キョウエイボーガン ~命運は矢となりて駆ける~ (エガヲ)
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メインストーリー
プロローグ:運命の日


 ピリピリと張り詰めたような空気と裏腹に、賑やかな雑踏がここまで届く。

 もう秋も深まったというのに、まるで夏と再来と思わんばかりなほどの熱気が、こちらまで伝わってくるようである。

 

 コツン、コツン……。

 足音が反響する。一歩一歩、踏みしめる度に、熱狂の渦の中心に近づいていくのを肌で感じる。

 彼女はゆっくりと地下バ道を歩み進めた。

 

 先程から鼓動がやけに高まっている。

 緊張をするな、という方が無理がある。

 彼女にとっては初めての大舞台。これまでに重賞を三度経験しているが、その比ではない。

 

 足を止め、目をつむる。

 

『今から怖じ気ついていては、だめだ』

 バ場に入れば、もうそこは決戦の舞台なのだ。会場に飲み込まれている場合ではない。

 

 彼女はゆっくりと息を吸って吐いて、心を落ち着かせる。そして右手を胸元にかざすと、ギュッと握りこぶしを作り、自分に活を入れる。

(よし……行こう!)

 それまでどこか朧げだった彼女の足取りが、どこか勇ましくなっていた。

 

 光が指す方(でぐち)へ向かう。そこを抜けると光に包まれ、一気に視界が開ける。

 地下バ道を抜けた先の景色は――まさに圧巻であった。

 

 どこを見渡しても人で溢れかえっている。これだけの大勢がこのレースを見に来ているという事実が、高揚を覚え、少し身を震え上がらせる。

 

「これがGⅠ……」

 そんなつい漏れた独り言も、この喧騒の中では、かき消えてしまう。

 

 すでに観客たちのボルテージは最高潮に達していた。

 今日はこの京都レース場に、多くの観客が詰めかけている。

 述べ、12万人以上――すべてはこれから始まる、歴史に残るであろうレースを見に来ていた。

 

 史上5人目のクラシック三冠ウマ娘の誕生の瞬間を、見届けるために……。

 

 しかしそんなことは彼女にとって無縁のことだし、クラシック三冠のレースはおろか、GⅠの舞台は今日が初めてとなる。

 まだ着慣れぬ勝負服……そこに浮かれている様子などなく、ただまっすぐに前だけを見つめていた。

 

(コンディションは……大丈夫……!)

 柔軟を行い、軽く走り込んでアップを済ませ、芝と自分の足の具合を、大地を踏みしめて確かめる。

 天候、晴れ。芝、良好。足もよく動いている。

 気持ちも問題ない。GⅠの舞台だからといって掛かっていない、落ち着いていられている。

 

 あとはゲートに入り、その時を待つだけ。

 進むべき方向に視線を送ると、ふと一際歓声を浴びている一人のウマ娘が視界に写った。

 

(ミホノ……ブルボン……!)

 きつく口を結び、忘れもしない京都新聞杯で辛酸を嘗める結果になった元凶のウマ娘の名を心の中で叫ぶ。

 

 あの皇帝”シンボリルドルフ”以来の無敗での三冠ウマ娘をかけたこのレース。

 さぞ周囲からの期待や、重圧は計り知れないものであろう。

 それでもあそこにいるミホノブルボンは、京都新聞杯に相対したときと同じく堂々と、まるで感情のないマシーンのようにひどく冷静そうであった。

 

 ただ一点、違うとすれば――内から闘志のようなものが漏れ出ていると、錯覚するほどの気迫を感じる。

 ミホノブルボンもまた、このレースにかける強い意志があるのであろう。

 

 これが無敗で二冠のウマ娘の風格――。

 おそらくこの場にいるものだけにしか感じ取れないだろう。

 それに触れるだけで、身がすくんでしまいそうな……まるで他者を寄せ付けない、圧倒的なオーラを醸し出してる。

 

『大丈夫、あの時のように、足はすくんでない』

 

 初めてミホノブルボンと対峙した京都新聞杯。

 彼女は、今のようなプレッシャーを受けてしまい、萎縮し、スタートが出遅れるという失態をやらかしてしまった。

 

 彼女は今でもその光景が、脳裏に焼き付いている。

 スタートが決まらずリズムに乗れなかったこともあるが、ただ一度も先頭を取ることができなかった。

 

 完全なる敗北――。

 

 すべての歯車を狂わされた。

 その時は、夏の上がりウマ娘と言われ上り調子と言われていたが、結果を残せず、10人中9着という大敗を喫する。

 

 相手にとっては、ただの前哨戦(トライアル)であったことだろう。

 だが彼女にとっては、乗り超えなければならない障害となった。

 相手も彼女と同じ逃げ脚質……ミホノブルボンを超えなければ、勝機は万に一つも訪れない。

 

『絶対に負けない――!』

 そうプレッシャーを跳ね除けるように、ミホノブルボンの方をきつく睨みつけた。

 

 自らを決起させていると、ひとしきり賑やかな、ファンファーレがレース場に鳴り響く。

 その音に合わせ、大地が揺れるかと思うほど歓声が辺り一帯に響き渡る。

 

 ついにその時がやってきた。

 

 まるでそれが合図かのように、ファンファーレが鳴るとともに、ウマ娘たちが次々とゲートへ入っていく。

 彼女も自分のゲートへと入る。すべての決着を――因縁を終わらせるために。

 

 6枠12番11番人気……。

 彼女自身、今日の主役が自分でないことはわかっていた。

 敵役(ヒール)主役(ヒーロー)、まして名脇役ですらない。主役達を引き立てるだけのただの背景(モブ)……。

 しかしそれでも、譲れない物があった。そこにかける強い想いがあった。

 

『何があっても、ミホノブルボンに先頭を譲らない!』

 

 これしか戦い方を知らない。ただ一重に、己の戦いを貫き通すだけ。

 それは自分が自分であるために、自分の走りを証明するために――そしてなにより、あの日の雪辱を晴らすために。

 

 キョウエイボーガン――その日、彼女の運命を揺るがす菊花賞が、今始まるのであった……。



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1話:巡る宿世

 キョウエイボーガン……彼女の特徴を一言で言い表すなら――地味である。

 

 親子何代か続く競走ウマ娘の家系であったが、偉大な成績を残したわけでもなく、かといってまったくの無名というほどでもなく……。

 彼女を評する者たちの言葉を借りるとするならば――三流ではないが決して一流でもない、そんな平凡な血筋であった。

 

 競走ウマ娘として本格化を迎え出した際の、彼女を外見もまた、特に変哲もないものだった。

 

 見るものを魅了する華々しい可憐さや、見るものを惹き付ける美貌を備えているわけでもなく、また王者の風格や、いつか大成しそうといったオーラといったものは特に感じられなかった。

 

 ウマ娘の象徴がなければ、鹿毛色の外ハネのボブカットの髪型をした、平凡な少女と見間違われても、おかしくない。

 そして集団に紛れてしまえば隠れてしまいそうなぐらい……小柄であった。

 

 他に、付け加えるべきエピソードがあるならば――。

 

 キョウエイボーガンは、母を生まれて間もなく、亡くしている。

 まだ生後数日後の出来事であった。

 

 詳しい病などはよくわからなかったが、産後の肥立ちが悪かったらしい。

 また父も消息不明と……キョウエイボーガンは両親の愛情はおろか、顔すらわからずに育つこととなる。

 

 しかし彼女はそれを寂しいと思うことはなかった。

 なぜなら唯一の家族と呼べる者の元で、愛情を一身に受けて育ったからである。

 

 天涯孤独となったキョウエイボーガンを引き取ったのは、親戚にあたる老年男性であった。

 その老人は早くに妻を亡くし、子供はいたがすでに十年以上前に家を出ており、慎ましい独り身の生活を送っていた。

 

 そんな折り、『忌み子』と不気味がって恐れ、誰も彼女を引き取ろうとしなかったところ、彼が里親に名乗りを上げた。

 

 最初はただの憐憫の情だったのかもしれない。

 けれど、接していく内に本当の家族の絆が芽生えたのだろう、キョウエイボーガンは健やかに育った。

 

 そして成長した彼女は、血は争えず、幼い頃から走ることが好きで、母と同じく栄光の舞台、トゥインクル・シリーズを目指すべく、トレセン学園と入学した。

 

 ◇◆◇

 

『――1着でゴールしたのは6番キョウエイボーガン、キョウエイボーガンッ! スタートからそのまま逃げ切り、メイクデビューを制しましたッ!』

 やや興奮気味の実況者の声がレース場に響く。

 結果は実況を聞かずとも、火を見るより明らかであった。

 

 ただ一度も先頭を譲らず、キョウエイボーガンが、引き放たれた矢の如く、駆け抜けてみせた。

 

 人気の三人のウマ娘からやや離された4番人気であった。

 だがその前評判をはね返すように、キョウエイボーガンは躍動した。

 スタート直後、あっという間に先頭につくと、そのままあっさりと1400mを逃げ切ってみせたのだ。

 

 十一月と、やや遅めのメイクデビュー。

 これまでの道のり……それはけして順風満帆ではなく、苦難の道路であった。

 

 

 地元では敵なしと言われていたウマ娘も、全国各地からの選りすぐりエリートが群雄割拠するトレセン学園においては、井の中の蛙大海を知らずが如く、厳しい洗練を受ける。

 

 キョウエイボーガンもまたそのうちの一人であった。

 

 選抜レース。

 年に四回開催される、デビューを目指すウマ娘たちにとって立ちはだかる、最初の関門。

 

 参加するもの誰もが必死だ。

 ここで結果を残せるか否かで、今後(みらい)が決まってしまう。

 競争の世界において、自分以外のすべてがライバルなのだ。

 

 キョウエイボーガンの持ち味である、得意の逃げ足をうまく決めたとしても、最後の直線ではあっという間に追い抜かされ、負けることもざらであった。

 

 トゥインクル・シリーズに出走するには、この選抜レースでいい成績を残し、トレーナーからスカウトされてチームに所属できなければ、スタートラインにも立つことができない。

 

 そんな何度目かの選抜レース。

 キョウエイボーガンは、1着には届かずとも、何度か5着以内、掲示板には入ることはできるようになっていた。

 

 最初の頃は、後ろから数えたほうが早い着順の事が多かった。

 それに比べると大きな前進と言えた。

 

 それは積重ねてきた努力と、粘り強さの結果であった。

 

 彼女はレースが終わる最後の最後まで諦めることをしなかった。

 今日が駄目なら、また明日。明日が駄目なら明後日と――。

 

 そして何度負けようとも、何度追い抜かされようとも、あの言葉を口には出さなかった。

『無理ーぃ!』

 相手との実力差を目の当たりにし、心までも完全に敗北に服従してしまい、漏れ出た嘆きの言葉。

 

 誰にも譲らない負けん気――不屈の闘志を、キョウエイボーガンはその小さな体に宿していたのである。

 

 レースで大敗したときなどに、ウマ娘は大樹のウロで想いのたけを切り株の中に向かって叫ぶ風習があるらしいが、キョウエイボーガンは、ただの一度もそのようなことはしなかった。

 次に勝てるために何をするべきか、何が今の自分に足りないかを考え、それを補うためストイックにトレーニングに打ち込んでいた。

 

 そんな彼女の頑張る姿を認められたどうかは定かではないが、学園から推薦を受けてトレーナーに紹介され、チームに所属することが叶った。

 

 ようやくレースに出られるようになった、そう期待に胸を膨らませていたことであろう。

 

 しかし初めてトレーナーと面会した際、想像とは違う反応を見せられて、面を喰らってしまう。

「――君にはあまり期待をかけていないが、チームのために何か貢献してくれたら、助かるよ」

 トレーナーから最初にかけられた言葉は、そんな淡々とした言葉だった。

 

 このトレーナーは、今後のチームレースを踏まえ、チームのメンバーの拡充のため、マイルから中距離あたりの逃げウマ娘を探していたそうだ。

 そこで本来なら、有望な才覚あふれるウマ娘を迎え入れたかったらしいが、そのウマ娘のスカウトは引く手数多でドラフトとなり、そのドラフトに落選して、希望のウマ娘を獲得できなかったそうだ。

 

 それで代わりに似たような脚質の、まだどこからもスカウトが来ていなかったキョウエイボーガンを学園から推挙され、チームに入れることにしたという経緯である。

 

 

 あれから数時間後――。

 レース後のウイニングライブや、もろもろ後処理などを終えて、ようやく控室に戻ってくることができた。

 

 初レースで初勝利で、初センター。初めてづくしの、怒涛の一日で、まだまだ興奮冷めやまぬ状態で、少し胸の鼓動が高まっているのを彼女は感じる。

 

 はやる気持ちを抑えつつ、素早くトレセン学園の制服に着替え終わると、携帯電話を取り出す。

 

 キョウエイボーガンには、デビュー戦の勝利をどうしても直接自分の声でいち早く伝えたい人物がいた。

 彼女の育ての親であり、本当の家族同然の存在である義理の祖父にである。

 

 トレセン学園に入学してから何度か電話していて、そのたびに「ちゃんとご飯は食べているか?」「怪我とかしていないか?」と、色々心配事を聞かされていた。

 

 そんな心配を払拭させてあげたい。

 今日、ちゃんと結果を一つ出すことができた、トレセン学園でうまくやれている……そう伝えたかった。

 

 電話をかけて、しばらくコール音が続く。

 もしかして留守なのだろうか、そんな思いがよぎりかけた頃、電話がつながる。

「もしもし、おじいちゃん――」

 繋がるやいなや、意気揚々と話しかけ始めたが、相手が聞き覚えのある義理の祖父の声でないことに気づく。

 電話のスピーカーの先から聞こえる声は、もっと若い、知らない男性の声だったのだ。

 

 とりあえず自分を名を名乗り、義理の祖父が家にいるかをその男性に訪ねてみると、感情を押し殺したような淡々とした冷静な声で、事情が説明される。

 

「――え……?」

 男性――義理の祖父の息子が告げた言葉に、彼女の頭が真っ白になる。

 

 義理の祖父が亡くなった――。

 

 すでに葬式が済んだ後のことだった。

 

「そ……んな…………」

 信じられない。信じたくない。

 唯一の家族と呼べる者を失ったことを、まるで夢見事のように思えた。

 

 彼女は、放心状態となる。

 

 その後、いつ電話を切ったのか、いつレース会場を後にしたのかすら記憶が定かではなく、気がつくと、学園の自分の寮に戻っていた。

 

 その日の晩は、眠ることができなかった。

 

 何をするでもなく、枕を抱いてベッドの上でうずくまり、物思いに耽っていた。

 

 こういう時は、枕を濡らして嗚咽を隠すのが正しい反応なのであろうか、そんなよくわからないことを彼女はぼんやりと考えていた。

 

 最愛の人を亡くして悲しいはずなのに……不思議と涙が出ない。

 

 心のどこかで、いつかこういう日がくると……なんとなく覚悟していた。

 

 彼女がまだ小さい頃はまだ元気があったが、近年ではすっかりやせ衰えていた義理の祖父を姿を見て、『この幸せな時間は長くは続かない』、そう薄々感づいていた。 

 

 別れも言えず、終わってしまった。

 

 義理の祖父と過ごした十数年間は、セピア色の思い出となり、時が経てば水の泡となって消えゆくのみ。

 それは彼女の心の中にひっそりと、大きな空白を生み出す形となる。

 

 

 次の日から、何事もなかったようにキョウエイボーガンは授業に出て、トレーニングにも参加していた。

 

 だが練習に身が入らない。

 

 誰かに話しかけられてもワンテンポ遅れて反応があったり、練習や並走にも精細を明らかにかいていた。

 

 その時の彼女の心の中は、何もなかった――何も入れたておきたくなかった。

 

 ただ走っているときだけは……何も考えなくていい。

 

 雑念、疑念……そういったものを振り払うように、ひたすら体を動かして、心が空っぽになるまで練習をするようになっていた。

 

 

 デビューの遅れを取り戻すかのように、メイクデビューから二週間後、すぐにキョウエイボーガンの次のレースが決まる。

 

 芝1600mと、前回より1ハロン距離が伸びているが、前回の走りができれば十分通用するであろう、そう思われていたが――。

 8着と、掲示板にも載れない大敗を喫してしまう。

 

 彼女自身、いつものように先頭に躍り出て、逃げ足を活かすつもりであったが、なぜだか気持ちが前にいかず、控える走りをしてしまい、この結果となる。

 

 明らかに不調(スランプ)だった――。

 

 思い通りに走れない。

 自分の身体なのに、まるで自分の身体でないような奇妙な感覚を、彼女は覚えていた。

 

(そっか……。あたし、負けたんだ……)

 先頭から遅れてゴールした後、ふとそんなことを思う。

 

 悔しいとすら思わない。

 

 自分の事のはずなのだが、まるで他人の事のように感じていた。

 

『――なんのために走るのか』

 それがよくわからなくなる。

 前はもっと自然な気持ちで走れていたはずなのに……。

 

 答えはいくら考えても出やしなかった。

 そしてそのモヤモヤした気持ちが嫌で、何も考えなくて済むようにオーバーワーク気味に練習に明け暮れた。

 

 そして汚名返上せんと次のレースに挑むも、また同様に、惨敗へと終わってしまう。

 負のスパイラルは続く――。

 

 それに重なるように、不幸にも彼女は骨膜炎を発症してしまった。

 原因は明らかに過度な自主トレーニングのせいであった。

 

 全治一ヶ月――それが医者から告げられた診察結果。

 それまで安静、トレーニングもしばらく禁止となってしまう。

 

 

 逃げるように打ち込んでいたトレーニングにも参加できない日々が続く。

 

 何をするでもなく、チームメイトたちの練習風景を遠くから眺めるようになっていた。

 部屋にこもっていると、嫌なことを次々と考えてしまう。『早く自分もトレーニングに復帰したい』、そんなことだけを考えていた。

 

 そんなぼんやりと過ごしていたある日、トレーナーに呼び出された。

 

「……残念ながら、このままこのチームに入れておくわけにはいかない」

 運命は巡る。

 それは戦力外(くび)通告だった。

 

 ここ二回のレースの結果が振るわない上に、オーバーワークで怪我もしてしまった。

 以前トレーナーに、自主トレーニングは控えるように言われていたのに、その忠告を無視した結果がこれである。

 

「――君にはチームを抜けてもらう」

 あまりにも非情な判断が下された。

 

 それに対して、何か弁明や申し開きを、彼女はすることができなかった。

 ただ受け入れるしか(こたえ)を持たなかった。

 

 キョウエイボーガンは、再度、行き場所を失うこととなる……。




※サブタイトルを変更しました(2021/11/15)


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2話:差し出された天運の手 ~前編~

 また選抜レースが行われる時期がやってきた。

 

 担当トレーナーがいなかったり、まだチームに所属していないウマ娘たちにとっては、スカウトを受けられる可能性がある、またとないチャンスの時である。

 

 しかし、誰もが選抜レースに出走できるとは限らない。

 夢を叶えたい、レースで活躍したい……そうい思うウマ娘たちが大勢いるため、毎回選抜レース出走希望者は、多数となる。

 

 そこで何度かに分けての予選――選考会が行われる。

 選考の内容は、順位だけに限らず、レース全体の内容をもって審査される。

 ここでいい結果を残し、勝ち抜いていかなければ、選抜レースに出ることすら叶わない。

 

 キョウエイボーガンもまた、選抜レースの選考会を受けていた。

 

 一度はチームに所属し、メイクデビューを果たした彼女だったが、また一からのスタートとなる……。

 

(……やれるだけのことはやった、けど……) 

 不安材料だった骨膜炎の具合はすっかりよくなり、特に足に違和感もなく、存分に走ることができるようになったはずだった。

 

 選考会の結果が発表される掲示板の前で、彼女は浮かない顔を浮かべていた。

 

 万全を期して望んだはずの選考会であったが、結果を見るまでもなく、一切の手応えがない走りをしていた自覚があった。

 それを裏付けるかのように結果は、一次試験不合格――という厳しい現実を突きつけられる。

 

 一度は突破したこの関門であったが、手も足も出なかった。

 

 足や身体の不調はなく、問題なく走れているはずなのに、なぜか足がついていかない。

 思ったようにスピードがのらない。

 

 スタート直後から先頭に立って、そのままゴールまで逃げ切る作戦を得意とする、キョウエイボーガンにとってそれは致命的だった。

 

 今回の選抜レースの選考会も、レース開始直後の位置取りを失敗して先頭を往けず、そのままずるずると中団に飲み込まれ、終わってみればドベ争い。

 

 彼女はメイクデビューで華々しく勝利を飾った、あの強い走りができなくなっていた。

 

 一時は、怪我の後遺症かと医師にも相談したが、怪我の後遺症はなく、完治していると告げられ、おそらく精神的な問題であろうと、医師からそう診察された。

 

 ◇◆◇

 

「…………」

 出口の見えないトンネル――。

 キョウエイボーガンは、大樹のウロの前で呆然と立ちすくんでいた。

 

 ウマ娘たちが、思い悩んだ時や悔しいことやつらいことがあった時、切り株の空洞の中に向かって思いっきり叫んで、発散させる場所――大樹のウロ。

 

 いっそ思いの丈を、ここでぶちまけられたのならば、どれほどよかったであろう。

 しかし彼女には何もない。何も叫びたい言葉が何も思い浮かばなかったのだ。

 

 以前、この場所を通りがかった時、実際に利用して、どこかすっきりした顔になっていたウマ娘を見かけたことがあったので、それを見習ってみようと立ち寄ってみた。

 しかしご覧の有様である。

 

 いざ切り株の前に立ってみて、何かを思っきり叫んでみようと思うが、何を発すればいいのか思い浮かばず、切り株の空洞をじっと眺めているだけ……。

 

 負けて悔しいという気持ちもある。

 思ったようにうまく走れないという焦燥感もある。

 

 だけど、それを口に出して言い表すことがなぜかできない。気持ちのコントロールができないでいた。

 

(部屋に戻ろう……)

 彼女は、なにか無作為な時間を過ごしてしまったような気分になっていた。

 

 これならまだ体を動かしていたほうが有意義だったと、そう感じる。

 その鬱憤を晴らすわけでもないが、早速寮に戻ってジャージに着替えてトレーニングでもしようと、踵を返そうとしたその時――。

 

「――どうしたんですか? 叫ばれていかないのですか?」

 突如として、キョウエイボーガンの背後から男性の声がする。

 

 いつからそこにいたのだろうか、さっきの今まで人の気配をまったく感じなかったのに。

 それほどここでボーッとしていたのかと、彼女は自分の散漫さに辟易する。

 

(……誰だろ?)

 驚いた形で彼女は後ろを振り返り、男性を姿を視線に捉える。

 

 そこにはシワひとつないスーツを着こなして清潔感を感じる身なりの、歳は二十代半ばほどの、そして女性に人気がありそうな端正な顔立ちをした男性が居た。

 

 学園のどこかですれ違ったかもしれないが、このような知り合いは覚えがなかった。

 

「……と、トレーナーの方ですか……? あたしに、何か用ですか……」

 男の甘いマスクに目が行きがちではあるが、スーツの左胸につけてあるトレーナーバッチを見てすぐに、トレーナーだと気づく。

 

 よもやトレーナーから急に話しかけられるほどの、用事が自分にあるとは思っていなかったので、キョウエイボーガンは、恐る恐る質問をする。

 

「これは失礼しました。私は長末樹生といいます。ここトレセン学園でトレーナーをやっております。以後、お見知りおきを……」

 長末と名乗ったトレーナーは笑みを浮かべ、名刺を差し出しながら、丁寧な自己紹介をしてくる。

「ご丁寧にどうも……。キョウエイボーガンです……」

 その丁寧な対応にキョウエイボーガンも釣られて、名刺を受け取りながら、自分の名前を告げる。

「いえ、用というほどではないのですが、先程からずっとそこでじっとされていたので、少し気になってしまいましてね。……叫ばれてみてはどうです? 意外とすっきりしますよ」

 私はやったことはありませんが、と爽やかな笑顔を見せながらそう付け足す。

 

 どうやらキョウエイボーガンはずっと見られていたようだ。

 大樹のウロで叫ばずにずっと突っ立っているというのが、物珍しく見えてしまったのだろうか。

 

「……なんとなくここに立ち寄っただけで、特に理由はない、です」

 ごまかすように彼女は歯切れの悪い口調で、長末トレーナーにそう答える。

 

 なんとなく立ち寄ったのは事実ではあるが、何かを求めて大樹のウロに来た事には違いなかった……キョウエイボーガンはわずかに表情を曇らせる。

 

 そんな彼女の表情を見て、長末トレーナーは顎に手を当てると一瞬、考えを巡らせる。

 そして視線をキョウエイボーガンに向けながら、静かに語りかける。

「でも……何か悩みを抱えていることがある。だからここに立ち寄った……ということではないのですか?」

 

 見事に心境を察知されて、ドキリとしてしまう。

 トレーナーという職種柄、ウマ娘の繊細な機微を感じ取れるともでいうのだろうか。

 

「……もしよければ私に、話してみませんか? 悩めるウマ娘の相談をきくのも、トレーナーの仕事ですので」

 と言って、長末トレーナーは優しい笑みをキョウエイボーガンに向ける。

 

 彼女にとって、他にこういった悩みを相談できる相手はいない。

 まして普段からウマ娘と接しているトレーナーならば、なにかいいアドバイスをもらえるかもしれない。

 

 藁にもすがる思いながら、先程会ったばかりの長末トレーナーに、メイクデビュー以降うまく走れなくなった、キョウエイボーガンという一ウマ娘の、赤裸々に身の上話をすることにした。

 

 ◇◆◇

 

「なるほど……」

 キョウエイボーガンは、あまりこういったことを人に話したことがなかったので、たどたどしい説明となってしまった。

 

 話を聞き終えると、長末トレーナーは腕を組んで少し思考を巡らせる。

 すると何か的を得たような表情を浮かべた。

 

「ノープロブレム」

 と一言言い放った後、付け足すように、言葉を続ける。

「今、抱えている問題の答えは、すでにあなたの中にありますよ」

 爽やかに笑いかけながら、親指を立てて見せる。

 

 しかしキョウエイボーガン自身には、『答えは自分の中にある』と言われても、まったくなんのことなのかさっぱりであった。

 

「――え? どういう……」

「自分の走り方というものは、意識せずともできるものです」

 車はアクセルを踏めば走るように、走りたいと思えばそれに身体は反応するようにできている、と長末トレーナーは説明する。

 

「調子が出ないのはおそらく、走る目的を少し見失っているからでしょう。あなたが一体何のために走るのか……それを思い返してみてはいかがでしょうか?」

 

「…………」

 自分が一体何のために走るのか、彼女はそれまであまり考えたことはなかったし、いきなりそう言われても答えは出ず、キョウエイボーガンは押し黙ってしまう。

 

「論より証拠……というものですかね……」

 そんな思い悩んでいるキョウエイボーガンのその姿を見て、長末トレーナーはぼそりとそう呟く。

 

 そして意を決したかのように、明るめのトーンでキョウエイボーガンに話しかける。

「ボーガンさん! これから少しお時間よろしいでしょうか?」

「え――あ、はい。大丈夫ですけど……?」

 急に呼ばれて驚くキョウエイボーガン。

 

 そしていつの間にか、長末トレーナーから『ボーガン』と、親しみを込めた呼ばれ方になっていた。

 

「それでは行きましょう――!」

「い、行くって、どこへ……?」

 突然のこと過ぎて、理解が追いつかないキョウエイボーガンであった。

 そんな彼女をお構いなしに、長末トレーナーは人差し指を唇に当てながら、こう言った。

 

「それは……行ってからの、お楽しみです」

 

 ◇◆◇

 

 なんとなく勢いにつられて、ついていってしまった。

 

 どこに行くのか、何をしに行くのかも告げられず、黙って先程知り合ったばかりの男性――長末トレーナーの後をついていくキョウエイボーガン。

 

 ふと、なぜだかわからないが、昔を思い出していた。

 それはキョウエイボーガンが幼き頃の遠い日々の記憶――義理の祖父と一緒に散歩をして、歩いていた時の事だった。

 

『人とウマ娘の走る速度は違うけど、歩く速度はそう変わらんねぇ』

 義理の祖父が、そんなことを話していたのを思い返す。

 

 人とウマ娘……違いはあれど、たしかに家族の絆がそこにはあった。

 もうそんな日は訪れないのだと、どことなく物悲しい気持ちに包まれた。

 

「さあボーガンさん、着きましたよ」

 そんな思い出に浸っていたら、いつの間にか目的地についたようである。

 

 目的の場所に、どこか見覚えがあった。

 それはどこかのチームの部室のようだ。

 それが部室だとわかったのは、以前チームに所属していたので、同じような建物を知っていたからである。

 

「ようこそ! こちらが私たちのチームの部室ですよ」

 長末トレーナーは部室のドアを開けて、先に中に入り、キョウエイボーガンも入るよう手招きする。

 

 なぜチームの部室に案内されたのか、今の状況を理解できなかったが、「どうぞどうぞ」と催促されるまま、キョウエイボーガンは部室へと入ることになった。

 

 その中は、手狭というほど狭くもないが、けして潤沢に広くもない、七名くらい詰め寄れたら御の字と思えるほどの、そんな空間だった。

 

 おそらく長末トレーナーのチームのウマ娘なのだろう、その中には三名のウマ娘が居た。

 

 彼女らはここで雑談をしていたようだが、そのうちの一人は、机に突っ伏して寝息を立てている。

 

 長末トレーナーとキョウエイボーガンが中に入ってくるに気づくと、その中のひとりのウマ娘が声を上げた。

「お? なんでえ長末。そこにいるのは、新人かい?」

 妙な独特な訛りのある口調でしゃべる、小柄な長い赤茶色の髪のウマ娘が威勢よく喋りかけてくる。

 

「ええ、そうですよ。ルーブルさん、あなた方と同じく逃げ脚質を得意としている、キョウエイボーガンさんです」

 長末トレーナーがそう答えると、ルーブルと呼ばれたウマ娘は、キョウエイボーガンを値踏みするように、じろじろと観察し始めた。

 

 腰まで長い伸びた赤茶い髪を持ち、前髪のメッシュが入っているこのウマ娘の名は、バニータルーブルという。

 

 長末トレーナーのチームの一番の古株で、昨年のティアラ路線の一角であるオークスを優勝したGⅠウマ娘であった。

 キョウエイボーガンより一つ年上の先輩で、高等部にあたる。

 

 ちなみに身長については、キョウエイボーガンよりはやや高いが、一般的に見れば同等に低かった。

 

(なんかチームに入る流れになってる……?)

 話の流れについていけていないキョウエイボーガンであったが、なんとなく長末トレーナーは、自分のチーム入れさせるために連れきたのだと、察し始めた。

 

 先程まで、長末トレーナーのチームに入るなどまったく聞いていない事柄だ。

 いまいち長末トレーナーの考えていることがわからない。

 

 これはどういうことなのだと、長末トレーナーに問いただそうとキョウエイボーガンは声を上げようとした。

 しかし、バニータルーブルにそれを遮られる。

 

「おいおい、長末さんよお。こんなチビ助で、ちゃんと走れるんだろうねえ?」

 その言葉にキョウエイボーガンは少しムッとした。

 

 実のところ、背が小さいことを多少コンプレックスに感じている節があった。

 すでに高等部であるが、キョウエイボーガンはまだこれから身長がのびると、未だに信じている。

 

 まして自分と大差ない身長のウマ娘に、『チビ助』などと、言われる筋合いなどないのである。

「ノープロブレム。彼女はすでにメイクデビューで走って、勝利されていますので」

 長末トレーナーがそう説明すると、「ふうん」と、バニータルーブルはあまり納得していないような感嘆を漏らす。

 

 長末トレーナーには一通りの事情は話してある。

 メイクデビューを勝利した後、連敗続きであることも――。

 

 キョウエイボーガンの預かり知らぬところで進んでいる、チームに加入するという流れに戸惑いつつも、彼女にとっては悪い話ではなかった。

 

 チームに所属できるということは、つまりレースに出走することできることだ。

 有力なウマ娘ならいざしらず、スカウトを待つ身としては願ったり叶ったりである。

 

 ただ入るチームはよく考えてから、決めたい。

 また必要なくなったら追い出される……そんな経験はそう何度もしたくはなかった。

 

 長末トレーナーの真意をまだつかめない。

 なぜ悩みを相談しただけなのに、チームに引き入れようとしたのか。

 

 その疑問をはらすために、長末トレーナーに問いかけようとしたが、今度は別の、白髪のショートヘアーのウマ娘によって遮られた。

 

「あのぉミッキー……この方って、確かデビュー戦以来連敗中で、調子を落としまくっているっていう噂の方じゃないッスか……?」

 先に部室に居たウマ娘の一人が、長末トレーナーの近くに寄って、小声で聞こえないようにひそひそと長末トレーナーに耳打ちをする。

 

 この少しボーイッシュな印象を受ける、白髪のショートヘアーのウマ娘の名は、オーサムラフインという。

 

 バニータルーブルと同様、長末トレーナーのチームの一員で、デビューを控えたまだ中等部のウマ娘。

 キョウエイボーガンの年下、後輩にあたる。

 

 ちなみにバニータルーブルやキョウエイボーガンよりも、背が高かった。

 

 気を使ってくれたのかもしれない、しかしあまり距離が離れていなかったせいもあるが、キョウエイボーガンの耳にも、しっかり届いてしまっていた。

 

 レースの成績の話は、ウマ娘たちの間でよく話題に持ち上がる。

 メイクデビューで颯爽と勝利を飾ったが、その後調子があがらず二連敗……。

 挙句の果てには怪我をしてチーム除籍と……そういった話題性では、キョウエイボーガンは少し有名になっていた。

 

 耳打ちされた長末トレーナーは、オーサムラフインの心配を払拭させるかのように、微笑みを浮かべながら「ええ、存じ上げていますよ」と、織り込み済みだと答える。

 

「……なんでえ、それってただの”フロック(まぐれ)”って奴じゃあねえかよ……」

 オーサムラフインと長末トレーナーのやり取りが聞こえていたのは、バニータルーブルも同じだった。

 不愉快そうに、独り言というには声量が大きい声で、そうぼやいてみせた。

 

「――っ!」

 あえて聞こえるようにつぶやいたのだろう。

 その言葉にキョウエイボーガンは、口惜しそうに唇を噛みしめると、思わずとっさにバニータルーブルを睨みつける。

 

 そんなことを言われるのが、悔しかった。

 何か言い返してやりたいと思った。

 

 しかし事実であることに変わりはなく、返す言葉が出ない。

 

 競争の世界(レース)は結果がすべて……実力を示すには、結果を残すしか術はないのである。

 

「へえ……。その目は、なんか文句があるって面だねえ……」

 楽しそうにニヤリと笑うと、負けじとバニータルーブルも、顔と顔が接触せんばかりにキョウエイボーガンの目の前に詰め寄って、睨み返す。

 

 お互いの視線と視線がぶつかり合う――。

 一触即発の空気が流れる。

 

「ちょちょ……ケンカはまずいッスよ、ルーブル姉御! ボーガンさんも、姉御を刺激しないでくださいッスよ!」

 そんなピリピリとした緊張感に耐えられず、オーサムラフインが仲裁に入ろうと、二人の間でアタフタとする。

 

 元より、気性が荒くて喧嘩っ早いバニータルーブルは、これまでにも多少なりとも問題を起こしている。

 あわや停学となりかけた事もしばしば……。

 これ以上厄介事を起こさないようにと、オーサムラフインも必死だった。

 

「ミッキーからも何か言ってくださいッスよぉ~」

 そう涙目になりながら、長末トレーナーに助けを求めるオーサムラフイン。

 

 そう助けを乞われた長末トレーナーは、顎に手を当てて「そうですね」と、少し考え込む。

 そして名案を思いついたのか明るい声でにこう提案をしてきた。

「では、実力を確かめるためにも、模擬レースで入部テストしてみてはどうでしょう!」

 

 またしても突然の展開である。

 

 しかし『火事と喧嘩は江戸の華』と言わんばかりに、バニータルーブルは、いの一番で声を上げた。

「面白れえ、乗ったぜ! ”オレら”が直々に相手してやるぜえ!」

 オーサムラフインの首に腕を回して、肩を組みながら、キョウエイボーガンに向かって叩きつけるように言い放つ。

「ええーっ! ボクも参加するんッスか?」

 そんな乗り気のバニータルーブルと正反対に、オーサムラフインは巻き込まれて嫌そうな顔であった。

「ったりめーだろ! ラフイン、おめーもチームのメンバーなんだからよお」

「そ、それならマーチでいいじゃないッスかぁ~。ボクは別に、勝負なんてやりたくないッスよぉ~」

 こんな騒ぎになっても、まだ気持ちよさそうな寝息を立てて眠っている、黒髪のところどころ毛先がはねたポニーテールのウマ娘の方を指差す。

 

 仮にもメイクデビューを制している相手にするなんて、まだレース出走経験がないオーサムラフインには、荷が重いと感じていた。

 

 もっともレース経験がないのは、今そこでスヤスヤと寝ている、黒髪のポニーテールのウマ娘――アントレッドマーチも同じであったが。

 

「マーチはあれだ……今寝てっし、それに病み上がりだからいいんだよ!」

 オーサムラフインは「そんな~」と諦めたような泣き言をあげる。

 

 そんな彼女を尻目に、バニータルーブルは、キョウエイボーガンの目をまっすぐ見ながら、こう問いかけた。

「――で、お前さんはやるのかい、やらねえのかい?」

 嫌なら逃げてもいい、まるでそんな言葉を目で語りかけてくるように、不敵に笑みを浮かべている。

 

 安い挑発だ、そうキョウエイボーガンは思った。

 しかし言われっぱなしで、このまま終わりたくはない。

 

 チームに入る入らないに関わらず、ここで黙って引くほどキョウエイボーガンは、臆病ではなかった。

 

 そして自分がけして『フロック(まぐれ)』などではないことを証明してみせる、そう決意していた。

 

「……わかりました。やります」

 

 わけもわからず連れてこられたチームの部室。

 なぜかなりゆきで、チーム加入をかけた模擬レースをすることとなった。

 

 だが、やるからには負けたくはない。

 

 己のプライドをかけた、意地と意地のぶつかり合いが、行われようとしていた。



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3話:差し出された天運の手 ~後編~

 トレーニング場――。

 トレセン学園の施設の一つであり、ウマ娘たちが日夜トレーニングに励んでいる場所である。

 そこはトラックが何重にも分かれており、それぞれ芝・ダート・ウッドチップ・坂路など、用途別のコースが複数存在し、あらゆる局面を想定してトレーニングを行うことが可能となっている。

 

 そこにトレーニングコースをじっと眺めながら、固まって集まっている三人のウマ娘たちが、特にはずんだ会話もなく、佇んでいた。

 キョウエイボーガンと、長末トレーナーのチームのバニータルーブルとオーサムラフインの三人である。

 

 そこへ、一人の男性――長末トレーナーが駆け寄ってくる。

「皆さん、お待たせいたしました。模擬レースでの使用許可がおりましたので、いつでも準備できますよ」

 爽やかな笑みを浮かべながら、三人にそう説明する。

 ものの数十分程度で許可をとってくるとは、学園側がよほど寛大で大っぴらなのか、それともこの長末トレーナーがそういった交渉事にたけているのか、どちらか定かではない。

 

「おっしゃあ、さっそくおっぱじめるとしようぜえ! コースは無論、王道を往く芝2000mでえ!」

 赤茶色の長髪のウマ娘――バニータルーブルが、威勢よく声を張り上げる。

 どうにも少しの間ではあったが、待たされてウズウズしているといった様子だ。

 

 それとは対象的に、無理やり連れてこられた、ウマ耳までしょんぼりとうなだれている白髪のショートヘアーのウマ娘――オーサムラフインは、さっそく泣き言を上げる。

「えええーーーっ!? そんな距離、ボクまだ走ったことないッスよ~。そんなの、ルーブル姉御の一人勝ちじゃないッスか~」

 目尻にうるうると涙をためながら、バニータルーブルにしがみつく。

 

 やるのは模擬レースといえど、相手は実戦経験も豊富かつ、オークスを獲っているGⅠウマ娘だ。

 対するオーサムラフインは出走経験もなければば、まだ本格化もまだ迎えていない。

 対等に張り合おうとするには、まだまだ力不足といえる。

「ああ、もうしょうがねえなあ……。じゃあ、三秒くれてやるよ」

 今にも泣き出しそうな顔を見かね、バニータルーブルはやぶから坊に頭をかくと、指を三つ立てる。

 ようするに、自分が三秒遅れてスタートする――と、ハンデを設けるというのだ。

 

「やったー! 流石ルーブル姉御、大好きッス♪ でも三秒といわず十秒くれたら、もっと好きになるッス♪」

 先程までの消え入りそうな声はどこへやら。

 あっけらかんと一転し、大げさに喜んで見せながら、猫なで声を出して、そうおねだりしてみせるオーサムラフイン。

「……てやんでえ! どんだけチンタラ走るつもりなんでえ!」

 涙にはめっぽう弱いが、それが嘘泣きだったとわかると怒りを顕にし、軽くオーサムラフインの頭をポカリと殴りつける。

 実際、そこまで力が入ってはいなかったが、オーサムラフインは「痛ッ」とおおげさにリアクションすると、「ひどいッス……」と涙目になりながら、押し黙った。

「……お前さんも、それでいいかい?」

 鼻を強くこすってから、腕を組んで、それでも勝つ自信があると言わんばかりに自信たっぷりな目線をキョウエイボーガンに向けながらそう尋ねる。

 

 2000mという距離……。

 長くても1600mしかレース出走経験がなく、距離の不安はキョウエイボーガン自身も感じていた。

 しかし、たとえ対等の条件であったとしても、こちらも勝負を受けたからには、今更引く気はなかった。

 

 キョウエイボーガンは異論はないと認めるように無言で、コクリと頷いた後、視線を返すように相手に向かってこう言い放った。

「……それでもし負けても、後で言い訳にしないで下さいよ」

「へえ……言うねえ。後で吠え面かいても、知らねえぜえ?」

 ニヤリと獲物を捉えるような目でキョウエイボーガンを見定める。

 両者の視線と視線がぶつかり合い、激しく火花が飛び散る。

 

 二人がそんなデッドヒートを交わしている中、「ひええぇぇ……」とオーサムラフインは、この場の緊張感に耐えきれなくなり、なんで自分が巻きまれなくてはならないのかと、涙目になりながら自分の不運を嘆いていた。

 

 ◇◆◇

 

「さて皆さん、お待たせいたしました。ゲートの準備ができましたよ」

 ゲート牽引車から降りると、長末トレーナーが皆に向かってそう告げる。

 長末トレーナーが降りた先のトレーニング場のスタート位置には、ゲートが三つ設置されていた。

 ゲート以外も、コースの設備等はすべて長末トレーナーが「これからレースするウマ娘たちの手を煩わせるわけにはいきませんので」と、独りでテキパキとこなし、セッティングしてくれた。

 

 ここからトラックを右回りに約一周半かけて2000mを走る模擬レースが行われる。

 

 各自、準備運動やストレッチなどを済ませると、それぞれ指定のゲートに入る。

 内から1枠1番にキョウエイボーガン、2枠2番にオーサムラフイン、3枠3番にバニータルーブルという順となっている。

「おうラフイン。もし手え抜いて、雑な走りしやがったら……後で承知しねえからなあ」

 隣のゲートにいるオーサムラフインに「全力でやれよ?」と、発破をかけるバニータルーブル。

「わ、わ、わ、わかってるッスよ……」

 ハナから絶対勝つのは無理だと思っていたので、軽く流そうと密かに企んでいたオーサムラフインは、その内心を見透かされ、慌てふためく。

 

「――ふぅ……」

 そんな隣の喧騒を気にもとめず、独りキョウエイボーガンは深呼吸をし、今の心境を落ち着けさせるのに、神経を注いでいた。

『――走る目的を見失っている』

 大樹のウロで長末トレーナーに言われたことが、脳裏に反響する。

 

 そもそも今までそんな明確な理由を持って走っていたことがあっただろうか。

 走れるから、走る。走れるレースがあるなら、レースで走りたい。

 今も昔も、その気持ちに変化はないはず。

 

 けれども長末トレーナーの言い方が妙に引っかかっていた。

 

 未だそれに対する明確な答えを見つけ出せてはいないが、キョウエイボーガンはとりあえずその押し問答は保留にし、今はこの模擬レースのことに集中することにした。

 

 そう、やるべきことは変わらない、ただ一つだ。

 

 どんな勝負であろうともけして気を抜いたりはしない。

 ただゴールを目指して走る抜けるのみ――。

 キョウエイボーガンは、精神を研ぎ澄ませ、ゲートの動きに合わせて自分も駆け出すイメージを何度も想定し、今この瞬間からでも、瞬時に走れる心構えをする。

 

(へえ……)

 ただの興味本位で、キョウエイボーガンの姿を横目でチラリと覗いたバニータルーブルは、試合前の彼女の目つきの鋭さに内心で感嘆の声を上げる。

 デビュー戦まぐれ勝ちだけの一発屋……そう相手を見下していたが、少し評価を改める必要がありそうだと考え直す。

 そして次に先程チャチャを入れた隣のオーサムラフインの様子をうかがう。

 どうもなにやらゲートに入った後もしばらくは泣き言をブツブツ唱えていただったが、とうとう覚悟を決めたようで、ゴクリとつばを飲み込むと、無言となり、気を引き締めたようだ。

 

 バニータルーブルも周囲を気にするのをやめ、ゲートが開放される瞬間を待つことにした。

 

 そして、沈黙が流れる……。

 三人の動きが止まり、スタート態勢が整う。

 固唾を呑んで、ゲートが解き放たれるその瞬間を瞬きもせず、じっと待ち構える。

 そしてその時はきた――。

『――ガコンッ』

 ゲートの開閉音がするや否や、同時に二人が飛び出した。

 三秒遅れてスタートするバニータルーブルを除いて、各自出遅れなしの好スタートを切った。

 

 コースを駆け抜ける足音が響き渡る。

 

 滑り出しは順調であった。

(……これなら、いける!)

 そう確かな手応えを感じると、キョウエイボーガンは、一気にスピードを上げ、先頭へと躍り出る。

 ウマ番が一番内側だったのも幸いしてか、今回は思ったように絶好のポジションに入ることができた。

 

 対するオーサムラフインは、先頭争いには参加せず、そのままキョウエイボーガンに先頭を譲ると、そのやや後方に控えて、つかず離れずの距離につける。

 彼女は逃げで勝負はしない作戦のようだ。

 

 今のこの間だけは、二人だけのレースが繰り広げられる。

 

 そして一方、二人のウマ娘がスタートし終わった、スタート地点では、長末トレーナーがストップウォッチを見ながら経過秒数をカウントを読み上げていた。

「……1秒……2秒……3秒!」

 最後のカウントを読み上げると、ゲートからバニータルーブルが脱兎のごとく、猛スピードで駆け出した。

 

 しかしすでに先頭から10バ身以上は差が開いている。

 これが通常のレースでの出遅れなら、もはや挽回するのは不可能に近いことであろう。

「よっしゃあ、いくでええぇぇ!」

 だが、そんなものお構いなしと言わんばかりに、序盤から快速に飛ばし、気合の雄叫びとともに、ラストスパートと見紛うの勢いでトップスピードに乗せてくる。

 

 まるで獲物を捉えるような鋭い目つきで、今は遥か前方にいる二人を宥める。

 その表情は高揚感からか、自然と笑みを浮かべていた。

 バニータルーブルの猛追撃がこれから始まる……。

 

 その頃、先に進む二人の状況は、すでに第2コーナーを曲がり終えて、再び直線に差し掛かろうとしていた。

 順位は変わらず、キョウエイボーガンが快調に飛ばしてハナに立つ。

 そこから離れた位置に、オーサムラフイン。

 先頭に離されまいと、必死に食らいついていく。

 

(……あの子、まだついてくる……)

 チラリと後方を確認すると、相も変わらずついてくる、そのしぶとさに舌を巻く。

 何度かペースを上げて、振り切ろうと試みたが、その度に負けじと加速して、踏ん張ってくる。

 

 先頭を走るキョウエイボーガン。

 まだコースの半分も走破していないが、すでにレース展開はかなりのハイペースとなっていた。

 このままこのペースで2000mを走りきれるのか、そんな不安もよぎる。

 練習でその距離を走ったことはある、だがレースを想定した走りはまでは習熟度が足りていない。

 

 ――が、わからないことは、考えないようにしよう。

 わかることを、出来ることを考える。

 やれることは実に単純明快だ。

(なら……千切るまで!)

 ついてくるなら……ついてこれなくなるまで、ペースを上げるのみ、そう一つの方針が定まった。

 

 直線コースが終わり、第3コーナーに入った瞬間、小さい体を活かし軽やかにコーナーを曲がると、キョウエイボーガンはさらにペースを上げた。

 

(うへぇ……まだペース上がるんッスかぁ……)

 第3コーナーでさらにペースが上がったことに気づき、それに反応して離されまいと、ついていこうとしたが……すでに息が切れかかっていた。

 レース経験が乏しいオーサムラフインは、とにかくキョウエイボーガンに離されないよう、後をついていくことだけを考えて、自分のペース配分もわからず、これまで走っていた。

 

 しかし限界は訪れる……。

 日々のトレーニングで培った身体能力と、潜在能力でカバーしていたが、これほどハイペースで走らされ続け、スタミナ切れが近づこうとしていた。

 

 オーサムラフインの足がだんだん重くなり、徐々にスピードが落ち始めてくる。

 キョウエイボーガンとの差が縮まるどころか、どんどんと突き放されていく。

 もはやこれまでかと、諦めの色が濃くなったその時――。

 

『――ザッザッザッ!』

 と、後方から勢いの良い駆け足が迫ってくる。

「おうおう、ラフインさんよお。もっとちゃきちゃき走らんと、追い抜いちまうでえ!」

 

 ――バニータルーブルだ。

 

 第3コーナーが終わり、短い直線を挟んで続いて第4コーナー付近。

 3秒遅れてスタートしたにも関わらず、驚異の脚力でじわじわと追い上げ、いつの間にか両腕を広げたら届きそうなくらいの距離――おおよそ1バ身にまで詰め寄っていた。

 オーサムラフインに向かって檄を飛ばすその姿は、まだまだ余力があるといった感じだ。

 

(……ひええぇぇぇ、どんだけ化け物なんッスかぁ!?)

 心の中で、そんな悲壮な叫び声を上げる。

 煽りを受け、それに何か反応を見せたり、応対する余裕は、オーサムラフインに最早ない。

 だが彼女も必死だった。

 

 1着になるのは無理でも、トラック1周ぐらいまでは頑張った感じにしよう。

 でないと無様な走りを見せようものなら、あの先輩のことだ。

 超体育会系でよく見る腕立て100回とかトラック10周とか、後でしごかれることが想像できた。

 そんな疲れることは、やりたくない。なら――疲れるなら今にしよう。

(……い、いくッスっっ!)

 声にならない叫び声を上げつつ、わずかに残った最後の力を振り絞り、先頭についていこうと速力を上げる。

 ――が、駄目。長くは続かない。

「……もう、無理……ッス!」

 力尽きたオーサムラフインは、完全に失速し、第4コーナーを曲がる途中で、そのままあっという間にバニータルーブルに追い抜かされていった。

 

(お疲れさんっと、後は……あいつだねえ)

 次の獲物を求めて、前方にいる、ハナを切るキョウエイボーガンを視線で捉える。

 

 正直、バニータルーブルは、今のレース展開が予想できなかった。

 元より最初から全力で飛ばして、早々に二人に追いつくつもりでいた。

 しかし実際はどうだ。

 

 まだペース配分をわかっていないオーサムラフインが垂れてくるほどのハイペース。

 まるで短距離を走っているような感覚だ。

(さあて、どこまで持つか……見ものだねえ)

 この2000mという距離は意外と長いものだ。

 走りなれていないとペース配分が難しい。

 短距離(スプリント)ならいざしらず、相手も相当疲れが溜まっているはずだ、いつバテてもおかしくはない。

 このまま相手がバテるのを待って、息を入れることも作戦の一つだろう。

 だが、どちらにしてもバニータルーブルのやることは、レースが始まる前から初志貫徹であった。

『――先頭を取るのはオレだ』

 最後の直線がどうとか、道中の駆け引きとか、どうでもよい。

 先に先頭にさえ出てしまえば、こちらの勝ちなのだ。

 

 その先――先頭は譲らない、渡さない。

 そう揺るがない絶対の自信の元、バニータルーブルは獲物に目掛けて、加速しだす。

 

 ◇◆◇

 

 風を切るとともに、汗も同時に流れ、ターフの上に落ちる。

 額に伝う汗が煩わしく、乱暴に手の甲で拭い取った。

 キョウエイボーガンは、徐々に息が上がってきているのを自分でも感じ始めていた。

 先ほど通り過ぎたハロン棒を目線だけで確認する。

 

 ――残り600m。

 

 このままゴールまで走り切れるだろうか。

 これまで快調に飛ばしてきた。いや――飛ばしすぎた。

 すでに無茶を通り越して、無謀の域に達しようとしている。

 

 だからといって下手にペースを落とすのは、後方からじわじわと追い上げてくる、怪物の足音がそれを許さない。

 怪物が――彼女が、どんどん迫りきているのを肌で感じる。

 

 自分にとっては優位、相手にとっては絶望的なスタート差、3秒というハンデ……。

 しかしそれを意に介さない、強靭な脚力を見せつけ、バニータルーブルはキョウエイボーガンを猛追撃してくる。

 

 流石は昨年のオークスの覇者。GⅠウマ娘のポテンシャルには、圧倒される。

 これ以上は突き放せない。

 最初に稼いだリードを、最後のゴールまで持たせるしかない。

 

 先頭を往くキョウエイボーガンは、直線を抜け、2周目の第1コーナーへとさしかかったその時――。

(くっ――しまった……!)

 焦りからか疲れからか、ミスを引き起こしてしまう。

 体の軸が外にぶれ、コーナーを少し外回りに回ってしまい、最短コースからコンマ何秒かをロスしてしまう。

 すかさず軌道修正をし、内側へ戻し立て直す。

 そこでふと、ぞくりと嫌な視線を感じ、キョウエイボーガンは後ろを振り返った。

 

『――ッ!』

 そこには一部の無駄のない完璧なコーナリングで、加速しながら迫りくるバニータルーブルの姿があった。

 相手は、すでにスパートがかかっているのかと疑いたくなるような速力を存分に見せつけてくる。

 

 そしてまもなく2周目の第1コーナーから、いよいよ最終コーナーへと入る。

 

 とうとう恐れていた事態を迎えた。

 キョウエイボーガンのぴたりと背後に、バニータルーブルがついてきた。

 

 とうとうここまで追いついたのである。

 

「どうしてえ、そんなもんかあ?!」

 声が届く距離になったからか、バニータルーブルは後ろから走りながら、そう声を上げる。

 

 どれほど余力を残しているというのか。

 キョウエイボーガンは今走ることだけで手一杯である。しかしそのゆさぶりに、内心焦りを見せていた。

(このままだと……最後の直線で抜かれる……!)

 相手は強い、退かない、留まらない。

 そんな絶対的な王者の前では、敗北の未来しかないのか。

 

(また……負ける…………)

 ついには心が折れかけ、敗北をする自分の姿をイメージしてしまう。

 そして不思議なことに、何も前触れもなく、最初にトレセン学園の模擬レースで負けたときのことを、走馬灯のように思い出した。

 

 あの時は悔して悔しくて少し泣いた……。

 トレセン学園に入学出来て、舞い上がっていた。

 地元では敵なしと、少し天狗になっていた。

 それはすべて反動となって返ってきた。

 そして悔しさのあまり、義理の祖父に愚痴の電話してしまった。

 電話で義理の祖父は『また次、頑張ればいいじゃあないかぁ』、そう優しくなだめてくれた。

 

 それがあったからこそ、何度負けても挫けても『また次、頑張ろう!』と、踏ん張り続けた。

 いつか大好きな義理の祖父に『勝てたよ!』そう、伝えられるようになるために。

 

 そこで一つの事実に気がつく。

(……そっか……もう頑張らなくても、いいんだ……)

 もう義理の祖父はいない、もう伝えるべき相手が居ない。

 ならばなんのために勝つのか――なんのために走るというのだろうか。

 

 何を理解してしまったキョウエイボーガンの脚色が一瞬、衰えた。

 

 その隙きをバニータルーブルは見逃さなかった。

「――おっしゃあ、もらったぜえ!」

 必殺の雄叫びを放つと、このタイミングで仕掛けてきた。

 今までのはまだ全力全開ではなかったというのか。

 外から抜け飛び出すと、ぐんぐん速度を上げ、最終コーナーを抜けるときには、バニータルーブルとキョウエイボーガンはほぼ並びかけていた。

 

『ここで反応しなければ、負ける……』

 もう終わったはず。あとは千切られて終わるだけ……。

 

 しかし、ふつふつと腹の中でくすぶっているものがある。

 ――このまま負けてよいのか、と。

 祝ってもらえる相手がいないからと、むざむざ敗北をそのまま受け入れるのか。

 ましてや、3秒もハンデをもらって無様に負けるなどと……屈辱に耐えられない。

 

(ごめんね、おじいちゃん……)

 そうか、そうだった。

 これまでは義理の祖父に喜んでもらえるよう安心してもらえるよう、自分は走っていたのかもしれない、今時分そう気付かされた。

 けど――今はもう違う。

(じゃあ……往くね……!)

 ただ己の欲求に素直になる。

 走りたい……誰よりも早く走りたい。そんなウマ娘の根源たる衝動が沸き起こる。

 そして誰にも負けたくないという気持ちが、すべてを凌駕する。

 

『絶対に――負けたくないっ!!』

 キョウエイボーガンの不屈の闘志に火がついた。

 

 最終コーナーを曲がり終え、残り200m……。レースはいよいよ最後の直線を残すのみとなった。

 

 わずかに先頭をいくのは、バニータルーブル。

 流石に3秒のハンデを遅れを取り戻すため、超ハイペースで飛ばしてここまで追いかけたせいか、疲れが表情にも伺える。

 そしてそれを追うのは、キョウエイボーガン。

 しかし最終コーナー辺りからわずかに失速し、先頭から徐々に引き離されていく。

 この模擬レースを観戦していた者は誰もが、このままバニータルーブルが勝ったと思うことであろう。

 

 その刹那――。

「……はあああぁぁぁっ!!」

 突如、キョウエイボーガンが吠えた。

 全身の血を――肉を――奮い立たせるために、力一杯吠えたのだ。

 

 力強い踏み込みとともに、キョウエイボーガンの走る速度が急上昇した。

 風を切るように猛ダッシュすると、あっという間に並び、果には奪われた先頭をも奪い返す。

 

「……ちっ、おりゃあああぁぁぁ!」

 負けじと力の限り叫ぶ、バニータルーブルは最後の力を振り絞る。

 彼女にも譲れない意地と根性がある。

 

 二人は並んで一直線にコースを突き抜ける。

 残り100m、60m、40m……。

 どちらも先頭を譲らない、一進一退の攻防。

 

 動画のコマ送りのように、一瞬一瞬がスローモーションのようになる。

 

 並んでそのままゴールしたかと思われた、が――。

(ぐっ…………)

 そのゴール手前。

 これまでハイペースを超える超ハイペースで駆け抜けたバニータルーブルは、最後の一息が持たず、ゴール寸前で失速してしまったのだ。

 

 それはほんの僅かな差であった。

 そのままキョウエイボーガンが駆け抜け、ハナ差で1着をもぎ取った。

 

 ◇◆◇

 

『ハァ……ハァ……ハァ……』

 壮絶な競り合いをしながら走り終えた二人は、その場に立ちすくみ、膝に手をつき、お互い肩で息をし合っている。

 

 僅差であったが、勝敗の行方は最後に競り合っていた本人達が、結果をすでに理解している。

 己が負けて、己が勝ったことを――。

 

「……お前さん、なかなかやるじゃねえか……。気に入ったぜえ……」

 呼吸を整えながら、バニータルーブルはそう言うと、握り拳を作って、隣りにいるキョウエイボーガンの目の前に突き出してくる。

「…………」

 もはや話す体力すらも満足に残っていなかったキョウエイボーガンは、その意図を察すると、無言で拳でコツンと突き合わせ、それに返す。

 それに満足したように、バニータルーブルは無邪気な笑顔を向ける。

 キョウエイボーガンも軽く頬を緩ませると、それに笑みで答えた。

 

 

「ふぃ~~~。やっとゴールッス……あ~マジ疲れたッス……」

 しばらくして、だいぶ遅れてオーサムラフインがゴールしてくる。

 一応、途中でへばらず、完走しきれたようである。

 しかし全速力で駆け抜けて争った二人に比べると、さほど息も上がっておらず、おそらくあの後、そのまま軽く流したのであろう。

「おう、ラフイン……なんかお前、まだまだ元気そうじゃねえかあ……?」

 顔をピクピクを震えさせながらオーサムラフインの肩を掴む、バニータルーブル。

 オーサムラフインはぎくりと慌てて「そ、そんなことないッスよ」と手のひらで顔を仰いで、めちゃくちゃ疲れたアピールをしだす。

 そんな後輩の哀れな姿を、ジト目になりながら、「本当だろうなあ」と、訝しむ。

 

 オーサムラフインがそんな必死の言い訳をしていると、二人の元に欠伸を上げながら、寝ぼけ眼のままでゆっくりと近づいてくる一人のウマ娘がいた。

「……あれ~? みんな~、ここで何してるの~?」

 ところどころ毛先がはねた、黒髪のポニーテールのウマ娘――長末トレーナーのチームメンバーの一人、アントレッドマーチが間延びした声で、そう訪ねてくる。

 

 ナイスタイミング。

 話を逸らすのにちょうどよいと、オーサムラフインは同輩、同室のアントレッドマーチの元へ寄る。

「あ、マーチ……起きたッスか? えーと、実はさっきまで模擬レースしてたッスよ」

 部室で散々寝ていたアントレッドマーチは、あれからだいぶ時間も立ったが今しがた起きたようで、状況がつかめていない様子だったので、キョウエイボーガンとバニータルーブルとオーサムラフインで、チーム加入テストを兼ねた模擬レースをしていたことを簡素に説明した。

 

「ふぅ~ん。それで誰が勝ったの~? やっぱりルーブルちゃんかな~?」

 と言ってバニータルーブルの方に視線を送ると、彼女は不正解と意味するように両手を広げ、少しかしげてみせた。

 そしてついうっかりと、余計な一言が横から入る。

「いやぁそれがー、ルーブル姉御が、3秒ハンデくれるって舐めプして……負けたッス」

 と、思わず口がすべる。しかも『負けた』というところを嘲笑気味で。 

 そして言ってからしまったと慌てて口を塞ぐも後の祭り――。

 バニータルーブルの形相が鬼のように変わっているのが見える。

 その鬼気迫る表情に、オーサムラフインは震え上がった。

 

「あはっそうなんだ~。ルーブルちゃん、ドンマイ♪」

 そんな様子にもお構いなしに、バニータルーブルが負けたと聞くやいなや、彼女の元に小走りで駆け寄り、ポンポンと肩を叩いて、頭を撫で始めた。

 まるで姉が妹を慰めるかのように、悪意のかけらもないその励ましが、より一層怒りに火を注いだ。

 ちなみにアントレッドマーチがこのチームの中では、一番身長があるので、傍から見たら宥められている妹そのものである。

 

「……お前らあ! 併走トレーニングいくぞお! 遅れる奴は、後ろからケツ蹴っ飛ばすから覚悟しなあ!!」

 例えるなら、『うがーっ!』という擬音がよく似合うほど爆発した怒りは、後輩二人に向けられた。

 

 実のところ、後輩の失言に腹を立てたのもあるが、勝負で負け、悔しさもあった。

 その鬱憤を晴らすため、無理やり二人の服を引っ張って引きづり、有無を言わせずトレーニングに付き合わせることにしたという。

「そんな~! どんだけ元気なんッスかぁ」

「わあ~。寝起きの運動に、ちょうどいいかも~」

 それぞれ異なる反応を見せながら、バニータルーブルに連れられ、三人はトラックを走り始めていった。

 なんだかんだでこのチームの仲は良かった。

 

 騒がしかったのがいつの間にやら、静寂に包まれる。

 三人が居なくなった後、一人残されたキョウエイボーガンの元に、爽やかな笑みを浮かべながら長末トレーナーがやってきた。

「レースお疲れ様でした。その様子ですと、どうやら悩みは解決できたようですね!」

 笑みを崩さず、まるで自分ごとのように喜びながらそう言った。

 

 それと対象的に、長末トレーナーの顔を見て、これまで何の説明もなしにここに連れてこられていきなり模擬レースする羽目になったことを思い出し、キョウエイボーガンは怪訝そうな視線をぶつけた。

「……それより、これまでのこと、ちゃんと説明してくれるんですよね……?」

 少し怒りを込めてそう言い放つと、「それは失礼しました」と、長末トレーナーは苦笑いを浮かべながら、今回の経緯を説明してくれた。

 

 話は意外と単純なものであった。

 実のところ長末トレーナーは、選抜レースの選考会でキョウエイボーガンをたまたま見ていたのだという。

 結果も振るわず、だいぶ調子をおとしながら、どんなに先頭から大差をつけられても、懸命に走る姿は……まるで暗がりをおっかなびっくりで走っているような、そんな印象が残ったという。

 そんなキョウエイボーガンに、長末トレーナーは何かを見出した、という話しだった。

 

「あなたはまだまだ伸びます。その『負けない』という気持ちがあれば――」

 その証拠がさっきの模擬レースということ、と告げる。

 

 心が折れなければ、負けない。勝つまで挑めば、負けではない。

 だからこそチームにスカウトしようと、話しかけたと、そう長末トレーナーは語る。

「どうですか……私たちと一緒にやってみませんか?」

 長末トレーナーは、キョウエイボーガンに向かって手をのばす。

 

 咄嗟のことに驚いて、どう反応していいか、キョウエイボーガンは悩んだ。

 しかし、差し出されたその手のひらを見て、何かと重なった。

(そっか……そういうことか……)

 その手を見つめて、思い出した。

 

 母親を失って一人ぼっちになって俯くことしかできなかった時、唯一、自分に手を差し伸べてくれた義理の祖父の優しい手を――。

 

 最初、長末トレーナーの雰囲気がどことなく誰かににていると感じていた。

 容姿も声もまったく別人だけど、心の暖かさがどことなく似ている。

 そんな気がした……。

 

 だからこそ、この手をまた取りたいと思えた。

「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 差し出されたその手を握る。

 きゅっと優しく握り変えてしくれる手のひらが温かく感じる。

 キョウエイボーガンはその時、屈託のない笑みがこぼれていた。

 

(ありがとう、おじいちゃん……。あたし、また頑張ってみる!)

 出会いがあり、別れがある。されど別れを恐れることなかれ。

 

 暗闇に光が差す――。

 天国にいる祖父が安心していられるよう、それに恥じないよう一生懸命走る、そう天国の義理の祖父に向けて、誓いを立てた……。




今回登場したトレーナー、ウマ娘の明確なモデルは居ますが、
オリジナルということにしておいてください・・・

※コーナーの概念を勘違いしていましたので、内容を一部修正しました(2021/10/8)


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4話:宿因

『――先頭はそのままキョウエイボーガン、キョウエイボーガン! リードを1バ身、2バ身と広げて、今ゴールイン! キョウエイボーガンが逃げ切りましたッ!!』

 残暑が終りを迎え、段々と肌寒くなって来た頃合いの阪神レース場に、その寒さをものともさせないような、大きな実況が木霊する。

 

 勝った――キョウエイボーガンがまた勝ったのだ。

 

 一番人気を抑え、この神戸新聞杯を制したのは、実力を示して二番人気の彼女であった。

 内容は文句なし。序盤からリードを保ったまま、完全に逃げ切ってみせた。

 

 これで通算5勝目。

 そして怪我明けの復帰から重賞戦を含んでの4連勝と……まさに快進撃であった。

 

 一時は、デビュー戦勝っただけのフロックと揶揄されたこともあった。

 しかしそれがどうであろう。まるで生まれ変わったかのように、連勝に次ぐ連勝を重ね、見事、結果を残した。

 

 もはや誰もフロックなどと呼ばせたりはしない。

 むしろ『夏の上がりウマ娘』と、評価を翻させていた。

 

 まさに小さな巨星の誕生――。

 キョウエイボーガンは絶好調を迎えていた。 

 

 ◇◆◇

 

『4連勝、おめでとうーっ!!』

 けたたましいクラッカーの破裂音と同時に、一斉に祝福の声が上がる。

 神戸新聞杯から数日明けたある日、長末トレーナーのチームの部室では、キョウエイボーガンの勝利を祝って、ちょっとした祝賀会が開かれていた。

 

 ジュースにお菓子、デリバリーのオードブルにファーストフードのハンバーガーとポテト、そしてデリバリーのピザ……いささかジャンキーに寄り気味だが、食べ物の美味しそうな匂いが部室内に充満していく。

 もちろん、みんな大好き人参料理もちゃんと用意されている。

 

「よっしゃあ、乾杯しようぜえ!」

 小柄で前髪にメッシュが入った赤茶色の腰まで伸びたストレートロングヘアーのウマ娘――バニータルーブルが、威勢よく紙コップを頭上に掲げる。

 集った一同はそれに合わせて同様に紙コップを持つと、『乾杯!』と言って、互いに突き合わせた。

 わぁっと賑やかな声が室内に響き渡る――宴の始まりだ。

 

「いっただきま~す♪」

 早速、もう待ちきれないといった感じで、モデル体型な、ところどころ寝癖のように毛先がはねた黒髪のポニーテールのウマ娘――アントレッドマーチが、食べ物にいの一番に食らいつく。

 よく寝てよく食べる……これがすくすく育った彼女の秘訣なのかもしれない。

「ん~、これもおいし~♪」

 誰の祝いの席だったか露知らず、お構いなしに次々食べ物を食い荒らしていくアントレッドマーチ。

 それに呆れた声を出しながら、アントレッドマーチと同じ中等部の同級生で、寮で相部屋の、白髪のショートヘアーのウマ娘――オーサムラフインが叱りつける。

「こら、マーチ! 食い過ぎッスよ!! まったく……ちょっとは今日の主役のボーガン姉御に遠慮するッス」

 バニータルーブルよりも少し背が低い、鹿毛色の外ハネのボブカットヘアーのウマ娘――キョウエイボーガンの方を申し訳なさそうに伺いながら、「マーチが申し訳ないッス」と、代わりに平謝りしてみせる。

「ううん、平気だよラフイン。みんなもあたしに遠慮せず、マーチみたくドンドン食べてよ」

 どうせトレーナーの奢りだしね、と片目をつぶってウインクしてみせて、甘いマスクを持つ清潔感溢れるスーツに身を包んだ男――長末樹生に目配せをする。

「……ノ、ノープロブレム。もし足りなくなりそうでしたら、追加で注文しますよ……」

 と長末トレーナーは言ってみせるが、どこか乾いた笑いを浮かべる。

 彼の懐は少し寂しそうであった。

「じゃあじゃあミッキー。マーチはお寿司が食べたいで~す」

 早速容赦のない追加注文が入る。

 あれだけ食べているというのにまだ足りないというのか。まるで彼女の胃袋は宇宙だと疑いたくなるような、食べっぷりである。

 

 勝手気ままだが、和気あいあいとした空間……。

 あまりこういうことに慣れていないキョウエイボーガンは、どこか照れくさそうにしていた。

 けれどこうして祝ってくれることは素直に嬉しかったし、今のこのチームが居心地良いと感じている。

 

 みんなで一緒にトレーニングをしたり、時にはバニータルーブルの無茶振りに付き合わされたり、時にはオーサムラフインの悪ふざけに巻き込まれたり、時には突然居眠りし出したアントレッドマーチの介護をするはめになったりと――色々一緒に過ごしていく内に自然とチームに溶け込んでいた。

 

「いようボーガン! やってるかあ? しっかし重賞二つも取るたあ、こちとらチームのハナが高くなるの高くならねえっての!」

 バニータルーブルは上機嫌そうに、紙コップ片手でキョウエイボーガンの首に腕を回して肩を組んでくる。

 普段からあまり遠慮のないコミュニケーションを取ってくる彼女だが、今日はより一層、距離感が近い。

「そんな……ルーブル先輩の成績には、敵《かな》わないですよ」

 確かアルコールは入っていないはずなのに、まるで酒に酔ったみたいに絡んでくるバニータルーブルにちょっと引き気味に謙遜してみせる。

 

 実際彼女は、重賞はおろか昨年のオークスも獲り、桜花賞もあの落鉄事件がなければおそらくティアラ二冠達成できたぐらいの実力を備えている。

 

 そんな気性が荒くて若干粗暴な面もあるバニータルーブルを、キョウエイボーガンは良き先輩として敬っていた。

 もちろん慕ってくれる後輩二人も、あれはあれで可愛げがあると心を許していた。

 

 そんなバニータルーブルがキョウエイボーガンに絡んでいると、食べることにはもう満足したのか、それとも今は腹ごなし中なのか、アントレッドマーチが二人の会話に混ざってくる。

「ルーブルちゃんもボーガンちゃんも、小さいのにすごいなぁ~。マーチも頑張らなきゃ、目指すは桜花賞~!」

「「小さいっていうな!!」」

 すかさず二方向からハミングして怒鳴られる。彼女らに『小さい』というのは禁句である。

 

 ちなみにアントレッドマーチに『ちゃん付け』されるのは、もはやチーム全員諦めている。

 高等部の先輩だろうと別け隔てなくちゃん付けしてくるが、彼女の綿菓子のような性格上、なぜか憎めず、許容されていた。

「じゃあマーチが桜花賞なら、ボクは秋華賞を獲りたいッス!」

 オーサムラフインも負けじと夢を語り出す。

 そうすればみんなでトリプルティアラでカッコいいと、はしゃいでみせる。

 

 オークスを勝利したバニータルーブルの影響か、後輩二人はティアラ路線のタイトルに興味を以前から示していた。

「こりゃあ将来が楽しみだねえ、なあ長末さんよお!」

 頼もしい後輩たちの姿に、カカカと上機嫌に高笑いして、バニータルーブルは長末トレーナーの肩をバシバシと力加減を忘れた平手で引っ叩く。

「そ、そうですね……」

 と長末トレーナーは、平静を保っていたが、明らかに顔が少しひきつっていたので、かなり痛かったようだ。

 もし将来、そのようなことになれば、『ティアラの長末』という異名で呼ばれるかもしれない。

 そんな些細な夢が広がる一時であった。

「でも実際、ボーガンさんは素晴らしいですよ。このまま行けば、きっとGⅠにだって届くはずです!」

 私の見立てに狂いはありません、そう誇らしげにするように長末トレーナーは、自分の胸を叩いてみせた。

 今の所、GⅢ、GⅡと――順当に制覇していった。

 ならば残すところはGⅠ……というのもけして夢物語ではないはずだと、長末トレーナーは語る。

「GⅠかぁ……」

 キョウエイボーガンは思いを馳せる。

 これまではとにかくチームに入って、沢山トゥインクル・シリーズに出走したいとしか思っていなかった。

 

 改めて考えてみると、春のクラシック路線にはまったく届かず、かすりもしなかったし、GⅠに出走する自分の姿を想像したことがなかった。

 けどれ……もし出れるチャンスがあるなら、出てみたい。

 

 キョウエイボーガンとてウマ娘の端くれ、栄誉あるGⅠで栄光を掴むことを一度ぐらいは夢見ることもあるものだ。

 そしてちょうど、まだこれから挑める秋のGⅠのタイトルが残っていることに気がつく。

「……トレーナー」

 目標を見定めたキョウエイボーガンは、真剣な眼差しを長末トレーナーに向ける。

「あたし――菊花賞に出たい!」

 その一転の曇りもない決意表明の声に、周囲は静まりかえる。それほどキョウエイボーガンの本気さが推し量れたのだ。

「……菊花賞ですか……。出走条件的には問題なさそうですが、3000mの長距離に、あの二度の坂超え……スタミナが持つかどうか不安材料はありますね……」

 難しい顔をする。

 これまで2000mまでしかレース経験がない上に、今から長丁場に対応できるようにトレーニングをするにも、調整期間が二ヶ月もない。

 長末トレーナーは、希望的観測は言わず、事実を隠さず伝える。

 真剣には真剣で答えなければならない、不用意なことを言っても、相手を逆に傷つけるだけだからだ。

「……でもやりたい、やってみたい!」

 それでもキョウエイボーガンは退かなかった。

 無茶かもしれない、無謀かもしれない。

 彼女自身、可能性は限りなくゼロに近いと理屈では理解できてはいる。けれど挑まなければ、その可能性すらない。

 夢とは……そういうものを追いかけることなのである。

「……ですが……」

 担当のウマ娘がこうまで言っているのだ、無論それに答えたい、長末トレーナーはそう思っている。

 だが、()()()()()()()が菊花賞には残っている……。

 その巨大な存在が長末トレーナーをあと一歩押し出せずにいた。

 

「おうおう長末……。ボーガンがああ言ってんだ、お前さんも腹くくれってんだあ……」

 見かねたバニータルーブルが、この場をたしなめるように、キョウエイボーガンの好きにやらせてみろと、長末トレーナーを説得する。

 

 そこまで言われてしまったのなら、無理ですと、自分が食い下がるわけには行かない。

 覚悟を決めた長末トレーナーは、力強くうなずく。

「わかりました……私も最善を尽くします。ではまずコースに慣れるためにも、京都新聞杯を挟みましょう」

 菊花賞と同じ京都レース場で開催される、芝2200mのGⅡ京都新聞杯。

 菊花賞のトライアルに指名されているこのレースで、まずは力をつけようという考えだ。

「――やるからには、勝ちを狙いに行きすよ!」

 その長末トレーナーの頼もしい発言に周囲も沸き立つ。

 

 誰しも負けるためにレースを出走するわけではない。

 それが例えどんなに薄氷の上だったとしても――ただ最善を尽くすのみ。出来ることを足掻いてみせるだけだ。

 

「流石、粋ってえもんよ、そうこなくっちゃあねえ!」

「ミッキー、ぱねぇッス! 憧れる、痺れるッス!」

「わぁ~、それじゃあ今度のボーガンちゃんのレースには、みんなで応援しに行こうよ~」

 キョウエイボーガンのGⅠを目指すという意思表明もあってか、その後もてんやわんやと宴は大盛況となり、その日は遅くまで大いに盛り上がった。

 幸せな余韻を、今は残して……。

 

 ◇◆◇

 

 迎えた京都新聞杯、当日――。

 レース場はかなりごった返しており、まるでGⅠを観戦しに来ているような錯覚を覚える。

 菊花賞のトライアルに位置するこのレースだが、例年に比べて多くの観客がこのレース場に詰め寄っていた。

 

 なぜならば、誰もがその勇姿を見に来ていたのである。

 今世間を賑わせている無敗の二冠ウマ娘(ミホノブルボン)の姿を……。

 

「ほぇ~すごい人ッスねぇ~。GⅠのトライアルとなると、人気も違うんッスねぇ~」

 キョロキョロ辺りを見渡しながら、この人混みに圧倒されつつあるオーサムラフインはため息を漏らす。

 どこを見返しても人、人、人――。

 この雑踏の中、チームメイトのキョウエイボーガンの応援が果たして届くのか、自信がなくなってくる。

 

 人々が注目される中、いよいよパドックが行われる。次々とウマ娘たちが順番に自分たちの勇姿をお披露目していく。

 

「ボーガン、気合いれてけよお!」

「ボーガン姉御、ファイトッス!」

「ボーガンちゃん、頑張れ~」

 キョウエイボーガンのパドッグが始まると、チームメンバーたちはそれぞれ激励の言葉を観客席から投げかける。

 この雑踏の中だ、声援が届いたかはわからない。

 しかし短い間の登場ではあったが、見た限り、特に入れ込んでいる様子はなく、まずは一安心とい感じあった。

 

 その後順々とウマ娘が入っては捌けてを繰り返し、そして最後のウマ娘が登場すると、これまでと比べ物にならないほど観客から歓声があがった。

「な、なんかすごい人気のウマ娘がいるッスね……」

 観客の声にびっくりしてしまったオーサムラフインは、驚きの声を上げる。

 その沸き立たさせている件のウマ娘の方を一斉に見やる。

 

「……なんだ、あいつはあ……。やべえなあ、デキが違いすぎらあ……」

 そう苦虫を噛み潰したような声を漏らす、バニータルーブル。いつもの彼女らしからぬテンションだ。

 

 触覚のように前髪の一部が跳ね上がっている栗毛色の長髪で、カチューシャがアクセントの威風堂々たる佇まいを放つウマ娘が、そこに居た。

 

 その姿を視線で捉えると、バニータルーブルは思わず冷や汗をかき、握りこぶしを作って力を入れてしまう。

 この距離からでも伝わってくるあの圧倒的なオーラ……間違いない、強者の放つプレッシャーだ。

「――ッ! おい、長末!! もしかして奴はあ!?」

 何かに気がついたように、長末トレーナーの方を振り向いて確かめる。

「……はい、あのウマ娘はミホノブルボンさん。6戦6勝、現世代最強とも称され、皐月賞とダービーを勝った無敗のクラシック二冠ウマ娘です……」

 淡々とそう説明を挟むが、次々におとぎ話のような信じられない話が飛び出してくる。

 しかし、それはすべて周知の事実であった。

「わぁ~、めちゃくちゃすごいねぇ~漫画みたい~」

 呑気な感嘆を漏らすアントレッドマーチだが、現実味がないのは無理もない。

 それほど偉業を成し遂げている存在なのだから。

「で、でも……今絶好調中のボーガン姉御なら、そんな人相手でもヘッチャラッスよね……?」

 そう聞かずにはいられなかった。

 今抱えている不安を払拭したく、オーサムラフインは恐る恐るバニータルーブルと長末トレーナーの顔を見る。

『…………』

 しかし二人は難しい顔をするだけで、それに明確な返答はなかった。

 その漂う緊張感に、しばらく無言が流れる……。

 

 そしてバニータルーブルがこの静寂を破って口を開く。

「……長末。ボーガンには、奴のことは伝えているのか?」

 いつになく真剣な面持ちで、正面――ミホノブルボンに視線を向けながら長末トレーナーに確認する。

「……いえ、自分の走りに集中して欲しいと思いましたので、あえて伝えてはいません。いつも通りの走りができればよいですが……」

 余計な情報を与えてあのような化け物を意識しても良いことはないと判断し、その情報をキョウエイボーガンにはあえて伏せていた。

 

 長末トレーナーとて、この京都新聞杯にあのミホノブルボンが出走してくるのは読めた。だがそのまま菊花賞まで大人しくしてくれないかと、僅かな期待をかけた。

 そんな些細な望みも打ち砕かれた。

 

 まだ相手にするには早いかもしれない。

 しかしレースでは否が応でもあれと向き合うことになるだろう。

 同じ逃げ脚質のウマ娘として――。

 

 今回は多少控えてしまっても致し方ない。

 無事に乗り切ってくれることを、長末トレーナーは祈るようにキョウエイボーガンの姿を遠くから、固唾を呑んで見守っていた。

 

 ◇◆◇

 

 スタンド場の熱気とは裏腹に、ウマ娘たちが出走を待つレース場では、まるで冬空のような何か凍てついた空気が流れ込んでいた。

 

 ――それはある存在から解き放たれている。

 

 他を寄せ付けない圧倒的な威圧感……これが絶対王者、無敗の二冠ウマ娘の風格。

 瞳の奥に込められた気迫が違う。

 目を合わせただけで威圧され、たじろいでしまいそうだ。

 

 坂路の申し子? サイボーグ? そんな生易しいものではない。

 あれは――悪魔だ!

 この場にいるすべてのウマ娘に絶望と恐怖を与え、圧倒的な力で踏みにじる畏怖の象徴――まさに悪魔がターフに降臨していた。

 

 誰しもが無言でゲートに入っていく、8枠10番(ミホノブルボン)の方を見てしまわないように、顔をうつむきながら……。

 

 ゲートで出走を待つ最中、ある者は死刑台に連れて行かれるのを待つような感覚を覚え、ある者はこの場から逃げ出したいとすら感じ始めてしまう。

 

 それほどたった一人の存在によって、この場の全体が飲み込まれていた。

 

 そしてキョウエイボーガンもまたその影響をモロに受けていた……。

(……どうしよう、さっきから震えが止まらない……)

 ターフに立ってから、どうも自分の調子がおかしい。

 緊張によるものや、武者震いともまた違う。

 身体が、生存本能が、何を感じ取り訴えかけていた。

(ダメだ……集中しないと……)

 もうゲートインは始まっている。

 最後のウマ娘がゲートに入ったら間もなくレースが始まってしまう。

 キョウエイボーガンはスタート前、入れ込みに近い形で精彩を欠くこととなってしまった。

 

 だからこそ反応が遅れてしまったのだろう。

 

 最後のウマ娘――ミホノブルボンがゲートインし、観客のわぁっと沸き立ったほんの数秒後、ゲートが解放されたことに。

 

(くっ……しまった……!)

 コンマ数秒の遅れ……しかしそれは致命傷となって襲いかかる。

 いつものようにコースの内へ行こうとしていたが、先にスタートしたウマ娘に前を塞がれる。

 序盤で抜け出せなかったのはかなりのロスだ。

 キョウエイボーガンはうまく先頭に行くことができず、三番手になってしまう。

 

 そのまま、あまり展開も変わることもなく、走り続ける。

 

 良くない位置だ。

 スタートしてから第2コーナー、第3コーナーと、二番手争いをずっと繰り広げていた。

 余計な消耗で、体力をじわじわと削られていくのをキョウエイボーガンは体感する。

(……早く前に行かないと……)

 焦るキョウエイボーガン。

 思った以上に坂道が厳しい。

 

 消耗したスタミナを振り絞りつつ、位置争いを交わしながら、脚を回転させ、なんとか二番手にまで持ち返した。

 後はなんとしても先頭にでなければ……。

 

 だがそれまでだ――。

 

 更に前に行きたい、いつものように先頭に行かなければ……。

 そう何度も強く思っても、まるで見えない壁に阻まれているかのように、先頭との差が一向に縮まらない。

 

 他の追従を一切受け付けない、延々と続く2バ身の壁――。

 

 届きそうで届かない。異次元なほどまでに突き放されているなら、まだあきらめも付く。

 だが、常に一定の距離から動かないのだ。

 

 ――見よ、これがミホノブルボンの走りだ。

 

 上り坂だろうと下り坂だろうとコーナーだろうと直線だろうと、リズムは乱れない、ペースは崩れない。

 一部の隙きもない、無慈悲なまでの強靭な走りが、そこはあった。

 

 

 このレースの結果はすでに最初から見えていた。

 誰かが唄う、『菊近し、淀の坂越え、一人旅』そう称されるほどの、ミホノブルボンの圧勝だった。

 

 そしてキョウエイボーガンは、第3コーナー800mを通過したあたりで失速し、最後尾まで後退し、そのまま沈んでいった。

 結果は、着外。10人中9着という大敗を喫してしまった……。

 

 ◇◆◇

 

 観客席。ボルテージはマックスに達していた。

 

 割れんばかりの歓声が、場内に響き渡る。

 興奮が冷めやらない、熱が渦を巻いていく。

『――これなら菊花賞も確実だな』

『――菊花賞が楽しみだ』

 そんな観客たちの声が、聞こえてくる。

 

 そう、誰もが熱狂した。

 そう、誰もが渇望した。

 この強い走りを見せたミホノブルボンに、”皇帝”シンボリルドルフ以来の、無敗の三冠ウマ娘の誕生を――。

 

 一方、同じ観客席にいた周囲の賑わいとは真逆に、長末トレーナーのチーム一行は、水を打ったように静まり返っていた。

 そんな中、重い口を開いたのは長末トレーナーだった。

「……私はボーガンさんを迎えにいってみようと思います。皆さんはどうされますか……?」

 一緒についていきますか、そう訪ねてくる。

 

 三人のウマ娘たちは、同時に無言で首を縦に振った。

 今考えていることは皆、同じである。

 あんな負け方をしてしまったキョウエイボーガンの身が心配だったのだ。

 

 キョウエイボーガンを迎えに、全員で地下バ道へ向かう……。

 

「ボーガンさん!」

 珍しく余裕のない声で、長末トレーナーが呼び止める。

 ちょうど入れ違いにならず、キョウエイボーガンが下を俯いて地下バ道をトボトボと歩いているところを見つけたのだ。

 

 名前を呼ばれ、キョウエイボーガンは足を止める。しかし反応を一切見せることはなかった。

 無理もない。あのようなレース内容だ。

 このところ調子を上げて、勝ち星を上げていたのだから尚の事、ショックが大きいのだろう。

 

 キョウエイボーガンを心配し、一斉に長末トレーナーたちが彼女の元へ駆け寄る。

 しかし彼女になんと声をかけていいか、皆ためらってしまう。

 気まずい沈黙が流れた……。

「……あいつは……菊花賞に出ますか?」

 そんな中、ぼそりとキョウエイボーガンが呟く。

 

 あいつ――それは当然、先ほど悪夢を見させられたミホノブルボンのことだろう。

「え、ええ……必ずタイトルを獲るため、出走してくるでしょう。どうしますか……? 無理に菊花賞を目指さず、今から回避されても……」

 GⅠなら他にまだまだある。無理に菊花賞にこだわる必要はない。

 まずはキョウエイボーガンのメンタルケアを考え、あの悪魔と対峙させないことを優先した提案をする。

「……冗談じゃない……」

 吐き捨てるようにキョウエイボーガンは言った。

「――え?」

「確かに今日は負けた……悔しいけど、ぐうの音も出ないほど完敗だった……」

 右手を前にかざす。未だに手の震えが止まらない。

「けど……次こそは……」

 気持ちで負かされた。何もできず、叩き伏せられた。

 このまま完璧に打ち負かされたまま終わってよいものか。

 否――断じて否である。

「……負けない、負けたくない……っ!」

 手の震えに負けないよう、力いっぱい握りこぶしを作る。

 恐怖に屈するな、そうキョウエイボーガンは心の中で叫ぶ。

 

 今は食いしばって前を見るときだ。

 

 静かに闘志を燃やしていた。

 次こそは、『ミホノブルボンに先頭は譲らない』と――。

 

 

 運命の歯車は今、回り始める。

 それは神の気まぐれか、運命の悪戯か。キョウエイボーガンの命運を大きく左右する……。




ミホノブルボンのキャラの扱いと、一緒に出走したいたライスシャワーにまったく触れていない点については、お詫び申し上げます。

ちょっとはずかしい誤字を修正(2022/7/12)


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5話:定めの時

 11月8日――。

 この日、京都レース場には、これまで類を見ないほどの、大勢の人々が世紀の一戦をこの目で観ようと、押し寄せていた。

 

 賑わう人々の雑踏。

 高まる鼓動と期待。

 まだかまだかと、レースが始まるその瞬間を皆、心待ちにしている。

 

 この場に訪れた人々の待ち望む未来は等しく一点。

 のべ12万人以上の人々の夢と希望をのせ、無敗のクラシック三冠ウマ娘の誕生の瞬間を誰もが待ち望む。

 

 この日の菊花賞は――まさに祭典のようであった。

 

 人と人がすれ違うのも一苦労となるほどの人の波。

 秋空の冷たさもなんのその、異様に帯びた熱気で観客席は沸き立っていた。

 

 そんな中、キョウエイボーガンが所属する、長末トレーナーのチームの面々は、菊花賞に出走するキョウエイボーガンの姿を遠くから見届けていた。

 

 一団の様子は、周囲の喧騒と打って変わり、口数はほぼなく、どこか張り詰めたような空気が流れていた。

「……いよいよだな」

 長末トレーナーチームの古参、赤茶色の長髪のウマ娘――バニータルーブルは、誰に話しかけたわけでもなく、そっと沈黙を破る。

「そう……ですね……」

 それに反応したのは長末トレーナーだった。

 彼にしては珍しく、まるで心ここにあらず、あまりはっきりとしない受け答えであった。

「長末さんよお……お前さんから見てえ、ボーガンの仕上がりはどうだ? このレースいけそうかあ……?」

 いけるとは、つまり優勝できるかどうかであり、前回の大敗が尾を引いていないどうかということだ。

 

 前回の京都新聞杯での惨敗……それが何も影響が出ないはずもない。

 それほど後に引きずりかねないほどの、負け方をしてしまったのだから。

 

 それでもバニータルーブルは、あのいつもの言葉を、長末トレーナーの口から聞きたかった。聞いて安心したかった。

 彼ならこういう時、必ず自信たっぷりに『ノープロブレム』と、言ってくれるはずだった。

 

 しかし今回ばかりは、その言葉出てこなかった。

「やれるだけのことはやりました……。後はボーガンさんの力を信じるのみです……」

 口が滑っても『何も心配はない』とは言えなかった。

 とても言えるような代物ではなかった。

 

 大敗を喫した京都新聞杯から、菊花賞までのこの約一ヶ月間――。

 通常の何倍ものトレーニングに打ち込むキョウエイボーガンの姿には、鬼気迫るものがあった。

 

 打倒、ミホノブルボン……。

 その無謀とも思える挑戦に、キョウエイボーガンが長末トレーナーに頼み込み、特別に組まれたハードな特訓メニューが用意されていた。

 

 まずは長丁場を走り抜く体力を作るため、高地でのマラソン。

 坂に負けない強靭なトモをつくる下半身のウエイトトレーニング。

 そして一番入念に行ったのが、開始直後から一気に先頭に駆け抜けるスタートダッシュの練習であった。

 

 何度も何度も、まさに血が滲むような努力と鍛錬を積み重ねていた。

 

 それは彼女が菊花賞出走ウマ娘事前インタビューの場で、『何があろうとも、ミホノブルボンに先頭を譲らない』、と大胆に言い放った宣言を、有言実行せしめんがためのものであった。

 

 トレーニングの打ち込み加減は、チームメイトから見ても、オーバーワーク気味であった。

 しかしそれでも、強敵との実力の差を埋めるには足りない。

 足りないからこそ、今できることの最善の限りを尽くす。

 

 チームメイトたちに何度か体調や怪我を心配したが、しかし彼女の気迫の前に、『トレーニングを控えろ』とは、強く言えることはできなかった。

 

 立ち止まることすら許されない。キョウエイボーガンの心の往くままに、任せるのみ。

 それほど菊花賞にかける彼女の想いの強さが伺えたのだ……。

「……トレーナーというのものは無力です。結局最後は、レースで走るウマ娘に、すべてを託すしかないのですから……」

 口惜しそうに、長末トレーナーは唇を噛みしめる。

 もっと彼女のためになにかしてあげられる事はなかったのだろうか、彼女をサポートできなかったのだろうか……そんな後悔の念を抱いていた。

 

 しかして時は残酷なものだ。待つことをけして許してくれない。

 無慈悲に時は刻まれていく。

 いくら後悔しようとも――その時は訪れる。

 

 もうすぐ菊花賞が始まる……。

 

 ふと、ひとしきり賑やかな、ファンファーレがレース場いっぱいに鳴り響いた。

 GⅠの専用のファンファーレが生演奏で奏でられている。

 その音に合わせ、観客たちは手拍子や合いの手を重ねる。

 そしてファンファーレの終わりとともに、大きな歓声が辺り一帯へと響き渡り、大地が呼応する。

 

 これからいよいよ始まる大レース。

 ひしめきあっていななくは、天下のウマ娘たち……。

 

 ファンファーレの音を皮切りに、次々とウマ娘たちがゲートに入っていく。

 そして最後のウマ娘がゲートに入る。

 観客たちの歓声がぴたりと止む。

 

 あとはゲートが開く時を待つばかり。

 

 淀の舞台は整った――。

 

 15時35分……運命の菊花賞が幕を開ける。

 

 ◇◆◇

 

『――ガコンッ』

 開幕の音は突如として、鳴らされる。

 ゲートが開かれると、総勢18名のウマ娘が、一斉にゲートから飛び出す。

 各ウマ娘、出遅れもほとんど見受けられず、熾烈な位置取り争いが、序盤から繰り広げられる。

 

 そこに7番、一番人気のミホノブルボンがさあ先頭に出るぞと、自慢の脚を見せつけようとした時――。

 外側から目にも留まらぬスピードでミホノブルボンを追い抜き、あっという間に交わしていく小さい影があった。

 

 12番……キョウエイボーガンだ――!

 

 狙いすましていたこの瞬間。 

 何度も身体に叩き込んで掴んだこのタイミング。身体が自然と動く。

 すべてこの時のために積み重ねてきたトレーニングの成果だった。

 

 ミホノブルボンを超えるためには何が必要不可欠か……。

 長末トレーナーと一緒に熟考した結果、『なんとしても序盤で先頭を取る』ということだった。

 京都新聞杯のように二番手に控えていては、ミホノブルボンの思うつぼになってしまう。

 

 ならば先頭を取るために、早い段階から仕掛ける必要がある。

 スタート直後の坂越え。ここではどんなウマ娘でも脚が少し鈍るというもの。

 当然それは、ミホノブルボンとて同じことだ。

 唯一の勝機はそこしかなかった。

 その一瞬の隙きをつくしかなかった――。

 

(そのまま……取る――!)

 先駆け、先手必勝――。

 一気に坂を駆け登ると、キョウエイボーガンは、ミホノブルボンを引き離して、見事きれいにハナに立つ。

 

 見事にはまったこの作戦。しかし例え成功したとしてもリスクは高かった。

 3000mの長距離レース……本来は温存しておくべき脚を、ここで使ってしまうからだ。

 ゴールまでスタミナが持つ保証は無きに等しい。

 

 しかし代償なしに得られるものなどはない。

 先頭を取ることだけに執着して、ミホノブルボンの邪魔をしてやろうなどというつもりは毛頭ない。

 すべてはこの舞台で勝つため、あのときの雪辱を晴らすために、自滅覚悟と嗤われても構わない、一世一代の大博打にかけるしかキョウエイボーガンには勝つ術はなかった。

 

 そして賭けには勝った――。

 まさに宣言した通り、京都新聞杯ではただの一度も叶わなかった先頭を、キョウエイボーガンが奪ってみせた。

 

 後はこの状態をどこまで維持できるか……。

 行けるところまで行こう、全力で足掻いてみせよう。

 足を蹴って力強く踏み出し、ミホノブルボンとのリードを2バ身、3バ身と広げる。

 

 

 序盤の勢いのまま、ミホノブルボンを抜き去ったキョウエイボーガンが、後続を引き離して逃げていく。

 そしてそのまま一周目のスタンド前を先頭で通り過ぎようとしていた。

 

 快調に逃げるキョウエイボーガンは、一瞬振り返って、後方のミホノブルボンの様子を確認する。

 夢や幻などではない――今こうして、ミホノブルボンの前をちゃんと走っている。

 

 前回の京都新聞杯の時と、まったく逆の立場……。

 

 今度は譲らない――。

 今度は退かない――。

 

 無敗の二冠ウマ娘がなんだ、クラシック三冠がなんだ。

 ターフの上では、そんな名誉も肩書も、もはや関係がない。

 

 己が強さを証明するには、ただその走りによってのみ証明してみせるのみ。

 

 もっとも強いウマ娘が勝つといわれているこの菊花賞……。

 ならば、その強者になってみせる――そうキョウエイボーガンは息巻き、2バ身の差を、必死に保ち続けていた。

 

 

 この怒涛のレース展開に、ミホノブルボンの勇姿を見に来ていた観客たちの間では、どよめき立っていた。

 

 人々が思い描いていた、今日という栄光の日の物語(シナリオ)とは、食い違っている。

 なぜ今先頭に立っているのが、ミホノブルボンではないのか――。

 

 動揺が広がる。

 

 だがしかし、案ずることはない。

 なにせこの長丁場だ。今はあの12番が先頭だとしても、どうせ長くは持つまい……。

 むしろミホノブルボンは今の位置でいい。

 あのような破滅的な逃げに付き合わず、相手が自滅するのを待てばいい。

 

 観客たちは、先頭を譲ってもなお、ミホノブルボンの強さを――三冠の夢を疑っていなかった。

 

 確かにここで控えることが、ミホノブルボンとしては正解だったのかもしれない。

 だがこの時、ミホノブルボンの中で何か異変が起きていた……。

 

 かつてこれまで1バ身より大きくリードされたことのなかったミホノブルボン。

 2バ身という、対面したことのない煩わしいこの差……。

 

 そして付いてこれるなら付いてみろ――抜けるものなら追い抜いてみろ。

 まるでそう語っているかのように、前を走る12番の後ろ姿に、ミホノブルボンの内に眠る、競走ウマ娘としての血が騒ぎ出したのだ。

 

 目の前に現れた挑戦者を迎え撃つのが絶対王者の努め……ミホノブルボンは動き出した。

 

 

 ゾクリ――。

 

 ふいにキョウエイボーガンは、走りながら、背筋が寒くなる感覚を覚える。

 

 それは突然、訪れた。

 常に一定のリズムだった後方の駆け足が、急にピッチが短くなりだした。

 

 迫りくるプレッシャー。

 奴だ――ミホノブルボンが仕掛けてきた。

 即座にそう判断する。

 

 ここで追い抜かれるものなら、京都新聞杯の二の舞だ。

 そうはなるまいと意地を見せ、ミホノブルボンに追いつかれないよう、負けじと速度を上げる。

 

 さらなる負担が身体に押し寄せる。

 まるで全身がバラバラになりそうだ……。

 息がどんどん上がっていく。

 キョウエイボーガンは、走っている足の感覚すらおぼろげになってくる。

 

 辛い、苦しい……。

 後どれだけ走れば終りが来るのだろうか。

 

 もう後ろは振り返れない。振り返る余裕すらない。

 少しでも揺らげば、プツリと切れてしまいそうな緊張の糸。

 けれどその中にあって、キョウエイボーガンは不思議と、充実感に満たされていた。

 

 まるで歯が立たなかった最強の敵と、今こうして対等に渡り合えている。

 前回はまったく相手にもされなかったあのミホノブルボンと、このGⅠの舞台で、競り合っている。

 自分は相手にとっては不足はあるだろうが、敵として認識されていることだけで、この上ない誉れであった。

 

 魂と魂の削り合い。

 一歩でも気を緩めることができない。

 キョウエイボーガンは果敢に前を逃げてみせ、今までにない全力以上の力を発揮していた。

 

 

 二人が火花を散らしながらハイペースで逃げ続け、先頭から最後尾まで縦長の展開のまま向こう正面を過ぎていった。

 

 そしてスタート地点から一周し、二周目の第3コーナーに入り、二度目の上り坂を迎える。

 

 一度は駆け抜けることができたこの坂道、今は足取りがとても重く感じた。

 やはり序盤、飛ばした反動が高くついている。

 そして前を往き、後ろから迫りくる気迫にも逃げ、息をつく暇もなく走り続けた結果……確実にじわじわとキョウエイボーガンのスタミナが奪われていたのだ。

 

 それは起こるべくして起きてしまった……。

 第3コーナーを上り詰め、そのまま坂を下り始めたところで、今度はキョウエイボーガンに異変が起こる。

 

(……か――、はぁ……っ)

 目の前が真っ白になる。

 息が続かない。脚が回らない。

 

 その身に訪れたものは――限界。

 

 スタミナの限界、体力の限界、気力の限界……すべてを出した、出し尽くし終えた。

 

 3000mという持久戦……序盤から負担をかけていたキョウエイボーガンの体力は、とうとう枯れ果てててしまった。

 

 まだ走る気持ちは失っていない……まだ勝ちを諦めていない。

 が――例え、どんなに気持ちで負けていなくとも、肉体の限界は超えられなかった。

 

 どれほど足掻こうとも藻掻こうとも、気持ちが前を向いていようとも、身体が応えてくれない、力は入ってくれない。

 無情なる現実――この時、キョウエイボーガンの脚が鈍った。

 

 

 そこからは、またたく間の出来事であった。

 

 先に第4コーナーを行くのは、7番ミホノブルボン。

 そのミホノブルボンを強襲せんと後を追う先頭集団の中に、キョウエイボーガンの姿はなかった。

 

 

 ずるずると失速したキョウエイボーガンは、ミホノブルボンに抜かされた後、三番手四番手に居たウマ娘たちに次々と追い抜かされ、後退していた。

 

 あまりにもあっけない幕引き……。

 

 一時の見せた幻影――。

 雪辱はならず……栄光を掴むこと叶わず……。

 

(ここ……まで……か…………) 

 バ群の中に沈みゆく中、キョウエイボーガンは自分の完全なる敗退を悟った。

 自分の菊花賞は、ゴールする前にもう終わってしまったのだと、そう気付かされた。

 

 序盤、派手に逃げてみせて、会場を沸かせてみせた――。

 結果的にはそうなってしまったのかもしれない。

 けれど最初から勝負を捨てていたわけではない。

 自分の中にある最大の勝機を、可能性を選び取ったまでのこと……。

 

 それでも足らなかった。届かなかった――。

 

 このレースに己のすべてを賭けたといっても過言ではなかった。

 しかし想いだけでは、負けたくないという気持ちだけでは、どうにもならないものは必ず存在する。

 そのことを嫌というほど思い知らされた。

 

(……悔しいなぁ……)

 なぜだか視界がぼやけてくる。

 どこからか水滴がとめどなく溢れていく。

 

 いくら手の甲で拭っても、この水滴が一向に拭い取れない。

 

 キョウエイボーガンは、走りながら汗とともに、本人でも気が付かない内に、菊の舞台で涙を流していた……。

 

 ◇◆◇

 

 レースの決着はついた。掲示板に順位も表示され、それが真だと知ら示される。

 そこに勝者を称える歓声はなく、場内は大きなどよめきに包まれていた。

 

 ある者からは落胆の声が――。

 ある者からは大きなため息が――。

 ある者からは嘆きの悲鳴が――。

 ある者からは大きな罵声が――。

 

 菊花賞を制したのは、逃げるミホノブルボンをゴール手前で捉え、二番人気8番ライスシャワーだった。

 ライスシャワーはレコードを叩き出し、いかんなくその実力を持ってして、ミホノブルボンを打ち破ってみせた。

 

 そして人々がミホノブルボンに乗せた、無敗の三冠ウマ娘の夢は潰えしまったのだ。

 

 ゴール直前までは割れんばかりの歓声が上がっていたのにも関わらず、栄誉ある勝者への祝福の声が、この場では一切上がらなかった。

 

 観客席でキョウエイボーガンの勇姿を見届けていたバニータルーブルは、この流れている空気の異様性に内心苛ついていた。

「……ちっ、レコード出して勝ったってえいうのに、拍手一つも起きやしねえ……。このべらぼうどもめえ……」

 確かにラストスパート、ミホノブルボンの脚が鈍った。そのせいでライスシャワーに差された。

 キョウエイボーガンとの先頭争いでミホノブルボンが消耗させられていたのは、明白だった。

 

 しかし、だからどうしたというのだ。

 三冠に手が届くほど強力な相手に、マークがつくのは必然。

 そういった障害すべてを跳ね除けた者が最終的に勝つ……レースとはそういう世界なのだ。

 

 未だに結果を受け止めきれていない観客たちを、バニータルーブルは冷やな目線を送る。

「おい長末……いつまでショック受けていやがるんでえ」

 他の観客たちとは内容の異なる事で意気消沈している長末トレーナーを、肩肘を作ってつんつんと突く。

 レースが終わった後、スタンドの手すりにもたれかかり、長末トレーナーはうなだれていた。

「はい……。すみません…………」

 顔を伏せながら、気のない返事を返してくる。

 

 彼にとって、見守ることがこれほど苦痛だと思ったことはなかった。

 先頭から一転、最後尾までずるずる失速し、16着でゴールしたキョウエイボーガンを、途中から見ていられなかった。

 

 もっとうまい作戦があったのではなかったのか……。

 もっとトレーニングメニューを、対策を凝らすことができなかったのか……。

 

 そんな後悔の念に、さいなまれている長末トレーナーの姿に、バニータルーブルの怒りの沸点が下がった。

「しっかりしろ、長末! ボーガンは懸命に走ってみせたぞお、胸を張れえ!!」

 そう檄を飛ばし、情けなくなっているその背中を思いっきり引っ叩く。

 パチーンと爽快な音が響き渡る。 

 うなだれていた長末トレーナーは、「あいた!」と、衝撃で飛び跳ね起きる。

「……っ――! な、何をされるんですか、ルーブルさん……」

 相変わらず力の加減というものを知らない容赦のない平手に、背中を擦りながら非難を訴えかける。

「トレーナーなら、大舞台で奮闘した自分の担当のウマ娘を、誇りに思いなあ……」

 今度は優しく肩をぽんと叩く。

 そこで長末トレーナーは我に返り、トレーナーである自分がこんな情けない姿をウマ娘たちに見せていけないと、背筋を伸ばして、態勢を改めた。

 

 栄光は勝者一人にしか送られない。

 しかしだからといって他の敗者には何も称賛されないというわけではない。

 今はただ全力でターフを駆け抜けたウマ娘たちの勇姿を讃えよう。

「……お前らもいい加減、泣きやんだらどうでえ……」

「だ、だってッスよぉ……」

「ボーガンちゃんが~……」

 やれやれと隣を見ると、後輩二人――オーサムラフインとアントレッドマーチが二人してぼろぼろ泣いていた。

 

 固唾を呑んで果敢に前をゆくキョウエイボーガンの走りを見守っていた二人であったが、第4コーナーあたりで次々へと追い抜かれていく姿を見て、堪えられなくなり、ついには泣き出してしまっていた。

「たあく、しょうがねえなあ……」

 ポケットからハンカチを二つ取り出すと、二人に手渡す。

 二人はそれを受け取ると、すぐさま涙を拭いたり、鼻を噛んだりで、ベトベトにして汚す。

 

 同じく大きな舞台で大敗を味わったことのあるバニータルーブルは、キョウエイボーガンの今の気持ちが痛いほどわかる。

 そういえばターフを去る時、キョウエイボーガンは頭上を見上げなら歩いていたような気がする。

 

 ――負けて悔しいわけがない。

 その気持ちをバネにして走れるやつこそが、真に強くなれる。

 もう一人の後輩がこれからどう成長していくのか、バニータルーブルは密かに楽しみだった。

 

「ほれお前ら、ボーガンを迎えに行くぜえ……」

 とはいうものの……まだお互い顔を突き合わせるには早いのかもしれない。

 今は少し、互いの流れる雫が乾いてからにしよう。

 

 気を落としているチームの後輩と大の大人一人に活を入れながら、バニータルーブルたちは、激闘を終えたキョウエイボーガンを迎えに、地下バ道へゆっくりと向かうことにした。

 

 

 未だ波紋が渦巻く京都レース場……。

 

 記念すべき祭典は一転、悪夢へと変貌した。

 

 人は誰かに何かに自分の夢を重ねる――重ねすぎる。

 そこには膨大な塊、エネルギーが込められる。

 

 夢破れ、反動大きく、行き場の失ったエネルギーは怒りとなり……やがて悪意となる。

 そしてこの膨れ上がった悪意の矛先は、必ずどこかへと向けられてしまう……。

 

 世間を騒がす大きな荒波になる……そう嵐の予感を感じずにはいられなかった。




reonhaitoさん、誤字脱字報告ありがとうございます!(2022/8/12)


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6話:すれ違う回合 ~前編~

 興奮冷めやらぬ()()()から数日が経過した。

 未だその熱は、嵐となって世間に吹き荒れてた。

 

 波乱を呼んだ菊花賞……。

 その日は誰もが、史上5人目のクラシック三冠ウマ娘の誕生の瞬間を、迎えられると夢を見ていた。

 人は夢を見る……。

 人が見る夢と書いて、儚いという文字があるように、その結末はあまりにも虚しい――。

 

 2番人気4枠8番ライスシャワーが、最後の直線でミホノブルボンを交わし、ダービーから続く連続2着の雪辱を晴らして、菊の大輪を制してみせる。

 

 栄光の晴れ舞台。しかしそこに歓声や拍手はなく、ミホノブルボンの勝利する姿を見れなかったフラストレーションを発散するかのような、罵声や批判の声が上がっていた。

 

 その勢いは衰えることなく、ニュースやネット・SNSでは、大体的に『ミホノブルボン敗北』と取り上げ、あたかも勝利したライスシャワーを悪者扱いしていた。

 そのイメージは次から次へと拡散していき、実力は十二分なしでレコードを叩き出してミホノブルボンを破ったことから、『黒い刺客』『悪役』と、世間からブーイングを受けながらもその存在を定着させていった。

 

 そしてある時、風向きに変化が訪れた。

 

 最初のうちは、ミホノブルボンを直接下したライスシャワーに批判の矛先が向けられていたのだが、あるテレビ番組で評論家の語ったコメントが、一切の流れを変えてしまったのだ。

 

『――今回の菊花賞。蓋を開けてみればライスシャワーに有利な状況だった。元々彼女は距離が伸びるほどその実力が発揮しやすく、ダービーから着々と実力を伸ばし、菊花賞でその実力を遺憾なく発揮させた』

『では、ライスシャワーが三冠を阻止するのは目に見えていたと――?』

『いや、ライスシャワーだけならば、状況はどうなっていたかわからないね……』

『――と、言いますと?』

『……ミホノブルボンには明らかな不利があった。12番……キョウエイボーガンが勝ち目もないのに先頭に立って邪魔をした! あのくだらないウマ娘が逃げたばっかりに……』

 

 公衆の電波で吐き捨てるように語った評論家の過激なコメントは、またたく間に話題となった。

 

 それを面白がった人々のSNSやネットでは『くだらないウマ娘』といっている箇所の切り抜き動画がいくつも投稿され、それが再生数を稼ぎ、ついにはトレンドにも上がった。

 

 悪意から悪意へ伝染していく。

 

 やがてキョウエイボーガンは、『ミホノブルボンに逃げさせなかった』『勝ち目がないのに妨害した』等と、人々の間で面白半分に噂され、そしてファンやマスコミなどには三冠を邪魔したウマ娘と散々に非難され、吊し上げにされていた。

 その影響は、ウマ娘のレースにあまり興味がない人でも、「キョウエイボーガンというウマ娘が三冠の邪魔をした」という話が、一般層にまで浸透するほどだった。

 

 そしてこの波はとどまることを知らない。

 共に学園生活を送るトレセン学園に通うウマ娘たちの間でも、その話題が大いに盛り上がりを見せていた。

 

 同じ学徒間でも、あれだけの一大イベントのように取り上げられていたミホノブルボンの三冠を、心から応援していた者たちは数多くいただろう。

 そんな彼女らにとっては、キョウエイボーガンというのはまさに格好の叩く材料であった。

 

 まずはその者たちの憂さばらしからキョウエイボーガンの批判が始まり、そして日頃の話題作りや、流行に乗り遅れまいとした者たちが話を広げる。

 

 それはまるで伝染病のように蔓延していった。

 

 トレセン学園のそこら中で駆け巡り、菊花賞に関する騒動の話題がつきなかった。

 

 昼時――。

 ランチタイムのカフェテリアでは大勢のウマ娘達が食事を取り、和気あいあいと気の合う友人や仲間たちと会食を楽しんでいる。

 

 昼食時の会話のネタとしてうってつけといわんばかりに、やはりどこかしらからか、菊花賞の話に始まりキョウエイボーガンの例の話で盛り上がっている話し声が、ヒソヒソとあちこちから聞こえてくる。

 

 彼女らに明確な悪意があって噂話に興じていいるわけではない。

 大半は、ただ「昨日の動画配信見た?」とか、「あのドラマ見た?」とか、そういう自分たちの間で流行っているものを、盲目的に周りと合わせるため、追いかけているだけなのである。

 けれど中には、理由をつけて他者を堂々と批判できる快感に取り憑かれている者たちも多少なりともいた。

 

 一際大きな声で、三人グループのウマ娘たちが、談笑に勤しんでいる。

 その話題の中心は、はやり菊花賞の話で、「やっぱりブルボンの三冠見たかったなー」「なんか、ボーガンって子が勝ち目もないのに邪魔したんだってさー」「うっそマジー? ありえなくなーい」と野次っては、ケラケラと一斉に笑い合った。

 日頃のちょっとした鬱憤や散り積もったストレス発散……彼女らにとっては清涼剤のつもりだったのだろう。

 だが彼女は未だ知らない……。

 その無神経な話し声が、一人のウマ娘の神経をひどく逆撫でていることを――。

 

 その人物はピンとウマ耳を聞き立てると、明らかに不愉快そうに顔を歪めた。

 すでに血管が浮き上がり、目が充血し始めている。

 なぜだか周囲の気温がまるで何かが燃えているかのように上昇していくのを感じ取れる。

 たまたまその近くにいた者は、突然放たれた殺気に震え上がり、まるで災害から逃れるようにその場を後にしてしまう。

 それほど何かが煮えたぎっていた。

 

 しかしそんな不穏なオーラをおしゃべりに夢中になっていた彼女らには知る由もない。

 会話は弾み、さらにエキサイティングしていく。

「ほんとそのボーガンって子、空気読めって感じよねー」

「ちょっと先頭に立って、目立ちたかったんじゃないー?」

「なにそれ、マジウケるんだけどー」

 周囲に遠慮のない笑い声が一斉に上がる。

 その時だった――。

『――バキィッ!!』

 ものすごい炸裂音が辺り一帯に響き渡る。

 会話に花を咲かせていた三人グループに目掛けて何かが高速で飛びかかり、彼女らが肘やら手をついている木製のテーブルが、食事が盛られている食器やコップ等もろとも真っ二つに粉砕された音だった。

 

 あまりにも当然のことでテーブルに座っていた彼女らは、さっきまでと変わらぬ姿勢のまま、唖然としていた。

 それは何者かが、空中に舞い上がり――そのまま落下しながら踵落としをテーブルに食らわせた結果であった。

「……おうお前ら、さっきから何やら随分と楽しそうじゃあねえかあ……」

 さっきまでテーブルだった物を足蹴にしながら、テーブルを無残な姿に変えた渦中の人物が、そのテーブルに座っていた彼女らに向けて話しかけてくる。

 その雰囲気・表情はどう見ても心中穏やかではなく、触れようものなら噛みちぎられそうなぐらいの獰猛な目つきで彼女らを凝視――つまるところガンつけていた。

「――うちのボーガンの何がそんなに面白(おもしれ)えのか……もういっぺん言ってみなあ、おい……?」

 瞳と同じ真っ赤な長い髪を炎のように揺らめかせながら、拳をポキポキと鳴らし、強烈な殺意を放ちながらそう威嚇する。

 

 この乱入者の正体は……小柄な体躯で前髪の一部にメッシュが入った腰まで長く伸ばした赤い髪のウマ娘――バニータルーブルであった。

 

 たまたまその場に居合わせたバニータルーブルであったが、彼女の耳ざといウマ耳は、仲間の悪口を聞くや否や、沸点の低い彼女はすぐに堪忍袋の緒が切れ、怒りを爆発させたのだった。

 

 バニータルーブルの迫力に、三人グループのウマ娘たちは、まるで山奥で獰猛な獣に遭遇したかのような恐怖に包まれる。

 

 そこでふと思い出す――トレセン学園の生徒たちの間でまつわる噂を……。

 絶対に目を合わせていけない、けして関わってはいけない、生徒会が手を焼いているほど気性の激しい危険人物たちの存在がいることを。

 そのうちの一人、あの『赤い狂犬』が今、目の前に現れたとことを――。

 

「「し、失礼しましたーっ!!」」

 留まればここでやられる――。

 バニータルーブルという悪鬼羅刹の前に恐れをなし、己の身の安全を優先し、先ほどまではあれほど楽しそうに談笑に浸っていた一団は、顔を青ざめながら、我先にと一目散に逃げ出していった。

「ちっ……このすっとこどっこいどもが……」

 獲物がいなくなったので次の標的を定める。

 まだ腹の虫が収まらないといったバニータルーブルは、低い唸り声を上げながら、今度は遠巻きに今の騒動を見ていた学生のウマ娘たちに向かって吠える。

「おうおう何見てんやがんだあ、このでやんでえ、べらぼうどもめっ! こちとら見世物じゃあねえぞおっっ!!」

 その怒りの雄叫びにカフェテリアに居た殆どの生徒たちが、叫び声を上げながら蜘蛛の子を散らす用に逃げ去っていく。

 楽しいランチタイムの一時が一転、まさしく阿鼻叫喚な光景となる。

 バニータルーブルの悪名、なお一層ここに轟くこととなる。

 

 怒りのやり場を失ったバニータルーブルは、汚らしい言葉を吐き散らしながら、その場で地団駄を踏み、すでに残骸となったテーブルに更に追い打ちをかけた。

 

 檻から解き放たれた猛獣の如く暴れ狂うバニータルーブル……下手に近づこうもの血を見るのは必須。もはや誰にも止められないかに思われた。

 しかしそんな恐ろしい獣と化した彼女のもとに、果敢にも近づいていく二つの姿があった。

「ちょちょちょ……なにやってんッスか、ルーブル姉御っ!」

「ルーブルちゃん、落ち着いて~!」

 バニータルーブルの後輩で、同じチームメンバーのオーサムラフインとアントレッドマーチである。

 彼女の扱いをいくらか心得ている二人は、猛犬を飼いならすように一斉に抑え込むと、どうどうと宥め始める。

 

「……ええい、くそうっ! これが落ち着いていられるかあってえもんだぜえ……」

 二人がかりとはいえ、この程度の拘束なら力の限りを尽くして暴れだせば、逃げ出すことは容易ではあった。

 しかし流石に可愛い後輩二人に乱暴な真似をすることは出来ず、大人しくいさめられるのを受け入れる。

「……気持ちはわかるッスけど、だからといってルーブル姉御が暴れても、余計にボーガン姉御の評判が悪くなるだけッスよ……」

「そうだよ~ルーブルちゃん。それに~物を壊すのは良くないよ~」

 そうまで諭されてしまっては、こちらが駄々をこねて後輩たちを困らせるわけにはいかない。

 ワナワナと力の限り握りしめ、震わせていた拳を解き、代わりにその両手で後輩二人の頭を片方づつポンポンと優しく叩く。

「……すまねえ、オレが悪かった。迷惑かけちまったなあ……」

 バニータルーブルの表情がいつもよく知る良き先輩の顔に戻っていることに、ほっと胸をなでおろす二人。

「……ちょっとだけルーブル姉御が怒ってくれてスッキリしたッス……。皆でああよってたかってボーガン姉御のことを悪くいうのは、ボクも許せないッス……」

 直接暴力を奮っていないが、あわや怪我人が出るかもしれなかった過激な行為はけして褒められたことではない。

 だが、オーサムラフインも自分たちのチームメンバーであり、大切な仲間のことを好き放題悪くいわれることには気分を害していたので、あまりバニータルーブルのことを強く責められなかった。

「マーチは~菊花賞で走ってた子みんな、すっごい頑張ってたと思うんだけどな~……」

 普段はのほほんとしていて、世間の波に疎そうなアントレッドマーチであったが、そんな彼女でもよくない雰囲気を察知できるほど、今の学園内に蔓延している空気はひどいものだった。

 出走した皆全てが真剣勝負で全力で走っている姿を間近で見ていたので、なぜそれを悪く言う人がいるのか、アントレッドマーチは理解に程遠かった。

 

 その疑問に答えるかのように、バニータルーブルはまるで己の身に起きたことのような口調で語りだす。

「……例えどんなレースだろうと、コースの中に入ったのならそこは勝負の世界だあ。そしてレースには勝つか負けるしかねえ。だが誰も負けるためにレースに出るやつはなんかいねえさ。たった一人にしか得られねえ『勝利』を目指し、全員必死なもんだあ……」

 目を瞑り、過去を思い返す。

 栄光を掴んで達成感に満ちたこと……勝利を掴めず悔しさで胸を膨らませたことを。

 そしてどのレースでも、真剣に走っていないウマ娘など誰一人として居なかった。

 勝敗とは、互いに死力を尽くしあって生まれた結果でしかない。

 けれどそれは共に駆け抜けた者同士――勝負の世界に生きる競走ウマ娘にしか分かり合えない感情なのかもしれない。

「――だがレースの内容だけ見られ、外野からあーだこーだと、とやかく言われちまうことも、オレたち勝負の世界で生きる者(ウマ娘)にとっては、何かと付いて回るもんだあ」

 レースはウマ娘だけで走るものではない。

 二人三脚で共にウマ娘をサポートするトレーナーがいて、他にはレース場やライブ舞台の運営スタッフ、そして何よりレースを観に来る観客……。

 ウマ娘は観に来てくれた人々に夢を与え、その人々の夢を乗せて走る――興行としての側面も存在する。

「……まだレースに出たことがねえお前らには、わかんねえかもしれねえがあ、いつか大きなレースで走る時、どんな風が吹いていたとしても、自分を見失うんじゃあねえぞ……」

 人々の声は風向き次第では、声援にも罵声にもなる。

 特にGⅠのような大きな舞台では、大勢の夢を背負って走ることになる。

 レースを走るということは、そういうことを乗り越える必要もあるのだと、そう静かに語った。

「「…………」」

 先輩の言葉を押し黙って聞き入るオーサムラフインとアントレッドマーチ。

 その言葉には、酸いも甘いも味わったことがあるバニータルーブルの言葉には、凄みがあり説得力があった。

 未出走の二人が受け止めきるには、まだ重い言葉であった。

(……ボーガンの奴、気ぃ滅入ってなけりゃあいいけどなあ……)

 バニータルーブルは、この場に居ないキョウエイボーガンのことを気にかける。

 おそらく至るところで、さっきみたいな胸糞の悪い与太話で持ちきりだ。気分を害さないわけがない。

 菊花賞のレース後、長末トレーナーの提案で疲れをしっかりと取るため、数日の間しばらく休養しているが、ちゃんと復帰して元気な顔を出してくれるか、一抹の不安を覚えた。

 

 そんなもう一人の後輩の様子を内心心配をしていると、突如として何者かが駆け足でカフェテリアに入って、勢いよく立ち止まる。

「――この騒ぎは一体何事だッ!!」

 凛としていてよく通る、そして威厳のある声が室内に響き渡る。

 スラリと手足が長く、赤のアイシャドウがよく映える整った美しい顔立ちで、グレーの髪のボブカットヘアーのウマ娘が、そこに居た。

「……おおっと、副会長のお出ましだあ。おうお前ら……ここはさっさとずらかるぜえ!」

 そう言うや否や、さっきのやってきた人物に見つからないよう、我先にとスタコラサッサとカフェテリアから逃げ出す。

 

 あれほど大騒ぎをしてみせたのなら、当然、誰かが生徒会に通報し、生徒会の面々が出動してくるのは目に見えていた。

 バニータルーブルは個人的にも幾度となく生徒会に捕まったことがある前科持ちなので、面倒なことになる前に、この場から逃げるのが一番であった。

「――え? うわっ、逃げるの早すぎッス……」

「あ~待ってよ~、ルーブルちゃん~」

 可愛いといったはずの後輩二人を置いて、すでにカフェテリアを脱出していったバニータルーブルの後を慌てて追いかけていく、巻き込まれただけの哀れな後輩二人……。

 

 とりあえず騒ぎが収まるまで我らがチームの部室で身を潜めよう――そう三人は自分たちの部室へと足をすすめる。

 

 一旦はうまく逃げおおせたバニータルーブル一行であったが……捕まるのは時間の問題であった。

 

 バニータルーブルの問題行動は今に限ったことではなく、生徒会から要注意人物としてマークされている。

 風の噂で聞くところによると、なんでも一度捕まって地下牢に閉じ込められたとか……そんな話しもある。

 当然今回も、あれだけ人の目があるところで大立ち回りを演じてみせたのだ、いくらでも目撃証言がとれた。

 例えその場から逃げ出せたとしても、カフェテリアで暴れて器物を破損させた罪は消えるわけはなく、後々生徒会の面々が長末トレーナーのチームの部室に押し入り、バニータルーブルの身柄が拘束されたのは……言うまでもない。

 

 

 この事件は大勢の目に触れていた事もあってか、学園内ではちょっとした話題になった。

 

 それは今駆け巡っているキョウエイボーガンに関する話題に歯止めをきかすきっかけとなる。

 なぜならば……菊花賞について噂をすると、あの『赤い狂犬』に絡まれるという、よりインパクトのある噂に塗りつぶされたからだ。

 

 カフェテリアのテーブルを粉砕してみせたことでその印象は強烈に残り、次第にではあるがキョウエイボーガンへのバッシングは影を潜めていった。

 

 そして怪我の功名というべきか、バニータルーブルの言い分を聞いた生徒会は、原因となったセンシティブな話題をするのを学園内でしばらく禁止すると、お達しを発令した。

 これにより、キョウエイボーガンを批判するような声は大っぴらなところでは、ぴたりと話されなくなった。

 かくしてトレセン学園の空気は、何か後ろ暗い雰囲気は消えつつあり、以前のような元の和やかな風景に戻りつつあった……。

 

 ◇◆◇

 

(ん……? なんか今日はやたら空いているなぁ……)

 遅めの昼食を取りに、カフェテリアへとやってきたキョウエイボーガンは、いつもならこの時間でもトレセン学園に通う学生たちが溢れかえっているはずなのに、妙にがらんとしている異様な光景に戸惑いを覚える。

 

 ここ数日、菊花賞の疲れをとる名目で半ば強引に取らされた休日をそれなりに満喫していた。

 

 しかし授業やトレーニングも休みなので、すっかり自堕落な生活になってしまい、今日もダラダラと昼ごろまでグッスリだった。

 身支度を整え、ようやく本日の食事にありつこうとカフェテリアに寄ったのだ。

 

 暇を持て余していると、どうも楽しみが食事ぐらいになってしまう。

 和気あいあいと気の合う仲間や友達と食事を取れればもっと気が晴れるというのだが、このところ食事は、カウンターで注文した料理を受け取って、寮の自分の部屋に戻り、そこで摂ることが多かった。

 

 その理由についてはあえて語る必要もないだろう。

 キョウエイボーガン自身、今自分が世間どのようなことを言われているか、すでに聞き及んでいた。

 部屋にこもってテレビやネットを見ても、目につくのは菊花賞での、自分の走りについての否定的な意見ばかり……。

 これだけ騒がれていれば、嫌でも耳に入る。

 そしてそれを証明するように、キョウエイボーガンがカフェテリアに入った時、先ほどまで和気あいあいと賑やかだった周囲が、シーンと一瞬だけ静まり返る。

 そのわずかの間の後に、どこからかヒソヒソ話し声がそこら中で聞こえてくる。

 

 自分のよくない噂をされているのは、明白……そんな環境で整然と食事を取れるほど、キョウエイボーガンは剛胆ではなかったし、自分のクラスメイトやチームメンバーたちにまで被害が及ばないよう配慮して、自分の部屋で食事を摂るようになっていた。

 

 なにはともあれ――混雑していないのは幸いだ。

 早速、料理を取ろうとカウンターへ向かう。

 

 その道中、上から強い衝撃を受けたかのように真っ二つに割れた木製のテーブルと、それを取り巻くように『立入禁止』のテープが厳重にはられている区画に目が行く。

 気にならないほうがおかしいぐらい目立っているそれを目で追いながらゆっくりと歩いていると、ふと誰かに呼び止められた。

「ちょっとそこのお前――今よいか?」

 立ち止まって呼ばれたほうを振り向くと、少し緊張感が走る。

 

 呼び止めてきたその人物のことをキョウエイボーガンはよく知っていった。

 むしろトレセン学園に通うもので、彼女のことを知らない者はほぼいないだろう。それぐらいの有名人――生徒会副会長エアグルーヴその人だった。

 副会長に呼び止められ、特に悪いことをしたわけもないのに、なぜか心拍数が上がっていくのを感じる。

「――ここで暴れていた生徒がいるらしいのだが……何か心当たりはないか?」

 そう手短に質問される。

 口調はどこか厳しく近寄りがたい威厳を感じるが、不思議と高圧的な感じは受けなかった。

 自分には関係のないことだったので、内心安堵する。

「いえ……つい先程ここに来たばかりなので……」

 野次馬根性が少し芽生え、何かの揉め事だろうか、と気にかかる。

 よく価値観の違いなどで口論になっている生徒もたまに見かけることがあるが、食事を摂る空間で何がどうなったらあのような惨事になるのか、キョウエイボーガンには検討もつかなかった。

「そうか、邪魔をしたな。もし何か気づいたことがあれば、生徒会まで報告してくれ」

 もう要件はすんだとばかりに副会長はキョウエイボーガンから背を向け、他の辺り一帯に居る生徒を捕まえては、同じようなことを聞き込み調査していった。

 

 気になるといえば気になるが、あれこれ詮索しても謎は謎のままである。

 ここでいつまでものんびりしていると昼食の時間が終わってしまう。

 当初の目的を果たすべく、料理を注文しにカウンターへ向かうことにした。

 

 

 トレセン学園が誇るカフェテリアのランチメニューの種類は実に豊富だ。

 全国各地からここトレセン学園にウマ娘が集まるため、古今東西の食事の好みに対応できるよう、思考や工夫が凝らされ、同じような食べ物でも味付けが違ったりと、細かい種類を連ねる。

 

 けれどもいくら種類が豊富といっても、こういくつもありすぎると……この中から一品選ぶのも一苦労になってくる。

 生徒はどれでも無料、しかもおかわり自由、もちろん味はどれも折り紙付きと――至れり尽くせりなため、値段などでの判断材料がなく、どれを食すか迷ってしまうことだろう。

 

 だが安心してほしい。

 そんな優柔不断な人におすすなのが……『日替わり定食』である。

 栄養バランスもいいし、毎日違う品目で飽きが一切こないスグレモノ――もっぱらキョウエイボーガンは、日替わり定食を愛食していた。

 

 本日の日替わり定食のメニューは、主菜はつなぎに人参を混ぜ、目玉焼きが上に乗ったデミグラスハンバーグ、副菜は人参グラッセとポテトサラダ、スープは生ハム入りの人参ポタージュ、主食はチーズ入りのフォッカチオとなっている。

 ウマ娘の好物である人参をふんだんに使ったメニュー。食器を渡されたときからすでに物凄く美味しそうな匂いが漂い、思わず唾液で口の中が潤ってくる。

 これは是非とも出来たてをご相伴にあずかりたい。

 

 その誘惑に勝てず、キョウエイボーガンはたまには部屋でなく外で食べるのも悪くないかなと、カフェテリアを練り歩きながら人気のないスペースをキョロキョロと探す。

 そんな前方不注意な状態で、柱を右方向に曲がろうとすると――。

「――キャッ……」

「――うわっと、と……」

 ちょうど誰かが反対方向から歩いてきていたようで、思わずぶつかりそうになったが、すんでのところでお互い立ち止まり、事なきを得る。

「す、すみません……前を見ていませんでした。大丈夫でしたか……?」

 完全にこちらの不注意だったので、何度も頭を下げて平謝りをするキョウエイボーガン。

 ぶつかりそうになった相手も、食器を持っており、同じように席を探していたようだった。

 もしぶつかっていたら……二人分の食事が大惨事になっていたことであろう。

「あ……ううん、ライスも考え事してたので、こっちこそごめんなさい……」

 相手――青い薔薇が付いた黒い帽子がアクセントの、右目が前髪で隠れていて、毛先が所々跳ねている長い黒髪の小柄のウマ娘も深々と頭を下げてくる。

 ちょうど同じような身長だったこともあるが、目線がふと合う。

「「あ――」」

 驚きの声がハミングする。

 お互い見知った顔だった。同級生ではあるがクラスは別で……それまではほとんど接点はなかった。

 

 二人は二度、レースで対面している。

 ミホノブルボンの強さを見せつけられた京都新聞杯と、全力を賭けて走った菊花賞で――。

 そして菊花賞の出来事で一躍時の人となった渦中の人物同士ということで、これまで直接やり取りをしていなくても、認知しあっていた。

「…………」

 視線が合ったまま、沈黙が流れる。

 キョウエイボーガンとライスシャワー……。

 お互い顔と名前を見知っていても、唐突に出会った今ここで何を会話するべきか、二人とも分からないでいた。

 そこまで気が知れた仲というわけでもないし、それに今騒がれている菊花賞のことが足枷となって、呑気に世間話などをできる雰囲気ではなかった。

 

「…………」

 視線を外すタイミングがわからず、沈黙したまま見つめ合う、謎の二人だけの世界が形成されつつあった。

 ただこうしていると、気まずさだけが胸いっぱいに広がり、そしてついにはこれに耐えられる限度がすぐに訪れる。

「……そ、それじゃあ、これで失礼――」

 この間に耐えかねたキョウエイボーガンは視線を外すと、一方的にこの場から立ち去ろうとした。

「待って……!」

 だが思いもよらず、ライスシャワーに呼び止められた。

 なにか彼女から、強い意志を感じる。

 キョウエイボーガンは立ち止まり、呼び止めたライスシャワーの方を見やる。

「あの……よければ、一緒に食事しませんか……」




今回は、連続投稿となります。
長くなったので、前編後編で切りました。


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7話:すれ違う回合 ~後編~

 料理を受け取るカウンターからだいぶ遠い端の、ひっそりと仄暗い場所にある少人数向けのテーブル席――。

 そこにキョウエイボーガンとライスシャワーは二人一緒に腰掛けていた。

 

 普段よりは空いているといっても、幾分かは楽しそう談笑している席も見受けられる。

 それとは対象に、二人の一室はまるで座禅でも組んでいるかのように、ただ静寂が流れており、ナイフやフォークが食器にあたる音や、食べ物を咀嚼する音ですらなんだか反響して響き渡るようであった。

(どうしてこうなったんだろ……)

 早くも少し後悔し始めていた。

 まさか食事に誘われるとは、キョウエイボーガンは露ほども思わなかった。

 

 相手がせっかく誘ってくれたこともあり、断る理由も特になかったのでそれを受けてしまった。

 それにあの期待込めた眼差しを見せられては、どうにも断り辛く、今こうして菊花賞の立役者と食事を一緒に摂ることとなっている。

 キョウエイボーガンはそれほどおしゃべりを楽しみながら食事をするタイプではないが、それにしたってこの静けさは異常だった。

「……そ、そういえばライスシャワーは和食なんだね。わ、和食が好きなのかな……?」

 この気まずい雰囲気をなんでもいいから解消したく、目の前にあった適当な話題を振ってみる。

「はい……。朝はパンですけど……」

 そう一言やりとりしだけで、会話は途切れた。

 再び静寂が訪れる……。

 

 実は何度かライスシャワーと会話を試みたが、今のようにまるで会話が続かないやり取りに終わっていた。

 急に『一緒に食事をしたい』と言ってきたのだから、何か面と向かって話したいことでもあったのかと気を使ったが、すべて徒労に終わる。

 今この瞬間、キョウエイボーガンは、レースの時でも言わなかったあの「もう無理ぃ~」を叫びたくなっていた。

 

 もうはこうなっては致し方ない……。

 さっさと昼食をすませてこの場から去ろう――そう決めて、食べることに集中しようとしたところで、今度は逆にライスシャワーに話しかけられる。

「あの、ごめんなさい……。ライスのせいで、ボーガンさんまでひどいことを言われて……」

 ライスシャワーは目線を下げながら、か細い声でそう謝罪してきた。

 

 主語がないので何のことを謝っているのか分かりづらかったが、なんとなく彼女の言いたいことは察せた。

 おそらく世間からバッシングを受けているキョウエイボーガンを気遣ったのであろう。

「……そんなのライスシャワーのせいじゃないし、そうやって謝られる理由もないよ。まあ何か色々言われているけど……それほど思い悩んではないし……」

 それはただの方便ではなく、本心からそう思っていたことだ。

 ただ流石に『くだらないウマ娘』と、評論家に吐き捨てられたのをテレビで観た時は、怒りのあまりテレビの画面に向かって枕を投げつけてしまったが――。

「でもライスが勝ったから、こんなことに……」

「――そう、君は勝った。そしてあたしは負けた。ただそれだけのことだよ……」

 まるで他人事のように、感情の起伏のない声でライスシャワーに向けて語りかける。

 

 考える時間はいくらでもあった……すでに気持ちの整理もついている。

 やれ三冠の邪魔をしただの、やれ勝ち目がないのに先頭に立っただの、散々なひどい言われようだが……結局の所はレースに負け、試合にも負け、勝負にも負けたのだ。

 掲示板に載れるほど健闘できたのならまだ申し訳も立つ、しかし着外という無惨な結果だった。

 それが全てである――。

 

 だからどんなに罵られようと、唾を吐きかけられようとも、それを甘んじて受け止めることしか術はない。

 実力勝負の世界で生き、その実力を示すことができなかった、自分の不甲斐なさの結果なのだから――と。

「敗者に語る資格なし……だからなんと言われようとも、あたしは批判(それ)を受け止めることにしたよ」

 嫌なことを言われて傷つかないわけではない。批判を受けて心地いいなどと微塵にも感じない。

 ならばあの菊花賞をなかったことに――走らなければよかったと後悔するのか。

 否、断じて否――。自分が菊花賞を走った事実までは否定したくはない。

 負けたことに対する悔しさはあっても、菊花賞に挑んだことに一片の悔いはなかった。

 

 今は耐えるしかない。いつか実力をもってしてその汚名をそそぐ――レースにて結果を示すと、渦中の最中、キョウエイボーガンは一種の悟りに似た境地を開いていた。

「……ボーガンさんは凄いね……。それ比べてライスは……」

 ライスシャワーは羨望の眼差しでキョウエイボーガンを見ては、自分との落差にシュンとうなだれて気落ちしたように表情を暗くする。

 

 その自虐にも近い態度。そうまで自分を卑下するのには、何か理由があるのだろうか……キョウエイボーガンは少し気になった。

「……ライスシャワー、君だって自分に恥じない走りをしてきたんでしょ? でなければ菊花賞でみせた走りはできないはずだよ」

 自分の反省点を洗い出すために、菊花賞のレース動画を見返したことがある。

 そこでみたライスシャワーの走りは圧巻だった。

 周りに惑わされず一定のペースを保ち、ミホノブルボンを徹底マークすると、チャンスを逃さず最後の直線で、ミホノブルボンを寄せ付けず振り切ってみせた。

 

 共に走り抜けたからこそわかる。

 生半可な走りでは、あのミホノブルボンには届かない。『勝ちたい』という明確な強い意思がなければ不可能だ。

「……ライスはただ、ブルボンさんに追いつきたかっただけなんです」

 弱々しい声でライスシャワーはポツポツと語りだす。

「スプリングステークスで初めてブルボンさんと出会って……皐月賞でブルボンさんと走って、その強さに憧れて……ライスはブルボンさんにずっと追いつきたくて、やっとこの間、追いつくことが出来て……」

 その先をあまり口にしたくないのか、ライスシャワーは言葉をそこで一旦切る。

 

 キョウエイボーガンは聞かされて改めて思う。

 一度や二度ではない、このライスシャワーは何度もミホノブルボンという強敵に挑み、そして自分には果たせなかったこと――勝利してみせたその偉大さを。

 

 ミホノブルボンに勝ちたいという想いは、キョウエイボーガンの比ではないほど強かったと、その言葉の重さで推し量れた。

「……でも誰もライスが勝ったことを祝福してくれない、喜んでくれなかった……。それどころか『余計なことするな』みたいに言われて……」

 あの時のレース場の雰囲気は異常だった。

 本来であれば勝者に贈られる祝福の声や拍手といったものが一切なく、ため息あるいは罵声といった、どよめきばかりだったのをよく覚えている。

 

 ライスシャワーは心中を語ってくれる。

 初めて走って1着になった時は、色々な人から祝福されて嬉しかった。

 だからまた誰かに喜んで貰えるように一生懸命走り続けた。

 もしも大きな舞台で勝利できたら、きっと大勢から祝福の言葉をくれると思っていた。

 けれど祝福どころか、自分が勝ってしまったことで、みんなを不幸にしてしまった、と……。

「……こんなことになるなら、ライスが菊花賞、勝たなければよかった……」

 今にも泣き出しそうな声で、さも懺悔するようにそう吐露する。

 

 勝って走ったことを後悔しているライスシャワーと、負けて走ったことを悔やんでいないキョウエイボーガンとで……すべてが対極にあった。

 同じ目標を目指していた二人だが……決定的に違う何かが存在していた。

 

「…………」

 長い沈黙が続く。

 先ほどライスシャワーが勝者が勝たなければよかったなどと言ったことに対し、キョウエイボーガンはその言葉に少し反感を覚えていた。

 勝ったものがその掴んだ栄光を否定するのであれば、そのレースに挑んで負けた者たちは一体何のために存在したというのか、と。

 その想いを吐き出しかけたが、今の彼女を攻め立てることはとてもできなかった。

 同じく菊花賞で運命の歯車を狂わされた身として――。

 

 だから言って代わりに慰めてやるべきなのだろうか。

 同情心で優しい言葉を並び立てるだけなら容易かろう。だがきっと今のライスシャワーには届かない、響かない。

 だからこそかける言葉がなかなか見つからなかった。

 

 ただ一点、気がかりなことがあった。

 意をけしたようにキョウエイボーガンはライスシャワーに疑問を投げかける。

「……ならもう走りたくないのか? レースには出ないつもりか?」

 勝ったなければよかったということは、つまり勝つことを目指さないということ。

 それはつまり、競走ウマ娘としての本懐を放棄する――『引退』すると同意義である。

 

 その問いに、考えを整理していたのかしばらくの間があったものの、返答があった。

 たどたどしくライスシャワーは答える。

「まだわかりません……。けど、今度の有記念に出られるなら出るつもりです……」

 ファン投票によって選ばれた優駿たちが中山競馬場の芝2500mを駆け抜ける年末のグランプリ。

 GⅠのタイトルを制覇した百戦錬磨の強者達が集う、最大級のレースだ。

 人気、実力両方ともなければ出走することは叶わないが、菊花賞をとったライスシャワーならきっと選ばれるだろうと、キョウエイボーガンは率直で忌憚のない感想を述べる。

「でもライスなんかが選ばれていいのかな……もっと他の人のほうが……」

 自分が出走したせいで出たくても出れないウマ娘もいるかもしれない、また水を指して誰かを不幸にしてしまうかもしれないと……ライスシャワーはネガティブな思考を述べて不安を漏らす。

 

 今の彼女の心境を察するに、最初は純粋な気持ちで走り始めたが、今は周囲の影響で自分のせいで誰かに迷惑をかけてしまうと思い込んで、道をいくらか見失っているようにみえた。

 かつてのデビュー以降負け続けて不調におちいった時と似ているなと、キョウエイボーガンは思った。

 だからこそわかることがある。

 やはり答えは『自分の中にある』ということ……気持ちの問題は自力で整理して解決するしかない、と。

 なにか解決のきっかけがあれば、また別ではあるが――。

 

 下手に義理立てする間柄でもないが、目の前で思い悩んでいる者を、むざむざ捨て置くのも忍びない。

 しかし果たして今の自分に、そのきっかけを彼女に与えてあげられることができるのだろうか……とても自信がなかった。

 菊花賞で同じく批判を受けた境遇を持つという弱い繋がりだけで、彼女の心に響かせられることができるのか、と。

 

 少し考えるが、すでに答えは決まっていた。

 難しいな……そう結論が出てしまう。

「……ごちそうさま」

 と言うと、キョウエイボーガンは勢いよく席を立ち上がった。

 食器の中にある料理は半分も手をつけられていなかった。

「ライスシャワー、菊花賞……優勝おめでとう。それじゃまたいつかレースで……」

 ライスシャワーの方を柔らかい表情で見下ろしながら、そう語りかける。

 

 これが今言える自分の最大限の伝えられる言葉であった。

 

 敗者から勝者へ送れるのは……勝ったことへの称賛することしかない。

 本人は勝たなければよかったと否定的だが、たまたまミホノブルボンの三冠という記録がかかっていたその反動が今来ているだけであって、時が来ればライスシャワーは必ず評価されるはずだ。

 

 彼女に送った『おめでとう』という言葉はけして嫌味ではなく、勝者として誇りに思ってほしい、胸を張ってほしい、そういう想いを込めた言葉であった。

「ありがとうございます……。またです……」

 誰からも貰えなかった、望んでいたはずの祝福の声だったが、ライスシャワーは表情は依然冴えないままで、下をうつむくばかりだった。

 

 その姿を見届けてから、キョウエイボーガンはこの場を立ち去る。

 束の間の回合であった。

 去り際、やはり自分の言葉では響かないと感じた。

 

 すぐには咀嚼しきれないこともある。

 今は性急なのかもしれない。少し時間を必要なのかもしれない。

 もし暗い闇に沈み込む彼女の心を晴らせることできるのだとしたら、それは直接破った相手から、もしくはまた同じような状況に立たされた時、かつて心の迷子になって自分が手を差し伸べられたように、一歩前に踏み出せてくれる存在が現れれば変わるかもしれない。

 そんなことを思い馳せた……。 

 

 ただなんとなく彼女のことは大丈夫な気がする。

 あれだけのことがあってもまだレースには出走する意欲はあったのだ。

 この先、レースに出ていければ、またどこかで彼女と相まみえることもあるだろう。

 彼女の出した結論はその時、走りで聞けばいい。

 

 ライスシャワーが迷いを断ち切り、菊花賞のときのようなあの力強い走りを見せてくれる日を、楽しみにする。

 

 

 偶然が重なってできた合間の出来事。

 本当はここで出会うこともなかったかもしれない。

 ほんの運命の悪戯で、わずかばかりの触れ合いを行った二人――。

  

 しかしこの先、二人の運命は交錯することはなかった……。

 

 ◇◆◇

 

 午後の授業が一段落した時間。

 多くのウマ娘たちがトレーニング場などで、自分の夢に向かって練習に打ち込んでいる姿が見受けられる。

 

 キョウエイボーガンは数日ぶりにチームの部室へ顔を出していた。

 この数日ですっかり身体がなまってしまい、リハビリがてら少し体を動かそうと思ったからである。

「ボーガンさん! もうお身体はよろしいのですか?」

 部室に現れたキョウエイボーガンの姿をいち早く確認し、今日もシワひとつのないスーツに身を包んだ端整な顔立ちの男性――長末トレーナーがキョウエイボーガンの元へ急いで駆け寄ってくる。

「うん……。まぁそれにずっと休んでいたら、逆に身体がなまっちゃうからね」

 妙に過剰反応を見せて心配する長末トレーナーを安心させるために、その場でストレッチしてみせて、元気なところをアピールしてみせた。

「そ、そうですか……。まだご無理されなくても大丈夫ですので、休みたくなったらいつでも言ってくださいね」

 そんなアピールは伝わらず、いつも以上に丁寧に気遣ってくる長末トレーナー。

 その理由はただの大レースの後だからというわけだけではなく、おそらく今騒がれている()()()()を気を使っているのだと、容易に想像がついた。

「だから平気だってば……むしろ今は無性に身体を動かしたいくらいだよ」

 そう軽く冗談交じりに笑いながら、いつもと変わりないという様子で振る舞う。

 気を使われているのを、逆に気を使うのも大変だな、と内心キョウエイボーガンは苦笑する。

『…………』

 ふと長末トレーナーの後ろで、じっーとこちらの様子をうかがっている二つの影に気がついた。

「ん? どうしたのラフイン、マーチ? そんなところで……」

 いつも賑やかしい後輩二人が今日はやけに大人しくしているのが気にかかり、声をかける。

 この二人も少し様子が変なのはすぐわかった。

 しかしオーサムラフインはともかくとして、アントレッドマーチにまで気を使われているとは思わなかった。

 だからこそあえて、普段どおりに接して、自分に問題がないことを証明してみせる。

 

 それが伝わったのか、安堵のため息をつくと、二人はキョウエイボーガンの元へ一気に飛び込んできた。

「ボーガン姉御~!」

「ボーガンちゃん~!」

 二方向から熱い抱擁を受ける。

 後輩二人に抱きしめられるが、身長差もあり、キョウエイボーガンの顔は二人の胸にうずくまる形となり、うまく息ができなくなる。

 そして押し付けられる柔らかい感触に、自分より発育の良さが伺えて少しイラッとした。

「……いい加減にしなさいっ!」

 少しの間なるようにされていたが、あてつけのように押し付けてくる物体にうんざりしてきたので、力を込めて二人を自分から引き剥がした。

 それでも懲りずに、キョウエイボーガンに抱きつこうとしてきたので、ひらりと身をかわして後輩二人のハグを交わす。

 勢い余ったオーサムラフインとアントレッドマーチは、頭をぶつけ合い、後ろでひっくり返った。

「――ところでルーブル先輩は?」

 そういえばいつもかましいバニータルーブルの姿が部室に見当たらないことに気づく。

 あの二人と違って突然抱擁してくるような真似はしないだろうが、ずっと静かにしているのは想像がつかない。

 少し気になってそう訪ねてみる。

 すると、おでこを抑えながら、オーサムラフインがその疑問に答えた。

「ええ……っと。今、生徒会に捕まって、反省文を書かされているッスよ……」

「え――なにそれ……」

 何かやらかしたのだろうかあの先輩は……と、呆れてものが言えなかった。

 普段から素行がいいとはお世辞にも言えず、ケンカっ早いはよく知っているが、本当に何か問題を起こしたり、誰かに手を挙げているところは実は見たことがない。

 よほど気に食わない出来事でもあったのだろうか、バニータルーブルの様子が少し気になったが、生徒会に捕まっているのでは、しばらく解放されないだろうと、彼女のことは頭の隅に追いやった。

「あ、そうだ、トレーナー。相談があるんだけど……」

 色々あって忘れていたが、部室に顔を出したのにはもう一つ理由があったことを思い出す。

 長末トレーナーと今後のレースの方針について打ち合わせしたかったのだ。

「はい。なんでしょうか?」

「急な頼みで申し訳ないんだけど……あたし、すぐにでもレースに出たいんだ。次のレースの日程を決めたい」

 ライスシャワーの件で感化されたわけではないが、今のキョウエイボーガンは、貪欲にレースに飢えていた。

 菊花賞での汚名を晴らすには、とにかくレースに出て勝つしかない。

 そう考えているからだ。

「そう……ですね……」

 長末トレーナーは顎に手を当てて、慎重に考える。

 菊花賞の対策でハードトレーニングをかしてしまったので、今度はあまり無茶をさせたくない、そんな心情を表情から読み取れた。

「……再度重賞を狙うと言いたいところですが、今から近日のレースだと調整期間と距離適正を考えると狙うのは難しいかもしれませんね……。なので、ここは一度自信をつけるためにも、オープン戦に出てみませんか?」

 長末トレーナーが色々思案した結果、そう提案をしてくる。

 ここは下手な挑戦はせずに、まずは勝って勢いに乗せたい……そんな長末トレーナーの思惑が合った。

「うん、それでいいよ。どんなレースでも、あたしは全力で走るだけだから!」

 握りこぶしを作って、前に突き出す。

 重賞に挑戦したいという気持ちもある。けどそれを焦る必要はない。

 長末トレーナーの想いも全部受け止めて、一つずつ前進していけばいい。

 

 今はどんなレースでもよい、とにかく一刻も早くレースをして、1着を獲りたかった。

 どんなに周りからなじられようとも、ウマ娘はレースで走ってその結果で跳ね返すしか方法はない。勝つことでしか証明することができないのだから。

「わかりました。ではこのレースはいかがでしょうか――」

 

 二人が納得した上で、出走するレースを見定める。

 そうして次の出走を、約1ヶ月後の芝のマイル戦・ポートアイランドステークスと決めたキョウエイボーガンたち……

 目指すはもちろん1着のみだ。

 

 重賞をとったウマ娘が今更オープン戦に出走……それはけして屈辱ではなかった。

 何度挫けても心が折れなければ、またいつかGⅠにも出れる日がくるかもしれない。

 そのためにまた一つ一つ積み上げていこう――新しい一歩から始めていこう。

 

 キョウエイボーガンのゼロからの再始動が、始まるのであった……。




※スコープ様の自作フォントを使わせていただきました。
https://syosetu.org/font_maker/?mode=font_detail&font_id=140


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8話:天命尽きる

 この日、キョウエイボーガンはこれまで経験したことのないレースを駆けていた。

 

 芝1600m、阪神レース場――何度かこのコースは出走した経験はあった。

 しかしいずれのレースでも体感しえなかった初めての()()がこのレースでは、常にまとわりついていた。

 

 それはレースが始まった直後からだ。 

 彼女が何かアクションを起こそうすると、周囲のウマ娘が即座にそれに反応してみせて行動を潰しにかかり、インコースを取ろうとしようものなら、そうはさせまいとすぐさまコースを塞がれ、行く手を阻まれる。

 

 完全にマークされていた……。

 11番の外枠というスタート位置にも恵まれていないのもあったが、徹底的したマークに合い、思ったような走りをさせてもらえず、ここまで2番手に追いやられている状態であった。

 

 キョウエイボーガンの中で焦りが積もってゆく。

 早く先頭に立って自分のペースで駆け抜けたい……ずっとそう思っているが、行動に移せてもらえない。

 先頭を走る3番が断固として抜かせない、隙きあらば2番手を奪おうと8番が並びかけてちょっかいをかけてくる、やや後方に控えている4番と6番が虎視眈々と伺いこちらに重圧をかけてくる。

 

 気がつけば全方位から狙われていた……。

 

 12月に阪神レース場で開催されるオープン戦、ポートアイランドステークス。

 この時期になると重賞やGⅠを狙うような百戦錬磨の強者達は、ほとんどこういったオープン戦には出走してこない。

 代わりに出走するのは――何回か勝ち星は上げてはいるもののイマイチ成績が振るわない、重賞クラスでは手が届かなかった……いわゆる低迷している競走ウマ娘だ。

 世代もバラバラで、10戦20戦は当たり前のようにレース出走経験のあるベテランも多い。

 中にはGⅠに何度か出走したこともある歴戦のウマ娘もいた。

 

 栄光の道を辿り、華々しいトップスターとなれるようなウマ娘はほんの一握り……。

 キョウエイボーガンのように勇ましく栄光の舞台を夢を見、挑戦して破れた者など星の数ほど存在する。

 夢破れてもなおウマ娘たちは走る――走り続けるしかない。

 同じトゥインクル・シリーズではあるが、勝ったところで世間を賑わすことはなく、栄光とは程遠いこの世界(レース)……。

 されどここでしか活躍の場がない。走る場所がないのだ。

 

 だからといって、全てを捨てて夢を諦めて走っているようなウマ娘は皆無であった。

 誰しもいつまでもこんなところで燻っていたいわけではない。叶うのならば、栄光の舞台に上がってそこで活躍したい。

 だからこそ勝って、次へ――未来へと希望を繋げる。

 

 ここで負けたらもう後がない……そんな者だっているだろう。

 泥すすってでも生き延びる――這い上がると、GⅠのタイトルを持っているようなキラキラした主人公(トップスター)たちにとってはちっぽけと思われてしまうような些細な勝利を掴むことに皆、必死であった。

 

 ここはそういう場所(レース)なのだ。

 今駆け抜けているターフ上には、そんな勝利に飢えた魑魅魍魎たちがばっこしている。

 そしてキョウエイボーガンは、自分もその一部であると、否が応でも認識してしまう。

 

 ただその中でも自分はまだ恵まれているほうかもしれない、と思う。

 4回程度の敗北ならまだ取り返しがつく。

 一般的に現役で走れる期間を考えればまだこれから沢山レース出れるので、結果次第ではすぐにここから次のステージに行けるチャンスが――望みがまだあるからだ。

 

 そんな中、9戦5勝重賞2勝という実力を評価され、人生初めての1番人気に推された。

 

 そしてそれは肉食動物の檻の中に、草食動物が迷い込んだようなもの――。

 他の出走するウマ娘全員から、ゲートに入るその時まで、まるで敵を見るような目でずっと見られていた。

 

 喉がヒリついて暑い……されど冷や汗が止まらない。

 ギラギラとした気迫に気圧されてしまいそうになる。

 これが……追われる側の立場というものだろうか、慣れない感覚にキョウエイボーガンは戸惑いを覚えていた。

 

 思えばキョウエイボーガンはずっと誰かを追いかける側、常に挑戦する立場であった。

 9度目のレースで、初めて得る体験……。

 かつて自分が強敵と定めた相手たちも、こんな重圧にさらされていたのかと驚くことばかりである。

 そんな周囲からマークされている中でも、きちんと結果を出せるものこそが、真の強者足りうるものなのだろう。

 

 それがわかっているからこそ……今の四面楚歌で、自分の走り――先頭を取れていない状況に対して、更に焦りを覚えてしまう。

 

 

 すでに残り600mを切った。

 コースはゆったりした最終の第4コーナーに差し掛かる。

 このコーナーを曲がり終えた後の長い直線が勝負所――。

 

 しかしそれは誰もが簡単に思いつくことだろう。

 当然、そのタイミングで仕掛けようものなら、待ち構えていた周囲の者たちによって、好きにはさせまいと、動きを封じられてしまうのが予想できた。

 

 ならば――予想の上を往くしかない。

 まだスタミナは十分残っている、脚は溜めていた……キョウエイボーガンは先んじてスパートをかけて、一気に先頭へ踊り出る作戦へと打って出た。

 

 足に力を込め、勢いよく大地を蹴る。

 キョウエイボーガンは緩やかなコーナーをぐんぐんとスピードを上げて曲がっていく。

 

 先頭を往く3番は、まさかこんなところで仕掛けてくるとは想像だにしておらず、ピッチを上げて外から迫りくるキョウエイボーガンの対応に遅れを取る。

 慌てて3番が、抜かせまいとキョウエイボーガンの進路を塞ごうとするが、時すでに遅い。

 

 あっという間に3番を追い抜かし、ついにキョウエイボーガンは先頭の座を奪い取った。

 だがそう安々と安心する暇を与えてくれはしなかった。

 

 キョウエイボーガンの後方に付いていたウマ娘達が、キョウエイボーガンの呼応に合わせるかのように次々と一斉にスパートをかけてきたのだ。

 その姿はまさに獲物に群がる野生の肉食動物の如く。

 先ほどキョウエイボーガンがやっとの思いで奪取した先頭を奪おうと、迫りくる。

 

 最終コーナーを先頭で抜け、全力で逃げるキョウエイボーガン。

 まだ差は2バ身ぐらいは残っているが、一寸たりとも気が抜けない。

 残すところは最後の直線のみ――。

 

 キョウエイボーガンを逃がすまいと6番と10番が、物凄いスピードで、猛追してくる。

 セーフティーリードなどあったものではない。

 スパートを早めにかけた分、だんだん脚が鈍ってきて、じりじりと差を追い詰められていく。

 

 すでに限界は近い。しかしここが正念場だ。

 どこまで走ってもまだゴールに辿り着かない。この長い直線が永遠に感じる。

 勝ちたい……負けられないのは、こちらとて同じ――。

 

 命を燃やせ、魂を削れ、死力を尽くせ――キョウエイボーガンは全ての力を解放し、踏みしめる自分の足に渾身の力を込めて、大地を思いっきり蹴り上げた…………はずだった。

 

 だがしかし、その足取りは軽かった……。

 

 意思と反して、なぜか思ったように力がでない――脚が回らない。

 ここで力を振り絞らなければ負けてしまう……そうわかっているはずなのに、なぜか身体が応えてくれない、まだいけるはずだったのに息がまるで続かない。

 

 あと一踏ん張りが出せず、ゴール手前でとうとう6番に追い抜かされる。

 そして気がつけば、1着から1バ身以上の差をつけられて、キョウエイボーガンはゴールしていた。

 下手をすればクビの差をまくられて、10番にすら負けそうであった。

 

 再起を誓ったレース――ポートアイランドステークスの結果は、無念の2着に終わった。

 

 ◇◆◇

 

 あれは一体何だったのだろうか……。

 ポートアイランドステークスのレースの数日後、トレーニングに打ち込むキョウエイボーガンは、敗北したことへの悔しさよりも、あのレースでゴール手前で感じた、得体のしれない違和感のようなものに思い悩まされ、鍛錬に身が入っていなかった。

 

 あの後、長末トレーナーにもそのことを話し、すぐに病院へ行き検査を受けたが、診断結果は異常なしであった。

 なら菊花賞開けに色々世間から不当なバッシングを受けていたこともあり、精神的なものによる不調(スランプ)かと思ったが、どうも違う。

 

 問題なく走れる、普通に走れるのだ。

 ただ負けたくないという気持ちが強くあって、ここ一番での勝負どころで限界を超えた――底力を出すことが思ったように出来ないでいた。

 やはり精神面に起因しているのだろうか……自分の中にまだ足りない何かがあるとしか言いようがなかった。

 

 この原因を探るべく、キョウエイボーガンは前回のレースを思い返す。

 まさにアウェイといっても過言ではないほど周りから敵視されて最初は困惑したが、むしろ闘志が湧き上がる展開だっと思う。

 だからこそ最後で力負けたことが未だに信じられず、レース中のことを振り返っても、思い当たる節が見つからない。

 とても気持ちで負けていたとは、思えなかった。

 

 ただレース後の、ゴールした後の出来事が、今でも強烈に印象に残っている。

 

 1着でゴールした6番のウマ娘が、ウイナーズ・サークルにも行かず、ゴールしたその場で号泣していたのだ。

 たかがオープン戦での1勝……されど喉から手が出るほど渇望していた大切な1勝を、泣きじゃくりながら喜びを噛み締めていたのだ。

 

 その姿を思い返してキョウエイボーガンは、まだどこか自分は勝利に対して貪欲でなかったのかもしれない。

 彼女たちにあって自分になかったものは何かとすれば……それはハングリー精神なのかもしれない、そう思い至る。

 そしてレース中で感じたあの違和感は、自分の気持ちの弱さ――環境への甘えや、たかがオープン戦と、まだどこかで慢心していた結果の現れだと思うことにした。

 

 だから次こそは――自分の弱さを克服するためにも、全身全霊をかけてトレーニングに励まなくてはいけない。

 さっきからモヤモヤと考え事ばかりで身が入っていないのは、悪い傾向だ。

 キョウエイボーガンは自分の両手の手のひらでパチンと頬を炊いて気を引き締めると、悩み事のせいで集中しきれていなかったトレーニングに打ち込むこととした。

 

 今はただ目の前のレースに勝つことだけを考える。

 そしてそれに必要なのは、だらけきった身体を絞ること……徹底的に基礎体力から作り直すトレーニングこなし、追加で自主トレーニングも行った。

 無論、長末トレーナーに相談の上で、オーバーワークにならない範囲に留めるよう努めた。

 

 

 そうして迎えた、1ヶ月後の洛陽ステークス。

 京都レース場の芝1600m……。

 

 不思議と因縁を感じる。

 よりにもよって()()()と同じレース場――上等ではないか、再起するにはうってつけだと、そうキョウエイボーガンは胸を躍らせていた。

 

 気が入るのも無理はない。またしても1番人気での出走となったからだ。

 

 オープン戦だろうと、もうなりふり構わない。

 誰かが自分に期待をしてくれるのなら、その期待を裏切るわけにはいかない、キョウエイボーガンはそう決意を胸に秘めながら、今日まで勤しんだトレーニングを思い返す。

 

 緩んだ体と心構えを入れ替えるために、厳しい鍛錬を積み重ねてきた。

 何度も音を上げそうにもなったが、勝利を掴み取るための修行と割り切って、耐えてきた。

 今こそトレーニングの成果を見せる時――。

 

 そして疲れが残らないよう、前日はゆっくりと休んで体調を整えたので、準備に抜かりはない。

 コンディションは万全だった。

 

 そう――――レースの前までは……。

 

 前回のように周りからの圧力で遅れは取らない……そうスタート前からキョウエイボーガンは力んでいた。

 やはり今回も周囲から警戒されている。

 逃げの戦法と取るにおいて、位置取りが肝心な序盤に、横槍を入れられて先頭を取れず、苦しい展開になるのは避けたかった。

 いち早く駆け出し、スタートで差をつける……今回はそれが彼女の課題だった。

 

 しかし、それが焦りとなってミスを引き起こしてしまう。

 

 先頭を取ろうという気持ちが前に出すぎていた。

 ゲートが解放し終わる前に駆け出してしまい、ゲートに体をぶつけてしまう。

 幸いそこでぶつけた箇所は、レースを走るのに支障が出るほどではなかったが、痛みに襲われ、アクセルかけたはずの足にブレーキする形となる。

 

 先急いだ結果、逆に出遅れるという本末転倒な展開へとなってしまった。

 

 先頭争いに負け、出たなりで各ウマ娘が横広の状態のまま2番手の位置についたキョウエイボーガンは、一刻も早くこの遅れを取り戻さなければならない、このままでは前回のレースの二の舞になってしまう……そう気持ちだけが逸る。

 

 そして先頭集団はスタートの長い直線を抜けて、あの淀の坂がある第3コーナーを迎える。

 

 不運はその時、起きた――。

 

 この坂で先頭を取ろうと速度を上げ、坂道を駆け登るために左足に体重を思いっきり載せたその刹那…………激痛が電流となって体中を駆け巡ったのだ。

 

 それは誰の目から見ても不自然なほどの失速だった。

 加速するどころか、突然の痛みにキョウエイボーガンの脚が鈍り、みるみるうちに順位を落としていく。

 

 今ここで思えば、ここで競走中止して、レースをやめるべきであったのだろう。もしくは誰かが彼女を止めるべきだった。

 しかしまだ足が完全に動かないわけではない……痛みを堪えればまだ走れる、そうキョウエイボーガンは意地をみせ、痛みに耐えながらもレースをなんとか走りきってしまった。

 

 もはやレースの結果は最後までみるまでもない――。

 健闘むなしく、16人中15着と……散々ななものであった。

 

 

 地下バ道に入ってすぐ、壁にもたれながらキョウエイボーガンはその結果を噛み締めていた。

 

 もはや悔しいと思うことよりも、ずっと痛みを訴えかけてくる足の激痛に参っていた。

 本バ場から去るまではまだ無理してなんとか歩くことができたのが、レースが終わった途端、アドレナリン分泌で今までせき止められていた痛覚が正常に戻ったのか、もはや一人で歩けないほど、ひどい症状に襲われていた。

 

 その後、戻りが遅いキョウエイボーガンを心配して迎えに来た長末トレーナーの手を借りて、すぐさま病院へ直行となる。

 病院に運ばれる車の中、彼女はうわ言のように何度も謝罪を繰り返していた。

 

 怪我をしてしまったこと――レースで勝てなかったこと――皆の期待に答えられなかったことを……。

 そんな自責の念にかられている彼女を、長末トレーナーは車を運転しながら、そんなことはないと、優しい言葉で励まし続けた。

 

 ◇◆◇

 

 怪我を負って病院に向かってから数日後――キョウエイボーガンは左足首にギプスをはめ、身動き取れない状態で、ベッドの上で退屈を持て余していた。

 

 デビュー後の2ヶ月後に負った骨膜炎以来の入院生活……。

 あの時は1週間程度で退院できたが、今度はどうやら派手にやらかしてしまったようだ。

 

 診断の結果、足首の疲労骨折と靭帯損傷で、全治に1年以上はかかると告げられた。

 しばらく絶対安静で、数ヶ月以上は入院生活を余儀なくされることとなる。

 

 やはり菊花賞から無理がたたったのかもしれない。

 この約半年間、毎月のようにレースに出走し、その合間にレースに勝つためのトレーニングを行い、時には厳しいトレーニングをしていた時もあった。

 

 一緒に診断結果を聞いていた長末トレーナーから、キョウエイボーガンに負担をかけたこと、トレーナーとして管理が不足していたことを深々と謝罪されたが、自ら望んでそれをやった事でもあるので自分の責任でもあると、彼女は逆に長末トレーナーに謝った。

 

 とにかく今は体をゆっくりと休め、怪我を治すことが先決となる。

 そして治ったら早くレースに復帰したい、再起を誓ったのに負けたままでは終われないと、キョウエイボーガンの闘志はまだこの時は失われていなかった。

 

 ここからレースへ復帰まで、しばし長い月日を隔てることとなる……。

 

 ***

 

 入院して数週間が経った――。

 

 することもなく、ずっとベッドの上でゴロゴロとしているのも退屈だったので、現状できる範囲で可能なトレーニング……腕の振りを早くするためにダンベルをつかったアームカールやペンチプレスしたり、腹筋を行い、主に上半身の鍛えるのが日課になっていた。

 とはいえ、やりすぎるのも怪我に響きそうなので、程々に控えている。

 ダンベルなどの器具は、お見舞いに来てくれたチームメンバー――バニータルーブル達からの差し入れであった。

 

 彼女たちからエールをもらいながらも、早く退院してチームメンバーと一緒にトレーニングに打ち込みたいと、強く願った。

 

 ***

 

 その数日後のことである――。

 

 いつものようにすることもなくベッドで寝そべっていると、長末トレーナーが何度目かお見舞いに来訪し、一通の手紙を渡してきた。

 それはキョウエイボーガン宛のファンレターだった。

 差出人は、すでに何度か手紙でのやり取りを交わしている馴染みの相手からだった。

 

 大した活躍などしていない自分にこんなもったいないものをくれる人は一人しか居ない。

 岡山県在住の主婦の松本さん……菊花賞が行われる前に、出走ウマ娘のインタビュー記事の雑誌が発売され、そこでキョウエイボーガンの記事”母親を失ったキョウエイボーガン”というのが頭に離れず、菊花賞のレースを見てファンになってくれたという奇特な方だ。

 

 後であの記事を読み返してみたが、だいぶドラマティックに話が大層に盛られていて、読んでいてこっちが気恥ずかしくなったが、こうやって応援してくれる人がいてくれることが何よりも嬉しかった。

 応援してくれる人のためにも、きちんと怪我を治してレースに復帰しようと、さらに意気込んだ。

 

 ***

 

 それから少しの歳月が経過する――。

 

 自分をベッドの上に縛り付けていたギプスがようやく取れて、車椅子を使ってだが移動できるようになって、やれることが増えた。

 しかし驚いたことに、この数ヶ月まったく歩けずほとんど動かしていなかったので、足の筋力がすっかり落ちてしまい、立って歩くことができなかったのだ。

 

 ギプスが取れたらすぐ自由に動ける――とはならず、これから数ヶ月ほどの辛く苦しいリハビリが始まる。

 けれどキョウエイボーガンは、行く幾分か自由になり、リハビリと称してトレーニングまがいなこともできるようになったので、気楽なものであった。

 なによりこんなところで躓いていては、レースに復帰など夢のまた夢だ。

 

 長く辛い、自分の体との戦う(リハビリ)生活を迎えることとなった。

 

 ***

 

 また幾ばくかの月日が流れる――。

 

 懸命なリハビリのかいがあってか、キョウエイボーガンは退院を迎えていた。

 すでに自力で歩行する分には、ほとんど支障をきたさないほどまで回復した。

 

 だからとってすぐにトレーニングできるというわけでもなく、しばらく激しい運動は控えるよう医者から強く言われている。

 なのでトレセン学園へ通うも授業だけにとどめて、トレーニングや実際に走ったりなどはせず、見学だけに努めた。

 

 久しぶりに顔を出したチームでは、みんなから”お帰り”と、温かい言葉で迎えられた。

 その何気ない言葉が、キョウエイボーガンにはなにより嬉しかった。

 帰れる場所があるというのは、こんなにもありがたいものなのか、変わらずここが自分の居場所であって本当に良かったと安堵する。

 

 だからなのか、入院中色々世話になった恩返しとばかりに、チームメンバーの汚れた衣服やタオルの洗濯や、部室の掃除など普段は当番制でやっていたが、キョウエイボーガンがトレーニングができるようになるまで、積極的に行うようになった。

 少しでもみんなの力になりたい、お互い支え合う存在でいたい……そんな想いもその行動には込められていた。

 

 ***

 

 退院してから数ヶ月ほどがたった――。

 

 医者からついに許可が降りた。

 これまで我慢して、治療に専念してきたかいがあった。

 ようやくトレーニングを始めることができる、キョウエイボーガンの気持ちは晴れやかであった。

 

 ようやく全力で走ることができる、それがどんなに嬉しいことか……。

 それまでも軽い筋トレぐらいは行ってきたが、目一杯走ることは出来なかった。

 キョウエイボーガンは気持ちを抑えきれなくなり、病院から帰ってからすぐにトラック一周を駆け出す。

 

 久しぶりに思いっきり走るのは、とても気持ちがよかった。

 しかし走りながら実感してしまった。否が応でも実感させられてしまう。

 随分衰えた……と。

 

 その証拠に測ってもらったタイムは、過去最低記録を更新していた。

 とてもこれではレースに出走しても、優勝なんて夢のまた夢……よくて最下位争いとなってしまう。

 

 けれど走り出せたなら、これからまた始められる。

 何度ふりだしに戻ろうとも、諦めない気持ちがあればきっと届くはず……。

 レースに出て恥ずかしくないように、だからといって焦ってまた怪我をしないように、じっくりとトレーニングを重ねて、自分の走りを取り戻していこう、そう決意を新たにした。

 

 ***

 

 何度目かの季節がめぐり、キョウエイボーガンが怪我してから約1年9ヶ月の長い歳月が経っていた――。

 

 そして菊の時期が深まる秋に……ついに復帰レースへと挑む瞬間が訪れる。

 

 怪我にも負けず再起を誓って励んだ日々。

 自分を応援、見守ってくれている人達のためにも、挫けず何度も起き上がってきた。

 

 ここから彼女の劇的な復活の物語が今――。

 

 

 

 

 

 

 ――始まりはしなかった……。

 

 

 復帰戦1戦目、8着……2戦目、6着……いずれも着外。

 

 レースには戻ってこれた――だが勝利までには程遠く、惨敗を重ねてしまう。

 

 よぎるのは怪我の再発や精神面での絶不調という言葉。

 だが……それらの要因ではない。

 

 出せていたのだ……全力を出して走れていたのだった。

 怪我が明けてからどんなにトレーニングをしても、かつてのスピードは戻らず、得意の逃げが使えなくなっていた。

 運命は残酷にも、彼女の脚を奪ってしまった。

 

 怪我明けから1年ぶりの大きな舞台で、劇的な復活をとげたウマ娘がいた事は記憶に新しいだろう。

 そんな感動的なシナリオはよく聞くが、実際にはほとんど起きないのが常である。

 起きないからこそ奇跡足り得るものなのである。

 選ばれしものだけが栄光を掴むことができるように、神に――奇跡に選ばれたものが体現でき、成し遂げられる。

 神の采配か運命の悪戯か――奇跡は平等に起こらない。

 キョウエイボーガンには……その恩恵に与ることが出来なかった。

 

 ◇◆◇

 

 レースから戻って数日がすでに経っていた。

 

 このところ彼女はずっと気が重かった。

 授業もトレーニングも、何もかもやる気になれなかった。

 

 今日は仮病を使って、朝からずっと部屋にこもっている。

 どこか熱があるとかそういうのではないので仮病ということになるが、体調不良と一言で片付けるには重い、精神的にひどく不安定な状態だった。

 

 よもや夜も眠れないほど思い悩むという経験を、キョウエイボーガンは生まれてはじめて経験した。

 

 菊花賞での出来事でひどく言われていた時ですら、これほど気分が沈んだことはなかった。

 

 それほど受け止めるには重すぎる深刻な事実を、突きつけられてしまった。

 

 諦めなければ、何度転んでも起き上がればいつか届くと信じていた。

 だが復帰して、レースを走ってみて否が応でもわかってしまった。

 

 これは怪我のせいや気持ちの問題などではなく……身体的に本格化(ピーク)が終わりを迎えようとしているという事に――。

 

 ポートアイランドステークスで感じた違和感の正体は、おそらくこれの前兆だったのだろう。

 

 今まで出せていた力が半分も出ない、スピードがまったく乗らない、脚が思ったように回らない、全力を出しているはずなのに周りとの差が埋まらない……じわじわとウマ娘として終末に近づいていると、自覚してしまう。

 

 競走ウマ娘なら、必ず誰しもが最終的に通る道……心や気持ちで到底乗り越えられるような壁ではなかった。

 絶対に超えることの出来ない壁があることを思い知らされる……。

 

 そんな絶望にくれている最中、ふとつけっぱなしになっていたテレビから、今年の菊花賞のレースが中継されているのに気づき、なんとなくそこを見やる。

 

 画面の中では興奮した実況者が、ナリタブライアンというウマ娘が、圧倒的な勝利をもってして、史上5人目のクラシック三冠ウマ娘に輝いたと、勢い盛んに喋っていた。

 

 あのミホノブルボンですら成し遂げられなかった三冠ウマ娘……それを達成したウマ娘が誕生したのだ、とてもすごいことだ。

 しかしそんな名誉ある感動のシーンに、キョウエイボーガンは何も心を揺さぶられなかった。

 

 

 未でも鮮明に思い返せるあの日の菊花賞……。

 だがあの日、同じ菊の舞台を駆け抜けたことが実在せず、まるで幻だったかのように思えてくる。

 

 あれだけ世間を騒がした騒動も、今ではもう影すらなく、自分の名前など過去の遺物となり、すでに時の中に埋没して消え去った。

 

 今テレビに映し出されている光景……これは本当に自分の知っている世界の出来事なのだろうか。

 

 かつては自分も栄光(そこ)を目指した……。

 一瞬、手が届きそうにもなった……。

 けれど栄光をつかめず、失墜する……。

 再起を誓って、もう一度挑戦できる時を待った……。

 だが…………。

 

 何もなし得なかった――成し遂げられなかった。

 歓声は自分に向けられない、栄光は降り注がない。

 

 今テレビに映っている三冠を達成したウマ娘と比べてどうだろう。

 

 それは笑ってしまうほどの綺麗な転落ぶりだった。

 

 何が実力で示すだ……何が結果で名誉挽回するだ……あの時の自分が思い上がっていた姿を思い返すと、鼻で笑えてきてしまう。

 

 ふとどこからともなく乾いた笑いが響く。

 それが自分の口から出ていたことに、しばらく気がつけなかった。

 

 ただ虚しかった――ただ心が空っぽだった。

 

 再度、彼女は走る理由を見失う。

 

 最初はただ義理の祖父の喜ぶ姿を見せたくて走って、それを失ってからは純粋に誰よりも速く、輝いてみたいと走り……今度は何を目的とすればよいのか。

 

 このままレースで走って一体に何になるのか、自分の目指したゴールはこの先あるのだろうか、そう考えてしまう。

 

 もう重賞クラスにはほとんど出られる機会はないだろう。

 出走するとすれば、オープン戦になる。

 

 何度か出走してみてわかったが――あそこは地獄だった。

 

 なぜなら自分以上に焦燥感に駆られているウマ娘たちが幾人も集い、1戦1戦を全力で挑み、泥まみれになりながら、小さな勝利を目掛けてみなひた走っている。

 

 そして走り終わった後、誰もが勝っても負けても泣いていた……。

 

 果たしてそれほど自分は彼女たちのように必死になれるのだろうか、とても自信がない。

 

 ここ数回負け続けたが、キョウエイボーガンは悔しさで泣くこともなく、もはや負ける事に何とも思えなくなっていた。

 

 いつ終わりを迎えるか怯えながら、歴戦の勇士が集うあのオープン戦で、勝てるかもわからないままレースを続けていくのか……その姿を自分に重ねることができず、何だか自分だけどこか遠い世界に居るような気分だった。

 

 試合(レース)で負けても気持ちでは負けない、心さえ折れなければ負けていない。

 

 そうかつての誰にも負けない気持ちを持っていた彼女の姿は……すでに居なくなっていた。

 

 その事に気づいたキョウエイボーガンは、自分でもよくわからないほどショックを受けた。

 その場で膝を抱えて、しばらくうずくまることしかできないほどであった……。

 

 ◇◆◇

 

 翌朝、キョウエイボーガンは引きこもっていた部屋を飛び出し、朝早くから長末トレーナーの元、トレーナー室を訪れていた。

 アポ無しで突然訪れたので、大層驚かれたが、長末トレーナーはいつものように柔和な笑みを浮かべ、暖かく部屋に迎え入れてくれた。

 

 早速、こんな朝早くからどうかしたのかと、要件を訊かれるがキョウエイボーガンは押し黙ったままである。

 彼女は長末トレーナーには見えないように、手で後ろに隠している一通の封筒を持っていた。

 

 おそらく何度も逡巡したのであろう、()()には手で握りしめられた跡が強く残っていた。

 

 何かを決心したように、キョウエイボーガンは唇を噛みしめる。

 そしてチーム脱退届(それ)を長末トレーナーに突き出すと、か細い声でたった一言、つぶやいた。

 

「あたし…………引退します」

 



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9話:辿り会う宿縁 ~前編~

 思えばあたしにとって、走るということはずっと前からごく当たり前のことで……いわば生活の一部だった。

 風を切って駆け抜けると身体中が喜びを上げる。

 それがウマ娘としての性なのかよくわからないけど、小さい頃から単純に走ることが好きだったし、誰よりも一番で駆け抜けた時はとても気持ちよかった。

 

 あたしはいつも運動会とかで1着を取ると、義理の祖父(おじい)ちゃんにこぞって報告した。

 するとおじいちゃんはまるで自分のことの用に、普段は無愛想な顔を緩めて喜んでくれた。

 それがなによりも嬉しかった……。

 

 すっかりおじいちゃんのことが大好きになっていたけど、最初の頃は、いつも無愛想でちょっと顔が怖かったので、苦手だったこともあった。

 けど一緒に暮らしいくうちに無口で無愛想ながらもあたしに優しく接してくれて、気がついたら苦手意識なんかなくなっていた。

 そしておじいちゃんの喜ぶ顔が観たくて、もっともっと早く走れるよう、誰よりも一番になって1着を沢山とれるよう、夕暮れまで長い階段の道を何度も往復したりと……子供ながらトレーニングなんかに明け暮れたりもしていた。

 ……我ながら微笑ましい。

 

 子供時代のあたしは多分……クラスの男の子と混じってよく遊ぶ、やんちゃな子供だったと思う。

 それを裏付けるわけじゃないけど、あたしに親がいないことや、授業参観でおじいちゃんが代わりに来たことをクラスの男子にバカにされた時は、かけっこ勝負で決着をつけるよう持ち込んで圧倒的大差で勝って、バカにした子を黙らせてみせた。

 

『悔しかったらあたしに走りで勝ってみろ! バーカー!』

 と、勝ってはそうよく吠えていたものだ。

 今思えば、なかなか痛々しい子供だ……。

 

 でもそれくらい、あたしにとって走ることは身近なことだったし、切っても切り離せないものだった。

 だからか自然と、トレセン学園に入ってトゥインクル・シリーズで活躍することを夢見るようになった。

 きっかけはなんだっけかな……多分、テレビでトゥインクル・シリーズの中継を観たことだったと思うけど、小さい時の頃なのでちょっとはっきりとは覚えてはいない。

 

 そんな子供の頃に抱いた夢をずっと抱き続けてあたしは育った。

 そして夢を現実にするために、あたしは迷わず進路希望に『トレセン学園』と書いて出し、倍率数十倍という狭き門のトレセン学園を受験した。

 この頃から何か目標を決めると、それに向かって突っ走る性格だったみたい。

 まあそんなこんで受験したはよかったんだけど……当時のあたしは、全然受かる自信はなかった。

 あんまり勉強ができるほうじゃなかったので、筆記試験の手応えはなかったし、実技も周りをあっと驚かせるようなすごい成績を残せたわけじゃなかったし……。

 今なら言うけど、正直落ちたと思ってた。

 合格する確率は低く、無謀なチャレンジだったかも知れないけど後悔は微塵にも感じていなかった。

 トレセン学園を受験したいとおじいちゃんに打ち明けた時、「ダメでもともと、挑戦してみればいいじゃあないか」と、激励の言葉を貰って、『やってやろう』って息巻いていたものだ。

 だから結果がどうなっても挫けたりしない、そう自分の道を信じて歩けた。

 

 なにかの間違いか運命の悪戯か、合格通知が届いた時は本当に驚いた。

 そして赤飯を炊いたり、ケーキを買ったりと、おじいちゃんと一緒に一晩盛大に喜びあったものだ。

 ……あれは楽しかったなぁ。

 大切な思い出……今はもうおじいちゃんと逢うことは叶わないけど、おじいちゃんに引き取られ、おじいちゃんと一緒に過ごした日々は幸せだったよと――胸の奥にしまってある。

 

 そうしてあたしはトレセン学園に入学して、トゥインクル・シリーズで活躍できる日を目標に、毎日励んだ。

 

 その道程は、けして順風満帆ではなかった……。

 少しは走りに自信があったけど、流石は全国各地から才覚あるものだけがその門をくぐることを許されるトレセン学園、天狗になっていたあたしの鼻を折られた。

 才能のあった周囲のクラスメイトは早々とチームのスカウトを受けてデビューして、夢を叶えた者もいた。

 対する自分は、入学して数年間は勉学やトレーニングに付いていくのがやっとで、たまに選抜レースに出場できたぐらいしか成果を残せなかった。

 あたしと同じような境遇で、地方から来た地元では敵なしと謳っていた者の一部は、現実の厳しさにぶつかって夢を諦め、トレセン学園を去っていったウマ娘もいた。

 

 けれどあたしは何度挑戦して破れても……次こそはと――夢を諦めず、努力し続けた。

 この時は辛くてもまだ頑張れたし、諦めなければいつか何とかなるって信じていた。

 まあ実際、その努力が結びついて、チームにスカウトされたし、デビューすることができて、憧れだったトゥインクルシリーズで走れることもできたから、全部が全部無駄ではなかったと思うけどね……。

 

 憧れていたトゥインクル・シリーズの世界――。

 テレビなどで観ていた時はもっと華々しくて、綺羅びやかな世界だと思っていた。

 けれどそれは表面上のことだけで、あの輝かしい勝利の栄光は、血の滲むような努力とわずかばかりの時の運によって持たされるものだと知った。

 だからこそあたしもその栄光に焦がれたし、是が非でも掴みたいと願った。

 

 どのレースをとってみても、無意味なものはなかったと思う。

 レースで負けた時は本当に悔しかったし、勝った時はその何倍も嬉しかった……。勝っても負けても得られるものがあった。

 ――引退間近のは除いて……だけど。

 

 けして楽しい事ばかりではなく、辛く苦しいことも沢山あったレースの世界……。

 けれども、あたしの中で『走らなければよかった』ということはなかった。

 憧れを憧れのままで終わってしまう者もいる中、僅かでも栄光の片鱗に触れ、ターフの上を駆け抜けることが出来た日々はかけがえのないものだったと――そこだけは言い切れる。

 だからこそ……美しい思い出のまま、自分の意志で終わろうと思ったのかも知れない。

 

 大きな怪我をして脚部に不安を抱え、そして本格化の終わりの足音が聞こえるようになり、もうあたしは前のように走れない、いずれレースで走れなくなると思い知らされた。

 

 走ることが唯一のあたしの取り柄だったのに、それが失われてしまったら一体何が残っているのだろうか……。

 

 ――何も答えられない。

 

 でもまだ走れないわけじゃない、完全に終わったわけじゃなかった。

 たとえ勝てる見込みがなくてもレースには出れる、ギリギリまで競走生活を続けることもできた。

 だけどあたしは……それをよしとできなかった。

 

 自分の気持ちに嘘はつけない。

 惨めに走る事へしがみつくより、きっぱり諦めてレースの世界(ここ)を離れることを選んだ。

 

 ……後悔はあるよ。

 やり残したことはいっぱいあったよ。

 

 でも今のあたしではもう叶えることはできないし、何よりチームのみんなに迷惑をかけるのが嫌だった。

 きっとあたしがこんなボロボロの状態でも、チームのみんなは受け入れてくれるだろう。

 それほどみんな温かいし、ずっとそこに居たくなるような居心地の良さがある。

 

 だからこそ……余計に辛い。

 

 負ける度にみんなから気を使われ、励まされ……。

 あたしはそれに甘えてしまうだろう――。

 

 そんな未来は想像するだけでも虫酸が走った。

 

 共に競い合い、切磋琢磨し合う仲にこそ、きっと絆は紡がれる。

 大切な仲間だからこそ、対等の関係でいたい――きっとあたしは我侭でプライドだけは一人前なんだと思う。

 終わり良ければ全て良し……そんな見栄を張って、あたしはみんなとも別れることを決めた。

 

 引退する(その)ことをトレーナーに相談した時は、ひどく反対され、「一度考え直してくれませんか?」と頼み込まれた。

 引退――レースに出て走ることを辞めるということはつまり……チームを抜け、トレセン学園から去り、競走ウマ娘(アスリート)として終わるということ。

 

 トレーナーに考え直すように言われたけど……あたしの気持ちは変わらなかった。すでに固まっていた。

 自分で言うものなんだけど,ほらあたしって一度決めたことは曲げない、頑固者だし……。

 だからあの後、チームの部室に呼び出され、トレーナーとラフインとマーチの三人から色々言われたけど、断固意思を曲げなかった。

 まあ、みんなあたしのことを思って引き止めてくれているのは伝わっていたから、それを無下にするのは気が引けたけどね……。

 

 そういえば意外だったのが、ルーブル先輩だった。

 あたしたちがお互いの話をきかず、平行線をたどっていると、ルーブル先輩が突如、間に入ってきた。

「まあまあお前さんたち、おそらくボーガンが悩んで考え出した結論なんだろうよお。ここはボーガンの気持ちを組んでやるのが、粋ってえもんじゃあねえのかい?」

 と、全面的にあたしに賛同してくれたのだ。

 

 ……一瞬、自分の耳を疑ったのは秘密だ。

 

 だって部室に最初から居たけど、ずっと押し黙っていたのだから、てっきりルーブル先輩は機嫌が悪いのだと思っていた。

『ちょっと足が遅くなったからってえなんでえ! レースから逃げんな、この唐変木!!』

 とか怒鳴られるのは覚悟していた。

 だから、いの一番にあたしに理解を示してくれたことがびっくりだった。

 

 一度は周囲に猛反対されたけど、ルーブル先輩の後押しもあって、チームのみんなとはお互い納得した上で、円満に解決できた。

 落ち着いたらまたいつか会おう……そんな約束を交わして――。

 その日が本当に来るのか、わからなかったけれど……。

 

 ともあれ、ケンカ別れみたいにならなくてよかった。

 詳しい理由などはきかず、あくまで自分の意志を尊重してくれたルーブル先輩には、ただ感謝しかない。

 

 トレセン学園に入って一番良かったことはやはり、彼女たちチームのみんなと出会い、一緒に切磋琢磨して、とても充実した生活を送れたことだろう。

 

 そんな想いが沢山詰まったトレセン学園を、あたしは間もなくして去った。

 見送りは気恥ずかしいから、誰にも会わないようにこっそり朝早くに少ない荷物を抱えて寮を出たんだけど……校門で待ち構えていたトレーナーに見つかってしまった。

 挨拶もせず黙って出ていこうしたあたしに対して、何か小言を言われるかと思った。

 けど違った――。

「何か困ったことがあれば遠慮せずいつでも私に連絡下さい。どうかお元気で……」

 と、トレーナーの連絡先が書かれたメモをあたしに渡しながら、優しいエールをくれた。

 

 最後まで本当に面倒見が良くて、そしてお節介な人だ……。

 けどあたしに手を差し伸べてくれた――居場所くれた恩人だった。

 

 散々弄ばれた運命だったけど、トレーナーやチームのみんなと出会えたことは本当に良かったと、それだけは確信をもって言える……。

 

 あたしはトレーナーに深く一礼して、数年間お世話になったトレセン学園を後にした。

 

 ……思えば、レースで華々しい活躍はできず、ちょっとした爪痕を残したぐらいだったけど、ウマ娘として走ることだけを考えられたの日々は、幸福だったと思える……。

 

 それに比べて……学園を離れてからは、苦悩の毎日だった――。

 

 おじいちゃんが亡くなり、帰る場所が無くなったあたしは……施設に入ることになった。

 

 こういった施設に入る子というのは、家庭に何だかの事情があるとか、あたしみたいに身寄りがないとか、脛に傷持つ者ばかりだ。

 そこでひどい苛めにあったとか、嫌な職員が居るとか、そういう事ではないんだけど……明るく楽しい生活は、とても送れなかった。

 

 施設にいる子の年齢層は揃って低い。

 なぜなら、高校を卒業したら施設から卒業――強制的に出ていかないといけないからだ。

 

 そしてあたしは、施設に入って間もない、新しい高校に編入したばかりだというのに……すでにその期限が迫っていた。

 施設に居られる時間は残り少ない……。

 あたしは自分の将来のためにも、奨学金の返済もあるので少しでも貯蓄しておこうと、早朝から学校に行くまでと学校の授業が終わって施設の門限ギリギリまでアルバイトに勤しんでいた。

 

 満足に寝れる時間なんてなかった……。

 いつも眠い目をこすっていたし、学校の授業中、居眠りしてしまったのはしょっちゅうで、()()()()として生活していくのがこんなにも大変だったなんて、つゆにも思わなかった……。

 まさに寝る間を惜しんでアルバイトに明け暮れていたし、施設を出ても生活できるように就職活動も合間の時間を縫って行っていた。

 

 そんな生活だったので、学校のほうは全然満喫できていなかった。

 トレセン学園で履修していた科目と一般の学校の学習内容に差異もあって、あたしは休み時間を割いてでも自習しないと慣れない授業についていくのが必死だったし、友達を作る余裕とか、放課後どこか遊びに行くとか、そういった高校生らしい青春を送る暇がなかった。

 

 一時期は高校を中退して就職しようとも考えたけど、周りから『高校は卒業したほうがいい』『将来苦労する』と、言われたので高校は卒業しようと思っていた。

 お金があったら進学するとか選択肢もあったんだけどね……。

 

 ああ、そういえばトレーナーに、トレセン学園のサポートスタッフの研修生に編入することを勧められたけど、あたしには走ること以外に特筆した特技なんてなかったし、たいして頭もよくないし、専門的な知識もなかったから編入試験は受けなかった。

 まあ……走ることを諦めたのに未練がましくトレセン学園に居続けるのも、どこかいたたまれない気持ちがあったからかもしれない。

 

 とどのつまり――あたしには走ることしか、能がなかったのだ。

 

 それがなければただのごく一般的な十代の少女と何も変わらない、むしろそれ以下なのかもしれない……。

 

 そんな劣等感にも似たものを抱きながら、時は無情にも過ぎていく。

 繰り返される日々――毎日同じような時間が流れていった。

 

 なかなか内定が決まらず焦燥感だけが積もっていく。

 それほど学力も秀でていない、社会に出て役立つスキルも特にない、何か誇れる立派な活動を送ってきたわけでもない、ただ一時期レースで走っていただけ……。

 何より住み込みで働かせてもらえる勤め先を見つけるだけも一苦労だった。

 

 そして状況が一転しないまま月日は流れ、やがてその時は訪れた――。

 

 半年にも満たない僅かな間だったが、お世話になった施設を退去した。

 ここに来たときよりも更に少なくなった、生活必需品だけが入った荷物を抱えて……。

 

 圧倒的に時間が足りなかった。

 一社面接を受けて結果を待ってダメだったら別の就職先を探す……どうしたってこれでは時間がかかってしまう。

 あたしは何度も同時に複数の会社に応募したいと申し出たけど、学校からは『規則だから』と、最後まで許可はおりなかった。

 結局、就職も決まらないまま学校を卒業を迎え、施設から追い出されてしまった……。

 

 しばらくは夜だけネットカフェに寝泊まりながら、高校の頃勤めていたアルバイトを続けてなんとか食いつないだ。

 どこか家を借りようとしても、身分証もない、連帯保証人を用意できないあたしには無理だったので、泊まれる場所がそこしかなかったのだ。

 

 アルバイトがない日は、昼間は無料で入れる図書館とかショッピングセンターの休憩スペースとかで時間を潰し、夜になったらネットカフェのナイトパックで一晩明かす……。

 食費も切り詰めていたから、お腹いっぱい食べられることなんてなかったし、節約のために公園のベンチで夜を明かしたこともある。

 まだギリギリなんとか生きてこられた……。

 

 でもそれも長くは続かない。

 アルバイト先に住所がないことが知れて、「それでは雇えない」と、アルバイトを解雇されてしまった。

 最後の頼みの綱の収入源が途絶えた――。

 そこからはどんどん追い詰められていった。

 アルバイトで貯蓄していたお金も、ただ毎日生きているだけで通帳の額がすり減っていく。

 他のアルバイトを見つけようにも住所がないとダメだったし、肝心の家も借りれることもできず、泥沼だった……。

 

 施設を出て、何度目かの春を越し夏になって秋が深まり冬を迎える。

 

 あたしは冬の寒空の下、残りわずかとなった所持金――片手ですくえるほどの少ない小銭を握りしめていた。

 いよいよ路銀が尽きかけ、露頭に彷徨っていた。

 

 どうしていつもこうなんだろう……。

 必死に頑張ってきた、懸命に努力を続けた。 

 けど結局またこれだ……。

 

 ウマ娘としてはダメだったけど、せめて普通の人として、まっとうな人生くらいは歩みたい――そんなささやかな願いすら叶わない、叶えることができなかった。

 

 どうやら運命の神様はあたしを幸福にはさせたくないようだ……これが本当に『運命』だというのなら、運命をひどく呪いたい。

 それだけ絶望するには十分な時間があったし、現状について思い悩む暇ならいくらでも足り得りた。

 

 残された手立ては少なく、限られている。

 

 ホームレスになってゴミを漁って生きていくか、窃盗など犯罪を犯して食いつなぐか、街を当てもなくブラブラしていたときに誘われた売春系のお店で働くか……。

 

 ――どれも選びたくない。最悪の手段だった。

 

 誰もいない公園のベンチに座り込み、思わず出たため息が、白い息となって吐き出される。

 

 今日はやたら冷える……。

 温かい家はもちろん、毛布や厚着できるような服もない。

 ここで野宿するには厳しい気候。このままここにいたら、おそらく風邪をひいてしまうだろう。

 そう頭でわかっていたけど、もう一歩も足が動かなかった。

 動かす気力が湧かなかった。

 

 ここに行くまでにすれ違った人々――楽しそうに談笑している女子高生たち、幸せそうに手を繋いでいる恋人、仲睦まじそうな親子……どれもこれも眩しく見えてくる。

 

 町並みに一人佇んだところで、手を差し伸べてくれるものなどはいやしなかった。

 この先あたしはずっと一人なんだ……そう思い知らされる。

 

 何もかもが虚しい――。

 あたしは一体何のために今、生きているのだろう……。

 

 いっそこのままここで眠りについたら、楽になれるのかな……。

 

 もう頑張ることには疲れたし、前向きに考えることすらままならない。

 明日すら真っ暗で光が差さず、足元すらおぼつかない。

 

 俯くことしか出来ないで、もう疲れきってしまった。

 

 あたしはこんな人生を送るために、レースから退いたわけじゃないのに……。

 大切な人たちと別れたわけじゃないのに……。

 

 何をやっても上手くいかない。

 この先、この運命に抗ったとしても、待っているのは先が見えない暗闇だけ……それって生きているっていえるのかな?

 

 ううん、生きていない。ただ死んでいないだけ……。

 

 寒気が止まらない、手の震えが止まらない。

 自分の腕で自分の身体を抱きしめてみても、外にいるせいかぬくもりなどちっとも感じられなかった。

 

 なら――本当に、自分の手で終わりにするのも……。

 

 それは最後の最後の選択肢だった。

 しかしそれはけして選択してはいけないもの――。

 

 わかっている……けど、全てを終わりにしてくれる。

 今起きている全ての苦しみから解放されるかもしれない。

 

 甘美な誘惑……このままそれに負けてしまいたい、楽になってしまいたい……。

 

 だからあたしは……。

 

 あたしは――。

 

 ――――ッ。

 

「……嫌だ……死にたく…………ないよぉ……」

 

 どん底に追い込まれ、たった一縷の望みが、あたしの口から自然にこぼれた。

 悔しくてただ悔しくて……目元から涙がこぼれ落ちる。

 

 何を諦めるものか――。

 運命に翻弄され続け、色々なことを諦めて捨ててきたけど、生きる権利までは捨てきれなかった。

 

 あたしが今まで築いてきた軌跡を自分で否定したくない。

 紡いできた大切な人たちとの思い出まで無くしたくない。

 

 涙がとめどなく溢れて、止まらない。

 

 ――生きたい、生きて幸せになりたい……。

 

 やっとわかった。

 ここまで追い込まれて、あたしの本心がわかった。

 

 お母さんが産んでくれた、おじいちゃんが繋ぎ止めてくれた、トレーナーやみんなで過ごしたこの生命を最後まで手放すことを、あたしは諦めれなかった。

 

 会いたい。

 トレーナー……ルーブル先輩……ラフイン……マーチ……クラスのみんな……誰でもいい、あたしを知っている誰かに無性に会いたい。

 会ってあたしはまだ生きているよって、伝えたい。

 

 思いに馳せ、溢れる涙を噛み締めていると、ふと脳裏に誰かの言葉が浮かんできた――。

 

『何か困ったことがあれば遠慮せずいつでも私に連絡下さい』

 

 荷物の中から、あの時もらったメモを慌てて広げる。

 今の今まで忘れていた……トレーナーと最後に交わした言葉だった。

 

 頼ろうと思えば、頼れる人はいたじゃないか。

 なぜ思い至らなかったのか……。

 

 いや……多分あたしは意図的に思い返そうとしなかったのだと思う。

 こんな無様に落ちぶれた姿を知り合いに知られたくなかったから、ちゃんとした生活になるまで誰にも頼ろうとせず頑張っていこう、見栄を張っていた。

 

 けどもう自分一人でどうこうできるレベルじゃない。そんな恥を忍んでいられる余裕はない。

 ――あたしが今、生き残るためにトレーナーに連絡しよう。

 そうあたしは決めると、涙を振り払ってベンチから立ち上がると、荷物を置き去りにしたまま最寄りの公衆電話のところまで駆け出していた。

 さっきまで一歩も動けなかったのに、自然と足が動いた。

 

 

 公衆電話に辿り着くと、息を整えるのも忘れ、残ったお金全てを注ぎ込んで、メモに書かれていたトレーナーの携帯の番号に電話をかけた。

 

 ――静寂の中、自分の呼吸音と、コール音だけがしばらく続く。

 忙しいのだろうか、中々繋がらない。

 

 思い立ってトレーナーに電話をかけてしまったけど……。

 繋がっていざ、なんて言えばいいのだろうか。

 

 急に不安に駆り立てられる。

 トレセン学園を去って幾ばくか過ぎた。

 もしかしたらもうあたしの事なんか覚えていないのかもしれない。

 

 これまでの辛い境遇で、ネガティブな……どんどん嫌な考えが思い浮かんでくる。

 何度目かのコールの後、やはりやめてしまおうと受話器を置こうと思ったその時――電話が繋がった。

『はい――長末です』

 変わらない、懐かしい声だった……。

 たった最後にその声を聞いたのは数年前のことだけど、ずっと遠い日のように思える。

 

「――あ、あの……」

 どうしよう……声が全然出てこいない。

 ここ最近、人とろくに会話していなかったせいか、まるで発し方すら忘れているかのようにうまく言葉を発せない。

 それに突然電話をかけて、なんと言えばいいのかわからなかった。

『……もしもし、少しお声が遠いようですが……』

 押し黙ってしまったこちらを心配するようなトレーナーの声が、受話器越しから聞こえてくる。

 

 早く何か喋らないと……。

 いたずら電話だと思われて、電話を切られてしまうかも知れない。

 

 そう心のなかで葛藤している間にも、公衆電話の通話可能時間の残り秒数の表示がどんどんと減っていき、タイムリミットが近づいていく。

 もうお金はない……今を逃したら次は訪れない。

 

 何を迷う必要があるのだろうか……。

 もうあたしには意地も尊厳もなんても残っていない。

 だから今だけは誰かに甘えていい、迷惑をかけてもいいじゃないか……。

 

 受話器を握る手を両手で強く握ると、意を決する。

「トレーナー……」

 震える声でそう呟くと、トレーナーはそれであたしだと気がついたようで、慌てた声を出してきた。

『その声は――もしかしてボーガンさん! どうかされたのですか!?』

 伝えたいことは沢山あった。

 沢山あったからこそうまく伝えられない。

 だから不器用にもたった一言、こう懇願した。

「お願い……助けて…………」

『いまどちらに居ますか?! すぐにそちらに向かいますので!』

 あたしが今の居場所をぼそりぼそりと伝え終わると、トレーナーにお礼や謝罪などろくに出来ないまま、通話可能時間が過ぎて、プツリと電話が切れてしまった。

 

 もうトレーナーの声が聞こえない。

 

 名残惜しそうに受話器を置いて、そのままそこで寒さに凍えながら、少しでも寒さを凌ぐために、膝を抱えて座って待つことした。

 

 

 あれからどのくらい時間が過ぎたのだろうか……。

 よくわからない。

 

 なんだがすごく眠い。

 だんだん意識が朦朧としてくる……。

 

 眠ってはいけないと理解しているんだけど、うまく意識を保てない。

 

 あー……、もしかしてあたし、死んじゃうのかな……。

 

 身体の感覚がどんどん薄れていく。

 こんなところで終わりたくない。けど、どうしょうもなく眠い……。

 

 このまま寝て起きたら、おじいちゃんに会えるかな……なんてそんなことをぼんやりと考えていると、どこか近くで車の大きなブレーキー音が聞こえた。

 そして薄れゆく意識の中、あたしの名前を叫びながら誰かが駆け寄ってきたような気がする……。

 

 それが誰なのかすらもうわからず……あたしの意識はそこでプツリと途絶えた。

 




後編へ続きます。


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10話:辿り会う宿縁 ~後編~

 あたしが意識を取り戻した時、そこは見知らぬ天井だった。

 

 意識が朦朧としていてよく覚えていていないんだけど……聞いた話しでは、トレーナーが車で迎えに来て、すぐに保護してくれたらしい。

 

 そして倒れていたあたしは介抱され、今は病院のベッドの上……というわけだ。

「その……色々お世話になっちゃったね……」

 食費を切り詰めていたためか栄養失調になっており、さらに寒空の中、厚着もせずずっと外にいたせいで低体温症になりかけていた、と医者から告げられた時は、本当に危険な状態だった実感する。

 そして当然の如く、最低でも数日は入院する運びとなっていた。

 

 これでトレーナーのお世話になって、病院に連れていかれたのは二度目……。

 

 付き添いであたしの病室まで来てくれたトレーナーに対して、他にも「急に電話かけてごめん」とか「迷惑かけてごめんなさい」とか言うべきことはあったんだけど、何か気恥ずかしくて、うまく言えなかった。

 

「いえ、とんでもない。……困った時はお互い様ではないですか」

 以前と変わらず、優しい笑みを浮かべながら、あたしのことを気使ってくれる。

 その暖かさがとても嬉しかった……。

「ありがとう、トレーナー……って、もうあたしのトレーナーじゃなかったんだ……」

 昔の癖でごく自然に『トレーナー』と、呼んでしまっていたことに気づく。

 もうチームにも入っていなければ、トレセン学園の生徒でもないのに……。

「そのままで構いませんよ。今でも私のチームの一員だと、そう思っていますから――」

 その言葉に嬉しさがこみ上げてきて、つい泣いてしまいそうになった。

 もうあたしの事なんか覚えていない、そう思っていた過去の自分に言い聞かせてやりたい。

「それは嬉しいなぁ……。それに今更『長末さん』とか呼ぶの、なんかちょっと恥ずかしいしね」

 本当は泣きたいほど嬉しかったけど、それをごまかすように少しおどけて笑ってみせた。

 

 こうやって誰かと話し、自然と笑うことがまだ出来た――。

 あそこで全てを終わりにしていたら、そんなことも出来なくなるところだった。

 一時でも命を投げ出そうとしてしまった自分がとても愚かだったと……今はそう思う。

 

「……色々負担かけちゃって、ごめんなさい。その……今は何も返せないけど、いつかこの恩は必ずちゃんと返すから……」

 突然の電話にもかかわらず駆けつけて、病院まで手配してくれて、あたしのためにかけた労力は計り知れない。

 この恩義には言葉だけではなく、形で返さないと不義理だし、なによりあたしの気がすまない。

 

 しかしトレーナーは『必要ない』というかのように、首をゆっくり振った。

「今はゆっくり休んで下さい。これからのことは……その後で考えましょう」

 トレーナーはどうしてこうなったのかとか、今までどんな暮らしをしていたのかとか、何も聞いてこなかった。

 

 もし訊かれたら……あたしはきっと口籠っていたと思う。

 あのほとんど路上暮らしと変わらない日々を、臆面もなく語れる自信はなかった。

 もしかして、そうなるのを予想してあたしに配慮してくれたかな?

 もしそうだったら、まったくトレーナーには敵わない……。

 

 今はただ言われた通り――その優しさに甘えることしかできなかった。

 

 

 あれから数日が経過する。

 何日か病院で大人しく養生していたおかげで、すっかり具合もよくなり、退院することとなった。

「いやー……久しぶりのシャバの空気はおいしいなー……」

 病院の外、そんなふざけたことを言って深呼吸できるぐらいには、元気になっていた。

 むしろ前より元気になった気がする。

 まあ三食昼寝付きの生活で、肥えたともいうけども……。

「――ところでボーガンさん、これからどうされるのですか?」

 保護者がいないあたしにため、色々と手続きを代わりにトレーナーが行ってくれていた。

 さて退院したらどこに帰ればいいのだろうかとなったこの間際、トレーナーがそうあたしに投げかけてきた。

「え、えーっと……」

 まずい……何も答えられない。

 せっかく退院できても、今のあたしにどこか行く宛とかないわけで……。

 

 ただ入院費とかもろもろ含めて、今回お世話になったトレーナーには、迷惑をかけた分はちゃんと耳を揃えて返したいと思う。

 そのためにもどこか働き口を見つけないとだね……。

「とりあえず、どこか住み込みで働けるところをこれから探そうかなぁって……」

 あはは……とバツが悪いのをごまかすように空元気をみせながら笑ってみたけど、全然効果はなかったようで、トレーナーは頭を手を当てて困ったようにため息を一度つく。

「……なんとなく予想はついていましたが、かなり当てずっぽうじゃあないですか……」

 はい……返す言葉もないです。

 

 すぐに働き先が決まらなかったらどうするのか、その間の住むところや食事などはどうするのか等々……考えなしと批難されても、反論できなかった。

 それが簡単にできなかったから、あんな羽目にあったわけだし……。

 

 あたしが何も答えられないでいると、トレーナーは顎に手を当てて何かを考え込む。

 そして何かを思いついたようだった。

「――すみません。少しそこでお待ちいただけますか」

 あたしは構わないというようにそれに対して頷くと、トレーナーは懐から携帯電話を取り出しながら、少し離れたところに行き、どこかに電話をかける。

 

 何の話をしているのかまでは、距離があったため聞き取れなかったけど、その電話のやりとりはものの数分で終わり、すぐにトレーナーはあたしのところへ戻ってきた。

「ボーガンさん……今から少し、お時間を頂いてもよろしいですか?」

 いつもは愛想よく柔和な笑みを浮かべているトレーナーだったけど、このときはいつになく真剣な表情だった。

 そのあまり見たことのない顔立ちに、あたしは少し困惑する。

「――え? あ、うん、別に構わないけど……」

 トレーナーの様子は気になったけど、まあこれといって特に用事もないし、断る理由もなかったので快諾した。

「これから会って頂きたい方がいます」

 

 ◇◆◇

 

 車に乗って揺られることはや数時間――。

 全然見知らぬ、どこかの喫茶店の駐車場に着いていた。

 

 あたしはてっきり、ルーブル先輩とかラフインとかマーチとか数少ない知人と会うため、トレセン学園に行くものかと思っていた。

 予想はものの見事に外れた。

 

 移動中、何度かどこに向かっているのか、誰と会うのか、とトレーナーに質問をしたけど、「会えばわかりますよ」と答えをはぐらかされて終わっていた。

 

 先に車を降りたトレーナーの後についていくように、あたしも車を降りると、そのまま喫茶店の中へと入る。

 

 喫茶店の中に入ると、ひいたコーヒー豆の芳醇な香りが漂ってくる。

 店内はすこし薄暗く、程よいボリュームのジャズがかけられており、なかなか趣があって落ち着いた空間が流れていた。

 あたしはあまりそういう大人びたお店には入ったことがなかったので、ひどく新鮮に感じる。

 

 ここで誰かと待ち合わせでもしていたのだろうか、トレーナーは店員に何かを伝えると、店員が「こちらです」と店内を案内する。

 

 そのままトレーナーと一緒に、店員に案内されるまま奥の客席へと行くと、そこにはおそらく夫婦なのだろう、一組の中年の男女が、席に座っていた。

 

 もちろんあたしにはそんな知り合いは居なく、見知らぬ人だった。

「どうもご無沙汰しております。申し訳ございません、お待たせいたしまして……」

 トレーナーは相手に頭を下げながら、挨拶を交わす。

 どうやらトレーナーとは面識がある人物のようである。

「あら、いいんですよ。ようやくチェックインを済まして、ちょうどのんびりしようと思っていましたから」

 気立ての良さそうな印象を受けるご婦人が、明るい声でそう答える。

 そしてあたしの姿を見るや否や、ひときわ大きな声を上げた。

「まあボーガンちゃん! やっと会えたわね~! 無事でよかったわっ!!」

 ご婦人は席から立ち上がると、あたしの手を握って、嬉しそうに破顔する。

 

 ――え、え?

 どういうことなの……状況がまるでわからず、助けを乞うようにトレーナーの方に視線を向けた。

 するとトレーナーはクスッと笑うと、あたしに説明してくれた。

「……この方は松本さんですよ。ほら、ファンレターを頂いていた――」

 あーそうかーあの松本さんかーって……ええ!?

 あの岡山県在住の松本さんが、なぜここに……。

 

 ここが岡山県というわけでもない。

 車の中で眺めていた道路の標識を思い返してみても、岡山からだいぶ距離が離れていたはずだけど……。

「――実は今日ここでお会いする約束をしていたんですよ。それでボーガンさんのことを前からずっとご心配されていて……どうしてもボーガンさんとお会いしたいと前からお願いされておりましたので、今日ボーガンさんをご紹介させて頂いた、ということです」

 そういうことだったのか……トレーナーのその説明をきいてようやく合点が行ったけど、随分とサプライズが過ぎる。

 

 トレセン学園から離れてからは松本さんとは、やり取りがずっと途絶えていた。

 施設では手紙を出す余裕もなかったし、そして施設を出た後は……。

 

 たしか最後に返信した手紙には、『引退することになりました、今まで応援してくれてありがとう』といったような、淡白な内容を綴った記憶がある。

 こんなあたしのことをまだ覚えていてくれたなんて……嬉しい限りだ。

 

「あのね、ボーガンちゃん、話があるのよ」

「あ、はい……。な、なんでしょうか」

 何度か手紙のやり取りを交わしていたが、まさか対面する日が来るとは想像したこともなく、自分のファンに会うというのも、気恥ずかしくてなんだか緊張してきた。

「ボーガンちゃんが引退して、施設に預けられたっていうのをきいて……」

 一旦そこで区切ると、あたしの手を両手で優しく握りながら、言葉を続ける。

「それでずっと考えていたの……。あなたを、養子に迎え入れたいって――」

 え――?

 自分の耳を疑った。

 聞き間違かと思った。

 

 それって、あたしを娘として引き取りたいってことだよね?

 でもなんであたしなんかを……いくら少しの間手紙のやり取りを交わしていたからといって、それこそ会ったこともない赤の他人なわけだし……。

 

 突然の事で困惑して、何も反応を返さないでいると、松本さんはこれまでの経緯を語ってくれた。

 

 あたしが返した手紙で、引退することを知った松本さんは、手紙にはトレセン学園を去ることや施設に入ることまでは書いていなかったので、トレセン学園にあたしのことを問い合わせしたらしい。

 最初のうちは『個人情報なので教えられない』と、学園側は取り合ってくれなかったみたいだけど、何度も何度も毎週のように問い合わせの電話や嘆願書を何ヶ月も続けて送り続けていたら、とうとう学園側が根負けして、あたしの担当だったトレーナーに対応を一任され、トレーナーと繋がったらしい。

 

 そうしてトレーナーから天涯孤独となって施設に入ったことを知った松本さんは、すぐにその施設にあたしを引き取りたいと掛け合ったみたい。

 けれどタイミング悪く……すでにあたしが施設から出た後のことだった。

 それからあたしの行方がぱったりとわからなくなって、トレーナーと松本さんはひどく心配したらしい。

 

「……その、お気持ちはありがたいんですけど、なんであたしなんかを……」

 視線を合わせるのが気まずくて、あたしは別の方を見ていた。

 

 ファンだったから、と一言で片付けるには重い――犬や猫を引き取るのとはわけが違う。

 そこまでしてもらう理由が見当たらないし、そんな過ぎた好意は、あたしになんかにはもったいなさすぎる。

 

 手放しで喜べず……ただただ、気が引けた。

「――あのね、わたしたち夫婦には子供がいないの、ずっと子供に恵まれなくてね……。そんな折にあなたのことを知って、頑張っているあなたの姿を見て、『わたしにもこんな子が欲しかったなぁ』って、どこか我が子を見るような目で応援していたの……」

 家族(はは)を失ったあたしと、家族(こども)が欲しかった松本さん……何か運命の導きがあったように、通じ合うものがあったのだろうか。

 だからそのうち他人の子とは思えなくなったという。

「もうボーガンちゃんが一人で苦しんでいる姿を見ていられないの……。よければ、わたしたちと一緒に暮らしてみない……?」

 おそらくあたしが行き倒れていたのをトレーナーから聞いているのだろう。

 そんなあたしを放っておけず、守ろうとしてくれている……。

 

 それは生半可気持ちで決めたことじゃない。

 並々ならない覚悟と決断を秘めているのは、言葉の端々で感じ取れるし、本当にあたしのことを家族として迎え入れたいという想いが伝わってくる。

 

 けど……あたしにはもう……。

 

「……すみません。少し考える時間を下さい……」

 あたしは相手の顔を直視できず顔をうつむきながら、握られた手のひらをゆっくりと解いてそう言い残すと、踵を返してこの場から立ち去り、店内のトイレの個室へ駆け込んだ。

 

 ◇◆◇

 

 あたし、何やっているんだろ……。

 

 逃げるにしたって、店の外とかあったのに……これじゃあずっとここに閉じこもっていなきゃいけなくなる。

 

 そんな打算的な行動をとれる余裕すらなかった。

 なんとなくあの場に留まるのが辛かった……。

 

 あたしは何をするでもなく、ただじっと壁にもたれかかって、時間が流れていくのを呆然と過ごす。

 

 今にして思う、失礼な事をしてしまったなぁ……と。

 

 別に松本さんの家族になることが嫌だったわけじゃない。

 

 ただ……怖かった。

 

 あたしはいつも誰かに手を差し伸べられ、それに救われてきた。

 それが二度もあった。

 

 けど、いつも手にしたその『幸せ』は、まるで運命が意地悪しているみたく、いつも儚くこの手から消え去っていく……。

 

 その度に嘆き、心をすり減らして、運命を呪った。

 

 だったらもう、幸せを求めなければ――あんな気持ちを味わわなくて済む。

 

 ……自分でも随分と後ろ向きな考えだと思う。

 けどこれまでの道程は、そう思いたくなるような人生だった。

 幸せにならければ、傷つくことはない。

 もう傷つかなくて済むなら、幸せにならくてもいい……。

 

 あたしはとても弱かった……。

 レースでは負けない気持ちで立ち向かえたけど、今はもうその勇気の欠片すら残っていない。

 

 松本さんには申し訳ないけど断ろうと、そう思った時――静まり返った個室内に突如として着信音が響く。

 

 一瞬、どこから鳴っているのか検討がつかなかったけど、思い返す。

 それはトレーナーから「連絡がつかないと困ることがあるかもしれませんので、持っておいて下さい」と渡され、あたしのポケットにしまってある携帯電話(スマートフォン)から発せられていた。

 

 スマホを取り出してディスプレイを見ると、おそらくトレーナーが事前にアドレス登録しておいたのだろう『長末樹生』と、トレーナーの名前が表示されていた。

「はい……もしもし……」

 まだ操作になれないせいもあっておぼつかない手付きで電話に出る。

 とても電話に応対できるような精神状態じゃなかったけど、無視するのもバツが悪かったから出てしまった……。

 

『よかった。無事みたいですね……。長いこと籠もっているから心配しましたよ……』

 どこか安心したような声でしゃべるトレーナー。

 しかし言われて気づく。

 頭の中がぐちゃぐちゃになってここで思い悩んで、時間が経過していたようだ。

「その……松本さんは……?」

 普通なら怒って帰っても仕方がないことをしてしまった。

 様子が気になってトレーナーに伺う。

『……まだこちらにいらっしゃいますよ』

「そう……なんだ……」

 なんか安心したような、悩みのタネが増えたというか……。

 

 あんな拒絶するような形で逃げ去ったのに、まだあたしを待っていてくれる。

 きっと本当に優しい人なんだろうなぁ。

 

 断ろうと思ったけど、想いを無下にするのも申し訳無さすぎる。

 あたしは、ますますどうしていいのかわからなくなる。

「あたし……どうしたら、いいのかな……」

 思わず誰かの手を借りたくて、電話の相手にそう頼ってしまった。

 

 まだ悩んでいる……。

 傷つくのを恐れてあの独りぼっちの苦しみをずっと続けるか、いつ崩れるのかと怯えながら新しい家族との生活を選ぶか、を――。

 

 誰かの後押しが欲しくて、そんなことをぼやいてしまう。

 

 けどトレーナーは、今回ばかりは、あたしに厳しかった。

 

『ノープロブレムと、言って助言して上げたいところですが……これはボーガンさんが自分で決めなければなりません』

 きっとアドバイスをもらったらそれを真に受け止めて、自分自身の判断をちゃんとせずに決めてしまっていただろう。

 

 それをトレーナーには見透かされていたのだ。

『ただ――あなた自分で、幸せになることを諦めないで下さい。……それだけは私の口からお伝えします。それでは……』

 トレーナーはそう告げると、電話は一方的に切れる。

 

 まったく……手厳しい。

 自分で悩めと、いうのだ。

 

 あたしはフタを閉めたままの便座の上に座り、膝を抱えて物思いに耽る。

 

 昔、成績が伸び悩んで不調に悩んでいた時に、トレーナーから貰った『答えは自分の中にある』という言葉を思い出す。

 

 結局、あたしはどうしたいのか――。

 自問自答を繰り返す。

 

 あたしは、本当に幸せを諦めるの……? 諦めきれるの……?

 

 ただ嫌なことが続いて臆病になってしまった。

 けどそれでは何も始まらない。

 恐れていては、何も掴めない。

 

 それはレースだって、これからの人生だって同じことだ。

 

 あの時――全てが終わりかけた時、心の底から湧いて出てきた自分の感情……。

 

 ――幸せになりたい。胸を張って生きていたい。

 

 そう、願ったではないか――。

 

 まったく……あたしはバカだ。

 傷つくことを恐れて、幸せになることを諦めようとしていた。

 

 与えられた物で満足するだけ……それでは何も掴み取れない。

 

 ここが終着点ではない。

 まだこの道を駆け抜けている途中なんだ。

 

 自分のことを自分が信じなくてどうする……!

 

 ただなにもせずに悔やむようなことはしたくない。 

 ターフの上で駆け抜けてきたように、勇気を持って自分から前へ一歩進み出さなければ……。

 

 そのために今何をするべきか――答えはもう、わかっていた。

 

 あたしはトイレの個室から飛び出していた。

 そして勢いよくトイレの扉を開けると、入り口にはあたしのことを心配していたのだろう、トレーナーや松本さんが待ってくれていた。

「ど、どうしたの……もう大丈夫なの……?」

 松本さんは突然戻ってきたあたしの様子が少しおかしいことに気づき、気遣いの言葉をかけてくれる。

「はい……もう大丈夫です。ご心配かけて、すみませんでした」

 まずは心配をかけたことを謝る。

 

 これだけじゃ足りない。

 ……今度はちゃんと相手の目を見て、伝えよう。

 

「あと……さっきは失礼な態度で、ごめんなさい!」

 あたしは、一度大きく頭を下げて松本さんに向かって謝罪をした。

 

 そして数秒してから頭を上げ、まっすぐに松本さんを見つめながら、こういった。

「そして、こんなあたしでよければ――家族にして下さいッ!」

 一度はあたしに差し伸べられた手を、今度は自分から手を差し出す。

 

 いつもあたしは誰かに手を差し伸べられてきた――。

 けど、それだけじゃ変えられない。

 手を取るだけではなく、自分のこの手で掴んでいかなければ……。

 

 やまない雨はない。

 降り注いだ冷たさも、いつかは変わっていく。

 

 もう一度ここから始めるんだ。

 

「ええ、ええ……もちろんよ。これからよろしくね……」

 松本さんはあたしの手を大事そうにそっと握る。

 そして優しそうに微笑みかけてくれる。

 

 あたしも返すように、自然と笑みがこぼれていた。

 

 

 そうして――あたしに新しい家族ができた。

 

 これから大変なこともきっとあるだろう。

 けど傷つくことはもう怖くない。

 

 けして一人ではないのだから――。

 

 大丈夫、この道は未来に続いている。

 運命なんてものはいくらでも変えられる――もう運命を呪う必要なんかない。

 

 これまでの自分があったから、今の自分がある。

 

 だから一つずつ歩んでいこう。

 ウマ娘としてではなく、ただ一人の娘として、幸せになるためのその一歩を……。




例によって長くなってしまったので2本に分けました。

次回のエピローグで完結となります。


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エピローグ:運命のその先へ

 柔らかな朝の日差し。

 鳥たちが賑やかにさえずり、木々には花びらが咲き乱れる。

 春眠暁を覚えずとはよく言ったものだが、このような麗らかな春の陽光の前に、心地の良い静寂な朝の時間が流れる。

 まるで時がすぎるのも忘れてしまいそうになる。

 春の朝、平穏な日々の始まり……。

 

「……う、うわぁー! もうこんな時間だーっ!」

 と――そんな静かな朝の一幕に、とある一軒家の二階の部屋から、外にまで聞こえてくる叫び声に似た大きな声が響き渡ってくる。

 

 彼女は目を覚ますと、まず一目散に目覚し時計を確認する。

 すると顔を青ざめ、あのような悲痛な叫びを上げたのだった。 

 なんということだろう。

 昨日の夜に目覚ましをちゃんとセットしたいたはずだが、いつの間にかそれが止められており、すでにかれこれ十分程度は寝過ごしていた。

 予定していた乗るはずだった電車の発車時刻は過ぎており、これでは遅刻は免れないだろう。

 

 この情景を見ると、かなりずぼらな性格と思えてくるが、普段からこう朝に弱いわけではない。

 本来、今日は彼女にとって休日で、いつもの休みの日であれば、まだぐっすりとベッドの上で夢の中にいる時刻だった。

 

 しかし今日は朝から出かける用事があった。

 大切な人たちと久しぶりに再会する大事な約束が――。

 

 彼女はベッドから体を飛び出ると、前よりも少し伸びた髪を煩雑に後ろで結ぎ、気合を入れてオシャレをしていくのが少し気恥ずかしかったので仕事着のスーツに着替えると、部屋を出る。

 急いで駆け下りて転ばないよう気をつけながら、階段を駆け下りていった。

「あら~弓子、大丈夫? 間に合うの~?」

 先ほどの寝起きの騒動を一階から聞いていた彼女の母親は、娘の様子が気になったのか居間の扉を開けて、顔を出していた。

「うん、大丈夫……多分。それじゃお母さん、行ってくるね! わたし今日ちょっと遅くなるかもだから」

「は~い、気をつけて行ってくるのよ~」

 そう母親に見送られながら玄関を出る。

 

 失った時間を取り戻すべく、そのまま最寄りの駅に向かって走り出すその前に……何か忘れ物がないか、身だしなみは変じゃないか手鏡でチェックしたりと、急いでいる割にはまだどこか余裕が感じられた。

 一度腕時計を見て現在時刻を確認し、軽くその場で柔軟すると「よし――!」と、小さく掛け声を上げた後、彼女は颯爽と駆け出した。

 

 彼女の住む実家の家から最寄りの駅まではだいたい歩いて二十分ほどあった。

 しかし彼女が走れば……約五分程度になる。

 

 それはゆっくり漕いでいる自転車なら追い越せそうなぐらい、一般人と比べると速い速度だった。

 全盛期と比べるとかなり衰えてはいるが、やろうと思えば彼女はもっとスピードは出せた。

 しかし他の通行者もいるし、車などが走る道路も経由するのであまり速度を出しすぎると、危険なのでセーブしている。

 

 そのままペースを崩さず駆け抜けていくと、本当に五分程度で駅についてしまった。

 そのまま改札口を通り、駅のホームへ降り立つ。

 

 次の電車が来るのを待っている合間に、家から履いていた運動用のスニーカーから、リュックサックの中からフラットシューズを取り出し、ホームのベンチに座りながら履き替えておく。

 幸い電車を一、二本乗り遅れた程度で済んだ。

 これなら少し遅れただけと、言い訳も立つ。

 

 しかしあれだけ全力で走ったのだから、普通なら息を整えるのもやっとのところだが……彼女は軽く汗をかいた程度ですんでいる。

 それもそのはずだ。

 

 特徴的なウマ耳とウマ尻尾……彼女はウマ娘であった。

 現役を退いてから久しいが、先ほどの距離ぐらいなら、過去毎日のようにトレーニングで何回も走って鍛えられていたので、容易いものであった。

 しかしすでに本格化(ピーク)を終えて、身体能力も普通の人ととさほど変わらなくなり、現役の時のようにトレーニングも行っていない。

 人より多少早く走れる程度で、オリンピック選手のような鍛え抜かれたアスリートには到底敵わない程度の能力だ。

 

 そんな彼女はかつて、国民的人気誇るトゥインクル・シリーズという大人気スポーツ・エンターテインメントに、レースやライブをするウマ娘として参加していた。

 

 重賞と呼ばれる大きなレースにも何度か出走したこともある。

 だがけしてニュースやテレビで紹介されるようなスターウマ娘とは違い、さほど華々しい活躍はできなかったので知る人ぞ知る……といったところに落ち着く。

 今となってはいい思い出だと、当時を振り返り彼女はそう思う。

 

 そして今日はそんなウマ娘を養成する機関『トレセン学園』で知り合い、同じチームに所属して共に切磋琢磨し合った――チームのメンバーたちと久しぶりに再会する日だった。

 

 あれからもう何年も会っていない……。

 期待をしつつ、どこか不安もあった。

 

 彼女の中ではトレセン学園に居た時のまま時が止まっており、皆の現在の姿が想像もつかなかった。

 それほど長い時がたったわけではないので、あまり変わっていないかも知れないし、逆に数年で見違えるほど成長していて別人のように変わっているかも知れない。

 かくゆう自分も、身長はあいにくとあの頃から打ち止めで悔しいことに変わっていないが、一端の社会人にもなったし、少しは大人らしくなったと、自負している。

 自分だとちゃんと気づいてくれるかと、それはそれで少し心配になる。

 そういった意味でも皆と再会するのはとても楽しみであった。

 

 元チームメイトたちのその後の活躍ぶりは、本人たちの口から聞き及んではいないものの、ニュースなどで噂には聞いていたし、時間が合う時はレースをテレビ越しに観戦もしていた。

 

 対する彼女は、レースで競う世界とは程遠いところに身を置き、かつてトゥインクル・シリーズを駆け抜けていた面影は鳴りを潜めていた。

 レースから退き、しばらく立った後、彼女はレースで走ること以外のやりたい事――新しい目標を見出していた。

 

 かつて自分がそうであったように、競走ウマ娘を引退したものの、自分の行き場所を失ってしまった――または新しい生活にうまく馴染めず社会に孤立してしまった、そういった引退ウマ娘たちを支援できるような仕事につきたいと思いを抱いていた。

 自分が誰かに救われてきたように、一つでも悲しい出来事を無くしたい、辛い思いをしているウマ娘を救いたい……その志を胸に、彼女はそういった活動している協会へ勤めていた。

 

 協会に勤め始めて早一年が経とうとしている。

 まだこの協会は設立されて日が浅く、そこに勤める職員は日々右往左往し、忙殺されている。

 彼女もすべからく同様に、幾分か仕事には慣れてきたがまだまだ覚える事が多く、忙しい毎日を送っていた。

 仕事から帰ってそのままベッドに倒れ込んで眠ってしまうこともあり、大変な仕事な割にはそれほど給金も高くはなかったが、この仕事にやりがいを感じていた。

 

 自分の頑張りがどこかで、誰かの明日の為になるかも知れない。

 

 そう思うと、寝不足で辛くても朝早く起きれたし、不思議と大変な仕事でも頑張れた。

 ターフの上で走っている時と大差なく、今を輝いてみせた。

 

 そんな新しい生活を送っている折……二ヶ月ほど前に、招待状が彼女の元へ届いた。

 差出人は、トレセン学園でお世話になった担当トレーナーからで、かつてのチームのメンバーたちと、花見でもをしながら旧交を温めよう、という内容の催しだった。

 

 前に一度、彼女の住所を教えてあったが、未だに覚えていてくれており、こうして素敵なお誘いをくれた。

 こんなにも嬉しいことはなかった。

 二つ返事で返信用の封筒の記入欄に『参加する』に丸をつけて送り、当日を楽しみに待った。

 

 それが――今日だった。

 昨日も夜遅くまで仕事だったこともあるが、実のところ逸る気持ちを抑えられず、昨晩あまり寝付けなかったのも寝坊の原因でもあった。

 

 そのぐらい心待ちにしていた。

 あの時、交わした誓いを果たせるその時を――。

 

 ◇◆◇

 

 電車を乗り継ぎ、目的の駅へと到着する。

 そして駅から出て、案内板に導かれるまま歩いていくと、目的地へと辿り着いた。

 

 そこは大きくて広い公園だった――。

 その公園は平日の昼間だというのにシーズン真っ盛りのせいか、同様に花見をしに来た花見客で溢れかえっていた。

 思わず人混みに酔いそうになるが、彼女は招待状に書かれていた地図を頼りに、集合場所を目指す。

 

 人並みをかき分け、どうにか目的地の近くまで行くことができたが、周囲の花見客に混じって顔見知りを中々見つけることができずにいた。

 その場でキョロキョロと辺りを伺っていると、男性が彼女の元に近づいてくる。

 そして彼女にとっては懐かしい……聞き覚えのある声で話しかけられた。

「ああ、よくぞいらっしゃいました! こちらですよ、()()()()さん……あ、失礼。今は――()()()()さん、でしたね」

 顔はちょっと老けたかも知れないが――当時と変わらない、清潔感のあるスーツを着こなしている端正な顔立ちを持つ男性が、これは失礼しましたと、苦笑いしながら頭をかいている。

 

 彼女――かつてキョウエイボーガンと呼ばれていたウマ娘は、クスリと軽く笑うと、依然彼から向けられた言葉をそのまま返す。

「そのままで構いないですよ。わたし……あたしはあの時チームの一員だった”キョウエイボーガン”であることに変わりないから……。ね、トレーナー?」

 彼女は片目をつぶってウインクしてみせて、かつての担当トレーナー――長末樹生に目配せをする。

「……これはこれは、一本取られましたね」

 意趣返しに気づき、長末トレーナーはお返しとばかりに屈託のない、爽やかな笑顔をみせる。

 

 なんだか昔の光景を思い出せるやり取りであった。

 あの時と変わらない絆がここにはある。

「おおう、長末ーっ! 何やってんだあ。早くこっちに戻ってきやがれ!」

 そんな感傷に浸っていると、一度聞いたら中々忘れられそうにない、独特の喋り声が少し離れた場所から響いてくる。

「……ボーガンさんが最後に来ましたので、もうみなさんお揃いですよ」

 そう言って長末トレーナーは、手でその先を示す――。

 

 期待で胸が高まる……。

 

 その先に居たのは三人のウマ娘……時の流れを感じさせるように三人ともあの頃とはすこし変わっていた。

 けれどわかる……。

 見間違えることはない。

 

 彼女が知る皆――チームメイトたちが、そこには居た。

「よおボーガン、久しぶりだねえ……あんま背は変わってねえみてえだなあ!」

「ボーガン姉御、お久ぶりッス……ってルーブル姉御、再会の最初の言葉がそれってあんまりじゃないッスか……。あとマーチ、食べてばっかいないでお前も挨拶するッス!」

「うん? あ。ボーガンちゃんだ~、おひさ~。マーチはまた会えて嬉しいよ~。あとこれミッキーが用意した食べ物だけど一緒に食べる~?」

 ゆっくりと皆の元へ近づくと、三者三様に声をかけられる。 

 そしてあの時のままと変わらない、やり取りを交わす。

 

「みんな……久しぶり!」

 目一杯の笑顔を見せると、彼女は三人の元へ駆け出す。

 

 最後に交わした約束……それをきちんと果たせた。

 こうしてまた笑顔で再会することができた。

 

 今は共に楽しもう。

 いつか一緒に騒いでいた時のように……。

 その時だけは、トレセン学園にいた時の『キョウエイボーガン』に戻っていた。 

 

 

 来たる未来は自分次第、運命だってこの手で変えられる。

 幸せは、きっとここにあるから――。

 

 桜の花びらが咲き、散り始める季節……。

 出会いがあれば、別れも来る。

 終わってはまた始まる、始まりのための終わり。

 

 運命のあの日――。

 大きな変革をもたらしたあの大舞台――。

 

 良いことばかりではなく、辛いことや心が折れてしまったことや色々あったけれど……あの日あのレースに出て走ったからこそ、今日に繋がっている、未来に続いている。

 レースにでなくてもこの道を――自分の道をちゃんと走っていける。

 

 そう思える人生(これから)にしていこう。

 胸を張って前を向いて進もう。

 

 かつて自分がターフの上で駆け抜けたことは忘れない。

 当時の名前はもうなくなってしまったけど……かけがえのない大切な思い出としていつまでも大事にしている。

 そして今という自分に刻んでいく……この道を歩んでいく。

 

 紆余曲折の末に……数奇な運命の果てに、たどり着いた結末(みらい)――。

 しかしこれで終わりではない。

 道はまだ続いていく。

 

 これからも紡いでいこう、自分だけの物語を……。




遅くなりましたが、これにて完結となります。
読んでいただいた方には、厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました!

またいつか別の作品を投稿できたらいいなと、思います。
それでは・・・。


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サイドストーリー
3.5話:休息


これは本編完結後に、後から追加したおまけエピソードとなります。
※読まなくても、本編に支障はございません

時系列的には3話の後、
キョウエイボーガンが長末トレーナーのチームに入ったばかりの頃(クラシック級の五月頃)のエピソードです。


 春の陽気というにはいささか温かみがました、季節は誰もが浮かれる大型連休の時期を迎えていた。

 

 そして今日はそんな楽しかった連休の最終日……束の間のまとまった休日の終わりに、どこか名残惜しさを感じる。

 しかし明日から始まる新しい日々は一旦忘れ、今日も今日とて精一杯最後の休日を満喫しよう。

 そんな人々の思いがうっすらとすれ違う人々から感じ取れるようであった。

 

「……待ち合わせにはちょっと早いかな……?」

 腕時計かわりにスマホを取り出して時間を確認するキョウエイボーガン。

 彼女は今日、チームメイトであるバニータルーブルから呼び出しを受け、朝早くに集合場所である駅の改札口前に来ていた。

 

(昨日、いきなりチーム合宿するから朝八時に駅前集合って――結構無茶いうなぁ、あの先輩は……)

 突然の連絡だったのにも関わらず、それを反故にせず律儀に守ってしまうあたり、付き合いがいいというべきか、強く断れず振り回されてしまうというべきか。

 そんな自覚がありつつも、結局付き合う羽目になってしまった。

 

 

 その連絡があったのは、復帰戦を再来週に控えて、最近の日課となっている夜の自主鍛錬のマラソンから戻った後の、寮の部屋でシャワーを浴びて一息入れた時であった。

 携帯電話の不在着信を示すランプが点灯しているのに気づき、誰からの電話だろうかと確認をすると、先日加入したチームの先輩――バニータルーブルから数分おきに何件も着信があったのである。

 

「…………」

 何とも言えない嫌な予感にさいなまれながらも、このまま無視するのもためらわれたので、折り返し電話をかけることにする。

 

 しばらくのコール音の後、バニータルーブルへと電話が繋がる

「――あ、もしもしバニータルーブル先輩ですか? なんかあたしのところにいっぱい着信が来てたんですけど……」

『おう、ちと急用があってな……ボーガン、おめえ明日暇か? いんや暇だろ?』

「え、まあ……暇かどうかといえば、暇だとは思いますけど……」

 世間ではゴールデンウィークの真っ只中で、明日はその最終日。

 自分のやることといえば、休日用のトレーニングメニューをこなすぐらいで、これといってどこか出かけるとか用事はなかったが、このバニータルーブルの有無も言わさぬような絡み方というか謎の距離感が未だに慣れずにいた。

『おうしっ。じゃあ明日チーム全員参加の合宿するから、朝八時に駅前に集合でえ! 水着持ってくんのを忘れんなよお! んじゃあなあ!』

「――え? どういう……」

 一体どういうことなのかと問いただす間もなく、一方的に通話は切られる。

 もはや電話からは無機質なビジートーンだけしか聞こえない。

 

 

 今思い返しても頭が痛くなってくる。

 よくこれでちゃんと来よう思えたのだから、彼女自身、自分を未だに信じられないでいた。

 ていよく理由を思いあげるならば……『断る理由が思いつかなかった』、そんな理由だけで今ここ――集合場所に居る。

 

 集合場所についたはよかったが、休日のかいあってか、駅の改札口は人通りが多く、チームの面々をそこから探し当てるのはなかなか困難であった。

「おーい、ボーガンさーん、こっちッスよー!」

 そんなまるで上京してきたお上りさんのようにあたりをキョロキョロさせていると、彼女のことを呼ぶ元気な声が上がる。

 

 彼女は呼びかけられた方を振り向くと、すでにチームメンバー――三人共揃っていた。

「これで全員集合ッスね! けど、昨日の夜に言ってくるのは突然すぎッスよ……」

 キョウエイボーガンに声をかけた白髪のショートヘアーのウマ娘――オーサムラフインは、隣りにいる小柄のウマ娘に対して少し非難の声をあげる。

「まあいいじゃあねえか! こうして集まったってえことは、どうせ暇だったんだろ、おめーらもよお! カッカッカッ!」

 高笑いを上げながら赤茶色の長い髪のウマ娘――バニータルーブルはバンバンとオーサムラフインの背中をバンバンと叩く。

 力の加減というものを知らない彼女の平手は、悲痛な悲鳴をあげさせたのは言うまでもない。

「あはは~確かにマーチはずっと部屋でゴロゴロしてたから、全然オッケーだったよ~」

 そんな今の状況をどこか楽しんでいるような、間延びした口調で話す黒髪のポニーテールのウマ娘――アントレッドマーチは、いつもマイペースっぷりを発揮していた。

「……で、合宿って、どこへ行くんですか……」

 見慣れつつあるこのチームの面々とのやり取りに軽く頭痛を覚えながらも、ただ『合宿する』としか言い伝えられていなかったので、肝心の行き先を訪ねる。

 するとニヤリと口元を緩めながら、バニータルーブルはこれが質問の答だとばかりにどこか遠くの方を指差しながら強い口調でこう言い放つ。

「どこってそりゃあ……合宿といえば相場は海に決まってんだろうがよお!!」

 再びキョウエイボーガンは頭痛にさいなまれる結果となる。

 

 水着を持ってこいと、言われた時から嫌な予感はあった。

 できれば別の用途で使うと信じたかった。

 しかしものの見事に予感は的中してしまう。

 

 いくらか暖かくなってきたとはいえ、よりにもよってこの五月という季節外れの時期に、海へ行くはめになるとは露にも思わなかった。

 いっそ泳ぐのが目的なら、トレセン学園にあるプール施設で事足りる。

 

 そのことを提案してみたものの、『風情がない』というよくわからない理由で、即座に却下される。

 そしてそのまま、困り果てているキョウエイボーガンとは対極に、他の面々は妙なハイテンションをみせつつウキウキで、次々と改札口を通っていく。

 それに飲み込まれながらも、彼女はしぶしぶと付き合うことになった。

 

 ◇◆◇

 

 小波が聞こえる。

 磯の香りが強く鼻を刺激していく。

「「「「海だーっ!!!」」」」

 人――いや生きとし生ける物はなぜ海を前にすると、つい叫びたくなるのだろうか……。

 そこに深い理由などはない。

 それは本能――あるいは心が叫びたくなったから、そう叫ぶのだ。

 

 どこかの映画やドラマの一コマのように、四人は仲良く手を繋いで、海原をバックに浜辺で一斉にぴょいっとジャンプする。

 もう高まる鼓動をおさえきれず、早速水着に着替えた四人は、和気あいあいキャッキャウフフと楽しげな声を上げながら海向かって駆け出し、その勢いのまま海に飛び込んでいく。

 サンサンとまではいかないが、ほどよく降り注ぐ太陽の光と、ほとばしる水しぶき――まるで青春の一ページを切り取ったかのようなシチュエーションだ。

 

 だが、一瞬にしてその熱気は冷めていく。

 その物理的な寒さによって……。

「「「「寒ッ!!」」」」

 まだ五月という水の冷たさには、その場のノリと勢いでは太刀打ちできず、皆一斉に海から引き返していく。

「いやいや、これマジで無理ッス。誰ッスか、こんな時期に海行こうって言い出したのは……」

 寒さでがたがたと体を震わせながら、オーサムラフインは今回の合宿の発案者の方を冷ややかな視線を送る。

 しかし等の本人は、何が楽しいのか愉快そうに笑い転げていた。

「あっはっははーっ! いやあ、勢いだけじゃあなんともならんかったかあ!!」

「ちょ、笑ってる場合ッスか!? まったく……ほらみんな、これで早く体拭いてくださいッス、風邪引くッスよ」

 と言ってみんなにタオルを配って回る、気の利くオーサムラフインであった。

 タオルを受け取り、冷たい海の水で濡れた体を吹いていると、キョウエイボーガンはふと我に返る。

(……あたしは一体何やってたんだろ……)

 ついその場のノリというか勢いに押されて、柄にもなくはしゃいでしまった。

 よくよく考えれば五月の海が泳げる温度じゃないのは気付けるはず……なのに周りの妙なハイテンションに感化され、何も考えなしに海に突撃してしまった。

 そんな突飛な行動をとってしまうロケーションによる効果というものは末恐ろしいものだ。

「――海かぁ……」

 遠くの水平線を眺めながら、キョウエイボーガンは独りごちる。

 こうして誰かと海に行くなんてもう何年ぶりだろうか……小さい頃のこと過ぎて、思い返すのも一苦労だった。

 

 あれはまだ小学生の頃だろうか、たまの夏休みに彼女が義理の祖父に無理を言って、海に連れて行ってもらった時のことだ。

 本当に楽しかった――。

 今思い返しても色褪せない、大切な思い出……。

 義理の祖父のことを思い返すのは少し辛く、切ないけれど、前ほど悲しみには暮れておらず、すでに踏ん切りはついていた。

 

「こらぁマーチ! その犬みたいに水しぶきを飛ばすの辞めるッス!」

「うぇっへっへ……ここか~、ここがええのんか~?」

「ちょ、やめ――冷たぁっ!」

 遠くの方でオーサムラフインとアントレッドマーチが仲睦まじくはしゃいでいる姿が見える。

 

 水しぶきを受け、みずみずしくもオーサムラフインの身体に水が滴り落ちていく。

 その身体はまだどこか未成熟さが残るが、ちゃんと出るところはしっかり出ており、これからの成長に期待がもてる……そんな感想が思い浮かぶ。

 そしてもう片方の、身体を震わせながら水を飛ばして遊んでいるアントレッドマーチのたわわな果実がこれでもかと跳ね上がる。

 モデルのようなスラッとした体型と、それに反比例するかのようなまさにわがままボディというのを体現したその魅惑的な身体がまばゆく輝く。

「…………」

 そんな弾ける彼女たちの健康的な身体に見とれていると、ふとキョウエイボーガンは自分の胸に手を当ててみる。

 そして後輩たちの発育の良さに、内心舌打ちを打ち、敗北感からか肩を落としてガックシとうなだれてしまった。

「おう、ボーガン。どうしたよ、そんなしょぼくれた顔をしてからに……」

 威勢のよい声が急に聞こえる。

 どうやらバニータルーブルが話しかけてきたようだ。

 

 声の主の方をゆっくりと顔を向けると、その小さな身体が視界に入ってくる。

「!?」

 お世辞にも豊満とは言えない、はっきり言ってしまえば幼児体型というのがしっくりくる……そんな彼女の身体を目の当たりにし、驚いて二度見してしまう。

 

 先程まで落ち込み暗い表情はどこへやら、再度釘入るようにバニータルーブルをつま先からてっぺんまで舐め回すように見つめると、ぱあっと表情を明るくする。

 そして彼女のその自分とさほど変わらない体型を見て、キョウエイボーガンは急に親近感というか、仲間意識がだんだんと芽生えていく。

「先輩……お互い、頑張りましょうね!!」

 ぐっと握りこぶしを作りながら、そんな謎の意気込みを急に語りだすが、しかして視線は自分と相手の胸を方をチラチラと見比べていたため不自然に下がっていた。

「……おめー、一体どこ見て言ってやがんだあ、あぁん?」

「――あ痛っ!」

 なんとなくその言葉の意味を察したバニータルーブルは、相手の頭上にチョップを入れて、制裁を食らわせた。

 加減を知らないことで随一の彼女のチョップは大層痛かったという……。

 

 ◇◆◇

 

 海に入らなくとも、浜辺でのトレーニングは十分に行える。

 例えば砂浜を素足で走り込みをするだけでも、普段の芝やダートと走るのとはまた違った足腰の力を鍛えられたりする。

 そんなただ走るだけといえばそれで片付けられてしまうようなトレーニングを何本か全員で行った後、単調な鍛錬に少し飽きてきたのか、オーサムラフインが嘆きの声を上げる。

「ルーブル姉御~。もうランニングは飽きてきたッス。せっかく海に来たんだから、もっと海っぽいことしたいッスよ~」

「んなこたあ言われてもねえ……オレはなんも用意してねえぜえ?」

 大げさに首を傾げてみせ、逆にどうしたらいいと、言いたげそうな表情を浮かべる。

 まさかのノープラン、ただ本当に海に行くという目的しかなかったもよう。

 

 しかしその返答は想定内だったのか、オーサムラフインは自分のカバンを漁ると、ビーチボールを取り出して、一気に口で空気を入れて膨らませる。

「フッフッフ、こんなこともあろうかと……ビーチボールを持ってきたッス!」

 どやぁと言わんばかりに高々とビーチボールを掲げ、フフンと得気な顔を見せつける。

 普段であればその調子づいている顔を見せるたびにバニータルーブルがデコピンとかを食らわせて黙らせていたが、今回ばかりはその機転に賞賛を送った。

「おうおうラフインさんよお、随分と用意が良いじゃあねえの悪くねえのって……んじゃあいっちょ、ビーチボールでもやっかあ!」

 バニータルーブルがそう高らかに叫ぶと、まるで打ち合わせたかのようにキョウエイボーガンを除いて皆、一斉にそれぞれ散らばっていく。

「あ、え――? 何?」

 一人だけポツンとその場に残される形となって、自分がどう動けば良いのかわからず、他の三人の顔を次々と見返す。

「そんなところに立ってないでボーガンちゃんも離れて離れて~。早く始めるよ~」

 普段のんびりマイペースなアントレッドマーチにも遅れを取り、彼女の口からそんなツッコミをもらう羽目になる。

 とりあえず他の見様見真似で、その場から慌てて駆け出し、距離を取る。

「んじゃ……オレから行くぜえ!」

 そう言ってバニータルーブルはビーチボールを下から思いっきり叩き上げる。

 ボールは水面に浮かぶような軽い代物なため、宙高く舞い上がった。

 風に揺られながらゆっくりと放物線を描きながら、オーサムラフイン付近に落ちていく。

「……よっと! 次マーチ、行くッスよ!」

 落下予想地点に素早く移動すると、同じくレシーブで上空に打ち返して、今度はアントレッドマーチのほぼ近くへとゆっくり落ちていく。

「ラフインちゃんうまいね~、それじゃ~次はボーガンちゃんだよ~」

 オーサムラフインの絶妙なコントロールのかいあってか、ほとんど動くことなくビーチボールを打ち返すことができたようだ。

 そしてキョウエイボーガンの元を狙いを定めたが、少しずれて離れた場所にボールが飛んでいく。

 

「――ッ!」

 その時、キョウエイボーガンは放たれた弾丸のように駆け出した。

 ボールの落下しそうな位置はここから多少離れてはいるが、走れば十分間に合う距離だった。これぐらいの距離ならいつもランニングで走り込んでいるのでなおさらである。

 

 だが、ついいつもの癖で、ゲートからのスタートダッシュの感覚で飛び出してしまった結果、勢いをつけすぎて、ボールの落下位置を軽く数十メートルは追い越してしまった。

 無情にも、ボトリとキョウエイボーガンの背後で砂浜に落下する音を聞くこととなる。

 

「わ~ごめんね~ボーガンちゃん~」

「ナイスガッツッスよ、ボーガンさん~」

「ドンマイ、ドンマイ~」

 純粋に楽しそうな三者三様の声が上がる。

 合宿のトレーニングとはいえ、これはお遊びのようなもの……そう認識してはいるのだが、何か胸の奥から湧き上がるものを感じるキョウエイボーガンであった。

「――もう一回っ!」

 ビーチボールをバニータルーブルの元へ力強く投げ返すと、リトライを要求する。

 その瞳には、まるでこれからレースに望むような強い意思を秘めていた。

「お? 乗り気だねえ……それじゃあもういっちょ行くぜえ!」

 先程と同じようにボールが空高く打ち上げられる。

 

 しばらくそのままビーチボール遊びに興じることとなった――。

 

 ◇◆◇

 

『ハァハァハァ…………』

 もうかれこれぶっ通しで一時間以上は続けていただろうか。

 肩で深く息を吐き、手を膝について流石に疲労を隠せないでいた。主にキョウエイボーガンが……。

 

 なぜか何か狙ったように、大きく軌道がずれたボールが彼女の元に集まったからだ。

 それに加え、明らかにボールが明後日に飛びすぎていて、走っても間に合わなそうなボールまでも追いかけ、その度に全力スプリントをしていたせいでもある。

「……ちいっとここいらで、休憩するかねえ」

 そうバニータルーブルが提案すると、キョウエイボーガンは崩れるようにその場に座り込んでしまう。

(――ふぅ……。あたし、何やってたんだろ……)

 一息つくと、ふと我に返り、少しボールを打ち返すことにムキになりすぎていたことに気づく。

 思い返してみれば、遊び半分で始めたこのビーチボール遊びだったが、意外と鍛錬になっていた。

 

 足場の悪い砂浜と不規則に揺れるボールを追いかける瞬発力、落下位置を即座に予測する判断力などなど……これは普段のトレーニングに活かせるかもしれない。

 そんな自分の成長につながるかもしれないなどと、つい考えてしまう。

 

 それにしても目を見張ったのは、オーサムラフインの天才的な上手さだった。

 ボールの落下予想位置の正確さしかり、どこに落ちても対応できるような位置取り、なにより相手のボールの打ち上げ方がほとんど相手の位置直ぐ側という、絶妙なコントロールを何度も見せた。

 普段はお調子者でそんな片鱗は見れないが、意外とクレバーなのかもしれない。

 

 そんな隠された一面を発見していたころ、辺り一帯にアントレッドマーチから大きなお腹の音が鳴り響いた。

「マーチ、お腹がすきました~。何か食べ物を所望します~!」

 どうやらガス欠の合図だったようである。

 もうなにか食べないと一歩も動けませんというように、大の字になってその場に寝っ転がる。

「食い物ねえ……このシーズン外れに海の店はやってねえなあ」

 自分たち以外にもちらほらビーチで享楽に勤しんでいる観光客が見受けられるが、出店らしきものは一切見られなかった。

「そんなこともあろうかと……じゃ~ん、持ってきたッス! みんなでスイカ割りするッスよ!!」

 今回やけに準備のよいオーサムラフインである。

 またしても自分のカバンの中から、ガサゴソと取り出す。

 

 しかしそう言って彼女が取り出して見せたのは、どう見てもスイカではなく……色と形はまあ似てもなくはない瓜違いの野菜であった。

「……カボチャじゃあねえか……」

「カボチャだね~」

「うん、カボチャだね……」

 これ本当にスイカ割りの要領で割ってそのまま生で食べるの? そんな何とも言えない雰囲気が流れる。

 この時期なのでまだスイカは売っていなかったので、代わりに似たようなカボチャを買っておいたというわけだが……流石に無理があった。

「……まあこれは長末の土産にするかあ」

「そうッスね……」

 取り出したものをそっとしまい、カボチャの処理はこの場にいない長末トレーナーに押し付けるということで方がついた。

 

 ちなみに今日は予定が埋まっているとのことで、長末トレーナーの合宿参加は見送られていた。

 

 ◇◆◇

 

 お腹が空きすぎて生のカボチャをそのまま食べようとしたアントレッドマーチを引き剥がしつつも、最寄りのコンビニで食料を調達し、無事栄養補給を済ませる。

 ちょうどお昼ごろだったのでいい昼休憩となった。

 

「んじゃそろそろ腹ごなしに動き出しますかねえ」

 十分に休憩は取れたので、約一名「え~もっと休みたいッス~」と苦情が出たが、合宿を再開する流れとなった。

「今度は趣を変えて……いっちょ真剣勝負と洒落込もうぜえ……」

 大胆不敵にニヤリと不敵な笑みを浮かべると、バニータルーブルはその辺に落ちている棒切れを拾い上げる。

「……それで一体何をやるつもりッスか……?」

 すでに嫌な予感がプンプン漂っていたが、一応確認のためオーサムラフインはそう訪ねる。

「何ってそりゃ……砂山崩しに決まってんだろおぉ!?」

 そう得意げに語りだすが、もはやトレーニングでもなんでもなかった。

 ただの遊びである。

「地味ッス! 激しく地味ッスよ!?」

 

 そんな一悶着があったにしろ、せっかくなので何戦か砂山崩しで遊んだ。

 

 力任せに砂を崩して自爆したり、姑息な手段を使おうとして反則負けしたり、勝負事となると全力を出しすぎて自滅する者が続出する中……アントレッドマーチがそのマイペースっぷりを遺憾なく発揮し、誰の揺さぶりにも動揺せず、正確無比な手さばきを見せて圧勝して終わった。

 ここ一番での度量大きさというのを彼女から感じずにはいれなかった、新しい発見である。

 

 しかし……ただ無言で砂山を作っては崩すという果てしなく地味な遊びに、小学生ならいざしらず、すぐ飽きがきてしまったため自然と終了となる。

 

 

「そういやあボーガン。おめーさんは、なんかやりてえ事とかねえのかい?」

 そんなことをふと尋ねられる。

 そういえばキョウエイボーガン以外は一通り何かしらの提案をして、それをみんな一緒に実行していた。

 その流れで彼女の希望を聞いたのであろう。

「えっと……ショットガンタッチとか……?」

 最近スポーツ番組でそれを観ていた影響だろうか、なぜかパッと思いついたことがそんなことだった。

「ボールはあるから……出来なくはねえか……」

 テレビで観た奴だと、ボタンを押すと一定距離からボールが落下していくので、そのボールが地面に付く前に触れられたらクリアという、一種のスポーツのようなものである。

 誰かがボールを投げてやれば、今の環境でもなんとかできそうであった。

「はいはーい、それじゃあボクがボール投げるのやるッスよ~」

 こんなときだけ元気よく、いの一番でボール投げて落とす役を買って出てくる。

 

 どうみても運動量の少ない楽な作業を選んだとわかったが、一定距離を正確にボールを投げられそうなのはオーサムラフインが適任ではあった。

「んじゃ早速やってみっか、ほれっ」

 ビーチボールをオーサムラフインに投げ渡すと、「合点承知ッス」と言って、オーサムラフインは駆け出し、いきなり20mぐらいは距離を取った。

 確かテレビでは体力自慢の有名人が13m行くか行かないかの最高記録を出していたはず……それを遥かにこえている。

「――もちろんウマ娘なら、これぐらい余裕ッスよね~?」

 と、満面の笑みで遠くからオーサムラフインが大声でそう確信犯的に煽ってくる。

「あのトンチキめ……いっぺんしばいたろか……」

 明らかに調子づいている彼女にお灸をすえてやろうかと肩をブンブン振り回して一発ポカリとやる準備をしたバニータルーブルだったが、背後から物凄い力で肩を捕まれ、制止される。

 その時――空気の温度が変わっていた。

「面白い――やろうかっ!」

 そういったことに耐性がまったくないのもあったが、すでに闘志がメラメラと火がついているキョウエイボーガンがそこに立って居た。

 もうこうなった彼女を止められるものは、存在しなかった……。

 

 その後、楽々と最初の20mを突破するも、オーサムラフインはまたまた調子に乗って距離を勝手に伸ばしては、さんざんと「これくらいできるッスよね~?」と、煽り倒すのを繰り返した。

 しかしキョウエイボーガンはそれをまったく意に介せず、「もっとやれるが?」という風に無言で淡々とクリアしていき威圧をかけ、逆に戦々恐々とさせた。

「す、すみませんでしたッス! ボーガンさん……いえボーガン姉御!」

 そんな詫びが入るまでに、そう時間はかからなかった。

 余談ではあるが、その日からキョウエイボーガンに対する『姉御』呼びが、定着していった。

 ちなみに記録は、すでに30mは軽く超えていたという――。

 

 ◇◆◇

 

(……はあ疲れた……。今日何やっていたんだろ、あたしは……)

 時間はあっという間過ぎて、夕暮れの帰りの電車の中。

 比較的空いている車両の座席に座る一同。

 オーサムラフインとアントレッドマーチは疲れからか、座席に座りながら、お互い寄りかかって寝息を立てていた。

 

 結局あの後もトレーニングと称して、はしゃいでしまった。

 振り返ってみれば、合宿とは名ばかりで、くたくたになるまで遊び倒しただけであった。

 復帰戦を控えた大事なこの時期……ちゃんとしたトレーニングもせず、こんな一日棒に降ってよかったのだろうか、そんな罪悪感がキョウエイボーガンに少し浮かび上がる。

「…………」

 しかし自然と嫌な気分ではなかった。

 最初は乗り気ではなかった。

 しぶしぶ付き合っていたと思う。

 けれどいつの間にか、チームの皆と一緒にはしゃぐのがとても楽しくなっていた。

「――少しは気分転換になったかい?」

 そんなキョウエイボーガンの心中を察したかのように、オーサムラフインとアントレッドマーチを挟んで横にいる、バニータルーブルに小声でそう訪ねられる。

 

 途中から気づいてはいたが、やはり合宿ではなかったのだ。

 合宿で本格的にトレーニングするなら、長末トレーナーが無責任にも放置するわけがないだろうし、しかも突発的に計画したのがよくわかるほど色々ノープランぶりを見ていれば誰でもそれぐらい気づけたであろう。

「ええ。まあ……」

 と少し言葉を濁すように、はにかんだ苦笑いを浮かべる。

「ただ、大事なレース前にこんな遊んでてよかったのかなあって……」

 それを見透かしたようにぼそりとバニータルーブルは語りだす。

「……レース前にトレーニングに打ち込むのも大事だが――まあそう根詰めるこたあねえさあ。リラックスしていつも通りやってりゃあ、案外どうとでもなるもんだぜえ?」

 そう彼女に言われ、ここ最近根詰めてトレーニングしていた自分を、気を使って今日息抜きに誘ってくれたことに気がつく。

 それに後輩たちも今日は楽しんでもらおうと色々気を使ってくれていたような気がしてきた。

「そうですね……。今日は色々ありがとうございました、ルーブル先輩」

 今朝まではこのチームメンバーとは少し距離を置いていた自分がいた。

 けど今はそんな壁を作るのがバカらしく思えてきた……そんな気持ちの現われか、自然と少し砕けたような呼称になっていた。

「まあいいってことよ……それに礼は、こいつらにも言ってやってくれ」

 と彼女は無防備な寝顔を晒している後輩二人――オーサムラフインとアントレッドマーチを方を見て、普段めったに見せないような優しい笑みを浮かべた。

 

 その後、疲れて寝ている後輩たちを起こさないようにか、二人の間には会話は特になかった。

 けれど――それだけで十分だった。

 

 前に所属していたチームは、周りもそうだったし、自分もストイックに独りでいつもトレーニングをしていた。

 独りでいると目の前にトレーニングに集中できたし、結果もデビュー戦勝利というのを残せた。やり方は間違っていなかったと思える。

 けどそれだけじゃない……。やり方や鍛錬の方法に正しさなどなく、千差万別無数に答えはあったのだ。

 今日みたく、みんなで楽しくわいわいとやるのも――独りじゃないのも、悪くない。

 色んな刺激や、影響を受けれた。みんなの思わぬ能力が見れて楽しかった。

 

 このチームに入れてよかったなと……どこかそんな満足感を得ていた。

 

 

 翌日、一日中動き回っていたせいか、普段使わないところへの筋肉痛が響き、気だるそうにしていたら五月病と間違われたり……この時期に日焼けしているのをクラスメイトに驚かれたりもしたが……それはまた別の話しである。




投稿が大変遅れました。本当に申し訳ありません。

今回のエピソードは、いわゆる・・・日常回となります。
本編ではキョウエイボーガンの日常のシーンが少なかったため、
それを補完する形です。

追伸:
テイオーとスカイの夏合宿の「ウミダー!」が好きです。

微妙な誤字などを修正(2022/7/12)


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歩くような速さで プロローグ

これは本編完結後に、後から追加したおまけエピソードとなります。
※ここから読んでも多分支障はないです

本編の最初の話はこちら

時系列的には本編の3話と4話の間の、サイドストーリーの3.5話の続き。

キョウエイボーガンの怪我明けの復帰戦のあたり(クラシック級の5月末頃)のエピソードです。


 トゥインクル・シリーズ――。

 

 今やその名を聞いたことがないというのが珍しいほど、国民的なスポーツ・エンターテイメントとして認知され、ファンから熱狂的な支持を受けている、ウマ娘が贈る祭典。

 毎週土曜日と日曜日に行われ、華やかな晴れ舞台を彩っている。

 ウマ娘たちが栄光のセンターを目指して、互いに全力で競い合い、レース後の一流アイドル顔負けのライプパフォーマンス――。

 その臨場感たるや、観るものすべてを熱狂の渦へと引き込むこと間違いないであろう。

 

 まるで夢のような空間……それがトゥインクル・シリーズ。

 

 その楽しみ方は千差万別に様々があるが、やはり一番の醍醐味はレースであろう。

 観客(ファン)たちの応援を一身に背負い、たった一つの一着を目指してそれぞれのウマ娘が駆け巡る。

 

 そこには真剣勝負の世界が広がっている。

 

 皐月賞、ダービー、菊花賞のクラシック三冠レース……。

 宝塚記念や有馬記念のグランプリレース……。

 そんな最も格付け高い”GⅠ”を、何度も勝利し、栄光を掴み取る――トゥインクル・シリーズを目指すものなら誰しも一度は夢見るだろう。

 

 ほんの数年間の事であったが、わたしもレース(そこ)で走っていた。

 

 と言っても、残念ながらわたしは、夢を叶えたトップスターたちとはほど遠い存在のままで、舞台を降りた。

 

 まあトゥインクル・シリーズに出場できたってだけでも、選りすぐりのエリートの内なのだと周りから言われるけど……。

 でもやっぱり、レースに出るなら誰だって自分が勝ちたいし、憧れて目指した場所で、活躍したいと思うのは当然のことだと思う。

 

 でもそれを成し遂げられるのは、ほんの一握り……。

 運や実力……そのすべてを兼ね備えたものだけが、その頂へと登れる。

 

 そんな儚くとも厳しい理を持つ世界――。

 一度のレースで勝者はたった一人だけという、果てしなく狭き門。

 そして勝って勝って勝ち続けなければ、栄光には辿り着かない。

 

 その競争の中で、生き抜いていけない、勝てない者はやがて淘汰されてしまう。

 

 わたしもその内の一人だったということ……。

 

 思えば辛いこと、悲しいこと、色々あった。

 けれどけして無駄だったとは思わないし、誰に揶揄されようとも、”くだらない”ものではなかった。

 まあ……今だからこそ、そう思えるのかもしれないけど。

 

 それでもたった一つの”この事実”までは揺るがない。

 

 そう、確かにわたしは、あの時あの場所で――幾多の強豪たちと共に駆け抜けていた。

 中央(トゥインクル・シリーズ)に、わたし……あたしも、()()()()()()()()()として、厳然と存在していたのだ。

 

 ――その事実だけは変わらない。

 

 それがあたしの残っている、僅かな『栄光の光』である。

 

 そんな過去の記憶を探ったせいか、どんどん色んなことを思い出す。

 何だかトレセン学園に通っていた時期がずいぶんの昔のことにも思えるし、昨日のことのようにも思える。

 それぐらい毎日が充実していて、濃縮された日々だった……。

 

 競争ウマ娘を引退し、トレセン学園とは離れた後も、トゥインクル・シリーズのことは、テレビや時にレース場に赴いて観戦し、ただの一ファンとして追いかけていた。

 

 毎年のクラシックの三冠レースは欠かさず観たし、応援している出走者にはファン投票もしたこともある。

 

 そうそう――。

 トレセン学園在学中に知り合った子が、大きなレースに勝利した時は、すごく嬉しかったなぁ。

 まるで自分のことのようにはしゃいだよ。

 それを成し遂げられるのが難しいのを知っている分、余計に感動しちゃった……。

 

 一度、身を置いたからこそ分かり得る。

 いつだってレースに出走するウマ娘たちの表情は、真剣そのものというのを。

 

 たった一つの勝利めがけて、死力を尽くす。

 譲れない勝利(もの)をかけて、互いに火花を散らす。

 

 きっとその一進一退の白熱の攻防が、観る者の心つかんで離さないのだろう。

 

 特に、オグリキャップにタマモクロス、テイエムオペラオーにナリタトップロード、ウオッカにダイワスカーレット……そういったライバルとの激闘は世間を大いに賑わせた。

 いつの時代もライバルとの熱い激戦が、勝負(レース)を盛り上げてくれる。

 

 今度はどんな名勝負が見れるのだろうか……そう期待に胸を膨らませる。

 

 ふと、そこで思う。

 

 あたしが中央で走り抜けた十三度のレース。

 自分にもそんな、共に競い合う『ライバル』と呼べた者が居ただろうか――。

 

 例えば……。

 

 そう、強敵としてすぐに思い浮かぶのは、やっぱりあの”ミホノブルボン”であろう。

 GⅠ三勝の無敗の二冠ウマ娘……あたしたち同期の中では飛び抜けた存在だった。

 そしてそのミホノブルボンの三冠を阻止した、漆黒のステイヤー、ライスシャワー。

 彼女もGⅠや重賞レースを何度も優勝している面目躍如の逸材。

 

 もはやこの二人のことをあえて語る必要もないほど、人気・知名度・実力を兼ね備えた強大な相手と言えよう。

 

 けど……どうもしっくりこない。

 

 彼女たちのことを、自分と同じ系列に、肩を並べられるような”ライバル”だったとは思えなかったのだ。

 

 まあなんせ実力が違いすぎたし……あたしなんかはGⅠに一度も勝てたこともない、数多あるトゥインクル・シリーズの歴史の中で埋没してしまいそうな、そんな小さな存在だったから。

 

 偶然にも同じ年のクラシック世代で、何回か一緒のレースに出走しただけ。

 あくま彼女たちの話題性に付属していただけの、たまたま脚光を浴びている彼女たちの前に、ほんの一瞬、影としてよぎったようなものだろう。

 だから恐れ多くも、彼女たちのことはライバルとは呼べない、かな……。

 

 じゃあ他に誰がいるのか……と思い当たる節があるなら、チームメイトの先輩と後輩の()()()()のことだろうか――。

 

 確かに、並走トレーニングや、練習などで何度も競ったこともある。

 時にはお互い全力の本気の勝負もした。

 けど……残念ながら、実際のレースでは一度も勝負したことはなかった。

 

 ライバルというよりも、どちらかというと同じチームの『仲間』という意識のほうが強いかなぁ。

 

 と、ここまで振り返ってみても、なかなか答えにたどり着かない。

 でも……かすかに覚えがあるんだよね。

 

 あたしにも、同じレースを競い合った好敵手と呼べるのが、確かに居たはず――。

 

 じゃあ他にライバルとして考えつくのは……。

 

 ――ああ、そうだった!

 

 なんで出てこなかったんだろう。

 すぐ近くに居たじゃないか。

 

 クラスメイトの、あの二人のライバルが――。




だいぶ遅ればせながら、キョウエイボーガンの話を投稿しました。
※お待ちいただいた方には大変申し訳無いです

今回のエピソードは、自分なりのこれまでの集大成のような話で、前編・後編の2本仕立てとなります。
※劇場版的のようなものだと思っていただければ・・・

構成変更のためサブタイトル修正(2023/5/28)


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歩くような速さで 前編(1)

これは本編完結後に、後から追加したおまけエピソードとなります。

本編の最初の話はこちら


「んじゃ、ボーガンにマーチ……。今からとっておきの作戦を伝えるぜえ……」

 赤茶色の長い髪をした小柄のウマ娘――バニータルーブルは、後輩二人の肩に腕を回し、さながら円陣を組むようにして、二人にそう囁く。

「はい……っ!」

 どこか緊張したように力強くうなずく、バニータルーブルと同じ背格好の鹿毛色のボブカットのウマ娘――キョウエイボーガン。

「わ~、何だろうね~。楽しみ~」

 それにやや遅れて、他の二人よりも身長の高くモデル体型の黒髪ポニーテールのウマ娘――アントレッドマーチが、どこか間延びした声で応える。

 

 五月ももう終りを迎えた今日この頃――。

 練習場のトラックの中で、ボーガンたち三人は、これから始まるチーム対抗レースの作戦会議の真っ只中であった。

 

 二チームに分かれての、三対三の対抗試合。

 このレースは通常の形式とは違い、チームメンバーの内誰か一人が一着になればそのチームの勝利となるので、個人個人でバラバラに走るよりも、戦略を立ててチーム一丸となるのが勝敗に左右される。

 ボーガンたちは対戦相手側にこちらの作戦内容が聞こえないよう、みんなで団子になって小声でヒソヒソと話し合う。

 

「――作戦の内容はわかりました。うまく行くといいですけど……」

「ま、外れたなら外れたで、別にいいさねえ」

 作戦の立案をし、かつメンバーの采配を示している、この中では一番の上級生のルーブルであったが……その様柄は、どこか異様であった。

 本来であれば威厳のようなものがその風格に現れるであろう。

 しかし体格的に大差がないボーガンはともかく、マーチとは肩幅がたいぶ合わず、どこか『小さい妹がお姉ちゃんにぶら下がっている』ような光景にも捉えられ、その絵面はどこか微笑ましかった。

 

「誰が小せえだとぉ!?」

「え――どこに向かって言ってるんです、ルーブル先輩……?」

 突然、虚空に目がけて怒鳴りだした先輩に対し、ボーガンは気でも触れだしたのかと心配する。

「いや、何でもねえ。空耳だったみてぇだ……。いけねえ、いけねえ、どうも勝負(レース)の前で、ちいっとピリピリしてたかねえ……」

 と言って、ルーブルは頭をポリポリとかく仕草を見せる。

 一般的にレース前のウマ娘は、神経質になりやすいと言われているが、先程まで堂々としていたあの先輩(ルーブル)といえでも、例外ではなかったようだ。

 

「そうッスよ、ルーブル姉御。余計なことに気を取られていると、足元をすくわれるッス! 集中、集中ッス!」

 先程まで三人だったはずなのに、どうやったのかいつの間に円陣に加わっていた白髪のショートヘアーのウマ娘――オーサムラフインが、ルーブルをたしなめるようにそう言い放つ。

「……なんでおめえもしれっと混じっていやがんだ?」

 急に混ざってきたラフインに対し、ルーブルは冷ややかな目線を送る。

「えーひどいッスよー。ボクもチームの一員じゃないッスか~」

 ぶーぶーという擬音が似合いそうなぐらい、ふくれっ面を見せながら不満を漏らすラフイン。

 しかしこの集まりは元はこのボーガン、ルーブル、マーチの三人だけだった。

 そしてこれから始まるチームレースに出るのもこの三人だけである。

 

 つまり……ラフイン一人だけ出走せず、チームにまったく貢献しない形となる。

 

 しかしそれはハブられたとか、そういったものではなく、あくまで本人の意志によるものだった。

「んなこと言うなら、今からでもマーチと変わっておめえが出るかあ? ああん?」

 ちょっとイライラしているのが分かるぐらい不機嫌そうにルーブルがぼやくが、当の本人(ラフイン)はまるで気にした様子もなかった。

「いやぁ~それはもう決まったことじゃないッスか~。まーでもー、出来るならボクも出たかったッスけど~、相手のチームが三人だけだからしょうがなくボクが~みたいなッス~」

 その白白さにその場に居た全員が絶句する。

 

 三対三の対戦に決まった際、こちらのチームの選出をどうするか……という相談の場で、「じゃあボクが抜けて、サポートに回るッス!」と、ラフインが光の速さで辞退してきたのだ。

 その他を寄せ付けない圧倒的な身の振り方に、誰しも呆れて物が言えず、「あ、うん……」とその申し出を受けることとなり、必然的に残ったボーガン、ルーブル、マーチに決まった。

 

「いやー出たかったなー、ホッッッント残念ッスよー」

 などと言う割には、顔がニヤけているのが丸わかりである。

「あ――みんなはボクも分までしっかり頑張るッスよ、応援してるッスから~♪」

 もはや誰にでもわかるであろう。

 そんな超ウキウキな声で饒舌に語っているラフインを見て、”レースに出れなくて残念などと微塵にも思っていない”、と――。

「……もう我慢ならねぇ、オレは今からおめえのケツを引っ張ったく! そこになおれぇっ!!」

「ちょ――ルーブル姉御、目がマジで怖いッス。ほんの冗談じゃないッスかーっ!?」

 己の身の危険を感知したラフインは、一目散に逃げ出した。

「うるせぇ! このスットコドッコイッ!!」

 獰猛な獣と化したルーブルは、目を血走らせながら生意気なお調子者の後輩に噛みつかんばかりの勢いでその後を追いかける。

 二人はどこぞのネズミとネコのドタバタコメディ海外アニメのように、なぜか近場の同じところをぐるぐる回りながら、追いかけっこをしだす。

 

「あはは~。ルーブルちゃんもラフインちゃんも、仲良しだね~」

「え――あ、うん。そう……なの、かなぁ?」

 傍から見れば猛獣に追い回されている哀れな子羊の図で、とてもそんな和気あいあいと感想が出るものではなかったが、もう毎度のことでだんだん感覚が麻痺しかけていた。

 

 毎回調子に乗って虎の尾を踏むラフイン、激高してラフインをとっちめようと追い回すルーブル、そしてそれをのほほんとマイペースに見守るマーチ。

 ボーガンもだいぶこのチームになじんできており、これが『いつもの光景』と思えるほどに、彼女らと交友が深まっていた。

 

「オーホッホッホ――!」

 いつまでやってるんだろうか、と、ラフインとルーブルのやり取りをぼーっと眺めていると、そんな高笑いがボーガンたちの背後から聴こえくる。

 振り返るとそこには、黒髪の前髪ぱっつんで、両脇に結んだ縦ロールの特徴的な髪型をしているウマ娘が、口元に手を添えながらどこか高貴な出で立ちで佇んでいた。

「皆様、御機嫌よう。あらあら……これからわたくしたちと勝負という時に、お仲間割れですか? なんとお見苦しいですこと!」

 と言って、彼女はもう一度「オーホッホッホ」と、高笑いをして見せた。

 

 向こうは勝負前のちょっと煽り文句を入れたつもりだったのだろうが、ボーガンはそちらの指摘に何も言い返す言葉がなかったので、逆にお騒がせして申し訳ないとすら感じた。

「あ、うん……待たせちゃってゴメンね」

 あれはこっちのチーム独特の準備運動なんですよーと、とぼけようと一瞬思ったが、素直に白状した。

 そして確認の意味も兼ねて、相手チームの様子をチラッと伺ってみる。

 すると向こうは作戦会議や準備もろもろをすでに終えてあるようで、スタートラインで揃い踏みしていた。

 

 どうにもこちらの準備が終えるのを待っているような状況だ。

 察するに、催促を兼ねてこちらの様子を見に来た――というところであろうか。

「あー……もうすぐ終わると思うからさ、多分。……えーっと、()()()?」

「ヒダカベルベットですわ! いい加減に、わたくしの名前を覚えなさい!」

 すかさずそう強く指摘すると、機嫌を損ねたのか両手を腰に当てながら、左斜四五度の完璧な角度で「フンッ」と、拗ねてみせる。

 

 妙な成り行きではあったが、今日はそんなクラスメイトの彼女が率いるチームと、チーム対抗レースが行れる。

 

 なぜ彼女――ヒダカベルベットたちのチームと勝負をすることになったのか……。

 それは数日前ほど遡る。




新しいウマ娘が出てきましたが、例によってモチーフとなった競走馬はいますが、ほぼ完全オリジナルウマ娘です。
(そういうことにしておいて下さい)
※お嬢様要素はエリ女勝利したぐらいしか……

構成変更のためサブタイトル修正(2023/5/28)


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歩くような速さで 前編(2)

これは本編完結後に、後から追加したおまけエピソードとなります。

本編の最初の話はこちら
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 春は流れ、もう時期梅雨のシーズンの訪れを予感させるような曇り空が広がる、五月二十三日の土曜日――。

 

 熱気こもる阪神レース場ではトゥインクル・シリーズのレースの真っ最中であった。

 芝、一六〇〇メートル――条件戦、露草賞。

 

 スタートしてから一分も経っていないが、展開はすでに終盤へと差しかかり、今、佳境を迎えていた。

 

 観客たちのいるスタンドの近くへ一番先に、一人の小柄なウマ娘がその姿を現す。

 序盤から快調に駆け、先頭をキープしながら、単独でハナを切っている。

 やや遅れくること、その後方。

 後ろに控えた一人が、負けじと先頭に必死に食らいついていく。

 そしてそれに遅れて一人、また一人と……その後に続く。

 

 第四コーナーを曲り終え、残り二〇〇メートル――。

 そこを抜ければゴールは目前。

 しかしそのゴール手前に待ち受けるのは、このコースの特徴となっている緩い下り坂からの急勾配だ。

 

『さあ仁川の舞台はここから坂がある! ここで先頭を捉えることが出来るのでしょうか――』

 

 実況の述べる通り、この急な坂を登りきったらすぐゴールだが、逃げや先行脚質にとっては最後に待つ試練。

 ここで力尽きたところを、後方から追い抜かされる展開もザラではない。

 

 残されたスタミナとパワーを、いかに振り絞れるかの正念場――。

 だが今回はそんな逆転劇は起きようにもなかった。

 

 そんなものは杞憂だと言わんばかりに、先頭を走っているウマ娘の脚色はまったく衰えず、そのままゴールまで突き抜けていった。

 

『先頭変わらず、9番キョウエイボーガン! 一バ身半のリードをつけ、今ゴールしましたっ!』

 

 一着でゴールしたボーガンは、スタンドに向けて双肩を掲げ、応援してくれた観客たち(ファン)に応えながらも、勝利の美酒に酔いしれる。

 けして疲労によるものだけではない、熱いほてりが体内を駆け巡り、気分を高揚させていた。

 無理もない、デビュー以来の勝利……。

 敗北、連敗、そして挫折からの復活。

 切望した一位をようやく手にすることが出来たのだから――。

 

 怪我を乗り越え、キョウエイボーガンは見事、復帰戦を勝ち取った。

 

 ◇◆◇

 

 週明け二日後、月曜日の昼過ぎ――。

 

 ここトレセン学園では、平日のこの時間、ちょうどカフェテリアがもっとも賑わう時間帯だ。

 気の合う友達と仲良く談笑しながら昼食を取る者、時間を惜しんで自主トレーニングに励む者……様々な生徒たちが思い思いに過ごしている。

 そんな各々ランチタイムを満喫している最中を通り抜けながら、キョウエイボーガンは自分の教室へと辿り着く。

 

 トレセン学園に戻ってきたのが、ついさっきのことで、まだ昼食もすませていない。

 一旦寮に戻って身支度を整え、そのまま登校した。

 寮から出る時、このまま休もうかと何度も誘惑に負けそうになったが、授業の遅れも取り戻すのがなにより先決であった。

「おはよう」

 昼休みのためか、ドアは開きっぱなしになっているのでそのまま、教室の中に入る。

 ボーガンの姿に気づいたクラスメイトの何名かは、午後からの重役出勤だというのにも特に意に介さず、普通に挨拶を返してくる。

 ざっと中を見渡してみると、大抵の人は昼休みで出払っているのか、人がまばらであった。

 

(こんなことならやっぱ、昨日一人で帰ればよかったかなぁ……)

 慣れない長距離移動のせいか、妙に疲れが抜けない。

 

 先日の阪神レース場までは、トレセン学園で手配している高速バスを利用した。

 交通費無料かつ二泊三日つきの至れり尽くせりだが、土日開催されるレース出走者をまとめての送迎となるので、出発は土曜の早朝の、帰りは三日後の月曜の午後になってしまう。

 

 もっともこういった遠方のレース場までの移動手段を、共用のバスではなく、新幹線や飛行機など使って移動するのも特に制限されていないが、基本的に自費負担となる。

 ボーガンのトレーナーである長末トレーナーからは「交通費なら私が出しますよ」と言われていたが、そう安いものでもなく、気が引けたので、長距離バスで揺られるのを選んだ。

 

 そんなこんなで、一日休みを間に挟んだとはいえ、阪神遠征の疲れが完全に取れぬ状態であった。

 けれども、トゥインクル・シリーズに出走しているウマ娘なら――ままあることだ。

 

 レース場への長距離移動もさることながら、平日は勉学に歌やダンスレッスン、そしてトレーニングと……。

 ゆっくり休む暇もないようなハードスケジュールなのは、他とさほど変わらない。

 

「ふぅ……落ち着くなぁ……」

 教室の入口のドアからゆっくり時間をかけて自分の席へと着席する。

 そして椅子に座るなり、身体を机に預けながら、一気に襲ってきた疲労感と共に、ため息を吐き出す。

「おやおやボーガンちゃん、何だかお疲れみたいだねー」

 そう隣の席から声をかけられた。

 

 声がした方へ顔を向けると、短くふわふわとした綺麗な栗色の髪をした、ウマ娘としては珍しく耳飾りを左右どちらにも着けていない、どこか小型犬のようなを雰囲気の少女が、何やら嬉しそうに目を細めニコニコと微笑んでいた。

 実年齢よりも幼い顔立ちと、短い髪型も相まってどこか男の子にもみて取れてしまう……そんな風貌であった。

 

「あ、うん。おはよう。えっと……ハヤテ、だっけ……?」

 とっさに名前が出てこなかったが、すんでのところで出てきた。

 実のところボーガンは人の名前を覚えるのが苦手で、よほどのインパクトがなければ普段から交友関係のない者との顔と名前が、なかなか一致しないのであった。

 

「あー今、僕の名前、一瞬出てこなかったでしょー? 隣の席なのにひどいなー」

 そうやってボーガンを少し批難している間も、全然怒っていないのか、笑顔のままだった。

 思えば、いつも笑顔を崩さない、というよりも……笑っている顔しか見たことがなかった。

「あはは……。ごめん、ごめん……」

 相手の表情に引っ張られる形で、バツが悪そうに笑う。

 もう新学年になって二ヶ月を過ぎようとしているのに、まだクラスの半分の人の名前を記憶出来ていない。

 早くクラスメイトの名前を覚えないと……そうボーガンは心の中で反省する。

 

(ん、あれ……。普段そんなに絡みなかったのに、どうしたんだろ……)

 喉に小骨がチクリと刺したような、奇妙な引っかかりを抱く。

 確かに隣の席同士ではあるものの、これまでたまに挨拶を交わす程度の、浅い付き合いでしかない。

 さっきのように急に話しかけられることなど、ほとんどなかった。

 

 というのも、ハヤテの愛嬌の良さも相まってか、彼女の周りには誰かしら人が集まっており、いつも楽しそうにグループで行動している。

 そのため、これまでボーガンとは接点を持っていなかった。

 いつも一緒に居る友達らは今はおらず、一人なのも珍しいが、何か自分に用事でもあったのだろうか、そう改めてハヤテの方を注視すると――ボーガンは目をぎょっとさせた。

 

「――それ……全部食べるの……!?」

 驚きのあまりつい声に出してしまう。

 思わず二度見したほどで、ハヤテの机の上には、ラップに包まれた大量の『焼きそばパン』が山積みにされていた。

 

 まさかあれを一人で食べ切るのだろうか……健啖家なウマ娘ならぺろりと平らげられるかもしれないが、まるで子リスのように両手で持ちながら小さい口で少しずつ食んでいる姿から、とてもそんな風には見えない。

「んー? あ、よかったら食べるー? 実はこんなに食べれなくて困ってたんだー」

 ボーガンが凝視しているのに気づたようで、笑みを浮かべながら、パンを一つ取って差し出してくる。

 

 彼女から話を聞くと――。

 昼食はいつも購買部のパンで済ましているらしく、いつものように購買部に行ったそうだ。

 そこで不思議そうに売店のおばちゃんに、『なぜいつも同じ物を購入しているのか』と訊ねられ、「焼きそばパン好物なんだー」と応えたそうだ。

 すると「ならたーんと食べな!」と、一つしか頼んでいないのに、沢山おまけしてくれたのだという。

 

「なら、いただこうかな……。いただきます」

 余っているのなら変に遠慮する必要もない。

 前の早朝に軽めにパンを一つ食べたぐらいで、ちょうどお腹も空いていたのもあり、せっかくの好意を特に断る理由もなかったので、ご相伴にあずかることにした。

「そーいえば、昨日のレースどうだったー? 復帰戦だったんだよねー」

 最初のパンを食べ終えたハヤテは、二つ目に手をかけながら、ボーガンにそんな問い掛けをしてくる。

「あ、うん――なんとか勝てたよ」

 頂戴した焼きそばパンをかじりながらそう応える。

 まだまだ課題点が残る部分はあったが、自分の走りがちゃんと出来たと、手応えを感じられた、そんな出来栄え(レース)だった。

 

「わー、よかったねー。おめでとーっ!」

 天使のような愛くるしい微笑みを見せながら、両手で小さくぱちぱちとハヤテから拍手をされる。

「あ、ありがと……」

 ボーガンは照れくさそうに、つい笑みをこぼす。

 こうやって素直に祝福されるのは、誰だって嬉しくないはずがない。

 

(……んん、あれ? そういえばあたしが一昨日復帰戦だって、誰かに言ってたっけかな?)

 出走した露草賞は重賞レースでもないただの条件戦で、こう言ってしまっては元も子もないが……さほど注目されるようなレースではない。

 

 ボーガンが露草賞に出ていたのを知るのは、せいぜいボーガンのチームメイトとそのトレーナーぐらいであろう。

 なのにその情報を知っていたのには少し謎だったが、たまたまラジオやテレビなどで中継が流れていたのかもしれない……そう頭の隅に置いやった。

 

「それで、次の出走するレースはもう決まったのー?」

 屈託のない笑顔を見せながら、ハヤテは続けざまにそう訊ねてくる。

「ううん、まだだよ。でもしばらくレース出れなかったから、翌週にでも出走したいかな」

 次のレースについてはまだボーガンのトレーナーとまだ話し合っていない。

 しかし久しぶりのレース場のターフの上を走った感覚を忘れてしまわない内に、早く次のレースに臨みたいと考えている。

 そのことを今日あたり、長末トレーナーに相談する予定を、密かに立てていた。

「ふーん、そうなんだー」

 何かを納得したように一度頷くと、聞きたいことは済んだのか、急に黙りこくるハヤテ。

 

(な、なんかやりづらいなぁ……)

 ただ単に興味本位で雑談したかったのだろうか……どうにもボーガンはハヤテとの距離感が、これまでの会話でつかめずにいた。

 

 二人共、しばし咀嚼音だけが流れ、沈黙が続く――。

 

 なんだか気まずい、間が持たない。

 こちらもなにか話題を振ったほうがいいのだろうかと、ボーガンは妙な焦燥感に駆られてくる。

 

(あ、そうだ。せっかくだから聞いてみようかな……)

 ふと手頃な話題として、先程疑問に思った『なぜ自分が復帰戦だと知っていたのか』を、確かめてみようとする。 

「あ、ところでさ――」

 そうボーガンが口を開いたのと、同じタイミングだった。

 

「――お昼休み中、失礼いたしますわっ!」

 なんとも間が悪いことに、室中に響き渡るほどの、凛としてよく通る大きな声に遮らてしまった。

 

 教室に居た誰もが、その声の主へ振り向く。

 ボーガンとて例外ではなく、何事かと、つい顔を向けてしまった。

 

 ただの偶然か、それとも必然か……その乱入者とふいに目が合う――。

 

 そして突如として教室に現れたウマ娘――黒髪の両サイド縦ロールの髪型の少女は、ボーガンに向けて、不敵に微笑んでみせた。

 

「ようやく見つけましたわよ。キョウエイボーガンさん……」




また新しいウマ娘が出てきましたが、例によってモチーフとなった(以下略)

『ハヤテ』という同名の競走馬が存在しますが、関連は一切はありません。

構成変更のためサブタイトル修正(2023/5/28)



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歩くような速さで 前編(3)

これは本編完結後に、後から追加したおまけエピソードとなります。

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 黒髪のウマ娘は、どこぞの上流階級の貴婦人の如く威風堂々と、教室に足を踏み入れる。

 その進む先は、まるで獲物を狙いをすましたかのように、まっすぐボーガンのところへ向かっていた。

 

(えー……と、誰だったけ……)

 否が応でも目に引くあの来訪者……ボーガンには見覚えがあった。

 それもそのはず、同じクラスの子で、学校行事がある時、司会進行役をやっていたクラスの学級委員長であった。

 しかし思い出せたのは『学級委員長』というところまでで、案の定、彼女の名前というものを覚えていなかった。

 

 なんとか記憶の糸を辿ろうと思考をフル回転していると、その”委員長”は、ボーガンの席の前で足を止める。

「御機嫌よう、キョウエイボーガンさんにハヤテさん。今お時間、よろしいかしら?」

 ご自慢の縦ロールをふわっと撫でるような仕草を見せたあと、ボーガンの方をまっすぐ見ながら、どこか気品のある言葉遣いで話しかけてくる。

 

 ボーガンは一度ハヤテの方へ目配せを送るが、ハヤテは相変わらずニコニコと笑顔を絶やさないでいるだけで、目の前にやってきた彼女に対して特に何も反応を示さない。

 あわよくばハヤテが相手をしている間に、彼女の名前がぽろっと出てくれないかと期待したのだが……もろくも瓦解する。

「え――あ、うん……。何の用かな、え――と、委員長……?」

 名前がまったく出てこなかったので、とりあえず”委員長呼び”で誤魔化す。

 しかし一体、何の用事なのだろうか。

 例えばクラスのこととか、それとも知らずに何か目をつけられるようなことをしていたのだろうか……ボーガンには皆目検討がつかず、恐る恐るそう訪ねる。

 

 そう投げ返すも、一瞬の間が開く――。

 先程のボーガンの声が聞こえなかったわけではない。

 彼女にとって少し気に入らない出来事が眼前で起き、そのせいで反応が遅れただけである。

「……確かにわたくしはこのクラスの学級委員長ですが、あまりそのようなよそよそしい肩書きで呼ばれるのは好ましくありませんですわ。わたくしにはきちんした名前がありますので、そちらでお呼びくださいまし」

 そう言って彼女は、どこか不服そうに腕を組むと、少しむくれた表情を見せた。

「あー……、うーーん、えっーと……」

 ボーガンは困ったように唸る。

 相手の言うことは、もっともだ。

 しかしなんとかひねり出そうとするも、肝心の名前が出てこない。

 こうなれば当てずっぽうで答えみる。

 

「ヒ、ヒカルゲンジだっけ……?」

「ヒダカベルベットですわ! どこぞのアイドルグループではありませんわっ!」

 別にボケたつもりはなかったのだが、カンマ入れずそんなツッコミが入る。

「……まったく同じクラスの学級委員長の名前ぐらい、記憶しておいてくださいませ」

 急に怒鳴るように怒ってみせたと思ったら、今度は呆れたように憂いを帯びた、ため息をつく。

 切り替えが早いというべきか、それとも単に感情の起伏が大きいのか……少なくともずっとニコニコしているだけのハヤテと違って、表情が読めるのは幸いである。

「オホン――ッ」

 ヒダカベルベットは一度わざとらしく咳払いをすると、本来の主旨に話の流れを戻す。

 

「お聞きになりましたわよ、キョウエイボーガンさん。一昨日の怪我明けの復帰レース、見事勝利されたそうですわね」

「え――あ、うん。そうだけど……」

 何で知っているのか……ハヤテといい、こう立て続けに、教えてもいない自分の情報が知れ渡っているのがどこか不気味であった。

 そんなボーガンの戸惑いを読み取ったのか、隣の席から声が上がる。

「あ、そうそうー。ベルベットちゃんがなんかボーガンちゃんのこと知りたがっていたから、僕が教えてあげたんだよー」

 驚いたことに、ハヤテの仕業であった。

 一つ謎のは解決したが、結局一番知りたかった『なんでハヤテが自分のことに詳しい』のかは、わからずじまいのまま。

 ハヤテは相変わらず笑顔のままで、逆に表情から内心を読み取るのは難しい。

 それはまるでその表情で凍りついているかのように、どこか見れた。

 

「――単刀直入にいいますわ。貴方をわたくしのチームにスカウトにしに来ましたわ!」

 ヒダカベルベットは再度仕切り直しといわんばかりに、大きな身振りでビシッとボーガンの方を指さして、そう勢いよく告げた。

「……んん――?」

 放たれたその言葉の意味の理解が追いつかず、目を点にしてしまう。

 トレーナーからならいざしらず同じウマ娘からスカウトとは……前代未聞である。

 

 ボーガンは状況をまるで飲み込めないで唖然としていると、それを肯定と受け取ったのか、ベルベットは矢継ぎ早に畳みかけてくる。

「そうですわ! まだお昼休みの時間もあることですし、早速わたくしのチームを紹介いたしますわ――」

 と言うやいなや、強引気味にボーガンの左手をつかんで席から立ち上がらせると、そのまま手を引いて教室の外へと連れて行こうとする。

 ボーガンが小柄なのもあるが、体格に似合わず強靭な相手にパワーによって、ずるずると引きづられかける。

「ちょ、ちょっと待って――!」

 激流に身を任せて同化してしまうすんでの所で、ボーガンはなんとか手を振り払い、呪縛から解き放たれる。

「せっかくだけど、あたしはもうチームに入ってるから……」

 ボーガンにとって今のチームは、やっと見つけた『自分の居場所』だと思えるところ。

 向こうに何の事情があるのかは分からないが、他所のチームに移る気など毛頭ない。

 その意志の固さを示すように、ボーガンはベルベットに強い眼差しを向けた。

「……ええ、存じておりますわ」

 そこで一旦、言葉を切る。

「ですから今のチームを抜けて、わたくしのチームに加入していただきたいのですわ!」

 しかしひるまず、むしろ今まで以上に強く、まっすぐな瞳をぶつけてくる。

 冗談や悪ふざけでいわゆる引き抜きをしようとしているのではないと、そう彼女の気持ちが伝わってくるようだった。

 

 ここでベルベットの口から、なぜボーガンをチームに引き入れようとした目的が語られる。

「一昨日の阪神レース場で、貴方の走りを見てこう……ビビッときたのですわ。貴方となら、互いを高めあえる、よきライバルになれると!」

 実のところ、ベルベットも同じ週の同じ阪神レースに出走のため遠征していたのだという。

 その遠征先、下見を兼ねて立ち寄った会場で、ボーガンのレースを偶然にも観たそうだ。

 いわく、まさに”運命”の出会いだった、と――。

「――貴方の力がわたくしに必要なのですわ。わたくしと共に、頂へと上り詰めましょう!」

 両手を握りしめられながら、怒涛の勢いでまくし立てられる。

 

(うーん、困ったなあ……)

 有無も言わず距離をぐいぐいつめてくるベルベットに、ボーガンは正直どう断ればばいいか悩んでいた。

 こういう、どこぞの赤毛の先輩のように、強く押してくるタイプにはめっぽう弱いのが仇となる。

 なにより自分を必要としてくれており、純粋な”好意”で申し出をしている相手を、中々無下には出来なかった。

(ライバル……か……)

 熱心にスカウトしてくる彼女の気持ちも、何となく分からなくはなかった。

 共に励み、切磋琢磨できる仲間がいるというのは、いい刺激をもたらし、お互いの成長を促進させる。

 最近それを、ボーガンは今のチームに居て、確かに感じ取っていた。

 

 しかし彼女の心境を理解できるといっても、相手の言うままチームを抜ける選択肢はない。

 相手には悪いが、己の意思を曲げるつもりもない。

 

 さてどう断ったものか……そうボーガンが攻めあぐねていると、思わぬところから助け舟が来た。

「――まあまあーベルベットちゃん。ちょっとぐいぐい攻め過ぎー。ほら、ボーガンちゃんが困ってるみたいだから、その辺にしてあげなよー」

 予想外にも、隣の席のハヤテであった。

 先程からベルベットは興奮を抑えきれず、その声は教室中に轟いており、近場で騒がれて迷惑だったのだろうか。

 彼女の真意のほどは、いつもの細い目の笑顔のままで固定されているため、よくは分からない。

 

「……失礼いたしましたわ。わたくしとしたことが、つい強引になってしまいましたわ……」

 ハヤテに横槍を入れられて少し冷静になったのか、ベルベットはしたなく詰め寄っていたことに気づきどこかシュンとし、反省の色を見せる。

 

(ふぅ……。もしかして、助けてくれたのかな……?)

 ボーガンは内心ほっと胸をなでおろす。

 何はともあれ、これでベルベットも引き下がってくれるだろう。

 隣の席のクラスメイトに深く感謝を示す。

 

 だが――事態は急変する。

 正しく、ちゃぶ台をひっくり返されることとなった。

 

「まあでもー、ベルベットちゃんの気持ちもわからなくはないかなー。ボーガンちゃんみたく”強そうな子”は、きっと”戦力になる”だろうしねー」

 ハヤテのその言葉で場の流れが変わる。

「ボーガンちゃんも今のチームは抜けたくない、けどベルベットちゃんもスカウトしたい……。やっぱこういう時はお互い禍根が残らないよう、()()()()()()()()いいんじゃないかなー」

「へ…………?」

 ハヤテの突然の提案に、脳がフリーズしてしまい反応が出遅れる。

 その隙きをつかれ、ベルベットが先んじて見事に食らいつく。

「それはいい考えですわね! わたくしたちの実力を知ってもらえれば、キョウエイボーガンさんも、先程の考えを改めてくださいますわよねっ!?」

 ベルベットはハヤテの放った言葉を瞬時に独自解釈する。

 そして目をランランと輝かせながら、超高速展開(コンセントレーション)で話の流れを加速させる。

「さっそくわたくしと、チーム対抗戦をしましょう!」

 と、盛り上がってゆく――。

 

(――え、ええーーーっ??)

 

 物事は上手くいかないものである。

 時には本人の意志とは無関係に動き出してしまう……。

 

 悲しきかな。キョウエイボーガンは、面倒事に巻き込まれてしまったのであった。




2023/5/28 構成変更のためタイトル修正、誤字修正


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歩くような速さで 前編(4)

これは本編完結後に、後から追加したおまけエピソードとなります。

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 練習場のトラックの一つの芝のコースの一角に、六名のウマ娘が集まっている。

 

 これから始まる三人対三人のチーム対抗レースを前に、どこか緊迫した空気が流れる。

 彼女の間にはすでに会話はなく、軽くストレッチをしながら各々集中力高めている。

 

 ヒダカベルベットに賭け試合を挑まれた後、一旦は『チームに確認が必要だから』と、その場では断ってみたものの、どこから情報を仕入れたのかチーム対抗戦を申し込まれたのを逆にボーガンに確認の連絡があった。

 そしてなぜかチームの皆はそれに乗り気だったため、トントン拍子に段取りが決まる。 

 そして善は急げと言わんばかりに、その日の当日の放課後に、行われる事となった――。

 

 誰が合図したのでもなく、レース出走者は次々とスタートラインに並び立ち、その開始の時を待つ。

 

「――スゥ、ハァ」

 ボーガンは一度深呼吸した後、己が精神を研ぎ澄ませるために目を瞑る。

 

 今回の件、色々と納得出来ていない部分が多い。

 しかし周囲が勝手に盛り上がってしまい、すでに引くに引けない状況……。

 

 だが受けてしまったのなら……もはや、やむなし。

 試合とあらば、それを背に見せる真似は、自分が許せない。

 それにチームのみんなも言っていたが、『勝ってしまえばそれで済むこと』――その一言に尽きる。

 

 どんな勝負であれ、最初から負ける前提で考えたりはしない。

 

 準備万端――胸の内に燻る闘志をたぎらせると、先にスタンバイを終えているルーブルとマーチに無言のアイコンタクトを交わした後、一番最後に配置についた。

 

 それぞれ並び順は抽選の結果、コース内側からマーチ、ボーガン、相手チームの二人が続き、次にルーブル、そして一番の外枠は敵将ヒダカベルベットとなっている。

 

 競うコースは、約トラック一周半かけて競い合う、王道の距離といえる芝の二〇〇〇メートル。 

 今回は題目としては練習試合ということになっておりゲートなどは使わない。

 スタートとゴールの位置を示すサポート係が居るだけで、スタート開始は旗による合図での発走となる。

 

 そしてそのサポート役――スタートの号令を務めるのは……試合に出走しないオーサムラフインの役割だ。

 

位置について(On Your Marks)用意(Set)――」

 その大役を果たすラフインは、首から『スタート』と書かれたボードを下げながら、旗を振り上げる。

 ラフインの合図を受け、両者のチーム揃い踏み、一斉に構えを取る。

 

「――ドン(Go)ッス!」

 旗が振り下ろされると、皆勢いよく飛び出す。

 

 各人出遅れもなく、揃って綺麗なスタートを見せる。

 戦いの火蓋は今切って落とされた――。

 

 ◇◆◇

 

 これまでの静寂を引き裂き、大地を蹴り上げる音がかき鳴らされる。

 レースはまだ始まったばかり……しかしすでに試合は大きく動いていた。

 

「――いくぜえええっ!」

 修羅を一騎駆け。

 バニータルーブルがまるで敵陣に向かって斬り込むが如く、勢いよくスピードを上げて加速する。

 先頭は自分以外譲らんと、我先にて突き進む。

 

 逃げ脚質を得意とする彼女の常套手段だ。

 

「おりゃおりゃおりゃあ――!」

 長い髪を振り上げながら、開幕からものすごい剣幕で吠えるルーブル。

 ああやって叫ぶ力があるなら、体力に回した方がいいと思うもかもしれないが……こうやって雄叫びを上げた方が、むしろ彼女の調子が上がるのであった。

 

 だがその躍進も僅かの間だけであった――。

 

 序盤の位置取り争いの勝敗は決したか……誰もがそう思いかけた時、相手のベルベットチームのウマ娘二人が左右から回り込んで、ルーブルの進行を塞ぐように目の前に立ち塞がる。

 

(チッ……ガチガチにマークされてんなあ……)

 出鼻をくじかれる結果となり、内心不機嫌そうにごちる。

 だがそれとは裏腹に、どこか楽しそうにほくそ笑む。

 

「んなら――こじ開けるまでだあッ!」

 内から行くか、外から行くか。

 フェイントを交えながらルーブルはコースの内側から攻めると見せかけて、アウトコースへ向ける――。

 

「「――――ッ!!」」

「……チィ――ッ!」

 が――ダメ。

 相手の方が上手であった。

 

 二枚の壁をうまく使い、互いにフォローしながら見事な連携で、ルーブルの動きを阻止してくる。

 左右どこから来ても、二人で確実にブロックできるようゾーニングし、万全に備えられていたのだ。

 

(……どうやら、ただのモブってえわけじゃあ、ねえみてぇだな……)

 個人個人は恐らくそれほどではない。技能や経験だけでいうならば、GⅠを制覇しているルーブルのほうが上位ランクだ。

 しかしチームレースというのをよく心得ている。

 力量を上回る相手に、互いの足りない部分をカバーし合い、主導権(ペース)を握らせない。

 ひとえに、これまで積み重ねてきた鍛錬の賜であろう。

 

(たぁく、楽しませてくれるねえ……)

 別段舐めてかかっていたわけでもないが、自分がこうも簡単にいいようにされるとは、夢にも思っていなかった。

 敵ながらお見事……ルーブルは内心、感嘆と称賛を送る。

 そして獲物を前に舌なめずりするのは辞め、ギラギラとした鋭い本気の目つきへと、変貌させた。

 

 ◇◆◇

 

(よし……上手く抑え込めましたわ! ナイスですわ!)

 一番後ろに控え、先団の様子を伺っていたベルベットは、采配が見事にハマった手応えを感じる。

 

 ここまではすべて彼女の作戦通り――。

 

 もっとも警戒すべきは、やはりあの『赤い狂犬』と呼ばれるバニータルーブルであった。

 ボーガンの所属するチームのデータは事前にリサーチを済ませており、トリプルティアラの一つ――オークスを勝利したあのGⅠウマ娘がチームの要であると見抜いた。

 

 当然、格上の存在だ。

 並大抵のマークではたやすく突破されてしまうのは目に見えていた。

 そのための――二人がかりである。

 

 逃げ作戦主体のボーガンたちのチームは、一番の実力者である彼女を完全に抑え込んで、先頭をキープしてしまえば、全員動きを封じたのも同然。

 主導権を掌握した後は、ラストスパートで、ベルベットの持つ自慢の末脚で差しきる――そういう筋書きだ。

 

 もっとも、これはあくまでチーム戦だからこそ、取れる動きだ。

 個人個人のレースでは、ここまで思い通りにならないであろう。

 

 だからこそ……チームレースには無限の可能性があると、ベルベットはそう信じて疑わない。

 

 これまで自分たちは、このチーム戦というものに、重きにおいてきた。

 

 ほとんどのチームに所属するウマ娘たちは、あくまでトゥインクル・シリーズで活躍するのが主旨であり、直接戦歴にカウントされないチームレースを重視するというのはかなり珍しい。

 トゥインクル・シリーズに専念したいからと、そういったものには見向きもしないウマ娘も多い。

 

 だがベルベットは違った――。

 難なくメイクデビューを制し、ジュニア時代にいい成績を残し、クラシック三冠やティアラ三冠へと目指す……そんな誰しもが思い描く、”王道”から外れてしまったからこそ、余計に強く願う。

 

 個人ではダメでも、チーム一丸となれば……一人では叶わないことでも、チームだからこそ成し遂げられるものがある――と。

 

 トレセン学園では、トゥインクル・シリーズの他にも様々なレースが行なわれている。

 チームレース部門でも、毎年大きなの大会が開催されていた。

 

 いつかそこでトップを取るのがベルベットの夢であり、目標だ……。

 今はまだ出走できる参加人数にも届いてもいないが――。

 

 それに、誰でもいいというわけではないが、メンバーは全然足りていない。

 そういった意味でも、彼女に認めてもらうため、このレースを勝利で飾って必要性がある。

 何より自分たちの力が通じることを、チームの実力を証明するためにも――そう奮起するのであった。

 

 ◇◆◇

 

 大体コースの半分あたりの距離をすぎた頃合い――。

 もう少し進めば第二コーナーに入り、そこを抜けたらすぐにトラック一周分となる。

 

 レース展開は依然、ベルベットチームの二人が先頭を往く。

 順位は変わらず、うまくルーブルを封じ込めたままの状況を維持、膠着となっていた。

 

(……はがゆいねぇ……)

 ルーブルにも少し焦りと、疲労の顔が見える。

 

 これまで何度となく先頭を奪おうとアタックを仕掛けてみたが、全て塞がれ、徒労に終わっていた。

 このままでジリ貧……流石にうっとおしくなってきた。

 だがそれは向こうとて同じこと――。

 

 ならば意地と意地のぶつかり合い、どちらかの集中力が切れたほうが負け。

 根性比べと洒落込むか…………否、そんな堪え性を持つ(たま)ではなかった。

 

「――しゃらくせえっ!」

 第二コーナーの直前。

 しびれを切らしたか、ルーブルが強引にブロックを突破しようと、これまでより大きく外をブン回して、掻い潜ろうと打って出る。

 

「「させない――ッ!」」

 読まれた。

 まるで後ろに目がついているかのように先頭の二人は即座に反応し、そうはさせるかと、潰しにかかる。

 

 完全なタイミングで進路を塞がれてしまい、ルーブルの渾身の一擲が水泡に帰す。

 万事休す。

 もはや打つ手はない、これまでか――そう思われかけた。

 

「……なーんてな」

 ニヤリと口元を緩める。

 

 彼女たちはもっと早くに気づくべきだった。

 自分たちが二人がかりでルーブルを抑え込んでいるように、相手も()()()()()()()()わけではない、ということに――。

 

「行け――マーチ!」

 

 ルーブルに釣られる形で大きく外側にずれたため、そこにはぽっかりインコースに絶好の隙間が出来ていた。

 

「やあああぁぁぁ――っ!!」

 そこに迷わず弾丸のような猛スピードで、黒髪のポニーテールの少女――アントレッドマーチが、突っ込んできた。




話が全然動かないので、巻いてレースシーンに特攻(ブッコミ)ました。

みんな大好きモブロックな回。
アプリのモブたちも特殊な訓練を積んでいた可能性が・・・。

コースについて勘違いがあったので、コーナーの番号を修正(2022/8/6)

構成変更のためサブタイトル修正(2023/5/28)


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歩くような速さで 前編(5)

これは本編完結後に、後から追加したおまけエピソードとなります。

本編の最初の話はこちら
最新話前編の最初の話はこちら


『――おそらくオレは向こうに徹底マークされるだろうよ』

 チーム対抗戦が始まる前の作戦会議の際、ルーブルは真っ先にそのことを予見していた。

 そして一計を案じる。

『んで、それを逆手に取るってぇわけよ――』

 

 

 全ては想定済み……彼女の思惑の内であった。

 謀は、上手くいっていると思いこんでいる時が、最大の油断を生む。

 あえて向こうの思惑に乗り、ルーブルが囮となって、隙きを作る――。

 これまでの展開は、ヒダカベルベットの作戦通りではなく、逆にルーブルの手のひらで転がされていただけだったのだ。

 

「たあああぁぁぁっ!!」

 前を遮るものは何もないマーチは脚を回し、ぐんぐんとスピードを上げながらコーナーのインコースを攻める。

 そのままルーブルたちを追い越し、ハナを奪おうとする。

 

「「――行かせないっ!!」」

 やらせはしないかと、ベルベットチームの二人が同時に叫んでハモる。

 

 何人たりともここを通す訳にはいかない。

 もしここで先頭を許してしまっては、これまでの作戦が台無しになる。

 二人はルーブルのマークを一旦外し、臨機応変に最短距離で、今度はマーチの進行方向を塞ぎにかかろうとする。

 

 ――が。

「そいつあ通らねえよ――ッ」

 

 それすらもルーブルは読んでいた。

 この二人の目的が逃げ潰しの、足止め要因であることはすでに見抜いている。

 ならば今度はマーチを塞ぎにくるのは、想像だに難しくない。

 

 今まで散々やられた分、きっちりとやり返す。

 右隣に詰め寄って身体を差し込み、カウンターでブロックする。

 

「なあに釣りはいらねぇ取っときなあ!」

 喰らい付いたら二度と離さない。

 体格差を物ともせず、二人の動きを完全に読み切って、執拗に追い詰める。

 

「「ク……ッ」」

 この二人は格上(ルーブル)相手によく立ち回っていた。

 相手の動きをよく研究・観察していたし、勝負勘も悪くなかった。

 何より息の合った見事なコンビネーションであった。

 

 だが――相手が悪すぎた。

 GⅠという大舞台で数多の強豪たちとしのぎを削ってきたルーブルを御するには、いささか経験不足といえた。

 このレース中の短い間、ルーブルは何度もブロックを受ける内に、相手の挙動の際の癖、身体の予備動作などを憶込んでいったのだ。

 

 だからこそ出来る芸当――相手の動きの一歩先を予知し、絶妙に身体が接触しないほどのギリギリのラインを攻める。

 急にここまで身体を入れられては、とっさに接触を避けて、踏み出そうした脚が萎縮してしまう。

 

 そうやってたった一人の怪物に、すべてを翻弄される。 

 

 ルーブルのアシストが華麗に決まり、マーチはルーブルたちを難なく抜けて、先頭へと躍り出る。

 そしてボーガンも流れに続けと、チームが入れ替わるように順位を上げ、マーチと二人で先団を駆けて行った。

 

 ◇◆◇

 

 コーナーを曲がり終え、とうにトラックの一周目はすぎ、直線を走っていた。

 

(してやられましたわ……)

 焦燥にかられるベルベットは、次なる一手を模索する。

 流れは完全に向こうのペースだ。

 

 このまま逃げウマ娘に好きなように逃げさせては、取り返しがつかなくなる。

 今からでも自分が追うべきか……追い込みをかけるには予定より早くなってしまうが、この位置からなら、まだ届く……。

 ここで思い悩んでいる猶予はない。

 思案している間にも、どんどんリードを広げられていくのだから。 

 

(――読めましたわッ)

 だからこんな時こそ、正しく情報を読み取り、整理する。

 ヒダカベルベットは冷静に情勢を俯瞰(ふかん)した。

 

 つい焦って先頭を追いくなる場面だが、ここからゴールまでは遠く、ゆうに六〇〇メートル以上も距離がある。

 そんな全力スプリントは長続きするはずもない。

 向こうも、自分も――。

 ならば付き合うだけ損で、ロングスパートもいいところ、むざむざ脚を使わされるだけだ。

 

 そう――それこそ向こうの思う壺……つまりはフェイク。

 ああやって場をかき乱し、注意を自分から逸らしたことで、フリーになった本命といえるルーブルが最後に今度こそ、仕掛けてくるはず。

 

 ここはじっと堪える時……ベルベットは大局を見渡す。

 残り四〇〇メートル地点、仕掛けるならばそこだ――目標を定める。

 

 そしてそのベルベットの予想は的中した――。

 

 

 目論見通り、第三コーナー途中、残り四〇〇メートルより手前で、先頭をいくマーチの脚色が急に鈍り出した。

 明らかに息切れさせながら、スピードを落とし外へヨレていく。

 

 あれだけ快足を飛ばしすぎては、やはりスタミナが保たかなかったのだ。

 それも無理からぬ話し……。

 ルーブルやボーガン、ベルベットたちとは違い、まだマーチはデビュー前で、本格化を迎えておらず、身体がまだ完全に出来上がっていない。

 元より中距離よりも短い距離の方を得意としており、言うならば、むしろここまでよく走りきった方であった。

 

(いける、いけますわ――!)

 どうやら幸運はベルベットの方に傾いたのか、好機がやってくる。

 

 ゴールまで四〇〇メートルの地点はもうすぐそこだ。

 ベルベットはゴールに向けて、いざ体勢を整える。 

 

 その刹那――。

 

「――――ッ」

 減速していくマーチの影から、まるでそれを発射台にしたかのように、誰かが勢いよく飛び出してきた。

 

 ◇◆◇

 

「……ご、ごめんボーガンちゃん~、もう無理かも~……」

「ありがとうマーチ……後はあたしに任せて――!」

 息を荒げながら限界を迎えたマーチの横を、バトンタッチするかのようにすり抜け、ボーガンが前に出る。

 

 あの時、一緒に抜け出していたボーガンは、その後ずっと身を潜めるように、マーチ背後へピッタリと付き、空気抵抗を減ら(スリップストリーム)していた。

 

 これこそがルーブルの立てた作戦の全貌。

 

 三人の内誰か一人でも、一着になればいい。

 そのためにあえてエースを囮として使い、ラストでゴールを獲るアンカー役をギリギリまで牽引して、脚を温存させる。

 全てはアンカー(ボーガン)に繋ぐための布石であった。

 

 そのおかげでボーガンはだいぶ消耗を抑えられており、ゴールまでの余力は十分であった。

 

 いつもであればボーガンの脚質の性質上、自分が先頭に位置していないと調子が上がらない。

 だが今回はこれまでずっと仲間たちの後ろに控えて、じっと堪えることを選んだ。

 

 

 対抗レース開始前――。

『あたしがマーチを引いた方が……もしくはあたしの方が囮役で、ルーブル先輩がゴール狙ったほうがいいんじゃ……』

 ルーブルから今回の作戦を聞いた時、重要な役割を担う係を任され、少し荷が重い気がしたので、最初は配役を変えてもらおうとした。

『んにゃ……マークされるオレの方が囮に向いてらあ。それに――ボーガンのちっせえ身体じゃ、マーチの風よけにはなんねえだろ?』

『小さいって言わないで下さいっ!』

 先程まで難しい表情を浮かべていたが、コンプレックスをいじらてたので条件反射でプンスカ怒ってみせると、二人からどっと笑いが起きた。

 ボーガンの緊張をほぐすため、あえてそんな事を言ったのだろう。

『ま、そんなに固くなるこたぁねえ、気楽にやろうやあ。心配すんな、おめえさんならきっとやれるさ、ゴールを獲れるさ』

『うんうん。マーチも頑張って、ボーガンちゃんを引っ張るよ~』

 

 

「――ハァッ!」

 ルーブルからマーチへ、そしてマーチからボーガンへ――二人から託されたタスキ。

 その思いを力に変え、温存していた脚を全開にする。

 それはまるで今から走り出したかのような、力強い速度を発揮していた。

 

「――くぅぅぅ!!」

 最後方に控えていたベルベットは、またしてもやられた――そう思いながらも、負けじとピッチを上げ、スパートを掛ける。

 ここで追いかけなければもはや勝機はない、いまがその勝負の時だ。

 

 そのベルベットのスピードは終盤まで余力を蓄えていただけあって、次々と前にいたウマ娘たちをごぼう抜きしていく。

 破竹の勢いで猛然と駆け、先頭のボーガンを捉えようと、凄まじい追い上げを見せる。

 

 ――残り三〇〇メートル。

 ――二〇〇メートル。

 

 最終コーナーを曲がり、最後の直線へと差し掛かる。

 

「やあああ――――ッ!」

「はああぁぁぁ――――ッ!!」

 

 両者、ラストスパート。

 ベルベットが恐ろしい末脚で迫るも、ボーガンは一向にとどまることを知らない。

 わずかに先頭とリードを縮められるも、相手に影すら踏ませない。

 

 一馬身半――それが絶対的な壁となって二人を隔離する。 

 

 そのまま順位は変わらず、ゴール板代わりにラフインが立っているところのゴーラインを割った。

 

 審議の必要もない……一着はキョウエイボーガンであった!

 

 まるでチームの力や団結力を見せつけるような、文句のつけようもない完勝。

 圧倒的な結束力を見せ、ボーガンたちのチームが完全勝利した。




次回で前編最終話です。

アプリの、チムレしかりチャンミしかりハオハルしかり、チームで走ってる感がないよなぁと思って、ちゃんとチームレースする話が書きたくて書き始めたのが、今回の発端。
なんか途中から弱虫ペダルっぽくなってたけど気にしない・・・

構成変更のためサブタイトル修正(2023/5/28)


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歩くような速さで 前編(6)

これは本編完結後に、後から追加したおまけエピソードとなります。

本編の最初の話はこちら
最新話前編の最初の話はこちら


「いえ~、いえ~い! ボクらのチームの勝利ッス!!」

 人一倍大きくラフインが歓喜の声を上げながら、走り終えてゴールインしてくるチームメンバーたちと、さながらホームベースに戻る選手たちを出迎える監督のように、ハイタッチを交わしていく。

 

 ただ忘れないでほしい。

 さも『自分も関わってます』といった雰囲気を醸し出しているが、一般通過ウマ娘と何だか変わりないという点を。

 

 彼女のその様相ときたら、今回のレースで何か自分で功績を上げたわけでもないのに、「うえーい! うえーい!」と、物凄いはしゃぎようであった。

 

 そんな騒ぎすぎたところで案の定、ルーブルに「調子に乗んなっ!」と引っ叩かれた。

 幸運なことに、試合に勝ってルーブルの気分がよかったのか、いつもよりは痛くなかった。

 実のところ、手加減されていたといっても、痛いのには変わりはなかったのだが……。

 

(――よし……ッ)

 ボーガンはレース後のクールダウンを済ませながらも、先程ラフインと交わしたハイタッチした手のひらを握りしめ、小さくガッツポーズを作る。

 

 一着でゴールした後、これまでに感じたことのない、不思議な感覚を覚えていた。

 本番のレースではないただの練習試合にすぎない、ましてやチーム戦なので自分一人の力だけで勝てたわけでもない……。

 けれども心の中で、何か充実感めいた物を得ていた。

 

 慣れないチーム戦……。

 慣れない位置取り……。

 

 いつもは、ただ先頭を取るのを目指し、後はひたすらゴールまで突っ走ることだけを考えて走っていた。

 けれど――作戦を立て、役割分担を決め、力を合わせる。

 こんな走り方もあるんだ……ルーブルの戦術が凄かったというのもあるが、ボーガンはどこか感動すら覚えていた。

 

 そして何より、同じ目的に向かってもぎ取った栄光は、この前一人でレースに勝利した時よりも、ずっと嬉しく思えた。

 

(なんか、こういうのも良いなあ……)

 始まりはともあれ、結果的に今日のチーム対抗戦をやってよかったと、ボーガンは感慨にふける。

 

 この高揚感にしばらく浸っていたい気もしたが、それは後でもできる。

 まず先に、共に駆け抜けたチームメンバーを労うため、ルーブルたちの元へ小走りで向かう。

 

「お疲れ様です、ルーブル先輩!」

「おう、お疲れさん!」

 先輩の貫禄といったところか、まだ余裕しゃくしゃくといった風で、ルーブルは威勢よくボーガンに応じる。

「マーチもお疲れ! おかげでゴールまで飛ばせたよ」

「う、うん~……、やったねえ~……」

 マーチは、力いっぱい走り抜けたせいかまだ呼吸が整っておらず、「にへへ」と、はにかんだ笑顔で応えた。

「それもこれも、ルーブル先輩の作戦通りでしたね」

「ま、てえしたことあるっての、ねえっての!」

 おだてられて悪い気はしなかったのか、上機嫌そうに白い歯を見せるルーブル。

「いやぁ~、さすがはルーブル姉御ッス。見事な采配ッス!」

 そこにスッと割り込んでくる白い髪の少女――オーサムラフイン。

 

 あまりにも自然に混ざってくるので、つい最初からそこに居たのかと錯覚してしまう。

「……なんでおめえが、しれっと混じっていやがんだ?」

「も~冗談きついッスよ。ボクもチームの一員じゃないッスかぁ。みんなの勝利なら、ボクの勝利も同然ッス~♪」

 皮肉たっぷり詰め込んで言い放ったルーブルの言葉もなんのその。

 全く動じず、ラフインは上機嫌そうに、両手でそれぞれルーブルとボーガンの肩をパンパンと、何度も叩いた。

 

 流石にそのあまりにも自分本位な振る舞いに、「ブチッブチッ」と、何かが千切れる音が鳴ると、とうとうルーブルの堪忍袋の尾が切れた。

「……だからてめえは何もしてねえだろうか、このトンチキしょうめ! またケツしばきあげられてぇかあ!」

「ちょ――なんでまた怒ってるんッスかーっ!」

 本日二度目の光景――。

 試合開始前と同じように、また二人のしょうもない追いかけっこが、繰り広げられたのであった。

 

 その珍騒動を聞きつけたわけでもないが、対戦相手チームのヒダカベルベットがやってくる。

「お疲れさまですわ、皆様方。お見事なチームワークでした、こちらの完敗ですわ……」

 そうやって素直に負けを認めるベルベット。

 だが負けて悔しいはずもなく、その表情はいつもの自信たっぷりな様子はない。

「それと、お昼時には野暮なことを申してしまったみたいですわね。大変失礼いたしましたわ」

 そう言ってボーガンに謝罪の意を表明する。

 

 あれだけのチームとして結束力を発揮したのだ。

 確固たるチームの絆がなければ、とても出来るものではない。

 名残惜しくはあるが、ベルベットはボーガンを引き抜くのは諦めることに決めた。

 

「まあ、ちょっと無理やりだったけど……。ああやって誘ってもらえたのは、少し嬉しかった……かな?」

 照れくさそうに頭をかきながら、その件に関してはもう気にしていないと、ボーガンは伝える。

 

 昼休みのあの出来事――。

 もしもベルベットのチームが勝ったらボーガンがそちらに入る――などと、一時は盛り上がったが、そもそも本人の意志と関係なしにチーム移籍させるのは学園の規則的に不可能であり、まったく強制力のないものだった。

 

 終わってみればただの茶番。

 しかしいい経験をさせてもらった……その感謝の印として、ボーガンは右手を開いて相手に向け、握手を求める。

「何にせよ……いい勝負だったよ――ヒダカベルベット」

「ヒダカベルベットですわ――って合ってますわね……」

 いつも名前を憶えてもらえないので、条件反射で自分の名前を訂正してしまったが、取り越し苦労でポカンとする。

 

 そのあっけに取られてしまっているベルベットの姿を見て、つい笑ってしまう。

「あはは、流石にもう覚えたよ」

「……まったくお調子がよいことで」

 お返しにクスリと笑うと、ベルベットはボーガンの手を握る。

「この雪辱はまた改めて晴らせていただきますわ。貴方のチームにも負けないぐらい強くなって――ね」

「うん、楽しみにしてる。受けて立つよ。それと――」

 あのレースで最後に発揮したヒダカベルベットの末脚……。

 有利な展開でかなりのアドバンテージがあったが、もしもあそこで気を抜いていたら、まくられていたかもしれない。

 それほど後ろから迫りくる彼女の圧は、目を見張るものを感じた。

 

 そんな彼女と、トゥインクル・シリーズでいつか競い合いたい――そう欲が湧いてくる。

「次、ターフの上で会った時は、お互い全力でやろう!」

「――ええ、望むところでしてよ!」

 お互い、握りしめた手のひらに力が入る。

 その意志は固く、次勝つの自分のほうだと、そう主張しているかのようであった。

 

 互いに違うを道を征く者たち。

 されど誓った勝利は等しく同じ――。

 二人の道がまた交錯する日があらば、その時の誓いを果たそう。

 

 その日がやってくるのを、心から待ち望む……。

 

 こうして新たな絆となり――ライバルとの出会いとなった。

 

 ◇◆◇

 

 そんな二人の様子を、遠くから眺めている者が居た。

 

 その者は、ずっと彼女らのレースぶりを、手にしたスマートフォンに記録し続けていた。

「ふぅーん、なるほどね……。結構良いデータが取れたかな……」

 彼女を知るものなら普段聞いたことのないような低い声でそうぼやくと、もう要は済んだのか、録画停止を押して、懐にしまう。

 

 風にたなびく、短い栗色の毛。

 顔はニコニコと微笑んでいるが、その纏う雰囲気はとても穏やかなものではない。

 

 やがて、いつも細めているその目が少しだけ開く――。

 

「悪いけど……本番(レース)では――僕が獲らせてもらうよ……」




後編に続く。
※サブタイトル回収は後編で

構成変更のためサブタイトル修正(2023/5/28)


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歩くような速さで 後編(1)

続きをお待ち戴いていた方がいれば本当に申し訳ない。。。


 あのチーム対抗レースの後から、キョウエイボーガンとヒダカベルベットは教室以外のトレーニング場などでもよく絡むようになり、時折併走トレーニングを一緒に行っては、

「最初にゴールするのはわたくしですわ、ボーガンさん!」

「あたしだって負けないよ、ベルベット!」

「「はあああぁぁぁ――!」」

 といったように、レース本番さながら競い合う姿も見られた。

 

 二人は同期というのもあり、良きライバル関係を築き上げていき、そして互いに刺激しあっていた。

 

 二人であの時交わした約束――。

 ”共に本番(レース)で全力で勝負し合おう”、その言葉を胸に秘めながら。

 

 そんな騒がしいのやら賑やかしい日々を過ごしながら、二週間ほど月日は経過する――。

 

 この日、ボーガンは戦いの舞台に挑んでいた。

 

「はっ……はっ……はっ……!」

 鹿毛色のボブカットヘアーの小柄なウマ娘――キョウエイボーガンがターフの上を駆けていく。

 

 ようやく巻き返し、先頭の位置についたボーガン。

 最終コーナーまでずっと先頭を取られ、思ったように調子が出なかったが、この最終局面でトップを奪い取れたのは上々である。

 

 芝、一六〇〇メートル。白藤ステークス。

 

 前回復帰戦を勝利で飾った同じ、阪神レース場で繰り広げられているこのレースは、すでに終盤を過ぎ、残すところは仁川の坂と最後の直線だけ。

 

(――ここで一気にッ!)

 後は突き放すのみ……力を込めて芝の大地を蹴り上げると、溜め込んでいた脚の余力を解き放つ。

 

「はあぁっ!」

 いつ二週間ほど前に走ったコースなので、スパートを掛けるタイミングはすでに把握済みだ。

 心臓破りの急な坂道をグングンと突き進んでいく。

 

「……ク――ッ!」

 過去に制覇したとはいえ、急激な負荷に、ボーガンは肺が潰れ上がりそうなほど息苦しさを覚える。

 しかしこの程度で足を止める訳にはいかない。

 ここで失速してしまえば、追いつき追い越そうと駆け上がってくる後続にスキを与えてしまうからだ。

 

 余力を削られながらも、ボーガンはピッチを上げて、坂を駆け登る。

 そこを登れば終着点はすぐそこだ。

 

「――やあああぁぁぁ!」

 坂道を登り終えてすでにスタミナは付きかけているが一息つくことも許されない。

 渾身の力を振り絞り、最後の直線を、腕を振って脚を動かし続けて駆け抜ける。

 

 ただ一つのゴールへ目掛けて――。

 

『今、先頭がゴールイン! 三番キョウエイボーガン、そのまま逃げ切りました!』

 

 雌雄は決した。

 

 猛追の手から辛くも逃れ、そのまま一着を死守した。

 復帰戦に続き、ボーガンは勝利を収めた。

 

 ◇◆◇

 

「ぽけ~~~」

 激闘の復帰二戦目から明けた翌週――。

 キョウエイボーガンは、ひとり道端に佇み、口をあんぐりと開けながら天を仰いでいた。

 

 すでに季節は梅雨シーズン真っ盛りで、このところ雨が降っては止んでのご機嫌な斜めな空模様が続いていた。

 だがたまの休日の日曜日――人々の願いを成就したかのように、物の見事な青天となった。

 往来では晴天のためか、休日を満喫しているかのように、多くの人が行き交っている。

 

(ハッ、そうだった……。こんな所でぼーっとしてる場合じゃなかった……)

 初めて訪れた大型ショッピングモールのそのだだっ広さに、ついあっけにとられてれ、数十秒ほどは呆けてしまっていた。

 

(見てこいって言われたし……。行かなきゃ、だよね……)

 ふいにため息が溢れる。

 傍から見ても、あまり乗り気ではないのが見て取れる。

 

 あまり休日に外出をしないボーガンには珍しく、トレセン学園から離れた都内の大型商業施設に一人で出かけていた。

 

 なぜこのような場所に一人で赴くこととなったか……それは遡ること数日前――。

 

 ***

 

「ボーガンさん、この後、お時間よろしいですか?」

「……ん? 別にいいけど、どうかしたの?」

 外周走り込みから戻ってクールダウンをしている最中、ボーガンは長末トレーナーに呼び止められる。

 

「少しお伺いしたい点がありまして……ここで立ち話もなんですので、部室の中までよろしいでしょうか」

「う、うん……」

 何だか深刻そうな顔つきの長末トレーナーの表情に、何事かとつい緊張が走る。

 

 もしかして周囲に聞かれたくないような悪い話なのだろうか……とボーガンは邪推してしまい、ぐるぐると思考を巡らせながら、黙って彼の後を追い、チームの部室へと移動する。

 

「ご足労いただきありがとうございます。この間のレース結果も踏まえて、ボーガンさんの今後の出走方針について相談させていただきたいのですが――」

 お互い座に着くと、早速とばかりに長末トレーナーが切り出してくる。

「…………」

 先程トレーナーが淹れてくれたお茶をすすりながら、無言で話の続きを待つ。

 

 以前脚を怪我してしまった事もあり、レース後には必ず検査を受けることにしているのだが、もしかして何か悪いところが見つかったのだろうか……そんな一抹の不安に思いを馳せる。

 

「そろそろGⅠにも手が届く範囲ですので……勝負服のデザインを決めませんか?」

「――へ?」

 あまりにも予想外の言葉に、気が抜けて呆気にとられてしまう。

 

 そんなボーガンの様子もお構いなしに、怒涛のラッシュが始まる。

「この調子で勝ち進んでいけば、早くても今年の秋にはGⅠに出走できると思います。そこで問題になってくるのが、勝負服です。何せ発注から仕上がりまで時間がかかりますからね、慌てて用意する事が無いよう、今のうちにデザインを決めてしまいましょう!」

 いつになく雄弁を振るう長末トレーナーの勢いに思わずたじろいでしまい、

(――え、え? GⅠ? あ、あたしが?)

 何一つと実感を伴わない単語に、一体何の事を話しているのやらさっぱりであったが、途中からようやく思考フリーズ状態から復帰出来き、まだまだ筆舌に尽くし難い長末トレーナーの制止にかかる。

 

「ちょ、ちょっと待って! あたしがGⅠなんてそんな事全然考えたことないし……。それに勝負服だなんてそんな急に言われても……」

 トレセン学園に通うウマ娘なら誰しもが夢見たGⅠに出走――その舞台を彩るのは、色とりどりの勝負服を着たウマ娘たち。

 

 ボーガンも例外もなく憧憬を抱いてはいたが、今は純粋にレースに出れて走れるだけで満足で、その先の未来の光景など、まだまだ見えていなかった。

 それ故に、急に勝負服のデザインなどと言われても、何も思い浮かばない。

 

「ノープロブレム」

 まるでその焦燥を見透かし、それを振り払うかのように長末トレーナーは、自分のスマホの画面をボーガンに見せながら告げる。

「……これは?」

 そこに映し出されていたのはショッピングモールのキャンペーン告知ページであった。

 

「今こちらの店ではウマ娘勝負服フェアが開催されており、そこには有名ウマ娘の勝負服を再現した物が色々あるみたいですよ。まさにデザインの参考にするにはうってつけです!」

 つまるところ彼が言いたいのは……そこで他の勝負服のデザインを見てきて、イメージを固めてこい、といった塩梅だろうか。

 

「そのなんていうか、そういうのに慣れてないっていうか……全然わかんないし。それに選べないっていうか……。なんなら市販品のと同じデザインでもいいし……」

 日用品やトレーニング用品でもそうなのだが、ボーガンはあまり物に頓着がない上に、いざ何かを決めて選ぼうとなると、物凄く優柔不断であった。

 

 そんな訳でなんとか理由をつけて拒もうとしたものの、

「それではいけません! 勝負服といえばウマ娘の花であり顔! 他のと同じデザインなどとナンセンス! 大事な一張羅はやはり唯一無二、オンリーワンでなければッ!!」

「そ、そうですね……」

 長末トレーナーが見せたことのないグイグイと来る気迫に、一方的に気圧されてしまう。

 

「期間限定のフェアですので、善は急げという言葉の通り、早速次のお休みの日にでも行ってみて下さい。そして是非とも勝負服のデザイン案を今度聞かせて下さいね?」

「ア、ハイ……」

 と、有無を言わせない長末トレーナーの妙な勢いと圧に、押し切られる形となってしまった。

 

 ***

 

 ――といった経緯で今日は長末トレーナーに紹介されたショッピングモールに来ている。

 

 長末トレーナーから紹介を受けた際、「私も一緒に行きましょうか?」と、提案があったが、あの変なテンションで絡んできそうなのは何となく察したので、丁重にお断りした。

 

(えっと……。売り場の位置は……と。あった、あった。なんか人も多いし、ちょっと迷いそうだなぁ……)

 スケール感に圧倒されつつ、まるで迷宮の地図のような書き込み量の案内板を釘入る様に見つめながら、目的地を探す。

 

 場から浮いている訳では無いが、どうにも慣れていない、そんな印象をボーガンの挙動から受ける。

 それは無理もない話で、トレセン学園に通ってからというものの、こういうたまの休日はいつも自主練か勉強に励むといった、年頃の女の子にしてはあまり華のない暮らしを送っていたからだ。

 

 道中、色々な興味を惹かされるものに目を移りさせながらも、最初に確認した案内板の記憶を頼りに、ようやく『ウマ娘勝負服フェア』の売り場まで辿り着く。

 

「――うわ、すごっ」

 店中に入ったところで思わず感嘆が漏れた。

 

 躍動感あふれるポーズをとっているウマ娘のマネキンがあちこちに配置され、これでもかと勝負服のレプリカがずらりと展示されている。

 それらはすべて実際にウマ娘の勝負服を仕立てているメーカーの協賛もあってか意匠を凝らしており、ほぼ本物といっても過言ではない完成度であった。

 

 まさに多種多様……色んなウマ娘が着ていた勝負服がある。

 どれもこれも目が奪わ、キョロキョロと目配せしていると、ある一点が視界に写った時、ボーガンは我が目を疑った。

 

「え、うそ……。こんな恥ずかしい格好で走るの……?」

 おもわずその勝負服を手にとって、じっくりまじまじと眺めてしまう。

 

 それは勝負服と呼ぶにはあまりにも露出が際どく、布面積が胸元や腰回りしかない、もはやただの水着にしか見えないビキニタイプの勝負服であった。

 

「――お客様、このデザインよくお似合いですよ。試着もできますので、よろしければいいかがでしょうか? おすすめですよ♪」

 と、どこからともなくニコニコと笑顔を振りまきながらシュバってきた店員にそう話しかけられる。

 

(……こ、これを、あ、あたしが――っ!?)

 着ている姿をつい想像したボーガンは、顔を真っ赤に染める。

 

 プライベートで着用するならまだ個人の趣味の範疇とも言えるだろう。

 しかし大衆の面前にあえてこの格好を晒すなどと、どんな羞恥プレイというのだろうか……ボーガンはこれを着てみた自分のヴィジョンを、頭をぶんぶんと揺さぶって振り払う。

 

「い、いえ! 結構です!!」

 手に取っていた商品を急いで元に戻すと、脱兎のごとくその場から逃げ出した。

 

(あ、焦った~~)

 からくも脱出に成功し、一安心する。

 

 その後も先程のように、店員に試着を勧められないよう、小さな体躯を活かしながら、身を潜め見て回る。

 数ある勝負服のデザインの中で、どれを参考にしようかなかなか決められずにいるが、唯一、心に決まっている事があった。

 

『……ビキニは――ない!』

 

 それぐらい、あのビキニの勝負服には強烈なインパクトを受けていた。

 しかし一体、あんな攻めた勝負服など誰が着ていたのだろうか……というか、冬でもあの格好で走るのだろうか。

 

 沸き起こる疑問は尽きないが、自分は普通のでいい、至ってシンプルで機能性を重視したもので……そんな言い訳じみたことをボーガンは念仏のように唱えた。

 

 だが心の奥底では、もっとスタイルが、もっとプロポーションがよければ……特にとある部分のボリュームがあれば……そういう後ろ暗い感情が渦巻き、何か精神的な敗北感を植え付けられたのだった。

 

 ◇◆◇

 

 ただ見ているだけで買うつもりもないのに、長い間とどまり続けているというのも冷やかしがすぎるので、ざっと見渡した後は売り場を離れ、別のフロアに移動してベンチに腰掛ける。

 

「…………なんか疲れた」

 さっき寄ったカフェでテイクアウトしたカフェラテを飲みながら一息つく。

 

 店内に居たのは、時間にして一時間も経っていないが、妙な倦怠感を覚えていた。

 

 それだけ目まぐるしく思考を巡らせた結果なのだろう、普段ならまず飲まないような甘ったるい飲み物がつい飲みたくなってしまった。

 

「うっ、甘い……」

 飲んで一口で、自分の衝動的な行動に少し後悔するも、だからといって捨ててしまうのはもったいないので、口に広がる甘みに耐えながら、ちびちびと口をつける。

 

(……そういえば、そろそろお昼時かな?)

 腕時計で時刻を確認すると、ちょうどランチタイムに差し掛かかるであろう時間帯。

 このフロアに飲食店が多いためか、すでに辺り一帯、人で賑わい始めていた。

 

(用事も済んだ事だし、寮に戻ろうかな……)

 せっかくなのでここで昼食をとも一瞬考えたが、さすがの休日のこの混雑する時間。

 すでに目ぼしいレストランなどは入店待ちの人だかりが出来ていた。

 

 ここで待ち時間をかけて昼を取るよりも、帰ってトレセン学園のカフェテリアに行った方が無難である上に、そこら変の店と何だ遜色のないクオリティの食事が出てくるのだから尚更だった。

 

「――ん?」

 たまには日替わり定食以外のメニューを頼んでみようかと、今日の昼食に思いを馳せていると、わずか先に居る、長女の片手二本ずつに手を繋いだ、仲睦まじい感じの和気あいあいとしている三人の姉妹たちが、ふと目に映る。

 

「ねぇねぇベルベットお姉ちゃん、お腹すいた~。エビフライが食べたい~!」

「ベルベットお姉ちゃん、わたしはハンバーグがいいー!」

 元気いっぱいの小学生ぐらいの小さなウマ娘の女の子二人が、姉に話しかけている。

 

(あれ、なんかさっきベルベットって聞こえたような……?)

 気のせいかボーガンには覚えのある、クラスメイトでクラス委員長の名前が聞こえた。

 

「さっきのファミレスの順番待ちに書いたから、もうちょっと待っててねー」

 妹二人に挟まれている黒髪のポニーテールのメガネをかけたウマ娘が、妹たちをなだめるように諭す。

 

「あきた~。ベルベットお姉ちゃん、遊んで~」

「あーずるーい! わたしもわたしもー!」

 退屈だから構ってと言わんばかりに両サイドから握られた手ごとブンブンと振られる。

 日常茶飯事なのか、慣れた様子で長女は頭を繋いだ手を離し、その手で二人の頭をなでて落ち着かせる。

「はいはい、お願いだから、いい子にしててねー」

 

(気のせい……? けど……)

 その身なりは何の変哲もなくごく一般的、むしろかなり没個性的というか、はっきり言って地味といえた。

 

 彼女の私服姿を一度も見たことはないが、普段から綺麗な髪飾りなどをこしらえていて、いかにも『育ちがよさそう』というあの絢爛な雰囲気がまるでない。

 ボーガンの知る彼女の姿とはかけ離れていて、他人の空似かと思えたが、しかしそれだけでは説明出来ないような、背丈や顔の輪郭や目元などをよく観察すると、どこか見覚えがあった。

 

「………じー……」

 半信半疑で視線を向けていると、ボーガンの視線に気がついたのか、その姉と目が合う。

 

「!?」

 恐らく、向こうもこちらの存在に気がついたはずなのだが、

 

 ――プイッ。

 と、不自然にも、即座に顔をそらされた。

 

 明らかに自分の顔を見て、一瞬ギョッとさせたのをボーガンは見逃さなかった。

 

「ちょ、ちょっとお姉ちゃん、お手洗い行ってくる。すぐ戻るから、ちゃんとここで待っててね!」

 妙にうわづった声を上げながら、まるで逃げ出すかのようにこの場を立ち去る。

 

「…………」

 もはやこの段階で疑惑から確信に変わっており、これ以上追求する意味は殆どなかったが、それでもボーガンは確かめずにはいられず、彼女の後を追ってトイレまで移動する。

 

 中に入る様子を伺うと、ただひたすらに洗面台で、まるでアライグマになったかのように手を洗い続けている彼女の姿を目撃する。

 

 その顔は少し青ざめており、「どうしよう……どうしよう……」と、時折ぼやいているのが聞き取れた。

 

「……あのー……。もしかして、委員長……?」

「なッ――わたくしはヒダカベルベットですわ!」

 つい条件反射で反応してしまったのだろうか、顔を振り向きながらいつもの彼女らしい態度が返ってきた。

 

「――ハッ!」

 その直後、「しまった!」と、ヒダカベルベットは慌てて口元を押さえるもすでに遅し。

 

「や、やあベルベット。き、奇遇だね……」



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歩くような速さで 後編(2)

(どうしてこうなったんだろ……)

 偶然にも運命的な再会を果たしたキョウエイボーガンとヒダカベルベットであったが、あまりにも強烈な衝撃を受けたベルベットは、しばらくその場で口をパクパクさせながらその場で棒立ちしてしまい、他のトイレの利用者から「なんだあれ?」と、不審がられてしまった為、逃げるようにボーガンが手を引いて、トイレのすぐ外の待合スペースへと場所を移していた。

 

「…………」

 お互い隣に鎮座しながらもまるで赤の他人のように、二人の間には長い沈黙が続いている。

 

 ボーガンはこれほど塩らしい彼女を見るのは初めてであった。

 トレセン学園での彼女――ベルベットと印象といえば、目立つ両脇の黒髪の縦ロールと、いかにも『お嬢様』といったような出で立ちと喋り方が特徴。

 

 しかし顔を赤らめながら恥ずかしそうに両手で顔を隠しながらうずくまっている今の彼女に、その面影は一切なかった。

 

(……き、気まずい……)

 もうどのくらい、こうして貝のように押し黙っているのやら。

 

 少し前にボーガンの方から軽く話しかけてみたが、かすかな反応は返ってくるだけで、まともに受け答えできる状態ではないようであった。

 

 そんな一秒一秒がやけに長く感じるような重苦しい時を過ごし、流れ行く秒数を頭の中で数えるのも飽きてやめてしまったあたりで、ようやく平静を取り戻したのか、ベルベットが顔を上げた。

 

「…………ないで」

「え?」

 ボソリとベルベットは何かをつぶやいたが、かなり小声だったのでうまく聞き取れなかった。

 

「……他の人には……言わないで……」

 先程よりも音量は上がっているが、聞いている方が何だか悲痛を覚えるような、今にも消え入りそうなか細い声だった。

 

「……なんか、その……ゴメン……」

 ベルベットにとって、自分のプライベートの姿を知り合いに見られたのは初めての事であったのだろう、そのいたたまれない様子に、ボーガンはつい謝罪が出てしまった。

 

「えっと、なんていうか……。そ、そういえば、オフの時は、意外とラフな感じなんだね……?」

 言葉に詰まったボーガンは、うっかり思ったことを口に出してしまい、相手にとっての地雷を踏んでしまう。

「――くぅぅぅっ!」

 追撃のボディーブローを受けたベルベットは、羞恥心のあまり、体を倒して再度うずくまってしまった。

 

「あっ――ゴメンゴメン! 変な意味じゃなくてさ……!」

 両手をバタバタと振り、慌てて取り繕う。

 これではまるで、彼女をいじめているみたいになってしまう。

 

「ちょっと普段と印象が違うから驚いただけっていうか……その格好も全然アリよりのアリ? みたいな……」

 捨てられた子犬のようにプルプルと震えているベルベットを必死になだめようとしているが、ボーガンの思考は――。

 

『その格好は一体どうしたの? それに実は目が悪くていつもはコンタクトしてたの? というかオフの時は喋り方普通なんだ……』

 

 そんな疑問がボーガンの脳内で、シャボン玉のように浮かんでは消えていた。

 

 ボーガンがしばらくの間、「へーき、へーき、問題ないって」と、少ない語彙力でフォローしていると、ようやっと持ち直したのか、ベルベットは顔を少し上げる。

 

「……私のこと、トレセン学園の時とは、『キャラが違う』って思ってるわよね……?」

「あー、うーん。ど、どうかなぁ……」

 どうにも曖昧な回答をするボーガンだが、もはや答えが顔に書いてあるというレベルであった。

 

「――ええ、そうよ! 私は別にお嬢様なんかじゃないわよっ!!」

(あ……開き直った……)

 先程までシュンとしていたのはどこへやら、威勢よく立ち上がると、聞かれてもいないことをあれこれ語り出してくる。

 

「――別に騙していたわけじゃないのよ。周りから『雰囲気がお嬢様みたいだね』って言われて、ちょっとそれっぽく振る舞っていたら、いつの間にか引き返せなくなってて……」

 聞けばベルベットの家庭は、華麗な一族に連なるわけでもなく名家の生まれでもなく、ごくごく一般的なただの庶民との事。

 ウマ娘のエリートたちが通うトレセン学園に入学することできて、つい舞い上がってしまっい、つい見栄をはって進学と同時にコンタクトに変えておしゃれな髪型に決めてデビューしちゃったのだ。

 

 若さゆえの過ちか、ほんの一時の出来心だったかもしれない。

 時が経つたびにどんどん引き返せなくなり、訂正する機会を失ったしまったのだ。

 

「だからお願いします……。クラスの皆には内緒にして下さい、何でもしますから……」

 まるで神様を拝み倒すように地に伏せて平服するベルベット。

 

「と、とりあえず、まずは顔を上げてくれないかな……」

「お願いしますぅぅぅっ!!」

 その珍妙な光景は否が応でも周囲から浮いてしまう。

 

 周囲の「なにあれ?」という、不審な視線が痛い。

 どうにもバツが悪すぎるので、ベルベットに一刻もその格好をやめさせるよう働く。

 

「ちょ――わかった、大丈夫! 約束するから、それ早くやめて!」

「ほ、本当!? 絶対に言わないでよね!」

 先程まで意気消沈していたのとは打って変わり、急に顔をバッと上げて明るい表情を見せる。

 

 そしてスッと立ち上がり、ボーガンを両手を掴んで急接近する。

「……もし約束を破ったら……末代まで呪うわよ……!」

(ちょ……怖い怖い……)

 耳元でそんな凄みのある威圧感を放ってきたので、とりあえず黙ってコクコクと、二度うなずく他なかった。

 

「わかった、わかったよ。誰にも言わないから……」

「それを聞いて安心したわ♪」

 約束の確約を取り付けるや否や、ケロリと明るい顔に戻る。

 

 どうにもベルベットは、喜怒哀楽が激しいタイプのようだ。

 

「……ていうか、そもそもそんなにバレるのが嫌だったなら、その『お嬢様のフリ』を、すぐやめればよかったんじゃ……」

 そんな疑問がふとボーガンの頭によぎる。

 

「そ、それはそうなのだけど――」

 そう口淀み、ベルベットは言葉に詰まる。

 彼女にものっぴきならない事情とらやが、あったのかしれない。

 

「だ、だって恥ずかしいじゃない……」

 と言いながらベルベットは顔を真っ赤にさせて、身をくねらせる。

 

「――クスッ」

 なんとも可愛らしい理由だったので、思わずボーガンは笑ってしまう。

「わ、笑わなくてもいいじゃない……」

 少しむくれたように不機嫌そうな表情を浮かべるベルベット。

「ごめんごめん、やっぱり普段とのギャップがすごくてつい……。それと、いつもの口調じゃなく、普通に喋れるんだね」

 よほどツボに入ったのか、クスクスとしばらく笑い続ける。

「い、いじわるですわよ……ボーガンさん!」

 ボーガンにいじられて、またみるみるうちにベルベットは紅潮しだす。

 慌てていつもの口調に戻しているようだが、これまで頑張ってキャラ作りをしていたのだと知ると、なんだか彼女の事がとても微笑ましく思えてくる。

 

「――お、オホン。と、ところでボーガンさんは、今日は何かお買い物だったのかしら?」

 仕切り直しとばかりにわざとらしく咳払いし、さっきまでの出来事は水に流したかのように、ベルベットはすっかりいつも調子を取り戻す。

「ううん。トレーナーにそろそろGⅠも出る機会があるかもしれないから、勝負服のデザインのイメージ固めてこいって言われてね……」

「ああ……。そういえば五階のフロアでそういう催し物をやっていましたわね……」

「それで一通り観て終わったので、そろそろ帰ろうかなっていう所だったわけ」

 そしてばったり、小さい妹二人と家族団らん中のベルベットと遭遇してしまった、という事である。

 

「あら、そうでしたのね……偶然というのも、あるものなんですわね」

 ベルベットにとっては実家に近い大型店舗であり、幼い妹たちを連れて行くには何分勝手がよく、地元なので普段の『トレセン学園』の装いをしていなかったのが、運の尽きであった。

「もしお昼がまだなようでしたら、よろしければご一緒しませんか? 妹達にも紹介したいですし……」

 ちょっとトイレに行っているにしては、だいぶ時間が経っている。

 そろそろファミレスの前に置いてきた妹たちの事が、心配になるもの無理はない。

 

 ここで会えたのも何か縁だろうか、ボーガンはランチに誘われる。

 

「うーん、ゴメン。今回は遠慮しておくかな。あんまり家族団らんの時間を邪魔したら悪いしね……」

 

 それは単純に気を使っただけで、他意はない。

 他意はなかったはずなのに……ボーガンの言葉には憂いをどこか秘めていた。

 

「……そうですわね。急なお誘いでしたね、また日を改めましょう」

 何を察したのかどうかはわからないが、ベルベットは簡単に引き下がる。

 

「では――妹たちをあまり放っておけませんので、ここで失礼いたしますわ」

 そう言って別れを告げようとするが、

「あ、そうですわ」

 ふと思い出したかのようにベルベットが訊ねてくる。

 

「今後の出走するレースはお決まりになりましたか? 私は次の一戦を挟んで、重賞のファルコンステークスを目指しますわ」

 チーム対抗レース後に交わした、『次同じレースで相まみえた際は、お互い全力で勝負しよう』という約束から、ライバルの動向は気になるのは必然と言えた。

 

「……またしても奇遇だね」

 ボーガンは驚いた表情を見せる。

 

 偶然が重なればそれは必然ともいえる。

 今日このような所でベルベットと出会ったのはただの偶然はなく、運命だったのかもしれない。

 

「あたしは七月の――ファルコンステークスに出るよ」

 つい先日、トレーナーと相談して決めた、まだ誰にも伝えていないレース・スケジュール。

 これが運命でなければ、これほど偶然が重ならないであろう。

 

「それは俄然……楽しみが増えましたわね!」

 存外待望の日がすぐ近くだと知ると、彼女の目つきが鋭くなり、口元を少し緩め、不敵な笑みを浮かべる。

 トレセン学園でのお嬢様の顔でもない、妹二人のお姉ちゃんの顔でもない、ベルベットの闘志に火が灯り始めたのだ。

 

「次は中京レース場でお会いいたしましょう。そしてこの前の借りを返させていただきますわ!」

「こっちも負けるつもりはないよ……!」

 視線を交わし合う二人。バチバチと火花を散らせる。

 だがそれもほんの束の間で終わった。

 

「と、いいましても――また明日教室でお会いしますけどね」

 冗談めいた口調でベルベットが場をなごませると、それにつられてボーガンもクスッと笑いをこぼす。

 

「……それでは今度こそ失礼いたしますわ」

「うん、それじゃ」

 短い会話を挟んで、二人は別々に別れる。

 

 多くを語らずとも分かり合っていた。

 二人の交わした約束――決戦の舞台(レース)で再び相まみえよう、その言葉を共に抱く。

 

 ◇◆◇

 

 日曜のトレセン学園。

 学園内はいつも生徒たちで賑わっているが、休日となるとその数はまばらとなる。

 

 ある者はトゥインクル・シリーズに出走で出払っていたり、ある者は日常の疲れを癒やすため英気を養ったりなど……。

 それでも熱心な生徒は、朝からトレーニングに打ち込む者もいくらか見受けられる。

 

 そんな短い栗色の髪をしたどこか中性的な印象を持つウマ娘――ハヤテも、自主練に励む中の一人であった。

 

「あれ、ハヤテ~。今日も自主練?」

 たまたま校門前を通りがかった、私服姿のハヤテの所属するチームの先輩のウマ娘が話しかけてくる。

「あ、先輩。こんにちはー! 今からお出かけですかー?」

「うん、友達とちょっとね~。そういえば確か昨日も練習やってたよね? 毎日、精が出るね~」

 

 昨日の同じような時刻。

 寮から出ていく際に、ジャージ姿で走り込みに出ていく姿を偶然にも見かけていた。

 去年の初冬にダートから芝に転向のためチーム移籍してきたこの後輩を気にかけており、少し気がかりになったという。

 

「はいー! この間のレース負けちゃったし、それに次のレースも決まったのでー!」

 先輩の意図を汲み取っているのだろうか、まるで『心配ないですよ』と、言わんばかりの愛嬌のある笑顔をニコニコ振りまきながらそう応えた。

 

 ここ最近のハヤテは、入着までの惜しい所まで行くが、なかなか勝ちきれないというレース結果に終わっている。

 あと一歩が及ばない……それが焦りを生んでいるのか、一層練習に力が入るというもの頷けるが、怪我でもしたら元も子もない。

 

「頑張ってるね~。でもあんまり根を詰めすぎないように」

「大丈夫ですー。僕、こう見えても結構、身体は丈夫なんですよー」

 まったく変わらない笑みを浮かべながら、えっへんと胸を貼る。

 その姿は見る限り、無理をしているという風には感じなかった。

「そう……ならいいけど」

 本人が問題ないと言っているので、これ以上お節介かけるというのは野暮というもの、それ以上は追求しなかった。

 

「そ~いえば、今度ハヤテが出走するレースって、七月のファルコンステークスだっけ? もし行けたら、応援しに行くからね~!」

「ありがとうございますー! それじゃ僕、もう一周走ってきますねー」

「ばいばい~」

 ハヤテは手を振りながら、同じ手を振っている先輩と別れる。

 

 穏やかな青春一ページ。

 その光景は、さぞや健気に努力する後輩とそれを暖かな目で見守る先輩というに微笑ましく映ったであろう。

 

 外周に出て、先輩の姿が完全に見えなくなった途端――。

 

 ハヤテの先程までの和やかな雰囲気がガラリと変わり、表情に貼り付けた笑顔は崩れていないが、秘めたる激情がどこからか漏れ出していた。

 

(次こそは負けられない……負けるわけにはいかない……っ!)

 

 心の内では誰よりも勝利に、一着への執念を燃やし――勝ちたいという欲望が人一倍強く渦巻いてい。

 今にも爆発してしまいそうなこの感情を、今はトレーニングにぶつけて発散させる。

 

 (きた)るその時に備えて――。 

 

 

 キョウエイボーガン。

 ビダカベルベット。

 ハヤテ。

 

 七月五日、中京レース場。

 奇しくもこの三人が一挙に集いて、雌雄を決する事となる……。



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歩くような速さで 後編(3)

 七月五日、初夏の日曜日。

 朝から降っていた雨がやんでしばらく経つが、未だ快晴といかず曇り空だ。

 

 愛知県にある中京レース場。

 今週もトゥインクル・シリーズのレースが開催され、ぐずついた天気ながらも多くの観客たちがここに足を運んでいた。

 

「夏のトゥインクル・シリーズは退屈だ……そう思うファンは少ながらずいる」

「どうした急に」

 次のレースが始まる合間、スタンドで観戦している半袖のパーカーを着た男がいつものように唐突に語り出すが、もう慣れたもので、眼鏡の男はおなじみの返しをする。

 

「宝塚記念が終わった後、しばらくGⅠのレースがなく、そして春の大舞台で賑わかせたスターウ

マ娘たちも秋に備えて、夏は休養期間に当てられる」

「そう言われると、確かに注目度は低くなるのかもしれないな……」

 

 今日も目玉と呼べるのは重賞のファルコンステークスぐらいなもので、地方遠征で札幌か福島かそれとも中京か、どこへ行くか散々迷った挙げ句、最後は運任せのくじ引きで決めたぐらいだ。

 

「――だが、果たしてそう言い切れるだろうか? この夏にかけてのレースで好成績を残し、その勢いのまま秋のGⅠを獲得したウマ娘は数多くいる……」

 パーカー男が言うように、その偉業を成し遂げているウマ娘は確かに存在する。

 

 夏のレースから覚醒し破竹の四連勝で菊花賞を制したマチカネフクキタル。

 芝に転向してから夏の間に着々と実力を伸ばし、菊花賞を勝ち取ったマヤノトップガン。

 

 それはまさに下剋上――。

 春のクラシックレースで結果を残せなくとも、けして平坦ではなく順風満帆とはいえない道のりだったとしても、チャンスは等しく訪れる。

 

 それがトゥインクル・シリーズというものなのだ。

 そうして大器をなし得、成り上がっていった彼女らの事を……『夏の上がりウマ娘』と呼んだ。

 

「つまりは、このレースも目が離せないっていうことだな!」

 今日のレース。

 数ある重賞レースのうちの一つにすぎないのかもしれないが、これに機に秋の大一番で目まぐるしい活躍をするスター選手が誕生するのかもしれない。

 

 そう思えばこそ、退屈などとは言っていられない。

 

「ああ、そうだとも! その勇姿を一つでも多く焼き付けておくのが、俺たちファンの務めさ!」

 

 二人の思いは一致団結となり、これから行われるレースのパドックを期待を込めて見つめる。

 灰かぶりからのシンデレラストーリーが生まれる、その瞬間を焦がれて――。

 

 ◇◆◇

 

 中京レース場、第11R。

 メインレース――中日スポーツ賞ファルコンステークス。

 パドックのお披露目を終えたウマ娘たちが地下バ道を通って、次々とコースの上に現れていく。

 

 一歩一歩歩く度に、まるでトンネルの中のように、自分の靴音が反響する。

 

 キョウエイボーガンもまたこのレースに出走するため、この道を歩いていた。

 

(……調子は問題ない……。後は自分のやれることをやるだけ……!)

 

 ここまでトントン拍子にオープン戦から重賞戦へと辿り着いた。

 けれど初めての重賞レース、緊張していないといったら嘘になる。わずかに自分の心拍数が上がっていくように感じる。

 

 地下バ道の出口に近づくに連れ、夏の熱気以外のものがどんどん増して、たぎってくるようだった。

 

「――ベルベット……」

 ボーガンは足を止めた。

 

 そこには待ち構えていたように、ヒダカベルベットが佇んでおり、彼女と目が合ったからだ。

 

「ご機嫌麗しゅう、ボーガンさん。とうとうこの日がやってきましたわね!」

 きっちりと整えられたご自慢のツインドリルヘアーをふわっと揺らしながら、威風堂々とした、あたかも背景に星が舞っているかのように、綺羅びやかな立ち振舞を見せるベルベット。

 

(あ……そのキャラのままで行くんだね……)

 この間の、完全にオフショットの彼女を目撃してしまったがために、ボーガンは微妙に彼女とどう接するのが正解なのか、分からずにいる。

 

「この間の約束通り、この舞台に来ましたわよ!」

「……わざわざレース前に挨拶をしにくるなんて、ベルベットらしいね」

 

「当然ですわ! ライバルと決着をつける絶好の場面、こちらからきちんとご挨拶をするのは淑女の嗜みでしてよ!」

 と言ってベルベットは気分が高揚したのか、「オーホッホッホ」と高笑いをし始める。

 

 完全にいつもの彼女の調子である。

 この間の出来事は彼女の中でなかった事になったのか、あるいは長年お嬢様のふりを演じ続けた結果、今更直すのも逆に難しい、習慣となってしまったのだろう。

 

「それなら……お互い、全力やり合おう! 今日のレースの一着は譲らないよ!」

 彼女の仕草はさておき、宣戦布告をしてくるというのであれば、それを受けてたつのみである。

「それはこちらのセリフですわ!」

 無論、相手も同じ気持ちであろう。

 

 前哨戦さながら、レースが始まる前から、目と目で火花を飛ばし合う。

 

 そうやって二人が対抗心をあらわにしてバチバチやり合っていると――。

 

 カツーン……カツーン……。

 

 背後から、反響音。

 とてもゆったりとした、しかしそれでいて妙に存在感のある足音がこちらに近づいてくる。

 

 睨み合っていたボーガンとベルベットだったが、その音に遮られる形で中断させられる。

 自然と音の主を確かめるべく視線をそちらに向けると、二人は驚いた表情を浮かべる。

 

「……ハヤテ……?」

 一瞬クラスメイトの彼女だと判らなかった。

 

 二人と同じクラスであり、ボーガンとは隣の席のハヤテ。

 よく見知っている顔だというのに、なぜか圧倒的が違和感で、そこに居るのが同一人物だと確証が得られなかった。

 

「――ニヤッ」

 名前を呼ばれて、ボーガンとベルベットの存在を認知したハヤテは、二人を一瞥すると、口元を一瞬歪めた。

 

「「――――ッ」」

 思わず二人は背筋に冷たいものが走り、息を呑んでしまう。

 

 あれは本当に我々が知るハヤテなのだろうか……そう疑問を抱いてしまうのも無理はない。

 まるで別人――。

 

 普段つけていない、額の部分に『颯』と書かれているヘアバンドをつけて少し外見が変わっているが、そういった見た目の問題ではない。

 普段の彼女からは想像もつかない、異質なオーラのようなものを身にまとっているようであった。

 

「やあ、これはこれはお二人さん、こんなところにお揃いで……」

 二人の前に立ち止まり、そう静かに言い放つ。

 

 その口ぶりは、いつものおっとりとした口調とはかけ離れており、なにより常に笑顔を絶やさないでいるその印象的な表情は、今は欠片もない。

 

「は、ハヤテさん……? その何か、いつもと雰囲気が違うようですが……」

 ハヤテのあまりの豹変に少し物怖じしてしまったのか、ベルベットは恐る恐るそんな風に伺った。

「ああ、悪いね。驚かせたかな? 普段はもうちょっとうまく隠せるんだけど、今日は気持ちの高ぶりが抑えられなくてね……!」

 その落ち着いた喋り方とは裏腹に、普段の愛嬌のある笑顔はまったく別物の、まるで牙を研ぐような不敵な笑みを浮かべながら、闘争心むき出しのギラついた目線を二人に送る。

 

(――ッ!? 何、今の……)

 その視線を浴びた刹那、ボーガンは冷や汗をかいてしまう。

 ボーガン自身もよく分からない事だが、いつもはにこやかに目を細めているのとギャップもさることながら、蛇に睨まれた蛙かの如く緊張感が全身を駆け巡ったのである。

 

「それじゃ僕はお先に失礼するね。今日はお互い、良いレースにしよう……」

 と、にべにもなくハヤテは別れを告げると、二人を後に残し、一足先に地下バ道を突き進み、出口へ向かって歩を進めた。

 

「――――」

 ボーガンとベルベットの二人は、その後姿を黙って見送った。

 いや、見送る事しか出来なかった。

 

(……さっきの目、とても『良いレースにしよう』っていう、感じじゃなかったな……)

 思い返してみても身震いするような、獲物を定める肉食動物のようなあの目……自分たちに向かって何かを訴えかけているようであった。

 

 まるで、()()()()()()()()()()()()()()、と――。

 それぐらい今にも食って掛かりそうなほどの、闘争心に満ち溢れている目をしていた。

 

「――な、なんだったのかしら……」

 ハヤテがその場を後にしていくらか経過した後、ようやっとベルベットが口を開く。

 

 その凄みは隣にいたベルベットにも伝わっており、ボーガン同様、気圧されてしまいしばらくその場で立ち往生してしまっていたようだ。

 

「きっとあれが、ハヤテの本気なんだ……」

 気圧され、自然と握りこぶしを強く握っていた。

 

 ついさっきまではあたかお互いの勝負をつける場、自分たちが主役だと舞い上がっていた。

 

 それは思い上がりも、はなはだしかった。

 ハヤテがいる。そして他にも、このレースには出走しているウマ娘が居るのだ。

 レースに出る誰もが主役で、ライバルであることを再認識させられた。

 

「よし――ッ!」

 と一喝すると、ボーガンはパチンと両手で自分の頬を強く打ち付けた。

 

「ぼ、ボーガンさん!? 一体何を……?」

「ん――ちょっと気合い入れ直してた……!」

 おかげで目が覚めたと言わんばかりに、引き締まった顔立ちのボーガンを見て、ベルベットその意図を読み取った。

 

 そして自分もそれ続く。

「――やあッ!!」

 掛け声と共に、パチーンと、先程と同じような軽快な音が反響する。

 ベルベットも同じように自分の頬にを手のひらを打ち付けて、気合を入れ直した。

 

「こんなところで飲まれている場合ではないですわ!」

 ベルベットの言うとおりである、まだレースは始まってもいないのだから。

「それじゃ、あたしたちもそろそろ行こう!」

「……ええ!」

 二人は揃って出口へ向かって歩を進める。

 その先の、決戦の舞台へと――。

 

 ◇◆◇

 

『曇り空の元、中京レース芝一八〇〇、十四人のウマ娘たちが夏の重賞レースに挑みます』

 

 実況が会場に響き渡る中、ゲートインを終えた各々のウマ娘たちは、出走の時を今かと、集中力を高めながら待っている。

 さならがらゲートの周囲だけは、嵐の前の静けさに満ちていた。

 

『それでは注目のウマ娘たちを紹介していきましょう――二番人気、現在二連勝中、持ち味の豪脚は今回も炸裂するか? 7枠12番ヒダカベルベット』

 

『続いては同じく二連勝中、その勢いのまま逃げ切るのか? 三番人気、3枠3番キョウエイボーガン』

 

『さて堂々の一番人気はこの娘――1枠1番、ハヤテ! 実力は申し分なし、好走に期待しましょう!』

 

『皆、気合十分といった、いい表情してますね!』

『さあ中京レース場本日のメインレース、ファルコンステークス。まもなく開幕です!』

 

 そう実況が言い終わるのが合図だったのか、まるで照らし合わせたようにウマ娘たちは揃ってスタートダッシュの構えをとる。

 

 一瞬の静寂――。

 

 まるで自分の鼓動の音が相手に伝わってしまいそうだ。

 観客にいる誰もが息を呑み、その時を待つ。

 

 ガゴン――ッ!

 

 ゲートが一斉に開け放たれると、地響を上げながら走者たちが一斉に飛び出す。

 

 今、戦いの火蓋が切られた。



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歩くような速さで 後編(4)

 ドドドドドドッ……。

 

 ウマ娘たちが芝を蹴り上げると、まるで大地が悲鳴を上げているかのように、唸りを上げて振動音が辺りに木霊する。

 

 今はレースは開始直後から、少し進んで序盤を過ぎたあたり。

 第一コーナーを抜けた頃合いで、位置争いが終わって、一段落ついたといった所だ。

 

「くぅぅ……。わたくしとしたことが、しくじった――しくじりましたわ……」

 ターフの上を駆けながら、誰に言うのでもなく、ヒダカベルベットは小声で口惜しそうにそうぼやく。

 

 彼女は、ほぼ先行に近い位置の集団に揉まれていた。

 本来の彼女の作戦であれば、もっと後ろの方で脚をためて、終盤からまくるのが常道であったが、不運にも序盤の先行争いに巻き込まれる形でこのような不本意な位置取りになってしまった。

 

 集団から抜け出そうともがくも時すでに遅し、こう取り囲まれてしまっていては、思い通りにはいかなかった。

 

 ならばいっその事、斜行覚悟で強引に突破してしまうか――ついそんな乱暴な思考が頭をよぎる。

 

(いけない、いけない……。まずは冷静にならないと……。チャンスはきっとまだやって来るはず……!)

 まるで自分にそう信じ込ませるように念じる。

 

 歯がゆい思いをさせられながらも、今は少しでも体制を整えることに注力するため、周囲の状況をじっくりと観測する事に徹した。

 

「さすがでわすね……ボーガンさん……」

 先頭を走るボーガンの背中を視界に捉えると、そんな感嘆が漏れ出す。

 

 好敵手(ボーガン)は、序盤からスタートダッシュをきめ先頭に躍り出ると、そのまま不動の一番の順位をこれまで維持している。

 

 彼女の姿に、自分も負けていられないと、負けるわけにはいかないと、鼓舞される。

 

 なぜなら自分にも志す決意――譲れない想いがあった。

 

 

 ヒダカベルベットには年の離れた大いなる姉がいた。

 

 その姉もすべからくウマ娘であり、桜花賞を戴冠した誉れあるGⅠウマ娘である。

 

 幼きベルベットにとっては姉の姿はまさに憧れの象徴であったし、最後にためた脚で後方から差し込む追い込みスタイルも、姉の走り方に影響されたのが大きい。

 そんな憧憬から挑み始まったトゥインクル・シリーズであったが、今度は自分が後続に己が姿を指し示す時――妹たちに見せる番となった。

 

 チーム戦という舞台で花開くことも彼女の夢のひとつであるが、けれどトゥインクル・シリーズを諦め捨てたわけではない。

 

 ――姉のように光り輝く栄光を見せたい。

 

 だがしかし、そんな強い意志とは裏腹に、春のトリプルティアラには、挑戦する資格さえすら与えられなかった。

 

『次こそは、きっと次こそは――』

 

 それがどんな不格好でも往生際が悪くとも、諦めきれない。

 

 まだ最後の挑戦――エリザベス女王杯が残っている。

 

 たとえどんなに苦しくて厳しい状況だったとしても、最後までもがいてみせる。

 次へと繋ぐためにどうしてもこの勝利がほしい。

 

 故に、ライバルであるボーガンにも、レース前に凄みを見せつけられたハヤテにも、何人たりとも後手を踏むわけにはいかなかった。

 

「わたくしが勝つ……ですわ!」

 ならば、やる事は単純明快――勝利をこの手で掴むだけ。

 

 そのためには今はじっと耐え、終盤のラストチャンスに自分の持てる武器――自慢の末脚を最大限に発揮させて全力をぶつける……それにすべてを掛けるのであった。

 

 ベルベットは、折れそうな己を気持ち振り払い、奮い立たせた。

 

 ◇◆◇

 

 汗が額に張り付き、滲み出る。

 まるで真夏のような熱気が、レース場に立ち込めているかのように感じられる。

 

 状況は少し進んで、レースはコース半分を過ぎて、中盤……。

 

 単独で逃げている先頭がペースを作り、やや縦長な展開となっている。

 

 その先頭から少し離れた位置の先頭集団に、まるで何かを伺っているかのように、ハヤテが三番手についていた。

 

(まだだ……。仕掛けるのはこのタイミングじゃない……!)

 逸りそうになる気持ちをぐっと抑え込むように、ハヤテは自分の内にそう語りかけていた。

 

 注意すべきは序盤から先頭に立って、まさに独走といった形で、ペースを握っているキョウエイボーガンだ。

 

 このまま好きに逃げさせておいてはいけない、というのは先行勢にとっては明らかで、現に現在二位の9番が何度かプレッシャーをかけにいったが、当のボーガンはまるで気にした様子はなく、自分のペースを守り続けている。

 これでは仕掛けた方が、無駄に体力を削られただけである。

 

(……必ず仕留める…………)

 だが今はその好機ではない。

 

 相手の集中力も無尽蔵ではなく、いつか気が緩んで隙が生じるはず……ハヤテは獰猛な獣ような目つきで獲物を品定めしながら、雌伏の時をこらえる。

 

 まるで獲物を待ち伏せしている飢えたライオンのように、爪を研ぐ。

 

 そうハヤテはいつだって飢えていた。

 その乾きは、走りで相手を打ち負かした時しか満たせないものだった――。

 

 

 トレセン学園に入ったばかりの頃……というよりも元来のハヤテは今とは打って変わり、いつもナイフみたいに尖っては、目をギラギラさせながら周囲を食って掛かるような雰囲気を放っており、どうにも近寄りたがい存在であった。

 

 溢れ出すその闘争心という名の気性の荒さは、選抜レースを経てスカウトされたトレーナーからすぐに見抜かれて、

「――貴女のその闘争心は武器になるでしょう。けれどもう少し心に余裕を持つようにしなさい。そんな調子だからいつも安い仕掛けに乗ってペースを乱されるのです」

 最初に言われたのがその言葉であった。

 

 井の中の蛙、大海を知らずとはこの事だった。

 

 地元では敵なしで、頂点(てっぺん)獲ったると息巻いてトレセン学園に来たものの、ブッちぎるどころか凡戦が目立ち、思うように結果は振るわなかった。

 

 というのも、一対一(サシ)での競争では抜き出たものがあったが、どうも集団となるとイマイチ実力を発揮できない――ちょっとした位置取り争いや小競り合いにも、売られた喧嘩は買い取り上等だとばかりに、四方八方に全力で張り合ってしまい、模擬戦などでうまく能力を発揮出来ずにいた。

 

「常に笑っていなさい。それくらいが貴女にはちょうどいい――」

 刀はいつまでも抜き身のままでいると、いずれ我が身を傷つけてしまう。

 鞘に収めた状態で保ち、必要な時に刀を抜く。

 

 トレーナーのアドバイス以来、普段から笑顔という仮面をつけて形から平静を演じる事で、自分を御するようになった。

 そのかいがあってか、堪えて解き放つという走りを覚えた。

 

 だが彼女の本質そのものが変化したわけではない。

 

 フラストレーションの発散とばかりに、抑え溜め込んだ闘争心がレース中、ここぞという場面で爆発する。

 誰よりも何よりも、ただ貪欲に勝利を追い求める。 

 

 しかしこの所、ハヤテは勝利の味を久しく味わえていない。

 その研ぎ澄した牙を存分に振るえていない。

 

『今日こそは、今日こそは――』

 

 空腹こそが最大の調味料というように、その渇望がより大きければ大きいほど力となる。

 積み重ねていった勝利への渇望は、自分の走りへの糧と変える。

 すべては勝利の瞬間という、最高の美酒に酔いしれるために……。

 

「僕が勝つ……ッ!」

 ハヤテは、鋭い目つきで未来(ゴール)を見据えならが、己の覚悟を言葉にして表す。

 

 勝負の瞬間(とき)は――もうすぐそこだ。

 

 ◇◆◇

 

 時は刻ざまれていく。

 始まるがあるように、やがて終わりの時が訪れる。

 

 レースはすでに終盤へと差しかかっていた。

 

 先頭は以前変わらず、キョウエイボーガン。

 序盤から他を寄せ付けず、順調に自分のペースで走り続けていた。

 

「はっ、はっ、はっ…………」

 軽快な呼吸音。

 ゴールまで残り四〇〇メートル。まだ息は上がりきっていない、まだ呼吸は乱れていない。

 

 不慣れな左回りのコースであったが、小さな体躯をいかしたコーナリングで先頭を維持する事が出来た。

 このペースを保ちつつ順当に行けば、一着の座をつかめる事だろう。

 

(けど――――ッ)

 ここで気を抜く訳にはいかない。油断してはいけない。

 確かに今は優勢かもしれない。だがこれでレースが決まったわけではない、ゴール板を通過するまではレースはまだ終わっていない。

 

(――気を抜いたら、後ろから差されるっ……!)

 勝って兜の緒を締めよ、安堵するのは全てが終わってからである。

 

 これまでの自分であれば、きっとそんな事露にも思わず、ただ一番に走る事だけを考えていただろう。

 先頭で走っている時は、この自分が以外誰も映らない開けた視界が、まるで自由な世界にただ自分一人のように感じていた。

 だが、今日は違った。

 

 足音が息遣いが、どこからか伝わってくる。

 熱い視線を受けているのを感じる。

 

 それは背後から忍び寄る重圧感。

 誰もが一心に自分の位置を奪い取ろうと、必死になっている。

 このヒシヒシと感じさせられるプレッシャーに、否が応でもそちらに意識が向いてしまう。

 

(なんて……重いんだろう……)

 ボーガンの肩に何かが重くのしかかる。

 

 後方に控えている、ヒダカベルベットの強い意志か。

 あるいは好位置にいるハヤテの闘争心か。

 もしくはそれ以外――いやこのレースに出走しているすべてのウマ娘たちの想いなのか。

 

 それが背負うという事……。

 勝者というのは、これらすべての重圧をはねのけてこそ、勝者たりうるものとでもいうのだろうか。

 

『それでも、それでも――』

 

 いつだってその一歩を踏み込むには勇気がいるものだ。

 だからといってただ震えて足踏みして、臆するのか――? 否、断じて否。

 

 ここで尻すぼみして脚を緩めるわけにはいかない。

 なぜなら――勝利は誰にも譲れないのだから。

 

 そしてコースは下り勾配の最終コーナーを終えると、後はそのまま緩やかな下り坂の直線を残すのみとなる。

 

「――あたしは勝ちたいッ!!」

 感情を発露させ、ボーガンは思いの丈を叫ぶ。

 

 そこに居る誰よりもレースに勝ちたいという気持ちは、負けていない。

 自分だって譲れない想いがある。

 

『誰よりも速く、一番に駆け抜ける――』

 

 今はただ、その想い全てを脚への力へと変えて、ターフの上を走り抜けるだけ。

 

「やあああぁぁぁっーーー!!」

 掛け声を上げながらラストスパートをかける。

 がむしゃらに、血眼になって、ただまっすぐにその視線の先――ゴールへと向けて……。

 

 ◇◆◇

 

 ――ワァァァァッ!!

 

 鳴り止まないスタンドからの歓声。

 観客たちの期待を受け、彼女たちは駆けてゆく。

 それぞれの想いを胸に抱きながら、それぞれの想いに背中を押されながら。

 

 まばゆい煌めきのような彼女たちの道のりは、けして平坦などではなく、時にはつまづきそうになって、その足取りを緩めてしまう事もあるだろう。

 

 もしかすると、それは儚げな足取りに見えてしまうかもしれない。

 栄光を駆け抜ける輝かしい軌跡と比べれば、ひどくゆったりとしたペースにも思えるだろう。

 

 だがそれでも、ゆっくり一歩ずつ前へ進む。

 その歩みが小さな一歩だっとしても、彼女たちに取っては大きな一歩となる。

 

 だからこそ歩み続ける。

 だからこそ彼女たちは前を向き、足を止めない。

 

 例えそれが例え()()()()()()()だったとしても、その道筋(あしあと)は残り続ける、しっかりと刻まれる。

 

 進む先に、困難や数奇な運命が待ち構えているかもしれない。

 しかし未来は誰にも分からない。

 

 分からないからこそ、今を全力で付き走る。

 

 ただ一心に、己がウマ娘たる証を立てるため、自分たちのゴールを目指して駆け続ける――。



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歩くような速さで エピローグ

「――という事があったんだよ……」

 

 年老いたウマ娘が、孫たちにせがまれ、自身の昔話をゆったりとした口調で語りかけている。

 

 普段は一人で住むには閑散としている母屋だが、年末の帰省で家族たちが会いに来てくれて今日は大変賑わっていた。

 

「「わぁ……」」

 二人の姉妹の小さなウマ娘は、祖母の話す物語――トゥインクル・シリーズに出走していた頃の話に目をキラキラさせながら聞き惚れていた。

 

 子供たちとってはまさに憧れの夢の舞台での出来事だ。

 早く続きを聞きたい……二人は固唾を飲んで祖母が再び語りだすのを待ち望む。

 

「……………………」

 長い沈黙が続く。

 しかしいくら待てども、肘掛椅子に持たれかけながら語っていた祖母から続きが聞かされる事はなかった。

 

「……おばあちゃん…………?」

 最初は孫の二人はお互い顔を見合わせて、疑問符を浮かべているだけであったが、どうにも様子がおかしいと不思議がった孫の内一人が祖母に近寄ってよく祖母をよく観察してみる。

 すると、祖母は目をつむり静かに寝息を立てていたのだった。

「あっ、おばあちゃん、寝てる……」

 

「パパー、ママー」

 急に黙ったままで動かなくなり驚いたが、単に眠りに落ちてしまったのだが分るや否や、寝てしまった祖母を勝手に起こすのも気が引けたので、とりあえずこの事を伝えに両親の元へ知らせる。

 

「あらあら、どうしたの?」

 子供に呼ばれ、隣のリビングで父親と一緒に年末特番を鑑賞していた母親が顔を出す。

「おばあちゃんが急に寝ちゃったー」

「まだお話の途中だったのにー」

 子供二人がそんな愚痴を漏らす。

 

「きっと、おばあちゃんは疲れちゃったんじゃないかしら? もうこんな遅い時間だし、しょうがないわよ」

 母親は二人をなだめるようにそれぞれの頭を手を当てて優しく撫でる。

 

 年の瀬も気がつけば、もう除夜の鐘が聞こえてきそうな時刻へと迫っていた。

 それに加え、祖母は歳のせいかここ最近、起きている時間よりも眠っている時間の方が多い。

 

 たまの家族と一緒に過ごす時間がよほど楽しかったのか今日は珍しく長い間起きていたので、つい眠ってしまうのも無理からぬ話であった。

 

「「ふぁ~」」

 祖母の眠る姿に触発されたのか、仲がいいことに、孫二人から同時に大きなあくびが出た。

 

「ほらお前たちも、もう寝なさい。明日、朝早くに初詣行くんだから、ちゃんと寝ないと」

 遅れて父親も子供たちの様子を見に来ると、段々船を漕ぎだしてきている二人の手を引きながらベットへ連れていく。

 

 数時間前は、「年が明けるまで起きてる!」と息巻き、それまで退屈だからと祖母の話を聞いていたのだが、子供相応に眠気には逆らえなかったようだ。

 

「ふふっ……。なんだか幸せそうな顔しているわね。いい夢でも見ているのかしら?」

 祖母は今座っているお気に入りの肘掛椅子でよく眠る事がある。

 今ここで起こしてしまうのも申し訳ないので、母親は祖母に毛布をかけてあげたのだが、その時に伺えた祖母の表情がとても穏やかであった。

 

「おやすみなさい……」

 母親は部屋の電気を消して、祖母を起こさないようそっと部屋から立ち去り、子供たちの元へ向かった。

 

 ***

 

 長い……とても長い夢を見ていたようだった。

 

「ここは…………」

 気がつくと、見知らぬ場所。

 あたり一面の真っ暗闇だ。

 

 どうして自分がここに居るのか、わからない。

 まるで今までの記憶を全部失ったかのように、それまでに至った経緯が思い出せなかった。

 

「あっちに光が……」

 まるでトンネルの出口のように、ずっと先に行ったところに灯りが漏れている。

 

 何も手がかりがないので、何かに導かれるようにその光の射す方へと行く。

 

「――まぶしっ」

 そこにたどり着くと、今度は一転、視界が真っ白に包まれ、思わず目を瞑ってしまう。

 

 目を開けた瞬間、我が目を疑った。

「お、ようやく来たかい? 随分と長いこたぁ待たされたもんだねえ」

「ルーブル……先輩?」

 なぜ彼女がこのような所に居るのだろう……思考が理解に追いつかずにいた。

 

「いよう久しぶりだなあ、ボーガン。元気してたかぁ?」

「ボーガン姉御、ボクも居るッスよー!」

「やっほ~ボーガンちゃん、ステイヤーもびっくりの超長スプリントだったね~」

「ラフイン、マーチ……」

 バニータルーブルだけではない、そこにはかつての――いや、チームメイトの皆が居た。

 

「皆、お前さんを待ってたんだぜえ?」

「え?」

 それまでこの空間は何もない世界だったはずが、気がつくと、よく知った感触が脚に伝う。

 いつの間にかターフの上に立っていた。

 

「え――? み、皆……なんで……?」

 そして視界が開けて気づく。

 

 果たしていつからそこに居たのだろうか。

 ルーブルやラフインやマーチだけではなく、ミホノブルボンやライスシャワー、マチカネタンホイザなど――かつてレースで競った自分の同期たちが、この場所に勢ぞろいしていた。

 

「何をそんなところでぼーっとなされているんですの?」

「委員長まで!」

「ヒダカベルベットですわ――ってこのやり取りも懐かしいですわね」

 本当に懐かしく感じる。

 同じクラスで、クラス委員長で、ライバルのヒダカベルベット。彼女もここに居たのだ。

 

「二人とも何してるのー? 後は僕らだけだよー」

「ハヤテ……」

 ベルベットだけではない、二度の重賞レースを競い合ったライバルのハヤテも居る。

 

「ああ、そうでしたわね……。さあボーガンさん、行きましょうか」

「行くって、どこへ?」

「そんなの……決まってるでしょ?」

 にこやかな笑顔から、ハヤテの目が急に鋭くなる。

 

 急な展開にはもう慣れたので驚く事はなかったが、目の前にゲートが突然と現れた。

 

 そしてボーガンにはよく馴染み深いものであった――これは出走前の光景だと。

 

 だがなぜここに……先程から疑問が尽きなかった。

 

 唖然としているボーガンを尻目に、ベルベットとハヤテがゲートの中に入っていく。

「後は、君だけだよ?」

 ハヤテがボーガンを誘うように手を伸ばす。

 

 ハヤテだけではない、周囲を見回すと、同様に他のメンバーは皆、ゲートインしており、同じように皆、ボーガンに向けて、手を差し伸ばしていた。

 

(ああ、そうか……そういう事なんだ……)

 

 理屈などではなく、心で感じ取る。

 

 きっとこれからレースが始まるのだ。

 それもこんな強敵だらけの、ワクワクしてしまいそうな大レースが――。

 

 皆、準備はすでに整っている。

 後は自分一人が、ゲートに入るのを残すのみだ。

 

 こんな楽しそうな事、手をこまねいている場合ではない。

 

「さあ――やろうか!」

 これからどんなレースが始まるのか、期待で胸を膨らませる。

 

 一目散にボーガンはゲートに入り、いつでも走れる体制を取る。

 それを待っていたかのように、皆同じように構えを取り、開始の合図を待つ。

 

 

 ――ガゴンッ!

 

 ゲートが開け放たれる、開幕の調べが鳴る。

 

 

 それは存在し得ない幻のレースなのかもしれない。

 夢や幻なのかもしれない。

 

 しかしこの胸の高まりは止まらない、沸き立つ情動が抑えられない。

 

『走りたい――勝ちたい――』

 この純粋な気持ちには誰にも抗えないのだから……。

 

 ウマ娘たちは今日も駆けていく。

 

 新しい明日へ、希望の未来へ。

 終わり(ゴール)のその先へ――。



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