかね?」

「さてな」

 

 苦笑を漏らす茅場にひょいと肩を竦める。お好きにどうぞ。

 

「諸悪の根源に非難される謂れもないぞ。俺はデスゲーム下での生き残り策を踏まえて実力不足や多様性を否定してるのであって、普通のゲームだったならこうも悪し様に貶したりしないさ。俺自身縛りプレイを率先して楽しむだろうし。そういう意味じゃ決闘のオプションにソードスキル禁止モードがあっても良かったな」

「なるほど、それは考えたことがなかったよ。残念ながら今後の参考には出来ないがね」

「……そりゃそうだろうよ、もう日本国内にあんたの居場所なんざ残ってないんだから」

 

 気にした風もなく笑う茅場に、自然と俺の目つきも険しいものに変わっていく。どうしてこの男は人の感情をこうも逆撫でしてくれるのだろう。どうしてこんなにも――平然としていられるのだ。

 

「なあ茅場、お前は一体何がしたかったんだ。どうしてこんな大それた事件を引き起こした」

「……風がね、吹くのだよ」

 

 茅場は俺の問いにしばし沈思してから、崩壊するアインクラッドを見つめてぽつりとつぶやく。

 

「風?」

「そう、風だ。ここはお前の生きる世界ではないと、常に私の耳に告げて魂を風化させようとする……寂しさを乗せて吹く風だ。いつしか私は、その風を翼に受けて心に焼きついた世界へと旅立つ夢に囚われた。――あの、空に浮かぶ巨大な城にね」

 

 フルダイブ環境の開発を知る以前から囚われていた夢なのだと茅場は言った。同時に、いつか飛び立つために引きちぎらねばならない足枷も感じていたのだと。

 

「破綻した夢だと知りながら、それでも私には信じる以外の道はなかったのだよ。それが茅場晶彦なのだと悟ってしまったのは何歳の時だったか。あるいは、狂わずして叶う夢に価値を見出せなかったのかもしれないな。……キリト君、私は今でも信じているのだ。ここでないどこかには、必ず私が見た城が存在するのだとね」

 

 哀れだと思った。茅場は全てを投げ打って唯一を求めたのだ、醒めない悪夢に命を委ねてまで――。

 後戻りできなかったのかと問う気にもなれない。地位も、名誉も、富さえも、この男には何の価値もなかったのだろう。いや、『あの世界』を作り出す手段としての価値しか認められなかったのか。

 

「狂人の戯言だな」

 

 投げ遣りに吐き出す言葉すら億劫だった。

 

「三千人だぞ、あんたの妄執のためにそれだけの人が亡くなったんだ。彼らを生かして帰す選択肢は本当になかったのか?」

「残念ながら、どんな世界でも死者は消えねばならない。だからこそ命は尊く、決して軽々に扱うことなど許されはしないのだ。その普遍の理を侵すことは命への冒涜だよ」

 

 故に彼らの魂は還らない。そう言って賢しらな言を結ぶ茅場に、カッと頭に血が昇る。激情を押さえつけることもせず、ただただ茅場をきつく睨み据えた。

 

「あんたがそれを言うのか! 誰よりも命を軽くしたあんたが……!」

「死は誰にでも訪れる。良き死も、悪しき死も。そこに例外はない」

「違う! 俺が言ってるのはそういうことじゃない!」

 

 届くはずがないと知りながら、どうして俺はこんなにも猛っているのだろう。頭の冷静な部分がそんな冷めた諦念を吐き出していたが、構わず続けた。意味なんてない。俺が言わずにはいられないだけだ。

 

「チュートリアルの時にあんた言ったよな、既に213人の死者が出てるって。悲惨だと思ったよ、最初に死んだ連中は俺達のように生きるために努力することすら許されずに殺されたんだからな。彼らは不幸な行き違いで死んだんじゃない、デスゲームを成立させるための生贄だった。あんたは彼らを人柱とすることで、現実世界からの干渉を断ち切ろうとしたんだ」

 

 茅場は一万人の人質を取り、実際に大量の死者を出すことで虚仮脅しではないのだと証明した。その唾棄すべき手段によって、政治的、人道的な面で現実世界側からの救出を牽制ないし封殺したのである。

 

「チュートリアル以降に出た戦死者だって同じ理由だ。俺達にデスゲームだと理解させるだけなら、戦死者をアインクラッドとは別の空間に幽閉しておけば済む話だったんだからな。あんたがそれをしなかったのは、継続的な犠牲者を出すことで現実世界に警告を発し続ける必要があったからだろうが」

 

 デスゲーム存続のためには現実世界に『目に見える犠牲』を示し続けねばならなかった。たとえ茅場が《本物の異世界の創造》のために、紛い物ではない死を必要としていたのだとしても、そんなものはそれこそ茅場の都合でしかない。

 

「自分の都合で三千人殺しておきながら、命は軽くないだの死は普遍だの、よくも恥ずかしげもなく言えたもんだな。不愉快だぜ、茅場」

 

 目的のために本物の死を望み、手段のために大量虐殺を選んだ。それこそが茅場晶彦――常軌を逸して妄執に憑かれた怪物の名だ。

 俺の侮蔑にも茅場は何も反応を返さなかった。怒りに声を荒げることも、沈痛に表情を歪ませることもなく、ただそこに黙して在り続ける。凪いだ顔で、大部分が崩れ落ちたアインクラッドを見つめていた。

 その様を目の当たりにして急激に頭が冷却される。どこまでも俺の独り相撲でしかない、その事実を前に空しくなった。

 

「……茅場晶彦は間違ったよ、あんたはどこまでも一人でよかったんだ」

 

 誰にも理解されないまま一人でいるべきだったのだ。寂寥に喘いで、凍える寒さに身を震わせて、それでもあんたは一生孤独を貫くべきだったんだよ。

 

「なまじ他人に共感なんて望むからこんな結果を招く。馬鹿馬鹿しい、あんたの世界はあんた一人で完結させておけ。それで良かったし、そうであるべきだった。――茅場晶彦の都合を俺達に押し付けるなっ!」

 

 乾いた心を世界に押し付けるな、変えようのないものを力ずくで押し潰してまで否定しようとするんじゃない。

 そんな俺の弾劾も、やはり茅場には届かない。叫び。嘆き。その全てが空しく消えていくだけだ。そんなお前が大嫌いだよ、茅場晶彦。

 

「私は間違った、か。ふふ、君の言う通りなのだろうな。だがね、私はこの結果に満足してしまったよ。間違いを正す術など、とうの昔に忘れてしまったのだろうな」

 

 満足したと茅場は言った。嘘じゃないだろう、この男が今浮かべている顔は、ヒースクリフが最後に見せたものと同じものだった。満ち足りた、未練など何一つとしてない、そんな顔だ。夢に溺れた末路だとしても、どうせそれだけでこいつは満足したのだろう。こんな結末を描ききって、こんな最後を迎えて、それでもあんたは満足しきったのだろうさ。

 

 ――最低にして最悪の勝ち逃げだ、禄でもない……!

 

 こうして直に言葉を交わして胸に去来するのは『やってられない』という投げ遣り極まる心境でしかなかった。

 この結末だって滑稽極まりない幕引きとしか思えない。だから俺は否定する。かつて憧れた男の辿った軌跡と、俺が辿ったかもしれない可能性を、決して肯定などしない。

 

「俺はあんたにはならない。あんたが無価値と切って捨てた世界で、噛り付いてでも生を全うしてやる。それが俺からあんたに送る餞別だ」

「それもいいだろう、君の行く末に幸多からんことを願っている。……最後に君と話せて良かった。そろそろ私は行くとするよ」

「待てよ」

 

 振り向く茅場にふてぶてしい笑みを向ける。

 

「まだ何か言い足りないことがあったかな?」

「ああ、とびっきりの文句があるぞ。あんた主催のデスゲームに二年付き合って、その上ゲームクリアをした勇者なんだろう、俺は? それだけ働かせておいてクリア報酬の一つもないのかよ、ケチくさい男だな」

 

 俺の不遜な要求に茅場は最初呆気に取られたように目を見開き、それから泰然とした佇まいを崩して楽しそうに笑い出した。

 

「やはり君は面白いね。……いいだろう、少々待ってくれたまえ」

 

 おや、ほんとに何かくれるのか? そういえばこの男、冗談が通じなかったか。まさかこうも真面目に受け取られるとは思わなかったから、今更ただの嫌がらせでしたとも言えない。澄ました顔で鷹揚に頷き、無言で作業の終わりを待つ。……やばいものなら後で捨てておこう、呪われたら嫌だし。

 そんなことをつらつら考えていると、不意に茅場が腕を振った。すると銀色に輝く卵型の結晶が出現し、ゆっくりと宙を滑って俺の手に収まる。掌の上では結晶が微かに明滅していた。

 

「これは?」

「《世界の種子(ザ・シード)》と名付けた。フルダイブシステムを完全稼動させるための制御プログラム群だよ。そこそこの回線さえ確保できれば誰にでも仮想世界を構築できるお手軽ソフトを開発していたのだが、この卵はプログラムソフトを起動するための《鍵》として用意した。本体はデータチップに落として後々君の手に渡るようにしておこう。その受け渡しをもってゲームのクリア特典報酬とさせてくれたまえ」

 

 茅場の説明を聞くにつれ、顔は強張り頬も引きつっていくのを自覚した。この男、なんて危険なものを渡しやがる。俺の好きにすれば良いと言われてもな……。さて、どうしたものだろう?

 そんな風に戸惑う一方で、毒食らわば皿までと少々リスキーな思考も顔を覗かせていた。ユイの事や俺自身の将来に思いを馳せ、この危険物も上手く使えば大きな武器になるであろうことを踏まえると、軽々に破棄するのも考え物だ。

 

 何にせよまずは情報収集だな。この二年で世の中がどう変化したのか、俺達がこれからどう扱われるのか。MMOを取り巻く環境以外にも確認すべきことは山ほどある。まずはきっちり現状把握に努めよう、動くのはその後だ。

 思索に耽っていたのは極々わずかだったはずだが、俺が顔をあげた時にはもう茅場晶彦の姿は何処にもなかった。物音一つ残さず忽然とその姿を消していたのである。

 

 ――さらばだキリト君。縁あらばまた会おう。

 

 一陣の風が聞き覚えのある声を持ち寄り、空耳だと告げるようにあっさりと吹き抜けていく。

 その時、俺もまた空中庭園を後にする刻限が訪れたことを知った。

 

 茅場は旅立ったのだろう。おそらくは死ぬまで、あるいは死んでからも自身の望む城を求めて彷徨い歩くのだ。身勝手なまま、狂おしい渇望を抱いたまま、一人終わることのない旅路を往く。それが現実を生きることなく幻想に取り憑かれたあの男が見据える、いつか惨めに消えていく未来なのだろうと思う。

 

 もう一度、口の中で小さく繰り返す。俺は怪物(あんた)にはならない、と。

 

 視線を巡らせ、空の彼方に焦点を動かす。雲と共に浮かんでいた巨城も既に崩れ落ちてしまったのだろう、アインクラッドの威容は確認できなかった。そう、あれほどの巨大建造物も綺麗さっぱり消えて、俺の目に映るのは夕焼けに染まる広大な天の原だけだったのである――。

 

 

 

 

 

 一度死んで蘇って、帰れると思ったら上空高くに呼び出されて、三度目の正直で目覚めた先はさすがに現実世界のようだった。筋肉が萎縮しすっかり骨と皮だけになってしまった身体と、落ち武者かと思うほど無造作に伸びてしまった長髪、そして病院を示す消毒薬の匂いがここはアインクラッドではないことを教えてくれる。あの世界ならば身じろぎするのにこれほど苦労することもない。

 俺が裸で横たわっていたベッドはジュル素材の変わった形をしていた。そういえば寝たきりの患者を介護する画期的な発明がなされたとか昔話題になっていたことを思い出す。皮膚の炎症を防ぎ、老廃物も分解してくれるというのだからすごい。こうして世話になった身としては開発者様様である。

 

 ゆっくりと身体を起こし。改めて周囲を確認する。急な光に慣れていない視界はぼんやりと滲んでいたが、備え付けの棚の上に果物が幾つか置いてあるのを見つけた。

 俺が寝たきり状態になっても見舞いに欠かさず訪れていてくれたのかと、安堵と謝意、家族への尽きせぬ感謝が止まらない。つうっと頬を流れる水を自覚し、今までのように我慢しようとせず、自然と湧き出す気持ちに委ねることにした。つまらない意地を張るのはもういいだろうと苦笑を零す。

 

 程なく医師や看護士が駆けつけ、検査やら問診が始まってしまう。関係各所への連絡は病院側でしてくれたらしいので、俺は弱った身体に鞭打って彼らに協力するだけだった。

 安静にと言い残して医師が出て行ってから小一時間ほど経った頃だろうか。戸惑いがちにドアを二度ノックする音が耳に届く。了解を伝えると扉越しにひゅっと息を呑む気配を感じ、そのまましばしの沈黙。やがて意を決したのか、おずおずとした様子で制服姿の少女が病室に足を踏み入れた。

 

 桐ヶ谷直葉。俺の血縁上の従妹であり、戸籍上の妹だった。

 懐かしさに目を細め、穏やかに彼女を迎え入れる。眉の上で一直線にカットし、肩口で切り揃えた黒髪は以前のままだ。しかしながら、昔はやんちゃな印象を与えていた勝気そうな瞳ときりりとした眉も今は気弱げに垂れ下がり、その不安そうな眼差しと相まって一瞬スグなのかと目を瞠ったくらいだった。

 スグが俺の二年を知らないように、俺もこの二年スグがどう過ごしたのかを知らない。とりあえず急激に女性らしい柔らかさを身に着けていたことは間違いなさそうだ。背も伸びているし、身体も女らしい曲線を帯びている。極めつけはアスナやリズに匹敵しそうな豊満な胸に驚かされ――そろそろ止めておこう。

 

「……お兄ちゃん? 本当にお兄ちゃんだよね?」

「ああ、桐ヶ谷直葉の不肖の兄、桐ヶ谷和人だ。ちゃんと足もついてるぞ」

 

 そんな不埒な兄の内心など露知らず、およそ二年ぶりに再会した妹は緊張に強張った顔に憂慮を浮かべた瞳を覗かせていた。それでも俺が目覚めてしっかり受け答えしている姿に安堵したのか、泣き笑いのような顔でふらふらとベッド脇まで近づく。そうして震えた手で恐る恐る俺の左手を包み込むと、声を殺して泣き出してしまった。

 ほんと、俺はなんでこんな良く出来た妹を遠ざけてたんだろう。もう何というか、あまりに健気なスグの様子に昔の自分を縊り殺してやりたくなった。

 

 スグと顔を会わせたらどんな顔をして今までの不実を謝ろうか。

 そんなことばかりを考えていたのに、こうして妹と面と向かい合い言葉を交わしている内に、別の欲求が生まれ出てきてしまった。考えてみれば唐突に謝罪なんてされてもスグは迷惑だろう。今は別の気持ちを届けるのが正解だ。

 右手でスグのさらさらな髪に優しく手櫛を入れ、まずは落ち着かせようと飽きることなく撫で続けた。それからゆっくりと言い含めるように口を開く。

 

「――ただいま、スグ」

「――おかえりなさい、お兄ちゃん」

 

 健気だ、本当に。

 スグはどうにか顔をあげると、涙でくしゃくしゃにしながらもにこりと笑顔を浮かべ、出来る限りを尽くして俺に応えてくれたのだ。身体が自由に動いたなら力一杯抱きしめていたかもしれない。それくらい感謝の気持ちが湧き出て止まらなかった。

 ありがとう、と続けた俺に、スグは幼げな仕草でこてりと首を傾げてしまう。そんな妹の純朴な様を目にして、気づかれぬよう苦笑を浮かべる。

 囚われた二年と、それ以前の数年。スグとの間に作ってしまった溝は決して浅くはないけれど、それはこれからゆっくり埋めていけばいい。穏やかな心境でそう思えるようになれたのがとても嬉しかった。

 

 きっと俺はこの時になって初めて、現実世界に帰還したことへの実感を得た。本当の意味で喜ぶことが出来た。ただいまと告げて、おかえりと応えてもらった事で、やっと俺の二年間に終止符を打つに至ったのだろう。仮想世界に逃げ込んだ二年前には思いも寄らなかった心の声も、何の憂いもなくこの胸に受け入れることが出来る。

 今はただ、この幸福な現実を噛み締めよう。それが俺の勝ち取った最大の報酬なのだから。

 

 

 

 ――帰ってきた、この世界に……っ!

 

 

 




 全24話をもちまして《ソードアート・キリトライン》堂々の完結です。
 初投稿は暁様で2013年9月、その後ハーメルン様に引っ越してきたのが2014年2月、最終話更新が2015年1月ですから、完結までにかれこれ一年半近く費やしてしまいました。初期からお読みくださっていた方、こちらに移ってからお読みくださった方、等しく感謝を捧げさせていただく次第です。最後まで当作品にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

 では恒例の補足です。
 最終話で『アルゴの年齢=キリトと同い年(誕生日はキリトが先)』と明かしましたが、彼女は公式では未だ年齢不詳です。あくまで拙作独自の設定としてご承知おきください。
 参考までに拙作では、アインクラッド終了時点でキリトとアルゴが高校一年生、アスナとリズベットが高校二年生、サチが高校三年生、シリカが中学二年生、直葉が中学三年生となりますね。サチも公式では、アインクラッドにログイン時点で高校生と表記されているだけで正確な年齢はわかりませんし、全員の誕生日が判明しているわけでもないので学年表記とさせていただきました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。