Compass (広田シヘイ)
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第一話『帰る場所』

 

 

 

 

 カンカンカン──と打鐘(だしょう)の音が場内に響き渡る。

 レースのペースと同調するように観客席の熱気も増していく。歓声の中に怒号や脈絡のない奇声が入り混じったカオスな空間だったが、この場に飲まれてはいけない。周囲の親父達と多分同じだろうが、僕も生活が懸かっているのだ。

 不安が募り、僕は肩車をしていた雪風(ゆきかぜ)に問う。

「雪風、一番車は何処(どこ)だ!」

 僕の肩の上で双眼鏡を覗く雪風は元気よく返答した。

「後方、三番手です!」

「間に合うのかよッ」

「絶対、大丈夫です! ほら、しれぇ! 来ました!」

 最終周回の二コーナーを抜けてバックストレッチに差し掛かったところで、白色の一番車が追い上げを見せていた。

「来た、来たっ! いけぇそのままぁ!」

 乳酸蓄積の限界を超えて選手達が最後の力を振り絞る。三四コーナーを回って、観客の様々な感情を乗せた歓声に包まれながら、外側を(まく)った一番車が一着でゴールラインを通過した。

「や、やった雪風ぇ! やったぁ! に、二着はッ? 二着はどうなったッ」

「オレンジです!」

「1―7! 二車単も当たった! よくやった雪風!」

「幸運の女神のキスを感じちゃいます!」

 今夜は高級和牛のステーキだ、と二人で飛び跳ねて歓喜していたところ、右手に持っていた車券を何者かに抜き取られる。咄嗟(とっさ)にそちらを振り向いた。

 そこにいたのは泥棒ではなく、瞳の奥に強烈な怒りを滲ませた軽巡洋艦、大淀(おおよど)だった。

「お、大淀」

「何をなさっているんですか」

 スリではなかったと安心したのも(つか)()だった。

「な、何って見て判らないか。け、競輪だ。ここは競輪場なんだからな」

「そんなことは解っています」

 右手の人差し指と中指に挟んだ車券を一瞥(いちべつ)して大淀は言う。

「当たったんですね」

「そうだ。返すんだ」

 手を伸ばすと、大淀はひょいと車券を遠ざける。

「誰が購入したんですか?」

「無論、僕だ」

 大淀、それ以上は追及するな。

「質問が悪かったですね。この番号を選ばれたのは、どなたですか?」

「それも無論──」

「雪風です!」

 僕は顔を手で覆う。肩に振動が来たから、多分手をあげて元気に答えたんだろうな。

「そう、雪風が選んだのね」

「司令がカラフルな新聞を見せてくれて、雪風はどれがいいと思う? って聞いたんです。だから、雪風は白とオレンジがいいですって答えました!」

「提督──」

 

 大淀が一歩こちらに近づいたような気がして、恐る恐る顔を上げる。

 笑顔が怖い。

 

「大淀、違うんだ」

「何が違うのですか? 艦隊の指揮を放り投げて鎮守府を留守にした挙句(あげく)、駆逐艦一隻を無断で連れ去り賭け事の予想に利用したんですよね? お金に目が(くら)んだんですよね? 幸運艦の幸運を世界平和でなく自分の財布を温めるために利用したんですよね?」

「な、何てことを言うんだ。張り詰めてばかりじゃ保たないだろう。息抜きだよ、息抜き。雪風の社会見学も兼ねての──だ」

 自分で言っていて苦しいのは解っている。

「抜き過ぎじゃないです? まぁ、いいです。そういうことでしたら、これはもういらないですよね?」

 車券を両手で掴んで大淀は深海棲艦(しんかいせいかん)みたいなことを言った。

「な、何を」

「本気ですよ?」

 

 神よ。

 

 身体が勝手に反応して、僕は大淀の両手を咄嗟に包み込んだ。傍目から見ればプロポーズか何かに見えるかもしれないが、実際の現場にはロマンの欠片もない。

 というか肩に雪風乗ってるし。

「大淀、確かに僕は悪い指揮官だ。君には苦労ばかりかけたしこれからもかけるだろう。でも、人っていうのは反省することが出来る。変わることが出来るんだよ。約束する、二度と仕事はサボらない」

 わざわざ改まって誓うことではない。

「そうですか。嬉しいです」

 そう言う大淀の手に力が入る。僕も大淀の手を強く握りしめた。

「やめるんだ大淀。憎しみは何も生まないというかそれ幾価(いくら)になるか解ってるのか!」

「知りたくもないです!」

 このままでは大淀の暴挙を止められない。

 混乱した僕は、多分状況の思いつくままに言葉を吐いた。

「大淀、愛してる」

 大淀がハッとして赤くなる。

「て、提督、何を。ふ、巫山戯(ふざけ)ているのでしたら」

「巫山戯てなんかいないよ! 僕は君が──君のことが好きなんだ! 君のような美しい女性が車券を破くところなんて、見たくない」

 どんな女性でも見たくない。

 自分でも何を言っているのか判らなくなっていたのだが、なんだか大淀は目を潤ませているし効果はあったようだ。一縷の望みが繋がったと思ったその時。

「しれぇ。司令が好きな人って、翔鶴(しょうかく)さんじゃありませんでした?」

 肩の上の幸運の悪魔。

「この前も翔鶴さんのこと見て綺麗だなーって呟いてましたよね?」

 大淀が俯いて表情が読み取れなくなる。

 これはいけない。

「や、やめて」

「て、提督の──」

「やめてぇッ!」

「提督のバカぁ!」

 

 僕の希望は、僕の両の手の中で散っていった。

 鬼、悪魔、深海棲艦──。

 そう叫んで、僕は人目も(はばか)らずに声を上げて泣いた。

 

 

 ※

 

 

 大淀の運転するワーゲンが、薄暮の国道をとろとろと走行していた。

 海岸沿いを走るこの国道は片側一車線で、時間帯の影響なのかガソリンの供給量が制限されている昨今には珍しく渋滞していた。

 僕は助手席に座って窓の向こうの水平線を眺めている。

 左側の運転席は怖くて見られない。乗車してから一言も会話していないし、時折ハンドルを指で叩く音が聞こえてくる。競輪サボタージュと渋滞の相乗効果で大淀の怒りも倍増しているようだ。

 ラジオから流れるニュースが、原油価格のさらなる高騰を伝えている。

 張り詰めた車内の空気に息が詰まりそうで、僕はたまらず溜息を吐いた。

「司令、溜息なんて吐いてると幸せが逃げちゃいますよ?」

 ワーゲンの狭い後部座席で雪風が言った。

「僕の幸せはとっくに逃げちゃったから関係ないさ」

「私への当て付けですか」

「給料の数ヶ月分が目の前で破かれたんだ。そりゃ意気銷沈もするよ」

「鎮守府の司令長官が勤務中に競輪なんて、それは意気銷沈どころじゃないです」

 大淀の低めに抑えられた声音に萎縮する。

 なんせ大淀の言っていることは正しすぎるし。

 それは解ってるし。

「提督」

 呼びかけられ、観念して大淀の方を向く。

 その顔は怒っているというより、少し悲しんでいるように見えた。

「提督が着任されてからもうすぐで二ヶ月になるんですよ。私達の指揮官としてもう少し自覚を持って頂きたいです。それとも、矢張(やは)り現在の御立場に──不満を抱いてらっしゃるのでしょうか?」

「いや、そういう訳じゃない」

 再び、窓の外を向く。

「ただ、僕でいいのかなってさ、不安になるんだよね。ものすごく」

 提督、なんて柄じゃない。

 だって二ヶ月前まで、僕はうだつの上がらないただの大学生だったんだから。

 

 

 ──二ヶ月前。

 僕は、バイト帰りの海岸通りで鈍々(のろのろ)と自転車を漕いでいた。

 

 

 当時は毎日憂鬱な日々を過ごしていたから、多分その日も相当に憂鬱だったと思う。

 周りはやりたいことを見つけてそれぞれの道に邁進する中で、気づけば大学七年生になりバイト漬けの毎日だった。卒業するには単位を取るしかないのだが、生活するにはバイトをするしかなく、自分が何をやっているのかも解らなくなっていた。

 今は深海棲艦の影響による全世界的な不況で就職難だから中退する勇気も持てず、かと言って卒業してもまともな職に有り付けるか怪しい状況で(というか僕は確実に無理だったと思うのだが)、八方塞がりの鬱屈とした日常を過ごしていたのである。

 

 日の沈み切らない微妙な時間でライトを点けようか逡巡していた時、ふと砂浜に倒れている人影が見えた。

 

 僕はあまりのことに数秒放心していたのだが、やがて正気を取り戻し自転車を放り投げてその人影に駆け寄った。

 倒れていたのは、不思議な格好をした少女だった。

 一目見て判ったのは大きな双眼鏡くらいで、背負っているものはリュックではなさそうだし、肩のベルトからぶら下がっているものは変わった銃というかなんというか。

 とにかく怪しさは満点だった。

 しかし今は怪しいかどうかは関係ないし、下も脱げていたから(当時はそれがワンピースだなんて思わなかった)溺れたのだろうと判断し、上着をその少女の腰にかけて救急車を手配しようとしたその時──。

 

「し、しれぇ」

 少女は半眼の状態で、僕を見てそう言った。

 

 意識があることに内心安堵しつつも、少女の言葉の意味は解らなかった。

「大丈夫かい? 今、救急車を呼ぶから」

「に、逃げなくちゃ」

 逃げなくちゃ、と明瞭にそう聞こえたのだが、それを無視して携帯を取り出す。

 するとその手を少女に掴まれた。

「雪風は、逃げなくちゃいけません。しれ──いえ、お兄さんも逃げてください」

 そう言って少女は立ち上がろうとしたので、僕は咄嗟に肩を押さえた。

「まだ動かない方がいいよ海で溺れたんだろう。すぐに病院で治療を──」

「雪風は沈みませんっ! 座礁して燃料切れしただけです!」

 その言葉の処理に、僕の脳味噌は数秒を費やした。

 

 ──ザショウしてネンリョウギレ。

 

 ザショウ、はまだ「挫傷」に変換出来たのだが、ネンリョウギレ、はもう完全に「燃料切れ」だ。今の若い子達はお腹が空いたことを燃料切れと言うのだろうか、などと考えていると、少女は僕の手を振り切って立ち上がり、見事な敬礼をして僕に言った。

陽炎(かげろう)型駆逐艦八番艦、雪風です! どうぞよろしくお願いします!」

 そして僕の脳味噌は、理解することを放棄した。

 取り敢えず「雪風」が名前なのだろう。

「あっ、うん」

 返事になってない返事をしつつ色々な疑問が湧いたのだが、とにかく敬礼をする雪風に付着していた砂粒が気になってそれを払う。

「有難うございます!」

「畏まらなくていいよ」

 そう言うと快活に返事をして雪風は敬礼を解いた。

「元気は元気なんだね」

「はい元気です! ただ、少しお腹が空いてます!」

 面白い子だな。

「そう、良かった。親御さんとかに連絡しなくて大丈夫かい?」

 僕は彼女を家出少女と結論付けた。結果的にその推論は当たらずと(いえど)も遠からずといったところだったのだが、神ならぬ身の大学生に入り組んだ複雑な事情など想像出来る(はず)もない。

 思春期に親への反抗心が芽生えるのは当然のことだし、せっかく意志を持って家出を決断した少女を無理矢理家へ帰すことはなんとなく憚られたので、家出少女に出会ってしまった善良な市民として一応の確認を取っただけだ。

 もしかしたら危険な目に遭うかもしれないが、それは家出の当然のリスクであるし、そうやって人生なるものを学んでいくのだと思う。冷たいのかもしれないが、僕にとってそれが自然な考え方だった。

 それにこの提案を雪風はどうせ拒否するだろうと踏んでいたのだが、その反応は僕の思っていたものとは少し違った。

「それはやめてください! 雪風、解体されちゃいます!」

 

 ──カイタイ。

 

 解体、くらいしか思い浮かばないのだが、他にそういう熟語でもあるのだろうか。

 言っていることは理解出来ないのだが反応はマトモというか。解り難い表現ではあるが、おかしな子ではあるがその実全くおかしな子ではない、のである。

 正直、親には連絡しないでください、そうですかでは気をつけて、の流れで華麗に立ち去る魂胆だったのでどうしようか非常に悩む。

 

 

 あまり他人には興味を持ちたくない。

 そのうち自分にも興味を持ってしまうから。

 自分に興味を持ってしまうと、絶望するしかないから。

 だから、他人とは関わり合いたくない。

 

 

 やめておけ、引き返せ、ともう一人の自分が(ささや)く。

 しかし何故か、雪風は放っておけない気がした。

「カイタイ、って何?」

「雪風がバラバラにされちゃいます」

 雪風の不思議な格好と破茶滅茶な言動が、僕の中で朧げに一つの像を結び始めた。

 あれは、いつのニュースだったか。

「人間で言うと、死んじゃうってことなんです」

 深海棲艦の出現と時を同じくして──。

「その──め、命令を、無視してしまって」

 海上を疾走し、深海棲艦と戦う少女たちが──。

 

 

 一週間くらい前の話だったか。

 

 

「雪風は、皆さんを守りたかっただけなんですけど──」

 〈船員たちの目撃情報が相次いでいますが〉

「鎮守府にいると、大切な仲間たちにも迷惑が掛かってしまうので」

 〈政府や国防省は、その存在を公式に認めてはいません〉

「だから、雪風は逃げなくちゃ駄目なんです! 雪風は──」

 〈救助された船員によると少女は艦の娘と書いて──〉

 

 

「──艦娘(かんむす)なので」

 〈──艦娘、と名乗ったとのことです〉

 

 

 海岸通りが騒々しくなる。

 いくつもの光源が暗くなった通りを覆って、急制動の音が辺りに響き渡った。

「み、見つかっちゃいました! 逃げてください!」

 逃げてください、と言われても。

 正直海を泳ぐしか逃げ道はない。それほどの車の台数だった。

 迫り来る大勢の人影に圧倒されていると、やがて彼らが日本では馴染みのない物騒なものを抱えていることに気がつく。

 それは、小銃(ライフル)だった。

 足が竦んで動けなくなる。そのくせ、僕は雪風を庇うように背後に回した。

 格好つけている場合ではない。

 迷彩服の兵士達を引き連れて、スーツ姿の男が先頭を歩いていた。

 ライトで顔面を直に照らされて、僕は反射的に顔を背ける。

「君は誰だ?」

 神経質そうな鼻に掛かった声だった。

 目を細くして正面を向き直す。視界が焼き付いて、何も見えない。

「まぁ、いい。我々はその少女に用がある。ここからすぐに立ち去れ」

 傍から見れば僕はその相手を睨みつけているように見えていた筈だ。もちろん、急に押しかけてきて即刻の味噌(みそ)(かす)扱いに腹が立っている部分もあったのだが、とにかく視界を回復させたいだけだったし、立ち去れと言われても足が震えて動けない。

 それでも雪風が僕のシャツをくっと掴むものだから、何とか助けになりたいと思う気持ちもあった。

 スーツ姿の男は、大きく溜息を吐いて言った。

「乱暴なことはしたくないのだが」

 乱暴なことはされたくないのだが。

 徐々に回復してきた僕の目に、迷彩服の大男が映し出される。

 恐怖を感じるセンサーが故障したのか、雪風に手を伸ばしたその大男の太い腕を僕は払った。無感情な目で僕を一瞥した後、後ろを振り返ってスーツの男に何らかの確認を取る。

 突如、顔面の右側に強烈な衝撃と激痛を感じて僕はその場に倒れこんだ。

 多分、銃床(ストック)で殴られたのだろう。

「な、何てことをするんですかっ! 大丈夫ですか!」

 僕はあまりの激痛に声をあげることも出来ず、全身を強張らせて油の切れた機械みたいに砂浜の上で身体を(よじ)るだけだった。そうして悶絶していると、胸の辺りを一発、二発と硬いブーツで蹴り上げられる。

 殺されるのかな、と他人事のような感想を抱いていると、

「もうやめてくださいっ!」

 と雪風が僕を庇って覆い被さる。

 雪風はとても温かくて、痛みが急速に和らいでいくのを感じた。

 あぁ、僕にこの子を助けられる力があれば。

 そう思ったその時。

 

 

「いい加減にして頂けませんか」

 

 

 場に似合わぬ、涼やかで凛とした女性の声がした。

 僕を半殺しにした大男の陰から、制服のようなものが風に(なび)くのが見える。落ち着いた声音だったが、まだ少女なのか。

「大淀さんっ!」

 雪風が叫ぶ。その少女は、おおよど──というらしい。

「君こそいい加減にしないか。邪魔はしないという約束だった筈だが」

「手は出さないという約束では?」

「それは君達のお仲間に対しての約束だろう」

「では、今すぐにやめて頂けますか? その方は──」

 男が一歩退いて少女と目が合う。絹のようなさらりとした長い黒髪が印象的な美少女だった。

 

「私達の──提督なので」

 

 

 ──ていとく。

 何のことだ。

 

 

「──何を言っている? 巫山戯ている場合ではないっ!」

 スーツの男が大声を張り上げる。しかし大淀はそれに動じず、

「その方は私達の指揮官だと申し上げています。これ以上の無礼はやめてください」

 と言った。

 数秒の沈黙が、その場を支配した。

「貴様は──貴様は自分が何を言っているのか解ってるのか! もういい! そいつを排除しろ殺しても構わん!」

 大淀は、くいっと眼鏡を上げる。

「私達は提督のご命令がなければ作戦行動をとることが出来ません。雪風があの時、貴方達の命令を無視して民間船の救助に向かったのも、人命優先を第一にという提督の指示があったからです。提督がいなくなってしまうと、深海棲艦には貴方達だけで対処してもらうことになりますが──それでもやります?」

「──私に逆らうんだな」

「提督に従っているだけです」

 男は大淀を睨みつける。

「覚えていろ。必ず後悔する」

 そう言って、スーツの男は兵士たちを連れて去って行った。

 

 何が何だか僕にはよく理解出来なかったのだが、取り敢えず命は助かったようだ。

 安心すると途端に意識が朦朧(もうろう)としてくる。ぼやけた視界にはこちらに歩み寄る大淀が見えた。やがて倒れている僕の傍に両膝をついて、大淀は言った。

「初めまして提督、旗艦大淀、お供致します」

 こうして──僕は提督になった。

 

 

 車は鎮守府の近くまで来ていた。

 あれから二ヶ月経ったのかと、長かったような短かったような不思議な気持ちになる。

 お(かみ)の方では擦った揉んだと色々あったらしいのだが、今僕は国防軍の臨時職員という形で扱われている。一鎮守府を預かる司令官が臨時職員とはなんだか格好がつかないが、この際肩書きなんてどうでもいいのだ。

「あの時さ、何で助けてくれたの? あの男、国防省の情報部の人間だったんでしょ。僕なんかの(ため)に嘘まで吐いて敵に回しちゃって良かったのかな?」

「もう知りませんよ。こんな時に上層部の権力争いに巻き込まれてる場合じゃないです。それに提督は──雪風を助けてくれましたし」

「それだけ?」

「──それだけではいけませんか?」

「雪風もしれえが司令で良かったです!」

「ありがとな」

 後部座席から勢い良く飛び出してきた雪風の頭を撫でる。雪風は目を細めて喜んだ。

「今でも、あの時の判断が間違っていたとは思いませんよ?」

「執務をサボって競輪に行っても?」

「執務をサボって競輪に行ってもです」

 そう言って大淀は表情を和らげる。

「ご不満ですか?」

「いや、あの頃の僕は他人に興味がなかったし自分にも興味がなかった。だけど、今は違う。みんなを見ていたい。みんなのことが大切だからこそ、僕でいいのかなって思ってしまうんだ」

「では、一日も早く私達に見合うような、立派な提督になってください」

 その優しさに、自然と笑みがこぼれる。

「そう──だね。そうかもしれない」

「提督の代わりなんて、いないんですからね」

「司令は今でも立派です! 大淀さんなんて司令のことがすき──」

「雪風っ!」

 大淀が慌てて後ろを振り返り、運転を放棄して雪風の口を塞ぐ。二人は各々必死にジタバタしていたが、僕はより必死にハンドルを支えた。

「大淀っ! そんなことはいいから前を見ろそしてハンドルを握れっ!」

「雪風、それ以上言うと帰ってからお尻叩きますからね!」

「もういいから! それ以前に前の車のお尻叩いちゃうから!」

 やがて大淀は「解ったの? 本当に解ったの?」と数度雪風に確認をとって運転に復帰した。

「危ないよホントに──」

 大淀は何事もなかったかのような顔で前方を見つめているのに対して、雪風は顔を赤くして呼吸を荒くしていた。なんだかその対比が可笑しくて僕は笑う。

「何です?」

「いや、何でもないさ。取り敢えず、早く帰ろうよ」

「何処にですか?」

「ウチに」

 そう言うと、大淀は「はい」と言って微笑んだ。

 

 

 鎮守府に到着すると辺りはもう夜だった。

 有難う、と言って車を降りた後で強制的に連れ戻されたことを思い出し、内心悔しい気分になる。あの数十万円を「勤務中だったのだから」の一言で片付けるのは無理があるだろう。今月まだ二十日も残ってるっていうのに。羽をつけた札束が頭上を飛んでいく漫画のような画を思い浮かべながら庁舎に入る。

 玄関ホールには、多数の艦娘が(たむろ)していた。

 珍しい光景だなと呑気なことを考えていると、全員が僕を見つめていることに気がつく。

 呆れられているのはすぐに判った。

「あ、帰ってきた」

「おっそーい」

 僕が今さら「仕事をサボるということ」の重大さを感じ始めていると、オーケストラのコンマスみたいな位置に立つ加賀(かが)さんが口を開いた。

「秘書艦に車で送り迎え。いい身分ね。提督、私達に何か言うことがあるのではなくて?」

 加賀さんが求めているのは謝罪の言葉なのだろうが、その前に言っておきたい言葉があった。

 

 

「ただいま」

 

 

 僕がそう言うと、加賀さんはきょとんとした。

 そのうち、みんなが笑い出して口々にお帰りなさい、と言う。

 ばーか、クズ、クソ、等の罵言も笑い声に紛れて聞こえてくる。

 自分の適性や能力に自信は持てないが、確かにここは僕の帰る場所だった。

 あぁ、この場所を守らなくちゃと、改めて思う。

「まだ、お仕事は残ってますからね」

 みんなが三々五々(さんさんごご)散っていく中、そう言って大淀は僕を追い越し先に階段を上っていく。

 僕は雪風と顔を見合わせて苦笑し諦めつつ、しかし確かな充足感に包まれながら、ゆっくりと階段の一段目を踏みしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二話『船団護衛井戸端会議』

 

 

 

 

 

 鎮守府、執務室。

 昼食後の強烈な睡魔に耐えながら、僕は只管(ひたすら)書類にサインをしていた。

 正直、内容はあまり頭に入って来ない。この書類の山の中に、借金の連帯保証人だとか憶えのない生命保険の契約書だとかが紛れ込んでいても、僕は多分気付かないだろう。

 まだ、演習や訓練、作戦の報告書は読みやすいし読んでいて楽しい。(いなづま)夕立(ゆうだち)は報告書でも「なのです」と「ぽい」の文体だし、夕張(ゆうばり)明石(あかし)が昨日提出してきたのは「艦娘(かんむす)用次世代近接兵器・二◯(フタマル)穿孔(せんこう)機試作許可願」だった。要は「ドリルで戦いたい」というおバカな提案なのだが、艦娘それぞれの個性が感じられて僕は好きだ(二○年に制式採用されると勝手に決めつけているのもグッドだ)。

 ただ、これが他の組織や役所との手続きに必要な書類となると、もう訳が解らない。

 国防省はもちろん、国土交通省、警察、海上保安庁、市の港湾局から艦娘の立ち寄る諸外国の関係各局まで。もう何が何やらのてんやわんや状態である。

 そんなに大事な書面をよく理解もせずにサインしていいのかと自分でも思うのだが、これらの書類は大淀の審査を経ているから問題はないのだ。以前、僕が英文の書類にサインをしていた時、(かすみ)が「ちゃんと内容を理解してるの?」と聞いてきたので「僕は大淀(おおよど)を信用しているんだよ」と言うと「クズ」と一言だけ返された。

 読んではいるのだ、しっかりと。

 ただ、全く頭に入って来ないのだ。誠に遺憾ながら。

 

 そんな訳で僕は驚くほどに不出来な提督だから、作戦立案や艦隊指揮などは全く出来ない。毎日執務の合間を縫って艦娘たちの講義を受けているのだが「船は右側通行」という基礎的な国際ルールすら最近知った有り様だ。

 作戦と言っても対する深海棲艦(しんかいせいかん)には未だ不明な点が多く、僕たちの練度も相まって攻勢に出るのは無謀な話だろう。現時点では船団護衛と近海警備が主な仕事だが、その作戦の立案や評価は大淀を始めとする有志の艦娘たちに大部分を任せている。

 

 

 その作戦会議が今この執務室、僕の目の前で行われているのだが──。

 

 

「スコーンが焼けたヨー!」

「さすがお姉さま! 今日も美味しそうです!」

翔鶴(しょうかく)姉見て見て! このジャムとクリームつけて食べるんだって!」

「本当、素敵ね。金剛(こんごう)さん、いつも有り難うございます」

「何ですか大淀さん、不知火(しらぬい)に落ち度でも?」

「不知火さん、スコーンがポロポロ落ちてますよ」

 

 

 作戦会議、ねぇ──。

 書類の内容が頭に入って来ないのは、僕の頭の出来が悪いからだということはもちろん認める。しかし、絶対にそれだけじゃない。彼女達にもその責任の一端はある(はず)だ。

 今日の面子は金剛と比叡(ひえい)、五航戦の二人に大淀と不知火の六人らしい。レギュラーは金剛と大淀くらいで、あとはその日によって毎回違う。前回なんかは陽炎(かげろう)型が勢揃いしていて(やかま)しいなんてものじゃなかった。こっちは珍しく真面目に仕事していたのに、舞風(まいかぜ)に踊ろうと手を引っ張られるわ時津風(ときつかぜ)に頭によじ登られるわ萩風(はぎかぜ)に煙草を捨てられるわで「なんて日だッ!」と何回叫んだか判らない。

 大体、執務室だっていうのに。

 執務をしている人間よりお茶をしている人数の方が多いのだから、ここはもう執務室じゃなくてお茶会室だ。そうして作戦会議という名の女子会を怪訝な目で見つめていると、瑞鶴(ずいかく)がこちらを見てニヤリと笑った。

「何、提督さん。羨ましいの? 仲間入りたいんだ」

「是非とも入りたいね。瑞鶴が代わりに仕事してくれるなら」

「仕事って。司令、内容もロクに確認しないでただただサイン書いてるだけじゃないですか」

 比叡は容赦ない。

「司令は大淀さんの操り人形ですから」

 不知火も追加。

「みんな、そんなことを言っては駄目よ。提督は着任されて間もないのによく頑張っているわ。実際、提督が着任されてからここも大分変わったもの」

 翔鶴の言葉に僕は涙腺が軽く緩む。翔鶴はその外貌も相まって女神そのものだ。

「うー、なんか提督が翔鶴に熱い視線を送ってるデース」

「提督は翔鶴さんのことが好きなんですって」

「What!?」

 大淀がもの凄い爆弾をさらりと投下する。そうですよね、とこちらを見る大淀は微笑んではいるが不機嫌だ。秘書艦として毎日一緒に居るだけあって些細な感情の機微は判るようになった。

 

 そうですよね、って。

 いや、そうだけどさ。

 

「いやぁ、好きっていうか──ねぇ?」

 僕の煮え切らない態度に、翔鶴と比叡以外の四人がこちらを睨む。

「な、なんだよ」

「へぇ、提督さん、爆撃されたいんだ」

「何故だ」

「沈め」

「だから何故だ」

 すると、金剛がこちらに歩み寄ってきて、

「執務なんてやめて一緒にティータイムするデース!」

 と僕を無理矢理引っ張る。

 まぁ、理由はどうあれ集中力も切れかけていたし、少し休憩するのもいいのかもしれない。

 何気なく翔鶴の隣に座ろうとすると金剛に加えて大淀に掴まれ阻止される。結局、僕の席は妨害した金剛と大淀の間に落ち着いた。

 対面に座る顔の紅潮した翔鶴と目が合うと、両側から肋に肘鉄を喰らう。呼吸が少し止まったところで、金剛が紅茶を淹れてくれた。

「提督、一応作戦会議なんですから真面目にお願いしますね」

 どの口が言うんだ、大淀。

 解ってるよ、と未だ安定しない呼吸で言って、テーブルに目を落とす。そこにはユニバーサル横メルカトル図法で描かれた世界地図が広がっていた。

「司令、日本は何処か解ってますよね?」

「なめるな比叡」

「では今、何が世界にとって一番の問題になっているか、お判りですか?」

 不知火の鋭い眼光に怯みつつ、僕は恐る恐る太平洋の真ん中を指差す。

「こ、ここだろう?」

 合っててくれと祈りつつ数瞬の間。

「お、わかってんじゃん」

「さすが提督です」

「You got it!」

「皆さんの講義の甲斐がありましたね。ハワイで正解ですよ」

 安堵するのも束の間、僕は暗澹(あんたん)たる気分になる。

 そう──。

 

 

 ハワイは深海棲艦の攻撃によって陥落し、人類からその手を離れていた。

 

 

 ハワイを失うということは、太平洋を失うことと同じだった。

 太平洋は分断され、アメリカと日本を結ぶのは大西洋とインド洋になった。まるで、黒船の時代に逆戻りしたみたいに。

 ハワイに司令部を置き、世界にその威容を誇っていた米太平洋艦隊は、未知なる敵との戦闘によって壊滅的な打撃を受けた。日本の港を母港としていた米第七艦隊の艦艇は全てグアムに移動している。そこに、空母「ロナルド・レーガン」の姿はなかった。

 世界は、まさに危機に瀕していた。

「私がドロップした時にはもうやられちゃってたからなぁ──。ハワイが落ちたのっていつの話だっけ?」

「一昨年の一二月です」

「もう一年半になるんですねぇ」

「光陰アローの如しネ」

「提督、ハワイ奪還の急襲作戦計画書は、ご覧になりましたか?」

 翔鶴が僕に問う。

「見たよ。見たけど──まだ許可する訳にはいかないかな」

「何故ですか、司令」

 不服な顔をして不知火は言った。

 そんな不知火を見て、僕は苦笑する。

「予測される損害を少なく見積もりすぎだよ。僕はとても優秀とは言い難いけどね、それは判るよ。みんなはさ、出来るって聞いても出来ないとは言わないでしょ。作戦を開始するとしても、戦力と練度をもう少し充実させないとね。それを見極めるのが僕の唯一の仕事って言ってもいいんじゃない?」

 一同が意外そうに僕を見た。

「あはは、司令が一丁前に司令みたいなこと言ってます!」

「紛うことなく司令なんだよ!」

「階級ないですけどね」

「臨時職員サンですもんネー」

 そう言って金剛が僕の頭を撫でる。

 僕が何も言い返せないでいると、金剛は余計上機嫌になって微笑んだ。

「そうですか。私達も提督に認めてもらえるように頑張らなくてはいけませんね」

「提督さん、そういえばさ、大学ってどうしたの?」

「やめたよ。通えないし」

「休学でも良かったんじゃないの? もったいないじゃん」

「僕なりに思うところがあったの。向こうの世界に戻るつもりはないよ」

 必要とされる限りね、と僕が補足すると、

 

「逃さないし」

「逃がしませんよ」

「逃げられないですよ」

「逃さないネ!」

「逃がしません」

「逃がしませんけどね」

 

 と輪唱のように返ってくる。

 僕らは数秒の間、互いに目を合わせてから一斉に笑った。

 多少ゾワっと背筋に悪寒のようなものが走ったが、それは言わないでおいた方がいいだろう。

「さてと、そろそろ仕事の話しようか」

 僕が仕切り直すと、大淀は微笑んではい、と言った。

「来週の、シンガポール往路復路のメンバー決めだよね?」

「まずは、ね」

 僕たちは週二回、シンガポールまでの往路をルートA、復路をルートBとして、輸送船団の護衛艦隊を派遣している。護衛艦隊は通常四名からなり、駆逐隊がそのまま艦隊に適用されることもあるが、軽空母などの航空戦力が含まれていることが望ましい。

 

 

 ──望ましいのだが。

 これが中々難しい。

 

 

 シンガポールまで掛かる日数が、何事もなく順調にいって大体七日。週二回、往路復路で計十六名の人員を必要とし、ひと月では六四名になる。現在、鎮守府には一○九名の艦娘が在籍しているが、他の任務や訓練、休養などを考えると結構カツカツだったりする。

 上からは派遣の回数を増やせ、ペルシア湾まで護衛しろなどと煩瑣(うるさ)く言われているのだが、マラッカ海峡を抜けると深海棲艦の出現率もゼロではないが極端に下がるし、国防海軍で十分に対処可能な脅威だと考えているので、そういった要請は丁重にお断りしている。

 とにかく、問題は太平洋だった。

「順番で言えば十六駆、三十駆、祥鳳(しょうほう)隊に瑞鳳(ずいほう)隊ですよね」

「前回の祥鳳隊と瑞鳳隊のメンバーは誰デースか?」

「祥鳳隊が長良(ながら)深雪(みゆき)初雪(はつゆき)。瑞鳳隊が古鷹(ふるたか)吹雪(ふぶき)白雪(しらゆき)です」

「あのさ、古鷹に代えてこの前来た()──はまだ早いか」

叢雲(むらくも)さんですか?」

 そう、あの矢鱈(やたら)と気の強い娘。

「不知火はどう思う?」

「筋はいいですし、出来ないことはないと思います」

 出来ないことはない、か。

 不知火がこうして婉曲的な表現をするということは、多分まだ早いのだろう。

「提督、叢雲さんは着任して三週間と少しです。まだ無理をする時期でもありませんし」

「そう──だね。メンバーは変えないで行こうか」

 フォローをしてくれた大淀に微笑んでお礼の合図をする。

「では、月曜日出発が十六駆と三十駆。木曜日出発が祥鳳隊と瑞鳳隊でいいですね?」

「うん、ルートAとBは前回と入れ替えてね」

「了解しました」

 

 一仕事を終えたと、紅茶を口にしつつソファに身体を預ける。ふと、先ほど瑞鶴が言っていた「まずは、ね」という言葉を思い出した。僕は眉を(ひそ)めて問う。

 

「もしかして、まだ何かあるの?」

「Route C の話デース」

「ルートC?」

 対面に座る翔鶴が困ったように笑う。

「提督には、書面で(まと)めてからと思っていたのですけど──」

「いい機会なんだから一緒に聞いてもらおうよ」

 そうですね、と言って大淀は眼鏡を指で持ち上げた。

 

「国防省から打診がありまして、オーストラリアと我が国の輸送航路を艦隊で護衛する作戦を検討するように、と」

 

 オーストラリア。

 ルートCとはそういうことか。

「それって──自動的にルートDも増えない?」

「増えます」

 不知火が即答する。

「まさか東海岸のこと言ってるんじゃないだろうね」

「それも含めて検討ってことなんでしょうけど──。司令、それはさすがに現実的じゃないです」

 オーストラリアの東側を回り珊瑚海、ソロモン海を抜けて太平洋を突っ切る航路は、深海棲艦と遭遇する確率が非常に高い「ホットスポット」を常に航行しなければならず、輸送船団にとっては自殺行為に等しい。地雷原でフットボールをするようなものだ。

「そうだよねぇ。あれ、今はオーストラリアの船もシンガポール中継してなかった?」

「その通りデース。なので、上が言いたいのはシンガポール・オーストラリア間もエスコートしなさいってことだと思いマース」

「えぇ──。出来ることならしたいけどさぁ」

 こちらにもキャパシティの限界というものがある。最近なんとなく思うのだが、国防省は艦娘を超人か何かと勘違いしてやいないか。

 いや、確かに人とは懸け離れた能力を有してはいる。

 世界でも抜きん出た戦力を誇る米海軍が敵わなかった相手に対抗しているのだ。彼女達の持つ力は計り知れないものがあるし、人類の命運は彼女達の双肩にかかっていると言っても過言ではない。

 過言ではないのだが。

 艦娘だって疲労するし、思い悩むことだってある。鎮守府で姉妹艦や仲の良い艦と談笑している姿は、年頃の少女と何ら変わりはない。

「提督、不可能ではないですよ?」

 怪訝な顔をする僕を覗き込んで大淀は言う。

「非番や訓練を削って、護衛艦隊の員数を四名から三名に減らせば、十分に」

「三人に?」

「提督さん、今は二・二で分かれて二交替制でしょ? 三人の場合は、八時間ずつで割って一人が休んで二人がお仕事」

 何気なく不知火を見ると、

「出来ます」

 と明瞭な返事が返ってくる。

 僕は唸りながら身を乗り出して、髪の毛を掻き毟り地図を凝視した。

 

 

 世界が大変なのは解る。

 日本は特に資源のほぼ全てを外国からの輸入に頼っているし、僕達が新たに護衛艦隊を派遣することで輸送船団の安全性も確実に上がるだろう。それによってどれだけ多くの人が恩恵を受けるのか想像もつかないほどだ。

 軍艦は海上を疾走する人型の脅威と相対することを念頭に造られていない。

 深海棲艦が出現してから幾つの艦が沈んだ?

 幾つの生命が散っていった?

 僕達がやらなければ、犠牲は何処までも──。

 

 

 ──しかし。

 

 

「大淀、返答の期限はいつ?」

「今月中に草案を纏めるように、と」

「人員が不足しているために不可能、と回答しておいて」

「テートク──」

 金剛が意外そうな顔をして呟くように言った。

「みんなが出来ることは解るし、決を採ってみたらやる、っていう娘が多いのも解るんだけどね。さっきの大淀の言葉じゃないけど、今はまだ無理をする時期じゃないよ」

「無理ではありませんが」

「不知火が船団護衛から帰って来た時の報告中に、疲れてここのソファで寝ちゃったこと僕は忘れないからね」

 隙を見せない不知火に珍しく、隙だらけの無防備な寝顔は妙に穏やかで可愛かった。

 不知火は目線をそらして俯く。多分、少し顔が紅い。

「それにさ、緊急事態に対応出来る人数も確実に減っちゃうし、何より最近北方海域が気になってて。米軍の緊急発進(スクランブル)が妙に増えてるんだよ」

「あ、それニュースで見ました。アラスカで米空軍が敵機を撃墜したって」

「あれ偵察機でしょ。ここ二週間アリューシャン列島付近をやけにウロチョロしてる。陽動にしても何にしても、近く何かあるよ」

 再び不知火に目をやると、まだ俯いたままだった。

「──不満かな?」

 と聞くと、不知火はゆっくりと顔を上げ、僕の目を真っ直ぐ見つめながら、

「いえ、全く。私たちは司令の決定に従うだけですから」

 と言った。

 正面では翔鶴も微笑みながら頷く。

「よし、じゃあこれでお終いでいいかな。まだ何かある?」

「提督さん、何か提督さんじゃないみたい──」

「何でだよ」

「主体性ゼロだと思ってた」

 瑞鶴の失礼極まりない感想に僕は苦笑するしかなかった。

 だってその通りだったし。

「確かに、競輪場で大淀に強制連行されてから司令変わりましたよね。何かあったんですか?」

「あぁ、大金が夢と消えたよね」

「そんなお金、提督のためにならないんですから」

 だからあれ幾価(いくら)になったと思ってるんだ!

 もちろん、大淀が怖いのでそんなことは言わない。思うだけ。

 僕は忘れかけていた怒りが頭をもたげてくる前に話題を変えた。

「そういえば、十六駆だと雪風(ゆきかぜ)か。そっか──来週から一週間雪風と会えないのか」

 駆逐艦に限らず鎮守府は可愛らしい少女ばかりなのだが、その中でも雪風は特別な存在だ。初めて出会った艦娘で自分が提督になる契機(きっかけ)だったし、何より、雪風には女の子であるということを意識せずに接することが出来る。

 

 

 これが実は重要だ。

 

 

 これだけ女性に囲まれた環境に身を置いておきながら未だに慣れない。以前よりは多少マシになったのだろうが、今でも話しかける時などは心の中で「よし」というひと踏ん張りが必要だった。

 先ほども金剛に手を握られて引っ張られたり頭を撫でられたりしていたが、実は内心気が気ではない。そういう時に僕が困ったようで不機嫌そうな表情になるのは、どう反応していいのか判らずに脳がフリーズしているからだ。

 大淀にもそれでよく怒られる。ミスしたりサボったりした僕を叱る時の大淀は、普段にも増して距離が近かったりする。それでたまらず目を逸らして俯くと、下から覗き込まれて「聞いてるんですか!」の追撃だ。

 この破壊力が凄まじい。

 何度、お前はどれだけ自分が可愛いのか解ってるのか! と思いの(たけ)をぶち撒けそうになったか判らない。

 その意味で、性別を超越して可愛い雪風は僕のオアシスだった。

「うー、私達じゃ不満なのデスか?」

「いや、不満とかそういうんじゃなくて」

「ロリコンとは不潔ですね、司令」

「提督さんサイテー」

「提督──私のこと、好きって──」

 もう説明が面倒くさいというか何というか。説明を始めると僕が普段から彼女達のことをどういう目で見ているのかカミングアウトしてしまうことになるし、それだったらロリコンと思われている方がマシかもしれない。

「比叡、何とか言ってやって」

「私は──司令がロリコンでも付いていきますよ」

 小声で比叡は言う。信頼は嬉しいが、その気の遣い方は違うぞ、比叡。

 とりあえず「僕ロリコン説」は否定しても仕方がないような状況と思えたので開き直ることに決めた。

「はいはいそうそう、僕は雪風が大好きで大好きで仕方ないロリコンさんなの。雪風と僕は特別な絆で結ばれているのさ。──んじゃ、サインを書くだけの簡単なお仕事に戻ろうかな」

 そう言って立ち上がり数歩進むと、背後から異様な空気が漂ってくる。

 嫌な予感だけを抱えて僕は振り返った。

 

 

「特別な絆とは、一体何でしょうか」

 

 

 全く感情の読めない大淀が、そこに立っていた。比叡以外の四人もゆっくりと立ち上がる。比叡は周りをキョロキョロと見た後、多分他の者とは違う興味で元気に立ち上がった。

「あ、いや、それはさ」

「本格的に爆撃しなくちゃ──ね」

 僕は扉の位置を確認して慎重に歩を進める。

「あはは、いやいや、口が滑ったというか何と言うか──雪風一人を特別扱いしてる訳じゃなくてね。もう、みんなったらそんな怖い顔しないでよ。あ、ちょっとお手洗い行ってこようかなぁ──」

「一緒に行くネ」

「あはは──連れションって女の子と行くもんじゃないからさ──」

「提督、私達は提督が思っているほど、純粋で綺麗な心を持っている訳ではないんですよ?」

 蠱惑(こわく)的な翔鶴の微笑は胸にくるものがあったが、今はそれに気を取られている場合ではない。多分、僕の生死がかかっている。

 大淀が一歩前に出る。

「提督、特別な絆、私も結びますよ?」

 あ、これは──。

「強制的に」

 ──非常に危険なパターンだ。

 

 

 僕はほぼ体当たりのような形で扉を開け廊下に飛び出す。ちょうど執務室前を満潮(みちしお)大潮(おおしお)が歩いていたようだった。

「司令官、ちょっと何してんのよ!」

「アゲアゲじゃないですかー!」

 アゲアゲなもんか。

 僕が脇目も振らずに走り出すと、満潮と大潮も何故か付いてくる。

「廊下なんか走ってみっともないわよ! せ、説明しなさいよッ!」

「常に全力疾走、いいですね! うわっ、後ろからウチの主力たちもアゲアゲです!」

「何よアレ!」

 僕だって判らないんだよ!

 階段を四段くらい飛ばしながら高速で駆け下りる。いつ捕まるのか、捕まれば何をされるのかという恐怖と闘いながら、玄関まで到達し庁舎から脱出する。

「司令官! どうされたのですか!」

「あらぁー、楽しそうねぇ」

 庁舎前にいた朝潮(あさしお)荒潮(あらしお)も付いてくる。

 何故付いてくるんだ。傍目には朝潮型四人を引き連れて駆けっこをしているようにも見えるのかもしれない。そんなの、ロリコン説を補強するだけじゃないか。

「ヤバイわよ! もう捕まる!」

「こんなにアゲアゲなの久し振りです!」

「司令官! 大淀さんの目が怖いです何があったのですか! 距離一○メートルです!」

「うふふふふふっ。あはははははっ」

 僕もいっそアゲアゲで笑ってしまおうか、などと考えているうちに後頭部に衝撃を受けて全力疾走から転倒する。

 天地がひっくり返って、周囲の景色や音が急速に遠ざかるのを感じた。

 意識が朦朧とする中、耳許で、

「だから、逃さないって言ったじゃないですか」

 という大淀の涼やかな声がした。

 

 まぁ、そうか。

 逃げられないよなぁ──。

 

 

 全てを観念すると同時に、僕の世界は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三話『レーダー・コンタクト』

 

 

 

 

 浮ついているのだと思う。

 即興の鼻歌を奏でながら階段を上り、踊り場に軽く跳ねて着地する。こういった時は何か手痛いしっぺ返しがあると僕の薄っぺらい人生経験は告げているのだが、どうしても高揚する気分を抑えられない。それに、何がどうなるか判らない未来を警戒して平静を装うくらいなら、感情を素直に発露している方が健康的であるように思えた。

 そのうちに二階へと到達し、客観的視点を保つもう一人の自分を無視して食堂に入る。

 午後三時の食堂は、放課後の教室のように閑散としていた。

 その食堂の中で、ぽつねんと窓際の席に座るサイドテールを見つけて、僕の気分はより一層高揚した。

 一刻も早く、この喜びを共有したい。

「あら提督、いらっしゃいませ。今日のお昼は遅いんですね」

 厨房から間宮(まみや)さんが顔を出していた。間宮さんは、この鎮守府で最も重要な人物と言っても過言ではない。何故なら、間宮さんが食事の提供を停止した途端に鎮守府は崩壊する。

 ちなみに、提督である僕はヒエラルキー的に相当下だ。

「こんにちは間宮さん。少し片付けないといけない案件があってね。オムライス、お願いします」

「はい、承りました。席までお持ちしますから座って待っていてくださいね」

「ありがとう。間宮さん、今日も綺麗だね」

 まぁ、と言って間宮さんは顔を紅潮させた。

 

 

 浮ついている、と矢張(やは)り思う。

 

 

 間宮さんが今日も綺麗なのは事実だが、この手の気障(きざ)科白(セリフ)が似合う男では全くないし、恥ずかしくて今まで言ったこともない。

 どうかしていると思いつつ、逆さまに置いてある洗浄済みのグラスを手に取り、給水機で水をそそぐ。(あふ)れそうになった分を口に含んで、窓際のサイドテールへと歩みを進めた。

 席に到着するや否や、対面の椅子を引いて有無を言わさずに僕は言う。

「こんにちは加賀(かが)さん。ここ、いいかな?」

 加賀さんは目を丸くしていたが、やがて微細に表情を和らげた。

「珍しいこともあるのね。もちろん構わないわ。おはようございます、提督」

「おはようございます? あ、そっか。今朝帰投したばかりだったね。今まで寝てたの?」

「さっき起きたばかりよ」

 アジの塩焼き定食に箸をつけて加賀さんは言う。

「そっか、お疲れ様です。さっきまで寝てたのなら──聞いてないでしょ」

「──何のことかしら」

 僕は身を乗り出して(はや)る気持ちを抑えるように小声で言った。

「正午前に雪風(ゆきかぜ)達十六駆から連絡があってね、南シナ海で空母、飛龍(ひりゅう)蒼龍(そうりゅう)と思われる両名を保護、だってさ」

 加賀さんは、僕と目を合わせてからゆっくりと窓の外へ視線を動かす。

「そう、あの二人も──」

 その顔には何故か寂しさのようなものが感じられて、僕は何かしくじってしまったかと不安になる。

「あれ、あんま嬉しくない? 二航戦の二人は加賀さんとも関係が深いみたいだし、喜んでくれると思ったんだけど──」

「あ、いえ──誤解しないで。二人が帰って来ることはとても嬉しく感じているわ。感情表現が下手なの、知っているでしょう?」

 加賀さんの微笑に僕は安堵する。

「そか、良かった。それにしても空母二人だよ。珍しいよねぇ。加賀さんの負担も軽く出来そうだし、いいこともあるもんだなぁ」

 現在、鎮守府に在籍している正規空母は翔鶴(しょうかく)瑞鶴(ずいかく)、加賀さんの三人だけだ。航空戦力は常に不足しているから、この三人にかかる負担は大きなものだった。

「妙に機嫌がいいと思ったらそういうことだったのね。新しい娘が来た時はいつもそう。大淀(おおよど)()くのも無理ないわ」

「何で大淀が出てくるのさ」

 そう言うと、加賀さんは呆れたような視線をこちらに向ける。

 

 確かに、浮かれているのは自覚している。

 

 僕が提督になってから新たに着任したのは、木曾(きそ)()58(ごじゅうはち)伊勢(いせ)村雨(むらさめ)那智(なち)叢雲(むらくも)の六名だが、その度に舞い上がっていたのは事実だ。叢雲から少し間が空いたとはいえ、鎮守府の長たる提督が新しい娘に(うつつ)を抜かしているのは、以前から鎮守府を支えて来た艦娘達にとってはあまり面白くないことなのかもしれない。

「そ、それよりさ、飛龍と蒼龍ってどんな娘なの? 一応、無線で少し話はしたんだけど──」

 僕は話を戻す。

「そうね、優秀な子達であることは間違いないわ。戦いの中でお互いをカバーし合える理想的な二人よ。普段は、落ち着かないところもあるけれど」

「加賀さんも他人を褒めるんだ──」

「私をどういう女だと思っているのかしら」

「いやぁ、翔鶴と瑞鶴に厳しく接してる加賀さんしか見たことないからさ」

 加賀さんは箸を咥えて僕をじっと見た。

「それは──期待の裏返しです。心外だわ」

「期待、してたんだ」

「当然です。あの子達は私なんかとっくに超えていなければならない存在よ」

 その言葉は正直に言って意外だった。

 加賀さんと五航戦、特に瑞鶴との関係は、こちらから見ていても時折ヒヤリとするような場面もあって心配はしていたのだ。瑞鶴と加賀さんに「あなたはどっちの味方なの」と迫られたことも一度や二度ではない。なんだか未婚なのにもかかわらず嫁姑の板挟みに遭っているようで、これがとてつもなく疲れる。

 軽く放心状態にあった僕を見て、加賀さんは顔を赤らめた。

「何? 私の顔に何かついていて?」

「あ、いや、五航戦の二人って、加賀さんからはどう見えてるの? 詳しく聞いてみたいかも」

「そうね──翔鶴は秀才、瑞鶴は紛れもない天才よ。ちなみに私は凡才」

 

 ちなみに我が鎮守府の深海棲艦撃破数トップは加賀さんだ。

 

「加賀さんが凡才だったらみんなの立場がないじゃんか──。でも、翔鶴と瑞鶴はまた違うんだ」

「似ているところもあるけれど、違うと言えば全然違うわ。翔鶴は日本の空母の完成形。教科書、お手本のようなものね。新しい娘は翔鶴を見習えば間違いないわ。瑞鶴は──あの子は天才だからお手本にはならないけれど、最初から出来たし何も考えなくても出来てしまうの。全て感覚。だからこそ時々つまらないミスがある。戦場ではそれが命取りになるから、型が大切だといつも言っているのに──」

 そう語る加賀さんの表情は、もどかしさに満ちている。

 加賀さんが瑞鶴に強くあたるのは、そういうことだったのか。

 心配、だったんだ。

「それ、二人に言ってあげたらいいのに」

「そんな恥ずかしいこと出来る訳がないわ。言っても意味がないし、気味が悪いと思われるのがオチよ」

「伝えることも大事だと思うけど」

「言葉は意外と伝わらないものよ。これは私が艦娘になって気づいたことのひとつ」

 あなたを見ていてもよく判るわ、と言って加賀さんは微笑んだ。

「何だい、それは──」

 加賀さんのその微笑は何故だか僕を動揺させて、流れる空気に居心地の悪さを覚える。自分でも意識していない弱点を的確に射抜かれたような気がした。

 動揺を悟られまいと水を口に含む。

「そ、それにしても瑞鶴ってそんな凄いやつだったんだ。翔鶴に甘えてたり、執務を邪魔しに来るところを見てたらそんな気がしないな。日本の空母でも一番の天才だとはねぇ」

「──赤城(あかぎ)さん」

「へ?」

「一番は赤城さんよ。行く行くは判らないけれど、赤城さんの方が数段上ね。まだあの子は赤城さんの足許にも及ばない。背負っているものが違うのよ。才能、技術とは全く別の話。提督に解るかしら」

 そう語る加賀さんの表情に、先程と同じ寂寥(せきりょう)が浮かぶ。

 遠く離れた故郷を想うような、記憶の片隅に残る旧友を想うような、そんな表情だった。

 

 

 そうか。

 そういうことか。

 

 

「──会いたい?」

「もちろんです」

「今の加賀さんのこと見たら、きっと驚いてくれるね。強くなった、さらに立派になったって」

「私は赤城さんの隣に相応しくなるため努力しただけ。五航戦を見ていたら嫉妬してしまうわ」

「僕は加賀さんの発艦、力強くて好きだけど」

「ぎこちないだけ、不器用なだけよ」

「そういうところも含めて、加賀さんだなって」

 加賀さんは照れながら睨むように僕を見る。

「いつか絶対会えるさ。──いや、僕が絶対に赤城さんを連れて来てあげるよ。約束する。だから、今は二航戦を全力で歓迎してあげよう」

 その発言には何の根拠もなかったし、もっと言えば新たな仲間を見つけて来るのは僕じゃなくて任務に就いている艦娘達なのだが、何故かそう言わずにはいられなかった。

「そう、ね。その約束、守ってもらいます」

 そう言って僕らはお互いに表情を崩した。

 僕と加賀さんの間に穏やかな空気が流れる。流れる時間までもがゆったりとしているようで心地よかった。そういえばオムライスまだかな、とそんなことを思える程に余裕が出て来たのも束の間、加賀さんが口を開く。

「話は変わるのだけど、何故私だけさん付けなのかしら」

「え」

 本当に話が変わった。

「聴こえてる(はず)よね。何故私だけさん付けで距離を置かれるのかしら」

「いやいや、そういうことじゃなくてね。えっと──威厳があるというか何というか──」

「真剣に答えてくれないと本気で怒ります」

「そんな、呼び方に他意なんてないよ! ほ、ほらあれじゃない? 空母で言ったら最初に仲良くなったの翔鶴と瑞鶴だから、それで加賀さん、って呼び方が馴染んじゃったとか──」

 加賀さんは怪訝な目で僕を見る。

「五航戦贔屓よね、あなた」

「そんなことないって!」

「寂しいわ」

「解ったよ! さん付けやめたらいいんでしょ!」

 加賀さんは小首を(かし)げる。

 今呼べ、ということか。

 しかし改まって名前を呼ぼうとすると相当に恥ずかしい。無理矢理セッティングされたこの状況も羞恥心に拍車をかけるが、それでも僕は意を決して加賀さんの目を見つめ直した。

 大きく息を吐く。

 

「加賀」

 

 そう言った途端、お互いに恥ずかしさの許容量を超えたらしく顔を赤くして俯いてしまった。

 何だこれは。誰が得するんだ何の仕打ちだ。

「何イチャついてるんですか。はい提督、オムライスですよ」

 ことり、とオムライスがテーブルに置かれる。謂れもない辱めを受けている間に、間宮さんが注文の品を持って来てくれたようだ。

「あ、ありがとう」

「私も、呼び捨てにされたいなぁ」

「間宮さん、何を──」

「綺麗だね、とは言ってくれても名前は呼んでくれないんですか」

 軽い冗談かと思っていたのだが、間宮さんはお盆を胸に抱いてなかなか立ち去ってくれない。

「私も頑張ってるんだけどなぁ」

「解ったよ!」

「あ、じゃあ間宮、今日も綺麗だね、でお願いします」

 科白も指定されるのか。

 何故こんな状況に陥ってしまったのか理解出来ず、眉間に皺を寄せ額を小指で掻く。見上げると間宮さんが瞳に期待を湛えてこちらを見ていた。

 そんな顔をされたら、無下に出来る筈もない。

 

「ま──間宮、今日も綺麗だよ」

 

 間宮さんは口許をお盆で隠して「あ、ありがとうございます」と言ってその場をそそくさと立ち去って行った。

 結局喜んでくれたのかどうかが判らない。間宮さんが喜んでくれていなかったら、今の(くだり)はここ数世紀で最も無駄な瞬間だったろう。

 目の前では、加賀さんが冷たい目で僕を見ている。

「あなた、間宮さんにそんなこと言ったの?」

「──言った」

「全くあなたって人は──。とにかく、これからは私をさん付けしないで呼ぶこと。いいわね?」

 ため息交じりに加賀さん──いや、加賀はそう言って再び昼食に手を付ける。何故僕が呆れられないといけないのか納得がいかなかったが、せっかくの昼食が冷めても嫌なのでそこは飲み込んでオムライスを口に運ぶ。

 言うまでもなく、間宮さんの料理は今日も天下一品だ。

「それにしても、正直に言って二航戦は羨ましいわ。最初から帰る場所があるんですもの」

「加賀さ──えっと、加賀の時は鎮守府ってまだなかったの?」

「あったわ。あったけど──あなたがいなかった」

「僕が?」

 確かに僕は着任してから数ヶ月しか経っていない。しかし、それと何の関係があるのかは判らなかった。

「それは、どういうこと?」

 加賀はきょとんとして僕を見る。

「──もしかして、聞いてないのかしら」

 僕が頷くと、大淀も悪い子ね、と言って加賀は続ける。

「私達艦娘はあなたのいる場所が判るのよ。世界の何処にいても、感覚的に。提督電探、司令電探なんて呼ばれているわ。スロットを消費しない私達の基本装備みたいなものね」

 

 

 ──僕の居場所が、判る。

 

 

「私が目醒めた時はまだあなたが提督ではなかったから、自分の場所も何処に向かえばいいのかも判らなかった。もちろん天測をして航行することは出来るから、なんとかここに辿り着くことは出来たのだけど。その心細さ、あなたに解るかしら」

 それは、確かに不安だろうと思う。

「だけど今はあなたがいるから、二航戦は目醒めた時、(すで)に自分の向かうべき場所が判っていた筈よ。それが判っているだけで、全然違う」

「ちょっと待って。僕の居場所が判るって具体的にどういうこと?」

 もしかして、それは大変なことじゃないのか。

「感覚的なことを言葉にするのは難しいわね。でも、あなたの持っているケータイにもGPSがついているでしょう? そのようなものと考えてくれていいわ。精度はそこまで良くはないけれど」

「その精度ってどのくらいの──」

「そうね、例えば今の状態だと鎮守府にいることはみんな判るでしょうね。流石(さすが)に、食堂にいることまでは判らないと思うわ。その日の調子にも左右されるし──その程度よ」

 十分な性能である。

 僕は既にオムライスの味を感じていない。

「競輪場で大淀に捕まった時、何故ここがバレたのかって考えなかったの? 他にも、如何(いかが)わしいお店に行こうとすると決まって私達に邪魔されていない? そもそもそれは提督電探というより、女の勘ってやつかもしれないけれど」

 冷や汗が脇を伝う。

 加賀の視線が鋭さを増した。

「全部バレているわよ」

 

 

 あぁ、そうか。

 そういうことか。

 

 

 僕が夜な夜な若い男子として健全な欲求を晴らさんと歓楽街へ出撃すると、不自然なまでの高い確率で(というか今になって思うと全てのケースで)大淀や金剛、翔鶴瑞鶴にそういえば加賀、または軽巡を旗艦とする水雷戦隊と遭遇してその行く手を阻まれていた。

 確かによく会うなとは思っていたのだ。そうして結局は買い物やカラオケ、居酒屋にボウリング等々に連れ回されて当初の目的を達成出来ずに帰っていたのである。

 僕は何度、悶々(もんもん)とした夜を過ごしたことか──。

 

 逃げられない筈である。

 

 浮ついた気分は何処へやら。固まったまま動けない僕とは対照的に、加賀は何故か機嫌が良さそうだった。「私達というものがありながら──」と呟いたのが完全に聞こえたが、そんなものは聞こえない振りである。

 麗らかな午後、窓の外からは微かに汽笛の音が聞こえていた。

 

 ぼぉー、だって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四話『多生の縁』

 

 

 

 日付も変わろうかという深夜の首都を、僕は独り歩いていた。

 流石に世界でも有数な大都市というだけあって、鎮守府のある街とは圧迫感が違う。建物の高さも密度も桁違いだし、人々の流量も比較にならない。

 僕が今歩いているのは多分オフィス街だと思うから(土地勘がないので詳しくは判らない)、通りを人が覆っているという状況ではないが、先程通りかかった駅前は時計を二度見してしまう程に混雑していた。

 僕らの街では有り得ない。

 だって終電行っちゃってるもの。この時間。

 

 何だか自分の街がとても不甲斐なく思えてくるのだが、規模が大きくなればそれはそれで様々な弊害があるのだろうし、僕らの街くらいの半端さがちょうど良いのかもしれない。実際、僕はもう既に帰りたくなっている。夜中にこうして時間を持て余すのは久し振りのことだ。

 鎮守府に着任する前は毎日こんな感じだった筈なのに、自分がこういう時間をどうやって遣り過ごしていたか全く思い出せない。鎮守府だとこの時間は川内(せんだい)にとってのゴールデンタイムだし、眠れないから話に付き合え、酒に付き合えという艦娘で逆に忙しかったりする。

 最近で一番辛かったのは「白露(しらつゆ)の勝つまでやめないボードゲーム24時」だ。オセロだ将棋だ人生ゲームだと、いくら眠くても白露が勝つまで解放してくれないというまさに悪夢のイベントで、こちらが疲弊しきった頃にやっと勝利したと思うと「白露がいっちばーん!」と言って嬉しそうに帰っていく。

 そりゃそうだろうさ。白露が勝つまで終わらないんだから。

 白露がルールブックなんだから。

 いっちばーんで当たり前だ。

 勝つまでやめないというスタイルが勝敗論として本質的である、とかいう話は置いといて、付き合わされるこちらはただの地獄である。寝たかったら負けないといけないうえに、わざと負けようとすると怒られるんだから。

 

 まぁ、そんな辛い思い出も含めて、充実しているのは確かだろう。

 みんなはもう眠っているだろうかと、夜空を見上げてそんなことを思う。

 

 僕が上京したのは国防海軍の会議に出席するためだった。

 しかし、それも夕方には終わった。

 そもそも今回の会議に何故僕が召集されたのか判然としない部分もあるのだが、こんなことを言うと「提督としての自覚が足りない」と大淀に怒られてしまうのかもしれない。

 しかし、会議の内容が例によって(ほとん)ど理解出来ていないのだから、自らの存在意義(レーゾン・デートゥル)を疑ってしまうのも仕方のないことではあろう。専門用語はもちろん、固有名詞も中々にキツいものがあって、「〇〇艦長〇〇大佐の報告によると」だとか「〇〇大学〇〇教授の調査結果を受けて〇〇基地所属〇〇中尉の部隊が」などなど、「誰だ!」と「何処だ!」の連続なのである。理解出来たのは「永田町」と国防省のある「市ヶ谷」くらいだ。

 そんなポンコツ提督でも会議は配布された資料に沿って資料から一ミリもはみ出すことなく進行していることは解ったので、その資料を大淀に渡せば僕の仕事はそれで終わりだ。その後で大淀に「翻訳」してもらえばいいだろう。

 

 本当に僕は何で呼ばれたんだろう。

 実を言うと心当たりがない訳ではないのだが、結局、訊問されることになるだろうと覚悟していた「あの事件」についても何故か触れられず、僕の懸念は杞憂に終わった。

 

 

 ──あの事件。

 それは三日前、つい先日のことだ。

 

 

 その日、小笠原諸島沖を哨戒していた国防海軍の通常艦艇が、空母二隻を含む敵機動部隊を発見。その航路から本土を目指していると考えられた為、近海警備に当たっていた千歳(ちとせ)千代田(ちよだ)妙高(みょうこう)羽黒(はぐろ)長波(ながなみ)高波(たかなみ)の六名を予測される会敵ポイントに急行させた。

 僕が着任して以来初の本格的な戦闘になると緊張していたのだが、敵艦隊を発見した国防海軍の艦艇から耳を疑うような続報が入る。

 

「空母艦娘と思われる識別不明人型艦艇が敵艦隊と交戦中」

 

 当該時刻、当該海域に艦娘は展開していなかったし、艦娘にも敵味方識別装置(IFF)が搭載されているので識別が出来ないなど有り得ない。全艦娘の照会をしても矢張(やは)り鎮守府の所属ではなかったから「ウチの子じゃないです」と報告するよりない。

 そもそも最初の報告だって艦艇搭載のヘリが遠距離から監視していたものみたいだし、見間違い、もしくは同士討ちの可能性だってある。

 

 ──ただ。

 

 翌日、千歳達が発見した敵機動部隊は、既に壊滅していた。

 それは紛れもない事実だった。

 

 それからというもの、

「何か隠してない?」

「隠してないって」

「本当に本当?」

「本当だって!」

「解像度上げてみたけどこの子見覚えない?」

「だからないってしつこいな!」

 というようなやり取りを国防省と幾度もすることになり、流石に辟易とした(かなり大雑把だが話の中身は大差ない)。だいたい敵艦隊に航空戦力がないならまだしも、空母ヲ級と軽母ヌ級を含む敵機動部隊を一人の空母艦娘が壊滅させるなんて現実的じゃない。ウチのエースである加賀だって無理だろう。

 そういった僕達の説得が功を奏したのか、国防省も深海棲艦の仲間割れとして処理したのか事の顛末は判らないが、上からの「問い合わせ」も昨日未明にパタリとやんだ。国防海軍の哨戒機も「識別不明の人型艦艇」を結局見つけられなかったみたいだし、矢張り深海棲艦の内部分裂として収めるつもりなのかもしれない。

 

 まぁ、向こうが疑うのも無理はないのだ。

 

 艦娘という存在それ自体が彼らにとって(もちろん僕にとっても、さらに言えば艦娘である彼女達自身にとっても)理解の範疇を超えるものだろうし、その彼女達を率いているのが、大学では留年に留年を重ねた訳の判らない道端の小石のようでその辺の空き地の雑草の陰でひっそりと暮らしている虫けらみたいな僕だっていうんだから、疑ってかかって当然だ。

 提督になった経緯も経緯であるし、彼らにしてみれば僕は邪魔者でしかないのかもしれない。

 ──何で僕は自分をこんなに卑下しなければならないのかと自問しつつ、そういう訳でかなりの緊張感を持って今日の日を迎えたのである。

 

 そうして僕は、大きく溜息を吐いた。

 途端に、自分が空腹なのを思い出して猫背になる。

 ──そうだ。僕は何か軽く食べるものはないかとホテルを出たのだ。考え事をしていて開いている飲食店を見過ごしてしまっているかもしれないと、通った道を振り返る。

 

 ふと、電柱に人影が吸い込まれた。

 

 

 ──()けられている。

 

 

 急激に、鼓動が高鳴るのを感じた。

 自然と歩調が早まる。

 そういうことか。矢張り僕は邪魔者か。

 一刻も早く明るい場所へ出なければ。少しでも大きな道に出なければ。

 殺される。

 あぁ、こんなことなら護衛として同行すると煩瑣(うるさ)かった川内を連れて来れば良かったかもしれない。

 いや、それだと川内も危なかったか。

 どちらにせよ、今更だ。

 

 身体中に嫌な汗が滲むのを感じる。

 顔面だけが熱く火照って手足が冷たい。

 僕はもう訳が判らなくなって、小さいネオンの看板に吸い寄せられて右へと曲がる。

 

 そこは、小さな路地だった。

 自らの愚かさに、一瞬呼吸が止まる。

 

 

 進んではいけない。

 しかし。

 引き返してもいけない。

 

 

 前方の微かな明かりを頼りに、僕は全力で走り出した。

 後方から自分のものではない足音が急速に接近する。

 僕は脚部の筋繊維が音を立てて千切れていく錯覚に囚われつつ、しかし負荷の限界を超えて地面を蹴り続けた。

 

 前方の明かりは、ラーメン屋の提灯だった。

 後方の足音は──もうすぐ後ろだ。

 

 

 死にたくない死にたくない死にたくない。

 

 

 それだけが僕の意識を支配して、全力疾走の慣性をラーメン屋の粗雑な戸に全てかけたまさにその時。

 

 追跡者によって、僕の手首は掴まれた。

 

 もう終わりだと、僕の人生はもう終わったんだと諦念が頭を駆け巡る中で、僕と追跡者の荒い呼吸音だけが空間にこだましていた。

 僕の人生は、中々終わらなかった。

 恐る恐る顔を上げる。

 

 

 手首を掴んでいたのは、胴着に身を包んでいる少女だった。

 少女も、ゆっくりと顔を上げる。

 大淀に似たさらりとした長髪に、緩く垂れた目が特徴的な美少女だった。

 少女は、目に涙を湛えてこちらを見ている。

 そのまま、どれくらいの時間が流れただろう。

 

「き、君は──」

 僕が漸く口を開くと、

 

 ぐー。

 

 と、少女の腹の虫が深夜の首都に鳴り響いた。

 

 

 ※

 

 

「へい、お待ち」

 と言って、店の親父は醤油ラーメンを置いて厨房へ戻って行く。

 ラーメン屋の店内は、自分が昭和にタイムトリップしたのかと思う程に寂れていた。塗装の剥げたテーブルに、変色したメニュー表。コーナーに設置されたテレビが液晶ではなくブラウン管だったら完璧なのに、と謎の感想を抱く。

 先程までは空腹だった筈なのだが、今は目の前のラーメンにそれ程(そそ)られない。まぁ、肉体的にも精神的にも相当な負担が掛かったばかりだから、それも仕方ないのかもしれない。溜息を吐きながら箸を割る。

 そんな僕とは対照的に、テーブルの向かい側に座る少女は喉を詰まらせんばかりの勢いで麺を啜っていた。何だか安心するようで脱力するような複雑な気持ちでその光景を眺めつつ、僕はこの少女の正体をほぼ確信していた。

「──赤城(あかぎ)でしょ」

 その言葉に少女は喉を詰まらせて答えた。

「ブフォ! ゴホッ!」

「汚ぇっ! あぁもう、こっちに麺入っちゃったじゃない!」

「す、すみません──」

 少女はレンゲでリバースした麺を掬い取る。

 ──その下のチャーシューと一緒に。

「何どさくさに紛れてチャーシュー持って行ってんだよ!」

「ホントにすみません──」

「だからチャーシュー返せって!」

 少女は僕の怒りを無視しつつ、しかし本当に申し訳なさそうな顔をして再び麺を啜り始める。

 あぁ、もうチャーシュー食べちゃったし──。

「──赤城、なんでしょ?」

「──どうして判ったんですか?」

 やっぱり。

「艦娘って何となく判るんだよ。雰囲気が独特だからね。それに、赤城も僕のことを提督だって判ってるんでしょ?」

 赤城は目を丸くしてこちらを見る。

「提督電探ってやつだよね。加賀から聞いてる」

「加賀さんもいらっしゃるんですか!」

「いるよ。赤城のことを待ってる。あ、そうそう、格好が加賀と色違いってのも赤城だって判った理由かな」

 赤城は目を伏せた。

「──こんなところで、何してんのさ」

 店内に沈黙が流れる。テレビからスポーツニュースの音声が聞こえてきた。

「私、敗けました」

 そう言って、赤城は儚げに微笑する。

「鎮守府には、帰れません」

 赤城が言っているのは、先の大戦の「あの海戦」のことだろう。

 太平洋における戦いの転換点(ターニング・ポイント)として何かと語られることが多いその海戦で、帝国海軍は決定的な敗北を喫し、赤城を含む正規空母四隻と重巡洋艦三隈(みくま)を失っている。

 僕も一応こういう立場にあるから、その戦いについて勉強してはいるのだが、敗因として挙げられる要因それぞれが重要な指摘に思える一方、そもそも戦争を始めた時点で──という思いを消し去ることが出来ない。

 それとこれとは話が別だということは解っているのだが。

 被害が甚大過ぎて、理解が追いつかない。

 空母四隻と三隈が一度に沈むなんて、想像しただけで頭がおかしくなりそうだ。

 

 その時の機動部隊の旗艦が、赤城だった。

 赤城は、まだそれを背負っているのか。

 

「──赤城の所為(せい)じゃないよ」

 僕は、そんな陳腐な言葉しかかけてあげられない。

 だけど。

「いえ、私の所為です」

「だったら──それは僕の所為だ」

「──何故ですか」

「赤城の所為なら、それは僕の所為なのさ。理由なんか、ないよ」

 だけど、そう思っているのは本当だ。

 世の中に溢れている惨事や悲劇は、概ね誰か一人の責任や何か一つの原因に収束することが出来ない。様々な要因が複雑に絡み合って、ある日突然「ある出来事」として僕達の眼前に表出する。

 あの敗北が赤城一人の責任である筈がない。それでも赤城が自分を責め続けるなら、その重い荷物を分担して背負う覚悟はもちろんある。

 というか、それしか出来ない。

 実際に過去を乗り越えるのは、赤城自身にしか出来ないことだから。

「提督は、優しいんですね」

「それは違うよ」

 本当に。

「それしか出来ないんだ」

 赤城は、上目遣いでこちらを見る。

 その視線は僕を妙に気恥ずかしくさせて、たまらず目を逸らした。

「──とりあえず食べちゃおうか。麺が伸びちゃうよ」

 そう言うと、赤城は「はい」と言って静かに微笑んだ。

 

 

 ※

 

 

 ラーメン二杯と半チャーハンに半餃子を平らげた赤城は、満足げにコップの水を飲み干した。

 確かに空腹そうではあった。空腹なのは判っていたが、それにしても食べ過ぎじゃないか。いや、空腹だとこんなものだろうか。あ、ちなみにこれ全部僕の支払いです。いや、至って普通のラーメン屋だからそんな痛くはないんだけど。

 ──痛くはないんだけどさ。

 赤城の前に並んでいる空いた皿を眺めながら、そんなことを考えていると、赤城が如何(いか)にも不服といった表情で僕に言う。

「提督、今すごく失礼なこと考えてません?」

「よく食べるな、と思っていただけだよ」

「それが失礼って言うんですっ!」

 実際よく食ったじゃないか!

「いいですか、いつもこんなに食べる訳じゃないんですよ! 私、ドロップしてから何も食べてなかったんですからね! 飢餓だったんです生きる為に仕方なかったんです防衛本能の──あ、アレです!」

「わ、解った解った落ち着け──って何で僕の水まで飲むんだよ! ()いで来い水くらい!」

 艦娘は自らがこの世に再び生を受けることを「ドロップする」と表現する。単純に「目醒める」などと言う者もいるが、顕現するその瞬間に「落ちる」感覚がするかららしい。

 浮き上がる、のではなくて、落ちる、というのが興味深い。

「──それで、鎮守府には帰れないが空腹に耐えきれず往生していたところ、折良くのこのこと僕が上京して来たと──そういう訳か」

 赤城は少し赤面して頷く。

「赤城がドロップしたのって、いつ?」

「三日前です」

「三日かぁ──確かにキツいなぁ。何処ら辺で?」

「小笠原沖だと思いますけど」

「なるほどねぇ。小笠原か──。小笠原──ん?」

 

 

 三日前。

 小笠原沖。

 識別不明。

 空母艦娘──。

 

 

「深海棲艦倒したの、赤城か──」

 赤城はハッとする。

「あ、いえ、その──す、すみません」

「謝ることじゃないよ。どれだけ助かったか──。本当に有難う。鎮守府を代表して礼を言うよ」

「そ、そんな大層なことでは。たまたま近くにいたので──つい」

 あんな強大な敵戦力を一人で撃滅したことに対して、日常での小さな親切を大袈裟に褒められたかのように謙遜する赤城が面白くなって僕は笑う。そんな僕を赤城は不思議そうに見つめた。

「ご、ごめんごめん──。なーんだ。赤城、ちゃんと勝ったんじゃん」

「ちゃんと、勝った──」

「うん、()()り赤城は敗けてないよ。だって、勝ったんだから」

「そ、それとこれとは」

「別じゃないよ。あのさ──最近白露がね、寝かせてくれないんだよ」

「白露ちゃんが?」

 そう、白露もいるよ。

 嵐も、萩風も、舞風も、のわっちも。

 他の、みんなも。

「オセロだ何だってゲームを挑んできてね、弱い癖にさ。自分が勝つまでやめないんだよ」

 赤城の表情が少し和らぐ。

「だから、いつも白露が勝って終わるんだ。僕はいつも負けて終わる。それまで僕がいくら勝ってようと関係ないんだよ。白露が勝者で、僕が敗者。諦めないことが大事だって言うのなら、多分そういうことなんだと思う」

 白露には一刻も早く諦めて欲しいけど。

「だから、自分は敗けたなんてたった一度のことを思い詰めないでよ。赤城は実際に、鎮守府のみんなやこの国の人達を救ったんだからさ」

 そう言って席を立つ。無言で俯く赤城の頭をポンと撫でて、会計へと向かった。

 無愛想なラーメン屋の親父は値段すら言わず、「この電卓の表示を見ろ」と言わんばかりに古めかしい計算機を差し出してくるが、今はこういった対応が何よりも有り難い。

 

 建て付けの悪い戸を開けて外へ出る。

 首都の夜空には、星がまばらに輝いていた。

「やっぱり、鎮守府に戻ってくるつもりはない?」

 後をゆっくりと付いてきた赤城に僕は問う。

 返答はなかった。

 ならば。

 強制的に。

「──じゃあさ、ラーメン代、返してよ」

「あ、あの──私、持ち合わせが──」

「それなら、僕と一緒に鎮守府に帰ることだね」

 僕は笑って振り返る。

「その身体で、返してもらう」

「身体で返すんですか?」

「そう、身体で返すんだ」

 赤城は微笑んで言う。

「──私、安すぎません?」

「だったら、他に何か欲しいものでもある? 赤城が帰って来てくれるなら何だって買ってあげるよ」

 赤城は少し思案して、

「そうですね──服が、欲しいです。三日も着替えていないので。あ、でも、もうこんな時間──」

「赤城、現代の日本を舐めちゃいけない。こんな時間でも開いてる服屋はあるよ」

「そうなんですか。すごいですね」

 僕はケータイを取り出す。適当に発言してしまったが大丈夫だろう。

 ここは、世界に名立たる大都市なんだから。

『深夜営業 服』

 検索。

 ほら、あった。

 

 

「これが、赤城が守った日本だよ」

 

 そう言うと、赤城は今日一番の笑顔で──

「はい!」

 と言って敬礼した。

 

 

 ※

 

 

 鎮守府に着く頃には、日が傾いていた。

 僕の隣を歩く赤城は、興味深そうにきょろきょろと辺りを見回している。

 こうして普通の洋服を着ている姿を見ると、本当にただの女の子だ。一人で敵艦隊を壊滅させた張本人とは到底思えない。

 結局、赤城はこうして鎮守府に戻って来てくれた。

 しかし、あの後が大変だった。約束通り服を買いに行ったまでは良かったのだが、ふと気になって「艤装(ぎそう)はどうしたの?」と聞くと、「──港の近くの廃工場に」と驚くべき返答が返って来たので、タクシーを飛ばし回収してホテルに戻ったのが◯三◯◯(マルサンマルマル)だ。元々ツインの部屋だったからベッドは別だったものの、こんな美少女を隣に眠れる訳がない。乗車予定の新幹線も赤城の分の空席がなく、キャンセルして別の便に乗り換えた。

 ──これ、全部でいくら掛かったと思いますか。

 服代、深夜料金のタクシー往復代、ホテル追加料金、新幹線指定席二人分──。

 まぁ、赤城が帰って来てくれたんだからお金なんてどうでもいいんだけど。

 それは本当にそう思っているのだが、取り敢えずどうやって雪風を競輪場に連れ出そうかと思案中なのは確かだ。

 それにしても、艤装が重い。

 スーツケースに入らなかった矢筒と飛行甲板がものすごく邪魔だ。弓はまだ空いた左手で持てるからいいものの、矢筒と飛行甲板はバッグから飛び出したまま背負うしかないから、歩く度に揺れて後頭部を殴打してくる。

 変な意地を張らないで、赤城にも持ってもらえば良かったかもしれない。

 

 しかし、そんな苦行もこれで終わり。

 鎮守府の正門前で、赤城は足を止める。

 

「本当に、帰って来たんですね」

「そうだね。僕も色々あって疲れたよ。ここに帰って来ると矢っ張り安心するな。さぁ、入ろう。今日からは、ここが赤城の帰るところだよ」

 二人揃って境界を跨ぐ。顔を見合わせて僕らは笑った。

 みんなも待っていることだろう。

 帰るのが少し遅れる、と大淀に連絡を入れた時、「赤城も一緒に帰るから」と伝えて電話を切った。大淀は慌てふためいていた様子だったが、説明が長くなりそうだったし、理解してもらえるか不安だったのでその時はそのまま切った。

 もしかしたら大淀は怒っているかもしれない。

 それはそれで気が重いなと思っていると、庁舎の前に人集(ひとだか)りが見えた。

 外で待っていたのか。

 すると、こちらに駆け寄る青い袴の姿が視界に映る。

「赤城さんっ!」

 赤城も(おもむろ)に駆け始める。

 やがて二人は、想いの強さを自らの慣性で表現するように、減速することなく互いの胸に飛び込んで抱き締め合った。加賀は涙を隠そうともせずに、顔をぐしゃぐしゃにして何度も赤城の名を呼んでいる。

 多分、赤城も泣いている。

 

 

 それは、まるで映画のワンシーンのようだった。

 

 

 その光景に見蕩れつつ、二人の涙に影響され胸を熱くさせていると、大淀がこちらへと歩み寄って来た。

「提督、おかえりなさいませ」

「うん、ただいま。何も問題はなかった?」

「えぇ、何もありませんでしたよ。それにしても──どうして提督が赤城さんを?」

「あぁ、いや別に大したことではないんだけど、説明が面倒だから後でゆっくり話すよ。僕も疲れたから、とりあえずシャワーを浴びたい気分かな」

 了解致しました、と言って大淀は僕の荷物を持とうとする。僕は何だかその行為に照れてしまって、先程まで荷物が邪魔だと思っていたくせに「いや、いいよ。大丈夫だから」と言って痩せ我慢をしてしまう。

 抱擁する赤城と加賀を中心にして艦娘達が輪を作るのを横目に、その場を立ち去ろうとすると、加賀が僕に「提督」と声を掛けた。

「本当に──約束を守ってくれたのね」

 目を腫らして微笑む加賀に僕は当たり前だろ、なんて調子のいいことを言う。

「有難う御座います」

 そう言って加賀は頭を下げた。

「いいって加賀。そんな大層なことでも──」

「提督。私からも、有難う御座います」

 赤城は、そう言って近付く。

「このお礼、一生かかっても返せそうにないかもしれません」

「そうかもな。僕は悪徳高利貸しだからね」

 赤城は、僕の胸にそっと頭を寄せた。

「一生、身体で返し続けます」

 赤城のその発言で、感動で包まれていた周囲の空気がガラリと変わる。

「い、いいんじゃないかな」

 身体? 身体って何? 身体で返すって何? という囁き声が聞こえる。

「──こうして、お持ち帰りもされたことですし」

 赤城、それ以上はやめるんだ。

「鎮守府にな!」

 という僕の必死の注釈も効果を得ず、

「お持ち帰りって、何ですか?」

 という殺気で張り詰めた大淀の声が聞こえた。

「だからそれはちん──」

「ホテルです」

 赤城ッ!

「ホテルにお持ち帰りもされたことですし」

「あら、そう──。ホテルに──」

 大淀が僕の袖をクイッと掴む。

「あのなぁ、大淀よく聞け。これにはマラッカ海峡よりも深い訳があってだな」

「マラッカ海峡はすごく浅いですよ」

「ま、間違えた。あはは──焦ってる訳じゃないぞ? マリアナ海溝、な。マリアナ海溝より深い訳があってだなぁ」

「そうですか。そんなに深い訳があって赤城さんはホテルにお持ち帰りされて制服ではなく御洒落なお洋服を着ているのですね」

「そ、そうだ、当たり前だ」

「制服は汚れてしまってベトベトです」

「赤城ッ! お前絶対ふざけてるだろふざけてこの状況を楽しんでるだろっ! 感動の再会中にッ!」

 そのうち、僕の前後左右を大淀、金剛、翔鶴、瑞鶴が囲む。

 艦首の向きがおかしい輪形陣だ。

「提督さん、まだ爆撃され足りないの? 何回爆撃したら解ってくれるの?」

「そろそろ強硬手段に出るしかないデス──」

「提督、私のこと、好きって言いましたよね──」

「縛り付けます?」

 大淀が最後ものすごく不穏なことを言った。

 

 

 ──どうしていつもこうなるんだろう。

 

 

 そんなことを思いつつ、僕は彼女達に引き摺られて執務室という名の査問会議場に連行される。ふと、この状況に何処かで安心している自分に気が付いた。一日空けただけなのに、ホームシックにでもなっていたのだろうか。

 情けないとも思うが、それだけ自分にとってはこの場所が大切なのだ。特殊な性癖に目覚めたという可能性は否定出来ないが、別に今更どうだっていい。

 それに、ここは赤城にとってもそういう場所になるのだろう。

 それが何より嬉しい。

 

 後方から「何で制服がベトベトになるのー?」という時津風のピュアな疑問が聞こえて来た。

 いいかみんな、絶対に答えるんじゃないぞ。絶対にだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五話『鎮守府水回り事情』

 

 

 

 

 女所帯の鎮守府に男一人が混じって共同生活を送るのは、大変な困難を伴うのである。

 当然、多数派は艦娘である彼女達だから、日常の様々な場面で気を遣うのは自動的に男の僕になる。まぁ、彼女達は過酷な任務や訓練を日々こなしているし、どれだけ僕が偉そうに執務室で踏ん反り返っていても、前線に出るのは叶わないのだから当たり前といえば当たり前だ。

 そこに全く不満はない。

 

 ──ないのだが。

 

 まず、思いつくのは風呂だ。

 鎮守府の風呂の施設は過剰と思える程に充実している。一番目を引くのが「入渠ドック」と呼ばれている大浴場だろう。

 これが凄まじい。

 どれだけ凄まじいかを説明するのも難しいのだが、有名な温泉場で一番の収容宿泊客数を誇るホテルの大浴場と同程度、と考えてもらって良い。

 ジャグジー、打たせ湯、サウナに水風呂岩盤浴。それに付随して卓球台、カラオケ、寂れたところまでをも再現したゲームコーナーに極め付きの居酒屋鳳翔(ほうしょう)。入渠とは何か、ドックとは何かを再考させられること請け合いの一大娯楽施設である。

 ちなみに僕は最初に視察した時と、この施設の維持に掛かっている莫大な費用を知った時の二度、大淀に「本当に必要?」と確認しているのだが、二回とも「修復に必要な入渠ドックですから」と押し切られて考えることをやめた。

 有無を言わさぬ迫力を持った笑顔で大淀に言われたら仕方がない。

 全てとは言わなくても一部はそうなんだろうさ、実際。

 僕だって入渠を終えて浴衣に身を包み、風呂桶を抱えて下駄を鳴らしながらしゃなりしゃなりと寮へ帰る艦娘達を見ると心が穏やかになるし、思わず「風情だねぇ」などと呟きそうになる。みんながそれで癒されるのなら、明日への英気を養うことが出来るのならそんなに良いことはない。

 

 ただ──。

 僕はその「入渠ドック」と称する大浴場で入浴したことがない。

 一度もない。

 正直に言って、とても入ってみたい。

 一度くらい良いじゃないか。

 減るもんじゃなし。

 

 

 入浴施設がその一箇所だけと言うのなら僕も我が儘は言わない。一度任務に就けば彼女達は二十四時間体制だ。昼も夜もない。入りたい時に風呂に入りたいだろう。それは解る。

 しかし、風呂はそこだけじゃなくて各寮にも備え付けられているのだ。

 しかもそこそこデカめの風呂が。

 週に一日くらい時間限定でもいいから入らせてくれたっていいだろうよ。

 減るもんじゃなし。

 また言ってるんだけど。

 

 ──こんなことを言いつつ、入渠ドックに入らせてくれと実際に要求したことはない。

 大淀の説明によると、寮の風呂に修復能力はないのだそうだ。そうなると僕が入って邪魔をするのもなんだし、何よりこんなことを言うと変態だのスケべだの強姦魔だの、謂れもない罵詈雑言を浴びる結果になるのが目に見えているのである。

 そう、僕が我慢したらいいだけの話だ。

 一応、僕の私室には狭いながらも浴室はあるし、多少歩くが近所に銭湯だってある。風呂に入りたいと思えば入れないこともないのだ。贅沢を言ってはいけない。僕はこれでも提督なのだし、僕が我慢することでみんなが少しでも快適に生活出来るのなら、(むし)ろそれを喜ぶべきだろう。

 本当にそう思う。心から思う。

 

 それともう一つ、風呂以外にも困ることがある。

 あぁ──いや。

 風呂以上──か。

 

 

 ──それは、トイレだ。

 

 

 鎮守府にも各寮各個室以外にみんなが共同で使用するトイレがもちろんあるのであって、それは各庁舎の各フロアに一箇所ずつくらいは設置されているのだが、ここからが問題だ。

 

 鎮守府のトイレに、男子トイレという概念はない。

 

 トイレは(あまね)く女子トイレなのである。

 考えてみれば僕が着任するまで鎮守府には女子しかいなかったのだから、当然といえば当然だ。存在しない男子の為にスペースを割く必要がない。男子トイレがなくて当たり前だ。

 ただ、そうは解っていてもトイレは難しい問題で、僕が使用して良いトイレが私室の一つだけだと僕が理解し納得していることと、僕がいつ何処で催すのかは全く別の問題だということだ。

 これは人間の生理だから。

 正当性とか理屈とか正義とか、そういうんじゃないから。

 だからこそ、トイレに関しては改善して欲しいと散々言ってきた訳で。

 風呂とは違って我慢出来ないから。

 いつか大変な事態が起きると、簡単に予想出来た訳で──。

 

 

 薄い壁越しに、蛇口を捻る音が聞こえる。

「テートク遅いデース! 何処に行ったのデスかー!」

矢張(やは)榛名(はるな)がもう一度探して来ましょうか──」

「あ、お姉さま。ここにいらしたんですね」

「Oh! 霧島(きりしま)、テートクは見つかりましたかー?」

「それが執務室、私室、食堂、工廠など司令のいそうな場所は隈なく探したのですが──」

「二航戦と赤城さんの歓迎会だっていうのに、提督どちらへ──」

「うー、電探に感があるだけもどかしいネ! もう埒がオープンしないデース! 空母に偵察機を飛ばさせるヨー!」

 

 

 ──ほらね、大変でしょ。

 しっかり対応しないと、こういうことになるんだって。

 

 僕は今、女子トイレの個室でズボンを下ろしたまま身動きが取れずにいる。

 着任以来最大の危機、と言っても過言ではない。

 

 

 こんなところを見つかったら確実に命はないだろう。僕の人生はこの女子トイレで終わるのだということを前提に、後はどのような形で終わるのかという選択肢が残るだけだ。主砲が炸裂するのか艦載機が急降下爆撃してくるのかそれは判らないが、とにかく生還するには誰にも見つかることなくこの場から脱出しなければならない。

 僕はMI6でもなけりゃCIAのエージェントでもないッ! と大声を張り上げたい衝動に駆られたが、本物の諜報員はまずこんな情けない状況に陥らないということに思い至って何だか泣きたくなった。

 本当にどうしようか。と言うか、そもそもだ──。

 こうして僕が女子トイレで息を潜めているのには、万端(ばんたん)如何(いかん)ともし難い事情が存在するのである。

 

 先程榛名が言っていた通り、今日はこの間着任した二航戦と赤城の歓迎会だ。新しく艦娘が着任する度にこうした宴会の席を設けてはいたのだが、今回は少し力の入りようが違う。いつもとは違って三人分祝わなければならないということもあろうが、僕が思うに、これは二航戦が「私達の歓迎会はまだなの?」と事ある毎にアピールしていたのが大きいように思う。歓迎会をやると言うと、恥ずかしがる子が殆どだったから彼女達の積極性は新鮮だった。

 そんな女子大生のようなノリでねだる彼女達の希望に応えたいと鎮守府の誰もが思っていたのだが、最近は何かと忙しくて予定が先延ばしになっていた。そうして募りに募った思いの分と、青天の霹靂とも言える赤城着任の相乗効果で、今回の歓迎会は矢鱈と規模が大きい。

 会場が食堂ではなく入渠ドック二階の宴会場だし、那珂(なか)ちゃんは駆逐艦を巻き込んで数曲歌うみたいだし──まぁ、那珂ちゃんはいつも歌っているのだけど、今日は白露型姉妹に加賀まで歌うらしい。

 

 ──『艦娘音頭』って何だ。何だ『加賀岬』って。

 いつ作ったんだ、そんな曲。

 

 他にも舞風を中心とした陽炎型姉妹のタップダンスショーだとか、初雪望月の脱力系漫才だとか色々あるらしいのだが(それはそれで僕もすごく楽しみなのだが)、何より間宮さん伊良湖(いらこ)ちゃん鳳翔さんからなる鎮守府給養班の熱がすごい。歓迎会に出す新作料理の試食とやらで、僕はここ三日程食事を摂らずに済んでいた程だ。

 高級レストランのメニューに加えても全く遜色のないようなものから心温まる家庭の味まで幅広く、最近の僕の食生活は世界で最も充実していたに違いない。

 そんな幸せな日々の落とし穴は、今日の昼前のデザートの試食にあった。

 赤城、飛龍、蒼龍それぞれのイメージカラーを基調に作られた和三盆に最中にアイス。僕は一体何カロリー摂取したのか判らない。特にアイスは食べ易くてストロベリー、オレンジ、ブルーハワイと二個ずつ計六個をあっさりと平らげてしまった。

 

 ──そりゃ腹も壊す。

 

 執務室を出た時はまだ正常だったのである。

 入渠ドックの暖簾をくぐり、靴を脱いでスリッパに履き替えたところで躰の異変に気がついた。階段を一段上がる毎に腹痛が酷くなり、二階に到達した瞬間に進退窮まった。

 脂汗まみれでふと横を見ると女子トイレがある。

 そこで僕は究極の二者択一を迫られた。

 女子トイレで用を足すか。

 名実共に「クソ提督」になるか。

 ──選択肢はないに等しい。僕のキングストン弁は既に開きかけていたし。

 そして、前後不覚の状態で仁王像のような顔をしながらトイレに突入し、諸悪の根源を綺麗さっぱり排出して菩薩のような顔になってから現在に至る。

 今冷静になってみると、突入時トイレに誰か居たらどうしていたのかと思うのだが、寧ろそちらの方が良かったのかもしれない。お咎めなしとはいかないだろうが、尋常ならざる状態であったことは理解してもらえた筈だ。裁判でも責任能力の有無を問うことが出来ただろう。

 

 

 扉の向こうから聴こえてくる鼻歌が終わらない。榛名がまだ残っているようだ。

 こうしている間にも歓迎会の開始時刻は刻一刻と迫ってきているというのに、僕はベルトの音で気づかれるのが怖くてズボンすら上げられない。くしゃみや咳などは一発でアウトだ。

 榛名、頼むから僕の退路を開けてくれと、便を出すのと同じ要領で腹筋に力を入れテレパシーを送るのも束の間、新たに誰かが入って来る音がする。

「あ、蒼龍さん」

 蒼龍──。

「よっ、榛名。何かすごく盛大だねぇ! 私達の為にありがとねっ」

「とんでもないです。榛名も艦隊の皆さんも、今回は張り切ってしまいました」

「そっか、嬉しいなぁ。──あ、そういえばさ、提督って見つかったの?」

「いえ、それがまだです──」

「そうなんだ──。全く、何処に行ったのかなぁ?」

 ここに居ますよ。

「お姉様方も必死に探してはいるのですが──。でも、きっともうすぐお見えになります。提督も、今日をとても楽しみになさっていましたから」

「だったらいいんだけどね」

「大丈夫です! では蒼龍さん、またすぐ後で」

「うん、それじゃ」

 榛名はトイレから出て行ったようだ。

 蒼龍は──。

 

 隣の個室に入ったようだ。

 

 鍵が閉まり、衣擦れの音がする。

 まさか。

 蒼龍はふぅ、と息を吐く。

 やがて聴こえてきたジョロジョロという水音が、僕の内なる世界に鳴り響いた。

 僕は静かに頭を抱える。

 

 ──何と言うか非常にこうふ──いや、罪悪感がすごい。

 成る程「トイレ用擬音装置」なるものが普及する訳だ、と変なところに感心するのだが、そうしている内に僕の心を乱していた音が止む。

 紙を手繰(たぐ)る音、紙を擦る音、そして再び衣擦れの音、流水音。

 音しか聞こえない環境というものは想像力を掻き立てられる。

 どんな想像を掻き立てられたかは述べるまでもないだろう。

 そうして、また深く頭を抱えた。

 ここに居てはいけない。見つかることに怯えてじっとしていても、僕に外の状況を知る術はないのだし、何よりこんなところに居ると今まで無意識に抑圧してきた「もう一人の自分」に人格を乗っ取られそうな気がするのだ何かが芽生えそうな気がするのだ。

 

 蒼龍は今、洗面所で手を洗っているところだろう。

 腹を決めよう。

 蒼龍が出たら、行動を開始する。

 蛇口を捻る音と共に水流が止まる。

 ドアの開閉音。

 よし、誰もいなくなった。

 焦るな、絶対に焦るな。

 一、二、三。

 ──状況開始。

 勢いよく立ち上がると同時にズボンを上げる。焦りすぎてベルトをひと穴キツく締めてしまったが構うものか。不退転の決意を表すようにトイレの水を流した。

 鍵に手をかける。

 一瞬、躊躇したがもう行くしかない。前に進むしかない。もし誰かと鉢合わせた時は「お前が逆にどうした」などと逆ギレしてやればいいのだ。この世はハッタリだ。かましてやればいいのだ。

 

 個室の扉を開き外界に飛び出す。

 そこで僕は、今まさにトイレに入って来た五月雨(さみだれ)と遭遇した。

 ──こ、こんなことって。

 

 

「あっ──」

 言葉は出て来なかった。

 清純、純真無垢を絵に描いたような五月雨に、逆ギレはかませない。

「こ、これは──ち、違くて、その──」

 五月雨の顔が徐々に恐怖に歪む。

 彼女は鏡だ。

 醜い僕を映す鏡だ。

 あぁ、五月雨。

 そんな顔をしないで。

 そんな目で僕を見ないで。

 と言うか、大声は出さないで──。

「い、いやぁぁぁぁぁぁ!」

 

 僕の願いも虚しく、五月雨の悲鳴が鎮守府に響き渡った。

 

「さ、五月雨、違うんだって──落ち着い──」

「ち、近寄らないでくださいっ!」

 言葉が胸に刺さる。

 俄然と辺りが騒ついて来た。騒ぎを聞きつけた艦娘達が集まって来たようだ。

 いかんいかん。これは考え得る最悪の展開じゃないか。

「どうしたっ! 五月雨」

 一番に到着したのは那智だった。

「こ、この提督さん変なんですッ!」

「何だ貴様は!」

「な、何だ貴様はってかッ!」

 何だか往年の名コントのような流れになってきたがそんなことは知らない。「変な提督さん、だから変な提督さん」と歌って踊ろうがこの場はオチないだろうし、(まし)てや「だっふんだ」では絶対に収まらない。

「き、貴様何をやっているんだッ! ここを何処だと思っている!」

「女子トイレさ! そんなことは僕だって痛い程解ってるんだよ。取り敢えず話を聞いてくれトイレでやることなんて一つだろう!」

「と、盗撮とは見損なったぞ!」

「バカかお前は! 何で一番にそれが出てきたんだ!」

 五月雨が「盗撮──」と小さく呟いて顔を歪めたのが僕には判った。

 心が折れてしまいそうだ。

「ヘイなっちー、どうしたんデース? ──ワオ! テートク見つけました!」

「金剛油断するな。此奴は提督などではない! ただの盗撮魔だッ!」

「だから違うって人の話聞けって!」

「What!? トーサツ──。でも──そんなテートクだって私は受け止めますヨ?」

「嘘だろすげぇな懐深すぎだろ! 妙なタイミングで金剛の株上がったわ!」

「ええぃっ黙れッ! 提督ともあろう者が艦隊の風紀を著しく乱しておいてただで済むと思うなよ! よ、よりにもよってスカトロジーとは──」

 那智は顔を紅潮させてわなわなと身を震わせていた。

 いつもは凛として才媛を地で行く彼女だが、こういった方面にはとことん弱いのかもしれない。

 一人で盛り上がっちゃってるし。

「那智、取り敢えず落ち着こう、な?」

「落ち着けると思うかッ」

「なーに騒いでんのー?」

 蒼龍がドア枠から顔だけ出してこちらを覗き込んだ。

「わっ提督、何してんのよ!」

 ──また話がややこしくなる。僕は顔面を手で覆って項垂れた。

「蒼龍、驚くのは解るし僕がここに居るのは異常な事態だって十分に理解している。だけどまずは話を聞いてくれないか──」

 怒りに我を忘れている那智、怯えた五月雨、何故か嬉しそうな顔をしている金剛を見て、蒼龍は何かを察してくれたようだった。

「──解った。那智、ここは私に任せてよ。金剛も五月雨連れて先行ってて」

「ずるいデース」

「襲われるぞ」

「襲わないよ」

「大丈夫だって。今日は主役の私を立てるってことで──ね?」

 金剛は割と素直に五月雨を連れて、那智は幾らか逡巡した後で敵意の込もった視線を残し場を去って行った。

 トイレには、僕と蒼龍だけが残った。

「──ちょっと提督、何があったのよ」

「助かったよ──恩に着る」

 僕は現在に至った情けない一連を蒼龍に話した。それを聞いた蒼龍は心底呆れたという表情で僕を見る。

「──もう大人でしょ? お腹が痛くて我慢出来なかったのは仕方ないにしても、そんなに冷たい物食べたらどうなるかなんて判るじゃない」

「美味しかったんだもの」

「それが子供だって言うの」

 本当にもう、と言った後で蒼龍はハッとした。

「──ちょっと待って。ずっとここに隠れてたって?」

「うん、そうだけど」

「──私が入った時も?」

 あ。

「い、いや、えーと──それは何て言うのかな──」

「居たのね?」

「そ、それは難しい問題じゃない? 居たと言えば居たし居なかったと言えば居なかったような感じって言うか──世界は白黒はっきり出来る単純なことばかりじゃない気もするじゃない?」

「居たか居ないかだけで答えて」

「居た」

 蒼龍の顔が瞬間的に赤くなる。

「やだやだやだぁ! 何考えてんのよこの変態ッ」

「仕方ないでしょ! どうしようもなかったんだもの!」

「女の子にとってどれだけ恥ずかしいことか判ってるの!」

「大じゃなくて良かったと思ってよ」

「信じられないッ! 絶っ対に許さないんだから!」

 失言だったと流石の僕も気がついた。蒼龍に敵に回られたら本当に「死」が見えてくる。

「ごめんっ。今のはデリカシーに欠けてた。謝るよ、この通り」

 頭を垂れる僕に対して、蒼龍はプイと顔を背ける。

「知らない。那智にもみんなにも言っとくもん、提督は救いようのない変態でしたって」

「やめて僕死んじゃう! 許してよ何でもするからッ」

 何でも、というワードに蒼龍の態度が軟化した。

「──反省してる?」

「してる。こんなに反省したことない。ホントにない」

「何でもしてくれる?」

「何でもする。もちろんする」

「ふーん。じゃあさ──」

 幾らかの間を置いて、蒼龍が突然寄り添ってくる。

 何が起きたのか状況を把握出来ずに固まっていると、やがて蒼龍は耳許で、

◯二◯◯(マルフタマルマル)に、下のお風呂で──」

 と蠱惑的に囁いた。

 

 

            ※

 

 

 深夜二時。僕は憧れの入渠ドックで湯船に浸かっていた。

 感想としては「艦娘が羨ましい」の一言に尽きる。広いし綺麗だし湯加減も最高だし、それでいてその豪華さが押し付けがましくないと言うか、非常に落ち着いた雰囲気なのである。品が良い、という言葉がしっくりくる。これなら日々の生活にも馴染むというものだ。

 夕方突然の体調不良に見舞われた躰も芯から癒されるような気がする。僕は艦娘ではないからドックで修復されることはないのだろうが、風呂は命の洗濯なんて言うくらいだから十分に効果はあるのだろう。設備の縮小を提案しかけた僕に、大淀が静かなそして確かな圧力で応えたのもよく解る。

 

 ただ、何と言うか──。

 落ち着くのだが落ち着かないと言うか──。

 

 正直歓迎会も上の空だった。白露達も加賀も妙に歌が上手かった記憶はあるものの、心ここに在らずの状態で終始惚けていたように思う。現在もこんな広ーい湯船で、何で膝を抱え縮こまって入浴しなければならないのかと思うのだが、率直に言ってとても緊張している。

 期待もしている。期待している自分に嫌悪感も抱いている。同僚(部下、と呼ぶべきなのかもしれないが僕は軍人ではないし、彼女達も僕のことを上官とは捉えていないだろうと思う)であり世界を守る最後の砦でもある彼女達に何て穢らわしい劣情を持っているのか、と。

 一方で不安もある。あの言葉が聞き間違いではなかったか、それとも僕は騙されていて「この変態クソ提督!」と奇襲を仕掛けられ血祭りに上げられるのではなかろうか、と。

 いや、彼女はそんな娘ではない。僕を騙す筈がない。

 ──と言うことは。

 期待、自己嫌悪、不安、自己解決、そして再び期待。

 ドックに浸かってからというもの、僕はこの地獄の思考サイクルから抜け出せずにいる。

 あぁ、湯ではなく妄想で逆上(のぼ)せてしまいそうだ。

 もう上がってしまおうか、さっさと床に就いて全て忘れて眠ってしまおうか。

 そんな考えが頭をよぎったその時。

 

 戸がカラカラと音を立てた。

 

「──あ、ちゃんと来てくれたんだ」

 僕は反射的に躰を湯船に深く沈めた後、腰のタオルがズレていないか確認する。

 一瞬視界に映った蒼龍は、バスタオルを巻き髪を下ろしているようだった。

 

 ──凶悪なまでに、魅力的な光景だった。

 

「そ、蒼龍が来いって言ったんだろ」

「ふふ、照れちゃって可愛いんだー。ちょっと待っててね」

 仕切りの向こうから、ばしゃばしゃと湯をかける音が反響して聞こえてくる。

 

 

 音。水音。夕方の記憶──。

 

 

 あーいかんいかん。考えちゃいかん。壁を一枚隔てた向こう側で蒼龍が──とか考えちゃいかん。あー目を閉じたらさらにいかん。聴覚が鋭敏になり過ぎていかん。あー。

 僕がそんな風にバカ丸出しで悶絶していると、水分を含みより密着したタオルに包まれた蒼龍が姿を現しこちらへ歩み寄ってくる。そっと湯船に伸びる脚が、何とも艶かしい。

「あぁ、気持ちいい。ちょっと提督、腰引けてんじゃないの?」

「うるさいなっ」

 僕は目を逸らす。全く直視出来ない。

「──だいたい、何で一緒に入らなきゃいけないんだよ」

「何でもしてくれるって言ったじゃない」

「言ったけどさ、こういうことじゃなくない? もっと、ほら──何か買ってくれーとか、休み寄越せーとかさ」

「──ダメ、だったかな?」

「いや、ダメじゃないけど──」

「だって、私達が着任してから提督も艦隊も忙しかったでしょ? 考えたら提督としっかり話したことないかもなーって」

「うん、まぁそれは──ね。でも、話だったらいつでもするよ。話が出来ない程、忙しくはないから」

「ホントに? 執務室遊びに行ってもいい?」

「もちろん」

 やった、と小声で蒼龍が呟く。そもそも執務室は遊びに来るところじゃない、などと訂正する真っ当な了見は失って久しい。ウチの執務室では年がら年中誰か彼かは遊んでいる。

「でも、何となく話し難いことってあるじゃない? こういう場だったら、ちゃんと話せるかもって──思ったんだけど」

 蒼龍の様子が、いつもと違うように思えた。落ち込んでいるという訳ではなさそうだが、底抜けに明るい平素の彼女ではなかった。

「あぁ、そういうことか──。確かに執務室だと話し難いってことはあるかなぁ。何かあった? 僕で良かったら、何でも聞くよ」

「変なこと聞いちゃうかも」

「今更気にしないって。一緒にお風呂入っちゃってるんだから」

「ホントに?」

 そう言ってから、少し間が空く。

「提督、私達って──どうして生まれたのかな?」

「どうして?」

 僕は、この風呂で初めて真面に蒼龍を見た。

 蒼龍は、ほんのり顔を赤らめて俯いている。

「こうして人の形に生まれ変わって、深海棲艦と戦って──何でかなって。あ、別に不満がある訳じゃないし落ち込んでる訳でもないんだよ? ただ、ちょっと──そんなこと考えちゃう時はあるかなぁって──。提督はそういうことない?」

「あるよ」

「ある?」

 鎮守府に着任するまでは、そんなことばかり考えていた。

「うん。でも、答えが見つかったことはないよ。答えがないこと──って気がするな」

「ない、のかな」

「例えばだけど──蒼龍達は深海棲艦を倒す為に生まれて来たんだって仮定してさ、じゃあ深海棲艦を倒し切ったらもういなくなってもいいのかって、そういう話になるじゃない? 違うでしょ、それは」

 そんなの、僕が嫌だ。

「だから、生きることに絶対的な理由とか意味とか、ないんだよ、多分。その時々で、それらしいことに納得出来るか出来ないかってことはあると思うけど」

「提督は、今の状態に納得してるの?」

「してるよ、それなりにね」

「それなりに、なんだ──」

 僕は少しだけ嘘を吐いた。

 実際のところ、みんながいれば他に何もいらない。

「でも、納得出来るか出来ないかって考え方は解るかな。私も──あの、提督──今から言うこと笑っちゃダメだよ?」

「笑わないよ」

「あのね、自分が生まれ変わったのは何でなんだろうって考えた時にね、世界を守るぞーとか深海棲艦を倒すぞーってのも悪くないんだけど、私の中で、一番しっくりくるのは──」

 蒼龍が、湯の中でそっと僕の手を握った。

 

「提督と逢う為に、って理由だったりする」

 

 蒼龍と視線が重なる。

 湯から湧き上がる水蒸気が、より密度を増した気がした。

 

「──私、提督に逢う為に生まれ変わったんだよ。きっとそう。提督は──どう思う?」

 蒼龍の潤んだ瞳を見ていると、何だか心まで丸裸にされてしまいそうな感覚がする。いつもならセンシティブに過ぎる「異常接近警報装置」が作動しない。一先ず距離を置く、という選択肢は湯気に紛れて消散したようだ。

「僕も、みんなと逢う為の人生ってことだったら、納得出来るかな」

「みんな?」

「──蒼龍って言い換えてもいいよ。ただ僕は、ほら──提督だから」

「ふふ、可愛い。でも提督は、国や世界を守る為の人生じゃなくていいの?」

「僕は国っていうのがよく解らないんだよ。地元とか、故郷とか、家族とか、そういうのだったら解る。でも、国ってなった途端に解らなくなる。況てや世界なんて──。それでいいのかって問題はあるだろうけど」

「それでいいんじゃない? みんな、大切な人の為に頑張るんだよ」

「それは、解るよ」

「提督も私達の為なら、頑張れるでしょ?」

 そう言って微笑する蒼龍を正視して、僕は躊躇(ためら)いもなく言った。

「みんなの為なら死ねるよ」

 本当のことだからと言って、何でもかんでも話せる訳じゃない。しかし、この場では胸の内に隠している方が不自然だった。

 蒼龍の顔が、より紅く見えた。

「私達、相思相愛だね」

 蒼龍は胸許のタオルに手を掛け、僕に寄り掛かる。

 蒼龍の濡れた髪が、僕の肩を(くすぐ)るように撫でた。

「ねぇ、提督──愛し合おう? 二人とも、溶けて無くなっちゃうくらいに──」

 蒼龍の顔が接近する。

 そして、僕も吸い寄せられるように。

 そうすることが、自然なことのように──。

 

 

「そこまででち!」

「どわぁっ!」

 

 

 反射的に僕と蒼龍は離れた。

 左舷前方二メートルくらいのところで、伊58が湯から顔だけ出してこちらを睨みつけていた。

「び、びっくりしたぁ! ゴーヤ何やってんだよ『地獄の黙示録』みたいに出て来やがって!」

「入渠でち! 帰投して疲れた躰を癒してたところでち! 何やってるなんてこっちの科白(セリフ)なんでち不純異性交遊でちーぃっ!」

 いかん。始終を見られていたようだ。

「お、落ち着け興奮すんなって」

「それもこっちの科白でちッ。提督が入って来て驚いてたら蒼龍とイチャコラし始めるなんてどういう拷問なの! 訴えてやるでち!」

 それは絶対に阻止せねばなるまい。

「ゴーヤ、これはその──誤解って言うか、私と提督はそういう関係じゃないのよ? だから、その何て言うかな──一時の気の迷いって言うか、みんなには黙ってて欲しいって言うか──」

 ゴーヤは僕らを怪訝な目で見る。

「蒼龍も蒼龍よね。傍目には蒼龍からそっちの方向に持ってった感が否めないでち。──計画的犯行?」

「やだやだやだぁ! 変な分析はやめて!」

 顔を真っ赤にした蒼龍は、最早轟沈寸前で戦力としての機能を失っていた。

 潜水艦相手には分が悪い。

「提督、ゴーヤは回りくどい話が嫌いだよ。このことを口外しないとなるとそれ相応の対価が必要になるよね。そちらの誠意を見せて欲しいでち。──ちなみにゴーヤは口が軽い方でち」

 それは紛れもない脅迫だった。

「──特別休暇を一日やろう」

「この交渉は終わりでち」

「待てッ! 自分の存在を秘匿し続けたゴーヤにも責任はあるだろうよ!」

「潜水艦としては当たり前よね! 対潜哨戒を怠ったそちらの責任でち!」

「何で風呂でそんなことしなきゃいけないんだッ! 風呂と海の区別がついてないそっちの責任だッ」

「もういいでち」

「さ、三連休でどうだッ!」

 潜航しかけたゴーヤがピクリと止まる。

「──五連休」

「無理言うな。三連休だって十分キツいんだぞ」

「じゃあ四連休」

「──あ、あのな」

「譲るつもりはないでち。さぁ選ぶでち。艦隊から私刑(リンチ)を受けて惨殺されるか、日々通商破壊に勤しむゴーヤに細やかなる四連休と新型酸素魚雷を優先的に配備するか。──さぁ、選ぶでち!」

 何か増えてるし。

 確かに、この場合の被害者はゴーヤだ。恐喝については事態が沈静化してからまた取り上げるとして、取り敢えず現時点で主張の正当性はゴーヤにある。

 背に腹はかえられない。

「──解った。それで手を打とう」

 湯から顔は半分くらいしか露出していないが、ゴーヤがニヤリとほくそ笑んだのが判った。

「いい取引が出来たでち」

「──絶対に言うなよ。解ってるよな」

「心配はないでち」

 何だかゴーヤが小悪党みたいに見えてくる。映画だとこういうキャラってすぐ死ぬんだよな、などと思いつつそのまま数秒が過ぎる。

 変な間に耐えられず僕は言った。

「──風呂から出ないのか」

「二人と違ってタオルなんか巻いてないんでち!」

「あぁ、ごめんごめん! 僕はもう上がるよ!」

 僕は急いで立ち上がる。

 あぁ、今日は何て一日だったのだろう。

 精神的に疲れた。本当に疲れた。

 これから蒼龍とどう接しよう。那智はまだ怒ってるよなぁ。五月雨は今後僕と話をしてくれるだろうか。ゴーヤの四連休は大淀に何て説明しよう──。

 幾つもの懸念材料が何の解決策も与えられぬままに頭を通り過ぎて行く中で、湯船から躰を離脱させたその時、

「──提督」

 と蒼龍が小さく呟いたのが聞こえた。

 僕は聞こえない振りをして、蹌踉めきながら出口へと歩を進める。

 

 僕は、確かに逆上せていた。

 それが湯の所為(せい)ではないことも、また確かだった。

 

 

            ※

 

 

 執務室、一二五五(ヒトフタゴーゴー)。午後一時五分前。

 僕は執務机に頬杖をついて呆けていた。

 今日の艦隊業務は一部を除き午後からだ。昨日の宴会が朝まで続くのはやる前から明らかだったし、実際二次会場を食堂に移して◯九◯◯(マルキューマルマル)までやっていた。

 まぁ、こんな日があってもいい。緩めることが出来ないのなら締めることも出来ないし、気を張り続けたところで深海棲艦の動静に影響はない。来る時は来るし来ない時は来ないのだ。

 僕がそんな危機管理のキの字もないようなことを考えながら欠伸(あくび)をしていると、執務室のドアがノックされた。

「提督、おはようございます」

 秘書艦の大淀だ。

「おはよう」

 大淀は僕の表情を一瞥し、自らの席には着かずこちらへ歩み寄って来た。

 多分、徹夜していることはバレている。

「──何時まで居たんですか?」

「九時まで」

「本当にもう。お酒は──飲んでいないようですけど、何だか、すごく疲れてません?」

「判るかな──。実は寝てないんだ。眠れなくてさ」

「仮眠をとられた方が──」

「いや、大丈夫。そんなんで迷惑かけてられないよ。一日くらい、なんてことないさ。──ふぁあ」

 また一つ大きな欠伸をすると、大淀は眼鏡を軽く持ち上げて溜息を吐く。

「──ドックになんか入るからですよ」

 

 ──は?

 欠伸が途中で強制的に中断される。

 大淀は今、何と言った。

 

「ど、ドックって──」

「入渠ドックには修復材が入ってるんですよ。私達はともかく、提督にはどんな作用があるかなんて判らないんですからね。危険──ってことはないでしょうが」

 何故、知っている。

「お、大淀?」

「はい?」

「な、何で──。その、ドックって──」

「何でも知ってますから」

 大淀は微笑んで言う。

 そんな怖いことをそんな素敵な笑顔で言うな。

「な、何でも?」

「何でもです」

「何処まで知ってる?」

「何処までもです」

「──全部?」

「全部です」

 僕は眉間を押さえて目を瞑る。

 いかんいかん。寝不足で頭が回らん。落ち着け、これはハッタリだ。いくら大淀が優秀だからと言ってそんな訳がない。それこそMI6やCIAじゃないんだから。落ち着け、騙されるな。

 僕は大きく息を吐く。

「──嘘でしょ?」

「嘘なんか吐いても良いことありませんよ」

 訝しむ僕の目線に半ば呆れるように、大淀は中空に視線を漂わせた。

「──私達どうして生まれたのかな、提督に出逢う為に生まれたんだよ、みんなの為なら死ねるよ、私達相思相愛だね、愛し合おう二人で──」

 大淀は無感情に早口で言う。

 そ、それは──。

 

 ドックでの蒼龍との会話じゃないか!

 

「や、やめてッ! 大淀、解ったから!」

「本当に解ってくれてます? トイレで盗撮魔に認定されかけた提督さん?」

 こ、こいつ──。

「解った──。すっごく解った」

「何が解ったんですか?」

「大淀が素晴らしく聡明で美人で諜報機関みたいだってこと!」

「──それ結果的に褒めてないですよ」

「僕なりに褒めてるの。だいたい何でそんなことまで知ってるのさ!」

「歓迎会の席で那智さんから報告を受けましたし、入渠ドックでのお話はゴーヤさんから今朝普通に聞きましたけど」

「あいつ本ッ当に口軽いな! 隠す気ゼロじゃん!」

 錘に括り付けて沈めてやろうか。

 まぁ潜水艦なんだけど。

「困った方ですね。女子トイレに侵入したかと思えば、次は女風呂ですか──」

「──だからそれには事情が」

「私だって、全部知ったうえで我慢してるんですからね」

「な、何を?」

「ほら、解ってくれてないじゃないですか!」

「何だよ急に」

 何故か大淀の機嫌が悪化する。

 気が付かないままに小さな地雷を踏み抜いてしまったらしい。

「羨ましいなぁ、蒼龍さん」

「お、大淀何を──」

「私だって秘書艦として頑張ってるんですよ。提督とのお付き合いだって、雪風と同じで一番長いのに──」

 大淀は判り易く拗ねる。

「──青葉さんに、言っちゃおうかな」

「絶対ダメでしょ」

「じゃあ──」

 大淀が俯いたまま机を回り込んで僕の傍に来る。

 右手を小さく数度動かして、僕に立てと催促した。

 大淀の意図が理解出来ないまま指示に従って起立する。

 

 突然、大淀との距離が縮まったと思うと──

 僕の頰に、彼女の唇が柔らかく触れた。

 

 

 一瞬のようで、永遠にも感じられた特異な時間感覚の中、僕の頭は初期化されたみたいに真っ白になる。

 ゆっくりと離れた大淀の顔は、少し紅かった。

「今はこれで、許してあげます」

 そう言って、大淀は小走りで秘書艦の席に着く。

 

 僕は呆然と立ち尽くしていた。

 何がどうなったかは辛うじて理解出来るものの、何故、どういう経緯でそうなったかが理解出来ない。

 ふと大淀と目が合って、すぐにお互い視線を逸らす。

 頰に残る唇の感触が、僕の意識を束縛していた。

 僕は、未だに逆上せているようだ。

 

 女所帯の鎮守府に男一人が混じって共同生活を送るのは──

 本当に大変な困難を伴うのである。

 

 

 執務なんて、手に付く訳がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六話『僕と平和とシーフード』

 

 

 

 

 平和──だと思う。

 いや、平和だと──思ってしまった。

 柔らかな陽光を受けて、風に揺蕩(たゆた)う樹々の緑を見ているとそんなことを思ってしまう。実際のところ、世界は平和でも何でもないのに。

 こうした状況認識の甘さを自覚する度、僕は自分が嫌になる。

 船団護衛や哨戒任務から帰還した艦娘達は、一様に元気よく「ただいま」と言って屈託のない笑顔を見せてくれる。作戦中、死の恐怖や凄惨な現実と向き合っていたことを感じさせることもなく、だ。

 僕はそんな彼女達に甘えている。だから艦隊の指揮官に有るまじき愚かで能天気な感想を抱く。深海棲艦(しんかいせいかん)によって家族や故郷を失った人々だって大勢いるのに。

 何が平和だと、心のうちで自らに毒づいた。

 

 

 弛んだ思考を振り切るように(まぶた)を押さえて首を数度横に振る。窓の外から室内へ視線を移動させると、すっと背筋を伸ばして執務に取り組む大淀(おおよど)が見えた。猫背の僕とは対照的で、その姿は凛として気品を感じさせた。

 あの一件以来──大淀に頬に口付けをされて以来、僕は大淀と真面(まとも)に向き合うことが出来ずにいるのだが、その後の彼女を見る限りどうやら僕が一方的に意識しているだけらしい。書類の不備を指摘される時とか、執務の合間にお茶を淹れてくれる時だとか、お互いの距離が近くなって僕が思わず赤面していたりすると、大淀は「どうしたんですか、具合でも悪いんですか」とでも言いたげな表情でこちらを見てくる。

 

 

 ──これ、反応として正しいのは僕の方でしょう。

 

 

 気にし過ぎと言われればそうなのかもしれないが、頬にキスという行為は僕のような日陰者にとって日常の一コマでは有り得ない。大淀の様子を見ていると、あの口付けは僕の妄想だったのではないかと本気で疑ってしまう程だ。あれ何だったの、と直接尋ねる訳にはいかないだろう。僕にだって一応デリカシーはあるし、何よりそんなことを聞いた時点で僕の負けのような気がする。

 まあ、そもそも──そんな勝負は存在していないのだけど。

 ふと、大淀が僕の視線に気付いて顔を上げた。

「──どうされたんですか」

「あ、いやぁ。何でも」

 何処かばつが悪いように不自然な対応をしていると、やがて彼女は穏やかに微笑んだ。

「集中力が切れてますよ。お茶でも淹れます?」

「あぁ、頼むよ。有難う」

 今お持ちしますねと言って、大淀は席を立った。

「あ、あのさ──」

「はい?」

 自分でも何を言いかけたのか解らない。途端に頭が真っ白になって、空間には()わりの悪い沈黙が訪れた。

「あ、いや、違うんだ。その──気にしないで」

「気になりますよ。本当にどうされたんですか」

「ごめんごめん。大丈夫だから」

「そう言って本当に大丈夫なこと(ほとん)どないじゃないですか」

 大淀がこちらへ歩み寄って来る。

 

 あぁ、お願い来ないで。

 いや、本当は来て欲しいのだけど。

 ──どっちだ。

 訂正。

 今は──来ないで。

 

 執務机を挟んで彼女は立ち止まった。

「最近ぼうっとされていることが多いです。提督、何か気に病まれていることでもあるのですか?」

 上体を(かが)め、やや上目遣いでこちらを覗き込む大淀の破壊力は凄まじく、僕はより一層言葉に詰まってしまうのだが、それと同時に隠し事をするのも無駄な抵抗のように思えてくる。「お前が可愛過ぎて生きるのが辛い」などと言ってしまって大淀は引かないだろうかと一抹の不安は残るのだが──いやまあ確実に引くとは思うのだが、もう観念して全て吐いてしまった方が楽なのかもしれない。

 一瞬の間に、感情の(たが)が緩む。

「大淀、あ、あの時さ──」

 そう言いかけたその時──コンコン、と執務室のドアがノックされた。

 間が良いのか悪いのか──。

 絶妙なタイミングでの妨害をどう評価したら良いのか迷っているうちに、大淀は後方を振り返りドアの方へ向く。僕も今は執務中だということを思い出して、気持ちを入れ替えるように咳払いをしてから、

「どうぞ」

 といつもより大きめの声で応えた。

 ドアが開く。

「失礼します吹雪(ふぶき)です」

「吹雪──どしたの。確か、今日は非番でしょ?」

 そこに居たのは特型駆逐艦一番艦の吹雪だった。今日十一駆は非番の(はず)だ。任務や演習の報告ではない。

 吹雪は早足でこちらに来て、小声で言う。

「司令官、緊急事態です」

 穏やかではない。

「何があったの」

「先程間宮(まみや)さんが食堂で倒れてしまって──明石(あかし)さんは過労だって言ってましたけど」

「間宮さんが──い、今の状態は?」

「今は医務室で休んでもらっています。幸い大事に至るようなことはないみたいですが、それでも三日程度は安静にしないといけないって、明石さんが」

「──そっか」

 前のめりになっていた上半身を倒して椅子の()(もた)れに身体を預ける。一瞬の緊張と緩和の後に、自己嫌悪の波が僕の感情を攫って行った。

 俯いて眉間を掻く。

「提督?」

「全然気が付かなかった。さっき昼に食堂で間宮さんと会話してるのに」

 ほんの数時間前の話だ。伊良湖(いらこ)ちゃんが居なくて大変だよねと声を掛けると、大丈夫です、お気遣い有難う御座いますと平素(いつも)と変わらぬ笑顔を見せてくれた。

 

 ──いや、平素と変わらぬ訳がなかったのだ。

 

 こんな腑抜けた人間が提督だから、間宮さんの疲労も見逃すし平和だなんて巫山戯(ふざけ)たことを思うのだ。

「提督、私もお昼に顔を合わせていますが判らなかったですよ。間宮さんは、お強い方ですから」

 そう言って大淀は僕を慰めるように苦笑した。

「そう、だね。僕が落ち込んでても仕方がないよね。吹雪、報告有難う。折を見てお見舞いに行くからさ、明石にそう伝えておいて」

「はい、それでですね司令官──夕食のことなんですが」

「夕食? あぁ、そうか。伊良湖ちゃんが休暇で居なくて、鳳翔(ほうしょう)さんが船団護衛か」

 折悪しく鎮守府の台所を任せられる人が(ことごと)く居ない。

「ううん、でもそれは仕方ないよ。間宮さんが元気になるか伊良湖ちゃんが戻るまで、皆で手分けして作ろう?」

「それは良いと思うんですけど──」

「何さ」

「さっき間宮さんが倒れたことを知って、比叡(ひえい)さんが──」

「比叡が」

「鎮守府の晩御飯は私が作ると──磯風(いそかぜ)ちゃんを連れて」

「磯風を連れて──」

 吹雪の言葉を反芻(はんすう)しながら、天井を見つめて事態の成り行きを予測してみる。

「ううんと──結構大ごとじゃない?」

「大ごとですね」

 そうだよね。

「だって料理に一番向いてない二人だもんね」

「一番向いてないですね」

「何でその組み合わせになったんだろ」

「今日の食堂当番です」

 当番。

 あぁ、そうか──僕の所為(せい)か。

 これは何かしらの手を打つ必要があると、アイコンタクトで僕等は多分合意した。三人で何度か(うなず)き合った後、僕はよしと言って立ち上がる。

「大淀、演習と訓練は全部中止。すぐに全員帰投させて。遠征に出てる艦隊と休暇で居ない伊良湖ちゃんの分を引いて──何人?」

「九十三名、提督を入れて九十四名です」

「有難う。それじゃあ九十四人分の晩御飯を今から大急ぎで掻き集めるよ。弁当屋でもコンビニでも何でも良い。最優先でお願い」

「了解致しました」

「吹雪、比叡と磯風は食堂かな?」

「は、はい!」

「僕は何とか思い止まってもらえるように説得して来るから、大淀はここで買い出し艦隊の指揮を執って。買い出し艦隊の旗艦は──」

 不意に吹雪と目が合った。

「吹雪、頼んでいい?」

「はい、勿論(もちろん)です!」

「良い返事だ。大淀、後はお願いね」

 そう言い残して僕は執務室を後にした。

 夕方に片足を踏み入れた半端な時間の廊下は、半端な明るさで覆われている。

 無人の廊下に僕の足音だけがこだましていた。

 落ち込んでいる暇はない。仕事が出来た。それが一見くだらないように思えることだったとしても、今の僕には良いことなのだと思う。没頭出来る。没頭出来るから、自分の無能さから逃避することが出来る。安心出来る──。

 

 全く。何て(たる)んだ考えだ。熟々(つくづく)自分が嫌になる。

 どれだけ平和だ──と声に出して吐き捨てた。

 

 

            ※

 

 

 夕方の食堂。

 僕は、カウンター越しに厨房の中を覗いている。

 吹雪の報告通り、中には比叡と磯風の姿が見える。割烹着と三角巾に身を包み、こちらに背を向けているから判り難い部分もあるが、多分その二人で間違いない。

 普段であれば、ここは小気味良い包丁の音と食欲を(そそ)る芳ばしい香りに包まれていなければならない場所だ。それが今は、何だか重苦しい空調の音と小火(ぼや)でも起こしたかのような焦げ臭い匂いに満ちていた。

 後姿だけを見ていてもぎこちない。危なっかしいなぁと思って見ていると、磯風の手が横に置いてあったボウルに触れて、結局それは落下した。ガッシャーンぐわんぐわんぐわんぐわん、という金属の振動音が厨房に鳴り響く。

 二人の作業が中断したのを見て、僕は暖簾(のれん)(くぐ)り厨房の中へと足を踏み入れた。

 

「比叡に磯風──何やってんの。大丈夫?」

「あっ、司令いいところに! こっちは大丈夫ですよ、中に何も入ってなかったですし。それより、間宮さんのこと聞きました?」

「うん、聞いた。負担かけ過ぎちゃったかな」

「何、司令が自らを責める必要はないさ。それに晩飯は私達が作るからな、安心しろ」

 妙に息巻いて磯風は言う。

 普段とは違い髪の毛を後ろで纏めているのが抜群に可愛らしい。そんな少女に向かって私達が作るから安心出来ないんです、とは中々言い難い。

「えぇと──それなんだけどさ、もう作り始めちゃってるところで申し訳ないんだけど、晩御飯は買い出しに行ってもらってるんだ。だから、無理はしなくていいよ」

「あぁ、そうなんですか。あ、でも全員分作る気は最初からなかったですから──というか作れる訳がありませんから、別に問題はないですよ?」

「司令だけでも食べてくれるのだろう?」

 多分、僕は少し悲しい顔をして苦笑した。

「いや、いいって。買い出しのお弁当とか余っちゃっても勿体(もったい)ないしさ。ふ、二人も今日は色々あって疲れたでしょ。ゆっくり休みなって」

「これが結構いい気分転換になるんですよ。司令の(ため)に気合入れて作っちゃいますからッ」

「ふん、この磯風に任せておけ」

 

 何だか話の雲行きが怪しい。

 もしかして僕が二人の料理を食べるのは確定事項なのか。

 

「な、何人分作るつもりなの」

「あー別にそこまでは考えてなかったですけど──磯風、どうする?」

「そうだな──司令、今夜帰投予定の艦隊はいるのか?」

「いや。次帰って来るのは明日の朝、妙高(みょうこう)隊が一◯◯◯(ヒトマルマルマル)の予定」

「明日の朝食はどうするんですか?」

「まぁ、食堂当番に御飯だけでも炊いてもらって、後は各自でおにぎりでも、さ。明日の当番は北上(きたかみ)大井(おおい)の筈だから、味噌汁くらいは作ってもらえるような気がするんだよ」

 食堂当番とは給糧艦の間宮さん、伊良湖ちゃんの補助が目的の当番だ。大体二人一組で持ち回り制である。北上は多分料理──というか家事全般興味はないと思うが、代わりに大井の料理の腕は折り紙付きだ。

「そうですか。じゃあ夜食も食べたかったら各自で用意してもらうとして──」

「司令の分だけでいいな」

「そうだね」

「ちょっと待ってッ」

 突然の大声に比叡の身体がびくりとした。

「──吃驚(びっくり)したぁ、何ですか急に」

「ちょ、ちょっと待ってよ。えっ、僕は二人が作ったものを食べるって、決まってるんだ」

「当たり前じゃないですか」

「嫌なのか?」

「い、嫌──」

 磯風の眼光が鋭くなる。

「──じゃないけどさ」

 はいダウト。

「では何の文句がある」

「えぇと、ほら──淋しいよ。一人で食べるのは淋しいから四五人くらい呼んでさ、皆でわいわいがやがやと食べたいかな。勿論比叡と磯風も食べるよね?」

 逃げることが出来ないなら少しでも多く道連れにしてやる。

「私達は遠慮します」

「出来れば味見もしたくないな」

「それは流石(さすが)におかしいよ」

 僕は何を食べさせられるんだ。

「違うんです司令。味見しちゃったら完成した時の予想が出来ちゃうじゃないですか。そんなの面白くないです。私達はわくわくしながら料理をしたいですし、わくわくしながら作った料理を司令に食べてもらいたいんです。それに何より、私達の料理は司令に、最初に──食べてもらいたいんです」

 少しの間を空けて、乙女心の解らん奴だと磯風が呟いた。

 何だか美しいことを言っているようだが、要約すると私達の玩具(おもちゃ)であれ──と、そう言っているのと変わりはない。

 

 僕は無意識のうちに唸り声をあげて頭を掻いていた。多分受け入れ難い現実を受け止める為の防衛反応の一種なのだと思う。

 

「どうしたんですか」

「──もう逃げられないんだね」

「逃げられないってどういうことだ」

「よし決めたッ」

 両手で頬を叩く。

 彼女達は基本的に頑固で言い始めたら止まらない。逃げられないなら大人しくその運命を受け入れて、よりベターな結果を求めるしかないだろう。

「解った、頂くよ。食べればいいんだろう? 食べるよ」

「自問自答怖いですって」

「いいから。それで何を作る予定だったのさ」

 要はそこが肝心だ。

 当たり外れの大きい献立(メニュー)を回避しつつ、出来るだけ作業に介入して結果を統御(コントロール)しなければならない。

「カレーだが」

 悪くない。

「カレーかぁ。カレーこそ一人分とか関係なく皆で食べれそうだけど──」

「私達もそんなに難易度の高い料理は出来ませんからね。カレーで我慢してくださいねっ」

 無視された。

(ちな)みにシーフードだぞ。我々が作るんだ。矢張(やは)り海に関係していなければな」

「そ、そっか。いやまぁ良いとは思うんだけどさ、シーフードカレーでしょ? この焦げ臭い匂い何?」

 そう聞いた途端に磯風の目が泳ぎ出す。

 こんなに判り易い反応が他にあるだろうか。

 多分後ろに何かある。

「ちょっと磯風、そこ退きなさい」

 違うんだ、と弁明を始める磯風を横に退かせる。

 彼女の背後には七輪が置いてあって、その上には何やら黒いものが乗っかっている。

 恐らく──魚だったものだろう。

「磯風、これ──どういうことかな」

「し、七輪は火力の調整が難しいのだッ。た、確かに見た目は悪いかもしれないが、味が悪いと何故断言出来るッ」

「別にそこまでは言ってないけど。これ、何の魚?」

「──(あゆ)だ」

「へぇ──」

 鮎。

 川魚。

「──シーフードって、言うのかな?」

 そう問うと比叡は、表情も変えずに首を傾げた。

 

 

 ──二時間後。

 僕と比叡、磯風の三人は、コトコトと鳴る鍋の前で何気もなく立ち尽くしていた。

 結局、大分手伝った。最初は僕が手伝うことを相当に嫌がっていたのだが、拒否されても厨房を立ち去らない僕に根負けしたのか、そのうち「司令は(きのこ)でも切っていてください」と自然に指示をくれるようになっていた。僕も料理など全く出来ないが二人共包丁の使い方も危ないし、放置していると何をしでかすか判らなかったので監視も兼ねて良かったと思う。

 焦げ付いた鮎が懸念材料ではあるけど、味もそんなに悪いことはないだろう。

 ネットに載っていたレシピを参考にしたから、素人以下の僕等でもそれなりに上手く出来ている筈だ。独自の道を行きたがる二人は、それすらも嫌がっていたけれど。

 どんな味がするのだろうな、と磯風が言った。

「だから、気になるなら一緒に食べよう? 不味(まず)いってことはないと思うよ。知らないけど」

 断言は出来ない。

「まあ確かに、これだけ手伝ってもらったら司令に御馳走って感じでもないしなぁ。せっかくだから、私もカレーにしよっかな」

「だってさ。磯風はどうする?」

「──司令がそこまで言うのなら、食ってやっても良いぞ」

「素直じゃないな」

 と僕が言うと、磯風は顔を背けた。

 それを見ていた比叡がくすりと笑う。

「どしたの」

「いや、その──普通だな、と思って」

「普通?」

 小さく頷く比叡の顔は、何処となく恥ずかしげに見えた。

「今日の私達、何か普通でしたよ。三人で慣れない料理して、作ったもの食べようなんて。凄く普通じゃないですか」

 

「──平和、だね。確かに」

 

 不意に出たその言葉に、心の中で舌打ちをする。

 またこれだ。

 彼女達の強さと優しさに甘えて、またそんな錯覚に陥ってしまう。

 良くないなぁ良くない良くない──。

 僕の思考が悪循環に(おちい)る一歩手前で、すっ、と比叡が一歩こちらに寄った。

「──司令、そんな顔しないでください」

「そ、そんな顔って何さ。別に、何でもないし」

「司令は何でもかんでも抱えようとし過ぎです。この鎮守府には大勢居るんですから、全員で分け合って行きましょう?」

 私は──。

「司令と居ると、平和だなーって思いますけど。だから、司令にも──同じこと思ってて欲しいかなーって、思います」

(しか)(つら)してるより、良いぞ」

 軽薄なくらいで司令はちょうど良い、と磯風が続けた。

 そうかい、と僕は答える。

 というより、その言葉以外出て来なかった。

 有難うなんて言ったら、泣いてしまったかもしれない。

「──そろそろ、良いんじゃないですか」

 と比叡が言う。

 僕はそうかいと再び答えて、火を止める。

 それと同時に、食堂が騒がしくなる気配がした。

 

 食堂の方を振り返ると。

 

「買い出し艦隊、帰投しましたッ」

 大きなビニール袋を下げた吹雪が、満面の笑みでそこに立っていた。

 

 

              ※

 

 

 医務室のドアを軽くノックする。

 どうぞ、と小さく声が聴こえたので、僕はゆっくりとドアを開けた。

「間宮さん、今いいかな」

「提督──大丈夫ですよ。どうぞ、入ってください」

 間宮さんはベッドで上体を起こし、本を読んでいたようだ。

 その本を閉じて優しく微笑む。

 僕はベッド脇の椅子に腰を下ろした。

「体調は、どう?」

「えぇ、お蔭様で大分良くなりました。それより、申し訳ありません。ご迷惑をお掛けしてしまいました」

「違う。それは違うよ。僕が悪いんだ。間宮さんの不調に気付けなかった僕が悪い。ごめん」

 僕は頭を下げた。

「そんな、やめてください。提督の所為なんかではないですから」

 間宮さんはそう言ってくれているが、今回の件に関して僕に責任があるのは間違いないだろう。彼女達は常日頃から任務に不満や文句を垂らしつつも、それでいて絶対に無理だとは言わない。何故なら。彼女達が無理だと言うことは、人類の終わりを意味するからだ。

 だからこそ、彼女達の体調や僅かな変化に敏感でなければならない。無理をし過ぎる彼女達を止めるのは、明らかに僕の仕事だった。

 ──唯一の仕事、と言っても良いかもしれない。

 僕はそれを見逃した。

 どう言葉を返せば良いのか判らず黙っていると、間宮さんが少し笑ったような気がした。

「──そう言えば、夕食はお弁当でしたね」

「うん、吹雪達に買って来てもらった」

「提督は、何を頂いたんですか?」

「僕は、比叡と磯風と一緒に作ったシーフードカレー」

「あら、大丈夫──だったんですか?」

 間宮さんもそういう評価なのかと僕は笑ってしまう。

「まぁそれなりにね。僕も手伝ったからさ。疲れたけど」

 料理って大変だねと僕は当たり前のことを言う。

美味(おい)しかった、ってことですね」

「──うん。美味しかったよ」

 間宮さんの味には遠く及ばないが、比叡と磯風と僕で一緒に作ったカレーだ。達成感も疲労感も想いも、全て調味料として混ざっている。不思議な美味しさだった。

「そう──ですか。何だか()けちゃいますね。私なんか()らないみたい」

「冗談言わないでよぉ。間宮さん居ないと本当に大変なんだから──」

 

 僕は上半身を倒して、頭をベッドに沈ませた。

 真新しいシーツの匂いと一緒に、間宮さんの香りが僕の鼻腔を(くすぐ)る。

 僕の頭を、柔らかい手が撫でた。

 

「──間宮さん」

「何ですか?」

 ゆっくり休んで──と言いに来たのに。

 僕は。

「早く帰って来て」

 と言ってしまう。

 間宮さんはころころと笑いながら。

「了解致しました」

 と、悪戯(いたずら)っぽく耳許で(ささや)いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七話『妖精さんのりくえすと』

 

 

 

 

 

「ウチはヤンデレ気味な奴が多いからなぁ──」

 刺されないように注意するといいぞと言って、長波(ながなみ)はビールを豪快に(あお)った。

「ヤンデレってあの──お兄ちゃん起きてる? ってやつかい?」

「妹に限らんけどな。まぁ間違ってはいないよ」

「うーん、そんな感じはしないけどねぇ」

 僕は、所属する艦娘(かんむす)が虚ろな目で包丁を持っている姿を一通り想像する。正直何人かしっくりくる娘がいたが、それは気の所為(せい)だと自らに言い聞かせて烏龍茶を口にした。

 

 

 ここは──居酒屋「鳳翔(ほうしょう)」。

 任務や訓練で疲弊した艦隊の心を癒す、鎮守府の憩いの場。

 

 

 奥の座敷で飛鷹(ひよう)千歳(ちとせ)千代田(ちよだ)と共にバカ笑いしている隼鷹(じゅんよう)はあまり疲れていないような気がするのだが、まぁそれはそれでいい。

 店内はそれ程広い訳ではない。しかし窮屈に感じる程狭い訳でもない。L字型のカウンターに六席、四人掛けの座敷が三席。詰めればもっと座れるだろうし、鳳翔さんが一人で切り盛りすることを考えれば丁度(ちょうど)良い広さと言えるだろう。

 カウンター席では、加賀(かが)瑞鶴(ずいかく)が恒例の小競り合いを始めていた。だったら離れて座れとも思うのだが、それを見守る鳳翔さんの何処(どこ)か嬉しそうな微笑を見ていると、案外二人は仲が良いのかもしれない。

 僕は、対面で胡座(あぐら)をかいて座る長波に視線を戻す。

 今日は近海警備で大淀(おおよど)が不在だった(ため)、長波に秘書艦をお願いしていた。執務の終わりに僕の「悩み相談」も兼ねて鳳翔さんの店に誘ったのである。しかし、僕は中々本題を切り出せずにいた。

 長波は少し余った袖を気にしつつ冷奴(ひややっこ)に手をつけている。頭髪の黒と桃色のコントラストも相まってその姿はとても愛くるしい。

「提督は鈍いんだよ。その割に節操がないし手癖も悪い」

「人聞きが悪いな。手は出してないよ」

「手は──って言ったな」

「その尻尾を掴みましたみたいな感じやめろ」

「自覚がなさすぎるんだよなぁ。あのさ──」

 長波はカウンターをちらりと一瞥(いちべつ)してから、顔を近付けて小声で言う。

翔鶴(しょうかく)なんて軽くノイローゼになってんじゃないか? ちゃんとフォローしてやらないから」

「翔鶴が? 何でさ」

「バカッ。声がでかいよ」

 カウンター席から強烈な視線を感じて九十度首を捻る。瑞鶴がこちらを思い切り(にら)んでいた。

「何か今翔鶴姉のこと言わなかった?」

「い、言ってないよ」

「本当に? 爆撃していい?」

「もう少し爆撃を正当化する努力をしろよ」

「瑞鶴、勘違いだよ。翔鶴じゃなくて昇格。格が昇るの昇格な。僕もそろそろそんな話があってもいいかなーって。あはは」

「提督さん軍人じゃないじゃない。臨時職員でしょ? 階級なんて──」

「ないんだけど」

「ないんでしょ? ないなら何でそんな話になるのよ」

 諦めてくれないなぁ。

「まぁまぁ、いいじゃんか瑞鶴。楽しく飲もうぜ」

「長波は黙ってて」

「何だァこの甲板胸」

「誰が甲板胸よ! だいたいアンタ駆逐艦の分際でデカすぎんのよ爆撃するわよ提督さんを!」

「何で僕だッ」

 一連のやり取りを冷めた目で見ていた加賀と目が合う。

「加賀、頼んだ」

「解りました」

 加賀は左手で瑞鶴の顔面を鷲掴みにした。所謂(いわゆる)アイアンクローという技だ。

「痛っ、いたたたたたたッ!」

「静かになさい。解ったわね」

「解りました、解りましたからッ。何これ凄く痛い! 痛っ、いたたたた顔が潰れる!」

 鎧袖一触ね──と言って加賀が手を離すと、瑞鶴は顔を抑えてカウンターに突っ伏した。

 長波と一緒に加賀に一礼して話に復帰する。

「んで、翔鶴がノイローゼって、何でだよ」

「翔鶴のこと好きとか何とか言ったろ?」

「言った──かなぁ」

 多分、正確には言ってないのである。確かに僕が翔鶴のことを好いているという噂が流れていたのは事実だ。それを翔鶴の前で特段否定しなかった、というのが正しい。

 

 好きだから、実際。

 

「そのクセ提督の方から何のアプローチもないもんだから、ちょっとばかし情緒不安定だぜ?」

「そう、だったのか」

「そうだぞ。この前の演習なんか艦載機飛ばした後、私も飛べるのかしら──ってずっと言ってたんだぞ。最終的には、飛べるわよね空母なんだしって訳の判らん着地してたんだからな」

「超ヤベぇじゃん」

「超ヤバいんだよ」

 僕は知らぬ内に翔鶴を追い詰めていたことに対して軽い罪悪感を覚えながら、軟骨の唐揚げを口に運んだ。

「──解ったよ。翔鶴については僕の方で何とかしとく」

「だいたい一人に絞ったらどうなんだ。誰にでも鼻の下伸ばしてさ」

「一人に絞る──とはどういうことかな」

「本命を決めろってことだよ」

益々(ますます)意味が解らないな。全員だよ。全員僕の艦なんだから」

「クズ」

「あざっす」

 霞みたいなことを言う長波にこれ以上ない程適当な返答をする。こちらを睨みつける長波の視線が痛くて、それを誤魔化(ごまか)すように烏龍茶を胃に流し込んでコップを空にした。

「鳳翔さん、烏龍茶お願いします」

「あ、こっちもビール」

「はい、少々お待ちください」

 僕の注文に便乗して長波もジョッキを空けた。

「えーと、何でこんな話になったんだっけ」

「提督が聞いたんだろ。艦娘も心を病むことはあるんだろうか、って」

「あー、そうだったね」

 我ながら遠回りだと思う。

「しっかりしなよ。久し振りに秘書艦やったけど、何か今日ぼうっとしてたぜ」

「最近大淀にも言われる」

「でしょ? 全く、執務ならまだしも身の回りの世話まで見なきゃいけないのか? あたし達は提督のママじゃないんだぞ」

「ママみたいなもんだろ」

「なっ──よく恥ずかしげもなく言えるよな、そういうこと」

 長波は顔を紅潮させた。

 僕だって全く恥ずかしくない訳ではないが、実際そういう面はあるのだから仕方がない。姉御肌の長波なんかは特にそうだ。

 

 いや、しかし──。

 

 目の前の長波は見た目で言うとローティーンだ。

 そんな少女に向かって「ママみたいなもんだろ」は流石(さすが)に──。

 ほんの僅かの時間経過でその倒錯性や犯罪性が露呈してくる。僕は、動揺を隠すように空のコップを所在なく(もてあそ)びながらやや早口で言った。

「それで艦娘も心を病むことはあるの」

「んあ、まぁ──結論から言えばあるよ。さっきの翔鶴の話聞いても解るだろ?」

 長波も空のジョッキを突いたりして落ち着かない。

「ただ、あたし達は艦だった頃の記憶も持ってたりするからさ。その分、精神的に強かったり──まぁ(もろ)かったりする訳だけど。でも、そういったトラウマっていうか、強烈な体験とどう付き合っていくかなんて人間と変わらないよ」

「まぁ、そうだよねぇ」

 艦娘は皆、あの大戦を経験している。中には深雪(みゆき)のような特殊な例もあるが、それでも激烈な体験に変わりはない。彼女達はそうした過去と様々な形で向き合いながら、努めて前向きに明るく振舞おうとする。

「何か、悩んでることでもあるの?」

 長波のその一言で、僕はようやく本題を切り出すことが出来そうだった。

「いや、艦娘のことじゃなくて──僕のことなんだけどね」

 彼女達が抱えている過去や現実に比べれば、僕の悩みなんて大したことはない。

「提督のこと?」

「うん、僕のこと」

 

 本当に、大したことはないのだが。

 如何せん、バカげている割に解決方法も判らないし場合によっては深刻というか。

 

「見えるんだよ」

「何が」

「何かは判らない」

「幽霊的なことなのか?」

「幽霊じゃない──と思う」

「ハッキリしないなぁ」

「ハッキリしないから困ってんの」

「それでも何かはあるだろ。足が透けてるとか透けてないとか。そもそも足はないとか足はあるとか」

「長波、笑わないでね」

「笑わないよ」

「あと病院にも連れて行かないで」

「それは内容次第」

「うっ」

「何で泣きそうになるのさ! 解ったよ連れて行かないから、な? あぁ、よしよし。提督は何処へも行かないぞーあたしも何処にも行かないぞー」

 長波は身を乗り出して頭を撫でてくれる。やはり長波はママかもしれない。曲がりなりにも成人している身として思うところはあるが、この際虚勢は張っていられない。

 そうして駆逐艦にあやされていると、鳳翔さんが笑いながら烏龍茶とビールを置いていった。

「最近の話なんだけどね。見えるんだよ。こんな、ちっさいのが」

 

 

 ──初めて見たのは、一週間前。工廠でのことだった。

 

 

 夕方の五時頃、だったと思う。

 長良、五十鈴、名取の使用する小銃(ライフル)型主砲の装弾不良に関して明石に意見を聞きに行ったのだった。頻発している訳ではなかったが、動作不良を起こしたのが前回と似たような状況下であった為、装備に何らかの欠陥があるような気がしてならなかったのである。

 工廠はガランとしていて、まるで廃墟のようだった。

 珍しく早い時間に仕事を終えて明石は(すで)に寮へ戻っていたことを後に知るのだが、その時はそんなことを知る(よし)もないから「明石いるのー」などと間の抜けた声を反響させつつ、工廠内をきょろきょろと見回していたのである。

 ふと、視界の隅を何かが横切った。

 大きさからして虫か鼠かと思ったのだ。

 しかし、目を凝らすとそれは虫でも鼠でもなく。

 

 

 ──小人だった。

 

 

 いや、小人がどういうものかよく知らないから「小人だった」と言うのも変な話ではあるのだが、それでもそれは何かと尋ねられたら「小人です」と言うより(ほか)ない程には小人だったのである。

 小人はダンボールのような箱を重ねて持ち、トテトテと歩いていた。やがて彼女(見た目から察するに少女であると思う)は放心していた僕に気付いたようで、持っていた箱を下ろし──驚くべきことに──僕に向かって敬礼をして見せたのである。

 呆気にとられていた僕も呆気にとられながら敬礼をした。すると小人は、再び荷物を抱えて工廠の奥へと消えていった。

 僕はその場で何分立ち尽くしていたか判らない。疲れているんだとか、寝不足なんだとか、理由を何とかこじ付けて「あれは幻覚だったのです」と自分を説得するのにたっぷり三十分は掛かっていると思う。

 しかし、そんな自己暗示も虚しく──。

 

 それからというもの、小人は頻繁に僕の目に映るようになった。

 

 廊下を普通に歩いていたり、桟橋で帰投する艦隊を待っている間も横に座っていたり、執務中も机に上ってきたり果ては頭の上や肩の上に居座ったり。別に悪さをする訳ではないから実害はないと言えばないのだが、地味に困るのが敬礼だったりする。

 小人達は僕と遭遇すると必ず敬礼をする。僕も無視するのは何だか気が引けるので返すことにはしているのだが、これがただの幻覚だった場合僕は周りからどういう目で見られてしまうのか怖くて仕方がない。礼儀正しくていいねとか、可愛らしくていいねとか、そういう問題ではないのだ。

 だから、僕はいつも敬礼する手をサッとやってサッと戻す。

 僕は自分がおかしくなってしまったのではないかと、この一週間気が気ではなかった。異常です、と判断されるのが怖くて、結局大淀にも相談出来なかった。

 

 そんな僕の話を、途中何度も笑いを堪えながら聞いていた長波がついに吹き出した。

「長波、笑いごとじゃないんだって。そりゃバカみたいな話だけどさ、僕だって僕なりに思い詰めてる訳でさ──」

「あぁ、解ってる。ごめんごめん。いやぁそれにしても、何処から話していいかな」

 長波は何かを知っているようだった。

「何処からって、どういうこと」

「うーん、そうだな。提督まず言っておくよ。その小人ってのは間違いなく──」

 

 

 ──妖精だぜ。

 と、長波は言った。

 

 

「ようせい」

「うん、妖精」

「えーと、森の精、水の精的な?」

「そう考えてもらって構わないよ」

「それは──そう考えた方が気が楽だよ、って解釈の話?」

「違う違う。実際にいるんだよ。だから提督の頭がおかしくなった訳じゃない。というか、その妖精がいなきゃ艤装(ぎそう)も動かないしあたし達の能力も発揮出来ない」

 ただのか弱い美少女だぁ──と言って長波はビールを飲んだ。

「そうかぁ。提督にも見えるようになったかぁ」

「何だよ感慨深げに。ってことは今までもいたの? その、妖精って」

「いたよ、もちろん。ただ」

「ただ、何さ」

「提督、そうなったってことは──もう本格的に逃げられないぜ」

 逃げられない。

「どっから」

「こっから」

「逃げるつもりは、更々(さらさら)ないけど」

「本当かぁ?」

「何で逃げられないのさ」

 んー、と短く(うな)って長波は焼き魚を一口食べた。

「妖精ってさ、本来人間には見えないものなんだよ。あたし達がこの世界に生まれ始めた頃──まぁ深海棲艦(しんかいせいかん)が暴れ始めた頃でもあるんだけど、当然国防軍やら訳の判らん研究機関やらにさんざっぱら調べられた訳だ。艦娘って何ですかって。確かに向こうにしてみたら深海棲艦と同じだからさ。未知との遭遇って意味では」

 あたし達は強いし──と言って長波は笑う。

「それで判ったんだけど、人間には妖精って見えてないんだよな。あたしがこれをこうして妖精がこれこれこうしてますって言ったところで理解してもらえないんだよ。例え話っていうか、はぐらかしてるように思われちゃう。バカにするな──って怒った奴もいたかな」

 長波は肩を(すく)める。

「だから、あたし達は人間に妖精のことを話さないって決めたんだ。疑念を深めるだけでいいことなんて一つもないから。提督も聞いたことないだろ?」

「ない。そんなこと、今初めて知った」

「でも、提督には見えるようになった。それはさ、妖精が提督を認めたってことでしょ。信用したっていうか。そんな人間、世界中回ったところで他にいないぞ。ってことは──だ」

 長波は箸で僕を差した。

「あたし達が逃がさない。みんなこれでも遠慮してたんだぞ。提督は元々一般市民でさ、成り行きで鎮守府に来たとは言え戦争に巻き込むなんて気が引けるじゃんか。でも、これで(まご)(かた)なき『あたし達の提督』って証明された訳だ。一番最初に逢った雪風(ゆきかぜ)の豪運はどうかしてるな、本当に」

「問題はないような気がするけど」

 実際、みんなのことをより知れたような気がして嬉しいし、何より自分がおかしくなった訳ではないと判りとても安心している。

 だいたい、逃がさない逃げられない監禁してやる等の脅迫は既に経験済みだ。

 今更である。

「未練はないのか」

「特に」

「ふぅん。まぁ、このことについては黙っておくよ。バレたら大変なことになるからね」

「何でだよ」

「艦隊からのアタックが今まで以上に過激になるぞ。しかも同時にハーレム宣言ときた。渡りに船じゃん。いや、元から艦なんだけど」

「僕はそんな宣言いつしたのさ」

「全員俺のモンだ、ってさっき言ったでしょ」

「僕の艦だって言ったの」

「同じことじゃん」

「同じこと──なのかなぁ」

 と言って僕は笑う。

 やはり、安心したのだと思う。

 他人にとっては「バカみたい」と一笑に付す程度で済むような些細なことであっても、自分の正気を疑わなければならない事態というのはその当人にとって大ごとなのである。(まし)て形だけとは言え僕は一応艦隊の責任者だから、精神に問題ありと判定された時点で鎮守府に残ることは出来ないだろう。

 正直、それが一番怖かった。

 ここを追い出されて今更行く場所もないし、帰る場所もない。

 朝、低血圧丸出しの寝惚け眼で背中を丸める僕を叱咤する大淀も。

 昼、僕の昼食に大量の辛子を入れてその反応を窺う卯月(うづき)も。

 夜、周りのことなど気にも留めず鎮守府の安眠を妨害する川内(せんだい)も。

 そんな、(ささ)やかなこと全部含めて──。

 みんながいない日常など、想像もつかない。

 妖精、という存在を僕はまだ理解することが出来ていないのだが、長波の言うように見えるようになったことが彼女達に提督として認められた証だとするなら、そんなに嬉しいことはないし、それに応えるべく身を()にして日々努力するまでだ。

 

 

 そんな僕の一世一代の決意を余所(よそ)に──。

 奥の座敷では、赤い顔をした隼鷹が服を脱ぎ始めていた。

 

 

 飲んでいた烏龍茶がコップに逆流する。

「何やってんだ隼鷹!」

「提督ぅ、隼鷹じゃないよぉ。『ジュンヨウ100%』だよぉ」

「お前、さては全裸になって股間をお盆で隠す気だなッ!」

「丸腰艦隊です! ひゃっはー!」

「バカやめろ! あれは男の人だから成立するんだよ! お前の場合股間を隠せたところでおっぱいは見えちゃうだろ!」

「気にすんなってー。パーっと行こうぜパーっとなぁ!」

「気にするって! おっぱいは笑えないんだよ!」

 こればかりは仕方がない。男の全裸は笑えても、女性の全裸は不思議と笑えないのである。

 上着の(はだ)けた隼鷹の隣で、千代田が()わった目でこちらを睨んでいた。

「そんなこと言って、提督いつも私とか千歳お姉のおっぱい見て笑ってない?」

「それは笑いの種類が違うんだよ。千代田が言ってるのはニヤリ、みたいな気味が悪い方の笑いでしょ?」

 店内を妙に居心地の悪い空気が包む。その空気の原因について僕が気付いた頃には、見てねえし笑ってねえよ、と弁解する機会は()うに失われていた。まぁ、実際。

 ──()てるしわらってるし。

「い、いいんだよ千代田そんなことは。と、とにかくだ、鳳翔さんのお店で裸になるのはやめなさい隼鷹。それに多分、あの芸かなり難しいから。芸人さんだって、もの凄く練習してるに決まってるんだから。見えちゃったら面白くないの隼鷹だって解るでしょ?」

 練習したところでおっぱいは見えちゃう訳だから。

「えぇー。大丈夫だよぉ。飛鷹も爆笑だったし」

「完全に見えてたからね。お盆の意味まるでなかったもの」

 ほら。

「な? 『ジュンヨウ100%』はまだ練度不足なんだって。ちゃんと練習してから披露しようぜ? それにもったいないよ。こんなところで見せちゃうのはさ。──そうだ、今度新しい艦娘が着任したら、歓迎会でそのネタ頼むよ!」

 どんな鎮守府と思われるのだろうか。

「えぇー。絶対かぁ?」

「うん、絶対」

「──解ったよぉ。提督、んじゃ代わりに酒くれ酒ェ!」

「あいわかった。鳳翔さん、熱燗持ってってやって」

「了解です」

 事態がひと段落したようで僕が胸を撫で下ろしていると、長波は「くだらないなぁ」と言って笑い転げていた。その様子を見て僕も笑ってしまう。

 本当に。

「くだらないね」

「あぁ、くだらない」

 呼吸を落ち着けながら長波は目許を(ぬぐ)う。その後、笑いの波が数度押したり引いたりを繰り返してようやく、長波はビールを飲めるまでに回復した。

「いつまで笑ってんの」

「あー悪い悪い。ツボ入っちゃった──でさ、提督。さっきの話に戻るけど──」

「何さ」

 長波が居住まいを正す気配がした。

 

「あたしにも──チャンスはあるのか」

 

「何だいそれは」

 僕は笑ってそう答えた。冗談の続きと思えたからだ。

 しかし、長波の顔は真剣そのものだった。

 先程まで、あんなに笑っていたのに。

「あたしは本気だからな」

 長波は紅潮した顔をぐいと近付けた。

 僕は降参したように言う。

「解ったよ」

「逃がさないぞ」

「解ったって」

炒飯(チャーハン)作れよ」

「練習しとく」

 長波はやおら立ち上がって、テーブルを回り僕の横に腰を下ろした。

「何だよ」

「抱けよ」

「いや、抱けってそんな──」

「ギュってしろよ」

 長波は目線を合わさずに言った。

 らしくない彼女のしおらしい様子に戸惑いつつ、僕は長波と正対して両手を広げた。

 僕の胸に、長波がそっと侵入する。

 抱き寄せると同時に、長波はその全てを僕に預けた。

 温かい感触と、柔らかい香りが僕の感覚を支配する。

 鎖骨の辺りを、長波の息が(くすぐ)った。

「いいねぇ、こういうの。提督は──どうだ?」

「出来れば──ずっとこうしていたいかな」

「あたしもだ。ずっと──な」

 そう言って、長波は背中に回す腕により力を込める。

 僕も、それに応えるようにきつく抱き締めた。

 経験したことのないような安寧(あんねい)が、僕の心に充満していたその時──。

 

 

 一筋の殺意が、僕の頬を(かす)めて後方の壁に突き刺さった。

 

 

 顔を上げると、空間には敵意が横溢(おういつ)していた。

 生温い液体の感触が頬を伝う。

「大概にして欲しいものね。次は当てるわ」

 そう言って、加賀はこちらから目を離すことなく二の矢を(つが)える。

 その横では瑞鶴がありったけの憎悪を向けて、後方では鳳翔さんが仄暗(ほのぐら)い微笑を(たた)えて、それぞれ弓を手に攻撃準備を整えていた。祈るような気持ちで奥の座敷に目を向けると、千歳千代田は絡繰りを、飛鷹は巻物を手にして、こちらも同様臨戦態勢に突入している。隼鷹は先程の(くだり)で力尽きたのか、廃人のような状態になっていながらも酒は飲み続けていた。

 店内は僕達以外──客も女将も全員が空母だった。

「な、何ですか鳳翔さん。これは──」

「提督、困るんですよ? 他にもお客さんがいるのに、そういうことをされては」

「僕も困るんですが」

 瑞鶴が矢を放つ。

 その矢は鋭い音と共に僕の頭上二ミリメートル上空を通過して、店の壁を憎しみで深く穿(うが)った。

「ひっ」

「長波、提督さんを今すぐ離しなさいよ」

「やだ。あたしだけのもんだ」

「いい度胸してるわね。いいわ、死体袋が一つ増えるだけだもの」

「何て怖いことを言うんだ瑞鶴ッ!」

 四面楚歌のこの状況を打開すべく、平均を大きく下回る性能の脳味噌をフル回転させていると、テーブルの上を妖精がトコトコと走っているのが見えた。黄色のヘルメットを被り髪を後ろで纏めているその妖精は、僕が工廠で初めて遭遇した「彼女」に違いなかった。

 やがて妖精は僕の目の前で立ち止まり、手に持っていたプラカードを掲げる。

 そこには──。

 

 

「かんむすのみんなをよろしくおねがいします」

 

 

 と書かれていた。

 

 僕は身命(しんめい)()してこの鎮守府を守り抜くと心に決めている。

 その願いに附随する膨大な責任や困難だって、一生背負っていこう。

 

 ──しかし。

 

「それ今言うことかなッ?」

 タイミングが悪すぎるでしょうよ。

 だって今そのよろしくお願いされた「かんむすのみんな」に殺されかけてるんだから。

 僕が(なか)ば非難するような目で見ていると、妖精は不服な顔をしてプラカードをより前面に押し出した。

「あぁ解ったよ! 僕が守ればいいんでしょ。みんなは僕がしっかり守るから約束するから、とにかく今は助けてッ!」

 すると妖精は、気まずそうな顔をして静かに顔を背ける。

 

 

 えぇ──。

 

 

 僕が絶望に()(ひし)がれていると、決して広いとは言えない店内で──。

 順次、艦載機が発艦を始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八話『君と僕の承認欲求』

 

 

 

 

 

 深夜の医務室を、静寂が包んでいた。

 開け放たれた窓から、カーテンを優しく撫でるように風が侵入してくる。

 その風にも、音はない。

 唯一音を立てているのは、(せわ)しなく明滅を繰り返している蛍光灯くらいだ。部品が古くなっているのか、何かが細かく振動しているような──虫の羽音のような──そんな音を発している。しかし、それも煩瑣(うるさ)い訳ではない。ただただ、この空間の静寂に加担しているだけだ。

 もう電気など消してしまえばいいのかもしれない。この部屋にいる僕以外の二人は、寝ているのだし。

 でも、そういった気分にはどうしてもなれないのである。

 暗くなってしまうと──泣いてしまいそうな気がして。

 

 僕の眼前に横たわっているのは、翔鶴(しょうかく)

 その奥で、椅子に座りベッドにもたれ掛かって寝ている、瑞鶴(ずいかく)

 

 時折薄らと聴こえる二人の呼吸音が、僕の精神を何とか支えていた。

 こんな夜こそ、川内(せんだい)には騒いでいて欲しい。

 川内も空気を読んでいるのかもしれない。

 ──柄にもないこと、するなよ。

 

 

 二日前──翔鶴が大破した。

 

 

 哨戒任務中の出来事だった。

 翔鶴、古鷹(ふるたか)衣笠(きぬがさ)(おぼろ)秋雲(あきぐも)で編成された艦隊が、釧路沖約四◯◯キロメートルの海域で敵機動部隊と遭遇。(ただ)ちに航空戦へと突入した。報告書を読む限り、彼女達の対応に全く問題はない。実際、先手を打ったこちらの第一次攻撃隊の活躍で、敵艦隊の大部分を戦闘不能に陥らせることに成功している。

 しかしその時──敵空母の一隻を仕留め損なった。

 そしてこれは後になって判明することなのだが、その空母は──新型だった。

 対空射撃と直掩隊の防空網を掻い潜って、数機の敵雷撃機が翔鶴に接近。やがて敵の放った魚雷のうち三本が、翔鶴の左舷に命中した。

 

 ──救助に当たった国防軍の飛行艇により帰還した翔鶴を見て、僕は愕然とした。

 

 腕が捻れて逆に曲がっていた。

 破けた装甲の下の肉が削がれていた。

 彼女の美しい銀髪が、一部焼け焦げていた。

 

 僕達は今、戦争をしているのだと。

 僕も翔鶴も紛れもなくその渦中にあるのだと。

 逃れ難い現実を──まざまざと見せつけられた。

 

 その後入渠ドックで修復をしたものの、それから翔鶴の意識は戻っていない。

 明石はもう大丈夫だと言っているが、僕の心は恐怖に縛られたままだ。

 翔鶴を喪ってしまうのではないか。

 僕はこれからも、彼女達を戦地に送り出さなければならないのか──と。

 

 気が付くと、僕は泣いていた。

 情けなくて堪らない。自分のやっていることがどういうことなのかも、僕は全く理解していなかったのだ。提督、司令官、などと呼ばれているうちに、自分の中身までもがそれに相応(ふさわ)しいと錯覚し始めていたように思う。先日、艦娘と共闘し、艦娘にしか見えないと思われていた「妖精」が僕の目に映るようになった一件も、その勘違いに拍車を掛けていたのだろう。

 みんな、優しいから。

 本当に気が違ってしまいそうになる程、優しいから。

 僕みたいな、塵芥(ごみ)みたいな奴でも──。

 

 怒りが涙の流量を増加させる。

 せめて声を上げてしまわないようにと、俯いて歯を食いしばっていた──その時。

 

 

「──提督、泣いているのですか?」

 

 

 細く(かす)れた翔鶴の声がした。

「し、翔鶴──」

 翔鶴の左手が、ゆっくりと僕の頰に伸びて涙を拭う。

 僕は、その手を両手で握りしめた。

「翔鶴──良かった──」

「えぇ、私、生きているのですね」

「生きてるよ。本当に、本当に──良かった」

 そう何度も繰り返して、翔鶴の手を包み込んで額に当てていた。僕に信じる神はいないが、無意識にそうした存在への祈りを捧げていたのかもしれない。

「あぁ、ごめん。こんなことしてる場合じゃないよね。待ってて。今明石を呼んでくるから」

 立ち上がろうとすると、今度は翔鶴が僕の手を掴む。

「翔鶴?」

「あの、もう少し──こうしていてください」

「で、でも」

「私は、大丈夫ですから」

 僕は幾らか逡巡した後、翔鶴に従って椅子に座り直す。正直に言って僕もまだ彼女の手を握っていたかったし、彼女の存在を感じていたかった。

 静寂の中、視線が重なって照れるようにお互い目を逸らす。

「水でも、飲むかい?」

 翔鶴はゆっくりと(うなず)いて、すみませんと言った。

「何で謝るのさ」

 サイドテーブルに置いてあった水差しからコップに水を注ぐ。

「私、どれくらい寝ていました?」

「丸二日だよ」

「二日、も」

「うん、みんなが助けてくれたんだよ。それにしても、本当に安心した。はいこれ、お水」

 有難う御座います、と言って翔鶴は上半身を起こし、コップの水を一口飲んだ。

「あ、皆さんは──」

「みんなは無事。衣笠と秋雲が小破してたくらい。まぁ、秋雲は小破っていうか掠っただけだったけど。深海棲艦も残らず撃退出来たしさ。全部、翔鶴のおかげだよ」

「そう、ですか。良かった──」

 彼女の表情が一瞬和らいで、その後すぐに影が差す。

 翔鶴は、コップをサイドテーブルに戻した。

「でも、また足を引っ張ってしまいました」

「どうして」

「大破──してしまって」

「何をそんな──」

 提督、と言って翔鶴は僕の言葉を(さえぎ)る。

 

「私って──鎮守府に必要なんでしょうか」

 

 僕の手に添えられた彼女の手が、微細に握る力を強めた。

「何を──何を言うんだよ」

「私って怪我しやすいのかしら──瑞鶴と違って、作戦を終えると入渠してばかりで」

 翔鶴は右側で寝ている瑞鶴を一瞥(いちべつ)する。

「それに、周りの方々を見ていると自信を失くしてしまいそうになるんです。提督、赤城(あかぎ)さんなんて凄いんですよ。どうしてあんな戦い方が出来るのか解らない。烈風なんて見たこともない(はず)なのに、最初から自分の艦載機だったみたいに飛ばすんです。そんなのを見てしまうと、私って──何なんだろうって」

 翔鶴の目には涙が浮かんでいた。彼女が追い詰められていると長波(ながなみ)から報告を受けていたのに、僕は一体何をやっていたんだろう。

「翔鶴、まずは整理しようか」

 

 とりあえず、僕が落ち込むのは後でいい。

 

「ウチの鎮守府にいらない奴なんて一人もいない。というか、これは世界の何処でも同じ話。いらない人なんていない。人が生きるうえでいるいらないという価値観は適用出来ないしするべきではない。いいかな」

 自分自身に言い聞かせているようで僕は苦笑してしまう。

「組織って観点から見ると、いらない人のように思える人はいるのかもしれない。でもね、僕に言わせるとその人だって『いらない人』っていう役割を与えられてるんだよ。その人を排除したところで別のいらない人探しが始まるだけ。人間ってそういうくだらない生き物なんだよ。自分がいる人だって証明するには、別のいらない人がどうしても必要なんだ。バカみたいでしょ? 鎮守府で言えば、僕がいらない人かな」

「そ、そんなこと──」

「今のは冗談のつもり。だからそんな寂しいことは言わないで。いいかい、この鎮守府にいらない人なんていないんだからね。まずはそれが大前提だよ」

 翔鶴は小さく頷いた。

「そもそも翔鶴は十分必要な──というか十分どころじゃないよね。絶対欠かせないウチの戦力だからさ、赤城や加賀(かが)飛龍(ひりゅう)蒼龍(そうりゅう)、それと瑞鶴にそれぞれ良いところがあるのと同じように、翔鶴にも誰にも負けない良いところがあるよ。あのね、これは五二型の妖精が言ってたんだけど──」

「妖精さんが?」

「うん、翔鶴が一番飛びやすいんだって。優しく飛ばせてくれるって。だから気分良く上がれるし、安心して帰って来れるって。今回もさ、翔鶴の攻撃隊があんなに活躍出来たのは、そういう理由もあるんじゃないかな。──いや、絶対そうだよ。だから、翔鶴じゃないと駄目なんだって」

「私、じゃないと」

「そう。それより何よりさ──」

 

 目頭が熱くなる。翔鶴を諭しているつもりだったのに、溢れ出る感情の波を止めることが出来なくなっていた。

 

「翔鶴がいなくなったら──僕は、どうしたらいいんだよ」

 翔鶴は息を呑む。

「さっきだって翔鶴がもう目を覚まさないかもしれないと思って、一人で泣いてた。自分はいらないかもしれないなんて、そんなバカなこと言うなよ。自信が失くなったら出撃だってしなくていいよ。ずっと──ずっと僕の(そば)にいてくれよ」

「て、提督──」

 僕は彼女の肩を掴んだ。

「不安になったら僕を思い出せ。誰にも必要とされてないって思ったり、情けないと思ったり、(みじ)めだと思ったりしたら、僕だけを思い出せ。僕だけを見ろ。僕には──どんな翔鶴だって必要なんだよ」

 翔鶴の瞳は揺れている。

 やがて彼女は崩れ落ちるようにもたれ掛かってきて、翔鶴と僕の体温が、柔らかく馴染(なじ)んでいくのを感じた。

「──嬉しい。私、ずっと提督の傍にいます。提督だけを思って生きます。提督──あなたも、心細くなった時は私を思い出してください。私だけを思ってください。私には──」

 

 ──あなたしかいらない、と翔鶴は言った。

 

 顔を紅潮させた彼女の瞳が、至近距離で僕を捉えて離さない。

「提督──キスをしてください」

 静寂に溶け込むように翔鶴は(ささや)く。

「あなたとの──愛の証が欲しいです」

 目を瞑り、翔鶴との距離を縮める。

 不思議と恥じらいはなかった。

 この世界には、僕と翔鶴だけしか存在していないような──そんな気がしていたから。

 

 

「はい、そこまでッ」

 

 

 二人の世界への突然の闖入(ちんにゅう)(しゃ)に、僕と翔鶴は電気を流されたようにびくりとして硬直する。目を覚ました瑞鶴が、翔鶴の背後から猛烈に不貞(ふて)(くさ)れた顔をして(にら)んでいた。

 ──何だか前もあったな、こんな展開。

「なっ、お前──」

「もう何なの。私だってこの場にいるのよ! 寝起きでこんな濡れ場見せつけられると思わなかった!」

「ず、瑞鶴違うのよ──」

「何が違うの翔鶴姉ッ。心配してた私がバカみたいじゃない! ってか提督さんって何なの。いつもちょっと目を離した隙にイチャコラし始めるけど何なの! 万年発情期なの!」

「バカッ。誤解を招くような言い方は──」

 していないかもしれない。

「もうホントに聞いてて恥ずかしかったんだけど! 僕だけをとか私だけをとか──糖質制限しなさいよカロリーオフの時代じゃないの!」

 少しズレたキレ方をしている瑞鶴の頭を、翔鶴が優しく包み込むように撫でた。

「瑞鶴、寂しかったのね」

「違っ、そんなんじゃないって」

「ほぅ、寂しかったのか」

「──爆撃するわよ」

「ごめん調子に乗った」

 翔鶴はくすっと笑う。

「瑞鶴、ごめんなさいね。ずっと私の傍にいてくれたのでしょう? 心配を掛けたわ。いつも、私を見守ってくれて有難う、ね」

 瑞鶴は照れるようにして、枕代わりにしていた腕に顔を埋めた。

「それに、提督と私が瑞鶴を除け者にする訳がないわ。ずっと一緒よ、私達は。ずっと」

 瑞鶴は、うん──と力なく言って答えた。しばらく翔鶴に頭を撫でられていると、やがて恥ずかしそうにチラチラと僕を見る。

「ん、どうした」

「あ、いや。その──ね」

 静謐な時間と空間が、自然と瑞鶴に続きを促す。

 

「私──夢を見てた」

 

「夢?」

「うん、海沿いの小さな家で、翔鶴姉と提督さんと、三人で暮らしてる夢」

 僕と翔鶴は顔を見合わせる。

「提督さんはお魚を釣ってきてね、沢山(たくさん)釣れたって喜んでるの。翔鶴姉は私の服を縫ってくれてて、やんちゃしちゃ駄目なんて言うんだけど、顔は笑ってた。私は──二人の(ため)に貝殻でアクセサリを作っててね、上手く出来ないんだけど、でも二人は絶対喜んでくれるって思いながら作ってた。すごくね、すっごく気持ちが穏やかなの。そんな──夢」

 いつか叶うかな──と瑞鶴は小さな声で言った。

 それは、彼女らしく純粋で優しい夢だった。

「叶うよ。叶えてみせる」

「本当に?」

 顔を紅くした瑞鶴が上目遣いでこちらを見る。

「約束する。この戦いが終わったら海辺に小さな家を買って──三人で暮らそうか」

 僕がそう言うと、やがて二人は笑い出した。

「な、何だよ二人して。いいじゃないかよ」

「ご、ごめんごめん。何か笑っちゃって」

「家族──みたいですね」

「家族みたいなもんだろ」

 そう言うと、二人はまた笑った。

「もう、そんなに笑われたら僕だってヘコむぞ」

「うふふ。じゃあ提督さんは──その約束を絶対に守ること」

「もちろんだよ」

「でも、みんな許してくれるかなぁ?」

「皆さんも、ついてくるでしょうね」

「それじゃ今と変わらないじゃん。あぁ、確かに深海棲艦より手強そう──」

 僕も自然と顔が(ほころ)ぶ。

 平和な海で。三人で。慎ましく。

 

 そうして戦後に思いを()せる夜は、とても穏やかに流れていった。

 

 

            ※

 

 

 翌日、夕方。

 普段は会議室として使用されている一室に召喚された僕は、室内の異様な空気に圧倒されて身を硬くしながら目を泳がせていた。僕の隣には、翔鶴と瑞鶴が同様に緊張した面持ちで椅子に座っている。そして僕達の正面には、大淀、加賀、蒼龍、長波の四名がこちらを(さげす)むような目で見ながら一列に並び座っていた。さらにその後方には、傍聴人のように居並ぶ大勢の艦娘の姿が見える。

 

 ──査問のようだ、と他人事のように思う。

 

 まぁ、十中八九査問なのだけど。

 徐に大淀が木槌を振り下ろすと、室内に威圧的な槌音が響き渡る。

「こちらに集まって頂いたのは、他でもない昨日未明の医務室での出来事についてお伺いしたいことがあるからなのですが──何のことか解りますよね?」

「解りません」

 カンッ──と再び木槌が鳴る。びくりと反応してしまう自分が悔しい。

「提督は黙っていてください。翔鶴さん、答えて頂けますか?」

「え、えぇと、あの──私、その頃はまだ意識がなかったと思いますから」

「意識が戻ってからの話でいいわ」

 加賀が表情を全く変えることなく言う。

「あの、その──目が覚めてからも、記憶が曖昧というか。その──」

 記憶に御座いません、で通すつもりだな翔鶴。偉いぞ頑張れ。

「そう。だったら別にいいわ。瑞鶴、あなたは解っているのでしょう?」

「えっ、私? 私は──あれよ。寝てたから。寝ちゃってたから、二人が何してたとかも──見てないし」

 瑞鶴は誤魔化(ごまか)すの下手だなぁ。

 加賀は小さく溜息を吐く。

「──長波、資料を配布して」

「了解っと。みんなはこれ後ろに回してくれー」

 長波は分厚い紙の束を手に取り傍聴席に分けていく。やがて傍聴席が(ざわ)つき始めた頃、こちらにも来て紙を一枚差し出した。僕が受け取ると「ふんっ」と言って(きびす)を返す。

「何だよあいつ」

 そう呟きながら紙を裏返すと、そこには。

 

 

 ──口付け寸前の僕と翔鶴の写真が、大きく写し出されていた。

 

 

「いいっ」

 僕は息を吸い込みながら変な声を出した。何だ今の声。

「ねぇ提督、この写真を見てもまだシラを切るつもり?」

「蒼龍これをどうやって撮った!」

「二式艦偵の妖精に頼んだのッ」

「妖精ぇッ!」

 カンッ──とまたまた木槌の音が鳴り響いて僕はまたまたびくりとしてしまう。

 やめてくれよそれ。いちいち驚いちゃう自分が情けなくなるから。

「提督、艦隊の風紀を(いたず)らに乱したことについて、何か弁明はありますか?」

「大淀さ、僕が乱したっていうか、こうした写真をみんなに撒いちゃうことで風紀は乱れるんじゃないの?」

「詭弁です。その論理だとバレなければ何をやっても良いということになるじゃないですか。バレなきゃ翔鶴さんとキスしてもいいんですか! バレなきゃ蒼龍さんとお風呂に入ってもいいんですかっ!」

「大淀、今は私の話関係ないじゃん!」

 大淀の誤爆に蒼龍が狼狽(ろうばい)する。冷たい視線が僕と蒼龍に向けられた。横の翔鶴と瑞鶴にも睨まれている気がするが確認する勇気はない。

「ま、まぁでは蒼龍さんのことは後でいいです」

「後でもやんなくていいのッ」

 大淀は仕切り直すように咳払いをした。

「提督、翔鶴さんと鎮守府内で猥褻な行為に及ぼうとしたと──認めますか?」

「猥褻な行為とは──キスも含みますか」

「もちろん含みます」

 

 ほぅ。

 

 僕はこの査問の中心に位置する秘書艦に──委員長みたいで優等生みたいで実際優秀で時々天然で時々物凄く妖艶な雰囲気を纏ったりするこの秘書艦に──復讐する決意を固めていた。

 それこそ、蒼龍と風呂に一緒に入る羽目になった翌日の話だ。

 なるたけ太々(ふてぶて)しく言う。

「僕は大淀さんにチューされたことがあります」

「なっ、何をッ」

 会議室がどよめく。

「頰に、しかも突然にです。今回の件が問題と言うなら、あの一件が不問に付されるのは(いささ)か不自然に思うのですがァ!」

「何を言うんですかッ。そんなこと皆さんの前で言わなくたっていいじゃないですか! あの後私のことずーっとチラチラ見てたくせに! そのくせ全然手を出さなかったくせに! 臆病者ッ! 不能ッ!」

「誰が不能だコラァ!」

 何だか段々と品がなくなってきた。まぁ最初からそんなものないんだけど。

 そのうち、顔を真っ赤にして罵り合う僕と大淀を見ていた加賀が、

「まぁ、頰にキスくらいならいいのではないかしら」

 と言った。

 

 え、いいの。

 

「頰に触れるくらいなら可愛いものだわ。それくらいなら許してあげてもいいのだけれど。(ただ)し、特定の艦娘を贔屓(ひいき)しない──という条件付きで」

「加賀、それは駄目だよ。鎮守府に何人いると思ってるんだ。四六時中チュッチュチュッチュやってたらバカみたいだろ。それこそ風紀が乱れるよ」

 まぁ、そんなことを希望する奇特な者が果たしているのかという疑問はあるのだが。仮にいたとして僕の理性が保つか怪しい。聖人君子じゃないんだから。

 ふと、僕の(もも)に手が触れる。

 横を見ると、翔鶴が目を潤ませながら接近していた。

「頰に──キスくらいなら──」

 あ、ここにいたわ奇特な奴。

「翔鶴今は駄目だぞ査問中だからな罰が厳しくなるからッ!」

「そこっ! 今すぐ離れてください!」

 大淀は慌てたのか木槌で机を直接叩く。ゴン──という鈍い音が空間に反響した。

「頰にキスの件は条件を精査するとして翔鶴さんあなたは駄目です! 第五航空戦隊所属航空母艦翔鶴、本日より一ヶ月間提督の半径十メートル以内に接近することを禁じます!」

「そんなの受け入れられません!」

 翔鶴は立ち上がり僕の頭を胸に抱いた。

「提督は私にずっと傍にいろと言いました! 私が必要だと、どんな私でも必要だと言ってくれました! 査問委員会の決定だろうと提督の御命令には逆らえません!」

 査問委員会──というか勝手にやってんだけどね。この人達。毎回。

 翔鶴の胸に顔半分を埋めてニヤついている僕を軽蔑の視線が襲う。

 大淀は見たこともないくらいに凶悪な顔をしていた。

「今日という今日はもう我慢なりません──提督、私のものにならないのなら──いっそここで死んで頂けますかッ」

「闇深すぎだろお前ッ!」

 査問委員並びに傍聴人達が何処からか砲を取り出しこちらに向ける。翔鶴と瑞鶴が咄嗟(とっさ)に僕の前を遮り、僕達はバカみたいな理由で真剣に対峙した。

 空調の音が明瞭に聞こえる程に室内は静まり返った。

 照準を微調整する砲身の作動音がアクセントだ。

「懲りないのね」

「この程度で沈みはしません。ねぇ、随伴艦の皆さん?」

「煽るなって!」

 茜色に染まる会議室で、翔鶴が艦隊のヘイトを無闇に集めたその時──。

 

 

 バンッ──と会議室のドアが音を立てて開かれた。

 

 

「みんな何処にいるのって思ったらこんなところに! っていうか何やってるんですか!」

 ドアを開けたのは、最近着任したばかりの軽巡洋艦、阿武隈(あぶくま)だった。

「阿武隈、出て行きなさい。五航戦は深海棲艦より深海棲艦だったみたいだわ」

「何言ってるんですか加賀さん味方同士で争ってる場合じゃないですよ! その深海棲艦なんですけど! 深海棲艦が出たんですけどぉ!」

「えっ」

 全員が阿武隈に注目した。

「沖縄の東五◯◯キロメートルを北上中です! 提督、指示を出してください!」

 助かった──訳ではない。全然助かってない。何を言っているんだ僕は。いかんいかん。翔鶴の大破から何も学ばなかったら本当の愚か者じゃないか。

 僕はふっと息を吐き気持ちを入れ替える。五航戦の二人の間から一歩前に出た。

「待機任務中の霧島(きりしま)隊はいるかっ!」

 傍聴席で手が挙がる。

 何で見学してるんだ、と問い質したい気持ちで一杯ではあったが──。

 あぁ、もう。

 今はいいや。

「今すぐ出撃だッ。他も各自持ち場に戻れッ!」

 会議室は一転慌ただしくなって、駆け足の艦娘達が殺到する入り口付近は、バーゲンセール開店風景の様相を(てい)していた。

 そんな混沌(カオス)の中を、大淀は落ち着いた様子で歩み寄ってくる。

「何だか有耶無耶(うやむや)になってしまった感じがしますけど──。提督、三人暮らしなんて絶対に認めないんですからね」

 会話も()れていたらしい。

「それも聞いてたの──解ったよ。その時は全員でな。とりあえず、今は仕事に戻らなきゃ」

 僕も会議室を後にしようとすると、突然翔鶴が僕の左腕に抱き付いてきた。

「提督、まずは執務室に戻りましょうか」

「ちょ、ちょっと翔鶴さん! 秘書艦は絶対に駄目ですそこは譲れません!」

 大淀は加賀みたいなことを言って空いている僕の右腕をとった。

「お、落ち着けって。その話は後で! 終わってから、全部終わってからぁ!」

 極め付きに瑞鶴が首を締めるように背後から抱き付いてくる。

「何か瑞鶴仲間外れな気がするんだけど。不貞腐れるぞぉ!」

 呼吸困難に陥りながら両手に花──という世にも不可思議な状態でそろそろチアノーゼでも発症しようかという頃、一連を見ていた阿武隈が天を仰いで叫んだ。

「この鎮守府おかしいんですけどぉ!」

 阿武隈は悲しいくらいに正しいことを言う。

 

 何も言い返せないのは──首を絞められてるからって訳じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九話『インフォメーション・リーケージ』

 

 

 

 

 

「私が──初めての女ですね」

 と彼女は言った。

 

 黄昏時。

 海沿いの公園に、深秋の冷たい風が吹き抜ける。

 彼女の髪がさらりと揺れて、色付いた落葉がふわりと揺らいだ。

 夕焼けに照らされた彼女の顔は、発熱しているのではないかと見紛う程に紅かった。

 潤んだ目は瞬きを繰り返して、やがて僕にその視点を合わせる。

 僕の顔も、彼女に負けず紅いのだろう。

「何か──言ってください」

「そんな、突然のことで何て言ったらいいのか──。そうだ、僕はまだ答えを聞いてないよ。僕の気持ちは言った通りだ。君の口から、はっきりと聞きたいかな」

「言わないと解りませんか」

「言葉にして欲しいんだよ」

「それは──秘密です」

「やっぱり、君はずるいよな。僕ばかり」

 彼女は悪戯(いたずら)っぽく微笑む。

 仕返しに、彼女を手荒に抱き締めた。

「きゃっ」

「絶対に言わせてみせるから。その(ため)には、手段なんて選ばないんだからね」

 彼女の腕が、僕の背中を包み込んだ。

「愛してください。沢山、愛してください。そうしたら私──きっと我慢出来なくなってしまいます」

 どれくらいの間、そうしていただろう。

 数秒のような、数分のような。

 それでいて、この世界に生まれ落ちてこの方──ずっと彼女と抱き締め合っていたような、そんな不思議な感覚がする。

 彼女との抱擁は、時の流れを忘れさせる程に僕の心を満たしていた。

 

 やがて、海鳥の鳴き声がレシプロ機のエンジン音に取って代わる。

 多分、二人とも同時に気が付いた。

 僕等は、どちらからともなく笑い始める。

「見つかっちゃったみたい。優秀だね、ウチの航空隊」

「大問題になっちゃいますね」

 上空を見上げると、数機の九九式艦上爆撃機が僕達の直上で旋回を始めていた。

 胴体後部の二本の白線は──瑞鶴(ずいかく)の所属機であることを示す識別帯だ。

 九九艦爆は夕日を反射させながら翼をバンクさせている。

 

 そっとはしてくれないが、祝福はしてくれているらしい。

 

 このまま抱き締め合っていると、そのうち機銃での威嚇射撃が始まるに違いない。

 本意ではない──と苦笑する妖精の顔が目に浮かぶ。

 いつものことだ。

「私、味方に爆撃されるのは初めてかもしれません」

「本当に? 爆撃って味方にされるものだと思ってた。初めてなら──少し痛いかもよ」

 そう言って、僕等はまた笑った。

 

 彼女を抱く腕に、力を込める。

 

 何だか締まらないのも、僕達らしくていいなと──そう思った。

 

 

 

            ※

 

 

 

 窓の外の目抜き通りを、路面電車が走り抜けて行った。

 オープンテラスで談笑している若者達を視界に捉えながら、しばらく路面電車にも乗っていないなと、そんなことを思う。

 図書館に行くのに便利だったから、高校生の時はよく利用していたのだ。学校帰りに街中まで足を延ばして、それから乗り換えで三十分弱くらいだったと思う。だいたい閉館時間の二◯◯◯(フタマルマルマル)まで居座って、帰りにファストフードで晩飯を済ますというのが当時のお決まりのパターンだった。隣には()洒落(しゃれ)な喫茶店もあったのだが、自分のような冴えないガクセイが入って良いものかと躊躇(ちゅうちょ)し続けた結果、その店には一度も足を踏み入れることなく僕の高校生活は幕を閉じた。

 

 

 そんな卑屈な少年だった僕が今いる場所が。

 カフェ──である。

 昼下がりのカフェである。

 

 

 御洒落な人々が御洒落な店内で御洒落なひと時を過ごす──まぁ、僕みたいな人間にしてみれば毒の沼のような場所である。「人として御洒落であれ片時も御洒落を忘れるな」と三六◯度全方位から精神攻撃を受けている錯覚に(とら)われる。

 一応僕だって僕なりに全力で余所(よそ)行きの格好をしているし、そもそもこの店にドレスコードなんてないのだから気にする必要もないのだけれど、それでも長年劣等感をじっくりコトコト煮込んだ性格の僕には、中々に居心地の悪い空間ではあるのだった。

 唐揚げがメニューにない店とか行ったことないから、基本。

 本日のパスタとか言われても困るのだ。

 昨日のパスタも知らないし。

 食べていいのか判断に迷う葉っぱとか乗ってるし。

 残したけど。

 

 そんな僕の落ち着かない精神状況を知ってか知らでか、食後のコーヒーを口にして我が秘書艦は微笑した。僕とは対照的に、可憐な彼女はこの店の雰囲気によく馴染(なじ)んでいる。

「ぼうっと外なんか見ちゃってますけど、何を考えているんですか?」

 大淀は()ねるように言った。

「ん、あぁ。路面電車が懐かしいなと思って。昔よく図書館に行くのに乗ってたんだ」

「路面電車ですか──。乗ります?」

「いや、いいよ。大して変わらないだろうし」

「図書館なんて通ってたんですね」

「高校生の時ね。まぁ、昔から本は好きだったから」

 通い詰めていた本当の理由は、今ここで大淀に話すことではないだろう。

「ふぅん、そうですか」

 大淀の探るような視線に内心冷や汗を掻く。

 まさかバレている訳ではあるまいな。

「そ、それよりさ、大淀も全部食べたんだ。少食な方だと思ってたから意外だったかも」

「それは比較対象が艦隊だからですよ。私だって食べる方だとは思います。それにお料理も美味(おい)しかったですし。──美味しかったですよね?」

「そ、そう? あ、うん、美味しかったかも」

「お口に合いませんでした?」

「い、いやいや。そんなことない。美味しかった」

 これは嘘ではない。

「でもさ、ほら──いつも食べてるのが()(みや)さんの料理じゃない? それと比べちゃったら、どうなのかなって」

「それは比べる方がおかしいんですよ。間宮さんの方が美味しいに決まってるじゃないですか」

「あ、やっぱそうだよね」

「提督、こういうのは状況や雰囲気も含めて楽しむものなんです。こうして外でお食事することなんてないじゃないですか。私が聞きたいのは、提督と私二人きりで食べたお料理はどうでしたか? ってことなんですッ」

 大淀はぐいと身を乗り出して僕に詰め寄った。

 

 

 今日、僕達は(そろ)って非番。

 大淀とデート──のようなものだ。

 

 

 表現を(ぼか)したのは率直に言って恥ずかしいからだ。大淀に誘われた時も「今度の非番にお買い物に付き合って頂けませんか?」と言われただけであって、別にデートしてくださいと直接的に言われた訳でもない。

 世間ではそれをデートと言うのだ──という意見が一般的であるのは承知しているし、僕だって大淀のような美少女と街を歩けるのは嬉しいのだけど。まぁ「デートなのだ」と意気込んで肩肘(かたひじ)張ってしまうくらいなら、気楽に構えてこの時を楽しめる方がいいだろうとも思う。

「どうでしたかって。そ、そりゃ──美味しかったよ」

「感情が込もってないです」

 大淀の視線が鋭さを増した。

「はぁ。提督最近冷たいですよね。(しょう)(かく)さんとか、他の方ばかり気にして」

「そんなことないって。あれは仕方ないじゃない」

 前回の査問委員会以降、翔鶴と瑞鶴が執務室に入り浸るようになった。「秘書艦が一人でなければならない道理はありませんよね」と無茶苦茶な論理で押し切られて、説得する間もなく机と椅子が搬入された。

 まぁ執務も(はかど)るし、僕にとっては有難い面もあるのだが、大淀の機嫌が見るからに悪化の一途を辿(たど)っていたのも事実だ。秘書艦なんて煩わしいだけで何もいいことなどないような気もするのだが、大淀にも僕の着任当初から秘書艦を担い続けてきたという自負があったのかもしれない。

 この機会に大淀の機嫌を是非とも改善させたい──と。

 今日という日にはそういった事情も存在する。

「提督は組織の責任者ですから鎮守府全体のことを気に掛けるのも別にいいですけど、そもそも提督を鎮守府にお連れしたのは私なんですからね」

「えっと──雪風(ゆきかぜ)は」

「雪風もそうですけど私もですッ。そういえば、最近雪風も提督を見つめる目が怪しいというか危ないというか──。あんな小さな()に手を出さないでくださいね」

「出さないよ」

「判らないですよ提督は。見境ないんですから」

「──信用されてないのね」

「逆に何で信用されると思ったんですか。前科だらけのくせに。浮気者、色欲魔」

 酷い言われようだが、これでまた臍を曲げられたら元も子もない。

 僕は椅子に座り直して姿勢を整えた。

「あ、あのさ大淀。改めて言うのも恥ずかしいんだけど──僕を鎮守府に連れてきてくれて有難う。大淀がいなかったら僕は今生きてないと思うし、こうして充実した日々を送ることもなかったと思う。感謝してる、本当に」

 大淀は僕を試すように見つめながら、テーブルの上を指でなぞっている。

「それでは、私が初めての女だって認めますか?」

 

 初めての──女。

 

「何その恥ずかしい言い方」

 僕が照れ隠しにコーヒーを飲むと、大淀は再び身を乗り出して距離を縮めてくる。

 何だこの新手の拷問は。

「いいじゃないですか。女性とお付き合いされた経験だってないですよね。何せ提督ですから」

「叩くよ?」

 本当にないし。

「認めるんですか認めるんですよね」

「勘弁してよ。認める、認めるから」

「ちゃんと宣言してください。僕の初めての女は──って」

「他にお客さんいるんだよ?」

「何か問題でも?」

 こうなると大淀は折れないことを僕はよく知っている。

 ふぅと息を吐いて、解ったよ──と降参するように呟いた。

「僕の初めての女は、大淀です」

「──恥ずかしいですね」

「大淀が言わせたんだろッ」

「ふふっ。可愛いんですから。じゃあ、これで許してあげます」

 そう言って笑う彼女は不思議な色香を纏っていて、僕はたまらず目を逸らした。

 先程から何処か落ち着かないのは、店内の雰囲気に呑まれたからではなく、目の前の大淀に緊張しているだけなのかもしれない。

 私服姿の大淀は妙に大人っぽくて、じっと見ていると心が囚われてしまいそうになる。

 首筋を掻きながら店内に目線を泳がせていると「いらっしゃいませ」という店員の声が聞こえた。

 何気なく入口を振り返る。

 

 

 そこにいたのは、ひと組の男女だった。

 

 

 似ている、と思った。

 あの少女が大人になっていたら多分あんな感じなのだろうな、と思った。

 そして。

 似過ぎている、と思った。

 泣きぼくろの位置まで同じだった。

 まさかそんなことが──と放心していると、案内されたその男女が席に着きメニューを広げる。

 メニューと本の違いはあるが、その姿は。

 

 

 ──あの時のままだ。

 

 

 そこで、僕は確信に至った。

 その女性の左手には、銀色の指輪が(きら)めいている。

 思春期を共に過ごしたあの酷い(せき)(りょう)感が僕を襲った。

 

「提督、どうされたんですか」

「い、いや──何でもない」

 大淀は僕の視線を辿る。

「あの女性が何か」

「いや、いいんだ大淀」

「提督、私の目を見てください」

 大淀と僕の視線が交差する。

「もう私に隠し事はしないでください。妖精さんが見えるようになった時も相談して頂けませんでしたよね。私、判るんですよ? 提督が悩んでいるとか悲しんでいるとか、怒っているとか喜んでいるとか、提督の感情が全て──手に取るように」

 大淀は僕の指をなぞるように手を重ねた。

「だから、提督のお力になれないことが何より辛いんです。お願いです。お願いですから──」

 私に隠し事はしないでください──と大淀は繰り返した。

 信頼しているからこそ言えなかったなんて、この場では言い訳にもならないのだろう。全て打ち明けてしまってもいいのかもしれない。彼女は──僕の秘書艦なのだし。

「──解った。全部言うよ。別に大したことじゃないんだ。ちょっと、驚いちゃっただけ。さっき図書館によく通ってたって言ったでしょ? 路面電車に揺られてさ。あの女性(ひと)が、その理由だったんだ。あの女性はね、僕の──」

 

 

 初恋の女性だ。

 

 

「高校一年生の時かな。夏休みでさ、やることなくて暇で暇で、何を思ったか図書館に行こうと思ってね。その時に初めて見たんだよ」

 一目惚れ、というやつだ。

「あぁ同じ制服だなぁ、なんて思ってたんだけど、ほら、図書館って静かでしょ? そういう雰囲気も相まって余計魅力的に見えたんだよ。神聖なものって感じがしてさ」

「へぇ。それで、声は掛けられたんですか?」

「そんな度胸があるように見えるかい?」

 僕は苦笑した。

「それからは図書館に通い詰めでさ、一週間に一度会えるか会えないかって感じだったな。そうして秋になって冬になって春になって。そのうち彼女を見かけることもなくなった。今思えばきっと三年生だったんだよ。受験勉強してたんだろうね」

「きっと?」

「うん、僕は部活に入ってなかったし交友関係も狭かったしさ、学校に置いてある卒業アルバムで調べようと思ったら出来たんだろうけど、それはしたくなかった」

「何故ですか」

「何かさ、名前を知りたくなかったんだよ。卒業アルバムに載ってる彼女を見たくなかった。というか、図書館にいる彼女以外を知りたくなかった」

 学校でも()えて探そうとはしなかった。

「バカみたいな話だけど多分怖かったんだよ。彼女が普通の女子高生に見えてしまうことが。好きな女の子を変に神格化しちゃうことって、僕だけじゃなく思春期の男子にはありがちなのかもしれないけど。名前があって友達と喋って笑ったりしてっていうさ、それは普通じゃない? 当たり前の話なんだけど」

「それから、提督は?」

「その後──ずっと通ってたよ、図書館に。でも会うことはなかったな。だから、今日が図書館以外で見た彼女の初めての姿。まさか十年後、それも結婚指輪をしてるとは思わなかったけど」

 そう言って僕は無理に笑う。

 その恋が叶うなんて思ってもいなかったけど。

 彼女のことだって、忘れかけていたのだけど。

 それでも──僕は何だか、あの頃の寂しさを思い出してしまった。

 

「そう、ですか。あの人が。ふぅん」

「あまりジロジロ見るなって」

「このこと、誰かに言いました?」

「言ってないよ。友達にすら言ったことない。──何だよ嬉しそうな顔して」

 大淀は笑みを抑えながら、再びその女性を振り返って爽やかに言い放つ。

「私の方が綺麗ですね」

 コーヒーが気管に流入した。

「ゴホッ、ゲホッ。何を言うんだよ急に」

「どう思います?」

「いや、それは──まぁ」

 比較するまでもない。

 だって、僕はもう提督だから。

「大淀の方が綺麗だよ」

「ですよね。──さ、もう出ましょう」

「え、あ、ちょっと待ってよ」

 慌てて席を立ち会計へと向かおうとすると、大淀は僕の手を引いて店内を遠回りする。まさかとは思ったが、大淀は僕の予想通りその女性が座る席を目指して歩き出した。

 傍を通り過ぎる時、大淀は大袈裟に──まるで見せつけるように──僕の腕を抱いた。

 その女性は、多分気にも留めなかっただろうけど。

「何やってんの」

「提督はだらしないですから、これからも色んな艦娘に手を出すのでしょうけど、人間の女性だけは絶対にダメです。何だか、それは絶対にダメです」

「前提がおかしいよ。手は出さないって言ってるじゃない」

「信じるもんですか。いいですか、私は心が広いのでそれは許してあげます。提督として、多少は仕方ないこともあるでしょうし。ただ──」

 大淀は僕の肩に頭を寄せる。

「最後は──私のところに帰ってきてくださいね」

 僕は急激に顔が熱くなるのを感じた。

 それは恥ずかしかったからなのか、嬉しかったからなのか、自分でも判断がつかなかった。そんな未知の感情に、僕の脳髄は涙腺を緩ませるという暫定的措置を講じた。

「うん、判ったよ」

 そう言うと、大淀は弾けるように笑う。

 

 寂しさは──いつの間にか消え去っていた。

 

 

            ※

 

 

 夕暮れの海は()いでいて、低角度から照りつける橙色を乱反射させている。

 上空で海鳥が鳴いていると思えば、遥か前方のベンチでは子供が泣いていた。

 穏やかだと思う。

 僕も大淀も海など毎日見ている(はず)なのに、わざわざ海を臨む公園に立ち寄ってしまうのは、もう本能のようなものだろう。

 もうすぐ、僕等は鎮守府に戻らなければならない。

 大淀は楽しんでくれたのだろうかと不安になって、彼女の横顔をちらりと見る。

 僕の視線に気付いた大淀は微笑んで、ガス灯の下で足を止めた。

「提督、楽しかった──ですね」

「うん、そうだね。終わっちゃうのが、何かもったいないな」

「私は──帰らなくてもいいですけど」

「なっ」

 僕は動揺する。

「何を言ってるんだよ。そういうことは軽はずみに言わないの。本気にしちゃったらどうするのさ」

「本気ですけど」

 大淀の追撃に僕は言葉を失う。

 照れ隠しに目を逸らして海を見ていると、大淀が僕の左手首に触れた。

「これ、プレゼントです」

 手首には、革のブレスレットが巻かれていた。

「あ、そんな、ずるいよ。僕は何も用意してないのに」

「ふふっ。提督はこういうアクセサリ付けないですよね。似合うかなと思って買っちゃいました。絶対に外しちゃダメですよ? あと、どんな凄いお返しが頂けるのか楽しみにしていますから、それは気にしないでください」

「あ、有難う──」

 大淀が僕の手を離さない。

 徐々に、しかし確実に周囲の世界が変わっていく。

 僕と、彼女だけの世界に。

 大淀は僕の胸にそっと入り込んだ。

「提督は、私のことどう思ってます?」

「大淀のこと? そ、それは──頭が良くて頼りになるし、気が利くし──」

「そういうことじゃないですよ」

 彼女の求めている言葉は解っていた。

 それを言ってしまえば、着任以来踏み止まっていた一線を越えることになる。

 しかし、そんなことは今の僕にとって瑣末な問題に過ぎなかった。

「大淀のことが好きだよ」

 僕の胸で、あっ──という声が漏れる。

「大好きだよ。愛してる」

 大淀は俯いていて、表情は判らない。

「大淀は、僕のことどう思ってる?」

「そ、それは──」

 彼女は顔を上げた。

 

「秘密です」

 

 そう言って、大淀は僕に唇を重ねた。

 僕は驚く程自然に、彼女を受け入れていた。

 大淀の思いも、僕の思いも、唇を伝って一つになって──。

 それは分かち難く永遠に、お互いの心に残り続けるような気がした。

 未練を残しながらも、僕達は唇を離す。

 

「秘密なんです」

 と大淀は繰り返した。

 いくら鈍感で卑屈な僕でも、今は、大淀の気持ちを受け止めることが出来る。

 

 

 ──秘密でも何でもないじゃないか。

 

 

 彼女は顔を真っ赤にしながら、満面の笑みで言う。

 ほら、やっぱり──。

 

「私が──初めての女ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十話『工作艦明石の憂鬱』

 

 

 

 

 

 実を言えば「連装砲」というものがあまり好きではない。

 尊敬すべき偉大な先人達が、その叡智(えいち)を振り絞って辿り着いた結論の一つであることは理解しているし、限られたスペースに火力、防御力、命中率等々、様々な要件を満たす形態を考えていけば(おの)ずとそうなることは容易に想像も出来るのだけど。それは解っているのだが。

 

 ──何せ、整備が辛いのである。

 

 連装にして機構が単純化することはない。複雑になれば当然保全性能は悪くなり故障の頻度は増す。主砲のメンテナンスは基本的に使用者の自主点検項目ではあるが、彼女達は忙しいし(私も忙しいのだけど)、各々での整備にも限界はある。

 

 よって私の仕事が増える。

 それはもう鬼のように増える。

 

 砲身の清掃だけで考えても単純に二倍だ。三連装だと三倍である。これが中々バカにならない。高が掃除と侮るなかれ砲身内部の汚れは命中率に直ちに影響するのだ。横着してブラシを装着したクリーニングロットを雑に出し入れするとライフリングを傷付けてしまうから、実は繊細な作業でもある。地味でありつつ高い集中力を要求され、しかも出来て当然と思われている作業ほど精神を消耗させるものはない。

 私は溜息を吐きながら、本日昼前にして早くも七個目となる12・7センチ連装砲の整備を終えた。仕上げのオイルを拭き取り、簡単な動作確認をしてから整備済みの棚に置く。

 疲労感がじわりと全身に伸し掛かった。

 多少早いが食堂にでも行こうかと工廠の奥に目を遣ると、そこには嬉々として機械弄りに精を出す夕張(ゆうばり)がいた。

 何でも──信じられないことに──五連装砲の試作中だそうだ。

 最終的には九連装が目標だとか()かしていたような気がする。

 九連って。

 麻雀の「九蓮(チュウレン)宝燈(ポウトウ)」みたいになってるけども。

 

 

 呆れ果てた私の視線を感じたのか、夕張は顔を上げてこちらを向いた。

「どうしたのよ明石(あかし)。イ級の刺身食べたみたいな顔して」

「どんな顔よ」

「ははあん。さては私の試製35・6センチ五連装砲を見て()(ぎも)を抜かしてるのね」

「ある意味抜かしてるわよ。はぁ──趣味を仕事にしちゃいけないって、夕張見てたらよく解るな」

「どういう意味なのそれ」

「責任の伴わない行為って最高よね」

「何だろ。凄くバカにされた気がする」

「よく解ってるじゃない。だってバカにしたもの」

 夕張はスパナで私を指した。

「明石覚えてなさい。これが完成したら標的艦にしてやるんだからッ」

「当たればいいわよねぇ」

「当たるまで撃つのよッ」

 夕張は機嫌を損ねたようで試作中の主砲に向き直った。こういった純粋なところが彼女の魅力でもあるのだろう。同性の私でも可愛いと思う。しかし、今回はやり過ぎてしまったかもしれない。

「夕張ごめん。私が悪かった。ちょっと早いけどお昼にしない? 食堂行こう?」

「え、お昼? まだ早くない? 休憩するくらいならいいけど──」

「じゃあ休憩しよう。何だか疲れちゃった」

 そう言って一足先に手洗い場へと向かった。

 工業用のハンドクリーナーで手を洗う。手荒れが気になるが、この(たぐ)いの油汚れは普通の石鹸ではまず落ちない。爪の中の汚れも落ちるようにブラシを使って念入りに洗う。

「明石、どうかしたの? 本当に疲れてるみたいだけど」

 夕張も隣の蛇口を捻って手を洗い始めた。

「そりゃ疲れるわよ。工作艦が一人だけってのも問題よね。北上(きたかみ)艤装(ぎそう)改造して工作艦にしちゃおうかなあ」

大井(おおい)に刺されるんじゃない?」

 本当に刺されると思う。

「ま、悩みごとがあるなら聞くわよ。ほら、言いなさいな。水臭いじゃない」

 悩みごと──は確かにあるのだ。

 あるのだが。

 私は急に恥ずかしくなって、夕張から目を逸らし水を止めた。

「もしかして──提督のこと?」

 私は平静を装う。

「べ、別に──違うけど」

「あはは。明石って変なところで乙女よね。判りやすいんだから」

(からか)わないで」

 そう言って手を拭いたタオルを夕張の頭に被せた。

 私はそんなに判りやすいだろうか。頰に手を当てて火照った顔を冷ます。

 

 

 ──先日、大淀(おおよど)と提督のデート写真が鎮守府を大混乱に(おとしい)れた。

 

 

 まあ二人がデートをするという一報が駆け巡った時点で大騒ぎではあったのだ。

 長波は護衛が必要だと主張して同行する気満々だったし、赤城(あかぎ)加賀(かが)は「当日敵襲に見せかけて鎮守府を爆撃すれば──」などと堂々たるテロを計画していた。

 誰もが心ここに在らずの状態で任務どころではなかったのだが、そんな崩壊寸前の鎮守府に歯止めを掛けたのが──意外なことに──翔鶴(しょうかく)であった。「任務を放棄して提督にご迷惑を掛けるつもりですか」と大勢を前に一喝してみせたのである。

 肺腑を()く翔鶴の言葉に多くの艦娘は目出度(めでた)く正気を取り戻した。

 鶴の一声とはこのことかしらん──とその様子を傍観していた私は他人事のように感心したものである。控え目な印象が強かった彼女だが最近は秘書艦としても活躍しているし(就任の経緯は無茶苦茶だったらしいのだが)、自分が鎮守府の指導的立場にあるというのを自覚し始めているのかもしれない。

 

 ただ──。

 その妹──瑞鶴(ずいかく)の我慢が()かなかった。

 

 予定の時刻を過ぎても二人が帰投しないことを理由に瑞鶴は自らの艦爆隊を爆装のうえ発艦。九九艦爆妖精の英断により「自国領土内での無差別爆撃」という大惨事は避けられたものの、その際に撮影されたフィルムが現像されるや否や鎮守府は内戦とクーデターとハロウィンが同時に勃発したかのような混沌(カオス)に突入した。

 フィルムには、恋人同士のように仲睦まじく抱き締め合う二人が写っていたのである。

 解像度の粗い白黒の画像が妙に生々しかったのをよく覚えている。

 当然の如く──フィルムを見た瑞鶴は直ちに発狂した。

 尋常ではない空気を察知した周囲が第二次攻撃隊の発艦を全力で止めていた隙に乗じて青葉(あおば)がそのフィルムを入手。その後、青葉新聞の輪転機が回り始めるのに数分と掛からなかった。

 号外の撒かれた鎮守府は、まさに阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)であった。

 個人的に一番衝撃的だったのは、それを見た金剛(こんごう)が向こうの放送コードに引っ掛かる四文字を叫んでいたことだった。ああ見えて金剛は根が真面目で上品だから妹達も驚いていたと思う。

 まあ、榛名(はるな)は「大丈夫です」と呟きながら艤装を装備し虚ろな目で立ち尽くしていたけれど。

 提督を殺して私も死ぬ──と(わめ)いていた艦娘は少なくない。

 当時の状況を思うと、よくもまあ提督は惨殺死体で発見されなかったものだ。

 結局提督は帰投後に夜を徹した尋問を受けることになるのだが、この艦隊が唯一素晴らしいと思うのは「私達が頑張って提督にもっとアピールすれば良いのだ」と前向きな結論に落ち着いた点である。

 あれから数日、艦隊の訓練は以前にも増して気合が入っているように見える。

 

 一方私はみんなとは違って、何だか落ち込んでしまった。

 大淀とは仲が良いし、彼女の気持ちも知っていたから祝福している部分もあるのだけど。

 

 

 でも──。

 

 

 私だって好きなのだ。

 提督のことが。

 あんな写真を見せられたら。

 勝てないなあと。

 そんな風に思ってしまう。

 私は所詮(しょせん)裏方なのだ。

 自分の仕事に誇りは持っているが華々しい戦果をあげることも出来ない。

 どれだけ丹念に手を洗っても、ほら──。

 爪の中は少し汚れている。

 

 振り向いてもらえる訳がない。

 

 私は目尻を少し拭って、ポットのお湯を急須に注いだ。

 湯呑みを二つ用意したところで夕張が席に着く。

 夕張は、私の顔を覗いて言った。

「まあ私が何か言えた義理じゃないのかもしれないけど──後悔するくらいだったら伝えちゃえば? 明石の想い」

「無理よ。大淀に悪い」

「恋は戦争だって言うじゃないのよ」

「私は大淀と戦争するつもりはないの。だいたい勝てる訳ないじゃない。装備が違う」

「何の話してるのよ」

「夕張こそいいの? 提督のこと」

 お茶を淹れた湯呑みを差し出して私は言った。

「私は──もちろんショックではあったけど、何て言うのかな──提督と二人で録画したアニメ見たり笑ったりして満足しちゃってるところはあるからなあ」

「それでいいの?」

「部屋で二人きりだからチャンスはいくらでもあるし」

「怖いこと言うなあ」

「明石がいい子すぎるの。提督ったら可愛いわよ? ちょっとくっ付いてみたりとか、胸許の開いたTシャツ着てみたりすると判りやすく反応してくれるから」

 夕張は微笑する。

「何なのそれ。よく雑誌で特集されてる『小悪魔女子』って夕張のことだったの?」

「そんな雑誌あるんだ。読んでみたいかも」

 私は溜息を吐く。

「自然にそういうこと出来てるんだったら読む必要ないわよ。相変わらず溶接の専門誌でも読んでなさいな」

 まあ──私も読むのだけど。

「明石はもっと自信持った方がいいと思うけどなあ。せっかくそんな可愛いのに」

「可愛くない。やめてよ、そういうの」

「何よ卑屈になっちゃって。よくそれであんなスケベなスカート履けるわよね」

「スケベじゃないッ。人の制服に何てこと言うのよ」

「そんな作業服脱いで今からでも着替えたらいいの。提督時々ガン見してるわよ」

「そう──なの?」

 素直に嬉しいと思ってしまった自分が少し情けなくもある。

 単純か。

「この前の夏だって、水着買ってくれてもいいのよキラキラ──なんて言ってたじゃない」

「違っ、あれはその──冗談だから出来るのよ」

 改めて他人から聞かされると顔から火が出るほどに恥ずかしいのだが、あれくらいのふざけた調子で言うのが私の精一杯だ。

 本当の想いなんて込めてしまったら──言葉など爆散してしまう。

「艦隊で唯一の工作艦なんだし、明石にしか出来ない仕事だって一杯あるでしょう。私と付き合ってくれないと整備も修理もしません! ってそれくらい言えばいいのよ」

「それはどうなの」

 何だか私の思い描いている理想と違う。

 そんなの脅迫じゃないか。

「この前、抱き締めてくれないと出撃しません──って翔鶴さんがゴネてたけど」

「積極的だなあ」

 既に実行されていたことに驚きつつお茶を(すす)る。

「というかさ、そもそも大淀に取られて終わりって訳じゃなくない?」

「──どういうこと?」

「いや、世間では浮気とか不倫とか言ってあまり良くないことだってのは知ってるけど。私達人じゃないし別に関係ないじゃない。大淀も提督も気にしてなさそう──って言うか私もそんなに気にしてない」

「それは流石(さすが)に」

「提督の浮気性なんて今に始まったことじゃないわよ。それに、あの人が私達を見捨てる訳ない。だって──」

 私達の提督だもの──と言って夕張は笑った。

「聞いてみようか? 私が、今度」

「いいわよ」

 私だって提督のことを信じてはいるのだ。

 頼りないしエッチだし、時々自分でも何でこんな人のことを好きなんだろうと疑問に思うこともあるのだけど、いざという時には普段からは想像もつかないような決断力や指導力を発揮したりするし、何より私達のことを大切に思ってくれているということはひしひしと伝わってくる。

 そんな提督が、私達を悲しませる訳がない。

 けれど。

 

 

 それでも──不安なのだ。

 

 この戦争が終わったら。

 この戦争が──終わってしまったら。

 私達は用済みになって、提督に捨てられてしまうのではないか。

 艦ではないし、かと言って人でもない。

 そんな半端な存在の私達は戦場という居場所を失って──提督まで失ったとして。

 

 

 ──何を頼りに生きていけば良いのだろう?

 

 

 悪化の一途を辿る戦局の渦中にありながら、そんなことを考えてしまうのはおかしいのだけど。

 あのフィルムを見てしまってからというもの、その思いは日毎に強くなる一方だ。

 戦いが終わらなければいい──。

 そう心の何処かで思っている。

 そんな自分が大嫌いだ。

 自己中心的で本末転倒にも程がある。

 

 でも。

 そんなことより。

 

 提督と──ずっと一緒にいたい。

 

 それが、私の偽らざる本心に違いなかった。

 

 

 私がこんな艦娘だと提督が知ってしまったら、どれだけ幻滅されることだろう。

 夕張との会話で少し楽になった気分も、すっかり落ち込んでしまった。

 こんな時は仕事に没頭して、すべて忘れてしまった方がいいのかもしれないと、そう思ったその時──。

 

「明石、いるー?」

 

 それは今一番聴きたい声で、同時に一番聴きたくない声だった。

 夕張はニヤついて、

「いますよー」

 と答えた。

 私は無理矢理気持ちを入れ替える。

 こんな顔、あの人に見せられる訳がない。

「お、いたいた。何だ夕張まで。お茶してたんだ」

「提督も飲みます?」

「いいの? んじゃ──頂こうかな」

 提督は隣の椅子に腰を掛けた。

 お茶を用意すると、提督は有難うと言って湯呑みに口を付ける。

 左手首に見えるブレスレットが、私の心をちくりと刺した。

「また──何作ってるのさ」

「興味あります? これは何と35・6センチの五連装砲です!」

「五連装砲? 何か意味あんの、それ」

「出た。その意味意味言うのやめません? 意味なんてないからいいんじゃないですか」

 ないんだ。

「まあ、解るけど」

 解るんだ。

「いや、解るんだけどね。僕は一応提督だからさ、予算を使って何かやってる以上、何のために何をどうするとこうなりますって書かないといけない訳だ。色々と面倒な書類を。だから知っておきたいって気持ちも解って欲しいなあ──と」

「それを何とかでっち上げて考えるのが提督の仕事でしょう? 可愛い部下のために」

「自分で言っちゃうんだもんなあ」

「その前にドリルの話はどうなったんですか」

 ドリルの話──。

 それは私と夕張が「次世代型艦娘用近接兵器」と(うそぶ)いて結構な額の開発予算を()ぎ取ろうと画策していた件のことだろう。

 提督への申請書を深夜のノリで笑いながら書いていたのをよく覚えている。夕張はどうだったか知らないが私は完全にふざけていた。

「無理に決まってるでしょドリルは。趣味でやりなさいよ予算なんて付く訳ないじゃないの」

「まあそうですよね」

「何よ。そんなこと言って明石もノリノリだったくせに」

 確かに私も嫌いではない。

 夕張はつまんないと呟いて、不貞(ふて)(くさ)れた顔を提督に向けた。

「そんなことより何ですか。藪から棒に」

「ん? ああ。工廠に来た理由かい?」

 提督が私を見る。視線が重なった。

「実はその──明石に相談があって」

「私に、相談?」

 提督は頷いて、お茶を一口飲んでこう言った。

 

 

「明石は──艦って造れる?」

 

 

 ふね──。

 

「私は──艦ですけど」

「知ってる。艦娘じゃなくて、艦。艦娘の艤装のことでもないよ」

「艦娘の私が──艦を」

「そう」

「それは──どういうことでしょうか」

 理解が追いつかない。

 提督の言葉は意味を成さないままに中空を漂っていた。

 何処から話したらいいかな──と顳顬(こめかみ)を掻きながら提督は言う。

「この前さ──グアムに救援を出したよね。夕張にも出撃してもらったけど」

 深海棲艦の機動部隊がグアムに侵攻中という情報と共に、米軍から救援要請が届いたのが三週間ほど前のことである。ハワイが陥落した現在グアムは米軍の太平洋に()ける最後の砦だったし、万が一深海棲艦の手に渡る事態になれば日本の海上交通路(シーレーン)は壊滅的な打撃を受けることになる。

 赤城を旗艦に臨時で艦隊を編成し、要請を受けた数時間後には出撃していた。

 そもそも、敵艦隊の規模がある程度大きくなってしまうと私達しか対応出来ないのだ。小規模な水雷戦隊ならまだしも、機動部隊ともなれば通常艦隊での邀撃(ようげき)はまず不可能と考えて良い。

「誰一人欠けることなく無事終わったのは良かったんだけど、みんな凄く疲れてた」

「それは──当然じゃないですか」

「実際体験してみて夕張はどう思った?」

「そうですね──。確かに敵も強くて大変だったんですけど、それよりもあの時は、いつもと違って休む場所がなかったから──」

「休む場所?」

「国防海軍の艦が随伴してなかったのよ。帰りに(ようや)く合流したけど」

 提督は頷く。

「まさにそれが原因だと思うよ。自分達は艦娘だから大丈夫ってみんな言うんだけど、明らかに疲労は蓄積してた(はず)だよね。まあ実際三日三晩飲まず食わずで動けちゃうから本人達は気付き難いのかもしれないけど。僕にしてみたら考えられないな」

 提督は肩を竦めた。

「みんなは艦なんだけど、やっぱり艦じゃないんだよ。必要なんだって、母艦は」

「私達の──母艦」

「そう。艦娘母艦──とでも言うのかな」

 

 ──艦娘母艦。

 

「知っての通り僕等の目標はハワイだ。その距離はグアムの倍以上で、しかも道中の戦闘は比にならないくらい苛烈なものになる──。入渠に補給、艤装の修理や整備が出来るドックを備えた僕達のための母艦が必要なんだよ。国防海軍の艦艇を間借りしてちゃ駄目だ」

「それを──私に造れと」

「全部造れと言ってる訳じゃない。さっきね、正式に決まったって連絡があったんだ」

 そう言って提督は不敵に笑った。

「建造中の輸送艦を艦娘母艦に改装するよ」

「ええッ!」

 私と夕張は声を上げて驚いた。

 それは──大変なことじゃないのか。

「本気で言ってます?」

「もちろん本気で言ってるよ」

「その、建造中の輸送艦って」

「僕等のお隣で造ってる艦さ。三ヶ月後に進水予定だ」

「じ、乗員は──」

「ここにいるだろ? それも──飛び切りのエキスパート達が」

 提督が振り向いた先には、いつ現れたのか大勢の妖精が整列していた。

「この艦が実現したらもの凄い戦力だよ。一つの艦に色んな種類の艦が二○○隻以上も搭載出来るんだから。空母どころの騒ぎじゃない。守勢に徹してる現状を打開する鍵になる筈だ」

 僕達はこの戦いに絶対勝つよ──と提督は言った。

 夕張と私は呆然としながら目を見合わせる。

「──提督、よくそんな許可を取り付けましたね」

「それが不思議な話なんだけどさ」

 提督は困ったような顔をした。

「僕達専用の母艦が必要だよねって大淀に言ったらさ──その話は進めてます。近く許可が下りると思いますので──って言うんだよ。その時は大淀流石だなあ仕事が早いなあ、なんて感心してたんだけど、今考えたら何で話進んでたの? それまで大淀に何も言ってないよ? 思考()れてたのかな?」

「愛の()せる(わざ)なんじゃないですか」

 私は適当に答えたが、ことの真相について大凡(おおよそ)の察しはついている。

 提督は上申書の覚書のようなものを私室のパソコンで書いていたに違いない。

 

 パソコンもノートも携帯電話も──全部大淀に筒抜けですよ。

 

 提督は納得のいかない様子で唸っていたが、やがて「まあいいか」と言って私を見た。

「明石、やってくれるかな?」

 私は即答することが出来なかった。

 やりません、出来ませんなどという選択肢が存在していた訳ではない。

 提督の言う通りこの計画が実現すれば戦いの流れは大きく変わるだろう。やれるかどうかは判らないが、そんなことを不安に思っている場合ではない。

 そういうことではなくて。

 

 

 こんな大仕事に見合う報酬──というものに思い至ってしまったのだ。

 

 

 そんなのは理想と違うと先程まで思っていた筈なのだが。

 実際に訪れた現実(チャンス)を前にして、私の心は打算で満たされている。

 夕張が微笑しながら頷いた。

 私は勇気を出す決心をする。

「提督、一つ条件があります」

「条件?」

「私と、デートしてください」

 夕張が「あちゃー」と言って顔を覆った。

 何でよ。

「デート──。うん、僕で良ければ全然いいけど」

「明石そんなんでいいの? もっと要求しなさいよもっと直接的にッ」

「う、煩瑣(うるさ)いわね私の勝手でしょ!」

「提督、私も手伝いますから私もデートお願いします!」

「ちょっと夕張それはズルいんじゃない?」

「五連装砲付けますから!」

「いらないッ」

「何でですか!」

「兵装なんて近接防御火器システム(CIWS)くらいしか付ける予定ないよ! だいたい一国の海軍の戦力がそのまま載るって言うのに何でそんな邪魔なもの付けなきゃいけないんだッ!」

「意味なんてないからいいんですッ」

「なさすぎなんだよ!」

 椅子から立ち上がり怒鳴り合う二人を見て、私は何だか取り残された気分になる。

 私も負けじと立ち上がって、脈絡もなく提督に抱き付いてやった。

「な、何だよ急に。おい明石」

 思い切り胸を押し当てる。

 自分でも驚くくらい積極的だ。

「──どうです? 大淀より大きいでしょ? キラキラ」

「な、何言ってんのさ。明石、困るよ──ってマジで。ちょっと、これ以上はマジで!」

 提督の顔が見る見るうちに赤くなっていった。

 勝ち誇った表情で夕張を見る。

「何よその顔。あっ、私をバカにしてんのね小さいからってバカにしてんのね!」

 私は横でギャンギャン喚く夕張を無視して(自分で挑発したのだけど)、提督の胸に顔を(うず)めた。

「提督、バカみたいなこと聞いてもいいですか?」

「な、何だい?」

「もしその艦が完成したとして──この戦争が私達の勝利に終わったとして。そうしたら私達、要らなくなるんじゃないかって不安なんです。──おかしいですよね。まだ、そんなこと考えてる余裕なんてない筈なのに」

 こんなことを言って怒られてしまうのかな、と目を(つむ)っていると、提督は私の腕の中から逃げることをやめて、やがて私の頭を優しく撫でた。

「そんな訳ないだろ。戦争が終わっても僕達はずっと一緒さ。何処か海の見える場所で、みんなで静かに暮らそうよ。だから戦いなんて早く終わらそう? 戦うことがみんなの存在意義じゃないよ。それは──絶対に違うんだからね」

「──大淀に悪いです」

「今更遠慮することでもないよ」

「いいんですか? 私、本当に我慢出来ませんよ?」

「いいよ。もちろん」

 私は笑って、提督をより強く抱き締め直した。

 愛おしくて堪らない。

 伝わる温もりが、匂いが、感触が、心の中の(もや)を急速に晴らしていく。

「──提督って、私達の道標みたいな人ですよね」

「そ、そうかなあ。そうだったら嬉しいけども──ってかそろそろ離してくれないかな。ほら、明石解るでしょ? その、色々と大変なことになるからッ」

 提督がいないと、私達は自分が何処にいるのか、何処に行けばいいのかも判らないに違いない。胸許に手を当てて何やら少し落ち込んでいる様子の夕張だって、きっと同じ思いだろう。

 

 

 この人なしでは生きていけない。

 絶対離してはならない。

 私達がこの先を歩んで行くのに、どうしても必要な人だから。

 

 言うなれば──そう。

 

 

 ──羅針盤(コンパス)、みたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十一話『キタカゼとタイヨウ』

 

 

 

 

 

 誰の姿もない執務室を見渡して、明かりを消しドアを閉じた。

 真夜中の廊下を、月の光と非常口の誘導灯が照らしている。上空にはこの冬一番の寒気が居座っているらしく、寝巻に褞袍(どてら)を羽織っただけの僕は(からだ)を抱えて身震いをした。

 時刻は──正確には判らない。

 多分、日付は変わっている。

 こんなに深い時間まで仕事をしていたのは何も僕が勤勉だからではない。シャワーを浴びて歯を磨き寝る用意も整ったところで仕事を残していたことに気が付いたのだ。

 

 来週以降の近海警備任務の編成が決まらないのである。

 

 何度組み替えても決まらない。

 修正に修正を重ねて訳が解らなくなって白紙に戻して──その繰り返しだ。

 本来なら特段難しい仕事ではない。

 任務の主目的は哨戒なのだから、航空戦力と巡洋艦、それに対潜水艦に特化させた駆逐艦がいれば十分だ。ある程度ローテーションも出来ているし、他に考慮すべき点があるとすれば体調や艤装(ぎそう)のコンディション、練度のバランスに休養くらいのものだろう。

 何も悩むことはない。

 しかし──。

 

 

 ──どの編成にしても嫌な予感が(ぬぐ)えない。

 

 

 対空に特化させれば潜水艦が、対潜に特化させれば航空機が。

 魚雷が、爆弾が砲弾が──彼女達を襲う気がしてならないのである。

 眠りの浅い夜が続いている。

 夜中、悪夢に(うな)されて不快な覚醒を()いられることも多くなった。

 疲れているのだと思う。

 多分そうだろう。

 数ヶ月前の翔鶴(しょうかく)の大破が尾を引いていることもあるのだろうが、とどのつまり、自分が背負っている責任の重大さに(ようや)く気が付いただけなのだ。それが熟慮の末のものか浅慮に任せたものかは関係なく、僕の決断一つが彼女達の生命に直結する。

 彼女達が無事に帰って来るのは、当たり前のことではない。

 そんな単純明快な事実に、僕の精神は()し潰されている。

 結局、今日も編成は決まらなかった。このままだと近海警備任務だけではなく、他の任務や演習など全ての担務に影響が出るから早く纏めてしまわないといけないのだが──。

 一応、まだ時間はある。

 こんな時は早く眠ってしまった方が良いだろう。

 徹夜をしても良い結果が出るとは思えない。

 眠れるかどうかは、判らないけれど──。

 

 僕は溜息を吐いて、私室へと向かった。

 

 私室は執務室と同じフロアにあって、すぐそこの角を曲がるだけである。

 八畳程のワンルームで決して広くはないが、バスルームにトイレ、キッチンはちゃんと付随しているし、家財道具は箪笥(たんす)にテーブル、ベッド、それに細やかなハンガーラックくらいだ。唯一の趣味である本も鎮守府の書庫に纏めて置かせてもらっているから、僕にとっては十分な広さと言える。

 だいたい、私室で過ごす時間は微々たるものなのだから、それ以上を望むのは贅沢と言うものだろう。個室が与えられている時点で感謝せねばなるまい。

 寝るスペースがあればそれでいいのだ。

 短い通勤路を終えようとしていた僕は、キーケースから鍵を取り出し角を曲がった。

 ふと顔を上げると、私室の前に(たたず)む人影が見える。

 影は──こちらに気付いたようだった。

 暗闇で顔は見えないが、シルエットで誰かはすぐに判る。

「何してるの、金剛(こんごう)

 多分、彼女は微笑した。

「お疲れ様デス、テートク。待ってたネ」

「待ってたって──こんな寒い中で? 執務室に寄ってくれたら良かったのに」

「邪魔になると思いました」

「そんな大した仕事でもなかったしさ」

 そう言って握った金剛の手は、とても冷たかった。

 僕は鍵を開けて私室のドアを開く。

「凄く冷えてる。金剛、入って」

「テートク、もの凄いアグレッシブですネ」

「そういうことじゃなくてさ。ほら、シャワーでも浴びないと」

「やっぱりもの凄いアグレッシブですネ!」

「いいから温まって行きなさいッ」

 蛍光灯のスイッチを叩くように押すと、不安定な明滅の後に明かりが室内を照らし出す。

 僕達は、お互いに赤面しながら見つめ合っていた。

 目線を外すと同時に、握っていた手も離す。

「風邪、引いちゃうから」

「──わ、解りました。で、ではお借りしマス」

「うん、風呂場はそこね」

 丈の長いブーツを脱ぎ、こちらの様子をチラチラと伺いながら脱衣所に消えていく金剛を見送って大きく息を吐く。

 彼女達が休日や就寝前の時間に私室を訪れるのは珍しいことでもないのだが、入浴を勧めるのは(いささ)か軽率だったかもしれない。しかし、金剛の躰も芯から冷えていたようだったし、別に(やま)しいことを考えてそう言った訳でもないのだから致し方ないだろう。どれだけの時間待っていたのかは知らないが、あの冷え方は看過出来るものではなかった。

 ──うん、シャワーに入れるしか選択肢はなかったと思う。

 僕は自分の行為を必死に正当化して雑に靴を脱ぎ捨てた。

 

 

 キーケースをテーブルに放り投げて所在なさげに室内を彷徨(うろつ)いた後、温かい飲み物でも用意せねばなるまいと思い至りキッチンに向かった。

 戸棚の中に紅茶は──なかった。

 買った覚えがないからある(はず)がない。何故探した。

 ココア──でいいか。

 冷蔵庫に牛乳は──あった。

 賞味期限は──昨日まで。

 じゃあ大丈夫。熱するし。

 砂糖を入れるかどうか迷ったが、金剛の好みも判らないし、ここは味覚が子供の僕に合わせてもらうしかあるまい。カップに適量放り込む。

 牛乳を火にかけて──後は待つだけ。

 僕は戸棚に背中を預けて、水音の洩れる浴室を見た。

 今そこで金剛がシャワーを浴びているという事実が、僕を妙に気恥ずかしくさせる。

 そんな思いを振り切るように、目線を天井に移して金剛の訪問意図を考えた。

 先程の立ち姿は彼女には珍しく、何処となく寂しげな印象を持っていたように思う。何か思い詰めていることでもあるのだろうか。

 金剛と悩みごと──という組み合わせがいまいちピンと来ない。

 今日も元気だったし、昨日も元気だった。

 というか、金剛が元気ではなかった記憶がない。

 もちろん、彼女だって疲れていたり思い詰めてしまうこともあるのだろう。

 しかし、それでも彼女は元気を(よそお)う。

 世の中にある悩みごとや不安の多くは、時間が経過することでしか解決出来ないと彼女は多分知っているから、()えて元気を装う。

 元気を装って──そのうち本当に元気になる。

 そしてそれは結果的に、周囲を鼓舞することになる。

 金剛は、そういう艦娘(ひと)だ。

 まあ、悩み相談と決まった訳ではないし、単純に僕を(からか)いに来ただけかもしれない。その辺りも直接聞けば良いだろう。

 

 そのうち、シャワーの音が止んだ。

 僕は火を止めてカップに牛乳を注いだ。スプーンでいくらか攪拌(かくはん)しつつテーブルに運び、少し寒いような気がしたので電気ストーブの電源を点ける。

 脱衣所の扉が開いた。

「テートク、サンキューネ。温まりました」

「良かった。体調崩されたら大変なんだから気を付けてよ。ほら、温かい飲み物も用意したから。紅茶じゃないけど」

「ワオ! テートクは優しいネ。サンクス」

 風呂上がりの金剛はカチューシャを外し髪を解いていた。

 榛名に似ている。やはり姉妹だ。

 平素とは違う印象と妙に(はだ)けた胸許も相まって目の遣り場に困る。無防備にも程がないか。

 金剛は微笑しながらテーブルの向かい側に座り、ココアに口を付けて美味(おい)しいデス、と言った。

「そ、それで何の用なの」

「何がデスか?」

「だから、今日は何の用があってここに来たのって」

 金剛はたっぷりと間を取る。

「──悩みがあるんデス」

「悩み?」

「最近調子が悪くて、訓練にも身が入らないデス──」

 金剛は(おもむろ)に上目遣いになって、胸許を強調するように前屈みになった。

「御飯を食べても味を感じなくなりました。私、どうしたらいいのか──」

 躰をくねらせてこちらを覗き込む彼女の破壊力は置いておくとして、僕には一つだけ判ったことがある。目的はさっぱりなのだが、()にも(かく)にも──。

「嘘でしょ、それ」

「なっ」

「何も悩んでないよね」

「テートク、そ、それは酷過ぎるネ!」

「本当に悩んでる人はそんなに悩ましいポーズを取らない」

「Shit!」

「だいたい僕だって訓練の評価に目を通してるんだよ。あなたさ、砲撃訓練の成績相変わらず艦隊の中でもズバ抜けてるじゃない。身が入ってない訳がないんだよ」

「それとこれとは話が別デス!」

「じゃあ他にどんなことで悩んでるのさ。具体的にどうぞ」

「うっ──あ、あの──観たい番組が重なってて困ってマス」

「同時録画出来るレコーダーを買いなさいよ」

「か、解決してしまいました──」

「ほれ見たことか。世間ではそれを悩みがないと言うんだよ」

「Shut up! 私が悩んでるって言ったら悩んでるんデース!」

「はいはい。ってか──何でそんなに無理矢理悩みたいのさ」

 金剛はカップを両手でいじる。

「だ、だってテートク、悩んだり落ち込んだりしてる子に凄く優しいから──」

「──そ、それは、まあ──そうかもしれないけど」

「私だって疲れてたり落ち込んでたりするのに、テートクは私のこと構ってくれないから!」

 彼女は開き直って(まく)し立てた。

「いつも私からばっかりネ! たまにはテートクからもアタックして欲しいデース! テートクのバーニングラブが欲しいから頑張ってるのに、いつまで経ってももらえないデス! 私を少しでも(ねぎら)う気持ちがあるなら、溜まりに溜まった今までの分を全部返すつもりで頭を撫で撫でするネ! 今すぐ抱き締めて役所に駆け込むネ! 婚姻届にサインして判子を押すといいネ!」

「お、落ち着きなさいよ」

 正直後半は何を言っているのかよく解らなかったのだが、確かに金剛に頼り過ぎている部分があるのは否定出来ない。彼女の実力は確かだし戦場での状況判断にも優れている。自分や姉妹のことだけではなく常に艦隊全体のことを考えてくれているから、下手に僕が介入するよりも物事が上手く運ぶケースが多い。

 

 鳳翔さんが艦隊のお母さんなら、金剛は艦隊のお姉さんだ。

 

 性格に多少エキセントリックな面はあるものの、金剛を旗艦に()えていればどんな海域だって突破出来るに違いない。金剛を旗艦に任命した時点で僕の仕事は終わり、というような気さえする。

 まあ、それだけ信頼しているということなのだけれども、そんなことを言っても金剛は納得してくれないだろうし、何だか苦し紛れの言い訳にしか聞こえない。

 彼女の不満は、もっと自分を気に掛けろ──ということなのだし。

 言われてみれば、労うということを十分にして来なかったかもしれない。

「それで、テートクはどうするネ」

「わ、解ったよ。埋め合わせはするよ」

「じゃあ早速撫で撫でするデス」

「撫で撫で」

「頭を撫で撫でするネ!」

 そう言って金剛はバンバンと床を叩いた。

 こちらに来い、という意味だろう。

 僕は躊躇(ためら)いつつも移動して、金剛の隣に腰を下ろした。倒れ掛かって来た金剛の頭を受け止めるように抱いて、恐る恐る撫で始める。

 ああ、もう。

 彼女達は何故──こんなにいい匂いがするのだろう。

「こ、これでいい?」

「んー、ムフフッ。ベリーグッドデス──あと一時間はこのまま」

「長くない?」

「No problem デース。この調子だと、気持ち良くてそのうち寝てしまうネ」

「ここで寝るの?」

「そのくらい許すデス」

「──はあ。まあ、仕方ないか」

 もし寝てしまったらベッドは金剛に譲って、僕は座布団を並べて横になればいいだろう。少し寒いかもしれないが、それで金剛が満足してくれるなら文句はない。

 気持ちいいデス──と吐息を交えて金剛は呟いた。

 電気ストーブが近過ぎるような気がしたので少し離す。

 

 

 ──静かな夜だ。

 

 

 深海棲艦だとか、治安維持だとか、世界平和だとか、そんなことは放っておいて──。

 こんな時がいつまでも続けばいいと、心から思う。

 そんな戯言(ざれごと)は通用しないと解っていても。

 叶う訳がないと解っていても。

 弱くて愚かな僕はどうしても──そう願ってしまう。

 だからこそ、このひと時を大事にしなければいけないのだろうし、噛み締めて心にしっかりと刻み込まなければいけないのだろう。

 対峙せざるを得ない現実は、いつだって目の前にある。

「テートク──ちょっと苦しいネ」

「あっ、ごめん。これで、大丈夫?」

「フフッ、OKデス。私、テートクに聞きたいことがありマス」

「どんなこと?」

「テートクにとって──私はどんな存在デスか?」

「どんな、存在? それは難しいな」

「むぅ、そんなことないヨー。So easy ネ。何か思い付いたことを言えばいいのデース」

「思い付いたことねえ──」

 大事な人とか、掛け替えのない人とか、そんな言葉が真っ先に思い浮かんだのだが、それは彼女が求めている答えではない気がした。

 金剛は、僕にとってどんな存在だろう──。

 

 電気ストーブの放つ赤外線をぼんやりと眺めていると、ある言葉が脳裏を()ぎる。

 ああ、そうだ。

 

「太陽──かな」

「太陽、デスか?」

「うん、僕や艦隊のみんなが落ち込んでたり悩んでたりする時に、暗い気持ちをどんな光よりも明るく照らしてくれる──太陽。金剛には何度助けられたか判らないよ」

 彼女ならば、深海の暗闇だって引き裂いてしまうに違いない。

「それに、太陽ってなくてはならない──絶対必要なものでしょ? 動物も植物も、みんな太陽からエネルギーをもらってる。ほら、それってそのまま金剛のことじゃない。この鎮守府が明るくて(やかま)しいのはさ、大袈裟じゃなく金剛のおかげだと思ってる。我ながらぴったりの(たと)えだと思うよ」

 室内には、電気ストーブが立てる水蒸気の音だけが流れていた。

 反応のない金剛の様子が気になって、抱いていた腕を離し彼女の顔を覗き込んだ。

「不満、だったかな」

 金剛は顔を真っ赤にして俯いていた。

「違いマス──うぅ、褒めちぎられました──」

「自分から聞いて来たんじゃないの。何恥ずかしがってんのさ」

「テートクは振り幅が大き過ぎるヨー! 普段はちっとも褒めてくれないくせに──」

 金剛は、僕の胸に頭を寄せた。

「でも、それもテートクの魅力デス──。私は、テートクにとってなくてはならない存在なんですネ」

「うん、そうだよ」

 金剛は急に顔を上げて僕に迫った。鼻先が触れてしまいそうな距離だ。

「それってプロポーズ──デスか?」

「えっ」

「私が居なくちゃダメってことは、テートクと私はずっと一緒に居なきゃダメってことデス。だったらそれは──ケッコンしてフーフになることと、何が違うのデスか」

「ちょ、ちょっと待って。一旦落ち着こう、な?」

「落ち着いてマス! テートクは私のこと太陽って言ったネ!」

「言ったよ、言ったけどさ。ほ、ほら、太陽とは結婚出来ないし」

「どんな逃げ方デスかー! テートクはそういうところがダメダメデス! もっと男らしく全部受け止めてやろうとは思わないのデスか!」

「男らしくとか女らしくとか、最近流行(はや)らないみたいよ」

「ジェンダーの問題なんて考えたこともないくせによく言うネ。セクハラ三昧のエブリデイじゃないデスか!」

「人聞きが悪過ぎるってのッ」

 金剛は頰を膨らませて、ぷいと顔を背けた。プロポーズをした覚えはないが、金剛の機嫌を損ねてしまうことは本意ではない。

「あ、あのさ──結婚とか夫婦とかはよく解らないんだけど、似たようなものっていうか──それくらい大事なもの、であることは確かだと思うよ。それじゃ駄目かな」

 彼女はこちらをちらりと一瞥(いちべつ)した後、大きく息を吐いて再び僕の胸に倒れ込んだ。

「──もういいデス。テートクのヘタレ具合には慣れっこネ。ほら、撫で撫でする手が止まってマス」

 僕は言われるがままに、再び金剛の頭に手を乗せた。

「んふぅ。何だか怒ったら眠たくなりました。テートク──ベッドまで連れて行ってくだサイ」

「着替えなくていいの?」

「仕方ないデス」

「でも、連れて行くって──ほら、起きないと」

「抱っこするネ」

「抱っこ」

 そう言って金剛は僕の首に腕を掛ける。

 起きろって言っても、起きないのだろうな。

「──んじゃ、行くよ。よいしょ、っと」

 僕は両腕で金剛を抱きかかえた。

 筋力に不安はあったのだが、金剛がしっかりと掴まってくれていたおかげで無事に持ち上げることは出来た。当然、華奢(きゃしゃ)な女の子とは言え人一人が軽い筈もないのだが、その重みは何故だかとても心地好かった。

 金剛の息が首筋を(くすぐ)って変な声を上げそうになる。

 ベッドまでの四歩を、慎重に歩いた。

「金剛、降ろすからね」

「もうデスか──。まだ抱かれていたいデス」

「あのね、決して楽な体勢ではないんだよ? ほら──」

 金剛をベッドに降ろし、下敷きになった布団を引っ張り出して掛け直す。

「おやすみ、金剛」

「Good night テートク。サンキューネ──」

 金剛は微笑みながら、目を瞑っていた。

 そっと頭に触れて、立ち上がる。

 僕も寝ようか。

 適当に座布団を並べて、箪笥からタオルケットを二枚取り出した。しかしこれでは何とも心許なかったので、電気ストーブは点けたまま部屋の片隅に置くことにした。

 

 

 ──消灯。

 

 

 横になって目を瞑る。

 外では風が強く吹いて、私室の窓硝子(ガラス)を数度叩いていた。

 結局、金剛の訪問意図はよく解らなかったのだが、正直彼女が来てくれてとても救われたような気がしている。

 僕一人だと、この暗闇に耐えられていたか判らない。

 今日は、よく眠れそうだ。

 いつ眠りに落ちてもいいように、躰を丸めてタオルケットを口許まで上げたその時。

「テートク」

 と呟く金剛の声が聴こえた。

「──どうかした?」

 反応はなかった。

 寝言だろうかと様子を伺っていると、再度テートク──と金剛が呟く。

 躰を起こして、そっとベッドに近付いた。

「どうしたの」

 小声でそう問うと、突然腕を引っ張られてベッドに引き摺り込まれた。

「おわっ」

「テートク、寒いから一緒に寝るネ」

「いや金剛、それはいくら何でも──ほら、ストーブだって点けてるし大丈夫だって」

「問答無用デス。ユッキーだって一緒に寝てるって聞いてマス」

「確かに雪風(ゆきかぜ)は時々潜り込んでくる時あるけど、それとこれとは──」

「ユッキーはオッケーで私はノーなんておかしいデス」

 微かに見える金剛は、不満そうに僕を(にら)んでいた。

「えぇ──本当に? せっかく今日は眠れるかもって思ってたのに」

「何で私とじゃ眠れないデスか」

「雪風と金剛じゃ──ほら、色々とさあ」

 言わないと解らないか。

「何を訳の解らないこと言ってるネ。まあ、どちらにせよテートクに自由意志なんて存在しないデス。この手は離しまセン。喰らいついたら離さないって、言ったデース!」

「いつ言ったんだよ」

 さあさあ、と金剛は笑いながら僕をベッドに引っ張り込む。抵抗すると手の甲や腕が金剛の躰に触れてしまって、その度に僕は戦意を喪失していった。

 

 このままだと──プロレスごっこでは済まなくなる。

 

「解った。解ったから、ちょっと──狭いから金剛下がってって」

「そんな寂しいこと言わないでくだサーイ。──二人で暖め合うネ」

「バカ言わないでって──おい、毛布こっちにも寄越せって引っ張るなって!」

 その後、幾度かの攻防を経た毛布争奪戦は、講和条約で決まった国境線のように、痛み分けでお互い軽くはみ出す形に落ち着いた。

 僕は金剛と触れ合わないように、左半身を下にして背を向ける。金剛と同衾(どうきん)しているというこの事実が、想像以上の重みを持って僕に伸し掛かっていた。

「ムフフ、テートクこのベッドは凄いですネー。テートクの匂いで一杯デス」

「嗅ぐなって。ったく、もう寝るよ。明日も早いんだからさ」

 金剛の返事はなかった。

 しかし、(つか)()の静寂の後、金剛の額が僕の背中にこつんと当たる。

 僕は、僅かに痙攣(けいれん)して躰を硬直させた。

「テートク、私──やっぱり悩んでマス」

「どんなこと」

「最近、テートクが元気ないネ」

「そ、そうかな。まあ、あれじゃない? 最近忙しいんだよ。新しい任務だとか艤装の改装計画だとかさ──それにほら、近々進水する艦娘母艦の名前も僕等で決めないといけないんだって。もちろん国防大臣が命名しましたって形にはなるみたいなんだけど、艦の生まれ変わりという特殊な事情を抱える艦娘に配慮して云々(うんぬん)とか書いてあったな。気を遣ってもらったのか面倒ごとを押し付けられたのか怪しいところだけどね」

 僕の躰に金剛の腕が絡み付いた。

「──テートク、こっち向いてくだサイ」

 僕は誘われるがままに躰を回転させた。

 金剛は僕の頭を胸に抱く。

 それは何だかとても心地好くて、そのうちに全身の力が抜けてしまった。

 抵抗しようという気力も湧いて来ない。

「それは嘘ですネ、テートク。ほら、隠さなくていいんですヨ? 悩んでること、苦しいこと全部吐き出すネ。私が、全部受け止めてあげマス──」

「僕が悩んでるのが──金剛の悩み?」

「Yes それが何よりも辛いんデス」

 

 張り詰めていた感情の膜に、すっと裂け目が入るのを感じた。溜め込んでいた思いはそのまま涙になって()()もなく溢れ出す。

 先程とは立場が変わって、今度は僕が頭を撫でられていた。

 話せる状態に回復するまで──金剛がその手を止めることはなかった。

 僕の声は、涙で震えている。

「金剛──僕はね、最近怖くてたまらないんだよ。船団護衛でも、近海警備でも、みんな、出撃したまま戻って来ないんじゃないかって。近海警備の編成だって決められないままなんだ。バカみたいだろ、笑っちゃうだろ。誰を出撃させても戻って来ないような気がして──怖いんだよ」

「──全然、おかしくなんてないネ」

「何でこんなことしなくちゃいけないのかな? 何で、僕にはみんなのことを守れる力がないのかな? 逃げたいよ。何もかも放り出して、逃げ出したいよ──」

「フフッ。テートクらしいですネ」

 金剛は僕を抱く腕に力を込める。

「でも、大丈夫デス。私達は必ず帰って来マス。こんなに弱くて優しいテートクのことが心配で、沈んでなんていられないネ」

「本当に? 敵がどんなに強くても?」

「Of course 私達の絆は、深海棲艦にも断ち切ることは出来ないデス」

 僕は金剛にしがみ付いて鼻を啜った。

 そんな僕の姿に、彼女は優しく笑って応えてくれた。

「テートク、その近海警備──私が行きますヨ?」

「えっ」

「私が出撃して、無事任務を遂行して、そしてみんなを連れて必ず帰って来マス。そしたら、これからも安心して出撃させられるデショ?」

「で、でも」

「戦艦の私に哨戒任務なんて務まる訳ないと思ってますネ? いい機会(チャンス)デス。テートクに私の実力、見せてあげるネ」

 彼女の言葉は、麻酔のように僕の意識を浸蝕(しんしょく)していった。

 そう──金剛なら、必ず帰って来てくれる。

 みんな一緒に、笑顔のまま帰って来てくれるに違いない。

 

 今の僕の姿は、まるで母親に甘える幼児のようで──しかし、それが異常だと警告を発する役割の理性とか常識とか羞恥心とかそういうものの姿は何処にもなくて──ただただ、安寧(あんねい)だけが心を満たしていた。

 微かに聴こえる金剛の鼓動が、僕を眠りへと(いざな)っている。

「──私は絶対に沈みまセン。そして、艦隊の誰も、沈ませないデス──」

「──うん、ありがとね」

 

 

 ──静かな夜だ。

 ──心が、静かな夜だ。

 

 

 額に唇の感触を感じると同時に僕は、広大な無意識の海にその身を投じていた。

 

 

            ※

 

 

 カランを回すと、いつにも増して冷たい水が勢い良く流れ出した。

 洗面台に跳ね返り手の甲に触れた飛沫(しぶき)で、顔を洗う意欲も失せる程の冷たさだった。

 実を言って、朝に顔を洗うという行為が好きではない。無理矢理意識を「矯正」させられているようで、僕のような低血圧の人間にとっては拷問に等しい。しかし、そうは言っても社会生活に支障を(きた)さないレベルまで目を覚ますには、他に良い手段がないこともまた確かだった。

 冷水を受け止めて、意を決し顔に叩き付ける。

 今日は天気が良いから余計に朝が冷えるのだろう。先程、窓外の薄明の中にランニングしている長良(ながら)を見たことを思い出した。白い息を吐きつつ、一定のリズムで走る彼女は何処となく神聖なものに思えて、室内で寒さに身を縮めている自分を情けなく思ったものだ。

 ──昨晩のこともあるし。

 水を止めてタオルで顔を拭いた。鏡に映った僕は苦笑している。

 

 

 朝、目を覚ますと、そこに金剛の姿はなかった。

 僕は強烈な孤独感に襲われて、室内を見回しながら彼女の名前を呼んでいた。多分、その狼狽(ろうばい)ぶりはまるで迷子のようだったと思う。やがてサイドテーブルに書き置きを見つけ、金剛は食堂当番の(ため)に先に起床していたことを知ると、僕は安心して気が抜けてしまって、再びベッドに倒れ込んだ。

 ベッドには──金剛の匂いと温もりが残っていた。

 まだ彼女が隣に居るようで、まだ彼女の胸に抱かれているようで──僕はそのまま、起床時刻を過ぎていることも忘れて身も心もベッドに埋没していたのである。結局、起きたのは七時前くらいだ。

 朝食は食べていない。食堂に行かないと、朝もちゃんと食べてくださいと間宮(まみや)さんに怒られるのだが、時間もなかったし仕方なかったと思う。何より、当番で食堂を手伝っている金剛と顔を合わせるのは恥ずかしい気がしたし。

 

 シャツに袖を通してボタンを留める。

 上衣と軍帽、それに書類を纏めたファイルを手に取り、時計をふと見ると課業開始まで僅か数分だった。私室を出て早足で執務室へと向かう。

 一分も掛からぬ通勤路の有難みを噛み締めながら執務室のドアを開けると、既に秘書艦の大淀(おおよど)翔鶴(しょうかく)瑞鶴(ずいかく)が着席して待機していた。

 それは別におかしなことではない。あと数分で仕事が始まるのだから、準備しているのは(むし)ろ当然だと思う。

 

 ──三人が、僕を射るような眼差しで睨んでいなければ。

 

「お、お早う──」

「お早う御座います、提督。昨夜(ゆうべ)はお楽しみでしたね」

「へっ」

 驚きの余り一瞬無表情になり掛けたが、僕は()りっ(たけ)の精神力を動員して平静を装った。

 何だこの朝は。土俵際から始まった相撲みたいな。

「な、何のことかな、あはは──それで翔鶴、今日の演習の話なんだけど」

「私とはいつ一緒に寝て頂けるのでしょうか」

「あはっ、あはははは翔鶴は面白いなあ。そうだ瑞鶴、貸してたCD聴いてみた?」

「借りてないし」

「あはははは、そうかあれは川内(せんだい)かあ。わはははは──」

 瑞鶴は僕を試すような目で見つめながら、冷淡な態度で言い放つ。

「提督さん、ネタは上がってんのよ」

「何で上がってんだよ!」

 誤魔化しきれないと判るや否や書類を床に叩き付けて僕は豹変した。

「認めましたね」

「認めましたよ、ついに」

「懲りないよねえ」

「何でいっつもバレるんだ! ここは中央情報局(CIA)国家安全保障局(NSA)の施設か何かかッ?」

「国防海軍です」

「真面目かって!」

 大淀は呆れたと言うように大きく息を吐いた。

「提督、これ以上私室を猥褻目的で使用することがあると──取り上げますからね?」

「何を」

「私室を」

「嘘でしょ」

「本当です」

「じゃあ──僕は何処で寝るんだよ」

 翔鶴は首を傾げて微笑んだ。

「瑞鶴、私達の部屋──空いてるベッドあったわよね?」

「あったかも。なくても作るし」

「正気かって!」

 僕がそう叫ぶと同時に、執務室のドアがノックされる。

 怒り肩で振り向いて「どうぞ!」と強めに応じてしまった。

「しれえ、お早う御座います!」

「提督お早うさん。何怒ってんのさ」

 

 そこには、雪風と長波(ながなみ)が立っていた。

 すぐさまに戦闘態勢を解除する。

 

「お、お早う──いや、何も気にしないでよ。それより何の用? こんな時間に珍しいじゃない」

「気にすんなって言われてもなあ。何だかヤバい空気だな、この部屋」

 二人は室内の異様な雰囲気に戸惑っているようだった。

 雪風に気にするなと目で訴えて先を促す。

「──あっ、はい。あの、舵の調子が悪くて、午前の演習に間に合うように修理してもらいたいんですけど、その修理伝票に司令のサインが欲しくて」

「あたしはただの付き添い」

「あぁ、そういうことか。解った成る程ね──そうかそうか。よし、それは心配だから是非とも僕が付いて行こう」

「そ、そこまでしなくても──」

「提督、逃がしませんよ? 私達とお話があるんですからね」

 露骨に逃亡を図った結果、いとも簡単に捕まった。

 長波は眉を(ひそ)める。

「提督、また何かやったのか?」

「またまた女を連れ込んだんですよ」

「翔鶴その言い方はやめなさいって」

「おんな──」

「ち、違うんだ雪風。昨日は金剛が僕の私室に遊びに来たんだよ。ただそれだけさ」

「年頃の男女が抱き締め合いながらベッドで寝ることを──ただそれだけ──って言うのかな?」

 瑞鶴が僕から全く目を離さずにそう問うた。

 ──何故そこまで知っている。

 私室にカメラや盗聴器が設置されていないか本気で調査しなければいけないかもしれない。

 長波は額を抑えて溜息を吐いた。

「一緒に寝たのか──。金剛も大胆に仕掛けて来たな」

「泥棒猫──いえ、泥棒戦艦ですね」

 それを言うなら泥棒高速戦艦です──と雪風が無邪気にどうでも良い補足をした。

「あのな、みんな金剛のことを悪く言い過ぎなんだよ。金剛は僕のことが心配で来てくれたんだぞ。僕の悩みを聞いてもらったんだからな」

「それで、大丈夫デースと言われながら抱き締められて頭でも撫でられていたんでしょう?」

 流石大淀、ほぼ当たりである。

 返答に窮している僕を見て、今度は全員が溜息を吐いた。

「提督さん、チョロ過ぎるよ──」

「う、煩瑣(うるさ)いなッ。金剛はね、近海警備の編成が決まらないと聞いて自分が出撃すると言ってくれたの! 艦隊は自分が必ず無事に帰投させると言ってくれたの! 僕にとっては女神様なわけ、こんな怖い尋問なんてしないわけッ!」

 大淀の眼鏡が一瞬きらりと光った気がした。

「へえ、そうですか。でしたらその任務──私も出ますけど」

「えっ」

 大淀の言葉に、文字通り僕は「きょとん」とした。

「私も出ます、ねえ瑞鶴?」

「当たり前じゃん」

「良かったらあたしも行くぞ」

「しれえ、雪風も出撃したいです!」

 その場に居た全員が立候補した。

 金剛、大淀、翔鶴、瑞鶴、長波、雪風──。

 対空、対艦、対潜──。

 確かに、バランスも悪くないし練度も申し分ない。

 

 

 ──しかし。

 

 

「──いやいやいや、近海警備だよ? 重過ぎない?」

 いろんな意味で。

「提督、一番近くに居る私達が懊悩(おうのう)する提督に気が付かないでいたと思いますか?」

「そうだよ、いいじゃん別に。要は無事に帰って来ればいいんでしょ? 楽勝なんだから」

「おう、この長波サマに任せておけって」

「み、みんな──」

 不覚にも涙腺が緩む。瑞鶴の言う通り僕はチョロ過ぎるのかもしれないが、心は外気温に反して温かさで満たされていった。もう尋問くらい甘んじて受けようかと、そんなことを思い始めていたその時──。

 穏やかな空気を吹き飛ばすように、執務室の扉が再び開かれる。

「Good morning デース! テートクぅ、食堂に来てなかったから朝食のサンドウィッチを作って来たネー!」

 折良くなのか折悪しくなのか判断は付かなかったが、現れたのは金剛だった。

 金剛は執務室に居る顔ぶれを見て、不思議そうに首を傾げた。

「お早う、金剛。わざわざ朝食作ってくれたんだ」

「そ、そうデスけど──」

「あ、ここに居るのはね、昨日言ってた近海警備任務の艦隊のメンバーだよ。みんなも出てくれるって」

「Oh ファニーでヘヴィな艦隊ですネ──」

 やっぱそう思うんだ。

 大淀は咳払いをして眼鏡を持ち上げる。

「金剛さん、その話はまた後でするとして──とりあえず提督を余り(たぶら)かさないで頂けます? この人、すぐ好きになっちゃうので」

「大淀、そんな言い方は酷いヨー。ただ自然な流れでベッドインしただけネ」

「それが駄目だって言ってるの!」

 瑞鶴の言葉に金剛は頬を膨らませた。

 春の陽気に包まれていた僕の心は長続きすることなく、段々と季節通りの気温に戻りつつあった。

 何だか室温も下がっていやしないか。

「むぅ、ユッキーだって一緒に寝てるんデショー? 何で私だけダメなんデスかー」

「いや、あのほら、喧嘩はやめような? 雪風は何て言うのかな──子供って言ったらアレだけど、年の離れた妹って言うか娘って言うか。そんな感じだから問題ないって言ったらおかしいのかもしれないけど──もちろん変なこともないしさ。な?」

 同意を求めて雪風の方を向くと、雪風は赤面しながら上目遣いで僕を見ていた。

 そこはかとなく、瞳も潤んでいるような気がする。

 何だその反応。

 やめてよ、何かしてるみたいじゃないか。

 

 

 ──雪風に「何か」してるなんて、金剛とは比にならないくらいヤバいじゃないか。

 

 

「──何かされてるわね。言いなさい、雪風」

「ちょ、ちょっと待ってくれって。翔鶴は弓置けって!」

 雪風は内股気味になって、両手をモジモジとし始める。

「い、いえその──しれえは、わざとじゃないと思うんですけど、その──寝ながら(まさぐ)ってくると言うか──」

「まさぐってくる」

 雪風以外の全員でユニゾンした。

「何を言って──」

「提督さんは黙ってて! 雪風、何処を触られたの?」

 雪風は一層顔を赤くして、俯きながら言った。

「その──お股のところとか」

 お股。

 お股のところ。

 うーん。

 

 

 ──おまた。

 

 

 着席していた秘書艦達はすっと立ち上がって、後方ではガシャンと皿の割れる音がした。

 司令を怒らないでください雪風も気持ち良かったんですッ──と火に油を注ぐ逆効果丸出しの有難いフォローも頂きつつ、僕は死んだ魚のような目で虚空を見つめていた。

 雪風は一体何に運を使ってるんだ? と、長波の呆れ果てた声が聴こえる。

 

 ──どの展開にしても嫌な予感が拭えない。

 

 艦娘の身の安全のことではない。何故なら他人の心配をしている場合ではなくなったから。ゆっくりとこちらに近付いて来る秘書艦達は、揃いも揃って無表情だ。

 課業開始のラッパが虚しく響き渡る。

 上空には、この冬一番の寒気が居座っているらしい。

 

 

 天気予報は見るまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十二話『コントラプンクタス』

 

 

 

 

 

 桟橋の中程──海面と(おか)を結ぶ昇降階段の近くで足を止めた。

 潮の香りを乗せた微風(そよかぜ)が、僕の頬をそっと撫でて暗闇に消えて行く。夜の風は乾いていた。多分、触れた人が少ないからだろう。

 手に持っていたランタンを置いて折り畳み式の椅子を展開する。ラジオは混信していて聴き取り難いことこの上なかったが、調整し直すのも何だか億劫(おっくう)に思えて、音量を少し下げ椅子のフレームに粗雑に引っ掛けた。そこまで真剣に聴いていた訳ではないし、夜だから混信するのは仕方がない。

 時刻は、◯二三◯(マルフタサンマル)。草木も眠る丑三つ時。

 春を迎えたとは言え夜中はまだ冷える。椅子に腰を下ろすと同時に、(からだ)を丸めながら大きな欠伸(あくび)をした。

 ──眠い。

 準備をするには少し早過ぎたかもしれない。夜闇に溶け込んだ水平線を幻視して、そんなことを思う。

 

 僕は艦隊の帰投を待っている。

 予定では、あと三十分程で着く(はず)だ。

 

 艦隊の到着まで何もすることがないのだが、こうした手持ち無沙汰な空白の時間は嫌いではない。何もすることがないのなら無理に何かをする必要はない。ただ只管(ひたすら)に、時が流れるのを待っていればいいだけだ。闇に淡く滲むランタンの灯りを横目で見つつ、()(もた)れに躰を預けて()(かん)する。

 本当に眠ってしまいそうだ。

 こんな夜こそ──川内(せんだい)は騒ぐべきではないのか。

 平素は喧しいだの早く寝ろだの夜戦バカだのただのバカだのと、艦隊とは反比例してテンションの上がっていく川内に苦情を言っておきながら、何ともまあ都合の良いものだと自分でも思う。

 しかし今日のような夜は、典型的な「川内の好きな夜」だった。

 夜だ夜戦だと騒がしい一面とは裏腹に、彼女はこういった穏やかな夜を好むのである。強雨が地面を叩き付け、暴風や稲妻が闇を切り裂くような夜は余り趣味ではないらしい。歓楽街のネオンが(またた)く夜なんてのは(もっ)ての(ほか)だ──とも言っていた気がする。

 

 

 ──夜に(あらが)ったら駄目なんだって。

   身を委ねるんだよ。

   夜は暗いから何も見えないけどさ。

   だからこそ。

   昼には見えなかったものが、見えてくるんだよ。

 

 

 確か川内の夜更かしを注意した時の──僕が着任して間もない頃の会話の記憶だと思う。艦隊業務に支障が出るから昼に寝るのはやめなさいと言うと、彼女はとても純粋な顔をして「じゃあ私はいつ寝るのよ?」と首を傾げていたのを思い出す。

 あれからもうすぐで一年が経つ。

 僕も多少は提督らしくなれているだろうかと、(まば)らに輝く星空を見上げそこにある筈のない答えを探した。

 夜に身を委ねるとはこういうことなのかもしれない。

 深呼吸をしてラジオも消してしまおうと思った矢先に、何の前触れもなく斜め後方から突然少女の声が聴こえた。

 

 

「夜はいいよね。夜は──さ」

 

 

 その声は、まさに今思い出の中で聴こえていた声と一緒だった。一瞬ラジオの音声かと思ったのだが、そんな訳はないとすぐに思い直して声の発生源へと首を捻る。

 そこに居たのは──矢張(やは)り川内だった。

 得意げな微笑に、制服のスカーフがふわりと揺らいでいる。

「川内、まだ起きてたの?」

「うん、まあそうだけど──あれ、あんまり驚かないんだね」

「何だか川内が来るような予感はしてた。というかさ、その忍者みたいな真似はやめたら? 夜戦では有効かもしれないけど、驚くじゃない」

「全然驚いてないじゃない」

「いやそうなんだけどさ──僕はほら、慣れてるから」

「慣れてない人にはしないよ?」

 僕は短く唸る。

「うーんとね、じゃ──いいや」

「何それ、バカみたい」

「バカだもの」

 再度、何それ──と言って彼女はころころと笑った。

「座る?」

「いいよ、いいって。私はここでいい」

 僕が椅子を譲ろうとすると、川内はそれを拒否して昇降階段の一段目に腰を下ろした。

 少女を地べたに座らせることに多少の抵抗感を覚えながらその姿を見ていると、川内はそんな僕の小さな葛藤を見透かしたように微笑んだ。

「ってかさ、提督何してんの? 提督こそ寝てなきゃ駄目じゃない?」

「僕は艦隊のお出迎え」

「禁止になったじゃん」

「なったけど。解ってるんだけど、今回はちょっとね」

 川内の言う通り、僕が艦隊の帰投を桟橋で出迎えることは禁止されている。

 理由は、度が過ぎてしまった──ということだと思う。

 過酷な任務を遂行し、無事に帰還する艦隊を出迎えたくなるのは自然なことだろう。当初は任務と言っても船団護衛と近海警備くらいだったから、艦隊を出迎えるのは週に四五回程度だった。そうして作戦の成功と艦隊の無事を盛大に祝っているうち、任務だけではなく訓練や演習に出ている艦娘達のことも出迎えたくなってくる。

 

 ──お出迎えは、週に四五回程度から一日に四五回程度へとその頻度を急激に増した。

 

 こうなると執務への影響は避けられない。艦隊は常に予定通りの時刻に帰投する訳ではないから、出撃した全員を迎えるとなると、執務室に居る時間よりも桟橋で待機している時間の方が長くなるという異常事態に発展してしまう。

 ──お前はハチ公か、と()()った笑顔で激怒していた大淀(おおよど)は記憶に新しい。

 当然の結果ではあるが、それ以降艦隊の出迎えは禁止になった。

「ちょっとって何よ。今日帰って来るのは──」

「六駆。帰りの移動手段が確保出来なくてさ」

 六駆──(あかつき)(ひびき)(いかずち)(いなづま)からなる第六駆逐隊は、シンガポール東京間──通称ルートBの船団護衛任務を終えて帰路に就いているところだ。

 通常、船団護衛任務を終えた艦隊は、鎮守府最寄りの飛行場まで国防軍の輸送機で帰還することになっている。これはルートA──東京シンガポール間の場合も同様で、帰りは空路なのである。海上を自走して戻るのは時間が掛かり過ぎる。ルートAの場合は論外だろう。

 しかし──。

 昨日未明に暁達を乗せる筈だった輸送機は電装品関係のトラブルに見舞われたらしく、一昨日から緊急の点検整備に回されていた。更に悪いことは重なるもので、その輸送機の代替機は何の行き違いなのか──予定通りの物資輸送任務へと飛び立っていた。

 六駆を乗せる航空機は何処にもなかった。何でそんなことになるんだと文句を言ったところで仕方がない。僕がしっかりと確認していなかったのが悪いのだ。

 この事態が発覚したのが、暁達が浦賀水道に差し掛かろうとしていた時のことである。

 保安上の理由から、民間機に艤装(ぎそう)は載せられない。

 同じ理由で鉄道も使用出来なかった。

「輸送機の手配が付かなくてね。向こうの方でも色々と調整してくれて車両の手配までしてくれたんだけど──ほら、車は暁が酔っちゃうでしょ?」

「ああ、あの子は車に弱いもんね──」

 海と陸では勝手が違うらしい。

「艤装だけ陸送して暁達は飛行機で帰って来たらって言っても、それは嫌だって譲らなくてさ。それだったら自分達で帰るからって。ああ、やっぱり空軍の定期便に乗せてもらえば良かったんだよな。少し遠くなってもさ」

 空軍の定期便が離発着する最寄りの飛行場は車で片道三時間半の距離だった。結局、こちらの案も陸での移動距離が障害(ネック)となった。

「真面目だよね。変なところで」

「褒められたと思っておく」

 贖罪──と言う程大袈裟なものではないが、どちらにせよ自己満足に過ぎないことは解っている。僕が出迎えたところで彼女達の疲労が軽減されることはない。しかし、そんな彼女達を余所(よそ)に眠っていられる訳もなかった。

 満身創痍で走り終えようとしていたマラソンのゴール直前に、突然距離が加算されたランナーの心境は如何(いか)なるものだろうか──。

 自己嫌悪のスパイラルが目前に迫っていることを察知した僕は、それを回避する為にすかさず話題を変える。

「──それで、川内はどうしたのさ」

「私? 私は、これ」

 そう言って川内が差し出したのは一枚のCDだった。

 それは、僕が貸していたものだ。

「──ああ、聴いたんだ」

「聴いた聴いた。凄く良かった」

「そうでしょ?」

 今度は僕が得意げに微笑む。

 

 

 川内と音楽の話になったのは、つい先日の休憩中のことだ。

 

 

 その時の僕は艦隊の編成で悩んでいて、庁舎を出て寒空の中、一人イヤフォンをしながら黄昏(たそがれ)ていたのである。すると、今晩のように忍者宜しく突然現れた川内が視界を(さえぎ)って(この時は音楽を聴いていた僕が悪いのかもしれない)、何聴いてるの──と言いながら片方のイヤフォンを僕から外し、不自然なまでに自然な動作で彼女はそれを装着した。

 暫くして川内は、凄く不思議な曲──と言った。

 僕が聴いていたのは(むし)正統的(オーソドックス)なロックだったのだが、艦娘の川内には珍しい音楽だったのかもしれない。興味を示した川内に、引越し以来開けていなかった段ボール箱の奥底からCDを引っ張り出して、その曲の入っていたアルバムを貸した。

 少し前の、海外のロックバンドのアルバムだった。

「提督がこういう曲好きだってのは意外だったけど、今は何だか解る気がするな。無骨で不器用で演奏も(つたな)かったりするんだけど、でも凄く旋律(メロディ)が綺麗なんだよね」

「解ってんじゃん」

「何だよ偉そうに」

 そう言って僕等は笑った。

「提督はさ、この人達の他のCDも持ってるの?」

「持ってるよ全部。ベスト盤を数に入れないと全部で──七枚だったかな。シングルのB面集も入れたら八枚か。このB面集がまた名盤なんだ──」

「本当に? 貸して欲しいっ」

 川内は手を合わせて拝むように懇願する。

「もちろんいいよ。今日用意しとく」

「有難う!」

 川内はにひひと弾けるように笑った。そんな笑顔を見ると僕まで嬉しくなる。

 僕が好きなものを川内も好きと言ってくれるのは当然嬉しいし、こうしてCDを貸し借りすること自体が酷く懐かしい気がした。

 このCDジャケットも久しく見ていなかった。

 新鮮な気持ちで見てしまうのは、ランタンの灯りにぼんやりと揺らめいている所為(せい)ではないだろう。本当に何年も見ていなかったのだ。

 あんなに、聴いていたのに。

「提督、どうしたの?」

「ん、いや──真逆(まさか)ね、CDを懐かしく思うようになるなんてなあ、と」

「懐かしい? ああ、今はディスク自体余り使わないんだっけ」

「そうそう。(ほとん)どダウンロードかストリーミング。日本はまだ残ってる方らしいんだけど、海外ではCDなんかすっかり死滅状態なんだって。代わりにレコードが復権するなんてね」

「レコードとCDって何か違うの?」

「確か録音される周波数帯が違うんじゃなかったかなあ。ちゃんと聴いたことないから判らないんだけど──まあ、多分別物なんだよ。どっちが音が良いとかじゃなくてさ」

「ふーん、聴いたことないんだ」

「ないよ。レコードなんて再生する機械がないもの」

 買えばいいよと川内は無責任に言う。

「ターンテーブルを? そこまで音楽通でもないしなあ」

「いいじゃん。今日みたいな夜にレコードかけてたら素敵じゃない? 買おうよ。買って私の部屋に置こうよ」

「何だよそれ」

「借りてあげるって言ってんの」

「僕に何のメリットがあるって言うんだ」

 川内は知らなあいと言って夜空を見上げた。

 

 こんなくだらない会話が心地好い。

 

 川内と居ると、昔の同級生と話しているような錯覚に(おちい)る。CDがリマインダーの役割を果たして、そういった感情を喚起させているのかもしれないが、自分を飾らなくていい相手であることは間違いなかった。

 沈黙が苦にならない。多分、川内もそう思ってくれているような気がする。

 多分、だけど。

 夜風が柔らかく吹いて、その風に僕は川内の匂いを感じる。

 これも錯覚だ。僕が風上だから。

「川内はさ、何で夜が好きなの?」

「何で?」

「ちゃんと聞いたことなかったかも、と思って」

 川内は腕を組んで(しばら)く考え込んだ。

「言葉にするのは難しいけど──そうだなあ。飾らなくていいから、かな」

「飾らなくていい?」

 それは、今僕が考えていたことだ。

「お天道(てんと)(さま)の下だとさ、ある程度(よそお)ったりしなきゃいけないじゃない? 明るいからさ。でも夜は暗いから──見えないからさ、自然体でいられるって言うか、私自身そのままでいられるような気がするんだよね──うん、夜は私が私でいられる時間なんだよ」

「そっか。だったら、夜中にこうして川内と喋ってるっていうのは、理に適ってることなのかもしれないな」

 川内はその表情で、どういうこと? という疑問を僕に投げかけた。

「いや、僕も偶然思ってたんだ。川内とはさ、何だか同級生と話してる気分になるんだよ。それこそ飾らなくていいって言うか。本当に──友達みたいなさ」

 

 

 友達──と川内は呟く。

 

 

「そ、そっか──友達、だよね」

「何だよ不満なのか?」

「全然、そんなことない。私も提督は友達みたいだなって思ってた。あはは──」

 川内の反応に僅かな違和感を覚える。しかし、その感覚が何に()るものなのかは判らなかった。何処となく据わりの悪い空気を振り払うように、僕は会話を続けることにした。

「そ、それより音楽の話だけど、川内にとって──夜に合う曲って何だと思う?」

 彼女は少し悲しげに微笑んだ気がした。

「夜に合う曲かあ。そうだな──『月の光』かな?」

「つきのひかり?」

「知らないかな。クロード・ドビュッシー」

 そう言って川内は曲の旋律を口ずさむ。

「あ、聴いたことある」

「そうでしょ?」

 何処でいつ聴いたのかは憶えていないが、確かに聴いたことのある曲だった。今夜は新月で月の光は届かないのだけど、鼻歌を奏でる川内の姿はまるで月光に照らされているようで、清廉で神聖なものにすら思えた。

 美しい──と思ってしまったなんて、口が裂けても言えない。

(きら)びやかで優しいよね。私の理想の夜に近いかな。CDは持ってないから貸してあげられないけど、ピアノさえあれば弾いてあげるよ?」

「えっ、弾けるの?」

「弾けるよ。私だけじゃなくて楽器弾ける子って多いんじゃないかな。私の知ってる限りでは翔鶴(しょうかく)もピアノ弾けるし。ちなみにウチの神通(じんつう)那珂(なか)はヴァイオリンとチェロ」

「そうなんだ──」

 そんなことは初めて聞いた。

 これだけ長い間一緒に居ながら、僕はまだまだ彼女達のことを知らないのだ。

「ピアノ買ってよ」

「たっかいでしょ」

「たっかいけど」

「何ヶ月働けばいいのかなあ」

「何年──の間違いじゃない?」

 僕が肩を落とすと川内は笑った。

 しかし僕がピアノを買えるかどうかは別として、艦隊のみんなが楽器を弾いている姿を想像すると思わず顔が(ほころ)んでしまう。人数も人数だし、オーケストラだって編成出来るに違いない。

 

 ああ、その光景は是非見てみたい。その音を聴いてみたい──。

 

「何ニヤケてんの? 気持ち悪いよ?」

「別に。早く平和な海にしないとなって、そう思っただけさ」

 変なの──と呟いて川内は遠くを見つめた。その視線の先には、ただ闇があるだけだった。僕は外套(がいとう)の内ポケットから懐中時計を取り出した。もうそろそろ六駆の姿が見えてもいい時刻だ。

 早く暁達に会いたいような──それでいて、川内といつまでもこの夜を共有していたいような──不思議な気分だった。

「まあでも、川内がその曲好きだってのも解る気がするよ。いつも煩瑣(うるさ)い癖に、静かな夜の方が好きなんだもんね。ピアノが弾けるってのは意外だったけど」

「どういう意味?」

「どういう意味って──そんな繊細なイメージないもの。翔鶴は解るけどさ」

「失礼だなあ」

 川内は頰を膨らませた。

「クラシックって言うよりパンクだよね。夜中の大騒ぎなんてパンクそのものじゃん」

「うっ、よく判らないけど褒められてない気がする。ってかさ、提督はクラシック聴かないの?」

「余り積極的に聴いて来なかったな。何だか高尚(こうしょう)なものって感じがして近寄り難いんだよね。まあクラシックって言うくらいだし」

「そんな訳ないじゃん。同じ音楽だよ?」

「そうなんだけどさ、川内はその──何だっけ、作曲家」

「ドビュッシー」

「あ、そうそう。そのドビュッシーって人が好きなんだ」

「そうだね。一番好きかな」

「一番なんだ──」

「何よまた意外そうな顔して。提督はそのCDの人達が一番好きじゃないの?」

「うーん。好きだけどさ、一番って決められなくない?」

「決められるよ。じゃあさ──」

 川内は悪戯(いたずら)っぽく微笑んで、何故か(ささや)くようにこう言った。

 

 

 ──艦隊で一番の美人って誰だと思う。

 

 

 一番の──美人。

 所属する艦娘達の顔がスライドショーのように脳裏を()ぎって行く。

 その容姿には、艦種ごとに大まかな年齢差のようなものこそあれ、率直に言って全員が美しい。そもそも美醜の判断などは個人の主観に()る部分が大きいのだろうし、わざわざ序列を付ける意味もない。

「それこそ決められないんじゃないの? 決めたら色々と問題がありそうだし」

「いいからいいから」

 あからさまに嫌そうな顔をした僕を、川内は期待の眼差しで眺めている。

「まあ、()えてあげるとすれば──むっちゃんかなあ。いや、扶桑(ふそう)も──うーん」

「へえ、そんな感じなんだ。翔鶴って言うと思ってた」

「いや翔鶴も綺麗だよ? でもそんなこと言ったらみんな綺麗だしさ、それに綺麗って言うよりも可愛らしいって言った方がしっくりくると言うかさ──」

「可愛らしい、ね。じゃあ一番の美少女って言ったら?」

「あ、それはね、川内」

「へっ」

「えっ」

 

 僕等は見つめ合って固まった。

 

 すぐに冗談だと笑ってしまえば良かったのかもしれない。

 しかしその判断は先送りされて、やがて言い出す機会を失った。

 何故なら。

 それは、本当にそう思っていたからだ。

「わ、私が──い、一番──」

「あっ、違っ、そういうことじゃなくて──ごめん、忘れて」

「ちょっと待って逃さないって。何で? 何で私のことが一番だと思うの──嘘じゃないよね」

 嘘な訳ないだろ──と言って、僕は川内が作ってくれた逃げ道を自分で塞いだ。

 

 ──決められないことではなかったのか。

 ──順番を付ける意味もないのではなかったのか。

 

 自らの愚かさに嫌気が差して堪らず目を逸らすと、川内は僕の肩を掴んで、

「ちゃんと答えて」

 と言った。

 はぐらかせる状況ではない。

「ほ、ほら、川内は中性的なところもあるだろ。目許とか眉とかもキリッとしてて凛々しいと言うかさ──その、それでもやっぱり川内は女の子だから、繊細で柔らかくてその──艶っぽいところもあってさ──その、ギャップじゃないか。その幅がそう見せてるんじゃないか。知らないけどさ!」

 僕は(なか)ばやけくそになってそう吐き捨てた。自らの軽率さを呪いつつ、前方の暗闇を見つめている。

 まだ六駆は帰って来ない。早く──帰って来て欲しい。

 何の反応も示さない川内の様子が気になって首を捻った。

 川内は、瞳を潤ませて僕を見つめている。

「提督、もしかして──私のこと口説(くど)いてる?」

 口説いて──。

「ばっ、バカなこと言うなって。そんな訳ないだろッ」

 そう思われても仕方がないことは自分が一番よく解っていた。川内が放ったその一言は思いの(ほか)僕に効いたようで、僕は頭を掻いたり腕を組んだりすぐ解いたりしてから、大きく息を吐いて言った。

「川内、その、軽率だった。気分を悪くしたなら謝るよ」

「──何を言ってるの?」

「いや、本当にそういう意味じゃなくて、そういう目で見てる訳じゃなくて、気にしないで欲しいと言うか、これからも今まで通り接して欲しいって言うか──僕は一体何を言ってるんだろう。とにかくその──」

 しどろもどろになりつつ弁解をしていると、いつの間にか正面に川内が立っていた。

 先程とは違って、僕は本当に驚いた。

 川内は僕から目を逸らすことなく、じっと見つめている。

「決めた」

「な、何を」

「決めた。私、提督のこと諦めない」

 ──諦めない。

 

 

 その科白(セリフ)を合図にするように、ラジオから『月の光』が流れ始めた。

 川内の好きな──理想の夜。

 

 

「提督とは友達でいいって思ってた。私には翔鶴とか大淀みたいに(しと)やかなところないし、提督に女として見てもらえるなんて考えてもいなかった」

「せ、川内──」

「諦めない」

「おわっ」

 川内が覆い被さるように抱き付いてきて、僕等は椅子ごと後方に倒れる。プラスティックの(ひしゃ)げる音がして、破損したラジオが雑音(ノイズ)と共に音量を上げた。

 ──『月の光』はひび割れていた。

 鼻の奥では、頭部に衝撃を受けた際の独特な匂いと川内の匂いが混ざり合っている。

「いたた──ちょ、ちょっと、川内?」

「提督、私知ってるんだよ?」

 川内は言葉を直接吹き込むように耳許で囁いた。

 世界が(くら)む。意識が熔融(ようゆう)する。

「大淀とキスしたでしょ」

「なっ」

「あの日のデートから大淀は余り提督を束縛しなくなったし、二人の雰囲気が変わったことにも気付いてたよ。那珂はそんなことないって言ってたけど、私は絶対そうだって思ってた。そうでしょ? 怒らないから──正直に言って?」

 そんなものは答えられる訳がない。

 しがみ付く川内から逃れようと(もが)いていると、彼女の背中越しの暗闇に(かす)かな灯りが見えた。

 

 ──航海灯。六駆だ。

 

「せ、川内、暁達が帰って来たよ。こんなところ見せられる訳がないよな。離れてくれッ」

「嫌だよ。(むし)ろ見せつけてあげようか。一人前のレディになるには、そういう経験も必要だと思わない?」

「そんな通過儀礼があってたまるかよ」

「そうかな。さあ、さっきの質問に答えて」

 僕にはどんな回答も浮かばなかった。

 黙ってるってことは認めるってことだよね──と言って川内は躰を起こす。

 鼻先が触れてしまいそうな距離で彼女は(なまめ)かしく微笑していた。川内の髪の毛が──眉尻の辺りで僕を(くすぐ)っている。

 僕は多分、これ以上ないという程に上気しているのだろう。

「あはっ、()()りしたんだ。提督って本当に正直だよね、そういうところも大好き。約束通り怒らないであげるから、だったらさ──」

 実際に──鼻先が触れた。

 

「夜戦しよ? ううん──私と夜戦して?」

 

 瞬きすることも忘れて、僕と川内は見つめ合っている。

 しかしそれは決して情緒的(ロマンティック)なものではなく、どちらかと言うと動物の威嚇行動のそれに近い。

「──どういう意味で言ってる?」

「もの凄くエッチな意味で言ってる」

 川内は迷いもなく言った。

「あのな、雷なんかは(アンカー)を鈍器と勘違いしてる節がある。私がいるじゃないとか何とか言いながら僕等に振り下ろしてくる未来が簡単に見えるぞ」

「私が守ってあげるよ。さ、諦めようか」

「僕だって諦める訳にはいかないんだよ!」

 その言葉を契機(きっかけ)に、膠着状態に陥っていたその場が動き出す。

 逃れようとする僕を川内は必死に押さえ込んだ。

「抗っちゃ駄目だって。身を委ねなさいッ」

「な、何を言って──ああっ、首を舐めるのはよせって!」

 ラジオからは、相も変わらず『月の光』が流れている。

 雑音に(まみ)れていようとも、その旋律と和声(ハーモニー)はただただ煌びやかで──状況とは(かい)()しながらも、()んず(ほぐ)れつの死闘を演じる僕等を優しく包み込んでいた。

 

 

 この音楽は──。

 

 

 六駆の帰投まで鳴り止むことはないのだろうなと。

 そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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最終話『コンパス』

 

 

 

 フェリーターミナルのドアを開けると、眼前には五月(さつき)晴れの空と見慣れた海が広がっていた。

 天候が良いとは言え梅雨(つゆ)時には変わりなく、気道の内部にまで纏わり付くような湿気が即座に僕を包み込んだ。まあ、この時期にしてはまだマシな方だから余り文句も言えないのだけれど、その生温い空気は両手に重いビニール袋を下げていた僕には中々効いたようで、鎮守府まであと僅かの距離でありながら小休止を決断させるには十分な湿度だった。

 折良くターミナル二階の出入り口前はちょっとした休憩スペースになっていた。申し訳程度ではあるが椅子や灰皿などもある。大量のアルコール類がぎっしり詰まった袋を慎重に置いて痛む指を見た。持ち手の(あと)が変色している。

 誰かに応援を頼むべきだったと、今更ながらに後悔した。

 

 今日は──艦娘母艦『あきつしま』の進水式だった。

 このお酒は僕等だけで開く(ささ)やかな打ち上げ用だ。

 

 進水式は三時間程前に終了している。

 前方に見える造船所の桟橋では、満艦(まんかん)(しょく)(ほどこ)された『あきつしま』がこの後に控える艤装工事を待つように悠然と(たたず)んでいた。

 僕は進水式というものに立ち会ったのは初めてだったから、式の進行中も「こんなものなのだろうな」という感想以外持ちようがなかったのだが、大淀(おおよど)達が言うには妙に慎ましいものだったらしい。通常は一般の市民にも公開され、大勢の見学者で(あふ)れ返るものなのだそうだ。

 確かに、言われてみれば今回の式典には関係者しか出席していなかった。

 正確には判らないが、人数は多分三四十人くらいだったと思う。

 僕も一応関係者だから(一応というか艦娘母艦として就役するのだから思い切り関係者なのだが、この辺の部外者意識は一生付いて回るものなのだと思う)()(そう)のないように厳粛な心持ちで参加していたのだが、好奇心の塊のような妖精達がわらわらと会場内を駆け回っていたりするものだから気が気ではなかった。

 

 僕の肩や頭によじ上って来るのはまだいい。

 だが式を真面目に進行している人や、祝辞を述べる偉い人の頭の上で飛び跳ねるのは勘弁して欲しい。

 

 笑うから、そんなの。

 

 そういった訳で、妖精を勘定に入れると列席者は二百人を優に超えていたと思う。まあ、艦娘母艦を実際に動かすのは妖精達だから、どういう艦なのか気になるのも無理はない。反応を見る限りでは、妖精もあの艦を気に入ってくれたようだった。

 一方で僕は『あきつしま』を含めたこの情景そのものが現実感を失っているような、蜃気楼を見ているような──そんな不思議な感覚に(とら)われていた。理由は何となく、察しが付いているのだけど。

 多分、それは──。

 

 

 ──あの艦が立派過ぎる所為(せい)だ。

 

 

 基準排水量九八◯◯トン、全長一八◯メートル、兵装は艦艇用近接防御火器システム(CIWS)二基。上部構造物の後端は格納庫(ハンガー)になっていて、固有の搭載機が配備される予定はないが航空運用能力も備えている。外観としては艦尾のウェルドック開口部が特徴的だ。艦娘が発着艦を行うのはこの部分からになる。

 加賀なんかは「流石(さすが)に気分が高揚します」と変化に(とぼ)しい表情を若干(ほころ)ばせつつ呟いていたが、僕はどうしてもその荘厳(そうごん)な巨体に複雑な感情を抱いてしまう。僕だって全く嬉しくない訳ではない。こんなに凄い艦が自分達の母艦になるのだと思うと胸が熱くなるし、膠着(こうちゃく)した戦局を打開する(ため)には絶対に必要な装備だ。

 それは解っている。

 しかし──。

 

 ああ、これでもう逃げられないのだなと──そう思ってしまう。

 

 その艦の行く先は、地獄に違いなかった。

 

 深海棲艦の中枢。

 混沌の元凶。

 絶望の渦中──。

 

 そこに行く為に、造られたのだ。

 

 

 日常は当たり前に日常として存在している訳ではない。

 この日常を保つ為にどれだけ多くの人々が粉骨砕身しているのか、多少は理解しているつもりだ。その意味では、僕達に順番が回って来ただけとも言えるのかもしれない。

 見ない振りは出来ない。気付かない振りも出来ない。

 ならば、やるしかない。

 

 解っている。

 解ってはいるのだが──。

 

 目前に迫る現実から目を背けるように俯くと、寄り掛かっていた欄干(らんかん)の上にぽつんと座っている妖精を見つけた。魔女のようなとんがり帽子に、矢印の付いたステッキを持っている。

 初めて見る妖精だった。

 付いて来たの? と聞いても、その妖精は微笑したまま反応を示さない。それでも、一人でいるよりは心が落ち着いた。

「僕は──どうしたらいいのかな」

 そう呟くと、やがて妖精はステッキをひょいと上げた。

 矢印が指し示す方向が気になってそちらを向くと、丁度(ちょうど)見慣れたツインテールが大股でこちらに歩み寄って来るところだった。

 僕と目が合うなり、彼女は汗を(ぬぐ)って言う。

「やっと見つけたッ」

 それは、秘書艦の瑞鶴(ずいかく)だった。

「もう、提督さんったら遅いよ。お遣いも(ろく)に出来ないのッ」

「出来てるでしょうに。お酒は確かに買ってあるんだから」

「帰って来るまでがお遣いなの」

「これから帰るところだったの。そんなに時間掛かってたかな」

 僕の(かたわら)に急接近して、顔を覗き込むように瑞鶴は言った。

「二時間近く経ってるよ。本当に心配させるんだから」

 子供じゃないんだからと言いかけたが、子供みたいなもんじゃんと返されるのが目に見えていたのでその言葉を飲み込む。

「それにしても、よく判ったね。ここに居るの」

「提督さん忘れたの? ほら、私達には例の──」

 ──僕の居場所が判る。

「ああ、提督電探か」

「そうそう。最近また精度上がったからすぐ見つかると思ってたんだけどね」

 精度が、上がった。

「何さ、それ」

「調子の良い時は執務室に居るなーとか、私室に戻ったなーとか、判るようになったよ?」

 眉を(ひそ)める僕を見て、瑞鶴は悪戯(いたずら)っぽく笑った。

「良かったね提督さん。私達がしっかり捕まえていてあげるから」

「良かったねって──あのさ、僕のプライバシーってどうなってんの?」

「仕方ないじゃん。判っちゃうんだから」

「──ないってことね」

 はあ、と嘆息(たんそく)する僕に肩を寄せて、瑞鶴は再び仕方ないじゃんと言って笑った。

 確かに、提督電探の性能向上に関しては思い当たる節がある。夜食の買い出しに出掛ける時だとか、銭湯に行く時だとか──主に夜中なのだが、その途上で行き先を尋ねられることが妙に増えた気はしていたのだ。

 

 

 提督、何方(どちら)へ?

 提督さん何処行くの?

 司令、何処に行くんですか?

 しれー、何処行くのさー?

 司令官、みっけ!

 提督、出掛けるならあたしも付いて行くぞ──等々。

 

 

 こんな調子で、酷い時には鎮守府から出るまでに十人連続で捕まったこともある。

 入るより出る方が大変な警備体制(セキュリティ)というのもおかしな話だ。流石に辟易(へきえき)として「刑務所かッ」と人知れず吐き捨てたところ「何か仰いました?」と微笑む翔鶴(しょうかく)が真横に立っていた時は、心臓が鼻から飛び出るかと思う程に驚いた。

 全然気が付かなかったもの。

 わーッだって。やかましいわ。

 鎮守府ですらこの状態なのだから、艦娘母艦を運用するようになったら一体どうなってしまうのだろうか。狭い艦内ではプライバシーという概念そのものが消失してしまう可能性すらある。

 

 しかし、形はどうあれ心配されていることは確かなのだろう。

 それに──こんなくだらないことで悩んでいられるのも、今のうちだ。

 

 僕は多分、複雑な表情で海を眺めていたのだと思う。

 瑞鶴はそんな僕を一瞥(いちべつ)して言った。

「提督さん、また変なこと考えてるでしょ。当ててあげようか」

 横目で瑞鶴を見る。

「──もう後戻り出来ないな、って思ってない?」

 その言葉を聞いて、僕は失笑してしまった。

 プライバシーの有無を問う以前に、僕の頭の中は彼女達に筒抜けらしい。

「当たったんだ。提督さん本当に解り易いんだから」

()()り敵わないよなあ」

 照れ隠しに目許を掻きながらそう言うと、瑞鶴は数秒の間を空けて、あのね提督さん──と口を開いた。

「後戻りはいつだって出来ないんだからね。いつだって、前に進むしかないんだよ。解るでしょ? だから、そんな顔してないで前を向かなきゃ駄目だよ。ね?」

 まるで、子供に言い聞かせるように──優しく。

「それに、いい加減私達を信用してよ。私達は提督さんが思ってる程(やわ)じゃないわよ。提督さんはどっしり構えて、出撃しろとか帰って来いとか命令してればいいの。瑞鶴が指示通り完璧に動いてあげるんだから」

 解った? と言って瑞鶴は首を(かし)げた。

 彼女の顔を見ていると、彼女の声を聴いていると──心の奥底に沈積した不安や雑念などは溶けてなくなってしまいそうな気さえする。毎度助けられてばかりの立場を情けなく思いつつも、僕は首肯(しゅこう)して「ありがとね」と答えた。

 瑞鶴は素直で(よろ)しいと満足げに言った後で、僕の右腕の辺りを注視する。

 その視線に誘導されるように目を落とすと、魔女っ子の妖精が腕を伝い僕の(からだ)を上って来る姿が見えた。やがて妖精は肩まで上り詰めて、そこから滑り落ちるようにして胸ポケットに収まった。

(なつ)いてるねえ」

 可愛いじゃんと、瑞鶴は微笑む。

 妖精はシャツの生地に掴まりながら、前方に広がる海をじっと見つめていた。

 僕達の目も、自然とそちらを向く。

「立派な艦だよね」

「うん、そうだね」

 でも──。

「僕達は、あの艦で一体何処に行くんだろう?」

「何処って、ハワイに決まってるでしょ。しっかりしてよ」

「それはそうなんだけど──」

 言葉尻を濁した僕に、瑞鶴は仕方ないとでも言うように息を()らす。

「判らないなら、判らないままでいいんじゃない?」

「わからない──まま」

「私、最近思うんだよね。こうして生まれ変わったことも、提督さんと出逢ったことも、毎日バカみたいなことして笑ってることも──全部私が決めたことじゃないなって。何か、気付いたらそうなってたって感じがする。でも、私は今凄く幸せだよ」

 瑞鶴は真っ直ぐに僕を見つめた。

「だから、目的地なんて決めないで漂流してみようよ」

「漂流?」

「うん。勿論(もちろん)こう在りたいって願うこともそれに向かって努力することも大切だと思うけど、結局は流されるしかないのかなあって思うんだよね。だったら、そのことを不安に思うより楽しんだ方がいいに決まってるよ。考えてたっていつまでも解らないままだと思うな。実際に一歩を踏み出さなきゃ」

 何か私提督さんみたいなこと言ってる──と瑞鶴は笑った。

「それに、私にとっては何処に行くかっていうことより、誰と行くかってことの方が大事かな」

「誰と行くか、ねえ。翔鶴とか?」

「翔鶴姉もそうだけどね──」

 瑞鶴と僕の距離が縮まる。

 

 

「提督さんと一緒なら──何処だって怖くないよ」

 

 

 そう言って、彼女は僕の背中に腕を回した。

 腕に込められた力は徐々に強くなって、やがて僕と瑞鶴の(あら)ゆる間隙(かんげき)を埋めていった。

仮令(たとえ)そこが地獄の底でも、絶望の淵でも──提督さんと一緒なら」

「僕だって、瑞鶴と一緒なら怖くないよ」

「本当に? 提督さん、恥ずかしがってるでしょ。お願い、少しだけでいいから、抱き締めて」

 勝ち気で溌剌(はつらつ)としている平素(いつも)の彼女ではなかった。その言葉には瑞鶴の切なる想いが赤裸々に表出しているような気がして、僕は瑞鶴を静かに抱き締めた。

 仄かに香る彼女の汗の匂いが、堪らなく愛おしい。

「普段から我慢してるんだもの。これくらい許してくれるよね」

 瑞鶴から伝わるその体温は、僕を安寧の海へと誘っている。

 

 不安が溶けていく。迷いが──薄れていく。

 

 フェリーターミナル二階外縁の通路は人の往来が激しい場所ではなかったが、全くないという訳でもない。瑞鶴の顔が通行人の視線に(さら)されるのは何故だか避けなければいけないように思えて、僕は彼女をよりきつく抱き寄せた。

 そのまま幾許(いくばく)の時が流れたのかは判らなかったが、幸福感に満ちた時間であったことは確かだった。

 そのうち瑞鶴は僕から離れて、

「矢っ張り、ちょっとだけ恥ずかしいね──この子も照れちゃってる」

 と、はにかんで笑った。胸ポケットの中では、妖精が顔を紅くして瑞鶴と僕の顔を見合わせている。

 瑞鶴は再び僕と目が合うと、慌てて海側へと視線を逸らした。

「で、でも──そんなことよりさッ」

 彼女なりの照れ隠しなのだろうが、その態度に率直な淋しさを覚えてしまった僕は自分自身に苦笑してしまう。

「私は、名前のことの方が不安だけどなあ」

「──名前? 『あきつしま』のこと?」

 瑞鶴は(うなず)いた。

「どうしてさ。いい名前じゃない」

「いいんだけど──(あき)()(しま)に黙って付けちゃって良かったのかなって」

 ──秋津洲。

 瑞鶴が言っているのは先代の『秋津洲』のことだろう。それは、瑞鶴を始め鎮守府に着任している皆と同じく「あの大戦」を果敢に駆け抜けた水上機母艦の名だった。

「そんなこと言ったって仕方ないじゃない。居ないんだから」

 秋津洲はまだ着任していない。

 艦娘としてこの世に再び生を受けているのかどうかも判らない。

「それに国防海軍の艦艇でも名前被ってるの多いでしょ。名前なんて受け継がれて行くものなんだからさ、秋津洲だって笑って許してくれると思うけ──」

 

 

「見つけたかもッ」

 

 

 突如後方から怒気を(はら)んだ少女の声が聴こえた。

 ほら言わんこっちゃない──と瑞鶴は顔半分を手で覆う。状況を理解出来ないままに振り返ると、通路を先程の瑞鶴のように大股で歩いて来る少女が見えた。

 見たことのない顔だったが、艦娘だということは一目で解った。何を基準にそう判断しているのか自分でも解らないのだが、人間だとか、女性だとか少女だとか、そう思う前に──ああ艦娘だなと思ってしまうのである。これは提督である僕の特殊な体質みたいなものだと思う。まあ、実用性はほぼない。

 今時に珍しい濃い目の化粧が印象的な美少女だ。九◯年代初頭の頃に流行(はや)った化粧だろうか。小脇には航空機のようなものを抱えている。

 理由は不明だが、とにかく怒っていることは見て取れる。

「あなたが提督ね」

 その剣幕に若干気圧(けお)されつつも僕は頷いた。

 

「私は水上機母艦秋津洲よ!」

 

 ──アキツシマ。

 

 隣に目を遣ると、瑞鶴は依然として顔を押さえたまま頷く。そんな瑞鶴を見て、(ようや)く僕は状況の大凡(おおよそ)を理解した。

 タイミングが良かったというか──悪かったというか。

 どちらにせよ、奇跡的であることには違いない。

 水上機母艦秋津洲は、艦娘母艦あきつしまを指差して僕を睨み付ける。

「私が本当の秋津洲かもッ。あれは何? あの艦のことを説明して欲しいかもッ」

「あ、あれは艦娘母艦『あきつしま』だよ。進水したばかりなんだ。ええと、排水量が九八◯◯トン、全長一八◯メートル、全幅二六・二メートル──」

仕様(スペック)のことは聞いてないかもッ。何で『あきつしま』なんて名前が付いてるのかを聞いてるの! 誰が付けたのッ?」

 僕は咄嗟(とっさ)に瑞鶴を指差す。

 瑞鶴は驚愕の表情を浮かべた後、僕に指を差し返した。

「なっ、何してんの提督さんどういう逃げ方なのよ! 秋津洲、悪いのは提督さんだよッ。散々悩んだ挙句(あげく)に適当な型録(カタログ)ぺらぺら(めく)って鼻ほじりながらこれでいっか──ってすっごく適当に決めたんだから!」

「んあぁ! 怒り倍増かもッ。鼻はほじらないで欲しかったかも!」

「ほ、ほじっちゃいないよ多分だけどさ!」

 当時のことを明瞭に憶えている訳ではない。

 しかし、執務室で型録を開きながら「これでいっか」と発言した記憶は確かにある。(はた)から見ればお()なりに決めたように映ったのかもしれないが、それまでの懊悩(おうのう)煩悶(はんもん)も考慮して頂きたい訳で──。

 名付ける、ということは簡単ではないのだ。

 それでも秋津洲の怒りは収まらない様子で「大艇(たいてい)ちゃんも怒ってるかもッ」と言って彼女は抱えている航空機を振り回した。

 あれ、大艇ちゃんって言うんだ。

 何あれ、ドア? 顔? 不思議。後で聞こう。

「今からでも遅くないかも。ニセ秋津洲の改名を進言するかも!」

「ち、違うんだ秋津洲。僕は──き、君を待っていたんだよ!」

「待って、いた?」

「そうさ。意味もなく『あきつしま』なんて名前を付けると思うかい?」

 僕は現在進行形で偽の経緯(カバーストーリー)を急造し始める。

 嘘を吐く時は自らをも騙してしまった方が何かと都合が良い。新しい艦娘が着任するのを心待ちにしていることは本当だ。秋津洲に限った話ではないというだけで嘘は吐いていない。思い込め思い込め──と記憶と感情を捏造して行く。

 瑞鶴の呆れた視線が痛いが気にしてはいけない。

 

「秋津洲よく聞け。君が、あの艦の──艦長だ」

「か、艦長──」

 

 瑞鶴の視線が呆れから軽蔑へと変質したのが判った。

 先程の熱い抱擁が遠い過去のようだ。

「行くのは誰だ決めるのは誰だ、そうお前だッ。お前が舵を取れッ!」

 何か聴いたことあるフレーズなんだけど──と瑞鶴が言う。

 無視する。

「私が──舵を──」

「そうだ。秋津洲の為にあの艦を用意していたんだよ。解るだろ? 歓迎する──ようこそ鎮守府へ!」

「よ、よろしくかも──」

 秋津洲の手を取って一方的な固い握手を交わす。

 爆発的な感情の矛先を逸らされた所為か、秋津洲は放心状態に(おちい)った後やがて狼狽(ろうばい)を始めた。

 ──やった。チョロい。

「て、提督──何か、私間違ってたみたい──誤解して御免なさいかも。私、提督のそんな想いがあったなんて考えもしなかったかも──」

「過去のことはいいんだ。解ったなら早く行け。みんなが待ってるんだからな!」

 り、了解かも──と敬礼をして秋津洲は鎮守府へと駆けて行った。

 予想以上に上手くいったと胸を撫で下ろしつつ、秋津洲の背中を無意味な達成感に包まれながら見送っていると、瑞鶴に肩を強めに叩かれた。

 痛い。

「心底呆れた」

 と瑞鶴は言った。

 確かに、それが真っ当な感想だとは思う。

「まあまあ、いいじゃない。艦長とか副長とか航海長とかさ、艦の主要な役職(ポスト)をどうしようか悩んでたのは本当だし。それに、考えてないで実際にやってみなきゃ駄目なんでしょ。『あきつしま』の艦長に秋津洲が就任するってのも何かの縁じゃないかな。完全に後付けだけどさ」

 怪訝な顔をして僕の言い訳を聞いていた瑞鶴だったが、やがて、

「そうかもね」

 と、再び仕方ないと諦めるように息を吐いた。

 兎にも角にも、これでまた仲間が一人増えたのだ。

 それは、何よりも喜ばしいことに違いはない。

 

 あきつしま進水のお祝いは、秋津洲着任のお祝いを兼ねることになりそうだ。

 

 僕等も行こうかと言って、置いていたビニール袋を持とうとすると、

「そうだ提督さん、これ全部で幾価(いくら)掛かったの?」

 と瑞鶴が聞いた。

「いいよ。これくらい僕が払うよ」

「駄目だよ提督さん安月給なんだから。私達だってお給金貰ってるんだし、みんなで出せば安くなるでしょ? ほら、領収書見せて」

 懐具合を心配される提督ってのも嫌なもんだなと僕が躊躇(ちゅうちょ)していると、瑞鶴はいいから出してと譲らない。まあ、今更見栄を張ったところで仕方がないのかもしれない。

 

 ポケットを叩いて領収書の在処(ありか)を探る。すると、ズボンの後部のポケットに覚えのない名刺のような紙片(しへん)の感触があった。

 不審に思いつつも、()()えず一緒に入っていた領収書を瑞鶴に手渡す。

「ふうん。()()り結構掛かるんだね。さっ、提督さん行くよ」

 瑞鶴が背を向けると同時に、その紙を取り出して見る。

 名刺サイズの、白紙のケント紙だった。

 何気なく裏を返すと。そこには。

 

 ──臨海公園に、一人で来い。

 

 と書かれていた。

 

 

            ※

 

 

 夕方の公園は閑散(かんさん)としていた。

 家族連れやゲームに熱中し(たむろ)している小学生などはちらほら見かけたが、僕の座っているベンチの周りには誰の姿もない。車の走行音や子供達の歓声が、時折風に乗って遠くから聴こえて来るくらいだ。

 ベンチの肘掛けで頬杖を()き世界を斜めの視点で捉えつつ、伝言の書かれた紙片を再度見た。今冷静になって考えてみると、臨海公園とはこの公園のことではない可能性だってある。近くで海に面した公園はここしか知らないから、疑いもせずにのこのことやって来た訳だけど。

 日時の指定もされていないし、あと三十分待って何の接触もないようだったら帰ろうと決めた。誰がいつ残したのか判らない伝言に、そこまで律儀に従う必要もあるまい。悪戯(いたずら)かもしれないのだし。

 しかし一方で、その伝言に心当たりがない訳ではなかった。危険を承知の上で言われるがままに単身ここに来たのは、その心当たりがあったからだ。まあ胸ポケットには魔女っ子の妖精が収まったままだから、厳密には一人ではないのかもしれない。

 妖精も、きょろきょろと辺りを見回している。

 

 ふと、足音が聴こえたような気がして右側後方を振り返る。音の正体はジョギングをしている青年だった。(しばら)くその青年を目で追っていたのだが、こちらに向かって来る様子はなかった。

 勘違いかと、息を吐いたその時──。

「久し振りだな」

 と背後から声がした。

 振り向くと、いつの間にかそこには男が立っていた。この暑さの中、背広を着ている。

 見覚えのある顔だった。

 そしてそれは、まさに僕が予想していた人物だった。

「私を憶えているか」

「ええ、勿論」

 雪風や大淀と初めて会ったあの時──僕が提督になる契機(きっかけ)となったあの砂浜で、僕を半殺しにした挙句「殺しても構わない」と言い放った男だった。

 名前は知らない。

 年齢も判らない。

 知っているのは、国防省の情報部の人間ということだけだ。

 男は、間を空けてベンチに腰掛けた。

「相変わらず愚鈍を絵に描いたような顔をしているな」

「何ですか急に」

 男は僕と目を合わさずに沈黙した。

 もしかしたらこの人なりの冗談だったのかもしれないが、仮令(たとえ)そうであろうと笑えないことに変わりはない。

「尋きたいことがあってね。時間もないから単刀直入に尋くが──」

 そう言って、横目で僕を()(すく)めた。

 

 

「貴様を殺すと──彼女達はどうする?」

 

 

 僕を。

 殺すと──。

 

 辺りを風が吹き抜ける。

 粘性の高い空気は拡散して、やがて再び滞留した。

「どういうことですか」

 その一言を、やっとの思いで絞り出した。

「──自分が国防軍に()いて変則的(イレギュラー)な存在であることを自覚していない訳ではあるまい。貴様は現時点で深海棲艦への唯一の対抗手段である彼女達──艦娘の指揮官でありながら軍人ではないし階級もない。あの時はまだ──」

 ただの学生だったな──と男は言った。

(まった)(もっ)て遺憾な話だが、貴様の部隊に対しては命令系統も事実上機能していない。あの大淀とかいう小娘の脅しに(おのの)いて、我々は貴様の艦隊を統制(コントロール)することが出来ていないのが現状だ」

「脅し? 大淀が何をしたって言うんです」

「貴様の命令がなければ作戦遂行能力を喪うと言っただろう。調査した限りではあの時点で艦娘と貴様に接点はなかった(はず)だから、私は嘘だと確信しているんだがな。まあ、そんなことはともかく、その言葉が我々を束縛しているのは事実なのだよ。貴様を消したところで仮にその言葉が真実(ほんとう)だった場合、世界は滅亡を座して待つしかなくなる──しかし、貴様が我々にとって深海棲艦と同じかそれ以上に危険な存在であることに変わりはない。もう一度尋く」

 貴様を殺すと、彼女達はどうする──。

 異様な状況に身を置いている自覚はありながらも、一方で「僕が死んだらみんなはどう思うのだろう」と純粋な想像をしている自分に気が付く。

 男から視線を外して、(かす)む遠景に彼女達の顔を思い浮かべた。

「──泣いてくれると思います」

「それだけか」

「それだけではいけませんか」

「私の尋きたいことが解らない訳ではないだろう。彼女達は、我々に牙を()くか?」

「そんな愚かなことはしません。僕達とは違います」

 僕は人類そのものを()(しょう)するように口許を歪めた。

 その自虐は、何故か胸が()くように心地好い。

 国防軍が僕の抹殺を計画していることは──実際に面と向かって言われるとその衝撃は凄まじいものがあったのだが──特段驚くことではなかった。(ろく)な訓練も受けず正規の手続きを省略した人間など組織にとって──特に軍にとっては邪魔者以外の何物でもない。

 勿論殺されたくなどない。まだ僕は鎮守府にいたい。みんなを見ていたい。

 しかし僕が幾ら殺されたくないと思ったところで、殺したいと思う人間の接触を避けることは出来ないし、(まし)てや鎮守府のみんなを交渉の手札(カード)としてなど利用したくもない。

 汽笛の音が遠くから聴こえて、男は背中をベンチに預けた。

「そうか──。叛乱(はんらん)を起こすとでも言ってくれた方が、奴等にも解り易くはあったのだがな」

「──奴等? 貴方の目的は一体何なのですか」

「国防省内部には貴様を危険視する連中も多くてね。まあそれも当然のことではあるのだが、一方で貴様があの娘達の『提督』として迎え入れられてからというもの、対深海棲艦の作戦効率が大幅に上昇していることもまた確かなんだ。だからと言って、理解出来ないものを理解出来ないままにしておく訳にもいかないのさ。理解しようとする努力は必要だし、我々は(あら)ゆる事態を想定しなければいけないのでね」

 男から少しだけ緊張感が薄れたような気がした。

「試したんですか」

「あの化け物共が太平洋を跋扈(ばっこ)しているうちは大丈夫だと思うが、その後は知らないな。我々次第とも言えるし、貴様次第とも言える」

 僕のような取るに足りない普通の人間──いや、普通より遥かに劣った人間が、何故そこまで警戒されなければいけないのか不思議に思ってしまう部分もあるのだが、他人から見ればそういった人間ほど気味が悪いものなのかもしれない。

 しかし、僕は本当に──。

「何のことはない、至極(しごく)単純な人間だと思いますがね」

「私も同感だな。結局のところ、彼女達だろう?」

 僕は少し驚いて男を見た。

 男は顔色も変えずに続ける。

「貴様の行動を見ていれば解るよ。そう考えれば全部辻褄(つじつま)が合うからな。しかし、そう思う人間は少ないだろうさ。何か必ず裏があると考える。自分がその裏を多量に抱え込んでいるからだ。世の中では、貴様のようなバカは希少なんだ」

 男は僕を一瞥(いちべつ)した。

「それにしても随分とご執心じゃないか。貴様にとって、彼女達は何なんだ?」

 数秒の思案の後に、僕は──。

 

 

 ──羅針盤(コンパス)です、と答えた。

 

 

「彼女達を見ていると、自分が何をしたら良いのか解るんです」

 いや、正確には──。

「自分が何をしたいのかが解る、と言った方が良いのかもしれません。僕は一人だと、自分が何をしたいのかも判らない愚か者なんで」

 

 世界平和なんて願ったこともない。

 彼女達がそう望んでいるから、僕もそう望んでいるだけだ。

 僕には世界が解らない。

 何十億人もの人間が笑って、泣いて、それぞれの期待や不安を抱えて、同じ空の下で生きたり死んだりしている──そんなもの、理解出来る筈がない。この手で触れられる範囲のことですら、僕の理解は及ばないっていうのに。

 だから、僕は彼女達を基準にする。

 彼女達が指し示す方角に間違いはないと──。

 少なくとも僕には、そう思えるから。

 

「──この世界は救う価値がありますかね」

 男は鼻で嘲笑(わら)った。

「神様にでもなったつもりか。世界を救うのに貴様の偏狭な価値観など持ち込むな。職責を果たすことだけを考えろ」

 そう言って、男は空を見上げた。

「世界は救う価値があるから救うのではない。救う力を持っているなら、迷わず尽力すべきだと私はそう思うがね。貴様にあの娘達がいるように、私にも──家族がいる」

 男の視線が中空に揺れる。

 ああ、この人も人間なんだと──当たり前のことを思う。

 お喋りが過ぎたようだなと言って男は立ち上がり、造船所の桟橋の方向を見た。ここからでは、建物の陰になって『あきつしま』は見えなかった。

「──それで、あの艦が就役すれば、直ちにハワイへと向かうんだろうな」

「それは判りません。状況によります」

 男は片眉を吊り上げた後、吐き捨てるようにこう言った。

 

「貴様はこのまま、艦隊の蒐集(コレクション)でも続ける気か?」

 

 

 ──艦隊の、蒐集(コレクション)

 

 

「全く、そんなものの何が面白いんだか」

 そう言い残して男は歩き始める。

 遠ざかって行くその背中に、

「楽しみ方は人それぞれですから」

 と声を掛けた。

 男は肩を(すく)めて両手を天に向け、欧米人のように解らないという身振りをした。

 思いの(ほか)、悪い人ではないのかもしれない。

 胸を突かれているような感覚がして視線を下げると、胸ポケットでは妖精がステッキを振って注目しろと訴えていた。

 矢印の向く先は、鎮守府のある方角だった。

「帰ろうか」

 そう言うと、妖精は小さく頷く。

 男の姿は、もう見えなくなっていた。

 

 

 ──何が面白いのか。

   そんなの、あの人だって。

   彼女達を知れば解る筈なのに、と。

 

 

 そんなことを思いながら、僕は。

 僕の帰る場所へと──歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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