死者に祈りを、兵には讃歌を (兎坂)
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Prologue
閉ざされた地獄にて


 無機質な施設の内壁を、緊急事態を示す赤色灯が舐めあげる。

 

 施設を管理するシステムが、異常事態を察知して施設全体をロックダウンしたためだ。通常の照明がダウンし、補助電源に切り替わってもう半日。つい先程まで聞こえていた保安職員の抵抗を示す銃声も、換気ダクトを通じて聞こえてきた悲鳴を機に一切が途絶えていた。

 

 つい四八時間前までは職員が行き交っていた通路は血に染まり、すぐ目の前、研究室のロックされたドアにもたれかかるようにして、同僚の女が息絶えていた。

 

 アリッサ・ヘムズワースの人目を惹くほっそりとした横顔に、深い悲しみと憐憫の色が浮かんだ。それを見る者がいれば、彫像のように美しい横顔に目を釘付けにされただろうが、もう長らくこの施設内で人とは出会っていない。事態が悪化して以来シャワーを浴びる余裕もなく、血のついた指でかき上げた色素の薄いブロンドの髪先が、かすれた赤褐色に汚れていた。

 

 もたれかかっているのはレイラの亡骸だった。若いが優秀な研究員で、アンブレラにヘッドハンティングをうけてここへ来た。遺伝子学の若き天才の一人。一人で暮らす病弱な母親の養育費と治療費を稼ぐのだと息巻いていたのを思い出す。

 

 この研究施設が閉鎖され、漏洩と感染の拡大が抑制不能となってなお、最後まで母親の心配をしていた。最後に見たのは、死んだ保安職員の銃を手にし、外部に連絡を取りに行くと言った彼女の背中だった。

 

 結局、外部との唯一の通信を可能とする管理室へたどり着いたのは、サンプル保管室への迂回路を取った自分だけ。レイラの恐怖に引きつった瞳の白い濁りを見、弾の切れた拳銃を握りしめ、喉を深々と鋭利な刃物でえぐり落とされた彼女の首の傷跡を確かめる。

 

 喉から吹き出た血はすでに固まっており、ほとんど一瞬、たったの一動作で切断されたことを伺わせた。首はうなじの皮膚以外を残さず、鮮やかに切断されている。保管されていたαタイプが脱走し、施設を闊歩している証。脱落しかけの頭部を、あるべき位置へ戻してやる。

 

 保安職員が全滅するわけだわと内心にため息を吐き、最後の瞬間まで母思いだったのだろう、心優しい娘のまぶたを下ろしてやる。首が落とされていては()()心配はない。

 

 もう、生き残っているのは自分だけだろう。

 

 アリッサは切れ長の瞳に苛立ちをにじませ、右手に握る拳銃を意識した。ベレッタ84FS、護身用と“失敗作”の緊急無力化措置のために会社に要求した中型のオートマチック。

 

 装填している分と、使いかけの弾倉が一本。保安職員の持つ9ミリ・パラベラムと同口径だが威力の劣る.380ACPを詰めたそれだけが、今彼女の命を保証するものだ。

 

 そこまで考えて、足に擦りつく毛並みの感触が思考を断ち切った。

 

「わざわざ起こしておいて考え事だなんて、良くないわね」

 

 足に絡みつく白い毛並み。ゴワゴワとしているが、しかし肌触りのいいそれ。腰丈程はある大柄なシルエットは、ウルフドッグのそれだが、体長は二メートルにせまるほど。

 

 ソレは自分の成果の結晶。他のセクションで開発される()()はいずれも不安定で制御性が著しく低い。スタンドアローンでありながら、コントロール不能な兵器などナンセンスの塊であり、他の施設と独立したこのラボではその兵器らをより高い制御水準へ持ち上げることが目的とされた。

 

 その結果生み出されたのが、このウルフドッグだ。軍用犬は兵器の買い手である軍組織にとって馴染み深い生き物であり、異形というより他ないアンブレラの他の産物に比べて、外見の醜悪さにより買い手が拒否反応を示すこともない。

 

 結局、雇い主のアンブレラが求める変異性と攻撃性に欠けるとされ、あくまでサンプル止まり、量産もされなかった個体だが、制御性能に関しては申し分ない。開発としつけを受け持ったアリッサの言うことを忠実に守る忠犬。目に見えて特異性を示すのは、そのひどく大柄な体躯だけだが、その体内には調整を受けたTの系譜がたっぷりと注ぎ込まれている。

 

「心配無いわ、アル。あなたがいるもの」

 

 飼い主の不安を嗅ぎ取ったか、向けられる忠犬の眼差しがほんの僅かな嫉妬をにじませた気がして、アリッサは鼻先を押し付ける大きなそれの首筋へと手を触れた。そうだ、自分にはベレッタ以上に頼るべき我が子がいる。

 

 開発の結果高い知能を有することになったソレ。安定性は高いものの、Tブラッドを有する個体。アンブレラから変異性の低い失敗作と目されていようと、生命の危機に陥るか、何かのトリガーで変異を迎えないとも限らない。

 

 それでもアリッサが保管室へ向かってアルを目覚めさせたのは、この状況で拳銃以上に頼れる手札はこれしかないと判断したからだ。それに、とすり寄るアルを撫でながら内心に呟く。

 

 人との意思疎通などできようもないバケモノども、タイラントシリーズやαの系列とちがい、唯一自分で最初から手掛けたB.O.W。愛着がないわけがない。最低限度、意思疎通が図れるのならなおさらだ。Tに感染して変異しただけの“ケルベロス”などという大仰な名の駄犬とはわけが違う。

 

「行きましょう、外部との連絡は取れたわ。あとは……私達に運があれば、あるいは」

 

 アリッサはしばらくアルの毛並みを撫でてやると、おもむろに立ち上がった。先程苦労して入った管理室で、外部への連絡を行ったばかりだ。一つはアンブレラ、そしてもう一つは……。

 

 外の状況は不明だが、アンブレラはこの状況下では信用に値しない。管理室のログを見る限り、この施設のロックダウンは外部のマスターコードによって発令されていた。意図的に閉じ込められた可能性すらある。

 

 今自分が信用できるのは、もう一つの連絡先。

 

「もうすこし、得られるものがあったはずだけれど」

 

 誰にでもなく呟く。アンブレラという強大で底なしの狂気を孕んだ一大企業、その中身を余すことなく見聞し、すべきことを理解したアリッサが外部へのコンタクトを取って一年と少し。

 

 政界にすら深く食い込むアンブレラの目をかいくぐり、少しでも信頼できる接触先を見つけるのに苦労した。本来ならもう少し手土産になるものを用意したかったが、こうなっては仕方がない。

 

 命に代えられるものはない。あとは、こちらのために工作員を現場に忍ばせたというコンタクト先が、自分にどこまでの存在意義を見出しているか。そしてこちらの離反をアンブレラが感づいたかどうか、だ。管理室からのコンタクトは苦肉の策、察知される危険性はあるがやむを得ない。

 

 どちらにせよ、救助がくるまでにするべきことは山ほどある。アリッサは拳銃を握りしめると、血に塗れた通路をゆっくりと進み始めた。

 

 行く先にどれほどの怪物が立ちはだかろうと、安々と死んでやるつもりはない。

 

 



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Chapter1 In to hell.
地獄と知るよしもなく


 1998年9月25日 2130時

 

 

 生きている限り、人は誰しも秘密を抱えることになる。

 

 大なり小なり人によって程度は違うが、ヴラッドは並の人間よりもよほど大きな、責任を伴う秘密を抱えたまま、その時を迎えることになった。

 

 アンブレラの保有する非公式の実戦部隊。アンブレラ生物災害対策部隊(U.B.C.S)の4個小隊に緊急招集がかかったからだ。

 

 完全にオフムードだった部隊だが、武装受領、点検、作戦概要の説明から出動準備、この全てが2時間とかからずに完了したのは、日頃から訓練を行っている実戦を想定した部隊ならではと言っていい。

 

 アルファ、ブラボー、チャーリー、デルタの四小隊あわせて一二〇名。これらヘリによる空輸投入とは別に、陸路で侵入する小隊が三個。一個小隊三〇名編成、合計二一〇名余りが送り込まれるというのは、非公式であり、一企業が保有する武力を越した戦力を持つU.B.C.Sの活動としては異例の規模である。

 

 だからこそ、参加する人間は各々、言いしれぬ緊張感を抱えていた。

 

 出撃準備に追われるヘリ、その周囲に小隊ごとで集合する隊員らの力んだ背中を見ればそれは明白だ。

 

 組織の性格上、脛に傷のある連中ばかりで構成された寄せ集めの精鋭部隊。指揮系統を掌握する小隊長と分隊長クラスはいずれも実戦経験に溢れた猛者揃いである。だが彼らとて、市民の残る市街地で戦闘を想定しての救助活動などという、特異事態の経験があるわけもない。

 

 デルタ小隊長のミハイル・ヴィクトールのロシア人らしい彫りの深い顔に浮かぶしかめつらが、基地の投光器の白い光の中に見えた。隣のデルタ小隊は出撃前に作戦計画の再確認に追われているらしい。

 

 アルファは弾薬と装備の確認に余念がなく、ブラボーは粛々と各分隊に作戦計画を伝達、非常時の集結地点、その予備の調整を進めている。

 

 翻って、ヴラッドの属するチャーリーはといえば、早々に各種準備を終え、各自自己単位での確認作業へとシフトしている。

 

 三〇名の小隊は分隊ごとに分けられている。ヴラッドのチャーリー小隊第二分隊の人員は、滑走路へと座り込み、時間まで仮眠を取るもの、くだらない噂話に花を咲かせるもの、多種多様だ。

 

 他分隊の列にまでそれとなく視線を投げ、個々人の様子を観察しながら、ヴラッドは支給品のM4カービンを撫でた。

 

 つい四年前に米軍で正式化されたばかりであり、一般部隊には未だ配備されない短銃身のライフル。これまた最新型のエイムポイントCOMP MLドットサイトをのせ、フロントサイトにクランプでライトを固定したそれを数百単位で隊員に配備する予算。

 

 アンブレラの資金力は事前情報以上だなと内心に今までで何度目かの感想をいだきつつ、弾倉を目一杯詰め込み、爆薬やその他小物で一杯のS.O.Eベストを身に着けた体の重みにため息をつく。

 

 配属された以上は、いつかこのときが来ることはわかっていた。実戦を旨として編成された部隊、今までに幾度か作戦投入は経験していたが、“本命”がこんなにも早く訪れるとは、流石に思ってもいなかった。

 

 そもそもなにか得られれば儲けもの、程度の自分の存在意義。念の為に、と自分を任命した上司が前置きしたことを忘れてはいない。

 

 その念の為が現実になってしまったことが問題であり、今までも何度か経験してきた仕事とは段違いのリスクと後ろめたさに、緊張で固まりそうな自分の無様を小さく笑う。

 

 米国内で武装した私兵を大規模に動員するなど、いかに政界と癒着の強いアンブレラであっても“まともな作戦”ではない。

 

「どうした、ヴラッド。楽しみで仕方ないか」

 

 知らずのうちに浮かんでいた自嘲の笑み、その意味を読み違えたか、小隊長たるハリソン・ホランドがニヤニヤとからかいを含んだ笑みで声をかけてきた。

 

 反射的に周囲を探っていた眼差しをそちらへ移す。任務へ意識が沈みすぎ、無意識に目立ってしまった愚かさを内心でしかりつつ、まさかと口の端に笑みを刻んだ。

 

「逆です。ろくな作戦じゃない」

「幹部連中に聞かれるなよ、仮にも分隊長だ」

 

 こちらの返事に、片眉を持ち上げたハリソンが目の前でかがみ込み声を落とす。すぐ隣で、部下たちが静かに耳をそばだてたのがわかった。

 

「国内事案、あわせて二〇〇の兵員を導入するなんて、よほどのことだ。だってのに、作戦計画では補給、撤収に関する支援の情報が不十分な印象を受けました。それに、俺達は大所帯ですが、それでも人口一〇万の都市に動員する兵力としては不足もいいところだ」

「気に食わないか」

「まともなオツムがあれば、こういう作戦は不安に思うものでしょう」

 

 確かにな、ハリソンが笑う。後ろめたい過去を持ち、アンブレラと取引してそれから逃れた連中が過半を占めるU.B.C.Sのご多分に漏れず、陸軍在籍時代に経済困窮を理由とする備品の大量密売で告訴されたこの男。とはいえ、殺人やら麻薬売買やらの過去を持つ連中とは違い、娘を持つ男らしい柔和な笑みだ。

 

 U.B.C.Sへのリクルートに応じたのも、陸軍特殊部隊の経験を買われ、娘の養育費に十二分な額を提示されたからだと聞く。

 

「上の考えることはわからん。暴動鎮圧で我々を駆り出す意図も、ラクーンの被害規模だってろくに分かっちゃいないが、それでも任務だ、やるしかないぞ、軍曹」

 

 階級でこちらを呼ぶハリソンの声音には、そこで抑えろという優しい叱咤の響きがあった。部下の前で作戦の不満を口にするのは、たしかに分隊程度であっても指揮を受け持つものの態度ではない。

 

 が、ヴラッドにとっては、ハリソンの態度に探りを入れるための愚痴。理知的な瞳の奥にほんの僅かな不安を読み取れば、この男も何かを知らされているわけではないと判じて、了解とうなずいてやる。

 

 小隊長クラスですら得体のしれぬ状況となれば、下っ端にとってはまさに未知の宝庫というわけだ。投入されれば最後、手持ちの弾薬と隣に立つ戦友たち以外に頼れるもののない状況。

 

 過去に研究施設の警備で何度か展開したものの、いずれも小規模な漏洩や企業テロの類への対処ばかり。それより大きな作戦でもせいぜい山狩りや追跡行である。街一つが作戦区域となるほどの大きな作戦となれば、なにがどうなるかなど想像もつかない。

 

 と、目の前に煙草が差し出され、ハリソンが吸うかと問いかけた。

 

 給油中のヘリの側での喫煙はご法度。席を外す必要がある。密談の誘いかと瞬時に気付くと、それを受け取って立ち上がり、集結地点を離れる。

 

「私も詳しいことは知らされていない。だがな、街の中はもう死人まみれだ。警察も組織力を残しているかどうか」

「一切不明ですか」

「わからんな。感染者に関する情報は一部の経験者にしか共有されていないが、新種の伝染病が蔓延して、それに起因し市内に暴動が拡がっているらしい。状況はかなり劣悪と思われる」

 

 火気厳禁のエリアを離れ、十分に距離を取ると、わずかに潜めた声でハリソンが言った。ヴラッドはそれを受けつつ、視線を集結地点へさり気なく走らせる。

 

 U.B.C.Sに所属してから、アンブレラという企業の持つ執拗なまでの内部監視体制は肌身にしみていた。唇の動きで会話を読まれる可能性は十分にありえる。

 

 それに、市内で発生している謎の病原菌の感染拡大に関しては、過去に類似案件を担当した経験者以外には共有されていない。とくに若手、新人連中には、ただの暴動としか教えられていないはずだ。アンブレラの城下町での謎の暴動。

 

 わざわざ経験者に先にブリーフィングを施し、原因不明の伝染病が拡大し、市内で数百人の感染者が出ている事実を一部に共有した理由は、こちらにとっては理解不能だ。

 

「ラクーン市警察はすでに沈黙、一切の交信が不能となっている。壊滅したか、機器の破損かは不明だが連携は望めないだろう。作戦地域は我々の投入とほぼ同時に州兵が封鎖を行うらしい。我々以外に動員される戦力は不明だが、事態が掌握不能と判断すれば軍が制圧に出るかもしれんな」

「そうなれば、私設部隊の俺らがいるのは具合が悪いですね」

「上は政府とべったりだ。そうなる前に撤収命令が出るだろうが……いや、希望的観測だな」

「最悪の場合、二〇〇の人員と持ち込む武器弾薬のみで対処、か。一〇万人の都市で?」

「パナマのようにはいかん」

 

 火をつけた煙草のフィルターを強く噛み、ハリソンが鼻を鳴らす。

 

「ミハイルとはすでに、状況が悪化した場合の集結地点と手順を決めてある。東部を担当するアルファ、ブラボーはわからんが……」

「中隊本部からの作戦方針明示は」

「ない。事態は予測不能、臨機応変にやれと。いきあたりばったりだな、陸軍とは大違いだ」

「大規模な兵員投入経験なんぞないですからね、ウチは。だいたい、小回りの効かない小隊三〇名編成、街路制圧戦闘となるとゾッとする」

 

 鼻を鳴らし、陸軍出身者同士、パナマ侵攻から湾岸戦争を経験した猛者としての現状への不満を吐き出す。U.B.C.Sは金に物を言わせて腕利きを集めているが、当然の結果として、ロシア特殊部隊出身者、フランス外人部隊、米各軍、南米やアフリカ、各地から人材を集めた寄せ集めの側面を持つ。

 

 故に組織運用に小隊、ひどい場合は分隊単位での差異があり、中隊本部クラスは社員の中堅幹部が担うために大規模な運用には脆弱さが目立つと言わざるを得ない。

 

 軍事の専門家が運用してこその組織。小規模な作戦であれば現場の采配が大きなウェイトを占めるが、ここまで規模が膨らめば上の意向を汲まざるを得ない。残りは現場の自助努力、考えれば考えるほど頭の痛い状況だ。

 

 喉に刺さる煙を吐き出し、アスファルトに捨てて踏みしめるのと、出撃命令が下るのはほぼ同時だった。

 

 お喋りを切り上げ、傭兵の意識に切り替えたらしいハリソンがM4をぶら下げて歩き出す。

 

 その後ろに続き、小隊ごとにヘリに乗り込みながら、ヴラッドは言い得ぬ不安感を飲み込んだ。

 

 

 

 思えばこのとき、ずさんな作戦計画の裏にある意図は薄らと見えていた。

 

 もちろん、それに気づいたとして、全ては手遅れだったわけである。

 

 



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接触

 1998年9月25日 2215時

 

 

 

「ひでえ」

 

 誰かがつぶやいた。ヘリに乗り込んだ小隊の誰かが。

 

 開け放たれたハッチから見える町並みでは、いたるところで黒煙が立ち昇り、軽快な破裂音があちこちでヒステリックに連鎖している。街路を走り抜ける車が歩行者を跳ね飛ばし、血に濡れて街頭に突っ込んだ警察車両の周囲で、警官隊が何かへ発砲しているのが、高速で移動するヘリの上からでも確認できた。

 

「ブリーフィングの比じゃないな」

「暴動どころか、これじゃ戦場だ」

 

 火の手のあがる街に近づくにつれて困惑の声が増えつつあった機内は、市街地を眼下に見下ろす段になって、想定を超えた状況への不安をにじませるものに変わっていた。その殆どはローター音にかき消されているが、不安をにじませた空気は肌にぴりぴりと突き刺さる。

 

「どちらにせよやることは変わらない。市民の救助、安全確保だ。第二と第三分隊は市民救助、私の第一分隊は前線指揮所と安全地域の確保に当たる。街の状況は事前情報とは違う、暴徒がせいぜい数百という報告もアテにはならんかもしれん。市民と敵の識別は厳格に行なえ」

 

 事前情報以上の混乱具合に浮足立つ機内を落ち着かせるために、ハリソンが無線越しに声を張り上げた。堂々とした声は、軍歴の長い将校特有の浮ついた空気を抑え込む力強さがある。

 

 彼のもとで訓練を受けた部下はそれにうなずき、第一降下地点への接近をヘリのパイロットが機内放送で告げると、第一陣としてラクーン北西部に降下する予定のヴラッドは、自身の第二分隊に起立を命じた。

 

「ヴラッド、作戦計画通りにやれ。常に冷静に」

「了解。大尉も武運を」

 

 小隊指揮官としての顔で激励するハリソンに、ヴラッドはベルトに引っ掛けていたベースボールキャップをかぶり、マイクと耳に差し込んだイヤホンが無線に接続されているかを確かめる。

 

 こちらの送信を受領した分隊員が、各々親指を立て、緊張でやや大きくなった眼差しをこちらへ向ける。機長が到着をがなり声で告げた。

 

「降下!」

 

 ヴラッドが命じると、分隊の半分を掌握する射撃班長の伍長がグローブを嵌めた手で蹴り落としたロープを掴み、ファストロープ降下に移った。訓練通り、先に地面に降り立ったものから膝を立てて降下地点を制圧する。

 

 降下目標として選ばれたビル屋上に展開する部下を見、自分の班員も全員が降下を終えたことを確かめると、ヴラッドはちらりとハリソンをみやり、ここから先、頼り頼られることになる小隊員らを見回すと、自分もロープを掴んで宙へ身を投げる。

 

 まず感じたのは、強烈なダウンウォッシュ。ヘリのローターが生み出す下降気流を全身に受け、ひるまずに最大速度で地面へ降下しながら、燃え盛り、悲鳴と銃声が鳴り止まぬ町並みを見つめる。

 

 レンジャーの一員としてパナマに降り立ったときに見た戦場はまさにこんな眺めだった。が、地面に足を付き、グローブを振り払って機内の仲間に降下完了を知らせる段になると、戦地とは比較にならない血生臭さ、死臭とでも呼ぶべき粘性の悪臭が立ち込めていることに気付く。

 

 ヘリが飛び去り下降気流(ダウンウォッシュ)が失われると、秋の肌寒さとともに鼻奥に残る嫌な臭いが肌にまとわりつく。それに顔をしかめつつ、ヴラッドは直ちに分隊全員に街路へ降りて情報を把握、そして民間人の保護を行うべく命令を通達した。

 

 分隊は分隊長が率いる四名と、射撃班長である伍長が務める四名に分割され、計五名の射撃班が二つで編成される事になっている。前衛を務める伍長の班が屋上階段を開け、縦列で建物の階段を下り始めると、先頭をゆく隊員がえづき、後続が早く降りるように急かすのが聞こえた。

 

 理由はすぐに分かった

 

 階段を二フロアほど降りると、階段とフロアの間に死体が三つ転がっていたからだ。そこから流れ出た血液が地面をつたい、あたり一面を染め上げている。が、何よりも目を引いたのは死体の損壊具合で、一つは下顎が完全に消え去り、ライトを向けると、顔面上部左半分の肉がほとんど削げ落ちて骨の白いテカりが見えた。

 

 もう一つは衣服が引き裂け、みぞおちからへそにかけて皮膚が引きちぎれていた。溢れ出た臓腑があたりへぶちまけられて、濃密な血の臭いに糞便のそれが混ざって悲惨な悪臭を放っている。最後の死体は、そもそも上半身が肉片しかのこっていない。

 

 まるで爆発物を至近で受けたかのような有様だが、周囲にそれらしい痕跡はない。凄惨極まる死体の有様に眉根を寄せつつ、階段を降りる足を止めずに周囲へ目を向ける。死体がこうまで損壊しているのは、伝染病を原因とする暴徒の仕業か?

 

 そんなバカな、どうして、どうやってあんな死体損壊を? まだ近くに実行者が? 思考がめぐるが、状況は止まらない。階段を下りつつ死角という死角を念入りに潰し、地階へと降り立つと、そこもまた血に塗れた死体がそこかしこに散見された。

 

 地面に散らばる書類、バリケードにしようとしたのだろうデスクや電化製品が入口付近で血に汚れて転がっている。屋内である分、こもりきった血の匂いは一層濃くなり、つい二ヶ月前配属になったばかりの若手が喉をひくつかせ、額に汗を浮かべている。

 

 犯罪者を罪の免除と引き換えに部隊に組み込むU.B.C.Sの隊員だ。殺人犯や元テロリストはザラ、かわいいところでも武器や麻薬の密売だとか、そういった人間ばかりだが、それでもこんな無残な死体を見れば平静ではいられまい。

 

「ダニエル、街路に出るぞ」

「了解。おいこれをどかせ」

 

 伍長が部下に指で入り口を塞ぐデスクの残りを示す。命令を受け、ようやく自分たちの目的を思い出したらしい隊員がデスクを引っ張ってどかす。地面に溜まった血の海が、机に押しのけられてあたりへ拡がった。

 

「行くぞ」

 

 玄関を飛び出した分隊は、市民が逃げ惑う道路に出た。悲鳴を上げ、足をもつれさせながら逃げる若い女がこちらを見、それから自分が逃げてきた方向に目を向けると、そのまま顔をひきつらせて走り去る。

 

「どうなってやがる」

「わからん、くそ」

 

 ヴラッドはダニエルの独白に端的に返した。同じように走って逃げてきた数人の市民がこちらに目を留め、何事かをわめきながら息を切らせて駆け寄ってくるのに気付くと、それに慎重に歩み寄る。

 

「おい、おいあんた……警官じゃなのか? ああ、くそ、いや、そんなことはどうでもいい、助けてくれ」

「落ち着いて、我々は市民救助のために派遣されている。この状況はなんだ、暴動はどこまで拡がってるんだ」

「暴動だって? あんたら軍隊か? くそ、どいつもこいつもおかしくなりやがったんだ。いいから、あいつらをどうにかしてくれよ!」

 

 しゃがみ込み、どうにか息を整えようとあえぐ小太りの男は自分が逃げてきた方向を指差す。その間に周囲に展開した部下の一人が、男が示した方向に銃を向けて声を荒げた。

 

「軍曹、負傷者です、まだ生きてる」

 

 何人かの市民が武装したこちらの姿を認め、周囲に集まってくる。彼らが口々に助けを求めてまくしたてるのを押しのけ、部下が示した方へ目を向けた。

 

 部下の一人が、すぐそばの地面に倒れ伏してもがく女へ歩み寄り、銃を横に流して助け起こそうとしているのが見えた。

 

 女は血まみれで、裂けたシャツの袖から覗いた腕は肉が引きちぎれ、骨が覗いている。というより、ほとんど食い終わった後のフライドチキンのような有様だった。それでも女は耐え難い痛みのせいか低くうめいていて、どうにか起き上がろうともがいている。

 

「おい、やめろそいつを起こすな。やめるんだ、殺せ! そいつを殺せ!!」

 

 最初にこちらに駆け寄ってきた男が尋常ではない剣幕で怒鳴り、女を助け起こそうとした部下へ掴みかかろうとしてダニエルがそれを押し止める。

 

「分かってないのか! そいつはもうだめだ、みんな食い殺されるぞ!」

 

 男が叫ぶ。口角泡を飛ばし、見開かれた目は恐怖のせいで落ち着きなく視点を変え続ける。はたから見れば錯乱した男の戯言。部下は取り合う気もなく落ち着かせようとなだめていたが、男とおなじようにこちらに助けを求め集まった市民らが、引きつった声を上げて重傷の女に呼びかける部下の方を見ていることに気付くと、ヴラッドは自分の本能が喚くのを感じた。

 

 彼らは正気を失ったのでも恐怖で動転しているのでもない。ただ事実として目の前にある脅威に怯えている。

 

「エディ!」 

「軍曹、ひどい怪我です。すぐ治療しないと……!」

 

 自分のポーチから医療用品を引っ張り出そうとする部下――エドモンドがこちらの呼びかけに振り返る。そちらを見、自分を見つめて衛生兵をよこしてくださいと口にした彼の背後、起き上がった女を見た瞬間、ヴラッドは言葉を失った。

 

 起き上がった女には顔がなかった。鼻があったのだろう部分には二つの空洞がのこるのみで、上顎から頬にかけての肉はほとんどがそげており、引き剥がされたのだろう頭皮の一部が繊維状の組織によって側頭に垂れ下がっていた。

 

 白い喉は深くえぐり落とされ、筋繊維と血管が、ほつれた服の裾のように垂れ下がり、食道があったと思わしき部分からごぼごぼと嫌な色の液体を逆流させている。

 



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未知との接敵

 部下の名前を呼ぶ余裕などなかった。こちらの目に浮かんだ恐怖と当惑に気づき、女へ目を向け直したエドモンドが引きつった小さな声を上げると同時に、女だった何かが、彼の喉笛へと喰い付いていたからだ。

 

「エディ! 畜生、何だ、何だこのクソアマ、イカレてんじゃねえのか!」

 

 ダニエルの上ずった怒鳴り声が周囲の喧騒に塗りつぶされてかき消える。

 

 背後で市民の悲鳴、走り去る足音。転んだ男の呻き。それはそもそも意識になく、女に喉を噛まれたエドモンドが声にならない悲鳴を上げ、喉笛に深く歯を沈めた女を押しのけようと手足をばたつかせる。

 

 それは昔、家の裏庭で蜘蛛に囚われた小さな昆虫の最後を思わせた。ダニエルが駆け寄り、女の脇腹に蹴りをいれて引き剥がそうとしたが、ぐじゅりと嫌な音をたて、ブーツのつま先がめり込んだだけだ。

 

 怖気を感じる不気味な肉音にダニエルが足を引き抜くと、女の腹部から消化液を垂らしながら内蔵が溢れ出る。どう見ても、生きている人間とは思えない。

 

「ぁ゛、あ゛っ、ぶ……だい、ぢょ!」

 

 そのまま、自分に蹴りを入れたダニエルを意に介すこともなく、女はエドモンドの喉笛を極上の肉を味わうように顎を大きく動かして咀嚼し、首を引いて肉を引きちぎる。

 

 皮膚が裂け、血が勢いよく溢れ出すと、エドモンドはもはや人間の声とすら言えぬ悲鳴を上げた。それはまるで粘性の液体でうがいをするような、神経を逆なでする不愉快なものだった。肌がぞわりと泡立ち、目の前でエドモンドの喉肉がぶちぶちと引きちぎられる。

 

 それがとどめだった。エドモンドはのけぞり、強張った四肢を痙攣させて地面に沈んだ。

 

「ふざけるな」

 

 自分たちの手にした火器の存在意義を最初に思い出したのはヴラッドだった。M4のセレクターを安全位置(セフティ)から単射(セミオート)へと入れ替え、エドモンドの喉肉を口からぶらりと垂らし、くちゃくちゃと咀嚼音を漏らしながら立ち上がる女の胸へ狙いを定める。

 

 ブリーフィングで明示された交戦規則は、武装の有無に関わらず攻撃的であれば、状況に合わせた危害射撃を許可する、だ。すでに部下の命が危ない。

 

 基本に忠実に二発ずつ、二度。四発の小銃弾が、それぞれ間隔を開けて着弾する。一発では確実な殺害を見込めないがゆえに、複数発を叩き込むのは戦闘射撃の基本。だが同じ位置に撃ち込んでも、銃弾が軟組織に運動エネルギーを伝えることで発生する内部破壊の意味は薄くなる。

 

 故に、対人戦闘、ことに至近距離での銃撃戦に置いては、可能な限り複数のバイタルゾーンに()()()()()()()()させることが最も効率の良い殺害手段となる。

 

 が、それを受けた女は、体を大きくのけぞらせてたたらを踏んだだけだ。崩れ落ちることも喚き散らすこともせず、ただ口にした肉を噛みながら、ゆったりとこちらへの歩みを再開した。

 

 ありえない話だった。小口径とはいえ軍用のライフル弾だ。たしかにソマリアでは威力不足の報告があったが、至近距離での射撃であるし、四発は胸と下腹にしっかりと突き刺さっている。

 

 過貫通であったとしても、主要臓器に大きな損害を受けて活動は不能なはず。なんでこいつは平然としてやがる?

 

 思考がめぐる。しかし本能は分かっている。この女はすでに、この段階で生きているわけがないのだ。銃弾を受けるまでもなく、女の細くくびれた腰のあたりは肉が消え去り、内蔵を失った薄暗い腹腔をのぞかせている。

 

 街頭の明かりが、女の無残な有様をより陰鬱で不気味なものにしていた。投げかける明かりの作る影が、血に染まり歪みきった面貌を、子供の語る悪夢の世界の住人のそれに仕立て上げている。

 

 歴戦の兵士たるヴラッドが理解不能な事態に硬直する間に、部下の理性が限界を迎えたらしい。突然何人かが罵り声を上げると、さんざん叩き込まれた市街地における至近戦闘の基礎をすべて忘れたのか、三点射(バースト)へ切り替えたカービンを女へとやたらめったらに叩き込み始めた。

 

 M4のまばゆいマズルフラッシュが幾重にも重なり、路地にストロボのように明滅をなげつける。一度に何丁も火を吹いたために銃声はもはや機関銃の掃射のそれであり、分隊員からの弾倉を撃ち尽くす勢いの射撃を受けた女は、立ったまま激しく痙攣すると、仰向けに地面へ倒れ込んだ。

 

「エディ」

 

 ヴラッドはその女が痙攣するのを見ながら、地面に仰向けに転がった部下へ駆け寄った。彼のベストをひっつかみ、ズルズルと引っ張る。

 

「伍長、横列で前方警戒、俺の班は左右を固めろ」

 

 エドモンドを女から引き剥がし、目の前の事態のせいか、逃げる体力すら使い果たしたか、へたり込んだまま動かない市民のそばへ引きずると、ヴラッドは喉を食い破られた部下の顔を覗き込んだ。

 

 喉は頸動脈をやられたのか、ぴゅ、ぴゅとリズミカルに鮮血を吹き出している。エドモンドは失血と痛みのせいか意識がほとんどなく、うつろな眼差しをこちらに向けた後、ほんの数秒の間にその瞳から熱量が抜けていくのが分かった。

 

 脈を取るまでもなく、彼は死んだ。そうでなくても手当は不可能だ。医療施設は今ここにはない。

 

「軍曹、不審な民間人が接近! 複数です、すげえ数だ」

 

 エドモンドのまぶたを手で閉じてやると、ヴラッドは部下の報告に顔を上げ、自分のカービンを手にして立ち上がった。

 

「武装は」

「確認できません」

「アンノウンの詳細!」

「どいつもこいつもズタボロです、畜生!」

「停止させろ。応答がないまま二〇メートルを割るようなら警告射、それでも停止しないなら発砲を各自に委ねる」

 

 戦死した部下の取り扱いは、回収可能時までは安全を確保できる場所で保管するか、それが不能であれば放置だ。装備品は可能な限り回収し、作戦継続のための予備とする。

 

 エドモンドの認識票を引きちぎり、S.O.Eベストからアルミ製のM4用弾倉を引き抜いて、足にくくりつけた多目的ポーチに押し込めるだけ押し込む。

 

 銃も、()()が跋扈するこの状況で置き去りにするわけに行かず、M4とホルスターに収めた支給品のシグを引っ剥がす。M4は背負い、彼のバックパックにシグを投げ込んでストラップを身体から外した。

 

「そこでとまれ! 聞こえないのか! こちらは銃で武装している! 停止しろ! それ以上接近するようなら発砲する! 止まれ! 止まれ! 畜生、クソボケ共……撃て! 撃て撃て撃て!」

 

 戦闘指揮を一任されたダニエルが声を張り上げて何度か停止を命じ、警告射を頭上へと放つ。しかし接近する群衆はそれを意に介す様子がないと判断し、発砲を開始した。

 

 エドモンドの装備品を背負ったヴラッドは、弾薬と銃の増加で重くなった身体を膝立ちにし、分隊が射撃を行う方角を見た。

 

 三〇人上の市民――あるいは暴徒――が、のろのろとこちらへ歩みを進めていた。おぼつかない足取りは、歩くというよりはよろめくといったほうが正しいだろう。

 

 街頭が彼らの姿を照らし出したが、そのどれもが、身体のあちこちをひどく欠損しているように見えた。少なくとも、負傷という表現は正しくない。そんな生ぬるい状態ではない。傍目には瀕死の重傷を負った市民にしか見えないが、この状況では何か得体のしれない、理解を超えた恐ろしいものに思えた。

 

 ダニエルの射撃班は、先程の混乱から自力で立ち直ったのか射撃を単発に切り替えていた。

 

 発砲のたびに接近する人影が痙攣し――しかし、死には至らない。悪い夢を見ているようだった。ヴラッドの経験則から言えば、人間はこの距離で二、三発も5.56ミリ弾を浴びれば即死とまでは行かずとも行動不能になるものだ。

 

「弾倉交換!」

「支援する!」

 

 ダニエルが怒鳴った。ほぼ同時に彼の班員も弾を切らして弾倉を入れ替え始める。ヴラッドは基礎に忠実に返答すると、自分の班員を横一列にならばせ、横列で射撃を開始する。

 

 肩のくぼみにストックの後部を押し付け、引鉄をなめらかに絞る。M4が普段は頼もしく思える甲高い発砲音を散らし、最新鋭のエイムポイントドットサイトの赤くシャープな光点が標的の上で踊った。

 

 撃つ、撃つ、撃つ。ひたすらに撃つ。しかし、接近するそれらは身体を震わせ、あるいは被弾の衝撃でのけぞるだけで、到底致命打を受けているとは思えない。時たま倒れ込む個体もいたが、すぐにのっそりと起き上がると、奇妙な呻きを上げながら腕を前へ持ち上げ、何かを乞うように歩み寄ってくる。

 

 ドットサイトの調整がずれている? 持ち込んだ弾薬の貫通力が高すぎ、過貫通して臓器破壊が不十分か? ぐるぐると頭の中で自分の声が駆け回る。すべては理解し難い現実を前にした、()()()()()()の喚く戯言だ。

 

 こいつらはもう死んでる。そうだ、ソレだけは間違いない。だってのに歩いてやがる、死人が歩くなんて無法もいいところじゃないか?

 

 からからに乾いた口の中で唾液が粘っているのが分かった。自分が恐怖を感じているのが理解できた。ただただ恐ろしい。いままで、ライフルで殺せない敵などいなかった。

 

 自分が狙いをつけた標的が、一〇メートルまで接近したとき、ヴラッドは自分の身体が勝手に照準を移動させたのを感じた。

 

 もちろん、対人戦闘においての基本は胴体への射撃だ。しかし、同時に胴体を撃って効果が期待できない場合の対処法も教育されている。防弾装備を身に着けた敵と交戦する際は、重要血管が多く存在し骨盤を内包する腰部か、人間の生命活動を司る頭部を撃ち抜かざるを得ないからだ。

 

 ごく至近距離、危機的状況の対処に置いて、彼がU.B.C.Sに送り込まれる以前に古巣で叩き込まれた対テロ作戦の手管を、身体が勝手に引っ張り出した結果だった。

 

 腰は人間の胴体で動きが最も少なく狙いやすい部分だが、速やかな死を決定づけるのは頭部の破壊だ。目前まで迫った男のずたずたに引き裂け胸骨が飛び出した胸から、どろどろとした黒い液体を垂れ流す鼻の上へ光点が移ると、意識とは無関係に身体が覚えた動作に従い引鉄が絞られた。

 

 それが弾倉から送り込まれた最後の一発だった。後退したボルトがロックされて停止した。トリガーを無駄に絞る前に、繰り返し練習した動作を身体がなぞって弾倉を送り込む。

 

 すでに、頭を撃ち抜かれた男は地面に倒れ込み、ぴくりとも動かない。起き上がる気配もない。

 

「頭を狙え、頭だ」

 

 弾倉交換に合わせて戦列に復帰したダニエルに命じると、ヴラッドは震える左手でM4のボルトリリースを押し込んだ。閉鎖されたボルトを目視し、命令を受けた部下が狙いを頭へ集中させていることを確かめる。

 

 至近距離だが、極度の緊張下で人間が保てる動作の正確性は低く、弾着は散っていた。数発無駄にして、ようやく頭を撃ち抜く。訓練された兵士たちだが、未知の状況、未知の……悪夢と言わざるを得ない標的相手では仕方がない。

 

「糞、数が増えてやがる!」

「ラインを後退させないと全滅します! 移動の指示を……畜生、この女まだ……あ゛!」

 

 ダニエルの部下の一人がうめいた。彼の足に、最初に撃ち倒した女が這いずりよって脛に歯を立てていたからだ。彼が痛みにバランスを崩して倒れ込むと、女はそのまま両腕で地面を這い、上にかぶさって腹に噛みつこうとした。が、それは果たせなかった。

 

 ヴラッドがその女をブーツで押しのけたからだ。がちがちと、獲物から引き剥がされて不服そうに歯を鳴らす女の口へカービンを突っ込んだ。歯がフラッシュハイダーで砕かれ、そのまま口の中で膨らんだ燃焼ガスと飛び出した銃弾で頭が弾ける。

 

「後退する。ダニエル、負傷者と民間人を警護、俺とマディで後衛、ドノヴァンは残りを率いて前衛につけ。小隊本部と合流する」

「了解、聞いたな……移動するぞ。おい、何だ、エディ……大丈夫か」

 

 ダニエルの声に、ぎょっとして振り返ると、足を噛まれた隊員を部下に任せたダニエルの前に、喉から下を真っ赤に染めた、グリーンと迷彩柄の男が立っている。

 

 それは確かにエドモンドだった。すくなくとも、つい先程までそう呼ばれていた男だった。が、閉じたはずだったまぶたの下の目には生気がなく、引きちぎれた喉からごぼごぼと、先程女が立てていたのと同じ嫌な音がした。

 

「離れろダニー!」

 

 ヴラッドの静止は一瞬遅かった。ふらつく足取りからは想像もつかない素早さで、エドモンドがダニエルに組み付いていたからだ。とっさに腕でそれを押しのけようとしたダニエルの肩口へエドモンドが噛みつき、ダニエルが悲鳴を上げた。

 

「ぁ、がぁ!」

 

 ヴラッドはカービンのストックパイプを握ると、ストックの底部でダニエルに噛み付いたエドモンドの額を殴りつけた。がくりと頭をのけぞらせ、エドモンドだった何かはたたらを踏む。その額へ銃口を向け、本能のままに発砲する。

 

 あっけないほど小さな穴が彼の額に空き、中身をかき乱した銃弾は反対から飛び抜けた。膝を付き、前のめりに倒れたそれを一瞥すると、先程まで部下だった男を撃ち殺した自分へ集まる視線を無視する。

 

「撤退する。このまま全滅するのは御免こうむる。ダニエル、班を掌握し民間人の警護に当たれ」

 

 仲間に噛みつかれた恐怖と当惑に立ち尽くしていたダニエルは、命令を受け取るとすぐ我に返り、小さく感謝を口にしてうなずいた。彼は血のにじむ肩に触れ、それから班員に命じてへたり込む民間人を立ち上がらせる。

 

「きりがねえ、何人いやがる」

 

 その間、接近する市民を押し留めていた部下が喚いた。振り向けば、こちらに歩み寄る幽鬼のような集団の数は、先程までの倍以上に膨れ上がっている。

 

 その背後、どこか遠くで爆煙が上がった。火の手は刻々とあちこちへと伸び、それらの投げかける赤い輝きが、歩み寄る敵性市民の姿を影絵のように浮かび上がらせている。

 

 分隊はその場を放棄し、撤退を開始した。

 

 そして、すぐにヴラッドは思い至る。他の分隊も自分たちと同じ状況に取り巻かれているだろう事実に。ぞっとしないその思考に急かされ、無線を送ったものの、小隊本部は応答しなかった。

 

 作戦は、投入から一時間と経たないうちに、その計画性を喪失していた。

 



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孤立すれども地獄は終わらず

「小隊本部は」

「依然応答がない」

 

 無線をいじくり回す自分に向けた部下の不安げな声にそれだけを返すと、ヴラッドは手にしたハンドマイクから流れる音がないか耳を傾けた。

 

 降下地点での交戦から一時間が経過し、日付変更時刻が近づきつつあるというのに、外の喧騒は未だ収まる気配もない。まだ至るところで悲鳴や銃声が鳴り響き、ときたま、爆発音や車両事故の耳障りな金属音が空気を揺らした。

 

 しかし、見かける市民の数は少ない。ほとんどが大きな街路から住宅地へ逃げ、いっときの安全を求めてどこかへ立てこもっているのだろう。

 

 それは自分たちも同じであり、軽傷ではあるものの負傷者二名、戦死一名の状態で、途中で拾い上げた民間人五名を匿って古物商店に身を潜めていた。店正面の窓に降ろされたシェードには、ふらふらと歩き回る影が写り込んでいる。ここもそう長くは持たないだろう。早急に移動しなければならない。

 

「中隊本部に撤退を打診してヘリをよこしてもらうべきです」

 

 ヴラッドの班員であるチャベスが、玄関へM4をむけたまま顔をこちらへ向けた。汗が滲み、緊張で張り詰めた意識が一時的に緩んでいるのか、視線はどこか胡乱だ。

 

「バカ、そのためにゃ小隊本部の野外無線機が必要なんだ」

 

 ダニエルがガーゼを当てて消毒を施した肩に触れながらチャベスの頭を小突く。

 

 彼の言う通り、分隊長以下、通常の隊員に配布される無線は小型で携行性に優れるぶん出力が低く、送信距離は短い。郊外に敷設されているはずの中隊本部との交信のためには、小隊本部である第一分隊と合流する以外に方法がない。

 

 もし野外無線機が確保できない場合、脱出用のヘリすら要請できないのだ。当然、その場合は自力でヘリを探して街を出るか、陸路で州兵が封鎖を行っているラインまで移動しなければならない。

 

 前者は可能性が低く、後者は明確に作戦中の禁止事項に含まれている。

 

「あんたら、上と連絡すらとれんのか」

 

 この店の店主である老人が、こちらの会話に怪訝な顔で割り込んできた。深いシワが刻まれた丸メガネの老人は、本来は売り物だったという骨董品の散弾銃を手に、カウンターの内側の椅子に腰掛けている。

 

 その向こう、老人の居住スペースを兼ねる店のバックヤードでは、負傷した部下と裏口警戒に当たる隊員らが民間人を囲んでいる。保護した市民は不安げな眼差しをこちらへ向けていた。

 

「ええ、そうです。現在小隊の他分隊が応答しません」

「あんたら、何人でここに来た」

「詳細は答えかねますが、自分の小隊の他にもいくつか」

 

 事務的に返し、イヤホンに接続した分隊内無線とは別に、スピーカー兼用のハンドマイクに接続された小隊内無線装置の周波数を確かめる。各分隊指揮官用周波数に呼びかけてみるが、やはり応答しない。

 

「まったく、ひきこもりの老人にゃ、なんでこんなことになっとるのかさっぱりだよ。物騒な世相だとは思っとったが、暴動なんてうそっぱちじゃないか」

 

 にっちもさっちもいかないこちらの状態に心底呆れたとばかりに首を振る老人は、自分の散弾銃をしっかりと握ったままため息をこぼす。

 

「ここもそうかからず()()が押しかけます。早いところずらからないとまずい」

 

 ダニエルが言った。噛まれた傷口が気になるのか、しきりに血のにじむガーゼをいじくり回している。

 

「合流地点まで移動するしか無い。生き残りがいればそこに向かうはずだ」

 

 そう返して、ヴラッドは自分の言葉に眉根を寄せた。生き残りがいれば、などと、他の分隊が壊滅している前提の話をしている。自分たちは戦死が一名出ているが、いまだ戦力は十分。状況の不透明さを考えれば心もとないが、他分隊も同じように戦力を残している可能性があるんじゃないか?

 

 もちろん、無事であれば無線に応答があって然るべきであり、応答がない以上壊滅したとみなすのが現実的な思考というものだ。が、どちらも予想の範囲を出るわけでなし、不確定である以上、部下を不安にさせるような事を言うべきではない。

 

「道路はあちこち封鎖されとるよ。昨日から何度か、警察がパトカーで走り回ってそうふれまわっておった。暴徒対策で道路を封鎖する、市民は最寄りの避難先へ向かえとな」

 

 もっともわたしはこの店がすべて、逃げる気などなかったが、と笑った老人は、店の外をうろつく影を見つめたままだ。

 

「ま、暴徒などというから店を守ろうと思ったが、死人が歩くようじゃどうしようもない」

「封鎖されていない道はわかりますか」

「店から出とらん、皆目検討もつかないね。まあ幹線道路のたぐいはあちこち塞いどるだろうが、この状況だ、警察がやらんでもだれかが塞いでたっておかしくはない」

 

 出たとこ勝負ですねとダニエル。ヴラッドは投入前に配布された地図を広げ、現在位置と事前に設定した合流地点までの距離を見る。途中、あちこち道が封鎖され、あるいは死人で埋まっていたために目的地も何もなく移動したせいで、合流地点との間には四ブロックほどの距離があった。

 

 四ブロック。大したことはない距離だ。すこし歩けばたどり着ける程度。しかしこの状況下、原因不明の暴徒、もとい歩く死人が跋扈する状況では途方も無い距離と言える。ここに逃げ込むまでの間に、何十人では収まらないほどのそれを目にしてきた。

 

 何が人を歩く死人に変えるのか、それはヴラッドにもわからないが、住民の何割か――ひょっとすると半分以上は敵になっている可能性がある。

 

 手持ちの人員は自分を含め九名、民間人を抱えて四ブロックを移動するというのは、ゾッとしない話だ。

 

 が、ここでうだうだと悩んでいるだけの時間の猶予がないことは明白だった。がしゃんと店の玄関で窓ガラスが鳴り、店主が反射的に散弾銃を持ち上げる。店の奥でうなだれていた女性の悲鳴が上がり、すぐに小さくなった。見れば、年老いた女性が若い女の口もとに手をやり、小声でなだめている。

 

「ダニエル、店の裏から出るぞ。ルートは最短経路をとる。マディは俺について前衛、ダニーとドノヴァンは後衛、残りは民間人のお守りだ。もしはぐれた場合は、どうにかして切り抜けろ」

 

 了解、と、再び緊張をみなぎらせた部下らが小声で応じる。店の外には、すでに何人かの人影が集まりつつあった。窓を叩く音も大きくなっていて、ガラスを破って入ってくるまでは秒読みだ。M4を握り、店の裏口へと歩み寄ると、前衛に指定されたマディソンが自分の隣についた。

 

 振り向くと、保護した民間人らがすがるような眼差しを向けている。例外は老人で、古臭い水平二連式散弾銃を手に、自分の店を名残惜しそうに見回していた。

 

「行くぞ」

 

 ヴラッドはマディソンにささやきかけ、鍵をあけた裏口の扉をゆっくりと押しのけた。裏路地から、生ゴミの臭いに混じって強烈な腐臭と血なまぐささが流れ込んでくる。

 

 銃を構え、二人でドアの左右を潰す。人影はない。足元でゴミ漁りをしていたネズミが、その大柄な身体をはねさせて逃げ出した。裏路地に明かりはなく、カービンに固定したライトのスイッチを入れる。

 

 暖色の光線が伸び、人がすれ違うのがようやくと言った幅の路地を照らす。ダストボックスから溢れたゴミ袋の影に、死体が一つ。合流地点に向かうのはその脇を通るしか無い。その先、裏路地を出た先では、電柱に突っ込んだパトカーが赤と青の回転灯を点滅させていた。

 

 ヴラッドは左手で前進を命じ、銃口を前へ向けたままブーツを踏み出す。ゴミ袋の影に倒れ込む遺体へ銃口を向け、硬いブーツの底でその背中を踏みつけにした。死体は片腕がなく、うなじから喉にかけてがひどく損傷している。

 

 踏みつけ、押しのけても反応はない。おそらくは死んでいる。そのはずだ。念の為頭に一発、というのも考えたが、街路における銃声がどこまで響くかを考えると、むやみな発砲は避けるべきだろう。

 

「俺達の仕事は市民救助だ」

 

 誰に当てたわけでもないつぶやきは、自分の目的を忘れぬようにするためだ。死体に弾を撃ち込むためにここに降り立ったわけではない。

 

 そのはずだ。いや、そうであってほしい。心の奥で自分の弱い部分が喚くのを黙らせ、店から出てきた後続に目を向ける。店内でガラスが割れる音がして、先程悲鳴を上げた若い女が身を固めたが、貴婦人然とした品の良い老女がその腰を支え、必死に励ましている。

 

 その後ろから部下が全員裏路地に出て、ダストボックスをドアの前に引っ張って封鎖すると、後衛についたダニエルが親指を立てた。

 

 ヴラッドとマディソンが裏路地から通りへ踏み出すと、そこは今までに見てきた地獄の続きだった。誰かが火をつけたのか、事故か、すぐそばで店が火に包まれ、割れたガラスから吹き出た炎が上階への外壁を炙っている。

 

 その明かりはまばゆく、通り全体を染めて影を揺らめかせていた。赤く染まる景色の中、奇妙な呻きを漏らしながらふらつく死人たちをみやり、腕に巻いたリストバンドの蓋を開けてなぐり書きした移動経路を確かめたヴラッドは、手のひらで進行方向を示した。

 

 大きな通りには死人が多く、細い路地ほどその数は少なくなる。それがここに逃げ込むまでに掴んだ傾向だが、移動経路は太い道を使うほうが都合がいい。細い路地の場合、仮に封鎖され、あるいは不意に多数の敵と出くわした場合、即座に全滅する可能性が否定できない。

 

 大きな通りであれば、対処するべき敵の数は多いが、完全に行き止まりになる可能性は少ない。そこから別の経路へ切り替えるのも容易だ。

 

 通りはどこへ向かえど、どこまで進めど似たような有様だった。突っ込んだ車、点在する死体、地面へ飛び散った血と、あちこちでくすぶる炎の赤。道端で、小さな子供が倒れ伏した人影に顔をおしつけ、腹の中身を必死に貪っているのが見えた。

 

 肘から先がちぎれた小さな手を握り、中身が赤黒く染まったベビーキャリーを胸の前に下げた女の骸。パトカーの前で、弾の尽きたブローニング拳銃を手にうろつく警官の死体。

 

 極めつけは、路肩でひっくり返ったスクールバスだった。ひび割れたフロントガラスの中で、首のへし折れた運転手の上に群がる子どもたちの姿を見たとき、背後では女性のすすり泣く声が聞こえ、気丈に振る舞っていた老婦人すらもはや言葉を失っていた。

 

 それはヴラッドも、部下も同じだ。救助すべき市民など、いま自分たちが囲んでいる数名をのぞき皆死に絶えたのではないか。そう思えてくる。

 

 しかし、街の各所ではまだ銃声が響いていた。風に乗って流れてくる死者の低く喉から絞り出す物哀しい合唱を吹き散らすように、甲高い連射音が力強く大気を震わせている。ラクーン市警の装備は知らないが、軍用ライフルの発砲音が聞こえるということは、まだ戦闘を続けている部隊が存在する証だ。

 

「ヴラッド」

 

 マディソンが周囲へ警戒の眼差しを向けつつ、潜めた声を発した。周囲の死人共は、死肉を貪ることに夢中な連中をのぞき、固まって移動するこちらへとゆるゆると、おぼつかない足取りで接近してきている。

 

 マディソンが進行方向を示した。通りの途中が、移動式の金網フェンスで封鎖されていた。その手間には警察車両が二台横向きに停車し、トラックを隙間に詰め込んでフェンスを補強している。

 

「クソ」

 

 フェンスの高さは二メートル半かそれ以上あるように思えたが、コレを超えていく以外に方法はない。すでに、背後にはこちらを追いかける死体で溢れている。

 

 フェンスは幅一メートル半程度、それをいくつも並べ、チェーンで厳重に結びつけて固定している。どかすのは不可能だろう。装備品にボルトクリッパーがあればワイヤーを切断して通用口にする方法もあったが、爆薬はあっても工具類は持ち込みがない。

 

「わらわら集まってきてやがる」

 

 ダニエルが罵った。ヴラッドは背後を振り向き、夜の街並みを背景に、わらわらと幽鬼の群れがこちらへ向かって行進しているのを見た。数はとてつもない。百はくだらないだろう。

 

「こんなの、登れないわ」

 

 老婦人が上がり気味の呼吸を整えながら言った。隣に佇む若い女は、老婦人の背中を擦りながら、絶望の眼差しを群がり始めた死人へむけている。

 

 ヴラッドはポーチからマルチツールを取り出して、フェンスへと取り付いた。指を金網に通し、エドモンドの遺品で重くなった身体を持ち上げる。金網が食い込んだ指先が痛んだが、それを飲み込み、フェンスの上にくくりつけられた有刺鉄線へマルチツールを伸ばした。

 

 その間にも、ヴラッドの視線は移動先の様子を確認している。フェンスの向こうにも何人か歩く死体が見えたが、大した数ではない。こちらよりはマシだ。

 

 ペンチの根本のワイヤーカッターに鉄線をはさみ、力を込める。フェンスの網よりもよほど細いが、それでも金属製のそれを切断するのは力がいる。片手でしばらく粘ったあと、ヴラッドは体を支えていた左腕で更に上へ体を持ち上げ、有刺鉄線の隙間に腕を通してしがみつくと、両手で力いっぱいマルチツールを握りしめた。

 

 ばちん、と硬質な音がして、有刺鉄線が切断される。切断した有刺鉄線を手で押しのけると、鉄棘が腕に食い込んだが、かまっている余裕はなかった。人がひとり乗り越えられる隙間を開けると、マディソンに目を向ける。

 

「マディ、先に渡れ。ドノヴァン、リチャード、年寄を担いでその後に続くんだ」

「了解」

 

 マディソンがカービンを背中に回し、訓練された人間特有の、力強く素早い動きでフェンスをよじ登り、飛び降りた。命令を受けた部下が老婦人の前にしゃがみ込み、彼女を背負う。古物商の老人は担がれるのが嫌なのか、自分で渡れると鼻を鳴らしてそれを拒んだ。

 

「どうします、こりゃエグい数ですがね」

「死ぬよりマシだ、近い順に片っ端から撃て」

 

 ダニエルの問いかけにヴラッドは端的に返した。彼らが渡り終えるまで、この場所を固守しなければならない。

 

 自分のM4を構え、直ぐ側の裏路地からよろよろと這い出してきた男へ狙いをつける。暗いせいで姿はよく見えないが、破れた腹部から内蔵を垂らし、ずるずると引きずる様子からすると、生きてはいるまい。

 

 ソレを撃つ。一発で頭を射抜かれ、男が地面に転がった。小口径弾特有の小さな射入口からどろどろとした脳と血液の混合液が垂れるのが見えた。

 

 照準を横に流す。市民の背を守る部下たちは、すでに各個に発砲を開始している。最も近い個体から、頭部だけを狙い撃つ。理性によってペースが抑制された銃声は心地が良い。この状況で、まだ分隊の統制が取れている事実はヴラッドを落ち着かせた。

 

 だが、死人共の数は油断を許さない。高く、遠くまでよく響く銃声が一度響くたびに、新たに死人が姿を表すような、そんな気さえしてくる。引鉄を絞る、歩み寄る影が倒れる。助けるはずだった市民、その成れの果てが脳漿を散らして地面に伏し、次の標的を探す。

 

 ドットサイトのレンズ越しにこちらへ行進する死者の群れ、その数は明らかに増えている。銃声に群がっているのだ。

 

「弾倉交換!」

「残り五本、半分切りました」

 

 部下が叫ぶ。ヴラッドは、もう崩れた顔のディティールが見て取れる距離に近づいた死人の群れを見、背後へ視線を走らせる。最後の一人、老人が渡り終えたところだ。

 

「お前とお前、先に渡れ」

「くそ……了解、先に渡ります」

 

 射撃列から若い二人を選抜して命じると、彼らは銃を背へ回してフェンスへ駆け寄る。足を噛まれた一人が取り付き、もうひとりがそれを下から押し上げる間に、ヴラッドは空の弾倉を入れ替えた。

 

「まずいな……分隊長、最悪先に渡ってください」

「バカ言え、負傷してるお前が先だ。急げ」

 

 ダニエルが額に汗をにじませ、何本目かの弾倉を取り替えながら視線をこちらへ投げたが、ヴラッドはその申し出を鼻で笑って却下した。

 

 M4のバレルが薄く白い煙を立てていた。過剰な連射に熱がこもっているのだ。だが射撃をやめるわけにはいかない。ヴラッドはダニエルの襟首をひっつかんで金網へ向かわせた。

 

「急げよ、俺が死んだらお前が責任者だ」

 

 言いながら、ヴラッドはすぐ目の前に迫った死人の群れに向き合った。肩を並ばせ、互いにぶつかりながらこちらに歩み寄る影、ゾッとしない眺めだ。どれも皆、血にまみれてズタボロで、喉の奥から形容できない恐ろしいうめき声を上げている。

 

 連射しながら徐々に後ろに下がる。目の前にできあがった人垣がどこまで続いているのかは想像もつかなかった。そもそも、数がどうあれ駆逐する前に残弾が尽きる。

 

「軍曹、行って!」

 

 自分とともに残った部下の一人が叫んだ。それにうなずき、M4を背中に回して金網に飛びつく。フェンスの向こうでは、銃撃音につられて集まり始めた死人共を、マディソンが一体一体射殺して退路を維持しているのが見えたが、急いで移動を開始しないと行く手を塞がれそうだ。

 

「急げ、早くこっちにこい!」

 

 ヴラッドは驚くほど俊敏に金網を昇り、その向こうへ飛び降りると、カービンを手にして振り返った。金網の隙間に銃口をねじ込み、残った二人を支援するべく狙いをつける。二人が弾かれたように振り返り、金網へ駆け寄ろうとしたが、横合いから飛び出してきた死体が一人に覆いかぶさった。

 

「あぁ! くそ、やめろ! やめてくれ、あ、っ、やめ、やめろぉ! ぉ゛、あぁ゛」

 

 押し倒された部下に死体が顔を寄せる。ソレを押しのけ、立ち上がろうとした彼に、直ぐ側に迫っていた死体の群れが一気に覆いかぶさった。まるで、獲物に群がる肉食動物のように。

 

 何体かにライフル弾を打ち込んだが、すでに手遅れだった。群がった死人共は必死にもがく部下に顔を押し付け、鈍い音を立てて肉を貪っている。それを振り返り、硬直した部下にヴラッドは怒鳴った。

 

「止まるな、急いで登れ!」

 

 餌にありついた数体のまわりから、フェンスに取り付いた部下へと残りの死体共が歩み寄る。目の前で仲間が死人の餌食になった恐怖に引きつった声を上げ、必死に金網を登り始めた部下の足を、這いずって歩み寄った死体が掴んだ。

 

 強く引っ張られ、彼がバランスを崩す。そのまま、腕が彼を引きずりおそろうとしたが、その前に大きく低い発砲音がとどろき、その腕が吹き飛んだ。というより、鉛玉の奔流にさらされ引きちぎれた。

 

 古物商の老人だった。彼が散弾銃を金網から突き出し、12ゲージの散弾を二発連射したのだ。

 

「急げ、死にたいか、若いの」

 

 中折式の散弾銃をテイクダウンし、薬莢を廃棄した老人がしゃがれた声で怒鳴った。部下は言い返す余力もなく、金網をよじ登り、ほとんど落ちるような態勢でフェンスから飛び降りる。

 

「くそ、くそ……ケニー、あいつ」

「後にしろ」

 

 よろめきながら立ち上がり、金網の向こうで貪り食われる仲間へ目を向けた部下に、ヴラッドは突き放すような声音で言った。すでに、群がった死人の下の部下の叫びは聞こえなくなっている。感傷に浸っている余裕はない。

 

 行くぞと、M4を掴んでそれに背を向けた。マディソンが始末した死体がそこらに散らばり、その向こうからいくつもの影が歩み寄りつつある。

 

 残り二ブロック、合流地点までたどり着ければ、あるいは小隊と合流できるかもしれない。それだけが今持ち得る唯一の希望だ。

 



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合流、老いたる願いに応える者は

 もちろん、戦地において、希望的観測というものは自身の命を奪う甘い罠にほかならない。

 

 であったとしても、兵がそれにすがってしまうのは、ひとえに彼らもまた人間であるからにすぎない。

 

 

 

 二人目の戦死者が出た事実が胃に重くのしかかるヴラッドにとり、合流地点へ近づけど味方の気配を感じられないのは、何よりも恐ろしい事実を想像させた。

 

 生き残っているのは、自分の分隊だけかもしれない。もちろん、部下も考えることは同じで、皆口数は少なくなっている。唯一の救いは、居住区と主要施設が市街地の中央から南部と東部に集中しているせいか、歩く死体を見る数は減ったことだ。

 

 北西から北部にかけては工業施設や、街の王であるアンブレラの施設、列車の操車場などの施設が集中しており、準工業地域に近しい地勢故だろう。

 

「チャーリー02から01、現在位置知らせ……だめか。チャーリー02から03、聞こえているか」

 

 ハンドマイクの送信ボタンを押し、声を吹き込むが応答はない。すでに小隊本部が仮拠点を設ける予定だった地域にたどり着き、無人となった……もとい死人を掃討して無人にしたオフィスビルに身を隠してそれなりの時間が経過していた。

 

「どうします」

「どうもこうもない。小隊本部は壊滅したと見なさざるを得ない。おそらくは、第三分隊も」

「くそ……冗談だろ。なんでこんな」

「喚いたって仕方ない。無線を探し出すか、退路を見つける以外何があるよ」

 

 座り込み、うなだれて毒づくチャベスに、マディソンが銃を手にしたまま視線を投げた。

 

 マディソン・ヘイズリーは、U.B.C.Sにスカウトされる前は凶悪犯刑務所に収監された死刑囚だった。元麻薬取締局の戦術班隊員で、捜査で深入りしすぎた結果に妻を陵辱の末惨殺され、報復に麻薬組織の幹部を家族ごと皆殺しにした、という噂だ。

 

 が、少なくとも部下としてのマディソンは仕事に実直であり、腕も立ついい兵士だ。上官である自分に対して、友人や同期に対するような態度で接してくる部分を問題視されることもあるが、ヴラッドは気にしていない。

 

「退路ったって、陸路は塞がれてるんだぜ? ヘリを見つけられるかよ、こんな田舎町で!」

「喚くな、チャベス。分隊長の考えの邪魔をするな。それに、外に聞こえるだろうが」

 

 ダニエルが親指で外を示した。オフィスの外では、先程オフィス内を駆逐した際の銃声に釣られた死体がいくつかふらついている。掃討するのは楽だが、道路封鎖をおこなって遮断しない限りはきりがない。

 

 ヴラッドは、オフィスの隅で身を寄せる民間人をみやった。若い女は、目の前で自分のボーイフレンドを食い殺されたのだという。気疲れからか老婦人の膝に頭を載せ眠っていた。老婦人はここまでの逃避行で体力を使い果たしたのか、女の頭を撫でる姿勢のまま眠りに落ちている。

 

 古物商の老人――マイケルと名乗った――は散弾銃を膝に載せ、こちらから息抜きにと差し出した煙草をさもうまそうに吸っているところだ。残り二人はいずれも三〇代の男で、膝を抱えて何かをブツブツと呟くか、不透明な今後を悲観して遺書もどきを手帳に書き込むか。

 

 どうあれ、ここからすぐに移動となれば持たないだろう。

 

 この状況で、八人の人員で何が出来るかを考える。動けない民間人を連れて脱出路を探すことは現実的ではないが、分散させた場合、ここに死人が押し寄せる可能性を考えるとぞっとしない。

 

 打つ手なし、か、と胸中にひとりごち、目頭をもんだとき、ザッ、と肩にくくりつけたハンドマイクが空電音を鳴らした。

 

『……ちら…3……聞こえ……こちらチャーリー…3、聞こえているか』

「こちらチャーリー02だ。03か」

『ヴラッド! 生きていたか』

 

 ヴラッドがハンドマイクに声を吹き込むと、電子ノイズまじりの野太い声が帰ってきた。第三分隊長であるマルコフの、酒に焼けた声。周りで希望が潰え、うつむき気味だった部下が一斉に顔を上げる。

 

「今どこにいる。何度も呼びかけたってのに」

『悪いな。降りてこの方どこも地獄で、地下鉄に逃げ込んだせいで電波が遮断されたんだろう。そっちは』

「合流地点で待機している」

『小隊長は、無事か』

 

 マルコフの問いかけに銃声が混じった。ハンドマイクの音量を絞り、ようやく他分隊と連絡がついたことに希望を取り戻した部下を横目に、ヴラッドは声を潜めて返した。

 

「合流地点にはいない。音信も不通だ」

『クソ、了解。こちらはスピアストリートに面した路地に出た。もうしばらく地下にゃ無縁であることを祈るぜ。いまからそちらに向かう。生きてたらな』

「了解、上階からそちらの方向を確認する。急げよ、待ち遠しくてたまらないぜ」

『男に求愛される趣味はないね。交信終わり』

 

 無線が途切れると、ヴラッドは自分の口元に薄く笑みが浮いていることに気づいて、そこに指を触れてどうにか無表情をつくった。数時間ぶりの交信が、薄いながらも希望を運んできたのだ、部下も同じように士気を取り戻している。

 

「ダニー、射撃班(Fire Team)を指揮して下階の警戒に当たれ。マディ、チャベスは俺についてこい。屋上から周囲の様子を見る」

「射撃管制は」

 

 ダニエルが立ち上がりながら問いかけた。肩の痛みが引かないのか額に汗が浮いている。噛み傷は化膿しやすい、あとで消毒をし直す必要があるかもしれない。

 

「侵入されるようなら撃っていい。掃除を始めたら、徹底的にやれ」

「了解」

 

 彼は部下を率い、再分配した弾倉を確かめて階段へ向かった。

 

「マイケル」

「なんだね、若いの」

「ここの階を任せます」

「わたしにやることがあるとは思えんが……まあいい、任された」

 

 肩をすくめた老人の返事に小さく笑うと、ヴラッドは部下を伴ってビルの屋上へと向かった。

 

 ドアを開け、階段から屋上階へ出ると、銃口を巡らせて周囲を確かめる。人影も、死体も見当たらない。隅まで確認を終えると、ヴラッドは給水塔以外に目立つもののない屋上の縁へ身を寄せ片膝をつき、ベルトにくくりつけた多目的ポーチから、小さな双眼鏡を取り出した。

 

 レンズに目をあてると、周囲を取り巻く地獄がより鮮明になる。すでに日付が切り替わっているが、この状況にあってもまだ発電施設は稼働しているらしく、街灯は煌々ときらめいていた。逃げ出したかすべて餌食になったかはわからないが、周囲のビルも明かりがつきっぱなしのところが多く、街路を照らす明かりには事欠かない。

 

 そう離れていない路地の方向から、M4の連射音が聞こえてきた。一つ二つではなく、少なくとも射撃班(FT)が連携しているのがわかる、組織だって連携の取れた、理性的な発砲音だ。

 

 プロらしい銃声はひっきりなしに銃弾を送り込んでいるようだったが、追い詰められて無茶苦茶に発砲している様子はない。

 

『03だ、もうすぐそちらに到着する。詳細位置を示してくれ』

「02より03、了解。屋上からライトを点滅させる」

 

 送信しつつ、銃声の方へ双眼鏡を向けると、そうかからず路地から人影が飛び出してきた。相互に死角を潰し、連携を保った分隊の姿だった。ぞろぞろと姿を表した彼らが、数名の非武装の人間を囲んでいるのが見える。

 

「マディ、ライトを照らせ。間欠点灯で位置を示してやるんだ」

「了解」

「チャベス、下に降りてダニエルの射撃班(FT)に連絡、第三分隊が北東からアプローチする。支援に出るんだ、残りを連れてお前も同行しろ」

「すぐ向かいます」

 

 チャベスが弾かれたように飛び出した。双眼鏡の中では、第三分隊がくさび形の陣形を構築し、進行方向に立ちふさがる死体を集中火力で殲滅しながら接近してくる。

 

「02から03、こちらを目視したか。地階から迎えを出した、誤射に注意しろ」

『03だ、確認した。ちくしょう、地獄じゃお前の声ですら頼もしいな』

「後でキスしてやる。急いでこい。合流したら周囲を封鎖せにゃならない」

 

 陣取るビルの周囲の死者が、銃声に釣られて第三分隊の方へと足を向けた。しかし地階から外へと進出したダニエルらの射撃班(FT)に奇襲をうけ、ものの数十秒で駆逐される。数が少なく、開放的地形での交戦であれば、歩く死人の脅威度は低い。

 

 彼らとの戦いでネックとなるのは地形による移動阻害とその数だ。

 

 だからこそ、群がってくる前に周辺の路地を封鎖し、安全を確保しなければならない。第三分隊が生存していた以上、小隊本部が生き残っている可能性はゼロではないが、捜索を出すにしろ安全な拠点が必要だった。

 

『02、いや、ヴラッド。よくここを確保した』

 

 迎えに出たダニエルらと合流したマルコフが、こちらを見上げながら親指を立てたのがみえる。旧ロシア衛星国の生まれ。空挺軍に所属し、のちに上官を射殺した咎で服役した男。頼れるベテランの笑みが、街灯の白い明かりの下に見える。

 

「喜ぶのは後回しだ。路地の封鎖を始めるぞ」

 

 ヴラッドはそれだけを返すとビルの中へ引き返した。安全地域を確保しなければならない。

 

 

 

 

 

 

1998年9月26日 0530時

 

「路地の封鎖は完了した」

「そのようだ」

 

 血にまみれ荒廃したオフィスビルを背後に、ヴラッドはうなずいた。周囲では、路地の制圧を済ませ封鎖作業を完了させた兵士らが、ローテーションでの巡回にあたっている。マルコフの分隊は生存七名、ヴラッドの分隊の八名と合わせて一五名、小隊の半分がここに集結していた。

 

 負傷者は合計で三名であり、一度彼らを含む九名を休憩に回し、六名を二人ずつに分散させ巡回に当てていた。保護に成功した民間人は合計で九名になっている。

 

「ひどいもんだな」

地獄が満室になるとき(When there's no more room in hell,)死者は地上を闊歩する(the dead will walk the Earth.)、ね」

「なんだ、そりゃ」

 

 マルコフが眉根を寄せて問うた。ヴラッドは、自分の口をついて出た言葉が何だったかを考える。映画だ。

 

「映画のセリフだ。まさにこんな状況を描いた。俺も途中までしか見ちゃいないんだが」

「笑えないね。で、そこじゃアレはなんて呼ばれてたんだ」

 

 路地の封鎖に使うために持ち込んだが、封鎖を前に攻撃を受け放置されたのだろう金網をトラックごと持ち込んで封鎖した路地。その向こうをさまよう死人を示して、マルコフが問うた。

 

「ゾンビ」

「ヴードゥーの?」

「おそらく。生ける屍なんて、冗談にもほどがあるが」

「嫌な映画だ。ここを出たとしても一生見る気はしないね」

 

 そりゃそうだ、とヴラッドは笑ってやった。そこでまだ笑う余力がある自分に気づき、他の封鎖箇所に足を向けつつ、胸のポーチからタバコを取り出す。

 

 運良く近場で見つけた封鎖用の金網フェンスで封鎖したのは二箇所。残りの路地はトラックを横向きに停車させ、隙間に近隣から集めた家電と、フェンスと一緒に接収した有刺鉄線で塞いだのが二箇所。大きな通用路はそれで封じ込めることに成功し、細い路地は大振りのダストボックスとかき集めた家具の類で埋めた。

 

 即席の封鎖だが、しばらくは大丈夫だろう。大半の()()()は、こちらの交戦の音よりも、少し前に頭上を飛び抜けたヘリの音と、市警本部のほうでとどろき始めた銃声につられて移動していったようだ。

 

 それよりも問題は、と咥えた煙草に火を灯し、頭をかく。

 

「小隊本部はどうなっているか、情報はあるか」

「わからん。最後に交信したときは、任務の追加があったと言っていた。地下の施設にアンブレラの研究員の保護任務があると。地下鉄の管理用通路から地下へアクセスするルートがなんとか」

 

 それで地下鉄へ向かえば合流できるかと思ったんだが、とマルコフが言葉を切った。彼は短く刈り上げた髪を撫で、それから鼻に親指を押し付ける。

 

「結局見つからずじまいだ。今どこにいるかはわからん」

「捜索任務? そんな事前情報、あったか」

「いんや、無いね。聞かされてない。あのゾンビどもと同じく。なにが新種の病原菌により恐慌状態に陥った市民の暴動だ、阿呆ども」

 

 不機嫌に吐き捨てたマルコフの横顔に浮かぶ怒りは曖昧な情報をもとに自分たちを送り込んだ中隊本部、ひいては雇い主たるアンブレラに向けられたものだろう。

 

「なんにせよ、小隊本部も混乱してた。本来ならここの確保をやるはずが、わけのわからん任務を割り振られちゃ無理もない」

「捜索を出したほうがいいな」

「状況の詳細を把握するためにもな。市警本部の状態が知りたい、分遣隊を編成する必要があるかもしれん」

「この戦力じゃ市警本部への偵察までは手が回らないだろう。それに作戦継続の可否も、他小隊の状況を把握するためにも野外無線が必要だ」

「優先は小隊本部の捜索、か。誰を送る」

「俺と、あと数名。そっちが先任だ、ここの維持は任せる」

 

 自分から捜索を申し出たヴラッドに、仕事熱心だなとマルコフが目を細めて笑った。疲れの残る笑みだったが、誂うような響きが混ざっている。

 

 ヴラッドはそれを受け、肩をすくめただけだった。作戦の今後を決めるためにも、自分の任務のためにも、長距離無線が必要だ。生き残るためにも、外部との連絡手段は必須となる。

 

 封鎖箇所の巡察を終え、拠点としての準備を進めているオフィスビルに戻ると、すでに入り口には緊急時の封鎖のためのバリケードが集められていた。

 

 指揮所を兼ねる三階では、武器分隊の役割を兼ねる第三分隊の火器類がデスクに並べられ、点検を受けている。四階は民間人と負傷者のためのスペースとなっている。が、武装した兵士と一緒にいるほうが安心するのか、何人かの民間人はこの三階に居座っている。

 

 手持ちの火器は個人装備のM4と、武器分隊に二人配属された機関銃手のミニミ機関銃、残りは拳銃と、HK69A1擲弾銃(グレネードランチャー)が二つ、使い捨てロケットランチャー(M72A1)が二つ。残りは途中で拾い集めた民生品の銃器ばかりだ。

 

 予備の弾薬は両分隊ともに半分と少し程度。状況と敵の特性から、ミニミの予備弾薬をばらしてM4の補充に当てたが、むやみに発砲すればそう長くは持たない程度の弾薬しか無い。

 

「第一分隊の降下地点はこの場所だ。交信したのは降下直後だったからな、そう遠くへは移動していまい」

 

 マルコフが作戦地図に指を這わせ、ヴィクトリー湖とラクーンダムへと通じる幹線道路の脇、ラクーン駅からそう離れていない地点を示した。ヴラッドは降下地点を書き込み、それから、降下地点の側に、地下鉄路線に挟まれるようにして存在するアンブレラ社の管理施設を指差す。

 

「地下に施設があるなら、ここから通じてないだろうか」

「わからん。十分にありえると思うが、行って調べないことにはな」

 

 問題は、とマルコフが腕を組んだ。

 

「そこに至るまでのルートだ。せいぜい三、四ブロックほどだが、クソッタレのゾンビ共をかき分けて進むとなると、ろくなことにならん。それに、施設に入るよりも小隊長と無線の行方を追うほうが先だ」

 

 マルコフの言うとおりだった。少数での捜索を行う以上、目的地までの移動経路で弾薬を消耗した場合、その後がどうなるかは目に見えている。包囲されて全滅だ。

 

「地下を使うのは、どうだ」

 

 分隊長同士、そろってどう捜索経路を設定したものか、首をひねってしばらく悩み込んでいると、こちらの会話に聞き耳を立てていたらしいマイケルが、眼鏡の向こうから視線を投げた。

 

「地下?」

「下水道だよ。若い頃、この街で店を持つ金が欲しくてね。下水道の修繕からなにからやったもんだ。アレはあちこちつながっておるから、地上を移動するよりは死人共に出会わずに移動できると思うが」

「それはどこから入れる」

「そこらの鉄蓋を開ければ簡単に。中は迷路だが、お前さんら、紙はないか」

 

 散弾銃を手にしたまま、座り込んでいた老人はゆっくりと立ち上がる。彼は曲がり気味の腰に手をやり、眼鏡を指で鼻の上へ押し上げると、それをよこせとばかりに広げた地図を示した。

 

「なにしとる、ペンがなけりゃ何も書けんだろう」

 

 地図を差し出したヴラッドを見、老人はこの間抜けがとでも言いたげな眼差しをこちらへ向けた。老人の尊大で自信に満ちた態度に片眉を上げつつ、マルコフがペンを差し出すと、彼はそれをひったくるように奪い取る。

 

「いいか、管理用の下水路は格子状に四方に伸びている。いくつかは封鎖されておるが、大きく改築されたなんて話はついぞ聞いとらん。この街ができたその時から原型は変わっちゃおらんってことだ」

 

 マイケルはそう説明しながら、デスクに広げた地図の地形を確かめ、いくつかの基点を決めるとそこから線を引いた。生活用水の処理のために設けられた地下道の輪郭を街中へ引き、それから、こちらが目指すべきアンブレラ施設付近の出口と、線路につながる管理通路の位置を記す。

 

「これだけ書けば十分だろうが……」

 

 そこまで言って、ヴラッドとマルコフが図面を確認しようと顔を寄せると、老人はニヤリと笑って地図を引き、それを折りたたんで内懐へ。

 

「おい、あんた何を」

「こいつをくれてやってもいいが、一つ条件がある」

 

 深いシワとともに笑みの刻まれた口元。しかしレンズの向こうの眼差しは、鈍く鋭い色を帯びている。冗談でもなんでもなく、交換条件を飲めば渡してやる、とその眼差しは言葉より雄弁に意志を語っていた。

 

「なんだ、必死こいて守れとでも」

「命なんぞ惜しくはないさ。ヨーロッパの空から突き落とされたこともある。弾雨の中をな。お若いの、あんたにそんな経験があるかね」

 

 マルコフの僅かないらだちを含んだ問いかけを、マイケルは鼻を鳴らして一蹴した。虚勢でもなんでもなく、純粋に自分の命の残りに価値を見出していない、人生で見るべきものを見終えた男の顔だ。

 

「単刀直入に言うが、見に行ってほしい場所がある。そう遠くはないし、今すぐにとは言わん。そちらの小隊長とやらを見つけてからで構わん。息子の家だ。弟の遺した孫二人が、そこにいるはずだ」

 

 それだけを約束してくれんか、とマイケルは先程までの老獪な態度とは違う、ほのかな湿り気を感じさせる声で言った。

 

「息子は嫁に先立たれて子はおらんかったが、弟の孫二人が親と祖父を事故で亡くしてから、息子が引き取って育てた大事な子だ」

 

 訝しる眼差しを向けるマルコフに、老人は先を続けた。ヴラッドはマルコフに語り続ける老人の目の奥に、諦めとほんの僅かな――しかし強い執着と希望の色を見た。古物商店で銃を磨いていたこの男は、おそらく自分たちが飛び込んで来さえしなければ、今頃死者の山をかき分けて二人の家へ向かっていたに違いない。

 

 それを一度脇においてここまでついてきたのは、武装し、訓練を受けた若者のほうが、この老人――口ぶりからすると先の大戦の従軍者だろう――よりよほど役に立ち、たどり着ける可能性が高いと踏んだからに他ならない。

 

「だがな……」

 

 そこまで聞き、マルコフが渋った。彼がこちらへ視線を投げる。経験豊富なロシア人の目の奥には、老人に対する同情と同時に、リスクを認識した兵士の理性が宿っている。

 

「そんなリスク犯せるか? 俺らにゃ外と連絡する方法もないってんだぞ。それにそんな、死んでるかもしれないガキにかまけてられるか」

 

 マルコフが先を口にするのを待たず、チャベスが浅黒い顔に苛立ちを浮かべて口を挟む。マイケルが散弾銃を強く握りしめるのが見え、ヴラッドは気色ばむチャベスに睨みを効かせ、更にまくしたてようとした若い部下を抑え込んだ。

 

「腑抜けるのは程々にしろ、チャベス。別にいいじゃないか、俺らの任務は民間人の救助だろう? 仕事の内だ」

 

 突然、聞き耳を立てていたらしいマディソンが横から口を挟んだ。彼は煙草を咥え、火のついた穂先を揺らしながら、引っ張ってきた椅子に腰掛けて足を組み、頬杖をついている。

 

「素晴らしきかな犯罪者の寄せ集めの俺らだ、こういうときくらいまともな仕事しとかないと、あの世で焼かれちゃたまらないぜ。俺は乗ってもいいと思うね。どちらにせよ、探しに行くのは、俺とヴラッド、あと何人かだ」

 

 お前に来いとは言わないよと、マディソンが彫りの深い、しかしスッキリとした顔立ちに嘲りの笑みを向けた。チャベスはそれを見、鼻腔を大きく膨らませたが、それだけだった。模擬格闘でマディソンがチャベスを含む数名の若手をあっさりのして、部隊内の序列を明白にしたのは記憶に新しい。

 

「くそ、好きにしろよ……お人好しはすぐ死ぬぜ」

「腑抜けから死ぬのが常識ってもんだ。先に向こうで待ってろ」

 

 捨て台詞を残して立ち去るチャベスの背に、マディソンが中指を立てようとして、ヴラッドがその手を制した。

 

「やめろ、部隊内で諍いを起こすな」

「そいつは失礼。後ろから撃たれたらたまらんからな」

 

 横で、マルコフが大きくため息を吐いて目頭を揉んでいる。一癖どころか、社会的にはただの問題児をかき集めたこの部隊、平時でも隊内で喧嘩や揉め事は絶えず発生するものだが、この状況でとなると胃に重い。

 

「わかった。ヴラッド。お前に任せる。小隊本部の捜索はお前の受け持ちだからな」

 

 マルコフがひらひらと手を振り、どかりと椅子に座り込む。

 

 どうすると彼が視線をこちらに投げると、マイケルも同じように、力強いがどこかすがるような色味を含んだ眼差しをヴラッドへと据えた。

 

 その姿は、記憶の彼方で霞がかった祖父のそれに見えた。幼い頃に息を引き取った祖父、頑固者で、貧乏な南部の白人だった祖父。小さな墓石の下に埋められた、大きく骨ばった背中。

 

「もちろん、わかっとるよ。もうだめかもしれん。だが電話が通じなくなる前、避難所に行かずに家にこもると言っておった。ウチの息子はしぶとい男だ。だから、だから万一ということも……」

「いいよ、約束しよう。作戦推移次第だが、目標を達成し次第捜索に向かう」

 

 こちらを説得しようと言葉を選ぶしゃがれ声を最後まで聞かず、ヴラッドは頷いた。こちらの返答に、一瞬聞き間違いとでも思ったのか、マイケルが目をしばたかせる。背後では、マディソンがくすくすと潜めた笑い声を上げた。

 

「あとでやっぱりナシとはいかんぞ。必ず、行ってくれるんだな」

「男の約束だ。必ず行く。行かなかったら見捨てたみたいで気分が悪い。それに俺たちの任務は市民保護だ。傭兵ってのは信用第一、やれるだけやる」

 

 約束を破ったらドタマぶち抜いてくれてもいいぜと背後からマディソンがヴラッドのこめかみをつついた。

 

「やめろ、マディ。言い出しっぺだ、お前も一緒にぶち抜かれちまえ」

「ひでえな、責任は指揮官のものだろう」

 

 よく言う、と返したヴラッドの前にマイケルが内懐へ隠した地図を広げ、ペンを走らせてローマ字と数字の記号を書き込み始める。おそらくは現在地を知るための目印のようなものだろう。もし地図を隠したマイケルから無理やり奪い取っていた場合、地下で現在位置を確認するのはひどく骨の折れる作業になったはずだ。

 

 うしろで、ずる賢いじいさんだとマディソンが潜めた声音でつぶやいた。肩をすくめてそれに応え、これで道がわかるはずだと差し出されたそれを受け取る。

 

「誰を連れてく」

 

 マルコフがそれを見ながら、今更の問いかけを投げた。

 

「俺、マディ、ジョエル。あと、お前の班からクラヴィスを借りる。マディ、二人を呼んで下に集合だ」

「分かった。好きに連れて行け」

「地下に入ると連絡が取れなくなる可能性が高い。状況次第では地上に出るのに時間がかかるかもしれんが、侵入から六時間音信がない場合、全滅したと捉えてくれて構わない。その場合、作戦の最終計画通り時計塔へ迎え」

「それだけの余力が俺たちにあればな」

 

 マルコフが言った。実際、四名を送り出したまま、残りの人員で救出ポイントまで撤収するのは至難の業になるだろう。その場合、どれだけの死者が生じるか、想像もつかない。

 

 ヴラッドはお喋りを切り上げ、自分の銃を手にしてスリングを身体にかけた。再分配された弾薬をS.O.Eパトロールベストに詰め込む。おそらく下水道は明かりのない闇の王国、フラッシュライトの予備電池を確かめ、それから予備の照明類の残数に目を通す。

 

「お若いの。名前は」

 

 指定した二名を呼びにマディソンが階段へ向かうと、マイケルが歩み寄ってきた。

 

「ヴラッド・ホーキンス。軍曹」

「ヴラッド……シャーロットとリアムだ。二人を頼む。行って、確かめてくれるだけでいいんだ。ここが住所だ、ここに行って……いなければ、もう生きてはいるまい。その時は、もうそれで構わない」

 

 マイケルが懐から手帳を取り出し、おそらくは彼の息子だろう男とともに写っている写真を見せた。透けるような金髪の愛らしい少女と、勝ち気そうな少年。兄と思われる少年はまだ一〇になるかならないか。年端も行かぬ子供の顔を目に焼き付ける。

 

 同時に差し出されたメモを受け取る。住所が書き込まれたそれを、ベストの内懐へ収めた。

 

「男の約束だ。任せてくれ」

 

 ヴラッドは、こちらを見つめる老人の眼差しが湿った光を帯びていることに気づいたが、何も言わなかった。老人が目を伏せ、ほんの僅かに喉を震わせるのを横目に、彼は自分を待つ部下のもとへと歩き出した。

 



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異形は闇に住まう

 1998年9月26日 0715時 ラクーン北西部 地下下水路

 

 

「それで、なんだってそんな捜索任務を」

 

 クラヴィス・カーターの問いかけが、コンクリートで固められた下水道に反射してこだました。

 

 地下は一切の明かりがなく、ライトを点灯させなければ何も見えない。この環境では、仮に暗視装置があったとしても役に立たなかっただろう。世間一般の認識と違い、現行の暗視装置は微光すら差し込まない環境では、イルミネーターなしでは使い物にならない。

 

「俺は爺さん子だったんだ」

 

 ヴラッドの代わりに、マディソンが答えとは言い難い返事を投げた。呆れたと言わんばかりのため息をこぼすクラヴィスを振り返ると、後衛を務める彼とジョエルの背後、遠くの闇に小さな緑の輝きがぼんやりと見える。

 

 地下、経路を見失わぬように、サイリウムをダクトテープで貼り付けておいたのだ。経路の要所にそれを貼り付けておけば、少なくともサイリウムが消えるまでの数時間は帰り道を見失わないで済む。

 

「それで、我らが軍曹殿の答えは」

 

 クラヴィスが、M14の筒先を下げてもう一度問うた。

 

 武器分隊である第三分隊には専門火器が多く配備されていて、クラヴィスの役割は分隊選抜射手に当たる。持ち込んでいるM14は減音器(サプレッサ)が組み込まれていて、彼を呼びつけたのはそれが目当てだった。

 

 やたらめったら、音を響かせないで済む。

 

「泣き落としには弱い。涙もろいんだよ、俺は」

「冷血ヴラッドが? 冗談きついぜ」

 

 クラヴィスがヴラッドの二つ名を口にした。

 

 Cold Bloodとヴラッドの発音をかけたその二つ名。U.B.C.Sに送り込まれて一年が経つが、配属後すぐに経験した作戦……アンブレラの機密を盗んで某国に売り払おうとした元職員を追って、南米で作戦を展開した際につけられた名だ。

 

 二重の情報漏洩があり、作戦中に待ち伏せを受けた際、命令を無視し功を焦った射撃班(FT)の救助を切り捨て、作戦の成功を重視したためだ。結果として孤立した射撃班(FT)は虐殺された。周りはそれを指して冷血ヴラッドと呼び、ヴラッドは上から使える駒として目されることになったが、当の本人からすればいい迷惑だ。

 

 どだい、孤立した射撃班(FT)はその段階ですでに包囲されつつあり、救助のためにその倍の損害を覚悟せねばならない状況だった。見捨てたのではない、すでに彼らの死は決まっていた。

 

 が、当の本人としても、その判断の合理性こそが冷血と呼ばれる所以にふさわしいことは自認している。それに、少なくともその時自分の指揮下にいたマディソンやダニエル、ジョエルは、その判断によって自分の命が守られたことを理解しているが故か、自分に対して信頼を寄せてくれていた。悪いことばかりではない。

 

「キャラに合わないって?」

 

 ライトを点灯させたまま、伸びる薄橙の明かりの先を見つめつつ問いかける。背後で、衛生担当のジョエルが茶化した返しに笑うのが分かった。

 

「お前が優秀なのはよく知ってるさ。だから、なんでそんなリスクを取ったのかと思ってね」

「老人を縛り上げて地図を奪うのは気分が良くない。それに俺たちは市民救助部隊だ」

「だからって、律儀に守ることはないんじゃないか。行っても誰もいませんでした、で済む話だろう」

「男の約束だ、違えたらあの世で親父が俺をぶち殺しかねない。それに、子供だからな。生きていれば、怯えているはずだ」

 

 数秒の間を置いて、お前さん、なんの罪でここに引っこ抜かれたんだっけか、とクラヴィスが苦笑した。

 

「認可の下りていない作戦に参加した。それで村を一つ焼いた。大人も子供もな」

 

 ヴラッドは、端的に説明する自分の鼻腔を、村が焼け落ち、人が黒焦げになっていく形容しがたい悪臭が満たしていくのを感じた。倒れ伏した人々、自分でとどめを刺した老人。たしかにあれは俺がやった。俺たちが殺った。でもそれは俺のせいじゃない。だって、作戦指令書があったじゃないか……たとえ偽物だったとしても。

 

 ふとした問いかけに、記憶の奥に押し込めた、しかしまだ色褪せない光景が滲み出すのを感じて、ヴラッドは記憶の元栓を締め直した。集中をかき乱す過去に付き合っていたら、ここでは一時間と持たない。

 

「罪滅ぼしか?」

「南部人だからって、感傷に浸るななんて法はあるまい」

 

 こちらの返事に控えめな問を重ねたクラヴィスは、短い、しかし湿った感情を含んだ返答になにかしらの納得を得たようだった。

 

「ま、いいさ。人でなしじゃないだけ信頼できるってもんだ」

「そっちも、お喋り以外の特技を披露してくれ」

 

 了解、と気を引き締め直した返事が帰ってくると、ヴラッドは銃口をゆったりと巡らせ、中央を流れる汚水の放つ臭いに眉根を寄せた。

 

 地下道は幅一メートル足らずの汚水路を挟むようにコンクリートで固めた足場が続いている。各水路の合流部分は金属の格子がはめ込まれて足場になっており、直径は二メートル半から三メートルほどか。

 

 老人――マイケルの言う通り、外に比べて随分と静か……というよりはほとんど無音に近い。自分たちの息遣い、ブーツの音が響き、嫌に大きく聞こえる。

 

 悪臭がひどいことを除けば、死者の音楽が届かない分心落ち着く空間だが、長居すれば電池がいくつあっても足りはしない。持ち込んでいるライトのランタイムは何時間も持つようなものではないからだ。

 

 水路の角には、格子状に広がる広大な水路の“目”の位置を示す記号と番号が振られていた。格子状の水路はどの方向にも自由に進めるというわけではなく、ところどころ、半円状の水路を塞ぐように鉄格子がはめ込まれて進路を塞いでいる。

 

 最短迂回路はすでにマイケルが地図に記していた。あとは要所にサイリウムを貼り付け、帰途の印を残しながら進めばいい。簡単な話だ。

 

 目的地までたどり着いたら、下水路から地下鉄の管理用通路へつながるドアを開け、そこから小隊長を捜索する。仮に本人が見つからなくとも、その痕跡さえ見つかればそこから次の方針を立てられる。

 

 頭の中に筋道を立てやるべきことを確認したヴラッドの耳が、ほんの僅かな異音を拾い上げた。

 

 同時に、背後で同じ音を耳にしたらしい部下が姿勢を落とす。後衛の二人が背後にライトを向け、ヴラッドとマディソンはM4にくくりつけたライトの光軸を、これから進むべき方向へと据える。

 

 甲高い、しかしかすれた音。何かの鳴き声のように聞こえた。地上を闊歩する死者どもの、低く悲しげな声音とはまた違うものだ。

 

 姿勢を落としてしばらく息を潜めたが、闇の奥に動作はない。自然光に比べれば随分と心もとない光の先、まばゆい輝きを残さず飲み干す貪欲な黒に目を凝らし、ヴラッドは前進を再開した。

 

 ソレを見つけたのは、経路の半分を消化し終えて少ししてからのことだった。

 

 水路の脇、コンクリートの歩行路の上に転がるシルエットをフラッシュライトの光軸がなぞり、地面にこびりつく影を生み出す。停止したヴラッドは、慎重にそれに歩み寄り、ヒトガタのそれにただの死人かと静かに胸をなでおろしたが、それは至近に寄って詳細を目にするまでの話だった。

 

「なんだ、これ」

 

 それは確かに人の形をしていた。ボロボロの衣服、傍らに転がる擦り切れたバッグと中身のガラクタを見るに、地下に住み着いていたホームレスの成れの果てかなにかなのだろう。

 

 が、異様なのはその風体だ。地上では、ひどく損壊した“食いかけ”の死体をいくつも目にしてきたが、これは全くの別物と言っていい。

 

 引き裂け、ほとんど小さな布切れに成り果てた衣服の下から覗く皮膚は、重度の熱傷を負ったかのように赤く色づいている。熱傷でなければ、死に至るほどの炎症だ。まばらではなく、全身くまなく赤く染まったそれは、まるで全身の皮を剥がれたようにすら見える。

 

 というより、皮膚がきれいに消え失せ、その下におさまっていた筋肉が露出した、といったほうが正しいだろう。薄い膜のようになった皮膚らしきものの下には、エレメンタリースクールの備品の人体模型のように、筋肉の筋がはっきりと見て取れた。

 

 しかしそれよりも目を引くのは、頭部と四肢末端の状態だった。毛髪がまばらに残る頭部も皮膚と同じように表皮が膜状になり、頭蓋の下に収まっていたはずの薄灰色の脳みそがその()()の輪郭をのぞかせている。手足の末端は肥大化し、爪が長く太く、より巨大に発達しているように見えた。

 

「わからん……気色悪いバケモンだ。一体なにがなんだか」

 

 マディソンが困惑と嫌悪感の混ざった眼差しを転がる死体へと向けたまま、慎重に銃口でそれの頭を小突いた。分厚いが色素の薄い膜が小さくたわみ、脳髄を保護するべく銃口を押し返す。粘膜の類に近いのか、M4のマズルが液体を絡め取って滑った。

 

「どうする」

「反応はない。死んでると見なしていいだろう。むやみにぶっ放して、変なものを呼び寄せたくはない」

 

 目をそむけたくなる異形、しかしその恐ろしく不気味な姿に視線を釘付けにされながら、ヴラッドはよどみなく返した。そもそも、四人きりの分遣隊、銃弾は温存しておきたい。

 

「歩く死体だけじゃないってことか、この街は。いいね、退屈しない」

「退屈しない代わりにあの世行きじゃないといいがな」

 

 クラヴィスが眉根を寄せたままで鼻を鳴らすと、ジョエルが低く冷静な声音で返す。衛生担当の彼はライフルを脇に避け、ぬめりを帯びて鈍く光るソレの脇にしゃがみこんだ。手にはめたグローブを外し、医療用のラテックス手袋に付け替えると、浮浪者だったのだろう異形の身体に触れた。

 

「熱を帯びてる。高温環境に長時間さらされたか、ひどい炎症……いや、この熱量だと炎症どころじゃないな。とっくに脳みそが煮えててもおかしくはない」

「最近まで生きていた、とか」

「わからん。死人が歩く街じゃ常識なんぞクソと同じだ。確かなのは、人間なら脳の蛋白が凝固してもおかしくはないくらいの体温ってことだ。頭蓋骨は行方不明、切開の痕跡は見当たらないことからみて、人為的なものじゃない。勝手にどこかに消えちまってる。四肢末端の異常形質も、表皮の状態も説明不能、オレにはわからん」

 

 軍務時代には衛生兵として活動し、医学論文をいくつか出しているジョエルの眉が、まるで理解不能だとばかりに歪む。彼にわからないことは、ここにいる誰にも理解不能だろう。

 

「早いところ地下鉄に向かおう。どうやら得体のしれないものがいるかも知れない」

「賛成だ。この状況、閉鎖空間は墓場と同じだからな」

 

 マディソンが頷き、ジョエルがラテックスを外して捨てた。ヴラッドは異形からライトを外し、再び進行方向へ筒先を向ける。

 

 再び闇を進む分遣隊の間に、私語はなかった。当然だ、あの訳の得体のしれない死体を目にして、気が張らないわけがない。ブーツの音、潜めた息遣い。ライトの照射範囲に視線が釘付けになる。良くない兆候だ。

 

 たとえ目視できる部分がライトの照らす範囲だけだとしても、一点に集中しすぎるとトンネルビジョンをもたらす。視野狭窄は高ストレス状況の持続で発生するが、結果として細かな危険の兆候を見落としかねない。

 

 経路の残りはほとんど消化した。あとは最後の角を曲がって行けば……。

 

 その時、今までに通過してきた背後の闇の奥から粘りを孕んだ重い音がして、ヴラッドたちは足を止めた。即座に振り返り、ライトを背後へ向ける。

 

「聞こえたか」

「ああ……接近してくるぞ」

 

 暗闇の奥から、ぺたぺたと間の抜けた音に混じって、硬いものを軽くぶつけるような音がかすかに響いている。それは等間隔で間断なく続いていて、徐々にではあるが、接近しているように感じられた。

 

「急げ。アンノウンに追いつかれる前にたどり着くぞ」

 

 ヴラッドは小さく、抑えた声で囁いた。部下が頷き、鉄道路線へのアクセスの際、老朽化したドアの開閉に手間取るようなら爆破する役目を負ったマディソンが先頭を締める。後衛のクラヴィスとヴラッドが位置を入れ替えた。

 

 ヴラッドが拳を頭の脇で二度上下させる。移動速度を上げる合図だ。それに従い、前衛の二人がほとんど走るような速度で前進を開始した。後衛の任務は後方警戒だが、駆け足で移動するとなればその必要はない。ヴラッドもジョエルも、M4を掴んで後を追う。

 

「そこを左だ」

 

 ブーツの音が闇に木霊して、装具が小さな金具の音を立てる。ヴラッドが指示を出し、前衛が左に折れると、背後で甲高く恐ろしげな叫び声が聞こえた。それはまさに、闇の奥に潜むバケモノのそれに相応しい、心臓を鷲掴みにする凶悪さをはらんでいる。

 

「畜生、追跡されてる」

「こいつだ、ドアが見えたぞ!」

 

 マディソンが叫んだ。彼が下水路のコンクリート内壁に設けられた鉄扉に飛びつき、割り振られた番号を確かめた。間違いなく、マイケルの示した通路だ。

 

「オンボロドアめ、錆びてノブが動かん」

「爆破しろ」

 

 ヴラッドは怒鳴り、膝をついて背後へ銃を向ける。物音――もはやヴラッドの本能が、それは足音であると喚き散らしていた――は更に接近していた。奇妙な足音だけではなく、それは濁った高く響き渡る叫び声を上げながら、こちらへ突っ込んできている。

 

「見えたらどうする」

「知るか、ぶっ放して沈めてやる。マディ!」

「待て、信管を用意する」

 

 肩越しに振り返ると、クラヴィスが奥を警戒する横で、マディソンが予め最低限度のサイズに分けて成形した爆薬を取り出しているところだった。円錐状に成形した可塑性爆薬(C4)成形炸薬(シェイプドチャージ)は砲弾の弾頭に用いられる事が多い。効率よく、最小限の爆薬量で最大の効果をもたらすからだ。

 

「急げよ」

「向こうが来る方が先だ、始末しろ」

 

 ヴラッドが急かすと、マディソンが足音の方向を示しつつ即席のケースに収めた爆薬をドアノブへと取り付けた。テープでそれを二重固定し、彼が信管を取り出すのを見届けず、ヴラッドは目前へ迫りつつある足音へ目を向けた。

 

 ソレはこの悪夢の街の闇に住まうバケモノらしく、天井を()()()現れた。最初に見えたのは、ライトの照射範囲に踏み込んだ、大きく発達した前足。太く長い爪は鋭利な光を放ち、ついで、明かりの中に踏み込んできた顔は粘液質にぬらりと光る。肥大化した頭部の内に収まる灰褐色の脳髄がひときわ目を引いた。

 

「おい、ありゃ……」

 

 ジョエルが低く唸るようにうめいた。

 

 先程までまとっていた衣服はどこにも見当たらないが、膜状に変化した頭皮にわずかに残る、粘液を滴らせて垂れ下がった髪は間違いない。生前、ろくに手入れしていなかったのだろう長くまとまりのないそれから垂れる粘液が、汚水に垂れて水音をたてる。バケモノはほとんどめり込んで消えかけた眼球らしきものを、こちらへと据えたようだった。

 

「撃て!」

 

 ヴラッドは自分に据えられた眼差しの虚ろな色合いを見、肥大化した肉に埋まりかけのそれが獲物を見定めた瞬間、M4を持ち上げて引鉄を絞った。

 

 下水道に銃声が木霊した。四方を囲まれた空間での銃声は耳に突き刺さるやかましさだ。三連射が突き刺さるや否や、バケモノはけたたましい怒りの咆哮を散らし、異常発達した四肢の爪をコンクリートに付きたてて、恐ろしい速度で横へ跳躍した。

 

「クソボケ、ゾンビだけで十分だっての!」

 

 ジョエルが罵り、M4を連射する。こちらの弾道を見きったか、ソレがさらに跳躍を重ね、ヴラッドめがけて報復の一撃を加えんと飛びかかる。ジョエルの射撃がソレを追い、宙を駆る赤い脇腹へ数発のライフル弾を叩き込んだが、一発は粘膜と筋肉質な体躯の上を滑ってコンクリートへ突き刺さり、残りも変異した大柄の異形を仕留めるには不足。

 

 眼前、右前肢の振るう一撃が駆け抜ける。

 

 ヴラッドは寸前で上体をそらしそれを回避した。目の前で振り抜かれた前足、顔に感じた強烈な風圧は、まともに受ければ首が吹き飛んでいたことを容易に想像させる。

 

 たたらを踏み、至近に踏み込んだそれへ銃口を向ける。狙いは頭部、セレクターを単射から三点射(バースト)へ切り替えると、大きな乱杭歯の口を開けたバケモノの口腔から蛇のように長く細い舌が伸び、M4のバレルを絡め取る。

 

 連射、反射的に引かれた引鉄がハンマーを開放し、シアのかみ合わせで自由を得たスチールの撃鉄が連続してライフル弾を激発させる。

 

 瞬く銃声、しかし舌によって銃口をそらされたM4は蛇のごときそれを撃ち抜いたにすぎない。予想外の反撃を受けて反射的に巻き取られた舌に引っ張られ、M4が手からスッポ抜けた。

 

 怒り狂ったバケモノがこちらの腸をえぐり出そうと前肢を振るう。射角が悪く、貫通弾と跳弾による誤射を意識してジョエルが射撃をためらう様子が視界の端に映る。

 

 死ぬ。

 

 鋭利な爪先が迫るのがスローモーションのようにゆっくりと見えた。引っ張られて落ちたライフルを拾い上げる余裕は愚か、腰の拳銃にアクセスする余裕もない。

 

 それでも反射的に右手で拳銃を掴んだヴラッドの横を、音速をゆうに上回る速度で合金の塊が飛び抜けた。

 

 低く抑制された発砲音、甲高いボルトの動作音はM14のそれだ。大口径弾を受け、こちらの命を刈り取らんとした腕がのけぞり、更に銃声が続く。過たず、前肢の同じ箇所に三発。5.56ミリとは比較にならない反動を持つ、制御の難しい大口径小銃とは思えない、驚くべき手練の射撃。

 

 大口径弾の連続着弾を受け、バケモノの前肢が引きちぎれた。振り抜いた前足、人間であれば肘の部分から先がもがれたそれを理解していないのか、獲物を捉えた感触がないことに怪訝な様子のバケモノの額へ、ヴラッドは引き抜いた拳銃の照準を向けた。

 

 支給品のシグではない、長く愛用する私物のHK P7。セフティを兼ねるスクイズコッカーを握り込み、撃針が後退したそれの引鉄を搾る。なめらかな引鉄の感触、手の中で目覚めた凶器が八度瞬き、分厚い脳膜へ突き刺さった。

 

 ほとんどがむしゃらの連射だが、身体に染み付くほど鍛錬を重ねたヴラッドの射撃は正確無比だった。至近距離であるがゆえに、弾着はほとんど数センチの円に収まるほど。一度に一点へ集中した拳銃弾は、分厚い脳膜を食い破り、そこに収まる灰褐色の脳髄をかき乱した。

 

 どさりと、バケモノが地面へ倒れ伏す。ヴラッドはそれを確かめ、ぴくぴくと小刻みに痙攣するバケモノの破れた脳膜へと銃口を据え直し、念の為に二発、叩き込み直す。

 

「ヴラッド」

 

 ジョエルが呼びかけると、ヴラッドは拳銃の使いかけの弾倉を入れ替えてホルスターへと戻した。流石に脳をかき乱されては、この異形とてひとたまりもないらしい。

 

 すぐ目の前に迫っていた死、その事実がひんやりと背筋を撫で上げるのを感じながら、ヴラッドはM4を拾い上げた。

 

「大丈夫だ、なんとも無い。クラヴィス」

「おう、無事で何より」

 

 すぐ背後、信管を爆薬へ突き刺したマディソンの脇から、M14を構えたクラヴィスがにやりと笑うのが見えた。

 

「いい腕だ」

「班長に最初に死なれちゃ困る。人情家ならなおさらだ」

 

 粘液の滴るM4は、汚れていることを除けば破損はないようだった。弾倉にはまだ半分以上弾が残っている。入れ替える必要はない。

 

「セット完了だ。随分鳴らしたからな、急ぐぞ。こいつが一体だけだとはおもえん」

 

 マディソンが信管を起爆装置に接続すると、どこか遠くから今しがた始末したバケモノと同様の叫び声が聞こえてきた。地下で音が反響し、どこでそれが叫んでいるのかは判然としないが、ここに長居すると周囲から襲いかかられる可能が高い。

 

「離れてろ、起爆する(Fire in the hole)

 

 マディソンの合図に応じて、全員が壁に身を寄せ、身をかがめて口を開けた。指を耳へ突っ込み、爆発による急激な気圧変化に備える。間をおかず、起爆信号を受け取った信管が小爆発を起こし、連鎖的に成形爆薬へと点火した。

 

 腹に響く爆発音、振動で肌がじんとしびれる。爆発音を聞きつけたか、闇の奥深くで複数の叫びが連鎖した。ほとんど咆哮と言うべきそれに急かされるように、ヴラッドはノブを吹き飛ばし、固定部を失ったドアを掴んで引っ張る。

 

 ノブ同様、ドアの外枠も錆びついていたが、爆発の衝撃で固着が緩んだようだった。大きく不愉快なきしみを上げて鉄扉が口を開くと、マディソンが間に潜り込み、足で強引にそれを押しのける。

 

「急げ!」

 

 マディソンが飛び込み、後にクラヴィスとジョエルが続いた。コンクリートへ爪を突き立てる足音が急速に近づいていた、ヴラッドもそこへ飛び込み、ドアを引っ張る。すぐ外でバケモノの声が聞こえ、ドアの隙間が頭一つ分まで狭まったとき、横からジョエルが金属の球体を突き出した。

 

 米軍の採用するM67手榴弾。頷いてやると、彼はピンを引き抜き、安全レバーを握りしめたままそれを外へ投げる。二人でドアを引き強引に閉鎖すると、金属扉を力強くひっかく耳障りな音がして、数秒後に爆発音が続いた。

 

「やったか」

「わからん、どちらにせよ、しばらく地下道は通りたくないね」

「行く先にもいないとは限らん、地下鉄だからな」

 

 すれ違うのがやっとといった幅の管理通路の奥へ銃口を向けつつ、マディソンが言った。彼正面、これから向かう先を照らすライトは、長く続く通路を弱々しく照らしている。

 

「その時は、火力の限り叩き潰す。その瞬間を生き延びることを考えろ」

 

 了解、と三人の部下は静かに応じた。どちらにせよ、進む以外に出来ることなど無いのだから。

 




ちなみに、今作中でリッカーという名称は使わないかもしれません。
なんせラクーン市警察の生き残りがつけた名前なので。


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地の下にも死は遍く

「さっきのありゃ何だ」

 

 通路はすぐに階段に変わり、より深くへ誘うように暗い口を開けるそこに差し掛かったとき、クラヴィスが全員の心中を代弁するように疑問を投げた。

 

「あの四つん這いおばけのことか」

 

 ジョエルがわずかにM4の筒先を下ろし、クラヴィスに肩越しの視線を投げかける。ヴラッドは前方へ集中したまま、その会話に耳を傾けた。

 

「歩き回ってるボケナスどもはゾンビ。あの四つん這いは……なんだろうな」

「新種の生き物だ、命名の名誉は我らが班長、頼れる軍曹に譲るべきじゃないか」

 

 首をかしげるマディソンの後を、ジョエルが引き継いだ。どうぞ軍曹と背後でジョエルがささやく。ヴラッドは前方にうすらと見え始めたドアを意識した。

 

くそったれの(Fuckin’)爪カエル野郎(ネイルフロッグ)

「カエルはあんなにデカくないし、変な爪生やしてないぜ?」

 

 クラヴィスがヴラッドの命名に思わずと言った様子で吹き出し、快活に笑った。他の二人も、彼ほどではないにしろ各々笑い声を漏らすのが肩越しに感じられる。

 

「訓練生時代に野外演習で飯が切れてね。そのとき、とっ捕まえて皮を剥いたカエルの足が、ちょうどあいつのでっかい手足にそっくりで」

 

 お前たちもフィールドワークでカエルくらい捌いたことがあるだろう、と足を止めて背後を振り返る。ライトが壁に反射して生み出す薄ぼんやりとした明かりの中に、歴戦の兵士たちのごつい輪郭が見えた。

 

「言われてみれば、地面にへばったあいつの格好はカエルに似ていると言えなくもないが」

「顔は随分可愛げがなかったがな。歯がサメみたいだったじゃないか」

「それよりあの舌だ、飛び道具持ちってのが厄介だな」

 

 マディソンが肩をすくめて頷くと、それにクラヴィスとジョエルが続く。歩みを進め、地下鉄の路線へと続いているはずのドアに取り付くと、ヴラッドは背後を振り返って部下を見た。全員会話は愉快げだが、顔はすでに危険地域を制圧する心構えができているのか、しっかりと引き締まっている。

 

「それで、ネイルフロッグで構わんな」

「ああ、もちろん。くそったれの(Fuckin’)爪カエル野郎(ネイルフロッグ)で。二度と呼ばずに済むことを祈るがね」

 

 マディソンが背後の二人をみやり、沈黙により同意を示したことを確認すると口の端に笑みを浮かべて頷いた。ヴラッドはそれを見、重厚な鉄扉のノブへ手をかけ、ゆっくりと押し込んだ。

 

 入ったとき同様、ドアはひどく重く硬かった。ほとんど使われることがないためだろう。メンテナンスもおざなりなのか、あちこちにサビが浮いている。ヴラッドはそれを脚で力任せに押しのけた。

 

 ぎぃ、と長く間延びするきしみを上げて扉が口を開く。

 

 扉が開くと、分遣隊はほとんどタイムラグを作らずその先へと飛び出した。ヴラッドが右、マディソンが左へ銃口を突き出し、後続の二人が交互に左右へ分散して銃口を巡らせる。

 

 閉所における対人戦闘は、出入り口の消化がネックとなる。ほとんど同時に左右へ、出来る限り多くの人員と火力を展開することが制圧を有利にする基本だが、銃を撃つ歩兵ではなく、歩く死人が敵となるこの状況では、単に染み付いた習性にすぎない。

 

「クリア」

「線路か。さて、ここからどうする」

「降下地点からみると、ラクーンステーションからアクセスを試みたはずだ。駅の方へ向かう。あとは出たとこ勝負。どちらにせよ、ここから研究施設へのルートは不明だからな」

 

 ヴラッドはライトの先に敵影のないことを確かめると、銃口を心持ち下へとずらした。伸縮ストックは肩に押し付けたまま、なにかあればすぐに射撃へ移れる姿勢で周囲を見回す。

 

 そこは地下を走る鉄道路線のど真ん中だった。中央にコンクリートの柱が規則正しく並び、その左右を線路が奥へと伸びている。壁には塗料印字で方向が示してあり、右がラクーンステーションへと伸びているようだった。

 

 その先、ラクーンシティの中央へ位置する駅のある方角から、遠くかすれてはいるが、低く間延びした、どこか遠吠えを思わせる死者の合唱が流れてくる。無念の声、死せども地に伏すことを許されず、煉獄を彷徨う犠牲者の悲しげなコーラス。

 

「気乗りしないぜ」

 

 クラヴィスが言った。

 

 全く同感だとばかりにマディソンが肩をすくめ、M4の弾倉を確かめる。それはヴラッドにとっても同じだったが、小隊本部の行方がわからないことには今後の方針すら決まらない。それに、野外無線がどうしても必要だ。

 

「俺も気乗りしないが、仕方がない。爆発物は控えろ。弾薬は温存、補充は望めない」

「歩く死体に手榴弾は効きそうにないからな」

 

 四つん這いのネイルフロッグと違い、頭部の位置が高いゾンビに爆発物の効果がどの程度見込めるのかは不明だ。手榴弾は破片によって敵を死傷させる武器であり、統計記録の上では頭部よりも四肢への重大な外傷による死亡者のほうがよほど多い。

 

 それに、手榴弾の加害範囲は思われているより広く、一〇メートルの距離をとろうと安全とは言えない。閉所で使うには不都合な部分が多かった。つい少し前、ネイルフロッグに使ったのは、鉄扉がそれを十分防いでくれる状況だったからだ。

 

 M67は一五メートル程度の加害半径を持つとされている。ヴラッドの経験則から言えば、遮蔽物のない状況での安全距離は二五メートルが最低ラインだ。

 

「捜索範囲は」

「現在地点から駅構内まで。見つからなければ、反対方向も捜索するが……どこかでマルコフに連絡を入れないと。少し待て。ノーマッドから03、聞こえるか」

 

 無線の送信ボタンを押し、安全地帯で待機しているはずのマルコフとの交信を試みる。ノーマッドは出発前に決めた分遣隊の呼び出し符牒だ。数秒待っても応答はなく、それはもう一度無線を送っても同じだった。自分たちがいるのは地下であるから、電波が届かないのは当然のこと、落胆はない。

 

「02から01、小隊本部。聞こえたら応答願う。02から01、聞こえるか」

 

 しかし、同じ地下空間にいれば通信が届く可能性は十分にありえる。それを踏まえ、念の為にハリソンへと無線を送ったが、こちらも応答はなかった。ハンドマイクが返すのは静寂のみだ。

 

「応答なしか。骨を拾わないで済むといいが」

「その前に自分の心配をしろ」

「帰れなきゃ金も貰えん。ロハはきついぜ」

 

 クラヴィスの軽口に各々適当に応じつつ、三人の部下は装備の残数確認をテキパキと済ませた。各自持ち込み弾薬はほぼ満タンで残っている。ジョエルが手榴弾を一つ消費したが、この状況では大した問題ではない。

 

「行くぞ。時間をかけすぎると、全滅とみなされる」

「勝手に死人にされたかない。早いところ結論を出そう、結果がどうあれ、な」

 

 ヴラッドの後をマディソンが引き受けた。彼の言うとおりだった。たとえ、痕跡が見つからなかろうと、全滅していようと、一刻も早く結論を出して、マイケルとの約束を果たさねばならない。

 

 駅へ向かうと、当然ながらというべきか、地下鉄の運行は完全に停止していた。

 

 しかしそれは、市の混乱によって引き起こされたものではなかった。地下鉄を運行すべき人員が、歩く屍になっていたからだ。

 

 ラクーンステーションのホームには、操る者のいなくなった車両が停止していた。ヴラッドらは、そこにたどり着くまでの間に鉄道職員の制服を着た死人を七人ほどあの世に送り返したあとだった。

 

 地下鉄路線には、ひどい混乱の形跡が残されていた。おそらくは初動の段階でここへ逃げ込んだのだろう市民を詰め込んだ車両が一両、地下の線路上で放置されていた。中身は、詰め込まれた元市民たちが互いの肉を貪った結果の阿鼻叫喚。

 

 黒ずんだ血で染まった窓を叩き、新鮮な肉を求める餓鬼共を目にすれば、そこでなにが起こったかなど想像に難くない。

 

 ホームの上では蘇った死者が、ほとんど血と骨になった死体に群がって夢中で死肉を貪っている。街の異常事態を告げる新聞や、雑多なゴミの散らばるホーム上を歩き回る死人の数はそう多くなかったが、散らばった肉のかけらや残された人骨の量からみて、逃げ込んだ市民の相当数が宴のごちそうになったことは容易に理解できた。

 

「下水のがまだマシだな。ひでえ匂いだ」

 

 つい今しがた自身のライフルで新たに四人をあの世へ送り返したクラヴィスが言った。駅構内には、粘度の高い、肌にまとわりつくような血と糞尿の匂いが充満している。並の人間ならとっくに胃の中身をすべて吐き出していておかしくはないが、分遣隊員はいずれも、形は違えども地獄をいくつも渡り歩いてきたベテランだ。

 

 とはいえ、ここまで血なまぐさい環境というのは戦地でもそうあるものではない。昔、アフリカの紛争地で経由地点にした民兵の救護所ですら、ここの噎せ返るような血の匂いには遠く及ばない。

 

「煙草を鼻にねじ込め。マシになる」

 

 マディソンが言ったが、クラヴィスは俺は吸わないんだよと首を振る。それを見、健康第一かよと小さく笑ったマディソンは、ポケットから取り出した煙草を彼に投げつけた。

 

「ちぎって半分にしろ。それを突っ込んどけば多少ごまかせる」

「親切にどうも。しかしまあ……いい気分はしないわな、こんなの」

 

 受け取った煙草を半分にちぎり、フィルターを捨てて鼻に押し込んだクラヴィスが、さきほどまで必死に肉を骨から引き剥がそうとしていた背広の男を小突く。後頭部から撃ち込まれた弾丸は、顔面を根こそぎ吹き飛ばして、煉獄に囚われた死者をあるべきところへ送り返していた。

 

 その骸の下には、胸から下を骨がむき出しになるまで貪り尽くされた、若い女の死体が転がっている。血に塗れた腕を必死に伸ばし、ほとんど白目をむいた苦悶の顔。生前は可愛らしい女性だったのだろうが、その必死の形相は、見るものを立ち止まらせる恐ろしさがある。

 

「俺らが救助するはずだった。そうだろ?」

 

 それを見下ろし、数発を残すのみとなった弾倉を入れ替えたクラヴィスが呟くように言った。ホームの奥では、こちらに気づいていないらしい死者が、ただの血溜まりになった犠牲者の残骸を夢中で漁っていた。まだ制圧を終わらせていないが、階段を登った先の改札フロアも似たような有様だろう。

 

「俺達がついたときには手遅れだった。責任を感じるなら、さっさと小隊長を探し出して本部に連絡をつけることを考えろ。再編すれば、まだ市民の捜索を行うだけの戦力はある」

 

 ヴラッドは眉根を寄せ、息絶えた女性に目を据えたクラヴィスに違うかと問いかける。彼は目を閉じて小さく、ほんの短い黙祷を捧げると、そのとおりだと頷いた。

 

 行くぞと、ヴラッドは言った。カービンをスリングで提げてホームに昇り、グリップを掴み直すとストックを肩に沈める。地上よりよほど死者の数は少ないが、閉所には死角が腐るほど存在する。どこから飛び出してきてもおかしくはない。

 

「どうする」

「改札エリアを制圧して、そこから管理設備をチェックする。監視カメラが生きていればログから過去の分の動きが探れるはずだ」

 

 マディソンの問いかけに応じたヴラッドは、ホームの数カ所に設置された監視カメラを示した。外から見る限り、破損している様子もなければ治安対策のダミーのようにも見えない。カメラがあるなら、それをチェックする設備があって道理だろう。

 

「了解、武器使用は」

「近づかれる前に撃て。近距離以外は無視して構わない。前進だ」

 

 奥で食事を楽しんでいた男が、こちらに気づいたらしくのそりと立ち上がる。あれはどうすると問いかけたクラヴィスに、退路を塞がれたら困るなと応えてやると、彼はスプリングフィールド製の古めかしいライフルを持ちあげ、引鉄を絞った。

 

 減殺された銃声に、甲高いボルトの音が続く。頭を吹き飛ばされ前のめりに倒れ込んだそれを無視し、ヴラッドは改札へつながる階段を駆け上がる。

 

 ホームも改札フロアも、血なまぐさいという意味では同じだった。薄汚れ、スプレーの落書きが目立つ壁は飛び散った血で上塗りされている。ところどころに酸素に触れて変色し、オイルのように黒ずんだ血溜まりが見える。

 

 逃げ込んだ市民か、警官が抵抗したのだろう。空薬莢に使い切った弾倉、そしてブローニング拳銃を握りしめたままの手が転がっていた。手の持ち主がどうなったかは考えるまでもない。

 

 ホームからの階段を上がるとすぐ目の前に、職員用通路とプレートを振られた金属製のドアが見えた。ドアにベッタリとついた赤い手形が生々しい。

 

「職員通路、これだ。ロックしてやがる」

 

 マディソンがドアノブをガチャガチャと鳴らしながら苛立たしげに吐き捨てる。

 

「爆薬を使わずに開けられるか」

 

 階段を上がってきた気配に気づいたらしく、改札口にたむろしていた死者がこちらへ狙いを定めて、ずるずると足を引きずるようにしながら接近を始めた。すぐ目の前、ドア脇の自販機にもたれかかっていた男がゆっくりと起き上がり、肉が削げ落ちて軟骨が飛び出た鼻腔からねばつく液体を垂らしながら、濁って黄ばんだ目をこちらへ向ける。

 

 ヴラッドはその頭にカービンを撃ち込んだ。首がのけぞり、掻き乱された頭蓋の中身が逆流して鼻腔から吹き出す。無力化した個体は一顧だにせず、銃口を巡らせて、登ってきたのとは反対側の階段から姿を表した死者へ狙いを定めた。

 

「最後にピッキングしたのはメキシコだぞ」

「国境をまたげば鍵が変わるわけじゃあるまい。ドアをぶっ壊したら、逃げた先が俺たちの棺桶だ」

「ディスクシリンダーだ、二分で済ませる。粘れよ」

「二分だ、聞いたな」

 

 マディソンが捜査官時代にツールを用いての解錠を特技としていたことは、アンブレラがよこした経歴調査書で把握している。彼は小声で何か罵ってから、ツールを取り出して鍵穴にねじ込んだ。

 

 改札機を乗り越えようとした死人の群れがバーでせき止められ、前のめりに倒れ込んだ先頭を乗り越えようと後ろから続く死者がのしかかる。次々と倒れ込む歩く骸ども。仲間を押しつぶし、こちらへと傷まみれで、あるいは腐乱しかかった腕を伸ばすそれらに、怖気を感じずにはいられない。

 

 まさに死者の津波。改札口に出来上がった死人の山の向こう、地上へ繋がる階段から、さらに増援が押し寄せているのが見える。

 

 ヴラッドは立ち上がった個体から優先してカービンを叩き込んだ。ジョエルもそれに加わり、クラヴィスは双方が弾倉を交換する隙を埋めるようにしてM14を撃つ。

 

 死者の数は膨大だが、手にした火器は三〇発をものの数秒で撃ち尽くす最新鋭の自動式。練達の射手にとり、うごきのとろい死人の頭部など大して難易度の高い標的ではない。ドットを重ね、なめらかに引鉄を搾る。反動を感じながら次の標的を探し、光点を頭に重ねて必殺の銃弾を送り込むのは、ほとんど機械的な動作だった。

 

 ひっきりなしに血に淀んだ空気を揺らす銃声はしかし、ヒステリックさとは対局の、抑制され理性に導かれた暴力の存在を示す。次々と頭蓋を射抜かれ、死者としてのあるべき姿へと送り返された骸が積み上がった。

 

 が、流石に限度というものがある。動きはとろく狙うのは難しくないが、膨大な数となれば抑え込むのに苦労する。すでに、上がってきた階段の方からも数体こちらへ向かっているのが見えた。退路を絶たれている。

 

「手間かけさせやがって。空いた……くそっ」

 

 マディソンの苛立たしげな声に振り向くと、引っ張ったドアの向こうから、土気色の顔をした男が彼に覆いかぶさろうとしていた。唾液か血液か判然としない粘っこいものが糸を引く口を裂けんばかりに広げ、マディソンの喉へかぶりつこうと顔を寄せる。黒い斑点のういた喉を腕で押しのけ、噛みつかれまいとしてマディソンがたたらを踏む。

 

 ヴラッドは残弾の少ないライフルを脇に回し、血に濡れた鉄道職員の制服の襟を掴むと、強引に引き剥がした。そのまま、へし折れているらしいぐにゃりとした腕を掴み、足を払って投げ飛ばす。自由を得たマディソンが、銃を持ち上げ職員通路へ飛び込んで叫んだ。

 

「急いで中へ入れ!」 

 

 投げ飛ばした死人は地面へ叩きつけられると、奇妙で餓えに満ちた呻きを上げ起き上がろうともがいたが、ヴラッドはその背中を踏みつけにした。左手でカービンを支えたまま、右手で拳銃を引き抜いてグリップを握り込む。

 

 スクィズコッカーの名が示すとおり、握り込む(squeeze)ことで撃針をコック状態にする特殊なグリップ。スライド後端からコック状態を示すピンが飛び出て、ヴラッドは引鉄を搾る。

 

 べしゃりと、地面に粘っこいものが散った。後頭部から飛び込んだ銃弾が頭蓋を撃ち抜き、どろりと黒ずんだものが溢れ出す。

 

「ヴラッド!」

 

 直ぐ側まで、死者の列が迫りつつあった。血に汚れて肉片と筋の垂れる腕をこちらへ伸ばし、もごもごと顎を動かす餓鬼共。その汚れ、腐り始めた口が放つ悪臭を感じ取り、ヴラッドはジョエルが開け放ったままにしたドアへと滑り込む。

 

 ドアが閉じると、すぐ背後でこちらを追い求めて金属が引っかかれる音が続いた。それは休みなく、鉄扉の向こうから長く伸びる呻きが染み出してくる。背筋を撫でる冷たい声音、死者の誘い。

 

 ドアをロックして拳銃を革のホルスターへ押し戻し、カービンの残弾を確かめる。マガジンキャッチの掛かる穴から見えるのはスプリングのみだ。もう五、六発程度しか残っているまい。

 

 弾倉を入れ替え、使いかけの弾倉を右側のポーチに押し込む。満タンの弾倉を左側へ持ってくるのは、軍務時代からの癖だ。

 

「帰り道は別に探さにゃならんな」

 

 ドアを揺らし、必死に肉を求める死者の声を聞きながら、ジョエルがぼやいた。彼も彼で使いかけの弾倉を入れ替え、小さく呼吸を整える。

 

 職員通路は、外と違って落書きこそ無いものの、照明の程度は似たようなものだ。満足の行く明るさではなく、薄らとオレンジの混じった照明はどことなく薄暗い。死人が跋扈する現状、“らしい”といえばそのとおりだが。

 

 そして、先程ゾンビに成り果てた職員がドアの内側から現れたことからも明らかだが、ここも安全とは言い難いようだった。廊下の壁に、血のついた手を引きずった痕がのこっている。地面にはかすれた赤黒い線が伸びていて、奥へと向かっていた。

 

 が、ヴラッドはその血の跡よりも、少し進んだ先のリノリウムの床に転がる薬莢に目が向いた。

 

 マディソンとジョエルがカービンを構えて奥へ進み、曲がり角の先をチェックする。クラヴィスは、閉所故に減音器(サプレッサ)を取り付けた長いライフルから、支給品のシグに切り替えている。閉所では拳銃のほうが都合がいい。

 

 ヴラッドは彼らの後を追い、地面に転がる薬莢をしゃがんでつまみ上げる。ハンティングによく用いられる.308や30-06より一回り小さいが、ライフル弾特有のボトルネック形状の真鍮ケース。

 

 薬莢底面の打刻は、.223ではなく軍用の5.56ミリであることを示していた。民間人でも手に入らないわけではないが、廊下の角を右に曲がった先、ジョエルの警戒する方向には、自分たちが用いるのと同じM16ファミリー向けの三〇連弾倉が転がっている。

 

「軍用の弾薬、それに弾倉。よっぽどぶっ放したらしい」

「だろうな、死体が向こうに転がってる」

 

 ヴラッドが顔を上げると、マディソンが廊下の先を示した。覗き込めば、頭部を吹き飛ばされた死体が二つ。一つは仰向けに転がり、頭蓋の中身を地面に広げていた。もうひとつは壁によりかかり、上顎から先が殆どなくなった頭部の中身を晒している。両方とも、胸部にも相当数の被弾痕が見受けられた。

 

「小隊本部の誰かか?」

「おそらく。コレを見ろよ」

 

 拾い上げた薬莢を地面に弾いて捨てたヴラッドの声に応じたジョエルが、廊下の先まで警戒しつつ前進し、何かを拾い上げた。それは拳銃の弾倉だった。しかも、見慣れたシグ用のものだ。

 

「カービンが尽きたんだろうな。めちゃくちゃに乱射したらしい、薬莢まみれだ」

 

 足元に散らばる9ミリの薬莢を軽くつま先で小突いてジョエルが弾倉を捨てた。彼の態度から見るに、発砲者の生存を期待していないようだった。それはヴラッドも同じだ。死体の数に対して散らばる薬莢の数が多すぎる。おそらく、パニックに陥ってがむしゃらに銃弾を撃ち込んだのだろう。

 

 壁に刻まれた弾痕も射手の慌てぶりを示していて、平均的な身長からみる頭部の高さよりよほど高い位置に着弾を示す凹みが散見された。それは腰丈より下の高さを見ても同様で、この通路だけで弾倉二本分かそれ以上に消費していると思われた。

 

「おそらく射手は一人。本隊とはぐれたか、唯一の生存者だったか」

「前者であってほしいね。後者となるとどん詰まりだ」

 

 ヴラッドのつぶやきに、うんざりした顔で応じたマディソンは、油断なく銃口とリンクした視線を通路に走らせている。

 

 ヴラッドは弾痕から見る射入角と、薬莢の散らばり具合から、射手の逃げた方向を推測しようとした。少なくともジョエルのいる方向から射撃したのは、血の散り方と弾痕の向きから見て間違いあるまい。

 

「どっちに行ったか……わかるわけもないか」

「総当たりで調べるっきゃ無いだろう。ゾンビだって外に比べたら雀の涙、二手に別れようぜ」

 

 クラヴィスが言った。彼はシグを右手に握り、集合地点はここでいいだろ、と続ける。態度からこの状況に焦れている事がわかった。地下で、先の見えぬ捜索となれば仕方あるまい。

 

「いいだろう。ジョエル、クラヴィスと行動しろ。職員エリアから外には出るなよ」

「死にそうになったら無線で伝えてやる」

「遺言も忘れるな。マディ、行くぞ」

 

 あとでな、とクラヴィスが手をひらつかせた。ジョエルは、こちらの返事にニヤニヤと笑いながら肩越しに視線を投げ、M4を構えて通路の奥へと消える。ヴラッドはそれを見送り、立ち上がって肩からぶら下げたカービンのグリップに手を添えた。

 

 職員用エリアは、予想通りホームや改札フロアと比べて死者の数が非常に少なかった。常から鉄道運行の保安上の都合で扉に鍵をかけているためだろう。が、それでも早い段階で逃げ込み、職員が匿った市民らしき死者が散見されるのは、仕方のないことだ。

 

 ドアを開け、中を検索する。死者がいれば銃弾を撃ち込む。撃ち倒した死者の確実な絶命を確かめ、隅から隅まで部隊員がそこにいた痕跡を探し、次の部屋へ。

 

 トイレ、職員の仮眠室、休憩用の座談室。片端から潰し、運行管理室のドアにマディソンが手をかけた瞬間、耳慣れた、しかしくぐもった銃声が破裂した。

 

 カンッ、と軽くピッチの高い音を立て、マディソンの頭のすぐ脇を何かが突き抜けた。ドアを貫通した銃弾の破片が、彼の頬に小さな裂傷を生み、彼が一瞬たじろいだ。それは致命的な隙だ。

 

「来るな! クソッタレの死人ども! ぶっ殺してやる」

 

 マディソンのベストの襟首についたドラッグハンドルを掴み、彼を強引に引き寄せると、そのまま銃弾が続きドアに風穴を追加する。反応が遅れれば自分がそれに貫かれていた事実に、マディソンが顔をしかめて小さく礼をよこしたが、ヴラッドはドアの向こうから聞こえた、苦しげでかすれかけた聞き覚えのある声に意識を向けた。

 

「撃つな! こっちは生きた生身の人間だ、ボケナス。ルーベンス、聞こえているか!」

 

 ヴラッドは怒鳴りつつ、マディソンの頬の傷を親指でほんの僅かに広げて確かめる。大した深さはない。破片がかすめただけのことだ。大事はないと判じて手を離すと、カービンの筒先をドアへと向けた。仲間であっても、正気を失っていれば何をするかわからない。

 

「くそ……ヴラッドか? 冷血がお迎えとはな……畜生」

「入るぞ、撃つなよ」

 

 数秒の沈黙の後、こちらの声で誰かを察したらしいルーベンスが咳き込みながら返事をよこすと、ヴラッドはノブに手を伸ばしてドアを開けた。そのまま、まず手を突き出し、ゆっくりと中を覗き込む。

 

 運行管理室の中は、死体が一つと、負傷した同僚以外に見るべきものはなかった。鉄道運行を管理するパネルは電源が入っており、路線の状況を示すモニター上で、いくつかの箇所が赤く警告灯を点けている。

 

 ヴラッドは、シグを握ったルーベンスがそれを膝の上へ垂らしたのを確認すると、分遣隊内で周波数を共有する分隊無線の送信機を押した。

 

「負傷者を発見、ルーベンスだ。運行管理室に入る」

『了解、こっちは警備室に入った。カメラで過去のログを確認する。終わり次第合流する』

「は……あえて嬉しいよ、ヴラッド。大丈夫か……弾は……」

 

 管理パネルにもたれかかり、腹部と首の付根から血を垂らしたルーベンスが、苦しげに喘ぎながら問いかけた。

 

「謝るなら俺にだ。頭ぶち抜こうとしやがって」

 

 後から続いたマディソンが、部屋に入るなりルーベンスに小言を垂れた。危うく殺されかけたというのに、その声音は朗らかだが、それもルーベンスの負傷を目にするまでだった。

 

 



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希望は未だ遠く

「降下してすぐに任務の変更があった。……小隊長は、抗議したが……上は、社の財産が優先だと」

 

 個々人に配布される応急キットで首筋の傷を消毒し、止血剤入りのガーゼを貼り付けたが、ルーベンスの腹部の傷を処置するには量が不足していた。

 

 彼のベストの下、破れた戦闘服(BDU)から覗く腹部は引き裂けている。裂けた腹膜の下から内臓が覗いていた。幸いにして、内臓器官そのものに外傷は見られず、汚物が溢れ出した様子はないが、ひどい怪我であることに変わりはない。

 

「俺ははぐれちまったがな……おかげでこのザマだ」

「喋るな、無駄に体力を使うぞ」

「そんなもん……とっくに、残っちゃいねえよ。自分で……立ってらんねえんだ」

 

 苦しげな喘鳴が呼吸に混ざり、ルーベンスはぼんやりとした眼差しをヴラッドと向けた。ヴラッドは運行管理室のキャビネットから引っ張り出した書類の束から、役に立ちそうなものを選んで引っこ抜いたところだった。

 

 ファイルは手入れが行き届いているとは言い難く、中身はまとまりを欠いていた。が、地下鉄の路線図や保守点検用のマニュアルに混じって、アンブレラの傘のマークの入った資材搬入用ファイルが紛れ込んでいるのを、ヴラッドは見逃さなかった。

 

「すぐにジョエルが来る。手当を終えたら、ここから脱出して小隊長を捜索する」

「いい……手遅れだ、構う、な」

「ジョエルが来てからにしろ。俺は医者じゃない」

 

 ヴラッドは言った。マディソンはルーベンスの腹部に、残りの最後の止血剤入りの滅菌ガーゼと包帯を巻き付けているが、出血を止めるにも、傷口を覆うにも量は不足していた。腹から流れ出た血が、ルーベンスのBDUの股座を黒く染め上げている。

 

 いま自分にできることはなにもない。そう分かっているからこそ、ヴラッドは自分の仕事に専念することにした。手元のファイルを開き、詳細を確かめると、それはアンブレラの地下施設向けの物資搬入に関する注意書きだった。

 

「小隊本部は、地下鉄の分岐点から地下施設の搬入口に向かったらしい」

「おそらくは、そのはずだ。俺は改札ではぐれちまって……後のことは、わからんが」

 

 ルーベンスがあえぐように呼吸しながら頷いた。

 

 マニュアルでは、運行プランの調整の仕方とは別に、保守点検の際の方法やその他が記されている。記載が正しければ、ホームからヴィクトリー湖方面、操車場側へと向かった中間地点に、一般には公開されていない分岐点があるようだった。普段は隔壁で閉鎖されているらしく、開放方法は記載されていない。

 

 鍵か電子ロック式か。あるいは遠隔での操作が必要か。なんにせよ、現場へ向かわねばわからないことだが、記述の内容から判断するに不測の事態に備えて予備のドアがあるようだった。

 

「マディ、成形爆薬の残りは」

「3セットであがりだ。なんだ、またドアでも吹き飛ばすのか」

 

 そんなところ、と頷いてやり、書類を投げてやる。彼はそれをキャッチすると、バインダーに留められた紙面を読み上げた。

 

「なに? 通常運行時は隔壁の閉鎖を必ず行うこと。また分岐点の確認は二重に行うことを忘れぬように。また保守点検は定期的に行われるため可能性は少ないものの、万一隔壁が動作しない場合、予備のドアから内側へアクセスし、予備電源への切り替えを行った後強制的に閉鎖/開放を実施するように」

「あくまで予想だが、研究施設の設備、備品の搬入路だろう。そこからアクセスを試みた可能性が高い」

「それで、予備のドアの鍵は」

 

 マディソンがバインダーをこちらに突き返した。ヴラッドはそれを受け取って肩をすくめると、親指で壁に取り付けられた金属製のケースを示した。

 

「キーの保管棚にはそれらしいものはなかった。だから吹き飛ばす必要があるかもしれない」

「解決策が常に爆破、野蛮だな、まったく」

 

 けらけらと、マディソンが笑う。つられたルーベンスがしかし、大きく咳き込んだ。ひゅーひゅーとかすれた呼気、苦しげに胸を上下させる彼の顔色は、先程よりも悪くなっているように感じられた。

 

「ジョエル、ルーベンスの容態が芳しくない、急げ」

『了解、今確認が終わった、そちらへ向かう』

 

 送信した無線に、即座に投げ返された声。他にめぼしいものがないことをざっと確かめ、ルーベンスの脇にしゃがみ込む。呼吸は浅く、顔色は血の気が薄く唇は紫になりかかっているようだった。呼吸が浅く、間隔が大きいことから見て、軽度のチアノーゼだろう。

 

「入るぞ」

 

 そうかからず、ドアがノックされてジョエルが入ってくる。後から姿を見せたクラヴィスは廊下に残り、接近する者がいないかを警戒している。それを見、マディソンがヴラッドの肩をたたいて外へ出た。

 

「ひどいな……」

「手持ちの備品でどうにかなるか」

「わからん。呼吸を安定させないことには……」

 

 そこまで言って、腹を押さえていたルーベンスの手をどかしたジョエルが顔をしかめる。右の脇腹から臍のあたりにかけて肉が引きちぎられ、裂けた皮膚はすでに変色を始めていた。その下、腹膜が破れ、圧力に押されてはみ出かけた内臓が呼吸に合わせて動くさまは、なにかの生き物のようにも見える。

 

「出血がひどい。臓器に外傷はないようだが、コレは手持ちじゃ無理だな。搬送しないと長くは……」

「置いて……いけ。わかってる……、俺はだめだ」

「バカ言え、どうにかしてやる」

「くそ……わかってないんだな。俺は、……ぁ、噛まれてるんだ」

 

 ルーベンスの声はすでに力なく、紫に変色した唇が弱々しく笑みを刻んだが、それはより一層、悲惨な負傷状態を強調しただけだった。ジョエルが片眉を上げ、どういうことだと問いただす。

 

「くそ……上の奴ら、黙ってやがった。感染症に……ビビって、暴動になったんじゃない。いいか、()()()()()()()()()()()()()()んだ。そいつらに()()()()や、つらも……同じく。暴徒なんか、最初からいねえよ」

「冗談だろ」

「……俺を見ても、そう思うか」

 

 ジョエルの呻きに、ルーベンスが返した。ほとんど消え入りそうな声をどうにか絞り出し、それからこちらを見上げる。顔から血の気がほとんど失せ、目の焦点が合っていない。

 

「最初に噛ま、れた……ジョルジュは、……起き上がって俺を噛みやがった。ち……くしょう、俺だって……認めたくねえが」

 

 そこまで言って、ルーベンスが激しく咳き込む。背を丸め、心臓すら吐き出しそうな勢いでえづくと、口の端から唾液を垂らして天井を見上げた。目の動きは鈍く、ほとんど何も見えなくなっているのが分かった。

 

 ヴラッドはそれを見、最初に死んだエドモンドを思い出した。死亡確認までしたというのに、起き上がってダニエルに噛み付いたエドモンドのことを。そこで、安全地帯に待機する仲間の内3人が負傷している事実に思考がたどり着き、じっとりと手のひらが汗ばむ。

 

「……腹ぁ、減った……、なあ……頼むぜ、おれ……は、ああは、なりた……く」

 

 ほとんど呼吸音すら聞き取れなくなったルーベンスが、手にしたシグをだらりと垂らしてこちらへ突き出す。しかし、小さくいまにもかき消えそうな声が最後まで言い終える事なく途切れると、指先が白くなった彼の手もまた地面へ落ちた。

 

 銃が転がり、数秒の沈黙の後、ヴラッドはそれを拾い上げた。スライドをわずかに引いて、エキストラクターが真鍮の薬莢を薬室から引き出したのを確かめた。装填済みだ。

 

「ヴラッド」

「ジョエル、下がれ」

 

 動かなくなったルーベンスの喉に触れ、脈をとったジョエルの襟首を掴んで引き剥がす。彼は装弾を確かめたヴラッドに目を向け、問いただそうとする真っ直ぐな瞳を据えた。

 

「もう死んだ。死人になる前に始末してやる」

「まて、死に際の世迷い言かもしれないんだぞ」

「お前だって、エディが起き上がったのを見ただろう。時間がない、小隊長を捜索してマルコフに警告すべきだ」

「だが……」

 

 なおも食い下がるジョエルの肩を、背後からマディソンが掴んだ。クラヴィスは必要な措置と判断したのか、こちらを横目にちらりと見やっただけだ。

 

「ルーベンスの言うとおりなら、そこらじゅう死人まみれなのも説明がつく。わけのわからん感染症、なるほど、噛まれたやつがああなるなら、道理だ」

 

 忌々しげに吐き捨てたマディソンが、うなだれた姿勢のままで事切れたルーベンスを見やる。ジョエルもそれにつられて、目の前で死んだ仲間に目を向けた。ほんの僅かな逡巡、しかし状況を鑑みてやむないことと判断したのか、ほんの数秒目を閉じて引き下がった。

 

「遺言だ、果たしてやるのが人情ってもんさ。ヴラッドの判断は正しい。それとも、お前さんがどうにか出来るのか」

 

 クラヴィスが視線を廊下へ向けたまま言った。納得しきれない様子のジョエルを見て、こちらをかばったつもりなのだろう。それにジョエルが頷いたのを確認し、ルーベンスのシグを彼の頭へ向けると、ぴくりと、真っ白く血の気の抜けた指が動くのが見えた。

 

 小さいが、この地獄に降り立ち数時間で耳慣れた呻きがルーベンスの喉から漏れる。ヴラッドは、彼が濁った眼差しをこちらへ向け、大きく口を開くのを待たず、引鉄を絞った。

 

 

 

 

 

 

 引鉄の重み、たかだか数キロ分のテンション。それが人の命を刈り取るのを阻む、唯一の障害。殺すか殺さないかの判断を瞬時に求められる人間にとり、それはあまりにももろく頼りない。

 

 命のやり取りの場において、決断の最後の確認を取るのは、そのほんの僅かな重みを指が押し切るまでの一瞬だ。

 

 ヴラッドはルーベンスの頭を撃ち抜いた瞬間を思い出し、それから、ほとんど瞬間的に、肉体の判断に任せてぶち抜いたエドモンドの顔がまぶたの裏にちらつくのを無視して、眼前に広がる闇へとライトを向けた。

 

 ルーベンスを彼の希望の通り射殺し、小隊本部の後を追うことで一致したヴラッドたちは、最終的にダクトを利用してホームへと戻ることになった。職員エリアからの出口は何箇所かあったが、いずれも銃声と生者の気配につられた死人が群がっていたせいで、脱出は不可能と判断されたからだ。

 

 結局、時間をかけて施設の構造を調査し、換気ダクトの修理記録と改築報告書からダクトの配置を拾い上げ、そこを脱出路にしたわけだ。装備を着込んで這いずるのには随分と苦労したが、永遠に雪隠詰めにされるよりはマシだ。

 

「随分歩いたと思うが」

「もう少しだ」

 

 マディソンの問いかけに、ヴラッドはため息交じりに返した。

 

 下水道からのアクセスに使ったドアはとっくに通り過ぎていた。駅からそう離れぬうちは何体かの死者に出くわしたが、更に奥へと進んだ今、地下鉄はすでに音のない漆黒に逆戻りしている。背後から流れてくる死者の合唱と、自分たちの物音だけが聞こえる全てだ。

 

 進む先は未知なる漆黒、戻れば地の下でうごめく死者の楽園。救うべき市民すら見つけられず、ただ望まぬ死を押し付けられ、強烈な飢餓に突き動かされて生者を探し求める餓鬼を、あるべき死へと送り返す以外に出来ることはない。

 

 降下前、中隊本部のずさんさに苛立っていた自分には想像もつかなかった地獄。そこに身を置き、文字通り一寸先すら見通せぬ闇の中を進む自分が滑稽に思えて、知らずのうちに口元に嘲りを多分に含んだ笑みが浮かんだ。

 

 いけないな、と感づかれぬようにゆっくりと深呼吸をする。レールを辿る単調な行軍は、混乱に揉まれてこの方、休みなく活動を続けている身体にはいささか堪える。

 

 左手首の時計の時針は、すでに作戦開始から一〇時間が経過していることを示している。トリチウムで発光する針を読み、ヴラッドは指定した六時間までそう余裕がないことを胸に留めた。

 

 視線を巡らせると、すぐ隣でカービンを下へ向けたままのマディソンが、眉根を寄せて目頭を揉んでいる。クラヴィスはライフルのストックを指先でリズミカルに叩いていた。ジョエルはルーベンスを射殺してから、なにか物思いに耽っているらしく無口だ。

 

「見えた、あれだな」

 

 しばらく進み、ライトが線路の分岐点を捉えると、ヴラッドは銃で円を描いた。ライトがくるくると分岐点の部分を丸くなぞる。ようやくだなとクラヴィスがけだるげに呟き、マディソンが大きくため息を吐く。

 

 分岐点の先、ラクーンステーション側へと続く搬入路を奥へ進むと、五〇メートルほど進んだ先で隔壁が降りて封鎖されていた。貨物車を通過させるための大型の隔壁は分厚く、ライトで照らしただけでもその頑丈さが伝わってくる。

 

 03とナンバーの振られた隔壁、それに手を触れ、軽くノックしてみる。音は響かない。厚さは爆薬程度でどうこうできるものではないだろう。仮に電車で突っ込んだとしても、突破するのは難しい。そう感じさせる質量が目の前にそびえている。

 

「厳重だことで」

「研究施設の搬入路だ、当然」

 

 クラヴィスが口笛で囃し、ジョエルが鼻を鳴らした。研究施設ということは、社の機密に関わるものも多く存在するはずだ。となれば、万一の可能性を考えて出入り口のセキュリティを強化するのは当然のこと。

 

 ゲートの脇にはコンソールボックスが設置されていた。蓋は鍵でロックされており、ツマミを引っ張っても開かない。

 

「予備のドアってのは、これだな」

 

 隔壁のチェックをおこなっていたマディソンが、そびえ立つ鉄の壁の脇のドアを示した。大きさは人間の出入りを想定しているのか、そこらにある扉と大差はない。素材は鉄製で、そのドアの脇には隔壁と同じように小さなコンソールが張り付いている。そちらの蓋は開いたままで、誰かが最近アクセスしてそのままにしたのだろう。

 

「電子ロック式、電源が死んでやがる。役たたずめ」

「仮に電源が生きてても、俺達には解除方法がわかりゃしない」

 

 マディソンが吐き捨て、ヴラッドは通電していないらしく沈黙したままのパネルを一瞥すると、ドアに触れた。金属製で頑丈そうだが、隔壁そのものよりはよほど薄いはずだ。

 

 ライトを枠とドアの隙間に向け、目を細めてロック箇所と数を確認する。ドアの中央から2本、金属のロックバーが伸びているのが見えた。ほかにドアを施錠している部分は見受けられない。これなら爆薬で強引に開通できるはずだ。

 

「マディ」

「設置だろ、そこらに座って待ってろ。休憩時間だ」

「気遣いどうも」

 

 バックパックを下ろして中身を引っ張り出したマディソンが、下水から地下鉄へ繋がるドアを爆破したときと同じように、ケースに入れた成形炸薬を手にした。最小サイズで最大の威力を生み出す成型炸薬といえど、適当に設置していいわけではない。十分な効果を望むのであれば、角度や破壊目標との距離など様々な要素を考える必要がある。

 

 マディソンはその道のプロだった。麻薬取締局で戦術班所属だったころ、専門分野は爆発物による障害物除去と()()()の構築だったと聞く。爆発物運用の知識、そして銃器の運用に長けた、作戦には欠かせない人材だ。

 

 彼はざっと、成型炸薬の効果を引き出すのに必要な距離を維持する設置位置を検討すると、爆薬をテープで設置し始めた。

 

「この先にいると思うか」

「パネルに誰かがアクセスしたのは間違いない。小隊本部以外に考えられるやつがいるか?」

「いない、な。設置完了……と、吹き飛ばすぞ」

 

 そこをどいた、とマディソンが手で隔壁に寄るように示す。爆薬に差し込まれた信管、そこから伸びるコードは起爆装置に接続されている。安全装置をかけた起爆装置を手にしたマディソンが、隔壁に身を寄せたこちらにの前にかがみ込んだ。ヴラッドが頷いてみせると、マディソンは安全装置を外してそれを握り込んだ。

 

 爆発音は、周囲をコンクリートに囲まれた環境ではことさら大きく響き渡る。起爆と同時に膨大な熱量が生じ、想像を絶する圧力を受けた施錠部分は、瞬間的にその役割を喪失した。

 

 トンネルを駆け抜けた爆発音が尾を引き遠ざかるのを聞きながら、ヴラッドはコードを起爆装置から切り離したマディソンの脇を通り過ぎ、施錠部分に風穴を開けられたドアへ向かう。

 

 凄まじい圧力を受け、熱ではなくその圧力がもたらす破壊。爆破と聞いて一般的に想像される、破片が飛び散り熱で焼け焦げた破壊面と違い、ドアに刻まれた破壊痕は極めて限定的だ。

 

 ヴラッドは穿たれた施錠部を見、内開きのドアに蹴りを叩き込んだ。歪んだドアがきしみを上げ、勢いよく内へと押しのけられる。

 

 こじ開けた通用口、その向こうへ銃口を向けてくぐり抜けたヴラッドを待ち受けていたのは、こちらの額へと向けられた複数の銃口。そしてクランプで固定されたフラッシュライトの放つ、まばゆい明かりだった。

 

 

 

 

 

 

 

「お前たちが来なければ、私達はここが墓場になるところだった」

 

 もう一〇時間近く、明かりのない闇の中に閉じ込められていたらしいハリソンの声は、降下前にくらべて張りを失っているように感じられた。それは小隊本部の生き残りの他数名も同じだ。

 

「アクセスコードで隔壁をクリアしたのはいいが、肝心の施設の電源が落ちているんだろう。にっちもさっちも行かなくなったところで、こっちの電源も落ちた。おそらくは、到着以前から長時間、予備電源に切り替わっていたと思われる」

 

 そう言って隔壁で親指を示したのは、ハリソン率いる小隊本部の射撃班長(FTL)にして小隊の副長であるガルシア・アフォンソ曹長だった。南アフリカで生まれ、国軍を経験した後各地を傭兵として転戦した経験豊富な下士官だ。ローデシア軍への参加経験もあると聞く。

 

「予備電源は」

「起動を試したが、整備不良か応答なし。爆薬はここに来る途中で担当とはぐれて、無線も不通。おまえたちが来たのは幸運だ」

 

 ヴラッドの問いかけに肩をすくめて応じたガルシアは、角張った鼻梁を指先で掻き、部下から冷静にして冷酷と評される、細くすべてを見通すような眼差しをこちらへ据えた。グレーの瞳、感情の色の薄いそれは、かつての上官と同じ戦果と利益のみを成果とみなす冷たさがある。

 

 ここに来ることになったのも、戦闘中に敵掃討を優先し、多数の民間人を巻き添えにしてそれを隠蔽した罪で告訴され、アンブレラのリクルーターに拾われたのだそうだ。それ以外にも、現役当時に巻き添えにした民間人や切り捨てた部下の噂には事欠かない。

 

「お前たちは、どうしてここに」

 

 何度会話を重ねようと、慣れることのない冷ややかな眼差しの居心地の悪さ。幸運だと口にしながら、声音はどこまでも平坦なガルシアから、ハリソンの問いかけに目を向けて逃れる。

 

「マルコフが、最後の無線交信で分隊長は地下鉄から地下の研究施設へ向かうといっていた、と。駅舎の捜索を行い、ルーベンスを発見。カメラの映像と搬入用の資料、彼の証言から、ここだろうと」

「マルコフが? ……そうか、ルーベンスは」

「死にました。死者になったので、自分が」

 

 顎に手をやって怪訝な様子で一瞬考え込んだハリソンの問いかけに、ヴラッドは素直に応じた。ハリソンはそれを聞き、小さく頷いて壁に寄りかかった。煙草を取り出し火を点けた彼の顔にまざるほんの僅かな悲しみの色を、ライターの明かりが照らし出した。

 

 彼が指揮官として、小隊の部下から信頼される所以。大仰に感情を顕にすることはないものの、しかし部下の死傷に対して無感動ではない。冷静さを欠かず、しかし胸のうちにしっかりと悲しみを抱ける、その人間味は人を率いる上で求められる部分だ。たとえ有能であろうと、機械的なだけの人間の後ろに続く者は多くない。

 

「お前は仕事をした。処置をしたことを悔いる必要はない」

 

 先ほどと変わらぬ無感動な声でガルシアが言った。ただ淡々と言葉をなぞっただけの彼は、それでと付け足して片眉を持ち上げる。

 

「そちらの状況は」

「現在マルコフの第三分隊が集結地点を掌握、民間人とともに安全地域を確保しています。我々は小隊本部の捜索、及び野外無線機の確保のために分遣されましたが……その前に、ルーベンスの言っていたことは本当ですか。噛まれたものは……」

「事実だ。すでにこの場で一人、処理した」

 

 処理、という一言に眉根が寄る。ガルシアが親指で示した先にマディソンがライトを向けると、頭を撃ち抜かれた隊員の亡骸が線路脇に転がされているのが見えた。ライトの照り返しが、マディソンの僅かにしかめられた顔を薄ぼんやりと照らしている。

 

「これは新種の感染症だ。市内全域に広まっていると見ていいだろう。私はそちらには詳しくないが、感染、発症した人間に噛まれることで感染すると見ていい。そして、たとえその傷が致命傷にならずとも、いずれは発症し死に至る。その後、起き上がり人を襲うようになる」

 

 ハリソンが赤熱する煙草の穂先を見つめつつ言う。彼は頭を撃ち抜かれた部下の方をみやり、彼の外傷は少なくとも致命傷ではなかったからな、と付け足した。ジョエルが示された死体へと歩み寄り、ラテックスをはめた手で死体の見聞を始めた。

 

「小隊長の言うとおりだ。咬創は四箇所だが、いずれも重要器官、動脈にも触れていない。出血量も見たところ大したものじゃない。止血もしっかりされている。外傷が原因で死んだとは思えないな」

「感染経路はわかるか」

「俺は感染症の専門家じゃないですがね。空気感染なら、生存時間次第ではもう俺らも手遅れ、飛沫感染や接触感染は十分にあり得るな。噛まれて感染するなら、接触感染は間違いない。血の一滴でもアウトだろう」

 

 ジョエルが死体の具合を確かめながら解説し、ハリソンの問いかけに首を振って応えた。彼は戦場での外傷処置に長けてはいても、感染症に関して専門的な知識を有するわけではない。

 

「死人、感染者の体液。コレに極力触れないこと、また触れたものを傷口に触れさせないこと。飛沫感染はわからないが、警戒に越したことはない」

「早くマルコフに警告すべきじゃないのか」

 

 クラヴィスが言った。彼は侵入のために爆破したドアの方へ銃口を向けたままで、膝をついてこちらへ急かすような視線を向けている。

 

「負傷者がいるのか」

 

 ガルシアが眉根を寄せて問うた。語気がわずかに力んでいるのが分かった。

 

「三名、いずれも噛まれています。我々は野外無線を回収し、即座に帰還を……」

「野外無線はない。無線手とは地上ではぐれた」

 

 ハリソンの声音は静かだが、その分状況の劣悪さをしっかりと示していた。本部とのやり取りを可能とする野外無線手と地上ではぐれたとなれば、それを探し出すのは骨が折れる。そもそも、現段階で無線手が生きているとは到底思えない。

 

「現段階で、この地点から施設へのアクセスは不可能だ。施設からの電源供給が途絶えていてコンソールは反応しない。別の迂回路を確認するためにも無線が必要だ」

 

 ハリーはそこまで言って、根本まで吸いきった煙草を捨てた。葉が燃える微弱な明かりすら失った搬入路線に、再び完全な闇が落ちる。

 

「そちらは我々で捜索します。小隊長は集結地点へ移動して、マルコフと合流してください」

「移動経路は、どうやってここまで来た。まさか地上の死人共をかき分けたわけじゃあるまい」

「下水道を使いました。途中、わけのわからないバケモノに遭遇しましたが」

「バケモノ?」

「四つん這いの、皮を剥いたカエルみたいなヤツです」

 

 怪訝さを含んだハリソンの問いかけに頷き、ヴラッドは地下道の経路と、接敵した奇妙な個体のことを説明した。異常発達した四肢、むき出しの脳みそ、想像を絶する俊敏さ。一体は仕留めたが、あと何匹あの地下に潜んでいるのかは不明だ。

 

「死人だけじゃないってことか。詳細不明のバケモノがうようよする地下、死者で一杯の地上、どちらもろくな経路じゃない」

「地下を通るべきだ。正体不明であっても、ヴラッドの言うとおりなら地上ほど数がいるわけではあるまい。残弾から考えても地下を通ったほうが損害は少ない」

 

 目頭を揉むハリソンにガルシアが押しかぶせるように言った。彼はカービンを手にし、自分の装備の確認を始めている。

 

「経路はサイリウムで示してあります、これがその経路図」

 

 ヴラッドはハリソンにマイケルが記した下水道の経路図を差し出した。ライトをつけてそれを確かめるハリーが、視線をこちらにあげて問うた。

 

「私は小隊の指揮を取る必要がある。無線の捜索は任せても構わないか」

「問題ありません。我々で無線を捜索します」

「そうか、手間をかける。無線手とはぐれたのは、駅に北からアクセスする途中だ。私が直に見たわけではないが……」

 

 ハリソンが言葉を切りガルシアへ目を向けると、闇の中で生き残った小隊本部の部下と装備を確認していた彼が、こちらへ振り返るのが気配で分かった。

 

「やつは途中で分断され、俺が最後に見たのは北へ逃げ去る背中だけだ。おそらくもう死んでいるが、探すのは骨だ。俺も同行しよう」

 

 ハンドライトを点灯させたガルシアが地図を広げ、駅へのアクセスへ使ったルートをなぞり、見失った地点を指差して言った。どこまで逃げたのかは判然とせず、捜索範囲は広大だ。気が遠くなるなと目頭を揉むヴラッドをよそに、マディソンが口を挟んだ。

 

「ガルシア、あんたが同行する必要はない。小隊指揮官と次席は集結地点で指揮に当たるべきだ。ウチの分隊長がいればこっちは足りる」

「無線の捜索は急務だ。それに場合によってはシビアな判断を求められる」

 

 マディソンの意見に、ガルシアが眉を持ち上げて色のない眼差しをマディソンへと据えた。彼は分隊長よりも下の序列にあるものが口を挟むことを好まず、自身の階級を示すようにはっきりとした声音で応じた。

 

 その態度は横に置くとして、ガルシアの言にも一理ある。社の財産保護という任は、上からすれば市民救助よりもウェイトの重いものであるのは考えるまでもないからだ。当然、重要度の高い任にはある程度の責任者が随行するほうが、都合がいい場合もある。

 

 それに、過去幾度かの任務では、小隊指揮に忙しいハリソンに代わり、重要と目される副次任務にガルシアが帯同していたこともある。すくなくとも、ヴラッドの経験から言えば彼の上層部からの覚えはよく、ある意味でお目付け役に近い役割を与えられている。

 

 それを指して、裏では本社の回し者と隊内で言われているのを、ヴラッドは知っていた。

 

「ヴラッドは優秀だ。俺たちだけで事足ります。小隊長と副長は仮設本部で待機するべきでしょう」

 

 横合いから会話に混ざったジョエルの進言に、地図を照らしたままのガルシアが目を向けた。その思考の読めない無色の眼差しが、ほんの僅かに感情を宿し、ヴラッドはなぜか執着という二文字が脳裏をよぎるのを感じた。

 

「この状況では、指揮系統上位の人間は本部で指揮に当たるべきだと私は考える。分遣隊はヴラッドに任せて構わない。信頼できる人間だからこそ第2分隊を委ねている」

 

 ガルシアの頑として譲ろうとしない態度にヴラッドが口を挟むより早く、ハリソンが場を掌握すべく小隊長としての意思決定を行った。彼は静かだがはっきりと小隊内の序列を示す力強い口調で、我々は合流を急ぐぞと告げる。

 

「了解」

「よろしい。ヴラッド、捜索の結果発見が見込めない場合、あるいは装備、人員による限度へ達した際は、こちらへ合流しろ。その場合、別小隊との合流を視野に方針を決める」

「了解しました」

 

 小隊長の判断に食いつく愚は犯さず、ガルシアは頷いて素直に引き下がった。それを見、ジョエルとマディソンがこちらへちらりと視線を投げたのを感じつつ、ヴラッドも小さく了解を示す。

 

「分遣隊は直ちに無線手の捜索に着手せよ。まあ、見つかってくれれば儲けもの、程度だがな」

 

 必要になるかはわからんが、とハリソンが手書きのメモを差し出した。それを開くと、中身は中隊本部との交信用に野外無線に割り当てられた周波数を始め、幾つかの数字が書き込まれている。

 

 手持ちの無線では出力的に市内の一部にしか電波を送れないが、周波数さえ一致していれば野外無線との交信は可能だ。もちろん、向こうが生き残っていれば、だが。

 

「無理はするな。この状況では、一人でも頭数を減らしたくはない」

「こちらの心配より、自分の身を案じてください。下水道はわけのわからん敵がいます、気をつけて」

 

 頷き、銃を手にして移動を始めたハリーを見送る。

 

 すれ違いざま、ガルシアがこちらへ向けた何気ない眼差しの奥に、一瞬だけ探るような色合いが見えた気がして、ヴラッドは立ち去る彼の背をほんの僅かな間見つめていた。

 



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Chapter2 It's my duty.
子を遺して死するとも


 1998年9月26日 1400時

 

 

 

 曇り空が恋しく思えるとはなと、マディソンが背後でつぶやいた。

 

 外はすでに日が傾き始めていて、鈍色の空の向こうに太陽の存在を感じさせる。分厚い雲は地へ注ぐ日差しの恩恵を遮っていたが、地中の地獄に長くいたこちらからすれば、外光を感じられるだけで十分というものだ。

 

『それで、噛まれた人間がいずれは奴らになるってのは、確かなんだな』

「小隊長いわく間違いないらしい。こちらもルーベンスが死後に活動を再開したのを確認している」

 

 頭上にはめ込まれた網目状の金属蓋、そこから無線のアンテナを突き出し、集結地点で待機するマルコフへとどうにか無線の電波を送り込んでいた。音質がやや雑音混じりだが、交信に不都合はない。

 

『了解した。負傷者の位置を民間人と離して、それとなく監視をつける。生きてるうちに射殺ってわけには、いかんからな』

「それでいい。俺たちは無線の捜索と、ついでにお使いを済ませてくる。マイケルにはもう少し待てと言っておけ」

『あの爺さん、お前が約束を守るってだけで痛く感動してた。いくらでも首を長くして待つさ』

「それはなにより。交信終わり」

 

 必要な情報共有を終え、無線交信を打ち切ったヴラッドは、頭上の金属スリットから染み込む光に目を眇めた。ライトなしには足元は愚か自分の手すらも見えぬ闇に慣れた目には、自然光はいささか強烈にすぎる。

 

 駅への偵察を行い、未だ多数の死者が屯するホームを確認したヴラッドら分遣隊は、路線の各所を確認して周り、最終的に地上へと繋がる通気孔を発見してそこから出る道を選んだ。

 

 おそらくは過去、ラクーンが成り立ってから現在までのどこかの段階で使用されていたのだろう。古い地下鉄のホーム跡を利用した通気孔は、武装した人間が十分に通行可能なスペースを保持していた。無線交信がてら地上の様子を探っていたが、近くにそれほど多くの死人が歩き回っている気配はない。

 

 腕時計を見る。時刻はすでに昼を周り、予定していた交信時刻をとっくに過ぎている。それでもマルコフがこちらからの呼びかけを待っていたのは、現有戦力では何をするにも数が足らないと判断したからだろう。

 

「それで」

「どうした」

 

 交信を終え、外の気配に耳を澄ませながらヴラッドが問うと、マディソンが未だ出発する気配のないこちらへと怪訝な眼差しを向けた。

 

「ジョエルにマディ、どうしてガルシアの具申に口を突っ込んだ」

 

 眼差しには向き合わず、蓋の外へと目をやったままで疑問を投げてやる。帰ってくるのは沈黙だけだ。少ししてから、うめき声が人々の営みの気配に取って代わった外界から、薄暗がりで待機する部下へと目を向けた。

 

「お前は知らなかったな」

「何を」

「お前の先代はあいつに殺されてる。まあ、噂でしか無いが」

 

 完全に初耳の話にヴラッドがほんの僅かに片眉を持ち上げると、知らなかったろうとマディソンが首を傾げた。

 

「お前が赴任する前に、我が社の研究施設が襲撃される事件があってな。U.S.Sじゃ手勢が不足だってんで、うちの小隊が向かった。結局、同業他社(H.C.F)の私兵連中と乱戦になり、ガルシアは先任の分隊長と数名を率い、U.S.Sに帯同して施設に侵入したやつらを排除しに向かった」

 

 戻ってきたのはU.S.Sとガルシアだけだ、とマディソンが続けた。U.S.Sは基本的にはまとまった武力として運用されるU.B.C.Sと違い、アンブレラの上層部直属の少数精鋭集団だ。U.B.C.Sと比して人員が少なく、頭数が必要な作戦にはU.B.C.Sと帯同するか、U.B.C.Sを送り込むことになる。

 

 そもそも、U.B.C.Sは殴り合いに用いる戦力であり、U.S.Sは秘密裏の奇襲や暗殺、幹部の警護を主として設立された部隊だ。

 

 その特性の違いがあるからこそ、U.B.C.S内部ではU.S.Sの要員を指して、一方的に殴るだけの卑怯者と蔑む者が少なくない。一方のU.S.Sからすれば、U.B.C.Sは使い捨てのよく吠える犬、といったところだろう。

 

()()とその配下にガルシア。それ以外はみな死んだ」

「ただ戦死しただけじゃないのか」

「先任は拳銃で胸に二発、頭に一発。遺体を引き上げた時、銃口を押し付けて撃った痕があった」

 

 なるほどとヴラッドは頷いた。胴と頭部への被弾は接近戦でなくとも珍しくないが、敵がとどめを刺したならばいちいち銃口を押し付ける意味はない。そういう撃ち方は処刑のそれに近しい。

 

 少なくとも、死亡確認のダメ押しを拳銃で行う場合、銃口を押し付けるほどの距離、つまりしゃがみこんで叩き込む必要はない。ヴラッドも何度かそういった死亡確認射撃を行ったし、目撃もしたが、いちいちしゃがみ込むのを見た覚えはない。

 

「研究施設内で先任と仲間の死体を引き上げる時、あいつは俺たちを外で待たせて、自分で死体を引きずってきた。見られたら困るものがあったんだろ」

「それで殺したって噂になったわけだ」

「噂どころか、あの頃から小隊にいる連中はみな黒だと思ってるね。死神とつるんで仕事をこなしてる時点で間違いない」

 

 死神、ヴラッドも聞いたことがある。社内では公然の秘密とされているU.S.Sの首刈り職人。どれほど過酷な状況だろうと、部隊が全滅同然の損害を被ろうと生きて帰ることからついたあだ名。そういえば、デルタ小隊のニコライに関しても似たような噂を聞いた覚えがあった。

 

 そこまで考えて、仲間を仲間と思わぬ態度で知れるニコライとガルシアがなにやら立ち話に興じているのを何度か見かけたことを思い出したヴラッドは、やれやれとゆるく首を振った。

 

 ニコライも、過去の作戦中の不可解な行動や、作戦に同行した仲間の生還率の低さから、仲間殺しやアンブレラの飼い犬としての噂が絶えない。

 

「ガルシアは間違いなく前の分隊長を殺ってる。ローデシアで傭兵を、シエラレオネではダイアモンドマネーに首を突っ込んでたようなやつだ。CIAとつるんでのダイアモンドビジネスでやり過ぎて、村をゲリラごとまるっと一個燃やして埋めた」

 

 ジョエルが忌々しいとでも言わんばかりのしかめ面で鼻を鳴らす。罪人だけで構成されるU.B.C.S、他人の脛の傷を悪し様に言える身では無いが、それでも仲間殺しの罪だけは別だ。それに、何事にも程度というものがある。

 

「村を焼いた俺に言えたことじゃないが」

「なんだって?」

「いや、なんでもない。その事、ハリーは把握しているのか」

「ああ、間違いない。だから俺達に同行させなかった。腕は信用しているが、人となりは信用していない」

 

 マディソンの首肯に、地下でのやり取りの内容がすべてつながった。ハリソンがわざわざ口を突っ込み、小隊作戦行動の参謀役たるガルシアの意見を突っぱねたのも納得がいく。信用できない相手が、自分の目の届かないところへ向かうのは、気分のいいものではない。

 

「危ないやつってわけだ。ついてこられたら、後ろが怖くて仕事にならないな」

 

 クラヴィスが愉快げに笑い、自身のライフルをそっと撫でた。彼の罪状は、情報を売り渡していた情報機関員を背後から狙撃して射殺したこと。その情報売買によって戦友を失った事実を鑑み、依願除隊の形になっているが、アンブレラに狙撃の腕前を買われてここに来た。

 

 その事実を思い出したらしいマディソンとジョエルがげんなりとした顔でため息をこぼす。ヴラッドはそれを見て小さく笑うと、頭上を覆う蓋へと手をかけ、強引に押しのけた。

 

 がこん、と音を立てて外れた蓋を、そっと横にどける。階段状になっている足場を昇り、銃口と頭を外へ突き出すと、少し離れたところで食事に夢中になっている死人の姿が見えた。

 

 それ以外の死人はまだ遠く、こちらに気づいた様子はない。それを確かめ、階段を登りきって半日ぶりの地上の空気を大きく吸い込む。焼けた街並みの記憶に深く染み付いた香り、死臭、きれいには程遠い空気だが、地下よりはよほどマシだ。

 

 4人は地上に戻るとすぐ、地下で決めた経路へと向かった。すでに正午を回っており、季節的にも日照時間は長くない。夜間に人探しをするのはひどく骨だ。日中ですら、死者の多いエリアを避け、残弾に気を配りつつ捜索を行わなければならないというのに、日没後となればなおさらの話である。

 

 死者を躱しながら進むのはそう難しい問題ではなかった。閉鎖的な地下空間と違い、地上には逃げ回るだけのスペースが有る。それに、市中央の方向では散発的ではあるが組織的な抵抗を匂わせる銃声が続いていて、死者の大部分がそちらへと向かったようだった。

 

 しかし、死者の数が減ったところで、荒れ果てた街路に残る死の残滓が消えたわけではない。食べ残しとなった女性の肋骨が、食後の骨付きリブロースのように白い骨を晒している。

 

 血溜まりがそこらに広がり、食いちぎられた腕や足がそこらに転がっていた。散らばった新聞紙、空き缶や手荷物、混乱の形跡が色濃く残る通りを、ヴラッドらは銃口を巡らせながら進む。

 

 至るところに戦闘の痕跡が見受けられた。フロントガラスが割れ、ボンネットに血の手形が伸びるパトカーのそばで、市民の上に覆いかぶさって事切れた警官の姿が見えた。これまでに見かけた警官の死体同様、撃ちきったブローニングハイパワーが傍らに落ちていた。

 

 散弾銃を掴んだままの腕や、予備のカートリッジを握りしめたままの骸は、この町ではもはや珍しいものでもなんでも無い。

 

「見てみろ、面白いものがあるぜ」

 

 ガルシアの示した無線手の逃走経路をたどり、その周辺の小道を片端から捜索し始めてしばらくしてから、クラヴィスがフェンスドアで封鎖された路地裏の小路の脇にしゃがみ込み、何かを拾い上げた。

 

 ヴラッドは、支給品の銃剣を取り付けたカービンの先端の血を払い、今しがた眼窩を突き刺して始末した死人からそちらへと目を向ける。少数の死人であれば、短槍として使える銃剣付きのカービンで十分であることに気づいたのは、つい少し前のことだ。

 

「5.56、グリーンチップ」

 

 クラヴィスが差し出したのは使いかけの弾倉だった。装填されたままのカートリッジは、先端が緑になっている。自分たちに支給されるものと同じ、米軍規格の弾薬だ。

 

「ラクーンに、AR15を愛好するガンフリークがいると思うか?」

「この片田舎に、そういう文化が色濃く根付いているとは思えないね。そう多くはあるまい」

 

 ヴラッドの問いかけに応じたクラヴィスは、それに見てみろよと血が散ったビルの壁を示す。連続した弾痕は、三発ずつ程度である程度のまとまりを保った状態で散らばっている。

 

「民間じゃバーストロアーは早々手に入るものじゃない」

「ここを通った、か。ジョエル、その死体、何時頃始末されたかわからないか」

 

 弾痕の散らばる壁の足元で事切れた死者を示したヴラッドに、ジョエルがゆるく首を振った。

 

「死んで起き上がった人間の遺体から、死亡時刻を読めなんて無理言うな。それに俺は、戦闘外傷処置はできるが医者じゃない。ましてや検死官の経験があるとでも?」

 

 まあでも、と彼は壁際の死体の前にしゃがみこんだ。手を触れず、銃口で死体をどかして地面にできた血溜まりを見やる。死体の銃創周りからは未だに粘つく体液が滲んでいるようだったが、地面の血溜まりの大部分は酸化して変色し、乾燥しているのが見て取れた。

 

「ここ一、二時間の出来事じゃないな。もっと前だろう。吹き飛んだ頭蓋の中に蛆が湧いてやがる。それなりに経ってるのは間違いない。おそらく、降下後すぐのことだろうな」

「それだけわかればいい。死んでなきゃ、とっくに逃げているはずだ」

「このあたりにいるとしたら、とっくに死体か」

 

 そのはずだと頷き、分隊長用の周波数から野外無線の用いる周波数へ切り替える。送信ボタンを押し、呼びかけてみたが応答する気配はない。こちらの無線範囲外にいるか、死んでいるか、無線が破損したか。

 

 死んでいる可能性のほうがよほど高いだろう。無線手のフレデリックは優秀な男だが、単独で生存できるほど、このラクーンの状況は芳しくない。もちろん、生きていないと断言することもまた出来ないが。

 

「どうする、もうすぐ日が暮れる。一度集結地点に戻ったほうがいいかもしれないぜ?」

「いや、その前に済ませるべきことがある。そうだろう、ヴラッド」

 

 クラヴィスの問いかけに首を振ったのは、マディソンだった。彼はそろそろ心もとなくなり始めた弾倉を抜き出しやすい位置へと移し替えつつ、こちらへ視線を向ける。その眼差しの真意を問いただすまでもなく、ヴラッドには彼の言いたいことが理解できた。

 

「戻る前に、マイケルとの約束を果たす。一度地下を通ってまたとなると手間だし、弾薬の無駄だ。小隊本部の方針次第では捜索に戻る余裕はなくなる」

「こだわるね、分隊長」

 

 茶化したクラヴィスの声に、不思議と嫌な印象は受けない。彼の顔に浮かんだ笑みは、悪友のいたずらに付き合うティーンのような朗らかさがあった。

 

「約束は約束だ」

「男の約束、だろ。人選もよく分かってる」

 

 クラヴィスは言いながら、分遣隊の面々を見回した。過去の作戦経験からヴラッドに信頼を寄せるマディソンとジョエル。クラヴィスとは陸軍の特殊部隊出身者という共通項から馬が合う。気心の知れた仲間を指名したのは、ついてくると分かっているからだ。

 

「急ごう。そう遠くはない」

 

 マイケルから渡された住所は、北西部が準工業地帯になる以前から存在する古い居住区のものだった。ラクーンの初期から住んでいる人間の多く住む地域で、ラクーンステーションの間近にある病院の北側だ。

 

「いなかったらどうする」

 

 マディソンが問うた。死んでいたら、とまで言わなかったのは彼なりの気遣いだろう。罪状は凶悪だが、性根は分かっている。かつて彼の心を焦がした復讐心に対しても、理解できる程度には不条理と腐敗を見てきた。

 

「そう伝える。嘘はつかない、なんの意味もない。追加の捜索もしない」

「そう言うと思ったよ。冷血だが嘘はつかん」

「下手くそだからな。昔からうまくいった試しはない」

 

 お前と賭けをする時は手心をくわえてやるよとジョエルが笑った。日没に近づきつつある鈍色の空、分厚い雲の向こうから降り注ぐ淡く頼りない陽光に路地裏を照らす余力はなく、薄暗く汚れたそこに小さな笑いが満ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 目的地までの経路はそう遠いものではないが、この街はすでに戦地と同じであることを再確認しなければならなくなった。作戦経験から言えば、戦闘地域での移動経路は常に妥当と思われる所要時間の倍が見積もりの最低ラインだ。

 

 一時間以上をかけてたどり着いた目的の家は、閑静な住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。古い木造の、しかし頑丈そうな家屋。ガレージがつき、裏には広めの庭が見える。

 

 ガレージが閉じたままであることから、車は停めたままであると思われた。この非常時にいちいちガレージを閉めて車を出す人間はいるまい。

 

 玄関から歩道まで芝生を横切る石畳には血痕が散っていて、家の窓には木材とトタンが内側から打ち付けられていた。マイケルの言う通り、彼の息子は立てこもる方針だったらしい。外から見る限り、何かが押し入ったような形跡も見当たらない。

 

 ヴラッドは周囲を見回し、こちらの存在に気づいている死者はあらかた始末し終えていることを再確認してからクラヴィスを見た。

 

 唯一減音器(サプレッサ)を取り付けている彼に中距離以遠での感染者排除を一任しているせいで、その弾薬消耗ペースは早い。弾倉を入れ替えた彼が頷くのをしっかりと目視し、ヴラッドは示された家へと歩みを進めた。

 

「ドアはロックされてる」

「死屍累々のこの状況で、鍵をかけて出かけるわけないわな」

 

 ドアをソフトチェックしたマディソンがツールを取り出し、ジョエルが傍らに膝をついて周辺へ目を向ける。曇天とあっては夕刻の日差しは弱々しく、山脈に囲まれたラクーンではなおのことだ。血と煙にまかれた住宅街は青みを帯びた闇の中に沈みつつある。

 

 そうかからず、マディソンがロックを解除して親指を立ててみせた。ヴラッドはそれに頷き、カービンの筒先をドアへと向ける。銃を手にしたマディソンが後ろにつき、ジョエルがドアノブを回すと、ヴラッドは明かりのない闇の中へと踏み込んだ。

 

 家の中は、清掃の行き届いた家特有の柔らかく温かい匂いがした。それも男所帯のU.B.C.S兵舎では感じられない、普通の家庭の匂い。生活の匂い。長らく嗅いでないその香りに、意識的に張り詰めた緊張の線が緩みそうになる。

 

 少なくとも、血の痕跡もなければ戦闘の痕もない空間というのは遥か彼方、遠い過去のものに思えた。窓を塞いだバリケードは破られた形跡はなく、もしかしたらという気持ちが自分の中で湧き上がるのを感じた。

 

 希望が自分の中で膨らんでいくのは、疲れがもたらす甘い罠だと知っていても抑えられない。

 

 思えばもう半日以上寝ずの作戦行動を続けている。もちろん、そんな経験はいくらでもあるが、死人が歩く状況での疲労は段違いだ。途端にどっしりと重くなった身体を奮い立たせ、親指でテープスイッチを押し込む。

 

 薄橙の明かりが伸び、電圧低下によって弱り始めた光が玄関を照らす。間取りの広いリビングにはソファとテレビが据え置かれ、ガラステーブルの上には出したままのコーヒーカップが置き去りにされている。

 

 左右を見渡し、リビングに異常がないことを確かめると、ヴラッドは二本の指で自分の目を示し、それからジョエルとクラヴィスを指して右のドアへ揃えた指を向けた。頷いたクラヴィスがシグを手にしてドアへ向かい、ジョエルが続く。

 

 ヴラッドはマディソンを率い、カービンの銃剣を外して左の部屋へと向かった。接近戦では銃剣があったほうが便利だが、子供がいる可能性があるとなれば外しておいたほうがいい。

 

 感染者の血液にまみれたそれを持ったまま、どう動くかわからない相手を探すのは危険だ。まかり間違って刺さりでもしたら話にならない。

 

 それにならったマディソンがドアを開けて踏み入る。バスルームへと繋がる洗面所、異常はない。歯ブラシが三本、コップ、ジェービングクリーム、ひげ剃り、ありきたりな生活の気配が洗面台に残されている。

 

 小さな子ども用の歯ブラシに留まった目をそらし、バスルームの中を確かめ、マディソンが頷くとリビングへ戻る。クラヴィスたちはまだ右側の捜索を続けているようだった。

 

 そのとき、がたりと上階で物音がしたのを、ヴラッドは聞き逃さなかった。マディソンがこちらへ視線を投げた気配を感じ、唇に指を当てて人差し指で上を示す。頷いた彼が背後に付き、ヴラッドはゆっくりとリビングの奥のホールへと歩みをすすめる。

 

 ホールの先は裏庭へと繋がるファミリールームに面しているようだった。ヴラッドはそちらに目を向け、送信ボタンを押してジョエルに下階の捜索を任せる旨を小さく告げる。そのまま、ホールに設置された階段へとブーツを載せた。

 

 階段は木製だが、よく手入れされているらしくニスが効いていた。硬質なブーツの底を階段の端へのせ、静かに、しかし素早く登る間も、銃口は上へと向けたままだ。木製の階段、特に古いものはきしみやすく、中央へ足を乗せると大きな音が鳴ることが多い。

 

 物音はいまだに続いていた。大きな音ではないが、それでも何かが2階にいることを主張し続けている。その鈍い音はカーペットの張った床に、硬いものを当てたり擦り付けたりする音を思わせた。

 

 階段を登りきると、いくつかのドアに面した廊下を音がする方向へ進む。ヴラッドは銃口を巡らせ、天井や物陰に異常がないことを確かめながら音のする部屋のドアへと接近した。

 

 ドアの下の隙間から漏れる僅かな異臭に気付くと、ヴラッドの眉間にシワが寄った。ほんの僅かな死臭、血と臓腑の匂いとは違うそれ。死者の身体が放つ、なんとも形容しがたい独特の臭い

 

 同じようにそれを感じ取ったマディソンが身を寄せ、二つの銃口をドアへとピタリと据えて張り付くと、マディソンがドアのノブをひねって奥へと押しやる。

 

 そこはベッドルームだった。部屋の中央にベッドが一つ。暖房機と大きなデスクに本棚、クローゼット。どこにでもあるベッドルーム。棚の上に合衆国旗が貼り付けられ、ひと目で海兵とわかるジャーヘッドの男たちが写り込んだ写真が飾られている。

 

 デスクの上に置かれた開いたままのケースの中にパープルハート勲章を確かめたヴラッドはしかし、こざっぱりとした軍隊経験者らしい部屋の隅、頑丈に固定された暖房器具のパイプに繋がれた男を見て、そのまま固まった。

 

 ああ、畜生――そんな。防備を固めた清潔な家の中を見、勝手に膨らんだ希望がしぼんでいくのを感じながら、ヴラッドは銃口が下へと引き寄せられるのを止められなかった。

 

「冗談だろ……クソ」

 

 マディソンの呻きが、まるで遠くの声のように聞こえた。

 

 部屋の隅で、手錠によって繋がれた男が、歯茎をむき出しにしながら喉の奥から絞り出すような呻きを上げていた。かつては規律と制服で身を固め、国のために奉仕したのだろう男は、ひどく青ざめた顔を飢餓に歪めて濁った胡乱な眼差しをこちらへと向けている。

 

 彼の投げ出された足が、ガタガタとカーペットを張った床に打ち付けられて音を立てた。

 

 ガシャガシャと彼の手首を繋いだ手錠が鳴り、パイプに沿って揺れ動く。こちらへ伸ばされた、肉を求める太い腕を覆うシャツが、滲み出た血で黒く染まっているのが見えた。

 

 彼がマイケルの息子なのは間違いなかった。変わり果ててはいたが、高く通った鼻梁も堀の深い眼窩も、棚の上の記念写真で笑顔を浮かべるハンサムな男の面影を残していた。

 

 マディソンが銃をおろし、額に手をやってデスクの前に置かれた椅子へ腰を沈めた。大きなため息を背中で聞きながら、ヴラッドは壁へと寄りかかった。

 

「2階で死亡した男性を発見した。マイケルの息子だろう」

『了解。子供は』

「まだだ」

 

 返された了解の返答に、ヴラッドはただでさえ疲労しきっている身体が、鉛のように重くなるのを感じた。澱のような疲労がつま先までみっちりと詰まった足は重く、重みを増した瞼がゆっくりと降りてくる。

 

 もしかしたら。この家に入ったときにそう思った。救うべきだった市民の成れの果てを殺し、手遅れになった仲間を始末してここまで来た。その結果がこれだ。自分を善人などとは思わないが、救えるのであれば救いたいと思う程度の人間らしさは残している。

 

 それはマディソンも同じだろう。頭を覆うキャップを外し、グローブをとったマディソンが指先で額をゆっくりと擦るのを見ながら、ヴラッドはまだ子供を発見していない事実へ目を向けた。

 

 少なくとも、この男の犬歯をむき出しにした口元は血に濡れた様子はない。まだ誰かを食事の生贄にしたわけではない。そこで、ふとヴラッドは男の手首へと視線を動かした。

 

 感染した人間をいちいち手錠で繋ぐやつはいない。殺すか、逃げるかだ。誰が彼をパイプへ繋いだのだろうかと、疲労で濁った思考で考える。亀のように遅い思考が結論を出すより先に、マディソンが声を上げた。

 

「ヴラッド」

 

 目を向ければ、彼は椅子から立ち上がり部屋のドアを締めたところだった。そのドアに貼り付けられた便箋が、ひらりと揺れる。

 

 繋がれたのではない、自らの手でそこへ繋いだのだ。何故、それは他者を喰うことのないように。なんのためにそんなことをする? 当然、それは決して喰ってはならない誰かがここにいたからに他ならない。

 

 目の間で揺れる便箋へ、ほとんど無意識のうちに手を伸ばしてドアから剥がすと、ヴラッドはマディソンが点けたライトの中へその紙を引き寄せた。

 

 

 

「まず、貴方が善良な心根の人であることを祈って。  

 

 これを読むのが誰かはわからないが、自分の不始末にケリを付けられない私に代わって、私の頭を潰して始末をつけてほしい。  

 

 ここに来た貴方なら理由はわかると思うが、そうでない場合に備えて書き記す。私は新種の感染症の発症者に噛まれ、自死を選ぶだけの勇気が湧かないために自分を繋いだだけの間抜けだ。  

 

 この感染症について私に分かることは多くない。少なくとも血液や唾液などを媒介していること。感染した場合、期間に個人差があるがいずれは発症し、貴方の前で無様を晒す私のように、肉を求める死者となること。この二点のみである。

 

 病院に勤める友人から教えてもらった話であるから、間違いはないと思う。

 

 そして忠告だ。たとえ親しい人間であろうと、この感染症に罹った以上救う手立てはない。身近な人間が発症してしまったら、迷わず頭を潰して始末することだけを考えてほしい。

 

 貴方が当然のようにそうしてきたなら、ためらってしまった弱い私を笑ってくれ。

 

 

 

 前置きはここまでにしよう、貴方にどうしても頼まれてほしい事がある。一つだけだ。これは私の遺書になるだろうが、同時に頼み事をするための置き手紙でもある。

 

 地下に、二人の子供を隠した。地下への入り口は階段の下、ドアを開けた先にある。

 

 私の従兄弟が遺した、我が子同然の可愛い子たちだ。利口な子たちだから、言いつけを守って誰かが来るまで身を潜めているだろう。

 

 二人を素性も知らぬ、来るともしれぬ誰かに委ねるのは気が進まないが、もう私にはあの子達を守る力も資格もない。

 

 もちろん、貴方にその気がないなら、私にはなにもできない。悪党なら逆効果かもしれない。どちらにしろ、自分を縛った屍にはもはやどうにもならないことだ。

 

 しかし、もし貴方が、人並みに情を持ち合わせた人間なら、どうか我が子を残して死する私の、最後のわがままを聞いてほしい。

 

 

 願わくは、これを読んだ貴方が優しい心根の、強い人間であることを。  

 

 

 スティーヴン・オドネル」

 

 

 

 自身の最後を悟って急いでしたためたのだろうその置き手紙の筆跡はところどころ歪み、最後に至っては滲んだ痕が見受けられた。それを読み終え、マディソンに押し付けたヴラッドは、部屋の隅で繋がれたまま、必死にこちらへと手をのばす男の亡骸へ目を向けた。

 

 最後まで自分の役目を忘れなかった男は、力の限り暴れるせいで繋がれた手首が肉まで削げ、肩の骨はとっくに外れているのかぐにゃりと歪んでいる。もう苦痛を感じることはないだろうが、それでも、これ以上彼が悪魔のいたずらによって無残を晒すのを見ていたくはない。

 

 自分の中にそんなむき出しの感情を訴える部分が残っていた事実に驚きつつ、腰の拳銃を引き抜き、スライドを引いて装弾を確かめる。マディソンは読み終えた手紙をデスクに置くと、何も言わず部屋を出た。

 

 両手で握った拳銃の照準をピタリと眉間に据えると、彼をあるべき死者の姿へ戻すべく、ヴラッドはためらいなく引鉄を絞った。

 

「おやすみ、スティーヴン。常に忠誠を(センパーファイ)

 

 あっけない銃声、スティーヴンの首がのけぞり、そのままうつむいた。ピクリとも動かなくなった彼の骸を遺し、部屋の外に出ると、地階の捜索を一通り終えたジョエルとクラヴィスが部屋の前で待機していた。

 

「中に、マイケルの息子の死体がある。もう動かない。ベッドに横たえてやってくれ」

「了解。子供は」

「地下にいる。彼に託された。今から確認しに向かう」

 

 託された、という一言に首を傾げたジョエルには取り合わず、ヴラッドはマディソンを連れて下階へ降りた。ホールへ降りて階段を確認すると、たしかに階段下にひっそりとドアがはめ込まれていた。鍵はかかっておらず、それを開けてライトで下を照らす。打ちっぱなしコンクリートの階段が地下へと伸びていた。

 

 ヴラッドは、銃を下ろして手持ちのライトへ切り替えた。無駄に脅かす必要はない。念の為に右手は腰の拳銃にかけたまま、ヴラッドは地下室のドアノブに手をかけ、そっとそれを押し開いた。

 

 地下は物置小屋として使われているようだった。ダンボールや、使われなくなった荷物を収めた棚、小さな子供用の自転車。部屋の隅でかすかな音がして、ヴラッドはライトの向きを変えた。

 

 地下室の隅、壁に固定された大きな金属製ガンロッカーの隣に、リロードマシンや工具類がまとめられた幅広のデスクが置かれていた。その影で何かが動いている。

 

 ライトを向けると、ヴラッドの口から安堵のため息がこぼれた。デスクの影に身を寄せる二人の子供の姿が見えたからだった。

 

 小さな手には不釣り合いな、スタームルガーの22口径を手にした少年の眼差しは疲れをにじませていたが、それでも瞳の奥に強い色をたたえたままだ。その背後に隠れた少女は、少年の肩越しに不安を孕んだ鮮やかなブルーの瞳をのぞかせていた。

 

 少年は22口径の小さな筒先をしばらくこちらへ据えたままだったが、武装した姿をしばらく観察するように見つめ、死人でもなければ攻撃の意思もないと見て取ったか、ゆっくり銃口を下ろした。

 

 しかし、彼の手はしっかりグリップを握ったままだ。人差し指はトリガーガードへ添えられ、必要なら何時でもそれを使う意志を示している。スティーヴンがしっかりと取り扱いの方法を教えたのだろう。

 

 9ミリではなく22口径というのもいいチョイスだ。頭を撃ち抜くだけの威力はある。子供の筋力でも十分な操作性を期待できる。

 

「マイケルから頼まれて君たちを探しに来た。リアムとシャーロットだな?」

「おじいちゃん? おじいちゃん、生きてるの?」

 

 しばらくの沈黙、向こうから話を始める様子がないと察すると、ヴラッドは少し距離を置いてかがみ込んで言った。とたん、リアムの後ろに身を隠していたシャーロットが身を乗り出して食いついた。泣きはらしたのだろう、目元が赤くなっている。

 

「おじさんは、おじさんはどうなった」

 

 シャーロットを手で制したリアムが問うた。物怖じした様子のないはっきりした声だった。向けられた眼差しは真っすぐで、ヴラッドは、彼はすでに真実を知っているのだと悟った。

 

 彼の眼差しは昔、夫の戦死を知らせに来たヴラッドに、戦友の妻が向けたものと同じだったからだ。何が起こったかは知っていて、それでも、誰かがはっきりと告げてくれるまで自分では認めまいと決めた人間の眼差し。

 

「スティーヴンは亡くなった。俺たちは、彼から君たちを託された。マイケルからもだ」

 

 ヴラッドは隠さずに素直に答えた。二人とも、上階で響いた銃声は聞こえているだろう。

 

「あんたが……撃ったのか」

「ああ、俺が撃った」

 

 少年がきつくスタームルガーを握りしめてうつむく。シャーロットは、すこしぽかんとしてから、ようやく会話の意味を飲み込んだのか、大きな瞳に涙をためてしゃがみこんだ。

 




 金髪幼女は守らねばならない。


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託されたもの

 お休み回。
 ストック切れたのでまたしばらく空くと思います。

 まあストック分がまた増えるか元気になってきたら気合で戻ると思うので、ゆっくり待っていていただければ幸いです。



「あんたらは? 陸軍? 海兵隊じゃなさそうだけど」

 

 泣きじゃくるシャーロットをなだめ終えて少ししてから、リアムはデスクのライトを点けるとそう問いかけた。明かりを受けてよりはっきり見えるようになった彼の顔は、マイケルが見せた写真より幾分成長しているように見える。

 

「なんでそう思う、坊主」

 

 マディソンが逆に質問で返した。彼は上階で使える備品がないかを探し回るジョエルらが見つけた缶詰を開封し、スパムを卵と炒めて夕食の用意を始めていた。焼ける加工肉の、塩気をたっぷり含んだ香りが、丸一日何も入れていない胃に響く。

 

「そんなにだらしない髪、海兵隊じゃだめだって、おじさんが」

 

 それに坊主じゃないと言い返したリアムが示したマディソンの髪は、耳にかからない程度ではあるが伸ばし気味だ。それはヴラッドも同じで、いま上階で備品のチェックと警戒に忙しい二人も、毛髪はある程度好きに伸ばしている。U.B.C.Sの身だしなみ規定は緩い。

 

「俺たちは陸軍でも海兵隊でもない。アンブレラの救助隊だ」

 

 ヴラッドがそう応えると、ああ、とリアムは納得した様子で頷いた。子供でも、この街がアンブレラの大きな影響を受けていることは知っているらしい。

 

「じゃあ、ヨーヘイってやつなんだ」

「良く知ってるな」

「おじさんは好きじゃないって言ってた。金がすべてのろくでなしだって」

 

 口の悪い坊主だと、マディソンはまだこちらへの警戒を解いたわけではないリアムの眼差しを受けつつ鼻で笑う。おそらく10代なかばにまだ届かぬリアムだが、育ての親の影響か、この環境が彼をそうさせたのか、年齢不相応な警戒心と利口さを備えているように見えた。

 

 実際、疲労を顔ににじませながらも、彼は調理に勤しむマディソンの手元と、ヴラッドの動きを用心深く観察している。

 

「おじいちゃん、大丈夫?」

 

 しばらくぐすぐすと鼻を鳴らしていたシャーロットが、こするせいで目元と鼻を赤くした顔を、リアムの後ろからのぞかせて問うた。

 

「大丈夫だ。我が隊の主力と一緒にいる。ここよりよほど安全だよ」

「そう……なら、よかった」

 

 シャーロットは理解できない部分があったのか、小さく首を傾げたが、安全という言葉に素直にうなずいた。リアムより少し年下らしい彼女の髪は蜂蜜色をしていて、肩丈できれいに揃えられている。パチリとした大きな瞳はスカイブルーだ。可愛らしい少女だった。

 

「そら、食え。んで、寝ちまえ」

「今すぐ出るんじゃないの?」

 

 焼き終えたスパムと卵を皿に載せ、戸棚から引っ張り出したパンと一緒に兄妹へマディソンが差し出すと、リアムはすっと通った鼻筋の下の、薄い唇をへの字に歪めた。

 

「夜間に子供を連れて引き返すのは、おっかないんだとよ」

 

 そう言ってマディソンはこちらを指し示すと、自分たちの分の用意を始める。よほど空腹だったのだろうシャーロットが差し出された皿を引き寄せ、小さな手でパンをちぎって口に運ぶのをよそに、リアムは何故と問う眼差しをこちらへ向けた。

 

「上の二人を含めて、俺達はもう降下してから20時間以上も食わず寝ずで動いてる。その上で、君たちを抱えて戻るのはリスクだ。だから夜明けを待つ」

「20時間も?」

 

 リアムが眉根を寄せた。動作がいちいち大人びているのは、スティーヴンの影響も大きいが、彼自身の大人になりたいという欲求の影響もあるのだろう。少し言葉を交わした程度だが、物怖じしない言葉選びからは、甘く見られたくない、そんな頑なさが感じられた。

 

「そ、二〇時間。こいつは二〇時間休み無く俺たちの指揮を執ってる。だから、俺達にも少し休みをくれよ、坊主」

 

 あんたらすごいんだな、と呆れとほんの僅かな敬意を含んだ眼差をこちらに向けたリアムは、おとなしく自身の分の食事に手を付ける。

 

 ヴラッドは、会話の間に簡易的な整備をしたM4カービンのボルトをアッパーフレームに押し戻し、上下を結合させるピンをはめた。

 

 スティーヴンの自宅は、彼自身がかなりの銃器愛好家だったのか、役に立つものが多く残されていた。兄妹が身を潜めていたデスクのリロードマシンもそうだが、潤滑剤は特にありがたい。

 

 発射ガスを途中で組み上げてボルトへ直接噴射する動作機構の都合上、M4/M16系の機関部、ことにボルトキャリアは汚れが溜まりやすい。もちろん、巷で言われるようにちょっとした汚れで即動作不良になるわけではないが、補給が望めないこの状況下では、こうして休憩できる間に整備を行えるというのはありがたい話だ。

 

 ヴラッドは拝借したウエスと洗浄剤でボルトのカーボン汚れを落とし、数百発の射撃で完全にドライになったボルト可動部にたっぷりのオイルを塗り込んだばかりだ。ここまできれいにしておけば、あと一五〇〇発は余裕で発射できる。

 

 その様子を時たま興味深げに観察していたリアムが、ヴラッドが腰から抜いた拳銃を見て片眉を持ち上げる。

 

「変な銃」

「よく言われる」

 

 HK P7の複列弾倉を引き抜き、薬室の弾を取り除きながらヴラッドは頷いた。

 

 P7は独特の動作機構を複数持つが故に、その形状は他の拳銃と比べて奇妙な部分が多い。スライドの背は低く全長も短いが、グリップの前後幅は広い。

 

 特にスクイズコッカーが曲者であり、これによって前後幅が大きくなったために、手の小さい人間には握りにくい代物となった。

 

 が、スクイズコッカーによって撃針を後退し発射を可能とする機構上、意図してしっかりと握り込まないと射撃が行えないため、安全性は高い。スライドリリース機能もこのコッカーと連動しており、運用には習熟が必要とされるが。

 

「こいつはスライドの背が低い。銃身線がその分腕のラインに近くなっているから、反動制御がしやすいんだよ。それに、ショートリコイル式と違ってバレルは固定されているから、精度もでる」

 

 リアムはまだまだ子供だが、銃を扱う手付きから射撃はしっかり仕込まれていると判断して、ヴラッドはざっくりと自分がこの銃に感じる魅力を説明してやる。それを聞き、理屈は理解できたらしい彼が頷くのを、横目に見ていたマディソンが小さく笑ったようだった。

 

「こいつはマニアだからな」

 

 俺は支給品で結構、とマディソンは自分の太ももに収まるシグを示す。汎用性が高く信頼のおける拳銃だが、ヴラッドはあまり好きになれない拳銃だ。

 

「リアム、君のルガーを見せてくれるか」

「なんで」

「気になる。いい銃だ。それはスティーヴンが?」

 

 大して使っていないおかげで、P7のコンディションは綺麗なまま。それを確かめて、リアムが自分の目の前においた拳銃を示すと、彼はソッチのを触らせてくれるならと返した。

 

「おじさんが、俺にって。最初は小さいのから始めろってこれを」

 

 弾の入っていないP7を渡すと、リアムは同じように弾倉と薬室の弾丸を抜いたスタームルガーを差し出した。

 

 MkⅡモデル、グリップをラバーの滑りにくいものに交換してある。サイトも手を加えたのか、大型でリアサイトの溝が幅広に取られていた。精密射撃に使うサイトはタイトにするものだが、余裕をもっているということは、実戦かそれに準ずる射撃競技向けなのだろう。

 

 グリップの真上、機関部のあたりにリアムの名前が彫り込まれている。

 

 握り込み、構えてみる。リアサイトの幅が広く、フロントサイトも大きくされているおかげで照準点を見つけやすい。これを組んだ人間の、銃というものに対する意識と考え方がよく分かる。

 

 いい銃だ、掛け値なしに。それを確かめ、ボルトを引いてよく整備されていることを確認すると、リアムへと返した。

 

「握りにくい、好きじゃないな、それ」

「みんな言うよ。そのルガーはいい銃だ。スティーヴンは、銃のことをよく知ってる男だな。君のための銃だ、大事にしろ」

 

 素直な感想を口にし、入れ替わりで返却された拳銃に弾を込め腰に戻す。ルガーを受け取り、掘られた名前を指でなぞったリアムの手に、小さなしずくが落ちたのが見えた。妹を守る間ずっと張り詰めていた緊張が緩み、ようやく育ての親が死んだ事実が飲み込めたのだろう。

 

 小さく嗚咽を漏らす彼の背中に、話を聞いていたシャーロットが額をくっつけて抱きついた。肩を震わせ、唇をかみしめて泣き声を殺す彼を見、同じように再び濡れた瞳を伏せた妹から目をそらすと、ヴラッドはマディソンが差し出した自分の分の食事に手を付けた。

 

 塩気の効いたスパムは、ずっと走り回っていた身体によく染みたが、味はぼやけて曖昧に思えた。それが体の疲れのせいか、精神的な疲労のせいかも、もはやよくわからない。

 

 

 

 食事を終え、兄妹をリアムの寝室へと連れて行くと、見知らぬとは言え武装した大人に囲まれている安心感からか二人はすぐ眠りに落ちた。ヴラッドはそれを確かめ、部屋の外に座り込んで、仮眠を取るために目を閉じる。

 

 そして、小さな物音で目覚めた。

 

 どのくらいの間眠っていたのかはわからないが、手足の先に詰まった疲労はましになっている。鈍い脳みその動きも多少は改善されていた。

 

 音のした方向、リアムとシャーロットの眠る部屋へ目を向けると、薄く開いたドアから、周囲を伺うようにシャーロットが顔をのぞかせた。

 

 視線が合うと、驚いたのか向こうが引っ込む。そしてしばらくして、再び様子をうかがうように顔をのぞかせた少女は、申し訳無さそうに目を伏せた。

 

「おこしちゃった?」

「大丈夫、仮眠だ。どうした」

「トイレ」

 

 端的な返しになるほどと笑って、それから立ち上がる。硬い床に座ったまま寝たせいか節々が痛んだが、食事と睡眠のおかげでコンディションはかなりマシだ。少なくとも、体の具合は悪くない。

 

「行っておいで」

 

 こくりと、少女が小さく頷いてそっとドアを締める。薄い青のワンピースの裾が揺れ、シャーロットは暗がりに目をすがめた。ヴラッドがフラッシュライトをつけてやると、小さく愛らしい笑みを浮かべてありがとうと小鳥のような声音でささやく。

 

 が、彼女は少し進んで、どこか遠くで響いた銃声にビクリと身体を震わせ、こちらへと急いで戻ってくる。そのまま、立ち上がったこちらのベストの端をつかみ、くいくいと引っ張られては仕方がない。

 

「わかった、ついていけばいいんだな」

「……ごめんなさい」

「気にしないでいい。怖いものは怖い」

 

 思えば、自分も子供の頃はなんにでも驚き、夜は毛布をかぶって寝ていたなと、懐かしい記憶に思わず口元がほころんだ。そのたびにそれを父親にからかわれてムキになったのも、いまだに覚えている。

 

 その意味をどうとったのか、不思議なものを見る眼差しをむけたシャーロットが、首を傾げた。

 

「おじさん……お名前は?」

「ヴラッド・ホーキンス。ヴラッドで構わない」

「ヴラッドおじさんも、怖いと思う?」

 

 主語はないが、それが自分たちを取り巻くこの状況を指しているのだろうことは容易に察せた。ヴラッドはゆっくりと頷き、ああと声に出して肯定してやる。

 

「怖いね。兵隊になって長いが、怖いものは怖い。戦いは何時だって怖いんだよ」

「お父さんも、怖いって言ってた」

「当然だ。命が危ない状況は怖い。それを怖いと素直に感じるのは、悪いことじゃない。怖いと思う気持ちは大事なものだ」

 

 そうなんだ、と喜びの浮かぶ目を細めたシャーロットを見下ろし、小さな手でベストを引っ張る彼女についていく。身長差は大きく、ベストを引っ張るためにつま先立ちの彼女の手を握ると、背を屈めてやった。

 

 小さな手は暖かく柔らかかった。銃を撃ち、ナイフを振るい、地べたをかき分ける自分たちの手とは違う子供のそれがこちらを握り返して、ざらつく皮膚を指先で確かめるように撫でる。

 

「ここで待っててくれる?」

「もちろん、約束する」

 

 トイレへたどり着き、明かりをつけたシャーロットが閉じかけのドアからこちらを見つめて問いかけた。頷いたヴラッドは、洗面台に腰を乗せて首をゆっくりと巡らせる。凝り固まった首筋が鈍く痛んだ。

 

「交代の時間だから起こしに行こうと思ったが、なんだ、子守か」

 

 ライフルを肩に提げたクラヴィスが現れ、ライトをこちらへ向けて歩み寄る。彼は先にこちらを休憩させるために、あれからずっと接近する死人の警戒と、小隊本部への定時連絡を行っていた。その後ろにいるジョエルは、流石に疲労がピークに達したらしく顔をしかめて目頭を揉んでいる。

 

「子供の頃、夜中のトイレは怖かったろ」

「身に覚えがありすぎてつらいな。……しかし、無事で何よりだ」

 

 顎でトイレの方を示したクラヴィスの声は、疲労と超過活動でわずかにかすれていたが、それでも柔らかく満足げだった。

 

「来た甲斐があったろ。あとは、二人を守りながら死人を押しのけて帰るだけだ」

「お前さんのおかげで、多少はいい気分だ。帰るのは骨が折れるがね。もう弾は半分切ってるぜ?」

 

 クラヴィスが自分のS.O.Eベストを示して言った。弾倉は廃棄せずポーチに戻しているが、彼のライフル弾薬はもう半分以下のはずだ。それ以外の人間にしても、一人あたり6割程度。

 

 足が遅く、危機的状況ではどう動くか分からない子供をつれて移動するとなると、相当数の死人との交戦を想定しなければならない。移動経路も、今までの所要時間のさらに倍を見込むべきだろう。

 

「弾薬は、もしかしたら補充が効くかもしれない」

「あてがあるのか」

 

 ジョエルが問いかけた。彼は気付け剤代わりのタバコに火をつけ、ゆっくりと穂先を明滅させている。弱々しい明かりが照らす彼の顔はやつれていた。無理もないだろう。

 

「寝かしつける前にリアムから聞いたが、地下のガンロッカーにライフル用の弾薬があるらしい。持ってる銃を聞いた限りだと、.308と.223は補充できる」

「ならまあ、多少期待しておく。クラヴィス、マディを起こして交代だ」

 

 おう、とジョエルに応じたクラヴィスが手をひらひらさせながら立ち去る。それを見送り、現在時刻を確かめたヴラッドは、時計の時針が一時を示しているのを見た。

 

「ノーマッドから小隊本部、応答願う。ノーマッドから小隊本部」

 

 無線の周波数が正しいことを確かめ送信する。少し待つと、電子ノイズのあとに声が続いた。

 

『こちら小隊本部、ノーマッド、感明よし(RC)。無事か』

「こちらノーマッド。なんとか。すでに報告が行っていると思いますが、民間人二名を保護、現在潜伏中。夜間行動は危険と判断し、明朝行動再開予定。帰着時刻は現在未定、無線は発見できず」

 

 無線から帰ってきたハリーの声は、彼が地下を抜けて無事にたどり着いたことを示していた。ようやく小隊指揮官を取り戻し、組織的な活動を再開する目処がたったのは、不幸中の幸いだ。

 

『了解した。こちらは現在一九名。地下を移動中に、報告を受けた“ネイルフロッグ”と交戦し戦死(KIA)一名。負傷者は変わらず三。また近隣の捜索活動を行った結果、民間人六名を新たに収容』

「くそ、了解。残念です。負傷者の具合は」

『現状、市民と隊員あわせて5名が負傷、別階層に隔離して様子を見ているが、発症する様子はないが容態は悪化しつつあり。また、市民から感染症に関する情報が隊員に伝わった。士気は高くない』

「まいったな」

『負傷者は隔離環境に置いて、衛生兵と別に歩哨を二名つけた。こっちはひどい有様だ。そうなる前に処置してやるべきと解く人間もいれば、それは人道に反するって意見もある』

 

 ハリーの声には疲れが滲んでいた。当然だろう。噛まれた以上負傷者の発症は避け得ないが、だからといってまだ生きている部下を射殺すればそれはそれで士気に大きく響く。とはいえ、危機管理の観点からそうなる前に始末するべきという考えにも利はある。

 

 この状況下で指揮を執り、判断を下すのがどれほどの苦痛か、想像できないほどヴラッドも阿呆ではない。すくなくとも、自分ならそんな状況は御免こうむる。

 

「ガルシアは、どっちですか」

『即射殺だ。チャベスはじめ、何人かが彼に同調する動きもある』

 

 でしょうねと、ため息交じりのハリーの返答に頷いた。昼間に彼の黒い噂を聞かされるまでもなく、ガルシアがどう考えるかはわかりきっていた。一年も同じ小隊として活動すれば、合理以外の判断を持たないあの男がどう動くかは想像できる。

 

『いまのところ、ガルシアはこちらに従ってはいるが、状況が悪化した場合どうなるかはわからん』

「他小隊は」

『手持ちの無線で小隊間周波数と各分隊内周波数に呼びかけた。応答したのはデルタ小隊のミハイルと、ブラボーの数名。デルタは無線の不調か交信中に途絶したが、ブラボーの残存人員とは現在も交信中』

「了解。こちらは0630移動開始予定、民間人の移送を優先します。ところで」

 

 ヴラッドは現状方針と最新情報の伝達を終えて話題を切り替えた。

 

『なんだ』

「マイケルはいますか。いま、兄妹の一人が起きているので、声を聴かせてやりたいと思いまして」

 

 無線の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。

 

『いや、もう寝てしまっているだろう。起こすか?』

「いえ、無理に起こす必要はありません。二人は必ず無事にそちらに届けます」

『期待している。交信終わり』

 

 無線を終えて時計を見る。行動開始は六時間半後、その間に済ますべきことが幾つかある。それを頭の中に順序立てる間にトイレを流す音がして、やや間をおいて、ドアがほんの僅かに開いた。

 

 隙間から洗面台の様子を確かめるシャーロットの姿は、向かう先の危険を確かめる小動物のようだった。しっかりと約束通り待っていたこちらへ笑みを向ける。

 

「ありがとう」

「構わないさ。俺も昔親父にお願いした」

「そうはみえないけど」

 

 シャーロットはこちらを見上げ、本当かしらと言いたげに首を傾げる。ヴラッドはそれを見、この少女からすれば自分はそういったものとは無縁の存在に思えるのだろうなと目を細める。

 

 一九〇に迫る身長、がっしりと筋肉を備えた体躯。東欧系の血を引く彫りの深い眼窩に埋め込まれた瞳の深い青は、少なくとも夜のトイレを怖がる少年時代があったようには見えないだろう。

 

「本当だ、嘘はつかない。昔は俺も怖かった。親父以外にそれを頼める相手もいなくて、いつも夜中に親父を叩き起こしてた」

「お母さんには、頼まなかったの?」

 

 問いかけながら、シャーロットがこちらへ手を伸ばした。その手を握り、ゆっくりと子供の歩幅に合わせて歩き出す。

 

「居なかった。俺が生まれてすぐに死んだらしい。写真でしか顔は知らない」

「……ごめんなさい」

 

 こちらの返事にパタリと足を止めたシャーロットが足を止めて小さく謝ると、ヴラッドは小さく笑って答えた。

 

「謝ることじゃない。別にそれを不幸だとは思わなかったし……答えた俺が悪いな」

「お母さんがいなくて、寂しくなかった?」

「親父と、爺さんが良くしてくれた。まあ親父も忙しくてあまり家には居なかったんだが」

 

 わたしは寂しい、と。消え入りそうな声がこぼれる。自分にとり、母親は最初から存在しなかった。自分を産み落とし、産後の肥立ちが悪くてすぐに亡くなったと聞いている。他人の母親が羨ましく思えることはあっても、寂しいと思うことだけはなかった。

 

 最初から居ないものの不足を感じることはない。

 

 しかし、シャーロットからすれば、幼い頃のことであっても母親の記憶は残っているはずだ。寂しく思うのも無理はない。まだ幼い子供であれば自然なことだ。

 

「ヴラッドのお父さんはどんな人?」

「貧乏白人、南部の荒くれ者(レッドネック)、喧嘩っ早くて、機械音痴で、頑固なおっさんだった」

 

 さあ、もう眠ったほうがいいなとヴラッドが手を引いてやると、シャーロットはまだ眠くないのと首を振る。外で死者の呻きが長く尾を引くたびにそちらへ目を向けはするものの、大人の自分が一緒である安心感があるのか、寝床へ引き返す気はまだなさそうだ。

 

「レッドネック、知らない言葉」

「良くない言葉だから、教えたことは秘密だ。マイケルにもリアムにもな。もちろん、使わないこと。約束できるかな」

「約束。誰にも言わないし、使わない」

「それでいい。まだ眠くないのなら、ホットミルクでもどうだ」

 

 小さな笑みをたたえて頷いたシャーロットの手を引き、キッチンへ向かう。幸いいまだに電力供給は続いているし、多少の生活音程度では死者は寄り付きそうにない。一日を通して、市内各地で鳴り響く銃声が散発的な戦闘と生存者の存在を告げている。

 

 冷蔵庫を開け、ミルクのパックを出す。容器はどうするかと見回すと、シャーロットが背伸びをし、届きそうにもないシンク上の棚を開けようとしていた。そこの戸を開け、彼女がそれと指差した、猫のプリントされたマグカップを取り出す。

 

「おじさんは、そっち」

 

 彼女が指差したのは使い込まれたアルミマグだった。それを手に取り、表面皮膜が剥げ落ちたマグの表面を指で撫でる。来客用にしてはかなり頻繁に使われているらしい。

 

「これは、スティーヴンのか。いいのか?」

「お父さんは、怒らないと思う。それに、ほかにないから」

 

 言われて確かめれば、棚の中にあるマグはあと一つだけ。残りはおそらくリアムのものだろう。ヴラッドはマグを二つ置き、コンロの上に置き去りにされた手鍋にミルクを注いだ。

 

 火にかけ、子供がやけどしない程度の温度に温めたそれをマグに注いでやると、マグを二つ持ってリビングのテーブルへ。ソファに並んで腰掛けたシャーロットにマグを渡すと、彼女はそれを両手で包んで背を丸めた。

 

「お父さんもよく、眠れないときにホットミルクを作ってくれた」

「いいお父さんだったんだな」

 

 小さな頭が縦に揺れた。ヴラッドは自分の分のホットミルクに口をつけた。何年、ひょっとすると十何年かそれ以上ぶりの柔らかい味だ。

 

「ヴラッドおじさんは、兵隊さん?」

「兵隊だった、だな。今はアンブレラに雇われてる」

「兄さんが言ってた、ヨーヘーっていうお仕事?」

「そう。国に属するんじゃなくて、会社とか金持ちとか、誰かしらと個人的な契約でつながっている兵隊のこと」

 

 ふうん、とシャーロットが分かったような分かっていないような、曖昧な頷きを返した。ヴラッドは自分に向けられたスカイブルーの瞳を見、警戒心のない、子供らしい真っ直ぐな眼差しを受け止める。

 

「その前は、どこかにいたの?」

「陸軍に。スティーヴンは海兵隊だったな、そう言えば」

「そう、だからヴラッドおじさんとお父さんはちょっとだけ違う」

「ちょっとだけ、ってのは?」

 

 それは秘密と、唇の上にミルクをつけたシャーロットが微笑んだ。花のような笑顔だった。手にしみるミルクの温かみと同じく、もう随分と接してこなかったものだ。殺すか殺されるか、それ以外に何も持たない自分の人生では、おそらくこれから触れることは無いだろう屈託の無さ。

 

「お父さん、死んじゃったんだよね」

 

 ふと、その笑顔に陰が落ち、シャーロットが視線を手にしたマグの中で揺れるミルクへ向ける。白い水面を見つめたままの彼女に、ヴラッドは頷いた。

 

「ああ。死んだ」

「ヴラッドおじさんが撃ったの?」

「……そうだ。俺が撃った」

 

 沈黙が降り、ヴラッドは自分の分を飲み干して、彼が生前愛用していたのだろうマグをテーブルに置く。泣くでも無く、撃ったことを責めるでもなく、ただ黙り込んだ少女は、しばらくしてからゆっくりと、言葉を選ぶように言った。

 

「お父さんは、病気にかかって起き上がった人は、頭を撃たないとだめだって。死んだ人は眠っていないといけないんだって」

「そうだな。一度死んで起き上がった人間は、頭を撃つ以外に止める方法がないらしい。俺も良くはわからないが、それは人に伝染る病気なんだそうだ」

 

 お父さんはしっかり眠れたんだよね、と。問いかけなのか、独白なのか。小さな声音がかすかに震えているのが、ヴラッドにも分かった。小さく鼻を啜る音を聞き、そちらを見やる。マグカップを握りしめ、ミルクに落ちた涙が水面を揺らす。

 

 クシャクシャに顔を歪めて、嗚咽を噛み殺しているのだろう少女の頭を、少しの逡巡の後、ヴラッドは撫でた。柔らかい髪を指でかき分け、ゆっくりと梳いてやる。

 

 どれくらいそうしていただろうか。ようやく嗚咽が止み、落ち着いたらしいシャーロットがミルクを飲み干す。泣き疲れたのか、ホットミルクのおかげか、半ば落ちかけの瞼を開けようとまつげを震わせるシャーロットの手を引く。

 

 どうにか立ち上がったものの、眠気のせいで足取りがおぼつかないらしい。仕方なく彼女を抱えあげると、その体は驚くほど軽い。負傷者を抱え上げる以外で人を抱えたことなど無いヴラッドにとり、子供の軽さは不安さえ覚えるほどだ。

 

「ほら、寝るんだ。部屋まで連れて行ってやる」

「ん……ん……」

 

 小さな手が戦闘服の襟首を縋るように掴み、グイグイと引っ張った。寝ぼけて夢でも見ているらしい彼女を、ぐっすりと眠るリアムの隣へ下ろしてやる。シャーロットはこちらの襟を掴んだまま、小さく何事かをつぶやいたようだった。その指をそっと引き剥がし、上から毛布をかけてやる。

 

「お父さん、か」

 

 眠りこけたシャーロットがつぶやいた言葉。それを反芻し、まいったなとこめかみに指をやってそこをもみほぐすと、視界の隅にカービンをぶら下げてニヤニヤと笑うマディソンが見えた。

 

「なんだ、居たのか」

「邪魔すまいと息を殺してた。懐かれたもんだな、驚きの速さ」

「まさか。父親に一発くれた男だぞ。普通に考えりゃ嫌われてる」

 

 それはないなと、マディソンが至極真面目な顔で返す。それを見、何故そう思うと問いかけると、マディソンは肩をすくめ、一服付き合えよと手招きした。

 

「リアムもシャーロットも、まだ子供だが、利口な子だ。見りゃわかる。だから、向こうだって理解してるさ。スティーヴンが生ける屍になったことも、一発で終わりにしてやる以外にできることなんざないってことも」

 

 キッチンの水をほんの僅かに流しつつ、咥えた煙草に火を点ける。煙の匂いが広がり、肺に吸い込んだそれをゆっくり吐き出しながら、ヴラッドはそういうものかねと曖昧に返した。

 

「そうとも。でなきゃ親父のくれた銃は触らせないし、ホットミルクも作ってもらわん。あの子らはそれが分かってる。別に負い目に感じることじゃない。頼まれたんだ、なおさらだろう」

 

 分かったら辛気臭い顔はやめて、もう一寝入りしとけよと、マディソンが背中を叩く。ヴラッドは咥えた煙草の穂先をぴこぴこと上下に揺らし、今は俺とお前がローテだぞと鼻を鳴らした。

 

「お前はウチの司令塔だ。もう少しばかり寝といてもらわないと後で困る。安心しろ、俺がしっかり見張っておいてやる」

「いいのか」

「やせ我慢するなら止めはせんが、また二〇時間走りっぱなしになる可能性だってある。頭脳担当は脳みその回転が資本だ、遠慮するな」

 

 それだけ言うと、半分ほど吸った煙草をシンクに流し、マディソンはひらと手を降って巡回へ戻った。明かりを消した屋内、裏庭へ向かうホールへ消えたその背を見送り、自分の煙草を吸いきってから、好意に甘えることにする。

 

 銃を抱え、ソファに腰掛けて首を垂らす。目を閉じれば、あとは死者の呻きが意識を眠りへと押し流す。眠い、などと感じるまもなく意識が落ちた。

 




 子供を守るのは漢の仕事。
 他の作品に浮気したら許してください……エタらせはしないので。


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休息は続かず

 少し休むとか言ったくせにデスクに座ったら書けてしまったので今のうちに一話。
 忙しくなるのでこれでほんとに少しお休みいれます。




 1998年9月27日 0400時

 

 

 眠りに落ちた意識を叩き起こしたのは、耳障りな銃声だった。

 

 甲高い3点射が数度連鎖し、一瞬で意識が覚醒状態に押し上げられる。仮眠の間も肩から提げたままだったカービンを掴み、即座にソファから身を起こして銃口を持ち上げる。

 

 ライトを付け、視線と銃口を巡らせたが、少なくともリビングには何かが押し入った様子はない。清潔なままのそこを見渡し、マグカップが置き去りになったテーブルから離れて玄関へ向かうと、補強された窓の隙間から外を覗く。

 

 耳をそばだてると、わずかにくぐもった銃声が短く尾を引いているのがわかった。

 

 やかましい破裂音は耳慣れたM4のバースト音そのものだったが、その銃声は家の中ではなく、外のどこかで鳴り響いている。

 

「ヴラッド」

 

 潜めた声が聞こえた。同じ銃声で叩き起こされたらしいジョエルが、カービンを手にしてホールから顔をのぞかせた。クラヴィスもライフルを手にしてそれに続く。二人は油断なく視線をリビング全体に走らせた。

 

「マディは」

「こっちにいる」

「誰も撃ってないんだな?」

 

 ジョエルが頷き、マディソンがその後ろから現れてこちらに歩み寄る。すでに全員、意識が戦闘状態にシフトしているのが、緊張をみなぎらせた足取りでわかった。視線は油断なく周囲を見回し、利き手は銃のグリップをしっかりと握りしめている。

 

「フレデリックかもしれん」

 

 ヴラッドは言った。それはほとんど直感の導き出した結論だった。それに、民間人のフルオート/バースト機構付き銃器が厳しい制限化に置かれる米国において、バースト付きのカービンを持っている人間はそう多くない。

 

 一度のトリガー動作で複数発を発射できる銃器はマシンガンのカテゴリで管理され、製造も所持も厳格に管理されている。おそらく、この街でそういった火器を持っているのは、警察関係者か銃器ディーラー、そして自分たちぐらいのものだ。

 

「こちら02、だれか聞こえていたら応答しろ。こちらチャーリー02、聞こえるか」

 

 ヴラッドは即座に、分隊間無線機の周波数を野外無線の使用するものに合わせて発信した。それを何度か繰り返し、応答がないと見ると、今度は周波数を小隊本部内のものへ切り替える。

 

「こちらはチャーリー小隊分遣隊“ノーマッド”。この無線を聞いたものは応答してくれ。繰り返す……」

 

 無線で何度か呼びかけ、応答を待つ。返事が帰ってくる気配はなく、その間もピッチの高い発砲音は景気よく轟いている。無線が破損したか、こちらには関係ない人間か、応答する余裕がないか。

 

 さてどれかと考える間に、きぃ、と静かな軋みとともにドアが開くと、ルガーを手にしたリアムが顔をのぞかせた。不安をありありとにじませ緊張に目を大きく見開いた彼は、こちらを見つけると、安心したのかホッとため息をこぼす。

 

「何があったの」

「わからん、いま確認作業中だ」

 

 ヴラッドは応じ、かなりのペースで銃弾を撒き散らしているらしいカービンの銃声に耳を澄ませる。おそらく、距離は二ブロックと離れているまい。が、未だ夜明け前であり、詳細位置も不明となると、途方も無い距離になりかねない。

 

 考える間に、皆と同じように銃声に叩き起こされたらしいシャーロットが、リアムのシャツを握りしめながら辺りをうかがうように部屋から出てくる。眠たげに目元をこする彼女から目を離したヴラッドは、袖をまくって時計に目を落とす。まだ日が昇るまで二時間以上残っている。

 

「どうする」

「どうするもこうするも、状況が不明だ。この状況で飛び出してもいいことはない」

 

 ジョエルの問いかけに肩をすくめて返しつつも、ヴラッドは自分がひどく焦れているのを感じた。発砲音の主は戦友である可能性が高く、銃声からすると状況はかなり逼迫していると考えられる。

 

 今すぐにでも捜索に向かいたいが、子供を連れて夜間の街路捜索となると酷い結末になるのは目に見えている。その冷静な判断だけが、いますぐにでも飛び出そうとウズウズしている自分の足をその場に押し留めていた。

 

「とりあえず装備の用意をしてくれ。リアム、昨日寝る前に話していた、ガンロッカーの中の弾薬、幾つかもらいたいんだが」

「おじさんのだろ? いいよ、番号は知ってるから」

 

 ついてきて、と彼が顎で地下室へ向かう階段を示す。まだ寝ぼけ眼ながらに状況は理解しているのか、兄のシャツの裾をきつく握りしめたシャーロットが地下室へ向かう彼の後を追い、ヴラッドもそれに続いた。

 

 二人が隠れていた地下室に降りると、リアムは明かりをつけて金属製ガンロッカーのナンバーロックを迷うこと無く解除した。頑丈な扉が開き、中身が顕になる。

 

 民生品の弾薬パッケージと弾倉が規則正しく並べられた棚と、銃を収めるガンラック。鉄とオイルの馴染み深い匂いが広がり、ヴラッドはそこに収まる火器を確かめた。

 

 ルガーMini14、ウィンチェスターM70、モスバーグの散弾銃にスプリングフィールド。いかにもなチョイスだなと小さく笑いつつ、よく手入れされたライフルを弄くりたい欲望をこらえて、弾薬箱に手を触れた。

 

 紙パッケージの弾薬箱が無数に積み重なり、金属製アモボックスの中にはバラのカートリッジがたっぷり詰め込まれていた。リロードツールで自作した弾薬は、別のケースに収めてデータラベルが貼り付けられている。

 

 必要なものは、手持ちの火器に使える弾薬だ。9ミリ・パラベラムと5.56ミリ系統、そして.308。幸いにして、9ミリと.308は新品の箱とバラ弾を含めてたっぷりの予備があった。

 

 残念ながら5.56ミリの備蓄は見当たらないが、.223は十分な数が収められていた。その他にも、ライトに使う電池や簡易クリーニングキット、ナイフ、弾薬用のポーチなど、使えるものは山程ある。

 

 物資をチェックするヴラッドの横で、リアムがMini14に手を伸ばし、よくオイルの塗布されたそれを撫でた。おそらくはスティーヴンのものなのだろうライフルを触れる彼の手付きは、思い出をなぞるようで、どこか寂しげだ。

 

 そのとなりで銃を眺めるシャーロットを一瞬見つめ、リアムに目を向けなおすと、ヴラッドは指先で並んだ箱を示す。

 

「弾薬を借りる」

「いいよ。必要なんだろ、それ」

「俺たちの命を守るためにはな」

 

 ヴラッドは頷き、.223と.308の弾薬箱を手にすると、階段へと引き返し上階へ戻る。すでに装備確認を終えた部下の前に弾薬箱を下ろすと、ジョエルが.223の箱を示した。

 

「こいつは使えないぞ、弾薬が違う」

「いや、使える。寸法はほとんど同じなんだ。薬室が5.56なら何も問題はない」

 

 ヴラッドは簡単な説明をして、アモボックスを開けて中身を掴む。.223と5.56ミリ弾の寸法はほぼ同一で、どちらの設計の銃でも互いの弾薬を装填できる。

 

 .223の薬室に5.56ミリを装填した場合、薬室の疲労などの具合によっては不正加圧となり銃が破損する可能性があったが、5.56用の薬室であれば、どちらの弾薬も不具合なく使用できることを、ヴラッドは知っていた。

 

 装填しながらそれを説明してやると、なるほどなとジョエルは納得したようだった。拳銃に私物を用いる程度には銃にこだわりがあることは、ヴラッドの部下ならみな知っている。

 

 弾頭はハンティング用のソフトターゲット向けの弾薬ではなく、完全覆甲弾(FMJ)のようだった。死人を殺す分には関係ないが、個人的にはこちらのほうがありがたい。すくなくともネイルフロッグのような頑丈な外皮……もとい粘膜を持つ相手が跋扈する状況では、貫通力は大事な要素だ。

 

「プランは」

「あるわけない。備えてるだけだ。あれだけぶっ放せば、死人が集まってくる可能性もある」

 

 フル装弾より一発少ない二九発にした弾倉の背を手のひらに数回叩きつけ、弾倉内のカートリッジの位置を整えながら、ヴラッドはマディソンに返した。

 

 地下から上がってきたリアムは、Mini14を手にしていた。子供の彼の身体にはいささか大きすぎるそれを手にした彼は、弾倉の用意に勤しむこちらをひょいと覗き込んでから、妹の手を引いて二階へ向かった。

 

「それに、もし助けに行くにしても弾薬が必要だ」

「ここで補充できるとは思わなんだ。ありがたい限り」

 

 スプリングフィールドにフル装弾した弾倉を差し込んだクラヴィスが、上機嫌な笑みを浮かべてマディソンに返す。

 

 手持ちの弾倉すべてを満タンにすると、リアムが古びた肩掛けのバッグとランタンを手にして降りてきた。肩にはアウトドア向けの頑丈そうなバックパックを引っ掛けている。両方とも、スティーヴンのものだろう。

 

「予備の弾、これに詰められるだけ詰めたら?」

「気が利くな、坊主」

 

 坊主じゃない、とからかう声音で笑ったマディソンをリアムが睨めつける。それを受けたマディソンは肩をすくめ、俺がお前ぐらいの頃はそう呼ばれたもんだよと笑った。悪びれない返しにすねたように目を眇めたリアムがバッグを投げてよこす。

 

「ありがとう、リアム。ジョエル、地下にある使える弾薬を……」

その時、ヴラッドの肩に括り付けたハンドマイクがザッとノイズを走らせた。

『……っは…ぁ、聞こえるか。さっき呼びかけてたやつ、まだいるか?』

 

 途端に、周囲の視線が自分に集まる。ヴラッドはハンドマイクを手にして口元へもってくると、送信ボタンを押し込んだ。

 

「こちらチャーリー小隊分遣隊“ノーマッド”、はっきり聞こえてる」

『ヴラッドか? よかった……僕以外みんな死んだかと』

「それはこっちのセリフだ。お前はとっくに死んだと思ってたぞ」

 

 ジョエルがこちらの指示通り地下へと向かうのを横目に、ヴラッドは荒い呼吸音混じりのフレデリックの声に応じた。送信距離の短い分隊内無線機同士の通信だが、音質ははっきりしている。銃声の響き方で判断した結果の通り、そう離れていないのだろう。

 

「そっちの現在位置は」

 

 呼吸を整えているのか、沈黙したフレデリックに質問を投げつつ、ヴラッドは地図を取り出してそれを広げた。配布されたラクーンの地図には格子状に線が引かれ、グリッドで現在位置を報告できるようになっている。

 

『わからない……あー、すこし待ってくれ。大まかな座標なら』

 

 数秒の沈黙の後に答えたフレデリックが座標を口にすると、ヴラッドはその位置を探す。すぐに見つかった。いま自分たちが身を隠しているスティーヴンの家からせいぜい二ブロックから一ブロック半ほどだ。

 

 平時であれば、ほとんど近所と言っていい程度の距離である。

 

『それ以上の詳細は分からない。店のバックヤードに隠れてる。くそ、あの野郎……痛てぇ』

「怪我しているのか? どこを噛まれた」

『ちがう、噛まれたんじゃない。あのバケモン、僕の腕を切りやがった』

 

 フレデリックの声には強い怒りと苛立ちが滲んでいた。バケモノ、という言葉に片眉を持ち上げ、視線をマディソンとクラヴィスへ投げる。二人は沈黙を保ったまま、その無言をもって先を促した。

 

「でっかい爪の生えたやつか?」

『そうだ……畜生め、あいつら。何匹もいやがった。とんでもねえ速さで、クソほどタフだ。悪い夢でも見てるのか』

 

 フレデリックの声は、最後の方はほとんど独り言のそれに近い声音だった。おそらくネイルフロッグ、それも複数と交戦したのだろう。身を隠している彼の周囲にあとどれだけ残っているのかはわからないが、丸一日単独で行動していたことを考えると期待はできないだろう。

 

「わかった。そこを動くな、今から捜索に向かう。無線は常時開けておけ」

『野外無線は音が出るからオフにした。小型の方はいつでも大丈夫だ。急いでくれ、もう最後のマガジンだ』

「可能な限り急ぐさ。俺たちがたどりつくまで、外には出るなよ。交信終わり」

 

 ヴラッドはそれだけを言い残して通信の終了を告げると、自分のM4のグリップを握り、チャージングハンドルに指をかけた。軽く引くとダストカバーが勢いよく開き、エキストラクターがしっかりと保持したカートリッジが薬室から引き出された。

 

 暗闇の中で、ヴラッドは指をもぐらせ薬莢に触れる。しっかり装填済みであることに満足してハンドルから手を離すと、カバーを閉じてやる。

 

「リアム、君はここで待て。シャーロットもだ」

 

 義父の遺品であるMini14に弾倉を押し込み、薬室に弾を送り込む金属音。それに押しかぶせたヴラッドの声は、有無を言わせぬ響きがあった。拳銃を確かめるヴラッドにリアムが怪訝な眼差しを向ける。

 

「なんでさ」

「足手まといになる。歩く死人以上に厄介なバケモノ複数を相手にしないとならない」

「人手が必要だろ、それなら」

「それは一人前の兵隊の言葉だ。君は子供だ、ここで待て」

 

 はっきりと言い切ったヴラッドの声に気圧されたリアムが、納得できないと言わんばかりの眼差しを据えた。ヴラッドはそれを受け流し、拳銃をホルスターに押し戻すと、サムブレイクロックのボタンをしっかりと留める。

 

「妹を大事に思うならここで待て。スティーヴンなら同じことを命じたはずだ」

 

 義父の名を出され、ぴくりと彼が身じろぎしたのが分かった。マディソンとクラヴィスは、何も言わずに様子を見ているようだった。

 

「そうだろうさ……でもおじさんはそれで死んだんだ。お隣なんか助けに行くから」

 

 数秒の沈黙の後、リアムが絞り出すように言った。ランタンのぼんやりとした明かりに照らされたリアムがライフルを抱きしめ、会話にまざる不穏な響きに困惑と僅かな恐怖をにじませた妹の背中を撫でた。

 

「それでも連れていけない。忘れるな、君は子供で、兵隊じゃない。俺たちを死なせたくないなら、おとなしく待っていろ」

 

 納得しかねる様子のリアムだが、ヴラッドはそれにとりあう気はなかった。外は未だ暗く、どれだけの死者とネイルフロッグが身を潜めているか分かったものではない。そんな状況で子供を連れ出すのは、彼らの安全以上に自分の命をも危険に晒す行為だ。

 

 当然だなとばかりに肩をすくめるマディソンに、ヴラッドは目を向けた。

 

「マディ、お前もだ。ジョエルとここを守れ。二時間で戻らない場合、あるいはこちらとの交信が途絶えて二〇分経過した場合、全滅と見なして夜明け過ぎに移動を開始しろ」

「おい、冗談だろ」

「本気だ、クラヴィスと二人で行く。ここの防衛は任せる」

 

 与えられた指示にマディソンが僅かに目を剥き、それから真意を測りかねた様子で反駁したが、ヴラッドはもう一度、はっきりと命令を伝達した。

 

「戦力分散なんて正気じゃない。何匹いるかわからんのってのに」

「だからこそだ。全員で行って全滅した場合、誰があの二人を守る」

 

 親指でソファに腰掛け身を寄せ合う兄妹を示すと、リアムが守られる必要なんか無いと、わずかに喉をつまらせたような声音で答えた。今にも泣き出しそうな彼に目を向けることもせず、ヴラッドは指揮を受け持つ人間としての思考に徹する。それが今求められることだ。

 

 不明瞭な状況での戦力分散は概ねの場合愚策とされるが、一挙投入もまた状況によっては愚策となり得る。人員わずか四名の分遣隊において、どちらをとってもリスクは削りきれない。

 

 そのうえで、ヴラッドは分散による全滅リスクの低減を選んだ。

 

 仮にヴラッドとクラヴィスが戦死しても、マディソンとジョエルならその状況で最善の選択をし、兵士としての実力を遺憾なく発揮するとヴラッドは信じていた。それに、二人が残っていれば小隊本部に連絡を入れて増援を送ってもらう、という選択肢も取り得る。

 

 状況の劣悪さから考えれば、わざわざ全員で出ていくほうがリスクは大きい、そう考えたがゆえの判断だった。すくなくとも、無事帰還できる可能性は低くなるが、ミス一つですべての可能性がゼロになるのは避けられる。

 

「わざわざお前が行くことはあるまい」

「ジョエルは衛生担当、小隊全体にとって欠かせない人材だ。お前は俺の代わりに睡眠時間を削ってる。コンディションがいいのは俺だし、俺の首の代えはあるからな」

「冗談。お前の代役は皆こぞって譲り合いになるぜ」

「死ぬ気はない。そもそも、射撃成績は俺のほうが上だぞ。動く的に当てるのが俺より得意なら推薦してやってもいいが」

 

 それに――俺には無線がどうしても必要だ。喉元まででかけた言葉をヴラッドは飲み込んだ。小隊の方針としても野外無線機は欠かせない装備品だが、それ以上に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「三〇〇メートル必中の男は言うことが違うね。分かった、任せるよ」

 

 譲る気のないヴラッドの態度に、説得する時間が惜しいと考えたか、マディソンがため息とともに頷いた。

 

 それを見、玄関へ向かおうとすると、ソファから立ち上がったシャーロットが細く頼りない足で駆け寄ってくる。とてとてと子供らしい足取りが目の前で停まり、小さな手がこちらの戦闘服の裾を掴んだ。

 

「ヴラッドおじさん、外に行くの」

「仲間を助けに行かないといけない。すぐに戻る」

 

 ヴラッドが努めて穏やかな声音を作って応えると、シャーロットはこちらを見上げ、鮮やかな青い瞳をうるませていやいやと首を振る。

 

「外は危ないから、お父さんがだめだって言ってた。おじさんも行っちゃだめ」

「それでも仲間を助けないといけない。助けられる戦友を見捨てるのは、とても悪いことだ」

 

 ヴラッドが応えるとそれでも納得できないのか、シャーロットは裾を強く、何度も引っ張る。駄々っ子そのものの態度で目尻に涙を溜め、よく手入れされた蜂蜜色の髪をぶぶんと振り回す彼女を見かねたか、リアムが立ち上がってその手を引いたが、彼女にとりあう気は無いようだった。

 

「お父さんも、お父さんも……見捨てちゃいけないんだって……それで、おとうさんは」

 

 自分が介錯した二人の父親は、その良心に従って家を出た。その結果を知っているがゆえに、今縋るべき唯一の人間が危険の中に飛び出していくのを、何をしてでも止めたいのだろう

 

 その気持は理解できたし、彼女の頑なな態度を叱る気もない。子供とはそういうものだし、幼いながらに最も身近な大人の悲劇的な最期を見てしまえば、止めねばならないと考えるのも無理はない。

 

 最後はほとんど涙声になってしまったシャーロットの声がぷつりと途切れ、代わりに喉を震わせて肩を震わせ静かに泣きじゃくる彼女を見下ろしていたヴラッドは、しゃがみこんでその頭を撫でた。

 

「大丈夫だ、俺は死人の山をかき分けてここまで来たんだ。いまさらヘマしたりしない。こう見えてもこっちのクラヴィスだってすごい腕利きだ」

 

 こう見えてってのは命の恩人に対してどうよ、とクラヴィスが笑った。普段より幾分明るい声音は、シャーロットをなだめるこちらへの手助けのつもりだろう。

 

「それに、仲間が持ってる無線がないとこの街から出られない。君たちを生きて外に出すのが俺達の仕事、だから、ここで待っているわけにはいかない」

 

 わかったかと、焦れる自分の気持を落ち着かせながら優しい声を作って問いかける。ぐすぐすと鼻を鳴らすシャーロットはしばらく俯いたままだったが、ややあって小さくコクリと頷いた。

 

 こちらを見上げた彼女の眼差しを見れば、到底納得していないことはひと目で分かった。その隣で妹に寄り添うリアムの目も、たった二人で捜索に向かう無茶を非難する色を帯びている。

 

 だがそれを見ても、ヴラッドは判断を変える気はなかった。彼はシャーロットの頭を撫で、クラヴィスを連れて玄関へと向かう。背後でリアムがヘマすんなよと不安げな声を発し、ヴラッドはそれにひらと手をふると、ドアをくぐって外へと出た。

 

 二人の背中が消えると、待機を命じられたマディソンはジョエルへその命令を伝達するために地下へと向かった。残されたリアムは、弾を詰めたライフルを手にして外界の音へと耳をそばだて、ソファへ身を沈める。

 

 しばらくして、少し離れたところで銃声がとどろき始めると、シャーロットはバリケードで塞いだ窓へと歩み寄って外を見た。リアムがそれを咎めたが、彼女は取り合わなかった。家の外に死人は見えず、すくなくともこの場所は安全だと思えたからだ。

 

 銃声が聞こえ始めるとすぐにジョエルとマディソンが戻ってきて、銃を片手に家の中を巡回し始めた。すくなくともしっかりと武装した兵士が家の中にいる間は安心だと、そう思える。

 

 それに、とシャーロットは夜明け前の真っ暗な街路に目を走らせる。バリケードの隙間から見える範囲はそう大きくないが、見渡す範囲に死者は居ない。お父さんは、兵隊さんが来ればもう大丈夫だと言っていた。

 

 その兵隊さんが今この家を守っている。そこまで考えて、シャーロットは再び不安が大きく膨らんでいくのを感じた。ヴラッドおじさんとクラヴィスおじさんは、今、たった二人で危ないところへ向かっている。

 

 銃声は散発的だが、二人が確かな危険を前にしていることを示していた。銃声がしている間は安心だよと、父が言っていたのを思い出す。心配するのは銃声が聞こえなくなってからだ、と。

 

 だからこそ、それが途切れるのが怖かった。ひたすらに撃ちまくっている方が危険な状況であることは彼女にも分かったが、銃声が少しでもしなくなると、身体が落ち着かなくなる。

 

 出ていく前、泣きじゃくる自分をなだめようとしたヴラッドの目を思い出す。彫りの深い眼窩に埋め込まれた鮮やかな青い目。タレ目気味の優しい眼差しは父の目によく似ていたが、父が出ていく前に見せた、僅かな不安と戸惑いの色は見られなかった。

 

 恐怖を抑え込む勇気、そして絶対的な自信を持った眼差し。シャーロットは自分がまだ子供であることをよく分かっていたが、それでも人の目を見れば多少のことはわかる。ヴラッドおじさんは、無理だと思ったら行かない人だ。

 

 その信頼が自分のどこから生まれているのかは、彼女にもわからなかった。まだ出会って少ししか経っていないし、そんなに多くのことを話したわけでもない。それでも、ヴラッドは目に見えて無理と思えることはしないタイプだと、そういう確信があった。

 

 それに、家に残った二人の兵士も、ヴラッドについていったクラヴィスという男も、怯えた様子はなく、危険を前にしても淡々としているように見えた。大好きだった父親は、助けを求める隣近所の声に耐えかねて出ていくとき、強い怯えと不安をにじませていたというのに。

 

 もちろん、それを無様などとは思ったりしない。シャーロットにとって外は未だに理由のない悪夢の世界そのものだったからだ。そんなところに、人を助けに向かった父を彼女は心から尊敬していた。その結果がどうであれ。

 

 ソファに座って口を閉ざしたままの兄にしても、待てと言ったヴラッドに食って掛かったが、本心ではホッとしているのだろうと幼いながらに彼女は思う。

 

 ――だって、外はこんなに怖いのに、出ていこうと思えるのはすごいことじゃない? 僅かな隙間から、死者すら見えぬ外界を見つめているだけでも心がゾワゾワする。闇の中からだしぬけに不気味な怪物が出てくる気がして落ち着かない。

 

 そんなところに向かうというのに、粛々と、ただそれが必要だからと受け入れる態度。その態度が示す絶大な自信こそが、幼いシャーロットが縋るべき唯一無二の希望だった。

 



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群れ成す狩人

 接近する死者だけをカービンで撃ち殺し、ごく至近の相手には先端に取り付けた銃剣の容赦ない刺突をお見舞いしてやった。

 

 片付けた死者は数えていないが、それほど多くないはずだ。カービンの弾倉の中身はまだ半分近く残っている。一度抜いて中身を確かめた弾倉をカービンへ叩き込み直し、ヴラッドは視線を周囲へと油断なく走らせた。

 

 目的地までの経路は半分ほど消化したはずだ。死者の多くは蘇った後、肉を求めて中心街へと向かったらしく、住宅地であるこの近辺で遭遇する数は多くない。すくなくとも、二名で十分に対処できる程度の敵にしか遭遇していなかった。

 

 仮にもっと多くの死者と出くわしたとしても、弾薬を補充した今、それを恐れる理由は薄い。が、ネイルフロッグだけは別だ。あの皮膚を剥いだような珍妙なバケモノは恐ろしいほど俊敏で、コンクリートで固めた下水道の天井に張り付いて移動することもできる。

 

 死者と違い、人間には想像もつかないようなところから飛んで現れることも十分にありえた。それを分かっているからこそ、クラヴィスもスプリングフィールドのストックを肩に沈め、目をせわしなく左右に動かして周囲を隅から隅まで精査している。

 

 夜明け前は夜半よりもよほど暗く、薄ぼんやりとした街灯以外に明かりのない世界は脅威の宝庫だ。すでに住宅地を抜け、準工業地帯に踏み入りつつあることを確かめたヴラッドは、ガレージショップ兼住宅裏手の柵を飛び越えた。

 

 ブーツの裏に当たる感触が、芝生からアスファルトに切り替わる。銃口を巡らせ、後に続いて柵を超えたクラヴィスが進行方向に銃を向けて警戒態勢のまま進むと、ヴラッドは銃口を下げ、ストックを肩に押し付けたまま追従する。

 

 二人の動きは完璧な連携を維持していた。元は同じ部隊で作戦経験を持つ人間同士、打ち合わせなど必要とせずともかつて教えられた通りの手順で周辺の安全を確保する。

 

 コーナーにたどり着くとクラヴィスがそちらへ銃口を向け、ヴラッドは銃口を持ち上げて前衛につく。クラヴィスの脇を通り過ぎると、今度は彼が背後を警戒して追従する。

 

 銃声に呼び寄せられたらしい死者が、大破した車が炎上するガレージショップの割れた窓を踏み越えて歩み寄ってくるのが見えた。引きちぎれた腕を伸ばし、いつの間にか耳慣れてしまった飢餓の呻きをもらすそれの額に銃口を据えて撃つ。

 

 飛び散った血がアスファルトに模様を描き、背中から死者が倒れ込む。新たな銃声を聞きつけ、街路のあちこちからフラフラとおぼつかない足取りの死人たちが群がってくるのを見渡し、ヴラッドは進行方向を揃えた指先で示した。

 

 同一基準の教育を受けた精鋭同士、無言かつ最低限のハンドサインだけで十二分の意思疎通が図れる。互いに死角を庇いあい、移動方向への火力発揮は絶やさない。射撃は進行方向を切り開く前衛に一任し、弾切れのタイミングが被るなどという素人のようなミスは犯さない。

 

 見るものが見れば、二名という最小単位における最大効率を発揮するその動きは、まさに少数歩兵戦術(スモールユニットタクティクス)の見本とでも言うべきものだっただろう。

 

 血濡れた路面をブーツで踏みしめ、燃え盛り、あるいは死に絶えた店先を疾駆する。こちらの進路に絡まない死者は全て無視した。退路はあとで切開けばいいし、それにかまけていたら、いつどこからあの皮膚を剥かれた四つん這いのバケモノが飛び出してくるかもわからない。

 

「フレデリック、指定座標付近に到着した。聞こえるか」

 

 わずかに乱れた呼吸をほんの一息で整え直すと、ヴラッドは暗い路地に身を寄せて周囲を見渡した。十字状の車道には、事故車がそのままにされている。歩き回る死人たちは、銃声の方向がわからなくなったのか、ふらふらと当て所無く彷徨っている。

 

 思考能力を持つ人間にとってすらも、不意の物音の方角は見失いやすいものだ。思考力があるとは思えぬ死人にとってみれば、途絶えた銃声の方向などそうかからずにわからなくなるのが道理だろう。

 

『聞こえる……くそ、あいつが近くにいやがる。音がする……早く来てくれ。スタンドのバックヤードにいる』

 

 フレデリックの潜めた声音は緊張でかすかに上ずっていた。パニックにこそ陥っていないものの、恐怖を抑え込む余裕もすでにないらしい。

 

 ヴラッドは銃口を目線の高さに持ち上げ、路地から外を見回した。弱々しい街灯と火災の赤以外に明かりのない十字路にぽつぽつと死人がふらついているが、四つん這いで這いずり回る影は見えない。

 

 こちらの死角にいるのか、身を潜めて獲物を待っているか。数も不明、周囲には死者が複数。数はそう多くないだろうが、賭けになる。

 

 が、ヴラッドは覚悟を決めると、クラヴィスの肩を叩いて路地から出た。待てば状況が良くなる可能性は低い。である以上、速度を重視して事をなすべきだ。すくなくとも、いままではそうだった。

 

 十字路の一角に面したガソリンスタンドの給油機の前に停まった車の割れたウィンドウから、哀れな犠牲者が血濡れた手をこちらへと伸ばしている。シートベルトで縫い留められたそれを無視し、店の脇からバックヤードへ向かいつつ、ヴラッドは無線の送信ボタンを押した。

 

「いまスタンドの裏に回って――」

 

 奇妙な音があたりにこだました。

 

 鳥の鳴き声、あるいは劣化した金属のきしみ。瞬間的にそう思ったものの、その音は地下で耳にしたネイルフロッグの不気味な高い咆哮のそれに近い。が、同時に全く異質な音でもあった。

 

 もっと音が高く、肌が粟立つような不快さ。

 

 反射的にカービンの銃口を周囲に走らせると、視界の端、街灯の明かりが生み出す光の中に影が踊った。そこからの動作はほとんど本能のもたらしたものだった。ぴたぴたと濡れた素足で走るような音が死角から接近し、危険と判断した脳が勝手に地面へ身を投げる。

 

 肩から転がるヴラッドの背後を、なにかが風切り音とともに擦過する。カービンの安全装置を外し、膝立ちの姿勢に立て直すと銃口を音の方へ据える。

 

「おい何だコイツ」

 

 クラヴィスが怒鳴った。ヴラッドは眼前の薄闇の中でぬらりと光る乱杭歯を見、ずんぐりとしたシルエットのそれが獲物を捉えそこねた爪先をコンクリートへと突き立てる姿に、ほとんど無意識に引鉄を搾る。

 

 ソレの姿は、地下で遭遇したネイルフロッグとは別種の異様さをはらんでいた。二足歩行の姿勢は人間らしくも見えるが、白い街灯の下にさらされたそれのほとんど胴にめり込んだ頭部は、叫び声とともに唾液を散らしながら鋭く不揃いな牙をむき出しにしている。

 

 人間で言えば肩から頭頂部にあたる部位は醜く腫れた赤紫の肉腫に覆われていた。ほとんど地面に届きそうな長さの腕の先には、鋭い光を放つ大きな爪。膝を曲げた脚は大きく膨らみ、爬虫類を思わせる表皮の下から強靭な筋肉の存在を主張している。

 

 単発にしたM4のマズルフラッシュが奇妙なバケモノの姿を照らす。瞬く発砲炎、連続して肉腫に着弾をうけたソレが怒りの咆哮をあげ、こちらに飛びかかる。ゆるい弧を描いて接近するソレを見ながら、ヴラッドは周囲で幾つものバケモノの叫びが連鎖していることに気づいた。

 

 コイツは群れて動いている。

 

 身体を横に反らしながら、親指がセレクターを三点射(バースト)へ切り替えた。握りしめたカービンが連続でライフル弾を吐き出し、鼻先を鋭利な爪がかすめていく。

 

 ずんぐりとした上体のシルエットに比して華奢な腰部。すれ違いざまの銃撃はそこから頭部にかけて連続で着弾し、高初速弾の連射を受けたそれが空中でバランスを崩してガソリンスタンドの地面へと転げ落ちる。

 

 状況が許す限りの銃弾を撃ち込んで確実に殺害する。身体に叩き込まれた基礎をなぞった本能が、倒れ込んだそれに追加の銃弾を数発撃ち込んだ。

 

 ここに至るまでの射撃で使いかけになっていた弾倉が空になり、カービンが動作を止める。新しいものと入れ替えてボルトを前進させる間に、視線を巡らせたヴラッドは、新たな一体がガソリンスタンドを囲む塀を飛び越えるのを見た。

 

 視界の端では、別の一体に襲われたクラヴィスが、首を狙った斬撃をかがんでかわし、スプリングフィールドを連射している。

 

「新種生物の宝庫だな、笑えないぞ」

 

 一瞬で緊張と闘志が最大出力にまで押し上げられ、全身にみなぎったアドレナリンが脈拍を上昇させる。ほんの小さなミスが生死を分ける戦場に慣れた身体が、獲物を見定めたらしいバケモノの跳躍を躱し、姿勢を落として振り向きざまの一閃をやり過ごす。

 

 左足を伸ばし右足を曲げて上体を右へかがめ、頭上を振り抜いた必殺の一撃が生む風圧を感じる。そのままドットサイトの照準すら使わず、点灯させたライトの光軸を頼りに連射。

 

 銃口軸に沿うように固定されたライトは、至近距離であれば照準指標として十分役に立つ。バーストが数度続き、余裕を持って叩き込んだたっぷりの銃弾がバケモノの頑丈そうな外皮を食い破った。

 

 血が散り、ソレが不揃いの歯を忌々しげにがちがちと鳴らしながら横っ飛びに避ける。数発が外れ、通りの向かいの店に飛び込んで窓ガラスを粉砕した。

 

 が、その音も、戦闘の音につられて周囲から接近しつつある死人共に構う余裕もない。横に飛ぶやいなや、着地と同時にこちらめがけて地を蹴ったバケモノが低めを狙ってもう一度腕を振るったからだ。

 

 跳ねて避ければ、決定的な隙をもう片方の腕が薙ぎ払う。瞬間的な判断はほとんど本能の警告と言ってよく、腰を狙った爪へとカービンの先を向けた。

 

 銃が壊れるのではないかと思うほどの衝撃。先端につけた銃剣が火花を散らし、欠けた切っ先が光を反射しすっ飛んでいく。が、鍔迫り合いの形で受け止めた腕へ銃弾を叩き込むくらいの余裕はある。

 

 照準をつけることすらせず、トリガーを連続で搾る。三発一セットの発砲、ライフルの弾倉が空になり動作が止まる。発達した腕部の肘関節へ集中した銃弾がバケモノの片腕を無力化し、次いで放たれた後詰めの二撃目を受ける前に間合いを詰めた。

 

 胸元に抱え込んだカービンの先端を、大きな半円の軌跡を描く爪の奥、バケモノの上腕へ突き立てる。鋼鉄の刃が肉を引き裂く柔らかくしかし強い抵抗感。背後の空を裂いた爪は一顧だにせず、獣の本能のままにこちらへ歯を立てようとしたソレの顎へ、飛び込む瞬間に引き抜いたP7拳銃の筒先を押し付けた。

 

 ショートリコイル機能を持たないこの拳銃であれば、文字通りのゼロ距離射撃に何の支障もない。

 

 顎下からほとんど叩きつける勢いで押し付けたマズルにより、肉へ食いつこうと開いた口を強引に閉ざされたソレの脳天へ、連続して9ミリ弾が突き刺さった。

 

 手の中で暴れる拳銃がまたたく間に一〇発近い9ミリ・パラベラムを叩き込み、肉腫で不気味に歪んだ顔面を内から粉砕する。途端、力が抜けて崩れ落ちるそれを脚で蹴りのけた。

 

 地面へ力なく崩れたバケモノから目を離し、拳銃を腰に収めてカービンを持ち上げる。瞬きの間に弾倉を入れ替えたヴラッドが僚友へと目を向けると、クラヴィスはのしかかったバケモノの顔を狙った刺突をギリギリで躱し、右手のスプリングフィールドを乱杭歯の奥へとねじ込んだところだった。

 

 減殺された銃声が連鎖し、減音器(サプレッサ)から吹き出した発射ガスと銃弾で頭部を吹き飛ばされたそれが倒れ込む。大口径弾の接射を受けたソレの顔面はきれいに弾け飛び、人間でいう後頭部かうなじに当たるあたりまで肉が弾けている。

 

「ヴラッド!」

 

 地面に転がったクラヴィスが上にのしかかる死体を蹴飛ばして叫ぶ。彼の視線はこちらの背後、上方へと向けられていた。背後の甲高い声、自分の足元の影にかぶさる黒い輪郭を見て思考より先に恐怖が身体を動かした。

 

 先程まで自分が立っていた空間を、何かが勢い良く薙ぎ払うのを背中で感じた。飛び退いた身体が痛み、カービンを手繰り寄せて構える。ガソリンスタンドの給油所を覆う屋根から飛び降りたソレは、すでに至近に飛び込み爪をこちらへと突き出している。

 

 姿勢が崩れたこの状況では回避も間に合わない。死体の下から這い出たクラヴィスが銃を構えようとしたが、跳ね回るバケモノに狙いをつけるには彼の姿勢は不安定過ぎる。

 

 ヴラッドが遅きに失した射撃に転じようとした瞬間、三点射の音が連なった。目の前で腰から背中にかけて火線に貫かれたソレがバランスを崩し、こちらの胸めがけて迫りつつあった爪がブレる。

 

 銃声の正体を訝しる理由もなく、銃撃で勢いを落としたソレの爪を銃剣の先でいなし、そのままストックを前へ押し出すように銃を回す。ライフル弾を受け、挙げ句小さな顔面にストックを叩き込まれたそれは奇妙かつ哀れな悲鳴を上げ地面に伏した。

 

 すぐさま銃剣を肉腫に覆われた背中へ突き立て単発でとどめを刺す。身体を踊るように痙攣させたソレは、じわじわと血を地面へ広げ動かなくなった。

 

「急いで逃げるぞ」

 

 始末したバケモノから銃剣を抜き、バックヤードを飛び出してこちらの命を救ったフレデリックに目を向ける。かれは左上腕に血のにじむ包帯を巻き、カービンを持って駆け寄ってくる。

 

「ヴラッド、来てくれて助かった」

「こっちこそ。クラヴィス!」

「いつでも行ける。お前は切り替えが早すぎるんだよ」

 

 四匹のバケモノが転がるガソリンスタンドは銃声に群がった死者に包囲されつつある。早急に移動しなければジリ貧になるのは目に見えていた。

 

 移動しつつの射撃ではなく、一箇所にとどまって盛大に銃声を轟かせたのだ。このガソリンスタンドめがけて近隣の死者が押しかけてくると考えて間違いない。弾倉を取り替えたクラヴィスが親指を立てるのを見、フレデリックに手持ちの弾倉を三本分けてやる。

 

 無線手であるフレデリックは、しっかりと野外無線機を背負ったままだった。破損した様子はない。腕の傷にしても、出血は収まっているようだった。疲れ切ってはいるが、いまだ生存本能とアドレナリンで高揚状態にあるらしい彼が、ようやく仲間に合流できた安堵感からか大きくため息をつく。

 

「ルートをなぞって戻る。敵は可能な限り回避しろ。家に呼び込むわけには行かない」

 

 了解とクラヴィスが応じると、ヴラッドは再び死の縁に立たされた事実を認識し、小さく震える手を握り込んだ。

 

 死者を始末して走り抜けるヴラッドたちの背後で、いましがた始末したばかりのバケモノの仲間が雄叫びを上げている。それに急かされるように走り続けながら、ヴラッドは彼らが追いついてこないことを祈った。

 

 

 

 祈りが通じたわけではないだろうが、幸いにして帰途は語るべきもののない道のりになった。

 

 途中で小休止を兼ねて身を潜め、死者の追跡と密集を回避したために余計な時間を食った以外はほとんど行きと大差はない。

 

 すくなくとも、窓から外を見る限り、死者の追跡は撒けたようだった。排除をクラヴィスに一任したために、帰途ではほとんど銃声を発していない。

 

 が、そしてスティーヴンの家へ戻ってからしばらくの間、遠方ではバケモノの雄叫びが続いていた。こちらを探しているのか、新しい獲物を見つけたのか。すくなくとも現状、あの人型の異形がこちらに追いついた様子はない。

 

「ヴラッドおじさん?」

 

 ドアがノックされ、遠慮がちに顔をのぞかせたシャーロットがこちらに目を向けた。スティーヴンの部屋を借りたヴラッドは、デスクの上に載せた野外無線機から手を離し、入っていいかと問う眼差しに、おいでと手招きしてやる。

 

「どうした」

「コーヒー。おじさんたち、疲れてるからあげれば喜ぶって」

 

 口ぶりからするとリアムが提案したのだろう。彼女は小さな手でマグを手にして、ゆっくりとバランスを取りながらこちらへ歩み寄る。

 

 差し出されたマグを受け取り、中に注がれた湯気立つ黒い水面を見やる。ヴラッドは普段からかなりのコーヒー愛飲家――言い換えれば中毒者だが、そういえば最後に飲んだのは出動命令前のことだった。

 

「ありがとう」

 

 受け取り、微笑みとともにシャーロットの頭をゆっくりと撫でてやる。目を細めて顔いっぱいの笑みを浮かべたシャーロットは、手が離れるとほんの僅かに名残惜しそうにしたあと、ベッドの上に横たえられシーツを被せられたスティーヴンへと目を向けた。

 

 しばしそれを見つめてからそっと顔を背けたシャーロットは、椅子に腰掛けて無線に向かい合うヴラッドの目を見上げた。

 

 視線が交わったまま、無言の時間が流れる。部下を引き連れ無事の帰還を果たした時、しばらくヴラッドとクラヴィスの側から離れようとしなかったのをふと思い出す。追跡がないか窓から外の様子を伺っていたヴラッドらの背後で、リアムとともに身を縮めて丸くなっていた。

 

 脳裏に思い起こされた光景にふと口元が緩み、もう一度ゆったりと頭を撫でてやる。目を眇めてそれを受け、乾いた手のぬくもりを確認するように小さな手でこちらのそれを握りしめたシャーロットに、死んじゃいないだろうと笑った。

 

「下で待っていてもらえるか。偉い人との話が終わったら戻るから、そうしたらもう一杯もらいたい」

「わかった。下で待ってる」

 

 マグを小さく掲げて笑みを向けると、シャーロットは小さく、しかしはっきりと頷いてこちらの手を離す。ドアまで戻り、もう一度こちらを振り返った彼女に小さく手をふると、同じように振り返したシャーロットはドアをそっと締めた。

 

 熱く淹れられたコーヒーに口をつけ、酸味の控えめな舌触り。苦味がやや強いが、後味に僅かな甘みがある。香りも十分。基地で飲むインスタントとは段違いだ。胃に落ちた熱が臓腑へ回るのを感じながら、無線機へ手をかけた。

 

 フレデリックは本隊とはぐれた後、必死に逃げ回りもぬけの殻になった民家にしばらく身を潜めていたのだという。しかし本隊との合流が必要と判断して移動中に民間人を発見し、それを率いて集結地点へ向かう途上、ガソリンスタンドで遭遇した人型のバケモノに発見されてそれは頓挫した。

 

 曰く、警官の生き残りと民間人数名のグループは襲撃を受けた後に離散、以後どこへ向かったかは不明だそうだ。おそらくは生きていないだろう、というのが彼の見解だ。

 

 下で手当を受け仮眠をとっているフレデリックが言うには、グループとはぐれた後に中隊本部との交信を行ったらしいが、『研究所の捜索任務に関しての詳細は分隊長以上の人員にのみ伝達する』の一点張りだったらしい。

 

 以後、ハンドマイクから音が出る野外無線の電源を落とし、執拗に追跡してくる人型のバケモノ――醜い腫瘍をして『クソッタレ(Fucking)ニキビヅラ野郎(ジットフェイス)』とクラヴィスが罵っていた――から逃げ続けていたという。

 

 すでに小隊本部には無線確保の連絡を入れ、ハリーから中隊本部と交信しヘリによる撤収を要請するようにと命令を受けている。他小隊との連絡が不通になっている今現在、手元で確保している民間人だけでもどうにか救助すべきであるという彼の意見にはヴラッドも賛成だった。

 

 無線の電源を入れ、無線機に貼り付けられた中隊本部の周波数を確かめる。折りたたまれたブレードアンテナを伸ばし、わずかに開けた窓の隙間から外へとそれを伸ばすと、ヴラッドはマイクの送信ボタンを押した。

 

「こちらチャーリー小隊、第二分隊長。中隊本部、応答願う」

『中隊本部よりチャーリー02、感明良好。状況報告を』

 

 無線を送ると、数秒の間をおいて事務的な声が帰ってきた。音量を絞ったマイクを顔の側に寄せ、ヴラッドはようやく上部組織と連絡がつながった安心感に小さくため息をこぼす。

 

「現在02は分遣隊を率い小隊本部と別行動中。野外無線手と合流、安全地域を確保し待機している」

『小隊長か副長は』

 

 こちらの安堵など意に介すこともなく、淡々とした声で応じた中隊本部の声。しかしそれですらも今は頼もしい。すくなくとも、中隊本部はまともに機能しているということだ。

 

「小隊本部人員は現在、合流地点に仮設拠点を確保し指揮に当たっているため同行していない」

『少し待て』

 

 無線の音が途切れ、沈黙が戻る。ヴラッドはゆっくりとコーヒーを胃に流し、疲労の色濃く残る身体を内側から温めながら声を待つ。長時間の活動による疲労から、自分の体温が普段より落ち込んでいるのは分かっていた。

 

『チャーリー02、ヴラッド・ホーキンス軍曹だな』

 

 無線から帰ってきた声は、先程の人物とは別のものだった。こちらの名と階級を確かめる声音には、暗に自分のほうが上の立場であることを示さんとする気配が感じられた。

 

 おそらくは中隊の運用責任を負う中堅クラスの人間。あるいはそれ以上か。

 

「そうです」

『研究施設の捜索と職員の救助はどうなっている』

 

 押しかぶせるように返された声音は、事務的を通り越してもはや無機的ですらある。温度を感じない、感じさせない声。こちらとの間に明確な線を引いた人間の有無を言わせないそれは、ようやく落ち着いたこちらの気分をざわつかせるなにかがあった。

 

「小隊本部が捜索に向かいましたが、地下道からの進入路が電源のダウンにより稼働せず、施設へは到達できていません。こちらは現在保護した民間人とともに待機中」

『把握した。別ルートを指示する。そちらからアクセスを試みろ』

「了解、小隊本部に合流後、施設へ向かいます」

 

 ヴラッドは腕時計を見た。時刻は0534、予定していた移動開始時間までのこり一時間を切っている。まず、分遣隊はここに到達するまでに使った経路を辿って駅まで戻り、小隊本部に連絡をつける。それから地下の下水道へ応援をよこしてもらえば、比較的安全に――。

 

『それは許可できない。即時、研究施設へ向かえ』

 

 頭の中にこのあとのプランを組み立てるヴラッドの思考を断ち切ったのは、氷のように冷たい声だった。一瞬、その言葉の意味が把握できず、は?と間抜けな声が漏れる。幸いにして、送信ボタンを押し込んでいなかったため、その声は向こうには届いていないが。

 

「先程報告したとおり、こちらは民間人を抱えています。この状況で迂回路を取る余裕はありません」

『社の財産が優先だ。すでに研究施設のロックダウンから七二時間以上が経過している。これ以上の遅延は許可できない』

 

 取り付く島もない、とはまさにこのことか。こちらの事情説明にとりあう気などさらさらない、そう明確に意思表示するような感情のない口調が、中隊本部とようやく通信できた安心感を容赦なく吹き散らす。

 

 民間人を抱え、疲弊した五名の人員で地下研究所とやらへ向かうなど正気ではない。立地からして閉鎖空間であることは間違いなく、そこに護衛対象を抱えて侵入するのは無茶だ。

 

 施設の職員の人数は知らないが、それが歩く死人になっていた場合、押し切られて全員餌食になる可能性すらある。すくなくとも、ヴラッドにはそれを支えきれると断言することなど出来なかった。

 

『なお、施設の捜索と救助にあたっては回収できる限りのデータを回収すること。捜索完了後、小隊本部と合流し、ガルシア曹長とハリソン大尉の立ち会いのもと報告するように』

 

 無茶苦茶な命令をうけたこちらの渋面を見透かしたかのように畳み掛ける声はもはや、安心感を与えるどころか絶望をもたらす悪魔のそれでしか無い。

 

 思わず罵りかけて、ヴラッドはそれをこらえた。命令はめちゃくちゃだが、少なくとも自分は罪人であり、アンブレラはその自分を拾い上げた雇い主である。事実はどうあれ公的にはそうであり、傭兵にとって信用は第一。無意味に逆らってもいいことはない。

 

 それに、と口には出さずに自分を慰める。どちらにしてもその施設には向かわなければならない。アンブレラに命じられるまでもなく、それが()()()()()()()だ。小隊本部の合流後の場合、休まず走り回った自分が、その任務に参加することを許されるかは微妙なところだった。

 

 ある意味では、報告手順を明確に縛ることで退路を塞がれたのは幸運と言えるかもしれない。ハリソンはともかく、ガルシアはこちらが命令を無視して合流を優先した場合、それをかばったりはしないだろう。

 

 ヴラッドらが現実的判断を優先して、中隊本部に黙って民間人の護送を先に行う可能性を潰した幹部社員のキレ者ぶりを見れば、報告の段で上からの信用の厚いガルシアに確認を取ることは間違いない。

 

 当然、そこまでこちらが察すると考えた上での采配だ。現場の人間の考えることなどお見通しというわけか、と目頭をもみ、脳裏にちらつく兄妹を意識の奥深くへと追いやる。

 

「了解、装備の確認を終え次第施設へ向かいます」

『よろしい。では別のアクセスルートを説明する』

 

 数秒の沈黙を挟んだこちらの苦悩など斟酌してくれるわけもなく、ねぎらいの一つもよこさずに男の声が続く。ヴラッドがその説明を防水メモに書き留めると、内容の復唱を求めた男の声は、淀みなく伝達内容を読み上げたことに満足して早々に無線交信を切り上げた。

 

 どっしりと胃に重いものがのしかかる。子供2名を連れて未知の地下施設への捜索任務。それを好都合とみなすのはヴラッド一個人の事情でしか無く、同時に軍人という、任務と規範の中で生きる人格のものでしか無い。

 

 ヴラッド・ホーキンスという私人の意識はそれを強く拒んだが、ヴラッドはしばらくの間飲み残しのコーヒーの黒い液面を見つめた後、コーヒーとともに不満を飲み込むことにした。不条理を任務の一言で飲み下すようになって、もう随分経つ。

 

 こうなれば、するべきことは唯一つだ。野外無線をだれにも怪しまれずに使える機会などそうあるはずもなく、このチャンスを逃がす理由はない。

 

 出動命令の直前、連絡員が手渡したメモの内容を思い出す。呼出周波数はしっかりと記憶してある。

 

 周波数をあわせ、耳に意識を集めてドアの向こうに人の気配がないことを確かめると、ヴラッドは送信ボタンを押した。

 

 予め決められたリズムでボタンを押し、応答を待つ。ややあって、無線の向こうから男の声が番号を告げた。

 

 とっくに焼却処分したメモに割り振られていた、使用する周波数の番号。それに合わせた無線の送信ボタンを押し込み、ヴラッドは随分と久しぶりに口にする、自分の呼び出し符牒を吹き込む。

 

「こちらは葬儀屋(アンダーテイカー)。司令部、応答求む」

 




やる気の源、感想等お待ちしています。


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手にした希望、誘うは冥府

墓守り(セクストン)から葬儀屋(アンダーテイカー)、はっきり聞こえている』

 

 こちらの問いかけに応じた声は、一年の時間を挟んだせいか、記憶よりいささか落ち着いた――悪く言えば老けたように感じられた。

 

 自分の上司、情報を扱う部署を束ねる軍属の工作員監督者(スパイマスター)。敏腕かつ老獪、狙った目標は決して逃さぬその姿勢と、色素の薄くなった髪を指して()()()と部内で呼び慕われる男。

 

 かつて罪人に成り果てた自分を庇い、その無実を主張までした男の声は自分を送り出した時とおなじく穏やかで、自分を取り巻く状況を忘れそうになるほどに静かだった。

 

葬儀屋(アンダーテイカー)は現在ラクーン市内にてU.B.C.Sの作戦に従事中、外部の状況は」

『すでに州軍が市全域を封鎖した。封鎖段階で保護され、後に“発症”した市民と交戦し数名が死亡、現在各検問の指揮官に発砲権限が委ねられている』

 

 発症の一言で全てを済ませた老人の声には、無駄を省く効率の良さがあったが、先程まで会話していた中隊本部の管理職とは違う人のぬくもりが感じられた。ヴラッドはいまさらになってこみ上げてきた懐かしさを飲み込み、廊下の音へ意識を残しつつ、端的な返事が含む意味を飲み込んだ。

 

 すでに市を封鎖する州兵、ひいては合衆国政府は市内に感染症が蔓延していることを把握していると見るべきだろう。脱出する市民の生殺与奪権を現場に委ねていることからみても、事態をそうとう深刻に受け止めているのは間違いない。

 

「了解、州軍と政府の対応は」

『州知事はさじを政府に投げた。ホワイトハウスの通達で州軍は封鎖止まりだが、すでに陸軍の作戦チーム複数にスタンバイがかかっている。JSOCもこの件で臨時の任務部隊(タスクフォース)を編成、現在仮設司令部で待機中』

 

 統合特殊作戦司令部(JSOC)。通常の特殊作戦よりもより高度かつ重要な任務を行うために組織された。グリーンベレーやSEALチームのような一般に知られる部隊より上位の非公式部隊、ひとまとめに特殊任務部隊(SMU)と呼ばれる部隊を指揮下に収める()()()()()()()()のことである。その中には、最精鋭と名高いデルタフォースやSEAL TEAM6も含まれている。

 

 広い意味で自分の古巣――非公式には現役だが――といえるそれが、国内での作戦実行を視野に臨時とは言えタスクフォースを組織するのは、異例どころの話ではない。この街の状況がまさにそうだが、あってはならない事態が発生していなければありえないことだ。

 

 そもそも軍部隊の国内活動には多くの制約が課せられるものである。本来は州軍の活動の指揮官である州知事がホワイトハウスに全ての権利を投げたことといい、国内で特殊任務部隊に出動の兆しが見られることといい、前代未聞の異常事態というより無い。

 

『そちらは』

 

 状況は外から見ても相当劣悪らしい、と今更の事実を目の前に突きつけられ、これから向かう場所のことを思い出して顔をしかめたヴラッドは、老人の静かで短い問いに応じた。

 

「部隊は分断され、他小隊との連絡は途絶しています。中隊本部から、地下施設への侵入、社の財産の保護を命じられました。それで……“カナリア”から続報は」

 

 ヴラッドは要点だけを抜き出した説明とともに、本題を切り出した。もとより外部との連絡に非常に気を使わねばならない身分。それを可能とする機会とそうする必要があれば、という、念の為に配られたカードでしか無い本部との通信を行ったのは、自分が企業の傭兵などに身をやつさねばならなくなった、その大元の最新情報を欲したがために過ぎない。

 

『救助要請が最後の連絡だ。以後向こうからのコンタクトはなし。露見の可能性を考慮し、こちらからの接触は行っていない』

 

 情報に変化はなし。収穫がない事実に肩を落としつつ、ヴラッドはそうですかと力なく頷いた。

 

 ことの始まりは一年と少し前のこと。アンブレラが極秘裏に開発している新種の兵器に関する情報を水面下で探っていた陸軍の一部署に、内部の人間を名乗る人物から接触があったことに端緒を発する。

 

 ただでさえ、厳重な社員の相互監視姿勢と病的な内部への猜疑心が巣食うアンブレラだ。そのうえ政府とアンブレラの癒着は非常に強固である。その機密を探るのは軍にとっても容易ではなく、行き詰まったところに飛び込んできた突破口にたまらず軍は飛びついた。

 

 以後、アンブレラに関する情報活動の一切は部内箝口令が敷かれ、政府高官は愚か大統領にすら隠したまま水面下の接触が続けられている。

 

 まごうことなき越権行為。ともすれば軍規違反かそれ以上の罪を課されてもおかしくない非公認任務だが、そうせざるを得ないほどに、陸軍からみたアンブレラは信用のおけない会社なのだろう。

 

 そんな中で、万が一に備えてという名目でアンブレラの末端へと送り込まれた人間が何人か存在する。

 

 その一人が、ヴラッド・ホーキンス一等軍曹だった。もっとも危険な部署へ送り込まれる人間は、戦闘と工作技能に優れた人間でいなければならないからだ。第一階層(Tier1)の特殊部隊人員であり、工作技能(トレードクラフト)に長けた兵士というのは軍全体で見ても希少種だ。

 

 類する人種は、CIAの特殊活動部に属するパラミリタリーオペレーター、パラミリと呼ばれる準軍事活動人員などが該当するが、情報保全に万全を期すために組織間の連携は一切とっていない。

 

 そういう意味において、()()()()()()()に分遣されて工作員にして特殊部隊員という二足のわらじを履く自分は、これ以上無い適任だったわけだ。もちろん、それは本物の罪状を含めてのことだ。

 

『また、U.B.C.Sの投入前に()()に使った資産(アセット)との連絡が現在不通となっている。そちらの小隊の降下地点と割り振り任務が寸前で変更された点を向こうが勘ぐっているかもしれん』

「俺の身元に繋がる情報は」

『ない。きみの軍法会議記録は本物だからな』

 

 そもそも、最後まで使われない可能性が高かったはずの自分という手札。それが急遽、なんの準備もなく投入されることになったのだ。おそらくは予め中隊幹部の誰かしらの弱みを抑えておき、救助要請に合わせて部隊展開に工作を仕掛けたのだろう。

 

 当然、そういった強引な工作は早晩露見するものであり、資産という無機的な一言で語られる不運な誰かは、いまごろアンブレラの闇の底に沈んでいる可能性が高い。

 

 もちろんそうなった以上、アンブレラの上の人間は現場に潜り込んだネズミを探そうと躍起になっているはずだが、よほどのことがない限りこの作戦期間中にこちらの素性が割れることはあるまい。

 

 なにせ、灰色狐の言う通り自分の軍法会議記録は本物だからだ。その後の有罪とする判決も本物の手続きを経て用意されたものであるからして、簡単に見破られるわけがない。任務完了の暁には全ての名誉回復がなされる手はずだが、それを知るのは灰色狐とその腹心の部下のみだ。

 

「了解。捜索し、仮に発見出来た場合は」

『向こうは保護と引き換えで情報の提供を申し出ている。情報を確認し保護しろ。死亡していた場合、可能な限りの情報を集めて確保してくれ』

「撤収方法は。我が隊はヘリでの撤収を検討していますが」

『可能であれば離脱し、事前伝達どおりにおこなえ。部隊が投入される場合、この周波数で一時間毎に呼びかけさせる。不可能な場合も伝達どおりで構わない。こちらでそっちの撤収ヘリをエスコートさせる』

 

 エスコート、ようは武装ヘリなりなんなりで囲んで強制的に任意の着陸地点へ誘導するということだ。まったくもって原始的かつ確実な方法であり、ヴラッドも過去に何度かエスコートする側に随行したことがある。

 

「了解。以後無線連絡できる可能性は低いと思ってください。小隊本部に合流後、その余裕はありません」

『把握した。葬儀屋(アンダーテイカー)

 

 長距離に無線を飛ばしている以上、通信時間が長引けば長引くほどに傍受される可能性は高まる。下階で保全と装備確認に忙しい部下に疑われる可能性も否定できない。それを熟知しているはずの老人がこちらを呼び止めると、ヴラッドは周波数をもとに戻しかけた手を止めた。

 

幸運を祈る(Godspeed you)交信終わり(Out)

 

 こちらの返答を待たずに切れた無線。赦免と引き換えに危険な任務を命ぜられた自分を前に、済まないと心からの謝罪を見せた男の顔を思い出す。練達の戦士と老練な工作員に共通することがある。どちらも、絶対的に冷酷になりきる必要はないということだ。

 

 ヴラッドはちいさな笑みをほんの一瞬口元に刻むと、アンテナを畳んだ野外無線を担いで下へと降りた。

 

 

 

 

「正気じゃないが、ガルシアの名前を出してきた以上、やるしかない」

 

 中隊本部との交信の説明を終えてしばらくの議論を挟んだ後、マディソンがその一言で全てをまとめにかけた。

 

 違うかと、彼が視線を巡らせる。すでに明るくなり始めた外界、バリケードの隙間から差し込む光が部屋の中を薄く照らしている。単独で長時間の逃避行を続けたフレデリックはソファに転がったままだったが、すでに仮眠から目覚めており、そうだなと頷いた。

 

「小隊長も同意見だった」

 

 ヴラッドは自分のポーチから外してやった無線を手に、キッチンの裏に引っ込んで祖父との会話に夢中になっている兄弟を見た。言いつけを守り声のボリュームは潜めているが、かすかに聞こえる弾んだ声音から、相当喜んでいることがわかる。

 

「ヴラッドの話を聞いた限りだと、仮にあの子達を先に送るという選択をした場合、僕らがどう処断されるかはわかったものじゃない」

 

 フレデリックはしっかりと止血された左腕の傷を撫でながら言った。ジョエルの話では、血液などの体液を媒介して感染すると思われるこの感染症だが、噛まれたわけでもない彼が発症するかは不明だという。

 

 この街にはびこる感染症と、クラヴィスがジットフェイスと名付けたあのバケモノやネイルフロッグが無関係とは思えない。よってバケモノも汚染されていると見るべきだが、どのように、どの程度の接触で感染するのかが不明なためだ。

 

 たとえば、HIVウイルスは口腔同士の接触、いわゆるキスで感染する可能性は限りなく低いが、直腸などの吸収器官であればごく少量で感染しうる。同じように、噛まれれば感染するのは現段階で疑いようがないとしても、暫定的推論ながら汚染個体と思われるジットフェイスの爪にどれだけの感染力があるか、こちらには判断しようがない。

 

「それにまあ……研究所の入り口ってのはここから帰路上にあるからな。どっちにせよ途中までは同じルートだ。研究所に入った後は、どうなる。小隊長らがアクセスを試みた搬入路に出られるか」

「おそらく。電源含む施設設備へのアクセスコードはうけとってあるし、内部に侵入さえできれば、電源の再起動は可能だと思う。施設自体が機密漏洩防止のためにロックダウンされているそうだから、電源設備の破損は無いと思われる」

 

 クラヴィスの問いかけに、少し考えてからヴラッドは答えた。

 

 おそらくロックダウンの影響で空調設備と最低限の照明維持用の補助電源へ切り替わり、主電源で動力を賄われていた搬入路は完全にダウンしていたのだろう。分岐路から搬入用路線へのドアだけは別途補助電源が用意されていたが、そもそも機密保持用のロックダウンシステムだ、施設搬入路に独立電源を設ける理由はない。

 

「内部はロックダウンされたんだろう? それなら外の騒ぎとは無縁かもしれないぜ」

「それはわからん。潜伏期間だってまだ正確には掴みようもないし、地下の研究施設に籠もって生活してたわけじゃないだろう、スタッフだって。感染経路すら不明な以上、中が閉鎖された地獄の可能性はある」

 

 続けたクラヴィスの陽気な声に、ジョエルが至極真面目な顔で返した。そりゃまあそうかと肩を落としたクラヴィスが、わしわしと汗と煙にまかれてごわついた髪をかき乱しつつ、ダイニングテーブルに腰を乗せる。

 

「だが、行かないって選択肢は潰されてるわけだ。それに、一〇万の死人がうごめく地上より、閉鎖空間でも限りがある研究施設を通ったほうが、子連れとなるとかえって安全かもしれないぜ」

 

 そう言って、クラヴィスが祖父との会話に興じる二人を示した。方針会議の間、近くをうろつかれても困るということで、ヴラッドが無線を貸してやってからずっとあの調子だ。暫定的な安全地域にいるとはいえ、無線を一台民間人に専有されている様子を、遠巻きににらみつけるガルシアがふと脳裏に浮かんだ。

 

 もちろん、ハリソンが構わないと言っている以上、彼が不満を口に出すことはないのだろうが。

 

「一か八かの賭け、僕は悪くないんじゃないかと思うが」

「すくなくとも、地上に比べて格段に敵の数が少ないのは間違いない」

「狭い分、敵の移動経路も制限しやすい。あとはこちらの火力上限を超える数がぎっちり詰め込まれていないことを祈るしかない」

 

 フレデリックに同意したマディソン。その後を引き受け、そもそも向かう以外の選択肢がない自分たちの、精一杯の現実逃避を終える。はなから、迂回して後回しにするという選択肢は存在しないのだ。

 

 ヴラッドはテーブルの上に並べた弾倉をそれぞれに分配し、リアムが用意した二つのバッグにカートリッジを収めた箱を詰められるだけ詰め込んだ。幸い、分遣隊員の個人火器の弾薬を補ってあまりあるだけの弾薬がロッカーには収められていた。

 

 爆薬を背負ったマディソン、医療品を受け持つジョエル、そして無線手のフレデリックは余剰弾薬を持つ余裕がないからして、弾薬バッグの受け持ちはヴラッドとクラヴィスになる。

 

 その分、他の三人には缶詰めを始めとした保存食をある程度持ち歩いてもらう。捜索から帰投までどれだけの時間を要するか不明であり、体力も精神的な持久力もない子供を抱えて移動する以上、食料の類は欠かすことが出来ないだろう、というヴラッドの判断だ。

 

 フレデリックはソファから身を起こすと、テーブルに載せた無線のチェックを始めた。病的な機械オタクであり、かつて趣味で組み上げたプログラムを友人に譲った結果、それが政府機関への不正アクセスに利用されて逮捕された過去を持つ。

 

 が、機械オタクであるとしても、小隊長であるハリーの方針で戦闘技術は平均以上だ。軍事組織としての上位部隊を持たないU.B.C.Sにとって、小隊本部は部隊訓練の管理も行う部署であり、チャーリー小隊のモットーは『全員精鋭』だった。

 

「各自、装備の最終点検を済ませろ。三〇分で出る。水分の補充、小便もしばらくお預けだぞ」

 

 了解、と小さな笑いとともに応じた部下に頷いて立ち上がると、ヴラッドは無線を手にした兄妹へ歩み寄る。

 

「リアム」

「なに?」

 

 呼びかけると、リアムは明るい声音とともにこちらを見上げた。父親を失ったいま、唯一の肉親である祖父の声を聞いたことで元気を取り戻したらしい。それはシャーロットも同じだ。

 

「シャーロットの服にズボンはあるか。ジーンズとか、そんな感じの。あとは、長袖のシャツ」

 

 そう言ってワンピースを身につけたシャーロットを示す。こちらの言わんとすることがわからないのか、リアムが首を傾げると、ヴラッドはしゃがみこんだ。

 

「転んで怪我をする可能性もある。頑丈な長袖の上下があると嬉しい」

「ああ、なるほどね。あったはず。もう出るの?」

「三〇分後に移動開始する。地下を経由して、お使いを済ませてからになるが」

「いいよ、分かった。二人っきりで放り出されないだけマシ」

 

 すぐに準備するよと頷いた彼が、シャーロットの手を引いて立ち上がらせる。無線の向こうの祖父にまたねとささやき、無線をこちらへ差し出したシャーロットから金属製の重たいそれを受け取る。

 

「支度をするんだ。教えたとおりに荷物をまとめて、動きやすい服装に着替えてきれくれ。それと……スティーヴンに、お別れを言ったほうがいいな」

 

 そのぐらいの時間はあるはずだと続けると、リアムがありがとうと小さく言った。ヴラッドはいいさと笑ってやり、無線をポーチに押し込んで固定バンドをしっかり留め、イヤホンを耳に押し込む。

 

『聞こえるか……お若いの。ヴラッドだったな、聞こえるかね』

「聞こえています」

 

 マイケルの呼びかけが聞こえ、ヴラッドは接続した送信ボタンを押し込んだ。行動前の最後の休憩を楽しむ部下に目をやり、キッチンの前に立って水道からわずかに水を出す。

 

 行動を開始すれば、安全な場所にたどり着くまで嗜好品はお預けだ。半分以上残っている煙草を取り出して咥え、火をつけた。

 

『ありがとう……本当に。約束を守ってくれてありがとう』

「任務ですから。そちらへの到着はまだかかります。時間はかかりますが、二人は必ず届けます」

 

 捜索任務に当たるに際し、リアムはフレデリックが、シャーロットはジョエルがその護衛を受け持つことになっている。どちらも小隊本部の活動に欠かせない人員である。 

 

 複数のバケモノに襲撃を受ける、あるいは地下で対処不能な数の死人に遭遇するなどの事態に陥った場合のこともすでに検討済みだ。残りの三人で退路を開き時間を稼いでいる間に、フレデリックとジョエルは兄妹を連れて本部へと撤収する手はずになっていた。

 

『信じて待つ。なに、老人になれば、待つのは苦にもならなくなるさ』

「羨ましい。俺は待つのが嫌いですからね」

 

 与えられた命令はあくまで即時捜索に向かえ、というものでしかない。損害が拡大しようと捜索を継続せよと厳命されたわけでなし、十分に任務に従事したという名目は立つ。部隊の半数を失った時点で撤収するのが常識というものだ。

 

 それでも上が口うるさく捜索を命じるなら、逃げ帰ったあとで増援を引き連れて向かえばいいだけの話だ。

 

 もちろん、仮にフレデリックとジョエルに子供を任せて撤収せざるを得ない状況に陥ったのであれば、囮と退路構築/維持を受け持つ自分らは十中八九戦死するだろうが……それは仕方のないことだと、自分の中でとっくに割り切っている。

 

 他者から見て、その判断は悲壮というよりないものだったが、もしもの時は自分とともに退路確保に当たるクラヴィスとマディソンもこちらの決定を全面支持した。当然この方針は、リアムとシャーロットには伝えていない。

 

『君たちも無事に戻れるように祈っているよ』

「ありがとうございます」

 

 そんな決断を知ってか知らずか、マイケルはゆっくりとした声音で言った。それはまるで無理をするなと言い聞かせようとしているかのようにも思えたが、ヴラッドはそれを自身の感傷だなと結論づけ、短く応えた。

 

 ハリーとの無線越しの打ち合わせの結果、上の命令がどうあれU.B.C.Sの目的は民間人の保護が主要目標であるという結論づけが済んでいる。損害を出すことになろうとそれだけは完遂しなければならない。

 

 無線を切って少しすると、荷物の準備と義父に別れを告げに向かった二人が降りてくる。シャーロットはワンピースから、子供向けのジーンズと長袖のジャケットに着替え、小さな手袋をはめてリュックを背負っていた。

 

 リアムはと言えば、シューティングレンジで銃の扱いを教えるためにスティーヴンが自作したのだという革のガンベルトを腰に巻き、サムブレイクの革ホルスターにスタームルガーを突っ込んでいた。

 

 シャーロットの頬には垂れた雫の痕が見え、リアムは袖口が僅かに湿っている。それに気づかぬふりをしつつ、ヴラッドはシンクに流れる水に煙草の灰を落とした。

 

「準備は」

「何時でも出れるよ」

「用も足しておけ、何時間かかるかわからん」

 

 ガキ扱いするなよとこちらを睨めつけるリアムの態度に、背後でマディソンが小さく笑う。それに食って掛かるリアムをよそに、シャーロットは素直にトイレへと向かった。

 

「妹と違って可愛げないな」

「男にそんなの、必要ないだろ」

 

 わかってねえなあ、とマディソンがリアムに笑みを向け、眉根を寄せてむすくれる彼へと歩み寄る。もう少しどっしり構えろよと、ニヤつきながらリアムの柔らかな髪をわしわしとかき乱すマディソンを見やり、ヴラッドは外へと目を向けた。

 

 嫌がるリアムと、それをからかって楽しむマディソン。ジョエルとフレデリックは行動前の最後の一服を楽しんでいる。

 

 穏やかな時間はこれで終わり。これから向かう先は、こちらにとっては完全に未知の領域だ。事前情報になかった地下施設、職員の数も構造も分からない場所。軍事的に見て、地勢すらわからぬ場所に乗り込むのは極めて不利と言わざるを得ない。

 

 それでもやるしかない、向かう以外の選択肢を許されていない我が身を呪うべきかしばらく悩んだ後、ヴラッドは根本まで燃え尽きた煙草をシンクへ捨てた。

 

 その結果は、半日とかからずはっきりするだろう。この先がどうあれ、兵士として求められる技能の全てを発揮する以外、できることなど無いのだから。

 



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死病の根へと至る道

 ラクーン病院の直ぐ側に建つアンブレラ社の施設が、指定された進入路だった。

 

 配布された地図上での表記は、UMBRELLA Head Quartersとなっている。市内におけるアンブレラの各施設の管理などを受け持つハブ施設であり、アンブレラによって栄えるこの街にとっては、ある意味で心臓部と言っていいだろう。

 

 が、かつては小綺麗かつ洗練された社屋だったのだろうそこも、死の臭いからは逃れられなかったらしい。スティーヴンの家を出て、死者の少ない迂回路を選んで一時間。社員用駐車場から通じる職員通路から侵入したヴラッドが最初に見つけたのは、保安職員の無残な遺体だった。

 

 背後、保安スタッフ詰め所では、体力の尽きたシャーロットとリアムが休憩をとっている。ここに至るまでに数え切れないほどの歩く死体に遭遇し、また()()()()()を目の当たりにした二人は、体力だけでなく精神力も相当消耗したようだった。

 

 もちろん、そうなると分かっていたからこそケア人員に二人も割いたのであり、移動経路と所要時間想定もかなり多めにとったわけだ。が、リアムの想像以上の消耗具合を見るに、ここから先は更に時間が掛かると考えるべきかもしれない。

 

 一方で、シャーロットは予想よりも取り乱さず、体力はともかく精神的にはかなり安定しているようだった。女のほうが修羅場にはタフだと、随分と昔父親が言っていたことを思い出す。

 

 開いたままのドア越しにうつむくリアムの背を撫でるシャーロットを見、こちらに気づいたマディソンが小さな手の動きでまだかかることを示す。それに頷き、二人のケアをジョエルとマディソン、フレデリックに委ねると、ヴラッドはクラヴィスを伴って通路の先を検索しに向かった。

 

 通り過ぎざま、壁にもたれかかったまま力尽きた保安職員の遺体を見る。全身ひどい咬創にまみれていたが、当人の死因は頭部への被弾のようだった。それも、握りしめたシグを顎下に押し付け、自分で引き金を引いたと思われる。頭頂部のど真ん中に風穴が空いていた。

 

「しかし、あの坊主大丈夫か」

「それはどういう意味で」

 

 死体を見下ろしたヴラッドに、クラヴィスが問うた。ヴラッドは死体の傍らに膝を付き、血液に触れぬようにしながら身体を漁る。めぼしいものは残されていない。

 

「まんまだよ。家を出たときなんか、死人は俺が始末してやる! って息巻いてたろ」

「だからだろ。新兵でもよくある。初めての戦闘の前は、自分を奮いたたせるためにもそうやって強がるんだ。男の本能だな。喧嘩で嫌なやつをはっ倒す自分を夢想するのと同じ」

「それで?」

「でも現実に直面して、自分の想像と現実の乖離に消沈する。雑に言えばビビっちまう。あとは自己嫌悪に折り合いをつけて、怖いと思うことに慣れるしか無い」

 

 詳しいなと笑うクラヴィスに、何事も先人は居るもんだと返しつつ、ヴラッドは立ち上がった。

 

 ここで自死を選んだ彼は奥からこちらへ逃げてきたらしく、地面に細く伸びた血の跡が続いている。壁には血の手形、出血は相当ひどかったのだろう。そこから少し進むと、頭部を食いちぎられた保安スタッフの遺体のそばに、アンブレラの社員証をつけた女の死体が転がっている。女は頭部を撃ち抜かれていた。

 

 保安スタッフ詰め所のタイムカード表の上では、あの詰め所に最後に出勤した保安スタッフは五名。うち二名はここで死亡。この施設全体で保安スタッフ詰め所、いわゆる警備室は三つあるらしく、それぞれが担当エリアの保全を請け負っている。他のエリアに何人のスタッフが居るかはわからないが、生存はあやしいところだ。

 

 緊急時にはそれぞれの管理エリアごとに封鎖を行えるようになっているらしく、警備室のコンピューターのログでは二四時間以上前にこのエリアの強制封鎖が実行されたらしい。

 

 すくなくともその頃にはこの社屋内で死者の抑制が不能と見なされたということだ。ところどころに転がる死体、壁の弾痕と薬莢からみると、戦闘は相当悲惨な状態だったことが伺えた。

 

「どこも閉鎖、閉鎖、閉鎖。まったく、これで本当に地下に降りられるのか?」

 

 巡回を始めて幾つ目かの隔壁に手を触れたクラヴィスが、忌々しいとばかりに鼻を鳴らす。彼の足元には、強制閉鎖を行った隔壁によって腰部から下を切断された死体が転がっている。

 

 その腹からあふれる臓物の臭いを嗅ぎながら、ヴラッドは隔壁の解除端末に中隊本部から与えられたパスコードを幾つか入力してみる。電子音を発するパネルの表示はLOCKEDのままだ。

 

 あの無機的な幹部の言っていたとおり、与えられたパスコードは地下へのアクセスルート以外には使えそうにない。もちろん、中隊本部は隔壁の向こうへ向かわずにすむルートを指定してきているから、単に試してみただけではあるが。

 

 それに仮にロックを開放できたとして、隔壁を上げる気などなかった。向こうから死者に押し込まれても困る。すでにこのエリアで遭遇した死者の殆どは始末した。手間を増やしたくはない。

 

「移動に支障はない、って話だがね。専用のエレベーターがあるらしい。問題は、だ」

 

 ヴラッドはこちらのパスワードを受け付けない端末から手を離し、白を基調としたがゆえに飛び散るどす黒い赤褐色が目立つ廊下を見回した。幅の広い廊下には即席のバリケードに始まり、抵抗の跡が見られた。幾つかの部屋はドアの前にデスクや棚が積み重なって封鎖されている。ドアの向こうがどうなっているかは考えるまでもない。

 

「エレベーターで乗り込むなんざ、ゾッとしないわな」

 

 こちらの言わんとすることを察したクラヴィスが、カービンを構えたまま前進するヴラッドの背後で笑った。そもそも建物内を制圧するにおいて、身動きの取れないエレベーターでの移動は自殺行為だ。待ち伏せの格好の餌食になるからである。

 

 現状、敵は人間ではなくバケモノだが、仮にエレベーター前に複数の死者がいた場合、結果は大して変わらない。逃げ場のない狭く限られた空間、物量で押し込まれたら向かう先は地獄だ。

 

「それで、ヴラッド。プランは」

「ない。だから計画を建てるために俺たち二人で下見に行く」

「そりゃいい。斥候(リコン)()()()仕事だ」

 

 クラヴィスが笑い、ヴラッドは肩をすくめて返す。偵察活動は一般的に精鋭に委ねられがちな任務だ。見聞きした情報を精査し、正確に記録して生還するまでが任務だからである。当然高い技量を求められる分野であり、そこに自身のプライドを見出すものも少なくない。

 

「気負うなよ。見るだけだ」

 

 カービンの筒先を正面へ向けたまま、ヴラッドは肩越しにクラヴィスへ目を向けた。分かってるさと返した彼は、スプリングフィールドの銃口から減音器(サプレッサ)を取り外した。

 

 向かう先が閉所とあっては銃身長が短いにこしたことはないし、何より彼の持つ減音器はかなり酷使されている。再び外に出るときまで温存するつもりだろう。

 

 中隊本部から伝達された地下施設への非常用アクセスルートは、備品倉庫のコンテナに偽装されているらしい。ヴラッドとクラヴィスは途中の死体を一つ一つ生死確認し、未封鎖の領域を丁寧に潰しながら移動した。

 

 仮に撤退が必要になった場合、子供を抱えて二人きりで本部との合流を目指すジョエルとフレデリックのためだ。余裕があるうちに安全を確保しておくにこしたことはない。

 

 死体を始末するのは非常に簡単だった。隔壁による封鎖は完全に手遅れではあったが、すくなくとも自分たちにとって面倒極まりない状況に陥る前に誰かがそれを決断したおかげだ。

 

 死人に隔壁をぶち破る力などあるわけもなく、ジットフェイスもネイルフロッグも今の所気配は感じていない。つまり、少数でふらつく死人を始末して回るだけ。すくなくとも、今朝のガソリンスタンドでの短い死闘に比べるとヌルい仕事だ。

 

「マディ、そっちの様子は」

 

 ヴラッドは時間をかけ、丁寧に掃除を済ませてようやくたどり着いた備品倉庫の大きなドアの前に立って無線を送った。スライド式の両開きの扉は分厚そうで、ロックはこちら側からかけられている。

 

『ぼちぼち移動できそうだ。状況は』

「そちらの進路はあらかた掃除した。おそらくもう死人は歩いちゃいない。こちらは現在備品倉庫前、地図で確認してくれ。今から内部を検索して、安全を確保し次第連絡する」

『連絡が途絶えた場合は』

「探さずに帰れよ。骨を拾ってもらう必要はない」

 

 茶化したマディソンの声に鼻で笑って返す。ドアにとりついたクラヴィスがニヤニヤと笑っていた。ヴラッドは肩をすくめ、備品倉庫のドアロックを解除する。

 

 コンソールにパスワードを打ち込むと、LOCKEDの表示が切り替わる。ヴラッドはスプリングフィールドを構えてライトを点灯させたクラヴィスの頷きを受け、スライド式の大きな扉をゆっくりと引っ張った。

 

 開いた扉の向こうへ先行したクラヴィスの進路、それと交差する形でカービンを持ち上げて滑り込む。これまでに通過してきたエリアと違い、備品倉庫の照明は落とされたままなのか真っ暗だ。

 

 ライトを左右に巡らせて直近に危険がないことを確かめ、幅の広い扉の脇、壁に貼り付けられたスイッチを見つけて押し込む。が、照明は沈黙したままだ。

 

 通電していないのか故障か。確かめるだけの価値はない。こちらにはまだまだライトの電池が残っている。

 

 ライトの光軸が備品倉庫に積み上げられた物資を照らし出す。どこにでもあるダンボールの山から、人の背丈よりも大きなロープで縛り上げられた木の箱、あるいは金属製のコンテナまで。ラベルを見る限り、中身は医療用の機器か薬品のたぐいか。

 

 製薬会社たるアンブレラのハブ施設だけあって、物資量はかなりのものだ。それこそ病院が開けそうなほどの荷物が積み上がるそこは、種類ごとに分けられた物資のせいでちょっとした迷路のようにも――。

 

 巡らせたライトが、物資を積み上げた棚の影に人の頭の輪郭を照らし出す。死者、そう判断した身体が銃口を持ち上げ、引鉄に指をかけた。しかし眩いライトの明かりに目を眇めて顔でかばう動作に、絞りかけた指の動きを緩める。

 

 いままでに腐るほどの死者を始末してきたが、ライトを当てても無反応に、ただただ肉を貪ろうと接近してくる以外の動作を見た覚えはない。

 

「おい、お前」

 

 ヴラッドが声をかけようとすると、血で汚れた保安スタッフの制服に身を包んだ男は、立てた人差し指を唇に当てて、小さく開いた口から息を漏らす。

 

 音を立てるなというジェスチャー。こちらの反応に気づいたクラヴィスも物陰で身を潜める男に目を留めた。

 

 男は、ホールドオープンしたシグを手にした右手で、ゆっくりと上を示す。

 

 ヴラッドがライトを静かに上へ巡らせると、光軸の中に動くものが見えた。ヌラリと光る表皮膜の内側、発達した筋肉の赤い筋がうごめいている。膜で覆われただけのむき出しの脳みそ、いともたやすく人間を引き裂くだろう爪。

 

 ネイルフロッグ、そう認識した瞬間に人差し指がトリガーをなぞる。照明が吊るされただけの天井を這い回るそれは、地下で見た個体にくらべるとより一層バケモノらしい見た目をしている。すくなくとも、脳みそが露出する過程で毛髪は一本残らず消えたらしい。

 

 クラヴィスがライトを動かし、同じように天井を這い回る別のネイルフロッグへ照準を据えた。少なくとも二匹。どちらもライトを向けられているというのに、こちらに気づく気配はない。

 

 目が見えないらしいと、ヴラッドは直感的にそう判断した。下水道で始末した個体は、眼球がほとんど肉にめり込んでいた。すくなくともこの位置から見る限りでは、恐ろしく長い舌を蛇のように揺らめかせるネイルフロッグの頭部に、眼球らしき器官は見えない。

 

 その時、飛び跳ねて壁に張り付いたネイルフロッグを銃口で追ったクラヴィスが、背中を棚にぶつけた。背負った弾薬バックが鈍い音を立て、それに反応したネイルフロッグが耳障りな叫び声を上げる。

 

「畜生とちりやがって!」

 

 背後で保安スタッフが喚く。クラヴィスめがけて飛びかかった一体は、スプリングフィールドの連射を受けて空中でバランスを崩し、荷物の向こうへと落下した。

 

 ヴラッドが最初に見つけたもう一体が頭に響くけたたましい咆哮を放ち、クラヴィスに狙いを定めて天井を蹴った。それを見、単発にしたカービンの狙いを定めて連射する。小口径弾の連続被弾を受けたネイルフロッグは荷物の上に飛び降り、こちらの射線を切った。

 

「まずったぞ」

「お前がな」

 

 クラヴィスの声に返し、へたり込んだ保安スタッフの襟首を掴む。そのまま引っ張って立たせ扉の外へ逃げようとしたこちらの前に、横にステップしてネイルフロッグが飛び出してくる。

 

 保安スタッフを自分の背後に回し、右手のカービンを片手で持ち上げ肩に押し当てた。そのまま視界に入った銃口の向きで照準し、適当に弾をばらまく。銃弾が床をえぐり、数発がネイルフロッグの筋肉に食らいついたが、小口径弾の一、二発で始末できるはずがない。

 

 わずかに身をかがめたネイルフロッグが跳躍すると、ヴラッドはその爪が自分を薙ぐ前に何事かを喚き散らす保安スタッフの膝裏を蹴って地面へと押し倒す。頭部の高さを薙ぎ払おうとした爪を倒れ込むようにしてギリギリで躱し、その姿勢のままカービンを頭上へ連射。

 

 真上を飛び抜けた影が悲鳴を上げ、バランスを崩して床を転げ回る。それが立て直す前に膝立ちになり、膝で暴れる保安スタッフの背中をしっかり抑え込みつつカービンを連続で叩き込む。

 

 ほとんど自動式(オートマチック)の掃射に近い速射だが、射撃の達人であるヴラッドの照準は揺るがない。ドットが踊り、上体から頭部にかけて血が散る。

 

 かすれた悲鳴とともにへたり込むそれの頭部に追加で数発叩き込んで、再び保安スタッフの襟を掴んで引っ張り上げる。しかし闇の向こうから伸びた長い舌が、その保安スタッフに射られた矢のように伸び、その胸を貫いた。

 

 槍で貫かれたように保安スタッフの身体がのけぞり、背中へ貫通した舌が蛇のように彼の身体に巻き付くと、そのまま闇の向こうへと勢いよく引っ張った。血に溺れたような悲鳴が遠ざかり、ヴラッドはこの倉庫から撤退するためにドアへ走る。

 

 背後で金切り声、振り返る余裕もなく身を捩って突進を躱す。空振りに終わった爪がドアに深々と傷跡を残し、取っ手を吹き飛ばされたドアが大きな音を立てて閉じた。

 

 通路からの明かりを失った闇、ライトのテールをひねって常時点灯に切り替える。ドアの音でこちらを見失ったらしいネイルフロッグが硬質な爪の音とともに周囲を走り回る音に、激しい銃声を聞きつけたマディソンの状況報告を求める声がかぶさった。

 

 音を頼りに獲物を探す敵を前にして返答するわけにもいかず、無線の送信ボタンを何度かプッシュして無事だけを知らせる。爪の音は天井や壁、床を縦横無尽に駆けずり回る。

 

 同じようにライトを常時点灯に切り替えたクラヴィスが、指を口に突っ込んで指笛を吹く。ヴラッドが自殺行為に等しい彼の行動に目をむく間もなく、音を察知したネイルフロッグが備品コンテナの上を飛ぶように移動し、クラヴィスめがけて突っ込んだ。

 

 カービンをバーストへ切り替え、クラヴィスに狙いを定めて弧を描く赤いぬめりへ照準を向ける。が、クラヴィスが荷物用の棚に身を隠し、その柱にライフルを委託して迎え撃つほうが早い。

 

 M4よりも大きく腹に響く銃声が連続でがなり、空中で大口径弾を浴びたネイルフロッグが錐揉みしながらクラヴィスへ突っ込む。そのまま大人の腕ほどもある棚の柱に頭から衝突すると、地面へ仰向けに倒れた。

 

 クラヴィスは悪戯を成功させた子供のような笑みを浮かべてライフル片手に鼻を鳴らし、死にかけの虫のように脚をばたつかせるネイルフロッグの頭部へスプリングフィールドを向け2発。

 

 完全に活動を停止したそれを確かめ、ヴラッドに歩み寄ろうとしたクラヴィスはしかし、首をわずかに巡らせて足を止める。

 

 その意味を問う愚は犯さず、少しの間息を潜めて様子を探ると、ぴたぴたと湿った足音がゆっくりと近づきつつあるのがわかった。まだ一匹、様子をうかがっているのが居るらしい。

 

 こちらへ視線を向けたクラヴィスに手で動かぬように伝え、ヴラッドはBUDの脚のポケットからサイリウムを一本取り出した。足音の様子からすると、乱戦が終わって物音が絶えたため、こちらを完全にロストしているようだった。

 

 静かにへし折り、淡い緑の光を放つそれを少し離れた金属コンテナめがけて投げつけた。案の定、金属にぶつかるサイリウムの音につられて勢いよく飛び出したネイルフロッグが、コンテナに爪を立ててやかましい金切り声で喚く。

 

 ヴラッドはその間抜けな様子を眺めつつ、ポーチから手榴弾を取り出した。誤爆を防ぐためにピンをぐるぐる巻きにしたビニールテープを引き剥がし、忍び足で隣についたクラヴィスがライフルで狙いを定めるのを待ってから投げつける。

 

 ピンが弾け、金属の塊である手榴弾が床に転がる。哀れな盲目の異形は再びそれに飛びかかり――そして、炸薬の爆発が撒き散らした弾子を自身の体でもって受け止めた。

 

 爆発の衝撃が微細な埃を舞い上げ、頭部をひき肉にされたネイルフロッグにまとわりつく。耳を澄まし他に物音がしないことを確かめるのと、慌ただしい足音が備品倉庫のドアにとりつき、ドアを勢いよくスライドさせるのは同時だった。

 

「ヴラッド! クラヴィス!」

「無事だ。もう仕事は残ってないぞ」

「こっちでかっちり始末してやった」

 

 開いたドアから流れ込む光の中に飛び込んできたマディソンの声に二人で返すと、彼は直ぐ側で蜂の巣にされて力尽きたネイルフロッグの死体をつま先で小突いた。外から静止の声が聞こえ、リアムとシャーロットが顔を覗かせると、マディソンは死体の前に立ってその姿を見せまいとした。

 

「おい、危ないだろうが」

「大丈夫だっておっさんが言ってるじゃん」

 

 ジョエルがリアムの襟首をひっつかんで引き止め、どうやら元気を取り戻したらしいリアムがマディソンの後ろの死体に目を留めて眉根を寄せる。同じものを見ようとしたシャーロットの目を隠した彼は、少しの絶句を挟んだ後、遠慮がちに問いかけた。

 

「なに、それ」

「知るもんか、俺はよそ者だぞ。アークレイの固有種かなんかじゃないのか」

 

 弾倉を取り替えたヴラッドの茶化しに、リアムがむすくれた様子で「ンな訳あるか」と即答する。わたしも見たいとリアムの手を引き剥がしたシャーロットが、奇妙な肉の塊にしか見えない死体を見つけ、それから無言でドアの向こうへ引っ込んだ。

 

「ネイルフロッグだ。それも三匹。全部死んでる。こいつらは頭をふっとばさないでもくたばるらしい」

「命がけの貴重なデータどうも」

 

 外へ出ると、ジョエルが呆れを隠しもしない顔で返した。彼は制止を無視して真っ先に中へ入ろうとしたリアムの頭を大きな手で掴み、叱るようにぐりぐりと力を込めている。リアムは身を捩って逃げ出そうともがいたが、大人の力には敵いそうもない。

 

「一人助けそこなった」

「生存者がいたのか」

「保安スタッフがな。ネイルフロッグの舌に胸をぐさり。そのまま連れて行かれたよ」

「舌で? 冗談だろう」

「伸びて絡みつくだけじゃないらしい。子供の悪夢のおばけみたいなやつだ、まったく」

 

 ジョエルの問いかけに目頭を揉んで応えると、マディソンが奥を検索してくると言い残して、クラヴィスを伴って闇へ消えた。それを見送り、恐怖に怖気づいたのかフレデリックのベストを掴むシャーロットを見やる。

 

 深夜番組のホラーを見てしまった子供のようにフレデリックにしがみつくさまに、意味もなく浮かびかけた笑顔を引っ込める。ヴラッドは小さく咳払いして、戦闘をこなし大きくなった声音を落ち着けつつ言った。

 

「危ないから、だめだと言われたらおとなしく待つんだ」

「わかった。ヴラッドおじさんがいいって言うまで待つ」

 

 分かったと何度も頷くシャーロット。それに満足したヴラッドはリアムに目を留め、ジョエルの手を払い除けた彼の頭をがしりと掴んだ。

 

「リアム、君もだ。生きてマイケルに会いたいなら、その強がりをやめろ。俺たちの命も危ない」

「いいじゃんか、見るくらい。倒したんだろ?」

「まだ生きてる可能性もある」

 

 言った途端、倉庫の中で銃声が轟く。スプリングフィールドの二連射だ。それっきり銃声がしないことから見るに、おそらくは死にぞこないにとどめをさしたのだろうが、反駁したリアムの文句を抑え込むには十分だった。

 

「わかったけど、アレは何なんだよ」

「言ったろう、俺は知らない。下水道でも一度遭遇してるし、ガソリンスタンドじゃ別種と交戦した。敵以上のことは分からない」

「何体もいるの?」

「地面から生えてくるわけじゃなかろうが、これでおしまいなんてことはないだろう」

 

 お仲間の数を死体に聞くわけにもいかないからなとフレデリックが肩をすくめる。ジョークのつもりかと眉を上げたジョエルに苦笑しつつ、ヴラッドは安全確認を終えて戻ったマディソンに中はどうだと問いかけた。

 

「生存者なし。しぶといカエルのおばけを一匹始末した。それと、見てほしいものがある」

「なにかいいものでも?」

「ギークの好みそうなものじゃない」

 

 オタク扱いしないでくれよと、マディソンの返しにため息をつくフレデリック。口の端に笑みを刻んだマディソンは、そりゃ失敬と悪びれない態度のまま、スリングをかけたまま肩を巡らせて疲労をにじませた呻きをこぼす。

 

「中はひどいもんだ。おそらく逃げ込んだ奴らの誰かが噛まれてたんだろうな。血の海、死体まみれ。死体は数えただけで一二人分ってとこか」

「アレに喰われたか」

「わからん、ぐちゃぐちゃの血溜まりと骨だけじゃな。銃撃戦の痕もあった。仲間割れでもしたのか知らんが、照明のケーブルも撃ち抜かれてやがる」

 

 あんな暗闇でバケモノのご馳走にはなりたくないね、とマディソンが誰に宛てるでもなく小さく呟く。ヴラッドの仮眠時間を長くするために、ほんの数時間の睡眠だけとって連続稼働を続けるマディソンは、装具の重みで凝り固まった肩が痛むのか、顔をしかめて首を左右に傾ける。

 

「どっちにせよ、生き残りはいそうもないな。それで、見てほしいものって」

「こいよ、見たほうが早い」

 

 こっちだ、と人差し指でこちらを招く仕草。そのままドアの向こうへ戻ったマディソンへ続く前に、ヴラッドはジョエルとフレデリックに、兄妹の鼻に煙草を詰めるように指示する。

 

「なんだよ、煙草なんて」

「中は臭いが酷い。吐きたくないなら詰めたほうがいいぞ」

 

 鼻に詰めろと差し出された煙草を受け取った兄妹は、流石にためらったようだった。糞便の臭いがキツイと続けると、シャーロットは数秒の迷いを見せた後、こちらが示したとおりに半分にちぎったそれを鼻に詰める。そのまま小さな手で顔を覆った彼女は、ヴラッドの視線から逃れるようにフレデリックの後ろに隠れた。

 

「ヴラッド、レディは自分の無様を見られたくないもんだ」

 

 怪訝な顔をシャーロットへ向けるヴラッドを見、ジョエルが笑いをこらえた顔で肩を震わせながら言う。その間に仕方ないといった顔で煙草を鼻に詰めたリアムは、シャーロットとは逆に鼻から突き出す紙巻きを隠さず、行こうぜと鼻声で促す。

 

 子供と言えど女は女、恥ずかしい姿を見られたくはないのは道理だ。一方年頃の少年らしいプライドと背伸びを見せるリアムは恥じらう姿をこそ嫌うらしい。

 

 違うようで根っこに血の繋がりを感じるその態度に、思わず小さく吹き出す。なんだよとこちらを睨みつけたリアムに肩をすくめて返すと、ヴラッドはマディソンを追って倉庫へと戻った。

 

 倉庫の出入り口から少し奥へ向かうと、至るところにばらばらになった人間の残骸が転がっていた。マディソンの言う通り、向かい合う弾痕から銃撃戦の現場と思われる場所もあり、地面には引きずった血の跡が伸びている。

 

 当然、そんな場所で子供をふらつかせるわけに行かず、ジョエルとフレデリックが二人を抱えることとなった。シャーロットはヴラッドに抱えられることをねだったが、指揮官であり有事の囮担当が手を塞がれるわけにはいかない。

 

 リアムは随分と渋ったが、床に広がる血の海と人の残骸を見て意地を張るのを断念したらしい。それに休憩を挟んだとはいえ子供の足、今のうちに休めておくにこしたことはない。

 

 背後で、鼻に煙草を詰め込まれた兄妹が時々引きつった声をあげる。一方血と糞便の臭いを感じなくなった自分の鼻頭を掻きつつ、先導役のマディソンがこれだと示したコンテナの戸を開けたヴラッドは、空っぽのそれに片眉を上げた。

 

「一番奥、右の角っこのあたりだ。指でなぞればわかる」

 

 マディソンの言うとおりに奥のドア面を指でなぞる。コンテナの反対側の扉にあたる部分に指をゆっくりと這わせると、わずかに継ぎ目らしき感触。それを押し込むと、かちりと音がして、偽装されていたパネルが開く。

 

「良く見つけたな」

「コンテナの奥、壁との接触面があんまりにもぴったり過ぎる。それにこの倉庫、このコンテナを搬入できる入り口なんぞ無いぜ」

 

 言われてみれば、貨物船で運ぶような大きさのこのコンテナを収容するための搬入路らしいものはこの倉庫には見当たらない。ヴラッドらが開けたドアの他に見つかった出入り口は、フォークリフト用の搬入路が一つだけだ。

 

「さすが、元捜査官は目の付け所が違う」

 

 ヴラッドは笑いつつ、コンソールに教えられた通りのパスワードを入力した。小さな電子音とともにモニターが緑のランプを灯し、コンテナのドアが音を立てて奥へとわずかに開く。

 

 その先に広がるのは、コンクリートむき出しの階段と通路。鍾乳洞か忘れ去られた洞窟を思わせるそこの壁には、乾いた血の手形がかすれた赤褐色を晒している。

 




 ヴラッドとクラヴィスが強すぎるな?
 そろそろマディソンやジョエルにも活躍してほしいところですね。

 感想等お待ちしています。お気軽にどうぞ、栄養源です(手招き)


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其が統べるは血の領土

「異常は」

「ない」

「化け物の姿」

「なし」

「エレベーターは?」

 

 随分下で停まってやがる、とマディソンが忌々しげに呟く。地底へとこちらを誘う隠し通路――中隊本部いわく非常用の進入路――の長い階段を下った先。眼前に現れたエレベーターの外部ドアをこじ開けたマディソンは、地面に寝そべった身体を起こすと、まいったなといいたげな顔をこちらへ向ける。

 

「どっかのバカが下に降りたせいだな」

「うんともすんとも言わないのは、そのどっかのバカのせいじゃない」

 

 地面に座り込み、顎でエレベーターのパネルを示したマディソンにヴラッドは返した。下階以外のボタンを持たないそれには、血の跡がべったりとこびりついている。おそらくはこの施設内で死人に襲われて負傷した研究員が、パスコードを使ってここから地下へ逃げたのだろう。

 

「原因は。どう思う、フレデリック」

「さあ。ずいぶん長いこと使われていなかったようだし、保守点検が行き届いていなかったのか。わからない。このエレベーター、電源はどこからだ」

 

 さあ、と肩をすくめてやると、フレデリックは血のついたパネルを指でなぞる。指先にライトを向けた彼が、埃をまとった指の腹をこちらへ見せた。確かに周囲は埃っぽく、普段から人の往来があった気配もない。

 

「天下のアンブレラがこんなところで金をケチるとはね」

「そのケチった金でえげつない月給もらってる俺らが文句言えるクチか?」

「数ヶ月で現役当時の年収稼げるったって、こんな任務に送られるんじゃ割に合わんだろう」

 

 クラヴィスの愚痴に応じたジョエル。それに対して気だるさを隠しもせずに押しかぶせたマディソンは、こじ開けたドアの中へとサイリウムをへし折って投げた。

 

 覗き込むと、緑の光が漆黒の縦穴の底へと進み、エレベーターの天井に落ちて止まる。下向きの視界、閉鎖的な暗黒の中では距離感覚はあやふやになるものだが、ヴラッドはおよそ二〇メートル下と結論づけた。

 

「罪人の俺らに文句を言う資格はないさ。ロープあるか?」

「そりゃまあ、たしかに。一セットだけな」

 

 マディソンが爆薬と作戦行動に必要と思われる装備を詰めたバッグをしめし、その脇に括り付けたロープを外す。俺も一つ、とクラヴィスが同じようにロープを取り出し、ヴラッドに差し出した。

 

 マディソンがロープを装備しているのは、念の為にとヴラッドが持たせたからにすぎない。クラヴィスの場合は、中距離を受け持つ選抜射手の役割柄、高所に陣取る可能性があるからだろう。本隊の支援に当たり、必要であれば陣取った高所から一気に降下して合流するためだ。

 

「二本か」

「誰が降りる」

「俺とマディ」

 

 つぶやきを拾い上げ、降下する気満々のクラヴィスに即答すると、彼はやや残念そうに肩を落とし、持ち上げかけたライフルを下ろす。それを見たリアムがなぜかおかしそうに笑った。

 

「お前のライフルは長すぎる。間取りが不明の地下、取り回しのいい火器を先遣するのは当然」

 

 それに俺はここのところ暇してたからな、とマディソンが満面の笑みとともに鼻を鳴らし、自分のカービンのチェックを初めた。ヴラッドももう丸一日以上肩から提げたままのカービンを持ち上げ、弾倉の充填とライト、ドットサイトを確認すると、スリングを縮めて身体へ密着させる。

 

「俺とマディで降りて、エレベーター上部ハッチから内部を確かめる。侵入後、周辺の検索を済ませて呼ぶまで降下するな」

 

 了解、と待機組の三人が命令受領を示す。ヴラッドはマディソンがこじ開けたドアの向こうへ寝そべって身を乗り出す。本来なら危険な方法だが、エレベーターシャフト内に張り巡らされた金属の梁にロープを固定した。そこ以外に適した固定箇所がない。

 

 さらに言えば、ハーネスもなしに降下するのは安全には程遠い行為だが、こればかりは仕方がない。レジャーでラペリングを楽しむわけではなく、ここはあくまで戦場である。ノーメックスのグローブを嵌め、ベルトに固定された金具にDリングを取り付ける。

 

 Dリングに通して下へと垂らしたロープを確認すると、ヴラッドはシャフト内へ身を乗り出す。明かりのない地下、安全装備不足の状況での降下はかなりの難易度だが、そんな経験はいままでに何度も積んでいる。

 

 シャフト内は換気口が地上へつながっているのか、下から上へとわずかに空気の流れが感じられた。ヴラッドはブレーキを司る右手を臀部に当て、姿勢制御を受け持つ左手を伸ばして頭の上でロープを掴む。揃えたブーツの裏を太い横梁に押し付け準備を終えると、シャーロットとリアムが不安げな眼差しをこちらに据えているのが見えた。

 

「すぐに戻る。やばいと思ったら撤収するさ」

「約束」

「そんなこと言ってどうせ突っ込むくせに」

 

 こちらの返事にほぼ同時に帰ってきた兄妹の声。お互いに顔を見合わせた二人に笑ってやり、ヴラッドは返事を投げる代わりにマディソンに頷いた。

 

 二人同時に横梁を蹴り、右手を緩めて宙に浮いた身体を下へ滑らせる。突然降下を初めたこちらに驚いたのか、シャーロットの声がシャフト内に小さく木霊し、リアムが覗き込むのが見えた。

 

 降下しながら次の足場を目視し、闇の中で慎重にブレーキのタイミングと強さを調整する。なめらかで素早い降下に必要なのは冷静さと度胸だ。ブレーキを強くかけ過ぎればバランスを崩し、弱すぎても着地地点を逃すことになる。

 

 ヴラッドとマディソンは一切の迷いなくロープを操り、正確に足裏で横梁を捉えて壁を蹴りながらエレベーターへ下っていく。最後の着地を終え、梁を蹴って降下したヴラッドは、右手を強く握り込んで接地前のブレーキをかけた。

 

 脚が地面に触れる寸前で勢いを殺し、そのまますとんと難なく着地する。ロープをリングから外し、グローブを払い除けてベルトに括り付けたヴラッドは、上を向いてライトでこちらの位置を確認するクラヴィスに親指を立てる。彼の隣では、いともたやすく暗所降下を終えたこちらを、手品師を見るような眼差しで兄妹が見下ろしていた。

 

「妙だ」

「どうした」

 

 カービンを手にしたマディソンのつぶやきに問いを投げ、ヴラッドは自分の銃のスリングを緩める。

 

「エレベーターってのはワイヤーで吊ってるだけの箱だろ。装備を着込んだ大男が二人も降りたら揺れるもんだ」

 

 そう言いながら、マディソンが膝を曲げて上体を揺らす。ヴラッドは子供の頃、エレベーターが揺れるのが楽しくて跳ね回った結果、父親に怒られたことをふと思い出した。

 

「揺れないな」

「だから妙なんだ」

「トラブルの予感」

「今回は全部トラブルみたいなもんだろ」

 

 それは確かにと笑って、ヴラッドはエレベーターの上部ハッチを開けた。軋みを上げて持ち上がったそれをどかし、マディソンがライトを中へと向ける。彼の眉根に深いシワが刻まれる

 

「ひどいな」

 

 覗き込むと、まず見えたのはエレベーターの壁にもたれて事切れた遺体。ライトの明かりが無残な死体の詳細を暴き、上顎から頭頂部にかけて粉砕された遺体の下顎から、紫色になった舌が力なく垂れているのが見えた。

 

 あたりに散らばる肉と頭蓋の破片にこびりつく髪の長さから、もとは女性だったと思われる。ヴラッドは姿勢を落とし、銃口をゆっくりと巡らせてエレベーター庫内を隅々まで照らす。女の遺体と拳銃以外に見えるものはないが、ドアが開いたままになっているのが見えた。

 

 どうする、とマディソンがこちらに目を向けた。ヴラッドは人差し指を唇に当て、頷いたマディソンが膝を立てて銃口をハッチに向けると、カービンの先をエレベーター内へ突っ込んで開かれたままのドアへと向ける。

 

 音はなく、動作もない。角度が悪くドアの向こうの通路は数メートル分しか視界に収まらないが、奥に死者の存在もバケモノの気配も感じ取ることは出来なかった。

 

「で、降りるか?」

「これだけじゃ何もわからん。降りる以外できることがあるか?」

「無いわな。俺が先に降りる。この棺桶から上がるのは一苦労だ、分隊長サマはそこで待ってろよ」

 

 言うが早いか、マディソンがハッチから飛び降りる。装備を身に着けた男が勢いよく着地したというのに、エレベーターはピクリとも揺れない。マディソンがライトを巡らせ、血で濡れた床を踏みしめてドアの奥へ銃を向ける。彼はそのままエレベーターの外に出て、少しすると戻ってきた。

 

「すくなくとも、少し先までは安全だ。降りてきてくれ」

「クラヴィス、今から内部の検索に入る。少し待て」

 

 イヤホンから帰ってきた了解の声。頭上へ向けて親指を立て、エレベーターの中へ身を投げる。

 

 床と内壁に散った女の血液は大部分が乾いていて、随分と前に殺されたことを伺わせた。マディソンが女の頭部の少し上、立っていれば頭部の高さ付近を示す。そこを中心にくすんだ赤褐色が散り、壁が大きく歪んでいた。

 

「ネイルフロッグにせよ、お前らが遭遇したジットフェイスにせよ、爪で引き裂く手合だろう。これは叩き潰されてる」

 

 たしかにマディソンの言う通り、壁に爪の跡は一切残されていないし、壁に背を預けてへたり込んだ女の死体の傷口も引き裂いたというより押しつぶしたという方が正しい。へこんだ壁面にこびりついた頭皮の破片とぐちゃぐちゃになった毛髪が、なんとも言えない気色悪さを醸し出している。

 

 その血と脳と頭蓋のかけらのこびりつくへこみを示し、マディソンが握りこぶしをそこに向ける。その意味を問うこちらの眼差しに顎をしゃくってみせたマディソンは、拳の痕があると囁いた。

 

 見てみれば、へこみはたしかに人間の握りこぶしを叩きつけたような痕にへこんでいる。しかしその拳の大きさは、自分のそれと比較してふた周りかそれ以上に大きい。まるで巨人の拳、そこまで考えてぞっとする。

 

 おそらくエレベーターが停止しているのは、この内壁を歪めるほどの力で握りこぶしを叩きつけられ、衝撃で安全装置が働いたためだろう。あるいは、歪んだことで稼働に必要なクリアランスを失ったのかもしれないが、結果は同じだ。恐ろしいパワーと言わざるを得ない。

 

「ネイルフロッグでもジットフェイスでもない別種、か」

「しかもどでかい。足跡を見てみろよ、ビッグフット顔負けだ」

「それならカエルのおばけ共も未確認生物(U.M.A)のたぐいか?」

「捕まえて売れば引退後は安泰だな」

 

 その前に自分の命の心配をしろよと釘を差しつつ、マディソンの示した床を見る。エレベーターの床に拡がった血液を踏みつけたと思われる足跡は、開いたままのドアの奥へと消えていた。その大きさは成人男性の倍近いが、目を引くのは大きさだけではなくその痕だ。

 

 足裏の形状は、靴底のパターンらしき模様を描いている。食いつきのいい軍用ブーツに近い形状と判断し、ヴラッドはしゃがみこんでかすれた血の痕を観察する。歩幅は自身のそれよりも広く、足裏の大きさと総合的に判断すると、身長はゆうに2メートル半はあるだろう。

 

未確認生物(U.M.A)がブーツを履くと思うか」

「さあな。この研究所が未確認生物(U.M.A)の研究をやってたんなら、きっときれいなおべべをくれてやったんだろうさ」

「あの噂か」

「地上は謎の疫病、地下によくわからん研究施設。信じてみたくもなるってもんだ」

 

 立ち上がり、カービンを持ち上げたヴラッドは赤色灯の灯る通路の奥へと銃口を向けて数メートル前進する。ライトの先に動くものはないが、元は人間だったと思われる無残な死体がいくつか確認できる。いずれも、エレベーターの女性と同じように潰されて殺害されていた。

 

 アンブレラが生物兵器を開発しているという噂は半年ほど前にU.B.C.S内でまことしやかに囁かれていた。中米での作戦に向かった小隊のある分隊長が、酒の席で研究所をみたと語り、その翌日に転属という形で忽然と姿を消したため、口封じされたのではないかという説もある。

 

 もちろん、ヴラッドはその真偽をそれ以前から知っている。そのために送り込まれているし、決定的な証拠と情報を回収することが任務だから当然だが、普段はその話に触れないマディソンが口にするのは珍しい話題だ。それだけこちらに向けられる信用が厚いというのもあるのだろうが。

 

「どうする。俺たちだけで進むか」

「二人でどうにかなると思うか?」

「わからんな。だが上の連中を連れて進むにしちゃ状況が不鮮明すぎる」

 

 それに退路がアレじゃな、と背後を指差すマディソンに頷いてやる。退路が不動のエレベーターではどうしようもない。

 

「クラヴィス」

『どうした、安全確保できたか』

「いや、逆だ。正体不明の敵(アンノウン)が潜んでいる可能性がある。退路の確認をしてくれ」

『捜索は諦めるのか?』

「まさか、最悪二人でやる」

 

 冗談だろとうめいたクラヴィスの声に取り合わず、ヴラッドはマディソンに頷いてみせ前進を開始した。非常用赤色灯以外の照明がダウンした通路に音はなく、通路の突き当りはドアになっている。

 

 左手でノブをそっとひねって静かに引く。きしみなくスムースに開いたドアの向こうも、赤色灯の支配する地獄であることに変わりはない。互いに銃口とリンクした視線を交差させてドアの左右を潰し、タイミングをあわせて外へ飛び出す。

 

 研究施設の通路というのは、どこも代わり映えのしないものだ。清潔にして簡素な白色の廊下。しかし、そこはいま、赤色灯と飛び散った血しぶきに彩られている。

 

『ヴラッド、悪い知らせだ。コンテナに通じるドアがロックされてる。パネルも見当たらない』

 

 無線越しのクラヴィスの声は苛立たしげだった。それを聞いたヴラッドは瞬間的に湧き上がった中隊本部への怒りにその場で小さく罵り、壁を蹴飛ばしたい衝動をこらえる。

 

「爆破は」

『ロック位置と数がわからん。手持ちの残り二個で賭けてみようってのはナンセンスだな』

「クソ」

『大した進入路だ。そりゃ出入り口とは言われちゃいないからな、クソボケども(basterd)。そっちに降りる。不親切な雇い主だ、クソッタレ』

 

 怒りは向こうも同じらしく、念入りに罵りながらクラヴィスが通信を切る。ヴラッドが反対側を確認したマディソンを振り返ると、彼は心底うんざりした様子でカービンを下げて片眉を持ち上げ、肩をすくめてみせた。

 

「こんなことなら大目玉くらおうが帰りゃ良かったな。命が惜しいわけじゃないが」

 

 奴ら意図的に情報を絞りやがったろ、とマディソン。おそらくなと、ヴラッドはもはや頷く気力もなく返した。当然、どんなリスクがあろうと進入路からの撤退が出来ない作戦などに従事するわけもない。そうと知っていて情報を絞ったのは考えるまでもないだろう。

 

 腹の奥からこみ上げる熱の塊、猛烈な苛立ちをため息の一つで抑え込み、死体が転がるエレベーターから姿を表したクラヴィスに目を向ける。少しすると、その後ろからフレデリックとジョエルが兄妹を抱えて現れた。

 

「エレベーターのパネル見たか? このフロアにゃ呼び出しボタンすら無いぜ。入るのはいいけど出しはしないとさ。蟻地獄みたいだな」

「すまない」

「お前のせいじゃない。ああ、たしかに撤収するべきだったかもしれない。だがあの段階じゃ、安全確保と任務遂行の最大公約数、ギリギリの折衷案だった」

「捜索を後回しにして、電源の復旧と脱出を最優先にする。構わないか」

「大賛成だ。必要な情報をよこさない奴らのために、無理に危険を犯す理由はないわな。小隊本部の応援を貰わん限り御免こうむる」

 

 クラヴィスが頷き、ライフルを両手で保持してストックを肩に押し付ける。赤色灯の中、エレベーターの死体を目にしたのだろう兄妹が顔を緊張に固めているのが見えた。

 

 俺の責任、内心にそうつぶやき、カービンを持ち上げる。照明の赤に沈んだ通路は暗く、施設内構造も一切不明。ヴラッドは少し考えてから、反時計回りに捜索を行うことに決めた。古巣の頃の決まりで、間取り不明の閉所は反時計回りに潰すことになっている。

 

「クラヴィス、反時計回りにやる。後尾につけ。フレデリック、ジョエル。もしものときは兄妹を優先しろ。手はず通りに」

「了解。でも僕らを残してくたばるのは勘弁してくれ」

「そうなったら中隊本部を殴り倒してくれ、俺のせいじゃない」

 

 鉛玉で殴ってやるよとジョエルが剣呑な笑みを浮かべる。頼もしいねと返したマディソンがこちらに頷くと、ヴラッドは兄妹を守る二人を挟んで後尾についたクラヴィスを確かめ、前進を始めた。

 

 結局、この地下施設も地上と同じ地獄であることに変わりはなかった。散らばる死体、血と糞便のねっとりと重く粘る臭気。地上施設と違い、この地下研究施設は最新鋭の設備を盛り込んだスマートな内装をしていたが、血で彩られてしまえば、その近未来的な内装に対する関心など湧きようもない。

 

 施設の壁の至るところに大きな液晶パネルが貼り付けられ、森林や渓谷、ビル街などの景観を映し出していた。地下の閉鎖空間で長時間を過ごす職員らの精神衛生を慮っての設備だろうが、幾つかは粉砕され、あるいはひび割れるか酸化して黒ずんだ血で汚れている。

 

 廊下を見渡せば、各所に監視カメラがあったが、その向こうからこちらを見ている人間が居るかは怪しいところだろう。

 

 外来病棟の床がそうであるように、リノリウムの床には設備の方向を示す案内用ラインが引かれていた。食堂、第一オフィス、第二オフィス、仮眠室、カフェテリア、守衛室、Nエリア通路、S02エリア通路。

 

「見ろよ、ヴラッド」

 

 ライトを向けて一つずつラインを確かめたヴラッドは、マディソンの声に顔を上げた。マディソンは銃口で足元に転がる死体を小突き、ライトの中で緑がかった鱗をさらすそれを脚で押しのけた。

 

 うつ伏せに倒れていたそれは、身体のど真ん中を一撃で叩き潰されて即死したようだ。ひどく潰されていて無残な有様だが、その姿は明らかに人間ではない。ガソリンスタンドで交戦したジットフェイスに似ているが、背中を覆う肉腫は見当たらない。

 

 表皮は爬虫類のものを思わせる鱗に覆われていて、手の先には大きく鋭い爪。特徴的な肉腫が無いことを除けば、ジットフェイスの同種のように見える。さながら爬虫類男といったところか。

 

 ライトを巡らせると、奥にも点々と爬虫類男の死体が転がっていた。数は4つ、いずれもひどく損壊していて、上下に分割されたもの、四肢が引きちぎれたものも居る。子供には刺激が強すぎる光景に振り返ると、フレデリックとジョエルは兄妹の目を手で隠していた。

 

「こいつらが仲間割れすると思うか」

「むしろガソリンスタンドじゃ群れを作って襲ってきた。見た目は少し違うが、コイツも似たようなもんじゃなかろうか」

「だよな。それに……どいつも叩き潰されるか引きちぎられてる」

 

 足元に転がる骸、その胴体は大質量の一撃で肉を叩き潰されていた。ミートハンマーで強く叩いた肉のように、すり潰された筋繊維が鱗の下から覗いている。ライフル弾の連射でようやく始末できるバケモノ、それを一発で叩き潰すとなるとどれほどの力か。

 

「ビッグフットの足かなにかか」

 

 殺された爬虫類男の血を踏みしめた足跡を示してジョエルが片眉をあげる。足跡は地面に幾つも散らばり、ブーツのつま先は向かう先にも、そしてヴラッドらが来た方向にも向いていた。このあたりをうろついていたのは間違いない。

 

「マディと同じことを言うなよ、俺らは未確認生物(U.M.A)研究所に迷い込んだんじゃない」

「残念、未確認生物(U.M.A)なら夢があっていいと――」

 

 言いかけたジョエルの声を押しつぶしたのは、遥か背後、赤色灯と闇の奥に沈む進入路の方角から響いた破壊音だった。

 

 耳障りなガラスの悲鳴、何かが崩れ落ち、粉砕されるような音。爆薬で壁に通用口を開け、あるいは障害物を粉砕したときのそれに近しいが、爆発音とは違う。

 

 ヴラッドは、それが何かが壁をぶち破った音だと瞬間的に理解した。かつて中米での非合法な越境任務に当たった際、大物ドラッグディーラーの邸宅にトラックで突っ込んだ時のそれに似ている。大質量の直撃を受け、頑丈な壁が突き崩される音だ。

 

「おいおい、何だ。お化け屋敷(ホーンテッドハウス)に来た覚えはないぜ」

お客さん(カンパニー)だ。クラヴィス、前衛を代われ。マディ、名誉の殿(ケツ守り)だぞ」

「ガキのケツを守る名誉って? ありがたい話だ」

 

 粉砕音に反応して毒づいたクラヴィスの肩を掴み、ヴラッドとマディソンが後尾につくと、すれ違いざまにシャーロットの小さな手が、こちらの腕を掴んだ。

 

「ジョエルにしっかりくっついているんだ」

 

 破壊音、閉鎖空間に満ちた死臭。それに続き、進入路の方向から定間隔で重い音――大男の足音を思わせるそれが聞こえ始める。シャーロットは恐怖にすくんだ目を向け、こちらの手を握ってすがりつこうとしたが、ヴラッドの声にそれを思いとどまったようだ。

 

 ジョエルが彼女を抱えあげる。リアムはフレデリックに抱きかかえられたまま、腰のルガーに手を添えている。

 

「おっさん!」

 

 前衛を受け持ったクラヴィスがライフルを構えて小走りに前進すると、ヴラッドとマディソンは後方にカービンを向けて後ろ向きに追従する。当然、前に向かって進む人間に追いつけるわけもなく、距離が離れるとリアムの叫び声が聞こえた。

 

 が、それにとりあうだけの余裕はなかった。

 

 闇の奥、ライトを向けた先で肩を揺らす大きなシルエット。一歩ごとにしっかりと地面を踏みしめ、重くずしりとした歩みを進めるそれにわずかに目を剥く。ブーツ越しに感じられる振動の源に視線が釘付けになった。

 

 毛髪のない頭頂部はゆうに三メートルはある天井に届きそうなほどで、こちらへ向かって進む足取りには明確な目標意識が感じられる。距離が縮まり、大男の身にまとったトレンチコート風の衣服とブーツがライトではっきりと照らし出された。

 

 返り血に染まった衣装を身に着け、肉片をこびりつかせた拳を握りしめたそれは、足元に転がる死体を見向きもせずに踏み潰し、血の気のない顔に無表情を浮かべたまま、悠然たる足取りでこちらへ接近する。

 

「何がビッグフットだ、いいコート着た野郎とはな」

 

 距離が縮まるごとに、地を揺らす歩調が早くなっているように感じられた。それが恐怖による錯覚なのか、実際に大男が加速しているのかヴラッドには判別できなかったが、その必要もない。

 

「コート野郎を止めるぞ、撃て(Fire)! 撃て(Fire)! 撃て(Fire)!」

 

 すくみかけた身体を叱咤し、ヴラッドは怒鳴った。自分の声が上ずらず、堂々とした射撃命令を発したことだけが自分を落ち着かせてくれる。

 

 二人の発砲は全くの同時で、単発では効果が見込めないとする暗黙の判断も同じだ。セレクターを親指が弾き、バーストに切り替えたカービンが容赦なく火を吹く。手の中で暴れるそれを抑え込み、後退しながら火力を胸部へ集中させる。

 

 またたく間に数十発のライフル弾が“コート野郎”の胸部に集まった。だが相手は揺らぐ気配も、悲鳴の一つも上げずにこちらへ迫る。遠く、背後で未だにこちらを呼び続けるリアムの声が霞んで聞こえた。

 

「ロボットじゃあるまいな」

「ほざく暇あったら指動かせ! 下がるぞ、距離を維持しろ」

 

 あわせて弾倉二本を受け、ピクリともしないその威容。もう数メートル先に迫ったそれは、幅広とは言え通路の中にあっては不動の城塞のようにすら見える。じっとりと汗ばむ手で弾倉を抜き、新しいものに入れ替えながら背を向けて走る。

 

 自分の背後、歩調を乱さず歩み寄る足音が心臓を鷲掴みにし、へたり込みそうになる脚を腹の奥から絞り出した罵り声で激励する。マディソンが全速力で横を駆け抜け、ヴラッドもその隣に並ぶと、彼は頭だとほとんど無意識に叫んだ。

 

 同時にカービンが最大火力を発揮し、バーストが必殺の銃弾をコート野郎の頭へ次々と送り込む。音速の倍を超える初速、合金覆甲された弾頭の連続着弾はどんな生き物だってたまらない痛撃。そのはずだ。

 

 ――だってのにこの野郎、悲鳴の一つも上げやしない。

 

 ――糞カエル野郎もクソ爬虫類男もコイツで殺せたじゃないか。

 

 自分の戦意を削ぐように、頭の中で声がする。囁くのは自分自身だが、戦っている俺じゃない。黙れと意識を介さない呟きを唇が漏らし、頭に弾丸の雨を浴びた大男が、血に濡れた太い指をこちらへ伸ばす。

 

『ヴラッド、いまなんだかでっかいのとすれ違った! そっちに突っ込んでったぞ! 状況はどうなってる!』

 

 イヤホン越しにがなるクラヴィスの声も、もはやなんと言っているのかわからなかった。大男が杭のように太い指を握りしめ、腕を引いて突き出す。その軸はこちらに向いていない。

 

 狙いはマディソン、頭の中にエレベーターで頭を叩き潰された女の骸が浮かび上がり、反射的に腕を伸ばす。弾倉を入れ替えようとしたマディソンは、目の前に迫った拳を目にして、女の名前をつぶやいたようだった。

 

 間一髪、その襟首を掴んで、きしむ関節を無視し強引に引っ張り投げ飛ばす。無理な姿勢で大の大人を投げた身体がバランスを崩し、コート野郎の木の幹を思わせる太い腕が、こちらの身体を掠めた。

 

 たかが掠めただけ。しかし一撃でエレベーターもろともに人間を活動停止に追い込む拳だ。身体がコマのように回転し、足が地面を離れる。強い浮遊感、平衡感覚を失った身体がすっ飛び、壁に叩きつけられて視界がブラックアウトした。

 

 意識を失っていたらしいと気づき、叩きつけられた頭の痛みに呻く。しびれた左手で頭に触れると、ぬるりとした感触があった。ぼやけた視界の中でマズルフラッシュが瞬き、マディソンの声が反響する。

 

 なんと言っているのかはっきりとしないその声を聞きながら、ヴラッドは自分のカービンを探した。右手はカービンをきつく握りしめたままで、霞がかった視界にそれが現れる。

 

 マディソンは必死に自分を引きずっているようだった。こちらへ歩み寄るコート野郎のぼやけた黒い影を見、片手でカービンを持ち上げてひたすらに引鉄を搾る。シェイクされた脳みそがライフルの反動のたびに痛みを訴え、弾を吐き出し尽くしたカービンの動作が止まる。

 

 これは死ぬなと、自分の中の冷静な部分が囁いた。腰の拳銃をおぼつかない指先で探り当て引き抜く。握りしめたP7がカービンに比べてささやかな火を吹き、諦観をたっぷり含んだ思考が眼前に歩み寄る死の恐怖を受け入れつつあった。

 

「逃げろ、マディ」

 

 口にしたはずの言葉は自分でも聞き取れず、甲高く途切れる気配のない耳鳴りが全てを覆い尽くす。意識を失った数秒の間にマディソンが必死で距離を稼いだようだったが、それも長続きはするまい。

 

「このままここで討ち死にはマズい」

 

 マディソンがこちらを引きずって走る、ヴラッドはランヤードで腰につながった拳銃が動作を止めると、ポーチから最後の手榴弾を取り出した。

 

「お前が死ぬ以上にマズい状況があるなら教えてくれ」

 

 ようやく明瞭になったマディソンの声。それにかすれた笑いを返し、手榴弾のピンを固定するテープに指をかける。神経がいかれたのか、指先の感覚は殆どない。苦労してそれを引っ剥がし、ピンに指をかけたこちらを見下ろして、マディソンが止めろと制止した。

 

 行けよとかすれた声を絞り出すのと、こちらの頭上を影が飛び抜けるのは同時だった。マディソンが反射的に腰の拳銃を引き抜き、こちらを飛び越えた影へ向ける。ヴラッドが新手と判断した瞬間、その影は赤色灯の中でも際立つ白い毛並みを踊らせ、コート野郎の頭へ飛び込む。

 

 目の前で大男の灰色の頭部から血が吹き出す。そのまま奥に飛び抜けた影、まだ輪郭の曖昧な視界の中で踊るそれのシルエットは大型な犬のそれに見えたが、常人ならざる体躯のコート野郎と比較しても小さくはない。

 

『そこの二人、今すぐに青いラインに従って走りなさい。命が惜しいのならね』

 

 接続音とともに機械的なノイズ混じりの声が命じた。施設内のスピーカー、冷たく、しかしどこか甘い女の声。知らない声だなと混乱から抜け出せない脳みそが考える間に、犬の影が向きを変えたコート野郎の拳を避けてこちらへと駆け寄ってくる。

 

 コイツは敵じゃない。そうぼんやりと意識のどこかでそう感じながら、再び視界がゆらぎ始める。何かが自分を担ぎ上げ、凄まじい速さで走り出す振動を感じながら、ヴラッドの意識はぷつりと切れた。

 



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邂逅

サブタイが思いつかない病。


 一瞬で夢だとわかった。

 

 自分にじゃれつく大柄の犬、父が友人から譲り受けたのだというその犬は、子供の頃に死んだ。家族であると同時に狩猟犬であり、父と共に狩りに出かけたある日、手負いの獣の反撃を受けたからだ。

 

 看取ったのは自分だ。手当の施しようのない重傷、脇腹の毛並みに大きな傷の筋が深々と伸び、脈動に合わせてどろどろと血が流れるのを見ながら、まだ子供だったヴラッドは家族の頭を撫で続けた。

 

 いまでも思い出せる。涙もなく、ただ苦痛に喘ぐ犬が顎に触れたこちらの手に鼻先を擦り付ける。願わくは、この苦しみが続きませんように。子供ながらに死の臭いを感じ取り、そう祈ってからさして時間をおかず、犬は逝った。

 

 獣にとどめを刺して戻った父は、泣きもせずただ愛犬の最期を看取ったヴラッドを見、氷の男(アイスマン)と呼んだ。それは二九年の人生の中で、自分につけられたあだ名の中で最も思いやりにあふれた呼び方だった。

 

 死の臭いを前に取り乱さない、その冷静さ。どうしようもないものはどうしようもない、そう受け入れる諦観の染み付いた心。生まれてすぐに母が死に、同級生のジョイスは父親の寝室に保管してあった猟銃でふざけた兄の誤射で死に、父のベトナムの戦友だったハレルソンは頭を散弾銃で撃ち抜いて自殺した。

 

 自分の周りには死が溢れている。だからこそ、それを前に取り乱すこともない。そんなあり方を端的に示した呼び名。

――冷静であることは素晴らしい、だが冷酷にはなるな。

 

 力尽きた犬を抱きかかえ、帰途についた父親の言葉。氷の男(アイスマン)の根底に染み付いた最初の命令、それを思い出し、じゃれつく犬に腕を回す。夢ならいくらだって甘えさせてやろう。

 

 祖父が死に、父が殺されてから、長らく家族の夢を見ていない。だからこれくらいの贅沢は――。

 

 

 

 

 不快感をにじませた低い唸りに瞼が持ち上がる。途端、激しい頭痛に顔をしかめてうめいたヴラッドは、自分がなにか温かいものを抱きしめていることに気づいた。

 

 ぼやけた視界に目をしばたかせ、がんがんと頭の中で鉄球が跳ね回り頭蓋を小突くような不快感に息を詰める。

 

 目にするものの輪郭が幾重にも広がる視界が落ち着きを取り戻すまで数分、ようやくまともに機能するようになった視神経に小さく毒づき、自分が抱きしめたものの正体に目を向ける。

 

 腕の中に収まる白い毛並み。胸の上に顎を引き寄せられ、不愉快そうに喉を鳴らすそれは、夢に現れた愛犬とは違う。ずいぶんと大きな顔だなと笑い、腕を離してやると、それは勢いよく体を起こしてこちらには目もくれずに離れる。

 

 まだ靄がかかったように不鮮明さを残す視界だが、その犬の後姿があまりにも大きすぎることくらいは判別できた。世で言う大型犬の比ではない。

 

「お目覚めのようね。気分はいかが?」

 

 音すらもかすかなエコーのかかる始末。そこで、意識を失う前の出来事を思い出す。迫る巨体、掠めただけでこちらを吹き飛ばした必殺の拳。危うく死ぬところだった、その実感はこの街に降りてから何度目か。

 

 生死が紙一重ですれ違う戦場の経験などもはや日常の一部となって久しいが、それでもそれに恐怖を感じる神経だけは壊死していない。その事実にどこか安心しながら、声の主へ目を向けた。

 

「最悪だ。二日酔いの比じゃないな」

「そうでしょうね。あれだけ頭を強打して、縫う程度で済んだのは奇跡よ」

 

 声の主は、部屋の壁面に取り付けられた電子機器の前の椅子に腰掛けこちらを見下ろしていた。甘く、しかし冷たさを含んだ女の声。いい声だなと、生理的な部分を刺激する声音に場違いな感想を抱きつつ、ヴラッドは額に手を触れた。

 

 頭に巻き付けられた包帯の感触。見れば、意識を失う前にそこに触れた自分の手は赤褐色に汚れている。誰かが拭き取ってくれたようだが、手のシワにはくすんだ赤錆の色がまだ残っていた。

 

「運が良かった、少し間違えば死んでたってわけだ」

 

 けらけらと笑う自分の声すらも頭に響くが、死ななかっただけで十分。無駄に時間を使う余裕があるわけもなく、ヴラッドは身体を起こそうとして――犬ではない、自分の体にすがりつく熱と重みに目を向ける。

 

 装備品を剥がれ、ダークオリーブの野戦服を脱がされた自分の身体。汗が染み付いたシャツを握りしめ、シャーロットが寄り添うように眠っている。見れば、その反対側にはリアムが転がり、二人共疲れからか穏やかな寝息を立てていた。

 

「溜息だわ。子供をここにつれてくるだなんて、一体何を考えているの」

「俺らもそう抗議したが、上は研究員の安全保護が第一だとさ。こっちに文句を言わないでくれ」

 

 片肘を地面について上体を起こし、シャツを握りしめるシャーロットの指をそっと剥がしてやる。彼女の頬が触れていたあたりはまだ湿り気を残していた。

 

 彼女をリアムの隣に横たえ、ゆっくりと地面に座り込んだヴラッドは、ぐらぐらと揺らぐ平衡感覚に顔をしかめながら周囲を見回す。壁面に取り付けられたモニター、その脇に固定されたロッカーは銃器収納用のようだ。

 

 おそらくは保安オフィス、あるいは施設の管理室の類。意識を失っている間にここに引っ張られたらしいと今更の納得とともに視線を巡らせる。部屋の中にいるのは、兄妹と壁際で眠るジョエル、そして椅子に腰掛けた女と、その犬だけ。

 

 女の隣に座り込み、こちらに警戒の眼差しを向ける犬の毛並みは真っ白で、そしてあまりにも大柄だった。座っているというのに、その頭は大人の胸に届きそうな高さだ。椅子に座る女の肩とほぼ同程度、外見からするとウルフドッグのたぐいだろうが、ここまで大きく育つものか。

 

「名前を聞いてなかったな、あんたは」

 

 しばらくふらつく感覚とぼやける視界が落ち着くのを待ち、ようやくピントを合わせられるようになった目を眇めて女を見やる。血に汚れた白衣、スキニージーンズにタートルネック、腰には拳銃を収めたホルスター。

 

 それを確かめ、こちらに向けられた女の眼差しと正対する。アイスブルーの瞳、細い面立ちは世にいう美女のラインを余裕で飛び越えていく整いよう。なめらかな鼻筋の下、化粧気の薄い唇に小さな笑みを刻んだ女は、切れ長の眼差しを細めた。

 

「アリッサよ、兵隊さん」

「ヴラッド・ホーキンス軍曹だ。あんたら職員の救助に来た」

「その割に、あっさりアレに殴り倒されたようだけれど」

 

 そう笑う女の声音は冷たいが柔らかで、こちらの肩に残った緊張がゆっくりとほぐれるのがわかる。言ってくれるなよと小さな笑みとともに返し、近くに転がされた自分の装具を引っ張り、中から煙草を取り出して火をつけた。

 

「アレはなんなんだ。自然発生のバケモノってわけじゃあるまい」

「それがあのコートの男を指しているのなら、答えはイエスね」

 

 こちらの問いに返事を投げた女の口調には、真実を知る者特有の響きがある。ヴラッドはそれを確かめ、少し考え込む。この女は保安職員には見えない。となると研究員だろうが、この女が自分の確保対象か否かの確認をどう取るか。

 

「アレは、ここの開発物か?」

 

 しばしの思考の後、今最も個人的な興味をそそる問いかけを投げた。マディソンとの会話以前、ジットフェイスと遭遇したときから感じていたが、あれらの怪物が自然発生のものとはとても思えなかった。この街にはびこる感染症にしても同じだ。

 

「好奇心は猫をも殺すわ。でも、そうね、アレは我がアンブレラが生み出した新型の兵器。B.O.Wよ、間違いなく」

 

 B.O.W、バイオ・オーガニック・ウェポン。そうゆっくりと発音した女――アリッサは、この子もねと隣に座ったままこちらに向けた目を離す気配のない犬を撫でる。

 

「なるほど、畜生。俺たちはわかりきってた地獄に落とされたわけだ。最高だな、笑える」

「その様子だと、本当に何も知らされていなかったようね。アンブレラらしいと言えばらしいけれど、ご愁傷さま」

 

 同情などかけらも含んでいない口調でそう返す女に、そりゃどうもと応じてやる。それから、あのコート野郎と同類であるとアリッサ自ら説明した犬へ目を向け、俺を助けたのはそいつかと訪ねた。帰ってきた首肯に、そうかと返して咥えた煙草のフィルターを噛み、苛立ちとともに肺に溜まる煙を吐き出す。

 

「俺達は暴動としか聞かされちゃいない。この研究所のことも、バケモノのことも、降下するまで欠片も知らなかった」

「もうそれは聞いたわ。タイラントのことも彼らには説明済みよ。おかげで随分と嫌われたものだけれど」

 

 あのウイルスを開発したのは私達だから文句はないけれども、と続けたアリッサは、腰掛けたまま脚を組み、傍らで不動を貫く犬の背をゆったりと撫でた。おそらく自分が気絶している間にあらかたの事情説明は済んでおり、部下からこの状態を生み出した一因として白眼視されたのだろう。

 

「どうしてこんなことに」

「私にもさっぱり。少なくとも、ウイルスサンプル自体の漏洩はこの施設で発生したものでないことは確かね」

「じゃあどこから」

「このラクーンには、私が知るだけであと一つ地下施設がある。そこか、地上の研究施設か……まあ、漏洩はもっと前から始まっていたようだけれど」

 

 アリッサは半ば独白じみた一言を付け足すと、知っている限りの事情の説明を始めた。

 

 数ヶ月前から、アークレイ山中を訪れた市民を中心に食人鬼による連続殺人事件の被害者が続出したこと。事件発生地域の中心に存在するスペンサー館付近でラクーン市警の特殊部隊のヘリが墜落し、捜索に向かったチームも最終的に壊滅に近しい被害を受けたこと。

 

 その後、生き残ったメンバーが、スペンサー館には死者を蘇らせ食人鬼へ変貌させる未知のウイルスが存在し、その開発元がアンブレラであることを告発したようだが、アンブレラの圧力によりもみ消されたと思われること。その事実を取り上げたメディアは与太話を専門に扱う雑誌程度のものだったそうだ。

 

 結局、その話を信じる市民はごく少数にとどまり、この異変に関する最初の遭遇者であるS.T.A.R.Sは裏で工作されたメディア情報により信用を失い、今に至る。

 

 笑えるほど見事なクソの山だなとヴラッドは笑い、吸い尽くした煙草の穂先を地面に擦り付けて吸い殻を捨てる。まったくねと応じたアリッサの声音には、ほんの僅かな自嘲の気配が混ざっていた。

 

 事前情報通りのろくでなし企業だ。もともと、特殊作戦界隈でもアンブレラの黒い話を聞く機会は何度かあった。陸軍特殊部隊のOBの何人かは高給を提示されてアンブレラへ流れていたし、一企業でありながら専門の作戦部門を有する異常性は、その本業界隈だからこそ目立つものだ。

 

「それじゃあ、俺らは雇い主のオモチャと遊ぶために降りたようなものってわけだ、ひねりが効いてる筋書きじゃないか」

「現場にとっては不幸そのものでしょうね。事前情報なしじゃ、裸も同然、違うかしら」

「全くそのとおりだ。俺だって、そうと知ってたらここには来なかったよ」

「だからこそ、彼らは情報を絞った。私も気づいたときにはここに閉じ込められていて、まったく大した会社だわ」

 

 見事な采配ねと皮肉る笑みを浮かべたアリッサは、目を伏せて憂いを帯びた美貌をこちらからそむける。隣に座り込み、主人を守る猟犬のごとく微動だにしない犬が、主人の視線に気づくと彼女を向いた。

 

「俺達は炭鉱の()()()()の代わりってわけか」

「……どちらかと言えば、モルモットかもしれないわね」

 

 ほんの僅かな感情の発露。アリッサの態度をそうとったヴラッドは、さりげなくなんでもない話題を装って探りを入れた。ほんの僅かに――並の人間なら気づけぬほどに小さい――彼女の眉が動く。

 

 情報部署に分遣され、必要と目される情報収集技能を授けられたヴラッドでも見逃しかねないほど僅かな反応。その意味が、こちらにとってアタリかハズレかはさておき、反応したことだけは間違いない。

 

「モルモット?」

「そう、モルモット。いわば実験体。あなたの部下から話は聞いたけれど、随分ずさんな作戦のようじゃない?」

「それがどうかしたのか」

「アンブレラが事情を知らないわけが無いわ、ここを真っ先にロックダウンしたくらいだもの。そういった状況であなた達を投入する意味はなにか、ということよ」

 

 意味することを直接語らないまでも断定的な口ぶり。アリッサの言わんとすることは、なんとはなしに理解できた。もし上層部がラクーンの混乱――もとい地獄の原因を把握していたのであれば、十分な情報を与えずに手持ちの人員を送り込む理由はなにか。

 

 まさか、額面通り市民救助などと言う訳はあるまい。そうであれば手持ちの情報を開示し、必要な備えをするはずだ。たとえ私兵とは言え動員コストは馬鹿にならず、自分の身銭を切ってでも送り込むのであれば、そこには明確な目的があって然るべきだ。

 

 最初から、送り込むことそのものに意味があったのだ。寄せ集めとは言え精鋭揃いのU.B.C.S、それを送りこめば、生物兵器のデータを取ることは可能だろう。本物の市街地戦闘、死者がうず高く積み上がるこの地獄はまごうことなき実戦の場であり、兵器の売り込みには実戦でのデータが欠かせない。

 

 背筋が冷たくなるような結論に行き着き、ヴラッドは無意識のうちに新しい煙草を指先でつまみ上げた。それを咥え、穂先に火を灯すまでの間に自分の思考が生んだ結論の粗を探すが、否定するような要素は見当たらない。

 

 たとえ中隊本部が軍人ではない集団で構成されているとしても、本当に市民の救助としての活動を自分たちに期待しているのなら情報を与えるはずだ。そうでない時点で、自分たちに期待されているのは市民救助などではない。錯綜状況での戦力評価こそが真の目的とみなすべきだろう。

 

 出撃前のハリソンとの会話を思い出す。素人ゆえの杜撰さではなく、目的があったからこそ作戦計画には明らかな不備が存在したのだと考えれば、中隊本部の不透明な方針にも納得がいく。

 

「笑えないな」

「そうでしょうね、微塵も笑っていないもの、あなた」

「だろうね。最悪の気分だ」

「あなただけじゃないわ、皆同じ感想だった」

「全員プロだ、当然。もしそっちの考え通りなら、明確な裏切り行為だ」

 

 吐き捨て、胃からこみ上げる熱を煙草の苦みで抑え込む。大きく吸い、時間をかけて煙を肺から追い出すと、ヴラッドは左手で目頭を揉む。作戦開始前から妙だとは感じていたが、今更それが示す意味を目の前に突きつけられると余計に堪える。

 

 少なくとも、投入目的自体に悪意と言っていい意志の介在がある以上、今後の自分たちの身の振り方にも影響してくる。自分には秘密の撤収方法が残っているからいいとして、部下や戦友たちはどうなるか。実地評価のために自分たちを送り込むような連中だ、素直に撤退の支援をしてくれるとは到底思えない。

 

 たとえ自分がアンブレラに送り込まれた工作員であるとしても、自分が指揮を執る部下や命を預け合う仲間の今後をどうでもいいものとして切り捨てることは、ヴラッドにはできなかった。それは唾棄すべき人間性の放棄だ。

 

「これもあくまで推測でしかないけれど。そもそも、元から現場の人間はすげ替えればいい、そういった方針の会社よ、どちらにせよ信用ならないことに変わりはない」

「大胆な発言だな。不用心すぎないか」

「猛獣の檻に閉じ込められてまで義理立てする理由もないでしょう。すくなくとも、私以外の研究員も同じことを考えたはずよ、最期の瞬間に」

「生き残りは、あんただけ?」

 

 アリッサの発言に、そう言えばと今更の質問を投げる。マディソンらがここにいないのは外を警戒しているか作業を行っているとしても、他に生き残りがいればここに集められているはずだ。

 

「私が知る限りでは、そうね。モニターも半分と少ししか生きていないけれど、長らく生き残りは見ていないわ」

「なるほど。みんなあいつにやられたのか」

「いいえ、せいぜい半分から3割程度ね。残りはTウイルス発症者の餌食か、ハンターαの犠牲者」

「α?」

 

 Tウイルスというのは、おそらく死者を蘇らせる謎の感染症の名称だろう。が、αというワードが指し示すものについては、ヴラッドには一切わからない。

 

「あなたの部下がジットフェイスと呼んでいるのはβ、αはそのベースモデルよ」

「あの爬虫類おばけのことか。やっぱりアレもここのか」

「αはともかく、残念だけれどβは違うわ。このラクーンでβの製造は行っていないもの」

「つまり、外から持ち込まれた?」

「そうなるわね。わざわざ持ち込むくらいだもの、何がしたいのかは凡そ察しが付くわ」

 

 自分たちの投入に合わせて外部から開発中の兵器を持ち込んで解き放つ。まったくもって邪悪としか言いようのないその行いに、もはやため息の一つも出ない。自社の人員を展開しておきながら、そこに異形の兵器を放つ神経は異常の一言に尽きる。

 

「ハメられた、か」

「ご愁傷さまね」

「お気遣いどうも。揃ってクソの底だ、楽しくなってきた」

 

 アリッサの声音にはからかうような響きがあったが、こちらへと向け直した眼差しの色は真逆だ。スカイブルーの瞳にはこちらが頼るに値するかを見定めるような色合いが見て取れた。こちらの素性を探るような色合いも同様だ。

 

「なんにせよ、ここから脱出しないとならない。残りの部下は」

「おつかいよ。必要なものを回収しに行ってもらっているわ」

 

 必要なもの? とヴラッドが首を傾げるのと、部屋のドアが開くのはほとんど同時だった。電源がダウンした環境下でも機能する、電子ロック式ではない普通の鉄扉。それをくぐったマディソンがこちらに目を留める、

 

「気分は」

「いい感じだ。面白い話も聞けて最高の気分」

「そりゃいい。邪悪のびっくり箱に閉じ込められるとはな、貴重な人生経験に感謝だよ」

 

 マディソンは機材を詰めた箱を抱えていて、その後ろに続く二人がドアを締めると、彼はそれを床に下ろす。アリッサの言う必要なもの、とはこれのことだろう。

 

「まともな会社じゃないのは重々承知だが、俺たちをわかりきった地獄の中に降下させるとはね。全くやってくれる」

「雇い主は選ばないとな、次から」

「そもそも選べる状況だったら苦労しないぜ」

 

 マディソンの愚痴にフレデリックが続き、クラヴィスがそれを締める。声で目覚めたのか、ジョエルが身じろぎして顔を上げた。

 

「ぁ……ヴラッド、大丈夫か」

「なんとか。死なずに済んでる。頭はまだ痛いがね」

「当然だ。何針縫ったと思ってやがる」

「お前のおかげで出血祭りにはなっちゃいない」

 

 あとはブ男になってないかだけが心配だよと付け足すと、何人かが小さな笑いをこぼす。

 

「それで、何をもってきたんだ」

「そりゃそっちの美人のねーさんに聞いてくれよ」

 

 下ろした荷物を顎でしゃくり、アリッサを示すマディソン。ヴラッドがアリッサへ目を向けると、彼女は箱の中から医療器具と思しき機械類を取り出し、並べ始める。

 

「血液検査キットよ。あなた達が感染しているかどうかを確かめるためのもの」

「してたとしたら?」

「せいぜい神に祈ることね」

「ここでそのウイルスを使った兵器開発をしていたんだろう。ワクチンはないのか」

 

 アリッサの返事に、ジョエルが寝起きのあくびをこぼしながら問うた。アリッサは器具の用意をしつつ、ジョエルへとほんの一瞬視線を向ける。

 

「ここは開発されたB.O.Wの安定性と制御性を向上させるためのラボよ。治療薬品の開発は別の部署の仕事」

「分業は軍隊だけの専売特許じゃないってか」

「聡明で助かるわ」

 

 頷いたアリッサは、椅子の足元に置かれたケースを引き寄せて中身を出す。血液サンプルを収めた容器が人数分、それぞれ名前のラベルが貼り付けられている。それを見、自分の腕へ目を落とせば、左腕に採血の痕があった。白く小さなガーゼが貼り付けられている。

 

「その、なんだっけ、Tウイルスだったか。空気感染はするのか」

「散布をしたのならね。それでも短時間で、数時間後の空気中の生存率はほぼゼロに等しい。けれど一度体内に入れば、大体の人間は発症をまぬがれない」

「大体、ってのは」

「生まれながらに自然抗体を持つ人間が居るの。それもそれなりの確率で。そういった人間は発症しないですむけれど、この状況でそれが幸運と言えるのかどうか」

 

 ジョエルの問いに応えたアリッサは、器具に血液サンプルをセットしスイッチを入れて検査を始める。あとは待つだけよと彼女が囁く間に、その隣で不動の姿勢を維持していた犬が壁際に移動した。

 

 犬は壁に背を向け、再び不動の姿勢となると、耳と目を時たま動かしてこちらの様子を探っているようだ。よほど丁寧な教育を受けた番犬でない限り、こういう動作は見られない。

 

「歩く死人にならないで済むならラッキーだろ」

「それはつまり、この地獄から脱するまで死者に貪られる恐怖と隣り合わせになるということよ。逃げ場のないこの状況ではね」

 

 アリッサは何の感情も見せずそう言い切った。その言葉に押し黙った一同は、検査キットへと視線を据えたままだ。

 

「それでも、いずれ死ぬと知るよりはいい。確定的な死が刻々と迫るよりは。戦う理由を考える余裕くらいは残る」

「根っからの兵隊ね、あなた。海兵隊員?」

「いいや、陸軍出身だ」

 

 そう、と小さく応じたアリッサの目が細められ、唇の端に小さな笑みが浮かぶ。その意味はともかく、魅力的な笑顔だった。氷のように冷ややかな美貌だが、笑みに混ざる柔らかさは、この過酷な環境ではことさら美しく見える。

 




感想等、執筆の燃料となります。
気の向いた方、頂ければ幸いです。


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Interval
Briefing


入れるタイミングを見失ったのでここに突っ込みます。
大した話じゃないです。


 州兵に包囲された町並み。

 

 遥か頭上を飛ぶ偵察機が撮影した、高解像度の航空写真。そこが映し出す地表の眺めは、燃え盛る家屋と車が詰め込まれて機能不全に陥った道路、散らばる死体の山に塗りつぶされている。

 

 さながら戦闘地域真っ只中の市街地。この場に詰める全員にとり、見慣れた光景ではあったが、今までに目にしてきたものとはあまりに大きすぎる違いがあった。

 

 これは内地の、つい少し前まで平和だった街だ。合衆国の片田舎にある、戦闘とは無縁のはずの企業城下町。

 

 そこがいまや、慣れ親しんだ戦地とおなじ光景に塗り替えられている。

 

 それを前にした兵士たちの反応は静かだったが、戦場を渡り歩いたその顔には無言の緊張感が漲っている。国内に置ける作戦経験――それも戦闘が想定されるような作戦を経験した人員は、この中には存在しない。

 

 おそらく、そんな人間は米軍全体を探しても居ないだろう。世界を股にかける特殊作戦部隊であっても、米国内での軍事活動はその担当範囲外だからだ。

 

「これは州兵展開直後の市内の様子だ。そしてそれから六時間毎の市内の状況推移になる」

 

 スクリーンの航空写真が切り替わり、上がる火の手と道路上に散らばる死体の数が増えていく。しかしそれも数枚の間だけで、ある時点から、死体は街路上から数を減らし始めた。

 

 むろん、それはまだ住人が生きている、ということではない。彼らは死人であり、悪魔のいたずらでただ肉を求め起き上がったに過ぎない。

 

「現在がこれ。発電所はオートメーションされており、まだ電力は通っているが、警察組織はすでに機能を喪失していると見ていい」

 

 情報を説明する准将は、統合特殊作戦司令部(JSOC)零下の作戦要員たちを見回し、スクリーンを操作する。周囲に見張りを立て、外部への情報漏えいを避けてテントを二重に張った仮設のブリーフィングルームに、青白い光が複雑な模様を描いた。

 

 第一次投入に参加する一八名は、ただ無言で死の底に沈んだ街の写真を見つめている。

 

 彼らは皆、精鋭と名高い特殊部隊の中でも更に選りすぐられた人間たちだ。第一階層(Tier1)の戦闘人員。この地球上に存在する数十億の人間の中のほんの一握り。並ならぬ克己心と、戦闘下における忍耐、冷静さを兼ね備えた超人たち。

 

 海軍のSEAL Team6、そして陸軍の第一特殊作戦D分遣隊(デルタフォース)の戦闘員らは、これから自分たちが向かう地獄の様子を前に、どこかリラックスしているようにすら見える。

 

「すでに説明を受けている通り、市内に蔓延している未知の感染症の感染者は死後、自我を失い活動を再開する。現在、我々の手元にワクチンは存在しない。よって、感染した場合の対処方法はただひとつ。中枢神経の破壊だ」

 

 何人かの隊員が、それを聞いてヒソヒソとささやきあう。B級ホラー映画と同じだなと笑うもの。頭に銃を向ける仕草をするもの。そして嫌悪感をあらわにするもの。

 

 それらを見回し、概要説明を受け持つ准将はなにか質問はと問いかけた。

 

「感染症の発生源、そして感染経路の詳細は」

「その点に関しては、統合情報支援活動部(ISA)のレイモンド大佐から」

 

 JSOCの副司令である准将が、モニターの脇で待機していた男を示した。部内では灰色狐と呼ばれる男――レイモンド・ケンドリクスは、誰かが小さな声でトーンヴィクターと囁いた声を聞きながら、スクリーンに投影された光の中へ立ち入った。

 

 名前のない組織。軍属のスパイ。そう囁かれる情報収集のスペシャリスト。統合情報支援活動部(ISA)などと呼ばれることは、こういった場以外では殆どない。今でこそ引き裂かれた勝利(トーンヴィクター)というカバーネームを与えられているが、その呼び名もあと数年で切り替わるだろう。

 

「まず、この件に関して、私が供与する情報はここにいる人間以外に決して口外しないように。あくまで極秘であり、大統領にすら上げていないものも含まれる」

「冗談でしょう?」

 

 にわかに隊員たちがざわつき、何人かはスクリーンの脇に立つ准将へ目を向ける。准将はそれを受けて肩をすくめると、隊員たちへと目を向けたまま言った。

 

「いいや、本当のことだ。これに関しては、われわれ(JSOC)が行ってきた未承認作戦に関わることでもある。彼からの情報は、ここにいる人員以外に漏らすな」

 

 にこりともせず、シワの深く刻まれた口元をへの字に曲げて准将が首をゆっくりと振る。合衆国軍の中でも最も厚い機密のベールに覆われた集団、そのナンバーツーの言葉とあっては、隊員たちも無言で了承せざるを得ない。

 

「まず感染症の発生源だが、市内に存在するアンブレラ社の秘密研究施設から漏洩した新型のウイルスによるものと思われる。感染経路は主に接触感染であり、現段階で空気感染のリスクはほぼないとみていい」

 

 再び、今度はより大きな動揺をにじませたざわつきがテントを満たす。アンブレラは世間的には大規模な製薬会社としてしか知られていないのだから当然だろう。その裏で何が行われているのかを知っているのは、政治家連中とそれを追っている人間、そして同業他社だけだ。

 

「もう一つ、市内の状況は。俺たちだけで降りるとなると、市民救助なんて無理だ」

「その必要はない。現段階で、一〇万人の市民の殆どは死亡していると考えられる」

 

 先程までとは真逆に、テントの中に沈黙が降りた。

 

 封鎖に当たる州兵らよりよほど機密性の高い情報へアクセスできる特殊作戦部隊の彼らであっても、いまだ市内の状況はなにも知らされていないからだ。ラクーン市の一〇万の市民、そのほぼ全員の生存が絶望的などと、一体誰が想像するだろうか。

 

 小さく呻くもの、神へ何事かを祈るもの、目の前に突きつけられた膨大な死の事実に瞑目するもの。反応は十人十色だが、レイモンドはそれに付き合うことはせずに先を続ける。

 

「航空写真の分析の結果、路上で死亡したと思われる市民の九割が活動を再開している。おそらくは、死後発症し、()()()()になったものと思われる」

「活性死者?」

「発症者のことだ。このウイルスは非常に特殊で、感染者の細胞を活性化させて死後に再度活動を再開させる。この活性化状態に陥ると、中枢神経を破壊する以外での無力化は携行火力では困難になる」

「そんなものを、アンブレラが作っていたってことですか」

 

 たっぷりの髭を蓄えた隊員が、眉間に深いシワを寄せながら問うた。レイモンドは頷き、スクリーンの端末を操作して航空写真から映像へ切り替える。

 

 倍速で再生される動画の中では、被検体と思われる男がウイルスを投与され、死亡、発症しその後処理されるまでの様子が映し出されていた。アンブレラの撮影した映像だ。アリッサの手によってこちらへもたらされた、数少ない形のある証拠だった。

 

 スクリーンの中で死亡が確認された男が起き上がり、処理班の銃弾を全身に浴びて倒れ込む。しかしそれでも活動を停止させることは叶わず、最終的に頭部への射撃で頭蓋を撃ち抜かれた男が床に伏すまでがしっかりと記録されていた。

 

「表はクリーンな製薬会社、裏はマッドなクズ野郎ってことですか」

「そうなる。現在アンブレラは市内に実働部隊――U.B.C.Sと呼ばれる私兵集団を展開しているが、彼らもすでに大きな損害を被っているものと思われる。投入された戦力は二〇〇名前後、その過半はすでに戦死したと見ていい」

「そいつらの投入目的は?」

 

 年重の海軍下士官が手を上げた。Team6の指揮を受け持つ曹長だ。

 

「現段階では不明。市民救助が表向きの目的だが、おそらくは実地での実戦評価のための対抗戦力として送り込まれたと思われる」

 

 あくまで推論だがねと付け足すと、隊員たちは低いうめきを漏らす。被験体の処理までの映像を見せられた挙げ句に、自分たちの手駒をそんな理由のために地獄へ下ろすような連中が、身近な薬を作っている会社だと知らされているのだから当然の反応といえた。

 

「じゃあ、俺らの敵は、その私兵集団と活性死者とやらってことですか」

「いや、アンブレラはウイルスを用いてB.O.Wと呼ばれる生きた兵器を開発している。この映像を見てほしい」

 

 再び隊員たちの視線がスクリーンに集まった。

 

 映し出されるのは、航空機から撮影された映像だ。火の手の上がる家々、それに囲まれたガソリンスタンドのそばで銃火が瞬き、火の手が投げる明かりの中をずんぐりとしたシルエットが走り回る。

 

 兵士が二人、そして奇妙なシルエットの何かが数匹。互いに走り回り、入り乱れながらの乱戦。相当数の銃弾を浴びせられた奇妙な何かが倒れ込み、新しい一体が飛び込んでくる。

 

 夜間、高空からの撮影とあって画質は良くないが、兵士と交戦している相手が人間ではないことは、容易に察せられる。

 

「詳細は不明だが、これがB.O.Wと呼ばれる兵器の一種ではないかと思われる。州軍の展開後、陸路で侵入したトラックが似たモノを市内へ投入している様子も確認されている」

「どうやって展開後に。道路は全部封鎖されてるはずじゃ」

「アンブレラは政界に深く食い込んでいる。我々には想像もできないほどに深く、な」

 

 レイモンドは肩をすくめた。それ以外に説明に適した言葉がなかった。アンブレラは世界的な大企業であり、その根は世界中のいたる所へ――特にいわゆる高階層へ――張り巡らされている。

 

 実際、少なくとも合衆国においては上院下院含めて、半分以上の議員が直接であれ間接的であれアンブレラとのつながりを持っている。

 

「つまり、なんらかの圧力があった、と」

「そうだ。州軍は否定しているがね。先ほど見せた被験体の映像は我々が協力者を通じて秘密裏に得た映像だ。ここで見たもの、聞いたこと、すべて部外秘となる理由は納得できただろう」

 

 沈黙を守っていた准将が、控えめに問うた陸軍の隊員にうなずいた。

 

 実際、現場で作戦に従事する人員を除けば、ISA――ひいてはJSOCがアンブレラに探りをいれていたことを知るものはほとんど居ない。レイモンド、副司令、司令、そしてごくごく一部のアンブレラに懐疑的な議員たち。

 

 大統領に知らせなかったのは、彼の選挙資金の半分近くがアンブレラの金を根としているからだ。それはいま、ホワイトハウスで会議を開いている首脳陣の過半にも当てはまる。

 

 副司令がそれを最低限の内容に要約して説明する間、レイモンドは隊員たちの表情がゆっくりと険しくなっていくのを眺めつつ、スクリーンを次の説明に備えて航空写真へと切り替える。

 

 再び地獄の俯瞰図がスクリーンに貼り付けられた。この地獄を生み出したのがアンブレラだとするのなら、その手助けをしたのはこの国の首脳陣だ。もちろん、そうと知っていたわけでは無いのだろうが。

 

「当然、我々の投入に関しても上は相当渋ったが、最終的には認可した。君たちの投入目的は大きくわけて二つ。市内におけるアンブレラの研究施設へ侵入し、情報と証拠の収集。そして市内に残っているこちらの要員と情報提供者の救助。後者はJSOC独自の作戦だ。よって、上は前者以外を認可していない」

「つまり、やばい作戦ってことか」

「いつも通りだ。かまやしない」

 

 部下のつぶやきに、水兵の曹長がかぶせる。自分たちの立ち位置、そして投入先を取り巻く状況。劣悪な条件を提示されて、それでも任務であるからと飲み込むそのタフさ。それこそが彼らを精鋭たらしめる素質の一つだ。

 

「後者……回収目標の情報は?」

 

 投げられた質問に彼だと返しつつスクリーンを切り替えると、陸軍の何人かが小さくざわついた。アイスマンとそのうちの一人が呟き、チームメイトが知り合いかと問いかける。

 

「前に同じ部隊にいた。でもあいつは……」

「そうだ。彼はデルタの隊員だ。そして現在、偽の罪状でアンブレラの私設部隊に潜り込んでいる」

 

 言葉を濁した隊員のかわりに後を引き継いだレイモンドは、アイスマンと呼ばれる男の写真を見た。スクリーンに映し出された男は、いま死者が歩き回る地獄の中で戦っている。

 

「ヴラッド・ホーキンス一等軍曹。現在デルタから、われわれISA(アクティビティ)へ分遣されている作戦人員だ」

 

 大失敗に終わったイーグルクロー作戦。その反省から、最上位の特殊部隊の運用を統合すべきとして生み出されたのがJSOCであるならば、ISAはそのJSOCの目となり耳となるために生み出された情報組織だ。

 

 そして、その活動が軌道に乗り様々な情報収集にあたる段になって、あるニーズが生まれた。他部隊へ情報を伝達して部隊を派遣する時間的余裕がない場合に、ISAによる直接の作戦実行を可能とする戦力だ。

 

 その試験段階として、陸軍のデルタからいくつかのチームをISAに分遣し実地で運用する計画に参加したうちの一人がヴラッドであり、そして彼の所属するチームのコールサインが葬儀屋(アンダーテイカー)だった。

 

「あいつのチームは全員服役したんじゃなかったのか」

「彼は巻き込まれただけだ。何も知らされていなかった。ただの作戦、そう思って参加した。それだけだ」

 

 アンダーテイカーの迎えた顛末は、母体となるデルタの人員の間ではすでに周知の事実となっていた。チームリーダーを筆頭とする隊員らの闇ビジネス、そして露見を恐れての民間人の虐殺。

 

 証人の口封じまでして身を守ろうとした男たちは階級を奪われ、いまは受刑者として刑務所の中にいる。

 

 それにヴラッドは巻き込まれた。彼が何も知らされていなかったことは、すでに調査で明らかにされている。しかし、その結果として彼は潜入捜査という最も危険な任務につかざるを得なくなったわけだが。

 

「この任務が終了した暁には、彼の罪状は公的に抹消されることとなる。生きて帰れればな」

「本当に何も知らされていなかったんですか」

「事実だ。複数人が証言したからな」

「死んだら罪人のまま、と」

「そうなってほしくはない。私は彼の名誉回復を約束した。彼は私のために任務を引き受けた。彼の情報も必要だが、それ以上に私個人として彼の生還を望んでいる」

 

 直接的にヴラッドを知る者でなくとも、ノーマッドの迎えた結末を知る陸軍の隊員たちは事情を察してかただ無言でうなずいた。海軍の男たちもそれが任務であればやり遂げるだけだと言いたげに椅子に腰掛けたまま、こちらの言葉に耳を傾けている。

 

 それを見、続きを説明しようとレイモンドが口を開いた瞬間、テントの入口から男が飛び込んできた。

 

 部外者立入禁止のテント。それも守衛を外に立たせていたはず。なにごとかと目を向けると、口ひげを蓄えた壮年の男――JSOCを統べる中将が険しい表情でこちらを見据えている。

 

 准将も、そして席に座った隊員たちも一斉に振り返り、なにごとかとざわつき始める。 しかし、口を開いた司令の言葉は、突然の訪問を吹き飛ばすだけの衝撃をもたらした。

 

 

「議会が招集された。ホワイトハウスは、ラクーンへの核滅菌作戦を計画している」

 



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Chapter3 Live and let live.
退路なき冥府


「それで、そのTとか言うウイルス、空気感染しないのはわかったが、他はどうなんだ」

「汚染物質を粘膜系に接触させた場合、感染は免れないわ。目や口腔粘膜、そのあたりは危険と思いなさい。特に血液との接触は原則厳禁よ」

 

 ジョエルの質問に答えたアリッサは、そっちの彼が感染しているかどうかは不明だけれど、とフレデリックを示す。彼は肩を縮め、それから左腕の傷を撫でた。

 

「ウイルスの感染確率というものは、その時その場の汚染度合いや接触条件によってアウトラインが変化する。身近なもので言えばエイズがいい例ね。基本的に唾液に含まれるHIVは微量だから、キスでの感染は殆ど無いに等しいと思ってくれていいわ。

 だけれど、血液接触やコンドームなしの性交はリスクが格段に跳ね上がる。これは分泌物ごとに含まれるウイルス量が違うことに起因するの。中でも精液や膣分泌物は高リスクの部類よ。肛門性交による感染がニュースにもなっていたのは記憶にも新しいわ」

「あんたの口からそういうワードが出ると、興奮するべきかげんなりするべきか悩ましいね」

 

 光栄だわ、と茶々を入れたマディソンへアリッサは小さな笑みを向けた。目だけが笑っていないその笑みを受け、おっかねえと小さくつぶやいてマディソンが引き下がる。

 

「それで、Tの場合は」

「感染者と粘膜接触したがる人間が居るとは思えないけれど、どれもアウトね。血液接触だけでなく、キスも性行為もNGよ。とはいっても、βの爪の汚染度合いはわたしにもわからないから、調べるより無いわ」

 

 あとはこれが結果を出すのを待って頂戴と、床に置いた検査キットを示すアリッサ。早く結果を知りたいのは山々だが、機械がこちらの心情を汲み取ってくれるわけもなく、検査が終わるのを待つより無い。

 

「結果が分かり次第撤収、ってところか」

「そうしたいところだけれどね」

「電源の問題だろ? その復旧はどうにかなる」

「それはたしかにクリアすべき課題よ。でもそれ以前に、もっと大きな問題がある」

 

 ヴラッドが怪訝に眉を持ち上げると、アリッサは向きを変え、壁に固定されたモニターの操作パネルに指を走らせる。沈黙したままのカメラとの接続を切り、いくつかのカメラ画面を切り替えた彼女は、これを見てと指を止めモニターを示した。

 

 画面に映るのは、貨物が積み重なる広い空間に佇む血まみれのコート姿。画面越しでもその巨躯の迫力が伝わってくる。両拳を握りしめ、肩幅に開いた脚で地に立つそのさまは、なぜか妙にサマになっている。

 

「タイラントが搬入路を塞いでいるのだけれど、有り難いことにあそこが現状唯一の出入り口でね」

「タイラント? アレの名前か、意味はわからんがずいぶんと大仰なネーミングなのはわかるぜ」

 

 クラヴィスが小さく鼻を鳴らし、灰色の肌を晒す巨人を見やる。最初の接触時は緊張で細部を伺う余裕がなかったが、表情のない顔は肌色と相まってより無機的な雰囲気を醸している。それが今までのバケモノと違い、より一層人間らしい格好をしているのがなんとも言えず不気味だ。

 

「タイラントってのは、古代ギリシャの僭主。暴君のことだ。お似合いの名前だな、血の領土を持つ暴君」

「博識ですこと」

「親父が昔から本を読めとうるさくてね。大学にはいかせてやれないから、その分本を読めと。未だに実家は本の山だ」

「タイラントは、アンブレラが生み出したグロテスクな出来損ないの中では傑作の部類よ。コントロールに難があることを除けば、だけれどね」

「コントロールできない代物が傑作、ね」

 

 だから出来損ないなのよ、とアリッサ。まるで自分がアンブレラの人間ではないような口ぶりだが、その様子から見ればハンターはおろかタイラントとやらも、彼女の美意識的に反しているらしいことはわかる。

 

「もっとも、このラボはその出来損ないを実用ラインに持っていくことを目的としていたの。アレは本来、まだ出来の良い部類だったのだけれど」

「どうやって制御するつもりだったんだ」

「元来は機械制御を基本方針に。でもあの個体は別よ。調教師(ハンドラー)の命令に従うように調整されていた」

「そこのわんこみたいに?」

 

 ヴラッドの問いに答えたアリッサに、犬を示したフレデリックが問いかけた。アリッサはウルフドッグよと返し、壁際で身じろぎもしないそれを呼び寄せる。

 

「アル。おいで」

 

 主人に呼ばれると、ウルフドッグは迷いなく姿勢を変えて主人に歩み寄る。そのまますぐ隣に腰を下ろすと、顎下を撫でる主人の手に目を眇めた。

 

「この子はウルフドッグとネコ科の遺伝子をかけ合わせた個体よ。唯一、従順に命令を守り知能低下を起こさなかったモデルなの。Tウイルスはその副作用として発症者の知能を大幅に低下させるが故に、制御性に問題がある」

「それで、あいつはどうやってその問題を克服しようと?」

「ウイルス完全適合者のクローンを素体に、人体を端から端までいじくり回す作業に興味があるのなら聞かせてあげるけれど」

「まるでフランケンシュタインの製造会社だな」

 

 心底げんなりした様子で呟くクラヴィス。それを見、非人道的の一言では済まないのだろうB.O.Wの開発風景を思い浮かべたヴラッドは、血なまぐさい光景を脳裏から振り払いつつ口を開く。

 

「フランケンシュタインはバケモノの名前じゃない。ヴィクター・フランケンシュタイン、怪物の生みの親の名前だ。原典では学生だったかな。彼の生み出した怪物には名前がないんだ。だから後に、生みの親であるフランケンシュタインが怪物の名前に取って代わってしまった」

「博識ぶりをどんどん発揮していくね」

「世間一般でのフランケンシュタインの怪物のイメージは、ボリス・カーロフが演じた映画のそれだ。公開は一九三〇年代。親父と見た覚えがある。最後は風車小屋ごと焼かれて火の中に消える」

 

 有名な映画だぞと付け足すと、クラヴィスは肩をすくめ古典は見ないもんでと笑う。他の人間も、どうやらその映画を見たことはないらしい。唯一、アリッサだけは興味深そうに頬杖をついてこちらを見つめている。

 

「人の野心が生み出した悲しい怪物だ。未熟な技術故に制御もままならず、その醜い容姿故に人に馴染むこともできない。原典での怪物はまさに醜い容姿の大男、まさにあんな感じだな」

 

 ヴラッドはモニターを示し、ピクリとも動かない大男を見やる。こめかみの高さをぐるりと一周する外科手術の痕跡、縫い目がより一層、世間に知られる()()()()()()()()()()()()()らしさを演出していた。

 

「だが原典の怪物には人の心があった。最終的には人から拒絶され、悲嘆に暮れて復讐心に駆られるくらいにはね。あいつに、そんな物があるとは思えないが」

「映画が好きなのか、それとも、フランケンシュタインの怪物が好きなのかしら」

「創造主に見放され、自分を愛してくれるものもなく、その希望すら失ったアレはたしかに哀れだとは思う。本を読んだのはもう随分と前の話だが、()()()()()()()()()()()()()には同情するね。興味をそそられるキャラクターなのも認める。だがあいつは別だ、俺を殴り殺しかけた」

「随分と現金な論だこと」

「怪物に同情できるのは、自分が傍観者のときだけだ。命の取り合いとなっちゃそれは無理ってものだろう。俺はまだ棺桶に入れられて葬られる側はゴメンだ。()()()()()()

 

 ライフルで身じろぎもしない相手ならなおのことだよと、殴り倒される寸前に見た眼前に迫った拳を思い出しながら呟く。拳が身体をかすめる寸前、赤い闇の中で覗き込んだタイラントの目は虚無ではなかった。その瞳の奥にある色を思い出し、その意味するところを考え始める前に思考を切り上げる。

 

 怒り、脳裏によぎるその言葉を、ヴラッドは無視した。

 

「それで、その制御不能の傑作が唯一の脱出路を塞いでるわけだろう。なんでだ」

「アレの開発は別の研究者の仕事だったものだから詳細までは知らないわ。ただ、最後に主任と話した時、知能の存在を確認できたと喜んでいた。それが本当なら、大方、こちらの退路が現状一つしか無いことを理解したのね」

「バケモノにも思考能力はあるってか」

「本来はそんな高尚な知能はないはずよ。だけれど、正規の出入り口であるメインエントランスのエレベーターもドアごと粉砕されていた。それが偶然でないとすれば、タイラントが搬入路を塞いでいることも納得がいくわ」

 

 クラヴィスの疑問に答え、それに続くフレデリックの問いに、アリッサは溜息だわと小さく首を振る。そもそも、アレは本来自分の活動エリアを巡回する習性を持つのよと、アリッサが付け足した。たしかにそう考えると、一箇所に留まっているのは奇妙だ。

 

「さっき言ってた調教師とやらの言うことは聞くんだろう? そいつはどうなった」

「死んだわ。アルを起こしに向かうときに見かけた。タイラントの保管室で息絶えていたの」

「あいつにやられたわけだ」

「いいえ、銃で撃たれた痕跡を見るに、保安職員の仕業よ。どうしてそうなったのかはわからないけれど」

 

 ざまあないぜと鼻を鳴らすクラヴィスの発言に首を振り、アリッサは傍らのウルフドッグを撫でる。アルと名付けられたその犬の姿をした兵器は随分とおとなしく、主人の命令に従う忠犬のようだったが、大柄には過ぎるものの犬らしさを残すアルとタイラントが根は同種の兵器という事実は未だに飲み込みきれない。

 

「そいつは随分と従順なようだが、どう違うんだ」

「幼体の段階でネコの遺伝子をかけ合わせ、同時に試験段階の抑制剤を投与したの。その分、Tウイルスが持つ変異性は失われたけれど、知能の低下は起こらずに済んだわ。でも他の種ではだめだった。イヌ科を素体にしていれば話は違ったけれど、それでも個体によるばらつきが大きかったわ」

「あんたが開発を?」

「ええ、最初からわたしのプロジェクトよ。まあ、アンブレラからは変異性の低さをして失敗作の烙印を押されたけれど」

 

 あの出来損ないの怪物よりよほどそっちのが出来が良いように見えるがねと、質問の返事に頷いたマディソンがしゃがみ込み、アルに手を伸ばす。が、アルはほんの僅かに鼻先を寄せて匂いを確かめてから首を引き、寄るなとばかりに喉を鳴らした。

 

「噛まれたくないのなら、むやみに触れないのが懸命よ。子供はともかく、大人に容赦するほど優しくはないわ」

「犬には好かれる方なんだが……」

 

 犬、という一言に反応したかのように、アルが低い唸り声のボリュームをあげる。まるでそんなものと一緒にするなと言いたげなその態度は、たしかに知能が低いようには見えない。

 

「もともと、アンブレラの生物兵器を売り込む際の最初の商品として企画と開発がされたの。人間には軍用犬の例がある、ウルフドッグなら身近に置く生体としても受け入れられやすいわ。すくなくともαやβのような文字通りの化け物よりはよほどね」

「それで、ネコの遺伝子を混ぜたのはなぜ」

 

 専門的な医師でないにしろ、医療の世界に片足を突っ込んでいるジョエルが、興味津々の様子でアルに身を寄せる。慎重に距離を保ち、相手が明確な不快感を示さぬラインを確かめ間近で観察する彼の目は好奇心に輝いていた。

 

「ネコは爪を隠して足音を消せるからよ。軍用としてデザインするとき、隠密性を重視しろと上からの指示があってね」

「なるほど。それにウルフドッグは通常の犬種より嗅覚や聴覚が鋭い。たしかに軍用向きか」

 

 距離を詰めたジョエルの脅威度を精査するように、アルが視線を彼へと据える。そのまま無言のにらみ合いを続ける一人と一匹を放置し、ヴラッドはアリッサへ目を向けた。

 

「名前の由来は」

「由来を問われたのは初めてだわ」

「どうせアルフォンスとかアルバートとかじゃないのか。アルフレッドもいいラインだな」

 

 にらめっこの体制に入ったジョエルを見て笑いながらフレデリックが口をはさむ。彼は無線をおろし、地面に座り込むと、そのどれかだろとアリッサへ目を向けた。

 

「アルフォンスはともかく、王政国家の民でもないのにアルフレッドなんて名前は付けないわ。大王様じゃあるまいし。アルバートは論外よ、ありえない」

 

 きっぱりと言い切るアリッサの語気はほんのりと強さを増したように感じられた。発音の癖から、イギリス人でもないのにと小さく指すあたり、腹に据えかねる名前でもあったのだろうか。フレデリックはおっかないとばかりに肩をすくめ、不遜な態度のアリッサにため息を一つ。

 

「じゃあアルベルトとか?」

「それも不正解」

 

 じゃあわからんとフレデリックの隣に腰を下ろしたクラヴィス。ヴラッドは少し考えこみ、真っ白な毛並みのアルをしばし見つめてから口を開いた。

 

「アルビオン」

「惜しいわね。アルヴィンよ」

「語源は同じだな。ラテン語で白」

「なんだ、僕のだって大きく外れたわけじゃないってことか」

 

 残念ながらそれはないわとアリッサがはしゃぐフレデリックを横目に見てバッサリと切り捨てる。アルビオン、ドーバー海峡に面したチョーク層の白い岸壁をして、英国を示す単語として使われることがある。ブリテン島に関して、一般に知られる名称の中で最も古いものでもあった。

 

「よくわかったわね」

「白いからな。半分はヤマ勘」

 

 ジョエルとアルヴィンのにらめっこはいまだに続いているようだった。このまましばらく動きそうにない両者はさておき、ヴラッドにはまだするべきことがある。

 

「それで、どうやってあれを突破するか」

「陽動でもかけてどこかに引っ張り出し、その間にゲートを開けるとか?」

「ベターなのはそれだな。通常火器が通用しない以上、正面戦闘はまず勝ち目がないとみるべきだ」

 

 ヴラッドの問題提起に、マディソンとフレデリックが続く。実際問題、小口径とはいえライフル弾を雨あられと浴びせてひるみもしなかった化け物だ。真っ向勝負で勝てる可能性は少ないし、勝てたとして戦死者が積み上がっては意味がない。

 

 あくまで、状況的な勝利条件は研究施設からの脱出である以上、戦闘は避けるべきと考えるのが妥当だろう。

 

「問題は、陽動の方法。そして見込める拘束時間」

「それに関しては向こうの出方次第ね。唯一の出口を封鎖する程度には知能があると仮定すると、わたしにも判断はつかない」

「ゲートの解放にはどれくらいかかる」

「人が通れる程度に開くまで5分近く。隔壁が三枚あるからその分時間もかかる」

「最高のセキュリティに拍手だな。最低の構造に感激」

「棺桶のふたじゃないんだ、もったいぶらないでほしいもんだが」

 

 朗らかな口調で吐き捨てるクラヴィス、それに続くフレデリック。マディソンは何か考え事をしているのか、顎に手をやったままだったが、しばらくして口を開いた。

 

「この研究施設、実験体の暴走の可能性は想定していたのか?」

「ええ、想定内よ。一応は、だけれど。保安要員に軍用の銃が配られていたから」

「あのタイラントとかいうデカブツに有効な火器の保管はどうなってる」

「タイラントを確実に殺すには、戦車か装甲車が必要になるわ。人間が手にする豆鉄砲程度でどうにかなる相手じゃないもの」

「そんなものを閉所に置くわけもないか。対戦車火器でもあれば楽勝だったんだが」

 

 まいったなと頭を掻くマディソン。確かに、威力面だけを見れば対戦車火器があれば解決できるだろうが、疲労のせいで頭が回らない彼の思考からは重要な部分が抜け落ちているようだった。

 

「仮にあったとして、バックブラストで俺たちまでめちゃくちゃにされちまう」

 

 通常、歩兵が持ち歩ける対戦車火器――つまり世にいうロケットランチャーのたぐいは、後方に高圧ガスを噴射することで反動を相殺する方針をとっている。バックブラストと呼ばれるその高温高圧ガスの加害半径は、ものによるが射手の後方2、30メートル、およそ60度程度の広がりを持つとされていた。

 

 閉所で使っていいものではない。当然、ヘリや車両の中から使用するのも自殺行為だ。噴き出したガスは閉鎖空間にコンマ数秒で充満し、その場にいる人間に平等に牙をむく。

 

「確かにそうだ、クソ」

「マディ、フレデリック。少し寝ろ。すくなくとも電源を入れるまではこちらでどうにかする」

「悪いが、そうさせてもらう。脳みそが死んでる」

 

 こちらの休憩()()にうなずいたマディソン。僕もそうさせてもらうよとフレデリックが頷き、出入り口をふさがない位置に移動した二人が地面に転がる。

 

 ああでもない、こうでもないとクラヴィスとジョエルを交えて検討を続ける。適宜、アリッサが暫定案の問題となりそうな施設内の状況や敵の情報を与えてくれた。

 

 少なくとも、施設内に放たれたサンプルのハンターαは20体。うち半数はタイラントと交戦してことごとく殺され、数匹はアルヴィンの餌食になったようだが、依然数匹は身を潜めていると思われた。

 

 ネイルフロッグに関しては、アリッサの知る限り該当するB.O.Wに心当たりはないらしい。おそらく、Tウイルスの持つ変異性によって特定条件下で発生する突然変異体のようなもの、とのことだ。ジョエルに言わせれば、そんな短時間で生物の形質に変化を生じさせるウイルスなど人類史上確認された例はないらしい。

 

 施設は中央の連結路を中心に扇状に三分割されており、現状外部への脱出を唯一可能とするノースエリアはタイラントの根城となっているというのがアリッサの談だ。連結路は彼女がコンソールで引き上げており、現状向こうがこちらのエリアに押し入ってくる可能性はほぼゼロとみていいらしい。

 

 アルヴィンが掃討したため、ここサウス02エリアにハンターはいないと思われる。電源供給システムのメインもこのエリアだが、搬入路の起動にはノースエリアの補助電源システムの再起動が必要となる。その場合、経路上でハンターの残党と接触する可能性が考えられた。

 

 そしてこれはアリッサの意見だが、仮に電源システムを回復した場合、タイラントが搬入路を離れる可能性はより低くなると思われた。向こうがこちらの抹殺を目的としていると仮定した場合、最も確実な方法は唯一の退路を塞ぐことだからである。そしてその思考力はあると彼女は考えているようだった。

 

 仮に搬入路の開放を行う場合、攻撃班を編成して正面から戦闘を仕掛け、別のエリアに誘導する間に迂回班がコンソールにアクセスする以外に手立てはない。もちろんその場合、攻撃班はタイラントの追跡を受け続ける。

 

「つまり、正面戦闘の可能性は捨てきれない、というよりほぼ確実ってことか」

「すくなくとも個人的見解としてはそうね」

「ちなみに、その可能性を否定できる要素は」

「現状無いわ。少し前に、そんな高尚な知能はないはずだと言ったでしょう。でもそれだけじゃないのよ」

 

 前置きをするように、ゆっくりとした口調でアリッサが言う。ヴラッドはそう言っていたなと頷き、その先を促すために口を閉じた。

 

「タイラント――T-103は特別な命令を受けていない場合、あるいは命令を認識できなかった場合、さっきも言ったとおり一定のエリアを活動範囲と見なして巡回する特徴が多く見られるの。一方、わたしが知る限り定位置を確保して待機した例はゼロ」

 

 あれは一種の異常行動よと、アリッサがモニターを示す。ピクリとも動かず、頬を掻くことも、首を巡らせることもせずその場にただ佇むタイラント。たしかに他の個体に巡回の習性が見られるのであれば、あの個体の定点固守の姿勢は異常と言えるのかもしれない。

 

「あの場に陣取るようになったのはあなた達が来て以来だけれど、それ以前からある一定の範囲を基本的な縄張りと見なして行動している様子が確認できたわ。あなた達が接触したのは、あのタイラントがハンターの残党を殲滅しに向かったタイミングに鉢合わせたから」

「全くの不運なコンタクトってわけだ。それで、なんであいつらは殺し合いを? 同じバケモノ同士だろう」

「それはわからないわ。単にハンターがタイラントを攻撃したのが原因なのか、はたまたタイラントからして敵と映ったのか。あるいは別の理由か」

 

 そこに関しては情報サンプル不足ねと肩をすくめたアリッサは、幾つかの仮説はあるけれどどれも憶測の域を出ないのと続ける。そのまま彼女は脚を組み、話を戻していいかしらとばかりに首を傾げる。ヴラッドはそれに頷いた。

 

「もし仮に、単なる縄張り意識に基づいているなら、あなた達をロストした時点で自分の縄張りに戻るはず。にもかかわらず、タイラントは待機位置を搬入路へと変更した。この事から、明確な目的意識がタイラントに芽生えたとわたしは考えている」

「そうなった原因が、さっき言ってた制御方式の違いの影響?」

「おそらく。既存のタイラントは植え付けられた行動指針に従うだけの存在で、それも外部からの入力であるがゆえに行動時間が伸びるごとに薄れていく。自己判断による行動変更は未だ不可能とされているわ。だからアレは異常なのよ」

 

 複雑な敵味方識別は不能、武装の有無による攻撃/非攻撃判断や、作戦計画に合わせた行動選択などもってのほか。そういった、通常のタイラントにはできないことをアリッサが列挙していく。破壊力と耐久性は並外れているが、知能の低さからくる制御性の低さは開発者の頭を大いに悩ませたことだろう。同情する気にはならないが。

 

「このラボでは、その問題打開のために様々なプランが試行されたの。アルと同じように抑制剤を用いたケースは、ヒトとイヌでは効果の差がありすぎて、Tの活性能力自体が許容レベル以下に低下して失敗。特定の代謝酵素を利用した抑制剤の弱点ね。機械的制御はある程度の成果を出したけれど、状況が複雑かつ過酷になると制御不能に」

 

 ここから先の詳細は部外者のわたしには知らされていないけれど、とアリッサは前置きをした。その声はごく自然で滑らかだったが、彼女の目を盗み見たヴラッドは、嘘ではないが真実を語るわけでもない人間の、取り澄ました眼差しを見て取った。

 

「おそらく脳に対する外科的なアプローチがあったと推測されるわ。頭部の縫合痕は他のモデルには見られないことから、一度頭蓋骨を開いて中身をいじった、と考えるのが自然ね」

「一応聞いておくが、あれは生きてるんだよな。外の死人どもと違って」

「ええ、紛れもなくアレは生きている。追加の質問の手間を省くのなら、つまりは生きたまま頭を切開して脳をいじった、ということになるわね」

 

 狂気的(マッド)どころじゃねえぞ、とクラヴィスがひきつった笑みを浮かべる。ジョエルもその光景を想像したのか、絶句したままゆるく首を振った。医療行為ならともかく、兵器としての性能を向上するために生きたものの脳みそをかき回すというのは、生中な精神でできることではない。

 

「アルは、そういったことは」

「わたしがあの子にそんな惨いことをするとでも? そもそも、アンブレラの社員ではあるけれどB.O.Wの存在意義に関してわたしは懐疑派よ」

「安心した。すごくね」

 

 きっぱりと言い切ったアリッサの声に頷くヴラッドに、アリッサは犬猫はだめとでも言いたげねと片眉を上げて見せる。棘のある態度だが、そういう仕草が様になるのは、並外れた美人の特権だろう。

 

「ウルフドッグにネコの遺伝子を掛け合わせる。人間の頭蓋骨を切り開くよりましに思えるかもしれないけれど、どちらにせよ悪趣味であることに変わりはない。兵器として作るというのなら、なおさらよ」

 

 それはまるで、こんな会社でなければそんなことをしないで済んだ、とでも言いたげな口調に感じられた。主人の言葉がわかるわけでもないだろうが、彼女の傍らに座り込んだアルがアリッサへ顔を向け、鼻先でスキニージーンズに包まれた太ももを撫でるように擦る。

 

 業務が嫌ならやめればいい、世間一般ではそういうことになるのだろうが、アンブレラは大規模な私兵を保有し、重武装を施して米国内で展開させるような企業だ。合衆国軍の情報部署はおろか、古くから諜報活動を続ける組織ですらその実態と全容を把握できない裏の稼業に触れた時点で、そんな月並みな言葉で断じることができるわけもない。

 

 脛に傷を持つ前科者ばかりを集めたU.B.C.Sの自分たちと同じ、自己意志でやめるという選択肢が突然絶たれたことは想像に難くない。

 

 アルヴィンの戦闘力は、こちらに追い打ちをかけようとしたタイラントに飛びかかったあの動きを見ればわかる。しかしアリッサがこの人の手で生み出された最強の猟犬を起こしたのは、ただ護身のためだけではないのだろう。おそらくは愛着、そして兵器としての命を生み出した罪悪感からくる責任感。

 

 この地下に置いたまま、自分ひとりだけ出ていくという選択肢は取り得なかった。氷のような美貌の女だが、その根は他人と同じ。ただの人間でしか無い。

 

 甘えるようなじゃれ方を見せるアルヴィン、それを慈しむように撫でるアリッサ。ヴラッドはそれを見、小さく咳払いをして本題へと戻る。

 

「アリッサの説明通りなら、現状ではタイラントとの交戦は避け得ないと考えざるを得ないとして、偵察を行うに越したことはないんじゃないか」

「それは、遠くから見るやつか、ちょっかいを出すやつか。どっちだ」

「威力偵察だ。こちらのアクションに対し、どう食いつくかを見たい。それ次第でこちらも出方を変える」

 

 クラヴィスの問いに、ヴラッドはあくまで基本通りの方針を示した。敵の情報を収集し、それをもとに対処を行うのは軍事のみならずあらゆる行動の根幹である。

 

「まあ戦力評価をしておくに越したことはないわな」

「問題は、向こうが勢いよく食いついてきた場合だ。どうする。現有装備で撃破は厳しいんだろう」

 

 クラヴィスとジョエルが揃って腕を組み考え込む。たしかに、ちょっかいを掛けて程々で済めばいいが、仮に思い切り食いつかれた場合は大問題となる。撤収どころではなくなる可能性もありえた。

 

「足を止めるものが必要だな。指向性対人地雷(クレイモア)は、置いてきたんだったか」

「そもそも陣地防衛の可能性をそこまで真剣に考える作戦じゃなかったからな。持ち込みすら無いんじゃないか」

 

 俺は見た覚えはないぞ、とジョエルが肩をすくめる。現状、ライフル弾で止められない相手を足止めするとなると爆発物に頼るより無い。が、手持ちの破片手榴弾では威力不足だ。破片手榴弾の主要な殺傷方法である破片、もとい弾子の貫通力は概ね拳銃弾以下であり、ライフルをものともしないあの巨躯に通用する見込みは殆どない。

 

 もちろん、クレイモアも内包するベアリングの運動エネルギー自体は大したものではないが、面に対して数百の鉄球を叩きつけるため、足止めに絞ればまだマシな効果が見込める可能性がある。

 

「アリッサ、ここの火器保管庫は、これだけか」

 

 ヴラッドは数秒の思考の後、壁に固定されたガンロッカーを示した。幅と高さから見るに、せいぜい五丁程度のライフル類と同数の拳銃を収めるのがせいぜいのロッカーだが、施設の広さを見るに保管されている武器がこれだけというのは考えにくい。

 

「いいえ、このエリアに一箇所専用のロッカールームがあったはずよ。中身は確かめていないけれど」

「案内を頼めるか。このあたりの安全は確保済みなんだろう?」

「もちろん。でなければ、アルがこんなに落ち着いているわけが無いもの」

「ならいい。クラヴィス、ジョエル。念の為にここで待機。俺が見に行ってくる」

 

 了解、と二人が応じる。なんなら休憩にしてくれて構わないぞと付け足すと、クラヴィスは遠慮なくバックパックを枕にして床に寝転んだ。ジョエルは一人で大丈夫かと問いかけてきたが、ヴラッドは問題ないと頷いてやる。

 

「案内するわ」

「レディファーストのほうがいいか? それとも、男にリードさせるクチ?」

「死にかけておいてなお減らず口が達者なようね。おまかせするわ、お好きなように」

 

 脱がされた野戦服に袖を通し、ベルトを締めてS.O.Eベストを身に着けたヴラッドは、自分のカービンを手に問いかけた。アリッサは呆れと感心半分の顔でやれやれとかぶりをふり、アルヴィンを手招きで呼び寄せる。

 

「それじゃお先に」

「どうぞ、仕切りたがり屋さん」

 

 



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逢瀬。平穏は死闘の狭間に

「それで、ヴラッド。そろそろ二人きりにした理由を教えてもらえないかしら」

 

 保安オフィスからの通路と違い、非常時対策を視野に入れた保安職員用の火器庫は通常の照明が維持されていた。ドアも電子ロック式のスライドドアではない、通常構造の強化扉だ。

 

 デートのお誘いとは思えないけれど、と内側から施錠した強化扉の脇によりかかったアリッサが続けた。ロッカーの中を一つずつ確かめるヴラッドは、中身がほとんど持ち去られたライフル用ガンロッカーを離れ、EXPLOSIVEの文字が踊る扉に手をかけた。

 

「この街を出たらぜひとも誘いたいところだ」

「そうね。出られたら考えてあげるわ」

「そりゃいい。仕事のやる気が出るってもの」

 

 金属扉の中身はグレネードの箱、可塑性爆薬のケース。ロッカーの横壁面に止められたボードを手にすると、そこにとめられた書類の中には、緊急時の施設放棄に伴う機密の破壊措置に関する項目があった。

 

 大方、ここにある爆薬の殆どはもしもの際に重要機材を物理的に破壊して機密を守るためのものだろう。グレネードの箱の中には、サーメート手榴弾(AN-M14/TH)も混ざっている。かつて、戦地で撃墜された友軍ヘリのパイロットを救助する任務にあたった際、これでブラックホークの計器類を潰して機密保持を行ったのが懐かしい。

 

 使えそうなものは、可塑性爆薬とサーメート手榴弾(AN-M14/TH)くらいのものだろう。通常の手榴弾はほとんど効果が見込めないからして、念の為に使用した分の補充に使う量だけを持ち帰ればいい。すくなくとも、ハンターを始末するのには使えるはずだ。

 

「部下を休ませたかった、じゃだめか」

「死にかけたばかりの人間の言葉じゃないわね。落第よ、それじゃ」

「回りくどいのはナシだ。あんたがカナリアだろ」

 

 自分から正体を明かす気はないらしいアリッサの代わりに、ヴラッドが本題を切り出した。当人の意識として、自ら語らずこちらの正体を引き出そうとしたのか、ただからかっているだけなのかは不明だが、前者であれば話題の振り方からして半分以上失敗と言っていい。

 

「会話を楽しむ余裕くらいは残していてもいいと思うけれど」

「楽しい会話はカフェテリアでしたいね、どうせだ。ここにそんな洒落た物が残っていれば考えたよ」

 

 それで、とヴラッドは付け足し、感情の伺えないアイスブルーの瞳へ振り返る。壁に背を預けゆるく足を組んだ姿からは、うろたえた様子も、緊張も感じられない。

 

「こちらからも評価点をつけるが、話題の振り方が下手だ」

「あなたにわたしが何者かを隠すつもりはないもの。どう探ってくるかは楽しみだったけれど」

「デートの誘いを楽しみにしてくれたわけじゃないのか。残念だ」

「それはお互いのことをもっとよく知ってから。でもそうね、個人的には、フランケンシュタインの話は楽しめたわ。良いアピールよ」

 

 それはどうもと肩をすくめ、爆薬のケースをロッカーから引き出す。火器保管庫の壁面には隙間なく金属製のロッカーが並べられていて、ヴラッドは残りの中身を一つずつ確かめた。散弾銃、短機関銃、ライフルの類はほとんど出払っている。対応している弾薬も同じだ。

 

 拳銃の類はシグが何丁か残っていたが、こちらに用はない。全てのロッカーを確認したが、案の定というべきか爆発物を撃ち出せる火器は一丁も保管されていないようだった。仮にあったとして、有効な使用方法がこの閉所で見いだせない以上持っていくつもりもないが。

 

「そもそも、あなたこそ不用心じゃないかしら。寝ていたとはいえ、部下の前でわたしの呼び名(カバーネーム)を出すだなんて。相手はアンブレラ、誰とまではわからないまでも、感づかれている可能性はあるわ」

「そう考えるなら、そもそもカバーネームを俺が出しただけで信用するべきじゃない。あんたとウチのやりとりだって、絶対に見られていないとは言い切れない。違うか」

「そうね。でもあなたは言った。俺は埋める側だと。あなたのカバーネームは、通信に依らないアナログな方法で交わした情報よ。もちろん、わたしがあなたの上の人間にとって()()()()ことを証明した見返りにね」

 

 葬儀屋(アンダーテイカー)だなんて、どんな辛気臭い顔が来るかと思っていたら、と小さな笑みを浮かべたアリッサ。その隣で行儀よく座り込んだアルヴィンがわずかに鼻を鳴らす。

 

「陰気な顔してるか、俺は」

「それどころかむしろ真逆ね。負けん気が強そうな顔だわ。少なくとも、アンブレラの好むタイプではないのは確かよ」

「それは今年一番の褒め言葉だ。しかし、俺のカバーネームに気づいてもらえるとは」

「わからないとでも?」

「伝わるかは怪しいところだろうとは。俺の潜入を伝えてあることは知っていたが、どこまで教えてあるかまでは聞かされてなくてね」

 

 それに、知っていたとしてあの一言の意味を拾い上げてもらえるかは微妙なところだろう。本人の連想力と頭の回転に頼ることになる。が、ヴラッドはアリッサを見て、この女性なら知ってさえいれば拾ってくれるだろうと考えた。その読みは当たっていたわけだ。

 

「それで、脱出の算段はついているのかしら」

「あったら良かったんだけどな。あんたの考え通り全部上の計算ずくなら、迎えをよこしてくれたとしてそれに乗っかるのは気乗りしないね」

「同感だわ」

「どうにかして本部と連絡を取るしか無い。その方法は後で考える。今は、ここを出ることが先決だ」

 

 めぼしいものは爆薬と対応する信管、そして起爆装置程度のものだ。有線接続の起爆装置と、時限信管を収めたケースを取り出し、爆薬のケースと共に抱えあげる。強力な大口径火器、たとえば.50口径の自動式でもないかと祈っては見みたものの、そういう火器を配備する親切心はここの備品を決めた人間にはないようだった。

 

 もちろん、.50口径の火器など屋内での取り回しは劣悪というよりなく、そもそも長射程での運用を前提とした銃器ばかりだ。しかし、仮にも小銃弾を物ともしない巨人を開発し、有事の鎮圧部隊を常駐させるのであれば、それくらいは用意しておくべきだろうに。

 

 ないものねだりの愚痴を垂れ流す思考に自分で溜息をつき、唯一頼るべき爆薬の重さにほのかな安心感を覚える。宛てる先のない不満と手にした凶器にやすらぎを得るのは、追い詰められている人間の心理だ。良くない兆候だぞと自分に釘を差す。

 

「それで、ソッチはウチのお上に渡すものは手元にあるのか。あんたの身柄の保証は差し出した情報によってだぞ」

「忘れたわけじゃないわ。自分の研究成果はもう回収してある。問題は、ノースエリアをタイラントに押さえられたせいで残りのオマケを拾い損ねたこと」

「それは、絶対に欠かせない情報か」

「そうね、私の身の安全という意味の上でなら必要はない。あなたのボスが、もしアンブレラに圧力を加えるか、潰そうと考えているのなら、あるに越したことはないというだけ」

 

 あとはあなた次第よと、言葉ではなく眼差しでそう語るアリッサにヴラッドは肩をすくめた。潜入前に与えられた任務は、保護と可能な限りの情報収集だ。当然、この状況でもその命令は生きている。

 

「可能なら拾って帰る。おすすめのメニューは」

「当然、タイラントね。一応は天下のアンブレラ様にとり花形商品の予定だもの。押さえておくに越したことはないわ」

「名物に手を付けずに帰るわけにはいかないな」

 

 他に持っていくべきものがないことを確かめたヴラッドがドアに向かうと、アリッサが強化ドアを開けた。開ききる前に隙間からアルヴィンが外に出て、異常がないことを確かめる。

 

 小脇にケースを抱えたヴラッドがカービンを片手で握ってあとに続くと、アリッサはその後ろ、2歩分のスペースを開けて続いた。アルはその半歩背後に身を寄せ、アリッサに歩調を合わせてついてくる。

 

 ウルフドッグは狼に近い習性を持つ分しつけの難易度が高く、互いに友好関係を築けたとしても主従関係をはっきりと決めねばならないと聞く。一例を挙げれば、食事も主人の後、連れて歩く時はウルフドッグにペースを任せず自分が主導となる必要がある。他の犬種に比べ、信頼と尊敬を勝ち取らなければ上手く付き合うことは難しい。

 

 聞きかじった程度の知識だが、その点においてアリッサはしっかりとアルヴィンの教育を行っているようだった。犬の世話をしたのは幼少の頃だけであり、大事な家族であった愛犬を失ってから犬と付き合うことはなかったが、常に与えられた役割を果たすべく動くアルヴィンを見れば、アリッサが良い主人であることはひと目で分かる。

 

 肩越しに振り返り、赤色灯の灯る通路を僅かな足音すらなく続くアルヴィンを見やる。たしかに犬のように爪が地面に当たる音は一切聞こえない。並の犬では並ぶことすら叶わぬだろう俊敏さ、そしてこの静粛性。軍用犬の延長線として見ればかなり優秀と言える。

 

「アルが気になる?」

「いい犬だ。よく躾けられていて、役割を心得ている。ウルフドッグは教育が難しいって聞くが」

 

 背後で抗議の意思を示すような低い唸りが聞こえ、ヴラッドは悪かったよと笑ってやる。やはりこのウルフドッグ、ある程度人の言葉を理解しているように思えてならない。

 

「すくなくとも、他の犬と勝手が違うのは確かね。とくにアルはネコ科の遺伝子を混ぜたせいか、時々気ままさというか、ムラが混ざるからなおさらね」

「よく、犬は群れを作り、猫は孤独を好むと言うが、そういう事か?」

「独立心が強い、というわけではないのだけれどね。傍から離れることはないわ。それと、たまに爪とぎしていたり」

「たしかにそれは猫だ。犬の爪とぎなんぞ聞いたこともない」

 

 あなた、犬を飼っていたことがあるのかしら、とアリッサが問うた。思い出すのは、毛並みに走る傷から血を流す姿。最後の呼気を吐き出し、しぼんでいく胸。空っぽになった犬小屋。部屋に飾ったままの首輪。

 

「ガキの頃に。狩りの途中で死んじまったがね。いい犬だった。ちょっと怒りっぽい老犬で、そのくせやたら遊び回るのが大好きな、かわいいやつだったよ」

「そう。安心なさい、アルはあなた達よりよほど頑丈よ」

「そうだろうな。その分厚い毛じゃ銃弾だってバイタルにとどくまい」

 

 廊下のところどころに、アルヴィンが仕留めたと思われるバケモノが転がっている。感染者の遺体は過半が銃で始末されていたが、ハンターαとアリッサが呼んだ緑の鱗を持つ爬虫男の死体は爪で引き裂かれた痕が見えた。

 

 銃弾を阻む分厚い外皮は、裂けるでもなくすっぱりと切断されている。タイラントの一撃で意識を失う寸前、飛びかかったアルヴィンの爪で顔を切り裂かれたタイラントは目にしたが、間近で犠牲者の傷跡を見ると感動的なまでの()()()だ。

 

 人間のようなヤワな生き物が相手であれば、一撃で重要臓器もろとも切り裂かれてお陀仏だろう。身につけた装備がこの爪を止めてくれるとはとても思えない。

 

 それに、背を向けて居るのもあるだろうが、この至近距離にあって一切の足音が聞こえないというのも、敵として考えた場合は脅威だ。狼犬をベースに、そこから更に身体能力を強化してあるのだろうアルヴィンを見るに、至近に接近されたらほぼ勝ち目はない。

 

 恐ろしく出来の良い生きた兵器、アルヴィンに関してはそう評価するより無い。それに失敗作の烙印を押したアンブレラが花形と見なすタイラントの戦闘力がいかほどのものか。

 

 それを相手しなければ脱出が成功する見込みが薄い、というのは、途方も無く分の悪い勝負と言わざるを得ない。

 

 赤色灯の生み出す赤い薄闇の中、点々と転がる死体を跨ぎながら考える。手持ちの爆薬の残量、残りの弾薬、正攻法では撃破どころか行動阻害すらもままならない。アルヴィンの戦闘力は転がるハンターの死体からみても相当のものだろうが、あのタイラント相手に致命打を入れることは期待できまい。

 

 となると、打てる手はかなり限られてくる。少なくとも、並の攻撃では四肢をもぐこともかなわないだろう相手。必要なのはただ一点、強烈な一撃を叩き込む方策だ。

 

「これしかないか」

「なにか言ったかしら」

「タイラントを叩きのめす方法。現状一つだけ思いついたのがある」

 

 肩をすくめて応えたヴラッドに、ほんの僅かに目を丸くしたアリッサ。まるで、対処法を考案することに一切の期待を持っていなかったように見える。ヴラッドは細めた眼差しを向け、意外そうだな、と首をかしげた。

 

「あなたを馬鹿だと思っているわけじゃないけれど、この状況で()()()()を生み出せる人間が居るとは思えないものだから」

銀の銃弾なんかない(No silver bullet)。あるのはただ、火力の優越だとか、戦力比の有利不利、そういう現実的な数字の問題だ」

「現実的ね。嫌いじゃないけれど、一体どんなプランを思いついたというの」

「どうしようもなくバカバカしくて、おそらく唯一の解決策だ。真っ向から当たるならなおのこと」

「まさか、正面に横並びになって撃ちまくる、なんて言わないわよね」

 

 アリッサが怪訝な眼差しを向け、ほんの僅かに目を細める。赤色灯の明かりを反射し、複雑な色合いをみせる瞳を覗き返し、ヴラッドは肩を小さく揺らして笑った。

 

「戦力比か火力優越、どっちがそう思った理由だ」

「バカバカしいやり方なんでしょう?」

「ああ、おそろしく。安心してくれ、少なくとも隊伍を組んでぶっ放しまくるなんて俺は願い下げだ。こっちがまるっと一個小隊いるならともかく。5人きりで、そんなアホをやって全滅したら、あの子達はどうなる」

 

 子どもたちを無事にマイケルの元へ送り届ける。それを達し得ない状況こそが、今自分にとっての決定的な敗北だ。その先がどうなるとしても、約束を果たしきれないまま無責任に死ぬ気など無い。

 

 半分以上自分に言い聞かせるような声音だったが、それを耳にしたアリッサは、こんどこそ意外なものを見る眼差しをこちらへ向けた。

 

「人は見かけによらないとはよく言ったものだけれど。どうりで、アレだけ懐いているわけね」

「何が言いたい」

「シャーロット、だったかしら。あの子があなたにすがりついて泣きじゃくる理由がわかったわ」

「子供を気にかけるようには見えないって?」

「こんなところに連れてくるくらいだもの」

 

 それは確かにそうだなと、ヴラッドは素直に頷いた。自分自身、本部の命令を遵守し研究施設の捜索を優先した自分の判断は間違いだったと思っている。あくまで個人的には、だが。

 

「上の命令だった。それに、俺達はもう丸一日以上本隊を離れてる。本部にあの子達を送り届けたあとじゃ、ここにあんたを迎えに来るのは全くの別人だったろうな」

「それを気にするように見えるかしら」

「大人の事情は子供には関係ないからな。俺は重罪判決を受けた元軍人、あんたはこの地獄を生んだ会社の社員。あの子達の命と釣り合いがとれるわけもない」

 

 そこまで言い切ると、背後で小さな笑いが聞こえた。それを振り返ることはせず、足元で倒れ伏すハンターの犠牲になった保安職員の死体を踏み越える。ハンターに包囲されて壊滅したのか、周囲には武装した死体が複数転がっていた。

 

「あなたも罪人なのね。てっきり、でっちあげの罪状で潜り込んだのかと」

「本物の軍法会議を受けた、紛れもない犯罪者だ、俺は」

「罪状を聞いてもいいかしら」

 

 好奇心が半分、残りは純粋に自分の命を預ける人間の値踏み。アリッサの問いかけからはそういう意図が感じられたが、別に不快感はない。それは甘い声音のせいか、自分の人生において今後縁はないだろうたぐいの女だからか、ヴラッド自身にもよくわからない

 

「今度な。デートのときにでも。話題は残しておかないと」

「残念。でもいいわ、楽しみがあるに越したことはないものね」

 

 愉快げな声が背後から耳朶を揺らす。どことなくくすぐったいその声音に肩をすくめて返し、ヴラッドは帰途を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなた達、幸運ね」

 

 保安オフィスに戻り、床に広げた地図にペンで書き込みながら偵察の経路と情報回収の順番を練っているヴラッドらに、血液検査キットの結果を確認したアリッサが声をかけた。

 

「結果は良好ってことか」

「すくなくとも、発症の可能性は()()ゼロよ」

「ココ最近で一番いい知らせだ。フレデリックは死なないで済むってことだろう?」

「そうね。でも、ハンターの爪の汚染度が低い、ということを示すわけでもないわ」

 

 それはどういうことだと、地図を囲んだジョエルが片眉を持ち上げて問いかける。マディソンとフレデリックはまだ仮眠の途中で、つい先程目覚めたリアムは、アリッサから距離を取るように部屋の隅に座り込んで眠っている。シャーロットは目覚めてすぐにぐずった後、ヴラッドの隣に転がって再び眠りに落ちた。

 

「あなた達の血液に抗体が確認されたわ。確率からして自然発生のものとは思いづらいことを鑑みると、恐らく会社が保管している試験段階のものね。出撃前に予防接種はした?」

「ああ、全員してる。詳細の説明はなかったがね」

「ならそれで間違いないわね」

 

 ヴラッドが頷くと、アリッサは検査キットを片付け始めた。

 

「じゃあ、俺達は感染しないってことか」

「いいえ、あくまで抵抗力が強いだけよ。汚染濃度が高いものを体内に取り込めば、他の人間と同じように発症する可能性は大いにある。アンブレラが保有する抗体は不完全なのよ」

「完成品はないのか。ワクチンとかそういう類は」

 

 クラヴィスの問いかけにゆるく首を振ったアリッサ。それを見、ヴラッドは素朴な疑問を投げてみたが、アリッサは同じように首を振るだけだ。

 

「もちろん開発はされているわ。でもこのラボにはない。抑制剤はあるけれど、あれはヒト科の動物に投与すると効果が安定しないの。運が良ければ上手く抑制できるけれけれど、逆に効果を促進してしまうこともある。あなた、賭けは好き?」

「嫌いだね、苦手だから」

「それならよしておくのね。運に身を任せるにはまだ早いわ」

 

 どうしてもというのなら、あげても構わないけれど、と冗談めかした笑みを浮かべる彼女の顔は、どことなく魔女的な神秘の艶を帯びている。それに見惚れる間抜けは犯さず、ヴラッドは肩をすくめて返した。

 

「やめておく。それで、抗体を持っている人間はどの程度の汚染までなら耐えられるんだ」

「個人差が大きすぎて確たる事は言えないわ。Tウイルスに対する免疫能力は、自然抗体を持たない人間でもばらつきがあるのよ。

 Tに対する免疫能力が高く、なおかつこの抗体を投与されていれば、多少噛まれたくらいでは発症しない可能性も否定はできないけれど、かなり低い数字になることは間違いないわ」

 

 噛まれないに越したことはないわねとアリッサは肩をすくめ、検査に使った血液サンプルを箱に押しこんで蓋を閉じる。抗体があるとは言え、噛まれたらアウトになる可能性が高いとなると、やはり気を抜くことは出来ない。

 

「一つ質問なんだが、Tウイルスが変異する可能性は。空気中の生存時間しかり、感染能力しかり」

「ありえなくはないわ。そもそもウイルスというものは人の体内に入った時点で変異を始めるものなの。ただ、気休め程度にしかならないけれど、今までそういった変異は確認されていないわ。

 とはいっても、一〇万単位での感染拡大なんて実験とは比較にならないスケール。どこかで変異していてもおかしくはないわね」

「そもそも、そのTウイルスってのはなんなんだ。どこで見つかった」

「アフリカだと聞いているわ。動物、植物含め様々な生物に感染し得るウイルスよ。そのRNAウイルスを元に、アンブレラは長年改良を加え続けてきたの。その現段階での完成形の一つがTウイルス。人為的な、極小の悪魔ね」

「その悪魔を作り出したのは、あんたたちだろう」

 

 一切の抑揚がない声で説明するアリッサに、不快感をあらわにしたジョエルが毒づく。クラヴィスもなんとも言えない表情で話を聞いているものの、ほんの僅かに持ち上がった眉は好感を示しているわけではあるまい。

 

「否定はしないわ。わたしが作ったわけではないけれど、その開発に手を貸したのは事実だもの。でも、あなた達U.B.C.Sもその一端を担っている。

 アンブレラバイオハザード対策部隊だなんて大仰で高尚な名前を授けられておきながら、クリーンな仕事をした例があるのかしら。対策だなんて笑える、してきたことは尻拭いだけでしょう」

 

 刺すようなジョエルの声に、顔色ひとつ変えずにアリッサが返す。ジョエルは喉を鳴らし黙り込んだ。彼女の言う通り、罪を犯し、刑の免除と引き換えにこの組織に身を置く自分たちに、彼女を批判する権利などない。

 

 振り返れば、過去の作戦はどれも非合法と言っていい内容ばかりである。それに今事実を把握した上で思い返すと、この街の惨劇の手助けをしたと言っても過言ではない。アンブレラの利益を保護するために、幾つの口を封じてきたことか。

 

「この街がこうなったのはわたしたちの責任よ、それは間違いない。言い逃れする気はないわ。でもそれはあなた達()()も同じこと。アンブレラの武力として力を奮ってきたのだから」

「たしかにそのとおりだ。俺たちはクソの手助けをした。そのうえでこの肥溜めに叩き込まれて、抜け出す方法もいまだ見当たらない。だが任務は任務だ。やれることをやる」

 

 ヴラッドはアリッサとジョエルの間に漂う剣呑な空気を断ち切るべく、分かったなと二人に視線を投げた。まずアリッサが頷き、ジョエルも、ややあってから首を縦に振った。

 

「ここを出たあとで、上が素直に救援をよこしてくれると思うか」

「わからない。それより、向こうが俺たちをどう判断しているかが問題だ」

「つまり」

「知りすぎてる。余計なことをな」

 

 端的な返答、しかしそれだけで意味は通じる。この地獄に降下させられた理由、開発されていた兵器の存在、街を地獄に変貌させたウイルスの開発者。すでに自分たちは、雇い主からすれば危険な存在と言っても差し支えないかもしれない。

 

「あなた達だけじゃないわ。説明したとおり、数ヶ月前にアークレイ山中から生きて帰ったラクーン市警の特殊部隊は、山中で見たアンブレラの暗部について説いて回った。

 その時、それを信じようという人間はほとんど居なかったけれど、はたしてこの状況でもそうかしら」

「つまり、生存者そのものがアンブレラにとっては危険な存在足り得ると」

「わたしがアンブレラならそう考えるわ、真っ先に。米国内で大規模な部隊を送り込む無茶をする会社が、自分たちの手元に不利な証人が運ばれてきたなら、一体どうするかしら」

「消す」

 

 そのとおり、と頷いたアリッサの顔は真剣そのものだ。ヴラッドもジョエルも黙り込み、クラヴィスはやれやれと溜息を零して皮肉な笑みとともに呟いた。

 

「素直に帰るってのは、博打だな」

「もちろん、大手を振って迎えてくれる可能性もあるけれど」

「どうせそのあとは次の肥溜めの準備期間だろ」

「だが現状、偉大なる雇い主サマに頼らにゃ脱出はできん」

 

 ジョエルがクラヴィスの溜息に押しかぶせ、そうだろうとこちらに視線を投げた。確かに彼の言う通り、U.B.C.Sの隊員にとって現状唯一の脱出路は本部がよこす撤収ヘリのみだ。もちろん、自分にはそのヘリを本部にエスコートさせるというプランが残されているが、それを口に出すわけにはいかない。

 

 そもそも、本部が素直にヘリを送ってくれるとは思えなかった。

 

「ここで悩んでもしょうが無い。小隊本部に戻ってこの話をしてみろ、ガルシアから大目玉喰らうぞ」

「あいつは戻っても厚遇されそうで羨ましい限りだ。無許可離隊でもするか?」

「したとして、どうやって生き残る」

 

 手持ちの弾薬はまだ補充分が残っているとしても、そう長く持つわけではない。本隊を離れて、あてのない脱出路捜索を続けるのは得策とは言えないだろう。ヴラッドは予想よりもアンブレラに対しての反発感情の強い部下を見やり、このあとどうするかを考える。

 

 すくなくとも、指揮下にある分遣隊の人員はともかく、小隊本部とともに安全地域に待機する仲間を抱き込むのは至難の業だろう。そもそも部隊内にアンブレラ本社の目となる人間が配置されている可能性は否定できず、この分遣隊内ですら自分の真の目的を明かすわけにはいかない。

 

 現状、もっとも確実な手段はどこかの段階で隊を離れてアリッサと二人で脱出を目指す方法だが、まったくもって工作員に不向きな性分ながら、それは良心が咎めた。自分の指揮下で戦う部下のこともそうだが、シャーロットとリアムのことが気にかかる。

 

「悩んでも仕方がないわ。答えの出ない問答は無意味であり無益よ。あなたたちの本隊がどう動くかはわたしにはわからない。けれど、本部の反応を見てからでもいいんじゃないかしら」

 

 悩む時間なんて後で十二分に取れるはずよ、とこちらへ視線を向けたアリッサの眼差しの奥にはこちらの考えを見透かすような色が伺えた。

 

「とりあえず、目下の目的はタイラントへの威力偵察、そして情報収集だ」

「人員は」

「フレデリックはここに残す。マディソンは万が一のトラップ担当、クラヴィスとジョエルは俺とちょっかい担当」

 

 あと30分したら二人を起こすぞとヴラッドが続けると、それに頷いた部下二人は各々装備の確認をはじめた。

 




平和回ほど文章が伸びるのはなんでなのか……。
感想等執筆の励みになります。気の向いた方、いただければ幸いです。


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偵察行

 信用なんかできるわけない。

 

 リアムの言葉がふと脳裏をよぎり、ヴラッドは赤い闇の輪郭を探りながらカービンの筒先を心持ち下げた。

 

 アリッサが拠点とするサウス02エリアを出てすでに三〇分。背後では、爆薬用ロッカーから回収した可塑性爆薬を加工し、簡易的な指向性地雷に作り変えたマディソンが廊下の隅にそれを設置しているところだった。

 

 威力偵察と情報収集のための出撃の直前、アリッサの提供した情報を元に計画を練るこちらへとリアムが投げた言葉。おじさんはあいつらのせいで死んだんだろ、とアリッサの前で臆することなく問いかけた彼の顔を思い出し、ゆっくりと気取られぬようにため息をつく。

 

 確かに彼の言う通り、スティーヴンが、そしてこの町の住人が生ける屍に成り果てたのは、アリッサらアンブレラ研究員にも責任があるのは間違いない。しかし彼らも、地獄を生み出そうと思ってそうしたわけでなし、ヴラッドにはアリッサを責める事はできなかったし、その気もなかった。

 

 そしてそもそも、アンブレラにとって不利益な情報を武力で叩き潰したこともある自分に、そんな権利があるとも思えなかった。たとえそれが任務の一貫であったとしても、そのために人の命を奪ってきた自分は、ともすれば彼女以上の悪人と言える。

 

 もちろん、リアムにそんな事情がわかるわけもない。たとえアンブレラの人間であったとしても危険を押しのけ助けに来た自分たちと、ここで救助を待っていたアリッサの間で評価が別れるのも無理からぬ事ではある。

 

 とはいえ、同じどん詰まりの地獄、はからずも運命共同体に近い自分たちの身の上だ。あからさまな悪感情を抱いたままというのは、好ましい状況ではない。

 

 もちろん、リアムがアリッサに向けた感情は全くもって正当なものであるし、子供でなくともその感情を抑えろというのは無理な話だ。

 

 そして、それは当然アリッサも分かっていた。だからこそ彼女はリアムの言葉に言い訳をすることも、反発することもなく、ただ無言でそれを受け入れた。その時の彼女の目の奥によぎった色は、痛みとも悲しみとも、怒りともつかない複雑な色だ。

 

 ごちゃごちゃと詮無い悩みを並べる思考を断ち切ったのは、マディソンの声だった。

 

「設置完了。起爆装置に接続したが、安全装置は掛けておく。使う時はセーフティを外してからだ」

「それはお前の仕事。俺とクラヴィスは前衛、ジョエルとマディソンは後衛。もしタイラントに接敵した場合、お前たちが先に下がって、俺とクラヴィスはトラップに誘引する。アリッサ、タイラントに動きは」

『搬入路前で門番に勤しんでいるわ。動く気配は無し』

 

 保安オフィスでフレデリックとともに待機し、モニターで敵の動きを伝える役割を担うアリッサが静かな声で報告した。

 

「ぶっ放したらどうかわからんな。周囲にハンターは確認できるか」

『現状カメラの範囲内に姿は確認できないわ。どこかに潜んでいるのなら話は別だけれど、研究室へ向かうなら今のうちよ。ただ、くれぐれも気をつけて、アレは()()()()の』

「了解、移動を開始する」

 

 ヴラッドが振り返ると、底がやや深めの金属トレーに可塑性爆薬を詰め、表面に弾子となり得る物を敷き詰めた簡易指向性対人地雷の向きを調整し終えたマディソンが親指を立てた。やや上向き、膝上から胸のあたりを狙うそれは、起爆すれば無数の金属を猛烈な勢いで叩きつける面制圧兵器となる。

 

「接触した場合、ハンターは火力で叩き潰す。タイラントがこっちに突っ込んできたら、速攻でケツ捲くって逃げるぞ」

 

 了解と三人の部下が頷く。自分たちの目的はタイラントの研究主任のラボ、そして脱出時の不確定要素になり得るハンターの掃討と、タイラントに対する威力偵察だ。

 

 このエリアの電源は、電力供給と空調システムを管理する施設管理室で制御されているが、すでにそこを制圧して供給システムの再起動を終えてある。後はアリッサの残るサウス02エリアの主電源を再起動すれば、この一帯にも電源が通うはずだ。すでにフレデリックが主電源室で待機している。

 

 主電源の再起動を後回しにしたのは、電源の起動によってタイラントが行動を変える可能性があるからだ。少なくとも情報を回収するまで、向こうにはそのまま門番を続けてもらうに越したことはない。

 

 通路は案の定、タイラントとハンターの乱戦の痕跡が色濃く刻まれていた。壁に走る爪痕、抵抗もできずに殺された無残な死体、奮戦虚しく全滅へ追いやられた保安職員の成れの果て。

 

 死体から流れた血と臓物の中身、散らばる薬莢が足元を不安定にする。ヴラッドは慎重にそれらを押しのけ、もしもの撤収時に備えて足場をクリアにしながら、経路を素早く移動した。生き残りのカメラでこちらの様子をモニターするアリッサが、時たま無線から次の順路を示してくれる。

 

 銃身に取り付けた銃剣、切っ先がかけたそれで闇の先をかき分ける。ライトの光軸が赤い闇を押しのけ、血に淀む通路の惨状を克明に照らし出した。自分たちは精鋭中の精鋭として教育された歩兵だが、たかが四名の分遣隊に過ぎない。下手を打てば、血に沈む犠牲者の仲間入りだ。

 

 その冷静な認識だけが心の奥に巣食う恐怖心を呼び出し、恐怖心は死を遠ざけてくれる。死を恐れぬ心がもたらすのは蛮勇であり、蛮勇は死を招く麻薬でしかない。生還してこそ任務の成功がある以上、恐怖は常に心の奥に抱えていなければならない。

 

 無論、恐怖を飼いならし、そこからすれすれを走り抜ける高揚感を引き出すこともまた、時として必要とされる適性ではあるのだが。

 

 背後を振り返り、分遣隊の後方数メートルに追従する影を見やる。アリッサが念のためにとこちらに同行させたアルヴィンは、一切の足音を立てず、完全に気配を殺してこちらに追従していた。

 

 Tウイルスで強化された狼犬の感覚は鋭敏であり、血と糞尿の臭気で人間の嗅覚が完全に潰れるこの状況にあっても、僅かな標的の匂いを嗅ぎ分けることができるらしい。アルヴィンの様子を見るに、こちらの周囲に敵性存在の気配はないようだ。

 

 それを確かめ、もう少しよと耳の中に流れ込むアリッサの声にしたがって歩みをすすめる。向かう先はタイラント研究主任のラボだが、その目前までたどり着くと、そこは死体が折り重なる血の沼と化していた。

 

 弾倉を詰め込んだベストを身に着けた保安要員の遺体が、折り重なるようにして転がっている。ひしゃげたライフル、一撃で胴を穿たれた身体に、引きちぎられた胴体。粉砕された頭蓋の欠片を踏みつけたブーツの裏で、ぱきりと嫌な音がする。

 

「何人分転がってると思う」

「数えたくないね」

 

 ヴラッドの問いかけに、クラヴィスが顔をしかめて応えた。周囲にはおびただしい量の空薬莢が散らばり、壁に刻まれた弾痕が混乱の様子を物語る。死体を避け、粘つく血を踏みつけにして前進すると、タイラントの研究主任のラボの入り口、ドアがあったはずの場所が粉砕されて大きな口を開けていた。

 

 マディソンとジョエルがこちらを追い越し、通路の奥を警戒する間に、ヴラッドとクラヴィスは研究室の中へ踏み入る。無機的な内装にライトを向け、死角を潰し終えると、ヴラッドはクリアと小さく囁いた。

 

 研究室の中はPCを載せたデスクと、ファイルを詰め込んだラック、そしてこちらには使用用途がわからない電子機器が詰め込まれていた。だが、それより目を引くのは壁際に設置された透明なチューブだ。

 

 チューブとは言うものの、丈は人間の身長よりよほど大きく、直径2メートル以上はあるだろう。円柱状のそれは部屋に面した側が割れていたが、素材はガラスではなく強化樹脂かそれに類するもののようだった。

 

 おそらく相当頑丈なはずの円柱の破片が散らばり、その中に一人の男が倒れている。血に濡れた白衣から見るに研究者、アリッサが言っていた調教師(ハンドラー)だろう。

 

「これ、もしかしてタイラントが入ってたんじゃなかろうな」

「もしかしなくてもそうだろ。外の死体、殴り殺されてるぜ」

 

 部屋の中を覗き込んだマディソンが壁面の円柱を見て囁いた。円柱の中には半透明の管やケーブルが置き去りにされていて、それが繋がれていたのだろうなにかはすでにここには居ない。

 

「アリッサ。研究室にたどり着いた」

『了解、PCが死んでいないといいのだけれど』

 

 アリッサの声に、デスクに置かれたPCモニターに目を向ける。部屋の中も何箇所かに弾痕が見受けられたが、PCモニターに被弾した様子はない。ヴラッドはそれに歩み寄り、接続された本体へライトを向けたが、こちらもどうやら無事なようだ。

 

 弾痕の向きと数からするに、部屋の入口から発砲されたようだった。おそらく、アリッサの言う通り標的は調教師(ハンドラー)で、壁の弾痕は貫通した銃弾によるものだろう。

 

「PCは無事だと思う」

『タイラントの保管容器があるお陰で、そこの電源はまだ生きているはず。起動ができるかどうか試して。パスワードはあなたの持つコードで通るわ、それがマスターコードだから』

「了解」

 

 ヴラッドはデスクに腰を下ろし、PCの電源を入れた。起動画面が現れ、立ち上げを始める。暗順応を突き崩そうとするモニターの発光を見るに、アリッサの言う通りここには電気供給が行われているようだ。夜目を失うまいと片目を閉じたままそれを確かめ、リクライニングチェアを引いて腰を下ろす。

 

「こいつ、なんで撃たれたんだと思う」

「わからんね。タイラントでも叩き起こそうとしたんじゃないか」

「なんのために」

「アルヴィンと同じ、身を守るためかも」

 

 クラヴィスの問いに応えながら、ヴラッドは立ち上がったPCのログイン画面にパスワードを打ち込んだ。エンターを押すと、マスターコードを認識したPCがデスクトップを表示する。

 

 並んでいるファイルはそう多くなかった。研究記録、日誌、そしてCAMと表示されたファイル。ヴラッドはPC脇のケースに目を留め、その中に収まる記録ディスクを適当に引っこ抜いた。何枚か差し込み、空のものに研究記録をコピーする。

 

 背後を振り返り、部屋の入り口で警戒に当たるマディソンらを見やる。彼らも、その側で退屈そうにあくびをするアルヴィンも、敵を感知した様子はない。

 

 ヴラッドはそれを確かめ、椅子に腰掛けたまま日誌を開いた。

 

 

 

 

 一月一五日

 

 依然として、既存のタイラントシリーズには多くの問題点が確認されている。

 

 その中でも特に大きな問題点は制御性の低さと知能の低下であり、前者は兵器としての運用面で大きな障害となりうるだろう。

 

 私一個人としては兵器としての性能に興味はないが、本社が要求してきた改善点に盛り込まれている以上、これに対しての対策を講じる必要があるのは間違いない。

 

 

 

 二月一〇日

 

 抑制剤によってTウイルスの副作用である知能の低下を抑え込む方針を試したが、現状において満足の行く成果を上げていない。

 

 アリッサが開発したAL-001Wの作成データを参考にしてみたものの、彼女の言う通りヒト科をベースとした場合、その効果には大きなばらつきが出るようだ。自分自身の身体で実証実験を行った彼女は、相当腹が据わっている。

 

 そもそも、代謝酵素は生き物によって違いがある。狼犬をベースとした兵器開発用に調整した抑制剤をヒト用に再調整したとは言え、自分の体で実験するなどまともとは言い難い行為だ。

 

 彼女は並ならぬ強運の持ち主であるようだ。

 

 少なくとも、私はギャンブルに手を出すつもりはない。

 

 これまでの研究を経て、一つの方策を思いついたが、すでに現段階で失敗作として4体のタイラントシリーズを廃棄処分としている。私の要求に本社が応えてくれるかは、神のみぞ知るところだろう。

 

 どうあれ、こちらの要望が通るにしても数カ月は待つことになりそうだ。

 

 

 

 五月四日

 

 本社に要求していた物が届いた。まだ私の存在価値を認めてくれているということか、あるいは。

 

 どちらにせよ、加工前の素体が届いたのは僥倖だ。クローンとして生み出され、Tウイルスの投与と安定化措置を行った以外には手を加えていないらしい。まさに私の要求通りの素材と言える。

 

 すでにもう一つの素体の手配も始まっているらしい。そちらの用意が整うまでに、この素体との友好関係を築いておくに越したことはない。

 

 AL-001Wの開発、研究を見学しているときに気づいたが、機械的な制御はイレギュラーに対応しきれない可能性がある。形は人のそれであろうと、知能は人には遠く及ばない以上、必要なのはパートナーシップだ。

 

 

 

 五月一五日

 

 『彼』は私のラボの奥、データの保管室で生活させている。どうやら培養機を出て以来、ろくに人間との接触がなかったのか信頼関係を築くのには苦労した。が、すでに私の名前を理解し、日に数時間コミュニケーションをとっている。

 

 しかし、本当に私の希望通りの素体で助かった。移植を手順に組み込んでいる以上、身体は可能な限り発育していることが好ましい。培養機で育ったがゆえに知能、自我共に幼子と同程度だが、それは教育でどうにかなるだろう。

 

 それに、『彼』の発育速度は目覚ましいものがある。すでに言語によるやり取りが可能であり、空間把握能力や運動機能も問題ない。

 

 しかし、私一人では教育に十分な時間をとることは難しい。

 

 アリッサを引き込むことには失敗した。明日、レイラに話を持ちかけてみよう。

 

 

 

 六月一七日

 

 『彼』が望んだため、時間を作って下層の実証実験用エリアへ連れて行った。レイラは彼の教育を手伝うことを随分と渋ったが、最終的には協力してくれた。『彼』も随分と我々に懐いている。

 

 しかし、T-103に加工する前だと言うのに『彼』の身体能力はずば抜けている。これが完全適合者の遺伝子の為せる技であるとすれば、これから先、そういった優れた遺伝子を持つ人間が世界のあり方に大きな影響を与えるかもしれない。

 

 ヨーロッパの支部が寄生生物を植え付けたT-103の派生型の開発を開始したとの噂を耳にした。計画を急ぐ必要がある。

 

 

 

 八月二日

 

 アークレイ研究所で漏洩があったという話は耳にしていたが、どうやら保管されていたタイラントが撃破されたらしい。ラクーン市警の特殊救助部隊が相手だったと言う話だが、警察の部隊に撃破されるとなれば、今後更に改良要求が届くのは間違いない。

 

 少なくとも、兵器として売り込むつもりがあるのなら、より強靭でより制御性に優れたものでなくてはなるまい。現在の性能では、兵器として以前にモノとして美しくない。

 

 ヨーロッパの支部では寄生生物を利用したより高度の安定性を持つ個体の開発が実証段階へと進んでいると聞く。

 

 本体の脳とは別に制御系を用意する考え方は前から噂程度に聞いていたが、このままでは私の立場が危うくなる。計画の実行を急がねばならない。

 

 

 

 八月一一日

 

 かねてより、『彼』とのコミュニケーションには最新の注意を払ってきた。

 

 ただパートナーシップを結ぶだけでは関係性に不安点が残るため、参考書と専門家に意見を仰いで方向づけを行ってみたが、上手くいっているらしい。レイラはこれを洗脳だと非難したが、単に『彼』が協力してくれるようにこちらが環境を整えただけだ。

 

 それにしても最近の彼女は精神的に落ち着きがない。助手としてこれでは困る。代役を用意するべきだろうか。

 

 

 

 八月一三日

 

 『彼』が私の要望に同意してくれた。渋る可能性も考慮していたが、迷う素振りすらなかった。私のことを父と慕ってくれるだけに、素直に協力してくれることは私としても喜ばしい。どこかの出来損ないとは違う。良い息子だ。実行に関してはレイラの協力を得ることは断念した。私単独で実行することにする。

 

 すでに素体T-103の調整も終了済みであるため、『彼』のバイタルチェックを完了し次第取り掛かるとしよう。残りの調整項目はそう多くない。

 

 

 

 八月一七日

 

 移植は成功した。

 

 『彼』の元の身体は廃棄処分とする。

 

 

 八月一九日

 

 移植から二日が経過。

 

 当初予想されていた移植後の拒絶反応は確認できず。すでに神経系は問題なく接続されているようだ。Tウイルスの効果を最大限引き出せる完全適合者のボディなくして、ここまで至ることは出来なかっただろう。並の人間の脳を移植するのは今現在の技術では不可能と言っていい。

 

 

 

 八月二九日

 

 安定期間を経て彼を起動してみた。

 

 こちらの希望値にこそ届かなかったものの、私のことを認識出来ているらしい。声を発することは現状では不能な模様。またやはり、移植後に知能の低下が起こったのか、以前のような円滑なコミュニケーションは不能らしい。

 

 だが個人を認識し、こちらの言葉やジェスチャーに反応を示すなど、以前のT-103では望むべくもなかった進歩だ。これをもってすれば、アンブレラ本社に私の功績を売り込んでよりよいポストを手に入れるのも夢ではないだろう。

 

 これより、『彼』の開発コードをT-103Sとする。

 

 被検体(Subject)の運動試験は明日以降に実施する。

 

 

 

 九月四日

 

 レイラが被検体(Subject)を発見。彼女には本当に失望させられた。

 

 随分と罵られたが、まあ構うまい。彼女にはこの結果の持つ意味が理解できないのだろう。

 

 しかし、代理の助手探しには随分と難航している。アリッサにももう一度話を持ちかけたが、彼女は私の成果に興味を示さないどころか、その態度からは軽蔑すら感じられる。

 

 全く、女というのは本当に度し難い。妻もそうだったが、なんともまあ難儀な生き物だ。

 

 

 

 九月一六日

 

 被検体(Subject)の状態は良好。

 

 起動後、段階的な知能の低下が見られたが、現段階では安定している。現状のままでも個人識別は可能。また空間把握能力に長け、『敵』の脅威度識別をこちらが教えるまでもなく実行している。驚くべき成果だ。

 

 ハンターの手の届くところに出るのは私としても経験したことのない恐怖ではあったが、実証実験で彼は私を守りつつα6体を殲滅した。記録映像にも残してある。これを本社に送れば、私の成果の偉大さを理解するだろう。

 

 現段階では、Tウイルス抑制剤、促進剤共に使用する必要はないと判断する。ただし、今後暴走状態でのコントロールを実験する場合、意図的に暴走状態に落とし込む必要があるため促進剤のストックは用意した。

 

 タイラントの知能問題の解決には苦労したが、そもそも自律的な兵器にある程度以上の知能を与えるのは、それはそれで問題となりうる。下手に頭が回るより、多少馬鹿でいてもらったほうがなにかと都合がいい。獣と人間の関係性はそうやってバランスを取るものだ。

 

 現にヨーロッパ支社のNE-αは脱走を企てた個体がいると聞いている。

 

 『彼』は私の忠実なしもべだ。

 

 

 

 九月二四日

 

 突然施設がロックダウンされた。私の成果を本社へと送ったばかりだと言うのに!

 

 一体何が起こっているのかわからないが、ロックダウンの際に保管システムに問題が生じたのか、すでにαが保管容器を破壊して脱走したらしい。

 

 またTウイルスに感染した職員も数人確認されており、保安要員らが応戦しているが、状況は芳しくない。外部への脱出は現状かなり困難と言わざるを得ないだろう。

 

 『彼』を起動する必要がある。保安要員と研究員は反対しているが、現段階で安全を確保する方法はこれしかない。

 

 起動後の戦闘データは施設内の監視カメラの映像で十分に足りるはずだ。

 

 



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ブレイクコンタクト

久々の連続更新です。


 日誌はそこで終わっていた。

 

 ヴラッドは研究記録のコピーを終えたディスクにそれを移しつつ、畜生めと呟いた。なるほど、アリッサが詳細を濁したわけだ。彼女は全てを知っていたはずだが、この内容は口に出すのも憚られる。

 

「どうした」

「読んでみろよ」

 

 こちらの苦い顔を見、首を傾げたクラヴィスにPCモニターを示してやる。デスクに寄って日誌を読み始めた彼と入れ違うようにして、ヴラッドは倒れた調教師(ハンドラー)の死体に歩み寄る。

 

 男の死体は仰向けに横たえられていた。胸にはトーマス・マクダネルと名札が括り付けられていた。

 

 この男が日誌の著者にして研究主任だろう。

 

「あのバケモノ、T-103とかいうのを改良したってことか」

「生きた人間の脳みそをすげ替えてな。素晴らしい。ろくでなしの缶詰だな、この会社は」

 

 日誌をざっと読んだらしいクラヴィスの声に、ヴラッドは頷いた。クラヴィスがマウスを操作し、CAMと記されたフォルダを開く。中にあるのは動画形式のファイルで、その中で最も新しいものをクラヴィスが選択した。

 

 

 

『博士! マクダネル博士! やめるんだ! そいつを起こすなんて正気じゃない』

 

『君たち、まだ分かっていないのか? 彼を起こさないかぎり、私達はハンターの餌食になるだけだ、もうこれしか無い!』

 

『バケモノを増やすだけだ。博士、やめるんだ、これは最後の警告だぞ!』

 

『彼は今までのT-103とは違う。全く新しい存在だ。私の忠実な()()()だよ、君たちにも危害は加えない』

 

『くそ、撃て!撃て!』

 

 

 

 映像は部屋の隅に取り付けられたカメラが撮影したもののようだった。赤色灯の踊る通路から部屋の中へ銃を向けた保安要員と、なまりのある博士の口論の様子が写っている。

 

 博士は保安要員の静止を無視し、円柱の中で保管されたT-103Sの起動手順を実行しようとした瞬間、保安要員に撃たれた。

 

 モニターに接続されたスピーカーが銃声を鳴らし、セミオートのライフル弾を複数浴びた博士の身体が跳ねる。そのまま彼が倒れ、保安要員が部屋に入って博士の死体を脚で小突き、死亡確認する様をモニターが映し出す。

 

 その後もまだ動画は続いていた。保安要員が部屋を出てそうかからず円柱の中で動きがあり、被検体(Subject)、あるいは『彼』とマクダネルが呼んだ巨人が、保管容器の壁をぶち破って部屋へ飛び出す。

 

 そこからは、見るまでもなかった。ドアもろとも壁を叩き割り、廊下へ飛び出た大柄の背中。廊下で銃火が瞬き、スピーカーがひび割れた悲鳴を垂れ流す。

 

「イギリス人め」

「なまりがキツイのなんの」

「ネーミングセンスも最悪だ」

 

 デスクトップに転がるファイルを全てディスクに移しながら、クラヴィスがヴラッドの発言に首を傾げた。

 

「ユーモアのセンスがひねくれてる。T-103Sの被検体(Subject)、もう一つの意味は臣民(Subject)だ。英国じゃ、未だに公的な場じゃ国民をそう表現する。日記に()()()って書いてあっただろ」

暴君(Tyrant)が忠実な臣民(Subject)とはね。それにしちゃ随分と好き勝手やってるが」

「上が死んだら順位繰り上げだ。王位継承権はあいつの手に」

 

 なるほどと頷いたクラヴィスが、呆れた様子で溜息をこぼす。コピーを終え他にめぼしいものがないことを確かめると、彼はディスクをPCから取り出した。

 

「ヴラッド、世間話はいいが……来たぞ」

 

 ドアに立ったマディソンが声を潜めて囁いた。見れば、アルが身をかがめ、小さく喉を鳴らしている。危険な徴候を察知した合図だ。

 

「アリッサ。データは回収したが、タイラントに動きは」

『特に目立った動きはないわ』

「アルが異変を察知した。周囲の生きてるカメラを確認してくれ」

 

 少し待ってちょうだいとアリッサが言った。ヴラッドはカービンを手にしてぶち抜かれたドアに戻り、クラヴィスがあとに続く。アルヴィンは耳を動かし、鼻を鳴らして敵の方向を探っている。

 

『見つけた。ハンターαがそっちへ二体、いえ、三体以上。死角に入られて確認できないけれど、そこへ辿り着くまで残り三〇秒もないわ』

「了解……一度撤収するぞ、ここで押し込まれたくない。ジョエル、グレネード」

 

 ヴラッドが指示すると、ジョエルはポーチから手榴弾を取り出してレバーとピンを留めるビニールテープを引き剥がした。耳をすませば、かちかちと爪が地面に当たる音が近づきつつあるのが感じられる。アルヴィンがわずかに低くうなり、戦闘に備えて姿勢を更にかがめる。

 

 音と距離を勘案し、最適のタイミングを探る。アリッサがカメラで通路を確認しているのか、およその到着時間を告げた。

 

「ジョエル」

「オーケー」

 

 レバーが弾けてから爆発まで約五秒。それを頭に留め、早めのタイミングで合図を出す。アリッサの話では知能はほぼ皆無と言っていいハンター、野生の勘とやらが手榴弾相手に働くとは思えない。

 

 ピンを抜いたジョエルがグレネードを廊下に投げ込み、破片を警戒して部屋に引っ込む。足音が近づき、ごく至近にまで接近するとほぼ同時に手榴弾が弾けた。

 

 爆風がドアを失った入り口から吹き込み、火薬の燃焼臭が鼻をつく。飛び散った破片が廊下の遥か遠くに突き刺さる音を聞きながら、ヴラッドはクラヴィスを引き連れて廊下へと飛び出した。

 

 無数の破片を至近距離から叩きつけられ、血を吹き出したハンターが地面でのたうつ。それに狙いをつけてたっぷりの銃弾で始末する間に、クラヴィスは後から遅れて来た個体が爆風に怯んだ隙をついてスプリングフィールドを叩き込む。

 

 クラヴィスが狙った相手は一度横にステップして弾を避けようとしたが、死体が積み重なる狭い通路では限界がある。避けきれずに一発を受け、よろめきつつ飛びかかろうとしたが、それこそ愚策だ。

 

 脚が地面から離れれば、あとは料理されるより無い。弧を描いてこちらへ飛んだそれに、二人がかりで連続してライフルを叩き込む。こちらに続いて部屋を出たマディソンとジョエルが、反対側へと発砲するのが聞こえた。

 

 軌道を変えようもない空中でライフルの雨を浴び、血を撒き散らしてハンターが地面へと転がり落ちる。油断なく、更に二人がかりで追加の銃弾を叩き込む間に、背後でアルヴィンの唸りが轟いた。

 

 通路の奥から増援のないことを確かめ、銃声が連続する背後へ振り返る。ごく至近に接近したハンターへとアルヴィンが飛びかかり、伸ばした爪でその腕もろともに胴を引き裂くのが見えた。

 

 白い毛並みが踊り、腕を失ったハンターが耳障りな雄叫びを上げながらもう片腕を振るわんとする。それめがけてジョエルとマディソンが火力を集中する間に、十分戦力を削いだと判じたか、奥から壁を蹴るようにして左右に跳ねながら接近するハンターαへとアルヴィンが突撃した。

 

 目にも留まらぬ速度で駆けた白い影は、人間をいともたやすく引き裂くだろうハンターの斬撃を跳ねて躱しつつ、大きな顎で爬虫類じみた顔面へ噛み付く。上がる悲鳴。そのまま地面へ引き倒し、前肢を振るう。

 

 ごそりとハンターの顔面が消失した。もとい、削り取られた。ライフル弾をたっぷり浴びせない限り殺しきれないバケモノをたったの一撃で始末するそのパワーに見惚れる間もなく、耳に差し込んだイヤホンがアリッサの張り上げた声を流し込む。

 

『聞こえている? タイラントが動き出したわ、すぐにその場から離れて!』

 

 その声は、これまでの冷静なアリッサにしては珍しく焦りが滲んでいた。同じ周波数に無線をあわせた部下が顔を見合わせ、ほぼ同時に通路の奥で破壊音がとどろく。最初の接触でも耳にした、壁をぶち破る音だ。

 

「耳ざといな、くそ。銃声にゃ寄ってくるか」

「走れ!」

 

 タイラントの足音は、最初の接触と違いその間隔がかなり短い。腹に響く重い足音が徐々に強くなり、確実に距離を縮めていることを示した。その間にも、何度か壁を突き崩す重い音が連続する。

 

 向こうは壁をぶち破り、こちらへの最短経路をとっている。ヴラッドの声に急かされるまでもなく、分遣隊は全速力でここまでの経路を引き返す。

 

 アルヴィンが先頭に立ち、ヴラッドたちはその背を追うようにして走った。アルヴィンは走りながら時たまこちらを振り返る。その様子は、人間の遅さをあざ笑っているかのようで――。

 

 壁の破壊音が、ほとんど真横から聞こえる事に気づいた瞬間、目の前に腕が生えた。突き破られた壁の破片が飛び散り、それを受けたジョエルがよろめく。クラヴィスとマディソンが駆け抜ける足を止めてこちらを振り返ったが、粉塵と破片をまとった巨体が壁を突き崩して間に立ちはだかった。

 

「通路の意味を教えてやろうかデカブツ!」

 

 前後に分断され、ジョエルが怒鳴りながらM4カービンをバーストで叩き込む。同時にヴラッドも背後へ下がりつつカービンを連射した。弾雨を受けたタイラントは、こちらに狙いを定めたらしい。

 

 血塗れのコートはライフル弾の猛攻によってズタボロになっていたが、その向こうの肉体はダメージを受けた気配すら見せない。

 

 クラヴィスとマディソンがその向こうで叫んだが、銃声が全てを押し流した。ヴラッドはゆったりとこちらへ振り返るタイラントにあらん限りの弾丸をぶち込みつつ、無線の送信ボタンを押して怒鳴る。

 

「先に下がれ! アンブッシュポイントで待機してろ!」

 

 マズルフラッシュが全てを押しつぶし、薬莢が破片と血で埋まった廊下へ降り注ぐ。残弾ゼロ、動作を止めたカービンから弾倉を引き抜きつつ、ヴラッドは踵を返して距離を取る。ジョエルもそれに続き、二人揃ってカービンの弾倉を入れ替えながら、足元の誰ともしれぬ死体を飛び越えた。

 

 背後、こちらを追うタイラントの足音が、最初は重く間をおいて、そして徐々にその間隔を縮めて迫る。この先の通路構造は自分には未知の領域、かつハンターの残数が不明な以上正面を塞がれる可能性がある。どうにかして進路を変更するべきだ。

 

 瞬時に思考が走り、さらに距離を詰めた巨人の足音が地に杭を打つように重く轟いた。背後、無言の巨人が低く唸った。それは巨体の威容からすると控えめなものだったが、獲物を追い詰めた狩猟者の勝利の確信をにじませている。

 

 本能的に上体をそらし、首を横へ曲げる。ともすればよろめきかねないほどの風圧が肌をしびれさせ、背後からの必殺の一撃が横を駆ける。バランスを崩し、壁に肩からぶつかったヴラッドは、左拳を空振り、獲物を捉えそこねたタイラントがその反動を利用して上体をねじるのを見た。

 

 発達した、などという表現では生ぬるい筋肉がコートの下で蠢き、腰を捻って右拳を放つ。まともに受ければ文字通り一撃で相手をひき肉へと変える拳が顔めがけて飛んでくる。こちらを第一の抹殺目標と決めた人造の巨人の目は、その奥にどろついた色をにじませていた。

 

 こちらへ狙いを定めたタイラントへ、ジョエルが背中めがけてカービンを雨あられと浴びせたが、そんなものではこの暴君は身じろぎもしない。

 

 眼前の血に濡れた拳を見、ヴラッドの頭が何かを考える間に、巨体と壁に挟まれた身体が身をかがめて地面を蹴った。戦闘、それも極至近距離での殺し合いにおいて、肉体の動きは思考を飛び越えるものだ。

 

 間一髪、先程まで顔面があった位置へ拳が突き刺さる。地面に転がったヴラッドは無理に姿勢を立て直すことをせず、勢いに任せて地面を転がり、片手をついて上体を起こした。立ち上がろうとした腕をジョエルが引っ張り、二人揃ってマディソンが待機するアンブッシュポイントへと全速力で走る。

 

 一度ならず二度までも殺しそこね、タイラントが苛立ちをにじませた低い唸りを上げる。腕を壁から引き抜いて追跡を再開したそれを振り返る気にもならず、ヴラッドは無線へ怒鳴った。

 

「フレデリック、主電源を再起動しろ!」

『了解!』

 

 電源を再起動して搬入路をアクティヴにすれば、こちらの撤収を阻むタイラントをそちらへ誘導できる可能性がある。そう考えての手だったが、返答からややあって通路の照明が蘇っても、背後の足音はこちらの追跡を諦める気配ない。

 

「ハッ! 彼女の見立ては空振りだな!」

「黙って走れ!」

 

 ジョエルがわめき、ヴラッドはライフルを背に回して装具で重くなった身体に鞭打つ。天井に埋め込まれた照明が白い光を撒き散らし、赤い薄闇に慣れた目に突き刺さったが構う余裕はなかった。

 

 白く照らされたことでより一層血の色が目立つ通路を駆けた。曲がり角ではほとんど減速せず、壁を蹴るようにして向きを変える。次のコーナーを抜ければそこが待ち伏せ地点、こちらを追い詰めんと迫る足音は、徐々に距離を縮めている。

 

「行くぞマディ! 起爆は任せた!」

 

 酸素を欲して熱を帯びる肺に無理をさせ、最後の曲がり角をよろめきながら通過する。背中で感じる足音は、こちらの心臓を踏み潰さんとするかのように重い。

 

 直線の奥、隣のエリアとの連結路へと繋がる廊下の奥で、スプリングフィールドを構えたクラヴィスと起爆装置を手にしたマディソンが見えた。壁際に設置された即席の対人地雷を通り過ぎ、クラヴィスが気休めの銃撃を始めてすぐ、背後で爆発音が弾ける。

 

 信管が電気信号により起爆し、それによって目覚めた爆薬が、敷き詰められた膨大な数の鉄片を撒き散らす。背中越しに撒き散らされた破片が跳ね回る恐ろしい音を聞き、ちらりと振り返ると、キルゾーンに引きずり込まれたタイラントは、まともに地雷の一撃を食らったようだった。

 

 だが、腕で顔をかばったソレは粉塵を払いのけるように腕を振るうと、再び足を前へ踏み出した。至近距離で弾雨を受け、大きく引き裂かれたコートの下からは血が覗いたが、傷の殆どは早くもふさがり始めている。

 

「だめだ、逃げろ! アリッサ、こっちが通過したら通路を跳ね上げてくれ!」

『急いで頂戴』

 

 効果なし。分かってはいたが、この程度の攻撃で止まる相手ではない。マディソンとクラヴィスはすでに手順通り撤収に移り、Yの字型の連結路へと走り込んでいる。遅れてヴラッドとジョエルが飛び込むと、アリッサが通路を跳ね上げた。

 

 切れかけた息を整えて背後を振り返ると、タイラントは塞がれた進路を前にして、ただこちらへと、殺意に満ちた視線を向けていた。

 

 

 

 

 

「だから言ったじゃん、信用できないって」

「あれは彼女のミスじゃない。それを言うなら、俺が用意させた即席対人地雷(クレイモア)も足止めにすらならなかった。予想通りに行かないのは戦場じゃいつもどおりだ」

 

 消耗したマガジンにライフル弾を詰め込みながら、部屋の隅で膝を抱えてこちらを見つめるリアムに返し、ヴラッドは肩をすくめた。

 

 威力偵察で得られたのは正面からぶつかる以外に解決策がないという結論だけだ。こちらには大いに食いついたが、相手は間にある壁という壁をぶち抜いて最短経路で突っ込んでくるバケモノだ。

 

 うまいこと引きずり出してから追跡を撒くというのは無理難題と言っていい。

 

「それで、どうする。ちょっかいを出し続けようにも、こっちの手持ちの弾薬だって有限だ」

「補充分はまだあるが、そもそも豆鉄砲で殴り掛かってどうにかなる相手じゃない」

 

 マディソンがひらひらと手にした起爆装置を揺らし、ヴラッドは満タンにした弾倉を自分のベストに押し込む。

 

 M4カービンが通用しないことはわかり切っていたが、クラヴィス曰く、より大口径かつ大威力のスプリングフィールドでも目に見える効果はなかったらしい。

 

 クラヴィスのライフルが分遣隊内において最も高い威力を持つが、それでもアレにとっては豆鉄砲ということか。

 

「電源は再起動した。あとは隔壁のコンソールにアクセスして、解放、脱出だ」

「口にするのは簡単だが、隔壁が完全開放されるまで5分かかるんだろう。その間どうするよ、あいつが暴れまわるのを眺めてられる特等席があるわけじゃあるまい」

 

 脱出までの道筋は単純明快、しかしそこに横たわる障害はあまりにも大きい。ジョエルが問いかけ、分遣隊の視線が自分へ集まる。壁に背を預け、マディソンが用意したパウダータイプのインスタント紅茶をすするリアムとシャーロットも、指揮を執るヴラッドを見つめていた。

 

「撃破する。それしかない。それが不能でも、一時的な行動不能に持ち込むよりない」

「だから、それをどうするのかって話だ」

「装甲目標に対する対処法は通常どうなる」

「対装甲火器で気合い入れて叩き潰すか対応可能な車両を用いる。手元にあればな」

 

 無いだろ、とジョエルが首をかしげる。最も信ずべき指揮官にすら打開策が見いだせぬ状況に、部下は一様に疲労を滲ませる無表情をこちらへ向けていた。例外は戦闘の門外漢たる3人のみだ。

 

 リアムとシャーロットはこちらに頼らざるを得ないもの特有の、すがるような色合いをその瞳に浮かべている。アリッサだけが、小さな笑みを形の良い唇に浮かべていた。

 

「残念ながら投射手段はない。よって遠距離からの撃破は不能だ。インファイトに持ち込まざるを得ないが――対装甲火器はある」

 

 ヴラッドははっきりと言い切った。その声は、勝利への道筋を明確に見据えた自信をにじませていたが、それが空元気に等しい、吹けば飛ぶような不確かなものであることを理解しているのは口にした本人だけだ。

 

 ヴラッドの自信にあふれた声に、周囲の人間は揃って首をかしげる。それを見渡し小さく笑ったヴラッドは、今まで何度それの世話になったと思っているんだと問いかけた。

 

「おい、お前それ本気で言ってるのか?」

 

 ただ一人、その言葉の真意に行きついたらしいマディソンだけが困惑の声を上げた。

 




 さあタイラントを始末しよう!
 無理ゲーやがな。


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危険に挑むものにこそ

「おっさん、どうやってアイツを倒すのさ」

 

 モニターを注視し、必要な材料の捜索に向かった部下の周囲の安全を確かめるヴラッドにリアムが問いかけた。モニターには、再びゲート前へ戻ったタイラントの姿も映し出されている。電源が復旧し、こちらが安全圏に撤退して以来、再びあの巨人は不動の門番としてそこにたたずんだままだ。

 

 材料の捜索に向かったクラヴィスら四人は現在、この施設への進入路が存在するノースエリアの制圧を行っている。そのため直接タイラントと接触する可能性は低いが、この保安オフィスから操作できるのは管理下にあるサウス02エリアの連絡通路のみである。

 

 遥か眼下に備品の詰みあがった下層エリアを望むY字連絡通路のうち、サウス01とノースをつなぐ通路はいまだ開通状態にある。仮に彼らがハンターなり死者なりと接触して戦闘が発生した場合、再びタイラントが移動を開始する可能性があった。

 

「言ったろ、対装甲火器はある。正確に言えば、その弾頭部分が」

「それじゃわかんないよ」

「俺たちの手元には、硬い相手をぶち抜ける弾頭に相当するものがある。もちろん、発射機能はないから接近して直接叩き込むしかないが」

 

 要は貫通力の高い爆弾ってことだ、と簡単にまとめてやると、リアムは完全に理解したわけではないものの、タイラントに有効な手札があることは飲み込めたらしい。

 

「まさか、()()()()()()()()がこれだなんて、冗談でしょう」

 

 地面に座り込み、物珍しいのかアルにじゃれつくシャーロットの面倒を見ながらアリッサがこちらへと眉を上げて見せる。リアムに比べてまだ幼く、世間というものを知らないシャーロットは、兄に比べてアリッサに対しての警戒心は薄い。

 

 専用の消毒設備でハンターの返り血を洗い流し、ようやくひと心地ついたばかりのアルヴィンに抱き着いたシャーロットは、アリッサにアルのことをあれこれと尋ねている。当のアルヴィンはといえば、自分にじゃれつく少女を迷惑そうに見つめつつも、その大きな身体を地面に横たえてされるがままの状態に甘んじていた。

 

 一方のリアムは、アリッサへとわずかに眇めた眼差しを向け、それからこちらへと向き直る。

 

「大いに真面目だ。これ以外に手があればそっちを考えたが、あいにく今はこれが最適解だ」

「あなたを見ていると、正気の意味とは何かを考えさせられるわね」

「噂じゃ、複数の特殊部隊員への精神検査の結果、ほとんどの隊員に一般的には精神異常と判断される何かしらの兆候があったそうだ。こんな仕事、世にいうイカレポンチでもなきゃ選ばんよ」

「異常の中の正気というわけね」

「正気の意味は時と場合による。戦う以外にない状況であれば、たとえ戦闘がどれほど過酷で不利だったとしても、逃げるという選択こそ正気じゃない。不利であっても、手元の手札で挑む以外の正解がないのであれば」

 

 まさに今、この状況こそがそうだろう。そうつけたし、モニターの中を慎重に進む部下の背を見やる。この考えは、同じ戦場を職場とする人間にしか――それも一線級の精鋭にしか理解できない考え方かもしれない。

 

「おっさん、戦うのは怖い?」

 

 モニターを注視するこちらの横顔に何かを見たのか、あるいはふと思い浮かんだ疑問がそれだったのか。リアムの問いに視線だけを向けると、彼は眉尻を下げ、真剣な顔でこちらを見つめている。

 

「怖いね。戦っている最中ですら、ひどく怖い。どんな小さな戦いでも、常に何かしらの恐怖をどこかに抱えてる。でもそれが正解なんだそうだ。怖いことが正しい」

「怖いのに戦うんだ」

「まったくもって不思議な話だよな。怖いと思っているのに、それでも任務だからって戦場に向かう。普通に考えれば頭がおかしい。戦うのも、死ぬのも怖いってのに」

「変な話」

 

 到底理解できない、そう言いたげな顔で肩をすくめて見せるリアムに、俺もそう思うねと頷いてやった。それはまごうことなき心からの同意だったが、彼はその意味をどうとらえたのか、小さくごめんと謝った。

 

「特殊部隊員なんて頭がおかしいやつばっかりだ。気にすることじゃない。俺はイカレてる、あいつらもイカレてる。それだけの話」

 

 そうでなければ、こんな仕事は務まらない。たとえ宣誓をし、覚悟を決めていたとしても、戦闘の中で体を蝕む恐怖と何十何百回と付き合い続けるなど、普通の人間には耐えられないだろう。

 

 肩をすくめたヴラッドに、アリッサが小さくからかうような笑いをこぼした。

 

「でも安心したわ、あなたがしっかりと()()であって」

「いつだって怖い。特に、戦闘が終わった後は。アドレナリンがぬけて、死にかけた実感が戻ってくる。弾がすぐそばに着弾したとか、殺人パンチが俺の脇に突き刺さったとか。でもそれがひどく安心する。俺はまだぶっ壊れちゃいないってわかる。まだ正気で、()()()()()()()()()()()()

「恐れを抱きながら、それでもまだ戦うのね」

「仕事だからな」

 

 ヴラッドは肩をすくめ、目的の備品倉庫にたどり着いたことを報告するフレデリックの声に了解と返信する。彼らのいる通路は奥までカメラの視界に収まっているが、備品倉庫の中は視界外だ。その中にはカメラもない。

 

 ドアを開け、マディソンとクラヴィスが踏み込む。後に続いたジョエルとフレデリックの背を見送り、ヴラッドはタイラントを映す搬入路のカメラへ目を向けた。不動の巨人には、いまだ動きがない。

 

 それは、マディソンらが数人の死者をカービンで始末しても同じだった。電源を再起動した時点でアレが唯一の出入り口をより重視するというアリッサの見立ては、ある程度的を射ていたことになる。現状の様子から見るに、こちらが姿を現すまでそこを動く気はなさそうだ。

 

「どうしても戦わないといけないの?」

「ここに籠もっていれば問題が解決するわけじゃない。水も食料も限りがある以上、突破しないとジリ貧だ」

 

 もって数日、それなら体力気力ともに余裕があるうちに勝負を仕掛けたほうがいい。そう続け、ヴラッドはモニターへ据えた眼差しをわずかにリアムへと移した。

 

 助け出してから、わずか一日。その間にもう何度も無茶を押し通してきた。それを見てきたがゆえに、こちらを見上げるリアムの目には諦めに近いものが滲んでいた。

 

「もちろん、迂回路があればそっちを選ぶ。不必要な戦闘は御免こうむるからな。だがあいにく、あいつは俺たちを絶対に出したくないらしい」

「でも、おっさんのライフル、全然効かなかったじゃん」

「だから対装甲火器を用意するんだろうが。バカ正直に豆鉄砲担いで殴り込んで、さっくり全滅する腹積もりに見えるか、俺が」

 

 自分の胸に手を当てて聞いてみなよ、と臆することもなく、悪びれもせずに鼻を鳴らすリアムの態度にアリッサが僅かに笑ったのが感じられた。

 

「全く失礼な坊主だな、ほんとに。俺には俺の考えがある。いまのところ失敗もなく、死人も出てないし俺も死んでない」

 

 誰かを死なせる気も、俺が死ぬ気もないねと肩をすくめながら、ヴラッドは愉快とばかりに目を眇めたアリッサを睨めつける。彼女は涼しげな眼差しをこちらへちらりと流すと、そのまま、ほんの僅かな笑みを形の良い唇の端に刻んだ。

 

俺達じゃなく、死ぬのは奴らだ(we live and let them die)

「本当に映画が好きなのね、あなた」

「手軽な娯楽と教養の根だからな」

「それにしたって強引過ぎる引用じゃないかしら」

 

 こちらの言に思わずといった様子でゆるく頭を振るアリッサ。それを見やり、それから意味がわからないと言ったげにリアムがこちらを見上げる。こちらの会話が気になるのか、シャーロットがアリッサにヴラッドの言葉の意味を問うた。

 

「映画と小説のタイトルよ。死ぬのは奴らだ」

「それ、他人を尊重しろってコトワザのもじり?」

「そうよ」

 

 少し考え込んだリアムの問いに、アリッサがうなずいた。ふうん、と気のない返事を返したリアムは、片眉を持ち上げてヴラッドを見やる。

 

「ほんと、乱暴だと思う」

「酷評どうも。いいんだよ、原義はお上品だが、この街にラブ&ピースは存在しない。死ぬのは奴らだ(Live and let die)

「それ、かっこいいと思って言ってるなら、ダサいよ」

 

 わざとらしく眉をひそめてみせたリアムの額を小突き、ヴラッドは小生意気なクソガキめと小さく呟いた。節くれだった指先で額をこづかれ、わずかにたたらを踏んだリアムがガキじゃないと反駁する。

 

「ガキにゃわからんセンスってのがあるんだよ。この街を出たら、ポール・マッカートニーに謝りたくなるまで聴かせてやる」

「ポールってビートルズの?」

「良く知ってるな。そうだ。映画のテーマを彼が作った。ビートルズが解散した後だが」

 

 おじさんがよく聴いてたから、とリアムが頷く。

 

「なら、いくらでも懐かしい曲を流してやるよ」

「でも、おっさん犯罪者なんでしょ。話してるの聞こえたよ、俺達は罪人だって」

 

 子供らしい、容赦のない無邪気さを孕んだ問いに、ヴラッドは顔をしかめるでもなく小さく笑う。

 

 エレベーターシャフトへ降下する直前、たしかにそんなことを言った覚えがあった。ヴラッドはわずかに伺うような色をにじませたリアムの目を見、それから肩をすくめる。

 

「そう、俺は犯罪者だ。あいつらも。うちの部隊は、そういう奴らの寄せ集め」

「じゃあ、ヴラッドおじさん、刑務所にもどっちゃうの?」

 

 しっかりとこちらの会話に聞き耳を立てていたらしく、シャーロットがアルヴィンの毛並みを弄る手を止めてこちらを見つめた。地面に伏せたまま、アルヴィンはわずかに耳を動かして目をこちらへ向ける。

 

「罪の赦免と引き換えに危ない仕事をしてる。だから家は刑務所じゃなく宿舎。刑務所にいたんじゃ、訓練もできやしない」

 

 罪人、その言葉の含む重みを理解できないのか、街を出た後自分が去ることを恐れるかのように、こちらへ向けられたシャーロットの瞳が揺れていた。一方でリアムの眼差しは、ヴラッド――ひいては自分たちの命綱となる男たちの咎を見定めるように、こちらへまっすぐと据えられている。

 

「なにしたのさ、軍人だったんでしょ?」

「良くない作戦に参加した。そこで、酷いことになった」

「作戦だったなら、おっさんの責任じゃないじゃん。命令だったんでしょ。なにがあったの」

「軍人は命令に従う義務と同時に、その命令によって生じる行為の責任を問われることもある。命令であっても何でも許されるわけじゃない。酷いことになった。それに俺も参加していた。それだけだ」

 

 理不尽だ、とリアムが眉根を寄せる。まあなと、ぼかした物言いから仔細は語れぬこちらの立場をなんとはなしに察したらしいリアムに頷く。

 

「じゃあ、クラヴィスのおっさんとか、マディソンのおっさんとかは」

「それは本人に聞けよ。他人の過去の暗い部分を勝手に語るのはタブーだ」

「じゃあさ……なんで俺たちを助けようとするの。嫌なら逃げればいいじゃん」

 

 ほんの僅かに言葉を選ぶように沈黙をはさみ、リアムが問うた。先程からずっとヴラッドに据えられたままの眼差し、この問いこそが最も知りたいことであると、瞳の奥の勝ち気な色が教えている。

 

「仕事だからな」

「答えになってないよ」

「何が知りたい。兵隊としての俺の答えか、それとも俺個人の答えか」

「どっちも。だってさ、おかしいじゃん。死ぬのも戦うのも怖いって言ってるくせに、死ぬかも知れない作戦なんか立てて」

 

 気になることは気になる。気に入らないことは気に入らない。子供らしい愚直さの中に、育ての親たるスティーヴンの気配を感じ取って、ヴラッドはわずかに目尻を下げた。直接話したこともなければ、人となりもロクに知らないが、それでも子の態度には親の性格がにじむものだ。

 

「まだ聞いてないかも知れないが、俺達は分かりきった地獄に、本当のことを知らされもせずに送り込まれた」

「知ってる。話してるの、聞こえてたから」

 

 寝たフリしてたんだ、と小さく言い訳するように囁くリアムに、ヴラッドは笑ってその頭をわしわしとなでてやる。

 

「なら話は早いな。上の連中の思惑通り、あいつらのオモチャと遊んでただ死ぬなんてゴメンだ。だから、意地でも()()()()をやり遂げる。向こうが期待してなかろうと。これは兵隊の意地」

「じゃあ、おっさんとしては」

「子供を生贄に逃げ出すなんてみっともない真似できるか。星条旗に宣誓した身で、市民のために命も張れませんじゃ話になりゃしない」

「やっぱ変だよ。そんなことのために」

「じゃあ、俺達がお前らを囮にして逃げたとして。俺はマイケルになんて言えばいい? お前たちが、逃げた俺達をどんな気持ちで見てたかなんて考えたくもない。夢見が悪くなるのはゴメンだ」

「……変なの」

「意地を張るのも命と同じだけの意味があるんだよ。大人の男なんてのはな、なよっちくて、プライドがなけりゃ立っていることもできやしない。だから、しかたない。死ぬかも知れないが、世の中トレードオフだ」

 

 後悔は死んでからでも遅くはないしな、と笑って付け足すと、リアムはほんの僅かに口元をほころばせた。

 

「だからお前たちは、堂々とふんぞり返って、俺達に守られるのは当然って顔してればいいんだ。それが当たり前のことで、俺達は命をかけてナンボ。子供が大人に遠慮することじゃない」

 

 ましてや傭兵なんかには特にな、と。そうつけたし、煙草をポーチから引っこ抜く。咥えたそれの穂先に火をつけると、必要なものをあら方回収し終えたクラヴィスが周辺状況を問うてきた。

 

 モニターを見上げるも、タイラントは先程から一切動いていない。

 

 いいことだなと、ヴラッドは内心に笑った。すくなくとも、仕掛けを終えるまではあのままでいてもらわないと困る。

 

 

 

 

 

 

 

 正面突破か、生贄を配して逃げ出すか。それ以外の手がないとわかっているからこそ、作戦人員の中にヴラッドのプランに異議を唱えるものは居なかった。

 

 それ以外に選択肢はなく、そうでもしなければ朽ちるまでここに立てこもるよりない。その事実が目の前にある以上、過酷な戦場を渡り歩いた男たちにとり、障害を叩きのめす以外の方針など存在しない。

 

 それこそが一般人からして、特殊作戦の世界の住人が()()と映る理由に他ならなかった。過酷な状況において冷静さを保ち、そして並みならぬ攻撃性を遺憾なく発揮する精神は、並の人間には備わっていない。

 

 そして、ノーマッド分遣隊に属する男たちはいずれも掛け値なしの精鋭歩兵だ。言い換えれば、世の大多数から見れば異常というよりない選択を、何の迷いもなく合理として選びかねない狂人の集いということになる。

 

 そんな人間の集まりが下す判断は、一般人からすれば常軌を逸していると言わざるを得ない。こちらの詳細なプランを耳にし、あきれ果てたアリッサはもちろんのこと、子供たちからの反発はより強固なものだった。

 

 そもそも、シャーロットとリアムを拾って以来、ヴラッドは常に死の傍を駆け抜けてきた。そうでなくとも二度タイラントに殴り殺されかけているのであるからして、正面切ってあの暴君の相手をするなど、自分が二人の立場であったなら同じように反対しただろう。

 

 しかし、活路はそこにしかない。ヴラッドの裾を引き、もう何度見たかもわからぬ涙目でいやいやと駄々をこねたシャーロット。眉根を寄せ、そんな馬鹿やるやつがあるかと抗議したリアム。あの二人を無事マイケルの元に送り届けるためにはこれ以外にない。

 

 背負った()()()の重みを意識し、マディソンがぎりぎりまで威力と携行性の兼ね合いを煮詰めたそれに手を触れる。手にしたカービンはこの状況では頼りにならず、もしもの場合は背負った即席の対装甲火器にすべてをゆだねるよりない。

 

 時計を見、残った爆薬をすべて使ってトラップを張り巡らせるマディソンの準備完了の知らせを待つ。アリッサが保安オフィスのキャビネットから引っ張り出した地下施設の図面をもとに、タイラントとの戦闘手順、そして隔壁開放の分担は決定済みだ。

 

 フレデリック率いるチームは、施設内に張り巡らされた通気用ダクトを移動し搬入路付近へ移動済みである。あとは準備を終えた自分たちが身をさらし、タイラントをこちらのペースに()()()だけだ。

 

 事前偵察で近隣にハンターの生存がないことはすでに確認してある。自分たちはタイラントを始末する……あるいは、隔壁を解放しフレデリックらが脱出するまでの時間を稼ぎきればいい。

 

「設置完了、起爆装置との接続も問題ない。あとは、これが通用することを祈るだけだな」

「これで沈黙させられれば万々歳。残りは?」

 

 こいつだ、とマディソンが爆薬を詰め込んだバッグをヴラッドへと渡した。中にはトラップの設置に使わなかった分の爆薬、破片代わりの医療器具の山だ。爆破とともに中身がまき散らされ、周囲に甚大な被害をもたらす。

 

「オーケー、やるぞ。フレデリック」

『こちらは指定ポイントで待機中。ダクトからミラーで確認したが、タイラントは動いていない』

「了解、予定通りだ。仮にこちらが向こうを引っ張り切れなかったら、あとはアドリブでやれ。優先順位は、子供、アリッサ、お前、そして俺たちだ。もしもの時は構わず逃げろ」

 

 了解の代わりのダブルクリックをうけ、ヴラッドは前進を開始する。目的地までの道のりは、タイラントの爪痕を色濃く残していた。ぶち抜かれた壁の破片、弾痕、血の海。これから向かう先は、この破壊を生み出した張本人が待っている。

 

 勝ち目はと問われれば、分の悪い賭けと答えただろう。だがそれは足を止める理由にはならない。やらねば待ち受けるのは緩やかな死。その事実を飲み込み、ヴラッドは搬入路前の、吹き飛ばされたシャッターを跨ぐ。

 

 そして、ヴラッドは部下を率いてソレと正対した。暴君の名を関した人造の悪魔は外界への唯一の出口である隔壁の前に立ち、目の前に何の策も見せずに現れた4人の兵士に目を向ける。

 

 色のない瞳、その奥に宿るものを探るには、互いの距離は遠すぎる。しかしそんなことを気にする必要はない。どうせ、確実に殺すためには至近に寄らねばならないのだから。

 

 互いを認識すると同時に、ヴラッド以外の三人が唐突に手にした銃を構えて引鉄を絞った。初手は挨拶抜きの銃撃。それを受け、タイラントは今まで通り痛みを感じさせぬ素振りで足を踏み出す。わざわざ身をさらした間抜けへと歩みを進めるその動きは、ひとまずこちらの予想通り。

 

始めるぞ(プレイボール)

 

 ヴラッドはただゲームを始めるような穏やかな声音で言った。同時に手にしたバッグから伸びる紐を引き抜き、たっぷりの爆薬を詰め込んだそれを投げつける。導火線に点火されたそれは、いまや無慈悲な殺傷兵器だ。

 

 バッグが弧を描き、タイラントの足元へと転がるのを見届けず、4人は一斉に後退した。爆薬量からすると加害半径は相当のものになる。

 

 背後に爆轟。閉鎖空間での爆風は強烈な風圧を生み出し、背中が押される。燃焼臭を鼻が嗅ぎ分けるより先に、派手な先制攻撃、もとい挑発を受けたタイラントが腹の奥深くを揺さぶる咆哮を上げた。

 

「奴もキレるってことか」

 

 クラヴィスが笑い、背後で足音が加速する。振り返らず、予定通りの経路を走り抜けて曲がり角についたヴラッドは、即座に振り返ってカービンを怒れる暴君へと据えた。

 

 発砲、同時に攻撃班の全員が射撃を開始する。タイラントに対しては豆鉄砲も同然だが、火器は撃つことに意味がある。爆発物の破片を全身に食いつかせ、ブーツで地面を踏みしめるタイラントの意識をこちらへ引き付けるだけではない。

 

 火器の吐き出す発砲炎は恐怖を高揚感で塗りつぶす。

 

 瞬く間に弾倉を空にしたカービンを再装填しつつ、ヴラッドは全速力でこちらへ突っ込んでくるタイラントに背を向ける。マディソンとジョエルがそれに続き、追い抜きざまに目配せをした。

 

 ここから、タイラントを引き付けるのはヴラッドとクラヴィスの役割だ。

 

 ヴラッドは経由地を通過したことを確認すると、無線の送信ボタンを3度押し込んだ。行動開始の合図、これを受け、フレデリックたちは隔壁の解放へ踏み切るはずだ。

 

 ヴラッドら攻撃班の計画は、ひたすらに火力を叩き込み、こちらへとタイラントの意識を釘付けにすること。だがそれは同時に、避けえない至近距離戦闘への発展を意味している。

 

 要所要所で銃弾の雨を浴びせて、こちらへと注意を引き付け続けるともなればなおのことだ。徐々に距離が縮まり、名に恥じぬ堂々たる足音に殺意を漲らせたタイラントが迫る。それでも、引き付け役を担う二人の足運びは愚か、銃捌きにも乱れはない。

 

 すべてはアレを始末するために。そして隔壁を解放する十分な時間を生み出すために。それだけがいま意識するべきことだ。

 

 そしてそれを可能にするために、ヴラッド達は十分に入念なトラップを仕掛けた。

 

 最後の経路を全力で駆け抜け、装具の重みと慣性が働く身体を必死に操って、速度を落とさぬままにコーナーを抜ける。マディソンとジョエルの前に飛び出すと、そのまま地を蹴る足を奮い立たせ、背後のタイラントを引き連れそちらへと突っ込んだ。

 

 こちらを追って勢いよく角を抜けたタイラントが突然、はたと足を止める。悠然とした動きで、廊下の隅に設置された銀色の金属トレーへ目を据えた。つい数刻前、ごく至近距離で炸裂した凶悪な対人兵器のことを、アレは記憶していた。

 

 同じ手を二度も食らうわけもない、まるでそう嘲笑うように立ち止まったまま首を巡らせたタイラント。それをヴラッドは振り返る。

 

 彼の眼差しに、失敗を悟った絶望はない。あるのはただ、渾身のいたずらを成功させた悪童の、愉悦に満ちた色だけだ。

 

「おつむ自慢をどうもありがとう」

 

 背後、状況にそぐわぬ朗らかさでマディソンが笑った。それが合図であるかのように、タイラントの頭上で必殺のトラップが目覚めた。

 

 天井に設置した爆薬をマディソンが起爆したのだ。

 

 爆薬が瞬時に燃焼ガスへと転化して建材を吹き飛ばす。爆薬の専門家であるマディソンの設置に抜かりはなく、頭上を支えるコンクリートの塊がくりぬかれ、重力にひかれて落下した。

 

 通路に爆風が生み出す強烈な風が吹き荒れ、まき散らされた粉塵を押し流す。頭上からの不意打ちに反射的に防御姿勢をとったタイラントへ、巨大な塊が容赦なく襲い掛かった。

 

 たかだか数グラムの合金を音速の三倍で浴びせようと押しとどめることもままならないが、すさまじい質量が覆いかぶさればそうはいくまい。背中にのしかかる塊に押され、地面へ倒れこんだタイラント。しかしこちらの攻撃はそれで終わりではない。

 

 前もって床のリノリウムを引きはがし、くり抜いたそこに爆薬を敷設する周到さ。設置した金属トレーは中身のないデコイ。学習能力の存在を考慮したが故の足止め装置でしかなかった。背中に襲い掛かった重さに掠れた、しかし耳を聾する咆哮を上げたタイラントへと、床下の爆薬が第二派を叩きつける。

 

 容赦ない二段構え。練達の特殊部隊員は、罠の張り巡らし方を熟知している。爆風の余韻が抜けきらぬうちに、地面へ押し倒された巨漢の暴君へと成形爆薬の容赦ない一撃が突き刺さった。

 

 ただ設置するだけではこの巨人に対して十分とは言えないが、固形が気体へと昇華する膨大なエネルギー量を一点へ集中するとなれば話は別だ。円錐形に成形された爆薬は、起爆するとそのエネルギーを焦点へ収束させる特徴を持つ。

 

 高温高圧ガスを伴う化学の槍が、人の生み出した悪魔の肉体を抉る。至近で二度目の爆風が吹き荒れ、ヴラッドは手で顔をかばいたたらを踏んだが、設定されたキルポイントへ誘導されたタイラントからすればそんな生ぬるい話ではなかった。

 

 気が遠くなるほどの膨大なエネルギー量を、身動きもとれぬ状態で叩き込まれたのだ。防具と制御装置を兼ねるコートも、装甲を穿つ爆風の前には薄布同然。長く尾を引く断末魔とともに巨人の手が何かをつかむようにもがき、そして地面へ落ちた。

 

 たとえ銃弾を無力化し、想像を絶する筋力をもってして獲物を粉砕する()()()()()であろうと、人類の長く血みどろの戦史が生み出した英知の前では、単純な力学の枠組みから逃れるすべはない。人の悪意が生み出したモノ同士、そこにあるのは純粋な数字の勝負だ。

 

「やったか」

「循環器系か神経系統を完全に破壊しきれた確証はない。アリッサの話と研究データが正しけりゃ、最悪の場合リミッターが外れて暴走状態になるかもしれん」

 

 クラヴィスの独白に返したジョエルが滞留する砂塵を手で払い、倒れたタイラントへ銃口を向ける。肉が焼け焦げる悪臭を嗅ぎながら、ヴラッドは慎重に動きを止めたタイラントへ歩み寄った。

 

 ついに地へ伏した暴君。それを見下ろし、念のためにとどめを刺すべく背負った()()()へと手を伸ばし――。

 

 地に落ちた巨大な指が、ざりと音を立てて砂塵を掻く。

 

 そのまま、砲弾の弾頭のように太い指先がゆっくりと砂塵を握りこみ、握り拳で床を強く叩いた。

 

 馬鹿な、などと息をのむ無様は晒さない。確実な殺害を見込むのであれば、中枢神経系を徹底的に破壊するか全身を粉砕するよりない。それが無理なら、次善の策は循環器系の確実な機能停止。それがこちらのプランを聞いたアリッサの説明だ。

 

 地面に縫い付け、下から成形炸薬を浴びせる方針では、特定の部位への攻撃を狙うことは不可能に近い。そう判断したからこそ、ヴラッドは爆薬量をぎりぎりで調整して()()()を用意させたのだ。

 

 だが、確かに予想外であることは否定できなかった。少なくとも一時的な活動停止程度は見込めると思ったが。命中箇所が急所を逸れたか、あるいは耐久値がこちらの予想を上回ったのか。

 

 目の前で怒りも露わに拳を二度三度と地面へたたきつけたタイラントがもがき、のしかかる瓦礫を押しのけようと上体を起こす。焼け焦げた煙が立ち上り、高熱で一度は焼却された傷口から黒ずんだものが垂れ落ちた。

 

「くそ! フレデリック、そっちは」

『二枚目を解放した。三枚目の解放に入る』

 

 目の前でもがくタイラントの腕、それを覆うコートの繊維が弾けるようにして裂ける。露出した皮膚の下の筋肉が不気味に隆起し、顔を上げたタイラントは今度こそ腹の奥から絞り出す、憤怒の咆哮をとどろかせた。

 

 脈打つ筋肉が肥大化し、蛇が皮膚の下を這うように血管が浮き上がる。ただでさえ重量上げの選手ですらもかすむほどの筋力量、それが目の前で痙攣しながら膨らんでいく。

 

 ――暴走状態だ。

 



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勇気の価値は

「下がるぞ、行け!行け!」

「おとなしく死んでりゃいいものを!」

 

 ヴラッドが叫び、クラヴィスが喚く。

 

 目の前で目まぐるしい速度で変異を始めたタイラント。その様子を観察する必要などない。マクダネルの研究室から引っ張ってきた研究資料の中には、過去の実験で意図的に暴走状態へ追いやられたタイラントの映像も残されていたからだ。

 

 発達した爪、脈打つ心臓。恐ろしい俊敏さと執拗なまでの攻撃性。いままでの比ではない、まさしく暴力の王とでも呼ぶべきその映像を、分遣隊員は事前に確認し終えている。

 

 すでに、今しがた叩き込んだトラップでこちらの手札は殆ど使い果たしたと言っていい。過剰なダメージを受け、自己修復を優先し活動停止へ陥ることに賭けての作戦であるからして、すでにその計画は破綻している。

 

 作戦の成功と失敗は常に表裏一体だ。どんな作戦にも前提条件があり、それが崩れ去ることは珍しいことでもなんでも無い。その結果は、誰かが死という形で贖うのみ。今までに何度もそれを目にし、その渦中に立った身からすれば慌てるようなことではない。

 

「活動停止に失敗、お前たちは逃げろ」

 

 ヴラッドはそれだけを無線に吹き込み、背中に覆いかぶさる瓦礫の塊へ肘を叩き込むタイラントから距離を取る。向こうがこちらへ突撃を開始しても撤退に転じられるギリギリの距離を維持し、カービンを構えてありったけの火力を叩き込む。

 

 タイラントは弾雨に晒されながら、二度三度と自身を縫い付ける瓦礫へ肘を打ち込む。みるみるうちに巨大な塊にひびが入り、そして砕け散った。

 

 空になった弾倉を入れ替え、煙を立ち上らせる銃身を持ち上げる。想像を絶するエネルギーでぶち抜かれ焼け焦げた下腹の傷口を晒すタイラントは、拳を地面に叩きつけ、ゆっくりと上体を起こすと、こちらに眼差しを据えた。

 

 廊下を銃声が跳ね回り、無意味と知ってなお兵士の本能が銃弾を送り込む。しかし、小銃弾の雨などそよ風とでも言わんばかりの態度で悠然と――気品すら感じるほど堂々とした所作で立ち上がったタイラントは、精一杯の火力を展開するこちらから視線を外し、どこか遠くを見つめるように首を巡らせた。

 

 色のない眼差しの先、煤けた壁の遥か彼方を見通す横顔。そのまま巨人は、こちらの精一杯の抵抗など意に介した様子もなく、眼前を塞ぐ壁をその拳で打ち壊して歩み去る。

 

「一体何が」

 

 マディソンの困惑をにじませた声。しかしヴラッドには、目の前の敵を無視した理由が瞬時に理解できた。

 

 タイラントにとり、今最優先で叩き潰すべき敵の順位が切り替わったのだ。

 

「戻るぞ、フレデリックたちを狙う気だ」

「なんであっちの動きがわかった」

 

 ジョエルが呻くように毒づく。その声は苦々しい響きをたっぷりと含んでいた。

 

「知るか! 急げ!」

 

 計画の失敗、それが意味する絶望的な肉弾戦を前にしたほんの数秒前より、今この瞬間、この状況のほうが恐ろしい。必死に走ったせいで早鐘を打つ心臓が不規則に痙攣して、恐怖が全身へ伝播した。

 

 まばたきの瞬間、瞼の裏に血に沈む兄妹の無残な死体と、ねじれた四肢を投げ出し力尽きたアリッサの幻が浮かぶ。

 

「フレデリック、聞こえていたら急いで撤収しろ! タイラントがそちらへ向かった!」

 

 全速力で駆け抜ければ、わずか数分の経路。しかしタイラントが壁をぶち抜き、新たな目標へと突き進む恐ろしい破壊音はすでにこちらから離れている。

 

 酸欠に喘ぎ、喘鳴の交じる呼気の合間に吹き込んだ無線。それに対する返答は、不意の接敵を意味するM4カービンのかすれたバースト音だった。

 

 銃声に急かされながらヴラッドは走った。カービンの発砲音はフレデリックがまだ戦闘を継続していることを示したが、それも長くは続かないだろう。

 

 誘導路を走り抜け、ヴラッドは風穴の空いたシャッターを飛び越える。タイラントは背中に食らいつくアルヴィンを投げ飛ばし、今まさに壁際に追い詰めたフレデリックへその腕を振るわんとしているところだった。

 

 暴走の影響か、大きく振りかぶった腕の先、手のひらの皮膚を突き破るようにして鋭利な爪が伸びているのが見える。まだ小振りなそれだが、人を引き裂くのに十分な切れ味であることは疑いようもない。

 

 貨物コンテナの積み重なる搬入路の壁にタイラントの爪痕が刻まれる。寸前でそれを躱したフレデリックが地面を転がって背後へ逃れたが、タイラントは更に追い打ちをかけるべく、肩で風を切って振り返る。

 

 その横合いから、タイラントの顔面へと銃弾が突き刺さった。みれば、ひしゃげて天井から垂れ下がったダクトから転げ落ちたらしいリアムが、背後にシャーロットとアリッサをかばうようにしながらルガーを構えている。

 

 しかし、ライフル弾に遠く及ばぬ豆鉄砲など痛痒とも感じないのか、あるいは子供に興味がないのか、タイラントはそのままフレデリックに歩みを進めた。

 

 投げ飛ばされたアルヴィンが立て直し、リアムとタイラントの間へ飛び出したが、そちらに意識を取られる様子もない。

 

 ヴラッドは脚を止めて走り込む勢いを殺し、そのままカービンを持ち上げてタイラントの顔めがけてカービンを連射した。

 

「こっちだ、デカブツ!」

 

 搬入路の奥では、最後の隔壁がゆっくりと持ち上がりつつある。ヴラッドの射撃開始にあわせ、攻撃班の3人が再びタイラントへ火線を集中させた。嵐のような銃撃を受けわずかに巨体が揺れる。

 

 たとえ想像を絶するタフさを有するバケモノといえど、成型炸薬のダメージから立て直すのは容易ではないはずだ。鬱陶しい横やりで地を這う無線手への興味を削がれたか、灰色の顔に埋め込まれた眼差しがこちらを見捉えた。

 

「散開しろ! フレデリック、優先順位通りにやれ」

 

 ヴラッドが叫び、注意がこちらへ逸れたことで追撃を免れたフレデリックが、弾切れの拳銃の引鉄を絞り続けるリアムを脇に抱えて隔壁へ走る。

 

 それを追う白衣の背中がシャーロットを抱きかかえているのを確かめると、後尾を締めるアルヴィンを見送り、ヴラッドはカービンを連射しながらタイラントへ前進した。

 

 ヴラッドを指揮中枢と認めたか、あるいは単に無粋な死に損ないから殺すことに決めたのか。タイラントがこちらへ駆け出す。散らばった部下が弾雨を浴びせる中、地を揺らして跳躍したタイラントが風切り音とともに爪を薙ぐ。

 

 ギリギリまで引きつけて飛び込んだヴラッドは、一瞬前まで自分が立っていた空間もろともコンテナがざっくりと斬りつけられてひしゃげるのを見た。背筋を冷たいものが走り抜けるのを感じながら転がった勢いを利用して起き上がり、距離を取りつつ弾倉の中身を全て送り込む。

 

 またたく間に弾倉の中身を撃ち尽くし、マガジンの固定を外したヴラッドは手首をひねって弾倉を弾き飛ばす。その間に左手が新しい弾倉を引き抜き、瞬きの間に再装填を終えると、着地と同時に踵を軸に向きを変えたタイラントが、腕を頭上へ振り上げて間合いを詰めた。

 

『脱出する! ヴラッド、急げ!』

 

 ようやく大人が這って出られる程度の隙間を開けた隔壁。予め決定した順序に従い脱出したフレデリックの声。迫るタイラント、その身体の向こうでカービンを構えるジョエルへ、一瞬だけ目配せする。

 

 攻撃班の中における脱出の優先順位は衛生担当のジョエルが一番上だ。彼は命のやり取りの最中で自分に向けられた眼差しの意味を過たず理解し、カービンを下ろして隔壁へ走る。

 

 しかし、こちらの目の動きを見ていたのは彼だけではなかった。こちらへ突撃するタイラントが僅かに軌道を変え、ヴラッドの傍らに積み上げられたコンテナを()()()()()

 

 金属がひしゃげる耳障りな音。恐ろしい勢いで跳ね飛ばされたコンテナが、隔壁の隙間へ飛び込んだジョエルめがけて飛翔する。押しつぶされる寸前、向こう側から鼻先を突っ込んだアルヴィンに袖を引っ張られてジョエルは脱出したが、大質量の直撃を受けて開放途中だった隔壁が歪んだ。

 

 モーターが強引に隔壁を引き上げようとする耳障りな音が搬入路に木霊し、しばらく必死に唸りを上げた後に、隔壁の左右に取り付けられたランプが赤色灯を点灯させた。

 

 隔壁破損、開閉不能。

 

 この状況で、隔壁の隙間へ身を滑り込ませられるほど、タイラントの猛攻は甘くはない。

 

「冗談きつい」

 

 退路を塞がれ、鼻を鳴らしてそう呟く。その意味を理解しているわけでもあるまいに、タイラントは動作を止めた隔壁を一瞥し、それから自分を取り囲む3人の兵士を見回す。

 

 クラヴィスとマディソンは、遮蔽の代わりに身を寄せたコンテナを軽々と吹き飛ばすタイラントのパワーに絶句していた。

 

 暴君の名に恥じぬ凶暴性、それを支えるパワー。ここから脱出しようと思うのであれば、誰かを生贄にして逃げ出すか、このバケモノを撃破するより無い。

 

 一瞬の沈黙を破ったのは、マディソンの銃撃だった。それにクラヴィスが続き、十字砲火がタイラントを捉える。しかし、暴君の狙いは完全にヴラッドに固定されたようだった。

 

 ほとんど予備動作を見せず、地を蹴り肉薄した巨体が胴の高さを薙ぐ。地面に転がってそれを躱したが、タイラントはそのまま、赤い筋の浮かぶ左拳を高く振り上げた。

 

 しかし、その拳がヴラッドを殴り潰すよりも早く、スプリングフィールドへ銃剣を取り付けたクラヴィスがタイラントへ肉薄している。黒ずんだ肉を脈打たせる傷は背中まで貫通していて、いまだ修復が終わらないのか粘つくものが滴っている。

 

 背後から銃剣をそこへ深々と突き刺したクラヴィスが、フルオートに切り替えたライフルの引き金を絞った。

 

 銃剣が肉を引き裂き、体内奥深くへ埋まった大口径ライフルが容赦ない合金の暴風を腹の中に解き放つ。外皮が銃弾を阻むタイラントと言えど、塞がる前の傷口から直にハラワタを引っ掻き回されてはたまらないのか、喉の奥から肌がしびれるほどの雄叫びを上げた。

 

 ヴラッドも正面から傷口へ銃剣を突き刺し、バーストに切り替えたカービンの引き金をがむしゃらに搾る。前後から挟み込まれ、瞬きの間に膨大な弾数をねじ込まれたタイラントが、苦悶の声とともに身体を激しく振り回した。

 

「ぁ! くっそ、が」

 

 腰を捻り身体を振り回すタイラントに引きずられ、クラヴィスがライフルもろとも弾き飛ばされる。それはカービンとスリングでつながったヴラッドも同じで、体が吹き飛ばされコンテナに叩きつけられた。

 

 関節が軋み、視界が霞む。それでも迫る足音から逃れるべく立ち上がり、ふらつく脚で距離を取りつつカービンを探る。スリングが切断されたのか、今まで身を守ってくれた愛銃はどこかへ飛んでいったようだった。

 

 慌てて背中に回した手は、アルミ棒を見つけられずに虚空を掴む。装備を失ったヴラッドは反射的に拳銃を引き抜き、間に立ちはだかるコンテナの固定ワイヤーを掴んで横へ押しのけたタイラントを見た。

 

 ほとんど弾き飛ばすような勢いで引っ張られた拍子に、赤い筋の浮き上がる手が握った金属ワイヤーが引きちぎられる。そのままタイラントが腕をふるい、長さ数メートルはあるだろうワイヤーがムチのようにしなった。

 

 空気を引き裂く恐ろしい唸りを上げながら肉薄するそれをまともに受ければ、こちらの身体が二分されることになるだろう。

 

 慌てて背中を地面に倒すと、こちらの腰の高さを振り抜かれたそれが隣のコンテナに深々と()()()()()。ゾッとする余裕もなく、拳銃を握り込んでタイラントへ狙いを定める。狙いは頭部、こちらを睨めつけるガラス玉のような瞳。

 

 9ミリが連続してタイラントの顔へ叩き込まれ、正確な弾着がタイラントの右目へ飛び込む。しかしそれで動きを止められるわけもない。再びこちらを両断すべくタイラントは腕を力任せに振り上げ、コンテナにめり込んだ金属ワイヤーを強引に引き抜く。

 

 引っ張られたコンテナが地を転がり、別のコンテナにぶつかって不愉快な軋みを上げて中身の医療器具を撒き散らした。叩きつけられたダメージから回復しきらぬ重い体を無理やり立ち上がらせ、ありったけの残弾をタイラントに撃ち込みながら、ヴラッドは叫んだ。

 

「マディ! クラヴィスを連れて逃げろ!」

 

 もう一撃、仮に躱せたとしてその次はあるまい。火器を失った以上、できることは囮になる以外になにもない。いま目の前のバケモノが自分に意識を向けている間に、一人でも多くを逃がすべきだ。

 

 最後の一発を吐き出した拳銃が動作を止め、空の弾倉をはじきとばす。しかし、新しい弾倉を手にすることは許されなかった。タイラントが足元に散らばる破損したコンテナの中身をこちらめがけて蹴り飛ばしたからだ。

 

 モロに機材の雨を受け身体が吹き飛ぶ。背中から外壁へ叩きつけられ、肺の中の呼気が全て押し出された。衝撃で横隔膜が痙攣し、吸うことも吐くこともできずに肺が酸素を求めて熱を帯びる。

 

 呼吸の仕方を忘れたように胸が震え、酸素を失った意識が揺らいだ。しかしそれでも、殺す側であることを求められ続けた身体は震える手で弾倉を入れ替える。目の前に死を運ぶ影が迫っても、白旗を振ってやるつもりはない。

 

 ずっしりと重みを増した腕を奮い立たせ、下腹が痙攣し呼気とも言えない憐れな呻きを漏らしながら拳銃を持ち上げた。へたり込んだ身体を必死に立ち上がらせたそばから脚が笑い、無様に膝をつく。

 

 引鉄を絞る指すら、もはや意志ではなく身体が覚えた動作の反復だった。力のない腕で連射し、残り数秒を目一杯稼ぎきってやろうとあがきを続ける。

 

 誰かが必死に自分を呼ぶ声が聞こえたが、目の前に迫る巨躯の落とす死の影から逃れるには、もはやなにもかもが今更に過ぎる。

 

 最後の弾丸を吐き出し、再び動作を停止した拳銃を力なく垂らす。壁に背を預け照明を遮る巨躯を見上げたヴラッドは、それが手にしたワイヤーを振り上げる一瞬の間に、大きな影が宙を舞うのを見た。

 

 大きな唸り声、目の前の巨影の顔から血しぶきが散る。音もなく着地したしなやかな白いシルエットは、そのままコンテナを蹴って再び跳躍し、鋭利な爪をタイラントの膝へ一閃。

 

 目にも留まらぬ二連撃。一撃目で顔面、そして二撃目で膝をえぐられたタイラントが膝を付き、一時的に視界を失った暴君はやたらめったらに腕を振り回す。

 

 爪がコンテナを引き裂き、握りしめたままのワイヤーが地面を、壁を、その届く範囲にある全てを打ちのめして破壊する。アルヴィンがこちらの襟首を咥え、そのままタイラントの加害範囲外へと投げ出す。

 

 腕をついて起き上がると、目の前にスリングの千切れたアルミ棒が転がっていた。

 

「……は……っ、お前」

 

 地面に転がり、みぞおちに拳を押し当てて無理矢理大きく息を吸い込む。こちらを見下ろす白い狼犬――タイラントと同じアンブレラの生み出した猛獣は、ほんの一瞬こちらを見下ろしてから鼻先で転がる棒を示すと、そのまま踵を返して走り去る。

 

 物陰に隠れた小賢しい抵抗者を始末するべくタイラントがコンテナを蹴り飛ばす音に、再び挑みかかったアルヴィンの低い唸りが重なった。それを背中で聞きながら、ヴラッドは全くもって常軌を逸したアイディアを象徴する、長さ1メートル半のアルミ棒を握りしめる。

 

 もとは特攻兵器とすら謗られる珍品。棒と成形爆薬を組み合わせただけの粗雑な火器をありあわせで再現したものに過ぎない。

 

 それに頼らざるを得ない我が身を笑い、こうなる可能性を考慮した自分の読みを――そして危険を犯してもここまで自分を引きずったアルヴィンの献身を讃える。

 

 ――全く素晴らしい判断じゃないか、えぇ?

 

 小さな自嘲を含んだ笑い声が、本当に自分の上げた声なのか、高ぶりすぎた精神の生み出した幻聴なのかももはやわからない。ヴラッドはようやく呼吸が整い始めた身体を起こし、パイプを握りしめてよろめきながら立ち上がる。

 

 目の前でコンテナが吹き飛び、数度の斬撃を浴びせ顔へ食らいついたアルヴィンが拳を受けて弾かれる。それにもめげず再度肉薄した狼犬は、人であれば一撃で両断されてもおかしくない前肢の猛攻をタイラントへ浴びせた。

 

 狙いは脚部、またたく間に防護衣に守られた下肢が引き裂かれて血が吹き出すが、傷口はすぐに塞がっていく。腹部の傷はいまだ赤黒い大穴を空けていたが、それでも斬撃程度では活動停止に追い込むこともままならない。

 

 驚くべき生命力。一撃で致命傷を叩き込まねば、勝利は望めまい。

 

 こちらが立て直すまでの時間稼ぎに徹したアルヴィンが、ワイヤーを握る腕への一撃と引き換えに左拳の直撃を受けて跳ねる。ワイヤーを握りしめた指を細切れにした代償は、拳の一撃に続く鋭い蹴り。

 

 大きな体が宙を舞い、崩れたコンテナの山へと突っ込む。血を吐き、なんとか起き上がろうともがくアルヴィンにもはや立て直すだけの余裕はあるまい。

 

「こっちだ、クソッタレ。犬っころ相手じゃつまらんだろう」

 

 それへ歩み寄らんとする暴君はこちらの声におもむろに足を止めると、何度死にかけても性懲りもなく立ちはだかる男へゆっくりと首を巡らせる。

 

 一瞬、互いの視線が交差した。かたや、いまだ倒れる気配のない巨人。かたや、膝が震えるほどの手負い。

 

 全く不利だなと笑い、何かを考える前にヴラッドはブーツで地面を踏みしめ、前へと身体を押し出した。

 

 目指すはタイラントの内懐、狙うは右胸の心臓。前触れなしに突撃へ転じたヴラッドを見、常軌を逸したその行動を憐れむでもなく、中程が膨らんだ()()()()()()()を手にした憐れな愚か者を貫かんと腕を引く。

 

 指を失っていても、飛び出た骨が鋭利な刃となったそれを前にして突撃するなど、正気の判断ではない。十中八九死ぬ。しかし、たとえ拳で胴を撃ち抜かれようと、爪で引き裂かれようと、死ぬ前に手にした火器を突き刺すことくらいはできるだろう。

 

 手榴弾の信管を流用した起爆装置から、安全装置のピンを引き抜く。レバーが弾き飛び導火線に点火。勝負は数秒で決まる。

 

「ヴラッド! 止めろ!」

 

 マディソンの叫びとともに銃撃が横合いから襲いかかり、タイラントはほんの一瞬そちらに気を取られたようだった。ヴラッドはそれを見て笑った。クラヴィスを脱出させ、わざわざ戻ったのだろう。

 

 さっさと逃げ出せばいいものを。律儀に上司を守ろうとするその健気さこそ、命をかける価値がある。

 

 マディソンの見せた勇気と自己犠牲の発露。戦場における数少ない美徳と言えるそれが生み出したのはほんの一瞬だが、この特攻兵器を()()()ぶち込むには一瞬で十分すぎる。

 

 マディソンの制止はヴラッドの足を止めるには今更すぎた。もはやこれ以外に撃破の方策はない。そしてこんな自爆兵器を、命令をもってして他人に使わせるなど願い下げだ。

 

 迷いなく伸ばされた切っ先が、みぞおちまで届く大穴から斜め上方、心臓めがけて真っ直ぐに突き刺さった。

 

 憤怒の咆哮が至近で弾け、暴君の名を冠した巨人はよろめきつつ、粗末な手製武器で臓腑を突き刺す愚か者を睨めつける。

 

 棒切れで反撃に転じた不遜な者どもを叩き潰さねば、この暴君の気は晴れまい。もはや他の虫けらに気を取られる愚は犯さず、タイラントは浴びせられる銃撃を無視して拳を叩きつけんと振り抜く。

 

 タイラントの放つ熱量を間近に感じながら、ヴラッドはこちらを見下ろす目の奥を見た。色のない瞳の奥、一瞬だけ滲んだ意志の粘つきは紛れもない怒りと憎悪を示している。

 

 ただ身の程知らずをたしなめるものとは違う、怨嗟の重みを含んだ憤怒。

 

 それを塗りつぶすように迫る拳が自分の頭を吹き飛ばす前に、ヴラッドはざまあみろと呟いた。拳で潰されるか、爆発で死ぬか。どちらにしても、結末はもう決まっている。

 

 目標達成、これで俺の勝ちだと笑った瞬間、横合いから飛び込んできた影がヴラッドの身体を勢いよく突き飛ばした。

 

 何が起こったのかもわからずに地面を転がり、重いものが上へのしかかりこちらを抑え込む。そして次の瞬間、仕留めそこねた獲物へ追撃をかけようと雄叫びを上げるタイラントの声が、盛大な炸裂音に塗りつぶされた。

 

 短時間に手ひどく痛めつけられた身体は鉛のように重く、ヴラッドは全身を包み込む気だるさに身を任せたい欲求を飲み込んだ。

 

 せめて結末は見届けねばなるまい。成功したにせよ失敗したにせよ、そうしなければ気がすまない。

 

 手を床につき起き上がろうともがくと、背中にのしかかった重みがどいた。そのまま、立ち上がろうとするヴラッドの肩を白い鼻先がグイグイと押し上げる。

 

 こちらを突き飛ばしたアルヴィンは肩を喘がせて息をするこちらを見上げると、無様を笑う余裕もなくへたりこんで顔の向きを変える。

 

 それにつられゆっくりと首を巡らせると、成型炸薬の生み出すエネルギーの暴風に循環器系の根幹――心臓を吹き飛ばされたタイラントが地面へと倒れ伏していた。

 

「次は……セラミックの()()()でも着せてもらえよ」

 

 それ以上何かを言うだけの体力もなく、ヴラッドは膝をついて座り込む。そのままマディソンがジョエルを連れて駆け寄ってくるまで、彼は仕留めた王者の遺骸をじっと見つめていた。

 




 分かりづらいかなと思うので補足説明すると、ヴラッドが使った火器はいわゆる刺突爆雷のリファインです。

 着発信管等の準備が出来なかったので手榴弾の信管を再利用しています。その関係で点火と爆発にタイムラグが生まれるため、先端を尖らせ「突き刺して」固定し運用する方式です。

 当然、接近戦に発展した場合、着発であろうと時限式であろうと運用者はタイラントに殺されるか爆発で死ぬ可能性が高い自爆兵器になります。


 ストックが切れたので次回更新は未定です。しばらくお待ち下さい。
 感想等お待ちしています。


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閑話休題的な奴です。
自話からまたヴラッドらに話が戻ります。

大した話じゃないので申し訳ない。


 1998年9月28日 0220時

 ラクーン郊外 統合特殊作戦司令部 仮設陣地

 

 合衆国特殊任務部隊 タスクフォース・トライデント

 

 

 

 

 もう秋だというのにテントの中には汗がにじむほどの熱が籠もっていた。

 

 大人数用とはいえ、一八人の男を詰め込むにはいささか手狭なそこに装備弾薬を持ち込み、各々が投入準備に勤しんでいるからだ。

 

 海軍と陸軍の特殊任務部隊からなる合同部隊。トライデントの名称が与えられた最初の投入チーム。合衆国全軍の中で、類まれなる忍耐と戦士の素質を備えた最高の人材たち。

 

 その中のひとり、イーサン・プライスは自分の弾倉をポイント・ブランク製のAVSアーマーに取り付けたポーチに押し込み、胴体を包み込む防弾装具の固定を確かめた。

 

 前後をソフトアーマーで防護するそれは少なくとも戦場で最も恐ろしい爆発物の破片から身を守ってくれるはずだが、向かう先は感染症に汚染された地獄だ。普段は心強い重みも、今この状況では身体を縛る枷にしかならない。

 

 しかし任務の性質上、武装した敵と交戦する可能性は否定しきれない。だからこそ、ソフトアーマーは最低限の必要防具として判断された。ライフル弾を止めることのできる抗弾プレートは、行動阻害になると判断されて装備から除外されている。

 

 活性死者との戦闘が銃で武装した集団との接触より頻繁かつ危険度が高いと判断されたからだ。その分、予備の弾薬を多く持ち込むことが決定されているから、荷物が軽くなるというわけではないが。

 

 ポーチ類をこれでもかと言うほどにくくりつけたアサルトベストシステム(AVS)のフラップを一つずつ開き、中身に目を通す。弾倉、手榴弾、個人医療品、コンパス、地図。軍事作戦につきものの便利な小物から、敵を殺すために必要な火薬の類。

 

 全てよし。必要とされる個人携行品は揃っている。それを確かめ、右の太ももに吊るしたサファリランドのホルスターに1911が突っ込まれていることを確かめると、イーサンは自分のM4A1をぶら下げてテントの外へ出た。

 

 テントの外は、男の匂いと熱気とは無縁な、木々の青臭さの交じるひんやりとした風が吹いている。日はとっくに落ち、投光器の投げかけるまばゆい光が仮設陣地を照らしていた。

 

 長い影を引き連れ、慌ただしく行き交う支援要員たち。降下地点までの輸送を命ぜられた第160特殊作戦航空連隊(ナイトストーカーズ)のパイロットは、整備員と最後のチェックに余念がない。

 

 みなその背中に緊張をにじませている。

 

 翻って、休憩所とされているスペースに群がり、煙草を吸うなりスナックを楽しむなりしているタスクフォースの兵士らはみな、いつも通りの日常を過ごすかのように落ち着いた様子だ。

 

 これから行く先は、一〇万の敵が跋扈する地獄。このうち何人が死ぬかもわからぬ――ひょっとすると、全滅することもあり得る劣悪な環境だ。

 

 それを理解していないわけでもあるまいに、がやがやとくだらない話に興じる仲間たちの様子は普段と何の変りもない。

 

 それはイーサンも同じことだった。そうでなければ、最も危険で最も重要な任務を負う特殊任務部隊の隊員などつとまらない。ある意味で、どこまでも無神経で鈍感であること。それが必要とされる才能だ。

 

 自分の命、その向かう先にすら意識を向けない。危機を避ける仕事人としての本能を持ち合わせつつ、しかし必要であれば危機に毅然と立ち向かう。生き物としての矛盾、自己の生存への無頓着。

 

 もちろん無頓着なのは目の前にある危険に対してだけではない。世界中に派遣され、必要であれば殺し、あるいは捕らえて連れ去る。任務上必要とされる限り屍の山を無数に築き上げ、血河で大地を染めてやる。そんな行いを繰り返して壊れないというのは、普通の人間には望むべくもない。

 

 しかし、ここに集った男たちにとりそんなことは造作もない。国家が敵といったのだから敵なのだし、敵であるからには無力化しなければならない。そこから先の理由などなく、そこで終われてしまう無神経さを備えた集団。

 

 これから地獄へ降りる男たちはそういう連中だ。

 イーサンは煙草を取り出し、それを銜えてライターをまさぐる。横合いから差し出された火が穂先をあぶると、イーサンは掌で風をよけてそれを受け取り、小さくうなずいて見せた。

 

「準備は」

「もう終わった。後は待つだけだ」

 

 陸軍チームリーダーのドナヒューの問いかけに頷き、イーサンは二度煙を吸い、それをゆっくりと唇の隙間から吐き出す。

 

 たっぷりの白いひげを備えているがゆえに、()()()と部隊内で呼び慕われるドナヒュー。階級は少佐で、一等軍曹の自分との間には大きな隔たりがあるが、特殊部隊員でありチームメイトである以上、公的な場でもない限りそれをいちいち気にする人間は多くない。

 

 ドナヒューはまさにそういう人間だった。自分たちだけの戦場においては、部隊員とは友人であり兄弟であるかのようにふるまう。

 

 そしてそれは特殊戦の世界では珍しい事でも何でもない。一般の部隊からすれば「あり得ない」話であるのは間違いないが。

 

「忘れ物だけはしてくれるなよ」

「そんなへまをやらかす奴はレンジャーに送り返されてるさ。それより、あの押し付けられたガラクタはどうにかならないのか」

()()()()()()()()()か?」

 

 イーサンのため息にドナヒューが問うた。それにうなずきで返し、すぐそばのテントにあわただしく出入りする技術者連中を見やる。

 

「どこが作ったのやら。レールキャノンだとかなんだとか、小難しい説明はさておいて、あのデカブツを持ち歩いて市内を移動しろとはまた」

「俺たちの仕事をピクニックと勘違いしてるらしい」

 

 お手上げだよとばかりにドナヒューが肩をすくめる。ブリーフィング後に突然現れた技術将校が自信満々の様子で押し付けてきた試作の最新鋭兵器、それがパラケルススの魔剣だった。

 

 が、運用説明を担当する技術将校のあふれんばかりの自信とは裏腹に、現場へ赴く兵士らはすでにそれをガラクタと呼び始めている。

 

 それも当然だろう。火薬による火器がいまだ主流の今この時代において、突然そんなものを持って行けと言い出したのだ。しかも、分解して持ち歩いても一人当たりの負担は18キロ。それも6人で分担して、である。

 

「のんきなもんだ、外部バッテリー式の固定火器を持って行けとは。技術畑の馬鹿には一度火薬のありがたみを教えてやったほうがいい」

 

 こちらの軽口に言ってやるなよとドナヒューが笑う。日に焼けた肌にしわが刻まれ、穏やかに見えて鋭い眼光を宿す眼差しがこちらにひたと据えられる。こういう目を向けてくるときは、何か気になる話題を抱えているときだ。

 

 普段であればそれは隊員や装備の状況だとか、敵の動向だとか、そういった話題であることが多い。作戦上、自分の考えと部下の考えのすり合わせを指揮官が必要とするのはままあることだ。

 

 が、今回はそういったありきたりな話ではないと、イーサンの直感が告げていた。

 

 そして、この状況でこの男が知りたがることなどそう多くない。十中八九、かつて同じチームの戦友だったアイスマン――ヴラッドのことだろうとあたりをつける。

 

「ヴラッドだったか、前に組んだことがあるんだろう?」

「最初のチームで一緒だった。お互い選抜を通ったばかりの新入りで」

「どんなやつだ」

 

 短い問いかけ。それを受け、ゆっくりと煙を舌の上で転がしながらイーサンは考える。

 

 どんな軍でも、同じチームにいれば親しくなる。特殊戦の世界においてチームメイトは兄弟同然だ。少数精鋭、限られた人員で極限状態に身を置くのであるからして、そうでなければやっていけない。

 

 当然それはドナヒューも理解していることだろう。よほどそりが合わない人間でもない限り、帰ってくるのは好意的な意見ばかりだ。もちろん、それが聞きたいわけでもあるまい。

 

「不器用な奴だった。うまく立ち回る才能がない。腕はいいし、頭も切れる。でも上には行けない、その気もない。そういう奴」

「根っからの兵隊か」

「あれはカウボーイのたぐいだよ。納得できるかどうかが尺度で、あとのことはどうでもいい。自分の命ですら、自分が納得するためには投げ出しちまう」

「なるほど」

 

 ドナヒューが微かに笑う。髭に覆いつくされた口元に浮かぶ微かな笑み。それを見、片眉を吊り上げたイーサンは、煙草を指に挟んだドナヒューが口を開くのを待つ。

 

「腕の立つ奴だとは聞いていたが」

「墜落したヘリパイを助けに降りた話は?」

「聞いたことがある」

 

 イーサンの問いにドナヒューが頷く。

 

「ある夜間作戦でヘリが落ちた。パイロットはまだ生きていて、俺のチームはその救援に向かったが、最悪のタイミングで敵が食いついてきやがった。俺たちのヘリは着陸寸前で地上からハチの巣にされかけたわけだ」

 

 そこまで言って、ゆるくすぼめた唇から煙を吐き出しつつ視線を隣に向ける。ドナヒューは無言でその先を促した。気づけば、同じように休憩に興じていた隊員たちもそれとなくこちらの会話に耳を傾けている。

 

「機長はすぐに着陸は無理だと判断して機を上昇させた。地上じゃパイロットが包囲されかけてたが、こっちまで落ちるわけにはいかないからな。ところが、あいつはヘリから山中に飛び降りた。本人は後になって急機動で安全装具が破損して落ちたって報告してたが、俺は見てた。あいつはランヤードを引っぺがして飛び降りたんだ」

 

 今でも思い出せる、と肩をすくめてイーサンは笑った。

 

 上昇する機体、地上では負傷したパイロットが応戦する銃火。闇の中から飛び出してきた曳光弾がこちらを叩き落さんと乱舞する中で、セーフティランヤードを外した戦友の背中。

 

 飛び降り際、振り向いた眼差しはいつもとなにも変わらない、平静を示す青をたたえていた。

 

「あいつは一人で飛び降りて、ヘリに接近する素人のゲリラを一人ずつ撃ち殺した。片っ端からな。こっちのヘリは機関銃でハチの巣にされてコパイロットが負傷。上空支援もできないまま逃げ帰ったよ。逃げ帰る間、うちのボスはカンカンだったね、俺の部下を置いて帰るのかって」

「それでもあいつは生き残った」

「そう。カウボーイのごとく。片っ端から敵を撃ち殺して、ヘリを爆破処分して、パイロットを抱えて山の中を逃げ回ってるところを偵察機が見つけた。あいつはそういう奴だ。とんでもない修羅場に飛び込んでいって、なんでか生き残る。それも仲間を連れて」

 

 だから分遣隊にも引っこ抜かれたんだろう、とイーサンは続けた。

 

 情報支援活動部と呼ばれる組織の、切迫事態における武力的解決装置。稀有な素質を持つ戦士たちの中でもさらに特異な人間を集めた攻撃部隊。たとえ危険な行為であっても、並外れた力量を示しえるものだけが集められた戦闘集団に、あれほどふさわしい人間はそういるまい。

 

 もちろん、ヘリパイロットを助け出したヴラッドが生き残った理由に、説明などいくらでもつけられる。夜間であるが故の暗視装置の優位性。ゲリラと言って差し支えない敵と、訓練を重ねた精鋭の差。

 

 しかしその状況に飛び込み、それを首尾よくこなせるかどうかは全く別の話だ。凡庸な兵士はおろか、特殊作戦人員の中でも、それをこなせる力量と運を持ち合わせる人間はそう多くない。

 

 もちろん、特殊部隊員というのは厳しい訓練を潜り抜け、最新の技術と装備を与えられた精鋭だ。しかしそれは一騎当千を示すわけではない。

 

 普通の兵士たちより体力と忍耐に秀で、過酷な環境でも活動しうるというだけだ。銃撃戦になれば数の優位をあっさり覆せるわけでもなく、まともな火力支援を受けた歩兵部隊や、圧倒的な数的優位を保つ相手と殴り合いになれば、あっさりすりつぶされることもある。

 

 しかし、ときたまそんな状況でもずば抜けた戦果を生み出すものがいる。冷静に、狡猾に、そして並みならぬ攻撃性を遺憾なく発揮し、運に恵まれた兵士が。イーサンにとり、ヴラッド“アイスマン”ホーキンスはまさにそういう男だった。

 

「もちろん、あとでアイツはこってり絞られたさ。単独で飛び降りて、部隊の秩序を乱し仲間を危険にさらした、ってね。でもボスはあいつを評価してた。だから首狩り部隊(ヘッドハンター)に推薦もした。……まあ、事の顛末を見るに、あいつにとってはかえって不幸だったのかもしれないが」

「お前はどう思う。本当に無関係だと?」

「器用なまねができる奴じゃない。自分のために無関係な奴を死なせるなら、さっさと頭を撃ちぬいておさらばするか、潔く捕まって終わりにするだろう。隠し事は顔に出るし、自分で納得できないことはしない。でもそのくせ、殺し合いになるとどこまでも冷静で、素早い」

 

 俺が知ってるアイスマンはそういう奴だ、と。イーサンはそこまで言って、ほとんど燃え尽きかけの煙草を捨てた。

 

「だから、きっと大佐の言った通りなんだろう。俺が悪さをすると決めたなら、あいつはハブにする。でないとこっちの身が危ない」

「あるいは共犯に仕立て上げる」

「そういうこと。ただ、そこで読み違えたんだろうな。あいつは確かにアイスマンだが、自分をナメた奴には容赦しない。外道畜生にも同じ。自分の身の破滅を招こうが、自分が納得できないことはしない。あいつの冷静さは保身のためじゃない。共犯にしたのはミスだ」

「なるほど。よく分かった。愉快な奴だってことがな」

 

 同じように煙草を捨てて踏みしめたドナヒューが頷く。彼は腕時計に視線を落とし、間近に迫りつつある出撃時刻を確かめた。

 

「最後に一ついいか」

「俺に答えられることなら」

「まだ生きていると思うか」

「あいつが死ぬ状況なら、生き残るやつはいない。俺はそう思うね。俺が知る限りは、一番馬鹿だが一番タフだ」

 

 間を置かずにイーサンが答えると、ドナヒューは快活に笑い、そうかと満足げにうなずいた。

 

「ならいい。会えるのを楽しみにしておく」

 

 装備をもう一度チェックしておけよと、背中越しに手をひらひらと振ってドナヒューが立ち去る。それを見送ったイーサンは、ライフルを下げてテントへと戻った。

 

 出撃時刻は間近に迫っている。人員18名、対する敵は一〇万の市民と得体のしれない化け物たち。些細なミスが生死を分ける地獄へ降りるのだ。入念に準備を重ねても、し過ぎということはあるまい。

 




 パラケルススの魔剣、無印のほうのはどうやって持ち込んだのかわからんくらいでかいですよね、あれ。


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Chapter4 when the battle drums beats.
行動後評価


1998年9月28日 日付変更直後

 

 

「それで、なんだ。お前はその、大戦期の日本が作った特攻兵器でデカブツを始末したのか?」

 

 ハリソンが眉根にシワを寄せ、常軌を逸した帰還報告(デブリーフィング)に対して首を傾げた。ヴラッドが不在の間、休まず小隊指揮を取り続けた彼の目元には、いささかどうかと思われる濃いくまが見えた。

 

 無理もないだろう。ヴラッドらが帰還するまでに、負傷していた民間人はすべて発症しやむなく射殺。その後、容態は悪化しつつあるもののいまだ発症には至らぬ隊員らの処遇を巡って、ひと悶着あったとすでに耳にしている。

 

 ヴラッドらの持ち帰った情報により、わずかであっても発症しない可能性にかけるべきという意見が多数派となったため、現在その議論は一応の決着を見た。しかし今後状況が悪化すればどうなるか予想はつかない。

 

「正確に言えば、着想を得た即席火器です。刺突して縫い止め、時限信管で起爆するため、特攻兵器とは言い難いかと」

「壁をぶち壊すバケモノに接近しないと使えない時点で同じだ」

 

 横合いから、同じように報告を耳にしたガルシアが片眉を上げて口を挟む。呆れを隠すことのないその態度からすると、こちらの正気を疑っているに違いない。

 

 本来ヴラッドの予定では、トラップで活動停止に追い込んでからとどめを刺すために使うつもりだった。刺突して標的に固定する使用方法にしたのも、手榴弾の信管の作動時間を詰めて2秒前後に調整したのも、トラップでの活動停止へ持ち込める可能性は決して高くはないと踏んだがゆえの苦肉の策でしかない。

 

 トラップへの誘引に失敗した場合、あるいは活動停止へ追い込めなかった場合に、それでも最後の可能性を手元に残しておきたかったがゆえに、マディソンと頭を捻ってあの構造にしたわけだ。

 

 とはいえ、使用者はタイラントに殴り殺されるか、至近で炸裂する成形爆薬の余波を受けて死ぬ可能性が高いことに変わりはない。アルヴィンがいなければ拳を受けて無残な撲殺体にされていただろうことを考えると、二人の反応は当然のことである。

 

「第一次インドシナ戦争でも類似品が使われた、実績のある火器です」

「御託はいい。任務を欠員なく達成しただけで十分だ。誰にでもできることではない」

 

 やれやれと首を振るハリソンの代わりにガルシアがねぎらったが、最後の一言が二重の意味を持っていることは彼の目を見れば分かった。

 

 確かにあの状況で戦死者もなく帰還するのはほとんど奇跡に近い成果と言えるだろうが、それを可能とした決死の特攻もまた他者に望めるものではない。

 

 というより、そんな方策を思いつく人間は他にいるまい。仮に思い立ったとして、それを実行するかもまた別問題である。

 

 もちろんそれを理解しているからこそ、目の前に立つ上司は揃って優秀さを認める眼差しをこちらへと据えている。が、そこに過分な呆れが混ざっていることにも、ヴラッドは気づいていた。

 

「それで、中隊本部は」

「現在、中隊撤収用のヘリはラクーンシティを封鎖する州軍との調整中のため飛行不能。また、撤退は当初の予定通り時計塔を回収地点とすることに変更はないとのことだ」

 

 真っ赤な嘘だと思いはしても、ヴラッドは口にはしなかった。途中で遭遇したハンターβや、退路なしの研究所についての情報はハリソン、ガルシア両名に伝達済みである。

 

 当然、ラクーンシティの状態をアンブレラ上層部が以前から把握していた可能性が高いこと、そしてハンターβがラクーンシティで生産されていないとするアリッサの情報もその中に含まれている。

 

 その上で中隊本部の対応を見たハリソンの口調には、暗に白々しいと断じる響きが感じられる。すでに彼も、中隊本部、ひいてはアンブレラに対してかなり懐疑的な立場と言える。意外なことに、それはガルシアも同様だった。

 

 報告を受けた直後、最悪の場合中隊本部の支援無しでの撤収方法を模索するべきとまで提案したガルシアは一切の表情を伺わせなかったが、少なくとも現段階においては頼れる下士官のままだ。

 

「お前は少し休め、軍曹。ノーマッドにはまた働いてもらう。5時間後に指揮官で会議を行う。大尉、あなたも少し休むべきだ。緊急事態の場合は起こします」

「そうさせてもらう。曹長、後は任せた」

 

 目頭を揉んだハリソンはガルシアの提案に頷き、立ち上がって仮設指揮所の壁際に敷き詰めたダンボールに転がる。律儀にブーツを脱ぎ、それを枕元へ置いた彼は、身じろぎをひとつしたきり、小さな寝息を立て始めた。

 

「お疲れですね」

「当たり前だ。他小隊の残存人員との合流、民間人の捜索、物資弾薬の回収。休む暇もなかったからな」

 

 ヴラッドの何気ない一言に頷いたガルシアは、喉から小さな唸りをこぼしつつ椅子に腰掛けた。鉄面皮の下士官だが、彼も彼で相当疲れを溜め込んでいるはずだ。それはローテーションで休みを取りつつ作戦を継続している小隊人員全員に共通することだが、指揮官とは肉体以上に精神をすり減らすものだ。

 

「それで、タイラントは確実に始末したのか」

 

 首から肩にかけてをもみほぐしつつこちらへ問いかけたガルシアは、彫りの深い眼窩に埋め込まれた目をこちらへ向けた。常からそうであるように、ほとんど感情の伺えない眼差しを見つめ返し、ヴラッドはタイラントの死亡に懐疑的な態度を見せるガルシアの前に腰掛けた。

 

「心臓を破壊したのは間違いありません。ですがアリッサの話では……」

「殺しきった確証はない、と」

 

 はいと頷き、ヴラッドは地図を広げ、無線とペンが転がるデスクに肘をついて指を組んだ下士官を見やる。怜悧にして敏腕、常に小隊の作戦を成功へ導いてきた男の顔はピクリとも動かないが、ヴラッドはまっすぐにこちらを見つめる男の態度にある確信を得た。

 

「タイラントのことをすでにご存知だったんですか」

「それは私の一存では答えかねる」

 

 にべもない返事。しかしこちらへ据えられたままの彼の目は、それ自体が答えだと告げていた。それ以上のことは現段階では答えられないし、この場でその話を広げる気はないと。

 

「いずれまた当たる可能性もあると考えろ。その話はまた分隊長会議で議題に出す」

 

 行っていいぞと彼が続け、ひらと手をふる。ヴラッドは敬礼を返して立ち去りながら、ガルシアの問いの意味を考えた。この状況で、他の部隊員が――おそらく小隊長すら――知り得ない情報への知悉を匂わせるその意味はなんだろうか。

 

 考えても答えは出ない。そもそも疲れ切った頭で何かを考えるのは建設的ではないだろう。考えるのは後でだなと目頭をもみ、作戦指揮所にされた会議室を出る。

 

「よう、ヴラッド。よく生きて帰ったな」

 

 会議室の外、湯気立つ使い捨てカップを2つ手にしたマルコフが、口元に薄い笑みを浮かべてこちらを出迎えた。

 

「どうにかこうにか。いまだに自分でも不思議だ、なんで生きてるのか」

「お前が研究施設に向かうって聞いた時、俺が行けばよかったと後悔したぜ」

 

 まあ死なずに帰ってきたのなら、杞憂だったようだがなと、肩をすくめたマルコフがカップを一つこちらに差し出す。それを受け取り、ブラックだと続けた彼に頷くと、熱を手のひらに感じながら口をつけた。

 

 熱いコーヒーが胃に落ち、舌の根に苦味を残して体内を温める。途端に疲労が全身へのしかかり、重くなるまぶたを堪えるように眉根を寄せた。

 

「よっぽど堪えたらしいな、そのタイラントとかいうやつとやり合うのは」

 

 その意味をどう捉えたか、苦笑とともにマルコフが問いかける。それに対してゆるく頷き壁に寄りかかったヴラッドは、コーヒーを啜りながら、湯気が運ぶ香りが無いことに気づいた。

 

 まだ、血と糞尿の臭いで嗅覚が潰れているのだ。

 

「死人が出なかったのは奇跡だ。運が良かった」

「お前はツイてる。誰よりもな」

「そうは思えんが」

「誰も死なせてない。化け物と戦っておきながら」

 

 肩をすくめたマルコフの眼差しがこちらから逸れる。伏目がちなその目に一瞬よぎった感情の色を見定めるより先に、彼が先を続けた。

 

「初動以降、外部に出たチームで死人を出してないのはお前のところだけだ」

「何人やられた」

「ウチは二人、ガルシアのチームは一人」

 

 端的な返答。これで、部隊としての損害は一個分隊に迫りつつある。その事実を噛み締め、視線を横に流す。指揮所のフロアは装備の集積所にされているが、同時に運び込んだ食料の管理を受け持つ民間人も腰を据えている。

 

 本来は短期的な作戦、食料も水も余剰の持ち込みはない。市民捜索とはぐれた友軍の回収のために外に出た仲間が持ち帰った食料類は、いま有志の市民が仕分けを行っているところだ。

 

 古物商店からここまで連れてきた老婦人と若い女性、それに交じって帳簿に何やら書き込んでいる女性陣の背を見、おそらくは戦友が命がけで回収したのだろうコーヒーに目を落とす。

 

「アルファ、ブラボーのはぐれた人員を八名回収。市民は一三名を救助。こっちはそんなところだ」

「上出来だ、この状況じゃ」

「だが二人死なせた」

「犠牲をゼロにはできない」

「だがお前は一人も死なせなかった」

 

 そっちの言う通り運が良かったんだよと、顔を上げたマルコフの方を見ずにかえす。しばしの沈黙の後、そうだなと彼が頷くと、ヴラッドはくしゃくしゃになった煙草のパッケージを取り出し、軽く振ってフィルターを出すとそれをマルコフへ向けた。

 

「だが運もなんとやらだ。特に、命をかける奴らはゲンを担ぎたがる」

「つまり?」

 

 タイラントとの死闘でもみくちゃにされ、ひどくくたびれた煙草を咥えたマルコフへ火を差し出しつつ問う。

 

「研究所に向かったのがお前でなけりゃ、誰も生きて帰らなかった。皆そう思ってるってことだ」

「チームの連中が優秀だった。攻撃部位の選定と必要な対策の考案はジョエルとアリッサ。爆薬運用はマディがいなけりゃ無理だった。クラヴィスとフレデリックがいなけりゃ、俺はとっくに死んでたしな」

「まとめたのはお前だろ。それで、そのタイラントとかいうデカブツ、どうだった」

 

 まとめるのが一番大変なんだと笑ったマルコフが表情を切り替えた。談笑に興じる笑みから、仕事人の生真面目なものへ。瞬間的な意識のスイッチは、戦い慣れた男特有のものだ。

 

「どうもなにも、とんでもない化け物だ。小銃弾はろくに通用しなかった。30口径の徹甲弾で火力網を張るか、50口径を浴びせない限り足止めも厳しいだろうな。それが無理なら対装甲火器じゃないと話にならない」

「よくもまあ、即席の対装甲火器なんぞ思いついたもんだ」

「昔資料で読んだんだ、大戦期に使われた火器の紹介で。くだらないことも覚えておくに越したことはない」

「覚えていたとして、使おうと思い立つのはお前くらいだ」

「同じことを言われたよ、さっき」

 

 そりゃそうだと、呆れ半分、尊敬半分の眼差しでマルコフがかぶりを振る。それを見、何を言う気にもならず残りのコーヒーを飲み干すと、ヴラッドは自分の煙草を取り出して咥えた。

 

「なんにせよ、それだけ頑丈なのはやっかいだな」

「おつむも悪くない。一度お見舞いした即席の対人地雷を覚えてたようだったし、俺達の退路を封鎖しやがったおかげで正面からかち合うしかなかった」

「厄介だな。人型なんだろう? 殴りかかってくるだけか?」

「銃を使える手の大きさじゃないのが救いだがね、メタルワイヤーを鞭みたいにブンブン振り回してきた。コンテナを殴り飛ばして投擲武器にしたりな」

 

 重ねられる問いかけ。やけに気にするんだなと、空の容器を手で弄び、ゆっくりと煙を吸いながら片眉を持ち上げる。同じように残りを飲み干したマルコフは、まあなと曖昧に頷いてみせた。

 

「俺が当たらないとも限らないからな。経験者の談は聞いておくに限る」

「なんだ、まだ生きてると?」

 

 返ってきた言葉に怪訝に首を傾げる。すでに撃破済みの報告は部隊内に共有済みだからだ。

 

「アンブレラの作ったおもちゃが、一体だけだって証拠はない。この街には他にも研究施設があるんだろ? なら、もういないと断言できる要素は」

「ない、な」

「そういうことだ。俺はそんな化け物と1から手探りでなんて御免こうむるね。お前らがジットフェイスって呼んでるアレですら手こずったんだからな」

「ハンターβか」

「そっちが正式名称だったか? まあいい、あのクソ野郎に一人殺られてる。タイラントなんぞとかち合ったら、そのまま俺もお陀仏しかねん」

 

 小隊本部と合流した後、マルコフとガルシアがそれぞれ部下を率いて市内の捜索へ向かった。ヴラッドらがハンターβと交戦した数時間後、市内中心へ偵察に出たマルコフの分隊がハンターβの群れと接触したことは、すでにハリソンからも知らされている。

 

「邪悪のびっくり箱へようこそ、だ。あの手の化け物が他にどれだけいるか考えるとゾッとしないね」

「新種が出てくる可能性を考えるとなおのことだな。タイラントとの戦闘記録があればよかったんだが」

「あいにく、映像記録装置はなくてね。施設の監視カメラになら何かあるかもしれんがもう一度あそこに潜るのは勘弁願う」

「誰も取りに行けなんて言わんさ。御上の連中(アンブレラ)はどうかわからんが」

 

 とりあえずお前は一度休めと、灰をカップへ落としたマルコフが言った。こちらもこちらで、中程まで吸った煙草をカップの底にうすらと残るコーヒーへ押し付け、こっちで捨てると手を差し出したマルコフへ預ける。

 

「5時間後には分隊長会議だ。それまで寝ろ」

「そうする。後は任せた」

 

 じゃあなと、小さく手を降ったマルコフに笑って返し、カービンを提げた身体の重さに小さくため息をこぼす。短時間の睡眠と激しい戦闘、その繰り返し。十分に休んだとは言えない身体は今すぐにでも眠れと訴えかけてくる。

 

 物資確認に追われる有志の脇を通り、階段を下る。拠点化されたビルは、最上階から負傷者救護所フロア、指揮所フロア、市民フロア、そしてU.B.C.S.隊員フロアに分けられている。

 

 負傷者救護所と銘打たれた感染者隔離エリアが最上階なのは、市民の目につくところで()()せざるを得なくなる可能性を減らすためだ。逆にU.B.C.S.隊員らのフロアが一番下にあるのは、外周と地階を巡回する警戒班が異常を察知した場合、即座に応援を送るためである。

 

「お疲れさまです、軍曹。先程マイケルがあなたを探していました。おそらくは下のフロアに」

 

 階段そばで歩哨に立つ隊員がこちらに気づいて敬礼を投げた。元はヴラッドの部下だった男だ。今は別の班に編入されている。

 

 ありがとうと小さく頷き、ヴラッドは部下の肩を軽く叩いて階段を下った。

 

 

 

 

 隊員用フロアには装備弾薬が振り分けられたチームごとにまとめられ、銃を携えた男たちが散らばっていた。

 

 殆どがカーキのパンツにODの野戦服を身に着けた傭兵たちだったが、その中に数人、違う服装の男の背が見える。

 

 あちこちで拾い集めた市民の中で、特に協力的な男連中だろう。ラクーン市警察(R.P.D.)の人間が2人、有志の民間人が3、4人。それらにU.B.C.S.の作戦手順と交戦規則、銃の取り扱いをレクチャーしているのは、本隊とはぐれたアルファ、ブラボー小隊の人員だ。

 

 周囲を見渡すと、ノーマッドのスペースはすぐに見つかった。

 

 フロアの片隅、下ろした装備品の傍らに丸くなる白い狼犬。隣に腰掛け、M14を抱きかかえるようにして眠りこけるクラヴィスと比較するとその大きさが際立つ。

 

 タイラントとの戦闘で大きなダメージを受けたアルヴィンは、丸くなったその体でシャーロットとリアムを包み込むようにして眠っている。白い毛並みに埋もれ寝息を立てる兄妹、それを見、ようやくひと仕事終えたことを実感した。

 

 まだ、地獄から脱出できたわけではない。それでも為すべきことを一つ達成した、その確信が疲労を薄めてくれる。

 

「あなたが来るまでに、随分と話し込んでしまったわ」

 

 アルヴィンの隣でマイケルと談笑していたアリッサが、こちらに目を向けて微笑んだ。

 

 その向かいに座り込んだマイケルがゆっくりと立ち上がり、血と煤で汚れたこちらを振り返る。裂傷を包帯とガーゼで覆った額、打撲で痣の浮かぶ腕。激しい戦闘の痕を一つずつ確かめたマイケルがヴラッドへ歩み寄る。

 

「ありがとう、軍曹。本当に、本当に……ありがとう」

「市民救助が仕事ですから」

「それでも、だ。命をかけてふたりを守ってくれた。ありがとう」

「約束でしたからね。それに、子供を見捨てるわけにもいかんでしょう」

 

 こちらの手を取ったマイケルの、骨ばった指先。シワが深く根を張った褐色の指。記憶の彼方、自分の手を引いた祖父の手を思い出すそれが、自分の手をきつく握りしめた。

 

「息子さんのことは、残念でした」

「スティーヴンは……」

「立派でした。父親として、海兵隊員として」

「そうか。あんたがそう言うのなら、せがれはするべきことをしたんだな」

 

 嫌な仕事を任せてしまったなと、すでにおおよその成り行きを聞かされていたらしいマイケルが目を眇める。何よりも大切な甥っ子夫婦の忘れ形見に生きて再会できた安堵。そのために息子が命を落とした喪失感。

 

 複雑な感情がないまぜになった小さな目は、うすらと湿り気を帯びている。

 

 こちらの手を握ったままほんの僅かにうつむいた老人は、狼犬に包まれるようにして眠る兄妹へ目を向けた。外界の血生臭さも、ここまでに踏み越えてきた地獄も忘れたかのような、あどけない寝顔だ。

 

「彼がいなければ、ふたりとも助からなかったでしょう。立て籠もったのも、ふたりを地下に隠したのも、正しい判断でした。彼の選んだ最期もまた」

「だが、あんたが約束を守ってくれなければ結果は同じだったろう。わたしでは、たどり着くことも叶わなかったさ」

 

 だからありがとう、と重ねられた礼。むず痒くもあり、心地よくもあるそれにヴラッドはゆるく首を振って返した。

 

「まだ街を出られたわけじゃないでしょう。ここを出たらにしてください」

「そうだな。すくなくとも、この子たちだけでも、出してやらにゃあならん」

 

 手を離したマイケルが頷き、眠る兄妹のそばにしゃがみこんで手をのばす。気配を感じ取ったらしいアルヴィンが僅かに目を開けたが、それだけだった。

 

「雑談もいいけれど、あなたは少し休むべきよ」

「お気遣いどうも。もう少ししたらな……ジョエルは?」

 

 目の下、酷いくまよとこちらに目を向けたアリッサに肩をすくめたヴラッドは周囲を見回してから問うた。クラヴィス、マディソン、フレデリックはすでに敷物の上に転がって眠っているが、ジョエルの姿がない。

 マディソンがこちらの気配で目覚めたのか、わずかに警戒心をにじませた動作で上体を起こしたが、こちらに目を留めると再び横になる。

 

「上よ、負傷者フロア。私はすべきことが終わったから、先に戻らせてもらったわ」

 

 アリッサは心持ち潜めた声でそう言って、目の前の床に置かれたPCモニターを示した。おそらくオフィスの備品だったのだろうそれは、素人には理解できそうもないデータが映し出されている。

 

「ダニーは……いや、俺の部下は、どうだ」

「お世辞にも、良い状況とは言えないわ。症状進行はかなりスローペースだけれど、期待はできないわね」

 

 もちろん、どうにかできないか考えてはいるけれど、とアリッサが続ける。彼女が施設から持ち出したのは試作段階の抑制剤が数セット、そして各種研究成果に携行可能な機材がいくつか。

 

「どうにかできるアテが?」

 

 最上階、容態の経過観察役という名目で歩哨付きの隔離状態にある部下の事を考え、ヴラッドはゆっくりと腰を下ろす。節々の痛みに顔をしかめつつ、煙草を取り出した。

 

「現状ナシね。あなた達の摂取した抗体は私の知らないタイプのようだし、彼らの容態をどう判断したらいいかもわからない」

「抗体を摂取していないと仮定した場合、どういう状態にある」

「その前提に立つのなら感染進行は中期ね。血清が無い限りはどうにもならない、ということよ。仮定だけれど」

 

 つまり、このままの状態が続くのであれば負傷者はひとり残らず発症すると言うことだ。咥えた煙草に火を点け、煙を肺に流し込んで疲労で鈍った脳みそを叩き起こす。

 

「その血清は」

「私のいたラボにはないわ。というよりも、正確に言えばもう無い。備蓄は誰かが持ち出そうとして失敗したようだから」

「他に備蓄のあるところは。この街には他にもラボがあるんだろう?」

 

 私がアクセスできるのはあのラボだけよと、アリッサは首から下げたIDカードを示して言った。確かに彼女のパスが使えるのはあのラボだけだろう。おそらくそれは、自分たちが使用したマスターコードも同じはずだ。

 

「打つ手なし、か」

「そうよ。だから寝なさい。あなたの専門は作戦の立案と実行よ。私の分野のことは私がやるわ」

 

 眠れないというのなら、膝でも貸してあげましょうか、と。顔を上げたアリッサがからかうような笑みをこちらへ向ける。

 

 思索にふけりかけた隙間に潜り込む、控えめだが魅力的な笑み。それに見惚れたのも一瞬のこと、結構と鼻を鳴らし、中程まで吸った煙草を灰皿代わりにされた空き缶へねじ込む。

 

「寝るよ。5時間で起こしてくれ。緊急の要件ならそれを待たないでいい」

「ええ、おやすみなさい、ヴラッド。よく眠りなさい。せめて次の戦いまでは」

 

 敷物に転がった身体に染み込むような、ささやくような声音。マイケルが自分の体にブランケットをかけ、何事かをささやきかけたが、そこで意識が途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 「彼」にとって、状況のすべてが想定の範囲外となりつつあった。

 

 そもそもいまだに小隊が組織活動を継続している時点からして、事前計画を大きく逸脱しているといっていいからだ。

 

 アンブレラが監視員(スーパーバイザー)に行ったブリーフィングでは、軍事訓練を受けたU.B.C.S.と言えどラクーンに降下後24時間以内に組織的活動力を失うとみなされていたからである。

 

 実際にアルファ、ブラボー、デルタはすでに壊滅状態にある事もわかっている。

 

 だからこそ、ハリソン率いるチャーリー小隊が未だに戦力の過半を保有し、生存者を取り込んで活動を継続しているのはイレギュラーと言えた。

 

 小隊の指揮官クラスはいずれも健在であるし、自ら小勢を率いて死地に向かうと言うから送り出したヴラッド・ホーキンスに至っては、「彼」の思惑を大きく裏切り、タイラントを撃破して帰還している。

 

 分隊長クラスを一人排除するという計画が失敗した以上、初動の段階で小隊長の()()を諦めたことが悔やまれるが、全ては後の祭りと言えた。

 

 タイムアップまでそう余裕がない。事前計画によれば、おそらく今月いっぱいがリミットと予想されている。それをすぎれば、合衆国政府は最終手段を実行するだろう。

 

 それまでに必要なデータを収集し、任務通り裏切り者(ネズミ)をあぶり出す。そうしなければ望むもの得られないどころか、自分の命すらも失うことになりかねない。

 

 アンブレラにとって、自分の命は情報の付属物でしか無いのだから。

 

 混乱が必要だと、「彼」は一人、行き交う兵士らを眺めながら考える。

 

 民間人と傭兵たちの寄り合い世帯。結びつきは弱く、孤立環境であればなおさらのことだ。

 

 そして幸いにも、混乱の種はすでに手元に用意してある。

 




 なんか書けた(スランプ脱却)
 というわけで久々の更新です。感想、評価等お待ちしています。


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不穏は影のように

 一五ヶ月ぶりくらいの投稿です。
 タイラント戦で微妙に燃え尽きて、そっから忙しくなった結果書き上げるのにめちゃくちゃ時間がかかってしまいました。
 もともと戦闘シーン以外になると筆が詰まるたちなんですが、今回は特に復活に時間がかかってしまい申し訳ありません。

 これの後の話も半分ほど書き上がっているので、次話投稿はそう遠くないと思います。

 また諸般の事情により一部キャラの名前を変更しました。


 全てが熱に浮かされた夢の中にあった。

 

 感染者に噛まれて以来不調を強く訴えるようになった身体は、今では全身が火照り、夢と現実の区別がつかぬほどにぼやけた意識が浮き沈みを繰り返す。

 

 誰かが時々様子を見に来ては、何事かを話して立ち去る。見舞いに来た同僚、上官。それが誰であるかを確かめられるほどの明瞭さを失った意識が、あるときふと小さな痛みを拾い上げた。

 

 誰かが目の前にいる。何かを話しかけている。痛みは左の前腕。小さく鋭い、ほんの一瞬の痛み。腕の中に液体が流れ込むような感覚があった。

 

 目の前の人影はしゃがみこんでいるようだった。ひどい気だるさをどうにか振り切って、痛みを感じた腕を引き寄せる。腕時計の文字盤が見えた。まだ早朝のようだが、日付はいつだろうか。

 

 そう考える間に、固く大きな手がこちらの頭を撫でて人影が離れる。

 

 誰にせよ、自分を見舞いに来てくれたのだろう。全身に見えない何かがのしかかっているかのように重いが、わざわざ足を運んでくれた事実が嬉しくて、立ち去る背を見やる。

 

 人影は、フロアの入り口に立った歩哨と話し合っているようだった。全身にかぶさる鉛のような倦怠感がゆっくりと、思考にかかる濃い靄とともに薄れていく。やがて、わずかに潜めた会話の内容を耳が捉えた。

 

 声音は深刻な様子だった。

 

 きっと部隊は厳しい状況にあるはずだ。眠りにつく前、このフロアに運び込まれている負傷者が増えているのを彼は確認していた。

 

 少しずつ全身の不調が退いていく。理由はわからないが、このまま行けば動けるようになるはず。そうすれば部隊のために、小隊長や分隊長のためにまた働ける。

 

 部隊の仲間とともに戦う自分を想像して少し誇らしい気分になったとき、詰まりが取れたようにクリアになった聴覚が、会話の内容を拾い上げた。

 

 感染者、発症前に殺処分、部隊のため、早期に実施するべき。認識できた単語同士をつなぎ合わせ、その意味を考える。まだまったりした思考が結論を出したとき、彼の頭の中には、戦友とともに市民救助に当たる自分の姿はもうなかった。

 

 代わりに背筋を冷たいものが這う。見舞いに来た戦友への感謝と誇りに取って代わったのは、恐怖と悲しみと怒り。

 

 あいつは殺すつもりだ。俺たちを。

 

 それなら、俺は殺される前に、どうすればいい?

 

 

 

 

 

1998年9月28日 0610時 セーフエリア 仮設小隊指揮所

 

「この消費ペースだと、弾薬はもって二日。食料、飲料水の備蓄はある程度余剰がありますが、それでも四日がせいぜい。特に弾薬の補充は急務です」

 

 民間人が作成した備品リストを読み上げたガルシアの声は、数時間前ににじませていた疲労の気配を微塵も感じさせないフラットなものだった。

 

 インスタントコーヒーから立ち上る湯気を見つめていたヴラッドは、会議に遅れてきたマルコフの疲労をにじませた渋面を視界の端に確かめ、それから、仮眠のおかげか僅かだが活力を取り戻したように見えるハリソンへと目を向ける。

 

「弾薬補給のアテは」

「ヴラッドからの報告によれば、地下研究施設で死亡した保安職員の遺体からそれなりの数を補充できる可能性があります。また、マルコフが救助したアルファ、ブラボーの人員からの報告ですが、ラクーン大学付近で陸路投入されたE小隊(エコー)F小隊(フォックストロット)の弾薬運搬車を発見したとの情報が上がっています」

 

 ハリソンの問いに対して淡々と情報を読み上げたガルシアは、会議開始時刻に遅刻したマルコフへ一瞬だけ目を向け、それからクリップボードに留めた弾薬残数表をハリソンへと差し出した。

 

 マルコフは向けられた眼差しに肩をすくめ、タバコを取り出しつつ口を開くと、デスクに広げられた地図に指を這わせた。

 

「可能性が高いのは地下の方でしょう。まあ、死人がどれだけ弾を使ったかはわかりませんが、ヴラッドが持ち出された弾薬の残りを確認済みです。とはいえ、エコー、フォックストロットの連中だって弾薬を下ろすまもなく皆殺しってことは考えづらい」

「私も同感です。が、まとまった数が補充できるのは弾薬運搬車かと。ヴラッドの報告では、地下施設の火器庫の弾薬はほとんどが持ち出されていたようですから、そのうちどの程度が使用されたかは見当もつきません」

 

 もちろん、弾薬運搬車はすべて降ろされてすっからかん、という可能性もありますが、と付け足したガルシアは、弾薬残数表に目を通すハリソンにむけて、更に言葉を重ねた。

 

「ですが、弾薬運搬車に備品が残っていれば、強力な火器を回収できる可能性があります。とくに、ヴラッドが接敵した“タイラント”のような敵と当たる可能性は今後も否定できません。

 現在、我が小隊の保有する対装甲火器は擲弾銃(グレネードランチャー)が二つ、40ミリの多目的榴弾(HEDP)が合計二〇、榴弾(HE)が四〇、あとは使い捨てランチャーが二つのみです」

「小銃弾薬、爆発物のたぐいも不足しているな」

 

 ハリソンの問いかけに、ガルシアははっきりとうなずいてみせた。

 

「はい。現有火器ではタイラントないしそれに類似する敵と再び接触した場合、対応できずに全滅する可能性が否めない。そうでなくとも、小火器弾薬の残数から見て、このままではここの維持すら怪しくなるでしょう」

「ヴラッドは、どう考える」

 

 二人の会話を聞きつつコーヒーを啜っていたヴラッドは、突然投げられたハリソンからの質問にほんの僅かに片眉を持ち上げた。そのまま熱い液体をゆっくりと舌の上で転がし、ようやく機能が回復し始めた鼻の先を親指でゆっくりと擦る。

 

「地下で発見した保安職員の遺体は、ベストのポーチがまだ膨らんでいるものが多かった。小銃弾だけなら、小隊の弾薬残数を多少回復できる程度は見込めると思います」

 

 自分に向けられた三人の指揮官級の視線を受けつつ、ヴラッドはゆっくりと言葉を選びながら続ける。

 

「また、マイケルの息子の家のガンロッカーには民生品の.223のパッケージがまだいくらか。そっちの分だけでもそれなりの補充は出来ますが、高威力の火器が不足しているのは痛手ですね。曹長は、またタイラントと当たる可能性があると?」

「私はそう考えている。マルコフ軍曹も同様だ。違うか?」

 

 こちらから投げた問いに頷いたガルシアは、そのままマルコフへと目を向ける。それを受け、カップをゆるく揺らしていたマルコフは肩をすくめてみせた。

 

「まあ、否定できないでしょうね。報告が確かなら、アンブレラは気色悪い化け物をこの街に送り込んできている。実地性能評価が目的なら、ご自慢の傑作がそのリストにない理由はないんじゃないですかね」

「私も同様の考えだ。そして再び当たるとき、ヴラッドがしたように首尾よく撃破できるとは思えない」

 

 それに、出くわすのが一体だけとも限らないからなと続けたガルシアの声は、その言葉とは裏腹に断定するような響きをまとっていた。それに気づいたハリソンとマルコフが視線をわずかに動かしてガルシアをみやったが、彼の表情から伺えるものはなにもない。

 

「曹長殿は、どうやら我が社の商品カタログをお持ちらしい」

「何が言いたい、マルコフ軍曹」

 

 はん、と鼻を鳴らしたマルコフに応じたガルシアの鉄面皮は、皮肉程度ではゆらぎもしない。それを見、すぐさまハリソンがやめろと釘を刺す。失礼しましたと居住まいをただしたマルコフが、どう思うよと言いたげにこちらに目配せした。

 

 ちらりとマルコフを見やったハリソンは、咳払いを挟んで口を開いた。

 

「曹長は社の秘密財産に関わる作戦に従事した経験がある。私たちに開示できない情報を保有していることに対して、何ら不信感も疑問もない。そのうえで曹長、君は再び同型、ないし高い耐久力を持つ生物兵器と当たる可能性をどの程度のものと認識している?」

「ありがとうございます、大尉。私見ですが、ほぼ確実であると判断しています。つまり、対装甲火器の補充は急務です。それなくして、我が小隊の生存はありえません」

 

 我々は、ソレと対峙しデータを生むためにここに降ろされたようですからね、と。そう付け足したガルシアは不動の姿勢のまま、会議室に詰める男たちを見回した。

 

 すくなくとも、彼の意見は小隊長たるハリソンの意見と見ていいだろう。二人の態度からすると、事前にすり合わせをしていることは間違いない。

 

「私も同意見だ。よって、最優先は弾薬の確保。これにはガルシア、マルコフの両名をあてる」

「俺は、なにをすれば」

 

 了解と口を揃えて応答するガルシアとマルコフ。それを尻目に、ヴラッドは指名を受けていないことに首を傾げる。

 

「お前には、ラクーン市警察署へと向かってもらいたい。市警の現状は把握しているか?」

「いいえ」

 

 ヴラッドが首を振ると、ハリソンは静かに、この街ではもはやはありふれたものとなった膨大な死の概要を説明し始めた。

 

 

 

 

 

「二七日夜、ラクーン市警の生き残りはストリート掃討作戦を決行。その結果として壊滅したらしい」

 

 二七日、ヴラッドらが地下に潜っている間に、市警察は特殊火器及び戦術部隊(S.W.A.T.)の残存人員をすべて動員し、大通りの感染者掃討作戦に乗り出した。結果は、有効な殺害方法を発見していなかったこと、そして動員人数に対し感染者があまりに多かったことによる壊滅だ。

 

 動員された警官の人数はおよそ四、五〇人。ラクーンの人口が一〇万であるから、この事態が発生する以前の市警察の総数はおそらく三〇〇未満。混乱が発生して数日が経過し、街中が死者で埋まっていることを考えると、まず間違いなく総力をかけての最後の反攻作戦だったはずだが、その結果は惨憺たる有様だったのだろう。

 

 その情報を持ってきたのは本隊とはぐれ市警察と行動をともにしていたアルファ、ブラボー小隊の生き残りだったそうだが、彼らがマルコフの捜索班に救助される頃には、掃討部隊の殆どはストリートで死人のごちそうになっていたわけだ。

 

 回収されたアルファ、ブラボーの人員によれば、隊列が崩され混戦となった段階で撤退が決定され、生存者は警察署へと逃げ出したそうだが、果たしてそのうち何人が生き残ったのだろうか。

 

 それ以後、ラクーン市警の動向は不明であり、どの程度の戦力を残しているかも同様だった。しかし掃討作戦開始前の段階で市警は多くの生存者を抱えており、ひどい混乱状態ではあったもののかろうじて組織力を残していたとの報告から、現状調査の必要ありというのが、ハリソンとガルシアの下した判断だ。

 

「それで、警察署に生き残りがいると思うか?」

「掃討作戦の段階で感染者に対する有効な対処法を知らなかったとすると、あまり期待はできない。俺はそう考えている」

 

 中折式のHK69A1擲弾銃(グレネードランチャー)と、それに用いる弾薬を詰め込んだバンダリアを装備デスクへと投げ出したヴラッドはマディソンの問いに応えた。

 

 二つのバンダリアに収まっている弾薬は、多目的榴弾(HEDP)が一〇発、榴弾(HE)が二〇発。これらはノーマッドの保有する最大火力であり、無線手の任を解かれて擲弾手に任命されたフレデリックの装備品になる。彼の無線機は小隊本部の備品として、ハリソンが詰める指揮所に据えられることとなったからだ。

 

 フレデリックは確かに小隊無線担当ではあったが、彼でなければ無線を使えないというわけではない。現在、小隊本部人員はハリソンとわずか数名のみの小さな所帯であり、人員入れ替えをしてまで担当者を置く理由はないというのがハリソンの判断だった。

 

「生き残りの有無よりは、防衛拠点として使えるかの偵察が目的だ。もちろん、生存者がいれば保護する」

「偵察にしては大仰な装備だと思うが」

 

 デスクから擲弾銃を拾い上げたフレデリックが、ラッチを外して薬室を覗き込みながら言った。HK69A1は中折式単発擲弾銃で、射撃のたびに薬室一体型のバレルを前に折り、カートリッジを入れ替える必要がある。当然連射は効かないが、そのぶん炸薬の威力は小銃とは比べ物にならない。

 

「タイラント、ないしそれに類似するB.O.Wと再び接触する可能性が高いと判断された。出会ったときに、豆鉄砲一本でやりあうのはごめんだからな」

多目的榴弾(HEDP)で抜けるかね、あの化け物」

 

 マディはどう思う、とフレデリックが問いを投げた。マディソンは再分配された爆薬を必要サイズに分け、信管と起爆装置の確認をしながら肩をすくめる。

 

「サイズは小さいが、ライナーが入ってるからな。貫徹力だけでいえば、あの手製特攻兵器よかマシだろ」

 

 爆発物の専門家の返答は淡々としていた。

 

 タイラント――T-103S(サブジェクト)の撃破に用いた即席の爆雷槍は、炸薬量こそ40mm多目的榴弾(HEDP)を上回るが、円柱状の炸薬の片面を漏斗状にへこませた炸薬そのものはむき出しの無加工だった。

 

 ロケットランチャーにしろ無反動砲にしろ、モンロー/ノイマン効果を用いる対装甲用途の化学エネルギー弾頭というのは、標的に接触する漏斗面の内側に金属の内張り(ライナー)が仕込まれているものだ。

 

 砲弾底面――すなわち、弾頭先端からして標的の反対側――で発生した信管の起爆により円柱状の炸薬が燃焼、爆発の生み出す超音速の衝撃波がライナーにユゴニオ弾性限界をもたらす。どのような固体であれ、それぞれに定められた圧力限界を超えると塑性変形が生じ、あたかも液体であるかのように振る舞う領域がある。それを数値化したものがユゴニオ弾性限界である。

 

 圧力を受けたライナーが爆轟に導かれて液状化、メタルジェットと化したそれを装甲面へ叩きつけ、標的装甲に超高圧を加えることで攻撃目標の装甲の弾性限界を突破し、ライナーと同じように装甲の液状化をもって貫徹するのが対戦車成形炸薬弾のざっくりとした貫徹原理だ。

 

 サブジェクトへ用いた爆雷槍はモンロー効果をもたらす成形炸薬(シェイプドチャージ)ではあったが、ライナーが存在しなかった。もちろん成形炸薬のみでも爆発物の貫徹力は向上するが、ライナーを用いてノイマン効果を生み出すことでその貫徹力はより強力なものとなる。

 

 炸薬量と直径が貫徹力に大きく影響する化学エネルギー弾であるが、炸薬量任せの手製爆雷槍よりはライナーのある40mm多目的榴弾のほうがまだ効果はある。マディソンはそう言っているのだ。

 

「ま、そうでなくても遠くから撃てるだけマシ、か」

「そりゃそうだ。隊長サマがわざわざ殴り合いをしないですむ」

 

 フレデリックのつぶやきにクラヴィスがかぶせた。彼はボルトを取り外したライフルの銃身と減音器(サプレッサー)の清掃をしている。汚れの染み付いたクリーニングロッドの布を引っ剥がし、新しいものに取り替えながら肩をすくめた。

 

 ヴラッドはそれを尻目に、デスクに広げた地図へ指を這わせた。現在地点から目標である警察署までの距離を見、捜索班が記入した道路封鎖箇所を避けつつ、比較的ラクに到達できるルートを勘案する。

 

 現状、ことはうまく運んでいる。無事に“カナリア(アリッサ)”を救出することにも成功し、本部との連絡も完了している。か細いものではあるが、本部からの一方通信を受ける手立てもある。

 

 それになにより、小隊の長であるハリソン、――そして内心の実情はともあれ――ガルシアも中隊本部、ひいてはアンブレラそのものに対して懐疑的と言っていい。ガルシアは未知数ではあるが、リアリストでありベテランの傭兵である彼が、素直にアンブレラを信奉し、彼らに跪いているとは考えづらい。

 

 現状、味方には程遠いが、しかし敵と断じて相手をする局面ではない。向こうは何らかの意図で手札をちらつかせているが、アンブレラに頭を垂れる人間であるならば不要な行為だからだ。

 

 もちろん、世の中には意味もなく、同時に自分でもそうと気づかずに手札を見せてくる人間が一定数いるが、そういう馬鹿は銃の世界ではあの歳まで生き残れない。

 

 つまるところ、概ねにおいてこちらに有利。副次案を含めて三つの経路を拾い上げ、それらの概略図と目印となる街区番号を防水紙に書き込みながら、しかし、とヴラッドはため息をこぼす。

 

 順調にすぎる。その一点がかえって気にかかる。

 

 無論、物事の殆どが計画通りに進んだ経験がないわけではない。戦場というのは混沌そのものが吹きすさぶ荒天と言って差し支えないが、それでもときたま、事前に立てた筋道のとおりに推移し、何事もなく終わる事はある。

 

 しかし、ヴラッドはことの最中にそれを信じるほど無垢でも愚かでもなかった。結果としてそのとおりに終わるのならばよし。しかし、疑いなくそれを信じ込み、あとで足元を掬われたのでは話にならない。それは育成に巨額を投じられた戦士にあるまじき、怠惰と無能の証明にほかならないからだ。

 

 アンブレラはまず間違いなくネズミをあぶり出そうとしているはずだ。この状況で、市外に展開する中隊本部と会社が何を企み、どう出てくるかは自分の手の及ぶ範囲の外であるからして後回しにするとしても、身の回りに何が潜んでいるかはわかったものではない。

 

 そして、それは可能性ではなく事実であるとヴラッドは考えていた。かも知れない、ではなく、間違いなく潜んでいる。そういう会社であることを彼は知っていた。過去に部隊から数人ほどひっそりと人が消えた経験がそれを裏付けている。消された先人たちがどこの誰かは知らないが。

 

 ともかくも、それを無視し、楽観に身を浸して突き進むのは彼の趣味ではなかった。意気揚々と歩んだ先で、気づいた頃には首に縄が回っていたのでは話にならない。そんな間抜けは御免こうむる。

 

 ぐるぐるとめぐる思考を断ち切ったのは、マディソンのけだるげな声だった。

 

「で、俺ら以外には誰が出るんだ」

「マルコフとガルシアがそれぞれ班を率いて弾薬回収に向かう」

 

 ヴラッドがそう返すと、マディソンはわずかに眉をひそめた。無理もない。指揮官クラスの殆どが出払うことになるのだ。それが率いる人員を考えると、この拠点の防衛人数は最低限度になる。

 

「どうするんだ、ここの守り。それに、アリッサの警護は」

「ここの防衛は拾ってきた市警官と、元保安官を他小隊の生き残りに預けて実施すると。アリッサは小隊長のそばにつかせる。アルヴィンもいるしな」

 

 俺が口を出せることじゃないからな、とヴラッドは言ってから、整備を終えたライフルを組み上げたマディソンを見た。

 

「気になるか、アリッサのこと」

「そりゃ、この状況でアンブレラ研究員の生き残りだぜ。むしろお前が気にしなさすぎ」

「確かに言えてるな。市民様がどういう目で見てるかはわかったもんじゃない」

 

 逆に怪訝な眼差しをこちらへ向けるマディソンに、クラヴィスが続いた。

 

 周囲の部下の視線が自分に集まる。ヴラッドはそれを受け、ややあってから口を開く。

 

「何が言いたい」

「いや、お前が一番アリッサと仲がいいだろう」

 

 マディソンは半ば呆れたような顔をして言った。

 

「そうか? 向こうに気を許してもらったとは思えんが」

「ああ、うん。まあそりゃそうかもしれんが……」

「マディ、やめとけよ。お前と違ってそいつは唐変木だ」

 

 どう説明したものかと顎に手をやるマディソンに、クラヴィスが押しかぶせた。からかうような響きにヴラッドが僅かに片眉を持ち上げると、クラヴィスはこちらに肩をすくめてみせる。が、そのふざけた態度も、ヴラッドが更に口を開くまでのことだった。

 

「俺よかジョエルのほうだろう。まあ衛生兵と研究員じゃ畑は違うが、お互いそのへん話は合うようだし。最初はどうなるかと思ったが、案外馴染んだようで何より」

 

 今だって二人で医療物資の確認と容態観察中だろ、とヴラッドが親指で上階を示す。上階では今頃二人が作業にあたっているはずだ。

 

 それを受け、今度こそクラヴィスの顔から表情が消え失せた。数秒の沈黙の後、ため息とともに頭を振って抱えたライフルの整備に戻る。

 

「なんだ?」

「突っ込んでやるなよ。お前が悪い」

 

 不可思議なクラヴィスの反応にヴラッドが首を傾げると、げんなりした顔でマディソンが応じた。これ以上は勘弁しろと、ひらりと手を振って彼は話題を打ち切る。

 

 ヴラッドは呆れ果てた様子の二人とそれを尻目に苦笑しているフレデリックをしばらく見つめていたが、どうにも文脈を丁寧に説明する気は無いらしいと理解すると、疑問を飲み込んで自分のライフルを手にした。

 

 サブジェクト戦でちぎれたスリングは、アリッサが切断面を縫い合わせてどうにか使えるように戻してくれていた。動作部分を操作し、使用に問題がないことを確かめてデスクに戻す。

 

「ヴラッド」

 

 背後から声がかかったのは、装備の散らかるデスクに広げたS.O.Eベストの弾倉を確かめ終えたときのことだった。

 

 振り向くと、野戦服の袖をたくし上げてバインダーを手にしたマルコフが立っている。

 

「美人の研究員サマがお呼びだ」

「要件は」

「俺に聞くなよ。あのネーサンに一番気に入られてるのはお前さんだろう」

「お前までそんなことを」

 

 一体何の話だとマルコフが眉根を寄せた。

 

「気にするなよマルコフ。そいつがニブチンだって話をさっきしてたところだ」

「あぁ? ……あー、そうか。まあいい。とりあえず、俺は伝達したぞ」

 

 早くいけよと、マディソンの横やりで勝手に何かを得心したらしいマルコフはぞんざいに親指で上階を示す。そのまま、彼はこちらが口を開く前に自分の班員のもとへと歩き去った。

 

「俺がなにかしたか?」

「いんや。ただ、ただの友情や親愛程度の情でも、機微を理解できないのは問題だって話だな」

 

 でなきゃ膝貸そうかなんて言いやしねえよと、マディソンは鼻を鳴らして顎で階段を示す。さっさと行ってこいと言いたげなその態度に、ヴラッドはため息を一つこぼして階段へ向かった。

 

「軍曹」

「アリッサからの呼び出しなら把握しています」

 

 階段で鉢合わせするなり、ガルシアが口を開いた。上階から降りてきた曹長は、ヴラッドの返答に何の話だと言いたげに目を眇めたが、それだけだった。

 

「いや、違う。出撃前に、ダニエルたちの様子を見てやれ」

「わかりました。曹長は、もう見に行かれましたか」

「顔を出していないのはお前くらいだ。忙しいのはわかるが、部下の様子を見るのは指揮官の責務の一つだ。忘れるなよ」

 

 それだけ言うと、彼は無言ですれ違って隊員フロアへと降りていく。その背中に僅かな緊張感を見たヴラッドは、この状況で副長として部隊を支える男の苦労に思いを馳せた。

 

 部下がいつ発症して食人鬼になるかもわからない環境。自分ならそんな状況で副長など務めたくはない。指揮官は部隊の方針をしめし、その行く先を示すが、部内の調整は下士官のウェイトが重い。その下士官の長ともなれば、苦労は一分隊長である自分やマルコフの比ではない。

 

 その中で、自分にこうして声をかける気配りに敬意を抱きつつ、ヴラッドは指揮所フロアへと足を向けた。

 

 

 

 




感想、評価等お待ちしています。
栄養分ですのでもらえると喜んで続きを書きます。


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顕現する悪意

 今回はかなり長くなってしまいました。
 一応、一話分として投稿しますが、もし長いと感じるようであれば意見をくだされば分割にすることも検討しますのでよろしくおねがいします。


「出撃は、いつだ」

「あと四〇分で最終確認。それからとなると、まあ一時間と少しってところ」

 

 物資の仕分けをするジョエルに近づくなり、彼はこちらを見ることもせず問いかけた。

 

 ヴラッドは両手に握ったカップの片方を差し出しながら応えた。このフロアに上がるなり、古物商店から連れてきた老婦人が気を利かせて持たせてくれたものだった。

 

 ヴラッドの返事に、ジョエルはそうかとやや気疲れした声で頷いた。湯気立つコーヒーの入ったカップを受け取って椅子に腰を下ろす。

 

「大丈夫か」

「俺か? 上の連中よりはよっぽどな。抗生物質が効く相手じゃなし、時間稼ぎしかできん」

「時間稼ぎは、どの程度効いてる?」

「アリッサが持ち出した抑制剤を投与した。彼女に聞いてくれ」

 

 ジョエルはやれやれとかぶりを振ってタバコを取り出すと、ヴラッドの背後を指し示した。肩越しに振り返ると、ハリソンに医療品の残数を報告し終えたアリッサが、オフィスから戻ってきたところだった。

 

 彼女はヴラッドに気づくと、バインダーの紙面に何かを書き込む手を止め、仮眠くらいはとれたようね、とほんの僅かに微笑んでみせた。

 

「ああ、おはよう。それで、どのくらいの効果が見込めるんだ」

 

 ヴラッドはコーヒーを一口すすり、片手で取り出したタバコの箱を振って吸い口を咥え、もう一本を振り出してジョエルへ向けた。主語を省いた問いかけだったが、ヴラッドが思ったとおり、アリッサはその意味を違えず理解したようだった。

 

「人によりけりね。短くて半日。長けれれば二日程度。でも運良くウイルスを無効化、なんて期待しないことよ。私で試したけど、抗血清でもない限り無理だわ」

 

 対するアリッサの返答も、無駄を省く端切れの良さがあったが、声音は随分と朗らかだ。とはいえ、そこにはいくらか疲労が滲んでいるように思えた。

 

「まったく大したマッドぶりだよ。抑制剤の人体実験に自分を使うやつなんぞ聞いたことがない」

 

 受け取ったタバコに火をつけながらジョエルが吐いた言葉は、その口調とは裏腹に愉快げですらある。研究所で食って掛かったときとは真逆と言っていい。

 

 立場は違うが同じ危機をくぐった人間同士の朗らかさに内心で安堵したのもつかの間、ヴラッドはある言葉に気づいて眉根を寄せた。

 

「まて、自分で人体実験だって?」

「それがどうかしたの」

 

 アリッサはなにが疑問なのかとばかりに返した。

 

「安心して、人を襲うことはないわ。この先も、手ひどく噛まれない限りはね。抑制剤の対人転用の実証をしただけだもの。他人を使うよりマシでしょう」

「いや、思い切りがいいのは考えものだなと思ってね」

 

 顔をしかめたヴラッドに、そのままお返しするわとアリッサはそっけなく応えた。それを見、ケタケタとさも愉快そうに笑ったジョエルは、お前の負けだよと続けた。

 

「どうせ呆れられるほどの馬鹿だよ、俺は。それで、俺の部下は」

「芳しくないわ。高熱で朦朧としている人もいる。そっちはもって一日、それ以上は無理ね」

「解決策は」

 

 ジョエルの茶々に拗ねた風に返したヴラッドは、間をおかずに本題を切り出した。

 

 それを受けたアリッサも、ごまかすことなく素直に応えた。談笑という一時の安らぎを楽しむには四〇分という時間は短すぎ、またそれを理由に直視するべきものから逃げるだけの無責任さを、ヴラッドは持ち合わせていない。

 

「現状無し。血清のありかを()()()()()()()しか手立てはない」

 

 隠し立てせず正直に状況を伝えるアリッサの声は、そのはっきりとした口調とは裏腹に、どこか詫びるような響きがあった。あるいはそれはヴラッドの願望が生み出したものかもしれなかったが、彼はそう捉えた。そしてそれは、ジョエルも同じだった。

 

 彼はアリッサをちらりと見やっただけで、口を挟まず静かにタバコを味わっている。ジョエルは戦闘外傷救護(コンバット・ファーストエイド)のプロではあるが、感染症は門外漢だ。そしてその分野のエキスパートの一人であるアリッサが無理というのであるから、口を挟む理由はない。

 

「四〇分後だったな。装備を用意してくる。そっちはごゆっくり」

 

 コーヒーを飲み干して立ち上がったジョエルは、こちらに目配せするとひらひらと手を振って立ち去った。途中、老婦人にコーヒーの礼を述べて遠ざかっていく背中を見送ると、ヴラッドはジョエルが座っていた椅子を示してアリッサに勧める。

 

「これで彼には借りがひとつできたわね」

「何かあったのか」

 

 ヴラッドが問うと、アリッサはええと頷きながら椅子に腰を下ろした。

 

「あなたに伝えるべきことがあるのよ。彼、察しが良くて助かるわ」

 

 化粧気はないが、しかしふっくらとした形の良い唇が小さく笑んだ。ヴラッドは底に粉の溜まったインスタントコーヒーを揺らし、それに目を落とすことで、視線が釘付けになるのを避ける。

 

「それで、伝えることってのは」

「まず、血清の可能性の話を」

 

 アリッサはフロアをぼんやりと眺めながら言った。彼女の視線の先では、老婦人から使い捨てカップと今朝の分の食料を受け取ったシャーロットが、それを階段で歩哨に立つ隊員へとゆっくりとした足取りで運んでいる。

 

 が、ヴラッドはその眼差しが周囲の様子を探っているのだと分かっていた。ほとんどの人間には理解できないだろうが、瞳の小刻みな動きがそれを物語っている。

 

「なんだって。血清?」

「ええ。あくまで、可能性の話だけれど」

「それで」

 

 ヴラッドは努めて平静な声で問うた。トーンを抑えたこちらの言葉に、アリッサはせっかちな男はモテないわよと目を眇める。怒った様子はない。単にからかうような響きが混ざった声だった。

 

「もう一つの研究施設の話はしたはずだけれど、そっちはどうあっても侵入不能。でもそれとは別に、可能性のある場所が一つだけある」

 

 ところで、あなたアンブレラがどれだけこの街に根を張っているか知っているかしら。アリッサはデスクに頬杖を付き、小さく首を傾げてそう問いかけた。こちらを見上げる眼差しの奥、どこか愉快げで、同時にこちらの奥を見通すような光を見つめ返す。

 

「街の地下研究施設を作って、鉄道路線を搬入路に流用するくらいだ。どうせ市議会なんかは完全にズブズブだろ」

「ええ、それはもうどっぷり。そんな街だもの、ラクーンの生命線は概ねその手中」

 

 ここまで言えばわかるでしょう、とアリッサが小さくささやくように言った。アンブレラといえば、世界的な多国籍製薬企業だ。そこまで考え、彼女が伝えようとする内容を理解したヴラッドは苦笑とともに頭を振った。

 

「もっとスマートな伝え方があると思う」

「あなたなら分かってくれると思ったわ。それに、誰に聞かれているかわからないもの」

「それはたしかに。それで、それを見つけてほしいと」

「御名答」

「君がそう言うと、()()に聞こえてくるな」

「あら、命令形がお好みならそうするけれど」

 

 機会があれば新しい趣味の開拓のためにお願いしようか、とヴラッドは肩をすくめた。咥えたままになっていたタバコの穂先に、ポケットから取り出したライターの火を当てる。

 

「医療物資の残数はどうなってる」

「それが問題ね。殆どが民間のファーストエイドキット程度のものしか無いの。専門の医療物資はあなた達が持ち込んだ分ばかり」

 

 しかも、一部薬品の数が合わないのよ、と。アリッサは先程何かを記入していたバインダーを持ち上げた。あなたに伝えたかったことのもう一つはこれねと、彼女は続けた。

 

「どういうことだ」

「各分隊の衛生担当が報告した使用数と一致しない。ハリソンにはもう報告したけれど、エピネフリンシリンジと……」

 

 そこまで続けたアリッサの声は、くぐもった、しかし耳に突き刺さる甲高い悲鳴にかき消された。

 

 反射的に右手がカップから離れて腰の拳銃を掴む。落ちたカップが音を立て、まだ湯気の立つコーヒーがブーツにぶちまけられたが、ヴラッドはそれを意に介さず、瞬時にフロアに視線を走らせた。

 

 悲鳴は別のフロアから聞こえたようだった。配布する朝食の支度をしていた女性陣や、まだ眠っていた市民が何ごとかとざわめき、指揮所からハリソンと小隊本部人員が出てくる。

 

 数秒の喧騒の後、一度きりで途絶えた悲鳴に皆が緊張を緩めようとした瞬間、紛れもない銃声が全てを吹きちらした。

 

 ハリソンが部下に命じ、無線で拠点外周の警戒班に交戦の確認を取る中、ヴラッドは腰のレザーホルスターからP7を引き抜いた。銃声の発生源は外ではない。同じ建物の、それも上階からだ。

 

 そして、先程の悲鳴もまた同じく。

 

 階を隔てても耳に刺さるほどの高音域。未成熟な体躯が発する中でも、特に女児のそれに特徴的な叫び声。そしてこの拠点に女児は一人しかいない。

 

 同じ結論に至ったアリッサが、鋭い声を上げた。

 

「ヴラッド!」

「分かってる」

 

 ヴラッドはP7のスライドを引いて装弾を確かめながら階段へと飛び出した。薬室から覗く真鍮を目視するとスライドを離し、その後端を指で押し込んで確実に閉鎖する。

 

 銃を抜いて接近するヴラッドの殺気立った姿を見て、階段前の歩哨は混乱を顔に貼り付けたまま立ちすくんでいた。それに手で退くように示すとほぼ同時に、階下からマイケルが駆け上がってくる。

 

「シャーロット? シャーロット!?」

「マイケル、下がれ! カルロ、状況!」

 

 ヴラッドは階段の前に立つと、負傷者フロアの警備を担当している隊員へ呼びかけた。その間に、上階へ飛び込んでいきそうなマイケルの肩を掴んでフロアに引き込むと、強引に壁に押し付ける。

 

 マイケルは語気を荒げて離してくれと喚いたが、下から息を切らせて上がってきたリアムがその腕を掴んで引き止めた。階段前をどいた歩哨がそれに加わり、背後ではハリソンが無線で上階での不明な発砲を報告し始めている。

 

 上階からの応答はない。発症した隊員を射殺したのであれば、今頃報告に降りてくるはずだ。そうでないのなら――。

 

「何があったんだ! シャーロット!」

 

 かすれた少女のすすり泣きのような声が階段の上から聞こえた瞬間、マイケルが歩哨をはねのけて階段へと飛び込んだ。ヴラッドはその背に手を伸ばして引き留めようとしたが、伸ばした指先が寸前で空を掴む。

 

 ヴラッドの視界に映る全てがスローモーションのように減速していく。

前のめりに階段へ進むマイケルの背中。その眼前、踊り場に現れた戦闘服に身を包んだ人影。その影が血の滴る腕で抱きかかえた少女の、乱れて赤黒く汚れた衣服。

 

 ヴラッドがその影の右手にカービンの輪郭を見つけた瞬間、まばゆく発砲炎が散った。発射薬の燃焼がもたらす薄橙の明滅が、射手の血に汚れた土気色の顔と、それに抱えられたシャーロットの驚愕に見開かれた目元を照らす。

 

「来るな! 動くんじゃねえ!」

 

 銃弾が耳元を飛び抜ける不愉快な擦過音と、自分の顔に生ぬるい血が飛び散る不快感。

 

 そこで、ヴラッドの時間が元の速度を取り戻した。

 

 目の前でマイケルが倒れ伏している。

 

 リアムの喉から絞り出すような悲鳴と、口を手で塞がれて抱えられたシャーロットのくぐもった泣き声の中で、ヴラッドは反射的に飛び出そうとするリアムの襟首を掴んで自分の後ろへと押しのけた。

 

「畜生、クソ! クソ! クソ! ジジイ、飛び出してこなけりゃ!」

 

 背後で悲鳴。撃たれたと泣きわめく女性の声。必死にマイケルに呼びかける、高く濁ったリアムの絶叫。そして、噛みつかれた喉元のガーゼを血で染め、M4を右手で握った男の罵り。

 

「邪魔するなよ、ヴラッド軍曹。俺は知ってるんだ、お前たちが何を考えてるか、俺は知ってるんだぞ!」

「いいか、落ち着け。わかった、邪魔はしない。だからまず、マイケルを手当させてほしい」

「うるさい! 黙ってろよ! お前たちはそうやって、俺たちを殺そうとしてるんだ! だってのにジジイ一人でガタガタ抜かすんじゃねえ!」

 

 ヴラッドは足元でうつ伏せに倒れたまま、床に血を広げていくマイケルを示した。男は――ベリヤ伍長は怒鳴り声でそれをねじ伏せると、撃たれた祖父を前にして脚をばたつかせ、大粒の涙をこぼしながら身を捩るシャーロットを二度三度と振り回して黙らせる。

 

 ヴラッドは胸元にこみ上げた熱に急かされ、思わず銃を持ち上げかけた腕を理性で押し留めた。

 

「伍長、やめろ! 今すぐに銃をおろして投降しろ!」

 

 背後から飛んできたハリソンの命令に、ベリヤはもう一度M4の引き金を絞った。バーストでばらまかれたライフル弾がガラスを粉砕し、耳障りな音を立てる。

 

「黙ってろよ……、お前の差し金なんじゃないのか、大尉サマよ! 俺たちをぶっ殺して掃除する算段を立ててただろうが!」

 

 唾液を散らし、声を枯らす勢いでベリヤが喚く。ヴラッドは、彼のせわしなくあちこちへ向けられる目の瞳孔が開ききっていることに気づいた。感染進行と興奮のせいか、呼吸は非常に荒く全身が汗ばんでいる。

 

「おい、なあ、軍曹。銃を捨てろよ。それ捨てろって、なあ。じゃないとぶっ殺すぞ」

 

 彼の目がヴラッドの握る銃に向けられ、ベリヤはM4の先端をこちらへと向けた。明確な殺意を乗せた銃身がこちらの額で止まり、昏い小口径の銃口を覗かせる。

 

 こちらの拳銃は、飛び出すマイケルの背にかぶらないよう逸したせいでベリヤを捉えていない。徹底的に訓練された人間の、安全管理本能の弊害だった。

 

 一か八か、横に飛び退いて反撃という手もあるが、背後には半狂乱のリアムがいる。さらにベリヤは狙いにくいようシャーロットを胸元に抱え込んでいた。不安定な姿勢で撃てば、最悪の場合はどうなるか。

 

 背後のハリソンらも今は動けまい。不用意に行動すれば、弾倉の中身がありったけぶち撒けられることになる。

 

「わかった、今下ろす」

 

 このまま銃を握っていてもできることなどなかった。

 

「やめろ、ベリヤ……お前は……自分が何をしたのか、わかっているのか!」

 

 一度相手の興奮を諌めるべく、ベリヤの脅迫に従おうとしたとき、上階から聞き慣れたかすれかけの声が響いた。ダニエルの声だった。

 

 ベリヤが上階に目を向けた瞬間、下階へ通じる踊り場にガルシアとマルコフが姿を表した。二人は腰丈の手すり壁に身を隠したまま、ガルシアを先頭にして、慎重だが素早い足取りでカービンを上階へ向けて登ってくる。

 

 しかし極度の興奮で感覚器官が鋭敏になっているのか、ベリヤはその僅かな気配に感づいたようだった。忌々しげな唸り声を上げ、彼は本能まかせの反射行動でマズルをそちらへスライドさせた。

 

 手すり壁からガルシアとマルコフが現れた瞬間、ベリヤの目が強い驚愕に見開かれ、狼狽を示すように標的へ向けた銃口が揺れる。直後、ベリヤのM4がバーストを放ったが、銃撃の気配を察知したガルシアは、マルコフを片手で抑え込みつつ身を翻していた。

 

 マズルフラッシュがまばゆく連鎖し、空を切った銃弾が手すり壁と建材をぶち抜いて白く粉塵を撒き散らす。

 

 その中で、ヴラッドは銃撃を避けた二人を目にしたベリヤの瞳に、強い恐怖の色が滲んだのを見逃さなかった。

 

 同時に、自分から銃口が外れたほんの僅かな隙もまた。

 

「銃を捨てろ、ベリヤ!」

 

 こちらがその一瞬の間に右手を跳ね上げたのに気づき、ベリヤは身を引いてガルシアらの射界から逃れようとしつつ銃口をヴラッドへ再び移動させる。それを目にしながら、ヴラッドはそれでも最後の警告を発した。

 

 状況は誰彼構わず撃ち込めばいいベリヤが圧倒的に優位だ。逸れたとはいえ、ほんの少し動かすだけで銃口はこちらを捉える。

 

 しかし、ヴラッドの速度はそれを上回った。

 

 筋肉の記憶が一瞬で正確な射撃姿勢(スタンス)を保持し、しっかりと両手で握り込まれた拳銃はその筒先を標的へとピタリと据える。一列に並んだ照準の向こう、恐怖と混乱で今にも泣き出しそうなベリヤの鼻頭へ意識が集中する。

 

 警告を受けてなお、ベリヤは銃の引き鉄に指をかけたままだ。

 

 ベリヤに投降する気はない。瞬時にそう結論づけたヴラッドは、素早く滑らかに引き鉄を絞りきった。

 

 乾いた発砲音。べしゃりと、粘性のものが叩きつけられる鈍い音。

 

 あまりに素早いヴラッドの射撃に、ガルシアに肩を押さえられた姿勢のままマルコフが固まっている。ガルシアはカービンを油断なく踊り場へ向けると、射撃姿勢のままベリヤへ接近するヴラッドに代わってマイケルへと駆け寄った。

 

 ベリヤは鼻頭を撃ち抜かれて即死していた。正面から見て目と目の中心点の奥には、人間の生命活動の根幹を握る脳幹がある。

 

 幅はせいぜい二センチ、長さも七センチ程度のごく狭い領域。そこを撃ち抜けば人は一瞬で肉体活動を停止する。そして、極限の緊張下で瞬時にそこを撃ち抜く技術を、ヴラッドは膨大な国費によって授けられていた。

 

 後頭部から穴の空いた水風船のように血液を垂れ流し、もはや動くことのないベリヤの腕を脚で押しのけると、リアムが泣きじゃくりながら駆け寄ってくる。恐怖と混乱に加え、乱雑に振り回された影響でシャーロットはぐったりとしていた。

 

 ベリヤの腕から解き放たれた彼女の顔は、口から何からベッタリと鮮血で汚れている。それも、感染者の血液で。

 

 

 

 

「マイケルは、どうにか安定した。ただギリギリのラインだ。これ以上の手当は物資が足らん」

 

 もう一人もかなりまずいと、血で濡れたラテックスを汚染物袋へ投げ込んだジョエルが吐き捨てた。彼はベリヤの銃撃で負傷した民間人の救護にあたったが、マイケルを含む四人の負傷者のうち二名が死亡している。

 

 死んだ民間人の遺体は、殺害された歩哨やベリヤのそれとともに、屋上の倉庫室へと押し込まれた。それを運んだのは、ヴラッドとマルコフ、マディソン、クラヴィスだった。

 

「そうか」

 

 ヴラッドはうなずいた。

 

 目の前では、厚く敷いた布の上でシャーロットが横たえられている。ベリヤの血で汚れた服は廃棄され、リアムが持ち出した予備に着替えさせられている。血で汚れた肌はアリッサが消毒を施したが、シャーロットは開放されてから意識を失ったままだ。

 

 幼い子供には過酷すぎる恐怖と、目の前で撃たれた祖父。二つの重荷がシャーロットの防衛本能に働きかけた結果だろう。外傷由来の気絶ではないとジョエルは結論づけている。

 

 ヴラッドはまぶたを閉じ、身じろぎ一つしないシャーロットを見つめていた。小さく上下する胸だけが彼女の生存の証だ。頬に手を触れ、暖かく柔らかいそこを撫でてやる。先程まで血に汚れていたそこを。

 

 目を閉じると、不意にこちらの手を握ってトイレまでの付き添いをねだった顔が浮かんできた。それから、タイラントに殴り倒されて気絶した自分のそばで眠っていた顔を思い出し。スティーヴンの死を実感して泣いた夜が、はるか昔のことに感じられて眉根を寄せる。

 

 まぶたの裏にちらつく顔が、自分が撃ち殺したベリヤの顔に塗り替わる。極度の興奮でせわしなく動く瞳、開ききった瞳孔と、荒すぎる呼吸。不自然なほどに高ぶり、凶暴さをむき出しにした、哀れな男の顔。

 

「もう少しここにいろ。俺とマディが小隊長に最終確認を……」

「俺が行く。大丈夫だ。装備を整えてくれ」

 

 ヴラッドの声音はほとんど命じるような頑なさをにじませていた。ジョエルは僅かな沈黙を挟んでそうかと頷き、ヴラッドの肩を叩いて立ち去る。それと入れ替わりで、負傷者フロアに上がってくる足音がした。

 

 ヴラッドには、気配だけでアリッサだと分かった。

 

「ヴラッド」

「言いかけた事があったろう。エピネフリンシリンジの欠品」

「そのまえに、シャーロットよ」

「感染の有無はまだわからない。そうだな」

「ええ」

 

 ヴラッドの問いかけにアリッサはうなずいた。ベリヤの血液にまみれたシャーロットの顔を見た瞬間、一番血相を変えたのは彼女だった。

 

 一滴でも口腔粘膜や眼球に触れれば高確率で感染する。そう分かっていながら、いや、分かっているからこそ、氷のような美貌に焦燥をにじませて、彼女はシャーロットにこびりついた暴力の残滓を拭い取ったのだ。

 

「それで、エピネフリンを誰かが盗んだんじゃないか。そう思っているんだろう」

 

 ヴラッドは問うた。アリッサは先程と同じように、ええと素直にうなずいた。フラットなようで、静かに怒りをにじませた声だった。

 

「診察をしたときに不自然に心拍の早い兵士がいることは確認していたわ。Tウイルスの感染進行では説明のつかない大きく早い脈拍、それに瞳孔の拡張」

「アドレナリンの作用が疑われる症状だ。それも自然分泌だと、環境要因からして説明がつかない。そして在庫の不一致。あの攻撃性から見て、おそらく個人配付の精神興奮薬も併用だろう」

「ええ。もっと早く、あなたに伝えるべきだった」

「君のせいじゃない」

「けれど、結果はこのザマよ」

「それでも、予想するのは困難だった」

 

 そうねと、アリッサは静かに応えた。

 

「俺は部隊内に監視者が存在すると考えていた。確実なものだと。であったなら、こうなる可能性を考えなければならなかった。十分な手を打たなかったのは俺のミスだ」

「誰かが意図してこうなるように画策した、と」

「ダニーが教えてくれた。誰かがここに来て、ベリヤに何かをしていたと。やつも朦朧としていてはっきりとは覚えちゃいないらしいが、おそらくは薬物を投与したんだろう」

「彼ね。ええ、私にも同じことをさっき」

 

 ヴラッドは部屋の隅で寝かされているダニエルを見た。ベリヤを止めようと、撃たれる危険を冒してその行為を咎めた部下は、感染の進行と緊張が解けた安堵から再び意識を失っている。

 

「会話を聞いたらしい。早いところ殺してしまったほうがいい、ってな」

「それだけで断定はできないわ」

 

 アリッサは言った。発言とは裏腹に、何者かの関与を否定する響きはない。ヴラッドにはその意図が理解できた。証拠としては信用性が薄く、手段としては確実性に欠ける。そう言いたいのだ。

 

 確かに何が目的だったとしても、今回の事件は手段として見ると不確定要素が大きすぎる。それは紛れもない事実だ。

 

 証拠も朦朧とした隊員の証言が一つきり。たとえベリヤを生きたまま確保できていたとしても、高熱とストレスによる被害妄想でないことを証明する手段があったかどうかは怪しいだろう。血中の薬品を検査する設備はないからだ。

 

 そしてそうである以上、誰彼構わずこの話をするわけには行かない。しかしながら、であるからこそヴラッドは何者かの――アンブレラの密命を帯びた“敵”の――関与は間違いないと考えていた。

 

 言語化できる感覚ではないが、ヴラッドからすると確実性よりもその存在を公的に断定させないやり口はアンブレラ的であるように思えたからだ。

 

 どだい、この状況で意図的にこの事態を引き起こしたとすれば、その目的は混乱そのものを生むことにある可能性が高い。であれば、不和の種を仕掛けた時点で向こうの目的は達成されていると言っていいはずだ。

 

 ベリヤの凶行が仕掛けた当人の意図どおりであるかはヴラッドにもわからなかったが、偶然の産物ではないと彼は確信していた。

 

 それはアリッサも同じだろう。

 

 ヴラッドはそうだなとうなずいて同意を示すと、ゆっくりと立ち上がった。出発時刻が近づいていた。脚は重く、ブーツを床から持ち上げるのすら苦労しそうなほどだったが、彼には任務があった。

 

 シャーロットから離れ、同じように眠ったままのダニエルへと歩み寄る。肩口を噛まれた彼は額に汗をにじませて、閉ざされたまぶたの裏で瞳をせわしなく動かしている。悪夢を見ているのだろう。

 

 立ち上がるのも一苦労だろうに、ダニエルはベリヤを制止しようと階段まで這いずってそこで力尽きていた。それでも意志の力を最後のひとかけらまで振り絞り、ヴラッドに伝えるべきことを伝えて、彼は気を失ったのだ。

 

「ここを頼む」

 

 死に近づきつつある部下の身体にずれかけた毛布をかけ直してやると、ヴラッドはアリッサを振り返った。

 

「あなたも気をつけなさい。この子達のために」

 

 こちらを見つめる眼差し。氷の瞳の奥の感情のさざなみに、言葉ではなく首肯を返すと、ヴラッドは階段へ向かった。

 

 

 

 

 

 負傷者フロア階段の警備は二名に増強され、配置も踊り場に変更になっていた。

ベリヤはシャーロットを利用して歩哨を呼びつけ、食事用に配布される樹脂のナイフで歩哨の喉を強引に掻き切ったと推測されたからだ。

 

 予め銃を回収してあるからと油断していたせいで歩哨が殺され、火器が奪われた責任を感じているのか、ガルシアは階段前で歩哨配置を練り直している。

 

「ラクーン市警は後回しでいい。市立病院へ向かってほしい。医療物資が逼迫している。必要なものはジョエルに確認を取れ、私は門外漢だ」

「了解しました」

 

 ハリソンから伝達された命令変更に、ヴラッドは直立不動の姿勢で応じた。硬い声音で、表情を変えずに受諾した部下をしばらく見つめてから、ハリソンは口を開いた。

 

「アリッサからエピネフリンの件は聞いたな」

「はい」

 

 ヴラッドは頷きながら、指揮所の外を見た。管理職のためのアクリルパーテーション越しであるから会話が聞かれる心配はない。指揮所の外は、目で見ても明らかなほどに沈鬱な雰囲気が漂っている。

 

 実行犯合わせて四名が死亡。二名が重傷、一名が感染の可能性あり。当然のことだ。世帯の膨れ上がった市民らは落ち着かなそうに座り込んでいるか、気を紛らわそうと作業に従事しているかのどちらかだ。

 

 感染の可能性は低いと判断されたマイケルはこのフロアの隅に寝かされていた。傍らには目元を赤く腫れさせ、涙をこぼすリアムが膝をついている。それに老婦人と若い女性が寄り添い、衛生担当がそばで待機していた。

 

「どう思う。私見でいい。根拠は問わない、お前の考えが聞きたい」

 

 ハリソンの問いに、ヴラッドはほんの一瞬だけ思考を巡らせた。誰がアンブレラの犬なのかは、未だ目星すらついていない。その状況で安易に触れて良い話題ではないが、ヴラッドはすぐに結論を出した。

 

 もしハリソンがそうであった場合、早急に尻尾を掴んで明確な証拠を出さない限りこの部隊は滅ぶことになる。であれば、乗ってみるのも悪くはないだろうとヴラッドは考えた。それにヴラッドの考えでは、彼がそうである可能性は高くない。

 

「何者かの工作であると確信しています。大尉は?」

「この会社に雇われて長い。嫌でもそう考える」

「心当たりはありますか」

「ガルシアかマルコフ。あとはチャベス、一分隊のパトリック。他数名。アリッサが予想投与時刻を出したが、幅があるから絞りきれん」

 

 お前は戻ってから一度も上がっていないからなと、ハリソンはそう続けて大きく、しかし静かに溜息をこぼす。一度回復した疲労の気配が再び戻っていた。それもより色濃くなっているように思える。

 

 それは演技ではなく、本物の疲労であるとヴラッドは判断した。少なくとも目元のくまは演技でどうにかなるものではない。

 

「もちろん私も候補の一人だ」

 

 しばらくの沈黙の後、ハリソンは小さな声で言った。ヴラッドはそうですかと頷き、無言をもってその先を促した。こういう時、ハリソンは必ずこちらに伝えるべき言葉を持っている。

 

「軍曹、仮に私が死んだ場合、何をしてでも市民救助を完遂してもらいたい。そして必ず、()が誰かを突き止めてくれ」

「そして殺せ、と。何があろうと」

「そうだ、何があろうと。誰であろうと。そいつは、この状況に私達を叩き込んでほくそ笑む連中のために、戦友と市民の命を奪った。ならそれは敵だ」

 

 頷いたハリソンの声は決然としていた。自分がそれにたどり着いたのなら、誰にも譲らず自分自身でそうすると決意している声だった。静かだが重く響くその命令に、ヴラッドはゆるく、しかし乱れのない所作で敬礼を投げた。

 

 ハリソンも敬礼で返した。進むべき道を定めた指揮官と、卓越した戦闘員の眼差しが交差する。

 

「了解。必ず殺します。それがたとえあなたであろうと」

「そうだ、軍曹。それがたとえ、私であろうと」

 




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指摘とかでも構わないのでどしどし投げていただければはねて喜ぶのでお気軽にどうぞ!


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熾火を胸に

次回は二週間後くらいの予定です。


 頭上、黒々とした分厚い雲から降り注ぐ雨脚は激しかったが、体力を奪うその冷たさはしかし、ヴラッドの胸元に残った微かだが力強い熱量をもかき消すには至らない。

 

 俺が兵隊さんを手伝ってあげればなんて言ったからだ、と。出撃前、泣きはらした顔をヴラッドの腹に押し付け、小さく薄い胸板の中に荒れ狂う感情を吐き出すように鍛えた胸を叩いた手の重みは、そう簡単に薄れるものではなかった。

 

 それだけが、末端まで冷え切った身体に活力を与えている。ヴラッドは濡れて重くなった戦闘服の裾を絞り、目深にかぶったキャップのつばから垂れ落ちる水滴の向こう、叩きつけるような雨に霞む市街へ向けた目を、ゆっくりと左右に動かした。

 

 飛び散った雨粒の微細な粒子で靄がかかったようににじむ街並み。低く垂れ込めた黒雲によって陽光を遮られているのも重なって、活性死者のふらつく輪郭はひどく曖昧だ。

 

 白く濁る景色からだしぬけに浮かび上がった人影に目を留めたヴラッドは、それがこちらへ向けて三度ライトを点滅させたことを確かめると、小さく口笛を吹いた。

 

 それを合図にして、やや距離をとって膝をつき、各々の担当方向を警戒していた部下が立ち上がる。集まる視線を確かめたヴラッドは、指を揃えた左手でゆっくりと進路を示した。

 

 クラヴィスとジョエルがそれに頷き、手にしたカービンのストックを肩に沈めて前進を開始する。左手はハンドガードを握り込み、グリップを掴む右手の親指は安全装置にゆるくかけて、銃口は心持ち下げておく。

 

 接敵に対応するための即応姿勢のまま、先行していたマディソンらの元まで幅の広い道路を横断すると、ヴラッドは無人となった雑貨屋の軒先へ飛び込んだ。

 

「どうだ」

「大丈夫だ。雨音がひどくて、こっちを見つけるどころじゃないらしい」

 

 ヴラッドの質問に対し、マディソンは濡れた髪を手でなでつけながら返した。拠点を出発してもう二時間と少し。激しい雨のもたらす視界不良で移動速度が低下する中、道路を這い回る二匹の“ネイルフロッグ”を発見したのは三〇分ほど前のことだった。

 

 有効視界が著しく減少するこの状況下で、肉眼による目視ではなく音で獲物の位置を把握するネイルフロッグに絡まれてはたまらないからと、こちらの目的地へ向かうルートを先行する二匹の化け物の尻を追いかけてここまで来た。

 

「途中、気が変わったのか向こうは進路を変更。ロストして五分、もう大丈夫だろう」

 

 ヴラッドたちに先行して二匹の動向を探っていたマディソンは、雑貨屋のカウンター裏からくすねたらしい新品のタバコを開封しながら報告した。見れば、カウンターには一箱分の小銭がおいてある。

 

「残りはどのくらいだ、ヴラッド」

「スケジュールの半分は消化した」

「二時間かけて?」

「あいつら相手に徒競走したかったなら、もっと早く言えよ」

 

 ジョエルの問いかけにヴラッドは肩をすくめて返した。その後ろで各々小銭をカウンターへ転がしてタバコを回収し始める部下を尻目に、ヴラッドは店外に視線を向ける。暗く濁った路地のところどころで、大粒の雨ですら消しきれない力強い炎色が揺らめいている。

 

 ここに到達するまでの間に派手な住宅火災はいくつも目にしてきたが、それへ立ち向かう消防士は愚か、野次馬の姿すらどこにも見受けられない。降下から二日と少し。完全に死に絶えた街並みの静謐さは、どこか浮世離れしていた。

 

「ここで休憩を取る。時間は五分」

 

 視線を外へ向けたままヴラッドが言うと、ネイルフロッグを警戒してか控えめな返事が部下から返ってくる。膝をつき、カービンに手を添えたまま警戒にあたるヴラッドの横から、開封されたばかりのタバコの箱が突き出された。

 

 ジョエルだった。ソフトパッケージから飛び出たフィルターを咥えると、入れ替わりでライターが差し出された。火を受け取り、冷え切った体内に煙を吸い込む。ニコチンが脳みそに染み込み、頭蓋の中が活発になるむず痒い感覚に目を眇める。

 

「あると思うか」

「なにがだ」

 

 隣にしゃがみ込み、同じように外へと目を向けたジョエルが囁くような声量で言った。ヴラッドは主語を欠いた質問に対して逆に問いを返した。

 

「血清だ。アリッサがお前に伝えたのはその話だろう」

 

 ジョエルが言った。その声には断定するような響きがある。確かにアリッサの言うとおりだなと、ヴラッドは内心に納得した。彼は勘がいい。

 

「可能性の話だ。彼女がそう言うのなら、あるかどうかは行ってみないとわからない」

 

 ヴラッドは肩をすくめた。アリッサが明言したわけではないが、彼女が伝えたかったのはラクーン病院になら血清が存在する可能性がある、ということだと彼は判断していた。

 

 アンブレラのホームタウンにして、深く根を張っている企業城下町がこのラクーンである。鉄道路線を流用した搬入路、街の中に堂々とそびえるアンブレラの社屋。当然、市議会の首根っこを押さえていることは想像に難くないし、となれば市警察や病院なども当然だろう。

 

 そしてアンブレラが世界的製薬会社であることを考えれば、ラクーン病院はその影響を非常に強く受けているはずだ。実際に見たわけではないが、ラクーンの地下にもう一つ大きな地下研究施設があることを考えれば、ラクーン病院に()()()が無いわけではない。

 

「気になるか」

「子供の命がかかってる。仲間の命もな」

「行けばわかる」

 

 そうだなと、ジョエルは頷いて話題を打ち切った。結局、病院内を捜索しなければ答えは出ない。それは重症を負ったマイケルらの手当に必要な物資の有無も同じだ。

 

 ジョエルの見立てが正確なら、混乱の発生から収拾不能に陥るまでの日数と、症状の特徴から、()()()外傷の手当に使える医療物資はまだ残っている可能性がある。

 

 歩く死人を相手に、いちいち手厚い治療を施す人間はそういるまい。ラクーン病院の規模から考えても、医療物資を使い切る前に負傷者で病院の機能はパンクしていたはずだ。

 

 もちろん、病院という施設の性格上、生存者の存在は期待されていない。

 

 雨で急激に外気が冷え込んだせいで、吐き出す呼気は白く凍っている。それが薄れて消えていくのを見送ったヴラッドは、隣でなにか言いたげなジョエルに目を向け、顎先で言えよと促した。

 

「ベリヤにエピネフリンを投与したやつが、これで終わりにすると思うか」

「その話、他の誰かにしたか」

「いいや」

 

 外を見つめたまま問いかけたジョエルに、ヴラッドは返した。首を振った彼を横目に確かめ、ヴラッドは頷く。

 

「死にたくないなら不用意に口にするな。誰かわかるまでは」

「なら、お前だってはぐらかせよ」

 

 誰彼構わず語っていい内容ではない。いまだ、小隊内では錯乱したベリヤの単独犯ということになっている。エピネフリンの紛失と投与疑惑に関して知っているのは、衛生担当者と残数をチェックしていたアリッサ、各分隊長のみだ。

 

「俺はいい。それで動くなら好都合だ。そのまま殺す」

「まだなにかやる、そういうことか」

「でなければあんなことはしない。目的が混乱を生み出すことであるなら、その先は何を考えている?」

 

 ジョエルはヴラッドへ目を向け、そのまま黙り込んだ。ヴラッドは外を見つめたまま、微かにではあるが雨脚の弱りつつある街区を、ふらふらとあてどなくさまよう死者たちの様子を観察している。

 

 ここ数時間で気づいたことだが、雨で音がかき消される上に臭いも吹き散らされる環境では、活性死者の索敵能力は大幅に低下するようだ。

 

 雨が止む前に移動距離を稼ぐべきだろう。

 

「さあな、俺にはさっぱり」

「なら、この話題はここまでだ。目立ってもいいことはない」

「お前は」

「言っただろう。誰か判明し次第、殺す。それだけだ」

 

 俺が目立てば、向こうもそう動くかもしれないからなと、ヴラッドは素直に答えた。実際問題、このノーマッドの中ですらベリヤにエピネフリンを投与した人間がいる可能性を否定できない。

 

 それを理解した上で、ヴラッドは自分のスタンスを隠す気はなかった。この状況で不安定な手段を用いて混乱を生むということは、それだけ()()()()()()()の手元に残された猶予が少ないということだ。ヴラッドはそう判断していた。

 

 であれば、向こうの動きも今後は大きくならざるを得ないだろう。ちまちまと工作を繰り返してどうにかできるほどの余裕があるのであれば、あんな手段を用いる必要はない。

 

 だからこそ、ヴラッドは自分の立ち位置を明確にしていた。それはハリソンも同じであり、部隊の指揮中枢四名のうち二名がそうである以上、()の選択肢は限られてくる。

 

 短期の決着を目指してより大きく大胆に動くか、あるいは息を潜めて様子をうかがうか、だ。前者であるならば危険性は増すがそのぶん発見も容易であり、後者の場合はその影響力を減少させることができる。

 

 また、アンブレラの手のものが工作を行った結果死人が出ている以上、ヴラッドとハリソンがそれを積極的に狩り出そうとするのは自然な反応と言えた。警戒対象にはなるだろうが、その点をもってして変に疑われる可能性は高くないはずだ。

 

 敵地に一人孤立している工作員というのは、極力目立たぬように振る舞うのが普通のあり方だ。少なくともヴラッドが過去に出会った潜入工作員はそういうものだったし、教育でもそう振る舞うように教えられる。

 

 ヴラッドがそのベターな選択を無視したのは、逆に立ち位置を明確にして目につくようにすることが、かえって自然な振る舞いになると判断したからに他ならない。自分の性格を客観的に評価した上で、自然とそうなるのがこの立ち位置である、という要素も大きい。

 

 殺す、殺されるは常に紙一重だ。ジョエルが()であったのならば、狩られる前に自分を狩ろうとするかもしれない。分遣隊内にいる誰がそうであったとしても、自分の立ち位置を知ればそうする可能性は高い。

 

 それは小隊全体の話に規模を広げても同じことだった。が、ヴラッドはいまそれを気にする理由を持ち合わせていなかった。アンブレラが探りを入れているのが自分の素性であると仮定した場合――ヴラッドはそうであると確信していたが――、同時にアンブレラは情報支援部隊(ISA)に連絡をとった職員の存在に感づいているはずだからだ。

 

 そうなれば、敵はアリッサを確実にマークしている。相手が怪しきは罰せずにのっとっているのなら他のやりようもあるが、アンブレラがその対極にいることをヴラッドは理解していた。

 

 であるから、自分に目を向けさせる必要がある。相手が誰であれ、ヴラッドは命の取り合いでそうそう遅れをとるつもりはなかった。それは自惚れではなく、戦闘に長け、十分な訓練と実務経験を持つがゆえの正当な自己評価だ。

 

 現状、アリッサは小隊本部拠点内でアルヴィンとともに待機している。ベリヤの凶行時、さらなる混乱を嫌ってマディソンらに押し留められたのがよほど不満だったのだろう。出る直前、アルヴィンはアリッサの後ろをつけ回すようになっていた。

 

 自分が注意を引くことができたのなら、()がアリッサに手を出すのはほとんど不能になるに違いない。アルヴィンの戦力はそれだけ強力で、二方向に意識を向けたままどうこうできる相手ではない。

 

「五分だ。行くぞ」

 

 外では雨音がその激しさをゆっくりと失いつつある。すぐに止むわけではないが、そう長くは続くまい。

 

 ヴラッドが休憩終了を告げると、部隊員は各々立ち上がり、自分の装備を確認し始めた。弾薬、装備品の欠損/異常は、移動再開前の必須確認事項だ。それをいちいち命じられる人間はこの部隊にはいない。

 

 チェックを終えた部下たちが親指を立てて問題なしを知らせる。

 

 分遣隊は再び、雨の中へと歩みだした。人の気配が絶えた死の街へと。

 

 

 

 

 

 チャーリー小隊のうち、一五名が外部捜索に派遣されていた。うち一班は病院への物資捜索。残りの二班は弾薬等の回収が主任務だ。

 

 そして、()もそのうちの一人だった。

 

 残り時間は少ないが、現状は順調に進んでいる。非常に不安定な手段ではあったが、ベリヤを用いての撹乱は思った以上にうまく作用した点は、()を大いに満足させた。

 

 ああまで効果的に作用するとは思っていなかったし、その結末の点から見ても十二分以上の結末であると言えるだろう。

 

 死の直前、ベリヤは自身をそそのかしたのが何者であるかに気づいていた。彼の顔に浮かぶ驚愕と恐怖が表すものは間違いようがない。

 

 だからこそ、ヴラッドが彼を射殺したのは幸運だった。あの素晴らしい一撃。ほんの一瞬の隙を突き、正確無比な射撃を叩き込んだ男の、見惚れそうなほどに見事な射撃姿勢。判断速度、技量ともに一級品だ。米軍の最精鋭、デルタの一員だったというのもうなずける。

 

 あれがなければ、ベリヤはべらべらと自分が何をしたのかを語っただろう。彼に使用したエピネフリンと精神興奮薬は廃棄してあるし、名指しされても言い逃れできる材料は用意してあったが、面倒がないに越したことはない。

 

 おかげで、今も自分は大した制約もなく活動できている。立ち去る直前、エピネフリンを投与されたばかりのベリヤが見せた人懐こく力ない笑みは、彼の顛末と相まって哀れではあったが、それはもう過ぎたことだ。

 

 どうせ救いえぬ命なのであれば、それは誰かの糧になるよりない。人であるまま死ねただけ幸運だろうと考え、頭部を撃ち抜かれ文字通り即死した男を記憶から消し去った。

 

 彼は自分の糧になったのだ。生き残るために。そして奪われたものを取り戻すための糧に。人生はどうあっても、積み上げた犠牲の上に築き上げる砂上の楼閣だ。

 

 暴力の世界だろうと、平和な娑婆の生活であろうと大差ない。自分が何かを手に入れれば、それは誰かが何かを失ったことを示す。まっとうに生きていても、評価される人間であるということは誰かに恨まれるということだ。

 

 死ぬまでに必死により良い自分のための宝をかき集め、死ねば全てが無価値になる一時の夢。苦痛と苦労にまみれた夢を、すこしでも良くするために自分はここまできた。

 

 その最後のピース、かつて奪い去られ、手の届かぬところに押し込められた熱を手に入れるために、誰が死のうとそれに気を取られることはしないと決めている。

 

『姓名、コードを』

 

 今では夢に見る以外を許されていない女の身体を、その滑らかな肩を、くびれた腰を、良く張った胸を。かつてはベッドに組み伏せ、熱を交わした女のすべてを思い出し、芯に集まり始めた熱を吹きちらしたのは、冷ややかな声だった。

 

 市内にいくつか点在する連絡拠点のひとつ。アンブレラが送り込んだU.B.C.S隊員二一〇名のうち、ごく僅かな監視者(スーパーバイザー)にのみ知らされている長距離通信端末の前で、()は名乗る。

 

『報告を』

 

 名前と与えられた識別コードを告げると、間髪入れずに無線の声が先を促した。人間味のない冷ややかで抑揚のない声は不快だが、アンブレラという会社の性格を考えれば当然のものだし、それは長い勤務で慣れきったものだ。

 

 ()は状況を端的に報告する。小隊が未だ活動を継続し、指揮官クラスはいずれも生存していること。他部隊の生存者を吸収してその戦力を十二分に保持していること。特筆するべきは、ノーマッドが地下施設内で対戦車火器を運用することなく、ありあわせの装備でタイラントを撃破へ追い込んだこと。

 

『タイラントが撃破されたというのは、間違いない情報か』

 

 ノーマッドの戦果に監視者を束ねる上級司令部のスタッフが食いついたのは当然の反応だった。アンブレラが開発した、現状最高傑作と言えるB.O.Wだ。

 

 確かにアークレイの洋館では市警察の特殊戦術及び救助部隊(S.T.A.R.S)に撃破されたが、あれは報告を見る限りロケットランチャーによる撃破だからだ。生身で接近戦をこなし、即席の武装で撃破に持ち込むなどというのは――ましてや閉所だ――常軌を逸した報告だろう。

 

 およそ人間業ではない。たとえそれが幸運の賜物であったとしても、アンブレラが無視できる報告ではないのは確かだ。

 

 ()は上級司令部の問いに肯定を返した。返ってくるのは沈黙だ。その間に腕時計を見る。時間はまだ多少残っているが、無駄に使えるほどではない。あまり時間を使いすぎると、仲間が戻ってくる可能性がある。

 

 無線機のコンソールを指でコツコツとつつき、返答を待つ。こちらの報告で上級司令部が慌てるだろうことは想像してあったが、時間の限度がある中で、無為にリソースを食いつぶされるのは気分が良くない。

 

『了解した。引き続き当該ユニットの情報を収集せよ。また戦闘データの回収を要請する』

 

 了解と()は返す。もちろん、貴重な知能向上型の戦闘記録は重要なものであるから、回収要請は想定済みだ。追加のオーダーは事前提示額にボーナスが発生することを意味するからして、文句はない。

 

 それで、と彼は話題を切り替えた。上級司令部が自分に命じたのは、U.B.C.S内、それもチャーリー小隊に外部の何者かが送り込んだ工作員の特定だ。それに関しての続報を問う。

 

『チャーリー小隊の投入先を変更した中隊幹部から有益な情報は引き出せなかった。彼は()()されたが、身辺から工作先を特定するものは発見されていない』

 

 だが、と上級司令部の無線担当が言葉を切る。

 

 ()は時計を見ながら、無言で続きを促した。

 

『二七日早朝に、ラクーン市内から郊外への無線を傍受している。内容は不明。交信先は米軍部隊であると考えられる。州軍内の資産(アセット)からの報告では、州軍で市内と交信した部隊は一切確認されていない』

 

 思わず()は口笛を吹いた。

 

 なぜなら、()はその時刻に心当たりがあったからだ。その時刻はフレデリックを発見したノーマッドが、中隊本部と交信を行った時刻だ。

 

 そこまで考えて、()の脳裏にプラチナブロンドの女の姿が浮かび上がった。アンブレラ内部――それもサブジェクトが保管されていた研究所から何者かが外部の第三者に連絡をとったことは、()も把握している。

 

 ともかくも、上級司令部がノーマッドと中隊本部の通信を把握していないのは、単に指揮系統の問題だった。U.B.C.Sは確かにアンブレラの組織だが、監視者(スーパーバイザー)を束ねる上級司令部は指揮系統が異なる。中隊本部とは別系統の組織だからだ。

 

 もとより猜疑心の強い組織だ。横のつながりは殆どないに等しい。戦闘部門の外を見ても、支社ごとに成果の報告を行うことはあれどその目的は他所への牽制が目的。手を取り合って動きましょう、などという生ぬるさを持ち合わせてはいない。

 

『そちらは、それについてなにか把握しているか』

 

 いいえ、と()は応えた。ここで情報を開示するのは惜しい。なぜなら()の仕事は工作員の特定までだからだ。ここでもう少し時間をかけ、殺害に成功して報告すれば――それが不可能なまでも、そのバックグラウンドまでたどり着いて情報を持ち帰れば――報酬の増額が見込める。

 

 この仕事を終えれば、()は望んだ通り女を取り戻して自由を手に入れる。しかしその後に役立つもの、金を可能な限り稼いでおくのは悪くない。

 

 もちろんそれは交渉次第だが、額はともかく自分がそれを握る限りは帰りのタクシーの保証になる。状況次第では、情報を絞ったので後は終わり、とされかねないという危惧があった。

 

 だが、知らぬふりをする以上、この段階で収穫がないと示してしまっては上から能力を疑われる可能性が否定できない。それは最悪の場合、切り捨てられるリスクが存在するということだ。

 

 そういう会社であるということは、自分の立場が何よりの証明だ。

 

 だからこそ、チャーリー小隊の反アンブレラ感情が高まっていること。その中で工作を行い、混乱を生じさせたこと。これをもってして工作員の狩りを進めようとしていることを報告する。

 

 道筋が立っているのであれば、あとはどうとでもなる。特に今回の通信である程度の目星は立った。あとは候補者を絞るだけだ。ノーマッドの中に、該当する人間は多くない。

 

 無線手か分隊長か。だが後者である場合は手強いなと、場数を踏んだ戦士の意識で考えた瞬間、無線機が冷ややかな声で告げた。

 

『了解した。本日深夜、2400時をもってチャーリー小隊は()()を行う。実施時にはU.S.Sを投入する。貴官の識別方法は――』

 




感想等々お待ちしています(手招き)


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死臭の庭で

Q:あなたの仕事は?

A:蘇ることさ

生還、帰還、次話投稿。
おまたせいたしました!

なお今回はリハビリ会


「標的は」

「見えてる。周辺はどうよ」

「クリアだ。撃ってよし」

 

 減殺された30口径(.308)の銃声が雨音を押しのけた。しかし、それはほんの一瞬のことだ。くぐもった発砲音も、ボルトの金属音も、収まる気配のない雨脚に踏みつけられすぐに消える。

 

 クラヴィスの狙撃を受けた感染者が、側頭部から体組織の破片をばらまいて崩れ落ちる。その死体が倒れるよりも早く第二射が送り込まれ、一体目の向こうでゆるく振り返る“元”看護師の顎を撃ち抜いた。

 

 遠く、雨のカーテンに阻まれてにじむシルエットの完全な無力化を確かめたヴラッドは、双眼鏡をゆっくりと下ろした。二体目も頸椎損傷、行動不能なのは疑いようがない。

 

 一秒足らずで二体。100メートル以内とは言え雨天だ。視界は劣悪で、かすみがかっていて視認性も低い。熟練の腕を讃える代わりにクラヴィスの肩を軽く叩くと、ヴラッドは振り返って何度か舌を鳴らした。

 

 路地の背後を警戒していたマディソンとジョエル、そしてフレデリックが音に気づいて振り返る。潜入時に余計な音を立てずに味方の注意を引くための方法だが、雨天の上で歩く死人の天下とあっては、ただ身にしみた習性でしかない。

 

 とはいえ、それを捨てられるほど身の回りは平和ではなかった。振り返った二人の緊張をわずかににじませた顔が、それを裏付けている。少なくとも、音に敏感なネイルフロッグには有効だ。環境音との区別が付きづらい音は特に。

 

 気を抜けば死ぬ。そして相手は――馴染みつつあっても――未知の存在だ。身に染み付いた生存の秘訣に頼るより他に、選択肢はない。

 

「正面エントランス前は排除した。中はここからは確認できない」

「こういう時、怪我人が真っ先に担ぎ込まれるのはどこだっけ」

 

 ヴラッドの報告にジョエルが返した。茶化すような口調だが、声はどこまでも淡々としている。それを受けたヴラッドは笑いもせず、眉を持ち上げてゆるく頭を振った。

 

「すし詰めじゃない事を祈ろう」

「ハズレくじだったら?」

「火力発揮、進路構築、トンズラ。ヴラッドを困らせるなよ」

 

 マディソンの問いかけにフレデリックが押しかぶせた。僕が思うに段取りもクソもとっくに休暇中だろう、と続けた彼は、擲弾銃(グレネードランチャー)を背中に回し、カービンを抱えている。

 

 実際問題、怪我人がいの一番に担ぎ込まれる病院内がどうなっているかは想像もつかなかった。死人が蘇るこの街において、怪我人の大部分は感染体の手によって発生していることは疑いようがない。

 

 最悪の場合、狭い通路や病室にぎっしりの活性死者がたむろしている可能性もある。

 

「侵入後、手近な部屋を片端から検索する。無視して通過して、背後から団体客じゃどうしようもない」

「封鎖されている場合は」

「害虫を閉じ込めた箱を開ける趣味があるのか?」

「安心した。お前が常識的で」

 

 ヴラッドが首を傾げて返すと、クラヴィスはライフルから減音器を外しながら笑った。それを見やり、生存者がいる場合は例外だと付け加えたヴラッドは、自分のカービンを抱え上げた。

 

「行くぞ。先頭は俺とマディ。クラヴィスは後方」

 

 了解、と部下が返事をよこす。頷き、カービンを構えて慎重に路地を出る。途端に風に押し流された雨粒が横合いから全身に襲いかかった。雨はまだ止みそうにない。たとえ危険が待っていようと、早いところ屋根の下に入りたかった。濡れた身体は体温を維持するのが難しい。そして体温が低下するとろくなことにならないことを、ヴラッドは知っている。

 

「いいぞ、問題ない」

「左クリア」

 

 路地の左右の確認を済ませると、ヴラッドとマディソンは血濡れの救急車と、電柱に衝突した乗用車の転がる病院エントランスへ歩みを進める。本来左右を確認した人員は最後尾が出るまでその位置を保持するが、それは敵が銃で武装する場合の部隊規定だった。

 

 エントランスの目の前に、先程クラヴィスが射殺した二体の元感染体が転がっている。その周囲には、ストレッチャーに固定されたまま貪られた市民の残骸や、救急隊員の“かけら”が散らばっていた。

 

 今となってはそれに何かを感じる神経も働かず、目の前、足元で這いつくばったままこちらに手を伸ばした、上半身だけの男の首根っこを踏みつけた。ごきりと頸椎がへし折れる音とともに、腐りかけの手が路面へ落ちる。

 

 死者への礼節もなにもないが、銃弾の浪費と銃声は大きな問題だ。自己批判を飲み込む。ブーツの底から伝わる、潰れた体組織の嫌な弾力がすべてを不快感で押し流した。

 

「エントランス、入るぞ」

「行け」

 

 ドアに取り付いたマディソンが、銃を奥へ向けたまま血で濡れたガラスドアを押しのけた。ドアに寄りかかって事切れた首のない警官が倒れ、それを踏み越えて侵入する。ヴラッドはすれ違いざまに遺体をちらりと見やった。鋭利な何かで切断された首は、ハンターα、βの存在指標と考えてよいだろう。危険な兆候だ。

 

「受付裏、クリア。オーケー、エントランス内は制圧」

 

 分遣隊の人員は素早く行動した。マディソンとヴラッドが戸口をくぐり、転がる死体を一つずつチェックする。可能な限り足の方向からアクセスし、背中を踏みつけてから死亡確認だ。頭側からやると、不意打ちの噛みつきを喰らいかねない。

 

「全員の死亡を確認。活性死者なし」

領域保全完了(セキュア)

 

 血濡れの床を踏みしめ、死角という死角を徹底的に潰した隊員たちが各々の検索領域の安全化を報告する。それを受け取ったヴラッドがドアの封鎖を命じようと振り返ると、すでにジョエルが待合いスペースのソファをドアの前に下ろしていた。

 

 クラヴィスとマディソンは受付カウンター裏の部屋に侵入し、フレデリックはロビーに残された確認済みの遺体を跨ぎ超えて周囲の警戒に移行している。フレデリックが、未検索の通路に銃口を向けたまま、肩越しに問いかけた。

 

「封鎖の次は」

「手順の確認後、隣接する部屋の検索」

 

 ヴラッドは言いながらも、小さくかすれた呻きが足元でこぼれたのを聞き逃さなかった。即座に視線を落とし、わずかに指を動かし腕を持ち上げた元看護師の姿を捉える。下腹から下は筋繊維と臓物の赤黒い塊でしかない。

 

 へし折れ、皮膚のめくれた指先が足を掴む前にブーツを持ち上げて勢いよく落とす。

 

 ごきりと、鈍い音がした。雨水の溜まったブーツの底から、踏みつけられた筋繊維と頸椎が押しつぶされる嫌な感触が伝わる。

 

 元看護師の首は、装具合わせて130キロを超える体重に押しつぶされていた。腐りかけた体組織が崩壊し、潰れた肉と脂肪の隙間から、ひしゃげた頸椎が赤らんだ乳白色をにじませている。

 

 這いずっている活性死者は緊急時を除きそのように処置する。チャーリー小隊内に共有された弾薬温存戦術の通りに死者を処理したヴラッドは、獲物を求めて伸ばされた手が力なく地面に落ちたのを確かめた。

 

 確認ミスだが、仕方ない。倒れ伏し、休止状態に落ちた活性死者の再活動条件は個体によりけりだからだ。完全を期すのであればすべての個体の頸椎をへし折るよりない。

 

「嫌になるな」

 

 二度目の死を迎え、首と身体をほとんど分断された元看護師の遺体を見下ろしたまヴラッドは言った。とは言っても、部隊の弾薬逼迫は無視できないものになりつつある。探索部隊に必要分を支給する余力はあるが、それを使い切った場合の補充は心もとない。

 

 そもそも、下半身損傷等何らかの理由で歩行不能となった脅威をそのように処理するべきと提案したのは、他ならぬヴラッド自身だった。

 

「行儀が悪い、って?」

「死人を踏みつける仕事を選んだつもりはない」

「そりゃそうだ。俺達の仕事は、必要に応じて死人を生産することだからな」

 

 部屋の検索を終え、カウンターから出てきたクラヴィスがライフルを提げたまま首を傾げた。すでにロビーは消毒液と死臭の混ざりあった静寂の中にあり、戦闘のささくれだった空気感は失せている。残ったのは、血みどろの死体がもたらす粘ついた不気味さだけだ。

 

「俺達の仕事ってのは、与えられた任務達成のために、制約の範疇で手段を選ばないことだ。これは仕事。ま、ヴラッドの気持ちはわかるがね」

「ど正論どうも。それで、安全化は」

 

 クラヴィスに対してマディソンが淡々と諭すような口調で言った。クラヴィスはひらひらと手を振ってから、ヴラッドの方を見やった。

 

「ロビーは安全化完了。正面玄関の封鎖は?」

「済ませた。問題ない」

 

 ヴラッドが弾倉を確認しながら言うと、正面玄関の封鎖を担当していたジョエルが親指で背後を示した。肩越しに目をやると、ロビーの待ち受けソファを積み上げただけでなく、扉の取手にここに散らばる誰かが持ち込んだらしい血濡れの消防斧が差し込んである。

 

「上出来だ。ここを拠点に病院内の探索を行う。俺たちの目的は……」

 

 ヴラッドは頷き、濡れたバックパックを下ろすと、S.O.Eベストの多目的ポーチを開けた。中には防水処置(オーバーレイ)された地図と書類がねじ込まれている。それを取り出して受付カウンターに広げる間に、ロビーの各ドアの一時封鎖を完了した部下が集まってくる。

 

「医療品の回収」

「そうだ。リストはジョエルが作成した。各人これに合致するものを探せ。第二目標は」

「生存者の捜索、救助だろ」

 

 フレデリックの回答に頷きながら、個別で防水した捜索対象リストをカウンターに広げる。三々五々それを受け取りながら後を引き受けたクラヴィスに、ヴラッドはそうだと首肯を返した。

 

「生存者発見の場合も、安全化確認までは潜在脅威として扱え。外傷や感染兆候には注意。手が施せない場合は“処置”しろ。編成は俺とジョエル。残りの三人。不明点、危険兆候、その他情報は随時共有しろ。質問は?」

 

 カウンターを囲んだ部下を見回す。全身に染み込んだ雨水を滴らせ、それでなお引き締めた面差しをこちらに向ける男たちは、無言をもって質問なしの返答に代えた。

 

「よろしい。異常がなくとも十五分に一度連絡を入れろ。緊急時に備えて階層と自己位置の確認は怠るな。以上」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「向こうはあの三人で大丈夫かね」

「マディは閉所に慣れてる。フレッドも申し分ないし、擲弾銃がある。クラヴィスに関してはいちいち言うまでもない」

 

 ヴラッドは淡々と返しながら、薄く血痕の伸びたカウンターに頃がるバインダーを手にした。診察室や手術室、病室では足りなくなったのか、カウンターにまで医療品の残骸が散らばっている。その中にうずもれた.38口径のリボルバーは、誰かの私物なのだろう。弾は撃ちきっているようだった。

 

 バインダーには氏名、外傷の程度、症状が並んでいる。その末尾はすべて死亡(DEAD)で埋め尽くされていた。その半分以上は横線で消され、さらに後ろに活性化(ACTIVE)の文字が躍っている。

 

「ひどいもんだ。担ぎ込まれた患者のほとんどが起き上がってる」

「そりゃそうだ。市街全域があれじゃな」

 

 壁をいくつか隔てた先で、掠れた銃声が響いた。地階の掃討に向かった三名が交戦したのだろう。銃声は間隔をあけた二発きりだ。問題あるまい。

 

「それで」

「オフィスを調べる。目録、あるいは日誌、まずは状況把握」

 

 ジョエルの問いに、ヴラッドは親指で受付カウンター奥のドアを指さして答えた。ジョエルは了解とカービンを胸元に手繰り寄せ、銃口を下向きに準備を整える。すでにマディソンらが検索を終えた空間だが、死人はいつ再活性するかわかったものではなかった。

 

 ドアを開け、外から部屋の中を目視。そのまま銃口を水平より心持ちおろしたまま踏み込み、ドアの左右を相互につぶす。クリア、安全化完了(セキュア)。いつも通りの有声伝達を終え、銃をおろす。

 

「これを調べろ、と?」

 

 ジョエルがあきれた声で言った。事務員が詰めていたのだろうオフィスの中は荒れ果てている。死体、血痕、薬莢と散らばる医療器具。並べられたデスクの上はぐちゃぐちゃに乱れ、バインダーから外れた書類が床にまで広がっていた。部屋の奥には別室に続くドアが見えたが、その向こうも似たようなものだろう。

 

「そう言ってる。わかってるだろ、“俺”はただの物資補給に来たわけじゃない」

 

 俺、を強調しながら、デスクに散らばる紙束を手で横にのける。簡易カルテの群れに刻まれた文字列は剣呑だ。頸部咬創、大量出血、心停止、死亡確認、再活性化、最終処置()

 

「知ってる。だから俺を残した」

「そうだ。手伝えよ。命がかかってる」

「了解。血清ね。あればいいが」

「なければあの子が死ぬ。ほかの奴らも、誰も助からない。それだけだ」

 

 ヴラッドは言った。淡々と、ただものごとの仕組みを説明するような口調だった。ある種、自然現象を前にしたあきらめに近い響きを持っている。ジョエルはちらりとそれを見、そうだなとため息とともにつぶやいた。

 

 転がっている書類のほとんどは、この血と肉に彩られた騒乱の犠牲者に関するものだった。初動段階での暫定対処マニュアル、その次の版、さらにその次。発症の時点で最終処置、すなわち殺害を決定する頃には、マニュアルの内容は極めてシンプルになっていた。拘束し、経過観察。発症したら殺害。それだけだ。それ以外にできることはなかったのだろう。

 

「ヴラッド」

「ああ」

 

 がたりと音がして、ジョエルが書類の束をデスクに下ろした。ヴラッドが顔をあげる頃には、ジョエルはカービンを音のした方向に向けている。それに習って自身もカービンを持ち上げ、銃口を音源――オフィスの奥にあるドア――へと据えた。

 

 ドアには医師控室とプレートが貼り付けられていた。こちらに目配せしたジョエルに頷いてやると、彼は重心をわずかに落とした慎重な足取りで、しかし素早くドアに接近し、ノブを握り込んでひねる。

 

 ジョエルがノブから手を離し左手の親指を下に向けた。施錠されているという無声の合図だ。施錠されているということは、マディソンらは検索していないだろう。侵入前のやり取りを遵守しているはずだ。

 

「どうする。死人だと手間が増える」

「医師室ならなにかあると思うか?」

「この事務所よりはな」

 

 ならそういうことだ、とヴラッドは言った。ジョエルは眉を持ち上げ、やれやれとばかりに小さく頷き、一歩下がって銃口をドアに向けた。無論、施錠を撃ち抜こうというわけではない。施錠部への銃撃は跳弾や不完全破壊による状況の悪化の要因になる。

 

 ヴラッドは古い木製のドアと判断し、内開きの単一施錠であることを目視で確認すると、ブーツの底をノブ横のドア面に叩きつけるように蹴りを打ち込んだ。資機材はないが、構造の簡素な木製ドアは蹴りによる破砕(キックブリーチ)が通用する。

 

 鈍い破砕音とともに、ドアが医師控室へと勢いよくスイングする。蹴りの反動を利用し、軸足のかかとを軸に身体を回転させドアを離れると、ジョエルがカービンを構えてドア前に踏み込んだ。

 

 彼がドア正面を目視し、そのまま戸口をくぐって側面の検索に移る間に、ヴラッドもカービンを構えて踏み込む。一度始まった混乱はどこまでも地続き、それを証明するような室内だった。

 

 事務室と違い、休憩室を兼ねているのか柔らかそうなソファやローテーブル、テレビが運び込まれたそこも、血と消毒液の混ざった独特の匂いを隠しきれていない。救急品を詰め込んだバッグや、詰め替えた薬品の空容器が積み上がっている。

 

 壁面に埋め込まれたホワイトボードには、血でかすれたローテーションが書きかけのまま残っていた。ここにいる医師たちの最後を物語るように。

 

 人影は三つ。仮眠用のソファの上で、額に風穴を開け土気色の顔を晒した女性医師と、ソファから半ば崩れ落ちるようにしてよりかかる白衣の男、そして血をデスクに広げて突っ伏す男だけだ。

 

 ヴラッドらは制圧点の確保(PoD)と呼ばれる屋内の要所、すなわち空間を制圧するのに適した各コーナーの確保を優先する教育を受けていたが、その方法論(メソッド)は現段階では用いていない。制圧速度と火力展開でのアドバンテージは、死者の前に無意味だからだ。むしろ相互距離が開くことで、かえって危険を招きかねない。

 

 ドア側の壁面を背に、部屋の奥に銃口を向けたまま互いに頷く。ジョエルがデスクに突っ伏した男に近づき、その襟首を掴んで引き起こす間、ヴラッドは銃口を即時支援可能な位置に据えていた。

 

 引き起こされた男の首が力なくのけぞり、そのまま椅子から落ちて倒れ込む。ジョエルは男をうつ伏せにして背中を踏みつけると、その首筋に触れ、数秒して首を振った。

 

「処置」

「了解」

 

 ヴラッドが言い、ジョエルが頷く。そのまま彼は銃口を男の後頭部に向けて一発。血が散り、とっくに息絶えた男の無意味な再活性の可能性を断ち切る。

 

「次を……」

 

 銃口をソファからずり落ちた男に向けながら言いかけ、そこで止まった。視界の端で動くものを目にしたからだ。

 

 続きを口にするより先に、M4カービンの銃口をソレへ向ける。ソファからずり落ち、だらしなく足を投げ出した白衣の男は、血で薄汚れた両腕をだらしなく持ち上げている。

 

 それはこの街での数日で見慣れた、肉を求める亡者の手招きソレそのものだ。カービンに載せたドットサイトを額に据え、安全装置を下ろそうとして――やめた。

 

「手を上げろ。聞こえているか。五秒以内に反応しなければ撃つ」

「ヴラッド?」

「ジョエル、待て」

 

 肩よりやや高い程度の位置で、白衣の袖が力のない手首を垂らして揺れている。地獄の始まりで、エドモンドを貪った死者がそうしたように、地下鉄をさまよう哀れな幽鬼がそうだったように。

 

 それを見てなお撃たなかったのは、ヴラッドの鋭敏になった五感が些細な違和感を捉えたからだ。死者の殆どが、というよりその全てが意思の光を失った眼差しを虚空に向け、濁った瞳を胡乱に漂わせるだけだった。

 

 しかしながら、目の前の男は反射的に点灯したカービンのライトに目を眇め、苦しげに胸を上下させている。

 

 活性死者は光に反応しない。活性者はうめきをあげはしても、肩を喘がせることはない。違和感を拾い上げ、必要な対応を経験則からはじき出すのは、地獄に落ちる前に骨身にしみこませた習慣だった。

 

 そしてそれは、素人とプロの戦闘員を隔てる大きな壁でもある。目視し、発砲する。その一瞬のフローの中に識別という二文字では表現しきれない複雑な手順を挟み込み、淀みなく実行できるのは、卓越した戦士だけだ。

 

「……たのむよ」

「ジョエル、撃つな。生存者だ」

 




筆が戻ってきたのでチミチミやっていこうと思います。
感想、評価等お待ちしています!

エタらせやしませんぜ?


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捜索、遭遇

更新だ!!!!
お久しぶりです。平和(?)回となります。戦闘してないならそれは平和、そうでしょう?


「君らが……彼を撃ったのは、正しい選択だ」

 

 ひゅーひゅーと苦しげな喘鳴をかすかに引き連れた男の声は、奇妙なことに微かではあるがからかうような響きを伴っていた。ヴラッドはソファから崩れ落ちそうな姿勢のまま腕を突き出し、手首をだらりと垂らした男に怪訝に首を傾げる。

 

「なんだって?」

「だから……、言っているだろう? 正しい、選択だ……とね」

 

 ところで、手をおろしていいかなと男が問うた。活性死者でないことを証明するにしては掲げたその手の高さは中途半端だ。まるで古典的な幽霊(ゴースト)のマネでもするかのような手を見、ヴラッドは銃口を下ろして返事に代えた。

 

「それで、正しい選択っていうのは」

「彼は感染し、発症している。今は……休眠状態なだけだ。そのうち、また起き上がっただろうね。すくなくとも、そう、私が……眠る前は、発症寸前だった」

 

 起き上がったなら、最初の食事はきっと私だったろうから、礼を言うよと。呼吸のたびに発言を区切り、ゆったりと、しかしこの状況に可笑しみを感じているかのような声音で添えた男は、口の端に薄い笑みを刻んでいる。

 

 それこそ、手を下ろすついでに肩を竦めて見せそうな態度だった。

 

「まて、発症したなら、なんであんたは喰われてない」

「彼に聞いてくれ。活性化後、活動開始までの時間は……個体差がある」

 

 眉をひそめたヴラッドの問に、知らないのかいと、男が質問で返す。彼の視線は、ヴラッドの身につけた戦闘服の肩に向けられている。そこにはアンブレラのパッチが縫い付けられていた。

 

 その意味するところにヴラッドが思い至るより先に、男が笑いながら咳き込む。

 

「そうか……じゃあ、ご愁傷さま。なんにせよ、彼は起きる前にしっかり死ねた。良いことだ。……そうあるべき人間だったよ」

「ずいぶん訳知り顔なのはいいが、それならどうしていずれ起き上がる死人と同じ部屋に?」

 

 そういう趣味じゃあるまいと首を傾げたジョエルは、先程まで施錠されていたドアを親指で示した。その先では、ヴラッドの蹴りを受け施錠部が粉砕されたドアが開け放たれている。

 

 男はそれを見、ああ、そういえばとばかりに眉尻を下げ、一人で何かを納得したのか数度頷く。そのまま下ろした手をソファにつき、ずり落ちた身体を直そうとした彼は、そのまま踏ん張ることもままならず、完全にソファから落ちた。

 

 どさりと音がして、男は地べたにへたり込む。まいったねと笑い、二度三度と身体に力を入れようとしたようだったが、手足の動きはひどく緩慢で、まとまりがない。それどころか、ぎくしゃくとちぐはぐな動きを繰り返すだけだ。

 

「いやはや……ご覧の通り。いずれ私もそうなる身だものだから」

 

 世間にご迷惑はおかけできまい、と。生者の気配が絶えて久しいこの街の、死にまみれた病院の一角で、常識だろうとばかりに男は目を細める。それを前にして、ジョエルが黙り込んだ。いちいちそちらを見るまでもなく、あっけらかんと自分に迫る末路を語る様子に絶句しているのだ。

 

「このありさまでは、彼に始末をつけることも……できなくてね。しかたないから待っていたわけだ。時間稼ぎの結果が……ンンッ、失礼。これではね、まったく」

 

 手は尽くしたが、時間が足らなかったよと鼻息とともにこぼした溜息は、苦笑よりも自嘲の色が濃い。彼はしばらくソファの上へ戻れないか悪戦苦闘してから、ヴラッドに視線を移し、手伝ってくれるかなと問いかけた。

 

 ヴラッドはカービンを背中に回すと、男に歩み寄り肩を担ぐ。白衣に染み込んだ血肉の生臭さに混じって、濁った老廃物の気配を鼻腔が感じ取った。瀕死の人間が放つ独特の死臭だ。血と臓腑の強烈な悪臭とは根本的に違う、命という目に見えないものが、膿み、静かに腐る臭気。どこの病院にも薄らと香る、言語化できない臭い。

 

 間近、男の身体そのものから滲み出すそれを感じながら、ヴラッドは男をソファに持ち上げ、深く腰掛けさせた。

 

「ありがとう、きみ。名前は」

「ヴラッド・ホーキンス」

「どうも、ヴラッド。私はウォーレン・フィッツカラルド。医師だ。おそらく、今はこの街唯一の」

 

 無理な姿勢が整ったおかげで多少呼吸が楽になったのか、ウォーレンは静かな笑みを口元に刻み礼をするように手を持ち上げる。しかしそれも胸元に届く前に震え出し、当人の思惑をよそに、ひらひらと振ろうとしたのだろう手首がねじれる。

 

「まさか、間に合せの抑制剤が、こう効くとはね……面白いだろう? 病原体が、ね……神経を、末端から……ンッ、ッ」

 

 クスクスと笑いながら言いかけ、ウォーレンがむせた。そのまま背を丸めようとし、胸を叩こうにも言うことを聞かない腕を見かねたのか、ジョエルが彼の胸のあたりを手のひらで叩いた。

 

 ちらりとこちらを見上げたジョエルは何も言わなかったが、何が面白いのやらと言いたげに小さく首を振った。

 

「失礼、ありがとう……楽になった。ああ、そう。抑制剤を自作してね、試したんだ。中枢神経はまだ無事だが、手足はこの通り。意識を失う前は多少歩けたんだが、目覚めたらもうダメだね。進行抑制が関の山では仕方がない。ところで、今は何日の何時だろうか」

「28日、およそ1630時」

「そうか、半日ほど失神していたらしい。神経の侵食が進んでいるのを感じるよ。君たちが来なければ目覚めもしなかったろう」

 

 そう言う間も、ウォーレンは時折身震いするように動き、あるいは神経の機能不全のせいででたらめな動きをする自身の手を眺めている。その様子は、足をもがれた昆虫が暴れるさまを眺めるような、他人事を通り越したはるか彼岸の苦痛を観察する傍観者のそれに思える。

 

「血清が間に合えばね」

「なんだって?」

 

 死にゆく自分の身体を嗜虐的な眼差しで見つめるウォーレンの言葉に、ヴラッドは反射的に問いを投げていた。部屋の奥でソファに横たえられた女医師の死体を確認していたジョエルも、思わずこちらを振り向く。

 

「だから、言ったろう。血清だ。私が試した抑制剤は繋ぎでしかない。本命は血清だよ」

「ここにあるのか、血清が。どこだ」

 

 今度こそ、ヴラッドは食いつくように質問を重ねた。それまでどこか不気味なものを見るような目をしていた男の変化に、ウォーレンは片眉をゆるく持ち上げ、数秒考え込む顔をしてから口を開く。

 

「それは、君たちの任務と関係があることかな」

「いや。だが感染した仲間と市民がいる。血清が必要だ」

 

 ヴラッドは言った。それ以上の無駄を省いた、それでいて明確な意思を持った声だった。よほど鈍い者でもなければ、その言葉が内包する重要性を理解できるだろう、そういう声だ。

 

「意外だな、そうか。いやまあ、驚きはしないよ。活性死者の正確な情報を知らないあたり、君らの境遇は察しが付くからね」

 

 おおかた、君らもまたサンプルだろう、と見透かした様子でウォーレンが言う。相変わらず、痙攣なのか神経の混線によるものなのかわからぬ、小さくデタラメに動く腕でこちらを示しながら。

 

「さっき医者だって名乗らなかったか? それともウチで副業でも?」

「ああ、そのとおりだ。とは言っても……小間使いだけれどね。とは言え、ここじゃ珍しくない話だ。」

 

 眉をひそめるジョエルに、この病院の資金の殆どは君らのクライアントの資産だからねと、ウォーレンが続けた。

 

「医院長だって多少懐を助けられていたよ。資機材、設備、大概のものはアンブレラの金で融通されているし、それは市の行政全体に言える話だ。説教しようというわけでもあるまい?」

「血清の話は」

 

 淡々とこの街の真の所有者が誰であるかを説明するウォーレンの声は、ほんの僅かな失笑の色を含んでいる。それは医師の身でこの地獄を生み出した企業の末端に腰を据えていたことへ向けたものか、あるいは雇い主にここへ送り込まれたヴラッドへ向けられたものか。どちらにせよ、ヴラッドにはどうでもいいことだった。

 

 必要なのは血清だ。シャーロットの容態はまだ不明だが、ダニエルらはすでに危険なラインに差し掛かりつつある。

 

「ない。残念なことに。というより、あれば私はこうなっていないね。見てくれたまえ、用途がある分、シザーハンズのほうが幾分かマシじゃないのかな」

 

 血清、それがあれば拠点にいる感染者たちを――シャーロットやダニエルを――救える。そんなこちらの胸中を見透かし、その上で気にかけるつもりもないかのように、ウォーレンはゆるく首を振って眉頭を吊り上げ、溜息をこぼす。

 

 数秒かけてその言葉を飲み込んだ後、そうか、とヴラッドは吐息に乗せて返した。隣ではジョエルが今にも拳を振り上げそうな顔をしている。言われてみればそのとおりだ。血清があるのならば、ウォーレンが自作したのだという抑制剤を使う理由がない。

 

 ぬか喜びかと嘆息する気も起きなかった。ただ眼の前で不意に放たれた言葉に、一も二もなく飛びついた自分の間抜けさを振り返り、ゆっくりと息を吐いて空いたソファにどかりと腰を下ろす。

 

 濡れた被服と装備が、革張りのソファに当たって湿った音を立てた。身動ぎのたびに湿った布地と革が擦れてぎゅ、ぎゅと音が立つ。その不愉快な音とともに、いつの間にか冷え切っていた身体の重みが肩にのしかかった。

 

 思えばソファなどという上等なものに腰を下ろしたのも、もはや数日前の話だった。そして、僅かな睡眠時以外の殆どを、ヴラッドは立って過ごしている。

 

「ヴラッド」

「言うな。無いものは無い。それだけだ。別をあたる手があったら、そうしてる」

 

 ジョエルの声に押しかぶせ、しかしゆっくりと静かにそれだけを返す。防水ビニールに入れた煙草を取り出し、やる気のない手付きで箱を振って穂先を露出させると、ソレを咥えた。

 

 火をつけることもせず、穂先をぴこぴこと上下に揺らして考え込む。そもそも得体の知れないウイルスの血清が、たかが市病院程度にあるはずもないのだ。アリッサの見立てが根底から間違っていて、その問題点に自分が気づかなかっただけのこと。

 

 アンブレラが生み出した悪魔のウイルスだからといって、アンブレラの息の掛かった病院に血清があると考えるのは早計だ。理屈が通っているようで、それはある種の妄想の――あるいは浮ついた願望――領域に足を踏み込んでいる。

 

 数秒の自省の後、みんな疲れているなと笑いながら、ライターを取り出して火をつける。穂先でそれを受け止め、ゆっくりと冷えた肺に煙を送り込み、全てをニコチンのもたらす心地よさに思考を任せた。

 

「そんなに具合が悪いのかい、君の仲間は」

「女の子が一人と、部下が数人。他の市民はだめだった」

「そうか、女の子か……ンッ、ふ、……ぅ。……歳は」

「お前には関係ないことだ」

 

 問いに答えたヴラッドにウォーレンが更に質問を重ねたが、しびれを切らしたジョエルがぴしゃりと跳ね除ける声でかぶせた。デスクに膝を立て腰掛けていた彼はおもむろに立ち上がり、腰の携行水筒(キャンティーン)を取り出す。

 

 ジョエルはデスクに放置された適当なマグカップに中身の水を注ぐと、カップをウォーレンの口元に差し出しゆるく傾けた。

 

「……ん、ありがとう。そうだね、私にはもはや関係ない。私の庇護下にあるわけでなし。性分だよ。容態が芳しくないと聞けば、気にかかる。気に触ったなら済まない」

「六歳そこらの子だ。俺たちが保護した。今は拠点で寝てる。容態はわからない」

「両親は」

「実の親は事故で死んだと聞いている。育ての親の男は、発見時には発症していた」

「感染は親経由かい?」

「いいや。だが、父親は俺が撃った。感染したのは俺たちのミスだ」

「さっきも思ったが、君は、言いにくいことをさっくりと言うね。嫌いじゃない。それで、その子、名前はなんというのかな」

 

 けらけらとウォーレンは愉快げに笑う。彼に残された、唯一思い通りに感情を示せる部位――すなわち顔には柔和な笑みが浮かんでいたが、厚い眼鏡の向こうの瞳はこちらに据えられたままだ。

 

 その目は何かを見定めるようにゆるく眇められている。

 

「シャーロット。下の名前はオドネル」

「スティーヴンの家の子か。兄がいただろう、彼女には」

「兄の方は無事だ。知り合いなのか?」

「私の兄は警官でね。スティーヴンは一時期保安官だったから、そのつながりで顔程度は。そうか、あの子か」

 

 今度は、ウォーレンがソファに背を沈める番だった。革張りのクッションに深くもたれかかり、白衣の肩を時たま息苦しそうに震わせながら、彼は天井をぼんやりと見つめている。

 

 その仕草の意味するところが何であるかはヴラッドにはわかりかねたが、少なくとも先程までの愉快げな、どこかに諦念と客観であるがゆえの嗜虐をにじませる気配は鳴りを潜めている。

 

「君たちは、わざわざ血清のためにここに? 楽な道ではなかっただろう」

「仕事だからな」

「仕事でなかったなら?」

「武器を手にする以上、責任がある」

「そうか。潔いことだ。生まれついての素質だね。羨ましい限りだ。君にとっては苦労の種だろうが」

 

 ウォーレンはソファの背もたれに頭をあずけたまま、視線だけをこちらに向ける。ヴラッドはそれを受けたまま、投げられた質問に端的に応えた。ウォーレンは口の端にほんの僅かに笑みとも苦り切ったものとも取れないシワを刻むと、ゆっくりと、苦労しながら背を起こして元の姿勢に戻る。

 

「すまないね、このざまだ。私にできることはない。だから、君たちがやるしか無い。まずは医院長室に行ってくれ。シャーロットを救いたいのなら」

「無いといったのはお前だぞ。その手でどうやって手品を?」

 

 ジョエルは言いながら、キャンティーンに口をつけて水を飲み下す。今更何をと言いたげな彼の態度にしかし、ウォーレンは再び貼り付けたような薄い笑みを向けて言った。

 

「ないよ、作らないことにはね。でも土台を作るところまではたどり着いた。私は間に合わなかっただけだ。今日は本当にいい日だ。君たちが来なければ、私はなにも成し得なかっただろうから」

 

 

 

 

 

 

「シャーロットは」

 

 警備の二名が階段口に立つ最上階。負傷者フロアと銘打たれた事実上の隔離部屋であるそこで、アリッサは重ねた毛布に横たえられた少女に目を向けたまま、声の主の次の言葉を待った。

 

「シャーロットは、助かる?」

「わからない。いまは経過観察しかできない」

 

 リアムの声は小さく震えていた。シャーロットの隣に横たえられ、アルミシートと毛布でくるまれた老人――マイケルの容態は今のところ安定しているし、輸液も部隊の在庫分をやりくりして捻出したおかげで、しばらくのところは安全なはずだ。

 

 今の問題はシャーロットだった。彼女はベリヤの汚染された血液を浴び、粘膜接触している。感染しているのだけは間違いない。だが、今できるのは経過観察だけだ。

 

 というより、ヴラッドらが血清を見つけ出さない限り、それ以上の手は打ちようがない。試作段階の抑制剤を投与するかどうかの判断も、まだしばらくは先のことだろう。

 

「お願いだよ、シャーロットを……」

「最善を尽くす。言えるのはソレだけ。確かなことは何も言えないわ。私は魔法は使えない」

「お願いだから」

「リアム」

 

 シャーロットの隣にへたり込んだリアムに、努めて穏やかな声で語りかける。しかし声音を作れはしても、この状況で深く傷を追った子供の心に貼り付ける絆創膏を生み出すのは不可能だ。

 

 それは状況の難解さもあるし、アリッサ自身の問題でもある。自分でどれだけ頭を捻って言い方を選んだところで、耳あたりの良い言葉だけは生み出せない。そしてそれは彼女自身の自覚するところでもあった。生まれついて、そういう性分なのだ。

 

 しかし、自分がそれに甘えることを許せないのもまた、アリッサの生まれ持った性質の一つだった。生まれついてそうであるのだから仕方ない、などと開き直るのは怠惰と甘ったれの十八番であり、恥ずべきことだとすら思っている。

 

 もちろん、相手が大人であったのなら、いちいちそんなことを考えることもなかったろう。そうでないのは、たんにリアムが年端も行かぬ子供であり、自分は大人であるからだ。

 

 だからこそ、静かに、しかしたしなめる声で呼びかけられ、ピクリと肩を震わせた少年に向き直る。自分にできるのは逃げないこと、言い訳をしないこと。それだけだ。

 

「出来る限りのことはする。決して見捨てはしない。それだけは約束するわ」

 

 そこまで考えて、ふとかつての自分ならどうしただろうかと考える。わずか数日前、生死の常識がひっくり返る以前であれば、子供相手でもいちいちそれを気にしただろうか。少なくとも自分は、人の感情の機微にいちいち付き合うタイプではなかったように思う。

 

 なぜ自分がそんな疑問を覚えたのか。それはかつての自認識と、今の自分の思考の乖離が原因だったが、それをもたらしたものは何なのか。ゆっくりと考える間に、無理を無茶で押しのけ、雨中を掻き分けて血清を求めに向かった男たちの背を思い出す。

 

 途方もない無茶を、それが大人の義務、戦士の責務だからとやり抜く彼らのあり方が移ったのだろうか。そう考えながら、アリッサはリアムに首を傾げた。

 

「……分かった。約束だ」

 

 眼の前の少年の泣き腫らした顔が、少しの沈黙の後小さく頷いた。

 

「いい子ね。なら少し眠りなさい」

「でも」

「疲弊した人間に看病は任せられない」

 

 すくなくともヴラッドなら大人しく横になるでしょうね、と添えた言葉に、リアムは素直に首肯を返した。この少年にとり、もはやあの男の存在は絶対的な正義になりつつあるのを彼女は知っている。

 

 リアムは少しの間シャーロットを見つめた後、その額を撫でると立ち上がり、階段へ向かった。すでに隔離区画への医療関係者、及び歩哨以外の滞在は禁止され、周知されている。

 

 階下へ消えていく背中がこちらを一度だけ振り返り、そのまま消えるのを見送ると、アリッサはシャーロットの首筋に触れた。

 

 一時間前と比較して体温が上昇し、脈拍もわずかに早くなっている。感染初期の兆候が出つつあった。成人で自然抗体がないと仮定した場合、初期症状から発症までは二四時間以内。子供の場合はそれより短い可能性が高い。

 

「……その子は、助かるのか」

 

 バインダーの白紙に時刻を書きとめ、症状を併記するアリッサの横合いから、しゃがれた声がかけられた。そちらを見ると、黒人の兵士が額から汗を垂らして上体を起こしている。噛みつかれた肩口の傷は腫れ上がり、ガーゼの下の皮膚には黒ずんだ血管が浮き上がっていた。

 

 ダニエルという兵士だった。ヴラッドの部下で、ベリヤを止めようとした男であることを、アリッサは記憶している。

 

「血清がなければ厳しいでしょうね」

「……その、血清は?」

「捜索中よ」

 

 先程、リアムに向けたものと違う抑揚のない声音でアリッサは応えた。大人の、それも兵隊相手に気を使う必要はない。そして、おそらくこの男はそれを必要としない人間だろう。それはアリッサの勘だったが、確信に近いものでもあった。

 

「そうか……なら、大丈夫だ」

「なぜ、そう思うの」

「あの人だからな。軍曹は……きっと上手くやる」

 

 ダニエルは呻き、喉の奥から絞り出すような声で言い切った。その声は小さく弱々しかったが、口調とは裏腹に、絶対的な決まり事を口にするような断定の響きがある。

 

 アリッサはほんの僅かに、ごくごく小さく眉を持ち上げた。

 

「信頼しているのね」

「あの人はツイてる。それに腕が立つし……なにより、そういう人だ。正しいと思ったことを、かならずやり遂げる。それを引き寄せる……ツキを持ってる」

「それなら、大人しく帰りを待つのね。彼にツキがあれば、あなたもきっと助かる」

「その……子のために、祈ることにする。俺にまでツキが回るには……」

 

 一生分の運がいるだろうなと、そう言ったきり、ダニエルは黙り込んだ。目をやれば、彼は手足を投げ出して力なく横たわっている。アリッサは歩み寄り、腕を掴んで毛布の中に押し戻した。

 

 腕はひどく汗ばんでいた。胸は小さく小刻みに上下し、乱れた吐息がざらついた音をこぼしている。感染が進行していた。抗体が投与済みであっても、感染から二日以上経過しているとあっては予断を許さない。

 

 いつ活性死者に転じるか。おそらく、どれだけ長くともリミットはあと一二時間程度だろう。

 




評価、感想等お待ちしています。
大事なやる気の源です。


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告解

筆は進んだ! 話は進んでいない!!!!!



 地下がある、とウォーレンは言った。地下に研究設備室があると。

 

 ヴラッドはジョエルが差し出したコーヒーを受け取り、湯気立つカップをゆるく揺らしながら無言で続きを促した。隣では、ジョエルが固形燃料ストーブでカップを温めている。雨天行動ということで、体温低下に備えて持ち込んだ分だ。

 

 使い捨てカップに鼻を寄せ、パウダーコーヒーの安っぽい、しかし落ち着く香りを楽しむ。雨に濡れてかじかんだ指先が、カップ越しの熱でちりちりと傷んだ。

 

「それで」

「しかし、地下に行く前に医院長室に行く必要がある。彼の声が必要だ」

「声?」

 

 自分の分をカップに注いだジョエルが、上目遣いにウォーレンを見た。地面においたストーブに金属容器を戻したジョエルはコーヒーに粉末乳を流し込むと、手首でカップを揺らして何故と疑問を重ねる。

 

「そこにエレベーターがある。それが地下へ通じるが、音声認識が必要だ」

 

 ウォーレンが示した先、部屋の隅には確かにエレベーターのドアがはめ込まれていた。ドアサイズからしてそう大きなものではないのだろうが、ドア枠の隣には呼び出しボタンとインターホンが取り付けられている。

 

「それが医院長の声、と」

「そうだ。彼の部屋になら音声記録があるはずだからね。レコーダーにでも記録してくれ」

 

 レコーダーはそこに、とウォーレンは同僚が突っ伏していたデスクを示した。ジョエルはコーヒー片手に立ち上がり、引き出しをいくつか開けて中身を確かめる。収納されていた書類や文具を掻き分けた後、ジョエルはボイスレコーダーを取り出してデスクに置いた。

 

「音声記録は、PCか?」

「PCにもあるだろうが、カセットでの保存をしていたと記憶しているよ」

 

 ヴラッドの質問に応えたウォーレンは、それ、私ももらえないかなとコーヒーを示した。ヴラッドは濃褐色の水面に視線を落とし、それからジョエルに目をやる。彼は肩を竦め、使い捨てカップを一つ取り出すと、燃える固形燃料の上で熱されるコーヒーの残りに水を足した。

「ありがとう。手間を掛けて済まないね。砂糖は結構だが、粉末乳はほしいな」

 

「わかったから待て。コーヒーは逃げない」

「だが時間は有限だ。概算だが、おそらく私はあと6時間かそこらで発症する」

 

 人の良さそうな笑みをそえて礼を述べた口で、ウォーレンはきっぱりと、しかしなんでも無いことを告げる声音で言い切った。自分が歩く死人になるという、途方もない絶望を伴う結末を。それは震える内心を隠す虚勢でもなければ、持って生まれた胆力によるものでもない、ただそうなることを受け入れた人間のものだ。

 

 少なくとも、声に滲む音のない諦観の響きを、ヴラッドはそう感じ取った。

 

「君たちのタスクは大きくわけて3つ。音声の回収、血清の素材の回収、血清の作成。最初と最後は深く考えないで良い。音声は簡単に手に入るだろうからね」

 

 ついでに煙草ももらえるかいと、遠慮の様子すら見せず、こちらが煙草を差し出すのは当然とばかりの態度で重ねる医者に、ヴラッドは苦笑をこぼした。煙草を一本咥え、火をつけてゆるく吸う。

 

 穂先にしっかりと火を宿したそれを、ウォーレンの唇に挟み込んでやった。彼は小刻みにのたうつ不自由な手足とは対象的に、器用に唇の動きでフィルターを噛みしめると、ゆっくりと煙を吸い込む。

 

「血清の制作も、素材が揃えばあとは機械任せだ。問題は素材の回収。これはね、そう大きな問題ではないが、医院長があちこちに分散保管したおかげで探すのは手間だろう」

「なんでまた、そんなことに」

「知らない。最後はパラノイア一歩手前と言った様子だったから、おおかた精神的に追い込まれたんだろう。いくつかはありかを知っているが、今もそこにあるかはわからない」

 

 そりゃこの状況でそうならんほうがおかしいだろう、とジョエルがカップに注いだコーヒーに粉末乳を混ぜながら言った。呆れ半分、もう半分は一種の敬意の色があった。ウォーレンはクスクスと笑い、君たちほどじゃないなと肩を竦めようとする。あいにく様、彼の方は痙攣しただけだが。

 

「それと、最後の作成に関して障害がある」

「なんだ。専門的な内容だと俺たちにはどうしようもないぞ」

「いや、君たちの専門分野だ。敵を排除する、内容としてはそれだけのことだよ」

「その言い方で文言通りの簡単な仕事をもらった試しはないな」

 

 ジョエルが口の端に薄い笑みを刻み、粉末乳を混ぜ終えたコーヒーを片手にウォーレンに歩み寄る。猫舌かとジョエルが問うと、ウォーレンはゆるく首を振る。

 

「熱いものはとことん熱いほうが好きだ。冷たいものも同じくね。とりあえず、地下には少々困った相手が居座っているんだ」

「B.O.Wか」

「そう呼ばれるのかい、アレらは。二足歩行のカエルのようなやつでね」

「爪が生えたトカゲ男みたいなやつか? それ以外だと四つん這いのカエルもどきか」

「いいや、二足歩行のカエルだよ。爪もないし、トカゲではないし四つん這いではない。何人か丸呑みにされてね。君たちの仲間も、残念だった」

「なんだって?」

 

 最後の言葉にヴラッドは眉根を寄せた。ウォーレンはといえば、ジョエルに煙草をもたせ、口元で保持されたカップからコーヒーを啜っている。さながら、身の回りの細かなことすらも人に任せ慣れた貴族のように、その立ち振舞は堂々としていた。

 

「一、二日ほど前だったな。君たちと同じ格好の兵士が三名、市民を連れて逃げ込んできた。彼らは防衛と血清の制作を手伝ってくれたんだが、だめだったよ。地下で呑まれてそれきりだ」

「……そうか」

「皆、勇敢な良い男たちだった」

 

 僅かに目を伏せ、ウォーレンはほんの少しの間だけ瞑目した。ヴラッドとジョエルもそれに習い、数秒の沈黙が降りる。この病院で餌食になったという三名の隊員が、どこの小隊の誰なのかを知るすべはない。が、最後まで職責を全うしようとしたのなら、敬意を払うべきだ。

 

「それで、その二足歩行カエルは何匹だ」

「分からない。私が確認したのは三匹。うち二匹は捕獲に成功し、地下の保管容器に閉じ込めた。問題は、一匹が隔離作業中に暴れ出し、そのままどこからか侵入したもう一匹が飛び込んできたことだね」

 

 お陰で五人が餌食になったよと、淡々とした声で付け足したウォーレンの顔は、声と同じだけの淡白さだった。しかし、眠たげにすら見える座った目の奥には、微かな苛立ちが揺らいでいる。

 

「捕獲って、どうやって」

「麻酔を撃ち込んだ。それも凄まじい量ね。途中で目覚めるはずもないくらいに。それこそ、ゾウを殺せるくらいの麻酔を使ったよ。一匹に対してね」

 

 備蓄分をそれで全て使い果たして私達は見事アガリ、そういうわけだよと、唇で穂先を揺らし、その動きで灰を落としたウォーレンは言う。ゾウを殺せると言われても具体的な量はピンと来なかったが、常識外れであることに違いはあるまい。

 

「君らの仲間は、あのカエルに占拠された地下の奪取に向かって、帰らなかった。その頃には私は末端の神経不全が始まっていてね、同行はしていない」

「つまり、最低でも二体は残っていると」 

「そうなるな。乱入してきた個体の侵入経路が不明だからそれ以上にいる可能性もある」

 

 厄介だなとジョエルが言った。地下というだけあって、広々とした空間ではあるまい。火器を用いない敵を相手取るのであれば、行動を制限しやすく機動力を削れる地下はヴラッドらにとって優位ではあるが、ヴラッドはジョエルの懸念を過たず理解した。

 

 基本的に、地下の狭い空間が有利に働くのは銃器が十二分の効果を発揮する場合に限られる。また、相手の数が対処可能な程度であることも重要な要素だ。

 

 たとえば、狭い地下にすし詰めにされた数十の活性死者との接近戦。あるいはタイラントのような、桁外れの耐久値と攻撃力を持つ敵との接触は致命的となる。そして、ウォーレンの口ぶりからすると、地下に住まう敵は未知の存在である可能性が高かった。少なくとも、ヴラッドらが接触したB.O.Wとは外見特徴が一致しない。

 

分隊支援火器(SAW)でももってくればよかったな」

「無い物ねだりは年寄りの始まりだぞ、ジョエル」

「じゃあこのカービン一本でどうにかするか?」

「言っておくが、爆発物はやめておくれよ。機器が傷つくと血清の作成もなにもない。乱射するのも同じく」

 

 二人の戦闘員のやり取りから不穏な気配を感じ取ったのか、ウォーレンが口を挟んだ。見れば、深くフィルターを咥え込み、唇の端から紫煙を漂わせる彼は、座った目をこちらに向けている。

 

「現段階で機器が損傷していない保証は?」

「ない」

 

 ヴラッドの問いに対するウォーレンの返答は短く端的だった。なるほどと頷き、どうすると言いたげなジョエルに目を向ける。

 

 ヴラッドは腕時計を見た。分派からもうじき15分が経過する。マディソンらの定時連絡が入る頃だ。

 

『ヴラッド、マディソンだ。現在、中央階段前。二階の検索に入る。そちらの状況は』

「マディ、ヴラッドだ。検索一時中断、ホールに再集結しろ」

 

 一五分きっかりを指し示す前に、無線がマディソンの声を運んだ。規定の時間よりもやや早いが、それは定刻より余裕を持つように部内で定めているからだ。現状その必要はないが、分隊内での定時報告結果は、小隊本部へ上げるのが通例だった。

 

 定刻通りに小隊本部、そして必要であれば更に上位階層へ連絡するためのマージンを取る習慣だ。

 

『どうした。状況に変化が?』

「そうだ。生存者発見、及び血清を生成できる可能性がある」

『了解、すぐに戻る』

 

 

 

 

 

 

「状況は把握した。俺たちは、血清の可能性にかけてお使いをすればいいと。で、地下のカエルもどきに関しては出たとこ勝負」

「そうなる。質問は」

 

 概略の説明を終えたヴラッドは、内容を反芻したマディソンに頷くと居並ぶ部下を見回した。各々コーヒーを片手に煙草を咥え、吐き出した煙で部屋を薄く濁らせている。嫌煙家がこの部屋を覗けば、間違いなく顔を青くするだろう。

 

「そのカエル、詳細な情報は」

「無いと思ってくれて構わない。あいにく、私は最初の接触以外では縁がなくてね。だが外皮は硬そうだったし、運動能力も人では敵うまい」

 

 片眉を持ち上げ、怪訝な顔のフレデリックにウォーレンが応えた。彼は合流した三名が時たま向ける、奇妙なものを見る目を気にする素振りも見せず、ゆるくかぶりを振る。

 

「だそうだ」

「解説どうも。それが最低二、あるいはそれ以上?」

 

 クラヴィスの問いに、そうなる、とヴラッドは頷いた。地べたに座り込みライフルを抱えたまま、クラヴィスは指で挟んだ煙草を弾きつつ肩を竦めた。

 

「侵入後は、通路だろうが部屋だろうが、可能な限りの“槍”を展開する。接触の際は最大火力で捻り潰す」

「メタクソに頑丈だった場合は」

 

 槍、というのは閉所における火器の数――言い換えれば、進路や交戦方向に向ける銃口の数――の意味を持つ。つまり、最低でも二挺、可能であれば三挺分以上を指向し、火力による強引な、そしてある意味で正攻法の撃破を目指す。

 

「誘引して爆破。あるいは、そうだな、燃やすとか」

「地下で?」

 

 マディソンが問うた。半ば笑うような声だった。

 

「燃料類を使うとろくなことにならないが、焼夷弾なら」

「そりゃサーメートで焼けば一発だろうが、決まるかね」

 

 だから、出たとこ勝負だろう、とヴラッドは答えた。実際のところ、手持ちの装備品と残された時間、環境、情報を加味したうえで当たってから対応を変える以外の手立てがない。そしてそれは珍しいことではなかった。

 

 結局のところ、どのような戦闘も事前計画というのはその時に把握している範囲を出ない。最悪の想定などというのも、どこまで煮詰めても想像の範囲の話だ。現実の悪化はたいがいの場合その上を行く。

 

「まあいい、了解。それに賭けるしかないわけだ。とりあえず、医院長室で音声データの回収を行う。そのあと地下に侵入、排除、精製」

「医療品の回収は?」

 

 マディソンが頷き、順序を再確認する。それに続いたジョエルの問いに、ヴラッドは現段階で回収された医療品リストを手に答えた。

 

「医院長室への行き返りで拾えるだけ拾う。薬品類の不足はまだ解消できていない」

「了解。人選は」

「さっきと同じで構わない。ジョエルとヴラッドはここで待機してくれ。僕たち三人で足りるよ」

 

 吸いきった煙草を床に落とし、それを踏みつけたフレデリックが言った。彼は飲み切ったカップに、水をつぎ足し再加熱されているコーヒーを足すと、異論ないだろう?とマディソンとクラヴィスを見やる。

 

「オーケー」

「文句なし。ここの保持は必要だし、配置を一人だけにするわけにもいかん。俺たち三人でやる」

 

 二人は鷹揚に頷き、フレデリックに続いてコーヒーの追加をカップに注いだ。それを見、ヴラッドは任せるよとリストを留めたバインダーを揺らす。

 

「五分で休止切り上げ。弾薬、装具確認。出たら、一度一階部分の安全化を再確認してから移動する。医院長室は?」

「最上階にある。案内板を見ればわかるよ」

「親切なことで。頼むから、俺たちが血清を作るまでは死んでくれるなよ、お医者さんや」

 

 案内が必要かいと小首をかしげるウォーレンに、マディソンは結構とばかりに手をひらひらと揺らす。私の身体の努力次第だねと、ウォーレンは小さな笑みで答えた。

 

 咳は落ち着いていたが、顔色は目覚めた時よりもやや悪化しているように思えた。やせぎすの細い面立ちに刻まれた影は先刻より濃くなっている。コーヒーを飲んだ直後は血色の良かった唇も、いまでは暗くくすんでいる。

 

 それを見、マディソンはわずかに眉を下げただけだった。しかし、容態の変化が気にかかっているのは間違いないだろう。クラヴィスも、擲弾銃を背負いなおしたフレデリックにしてもそれは同じだ。

 

 捜索組の三人はボイスレコーダーをポーチに収め、各々の弾薬、装具の確認を終えると立ち上がった。フレデリックが新たな煙草に火をつけ、手の自由の利かないウォーレンの口にそれを銜えさせてやる。

 

 ありがとうとウォーレンが笑みとともに投げた礼に、ひらりと手を振ると、三人は医師控え室を後にした。

 

「それで、君はなぜここに?」

「なんだって?」

 

 ウォーレンが口を開いたのは、煙草をゆっくりと楽しみ、フィルターを足元に吹いて落としてからのことだった。焦げたフィルターの匂いを嗅ぎながら、ヴラッドはバインダーをローテーブルに置いた。

 

 回収されたのは包帯のたぐいばかりで、医薬品類が不足している。

 

「聞き方が悪かったね。君はどうして、ここに送られることに?」

「さあ。市民救助作戦だとだけ。このありさまだとは知らなくてね」

 

 ふむん、とウォーレンが目を天井に向け、ゆるく首を上へ傾ける。ウォーレンはしばらく虚空を見つめると、ゆるくすぼめた唇からため息を漏らしつつ、こちらへと視線を向けなおした。

 

「聞きづらいことを聞くというのは、案外と難しいものだね。とくにストレートに問うのは」

「つまり、お前が聞きたいのはこういうことか。なんでこんな罰ゲームみたいな部隊にいるのか、って」

「そう、それが聞きたかった」

 

 もちろん、話したくないというのならそれはそれで構わないけれども、と添えたウォーレンは、どうだろうかとお伺いを立てるようにほんの僅かに首を傾げた。それに対し、ヴラッドはやれやれと首を振って苦笑する。

 

「俺たちの事情に詳しいな」

「言っただろう、君の仲間が来たと。彼らも私も人の子。身の上話くらいはしたさ」

「どこで生まれて、何をして育って、こんなことをやらかしてここに送られましたって?」

「そうそう、そんな感じだよ。命令違反の殺人、違法な取引、そんな話だったな」

 

 少し前のことを、しかし懐かしむようにウォーレンは語った。三人の兵士と何を話したのか。彼らが今までどう生き、ここへ流れ着いたのか。ヴラッドはそれを聞き終えると、それで、と問いかけるような眼差しを受け止める。

 

「そんなに気になることか」

「私は気になるね。少なくとも、仲間よりも先に子供を気にする罪人の心理というのは」

 

 心理学は大学時代に触れただけだけれどもねと付け加えたウォーレンに、やれやれとばかりに話を横で聞いていたジョエルが口をはさんだ。

 

「俺たちの間じゃ、人の過去をいちいちまさぐるのはマナー違反だ」

「知っている。そう聞いた。とはいえ、私は部外者だからね。その論理の外にある。それに、嫌なら結構だよと伝えたとおりだ。無理強いはしない」

「村を一つ焼いた」

 

 唐突に、ためらう素振りもなく口を開いたヴラッドに反応したのはジョエルだけではなかった。ウォーレンはほんの僅かに目を丸くし、それから興味深そうに眼尻を下げて目を眇める。ジョエルは片眉を持ち上げたのみで、こちらが構わないのなら何も言うまいとかぶりを振った。

 

「何故、と問うても?」

「任務だと言われた。武装勢力の武器備蓄と、人身売買の経由地になっていると。俺は命令書を確認し、部隊長の指示に従って準備し、攻撃に参加した」

「それが罪になった?」

「結果として、非武装の民間人を含む三〇名以上を殺害した」

 

 だが任務だろう、とウォーレンが疑問形の声を投げたが、彼の目には裏にある程度の察しをつけた納得の気配が滲んでいる。

 

 ヴラッドはそれに頷き、そして口を開く。

 

「命令書は偽装されていた。俺がそれに気づいたのは、残敵確認のために村に踏み込んでからだ。間抜けな話だがね」

「なぜそんなことに」

「俺の知らないところで、部隊員の殆どが武器密売に関与していた。それを気取られ、内部監査が入る前に証拠と証人を消そうとした。全て手遅れだったわけだが」

「それは、君のお仲間も上司も随分と間抜けな話だ」

 

 からからとウォーレンが笑う。ある程度の過去を知りはしても、詳細な顛末を知らないジョエルは、聞き耳を立てながらウォーレンをそっと睨めつけた。とはいえ、それを気にする神経は、死にかけの医師の持ち合わせにはないようだ。

 

「ああ、間抜けだ。俺は作戦から帰投して、最後の証拠集めに忙しい陸軍犯罪捜査局(CID)の捜査官に声をかけた。そこからはトントン拍子、俺は今ここにいる」

「ツイてない」

「そうでもない。予兆はあった。帰国するとやたら羽振りの良いチームメイト、ローテーション待機の間、時たま不明瞭になる別チームの動向。本来、襲撃担当(アサルター)の俺を後詰めにしての襲撃プラン」

「見落としたと」

「気づこうとしなかったのかもな。村の非戦闘員をあらかた片付けて、必死に抵抗する生き残りの男を殲滅する段になって呼ばれたが、その時ですらまだ気づいちゃいなかった」

 

 普段の君なら気づけた、そういうことかな。わずかに首を――まるで前のめりになるように――突き出してウォーレンが言う。問いかけというよりは、そうなのだろうと突き付けるような、断定するような声音だ。

 

「俺はそう思ってる」

「だから自首した」

「いいや」

「罪の意識からではない、と」

「それもあるだろうが、本筋じゃない。死人は蘇らない。それに何を感じても今更だ。単に気に食わなかった。俺が共犯にされたことに気づいた顔を見て、これできっとバレやしないと、怯えながら安堵してるその態度が」

 

 きょとんと、ウォーレンの顔が再び意表をつかれ気の抜けたものになる。ジョエルもジョエルで、ああ、と納得ともつかないため息に似た苦笑をこぼしている。

 

 一拍ほどの時間をはさんで、ウォーレンが小さく噴き出した。そのまま愉快そうに、それこそ手足が動けば腹を抱えて転げまわりかねない勢いで笑いだす。

 

「……っは、ぁ、うん、なるほど。君という人間がなんとなくわかったよ。そうか、気に入らなかったのならそうするしかないね。それに、放っておけば何をしでかすかもわからない」

「そういうことだ。だから仕方ない。自爆になるが、俺は気づこうとしなかったし、すべてが手遅れになった。である以上、あれ以外の結論はあり得ない。納得まで含めて、ベストの選択だった」

「我が身を守ろうとは思わなかったのかい」

「考えたね、さすがに。俺のキャリア、残りの人生。それを考えたうえで、それでも納得がいく選択肢は告発だった。だからそうした」

 

 一等軍曹までの自分の経歴、精鋭部隊に入るまでの努力、積み上げてきた実績と信頼。当然、それらは楽ではなかったし、簡単に投げ捨てられるものでもなかった。軍に入る以前、何も持ちえなかった自分からすれば、陸軍でのキャリアは人生そのものだ。

 

 しかし、今になって思い返してなお、納得以外の動機は思いつかない。おそらくはそういう性分なのだろうと益体もないことを考えながら、ヴラッドは自嘲の笑みを浮かべた。

 

「まるでシネマのカウボーイだな。正義を信ずるガンマン、嫌いじゃない」

「正義は俺には無縁な言葉だ。別に、非戦闘員を殺すのは初めてじゃない。非公式、非認可作戦で、“必要”とされたからそうしたことは何度もある」

濡れ仕事(ウェットワークス)の出身かい、君は」

 

 ル・カレは好きでねとウォーレンが笑う。著名な、英国軍事情報部出身の作家だった。濡れ仕事(ウェットワークス)に始まる特徴的な業界用語を本にしたため、水面下の情報戦を大衆の娯楽に隅にそっと差し込んだ男だ。

 

「ああ、そうなる。老人も女も子供も関係ない。俺は任務だと言われれば、付随被害だろうと直接加害だろうと実施してきた。だから俺は正義とは縁がないよ」

「それが戦う人間の善悪の価値観というものかい」

「さあ、他人のことは知らない。ただ確かなのは一つだけだ。俺の使う武力は、それを授け、あるいは管理する組織の認可の下でのみ正当化される。それが人道やら倫理やらから外れていようが、武力の統制ってのはそういうものだ。権力と責任の構造に伴い、命じたものが責を負う」

 

 ヴラッドは言いながら、少し考えるようにこめかみに手をやった。中指でこめかみをつつき、ゆったりと思考をまとめて先を続ける。ウォーレンは静かに続きを促し、ジョエルはただ無言でこちらを見ていた。

 

「だが、俺たちの虐殺はその範疇を逸脱した。密売、論外。証拠隠滅の民間人虐殺、もってのほかだ。俺は知らなかったかもしれないが、気づくチャンスはあった。仮にそれを度外視しても、俺は確かに手を下し、知ってなお瀕死の老人を介錯した」

 

 その責任は、あの場にいたすべての人間が負うべきものだ。ヴラッドはそう続けた。それきり黙りこみ、煙草を一本取りだして銜える。火をつけて数口ほど楽しむと、吸い口をウォーレンに差し出した。

 

 彼は無言でそれを受け取り、煙草を銜えたまましばらくの間天井を見つめていた。

 

「もう一つ、聞いても?」

「今更だろう。お好きに」

「君はなぜシャーロットを気に掛ける。ああ、確かに彼女は愛らしい子だがね。兄のほうも愛嬌がある。だが君、いまは傭兵だろう。市民救助だって、お題目以下のガラクタ、違うかい」

「同じことを兄のほうに聞かれたね。もうずいぶん昔のことに思えるが。……俺は合衆国旗に宣誓した。今の雇い主が(こうべ)を垂れるのに不適格だとするなら、俺が従うべきは、俺がかつて何者であったか。それだけだ。わかるか?」

 

 ヴラッドは淡々と、ただ事実を述べる口調で言った。それはヴラッドにとって違えようのない本音であったし、今彼の彼にとっての唯一の規律といってよかった。そうでなければ、今頃アリッサを連れ出し脱出に向かっているだろう。

 

「そのためにわざわざ、リスクを負って走り回ると」

「兵隊の仕事はいつもそれだ。危険、オーケー、承知でございます。仕事でございますから、ってね。それに、子供のために走ることもできんのなら、俺はさっさと自分にケリをつけたほうがマシだろう。すくなくとも、あとで死ぬほど後悔するよりそのほうが楽だ」

「君は、仮にそうだったとしても楽な選択に目もくれないような気もするが。ありがとう、よくわかった」

「満足か?」

「とても。君と出会えてよかったと思うよ。少なくとも、私にとり君は初めての人種だ。私にとっては救いに等しい」

 

 どこかうっとりとしたような、何かはるか高みにあるものを見つめるような眼差し。ウォーレンの目の奥にわずかに滲む静かな感情の高ぶりを見、最後の一言の意味を問いただそうとした声を、重くよく響く音が塗りつぶした。

 

 ヴラッドとジョエルは反射的に立ち上がり、カービンを握りしめて意識を警戒状態に引き戻す。低くのしかかるような、それでいて不愉快ではない尾を引く響き。それが鐘の音だと気づく前に、無線がマディソンの困惑の声を届ける。

 

『ヴラッド、ヴラッド。時計塔の鐘だ。救出要請信号を誰かが使用したぞ』

 

 

 




評価、感想等お待ちしております。
やる気の源、執筆必需品です。


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痕跡

最近、読者の方が入れてくれた「ここすき」を眺めてニヤニヤしている作者です。
どうにか書き上がりました。
早速、次話執筆に取り掛かります(グルグル目)

銃撃戦回まであと5話くらいかな……。
次話はすでに取り掛かっています。


「時計塔? ああ、そうか。君らの救助地点だったか」

「マディソン、上階までの経路は」

『確保済みだ。余計な通路は防火扉を閉鎖して遮断してある』

 

 ウォーレンの声に応じる暇はなかった。ヴラッドは即座に病院内の状況把握に意識を切り替え、ジョエルに目配せする。彼はその意味を過たず理解した顔で頷いた。

 

「一人戻してくれ。俺が上がる。そちらから時計塔の様子は確認できるか」

『フレッドを戻す。四階まで上がれば目視可能だ』

「了解、今から上がる」

 

 ヴラッドは無線を切り上げた。ジョエルはくつろげていたS.O.Eベストのフロントファステックスを留め、スリングを体にかけてカービンを脇に抱え込む。ヴラッドも同じく片手でベストを固定すると、カービンを掴んで事務所への扉を抜けた。

 

 転がる死体は一つとして起き上がることなく、壁際に寄せられて悪臭を放っている。いや、放っているはずというべきか。嗅覚は未だに鈍いままだ。

 

 ともあれ危険はない。そう頭の片隅で確認して階段を駆け上がると、カービンを携え段飛ばしに階段を下るフレデリックとすれ違う。

 

「フレッド、ジョエルと医師詰め所を固めろ」

「了解!」

 

 すれ違いざまのやり取りはそれで十分だ。片手にボイスレコーダーを握ったフレデリックは、ひらりと手を振り、振り返ることなく下階へ消えてゆく。

 

 ヴラッドも、それを見送ることはしなかった。血濡れの階段をブーツで踏みしめ、ほとんど跳ぶような勢いで身体を前に押し出す。ヘリによる回収要請が行われたということは、時計塔には生存者がいるはずだ。

 

 重い装具と濡れた戦闘服をものともせず、アスリート顔負けの俊敏さで上階へ向かう間、ヴラッドは思考を巡らせた。中隊本部に要請したとして、脱出ヘリをよこしてもらえるとは思えなかった。

 

 であるからして、ヴラッドの任務にとって目下最も確実な手段は奪取になる。しかし、その手段はアリッサ、シャーロット、リアムまでが限度だ。マイケルを連れ出すことは無理だろう。

 

 マイケルまで連れ出すとなると部下の支援が必要だが、現在に至るもアンブレラの犬の目星はついていない。部下を連れて行くとなると、ヴラッドはパイロットの監視と並行して僚友を監視しなければならないからだ。

 

 それは不可能な話だった。二正面への反撃警戒は荷が重すぎる。

 

 それを回避し、少なくとも離陸し市内を抜けるまではこちらの身分を隠すとして、脱出用ヘリはアエロスパシアル製SA 330ピューマのはずだった。乗員定数16名の汎用ヘリだ。小柄とは言い難い機体を安全に下ろせる場所、そしてそこまでの移動経路をどう構築するか。

 

 そもそも、何機のヘリが脱出のために送り込まれるのか。小隊人員と民間人をすべて脱出させるとなると、定数を超えて詰め込んでも三機は必要だ。

 

 それを思案する間に四階に踏み入ったヴラッドは、壁面に表示された間取りを一瞬だけ横目に見やると、院長室へと進路を取る。

 

「ヴラッド」

「状況」

「不明だ。だが鐘が鳴った以上、救難信号が発信されたと見ていいだろう」

「動きは」

「無い。だが死人が集まってきてやがる」

 

 医院長室前でこちらを待っていたマディソンは、ヴラッドの一声に明瞭な声で応じた。双方ともに、不明かつ危険を伴う状況を前にして、スイッチが警戒方向に押し込まれたままだ。

 

 ヴラッドは院長室の分厚い木製ドアに身を寄せ、戸外を警戒するマディソンの横を大股の歩調ですり抜ける。それに対し、マディソンが何かを言うことはない。戦闘下における指揮官とはそういうものだし、情報伝達とは簡潔で、そこに礼儀を差し挟む余地はない。常識以前の問題だった。

 

「クラヴィス」

「マディの言う通りだ。そこらじゅうの街路から活性死者が出現。時計塔外周に集結してる」

 

 院長室の中は、よく手入れされた絨毯と木目のつややかな什器で整えられていた。壁面には専門書やファイルが詰め込まれた本棚が並び、応接用のローテーブルとソファが備えられている。

 

 血の匂いの薄いそこの奥、大きな窓の外へM14を構えたクラヴィスへ歩み寄るヴラッドは、ポーチから双眼鏡を取り出した。

 

 雨に霞む外界。夕刻が近づき、薄暗くなりつつある市街の頭上を黒雲が覆い、蓋のようにのしかかっている。その中に時計塔を認めたヴラッドは、双眼鏡を目に押し当てた。

 

 白く濁った景色の中で、時計塔の周囲に集結し始めた活性死者がうぞうぞとうごめいている。遠目には地を這うイモムシのようにも見えるそれらの数は、おそらく全体で百をゆうに超えるだろう。

 

 突破は不可能だ。現段階で掌握しているこの五名で、の話ではない。小隊全員を結集したとして、民間人の護送のみならず自力移動の出来ない負傷者を抱えて、総数不明の敵を押しのけるのはリスクが大きすぎる。

 

 そこまで考え、これは都合のいい思考だなと自分を戒める。仮にヘリが脱出のために駆けつけ、なおかつその機数が十分だったとして、小隊を脱出地点に移動させるよりも、ヘリの燃料が空になる方がよほど早い。

 

 ヴラッドは入念に双眼鏡越しの偵察を続けた。街の喧騒が絶え、雨で冷えて休止状態に入っていたのだろう死者たちが、新たな獲物の気配を求めて次々と暗がりからその姿を表す。監視は数分で十二分だった。どうあれ、時計塔に向かえば酷いことになる。

 

「どうする」

「突破できるとでも」

「小隊全員を動員しても無理だな。民間人がいなくたって、損害が出る」

「同感だ」

 

 ヴラッドは双眼鏡を覗き込んだまま答えた。時計塔の中に動きがないことを確かめ、双眼鏡を下ろすと腕時計を見る。最初の鐘の音から数分が経過していた。

 

 ヘリが即時離陸したとすれば、そうかからずに到着するはずだ。とはいえ、脱出ヘリが飛来したとして何ができるわけでもないが。せいぜいこちらの存在を知らせる程度が関の山だろう。

 

 回収地点にたどり着くことは出来ない。この病院の屋上にはヘリポートがあったはずだが、

 

 考える間に、長く振り続けた雨脚が緩んだ。雨粒の間断ない音が小さくなり、視界の濁りが薄れる。

 

「ヴラッド」

「ああ」

 

 雨上がりの湿っぽい空気が、小刻みに揺れていた。特徴のある周期的な音が重たい風に運ばれてくる。ヘリのローター音であることは疑いようがない。

 

「周波数はわかるか」

「待て。チャーリー02から接近中のヘリ。聞こえるか」

 

 ヴラッドはクラヴィスの問いかけを遮り、小隊内周波数を中隊指揮系に切り替えた。事前の情報では救助ヘリとの交信は中隊指揮系の周波数を用いるものとされていたからだ。

 

「チャーリー02より接近中のヘリ、聞こえるか」

『チャーリー02、チャーリー02、ホーク21。感明良好。救助要請信号を発信したのは君らか?』

 

 二度の送話の後、明瞭な声がハンドマイクから流れた。ヴラッドは双眼鏡に目を当て、ローター音の方角を覗き込む。遠く、濁った空に黒い機影が見える。こちらに接近しているようだった。

 

いいや、違う(Negative)。こちらは現在市立病院内だ。発信者は不明」

『なんだって? まあいい、了解した。そちらはピックアップポイントに移動可能か』

「不能だ。地上は敵性がうじゃうじゃしてる」

『……了解。時計塔に着陸し、発信者を拾ってから病院屋上につける』

 

 ホーク21――救助ヘリのパイロットが応えた。ヴラッドは双眼鏡で接近する機影を確かめる。機数は一。ずんぐりとしたシルエットは、事前予定通りSA330ピューマであることを示している。

 

「一機だな。どうせほとんど死んでるだろ、ってことか?」

 

 ライフルのスコープを覗いたまま、クラヴィスが笑った。考えていることはヴラッドと同じだ。すなわち、小隊本部陣地に誘導できても座席が圧倒的に足りていない。

 

「ホーク21、チャーリー02。こちらは現在本隊と離れて行動している。そちらは単機か?」

『単機だ。そちらの生存者は』

「現在市立病院内に五名。小隊本部陣地に非戦闘員を含む四〇名以上」

 

 ヘリの機影は、もはや肉眼でも目視可能な距離に接近していた。回転翼機のローター音がそのピッチを上げ、市街地スレスレを飛行していたヘリがわずかに高度を上げる。時計塔の中庭に機を下ろすべく、ピューマ汎用ヘリは姿勢を水平にすると、前進速度を打ち消して機体を安定させ始めた。

 

『クソ、了解だ。待ってろ。一度お前たちを拾って、帰還してからピストン輸送を……』

 

 いや、それじゃ困る。俺たちを載せたら一度本部の方へ。そう言いかけ、ハンドマイクの送信ボタンを押し込んだ瞬間、いましも時計塔中庭に機体を下ろそうとしていたピューマが突然機首をひねった。

 

 高度を下ろすために回転数を落としていたメインローターが唸りを上げ、重たそうに機体を巡らせながら浮き上がる。なぜ、と思うより先に、時計塔の影から白煙の筋が勢いよく飛び出す。

 

個人携行式対空ミサイル(MANPADS)! クソ!』

 

 無線ががなった。

 

 それに対して、反応を示すだけの時間はなかった。そしてそれは逃げようと機体をひねったピューマにしても同じだ。降下姿勢に入ってからでは、回避など間に合いようもない。

 

 必死に高度を取ろうと身を捩るヘリの後部から、勢いよく弾体がキャビンへ飛び込む。瞬時に爆発が生じ、内側からの爆圧を受けた機体が膨らんだ。炎と破片がコクピットをぶち破り、燃料に引火したピューマがそれまでの浮力を失って落下を始める。

 

「嘘だろ」

 

 クラヴィスがうめいた。ドアを警戒していたマディソンが、銃口を廊下へ向けたまま駆け足で窓に近寄り、外を見やる。

 

 事態を飲み込めず、唖然とした顔で落ちていくヘリを見つめるマディソンをよそに、ヴラッドはハンドマイクをベストのフックに戻した。無線を送るまでもない。搭乗員は即死だ。

 

 火に包まれたピューマは、旋回の勢いでくるくると回転したまま時計塔の敷地へと落ちた。衝突音、金属の悲鳴。そして一拍おいて爆炎が噴き上がる。

 

「ジョエル、ヴラッドだ。救援ヘリが墜落した。地上からの対空攻撃と思われる」

 

 ヴラッドは無線を送りながら双眼鏡を覗きこむ。航空燃料が引火し、時計塔は炎の照り返しで赤く滲んでいる。鐘の音、ヘリの飛行音に墜落と、たっぷりの騒音に引き寄せられた死者が時計塔外周を埋め尽くしていた。

 

『待て待て、対空攻撃と言ったか? 再送してくれ』

「MANPADSだ。弾体の飛翔と命中を確認。回収機は墜落した。繰り返す、回収機は墜落。詳細不明、待機してくれ」

 

 了解と声が返ってくるまで数秒ほどの間があった。当たり前だろう。ヴラッドにしても、傍目には平静に見えても内心には混乱がある。

 

 いま、この街は戦場と変わらぬ危険地帯だったが、それでも飛び道具――とくに対空火器――はどこかで思考の外に追いやられていた。主要敵性存在が火器と無縁な相手だったせいだ。

 

 パタタ、とかすれたカービンのバースト音がかすかに耳朶を叩いた。死者の喧騒に押しつぶされてほとんど擦り切れかけの発砲音は、時計塔の方角で生じているようだった。

 

 二度、三度、四度と三点射の音が続く。誰かの交戦音だ。M4のものらしい銃声からすると、おそらくは同じU.B.C.Sの隊員だろうか。

 

 呼び寄せた救助ヘリが目の前で撃破され、そしてヘリを撃墜した何者かと戦闘に陥ったのだろうが、それを確認するすべはヴラッドらの手元にはなかった。

 

 それは、助けに行く手立ても同じだ。時計塔に群がる死者の数は膨大というよりないありさまで、ヴラッドらノーマッドには帰還のタイムリミットが設定されている。

 

「それで、だ。どうする」

「どうもこうもない。不明、一切不明だ。武装した敵の存在が予見される。それ以外に言うことは」

 

 ないな、とライフルをおろしたクラヴィスがため息を吐いた。航空燃料に引火した火災の炎が揺らめき、あぶられる時計塔が上げる黒煙がのしかかる雲海へと立ち上る。

 

 銃声が止んだのは、それから程なくしてのことだった。

 

 

 

 

 

「俺達以外で、投入された武装集団がいると思うか」

「州軍はどうだ」

個人携行式対空ミサイル(MANPADS)を持ち込むと思えない。第一、州軍がわざわざ市内に入る理由は?」

「状況調査くらいはしたっておかしくない」

「ラクーンで航空戦力との接触を想定して? 非現実的だぜ」

「ま、たしかに識別して撃墜したとも思えんしな。何も分からん」

 

 ひそひそと潜めた声はしかし、垂直のエレベーターシャフトの中ではよく響く。

 

 ボイスレコーダーに回収した医院長の声によってエレベーターのセキュリティを切ったヴラッドらは、外扉をこじ開けるとそこを侵入口とした。エレベーターそのものは地下へ下ろし、アンブレラ地下施設への侵入時と同じ方法を用いることにしたわけだ。

 

 それは当然、素直にエレベーターで降りて、ドアの向こうになにが待ち受けているかを確かめようという気にならなかったためである。

 

 敵性が跋扈する環境において、未制圧地域にエレベーターで乗り付けるのは分の悪いギャンブルだからだ。

 

 エレベーターのキャビン天板に片膝をついたヴラッドは、隣にひざまずくマディソンの肩越しに開放された点検ハッチの中を覗き込んだ。

 

 マディソンは点滴スタンド(ガートル台)の棒を繋げた長いロッドで、エレベーター内の開放ボタンを押し込んでいる。さらにその脇から、クラヴィスが手鏡をダクトテープで巻き付けたロッドをエレベーター内に下ろしていた。

 

 細かく角度を変え、エレベータードアの向こうを確認するクラヴィスがなにも言わないということは、そこに脅威はないと見ていいだろう。

 

「異常なし」

「了解。ジョエル、聞こえるか」

『聞こえる。侵入開始か』

「そうだ。先遣し、安全を確保する」

 

 了解、と短い返事。僅かな金属音に頭上を見上げると、ロープで吊られた非常はしごが医師詰め所のエレベータードアからするすると目の前に降ろされる。

 

 途中、収納されていたそれを持ち込もうと言い出したのはフレデリックだった。エレベーターを下階で固定し、キャビン天井のメンテナンスハッチから出入りする都合上、登るのは一苦労になるからだ。

 

 ヴラッドはそれを受け取り、こちらを見下ろすフレデリックに手振りで指示を出す。彼はそれにうなずくと、ドアの向こうへと引っ込んだ。コントロールパネルの電源を遮断するためだ。

 

 電源を喪失すると、安全のためにエレベーターがその場で固定措置をとるようになっていることは、すでに確認済みだった。

 

「先頭は俺でいいな」

 

 クラヴィスが言った。

 

 彼はM14の弾倉を確かめ、セレクターをフルオートへ入れている。大口径、曲銃床とじゃじゃ馬反動の権化のようなライフルだが、彼の腕なら至近でマンターゲットに弾着を絞ることは造作もない。

 

「任せる」

 

 ヴラッドは頷いた。

 

 閉所であり、クラヴィスのM14は取り回しが劣悪だが、.308の威力はそれを補ってあまりある魅力がある。そして、この先の空間の構造はある程度の目星がついていた。もちろんそれは、ウォーレンの協力あってのものである。

 

 ヴラッドの肯定を受け、クラヴィスはニヤリと笑うとライフルを背中に回した。その間に、頭上からバンダリアとともに束ねられた擲弾銃がロープによって降ろされる。

 

 マディソンがそれを受け取り、中折式擲弾銃(HK69)の薬室を開放すると、ポッカリと口を開けた空洞に四〇ミリ四号散弾(M576)のカートリッジを押し込んだ。

 

 擲弾銃、とは言うものの、ただ炸裂弾頭を撃ち出すだけの代物ではない。煙幕、照明、催涙弾と特化した用途の弾種も存在する。四〇ミリ四号散弾もその一つだった。

 

 まずクラヴィスがエレベーター内に降り立った。その後にマディソンが続き、二人が廊下を張る間にヴラッドが降りる。

 

「行くぞ」

 

 ヴラッドは囁くように言った。

 

 抱えたカービンの銃口は足元に下ろしてある。クラヴィスとマディソンは廊下の左右に横並びに展開し、銃口を前へ据えていた。二人の間に十分なスペースが有ることを確かめ、銃口を持ち上げる。

 

 不明の敵に対して、指向できる火力は多いに越したことはない。そして敵に対して可能な限りの最大火力を叩き込むのは戦闘の基本だった。

 

 三人は銃口を進路に向け、ゆったりと重心を落とした足取りで前進する。通路の角に差し掛かると、スプリングフィールドを構えたまま、クラヴィスが上体を傾けてその先を覗き込む。

 

 クラヴィスはそのまま、一言も発さずに再び歩み始める。無言は安全の証だ。危険があればそれを告げるか、ジェスチャーで伝達を図る。安全であることをいちいち口にしないのは、気配で察知されるのを嫌ってのことだ。

 

 しかしそれでも、ブーツはリノリウム床を踏むたびに独特の音を立てる。長時間、不安定な足場で行動するにはブーツは最適な選択だが、こういう環境で気配を消しつつ軽快に動き回るのには向かない。

 

 三人分の息遣い。床を慎重に踏みしめる重みのある足音。それらに混ざる異音がないか、僅かな危険の兆候がないか。神経を尖らせたヴラッドは、足元の僅かな違和感に視線だけを下へ向けた。

 

 それはクラヴィス、マディソンも同様だった。見れば、限りなく透明に近い液体が床に点々と散っている。つま先でそれを踏みしめ、ゆっくりと持ち上げる。粘性の水音は、それが粘りを帯びていることを示していた。

 

 どうすると、マディソンが視線だけで問いかける。ヴラッドは前方に迫りつつある地下研究室のドアを顎で示した。足元の粘液が何であれ、敵らしい姿をまだ目視していない。その気配もない。

 

 通路は至ってシンプルだった。十分な広さのそこは、突き当りの両開きドア以外に接続された部屋はない。天井に近い位置に設置された大型のダクト、白い床と壁。それ以外に語るもののない空間は、現状安全そのものだ。

 

 三人がお互いにうなずくと、ヴラッドは五指を揃えた手のひらで前進の指示を出した。彼らは可能な限り静かに、そして素早く前進した。

 

 両開きのドアに取り付くとドアの開閉範囲ギリギリで足を止め、はめ込まれたガラス窓から中を覗き込む。

 

 ドアには、銃弾の貫通痕と思われる小さな穴が複数見て取れた。クラヴィスとマディソンがそれぞれの位置から確認できる範囲で窓の向こうを確認し、親指を立てる。脅威不在、二人はそう言っているのだ。

 

 ヴラッドがフラッシュライトの光軸をドアノブへ向けると、彼らは片手でライフルを保持し、外側両開きのドアを引き開ける。

 

 ドアの向こうは、ウォーレンが言う通りそこで戦闘があったことをしめす破壊と混乱が散らばっていた。デスクがひっくり返り、割れたガラス容器となにかの液体が床に撒き散らされている。

 

 壁際に並んだ電子機器のいくつかは銃弾で粉砕され、空になった弾倉と空薬莢が、至近距離での乱戦の結末を示していた。

 

 しかし、問題はそこではない。ここで戦闘が発生したことは、すでにウォーレンから聞いている。それが事実であったことを目で確かめることに意味はない。

 

「どう思う」

 

 そこで、ヴラッドはようやく口を開いた。戦闘の痕跡、床に広がる薬液に混ざった血の痕。しかし敵の気配も、姿もない。

 

「不明。動きはない」

「こちらも同じく」

 

 マディソンが応え、クラヴィスが続く。こちらの声に反応するような気配もない。

 

 ヴラッドは数秒考えてから、侵入を命じるためにライトを数度明滅した。マディソンが構えたまま銃口を持ち上げ、クラヴィスがそれに応じるようにスプリングフィールドの筒先を目線の上へ持ち上げる。

 

 それを合図に二人は銃口を水平まで下ろし、研究室に踏み込むと同時に、左右に別れて屋内の死角へ目を走らせた。無声合図によって開始された侵入にヴラッドも続き、戸口をまたいで踏み込む。

 

 そこに脅威らしきものは何も見当たらなかった。ヴラッドらは油断なく銃口を巡らせ、あらゆる死角を確認し終えると、そう結論づけた。というより、そう判断するよりなかった。敵がいないことは事実だからだ。

 

「どうなってる」

「死体一つありゃしない。人間も、化け物も」

 

 ヴラッドの疑問に、クラヴィスが肩をすくめる。マディソンは弾切れのまま地面に転がったM4カービンの隣に膝をつくと、弾痕の位置と数を数えるように屋内を見回している。

 

「ジョエル、ヴラッドだ。研究室に到達」

『了解。状況は』

「敵性との接触なし。姿が見えない。ウォーレンに心当たりはないか聞いてくれ」

『了解、待て』

 

 無線を送りながら、ヴラッドはカービンを脇に抱えたままL字に折れた部屋の隅、奥の方に設置された大きな設備に目を向けた。

 

 分厚い樹脂素材の円柱容器。人が数人押し込めそうな直径のそれは、ウォーレンが言っていた保管容器だろう。

 

 何かしらの液薬に満たされたそれの中に、初めて見る化け物が浮かんでいる。ずんぐりとした身体から生えた細いが筋肉質な四肢は、ハンターβの系譜に近いように見える。しかし容器越しに観察する限り鱗はなく、顔周りはカエルによく似ていた。

 

 未知の敵ではあるが、アンブレレラが言うところのB.O.Wであることは間違いない。しかしどう見ても活性化しているとは思えなかった。

 

『ヴラッド、ジョエルだ。ウォーレンに心当たりはないと。保管容器の化け物は?』

「まだ容器内だ。ウォーレンが確認したのは全部で三匹。間違いないか」

『そのとおりだ』

「了解、まだ降りてくるな。まず設備の無事を確かめる」

 

 無線を切り上げると、ヴラッドはウォーレンから伝達された血清培養装置の配置を記したメモを取り出す。それはL字の部屋の奥、保管容器の隣に設置されていた。

 

「どうだ」

「銃弾は浴びていない。幸いなことに」

 

 その機械の前に立って外観を確かめると、ヴラッドはマディソンの問いかけに返しながら電源マークのプリントされたボタンを押し込む。

 

 中央に薬品容器を収めるスロットが三つ配置されたそれは、起動と同時に電子音を鳴らした。スロット台座の銀色の円盤がくるくると回転し、位置の零点調整を終えると、液晶モニターに準備完了、モードと数値設定のメニューが現れる。

 

「生きてる。運がいい」

「どうする、呼ぶか? 数値はウォーレンしか知らんのだろう?」

「まだだ。もう一回通路まで戻って捜索する。いたはずの化け物がどこに消えたのか、分からんままじゃ気味が悪い。クラヴィス、どうだ」

 

 ヴラッドは機械の無事に満足すると、実験室内の保管用冷蔵庫を覗き込んでいたクラヴィスに声をかけた。

 

 業務用冷蔵庫と同程度の非常に大柄なそれの中には、重要な薬品が保管されている。ウォーレンの記憶では、そこに一、二セット分の血清素材が保管されたままだそうだ。

 

「銃弾で電源がぶっ壊れてやがるが、まだ冷気は残ってる。行けるかもしれん」

「そうか……よし。一度エレベーターホールまで戻るぞ」

 

 了解と二人が応じた。

 

 ヴラッドはカービンを手にし、入り口まで引き返すマディソンの後ろに続く。

 

 そこでふと、足元の痕跡に目が行った。血を踏みつけた足跡だ。しかし靴底のパターンでも、人間の足の形でもない。

 

 足は大きく、指が長い。かすれてはいるが、それは爬虫類や両生類の手足のそれに見える。その足跡は壁のすぐ直前まで続き、そこでぷつりと途絶えていた。

 

 眉根を寄せ、ヴラッドは周囲を見回す。立ち止まったその気配に気づいたのか、マディソンがこちらを振り返り、何事か問おうとしてやめた。

 

 彼らは高度な訓練を受けた戦闘員だ。仲間が何か異変を察知していることは、いちいち問うまでもなく雰囲気で理解できる。マディソンが小さく口笛を吹き、それを受けたクラヴィスがライフルを腰に抱えたまま周囲の警戒を始める。

 

 ヴラッドはその間に、壁の前で途絶えた足跡の理由を考えた。まさか壁の中に消えたわけでもあるまい。しかし周囲を念入りに見回しても、どこかに飛び跳ねて着地したらしい痕はない。

 

 ではどこに。そこまで考えかけ、ヴラッドは敏感になった聴覚の拾い上げた、僅かな液体の滴る音にぞくりと背筋が凍るのを感じた。

 

 ウォーレンが言っていた。どこからか一体が侵入し、状況は破滅的になったと。

 

 エレベーターからここに至るまで、他に出入り口らしきものはなかった。唯一この空間に接続されているのは、大型の換気ダクトのみだ。

 

 指が安全装置を弾き、すぐ間近のダクトに銃口を向ける。

 

 それはまさにクラヴィスの真上だった。不自然に外れ、高い天井から垂れ下がったダクトの蓋。その影からゆったりと、粘液を滴らせながら姿を表したぬめる粘膜質な輪郭に、ヴラッドは引鉄を絞った。

 




 感想、評価等お待ちしています。
 執筆のやる気の源です。救急スプレーみたいなものですな。

 いつも読んでくださっている皆様、お付き合いいただきありがとうございます!


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銃、そして結果

 はい、今までの停滞が嘘かのような更新速度!!!
 内容がしっちゃかめっちゃかになってないと良いなと祈りながらシコシコ書いております。

 


 バーストのマズルフラシュが、蛍光灯に漂白された研究室に弾けた。

 

 燃焼に伴う橙色の発砲炎が散り、ダクトから吊り下がった蓋を貫いた銃弾が青黒くテラテラとぬめる影に突き刺さる。

 

 ヴラッドはそのままバーストを三セット、都合九発のライフル弾を叩き込んだ。リズミカルな発砲音が壁で跳ね返り、籠もった銃声が乱反射する。映画の派手な弾着の火花とは違い、銃弾を浴びたダクトは埃を撒き散らしただけで、あっけないほど小さな穴が連続して穿たれた。

 

 しかし、その中からいましもクラヴィスに飛びかかろうとしていた“敵性”の反応は劇的だった。

 

 粘液を滴らせる肉々しい表皮が身を捩り、ダクトを内側から押しのけると、金属板を引き裂く耳障りな音とともにダクトがひしゃげる。ぼこりと膨らんだそれの中から、低くきしむような、それでいて銃声の残響を押しつぶす大音量の咆哮が轟く。

 

 クラヴィスは、ヴラッドの射撃音に弾かれるようにしてその場から飛び退いていた。なりふり構わず地を蹴り、背中から後転した彼は直ちに膝立ちの姿勢を取ると、引き裂けたダクトから飛び降りた“敵性”にスプリングフィールドを指向する。

 

 つい数瞬前までクラヴィスが立っていた空間に降り立った“ソレ”は、ともすれば人間一人程度踏み潰して圧殺しかねない音ともに地を踏みしめた。ヴラッドはクラヴィスと自分との間に着地したそれの仔細を確かめるより先に、カービンを抱え込んで横に転がった。

 

「撃て!」

 

 ヴラッドは叫んだ。

 

 彼が横に飛び退いたのは、クラヴィスの射線を阻害しないためだ。訓練された射手は基礎の四原則を骨身に刻み込んでいる。標的の背後に何があるかまで気を配り、非破壊対象への付随被害を回避するのはそのうちの一つだ。

 

 どちらかが動かねば、クラヴィスもヴラッドも射撃を封じられる。

 

 そして、今最も威力のある火器を構えているのはクラヴィスだ。

 

 ヴラッドが飛び退くと同時に、腹に響く銃声が連なった。M4のそれよりもより大きく鋭い発砲音は耳を通じて脳髄を揺さぶり、その場にある全ての音響を蹴散らす。

 

 床を転がり、カービンを構え直したヴラッドがカービンを構えるまでの間に、“ソレ”はクラヴィスのスプリングフィールドの弾倉を丸っと一本分叩き込まれていた。合計二〇発のライフル弾は、過たず全て“ソレ”の胴部に集中している。

 

 至近ではあるが、不意打ちに対するカウンターであることを考えると、驚くべき技量だった。しかし“ソレ”はずんぐりとした血の吹き出す胴体をふらつかせ、おびただしい血を撒き散らしながら、それでもクラヴィスを獲物と定めたのか飛びかかろうと腰を落とした。

 

「ごっつい分頑丈だなこいつ!」

 

 クラヴィスが喚く。彼は弾倉留めのレバーを指で弾き飛ばし、新しい弾倉を差し込んだところだ。彼が後退して止まった槓桿(ハンドル)を前進させるより、“ソレ”の跳躍の方が早い。

 

 ボッコリと膨らんだ下腹部に、大きく丸みを帯びたカエルのような頭部。それに対して四肢は不釣り合いに細く見えるが、筋肉の隆起はその機動性を軽んじることを許さない。

 

 ヴラッドは瞬時に照準を跳躍に備えて曲げた膝部へと据えた。そのまま引鉄を絞り、関節部に射撃を集中させる。胴部がライフル弾の威力を減殺するとしても、骨格を内包し、なおかつ肉の薄い膝はそうも行くまい。

 

 ヴラッドのバーストが膝を撃ち抜き、カエルじみたそれは苛立たしげな悲鳴とともにバランスを崩す。

 

 血を撒き散らし、地面に倒れ込んだそれが、それでも立ち上がろうと手をばたつかせる。カエルの手そのものの指の長いそれが地面を捉え、吸い付くようにして身体を引きずろうとしたが、大きく開かれた口という弱点を、マディソンは見逃さなかった。

 

 怒りのままに唾液を滴らせ、耳に刺さる濁った大音量を撒き散らすその口。人間一人程度、あっさりと丸呑みしかねないその暗がりに、マディソンが至近から中折式擲弾銃(HK69)の狙いを定める。

 

 撃発。銃声よりもくぐもった小さな破裂音。ボズン、と間の抜けた音とともに吐き出された弾子(ペレット)はしかし、至近距離では必殺の破壊力を秘めている。それこそ、生身で被弾すれば人体は瞬時に引き裂かれ、生ぬるい大粒の粗挽き肉の完成だ。

 

 当然、それは相手が異形の化け物であっても変わらない。どれだけ頑丈であろうと、肉と骨で構成された生物である以上は。

 

 肉体の構成素材が瞬時に破砕される鈍く湿った音とともに、血肉が飛沫を散らす。それはヴラッドにとって見慣れた破壊の瞬間だった。砲弾、銃弾、爆発物。運動エネルギーを身にまとった金属塊を受けた肉体がどうなるかを、ここにいる三人はよく知っている。

 

「無力化を確認する」

 

 ヴラッドは言った。

 

 カービンの銃口を、人間で言う後頭部を弾けさせた“ソレ”に向けて二発。倒れ伏した身体がピクピクと痙攣したが、それだけだった。口腔にぶちまけられた弾子は文字通り進路上の全てを粉砕したらしい。

 

「どうだ」

「死んでる」

 

 マディソンの問いかけも、それに対するヴラッドの返答も簡素だった。二人ともその間も油断なく視線を周囲に走らせ、手にした火器の再装填を行う。

 

 マディソンが中折式擲弾銃の薬室を開放し、ヴラッドが半分以上を射耗した弾倉を右のポーチに押し込み新しいものをカービンに叩き込む。先に装填を終えたクラヴィスは、M14を抱えたまま天井から等間隔に生えたダクトを見つめていた。

 

 ダクトの幾つかは、外れた蓋が脱落防止のワイヤーでぶら下がっていた。まだ粘液が滴っているものもある。

 

 すなわち、ヴラッドらがこの部屋に侵入する直前まで、地面に転がるカエルもどきの仲間がそこを通路として利用していたのだ。

 

 マディソンが新たな四〇ミリカートリッジをねじ込んだ中折式擲弾銃を閉じると、給排気の唸り以外の音が絶えた。三人共、一言も発さず、身じろぎ一つせずに周囲の様子をうかがう。

 

 今しがた撃ち殺した一匹は、粘液の滴る水音以外の兆候を一切放つことなくダクトから姿を現した。半端な警戒の仕方では、危険を見落とすことになりかねない。そのヴラッドの判断は二名の戦闘員についても同様で、マディソンとクラヴィスは口を閉ざし、装具の音すら嫌ってじっと佇んでいる。

 

 それは上階で待機しているジョエルとフレデリックも同じだろう。短時間だが猛烈な射撃音は聞こえていたはずだが、戦闘が発生した場合でも先遣組の連絡を待つように手はずを決めている。

 

 それは当然、こういった状況でヴラッドらの背負う危険を削るためだ。もちろん、待機している二人は経験豊富な戦闘員であるから、最後の二発が死亡確認のものであることは察しているはずだった。

 

 音はない。気配もない。ヴラッドが最初の一発を放つまでと同じだ。

 

 なるほど、全滅するわけだとヴラッドはほんの僅かに鼻を鳴らした。自分が気づいたのは、あらゆる異変を無視しないある種の臆病と言うべき性分の賜物だ。クラヴィスが無事だったのは、ほとんど運が良かっただけと言っていい。

 

 蚊の羽音にしてもささやかに過ぎ、高すぎるかすかな音が耳の中に充満していた。耳鳴りがするほどの静寂の中、ヴラッドは視線だけを動かし、死にたての化け物に目を向ける。

 

 力なく転がり、血のにじみを刻々と広げていくそれは、シルエットこそハンターαやジットフェイス(ハンターβ)に似ていたが、細部は異なる部分が多い。

 

 人を丸っと飲み下しかねない大きな口はだらしなく開かれていたが、その奥に歯らしきものは見当たらない。また丸みを帯びたカエルのような顔に目は見当たらず、喉に当たる部分は大きく膨らんでいる。

 

 ハンターαとの一番の違いは手足で、水かきの発達した指先に爪はなく、吸い付きの良さそうな形状をしていた。実際、垂直に生えたダクトに出入りできると考えると、壁面に張り付く程度のことは可能と考えられた。

 

「一度エレベーターまで戻るぞ」

 

 数秒ほど考え込んでから、ヴラッドは言った。機器破損を回避したい都合上、この研究室での戦闘は避けるべきだ。それに、ヴラッドの真横の保管容器の中では、一匹の怪物が眠っている最中だった。

 

 銃撃で破損し、それが目覚めをもたらしでもしたら笑えない。

 

 ヴラッドの決定を耳にした二人の反応は首肯のみだ。頭上のダクトをクラヴィスが警戒する間に、ヴラッドはカービンを構え、ダクトから距離を取って壁際を進む。

 

 移動するとなれば、もはや物音を気にする意味もない。すでに銃声をたっぷりと轟かせている。ヴラッドは安全装置を掛け直したM4カービンのセレクターに親指を乗せたまま、足元に散らばる器具や血の痕を飛び越え、出入り口のドアへと向かう。

 

 背後で、再びダクトの薄い金属板がたわむ音が聞こえた。首だけで振り返ると、クラヴィスは後方に銃を向けたままこちらに追従している。その肩越しに、垂れ下がっている蓋がブラブラと揺れるのが見えた。

 

「急いで……」

 

 前へ向き直った瞬間、ヴラッドの口は続く言葉を紡ぎそこねたまま、呻きとも唸りともつかない小さな音を絞り出した。

 

 眼前に迫った両開きドアの覗き窓のすぐ向こう、ドアに顔を触れるほどの至近に暗青色のぬめりが佇んでいる。

 

 それはドアの前、廊下の真ん中に佇んだまま、大きな口を笑みの形に歪めてみせた。それはもちろん、ヴラッドの目にはそう見えたというだけの話だったが、少なくとも彼には、目の前に飛び込んできた獲物を前にほくそ笑む捕食者のそれに写った。

 

「二度と笑えなくしてやるよ」

 

 ヴラッドがとっさにカービンを据えて引鉄を絞るより、マディソンが罵る方が早かった。ヴラッドの腕の中でカービンが撃発され、リズミカルなバーストに従ってドアに風穴が開く。

 

 ピッチの高い貫通音。着弾の衝撃でドアが歪み、覗き窓がひび割れ耳障りな音を立てて崩れ落ちる。射撃を受け、容赦ない先制攻撃に憤怒の雄叫びを上げた化け物がドアを押しのけ飛び込んできたのと、ヴラッドの真隣に踏み込んだマディソンが擲弾銃を撃つのはほとんど同時だった。

 

 片腕を横薙ぎにしようと持ち上げ、ドアを押しのけたカエル頭に弾子(ペレット)が殺到する。至近距離から放たれた鉄の奔流は開きかけのドアもろとも化け物の頭部に突き刺さり、血しぶきと肉片を撒き散らした。

 

 しかし、口腔内への直射ほどの効果はない。大きくたたらを踏み、カエル頭がたじろぐ。無論無傷とはいかず、眼球らしきものの見当たらない頭部は大きく肉が削げ、大きな口は引き裂けて歪な輪郭を晒している。

 

 無力化には程遠い。当然だ。分厚い外皮に叩き込むのと、無防備な口腔に散弾を浴びせるのでは重要器官への威力伝達が違う。

 

 カエル頭は溢れ出る血液を撒き散らしながら頭を振り乱し、引き裂け歪んだ口唇をこれでもかというほどに大きく開く。鮮血混じりの唾液を撒き散らし、耳を引き裂かんばかりの絶叫が眼前で弾けた。

 

 が、ヴラッドはそれを意に介さず、ポーチから取り出した金属筒の安全ピンを引き抜いている。AN-M14/TH。焼夷手榴弾(サーメート)のレバーが弾け飛び、ヴラッドは怒りをあらわにする口腔の奥へとそれを放り込んだ。

 

 点火され燃焼まで秒読みのそれは、カエル頭の喉奥へと転がり落ちると、反射的な嚥下動作によって飲みくだされる。次の瞬間、それを飲み込んだカエル頭の腹の中で劇的な反応が生じた。

 

 金属酸化物とアルミニウムの混合物に点火されたそれは、瞬時に超高温の燃焼物に変化する。その燃焼温度はゆうに二〇〇〇度を上回るうえ、酸素を必要としない。消火のしようのないそれが腹の中で生じればどうなるか。

 

 いましも反撃に転じようとしたカエル頭は、体内で膨れ上がった熱量に身を捩り、床に転げると全身を痙攣させてのたうち回り始めた。

 

 ヴラッドはそれを無視した。すでに背後で、クラヴィスの罵りと銃声がとどろき始めている。そしていかに頑丈であろうと、肉と骨で構成される生物である以上、焼夷手榴弾の生む膨大な熱量に打ち勝つことは不可能だ。すでに無力化と同義だった。

 

 しかし、ヴラッドが左手の人差し指に引っかかった安全リングを投げ捨て、カービンを掴んで振り返る頃には、背後の戦闘もほとんど雌雄を決していた。

 

 クラヴィスが弾倉内の弾薬を惜しげもなく叩き込んだカエル頭は下半身を中心にずたずたに引き裂かれ、跳躍も叶わず地べたを転がる肉塊に成り下がっていたからだ。

 

 しかし、流石にそれで死ぬほどやわな敵でもない。人の頭を鷲掴みにできそうな大きな手のひらで濡れた床面をしっかりと捉え、カエル頭が腕力のみで横に跳ねる。止めとばかりに弾倉を入れ替えたクラヴィスの射撃は地面をえぐったのみだ。

 

 とはいえそれでどうこうなるものでもない。着地し、血の跡を地面にべったりと残しながら制動をかけたカエル頭を待ち受けていたのは、先に後方の支援に意識を戻したマディソンの射撃だった。

 

 バーストが容赦なく連鎖し、リズミカルに吐き出されるカービン弾がリノリウムの床にカエル頭を縫い付けようと殺到する。当然、横方向に流れる自身の慣性を殺そうと踏ん張っている最中に、それを躱す余力などあるはずもない。

 

「無駄弾使わせてくれるなよ」

 

 連続する弾着。腕から頭にかけてたっぷりの銃弾を受けたカエル頭はのたうち、それでもなお粉砕された腕を痙攣させ、大きく口を開ける。まるで今からでも呑み込んでやると言いたげなその威嚇はしかし、ダメ押しとばかりに叩き込まれた四〇ミリ散弾に粉砕された。

 

 バケツに貯めた水を手のひらで叩くような、それでいて粘りのある音とともに、最後のカエル頭の頭部が崩れ落ちた。もとい、打ち砕かれて原型を失う。

 

「オーケー、後詰めは」

「ない」

「無力化を確認しろ」

 

 マディソンは再装填が必要な擲弾銃をスリングに任せて脇に投げると、カービンを持ち上げて問いかけた。クラヴィスが応じ、ヴラッドが後を追うように命じる。

 

 ヴラッドは、先程口の中に焼夷手榴弾を投げ込んでやった一匹に銃口を向けた。マディソンが最後の一匹を粉砕する間に、腹の奥から身を焼く熱量によって焼き尽くされたそれは、もはや痙攣することもない。

 

 網膜に突き刺さる燃焼光がちらつき、カエル頭の身体を食い破った焼夷薬剤は床をも溶かそうとしている最中だった。

 

 ヴラッドは念のため、それに二発。動きはない。その間にクラヴィスとマディソンが頭部を粉砕された三体目に死亡確認の銃弾を叩き込んでいる。

 

「無力化」

「こちらも」

 

 事務的な報告を終えると、再び沈黙が降りた。

 

 音はない。戦闘の音を聞きつけると、B.O.Wはおしなべて獲物に食いかからんと寄ってくることを、ヴラッドらは知っている。

 

 しかし、その気配はない。

 

 彼らが安全化の判断を下したのは、一〇分ほどしてからのことだった。

 

 

 

 

 

「しかし、酷い有様だ」

 

 ウォーレンが言った。

 

 彼は血清生成装置の前に引っ張ってきた椅子に腰掛け、自由の利かない手足をだらりと垂らして研究室の惨状を眺めている。

 

「文句は受け付けないぞ」

 

 その隣に立ち、ウォーレンから言われた通り機器の数値設定を終えたジョエルが、必要な薬品と素材をセットしながら言った。

 

 ヴラッドはそれを聴きながら、最後に始末した三体目の遺体にラテックス手袋をはめた手を突っ込んでいる。体内はいまだ暖かく、生き物の持つじんわりとした熱が冷えた指先を温めた。

 

 心地よさには程遠い感覚だった。散弾で引き裂かれた内蔵を押しのけ、指先で中身を弄る。硬いものを探り当て、ヴラッドはそれをつまんで引っ張った。

 

 彼は、未知の化け物の遺体を相手に腑分けをしようとしているわけでも、研究のために体内を弄っているわけでもなかった。単に、死後の見聞でドックタグが腹からはみ出しているのを見つけたからだった。

 

 引っ張り出したものは、金属製の板切れだった。チェーンが繋がったそれは間違いなく識別札(ドックタグ)だ。血と体液でぬめるそれを指で拭い、文字を改める。

 

「誰のだ」

「アルファのディーツ」

「あいつか。いいやつだった」

 

 クラヴィスの問いかけに返し、ヴラッドはマディソンが横から差し出した金属トレーにそれを落とした。洗浄液で満たされたそれに、ドックタグが沈む。

 

 ヴラッドは再び手をカエル頭の体内に押し戻し、しばらく弄ると手を引き抜いた。見つかったのは二名分のタグと腕時計が二つだけだ。もう一人を飲んだのは、焼夷弾で焼かれたほうか、それとも最初に始末した一体か。

 

 どちらにせよ、いちいち腹をさばき直して探す気はない。ディーツともう一人の分は、目についたから拾い上げただけだ。この街にはすでに、誰に看取られることもなく死んだ仲間の、引き取るもののいない遺品が散らばっている。

 

「どうする」

「洗って、持ち帰る。もう一人の分は探さない」

「了解」

 

 ヴラッドは抜いた手からラッテクスを外した。それを放り投げ、クラヴィスが横から突き出した消毒液を手のひらで受ける。手首から指先までしっかりと洗うと、ヴラッドはノーメックスのグローブを嵌め直した。

 

「ジョエル、どうだ」

「機械は問題なく動いている。待つだけだ」

「了解。クラヴィス、フレッドを連れて地階に戻ってくれ。上の警備が必要だ」

「オーケー」

 

 ヴラッドが指示を出すと、クラヴィスは立ち上がりドアの警備に当たるフレデリックと通路へ消えていく。それを見送り、カービンを背中に回したヴラッドは、持ち込んだ背嚢(バックパック)から金属カップと水、コーヒー粉末を取り出した。

 

 バーナーを燃料缶につなぎ、水と粉末を入れたカップを火にかける。それが温まると、ヴラッドはそれを手にウォーレンの元へと向かった。

 

「俺もコーヒーを飲んでも?」

「ご自由に。用意は自分で頼む」

 

 機械を眺めながら問いかけたジョエルに、ヴラッドは頷いた。彼はひらりと手をふると、自分の分の用意を始めたマディソンの元へ向かう。

 

「私の分はあるのかい」

「こいつがそうだ」

 

 ヴラッドは言いながら、研究室の洗浄済み器具から引っ張り出したガラス容器にコーヒーを半分注いだ。

 

「どうも、ありがとう」

 

 ウォーレンが微笑んだ。顔色は、もはやほとんど土気色に近づきつつある。地下に降りる前までやかましく動いていた手足も、今ではピクリとも動かない。

 

「君らの戦友は」

「消化済みだった。タグが二つだけ見つかった」

「もうひとりは」

「探さない。全員の遺体を探せるわけじゃない。目についた分だけだ」

 

 慣れているねと、ウォーレンが目を細めた。その口元にカップを近づけてやると、彼が口をつける。ゆっくりと傾け、少しだけ飲ませてやる。

 

「仕事だからな。生き死には慣れてる。遺体を回収できなかったのは初めてじゃない」

「そうか。そうだろうね。君たちに取り、これは生活の一部かい」

「そこまでじゃないが、いちいち気にするほどでもない。俺も、こんな身の上になってからは遺体を拾ってほしいとも思わなくなった」

 

 ヴラッドは肩をすくめ、自分のコーヒーに口をつける。煙草を取り出して咥えると片手でライターの火をつけた。それをウォーレンに差し出し咥えさせると、もう一本を取り出す。

 

 隣では機械がせわしなく動き回っている。死にかけの冷蔵庫に保管されていた素材は使用に耐えうるとウォーレンが判断した。そしてそれはいま、機械の中で合成され、シャーロットを救うための血清に変化する最中だ。

 

 研究室に再び無音が満ちた。バーナーでコーヒーを温める音以外に、聞こえてくるものはない。ヴラッドは自分の煙草をゆっくりと楽しみ、根本まで吸ってから足元に落とす。ウォーレンの煙草もそこに加わった。ヴラッドはブーツでそれを踏みつけ、もみ消す。

 

「失礼な質問をしても」

「今更すぎるな。好きにしてくれ」

「初めて人を殺したのは?」

「パナマだ。俺はレンジャー連隊にいた」

 

 ヴラッドは答えた。答えながら、なぜだか無性に煙草が吸いたくなって、再びもう一本取り出す。穂先をウォーレンに向けて勧めたが、彼は首をゆるく横に降った。

 

「街路を制圧中に、幅広の車道を挟んで撃ち合いになった。横断中だった兵士がひとり撃たれて転がった。俺はそいつを撃ったやつを見ていた」

 

 ヴラッドは先を促される前に口を開き、ゆったりと記憶のページを捲りながら語りだした。ライターを擦り、火を穂先へ持っていく。点火し、吸い込む。煙が肺に満ち、ニコチンが脳みそを駆け巡る。

 

「俺は、待機していた窓からM16を構えて、敵が顔を出すのを待った。道路沿いでは味方がやたらめったら弾をばらまいて、倒れた兵士を助けようとしていたよ」

「それで」

「敵はすぐに顔を出した。バレてないと思ったんだろうな。銃を突き出し、のたうち回ってる兵士に銃を向けたところに、俺が撃ち込んだ。街路を制圧したあとで、そいつがいた建物を検索した。若い男だったよ。一八になるかどうかの少年だ。頭に一発。右目を貫いて、左後頭部から弾は抜けた」

「ありがとう」

「何が知りたい。人殺しの心理か」

「そこまで大したものじゃない。私が知りたいのは、殺人に対して折り合いがつくのかどうかだ」

「そんなものは人それぞれだ。女子供を殺して気にならないやつもいる。殺人犯を殺して病むやつもいる」

「君は?」

「敵であるなら殺す。そしてその行為の責任は上が負う。それそのものの結果は俺の所掌範囲だ」

 

 シンプルだねとウォーレンが笑った。ヴラッドは煙とともにため息を吐き出し、コーヒーをすべて飲み干した。

 

「誰かを殺したのか」

「うん、残念ながら。罪のない娘を殺してしまった」

「なぜ、と聞いても」

 

 ヴラッドの声音は、口調とは裏腹に悪びれないものだった。

 ウォーレンはそれを気にすることもなく、静かにうなずく。

 

「母親が発症してね。ストレッチャーに固定されて暴れる母親を、私は処置しようとした。そこにさせまいとした彼女が覆いかぶさって、ペンをナイフのように握って叫んだんだ。やめてと。そのまま彼女は母親の固定を外そうとした。母親の頭は、彼女の背中に隠れていた」

 

 ウォーレンはどこかを見ているようで、どこも見ていない、うつろな目で言葉を区切った。

 

「気づいたら、私は拳銃を撃っていた。処置用のリボルバーだ。彼女の胸に一発。即死だった」

「それに折り合いがつかない、と」

「残念なことに。放っておけば、母親は暴れ出して彼女も、周りにいた人間も食われただろう。でも、そうはならなかった。そうはならなかったはずなのに、もう生き残りは私だけだ。私は無意味に人を殺してしまった」

 

 よくある心理だなと、ヴラッドは思った。そうすることで、そのときに発生する被害を抑止できたとしても、その正当性を心の奥底から信じるのは難しい。他の手があったのではないかと考えてしまう。

 

 もちろん、その娘を母親から引き剥がして拘束する手はあっただろう。しかしその可能性の話はあまりにも難しい。特に、人を喰らう死者のそばでもみ合いなど、議論するべき内容として不適格だ。訓練された人間でも避けたい状況だった。

 

 とはいえ、それでも無辜の人間を殺すというのは納得しがたいことだろう。誰も彼もが死に絶えたこの状況で、その行為が人を救ったはずだと言いきることもまた、酷く難しい。

 

「一つ、私見を述べても?」

「なんだろうか」

「誰も彼もが、撃つべき時に躊躇(ためら)わなければ、この街はこうなっちゃいない。皆が皆、そのときに躊躇(ためら)った。だからみんな死んだ。無神経な言い方だが、俺はそう思う」

 

 ヴラッドはウォーレンの目を見た。感情の色のない目はしかし、自分の目の奥を見据えている。

 

「その娘に罪はなかったかもしれない。その娘は死ぬべきではなかったのかもしれない。だがね、ウォーレン。生き死にが懸かった状況で、感情が現実の危険を塗りつぶすのなら、待つのは死だけだ。俺がその状況なら、娘を撃っただろう。そのうえで、俺はその責任を負う。誰に責められようと、俺は撃つ」

 

 もちろん、ヴラッドなら射界を変えて発症した母親を狙っただろう。しかしそれは緊張下での最善を選ぶべく、訓練を重ねた人間だからとり得るものだ。そしてその考えもまた、話を聞いた上で状況を想像した上での結論でしかない。

 

 実際にその場にいれば、また違った判断をしたかもしれない。それこそ娘を撃ち殺さざるを得なかったかもしれないからこそ、ヴラッドは否定を口にしない。

 

 ヴラッドもウォーレンも互いの目から視線を離さなかった。二人はただ相手の目の奥、意志の灯火だけを宿した瞳を認めあった。

 

 ヴラッドが続く言葉を口にするまでのわずかの間、機械が最後の動作を終えて停止した。生成完了のアラートが鳴り、液晶にCOMPLETEDの文字が踊る。

 

「それが生き残るということだ。それが、銃を手にするってことだ。銃を右手に、左手に責任を握る以上、正しさは時として社会通念上の倫理から乖離する。誰にそしられようと、必要なことをした。それだけだ。たとえ誰も生き残らなかったとしても、それは別の話でしかない」

 




 感想、評価等お待ちしています。
 執筆のやる気の源です。全色混合ハーブ並みによく効きます。

 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
 また、いつも感想下さる皆様に多大なる感謝を。


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たとえ報いがなかろうと

 はい、更新間隔2ヶ月かかりましたがどうにかしました。
 現在最新話に取り掛かっておりますのでお待ちくださいませ。


「それを私に使うのは無駄だ。だから、置いて行ってくれ」

 

 ウォーレンがそれを口にしたのは、残っていた薬品をすべて使い、二本分の血清を確保して少ししてからのことだった。電源を復旧したエレベーターで地階の医師詰め所に後退し、必要な医療品の回収を確認し、撤収の用意をしているヴラッドに彼は静かに言った。

 

「血清が効果を発揮する段階をとうに超えている。私に使っても意味はない」

「試してもないのに分かるのか」

「試薬の段階で検討済みだよ。効果があることも、どこから効果を失うのかも」

 

 ヴラッドは、自分の背嚢に荷物を詰め込み終えると、ウォーレンに向き直った。

 

 ウォーレンは出会ったときと同じように、椅子に腰掛け、だらりと手足を垂らしている。すでに四肢は完全にその能力を喪失しており、今となっては首もやや垂れ気味だ。

 

 ヴラッドは背嚢を床に置き去りにして、ウォーレンに歩み寄った。隣にしゃがみ込み、ウォーレンに煙草を一本差し出す。彼はうつむいたまま、吸口を唇で銜え込んだ。

 

「わかっていただろう、君たちは」

「ああ」

「だろうね。そうでなくては困る。君たちはそうでなくてはね。こんなところで愕然とされては、私も安心できないものだから」

 

 ウォーレンが笑った。その笑みは物静かで、しかし刻々と増していく死の色を伴って壮絶な色を帯びていた。死を前にして、避け得ぬそれを見据えた人間の顔には、ある種の鬼気迫る迫力が宿るものだ。

 

「お前はそれでいいのか」

 

 ジョエルが訪ねた。彼は血清を収めたケースを肩から提げ、その蓋をきつく握りしめている。ウォーレンに現段階で投与しても効果はあるまい、とジョエル自身も結論づけていたが、それを飲み込むのは容易ではない。

 

 それはヴラッドも同じだった。心の何処かでは、あるいはもしかしたらという気持ちがあることを、ヴラッド自身も感じていた。そしてそれは、最終的に自分とは相容れないものであることも。

 

「いいも悪いもない。現実としてそうというだけだ。万に一つ、億に一つの可能性を信じる、というのは、人として理解できても、君たちは避けるべきだろう」

「お前の心情は」

「私にそれを使うのはやめてくれたまえ。そんなみっともないことは御免被る。君たちの手を煩わせたくない。それに、私が自分のしたことに納得を得るには、私は結末を受け入れるしかない」

 

 ウォーレンはきっぱりと答えた。煙草の穂先を器用に唇で揺らし、灰を落として首を傾ける。それを受けて、ジョエルは数秒の沈黙の後、わかったと頷いた。荷物の支度を終え、装具の不備を確認したクラヴィスとマディソンも、何を言うでもなくこちらを見ていた。

 

 フレデリックはマディソンから返却された擲弾銃を肩から提げると、外の警戒につくと言い残して部屋を立ち去る。戸口をくぐる間際、フレデリックがウォーレンに目礼を投げたのを、ヴラッドは見逃さなかった。

 

 ウォーレンがそれに笑みで返し、フレデリックに続いて荷詰めを終えたクラヴィスとマディソンも部屋を後にする。

 

 部屋に残された三人は暫しの間、口を開くこともなく黙り込んだ。ジョエルは回収した医療品のリストを防水シートに挟み込み、医療品の防水パックの口を閉じると、黙々と残りの作業に取り掛かり始めた

 

「ヴラッド」

「なんだ」

 

 口火を切ったのはウォーレンだった。

 

「君は言ったね。その後の結末に寄与しなかろうと、その時その瞬間の判断の合理は別の話であると。誰も生き残れなかったとしても、私があのとき、娘を撃った選択は必要たり得ると」

「ああ、言った。結果は手段を肯定しないが、必ずしも否定するものではない」

「ありがとう。君が言うのなら、きっとそうなんだろう。だからこそ、私はここで終わりだ」

「いいんだな」

「可能性に賭けるというのは、いい言葉とは限らない。とくに分の悪い賭けならね。たとえ、この街から誰も生きて出られなかったとしても、私は君たちに最善の選択を重ねてほしいと望んでいるよ」

 

 それがたとえ誰も救い得なかったとしても。そう続けたウォーレンは煙草を唇から取り落として噎せる。ヴラッドはその背をさすってやった。

 

「私はあの娘を撃った。それがその時、被害を抑えるためだと信じて。だから、私はここで私を切り捨てないといけない。どうもありがとう、ヴラッド。君は私にとって救いだ」

「俺は俺の考えを口にしただけだ」

「だからこそだ。それ以外に縋るものも無いものだから。君にとっては重荷かな」

「いいや」

「なら、済まないが許してほしい。君の言葉が正しいものであると信じなければ、やりきれない。みんな死んでしまったからね」

 

 ひゅー、ひゅーとウォーレンの気管支が悲鳴を上げていた。口の端から唾液が垂れ、唇は先刻よりもさらに紫色に変化しつつある。時間がない。彼の命はもう消えかけている。

 

「幾つか、わがままをいいだろうか」

「構わない。言ってみろ」

 

 呼吸を整え、喘鳴がはっきりと混ざり始めた声で、それでもウォーレンは絞り出すように言った。ヴラッドは背を擦る手を止めぬまま、もう動くことのないウォーレンの手を握った。

 

 感覚はまだ残っているのだろうか、ウォーレンがほんの微かに唇を笑みの形に歪める。

 

「シャーロットを、リアムを。この街から連れ出してほしい。それが叶えば私の最期にも、皆の最期にも意味があったと思える。最後に何かをなし得たとするなら、私にとってはそれだけだから」

「当たり前だ。俺はそのためにここにいる」

 

 君ならそう言うだろうねと、ウォーレンはうつむいた顔を持ち上げた。彼の目はすでに視力を失いつつあるようだった。目は濁り、焦点の合わない瞳がせわしなく動いている。

 

「もう一つ。デスクに医師名簿がある。それをもって行ってくれ。私たちの名前だ。血清まであと一歩で力尽きた仲間たちの名前だ。それを持ち出してほしい。忘れられるには惜しい、良い人々だった」

「分かった」

 

 ありがとうと、ウォーレンが囁いた。ほとんど末期の呼気に近い、弱々しいものだった。ヴラッドはウォーレンの手を握ったまま、ジョエルに目配せした。彼はデスクに散らばる書類からファイルに閉じられた名簿を引き抜くと、それを防水シートに押し込む。

 

「もう行くと良い。私は適当に繋いで、あとは放っておいてくれ。彼女は私の不手際で、死後に歩きだしてしまったからね。私もそうあるべきだろう。迷惑と思うなら、君に任せるよ」

「もういい、休め。ありがとう、ウォーレン」

「私はできることをしたつもりだ」

「ああ、それは俺が保証する。」

「本当かい」

「俺はそんなことで嘘をつかない」

 

 ヴラッドの声に、返事は帰ってこなかった。ウォーレンの呼吸が止まっていた。ヴラッドはウォーレンの手を離すと、薄く開いたその目を閉じてやる。そうかからず見開かれるだろう瞼を、それでも死者への敬意の証として。

 

「ヴラッド」

 

 ジョエルが、横から手錠を差し出した。途中、警官の遺体から拝借したものだ。それをウォーレンの手首にかけ、反対側をソファの手すりにつなぐ。

 

「各員、移動開始だ。行こう」

 

 ヴラッドは無線のボタンを押して言った。地面におろした背嚢を背負いあげ、ストラップを締める。部屋の外に出ていた三人が戻ってきた。各々、事切れたウォーレンに目を伏せ、外した帽子を胸に当て黙祷を捧げる。

 

 それが最後だった。ウォーレンが起き上がるのを待たず、ノーマッドは病院を後にした。

 

 

 

 

 

 病院から小隊本部陣地に戻ったとしても、それで終わりになるわけではない。

 

 時計塔での騒ぎは、ヘリの墜落から数時間を経過してなお活性死者を十分に引き付けてくれていた。おかげでヴラッドらは面倒に直面することなく帰投することができたわけだ。

 

 それが苦難の終わりを意味していればどれほど良かっただろうか、と。ヴラッドは内心に独りごちる。眼の前で、横たえられたシャーロットがアリッサの手によって血清を投与されていた。

 

 もちろん、これは一つの終わりだ。それも、肩の荷が下りる結節点であることは間違いない。しかし彼を取り巻いている状況は複雑で、一つが片付けば楽になれるほど生易しいものではなかった。

 

「その医師の言う通りなら、これでひとまず安心よ」

 

 アリッサが言った。ヴラッドは、感染の進行によって赤らんだシャーロットの額に浮かぶ汗をタオルで拭ってやる。隣では、泣きつかれたリアムがシャーロットのそばで丸まって寝ていた。アルヴィンはその傍らで座り込み、階段を警戒している。

 

「結果はいつ出る」

「持ち帰った資料が正確であれば、四時間前後で」

「そうか。ありがとう」

 

 ヴラッドはタオルをたたむと、下階からもってきた防寒着をリアムにかけてやった。そのまま立ち上がり、カービンを手にする。アルヴィンが顔を上げ、尻尾をゆるく揺らした。

 

「彼のもとへ?」

「ああ。ダニーが待ってる(・・・・)

「そうね」

 

 ヴラッドは振り返らずに答えた。雨に濡れた被服はすでに余り物の作業着に着替えていたが、身体は濡れたままの重さと冷たさを引きずっていた。

 

 わずかに身体が傾ぐ。それを気取られまいと足で踏ん張り、装具の重みがのしかかる身体を階段へ向けて踏み出す。それを見、それでなお口をつぐむアリッサの視線に気づかないふりをするのは、酷く苦労した。

 

 階段を固めていた隊員が敬礼を投げた。ヴラッドはそれに応じ、薄暗い階段を上階へ向かう。その先は最上階、感染した人間を隔離する空間だった。そしていま、そこに収容されているのはダニエル一人だけだ。他は全員死んだ。

 

「ヴラッドか」

「どうだ」

「聞くなよ」

 

 足音でこちらに気づいたらしいジョエルが肩越しに問いかけた。ヴラッドが返事を投げると、彼はゆるく頭を振る。

 

 意味はよくわかっている。ダニエルもすでに、投与が間に合わない段階だった。感染の進行は、事前投与された抑制剤をもってしても致命的なラインを踏み越えているのだ。それが、ジョエルとアリッサの出した結論だった。

 

「マイケルはどうだ」

「安定している。輸液のおかげだな」

 

 ヴラッドはジョエルの隣に腰を下ろすと、毛布をかけられたダニエルの顔を見た。すでに、彼の黒い肌は生気を失っている。

 

「ここを任せていいか。マイケルじいさんの様子を見てくる」

「分かった。俺が見ておく」

「まかせた。必要ならこれを使え」

 

 ジョエルは検診道具を片付けると立ち上がり、ヴラッドの肩にそっと手を置くと、鎮静剤の注入容器を床に残した。そのまま立ち去る足音を背中で聴きながら、ヴラッドはダニエルの気絶に近い寝顔を見つめていた。

 

 そうかからず、彼は発症する。首元の咬創からうねうねと伸びる黒い筋は、彼の顔の半分に達している。そうでなくとも、血の気を失った顔色は数時間前に見たウォーレンの死に顔のそれに近い。

 

「ヴラッド」

 

 どれほどの時間そうしていただろうか。気づけば、背後にハリソンが立っていた。声音はしゃがれ、疲労がありありと滲んでいる。ヴラッドは肩越しに振り返り、差し出されたコーヒーのカップを受け取った。

 

 指先がじんわりと熱を帯び、冷え切った身体に吸い込まれていく。金属製マグは熱いはずだったが、それを感じる神経が残っていないようだった。熱がある。それ以外のことはわからない。

 

「伍長は私が」

「いいえ、俺がやります。俺の指揮下で負傷しました」

「いいのか」

「俺にとって必要なことです。貴方でもそうするのでは?」

 

 ヴラッドは言った。

 

 隣に立ったハリソンは、何を言うでもなく煙草を咥えて火をつける。そのまま時間をかけて一本を吸い切ると、床に落とした吸い殻を踏みつけ、もみ消しながら頷いた。

 

「そうだな」

 

 二人の会話はそれきりだった。それ以上の言葉が必要とされる状況でもなかった。死にゆく部下を前に、饒舌に語るようなものを、二人共持ち合わせていない。彼らは経験豊富な戦闘員だったが、それでもなお、部下を失うに際して沈黙以外に差し出せる気遣いはない。

 

 ハリソンがヴラッドの背をそっと叩いて立ち去る。ヴラッドは言葉こそ無いものの、ハリソンに感謝した。一人きりのほうが、今は気楽だった。ジョエルもアリッサも、それを理解しているからこそ、ここには訪れない。

 

「軍曹」

 

 気づけば、ダニエルが目を開けていた。まだ視力を失っていないらしく、しばらくぼんやりと瞬きをした後に、ヴラッドの顔へ目を向ける。

 

「起きたか、ダニー」

「あの子は」

「血清が間に合った。次はお前の分だ」

 

 ヴラッドは言った。ジョエルが置いていった鎮静剤の注入器を手にし、ダニエルの腕を毛布の下から掴みだす。これを打てば、ダニエルはそのまま眠りに落ちるだろう。そのまま目覚めることはない。苦しみを長引かせずに済む。

 

「軍曹、いいんです」

 

 しかしそれは本当に正しいことだろうか。かつて自分が止めを刺した老人に思ったように、幾度目かの疑問が鎌首をもたげる。そしてその迷いを指摘するように、ダニエルが小さく言った。

 

「もう手遅れだ。そうでしょう」

 

 その声は問うというより、ただ目の前の事象を口にするような確信に満ちたものだった。迫りつつある雨雲を示すように、振り始めた雪を告げるように。淡々としていて、ゆらぎがない。

 

「どうした、いきなり」

「腹が減って仕方がない。妙なんです。どこも痛くないし、酷く寒い。自分のことですから」

 

 あの子が助かったなら、よかった。そうため息とともにこぼしたダニエルがヴラッドを見た。目の焦点を必死に合わせようと瞳が揺れている。

 

「軍曹」

「なんだ」

「寝るまで、話に付き合ってもらえますか」

「構わない。俺で良ければ」

「よかった」

 

 ダニエルが笑う。笑顔というより、ほとんど表情筋が引きつった結果の曖昧なものだった。ヴラッドは手にした注入器を床に下ろすと、潰れた煙草のパッケージを取り出し、吸口をダニエルに向けてやる。

 

 彼はそれを見、ほんの僅かに首を振って見せた。

 

 ヴラッドは煙草を咥えて穂先に火をつけた。ため息をのせて煙を吐き出す。その行く先に目を向けず、ヴラッドは呼吸に僅かな喘鳴が混ざり始めたダニエルに向き直った。

 

「部隊は、どうですか」

「どうにか小隊定数と縮小分隊一個は維持できている」

「よかった。弾薬は」

「今のところ不安になるほど逼迫しちゃいない。ガルシアの分隊が、ラクーン大学前に乗り捨てられたウチのトラックから弾薬を回収した」

 

 良かったと、心底安心した様子でダニエルが笑う。ウォーレンを看取ったときにも思ったことだが、自分の死が迫りつつある中で、他人の身を案ずるというのはどういう気持だろうか。

 

 無論、ヴラッドにしてもそういった経験が無いわけではない。しかし、それは戦闘の最中の刹那の思考の中で、だ。アドレナリンはすべての恐怖を遠ざけるものであるからして、刻々と迫る死をじっくりと噛みしめるものとは根底が違う。

 

 自分がそうなったとき、彼らのように振る舞えるだろうかと、ヴラッドは他愛もない雑談に応じながら思う。

 

 彼らが示した静かな覚悟が、ありふれたものだとは思えなかった。そうであったのなら、この街の惨状はもう少しだけマシだっただろう。ヴラッドは十二分すぎるほどの経験の結果として、自己の生命の危機を前に毅然と振る舞える人間が、どれだけ貴重であるかをよく理解している。

 

 少なくともヴラッドは、この拠点を抑えた日のチャベスの態度を覚えていた。

 

 過酷な訓練を突破し、精鋭に配属された人間であっても、その時に取り乱さない保証はない。そして自分がそうならないと自惚れられるほど、ヴラッドは自分を信用していなかった。

 

 ダニエルとの会話は、部隊や自分たちの置かれた状況を離れて、より他愛もないプライベートなものに移っていた。

 

 最後の休暇の思い出、部隊の定番の笑い話、演習地近くのダイナーの名物店主。それが生まれ育った街の話に移り、子供の時分の思い出や入隊の経緯から、現役の頃の輝かしい記憶へと流れていく。

 

 気づけば、ダニエルは自身がU.B.C.Sへ流れ着いた理由をとつとつと語りだしていた。

 

 パトロール中の待ち伏せ、拡大する被害。観測付きと思われる迫撃砲の正確な弾着の恐ろしさ。敵が正規の軍隊で無かろうと、知識と経験を持っていれば脅威度に変わりはない。結局、ダニエルは近隣の部隊に支援砲撃を要請した。

 

 問題は、それによって生じた被害だった。

 

 ダニエルが砲撃支援のための諸元に使用したのは、待ち伏せの初動で釘付けにされずに済んだ射撃班が偵察によってもたらしたものだった。無論、その数値自体は正確だ。

 

 しかし、発見した迫撃砲陣地の側に非武装の民間人が居るかどうかまでは確認していなかった。そしてその確認が、現場においては不可能に近いことを、彼は理解していた。近隣の村に据えられた迫撃砲陣地、その加害範囲の民間人の不在確認を、ダニエルは切り捨てたのだ。

 

 そうでなければ、部隊が全滅する恐れがあった。そして本来、下士官であり分隊長に過ぎないダニエルではなく、その判断は小隊長が行うべきだったが、若い士官は最初の攻撃で機関銃によって粉砕されていた。

 

 結果として、迫撃砲陣地の殲滅には成功した。近隣の基地に配置されていた155ミリは人と砲をまとめて吹き飛ばし、原型を留めぬガラクタか肉塊に変えたのだ。その周囲で、民家に隠れていた――すなわち、射撃班の偵察で発見できなかった――多数の民間人もろともに。

 

 そして彼はその結果と、それに対して下された処分を受け入れた。彼の選択は明確に禁止項目を踏み越え、その上で民間人を多数死に追いやったからだ。

 

 ダニエルとその部隊が置かれた状況は、早急な敵砲火力の無力化以外に生存の可能性のない過酷なものだった。そしてそれを実施するためには、民間人の有無の確認を行う時間も人員も存在しなかった。そしてよしんばそれを行えたとして、民間人が存在した場合、攻撃の許可は下りない。

 

 その上で、ダニエルは砲撃を要請した。民間人の確認が取れていないことを伏せて。そうしなければ生き残ることは不可能であると理解したからだ。

 

 それは自分が生き残るためだったのか、それとも部下を生き残らせるためだったのか。ダニエルは語らなかったが、ヴラッドにとってはどちらであっても、あるいはその両方が理由だったとしても同じことだった。

 

 状況に対する解決策と、それを阻む人命に対するリスクと規則の相反問題はどこにでも潜んでいて、その状況に陥ってしまえば死ぬか責任を負うかの二択だ。潔く部下もろとも死ぬか、被害を生んででもそれを回避するか。理不尽な二択に直面した経験は、ヴラッドにも覚えがあった。

 

 そこに答えはない。どちらであっても、その決定と結末は非難の対象足り得る。

 

「軍曹、まだそこに居ますか」

「どうした」

 

 身の上話を終え、しばらく黙り込んだダニエルが口を開いた。焦点の合わない目をあちこちへ向け、ヴラッドの声に安堵したのかゆっくりと肩の力を抜く。

 

 すでに彼の視力は失われている。ヴラッドはダニエルの汗ばむ手をブランケットの下から出すと、分厚い手のひらを握ってやった。

 

「少し、疲れました」

「休んでくれて構わない。警戒班は配置してある。安心して良い」

「よかった……起きたら、俺もローテに加えてください」

「無理することはない」

「体が軽くなってきました。もう大丈夫です。少し、少しだけ、眠いだけで」

 

 かすれた吐息を交えたダニーの声は弱々しい。彼の意識が濁り始めているのは明白だった。彼の言葉は空元気などではなく、本当に目が覚めれば部隊に復帰できると思っているのだろう。しかし、彼の言う体の軽さが近づきつつある死の気配であることは疑いようがない。

 

「分かった、伍長。明日の朝、起こしに来る。そこで復帰だ」

「ありがとうございます、軍曹」

 

 ダニエルが小さく笑う。握られた手をしっかりと握り返すと、彼は意識を失った。

 

「……そこに、いますか?」

「ここにいる」

 

 しばらくの沈黙。眠りというより気絶に近いそれから目覚めたダニエルに声を返す。かれはそれに安心したように、再び力を抜いて意識を落とす。

 

 それが何度か繰り返された。その間もじわじわとダニエルの血色は失われ、手足の神経が食いつぶされたのか奇妙な痙攣が混ざっていくのを、ヴラッドはただ見つめていた。

 

「……軍曹」

「どうした、ダニー」

「皆を頼みます」

「ああ」

「子供たちを連れて、必ず生き残ってください」

「約束する。それが俺の仕事だ」

「良かった」

 

 少し前まで絶え間なく痙攣していたダニエルの四肢は、今ではピクリとも動かなくなっている。すでに感染の進行は最終段階に至っていた。残っているのは、生命を司る神経系のみだ。

 

 そうかからず、呼吸も止まる。そんな状況にあって、彼は意識の混濁から抜け出したようだった。自分が置かれた状況に再び直面し、ぎこちなく力ない笑みを浮かべた彼は、それきり動かなくなった。

 

 日付変更時刻から程なく、ヴラッドはダニエルを“処置”した。

 

 

 

 

 

 当初の計画より作業進捗は大幅に遅れていた。

 

 それもこれも、地下鉄の路線区画が“ネイルフロッグ”の巣窟となりつつあったからだ。部隊に損害を出さず、退路を確保して四つん這いの化け物をすり抜けるのは簡単な仕事ではない。

 

 しかしマルコフはそれをやり遂げ、目的地での必要物資の回収を順調に終わらせた。

 

 施設全体に散らばる保安職員の遺体を一つずつ調べ、使える弾薬をカートリッジ一個に至るまで見逃さずに回収するのは、労力の割に見返りが少ない。そう思えばこそ気乗りしない任務だったが、彼の当初の予想とは裏腹にそれなり以上の弾薬の回収ができたのは幸運だった。

 

 それもこれも、保安職員らの抵抗が長時間に及ばなかったからだろう。せいぜい接敵から数十秒が限度で、肉薄されて殺されたに違いない。

 

 相手が飛び跳ねるカエルの化け物や、人体を一撃で粉砕する巨人であるのだから、それを無様とは思わなかった。自分にしても、事前知識と心構えなしに挑めば同じように殺されかねない相手だ。

 

 そうなれば、自分の弾薬と装備も誰かが拾っていくのだろう。であるからして、そこに不満はない。戦えなくなった人間の火器弾薬は、それを必要とする人間の手に渡るべきだ。

 

「弾薬の回収、終了しました。移動できます」

 

 かき集めた弾薬を詰めたボストンバッグを背負い直すと、チャベスが自分の分のバッグを背負って近寄ってくる。チャベスはヴラッドの分隊の人員だったが、ヴラッドがノーマッドを連れて出てからはマルコフのもとに配置されている。

 

 態度は悪く利己的だが、少なくとも生きるために必要な弾薬の回収に関しては熱心だった。最低限のしごとをするのであれば、マルコフはいちいち細かいことを言わないようにしている。

 

 そもそも、こんな状況で他人の命を気にかけ、責任という理不尽な重みにまっすぐ向き合える人間は多くない。そして、それができる人間は真人間であったとしても何かしらの破綻を抱えているものだ。それを疎ましいとは思わないが、下につける分には並の人間であるほうが扱いやすい。

 

 そしてそれは、上に付く人間にも言えることだ。少なくともチャベスにとり、必要だからと危険を迷いなく選び取るヴラッドの指揮下よりは、最終的には生存を優先するマルコフの下で働くほうが収まりが良い。マルコフにしてもヴラッドを上司とするのは骨が折れるだろうなと感じていた。

 

 その点で、ノーマッドに破綻がないのは、あそこに居る人間が根っからの戦闘員だからだろう。

 

「了解。休憩はあと五分で切り上げ、帰路につく。他に報告は?」

「弾薬、資機材爆薬、すべて十分です。五分、伝達します」

 

 チャベスの報告に、マルコフは鷹揚にうなずいてみせた。

 

 それを会話終了の合図と心得ているチャベスが、ちらりと視線を横に投げ、僅かに眉を寄せて立ち去る。

 

 その意味を問うまでもない。最後の休止地点である地下施設の物資搬入口、その出入り口である隔壁は酷い有様だったからだ。

 

 ヴラッドらがタイラントと交戦したことは、報告で受けている。しかしコンテナの直撃を受けて歪み開閉不能となったはずの隔壁には、大きな風穴が開いている。

 

 内側からひしゃげ、外に向かってめくれた最後の隔壁は、報告にはなかったものだ。当たり前の話だろう。隔壁の穴は、ヴラッドらが脱出したあとに開けられたものだからだ。

 

 マルコフがそこに確信を持っているのは、あるべきものが存在しなかったからだ。

 

 ヴラッドらが仕留めたはずのタイラントの遺体は、黒ずんだ大量の血痕を残して消え失せていた。

 




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