Lostbelt No.■ 無価値幸福論 ブロークンファンタズム 特異点Δi (ルシエド)
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序幕:Garden of Avalon

 

 めでたし、めでたし。

 

 そんな言葉が最後に飾られたから。

 

 もう、彼らに幸せな未来は訪れない。

 

 

 

 

 

 森晶(もりあきら)刕惢(れいすい)は、白磁の椅子に腰を降ろした。

 真っ白なテーブル。

 真っ白な椅子。

 その上に、透き通る赤紫の美しい花びらが、風に吹かれていくつか無造作に乗っていた。

 

 彼の対面に座るは白髪の男、マーリン。

 アーサー王伝説に語られる魔術師。

 伝説のキングメイカー。

 "この世界線における"、現役の偉大なる魔術師(グランドキャスター)

 刕惢と共に、一つの物語を駆け抜けた男であった。

 

「これは夢かな、マーリン」

 

「ああ、夢だね。

 まずはねぎらいの言葉を贈るとしよう、刕惢君。

 人理修復の完遂、おめでとう。

 僕が最後に顔を合わせたのはバビロニアだったからね。

 今日まで中々言う機会がなかったんだ。許してくれるかな」

 

「ありがとう。マーリンさんの助言があってこその結果だと思ってるよ」

 

「ふふふ」

 

 かつて、この星に存在した人類史は全て焼却された。

 下手人は魔術王ソロモンを名乗る者、憐憫の獣ゲーティア。

 人類の歴史そのものが焼滅したが、人理継続保障機関フィニス・カルデアだけは奇跡的に残り、刕惢は()()()()()()()()()()、マシュ・キリエライトらと七つの特異点を駆け抜けた。

 そして、世界を救ったのである。

 

 無数の伝説の英雄たち(サーヴァント)こそが、彼の力であった。

 だからこそ彼は世界の救済を『仲間のおかげ』と言い、仲間達は『彼が頑張ったから』と言い、笑い合って今日を迎えた。

 お祝いのパーティーをして、皆で美味しいものを食べて、刕惢は未成年なのに少しお酒も飲まされて、どんちゃん騒ぎして、胴上げされて、しばらくして、そうして今日を迎えたのだ。

 

 ここは、ハッピーエンドのその後の世界。

 完全無欠の結末の後のエンドロール。

 めでたし、めでたし、で全ての戦いは終わりを告げた。

 だから明日からどう幸せに生きていくか、それだけが重要なことだった。

 

「それで、今日はどうしたん?

 夢の中に現れるのは夢魔の特性……だっけ。

 お祝いを言いに来たというわけではないんだよな?

 それはあくまでついで。でなければもっと早くにお祝いを言いに来ていたはず」

 

「おや、鋭いね。うん、そうだ。僕は君に言わないと告げないことがある」

 

「今更大抵のことじゃ驚かないよ。特異点といいトンチキハロウィンといい……」

 

「この世界は、何もしなければ滅びる。

 この世界の可能性は失われた。

 黒幕が居るというわけじゃない。

 自然の摂理、宇宙の法則の一環として、この世界は剪定される」

 

「―――え?」

 

 これは、ハッピーエンドのその後の世界。

 

「え、あの、言ってる意味が」

 

「平行世界は知っているね? ここまでの旅路で耳にした覚えもあるだろう?」

 

「あ、ああ、まあ」

 

「でもね、宇宙の容量には限りがある。

 無数の並行世界を全て内包していたら宇宙はパンクしてしまう。

 だから『要らない世界』は定期的に剪定され、消滅されるんだ。

 この世界はこの前までは"中心に近い世界"だったけど……滅びることが決まった」

 

「決まった、って……誰が決めたんだ!? そんな、身勝手な……!」

 

「この宇宙さ。

 都合の良い悪役なんて居やしないとも。

 この宇宙はまだ見たことのない未来を知るために在る。

 だから分かりきった結末の世界は要らないんだ。

 資源が尽きて、発展の余地がない世界も。

 人類が全く別の姿に進化してその先が無くなった世界も。

 ある日突然、"この世界に先はない"とされて、世界ごと消えてなくなる」

 

「残酷だ。残酷すぎる。

 それぞれの世界に生きてる生命がいたはずだ。

 そんなもの、一体どれだけの人が不幸に……」

 

「そしてこの世界も()()()()()。君にもそれは分かっているだろう?」

 

「……え」

 

 ハッピーエンドはハッピーエンドだ。

 皆が笑って、幸せになって、それでおしまい。

 その後の余計な物語など、誰にも望まれていない。

 きっと、この宇宙にすら。

 

「君が召喚に成功した『王』。

 君以外なら誰も召喚には成功しなかっただろう。

 彼を召喚できてしまったことが、最大の幸運にして不運だった。

 誰も知らず、誰もが知る王。

 想念の器の模造にして唯一無二の空。

 君が彼を召喚できたことで、君はゲーティアとすら和解したが……未来を失った」

 

「……?」

 

「君はこの世界を()()()()()()()んだろう。

 この世界は完全無欠の世界、にはまだ遠い。

 でも、皆が笑って、皆が幸せになれるようになってしまった。

 だからこの宇宙にとってはもう要らないんだ。

 それは見たことのない結末を作り出すようなものではないからね」

 

「おかしい……おかしいだろ……」

 

 マーリンは飄々と語り続ける。

 刕惢なる少年の表情はどんどん絶望に染まり、顔色は悪くなっていく。

 これは希望に満ちた未来の話ではない。

 困難を乗り越えるための状況説明ですらない。

 

 ただの、死刑宣告だ。

 

「本のお話でよくあるだろう?

 続編に次ぐ続編。

 敵を倒してもまた新たな敵。

 ハッピーエンドに見せかけて続編でビター。

 よくある話さ。

 そうすることで幸福と引き換えに、未来は分からなくなる。

 この宇宙が汎人類史に求めているものとは、そういうものなんだろうね」

 

「でも、俺達は生きてるんだ。

 それぞれの世界に人は生きてるんだ。

 その要望に応えてたら世界は地獄にしかならない。

 誰かが不幸になったり踏みつけにされる世界を、変えることもできない……」

 

「そう、それも間違いではない。

 だが宇宙は人間の倫理など慮ってはくれないのさ。

 みんなが幸せな人類世界は、この宇宙に存在を許されない。

 全ての地獄の頂点に立つ地獄の世界。それが在るべき世界の姿ということになる」

 

 可能性に満ちた世界とは、何もかもがある世界だ。

 幸福も、不幸も。

 生存も、虐殺も。

 笑顔も、泣顔も。

 希望も、絶望も。

 戦乱も、平和も。

 だから『汎人類史』となる世界は地獄となる。

 平和を求めても続かない。戦乱を求めてもいつかは終わる。

 希望を抱いて絶望に終わり、絶望の中から希望で再起する。

 

 まるで、虫かごの中で子供の玩具にされる虫のような生涯を、皆が繰り返しているようで。

 人生とはそんな残酷な世界の中でか細い幸せを見つけることだと、皆が妥協するように世界に折り合いをつけた在り方を見つけていく。

 可能性の無い一本道の天国の対極、無限の地獄が広がる多様性の地獄である。

 

「すまないね。僕が気付けていたなら何か別の未来もあったかもしれない」

 

「……いや。

 マーリンさんには、何度もお世話になったからな。

 文句とか言う気にはなれない。

 むしろこのことを教えてくれて、いや、辛い気持ちもあるけど、感謝してる」

 

 飄々とした微笑みを浮かべるマーリンが口だけで謝って、刕惢が椅子に座ったまま深々と頭を下げてお礼を言う。

 少年が見ている間、飄々とした微笑みを浮かべていたマーリンが、彼が頭を下げたことで視線が途切れたその一瞬だけ、憤りと悔いを顔に浮かべた。

 刕惢が頭を上げた頃には表情は元に戻っていて、何の痕跡もそこにはない。

 

「そうか。うん、殊勝な心がけだね。僕のせいにしないのはいいことだ」

 

「俺が何か上手くやってたら。

 いや、この世界のカルデアのマスターが俺じゃなかったら。

 どこかで何か違う選択肢を選んでいたら、違っていたかもしれない。

 マーリンさんが力を貸してくれたのに、何もできなかった俺の方が、むしろ……」

 

「……まったく。

 僕を従える人達はいつもこうだ。

 何もかもを自分のせいにすればいいと思っている。

 国も世界もそんな簡単なものじゃないし、軽いものでもないのにね」

 

「え」

 

「いやはやすまない。関係の無い話をしてしまった。過去(むかし)ではない現在(いま)の話をしよう」

 

 この世界は奇跡の世界である。

 どこか、御伽噺じみた奇跡と幸運が連なって、誰も知らない結末に辿り着いた。

 人類はハッピーエンドを迎え、かつて抱えていた問題や絶望を克服しようとしている。

 だから―――もう見るべきところはない。

 

「僕もこういうことは言いたくないけど……

 ()()()()()()()()()()、汎人類史には相応しくない。

 醜さが足りない。

 生き汚さが足りない。

 地獄が足りない。

 苦しみと絶望が無い分、多様性も可能性も無い。

 ただただ、人々が幸せなだけだ。

 『誰もが笑顔で終われた世界』なんてものは……この宇宙においては、無価値なんだよ」

 

「……」

 

「君が手に入れた幸福は、未来と引き換えだった。

 勝利を手に入れるということは敗北を手放すということだ。

 僕はそういうのが嫌いじゃない。君はとても綺麗な(せかい)を見せてくれた」

 

 マーリンはテーブルの上の花びらを一つ拾い上げ、器用に指の上でくるくる回す。

 泥は泥。

 いくら踏まれても泥のまま。

 花は花。

 踏まれれば潰れ、散り、花びらは風に乗って誰かの手の上に辿り着く。

 汚いものは壊れることなく、美しいものは必然に壊れる。

 それが花の世界の理だ。

 

 マーリンと少年は、窓から見渡せる外の世界、無限の花畑を虚しげに眺めていた。

 

「君が生きてきた世界はいずれ、誰も傷付かない世界に至るかもしれない。

 君がそれを望んでいるからだ。

 君が顔も知らない人々の幸せも願うような少年であったからだ。

 君が召喚した『この世界の王』がそれを叶えるからだ。

 この世界は悪性ではなく、綺麗事によって滅びる。

 だから忘れてはいけないよ。

 君のその心根に惹かれてついていった英霊が居たという、一番大事なことをね」

 

 マーリンには『それ』を告げ、自覚させる義務があった。

 森晶刕惢には『それ』に気付き、自覚する責任があった。

 告げたくなくとも。

 気付きたくなくとも。

 逃げ出すことなど、許されない。

 

「俺のせいですか」

 

 『皆の幸せを願った罪』で、彼と彼の愛した世界は裁かれる。

 

「俺の望みが。

 俺の願いが。

 俺のこの心が。

 この世界の未来を奪ったんですか?」

 

 マーリンは困ったような表情で、首を横に振る。

 何も言えなかった。

 何も言うことはできなかった。

 何も言えることがなかった。

 マーリンには少年に対しありきたりな慰めの言葉を投げかける優しさはなく、君は悪くないと嘘をついて救ってやる気もなく、真実を隠して平穏に終わらせてやる気もない。

 

 バッドエンドが嫌いなマーリンが望むことはただ一つ。

 この世界の美しい一枚絵(にんげんたち)の未来を、継続させることだ。

 

「カルデアが来る。

 君のカルデアではない、本物の汎人類史のカルデアが来る。

 この世界を刈り取りに、だ。

 この世界は特異点にして異聞帯だ。

 白紙化された汎人類史がどんな形であれ蘇るには、邪魔にしかならない。

 彼らの世界のためにこの世界は消し去られるだろう。君はどうしたい?」

 

「どうしたい、って……」

 

「平安京の魔人の胡散臭い話に乗ってこの世界に楔は打った。

 それはこの世界を継続する一手。

 転じて汎人類史を脅かす一手だ。

 僕はグランドの霊基にて、それをここから維持している。

 汎人類史のカルデアはそれを許さないだろう。自分達の世界の未来のために、ね」

 

「え、それって」

 

「汎人類史から来たる者達を討ち滅ぼせば、この世界は生き残るよ。

 この世界は元々中心に近い世界だ。

 この世界が汎人類史の代わりに、現在最も可能性に満ちた世界として残るだろう」

 

「!」

 

「生き物なら自分以外を犠牲にして生き残ることは罪じゃないんじゃないかな?」

 

 マーリンは柔らかな物言いでさらりとのたまう。

 その言葉は少年に指針を提示するものでありながら、新たな苦悩を与えるものであり、選ぶのは少年でなければならないがゆえに、どこまでも苦しみしか生まないものだった。

 マーリンは微笑み、刕惢は髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。

 どんなに苦悩しても、絶望しても、それしか生存の道がなくとも。

 

「それは……それは……」

 

 ()()()()()()()()()()という、あまりにも致命的な欠点が、彼を蝕む。

 

「他に方法があるはずだ!

 他に……何か……

 できるわけがない!

 他の世界を剪定してまで生き残るなんて……!

 他の世界にも人は生きてる!

 大事な人だって居るはずだ!

 自分の世界を滅ぼされたくないから戦う人の気持ちは分かる。

 俺がずっとそうだったから……過去の俺の在り方を否定するようなもんじゃないか……!」

 

 マーリンは彼を、奇跡中の奇跡と考える。

 究極の奇跡と至高の幸運があって初めて、彼は人理修復を成し遂げたと思っている。

 何故なら、森晶刕惢はここまで、誰も犠牲にしてこなかったからだ。

 それで全てを乗り越えられたことが奇跡で、だからこそもうこの先を生きる能力(ちから)がない。

 

 輝かしい奇跡の世界は、その奇跡ゆえに終わりを避けられない。

 

「俺はどうでもいい。でも、マシュや皆、他の人達には生きてほしくて……」

 

「君自身は、生きたくないのかい?」

 

「生きられるんなら生きたい。

 でも、そんな理由じゃ頑張れなかったんだ。

 一人じゃ頑張れなかった。

 皆のためだから頑張れた。

 それが全てだった。

 自分のためなんて軽い理由じゃ戦えなかったから……」

 

「……だろう、ね」

 

「一回でも他人を犠牲にできてたら。

 他人を容赦なく踏み越えてたら。

 俺は多分、皆と一緒に人類史を救う旅を、最後まで走り抜けられなかった」

 

「だから僕らは滅びの宣告を受けたのかもしれない」

 

 世界と世界、個人と個人、生存競争には多々あるが、最も必要なものは分かりきっている。

 

 『自分は生きたい』という、生存本能の究極の一(アルテミット・ワン)だ。

 

 これがあればこそ生命は生存競争を勝ち抜き、生き残ることができるのだから。

 

「君は結局、最後の最後まで、自分が生きるために戦うことはなかった」

 

「っ」

 

「でも、それなら、君の友達のマシュはどうなるのかな」

 

「―――」

 

「君と共に戦ったカルデアの仲間達はどうなるのかな」

 

「それ、は」

 

 マーリンの言葉に、少年は言い淀む。

 何も言えない。

 何も決められない。

 決断と殺意が同義であるがゆえに、少年は止まる。

 決められるはずがない。自分の意志で虐殺をする決断、だなんて。

 

 世界を救う旅は終わった。

 世界を殺す戦いが始まる。

 森晶刕惢は、偽物のカルデアの代表として、この世界全ての命を背負い、本物のカルデアと戦って、もう一つの世界の人間を殺し尽くさなければならない。

 

 他人のためにしか頑張ってこなかった少年に突きつけられた難題は、他人のために他人を殺しその罪を自分で背負うという地獄解のみが在る。

 

 『誰もが笑顔で幸せな世界なんて存在してはいけない』と、宇宙は常に囁いている。

 

 『地獄を継げ』と、虚無の底から声が響く。

 

「君の自由にするといい。

 君は奇跡中の奇跡で、()()()()()()()()()()()()()()()人類史を救った。

 それは人理焼却にも並ぶ大偉業だろう。

 だからこそ、ここで君に迫られる選択肢は一つだ。

 君は汎人類史と呼ばれる編纂事象と、僕らの世界の剪定事象、どちらを取るか」

 

「……」

 

「一応言っておくけど、この世界を捨ててもいいんだよ?」

 

「え?」

 

「なに、少なくとも僕は文句言ったりしないさ。

 君が殺したくないならそれでいい。

 そんな君だけが救えたのがこの世界だ。

 殺したくない、大いに結構。

 僕が嫌いな悲しい別れを、君は一度も見せなかった。

 あまりにも優しくて暖かな物語を貫いて、世界と一緒に滅ぶのも悪くないと思うんだよね」

 

「だけど……だけど! 皆、生きていたいはずだ! なら、なら……!」

 

 少年の叫びは、魂から絞り出したような声だった。

 声は震えている。

 込められた感情は悲惨だ。

 声帯だけではなく、声の通り道の肉が振動するような音の響き。

 肉を、魂を、心を削っているような声色。

 ここが夢の世界でなかったら、彼はとっくに嘔吐していたかもしれない。

 

「世界を救った人間には、世界を滅ぼす権利があってもいいと僕は思う。

 国を救い守り続けてきた孤独な王様には、その国を滅ぼす権利もあっていいと思うんだ」

 

「……俺は、無いと思う」

 

「そう。でも、じゃなきゃ世界を救うなんて偉業の対価に釣り合わないと思うよ」

 

「それでも、俺は人をたくさん殺す権利なんてないって……信じていたい」

 

 少年は世界を救ったかもしれないが、世界は少年を救わない。

 

 少女が国を救っても、国は少女を救わないのと同じように。

 

「他の道は、無いんですか」

 

「さあ、どうだろうね。

 あるかもしれないしないかもしれない。

 僕は無いと思ってるよ。

 これはたった一つの椅子を取り合う生存競争だからね」

 

「……」

 

「汎人類史のカルデアが、『本物』が来る。

 僕らの世界と物語を、偽物にするために。

 僕らも本物なんだけどね。

 でも汎人類史以外は偽物であり、滅ぶもの……この宇宙はそういうものなのさ」

 

 勝った世界が残り、負けた世界が全て滅ぶなら、これもまた当たり前の定義があてはまる。

 

 勝った世界だけが本物で、負けた世界は全て偽物だ。

 

 積み重ねた、愛も、信頼も、友情も、物語も、旅路も、全て(ゴミ)と成り果てる。

 

「ここは星の内海、物見の(うてな)

 君から何よりも離れた理想郷、孤独の楽園だ。

 僕は冠位(グランド)と成り果てたがために異聞を知った。

 冠位(グランド)であるがゆえにまだ君を救いには行けない。

 ここで冠位(グランド)として成すべきことを成そう。

 罪無き者よ。

 誰も踏み躙ることなく走り抜けた奇跡のマスターよ。

 君には理想郷への扉を通る資格があった。君の物語は祝福に満ちている」

 

「そうやって祝福してくれた人のこと、一秒だって忘れたことはないよ、マーリン」

 

「そうかい、そうかい。花の魔術師冥利に尽きるというものだね?」

 

 気取った喋りをしたと思ったら、すぐに気の抜ける軽い語りに移って戻る。

 この問題児ながらも楽しい男が、刕惢は好きだった。

 

 彼はマーリン。

 魔術師マーリン。

 偉大なる魔術師にして、アーサー王を導いた花の男。

 永遠の理想郷、楽園の庭(ガーデン・オブ・アヴァロン)に住まうもの。

 

 ふと、何かに思い至ったように、刕惢はマーリンの方を向く。

 その体は揺らいでいて、夢から目覚める朝が近いことが見て取れた。

 

「マーリンさん、もしかしてもう会えなかったりする?」

 

「ん? ああ、そういうこともあるかもしれないかな。

 楔は君達の理想の世界(テクスチャ)を縫い止め、地上に在る。

 僕はここから、星の内側からそれを引っ張る。

 楔は強く固定され、この世界はしばらくは固定されたまま消えなくなるって寸法さ」

 

「それじゃ……」

 

「しばらく忙しいからね。

 すぐ会うのはまず無理だ。

 しばらく後でも……ううん、どうかな。分からないや。

 僕に頼みたいことがあるなら今の内に言っておいた方が良いかもね」

 

「頼みたいことはない……けど。伝えておくべきことはある」

 

 夢から覚める直前の、おぼろげに揺れる体を抑え、頭を下げて少年は言う。

 

「ありがとうございました、マーリンさん。

 あなたに限りない感謝を。

 俺にとって、あなたは偉大な戦友で、大事な友達だった。今度一緒にサイゼリヤに―――」

 

 そうして、少年は消えた。目覚めと共に、夢は消える。

 

 予想外にお礼を言われたマーリンは、少し驚いて呆気に取られた。

 少年の言葉がどこかで聞いた覚えのあるような台詞だった気がして、気のせいだったということにして、微笑む。

 もうこの世界に先はない。

 未来を勝ち取れても罪が食い込む。

 汎人類史の資格を得ても、この宇宙がいつまでそれを許すかは分からない。

 汎人類史を滅ぼした後、かの少年が笑えているかも分からない。

 何も分からない。

 確かなことなど何もない。

 殺す方法は知っていても、救われる方法は何一つ確かなものがない。

 けれど。

 それでも。

 剣よりも宝石よりも花を愛する心を持つマスターを、救ってやりたいとマーリンは思う。

 それは花の魔術師として、そして一人の人間としての矜持だった。

 

「僕は僕らしくもなく祈ろう。……願わくば、君が君の理想郷を守れますように」

 

 マーリンは杖を額にコツンと当てて、彼の道先の幸いを願った。

 

 かくして、次なる生存競争は開始される。

 

 滅ぶ世界は一つ。残る世界はただ一つ。幕が上がるは、屍山血河の聖杯戦争。

 

 おためごかしはあろうとも、ハッピーエンドはありえない。

 

 これより奪い合うは地獄の称号。地獄の頂点に立つがゆえの汎人類史。

 

 理想を捨てることなど敵わず、ゆえに理想郷は消え失せた。

 

 ―――これは、とても、とても、しあわせなおとぎばなし。

 

 

 

 



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第一幕:正義の味方

 藤丸(ふじまる)立香(りつか)は、ごく普通の女の子だった。

 ただ、伝説の英雄達(サーヴァント)と共に別の世界に行くことにかけては、人よりもずっと才能があった。

 時代が時代なら、彼女は色んな世界を楽しく旅する笑顔の旅行者だったかもしれない。

 

 それがなんやかんやで巻き込まれ、人類最後のマスターに。

 デミ・サーヴァントなるものになった少女、マシュ・キリエライトと共に戦いの旅を始めた。

 全ては、大敵ゲーティアを倒し、焼却された人類史を取り戻すために。

 がむしゃらに進む旅だった。

 人を守り、人を救う旅だった。

 時には敵を傷付け、仲間を失い、分かり合えない敵を打ち砕く物語であった。

 

 かくして、藤丸立香は世界を救った。

 森晶刕惢と同じように。

 あるいは、彼が彼女と同じように世界を救った、と言うのが正しいのかもしれない。

 ゲーティア、ソロモンをこの世から消し去るという形で、燃え尽きた人理を修復した。

 

 されど彼女は普通の女の子には戻れなかった。

 世界に湧き出でて世界を脅かす亜種特異点。

 人類史の驚異たる人類、クリプター。彼らが従えるサーヴァント達。

 地球の表面を人類ごと白紙化した異星の神。

 そして、白紙化した地球を自分の歴史で塗り潰そうとする並行世界―――異聞帯。

 

 彼女が帰る家は、未だ消え去ったまま。

 

 普通の女の子として彼女が生きられる明日は、未だに訪れる気配もない。

 

 世界が消え去り、歴史が消え去り、自分の歳を数えることが不思議になった。

 四年、五年と戦い続ける内に、自分が成人しているかも怪しくなってきた。

 気付けば、幼い頃に漫画で読んでいた『10代後半の楽しい青春』の時間の全てを、血なまぐさい戦いの日々だけに全て費やしている自分に気付いた。

 それでも「ま、しょうがないよね」と自分に言い聞かせるように、進み続けた。

 

 彼女こそが、"本物のカルデア"とマーリンに呼び称された組織の代表。

 宇宙に選ばれた汎人類史、最後の守護者。

 地獄の頂点の強さと罪を一身に背負う者。

 ただただ生きるため、死にたくないから、彼女は戦う。

 

 その過程で、幾多の世界の無数の人間を虐殺するとしても。

 

 夜、寝る時、悪夢を見る日が増えた。

 

『異聞帯はもう一つの世界。可能性を失ったもしもの世界』

 

『残される世界は一つ。滅ぼされる世界はそれ以外全て』

 

『決断したのはお前だ』

 

『お前が殺した』

 

『お前が決めて、お前は進み、お前のその手で他の世界を滅びに導いた』

 

『どの世界にも人はいて、生きていたかったのに。それすら許されなかった』

 

『お前は許さなかった』

 

『彼らが生きることを許さなかった。なのに自分は許されたいのか?』

 

『己の罪を』

 

『生きていくことを』

 

『許されたいのか』

 

『自分勝手、傲慢、そんな言葉でも生温い』

 

 見たくない夢を見る日が増えた。

 

『ほらほら、立香、ママでちゅよー』

 

『パパだぞー』

 

『立香はいい子ねー。言うことが無いわ。でも、大切なことは知っておかないと』

 

『目の前の人には、優しくしなさい』

 

『自分がやられて嫌なことは、絶対に他人にしちゃダメよ』

 

『他の人を怪我させちゃダメ。死んじゃったら取り返しがつかないからね』

 

『自分のことだけ考えちゃダメよ。他の人のことを考えられる人になりなさい』

 

『相手が本当に困ってて、必死に見えたら、譲ってあげる優しい子に育ってね』

 

 床に入って、夢を見て、見たくないものを見て、飛び起きる。

 親の顔、殺した人々の顔を思い出して、それが脳裏にこびりつく。

 夜が来るたび、そんな苦痛を繰り返す。

 星明かりに照らされる一室。気付けば、少女の瞳から、透明な雫が溢れ落ちていた。

 

 戦いの日々に身を置いていた数年に、子供から大人へと移り変わっていく身体の、胸の谷間に涙が流れ落ちていく。

 

 こんな風に大人になっていく日々を、かつて想像していたわけではなかった。

 こんな風に大人になっていきたいだなんて、一度も思ったことはなかった。

 10代の青春はもっとふわっとしていて、楽しいものだと思っていた。

 子供から大人になっていく道筋は、もっと綺麗で優しいものだと思っていた。

 けれど、少女の人生がそうなることはなかった。

 

 仲間が戦いの中で消えるたび、歯を食いしばって誰かの命を刈り取るたび、少しずつ自分が大人になっていく実感があり、少女はその実感に溺れるような感覚を覚えた。

 誇れる成長の裏に、常に窒息するような成長があった。

 戦ったことのない幼い自分が消えて、泣き喚いて膝を折る幼い自分が消えて、甘えを持っていた幼い自分が消えて、人を殺したことのない幼い自分が消えて。

 そこに、窒息の苦しみに近い、成長の実感があった。

 

 「じゃあそんな生の旅路を悔いているのか」と問えば、立香は首を横に振るだろう。

 

 素晴らしい出会いがあった。

 笑いあった思い出があった。

 誇らしい共闘があった。

 貰った暖かな言葉があった。

 万金に勝る勝利があった。

 一生忘れることのない、輝きに溢れた物語があった。

 

 だから、藤丸立香が止まる理由はない。

 かつての日々を取り戻すため。

 自分の世界でまた生きるため。

 今日まで力を貸してくれた全ての人の想いを無駄にしないため。

 彼女は戦う。

 その結果として世界丸ごと殺す虐殺を行い、自分の心にヒビを入れるとしても、『生きたい』という気持ちを心の核にして、進んでいける。

 

 笑顔で居る人達だけの世界があったらいいな、と立香は思う。

 

 皆幸せな世界があったらいいな、と立香は思う。

 

 誰も傷付かない世界があったらいいな、と立香は思う。

 

 そうして、彼女は―――『そんな理想が叶った世界』に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 "特異点"とは、間違った正常の歴史。

 汎人類史の一部が歴史改変を受けるなどして発生するもの。

 "異聞帯"とは、正しい異常の歴史。

 汎人類史からかけ離れた、過去改変など何もない、独立した異端の世界。

 二つは違うものの、まっとうな人類史を修復したいのであれば、どちらもカルデアが除去していかなければならないものである。

 

 汎人類史カルデアが観測したその世界は、特異点にして異聞帯と言うべきもの。

 分岐したのは2014年と非常に近い年代であり、特異点としての性質を強く持っている。

 しかし明確に汎人類史から遠くかけ離れた異聞帯であり、そこに疑いもない。

 あまりにも歴史の分岐点が近く、あまりにもかけ離れ方が急激で、なのに汎人類史との近似性を未だ保っており、汎人類史に()()()()()()だけのポテンシャルも維持している。

 汎人類史が生身の人間なら、その世界はサイボーグのような、そんな世界間近似性と世界間乖離性を併せ持っている世界である、と見られていた。

 

 カルデア経営顧問シャーロック・ホームズ曰く。

 

『我々の世界から見て最新最悪の異聞帯であることは間違いない。

 英霊に対する死徒、吸血鬼を思わせる。

 世界の悪質さではなく、汎人類史と既存人理を否定する力が非常に強い』

 

 と、語られている。

 

 最新最悪の異聞帯。

 汎人類史を否定する最も新しき歴史。

 誰の予想にも存在していなかった、突如現れた敵性世界。

 まるで、聖書に語られる悪魔の巣窟の如き世界にも見える恐ろしさだ。

 

 ……で、あるにもかかわらず、現在のカルデアが指針決定の頼りとする霊子演算装置『トリスメギストスII』は、奇妙な結論を出した。

 曰く、「藤丸立香とマシュ・キリエライトの二人で向かう分には完全に安全だ」と。

 

 トリスメギストスIIは超高性能な演算装置である。

 未来予測の過程はほとんど理解できないが、その結論だけは信頼できる。

 立香とマシュ、二人の少女だけを向かわせる限りは、安全は担保されるということだ。

 その先の選択肢で危険性は如何様にも変化するだろう。

 だが、とりあえず安全が確保されるなら他に選択の余地はない。

 

 藤丸立香とマシュ・キリエライトはかくして、通信のホットラインを維持しつつ、まだどう呼称するかも決められていないその世界へと飛び込んだ。

 

「……着いた? 到着? マシュ、ちゃんと居る?」

 

「はい、先輩。あなたのシールダーはここに。しかし、これは」

 

「うわ……日本だ。

 間違いない、見慣れた街の形。

 街を行き交う人も日本人だ。

 建物も、空気も、景色も……私の過ごしてた街みたい……」

 

「現在地、周辺状況を確認します。

 私達は現在、小高い山の山道脇の展望公園に居るようです。

 山道を先輩の足でゆっくり歩き降りても30分ほどで街に入ると試算します。

 私達の世界の時間軸は推定で西暦2019年から2020年に相当していました。

 ですが、この世界は西暦2017年……ほんの少しズレた年代であるようです」

 

「そっか、ありがとマシュ。ゲーティアを倒したちょっと後くらいかな?」

 

「はい」

 

 周囲の看板、掲示板、建造物、遠目に見える街から得られる情報から、マシュが確度の高い推測を述べる。

 流石にシャーロック・ホームズのような超能力じみた理論構築による推理はできないが、カルデアにて高度な訓練を受けたマシュ・キリエライトは、いついかなる時も頼れる相棒として十分すぎるほどの仕事をこなしてくれる。

 

 マシュの話を聞いて、立香は顎に手をあて少し考え込んだ。

 

「日本なら私とマシュは私服着てれば紛れ込めるかな……

 いや、ううん、どうだろ。

 私もこの服買ったの五年前とかだし……

 ちょっと流行遅れで浮く……?

 幸いこの時期は人理修復終わったばかりの頃で私はネットで流行の服とか調べてた時期……」

 

「先輩?」

 

「よし、マシュ、服買いに行こう服!

 とってもかわいい服着せてあげるからね、ふふふ」

 

「……私情混ざってませんか?」

 

「そんなことナイナイ。

 私達二人なら安全なんでしょ?

 じゃあバレないように紛れ込める服買って、まずはこっそり偵察じゃない?」

 

「………………そう、ですね。ちょっと引っかかりますが、先輩を信頼します」

 

 近場のお店に入り、キャスケットで髪や顔を自然に隠しやすくするコーデを考え、デニムワンピなどで地味めの装いに早変わり。

 今時の若い子が着ていても違和感がない、けれど目立つほど綺麗でも可愛くもない、悪目立ちしないこと特化の女子大生ファッション的な装いであった。

 目立ってクラスの人気者に目をつけられていじめられることもない、ダサい服を着てクラスメイトにバカにされることもない、元女子学生立香の神がかったバランスが為せる技である。

 

 二人は街をぶらりと歩き、人の会話に耳をそばだてながら、この世界を知り始めた。

 まずはこの世界を知らなければ、どうにもならない。

 幸いこの世界の今日は祝祭日にあたるようで、童顔な彼女らがサボり学生だと思われることもなく、誰も彼女らに違和感を持っていなかった。

 数人程度、服装で中和しきれない二人の魅力的な容姿に目を引かれた男性もいたようだが、それもすれ違う時にやや視線を引く程度に留まっていた。

 

「平和っぽいねえ、マシュ」

 

 どこを歩いても平和な街並みを見て、立香はぽつりと呟いた。

 

「……確かに、そうですね。

 これまでの異聞帯とは何かが違います。

 争いの匂いが薄いというか、物騒な空気がない感触です。

 神霊や英霊がそぐわない街並みです。本当に、ごく普通の街に見えます」

 

「でも、なんだろう、これ。違和感? いや、そういうのじゃないか……」

 

「分かりません。大気組成や魔力反応には異常は感じられません。

 でも何か……先輩が感じている何かを、私も感じていると思います」

 

 これまで彼女らは多くの特異点、多くの異聞帯を巡ってきた。

 そのどこにも『サーヴァントが居て然るべし』というような、伝説や神話の外伝が今ここで始まってもおかしくないような、独特な空気のようなものがあった。

 なのに、この世界にはそれがあるようでない。

 あるとも言えない。

 ないとも言えない。

 よく分からない何かがあって、二人には何故それがよく分からないのかも分からないのだ。

 

 むむむ、と立香は思案するが、答えに近付いている感覚すら生まれてこない。

 

「分かるのは、この世界が本当に平和で、皆幸せそうに笑ってることくらいだよね」

 

「はい。異常なことはなく、誰もが日常を謳歌しているように見受けられます」

 

 この世界に来てからずっと、立香とマシュはそれを感じていた。

 

 この世界は、皆幸福そうで、皆笑っていて、皆互いをいたわり合っている。

 そして、それがとても自然なのだ。

 "人間は誰もがこうなれる。そういうものなんだ"と、自然と心が思うような、そんな優しい光景で満ち溢れている。

 

 男と女が出会い、恋をして、子供が出来て、幸せそうに笑う瞬間のような。

 幼馴染と一緒に部活の大会に出て、優勝して、思わず抱き合った瞬間のような。

 年老いて歩くのに疲れた老婆が、家に帰ろうと息子に背負われた瞬間のような。

 迷子の幼子が、見ず知らずの大人に優しくしてもらい、家に辿り着いた瞬間のような。

 

 そういうものに類する、ごく自然な暖かい幸せで、この世界はいっぱいだった。

 

 その暖かさに立香は『既知』を感じる。

 こんな幸福が断片的にある世界の中で、彼女は生まれ育ったから。

 その暖かさにマシュは『未知』を感じる。

 こんな幸福が流れ行く世界の中を、マシュは生きたことがなかったから。

 

「なんて言うんだろう……『上手くいってる』?

 なんだか言葉にしにくい世界で……そういう表現しか思いつかないんだよね」

 

「私も同意見です。

 これをなんと表現すべきか……

 近い感覚は覚えがあるのですが、何故その感覚があるのか分かりません」

 

「え、マシュ、あるの? これに近い感覚」

 

「はい。最上級の難問の解答冊子を見た時にこの感覚がありました」

 

「んん?」

 

 よく分からないものを理解するためマシュの見解を聞こうとしたら、マシュから更によく分からない見解が出て来て、立香は思わずちょっと面白い顔で首をかしげてしまった。

 

「ごめん、考えてもよくわかんなかったから解説お願い」

 

「が、がんばります。分かりにくかったらごめんなさい」

 

 マシュは言葉にしにくい領域の印象を言葉にすべく、考えながら話し始める。

 

「これは、難問への答えだと思うんです。

 "どうしてみんなしあわせになれないんだろう"といった、難問への解答」

 

「……ああ、なるほど」

 

「"ああ、こういう答えがあるんだ"と見ていて思わされるもの。

 答えを提示されるまで、その答えに想像の指先が触れることすらないもの」

 

 ダンボールが破けて中身が転がり出した運送屋さんを、道行く人が助けている。

 むせこんで蹲ったお爺さんに、通りがかった女性が駆け寄っていく。

 学校のグラウンドで転んで怪我をした少年に、友人らしい少年が絆創膏を貼っている。

 マシュは人々を眺めながら、所感を口にしていた。

 

 立香もマシュに倣い、言葉にしにくい領域の印象を言葉にしていく。

 

「なんだか言葉にしにくいよね、ここ。

 ……『他人に優しくなれる世界』なのかな。

 優しさを強要されてるとか、それが習慣になってるわけじゃない。

 だから誰かに助けてほしい時、泣きたい時、誰かが隣に居てくれるんだ……」

 

 一人の時間を尊重されて、公園の草原に寝っ転がっている中学生らしき男子。

 二人きりの時間を尊重されて、屋上で愛を育んでいる恋人達。

 家族だけの時間を尊重されて、夫妻娘の三人で手を繋いで歩く家族達。

 立香もまた人々を眺めながら、所感を口にしていた。

 

「ホームズさんに通信を繋いで意見を拝聴するというのはどうでしょうか?」

 

「うーん、通信で潜伏がバレるのが怖い。

 あと『こんな序盤で結論を出すのはまだ早い』って言われそう」

 

「言われそうですね……」

 

「あと、これ言っていいのかな、そのね」

 

「?」

 

「かつてないくらい『非現実感』がない。

 かつてないくらい『現実感』がある。

 そういう異聞帯なので、その……

 ホームズが来たら普通の殺人事件が起きそう……」

 

「名探偵を死神扱いするのはタブーですよ先輩!」

 

 軽い冗談を交わしながら、二人はこの世界への思索を進めていく。

 

 立香とマシュは同年代だが、生まれから生い立ちまで正反対と言っていいほどに違う。

 立香は普通の家に生まれて普通に育った普通の女の子だった。

 対し、マシュはデザインベイビーとして『製造』され、研究施設で望まれた形に『加工』され、何もかもが普通でない女の子として生きてきた。

 ゆえに、二人は視点の置き場所から異なっている。

 

 マシュは世界の構造を見て、哲学に通ずる見解を口にした。

 立香は人々の在り方を見て、この世界の人間の心に対する感想を口にした。

 

 されど二人はまだ本質的な部分には全く理解が及んでいないだろう。

 彼女らはまだこの世界の表面に触れただけにすぎない。

 そこは立香もマシュも自覚を持っていた。

 

「なんだか皆優しいよね、ここ」

 

「スマートフォンのようなものかもしれません。

 あれも昔は無かったと聞きます。

 けれどいつからか誰もが持っていて当然のものになった。

 優しさ、気遣い、許し、寛容、共存……

 もっと相応しい言葉があるかもしれませんが……

 そういったものが『普及』して、『当然』になった世界……なんでしょうか」

 

「いい世界だね、マシュ」

 

「はい」

 

 完全に理解できたとは言えないものの、二人はこの世界に好感を持ち始めていた。

 異聞帯が異聞帯である理由は様々である。

 それを理解するには、その世界を理解する必要がある。

 既に二人はこの世界の剪定理由が、『誰もが幸せであること』だと気付き始めていた。

 

「空想樹が見当たりませんし、やはり隠されているのでしょうか?

 あれを伐採しなければ、いくら時間をかけても無駄骨になりかねません」

 

「なんかあまりにも平和な日本過ぎて植木屋にありそうな気がしてきた。どう思う?」

 

「大変失礼なことを言うようで申し訳ありませんが、虞美人さん並の推理だと思います」

 

「その発言がパイセンに対して死ぬほど失礼だと思う」

 

 だからこそ二人は、会話中にうっかり余計なことを言わないよう、頭の片隅で常に言葉に気をつけていた。

 

 口にしてはいけない言葉があった。

 口にするだけで隣に居る相棒を苛む言葉があった。

 口にしても何の意味もない言葉があった。

 だから、立香もマシュもその言葉を言わない。

 

 通信を繋がないでいてよかった、と言えるだろう。

 立香のカルデアの現所長なら、「こんな世界を滅ぼさないといけないのか?」と―――口にしてしまっていたかもしれないから。

 

 共存はない。

 歩み寄りもない。

 選べる選択肢は唯一無二。

 彼女らは、この世界を滅ぼさねばならない。

 

 笑顔で居る人達だけの世界があったらいいな、と立香は思う。

 皆幸せな世界があったらいいな、と立香は思う。

 誰も傷付かない世界があったらいいな、と立香は思う。

 彼女は『そんな理想が叶った世界』に足を踏み入れた。

 

 そしてこれから、それを滅ぼすのだ。

 

 少女の心の奥に残っていた、幼くも可愛らしく、純真で無垢なる願いが、あまりにも優しい愛のある理想の世界像が、この世界に重なって―――それを彼女は、己の手で滅ぼすのだ。

 

 自分の夢を自分で殺す。

 でなければ、汎人類史の方が消される。

 手心を加えてしまった藤丸立香は、理想に溺れて溺死するだろう。

 

「っ」

 

 藤丸立香の胸の奥が痛む。

 何度も世界を滅ぼす旅路を進み、慣れた痛みがあった。

 何度世界の滅びを越えても、慣れることのない痛みがあった。

 痛みに耐えて、苦しみを我慢して、立香は必死にそれを飲み込もうとする。

 心因性の苦痛に耐える立香。

 立香の苦痛を自分のものであるかのように感じ、寄り添うマシュ。

 ゆえに二人は、近付いてくる二人の男女に気が付いていなかった。

 

「やあ、いい朝だね。もう10時だけれども」

 

「!?」

 

「私は日本に来て日が浅いのだが、何時までがおはようございますなのだろう……?」

 

 驚いて、後ずさって、顔を上げて、近寄って来ていた男女の顔を見て。

 

 そこで、藤丸立香とマシュの思考が止まる。

 

 ただただ驚いて、驚きの後に泣きたい気持ちが来て、二人は感情をぐっと抑えた。

 

「初めましてでいいだろうか。

 私はキリシュタリア・ヴォーダイム。

 彼女はオフェリア・ファムルソローネ。

 友人の頼みでね。ラーメンを奢る代わりに、君達お客人を迎えに来たところさ」

 

「ヴォーダイム。無駄口ですよ」

 

御免(ソーリー)

 

「こいつ……!

 最近親交ができた忍者の真似を……!

 本当に申し訳ありません。彼に悪意は無いのです。

 ただこの世界の代表の一人という自覚が……どうかしましたか?」

 

 ここはハッピーエンドの袋小路。

 

 全てが幸福に終わった世界。

 

 皆が笑顔で皆が幸せな世界を森晶刕惢が望み、奇跡中の奇跡でそれが実現した世界。

 

 キリシュタリア・ヴォーダイムとオフェリア・ファムルソローネが笑顔で幸福な世界に価値はなく、未来はなく、そんな世界を残す意義はない。この宇宙が、そう決めた。

 

 オフェリアが目の前で死んだあの日を、マシュ・キリエライトは思い出す。

 キリシュタリアが目の前で死んだあの日を、藤丸立香は思い出す。

 冷たくなっていくオフェリアの体温を、マシュは忘れない。

 致命傷を受けながらも怯えの欠片も無いキリシュタリアの表情を、立香は忘れない。

 

 『この二人が幸せに楽しそうに生きている』ということが、この世界の存続が許されなかった理由であることに気付いて―――二人の少女の、心が軋んだ。

 

 

 



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2

 立香とマシュが案内されたのは、なんとも珍妙な建物だった。

 日本で生まれ育った立香には、その建物のベースが老朽化した市役所であることが分かる。

 分かるのだが。

 老朽化した市役所だったはずのものに、追加されているものがおかしかった。

 

「え、なにこれ」

 

 東はチェイテ城化し、西はピラミッド化し、北は姫路城化し、南は大奥と化していた。

 ローマがそこら中に生え、よく見ると正門周りはキャメロットに侵食され、目を逸らしたくなるが地面からアルゴー船が生えている。

 門の明かり代わりに燃えているのはおそらく本能寺だろうか?

 狭い畑にはカカシの代わりに「この男はアビーのプリンを勝手に食べました」というネームプレートをかけられ、磔にされたリンボが立てられていた。

 その他にも特徴的な建物や乗り物が数え切れないほどくっついている。

 

 中心部分に見える特徴的な施設構造体はおそらくカルデアのものだろう。

 この世界のカルデアの機能は、今はここの中心にあるらしい。

 おそらくは、『この異聞帯の主』にあたる者達がここで使うために移転されたのだ。

 

 とにかくしっちゃかめっちゃかに、この異聞帯で仲間となったであろう者達の象徴となるものがくっついていた。

 カオスの極みである。

 この世界で今日までどんな旅があったのか、想像するだけで楽しくなりそうな建物がそこにあって、それを眺めるキリシュタリア・ヴォーダイムは、とても楽しそうだった。

 

「私はこの子供の作ったミキシングプラモデルみたいな建物造形が好きでね……」

 

「ヴォーダイム」

 

「オフェリア、言論警察はやめてくれ」

 

「初対面の人の前では振る舞いを気を付けろ、と言っているだけです」

 

「しかしオフェリア、清少納言殿は初見の人に対し常に私よりフランクだが?」

 

「枕草子書いてから出直してください」

 

 キリシュタリアとオフェリアに案内されて、立香とマシュは建物に足を踏み入れた。

 

 おそらく、『この異聞帯の主に信頼される人間の中で最も相応しい格がある人間』としてキリシュタリアが選ばれ、そのお目付け役としてオフェリアが選ばれたのだろう。

 キリシュタリアはひたすら変なことを言っていて、真面目な案内はもっぱらキリシュタリアの耳を引っ張るオフェリアの役目だった。

 

「見たまえ、汎人類史のマスター君。

 あれはカーマちゃんの分身を射出した回数×100スクワットさせられてる陳宮だ。

 かくいう私も最近怒られてあそこでオフェリアにスクワットさせられていてね……」

 

「私どう反応すりゃいいの?」

 

「ヴォーダイム!」

 

 くすっ、とマシュが笑みをこぼした。

 立香もつられて笑いそうになるが、なんとかこらえる。

 なんだかそれが、とても致命的なことであるような気がした。

 笑ってしまえば、何かが終わってしまう気がした。

 

 特異点や異聞帯に存在する世界のルールや、特定の行動を取るとマイナスが発生する魔術効果のようなものではない。

 ただ何か、自分の心の中で何かが致命的に終わる予感があったのだ。

 

 キリシュタリアはマイペースに、とても肩の力が抜けた様子で語り出す。

 こんなにも"何かを一人で背負っていない"気楽そうなキリシュタリアを、彼のこんなにも気安い微笑みを、立香は生まれて初めて見た。

 

「さて、このまま目的地の中庭まで進もう。

 『彼』は中庭が好きなんだ。

 本来ならオルガマリー所長とドクター・ロマンに面通しをしてもらうところだが……」

 

「……! その二人が、ここに居る……ってこと……?」

 

「ああ、遠出する用事も無いようだ。

 ただ君は、私達とも顔見知りなのだろう?

 汎人類史最後のマスター殿。

 私達にとって、最後のマスターとは刕惢のことだが……

 君達の世界においては、君こそがその立ち位置に居た。

 ならば面通しをして覚えてもらう必要もないだろう。

 君は反応を見る限り、関係はどうあれ、私達と顔見知りであるようだからね」

 

「……」

 

 オルガマリーはカルデア所長として、右も左も分からない立香を導いてくれた。

 そして立香が見ている前で燃え尽き、やがて異星の神の器の素材として、相容れぬ敵として蘇り今も戦っている。

 

 ドクター・ロマンは、信頼できる大人の男性として、何度も心が折れそうになった立香をずっと支えてくれた。優しい微笑みを向けてくれた。

 ゲーティアとの最終決戦に挑んだ時、彼は世界のために完全なる消滅を迎えた。

 

 キリシュタリアもオフェリアも、かつては立香とマシュの前に立ちはだかる敵だったが、その時ですら憎み合ってはいなかった。

 二人は死の間際に命懸けで希望を繋ぎ、立香とマシュはそのおかげで生きている。

 

 皆、生きている。

 幸せそうに、楽しそうに、笑っている。

 汎人類史では既に消え失せたものが、まだここには残っている。

 立香の胸の奥で、雑巾を絞るように心臓を絞るかのような痛みが生まれる。

 

「先輩、あの……」

 

「……後で話そう、マシュ」

 

 立香は今、その話をする気になれなかった。

 皆楽しそうに話していて、その話に合わせると立香もつられて笑いそうになる。

 そう、普通は笑うのだ。

 何気ない友人との会話、気のおけない仲間との会話、面白い人気者と皆でわいわい話す会話……そんなものの中に居れば、普通は笑う。

 楽しく話せていること以外に、特に理由はない。

 

 だが、立香はこらえる。

 会話が楽しげでも笑みをこぼさない。

 懐かしい人達と笑い合おうとは思わない。

 誰もが笑っていていいこの世界で、彼女は努めて笑わない。

 

 この世界の何もかもに()()()()()()()ように、努めて笑顔を抑え込む。

 

「……譲っちゃいそうで、怖い」

 

「先輩?」

 

「なんでもないよ、マシュ」

 

 この世界は本当に『藤丸立香が夢に見る幸せな理想世界』そのもので、だからこそ立香はマシュとは比べ物にならないほど強く、この世界に歩み寄らないようにしていた。

 『戦わないと』という意志が、『戦いたくない』という"願い"に負けた時、全ての未来が絶えてしまうことを、彼女は知っている。

 聖杯戦争を『人が願いを叶える物語』と表現したサーヴァントが居た覚えがあって、誰が言ったのか思い出そうとして、そこで立香の思考が止まった。

 立香の視界の端を、"よく知っている初対面の人達"が歩いている。

 

「―――」

 

 立香は思わず手を伸ばそうとした。

 届かない空の星に手を伸ばすように。

 もう戻らない死した親に幼子が手を伸ばすように。

 泥の中でもがくように。

 手を伸ばそうとして、止める。

 

「……あ」

 

 汎人類史において立香と親しかった人達と、その人達が歩き寄っていった白髪の少年が、立香のことなんて何も知らないかのように一瞥すらせず、楽しげに話し始めた。

 

「おーい、カドック!」

「昨日はあの後どうだった? 皇女様とさ」

「なんかわかんなかったら言えよ。一応既婚者だからさ」

「うふふ」

 

「は? 僕があんな無愛想ホワイト女に何か思ってるはずないだろ……

 あんな女を異性として見るくらいなら修正液のホワイトにでも懸想するね」

 

「またまたー」

 

「第一君らただの同僚だろ!

 カルデアの業務してろ!

 オルガマリーに告げ口して給料下げさせるぞ!」

 

「うわっ怒った!」

 

 腕を組んでいるのはダストン。

 藤丸立香は知っている。

 少女を気遣うカルデアの技師で、無言の気遣いは立香もマシュも気付いていた。

 

 きゃあきゃあと若人の青春を楽しんでいる女性はメイ。

 藤丸立香は知っている。

 ドクター・ロマンに片思いしていた管制官で、あまりにも手持ち無沙汰なカルデアでの暇な時間に、立香に恋愛小説を貸してくれていた女性だ。

 

 合いの手を入れて笑っている眼鏡の男はソリア。

 藤丸立香は知っている。

 カルデア技師の一人で、「これ秘密な?」と言いながら、夜中にこっそり夜食のチョコを半分立香に分けてくれた、結構人生を楽しんでいそうな男。

 

 白髪の少年に怒られて逃げ出した可愛らしい小柄な女性は、リリン。

 藤丸立香は知っている。

 立香が身に着ける戦闘スーツなどを魔術面から開発・メンテナンスする人間の一人で、2017年あたりに流行ったレディースの服は、立香とリリンの二人で楽しく調べたりしたものだ。

 

 もう、全員死んでいる。

 

 汎人類史において、彼らは既に全員死体と成り果てている。

 

「……ああ」

 

 立香の口から、力の無い息が漏れた。

 

 汎人類史で彼らを殺したのは、彼ら四人が今まさに恋愛ネタでいじっている若き白髪の少年……カドック・ゼムルプスである。

 カドック、オフェリア、キリシュタリア。

 彼らは汎人類史において、元々カルデアで使命を果たしていたマスターであり、クリプターと呼ばれる人類史の裏切者へと成り果てた。

 

 彼らは汎人類史を滅ぼすか、死ぬか、どちらかしか選べなかった。

 事実上選択肢はなく、彼らは生きるため、あるいは生かすため、汎人類史を裏切った。

 藤丸立香は彼らとの敵対を迷わないが、彼らを憎んでいるわけでもない。

 しょうがないことだったと、きちんと理解している。

 

 それでも割り切れないことはある。

 カドック・ゼムルプスがクリプターとして、カルデアの人間を虐殺したことだ。

 

 食堂で美味しいご飯を作ってくれる名門魔術師のおばちゃんがいた。

 「危なそうだったら逃げろよ」と言う太ったおじさんの科学者が居た。

 特異点で食料に出来るものを教えてくれた顔の良いお兄さんがいた。

 ふわふわした微笑みの、ドクター・ロマンの部下のおっとりしたお姉さんがいた。

 

 もう、全員死んでいる。

 汎人類史において、彼らは既に全員死体と成り果てている。

 殺したのはカドックだ。

 その道を選ばなければカドックは死に至っていた。

 だからしょうがない。

 しょうがないけれど、そう簡単に立香が許せることでもない。

 

 許されたいのに、許せない。そんな自分を見つけるたび、立香は延々と苦しんでいく。

 

 そんなカドックと、殺されたカルデアの人達が笑い合っている。

 それも当然だろう。

 カドックは元々はカルデアのマスターなのだ。

 平行世界ともなれば、彼らが仲を深める可能性はいくらでもあるだろう。

 

 汎人類史においては加害者と被害者でも、平行世界の彼らは気安い関係で、分かり合っていて、からかったり助け合ったりする仲間であるに違いない。

 

 汎人類史の藤丸立香は、もう二度と彼らと笑い合うことは無いというのに。

 

 もう殺されたあの人達と、この普通の少女が笑い合う日は、来ないというのに。

 

「っ」

 

 "なんでこうならなかったんだろう"と思って、そう思った自分を心の奥に押し込めるように、立香は思い切り歯を噛み合せた。

 

 立香は顔に感情を出さないようにして、スカートの裾をぎゅっと掴む。

 他人の幸せを素直に喜べない自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。

 誰かの幸せが怖いだなんて、生まれて初めての気持ちだった。

 この世界にありふれた幸せが、他の世界には無いことが虚しかった。

 よく知った平行世界の人達の幸福を見るたび、立香の心のどこかが削れる音がする。

 

「私とオフェリアはここまでだ。この扉の向こうに『彼』が居る。会うといい」

 

「お疲れ様でした、汎人類史の皆様方」

 

「……はい」

 

 なんでだろうか、立香本人にも分からないけれど、脳内に友の言葉が蘇る。

 

 Lostbelt No.1。

 カドック・ゼムルプスと獣国の王女が制した永久凍土で出会った友。

 獣の人たる、パツシィの言葉を。

 

『でも、ダメだ。だって、おまえたちの世界の方が───きっと、美しいんだ』

 

 自分の世界を間違いだと認める勇気と、立香の世界を肯定する獣の優しさが、止まりそうになった立香の背を押してくれた。

 

『だから、そちらが生き残るべきだ』

 

 けれど、今はどうだろうか。

 

『俺には……何もわからねぇ』

 

 今、あの言葉は、どんな意味を持つだろうか。

 

『マスターも、サーヴァントもわからないし』

『汎人類史だとか、異聞帯だとかも、何もわからねぇよ』

 

 今は、立香がパツシィと同じになっている……のかもしれない。

 

『でも、もしこの世界が間違っているとするなら……

 この、辛かっただけの生に意味があるとするなら……

 それはきっと、幸福に溢れた正しい世界があると、証明されたことだ』

 

 心臓の鼓動が不規則な気がして、立香は胸を抑える。

 

『俺たちヤガは間違えた場所に迷い込んだ。

 でも、その間違いにこそ意味があったはずだ。そうだろ?』

 

 息が不規則になっている気がして、一度深呼吸する。

 

 汎人類史は最も強い歴史。

 最も多くの可能性に溢れた世界だ。

 行き止まりの世界は、いくら発展を重ねても汎人類史の多様性に打ち負ける。

 けれど、それでも。

 汎人類史が最も多くの可能性に溢れた、この宇宙に選ばれた世界だとしても。

 

『……負けるな。こんな、強いだけの世界に負けるな』

 

 ()()()()()()()()()()と思ってしまったら、もう―――そう、思って。

 

 そんな少女の肩を、微笑むキリシュタリアがぽんぽんと叩いた。

 

「藤丸立香。深呼吸だ」

 

「え、あ、えっと」

 

「大きく息を吐き、生体の作用で自然に息を吸う。

 上手い呼吸のコツは吐く時に意識することだ。三度やってみるといい」

 

 深呼吸。深呼吸。深呼吸。

 ゆっくりとした呼吸を三回、それで少しばかり少女の気持ちも落ち着いた。

 

「汎人類史最後の砦、藤丸立香。

 キリシュタリア・ヴォーダイムが問おう。君は頑張ってきたかい?」

 

「……うん。私の主観だけって言われたら、どうしようもないけど」

 

「そうか。なら、答えはまだ出さなくていいだろう」

 

「え」

 

 戸惑う立香の反応を窺うこともなく、キリシュタリアは言葉を続ける。

 

「人間は、みんな頑張っているんだよ。汎人類史も、どんな世界も」

 

 この世界は優しい。

 住まう人も、世界に満ちる空気も、星の在り方も。

 隣人に優しくし、敵にすら分け与えてやれる優しさの余裕がある。

 

 だから、獣の如き生存競争において、背中を刺される隙が多すぎる。

 

「ここまで頑張ってきたんだ。

 すぐに捨てなくてもいいんじゃないか?

 決断は必要な時にすればいい。

 お行儀の良さを君に強要する者などいない。

 君は君の願いのために生きればいい。

 願うものがあり頑張って来たなら、他人に譲る必要などないのだからね」

 

 立香は静かに、無言のまま、こくりと頷いた。

 

 呆れた表情で、オフェリアが眉間を揉んでいる。

 

「……どちらの味方なのですか、ヴォーダイム」

 

「私は『彼』の理想の味方だよ。

 人が人らしく、自分らしく在りながら、他人に優しくなれる未来。

 未来を夢見る理想にこそ、私が味方する意味はあった。

 彼の……刕惢の願った世界はね。

 苦しんでいる女の子が居たら、手を差し伸べようとする人々の住まう世界なんだ」

 

 はぁ、とオフェリアがため息を吐き、キリシュタリアが楽しそうに笑っている。

 

 立香をここまで連れて来るという役目を終えて、二人は立香から離れていく。

 

「ありがとうございましたっ!!」

 

 そんな二人に、立香は思い切りお礼を言った。

 

 両の手の平で思いっきり頬を叩いて、いい音を鳴らして、ひりひりとする頬をさすり、ドアノブに手をかける。

 

「行くよ、マシュ」

 

「はい、マスター」

 

 藤丸立香は英雄ではない。

 誰よりも強い心を持った覚えなどただの一度もない。

 心が折れそうになったことなんて何回もある。

 膝が折れそうになったことなんて何回もある。

 絶望も。諦めも。弱気も。もう多すぎて数えることもできやしない。

 それでも彼女は必ず再起し、ゲーム・オーバーを迎えたことなど一度もない。

 藤丸立香は必ず立ち上がり、また必ず歩き出す。

 ずっとそうやって、今日この日まで生きてきた。

 

 中庭への扉が開き、二人の少女が一歩を踏み出す。

 

 そうして二人は、中庭に足を踏み入れた。

 思ったよりも広い中庭には陽光が差し込み、柔らかな草木が並んでいる。

 鳥の可愛らしい声がして、まるで出来の良い庭園のようになっていた。

 

 その北端にテーブルがあり、椅子があり、佇む少年が一人居た。

 彼がこの異聞帯の主、この世界におけるカルデア最後のマスターであると、藤丸立香は理屈抜きで直感的に理解する。

 理論的な推察があったわけではない。

 本能的な直感、否、『共感』によって、立香は彼が世界を救ったカルデアのマスターであることを理解した。

 

 彼と話し、まず様々な手がかりを手に入れる。

 と、行きたいところだが。

 その前に立香は、近くの木の下で腕を組んでいる少女の横を通らねばならなかった。

 

「モードレッド……」

 

 叛逆の騎士。立香も何度か共闘したアーサー王伝説の騎士が、そこにいた。

 

「ああ、オレのことは気にすんな。

 オレは別に必要じゃねえけど、護衛が癖になってるだけだ」

 

「あ、じゃあ横お邪魔します。ちょっと通るね」

 

「おう、通れ通れ」

 

「……そんなに露出が少ない格好のモーさん初めて見た。

 てっきり好きで露出が多い痴女ファッションやってるものだと……」

 

「喧嘩売ってんのか!?」

 

「わわ、ごめんなさい!」

 

「さっさと行け! うちのマスター待たせてんじゃねえ!」

 

 モードレッドに追い立てられるようにして、立香とマシュが駆けていく。

 

 遠目に見える少年に歩き寄って行きながら、立香はマシュにひそひそと耳打ちした。

 

「マシュ、この流れはいけない。いけないよ」

 

「何がいけないんですか?」

 

「完全に相手のペースに飲まれてる。

 悪意が無いからって油断しっぱなしだよ私達。

 このまま驚かされっぱなしで流れを持っていかれたら、なんか不味い気がする」

 

「確かに。流石です先輩。

 さしあたってはどうしましょうか。

 この世界にもこの世界を異聞帯たらしめる空想樹がある……

 ……あるはずです。その位置を特定することから始めますか?」

 

「そうだね。あそこに居るのがボスなら、会話からヒントを得たい」

 

「了解です。その心積りで行きましょう」

 

「さしあたっては、気持ち強く当たっていこう。

 今の私達の気が引けてる状態はすっごく不味い気がする」

 

「勝ちに行く相撲取りみたいな心構えですね……」

 

「普段の私達らしくないくらい気合いを入れていかないと、心が負けちゃいそう」

 

 少年にダッシュで接近し、思い切り息を吸い込み、立香は声を張り上げた。

 

「どすこーい!

 初めまして!

 藤丸立香です!

 好きなものはマシュとパフェ!

 嫌いなものは虫全般とツイッターでウザ絡みしてくる男の人!

 彼氏いない歴を聞いてきたらセクハラで訴えていきますっ!」

 

「うおっ!?」

 

「先輩!?」

 

「……ど、どうかな、マシュ」

 

「どうと言われても……」

 

 そして突発的な少女の襲来に少年は驚き、客人を出迎えるために熱々のお湯を注いでいたポットをひっくり返してしまい、熱々のそれを思い切りひっかぶってしまった。

 

「あじゃじゃじゃじゃじゃじゃ!??!」

 

「大変です先輩!

 この異聞帯のボス(暫定)らしき人がびっくりして紅茶をこぼしてます!

 熱々の紅茶でやけどなさっています! 至急冷たい水と布巾を!」

 

「もしかして今なら楊貴妃の特攻入る?」

 

「先輩!!!」

 

「ごめん私もちょっとうろたえた」

 

 マシュが携行していた包帯や飲み水で少年の手当てを始めるが、真っ赤になった彼の手を立香が優しく手に取り手当てを始めると、少年は顔を赤くして顔を逸らしてしまう。

 

「どしたの?」

 

「あ、いや、女の子に手を握られることがあんまなくて……」

 

 ぷっ、と、思わず立香は吹き出してしまう。

 

「あははっ、なにそれ」

 

 なんだかとても懐かしい、昔日本で学校に通っていた時に毎日感じていた空気の片鱗を感じて、立香は自然と微笑んでいた。

 そしてからかうような表情で、少年の手を両手でにぎにぎする。

 

「うりうり」

 

「離れろ!」

 

「見て見てマシュ、マンドリカルドに並ぶ楽しい逸材かも」

 

「先輩……」

 

 少女は笑った。

 

 笑ってしまったことに、笑ってしまってから気付いて、もうその時点で手遅れだった。

 

「こほん、えー」

 

 少年は気を取り直し、言葉を選ぶ。

 

「人理修復、お疲れ様。俺は森晶(もりあきら)刕惢(れいすい)

 同じくゲーティアの人理焼却を乗り越えた者としてお祝い申し上げる。

 その苦しみ、悲しみ、辛さ、努力、懸命、全てに"よく頑張った"と言わせてほしい」

 

 思っても見なかった言葉を投げかけられて、最初に驚き、次に嬉しそうにはにかんで、最後に魅力的な笑みを浮かべて、立香はうんうんと頷く。

 

 それは、もう一人のカルデアのマスターだけが口にできる、二人の間にだけあっていいという祝福の形。

 

「うん、こちらこそ。人理修復、お疲れ様ですっ」

 

 二人は屈託もなく笑い合い、今この時だけは何もかも忘れて称え合う。

 

 この世界の、最後の時に、二人の内の片方は死ぬ。

 

 両方ともは残れない。この宇宙にそんな余裕は残っていない。

 

 悲しみの中で別れるために出会ったような、そんな運命の二人だった。

 

 

 



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3

 刕惢・立香・マシュの初対面の印象は、三者三様だった。

 

「なんか知らない漢字多いね……」

 

刕惢(れいすい)だ。れいすい、と読む。藤丸さんは……」

 

「あ、名前そのまんま呼んでいいよ。

 昔学校でそうだったとかじゃないけど、なんかカルデアでそうだったから慣れちゃった」

 

「そうか。じゃあ俺もそうしてくれ。立香は比較的覚えやすい漢字多いな」

 

「そうかな? 小学一年生の時には名前全部漢字書けてお母さんに褒められてたんだよね」

 

「いい親子じゃないか。家族仲良好はいいことだ、うんうん」

 

 なめらかな、初対面同士とは思えないような会話が続いていた。

 

「そういえばこの世界のマシュは? ふふっ、別世界のマシュかぁ……どんなだろ」

 

「マシュは普通の女の子になったぞ。今は芝西校に通ってる。

 ここに住んでるから夕方には帰ってくると思う。推理小説部入ったとか聞いたなあ」

 

「お、それ私が行ってた学校の名前と同じだ。へー、そういう風に繋がることもあるんだ……」

 

「学生の質がいいというか不良少ないしいいよな」

 

「え、私制服可愛いのと偏差値近いからってだけで選んでた……」

 

「お前本当に普通の女の子だな……」

 

 立香は刕惢に、確かな共感と大きな親しみを感じていた。

 別に、顔や性格が異性の好みどストライクだったとかそういうことではない。

 同じ旅路を進み、同じサーヴァントを同じように信頼し、同じようにマシュに感謝して、同じようなところで泣いて、同じ世界を救ったという共感があった。

 鏡の向こうの自分……とまではいかなくて、けれど他人とは思えない、初めて会ったその瞬間からもう親しく感じる黒髪の普通の男の子。

 

 マシュは逆に、二人の雰囲気がほとんど同じであることに気付いた後、すぐに二人の似ていない部分を一つ一つ見つけ出していた。

 誰よりも長く、誰よりも近くで立香と過ごし、誰よりも深い信頼で立香と繋がってきたのがマシュである。そこに疑いの余地はない。

 

 マシュは火傷しても、自分の傷なんてどうでもいいように扱う刕惢を見た。

 火傷をした刕惢に触れ、その痛みを自分のことのように感じ、自分だったらこの痛みは嫌だという気持ちから、とても優しい手当をしている立香を見た。

 そうして気付く。

 

 刕惢は、他人の生のために戦ってきたカルデア最後のマスターだ。

 彼は自分の傷に頓着せず、他人の痛みを何より重く扱う。

 立香は、生きるために戦ってきたカルデア最後のマスターだ。

 彼女は生きようとし、ゆえに他人の生きたい気持ちに共感し、自分が傷を負うのが嫌だから、他人が傷付かないように優しく生きることができる。

 

 藤丸立香はどんなに追い込まれようと、最後の最後には「生きていたい」というごく当たり前の気持ちで立ち上がれる。

 そんな尊敬できる先輩である。

 そんな彼女がマシュに教えてくれた『人間としての当たり前』が、マシュ・キリエライトを"人間にしてくれた"のだと、マシュは信じている。

 だから―――『自分の生』が軸にある藤丸立香と、『他人の生』が軸にある森晶刕惢が、マシュには全然違う人間に見えるのだ。

 

 ただ、マシュは一つ疑問を持っていた。

 それは感覚的なものではなく理論的なもの。

 視覚的には分かりにくい刕惢の警戒心の薄さだ。

 マシュの視点から見ると、無防備な事が多い藤丸立香と比べてもなお目につくこの警戒心の薄さは、どうにも不可思議に見える。

 マスターは弱者だ。

 例外を除き、ほとんどのマスターは下位のサーヴァントにも勝てない。

 

 よってほとんどのマスターは経験を積めば積むほど、立ち回りに警戒心が備わっていく。そういう傾向があるのである。

 マシュは現在、サーヴァントの力を持った人間、立香の近衛だ。

 だがその前はカルデアでもトップクラスに優秀なマスターであった。

 マシュはマスターとサーヴァント両方の蓄積があるという非常に稀有な存在であり、だからこそ他の誰もが気付かない微細な違和感にも気付けたのである。

 森晶刕惢は、戦士と言うにはあまりにも柔らかな佇みをしている少年だった。

 

 が、現段階でいくら考えても答えは出ない。

 マシュは発言を抑え、刕惢と立香の会話に耳を傾けることに注力し始めた。

 

「俺も君と同じ旅路を進んだんだ。

 その最後に、お前の世界は剪定事象になったと言われただけで」

 

「刕惢も、私も、ゲーティアに立ち向かい、七つの異聞帯を越えた」

 

 マシュと立香の視点の置き所は違う。

 かつて日本の平和な学校で過ごしていた時の懐かしさを感じさせる少年は、立香の心を癒やし、また同時に、かつて本当にごく普通の女の子だった頃の彼女の気持ちを、思い出させていた。

 

「ああ。走って、走って、走って。

 ああ、終わった。日常に帰れる。そう思ってた。

 でもそんなことはなかった。本当に全部終わっちまったんだ。

 剪定事象。汎人類史。異聞帯。……知りたくなかったなぁ、こんなの」

 

「……あの、ごめ」

 

「辛かったろ、立香」

 

「……え?」

 

 立香は何を言われているのか分からなくて、呆気に取られて思考が止まる。

 罵られると思っていた。

 怒られると思っていた。

 責められると思っていた。

 何を言っても否定されると思っていた。

 どんな悪口を言われてもおかしくないと思っていた。

 

「ごめんな。

 さっさとこの世界を消す道でも選べてたら。

 俺が、諦められてたら。

 いっそ割り切って悪役でも演じられたら。

 ……皆を好きにならなかったら。

 ……皆に幸せになってほしいって願ってなかったら。

 立香の苦しみを、一つ減らせたかもしれないのに。

 でも、俺は。

 まだ誰も傷付けたくないけど、俺の世界の人達を死なせたくもないんだ……」

 

「え……え」

 

「ごめんな。

 苦しませてしまって。

 ……君が苦しんでるのは、俺が皆の幸せを願ったからだ。

 それがこの世界を剪定事象にしてしまった。本当に、ごめん」

 

 立香は何を言われているのか分からなくて、視線も定まらない不安定な様子で、とにかく口を開いて言葉を返す。

 "皆の幸せを願ってしまってごめん"と謝る彼を見て、マシュの広げた手が拳になり、痛々しいほどに強く握られていた。

 

「私を責めないの?

 責めていいんだよ?

 いや、というか、なんで謝るの?

 わかんない……何言ってるのか、全然わかんない」

 

「他人の気がしないんだな、立香についてのあれこれ。だから責めたくないんだよ」

 

「―――」

 

「逆の立場なら立香は俺を責めない気がする。

 ってか、俺に謝ってきてる気がする。

 いや全然話してないしなんとなくの直感でしかないんだけども。

 それならさ、俺も立香を責める言葉は絶対に言っちゃいけないだろうな、って思ってる」

 

 立香とマシュは違う。心は一つにできるが、考え方は違う。

 

 立香は耳を疑った。

 そして返答に迷う。

 『世界を滅ぼさせてごめん』と、面と向かって言ってくれる敵など、これまでいなかった。

 異聞帯との戦いが始まってから、『君の苦しみを減らしたい』と言ってくれる人など、一人もいなかった。

 立香を支えてくれる人は何人か居たけれど、どの誰の心とも彼の心は違って、違うと同時に、立香と同じものを抱えた心でもあった。

 

 マシュは彼を憐れんだ。

 立香の運命を蝕む世界の残酷さを呪った時と同じように、彼を包む残酷を呪った。

 他人の幸せを願ったことを後悔する彼を見て、憤りを覚えた。

 皆の幸せを願った自分を否定するしかなくなった彼を見て、悲しみを感じた。

 マシュは人を守る時こそ強い少女である。

 始まりに盾ありき。その盾をもって、マシュは人と人理を守り続けた。

 けれど心は守れない。守れなかった心を見る度に、心優しきマシュは悔いる。

 きっと、今も。

 

 刕惢は謝って、自分が謝ったことで何か空気が悪くなったのを感じ取ったのか、目に優しい柔らかな微笑みで二人に笑いかける。

 彼は笑える。

 笑えるのだ。

 きっと、最後の最後まで。

 おそらく、この世界が終わるその時であっても。

 何度泣いた後になるかはわからないが、それでも笑える。

 

 マシュは少しだけ、彼への評価を修正した。

 森晶刕惢は、『最後まで他人のために笑えるマスター』である、と。

 『最後まで生きようとすることができるマスター』である、藤丸立香と同じように。

 与えるためだけに在るこの笑顔にこそ、この世界が剪定される理由の根源が在る。

 

 "ああ、だからこの世界は()()()()()()()()()()行けたんだ"……と、立香は納得し、テーブルに隠されて見えない角度で、スカートをぎゅっと握り締めた。

 

「今日明日何かが滅びるわけでもない。

 俺と少し話さないか?

 つまらないことから、面白いことまで。

 ああ、そうだ、特異点の旅路の話でもするか?

 俺達に共通の話題の代表格って言ったらそれだもんな。

 ……何の決断もできてない、情けない男の先送りって言われたら、まあそうなんだけどさ」

 

「……うん」

 

「おお、ありがとう。スーパーで買ってきた茶葉とお菓子だけど、口に合うといいな」

 

 頬を掻き苦笑して、マシュと立香の分の紅茶と茶菓子を用意し始める刕惢。

 その目は立香を慈しむ感情に満ちている。

 その声は異聞帯切除の苦しみを背負う立香への気遣いに満ちている。

 その手は立香のふざけたような大声で火傷していて、火傷の跡は見ているだけで痛そうで、けれど立香を責めることなく。

 

 並べられたお菓子の多くがチョコレートで、"ああチョコ好きなんだこの人"と立香は思う。

 "客人もてなすのに自分の好きなお菓子多めに買ってきたの?"と立香は気付く。

 それがなんだかおかしくて、直前までの自分の気持ちが少しだけ和らいで、立香は思わずくすっと笑みをこぼしてしまっていた。

 

「紅茶に砂糖はいくつ入れる派ー? 俺は紅茶花伝と同じ味になるまで入れる派」

 

「……一つで。マシュは?」

 

「私は最初は何も入れずに……あ、私が入れます!

 不肖マシュ・キリエライト、マスターのお二人の雑務は手早くこなせると自負しています!」

 

 優しくて、暖かで、嬉しくて、救われた気持ちになって、居心地の良い空気に包まれて、森晶刕惢という少年と絶対にいい友達になれるだろうという確信があって。

 

 だから。

 

 地獄だと、藤丸立香は思った。

 

 

 

 

 

 始まりの特異点Fから始まり、ゲーティアの作り出した人類史を終わらせる七つの特異点の物語を話し始めて、最初にあったのは共感だった。

 次にあったのは、驚愕だった。

 最後にあったのは、尊敬だった。

 

「俺と君、歩いてきた旅路はほとんど同じなことに改めて驚いてる」

 

「うん、私も驚いてる。違いを挙げたら数え切れないけど……本筋がほとんど同じだよね?」

 

「召喚したサーヴァントの順番は結構違うんだな。

 召喚したサーヴァントのメンツはかなり近いのに。

 知ってる思い出と知らない物語が混ざってて不思議な気持ちだ」

 

「ね」

 

 二人共あえて口には出さなかったが、どの出来事よりも『本当に悲しかった出来事』が同じであることが、二人で思い出す悲しみと、胸の奥を暖かくする共感を呼んでいた。

 二人は違う喜びを多く抱えていて、けれど抱えた悲しみはほとんど同じだったのだ。

 

 悲しみの違いは、オルガマリーやロマ二など、立香が大切な仲間との別れに終わった部分が、信じられない奇跡で覆されていたこと。

 絶対的な死別の数だけが、明確に違っていた。

 

 立香は、その奇跡を尊敬し、「すごい」と素直に思う。

 刕惢は「そっか、誰にでも訪れる奇跡じゃないのか」と思い、その奇跡に繋げてくれた旅路の仲間達に改めて感謝する。

 彼にとって彼女は仲間の価値を改めて教えてくれる素晴らしい人で、彼女にとって彼はありえなかった可能性で夢を見せてくれる人だった。

 

「そういえば立香はセプテム辛かったんじゃないか?

 女の子だから大変だったろ?

 奴隷が盛んなローマで売られたら男でもマジで難儀した覚えがあるんだが……」

 

「え゛。なにそれ、知らない」

 

「え?」

 

「え?」

 

「ローマで召喚されたコロンブスに奴隷として売り払われなかったのか?」

 

「し、知らない……苦労してるね……その手の苦労は無かったかな」

 

「うっそだろ?」

 

 あるある、あったあった、あそこ辛かったよね、あそこはワクワクしたな、といった風に言葉を交わしていると、たまに知らない話が出て来る。

 すると一気に盛り上がる。

 なにそれ、おもしろい、すごい、やばいじゃん、おかしい、と言葉が繋がっていく。

 話が盛り上がって、二転三転して、また元の話題に戻って、自然に笑って話してしまう。

 

「ええ……俺そのロンドン知らない……

 いや待って。

 魔術協会の信認印、第四特異点で貰わなかったのか?

 人理修復した後それでどうやって乗り切ったんだ?

 魔術協会がめちゃくちゃに口突っ込んで来なかったのか?」

 

「めっちゃ来た……」

 

「だろうな……」

 

「うるせ~ほっといて~何もしない協会さん達~って内心ちょっと思ってた……」

 

「いやまあ俺もその立場ならそう言うと思う……」

 

 マシュは二人の盛り上がる会話を眺めながら、紅茶を口に運ぶ。

 そして思う。

 この時がずっと続けばいいのに、と。

 

 だが、それはこの時間が何よりも楽しく幸福なものであるからではない。

 この先に待つものをマシュは忘れていないからだ。

 手を取り合う結末など無いことを、マシュは知っているからだ。

 

 マシュは永遠を求めてなどいない。

 ただただ、幸福だった刹那を忘れない。

 今ここにある須臾なるものの価値を信じている。

 そんなマシュが、この時間がずっと続いて欲しいと願うほどに―――この後に待つ残酷は、絶対的にどうしようもないものだった。

 

「刕惢さんは最初に召喚したサーヴァントモードレッドだったんだ、へぇー」

 

「キャスターのクーフーリンが立香の最初の味方って滅茶苦茶心強くないか?

 俺の時は第五特異点でケルトのフィンを普通に倒しててめっちゃかっこよかった」

 

「言われてみると確かに最初の仲間なのに頼りがい半端なかったかな……!」

 

「話してて懐かしいのに新鮮だな。

 "あああったあった"ってなるのが九割。

 "なにそれ!?"ってなるのが一割ある感じだ」

 

「うんうん、そんなかんじ。

 ……なんか、こそばゆいね。

 鏡の向こうの私を見てる感じじゃない。

 でも赤の他人って気もしない。理解者、ってのが一番近いのかな」

 

 理解者。

 そう、それが一番正しいのだろう。

 同じ旅路、同じ困難、同じ絶望、同じ目標、同じ人間。

 ……にも見えるけど、ちょっとだけ違って。

 似た旅路、似た困難、似た絶望、似た目標、それを二人の人間が駆け抜けた。

 だから互いのことを理解できるけど、互いが違うとしっかり認識できてもいる。

 

 『この人は私じゃないけど、私と同じくらい私のことを分かってくれている』。

 そう思える他人なら、その名称は理解者と呼ぶのが妥当に違いない。

 

 いつも我慢しがちで、笑顔でごまかしがちで、人に言えないことをぐっとこらえて、部屋で一人泣いた数は数え知れない、そんな二人は……ここで、運命と出会ったのだ。

 

「正直に言うけど、似てるからこそびっくりするんだよね、私。

 いやこの世界はマジでどうやったらこんな風になるの……? みたいな」

 

「ええと、君達で言うところの……

 この世界の『異聞帯の王』。

 それにあたる存在の力が大きいんだ。

 彼の疑似第二宝具、『慈悲なる神の幸福論(エル・エウダ・エモニクス)』っていうのが……」

 

「え、ちょ、待ってよいいの!?」

 

「え? 何が?」

 

「宝具名とかその内容とか解説したら私達に負けるよ!?

 宝具や真名隠さないとすぐに弱点突かれてどうにもならなくなるでしょ!?」

 

「……あっ。い、今のなしでお願いします!

 ち、違うんだ。

 今日の俺は世界の命運が肩に乗ってるから緊張してて?

 普段はこんな抜けてないから……な、舐めんじゃねえぞ……」

 

「調子狂うなあ……」

 

「先輩」

 

「なぁに、私のマシュちゃん」

 

「先輩もたまにあんな感じですよ」

 

「うっそでしょ?」

 

 そうだっけ? と首を傾げる立香。

 そうです、と呆れた顔で頷くマシュ。

 汎人類史のマシュは結構タフだな、と刕惢は思って、話を続けた。

 

「汎人類史のことは四苦八苦して情報集めしてたんだけどな、俺達。

 実際聞くとあんま情報得てなかったやつだこれ。

 立香凄い頑張ってるな……

 俺なんてアメリカで三回足挫いてエリザにめっちゃネタにされてるのに……」

 

「足場悪かったよねアメリカ……

 うんうん、私も分かる。舗装路面の真逆だよアレ。

 って、いうか、そう言うってことは知ってたこともあったんだ。」

 

「……ん。まあ。そうだな。ちょっと聞いていいか? 立香」

 

「急に歯切れ悪くなると怖いなあ。ん。いいよ、答えられる範囲なら」

 

「マシュに盾じゃない、敵を倒す武器を持たせようってなった時、どう思った?」

 

 一瞬。空気が凍った。

 

 マシュ・キリエライトは、藤丸立香のサーヴァント。クラスはシールダーだ。

 その名の通り攻撃には向かず、仲間の盾となって勝利を導く者である。

 しかし、現在のマシュは戦力不足を補うため、機械製の霊基外骨格をゴテゴテと付け、盾にはパイルバンカーの類を追加し、現在に至っては『天寿の神殺し』まで積んでいる。

 かつて盾だったそれは、今や他の異聞帯に恐れられる神殺しの大砲だ。

 

 刕惢がそこに何かを思う人間であることが、立香は本当に嬉しかった。

 

 立香はまっすぐに刕惢の目を見る。嘲りや好奇心といった意図は見て取れない。

 森晶刕惢の瞳は、マシュと立香の二人を見つめて、かつ二人のことを案じていた。

 立香は一度深呼吸して、嘘偽り無い気持ちを口にする。

 少女は心を吐息と共に吐き出した。

 

「生きるために何でもしようとするのって、本当に辛いなって思ったよ」

 

「……だろうな。ごめん。答えにくいことを聞いちまった」

 

「ううん。不思議なことに、声に出したらちょっとスッキリしたかな」

 

 刕惢と立香があははと笑っているのを見て、マシュは二人の前で立ち上がる。

 

「その……先輩を責めるつもりならやめてください。

 これは私が望んでそうしてもらった力なんです。

 盾だけでは駄目でした。

 守るだけでは駄目だったんです。

 守るだけの戦いは終わって、私達は他の世界を滅ぼす旅路を始めた。

 だから、私が私の大切な人を守るためには、盾だけでは駄目だったんです」

 

「ああ、悪い。そういう風に受け取られちまったか」

 

「うーん、しょうがない。マシュは察せない時は察せない罪な女だもんね」

 

「え? 先輩じゃなくて私が貶められる流れになってますか?」

 

 立香が何かを言われる前にフォローしようとしたのに、その立香に"もーだめだなあ"と言わんばかりの表情を向けられ、マシュはむすっとして眼鏡の位置を直した。

 

「筆頭はベディヴィエールあたりだろ、立香」

 

「おお! さっすがカルデアのマスター。やっぱ最初に思っちゃうのはアレだよね」

 

「お前は仲間の言葉をちゃんと覚えるいい子だと思ってたよ、カルデアのマスター」

 

 二人の男女は、どこにでもいる悪友同士のように、お互いに対し挑発的に笑った。

 

「マシュにだけ言ってたことも多かったみたいだけどね、ベディ。それも後から聞いたけど」

 

「『白亜の城は持ち主の心によって変化する』。

 『曇り、汚れがあれば綻びを生み、荒波に壊される』。

 『けれどその心に一点の迷いもなければ、正門は決して崩れない』」

 

「『貴女は敵を倒す騎士ではないのです』。

 『その善き心を示すために、円卓に選ばれたのですから』」

 

「そうそう。なんかあれだな」

 

「うん、間違い探しみたい」

 

「「 ……ぷっ 」」

 

 勇将レオニダスにすら讃えられるマシュの守護の在り方だが、それは膨大な魔力や、比類なき天性の才能、強靭な肉体に支えられたものではない。

 その護りは、その心に起因するもの。

 心が無垢で綺麗であるがために、マシュの護りは壊れない。

 人を傷付ける事を好まず、人を守る盾であるからこそ強い。マシュはそう評されていた。

 

 だが、今のマシュは、人を盾で守ること以上に、敵を銃で撃ち殺す役割を求められている。

 

 "しょうがない"という言葉でごまかしながら、マシュの心の柔らかい部分を刺す針がある。

 

 汎人類史の立香達は、始まりの日から本当に随分と遠い所まで来てしまっていた。

 

 なんてことのない祈りがあった。

 叶わなかった願いがあった。

 立香も刕惢も同じだ。

 マシュを大切に思い、慈しみ、戦いが終われば戦いから離れてほしかった。

 普通の女の子になってほしかった。

 普通に幸せになってほしかった。

 平穏の中で、ただ安らかに、殺し合いから遠い場所で、笑っていてほしかった。

 二人のカルデア最後のマスター達は、マシュにそんな未来があることを願った。

 

 滑稽な話だ。

 全てが皮肉で、全てに無慈悲な運命がこびりついている。

 

―――……だから言ったんだ。

―――彼女は勇敢な戦士でもなければ、物語の主題でもない。

―――ただの、ごく普通の女の子だったんだよ、と。

 

 最後の敵にさえそんなことを言われて、二人は自分自身に誓ったのだ。

 マシュが普通の女の子として幸せになれる未来を掴み取ることを。

 そのためならなんだってできる気がした。

 そのためならどんな困難も越えられる気がした。

 そのためなら如何なる地獄でも頑張れる自信があった。

 

 その果てがこれだ。

 

 普遍の幸福のために未来を失ったのが刕惢ならば―――未来と引き換えに幸せを失っていっているのが立香なのだろう。

 

 どちらがより地獄なのか。あるいは、どちらも比べようもなく地獄なのか。

 

「……先輩、気にしていらっしゃったんですか?」

 

「うん、ま、だから、私はやっちゃいけないことに同意しちゃったかなって思うわけなの」

 

「いや、それはない」

 

 刕惢が立香の発言から間髪入れず即座に否定してきたものだから、立香は少し驚いた。

 

 かつての祈り、願いを鑑みれば、立香が悔いる気持ちを抱えているのも妥当だ。

 

 だが、刕惢から見れば、それは。

 

「だってそうだろう。俺の世界は剪定の対象に入ったんだから」

 

「……あ」

 

「マシュの幸せを願うことは。

 平和な世界を生きてほしいと思うことは。

 戦いのない場所で笑っていてほしいと祈ることは……正解じゃなかったんだろう」

 

「待って、それは」

 

「そう思いたくない。分かる。俺もそう思いたくない。

 そんな現実を受け入れたくない。

 だから汎人類史と戦って、俺達が汎人類史になりたいんだ」

 

「……」

 

「立香、君を尊敬する。

 君の世界が汎人類史だ。

 君はマシュの未来を救った人なんだ。俺と違って。

 マシュに武器を与えて共に戦うという正解を見つけた君を……

 マシュが未来に幸せになれる世界を宇宙に認めさせた君を、尊敬する」

 

「……私だって、マシュのこと本当に大切に扱うあなたを、すごいって思うよ」

 

 この世界のマシュは幸せだ。

 もう二度と彼女が戦うことはない。

 平和な世界の中で笑って、なんでもないことに必死になって、つまんないことに右往左往して、一人の女の子として恋をして……あるいは、もうしている恋を成就させて。

 そうして、普通の女の子としてもっともっと幸せになっていくだろう。

 

 けれど、剪定される世界の幸福に、意味はあるのか?

 

 汎人類史のマシュは、今も戦っている。

 人を守っていればよかった日々は終わり、誰かの生きる世界を潰す日々が続いている。

 心優しき少女の心を反映した円卓の盾は、引き金を引く度に命を奪う砲となった。

 戦いがいつ終わるのかも、いつ報われるのかどうかさえも分からない。

 

 汎人類史のマシュは、剪定事象の命で無いというだけで、幸せになれるかも分からない。

 

 二つの世界に優劣があるかどうかなんて、立香と刕惢には判断できない。

 けれど、互いに対する尊敬があった。

 『マシュを救ってくれる』目の前の人への感謝があった。

 それは感謝であると同時に、相手を見る度に自分の内側に生まれる苦しみでもあった。

 

 二人は互いが互いに『理想の世界を掴んだ者』である。

 立香はマシュへの慈しみゆえに、彼を尊敬する。

 「ああ、マシュをそう扱ってくれるんだ」と思い、感謝しながら苦しみを得る。

 刕惢はマシュの未来と生存を勝ち取ったがゆえに、彼女を尊敬する。

 「ああ、マシュが生きられる未来がこれなのか」と思い、感謝しながら苦しみを得る。

 嫉妬は無い。

 憎しみは無い。

 逆恨みも無い。

 

 『私にはできなかった』と、『私の大切な人を大切に扱ってくれてありがとう』だけがある。

 

「……剪定は俺の選択の結果決まったことだ。

 やらかしたのは俺だ。

 マシュの未来を失わせる大失態だ。

 まだ諦めたわけじゃないが、本当に情けない。

 俺はマシュに守られてばっかだったのに……マシュを守れやしない、ゴミだったんだ」

 

「そんなことはありません!」

 

 先程、立香の自罰的な自虐に、刕惢は間髪入れず即座に否定した。

 お前は悪くない、と。

 だがここで、刕惢の自罰的な自虐に間髪入れず即座に否定したのは、マシュだった。

 あなたは悪くない、と。

 

 世界は救えなくても、人は人を救える。

 人が人を救えても、人に救えない世界はある。

 だけど、それでも。

 たとえ最後には虚しく、無意味になるとしても……手を差し伸べることをやめない者。

 人はそれを、『優しい人』と呼ぶ。

 

「幸せを願われることは、嬉しいんです!

 生きていてよかったと思えるんです!

 私を大切にしてくれる人を好きになれるんです!

 その人を守りたいと思えるんです!

 そう思えた時、私は人間だと感じられるんです!」

 

「……マシュ。俺は……」

 

「この世界の私が分かってないはずがありません。

 絶対に絶対に、あなたの気持ちは届いてます。

 なら、何があってもあなたをそんな風には思いません。

 たとえどこかで無価値に死んだって、その時あなたに感謝します。

 私なら、どんな世界でだって、私を愛してくれた人と一緒に、明日を……! ―――あ」

 

 声に熱がこもる。

 語調が少しだけ荒くなる。

 いつも落ち着いた丁寧口調のマシュらしからぬ声だった。

 けれど、その言葉は途中で止まる。

 

 熱くなってしまったがゆえに飛び出してしまった言葉。

 言わないようにしていた言葉。

 優しさゆえに彼に聞かせないようにしていた言葉。

 『どんな並行世界のマシュでも、大切な人と未来を生きていたいと思う』だなんて、優しい子が言えるはずがないのだ。

 それが偽りのない本音であったとしても。

 

 マシュは言葉を途中で止めて、その言葉の続きを言わず、なんとか取り繕った。

 

「す、すみません。こちらの世界の私でもないのに、なんと差し出がましいことを……」

 

「マシュはどんな世界でもいい子だなあ。いいよなこの子。な、立香」

 

「いいよね……深く深く分かる……」

 

「も、もうっ」

 

 マシュは顔を赤くして、席を立つ。

 照れをごまかすように、マシュは二人から離れた。

 

「……先輩、私、ちょっと頭冷やしてきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 出発前の未来の演算予測を信じるなら、ここでマシュが少し離れても立香に何かがあるということはないだろう。

 マシュは恥ずかしい話の流れから逃げるように、護衛についているらしいモードレッドの方に向かう。モードレッドはマシュと何度か共闘していて、マシュも気持ち話しやすい相手だ。

 会話から情報を得る相手としては申し分ないだろう。

 

 照れて離れていったマシュのとても人間らしい姿に――会ってすぐの頃のマシュであれば絶対に見せない姿に――、立香と刕惢はぽかぽかと暖かい気持ちになって、笑い合っていた。

 

「戦わない、戦わせない。

 それは時に美しいかもしれない。

 でも戦う者の方が強いんだよな。

 "手を汚す"って言うだろ?

 だけどあれさ、手を汚さないと死んだりすることも多いって思わないか?」

 

「何の話?」

 

「戦うと決められること。

 敵をちゃんと殺す覚悟を決められること。

 それができるってことが、『強い世界』ってことなのかなって……ま、いいか」

 

 何の話? だなんて返答を返したけれど。本当は、何の話か分かっていた。

 

 本当に無駄で、些細で、意味のない、"その話をしたくない"という少女の抵抗だった。

 

「世界の命運を決める話をしようか、立香」

 

 これは、たった一つの未来を奪い合う物語。

 

 最後に残る勝者は一人。

 

「舞台はこの街。隠された聖杯は四つ。それが今、この異聞帯を世界に貼り付けている楔だ」

 

「!」

 

「聖杯戦争をしようぜ、立香。―――俺達は、世界の皆のために、殺し合わないと」

 

 戦いたくない。

 

 殺したくない。

 

 好ましい人だから、一緒に生きていたい。

 

 そう思ったのは、果たして二人の、どちらであったか。

 

 そんな願いは、万能の願望器たる聖杯に願っても、叶わないというのに。

 

 叶いようがない願いを掲げて、運命の相手と出会い、最後に別れで終わる。

 

 聖杯戦争とは、そういうものだと……誰かが言った。

 

 

 



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4

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、カルデア最後のマスターとマシュ・キリエライトが、『最も信頼する仲間達』の一人に必ず挙げるサーヴァントだ。

 史実では男だが、カルデアでは女。

 と、いうか、「自分が思う最も美しい者の姿」として、大人のモナ・リザの姿――あるいは想像した少女のモナ・リザの姿――を模したサーヴァントとして存在している。

 

 カルデア召喚式による英霊召喚、その二号事例がサーヴァントと融合したマシュであり、三号事例がダ・ヴィンチである。

 カルデアでも古参に数えられた彼女はマシュ、ひいては立香と、最初からずっと共に同じ道を進む――長い時間を共に過ごした――仲間であった。

 

 彼女が主観的に蓄積した仲間への理解と、それを元にした仲間に関するメモがあれば、記憶の無い新たに召喚されたダ・ヴィンチですら、立香とマシュのよき仲間となれるだろう。

 それほどまでに、ダ・ヴィンチは仲間を大事にし、仲間をよく見ていた。

 

 ダ・ヴィンチは世紀の大天才として知られており、何でもできる万能性や発明品などが非常に有用なサーヴァントである。

 だが、カルデアにおいて、彼女がどんな英霊より素晴らしかった部分はそこではない。

 『寄り添うこと』。

 ストレスを感じさせず、親しみを感じさせ、優しい言葉をかけてくれて、常に気遣ってくれる女性が居ること……それこそが、彼女の最も素晴らしい部分であった。

 

 ダ・ヴィンチは時たま軽いノリ、軽い空気で立香に話しかけ、世間話のようなカウンセリングを行い、彼女のメンタルチェックを行っている。

 幼い姿のダ・ヴィンチは、人懐っこい笑みを浮かべて、和やかに楽しげに、食堂で立香と並んで食事を摂っていた。

 

「さて立香君。君は明日日本の異聞帯に向かうわけだが、準備はいいかい?」

 

「うん、もうバッチリ! いっそ今日行ってもいいくらい元気もりもりって感じだね」

 

「よきかな、よきかな。

 バイタル及び各種身体的異常は見られない。

 あとはメンタルの状態次第かな。

 メンタルの問題で負けてしまったら最悪だからね。延期も考えないと」

 

「えー、心配性だなあ。

 大丈夫大丈夫!

 不安になるのも分かるよ。

 人間もサーヴァントも、負けたら全部消えてしまう。

 世界ごと消えてしまう。

 この戦いは負けたら何もかも消えてしまう戦い。

 でも私、頑張るから。信じてもらえたらちゃんと応えるよ?」

 

「平気だと、そう言うんだね?」

 

「もっちろん。

 皆の世界、私が守るよ。

 カルデアの生き残った職員のみんなの世界。

 マシュの、新所長の、ダ・ヴィンチちゃんの世界。

 皆が守って皆が生きてるこの世界、ちゃんと守るから。どーんと構えてて、ね?」

 

 ダ・ヴィンチは、この世で最も有名な微笑みの絵を書いた万能の天才である。

 彼女から見れば、立香が無理をしながら浮かべる微笑みの形は、酷く不格好に見えた。

 

「人はね、繰り返せば上手くなるんだ。誰でも知っていることだね」

 

「あー、分かる。私も魔術礼装を何度も使ってる内に、大分上手く使えるようになったから」

 

「絵も、音楽も、戦闘も、あらゆることにこれは言える。

 なにせ私は万能の天才、ダ・ヴィンチだからね。

 手を出した分野、こなせる分野なら誰にも負けないさ」

 

「おおー、流石ダ・ヴィンチちゃん。それで、それがどうかしたの?」

 

「君の精神状態に気を使ってる人は何人か居るね。

 これは私じゃなくて人間のカルデア職員によるチェック表。

 第一特異点の頃が一番アウトが多い。

 逆に一番新しいチェック表は、アウトが一つもない。

 完璧に健全であることを示す、何も問題がないパーフェクトな結果だ」

 

「ふふん、人は成長するってことだね。この鉄心の立香ちゃんに何の心配も……」

 

「メンタルチェックの問診に引っかからないように会話するのが上手くなったね、マスター」

 

 その言葉を聞いた立香の表情を見て、"ああ、失敗した"と、ダ・ヴィンチは思った。

 本音を話させるつもりだった。

 少しは吐き出させるつもりだった。

 けれど結局上手く行かず、立香は曖昧な微笑みで話を蒸し返させなかった。

 そのまま食事が終わるまで、立香はひたすら楽しい話題を話し続けた。

 ダ・ヴィンチと立香はその後にもう一度話すことも叶わないまま、立香は幸福の異聞帯へと向かってしまった。

 

 幼き姿のダ・ヴィンチは自分の職務をあらかた終わらせた後、割り当てられた自室にて、空に向けて祈った。

 

「無事で居てくれ」

 

 神に祈って任せているわけではない。

 大事なことを神に委ねるような性根は彼女にはない。

 それでも、立香とマシュの無事を祈らずにはいられなかった。

 運命そのものに祈るような、何の結果にも影響を及ぼさない、虚空の祈り。

 

「体だけじゃなく、心も無事なまま、帰って来てくれ」

 

 帰りを待つしかないならば、空いた時間は祈るくらいにしか使えない。

 できることをしよう、自分の職務を果たそう、援護のための準備をしよう……そう思って、やれることを全部して、全部終わってしまったら、もう祈るくらいしかすることがない。

 祈らずにはいられない。

 立香とマシュが敵地に居る時間に何もしないと、死んでいった人間達の顔が頭にちらついて、何もしていないがゆえの焦燥に潰されそうだった。

 ゆえに、祈り、願う。

 

「そんな高望みしてるわけじゃない。このくらいの願いは、叶ってくれ」

 

 幼い少女の体で、ダ・ヴィンチは二人の無事をひたすらに願った。

 

 

 

 

 

 異聞帯には、空想樹なるものがある。

 汎人類史の者達が勝利するには、この樹を切らねばならない。

 逆説的にこれを切られれば異聞帯は終わりに向かうため、汎人類史・異聞帯両方の人間にとってこれこそが最も重要な戦略的目標となる。

 樹を切れば異聞帯が消える。切らなければ、汎人類史が消える。

 

「この街は東西南北に聖杯を一つ融合させた『樹』が隠してある。

 それを『内』から引っ張って俺達の世界(テクスチャ)を強烈に貼り付けてるんだ。

 それを全部切って、本丸の『異聞帯の王』を倒せば君達の勝ち。

 この世界は消えて、汎人類史は守られる……って、別世界の平安の男が言ってたらしい」

 

「……平安」

 

「俺は会ったことないんだよな。

 マーリンがそいつから『樹の苗』をもらったと聞いた、そんくらい。

 実際滅茶苦茶に怪しい奴だと思う。

 でもその助力が無かったらこの世界は滅んでただろうし……俺は感謝してる」

 

「……」

 

 その平安の男―――平安の悪なる陰陽師が誰なのか、立香は心当たりがあったが、あえて口を挟むことはしなかった。

 

「一つ、今回の聖杯戦争にあたって、主催の俺からルールの提案があります」

 

「どうぞ」

 

「サーヴァントでもない人間を殺すのは禁止。どうだ?」

 

「えっ」

 

「一般人を殺すのは禁止。

 俺や俺の仲間を殺すのも禁止。

 立香とマシュを殺すのも禁止。

 ただこれだとサーヴァントが一方的にやられるから……

 人間に襲われたりして防衛的に殺害するのはセーフとする」

 

「え、そうしてくれるなら嬉しいけど、どうして?」

 

「サーヴァントは、倒しても人間と同じ死は迎えない。

 カルデアに退去したり、座に帰ったりするだけだ。

 ……世界ごと消えたなら、別だが。

 だからこの方がどっちが勝っても痛みを抑えられるんじゃないかって」

 

「……ありがとね」

 

「立香のためだけじゃない。俺のためでもある」

 

 負けた方が全て消えることは変わらない。

 痛みを無くすことはできない。

 敵味方全員の幸福はもう望めない。

 けれどその中で、勝者の痛みを減らすためにできることはあって、刕惢は必死にそれを考えて提案していた。

 

 人が死ぬことは悲しく、辛い……戦いの激化につれて、立香が耳にする機会が減っていったそれをちゃんと言ってくれたことが嬉しくて、少女の心に染み渡った。

 この聖杯戦争は、ルールを守って勝利する限り、味方の誰とも死別しない。

 あまっちょろいほどに優しい聖杯戦争だった。

 勝者に「生きる」以外の褒美が無い、あまりにも得るもののない聖杯戦争だった。

 

「霊脈は整備してあるから好きなところ使ってくれ」

 

「え……いいの?」

 

「だって俺も君も召喚できないならジャー・ジャー・ビンクスじゃん」

 

「可愛いだけの役立たずってこと……? 遠回しな悪口?」

 

「立香は可愛いけどジャー・ジャー・ビンクス可愛いか……?」

 

「あらやだ口がお上手。ランスロットみたい」

 

「遠回しな悪口?」

 

 二人はカルデアのマスターである。

 二人が使う召喚式は完全に同一であり、霊脈に召喚サークルを設置し、召喚を実行さえすれば、とてつもなく強力なサーヴァントが仲間になってくれることさえある。

 よって立香はこれまで、新しい世界に踏み入れた序盤、召喚ができない・味方がほとんどいない状態で、召喚可能な場所を見つけるまで死にかけながら四苦八苦することが多かった。

 

 そこがするっと解決したものだから、ちょっと拍子抜けな気分もあった。

 

「いや、いいの? 本当に?」

 

「ああ」

 

 立香の表情が、真面目なものへと変わる。

 

「……ねえ、勝つ気ある?

 本当に分かってるの?

 私が勝って、あなたが負けたら、この優しい世界は消えるんだよ?」

 

「そういうことをわざわざ言っちゃうのが、君の優しいところだと思う」

 

「この世界は、軽い気持ちで滅びを受け入れていいようなものじゃないよ。分かってる?」

 

「ああ」

 

「この戦い、私に有利すぎる。

 こんなに有利な戦い、私は過去に一度もなかった。

 だって私もマシュも殺されないんだもん。

 じゃあ私達は、勝てるまで召喚を続ければいい。

 この世界の霊脈を使い放題なら何度でも召喚を続けられる。

 私が諦めない限り、私が絶対に勝つじゃん。……本当に、勝つ気があるの?」

 

「分かってる。

 だって俺の世界なんだから、そりゃそうだよ。

 心配は御無用。俺も負ける気も、滅びる気もない。

 俺の世界は四つの聖杯、四つの樹で急速に"浸透度"を上げている。

 君の汎人類史も、異性の神とかいう外野の異聞帯も、塗り潰すのに二週間かからない」

 

「!」

 

「時間は俺の味方だ。長引けば俺が勝つ」

 

 刕惢は不敵に笑う。

 まるで、絶望的状況を挑戦者へと告げるように。

 

 立香の表情がもにょもにょする。

 これでハッタリを効かせられているつもりなら向いてないよ、と言おうとしたがやめた。

 

 皆が生きていて力を合わせているこの世界は、どんな世界より戦力過剰だ。

 勝ちたいなら正攻法でいい。

 それだけでいつもカツカツの汎人類史カルデアは瞬殺されてしまう。

 事前の下調べをやっていたと自分で言っていた刕惢達なら、何も知らないということもなく、開幕瞬殺の戦法を選ぶことができただろう。

 

 だが、そうしなかった。

 その理由が『迷い』であることなど、聞くまでもない。

 彼はまだ決められていないのだ。

 死ぬか、殺すか、どちらかを選ぶしかない地獄の二択を、まだ選べていない。

 言い方を変えれば、刕惢はまだ、目の前の立香を殺すことなんてできやしないのである。

 

 他の誰かならごまかせたかもしれない。

 しかし刕惢と立香の間に、こんなごまかしは挟めない。

 なぜなら、藤丸立香は、森晶刕惢の理解者だからだ。

 

「だから、油断してると痛い目見るぞ。

 お前に譲るつもりなら最初からそうしてる。

 俺は……この世界のために……汎人類史を……」

 

 その時、ぐらりと体が揺れて、テーブルにぶつかるような勢いで、刕惢が突っ伏した。

 

「大丈夫!? どうしたの!?」

 

「う、っと、大丈夫大丈夫、なんでもないから」

 

 立香が反射的に席を立ち、刕惢に駆け寄って、寄り添って体調不良を確認し始める。

 そして少女は驚き、何かの感情を噛み潰すように歯を食い縛って、表情を取り繕って、優しい微笑みを意識的に作った。

 

 焦点がしっかり合っていない目。

 目の下のクマ。

 しっかりと姿勢を保てていない不安定さ。

 指で触れると僅かに感触に違和感が残る肌荒れ。

 至近距離まで寄ると僅かに鼻につく、胃酸過剰と嘔吐による酸性の臭い。

 不安ゆえに隠しきれない手先の震え。

 

 立香は気付いた。知識から来る判断ではなく、経験から来る共感ゆえに。

 

 初めての異聞帯切除の後、立香はずっと眠れなかった。

 自分がしたこととこれからすることに思考が行って、恐怖と罪悪感で眠れなかった。

 眠れなくて目の焦点が合わなくなって、目の下にクマが出来たからカルデアの大人に習った化粧でクマを隠して、歩いてもフラフラとしてしまった。

 座っていても、つい寝不足から眠りに落ち、テーブルに頭をぶつけてしまうこともあった。

 無理に寝ようとしても悪夢を見て飛び起きて、普通に眠れないから肌が荒れて、食欲が無くなってるのに胃酸は出て、透明な胃液を何度も吐いた。

 それで寝不足になって、寝不足が原因の吐き気が更に重なって、これから先の自分が怖くて怖くて仕方なくて、震える手先をぎゅっと握った。

 

 立香は、それを知っていた。

 

 "()()()()()()()()()()()()()()()()"という彼の思考が、寄り添う立香には痛いほど分かってしまって、だから微笑んだ。

 その笑顔は、自分のためではなく、目の前の苦しんでいる一人の少年のために。

 

「走り込みとかして疲れ果てておくと、何も考えないでぐっすり眠れるよ」

 

「―――」

 

「ああ、あと、無理に寝ようとしない方がいいかも。

 眠くないのにベッドに入ると余計なこと考えまくっちゃうからね。

 楽しいこともした方がいいかも。

 巴さんがゲームに誘ってくれて、いい気分転換になった覚えがあるから。

 周りに相談しろなんて言えないけど、でもやっぱり考え込みすぎるとダメなんだよね」

 

「……立香、君は」

 

「いざとなればマシュの膝枕で大泣きするって手もあるよ?」

 

「……くくっ、なんじゃそりゃ。ありがとう、助かる」

 

「いえいえ」

 

 立香はにかっと笑って、その笑顔が、その言葉が、彼の心を少しばかり救ってくれた。

 

 共に生きられないからって、優しくしない理由にはならない。

 いずれ滅ぼすしかない異聞帯の人間を、雑になんて扱えない。

 やがて消え去る世界の人間だとしても、救えるなら救いたい。

 藤丸立香は、そう生きてきた。

 その愚かしいまでの優しさが、人を救ってきたのだ。

 

「立香は、凄いな。

 こんな重圧と罪悪感に耐えて、戦えたのか。

 それで自分の世界を救う道を進んだのか。

 "そこまでして生きていたくない"、なんて俺は思っちまいそうだ」

 

「そりゃ、私もちょっとは思ったけど……でもやっぱり、しないといけないことがあるから」

 

「殺したくない。

 傷付けたくない。

 だって俺も殺されたくない。

 傷付けられたくないんだ。

 特異点で人を殴ってしまったことがある。

 拳に残る感触が気持ち悪くて……

 痛がってる相手に、つい謝って……

 殴られたその人が俺を恨めしく見てるのが、辛くて……」

 

「うん」

 

「ああ、反吐が出る。

 自分を変えられない。それが嫌だ。

 何も思わないで殺せたらいい。

 俺が何も感じない奴ならこの世界も迷わず守れたんだ。

 くそっ、分かってんだ、分かってんだけど、俺は、俺は……!」

 

「……分かるよ。こんなことしないでいいなら、私だって絶対にしなかったから」

 

 マシュの前ではかっこいい先輩でいたい。

 ダ・ヴィンチちゃんの前では平気なふりをしたい。

 カルデアの皆の前では頼れるマスターでありたい。

 サーヴァント達に恥ずかしくない自分になりたい。

 ただのやせ我慢でも、彼も彼女も普通の人間だから、頑張り続ける。

 口には出さない、出せない想いがある。

 

 誰にも言うつもりは無かったのに、同じ旅路を駆け抜けた仲間を前にすると、すぐに理解されてしまって、共感で寄り添われてしまって、言うつもりのなかったことを言ってしまう。

 

「君みたいな普通の子が手を汚さないといけないと、ダメだったのか」

 

「あはは、ダメでした。

 でもさ、誰かがやらないといけないことだったから、しょうがないんだよ」

 

 しょうがない。

 しょうがない。

 しょうがない。

 今日まで自分が何度この言葉を使ったのか、立香は数えるのも億劫だった。

 

「刕惢もなんというか、普通の子に見えるよ。

 なんというか同じクラスに居そう。

 すっごく懐かしい、普通の日本の同年代の男の子ってカンジ」

 

「褒められてんだか貶されてんだかわかんないな」

 

「LINE交換する? なんと私は同年代の男子に教えたこと無いんだよ。嬉しい?」

 

「使う機会ないだろ!」

 

 もっとなんでもないつまんない場所で出会いたかったな、と少女は思う。

 

「刕惢がクラスメイトだったら……クラスの男子とオセロやってそう」

 

「……。立香は今日小テストだった! 忘れてた! ってしょっちゅう慌ててそうだ」

 

「む。そう言う刕惢は隣の席の私に教科書しょっちゅう見せてもらってそうじゃない?」

 

「なんだと……! ちょっと否定できないな」

 

「あははっ」

 

 楽しい会話だった。これまでの幸せも不幸もまとめて忘れてしまうくらいに。

 

「何も無かったら今頃、殺すか死ぬかの二択じゃなくて受験の二択で悩んでたのかな、私達」

 

「かもなぁ」

 

「いいよね受験。面倒くさそうだけど、解答集あるもん」

 

「頑張ってたら絶対正解に辿り着けるって、尊いことだったんだな」

 

「センター試験ってどんなんだったんだろ? 私ニュースでしか見たことないんだよね」

 

「わかんねえ」

 

「センター試験で大勝利したかった気持ちが私の中になくもないのだ」

 

「誰に勝つんだよ……自分に勝て……勉強は自分との戦いだから……」

 

 楽しいはずの軽快な会話に、どこか悲しい虚しさが宿っている。

 

「勝った、負けた、ってのも昔はすげー苦手だったんだよな、俺」

 

「え、そうなんだ。そういう人は珍しいね」

 

「闘病ってあるじゃん。

 で、病死すると『病に負け』って言うじゃん。

 『ガンには勝てなかった』とかもか。

 あれが死ぬほど嫌だった。

 じいちゃんが病気で死んだ時、そういうこと言ってる人達が居た。

 戦ってたのは薬とかだろ?

 じいちゃんを薬とか病院の機械とかが救えなかっただけだろ、って思ってた」

 

「おじいちゃん、亡くなられたの?」

 

「ん。

 もっと頑張ってたら勝てたのか?

 じいちゃんが病に負けたから死んだのか?

 じいちゃんを救える薬や医者が居なかっただけじゃ?

 じいちゃんは苦しくても頑張ってたのに……負けただの、勝てなかっただの」

 

「……」

 

「『負けて死んだ』みたいなこと言うのは、なんか優しくない。

 こうなんか……もうちょっとあるだろ! と幼い俺はめっちゃ泣いたのだった」

 

 立香はこの世界に来てから一番に自然な、ごく自然に心から浮き上がる優しい微笑みを自分が浮かべている、そんな感覚を覚えていた。

 

「優しいね」

 

「からかうなよ」

 

「私、からかってないのにー。邪推はよくないよ、悪者になる入り口だよ」

 

 会話を繰り返せば繰り返すほどに、この異聞帯の主であり『王』を従えるマスターである彼への理解が深まり、それがこの異聞帯への理解へと繋がっていく。

 立香は一つ、世界の構造に気付いた。

 

「ああ、私ようやく分かった。この世界、そういう世界なんだ」

 

「ここまで話したら立香には分かっちゃうよな、そういうの」

 

「『全員勝者』なんだ、この世界。全員幸せになれるから」

 

「俺は最高に頭が良い解決だと思ってたんだ、この前まで」

 

「私は最高に優しい解決だと思うよ、今でも」

 

「……そう言ってくれるか。生存競争……しなければ、終わるんだよな」

 

「全員が勝者になれたらよかったのにね」

 

 『あいつは負けたから死んだ』と、そう言うだけの結末が待つ。

 

「始まりは明日の夜、0時。

 そこから俺達の聖杯戦争を開戦とする。

 それまでは召喚して手駒を集めとくといい。

 その時間になったら魔力持ちだけに聞こえる鐘の音を鳴らして合図にするから」

 

「明日の夜、鐘が鳴ったら、私達の聖杯戦争が始まる」

 

「始まってからいつでも来たい時に来ていいぞ。

 人間は殺せないってルールだからな。

 俺もお前も安全が保証されてる。

 ルールの細かいところで分からない部分があれば聞きに来い」

 

「面倒見のいいゲームマスターだこれ」

 

 森晶刕惢は、敵にしても味方にしても、近くに居るだけで妙に肩の力が抜ける男であった。

 

 刕惢は拳を握って、目の前に突き出した。立香はよく分からなくても首を傾げる。

 

「な、子供の時、友達の間でこういうことしなかったか?」

 

「?」

 

「『どっちが勝っても、恨みっこなし』」

 

「……ああ」

 

 懐かしさと優しさで涙が出そうで、立香は唇を噛んだ。

 子供の頃、ドッチボールやサッカーをする前にこんなことをしていたことを思い出す。

 もう、あの頃には戻れない。

 "恨みっこなし"と言ってくれるのが優しくて、気遣われていることが分かって、この気持ちをどう消化すれば良いのか、藤丸立香には分からない。

 

 拳を応じるように突き出し、二人の拳が突き合わされて、見つめ合って、笑い合って。

 

「恨みっこなし」

 

「恨みっこなしで」

 

 とても優しい、地獄の中の約束をした。

 

 常識的に考えればそんな約束が果たされるわけがない。

 人が死ぬ。沢山死ぬ。世界ごと消え去る。それで恨みが出ないわけがない。

 死の間際に怨嗟の罵倒が出ても何らおかしくはないだろう。

 そんなことは二人共分かっていた。

 

 それでもこれを口にしたのは、立香の彼への優しさであり、刕惢の彼女への優しさだった。

 "もしもの時にこの人の罪悪感と苦しみが減りますように"―――そんな、優しさだった。

 

 立香は戻ってきたマシュと合流し、中庭を出ていこうとする。

 もう話すことはない。

 必要なことは全て話した。

 後はサーヴァントを召喚し、明日の夜0時、明後日に移り変わる時まで準備を重ねるのみ。

 

 立香に背を向けて椅子に座ったままの刕惢が、刕惢に背を向けてドアノブに手を懸けた立香に向けて――あるいは、誰にも向けず――ぽつりと、呟いた。

 

「なあ、俺は、どうすればいいんだ?」

 

 あまりにも小さく、か細い声。

 誰にも聞こえなかったとしてもおかしくはない、小さな弱気。

 刕惢の横に立っていたモードレッドには聞こえていて、騎士は顔を顰める。

 立香の横に居たマシュには聞こえていなかった。

 

 そして立香は、背を向けたまま言葉を紡いだ。

 

「ダメだよ、刕惢」

 

 言いたくもない言葉を、言わなければならないから、彼女は言う。

 

「私達は、それを他人に聞いて、答えを求めちゃダメなんだよ」

 

 二人はマスター。

 カルデア最後のマスターにして世界を代表する一般人。

 世界を守る最後の砦。

 皆の生存権のために、己の手を汚さなければならない者達。

 絶対に捨てられない責任がある。

 

 

 

「だって、誰のせいにもできないんだから。私達は、自分の意志でやるんだよ」

 

 

 

 それだけは絶対に。目を逸らしてはいけないことだった。

 

 立香は、彼が握った拳が震えていたことに気付いていた。

 彼女だけが理解できる気持ちがあった。

 その手を両手で包んで、大丈夫、大丈夫と声をかけてやりたかった。

 けれど、それだけはできなかった。

 彼に絶望をもたらす自分にだけは絶対に、その資格がないと思っていたから。

 

 罪は他の誰でもなく、立香の背に伸し掛かる。

 "この世界を滅ぼして私の世界を守って"とサーヴァントに命じられるのは、立香だけだから。

 

「いつでも来ていいって言ってくれてありがとう。

 うん、それじゃ、何か話したくなったら会いに来るよ」

 

 理解者と出会えて、理解者と通じ合って、理解者と話して、少女の心は少しばかり救われた。

 

 その理解者を、藤丸立香は殺す責任がある。

 殺す願望などない。

 殺したくなどない。

 しかし背負った命と想いと世界の重みが、他の道など許さない。

 世界諸共、彼女は唯一無二のこの理解者を殺さねばならない。

 でなければ、ここまでの旅路は、何のためにあったというのか。

 

 世界を救い、自分が生きる、そんな生き物として当たり前の願いのために。

 

 少女は歯を食いしばり、掴んだ己の腕に爪を立てる。

 

 そうでないと、今にも泣き出してしまいそうだったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刕惢が中庭前の廊下の長椅子に横になって休んでいると、気持ちがうとうととし始めた頃、少年の額を丸めた新聞紙が叩いた。

 

「休むなら自分の部屋で休みたまえ。もう18時になるぞ、レイスイ」

 

「……シロウさん」

 

「エミヤ、だ。外ではそう呼ぶことを徹底しろと言っただろう。

 他のサーヴァントに示しがつかん。第一、どうにもこそばゆい」

 

「いいじゃん、他の人いないし。

 へへっ、いい名前だよなシロウさん。

 名前の最後を伸ばし棒にできる名前は呼びやすくて好きなんだ」

 

「まったく、君は年上の大人に対してはいつも人懐っこいな。ところで」

 

「ところで?」

 

「床に寝っ転がって大いびきをかいているこのモードレッドは……なんだ?」

 

「どこでも昼寝する猫みたいだ……外見は普通に金髪美少女なのに……生き方が雑……」

 

 彼の名はエミヤ。クラスはアーチャー。

 英霊となる前の名を、衛宮(えみや)士郎(しろう)と言う。

 刕惢とは長い付き合いで、双剣と長久を扱う非常に器用な弓兵である。

 白く染まった髪をかき上げ、赤い外套をなびかせて、エミヤはため息を吐いた。

 

「で、どうしたのかね、今日は。

 ……いや、この際まとめて聞こう。

 ここ最近の君は何かを隠している。そしてまともに眠れてないようだ」

 

「うっ」

 

「私は君の信頼を得ていたと思っていたが、どうやら勘違いだったようだ。

 君が重要な秘密を打ち明ける相手として、私はまったく相応しくなかったらしい」

 

「え、いや、そんなことは!」

 

「ほう? なら今から話してくれるということか。これは静かにして聞かなければな」

 

「……最初からそのつもりで?」

 

「さてな。私は抱え込みがちなマスターに信頼される、一人の弓兵というだけの話だ」

 

 クールを気取った人情派。斜に構えた優しき男。ニヒルに笑って真面目に戦う。

 エミヤのこの在り方が刕惢を何度支えてくれたか分からない。

 刕惢はエミヤを素直じゃない良い兄のように思っていて、エミヤは刕惢を素直すぎて危なかったしい弟のように思っていた。

 

「今日明日に皆に話すつもりだったけど、シロウさんならいいか」

 

「深刻な話のようだな。場所を移すか」

 

 二人は屋上に移動し、刕惢はそこで全てを話した。

 汎人類史、異聞帯、この世界の剪定、そして自分の迷いの全てを。

 沈みかけた太陽が、会話によって経た時間を喰い、少しずつ沈んでいく。

 それは絶望の話であったが、エミヤの心を折るには至らない。

 

「……なるほどな。さぞかし苦悩したことだろう、レイスイ」

 

「決断はまだできてない。苦悩しただけなんだ。ごめん」

 

「いや、それでいい。

 そういう君を支えてここまでやってきたのだからな。

 ならば命じるが良い、マスター。

 この身は君を守る剣であり、君の敵を撃つ弓だ。

 ひとたび君が命ずれば、如何なる敵も必ずやこの手で―――」

 

「あ、シロウさんは今回留守番で」

 

「なんだと!?」

 

 エミヤは夕陽をバックに苦笑するレイスイの肩を掴み、焦りながら揺らす。

 刕惢は前後に揺らされながらも苦笑い。

 

「オレを差し置いて誰を頼るというのだ!

 あの言うことを聞かない狂犬のモードレッドか!?

 引きこもりを極めた刑部姫か!?

 あの危うい人類悪どもか!?

 悪いことは言わん、君の願いを忠実に叶えるオレにしておけ!」

 

「あ、いや、そういう話じゃなくてさ」

 

「?」

 

「シロウさんに『世界のため』って理由で、たくさん人殺させたくないんだよ、もう」

 

「―――」

 

 エミヤは密かに、息を呑んだ。

 

「今回はお休みで。大丈夫、シロウさん抜きでもどうにかしてくるから」

 

 エミヤは英霊の中でも非常に珍しい、現代の英霊にして未来の英霊である。

 彼は2004年以降の未来にて英霊となり、2004年の聖杯戦争に参加し、その後正規の英霊として2015年のカルデアに召喚された。

 サーヴァントが登録される英霊の座に、時間の概念は無いからだ。

 

 エミヤは、世界と契約して英霊に加わった男であった。

 数え切れないほどの人々が死にそうになったその時、自らの死後を世界に預ける代わりに、人々を救うという結果を掴み取った。

 結果、彼は死後、世界のための奴隷と成り果ててしまった。

 

 生前の彼には優しさと使命感があり、報われなくとも人々を救えればいいという想いがあり、一生を人助けと正義のために費やした。

 しかし死後の彼は人類の滅亡や世界の破滅を回避するため、ただひたすらその原因を殺す掃除屋にされてしまった。

 救いたかっただけなのに、殺すだけのものに成り果ててしまった。

 

 人を守りたかった信念はすり減り、長く長く続く地獄の中で自分を見失い、人を殺す度に心にヒビが入っていく。

 エミヤとは、そういう英霊だった。

 そして紆余曲折を経て、カルデアに召喚され『人を守り、世界を救う』という使命を与えられ、彼はかくして、本物の英雄としての物語を駆け抜けた。

 

 誰も殺さなくていい、けれど誰もを守らなければならない刕惢の下での戦いは、エミヤにとって非常に苦労させられる、なのにとても楽しい旅路であったと言えるものだった。

 

 そう。

 ()()()()()()()()は、かつてエミヤを苛んだものなのだ。

 かつてエミヤから過去の人生を聞いたことがあった刕惢は、ゆえに彼を気遣う。

 

「……」

 

「仲間外れにしたとかじゃないんだ。

 だけどさ、ほら。

 ……俺がやる立場になって、分かったんだ。

 悪人じゃない人をたくさん、世界のために殺すって、辛い」

 

「……ああ、そうだな。そうだとも」

 

「じゃあさ、もう十分それをやった人にはやらせられない。

 俺が選んで、俺が命じて、俺が背負わないと。

 ……いけないんだけど、迷っちゃってて情けない。

 少なくともシロウさんは関わらない方がいいと思うんだ。

 だって辛かったんだから。

 俺は世界のために人を殺せなんて、シロウさんには絶対に言えない」

 

「そうか」

 

 エミヤはニヒルに笑って、腕を組む。

 納得してもらったかな、と思って、刕惢も真似して腕を組む。

 エミヤの内心など、彼が隠そうと思えば刕惢には見抜けないというのに。

 

「なら、おとなしくしているとしよう。夕飯の材料でも買いに行くとするかね」

 

「おおー、いいね。何か作る予定ある?」

 

「フッ……気遣いの例だ。リクエストを聞こう」

 

「分厚いハンバーグでお願いします!」

 

「了解した、マスター。では行ってくる」

 

 エミヤは刕惢に手を振り背を向け、屋上から階段を降りていった。

 その途中、エミヤは起きたらしいモードレッドとすれ違う。

 モードレッドは、マスターの刕惢を探しているようだった。

 

「おい弓兵。今日の晩飯お前が作るんだってな、何作るんだ?」

 

「ハンバーグでも作ろうと思っている」

 

「お、マジ!?」

 

 大喜びするモードレッド。

 エミヤはふっ、と笑みをこぼす。

 『自分の好きなものではなく他の誰かが好むもの』をついついリクエストしてしまうマスターの性情に、思わず笑みがこぼれてしまっていた。

 そして、モードレッドは言う。

 

「じゃあ、ちゃんと帰ってこいよ」

 

 動物的な直感がもたらす、本質を突くような一言だった。

 モードレッドは分かっていない。

 本能は分かっているが頭はまるで分かっていない。

 ゆえに、ぽろりと口からこぼれ落ちるような一言に終わっていた。

 

 エミヤは少し申し訳無さそうに、口を開く。

 

「モードレッド。君と最初に顔を合わせた時のことを覚えているか」

 

「ああ。『アーサー王であればよかったものを。その裏切者とはな』だろ? キレたわ」

 

「改めて謝らせてくれ。あの時は私があまりにも愚かなことを言っていた」

 

「おいおい、あの後謝ってたろ。いーよそんくらい、繰り返し謝らなくても」

 

「何かあれば後を頼む。

 この案件は正道を往くアーサー王に向いているとは思わない。

 手を汚す邪道と誇りを守る騎士道の両方を知る君こそが必要だ」

 

「……おい、赤い弓兵、お前……」

 

「何、心配することはない。ちゃんと帰ってくるさ」

 

 エミヤは建物から離れ、夜になりつつある街の遥か高高度を駆けた。

 

 

 

 

 エミヤは、汎人類史のマスターを探していた。

 

 もちろん、襲撃するために。この戦いを最速で終わらせるための索敵であった。

 

「レイスイは人殺しを好まない。

 かつ、それがルールに組み込まれている。

 開始の合図の前の奇襲に意味はなく、それは無為となるだろう。

 だがやりようはある。汎人類史のカルデアも、この世界のカルデアと同じなら……」

 

 カルデア式の英霊召喚は、まず霊地にマシュの盾を設置し、召喚サークルを作るのが肝だ。

 そこから霊基データ……セイントグラフなどを使い、召喚を行う。

 それらが欠ければ、汎人類史側の英霊召喚の驚異は九割がた消え去ると言っていい。

 

 セイントグラフのデータバンクか、マシュの盾。

 どちらかを奪うか破壊することで、エミヤはこの戦いで生まれる傷を最小にしつつ、この世界を汎人類史の枠に押し上げることが可能であった。

 今奇襲すれば、油断しきった藤丸立香達から奪い取れる可能性が非常に高い。

 これはエミヤの完全なる独断であり、エミヤが考える最善の一手であった。

 

 慣れないやり方だ、とエミヤは自嘲する。

 誰も殺さないやり方。

 難易度の高いやり方。

 しかしながら、エミヤはそれを望んで選び取る。

 それが最善であるという合理性を戦闘論理に持つがゆえに。

 

「!」

 

 だが。

 

「その霊基。お前は……」

 

「空振りの可能性も考えていたが、当たりだったか。それがまさか私自身だとはな」

 

 その思考ゆえに、エミヤは待ち伏せとかちあった。

 

 広い公園の開けた草原、その中央で二人の男が対峙する。

 

「私のオルタ、か」

 

「エミヤ・オルタとでも呼ぶがいいさ。私からすれば……オレからすれば、貴様がオルタだが」

 

「そこをどけ。オレにはすべきことがある」

 

「どくはずがないだろう?

 オレはこの地で最初に召喚された汎人類史の英霊。

 その意味はおそらく、これだったということだろうな」

 

 サーヴァント・オルタナティブ。

 ありえたイフ。

 もう一つの人生を生きたエミヤ。

 それは、平行世界の自分と言って差し支えない、もう一人の自分。

 

 立香達は既に召喚を実行し、エミヤ・オルタを召喚していたということだろう。

 異聞帯のエミヤ。

 汎人類史のエミヤ・オルタ。

 二人の男は反転(オルタ)の向こうの自分自身、ゆえに、相容れない。

 

「お前も同じエミヤなら分かるはずだ。この世界の意味が」

 

「わからんな。説明してくれ」

 

「ここには地獄がない。

 いや、もう地獄が生まれない。

 『エミヤ』が生まれた地獄も。

 いいや、その前の、衛宮士郎が壊れた冬木の地獄も。

 何も無いのだ、もう一人のオレ。

 オレ達は衛宮士郎だからこそ、この世界の価値が分かるはずだ」

 

 地獄があった。

 助けてと、衛宮士郎は願った。

 助けられて、自分もそうやって他人を救える人間になりたいと思った。

 地獄は絶えなかった。

 地獄の中で衛宮士郎は救って、救って、救って、救って。

 世界と契約し、世界の奴隷になって。

 そこからもまた無限の地獄があって。

 そうやって、『エミヤ』は生まれた。

 

 異聞帯のエミヤも、汎人類史のエミヤオルタも、地獄から生まれた。

 地獄がない世界で『エミヤ』は生まれない。

 『エミヤ』は地獄より生まれ、地獄なき世界を目指した男の成れの果てである。

 

「お前も来い、もう一人のオレ。

 この世界には正義の味方はもう要らない。

 正義の味方が要らないこの世界こそ、オレ達が求めたものだ。

 もう二度と『エミヤ』のような者が生まれないこの世界を残してこそ―――」

 

 手を伸ばし、仲間に誘うエミヤを。

 

 エミヤオルタは、鼻で嗤った。

 

「お断りだ」

 

「なんだと?」

 

 エミヤオルタが銃を抜く。

 神速の抜き打ちにて、その銃弾はエミヤの髪をかすめる。

 はらりと数本、エミヤの髪の毛がちぎれ落ちた。

 

「ああ、そうだな、オレは―――理想に溺れて溺死する自分を、初めて見せられたわけだ」

 

 それは、衛宮士郎が考える中で、衛宮士郎を最も苛立たせる、衛宮士郎が最も言われたくない、衛宮士郎(じぶんじしん)への嘲りの言葉だった。

 

「思ったより嗤えるな。オレの無様な人生の原因の全てが、ここにある」

 

「……貴様。自分がなぜ、どんな地獄で、どう間違えたかを忘れたのか」

 

「さえずるな、愚者。オレの間違いはオレが一番よく知っている」

 

 双銃を抜くエミヤオルタ。

 双剣を抜くエミヤ。

 エミヤオルタは不機嫌に嗤い、エミヤは冷たく眉を顰めた。

 

「『誰もが幸福な世界を目指す』―――そんな滑稽な夢を見ている自分は、酷く癇に障る」

 

「その目は飾りか? この世界が見えていないのか」

 

「だが、剪定されるのだろう?」

 

「―――っ」

 

「ならばゴミでしかない。

 いや、ゴミは他人になど迷惑をかけないか。

 ならばこの世界はゴミ以下だな。オレ達掃除屋の仕事場に相応しい」

 

「貴様……!」

 

「オレはオレの仕事をしよう。

 オレは善いものを殺さなかった者ではない。

 オレは悪だけを殺してきた者ではない。

 己が世界の延命のために、善も悪も殺し尽くす―――そうだろう? 『エミヤ』」

 

 銃声が響く。

 

 銃弾を剣が切り落とした音がする。

 

 正義の味方の残骸が、世界のために人殺しの道具を振るう。

 

 二人は同じ人間、衛宮士郎から派生した二人で……ゆえに、相容れることはなかった。

 

 

 



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5

 ある日、いつかの過去の話。

 エミヤオルタは汎人類史の現拠点、ノウム・カルデアの内部を歩いていた。

 彼は立香の部屋を訪れ確認事項について話そうとしていたが、立香が自室におらず、そのため施設内部を警戒しつつ練り歩いていた。

 現在は世界と世界の戦いの最中。

 万が一、億が一の侵入者による狼藉を、エミヤオルタは警戒する。

 

 結局エミヤオルタの懸念は杞憂に終わった。

 立香は談話室でソファーに腰掛け、壁に体を預けて眠りに落ちていた。

 眠りに落ちる少女の足元で、スマートフォンが床に落ちている。

 寝不足ゆえにか、ここでスマートフォンをいじっている途中に寝てしまったのだろう。

 

「人騒がせな女だ」

 

 エミヤオルタは表情をぴくりとも動かさないまま、冷たい鉄面皮を揺らがせもせず、少女を乱雑に揺り起こそうと手を伸ばす。

 

 その手が触れる直前に、少女の口から言葉が漏れた。

 

「……ごめんなさい……ゲルダ……アーシャ……パツシ……」

 

 伸ばされたエミヤオルタの手が止まる。

 少女を揺り起こそうとした手が少女に触れることはなかった。

 エミヤオルタの焦げたような肌色の手が、ぎゅっと握られ、拳が砕けそうなほど力が入る。

 夢の中で誰かに謝り続ける少女を救うことなどできやしない、血濡れた無情な守護者の手が、未だに『汚れた自分と違って人間らしい綺麗さを保っている』彼女の手に触れることを許さない。

 否。許せない。

 

「こんな自分の幸福に何一つ繋がらない戦いなど、投げ出してしまえばいいものを」

 

 夢の中で少女は、数多くの命に謝り続けている。

 夢の中に蔓延る怨念の敵に、心を喰われ続けている。

 忘れるには重すぎた。

 割り切るには多すぎた。

 自分の世界のために潰しすぎた。

 かつてエミヤオルタが、衛宮士郎で居られなくなった時と同じように……戦いと、罪悪感と、底の見えない苦痛が、藤丸立香を侵している。

 

 なのにエミヤオルタにできることはない。

 怨念の怪物など倒しようがない。

 エミヤオルタにできることなど、この現実に存在する敵を撃ち殺すことくらいのものだ。

 『その罪悪感が一生消えない』ことを、エミヤオルタはよく知っている。

 

 エミヤオルタは、もう正義の味方ではない。

 真逆(オルタ)ゆえに、悪の敵にしかなれない。

 そんな彼では、少女の心一つ救うことすら叶わなかった。

 

「夢の中の敵を殺すことすらできないとは。とんだ無能な掃除屋もいたものだ」

 

 エミヤオルタは汚れた手で、躊躇いがちに少女の手を握る。

 少女の手は、傷の多い手であった。

 もう消えなくなった傷もあった。

 魔獣が、敵のサーヴァントが、時には人間が、藤丸立香の手に刻んだ傷があった。

 そんな少女の手を、エミヤオルタは優しく握る。

 エミヤオルタの体温が手を通して伝わって、悪夢にうなされていた立香の表情が少しずつ穏やかになっていき、数時間ほど経った後には穏やかな寝息を立て始める。

 

 やがてエミヤオルタは自分を嘲笑するように鼻を鳴らし、立香から離れどこかへ行った。

 

 藤丸立香が悪夢から目覚める、一時間ほど前のことだった。

 

 

 

 

 

 エミヤ、およびエミヤオルタは、同じ衛宮士郎から分かたれた別々の可能性である。

 正義の味方に憧れ、そうなろうとした夢見る歪みの少年、衛宮士郎は人を救おうとした旅路の果てに、摩耗してエミヤに、あるいは魔道に堕ちてエミヤオルタとなる。

 そのため、核となる技能は同一で、それの伸ばし方のみが異なっていた。

 

 彼らは自分の中に一つの独立した心象世界『無限の剣製』を持ち、これによって剣を中心とした武具防具を『投影』して作り出し、手品師にもたとえられる立ち回りを行う。

 武器が敵に破壊され、一瞬で作り出した武器で追撃を防ぐこともザラだ。

 彼らの手に握られた武器は、彼らが最も得意とする投影と紐付いたものである。

 

 エミヤは双剣。オルタは双銃。両者は構え、口を開いた。

 

「かつて魔道に堕ちた時、オレは魔性菩薩たる人類悪の雛を殺す戦いに向かっていた」

 

「……殺生院、キアラ」

 

「そうだ。オレとお前の違いはそこだろう。

 ヤツの色欲ゆえの邪悪に穢されたか、そうでないか。オレと、奴は―――」

 

 オルタは、言葉少なに語り始めた。

 

 かつてある世界で、周囲を愛欲に溺れさせるだけで世界を滅ぼしかけた女が居た。

 名を殺生院キアラ。

 最低最悪の色欲の魔である。

 数え切れないほどの『善人』がキアラに誑かされ、欲に溶け、キアラという悪に命じられるままに世界を破滅に向かわせていった。

 

 キアラに目をつけられればほとんど全ての人間が抵抗できず、終わる。

 まさしく顎の如き天上楽土。

 キアラに溺れるごく普通の人達は欲望・善意・狂気の区別がつかなくなっていき、世界が殺生院キアラの欲望に『食われる』のは時間の問題だった。

 彼らは幸せだった。

 キアラに愛されていると思い。

 キアラの言葉に救われ。

 キアラのために殺し合い。

 キアラの与える快楽に溺れながら、キアラに大切なものを全て差し出し、嗤った。

 

 誰も苦しむことのない、誰もが笑みを浮かべる楽園が、そこにはあった。

 

 エミヤオルタは、そんなキアラを殺すため、キアラの被害者でしかなかった者達を片っ端から殺していき、その過程で魔道に堕ちたエミヤである。

 正義の味方などという理想はもう捨てた。

 信念の欠片も残っていない。

 守りたかった善人、救いたかった普通の人達、そのことごとくを殺し尽くした。

 誰も彼もが、()()()()()()()()()()()()()()()を守ろうとしたから。

 

『やめて、わたしの世界を壊さないで!』

『ここには苦しみがないんだ!』

『衛宮士郎、お前の生きてる苦しみばかりの世界とは違うんだよ』

『みんな幸せなんですよ。なんていう理想郷なんでしょうか』

『殺すことしかできないお前と一緒にするな。殺生院様は人をお救いになられてる!』

『かわいそうに。こんなにも救われている人達を見ても、あなたは自分を変えられない』

 

 何もかもを嗤うように、エミヤオルタは鼻を鳴らす。

 

「同じだ、どこも」

 

「その侮辱、許されると思うな。よりにもよってあの女の地獄とこの世界を同一に見るなど」

 

「天上楽土は、天上楽土の外に刃を向けた時点で、外から焼き尽くされなければならない」

 

「……ふざけるな。剪定事象になどならなければ、他の世界に刃など向けるものか!」

 

「だが、なった。

 ならば消えるしかないさ。

 今更ながらに、オレが最初に呼ばれた理由がよく分かる。

 オレはお前のオルタ。

 楽園を壊す者。

 人を救う理想郷を奪う者。

 世界にそう在れと望まれ、他人の理想郷を踏み潰す―――いつものことだ」

 

 両者の右腕が、一瞬消える。否。消えて見えるほどの速度で振られたのだ。

 

 オルタが右の銃を抜き撃ちし、エミヤが右の剣を振るって切り落とす。

 切り捨てられた銃弾が二つに分かれ、公園の地面に小さな穴を穿っていた。

 銃弾も剣先も超音速の攻防を、両者はこともなさげにこなしている。

 

「オレはオレのマスターの正義の味方をする。

 優しい理想を否定させないために、守る。

 それが、衛宮士郎の成れ果てとしてオレが今成すべき仕事だ。

 間違い続けた男の成れ果てとしてはあまりにも上等すぎる話だとは思わないか?」

 

「オレはオレのマスターの世界を滅ぼす鉄心の味方をする。

 世界が必要ないと判断した理想を駆逐する。

 それが、衛宮士郎の成れ果てとしてオレが今成すべき仕事だ。

 くだらないことを囀るな。オレにもお前にも、我々のマスターにも、正義などない」

 

 両者は言葉を交わしながら――『目の前の大嫌いな自分』を言葉でも否定しながら――走り、荒々しい戦闘を展開する。

 戦いの天秤は、序盤から明確にオルタの方に傾いていた。

 

「そら行くぞ」

 

「……っ」

 

 オルタが双銃を連射する。

 一息の間に放たれた数、実に16。

 全てが命中の軌道にある精密射撃の内10をエミヤは一瞬で切り落とし、残り6つを身を捩りながら跳ぶ事で回避した。

 だが、かわしきれなかった弾丸の一つが頬にかすり、皮膚を削り落としていった。

 オルタの攻撃を対処しきれていないことに、エミヤは舌打ちする。

 

 サーヴァントの強さの比較において、たまに語られる常識がある。

 『剣は銃より強い』、という奇妙奇天烈な常識だ。

 

「オレ達のようなものがこんな世界を肯定しようというのが滑稽なのだ。かつてのオレよ」

 

「ぐっ」

 

「地獄から生まれた英霊が、地獄を否定する世界を守るなど、とんだ笑い話だ」

 

 サーヴァントは幻想の世界の戦士と言える。

 ゆえに、伝説の剣や神の槍などが強い。

 銃の強さは超人たるサーヴァント相手に絶対的有利とはならないのだ。

 投影で武器を作れる衛宮士郎には幾多の選択肢があり、エミヤは英雄の剣を投影して強さを継ぎ足す道を選び、オルタは近代的な銃を利用した合理性の道を選んだ。

 

 エミヤの手には幻想があり、オルタの手には合理がある。

 そして少なくともこの戦闘において、優勢を作っているのは合理であった。

 

 弾頭をいじられて跳弾能力を持たされた銃弾が地面や周囲の街灯で跳ね返り、エミヤの手足を撃ち抉る。

 

「くぅっ……!」

 

「お前はかつてのオレだが、オレはお前のかつての姿ではない。

 オレはお前の戦術を知るが、お前はお前の成れ果てであるオレの戦術を知らない」

 

 同一存在ゆえに僅かな差が如実に出る。

 より悪辣な方が勝つ。

 言い変えれば、()()()()()()()()()

 地獄の頂点に立つ汎人類史が大抵の異聞帯に勝る理由が、この戦いにはあった。

 

 理想も願いも捨て切ったエミヤオルタはその分だけ合理的に殺しをこなしてきた。

 ゆえに強い。

 多様性のある地獄こそが、更に地獄に落ちた更に強いエミヤを作り出す。

 エミヤオルタは、この世界が失いつつある『汎人類史の強さ』そのものだった。

 

 理想も、夢も、信念も、自分の過去も、大切な人との記憶も失いつつある、心が完全に壊れた衛宮士郎―――こんなものを生み出し続けられるからこそ、汎人類史はとても強い。

 

 衛宮士郎の強さは、衛宮士郎の不幸より生まれ、ゆえに衛宮士郎は汎人類史でこそ強く悲劇的なものに成り果て、悲惨な人生を積み重ねた分だけ世界の奴隷として酷使されていく。

 

 けれど、それでも。

 その苦難の最果てでこそ、輝くものもある。

 地獄の中でも強がれる男がここに居る。

 エミヤは強がり、ニヒルに笑んだ。

 

「多弁になってきたじゃないか、もう一人のオレ。

 何が気に入らない? 何に怒っている?

 この世界が気に入らないなら、淡々と戦って潰せばいい。

 オレ達はそういうものだ。オレ達が多弁になるのは……自分が許せない時、か?」

 

「安い挑発だな」

 

 嗤うオルタの馬鹿げた威力の投影拳銃弾を伏せてかわし、エミヤは双剣を投げた。

 それなりの重量がある双剣が鳥の如く飛んで行くが、それをオルタは余裕でかわす。

 オルタの横を双剣が通り過ぎたその瞬間には、エミヤの手には双剣が握られていた。

 

 これが投影。無限に剣を製ずる力。彼の手には武器が絶えない。

 更に投影して投げ、今投影して手に持っている、『干将・莫耶』は引き合う特性を持った夫婦剣の宝具である。

 オルタの横を通り過ぎた双剣は、エミヤが手にした双剣と引き合い、戻って来る。

 エミヤは全力で跳び、オルタとの距離を詰め、戻ってきた双剣との挟み撃ちを行った。

 

 投げた二剣、手に持つ二剣、四つで行う四箇所同時の同時斬撃。

 一人で前後から挟み撃ちを行うため、巨大な剣でも巨大な盾でも防御困難という、思わず見惚れる完成度の攻撃であった。

 凡百の英霊であれば、この一撃でまずやられる。

 

「これで―――!」

 

 オルタはエミヤの出方を見て、双銃に付いた刃に魔力を通して強化する。

 この双銃もまた干将・莫耶。刃の付いた銃になっているが、その本質は変わらない。

 オルタは双銃を振り上げ、そのまま肘を曲げて双銃を背中側に回し、正面に振り下ろすように思い切り腕を振った。

 

 合理を極めたオルタの体術が、双銃にて空の内に二つの円を描いて刻む。

 

 オルタの干将・莫耶に引っ張られ、飛んでいる干将・莫耶の軌道が誘導され、オルタの双銃の刃に切り砕かれる。

 オルタが振った双銃はそのまま振り下ろしの形になり、エミヤは咄嗟に手に持った双剣で受け止める。

 

 そのまま受け流そうとして、エミヤはオルタの双銃が、エミヤの手にした双剣を強烈に『引き付け』て、接着したように固定したことに遅れて気が付く。

 双銃も双剣も変わらない。

 干将・莫耶であれば、二つは引き合う。

 気付いていれば、双剣なんてすぐに手放して逃げていただろうに、その一瞬の読み合いでの敗北が、決定的な失態だった。

 

 双剣を固定したまま、銃口がエミヤの体に向いた状態で、オルタは引き金を引いた。

 

「ぐあ、アッ……!!」

 

 ほんの一瞬。一般人であれば流れすら視認できない一瞬の壮絶な駆け引きにて、オルタはエミヤに勝利した。

 赤き外套の守りを抜いた銃弾はエミヤに血を流させて、エミヤは遮二無二距離を取る。

 少し離れた距離はオルタの独壇場だと分かっていても、今この段階で距離を詰められていることはあまりにも致命的に感じられたからだ。

 

 オルタは背中側から真正面に向けて腕を振り、刃付きの双銃を振り下ろし、撃っただけ。

 困難な絶技を組み合わせたわけでもない、何気ないワンアクションだった。

 だが間違いなく神業だった。

 タイミングがよく、無駄がなく、ゆえに合理性を極めた最適手となっていた。

 

 怖気がするほどに合理を極めた、無駄が何一つ無い一撃。

 

「知っている技。使い慣れた技。自分自身に通じると思うか?」

 

「くっ……」

 

 オルタはエミヤの人生をよく知っている。

 エミヤはオルタの人生を全く知らない。

 オルタの方が悪辣で、オルタの方が擦り切れている。

 だから、そのほんの少しの差が、絶望的な壁になっている。

 

 より残酷な世界の方がより強い英霊を生み出せると、汎人類史が証明するような攻防だった。

 

「気付いているのか、異聞帯のエミヤ」

 

「……なにが、だ」

 

「お前達の世界が勝てば、お前達の世界が他の世界を滅ぼす。

 お前達の世界が負ければ、汎人類史がお前達の世界を滅ぼす。

 何一つ犠牲にしない世界?

 誰も踏みつけにしないまま幸福になる世界?

 誰の笑顔も失わせないまま続く世界?

 もうそんなものは無くなった。

 お前の理想の世界は、もう死者か加害者にしかなれないということに」

 

「っ」

 

「お前の理想(ゆめ)は、もうとっくに死んでいる」

 

「―――」

 

「お前はこの世界を作る、皆を幸せにしたいという願いが綺麗だったから憧れた!」

 

 オルタの声が荒げる。常の彼らしくもなく。

 

 嵐のような銃弾の連射が、エミヤへと襲いかかった。

 

「自身からこぼれ落ちた気持ちが!

 この世界では拾われたと錯覚し!

 それを守らんと誓いを立てた!

 これを偽善と言わずなんと言う!

 所詮は偽物だ、そんな偽善では何も救えない!

 自分の世界も守りたい? もう一つの世界も滅ぼしたくない?

 甘っちょろい三流の半端者だからこそ、何を救うべきかも定まらない―――!!」

 

 エミヤは自分の強力な投影や打てる手を正確に先に潰して来るオルタの容赦の無さに舌を巻き、干将莫耶で弾きながら横っ飛びに銃弾をかわす。

 だが、かわしきれない。

 回避の動きが先読みされている。

 足の甲、肩、二の腕、脇腹、次々と銃弾がかすめ、当たり、弾がめり込んでいく。

 

「無様なものだ、カルデアのマスターとやらは!

 最後のマスターの責任ゆえに、強迫観念に突き動かされてきた!

 それが苦痛だと分かっていても!

 破綻していると気付いていても!

 『みんなも死にたくないはずだ』と、何の得もなく、ただ走り続けている!」

 

 誰もが幸せな世界という幻想は、壊れてしまった。

 

 エミヤが抱いた幸せな幻想は、認められないまま壊れてしまった。

 

「……『壊れた現像(ブロークンファンタズム)』!」

 

 エミヤは投影した剣を爆発させる得意技を披露し、爆発した双剣が銃弾の群れを吹き飛ばす。

 

 壊れた幻想の残骸を見つめるオルタの瞳が、ひどく悲しげだった。

 

「―――まるで、オレ達の破綻した理想の道を、再走し始めている子供を見ている気分だ」

 

 オルタはマスターの笑顔を脳裏に浮かべて、虚しげに嗤う。

 

「人は世界のために戦えばどこかで破滅する。

 頑張っても益を得るのは自分達以外のどこかの誰か。

 自分の幸福のために自分勝手に生きた方が醜くともまだマシだ」

 

 まるで、古い鏡を見せられて、「こういう人間が昔居たな」と見せつけられて、「このままだとお前と同じになるかもな」と言われているかのような、酷い話だった。

 

「こんな世界は無ければよかった。見つかるべきではなかったのだ。無ければよかった」

 

 オルタは冷たい無表情なまま、誰にも見えない口内で歯を食いしばる。

 彼は誰もが幸せなまま旅路を進み終えた世界なんて、見ているだけで心が傷付いてしまいかねない世界を、悲しい別れのたびに傷付いてしまうあんな普通の女の子に、見せてほしくなかった。

 だから、引き金を引く指に力がこもる。

 

「自分より他人が大切だという考え。

 誰もが幸福であってほしい願い。

 その全てが結実したのがこの世界か。

 ハッ、ご立派なことだ。

 その果てが剪定事象か。いいザマだよ。その無様さが大いに笑える」

 

「……」

 

「存在自体が許されない。

 こんな世界が否定されて大いに満足だ。

 見ているだけで、あの子を傷付ける世界など。

 あの子が、これまでの旅路を悔いるかもしれない世界など。

 消えてしまえばいい。

 誰もが幸福などという傲慢なハッピーエンドで、全員を救えなかったあの子を傷付けるな」

 

 涙を流すような銃火だった。

 銃弾が涙の粒のようだった。

 毛先ほども動かない鉄面皮が、その奥の感情を隠していた。

 言葉には少しだけ、にじみ出ていたけれど。

 

 殺すために銃を選んだオルタの言葉と攻撃を、守るために剣を選んだエミヤの防御が受け止めていく。

 

「オレは割り切っている。

 オレは慣れている。

 聖杯戦争など始めさせる必要もない。

 このままいつものように汚れ仕事を完遂してしまおう。

 藤丸立香(マスター)の傷が広がる前に、オレの独断で即時この異聞帯を切除する」

 

 強力な銃弾が足にめり込んで、エミヤの体がぐらりとぐらつく。

 なのに、エミヤは笑った。

 真面目な顔を保てなくて、笑ってしまった。

 笑えるようなことは何も無い残酷の中で、思わず笑ってしまっていた。

 

「何が可笑しい?」

 

「いや、深い理由などないさ。

 ただ……オレ達は、『衛宮士郎』をやめられないんだな、と思っただけだ」

 

 エミヤの体から活力が徐々に失せている。

 蓄積されたダメージがあまりにも大きい。

 だが心は、戦いが始まった時よりもずっと、強い力に満ちていた。

 

「カルデアで新しく大切なものを見つけてしまったオレ達は、どうしようもなく衛宮士郎だ」

 

「―――」

 

「何故だろうな。何故オレ達は……いや、どうでもいいことか」

 

 かつて、エミヤと名付けられた英霊がいた。

 かつて、エミヤ・オルタと名付けられた英霊がいた。

 けれどもう、長き旅路を『救ってやりたい少年/少女』と共に過ごしてきた二人の男は、かつての自分と少しだけ違う自分になっていた。

 かつての衛宮士郎に戻るような方向性の、ほんの小さな変化があった。

 

 エミヤは声を張り上げて、穴だらけの自分の体に活を入れる。

 

「オレ達の人生などとうに終わっている。

 サーヴァントの尽力は生者のためにある。

 この戦いは元より……己のマスターの未来を勝ち取る戦いだ!」

 

「戯言だな」

 

「語るさ、戯言を!

 掲げるとも、理想を!

 信じてるんだ、未来を!

 オレは世界をこんな形で救ったマスターを、サーヴァントとして、信じている!」

 

 オルタが強大な魔力を炸裂弾頭として投影装填するのを感じ、エミヤは『ずっと使うことを誘われていた』盾の投影を、たまらず切った。

 

熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)!」

 

 光り輝く七つの花弁が、飛び道具に対し無敵の防御を構築する。

 必殺の炸裂弾、次いで発射された無数の弾丸がアイアスにぶつかるが、盾は微塵も揺らがない。

 だが、これは誘いでしかなかった。

 

「爺さんの夢を……オレとレイスイと皆で、ちゃんと形にしてみせた!」

 

 オルタの銃弾の一つが、盾にぶつかり、膨大な光を放つ。

 かくして、エミヤはオルタを見失った。

 この二人の戦闘において、相手を一瞬でも見失うというのは致命傷に等しい。

 

「くっ……剪定なんぞさせるものか!

 まだ何も決まっていない!

 オレ達の世界は―――絶対に、間違いなんかではない―――!!」

 

 そして間髪入れず、容赦のない追撃がエミヤを襲う。

 飛来したのは黒白の双剣。

 アイアスが正面に展開されたのを見てから、オルタが横に回り込んで投げた剣。

 エミヤは瞬時に神がかった判断と、追い込まれてからの執念で、両方を身を捩ってかわす……だが、その剣は、かわした後に戻って来る。

 

 干将・莫耶は夫婦剣。

 引き合うことで、投げた後も軌道が曲がる。

 

「なら、夢を見たまま、理想の世界に溺れて死ね」

 

 エミヤの右腕が、肩口の関節と肉ごと切り離され、切断された腕が宙を舞った。

 

 

 

 

 

 決着はついた。

 『エミヤ』は小技、小細工、創意工夫をもって戦うべき英霊である。

 双剣にしろ双銃にしろ、両の手で別々のことをして、両の手で器用な攻防を繰り広げ、それでようやく一流と渡り合っている。

 だから、片腕を失った時点でもうどうしようもない。

 決着はついた、とオルタは考える。

 

 だが、エミヤはそうは考えていなかった。

 

―――体は剣で出来ている。(I am the bone of my sword.)

 

「何?」

 

 それは、心をそのまま言葉に換える詠唱。

 

 足を止めて詠唱を始めたエミヤを見るオルタの視線が冷める。

 オルタはとてつもない愚か者を見る目でエミヤを見る。

 棒立ちのエミヤは、いい的だった。

 駆け引きすら無い、非常に長い詠唱を無防備に始める愚かしさ。

 

 オルタはエミヤが詠唱中にロー・アイアスの展開などを始める展開を一応警戒しつつも、確かな失望と共に銃撃を見舞う。

 エミヤの体に空いた穴が、引き金を引く度に増えていった。

 

「っ……血潮は鉄で 心は硝子。 (Steel is my body, and fire is my blood.)

 

 エミヤとオルタの戦いが双剣と双銃を中心としていたのには、理由があった。

 

 この両者の切り札……宝具は、『固有結界』である。

 非常に長い詠唱を必要とするそれは、決まればもう一人の自分が相手でもまず確実に勝てる。

 が、両者共に相手の切り札がそれであると知っているなら?

 成功するわけがない。

 戦闘距離での詠唱時間など確保できるわけがない。

 集中と時間が必要な強力かつ大規模な投影も然りである。

 

 だから、どちらも固有結界など使わなかった。

 使えば負けることが明白だったからだ。

 なのにエミヤはここに来てその詠唱を始めた。

 敗北が決まった戦闘終盤でのやけっぱち。一か八かの大博打、という名の自殺行為。オルタはそう判断し、淡々と銃の引き金を引き続けた。

 

 銃声の度に、エミヤの霊体が砕け、霊基にダメージが入っていく。

 

「ぐっ、幾たびの戦場を越えて不敗。(I have created over a thousand blades.)

 

「夢を見ている時のオレは、ここまで愚かだったか。勉強になった」

 

ただの一度も敗走はなく、(Unknown to Death.) ただの一度も理解されない。(Nor known to Life.)

 

 オルタの銃撃が次々と当たるが、エミヤは倒れない。

 このまま行けば詠唱終了まで保つのでは、とも思える流れだが、実際は違う。

 

 オルタは特殊な弾丸を投影し、攻性魔力をエミヤの体に蓄積させていた。

 トドメの一発を撃ち込むことでそれは爆発し、エミヤを木っ端微塵に即死させる。

 "耐えられるかもしれない"をチラつかせつつ、エミヤを完全に詰ませていく。

 

 普通の弾丸を撃ち込んで追い詰めていっても、途中で詠唱が間に合わないと判断すれば、詠唱を中断してまたアイアスを展開し、逃げに入るかもしれない。

 詰んでいることに気付かせないまま詰ませるのが、オルタの狡猾な戦術だった。

 ここまで魔力が蓄積すれば、アイアスで防いでから逃げに入っても、銃弾一発でエミヤが爆死するラインを超えているため、問題なく一射で殺せるだろう。

 自分自身の耐久力をよく知っているがゆえに、オルタはエミヤの確殺ラインが目に見える。

 

 ここで殺す、という絶殺の戦術構築がここにある。

 

彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う。(Have withstood pain to create many weapons.)

 

「存外、つまらん決着だった」

 

 そして、オルタのトドメの一撃が突き刺さった。

 蓄積された攻性魔力が爆発し、エミヤが爆発に飲み込まれる。

 エミヤの耐久力がオルタの推定の二倍三倍あったとしても、死は免れないだろう。

 詠唱は完遂せず。二節を残して、爆音が詠唱を遮った。

 本当につまらなそうに、オルタはその爆焔を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マスター。レイスイ。聞いているのか? 次はバビロニア、かのギルガメッシュの……」

 

「あ、シロウさんシロウさん、これ着てみて。クリスマスプレゼント(予定)なんだけど」

 

「何かねこれは。服? 肌着のようなものか」

 

「聖骸布? っていうの貰ったから作った服。服飾は初心者なんだけどね」

 

「聖骸布? 待ちたまえ、なんでわざわざそんなもので作った?」

 

「え? 聖骸布って超すごいホッカイロみたいな布なんじゃないの?」

 

「……まあ、水素水が体に良いというくらいには真実だ」

 

「嘘じゃん! シェイクスピア! シェイクスピアァー! また俺をからかったなー!」

 

「……くっ、くくく。

 君はサーヴァントをすぐ全面的に信頼するからな。

 その上嘘をつかれた後でも信じる。

 いい反応もしてくれるから、君をからかうのが楽しいんだろう」

 

「さ、最悪だ……気をつけないと……」

 

「気を付けてどうにかなるものでもないと思うがね。何故突然こんなものを?」

 

「もう冬だから。人理修復して冬が来たら皆寒いかな? って」

 

「君のその手、そういうことだったか。妙に傷が増えているなとは思っていた」

 

「針がめっちゃ刺さって痛かったです、はい。……か、感想をいただけますか」

 

「ちょっと待ちたまえ。今着よう」

 

「うんうん。どう? 着心地どんな感じ? 暖かい?」

 

「なら言うが、これあんまり暖かくはないぞ、マスター。結構チクチクするところもある」

 

「次からは別の素材にします……生まれてごめんなさい……」

 

「死ぬほど落ち込んでいるな……いや、その、なんだ」

 

 

 

 

 

「着心地は良くないが、気に入りはした。大切に着させてもらうよ、ありがとう」

 

 

 

 

 

 其は、召喚されたルーラーが刕惢に贈与したもの。

 『トリノの聖骸布』と呼ばれたものを、スキルで作成し、ごく普通の少年が『暖かくしていてほしい』というありきたりな気遣いで、一着の服に仕上げたもの。

 "死後に復活した聖人"の聖骸布は、ただ一つの効果を着た者へともたらすだろう。

 

 死しても、一度は蘇る。

 サーヴァントに限るが、ほんの僅かな命を残し、死にすら耐える。

 ただ一度きりの奇跡をエミヤにもたらす、マスターの笑顔と共に贈られた絆の礼装だった。

 

故に、生涯に意味はなく―――(Yet, those hands will never hold anything.)

 

「なんだと!? バカな、この一撃に耐えられるわけが―――」

 

―――その体は、きっと剣で出来ていた(So as I pray, UNLIMITED BLADE WORKS.)

 

 剣の世界が、世界を塗り潰す。

 無限の剣が現れる。

 雪崩の如き量の剣が、雨の如く四方八方から降り注ぎ、オルタの全身を貫いていく。

 

 かくして、勝者と敗者は決まった。

 

 ハリネズミのようになったオルタの前で、エミヤは握った拳を突き上げる。

 

 ほんのひととき、胸の内に満ちる達成感と、マスターへの感謝に、彼の心は揺蕩っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オルタは嗤った。

 自嘲のような笑みだった。

 自分の無力さを心底否定している笑みだった。

 

「負けるはずがないと、思っていたのだがな」

 

「理想を捨てた衛宮士郎は、理想を捨てていない衛宮士郎に勝てない……らしい」

 

「なんだ、それは」

 

「さあな。腹の立つ理屈だ。そうでないことを願っておこう」

 

「……」

 

「オレより、君の方が強かった。

 異聞帯のオレは、汎人類史の君より弱かった。

 だが……お前には負けない。誰かに負けるのはいい。けど、自分には負けられない」

 

「……そう、だな。オレ達の最大の敵とは、常に自分自身だ」

 

 エミヤの勝機は、ここにしかなかった。

 ここでオルタの予想を超える以外に、勝ち筋はなかった。

 会話の中で隙を見つけてなんとかねじ込んだが、もう一度やれと言われても、エミヤはもう一度成功させる自信がない。

 まさに、奇跡のような勝利であった。

 

 この世界は毒であり、薬だ。

 『エミヤ』には見ているだけで効きすぎる。

 忘れていた昔の自分が蘇ってしまう。

 良くも悪くも、エミヤは冷たい自分を維持することができなくなっていく。

 エミヤの勝因はそれで、オルタの敗因はそれだった。

 

「……オレは行く。お前はそのまま消える。それでいいんだな」

 

 エミヤの問いかけに、オルタはフッと笑う。

 嗤うのではなく笑う。

 そこには何の嘲笑も、見下しも、摩耗も見られない、ごく普通の笑みだった。

 

「オレにお前は勝った。

 なら、それでいいんだろう。

 いいじゃないか正義の味方。……なんでか、妙に泣きたくなる」

 

「……」

 

「……なあ、オレは、こんな何もできない身で、あの子の未来に、何を―――」

 

 言おうとした言葉を最後まで言い切れず、オルタは消え去った。

 

 エミヤにはその言葉の続きが分かる。

 

 だがその言葉の続きを勝手に言ってしまうような無粋を、エミヤは持ち合わせていない。

 

「行くか」

 

 ここで止まってはいられない。

 最序盤の最大のチャンスだ。

 ここで勝利を確定させてしまえば、この先に生まれるであろう傷はぐっと少なくなる。

 マスターの心を守ることができる。

 エミヤはマスターがくれた、ちょっとちくちくするヘッタクソな出来の黒い聖骸布を握り、普段から身に着けている赤い聖骸布をなびかせて、公園を抜け出した。

 そして、そこで。

 

 

 

時のある間に薔薇を摘め(クロノス・ローズ)

 

 

 

 『アサシン』の銃弾が、絆の聖骸布ごと、エミヤの胴を撃ち抜いた。

 こふっ、と多量の血が吐かれる。

 時間を操り、意識外からの奇襲を行い、エミヤを暗殺したアサシンの顔を見て、エミヤは運命を呪うような顔をした。

 

「……それはないだろう、爺さん」

 

 そのサーヴァントの名もまた、『エミヤ』。

 だが衛宮士郎ではない。

 衛宮士郎をかつての大災厄から救い、衛宮士郎に理想と夢を与えた人物の並行世界の存在……衛宮切嗣がサーヴァント化した存在。

 アサシン、英霊エミヤ。

 それが、二人のエミヤの戦いを見張り、チャンスを見つけて暗殺を実行し、汎人類史の敵を速やかに始末した掃除屋の名前だった。

 

 平行世界の親が、平行世界の子を殺す。衛宮が衛宮を殺す、因果の帰結。

 

「ここで君は終わりだ。この世界もいずれ終わる」

 

「……なあ、いいのか、爺さん。汎人類史の争いの螺旋、放っておいて」

 

「……」

 

「この世界には、それが、もうないのに」

 

「……」

 

「平和がいい、幸せが至上、笑顔を奪うなとか言いながら……すぐに皆、失わせる……」

 

 まるで、大切なものを失う痛みを忘れるような繰り返し。

 文明に痛覚に何一つ残留しないまま、争いは繰り返される。

 その未来に福音はなく、最後に残るのは多くの悲劇が抉り取った胸の奥の伽藍堂。

 ゆえに強く、ゆえに様々な形を持つという、残酷さが保証する世界の強さと多様性。

 

「―――ああ。なんて、矛盾した螺旋だ。

 生きたいと願う命が殺し合わねば世界ごと滅びる。

 そんな世界で……俺はあんな子供達に……こんなものを……背負わせ―――」

 

 そして、エミヤも消滅した。

 二人のエミヤが消滅し、後には静寂が残る。

 衛宮切嗣だったものは、懐からタバコを出して、火を付ける。

 吐き出した煙が、真っ黒な夜空に溶けていった。

 

「唾を吐き捨てたい気分だ」

 

 エミヤが抱えていた理想は、彼から受け継いだもの。

 借り物の理想のオリジナルはここにあり、ゆえにその心は軋む。

 かつて衛宮切嗣は、聖杯に世界平和を願おうとした。

 不可能を可能とする聖杯ならば、それが出来ると思っていた。

 それで、少しは世界がマシになると思っていた。

 

 だが、この世界はどうだ?

 この世界はいわば切嗣の夢見た世界。

 彼の願いが叶った理想世界だ。

 だがそれゆえに、この世界は剪定される運命の中にあるという。

 

 それはすなわち―――切嗣の夢が、本当の意味で、完全に否定されたことを意味する。

 

「……世界平和を望めば。

 世界はこうなってしまうのか。

 皆に幸せになって欲しいと願えば。

 未来は無くなってしまうのか。

 それが宇宙のルールなら……僕は、夢を見なくて正解だったのかもしれない」

 

 切嗣は割り切っているつもりだった。

 本人は自分がそう在れていると思っていた。

 けれど、その実、そんなことはまったくない。

 

 この世界は、切嗣がいつか見たかった世界、彼の理想で。

 この世界への残酷が、切嗣への全否定で。

 深い満足と深い絶望が、同時に心の奥に満ちていた。

 

「ああ、でも、なんでだ」

 

 とうの昔に涙も枯れ果てた切嗣から、幼稚な感想が出て来ることはない。

 

「―――なんで、こんなにも虚しくて、こんなにも悲しいんだ」

 

 どうしようもないほどに深い悲しみが、そこにあった。

 

「……」

 

 切嗣は、汎人類史二体目のサーヴァントとして召喚された。

 ならばその役割は汎人類史の味方。異聞帯の剪定である。

 立香達の下に帰り、次の作戦を練り始めなければならない。

 けれど切嗣はもう、どうにも、そういうことをする気にはなれなかった。

 誰の味方もしたくなかった。

 誰の敵もしたくなかった。

 今はただ、この優しい世界を眺めていたかった。

 

 この世界を滅ぼすことに、加担したくなかった。

 

 一仕事はした。ならもういいだろうと、切嗣は一人納得する。

 

「すまないね、マスター。僕はここで一抜けだ。……なんでだろう、なんだか少し、疲れた」

 

 夜闇の中に、アサシンのエミヤが溶けていく。

 

 かくして戦場より、三者三様の正義に生きたエミヤ達は、消え去った。

 

 彼らは苦難にぶつかる正義の味方。

 世界の維持がために戦う者達。

 大のために小を切り捨ててきた人理の守護者。

 自分達の世界のために、誰かのささやかな幸せと小さな世界を踏み潰す者達。

 されど捨てきれない優しさと情があり、カルデアでは信頼される者達だった。

 

 かつて、幸福なる世界平和を夢に見た男達。

 

 ただただ今は、この宇宙の残酷さに唾を吐き捨てる。そうすることしかできないから。

 

 

 



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第二幕:告げよ運命、戦争の開幕を

 夜が深まる。

 一人家屋の門の前で立ち続けるモードレッドが、空を見上げた。

 綺麗な月だった。

 今にも姫が降りて来そうな、綺麗な月。

 秋の名月にも迫る今日の月の下であれば、殺人鬼が人を解体しても美しく映ることだろう。

 

「……」

 

 モードレッドはここで一人待ち続けていた。

 魔力の動きは察知している。

 遠くで通信機械の稼働音が鳴り、静かな夜なら彼女の耳はそれを拾う。

 人並み外れた直感スキルは、何が起こったかを遠回しに彼女に囁き続けていた。

 

 それでも、モードレッドはここで待ち続けていた。

 

 残酷に夜が明けるまで。

 

「すぐ帰るんじゃなかったのか、嘘つきの弓兵め」

 

 約束を破ったクソ野郎に貸し一つだ、と呟き、モードレッドは跳び上がる。

 

 世界を救って次にエミヤのハンバーグを食えるまで、許さない。モードレッドはそう決めた。

 

 

 

 

 

 朝日が水平線に昇る。

 

 藤丸立香は海辺の防波堤に腰掛け、海の色彩を眺めていた。

 海の色彩も、空の色彩も、何も汎人類史と変わらない。

 異聞帯の空も汎人類史の空と変わらず普通で、変わらず綺麗で、同じだった。

 ただきっと、星を彩る文明の色彩だけが違うのだろう。

 

「……」

 

 『苦しいならやめていいよ』と、何故か聞こえる。

 一人になると、そんな誘惑が聞こえてくる。

 もちろん幻聴だ。

 それは藤丸立香の弱気と甘え、普通の人間らしさが生む心の声でしかない。

 立香は自分がその声に負けてしまうのが怖い。

 自分の内から湧く声ゆえに逃げられず、その声は魅力的で甘いがために、頑張ろうとする気持ちを萎えさせる。

 まるで、ブラックホールのような誘惑だった。

 苦しいならやめていいと、自分自身が言っている。

 

 けれど立香は、この声に負けたことなど一度も無かった。

 

 綺麗な海のさざめきに耳を傾ける立香の横に、針金のような強さと柔軟さと千切れにくさと美しさを持つ男が、腰を降ろした。

 

「海が好きかね」

 

「ホームズ」

 

「かくいう私は、ここだけの話少々苦手意識があってね。

 ライへンバッハの滝に落ちて以来、底の見えない大きな水を見ると震えてしまいそうになる」

 

「もー、冗談ばっかり」

 

 くすっ、と立香が笑みをこぼす。

 ホームズは不敵に、けれど優しく微笑みかける。

 女を何人も狂わせていそうな微笑みだが、立香ももう見慣れたものだ。

 

 彼はホームズ。シャーロック・ホームズ。ルーラーの霊基のサーヴァント。

 立香のカルデアに常駐する名探偵だ。

 普段は後方から高度な推理にて立香を支援し、時には前線に出て命懸けで仲間を守り、血まみれになることもある。

 その在り方は、確かな知性と善性と傍迷惑さに裏打ちされたもの。

 今回ホームズは自分から名乗りを上げ、立香とマシュの援護に参戦していた。

 

「何があるかわからないしホームズは後方待機でよかったのに」

 

「何があるかわからないからさ。

 トリスメギストスの演算が君達二人なら安全と言った理由も理解した。

 ならば君達二人に援軍を送らない理由もない。

 未だ私にも片鱗すら掴めていないこの異聞帯、その真実を解体してみよう」

 

「この世界の謎……うん、そうだよね。頼りにしてる」

 

「頼りにされよう。ではさっそく」

 

「?」

 

 ホームズは立香の顔を一瞥しただけで推理を構築し、口に出す。

 

「君は今悩みを抱えているね。『わからない』と」

 

「―――ぅ」

 

「ではその悩みの中身を当ててみせようか。今日の朝餉がパンか米か気になるのだろう?」

 

「……え」

 

 一瞬表情がこわばった立香が、ぽかんと口を開けた。

 

「さて、この僅かな香りは焼き立てのパンだ。

 ミス・キリエライトがトーストを焼いているのだろうね。

 本日の朝食がパンか米かはこれで明白だ。

 育ち盛りの食いしん坊にはよくある悩み、次の食事への期待と不安だ。そうだろう?」

 

「……あはは、大当たり! さっすが名探偵」

 

「初歩的な推理だ、頑張り屋の友よ」

 

 ホームズがわざと推理を外して、立香がそれに乗る。

 そんな気遣いの仕方があった。

 推理で真実を言い当てる名探偵だけがしていいお茶目で、立香は笑って肩の力が抜ける。

 

 ダ・ヴィンチは優しく寄り添うがゆえに立香が隠す苦悩に気付くが、ホームズは怜悧なる頭脳によって理論的に他人の隠し事を解体し、その苦悩を発見する。

 立香が殺人犯ならその秘密を口にしていただろう。

 だが、そうしない。

 暴いた真実を口にしない。

 けれども、その真実に気付いているということは立香に伝える。

 

 ゆえに立香は気遣われている実感を持つ。

 かつ、ホームズに隠し事などできないことを再確認する。

 取り繕わなくていい分肩の力が抜けるが、これは同時に「無理を禁ずる」という遠回しな釘刺しでもあった。

 

 立香に対し踏み込みすぎず、かといって離れすぎず、近づき問い詰めることで立香を追い詰めることを避け、かといって赤の他人の距離感までは離れない。

 ほとんどの事件において事件の一歩外側から自体を見つめ、事件を終わらせる名探偵は、これこそを在り方の正解とする。

 

 ホームズは立香と共に海を眺めながら、人一人分の距離を空けた横に座っている。

 

 苦悩を飲み込もうとしている少女にとって、その距離感が、今はどうにも心地よかった。

 

「召喚の具合はどうかね? この世界は随分と楽だろう」

 

「うん、すっごい楽。

 霊脈見つけるのも楽だし召喚するのも楽。

 何より、魔力があんまり要らないのがいい。

 召喚に成功さえしたら、どこかからサーヴァントに魔力が流れ込んでる……」

 

「そうだろうね。それがあまりにも僥倖すぎて、罠ではないかと疑ってしまうよ」

 

「でも、何もなかったんでしょ?」

 

「ああ、そうだとも。

 ダ・ヴィンチにMr.ムニエル、ミス・ソカリス、キャスターの皆様方……

 誰もが太鼓判を押した。『これ』が罠である可能性は、限りなく0だとね」

 

 本来、立香が契約を結んで全力を出せるサーヴァント数は有限だ。

 サーヴァント達はマスターに召喚され、契約を交わして魔力を供給され、それによって本来の実力を発揮し、一騎当千の働きをする。

 が、平均的な魔術師でも強力なサーヴァントに全力を出させようとすれば魔力が足りない。そこを解決したのがカルデアの召喚システムだった。

 

 カルデアが施設で魔力を生産し、藤丸立香がサーヴァントと契約し、立香の体を通してサーヴァントに魔力を供給する。

 これによって普通の女の子でしかない立香ですら、強力なサーヴァント複数体に全力を出させることが可能であった。

 個人技に頼らない、一般人ですらここまでのことが可能となるカルデアシステムは、ごく普通の女の子でもその心さえ腐らなければ、世界を救うことすら可能とさせるものなのである。

 

 だが、それでも限界はある。

 無限に召喚などできない。

 無制限のサーヴァント同行などできない。

 霊脈の限界もあるが、それ以上にマスターの側に限界がある。

 カルデアがいくら大量の魔力を流しても藤丸立香の体がそれに耐えられない。

 よって立香が一度の戦いで契約できるサーヴァントの数には限界がある……はずだった。

 

 だがこの世界では、霊脈が傷付くほど連続召喚をしなければ、いくらでも召喚できる。

 魔力も立香の体を通す必要がなく、この世界から供給されている。

 立香はカルデアが保持するトランクの霊基記録の数だけ、ここに共に戦うサーヴァント達を召喚することが可能なのだ。

 

 まるで、世界に守護者として召喚され、世界から無制限の魔力の供給を受けている時のエミヤのような、世界のギミックを味方に付けた反則の戦力を拡充を可能とする世界。

 

「戦力が大いに越したことはないし、安全ならいいんじゃない?」

 

「そう、その結論が正しいのだろう。

 だが、その後に誰もが匙を投げた。

 誰もが()()()()()()()()()()()()()()()を突き止めることができなかった」

 

「それは……うん、なんだか怪しいよね」

 

 全てのサーヴァントに魔力が注がれているのに、どこからどこを通って魔力が供給されているのかわからない。

 それは、"蛇口から水が出てるのに流れ落ちていく水がどこから来ているのか分からない"ということに等しい。不気味にもほどがある。

 

「神域の魔術師達も技術者達も時間が欲しいと言ってきた。

 世界の形を巧みに暴いてきた彼らが手こずる?

 ならばそれは汎人類史の世界の真理の類ではない。

 それはおそらく、謎解きの分野の問題だろう。

 真理の形を調べる研究ではなく、真実を見つける推理が必要になったのだ」

 

「そっか、だからホームズが来たんだ」

 

「ああ。なので私は君が"これ"を利用することに反対しないが、賛成もしない」

 

「うん。これなら、私もサーヴァントを二十人でも三十人でも召喚できる気がする」

 

 立香は刻まれた令呪(マスターのあかし)輝く右手をさすって、ふと疑問に思ったことに首をかしげて、腕を組んで考え始める。

 ちょっとした動作が、何気なくかわいらしかった。

 

「でも、なんでこんな、敵である私にこの世界が有利に働くんだろう。

 刕惢も多分ここまで私に有利だとは思ってなかった……思ってなかった、よね?」

 

「……明白な事実ほど、誤られやすいものはない(There is nothing more deceptive than an obvious fact.)

 

 ホームズは、クソデカため息としか言いようがない特大のため息を吐いた。

 

「へ? なんて? 自慢じゃないけどカルデアに来る前の私の英語は五段階評価で三だよ?」

 

「いや、重要なことではないさ。現役時代の事をいくつか思い出しただけだ」

 

 ホームズは"明かす者"。

 謎があり、悩む者が居れば、彼は答えを提示する。

 が。この案件に関しては、汎人類史の勝利に関する部分以外のところまで解き明かすのは、あまりにも悪趣味に感じられて、ホームズは語る内容を選ぶ。

 "今はまだ語るべき時ではない"ということだ。

 

推理小説(ミステリー)の三論点を知っているかい?」

 

「ミステリー?

 あ、マシュから聞いたことあるよ。

 誰がやったのか(フーダニット)

 どうやったのか(ハウダニット)

 なぜやったのか(ホワイダニット)

 ……だよね? うん、たぶんそうだ」

 

「次からは英語の授業もミス・キリエライトの言葉と同じくらい真面目に聞きたまえ」

 

「……はい、ホームズ先生。反省します」

 

 笑い声を口の中に含むように、ホームズは上品に笑った。

 

「さて、これはホワイダニットに分類される謎だ。

 誰、でもなく。どう、でもなく。なぜ私に有益なのか、ということだね」

 

「なるほど? うん? よし、わかんない。サレンダーします」

 

「その思い切りの良さは好感が持てるが、次からは自分でもちゃんと考えるといい」

 

「はい……」

 

「何、小難しいことはない。初歩的な推理だ。

 この世界の人間としての主は森晶刕惢。

 彼は罪悪感を抱き、この世界の未来を奪ったと悔いていた。

 ならばこの世界は彼の願いの果てなのだろう。

 この世界は彼の心の願いに追従する。

 ならば彼は思ったのではないかな?

 『彼女の苦痛が取り除かれ、仲間に支えられ、苦難は終わり、皆に守られますように』と」

 

「え」

 

「この世界が異聞帯という名の彼の夢ならば、彼が君が苦労をしない未来の夢を見た」

 

 海がざぁ、ざぁ、と波間に音を立てている。

 

 もう永遠に誰も溺れることの無い異聞帯の海を見つめ、ホームズは淡々と真理を語る。

 

「彼は未だに君を、敵ではなく被害者だと考えているのだろう。

 それがこの世界が君の味方をする理由になっている。

 森晶刕惢がこの事象を知っているのか、気付いているのかまでは、分からないがね」

 

「……」

 

「彼が君を心の底から敵だと思うまで、君は全ての制限を取り払った最強の状態というわけだ」

 

「……それは、外れるかもしれない推理? 絶対にそうだっていう名推理?」

 

「森晶刕惢自身に聞かなければ確定はしない。

 だが、私はそれ以外の可能性はほぼ無いと考えている」

 

「そっか」

 

 立香の生き方は、平均的な人間から見れば情に溢れすぎている。

 普通の汎人類史の人間は異聞帯の人間と関わろうとはしない。

 汎人類史を残す以上、異聞帯は切除され、異聞帯の人間は全て死ぬからだ。

 ならば必要最低限の交流でいいはずだ。

 何もかも無駄で、心に嫌なものが残る繰り返し。

 ならば、異聞帯の人間に優しくすること自体が間違っている。

 

 それでも立香は出会った異聞帯の人間それぞれと、等身大の人間として向き合った。

 憎しみをぶつけたことはない。

 いずれ殺す塵芥として扱ったこともない。

 危なければ守り、殺されそうなら救い、友人として仲良くし、笑い合って。

 最後には異聞帯切除によって、死に別れた。

 その度に負う必要のない傷を負い、サーヴァント達はその不器用過ぎる優しさに、誰よりも人間らしい在り方に、心を痛めていた。

 

 優しい彼女のその生き方が、この世界でとうとう目に見える形で結実した。

 

 立香はいつものように歩み寄り、刕惢との共感、二人で交わした言葉の数々で、ほんの少しばかり救われた気持ちになった。

 それは、刕惢も同じだったことだろう。

 ゆえに、世界に反映される。

 だから、藤丸立香をこの世界が助ける。

 この世界が刕惢の理想と願いの世界なら、間違いなく刕惢は立香の幸福を願っている。

 

 世界に反映されているのだからごまかしようがない。

 地獄を進む立香が、少しでも楽であってほしいと、誰かに守られて傷付かないでほしいと、苦難に苦しめられないでほしいと、彼は思った。だからこうなった。

 立香の優しさが無自覚に刕惢の未来を削り、立香の未来を補強する。

 彼が立香を好きになればなるほど、立香が勝って彼が死に果てる確率が上がる。

 彼女の優しさが、彼女の未来を救う素晴らしき補助輪を成してくれたのだ。

 

 おそらくは、彼女が最も望まぬ形で。

 

 ただの善意で手向けた少女の優しさは、少年の心臓に突き刺さる剪定の短剣となっていた。

 

「海は、広いね。ホームズ」

 

 ぼんやりと、力の無い言葉で、立香はつぶやく。

 

 自分の中にあった善意に毒が染み込んでいくような感覚に、少女は苦しみを覚えた。

 

「ああ、広いとも」

 

「私、うんと子供の頃、海の向こうに素敵な世界があると思ってたんだ」

 

「ほう」

 

「小さい頃は、素敵な世界があるって思ってた。

 ちょっと経って、アメリカっていう素敵な国があると思ってた。

 今は……そういうことを思ってたことさえ忘れてて、今思い出した」

 

「海は夢を見せてくれるからね。そういう人も少なくはないさ」

 

「いつからだろう。なんでだろう。

 私は遠いところに理想郷なんてないって、いつから思うようになったんだろう……」

 

 それは立香が知ればそれだけで傷付く真実であったが、これからそれを利用して戦う以上、ホームズがマスターに絶対に伝えなければならない真実だった。

 戦場の真ん中で知って動揺されては致命傷になってしまう。

 ホームズは自分が大苦手とする"優しい言葉で上手いこと励ます"というミッションを前にして、ちょっとどう言えばいいのか迷ってしまう。

 

 と、そこに、新たな者達が会話に加わってきた。

 

「マスター、朝食の時間です。

 心中お察ししますが、食べましょう。

 どんなに心が疲弊していても、食わねば戦うことはできません」

 

「うふふ。母が取り分けてあげますからね。たんとお食べなさい」

 

「アルトリア、頼光さん」

 

「一通り街を回ってみましたが、私の直感スキルに引っかかるものはありませんでした。

 おそらく敵は約束を違えるつもりはない。今夜0時まで戦うつもりはないと思われます」

 

「現状、サーヴァントで組んだ即席の小隊は問題なく動いています。

 母はおそらく戦闘では前に出ますが、彼らはあなたを守りきるでしょう」

 

「うん、ありがとう」

 

 アルトリア、と呼ばれたのは剣士の少女。

 名をアルトリア・ペンドラゴン。

 伝説に語られるアーサー王であり、セイバークラスの代表格だ。

 彼女の直感は未来予知の域にあり、奇襲や罠といったものの存在を直感的に感じ取り、こういった集団戦の聖杯戦争においては所属集団への搦手のほとんど無効化してしまう。

 

 頼光、と呼ばれたのは武家の装いを身に纏った豊満な女性。

 名を源頼光。

 日本最高位の格を持つ、平安時代最強の神秘殺し。

 数多くの怪異を殺し尽くした、平安を代表する人理の守護者だ。

 個人としても最上位の強さを持つが、アルトリア同様人を率いて戦った経験が豊富で、こういった集団戦の聖杯戦争においては、アルトリア同様に将としての役割も果たせる。

 

 両者ともに、通常の聖杯戦争で優勝を狙える上級サーヴァントであり、今回の形式の聖杯戦争では大活躍を見込める英霊の将であった。

 

「そういえば聞けばアルトリアさんも私と同じ、産んでいない実子を持つ母だとか」

 

「いえ、あの、その、頼光殿、それで同じにされても困るのですが」

 

「あらあら、ご謙遜なさらないで。子を愛するのは母の本能のようなものです」

 

「……。マスター、この人私が反応しなくてもずっと一人で話しかけ続けてくるのですが……」

 

「頑張って、アルトリア」

 

「がんばります……」

 

 が、相性はそこまで良いわけではないようだ。

 立香が指示した集合時間が迫り、続々とサーヴァント達が集結していく。

 三人のエミヤが戦場から消えてから、既に14時間近くが経過していた。

 

 また一人、今度は少年の忍者が馳せ参じる。

 

「主殿、ホームズ殿。風魔小太郎、ただいま帰還しました」

 

「あ、小太郎おかえりー」

 

「宝具を解除しよう。成果はあったかね?」

 

「あったかなかったかもよくは分からなくて……

 ホームズ殿、こちら集めたデータをまとめたものです」

 

「よくやってくれた。ダ・ヴィンチの方に回してみよう」

 

 彼の名は風魔小太郎。日本で知名度の頂点に立つ忍者達の一人だ。

 アサシンの霊基で召喚された彼は、暗殺者として以上に諜報員として活躍している。

 調査・警護・侵入・戦闘、なんでもござれ。

 その分戦闘力は強力なサーヴァントと比べるとやや見劣りするが、あまりにもできることが多いため、むしろ戦闘力まで備わっていることがおかしい有能なサーヴァントであった。

 

 どんな世界でもカルデアは、戦闘力のみを重視するなどという隙を持たない。

 凡人が最後のマスターになったとしても、システムの補助に加えカルデア職員の生き残りやホームズにダ・ヴィンチなどが知恵を絞り、最適な采配によって隙を埋めてしまう。

 小太郎のような脇を固める多芸な駒がいることもまた、カルデアの強さであると言えよう。

 

「『初歩的なことだ、友よ(エレメンタリー・マイ・ディア)』、解除」

 

「ありがとうございます」

 

 加え、サーヴァントをガンガン動員できる今回の聖杯戦争は、通常ではありえないようなコンボがどんどん成立する。

 その一つがこれだった。

 

 『初歩的なことだ、友よ(エレメンタリー・マイ・ディア)』は、名探偵シャーロック・ホームズの逸話と物語を、強制的にこの現実に形と成す宝具である。

 具体的には、どんな謎でも真実に辿り着くための手がかりや道筋が『発生』する。

 どんな難事件でも。

 解決不可能な事件でも。

 証拠品を魔術で全て消し去っても。

 ホームズがこの宝具を発動していれば、真実に至る証拠が必ず見つかるのである。

 

 これは仲間への強化付与という形でも使えるため、ホームズは小太郎にこれを使い、彼を『ホームズの代わりに調べる者』と定義し、ステータスを強化し、調査に向かわせた。

 宝具は、伝説をなぞるモノ。

 コナン・ドイルの原作で、彼は助手や仲間が集めた情報から真実を見出してきた。

 

「風魔ワトソンくん、お疲れ様。マスターとして鼻が高いよ」

 

「風魔ワトソンの集めた情報から真実を見つけられるといいのだがね」

 

「風魔ワトソン……???」

 

 小太郎は、わけがわからず困惑するしかなかった。

 しかしながら、その有能さはホームズも認めるところである。

 

「君は一人でベイカー街遊撃隊(Baker Street Irregulars)をやっているような有能な諜報員だ」

 

「光栄です。確かベイカー街のストリートチルドレンの集まりの名前でしたね」

 

「そうだね。

 スコットランドヤードの警官1ダースより彼ら一人の方が有用だった。

 彼らのリーダーはウィンギンス少年……ああ、思えば君と少し似ていたかもしれない」

 

「そうなのですか?」

 

「ああ。私は彼らから学ぶところが多かった。

 子供でも必死に戦う、必死に抗う、必死に生きているというのは、その最たるものだね」

 

 ホームズはデータを持ってダ・ヴィンチと連絡を取りに行こうとするが、その前に立香に声をかけていく。

 

「ああ、マスター。先程の話を忘れずに」

 

「? どれ?」

 

誰がやったのか(フーダニット)

 この異聞帯、どうも役者が揃っていない。

 ミステリーで言うところの『真犯人』が登場している気がしない。

 どうやったのか(ハウダニット)

 どうこの世界を成立させたのか。

 成立過程がまるで想像できないのが怪しいにもほどがある。

 なぜやったのか(ホワイダニット)

 無数の"なぜ"がうごめく中に、おそらくこの世界の心臓がある」

 

「謎を解く、ってこと?」

 

「真実を掴め、ということさ。

 謎を解くことと真実を掴むことは少し違う。

 私自身、それに気付いたのは大分後になってからだったがね」

 

 ホームズはそれだけ言って、どこかへ行った。

 アルトリアと頼光は先程からずっとマスターをもしもの時に守れる位置で、これから先の戦略を話し込んでいる。

 立香と小太郎は朝食を作っているマシュの手伝いに回った。

 

 厨房のマシュの手足となって、立香と小太郎は話しながら皿などを先に並べていく。

 

「森晶刕惢殿、ですか。聞いた話だけで判断するならば、戦乱の世には向かない人物ですね」

 

「うーん、そういう感想になっちゃうか、やっぱり」

 

「主殿もそうですが、平穏が似合う人物の方がよいと思いますよ。

 戦いに向いているということは褒め言葉とは限りません。

 戦いが似合わない人間が溢れる世を作ることもまた、武家と忍者の務めですから」

 

「……そっか」

 

「しかし、刕惢とは……

 現代でそういう名前を見るとは思いませんでした。

 意外と主君を失い江戸に流れたという風魔の子孫かもしれませんね」

 

「え? なんかあるの?」

 

「なにかあるというほどのことではありません。ただの言葉遊びですよ」

 

 小太郎は近くにあったケチャップで、皿に『刃』の文字を書いた。

 

「主殿は『刃』という漢字の成り立ちをご存知ですか?」

 

「全然知らない」

 

「これは『刀』を表す字です。

 刀に書き加えたこの真中の斜めの線は、刃の位置を表します。

 つまり刃にあって刀にないこの線は、刀の鍔と同じ意味を持つのです」

 

「おー、豆知識だ。クラスでちょっと話盛り上がりそう」

 

「僕は忍、風魔の忍です。心ある刃、主君の道具、ゆえに忍」

 

「ふむふむ……あ、ちょっとまって。

 刕は刀三つ。惢は心三つ。

 刀が刃で……ああ、だから子孫かもって思ったんだ」

 

「はい、そうです。

 それとこの名前にはもう一つ意味があります。

 主殿はずっと、"刕惢と言っている"でしょう?」

 

「?」

 

「『刃と心と言う』……『認』。

 『認める』ということです。

 『この子と出会いその名を呼ぶ人が、この子を認めてくれますように』ということ」

 

「……おおー!」

 

「刃と心を合わせて『忍』。

 我々忍を示すこの言葉が初めて使われたのは石清水八幡宮焼き討ちだと言われています。

 延元3年3月……1338年3月です、マスター。そんな露骨に分からない顔をしないでください」

 

「れ、歴史は授業範囲外はそんなに……」

 

「覚えていてもあまり役に立つような知識ではありませんからね」

 

 小太郎は赤毛で目元を隠し、子犬のような笑みで立香の歴史成績の話を煙に巻いた。

 

「心なき忍はただの刃でしかありません。

 ゆえに我らは心を捨てない。

 主君のどんな命令に従いながらも、心だけは捨てないのです。

 なればこそこの漢字は戒めとなる。心だけでも、刃だけでもだけなのだ……と」

 

「忍、か。戦うことも、優しいことも必要、そんな意味の漢字一文字……」

 

「『木を隠すなら森の中』。

 一なるものは三なるものの中に隠すべし。

 然らばそれは裏に隠されし真となる。

 かつての時代に刕惢などという名を見たなら、僕はまず忍であることを疑っていましたね」

 

「はー、なるほどね」

 

「ですが現代でそういうモノである、ということもないでしょう。

 古くからある家系か、親に相応の学が備わっていたかだと思います。

 刃が三つの漢字は存在しないからと、同義の刀が三つの漢字をあてているのもそつがない」

 

 刕惢の名前が『認』と同時に、『忍』であるのなら。

 刕惢は『刃を捨てる』ことで、『心』で世界を救ったと言える。

 刃をもって戦わねば彼はその名を体現できないだろうが、彼がそれを決断しきれない人間だからこそ、ここまで優しい世界を維持できたとも考えられるだろう。

 

 忍たる小太郎に説明されてようやく、立香は小太郎が刕惢の名前に引っかかりを覚えた理由を理解した。

 心のみの忍に近い、刕の無い惢。ゆえに、この世界が出来た。

 

「親は『この子を認めてあげて』と祈りを込めた。

 それが宇宙に認められない剪定事象の最後のマスターとなるとは、なんたる皮肉。

 マスター。

 同情は要りません。

 それはあなたの刃を曇らせます。しかし……

 この世界を介錯してやる時は、せめて痛みも苦しみもなく、どうか一瞬で終わらせましょう」

 

 だからきっと、風魔小太郎のその言葉に悪意はない。

 

 救われぬ者にトドメを刺して救ってやろうとすることもまた、優しさゆえに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 約束の開戦まで、あと13時間ほど。

 立香とマシュは一つ確認するために、再度刕惢達の改造カルデア拠点に赴いていた。

 応接間でマシュは落ち着かない様子で、立香は背もたれにゆったり体を預けている。

 

 マシュは戦いを前にして、感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていくのを感じている。

 立香は戦いを前にして、重圧で感覚がだんだん麻痺していくのを感じていた。

 

「……なんだか、落ち着きませんね。先輩」

 

「そう?」

 

「先輩は落ち着きすぎです。開戦前の敵地ですよ」

 

「そうかなぁ。でも、確認しておかないといけないことがあるから」

 

「気を付けていきましょう、先輩。

 あのホームズさんが、謎解きのためだけに一番前に出て来ているんです。

 この世界には分からないことが多すぎます。

 何気ない所に存在する何かの意味を見落とさないように気を付けましょう」

 

「ん、そだね。そこはマシュが正しいと思う。気を引き締めて行こう」

 

 プレッシャーがよりのしかかっているのは立香なのに、気を引き締めるよう促しているのはマシュで、なのに会話を通していい感じに両方のメンタルが調整されるのは、この二人が名コンビである証だ。

 立香はフラットに近付いた精神状態で、応接間の隅っこにある不思議な箱を見つける。

 

「あれ? これなんだろう」

 

 いくつか並んでいる箱の中で一つだけ、記号が書かれた箱があった。

 箱の中には袋が入っているが、中身は空っぽだ。

 記号は二つ。『Δi』。

 子供の落書きのような殴り書きで、立香もマシュもそこに秘められた意味が分からない。

 

「おそらくスラングの一種だと思いますが……」

 

「三角形とアイ?」

 

「デルタとアイかもしれません」

 

「愛があるってことかな?」

 

「右から左に読んで『あいさんかっけー!』とか……?」

 

「わっ、いいねマシュ。流石メガネかけてるだけある」

 

「メガネは知性の証明ではないですけど……? ふふっ、私、推理小説が好きですから」

 

 ああだこうだと話しても、どうにもしっくりこない。

 ただの落書きだ、暗号だ、文字の意味を持たない目印だ、と刕惢を待つ間立香とマシュはやんややんやと語り出す。

 その二人の会話に割り込むように、突如小さな少女が現れる。

 

「それ、おかあさん(マスター)が学校で一番の友達と作った言葉だよ。箱はゴミ箱」

 

「「 !? 」」

 

 "アサシンの気配遮断だ"とマシュが気付いたその時には、発見不可能なほどに気配を消し去った小さな白髪の少女が、マシュと立香の後ろに立っていた。

 二人はこのアサシンの名を知っている。

 今、もしこの少女に殺意があったなら、自分達が殺されていたことを痛感している。

 

「マシュ、お客様?」

 

「ジャックさ……いえ、異聞帯のジャック・ザ・リッパー?」

 

 其は恐るべき殺人鬼、ジャック・ザ・リッパー。

 世界で最も有名な殺人鬼。

 幼い少女の形をした殺戮の形。

 マシュは異聞帯のジャック・ザ・リッパーが自分に無垢な笑顔を向けてくる理由が分からなかったが、すぐに彼女が勘違いしているということに気付いた。

 

「マシュ……?」

 

「……いえ、違います。

 私はマシュ。マシュ・キリエライトで間違いありません。

 ですがあなたの知るマシュではないのです。ごめんなさい」

 

「? ? よくわかんないや。おかあさん(マスター)に後で聞くね」

 

「はい。そうしてください。それと、この記号が言葉だということですが……」

 

「うーんとね、おかあさん(マスター)には大事な友達がいたんだ。

 そのお友達と一緒に作ったんだって。

 さんすー? すーがく? それで、こういう言葉を作ったんだって」

 

 ジャックの言葉を聞いて、専門的な知識で教育されているマシュはピンと来た。

 

「なるほど。分かりました、先輩」

 

「え、マシュ分かったの?」

 

「はい。ここまでヒントをいただければ可能でした」

 

 マシュは箱の表面の『Δi』を指で指し示す。

 

「数学の世界には、特定の概念をアルファベットで表し組み込むことがあります」

 

「円周率のπとか?」

 

「はい。Δとiも非常によく使われるアルファベットです。

 iは虚数。虚数空間の定義に使われる概念。

 Δは微小量。大源(マナ)に対する小源(オド)の計算などに使われます」

 

「なるほど……?」

 

「ですが、虚数にはスラングとしての使い方があります。

 虚数が生み出されたのは16世紀。

 しかし当時、0、マイナス、虚数は無価値とされていました。

 使い方が分からなかったのです。

 想像上の数(nombre imaginaire)と呼ばれた虚数は、()()()を示すスラングになったのです」

 

 かつて、この世界を悪の徒が訪れた。

 名を、リンボ。

 アルターエゴ・リンボと言う。

 曰く、平安の悪意より生まれた美しき肉食獣。

 リンボは多大なる悪意をもって、この世界に自分が使わんとした『亜種空想樹の試作品』を提供し、この世界を特異点にして異聞帯である世界になるよう仕向けた。

 

 元より剪定事象となる運命の世界だ。

 刕惢は平安の男がリンボと名乗っていることすら知らないが、感謝している。

 胡散臭いとは思っているものの、リンボと会えば心の底からの感謝とお礼をするだろう。

 そんな刕惢の世界に対し、アルターエゴ・リンボは一つの名前を付けた。

 

「じゃあマシュ、Δiっていうのは……」

 

「Δiが示す意味は一つ」

 

 リンボが付けたこの世界の名は、『特異点Δi』。

 

 森晶刕惢の大切な友との思い出を勝手に使い、勝手に付けた世界の異名。

 

 

 

「『価値のない微小なゴミ』という意味になるということです。先輩」

 

 

 

 その名前は。

 

 あまりにも残酷で。

 

 あまりにも悪意的で。

 

 あまりにも的確だった。

 

 

 



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2

 刕惢はほどなくしてやってきた。

 一見して変なところはない、いつもの黒髪の少年であったが、見る人が見れば服の下にじっとりと浮かんだ汗に気付いていただろう。

 息を整えてはいたが、「待たせたらいけない」と走ってやってきたようだ。

 

 その斜め後ろ左右に、二人の少女が居た。

 ジャックが色素の抜けた死体のような白髪なら、その二人は陽光に照らされた雪のような銀色の髪の少女達であった。

 

「や、いらっしゃい。立香。マシュ。

 立場上絶妙に歓迎はできないんだけど一番高いお茶と茶菓子は出すよ」

 

「ようこそいらっしゃいました!」

「ようこそいらっしゃいました!」

 

 立香とマシュは驚くとまではいかないが、二人の銀髪の少女に目を丸くしていた。

 その二人の少女の名はジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ。

 カルデアで最も長い名前を持ち、最も多くのカルデア職員の舌を噛ませた少女である。

 

 救国の聖女ジャンヌ・ダルクに対し、『そうあって欲しい』とある男が妄想を押し付けた虚構の想像存在がジャンヌ・ダルク・オルタであり、それがサンタになろうとして失敗し、子供(リリィ)になってしまった。

 それが独立存在として、ジャンヌともジャンヌオルタとも別個の存在して確立した、ランサーのサーヴァント。それがこの少女である。

 世界で最も有名な聖女、ジャンヌダルクのマイナーチェンジのマイナーチェンジだ。

 

 そこまで奇天烈な存在のため、同じ姿のジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィが二人揃って立っているという事態が、あまり見慣れないものになっていた。

 少女二人は刕惢の手を左右から握って、にこにこと無邪気に笑っている。

 

「ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィが二人いる……?」

 

「本物のジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィはこっちの子だよ」

 

「おふたりともなんでそんな早口言葉じみた速さですらすら言えるんですか?」

 

 わざわざフルネームを言う刕惢と立香に、マシュが冷静に突っ込んだ。

 

「片方はナーサリー・ライムだよ。立香なら分かるだろ?」

 

「あ、あー、なるほど」

 

「私が私です!」

「私が私です」

 

「私にはわからないです……」

 

 ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィなのは片方だけ。

 もう片方はその姿を真似しただけの、別種のサーヴァントだ。

 

 『誰かの為の物語(ナーサリー・ライム)』。

 彼女は実在した絵本という幻想と、それに向けられた人の思念が成立させたもの。

 世界中の子供達に愛された絵本や物語が一つの総称で一つの存在と化し、イギリスの童歌という殻を被って顕現した存在だ。

 

 その実体は人の姿を持たず、子供の姿を真似た姿で召喚される、歩いて笑う一つの世界。

 エミヤが自分の心を固有結界として世界を塗り潰すサーヴァントならば、ナーサリー・ライムは他人の心を自分に写し取る固有結界であるサーヴァントである。

 今は、ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィを模しているようだ。

 だから、同じ幼い少女が二人居るように見えている。

 

「だからジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ・ナーサリー・ライムだな」

 

「ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ・ナーサリー・ライム!」

 

「長い! おふたりともなんでそんな早口言葉じみた速さですらすら言えるんですか!?」

 

 この二人の間でだけ通じるノリというものがあって、マシュはついていける気がしなかった。

 

 立香はくすくす笑っている自分に無自覚だった。

 

「お兄さん、ジャックさんをお借りしますね」

 

「お借りされるねー」

 

「ああ、どうぞ」

 

 リリィから刕惢への"お兄さん"という呼称に、立香は首をかしげた。

 汎人類史のリリィが立香に対し使っている呼称と違っていたからだ。

 

「それにしても、ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィに、お兄さん?

 って呼ばれてるの変な感じするね。私はトナカイさんって呼ばれてたけど……」

 

「俺はジャンヌ姉さんの弟だから、リリィの兄ってだけのことだから」

 

「私この幻覚にめっちゃ見覚えある」

「奇遇ですね先輩、私もあります」

 

 そこで、ドアが開きっぱなしの応接間の前を、金髪の美女が通り掛かる。

 半ば反射的に、刕惢とリリィはその女性に好意的な声を投げかけていた。

 

「あ、ジャンヌ姉さん。おかえり」

「ジャンヌお姉さん!」

 

「あら、お客さんですか。ごゆっくり」

 

「私この幻覚にめっちゃ見覚えある!!!」

「私もあります先輩!!!」

 

 金髪の聖女が口元に手をあてて微笑みどこかへ行くのを見送り、立香とマシュはたいそうびっくりして、その背中を見送った。

 そして、何らかの残滓がちょっと残っている刕惢とリリィを見る。

 マシュが苦笑して、立香が口元を抑える。

 

「私こういうのに弱いからなんか思いっきり笑っちゃいそう」

 

「別に笑うなとか」

 

「……。あはは、あは、は……ちょっとね」

 

 そして、立香の笑顔が突然に不格好になる。

 何気なく笑い合う気安い会話の途中に、罪悪感で喉が詰まった。

 

 ふと、思ってしまったのだ。『ダメだ』と。

 そして、「面白くて楽しいところだね、ここ」と言いそうになった。

 立香はそうして、心の底から笑いそうになってしまった。

 

 立香は思う。

 笑ってしまっていいのだろうか。

 この世界を肯定して。彼と笑い合って。

 彼に好かれて、いいのだろうか?

 そうして、もっとこの世界の後押しを得ていいのだろうか?

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()という、邪悪にまで堕ちていいのか?

 

 彼と笑い合うのは簡単だ。

 彼に好かれるのもおそらく簡単だ。

 なにせこんな世界を作り上げた男である。

 大抵の人間の大抵の行動は好感度を稼ぐことになるだろう。

 それに加えて立香は同じ七つの異聞帯の旅路を駆け抜けた共感者だ。

 刕惢にもっと好かれて、もっと簡単にこの世界を殺すことは容易だろう。

 

 その事実を認識していることが、立香の自己嫌悪に繋がっていた。

 そういう思考を持ててしまう自分に、立香はおぞましさを感じる。

 

 刕惢と話し込んで、かつての自分を思い出したばかりの立香には分かってしまうのだ。

 かつての自分は、きっとそんなこと想像もしなかったということが。

 

 ここまでの会話の繰り返しで、立香は自覚を持てている。

 

 この世界の人達は皆優しく、特に刕惢と居る時の会話が、立香は楽しくて仕方なかった。

 久しぶりに昔の自分に戻った気分で大笑いできそうだった。

 笑っていると、立香の笑顔をとても優しい表情で見ている刕惢が見えた。

 刕惢は皆が笑える世界を作った人で、笑っている人が好きで、だから笑っている人も好きで、笑っている立香を好きになり、その分だけ死に近付く。

 だから立香は、自然に浮かべそうになった笑顔を止める。

 

 ―――そうして、つい自然な笑顔の浮かべ方を忘れそうになる。

 

 立香の言葉には、常にごく当たり前の優しさがある。

 褒め言葉は多く、共感の言葉があり、他人の気持ちを慮りながら話しているため、他人の神経を逆撫ですることもあまりない。

 刕惢と話している時、その優しさがどれだけ刕惢の救いになったことか。

 彼の心に立香の優しさを染み渡らせる度、彼は立香に心を許し、この世界は汎人類史に有利な特性を付与するだろう。

 だから立香は、つい優しくしようとしてしまった時、自分を抑える。

 

 ―――そうして、つい他人に優しくする方法を忘れそうになる。

 

 立香がこれまで何気なく振る舞ってきた笑顔が、優しさが、気遣いが、そのまま他人の余命を削り取る刃になっている。

 だから立香は、それらを何も考えずに振る舞えなくなった。

 優しい他人をナイフで切り刻むこともできない少女に、そんなことができるはずがない。

 

 刕惢は微笑んでいる。

 出会って一日の相手でしかないのに、立香を十年来の友のように扱っている。

 おそらく、きっと。

 今、立香がナイフでも突き出せば。

 きっと彼は避けられない。おそらく、そんな想像もしていないから。

 立香は違う。

 今日まで裏切り、騙し討ち、奸計、様々な仕打ちを受けて経験を積んできた立香は、疑いようもなく素晴らしき善人であるが、それでもここまで無防備に胸襟を開けない。

 

 もっと微笑みかければ、もっと優しくすれば、おそらく労せずこの世界は消せるのだろう。

 そんな誘惑に揺れる自分の心を、立香は強く戒めた。

 善人の証明は、聖人のような心を持つことではなく、誘惑に必死に負けない心に宿る。

 

 溶かした鉛を流し込んだような感覚になっている喉を、立香は必死に動かした。

 

「あのさ」

 

 話題を変えようとした。

 楽しい話をしようとした。

 中身の無い話をしようとした。

 思い出話でもしようとした。

 けれど立香が"それでもっと好かれたら?"と思えば、唇が止まる。

 "それも殺すための言葉になるのではないのか?"と思えば、舌は動かない。

 そして結局、何も言えなかった。

 

 立香はいくつもの異聞帯の滅びと死別を、既に何度も繰り返している。

 自分の世界の存続のために他の世界を犠牲にする旅路を自らの意志で続けている。

 けれど、それでも。

 

 笑顔や優しさで他人をたぶらかし、他人から自分に向けられる好意を利用して、その好意に泥をかける形で勝つことなど、まっぴらごめんだった。

 なのに、立香がそれを望んでいないのに――誰も望んでいないのに――、そうなってしまう。

 望んでいないのに自分の優しさを裏切り、彼の好意を踏み躙ってしまう。

 

 最後の最後に「あの優しさは俺を利用するためだったのか?」なんて言われたら、立香は自分の心にヒビが入らない自信がない。

 楽しかった会話の時間を嘘にしてしまう苦痛は、きっと心に深く刺さるから。

 

 好かれることが裏切りの罪になるという、最悪の構造。

 多くのサーヴァントに好ましく思われる善良な立香は、ごく当たり前に好かれやすい。

 好かれやすいということは、裏切りの威力が強まるということだ。

 

 かといって、刕惢に打ち明けたらどうなるか。

 現在、立香の戦力拡充はほとんどこの世界の特性に依っている。

 仮にそれが打ち止めになれば、現在揃えられた戦力も軒並み消失してしまうだろう。

 ならば、それは汎人類史への裏切りになると言っても過言ではない。

 現在見えている勝利への道筋を半ば放棄するような選択になるからだ。

 

 選択肢は二つ。

 どちらを選んでも、苦しみからは逃れられない。

 生まれて初めて、立香は『好かれていることに罪悪感を覚えていた』。

 

 胸の奥で、心臓を炎で炙られているような地獄の苦しみが、大きくなっていく。

 

「立香、どうした?」

 

「ううん、なんでもない。本題に入っていいかな、刕惢」

 

「ああ」

 

 今と比べれば以前は、何も考えなくてよかった。

 特異点を巡って人理を修復していた頃は、現地の人間と何気なく言葉を交わしていた。

 亜種特異点を走り回っていた頃は、気兼ねなく皆と仲良くできていた。

 けれど、今はただ仲良くすることすら、罪悪感と躊躇がある。

 

 藤丸立香がごく自然に発した言葉を、好きになってくれる人がいる。

 ありのままの彼女を好きになってくれる人がいる。

 何も考えないで振る舞って、それだけで好きになってくれる人がいる。

 

 それが嬉しい。

 それが苦しい。

 それが地獄だ。

 

 ありのままの自分を好きになってくれる刕惢が好ましくて、彼がこれ以上自分を好きになることが嬉しくて嫌で、ありのままの自分を見せるのを必死に抑える。

 立香は懸命に表情を取り繕って、自分でない自分になろうとした。

 効果はきっと、大してない。

 

「本題……ああ、昨晩戦闘があった件か」

 

「そう、それ。それなんだけど。

 私の召喚したエミヤが二人消えてるの。

 いつも個人行動してる二人だからそれはいいんだけど……

 ほら、私達の場合、異聞帯で使うサーヴァントの状態ってまちまちじゃない?」

 

「そうだな。

 一時召喚しか使えなかったり。

 一時召喚も使えなかったり。

 サーヴァントが同行できたりできなかったり。

 倒されたサーヴァントが座に帰ったり、カルデアに帰ったり」

 

「うん。この世界の状態だと、倒されたサーヴァントは戻るだけ。

 倒されても座に帰ったりするわけじゃないから別の個体になるわけじゃない。

 だからすぐ召喚して事情聞こうとしたんだけどね?

 なんだかよくわからないんだけど霊基の治りが遅くて呼べないって言われちゃった」

 

「こっちもそうだ。

 エミヤが再召喚できてないから何があったか分からない。

 戦ったことは確かなんだろうが。

 えー、実はそれに関して、こちら側のキャスターが調べてて、分かったことがあって」

 

「何か分かったの?」

 

「この世界の……ええと、アレなアレ。

 ごめん、説明できねえ。

 アレとしか言えないけど、こう、雰囲気で分かってくれ……」

 

「いやうんいいよ、そういうの話せない事情はちゃんと分かってるから」

 

 立香の隣で、黙って話を聞いていたマシュが、密かに含み笑いをする微かな音が聞こえた。

 

「アレがアレでな。霊基にあれで。

 つまりそのムーンセルの……クソ!

 笑い話にできない嘘は苦手なんだ!

 ええいとにかく、しばらく倒されたサーヴァントは影響を受ける! こっちもそっちも!」

 

「つまり?」

 

「つまり今回の聖杯戦争において、敗退したサーヴァントは再召喚されない」

 

「!」

 

「敗退した後は、どちらかの世界が滅びるまで、何もできないってことになる」

 

「……そうなんだ」

 

「これは予想外だった。

 今の世界のシステム完成させてから、倒されたサーヴァントなんていなかったから」

 

 刕惢は四苦八苦しながら、とにかく正確に伝えようとする。

 加えて、不手際と予想外のことが起こったことに頭を下げた。

 

「いやすまない。

 俺こういうの始めてなんだ。

 やったことないんで運営の不手際、重ねてお詫びする」

 

「そんなサバフェスの合同誌の初主催者みたいな」

 

「大丈夫か? 初めて訪れる世界に慣れなくて衣食住で辛い思いとかしてないか?」

 

「大丈夫だから、なんでこんな聖杯戦争開始前に相手の心配してるの」

 

「いや、心配は……してないぞ。やらなきゃならないからやる。お前が教えてくれたことだ」

 

 練習してきたのだろうか。

 昨日よりは敵らしく振る舞えている刕惢の拙い縁起に、立花の口角が動く。

 『嘘ばっかり』、と立香は思った。

 自分がその時微笑んでいたことに、立香は自覚がない。

 

「でもよかった。異星の神のリンボが裏で何かしてたのかと思ってたから」

 

「……異星の神のリンボ?」

 

「リンボは……うん。話しておいた方がいいかな。ちょっと前に……」

 

 立香は一人の男について語ろうとする。

 

 なのだが、そこで。

 

「ちょっとれーちゃん! また私の部屋勝手に掃除したでしょ!」

 

「あっ」

 

「勝手に部屋に入らないでって言ったよね!? (わたし)世界(へや)は聖域だよ!?」

 

 もう一人、部屋に殴り込んできた。

 

 

 

 

 

 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

 その言葉に最も正しく体現できるサーヴァントは彼女だと、刕惢は思っている。

 さらりと流れる綺麗な黒髪、よく整った容姿、異性に緊張感を与えない柔らかな目つきと声、ちょっと頑張って勉強した跡が見える姫らしい上品な所作。

 やや肉感的な体型も合わせて、漫画で非常に人気が出たメインヒロインの和風お姫様をトレースしたような容姿と服装、そして振る舞いを兼ね備えている。

 

 名を『刑部姫(おさかべひめ)』。

 クラスはアサシン。

 日本でも上位層の知名度を持つ化物が、人の形で召喚された者である。

 

 正座のように正しい姿勢を取れば綺麗で。

 ちょっと媚びたような所作を取れば可愛く。

 肩の力を抜いて何気なくぼーっと景色を眺めているだけでも美しい。

 カルデアのサーヴァントの、"和風美人"というカテゴリの中では、汎的感覚における『美人』の正解の一つとすら言えるだろう。

 

 ただ、刕惢からの認識は、あくまで"体現できる"止まりであった。

 

「部屋にはね?

 見られたくないものがあるの。分かる?

 いや、あのね、そんな大したものはないけどね?

 本当は見られても平気なものしか置いてませんけど?

 見られて困るものなんて乙女だからないし?

 でも踏み込まれたらプライバシー侵害じゃない?

 それなら気を使ってくれてもいいんじゃない?

 いや、見られて困るものはないけど、そこはこう気を使ってね?」

 

 なのになんでこんなにお笑い芸人みたいな振る舞いしかできないんだろう、と刕惢は思った。

 「おさかべー」「あそぼー」と群がってくるジャック達をちぎっては投げちぎっては投げ、刑部姫はマスターたる刕惢の襟元を掴んで力いっぱい揺らす。

 顔がほんのり赤かった。

 ほんのり赤いに留まっているあたり、"見られて困るもの"は見つからなかったようだ。

 

 刕惢はできる限り優しい声を作って、刑部姫に微笑みかけた。

 

「おっきーさ、最近のおっきーの部屋で、ゴキブリが繁殖してる疑惑があるんだよね」

 

 さあっと、刑部姫の顔色が悪くなり、目線が横に泳いだ。

 立香とマシュが席を立ち、刑部姫の反対側の部屋の端に無言で移動した。

 ジャックと二人のリリィは、刑部姫の服からゴキブリが出て来る可能性に身構えた。

 

「ち、違うの!

 世界が平和になったから!

 あー楽になったなーって!

 もう酷使されないなーって!

 そういう気の緩み? そうそう油断!

 そういうのがね? 部屋を荒れさせてね?

 でも違うの! 確かに先週ゴキブリ見たけどまだ疑惑止まりだから!」

 

「ま、他のゴキブリ居なかったしね、おっきーの部屋。見つけても森に逃してたけど」

 

「い……嫌っ……ゴキブリの幸せまで願わないでっ……殺してくださいっ……!」

 

「あのね。ゴキブリだって生きてるんだよ? 人を殺すわけでもないんだし……」

 

「その慈悲をゴキブリに向けないでー!

 人だけに向けてー!

 できれば(わたし)にだけ向けてー!」

 

「また今度ね。なので俺が掃除しました。だからこまめに掃除しなさいって言ったのに」

 

「母親か!

 (わたし)に分かりやすい配置で置かれてたんですー!

 あーあ、片付けられちゃってどこに何があるか分からなくなっちゃったー」

 

「ああ、ごめんね。でも毎日言ってるのにおっきーが掃除しなかったからね」

 

「母親か!

 やる気はあったんですー!

 はー、れーちゃんにそう言われるたびにやる気なくなっちゃうんだよなー、あったのになー」

 

「ごめんね。じゃあ今晩のご飯、何か一品お詫びにおっきーの食べたいもの作ろうか」

 

「なんでもいいよ」

 

「こらおっきー! そういうのが一番困るからやめなさいって言ったろ!」

 

「母親か! 本当になんでもいいから!

 そういうこと話してるべき世界の情勢じゃないでしょ!

 世界! 戦争! 汎人類史! 異聞帯!

 なんでいつも通りの近くに居るだけで幸せになれそうなれーちゃんなの!?

 第一、れーちゃんが作るんなら(わたし)本当になんでもいいし……いいし……」

 

 めっちゃ甘やかすじゃん……と、立香は思った。

 

「先輩、気付きましたか?」

 

「刑部姫の耳?」

 

「ですね。狐の耳があります?」

 

 ぴょこぴょこ動く刑部姫の頭部の狐耳を見て、立香とマシュはひそひそ話す。

 

「霊基パターンはほぼ同じ。私達が知っている汎人類史の刑部姫さんと同じです」

 

「じゃあコスプレで耳付けてるだけ?」

 

「刑部姫さんは元々変幻自在の大化生です。

 私達が知るのは蝙蝠の彼女でしたが、狐の伝承が主流でした。

 霊基パターンに変化が無いなら……ホームズさんに相談すべきかと」

 

 ひそひそ話す立香とマシュに、ずんずんとイキり刑部姫が歩み寄ってくる。

 

「ちょっと、そこのちょっと可愛い娘御達?

 (わたし)をコスプレって言った?

 ちくしょう近い! あってもなくても同じだし!

 でもねでもね、これには……あれ。あ、あの。

 その右手にある真っ赤な紋章もコスプレでしょうか……?」

 

「令呪だよ。カルデアの」

 

「……汎人類史の、マスター?」

 

「はい、汎人類史のマスターです」

 

 イキりが死んだ。

 刑部姫は全世界のゴキブリが憧れの目線を向けるような動きで、カサカサと凄まじい速さで床の上を駆け、刕惢の後ろに回り込んだ。

 そして刕惢を盾にするようにガッチリ抱きしめ、そこから声を張り上げる。

 

「帰れ! 帰れ! ここは(わたし)たちの世界、侵略者はお呼びでないのよ!」

 

「俺を盾にしてなければ凄くカッコよかったと思う」

 

「え、そう? 今からやったら(わたし)のこと好きになったりする?」

 

「今も好きだよ。多分期待されてる好きじゃないだろうけど」

 

「ぐえー、いけず……」

 

「敵同士だから無礼を謝らなくていいけど、気を付けてねおっきー。

 敵だからって失礼なことしてもいいわけじゃないから。

 自分がされたら嫌なことは敵にもするんじゃないぞ、おっきー。分かる?」

 

「いや自分がされたら嫌なことを相手にするのが戦争の常識でしょれーちゃん正気?」

 

「いや……まあ……それはそうなんだけど……俺はそのへん別に……」

 

「おのれ汎人類史……! 残酷に綺麗に殺してあげる! (わたし)の仲間がね!」

 

「自分で来ないんだ……」

「自分で来ないんですか……」

 

 刑部姫は、日本を代表する『城化物』。

 すなわち、城から出ない。

 城の中ではほぼ無敵。

 そして伝承のほとんどが城の中に集中する、『城という一つの独立した世界』の支配者だ。

 

 外に害を及ぼすことなく、狭い自分の世界を守る。

 自分のためだけの理想郷の中ならば無敵。

 自分の世界の外側に興味はないが、外の世界から踏み込んできた敵は許さない。

 刑部姫の世界に踏み込み、刑部姫に許されなかった命は、息絶える。

 

 伝承にそう語られるがゆえに、サーヴァントの彼女は根幹からそういう存在として成立する。

 

 サーヴァントのほとんどは外向きだ。

 冒険、侵略、探索、開拓。

 外へと向く強いエネルギーが、その存在を英霊たらしめる事が多い。

 対し刑部姫は外向き(アウトドア)ではない、珍しい内向き(インドア)のサーヴァントである。

 彼女は閉じた世界の内側でのみ、己の伝承を紡ぎ上げる大化生。

 

 外界から来て自分の世界を踏み荒らすよそ者を、刑部姫は決して許さない。

 

 ただ今は、ちょっと情けなくてちょっと臆病なヘタレ超美人でしかなかった。

 

「今、異星の神のリンボの話をしてたところなんだ。ちょっと部屋の隅っこで黙ってて」

 

「れーちゃん酷い! グレてやる! ……ん? 異星の神のリンボ?」

 

「一回話が中断しちゃったけど、順を追って説明するね。

 マシュ、必要なら補足お願い。

 異星の神が従える三騎の使徒。その中でもアルターエゴ・リンボは……」

 

 立香は順を追って話し始めた。

 

 アルターエゴ・リンボが、異星からの侵略者、異星の神の手先となっていたこと。

 そして数々の悪意ある陰謀を仕掛けて来たこと。

 リンボは神の目的を助けるだけでなく、自分の目的のためにも動いていたこと。

 数え切れないほどの人達がリンボのせいで死に、あるいは不幸になったこと。

 その正体が芦屋道満の悪性より生まれたもう一人の自分(アルターエゴ)だったこと。

 

 聞けば聞くほど気分が悪くなるような話ばかりであった。

 アルターエゴ・リンボなるものは悪辣で、邪悪で、醜悪な精神面を持ち、それによって他人を次々と不幸にしていったという。

 他人にとっての価値あるものが滅びる時、リンボは至高の歓喜を覚えていたとか。

 

 リンボの企みは、空想樹という、異聞帯を汎人類史に定着させるものを使ったもの。

 この世界には平安の男が訪れ、それがもたらされたという。

 この世界はリンボの陰謀に巻き込まれているのだと、立香は主張していた。

 

 それを聞き、刑部姫は納得した様子で椅子に座る刕惢の肩をぽんぽん叩いていた。

 

「はっはーん、読めたね。やっぱりそういうことだったんだ」

 

「おっきー?」

 

「いくらなんでもさー、ちょっと悪意的だとは思ったんだよね。

 自然にここまで残酷なことある? みたいな。

 いやだって、ここまでどうにもならないことなくない?

 でも納得。これは状況打開不可能に見せかけた、どっかの誰かの計画だったわけ」

 

 刑部姫は得意げに語る。

 

「れーちゃんがそいつぶっ飛ばせば万事解決! 多分!

 諦めなければなんとなる気がしてきた!

 今までだってボス倒せばとりあえずいい感じにはなってたし!

 黒幕って言うなら、そいつを捕まえたら今後の解決策を吐かせることだって……」

 

 藤丸立香は困ったように曖昧に笑みを作って、"そうだったらよかったのにね"と思う。

 

 刑部姫の希望を砕く言葉を口にするにあたり、舌がとても重く感じられていた。

 

「ううん、違うよ」

 

「え、違う?」

 

「あってるのは悪意的って部分だけ。

 うん、この状況はリンボによって作られたのは間違いないと思う。

 でもね、剪定と編纂は宇宙のシステムなんだって。

 リンボは宇宙の形に沿って陰謀の仕込みを置いていっただけ。だって……」

 

 始まりは人の悪意でも、今はもう止められない世界の摂理。

 そういうものがあることを、藤丸立香は知っている。

 

「全ての黒幕だったアルターエゴ・リンボはもういない。平安京で私達が倒してる」

 

「―――へ?」

 

「言いたくない、けど。

 これはもうどうにもならないんだよ。

 倒せば全てが解決するラスボスはいない。

 異星の神も、リンボも、ただ強いだけ。倒したら終わり。

 でも、私達が戦うのは……それとは関係のない、宇宙の決まりごとなんだって」

 

 ふぅ、と立香は深いため息を吐く。

 誰よりも近くに、自分の右隣にマシュが居てくれることが、ささやかな心の救いだった。

 

「酷い話だよね」

 

 万感の思いがこもった、藤丸立香の不屈と絶望が混じり合った一言だった。

 

「私達はリンボと戦ってきた。

 だから分かるんだ。

 あいつがここで何を企んでいたか。

 多分あいつは、平安京と同じことをしようとしてた。

 私達は平安京で仲間だったサーヴァントと戦わされた。

 リンボが、私達の苦しむ顔を見るために。

 この世界と同じように、平安京でも異星のものじゃない空想樹があった。

 リンボはそれで大きな力を作って、それを最終的に自分のものにしようとしてた」

 

 ここは、立香らが戦った平安京のプロトタイプか、あるいはその先だったのだろう。

 基本構造だけを見れば、カルデアのマスターに仲が良かった仲間をぶつけて殺し合わせ、異星の神が関わらない空想樹を育てさせたのは、平安京であったという戦いそのものだ。

 

 ただし中身は極めて悪意的で、リンボが自分の最終目標に最初の挑戦を行う予定だったのが平安京なら、立香とカルデアを苦しめることだけに特化したのがこの世界なのだろう。

 この世界は丸ごと一つ、藤丸立香に消えない傷を付けるためだけの異聞帯。

 

 汎人類史に勝てばよし。そのままリンボの大望は躍進する。

 負けても少女に傷を付けるならよし。

 汎人類史のカルデアに揺さぶりをかけられるし、何よりリンボの気分がよくなる。

 この世界は既に滅びたアルターエゴ・リンボにとっては、見ていて楽しい見世物が行われる娯楽小屋としての側面を持っていた。

 負けてもともと、勝ってもよし、その程度の薄い期待。

 

 主役(カルデア)に、Δi(ゴミ)が勝利すると予想する者など居ない。

 

「先輩、補足をします」

 

「うん、お願い」

 

「記録によれば、リンボは平安京の戦いの最後に逃げる予定だったようです。

 あくまで推測になりますが、この世界は逃げる先の候補の一つだったのでは?

 空想樹の亜種がここには育っています。

 おそらくですが、ここでリンボは力を取り戻すという備えがあった。

 この世界を喰らい尽くす予定があったのかもしれません。

 亜種の空想樹が四つあるということは……ここは、一種の食料貯蔵庫だったのでは?」

 

「ああ、そうか。

 一回使うだけなら一本でいいもんな。

 俺達の世界を汎人類史にぶつけなければ、ゆっくり成長するのが四本残る。

 これをパワーソースにもできるし、緊急事態には回復リソースにできるのか」

 

「はい」

 

「……そういうことか。少し、納得できた」

 

 呆然とする刑部姫の内側に、憤りと、困惑と、焦燥と、絶望と、悲嘆が少しずつ満ちていく。

 

「え? じゃあ……何?

 (わたし)達の世界は……

 必要だから、とかじゃなくて。

 求められたから、とかじゃなくて。

 奇跡が重なったから、とかじゃなくて。

 どっかの悪党が避難地にするため?

 あるいは力を取り戻すおやつにするため?

 そのくらいの理由で、虫飼い箱みたいに、ここにあったってことなの?」

 

 悪に利用されるも、最後に悪を討つ物語は汎人類史にのみ許されている。

 リンボという悪役がいて、それを倒せばいい物語は汎人類史にのみ許されている。

 絆を紡ぎ、最後に未来を勝ち取る物語るは汎人類史にのみ許されている。

 

 ここは試用の異聞帯。悪を討つ主役の世界でもなんでもない、美しき肉食獣の喰い残し。

 

 邪悪なるリンボが目をつけなければ、そもそも残る未来が絶対的になかった世界。

 

 汎人類史が地獄の頂点ならば、この世界は悪の餌と言えるだろう。

 

「……悪党が死んで、俺達は悪党が置き忘れていった玩具……か」

 

 刕惢はそう呟いて、苦笑した。

 苦笑の仮面だった。その奥にある感情を隠すための偽装だった。

 刑部姫は名探偵ではない。

 ちょっとしたことから他の者が辿り着いていない真実に辿り着く者ではない。

 

 けれど、己のマスターに関しては、人一倍敏感だった。

 

「あの、刑部姫さん」

 

「帰れ」

 

「え?」

 

「……れーちゃんに、要らないことを聞かせて……!」

 

「!?」

 

 それは八つ当たりに近いものだったが、『汎人類史』というものに対し、この世界の者達が抱いている鬱憤のほんの一部でもあった。

 許すまじ、汎人類史。

 出ていけ、汎人類史。

 消え去れ、汎人類史。

 そういった、この世界に今はひっそりと渦巻き、やがては皆が持つようになる感情の渦。

 それが"刑部姫の特性"と噛み合い、非常に珍しい刑部姫の攻撃性として発露する。

 

 伝承の中で、刑部姫は己の(せかい)に踏み込んだ無礼者を、一瞬にして即死させた。

 

「帰れ、帰れ、帰れ!

 正しいとか間違ってるとか知らない!

 勝手に入ってくるな!

 勝手に踏み荒らしに来るな!

 私の世界(へや)から……出ていけッ!!」

 

 マシュが一瞬にして戦闘態勢に入り、立香を庇うように立つ。

 刑部姫は本来一対一の戦闘に向いたサーヴァントではない。

 だがマシュが一瞬目配せしてもジャックやリリィは援護に動く様子もなく、刑部姫を心配している様子もなかった。

 不可思議な現象が起こり、刑部姫の気配が変わらないまま変わっていく。

 

「この霊基パターンは……!?」

 

 マシュが身構え、刕惢が割って入って止めようとしたその時。

 

 赤い衣服の少女が素早く割り込み、割って入ろうとした刕惢を安全な位置に押し退け、刑部姫の顔面を思い切り殴りつけた。

 

「こんのクソアホ。デブ候補姫。食っちゃ寝してる内に忘れたのか? 今夜0時、だ」

 

「あいだ、あいだだだだだだ……! も、モーちゃん……」

 

「まだ起きてたのか。じゃあもう一発、時計型麻酔銃!」

 

「それただのパンチじゃんぎゃー!?」

 

 モードレッドの時計型麻酔銃が刑部姫の脳天にヒットし、今度こそ刑部姫は眠りの刑部姫へと成り果てた。

 強力なパンチで気絶したとも言う。

 

「手綱ちゃんと握れよレイスイ。

 こういうやつは怒り方を知らねえんだ。

 激怒慣れしてないやつのやらかしはこえーぞ」

 

「完璧に俺の失態だ。悪い、近くで控えててくれたのか」

 

「オレはお前の騎士だからな。さて、こいつは後でどっかに捨てておくとして」

 

 モードレッドは刑部姫を肩に担いで、ちょっとした小話を始めた。

 

「昔さ、くっそくだらねえ国があったんだよな。ブリテンって国がさ」

 

「……モードレッドの故国じゃん」

 

「そうだ、汎人類史のマスター。

 ブリテンは神秘の残る島だった。

 けれど世界は神秘を駆逐していく真っ只中。

 だから世界はブリテンを滅ぼすことにした。

 食糧難。災害。尽きない侵略者。滅びの運命。

 『お前は要らない』って世界が言ってきてたわけだ。ハッ、笑えるだろ?」

 

「……」

 

「ま、オレはそのブリテンを滅びに導いた一人だけどな。

 ……途中までは、そういうブリテンを必死に守ってた。

 世界から否定されたとか知らなかった。オレは父上の治世に力を貸したかっただけだ」

 

 かつてブリテンという国があり、それを収める偉大なる王、アーサー王が居た。

 モードレッドはそのアーサー王の遺伝子から作り出された人造人間であり、アーサー王の子という自認識を持ってはいるが、アーサー王に子として認められてはいない。

 子を認めない親。

 親に認められない子。

 最終的にはその関係と確執が、ブリテンに破滅をもたらしたという。

 

「オレは異聞帯がどうのと聞いて、運命だと思ったぜ。

 オレのブリテンは世界に負けた。

 『お前は要らない』と言われ、父上もその運命に負けた。

 そして今度はこの世界が要らないと来た。

 分かるか?

 ブリテンを要らないって言った世界が、宇宙に要らないって言われたんだとよ!

 こいつはお笑いだ! 笑いすぎて腹の肉が捩れるね! 無様の極みってやつだ」

 

 世界はブリテンを否定し、ブリテンを守ろうとしたアーサー王を否定し、それまでのモードレッドの尽力を否定し、予定通りにブリテンを滅ぼした。

 世界への敵意が無いと言えば、嘘になるだろう。

 

「父上を超える。

 そのために挑戦するべき試練かなんかに見えるくらいだ。

 ブリテンを滅ぼした世界を、更に滅ぼそうとする宇宙。

 『お前は要らない』といくら言われようが、今度こそ滅びてなんかやるもんかよ」

 

「かっこいいぜ、モードレッド。俺の誇りの騎士」

 

「だろ? まあ、任せろ。いつものことだ。お前がオレに任せれば、オレは必ず勝ってくる」

 

 刕惢とモードレッドが、どちらからともなく笑い合う。

 その二人の間に、マシュは強い絆を感じた。

 マシュと立香の間にあるような、長き戦いを共にした戦友にのみある絆。

 

「滅びたら無価値。

 否定はしねえよ。ブリテンをそう言う奴も居る。

 素晴らしいものが無価値に成り果てるってのは最悪に残酷だ。

 じゃあ、オレ達のブリテンはみじめだったのか?

 オレはみじめだったと思うが、そうじゃないと言う奴も居る。

 ……少なくとも、今召喚出来る父上(アルトリア・ペンドラゴン)なら、みじめだなんて言わねえはずだ」

 

 滅びた世界はみじめなのか。

 滅びた国は無価値なのか。

 忘れられたものは消え去るのか。

 宇宙に、世界に、否定された者達の末路は悲惨にしかならないのか。

 

 モードレッドは『これが現実だ。諦めろ』と訳知り顔で行ってくる人間に鍔を吐きかけるタイプの騎士である。

 ゆえに、諦めは心にない。

 

「そういうもんだろ、マスター。

 それと、汎人類史のマスター。

 世界は残酷なのが当たり前だ。

 だけどな。

 一つだけ最高に気に入ってることがある」

 

 モードレッドは獰猛な獣のように笑い、強く握った拳を立香に向け突き出す。

 

「―――勝ったやつが総取りだ。オレは総取りするぜ。くたばれ、汎人類史」

 

 それは、モードレッドなりの宣戦布告。汎人類史への挑戦だった。

 

 汎人類史はいつも不利だった。

 いつも挑戦者だった。

 汎人類史という強力な土台を持ちつつも、敵地で待ち受けられ、常に不利な戦いを強いられた。

 立香はいつも不利であり、弱者であり、挑戦者だった。

 

 それが今、モードレッドという挑戦者に宣戦布告を告げられた。

 

「……私達は、戦うよ。戦わないで投げ出すことだけは、絶対にしない」

 

「ハッ、心の芯が強い女だな! 汎人類史のマスター!

 気に入った! うちの優しさ以外取り柄のないもやしマスターより見込みがあらぁ!」

 

「見込みがなくて悪かったな。ほら、おっきー連れてって」

 

「お、嫉妬したか? 悪いな、お前の騎士は浮気性でな」

 

「浮気なんてしたことのない忠誠があるくせに」

 

「オレの忠誠を疑わない銀河級の大馬鹿野郎がそうそう居てたまるか、バーカ」

 

 そう言って、モードレッドは時計型麻酔銃で眠った刑部姫を抱えていった。

 

「立香」

 

「……ん、なに?」

 

「俺達の世界を玩具にしてた悪党を、君はもう倒してたんだな。カッコいいぜ」

 

「そうなんだよね。いやー、長かったよ」

 

「ありがとうな。頑張って悪党を倒した奴は、褒められるべきだと思う。皆、行こう」

 

 そう言い、刕惢も去っていく。

 ジャックや二人のリリィも去っていく。

 

 立香とマシュは二人部屋に残され、立香はぽつりと呟いた。

 

「……別に。リンボを倒してたって……この世界は……何も……」

 

「……先輩」

 

 表情があんまり取り繕えなくなっていた立香の顔を、立香の両手がパァンと叩く。

 

 気合いが入って、頬が少々赤くなり、立香は平時の自分を取り戻す。

 

「行こう、マシュ。確認したかたったことは確認できた。アルトリア達と話さないと」

 

「はい。行きましょう」

 

 それぞれの人間が居て。

 

 それぞれの考えがあり。

 

 それぞれの願いを掲げて、この聖杯戦争へと臨む。

 

 けれど、最後に残る世界は唯一つ。

 

 皆が口にしたそれぞれの想いの中で、最後に残るものは多くない。

 

 

 



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3

 メリークリスマス


 刕惢は燃える本能寺に焼き鳥を突っ込んで焼いていた。

 その傍らにはジャック。

 刕惢が持って来たおにぎりと焼きたての焼き鳥を持ち、二人は大きめの木の木陰で昼食を摂る次第と相成った。

 

 穏やかな風。麗らかな空。目に優しい草木の緑。

 ぽかぽかとした空気が心地よく、どんな空調もこれを再現することはできないだろう。

 刕惢が上着を脱いで地面に敷き、その上にジャックを座らせる。

 子供だからこういうことをしても特に気にしもしないだろう、と刕惢は考える。

 ジャックは全部分かった上で、必要な時にまとめてありがとうを言うつもりなだけだった。

 

 刕惢はジャックを幼い子供だと思っているが、そんなジャックも刕惢のことを子供だと内心ちょっと思っているところがある。

 

「食べていい? 食べていい?」

 

「ジャック、まずはいただきます、だ。

 糧になった命への礼儀。

 このおにぎりを作ってくれたブーディカへの感謝。

 そういうものをちゃんと口にしてから食べるんだ。

 何かを貰うこと、してもらうこと。

 それを当たり前じゃないと思い続けることは大事だからね」

 

「わかった、おかあさん(マスター)!」

 

 刕惢はこの世界の状況を共に戦う仲間達全員に伝えていた。

 今夜0時から戦いが始まることも。

 だが、一部のサーヴァントにはちゃんと伝わっていなかった。

 理性のないバーサーカー。

 精神汚染がなされた異常なサーヴァント。

 そして、大人には分かる理屈がすぐに理解できない子供のサーヴァント。

 刕惢はそれらの仲間達の下を回って、一人一人に説明して回っていた。

 

 彼の後をついてきていたジャックもまた、状況をちゃんと理解できていない子供系のサーヴァントの一人であるため、昼食がてら説明する流れとなった。

 刕惢はその残酷を納得させられると思っていない。

 ただ、皆に理解しておいてほしかった。

 共に戦うことを拒み、汎人類史の剪定を拒む誰かが居ても、彼に責めるつもりは一切ない。

 

 だから彼女を、真実を知らなくていい子供扱いではなく、真実を共に知る仲間として扱う。

 刕惢はジャックを子供扱いしているが、戦士扱いしなかったことはないし、信頼できる戦友としてずっと背中を預けてきた。

 

「じゃあジャック、ちゃんと聞いてな。

 俺も説明上手い方じゃないけど、できる限り分かりやすく、分かるまで話すから」

 

「うん!」

 

 ジャックは刕惢が思っていたより真面目に聞いてくれたため、思っていたよりも数段楽に剪定事象のことを教えることができた。

 

「ほへー。この世界は、宇宙っていうおかーさんから生まれた、子供なんだね」

 

「ジャックは感受性が高いな。ロマンティックな感想は聞いてて心地がよいぞ、うん」

 

「えへへ」

 

 世界とは、宇宙の中にある。

 人が生きる小さな世界から、星を包む大きな世界まで、全ては宇宙の中にある。

 ならば世界とは、宇宙の中に自然発生した命らが紡ぐ、一つの枠のことを言うのだろう。

 その世界が無数に分岐し、平行世界群という世界の形を作るのだ。

 で、あるからして、世界とは宇宙の子供と言うのが正しいのだろう。

 刕惢はジャックの感受性の豊かさに、優秀な妹を持ったような誇らしさを感じる。

 

 だが、それは、『ジャック・ザ・リッパーであるがゆえ』の感性だった。

 

「ああ、そっか。わたしたち、()()捨てられちゃったんだ」

 

「―――!」

 

「今度は、世界ごと」

 

 何も無いどこか遠くの(うろ)を覗き込むような目で、ジャックは呟いた。

 

 ジャック・ザ・リッパーと呼ばれる英霊は、複数存在する。

 あまりにも有名すぎたジャック・ザ・リッパーは、『ジャック・ザ・リッパーはこういうやつに違いない』という人の想念を受け、無数のカタチを持ってしまった。

 彼女はその一つ、当時のロンドンで娼婦らを殺して回った真犯人、数万人の堕胎児の怨念の集合体―――『捨てられた子供の集合体』としてのジャック・ザ・リッパーである。

 

 避妊の歴史は長いが、避妊が定着したのはかなり近年であると考えられている。

 世界的な推進風潮が確立されたのは1960年代とされ、2010年代に入ってもブラジルなどは中絶が認められない80万人の女性の違法中絶手術があったとされる。

 ならば。

 1888年に大暴れしたジャック・ザ・リッパーの時代、避妊技術も避妊定着も甘かったその頃、どれだけの子供達が怨念となったか、それは想像に難くない。

 

 川に捨てた。

 地面に埋めた。

 森に投げて獣に食わせた。

 砕いて土と混ぜた。

 こっそり井戸に捨てた。

 

 そうして、生まれることすらできなかった子供達は、『いらないもの』として母親に捨てられ、その怨念の集合体がこのジャック・ザ・リッパーと成った。

 

「みんなおなじだね。生んで、作って、いらなくなったら……わたしたちは……」

 

 だから、ジャックには聞こえているはずだ。

 この世界を取り巻く宇宙の法則の声が。

 自分を見捨てて殺した母親と同じように、この世界を見捨てて殺す宇宙の声が。

 

 幸福世界(おまえ)は要らない。

 異聞帯(おまえ)は要らない。

 ジャック(おまえ)は要らない。

 世界間の戦いに負ければ―――刕惢は、それを否定できないことになる。

 

 刕惢は膝に乗ってきたジャックを、ぎゅっと抱きしめた。

 優しく体温を伝えて、少女の背中にぽんぽんと触れてやる。

 ジャックはくすぐったそうにして、けれど嬉しそうにして、刕惢を抱きしめ返した。

 

「大丈夫。大丈夫だ。ジャックは捨てられたりなんかしない。この世界も」

 

「ホント?」

 

「ああ。絶対に……俺が……俺が、この世界を……何がなんでも……」

 

 殺す、と言い切れなかった。

 倒す、と言い切れなかった。

 刕惢は子供達(ジャック)を見捨てられない。

 この少女を構成する無数の子供達をもう一度、見捨てられ死に至るという最悪の結末に至らせることなど、できるはずがない。

 けれどそんな優しい少年だからこそ、立香達を殺すことに躊躇いがあって。

 躊躇いがいくらあろうとも、泣きながらでも、刕惢は汎人類史を殺さなければならない。

 

 刕惢は、汎人類史にもジャックが居ることを知っている。

 だから()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それを選ばなければならないのだと、そういうことも分かってしまっている。

 親に捨てられたかわいそうな子供のどちらかを、彼は最悪に殺さなければならない。

 

 人間の母に見捨てられて死んだ後、サーヴァントとして蘇り、そしてまたしても、ジャックは母なる宇宙に見捨てられてもう一度死ぬのだ。

 

 刕惢は抱きしめたまま、ジャックに見えない角度で歯を強く強く噛みしめる。

 刕惢がジャックの髪を撫でると、幼い少女らしい屈託のない笑みを浮かべていた。

 

「ねえ、おかあさん(マスター)

 

 ジャックが彼を抱きしめる両腕に、目いっぱいの無垢な愛が込められていることを、ジャックだけが知っている。

 

「この世界ならもう、『わたしたち』は生まれないんだよね」

 

「……ああ」

 

「よかった。おかあさん(マスター)が願ってくれたからだね。ありがとう」

 

「俺は……世界にそうなって欲しかっただけだよ。子供に優しくあってほしかった」

 

「あのね、あのね。

 おかあさん(マスター)はね、優しいけど。

 でもわたしたちは、それよりも、もっと、おかあさん(マスター)のいっぱいの愛が嬉しいんだ」

 

「恥ずかしいな、うりうり」

 

「きゃーっ! ふふふ、おかあさん(マスター)のことは、わたしたちが守るからね」

 

 楽しそうにじゃれながら、刕惢の心の底には、暗く濁ったものが溜まっていた。

 

 この世界を見捨てていい、僕は文句なんて言わない、とマーリンは言った。

 心がない人外が人間に言える、人外なりの優しさの言葉だった。

 苦しまずに終わる選択もあっただろう。

 けれど、それを選べない理由は無数にあり、その一つがここにある。

 

 人は責任を背負うことで成長するんだ、と大人は言う。

 人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、と徳川家康は言ったという。

 確かにその通りだろう。

 責任の無い人生はない。

 重荷の無い人生はないだろう。

 誰もが重量に差はあるだろうが、重荷を背負って人生を進んでいく。

 

 けれども、重荷は重荷だ。

 成長を促進する薬でもないし、疾走を補助する補助輪でもない。

 重荷を背負って成長するのは本人の頑張りがあってこそであり、重荷の重量は背負った人間を押し潰す以外の効果はない。

 

 そしてたまに、逃げ出すことができない人種がいる。

 背負ってしまう人種が。

 自分以外のために重荷を捨てられない人種がいる。

 特別なわけでも、天才なわけでもない。

 彼らはただ、捨てず、忘れず、逃げないだけ。

 

 そうして最後にはきっと、「そんなつもりはなかったんだ」と皆が言う何かになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルトリア・ペンドラゴンは、ホームズの許可を得て通信装置を利用し、汎人類史カルデアのダ・ヴィンチと連絡を取っていた。

 アルトリアは淡々と用件を告げ、ダ・ヴィンチは少し驚いた様子で対応する。

 それは、汎人類史カルデアの今回の戦術決定に関することだった。

 

「できますか?」

 

『そりゃ、できるだろうけど。

 私の方から推奨すれば立香君も聞くとは思うよ?

 新所長も賛成するだろう。

 今回は何もかも特殊な聖杯戦争だものね。

 君の提案は非常に有効だと思う。

 でも……君がサーヴァント達を一時的に率いるだなんて、どういう風の吹き回しだい?』

 

「言うまでもないと思いますが、言うべきでしょうか」

 

『いや、いいさ。

 大いに結構。

 元々サーヴァントは代行者としての役割も持つ。

 サーヴァントは敵を殺す。

 しかし立香君のような子は、サーヴァントのようにナイフを持って人を刺し殺せはしない』

 

「ええ」

 

『サーヴァントは戦闘と殺害の代行者。

 そして、実行罪科を背負う者でもある。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()という君の案は、おそらく悪くない』

 

 通信画面の向こうで、含みのある笑みを浮かべたダ・ヴィンチが、有能な人間を見る目でアルトリアを見ていた。

 

 罪は変わらない。

 結果は変わらない。

 ただ、分け合うことはできる。

 たとえば、藤丸立香を後方に下げて、前にアルトリアが出て、経験を活かしてサーヴァント達を率いて異聞帯を切除する……そういうことが、できれば。

 少しばかりマスターの罪悪感を軽減できるかもしれないと、アルトリアは考えた。

 

 マスターの代理人たるサーヴァントがサーヴァントを率い、マスターを勝利させる戦い。

 英霊の座のアルトリアが持つ知識には、ある月で行われていたという、サーヴァントがマスターの代理としてそういう戦いをこなした、そういう戦いの記録があった。

 

『ただ、立香君も頑固だからね。

 君が代わったところで罪悪感は軽減に留まると思う。

 それにすぐ君に代わって戦いの前線に行くかもしれない。

 本当に責任感が強いんだ、あの子は。

 世界を消した罪悪感を投げ出すことは絶対にしない。

 サーヴァントを軍のように動員する前提のこの異聞帯でなければ聞かなかっただろう』

 

「そうでしょうね」

 

『それでも名案だと思う。

 今回参戦すると思われるサーヴァントの数は膨大だ。

 マスターが率いるよりアルトリアが率いた方が勝てる、と言えば通るだろうね』

 

 世界を取り戻す勝利のため、と立香に言って将を代わらせる。

 だがその実、アルトリアが()()()()()()()()の大半を背負うのだ。

 この世界は他の世界と比べても、立香の心を殺すものが多すぎるから。

 

 人を殴り殺す罪悪感は果てしなく、ナイフの方が楽で、銃はもっと楽で、虐殺ミサイルのスイッチを押すことに至っては罪悪感はあまりないという。

 サーヴァントは、道具としての側面もある。

 人をナイフで刺し殺す罪悪感より、サーヴァントに命じて殺す罪悪感の方がずっと軽い。

 

 かつてモードレッドが憧れた、眩しいほどに正しい騎士の王は、また一つ己が背負うものを増やそうとしているのである。

 その立ち姿は美しく、凛々しく、何より纏う空気までもが強かった。

 

『だけど君が開戦前にこの考えに至ったことが解せない。

 信頼してないわけではないよ?

 ただそうだね、アルトリア。君、まだ私に話してない動機があるだろう?』

 

「ダ・ヴィンチ殿に隠し事はできませんね。いえ、隠し事というほどのことでもありませんが」

 

 ふふ、とアルトリアは上品に笑む。

 先程まで凛々しい騎士王だったアルトリアが、ほんの一瞬だけどこかの街の町娘のような表情を見せたのを、美に敏いダ・ヴィンチは見逃さなかった。

 

「私はいつか王となるべく、竜であり人である王として作られました。

 そしてその後に市井のある家に預けられた。

 そこで私の兄となってくれた方がいました。

 名を、ケイ。後の円卓の騎士、サー・ケイです。ひねくれ者のいい兄でした」

 

『サー・ケイ。

 騎士王の円卓の最古参と言われる騎士だね。

 口先だけで竜が呆れて飛び去り、弁舌一つで巨人の首すら落としてみせたとか』

 

「ええ。屁理屈を語らせれば彼を超える人は居ないでしょう。

 あれは、私の年齢が20にも届いていなかった頃のことです。

 私と彼とマーリンは、ある村で村人の騙し討ちに逢いました」

 

『略奪か。その時期のブリテンは、世界の否定によって食べるものにも困っていたと聞く』

 

「ええ。

 彼らに道はなかった。

 私達を殺して生きるか、何も奪わず死ぬか。

 前者を選んだことを責めるつもりはありません。

 生きるために奪う、それもまた人です。

 ですが私達も殺し合いに持ち込まれた以上、選択肢は多くなかった」

 

『歴史書に語られない、アーサー王の物語……か』

 

「ですが私は、その時誰も殺さなかったのです」

 

『ほう?』

 

「お節介な兄が、気付けば全ての村人を始末していました。

 彼は血に汚れた手で頬を拭い、こう言いました。

 『お前以外にもできることなら、俺がやってもいいだろう』と」

 

『素直じゃないねえ』

 

「ええ。彼は自分の本心を正直に話せない騎士でした。

 そして、まだ十代の妹の罪を少しでも背負おうとする人でした。

 罪はなくならない。

 結果は変わらない。

 しかし、代わりに剣を振るうことで、その重荷を背負ってあげることはできるのです」

 

『それでか。君がこの責任へ立候補したのは』

 

 それは騎士らしい精神であり、在りし日の少女が兄へ抱いた感謝の気持ちが巡ったもの。

 

 アルトリア・ペンドラゴンがかつて少女だった頃、敬愛する兄に貰ったものを、藤丸立香へと手渡そうとする、善なる者の好意のバトン。

 

「自分がしてもらって嬉しかった事を、他人にしてあげたいと思う事は不思議でしょうか?」

 

『いや、そんなことはないさ。輝ける人間の精神だと私は思うね』

 

「かつて少女だった者として。あの日してもらったことを、私も誰かに施そうと思います」

 

『いいね。色んなものを受け継いできたうちのマスターの物語らしいや』

 

 凛々しいアルトリアの言葉は、とてもすっと心に入り、"信じられる"と思わせる。

 これがきっと、王の器というものなのだろう。

 

 かつてアルトリアという少女が居た。

 少女は騎士となり、選定の剣を引き抜いた。

 やがて騎士は王となり、物語の果てにここに居る。

 

 かつて騎士(あに)に心を守られた少女アルトリアは、今は騎士(じぶん)が少女の心を守る方になっている。

 

『一つ聞いてもいいかい?』

 

「はい、どうぞ」

 

『君は今はなきブリテンの王。

 世界に滅びを強いられた国の最後の王だ。

 世界から否定されるという最悪の理不尽をブリテンは受けた。

 君は抗ったものの、願った結末は得られなかった。

 さぞかし無念だっただろう。

 ならば……今回の異聞帯とブリテンを、心の中で重ねていたりしないかい?』

 

 一瞬。ほんの一瞬だけアルトリアが言葉に詰まったのが、そのまま答えだった。

 

 けれど彼女も伝説に語られる偉大なる王。それを理由に止まりはしない。

 

「……同情が無いと言えば嘘になります。

 しかし、情で世界の行く末は決められません。

 たとえ『王は人の心が分からない』と言われようとも……

 私はこれまで、正しいと思う道を選んできました。

 心が彼らを憐れもうと、私は藤丸立香と汎人類史を守ることが正しいと、信じます」

 

『そっか』

 

「私は傷だらけの人間が一度仲間に全てを任せても、逃げたとは思わない。

 仲間に任せることを責任の放棄だとは思わない。

 理想的な戦士とはすなわち、休むことも知る者です。

 傷を癒やす時間も必要です。傷を負ってばかりではいけません」

 

『うん。そう言ってくれると、私の心配もちょっとはどこかに行くというものだね』

 

「今は亡き悪逆の徒、リンボの悪意は私が受けましょう。今のマスターには重すぎる」

 

『今の、か』

 

「今は辛いかもしれません。

 異聞帯の全てが重すぎるかもしれません。

 夜に泣くこともあるでしょう。

 けれど、一生消えない傷を避け、重荷に潰されさえしなければ……

 いつか、本当にちゃんと大人になれた日に、乗り越えてくれると信じています」

 

『……そうだね。うん、きっとそうだ。藤丸立香をよろしく頼むよ、アルトリア』

 

「はい。ペンドラゴンの名にかけて」

 

 マスターを傷付ける罪を代わりに背負うべく立った、汎人類史の騎士が居た。

 

 名を、アルトリア・ペンドラゴン。聖剣の騎士王。

 

 『汎人類史の世界を救う戦いでのみ全力を出せる』、エクスカリバーを携えた者。

 

「それにですね、ダ・ヴィンチ」

 

『?』

 

「あまり話したことはないんですが……

 私はかつて、力なき人々を守るために王になりました。

 リツカはかつて私が本当に守りたかった、普通の人々その人です。

 戦えない誰かのため、代わりに戦う騎士となる―――子供の頃からの、私の夢でした」

 

 どこかの街の町娘のように、アルトリアは笑っていた。

 

 

 

 

 

 並び立つ汎人類史の英霊たち。

 どう数えても、この時点で20人以上は存在している。

 霊脈と立香の状態を鑑みて召喚は止められたが、おそらく明日以降にはもっと多くのサーヴァントが召喚されるだろう。

 これが汎人類史の力。

 この世界が失いつつある、地獄を持つがゆえの圧倒的な多様性。

 

 アルトリアは、これから率いる仲間達に呼びかける。

 

「旅の最後には穏やかな眠りがあるべきだと、私は考えます」

 

 金色の髪を揺らめかせ、碧い眼で皆を見渡して、アルトリアは演じるように説く。

 

「『ああ、終わった。よかった』という一言と共に、彼女が安心して眠る。

 そんな結末を私は、我がマスターにもたらしたい。

 力を貸してください。

 知恵を貸してください。

 この異聞帯を攻略するには、この場の全員の……いえ、カルデア全ての力が必要です」

 

 胸に手を当て、魔力で編んだ甲冑をその身に纏い、アルトリアは皆の目をしっかりと見る。

 

「我らは死人。

 既に消えた英雄の影法師。

 自分たちの世界の存続のために戦う、人理の代理人です。

 世界のために残酷な掃除を繰り返した者もいるでしょう。

 聖杯戦争で望まぬ戦いをした者もいるでしょう。

 この異聞帯の者達に同情する者も必ずいるはずです。

 戦いを迷う者は、どうか恥じないでほしい。

 それもまた正しい思考です。

 かくいう私も、このような理想郷を滅ぼすことに、心が張り裂けそうな想いがあります」

 

 アルトリアが剣を抜く。嵐を纏う剣が現れる。

 

「我らに正義はありません。

 生存競争は善悪で語られるものではない。

 それでも、自分達の存続のためだけに戦えないのなら……

 どうか皆、藤丸立香のことを思い出してください。

 召喚された日のことを。共に過ごした時のことを。共に闘った日々のことを」

 

 アルトリアの言葉の一つ一つが、言葉を届ける力(カリスマ)が、皆の心を一つにしていく。

 

 難解な理屈など、本当は要らない。"苦しんでいる女の子を助けたい"、それだけでいい。

 

「我らはあの少女の願いに応え、召喚された。

 そのことを思い出してください。

 そして、叶うなら……彼女のために戦う気持ちを、今一度思い出してほしい」

 

 剣を纏う嵐が消え、黄金の剣が現れて、アルトリアはそれを掲げた。

 

「ただ一つしかない未来への席に、彼女を座らせるために。皆の力を貸してほしい!」

 

 声が上がる。

 武器が掲げられる。

 賛同の意が目に見える形で広がっていく。

 アルトリアの言葉に導かれ、彼らはマスターへの想いで一つになっていった。

 

 

 

 そして、同時刻。別の場所で、同じ顔が、同じことをして、全く別のことを言っていた。

 

 

 

 モードレッドの言葉に導かれ、彼らはマスターへの想いで一つになっていった。

 賛同の意が目に見える形で広がっていく。

 武器が掲げられる。

 声が上がる。

 

「たった一つしか座れねえ未来への席があるのなら、オレはあいつを座らせる。ついて来い」

 

 マスターを傷付ける罪を代わりに背負うべく立った、汎人類史の騎士が居た。

 

 名を、モードレッド。叛逆の赤騎士。

 

 『選ばれし者への叛逆そのもの』である、叛逆のクラレントを携えた者。

 

「あー、オレが率いんのもいつものことだ。

 いつものことだが。

 ……今回ばっかはそうはいかねえ。

 マスターの願う結末ってやつは、無い気がする。

 だからな。オレ達で勝手にやってやろうぜ。

 この世界は結構な数のサーヴァントが座に帰った後だ。

 数で負けてる可能性もある。

 だけど知ったこっちゃねえ。

 マスターが泣いちまわないように、オレ達で全部殴り飛ばしてやろうぜ。な?」

 

 アルトリアと同格同種のカリスマは、モードレッドには備わっていない。

 彼女はアルトリアと同じにはできない。

 だから彼女の言葉が皆の心に清廉に響いているわけではない。

 異聞帯のサーヴァントの皆は、ある者は微笑み、ある者は笑い、ある者は真面目な顔をして、モードレッドの言葉に耳を傾けている。

 アルトリアがカリスマで皆に同じ方を向かせたならば、こちらは一癖ある友人の演説に付き合ってやっているような、暖かさのある絆があった。

 

「父上も、レイスイも、なんだってんだ?

 やりたくもねーことして。

 ちょっと耳を傾ければ『自分で選んだこと』。

 口を開けば『他の皆のため』だ。

 皆が生きる世界を守る?

 そのための滅私奉公?

 世界がブリテンを許さない?

 宇宙がこの世界を許さない?

 あーはいはいそうかよそうかよ。……ふざけんなよ」

 

 モードレッドが国を治める王の器があると認めている者は、この世界にほとんどいない。

 

 

 

「―――なんでクソみてえな世界の流れの中で、報われない奴等が地べた舐めてんだ?」

 

 

 

 けれど。

 

 この世界で、モードレッドが森晶刕惢の最も信頼する騎士であることを、疑う者はいない。

 

 自分以外の全てのために生涯を捧げた王が居た。

 モードレッドは、その王に子として認められたかった。

 自分以外の全てのために世界すら救った少年が居た。

 モードレッドは、その少年が生きていくことを認めてほしかった。

 

「汎人類史が選ばれし者で、オレ達がそうじゃなくても!

 奴らが正しい者で、オレ達がそうじゃなくても!

 奴らが生きることが望まれて、オレ達の滅びが望まれても!

 知ったことか! 反逆してやる!

 中指立ててぶっ倒してやる!

 オレは偉大なる騎士王に叛逆した者! 次は汎人類史だこの野郎!」

 

 だから戦う。汎人類史という主役に、騎士は叛逆してみせる。

 

「オレは叛逆の騎士モードレッド!

 自分以外の幸福のために生きた王、アーサーの子!

 自分以外の幸福のために生きたマスター、レイスイの騎士!

 気に入らねえもんはぶっ壊す!

 うざって敵はぶち壊す!

 これはオレ達全員の……世界を救う、汎人類史への叛逆だ!」

 

 モードレッドがクラレントを掲げると、皆も合わせて武器を掲げる。

 

「いくぜ野郎ども! 宇宙最強最高の叛逆を汎人類史に見せてやれ!」

 

 並び立つこの異聞帯の英雄達が、いついかなる時も叛逆する時だけは最高に頼れるモードレッドに合わせて、声を上げた。

 

 

 

 

 

 アルトリアが声を上げる。

 涼やかに、綺麗に、けれど雄々しく。

 

「これは私の個人的な望みが込められた『最も大切な願い事(グランドオーダー)』。

 どうか皆、リツカが穏やかに眠れる夜を取り戻すため、勝ってください」

 

 モードレッドが声を上げる。

 荒々しく、熱っぽく、そして雄々しく。

 

「こいつはオレの個人的な『絶対達成命令(グランドオーダー)』だ!

 全員、豪華絢爛に勝て! オレ達の世界がこの宇宙の主役になっちまうくらいに!」

 

 アルトリアの目に、敵が見えてくる。

 

「私達は命を懸けて、私達の世界の未来を奪う者から、私達の世界の未来を守る」

 

 モードレッドの目に、敵が見えてくる。

 

「オレ達は命を懸けて、オレ達の世界の未来を奪う奴等をぶっ潰す」

 

 同じ顔、同じ遺伝子、同じ体の仕組みを持ち、けれど決定的に根幹が違う二人の騎士の声が、戦場で重なる。

 

「「 ―――未来を欲するのなら。汝、自らの力を以って、最強を証明せよ!! 」」

 

 何十というサーヴァント達が突き進む。

 

 跳び、走り、構え、宝具を撃ち、攻撃をかわして、仲間と連携して動く。

 

 汎人類史と異聞帯の、手加減なしの総力を上げた大戦争。

 

 汎人類史が一方的に消し去る剪定じみた戦いではなく。

 

 異聞帯がカルデアを待ち受けて一方的に封殺しようとする戦いでもなく。

 

 互いの世界が持つ全力を、二つのカルデアという代理人が行使するような。

 

 聖杯戦争という名の、世界間大戦争だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを拠点の屋上から、遠目に刕惢は見ていた。

 戦いが始まった。

 もうこの世界は争いのない楽園ではない。

 戦わぬ者は生き残れない汎人類史の獣性に、この世界は食われつつあった。

 

 刕惢はぐっ、と拳を握り、爪を手の平の肉に深く深く突き立てる。

 仲間が戦っているのに、自分だけ痛い思いをしていないことが許せなかったから。

 爪は深く深く肉に刺さり、『自分を許せない』刕惢の怒りを反映するように強く抉り、グジュッと肉が音を立て、拳から垂れた血が床に落ちていった。

 "俺がもうちょっと何か上手くやっていたら"

 "こんなことにはならなかったんじゃないか?"

 そういう気持ちを捨てられず、ゆえに自分を嫌悪する。

 

「あのさ」

 

 刕惢の横に立っていた少年が、その拳をとんとんと叩いた。

 拳をとんとんと叩いて、拳の力を抜かせて、指を一本一本肉の食い込みから外して、初歩的な治癒魔術で治していく。

 カドック・ゼムルプスは心底呆れた顔でため息を吐いた。

 一度思いっきり吐いた後、もう一回思いっきり吐いた。

 ため息の二度打ちである。

 

「そういう生産性のない自傷、やめてくれる? 要らないんだよね、そういうの」

 

「う、ごめん、カドック」

 

「ま、いいけど。僕が痛いわけじゃないし」

 

 ボサボサの白い髪をかき上げて、カドックは舌打ちした。

 

「そのお客様感覚鬱陶しいんだよ」

 

「お、お客様感覚……」

 

「チームでやってる自覚が薄いってこと。

 そりゃまあ、君がやったことは凄いんだろうけど。

 それは多分に運が絡んだことだ。

 あと召喚されたサーヴァントの力。

 もう一度同じことをしろと言われても君はできない。そうだろ?」

 

「うん、断言できる。同じこともう一回は1億回繰り返しても無理そうだ」

 

「じゃあ、なんていうか……

 他人の期待を真に受けるなよ。

 自分に期待しすぎるなよ。

 他人に任せたっていい。

 罪悪感の無いやつに丸投げしたっていいと思う。僕に投げたっていい」

 

「え」

 

 カドックは、この世界で数少ない『刕惢の代理のマスターができる』証、手の平にあるカルデアの令呪をひらひらと見せ、鼻を鳴らした。

 

「証明してみせようか。僕にも世界を救えるってね」

 

 挑戦的な言葉。

 皮肉った語調。

 優しさを匂わせもしない語り口。

 その裏に隠された意味を理解できないほど、刕惢の察しは悪くない。

 

 『やりたくないなら僕に任せて引っ込んでいてもいいぞ』と言えばいいのに、カドックはとびっきりに素直じゃないひねくれた言い方しかできない少年だった。

 

「カドックは優しいな」

 

「よせよ、気持ち悪い」

 

「今度さ、映画見に行かね?

 公開から三週連続で一位取ってる凄いアクションがあるんだってさ。

 ……子供っぽいから女の子にはあんま知られたくないんだけどさ。

 実は一回、腹一杯になるくらい沢山ポップコーンとコーラ買って映画見たいんだよな俺」

 

「なんだそりゃ。ん? いや待て。それで僕を誘うってことは……」

 

「俺が食いきれなかったらカドックが食べて」

 

「君……君な。キリシュタリアでも誘ってろよ」

 

「もう誘った。ぺぺさんが三人目。君が四人目」

 

「なんでもう二人誘ってるのに僕だけに食わせる気満々なんだよ……!

 はぁ、もういい。全部君の財布持ちなら付き合ってやる。今回だけはね」

 

「お。ありがとう」

 

「だから約束しろよ。その日を全員で生き残って迎えるって。ちゃんと約束しろ」

 

「……ああ。約束する」

 

「それならいい。アナスタシア! 行くぞ!」

 

 カドックは己のサーヴァントを引き連れ、屋上から飛び降り、戦場に向かった。

 戦場の魔力の気配が広がっていく。

 色んなところで、人間とサーヴァントの戦闘の気配が膨らんでいく。

 

 にもかかわらず、この世界に生きる一般人へ迷惑をかけるような何かが起こる気配はない。

 異聞帯のサーヴァントも、汎人類史のサーヴァントも、きちんとルールを守っていた。

 一般人を殺すなという合意に沿って戦っていた。

 "最後の瞬間までどちらの世界にも人死にを出したくない"という、刕惢の甘く脆いルールを守ってくれていた。

 それが刕惢は嬉しくて、そんな者達と殺し合っている現状が、心底苦しい。

 

 いっそ分かりやすく悪であれば、刕惢ももっと簡単に割り切れただろうに。

 

「それで、君は何をしに?」

 

 刕惢が振り向かず声をかけると、背後の屋上物置から幼い少女が転がり出て来た。

 

「ぎっくぅ! ま、マスター、すみません、すぐに戦場に参戦します!」

 

 大慌てで出て来て、そのまま戦場に突入しようとするはジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ。その手をやんわり刕惢が握り、戦場への突入を止める。

 

「ああ、慌てて行くくらいならゆっくりでいいよ。

 冷静じゃないままやられたら元も子もないしさ。

 ほら、服が変になってるからちょっとこっちおいで」

 

「は、はい、そうします」

 

 刕惢はリリィを落ち着かせて、服装の乱れや髪の癖を直す。

 そうしてリリィの気持ちを落ち着けさせて、生存率を僅かにでも上げる。

 本当にささやかな、気遣い以上の意味も価値もない、他人の無事を祈るがゆえの行動だった。

 

「よし。これでいつもの素敵で可愛いリリィだ」

 

 リリィは何か言いたげにして、けれど言えなくて、サンタの衣装をいじりながら口ごもる。

 

「あ、あの……いえ、なんでもないです」

 

 周りをキョロキョロ見て、リリィはこほんと咳払い。

 ちょっと生意気に胸を張り、おしゃまに両手を左右に広げた。

 

「ぎゅってしてください、お兄さん。私もぎゅってしてあげます。励ましてあげます」

 

「大人の女の人みたいな励まし方だね、リリィ」

 

「そうです、私は大人のレディなんです。特別にマスターを励ましてあげるんです」

 

 刕惢が抱きしめてやると、小さな震えが伝わった。

 ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィは、英霊ジャンヌ・ダルクからでっち上げられた霊基から更にでっち上げられた霊基の存在。

 実のところ、誕生してからまだ半年経っていない。

 そこには怯えがあり、恐怖があり、不安がある。

 小さな女の子らしい、とても人間らしい弱さがある。

 

 リリィは刕惢に、優しく暖かな言葉をかけていく。

 

「大丈夫、大丈夫ですよ、私がマスターを守ります、この世界は消えたりしません、大丈夫」

 

 だがそれは、刕惢の心になにかの影響を与える言葉ではない。

 自分が言われたい言葉だ。

 リリィが言われたい言葉だ。

 彼女は自分が言われたい言葉を彼に言うことで、自分の心を安定させていく。

 

 そうして、マスターと世界を守る自分になろうとする。

 愛用のぬいぐるみに話しかけて自己の安定を図る幼い少女のような、返答を求めない語りによって自己のバランスを取る、そんな励ましの言葉の羅列であった。

 

「無理はしないでくださいね、お兄さん。

 あなたがあなたのままで居てくれることが、一番ですから」

 

「ああ、ありがとう、リリィ」

 

「戦ってきます。……誰も幸せにできないかもしれないのは、とっても怖いけど」

 

 サンタらしくもない言葉を、リリィが口にする。

 

 サンタクロースは皆を幸せにするもの。

 プレゼントを与えることで人を幸せにするものだ。

 だからリリィはサンタになろうとし、サンタであろうとした少女だった。

 『人を幸せにするサンタクロース』。

 その定義と概念こそがジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィを構築しており、それがあってこそ彼女はここに存在できている。

 人を幸せにするためだけの存在・サンタクロースを基軸にしている彼女は、森晶刕惢のサーヴァントにとても相応しい存在だった。

 

 だが。

 もう、サンタの出番はない。

 此処から先の闘争は奪い合うもの。

 たった一つの未来を奪い合うものだ。

 サンタクロースですら、生きるために他者から奪う戦いに参加する地獄がここに在る。

 

「リリィ?」

 

「ごめんなさい、マスター。本当にごめんなさい」

 

「え、何を謝って……」

 

 人を幸せにすることで幸せになる少女だった。

 贈り物で誰かを幸せにすることを四六時中考えている少女だった。

 かつて刕惢や、友達のジャックやナーサリー・ライムに救われ、泣いた少女だった。

 与えるだけの生にすら喜びを感じるであろう少女だった。

 

 サンタクロースは、与えるだけのもの。

 他人から何かを奪わないもの。

 誰かを笑顔にすることはあっても、笑顔を奪うことはない。

 世界で一番有名な、世界で一番優しい英雄。彼女もそう在らんとしている。

 

 なのに。

 

「私、サンタクロースなのに。

 皆が欲しい物を届ける人なのに。

 『未来が欲しい』って言われたら……

 汎人類史にも、この世界の人にも、渡せないんです……」

 

「―――」

 

 たとえ子供に切望されたとしても、このサンタクロースに応える術はない。

 

 この小さく可愛いサンタクロースのプレゼント袋に、未来だけが入っていない。

 

「……で、でも! この槍で戦って!

 あなたとこの世界は守ってみせます!

 だ、だから……不安になんてならないで、待ってて。

 あなたを守って……あなたを守れなかったら、私に残っているものなんて、本当に……」

 

 リリィは短いスカートをギュッと握って、小さな体を震わせて、弱音を抑え込む。

 

 昨日まで無邪気に笑っていた幸せなサンタクロースの少女は、もう笑えない。

 

 負けた方の世界に、幸せなクリスマスはもう来ない。

 

 リリィは抱きしめてくれた彼から離れ、思い出しながら言葉を紡ぐ。

 

「サンタアイランド仮面が言っていました」

 

「……ああ、彼がどうかしたのか?」

 

「救うということは、傲慢だと。

 上と下がなければ、救うという行為は成立しないと。

 だから傲慢を容認できる人だけが、人を救えるんだと。

 世界を救うには、問答無用でないといけない。

 物凄い力で、万物を公平に無慈悲に救わないといけない。

 世界の理不尽を壊すのも、邪魔者を殺すのも、人を救う同じ一つの線の上にあると」

 

「……」

 

「この世界を救うには、傲慢にならないといけなくて。

 傲慢であれば、汎人類史と戦って叩き潰す選択もできたはずだって。

 マスターが傲慢になれなかったから。

 マスターが、自分の命を他人より上に置けなかったから。

 だから、この世界は勝てないだろうって……そう言ってたので、蹴ってきました」

 

「あんまり仲間は蹴らないようにね、リリィ」

 

「大丈夫ですよね?

 この世界は、無くなったりしませんよね?

 お兄さんは……いなくなったりしませんよね?」

 

 刕惢の服の裾をつまむリリィの手を取って、刕惢は微笑む。

 

 胸の奥で炎が燃えている。

 胸の奥に何かが沈殿している。

 胸の奥に刺し貫くような痛みがある。

 子供がクリスマスに夢を見ることもできなくなりかけているのに、何もできない自分への絶望と怒りが、際限なく膨らんでいく。

 

 この健気なサンタクロースに報いてやれるものを、刕惢は何も持たなかった。

 いや、違う。

 持ってはいないが、得ることはできる。

 汎人類史を殺し尽くせば、未来をこの子にあげることはできるのだ。

 

 殺せば。

 殺せば。

 殺せば。

 この子を襲う残酷を、少しは無くすことができる。

 藤丸立香とその世界を、殺せさえすれば。

 

「じゃあさ、今年のクリスマス、世界一派手にしてみないか?」

 

「!」

 

「みんな呼んで、最高に楽しくしよう。

 飾りも沢山、ごちそうも沢山、プレゼントも沢山。

 楽しい音楽をかけて、広い会場に楽しいものをいっぱい並べよう。

 そんな会場を、頑張り屋のサンタさんな女の子に盛り上げてもらうんだ。どうかな?」

 

「わぁ……はい……はい! そうしましょう!」

 

「良かった。楽しいクリスマスの想像が復活してくれたみたいで」

 

「あっ……う、ううっ、私があなたを励ますつもりが、また逆に……」

 

 約束は、重い責任を彼の背中に打ち付け固定する釘となる。

 

 未来を語ることは、胸の奥にある良心を切り刻む。

 

「私、頑張ります。

 今は何も考えません。

 考えないようにします。

 次に皆と過ごすクリスマスのことだけを考えます。

 だって……クリスマスは、みんなが幸せになれる日だと、信じていたいですから」

 

「もう大丈夫か。いけるな」

 

「はい! ジャックさん達と行ってきます。それでは!」

 

 行儀悪く屋上から飛び降りたカドックと違い、リリィはちゃんと階段を降りて行こうとする。

 だがその前に、刕惢にとびっきりの笑顔を向けて、『大好き』という言葉を、カドックと同じくらい遠回しに言っていった。

 

「私、あなたに!

 誰よりも先に!

 素敵なクリスマスの幸せな時を、プレゼントしたいです!」

 

 屋上には、誰もいなくなる。

 刕惢は戦場を見渡して、そして空を見上げた。

 

 空には夜の黒、星の光、輝く月が並んでいる。

 それら全てが刕惢を見ていた。

 空に輝く太陽の周りを、この地球が回っているなどということはない。

 この空はこの星の周りを回っている。

 

 地動説など語るに及ばず。

 汎人類史の誰もが気付いていないというだけで、この世界は天動説の物語に呑まれていた。

 

「……ああ。

 我らの王。

 慈悲の天空。

 ちょっと聞いていいか。

 俺と立香と皆で、次のクリスマスに一緒に笑い合える可能性ってある?」

 

 音でもなく、念話でもなく、文字ですらない返答が、刕惢の頭の中に帰ってくる。

 

 刕惢は泣きそうな顔で、拳を屋上の手すりに叩きつけた。

 

「ああ、そうか。わかった。ありがとう。頑張る」

 

 それぞれの人間が居て。

 

 それぞれの考えがあり。

 

 それぞれの願いを掲げて、この聖杯戦争へと臨む。

 

 けれど、最後に残る世界は唯一つ。

 

 皆が口にしたそれぞれの想いの中で、最後に残るものは多くない。

 

 それでも、全ての願いを踏み壊し、なお叶えたいと思える願いがあるのなら。

 

「……迷いを持ってる場合じゃねえんだよ、俺……立香を見習えよ……」

 

 見上げる空には輝く月。

 それに重なるようにして、光を素通しする透明な天蓋。

 星々はアトランダムに煌めいて、たまに刕惢へと微笑みかける。

 

 空に水。

 水に空。

 月の空には砕け散った神が在る。

 

 

 




 この作品は『心折杯』の参加作品です。
 https://twitter.com/tttyalu/status/1320725568833290240
 企画開催期間の終了が迫っているため、世界間聖杯戦争開始のここで一度始まりの物語の完結としています。
 続きは明日投稿予定なので形式上の完結はおそらく一日保ちません。
 それでは。


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第三幕:愛された娘

 世界と世界の大戦争が始まった。

 双方のサーヴァントの合計数が50を超えるという、聖杯大戦の四倍の規模の大戦争だった。

 これで打ち止めではなく、サーヴァントはまだ増えていくと予想される。

 何の手加減もバランス調整もない、世界の総力をぶつけ合う英雄の大戦争は、人間を巻き込まないというルールに全員が同意していなければ、全てを焦土に変えていただろう。

 

 汎人類史の勝利条件は四つの聖杯を組み込んだ空想樹の切除。

 そして異聞帯の王の打倒。

 これによって、汎人類史を脅かす異聞帯からの上書きは阻止される。

 

 異聞帯の勝利条件はこの世界の汎人類史化までの時間稼ぎ。

 二週間も無い、とされるが、いまいちハッキリしない勝利までの期日を走り切れば勝ち。

 さしあたってはカルデアの戦力を殲滅し、攻略不可能な状況を作ってしまうことが早い、と暫定リーダーのモードレッドは考えている。

 

 汎人類史は侵攻しつつ一定の領域を占拠、四つの空想樹を探したい。

 特異点Δiは敵に土地を押さえられないようにしつつ、カルデアのサーヴァントを撃破し、この世界の剪定を邪魔したい。

 汎人類史が攻めなければ異聞帯は何もしないでも時間が味方してくれる。

 そのため事態の始動は攻める汎人類史側の動きが決定し、戦場の動きはここがホームの異聞帯側が主導権を握るという、やや異聞帯側が有利な流れが出来ていた。

 しかしながら、サーヴァントの総数は汎人類史側が上。

 

 最初の樹が切られるまでの戦場の流れ次第で、今後の戦いの流れが決まるだろう。

 

 一本切るまでに絶望的に汎人類史側の攻め手が尽きるか。

 あるいはあっさり樹が切られて汎人類史側が勢いずくか。

 汎人類史側が連戦連勝なのに樹を見つけられず手詰まりになるか。

 はてさてどうなるか、誰にも分からない。

 

 が。

 それはそれとして、さておき。

 シャーロック・ホームズは、立香とマシュを引き連れ、戦場の中心から遠く離れた夜道を悠々自適に歩いていた。

 

「さて、上手い具合に囮になってくれたようだね」

 

「ホームズ……? え、これ、なに?」

 

「なに、初歩的なことさ。

 こうなることは読めていた。

 推理した通りにアーサー王殿は動いてくれた。

 我々はその隙にこそこそと動いてしまおう、というだけのことだよ」

 

「ええ……」

「ええ……」

 

 夜闇にかつてないほど大量かつ多様な魔力が吹き荒ぶ。

 ホームズは気にしない。

 どこもかしこも魔力が吹き出し、一般人の誰もが気付かない結界だらけの夜の世界に、戦場の空気が舞い降りる。

 ホームズは気にしない。

 宝具の魔力爆発が感じられ、一騎か二騎のサーヴァントが消え去るのが感じられた。

 ホームズは気にしない。

 

 あまりにも他人事な態度で悠々と歩いていくので、立香は呆気に取られてしまった。

 

「あ、そっか。空想樹探し! 流石ホームズ!

 あれを見つけないと、何するにしてもどうにもならないもんね」

 

「あれも探すがあれはどうでもいい。他の誰かが見つけるだろう」

 

「どうでもよくはないよ!?」

 

 なんてこと言い出すんだこいつ、と立香は思った。

 だがホームズはふざけているわけでも、伊達や酔狂で言っているわけでもない。

 世界一の名探偵。

 人類史最高の知名度を持つ解明者。

 真実を告げる者。

 彼はこの人類史で唯一つの視点を持ち、誰よりも高いところから世界を見通し、ゆえに宿敵以外の誰にも真の意味では理解されない。

 

「いいや、どうでもいい。

 重要ではあるが、相対的にはどうでもいい。

 私は探偵だ。

 私は最も重要な、絶対に明かさなければならない真実を見つけ出すのが仕事だよ」

 

「最も重要なもの? それは何?」

 

「それがさっぱりわからない」

 

「わからないの!? わからないのに探してるの!?」

 

「先輩! 名探偵に必要なのは真実を察する嗅覚と周りを納得させる論理なんです!」

 

「それはわかるけどマシュ!」

 

 ホームズに連れられているというのに、立香もマシュも彼の意図をまるで理解できなかった。

 ただ、ホームズの推理は信用できる。

 結論は無情なこともあるが、真実を突き止める能力は間違いなく人類史最高だ。

 そして真実を見つけることは、選択を間違えないことに直結するのである。

 

「私は考えれば考えるほど違和感を覚えている。

 私は何かに気付いていない。

 気付いていないことにしか気付いていないのだ。

 たとえるなら、一ページ目に真犯人が書いてある推理小説。

 なのに、巧みにそれが隠されていて気付かない。

 ……そういった、最初の答えを見逃している感覚だ。

 こういう感覚は、ジェームズ・モリアーティの企みに似たものがあるが……」

 

 立香はホームズがこういう言い回しを選ぶのが耳慣れなくて、少し驚く。

 ホームズがこういう表現をする時点で、普通の謎、尋常な隠し事ではないのだろう。

 何か、それを知ったことで何もかもひっくり返るような何かがあるのかもしれない。

 しかしホームズですらすぐに答えの見当もつかないなら、それは相当な解明難易度を持つ秘密であるはずだ。

 

 そして、同時にこうも思う。

 "そんな隠し事があるのなら、この異聞帯にとって最も危険な男は彼なのでは?"と。

 

「マスター。

 私は今回、君に極力思考を開示する。

 混乱させるようなことは控えるが、道標はできる限り言っておく。

 以前にも似たようなことを言った覚えがあるが、今回は特にそれを徹底しよう」

 

「え、いいの? 凄く助かるだろうけど……どういう風の吹き回し?」

 

「私が途中で脱落する可能性がある。

 流石にここまでの大戦争となれば事故は普通にありえるだろう。

 そうなれば最悪の場合、真実が闇の中に消え去ってしまう可能性がある」

 

 ホームズは数々の事件に立ち会ってきた名探偵だ。

 嘘、欺瞞、虚飾、捏造……数々の真実を覆い隠す謎と向き合ってきた。

 そして今も、とても大きな謎の存在を感じている。

 謎によって何かがこの世界に隠されていて、それはおそらく、最初からずっと目の前に提示され続けているのだ。

 ホームズはそれを、謎から己への挑戦と受け取った。

 

「真実を何かが隠している。

 鋼の鍵、鋼の謎、鋼の扉だ。

 それら全てが誰かの鋼の意志で出来ている。

 いつだって真実を覆い隠すのは強い意志と、思考力が生む偽装だ。

 この意志は間違いなく……()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……え?」

 

「私が退場しても、君が真実を見つけ出すんだ。藤丸立香」

 

「……よくわかってないけど、もしそうなったら、頑張ってみる」

 

「よろしい。では、現時点での私の推論を話そうか」

 

 マシュが召喚サークルを設置した霊脈上の公園を横切って、ホームズがまだ語らない目的に向けて、遠回りをしながら三人は歩いていく。

 

「君達はいい情報を持ち帰ってくれた。

 ムーンセル。

 本人の霊基に変化はもたらさないが拡大をもたらす世界の何か。

 風魔の彼が調査したデータと突き合わせた結果、私は一つの推論に至っている」

 

「どういうの?」

 

「この世界はムーンセルの模倣を行っている、ということだ」

 

 ホームズは立香に飛びつきそうになっていた虫を、つまんで捨てる。

 

「ムーンセル……この世界とは別の世界の、メルト達の世界の聖杯だっけ」

 

「その認識で大まかには間違いはない。

 平行世界に存在する太陽系最古の遺物。

 全長3000kmに及ぶフォトニック結晶体。

 月そのものと言えるスーパーコンピュータ。

 誰が作ったのかも分からない、星のサイズの聖杯だ」

 

 赤信号の前で三人は止まり、青になったら横断歩道を渡っていく。

 

「私達にも無関係のものではないがね。

 君達二人だけなら絶対に無事だとトリスメギストスが予想していただろう?

 あれのオリジナルがアトラス院の演算装置トライヘルメス。

 つまりはフォトニック結晶……『賢者の石』で出来た、演算装置なのさ」

 

「あー、あー、前にも聞いた気がする」

 

「ムーンセルは無限に近い演算能力を持つ。

 そしてシミュレートした未来へと世界を誘導することもできる。

 どんな世界も、可能性の上では存在するだろう?

 ならば、月のムーンセルはどんな世界でも作れるということなんだ」

 

「ひゃー、凄い」

 

 横断歩道の白いところだけを歩く立香、それを真似するマシュに、ホームズは微笑む。

 

「どんな幻想、絵空事も実現できる。

 なにせムーンセルは全ての可能性を見ているからね。

 その中の一つ、理想世界を選び取れば、その世界は幸福に満ちたものになるだろう」

 

「え、じゃあ、この世界は」

 

「その理屈で幸福な世界を維持していると、私は推理した。

 ……なるほどこれがあったか、という気分だ。これなら世界平和だって叶うだろう」

 

 たとえば、そこに石ころがあるとするだろう。

 そのままだと不幸になる人がいる。

 石ころを前後左右に動かしてもそれは同じだ。

 

 だが、ごくたまに、石をどこかに転がすと不幸が幸福になる人がいる。

 ならば地球上にある何もかもを計測し、全ての可能性を計算したら?

 それら全てのもしもを選び取れる機能があったら?

 これが月のムーンセル・オートマトンが、願望器『聖杯』の名を冠した所以である。

 あまりの機能に、人類の思考形態ではこれを理解することができないという。

 

 ……神ならば、理解できるかもしれないが。

 

「聖杯は魔力で願いを叶える、でいいんだっけ。

 じゃあこの世界は、可能性で存在した幸福な世界を作ったってことでいいのかな?」

 

「ああ、それで合っている。汎人類史のBBの解説を信じるなら、だがね」

 

「BBさんはそこで嘘を付くタイプの人ではないと思います。

 でも確かに、これなら歪みの類は発生しないでしょう。

 魔力で何かを捻じ曲げているわけではありません。

 何かを力で矯正したわけでもないです。

 自然に世界が進む道先の中から、最も幸福が溢れるものを選び取っただけなんですよね?」

 

「剪定されるわけだ。皆の幸福が失われる可能性がなさすぎる。推理するまでもない」

 

 ホームズのはきはきとした声の推論を、屋外の虫の鳴き声が彩っていく。

 

「ムーンセル同様、光そのものをフォトニック結晶で演算装置としているのだろう。

 こんなものを扱えるのは、伝説の賢者パラケルススくらいのものだ。

 "賢者の石"という名でも呼ばれる、現在の地球上では生成できない秘宝だからね」

 

「ええと、つまり?」

 

「この世界にはムーンセルの類がある。

 あるいは無くて、それの権能と言うべき力を模倣している。

 どちらにせよ、していることは同じだ。

 ムーンセルの知識を得たのはBBか、メルトリリスか、それ以外か。

 フォトニック結晶という土台を得たのはパラケルススか。

 それを扱える異聞帯の王……『容疑者』は絞れてきたが、真実は未だ遠い」

 

「はー。ホームズ凄いね。

 刕惢も一言失言で漏らしただけなのにここまでバレて大変だ……」

 

「なに、今回は助手が皆優秀でいい情報をくれるからね。

 ……それを言うならば、敵の側の人材も随分と優秀であるのだが」

 

「あの、ホームズさん。実はちょっと気になることが……」

 

 マシュがおずおずと、口を出す。

 

「ほう? 何かね、ミス・キリエライト。言ってみたまえ」

 

「気のせいかもしれないんですけど……モードレッドさんを、中庭で見ていたんですが」

 

「ほほう。ミス藤丸とミスター刕惢が話し合っていた時のことか」

 

「モードレッドさんに、あんなに空を見上げる癖があっただろうか……と思ったんです」

 

「……ふむ」

 

「中庭は建物の一部ですが、空が見える場所です。

 何か根拠があるというわけではないんですが……何か、気になって」

 

 ホームズは堂々と夜を歩く。

 見えないものを見えるようにする。

 不明なるものを解き明かす。

 謎の闇を照らし出し、何もかもを見えるようにする光たるホームズに、世界を包む闇そのものが怯えて逃げ出しているようにすら見えた。

 

「空、星、月。加え、まるで(そら)が不在であるかのような信仰の虚無」

 

 ホームズは立香にもマシュにも分からない言葉を呟き、考える。

 

「……この天蓋(そら)の謎を解くには、あまりにも何もかもが足りなすぎる」

 

 しかしその明晰な頭脳をもってしても、まだ答えは遠く高い。

 

 届かない答えに手を伸ばすのをやめ、ホームズは"絶対に殺されないことが保証されている探偵"の立ち位置に入った立香に、できる限りの推論を残す作業を続けた。

 

「話を続けよう。そしておそらくこの機能は、我々の影響で機能不全を起こしている」

 

「機能不全……?」

 

「この世界は、世界の骨子が汎人類史と反発する力があまりに強い。

 地獄による発展を否定し、幸せな楽園を求めた果てだ。

 言うなれば、地獄の可能性を捨て、その分の多様性を失い、進化を鈍化させている」

 

「……」

 

「しかし、『皆』の幸せを願ったというのがミソだ。

 マスターへの世界の後押しも見て確信した。

 この世界の基本構造は、汎人類史の我々の幸福も願ってしまっている。

 『皆の幸福』の定義が揺らがせられないのだろう。

 だから我々にも干渉しようとして不具合を起こし、幸福の理論を果たせなくなっている」

 

「!」

 

「そうでなければ、幸福が保証されたこの世界では誰にも勝てなかっただろう。

 幸福が保証されたこの世界の住人は、この世界では必ず勝つだろうからね。

 エミヤ・オルタもゆえに……いや、これは今度でいいだろう。

 我々は汎人類史の理に生まれた。

 その理に今も生きている。

 それがこの世界に満ちる『幸福論』を、強制的に無価値化させているんだ」

 

「幸福論を……無価値に?」

 

「この世界はムーンセルを模倣した機能を持つが、本物には遠く及ばないのだろうね」

 

 幸福論。立香はそれを聞いたことはあったが、詳しく知っているほど聞き慣れてはいなかった。

 

「私達の近くでは、彼らは幸福を保証されないのだろう」

 

「汎人類史の理が、幸せを打ち消すってこと? ホームズ、それは、なんていうか」

 

「先輩……」

 

「いいや、違う。

 マスター、その理解は正しくない。

 邪魔されるのは森晶刕惢の心から生まれるシステムだけだ。

 幸福を打ち消してしまう力など汎人類史の法則性には無い。

 幸福は否定されない。世界に満ちる幸福論を、汎人類史の理が否定しているのだろう」

 

 "お前のその考えを否定する"。

 

 汎人類史で生まれた全ての生命は、この世界の幸福を否定する理を存在に持っている。

 

 竜の概念を埋め込まれて生まれてきたアルトリアに、一種近いところがあるだろう。

 

「幸福論……って、なんだっけ。マシュ知ってる?」

 

「はい、先輩。

 幸福論とは幸福と人生について考えるものの総称です。

 幸福とは何か?

 どうすれば幸福になれるのか?

 万民の幸福とは何か?

 誰にとっても幸福なこととは何か?

 何が幸福の邪魔をするのか?

 なぜ万民が幸福になれないのか?

 それについて考えた学問・哲学・研究の総称で、三つ代表的なものがあると言います」

 

「幸福についての考えそのもの……」

 

「2000年以上ずっと、人類は幸福論について論じてきたそうですよ」

 

「に、2000年以上……!?」

 

「理論があって法則ができる。

 法則を世界に敷いて初めて世界が変わる。

 この世界に敷かれた法則には、一人の人間が抱いた幸福論がある」

 

「……」

 

「これも推測になるがね。

 おそらく森晶刕惢は、『皆のための幸福論』を考えることにおいて、天才だったんだろう」

 

 ホームズのその言葉の意味するところを、理解できない二人ではない。

 

「クリプターには大なり小なり才能があった。

 カルデアで成績最優秀チームに選ばれる能力があった。

 それぞれに『他の誰にもない何か』があった。

 この世界の森晶刕惢にも、それがあったのだろう。

 彼にはどんな人間よりも『他人の幸福を考える才能』があったというわけだ」

 

 立香の中で、刕惢への好感と、それが引きずり出す苦痛が、両方同時に大きくなった。

 運が悪かったら、優しいだけの人間として死んでいただろう。でも、そうはならなかった。

 他人の幸せを願うことだけは得意な少年を、周囲は普通の子と扱い、けれど大切にした。

 

 会話中、周りの人が言ってほしいことを言ってくれる少年。

 してほしいことを言わなくてもしてくれる少年。

 辛い時に欲しい言葉を最適にくれる少年。

 幸福になるために邪魔になる己の中の苦悩を、時間をかけてでも取り除いてくれる少年。

 他人の幸福のことばかり考えている少年。

 子供をちゃんと大切にする少年。

 

 『こうしたらその人は幸せになれる』を考える能力が誰よりも高いだけの人間が、それ以外に何も無かった人間が、走り抜いた先がこの世界。

 

「この幸福論を無価値にできることが、我々の現在最大のアドバンテージと言える」

 

 世に満ちる幸福論ゆえに、誰もが本来は宇宙の神が相手ですら無敵の世界。

 

 その幸福論が存在しない汎人類史は、その無敵を貫通できる。

 

 "世界はそんなに優しくないんだよ、夢を見るな"というルールを強要できるのだ。

 

「現状、推測に推測を重ねた話しかできない、が。

 この世界には手がかりが残っているはずだ。

 Mr.小太郎が集めた情報の断片からもそれは明らかだ。

 おそらく、バビロニアで完成を見た……

 でなければMr.小太郎が見たサーヴァントに説明がつかない……だとすれば……」

 

「バビロニアで刕惢が何かしたってこと?」

 

「いや、そうではない。そこはまだ語るべきではない」

 

「ええー、またそれ?」

 

「肝心なパーツが足りていないのだよ。最大の謎があまりにも大きすぎる」

 

「最大の謎?」

 

「ああ。それもまだ語るべきではない」

 

「マシュ……いつものホームズが帰ってきたよ!」

「はい! 有能感を出しつつ小説の最後まで真実を引っ張るホームズさんです!」

 

「君達ね」

 

 無理をして普段のような会話をしているような、どこかぎこちない空気があった。

 

 すいすいと真実を突き止めていくホームズは、未知という敗北要素を殺し尽くす。

 『知らなかったがゆえの敗北』は、この男の前では死ぬしかない。

 情報が勝敗を左右しやすい近代以降の闘争において、虚飾を砕き真実を暴くこの男は、味方に置くにはあまりにも強すぎる。

 突き止められた真実は、次なる一手を致命傷へと押し上げる。そういうものだ。

 

「この異聞帯においては、先入観を捨て何らかの例外存在の存在を想定した方がいいだろう」

 

「聖杯戦争でよく見るやつだね、ホームズ」

 

「ふ。手慣れた様子で実に頼もしいな、マスター。大いに結構」

 

 彼らは海辺の防風林、さざなみ寄せる海、その狭間の堤防に沿う道路を歩いていく。

 森が月明かりで長く長く影を伸ばしていて、海風がささやかに森を揺らしている。

 空の月と星、海の満ち引き、それらを何気なく観察しささやかな違和感を得るのは、名探偵だけに許された能力であった。

 

「私は仮説をいくつか立てているが、最後のピースが足りていない。

 風魔の彼はとてもいい仕事をしてくれた。

 この推理を一区切りさせるために、この世界の強力なサーヴァントを観察したい」

 

「強力なサーヴァント……」

 

「我々の知る異聞帯には通常ありえない存在が多く存在した。

 キリシュタリアに至っては三騎の神霊サーヴァントを契約で従えていた。

 『その異聞帯にのみ存在するサーヴァントの類』……

 これまでの異聞帯を見てきた限り、これこそが世界の特異性と直結している」

 

「! 霊基は同じだけど、何かが違う刑部姫……」

 

「それとそれを止めたモードレッドだ。さて、戦場を俯瞰して見つけたいところだが」

 

 これまで彼らは、多くの特異なサーヴァントと戦ってきた。

 普通の歴史とは違う歴史を生きたサーヴァント。

 何らかの改造を受けたサーヴァント。

 クリプターのサーヴァントに、異聞帯の王。

 それらは後から振り返ってみると、「ああ……なるほど」と納得することが多い『特異個体』であるが、全てが分かるまでは謎が多いことも多々だ。

 

 ホームズはそこをとっかかりにしようとしているのである。

 

「気になることはまだあるが後でいいだろう。今は二者の戦いが見た―――」

 

 やがて、T字の道路が見えた頃、そこで。

 

 

 

「行って、ジャバウォック。わたしたちはナーサリーのお友達」

 

 

 

 二つの影が、ホームズとマシュに突っ込んだ。

 

「!?」

 

 一つの大きな影が、ホームズを掴んだまま海の方に転がっていく。

 砂が爆裂するように飛び散り、海が爆弾を投げ込んだように弾けた。

 海の水が、高く高く舞い上がる。

 

 小さな影が、マシュを斬りつける。

 マシュがその一撃を防いだことに、小さな影は驚いた様子だった。

 後ろに必死に跳躍して距離を取ろうとしたマシュだが、そこに追撃の飛び蹴りが当たり、浮いた体を森の中に放り込まれてしまう。

 

 かくして、あっという間に二人のサーヴァントは立香から引き剥がされてしまった。

 

 ホームズは海の中で立ち、むせこみながら構えを取る。

 相対するは、筆舌に尽くし難い形状の、されど絵本から飛び出してきたような大きな怪物。

 マシュは顔にくっついた落ち葉を投げ捨て、盾を構える。

 相対するは、夜に女性を殺す戦いであれば屈指のサーヴァント……ジャック・ザ・リッパー。

 

 不思議そうに、可愛らしく、ジャックは小首を傾げる。

 

「……なんで防げたの? わたしたちのこれ、防げないのに」

 

「あなたは私達のカルデアでも戦ってくださってくれたサーヴァントです。

 問答無用の先制攻撃、対処を許さない暗殺。

 複数のスキルが複合し、即時暗殺を完了させるあなたはあまりに恐ろしい。

 私の装備は今回の聖杯戦争にあたり、各アサシンへの対策を実装されています」

 

「そう。偽マシュは色んな改造がされてるんだね」

 

 ジャック・ザ・リッパーは、夜には無条件で先制攻撃が成功する。

 ジャック・ザ・リッパーは気配を消せば、攻撃するまで発見できない。

 ジャック・ザ・リッパーは、女性を問答無用で殺してきた伝説を再現できる。

 夜のこの時間、マシュ・キリエライトに、ジャック・ザ・リッパーに一対一で勝つ道筋はほとんどないと言っていい。

 

 かつて敵として戦い、やがて召喚に成功し味方になったジャック・ザ・リッパーの強さと能力を知るがゆえに、マシュの服の下にじんわりと嫌な汗が流れた。

 

「ま、待ってください! 私は人間です。そしてジャックさんを害する意志は……」

 

「? 人間じゃないでしょ、偽マシュは」

 

「―――え」

 

 けれど、その汗も引っ込んだ。

 

「私は人間です。何を言っているんですか?」

 

「わたしたちのマシュは人間。

 別の世界のマシュは違う。

 わたしたちのお友達のマシュはサーヴァントを抜いたら人間だった。

 普通の女の子に戻って普通に暮らすようになった。

 でも偽物のマシュは違う。

 もう何も自分の中に入ってなくてもサーヴァント。普通の人間じゃない」

 

「私は……人間です! そうで、あるはずです……」

 

「違う。

 何も中に入ってないのに、サーヴァントと同じ。

 それはもう人間じゃないよ。

 わたしたちのマシュは人間。

 わたしたちが大好きなマシュは人間に戻ったの。

 でも偽物は違う。偽マシュは、人間が絶対に死ぬ攻撃でも死なないもの」

 

「私はっ……!」

 

 人間を殺してはいけない、というルールがあり、それに対する同意があった。

 

 刕惢は見誤っていた。

 彼は立香とマシュの殺害を望まず、また他世界のマシュにも慈しみを持っていたから。

 立香も見誤っていた。

 彼女はマシュという一人の人間を、ずっと普通の女の子としても大切にしてきたから。

 マシュ自身ですら見誤っていたと言える。

 三者三様に、マシュが人間だという考えに疑いも持っていなかった。

 

 この世界で、ごく普通の女の子に戻っていくまでのマシュを見てきた幼い子供なら、サーヴァントが体から抜けてもなおサーヴァントと戦えるマシュを、人間扱いしなくてもおかしくない。

 欺瞞のつもりはない。

 悪意的なルールの穴を突いた行動でもない。

 ジャック・ザ・リッパーはただ、マシュが人間に見えていないだけなのだ。

 だから『人間を殺したらいけない』という刕惢からの言いつけを、破っているつもりもない。

 

「マシュは普通の女の子。

 おかあさん(マスター)もそう言ってた。

 わたしたちだってそう思う。

 マシュはサーヴァントと一つになっただけの、頑張ってただけの女の子。

 あなたみたいな、サーヴァントと離れてもサーヴァントと戦えちゃうばけものさんじゃない」

 

「―――」

 

「わたしたちのマシュの盾には、そんな武器は入ってなかった。

 あなた本当にマシュ?

 違う。マシュはそうじゃない。

 そんなに機械でごてごてにしてマシュを無理に戦わせて……そっちの世界、酷いんだね」

 

「違います! 私達の世界は、私に戦う力をくれた人達は―――」

 

 マシュは必死に動揺を抑えようとするが、この世界のマシュを知り、この世界の形を知り、世界の切除への迷いがぶり返し、既に数え切れないほどの動揺を抑えてきたマシュには壁が高い。

 この動揺は、揺れが強すぎる。

 ギラリと鈍く輝く盾の杭が、今はとても悪趣味に見えた。

 

 かくして、戦いは始まった。

 

 刕惢からの心遣いに感謝するマシュと、刕惢の幸せのために戦うジャックが、『マシュの苦しみは少なくあってほしい』という、刕惢の願いを踏み躙る形の開幕だった。

 

 

 



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2

※現在全然手を入れてなかったクリスマスイベなどを処理してるため更新と感想返信がややおろそかになってます。すみません


 ホームズには記憶がある。

 それはあまりにも朧げで、何によって成る記憶なのか分からない。

 

 シャーロック・ホームズという人間が現実に居て、本当にそういうことがあったのか?

 "そういうサーヴァント"になるにあたり、欠落した生前の記憶なのか?

 それとも、コナン・ドイルが書いて焼き捨てた没案の原稿の話か?

 あるいはどこかで密かに強力な支持を得て本物だと信じられた二次創作か?

 

 シャーロック・ホームズは、ジャック・ザ・リッパーと同様に、『誰かの創作』によって成り立つサーヴァントであるがゆえに、何も断言することはできない。

 サーヴァントとは、そういうものだ。

 

 その記憶の中で、ホームズは子供の手品を見ていた。

 片方の子供が片方の子供を手品で驚かせて、「魔法だよ!」と言っている。

 子供達がきゃっきゃと楽しそうに遊んでいるそこに、若き日のホームズが口を出す。

 その魔法が手品であることを簡単に見抜き、指摘したホームズは子供の拙さを露呈させ、本人は望まずして子供を泣かせてしまった。

 

 探偵は真実を暴く者である。

 優しい嘘の対極に在る者だ。

 "サンタクロースなんて夢みたいなものはこの世にいないよ。大人になろう"の究極系こそが、探偵の語る言葉であるとも言える。

 

 泣いた子供の親は許してくれたが、無神経なホームズは一言しっかり嫌味を言われた。

 

『真実なら何を傷付けてもいいと思ってるんですか?』

 

 ホームズの心に特には響かなかったが、頭の片隅には留めておくことにした。

 シャーロック・ホームズは変わらない。……そんな一言で終わりにされそうな物語。

 若き日のホームズは、気遣う理由が一つもなければ、子供達の夢を守る嘘や沈黙を選ぶのではなく、『人が嘘に騙されず真実を得る』ための選択を選ぶ男だった。

 

 特異点Δiは優しい世界なのかもしれない。

 しかし、名探偵というものは本来、優しい嘘も打ち砕いてしまうもの。

 残酷な真実と優しい嘘なら、前者の味方をするのが名探偵というものだ。

 たまに情をかけることもあるけれど、探偵とは無情に虚飾を暴いてこそ探偵なのだろう。

 

 優しさと真実を求める意思は、本来対極にある。

 優しさではなく真実をもってよりよい未来を目指すのが探偵である。

 

 シャーロック・ホームズは、望んでこの世界の敵として在ろうとすれば、おそらくはどんなサーヴァントよりも恐るべき刃となれる男だった。

 

 

 

 

 

 怪物が咆哮する。

 膝まで海水に浸かっていたホームズは、何気なく色気の漏れる所作でずぶ濡れの髪をかき上げ、咆哮するジャバウォックに向け構える。

 海水が、ただの咆哮で砕け散り、水蒸気のように細かく大気に舞っていた。

 

 ジャバウォックの突撃が始まる前に、推理で突撃を予期し、ホームズは地面を踏むのではなく砂浜側に倒れ込むようにして転がって、ジャバウォックの全てを砕く突進を回避する。

 嵐のような突撃だった。

 進行方向の全てを巻き込む、怪物の形をした嵐だった。

 ホームズは砂浜に転がった結果砂だらけになった体をぱんぱんとはたいた。

 

「……ふぅ」

 

 ジャック・ザ・リッパーはアサシンのスキルにより、発見されずに接近できる。

 接近されるまで気付けなかったのは納得だ。

 ならばジャバウォックはどう気付かれずに接近したのか?

 ここまで桁外れの、世界を揺らすような力を持った怪物の巨人が、どう気付かれずに隠密行動を取ったというのか。

 

 その答えは、見れば分かる。

 

 怪物の足が、ぎちぎちと折りたたまれて力を溜める。

 巨体の足が砂浜に沈み込み、砂浜という力の入りにくい場所をものともせず、跳ぶ。

 ホームズはまたしてもジャバウォックの動きを推理で読み切り、肉体スペックではなく類まれなる先読みで、突っ込んできたジャバウォックを回避する。

 そして、遠方の積み上げられていたテトラポットの山が吹き飛んだ。

 

 恐るべし、ジャバウォック。

 知性なき怪物の全力突撃は、ただそれだけで小規模な宝具に匹敵する。

 

「これは、探偵には荷が重い相手ではないかね?」

 

 ジャックは、忍び寄った。

 気配を遮断して神速の接近を行った。

 だがジャバウォックは違う。

 この怪物は、()()()()()()()()()()()()だ。

 敏捷A++クラスのサーヴァントですら追いすがれない勢いで。そうして奇襲を成功させた。

 

「さて」

 

 ホームズはその飛び抜けた観察眼と、汎人類史のカルデアで無数のサーヴァントを見てきた経験から、ジャバウォックの強さを査定する。

 筋力、カウンターストップ。すなわちEX。

 耐久、カウンターストップ。すなわちEX。

 敏捷、カウンターストップ。すなわちEX。

 魔力、カウンターストップ。すなわちEX。

 知性、0。戦略も戦術も無い。

 真名もホームズ視点では未だ不明である。

 

「……」

 

 ホームズは動揺も困惑も顔には出さず、思わせぶりな笑みを浮かべる。

 

 推理途中にホームズがよく見せごまかす、必殺のビューティフルスマイルだった。

 

 戦闘特化の英霊でないホームズに勝てる相手ではない。

 なので、ホームズはジャバウォック相手に時間稼ぎに回ることにした。

 弱い駒が強い駒を引きつけていれば、集団戦では十分仕事をしたと言える。

 流石にこれがまた奇襲すれば、その矛先がマシュの背中だった場合、本当に死にかねない。

 

 堤防に飛び乗り、少々高い場所からジャバウォックを見下ろすホームズ。

 何か思いつきそうになるが、今はまだその時ではないと、状況が変わってからでいいだろうと判断し、この一対一を継続する。

 

「しかし……このレベルでも『主戦力』ではなく。

 『ジャックの友達の玩具』止まりか。

 なんとも先行きを不安にさせてくれるじゃないか、幸福の異聞帯」

 

 ホームズは堤防の上で構え、とん、とん、と路面を靴の底で叩く。

 

 正体不明で消息不明。

 火をふく竜とか雲つく巨人。

 トリックアートは影絵の魔物。

 けだし、大人の話はデマカセだらけ。

 真相はドジスン教授の頭の中に。

 

「機会があれば、今後は調査の際には戦える助手を連れてくるべきかね?」

 

 ジャバウォックが飛びかかり、ホームズが先読みして跳び、堤防がジャバウォックの体当たりで木っ端微塵に爆散した。

 

 この怪物とシャーロック・ホームズは、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ルイス・キャロルの『スナーク狩り』には、ルイス・キャロルの別作品である『ジャバウォックの詩』にてジャバウォックと登場した生物が登場する。

 この二つは世界観を共通する物語である。

 そしてホームズの短編『ギリシャ語通訳』において、ホームズとその兄が目撃した者達こそが、スナーク狩りの登場人物である、と語る言説がある。

 このこどもむけのおとぎばなし(ナーサリー・ライム)は、ホームズと同郷だ。

 

 シャーロック・ホームズに最も近い所に居る、こどもむけのおとぎばなし(ナーサリー・ライム)が生み出した獣。

 想像上の世界を駆け抜けた名探偵と、想像上の世界を蹂躙した怪物。

 真実を隠す夢を終わらせる解明者と、夢を覆い守る童謡。

 

 ここには嘘と真がある。

 

 

 

 

 

 マシュの喉元に迫るジャックのナイフは、横合いからの一声によって届かず終わった。

 

「"礼装起動(プラグ・セット)"―――"予測回避"」

 

 藤丸立香(マスター)の服に宿る魔術礼装の力が、マシュに力を与える。

 敵の攻撃を観測し、計算し、対象に回避を行わせる補正魔術。

 超高性能のスパコンが動かすCPUが選んだ最適解のように、マシュはジャックの一撃を避けた。

 飛び退ったマシュの背後から、その肩に少女の手が乗せられた。

 

「マシュは人間だよ。誰よりも人間らしくて、誰よりも素敵な人間」

 

「せ……先輩!」

 

「いつだって、どこでだって、マシュは私を助けてくれた。

 超越者の視点でもなく、英雄の視点でもない言葉をくれた。

 一人の女の子としてのその言葉が、私に何度勇気をくれたか分からないよ」

 

 一人なら、立香は躊躇っていた。

 一人なら、マシュは迷っていた。

 けれど二人なら、立ち止まらないでいられる。

 『今隣に居る彼女が生きる未来のために』と思えば、どんなに心に迷いがあっても、その場は戦うことを選べる。

 いつだってずっとそうだった。

 

「行こう、マシュ!」

 

「はい、マスター! マシュ・キリエライト、ジャック・ザ・リッパーと戦闘を開始します!」

 

 立香がカルデアからの魔力を回し、マシュのサーヴァントとしての能力が一気に上がる。

 地面を踏み締めるように踏み込むはマシュ。

 羽毛の如き軽快さで地面を踏み跳ぶはジャック。

 黒板をナイフで引っ掻いたような、鋭いものと硬いものが鎬を削り合う戦いが始まった。

 

 空気は切り裂かれ、舞い散る葉は一瞬で粉微塵となり、舞い上げられた砂や小石が吹っ飛ぶ。

 カメラで撮ってスローにしても、おそらく一挙手一投足は追いきれまい。

 絶え間ない攻防の音は大きく、鋭く、隙間なく、まるで数十のマシンガンが撃ち続けられる戦場のそれのようにすら感じられるものだった。

 

 ジャックが攻め、マシュが受ける。

 それだけで周囲の木々は揺れ、斬撃の余波が薄い葉を切り落とす。

 人を殺す殺人鬼の殺人技巧を、マシュは人を守る防御技術で必死に受けて捌いていた。

 力を失ったマシュを戦士として成立させるため、周囲の大人がゴテゴテと付けた機械達が、猛烈な勢いでマシュに電子観測情報を流し込んでいく。

 

「くっ」

 

 立香はその後ろで援護のタイミングを測り、魔力をマシュに流し続ける。

 そこに、二つの小石が飛んできた。

 ジャックの踏み込みで舞い上がり、二者の攻防によって弾かれた小石である。

 小石は立香の目の右下と左頬をかすめ、皮膚を引き裂き、血を流させた。

 

 だが立香はまばたきすらしない。

 視線はマシュとジャックを捉えたまま、次に来る流れ弾を恐れもしない。

 目に当たれば失明するかも、という恐怖が顔にも出てこない。

 ただただ、マシュを援護するタイミングを逃さないための最適解を選んでいる。

 

「ふー、怖いなあ」

 

 これでまぶたを1mmも動かさない胆力は、天性のものでなく慣れによって出来たものだ。

 戦いの中で普通の少女が得たもの、失ったものが、この一瞬に凝縮している。

 "こうなった"からこそ、立香は今日まで生き残れた。

 "こうならなかった"平行世界の立香は、きっとどこかで世界ごと死んだのだろう。

 

 "当たり前"になり、立香もマシュも慣れきったために気付きもしない"それ"に、敵であるジャックだけが気付いていた。

 

「血が目に入らなければ大丈夫。ちゃんと見ないと……」

 

 立香のこぼした呟きが、マシュのため、マシュを援護するため、マシュを生存させるための優しさゆえのものであることを、ジャックは理解できてしまう。

 マシュの腕の皮膚を浅く切り裂いたナイフを振り、ジャックは付着した血を振り落とした。

 

おかあさん(マスター)は、敵が優しい人な時が、一番悲しんでる。

 顔にも態度にも言葉にも出さないように頑張ってるけど、それでも出ちゃう」

 

「……」

 

「優しい敵はきらい。

 残酷な敵はきらい。

 あなた達は両方。

 だから、だいっきらい」

 

「!」

 

 マシュの敏捷ランクはD。

 ジャックの敏捷ランクはA。

 ここには、気合いで埋めがたい決定的な差が存在する。

 

 森林の中で、ジャックは全力で駆け回る。

 木に身を隠し、葉に紛れ、音もなく駆け、気配なく跳ぶ。

 

 ジャックの所持スキル『気配遮断』は、この夜の森の中で見失えば再発見を困難にする。

 『霧夜の殺人』は夜間にジャックの先制攻撃を無条件で成功させる。

 初手でジャックがマシュとの戦闘をここで展開したのは、このためだったのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()、非常に広い視点による立ち回りと、一般人を巻き込まないで自分の優位性を作る正統派の戦略思考。

 マシュは眼前の敵の脅威度を、脳内で二段階上に引き上げる。

 

 振るわれる盾。

 ナイフと盾の衝突音。

 宙を舞う、吹き出たマシュの血潮。

 

 マシュは機械的に後付増設されたセンサーの力で急所に刺さる一撃死を避けるが、ジャック対策は十全であるにもかかわらず、戦闘思考によって圧倒される。

 

「これ、は……!」

 

 目で追えるのは精々面影。

 糸を巣と張る蜘蛛が如き、縦横無尽な立体戦闘。

 この森は既に、ジャック・ザ・リッパーの惨殺空間だ。

 

 月光を受けるナイフの銀光すら追いきれない。

 ジャック・ザ・リッパーは殺人鬼だ。

 その本質は殺すこと。

 何をするにしろ、彼女は殺すことで何かを成していく。

 なのに、このジャック・ザ・リッパーは、『殺すことよりも捉えられないこと』に徹底して注力している。

 

 だからマシュは防戦一方で切り刻まれるしかない。

 ジャックの攻撃を捉えられない。

 このジャックは()()()()()()()()()()()()を存在の核に置いている。

 数え切れないほどの人々を殺してきた結果、座に蓄積された殺人鬼の殺戮技術を、正当なる目標に向かう正当なる戦闘へ組み込み、昇華している。

 まるで、正当なる英霊のように。

 

「この動き……! 人体への深い理解を元にした殺人技巧に、忍術のフェイントが……!?」

 

「わたしたちのししょー! が、ねっ!」

 

 マシュの顔面を狙ってジャックが右腕でナイフを振り、マシュが顔を守るために盾の位置を上げてしまうと、ガードが無い足にジャックの左腕が振るナイフが刺さる。

 

「ぐっ」

 

「マシュ! "礼装起動(プラグ・セット)"―――"浄化回復"!」

 

 立香がマシュの傷を一瞬で治し、殺人鬼のナイフ特有の僅かな呪いも拭い去る。

 マシュは反撃しようとするが、強い痛みを感じてしまった以上間に合わない。

 痛みで作った隙を使い、ジャックはまたしても森の闇に溶けてしまった。

 

 ジャックが奇襲で攻めて、攻撃が当たればそこから追撃、あるいは逃げる。

 防御されたらすぐ逃げる。

 攻撃する、と見せかけ逃げて、マシュの予想を外して揺さぶりをかける。

 そうしてまた奇襲を仕掛ける。

 シンプルながらに、非常に強力に練り上げられた暗殺技法だ。

 

 これは殺人鬼(シリアルキラー)の戦い方ではない。

 誰がどう見ても、完成された暗殺者(アサシン)の戦い方だった。

 この聖杯戦争が人間殺害を禁じていなければ、藤丸立香はここで死んでいただろう。

 

 ジャックはメスを三本投げ、マシュが超反応でそれを弾き、されど弾かれたメスをジャックが手にしたナイフで弾き、空中でメスが再度マシュへ向かう。

 空中で弾かれたメスと、手に持つナイフの同時対処は困難だ。

 両腕・両足・顎の下を切られつつもなんとか急所への一撃を避けたマシュは、またしても森と闇の中に消えたジャックに、呼吸を整えながら問いかけた。

 

「……ジャックさん」

 

「なぁに? 偽マシュ」

 

 無視される、とは思わなかった。

 マシュは会話に応じてくれるだろうという確信があった。

 その間に息を整えられるだろうという打算があった。

 

 ジャック・ザ・リッパーは娼婦たちが捨てた数万人の純粋無垢なる赤子、その怨念の集合体。

 それが少女の形を取っているだけのサーヴァントだ。

 赤子ゆえ、マスターの人格的影響を受けやすい。

 善人のマスターに召喚されたジャック・ザ・リッパーが大まかどういう性格かは、マシュも汎人類史のジャックとの付き合いで理解しているつもりだった。

 

「何があなたをここまで強くしたのですか、ジャックさん。

 いや、違う。

 これは単純に強くなった、弱くなったの話ではない。

 あなたが……根本的に何か、私の知らないジャックさんであるように感じます」

 

 ジャックは闇の中、誰にも気付かれていない位置で、首を傾げる。

 

「何かを、彼に……あなたのマスターに、何かされたのですか?」

 

 そして、質問の意図を理解し、闇の中でぶんぶんと首を縦に振る。

 

おかあさん(マスター)が、名前をくれたの」

 

「名前……?」

 

「わたしたち全員に、一つ一つ、違う名前」

 

「―――え」

 

 その意味を。

 

 立香とマシュは、一瞬、まるで理解できなかった。

 

「うん。おかあさん(マスター)はわたしたちのおかあさん(マスター)

 わたしはわたしたちで、わたしたちはわたし。

 わたしたち(わたし)はめい。

 5月に生まれた女の子だから、だって。

 わたしたち(あたし)は袿袴。

 おかあさん(マスター)が凄く綺麗だと思ってる服の名前なんだって!

 わたしたち(ぼく)はギャレット。

 おかあさん(マスター)は「優しくも用心深い」って意味だって言ってた。

 わたしたち(ワタシ)はナタリー。

 クリスマスに生まれた祝福された女の子、って意味があるって。

 わたしたちは―――、わたしたちは―――、わたしたちは―――」

 

 つらつらと、名付けに理由のある名前が口に出されていく。

 高位のキャスターの力でも借りてそれぞれを調べたのだろうか?

 "ジャック・ザ・リッパー"を生み出した数万の胎児達が、それぞれのディティールに合わせた名前を付けられ、それぞれが自分の名前を自認している。

 その上で、『ジャック・ザ・リッパー』を作っている。

 

 名前を付けられていなかったからこそ、彼女達は一つの個体を成す群体だった。

 名もなき堕胎児の集合体として成立する殺人鬼の英霊だった。

 なのに、全てが固有の識別名を与えられた今もなお、ジャック・ザ・リッパーはジャック・ザ・リッパーのまま、汎人類史のそれと変わらぬ姿を保っている。

 それは、意思統一がなされているから。

 

 群にして一。このジャック・ザ・リッパーの意思は、全てが同じ方向を向いている。

 かつて英霊の座に登録された時、混沌の極みであった怨霊の集合体は、復讐と虐殺というジャック・ザ・リッパーの基本の上に、新たな何かを築き上げていた。

 

「刕惢……なんで……

 こんなに一生懸命に助けた仲間が居るのに……

 私達と汎人類史を踏み躙ってまで生き残れない、なんて言ってんのよ……」

 

 立香は服の胸元をぎゅぅっと握って、血を吐くように言葉を絞り出した。

 この世界に積み上げられた優しさの思い出が、心に刺さる。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()と、何気なく思って、とてつもない労力をこともなさげに費やして、何の得もないのにやった少年が居た。

 別にそれでジャックに新しいスキルが生えたわけではない。

 

 ジャックは嬉しかった。

 嬉しかったから頑張った。

 頑張ったから強くなった。

 ただ、それだけ。

 それだけの話でしかなくて―――けれど、あまりにも桁が外れていた。

 

 一人一人を調べて、名前を考えて、意味を持たせて、愛を込めて、名前を与える。

 一回だけなら簡単だろう。しかし、それを数万回。一日に一人のペースでやっていたら、下手したら100年はかかるほどの膨大な作業だ。

 キャスターに思考加速の魔術をかけてもらっても、完遂までに気が狂う。

 それを"優しくしてあげたかったから"という気持ちで行える人間とは、どういうものなのか。

 

 ジャックがその時に得た『愛されている実感』は、どれほどのものだっただろうか。

 

「……ジャックさん、あなたは」

 

 マシュは目を伏せ、どこに居るかも分からないジャックに言葉をかける。

 

「愛されたのですね。とても、とても……嬉しそうです」

 

「うん!」

 

 立香と同じくらい、マシュも苦しかった。

 "一度一緒に旅をしてみたい"と心がふいに思うくらい、刕惢に好感を持っていた。

 立香と刕惢が楽しげに話しているのを見て、マシュは不思議と暖かな気持ちになっていた。

 刕惢は他人を踏みつけにすることが本当に苦手そうで、でもジャックに対して優しくしようとすることにはこんなにも全力で、そんな人を、マシュはその盾で守りたくて。

 

 けれど。

 

 汎人類史のマシュは、もう守っているだけの人間として生きられない。

 

「わたしたち、おかあさん(マスター)が大好き。

 とってもとっても大好き!

 おかあさん(マスター)がくれた名前が私達の宝物!

 この世界が消えない限り、ずっとずっと残る私達の記憶と名前!」

 

 この世界が消えない限り、ジャックが貰った名前と、貰った愛と、今日まで大切にされてきた思い出と、『愛に愛を返した』という事実は消えない。

 愛をもって抱き締められた記憶も、その暖かさの感触も消えない。

 この世界が、消えない限りは。

 

 ごくたまに異聞帯の存在が汎人類史の記録に刻まれることはあっても、そのごく一部の新英霊の記録を除けば、全ての記録は世界と共に霞と消える。

 

「知らなかったんだ、わたしたち!

 生んでくれた人が名前を付けてくれなかったこと!

 名前を付けてくれなかったってことは、要らないものだったってこと!

 捨てる予定のものだったから、名前を付けられなかったこと!

 それこそが、わたしたち!

 ……だからね。

 おかあさん(マスター)はわたしたちの話を聞いて、まず名前をくれて、次にうんと優しくしてくれた」

 

 子供は、まず生まれてきた時に名前を貰う。

 そしてとことん愛される。

 かくして、親の期待に応えるために頑張って成長しようとする。

 とてもとても当たり前のことで、けれどジャック・ザ・リッパーにだけは、それをすることがとても難しかった。

 

 刕惢は「当たり前のことをしただけ」、と言うだろう。

 それが当たり前でないことは、ジャックが一番よく知っている。

 

 彼はジャックを愛し、ジャックもまた彼を愛した。

 彼のその愛が、世界中全ての人へと向けられていることをジャックは知っている。

 それが少し妬けるけれども、不満はない。

 

 かつて自分を捨てた母親達への復讐に動いた、無数の子供達の怨念の集合体に、人々は恐怖と憎悪と好奇心から『ジャック・ザ・リッパー』と名を付けた。

 愛など欠片もあるはずがない。

 母親に名付けられなかった子供達は、最悪の名を付けられ、果てた。

 だから、本当に嬉しかったのだ。

 自分達一つ一つに、『愛された子供の名前』を付けてもらえたことが。

 

「大好きで、大好きで、大好きで。だから、おかあさん(マスター)のためになんだってしてあげたい」

 

 きっとジャックは、彼にどんな求められ方をしても応えるだろう。

 どんな命令をされても応じるだろう。

 そんなジャックに彼が与えた使命が、『みんなの幸せを守ってくれ』だったから、ジャックはもっともっと好きになって―――人の幸せを守る幸せを得て、こうなっている。

 

 なのに、『お前の世界は皆が幸せすぎるから要らない』と、宇宙に告げられ。

 

 今、その理不尽に抗わんとしている。

 

 彼女の名は、ジャック・ザ・リッパー。

 既に他者を殺し尽くす殺人鬼に非ず。

 その刃は、楽園を侵す外敵を殺すために在る。

 

「だからね」

 

 ジャック・ザ・リッパーは幼く、純粋無垢だ。

 敵意はあれど悪意はない。

 だから思ったことを言う。

 

「わたしたちを消そうとしてるあなたたちが『いい人です』みたいな顔してるの、こわいよ」

 

「―――」

 

「わたしたちは、すごくこわい。

 ねえ……あなたたち、何を考えてるの?

 わかるよ。

 それ。

 わかる。

 うん。

 『何を考えて殺そうとしてるのかわからない』……わたしたちと、おんなじだね」

 

 幼き目には、幼き思考ゆえの納得があった。

 かつて人々はジャックを恐れた。

 『なんでお前は私達をそんな簡単に殺せるんだ、なんで』と。

 その嘆きをジャックは知っている。

 今、ジャックは立香とマシュ、汎人類史に対して思っている。

 『なんでお前は私達をそんな簡単に殺せるんだ、なんで』と。

 ジャックは自分の中にある"理解不能"という気持ちを、かつて自分に向けられた気持ちと同類であると解釈した。

 

 ジャック・ザ・リッパーは、自分という存在が背負った罪を忘れない。

 ゆえに不思議な共感があり、その共感がマシュには耐えられなかった。

 理解し合うことを尊ぶマシュは、その誤解に悪い反応をしてしまった。

 

「ジャックさん! 聞いてください! わたしたちは―――」

 

「マシュ、駄目!」

 

 その隙を、ジャックは無情に見逃さない。

 

 霧が満ちる。

 ジャックの展開した霧が。

 ジャック・ザ・リッパーの宝具は発動条件が厳しく、『夜』『霧』『相手が女』という条件を揃えなければ十全に発動しない。

 しかし今は夜で、相手はマシュで、ジャックは自分で霧を出すことができる。

 ならば、使える。

 その宝具は条件さえ揃っていれば、発動した瞬間に相手を即死させるもの。

 

「此よりは楽園」

 

 ナイフを構え、魔力を練り上げ、ジャックは夜闇を駆ける。

 

 ふと、楽しかった日々のことを、ジャックは思い出す。

 彼が膝に自分を乗せて、本を読んでくれた日もあった。

 "聖書に描かれているお話では、神様は回る炎や、全てを押し流す大雨で、楽園や清浄さを守る力を見せたりしたんだよ"―――と、彼が言っていたのを思い出して、ジャックは笑む。

 幸せな日々が、今の自分の力であることを実感する。

 誰かの幸せを願い、誰かを殺す、ジャック・ザ・リッパーらしくもない刃を握る。

 

「"わたしたち"は楽園を守る炎、雨、力」

 

 脳裏に浮かぶは、愛してくれた大切なあなた。

 

「―――あなたを守る殺戮を此処に」

 

 使用と同時に対象の死が確定するため、一撃必殺。

 霧ある限り絶対に命中するため、回避不能。

 物理攻撃ではなく死を与える呪いのため、防御不能。

 ジャックのスキルが情報収集を妨害するため、対策不能。

 振り上げられるは、聖杯戦争の最悪に数えられる絶殺の刃。

 

 マシュの盾では、防げない。

 

「『解体聖母(マリア・ザ・リッパー)』―――!!」

 

 月の下。

 霧の内。

 森の中。

 

 ジャック・ザ・リッパーの刃が、マシュに向けて放たれた。

 

 

 



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3

あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします


 マシュと藤丸立香の持つ強さの多くは、教わった強さだ。

 無数の、星の数ほどの出会いがあった。

 星のように煌めく英雄達が居た。

 

「いいかマシュ。

 直感を信じろ。

 特にアサシンとか、即死の技を持ってる奴らを相手にする時は特にだ。

 頭で考えてちゃ絶対に間に合わねー。思う前に、感じた瞬間、とにかく切り返せ」

 

 此度の聖杯戦争で、汎人類史の前に立ちはだかる最大の強敵はモードレッド。

 そしてマシュにいくつかの"騎士の心得"を教えたのもまた、モードレッド。

 皮肉にも、異聞帯のジャックがリーダーとして信頼するモードレッドの戦術思考が、汎人類史のマシュの中に息づく強さとなっていた。

 

「あいつらはなんでコソコソしてる?

 決まってる、奇襲一発で殺す自信があるからだ。

 分かりきってる、正面衝突すりゃ負けるからだ。

 できる時でいい。あいつらの決めの一撃を切り返してみろ。サクッと勝てるぜ?」

 

 モードレッドとアルトリアは、『人間は普通こういう思考で動く』を計算に入れるアサシン達の暗殺スタイルの天敵である、直感型のアサシン殺しであった。

 

 

 

 

 

 マシュにモードレッドほどの勘の良さはない。

 アサシンの奇襲を感覚だけでは捌けない。

 ゆえに彼女は、機械式の追加センサーの微小な兆候と、とにかく必死に物事にあたる精神で、神速の宝具展開を行った。

 

「これは多くの道、多くの願いを受けた幻想の城───呼応せよ!」

 

 ジャック・ザ・リッパーの宝具による殺人因果は、逆転する。

 まず対象が死体になり、次に対象が死亡したという事実がやってきて、その後に殺人に至るまでの理屈がやってくる。

 目には見えない因果の乱流が、マシュの死を殺される前に確定させ、マシュが殺される前に死んだ状態を作る。

 そこに、神速の護りが割り込んだ。

 

「『いまは脆き夢想の城(モールド・キャメロット)』!!」

 

 ―――これは城壁なのか、と。ジャックは"初めて見る汎人類史のマシュの宝具"に戸惑った。

 

 あまりにもグチャグチャで、あまりにも継ぎ接ぎで、目を逸らしたくなるほどに脆く、白亜の光には毒毒しい色が混ざり、モザイク状に崩壊している城壁は、おぞましさすら感じられて。

 

 なのに、どこか美しかった。

 

 "どんなにおぞましく醜悪なものに成り果てても守る"という、地獄の護りが顕現する。

 

「っ!?」

 

 かつてマシュに力を貸した聖騎士ギャラハッドの力による宝具を模倣した、されど全く別物の、ゆえに完全に違う用法が可能なマシュ・キリエライトの守り。

 それは大地を掘り起こし、森を壊し、霧を飲み込む大地の拡散を引き起こした。

 モザイクの城壁が巻き上げた土が霧を押し退けていく。

 ジャックの宝具の成立条件の一つ、霧が失われていく。

 

 そして女を殺すことに特化した殺人鬼の呪いが、あまりにも脆く、マシュの意志だけで構築された護りへとぶつかり、城壁を貫き―――条件の一つが失われていたため、そこで止まった。

 ほんの僅かな呪いと護りの強度の差で、ジャックの殺人は未成立に終わる。

 

 マシュが性交の一つもしたことのない清純なる純潔のものでなければ、あるいは、淫売なる娼婦を殺し尽くした殺人鬼の伝承が上乗せされ、ジャックがここで勝っていただろう。

 そのくらいにはギリギリの競り合いだった。

 地面ごと舞い上げるマシュの宝具により、ジャックの足は止まり、視界も気配も全てが土砂に隠されてしまう。

 

 土にまみれることも恐れず、マシュはその中を突っ切った。

 

「あなたと同じ理由で、私も負けられません。ジャックさん」

 

 土を抜け、ジャックを視認し、泥まみれになりながらもマシュは出現させた城壁を足場として駆け、ジャックの背後を取る。

 声から位置を特定しようと考えてしまったジャックは、反応が一手遅れる。

 

「先輩が、私を導いてくれた。

 先輩が、私に人間の当たり前を教えてくれた。

 先輩が、ずっと私が守りたいと思える素敵な人でいてくれた。

 私はただ―――あの人と、この先の未来を一秒でも長く見ていたい!」

 

 そしてマシュが自身の体重より遥かに重量があろうかという大盾を、ジャックの背中に向けて全力で振り抜いた。

 戦略面で、マシュが上を行く。

 戦闘技術で、ジャックが上を行く。

 マシュの奇襲を、ジャックは超反応にてナイフで受ける。

 ビギッ、と嫌な音がした。

 ジャックの小さな体が、マシュの強烈な一撃で体ごと浮いてしまう。

 完璧な奇襲で仕留めきれなかったという時点でマシュの失態であり、敵の攻撃を受ける武器もスペックもないジャックが回避でなく防御させられた時点で、ジャックの失態でもあった。

 

 マシュは攻撃直後。

 ジャックは体が浮いて地面に足がついていない。

 どちらも動けず、一秒の後に仕切り直しになるだろう。

 

 これが、普通の戦闘ならば、だが。

 

「バーニア!」

 

 マシュの背面装備が火を吹く。

 マシュが足を動かせない体勢で脚部ローラーがマシュの体を強制的に進め、バーニアがその身体を一時的に飛翔させる。

 マシュの盾の内部機構が動き、パイルバンカーじみた機構がうなりを上げた。

 

 攻撃直後の両者移動・攻撃・防御が出来ない状態から、マシュは一瞬にして追撃可能な姿勢と位置に移行する。

 まるで、操り人形(マリオネット)のような駆動。

 人体を殺し尽くし、知り尽くしてきたジャックが目を見開く奇形の動きであった。

 

 空中で回避も防御も不可能なジャックに、盾に仕込まれた鋼の杭が向けられる。

 

「バンカーボルト、リロード!」

 

「ぐっ……!」

 

「ブースト……ストライクッ!」

 

 超重量の盾を腹に叩き込まれ、更にそこからバンカーを発射され、ジャックは悲鳴も上げることすらできずに呼吸が止まる。

 その小さな体が、ゴムボールのように吹っ飛んでいく。

 

「―――!?」

 

 まるで、鉄で出来た合成獣(キメラ)のようだと思い、汎人類史のマシュの境遇につい同情してしまいながら、ジャックの意識は飛んだ。

 

 

 

 

 

 ああ。

 夢を見てるんだな、と。

 ジャックはすぐに理解した。

 

 広い広い訓練室の中で、刕惢が自転車を支えている。

 その自転車にワクワクした表情でジャックが乗っていた。

 

「ゆれゆれ、揺れる~」

 

「そんなにガチガチにならないで。自転車を乗りこなすのに必要なのは曖昧さだ」

 

「あいまい」

 

「大事なのはフラフラしないことじゃなくて、揺れてもそこから立て直す適当さだ」

 

「なるほど!」

 

 刕惢が支えて、ジャックが小さな自転車のペダルを漕いでいく。

 ジャックは一人でふらふら進み、その横を軽く息を切らせた刕惢が足だけで並走する。

 

「お、そうそう、いい感じ、いい感じ」

 

おかあさん(マスター)、自転車好きだよね」

 

「うん、そうかも。

 なんでだろう?

 不安定でも前に進んでいる限り安定する、ってのが好きなのかな。

 前に進む意志さえあれば、自転車は決して倒れないんだ。壁や段差では流石に止まるけど」

 

「へー。おかあさん(マスター)みたい」

 

「そうか? そうかな……言うほどそうか……?」

 

 ジャックがにこにこと笑って、刕惢が汗を拭いながら笑顔で応える。

 人理焼却中に屋外を自転車で走れるような機会はほぼない。

 ただし、第四特異点は1888年のイギリス。

 自転車が現在に近い形になり、大量生産と安価化が実現したのが1885年と言われている。

 第四特異点ロンドンで刕惢が楽しそうに自転車を乗り回し、計塔の魔術師達との交渉の過程の戦闘で、刕惢が自転車に乗って囮役をしていたのをジャックは見ていた。

 その時から、ずっと乗ってみたいと思っていたのである。

 

 第四特異点、19世紀末イギリス。

 この時代、この土地は、子供達が『自転車を買ってもらって乗り回す子供』と『それを羨み乗れないまま終わる子供』の二極化が世界で初めて生まれた場所でもあった。

 当然ながら、これに乗ったことがない英霊は多い。

 

「色々思い出すなあ。

 俺が中学の時、同じ学校の野球部が試合に行ってさ。

 でも大事な道具を置いてっちゃったんだよな。

 バスで行ったから走って戻って来るとかもできない。

 どう見ても彼らが取りに戻る時間はない。

 なんだけどすぐにバスを追って行けば間に合うかもしれない。

 だから隣の県の試合会場に自転車で道具届けに行ったんだよなあ。うん、懐かしい」

 

「なんかおかあさん(マスター)いつもそんな感じの生き方してるね」

 

「ど、どういう意味だ……」

 

「ふふーん」

 

 ジャックは調子に乗って、ちょっと強くペダルを踏んだ。

 そのため刕惢の手の届く範囲から離れ、同時にバランスを崩して倒れかける。

 バランス感覚が優れていても最初は転びかねないのが自転車だ。

 

「危ない!」

 

 刕惢が飛び込んでジャックを受け止め、動き続ける自転車に轢かれて、動くチェーンや車輪が刕惢の皮膚の一部を引きちぎっていった。

 勢いよく倒れた自転車に足を挟まれ肉を痛めた刕惢を見て、この頃のジャックはまだ、色んなことがよく分からなかった。

 

おかあさん(マスター)、わたしたちサーヴァントだから平気だよ?」

 

「それはまあそうなんだけど……気分的に……」

 

「きぶんかー」

 

「気を付けてね。交通事故とかそういうの、絶対に痛いし、周りは心配するから」

 

 ジャックは無傷だった。

 刕惢が傷から血が垂れていた。

 刕惢はジャックの体のどこかに傷がついてないか心配そうに調べている。

 自分の体の傷には目もくれない。

 そして、ジャックに傷一つ無いことを確認して、「よかった」とほっとしていた。

 

 ジャックはその光景に、自分でも上手く言葉にできない、沸き立つような感情を覚えていた。

 

「俺が子供の頃さ、近所のお兄さんが自転車の乗り方教えてくれてたんだ。

 立派な大人でね。こうやって、後ろから自転車支えてくれて……

 元気にしてるかなあ。大学で出来た恋人と結婚して子供産まれたって言ってたけど」

 

「へー。おかあさん(マスター)が守りたい人なんだ」

 

「ああ。いっぱいいるんだ、守らないといけない人たちが」

 

「じゃあ、人理焼却なんてすぐに解決しないとね」

 

「……そうだな。皆今は、人類史ごと炎の中だから。

 あの人に自転車を押してもらった毎日と、その中の笑顔を、俺が忘れることはない」

 

 "ああ、だから、私が転んだ時にずっと備えてたんだ"と、ジャックはずっと後ろで自転車を押してくれていた、走り出してからも横に居てくれた、刕惢の気遣いと優しさをようやく理解する。

 

「俺、そういう大人になりたかったんだ。

 子供にちゃんと新しいことを教えられる大人に。

 そうやって、子供の自転車を後ろからこっそり押すような大人に。

 そう思ってたんだけどなあ、あはは、なんとも上手くいかないな」

 

 そして、これが『上手く自転車の乗り方を教えられていない自分への自虐』であると気づいて、ジャックはなんだか、無性に彼が愛おしくなってしまった。

 自転車の乗り方を上手く教えてもらうより、転んだ時に優しくしてくれたことが嬉しかったジャックの気持ちは、伝えなければ分からない。

 ジャックは自分を受け止めてくれた少年を、ありったけの気持ちを込めてぎゅっと抱き締める。

 

「そんな大人より、レイスイの方が、わたしたちは大好きだよ」

 

「……ありがとう。うん、頑張るよ」

 

 ストレートに好意を伝えると照れて目を逸らす刕惢がなんだか面白くて、ジャックは笑って。

 

 そして、目が覚める。

 

 

 

 

 

 意識が飛んでいたのは一秒か、二秒か。意志が戻ってすぐ、ジャックは動き出した。

 

 腹部の激痛に、砕けそうなくらいに歯を食いしばって、ジャックは立ち上がった。

 頭の奥がチカチカとする。

 視界はどこまでも不安定だ。

 腹には深い痛みがあって、霊核にまでダメージが届いていることは明白だった。

 軽いはずのナイフは重く、ナイフを持つ手に握力が込められず、足は力なく震えて、体が前後に揺れるのを止められない。

 先の一撃で、マシュはジャック・ザ・リッパーの戦闘力の多くを削いでいた。

 

「あなた達がどんなに正しくても。

 どんなに生きるべきでも。

 どんなに素敵でも。

 ……私が、幸せで居てほしいと願っても。

 未来を譲るわけには……いかないのです。ジャックさん」

 

 無茶苦茶な宝具だった。

 かつてマシュに力を貸してくれていた英霊の宝具を、大まかな形だけ模倣したガタガタで崩れかけの城壁。

 人々の想念が形にしたという英霊のルールに反した、誰の想念によっても形にされていない、形なき防御宝具。

 ゆえに、聖騎士ギャラハッドにもできなかったような、マシュだけの応用、マシュだけの攻撃転用・反撃転用が可能な宝具であった。

 

 ジャックは殺すための宝具、殺すことしかできない一撃で、大切なものを守ろうとした。

 マシュは守るための宝具、守ることしかできない城壁を、反撃の一手とした。

 両者は対照的で、かつ同じ。

 マシュが競り勝ったのは、ギリギリの領域での天運としか言いようがない。

 

 マシュの幸運ランクはC。

 ジャックの幸運ランクはE。

 マシュは生まれこそ悲惨だが多くの人に助けてもらった少女。

 ジャックは生まれてから死ぬまで何一つ救いがなかった子供達の集合体。

 極限の世界で、この幸運の差は致命となる。

 

 ジャックはいつだって―――守りたいものなど守れはしない。そんな星の下に居る。

 

「私一人の命がかかっているだけなら別の考えもできます。

 私の命と多くの人の命を天秤にかけるなら、別の道もあったかもしれません。

 でも……私は先輩の未来を見限るなんてできない。一緒に生きていたいんです」

 

 だから、ジャックはいつだって感謝している。

 優しくしてくれた刕惢に。

 優しくしてくれた友達に。

 優しくしてくれた仲間に。

 優しくしてくれた―――マシュに。

 

 明滅を繰り返す意識の中、この世界のマシュと汎人類史のマシュが、重なった。

 

「私は、あなたが殺すだけのものでないことを知っています」

 

「―――」

 

「退いてください、ジャックさん。これより先は、どちらかが消えるしかありません」

 

 『マシュを殺すのは辛い』という気持ちと。

 『おかあさん(マスター)にこのマシュは殺させられない』という気持ちが。

 混ざって、弾けた。

 

「死んで」

 

「……え」

 

「まだわたしたちに向ける優しさがあるなら……そうしてよ、マシュ」

 

「……できません」

 

「なんで!」

 

「私には、譲りたくても譲ってはならないものがあるからです!」

 

 ジャックがメスを引き抜き、八本同時に投擲する。

 仲間のキャスター達に強化されたホルダーから無制限に湧き出るメスは、加藤段蔵らに教わった投擲技術によって、全てが急所に向かう。

 先程の間での戦闘ならば、マシュでは咄嗟に全て防ぐことなど不可能だった八つの刃を、マシュはたやすく盾で払った。

 ダメージによってジャックの動きのキレが格段に落ちているのだ。

 

「……私は。

 戦うことをやめません。

 やめる権利がありません。

 でも……それでも……ジャックさん達の生きたいという願いも、否定したくないです」

 

「……っ!」

 

 煽られたわけではない。

 怒られたわけでもない。

 侮辱されたわけでもない。

 ただ、"マシュは優しいね"と思ってしまった。それだけ。

 それだけのことが、ジャックの胸に苦痛の刃を突き刺した。

 

「なんで……なんで!

 私達の敵なのに……私達の大好きなマシュみたいなこと言うの……!?

 

「―――っ」

 

「やめてよ……悪いマシュでいてよ……! 偽物みたいなマシュでいてよ!」

 

 声を荒げて、表情を動揺に歪ませて、ジャックはマシュに向けてナイフを構える。

 このジャックは強くなったのかもしれない。

 優しくて、幸せで、人として当たり前のものを多く手に入れたのかもしれない。

 けれど、それが失わせたものもあった。

 

 世界が抑止力として、あるいは世界規模の大事件への反作用として、サーヴァントを何体か召喚する時、ジャック・ザ・リッパーはジャック・ザ・リッパーが殺すに相応しい敵にあてられる。

 つまり、無情な殺人鬼が特攻となる、口が上手い相手などだ。

 そういう時にこそ無情な殺人鬼は役割を果たせる。

 

 だが、このジャックにはもう()()()()()()()

 

 強くなったのかもしれない。

 新しい技能を多く身に着けているのかもしれない。

 だが、マシュに対する情があり、止められない同情があった。

 人を守れという刕惢の命令を宝物のように抱えていた。

 なればこそ、もうこのジャック・ザ・リッパーは無情なる殺人鬼ではない。

 

 無情なジャックであれば、『敵のマシュに同情して勝率を下げてしまう』などということは、絶対になかったはずなのに。

 

 刃と盾がぶつかり合う。

 

「わたしたちは……わたしたちは……おかあさん(マスター)のためなら、マシュだって殺せる!」

 

「ジャックさんっ……」

 

「そうじゃなきゃいけないんだ!」

 

 地獄の頂点にたる汎人類史の強さとは、救われなかった英霊ゆえの無情さを、救われなかった英霊をそのままぶつけることで叩きつけ、その無情さによって押し潰すことに他ならない。

 ジャックは救われないからこそのジャック。

 彼女の魂が永遠に救われないことは、聖女ジャンヌにすら断言されている。

 汎人類史でひとときの楽しい時間くらいはあるだろうが、それだけだ。

 

 ジャック・ザ・リッパーの幸福や変化など、汎人類史には必要ない。

 それは強さの多様性の喪失と均一化であり、多様であるがゆえに強い汎人類史には要らない。

 ひとときの幸せ程度ならあってもいいが、それ以上は必要無い。

 無情な存在として世界に召喚され、無情な殺人鬼として殺す。

 迷うことなく罪のない人達を歯牙にかけて利用し殺す殺戮者。

 それが汎人類史がジャック・ザ・リッパーに求めるもの。

 

 刕惢はジャックが幸せになるための『人間性』を、愛を込めてジャックに贈った。

 その人間性が、生存競争の場においては邪魔にになる。

 

 ジャックが幸せな女の子になる可能性を要らないものとする汎人類史。

 そうなることが一番だと考えるこの世界。

 生存競争において、強いのは前者であった。

 残酷であればあるほどに、世界は強い。

 

「うああああああああああああ! わたしたちが! ぜったいに! ぜったい!」

 

 今、何かが変わったわけではない。

 ジャック・ザ・リッパーが人々を殺して回っていた20年ほど前から、ロンドンの娼婦の数は信じられない数にまで膨らんでおり、一説には30万人の売春婦がいたとも言う。

 その売春婦が捨てた堕胎児達の数が数万人で収まるわけがなく、ジャックを構成する数万人の子供達ですら、あの時代の怨念のほんの一部に過ぎない。

 あまりにも無慈悲。

 あまりにも無情。

 残酷が過ぎるにもほどがあるその時代に……人類は、爆発的な発展を遂げた。

 

 ジャックが殺人鬼として知られた時代は、産業革命期。

 彼女が纏う霧もまた、産業革命の影響によって発生した有毒のスモッグである。

 この霧に紛れて人を殺せば、誰にも見つからない……そんな、殺人鬼の霧だ。

 その産業革命こそが、人類を大きく発展させた。

 多くの負の遺産を前提として、人類は一気に飛躍したのだ。

 

 汎人類史は、そんな時代を望んだ。

 どんなに人が死のうと。

 どんなに人が不幸になろうと。

 どんなに赤ん坊が捨てられようと。

 世界がより発展し、より多様性を持ち、もっと多くのことができるようになった時代であればいいと、そう望んで世界を取捨選択してきた。

 そうして産業革命の世界が汎人類史に選ばれ、ジャック・ザ・リッパーが生まれるに足る子供達の地獄が出来た。

 

 ジャックは宇宙に望まれた世界の、必然の地獄から生まれた子供。

 "こんな世界は間違っている"などと思ってもらえなかった。

 "こういう世界が理想だ"という汎人類史の選定基準から生まれた子供。

 生まれる前から否定され、母親に愛されず、何もいいことがないまま、幸福さえ知らずに捨てられて死んだジャックのような子供が生まれる世界を、人類史は望んだのだ。

 

 人類史が"地獄で在れ"と望んだ場所から生まれた、人類史の武器たる英霊を幸福にすることは、つまるところ人類史を否定することに他ならない。

 

 素晴らしき人類史。

 輝かしき人類の発展。

 誇るべき人類の繁栄は、人権など持たない出産前の胎児の死によって構築される。

 生まれた後の子供はちゃんとした人間であるからして、生まれることもできなかった子供達の死を前提とする繁栄は、実に人権的である。

 

 生きてる人間を死なせるのはかわいそう。

 でも生まれる前の子供なら、ちょっとはマシに見える。

 汎人類史は多くの『人間』が虐殺された世界線は異聞帯として切除し、『名もなき子供達』が数え切れないほど死ぬことはよしとした。

 前者は世界の多様性を失い、後者は世界の多様性に影響が無いから。

 判断基準は多様性、その一つに尽きる。

 

 ジャック・ザ・リッパーとはすなわち、その繁栄の過程で必然として生まれる廃棄物。

 残しておいても得にはならず、害にはなる、捨てるしかないもの、すなわちゴミ。

 何も知らない無垢なる赤ん坊達をゴミとして捨てることで、人類史の繁栄は加速した。

 "それでいい"と人類史は頷いた。

 

 彼女に向けられる幸福論とは、汎人類史の前では全てが無価値だ。

 

 刕惢が彼女の幸福を願ってああでもないこうでもないと考えた幸福論は、『残酷でないジャックではここからマシュには勝てない』という現実をもって、その価値を否定される。

 

「マスター、援護を……マスター?」

 

「……ま、待って、今、やるから……」

 

「……マスターは下がっていてください!

 このジャックさんは、私が……私一人の手で倒します!」

 

 ジャックの両手のナイフから放たれる、無双の乱舞。

 それを盾で防ぎつつ、マシュはマスターの援護を期待するのをやめた。

 今はマシュが優勢だが、マシュがピンチになれば、流石に立香も動くだろう。

 追い詰められれば動くのが彼女だ。

 だが長く立香と共に戦ってきたマシュは、声の感触から、振り向かずとも背中越しの向こうの立香がどんな顔をしているか分かっていた。

 

「マシュは!

 わたしたちのマシュは!

 優しくて!

 暖かくて!

 人を傷付けるのが苦手で!

 本を読んでるのが似合ってて!

 戦いなんて似合わなくて!

 わたしたちを撫でてくれて、抱きしめてくれて!

 おかあさん(マスター)ととっても仲が良くて!

 わたしたちにできないことで、おかあさん(マスター)を励まして、立ち直らせてくれて!」

 

 マシュも、立香も、心が揺れている。

 今にも心にヒビが入りそうで、戦いをやめたい気持ちが湧いて湧いて仕方がない。

 ジャックの泣きそうな顔でナイフを振るう姿が、その言葉が、痛ましくてしょうがない。

 

「似てな……似て……う、ううっ……

 殺さないと……殺すんだ……

 わたしたちは……殺すために生まれてきた、ジャック・ザ・リッパー!」

 

 震える足で、無理矢理にジャックは駆ける。

 朦朧とする頭で必死に戦術を構築し、目の前のマシュと自分がよく知るマシュを同一人物と扱おうとする脳を叱咤する。

 握力の無くなった手がナイフを取り落しそうになって、懸命にナイフを握り直し、マシュの堅牢な守りに切りかかる。

 

 けれど、盾に阻まれて届かない。

 

 もう、立香の肌を流れ弾が傷付けることもなくなった。

 小石一つ立香の方向に飛んでいきもしない。

 マシュが気を付けて立ち回っていることは、明白だった。

 

 マシュがそちらに気を使っている分、マシュの守りは弱くなっているはずだ。

 なのに、そうなっていない。

 むしろマシュの守りは立香を気遣って立ち回ろうとすればするほど、堅くなっていく。

 不合理であるのに、合理を磨くが如く、強くなっている。

 それはまさに、ジャックの知るマシュ・キリエライトの強さそのものだった。

 

 それがまた、ジャックの心を切り削る。

 

「死んで、死んで、死んで。

 あなたはわたしたちの手を握ってくれたマシュじゃない!

 わたしたちとほっぺたのご飯を指差して笑い合ったマシュじゃない!

 一緒に自転車の練習をしたマシュじゃない!

 頑張って勉強してるおかあさん(マスター)の夜食をエミヤと作ってたマシュじゃない!」

 

「ジャック、さん……!」

 

「だから殺せる、だから殺せる、だから殺せる。私は霧夜の殺人鬼(ジャック・ザ・リッパー)だ!」

 

 ジャック・ザ・リッパーは、『殺人鬼』という属性をもって定義される逆相の英霊である。

 人を殺してこそのジャック・ザ・リッパーであり、彼女がごく自然にもたらす無慈悲な殺戮は、他の聖杯戦争でも多くの者に恐れられたという。

 殺すために生まれてきた。

 殺すことが存在意義。

 殺すこと以外何も知らずに生きてきた。

 

 だから思ったのだ。

 人を殺せないマシュ・キリエライトの代わりに、自分が色んなものを殺そうと。

 かつて、そう思った。

 

 殺すことでマシュを守れるのなら、そうしようと、マシュ・キリエライトが大好きなジャック・ザ・リッパーは、己の心に誓ったのだ。

 わたしたちを守ってくれるこの人の代わりに、わたしたちがこの人を守ろう、と。

 

 ジャックは、優しいマシュが大好きだった。

 一緒に居るだけで幸せだった。

 マシュを普通の女の子として日常に帰した刕惢を見て、刕惢への大好きが溢れすぎて思わず飛びついてしまったくらい、マシュのことも好きだった。

 そして、異世界のマシュを見た。

 サーヴァントと分離して人間に戻った後、また人外の領域に戻ったマシュを。

 そのマシュに機械を付けに付け、機械のキメラのようになってまで戦うマシュと、マシュをそんなにしてまで己が生存のため戦わせる汎人類史を、見た。

 

 吐き気が、した。

 

「これはマシュじゃない、マシュじゃない、マシュじゃない……なのに、なんで優しいの!」

 

 思い出があった。

 

 人を殺すことで進むべきだった旅路を、全く違う道を作って進んでいくマスターとマシュのおかしな旅路に、ジャックは笑ってついていく。

 無差別に無慈悲に人を殺して回ったジャック・ザ・リッパーが、人を踏み躙らない旅路を作るために命懸けで戦って、殺すべき敵を殺さないマスターに呆れた顔をして、その敵を仲間にしたマスターに驚いて、また優しい結末を作るために必死にマスターのため戦って。

 戦うたびに、仲間が増えて、にぎやかになって、毎日が楽しくなって。

 ずっと笑っている日が増えて、笑わなかった日がどんどん少なくなっていった。

 

 幸せだった。この幸せが、もっと続いて欲しいと、ジャックは願う。

 マシュ達ともっと一緒にいたい、という無垢なる幼子の願いを、マシュが粉砕する。

 

「バンカーボルト、リロード!」

 

 再度突き出された盾の下端から射出される、強烈な杭。

 防御はできない。

 受け流せもしない。

 ジャックは軽い体重を活かして身をひねり、素早くそれをかわす……が、くるりと一回転した盾が、数百kgのハンマーじみた威力でジャックの脳天を打ち付けた。

 

「あっ―――ぐ―――!?」

 

 一瞬、意識が飛びかける。

 けれど、蘇る記憶があって。

 

 

 

「みんなのおかげで、今日もなんとか助けられたな……とんでもない特異点だ」

 

「人を助けられたのは、おかあさん(マスター)が頑張ったからだよ」

 

「俺が頑張ったからって皆言ってくれる。

 嬉しいよ。次も頑張ろうって気になれる。

 でもさ……それは、頑張ればどうにかなることなんだ。

 それが幸せなことなんだって、最近ようやく知ったんだよな」

 

「? 頑張ったら幸せになれるのは、幸せなことなの?」

 

「……ああ、そうだよ、ジャック」

 

おかあさん(マスター)、変な顔」

 

「何があっても。

 世界を敵に回しても。

 俺は君の味方でいるから。

 何があっても、俺は君のためなら戦うよ」

 

「? ありがとう!」

 

 

 

 その時。

 彼が抱きしめてくれた時の体温を、思い出す。

 ジャックは一秒の失神すらなく脳天への一撃に耐え、手に持つナイフで切り返した。

 マシュの腕に一筋、赤き切り傷が走る。

 

「! なんという、粘り強さ……! 汎人類史のジャックさんのそれじゃない……!」

 

「……ああ、あれ、わたしたちのことだったんだ。

 おかあさん(マスター)、わたしたちのこと、ほんと大好きだなぁ。

 他にも色々思い出さないと、今のわたしたちじゃないと、わかんないかもなぁ……」

 

「……?」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()者達は。

 ()()()()()()()()()()()のではないだろうか。

 

 森晶刕惢は頑張ってきた。

 藤丸立香は頑張ってきた。

 マシュ・キリエライトは頑張ってきた。

 けれどその中で一人だけ、森晶刕惢だけは、『頑張る権利があったこと』をこの上ないほどの幸運であると感じていた。

 

 だから刕惢はジャックを大切にした。

 ジャックをちゃんと愛した。

 自分にできる限りのことを全てした。

 生きるために頑張ることすら許されなかった子供達を幸福にして、完璧な救済などできない自分の無力感に苦しみながら、ジャック"達"がずっと笑っていられる世界を作った。

 

 だから、自分を抱き締めてくれる彼の暖かさを、ジャックはいつまでも覚えている。

 

 ジャックは盾を打ち付けられてだらだらと血を流す額を拭う。

 

「同じ、なんだよね、わたしたちと、マシュは……」

 

「……」

 

「わたしたちは、捨てられたこどもたち。

 ゴミの子供。

 沢山の子供達の屍から生まれ出でたもの。

 マシュは、作られたこどもたち。

 道具の子供。

 生まれたことを『失敗だ』って言われた沢山の子供達の上に立ってる」

 

「……はい。私達はきっと、遠いものではないのだと思います」

 

「わたしたちは、失敗でできて、生まれて、捨てられた方。

 マシュは捨てられたわたしたちとは違う、けど、幸せになれないはずだった方」

 

 『子供を命ではなく物として扱う大人が作り上げた少女たち』。

 マシュはカルデアの目的のための実験体として作られたホムンクルス。

 耐用年数18年という使い捨ての道具のようなものだった少女。

 ジャックは母の都合で作られ、母の都合で捨てられた、生ゴミと変わらない子供。

 母が妊娠した子供に"邪魔なものができた。どこに捨てよう"とまず考える世界に生まれるもの。

 

 マシュもジャックも、人類が前に進むために生まれ、やがてゴミになるものだった。

 自分達と同じ境遇の無数の子供達が、ゴミにすらなれないのを見てきた少女達だった。

 無数の屍の先に生きる無垢なる子供達だった。

 

 人がそれに()()()()()()()()と納得する以外に、何ができるだろうか。

 何もできるはずがない。

 だって、本当に必要な犠牲だったのだから。

 それは汎人類史が正しく残るべき世界であると決めた、この宇宙が保証している。

 

 『全ての命は生まれた時から生きる権利がある』などと。

 そんな綺麗事を、この二人は心のどこかで信じていない。

 二人は父と母の愛の結果として生まれたのではなく、どこかの知らない大人達の都合で生まれ、他人の都合で戦い、今は世界の都合で殺し合っている者達だから。

 

 そんな綺麗事は信じていない。けれど。二人にも信じられるものはある。

 愛してくれた人はいる。

 大切なものはある。

 だから、戦わないという選択肢はない。

 

―――我々が戦うべき相手は歴史そのものだ。

―――君の前に立ちはだかるのは多くの英霊、伝説になる。

―――それは挑戦であると同時に、過去に弓を引く冒涜だ。

―――我々は人類を守るために人類史に立ち向かうのだから。

 

 戦いを見て、援護しようとして、でも喉がカラカラで、何を言えばいいのかも分からなくて、何をすればいいのかも見失いかけている立香が手の令呪を握り締める。

 昔、立香を導いてくれた大人、Dr.ロマンが皆を鼓舞するために紡いだ言葉が蘇る。

 人類史そのものが敵になるとは、こういうことなのだと……苦悩を伴う痛感があった。

 

「ねえ、どこかの世界のマシュ」

 

「……なんでしょうか、ジャックさん」

 

「あなたは……みんなが幸せであってくれれば、って、思ったことないの?」

 

「―――」

 

「ここが、そうだよ」

 

 マシュの表情が強張り、今にも涙が溢れそうな表情になり、一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情になって、凛とした表情を取り戻して、口を開く。

 

 マシュらしいな、とジャックは思った。

 

「この世界は、私にとっても理想郷です。

 全ての願いが叶った場所です。

 それが答えです、ジャックさん。

 ……この世界を守るために戦うあなたが、とても羨ましいです」

 

「そっか」

 

「それでも……私には、仲間の皆がいて!

 先輩がいて! 私の世界があって!

 汎人類史の未来が私の両肩に乗っていて!

 逃げるわけにはいかないんです。投げ出すわけにはいかないんです。だから……」

 

「……」

 

「私達は……私達が……この幸福な世界を、これから……!」

 

「マシュがまた会いたいけどもう会えない人にも、ここでなら会えるのに?」

 

「―――っ」

 

 言葉を交わすたび。

 立香を守る姿を見るたび。

 こうして、敵にすら心を寄せてしまうマシュを見るたび。

 ああ、マシュだ、マシュなんだ、と、ジャックは思ってしまう。

 

 殺人鬼が、人を殺すことを、死んだほうがマシだと思うような苦痛に感じていた。

 

「それでも、です。

 私は先輩のサーヴァントだから。

 普通の世界に生きていたただの女の子だった先輩を、平和の中に帰さなければなりません!」

 

 マシュは立香を守っている。

 ジャックはマシュと対峙している。

 だから、マシュは立香の表情が見えていない。

 なので、マシュが"立香のために異聞帯を滅ぼすことを心の支えにしている"という言葉を発した時の立香の表情は、ジャックだけに見えていた。

 ジャックが少し悲しそうな顔をしたことは、それと無関係ではない。

 

 マシュの願いと、マシュが普通の女の子に戻してあげたい立香。

 刕惢がかつてジャックの前で語った願いと、普通の女の子になったマシュ。

 

 もしも宇宙を殺せるのなら、宇宙から殺してやりたいと、ジャックは思った。

 

おかあさん(マスター)みたいなこと言うんだね、にせもののマシュは」

 

 ジャックは微笑む。

 マシュは曖昧に苦笑する。

 ジャックは腰の小物入れから包帯を取り出し、手にぐるぐると巻いてナイフを固定する。

 そうでないと、もうナイフすら持っていられない気がしたから。

 

 戦闘は依然マシュ有利。

 このまま行けば立香が何もしなくてもマシュが勝つだろう。

 ジャックはもう霧を出す余力もなく、全力を振り絞って宝具を一度撃てるかどうか。

 霧を出す宝具と、霧・夜・女なら必殺の宝具のコンボを成立させるには、魔力以外の身体リソースがあまりにも足りていない。

 これだけダメージを受けてしまえば、もうこて以上は無理なのだ。

 よって、マシュは確実に勝つべく丁寧に立ち回ろうとする。

 

 と、その時。

 空から、無数の箱が落ちてきた。

 そして箱の中から、霧が吹き出していく。

 

「これは霧……いや、プレゼント!?」

 

 マシュが頭上に盾を構えると、そこに重く硬い箱がドンドンと落ちてくる。

 無防備に受ければ一発気絶は免れない、対軍クラスの広範囲攻撃。

 なのにその内容は―――()()()()()()()()()()()()()というものだった。

 

 箱の中には子供の望み。

 きらきらきらきら、輝く無数のプレゼント箱。

 箱を開ければ子供が望んだものが出て、敵が望まぬものが出る。

 味方には援護(バフ)を。

 敵には邪魔(デバフ)を。

 箱でダメージもお届けする、今時の可愛い子らしいおしゃまなサンタ。

 

優雅に歌え、かの聖誕を(ラ・グラスフィーユ・ノエル)!」

 

 二つの小さな人影が飛び込んで来て、ジャックは今日一番の笑顔を浮かべた。

 

「お待たせしました!」

「お待たせしました!」

 

「なっ―――!?」

 

「待ってたよ、二人共!」

 

 ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ。

 ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ・ナーサリー・ライム。

 ジャックがこの世界で得た大切なもの。

 ジャックを大切な人だと思ってくれる人たち。

 ピンチの時に助けに来てくれる、大事なお友達だった。

 

「さ、勝って帰りますよジャックさん。私達は生きてあの人達を守る、サーヴァントです!」

 

「……うん!」

 

 マシュのこめかみに、汗が一筋垂れる。

 先程までは、マシュが圧倒的優勢だった。

 順当な戦闘運びをすればマシュが勝つはずだった。

 だが今は違う。

 このまま戦闘に入れば、順当にマシュは負ける。

 弱っているとはいえかのジャック・ザ・リッパーに、最高位英霊ジャンヌ・ダルクから派生したランサーと、それをコピーしたナーサリー・ライム。

 勝ち目は、無い。

 

 マシュは一人で三体のサーヴァントを屠れるほど強くない。

 機械のアタッチメントで底上げしても平均的サーヴァントの域を出ない。

 この状況に持ち込まれた時点で、ほぼ詰みだった。

 

「ごめんね、マシュ。これで終わり」

 

 改めて、マシュは世界の残酷さを噛み締めて、盾を構えた。

 

 もう、マシュの力ではどうにもならない。

 

 

 

 

 

 世界は残酷だ。

 力の差、数の差、総力の差は覆らない。

 それは誰もがそうだ。

 想いは戦力に直結しない。

 どんなに尊い想いがあろうと、自分より強い相手には叩き潰されるしかない。

 世界は残酷で、弱者の力でどうにかなるようなものはない。

 

 マシュと三人のサーヴァントの間を、猛烈な勢いで巨大な怪物が吹っ飛んでいく。

 吹っ飛ばされた怪物は四人が見ている前で巨木に叩きつけられ、そこで燃え尽きた。

 

「……え? ジャバウォック?」

 

 ナーサリーが呟いた。

 それは、先程までホームズと戦っていたはずの怪物。

 全パラメータがEXと、子供が考えたような最強の化物。

 リリィの子供のような妄想を、童話に沿ってナーサリーが実体化させたものだった。

 それが、燃え尽きている。

 おそらくは、戦いに負けて。

 

「え……なに……なんなの!?」

 

 困惑に満ちるその場に、二人のサーヴァントが現れた。

 マシュも、ジャック達も、それが誰であるか知っていた。

 最強クラスの神話体系。

 無敵のスケールの英雄。

 ありえないほどの力を行使する、神々の係累。

 この宇宙すらも揺らがす宝具を与えられた、最強の戦士達(クシャトリヤ)

 

「流石は探偵だ。冷静に状況を読み、推理で穴を埋め、戦局に的確な一手を打つ」

 

 片や黄金。

 片や純白。

 この戦場に居た少女らが百人居ても、きっと彼ら一人にすら敵わない。

 

「シャーロック・ホームズの計算に狂いなし、というわけだな」

 

「カルナ……アルジュナ……汎人類史の……!?」

 

「シャーロック・ホームズの指示した通りの場所に居た。ならいい。やるぞ、カルナ」

 

 施しの英雄、カルナ。

 授かりの英雄、アルジュナ。

 彼らが汎人類史の者として現れた瞬間、勝敗は決した。全ての想いは無に帰した。

 この力を前にして、想いを通せる弱者などいない。

 

 遠き、遠き昔。

 アルジュナにある異名が付けられた。

 異名は『ビーバツ』。

 研究者によって解釈は違うが、解釈によってこれの意味は大まか三つに分けられる。

 『正しき戦いをする者』。

 『恐ろしき者』。

 『価値無きものを否定する者』。

 この三つの意味を内包するビーバツという異名で、アルジュナは呼ばれた。

 

「行くぞ。我々が示してやるのだ。

 誰にも許された"生きるために戦う"という正しさが、マスターにあることを」

 

「ああ」

 

 無価値なものを否定する、正しいがゆえに恐ろしき、力の化身。

 

 そんなものが、そこにいた。

 

 まるで、悪役を裁く物語の主人公のように、豪華絢爛に輝いていた。

 

 

 



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