ウマ娘プリティダービー ~月毛のウマ娘~  (蒙駄目猫)
しおりを挟む

♯1.月毛のウマ娘

 ウマ娘にはまり、気が付けばいつの間にか書き始めていた作品です。

 オリジナルウマ娘、オリジナルトレーナーが登場しますが、それを気にしない方は是非ともご一読頂ければと思います。


 ――千葉県(ちばけん)船橋市(ふなばしし) 中山(なかやま)レース場――

『第三コーナーカーブ、いまだ先頭はレインシンフォニア! 二番手との差をじわじわと広げていく!』

 暮れの中山レース場、そこに詰めかけたおよそ一○万人の歓声が響く。一年を締めくくるグランプリ、GⅠ有馬記念に訪れた観客の熱と興奮が渦巻いていた。

『一番人気の七番ファイントパーズは内側で足を()めています!』

 第四コーナーの終盤、310mと短い中山レース場の直線に差し()かる瞬間、そのウマ娘は五番手の位置から大外へ抜け出し、一気に加速した。

『ここで大外から一気にヴァイスシュトルムが来た! ヴァイスシュトルム、凄い足で上がってきます! これは凄い! レインシンフォニアに並ぶかどうか!?』

 観客席からどよめきにも似た歓声が上がる中、珍しい月毛――ホワイトブロンド――の髪と尻尾を(なび)かせて、ヴァイスシュトルムは一気に先頭のレインシンフォニアに追いつき、並ぶことなく抜き去る。

『並ばない! 並ばない! 並ぶことなくヴァイスシュトルムがレインシンフォニアをかわしました! ファイントパーズ懸命(けんめい)に追うが差が縮まらない! これは決まったか!?』

 先頭に躍り出たヴァイスシュトルムは、ゴール前の高低差5m程の急坂――中山レース場の有名な心臓破りの坂だ――でますます加速し、後方に二バ身半のリードを付けてゴール板を駆け抜ける。そして、観客席に向かって高らかに拳を突き上げた。

『ヴァイスだ! ヴァイスです! ヴァイスシュトルム今一着でゴールイン! 二着のファイントパーズに二バ身半の差を付けての完勝です! 暮れの中山に白い嵐が吹き荒れた!』

 実況者も興奮を隠し切れていないのが声でわかる。ますます熱の入った実況の声に、ヴァイスシュトルムの耳も否応なしに揺れる。宝塚記念、天皇賞秋、ジャパンカップ、そしてこの有馬記念。シニア級だけではなく、勢いあるジュニア級からも強豪ウマ娘が集う中での四連勝は、格別の嬉しさがある。更に言うならば、あの『皇帝』シンボリルドルフですら、同一年秋シニア三冠は達成できなかった偉業だ。そして何よりも、ついにシンボリルドルフのGI七冠記録に並んだのだ。レースウマ娘として嬉しくないはずがない。

『ヴァイスシュトルム、暮れの中山でグランプリ勝利! 秋シニア三冠、春秋グランプリ制覇です! 昨年度の皐月賞、NHKマイルカップ、日本ダービーの変則三冠も加えて、ついに皇帝シンボリルドルフのGI七冠記録に並びました! 皇帝を超える八冠への期待が高まります!』

 ヴァイスシュトルムの勝利に、観客席がまるで爆発したかのように湧き立つ。その様子に、ヴァイスシュトルムは笑みを深くしてウィナーズサークルへと足を進めた。

『一着は九番ヴァイスシュトルム、二着七番ファイントパーズ、三着十四番マリンダンサー……』

 実況が掲示板の着順を読み上げる中、ヴァイスシュトルムは観客席に笑顔を振りまく。そこには心底嬉しそうな彼女の姿があった。

 

 

 ウマ娘。彼女たちは、走るために生まれてきた。

 時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。

 それが、彼女たちの運命。

 この世界に生きるウマ娘の、未来のレース結果は、まだ誰にもわからない。

 彼女たちは走り続ける。

 瞳の先にあるゴールだけを目指して。

 

 

 ――東京都(とうきょうと)府中(ふちゅう) 日本ウマ娘トレーニングセンター学園――

 穏やかな春の陽気漂う学園の廊下を、一人のウマ娘が肩を怒らせて歩いていた。そんな彼女とすれ違ったウマ娘は、びくりと肩を跳ねさせて、そそくさと立ち去っていく。普段ならばそれを見咎(みとが)め、トレセン学園に通う者としての矜恃(きょうじ)を持てと注意するところだが、彼女には今、そんな時間はなかった。足早に廊下を進み、階段を上り、屋上へ出る扉の前でようやく足を止めたウマ娘は、一つ大きく息を吸って呼吸を整えてから、扉を勢い良く開け放ち、腹の底から声を張った。

「ヴァイス! ヴァイスシュトルム!」

「……ぅん? ……ぐぅ」

 屋上に設置されたベンチの上で、肩甲骨の辺りにかかる長さに(そろ)えられた珍しいホワイトブロンドの髪を、まるで水面に浮かべたかのように揺蕩(たゆた)わせて昼寝をしていたウマ娘は、自分を呼ぶ声に反応を示し、そしてすぐさま夢の世界へ戻ろうとする。芸術家がこの光景を見たならば、大慌てで絵画に残したであろう(ほど)の美しさを(たた)える一幕だが、見慣れてしまっている者からすれば、重要な意味を含んでいた今日の模擬レースをサボった一人の生徒でしかない。そして、その見慣れてしまっている者の一人であるウマ娘は、額に青筋を浮かべ、カツカツと足早にヴァイスシュトルムと呼んだウマ娘に歩み寄る。

「いい加減起きろ! ヴァイス!」

「うぅん……」

 耳の傍で大声を出されて顔を歪めたウマ娘、ヴァイスシュトルムは、その綺麗な空色の瞳を開き、非常に迷惑そうな顔をして睡眠の邪魔をしてきたウマ娘を見る。

「……エアグルーヴ、一体何のよう?」

 ヴァイスシュトルムの心底迷惑そうな顔を見て、ため息を()いたウマ娘、エアグルーヴはヴァイスシュトルムの耳元にそっと口を寄せる。そして――。

「……お前が今日の重要な模擬レースを欠席したと聞いて、探しに来たに決まっているだろう。大バカ者が」

「ひゃぁぁぁ!? ちょ、それやめ……」

 わざと囁くように呼気を多分に含ませた声を、耳元で発してくるエアグルーヴに、顔を真っ赤にしたヴァイスシュトルムは何とか離れようともがくが、力が抜けてしまいどうすることもできなかった。

 

 

「うぅ……エアグルーヴに野外で(はずかし)められた……もうお嫁に行けない……」

「人聞きの悪いことを言うなバカ者。そもそも、お前が模擬レースをサボらなければ良かっただけの話だろう」

 よよよ、と言わんばかりに大袈裟(おおげさ)に芝居がかった泣き真似(まね)をするヴァイスシュトルムを無視して、彼女の隣に座ったエアグルーヴは腕を組んで彼女を見つめる。そんなエアグルーヴを、ヴァイスシュトルムは半眼で見つめ、()ねたような表情を浮かべた。

「それで? 今日サボった理由は何だ?」

「えー? 言わなきゃダメぇ?」

「言わなくても良いが、その場合はフジキセキに貴様の尻尾を手入れして貰うしかないな。大体なんだ、そのぼさぼさになっただらしのない尻尾は! トレセン学園に通う生徒ならばもっと見た目にも……」

Scheiße(ちくしょう)!!」

 エアグルーヴの言葉を遮る用に叫んだヴァイスシュトルムの顔色が真っ赤になり、すぐに青色に急降下した。そして、ややあってから重々しくヴァイスシュトルムは口を開いた。

「言う。言うから。フジキセキに私の尻尾を手入れさせないで……私の心が死んじゃう」

 両耳を左右にばらばらに動かした後に前に向けて伏せ、完全に落ち込んだ様子のヴァイスシュトルムを見て、エアグルーヴは(ひそ)かに口角を上げた。

「それで、どうしたんだ?」

「……『大して足が速くなくても、人形として飾るだけで見栄えが良い』何て言うトレーナーが混じってるのに、なんで私の走りを見せないといけないのよ」

 両耳を前に倒したまま、どんよりとした空気をまとうヴァイスシュトルムの言葉に、エアグルーヴは片眉を跳ね上げる。一体、どこのバカがそんなことを言っていたのか。

「そりゃあ、ルドルフやフジ程の光るものがあるわけではないかもしれないけどさ……まだ走ってもないのに、『月毛』だから遅いと決めつけられて、『月毛』だから飾りとして欲しい……なんて言われてまで、走る気になるわけないでしょ」

「……」

「だからほら、『月毛のヴァイスシュトルム』じゃなくて『ウマ娘のヴァイスシュトルム』として見てくれるレアなトレーナーが見つかるまで、自主的に休養取ろうかなーって」

 茶化すように明るく言い放ったヴァイスシュトルムだが、耳は前に倒れたままで、その両手は悔しそうに握りしめられていた。そんな彼女の様子を見たエアグルーヴは、大きなため息を吐くと、ヴァイスシュトルムにデコピンをお見舞いした。

Autsch(いたっ)!? 何すんのよエアグルーヴ……?」

「このたわけが。無理するなといつも言っているだろうが」

 呆れたような視線を向けるエアグルーヴに、耳を後ろに伏せ、頰を膨らませてムッスリとしたヴァイスシュトルムはしかし、大人しく額を(さす)るだけだった。

「お前はもっと友人を頼れ。私でもフジキセキでも、パーマーでも良いだろう。そんなことくらい、友人として何とでもしてやる」

 そう言ってそっぽを向いたエアグルーヴは、ほんの少し頰を赤らめた。そんな彼女の姿に笑みを浮かべたヴァイスシュトルムは、尻尾を高く上げ、耳が左右に小刻みに動くのを抑えられなかった。そして、体を駆け巡った喜びの衝動のままに、勢いを付けて彼女に抱きつく。急に抱きつかれたエアグルーヴは、ヴァイスシュトルムを支えることができず、ベンチに横向きで倒れこんだ。

「おいバカ、やめんか!」

「エアグルーヴが嬉しいこと言ってくれるからじゃん。もうしばらくこのままでいさせてよ」

「まったく……」

 先程まで不安や落胆を示していた彼女の耳は、リラックスしたのか横向きになり、体の上にのしかかったまま尻尾を元気よく左右に振っている彼女に、エアグルーヴは諦めの境地に達する。いつまでも笑顔で抱き付き続けるヴァイスシュトルムの様子に、頰を緩めたエアグルーヴはしかし、フジキセキに今晩にでも彼女の尻尾を手入れするように伝えようと、固く心に誓ったのだった。

 

 

 翌日、朝からげっそりとした様子のヴァイスシュトルムが寮の食堂で食事を摂っている姿に、対面に座るファインモーションとメジロパーマーの二人は苦笑いを顔に浮かべていた。

「おはよ……」

「おはようシチー、土曜日なのに早いじゃん」

 眠そうに目を細めながら、「百年に一度の美少女ウマ娘」と呼ばれるゴールドシチーが寮の食堂に姿を(あらわ)すと、メジロパーマーが声を掛けた。

「朝から撮影があるから……ところで、ヴァイスは一体どうしたの?」

 (うつ)ろな目で黙々と食事を摂っていたヴァイスシュトルムは、顔を上げゴールドシチーを認めると、口の中の食べ物をもそもそと飲み込んでから口を開いた。

「Guten Morgen Gold City. ......Ich hatte eine schlimme Zeit mit der Fuji Kiseki......und ich bin nicht sicher, ob ich diesen Groll loslassen sollte.(おはようゴールドシチー。フジキセキに酷い目に()わされてさ……この(うら)みはらさでおくべきか)」

 流暢(りゅうちょう)なドイツ語で話しかけられたゴールドシチーは、困惑を顔に浮かべた。

「ごめんヴァイス。アタシ、ドイツ語わかんないから何言ってるのかちょっと……」

「Ich will hausgemachte Wurst......(私の家のソーセージが食べたい……)」

 そう言ってまた、下を向いて黙々と食事を再開するヴァイスシュトルムの姿に、終始クエスチョンマークを頭に浮かべていたゴールドシチーだが、ヴァイスシュトルムの美しく整えられた綺麗(きれい)な尻尾を見て、彼女がこうなっている理由に合点がいったらしい。

「それはそうとヴァイス」

Was()?」

「尻尾、凄く良い感じになってるじゃん。フジに『また』手入れして(もら)ったんでしょ?」

 ゴールドシチーはニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら、ヴァイスシュトルムが座る右隣の席に朝食の盆を置いて着席する。そんなゴールドシチーに顔を向けたヴァイスシュトルムは、首を右に向けたままの少しマヌケな姿勢で固まる。

 たっぷり十秒ほど()ってからようやく再起動したヴァイスシュトルムは、虚ろな目に光を灯し唇を戦慄(わなな)かせて顔を真っ赤にした。

「Scheiße!!!!」

 そう一言だけ叫んで、残りの食事を猛然と()き込み始めるヴァイスシュトルムに、その机を囲む全員が目を丸くする。

「ちょ、ちょっとヴァイス。そんな食べ方したら体に悪いって……」

 ヴァイスシュトルムの正面に座るメジロパーマーが声を掛けるものの、耳を貸すこともなく食事を掻き込み続けるヴァイスシュトルムは、あっという間に食器を空にした。

「ご馳走様っ!」

 そう叫ぶように言ってヴァイスシュトルムは勢い良く立ち上がり、空になった食器の乗った盆を持って駆けていってしまった。あっと言う間のことに、全員がポカンとしていた。

「……やっば、からかい過ぎたかな」

「あはは……。ヴァイスはあれで初心(うぶ)なところがあるからねぇ……。でも、()ずかしがってるだけだと思うから、大丈夫じゃないかな?」

 そう言ったファインモーションは、フォークを手に取ると、朝食のサラダを食べ始める。ゴールドシチーはヴァイスシュトルムの駆けていった方向をもう一度だけ見て、自分も食事を始めるのだった。

 そして、そんなやり取りの一部始終を食堂の陰から(うかが)う一人のウマ娘がいた。

「ひょぇ~! ゴールドシチーさんとヴァイスシュトルムさんが並んで座るだけで理想郷(シャングリラ)みたいな空間になるのにゴールドシチーさんがヴァイスシュトルムさんをからかってそれでヴァイスシュトルムさんが顔を真っ赤にして照れて走り去るとか待って無理尊い天国はここにあったのね……幸せぇ……♡」

 アグネスデジタルは、そう一息に(つぶや)くと、恍惚(こうこつ)とした幸せそうな表情を浮かべて食堂の床に倒れ伏した。その後に食堂へとやってきたサザンエースは、幸せそうな顔で倒れているアグネスデジタルを見て額に手をやった後、声を張り上げた。

「ねぇ、デジタルがまた倒れてるんだけど!!」

 

 




第一話はいかがでしたか?
これから細々と続けていきたいと思いますので、気が向いたときに読みに来て頂ければなと思います。
※誤字脱字報告はこっそりオナシャス(恥ずかしいんで……)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯2.選抜レースと出会い

 土曜日、日曜日は中央開催のレースや選抜レース(選抜レースに関しては、金曜日に出走できなかったウマ娘のための予備日がある)が朝から夕方まであるため、基本的に日本ウマ娘トレーニングセンター学園内は人影もまばらになる。トレセン学園に来るウマ娘も、大半は自身の所属するチームの練習であったり、自主トレーニングが目的となるので、トレーニングコースやジム、体育館、図書室にと集中する。つまり、ヴァイスシュトルムのように学園の屋上へと向かうウマ娘や人々は、かなり少ない方だと言える。人っ子一人いない廊下を速歩(そくほ)で走り抜け、目的地である屋上の前にたどり着いたヴァイスシュトルムは、屋上の鍵をキーホルダーから取り出すと、慣れたように扉を開けてしまう。そうして誰もいない屋上に足を踏み入れたヴァイスシュトルムは、屋上のど真ん中で寝転がった。

「……ぁふ」

 あくびを一つしてから、昨晩フジキセキに散々可愛がられ、ゴールドシチーに揶揄(からか)われる原因になった尻尾を()いて(悔しいことに、自分で手入れしたときよりも遥かに、手触(てざわ)りも毛艶(けづや)も良く、最高の抱き心地だった)、猫のように丸まっていると、春の陽気と相まって眠気が襲ってくる。始めの数分こそ睡魔に(あらが)おうとしたヴァイスシュトルムだったが、早々にそれを諦めると、穏やかな寝息を立てていた。

 

 

 トレセン学園に所属するトレーナーたちは、基本的には月に何度か行われる選抜レースを見学し、それに出走したウマ娘の中から将来有望なウマ娘をスカウトする(場合によっては、ウマ娘からの逆スカウトを受ける場合もあるし、選抜レース前から将来有望だと噂になるウマには、フライング気味にスカウト攻勢をかけることもある)。そうして、担当するウマ娘と無事に専属トレーナー契約を結ぶことができれば、晴れて専属トレーナーとしてウマ娘にトレーニングを行うことができる。勿論、トレーナーの付いていないウマ娘に軽く指導を行ったりもするが、その場合とは熱量が異なるのである。

 担当ウマ娘と共にメイクデビューから始まるトゥインクルシリーズでの輝かしい結果を目指し、彼女たちのトレーニングや体調管理などを行いながら、彼女たちに寄り添う。

 担当ウマ娘が、厳しくも華やかなトゥインクルシリーズで結果を出し、夢を掴み取る事がトレーナーの評価につながる。そのため、入学する事がすでに素質の証明となっているトレセン学園でありながらも、より良い素質を持つウマ娘をスカウトしようと、選抜レースはもちろん、ウマ娘同士が行う模擬レース、果てはファン感謝祭での余興レースに至るまで、トレーナーたちは『レース』と名が付くものには、血眼になってまでウマ娘の素質を見極める事に必死になる。それは、新人トレーナーであろうがベテラントレーナーであろうが変わりはない。新人トレーナーはこれからのために、ベテラントレーナーは過去よりも輝かしい結果のために。そんな様々な思惑が交差する世界に、新たなトレーナーが足を踏み入れた。

 この春からトレーナーとなった神谷(かみや)輝征(てるゆき)は、本日開催されている選抜レースを、第一レースが発走する昼からずっと観戦していた。選抜レースに出走するどのウマ娘も、高倍率で有名なトレセン学園の入学試験を突破して学園生となっているだけに、神谷にとっては誰も彼もが素晴らしい素質の持ち主にしか見えない。その中でも、一着・二着を取ったウマ娘には、新人トレーナーからベテラントレーナーまで入り交じった長い列があっという間にできあがり、三着以下でも末脚(すえあし)の鋭さやコーナリングの上手さ、直線でのノビの良さなど光るものがあったウマ娘はスカウトを受けていた。

 レースが終わる度に、ウマ娘の前にあっという間にできあがるスカウトの列に神谷も加わり、スカウトしようと声をかけてみるものの、実績のない新人トレーナーである神谷のスカウトを受けるウマ娘は残念ながら一人もいなかった。神谷と同じ新人トレーナーであっても、トレーナーとしての名家出身者や、ベテラントレーナーである師匠を持つ者には、ウマ娘側からのスカウトもあったことから、やはり、そういう要因も必要なのだろう。

 そうこうしているうちに、開催された六レースのうち、五レースが終了していた。最終レースこそは必ずと、神谷も気合いを入れ直す。しかしながら、神谷のスカウトを受けてくれたウマ娘はゼロ人だった。

 一人くらいはスカウトを受けて貰えるのでは、と思っていた神谷は、話すらも聞いて貰えない状況に、自分の認識が甘かった事を思い知らされた。肩をがっくりと落として、のろのろと帰り支度(じたく)を整える神谷に、彼の面倒を良く見てくれる先輩トレーナーが近づいてきた。

「よう。その調子だと、スカウトした子全員にフラれたか?」

「っ! 竜胆(りんどう)先輩……。はい、考えが甘かったです。竜胆先輩は、何人か保留して貰えたみたいですね?」

 気安く声を掛けてきた竜胆という先輩トレーナーに、神谷は肩をすくめて返事を返す。そして、スカウトできたウマ娘の名簿(めいぼ)とデータ表を持つ竜胆に、羨望(せんぼう)眼差(まなざ)しを向けた。

 その(うらや)ましそうな視線に気がついた竜胆は、ニヤリといやらしい笑みを浮かべ神谷の肩を強く引き寄せた。そのまま、内緒話(ないしょばなし)をするように声を落とした竜胆は、しかし楽しそうに口を開いた。

「そう落ち込むなって、俺だってここに来たばっかの頃は、全く相手にされなかったことだってざらにあったんだ」

「はぁ……」

 (なぐさ)めなら()めて欲しいと思う神谷だが、大人しく竜胆の話に付き合う。早くトレーナー寮に戻りたいと神谷が思い始めた頃、竜胆が思い出したように手をポンと(たた)いた。

「そうだ、どうせなら『月女神(つきめがみ)』でも見つけてみれば良いんじゃないか?」

「……はい? 月女神?」

 突然トレーナー業やトレセン学園に関係のなさそうな単語を出され、神谷は鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をしてしまう。竜胆は神谷の様子がおかしかったのか、くつくつと(のど)を鳴らして笑っていた。

「ああ。満月の日、栗東(りっとう)美浦(みほ)各寮の門限も過ぎた(ころ)に学園の屋上を見ると、そこにとても美しいウマ娘がいるそうだ。でも、見つけてから屋上に向かっても誰もいなくてな。そのうち誰かが、トレセン学園の屋上には月女神が居るなんて言いだしたのさ。そして、ここからが面白いんだが……。その月女神を見た人間には、幸運が訪れるって評判なんだ」

「はぁ……竜胆先輩は信じてるんですか?」

 あまりのオカルトっぷりに、胡乱(うろん)げな顔をする神谷を見て、更に楽しそうに口角を上げた竜胆は、声を(ひそ)めて口を開いた。

「信じてるも何も、俺もこの目で見たのさ。それから割とラッキーが続いてる。お前も騙されたと思って見てみろ。うまい具合に、今日は満月だしな。そんじゃ」

 そう言い残して、スカウトしたウマ娘のデータ表を挟んだクリップボードとバインダーを持って、竜胆はトレーナー寮の方へと歩き去っていく。その背中を見送ってから、神谷は校舎へと足を進めた。本当に屋上に月女神がいるかどうかは兎も角、生徒ならば注意も必要だろうと思ったのだ。

「幸運をもたらす月女神ねぇ……いくら日本が迷信深いと言っても、本当にそんな女神が居るとは思えないけどなぁ……」

 

 

 肌寒さに身震(みぶる)いして、ヴァイスシュトルムは目を開く。昼間、彼女が眠ったときは暖かな春の陽気に(つつ)まれて、まるで楽園のようだった屋上は、夜の(とばり)が降り、気温を一気に下げて眠るには適さない場所へと様変わりしていた。

「……やっば。寝過ぎた。またフジキセキに折檻(せっかん)されるコースじゃない、これ? どうしよ、罰掃除三日とかで済まないかな? …………。尻尾の手入れ連続三日とかだけはいやだなぁ」

 そうぶつくさと独り言を(つぶや)いたヴァイスシュトルムは、しかし帰ろうとはせず、屋上の塀に上半身をもたれさせて遠く見える街並みの灯りをぼんやりと見ていた。

 ヴァイスシュトルムがそうしてから十分ほど()った頃、いい加減寮に戻ろうかと屋上の扉に向き直った彼女の耳に、誰かが階段を上ってくる音が聞こえた。足音から知り合いではないと判断したヴァイスシュトルムは、平静を装いながら警戒態勢に入る。教師や警備員だと面倒だなと思いながら、扉に意識を集中させるヴァイスシュトルムは、扉が開くのを固唾(かたず)()んで見守った。

 

 

 ――夜に学園の屋上を見ると、幸運の月女神を見ることができる――。そんな眉唾物(まゆつばもの)の噂を聞かされた神谷トレーナーは、灯りの落ちた真っ暗な学園内を歩いていた。

 流石(さすが)に月女神の存在には懐疑的(かいぎてき)な神谷だが、生徒が寮の門限を過ぎた後も校内に残っているのは問題だろうと、早めに寮に帰るように伝えなければと思った結果だった。

 神谷は階段を最上階まで上がり、屋上へ出る扉の前に立つと、一つ呼吸を整えてから意を決して扉を開ける。そこには肩ほどまである長く美しいホワイトブロンドの髪を風に遊ばせる、珍しい月毛を持つ美少女ウマ娘の姿があった。

 ぱっちりとしたアーモンド型の目には、ガラス玉のような空色に透き通った瞳が輝き、顔の中央部にはすっと鼻筋が通り、薄い小さな唇はしかし瑞々しさを湛えている。頰から顎先にかけては無駄な肉のないすっきりとしたシャープさを持っていた。月光に照らされ浮かび上がる透き通るような白い肌に、カモシカのような足、そして出るとこは出て引っ込むところは引っ込む、そんなモデルのような美しい体型でもって屋上に(たたず)む彼女は、たったそれだけで一枚の絵画になる美しさを現していた。

 容姿端麗(ようしたんれい)な者しかいないウマ娘の中でも、特に美しいと言われる、百年に一度の美少女ウマ娘と呼ばれるゴールドシチーに勝るとも劣らないほど美しく、まさに月女神と形容するにふさわしい姿をしているウマ娘に、神谷は思わず固まってしまう。そんな彼の様子を見て、目の前のウマ娘は、形の良い眉を(ひそ)め、目の前にいる神谷を(いぶか)しむように警戒をあらわにした。

「ねぇ、そこで固まられると邪魔なんだけど」

 鈴を転がすような()んだ綺麗(きれい)な声でそう言ったウマ娘は、しかし神谷を警戒してか決して近づこうとしない。耳をピンと立てて神谷に向けたまま、じっと集中している。彼女の視線が、神谷の上から下まで値踏みするように見回して、ある点を見るやいなや、警戒して張り詰めていた空気が少しばかり柔らかくなる。神谷が彼女の視線を追うと左(えり)に行き着く。そこには真新しいトレーナーバッジが満月の光を受けて輝いていた。

「なんだ、新人のトレーナーさんか……。いくらトレーナーさんでも、こんな時間に学園内をうろつくのはよろしくないんじゃない?」

 柔らかい雰囲気で、揶揄(からか)うようにそう言う彼女は、完全には警戒を()いてはいないようだった。返答次第(へんとうしだい)では、ただでは済まさないと言った様子で、膝を少し落とし、いつでも駆け出せる態勢を整えている。そんな彼女の様子に、神谷も緊張を持って口を開いた。

「いや、満月の日に屋上へ来ると、月女神に会えるって情報を貰ってね。確かめに来たんだ」

「……は?」

 神谷の嘘でも本当でもない言葉に、呆気(あっけ)に取られてポカンとした表情を浮かべたウマ娘は、次の瞬間、肩を大きく震わせた。

「あはっ、あはははははっ! 真面目な顔して何を言うのかと思ったら、そんな眉唾物な噂の真偽を確かめるためだけに夜の学園に侵入したんだ?」

「そんなに笑わなくても……」

 腹を抱えて大笑するウマ娘の姿に、神谷は頰を赤く染め、()ねたように呟いた。

「くふふっ……、ごめんごめん。まさか、そんなことのために、夜の学園に侵入して屋上にまで乗り込んでくる物好きがいるなんて思わなかったからさ」

 そういったウマ娘は、柔らかな雰囲気(ふんいき)のまま、神谷に近寄ってきた。どうやら、正解の返事をできたようだった。そして、近づいてきたウマ娘に気付いた神谷は、まじまじと彼女の顔を見つめる。

「私はヴァイスシュトルム。見ての通り、月毛(つきげ)のウマ娘で、トレーナーさんの間で噂になっている月女神? とやらだよ。よろしく、新人トレーナーさん」

 そう右手を差し出して、自己紹介をしてきたウマ娘、ヴァイスシュトルムの手を取り、自己紹介を返した神谷に、彼女はますます笑みを深めた。

 

 

「ふぅん、専属トレーナー契約のスカウトが全滅して悄気(しょげ)てたら月女神の話を聞かされた……ねぇ。本当に物好きだね、トレーナーさんは」

 そう言ってまだ肩を震わせるヴァイスシュトルムに、神谷トレーナーは拗ねたようにそっぽを向く。そんな彼の様子に、余計に楽しそうにするヴァイスシュトルムは、傍目(はため)に見てもかなりリラックスしているようだった。彼女の耳は左右を向いてリラックスを示しており、時折小刻みに()れている。そしてその端正な顔には、自然と笑顔が浮かんでいた。

 ヴァイスシュトルム自身も、自らがかなりリラックスしていることは認識していた。初対面であっても、珍しい月毛であることからすぐにヴァイスシュトルムの容姿を話題にする人が多い中で、目の前の神谷は決してその事に触れようとしない。そのなんてことのない事実が、ヴァイスシュトルムにとってはとても嬉しかった。

 この人となら、専属トレーナー契約を結んでも良いかもしれない。それに、都合良く担当ウマ娘もまだ居ないみたいだし。そう漠然と思ったヴァイスシュトルムの口は、自然と専属トレーナー契約を結ばないかと言葉にしていた。

「ねぇ、もし良ければさ。私のトレーナーになってくれない?」

「……え?」

 突然、ヴァイスシュトルムから持ちかけられた専属トレーナー契約の提案に神谷は困惑した。目の前の美しいウマ娘に専属トレーナーが居ないという事実にも驚いたが、まさか新人で、何の実績も持たない自分に、逆スカウトがあるとは考えもしなかったのだ。確かに担当ウマ娘が居ない神谷にとって、彼女からの提案はまさに渡りに船と言えた。しかし――。

「すまない、ヴァイスシュトルム。残念だが、まだ君と契約することはできない」

「え……。…………それは、私が『月毛』だから? 『月毛』のウマ娘は芦毛(あしげ)よりも走れなさそうだから……?」

 神谷から断られたことにショックを受けたのか、ヴァイスシュトルムは呆然(ぼうぜん)として、その喉から絞り出すように(つむ)がれた彼女の言葉は、か細く、そして震えていた。

「違うっ!」

 神谷の言葉を、違う意味に捉えているヴァイスシュトルムは、耳を前に伏せ、悲しそうに(うつむ)く。今にも涙を流しそうな雰囲気に慌てた神谷の言葉は、力強いものになっていた。そして、その否定を聞いたヴァイスシュトルムは、耳を後ろに伏せて怒りを(あら)わにすると、神谷に食ってかかった。

「じゃあ、どうしてっ!」

「君の走りを知らないからだっ!」

 神谷の言葉に、激昂(げっこう)して叫び声を上げたヴァイスシュトルムの瞳から、大粒の涙が(あふ)れる。それに返す神谷の大声を聞いて、ヴァイスシュトルムは尻尾をピンと逆立(さかだ)てて驚きをあらわにした。

「……!? え……?」

「君が『月毛』かどうかなんてどうでも良い! まだ俺は君の走りを見ていない! 君に相応(ふさわ)しいトレーニングを考えつかないのに、君の夢を実現するため、(とも)頑張(がんば)ろうなんて白々(しらじら)しいことを軽々(かるがる)しく言うつもりはないんだ!」

 神谷の話を聞いて、体から力を抜いたヴァイスシュトルムは、静かに涙を流す。

 ――ようやく……、ようやく『月毛の(・・・)ヴァイスシュトルム』ではなくて『本当の(・・・)ヴァイスシュトルム』を見てくれるトレーナーが現れた――。

 静かに頰を濡らすヴァイスシュトルムを見て、ハンカチを取り出した神谷は、優しく彼女の顔を(ぬぐ)う。しばらく神谷にされるがままだったヴァイスシュトルムは、粗方(あらかた)顔を()かれてからようやく口を開いた。

「来週金曜日の選抜レース予備日」

「え?」

「その第二レースに出走登録されてるから、絶対に見に来て。それまでは専属トレーナー契約の予約ってことにしてあげる」

 真剣な顔でそう告げるヴァイスシュトルムに、神谷は気圧(けお)される。しかし、彼女の手が震えているのを見て、気合いを入れなおした。

「わかった。必ず見させて貰う。その後に、専属トレーナー契約を正式に結ぼう」

「来週契約したときに、今日本契約すれば良かったって、絶対に言わせてあげるから」

 挑発的な笑みを浮かべ、そう言い放つヴァイスシュトルムの姿に、眩しいものを感じながら、神谷もまた楽しそうな笑みを浮かべる。

「ああ、楽しみにしている。ヴァイスシュトルム」

 それを聞き届けると、ヴァイスシュトルムはさっさと屋上を後にした。その後ろ姿を見送って、神谷は大きく息を吐いた。そして手帳を取り出し、翌週の金曜日に二重丸を付けると『ウマ娘専属トレーナー契約:ヴァイスシュトルム』と書き込んだのだった。

 

 

 神谷トレーナーと屋上で交わしたやり取りの後、こそこそと栗東寮の玄関を開けたヴァイスシュトルムを待ち受けていたのは、頭に二本の立派な角を生やした鬼と笑顔を絶やさない鬼――勿論、エアグルーヴとフジキセキのことだ――の二人立てだった。靴箱に靴を入れると同時に食堂に連行されてから早二十分。ヴァイスシュトルムはずっと食堂の床に正座で反省させられていた。

「それでヴァイスシュトルム、模擬レースサボりに次いで寮の門限破りを行った弁明はあるか?」

「……」

「ヴァイス?」

「にゃぁっ!?」

 エアグルーヴからの質問に対して、黙秘(もくひ)を選択したヴァイスシュトルムに電流のような衝撃が走る。長時間正座をさせられるという、拷問のあとに待っていたのは、(しび)れた足を優しくゆっくり揉まれるという拷問だったのだ。

「フジキセキ、やめ……ひゃんっ」

「全く、心配したんだからね? でもまぁ、何か良いこともあったみたいだけれど」

 苦笑しながら痺れているヴァイスシュトルムの足を揉み続けるフジキセキに、ヴァイスシュトルムは言葉を紡ぐことができない。

 フジキセキの手によって(もだ)え苦しむヴァイスシュトルムを視界の端に収めながら、エアグルーヴは眉間に(しわ)を寄せたまま、深くため息を()いた。

 たっぷり一時間ほど拷問めいたマッサージを受け、ようやく解放されたヴァイスシュトルムは、その場に突っ伏していた。

「フジキセキのバカぁ……」

「はいはい。これに()りたら門限破りしないこと。わかったかい? ポニーちゃん」

 苦笑しながら冷蔵庫から牛乳を取り出し、それを鍋に注いだフジキセキは、その鍋を焜炉(こんろ)にかけると温め始める。その間に復活したヴァイスシュトルムは、エアグルーヴの前に着席した。

「ねえエアグルーヴ。お願いがあるんだけど」

「何だ?」

「私と併走(へいそう)……は悪目立ちしそうだからあれだけど、その……、トレーニングに付き合ってくれない?」

 ヴァイスシュトルムの真剣な声色に、エアグルーヴは驚いたように顔を上げた。

「珍しいな。貴様の方からトレーニングに付き合って欲しいなんて……。本当に何かあったのか?」

 エアグルーヴからの問い()けに、ほんの少し目を泳がせたヴァイスシュトルムだったが、ぽつぽつと屋上であったことを話し始めた。

「なるほどな……すまないが、私も来週一杯は生徒会の方で忙しい。付き合ってやりたいところではあるんだが……」

「……そっか。ごめん、気にしないで」

 耳を前に倒して落ち込みを見せるヴァイスシュトルムに、エアグルーヴも申し訳なさそうな顔をする。そんな二人に声を掛けたのは、ホットミルクを作っていたフジキセキだった。

「私で良ければ相手になろうか?」

「えっ、でもフジキセキは寮のことで忙しいんじゃ……?」

 ヴァイスシュトルムとエアグルーヴの前にホットミルクの入ったマグカップを置き、ヴァイスシュトルムの隣に座ったフジキセキに、ヴァイスシュトルムは向き直る。フジキセキはそれを横目で見ながら、手に持ったマグカップの中身を少し飲んでからカップを机に置く。

「ヴァイスが真剣に併走を頼むことなんて滅多(めった)にないし、それに……」

「それに、何だ?」

 エアグルーヴがフジキセキに聞き返している間に、マグカップを手に取りホットミルクを口に含んだヴァイスシュトルムは、次の瞬間、盛大に気管にホットミルクを侵入させてしまった。

「ヴァイスのハートを射止めた大物新人トレーナーさんに興味があるんだ!」

「ゴフッゲホッ!! ちょ、フジキセキ!?」

 まるで悪戯(いたずら)が成功した子供のように、無邪気な笑顔を浮かべるフジキセキに食ってかかるヴァイスシュトルムの顔は、誤嚥(ごえん)したのも相まって赤く染まっている。二人のじゃれ合いのようなやり取りに、エアグルーヴは(あき)れたような視線を向けてから、ほんの少し口角を上げて微笑(ほほえ)んだのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯3.選抜レース前日

 週明けの月曜日、『月毛のヴァイスシュトルム』が、金曜日の選抜レースに出走するという情報が流れると、興味本位でヴァイスシュトルムにスカウトをかけるトレーナーが続出した。

 しかし、(ほとん)どのトレーナーが、『月毛』であることを理由に、本気でヴァイスシュトルムがGIを勝利するとは考えていなかったし、ましてや有馬記念や宝塚記念、天皇賞(秋)などの歴史と伝統のあるGⅠレースは絶対に無理だと考えていた。

『芦毛』は走らないと言う通説をひっくり返した、タマモクロスやオグリキャップのような力は、ヴァイスシュトルムにはない、しかしアクセサリーとしてはこの上なく優秀だと、直接は言わないまでも、言葉の端々からにじみ出るトレーナーたちからのラブコールに、ヴァイスシュトルムは辟易(へきえき)し、火曜日、水曜日と日が()ち、選抜レースが近づくにつれて気持ちがささくれ立つのを止められなかった。

 唯一(ゆいいつ)桐生院(きりゅういん)(あおい)と言う新人トレーナーだけは、先日、ヴァイスシュトルムの方から半ば強引に専属契約を予約した神谷トレーナーのように、ヴァイスシュトルムが月毛であることを気にした様子はなく、適切なトレーニングメニューを提示していた。先約があるから担当にはなれないとヴァイスシュトルムが伝えてからも、選抜レース用のトレーニングメニューを組んでくれたり、フジキセキとの個人トレーニングを見てくれたりと、中々にお人好しな名門出身のトレーナーだった。

 もし、神谷よりも先に桐生院トレーナーに出会っていたならば、彼女に担当して貰っていたかも知れないと、ヴァイスシュトルムは彼女の組んだトレーニングメニューをこなしながら漠然と考えていた。

 最後の追い切りをかなり軽めに終わらし、上がり3ハロンを三十五秒後半に抑えたヴァイスシュトルムに、外から見ていたトレーナーたちは口々に「白毛のハッピーミークを(いちじる)しく成長させた、あの桐生院トレーナーでもここまでしか伸ばせないとなると、やはり月毛は走らないか」などと好き勝手に言いだした。そんな声を無視して、さっさと引き上げるヴァイスシュトルムに、その後ろを着いて歩く桐生院トレーナーは何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。

「桐生院トレーナー、この四日間ありがとうございました」

「そんな、頭を上げて下さい! 私は簡単なものしか提示してませんから! ミークのトレーニングの片手間でしたし……」

 周りに人影がなくなったところで、足を止めたヴァイスシュトルムは、後ろを振り返って深く頭を下げる。それに、桐生院トレーナーは慌ててヴァイスシュトルムに頭を上げるように言う。それでも、ヴァイスシュトルムは心からの感謝を伝えた。

「でも」

「でも?」

 下げていた頭を上げたヴァイスシュトルムは、不敵な笑みを浮かべて桐生院トレーナーに相対(あいたい)する。そして、堂々と真っ正面から宣戦布告を行った。

「貴女が育てたハッピーミークと同じレースで当たったときは、絶対負けませんから!」

「! ……ミークが勝っても落ち込まないで下さいね?」

 ヴァイスシュトルムから受けた宣戦布告に怒るでもなく、笑顔で受けて立った桐生院トレーナーは、やる気十分と言った様子で自分の担当ウマ娘である、ハッピーミークの元へと向かっていった。

 その背中を見送ってから、ヴァイスシュトルムはカフェテリアへと足を向ける。夕食を摂りつつ明日の選抜レースの作戦を練ろうと、ぼんやり考えながら歩いていると、突然背後から大声で呼び止められた。

「待ってくれ! ヴァイスシュトルム!」

「……誰?」

 ヴァイスシュトルムの前に回り込むようにして走り寄って来た男は、一つ咳をすると真面目な顔をして向き直った。

「この四日間、君の走りを見せて貰った。君には、素晴らしい素質がある。桐生院トレーナーには、君の素質を引き出せなかったようだけど、この僕、舟越(ふなこし)騎士(ないと)の手にかかれば月毛の君でも、上がり3ハロン三十四秒前半まで縮めることができる!」

「はぁ……。それは……、ありがとうございます……?」

 舟越と名乗ったトレーナーは、ヴァイスシュトルムの話を聞こうともせずに一方的にまくし立てる。言葉に少しづつ熱が入っていく舟越に対して、ヴァイスシュトルムは内心、お世辞はいいから、早く呼び止めた理由を話して欲しいと思っていた。

 それから五分、どうでも良い舟越の話を聞かされたヴァイスシュトルムは、自身の疲労も相まって、終わりの見えない舟越の話に苛々(いらいら)とし始めていた。耳は後ろ向きに伏せ、組んだ腕の中で指は(せわ)しなく肘を叩く。そんなヴァイスシュトルムの様子に気付いた舟越は、ヴァイスシュトルムの体調よりも自分の話が重要だと判断した。

「……あぁ。長々とすまない。しかし、この話はここからが大切なところなんだけどね――」

「それで、舟越トレーナー? いい加減本題に入って欲しいのだけど?」

 そう言って、まだ話し足りないとばかりに続けようとする舟越に、辟易(へきえき)したヴァイスシュトルムは彼の話を(さえぎ)る。

「全く、君を指導することになるトレーナーの話は最後まで聞くべきだよ。まぁ、それはマナーとして必要なことだから、トレーニングの傍ら教えよう。さっきの続きだが、つまり何が言いたいかと言うと、君の素質に僕のトレーニング能力が合わされば、『月毛』の君でもGⅠを一勝するくらいには成長できると言うことだ。さぁ、明日の選抜レース後から早速トレーニングだ。忙しくなるぞ!」

 大切な部分に入る前を遮られ、顔にありありと不満の色を浮かべた舟越は、気を取り直してヴァイスシュトルムに教え(さと)すように(つたな)い持論を展開する。そして、ヴァイスシュトルムが専属契約を受けると確信したように今後の話をし始めた。そんな舟越にヴァイスシュトルムは深くため息を()くと、こめかみに手をやった。

「はぁ……。悪いけど、私のトレーナーはもう決まっているの。私は貴方と契約できないから他の娘を当たって」

 ヴァイスシュトルムはそう言うと、これ以上話すことはないと舟越の横を通り抜けようとする。ヴァイスシュトルムに何を言われたのかよくわかっていない舟越は、呆然(ぼうぜん)として、しかし、横を通り過ぎようとするヴァイスシュトルムの腕を反射的に(つか)んでいた。

「待ってくれ!」

「……離して。私は貴方に用は無い」

 ウマ娘の力は成人男性のそれを大きく上回る。ウマ娘にとっては少しの力であっても、人間を怪我(けが)させるには十分以上だったりする。それを理解しているヴァイスシュトルムは、腕を掴まれたことを不快に思っていても、舟越を決して力任せに振りほどこうとはしなかった。だが舟越は、そのことをヴァイスシュトルムが本心では自分のことをトレーナーにしたいと思っているなどと都合の良いように解釈し、また長々と話し始めた。それに耐えきれなくなったヴァイスシュトルムは、怒りを露わにした。

「Halt die Klappe! Ich will kein Wort mehr von Ihnen hören!」

「は……? え?」

 突然ドイツ語で「黙れ、お前の話はもう聞きたくない!」と言われた舟越は、言葉が理解できず口を開けて固まってしまう。その(すき)に掴まれていた腕を振りほどいたヴァイスシュトルムは、襲歩(しゅうほ)に近い駈歩(かけあし)で走り去ってしまった。その場に残された舟越は、大口を開け、掴んでいた手を伸ばしたままの姿勢で、ヴァイスシュトルムの小さくなる背を見送るしかなかった。

 

 

「ここにもない……、あと探してないのはどこだ……!?」

 ヴァイスシュトルムの選抜レースが明日に迫る中、先日、ヴァイスシュトルムと約束を交わした神谷トレーナーは、トレセン学園の廊下を隅から隅まで見て回っていた。必死の形相(ぎょうそう)で下を向いて目を忙しなく動かす神谷の襟には何もなく、普段(ふだん)そこにあるトレーナーバッジはその姿を消していた。

「まだ見落としているところがあるはず――」

「――おっと!」

 神谷が方向転換し、歩き出そうと一歩足を踏み出したところ、どん、と軽い衝撃を受けて神谷はバランスを崩し、たたらを踏んだ。

「ごめんね! 大丈夫? ケガはないかい?」

 そう言ったウマ娘、フジキセキは細腕(ほそうで)で神谷の胴を支えて彼の転倒を防ぐと、心配そうな顔を向けた。

「こっちこそごめん。良く見ていなかったんだ」

「ううん、お互いなんともないならよかった! でも君、なんだか切羽詰(せっぱつ)まった顔をしているね?」

 神谷に怪我がないことを確認して、笑顔を見せたフジキセキは、すぐに思い悩むように眉を寄せると、右手を顎に当て、その肘を左手で支えるように持つ。そして、一度神谷の視線の先を見るように目を伏せると、再び彼に正対した。

「さっきも床をじーっと見つめていたし……。もしかして、なにか大切なものを探しているのかな?」

 フジキセキの的を射た発言に、神谷は情けなさそうに後頭部を()くと、実はトレーナーバッジを落としてしまい、それを探している最中なのだと伝えた。

「トレーナーバッジ! それは大変だ」

 少し驚いたように声を上げたフジキセキは、顔を真面目なものに変える。

「トレセン学園の敷地内は、関係者以外立ち入り禁止だからね。バッジがないままだと、不審者だって誤解されちゃうかも……?」

 話しながら、だんだん気の毒そうな顔になっていくフジキセキに、神谷もまた気落ちしていく。このまま見つからなければどうしよう、ヴァイスシュトルムとの約束を守れないばかりか、不審者として警備員に拘束されてしまうのだろうか。流石にバッジを落としたことで、たづなさんにまで迷惑をかけるわけには――。

「そういえば、こんな話を知っているかい?」

 神谷が顔を青くするのを見ていたフジキセキは、彼に尋ねるように口を開いた。

「何をだ?」

「数日前に、深夜の学園内に許可なく立ち入った不届き者がいてね」

 神谷はギクリとしてフジキセキを凝視(ぎょうし)した。まさか、この間のことを(とが)められるのではないだろうか?

「しめしめとほくそ笑んだ彼は、誰もいない、静まり返った真っ暗な廊下を一人で歩いていたんだけど……」

 神妙(しんみょう)な顔をして話を続けるフジキセキに、神谷は気が気でない。果たして自分は、あの時ほくそ笑んでいたのだろうか。……ほくそ笑んでいたかも知れない。ウマ娘からの逆スカウトを受けて、(まだ本契約は結んでいないとは言え)舞い上がっていた可能性は捨てきれない。そう百面相をする神谷を無視して、フジキセキの話は続いている。

「その時、コツ、コツ、と自分のものじゃない足音が近づいてきて……。振り向くとそこには満面の笑みを浮かべたたづなさんが!」

「ご、ごめんなさい! ……いや、あの時はたづなさんに会ってな……あっ」

 反射的に謝った神谷を、ポカンとした表情で見たフジキセキは、数秒後、肩を震わせて笑い始めた。

「ふふっ……あはははっ! まさか、数日前にこの話と同じようなことを君がしてただなんて! 偶然ってあるものなんだね!」

 大笑いするフジキセキに、神谷は下を向き羞恥心(しゅうちしん)から顔を真っ赤にしていた。

「冗談のつもりだったけど、思わぬ収穫かな。ふふっ……トレーナーさん。服の右ポケットを見てごらんよ」

 笑いすぎて目に浮かぶ涙を指で(ぬぐ)ったフジキセキは、神谷にそう告げる。彼は不思議に思いながらも彼女に言われたとおりに服の右ポケットを確認すると、そこには探していたトレーナーバッジがあった。

「!? えっ、なんでポケットにバッジが!?」

 驚きに目を白黒させながらも、嬉しそうな神谷を見て、フジキセキは頰笑みを浮かべる。

「ついさっきそこで拾ったんだ。落とし主さんにすぐ出会えるなんて、ラッキーだね!」

「ありがとう、フジキセキ!」

 そう声を弾ませるフジキセキに、神谷はフジキセキに向き直る。そして深く頭を下げて感謝の言葉を伝えた。

「どういたしまして。慌てている君の様子とか、襟にバッジがないところから、多分そうじゃないかなって思ってたんだけど……当たりでよかった!」

「ところで、いつポケットに……?」

 確かに何も入っていなかったはずだと、不思議そうな顔をする神谷に、フジキセキは悪戯(いたずら)が成功した子供のように無邪気(むじゃき)な笑みを浮かべる。

「さっきぶつかった時にちょっとね。手品は得意なんだ! びっくりしたかい?」

「ああ、びっくりしたよ……本当に」

 悪意のないフジキセキの笑顔に、心底安堵(あんど)したように息を()く神谷の様子を見て、フジキセキは肩を落として悄気(しょげ)てしまった。

「でも、少しおどかしすぎちゃったかな。普通に返すだけじゃなくて、楽しいサプライズにしたかったんだけど……ごめんね」

 そう言った後、申し訳なさそうにするフジキセキに、どうフォローしようかと神谷が悩んでいると、タイミング良く腹の虫が空腹を知らせた。再び襲い来る羞恥心に、神谷は顔を真っ赤に染める。

「ふふっ……。ねぇ、トレーナーさん。お()びにご飯でもどうかな? 今度こそ、トレーナーさんを楽しませてみせるよ!」

 そんな神谷の腹の虫に吹き出したフジキセキは、彼に手を差し伸べると一緒に食事をしようと誘う。

「むしろ、俺がフジキセキにお礼をしたいんだが……」

「それじゃあ、『私との食事に付き合う』のがお礼ということにしよう! さぁ、カフェテリアに行こうか、トレーナーさんっ」

 (まぶ)しい笑顔でそう言われてしまっては、神谷には次の言葉はなかった。結局、フジキセキの(てのひら)の上で転がされたような気がしつつも、神谷はフジキセキとの食事を楽しみに、カフェテリアへ彼女と一緒に向かったのだった。

 

 

 舟越トレーナーの長話からようやく逃げ出したヴァイスシュトルムは、予定していた時間から大幅に遅れてカフェテリアに来ていた。トレーニング後の疲労に加えて、無駄話に付き合わされた心労が加わり、さっさと食事を済まして寮に帰ろうと思っていたのだが、生憎カフェテリアは多くの生徒や教職員、トレーナーでごった返していた。

Scheiße(くそっ)

 舌打ちと共に小さく呟いたヴァイスシュトルムは、それもこれも舟越トレーナーのせいだと心の中で悪態(あくたい)を吐く。一通り悪態を吐き終わった彼女は、()いてる席を探してカフェテリアを見渡す。中々空いている席は見つからなかったが、運良く友人を見つけた彼女は、足早にその席に近づくと声を掛けた。

「フジキセキ! 良かったら相席しても……なんでトレーナーさんがここに!?」

 フジキセキの正面には、ヴァイスシュトルムが契約する予定の神谷トレーナーが座っており、フジキセキに手厚くもてなされていた。

「よう、ヴァイスシュトルム。こないだぶりだな」

 ヴァイスシュトルムに気が付いた神谷は、呑気に左手を挙げて挨拶してくる。そんな彼に習って、ヴァイスシュトルムへ振り向いたフジキセキの顔には、にやにやとした意地の悪い笑みが浮かんでいた。

 これはまずいと、ヴァイスシュトルムの第六感が警鐘(けいしょう)を鳴らす。この場に留まれば、間違いなくフジキセキのオモチャにされるのは明白だ。それならば、寮の食堂で夕食を済ませ、消灯時間まで部屋に引きこもった方が精神的なダメージは少ないだろう。そう一瞬で判断したヴァイスシュトルムだったが、彼女が動くよりも早くフジキセキは行動に移していた。

「トレーニングお疲れ様、ヴァイス。疲れているだろう? 食事取ってきてあげるよ、何がいい? にんじんパンEX(エクストラ)は外せないよね?」

 まさに早業だった。いつの間にかヴァイスシュトルムは着席させられており、フジキセキはヴァイスシュトルムの食事を取りに席を立っていた。

「……はぁ」

「ため息を吐いてると幸せが逃げるらしいぞ」

 にんじんパンEXを頰張りながらそんなことを言う神谷に、ヴァイスシュトルムは誰のせいでため息を吐いてると思っているのかと恨みがましい視線を送る。その視線に気付いた神谷は、手元のにんじんパンEXをヴァイスシュトルムから遠ざけるようにして隠した。

「そんな物欲しそうな顔をしても、このにんじんパンEXはやらんぞ!」

「いらないよ! なんで人の食べかけを欲しがらないといけないのさ!」

 思わず大きな声を上げて否定するヴァイスシュトルムに、カフェテリア中から視線が集まる。それに顔を赤くしたヴァイスシュトルムは、机に突っ伏すようにして顔を隠した。

「ただいま。ヴァイスが出会ったばかりのトレーナーさんともう打ち解けてるなんて、珍しいこともあるんだね」

 手に料理の乗った盆を持って帰ってきたフジキセキは、柔らかく微笑みながらそう言うと、ヴァイスシュトルムの前に盆を置く。もちろん、にんじんパンEXも忘れずに取ってきてあった。

「……Danke(ありがと)

「どういたしまして。ほら、冷めないうちにどうぞ」

 フジキセキに(うなが)されて、ヴァイスシュトルムはゆっくりと料理を食べ始める。その間、フジキセキと神谷トレーナーはたわいない会話を楽しんでいた。

「ところでトレーナーさん、さっきまで話していたことの続きなんだけど……」

「えーっと、ヴァイスシュトルムから逆ナンされたところまでは話したっけ?」

「ゲホッ! ゴホッ!」

 聞き捨てならない言葉を聞いて、盛大に()せたヴァイスシュトルムは、信じられないものを見るように目の前の二人を見る。右斜め前に座る心配そうなフジキセキとは対照的に、左斜め前に座る神谷は、心底呆れたような、残念な娘を見るような目をしていた。それを見比べたヴァイスシュトルムは、神谷の右(すね)を蹴り上げていた。

「ふんっ!」

「いってぇ!?」

 突然右脛を襲った激痛に、たまらず大声を上げた神谷は足を押さえて(うづくま)る。そんな彼に周りからの好奇(こうき)な視線が突き刺さり、神谷は羞恥心と痛みがごちゃ混ぜになった複雑な顔をする。神谷が右脛を急襲(きゅうしゅう)してきた張本人を見ると、食事を再開していたヴァイスシュトルムは拗ねたような横顔を見せていた。

 神谷が頭を掻きながらフジキセキを見ると、苦笑しつつもどこか楽しそうにヴァイスシュトルムを眺めており、その視線に気が付いたヴァイスシュトルムは、居心地が悪そうに椅子に座り直した。

 やれやれと自分も座り直した神谷は、ヴァイスシュトルムのご機嫌を(うかが)いながら、彼女たちとの(にぎ)やかな食事を楽しむのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯4.白嵐

 選抜レースが行われる金曜日。平日開催であり、また予備日と言うこともあって、通常開催時の半分である六レースが昼から開催される。トレセン学園のトレーニングコースに設置されているスタンドには、第一レース発走時刻である十三時三十分を前にして、観戦・応援に来たウマ娘とスカウト候補を見極めるトレーナーたち、そして、出走ウマ娘の親や親戚、学園の地域住民たちとでそれなりに混雑していた。

 トレーナーたちはそれぞれが手に持った出走予定者リストを見て、前評判の良い出走ウマ娘に自ら印をつけていく。それぞれが持つ出走予定者リストには、トレーナーの手で『(本命)(対抗)(単穴)(連下)(注意)()×()』といった記号で(しるし)が付けられ、自分がスカウトするウマ娘の走りを見ていく。印を付ける基準としては、トレーナーが入手した各ウマ娘が選抜レース前に行ったトレーニングの様子、ウマ娘同士で行われる模擬レースの結果、授業で行われるゲート体験等の情報が元になる。それらを総合的に判断し、才能がある、()しくは優位性を示したウマ娘から順に印を付けていく。

 (ほとん)どのトレーナーがリストに()っているウマ娘の名前に印を打ち、スカウト後の予定を加筆修正する。それを繰り返すうちに、トレーナーたちが持つ出走予定者リストは、ドッグイヤーや付箋(ふせん)でいっぱいになり、何度もクリップボードに挟まれたり、折られたりしてヨレヨレになっていった。トレーナーたちがボロボロにする出走予定者リストもまた、トレセン学園選抜レースの風物詩と呼んでも過言ではないだろう。

 ヴァイスシュトルムから逆スカウトを受けた神谷トレーナーももちろん、第一レース発走前からトレーニングコースに来ていた。しかし、彼はリストこそ手に持つものの、そこに何かを書き加えたりすることもなく、リストは配布されたときと遜色(そんしょく)ない綺麗(きれい)な状態を(たも)っていた。

 神谷も前回の選抜レース開催時は周囲のトレーナーと同じように、出走予定者リストをボロボロにしていたものだが、今回の目的は担当するヴァイスシュトルムの走りを見ることである。

 ヴァイスシュトルムの走りを集中して観察したいがために、神谷は第二レースに出走する他のウマ娘を見る余裕はないし、ヴァイスシュトルムのトレーニングメニューに関しても、先日ヴァイスシュトルム本人に、彼女の走りを見てから組み立てると宣言している。今日の走りを見て、その後からは彼女のためのトレーニングメニュー作成に取りかからなければならないので、選抜第三レース以降は見送るつもりでいる。つまるところ、彼には本日の出走予定者リストは無用の長物だったのである。

 第一レースが終了し、第二レースが始まるまでのおよそ二十五分間、第一レースで光るものを見せたウマ娘たちにトレーナーたちが列を作る。その光景を横目で見ながら、神谷はぼんやりと次のレースに向けて学園スタッフの手によって整備されていくコースを眺めていた。

「ちょっとそこのトレーナーさん。いい走りをした娘のスカウト列に並ばなくて良いの?」

 神谷の背後で黄色い声が上がった数秒後、そう話しかけられた神谷は声の主に向き直る。そこには、体操服の上からゼッケンを付けたヴァイスシュトルムが、にやにやとした笑みを浮かべて立っていた。

「今日の目的は担当するヴァイスシュトルムの走りを見ることだからね。それに、他のウマ娘とヴァイスシュトルムのトレーニングメニューを同時に考える余裕もないから」

 そう言って肩をすくめた神谷に、ヴァイスシュトルムはますます笑みを深くして、嬉しそうに尻尾を高く上げて揺らした。

「そっかそっか。それなら、トレーナーさんのその熱い期待に応えないとね?」

 そう言って楽しそうに神谷の隣を陣取ったヴァイスシュトルムは、彼と同じようにコースが整備される様子を眺める。

 第一レースが終了してから十分後、ゲートが1800mのスタート位置に配置され、出走予定ウマ娘の最終呼び出しが始まると、ヴァイスシュトルムは軽く伸びをする。

「それじゃ、行ってくるから。私から目を離さないようにね、トレーナーさん」

 そう言ってヴァイスシュトルムはウインクを神谷に寄越(よこ)すと、ゲートへと駆け出していった。その背中を見送ってから、コースへ視線を戻した神谷は無意識のうちに口角を上げていた。

 

 

 ヴァイスシュトルムがゲート前に着いた時、辺りはひりつくような緊張感に包まれていた。ぶつぶつと何かを呟いている娘、目を(つむ)り両手の指先を合わせて集中する娘、ひたすら(てのひら)に指で文字を書いては飲み込む娘等々、それぞれの方法で緊張と向き合っていた。しかし、中には泰然自若(たいぜんじじゃく)とした娘も何人かいる。それを見たヴァイスシュトルムは、頭の中で警戒リストにそのウマ娘を入れておく。そうしてから、ヴァイスシュトルムは深く息を()くとゲートに向き直った。

「やけに落ち着いてんじゃねーか。ヴァイス」

「……そういう貴女(あなた)もね。マリン」

 ヴァイスシュトルムの隣に並んだ黒鹿毛(くろかげ)のウマ娘、マリンダンサーは、片方の口角を上げ犬歯を見せる獰猛(どうもう)な笑みを浮かべて、ゲートへ向かって歩き出した。

「ま、今日は勝たせて貰う。ワリィけど、本気で行かせて貰うわ」

「私も負けるつもりはないから!」

 ヴァイスシュトルムの言葉に益々笑みを深くしたマリンダンサーは、ゲートに収まる。ヴァイスシュトルムもゲートに入ると、発走の時を静かに待った。

『最後に七番、フレアカルヴァドスがゲートに入りまして、態勢整いました。選抜第二レース、今スタートしました!』

 ゲートが開くと同時に、ヴァイスシュトルムは勢い良く飛び出していく。

『一番ヴァイスシュトルム、ポーンと飛び出した! ぐんぐんと上がって先頭に行きます! 四番マリンダンサーは後方に(ひか)えた形!』

 ヴァイスシュトルムの逃げ戦法に観客席はざわめく。練習や模擬レースでは徹底して差しを選択していたからである。

「ヴァイスシュトルムは緊張で暴走か……。やっぱり『月毛』は走らないな」

「残念だけど、やっぱりこのレースの主役はマリンダンサーね。きっちりと先団を風よけにして足を貯めているわ。レース終盤では、彼女の鋭い差し足が見られそうね」

 観戦しているトレーナーたちからは、口々にマリンダンサーの評価がなされていき、ヴァイスシュトルムは勝てないといった話ばかりが出てくる。

『ヴァイスシュトルム、まだ先頭を保っている! 二番手との差は三、四バ身といったところか。二番手は六番ミスティトラベラー、続いて三番クイーンズホロー、二バ身開いて七番フレアカルヴァドス、第三コーナーを回ります。差がなく四番マリンダンサー、その後ろに二番グレアダイアモンド。五番ライラックブーケ、最後方からのレースとなりました。前から後ろまで十二、三バ身といったところです』

 最初の600mを三十六秒七で通過したヴァイスシュトルムは、三コーナーに入った辺りから徐々にスパートをかける。姿勢を少しずつ前傾にし、遠心力をうまくいなしながらトップスピードに持って行く。ヴァイスシュトルムを追うミスティトラベラーとクイーンズホローは、ヴァイスシュトルムに差を開けられないように無意識にスピードを上げ、気が付けばペース配分が滅茶苦茶(めちゃくちゃ)になっていた。スタミナの殆どを奪われていたことに二人が気付いたのは、第四コーナーに差しかかったタイミングだった。

『四コーナーカーブにかかって、先頭はヴァイスシュトルム。どうしたことでしょう、ミスティトラベラーとクイーンズホローがずるずると後ろに下がっていきます! ヴァイスシュトルム、後ろとの差を大きく離して悠々(ゆうゆう)と直線に入って行く! もはや一人旅!』

 ミスティトラベラーとクイーンズホローがスタミナを切らして後退してきたタイミングで、後方に控えていたウマ娘たちも、何かがおかしいことに気が付いたがもう遅かった。第四コーナー半ばから最終直線にかけてスパートをかけていくがヴァイスシュトルムに追いつける距離ではなかった。そんな中、マリンダンサーだけがヴァイスシュトルムを追って加速を続けた。

「クソッ! ヴァイスの奴を自由にさせすぎた!」

『ここでマリンダンサーが仕掛けた! ぐんぐんと上がっていくが間に合うか!? ヴァイスシュトルム逃げる! その差は八バ身!』

 スパートをかけて追ったマリンダンサーがヴァイスシュトルムに迫るが、八バ身から差を詰められない。ヴァイスシュトルムは残り300mのところでもう一度力強く踏み込むと、勢い良くゴールへ駆けていく。

「ちっ……くしょぉぉぉ!!」

 追いつけない背中に、マリンダンサーは悔しさを存分に込めた大声を張り上げる。ヴァイスシュトルムは、その声すらも追い風にしてゴール板を駆け抜けた。

 ヴァイスシュトルムが二度目のスパートを行った瞬間、観客は突風に吹かれたような錯覚を覚えた。

 まるで一陣の風さながらに駆け抜けるヴァイスシュトルムは、その名が示す通りに白い嵐となり、初めてレースで吹き(すさ)んだのだった。

『ヴァイスシュトルム更に加速! 勢いそのままにゴール板を駆け抜けた! 二番手のマリンダンサーに十バ身以上の差をつけて圧勝です! 選抜第二レースに白嵐が吹き荒れた!』

 ヴァイスシュトルムは、最初から最後まで先頭を譲ることなくレースを駆け抜けた。そのヴァイスシュトルムに遅れること二・二秒後にゴールしたマリンダンサーはヴァイスシュトルムに近づく。

「ヴァイス、次はぜってぇ勝つから覚悟しとけ!」

「次もマリンに勝つのを楽しみにしてるね」

「言ってろ!」

 そう言って背を向けたマリンダンサーを見送って、ヴァイスシュトルムはスタンドの観客席に向き直る。そして顔に「見たか!」と言わんばかりの自慢げな笑顔を浮かべると、観戦していた神谷トレーナーの元へ向かった。

 

 

 観客席はヴァイスシュトルムの圧勝にどよめきが収まらなかった。スタート直後からの暴走に近い逃げ、第三コーナーで後続のウマ娘二人がスタミナを切らしたこと、残り300mからの二度目のスパート。縦横無尽にレースを蹂躙(じゅうりん)する嵐さながらのスタイルは、どれを取ってもヴァイスシュトルムの性格からは想像つかないものばかりだった。

「はは、とんでもないな……。これは、トレーニングメニューの作りがいがありそうだ……」

 そう呟いた神谷トレーナーの手にあるストップウォッチは、三十三秒を表示していた。ヴァイスシュトルムとマリンダンサーは共に、上がり3ハロンを三十三秒で駆け抜けていたのである。神谷がトレーニングメニューについて頭を悩ませていると、スタンドの入口付近が騒がしくなる。

 神谷がそちらを振り返ると、丁度ヴァイスシュトルムがスタンドに再び姿を見せたところだった。ヴァイスシュトルムは、神谷に対して手を振ると駆け寄ってこようとして、トレーナーの壁に(はば)まれた。

「ヴァイスシュトルム! 君があんな素晴らしい脚を持っているなんて知らなかった! 是非契約してくれ!」

「いや、私と契約しましょう! 貴女の脚なら、GⅠで七勝、いえ、皇帝シンボリルドルフ越えの八勝、それ以上も夢じゃないわ!」

 口々に興奮した勢いでまくし立ててくるトレーナーたちに、ヴァイスシュトルムの気持ちはどんどん冷めていく。レース前は、容姿の他については散々な評価を下しておいて、いざ実力を見せればこれだと、ヴァイスシュトルムは嘆息(たんそく)する。彼らは自分たちの見る目がないことを暴露(ばくろ)していることに気付いているのだろうか、(など)と思いながら、ヴァイスシュトルムは次々と声を掛けてくるトレーナー一人一人に断りを伝えていく。

「ごめんなさい、もう私のトレーナーは決まっているので契約はできません」

 そう言い続けて、神谷トレーナーまで後数歩といったところで、ヴァイスシュトルムは腕を強く掴まれ、強引に横へと引っ張られた。

「きゃっ!?」

「ヴァイスシュトルムは僕の担当ウマ娘だ。そう、この舟越騎士(ふなこしないと)のね!」

 手に力を込めて力任せに無理やり引っ張った舟越トレーナーに、ヴァイスシュトルムは苦痛の表情を浮かべて離れようとする。

「またなの? いい加減にして! 昨日も言ったけど、貴方と契約するつもりはないの!!」

「全く、君は素直じゃないのが欠点だね。いいかい? 僕は君の素質を見抜いていたんだ。僕に任せていれば、君は素晴らしい成績を……」

 ヴァイスシュトルムの腕を力強く握り締めて、持論を展開しようとした舟越に、ヴァイスシュトルムは痛みからか目に涙を浮かべる。周りのトレーナーたちも、ヴァイスシュトルムの痛がりようから、掴んでいる手を離すよう舟越に伝えるが、彼は欠片も聞こうとはしなかった。そのまま長々と話を続けようとする舟越の背後に回り込んだ神谷トレーナーは、舟越の腕を掴むと力いっぱい()じり上げた。

「痛い痛い痛い!!」

「俺の担当バから手を離してもらえるか?」

 そう冷たい表情で舟越に言い捨てた神谷トレーナーは、痛みで手を離していた舟越をヴァイスシュトルムから引き離すと、ヴァイスシュトルムを横向きに抱き上げた。

「……っ!? ちょっ、トレーナーさん! 降ろして!」

 所謂(いわゆる)お姫様抱っこを衆人環視の中でされて、ヴァイスシュトルムはあまりの恥ずかしさに少しばかり暴れる。しかし、神谷トレーナーはそれを意に介した様子もなく、むしろ落とさないようにしっかりと抱き直す始末だった。

怪我人(けがにん)は大人しくする。今、無理に引っ張られたせいで脚を(ひね)っただろう?」

 顔を赤くして抵抗を続けていたヴァイスシュトルムは、神谷の言葉に気まずそうに顔を背けた。耳を前に伏せて大人しくなったヴァイスシュトルムを抱き直すと、神谷は舟越を一瞥(いちべつ)する。

「全力疾走後のウマ娘を無理やり引っ張り怪我(けが)をさせて、ウマ娘の話を聞こうともせずに自分の話ばかり続けるなんて、ウマ娘の杖となる人間のすることかよ。ウマ娘のためのトレーナーになれないなら、トレーナー基礎研修からやり直せ」

「なっ、お前ごときが……」

 そう言い捨ててヴァイスシュトルムを抱いたまま保健室へと歩き去る神谷トレーナーに食ってかかろうとした舟越だったが、周りのトレーナーとウマ娘から冷ややかな目で(にら)みつけられる。冷淡な視線に(さら)され、居た(たま)れなくなった舟越は、その場から逃げるように立ち去るしかなかった。

 

 

「すまない、ヴァイスシュトルム。レース後すぐに君を迎えに行くべきだった」

 早足で保健室へと向かいながら謝る神谷トレーナーに、ヴァイスシュトルムは慌てたようにトレーナーのせいではないと伝える。

「トレーナーさんのせいじゃないって。私も油断してたし……」

「それでも、だ。とにかく診察を受けて、それから来週以降の予定を決めていこう」

「Verstanden!」

「ふぇるす……なんて?」

 ヴァイスシュトルムの返事に戸惑いを見せながら神谷が聞き返すと、彼の腕の中でヴァイスシュトルムは悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべて口を開いた。

「『わかりました!』って言ったの。私のトレーナーさんには、ドイツ語も理解(りかい)できるようになってもらわないとね?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯5.メイクデビューに向けて(前編)

 ヴァイスシュトルムが痛めた足は、保健室で診察と手当てをしてもらったところ、極々軽い捻挫(ねんざ)で済んでいた。土日休みと週明けの月曜日を安静にして過ごせば、火曜日からは様子を見ながらトレーニングをしても良いと保健医から伝えられたヴァイスシュトルムは、念のためにと貸し出された松葉杖をつき、神谷トレーナーと並んでトレセン学園トレーナー室棟の廊下を歩いていた。

「火曜日からは普通にトレーニングができそうで良かったよ。でも、この土日は絶対に安静しておくように」

「わかってるって。トレーナーさんは心配しすぎ」

 神谷の言葉に、少し()ねたように口を尖らせたヴァイスシュトルムは、それでも大人しく彼の言葉を聞き入れていた。

「担当バが怪我(けが)をしたトレーナーは、みんなこうなるさ……っと、ここだ。入ってくれ」

 似たような扉の部屋が並ぶ中、一つの部屋の前で足を止めた神谷は、扉の鍵を開けると松葉杖をついたヴァイスシュトルムが楽に通れるよう、扉を手で支えたまま彼女を招き入れる。

「失礼しまーす」

 神谷の言葉に従って、ヴァイスシュトルムが部屋に入ると、神谷は扉を静かに閉めた。

 物珍しそうに部屋の中を見渡すヴァイスシュトルムを置いて、神谷は部屋の奥へと歩いて行く。

「好きなところに座ってくれ」

 そう言われて、ヴァイスシュトルムは扉から正面に見える三人掛け程度(ていど)の長机を二台並べたミーティングスペースに近寄ると、長机の前に置かれていたパイプ椅子に座り、ゆったりと足を伸ばす。

「トレーナー室って結構広いんだね」

「いずれは担当ウマ娘が増えて、チームを持ってもらうようにってことらしい。まあ、新人で実績のない自分にはまだまだ先の話だ。今は置いておこう」

 そう言いながら、神谷はトレーナー室に置かれていたポットの前に移動すると、そのすぐそばに置いてある紙コップとその簡易ホルダーを手に取り、ヴァイスシュトルムに質問を投げかけた。

生憎(あいにく)、インスタントコーヒーしかないんだが大丈夫か?」

「あ、うん。大丈夫」

 ヴァイスシュトルムの返事を聞いて、神谷はコーヒーの粉を紙コップに入れる。そうして、ポットから湯を注ぐとそれを二つ持ってヴァイスシュトルムと机を挟んで向かい側のパイプ椅子に腰掛けた。そして湯気が立つ二つの紙コップのうち、片方にスティックシュガーとミルクを()えてヴァイスシュトルムに差し出した。彼女は大人しくそれを受け取り、ミルクと砂糖を入れてよくかき混ぜてから口に含んだ。

「苦い……」

「すまない、一つじゃ足りなかったか。もう少し取ってくる」

 舌を出して苦そうに顔をしかめるヴァイスシュトルムに苦笑した神谷は、再び立ち上がると砂糖を取りに席を立つ。その間、ヴァイスシュトルムは改めて部屋を見渡していた。

 空きスペースの方が(はる)かに多い立派な資料棚に、まだ使われた形跡のない真新しいホワイトボード。トレーナーの個人用事務机には、人間用の固定電話と書類が何枚か、それとタフさが売りの銀色に光るノートパソコンが置かれていた。事務机の後ろ、入口から見て真正面には、普段授業を受ける教室と同じように腰の高さから天井近くまである大きな両開き窓が等間隔で並ぶ。資料棚の反対側には足がやや短い大きめの長机とそれを挟むようにソファが置かれてあり、それと直角になるように、テレビ台と最新型の薄型テレビが置かれている。テレビ台に備え付けられているガラス扉の奥は三段式になっており、最上段には最新型のブルーレイ・DVDレコーダー、中段には今となっては珍しいビデオデッキが、最下段には何本かのビデオテープやDVD‐ROM等が並んでいた。

「好きなだけ使ってくれ」

 ヴァイスシュトルムの前に戻ってきた神谷は、スティックシュガーが入った袋を机の上に置くと、自分のコーヒーには何も入れずに飲み始める。それをちらりと見ながら、ヴァイスシュトルムはスティックシュガーを十包程取り出し、コーヒーの中にそれを全て投入した。

「……確かにいくらでも使ってくれとは言ったが、それは甘すぎやしないか?」

 まるで信じられないものを見たかのような表情をする神谷に、ヴァイスシュトルムは首を横にこてんと倒して不思議そうにしていた。

「コーヒーは甘い方が美味しくない? 紅茶とかもそうだけど」

「そうか。そうか……」

 コーヒーや紅茶にスティックシュガーを十包以上入れることが、さも当然と言わんばかりのヴァイスシュトルムに、神谷は内心、カロリー管理もトレーナーの仕事かと思い、ため息を()きたくなった。そんな神谷を尻目に、ヴァイスシュトルムは機嫌良くカップを傾けるのだった。

 

 

 ヴァイスシュトルムが一息ついたのを見計らって、神谷トレーナーは口を開いた。

「さて、火曜日からのトレーニングだが、まずはスタミナの強化を重点的にやって行きたいと思っている。来週いっぱいはプールでスタミナを重点的に鍛えつつ、怪我の様子見と言ったところかな」

 真面目な顔をして話し始めた神谷に、ヴァイスシュトルムは大人しく耳を貸す。ヴァイスシュトルムがしっかりと聞く姿勢になったことを確認すると、神谷はざっくりとした今後の予定を話す。

「それで、再来週からはフォームチェックを兼ねた走り込み、心肺機能を高める効果が高い坂路(はんろ)トレーニング、筋トレ等の本格的なトレーニングに移りたいと思う。もちろん、足の負荷(ふか)が小さいプールでのトレーニングも継続して行っていく形になる。ここまでで何か質問はあるか?」

「特にないかな……あ。併走はやらないの?」

 ヴァイスシュトルムはそう言うと、神谷の目をじっと見つめて彼の言葉を待った。神谷はクリップボードを手に取ると、そこに挟んであるプリントに目を落とした。

「併走はレース前に組み込みたいところだが、こればっかりは相手がいないとダメだからな。相手探しもヴァイスシュトルムのトレーニングと並行して行っていくから、ひとまずは置いておこう。それじゃあ、来週いっぱいはプールトレーニングが主になるから、水着を忘れないように」

 手元の資料から顔を上げた神谷は、自分のコーヒーを飲み干す。彼の様子と窓の外が夕焼けの赤色に染まっているのを見て、ヴァイスシュトルムは話の終わりを感じ取った。

「はーい。……今日はこれで終わり?」

「そうだな、クラシック登録やその他契約に必要な書類は月曜日以降になりそうだから、今日やることはないな。()いていうならここ、トレーナー室までの道のりを覚えておいてくれ」

「わかった」

「さてと、帰るか。寮まで送るよ」

「うん、よろしく」

 コーヒーを飲み干して松葉杖を手に取ったヴァイスシュトルムは、ゆっくりと席を立つ。神谷も同じように席を立つと、二人分の紙コップをゴミ箱に捨ててから、廊下への扉を開けてヴァイスシュトルムが来るのを待った。

 

 

 栗東寮のすぐそばにヴァイスシュトルムと神谷トレーナーが着いた頃には、昼間の陽気は影を(ひそ)めすっかり肌寒くなっていた。

「暖かくなってきたとは言え、まだこの時間は冷えるな……体を冷やして風邪(かぜ)を引かないようにするんだぞ?」

「もう、わかったってば……。トレーナーさん、その話もう五回目だよ?」

 神谷の言葉に、辟易(へきえき)したように返事をするヴァイスシュトルムだが、神谷はなおも心配そうにしていた。

「しかしだな……」

「しかしもかかしもないの! アンタは私のお母さんか!」

「何言ってるんだ。男だからお母さんにはならないぞ」

 ヴァイスシュトルムの言葉に対して、神谷は真面目(まじめ)な顔をして、やれやれとまるで聞き分けのない子どもに接するような態度を取る。そんな神谷の姿勢に、ヴァイスシュトルムは柳眉(りゅうび)を逆立てた。

「言葉の(あや)だよ! というか、なんでそう言うときだけ真面目に返してくんのよ! さらっと流してよ!」

「そんなことしたら、ヴァイスシュトルムはボケてもツッコミをして貰えない可哀想なウマ娘になってしまうじゃないか」

「Scheiße!!」

 寮に帰ってきたウマ娘たちは、普段のクールさとはかけ離れた姿を見せるヴァイスシュトルムに、面白いものを見たと遠巻きに眺める。人集りの喧騒(けんそう)は少しずつ大きくなっていったが、それでも周囲の様子に気が付かないほど、ヴァイスシュトルムは神谷とのやり取りに気を取られていた。

「ゴホン。気兼(きが)ねなく話せるトレーナーができて嬉しいのはわかったけど、じゃれるのはそこまでにしようか、ヴァイス」

「ひゃあっ!?」

 わざとらしい咳を一つして声を()けてきた第三者に、ヴァイスシュトルムはまるで飛び跳ねるかのように驚きをあらわにした。ヴァイスシュトルムが耳も尻尾もピンと逆立てて声の主の方へと振り返ると、ニコニコともニヤニヤともとれる笑顔をしたフジキセキがそこに立っていた。

「フジキセキ……あっ」

 フジキセキに声をかけられ、ようやく周りの人集(ひとだか)りによる好奇な視線に気が付いたヴァイスシュトルムは、顔を赤く染める。

「トレーナーさんと仲が良いことは結構だけど、場所は考えようね」

「……はい。それじゃ、トレーナーさん。また月曜日に」

 蚊の鳴くような声でフジキセキに返事をしたヴァイスシュトルムは、神谷と目も合わさずに早口で別れの挨拶を済ますと、そそくさと寮の中へと姿を消してしまった。ヴァイスシュトルムの変わり身の早さに呆気(あっけ)に取られていた神谷だったが、手に持っていた彼女の鞄に視線を落とし、ため息を()いた。

「自分の鞄を忘れていくなよな……」

「あっははは。あわてんぼうなポニーちゃんだ。ヴァイスの鞄、私が届けておくよ」

「ああ、頼むよ。フジキセキ」

 そう言って神谷が手に持っていたヴァイスシュトルムの鞄をフジキセキに渡すと、フジキセキは笑顔のままそれを預かった。

「それじゃあトレーナーさん。これは私がきちんと渡しておくね。それじゃあ」

「ああ、頼んだ。……フジキセキ!」

 神谷に背を向けて、他の栗東寮生と同じように寮内に入っていこうとするフジキセキを、神谷は呼び止めた。

「どうかしたのかい?」

「あ、いや、そのだな。……ヴァイスシュトルムのこと、よろしく頼む」

 振り向いたフジキセキに、彼女を思わず呼び止めてしまった神谷はしどろもどろに言葉を紡ぐ。そして、一息ついて口から出た言葉は、どこまでも過保護なものだった。ヴァイスシュトルムが怪我をしたことは、誰に心配されるでもなく彼女自身が注意をするだろう。それでも神谷は、昼間怪我をしたヴァイスシュトルムが痛みに顔を(ゆが)める瞬間が頭に残っていた。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、トレーナーさん。寮では昼間のような事件は絶対に起こさせないから。それに、ヴァイスのことが心配なのは私だけじゃあないんだ」

 神谷の顔にありありと浮かんでいた心配の二文字に、フジキセキは安心させるように声をかける。昼間のヴァイスシュトルムの身に起きたトラブルは、フジキセキも聞き及んでいた。それだけに彼女の目の前で拳を固く握っている神谷の心境は、多少なりともわかるつもりだった。自分がその場にいて、対応していれば良かったのでは、といった後悔はフジキセキも持っていた。フジキセキも神谷も、他の誰もが何もできなかった結果、ヴァイスシュトルムは負う必要がない怪我をしてしまった。幸い競争人生に影響のあるものではなかったが、運が良かっただけともいえる。

 全力疾走でレースを走り終わった後のウマ娘は、凄まじく体力を消費している。普段(ふだん)なら(つまづ)くことのないような場所であっても、疲労の度合いによっては、躓き転倒することもあり得るのだ。だからこそ今回、舟越トレーナーが起こしたトラブルは、ウマ娘側からしても、トレーナー側からしても、あってはならないことであり、到底許されることではない。あの後、生徒会ではレース後のウマ娘にトレーナーが近づきすぎないようにするべきではないか、といった議論が行われていたほどだった。

 もちろん責められるべきは、過激な行動を起こした側であって、フジキセキや神谷に責められるべき点はない。しかし、何もできなかったという事実が、静かな水面に落ちた雫が波紋を広げるように、ずっと心をざわめかせているのだ。

 真剣に、けれどもどこか思い詰めたようなフジキセキの様子に、神谷は「あー」とも「うー」ともつかない声を出し、彼女の頭を撫でていた。

「フジキセキもあまり気にしすぎなくて良い。それよりもヴァイスシュトルムのこと、よろしくな」

「あ……」

 そう言って神谷はトレーナー宿舎へと歩き去る。その後ろ姿を見送るフジキセキは、()でられた頭に手をやって、しばらくぼうっと立ち尽くしていた。

 

 

 週明けの月曜日、教室の自席で退屈そうに頰杖を付いて行儀悪く最後の授業を聞いていたヴァイスシュトルムは、窓の外に広がる澄み渡る青空に今日何度目かのため息を吐いた。怪我をしているから仕方ないとはいえ、走り込みを行うにはこれ以上ないほどの好天であるにも関わらず、全力で走ることができないのを惜しく感じていたのである。

 授業の終了を告げるチャイムが鳴り響き、ホームルームが終わるやいなや、クラスメイトの多くはトレーニングコースやトレーナー室へ向かって駆け出していった。例に漏れず、ヴァイスシュトルムもゆっくりとトレーナー室へと向かうのだが、その足取りはどこか重々しさを現していた。

 神谷のトレーナー室前にやってきたヴァイスシュトルムは、扉を三度叩く。しかし、中にいるはずの神谷トレーナーから入室を許可する声は聞こえてこなかった。

「……あれ?」

 もう一度扉を叩くが、やはり返事はない。扉にはめ込まれた細長い磨りガラス越しに室内灯の灯りが漏れているし、扉の横に付けられた「在室不在プレート」も緑色で「在室」となっており、神谷が室内にいることを表していた。

「おっかしいなぁ……いるはずなんだけどな」

 ヴァイスシュトルムがドアノブのレバーハンドルを押し下げると鍵は閉まっておらず、ドアは軽く音を立てて開いた。

「トレーナーさん? ヴァイスシュトルムだけど、入るよ?」

 一応声を掛けてから、ヴァイスシュトルムはトレーナー室に入る。室内の電気は外から見えていたように点きっぱなしで、部屋のテレビもおやつ時の情報番組がたれ流されていた。しかし、肝心の神谷は室内のどこにもいなかった。

「いない……。トイレにでも行ってるのかな」

 そう独り()ちたヴァイスシュトルムは、テレビと直角に机を挟む形で配置されているソファに腰掛けると、横を向いて所在なげにテレビを眺めた。

『さて、ここからはURA情報局の時間です! 今年もすでに熱いレースが繰り広げられているトゥインクルシリーズですが、昨日中山レース場で開催された皐月賞では、アグネスタキオンがまず一勝。皐月賞ウマ娘に輝き!三冠への第一歩を踏み出しました!』

 コーナー担当の男性タレントがやや興奮気味に伝える内容に、ヴァイスシュトルムは耳をピクリと反応させると、顔をそちらへ向けてテレビに集中し始めた。皐月賞での作戦やレース展開が説明され、その後アグネスタキオンが勝利した皐月賞のレース映像が流される。そこに映っていたウマ娘たちは誰もが一所懸命で美しく、その光景をよく知っているヴァイスシュトルムの心を、改めて震わせた。私も早くあんなレースがしたい。そう思わせるには十分なものだった。

『是非ともアグネスタキオンには、六週後に行われる日本ダービーでも勝利して欲しいところですね。次はこちら「先取り! 未来のスターウマ娘!」のコーナーです。このコーナーでは、メイクデビュー前の時点ではありますが、話題になっているウマ娘を何人かピックアップしたいと思います!』

 映像が流れている間にスタジオに運び込まれたのであろう、目隠しの粘着シールが貼られた大きなパネルが大写しになる。そこに移動したタレントが、指をかたどった指示棒を持ちながら文字通りシールを捲っていく。

『まずはメイクンリリー。彼女の姉、メイクンシャインは三年前の菊花賞を勝利すると同年の有馬記念、翌年の宝塚記念、有馬記念とグランプリを連覇。昨年こそ怪我で思うような成績を残せていませんが、今年の天皇賞春への出走が決まっています。妹であるメイクンリリーが一体どんな走りを見せるのか、今から楽しみです』

 画面に流れる映像は、メイクンシャインが有馬記念連覇を決めたときのニュース映像だった。それから何人かがピックアップされ、早くも残り二人の紹介となっていた。

『最後に残った二人。この二人の情報は、先週末に行われた選抜レースの映像提供を受けて、大急ぎでスタッフが作ってくれました!』

『だからそんなに手作り感満載なんだ!』

 画面内のスタジオが笑いに包まれる中、ヴァイスシュトルムは何となくイヤな予感が背中を走っていた。先週末の選抜レース、それはヴァイスシュトルムも出走していたのだ。そして、そのイヤな予感は的中することになる。

『最後の二人はそう、マリンダンサーとヴァイスシュトルム! 先週末にトレセン学園で行われた選抜レースの映像が出ると思うんですけど……。あ、出ましたね。見て下さい、この脚!』

 そう言って映し出された動画は、ヴァイスシュトルムの記憶に新しいものと相違なかった。

『ヴァイスシュトルムのスタミナと最後に見せた二度目のスパート! マリンダンサーの素晴らしい末脚をものともしない姿に、「白嵐」なんて呼ばれ方もしているとか』

『ヴァイスシュトルムと言えば、珍しい月毛の美少女ウマ娘としても有名ですね。何でも、ゴールドシチーと一緒に並んでるところを写真に収めると幸運になれるとかでSNSではちょっとした話題になってますね』

 やられた。ヴァイスシュトルムは顔を天井に向けると、顔を手で覆う。それにしても、このテレビ番組は一体どこから選抜レースの映像を入手したのだろうか。メイクデビュー以降なら、練習風景の公開やURA公式レースの映像が出てきても不思議ではない。しかしながら、メイクデビュー前の映像がそう簡単に外部に流れるものなのだろうか。

『それにしても、ヴァイスシュトルムが月毛なのが惜しいですね』

『何故です? 大河さん』

『ほら、昔は芦毛もそうでしたけど、走らないって言われているじゃないですか? 白毛と月毛は珍しいものの、レースでの活躍はねぇ……。大怪我する前に、その容姿を活かせるモデルとかに転身した方が幸せになれると思いますね』

 大河と呼ばれたコメンテーターが、バカにしたような口調で、『月毛』は走らないと当然のように言ってのける姿に、ヴァイスシュトルムは嫌悪感を(いだ)いた。衝動に任せてテレビを消すと、やり場のない怒りを(かか)えてソファに(うつぶ)せる。そして、唸るような声を出して脚を暴れさせた。

「うううううぅ!!」

「すまないヴァイスシュトルム、遅くなっ……何唸ってるんだ?」

 まるで痛い子を見るような神谷トレーナーの生暖かい視線に、ヴァイスシュトルムは机に手を伸ばすと、その上に置いてあったテレビリモコンを神谷に思い切り投げつけた。投げられたリモコンは、綺麗(きれい)な直線軌道でもって神谷の額に吸い込まれていくのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯6.メイクデビューに向けて(後編)

 飛んできたテレビのリモコンを()けきれず、それで額を強打した神谷トレーナーは、痛む額を(さす)りながら狼藉(ろうぜき)を働いてきた張本人が座るソファの対面に腰を下ろした。

「それで、何に怒ってるんだ?」

「別に……何でもない」

「何でもないことはないだろう?」

「何でもないの!」

 ヴァイスシュトルムは何でもないと言うものの、耳を後ろに伏せてそっぽを向いている様子から、彼女が腹に据えかねる何かがあったことは間違いなかった。

 神谷が部屋を出るときに点けっぱなしだったはずのテレビが消えていることから、ヴァイスシュトルムにとって面白くない何かがテレビ番組内であったことは確かだが、それが一体何だったのかまでは神谷には知る(よし)もなかった。

 一体、テレビ番組内で何があったのか聞いても、簡単に打ち明けてくれそうにないヴァイスシュトルムの姿に、神谷は頭を()くことしかできなかった。

「あー、そのなんだ……。とりあえずこれが、ヴァイスシュトルムがレースウマ娘として登録するのに必要な書類になる」

 不機嫌を隠そうともしないヴァイスシュトルムをなるべく刺激しないよう、慎重に言葉を選んだ神谷は、手に持っていた紙の束をヴァイスシュトルムに差し出した。ヴァイスシュトルムが受け取った紙の束はそれなりの分厚さがあり、辞書と遜色(そんしょく)ない重さを誇っていた。

 読むだけでも結構な時間がかかりそうな紙の束に目を丸くしたヴァイスシュトルムは、何も言葉を紡げず、無言で神谷の顔と紙の束を見比べてしまう。

 しかし、至極真面目な顔をした神谷に、これが現実であることを思い知らされただけだった。この分厚い紙の束を見るだけで、今日一日トレーニングのない理由が窺い知れた。

「細かい規則や規定、レースの注意事項なんかも書かれているから、全てに目を通してからサインをしてくれ」

「……ん」

「それから、クラシック登録の用紙も書いておいてくれると助かる。締め切りは大分先だが、必要になる事に変わりはないからな」

「わかった……。ねえ、量多くない? これ」

 ヴァイスシュトルムはあまりにも膨大な紙の束に対して、嫌そうに顔を(しか)めていた。先程まで彼女が作り出していた不穏な空気は、あっという間に霧散し、平穏なものに戻っていた。

 彼女の雰囲気(ふんいき)が柔らかく変化したことを感じとった神谷は、彼女の気が(まぎ)れたことに心底安堵した。

「レースウマ娘の第一歩だ。表紙をいくら(にら)んでも減りはしないぞ」

「うぐぅ……」

 がっくりと項垂れるヴァイスシュトルムはしかし、資料の束を手に取ると嫌々ながらも読み始めた。静かに資料を読むヴァイスシュトルムの邪魔をしないように、神谷は静かに自分の事務机へ戻ると、机の上に置いてあるノートパソコンを使って自らの仕事に取りかかるのだった。

 

 

 ヴァイスシュトルムに書類を渡してから二時間が()った頃、ソファが革独特の(きし)み音を鳴らした。その音に反応してそちらを向いた神谷は、ソファの背もたれにヴァイスシュトルムの頭が見えなくなっていることを認めると、ソファへと歩み寄った。

「書き終わったか?」

「……うん。すごい疲れた」

「それじゃあ、書き漏らしがないかチェックさせて貰うぞ」

 だらしなくソファに身を投げ出すように寝そべっていたヴァイスシュトルムは、紙の束を見たくないと言わんばかりにソファの背もたれの方へと寝返りを打つ。神谷は、机の上にある紙の束を取ると自席に戻り、ヴァイスシュトルムが書き漏らしていないか検分を始めた。

 トレーナー室には神谷が紙を(めく)る音と、時折外から聞こえてくる足音やウマ娘の声しか聞こえてこなかった。その静かで穏やかな時間と暖かな室温が相まって、ヴァイスシュトルムの(まぶた)は重力に従って段々落ちてくる。さすがに今眠るわけにはいかないと、彼女は抵抗を試みたものの、その甲斐なく眠りの世界へと旅立っていた。

 ヴァイスシュトルムが眠りに落ちてからすぐ、書類に不備がなかったことを確認し終えた神谷は、彼女が静かすぎることを(いぶか)しんだ。

「ヴァイスシュトルム? ……なんだ、寝ちゃったのか」

 穏やかな寝息を立てて、安心したようにソファで背を丸めて眠るヴァイスシュトルムに微笑を(こぼ)した神谷は、テレビセットに並ぶように設置してあるクローゼットを開けると、中からタオルケットを取り出し、ヴァイスシュトルムに()ける。

「……ブランケットも買っておくべきか。寒さで体調を崩されても困るしなぁ」

 自分の机に戻り、「トレーナー室に必要なものリスト」にブランケットを追加した神谷は、大きく伸びをすると様々なトレーニングプランの検討に入った。ウマ娘工学(ウマ娘の身体的特徴に特化した人間工学の発展系)に基づいた最新のトレーニング理論や機器を調べていると、ふとネット記事の見出しが目についた。

『評論家、大河氏バッサリ。「ヴァイスシュトルムはレースウマ娘を辞めて、その美貌(びぼう)を活かせるモデルをするべき」』

『月毛の美しいウマ娘、ヴァイスシュトルムはモデルになった方が絶対に幸せになる!』

 その下世話な見出しに深くため息を()いた神谷は、同時にヴァイスシュトルムの機嫌が悪かった理由にも得心(とくしん)がいった。おそらく、テレビ番組中にこういった評価がなされていることを知ったのだろう。自分の容姿ではなく、走りを見て欲しいと願う彼女からすれば、こういった評価は到底受け入れ(がた)いことであり、腹に据えかねるものであることは想像に(かた)くない。しかし神谷は、だからこそやりがいがあるとも思う。世間のくだらない評価を変えるには、やはり実力を見せつけるしかない。そして、それをやり遂げるのに必要な力は、ヴァイスシュトルムに充分備わっているとの確信が神谷にはあった。

「……やるか」

 気合いを入れなおした神谷は、姿勢を正してノートパソコンに向き直ると、再びトレーニングプランの構築に取りかかったのだった。

 

 

「……ん。……んん?」

 ゆっくりと瞼を開いたヴァイスシュトルムは、見慣れない天井に目を(しばたた)かせる。頭を横に向けてようやく、自分がトレーナー室で眠ってしまったことに気がついた。体を起こしたところ、タオルケットが掛けられていることに気がついたヴァイスシュトルムは、不思議そうに首をかしげる。

「お、起きたか」

「トレーナーさん、あの」

 ヴァイスシュトルムが起きたことに気がついた神谷は、何枚かのプリントとノートパソコンをソファ前のテーブルに置くと、ヴァイスシュトルムの対面に腰掛けた。

「タオルケットで寒くはなかったか?」

「え? うん、そんなに寒くはなかったかな?」

 ヴァイスシュトルムの返事に、顎に手をやった神谷は、彼女がやせ我慢をしていないか見回した。けれども、彼女の言葉通り、我慢をしていたり震えたりする様子はないため、少しばかり安堵する。

「そうか。ブランケットもそのうち準備しておくから今日のところはタオルケットで我慢してくれ」

「うん……あのさ」

「どうした?」

 ヴァイスシュトルムの質問を待つ神谷の姿に、トレーナー室でヴァイスシュトルムが眠りこけたことに対して神谷が怒っている様子は見られない。それが彼女には不思議でしょうがなかった。

「その、私のこと怒らないの? トレーナー室で昼寝してたんだけど……。それについて注意も何もないし」

「ううん? 怒るようなことなのか、それ?」

 心底不思議だといった神谷の様子に、ヴァイスシュトルムは呆気に取られる。そして、もごもごと実際に彼女が見聞きしたことを話し出した。

「だって、トレーナーがついてる子たちが良く言ってたからさ。『トレーナー室でうたた寝したら怒られた』とか、『昼寝してたら頭を小突かれた』とか」

「ふうん……、そういうものなのか。まぁ、『よそはよそ、うちはうち』ってことで」

 少しばかり悩む仕草を見せた神谷だったが、あっけらかんとそう言いのける。その姿に、ヴァイスシュトルムは脱力感を覚えた。

「打ち合わせ中やトレーニング前に眠られると確かに困るが、そこは体調のこともあるからな。どうしても気分が乗らないだとか、体が(だる)いだとかがあったら気軽に言ってくれ。メニューの調節をするから」

「トレーナーさんってさ、甘いって言われない?」

「どうだろうな。こっちが無理矢理ああしろこうしろって言ったところで、本人の身にならなければ意味がないと考えているからな。トレーニングは身についてこそ、だ」

 そう言いながら、神谷はプリントをヴァイスシュトルムに手渡してくる。それを受け取ったヴァイスシュトルムは、書かれている内容に目を通した。

「さて、と。そこに書いてあるトレーニング内容が、一先ずメイクデビューまでのトレーニングプランとなる」

「今月いっぱいはプールトレーニングと坂路が多め?」

 練習内容はプールと坂路を交互に行いつつ、各バ場(芝・ダート・ニューポリトラック・ウッドチップ)が坂路の翌日などに組み込まれている形だった。

「ヴァイスシュトルムの脚を生かすには、兎にも角にもまずはスタミナが必要だと判断した。坂路の翌日に組み込んだトラック走は、スタミナの確認とフォームの修正確認用だな」

「ふぅん……」

 気のないような返事を返したヴァイスシュトルムだが、明確なトレーニングプランを見たことでメイクデビューが現実味を帯びて来たことに内心(たかぶ)りを覚えていた。ヴァイスシュトルム自身は昂りを表情に出さないように(つと)めていたが、耳と尻尾の動きまでは抑え切れていなかった。

「それと、メイクデビューの日も決まったぞ。二ヶ月後の東京レース場、芝1800mだ」

 神谷の言葉に、ヴァイスシュトルムの耳が勢いよく立つ。勢い込んで神谷に向けたヴァイスシュトルムの顔には獰猛(どうもう)な笑みが浮かんでいた。

「ねぇ、トレーナーさん。この後、トレーニングしたいんだけど」

「えっ。いや、トレーニングって言ってもプールの利用予約取ってないぞ……それに、スイムウェアも持ってきてないだろ」

 そう神谷が言うやいなや、ヴァイスシュトルムは鞄からスイムウェアを取り出した。

「こんなこともあろうかと思って、トレーニングに使うジャージとかその他諸々(もろもろ)は持ってきてたんだよね」

 得意気に胸を張るヴァイスシュトルムに、神谷は(あき)れたような顔をするが、口角は持ち上がっており、ヴァイスシュトルムのやる気が高いことに嬉しそうだった。

「そこまで言うならやるか! プールの予約を今から取るから先にプールに行って着替えておいてくれ」

「Danke!」

 そう言い置いてトレーナー室から出て行くヴァイスシュトルムは、とても楽しそうにしていた。その背中を見送って、神谷は事務机の受話器を取ると施設管理課に電話を掛けるのだった。

 

 

 ――二ヶ月後、東京都・府中 東京レース場――

『第五レース、芝1800mメイクデビュー、十六人のウマ娘を迎えていよいよスタートの時が近づいてまいりました!』

 東京レース場に詰めかけた観客の声援は、地下バ道にもうっすらと聞こえてくるほどだった。

「緊張はしてないか?」

「大丈夫。今は速く走りたくてしょうがないの」

 神谷トレーナーにそう返事をしたヴァイスシュトルムは、前だけを向いて集中していた。その様子に言葉通り大丈夫そうだと確信した神谷は、ヴァイスシュトルムを送り出す。

「よし、それじゃあ行ってこい! スタンドの一番いい位置で見守ってるよ」

「Ja! Warten Sie darauf, dass ich die Ziellinie als Erster überquere.(うん! 私が一番にゴールを駆け抜けるのを待ってて)」

「あー……うん。待っている」

 ヴァイスシュトルムのドイツ語での宣言に、苦笑いを浮かべてなんとなくニュアンスをつかんだ神谷は、なんとかそう返す。それを見たヴァイスシュトルムは、クスクスと笑いながら本バ場へと駆けて行ったのだった。

『四枠七番、一番人気のヴァイスシュトルムが姿を見せました!』

 ヴァイスシュトルムが姿を見せると同時に、今まで以上の歓声が沸き上がる。ヴァイスシュトルムはそれに軽く手を振ってゲートへと近づく。

「すごい人気ね、ヴァイス」

「スフィアだって今日の二番人気じゃない」

 ヴァイスシュトルムの隣のゲートに収まった青毛のウマ娘、アクアスフィアはチラリとヴァイスシュトルムに目をやるとすぐに正面に向き直った。

「ヴァイスとそのファンには悪いけど、勝たせてもらうわ」

「私だって、負けるわけにはいかないの!」

 ゲートが開く前から、二人の間ではすでに激しく火花が散っていた。その熱量に周りのウマ娘もだんだん触発されていく。伝播(でんぱ)した熱は、解き放たれる瞬間を今か今かと静かに待っていた。

『最後に十六番オイシイクレープがゲートに入ります。体勢整いました! 第五レース、芝1800mメイクデビュー、今スタートです!』

 ゲートが開くと同時に、十六人のウマ娘たちは一斉に1800m先のゴール目指して駆けだしていった。




一先ずここまでは完成している分なので一気に投稿しました。
7話以降はスローペースになるかもしれないので、気楽にお待ち頂ければと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯7.メイクデビュー

 大きな出遅れもなく、横一直線のスタートを切った十六人のウマ娘たちは、各々の得意とする作戦で有利な位置につけるよう激しい位置争いを行っていた。

『激しい先行争いです。三番ドタバタ前に行きそうか。続いて十番シトラスノート、四番サイレントチェイス。半バ身空いて一番ラッキーフィールド、内から六番アクアスフィアが続きます』

 アクアスフィアの背を追いながら、ヴァイスシュトルムは徐々に外へ抜けようと動き始める。しかし、背中に目がついているかのように、アクアスフィアも外へ逃げるヴァイスシュトルムを牽制する。

「っの……! スフィア、邪魔っ!」

「ヴァイスを前に行かせるわけには行かない。悪いけど、ずっと私の後ろを走ってて!」

 向こう正面に入っても、ヴァイスシュトルムとアクアスフィアの牽制合戦は続いていた。

『1000mを一分一秒二で通過し、第三コーナーに入って行きます。先頭は十二番サファイアペガサス、六番アクアスフィアと七番ヴァイスシュトルム、競り合ったまま上がってくるか』

「いい加減……! どいてっ!」

「しまっ……!」

 第四コーナー、大欅(おおけやき)の辺りで更に外に回ったヴァイスシュトルムは、再び前傾(ぜんけい)姿勢となってスパートを掛け一気にゴール目指して加速する。

『大欅の向こうから大外を回ってヴァイスシュトルムが先頭へ躍り出た! 早い早い、後ろをもう三バ身、四バ身ほど離したか! サファイアペガサス懸命(けんめい)に追うが差が縮まらない!』

「……ここで(つまづ)くわけには、いかないっ!」

 坂の途中、残り400mを示す4ハロン棒を通過したヴァイスシュトルムの脚色は衰えることなく、坂を登り切ろうとする。そのとき、誰かが力強く地面を踏み込む低く大きな音が聞こえた気がした。

 一歩ごとに地面を踏み込む音を響かせながら、凄まじいまでの重圧を持って迫ってくるアクアスフィアに、ヴァイスシュトルムの背中に冷や汗が伝う。

 捕食者から逃げる餌になった気分で、ヴァイスシュトルムは必死に脚を動かす。だが――。

 

 ――餌の気分にさせられた時点で、ヴァイスシュトルムはアクアスフィアに精神面で負けていた――。

 

『ここで内からアクアスフィアが上がってきた! ぐんぐん差を詰めてくる! ヴァイスシュトルムは苦しいか!』

 凄まじい勢いで坂を駆け上がってくるアクアスフィアに、ヴァイスシュトルムも負けじと突き放そうと最後の足掻(あが)きを試みる。しかし、アクアスフィアと行ったレース開始直後からの競り合いと、最後の四コーナーで大外を回ってのスパートを行ったヴァイスシュトルムには、逃げ切るだけの力が残されていなかった。ヴァイスシュトルムが坂を駆け上がった時には、アクアスフィアはすでにヴァイスシュトルムの二バ身後ろに迫ってきていた。

「ここで負けたら、また……。『月毛だから勝てなかった』なんて言われてたまるか!」

『ヴァイスシュトルム逃げる! まだ先頭を保っているが厳しいか! アクアスフィアとの差はもう半バ身もないぞ!』

 最後の直線、残り200mを示すハロン棒を通過してなお、ヴァイスシュトルムは辛うじて先頭を(たも)っていた。しかし、その差は最早ないに等しいものとなっていた。ヴァイスシュトルムが息を入れた瞬間、(つい)にアクアスフィアがヴァイスシュトルムを抜き去っていく。

「ごめんね、ヴァイス。あの人に並ぶためにも負けられないの!」

「っ! あああぁぁ!!」

『アクアスフィア! アクアスフィアだ! ヴァイスシュトルムに並ぶことなく先頭に立った!』

 どんどん遠ざかるアクアスフィアの背中に、ヴァイスシュトルムは無意識に手を伸ばす。もう一度並び、抜き去ろうと思う心とは裏腹に、ヴァイスシュトルムの脚が速度を上げることはなかった。

『アクアスフィア、ヴァイスシュトルムを差し切って今ゴールイン! 第五レース、芝1800mメイクデビューを制したのは六番アクアスフィアです! 二着のヴァイスシュトルムに一バ身差をつけて勝利しました!』

 ゴール後、膝に手をついて悔しそうに(うつむ)くヴァイスシュトルムとは対照的に、嬉しそうに観客席に手を振るアクアスフィア。その光景を観客席から見ていた神谷は、目の前の柵を思い切り握りしめる。ヴァイスシュトルムと同じように、悔しさから俯きそうになる体を叱咤し、前を向いた神谷は、必ずヴァイスシュトルムを勝利させると心に誓って、全力を出し切った担当を迎えに地下バ道へと向かうのだった。

 

 

 レースで三着以内に入ったウマ娘は、ウイニングライブを踊ることになる。本来ならば嬉しいはずのそのライブも、今のヴァイスシュトルムには辛いものだった。それでも、なんとか気力を振り絞って笑顔で踊りきったヴァイスシュトルムは、控え室に戻ると机に突っ伏してしまった。

「お疲れ。いいライブだったぞ」

「トレーナー……慰めはやめてよ」

「慰めじゃない。本心だ」

 そう言って机に差し入れのにんじんジュースを置いて、神谷も近くの椅子に腰掛ける。

「……最後、スフィアに追われるのがとても怖かった」

「そうか」

「逃げなきゃって思えば思うほど、脚がっ……、動かなくてっ……!」

「うん」

「っ……ううぅ……」

 震えがちだった声は遂に嗚咽(おえつ)に変わり、肩を震わせながらも押し殺したようにすすり泣くヴァイスシュトルムを、神谷は静かに見守った。

(……メイクデビューの負けをこれだけ悔しがることができるのなら、ヴァイスシュトルムはもっと強くなれる。後は、世間の声なんてなんてことはないと思ってくれれば……。そこは、俺の仕事だな)

 

 

 ようやく落ち着いたのか、ヴァイスシュトルムの嗚咽が収まってきたのを確認して、神谷は控え室に持ち込んでいた濡れたおしぼりを差し出した。

「ほら、折角のかわいい顔が目だけ腫れた残念なことになってるぞ」

「……デリカシー無い」

 文句を言いつつも、大人しくおしぼりを受け取ったヴァイスシュトルムは、それを目に当てた。

「さて、次のレースの話をしよう。まずは未勝利戦に勝つこと。個人的には九月二週頃の阪神か東京のレースを予定している。それから中二週で、十月一週に開催のGⅢ(ジースリー)サウジアラビアロイヤルカップに登録したいと思う。格上挑戦になるが、ヴァイスシュトルムなら通用すると信じている」

 神谷の提案したGⅢサウジアラビアロイヤルカップは、「いちょう特別」、「いちょうステークス」を経て近年新設された重賞レースである。「いちょう特別」時代にはシンボリルドルフ、マルゼンスキーが、「いちょうステークス」時代にはエアグルーヴ、メリービューティーと言った名ウマ娘が制覇したレースでもある。

 その提案を受けて、ヴァイスシュトルムは少し思い悩むそぶりを見せた。

「あのさ、トレーナーさん。未勝利戦なんだけど、できれば一ヶ月以内とかで、その……」

「……走りたい?」

「うん。スフィアに負けたのは悔しいけど、この悔しいままで三ヶ月も居られない」

 そう言ったヴァイスシュトルムの顔はやる気に満ちあふれ、意思の高さを(うかが)えた。だからこそ、神谷は水を差すかもしれないことを聞かなければならなかった。

「もし、すぐの未勝利戦に負けたならどうする?」

「それは……」

「勝つまで直近のレースに出る、なんてことは許可できない。時間は有限だし、疲労のこともある。そのレースに負けたら? ずるずるとクラシック級未勝利戦までやるか?」

 神谷の言葉に(ひる)んだヴァイスシュトルムは、下を向いてしまう。耳も垂れ、落ち込んだように見えたヴァイスシュトルムに、神谷は言い過ぎたかと考えて、それでも言わなければならないことだと思い直す。

 ウマ娘が全力で走るレースは、一度の出走でかなりの疲労が脚に蓄積(ちくせき)される。疲労がたまりすぎれば骨折などレースウマ娘生命に関わるケガを負うこともある。だからこそ、神谷はあまりレース間隔を詰めて負担を掛けすぎたくなかった。

 しばらくの間を置いて、ヴァイスシュトルムは顔を上げる。その顔に迷いは無かった。

「大丈夫。クラシック級未勝利まで行くつもりはないから。次で勝ってサウジアラビアRCに挑戦する」

「……わかった。そこまで君の意志が固いなら、尊重しよう」

 ヴァイスシュトルムの宣言を聞いて、神谷は表情を少し緩める。そして、ヴァイスシュトルムの希望通り直近の未勝利戦へ登録することを約束した。

「ただし」

「うん?」

「出るからには絶対勝つぞ!」

「……! うん!」

 神谷の言葉に、嬉しそうに返事をしたヴァイスシュトルムは、密かに気合いを入れ直すのだった。

 

 

 ――兵庫県(ひょうごけん)宝塚市(たからづかし) 阪神(はんしん)レース場――

 メイクデビューから二週間後、中一週で未勝利戦に出走するため、神谷とヴァイスシュトルムは阪神レース場に来ていた。

「ここが阪神レース場……結構遠かったね」

 新幹線(しんかんせん)にはしゃいでいたヴァイスシュトルムも、夕ラッシュ時間の新大阪駅、大阪駅、大阪梅田駅の人混みは(こた)えたようだった。

「まさか、大阪も魔境だったなんて……日本怖い……」

「ほら、日本名物ラッシュアワーに感動してないで、中に入るぞ」

 先にゲートをくぐっていく神谷に置いて行かれないよう、ヴァイスシュトルムも慌てて阪神レース場へと足を踏み入れた。

「すみません。明日の第一レース、芝1600m未勝利戦に出走するジュニア級のヴァイスシュトルムと、トレーナーの神谷です」

「ああ、お待ちしてました。身分証明書の提示とこちらにサインをお願いします」

 阪神レース場の受付に立っていた女性職員に声を掛けた神谷は、指示に従ってトレセン学園の職員証を提示し、受付票にサインをする。

「確認しました。こちらがウマ娘とその関係者宿舎、「調整ルーム」とも呼ばれてますね。その鍵となります。夕食は十八時から二十一時まで、朝食は三時から九時まで食堂で取ることができます。各部屋にもシャワーは付いていますが、大浴場もあります。大浴場の利用時間は、四時から翌二時まで、二時から四時までは清掃のため利用できません」

 そう言って阪神レース場の職員は、鍵を二つ差し出してきた。神谷はそれを受け取ると一方をヴァイスシュトルムに渡し、職員の説明を受ける。

「トレーニング場を利用するときは、私かここに居る職員に声を掛けていただければ、利用許可を出しますので」

「わかりました」

「それでは、明日のレース楽しみにしていますね!」

 笑顔の職員に見送られ、神谷とヴァイスシュトルムは宿舎へと向かう。

「阪神レース場に宿泊施設なんてあったんだ……」

「一般には知らされていないからな。レースに出走するウマ娘が、公共交通機関の遅れで出走取消になるなんて洒落にもならないし、有名ウマ娘にもなると色々なファンがいたりするからな。トラブル防止として、中央の管轄する各レース場にはこういう宿舎が設けられているんだ。まぁ、東京レース場だけは、中央所属のウマ娘やトレーナーが使うことはないけどな」

「へぇ……」

 神谷の説明に納得したヴァイスシュトルムは、興味深そうに施設内を眺める。そうこうしている内に、部屋の前に二人して到着していた。

「とりあえず、今日は移動の疲れもあるだろうし、体を休める意味でも宿舎内で自由にして貰って構わない。明日の予定は、第一レースに出走、その後、ウイニングライブまで待機。ライブが終わればそのまま新幹線でトレセン学園に帰るぞ」

「うん、わかった」

「何か困ったことがあれば電話でもいいし、スマホにメッセージを送ってくれてもいい。何か質問はあるか?」

 特に聞くことが思いつかなかったヴァイスシュトルムは首を横に振る。その仕草を見て、神谷は手に持っていた手帳を閉じた。

「それじゃあ、明日は八時までには朝食を済ませておいてくれ。また明日な」

 そう言い置いて部屋に入っていく神谷に習って、ヴァイスシュトルムも自分にあてがわれた部屋に入る。室内はビジネスホテルのシングルと同じようなもので、部屋の入り口にはトイレと洗面台、風呂が一緒になったユニットバスがあり、奥にベッドと机、テレビが設置されていた。ヴァイスシュトルムは荷物を置き着替えを済ませると、ベッドに大の字に寝転がる。

 それから三十分ほどぼんやりと天井を眺めていたヴァイスシュトルムだが、ゆっくりと体を起こしてスマホを取り出すと、神谷に一緒に食堂へ行こうとメッセージを送りつけた。

 

 

 部屋の前で合流した神谷は、半袖シャツにスウェットの長ズボンと、とても(くつろ)いだ格好をしていた。

「トレーナーさんさぁ……、仮にも年頃の娘と一緒に食事するのに、その格好はどうなの?」

「着替えさせなかった張本人がそれ言う? ズボンを履き替えるからちょっと待っててって言っても怒濤(どとう)のごとくメッセージ攻勢をしかけてきたじゃないか」

 神谷の指摘に目をそらしたヴァイスシュトルムは、下手な口笛を吹いてごまかした。そんな彼女の姿にため息を一つ()いて、神谷は彼女の手を取った。

「ほら、早く行くぞ」

「ちょっ、待って待って」

「待たない。さっきのお返しだと思って諦めるんだな」

 悪い笑みを浮かべる神谷に、ヴァイスシュトルムは耳を後ろに伏せて笑顔を浮かべる。神谷の歩調に合わせると、タイミング良く彼の脇腹を肘で強めに小突いた。

「いってぇ!」

 

 

 夕食後、ヴァイスシュトルムは阪神レース場のトレーニング設備を利用して最終調整を行っていた。ヴァイスシュトルムが調整を行い始めてしばらくしてからトレーニング施設に現れた女性は、神谷トレーナーに話しかける。それに神谷が応じるとメモを取り出して何かを書き留めたり、ヴァイスシュトルムを写真で撮影したりしたため、ヴァイスシュトルムはそれが気になって調整に集中できないでいた。

 カメラを首からかけ、右腕に『Press(記者)』と書かれた腕章をしているところを見ると、記者であるらしいのだが、どのような記者かまではヴァイスシュトルムにはわからなかった。

「なるほど、メイクデビューから中一週で開催される未勝利戦を選択したのは、彼女の強い意志を尊重した結果なんですね!」

「ええ。(ちまた)では色々と言われている彼女ですが、レースへかける情熱とその素質は本物です。今回の未勝利戦でも素晴らしい結果を残してくれると、私は信じています」

 神谷の言葉に感激した記者は、メモを取り終わるや、すぐにヴァイスシュトルムへカメラを向けた。二、三回ほどシャッターを切った彼女は、微笑みを浮かべてヴァイスシュトルムの練習風景を眺める。

「ヴァイスシュトルムさんには練習中の姿がしっくりきますね。本来なら、ヴァイスシュトルムさんのコメントもいただきたいところではあるんですが……。これ以上集中を乱してもいけないので、明日、レース後に改めて取材させていただきますね」

「お気遣いいただきありがとうございます。明日の勝利後はたっぷりと時間を取らせていただきますので、よろしくお願いします。」

「自信満々ですね! 私も楽しみにしています!」

 そう言って神谷は記者に頭を下げる。神谷の言葉に嬉しそうに顔を綻ばせた記者は、ヴァイスシュトルムにも頭を下げ、名残惜しそうに練習場を後にした。

「トレーナーさん。今の人、誰?」

「ああ、月刊トゥインクルの記者さんで、藤城(ふじしろ)(あかね)さんだ。若いけどしっかりした記者さんで信頼できる」

 神谷の言葉に練習場を後にする記者をもう一度見たヴァイスシュトルムは、「ふぅん」とだけ言うと再び調整に戻っていった。

 それから集中して二時間ほど調整を続けたヴァイスシュトルムは、額に汗をいくつも浮かべて神谷の元に戻ってきた。

「よし、調子は崩してなさそうだな。明日に向けての調整はここまでにしておこう。部屋に帰ったらゆっくり休むように」

「はぁい。……少し外を見てきても良い?」

「ああ、構わないぞ。ただし、走るのは駄目だぞ」

 真面目な顔をして言い聞かせてくる神谷に、ヴァイスシュトルムは口をとがらせる。まるで聞き分けのない子ども扱いされたようで、面白くなかったのだ。

「走ったりなんてしないよ! 明日走るコースの下見をしようかなって思ったの!」

「ああ。コースの下見なら一緒に行こう」

 神谷の提案に、ヴァイスシュトルムは足を止めて、きょとんとした顔で神谷を見直した。

「どうした?」

 足を止めたヴァイスシュトルムに、数歩先に進んでから振り向いた神谷は、不思議(ふしぎ)そうな顔を向ける。

「トレーナーさんなら、コースは見なくても良いとか言いそうだったから……」

「何言ってるんだ。今週いっぱいは雨が続いたし、曇りがちだったからな。もしかすると芝の生育が悪いかもしれないんだ。明日の予報も雨だし、(おも)()にでもなったら体の使い方もすべて変わってくるだろ? だから、コースを見ておくのは重要なんだ」

 先ほどからずっと(ほう)けたような顔をしているヴァイスシュトルムに、神谷は怪訝(けげん)な顔をした。

「……さっきから呆けた顔をしてどうしたんだ?」

「いや……、トレーナーさんって、ちゃんとトレーナーだったんだなって……」

「あのなぁ……」

 ヴァイスシュトルムからの辛辣(しんらつ)な一言に、神谷は脱力したように項垂れた。ヴァイスシュトルムは、笑みを浮かべると嬉しそうに耳を動かしてから口を開いた。

「トレーナーさん。この未勝利戦、絶対勝つから!」

 

 

 雨が降り止まず、重バ場でのレース開催となった阪神レース場。そんな中、ヴァイスシュトルムは雨も重バ場も気にした様子はなく、気楽な雰囲気で未勝利戦に出走し、勝利した。

『ヴァイスシュトルム、サウジアラビアRCへ向けて不安なし! 重バ場で七バ身差を付けて圧勝!』

 




ストックが尽きてしまったので、これ以降の話はゆっくり投稿になるかもしれませんが、気長にお待ちください。
青毛のアクアスフィアに月毛のヴァイスシュトルムと珍しい毛並みばっかり強い気がするのは、多分気のせいです。これから先、鹿毛でも栗毛でも強いウマ娘はいっぱい出てきます(予定)
神谷トレーナーの扱いはこれからも雑な感じにしていきたいところ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯8.GⅢ サウジアラビアRC

 ヴァイスシュトルムが未勝利戦で圧勝してから早三ヶ月。夏の間もトレーニングに明け暮れたヴァイスシュトルムは、トレーナー室でだらしなくテレビを見ていた。

「ヴァイスシュトルムに夏バテは遅れてやってきたみたいだな」

 そう言って苦笑をこぼした神谷は、だらしない姿勢でソファに寝そべるヴァイスシュトルムの前にカップを置くと、対面のソファに座った。

「トレーナーさんが鬼のような練習メニュー組むからでしょ? 神社の石段駆け上がり連続二十本って何? 合間の休憩二分だし、休憩終わったらまた階段二十本だし……。そんなのが一週間毎日はさすがの私もバテるって……」

「はいはい、でもそのおかげでスタミナは付いたし、ピッチ走法も身に付いて坂が苦手じゃなくなったろ?」

「それはそうだけど……ううう~!」

 納得がいかないと顔に書いてあるヴァイスシュトルムは、(うら)めしそうに神谷を見る。しかし、神谷はそれを意に介した様子はなく、涼しい顔をしてカップを傾けたのだった。

『さあ! 今日のメインコーナー! ウマ娘レース情報局のお時間です! 正直これだけを楽しみにしてた人も多いことでしょう!』

『言い方! 他のコーナーがオマケみたいに聞こえる!』

 テレビの中で男性芸人がコーナー名を読み上げると、ヴァイスシュトルムは耳を何度か動かしてテレビへと顔を向けた。

『春レースの締めくくり、宝塚記念は凄かったですね。一番人気だったメイクンシャインを差し切って、今年シニア級に上がったファイントパーズが優勝! 激しい雨が降りしきる中、最後の坂で芝や泥を蹴り上げながら肉薄したファイントパーズと、懸命に逃げるメイクンシャインの(わず)か十五秒の競り合いは、応援するこっちも手に汗握る素晴らしいものでした』

『私としては、昨日のスプリンターズステークスも中々良かったと思いますよ。コメットストライクとスカイリーフの最速スプリンター決定戦! ハナの差で勝利したコメットストライクの涙はこう、ぐっとクるものがありましたねぇ』

 画面には話題に上った宝塚記念の映像と、スプリンターズステークスの写真が映し出される。大雨の中泥にまみれながらも全力疾走するファイントパーズとハナの差で勝利したコメットストライクの印象的な写真だった。

『さて、今週土曜日にはGⅢサウジアラビアRC、日曜日にはGⅡ毎日王冠があるんですけども、まずはGⅢサウジアラビアRCの有力どころから紹介していきましょう!』

 映し出されていた写真が消え、映像がスタジオに戻ると、そこには大きな写真と新聞パネルが用意されていた。

『まずはヴァイスシュトルム! メイクデビューこそアクアスフィアの後塵(こうじん)を拝して二着でしたけど、中一週で挑んだ阪神芝1600m未勝利戦で、二着のバウンティキラーに七バ身差の圧勝! これは期待できるんじゃないかなと』

 自分の写真が大写しになるテレビ画面に、頰を染めたヴァイスシュトルムは、どこか恥ずかしそうに耳を激しく動かしていた。

『メイクデビューの頃に、「ヴァイスシュトルムは月毛だから走らない」何て言ってた人たちの見る目がなかったと言う好例ですかね。メイクデビューの二着も、あのアクアスフィアと競り合った末の二着ですからね。アクアスフィアに大外を回らされてなければどっちが勝ってたかわからないんじゃないですか?』

『白木さんはヴァイスシュトルムがデビューしてからずっと応援されてますもんね。でも実際、この娘の実力はこんなもんじゃなさそうです。サウジアラビアRCでの活躍を期待したいですね』

 コメンテーターの白木の言葉に、とうとう耳も尻尾も(せわ)しなく動かすヴァイスシュトルムに、神谷は微笑ましい気分になる。未勝利戦後の藤城記者による取材も良い記事となり、そのインタビュー記事の掲載された月刊トゥインクルはヴァイスシュトルムの宝物になっている。

『さぁ、そんなヴァイスシュトルムに対抗するのがこのウマ娘! メイクンリリーとノーブルライトの二人!』

 雨の未勝利戦で撮影されたヴァイスシュトルムの写真から変わって、メイクンリリーとノーブルライトの二人の写真が映される。

『メイクンリリーはメイクデビューで一着、二戦目の新潟ジュニアステークスでは二着に五バ身差圧勝! ついでに勝ち時計一分三十三秒四と現在の距離になってから歴代一位タイ! 早くもクラシック級……来年のマイル女王との呼び声が高くなっています』

 メイクンリリーの二戦目、新潟ジュニアステークスの映像が流される。第四コーナーで抜けだして新潟レース場の長い直線に入ってから、後ろを突き放してぐんぐん加速するメイクンリリーは、楽しそうに疾走していた。映像はそのままGⅢ札幌ジュニアステークスの映像が流され、ノーブルライトがアップになる。

『そして、ノーブルライトはメイクデビューでは二着、二戦目のGⅢ札幌ジュニアステークス一着と、戦績だけ見ると完全にヴァイスシュトルムを上回ってますね』

『ジュニア級は走ってみるまでわかりませんからね……私としては、ヴァイスシュトルムに勝ってほしいところですが』

 渋い顔をしてコメントする白木が映されて、スタジオに戻った映像は再びパネルを映し出す。

 それまでテレビ画面に釘付けだったヴァイスシュトルムは、体を起こして神谷を見た。

「メイクンリリーとノーブルライトって、やっぱり強いの?」

「まぁ、そうだな。二人とも中等部だが、今年メイクデビューしたウマ娘の中では抜きん出てるな」

 コーヒーを飲み干した神谷は、適当な紙を裏返すとそこにウマ娘の名前を書き始めた。

「今メイクデビュー済みのウマ娘の中で有力と言われているのは、短距離がメイクデビュー 一着、GⅢ函館ジュニアステークス一着、GⅢ小倉ジュニアステークス一着のブリッツストライカ。マイルが今出てたメイクンリリーとノーブルライト、中距離以上がアクアスフィア、ダートがメイクデビューで二着に八バ身差を付けたアカツキテイオーと言われてる。で、ヴァイスシュトルムと被っているのはこの三人だ」

 神谷はメイクンリリー、ノーブルライト、アクアスフィアの名前を丸で囲むと、ヴァイスシュトルムの顔を見た。ヴァイスシュトルムは、じっと名前を見つめて何かを考えるそぶりを見せた。

「メイクンリリーは逃げ、先行を得意としてて、バ群に()まれるのを嫌がる。ノーブルライトは先行、差しを得意にしているから、先頭一人旅だろうがバ群に呑まれようがメンタル的には変わらない。まぁ、二人とも強いことに違いはないよ」

「うぅん……。スフィアにメイクンリリーにノーブルライトか……」

 腕を組んで考え込むヴァイスシュトルムを置いてソファから立ち上がった神谷は、ノートパソコンを手に戻ってくる。

「でもまぁ、逃げ差し万能で芝ならバ場を選ばないヴァイスシュトルムも厄介で強いなんて言われているから、安心して良い。良かったな、芝の万能変態ガール!」

「言い方ぁ!」

 目くじらを立てるヴァイスシュトルムに笑いながら、神谷はノートパソコンにとあるレース映像を表示する。

「これはメイクンリリーとノーブルライトのメイクデビューと二戦目……新潟ジュニアステークスと札幌ジュニアステークスの映像だな」

 四本同時に再生された映像は、スタートから二人がどのように動くかを良く捉えていた。メイクンリリーはスタート直後から積極的に前へ向かい、先頭に立った後は押し切る。ノーブルライトはスタート直後は抑えて中団に付け、第三コーナー終わりから徐々に先頭へ向かい、第四コーナーから直線に切り替わる辺りで先頭と競り合い、ゴール手前で差し切る。二人の性格が良く表れている映像だった。

「二人ともジュニア級らしからぬ勝負感とセンスを持っているが、それでも弱点はある」

 神谷はまず、メイクンリリーの新潟ジュニアステークスの映像を大きくして再生する。第三コーナー入りから半ばにかけて、メイクンリリーに後続のウマ娘が団子となって来たところで一時停止をかけた。

「メイクンリリーはここだな。逃げを得意にするせいか、バ群に呑まれるのを嫌がりすぎるんだ。ここからメイクンリリーに注目して欲しいんだが、後続が充分離れるまでの間、後ろを気にしすぎているのがよくわかると思う」

 そう言ってスローで再生された場面からは、メイクンリリーが後ろを気にしているように確かに見えた。だが、言われなければそうとはわからない程度のものだった。

「言われてみれば後ろを気にしているようにも見えるけど……うーん?」

「それじゃあ、こうしたらよくわかるか」

 神谷がメイクデビューと新潟ジュニアステークスの映像を同時に流し、同じような場面に差し掛かる。今度は、メイクンリリーが新潟ジュニアステークスの際にどれだけ後ろを気にしていたか、ヴァイスシュトルムにもはっきりと見て取れた。

「ホントだ、後ろに近づかれるのを凄い嫌がってる」

「だろ? だから、メイクンリリーには逃げられてもピッタリ貼り付け。と言うよりも、逃げさせて徹底的に後ろを取れ。で、ノーブルライトなんだが……走り自体にはそつがない」

 ノーブルライトのレース映像を二つ同時に流されるが、神谷が言うようにノーブルライトの走りには無駄がなかった。

「走りに無駄がないなら、弱点はないんじゃないの?」

「いいや、そうじゃない。走りにこそ無駄はないが、ノーブルライトはスパートを長く続けられない」

 神谷がノーブルライトのスパート時の比較タイムを出す。それは確かに、ノーブルライトのスパート継続時間が全く同じであることを示していた。

「それを踏まえてノーブルライトのメイクデビューと札幌ジュニアステークスを見せるぞ」

 ノーブルライトのスパートをかけるタイミングとそれに競り合うウマ娘の映像を見ると一目瞭然だった。メイクデビュー時のノーブルライトは、複数のウマ娘に競り合われた焦りからスパートを早くかけ過ぎて二着、札幌ジュニアステークスでは適切なところでスパートをかけて勝っていた。

「上手くスパートのタイミングをずらしてやれば、今のノーブルライトには効果がある。とは言っても、彼女自身スパートが苦手なことは問題視しているだろうから、対応される可能性もある」

 動画を止めた神谷はホワイトボードを引っ張ってくると、東京レース場のコース図を描き始める。

「そこで、だ。今回のサウジアラビアRCでの作戦なんだが……第三コーナーまではメイクンリリーの背後にピッタリと張り付き、第三コーナーに入ってすぐスパートをかけろ」

「……Wie?(なんて?) Können Sie das wiederholen?(もっかい言ってくれる?)

「……あー、もう一回言えってことであってるか?」

 首を縦に振るヴァイスシュトルムに、意味が合ってたことに内心ガッツポーズをして、神谷はもう一度同じ言葉を伝えるのだった。

 

 

 東京レース場の地下バ道で、ヴァイスシュトルムは大きく息を()いた。彼女の身体には、気力と闘志が十二分(じゅうにぶん)に満ち満ちていた。

「……ヴァイスシュトルム先輩!」

「ん……?」

 背中に届いた気合いの入った声にヴァイスシュトルムは、体ごと声の主に向き直る。そこには、二人のウマ娘が立っていた。

「メイクンリリーとノーブルライト……今日はよろしくね」

「はい。でも、今日は先輩に勝たせて貰います! いくわよ、ノーブル」

「リリーちゃん、待って……! あ、あの失礼します!」

 ヴァイスシュトルムに勝つと宣言したメイクンリリーは、頭の高い位置で()ったツインテールを揺らしてコースへと駆けていく。その後に続こうとしたノーブルライトは、一度ヴァイスシュトルムに向き直り頭を下げてから、メイクンリリーを追って同じようにコースへと駆けだしていった。

「私だって負けたくないから、勝ちは譲らないよ」

 そう呟きを(こぼ)して、ヴァイスシュトルムは二人に続いてコースへと駆けていく。

 サウジアラビアRC開催日の東京レース場は、同日にGⅠが開催されるわけではない。しかし、スタンドにはそれと比べても遜色(そんしょく)ない(ほど)多くの人が詰めかけ、大入り満員となっていた。

『さあ! 最後に十二番ヴァイスシュトルムが姿を見せました! グレード(スリー)、サウジアラビアRC、間もなくレース開始です!』

 スターターが旗を上げファンファーレが鳴り響く。奇数番のウマ娘達から順にゲートへ入っていき、最後に大外十八番のササノミストラルがゲートに入る。

『スタートしました! 大きな出遅れもなく、各ウマ娘横一線のスタートです。激しい先行争いを制して、メイクンリリー早くも先頭に立ちます』

 事前に研究した通り、メイクンリリーが先頭に立ってレースを引っ張る。ヴァイスシュトルムはメイクンリリーのすぐ後ろに付けて、メイクンリリーの集中を削ぐように走る。

『三番メイクンリリーがレースを引っ張ります。半バ身空けてヴァイスシュトルムが追走。二バ身空けて八番グレアダイアモンド、その内に五番オイシイクレープと続きます。九番ノーブルライトは先団やや後方、一バ身開いて十八番ササノミストラル。その後ろに一番アカノリュウセイ、十一番ホワイトデモン一番後ろからとなりました』

 1000mの標識を過ぎて、メイクンリリーはヴァイスシュトルムがピッタリと後ろに張りついている状況に、走りづらさを感じていた。

(っ! ヴァイスシュトルム先輩が後ろにピッタリと……走りにくい!)

 (しき)りに後ろを確認するメイクンリリーの様子に、ヴァイスシュトルムはほくそ笑む。第三コーナーに入り、ノーブルライトが徐々に先団へと向かってくるその時、ヴァイスシュトルムは動いた。

『前半600mを三十五秒二で通過、第三コーナーに入ります。ヴァイスシュトルムがメイクンリリーを交わした。ヴァイスシュトルムが先頭で第四コーナーに差し掛かる』

 メイクンリリーを交わしたヴァイスシュトルムは、徐々に加速して後ろを突き放しにかかる。メイクンリリーもノーブルライトもこれで千切れるはずだった。

『ヴァイスシュトルム後続を三バ身離したか! 大欅(おおけやき)の向こう側を通過していきます!』

 大欅を過ぎるまでの間で、メイクンリリーを三バ身しか離せなかったのは、ヴァイスシュトルムにとっては大きな誤算だった。

(もう少しスタミナを削れてるかと思ったけど、中々どうして……!)

 楽しそうに顔を(ゆが)めたヴァイスシュトルムは、直線に入って更に速度を上げる。

『ヴァイスシュトルム直線に入って更に加速! メイクンリリーは厳しいか、後ろからノーブルライトも迫ってきた!』

「……っの! あんたにも、ノーブルにも負けるかぁ!」

 限界に見えたメイクンリリーが()え、ヴァイスシュトルムに猛然と追いすがる。坂を登り切ってなお全力で駆けるヴァイスシュトルムにじわじわと追いついてくる。

「リリーちゃんに追いつきたい……置いて行かれたく、ない!」

 200mの看板を過ぎ、ヴァイスシュトルムとメイクンリリーの激しい競り合いに、ノーブルライトも加わる。残り僅か100mに満たない短い距離での激しい攻防に、観客の興奮は今日一番のものとなっていた。

『外からノーブルライトも飛んで来た! 凄い脚だ! 残り100m、三人横一直線に並んだ! 勝利するのは一体誰だ!? 激しい攻防に場内は騒然としています!』

 残り50m……そして、遂に決着の時が訪れた。

『残り50m! ヴァイスシュトルムか! メイクンリリーか! ノーブルライトか!』

「っ、あああああぁ!」

『今三人横一線に並んでゴールイン! ヴァイスシュトルム、メイクンリリー、ノーブルライトの三人が同時にゴール板を駆け抜けた! 一体誰が勝ったのか!』

 全力でゴール板を駆け抜けた三人は、ターフに膝をついてゼイゼイと荒い呼吸を整える。

 あまりの熱戦に観客は声もなく、掲示板の表示を見守る。掲示板は四着・五着の番号を点滅させるだけで、一着から三着は真っ黒のままだった。そして、ようやく点灯した文字は「写真」だった。

『写真判定です! GⅢサウジアラビアRCは写真判定になりました! 着順確定までしばらくお待ちください』

 写真判定にどよめいた観客の様子に、ようやくヴァイスシュトルムも掲示板を見る。

「写真……判定!」

 メイクンリリー、ノーブルライトも同じように掲示板を見つめる。それから五分後、遂に結果が出た。

「同着?」

 掲示板に点灯した三着九番に首を項垂れるノーブルライト。それから間を置かずに表示された同着の文字。掲示板の二着を示す「Ⅱ」の表示は「Ⅰ」に置き換わり、続けざまに番号が若い順に表示されて、隣に同着と点灯する。

 掲示板の左上に、赤地に白抜き文字で確定と表示された瞬間、観客からは拍手と歓声が沸き起こる。

『同着! 同着です! GⅢサウジアラビアRCは同着での決着となりました! 一着は三番メイクンリリー、十二番ヴァイスシュトルム! ノーブルライトは惜しくもハナ差での三着となりました!』

 鳴り止まない歓声を遠くに聞きながら、ヴァイスシュトルムは掲示板を見つめて立ち尽くしていた。勝つつもりで臨んだレースではあったが、メイクンリリーもノーブルライトも想定していたよりも遙かに強かった。そんな二人と競り合って、全力を出した結果メイクンリリーとは同着、ノーブルライトにはハナ差での辛勝。完全勝利とは行かない結果に、ヴァイスシュトルムは拳を握る。

「……これが重賞か」

「ヴァイスシュトルム先輩! 今日は同着でしたけど、次あたったときは絶対に完勝してみせますから!」

 メイクンリリーの宣言に、ヴァイスシュトルムは虚をつかれる。しかし、宣戦布告を受けたことを認識して、獰猛な笑みを浮かべた。

Ich werde auch nicht verlieren,(私も負けるつもりはないから、)also sei darauf vorbereitet, okay?(覚悟しておいてね?)

「っ!? そんなに怖い顔しても、ま、負けませんからっ!」

 流暢なドイツ語と、ヴァイスシュトルムの綺麗(きれい)でありながらも肉食獣を思わせる笑顔に面食らったメイクンリリーは、及び腰になってノーブルライトの方へと駆けていく。メイクンリリーに怖い顔と言われたヴァイスシュトルムは、不思議そうに首を(かし)げながら、観客席に居る神谷の元へと脚を動かした。

「お疲れ……よう、雌ライオン。生肉は用意してないぞ?」

「雌ライオンって何!?」




大変お待たせいたしました、第8話になります。
楽しんで頂けたでしょうか?
今回の結果は、悩んだ末にこうなりました。
ヴァイスシュトルムを負けさせるべきか、それとも波に乗せたままにするかの葛藤の末、同着と言う結果に落ち着きました。ヴァイスシュトルム的には悔しさが残る結果となり、これを次にどう生かすかが、宿題として作者にのしかかってきました。
……宿題嫌いなんすよ。

それでは、また次回お目にかけることができればとおもいます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯9.トレセン学園 秋のファン大感謝祭(前編)

『ヴァイスシュトルム、GⅢサウジアラビアRC勝利! 次の目標は、GⅠ朝日杯フューチュリティステークスか?』

 サウジアラビアRC翌日のスポーツ新聞一面にはそんな見出しが躍っていた。昨日の同着は話題となり、ヴァイスシュトルム、メイクンリリー、ノーブルライトの三人は、(まさ)に注目の的だった。

「来週のファン大感謝祭、ヴァイスシュトルムもようやく『月毛』とは関係なく注目されそうだなぁ」

 トレーナー室のホワイトボードには、「秋のトレセン学園ファン大感謝祭」とカラフルに彩られたチラシがマグネット留めで掲示してあった。

 トレセン学園では春と秋の年二回、ファン大感謝祭が行われる。大阪杯の翌週に開催される「春のトレセン学園ファン大感謝祭」はウマ娘やトレセン学園関係者による多数の種目競技が目玉となっており、長距離走や借り物競走、障害物走(など)の体育祭的な要素が強く出ている。

 それに対して「秋のファン大感謝祭」は、トレセン学園生によるお化け屋敷やメイド喫茶、カフェ、ライブ等といった文化祭的な要素が強い。各トレーナー室こそ普段通りの様相を保っているが、廊下やウマ娘(たち)が一般授業を受ける教室、カフェテリア等は秋のファン大感謝祭に向けて、着々と準備が進行しているところだった。

 本来なら自分達トレーナーも当日の運営補佐や巡回、ライブステージの裏方などに忙しくしなければならないのだが、神谷はヴァイスシュトルムの担当ということで当日のインタビュー対応等のためにそれらを免除されていた。

「……竜胆先輩や沖野先輩には悪いけど、ヴァイスシュトルムが活躍してくれたおかげだな」

 土曜日、日曜日はトゥインクルシリーズのレースが行われるため、学園からはウマ娘やトレーナーの姿はめっきり減るのだが、ファン大感謝祭が近づくにつれて学園内には曜日関係なくウマ娘やトレーナーの姿が増えていた。

 学園内の雰囲気(ふんいき)も、ファン大感謝祭が近づくにつれて浮き足立ったものになり、廊下ですれ違うウマ娘達は誰も彼も楽しそうに準備を行っていた。

「学生時代を思い出すな……」

 外から聞こえてくるウマ娘達の弾んだ声に、懐かしさを覚えていた神谷は次の瞬間、轟音と共に引き戸が内側に向かって吹っ飛んだ事に理解が追いつかなかった。

「おっしぇーい! ゴルシちゃんレーダーからは逃げられないぞオラァ!!」

「は……!?」

「『は……!?』じゃねーよ。暇を持て余して枯れ始めてるトレーナーのために、せっかくこの美少女ゴルシちゃんが来てやったっつーのによ」

 嵐のような勢いでトレーナー室の扉と、穏やかな昼下がりの空気を吹き飛ばした自称美少女ウマ娘、ゴールドシップの勢いに神谷は圧倒される。そんな神谷を尻目に、ゴールドシップは何処(どこ)からともなく頭陀袋(ずだぶくろ)を取り出して神谷に(おお)(かぶ)せてきた。

「というわけで確保ー! ゴルシちゃんタクシー出発でーい!」

「もがっ!?」

 頭陀袋を被せた神谷を米俵よろしく肩に担ぎ上げたゴールドシップは、トレーナー室を後にして走り去るのだった。

 

 

「お! フジキセキ、パス!」

「ちょっ……ま……!?」

「ええっ!?」

 頭陀袋を被せられた神谷はゴールドシップによってフジキセキに投げられた。急に「何か(神谷)」を投げられたフジキセキは慌てたものの、その「何か(神谷)」の正体が人だと認識した瞬間、優しく抱き留める。

「ぐぇ……」

「ゴルシ、この袋の中身は一体誰だい?」

「ん? 誰ってそりゃおめぇ、暇してたトレーナーに決まってんだろ!」

 ゴールドシップがやや乱暴に投げつけ、自分が受け止めた頭陀袋の中から聞こえた男のうめき声に、頰をひくつかせてフジキセキが尋ねる。フジキセキの方を向いたゴールドシップは、悪びれることもなくあっけらかんと言い放った。

「暇つぶしを知らねぇトレーナーが、天気も良いのにトレーナー室に閉じこもってたからよ。扉をこじ開けて連れ出して来たんだよ」

「う、うーん。どこから突っ込むべきか……」

 ゴールドシップの破天荒ぶりに、フジキセキは苦笑いをするしかない。いつまでも抱いているわけにもいかず、ゆっくりと地面にトレーナーを置いたフジキセキが頭陀袋に手を伸ばした瞬間、ゴールドシップを呼ぶ怒声が辺りに響き渡った。

「ゴールドシップ! そこを動くな!」

「やっべ、もう来やがったか! 動くなと言われて動かねー奴はいないんだぜ!」

 怒りの形相でこちらへと駆けてくるエアグルーヴに、ゴールドシップは笑みを浮かべて逃走する。フジキセキが止める間もなく走り去る二人に、フジキセキは疲れたようにため息を()いてトレーナーに向き直った。

「やれやれ……ごめんね、今助けるよ」

 そうして、数分ぶりに神谷は自由になったのだった。

「……酷い目にあった」

「……まさかヴァイスのトレーナーさんだったとはね。何があったんだい?」

 頭陀袋の中から出てきた神谷に、フジキセキは目を丸くする。そんなフジキセキに顔を向けた神谷は、苦々しさを存分に表情に出していた。

「いや、トレーナー室で新聞を読んでいたら急にゴールドシップが扉を吹っ飛ばして入ってきてな。そのまま頭陀袋を被せて来やがった」

「それで、今に(いた)る、と……」

 神谷の話を聞いてもよくわからない状況に、フジキセキは困ったように眉を下げるしかなかった。ゴールドシップの破天荒ぶりが遺憾(いかん)なく発揮されている。

「あぁ……扉どうすっかなぁ……。あれ完全にガラス割れてたし、ベニヤがくの字になってたし……交換するしかないよなぁ……」

 無残(むざん)にも吹き飛ばされた自室の扉を思い出した神谷は、ぶつぶつと愚痴(ぐち)をこぼしながらどこか遠くを見るような目で頭を抱え込んでしまう。たづなさんに何て言えばいいんだとぼやくその姿に、フジキセキは気の毒そうにしながらも、口の端が緩んでしまっていた。

 一際(ひときわ)大きくため息を吐いた神谷は、先程までの陰鬱(いんうつ)な様子とは打って変わって、普段通りに戻っているように見える。どうやら、ため息と一緒に色々なものを()き出したらしい。

「ところで、フジキセキは何をしてるんだ?」

「私かい? 感謝祭でのステージ準備の手伝いだよ。私も出演することだしね」

 そう言ってフジキセキが示した先には、確かに彼女の言うようにステージらしきものが組み上がっていた。様々な()(もの)があるのか、巨大なモニターやスピーカーらしきものも見受けられる。そのステージの広さに、神谷は目を丸くした。

「思っていた以上に大きなステージなんだな……」

「ライブを行ったりもするみたいだからね。後は演劇とかゲストのトークショーとかかな」

 フジキセキから渡された予定演目リストに目を通していた神谷は、気になるタイトルを見つけてしまった。

「『会長の快調なジョークショー』……? フジキセキ、これの内容知ってたりするか?」

「ううん、私も知らないよ。それが気になるのかい?」

「少しな。時間が合えば覗いてみるか……」

 フジキセキも知らないと言うトークショーに俄然(がぜん)興味がわいてきた神谷は、演目の開始時間を確かめるためにリストに目を戻す。すると、手触りの良い何かが神谷の左腕を(しき)りに(たた)いてきた。叩かれると言っても痛くはなく、むしろくすぐったさの方が強いのだが、神谷の視線をリストから離すには充分だった。

 神谷の腕を叩いてきた物は、黒く(つや)やかな、非常に手入れの行き届いた美しい青鹿毛の尻尾だった。

「えーと、フジキセキ?」

「なんだい?」

「……いや、何でもない」

 ()ねたように頰を膨らませて神谷の腕を尻尾で叩き続けるフジキセキに、神谷は再び演目予定リストに目を落とす。そして、取り(つくろ)うように再び口を開いた。

「あー、その、なんだ。フジキセキの出演する演目はどれなんだ?」

 その質問は、どうやら正解だったらしい。拗ねていた顔はパッと明るくなり、神谷の腕を叩いていた尻尾は嬉しそうに左右に揺れる。彼女の耳も気持ちを表すように動いているのを見て、神谷は内心安堵の息を吐く。

「私が出るのは、この演劇とイリュージョンショーと……」

 先程(さきほど)とは打って変わり、楽しそうに自分が出演する演し物の説明をしてくれるフジキセキが年相応にはしゃぐ姿を微笑ましく思いながら、神谷は彼女の話に耳を傾け続けたのだった。

 

 

 クラスの出し物であるメイド喫茶の準備を手伝おうとしたヴァイスシュトルムは、レース後だから休んでてとクラスメイト達に断られてしまった。せっかく学園に来たのに何もしないのも勿体ないと思ったヴァイスシュトルムは、暇つぶしがてらトレーナー室へと足を運ぶことにしたのだった。

 レースのない土日と月曜日は休養日として設定されているため、トレーニングは行われない。特にレース翌日は自主トレも制限されていたため、ヴァイスシュトルムが出来ることと言えばビデオ研究くらいの物だった。

「ビデオ研究なら足に負担はかからないし、問題な……なにこれ」

 トレーナー室の前に立ったヴァイスシュトルムは、無残に吹き飛ばされた扉を見て絶句していた。室内に向かって吹き飛んだ扉はくの字に折れており、ガラスも砕けて散乱していた。あまりの惨状(さんじょう)にヴァイスシュトルムが立ち尽くしていると、後ろから芦毛(あしげ)のウマ娘が入ってきた。

「お、何してんだおめぇ。そんなとこに突っ立ってたら扉の交換できねーだろ」

「えっ……ゴルシ?」

 声に振り返ったヴァイスシュトルムの目に入ってきたのは、小脇に扉や板、工具等を抱えたゴールドシップだった。突然現れたゴールドシップにヴァイスシュトルムが混乱していると、ゴールドシップは手に抱えていたものを脇に置いて、ヴァイスシュトルムを(かか)え上げた。

「ちょっと、ゴルシ!?」

「ほらほら、おめぇはソファの上で大人しくしてろ。作業の邪魔だから」

 ソファの上に置かれたヴァイスシュトルムは、ゴールドシップの方を見る。ゴールドシップはヴァイスシュトルムを気にした様子もなくテキパキと室内を養生し始める。

「何でゴルシがここの片付けしてるのさ……」

「何でって、そりゃーアタシが散らかしたんだからアタシが片付けるに決まってんだろ」

「なんだ、そうだったんだ……いや待って?」

 何でもないことのように衝撃の事実を告げるゴールドシップに、ヴァイスシュトルムも聞き流しそうになった。――今さらっととんでもないことを言われた気がする――。衝撃を受けるヴァイスシュトルムをよそに、ゴールドシップは鼻歌交じりに扉の残骸(ざんがい)を片付ける。(よど)みなく行われる扉の交換作業にゴールドシップの謎がますます深まったヴァイスシュトルムだった。それからたった十分足らずでゴールドシップは扉を新品に交換していた。

「よーし、終わった! それではアテクシは失礼いたしますわよ! あ、この手紙と新しい鍵、お前のトレーナーに渡しとけ。んじゃなー!」

「あ、うん……ご苦労様?」

 ゴールドシップはそう言い残して、あっという間に残骸とともに部屋を出て行った。嵐のようなゴールドシップの奇行に、ヴァイスシュトルムは自分がこの部屋に来た目的を見失いかけて、ようやく思い出した。

「……とりあえずレース映像見て忘れよ」

 一先(ひとま)ず、神谷にトレーナー室の一件とレース映像を見ていることをスマホのメッセージで伝えると、アクアスフィア、メイクンリリー、ノーブルライトのレース映像を中心に何度も見返す。画面を食い入るように見つめる彼女の視線からは、次のレースに向けて戦意がかなり高いことが(うかが)えた。

「……やっぱり、スフィアの走り綺麗(きれい)なんだよね。悔しいけど……」

 二時間集中して何度もレース映像を見返していたヴァイスシュトルムは、アクアスフィアの走りを見れば見るほど、そのブレの少ない体幹と無駄のない走りに見惚(みと)れそうになる。映像が終わり、もう一度見返そうとヴァイスシュトルムがリモコンを操作するとほぼ同時に、背後から制止する声が聞こえてきた。

「ヴァイスシュトルム、そこまでにしよう」

 

 

 まだ話をし足りないといった顔をしたフジキセキと夕食を一緒にする事を約束して一旦別れた後、スマホのメッセージを確認した神谷は自分のトレーナー室へと歩いていた。

「それにしても、ゴールドシップは何がしたかったんだ……」

 思わず漏れた独り言は、疲れとゴールドシップへの呆れが入り交じった複雑な色をしていた。トレーナー室の扉を破壊し、中のトレーナーを拉致した後、自分が破壊した扉を交換する。いくら考えても、ゴールドシップにメリットは一つもなかった。

 考えてもわからないことに頭痛がしてきた神谷は、それ以上考えることをやめた。

 

 神谷が新しくなったトレーナー室の扉を開けようと手にかけたとき、違和感を覚えた。

 ゴールドシップに破壊された扉は、安く大量に生産された内の一つといった物だったのだが、この扉は見た目こそ同じでありながら、大量生産された物とは違う一点物といったように質感が全く異なっていた。まるで、生徒会室や理事長室に備えられている扉の(がわ)だけを変更したような印象を受けた。扉にはめ込まれていたガラスも()りガラスとなり、心なしか分厚くしっかりした物になっている気がする。

 わざわざ自分の担当トレーナーでもないトレーナー室の扉を破壊して(たとえ自分の担当トレーナーであっても、破壊して良いわけはないと思うが)、その破壊した扉をグレードの高い物に交換するゴールドシップの意図が、神谷には余計にわからなくなってしまった。しかし、その謎はトレーナー室に置かれた手紙によってすぐに解けることになる。

 神谷がトレーナー室に入り、テレビ画面に釘付けになっているヴァイスシュトルムに声を掛けると、彼女は驚いたように肩を跳ねさせて慌てて神谷の方へ振り向いた。

「とっ、トレーナーさん! いつからそこに?」

「今戻ってきたところだよ。それより、ずっと映像を見てたんだろう? 時間も時間だから続きは明日にしなさい」

 (せわ)しなく耳と尻尾を動かすヴァイスシュトルムを横目に、神谷は机の上に置かれていた手紙を手に取り読み始める。

「それ、ゴルシがトレーナーにって」

「ああ……手紙で扉を破壊した理由はわかったんだが、はたして破壊する必要があったのかちょっと困惑してる」

「ちょっとどころじゃなさそうだけど、大丈夫?」

 手紙を読み終わるなり頭を抱え混んでしまった神谷に近寄ったヴァイスシュトルムは、横から手紙を覗き見る。そこにはゴールドシップが扉を交換した理由が書かれていたのだが、確かに破壊する必要はなかったように思える。

「うーん……。まぁ、ゴルシだしね」

「ゴルシだしで終わるのなんなの? え? ゴールドシップってそういう扱いなの?」

 ヴァイスシュトルムの言葉に、彼女の顔を見る神谷だったが、只々(ただただ)苦笑いを浮かべているヴァイスシュトルムに、何も言えなかった。

「あー、まぁいいか……。ヴァイスシュトルム、もし良ければ一緒に夕飯どうだ?」

「行く」

 勢いよくソファから立ち上がったヴァイスシュトルムは、手早く映像資料を仕舞(しま)いトレーナー室の入り口へと向かう。あまりの早業(はやわざ)に、今度は神谷が苦笑いを浮かべる番だった。

 急かすように扉の(そば)で待つヴァイスシュトルムに、神谷も手早く荷物を鞄に(まと)めると、肩に掛けて部屋を出る。しっかりと扉を施錠したことを確認して、二人並んでフジキセキが待つカフェテリアへとゆっくり歩いて行くのだった。

「ああそうだ、フジキセキも同席するぞ」

「フジが? ……トレーナーさんさぁ、最近フジと仲良すぎない?」

「……そんなことはないだろう」

「えー? 並んでるときの距離とか近い気がするけどなぁ……」

 

 

 二人がトレーナー室から離れて数分後、一人の男が神谷のトレーナー室を訪ねて来た。男はトレーナー室の明かりが消えていることを確認すると、懐から神谷しか持っていないはずであるトレーナー室の鍵を取り出し、鍵穴に差し込み回そうとした。今朝まではそれですんなりと開いた扉は、男の鍵を受け付けず、男は焦ったように扉を開けようと四苦八苦する。

「やっぱり戻ってきやがったな」

「!? 誰だ!」

 背後から聞こえてきた声に男が振り向くと、そこには背の高い芦毛のウマ娘が立っていた。

「誰だって言われても、通りすがりの美少女ウマ娘ゴルシちゃんに決まってんじゃねーか」

 まるでインドの踊りか何かのような、そんな謎の動きをするゴールドシップに男は面食らう。唖然(あぜん)とする男を無視して、ゴールドシップは男に詰め寄ってきた。

「ところでおめー。おめーが必死になってる理由ってコレ(・・)か?」

 ゴールドシップが男に見せた物は、黒い箱にコードが付いた物、詰まる所盗聴器だった。コードの部分を無造作に掴み、釣り上げた魚を彷彿とさせる姿は、とても彼女に似合っていた。

「いくら情報が欲しいからって、ジュニア級の奴らの部屋やらトレーナー室に手当たり次第仕掛けるのは見逃せねーな」

「……なぜわかったんだ?」

「そんなもん電波を受信したに決まってんだろーが! ゴルシちゃんレーダーなめんなよ!」

 至極(しごく)当然のように言い切るゴールドシップだが、彼女の手には電波の受信機など見当たらない。一体こいつは何を言っているんだ? と男が疑問に思っている間に、ゴールドシップの中で男への制裁が決定したらしい。

「うっし、おめーへの罰は『ドキドキ☆徹夜でゴミ拾い』だ! そうと決まったら海行くぞ海! あ、断ったら『ボキボキッ☆記者のおっさん二つ折り』な!」

 笑顔でそう言いのけるゴールドシップに、男は何も言えずに従うしかなかった。大人しくなった男に頭陀袋を被せて担ぎ上げたゴールドシップは、宣言通り海に向かって走り去った。

 

 翌朝、たった一晩でゴミ一つ残さず綺麗になった海岸が話題となり、地域住民が感謝する様子がニュースで流れたのだった。

 




お 待 た せ
9話目になります。

ところで、フジキセキの湿度が高い気がするのは気のせいですかね?
ゴールドシップはまぁ、うん。彼女の魅力を少しでも表現できてたら良いなって思います。

それではまた、次回をお楽しみに


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯10.秋のファン大感謝祭(中編)

『秋のファン大感謝祭』開催当日のトレセン学園は、様々な人やウマ娘(たち)でごった返していた。縁日や祭りのように屋台が建ち並ぶエリアは特に盛況で、老若男女問わずあちらこちらを楽しそうに歩き回っていた。

「開場してすぐだって言うのに、すごい人だな」

 感心したように呟いた神谷は手元のパンフレットを取り出すと、ヴァイスシュトルムのクラスを確認する。

「フジキセキのステージは十一時からだし、今行っとけば間に合うか」

 そう言って教室棟へ歩き出した神谷は、本人も気づかぬうちに楽しそうに歩いていたのだった。

 

「お帰りなさいませ、ご主人様! お嬢様!」

 ヴィクトリア風メイド服、ミニスカメイド服、和風メイド服のうち、自分の好みやクラスメイトからの熱望を受けたものを着用したウマ娘達が、訪れる客を「ご主人様」あるいは「お嬢様」と呼び給仕する。トレセン学園生によるメイド喫茶を訪れた客はメイドに扮したウマ娘から料理に「おまじない」を掛けて貰ったり、一緒に記念撮影をしたりと大いに(にぎ)わっていた。中でもヴァイスシュトルムの人気は(すさ)まじく、あちらこちらから記念撮影を頼まれていた。

「ヴァイス、8番テーブルのお客様にオムライス持って行って! ご指名なの!」

「はーい! ……忙しすぎない?」

 あっちで写真、こっちで料理におまじない、そっちでお見送りにお出迎えと、ヴァイスシュトルムは着用した和風メイド服を(ひるがえ)して店内を歩き回っていた。

「行ってらっしゃいませ、お嬢様方!」

 出入り口で一組見送り、「ふぅ」と一息入れたヴァイスシュトルムの前に影が落ちる。ヴァイスシュトルムの視界に入ってきた、黒のチノパンにすっきりとしたチャッカブーツ。相手が男性だと判断したヴァイスシュトルムは、満面の笑みを浮かべて相手に挨拶をした。

「お帰りなさいませ! ご主人様!」

「おお……和風メイド姿がよく似合ってる。まさにマ子にも衣装だな」

 聞き慣れた声に相手をよく見ると、それは(まぎ)れもなくヴァイスシュトルムの担当トレーナーである神谷だった。ヴァイスシュトルムはそれを知覚した瞬間、顔を()れたトマトの如く真っ赤にした。

「とっ、ととと、トレーナーさん!?」

「おう、お疲れさん。賑わってるみたいだな」

 慌てふためくヴァイスシュトルムを気にした様子もなく、神谷は飾り付け等を眺めるように首を動かす。

「ヴァイス~? ご主人様を早く案内して欲しいの」

 ヴァイスシュトルムが中々案内しないことを不思議に思い、出入り口から顔を(のぞ)かせた白のサンバイザーを付けたウマ娘、アイネスフウジンは、熟れたトマトの如く真っ赤になって固まるヴァイスシュトルムを見て、にやにやとした笑みを浮かべた。

「ほらほら、ご主人様に中で(くつろ)いで貰わなきゃなの!」

 アイネスフウジンは二人の後ろに回ると、とても楽しそうにヴァイスシュトルムの背中をぐいぐいと力強く押しながら神谷を店の中へ(いざな)う。神谷はその誘いに素直に従い、アイネスフウジンに続いて教室に足を踏み入れた。

「お帰りなさいませ、ご主人様!」

「ご主人様、こちらへどうぞなの!」

 神谷が教室に入るとすぐにそこかしこから挨拶(あいさつ)が聞こえて来る。神谷はそのことにやや圧倒されながらも、席へと誘導するミニスカメイド姿であるアイネスフウジンのすぐ後ろをついて歩く。

 アイネスフウジンに案内された席は、キッチンスペースのすぐ傍にある周りから目隠しされた席だった。

「ご主人様、何になさいますか?」

「ええと……、朝ご飯食べ(そこ)ねたんだけど、何かオススメあるかな?」

 メニュー表を見たものの、とても出し物でやっているとは思えないほど料理とドリンクの種類が多く、神谷の目にはどれも魅力的に映っていた。

 自分で決めるのは無理だと早々に敗北宣言を出した神谷は、アイネスフウジンに助けを求めるようにオススメメニューを尋ねたのだった。

「うーん……どれもオススメだけど、オムライスセットとかどう? 結構好評で頼んでいくご主人様とお嬢様が多いの」

 顎に指を当てて少し考えたアイネスフウジンは、オムライスとドリンクのセットを神谷に勧める。アイネスフウジンの指し示したメニューを見た神谷は、首を縦に振った。

「じゃあ、それで頼むよ」

「はいなの! ドリンクはどうする?」

「そうだなぁ……アイスティーで頼むよ」

「かしこまりましたなの!」

 放心したようなヴァイスシュトルムを一番奥の席に座らせたアイネスフウジンは、神谷の注文を聞いて元気よくキッチンスペースに入っていった。神谷は、ヴァイスシュトルムはこのままで良いのかと疑問に思ったが、ヴァイスシュトルムとの記念撮影を希望する客に、他のメイド姿のウマ娘達が休憩中だと伝えている声が聞こえ、神谷の疑問は解消された。

 料理が来るまでの間、手持ち無沙汰(ぶさた)になった神谷は、椅子に座ったまま微動だにしないヴァイスシュトルムをしばらく眺めていた。そして、(おもむろ)にポケットからスマホを取り出すと、写真を一枚撮る。シャッター音に反応したのか、ヴァイスシュトルムは耳を何度か動かしてからようやく再起動したらしい。ほんの少し辺りを見回してから、不思議そうに席に着いている自分を見ていた。

「あれ? なんで座って……?」

「……呆然(ぼうぜん)としてるなと思ってたけど、まさか記憶までないとはな」

 ヴァイスシュトルムに(あき)れたような視線を向けた神谷は、もう一度スマホをヴァイスシュトルムに向けて写真を撮る。写真を撮られたことに気付いたヴァイスシュトルムは、駄目元(だめもと)で写真を消してもらえないかと神谷に頼んだ。

「トレーナーさん、その写真消して?」

「だが断る。せっかく可愛いヴァイスシュトルムの写真が撮れたんだから、消すなんてもったいない」

 可愛らしく首を傾げて、精一杯のおねだりで写真を消すように頼み込むヴァイスシュトルム。相手が神谷でなければ効果はあったかもしれないが、やはり効果はなかった。ダメだと即答した神谷は、鼻歌交じりにスマホをポケットに仕舞(しま)う。そんな神谷を(うら)めしそうに見ていたヴァイスシュトルムは、拗ねたように頰を膨らませると、机に突っ伏してしまった。そんなヴァイスシュトルムの様子を含みのある笑みを浮かべて神谷は眺めていた。

「お待たせしましたなの! 特製萌え萌えオムライスになりま~す♪」

「おお、美味しそうだな!」

「あたしが腕によりをかけて作ったの! 味は期待して良いよ」

 神谷の言葉に、アイネスフウジンは得意()に胸を張る。彼女の言葉通り、オムライスからは食欲をそそる良い香りが漂っていた。

「……なんか、アイネスの機嫌良くない?」

 ヴァイスシュトルムが半眼で神谷に甲斐甲斐(かいがい)しく給仕するアイネスフウジンを見て言うと、アイネスフウジンはどこか面白がるような笑みを浮かべた。

「ふふん、ヴァイスが慌てふためいてらしくない姿を見せてくれたお礼なの♪」

 鼻唄(はなうた)でも歌い出しそうなほど機嫌が良いアイネスフウジンに、ヴァイスシュトルムは大きく息を()いた。アイネスフウジンの言葉に神谷は少し首を(かし)げると、不思議(ふしぎ)そうにヴァイスシュトルムを見つめた。

「……何? トレーナーさん」

「いや、いつも通りのヴァイスシュトルムだなと」

「当たり前でしょ」

 神谷の視線に、じろりと(にら)み付けるように返したヴァイスシュトルムは、腕を組んだまま不機嫌を隠そうとしなかった。アイネスフウジンは不思議そうにする神谷に近寄ると、少し屈んで神谷の耳に口を寄せる。

「ヴァイスが不機嫌を隠そうとしないのは、甘えてる部分もあると思うよ。トレーナーさんと出会うまで、あんまり表情の変化は見せない方だったの」

「そうだったのか……」

 二人の内緒話が気になるのか、耳を(しき)りに動かすヴァイスシュトルムは、それでもツンとした様子を崩そうとはしなかった。しかし、アイネスフウジンと神谷の距離が近いことが気になるらしく、眉間にはシワが刻まれていた。

 それを横目で見たアイネスフウジンは、神谷から離れるとケチャップを手に持つ。そして意味ありげな視線をヴァイスシュトルムに送るとケチャップをオムライスにかけ始める。

「愛情をたっぷり込めてケチャップかけさせて貰うの。美味しくなーれ、萌え萌えキュン♡」

「なぁっ!?」

「おお、やっぱりそういうサービスもちゃんとしてるのな。流石メイド喫茶」

 メイド喫茶の定番をやりきったアイネスフウジンは、満足したのか休憩と称して神谷と同じ席に着く。アイネスフウジンを信じられないと言わんばかりに見続けるヴァイスシュトルムは、口を大きく開けて固まっていた。

「ヴァイスシュトルムは何に驚いてんだ?」

「あ、アイネスっ! 何であんなに嫌がっていたおまじないを私のトレーナーさんにはやったの!」

「ふふーん♪ ひ・み・つなの♪」

 含みのある笑みを浮かべて神谷にウインクをするアイネスフウジンに、ヴァイスシュトルムは更に詰め寄る。そんな二人を眺めて仲が良いな等と神谷は思いながら、アイネスフウジンお手製のオムライスを黙々と食べるのだった。

 

 

「貴女を(まも)るためならば、例えこの身()ち果てようともかまいはしません」

「いけません! 私のために、これ以上傷つかないでください!」

 フジキセキの出演する舞台は、とても学生がやっているとは思えないほど完成度の高いものだった。フジキセキの演技力はもちろん、それに合わせるため一生懸命(いっしょうけんめい)に練習したのだろうと思えるほど素晴らしいものだった。

「これはすごいな、プロにも引けを取らないんじゃないか?」

 思わずそう呟いてしまうほど真に迫った演技で、周りの観客達も圧倒されていた。

 たった一時間弱の劇でありながら、まるで数時間を過ごした気にさせられる劇の終幕に、観客席から万雷の拍手が鳴り響く。ちらほらとスタンディングオベーションを行う人の姿も見え、神谷もそんな中の一人だった。

 

 それからもフジキセキのイリュージョンショーを観覧し、気になっていた「会長の快調なトークショー」まで見終わって(シンボリルドルフらしいトークショーだった。しかし、所々ダジャレのようなものがあった気もするが、聞き間違いだろうか。話の流れとしてはおかしくなかったのだが、『この自販機では炭酸水が一番売れているそうだ』とは一体?)、神谷はフジキセキと一緒に出店を見て回っていた。

「ところでトレーナーさん。私の舞台に満足できたかい?」

「ああ、劇も手品……イリュージョンショーか、も素晴らしかったよ。特にヒシアマゾンを串刺しボックスから一瞬で客席に移動させるマジックなんてどうやったんだ? いくら考えてもわからなくてさ!」

 興奮気味に話す神谷に笑みを深くしたフジキセキは、嬉しそうに耳を動かす。()められて喜ぶその姿は、普段のフジキセキとは違って幼く見えた。

「喜んでもらえて良かったよ。これでも不安だったんだ」

「そうなのか? とてもそうは見えなかったが……」

「それはそうさ。堂々と見せないと、お客様に心の底から楽しんで貰えないだろう? それはエンターテイナーフジキセキの名折れだからね」

 片目を(つむ)って右手を胸に当てるキザったらしいポーズも、フジキセキがやると嫌みのない格好良さが際立(きわだ)つ。王子様然としたその仕草に、神谷は一瞬目を奪われる。何も言わずに固まる神谷に、フジキセキは小首を傾げた。

「どうかしたのかい?」

「ああいや、格好良いなと思ってな」

 ますます機嫌が良くなったフジキセキを横目に見ながら、神谷はゆっくりと歩く。彼女達の夢が叶うのはもちろんだが、こんな何てことのない穏やかな一日が増えれば良いと思いながら。

 

 

「トレーナーさん! また来てくれたの?」

「ああ、フジキセキがメイド姿のヴァイスを見たいらしくてな」

「なるほどなの。それにしても、トレーナーさんも隅に置けないの」

「何のことだ?」

「べっつに~。ご主人様とお嬢様がお帰りなの!」

 ヴァイスシュトルム達のやっている出し物を見たいとのフジキセキたっての希望を聞いて、再びメイド喫茶を訪れた神谷は、アイネスフウジンと少し話していたのだが、彼女の目が段々と据わってきていた。

 口を尖らせて席に案内するアイネスフウジンの様子に、神谷は首を傾げるしかできなかったのだが、フジキセキにはアイネスフウジンの拗ねた原因がわかっているらしく、やれやれといった風で神谷に苦笑していた。

 神谷がフジキセキに理由を尋ねるも、フジキセキは「乙女の秘密かな。私の口からは教えられないよ」と言ったきり口を(つぐ)んでしまったので、神谷はお手上げ状態だった。

「こちらになりますなの。メニューが決まったら声を掛けてほしいの」

 席に案内して、自分はフロアからわかる位置に立ったアイネスフウジンはすまし顔で、少しばかり拗ねている空気を(かも)し出していた。

「ううん……。何で拗ねられているのかわからん……」

「うーん。トレーナーさんは、こういう所が欠点になるのかぁ。色々と大変だなぁ……」

 ぼそりと呟かれたフジキセキの言葉は聞こえなかったらしく、神谷はずっとメニューを眺めていた。

 

 二人してメニューを決め(神谷はパンケーキセット、フジキセキはサンドイッチセットだった)、料理が来るまでの間寛いでいると、勢い良くキッチンスペースのカーテンが開く。その音にフジキセキと揃って見ると、ミニスカメイド姿になったヴァイスシュトルムが仁王立ちしていた。

「お、今度はミニスカメイドか、よく似合ってるな」

「Danke. ……ってそれは今はどうでもいいの。トレーナーさんがフジキセキも担当するって噂が蔓延(まんえん)しているんだけど!!」

 神谷からの褒め言葉に一瞬赤面したヴァイスシュトルムは、すぐに取り(つくろ)うと眉を吊り上げた。ヴァイスシュトルムの言葉に神谷は「は?」とだけ返すと、フジキセキと顔を見合わせた。

「そんな話どこから流れたんだ? 今日はフジキセキの舞台を見てその後一緒にここまで来ただけなんだが……」

「うーん、トレーナー契約を結ぶ話も何もしていないしね、今はまだそんなことにはならないかな」

 突然降ってわいた噂話に、当事者であるはずの二人は(そろ)って置いてけぼりを食らっていた。二人して首を傾げる様子に、ヴァイスシュトルムは()れたように靴を鳴らした。

「そういう仲の良さが噂の元になってるの! ついでに言えば、朝の一件でアイネスの担当になるんじゃないかって噂も出てるからね!?」

「えっ」

 タイミング良く料理を運んできたアイネスフウジンは、噂話の当事者になっている事実に料理をのせたトレイを持ったまま固まってしまう。

 たっぷり数秒後に再び動き出したアイネスフウジンは、顔を赤くしてぎこちなく配膳すると、神谷の正面に立ち、話の続きを待った。

「そんな話が出てるのか……誤解がないように言っておくけど、今の段階で二人の担当になるとは言えないからな? 二人の素質を疑う訳ではないが、走りを見てない以上、契約するとは言えないな……。それは、ヴァイスシュトルムも知っているだろう?」

 神谷がそう言ってヴァイスシュトルムを見れば、彼女も首を縦に振る。その隣でアイネスフウジンは少し残念そうにしていた。

「でも、契約の予約はできるんだよね?」

 悪戯(いたずら)を思いついた子供のような笑みを浮かべて、フジキセキがそう言うと、神谷は嘆息をもらして肯定した。その一連のやり取りに、顔をパッと明るくしたアイネスフウジンは、神谷の隣に座り込んだ。

「それなら、あたしは契約の予約をさせて欲しいの!」

「あー……。それは構わないけど、実績が殆どないトレーナーでいいのか? ここ(トレセン学園)には、もっと実績のある優秀なトレーナーも多いだろう?」

 アイネスフウジンの言葉に神谷は嬉しそうにしながらも、よく考えて決めた方が良いのではないかと提案する。しかし、アイネスフウジンの決意は固かった。

「あたしはトレーナーさんが良いの。ヴァイスの普段の様子見てたら、あたし達(ウマ娘)の事をよく考えてくれているってわかるし。それに、トレーナーさんいい人だし!」

 目を爛々(らんらん)と輝かせて前のめりに熱弁するアイネスフウジンに、神谷も折れざるを得なかった。

「わかった……そこまで言うなら予約と言うことで。本契約は模擬レースか選抜レース後に」

「わかった! よろしくお願いしますなの」

 とんとん拍子にアイネスフウジンの契約予約が進む様子に、ヴァイスシュトルムは呆れたような視線を二人に向ける。それから、神谷の隣で静かに微笑んでいたフジキセキに耳打ちする。

「フジは良いの?」

「私? そうだね……、今はトレーナー契約の事は何も考えていないよ。それに、まだ選抜レースには出られそうもないからね」

「……そんなコト気にせず、予約してしまえば良いのに」

 ヴァイスシュトルムの言葉に、微笑みで返すフジキセキは、静かにカップを傾ける。彼女が何も言うつもりがないと判断したヴァイスシュトルムは、嬉しそうに神谷の世話を焼くアイネスフウジンの姿を見つめるのだった。

 

「ご馳走様。美味しかったよ」

「ありがとうございました! トレーナーさん、今度の模擬レース楽しみにしててね」

 笑顔で手を振るアイネスフウジンと、照れたようにそっぽを向くヴァイスシュトルムに軽く手を上げて応えた神谷は、またフジキセキと一緒に出し物を見回りに歩いて行く。そんな二人が角を曲がるまで見送ってから、アイネスフウジンとヴァイスシュトルムは店内に戻った。

「それにしても、トレーナーさんモテすぎじゃない? フジに続いてアイネスまで射止めるとか何なの……」

「うーん……。多分だけど、トレーナーさんの(まと)う空気みたいなのも影響してるんじゃないかな。トレーニングの腕も悪くないのはヴァイスを見てればわかるし、ヴァイスの練習中とか色々と用意してあるのを見て、本当にあたし達(ウマ娘)のことをちゃんと考えてくれてるなって」

 饒舌(じょうぜつ)に語るアイネスフウジンに、ヴァイスシュトルムは面食らったように彼女の顔を見つめる。

「どうかしたの?」

「いや、アイネスってトレーナーさんのことしっかり見てたんだなって」

「ふふーん。ちょっとは見直した?」

「それほどでもないかなぁ」

 胸を張って自慢気な顔をするアイネスフウジンに、すぐさま否定してみせたヴァイスシュトルムは、近くのテーブルの食器を片付ける。その後ろ姿に「もうっ!」と声を上げたアイネスフウジンもまた、接客に戻るのだった。

 そんな一部始終を見ていたアグネスデジタルは、メイド喫茶に入ってから何度目かの尊さを噛みしめていた。

「ハァァ~ン……。ウマ娘ちゃんがメイド姿なだけでも天国なのに、ヴァイスシュトルムさんとアイネスフウジンさんがじゃれてるなんて……幸せぇ……あたしここに住むぅ……」

 恍惚(こうこつ)とした顔でテーブルに突っ伏そうとしたアグネスデジタルは、メイド姿のサザンエースに止められる。

「お嬢様? ウチの備品になるのはやめてくださいね?」

「サザンエースさんがお嬢様呼びしてくれたぁ……デジたん死んでも良いぃ……」

「やめてね? デジタルはもう……」

 しょうがないなといった顔でアグネスデジタルに微笑むサザンエースが引き(がね)になった。

「あっ、無理ぃ……サザンエースさんがあたしに優しく微笑みかけてくれるなんて幸せすぎるぅ……がくっ」

「あっ、ちょっと、デジタル!?」

 とても良い笑顔で気絶するアグネスデジタルに慌てふためくサザンエース。その光景にアイネスフウジンとヴァイスシュトルムは顔を見合わせた。

「まーたサザンがデジタルに振り回されてる……」




大変お待たせしました。第10話になります。
本来なら前後編で終わるはずだったファン大感謝祭なんですが、三部構成になってしまいました。
どのウマ娘も出したい欲には勝てなかったんや……。

後編もその内上がると思うので、お待ちくださいませ。
それではまた次回。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯11.秋のファン大感謝祭(後編)

 ヴァイスシュトルム(たち)のメイド喫茶をフジキセキと共に出た神谷は、その後も様々な出し物を見回っていた。

「……あの、お化け屋敷……見ていきませんか……?」

 死に装束に身を包んだマンハッタンカフェに誘われるまま、神谷とフジキセキは彼女達の出し物であるお化け屋敷に足を踏み入れる。お化け屋敷の中はかなり本格的な仕上がりで、本当に何かが出てきそうな雰囲気(ふんいき)(かも)し出されていた。壊れたり、瓦が()がれた漆喰(しっくい)の塀に似せた順路を火の玉を()したランプが照らしている。本物の炎のような振る舞いをするそれは、不気味な空気を作り出すのに一役買っていた。その薄ぼんやりとした明かりを頼りに進んでいくと、本物と遜色(そんしょく)のない(ほこら)が現れた。神谷が祠の観音扉を開けて御札を取り出そうと手を入れた瞬間、悲鳴と共に真っ白な氷のように冷たい手が神谷の手首を握りしめた。

「うおっ! びっくりした……」

「トレーナーさんはこういうのは苦手かい?」

「いや、そこまで苦手ではないかなぁ。びっくりはするけど、恐怖はそんなに感じないな」

 フジキセキの問いかけに普段通りに回答する神谷は、確かに怖がるそぶりは見せていなかった。御札を手にした二人は再び順路に従って歩き始める。

 そろそろ出口も近くなってきた頃、横の壁がガタガタと音を立てて揺れ始めた。最後ということもあって、仕掛け人となっているマンハッタンカフェのクラスメイトが(おど)かそうとしているのだろうと、神谷は余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)に待ち受けた。いつでも来いと構えていると、それは姿を現した。

「……は?」

 神谷とフジキセキの前に姿を現したものは、七色に光り輝く男だった。予想し得ない本物の怪異に、神谷は数秒フリーズする。目をこすって目の前に居る七色に光り輝く男が消えないことを確認した神谷は、隣のフジキセキを静かに抱き上げて出口へと走り出した。

「ちょっ……!?」

「うわあああぁ!!」

 フジキセキを横抱きに出口へ飛び込んだ神谷は、フジキセキを抱えたまま荒い息を()いて廊下にへたり込む。出口で待っていたマンハッタンカフェは神谷の様子に目を丸くして驚きを(あら)わにした。

「……あの、大丈夫……ですか?」

「あっ、ああ……。良く出来てたよ……」

 マンハッタンカフェに何とか返事をした神谷は、御札をマンハッタンカフェに手渡す。御札を確認したマンハッタンカフェは頷くと、ポラロイドカメラを取り出した。

「……それでは、写真……撮りますね」

 マンハッタンカフェがシャッターを切り二人を撮影する。ポラロイドカメラから()き出された写真は、ゆっくりと画像を浮かび上がらせる。そこに映っていたのは神谷とフジキセキが並ぶ何も変哲もない写真のはずだった。しかし、二人の後ろには薄ぼんやりとした白いウマ娘のような影と、お化け屋敷の出口から出てこようとしている七色に光り輝く男(写真のため、青一色に輝いていたが)がしっかりと写り込んでいた。

「ヒュッ……」

 謎の音を発して息を吸った神谷は、その場にへたり込むように(くずお)れる。そして、フジキセキもまた、二人の後ろに浮かび上がる白い影に尻尾を逆立てていた。

「……あっ、あの娘が映り込んでる……。ごめんなさい……あの娘も、トレーナーさんと……写真に映りたかった……みたいです」

 マンハッタンカフェが少し微笑みながらそう言ってくるのだが、神谷としてはそれどころではない。七色に光り輝く男が消えていったお化け屋敷の出口を見つめたまま、茫然自失となってしまっていた。

 

 その後、フジキセキに支えて貰いながらお化け屋敷を後にした神谷は、マンハッタンカフェに記念の写真を押しつけた。

「え……? ……良いのですか?」

「ああ、後ろの青く輝く何かを見たくないから、君が欲しいなら貰ってくれると助かる」

「それなら……、……いただきます。ふふっ……良かったね」

 マンハッタンカフェは神谷の言葉に感激したように写真と彼とを見比べていた。そして、嬉しそうに神谷の斜め後ろに話しかけていたのだが、そこには誰も居ないはずだった。

「……あー、その、フジキセキの許可も得ずに勝手に記念写真譲ってしまったな……。その、すまない」

「ううん、気にしなくて良いよ。私もあの写真を飾る勇気はちょっとないから……」

 困ったように眉を下げてそう言うフジキセキに、神谷もそれ以上は何も言わず、二人して静かに神谷のトレーナー室に戻っていた。

「それにしても、さっきのトレーナーさんったら……ふふっ」

「……忘れてくれ。いやでも、あれはしょうがないだろう? 虹色に光り輝く人型の作り物なんて誰でも驚くに決まってる」

 お化け屋敷での一幕を語る神谷は、苦々しい顔を隠そうともしなかった。神谷は作り物だと思っているが、あれがアグネスタキオンのトレーナーで、彼女の作った薬を飲んで光り輝いていると知ったら、一体どんな反応を返すのかフジキセキは気になってしまった。

「ねぇ、トレーナーさん。あの虹色に光り輝くトレーナーさんなんだけど……。実は、タキオンの担当トレーナーさんなんだ。作り物じゃないんだよ」

 フジキセキがゲーミングトレーナーの真実を告げると、神谷はたっぷり五分ほど固まってしまった。

「……フジキセキでもそんな冗談を言うんだな。人間が発光するわけないだろろろ」

「いや、本当のことで……」

 (かたく)なにフジキセキの言葉を信じようとしない神谷は、コーヒーを入れた愛用のマグカップを手に持つ。しかし、その手は大きく震えていた。

「ご、ごごご、ごごまかされれないいかかからなっ!」

「……何か、ごめんね」

 大仰(おおぎょう)に震える神谷を見て、気の毒に思ったフジキセキはそれ以上話すのを止めた。

 後日、神谷は256色に輝く男がアグネスタキオンのトレーニングを行っている光景に、フジキセキの言葉が真実だったことを知る羽目になるのだが、それはまた別の話である。

 

 神谷が落ち着きを取り戻し、部屋には静寂(せいじゃく)が訪れる。しかし、その静寂は気まずくなるような物ではなく、心地良いとさえ感じる物だった。穏やかに過ぎる時間はしかし、規則正しいノックの音に破られる。

「神谷トレーナーさん、駿川です。今よろしいでしょうか」

「どうぞ」

「失礼します」

 理事長秘書である駿川(はやかわ)たづなは、手に書類を何枚か持ってトレーナー室に入ってくると、まっすぐに神谷の前に歩み寄った。

「こちらが質問表になります。私の方で質問の精査もしておきましたのでご確認ください」

「わざわざありがとうございます」

「いえ、これもウマ娘さん達の為ですから」

 神谷のお礼に、にこやかな笑顔を浮かべて応えたたづなは、部屋にいたフジキセキに、おやといったような顔をする。しかし、すぐに微笑みをフジキセキに向けていた。フジキセキも穏やかな笑みで返すと、トレーナー室には神谷が紙を(めく)る音しかしなくなった。

「これなら大丈夫そうです。本当に助かりました」

「お役に立てて何よりです。それでは失礼しますね」

 一礼して部屋を退出するたづなを見送った神谷は、改めて質問に目を通していく。それを横目で見ながら、フジキセキは質問を見ないように注意して、神谷に()れて貰ったコーヒーをゆっくりと飲んでいた。

「ごめん、トレーナーさん。ちょっと遅くなった」

 フジキセキがコーヒーを飲み干すのとほぼ同時にトレーナー室へ入ってきたヴァイスシュトルムは、フジキセキが居ることに少し戸惑いを見せた。

「えっ、なんでフジがここに?」

「……あー、これにはその、少しばかりのっぴきならない事情があってだな……。まぁ、困ることはないし良いだろ。それより、これが質問表になるから目を通しといてくれ」

 歯切れも悪くヴァイスシュトルムに返答する神谷は、誤魔化すようにそう言うと自席を立つ。紙の束をヴァイスシュトルムに渡し、出かける準備としてスーツの上着を手に取ろうとしたところで、上着をフジキセキに先に取られた。

「ええと……」

「ほら、トレーナーさん?」

 上着を手に持ったフジキセキは、神谷に着せるべく広げて持つ。意図を理解した神谷は、それでもやはり躊躇(ちゅうちょ)した。しかし、フジキセキが譲るつもりがないことに溜め息を吐いた。

「うん、これで良し。良い感じだよ」

 フジキセキに上着を着せて貰い、身だしなみの確認までして貰った神谷は、気恥ずかしそうに頰を人差し指で()く。その一部始終を横目で見ていたヴァイスシュトルムは、複雑そうな表情を浮かべていた。

「ほら、ヴァイスも髪が跳ねてる。折角なんだから綺麗(きれい)にしなきゃね!」

「えっ、ちょっとフジ!? 私はいいから!」

「良くないよ。ほら!」

 あっという間にフジキセキの手で身だしなみを整えられたヴァイスシュトルムと神谷は、フジキセキに追い立てられるようにトレーナー室を出る。

「ほらほら、あまり記者さん達を待たせるのはよくないよ」

「わかったわかった……。ったく、君はたまに強引だな」

 神谷はポケットから鍵を取り出すと、しっかりと部屋を施錠する。そうしてから、歩き出そうと一歩を踏み出してからフジキセキに振り返った。

「フジキセキ、今日は楽しかったよ。ありがとう」

「……! 私も、楽しませてもらったよ。またね、トレーナーさん」

 手を小さく振るフジキセキを残して、神谷とヴァイスシュトルムは今度こそ歩き去る。二人の背中を見送ったフジキセキは、名残(なごり)惜しそうにトレーナー室の扉を見つめてから、寮の方へと歩き出した。彼女のポケットに仕舞われていたスマホには、栗東寮生からのメッセージが数多く届いていた。

 

 

「それで、今日一日フジとデートして楽しんだみたいだね?」

 隣を歩くヴァイスシュトルムは、やや棘を含んだ口調で神谷に問いかける。

「デート……? まぁ、そう言われればそうなるのか?」

「……えぇ、嘘でしょ? 誰がどう見てもあれはデートでしょ!」

 疑問形になる神谷の返事に目を()いたヴァイスシュトルムは、憤慨(ふんがい)したように歩き続ける。そんな彼女に、神谷は内心、デートと言うよりは兄のような気持ちだったんだがなぁと思いながら、静かにしていた。

「前から思ってたんだけど、トレーナーさんって色々とアレだよね」

「アレってなんだよ」

「えーと、何て言ったら……そう、『残念』!」

 良い例えが出来たとばかりに顔を輝かせるヴァイスシュトルムに、神谷は顔を(ゆが)める。そして、顔を前に向けると心持ち歩く速度を上げた。

「うるさいよ雌ライオン」

Was also ist eine Löwin!?(だから、雌ライオンって何!?)

 ぎゃーぎゃーと騒ぎながら隣を歩くヴァイスシュトルムに、神谷は特に反応も返さずに歩き続けるのだった。

 

 インタビューの受け答えをするために借りた会議室へ神谷とヴァイスシュトルムが到着してすぐ、たづなが今日のインタビュー相手である「月刊トゥインクル」の藤城記者ともう一人を案内してきた。

 扉が規則正しく三回叩かれ、たづなが記者を案内してきた旨を聞いた神谷は、立ち上がって二人を出迎える姿勢を取る。ヴァイスシュトルムも神谷にやや遅れて立ち上がると、じっと二人を待っていた。

「わざわざ足を運んで頂きありがとうございます」

「いえ、この忙しい中無理を言ったのはこちらですから。こちらこそお時間をいただきありがとうございます」

 神谷と藤城が挨拶を交わす間、ヴァイスシュトルムはその様子を眺めていた。

「私のことはご存知だとは思いますが、一応改めて紹介させていただきますね。藤城茜(ふじしろあかね)と申します。こちらは後輩の……」

乙名史悦子(おとなしえつこ)です! 今日はよろしくお願いします!」

 藤城の隣に立っていた乙名史は、勢い良く頭を下げる。ヴァイスシュトルムはあまりの勢いに、少しばかり身体を引いていた。その隣で神谷は、藤城記者、乙名史記者の二人と名刺を交換していた。

「どうぞ、おかけください」

 名刺交換を終えた神谷は、二人に席を勧める。それを合図に記者である二人が席に着き、神谷もまた席に座る。ヴァイスシュトルムも見よう見まねでそれに習った。

「改めまして、本日は時間をいただきありがとうございます。今日のインタビューでは、ヴァイスシュトルムさんのメイクデビューからの振り返りと、今後の展望をお聞かせいただければと思います。よろしくお願いします」

 藤城はそう言うと、鞄から取材用のノートとペンを取り出し、神谷とヴァイスシュトルムに向き直る。その隣では、乙名史も藤城と同じようにペンを持ち、机の上にはボイスレコーダーを用意していた。

「さて、メイクデビューの時からお話を(うかが)いたいと思います。メイクデビューはアクアスフィアさんに一バ身差を付けられての二着だったわけですが、やはり敗因としては大外を回ったことになるのでしょうか?」

 藤城の質問に少し顔を暗くしたヴァイスシュトルムは、すぐに顔を上げて話し始めた。

「……そうですね、あの時はスタート直後から内に居るアクアスフィアのやや外を追う形になっていて、内に入ろうとしても彼女に牽制(けんせい)されて、外に外にと追い出された形でした」

「なるほど。見ていた側としては、1000mを過ぎた辺りからは、外へも内へも抜け出せないようにアクアスフィアさんに牽制されていたように見えたのですが、その辺りはどうでしょうか?」

「ええと、その辺りの牽制は、アクアスフィアはとても上手かったですね。あの時は焦ってしまって、四コーナー辺りから大外の更に外に抜けて無理矢理追い抜いたんですけど、今なら他のやり方があったのかなと思います。その後は、坂を登り切った直後にスタミナが(ほとん)ど切れてしまい、彼女に差されました」

 少しばかり悔しそうに手を握り締めるヴァイスシュトルムに、神谷は彼女の手の甲を優しく叩く。ヴァイスシュトルムは、はっとしたように手から力を抜いた。

「トレーナーさんはその時はどう思っていたのでしょうか?」

「そうですね、作戦負けしたと思いましたね。アクアスフィア陣営は、徹底的にヴァイスシュトルムをバ群に飲み込ませて差を付けさせない、抜け出されても差し切れるよう、スタミナを削らせるように研究していたのでしょうね。メイクデビューでの敗北は、ヴァイスシュトルムに思い切って後ろからレースをさせる……、控えさせる方法を教えきれなかった私のミスであると思っています」

「しかし、その後中二週で挑んだ阪神レース場での未勝利戦は見事な圧勝……雨の降りしきる中、(おも)バ場となったにもかかわらず二着のホワイトクラウンに七バ身差は中々出来ないことだとは思うのですが……」

「ヴァイスシュトルムなら重バ場も苦にしないだろうとは思っていたので、重バ場での勝利自体には驚きは少なかったですね。ただ、二戦目で相手に七バ身差を付けたことには驚きました。私もヴァイスシュトルムを過小評価していたようです」

 神谷の言葉に、思わず耳と尻尾を細かく動かしたヴァイスシュトルムは、顔に喜びが出ないよう、(つと)めて平静を装っていた。しかし、対面に座る乙名史にはバレていたようで(もちろん神谷にも藤城にもバレていた)、微笑まれてしまった。

「この娘に力があるのはわかっていましたが、重バ場でも良バ場と同じように走りきれるというのは、本当に想定外と言うか嬉しい誤算でしたね。その後の練習からは、雨の中……特に重バ場と不良バ場での追い切りも増やすようになりました」

「なるほど! そして、ついこの間のGⅢサウジアラビアRCで初の重賞制覇となったわけですが、ノーブルライトさんとはハナ差、メイクンリリーさんとは同着という結果になりましたが、その時の心境はいかがだったでしょうか?」

 藤城からの問いかけに、ヴァイスシュトルムは完全に黙り込む。しばらく言葉を必死に探して、ようやく出てきた言葉は「悔しい」だった。

「とても悔しいです。最後に並ばれたのもそうだし、レース中に二人が成長するのを手助けしたような、そんな気分になりました」

「ふむふむ……」

「あ、二人が成長する手助けが嫌だとか、そう言う意味はないですよ? 二人ともトレセン学園の可愛い後輩ですし。ただ、自分が勝つために研究して、練習してきたことを、自分の手で難しくしたような……何て言えばいいのかな……挑戦しがいがある反面、大変になったなと」

 話の内容とは裏腹に、ヴァイスシュトルムの顔には楽しそうな笑みが浮かんでいた。強者に挑む事を楽しめるのはある種の才能だと神谷は内心評価していた。

「なるほど、それでも挑戦すること自体は楽しいといった感じですね」

「それはもちろん。挑む山は高い方が登りがいがありますから」

 ヴァイスシュトルムの笑顔に、藤城は満足そうにメモを取り、隣の乙名史は感激したように表情を明るくさせた。

「トレーナーさんもやはり、ヴァイスシュトルムさんと同じような意見なのでしょうか?」

「ええ、ヴァイスシュトルムが並では満足しない事をこの半年で嫌というほど理解させられましたので。彼女が高い山に挑戦する以上、全力でサポートしていく所存です」

「……す。……すす……す、素晴らしいですっ!」

 神谷の宣言に、とうとう乙名史の我慢が限界に達したらしい。

「ええと、乙名史さん?」

「トレーニングを頼まれたらいつでも付き合い、疲労回復には名湯巡り、気分が乗らないとなれば有名テーマパークの貸し切りに豪華客船でのクルージング、勝利の暁には高級ホテルでの祝賀パーティーの用意まであるなんてぇ……!」

 困惑(こんわく)する神谷とヴァイスシュトルムを置き去りに、自分の妄想に陶酔(とうすい)した乙名史は、まるでマシンガンのようにまくし立てる。隣の藤城は頭痛を抑えるかのように蟀谷(こめかみ)に手を当て、深い溜め息を吐いていた。

「時に全財産を(はた)いてでも東西南北あらゆるレースや遠征にも連れて行く……、そんな覚悟がお有りだなんてぇ……!」

 感極まった様子の乙名史を目の当たりにして、神谷は「そんなこと言ったっけ……?」と藤城に顔を向ける。そんな神谷の視線を感じとった藤城は、神谷に申し訳なさそうな顔をしてみせた。ヴァイスシュトルムも、乙名史の暴走に身体ごと引いている始末だった。

 

「ええと、その……、申し訳ありませんでした。この子、トレーニングやレース等のウマ娘への知識は素晴らしいのですが、暴走する癖がありまして……。あ! 心配なさらなくても、この子の暴走による妄言は記事にならないように、私がキチンと監督しますので!」

 必死に頭を下げる藤城に、神谷もヴァイスシュトルムも何も言えなかった。何も言えなかったというよりも、乙名史の暴走に圧倒されて二の句が継げなかったという方が正しかった。

「ええと、最後にこれからの展望をお聞かせいただければと思います」

 藤城が空気を変えるように質問を投げかけると、それに答えようと神谷も姿勢を元に戻した。

「ええ、はい。今後のローテーションとしては、もう報道などで予測も出ていますが、GⅠ朝日杯(あさひはい)フューチュリティ()ステークス()を目指そうと思います」

「ふむふむ、ホープフルステークスにはアクアスフィアさんが出るとの噂もありますが、そちらではなく、朝日杯FSを目指すと言うことですね」

 少し意外そうにしながら、藤城は真面目な顔をしてメモに書き()める。隣では乙名史が少し考え込むような素振りを見せていた。

「それは、ヴァイスシュトルムさんの距離適正と現在の成長度合いを(かんが)みて……と言うことでしょうか?」

 乙名史の発した言葉に、神谷は眉を上げる。なるほど、確かにウマ娘を見る目は確からしい。

「そうですね、ヴァイスシュトルムは確かに実力を持ったウマ娘ではあります。しかし、まだ本格化を迎えて数ヶ月しか()っていません。この娘の今現在の距離適正としては、マイルから中距離と言う狭い範囲ですので、現時点では2000mを走りきるにはまだ足りないと思っています」

 神谷の言葉に顔を(うつむ)かせたヴァイスシュトルムは、大きく息を()いて再び顔を上げる。彼女としては、ジュニア級の間にもう一度アクアスフィアと競いたいという欲求があった。しかし、今の時点ではスタミナも、速さも、技術も足りていないのもまた事実。

 だからこそ、アクアスフィアへのリベンジは、クラシック級に上がってからと決めた。

 今はただ、負けた悔しさも、勝ちへの執念も心の奥へしまい込んで、その時が来るまで(くすぶ)らせておくことを良しとした。燻っている種火を、アクアスフィアとの競争で燃え盛らせるために、ヴァイスシュトルムと神谷は一つずつ課題を克服することに重点を置いたのだった。

「ですから、来年の皐月賞(さつきしょう)までは基礎トレーニングを続けていくことに二人で決めました。朝日杯FSはジュニア級で狙えるGⅠでかつ、ヴァイスシュトルムも得意な距離という事が重なって選択しました」

「なるほど。ところで、阪神レース場では同じ芝1600mマイル戦の阪神ジュベナイル()フィリーズ()が開催されますが、そちらは候補に入らなかったのでしょうか?」

「そうですね、阪神JFと悩みはしたのですが、阪神JFはトリプルティアラを目標にするウマ娘が多く出走する傾向があるので、三冠を目標にするウマ娘が比較的多い朝日杯FSを選択しました」

 神谷の回答に頷きながらメモを取っていた藤城は、満足したように取材用のノートを閉じると、ボイスレコーダーの録音を停止した。

「本日は長々とインタビューを受けていただき、ありがとうございました。今回のインタビュー記事の載った号は、刷り上がりましたら送付させて頂きますね!」

「こちらこそありがとうございました。また、よろしくお願いします」

 神谷は席を立つと、扉まで二人の記者に付き添って向かう。三人の後を追ったヴァイスシュトルムは、記者の二人が軽く頭を下げるのを見習って同じように頭を下げると、二人が廊下を歩いて行くのを見送った。ヴァイスシュトルムが肩の力をようやく抜いたのは、二人が完全に見えなくなってからだった。

「お疲れさん。流石に疲れたみたいだな」

「うん、疲れた……この間とはまた違って緊張した」

「こう言うのも増えていくから、慣れていくしかないな」

 夕焼けで(だいだい)色に染まる廊下を神谷と話しながら歩くヴァイスシュトルムは、インタビュー等が増えるという神谷の言葉に、うんざりとしたような顔をした。

「こればっかりは仕方ないな、有力なウマ娘になるほど増えていくから」

「毎回藤城さんみたいな人だったら良いのに……」

 肩を落とすヴァイスシュトルムの脳裏には、メイクデビュー前のワイドショーが思い起こされる。あのような底意地の悪い記者も混じって来ると思うと、今から気分が重かった。

「まぁ、あまりにも目に余るようなものは学園と俺の方で拒否するからヴァイスシュトルムはそんなに思い詰めなくていい」

「ん……トレーナーさん」

 (なぐさ)めるように頭を軽く叩いてくる神谷に、ヴァイスシュトルムは確かに気を楽にして貰ったのだが、それを素直に認めるのは子供(こども)扱いされたようで癪だった。だから、口から突いて出た言葉は仕方ないと、心の中で誰にでもなく言い訳をした。

「なんだ?」

「セクハラだからそれ」

「酷いな!?」

 ヴァイスシュトルムの照れ隠しのような暴言に、笑いながらおどけてみせる神谷は、やはり彼女達よりも大人だった。




大変お待たせしました。
ジュニア級のファン大感謝祭はこれで終わりになります。

スマートファルコンやライスシャワー、ミホノブルボンも出したかったんですが彼女達の登場はまたの機会に……

それではまた次回


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯12.GⅠ朝日杯フューチュリティステークス

 秋のファン大感謝祭から早二カ月。今年一年のレースも残り(わず)かとなった中で、「URA最優秀ウマ娘」の話題もちらほらと出てくるようになっていた。そんな中、十二月に入ってすぐ行われた阪神ジュベナイルフィリーズでメイクンリリーが勝利を飾るのを皮切りに、ニュースや新聞、週刊誌ではURA最優秀ウマ娘の特集記事が取り上げられる機会が増えていった。

 今では一日に何度も、アクアスフィアとメイクンリリー、一体どちらが最優秀ジュニア級ウマ娘に選ばれるのかといった内容の薄いニュースが(あふ)れ返っていた。

「トレーナーさん、アイネスが自主練のトレーニングメニュー見て欲しいって」

 ノートパソコンの画面を食い入るように見つめていた神谷の前に立ったヴァイスシュトルムは、一冊のノートを差し出した。表紙に「自主練習メニュー帳」とやや丸っこい字で書かれたそれを受け取った神谷は、ノートをぱらぱらと(めく)り一番新しい内容に目を通す。

「うーん、よく考えられてはいるけど、一日分の内容が本格化を迎える前のウマ娘には重いな。……これに赤ペン入れても良いか聞いてるか?」

「良いんじゃない? むしろ積極的に赤ペンを入れて欲しい雰囲気(ふんいき)はあったし、喜ぶと思う」

「よし、共犯者ができた。怒られる時はヴァイスシュトルムも一緒だからな」

 満面の笑みを浮かべる神谷に、嫌そうな顔を向けたヴァイスシュトルムは、何も聞こえなかったようにテレビに向き直った。テレビの画面には、明日以降の天気予報が表示されていた。

「今週末の阪神は雨か……」

「雨だと身体がすぐ冷えるから嫌なんだよねぇ……ゲート待ちの時とか」

「ウォーミングアップを念入りにして、なるべく雨に当たらないようにするしかないな。こればっかりは仕方ない」

 やる気が下がると共に、だらしなくソファに身体をもたれさせたヴァイスシュトルムは、それから何をするでもなくぼんやりとテレビを眺めるだけだった。そんなヴァイスシュトルムにやれやれと言わんばかりの視線を向けてから、神谷は彼女(あて)の手紙があったことを思いだした。

「ああ、そうだ。ヴァイスシュトルム、君に手紙が届いていたぞ」

「手紙? 誰からだろ……」

 不思議そうにしながらもソファから立ち上がったヴァイスシュトルムは、神谷の事務机までゆっくりと歩いてやって来た。神谷は机の上に置いてあるレターケース最上段の引き出しを開けると、中から真っ白な封筒を一通取り出して彼女に手渡す。

「エアメール、国際郵便みたいだな。送付元はドイツのミュンヘン……か?」

「あ……レーゲンからだ。どうしたんだろ……」

 筆跡から幼馴染(おさななじ)みのシュプリュレーゲンからだと判断したヴァイスシュトルムは、ソファに座り直して楽しそうに手紙を読み始める。黙々(もくもく)と読み進める彼女だったが、二枚目を読み進める途中から段々と(けわ)しい顔をし始め、二枚目半ば辺りでついに手紙を取り落とした。

「……え」

 

 

 翌日、朝一番でアイネスフウジンに『自主練習メニュー帳』を返したヴァイスシュトルムは、どんよりとした空に気分が下がっていた。

 彼女は冷え込んだ空気に身震いして、息を大きく()き出す。そうして吐き出された息は、冬の冷たい空気に触れて瞬く間に冷やされ、真っ白な水蒸気となって空へと立ち上り、やがて霧散(むさん)した。

 物憂(ものう)げにそれを見送ったヴァイスシュトルムは、足早に学園内へ立ち去ったのだった。

「朝からヴァイスシュトルムさんが神々しいとか、デジたん今日一日一体どうすれば良いの? はっ! これはウマ娘ちゃん達に惜しみない愛を(ささ)げていた事に対しての神様からのプレゼントでは!? 神様、まだクリスマスには早いですよ? でも、ありがとうございます! 今日もこれで頑張れますぅ!」

「……朝からバカなことやってないで早く教室に行くよ」

 寮の玄関口でぶつぶつと呟くアグネスデジタルに(あき)れたような視線を一つ向けて、サザンエースは彼女の手を引いた。それに反応したアグネスデジタルは、更に早口で何か(ヒョェッ!? サザンエースさんに手を……? 待って、推しへの接触はギルティ……! あれ、でも、サザンエースさんからの接触だからセーフ? デジたんノットギルティ? むしろご褒美? 神様、推しからのファンサが熱すぎますぅ……!)を言い始めたが、サザンエースは意に介すことなく手を引いたまま歩き続けるのだった。

 

 アグネスデジタルを教室に送り届け、自分のクラスで授業の用意をしていたサザンエースは、同室のヴァイスシュトルムの様子が気になっていた。昨日部屋に帰ってきてからずっと何か考えているらしい彼女は、毎年この時期になると配り歩いているお手製シュトレンを珍しく配りにも行かず、エイシンフラッシュと一緒にモミの木を手入れすることも忘れていた様子だった。

 ドイツではクリスマスを大切にするからと、この時期になるとエイシンフラッシュと一緒に張り切って居たはずのヴァイスシュトルムは、不気味なほど大人しかった。

「ヴァイスさん、どうしたんでしょうか……。ちょっと前まであんなに楽しそうにクリスマスの話をしていたのに……」

「うーん……何かが気になってるみたいなんだけどなぁ……」

 サザンエースは話しかけてきたエイシンフラッシュに返事をしつつ、誰も座っていない席に目をやる。自分よりも早く部屋を出ていったはずのヴァイスシュトルムは、まだ教室に来ていなかった。

 

 

 結局、ホームルームの開始時間ぎりぎりに教室へと滑り込んできたヴァイスシュトルムは、その後ずっと上の空だった。数学では簡単な計算を間違え、国語では音読するページを盛大に間違え、生物では(にわとり)哺乳類(ほにゅうるい)に分類する始末だった。成績が良いヴァイスシュトルムらしからぬ行動に、教科担当の教員は(そろ)って首を(かし)げるばかりだった。

「……はぁ」

 今日何度目かのため息を()いたヴァイスシュトルムは、昼食を取ろうと弁当箱を手に席から立ち上がったところで肩を掴まれた。

「!?」

「一緒にお昼食べよう? ヴァイス」

 にっこりと満面の笑みを浮かべるサザンエースに断りを入れようとして、彼女の目が笑っていないことに気が付いたヴァイスシュトルムは、大人しくその提案を受け入れた。

 

 サザンエースにしっかりと腕を掴まれたヴァイスシュトルムが連れてこられたのは、神谷のトレーナー室だった。サザンエースがノックもそこそこに扉を開けると、フジキセキが出迎えてくれた。

「お待たせ、フジ」

「私もついさっき来たばかりだよ。トレーナーさんは少し席を外すって」

 (にこ)やかに話すフジキセキに対して、そうなんだとだけ言ったサザンエースは、ヴァイスシュトルムの手を引いてソファまで歩く。大人しく腕を引かれたままのヴァイスシュトルムは、ソファに座らせられてようやく自分がどこに連れて来られたのか理解したようだった。

「あれ、ここ私のトレーナー室?」

「やけに大人しいと思ったら……まぁ良いけど」

 ヴァイスシュトルムの呟きに思わず脱力してしまったサザンエースは、気を取り直して自分の弁当箱ともう一つ弁当を取り出す。

「? いくらサザンでも高カロリーなお弁当二つは太るんじゃない?」

「バカ、もう一つはアンタの分に決まっているでしょ」

 揶揄(からか)いを多分に含んだヴァイスシュトルムの言葉に対して、当然の返答をしたサザンエースは呆れたような視線を彼女に向ける。

「何言ってるの? 私の分ならここに…………あっ……」

「私の辞書を弁当袋に詰めた時はどうしようかと思ったわ……」

 サザンエースの言葉に小さくなるヴァイスシュトルムは、顔だけではなく首まで真っ赤にして恥ずかしさに震えていた。ヴァイスシュトルムの様子に吹き出すことこそ耐えたフジキセキだったが、笑いを(こら)えきれずに肩を大きく震わせる。笑いを必死に堪えようとするフジキセキに、恥ずかしさからますます小さくなったヴァイスシュトルムは、大人しくサザンエースから弁当箱を受け取るのだった。

 ようやく笑いの治まったフジキセキとサザンエースに(うなが)される形で弁当に箸をつけたヴァイスシュトルムだが、箸を何度も止めて考え込むような素振りを見せる。その(たび)にヴァイスシュトルムの顔には憂いと悲しみが混ざったような複雑な色が浮かんでいた。

「ねぇ、ヴァイス。君は一体、何に悲しんでるのかな?」

「え? 別に悲しんでなんて、ない……けど」

 フジキセキの言葉に虚を突かれたヴァイスシュトルムは、平静を取り(つくろ)おうとして失敗した。耳は力なく伏せられ、無理矢理浮かべた笑顔は、悲しみを隠し切れていなかった。

「ヴァイスってたまに不器用になるよね……」

 呆れたように言いながらも、サザンエースの目には優しさが満ち満ちており、その手はヴァイスシュトルムが握り込んだ拳にそっと添えられていた。

「無理に話して欲しいとは言わないけれど、たまには私たちも頼って欲しいな? 大切な友人がいつまでも悲しんでいるのは、私だって悲しいんだ」

 片目を(つむ)ってそう言うフジキセキの言葉に、ヴァイスシュトルムは降参した。友人にそうまで言われて、心が揺らがないわけがなかった。

「……実は――」

 ぽつぽつと話し始めたヴァイスシュトルムは、少しばかり遠くを見るようにして、懐かしい記憶を語り始める。その言葉をフジキセキとサザンエースは静かに聞き入っていた。

 ヴァイスシュトルムの口から語られた話は、彼女がトレセン学園に来る前、ドイツに居た頃の話だった。

 

 

「私がトレセン学園に来る前、一番の親友はレーゲン……シュプリュレーゲンだった。レーゲンと最初に出会ったのは、家の近くで開催された『ウマ娘かけっこ教室』だったかな」

 懐かしそうに頰を緩めるヴァイスシュトルムは、楽しそうに尻尾を揺らしながら話を続ける。

「そのかけっこ教室で、最後まで私と走り続けたのがレーゲンだった。それから、かけっこ教室が開催される度に私とレーゲンは競い合ってて、気が付けば仲良くなってた。二人で将来はどこのレースを勝つとか、欧州三冠を取るとかよく話したっけ……。それで、実際にレーゲンはイギリスダービーとキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークスを勝利して欧州二冠を達成したの。でも……」

 そこまで話してから、ヴァイスシュトルムは一度言葉を切ると目を伏せた。そして顔を(ゆが)め、声を絞り出すようにして続けた。

「キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークスで欧州二冠を達成したと同時に、レーゲンは左脚を痛めていたの」

「!」

 はっと息を()む二人を気にした様子もなく続けるヴァイスシュトルムの声は、いよいよ震えを隠せなくなっていた。

「最後の一冠になる凱旋門賞(がいせんもんしょう)……ゴールを目前にしてレーゲンは……レーゲンは、右足首を粉砕骨折して競走中止になった」

 ヴァイスシュトルムの言葉に、シンと静まり返ったトレーナー室に、エアコンが暖かい空気を吐き出すモーター音だけが響く。普段気にならない程の騒音であるはずのそれは、今に限ってはやけに大きく、耳(ざわ)りに聞こえた。

「痛めた左足をかばってしまったことで、右脚に疲労がたまっていたのだろうと、骨折の原因は推定されたみたい。それでも、この数ヶ月間、必死にリハビリして、必ず復帰すると手紙が届いていたし、私もずっと応援してた。でも、この間届いた手紙には、いくらリハビリしても以前のように走れないのが辛いとも書いてあった。それでも何とか復帰レースに出走はしたみたい」

 ヴァイスシュトルムの話を聞いている二人は、何も言えなかった。親友を遠く離れた場所から励ます事しかできないのは、歯痒(はがゆ)く、また無力感に(さいな)まれただろうと(おもんぱか)ることしかできない。

 痛みを耐えるような表情で話を続けるヴァイスシュトルムは、溢れる涙を拭うこともせず、ただひたすら話し続ける。

「結果は最下位。出走できただけすごい事ではあるけど、レーゲンは自分の走りができなくなった事が許せなかったみたい。もう一戦目では何とか入着したけれど、そのレースで引退を決意したって昨日届いた手紙には書いてあった」

 そこまで話し終えて、ようやく涙を指で拭ったヴァイスシュトルムだが、拭った(そば)から涙は溢れていた。

「手紙の最後に、『約束を守れなくてごめん』って書いてあったんだけど、その文字が(にじ)んでて……。レーゲンが辛いときに私は何をしてたんだろうって……」

 そこまで言って、とうとう限界が来たらしいヴァイスシュトルムは、嗚咽を漏らして泣き始めた。

 フジキセキとサザンエースは何度か口を開こうとするものの、かける言葉を見つけることができず、ヴァイスシュトルムが落ち着くまで、背中を丸くしてすすり泣く彼女の背中を優しく(さす)る事しかできなかった。

 

 ようやく落ち着いたヴァイスシュトルムは、鼻を鳴らしながらゆっくりと体を起こす。すっかり赤くなった目と鼻を擦ろうとする彼女を止めて、サザンエースはポケットから取り出したハンカチを水で濡らすと、彼女の目に優しく押し当てた。

「……Danke」

「少しは落ち着いた?」

 フジキセキの問いかけに首を縦に振ることで応えたヴァイスシュトルムは、ハンカチを目に当てたまま大人しくしていた。そんなヴァイスシュトルムに(なん)と声をかけようかと二人が頭を悩ませていると、トレーナー室の扉が叩かれた。

「どうぞ」

「あー、ヴァイスシュトルムはまだいるか?」

 フジキセキの返事に扉を開けた神谷は、両手でダンボール箱を抱えて部屋に入ってきた。

「いるけど、その荷物は一体?」

「ヴァイスシュトルム宛の荷物が届いたらしくてな、受け取ってきた」

 ヴァイスシュトルムの前にダンボール箱を置いた神谷は、ハンカチで目を押さえるヴァイスシュトルムをチラリと見て、そのことには触れずに荷物の送付元を読み上げる。

「送付元は、昨日の手紙と同じ所だな。ドイツのミュンヘンからだ」

 ミュンヘンと聞いた瞬間、ヴァイスシュトルムのしな垂れた耳が勢い良く立ち上がった。その勢いのままに箱に飛びついたヴァイスシュトルムは、ダンボール箱を開封する。中から出てきたものは、フードが付いた真紅のパーカーだった。

「……これ、レーゲンの勝負服?」

「中に手紙が入ってるな、ほら」

 神谷から手渡された手紙を勢い良く読み始めたヴァイスシュトルムは、目を(せわ)しなく動かしていく。そして、あっという間に読み終えると再びシュプリュレーゲンが現役時代に羽織(はお)っていた真紅のパーカーを手に取って抱きしめた。

Du bist ein Idiot ...... wirklich, du bist ein Idiot ......(バカ……本当にバカなんだから……)

 泣き笑いのような顔でドイツ語を呟いたヴァイスシュトルムは、抱きしめていた真紅のパーカーに袖を通す。

 その真紅のパーカーは、ヴァイスシュトルムにとてもよく似合っていた。

「ねぇ、これどうかな?」

「よく似合っているよ」

 神谷の言葉に、サザンエースとフジキセキも頷く。それに喜びを表したヴァイスシュトルムは、今日一番の笑顔を浮かべていた。

 

『ヴァイスさえ良ければ、私の勝負服だったこの真紅のパーカーを着てGⅠで勝って欲しい。走れなくなった私も、ヴァイスと一緒に走らせて!』

 

 

 勝負服のデザイン変更申請も(とどこお)りなく通り、ヴァイスシュトルムの勝負服はドイツの民族衣装の一つであるディアンドル風の衣装に、シュプリュレーゲンが着用していた真紅のパーカーを羽織る形となった。

 ヴァイスシュトルムが申請した勝負服は、白いブラウスに濃紺(のうこん)のスカートとエプロン、それらにちょっとした金糸(きんし)刺繍(ししゅう)といったもので、真紅のパーカーとの相性は良く、違和感なく組み合わせられる物だった。

「まさにマ子にも衣装だな……真紅のパーカーと元々の勝負服の相性が良くてホッとしたよ。危うくたづなさんに一カ月お昼を(おご)る羽目になるところだった……」

 心底ホッとしたような神谷に、ヴァイスシュトルムは悪戯(いたずら)っぽい笑みを向けた。

「『美人なたづなさんとのランチデートがなくなって残念』の間違いじゃないの?」

「ばっかお前、たづなさんが超・超・超・超・超絶美人なのは認めるが、毎日ランチを奢るなんて甲斐性(かいしょう)はまだねーよ。それに、今はヴァイスシュトルムのトレーニングが優先だしな」

「……そこまでは言ってないし、甲斐性の件は自信満々に言うことじゃないんだけどなぁ。まぁいっか……」

 身を乗り出して熱弁をふるう神谷に対して、呆れたように肩を落としたヴァイスシュトルムは、気を取り直して再び自分の姿を確認する。

 ディアンドル風の勝負服に真紅のパーカー。革の編み上げショートブーツには、月をモチーフにした小さなアクセサリーが(きら)めく。右耳に付けたノンホールピアスには、まるでパーカーと合わせたかのような真紅のルビー(勿論、天然石ではないが)が静かに輝いていた。

 何度見ても、鏡の向こうに映る姿が自分ではないような、不思議な感覚に襲われるヴァイスシュトルムだが、神谷はそんな彼女を微笑ましく眺めていた。ヴァイスシュトルムは時間が来るまで、いつまでも鏡の前から離れようとしなかったし、神谷もまた、それを(さえぎ)ることはなかった。

 

 初めて勝負服に袖を通したウマ娘がやることと言えば、GⅠ出走前の記者会見だと言えるだろう。多くのウマ娘は初めて着る自分だけの特別な勝負服に、緊張と高揚で地に足が付かなくなる。その点、ヴァイスシュトルムは、係員に呼ばれてからは浮き足立った姿を見せることなく、平静を取り戻していた。

 朝日杯フューチュリティステークスに出走する他のウマ娘に続いてステージに登壇したヴァイスシュトルムを、眩いばかりのフラッシュが包む。大量に()かれるフラッシュがあまりにも眩しく、顔を(しか)めるウマ娘もいる中で、記者からの質問に答えていくヴァイスシュトルムは、それを気にした様子もなく堂々とした物だった。

「ヴァイスシュトルムさん! 貴女はその美貌(びぼう)を活かしてモデルに転身した方が成功するとの声が(ちまた)から聞かれますが、そのことについてコメントを頂けますか? やはりご自身でもモデルの方が良い、幸せになれると思われているのでは?」

 予定されていた質問数を終え、記者会見も終了しようかという時に放たれた不躾(ぶしつけ)な質問に、会場は水を打ったようにしんとなった。競走ウマ娘に対して礼節を欠いた失礼な問いかけをした男は、静まり返った会場にも、自分を非難するように向けられる鋭い視線も意に介することなく、下卑(げび)(いや)らしいニタニタとした笑みを浮かべてヴァイスシュトルムを見ていた。

「……人の幸せには色々な形がありますが、私にとっての幸せとは、ターフの上で素晴らしいライバル達と競い合い、高め合いながら結果を示すことです。煌びやかなモデルの世界には、残念ながら私の幸せはありません。それでも、私がターフの上を駆ける事が幸せだという事に納得がいかない方は、是非とも私の走る姿を見て判断していただきたいと思います」

 そう言って満面の笑みを浮かべたヴァイスシュトルムは、一礼してステージから降りると出口へと歩き去る。男は満面の笑みを浮かべたヴァイスシュトルムに一瞬面食らい、慌てて彼女から更に言葉を引き出そうと追い(すが)るが、警備員とURA職員によって取り押さえられる。悔しそうに顔を歪めた男は、別室へと連行されていくのだった。

 

「……よく週刊誌記者の挑発に乗らなかったな?」

 控え室に戻ったヴァイスシュトルムは、傍目(はため)には平静を(たも)っているように見えた。しかし、彼女の内側では怒りと悔しさが渦巻いており、そのやり場のない感情は、後ろへ向けて伏せられていく耳が現していた。

「……挑発に乗ったら負けだと思ったんだもん。それに、コレを着てるときに醜い姿は誰にも見せたくない」

 そう言って真紅のパーカーに目を落としたヴァイスシュトルムは、一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 十二月第三週の土曜日、未勝利戦以来となる阪神レース場の練習場で、ヴァイスシュトルムは最後の追い込みを行っていた。

 GⅠ朝日杯フューチュリティ()ステークス()は、クラシック三冠路線を占う一戦であり、これに勝利したウマ娘は皐月賞での有力ウマ娘として注目される。しかし、近年は1600mのマイル戦である朝日杯FSよりも、皐月賞と同じ中山開催で同距離(2000m)であるGⅠホープフルステークスの方にクラシック戦線を見据える有力ウマ娘は集まりやすくなっている。

 それでもやはり、朝日杯FSに出走するウマ娘は、並のウマ娘とは言えなかった。重賞最高位のGⅠである以上、いくらジュニア級とは言え出走する条件はそれまでのオープン戦やGⅢ、GⅡとはわけが違う。これまで走ったレースの成績、ファン人数、そして出走枠確定時の人気順など、複合的に判断されてようやく、五人(レース成立最低人数)から十八人(レース最大人数)の中の一人に選ばれる。

 そのような厳しい選定基準をくぐり抜けてGⅠへの出走が叶ったウマ娘が、弱いはずがない。

 ヴァイスシュトルムが阪神レース場に到着したときからずっと、レース場内も宿舎内も肌がひりつくような緊張感が漂っていた。

「ヴァイスシュトルム、最終調整はそこまでだ」

「でも、まだ疲れてないし……」

「ダメだ。これ以上は明日の本番に響く」

 硬質な神谷の声に顔を落としたヴァイスシュトルムは、何度か頰を(たた)いてようやく普段通りの落ち着きを取り戻した。

「……よし。ごめんなさい、トレーナーさん。ちょっと焦ってたみたい」

「気にしなくて良い。そのためのトレーナーだからな。この後の食事はタンパク質を比較的多めに摂ること。後、部屋に戻ったらすぐに寝ること」

 神谷の言葉に対して素直に頷いたヴァイスシュトルムは、少しだけ笑顔を浮かべた。

「わかってるって。明日、万全の状態でレースしなきゃだもんね」

 

『この時期にしては珍しく、雪がちらつく阪神レース場。バ場の発表は稍重(ややおも)となりました』

 雪が舞い散る中、その寒さとは対象的に阪神レース場には熱気が渦巻いていた。メインレースであるGⅠ朝日杯FSの発走時刻が迫るに連れて、期待と興奮が高まっていく。

『本日のメインレース、クラシックへの登竜門「朝日杯FS」! 来年のクラシックを見据えた有力ウマ娘達の本バ場入場です!』

 実況が観客の興奮を煽る中、本バ場に入場したウマ娘達は静かに、しかし闘志だけは熱く(たぎ)らせてコースへと入っていく。

『GⅢ札幌ジュニアステークス一着、GⅢサウジアラビアロイヤルカップ二着、実力は充分ある14番ノーブルライト! 今日は二番人気です。前回の雪辱(せつじょく)を果たせるか!』

 顔をしっかりと上げ、凜々(りり)しい顔でゲートを見据えるノーブルライトは、ヴァイスシュトルムと競い合ったサウジアラビアRCの時とは全くの別人に見えた。ノーブルライトの迫力に、ヴァイスシュトルムは身体を震わせた。それは恐れなどでは決してなく、強者と競い合えることへの楽しみから来る震えであり、詰まる所武者震いだった。

『本日の一番人気! ここ阪神レース場での未勝利戦では圧勝の七バ身差での勝利、GⅢサウジアラビアRCでは一位同着! その実力を遺憾(いかん)なく発揮するか! 2番ヴァイスシュトルム!』

 コースに一歩足を踏み入れたヴァイスシュトルムは、観客席に手を振るとゲートへと歩く。観客席からの歓声と、他のウマ娘からの厳しい視線に、ヴァイスシュトルムは思わず獰猛な笑みを浮かべていた。

 ――これがGⅠ朝日杯FS、国内最高峰レースの一つか――。

 

 軽く身体をほぐしてからスターティングゲートに入ったヴァイスシュトルムは、右手を握り込んで胸の中心に当てると、目を閉じて一つ深呼吸をした。それから目を開けた彼女の眼前には、閉じたままのゲート扉と雪が降るターフしか見えていなかった。

『全員がゲートに収まりました。グレードワン、朝日杯フューチュリティステークス、今スタートです!』

 ゲートが開くと同時に勢い良く飛び出したヴァイスシュトルムは先行争いに参加する。ゲートを飛び出したウマ娘達は、少しでも良い位置に付こうとして内ラチ側へ雪崩れ込むように殺到する。

『ややばらついたスタートになりました。好スタートを切ったのは2番ヴァイスシュトルム、7番サイレントチェイサーも続いています。14番ノーブルライトと6番ラディカルキャットも前に行きそうか。13番スウィートメモリー、10番サザンエースが続いています。各ウマ娘が内ラチに殺到して団子状態になっています。抜け出すのは容易ではなさそうか』

 内ラチに張り付こうとする集団に呑まれないよう、差を付けようとしたヴァイスシュトルムだが、彼女が速度を上げようとした瞬間、それを防ぐように6番ラディカルキャットがヴァイスシュトルムの前を塞いだ。それに追随するように、複数人がヴァイスシュトルムを取り囲む。

「なっ……Scheiße!!」

(ナイス! そのままヴァイスを抑え込んで!)

(いくらヴァイスが速いといっても、頭を抑えられて、囲まれてしまえばどうしようもないでしょ!)

 目だけで会話をするようなラディカルキャット達の様子に、ヴァイスシュトルムは歯噛みする。

(くそっ、ここまで露骨にやってくるとは思ってなかった! 私の考えが甘かった!)

 ヴァイスシュトルムがチラリとやや後方を見遣ると、ノーブルライトも似たような状況に追い立てられていた。

(ノーブルライトも同じように囲まれてるのか。このままってわけにもいかないし、どうしたら……ようし)

 ヴァイスシュトルムは少しばかり速度を上げると、ラディカルキャットのすぐ後ろに張り付き、彼女を風よけとして活用しようと試みる。しかし、ラディカルキャットはすぐに速度を上げて、再び一定の距離を取った。彼女がすぐに対応したことに、ヴァイスシュトルムは顔を歪めて不満を(あら)わにした。

「させるか! 悪いけど、ヴァイスに楽させるつもりはないんだ」

「ちぇっ……」

 口でそう言ったヴァイスシュトルムはしかし、不気味な笑みを顔に浮かべた。仕込みは上々、後は上手く芽吹いてくれるか、と。

『先頭は6番、ラディカルキャット。続いて2番ヴァイスシュトルム、その横並んで9番ナイトメアドリーム。団子状態のまま阪神レース場外回り、第三コーナーに入っていきます』

 囲まれたまま第3コーナーを終え、第4コーナー半ばまで来たところで、ヴァイスシュトルムを囲んでいたナイトメアドリームとスウィートメモリーがやや体勢を崩した。それを確認して口元を歪めたヴァイスシュトルムは、更に速度を少し上げる。勿論、それに対応しようとしたラディカルキャットだが、彼女の加速も鈍ってきていた。

「苦しそうだね? 思ったよりも速く走ることになって、予定してたスタミナ配分ができなかったのかな?」

「ぐっ……ヴァイス……性格悪すぎ……っ!」

 悔しそうにするラディカルキャットに迫りつつ、ヴァイスシュトルムはタイミングを計る。もうすぐ第四コーナーも終わり。残すは直線と坂のみだった。

 ならば勝負所はここしかないと、ヴァイスシュトルムはラディカルキャットとナイトメアドリームの隙間から抜け出した。

「性格悪くてごめんね、ラディ」

「ああああっ!」

 ラディカルキャットの悔しそうな声を背に、ぐんぐんと加速するヴァイスシュトルム。そのすぐ後ろにはノーブルライトが着いてきていた。

『ここで抜け出したヴァイスシュトルム! ノーブルライトもそのすぐ後ろについて行きます! ノーブルライトは間に合うか! 仁川の坂を駆け上がるヴァイスシュトルム! 脚色は変わらないぞ!』

 第四コーナー終わりからピタリとヴァイスシュトルムの背を追うノーブルライトは、懸命に追いすがる。ここで勝たないとメイクンリリーに置いて行かれる。ノーブルライトは、それだけはなんとしても避けたかった。

「っ……うああああっ!」

「ノーブルっ! ……負けて、たまるかあぁっ!」

『並んだ並んだ! ノーブルライト、ゴール前でヴァイスシュトルムに並びました! ヴァイスシュトルムか! ノーブルライトか! 今二人並んでゴールイン!』

 ほぼ同時にゴール板を駆け抜けた二人だったが、僅かにヴァイスシュトルムの方が速かった。

「やった……やった!」

 嬉しそうに観客席に手を振ったヴァイスシュトルムは、ざわめく観客席の様子に首を傾げる。そして、観客の視線の先、掲示板に顔を向けると、そこに表示されている文字に茫然と立ち尽くした。

「……え?」

 そこには、「審議」と点灯し、着順が真っ黒のままの掲示板があった。

『ヴァイスシュトルム、ヴァイスシュトルムだ! ヴァイスシュトルム初のGⅠの大舞台で見事一番にゴール板を駆け抜けた! しかし、このレースは審議です』

 声を弾ませた実況者だったが、審議と点灯した瞬間、静かに様子を見守る。それは観客達も同様で、先程まで熱気に包まれていた阪神レース場は、不気味なほど静かになっていた。

 

『お知らせいたします。第一位に入線した2番ヴァイスシュトルムは、第四コーナー終りにて14番ノーブルライトの進路を妨害したため、二着に降着といたします。そのため、第二位に入線した14番ノーブルライトを一着とし、2番ヴァイスシュトルムを二着へと変更いたします。なお、三着以下のウマ娘の順位に変更はありません』

 

 

 ヴァイスシュトルムのGⅠ初勝利はお預けとなってしまった。降着となった原因は、第四コーナーでヴァイスシュトルムが抜け出す際に、全く同じタイミング、同じコース取りで抜け出したノーブルライトの進路を塞ぐ形になってしまったことによる「ヴァイスシュトルムの斜行」だった。

 全く同じタイミングで同進路に抜け出した結果、僅かに先行していたヴァイスシュトルムがノーブルライトの進路を遮って加速させなかった。つまり、斜行して後続ウマ娘の進路を妨害したという判断を下されたのだった。神谷はすぐにURAに対して不服申し立てを行ったが、結果が覆されることはなかった。

 一番人気のヴァイスシュトルムが起こしたこの事件は、世間にも衝撃を与えることとなった。テレビでは何かと斜行事件が取り上げられ、それを引き起こしたヴァイスシュトルムを批判するもの、擁護(ようご)するものと様々だった。その議論はテレビだけではなく、ネットや新聞など多方面で行われた。

「……はぁ」

「囲まれて、抜け出したタイミングとコース取りが偶然同じだった……。それだけの事なんだが……、ついてなかったとしか言えないな」

「下手な(なぐさ)めはいいよ、トレーナーさん。私がヘマしただけだから……」

 弱々しく微笑んだヴァイスシュトルムは、神谷に心配をかけまいと気丈(きじょう)に振る舞う。しかし、神谷はそれを見て眉間にしわを寄せた。

「ヴァイスシュトルム……その」

「あ、ごめんトレーナーさん。私、先生に呼ばれてたのすっかり忘れちゃってた。……また明日、ね?」

 そう言い残すと、ヴァイスシュトルムは鞄の持ち手を肩にかけてさっと部屋から出て行ってしまう。後に残された神谷は、中途半端に出した手を静かに下げるしかなかった。

「トレーナーさん、駿川です。少しお時間よろしいでしょうか?」

「はい、どうぞ」

 ヴァイスシュトルムが退室してから何分か()った頃、理事長秘書の駿川たづなが部屋を訪ねてきた。

「実はですね……」

 たづなから聞かされた話に、神谷は目を見開き、それから詳しい話を聞かせて貰うことにしたのだった。

 

 神谷のトレーナー室を出てから、とぼとぼと学園内を歩いていたヴァイスシュトルムは、中庭にあるぽっかりと穴を開けた切り株の所まで無意識に歩いて来てしまっていた。

「……っ! 絶対に勝ちたかったのに……! いつも応援してくれる家族にも、勝負服を託してくれたレーゲンにも勝利の報告をしたかったのに……!」

 切り株の縁に手をついて叫ぶように心境を吐露(とろ)するヴァイスシュトルムの両眼からは、()()なく涙が溢れる。

「何よりも、私のトレーナーさんにGⅠのトロフィーをあげたかった……! っう……」

 それから先は言葉にもならず、ヴァイスシュトルムは只々(ただただ)声を上げて泣き続けるだけだった。

 

 

 ――東京都大田区・東京国際空港(羽田)――

『ミュンヘンからのルフトカーニッヒドイツ航空714便は、ただ今到着いたしました。LuftKranich German Airlines 714 from Munich is now Arriving』

 入国審査を終わらせ、ようやく到着ロビーにたどり着いたウマ娘の少女は、一つ大きく伸びをして凝り固まった体をほぐした。

Endlich sind wir angekommen. Das ist also Japan(やっと着いた。ここが日本かぁ。)

 到着ロビーをぐるりと見渡して、左手にバスのマークを見付けた少女は、バスの乗車券をスマホで確認してそちらの方へと歩き出した。

Geht es Weiße gut?(ヴァイスは元気にしてるかな?)

 そう呟いた少女は、とても楽しそうにしていた。




大変お待たせ致しました。ジュニア級最終話になります。

次回以降からはクラシック級でのお話となるので、また気長に待っていただければなぁと思います。

ヴァイスシュトルムに朝日杯FSを取らせるかどうかは悩みどころでしたが、結果的にはこうなっていました。

今回、主人公泣きすぎじゃね? と思ったそこの貴方。ワシもそう思う()

最後に登場したウマ娘の正体なども次回以降で判明するかと思うので、お楽しみに。

……え? 正体も何もバレバレだろうって? ハハハソンナバカナ


それではまた次回、お目通し頂けることを願っています。


Q.今回こんなに長くなったのなら、ファン大感謝祭を前後編にして、今回も分割すれば良かったのでは?

A.そ れ な


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯13.愁いと光明

『今年最後のレースとなるGⅠ、ホープフルステークス! 一等星の輝きを見せ、来年のクラシック戦線に名乗りを上げるのは一体誰だ!』

 有馬記念から二日後の火曜日。年内最後のGⅠレースが開催されるとあって、中山レース場は有馬記念よりは少ないとはいえ、多くの観客が足を運んでいた。

 神谷は観客席の一番前、コースと観客席を(へだ)てる塀の前に陣取ると、出走するウマ娘達を観察していく。

「やっぱりアクアスフィアが頭一つ抜けてるか……。いやでも、サファイアペガサスも大きく成長してるな。後は、ロードジュエリーにクイーンズホロー……。この二人がどこまで食らい付けるか、って所かな」

 ぶつぶつと呟きながらメモを取っていく神谷の顔には、楽しそうな笑顔が浮かんでいた。そんな神谷に後ろから近づく二人の人影があった。

「よう。精が出るな」

竜胆(りんどう)先輩、お疲れ様です! ……あー、その。沖野先輩は何で鼻血を両方の鼻から……?」

 声を掛けてきた竜胆に向き直った神谷は、竜胆と並んで現れた沖野の姿に引き()った顔をした。竜胆も心底呆れたような視線を沖野に向けると、大きく溜め息を()いた。

「ホープフルステークスの観戦に来てたウマ娘の太もも、まぁ、トモだな。それをベタベタ触って、後ろ蹴り食らったんだとよ」

「えぇ……」

 竜胆だけではなく、神谷からも冷たい視線を受けることになった沖野は、慌てて弁明を始めた。

「いやいや、違うんだって! 良い脚をしている娘が居たから、筋肉の付きとハリを確認しただけでだな、いやらしい意図なんか欠片もないんだって!」

「お前、ホントその内セクハラで捕まるんじゃないだろうな? 良い脚してるからってベタベタ触るもんじゃないとあれほど……」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ大の男に、周りの観客からは冷たい視線が向けられる。話の内容が聞こえたであろうウマ娘や、女性からの軽蔑(けいべつ)したような視線に、神谷は二人とは他人であるフリをすることにしたのだが、問答無用で巻き込まれ、周囲から冷ややかな視線を向けられる羽目になるのだった。

 

 発走時間が(せま)り、場内も段々熱気を帯びていく。発走を心待ちにしている他の観客達と同じように、神谷達三人もゲートに注目していた。

「やっぱりアクアスフィアが一番仕上がってるな。サファイアペガサスも前回と比べると成長は見られる分悪くはないんだが、アクアスフィアと比べるとどうもなぁ」

 竜胆の評価は先程の神谷と全く同じだった。やはりこのレースは、アクアスフィアが頭一つ抜けている。それを再確認した所で、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。

「いよいよか。前評判通り、アクアスフィアの一人勝ちか、はたまた伏兵が差すか……」

 

『最後に12番グレアダイアモンドがゲートに入ります。GⅠホープフルステークス、今スタートしました!』

 ゲートが開くと同時に飛び出すウマ娘達。横一線に並んだスタートとなり、激しい先行争いなども起こらずにそれぞれが得意とするポジションに綺麗(きれい)に収まったようだった。アクアスフィアの一挙一動を、どのウマ娘も注視しているかのような立ち上がりだった。

『大きな出遅れもなく、綺麗に横一線のスタートとなりました。7番ラッキーフィールドがスーッと上がってハナに立ちます。4番アクアスフィアはその後ろ。その隣12番グレアダイアモンド、3番クイーンズホローはアクアスフィアの真後ろに付きました。二番人気、9番サファイアペガサスは最後方からのレースとなりそうか。第二コーナー終わって1000mの通過タイムは一分二秒六、ややゆったりとしたペース』

 全員がアクアスフィアの様子を(うかが)いながらの展開となったレースは、向こう正面でも大きな動きはないまま、早くも第三コーナーに差し掛かる。ここで、最後方に陣取っていたサファイアペガサスがやや前傾姿勢を取ってじわじわと先頭へと進出を始めた。

「あんな所からスパートを掛けて最後まで持つのか?」

「長距離向きだとは思うが、それだけスタミナに自信があるんだろうな」

 竜胆と沖野の驚き混じりの言葉に、サファイアペガサスをオペラグラス越しに見た神谷は、その表情からスタミナに自信があると見て取った。ロングスパートを掛けたサファイアペガサスは、楽しそうに前へ前へとと脚を進めていた。

『第四コーナーに入り、各ウマ娘の動きが激しくなっていきます! アクアスフィアはまだ動かないか、ラッキーフィールド先頭! 二番手にはグレアダイアモンド、クイーンズホローもそれに続く! ラッキーフィールドが十七人のウマ娘を引き連れて、最後の直線に入って来ます!』

 ラッキーフィールドを先頭に、集団が一塊(ひとかたまり)となって中山レース場の短い直線に入ってきた瞬間、神谷はもちろん、他の観客達も、レースをしているウマ娘達までもがアクアスフィアが消えたかのような錯覚を起こした。

『な……なんとなんと、アクアスフィアが先頭に立っています! アクアスフィア、集団を(ひき)いて坂を上って行く! 集団を抜け出したサファイアペガサスが懸命に追うが差が縮まらない! アクアスフィアだ! アクアスフィアだ! 今堂々とゴールイン! 圧巻の走りでホープフルステークスを制したのはアクアスフィア! 鮮烈な輝きを見せつけ、クラシックへの第一歩を踏み出した! 二着はサファイアペガサス、三着にはグレアダイアモンドが入っています!』

 瞬きの間にコース上から消え、再び現れた時には先頭に立っていたアクアスフィアは、坂をまるで平地のように駆け抜け、勢いそのままにゴールへと吸いこまれていった。あまりの早業(はやわざ)に、観客席からは喝采ではなく、困惑と歓声とが複雑に入り交じった(どよ)めきが上がっていた。

「……とんでもないウマ娘だな。一瞬コースから消えたよな?」

「消えたなぁ……いや、本当に消えたわけじゃないと思うが、消えたなぁ……」

 沖野の乾いた笑い混じりの感想に、神谷は言葉が見つからなかった。結果は降着だったとはいえ、フューチュリティステークスでヴァイスシュトルムが見せた走りは、来年のクラシックでも間違いなく上位に食い込める素晴らしい物だった。これなら、皐月賞、日本ダービーの二冠も夢じゃないと、手応えを感じてさえいた。しかし――。

 アクアスフィアが見せた走りは、そんな幻想を打ち砕くには充分以上のものだった。

「『人の夢と書いて儚い』……かぁ」

「どうした急に」

「いや……、とんでもない()がクラシック路線に駒を進めたなぁ、と」

 神谷の悄気(しょげ)たような声に、顔を見合わせた竜胆と沖野は、神谷の背中を慰めるように叩くと、悄気たままの神谷を連れて中山レース場を後にした。

「何にしても、これで年明けまでレースはないし、今晩の忘年会は呑むぞ!」

「それに、神谷にはヴァイスシュトルムをどうやって口説き落としたのか教えて貰わないとな!」

「っな、そんな人聞きの悪いことしてないですよ!」

「やかましい! 優秀な美少女ウマ娘を口説き落とした手腕を共有して、そのきっかけになった先輩孝行をだな……!」

 騒ぎながらレース場を後にする男三人には、先程までの暗い雰囲気は見当たらなくなっていた。

 

 トレーナー達の忘年会で竜胆と沖野にしこたま呑まされた神谷は、ふらふらとした足取りでトレセン学園内を彷徨(うろつ)いていた。タクシーで正門まで戻ってきたのは良い物の、酔っ払ったことで方向感覚を失っていた神谷は、タクシーを降りてからトレーナー寮のある方向ではなく、トレーナー室のある学園内に向かっていた。

「うーん、こんなに階段があったっけ……? それに、やけに廊下が広いなぁ」

 神谷が今居る場所はトレーナー寮ではなく、トレセン学園内なのだから廊下が広いのも当たり前の話なのだが、正常な判断力を失うほどに酔っ払った神谷は知る(よし)もない。千鳥足でよたよたと歩き続ける神谷は、体が覚えているのに任せて廊下を歩く。そうしてたどり着いた扉の鍵を開けようとして、家とは異なる鍵の感覚に神谷は違和感を覚えた。

「ん~? こんな感触だったか?」

 普段と違う感覚を(いぶか)しがる神谷が扉を開けて電気を()けた先は、よく見慣れたトレーナー室だった。

「あ~……こっちに来ちまったのか……まぁ、良いか。こっちでも寝られるし」

 そう独りごちると、神谷は部屋に入って暖房の操作盤を弄る。暫くして低いモーター音と共に暖かい風を送り始めた暖房に満足して、神谷は部屋の奥へ足を向けた。ソファを今日の寝床とすべく、厚手の毛布をクローゼットから取り出し、鼻歌交じりにソファに歩み寄る。神谷が正面に回り込むと、そこには既に先客がいた。

 その先客は、薄手のブランケットに包まりながら、まるで猫のように丸まって寝息を立てていた。

「……ああ、ヴァイスシュトルムもここにいたのか」

 そう呟いた神谷は、何故ヴァイスシュトルムがとっくに寮の門限を過ぎ去った時間にも(かか)わらず、ここにいるのかを深く考えることもないまま、向かい側のソファに寝転がり、あっという間に深い眠りに落ちていた。

 再び動く者の居なくなったトレーナー室には、二人分の寝息と規則正しい時計の音。それから、神谷の鞄の中で震える携帯の着信音が響いていた。

 

 

 今年最後のレース中継を栗東寮の食堂で見ていたヴァイスシュトルムもまた、ホープフルステークスでアクアスフィアが見せた走りに衝撃を受けていた。この前、自分が出走した朝日杯フューチュリティステークスでは、斜行からの二着降着という残念な結果に終わったものの、走り自体はそう悪くない物だったと自負していた。しかし、今日アクアスフィアが見せた走りは、ヴァイスシュトルムのそんな自信を文字通り粉砕した。

「……スフィアは軽々とあの坂を登れるんだ」

 ぽつりと呟いたヴァイスシュトルムは茫然自失といった様子で、ふらふらとした足取りでそのまま寮を出て行った。

 

 あてもなく彷徨(さまよ)い歩いていたヴァイスシュトルムは、神谷のトレーナー室に明かりが点いていないことを確認して、がっかりとした。そういえば、中山レース場に直接観戦しに行った後、そのままトレーナー達の忘年会に出席すると昨日話していたような気がする。

 そう思い出したヴァイスシュトルムは、溜め息を吐いて再び学園内を歩き始めた。いくら合鍵でトレーナー室に入れるとはいえ、たった一人でだだ広い部屋に居たいとは、今のヴァイスシュトルムには思えなかった。

 

 結局、学園内を方々(ほうぼう)歩き回った末に、ヴァイスシュトルムがたどり着いた先は屋上だった。日がとっぷり暮れて、ますます寒さを増した薄暗い屋上に漂ううら寂しさが、今のヴァイスシュトルムには心地良かった。

 いつかのように屋上から遠く見える街並みの灯りをぼんやりと眺めるヴァイスシュトルムは、その実、何も目に映していなかった。彼女の脳裏(のうり)にはホープフルステークスの映像が常に再生されており、それにずっと気を取られていた。彼女の脳には、とてもじゃないが今目に映っている風景を処理する余裕がなかったのだ。

 ヴァイスシュトルムの頭で延々と再生される映像の中では、アクアスフィアが中山レース場を(かろ)やかに駆けていた。

 中山レース場最後の直線に入る瞬間、まるで瞬間移動やワープでもしたのではないかと、思うほど鮮やかに先頭へと躍り出たアクアスフィア。彼女がゴール直前にある急坂を、まるで平地かのように駆け抜けた姿は、きっと新聞やテレビ、ネットニュースを(にぎ)わす事だろう。なんなら、もう既に賑わっているのかもしれない。

「……はぁ」

 頭の中で幾度(いくど)となく繰り返される映像に溜め息を吐いて、塀の上に置いていた腕に頰を乗せたヴァイスシュトルムは、再び街並みに目を向ける。今度こそ、その瞳に街の灯を映した彼女は、しばらくそのままの姿勢で眺め続けたのだった。

 

 

 ドイツ生まれで比較的寒さに強いヴァイスシュトルムも、一時間も()てば風を(さえぎ)る物のない屋上で吹き(すさ)ぶ、骨まで凍えさせるかのような冷たい風に耐えきれなくなった。歯をカチカチと鳴らして両腕で体を抱きながら、急いで暖を取れる場所とヴァイスシュトルムが考えた先は、神谷のトレーナー室しかなかった。

 寒さに震える指で何とか鍵を取り出し、鍵穴に鍵をうまく差し込めずに数分程格闘することになったとはいえ、ようやく鍵を開けたヴァイスシュトルムは、すぐに部屋の暖房のスイッチを入れる。ソファに畳んであった薄手のブランケットに包まり、部屋が暖かくなるまでソファに丸まっていると、やがて部屋は暖かくなっていった。

「ふぁぁ……」

 体が温まり、部屋も心地良い暖かさになってきた頃、瞼が落ちてくるのを防げなくなったヴァイスシュトルムは、チラリと時計に目をやる。時計は縦一直線に長針と短針が並び、寮の門限まで少なく見ても二時間はあった。

「……少しくらい寝ても大丈夫だよね」

 言うが早いか、ヴァイスシュトルムはトレーナー室の扉を施錠し、部屋の灯りを落とした。光がなくなり、暗くなった室内で転ばないよう慎重に歩いてソファまで戻ったヴァイスシュトルムは、薄手のブランケットに再び包まるとソファに寝転がった。

 暫くして再び襲い来る睡魔に抗うことなく身を委ねた彼女は、ほんの一瞬だけホープフルステークスのことを思い返したが、それもすぐに思考の埒外(らちがい)へと消え去ってしまった。

 睡魔に負けたヴァイスシュトルムにできることは、真っ暗になった暖かな部屋で、穏やかに寝息を立てることだけだった。

 

 

 栗東寮では、門限を大幅に過ぎてもなお戻ってこないヴァイスシュトルムについて、ちょっとした騒ぎになっていた。スマホを寮の部屋に置いたまま姿をくらましたヴァイスシュトルムを(さが)すべく、彼女と同室のサザンエースや仲の良いエイシンフラッシュ、それにフジキセキやエアグルーヴらが方々探し回ってなお見つからず、彼女の担当トレーナーである神谷とも連絡が取れない(正確には、神谷を除いた他のトレーナー達とも連絡が中々付かないのだが)ことに、いよいよ彼女達も冷静さを欠き始めていた。

「ええい、ヴァイスめ……、一体どこに……」

「いい加減日も変わるのに……。この寒さで凍えてなければ良いのだけど」

 苛々(いらいら)とした様子で右親指の爪を噛むエアグルーヴは、再びヴァイスシュトルムが行きそうな所を考える。

 彼女が寮を抜け出した時はいつも、トレセン学園の屋上かその近くに必ず居たことから、学園の外である河川敷や神社、公園などは除外しても良いだろう。同じ理由から、街の外に出ているとも考え難い。であるならば、やはり学園内のどこかに居るはずなのだ。

「やはり、もう一度トレーナー室に居ないか確認するべきじゃないか?」

「うーん……。トレーナー室の鍵がないと、さっきと同じ結果にならないかな……?」

 エアグルーヴの言葉に、フジキセキは神谷と連絡が付いていないことに懸念(けねん)を示した。もしも空振りに終われば、いよいよヴァイスシュトルムの体調が心配になる。ちらりと窓に目をやったフジキセキは、八の字を寄せた。

 彼女が視線をやった窓の先では、見慣れた景色に雪が深深と積もっていく。その様が、なおのことフジキセキの不安をかき立てていた。

「しかし、学園内のめぼしい場所には居ないと考えて良いんじゃないか? ヴァイスはバカな行動はするが、何時までも凍えるような場所で過ごすようなバカではない。フジ、お前もわかっているだろう?」

「それは……、その通りだけど……」

 普段の快活な様子は鳴りを潜め、歯切れも悪く返事をするフジキセキに、エアグルーヴは苛立ち混じりの溜め息を吐いた。

 何度目かの剣呑な空気に、サザンエースも居心地悪そうに椅子の上で身動(みじろ)ぎした。夕方、ヴァイスシュトルムが悄然(しょうぜん)とした様子で食堂から出て来た時、サザンエースは彼女とすれ違っていた。

 様子がおかしいとは思ったが、人は誰しもそっとしておいた方が良い時もあると知っているサザンエースは、ヴァイスシュトルムの背中を見送るだけに留めたのだった。

 寮の外を散歩して気分転換できれば、すぐに帰ってくるだろう、等と呑気に考えていたあの時の自分を叱り飛ばしたい気分だった。

「はぁ……ヴァイスは一体どこ行ったんだろ……」

 

 

 ソファで丸くなっていたヴァイスシュトルムは、体をぶるりと大きく震わせた。

「……うぅ、頭痛い。今何時だろ……」

 ぼんやりとしたまま、スマホをスカートのポケットから取り出そうとして手を入れたところ、そこにあるはずの感触はなかった。首を傾げて数十秒考え込んだヴァイスシュトルムは、寮の自室に置いてきたことをようやく思い出し、重々しい溜め息を吐いた。

「あー……やっちゃった……。またサザンに『スマホは持ち歩かないと意味ないでしょうが!』って怒られるやつだこれ……」

 苦々しい表情を浮かべたヴァイスシュトルムの脳内では、既に怒り顔のサザンエースがガミガミと小言をヴァイスシュトルムに伝えてきていた。頭を振って想像上のサザンエースの顔を霧散させたヴァイスシュトルムは、改めて時間を確認しようとソファの座面に両手を付いて起き上がろうとして、違和感に気付いた。

「……あれ? 部屋の電気が何で点いて……?」

 彼女が眠ったときには消したはずのトレーナー室の照明は、明々(あかあか)と点灯していた。

「……まさか」

 ヴァイスシュトルムが恐る恐るといった風にソファの正面に目を向けると、そこにはヴァイスシュトルムの予想通り、厚手のブランケットに包まって眠りこける自分の担当トレーナー、神谷の姿があった。

「……」

 ヴァイスシュトルムはあまりの衝撃に、魚のように何度も口を大きく開けたり閉じたりを繰り返した。ぱくぱくと何度も開閉させる口からはしかし、何も言葉を(つむ)ぐことができない。

 それに対する神谷は、自分の担当ウマ娘がかなりの衝撃を受けていることなど露知らず、高鼾(たかいびき)をかき続けていた。

 神谷から漂うアルコールにも似た臭いに顔をしかめたヴァイスシュトルムは、彼が起きる気配がないことに(いささ)か平静を取り戻した。それから彼女は目的の時計に目をやって時刻を確認し、今度こそ悲鳴を上げた。

Schlecht, schlecht, schlecht, schlecht!(やばいやばいやばいやばい!) Was soll ich tun!?(どうしよう!?) Ich kann nicht glauben, (こんな時間まで)dass ich bis zu dieser Stunde geschlafen habe!(寝ちゃうなんて信じられない!)

 慌てふためきながらもトレーナー室の電気を消し、きちんと扉を施錠したヴァイスシュトルムは大急ぎで栗東寮へと駆けだした。

 外へと飛び出して月光を身に受けながら疾駆するヴァイスシュトルムは、一枚の絵になるような美しさであった。しかし残念なことに、それを目にする者は誰一人として居なかった。

 

 

 翌日、ヴァイスシュトルムは暗い顔をして栗東寮の掃除を行っていた。

 ヴァイスシュトルムが昨晩、日付が変わってから栗東寮の玄関にたどり着いたと同時に、寮から不安そうな顔をした二人のウマ娘、フジキセキとエアグルーヴが姿を現した。目を丸くした二人に頭を深く下げて謝罪したヴァイスシュトルムは二人から酷く怒られることを覚悟していた。だが、心底安堵したフジキセキに無言で抱きしめられエアグルーヴからも「心配させるな、たわけ」とだけ言われて完全に拍子抜けしてしまった。

 その後、ちょっとした注意と門限破りの罰として、都合二日に渡る栗東寮内の掃除を言いつけられて今に至る。

「まさに陰陰滅滅(いんいんめつめつ)といった様子だな、ヴァイス」

「ルドルフ……」

 誰も居ない談話室の掃除を終え、ソファに座って小休止していたヴァイスシュトルムは、後ろから声を掛けてきた人物にばつが悪そうに応えた。それを気にした様子もなく、シンボリルドルフはヴァイスシュトルムの隣に腰掛ける。

「ふむ……その様子だと、反省は十分したみたいだな」

「……まぁ、ね。フジにもエアグルーヴにも、他にも大勢に迷惑掛けちゃったから」

 ヴァイスシュトルムは弱々しく笑みを浮かべると、改めてシンボリルドルフに向き直った。

「ルドルフにもごめん。心配してわざわざ様子見に来てくれたんでしょ?」

「いいや、談話室で(くつろ)ごうとしただけだよ」

 そう(うそぶ)くシンボリルドルフに対し、ヴァイスシュトルムは笑みを浮かべると続けた。

「ふぅん? Obwohl du mich schon seit einer Stunde beobachtest?(一時間前からずっと私の事を見ていたのに?)

「……Ich weiß nicht, wovon zum Teufel Sie reden(一体、何を言っているのかわからないな)

 ヴァイスシュトルムの追求に涼しい顔をして受け流すシンボリルドルフは、表面上は普段と変わらない様子だったが、視線は泳いでいた。そんなシンボリルドルフにヴァイスシュトルムはニコニコと微笑むばかりだった。

「まぁ、いいや。それにしても、ルドルフってドイツ語も話せたんだ? 英語とフランス語ができるのは知っていたけど」

「ヴァイスのように欧州圏の留学生と話す機会も多いから、自然とな。恪勤精励(かっきんせいれい)、これも生徒会長の(つと)めというものだ」

「ほんと、そう言うとこだよ」

 (あき)れたようにシンボリルドルフにそう言って、談話室のテレビを点けたヴァイスシュトルムは、手元のリモコンでチャンネルを変える。

『……最優秀ジュニア級ウマ娘の受賞は、デビューから無敗でGⅠウマ娘となったアクアスフィアがほぼ確定したと言っても過言ではないでしょう』

 たまたま変えた情報バラエティー番組で、最優秀ウマ娘の受賞についての特集を組んでいたらしい。画面の下部には視聴者からのリアルタイムコメントを表示しているらしく、そこにはアクアスフィアで確定だと言うコメントが溢れていた。

『そうですね。朝日杯フューチュリティステークスでヴァイスシュトルムの斜行がなければ、どちらが受賞するかわからなかったとは思いますが……たらればの話をしてもしょうがないですね』

 コメンテーターの悔しそうな顔と、コメント欄に流れていった数少ない自分への応援コメントに、ヴァイスシュトルムは目を見開く。それを見たシンボリルドルフは真面目な顔をして口を開いた。

前程万里(ぜんていばんり)、君の挑戦はまだ始まったばかりだ。来年から始まるクラシックロードも安穏無事(あんのんぶじ)とはいかないだろう」

 そこで一度言葉を切ったシンボリルドルフは、ヴァイスシュトルムが自分をじっと見つめて話を聞いていることを確認して、口元を(ほころ)ばせた。

「しかし、君が朝日杯FSで見せた走りは見事なものだった。結果こそ残念だったが、そのことに失望落胆(しつぼうらくたん)し続けるのはここまでだ」

 はっとしたようにヴァイスシュトルムは目を見開く。自分が負けてからずっと、そのことが頭の片隅を陣取って居たことに、目の前に居るシンボリルドルフは気が付いていたらしい。恐らく、フジキセキやエアグルーヴ、サザンエースなども気が付いていたことだろう。

「ヴァイスシュトルム、君がクラシックロードで勇往邁進(ゆうおうまいしん)する様を楽しみにしているよ」

 微笑みを浮かべてそう言ったシンボリルドルフは、ソファから立ち上がると談話室の出入り口へと歩く。慌ててソファから立ち上がったヴァイスシュトルムは、シンボリルドルフの方へ体を向けた。

「ルドルフ!」

「うん?」

 振り返ったシンボリルドルフに、呼び止めたヴァイスシュトルムは何かを言おうとして口を開け、再び閉じた。何を言おうとしたのか自分でもわからないが、何かを言わなければならない気がしていた。

「……」

 ヴァイスシュトルムは一度大きく息を()いてから、黙って待っているシンボリルドルフに再び向き合う。そして、決意を込めて宣言した。

「クラシック級ではあんな負け方しないし、絶対に結果を残すから見てて。後、ルドルフに絶対レースで勝つ」

 ヴァイスシュトルムの宣言に目を(またた)かせたシンボリルドルフは、破顔一笑したあと挑発的とも取れる顔をしてみせた。

「ふふっ、君がこの寒気凛冽(かんきりんれつ)な冬を乗り越え、百錬成鋼(ひゃくれんせいこう)の努力を見せてくれることを楽しみにしているよ」

「言われなくても」

 シンボリルドルフの言葉に負けじと返したヴァイスシュトルムの顔は、悩みが解消したようで晴れ晴れとした顔をしていた。シンボリルドルフは彼女の顔から憂いが払拭(ふっしょく)されたことに内心安堵し、軽口を叩いた。

「それにしても、やはり笑顔の君は氷肌玉骨(ひょうきぎょっこつ)だな。いや、天姿国色(てんしこくしょく)と言った方が正しいだろうか……。何にせよ、君がクラシック級で見せる姿が楽しみだ」

「っな……!」

 そう言い置いて、今度こそ談話室を出て行ったシンボリルドルフの背中を見送ったヴァイスシュトルムは、顔を真っ赤に染めて立ち尽くしていた。いくらヴァイスシュトルムが容姿を()められ慣れているとは言え、シンボリルドルフやフジキセキに面と向かって褒められることへの耐性はなかった。

「……何でルドルフ達は、臆面(おくめん)もなくキザったらしいことを言えるかなぁ」

 そう言ったヴァイスシュトルムの脳裏には、シンボリルドルフとフジキセキの顔が浮かんでいた。やれやれと(かぶり)を振り、掃除の続きに戻るヴァイスシュトルムはしかし、耳と尻尾に現れる喜びを隠し切れてはいなかった。




一カ月ぶりですってよ奥さん。時の流れは早いですわね。

いやほんと、冗談抜きで早すぎない??? もう年末年始がすぐそこまで来てるんだけど??? 2021年がもうすぐ終わるとか信じたくない……。

そんなこんなで13話でごぜーますわよ。楽しみにしていた方には、お待たせしすぎたぶん、楽しんで頂けたらなぁと思いながら、次もまた読んで頂ければと思います。

次の話こそは物語の中でも年を越してれば、と思います。

それではまた次話で会いましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯14.願いと夢

 栗東寮の罰掃除一日目を終わらせたヴァイスシュトルムは、昨晩トレーナー室で眠りこけていた神谷の様子を見るべくトレセン学園内を走っていた。

 冬休み期間真っ只中のトレセン学園にはウマ娘の姿は殆ど見えず、学園内にいるウマ娘達の多くは、年が明けてすぐ行われる「GⅢ京都金杯」か「GⅢ中山金杯」等、新年早々のレースに出走予定で、それに向けてトレーニングを行うシニア級ウマ娘(たち)だった。

 ヴァイスシュトルムのようなクラシック級ウマ娘は、すれ違った中に片手(五人)もいるかどうか位のものだった。

「やっぱり、冬休みだと帰省する子も多いよね……」

Es ist nicht leicht, wieder zu Hause zu sein.(気軽に帰省できないよね。) Ich muss viel Zeit in Flugzeugen verbringen,(長時間飛行機に乗らないといけないし、) und vor allem brauche ich einen Reisepass. (何よりパスポートが必要だし。)Nicht wahr? Weiße(そうでしょ? ヴァイス)

Das ist richtig! Und es kostet eine Menge Geld.(そうなの! それにお金も結構掛かるしね。) ......!?」

 独り言に対して、返事を貰ったヴァイスシュトルムは、返事をした人物と同じようにドイツ語で会話を続けてから驚いたように振り返った。

Lange nicht mehr gesehen, Weiße!(久しぶり、ヴァイス!)

「...... Regen? Lüge, wirklich?(レーゲン? 嘘、本当に?)

 満面の笑みを浮かべて手を振る彼女は、ヴァイスシュトルムもよく知っているウマ娘で、それと同時に日本にいるはずのない人物だった。

 信じられないものを見たといった様子のヴァイスシュトルムに対して、目の前に立つシュプリュレーゲンはむっとしたように頰を膨らませると、ヴァイスシュトルムにずいと身を乗り出して迫った。

Hältst du mich für einen Geist?(私が幽霊にでも見えるの?)

Nein, das tue ich nicht.(そうじゃないけど)

Warum dann?(じゃあ、どうして?)

Ich konnte es nicht glauben.(信じられなくて)

 ヴァイスシュトルムの言葉に顔を(しか)めていたシュプリュレーゲンは、まるで夢を見ているかのような反応を示したヴァイスシュトルムに溜飲(りゅういん)が下がったのか、打って変わって得意気に胸を張った。それを見たヴァイスシュトルムは、成長こそすれど昔と変わらないシュプリュレーゲンに懐かしさを覚えた。

「……変わらないなぁ」

 ヴァイスシュトルムの口からポツリと(こぼ)れ落ちた言葉は、誰に聞かれるでもなく空気に溶けていく。ドイツ出身の二人が母語で話す廊下には、穏やかでゆったりとした時間が過ぎていった。

 

 

 喉の違和感を覚えて目を覚ました神谷は、そこが自室でないことに首を捻る。どうしてトレーナー室にいるのか思い出そうとしても、昨晩の忘年会で竜胆(りんどう)から注がれる酒の回数が五回を過ぎた辺りから記憶が曖昧になっていた。

「ゴホッ……あー、喉は痛いし頭も痛いしで最悪だな……」

 ぶつぶつとぼやきながら、うがいをしようとソファーから立ち上がった神谷は、室内の電気を()けてから流し台へと足を向ける。冷水で顔を洗って眠気を飛ばし、うがいをして多少はマシになった喉の痛みを抱えたまま、事務机の上にずっと置いていた大型の封筒を手に取る。

「それにしても、この娘がスタッフ研修生科に転入してくるとは思いもしなかったな……」

 封筒には、何枚かの書類とシュプリュレーゲンの願書が入れられていた。彼女の願書を眺めながら、神谷はこれをたづなから受け取った時のことを思い返す。

 朝日杯フューチュリティステークスの後、ヴァイスシュトルムが退出してから数分後、部屋を訪ねてきたたづなから渡されたものが、シュプリュレーゲンの願書が入った封筒だった。編入先はスタッフ研修生科、進路希望の第一候補がトレーナーということも相まって、一年目の新人トレーナーでありながら、重賞ウマ娘を輩出(はいしゅつ)した神谷の元でトレーナーとしての勉強をしていくことになったようだ。

 神谷としては、自分が過大評価されていると感じられる事もあって、たづなから話を聞いてすぐ理事長室まで足を運んだ。しかし、秋川やよい理事長は、神谷の言葉を聞くやいなや、こう告げてきた。

無謬(むびゅう)ッ! 神谷トレーナーが白眉(はくび)な事は、ヴァイスシュトルムの成績が物語っているッ! だからこそ、神谷トレーナーには彼女の事も任せたいッ!」

「にゃー」

 やよいが『適任ッ!』と書かれた扇子(やはり、理事長自ら書いているのだろうか?)を広げ、自信満々に胸を張る姿に圧倒された神谷は、大人しくシュプリュレーゲンがトレーナー見習いとして週に何度か手伝いに来ることを了承した。

「それにしても、トレーナー見習いとして何を指導すれば良いんだ……? 普段の様子を見せれば良いのか?」

 普段の仕事を思い返して、何を教えるべきか頭を悩ます神谷は、良い案が何も思い浮かばず頭を振る。

「駄目だ。何も思い浮かばん」

 神谷は、手に持った書類を再び封筒にしまい、事務机の上に置いてあるブックスタンドに立てかけると、自室に帰るべく立ち上がった。

 室内の電気を消し、扉を開けて出ようとした瞬間、誰かにぶつかった衝撃で室内に一瞬引き戻される。

「っと、すみません」

「ごめんなさい、トレーナーさん」

 神谷が謝罪するとほぼ同時に、相手からも謝罪があった。聞き慣れた声に神谷が視線を少し下げると、そこには自分の担当ウマ娘ともう一人、先程神谷が確認した願書に貼られていた写真のウマ娘、シュプリュレーゲンが並んで立っていた。

 

 

 トレセン学園に来た理由は、ヴァイスシュトルムの担当トレーナーに直接挨拶するため、といまいちヴァイスシュトルムにはピンとこない回答を寄越(よこ)したシュプリュレーゲンを連れて、ヴァイスシュトルムはトレーナー室へとやって来ていた。室内にはまだ電気が点いており、神谷が帰っていないことが確認できた。扉を開けようとヴァイスシュトルムが手を伸ばすと同時に、彼女が開けようとした扉がひとりでに開き、中から現れた人物とヴァイスシュトルムはぶつかった。

「ごめんなさい、トレーナーさん」

「っと、すみません」

 神谷と同時に謝ったヴァイスシュトルムは、部屋から出てきた神谷に向き直る。丁度帰る寸前だったらしい神谷は、ヴァイスシュトルムとその隣に立つシュプリュレーゲンを見て驚いたように目を瞬かせていた。

「ごめんトレーナーさん。少しだけ良い?」

「あっ、ああ……」

 ヴァイスシュトルムの声に反応した神谷は、(うなが)されるままに再びトレーナー室の中へ引き返す。それに続いてヴァイスシュトルムとシュプリュレーゲンもトレーナー室へ足を踏み入れた。

 応接スペースでもあるソファーに仲良く並んで座った二人は、思い思いに室内を見渡した。特にシュプリュレーゲンはトレーナー室の隅々まで目を配り、楽しそうにしていた。

「ええと、指導トレーナーとして君に会うのは初めてだな。神谷輝征(かみやてるゆき)だ。知っての通り、ヴァイスシュトルムのトレーナーでこれからは君の指導トレーナーともなる。トレセン学園へようこそ、シュプリュレーゲン。至らない部分も多いとは思うがこれからよろしく頼む」

 神谷は手にいくつかの書類を持って二人と向かい合うように座り、シュプリュレーゲンに自己紹介を兼ねた挨拶(あいさつ)をした。彼の言葉に怪訝(けげん)な顔をしたヴァイスシュトルムは、神谷とシュプリュレーゲンを見比べる。そうこうしているうちに、シュプリュレーゲンが比較的流暢(りゅうちょう)な日本語で話し始めた。

「神谷トレーナー。私のトレーナー見習いとしてノ指導担当を引き受けて下さリ、ありがとうございマス。これカラよろしクお願いしマス。」

 二人が挨拶を交わす様を傍目(はため)に見ていたヴァイスシュトルムは、目を白黒させて思わず立ち上がっていた。

「ちょっ、ちょっと待って。レーゲンがトレーナー見習いって何!? トレーナーさんも知ってるみたいな口ぶりだけど!? というよりもレーゲンっ! 日本語喋れたの!?」

 慌てふためくヴァイスシュトルムに、神谷はシュプリュレーゲンへ視線を向ける。てっきりヴァイスシュトルムには、彼女自身の口からトレーナー見習いとしてスタッフ研修生科に転入すると知らせているものだと神谷は思い込んでいたのだ。しかし、神谷の視線を受けたシュプリュレーゲンは悪戯(いたずら)っぽく微笑むだけだった。その様子に、神谷はため息を()きたくなった。これからは、ヴァイスシュトルムとはまた違う意味で大変になることが予感させられた。

 

 結局、神谷がヴァイスシュトルムに対して、シュプリュレーゲンがここにいる理由を一から説明することになった。

 シュプリュレーゲンは、十一月末に競走ウマ娘を引退後、在籍していたバーデンバーデンにある「ドイツウマ娘トレーニングセンター学園スタッフ研修生科」に編入する事を希望していた。しかし、競技用シューズや蹄鉄などといったバ具の研究は、「日本ウマ娘トレーニングセンター学園スタッフ研修生科」の方がより進んでいると元担当トレーナーから聞かされ、トレセン学園に転入することを決めたのだった。

 シュプリュレーゲンにとって幸いなことに、転入試験自体は英語での受験が可能だった。とはいえ、日本出身のウマ娘やトレーナー達と円滑なコミュニケーションを取るためにも、日常会話程度の日本語力を要求されることに変わりはなかった。

 シュプリュレーゲンは、トレセン学園に来ると決めてから必死に日本語を勉強し、ある程度できるようになったところで来日を早めたのだった。

 この話を聞きながら、ヴァイスシュトルムは(うら)めしそうな視線を度々(たびたび)神谷に向ける。その視線を受ける度に、神谷は居心地悪そうにソファーに座り直すが、決してヴァイスシュトルムに目を合わせようとはしなかった。

「とにかく、来年からのトレーニングには毎回シュプリュレーゲンがトレーナー見習いとしてサポートに入ることになるはずだから、そのつもりでな。まぁ、最初の方はシュプリュレーゲンのこっちでの勉強のこともあるから、そんなにトレーナーとしての指導時間を取れないかもしれないけどな」

「……はぁい。トレーナーさんには後で色々と聞きたいことがあるから」

 耳を後ろへ伏せたままトレーナーに笑顔を向けるヴァイスシュトルムに、必死に顔をそらし続ける神谷。この二人の姿に、シュプリュレーゲンはとうとう笑いを(こら)えきれなくなった。腹を抱えて笑うシュプリュレーゲンに、神谷とヴァイスシュトルムは揃ってきょとんとした顔を向ける。その二人の仕草が面白かったのか、シュプリュレーゲンは輪をかけて笑い続けた。

 

 結局、たっぷり五分ほど笑い続けたシュプリュレーゲンは、笑いが治まった頃には息も切れ切れに、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返していた。

「レーゲンのツボがよくわからないんだけど、何が面白かったの?」

 半眼でシュプリュレーゲンを見つめるヴァイスシュトルムは、呆れた様子を少しも隠そうとしなかった。目が据わり始めたヴァイスシュトルムを横目に、神谷は手元の書類を整えると事務机に片付けるために立ち上がる。

「だっテ、トレーナーさんとヴァイスが……プフッ」

 再び笑い始めたシュプリュレーゲンに、ヴァイスシュトルムは心底呆れたようにため息を吐いた。

「君らは本当に仲が良いな」

「でしょ? レーゲンって昔からこうなの」

「そう言うヴァイスだっテ……ふふっ」

 言いかけて肩を震わすシュプリュレーゲンに、ヴァイスシュトルムは半眼で(にら)み付けて、彼女が本当に落ち着くまで放っておくことにしたらしい。何かを言いたげにするヴァイスシュトルムに、神谷は珍しいものを見たといった顔をしていた。

 ようやく笑いの波が引き、平静を取り戻したシュプリュレーゲンに、神谷は書類とペンを手渡した。

「これに君のサインを」

「はい。……これでいイ?」

 綺麗(きれい)なブロック体で(つづ)られたシュプリュレーゲンの名前を確認して、神谷はひとつ頷くとその書類を封筒に仕舞(しま)う。そうしてから、これで話は終わりだと言わんばかりに自身の荷物を手にかけ、二人を促してトレーナー室の外に出た。

「それじゃあ、今日の所はここまでだな。年明けのトレーニング開始日は、一月七日からを予定しているから忘れないように。シュプリュレーゲンの指導もその日から始めるつもりだから、そのつもりでな」

 そう二人に言い含めると、さっさと歩き去ってしまった神谷を見送ってから、ヴァイスシュトルムとシュプリュレーゲンは連れだって栗東寮へと歩き出した。

 久しぶりの再会で、話したいこと、聞きたいことはお互いに山ほどあった。

 その日の栗東寮は、ドイツウマ娘のちょっとした昔話で、夜が更けるまで(かまびす)しい声が絶えなかったのだった。

 

 

 新たな年を迎える頃、ヴァイスシュトルムは神谷とシュプリュレーゲンと共に近くの神社へ来ていた。ドイツ出身の二人にとってはなじみの薄い文化ではあるが、興味を引かれる物であったため、体験したいと神谷に引率を頼んだのだった。

「それにしても、アイネスも来れば良かったのに……」

「新年早々バイトに入っているとはな……。アイネスフウジンは少しくらい息を抜いても良いと思うんだがなぁ……。まぁ、そこが彼女の良いところでもあるんだから難しいもんだな」

 しみじみとそう呟いた神谷は、新年を目前にして屋台で賑わう参道を見渡す。にんじん焼きに綿あめ、たこ焼きにフランクフルトなど圧倒的に食が多い屋台に、新年最初の仕事が担当ウマ娘のカロリー管理になるトレーナーが多いのだろうなと、遠い目をしていた。

 神谷がどこか虚ろな様子でぼんやりと遠くを見ているのに気が付いたヴァイスシュトルムは、何となく、彼が失礼な事を考えているような気がした。それを裏付けるように、彼の視線は主に食べ物の屋台に(そそ)がれている。

(あ、まーたトレーニングのこと考えてる……。せっかく私たちと初詣に来てるのに、それはなくない?)

 せっかく自分達といるというのに、神谷はまたトレーニングや今考えなくても良いことに思考を奪われていると感じた瞬間、ヴァイスシュトルムの中で「面白くない」という不満が燻った。そして、気が付けばヴァイスシュトルムは、その不満を解消するかのように勢い良く尻尾で彼の裏腿を叩いていた。

「いってぇ!」

 突然裏腿に走った痛みに、神谷はしゃがみ込んで裏腿を労るように摩る。それから狼藉(ろうぜき)を働いてきた当人に目をやる神谷だが、ヴァイスシュトルムは無視を決め込んでいた。笑顔でシュプリュレーゲンと話しながらも、しゃがみ込んだ神谷に目で牽制をしてくるヴァイスシュトルムの姿に、彼は何も言えなかった。

 神谷は、裏腿の痛みが治まると大人しく彼女らの保護者に徹することにして、余計なことはなるべく考えないように努めたのだった。残念なことに、突然の出来事に先程まで考えていた仕事やトレーニングの事は吹き飛び、そのことを思い出す気力もなかった、とも言えるのだが。

 そんな二人の様子に、シュプリュレーゲンは頰を緩める。自分がレースに出ていた頃は、あえて手紙でやり取りをしていたため、ヴァイスシュトルムが一体どのようなトレーナーの元で、どういったトレーニングをしているのかと、気になってもすぐに知ることはできなかった。そのことに気を揉んで、自分のトレーニングが(おろそ)かになったこともあった。

 しかし、彼女から送られてくる返事の手紙に書かれていた神谷の姿は、ヴァイスシュトルムを色眼鏡で見ることなく、彼女の走りたいという欲求に真摯(しんし)に応えようとする好人物だった。

 トレーナーとしては経験が足りなくとも、ヴァイスシュトルムの事に関しては安心して任せられる人物だと、態々(わざわざ)取り寄せたヴァイスシュトルムのレース映像で知れてからは、彼女の心配よりも、昔のように彼女と一緒のレースで走りたいと思うことの方が多くなっていた。

(……残念なことに、私のその夢は叶わなくなってしまったけれど)

 シュプリュレーゲンは一度大怪我(おおけが)を負った足を一瞥(いちべつ)すると、それを振り払うように視線を上げる。視線の先に捉えたヴァイスシュトルムは、彼女が本当に信頼した人物にしか見せない、ちょっと我が(まま)で甘えたがりな姿を神谷に見せているところだった。

 他人に対して、酷く警戒することが常のヴァイスシュトルムが、神谷に対しては甘えられるほどに心を許していることにシュプリュレーゲンは一抹(いちまつ)の寂しさを覚えた。

 その思考に(かぶり)を振って、シュプリュレーゲンは彼女の隣に並ぶ神谷へと視線を移す。

(……ヴァイスの夢を近くで支えたいって二つ目の夢を、理事長さんは応援してくれた。そして何よりも、この人は、上辺だけの言葉で応援するとは決して言わなかった)

 シュプリュレーゲンは、神谷と彼に(じゃ)れ付くヴァイスシュトルムを視界に入れると、目を瞑って競走ウマ娘として現役の自分がその隣にいる夢想にふける。きっと、今とは全く違う景色が繰り広げられていたに違いない。そんな想像をかき消して、シュプリュレーゲンは再び目を開く。

 骨折した当初は、リハビリすれば元通りに走れると思っていた。しかし、いざ快復(かいふく)してみれば、(かつ)てドイツの至宝とまで呼ばれたキレのある走りは、全くできなくなった。リハビリを続ける間、骨折以前の感覚は結局一度として取り戻せないまま、日数だけが経過していくことに耐えられず、当時の担当トレーナーと相談した上で引退を決めた。

 引退を決めたことに後悔はない。しかし、ヴァイスシュトルムとターフの上で二度と勝負することはないという事実は、これから先も心の(しこ)りとして残るのだろうなと、シュプリュレーゲンは目の前で繰り広げられる光景を目にしながら漠然と考えていた。

(でも、ヴァイスやこの後に続く競走ウマ娘達を支え続けていきたいのは、(まぎ)れもない事実だから)

 彼女の頭に浮かぶ光景は、テレビで見たサウジアラビアロイヤルカップのゴールの瞬間だった。ヴァイスシュトルムとメイクンリリー、ノーブルライトの三人がゴール板をほぼ同時に駆け抜けた瞬間は、とてもGⅢとは思えないほどに興奮した。あんなにも熱いレースを見せられて、競走ウマ娘の世界から完全に足を洗うなんて選択肢は頭から吹き飛んでいた。あんな光景をすぐ(そば)で見たい。それが自分とその教え子なら……と、新たな夢が見つかった瞬間だった。

 大きく息を吐いたシュプリュレーゲンは、瞳に決意を(みなぎ)らせて前を見据える。その姿はまるで、現役の競走ウマ娘がここ一番のレース前に見せるそれと同じものであり、ある意味「オーラ」とも呼べるものだった。シュプリュレーゲンが放つ覇気を肌に感じながら、神谷は密かに安堵の息を吐く。

 彼女のやる気に満ちたその姿に、一先(ひとま)ずの懸念(けねん)事項が払拭(ふっしょく)されたことによるものだった。

 ウマ娘の本能とも言える、走る事への渇望(かつぼう)。それを奪われた競走ウマ娘が何を思うのかは、神谷には理解することができない。それは、人とウマ娘との違いによるものであるし、仕方のないことである。

 ウマ娘の走る事への執念は凄まじいものがあり、下手をすれば文字通り、体が壊れる限界まで駆け抜けてしまう娘もいる程である。それ程までに強い執着を持つ走りを失った――奪われたとも言えるかもしれない――シュプリュレーゲンが、トレーナーとして歩むことが可能なのか? 神谷は、それがずっと気に掛かっていた。しかし、今のシュプリュレーゲンの顔を見て、彼は安心したのだ。ああ、これならきっと大丈夫だろうと。

 

「三冠を取れますように! 後、トレーナーさんが焼き肉に連れて行ってくれますように」

「……(ヴァイスやトレーナーさんが教える他の娘達を支えられますように)」

 いざ参拝となると、彼女達は思い思いに願いを祈り始める。真剣に祈る二人に随伴(ずいはん)する神谷もまた、彼女達の道行(みちゆき)が険しくとも実り多いものになることを真剣に願うのだった。

 

 

 競走ウマ娘が一生に一度しか走ることを許されないクラシック戦線。

 その開幕の足音は、徐々に迫ってきていた。

 




新年明けましておめでとうございます。今年もヴァイスシュトルム達をよろしくお願いします!

って言いながら成人の日までに投稿する予定だったんですよ。
ご覧の有様ですけども。

もう一週間後とか二月ですよ、二月!
次の話が二月中に出せるよう、そこそこ頑張りたいと思います。

それではまた次回、お会いできることを願って。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯15.皐月賞トライアル(1)

 春のトライアル戦に向けて、本格的にトレーニングを開始したヴァイスシュトルムは現在、シュプリュレーゲンと共にトレーニングコースでタイムを計っていた。

 トレーニング前の準備運動と一度目のタイム測定をシュプリュレーゲンに任せた神谷は、トレーニングコースに併設(へいせつ)されたスタンドの階段に腰掛けて、持ち込んだノートパソコンで様々な機会に撮っていたヴァイスシュトルムの「走り」と現在の「走り」を確認していた。

「映像を何度見ても、ヴァイスシュトルムの柔軟性(じゅうなんせい)が変わるわけでもない……とはわかってるんだがなぁ……」

 柔軟性。人や動物などに対しては、体の柔らかさを意味するその言葉は、事ウマ娘に関すると距離適正の幅広さを()し示す単語となる。

 柔軟性が高いウマ娘程、距離の融通(ゆうづう)()きやすいため、マイル戦から長距離戦までの幅広い距離を走っても苦にしない。逆に、柔軟性が低いウマ娘は、特に短距離戦やマイル戦などといった瞬発力(しゅんぱつりょく)や力強さがものを言うレースにおいて、驚異(きょうい)的なスピードを発揮(はっき)することがある(もちろん、長距離でも力は必要ではあるが)。

 ヴァイスシュトルムは、2000mを走るだけのスタミナはもう()ている。しかし、現状のままでは良いところ2300mまでが限界だと言わざるを得ない。

 彼女が目標にしているレースの一つ「日本ダービー」は、東京レース場芝2400m戦。後たった100m足りなかった。

「……二月中は水泳を多めにして、少しでも柔軟性を付けさせるべき、か?」

 重力の影響を浮力(ふりょく)で軽減できる水泳は、膝や腰などにかかる負担が少なく、リハビリにも最適な運動である。そのリハビリにも最適というのが重要で、水泳は無理なく全身の筋肉を鍛えることができ、その反対に筋肉全体を解す事も可能な運動なのである。

 重力の影響が(ほとん)どない水泳は、スタミナも柔軟性も、欲を言えば怪我(けが)()いにくくなるしなやかな筋肉も欲しいヴァイスシュトルムにとって、(まさ)にうってつけのトレーニングであった。

「と、いうわけで、今週からは水泳を増やしていくぞ。明日は坂路(はんろ)で水曜日は水泳、木曜日はポリトラック、金曜日は水泳と交互にやっていく予定だ」

 結局、トレーニングメニューの再考に熱が入った神谷は、今日のトレーニングの監督を全てシュプリュレーゲンに一任することにした(もちろん、トレーニングの内容を詳しく説明した上で、タイム測定や休憩時間の管理など、比較的簡単なタイムキーパー役であった。万が一の場合は、神谷もすぐに対応できるように準備だけはしていた)。シュプリュレーゲンとのトレーニングが終了し、神谷の元へと戻ってきたヴァイスシュトルムに対して、開口一番そう告げた。

「いや、『と、いうわけで』って言われても……どういう訳? 水泳が増えるのは別に良いけど……」

 玉のような汗が浮かぶ顔を(あき)れさせて神谷を見たヴァイスシュトルムは、隣のシュプリュレーゲンの顔を(うかが)うように見る。ヴァイスシュトルムにタオルを手渡したシュプリュレーゲンは、神谷の言いたいことが何となく理解できていた。しかし、自分がそれを答えて良いものか逡巡(しゅんじゅん)して返答に(きゅう)していた。

「ヴァイスシュトルム、君の弱点は身体が硬いことだ」

「え、あ、うん……?」

 戸惑(とまど)いを浮かべた表情で神谷を見つめ直したヴァイスシュトルムは、神谷の次の言葉を待つ。

「つまり、今のままでは幾らスタミナトレーニングをしても、大幅な距離延長は見込めない。そこで」

「水泳で柔軟性を鍛えようってこと?」

 ヴァイスシュトルムの返答に、我が意を得たりといった顔をした神谷は、満足げに大きく頷いた。

「ふうん……わかった」

 ヴァイスシュトルムはそれだけを言うと、タオルをシュプリュレーゲンが持つ(かご)に入れ、ジャージの上着を羽織(はお)り直した。

「今日はここまでにしておこうか。さっきも言ったように、明日は水泳だからな」

「はいはい、わかってるって。それじゃあ、また明日ね、トレーナーさん」

 手をひらひらと振ってコースを後にするヴァイスシュトルムを見送ってから、神谷はシュプリュレーゲンからトレーニングの所感レポートを受け取る。

 丁寧(ていねい)に書かれているレポートにざっと目を通し、トレーナーとしては最低限これくらいは見えて欲しいと設定していた合格ラインを大きく超えていることを確認した神谷は、宿題として一週間分のトレーニングメニュー作成を提案した。

「ただし、作成したトレーニングメニューには必ず、食事のバランス計算や分刻みの休憩時間も設定すること」

Ja(はい)! わかりまシタ!」

 嬉しそうにそう返事したシュプリュレーゲンは、足元に置いていた洗濯籠を手に持つ。

「シュプリュレーゲン? 今日のトレーナー研修は終わってるから、帰っても構わないぞ」

「神谷センセイはこのアト、ヴァイスが使ったタオルを洗濯したり、ワタシのレポートを良く……アー、細かク確認するのデショウ? 洗濯くらい手伝いマス!」

「む……いや、しかし……」

「シカシもカカシもアリマセーン!」

 絶対手伝うと洗濯籠を抱きしめて自分の後ろに隠すような仕草を取るシュプリュレーゲンに何も言えなくなった神谷は、とうとう根負けして洗濯を任せることにした。洗濯籠を楽しそうに抱えて歩くシュプリュレーゲンを横目に見た神谷は、洗濯の何が楽しいのだろうと首を(ひね)ったものの、その答えは出せそうになかった。

「ところでシュプリュレーゲン」

「何ですカ? 神谷センセイ♪」

「『センセイ』はやめてくれ……」

「ふふふ……いやデース♪」

 

 夕飯のハンバーグを口に放り込んだヴァイスシュトルムは、テレビから流れる音楽番組の内容を流し聞きながら、明日からのトレーニングメニューについて考えていた。

「柔軟性、かぁ……」

 柔軟性を鍛えるといっても、自分の身体が特別硬いと感じたことのないヴァイスシュトルムにとっては、いまいちしっくりと来ない。しかし、(はた)から見るとどうやら柔軟性に(とぼ)しいらしいことは、神谷の言葉に無言ながらも同意を示していたシュプリュレーゲンの様子からも明らかだった。

「うーん……」

 頰杖をついて考え込むヴァイスシュトルムは、考えに没頭するあまり、後ろから声を掛けてくるウマ娘に気づいていなかった。

「ヴァイス? ……こーらっ。肘を付いて食事するのは行儀(ぎょうぎ)が悪いよ?」

「ひゃぁっ!?」

 耳元で不意にやや低音の心地良い声で(ささや)かれたヴァイスシュトルムは、椅子から飛び上がるかのように身体を跳ねさせた。耳と尻尾をピンと立て、囁いてきた人物へ慌ててと向き直る。そこには、悪戯(いたずら)を成功させて満足げに笑みを浮かべるフジキセキが立っていた。

「びっくりしたぁ……。もー、耳元で囁くの止めてってば……」

 フジキセキに文句を言うヴァイスシュトルムは、拗ねたように頰を膨らませて抗議を示していた。それを軽く受け流したフジキセキは、ヴァイスシュトルムの隣に手に持っていた自分の料理を置いてから席に着いた。

「それで、一体何を考え込んでたのかな?」

「フジのそういうところズルいと思うな……。トレーナーさんからさ、明日からは柔軟性を鍛えるって言われてて……でも、そんなに柔軟性がないとは思えないんだけどなぁ」

「なるほどね……。でも、トレーナーさんの言いたいことも何となくわかるよ」

 フジキセキの言葉に目を大きくしたヴァイスシュトルムは、隣で行儀良く食事をする彼女に身を乗り出して詰め寄った。

「本当に!? 教えて、フジ!」

「近い近い近い……少し落ち着こう?」

 頰が触れ合うほどに勢い良く接近してくるヴァイスシュトルムに、流石(さすが)のフジキセキも体を引く。我に返ったようにヴァイスシュトルムは、元通りに椅子に座り直すと一つ咳払いをした。

「それで、トレーナーさんは何で柔軟性を鍛えるって言いだしたの?」

 至極(しごく)真面目(まじめ)な顔をして自分に相対(あいたい)するヴァイスシュトルムに、フジキセキは微笑ましい気持ちになる。自分も将来、トレーナーとこんな風に信頼できる関係を築く事ができるだろうか。そう思いを()せた、まだ見ぬ自分を担当するトレーナーの顔が、無意識のうちに神谷に変化していたことにフジキセキはまだ気づかない。それでも、彼女が神谷の元で走るようになるのは、きっと遠い話ではないのかもしれない。

「トレーナーさんはきっと、『もったいない』って思ってるんだよ」

「……もったいない?」

 不思議(ふしぎ)そうに首を横へと倒したヴァイスシュトルムは、次の言葉を催促(さいそく)するようにフジキセキの顔を見つめる。そんな彼女に苦笑してから、フジキセキは何がもったいないのか詳しく話すことにした。

「ヴァイスの強みの一つに、走りが器用なことがあると思うんだけど、その器用さを()かし切れていないんじゃないかって思うんだ。それが『もったいない』んじゃないかな? だから、その器用さを活かすために柔軟性の獲得が必要なんじゃないかな?」

 フジキセキの言葉に思うところがあったのか、ヴァイスシュトルムは再び難しい顔をして考え込む。

 ヴァイスシュトルムの姿を微笑みながら見守るフジキセキは、自分の内に芽生(めば)えた感情を決して外には出さなかった。順調に信頼関係を深めていくヴァイスシュトルムが羨ましくてしょうがない、なんて到底エンターテイナーフジキセキらしくないことをさらけ出したり、他のウマ娘たちに知られたりするわけにはいかなかった。

 

 

 フジキセキとの会話で、自分が納得できる落とし所を見付けたヴァイスシュトルムは、翌日から文句を言うこともなく粛々(しゅくしゅく)とトレーニングメニューをこなしていった。

 トレーニングを重ねる(ごと)に、少しずつ柔軟性を獲得していくヴァイスシュトルムに、神谷は確かな手応えを感じていた。これならば、日本ダービーに間に合うかも知れない。そう神谷に思わせるほど、トレーニングは順調だった。

 その矢先に、今年のクラシックを揺るがす大事件が発生するなど、誰も予想だにしなかった。

 

 

『さあ! 最終コーナー回って各ウマ娘が一斉にスパートを掛ける! 一番人気の7番アクアスフィアはまだ後方、ここから本領発揮か! 11番ノーブルライトはアクアスフィアから逃げ切れるのか!?』

 GⅡ弥生賞(やよいしょう)。三月一週(開催年によっては三月二週の時もある)の日曜日に開催されるこのレースは、皐月賞(さつきしょう)のトライアルレースの一つであり、本競走一着から三着までのウマ娘にはGⅠ皐月賞への優先出走権が与えられる。

 特にこのレースは、中山レース場芝2000Mでの開催であり、皐月賞と条件は同じ。このレースに勝利したウマ娘は、名実共にクラシック路線の本命となりうる扱いを受ける。過去には三冠ウマ娘となったミスターシービー、シンボリルドルフ。ダービーウマ娘のサクラチヨノオーなどが勝利しているステップ競走である。

『ノーブルライト先頭! ノーブルライト先頭だ! 中山の急坂をいの一番に駆け上がる! アクアスフィアはまだ三バ身後ろ! これはノーブルライトで決まりか!』

 ――中山の短い直線も、心臓破りの坂も十八人の中で一番にたどり着いた。後はこの坂を一番に登り切るだけ――。ノーブルライトは坂の半ばで気合いを入れ直す。

 脚も、心臓も、更に言えば肺までもが限界だと叫んでいる。それでも、幼い頃に大切な親友と「クラシックとティアラで並び立つ」と約束した夢を叶えるためにも、ここで(くじ)けるわけにはいかなかった。

「リリーちゃんに置いて行かれたくないから、ここで負けられない……ッ!?」

 ゴールまで後100M、坂を登り切る直前でノーブルライトの背筋に冷たいものが走る。悪寒(おかん)にも似たそれは(まぎ)れもなく、後ろを走るアクアスフィアから発せられた重圧(プレッシャー)だった。

『来た来た来た来た! ここでアクアスフィアが更に加速! ノーブルライトを追い詰める! ノーブルライトは厳しいか、脚色が鈍り始めているぞ!』

 アクアスフィアが力強く芝を踏みしめた瞬間(あふ)れ出したそれは、ノーブルライトを(ひる)ませるには十分だった。実際にノーブルライトには聞こえるはずのない芝を力強く蹴る音は、しかし確りとノーブルライトに届いていた。アクアスフィアが芝を踏みしめる音が凄まじい速度と勢いで自分に(せま)って来る。この事実に、ノーブルライトは恐怖を覚えた。

(は、早く逃げなきゃ……)

 焦りを覚えた身体は、自分の早く前へとの意思とは裏腹に、硬く、遅くなっていく。そして、アクアスフィアはその隙を見逃すような甘いウマ娘ではなかった。

「……お疲れ様、ノーブル」

「ひぁ……ひっ! ……かひゅっ!」

『アクアスフィア! アクアスフィアだ! ゴール前でノーブルライトを差し切った!』

 ゴール目前の(わず)か20Mで大きく息を()きだしたノーブルライトを、アクアスフィアは一瞬で交わした。その勢いを欠片も緩めることなくゴールへ飛び込むアクアスフィアに遅れることコンマ二秒、ノーブルライトがゴール板を駆け抜けた。中山レース場最後の坂を登り切り、ゴールまでのおよそ100Mでスタミナを全てアクアスフィアの重圧に持って行かれたノーブルライトは(うつむ)き、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返すことしかできない。アクアスフィアの重圧に屈してしまった悔しさに、ノーブルライトの両眼(りょうがん)には涙が(にじ)んでいた。

『勝ったのはアクアスフィア! ジュニア級とは思えない走りで、見事トライアル戦に勝利しました! 本番への期待が高まります!』

 アクアスフィアは悠々と観客席に一礼をしてレース場を後にする。まだ息も整わないノーブルライトは、両眼から流れる涙もそのままに、レース場を後にするアクアスフィアを見送ることしかできなかった。

 それから五分後、俯きがちにとぼとぼと歩いて控え室へ戻ってきたノーブルライトは、アクアスフィアのトレーナーである弓削(ゆげ)が慌ただしく部屋を出て行くところと鉢合わせた。

 ノーブルライトを一顧(いっこ)だにせずに走り去る弓削の姿に、彼女は何か起こったのかと興味を引かれたものの、好奇心を抑えて自らの控え室へと入る。ノーブルライトが控え室に戻ってからしばらく()った後も、アクアスフィアの控え室は騒然としていた。

 

 ――悲劇……。アクアスフィア、右脚疲労骨折。皐月賞・日本ダービーは絶望的か――。

 昨日、中山レース場で行われたGⅡ弥生賞(皐月賞トライアル・芝2000M)において、素晴らしい末脚(上がり三ハロン三十三秒二)で勝利したアクアスフィアがレース後、右脚を骨折していたことが判明した。

 レース後、控え室に戻ったアクアスフィアは、弓削トレーナーに脚の違和感と痛みを訴え、すぐさま弓削トレーナーと共に病院へ。診察の結果、右脚の腓骨(ひこつ)を疲労骨折していた。

 完治には二カ月程度かかるとみられ、元のように走れるようになるには更に日数を必要とすることから、関係者の間では皐月賞・日本ダービーには出走できないとの見方が強い。

 アクアスフィア本人は、日本ダービーへの出走を目指して治療及びリハビリを行うとのこと。

 アクアスフィアの離脱により、今年のクラシック路線は「本命不在」となる公算が強まっている。




お 待 た せ(土下座)

いや、バレンタイン前迄には半分くらい書き上がってたんですよ。なんなら、バレンタイン特別でもやるか~とか油断してたら、仕事がですね、その、めちゃくちゃ忙しくなりましてハイ……。結局三月目前に投稿している状況です。
いやほんとすまんかった。

(2)はなるべく早く書き上げられるように頑張りますので、よろしければ声援オナシャス。

それではまた次回お会いできますように……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯16.皐月賞トライアル(2)

 アクアスフィアの皐月賞回避が報じられた翌朝、トレセン学園ではちょっとした騒ぎが起こっていた。

貴女(あなた)はクラシック路線に進むんですよねぇ! アクアスフィアさんの皐月賞回避についてどう思いますかぁ? やっぱり強力なライバルがいなくなって嬉しいですかぁ?」

「えっ……?」

「アクアスフィアさんの怪我(けが)について一言!」

「えっと……」

 登校する生徒に次々と不躾(ぶしつけ)な質問を投げかけていく雑誌記者の男女三人組は、その顔にニヤニヤとした下品な笑みを浮かべていた。彼らは、面白い記事のためなら法に()れない範囲で何をしても良いと思っている(ふし)のある出版社が刊行(かんこう)するゴシップ誌、その記者だった。彼らの手によって(おとし)められた芸能人や有名人は数多い。

 彼らの目的はただ一つ、アクアスフィアの怪我を()しにした面白い記事(もちろん、彼らとそれを購読する一部の読者にとってのだが)のネタを()ることだった。その目的を達成するにあたって、トレセン学園生徒のコメントは是非(ぜひ)とも欲しいものであった。

「ちっ、こんなんじゃ面白い記事にもなりゃしねぇ……。もっと注目度の高いウマ娘はまだ登校しねぇのか?」

「ちょっと、口調には気をつけなさいよ」

 男の愚痴(ぐち)(たしな)めるスーツ姿の女も、その口調はきついものだった。彼女もまた、ネタの集まりが悪いことに対して苛立(いらだ)っていたのだ。朝から通りがかる生徒に手当たり次第に質問攻めにするものの、(みな)一様(いちよう)困惑(こんわく)するか口を(つぐ)むか、(ある)いは怪我の具合を心配するといった(彼らにとって面白くもない)反応しか示さなかった。それでは彼らの望む面白い記事にはならない。

 彼らの欲しい()は、ライバルが減って喜ぶトレセン学園生といった『他人の不幸は蜜の味』な画である。つまる所、方正謹厳(ほうせいきんげん)な面ではなく俗物的な一面を記事にしたいのであって、ライバルの怪我を気遣(きづか)う場面など必要としていない。

「そろそろ騒ぎを聞きつけた警備員が来てもおかしくないってのに、(ろく)なネタがないなんて、脂ブタ編集長がまた湯呑みを投げてくるぞ」

「今度はガラスの灰皿かもね」

「やれやれ……」

 そんな下らない話に(きょう)じていた三人の視界に、ふとホワイトブロンドの髪を風に(なび)かせて寮の大門を通り抜けた一人のウマ娘が目に入った。

「ねえ、あれ」

「ひゅう、生で見るとホントに美少女だな。時代が時代なら、一体いくつの国が滅んだことやら」

「グラビアの一つや二つ出せば、すぐにでも金に困らなくなるだろうに、勿体(もったい)ねぇよなぁ……あれでイイ体してるしよ、何なら脱げば……」

 いやらしい視線と下卑(げび)た会話。その標的となったヴァイスシュトルムは耳を絞り、(ひそ)かに脚に力を込める。そうして、彼らが声を掛けようと動くよりも先に学園の正門を(くぐ)り抜けた。

「早え!」

「ねえ、ちょっと。あの娘の記事を取れたら、あの編集長が喜びそうなネタになると思わない? あの娘イイ体してるし、記事次第じゃグラビアに引っ張れそうだし」

 今にも舌舐めずりをしそうなほど下品に顔を(ゆが)めた女は、ヴァイスシュトルムの背中が見えなくなるまで見つめ続けた。彼女の(ひとみ)にヴァイスシュトルムは、帯を巻いた一万円札が人の姿を(かたど)っているようにしか映っていなかった。

 

 

 朝から不快な思いをしたヴァイスシュトルムの機嫌(きげん)は、一日中悪いままだった。八つ当たりするかのようにトレーニングに打ち込むヴァイスシュトルムの姿に、神谷もシュプリュレーゲンも内心気を揉んでいた。出走まで二週間を切ったこの大切な時期に、怪我を負わせることだけは避けたかった。

「ヴァイスシュトルム! そこまでにしよう」

 神谷が上げた制止の声を無視するかのように、再び走り出そうとしたヴァイスシュトルムは、脚が思うように動かないことに気が付いた。そこでようやく、自分がスタミナ配分も忘れていたことに思い(いた)った。ヴァイスシュトルムは徐々(じょじょ)に速度を落とすと、荒い呼吸を整えるようにコースを歩く。気が付けば隣にはシュプリュレーゲンが心配そうな顔をして、しかし黙って隣を歩いていた。

「……ゴメン」

 ヴァイスシュトルムの口をついて出た言葉は、一体何に対する「ゴメン」なのかはわからない。しかし、それを聞いたシュプリュレーゲンは、黙って首を横に振ると、静かに隣を歩き続けていた。

 ヴァイスシュトルムに歩調を合わせて歩くシュプリュレーゲンの(まと)う空気には、ヴァイスシュトルムを(とが)めるようなものはなく、それとは逆に(いたわ)るような優しさが多分に含まれているように感じさせた。

 二人が並んで歩く(さま)を見て、ほっと息を()いた神谷は今朝の騒動を思い返していた。

 その騒動とはもちろん、学園の許可を取らずに早朝から押し掛け、生徒に不躾な質問を投げ掛けてきた三流週刊誌記者数名による騒ぎのことだった。

 失礼な質問を投げ掛け、迷惑なほどフラッシュを()いて写真を撮影し、自分達の求めている答えでなければ威圧的な態度を取る。そのような不埒(ふらち)な記者のおかげで、トレセン学園は朝からずっとピリピリとした張り詰めた空気が漂っていた。

 理事長秘書の駿川たづなは、秋川やよい理事長と共に報道機関への抗議文並びに声明文の作成に忙しく、担当ウマ娘を持つトレーナー達は、彼女達のメンタル管理に奔走することになった。そして、当のウマ娘達はヴァイスシュトルムのようにイライラするか、不安がりながら怯えるように廊下を歩く姿が目立った。普段通りに見えるウマ娘も一部いるが、その実「そう見える」だけであって、時折見せる仕草にはイライラと気を張り続けている様子が垣間見えた。

 神谷にとって幸いだったのは、シュプリュレーゲンという「元」競走ウマ娘が居たことだった。

 現役時代に様々な取材を受けてきた彼女は、今朝の出来事に対して泰然自若としており、動じることはなかった。そんな彼女のおかげで、神谷も徐々に冷静さを取り戻すことができた。

(ヴァイスシュトルムにはシュプリュレーゲンが付いてくれているから大丈夫だろう。アイネスフウジンも、送り届けた時に少し話す時間を取ったおかげで今は落ち着いて寮に戻っているし、恐らくは大丈夫なはずだ)

 トレーニング開始前に学園からは「正式契約前のウマ娘は速やかに帰寮すること。また、トレーニングを行うウマ娘も、なるべく早く帰寮させること。その際、記者から質問を受けても決して反応しないこと」といった通達が降りてきていた。それに従って神谷はアイネスフウジンを美浦寮まで送り届け、選抜レースに向けての打ち合わせ――と称したメンタルケア――を行ったのは記憶に新しい。迎えに行ったときは少しばかり不安げに、心細そうにしていたアイネスフウジン(後日、そのことに付いて「可愛かった」と本心から感想を述べた神谷は、赤面したアイネスフウジンに照れ隠し混じりに思い切り背中を叩かれ、(しばら)悶絶(もんぜつ)する羽目になった)も、美浦寮前で別れる頃には普段通りの屈託のない笑顔を見せてくれるようになっていた。その際には、栗東寮前で寮生を統率するフジキセキの姿を確認し、神谷の懸念(けねん)事項は一気に二つ解消された。

 残る懸念事項は、記者がいつまで粘着してくるかという問題だった。理事長が声明文を発表すれば、多くのマスコミは手を引くだろうと考えられる。しかし、一部のゴシップ誌記者がそれを守って引き下がるとは考え(にく)く、むしろ、より過熱する可能性の方が高い。そこまで考えて、神谷は大きく()め息を()いた。トライアルレースを控えたこの大切な時期に、頭の痛い問題が大きく立ち塞がっていた。

 

 

 神谷の予想通り、声明文の発表以降多くのマスコミ各社は姿を見せなくなり、いつも通りの風景が戻りつつあった。しかし、例のゴシップ誌記者達だけは、依然(いぜん)として朝な夕なと無遠慮(ぶえんりょ)に通りがかるウマ娘にマイクを向け、眩しいほどにフラッシュを焚いて写真撮影をし続けていた。

「……予想していたとは言え、ここまで粘着されるとなぁ」

 疲れたようにそう愚痴(ぐち)をもらした神谷は、トレーナー室の窓から外を眺める。清々しい青空とは裏腹に、神谷の心境はどんよりと曇っていた。

 先程まで神谷が閲覧していたネットニュースには『千年に一人の美少女ウマ娘、ヴァイスシュトルムの秘蔵画像百選! 彼女の魅力に迫る』だの『美少女ウマ娘ヴァイスシュトルム。グラビアアイドルになる可能性は?』などといった下種(げす)なタイトルが散見された(もちろん、記事の掲出元(けいしゅつもと)は例のゴシップ誌である)。

 ヴァイスシュトルムが一番嫌う、彼女の容姿(ようし)にしか価値はないと言わんばかりの記事であり、彼女が幸せになるためには「モデル」や「女優」であるべきだと決めつける身勝手(きわ)まりない内容に、流石の神谷も腹に()えかねるものが積もっていた。

 メイクデビュー後に()き起こった、「ヴァイスシュトルムは今からでもモデルに転身するべきだ!」という論調を、彼女は一つ一つレースで結果を出すことによって下火にしてきた。しかし、今回の記事はその話題を再燃させるにはもってこいだったらしい。

 既にウマッターやウマチューブ等といったSNSでは、ヴァイスシュトルムはレースウマ娘として活躍して欲しい派とモデルになって欲しい派との間でちょっとした(いさか)いが散発していた。

 ウマッターのタイムラインで発生しているいざこざに、神谷は溜め息を吐いてウマッターを閉じる。神谷にとっては、ヴァイスシュトルムがこのことによって更に調子を崩さないかという心配が多くを()めていた。

 

 残念ながら神谷の心配した通りとなり、ヴァイスシュトルムは本番であるGⅡスプリングステークスまでに調子を戻すことは叶わなかった。

 

 

『本日のメインレース、GⅡ スプリングステークス。出走する各ウマ娘達がゲートに入っていきます』

『このレースには、「皐月賞(さつきしょう)」はもちろんのこと「NHKマイルカップ」の試金石(しきんせき)とする陣営も居ますからね。「弥生賞(やよいしょう)」とはまた違った空気がありますね』

 二週間前の弥生賞と同じく、皐月賞のトライアルレースであるスプリングステークスは上位3位以内のウマ娘に皐月賞の優先出走権が与えられる。それと同時にこのレースには、解説の言葉通りNHKマイルCを目指すウマ娘――クラシック級マイル路線を進むウマ娘――も一定割合で参加している。

 つまるところ、「GⅡ スプリングステークス」というレースは、皐月賞トライアルであると同時に、NHKマイルCの重要な前哨戦(ぜんしょうせん)と位置付けられているのである。

『本日の一番人気、ヴァイスシュトルムですが、やや精彩(せいさい)を欠いているようですね』

『そうですね、二番人気のサザンエースや三番人気クイーンズホロー、フレアカンパリの方が心身ともに充実しているように見えますね』

 ゲート前に集った十六人の中で、ヴァイスシュトルムだけがその顔に疲労を色濃く(にじ)ませている。精神的な不調が睡眠障害という形で牙を()いた結果、この一週間まともに眠れなくなっていたヴァイスシュトルムは、とうとう胃が食事を受け付けなくなりつつあった。

 神谷やシュプリュレーゲンはもちろん、同室のサザンエースやフジキセキ、アイネスフウジン等といった友人達までもが何とかヴァイスシュトルムが食事を摂れるように手を尽くしてくれたが、それが奏効(そうこう)する事はなかった。

 一日のエネルギー消費量の高いウマ娘が食事を摂れなくなることは、(まさ)に致命傷と言っても過言ではない。

 (ろく)に食事が摂れず、一週間で五キロ減という異常な減量となったヴァイスシュトルムは、立っているのが精一杯でありながらもその心は静かに燃えていた。出走を考え直そうとする神谷とシュプリュレーゲンに「絶対にレースには出る! 出してくれないなら一生恨むから」と、鬼気迫る勢いで二人に詰め寄った二日前の事を思い出して頰を緩めた彼女は、係員に(うなが)されて静かにゲートへ収まった。静かに佇むヴァイスシュトルムからは、とてもクラシック級ウマ娘とは思えない迫力が滲み出ていた。

『最後に16番エクスナイトホークがゲートに入りまして体勢整いました。さあスタートしました、GⅡスプリングステークス。皐月賞、NHKマイルCに向けて中山芝1800mに十六人のウマ娘が挑みます』

 目の前でしっかりと閉じていた扉が開いた途端(とたん)、ヴァイスシュトルムは勢い良く飛び出す。ロケットスタートとも言えるほどの好スタートを切ったヴァイスシュトルムは、そのまま集団のハナに立って一度目の坂を登っていた。

『好スタートを切ったのはヴァイスシュトルム。フレアカンパリはやや遅れたか、ばらついたスタートになりました。ヴァイスシュトルムが集団のハナに立ちます』

 ヴァイスシュトルムから二、三バ身後ろに付けたサザンエースは、第1コーナーに差し掛かった際に目だけでフレアカンパリとグレアダイアモンドの位置を確認する。先行差しを得意とする二人は、スタートでやや出遅れたとは言えきっちりと先団を風よけにしてスタミナ消費を抑えていた。それを確認したサザンエースは、改めて自分の周囲を見渡す。ヴァイスシュトルムにハナを取られ、ペースを握られた事にリズムをやや崩し気味(ぎみ)なミッドナイトアイに、淡々とペースに沿って走るノルデンスクエア。今のところ、どのウマ娘もヴァイスシュトルムに()りかける様子は見受けられなかった。

「……それにしても、このペースは遅くない?」

 サザンエースの呟きは、他のウマ娘も観客も、中山レース場に居る全員が思っていたことだった。

『各ウマ娘、第二コーナーを抜けて向こう正面に入ります。ややゆったりとしたペースです。1000mの通過タイムは1分5秒9。後方のウマ娘にこれがどう影響するか。第三コーナーに入ってミッドナイトアイが先頭に並んでいきます』

「……っ! もう無理、我慢できない!」

 ゆっくりと先頭を走っていたヴァイスシュトルムに()れたのか、ここでミッドナイトアイがヴァイスシュトルムに並びかけようと速度を上げる。それを横目で確認したヴァイスシュトルムは、(わず)かに前傾姿勢を取ると、徐々に加速し始めた。

「まだ第四コーナーにもかかってないのに、ここから加速するとか正気?」

 サザンエースに並びかけてきたグレアダイアモンドの言葉通り、ヴァイスシュトルムは第三コーナー(なか)ばからスパートをかけて後ろを引き離しにかかっていた。競りかけたミッドナイトアイと先団の間が三バ身(ほど)離れたところで、他のウマ娘も焦ったように続々とスパートをかけていく。

『第四コーナー半ばも過ぎて、先頭はまだヴァイスシュトルム! しかしそのすぐ後ろに集団が迫ってきているぞ、果たして逃げ切ることができるか』

 逃げるヴァイスシュトルムとの間はどんどん詰まっていき、集団がヴァイスシュトルムを飲み込むのも時間の問題かと思われた。しかし、その大多数の予想とは裏腹に、集団がヴァイスシュトルムを飲み込まないまま、遂にレースは中山の短い最終直線に差し掛かっていた。

『ヴァイスシュトルムが先頭! ここでサザンエースとグレアダイアモンド、フレアカンパリの三人が集団から抜け出してヴァイスシュトルムを追う!』

 ヴァイスシュトルムのレース運びによって早めに足を使わされた集団は力尽き、そこから抜け出した三人だけがヴァイスシュトルムに食らい付いていく。その中でも肉薄できていたのはサザンエースだけだった。GⅠ級ウマ娘の容赦(ようしゃ)なさ過ぎる作戦に、サザンエースは楽しそうに悪態(あくたい)()いた。

「こんっの、容赦なさすぎでしょ……ヴァイス!」

「サザン……っ!」

 中山の坂で行われる、抜きつ抜かれつの激しい一位争いに、観客席の熱も上がる。そして遂に、その時は訪れた。

『ヴァイスシュトルムかサザンエースか! 二人(もつ)れるようにゴールインっ!』

 ゴールに飛び込んだ二人に観客席から歓声が上がる。しかし、掲示板は未だ黒く、どちらが先にゴールに飛び込んだのかわからない状態だった。

「……ヴァイスが万全の状態なら、こうはならなかっタ……。デスよね、神谷センセイ」

 平静を(たも)つように、しかし悔しさが(にじ)むシュプリュレーゲンの言葉に首肯を返して、神谷はターフに手を付いて項垂(うなだ)れるヴァイスシュトルムを見つめる。

 劇的な同着を演じたサウジアラビアロイヤルカップ以降、ヴァイスシュトルムは勝ち星に恵まれないまま皐月賞へ向かうこととなった。

 

 

 サザンエース辛勝、ハナ差でヴァイスシュトルムを差し切る

 

 日曜日の中山レース場では、「皐月賞トライアル GⅡスプリングステークス」が開催された。

 一番人気に()されたヴァイスシュトルムは、素晴らしいスタートを決めると、そのままハナに立ちレースの主導権を握った。千メートルの通過タイムが1分5秒9というスローペースに(まど)わされたか、多くのウマ娘が第四コーナー半ばで失速。

 このままヴァイスシュトルムが逃げ切るかと思われたが、最終直線でサザンエースがヴァイスシュトルムをロックオン。素晴らしい末脚でヴァイスシュトルムに迫ると、中山の急坂で抜きつ抜かれつの激しい攻防が繰り広げられた。その激しい競り合いには観客も大興奮。結局どちらも先頭は譲らないまま二人並んでゴールに飛び込む大激戦となった。

 十分にも及ぶ写真判定の結果、サザンエースがハナ差で優勝。ヴァイスシュトルムは惜しくも二着に沈んだ。

 サザンエースは嬉しい重賞初勝利、ヴァイスシュトルムはサウジアラビアロイヤルカップ以降惜しいレースがつづいている。

 このレースで三着に入ったのはフレアカンパリ。彼女達三人には皐月賞の優先出走権が与えられた。

 (ちまた)では本命不在の皐月賞と呼ばれているが、この三人とノーブルライトが本番の皐月賞でどのようなレースを繰り広げるのか期待したい。

 ――東西スポーツ新聞 朝倉――。




お待たせしました。皐月賞トライアル後編です。
えっ遅すぎるって?
仕事が忙しかったせいであって、決してアルセウスが面白すぎたとか、カービィの新作が面白くて筆が進まなかったとかそんなことはないですよ?
それにしても、あれ、アルセウスのスタイリッシュポケモン捕獲楽しいですね。
某傭兵のように草むらに潜んで機を窺い、オヤブンが背中を見せた瞬間にボールを投げる……そして、バトルなしに捕獲できたときの楽しさは格別だと思うんですよ。
調子に乗って見つかって手痛い反撃を食らい、慌ててその場から逃走する迄がテンプレです。まだやってない人は是非プレイしてみて下さい。とても楽しいですよ。
ところで、シンジュ団のカイさんはあの格好で風邪ひかないの?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯17.旧理科準備室の主~居候を添えて~

 クラシックレースの開催が一日を()(ごと)(せま)る中、トレセン学園では年に数度行われる選抜レースの第一回目が開催されようとしていた。

 つい先日、本格化を迎えたアイネスフウジンも当日の第三レースへの出走が決まり、神谷の元で本腰を入れてトレーニングに(はげ)んでいた。

「アイネスフウジンが出る予定のレースは、マイルの芝1600mか……。ふむ」

 ヴァイスシュトルムもアイネスフウジンも、シュプリュレーゲンもが自らのクラスで授業を受けている間、神谷はトレーナー室で一人ホワイトボードに選抜レースの情報を書き(つら)ねていた。選抜レースでアイネスフウジンが勝利するために必要な情報を書き加え、時には修正しながらも、彼の頭は目まぐるしく回転していた。

 ホワイトボードに()いたコース図と、アイネスフウジンと同じレースに出走しそうなウマ娘のデータを見ながら、展開を想像する。

「アイネスフウジンのトレーニングを見ている限り、彼女の脚質が逃げか先行なのは間違いないだろう。千六(せんろく)ならバ群に()まれなければ何の問題もない。後は……」

 ぶつぶつと独り言を呟きながらホワイトボードを睨み付ける神谷の表情は真剣そのもので、その場にもし誰かがいれば、絶対に担当バを勝たせたいという執念が溢れ出ているように感じられ気圧(けお)されていたことだろう。

 結局、朝に出勤してからトレーナー室でホワイトボードを睨み付けていた神谷は、体が空腹を訴えるまでそうし続けていた。

「……昼、食べに行くか」

 そう独り()ちトレーナー室を後にした神谷だったが、食堂へたどり着くまでも、たどり着いてからもレースのことしか頭になかった。

 

 

『アイネスフウジン! アイネスフウジンだ! アイネスフウジンコーナーを回って更に加速! 後ろは大きく離れたぞ!!』

 第四コーナーを回って四バ身(ほど)後続を引き離していたアイネスフウジンは、直線に入って更に加速した。後続のウマ娘も懸命(けんめい)に走るが、とても縮まるような差では最早なかった。あまりの大逃げに実況も観客も、トレーナー達までもが興奮していた。

『アイネスフウジン、見事に逃げ切って今ゴールイン! 選抜レースを勝利しました!』

 大歓声に迎えられ、満面の笑みを顔に浮かべたアイネスフウジンは、走り終えた勢いそのままに神谷の元へと戻ってきた。同世代の中では抜きん出ていると神谷が感じていた彼女の速さは圧倒的で、レースの始まりから終わりまでアイネスフウジンは後続のウマ娘に影を一切踏ませることなく逃げ切ってみせた。

 アイネスフウジンの素質に()かれた何人かのトレーナーが、彼女をスカウトしようと神谷と話す彼女に声を掛けるタイミングを(はか)っていたが、多くのトレーナーは羨ましそうに神谷を見ることしかできない。そんなトレーナー達に混じって、舟越(ふなこし)騎士(ないと)トレーナーもまた、何か言いたそうな顔で神谷を見てはいたが、その顔に浮かぶ色は羨望(せんぼう)のそれではなかった。

 

「選抜レース一着おめでとう、アイネスフウジン。見事な逃げ切り勝ちだったな」

 神谷からの賛辞に、嬉しそうにしながらもはにかんだ笑みを浮かべたアイネスフウジンは、神谷とシュプリュレーゲンに向き直る。

「これから、よろしくお願いしますなの!」

 元気よく声を発して、頭を下げたアイネスフウジンに、神谷とシュプリュレーゲンは一瞬目を交わし、ほぼ同時に口を開いた。

「これからよろしくな、アイネスフウジン」

「これカラ、よろしくお願いしマス!」

 

 

 四月に入り暖かな陽気が続く中、ヴァイスシュトルムは制服姿のままトレーニングコースの(らち)にもたれかかり、退屈そうにアイネスフウジンがシュプリュレーゲンの下で基礎トレーニングに精を出している姿を眺めていた。

 本来ならば、彼女も神谷指導の下トレーニングに(いそ)しんで然るべきだが、当の神谷本人からヴァイスシュトルムに直接、トレーニングの中止が言い渡されていた。

「……ふぁぁあ」

 大きな欠伸を隠そうともせず、埒に体を預けたヴァイスシュトルムは、春の陽気も相まってとても眠そうにアイネスフウジンを眺める。そんな彼女へと複雑そうに視線を一つ投げて、再びパソコンに目を落とした神谷は、ヴァイスシュトルムに掛ける言葉を探していた。

『ヴァイスシュトルム、トレーニングはしばらく中止しよう』

 ほんの数十分前に神谷がそう告げた時、ヴァイスシュトルムは虚を突かれたような顔をして、ほんの一瞬だけ安心したように身体から力を抜いた……ように神谷には見えた。スプリングステークスの後、ようやく落ち着きを見せた粘着取材(記事自体はまだ新しい物が毎日のように配信されているし、不意打ち気味に例の記者達が待ち構えていることもあるが)に、ヴァイスシュトルムのストレスも多少は改善されていた。しかしまだ、以前のように満足のいく食事は摂れておらず、朝日杯FSの頃に食べていた一食分を何とか一日で食べるという状態が続いていた。到底その食事量ではハードなトレーニングに耐えられるわけがなく、ここしばらくの間、ヴァイスシュトルムにとっても、神谷にとっても足踏みをし続けるような停滞した時間だけが積み重なっていた。

「……アイネス、いいなぁ」

 埒に両腕を付き、その上に頰を乗せた傍目にはだらしない格好でアイネスフウジンのトレーニングを眺めるヴァイスシュトルムは、心底楽しそうにトレーニングに(はげ)むアイネスフウジンを見て思わず言葉を漏らす。ヴァイスシュトルムが思わず漏らした言葉は、ここ(しばら)くの間、楽しそうにトレーニングをするウマ娘を見る(たび)に心の中で思い続けていた言葉であり、未だに満足な食事も睡眠も取ることのできない自分の腑甲斐(ふがい)なさを再確認するものであった。

「……はぁ。何で今日は走らなくて良いと思ったら安心したんだろう……」

 トレーニングの中止を神谷から伝えられた時に、真っ先にヴァイスシュトルムの頭を(よぎ)ったのは、「走らなくて済む」ことへの安堵だった。そして、そのことに一番衝撃を受けたのは、他ならぬヴァイスシュトルム本人だった。

 

 ――ヴァイスシュトルムが物心ついたときから、走りへの情熱は彼女の中に常にあった。小学校の時分(じぶん)も、学校が終われば家の手伝いを放り出して、地元の競走ウマ娘クラブで日が暮れるまで……厳密に言うならば、物理的にコーチ達が止めに入るまで走り続けるくらい、走ることへの熱情は凄まじいウマ娘だった。そんな彼女を知る人々は、彼女がいずれ欧州三冠に挑戦するものだと信じて疑わなかったし、彼女自身もまた、欧州三冠を目指すことが当然だと思っていた。

 そんな日々を送っていたヴァイスシュトルムの考えを一変させたのは、練習の一環としてクラブのコーチから見せられた日本のクラシック特集のビデオだった。そこには生涯(しょうがい)一度の栄冠を掴み取るため、必死にターフを駆けるウマ娘達の姿が鮮明に記録されていた。

 そのビデオが放映されている間ずっと、ヴァイスシュトルムは走っているときのように画面に集中していた。彼女の頰には赤みが差し、まるでレースの前のように胸が高鳴る。彼女の身体には、実際に走っている時のように心地の良い熱が、興奮と共に駆け巡っていた。次々と流れるレース映像の中で、特にヴァイスシュトルムの目を惹いたのはミスターシービーとシンボリルドルフが三冠を達成した場面だった。

 簡単には成し遂げられない偉業を、十何年かぶりに成し遂げたミスターシービー。そして、無敗で三冠を達成したシンボリルドルフ。ヴァイスシュトルムが競争ウマ娘として彼女達に挑みたいとの欲求を持つことは、当然の結果だった。ヴァイスシュトルムの体内で渦巻く熱は際限なく上がり続け、それは映像を見終わった後も中々冷めなかった。

 それから日が()ち、いつもの日々に戻ってからも(くすぶ)り続けるその熱は、やがて「いつかあの舞台で輝きたい」という夢に昇華(しょうか)していた。

 ドイツ(欧州)に生まれながら、伝統ある欧州三冠よりも極東の島国での三冠に熱中したヴァイスシュトルムに対して、彼女の学友は「変なヴァイス」と口々に言い、学校の先生やクラブで指導してくれた元競走ウマ娘のコーチでさえも「伝統ある欧州クラシックの方が日本のクラシックよりも名声は高くなる」と暗に考え直さないかと伝えるほどだった。それでもヴァイスシュトルムの考えは変わらなかったし、変えるつもりもなかった。

 既にヴァイスシュトルムの中では、最も()えあるクラシック三冠は「日本の」クラシック三冠となっていたのだから、それも当然だった。

 それからのヴァイスシュトルムは必死に日本語を勉強し、留学を認めて貰うために家の手伝いも積極的に行うようになっていた。彼女の母親はそんなヴァイスシュトルムを見て「血は争えないのね」と笑みを深め、父親は何とも複雑な表情を浮かべていた(ヴァイスシュトルムの母親もまた、走ることが何よりも生きがいであり、自分がこれと決めたレースに出走するためなら文字通り何でもしたという事実は、ヴァイスシュトルムが日本に()つ日、見送りに来た父親から彼女にこっそりと伝えられた)。

 来日し、トレセン学園に入学してからは珍しい月毛に注目が集まったことで、(わずら)わしくイヤな思いをすることもヴァイスシュトルムにはあった。しかし、そのおかげでヴァイスシュトルムは神谷トレーナーに出会うことができ、レースで実力を示す事ができるようになったのだから、悪いことばかりではなかったと今は考えている。デビューしてからは益々(ますます)走ることが好きになったし、トレーニングの成果が自分で実感できることがヴァイスシュトルムには何よりも嬉しかった。そして何よりも、夢見た舞台に近づいている実感が嬉しかった。

 だからこそ、ヴァイスシュトルムは自分自身が許せない。

 夢にまで見たクラシック路線に挑戦している最中に、些細(ささい)なことで神経をすり減らす自分の繊細(せんさい)さが許せない。

 自分で自分の夢を手放しそうになっている事実が許せない。

 神谷トレーナーとシュプリュレーゲンに心配をかけ続けていることが許せない。

 そして何よりも、走らなくて良いことを悔しく思えないだけではなく、あろうことか安堵してしまったことが(ゆる)せない。

 だから、彼女は――。

 

 

 昨日に引き続いて、今日もトレーニングの中止を神谷とシュプリュレーゲンから言い渡されたヴァイスシュトルムは、とある扉の前に立っていた。

 扉の上の室名札(しつめいふだ)(教室札やクラス札、学級表札の方が一般的かもしれない)には、「旧理科準備室」と掲示してあった。

 そこは、マンハッタンカフェの私的な喫茶室であると同時に、とあるウマ娘の研究室でもあった。

 マッドサイエンティストの呼び声高いそのウマ娘は、今日もここで自らのトレーナー(モルモット)と共に、実験に励んでいた。

「タキオン、話があるんだけど……」

「ふぅン……。この薬もダメか……。モルモット君の上半身が眩しく光るだけで、期待した効果は発現しなさそうだねぇ……」

「……ねぇ、これ本当に元に戻るのか? また奇異(きい)な目で見られるのは、いい加減俺も嫌なんだけど」

「いい加減慣れたまえよ。モルモット君」

 勢い良く扉を開けたヴァイスシュトルムの眼前では、栗毛のウマ娘が七色どころか黄金色に眩しく光る半裸の男からの文句をバッサリと切り捨てていた。その眩しさから反対の位置にいるマンハッタンカフェは、至極(しごく)迷惑そうにその光景を見ながら、黒猫のシルエットが描かれたマグカップを傾けていた。

 やはり、ここに来るのは間違っていたのかも知れない。そう思い直したヴァイスシュトルムは、静かに扉を閉めると(きびす)を返し、自らが安心できる場所、つまりは神谷のトレーナー室へ向かおうと一歩を踏み出した。しかしその瞬間、ほんの少しの浮遊感と共に、勢い良く後ろへと引っ張られ、先程彼女が閉めた扉の中へと引きずり込まれていた。

 ヴァイスシュトルムを飲み込んだ旧理科準備室の扉は静かに閉まると、廊下には何事もなかったかのように静寂が戻っていた。

態々(わざわざ)来てくれたのに、紅茶の一杯も飲まずに帰ろうとするなんて、あんまりだと思わないかい? ヴァイス」

「むーっ! むーっ!!」

 口を押さえられたヴァイスシュトルムは、ジタバタと暴れながら、自分の身体を抱き(すく)める栗毛のウマ娘、アグネスタキオンを睨み付ける。

「ほらほら、大人しくしたまえよ。今モルモット君が美味しい紅茶を()れてくれるから」

「むーっ!!」

「ヴァイス、君……」

 首を左右に振って拒絶を表すヴァイスシュトルムだが、まともに食事を摂れていない影響からか、早々に力を失う。それを感じ取ったアグネスタキオンが口を開こうとしたその瞬間、目に見えない『誰か』が自分とヴァイスシュトルムの間に割り込み、アグネスタキオンはヴァイスシュトルムを手放させられた。

「……何をしているんですか」

 いつの間にか戻ってきていたマンハッタンカフェは、アグネスタキオンから開放されたヴァイスシュトルムを優しく抱き留めると、半眼でアグネスタキオンを見つめていた。

「~~~っ! カフェ~っ!」

「安心して下さい……もう大丈夫ですよ……」

 自分に(すが)り着いて来るヴァイスシュトルムをあやしながら、マンハッタンカフェはアグネスタキオンからジリジリと距離を取る。そんな二人に羨望とも嫉妬(しっと)とも取れる複雑な表情を向けて、アグネスタキオンは一つ溜め息を()いた。

「それで、栄養吸収効率を高める薬はあることにはあるが……覚悟はできているのかい?」

 先程までの巫山戯(ふざけ)た空気を霧散(むさん)させて、やや重苦しく告げるアグネスタキオンに、ヴァイスシュトルムも姿勢を正して彼女へ向き直る。ヴァイスシュトルムを抱き留めていたマンハッタンカフェは、いつの間にかヴァイスシュトルムの後ろから姿を消していた。

「……うん。まともに走れなくて後悔するくらいなら、走った後に出てくる後遺症なんて怖くない」

 ヴァイスシュトルムのまっすぐな瞳に、愚問だったかとアグネスタキオンは頰を緩めて目を伏せる。それから、薬品棚からフラスコに入ったかなり濃い緑色をした液体を取り出すと、ヴァイスシュトルムに向き直ってその薬を差しだした。

「これが君の求めていた薬だ。その覚悟には敬意を表しよう。さあ、飲みたまえよ!」

「これが体力回復と栄養摂取効率が良くなる薬……!」

 濃い緑色の薬を受け取ったヴァイスシュトルムは、フラスコの口に被せてあったアルミホイルの蓋を開けると一息に飲み干そうとして、あまりの青臭さに顔を(しか)めた。

「ねぇ、タキオン? この薬、すごくその、えっと、青草とかの臭いがするんだけど……?」

「ああそうだ、君の勘違いを訂正しておくよ。ドーピングほど(しら)ける行為はないからね。一時的にしか効果を(もたら)さず、使用後に悪影響を齎すような身体強化薬なんて私は一度も作ったことはないし、これからも作ることはないだろう」

 そう言ったアグネスタキオンは、つまらなさそうに髪を指で(もてあそ)びながらヴァイスシュトルムへと近づいてきた。

「君に渡したその薬も、あくまでも低下した身体機能を補助し、不足した栄養素を補うことに主眼を置いた代物(しろもの)でね。栄養摂取効率が上がるのは副次的な作用に過ぎないのさ」

 そう話しながら、にじり寄ってくるアグネスタキオンを不思議そうに見て、再び手に持ったフラスコから漂う臭いに顔を顰めたヴァイスシュトルムは、アグネスタキオンの言葉を理解しようと努めた。

「それだけならまあ、とても良い薬だったんだが……。一つ問題があってね」

「……それは?」

「……とても苦く、青臭く、……つまりは不味(まず)い! という問題さ!」

 一瞬のうちにフラスコをヴァイスシュトルムの手からひったくったアグネスタキオンは、そのフラスコをヴァイスシュトルムの口に突っ込んで傾けた。

「!? ……? ……! んーっ! むー!?」

 フラスコを口に入れられた瞬間は、驚きで何も感じなかった。(しばら)くしてもアグネスタキオンが言うほどの苦さも青臭さも不味さも感じない。しかし、次々と流れ込んでくる薬を口に溜め続けることなどできるはずもなく、とりあえず飲み下した瞬間、それはヴァイスシュトルムに対して牙を()いた。

 口いっぱいに広がる青臭さと土臭さは、まるで雑草を煮詰めた泥汁のようで到底飲み込めるものではないし、口いっぱいに広がる苦みは、一度興味本位で口にした(とても苦かった覚えのある)ゴーヤや罰ゲームで飲まされた事のあるセンブリ茶の方がマシに思えるほどだった。臭いと苦みの暴力に、ヴァイスシュトルムの両目からは涙が溢れ、ジタバタと激しく暴れる。しかし、アグネスタキオンが的確に身体を押さえ込んでいるせいで何の効果も得られなかった。

 ヴァイスシュトルムは、フラスコが空になるまで、全身を小刻みに震わせて苦悶(くもん)の表情を浮かべながら、耐え続けるしかなかった。

 

 ようやく空になったフラスコを口から引き抜かれ、押さえ込まれていた身体も開放されたヴァイスシュトルムは、ぺたんと床に座ると涙を浮かべたままアグネスタキオンを上目(づか)いで睨み付ける。

「……罪悪感を覚えさせるような、非難がましい目は止めたまえよ」

「タキオンに(はずかし)められて酷いことされた……もうお嫁に行けない……」

「人聞きが悪いにもほどがあるよ!?」

 しくしくと泣き真似(まね)をしてみせるヴァイスシュトルムだが、その口内ではまだ苦みと土のような味と青臭さが渦巻いていた。

「ふぅン……。しかし、あれだねえ……」

「……?」

「美少女ウマ娘の異名にもかかわらず、その口臭は雑草を煮詰めたようなもの……という、とても愉快なことになっているから、早く何とかした方が良いんじゃないかい?」

 楽しそうに笑みを浮かべるアグネスタキオンの言葉に、ヴァイスシュトルムはわなわなと拳を震わせた。一体、誰のせいでこうなったと思っているのかと。

「タキオンさん……ヴァイスをいじめるのは、そこまで……です」

 マンハッタンカフェの言葉と共に、アグネスタキオンが蹈鞴(たたら)を踏んで蹌踉(よろ)ける。まるで、誰かに思い切り突き飛ばされたかのような体勢の崩し方をしたアグネスタキオンに、ヴァイスシュトルムは狐につままれたかのように呆けた顔をした。

「お口直しにこちらをどうぞ」

 そんなアグネスタキオンを気にした様子もなく、マンハッタンカフェはヴァイスシュトルムを自分のカフェスペースにあるソファへと抱き寄せると、手ずから淹れた特製コーヒーの入ったマグカップを彼女に手渡した。

「あ、ありがとうカフェ……。ところでさ?」

「……? 何ですか?」

 不思議そうに首を傾げるマンハッタンカフェは優しく微笑んでヴァイスシュトルムを見つめる。その整った顔を至近距離で見たヴァイスシュトルムは、頰をやや赤く染めて目を逸らした。

「……そのさ、近すぎない?」

「……」

 カフェスペースに連れられてからずっと、マンハッタンカフェに抱きしめられていたヴァイスシュトルムは、顔をますます赤く染める。しかし、当のマンハッタンカフェは意に介した様子もなく、涼しい顔をして自分のマグカップを傾けた。

「……気のせいです」

「気のせいじゃないよね!?」

「そんなことより……、冷める前に……飲んで下さい……」

「!? 腕が勝手に……!? ちょっ、ちょっと待って!! 飲む! 飲むから!!」

 マンハッタンカフェによって手渡されたマグカップが、ヴァイスシュトルムの意志とは無関係に口元へと近づいてくる。『誰か』に手を掴まれて動かされているのに、その『誰か』が見えない事にヴァイスシュトルムは少しばかり戦慄(せんりつ)した。

 このまま抵抗して火傷(やけど)をするよりも、自分の意志で飲んだ方が良さそうだと慌てて判断したヴァイスシュトルムがマグカップを口元に近づけると、その見えない手は力を緩めてくれた。しかし、ヴァイスシュトルムが(しっか)りとマグカップの中身を飲み干すまで、掴んだ手を離してはくれなかった。

 

 ヴァイスシュトルムが自室に帰ったのを見送って、マンハッタンカフェは再びマグカップを傾けた。普段はマンハッタンカフェに()いている『あの娘』は、ヴァイスシュトルムに着いて(憑いて?)行ってしまったらしく、部屋を共有しているアグネスタキオンの声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 コーヒーの香りを楽しみながらも、マンハッタンカフェの頭脳は、酷く()せ細ったヴァイスシュトルムの身体について思考を巡らせていた。

 彼女が食事を摂れなくなっていたのは、食堂で見かけたときの食事量でわかっていた。しかし、クラシック級競走ウマ娘として、あそこまで痩せているとは想像だにしていなかったのだ。

 マグカップをテーブルに置き、ソファの背もたれに寄りかかったマンハッタンカフェは、天井を見つめる。今マンハッタンカフェにできることは、先程飲ませたリラックス効果が見込めるコーヒーを淹れる位しかないが、それが少しでもヴァイスシュトルムのためになればと祈らずにはいられない。

 普段は自分の研究に打ち込むアグネスタキオンが、この一週間ずっと彼女のために栄養吸収効率を高める薬を改良していたのだ。言い方を変えれば、それほどまでにヴァイスシュトルムの体調は(かんば)しくないとも言える。

「……ヴァイスは、無事に部屋へ帰れたでしょうか……」

 しっかり者の『あの娘』が着いているのだから、大丈夫だとわかっている。

 それでも、マンハッタンカフェの心配は尽きなかった。




ついこの間四月が始まったと思ったら、もう四月が終わるんですけども。時の流れおかしくなぁい?

ここまで遅くなった原因ですが、職場でたちの悪い喉風邪を貰いましてね……コロナは疑われるわ、微熱が一週間続くわ、仕事は忙しいわと散々な目に遭ったせいで執筆時間が取れなかったのです。
ゴールデンウィーク期間には間に合ったから許して……ユル……シテ………………シテ………………


今回の話から正式にアイネスフウジンが神谷の担当バになりました。神谷の周りナイスバディ多いな? 羨ましいそこかわれ

アイネスフウジンの実際のレース映像を見たことがない方は、是非とも一度ご覧下さい。私はあまりの格好良さにしびれましたし、鳥肌が立ちました。
アイネスフウジンしゅき…………

それでは、また次回の話でお会いしましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯18.桜の女王

 旧理科準備室を後にしたヴァイスシュトルムは、寮に戻るべくトレセン学園内を歩いていた。

 ここ暫くの間、正門には駿川たづなが常に立って目を光らせているのだが、今日はその姿が見えない。そのことにヴァイスシュトルムは(かす)かな違和感を覚えていた。

「……まぁ、たづなさんにも他の仕事はあるもんね」

 そう呟いて、ヴァイスシュトルムが一人で正門を出た瞬間、眩いばかりの光がヴァイスシュトルムを包んだ。

「っ!!」

「ヴァイスシュトルムさん! 今からでもモデルに転身しませんか!」

「そんな風に()せてしまうほど過酷なレースを続けるよりも、貴女には相応(ふさわ)しい世界があると思いませんか!」

「貴女の美しい姿で、世間の人々を癒しませんか!」

 口々に好き勝手な事を言う記者に、混乱から回復したヴァイスシュトルムは怒りで目の前が真っ赤に染まった。一体、誰のせいでこんなに辛い思いをしていると思っているのか、勝手なことを言わないで! と一瞬で上がった熱は、ニヤニヤと下卑(げび)た笑みを浮かべる記者達の姿に、スッと一瞬で冷めていった。

 他人を(おとし)めることしかできない記者に、何を語ってもムダだと再確認したヴァイスシュトルムは、ただ一言だけ答えることにした。

「ええと……。学園の許可がない取材はお受けできないので、学園を通して取材の申し込みをお願いします。それでは」

 頭を下げたヴァイスシュトルムは、記者達の脇をすり抜けるようにして寮の正門へと向かう。

「ちょっと、待って下さいよヴァイスシュトルムさん……うわあっ!?」

 一人の記者がヴァイスシュトルムの腕を掴もうと手を伸ばしたが、その手は彼女の細腕を掴むことはなく、何故か、誰かに掴み上げられたかのように不自然で不格好な姿を(さら)していた。

 突然、何もない空中に掴み上げられ、一瞬とはいえ身体が浮いた記者は、腰を抜かしたように地面に座り込むと、何もない空中を見て泡を食っていた。

 周りの記者達も突然の超常現象に震え上がり、ヴァイスシュトルムの取材どころではなかった。今、目の前で起こった出来事を逃すわけには行かないと、編集部に電話してトレセン学園前で過去に事故がなかったか確認する者や、トレセン学園が開校する前の建物や土地が一体何だったのか調べさせる者、言い伝えや信仰等を確認し始める者と様々な反応を見せていた。

 そんな喧噪(けんそう)を後に、ヴァイスシュトルムは栗東寮の中へと姿を消したのだった。

 後日発売された週刊誌の多くには、『トレセン学園で怪奇現象! その謎の究明に挑む!』といったオカルト記事が掲載されており、ヴァイスシュトルムへの注目は一気に下がる格好になった。

 

「『トレセン学園で突如(とつじょ)沸き起こった怪奇現象。我々はこれからもこの謎の解明に挑み続ける!』ねぇ……」

 週刊誌をローテーブルの上に投げ出して、神谷は椅子代わりに腰掛けていたベッドへと体を投げ出した。降って湧いた怪奇現象騒動のおかげで、ヴァイスシュトルムへの突撃取材は激減し、以前のように落ち着いた日々がここ数日の間は続いていた。時折、この数ヶ月間の元凶となった男女三人組の週刊誌記者が相も変わらず押し掛けて来るものの、何故か彼らが来るときに限って怪奇現象が発生したり、たまたま通りがかったゴールドシップに追いかけ回されたり(その後、ずぶ濡れで帰る姿を神谷は何度も目撃している)と散々な目に遭うためか、現在はその頻度(ひんど)も低下していた。

「……ううん。怪奇現象は置いとくにしても、ゴールドシップには一度お礼をするべきか? でもなぁ……ゴルシだからなぁ……」

「何だぁ? この超絶美少女ウマ娘ゴルシちゃんに不満でもあんのかオメー!」

「いや、一度頭陀袋(ずだぶくろ)に放り込まれた時のことがだな……。……ええと、ゴールドシップ? 何時(いつ)からそこに?」

 神谷の独り言に対して憤慨(ふんがい)したように美しい銀色の長い髪を揺らしたゴールドシップは、当たり前のようにローテーブルの前で行儀良く正座をして、冷蔵庫から勝手に拝借(はいしゃく)したであろう緑茶を飲んでいた。

 (くつろ)いだ様子でお茶を飲むゴールドシップの姿は、お手本のような美しい所作であり絵になる光景であったが、神谷にとってはそれどころではない。

 なぜなら、神谷が寛いでいるここはトレーナー寮の自室であり、ウマ娘がそうそう立ち寄るような場所ではないのだから。

「鍵を閉め忘れたか? いやでも、昨日帰ってきてから今日は出かけてないし……」

「ふっ……鍵なんてなくても、このゴルシ様にはどうってことはなかったぜ。ああ、今思い出しても楽しかったなぁ、蝶番(ちょうつがい)のやろうとの一週間に(わた)る死闘……。最後はアイツ、突然乱入してきたエイリアンから繰り出された一本背負いからアタシを(かば)ってよ……粉々に砕け散ったんだったな……元気にしてっかな」

「いや、乱入してきたエイリアンから一本背負いを食らうって何だよ、いやそれよりも蝶番と一週間の死闘ってどういうこと? お前は何と戦っ……蝶番?」

 ゴールドシップの荒唐無稽(こうとうむけい)な話に、思わずツッコミを入れてから、神谷ははたと気づいた。

 ベッドから勢い良く起き上がると、そのまま玄関に急行した神谷の目に映ったのは、壁に立て掛けられた見覚えのありすぎる扉と、見るも無惨(むざん)に砕け散った蝶番の残骸らしき金属片――間違いなく、昨日確りと施錠をした玄関扉の変わり果てた姿――だった。

「はあああああああああ!? 何してくれてんだゴルシぃ!!」

「何ってオメー、見てわかんねーのか? 無料開錠サービスに決まってんじゃねーか」

「そういう話じゃねーよ! そもそも、そんなもん頼む必要がないだろうが!!」

 泡を食ったように部屋に戻って来た神谷に対して、何を言っているんだコイツは、と言わんばかりの真顔で答えるゴールドシップ。彼女は泰然自若とした態度を崩すことはなく、のんびりと手に持ったグラスを傾ける。その姿に神谷は、文字通り頭を抱えた。

「入居して一年位しか()ってないのに、扉を完全に破壊したとか……管理人さんになんて言えば」

 神谷の脳裏には、トレーナー寮ですれ違うといつもニコニコと柔和(にゅうわ)な笑みで挨拶(あいさつ)をしてくれる、気の良い管理人の姿が浮かんでいた。

「細けぇ事は気にすんなって。オメーはもっとどっしり構えとかねーと、ヴァイスの奴がまーた苦労すんだろうが」

 言葉こそ軽いが、ゴールドシップ自身は至極真面目な顔をしており、思わず神谷も黙り込んだ。しかし、神谷にも譲れないことはある。

「いや、細かくはないんだわ。それに、扉を破壊した本人が言うことじゃないよな?」

「ちっ、これだから頭カッチコッチステーションはよー。その内オメーはホームに置き去りにされっぞ!」

 つまらなさそうに頭の後ろで手を組むゴールドシップ相手に、神谷は最早大きな()め息を()くことしかできなかった。

 言いたいことを神谷に()き出しきったゴールドシップは、冷蔵庫で冷やしていた緑茶とめぼしい菓子(昨日仕事終わりに購入した、差入れ用の少しお高い羊羹(ようかん)も含まれていた)を容赦なく平らげ、最後に念を押すように「ヴァイスのことをもっとちゃんと見てやれ。そんくらいわかってんだろ?」と言い残すと壊れた玄関をそのままに、神谷の部屋から颯爽(さっそう)と出ていった。

「ちゃんと見てやれ……か」

 そう呟いた神谷だったが、春先の冷たい風が吹き込んで来る部屋の現状に身体を震わせる。また溜め息を一つ吐いてから、神谷は休日の朝から、玄関の惨状(さんじょう)を説明するために管理人室へと足を運ぶ羽目(はめ)になったのだった。

 

 

 おやつ時となった栗東寮の食堂では、外出しなかったウマ娘達が放映されているレース中継を見ながら出走している娘を応援したり、レースについて熱く話し込んだりと賑わいを見せていた。そんな中、サザンエースと一緒に彼女お手製のクッキーを摘まんでいたヴァイスシュトルムは、テレビ画面を見るでもなく時折ぼんやりと何もない空中を眺めていた。

「……本当に部屋で休まなくて大丈夫? 顔色はかなり悪いけど」

「……ううん、平気」

 顔に「とても心配」と大きく書いたサザンエースは、何度か部屋に帰ろうと促すが、ヴァイスシュトルムは一向に動こうとしなかった。

 アグネスタキオンに飲まされた、栄養吸収効率を高める薬――後日、グリーンティEX+と名付けたらしい――を、一日一本飲むようにと言い含めて二週間分渡して来た時のアグネスタキオンの顔は、心配七割、楽しみ三割と言った様子だった。しかし、薬の効果自体はやはり本物で、ここ(しばら)くの間大きく落ちる一方だった体重の減少に歯止めが掛かっていた。

 しかし相変わらず食事量の改善には遠く、少しずつ改善しているものの、その歩みは牛歩のようだった。

 食べたいのに食べられない事も無意識のストレスとなっているらしく、ストレスが溜まった結果としてぼんやりと虚空(こくう)を眺める事が増えたヴァイスシュトルムは、授業もトレーニングも身に入らないといった数日を過ごしていた。

 同室のサザンエースとしてはそんなヴァイスシュトルムを放っておく事ができず、授業でも食事でも……果ては風呂に(いた)るまで、ヴァイスシュトルムの手助け、もとい介助を行っている状況だった(サザンエースのトレーナーである今井(いまい)洋子(ようこ)は、そんな状況のサザンエースに対して、何とも言えない顔を良く見せている)。サザンエースが少し目を離した隙に、再び(ぼう)としていたヴァイスシュトルムは、手に持っていたクッキーを皿の上に落とした。その音にはっとしたように自分の手を見つめるヴァイスシュトルムの表情は、信じられないものを見たかのようだった。

 そんなヴァイスシュトルムに、一体何と声を掛けるべきか。サザンエースが言葉を選んでいると、不意に後ろから現れた綺麗(きれい)な銀髪を持つ長身のウマ娘が、ヴァイスシュトルムの目の前にあるクッキーを鷲掴みにしていた。

「おいおいヴァイス。あんまりぼーっとしてっと、こんな風にゴルシちゃんに色々と()(さら)われんぞ☆」

「……日曜日にゴルシが寮にいるって珍しいね?」

「今日は竜宮城にお呼ばれしてねーからな。こんなときは、雲を突き破れるように豆を育成しねーと」

 相変わらずどこまで本気かよくわからないゴールドシップの言動に、ヴァイスシュトルムは苦笑いを浮かべる。半眼でゴールドシップを見ていたサザンエースは、ゴールドシップが左手に持っているドアノブに気が付いた。

「ねぇ、ゴールドシップ。何でドアノブなんて持ってるの?」

「いっけね。ゴルシ様ともあろう者が、蝶番との格闘に夢中でドアノブ一等兵……いや、二階級特進で今は伍長だか曹長だったかの存在を忘れてたか。ヴァイス、これ返品しといてくれ」

 ゴールドシップは左手に持っていたドアノブをヴァイスシュトルムに投げ渡すと、クッキーの乗った皿を自分の方へと引き寄せる。ドアノブを受け取ったヴァイスシュトルムは、ドアノブを返品すると言うゴールドシップの言葉に首を傾げた。

「うわっ……と。ゴルシ、ドアノブを返品するって、誰に?」

「あん? 見てわかんねーのか? ヴァイスちゃんもまだまだだなー。オメーのトレーナーに決まってんじゃねーか」

 ゴールドシップの言葉に、益々(ますます)困惑したヴァイスシュトルムは、助けを求めるようにサザンエースに顔を向ける。しかし、サザンエースにも理解できるわけがなかった。

 二人が顔を見合わせ、揃って首を傾げる姿に、ゴールドシップは幼い子供を見守るような、しかし人を小バカにしたようにも見える生暖かい視線を送った。

「しゃーねーな。わかるようにしっかり説明してやっから、よーく聞くんだぞ」

 ゴールドシップに対して揃って耳を絞っていた二人は、話を聞くために耳は絞ったままゴールドシップを注視する。

 ゴールドシップは二人が話を聞く姿勢になったことを確認して、今朝のトレーナー寮であった話をし始めた。

 

「それでよー、ヴァイスのトレーナーの奴、中々良い菓子の趣味しててよ。ついつい食べ過ぎちまった」

「…………ちょっと待って、私のトレーナーさんの部屋に、ゴルシが行ったの? しかもトレーナーさんのお菓子まで強奪したの?」

 話を最後まで聞いたヴァイスシュトルムは、目を見開いて信じられないものを見るような目でゴールドシップを見つめる。彼女の隣で同じように話を聞いていたはずのサザンエースは、いつの間にか姿を消し、中等部の後輩達に囲まれていた。

「あん? そうだって言ってんじゃねーか」

「へぇ……その話、詳しく聞かせて欲しいな? ゴールドシップ?」

 突如聞こえてきたドスの効いた低い声に、ゴールドシップに更に詰め寄ろうとしていたヴァイスシュトルムは、尻尾をピンと跳ねさせてゴールドシップから目を逸らした。名前を呼ばれたゴールドシップは、泰然自若としていたものの、笑みを浮かべたその頰には、冷や汗が伝っていた。

 それから間を置かずにゴールドシップの後ろから現れたフジキセキは、いつものように温和な笑みを浮かべてはいたものの、その背後にどす黒い何かを背負っているような、場が凍り、背筋が寒くなるような迫力を(かも)し出していた。

「……担当されてるヴァイスよりも、担当されてないフジの方が本気でキレてね? 流石にこれはゴルシちゃんも予想外だわ」

 ゴールドシップの至極真っ当な呟きは、カフェテリアの(ざわ)めきに消えていったのだった。

 

 

 四月第二週の日曜日。トレセン学園では春のファン大感謝祭が開催される。秋のファン大感謝祭とは異なり、体育祭的な色の強いイベントである。しかし、同じ日にトレセン学園から遠く離れた阪神レース場では、桜花賞が開催されようとしていた。

『満開の美しい芝桜が咲き誇るここ、阪神レース場に十八人のウマ娘が(つど)いました。クラシック競走の始まりを告げるGⅠ桜花賞。発走時間が刻一刻と近づいています!』

 GⅠ桜花賞。皐月賞・日本ダービー・オークス・菊花賞と共にクラシック競走を構成し、クラシック五大競走の始まりを告げる第一走目である。

 ――ティアラ路線では、桜花賞・オークスを勝利した上で、クラシック級ウマ娘だけが挑戦できる秋華賞か、旧ビクトリアカップ(=エリザベス女王杯)を勝利したウマ娘を伝統的にトリプルティアラと呼称している(ビクトリアカップはエリザベス二世の来日を記念してエリザベス女王杯に改称後、シニア級にも解放された。そのため現在は、桜花賞・オークス・秋華賞の三競走を勝利したウマ娘だけがトリプルティアラウマ娘とされる)が、両競走はクラシック競走ではない。

 イギリスのクラシック競走をモデルとしたため、三冠路線もティアラ路線もクラシック三冠目の競走は、セントレジャーステークスをモデルとした菊花賞が最終戦となる。

 つまり、日本でクラシック三冠を名乗れるウマ娘は、皐月賞・日本ダービー・菊花賞、桜花賞・オークス・菊花賞、皐月賞・オークス・菊花賞、桜花賞・日本ダービー・菊花賞の四通りがあり、そのいずれかで勝利したウマ娘だけである(今現在は皐月賞・日本ダービー・菊花賞のクラシック三冠しか達成されていない)。

 超長距離GⅠである菊花賞ではなく、ティアラ路線用の三冠目を望む声に応える形でフランスのヴェルメイユ賞をモデルに創設されたのがビクトリアカップである。そのビクトリアカップは、エリザベス二世の来日記念としてエリザベス女王杯に改称され、シニア級ウマ娘にも解放された。

 再びなくなってしまったクラシック級限定のティアラ路線用に、改めて三冠目として創設されたのが秋華賞である。

 詰まる所、秋華賞とエリザベス女王杯はその創設過程から、優秀なクラシック級ウマ娘を決めると言った目的でイギリスのクラシック競走を手本に整備されたクラシック五大競走とは異なる意図を持って(優秀なクラシック級ウマ娘を決める為のレースである、という点では異なるとは言えないのだが、やはり微妙に創設の意図が異なっている)創設されたため、クラシック競走には含まないとされているのである。

 トリプルティアラを手にエリザベス女王杯で戴冠(たいかん)したウマ娘は、ティアラ四冠達成として名実共にクイーンウマ娘として歴史に名を残すことになる。更に言えば、阪神ジュベナイルフィリーズとヴィクトリアマイルを加えたティアラ六冠を達成したウマ娘は、現在に至るまで現れていない――。

 

 桜花賞の出走時刻が(せま)り、ゲートに続々と集まってきた出走ウマ娘達の中に、そのウマ娘の姿もあった。

『本日の一番人気! メイクンリリーがゲートに入ります! 無敗で迎えた大一番。果たして、汚れなき桜の女王は誕生するのか!』

「……ふぅ」

 レース発走時間が迫っていることを知らせるように関西GⅠファンファーレが高らかに鳴り響く中、ゲートに入って一つ息を()いたメイクンリリーは、右手を左胸に当てて目を(つむ)る。

 幼い頃、無邪気に思い描き夢見ていた舞台に、無敗で立つことが叶った今、彼女の胸に少しの緊張と高揚感が湧き起こる。ヴァイスシュトルムにも、親友のノーブルライトにも、トゥインクルシリーズでの栄冠だけは譲れない。

 桜花賞はメイクンリリーにとって、ヴァイスシュトルムもノーブルライトも、勿論、他のウマ娘も、誰にも並ばせない、並び立つ者のいない栄光の道を踏み出す為の大切な第一歩だった。

「……」

 静かに、ゆっくりと目を開いたメイクンリリーは、眼前のターフとそれを(さえぎ)るゲートだけを見つめる。まだ鳴り響いているはずのファンファーレも、観客の騒めきも、彼女の耳にはもう入ってこなかった。

 ――準備はできた。後は、ここにいる誰よりも早く、ゴールを駆け抜けるだけ。簡単よね? メイクンリリー(アタシ)――。

『最後に大外18番、オイシイプディングがゲートに収まります。体勢完了』

 全員がゲートに収まり、ゲート前からスタッフが退避したことを確認して、発走委員(スターター)が右手に持った旗を掲げ、左手のリバーサー(ゲートを遠隔で開くための装置)を操作する。

 ゲートが開くと同時に、18人のウマ娘が一斉に飛び出した。

『スタートしました。勢い良く飛び出したのは一番人気、8番メイクンリリー。3番のクイーンズホロー、12番イーグルアイが続きます』

 理想的なスタートを切れたメイクンリリーは、勢いそのままに(はな)へと立つ。十七人を引き連れて、阪神レース場外回りコースにある緩やかな坂を登って行く。1200Mを過ぎて第三コーナーに差し掛かろうかと言うところで、メイクンリリーは後続のウマ娘との先頭争いを行うことになった。

『7番メルティキスがここで先頭に立つか、メイクンリリーも負けてはいないようです。その後ろから1番ドコドコ、17番スイートメモリー。9番スタートレイル並び駆けてきた』

 メルティキスが激しめにメイクンリリーに()りかけ、何度か脚や腕、膝や肘をぶつけながら端に立つ。メイクンリリーはそれに顔を(しか)めながらも、負けじとメルティキスを抜き返す。そんな二人から二バ身程距離を開けて走っているスイートメモリーは、不気味にほくそ笑んだ。

「……っ! さっきから痛いのよっ!」

「っ! いい加減、端を譲りなさいよリリー!」

 ジリジリとメイクンリリーを内(らち)に追いやるメルティキスだが、彼女の予定ではとっくにメイクンリリーを抜き去っているはずだった。

 メイクンリリーには、後ろにピッタリとマークされるとレース運びに支障を来す悪癖がある。その悪癖は無意識と言っても過言ではなく、この短期間で克服できるものではない。それが多くのトレーナーの見解であったし、また、メイクンリリーと似たタイプのウマ娘が過去に示してきた結果だった。

「……なんで、この娘はまだブレていないの?」

 メルティキスの呟きの通り、メイクンリリーは逃げを潰されようとしてなお、レース運びに綻びを見せなかった。それどころか殊更(ことさら)レース運びが完璧に近付きつつあった。

 メイクンリリーにとって、半年前のサウジアラビアRCは屈辱的な結果だった。ヴァイスシュトルムを侮っていたわけではない、しかし、自分でも気づいていなかった悪癖に彼女は気付き、徹底的にメイクンリリーの後ろをマークし続けた。背後にピタリと張り付くヴァイスシュトルムの気配と、殺気にも似たプレッシャー。背筋には冷や汗が伝い、全身が粟立つ感覚を今も鮮明に覚えている。そして、第三コーナーで颯爽と抜き去るヴァイスシュトルムの格好いい姿に一瞬見蕩(みと)れて、すぐに情けなくなった。レース中にも関わらず、敵に見蕩れる余裕があった自分が情けなく、また(みじ)めだった。

 あの後、ヴァイスシュトルムに置いて行かれたくない一身でがむしゃらに走ったことは覚えているが、記憶は判然としない。しかし、東京レース場の坂を登る途中で一瞬、ほんの一瞬だけ視界がクリアになり、周囲の音が何も聞こえなくなった事だけは、はっきりと覚えている。

 あの感覚が何だったのかは、メイクンリリーにはわからない。あの感覚を掴みたいと、トレーニングに励んだこともあったが手応えはなく、訳知り顔のトレーナーからは、今回は忘れるようにと言い含められた。

 そして、仮想ヴァイスシュトルムを相手に、桜花賞のシミュレーションに明け暮れる日々が続き、今に至る。そんな彼女だからこそ、この甘いマークに関して断言できる事がある。

 ヴァイスシュトルムの方がずっと恐ろしいし、レース道中の運び方は美しかったと。

「……ヴァイス先輩に比べたら、あんた達は優し過ぎるのよ!」

「!? まっ……!」

 残り半分、800Mを切ってすぐに入った第四コーナー。メイクンリリーはメルティキスを交わすと、緩やかな下り坂で徐々に加速していく。早めに仕掛けたメイクンリリーに、場内には歓声が沸いた。

『メイクンリリー、ここで抜け出した! 後続とは四、五バ身程のリード! メルティキス苦しいか、スイートメモリーが二番手に上がってきた!』

「いけるっ!」

 前二人の削り合いにほくそ笑んでいたスイートメモリーが、待ってましたと言わんばかりにスパートをかけ始める。メルティキスは追い(すが)ろうとするものの、力を失ってずるずると後退していき、最終直線へと入った時には既に、後方集団に取り込まれていた。

『メイクンリリー独走! 二番手スイートメモリーとは六バ身空いて残り300Mといったところ、これは決まったか!』

 メイクンリリーが坂に辿り着いたとほぼ同時に、スイートメモリーが爆発的な加速で追い上げる。

『スイートメモリーが来た! 素晴らしい末脚でメイクンリリーに迫る! その差は三バ身! 更に差を詰めて来る!』

 爆発的な末脚でメイクンリリーに迫るスイートメモリー。その差は六バ身あったのが三バ身となり、二バ身、一バ身半と徐々に縮まっていた。しかし、追われるメイクンリリーに焦りはなく、後ろからスイートメモリーが放つ重圧も大したことではなかった。

「……やっぱり、ヴァイス先輩の方がもっと怖い」

 そう呟くやいなや、メイクンリリーは踏みしめる脚に力を込めた。彼女の小柄な体躯(たいく)からは想像のつかない力強い走りで坂を登り切ったメイクンリリーは、詰められた差を改めて広げていく。

「っ、どこに、そんな力が……」

 全力でメイクンリリーを追い上げたスイートメモリーも、最早これまでだった。自分の出せる全力でメイクンリリーに並び追い抜ける自信があった。しかし、蓋を開けてみれば、メイクンリリーにはまだまだ余力があり、自分は一杯一杯で息も絶え絶え。彼女と自分との間にある明確な実力差をまざまざと見せつけられ、スイートメモリーには最後の気力も残らなかった。

 自分の全力が通用せず、生涯一度の冠を手にすることができなくなった。そう知覚した瞬間、スイートメモリーの両眼からは涙が溢れていた。

 溢れる涙に(にじ)む視界には、メイクンリリーが桜の冠を手にする瞬間――ゴール板を駆け抜けた瞬間が映っていた。

『メイクンリリーここで更に加速! 一体どこにそんな力があるのでしょうか! スイートメモリーは苦しいか、脚が伸びない! メイクンリリーだ! メイクンリリーが今一番にゴール板を駆け抜けた!』

 メイクンリリーがゴール板を駆け抜けた瞬間、観客席からは割れんばかりの歓声が轟いた。それを聞いたメイクンリリーは、口許を綻ばせて観客席に手を振った。

『勝ったのはメイクンリリー! 汚れなき桜の女王が誕生しました! 二着はスイートメモリー、三着にはクイーンズホローが入っています』

 一生に一度しか挑戦できないクラシックレース。桜の女王という一冠を逃したウマ娘達は、目に涙を溜めてメイクンリリーを見つめていた。その視線には、様々な想いが籠もっている。そんな視線を背中に受けながら、メイクンリリーもまた気を引き締める。まだティアラの一冠を手にしたに過ぎず、取るべき冠はまだ二つ、最強女王として歴史に名を残すには、四つの冠が残っているのだから。

「……樫の女王(オークス)も秋華賞も絶対私が取るんだから。そうじゃないと……」

 決意を口にしたメイクンリリーは、頭を(よぎ)った記憶に身体を震わせる。それから周囲を見渡して一つ息を吐いた。背中に肉食獣を思わせる鋭い視線を感じたような気がしたが、気が張っているせいで勘違いしたに違いない。なぜなら、メイクンリリーにそんな視線を向けるウマ娘は今頃、トレセン学園で春のファン大感謝祭に参加しているはずなのだから。

 

「っくしゅん!」

「大丈夫?」

 大きなくしゃみをしたヴァイスシュトルムは、心配するサザンエースに大丈夫だと返してから、不思議そうに首を傾げた。

「花粉症は持ってないはずなんだけどなぁ……誰かが噂してたのかな」

 そう独り()ちたヴァイスシュトルムは、澄み渡る青空を仰ぎ見て自分の参加種目の呼集に向かうのだった。

 




なんとかかんとか5月中に投稿できました。
……え? 明日には6月ですって? ミナカッタコトニシヨウ

つ、次こそは早めに上げるしっ!
(なお、守れるとは言ってない)

しかしあれだね、ゴルシの言動難しすぎてもうアレだわ。メイクンリリーがとても素直に見える。メイクンリリーとかただのツンデレロリウマ娘だったわ(?)。

いつも楽しみにして下さる皆様には、大変感謝しております。今後ともよろしくお願いしますね。
コメントやら誤字脱字報告もお待ちしております(小声)

それではまた次回お会いしませう


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯19.皐月賞開幕前

今回のお話には、少しばかり重い話が含まれています。
表現自体はそこまで残酷なものにはなっていないと思いますが、充分お気を付けてお読み下さい。



 春のファン大感謝祭も終わり、新たな桜花賞ウマ娘が誕生した翌日。久しぶりの練習となったヴァイスシュトルムは、坂路(はんろ)トレーニングのインターバル中に自分の(てのひら)をじっと見つめていた。

「ヴァイス、どうかしたノ?」

「レーゲン……いや、何でもない」

 そう言ってヴァイスシュトルムは再び坂路コースのスタート位置に立つ。彼女の様子に首を(かし)げたシュプリュレーゲンは、首を傾げながらもスタートの合図を出す。合図に(こた)えるように駆けだしたヴァイスシュトルムは、以前とは異なる身体の動きに頭を悩ませる。自分の中では、以前と同じように身体を動かしているはずなのだが、どうも微妙に違和感を覚えてしょうがない。

「……ううん、なんかしっくり来ないなぁ。レーゲンにもトレーナーさんにも、これ以上心配かけたくないんだけどな……」

 身体の違和感からトレーニングに集中できないでいたヴァイスシュトルムのタイムは、競走ウマ娘の中では特別速くも遅くもない平均的なものだった。端的にいえば、とても休養明けのウマ娘が出すタイムとは言い(がた)いものだった。

 

「ヴァイスシュトルムの様子がおかしい? そりゃあ、走るフォームが変わったんだから仕方ないんじゃないか?」

「えっ」

 ヴァイスシュトルムの様子がどこかおかしいと、トレーニング後に神谷へ報告したシュプリュレーゲンは、さも当然の(ごと)く言いのけた神谷の言葉に驚いた。

「なんだ、気づいてなかったのか……。良い機会だから、どうフォームが変わったのか、詳しく見てみると良い」

 ミーティング用の長机を顎で(しゃく)った神谷は、シュプリュレーゲンが椅子に座ると、彼女の前にノートパソコンを置き映像を二つ同時に再生した。一方は朝日杯FSの直前トレーニングの様子であり、もう一方は今日の映像だった。

「うーん? 言われてみれば……?」

 シュプリュレーゲンは頭に疑問符を浮かべながらも、しっかりと動画を確認し続ける。何度も何度も繰り返し再生し続けてようやく、小さな差異を見付けたシュプリュレーゲンは、それでもなお首を傾げていた。

「何となくわかった、かも」

「お、それじゃあ答え合わせするか」

 シュプリュレーゲンの隣から身を乗り出すような体勢を取る神谷は、再び流れ始めた映像を指さすようにシュプリュレーゲンに伝える。

 彼の行動に驚いて身を硬くしていたシュプリュレーゲンだが、神谷に(うなが)されるままヴァイスシュトルムのどこが変わったのかを指し示していく。

「うん、よく見れてる……が、それではまだ不十分だ」

 シュプリュレーゲンが指摘した、ヴァイスシュトルムが休養明けから見せるようになった腕の振り方や脚の上げ方、小さな肩のブレは確かにその通りなのだが、最も肝心な体幹のブレ――腰の揺れ方やトモ(臀部(でんぶ)太腿(ふともも)を合わせた部分。ウマ娘に対してのみ用いるが、場合によってはセクハラになり得る。不埒者(ふらちもの)への制裁はウマ娘(ごと)に異なり、ヴァイスシュトルムの場合は不届き者の尻を思い切り蹴飛ばしてくる)の不安定さ――についての指摘をシュプリュレーゲンはできていなかった。

「つまり、ヴァイスが不調な原因は体幹を支えられていないから……ってことですカ?」

「それだけとは言えないが、体幹がブレる事で肩の振れ方だったり、腕が横に流れたりしている部分はあるだろう」

 背もたれに身体を預け、頭の後ろで腕を組んだ神谷は、天井を見ながら独り言のように呟いた。

「体幹がブレてエネルギーをムダにしてるっていうのに、タイム自体は以前と遜色(そんしょく)ないんだから末恐ろしいもんだけどな」

 ぼそりと呟いた神谷の言葉通り、ヴァイスシュトルムがトレーニングで記録した時計自体は、彼女が体調を崩す前に記録したものと遜色ない。それどころか、その時よりも早い時計を叩き出している事実と(かんが)みれば、体幹のブレを矯正(きょうせい)すればもっと記録が伸びる事は想像に(かた)くない。

「とりあえず、シュプリュレーゲンはあれだな。担当ウマ娘の些細(ささい)な変化が、一体何に起因しているのかについて勉強していかないとな」

「はぁい……」

 柔らかく笑いながら告げる神谷に、シュプリュレーゲンは耳を前に折りながら笑顔を返す。

 その顔を見ながら、神谷もまた自らに同じ言葉を言い聞かせる。シュプリュレーゲンにかけた言葉が、そっくりそのまま自分に返ってきているような気がしてならなかった。その証拠に、先日ゴールドシップから言われた『ヴァイスのことをもっとちゃんと見てやれ。そんくらいわかってんだろ?』という言葉が神谷の脳内で再生される。

 自由奔放、傍若無人とトレーナー達の間では言われるゴールドシップだが、あれでいて子供好きでお節介、中々の世話焼きな性格であることを神谷は知っている。そんなゴールドシップが態々(わざわざ)神谷に忠告をしたのだから、神谷も彼女の言葉を無視することはできなかった。

「……お互い、勉強することはまだまだ多いな」

「……?」

 神谷の言葉に首をコテンと倒したシュプリュレーゲンは、不思議(ふしぎ)そうに神谷を見つめていたが、それに対する神谷はひらひらと軽く手を振るばかりだった。

 

 

 皐月賞の枠順が発表され、それと同時に行われた出走ウマ娘による合同記者会見も(つつが)無く(不思議なことに、ヴァイスシュトルムに粘着していた三人の記者の姿もなかった)終了し、いよいよ開催が迫ってきた皐月賞。それを前にしてトレーニングへ益々(ますます)熱が入るヴァイスシュトルムの姿に、神谷もシュプリュレーゲンも胸をなで下ろした。

「一時はどうなることかと思ったが、これなら大丈夫そうだな」

 まだブレ気味な体幹は懸念(けねん)材料ではあるが、記録される時計自体は世代の中でもトップクラスの記録である以上、今無理に矯正して走りのフォームを崩すリスクを負う必要はないと、神谷とシュプリュレーゲンは結論付けていた。

 ヴァイスシュトルムのフォーム矯正については、皐月賞の後、日本ダービーまでに矯正できれば一番理想的ではある。しかし、ダービーが終われば菊花賞トライアルまで、(およ)そ三カ月という長期間余裕ができるのだから、その間にじっくりと、時間をかけて、フォーム矯正に取り組めば良いだろうと二人は考えていた。そのため、今のトレーニングの中心メニューは、中山の急坂対策とバ群に()まれないようにするための力強さを身につけるものが主になっていた。

 

 皐月賞開催の二日前、この日は身体に疲労を残さないために、今まで鍛えた身体を維持する程度の軽いトレーニングで終わらせ、トレーナー室のホワイトボードを使用してのレース対策がメインになっていた。

「トレーナーさん、ちょっと休ませて……」

 疲れたようにそう言って、ヴァイスシュトルムはトレーナー室の長机に突っ伏した。

「……レース理論関連になると、途端に体力がなくなるな。ヴァイスシュトルムは」

 机の天板にだらしなく頰を付けたヴァイスシュトルムは、恨めしそうな顔をして神谷を見る。それから耳を伏せて目を瞑るとまるで神谷の言葉が聞こえないかのような態度を取り始めた。

「全く……。十分後に再開するからな」

 やれやれと言わんばかりに呆れた顔をした神谷は、そう告げて給湯スペースに足を向ける。そんな二人を後ろから見ていたアイネスフウジンとシュプリュレーゲンは、顔を見合わせて笑い合った。

「ホント、授業中は優等生なヴァイスしか知らないクラスメイトにも見せてあげたいの」

「……絶対イヤ」

 アイネスフウジンの言葉に、イヤそうに顔を(しか)めながら身体を(ひね)って振り向いたヴァイスシュトルムは、ケタケタと笑うアイネスフウジンに対して眉間の(しわ)を深める。そして、彼女の隣に座るシュプリュレーゲンに何とかしてと目配せをした。

「……ヴァイスは昔から外面は完璧だからね。変わってなくて懐かしい気分だよ」

 微笑みながらヴァイスシュトルムを見つめるシュプリュレーゲンに、ヴァイスシュトルムは薮蛇(やぶへび)だったと益々顔を顰めた。自分の不利を悟った彼女は、正面に向き直ると机に寝そべるように上半身を預け、不機嫌そうに尻尾を揺らすばかりだった。

「でもホント、昔に戻ったみたい」

 目を(すが)めるシュプリュレーゲンは、数年前まで、ヴァイスシュトルムと同じ教室で授業を受けていた日々への郷愁(きょうしゅう)に駆られる。無邪気に机を並べて勉強していたあの頃とは、立場も何もかもが変わってしまい、シュプリュレーゲンはほんの少しの(さび)しさを覚えていた。

 あの頃、ヴァイスシュトルムと共に並んで居たはずのシュプリュレーゲンの姿は、今はもうどこにもない。

 親友の隣で切磋琢磨しているのが自分ではなく、自分が師事している人の担当ウマ娘であることを改めて認識した途端、胸の奥が痛んだ。

「……ホント、昔のようだったら良かったのに」

 目の前で(うつぶ)せるヴァイスシュトルムに、アイネスフウジンが絡みに行っている仲の良い姿を見て、シュプリュレーゲンは自分の右足首に視線をやってから口の中で呟いた。音にもなってないはずのそれはしかし、ヴァイスシュトルムを反応させた。

「何か言った? レーゲン」

「何も言ってないよ。そんなことより、回復したなら再開しよっか?」

 一瞬で表情を取り(つくろ)ったシュプリュレーゲンは、笑みを浮かべてヴァイスシュトルムにそう言いのける。シュプリュレーゲンの様子に違和感を覚えたヴァイスシュトルムだったが、彼女の言葉に顔を顰めて再び外方(そっぽ)を向いて抗議の意を示していた。

「もう……Nun, es kann nicht geholfen werden(しょうがないなぁ)

 ヴァイスシュトルムの姿に苦笑したシュプリュレーゲンは、ドイツ語で何かを呟くと口許を(ほころ)ばせた。それから、まるで眩しいものを見るように目を細めて、ヴァイスシュトルムとアイネスフウジンを見る。

 そんなシュプリュレーゲンに対して、ヴァイスシュトルムの隣で彼女を見ていたアイネスフウジンはもちろん、給湯スペースから戻ってきた神谷は、揃って複雑そうな思いを抱いていた。

 

 怪我(けが)から回復した後、元のように走れないことが一体どれほどの絶望を(もたら)すのか、競争ウマ娘でもスポーツ選手でもない神谷には()(はか)ることはできない。しかし、足搔(あが)いて足搔いて、足搔き続けてそれでもなお届かない現実に絶望する気持ちには、二十年以上生きてきた神谷も多少は覚えがあった。

 羨ましそうな目でターフを駆けるウマ娘を見つめるシュプリュレーゲンに、走りへの未練を徐々に諦めさせることは簡単だろう。現実として、彼女の脚は最早(もはや)以前のようには動かないのだから。しかし、神谷はそれをしたくなかった。

 一昨年のドイチェスダービーの映像で、勝負服である大きめな真紅のパーカーを風に泳がせ、まるで舞い踊るかのような軽やかさで一番にゴールを駆け抜けたウマ娘の姿に、神谷は目を奪われた。

 フラッシュを浴びて輝かんばかりのウマ娘は、イギリスダービーに続いてドイチェスダービーを勝利したことにより、母国の記者やアナウンサーから国の誇りだと誉めそやされ、画面の中で満面の笑みを浮かべていた。

 インタビューの中で目標レースについて語る彼女は、本当に眩しく輝きを放っており、一流ウマ娘とはかくあるべしといった堂々たる貫禄を見せつけたそのウマ娘は、勢いそのままに連闘となったキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークスに出走し、見事勝利を飾った。しかし、その無茶とも言えるローテーションが(あだ)となった。

 KGⅥ世&QESでゴール後、左脚に炎症を起こしていた彼女は、一カ月程休養を取った。完全に回復した左脚は調子が良く、欧州三冠の最後の一冠、凱旋門(がいせんもん)賞の制覇に手が届くところだった。だが――彼女が欧州三冠ウマ娘となることも、凱旋門賞に再び挑戦し勝利する機会さえも、永遠に失われた――。

 

 

『さぁ、最後の直線での攻防。シュプリュレーゲンがバ群を割って先頭に立とうとしているぞ!』

 ギチギチに詰まったバ群に揉まれながらも、好位置をキープしていたシュプリュレーゲンは、パリロンシャンレース場特有であるフォルスストレート(第四コーナー終盤付近にある直線に近いコーナー部。最終直線と勘違いしやすく、ここで我慢できるかどうかも大きく勝敗に関わってくる)の(しま)いからラストスパートをかけるため、前で密集していたウマ娘達を搔き分けて先頭に立った。そのまま直線に入り、一気に加速する。

『これなら、勝てる!』

 足の調子はとても良く、後ろからのクラシック級・シニア級の入り交じったウマ娘達も、シュプリュレーゲンの鋭い末脚に着いて来られそうもない。

 ここまで来ると、ロンシャンに詰めかけた誰もが、シュプリュレーゲンによる欧州三冠の快挙達成を疑うことはなかった。

『残り後200M、後ろからシュプリュレーゲンに届くウマ娘はいないか! 欧州三冠ウマ娘の誕生だ!』

 観客も、実況も興奮しきりで、歓声がシュプリュレーゲンを出迎える。興奮している観客達の姿が見え始め、シュプリュレーゲンはこみ上げる嬉しさから口角を上げた。

『みんな喜んでくれてる……。ヴァイスも見てるかな?』

 日本に渡った親友を脳裏に思い描いて、シュプリュレーゲンは軽やかに欧州特有である深い芝の上を駆けていく。彼女の後ろとは三バ身程開いており、観客席の熱狂も最高潮に達していた。

『あっ……?』

 右足を力強く踏み込んだ瞬間、シュプリュレーゲンを襲った一瞬の浮遊感。突然消えた、右足が地面を踏み締める感覚に、シュプリュレーゲンは階段を踏み外したかのような錯覚を覚えた。トップスピードで空中に投げ出されたシュプリュレーゲンはなすすべなくターフに転がり、全身で芝を(いく)らか(えぐ)り取ってようやく止まる。

 ゴールまで(わず)か数十Mのところで起こった悲劇に、スタンドが、パリロンシャンレース場全体が、しんと静まり返った。

 好調な走りを見せていたシュプリュレーゲンが突然転倒したことに、後ろから彼女を追走していたウマ娘達も戸惑(とまど)いを見せる。隣を通過する(たび)に各々がちらりと心配そうにシュプリュレーゲンを一瞥(いちべつ)し、再び視線を上げてゴールへと向かって走り去る。

『何と言うことでしょう! シュプリュレーゲンに故障発生! 一着でゴールしたのはブレイブダンサー! シュプリュレーゲンは大丈夫でしょうか……欧州三冠の歴史的快挙は達成されませんでした、なんてことだ……』

『あっ、ぐぅ……』

 芝に投げ出されたシュプリュレーゲンは、右足からの激痛に声を出すこともできず(もだ)えていた。右足を抱えて(うずくま)るシュプリュレーゲンにすぐに駆けよった彼女のトレーナーは、彼女が抱える右足、特に足首を見てはっと息を飲んでから目を伏せた。彼女の右足首は、本来曲がらない外方(がいほう)に曲がってしまっていた。

 

 病院に搬送されたシュプリュレーゲンが目覚めたときには、既に窓の外は暗くなっていた。(かたわ)らに控えていたトレーナーが、シュプリュレーゲンが起きたことに気付き、すぐに担当医を呼び出す。

 担当医から骨折状態の説明を受けながらレントゲン写真とCT画像を見せられ、重い骨折であることと複数回の手術が必要になる可能性があることを告げられた。

 完治には時間がかかることと、完治しても以前のようには走れない可能性が高いことを告げられたシュプリュレーゲンは、それでもなお諦めることはしなかった。日本に留学した幼馴染(おさななじ)みであり、親友であるヴァイスシュトルムと同じレースで競うという夢が彼女に諦めるという選択をさせなかった。

 一年と半年を治療に(つい)やし、リハビリに半年を費やした頃、(すで)に怪我から二年が経っていた。夏に届いたヴァイスシュトルムからの手紙で彼女がデビューしたことを知り、レース復帰に向けたトレーニングに益々熱が入ることとなった。

 そして迎えた復帰初戦、地元であるミュンヘンレース場でリステッド競走、芝2000Mに挑んだシュプリュレーゲンは、大敗を(きっ)することとなった。

 

 ゲートを出てからずっとシュプリュレーゲンを(さいな)んでいた右足の違和感は、第四コーナーを回ってなお拭い去ることはできず、更に悪いことにスパートをかけようとして右足に力を込めることを身体が嫌がった。その結果、シュプリュレーゲンの実績としては余裕なはずのリステッド競走で、彼女は最下位という辛酸を味わうこととなった。しかし、彼女の苛立ちの原因はリステッド競走で最下位だったことではない。

 レース終盤、頭ではスパートをかけようと思うものの、身体が骨折したことを覚えているのか、(かたく)なにスパートをかけることを拒否される。右足の違和感とスパートをかけたいのにかけられないままに終わってしまったことに、シュプリュレーゲンの歯痒(はがゆ)さと苛立ちの上限は青天井となっていた。

 それから改めてトレーニングを行ったものの、同年の十一月に行われたフランス・トゥールーズレース場で行われたグループⅢ(GⅢ)、フィユドレール賞で何とか入着する(五着になる)ことがやっとだった。

 誰よりもこの結果を受け入れられなかったのは、シュプリュレーゲン自身だった。怪我から復帰してすぐの結果に、周囲の人々は悲観することはないと慰めや励ましを送ったが、それがなおのことシュプリュレーゲンを苦しめることになった。

 それでも、懸命にトレーニングに励んでいたシュプリュレーゲンだったが、その時は突然訪れた。

 

 帰省して実家で朝食を取っていたシュプリュレーゲンは、手に持っていたフォークを取り落としてしまった。フォークが落ちる音が聞こえた瞬間、シュプリュレーゲンの中でガラスが砕け散ったかのような音が聞こえた。

 その瞬間、シュプリュレーゲンの両目からは止め()なく涙が溢れ、その場から動けなくなった。泣き崩れるシュプリュレーゲンに、彼女の母親は娘を抱きしめてあやすことしかできなかった。

 それから数日後、シュプリュレーゲンは競走ウマ娘の引退を表明し、来日することが決まったのだった。

 

 

 ヴァイスシュトルムのトレーニング状況を(まと)めたレポートを見ながら、シュプリュレーゲンの過去に思いを()せていた神谷は、何かに呼ばれたような気がした。手に持っていたレポート用紙を机に置き、窓へと近寄って外の風景を眺める。

 赤々と燃える夕日が、窓の外に広がる風景も部屋の中も真っ赤に染め上げる様子に、神谷はふと真紅のパーカーを(ひるがえ)して疾駆(しっく)するウマ娘の姿を見た気がした。

 夕焼けの中で楽しそうに走るそのウマ娘は、ゴール板を駆け抜けると同時に、(かすみ)のように消えていく。消える瞬間に彼女が見せた笑顔は、何時(いつ)までも神谷の頭に残り続けていた。

 たった今見た白昼夢に、神谷は天井を仰ぎ見る。そうして一息ついた神谷は、机の上に広げていたレポートや書類を纏めて鞄に仕舞(しま)うと、トレーナー室を後にする。

 

 ヴァイスシュトルムの晴れ舞台となるべきレース、皐月賞の開催まで二十四時間を切っていた。




お待たせしました、お待たせしすぎたかもし(ry

今回のお話は閑話休題的な内容となりましたが、お楽しみ頂けたでしょうか?

……え? 話が更に重くなった? ……っすー。
このお話の中では実馬だと予後不良レベルのものはポンポン出てくるので注意して下さい。
一応前書きで注意書きはするようにします。

ウマ娘の良いところの一つに、骨折は治る病気(怪我)だということが言えるかなと思います。

アニメ第一期のサイレンススズカの骨折然り、今回私が書いたシュプリュレーゲンの骨折然り、実馬であれば予後不良の診断が降され、即座に安楽死とされるレベルのものです。

馬にとって骨折は死に直結しかねないものですが、ウマ娘であればよっぽど酷いものでない限りは命には関わらないはずです(むしろ、60km/h~70km/hで転倒する方が危険だとはアニメ内でも言及されてましたね)。

骨折などの怪我の描写を一体何処までやるか迷いました。しかし、競馬を元にした作品である以上、怪我問題は付き纏いますし、ウマ娘では骨折は完治するものであること(競走ウマ娘を続けられるかどうかは別ですが)、安楽死はないことで描くことにしました。

私の拙い文章で、一体何処まで伝えることができるのかわかりませんが、今後もレース中、或いは練習中に怪我の描写が出てくる可能性があることを、頭の片隅に置いておいて貰えるとありがたいです。

次回こそは皐月賞の話になると思いますので、よろしくお願いします(皐月賞終わってから何週間経ってるか数えてみろって? ひいふう……ミナカッタコトニシヨウ)。

それではまた次回、ご覧頂けることを楽しみにしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯20.皐月賞

 本格的に暖かくなり、春の陽気に若葉が()える四月半ば。中山レース場では、桜花賞に続くクラシック第二競走である皐月賞が開催されようとしていた。

『穏やかな春の陽気に包まれました、中山レース場。パドックでは本日のメインレース、GⅠ皐月賞出走ウマ娘の紹介が行われています』

 パドックに設営されているステージの裏で、ヴァイスシュトルムは静かに自分の番を待っていた。周りのウマ娘は、レース場内に立ち込める熱気や観客達の興奮度合い、自分達に向けられる注目度合いといったGⅠ特有の空気に、気合いを入れていたり、緊張して落ち着かない様子を見せていたりと様々だった。しかし、その中でもノーブルライトとサファイアペガサス、サザンエースといったGⅠを経験したウマ娘は、ヴァイスシュトルムと同じように落ち着いて堂々と自分が呼ばれる時を待っている。

 ジュニア級のGⅠとはいえ、そこでの競走経験を持つウマ娘はGⅠ独特の空気に浮かされる事なく、普段通りに過ごす事ができていた。

『本日の三番人気に推されたのはこの娘、12番、ヴァイスシュトルム』

『スプリングステークスの時とは違って、良い感じに仕上がっていますね。今日の一番人気に推されたノーブルライトとは、朝日杯FS以来の勝負とあって、どちらが勝つか非常に楽しみです』

 ヴァイスシュトルムは、ステージの前方に出ると同時に、肩に羽織(はお)っていた真紅のパーカーを勢い良く放り投げる。

 スプリングステークスの時よりも見栄(みば)えが良くなったヴァイスシュトルムの登場に、パドックは観客の発した期待の籠もった歓声と一部からの黄色い歓声とに包まれた。

 歓声に包まれるヴァイスシュトルムの様子を観客席で見守る神谷達は、堂々とランウェイを歩くヴァイスシュトルムの姿に笑顔を浮かべる。

「後は怪我(けが)なく走りきってくれることを祈るばかりだな」

「それにしても、本当に私が着てたパーカーを勝負服に組み込んでくれてるなんて……」

 ステージ上に投げていた真紅のパーカーを羽織り直し、ステージを後にするヴァイスシュトルムを見送りながら、シュプリュレーゲンは感慨に(ふけ)っていた。彼女の顔を横目に、神谷が口を開けたのとほぼ同じタイミングで、彼の隣に立っていた幼いウマ娘が口を開いた。

「やっぱり、ヴァイスさん素敵だなぁ……あんなにカッコいいのに、優しいし……」

「シフォンちゃん、そろそろ行かないと前の方で見れなくなっちゃう!!」

 シフォンと呼ばれた幼いウマ娘は、友達のウマ娘に引き摺られるようにパドックを後にする。しかし、憧憬(どうけい)の混じった熱い視線はずっと、ヴァイスシュトルムに(そそ)がれ続けていた。

 幼いウマ娘のあまりにも純粋な視線に、シュプリュレーゲンは顔を綻ばせると再びヴァイスシュトルムに優しい視線を送る。それを横から見ていた神谷には、シュプリュレーゲンが一体何を思っているのか判断する事はできなかった。

 

 地下バ道をゆっくりと歩くヴァイスシュトルムの隣を、同じく皐月賞に出走するウマ娘が二人、駈足(かけあし)で追い抜いていく。二人を見送った先に見えてきた光の側に(たたず)む良く見知った人影を認めて、ヴァイスシュトルムはその影の持ち主へ駆け寄った。

「トレーナーさん、何かあったの? あ、作戦変える?」

「いや、そうじゃない」

 そう言ってから言葉を探すように黙り込んだ神谷は、目の前でじっと黙って待つヴァイスシュトルムに何を言うべきなのか迷うことになった。

 生涯一度のクラシックレースに臨むヴァイスシュトルムに、どうしても伝えたいことがあったからこそここまで来たはずなのだが、肝心のその伝えたいことを上手く言語化できない。そのもどかしさに顔を(ゆが)めた神谷は、上手く伝えようとすることを諦めた。

「なあ、ヴァイスシュトルム」

「うん、なあに?」

「正直、レース直前に言うものではないんだろうが……その、なんだ。とにかく、楽しんでこい。結果は自ずと着いてくるだろうしな」

 ようやく口を開いた神谷から出てきた言葉に、ヴァイスシュトルムは目を(みは)る。まさか、神谷の口から「結果はともかく楽しめ」という言葉が出てくるとは思ってもみなかった彼女は、神谷の言葉をゆっくりと理解し、そうしてからほんの少しの怒りを(にじ)ませて、不敵な笑みを神谷へと向けた。

「それじゃあ、楽しんだ上で勝ってくるね」

 ヴァイスシュトルムの挑発的な笑みに、神谷は怖じ気づいていた自分に気づいた。そして、ヴァイスシュトルムを信じ切れていなかった事を恥じ入った。

「ああ、そうだな。誰よりもレースを楽しめ。そして、ヴァイスシュトルムが誰よりも早くゴールを駆け抜ける事を信じている」

 自分が担当するウマ娘の頼もしい姿に、活を入れられたような心地になった神谷は、真っ直ぐにヴァイスシュトルムを見つめる。その視線と神谷の言葉を受け、益々得意気な笑みを浮かべたヴァイスシュトルムは、たった一言「トレーナーさん自慢のウマ娘の走りを良く見てて」と言うと、真紅のパーカーを翻して神谷に背を向け、振り返ることなくコースへと駆け去った。

 その背中を見送った神谷は、地下バ道に来たときとは打って変わって嬉しそうに口許を(ほころ)ばせて、観客席へと戻るべく足を踏み出した。

 

 

『中山レース場第11レース、本日のメインレース「GⅠ皐月賞」の発走時間が近づいてきました。出走ウマ娘達が続々と入場してきます!』

 実況するアナウンサーの声に呼応するように、観客席から歓声が上がる。その歓声に出迎えられて、皐月賞に挑むウマ娘が一人、また一人と地下バ道から姿を見せ始めた。

『スプリングステークス三着の実力を発揮できるか、9番フレアカンパリ。続いて本日の二番人気に推された7番サザンエース』

 ヴァイスシュトルムに先んじてコースに立ったサザンエースは、観客の歓声に応えて大きく手を振る。手を振り終えたサザンエースが軽く駆け出せば、観客席からは拍手と大きな声援が彼女へ向けて送られた。

『本日の一番人気、GⅠウマ娘17番ノーブルライトが姿を見せました! その後に続くのは12番ヴァイスシュトルムです! 今日はどんな熱いレースを繰り広げてくれるのか、期待が高まります』

 ノーブルライトに続いてターフへと踏み入れたヴァイスシュトルムを、大きな歓声が包み込む。多くの人が詰めかけ、熱の入った歓声を上げる様子に、ヴァイスシュトルムの胸に火が点く。その火は瞬く間に(ほのお)となり、血流に乗ってヴァイスシュトルムの全身へと伝播(でんぱ)していった。

「……やっぱり、GⅠはすごいな」

 大きく深呼吸をしてからそう独り言ちたヴァイスシュトルムは、彼女の前にコースへと出たウマ娘達と同じように観客席へ深く一礼してから芝を力強く蹴ってゴール板を駆け抜けて見せた。

 出走するウマ娘達が見せた走りに場内の興奮は益々膨れ上がり、観客達は皆一様に皐月賞の発走を今か今かと心待ちにしていた。

 

『春の陽気に包まれたここ中山レース場。好天に恵まれ、馬場状態は良と発表されました。ゲート前では、GⅠ皐月賞に出走するウマ娘たちの枠入りが始まろうとしています』

『快晴の中山で一体誰が「最も速いウマ娘」の称号を手にするのか、注目ですね』

 GⅠ皐月賞。クラシック三冠の第一関門であり、「最も速いウマ娘が勝利する」とも言われるこのレースは、中山レース場芝2000Mを舞台に施行される。

 一生に一度しか手にすることの叶わない栄誉あるGⅠの一つを求めて、数百人もの中から選ばれた十八人のウマ娘は、目の前にあるゲートに入る時を静かに待っていた。

 白のジャケットを着た発走委員が壇上に立ち、手に持った赤旗を高く上げると同時に、快晴の中山レース場に関東GⅠファンファーレが高らかに鳴り響いた。発走委員が上げていた赤旗をゆったりと振るうのを合図に、奇数番のウマ娘から順にゲートへと入っていく。サザンエースとノーブルライトが先にゲートに収まるのを見送って、ヴァイスシュトルムも自分が入るゲートを見つめる。奇数番最後のウマ娘がゲート入りを完了すると、続いて偶数番のウマ娘達が次々とゲートへ収まっていった。

『大きなトラブルもなく枠入りが順調に進んでいきます。最後に大外18番、サファイアペガサスがゲートに入りました。体勢完了』

 ゲートの中で瞑想するように目を閉じていたヴァイスシュトルムは、一番最後の後ろ扉が閉まる音で目を開いた。熱く燃え滾る心とは裏腹に、頭の奥はずっと冷静で視界はどこまでも澄み切っていた。走る前から自分がどう身体を使うのかが何となく(わか)る事を、今のヴァイスシュトルムは不思議だと思わなかった。

 ただ当たり前のように走り、当たり前のように勝つ。

 今、ヴァイスシュトルムの脳内には、そのことしかなかった。

『スタートしました、GⅠ皐月賞。十八人の選ばれしウマ娘が一回目のホームストレッチを駆けていきます』

 ゲートが開くと同時に勢い良く飛び出したヴァイスシュトルムは、加速しながら徐々に内側へと切り込んでいく。スタートしてすぐの谷を抜け、一度目となる中山の坂を駆け上がる。ヴァイスシュトルムが坂も何もかもを気にした様子もなく加速していく様子に、周りのウマ娘はざわついた。

「ヴァイス飛ばしすぎじゃない?」

「はっや……序盤から飛ばしてどうするのよ……っうわ!?」

 そう口にするフレアカンパリとグレアダイヤモンドの隣を勢い良く、ラッキーフィールドが駆け抜けていく。先頭目指して加速するその速さは、ヴァイスシュトルムのそれを軽く上回っていた。

『好スタートを決めたのはヴァイスシュトルム。その後ろから勢い良くラッキーフィールドが迫ります。サザンエースとノーブルライトは先団やや後方、五、六番手に付けています。ここで先頭入れ替わりました。坂の頂上でラッキーフィールドがハナに立ちます。観客席からの暖かい拍手に見送られ、ラッキーフィールドが十七人を引き連れて一度目のホームストレッチを駆けていきます』

『ラッキーフィールドはやはり、ヴァイスシュトルムとノーブルライトを警戒しているのでしょうね。彼女達になるべく自由に走らせないように気を付けているようにも見えます』

 解説の言葉通り、ラッキーフィールドは慎重に後ろを走るヴァイスシュトルムの動きを注意していた。皐月賞を走るにあたって、アクアスフィアが離脱した現状に置いて注意しておくべきウマ娘は、間違いなくヴァイスシュトルムとノーブルライトの二人だった。

 昨年末の朝日杯FSで二人が見せたレースは、何度も見返し、二人の仕掛けるポイントと前半の走りを研究し尽くした。そこから導き出したラッキーフィールドが勝つために取るべき戦法は、序盤でハナに立ち、自らがレースをコントロールした状態で第三コーナーに入る事だった。

(今のところは順調……足の調子も最高、これなら、いける! お父さん、お母さん見てて!)

 

 ヒトの両親から生まれたラッキーフィールドは、ヒトの方が多い地元では幼い頃から何かとやっかみを受けることが多かった。

 何かにつけて『ウマ娘のなり損ない』や『中途半端なウマ娘』等と言われ、受けた嫌みや暴言の数は枚挙に(いとま)がない。嫌みや暴言を吐かれて泣いていたラッキーフィールドに対して、母はいつも『私がウマ娘じゃなくてごめんね』と悲しそうに謝るだけだった。

 そんな幼少期を過ごしていたラッキーフィールドに転機が訪れたのは、近くに競走クラブができた時だった。

 

 両親に連れられて行った体験入会で初めて見た元競走ウマ娘の走り。その走りに魅入られたのは、ウマ娘として走りたいという本能からだったのか、それともラッキーフィールドが変わりたいと願っていたからなのか、今となってはわからない。それでも、本格的に競走クラブへ通うようになってから、ラッキーフィールドは明るく元気な娘へと変わっていった。

 今まではヒトの子供に囲まれて、何処か異彩を放っていたラッキーフィールドも、その競走クラブでは数多くいるウマ娘の一人でしかなかった。変に怖がられることも、ウマ娘だからと悪口を言われることもなく、のびのびと自分らしく過ごす事ができる場所ができたラッキーフィールドは、徐々に走り方も変わっていった。それまでの窮屈そうに押さえ込むような走り方だったのが嘘のように、のびのびと跳ねるような走りになり、それに伴ってタイムもどんどん良くなっていった。

 クラブ内で徐々に頭角を現し出したラッキーフィールドは、元競走ウマ娘のコーチに勧められてトレセン学園の門を叩くことになる。

 

 トレセン学園に入学してからは、授業や教官の指導で揉まれながら過ごして、ようやく担当トレーナーが付いた。それからしばらくしてメイクデビューが決まったラッキーフィールドの胸は、希望に満ちあふれていた。これから先、重賞を勝ち、クラシック戦線も勝ち抜き、GⅠ勝利を重ねるぞと、青図面を描いては顔をにやけさせたりもした。

 そんなラッキーフィールドに襲いかかってきた無情な現実は、漆黒の絶対王者ことアクアスフィアと、白嵐とも雌ライオン(一部による呼称)とも呼ばれるヴァイスシュトルムの二人が同期となることだった。

 

 両親が見に来たメイクデビューで、その二人と同じレースだったラッキーフィールドは、良い見せ場を作ることができないまま、アクアスフィアとヴァイスシュトルムの競り合いを眺めながらの六着に沈んだ。その後、未勝利戦を勝利し格上挑戦の三勝クラスを勝利して何とか出走できたホープフルステークス(もちろん、これも格上挑戦となった)では、序盤こそ健闘したものの結果は七着。若葉ステークスでの勝利がなければ皐月賞も走れない可能性が高かった。だが、現実としてラッキーフィールドは今、皐月賞で走っている。

「(ヴァイスはこの間まで本調子じゃなかったし、まだ私にもチャンスはあるはず)……絶対、勝つ!」

 気合いを入れ直したラッキーフィールドは、勢いそのままに第一コーナーを駆け抜ける。その姿に、観客席からは歓声と意表を突かれたような(どよ)めきが起こっていた。

『快調に逃げるラッキーフィールド、およそ十バ身ほど空けてナイトメアドリーム。その後ろにアカノリュウセイ、その外並んでサザンエース。半バ身空けてノーブルライト、そのすぐ後ろにヴァイスシュトルムと続きます』

 好スタート、好ダッシュを決めたヴァイスシュトルムは、内側をキープしてからは速度を緩め、前に立つウマ娘を使って上手く風よけを作っていた。第二コーナー終盤に差し掛かってのレース展開は、ラッキーフィールドの大逃げを除いて、概ねヴァイスシュトルムが思い描いた通りに進行していた。

『向こう正面に入ってラッキーフィールドまだ先頭』

『これは予想していませんでしたね、このまま決着があるのか、面白い展開です』

 バックストレッチ(向こう正面)に入り、まだ先頭を保っているラッキーフィールドは、坂の下りで付いた勢いそのままに駆け続けていた。間もなく残り1000Mを過ぎようかというところで、後ろをちらりと見たラッキーフィールドは、付いたリードの大きさに頰を緩める。そして、緩んだ頰に気が付いて自らを叱咤した。

「ここで油断してどうするの、まだレースは終わっていないんだから……!」

 ラッキーフィールドの言葉通り、まだレースは終わっていない。

 

(……そろそろ、かな?)

 ラッキーフィールドが1000Mを通過してすぐ、ヴァイスシュトルムはゆっくりと加速していく。周りのウマ娘達も、ヴァイスシュトルムに釣られるようにして加速を始め、ラッキーフィールドが第三コーナーに差し掛かる頃には、大きく開いていた差をかなり縮めていた。

『第三コーナーに入ってバ群が差を縮めてきました! ラッキーフィールドから三バ身ほど空けてナイトメアドリーム、そのすぐ後ろにサザンエース、外からヴァイスシュトルムが並びそうか! 一バ身空けてノーブルライト、その内並んでアカノリュウセイ、サファイアペガサスと続きます!』

 あっという間に追いつかれたラッキーフィールドは、後ろから迫る重圧に恐怖を覚えていた。

 ほんの数秒前まで遠くに聞いていた足音は、いまや真後ろにまで迫っている。それでも、皐月賞勝利と言う栄光は諦めたくなかった。

(後少し、後少し頑張って私! そしたら皐月賞の冠が手に入るから!!)

 真っ先に二度目のホームストレッチに帰ってきたラッキーフィールドはすぐにスパートをかける。しかし、それと同時に第四コーナー半ばからスパートをかけたウマ娘が複数いた。

『第四コーナー最初に立ち上がったのはラッキーフィールド! しかし、そのすぐ後ろにサザンエースとヴァイスシュトルムが迫っている! 一バ身空けてノーブルライト!』

 ラッキーフィールドを捉えたサザンエースとヴァイスシュトルムは、並ぶことなくラッキーフィールドを抜き去る。そして、真っ先に坂へと辿り着いたのはサザンエースだった。

『サザンエース先頭に代わった! ヴァイスシュトルムが追い(すが)ります! サザンエース譲らないか!』

 二度目の坂を駆け上がるサザンエースの脚色は、他のウマ娘と比べても衰えを見せていなかった。それでも、この二人には及ばない。

 坂に入ってほんの少し脚色の鈍ったサザンエースを、並ぶことなくヴァイスシュトルムが抜き去っていく。それに遅れること半バ身、ノーブルライトが追い縋る。

『ヴァイスシュトルム、ヴァイスシュトルムだ! ヴァイスシュトルムここで先頭に立った! ノーブルライトも必死に追うが厳しいか!?』

「っの……うああああっ!!」

 絶叫にも似たサザンエースの声を背に、ヴァイスシュトルムとノーブルライトはゴールへと迫る。互いに全力で譲らぬデッドヒート。あまりの接戦に、中山レース場は総立ちになる。そして、遂にクラシック一冠目を制したウマ娘が決定した。

「……取った!」

『ヴァイスシュトルム! ヴァイスシュトルムです!! ヴァイスシュトルムが見事、三冠の第一関門皐月賞を制し、一冠目を手にしました!』

 ゴール板を駆け抜けたヴァイスシュトルムは、どうだと言わんばかりに観客席、特に神谷の方へ向かって拳を突き出す。その瞬間、まるで爆発が起こったかのように歓声が中山レース場全体に響き渡った。

 予想外の歓声の大きさに、身体を大きく跳ねさせたヴァイスシュトルムは一呼吸置いてから、満面の笑みを浮かべて再び観客席に向き直る。

 観客席から送られる万雷の拍手には、彼女の実力を疑う色は殆ど含まれていなかった。

 

 

 僅かクビの差でノーブルライトを降し、皐月賞を制したヴァイスシュトルムは、ウィナーズサークルで観客席へと挨拶をする。笑顔を浮かべながらファンへ手を振ったり、笑顔で応えている様子を遠目で見たラッキーフィールドは、両手を硬く握りしめて俯いていた。

 直線の立ち上がりでサザンエースとヴァイスシュトルムに抜かされた瞬間、ラッキーフィールドは彼女達と自分との間に大きな壁が立ち塞がっていることを思い知らされた。全身全霊を掛けたスパートを至極あっさりと、数秒間併走することもなく抜き去っていくサザンエースの背中。その背を追いながら更に加速していくヴァイスシュトルムとノーブルライト。全力を出しているにもかかわらず、縮まるどころか開いていくばかりの差に、ラッキーフィールドはようやく、自分が自惚れていたことを自覚させられた。

 ――自分なんかがヴァイスシュトルムに勝てるわけなかったんだ――。

「今回は残念だったけど、ラッキーフィールドの走りも良かったよな」

「え……?」

 不意に聞こえてきた男性の声に、ラッキーフィールドは観客席へと目を向ける。

「それ思った! あれだけ走れるなら、更に成長したらどんな走りを見せてくれるのか楽しみ!」

 興奮気味に話す観客の言葉に、ラッキーフィールドは呆気に取られる。そんな彼女に気が付いた観客達は、口々に温かい言葉を掛けてきた。

「次も応援するから、頑張れよ!」

「またラッキーフィールドのレース見に行くね!」

「次のレースも期待してるぞ」

 慌てて涙を拭い、観客席に向けて頭を下げたラッキーフィールドの瞳からは再び涙が溢れ出す。しかしその涙は、先程までの悲しいものではなく、暖かいものだった。

 

 

 ウイニングライブのセンターを務め、控え室へと戻ってきたヴァイスシュトルムは、得意気な顔で神谷の前に立った。神谷は困ったような、呆れたような顔をしてから口を開いた。

「おめでとうヴァイスシュトルム。見事な走りだったよ」

「ふふん。少しは私の実力を信じてくれる気になった?」

 得意満面に褒めて欲しいと言わんばかりのヴァイスシュトルムの言葉に、神谷はほんの一瞬だけ呆れたような顔をした。しかし、すぐに口許を綻ばせると、それを取り繕うように軽口を叩いた。

「そうだな、日本ダービーでも結果を残せたらな」

「はーっ!? 信じらんない! そこは素直に褒めるところじゃないの!?」

 神谷に対してぎゃんぎゃんと騒ぎながら詰め寄るヴァイスシュトルムだが、口調とは裏腹に嬉しそうにしており、シュプリュレーゲンはそんな二人の様子をニコニコしながら眺めていた。

 また、こんな光景が見られることを願いながら。

 

 

 ヴァイスシュトルム、まずは一冠!

 日曜日の中山レース場では、GⅠ皐月賞が開催された。春の陽気に包まれた中山レース場だが、場内は真夏の暑さにも匹敵しそうなほどの熱気に包まれていた。

「最も速いウマ娘が勝つ」とも言われる皐月賞を誰が制するのか? 観客の期待はレースが近付くに連れて高まっていた。

 レースの展開は、序盤から15番ラッキーフィールドが大逃げする波乱の幕開けに。第四コーナーまでラッキーフィールドが逃げ続ける展開に、ヴァイスシュトルムやノーブルライトを心配するように観客席は響めいていた。しかし、ラッキーフィールドが最終直線に入るや否や、GⅠ級ウマ娘達が牙を剥いた。

 7番サザンエースが坂の手前でラッキーフィールドを捉えると、続けざまにヴァイスシュトルムと17番ノーブルライトがラッキーフィールドを交わしてサザンエースを追走する。サザンエースも最後まで踏ん張りはしたものの、坂の半ばで二人に交わされ、後はヴァイスシュトルムとノーブルライトの一騎討ちに落ち着いた。

 半バ身の差を付けられたノーブルライトだったが、諦めることなくヴァイスシュトルムに食らい付き続け、中山の急坂で激しい先頭争いを繰り広げた。二人の熾烈なデッドヒートに、観客席は大盛り上がり。

 最後はヴァイスシュトルムがクビの差でノーブルライトに競り勝ち、見事、皐月賞ウマ娘として歴史に名を残した。

 ヴァイスシュトルムはこれが初めてのGⅠタイトルとなった。

 今回、五着までに入ったウマ娘には、来月開催される東京優駿「日本ダービー」の優先出走権が与えられる。

 

 全着順は以下の通り。

 一着、ヴァイスシュトルム、一分五十九秒七。

 二着、ノーブルライト、クビ。

 三着、サザンエース、一バ身半。

 四着、サファイアペガサス、半バ身。

 五着、フレアカンパリ、ハナ。

 六着、ラッキーフィールド、半バ身。

 七着、グレアダイヤモンド、一バ身。

 八着、タイムジャンパー、三バ身。

 九着、ホワイトデモン、二バ身。

 十着、アカノリュウセイ、ハナ。

 十一着、バイトアルヒネムイ、半バ身。

 十二着、ナイトメアドリーム、クビ。

 十三着、スイートメモリーズ、ハナ。

 十四着、スノーコンダクター、ハナ。

 十五着、ヒョウケイスター、半バ身。

 十六着、キョウケンアミュボ、一バ身。

 十七着、アルフライラ、三バ身。

 十八着、オシエテブチョー、二バ身。




お待たせしました。
何とか七月中の投稿に間に合……ってないな。八月になってるじゃん()
そんなこんなでようやく皐月賞が終わりましたよ。
はいそこ、現実だととっくの昔に皐月賞は終わってるし、日本ダービーさえも終わって夏競馬が始まっているとか言ってはいけない。私に刺さるから。

皐月賞で掘り下げたモブウマ娘改め、ラッキーフィールドさんにはこれからも頑張って欲しい。
何なら、名前通りに幸運の塊でその内GⅠをバンバン獲るようになって欲しい。

話は変わりますが、読者の皆様はコロナ大丈夫ですか? 私は職場がコロナまみれなので、最早諦めの境地に突入してます。……コロナ君早く根絶されてくれない?

皆様もコロナと熱中症にはくれぐれも気を付けてお過ごし下さい。
塩分補給と水分補給はセットで、スポドリは飲み過ぎないように!

何の話だこれ……次回は早ければ今月中に上がるかもですが、私自身資格試験があったりして忙しいので、気長にお待ちください。

それではまた次のお話で!


※勝ちタイムを二千メートルのタイムではなく、二千四百メートルのタイムで出すと言う凡ミスをやらかしたので修正しました。お詫びして訂正します。(2022/8/15)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯21.マイル王宣言

 皐月賞ウマ娘となったヴァイスシュトルムは、次のレースに一体何を選択するのか? 翌日のワイドショーではそんな話題が飛び交っていた。

 コメンテーターの一人は「この勢いそのままにダービーへ直行するだろう」と言い、日替わりゲストの一人は、「いやいや、NHKマイルカップだろう」と言う。

 そうするとトゥインクルシリーズに一家言あるお笑い芸人が「NHKマイルカップから安田記念! そしてマイルチャンピオンシップの制覇で、クラシック級にして日本最強マイル王になるルートでしょ!」と持論を展開する。

 そうして侃々諤々(かんかんがくがく)とした議論が繰り広げられていくワイドショーの様子に、トレーナー室のテレビを占領しているヴァイスシュトルムは、欠片の興味もなさそうに一つ大きなあくびをしてからテレビの電源を切った。

「あふ……。トレーナーさん、まだ終わらないの?」

 ワイドショーで話題となっている渦中の人物は、レース時の凜々しい写真やゴールドシチーとのツーショットで見せた姿とはほど遠い、ソファーの背もたれに顎を乗せて、だらしない姿で神谷の方を向いていた。

 尻尾を大きくゆったりと振りながら神谷の返事を待つヴァイスシュトルムを目だけで窺い見た神谷は内心、まただらしない格好をしているななどと呆れながらも目の前にあるパソコンに視線を戻し、キーボードを叩き始めた。

「後一時間くらいはかかるな」

「えー! トレーナーさんが皐月賞を獲ったご褒美に奢ってくれるって言ったのに、いつまで待たせるのさー!!」

 お腹空いてもう動けない! などと文句を垂れる彼女は、そのまま制服に(しわ)がつくことをかまいもせずソファーへ倒れ込む。

 そうしてしばらくの間騒いでいたヴァイスシュトルムだったが、段々と静かになっていく。あまりの静かさに不安を覚えた神谷が、ソファーを回り込むように彼女を覗き見ると、彼女はソファーに仰向けになって規則正しい寝息を立てていた。

 ――カシャッ――。

 静かな部屋に響き渡るシャッター音。しかし、寝顔を撮影された本人は、その音に気付いた様子もなく眠りこけている。神谷は胸ポケットからスマホを取り出しLANE(レーン)を開くと、その油断しきった寝顔写真をシュプリュレーゲンとのトークルームに貼り付けた。生憎(あいにく)とまだ授業中なのか、シュプリュレーゲンがすぐに反応することはなかった。それを気にしたようでもなく、神谷はヴァイスシュトルムにタオルケットを掛けてから自席のパソコン画面に向き直る。そして、ヴァイスシュトルムとの約束を守るために、鼻歌交じりに調子良く仕事を終わらせていくのだった。

 

 

 シュプリュレーゲンのスマホが震えたのは、丁度七限目の授業が終わったタイミングだった。画面に表示された『神谷トレーナーさんが写真を送信しました』という文字を確認して、トーク画面を開いたシュプリュレーゲンは、そこに表示されていた親友の寝顔写真――まるで幼い子供のように、あどけない寝顔で熟睡するヴァイスシュトルムが大写しになっていた――に思わず吹き出してしまっていた。

「んー? 何か面白い記事でもあったん?」

 シュプリュレーゲンの隣に座っていたウマ娘が、急に吹き出して背中を丸めている彼女に不思議そうな顔で問いかける。

「何でもない……っ……ふふっ」

「ええー……。それだけ笑ってて何でもないわけないじゃん?」

 シュプリュレーゲンの返答に少しむっとしたようなそのウマ娘は、シュプリュレーゲンの隙を突いて彼女のスマホを取り上げる。そして、そこに表示されていた写真を見るやいなや、まるで雷に打たれたかのような衝撃と共に固まってしまった。

「かっ、かわっ……!?」

「ちょっと、シルバー!!」

 固まったままのウマ娘から、自分のスマホを()手繰(たく)るように取り戻したシュプリュレーゲンは、スマホを胸に抱くようにしてクイックシルバーから距離を取った。耳を絞って警戒を(あら)わにするシュプリュレーゲンに、周りのウマ娘は騒ぎの元へと目をやってから、いつもの光景にまた元通りに戻っていく。他のクラスメイトが慣れるほどに、シュプリュレーゲンとクイックシルバーのこういったやり取りは日常のものと化していた。しかし、今日はそれだけでは終わらなかった。

「……レーゲン」

「何?」

 ようやく再起動したクイックシルバーは、真剣な表情でシュプリュレーゲンに向き直る。そして、至極真面目な声音で彼女に懇願し始めた。

「言い値で買うから、ヴァイスシュトルム様のその寝顔写真、私にも送って!?」

「おおっとクイックシルバー選手、食い気味にシュプリュレーゲンにおねだりを始めたー!」

「今日の彼女はいつもと違いますよ。顔も声も真剣そのもの、何なら鬼気迫るものがありますから」

 クイックシルバーの様子に、クラスメイトの一部が面白がって実況を始める。それに悪乗りした解説まで始まり、何度目かのクイックシルバーによるシュプリュレーゲンへの懇願が成功するかどうかをクラス中が面白がって見ていた。

「はぁ……、ダメに決まってるでしょ。いくら何でも親友の寝顔写真を勝手に他の人に譲り渡すなんてことできないよ」

「普通にお断りされてしまったー! これは厳しいでしょうか?」

「そうですね。こうと決めたシュプリュレーゲン選手は、それを貫く芯の強さがありますからね。クイックシルバー選手は厳しくなりましたね」

 シュプリュレーゲンの言葉に膝をつくクイックシルバーに、実況をしていたクラスメイトもどこか同情的だった。しかし、シュプリュレーゲンの言葉は最もであり、クラスの誰もがクイックシルバーの健闘を無言で讃えていた。そんな空気の中でクイックシルバーは、まるで幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。その瞳に異様な輝きを(たた)えるクイックシルバーに、シュプリュレーゲンは少し後ずさった。

「……私が今までに貯め込んできた、競争ウマ娘のデータ集」

「っ!!」

 クイックシルバーの発した単語に、シュプリュレーゲンを含めたクラス全員が息を呑んだ。その提案は、トレーナーを目指しているシュプリュレーゲンにとって魅力的な物だった。

「この貴重な記録集とヴァイスシュトルム様の寝顔写真を交換しよう!?」

 血走った目でシュプリュレーゲンに(にじ)り寄るクイックシルバーの必死すぎる迫力に、誰もが狂気を覚えて動けない。クイックシルバーに気圧(けお)されたシュプリュレーゲンは少しずつ後退(あとずさ)るものの、それを許す彼女ではなかった。

 とうとう壁際に追い詰められたシュプリュレーゲンの瞳に、薄らと涙が溢れる。

「さあ、観念して……痛いっ!?」

「こら、シュプリュレーゲンをいじめんなクイックシルバー。全員席につけー、ホームルーム始めるぞ」

 クラス担任が手に持っていた出席簿帳の角で頭を小突かれたクイックシルバーは、大袈裟に蹌踉(よろ)けてみせる。しかしそれを気にした風もなく、クラス担任の女性教諭はさっさとホームルームを開始していた。

 担任の言葉に慌ただしくクラスメイト達も自席へと戻って行く。シュプリュレーゲンもそれに(なら)って自分の席に着くと、ちらりとクイックシルバーの方を窺い見る。小突かれた頭をさすりながら席に着いたクイックシルバーは、残念そうに溜め息を吐いて担任の話を聞いていた。

 

「……って事があったんです」

「ヴァイスシュトルムの寝顔写真一枚でそんなことになるとは……。中々楽しそうなクラスだな」

 ホームルームを終えたシュプリュレーゲンは、神谷のトレーナー室へ来ると同時に先程クラスであった事件を面白そうに話していた。

「それにしても、クイックシルバーか……」

「? クイックシルバーがどうかしました?」

 神谷の言葉に首を傾げたシュプリュレーゲンは、不思議そうな表情をして問いかける。

「あー、いや、これに関しては俺の口から話すことじゃないな」

 忘れてくれと言ったきり口を(つぐ)んでしまった神谷に、これ以上は聞いても無駄だと判断したシュプリュレーゲンはソファで眠り続けるヴァイスシュトルムへと視線を移す。気持ち良さそうに眠るヴァイスシュトルムは、シュプリュレーゲンがトレーナー室で神谷と話していても起きる気配はなかった。

「ああそうだ、シュプリュレーゲン。アイネスフウジンのデビュー時期について、君の考えを聞かせて欲しい」

「うーん……。フーのバイトの事も考えると、メイクデビューは九月以降の方が良いかと。六月デビューとするには仕上がりに不安が残りますし、かと言って七月、八月デビューは暑さを考えると避けたいです。いくらフーの体力があると言っても、暑い中で本気のレースをした後の体力消費は、それとはまた違いますから」

 彼女の言葉に、顎に手を当てて考え込む素振りを見せた神谷は、URA発行のレース番組表を資料棚から取り出した。

「九月以降のデビューとなると、年内のめぼしい重賞は年の瀬開催のGⅠ三つくらいしか狙えそうにないな……。それも、上積み次第では出走できない可能性もあるが」

「でも……!」

「いや、わかってる。確かに君の言うように、彼女の体調を考えるなら、暑い夏に消耗させるよりデビューをずらす方が理に(かな)っている」

 食い下がるシュプリュレーゲンを手で制した神谷は、彼女の考えに同意を示した。

「今の仕上がりから考えても、アイネスフウジンは、六月か七月のデビューに合わせて急いで仕上げるよりも、九月と決めてじっくり腰を据えて更に鍛える方向で行こう。貴重な意見ありがとうな」

「いえ……はい」

 シュプリュレーゲンが返事をしたときには、神谷は既にパソコンに向かっており、(せわ)しなくキーボードを叩いていた。

 シュプリュレーゲンは、規則正しいヴァイスシュトルムの寝息と神谷が叩くキーボードの音が響く部屋で、ヴァイスシュトルムが起きるか神谷が仕事を終えるまでの間、暇な時間を過ごすことになってしまった。

 

 

 練習時間終了までたっぷりと昼寝をしていたヴァイスシュトルムは、彼女の後ろについて歩く神谷とシュプリュレーゲンに対して(むく)れながらトレセン学園の正門へと向かっていた。

「人が眠ってるのを良いことに、勝手に寝顔を写真に撮るわ、その写真を勝手に流出させるわ……」

「流出も何もシュプリュレーゲンにしか送ってないぞ」

「良くない! あんなだらしない顔をレーゲンに見られるとか……」

「子供の頃に見たヴァイスの寝顔と、そんなに変わってないから大丈夫じゃない? 天使みたいで可愛かったよ?」

「……っ!! 何も大丈夫じゃないから!」

 神谷とシュプリュレーゲンは悪びれた様子もなく、それどころかニヤニヤと笑いながらヴァイスシュトルムに接している。その事が気に入らないヴァイスシュトルムは、赤く染めた頰をそのままにますます剝れるのだった。

「悪かった悪かった。好きな料理もう一品追加しても構わないから、な?」

「……むぅ、そこまで言うなら」

 神谷の言葉に腕を組んで考え込む素振りを見せたヴァイスシュトルムは、絞っていた耳を嬉しそうに細かく動かした。それを見て、神谷とシュプリュレーゲンは顔を見合わせて笑い合った。

「そうと決まればさっさと行くか。途中でアイネスフウジンを拾わなきゃいけないし、君らには門限もあるしな」

 そう言って神谷が歩き出そうとしたときだった。正門の前にノーブルライトが立っている姿をヴァイスシュトルムが見つけたのは。

「あ……、ヴァイスシュトルム先輩!」

 ヴァイスシュトルムとほぼ同じタイミングで彼女らに気が付いたノーブルライトは、大人しい彼女にしては珍しく、大きく明瞭とした声でヴァイスシュトルムを呼び止めた。

「どうしたのノーブル?」

「あ、あの……そのっ!」

「うん」

 ヴァイスシュトルムはノーブルライトに正対し、彼女が次の言葉を発するのをじっと待つ。ヴァイスシュトルムと向かい合う形になったノーブルライトは、澄んだ空色の瞳で自分を真摯に、あるいは射貫くように見つめてくる彼女にほんの少し気圧されて言葉に詰まる。

「こっ、今度のNHKマイルカップで、私と勝負して下さいっ!」

 周囲に響いたノーブルライトの声に、ヴァイスシュトルムは驚いたように目を瞬かせる。それから口角を上げると、その端正な顔にまるで獲物を見付けた肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。

「いいよノーブル」

「ひぃっ! ……あ、ありがとうございますっ! しっ、失礼しますっ!」

 ヴァイスシュトルムからの返事を受け取ったノーブルライトは、顔を青ざめさせながら頭を勢い良く下げてお礼を言うと、そのままヴァイスシュトルムの顔を見ないようにして怯えたように寮の方へと駆け去った。

 ノーブルライトが突然怯え、走り去ったことにヴァイスシュトルムはポカンとした顔で神谷とシュプリュレーゲンへ向き直る。そこには、訳知り顔でうんうんと頷く神谷と、走り去ったノーブルライトを気の毒そうに見送るシュプリュレーゲンの姿があった。

「……あ、あのさ」

「……やっぱりヴァイスシュトルムは雌ライオンだよなぁ」

「いやいや、神谷トレーナー。ヴァイスのあの迫力は、数日間食事を摂れていない飢えに飢えたアムールトラの方がピッタリだと思う」

 普段であれば、二人からのあんまりな物言いに異議を唱えるヴァイスシュトルムであったが、流石に今回ばかりは何も言えなかった。ノーブルライトが酷く怯えて走り去った事実が、ヴァイスシュトルムの心に重くのしかかっていた。

「うぅ……」

 

 

 皐月賞開催から三週後の東京レース場では、ヴァイスシュトルムとノーブルライトのクラシック級マイル王決定戦の舞台となる、NHKマイルカップが開催される。新たなクラシック級マイル王の誕生を見ようと、五万人を超える多くの人が応援に訪れていた。

『先週、京都レース場にて開催された天皇賞(春)では、レインシンフォニアが勝利し、有力ステイヤーとして名乗りを上げました』

『レインシンフォニアの走りは素晴らしいものでしたね。一番人気だった大阪杯の勝者、ファイントパーズは七着と、超長距離への対応は厳しそうでしたね』

 控え室に備え付けられたテレビは、先週のレースを振り返る番組を流しながら、本日開催されているレースを放映していた。しかし、その音もまるで聞こえていないかのように、ヴァイスシュトルムはNHKマイルカップの流れを手製の東京レース場を模したボードと駒で復習(さら)っていく。

「ノーブルが内から仕掛けた時は……」

 何度も見返したノーブルライトのビデオ映像を思い返しながら、展開を組み立てていくのは非常に頭を使う。しかし、ヴァイスシュトルムは深く集中し、とても楽しそうに検討を重ねていた。

「……ヴァイスシュトルムには、意外と適していたのかもな」

「ああ見えて、ヴァイスは頭を使うのは嫌いじゃないですからね。小学校の頃は、レースも勉強もできて当たり前と言って、勉強も一切手を抜きませんでしたし」

 小声でやり取りする神谷とシュプリュレーゲンの眼前では、ヴァイスシュトルムがレーシングプログラム(レープロとも。URA子会社が発行する出走表の一種。当日開催される全レースに出走するウマ娘の情報や、過去の成績一覧、競走ウマ娘評論家・記者・著名人によるコラムなどが掲載されている。中央の各レース場でウマ娘競走開催時に配布される。無料)片手に再び盤上の駒を動かし始めていた。スタートからゴールまでを何通りも繰り返していくヴァイスシュトルムの頭の中には、どのように自分が得意な展開に持ち込めるか、どうすればNHKマイルカップで勝利できるか、それしかなかった。

 

 

 NHKマイルカップの発走時刻が迫り、ようやく始まったパドックにはやはり、この間シフォンと呼ばれていたウマ娘の姿もあった。

「ヴァイスシュトルムさん、まだかなあ……」

 目を爛々(らんらん)と輝かせてヴァイスシュトルムの登場を待ち望む少女の姿に、神谷は微笑ましい気分になる。神谷の隣に並び立っていたシュプリュレーゲンとアイネスフウジンもそれは同じだったらしく、幼いウマ娘の姿に頰を緩めていた。

「シフォンちゃんはまた……もう!」

 そんな神谷達の後ろから聞こえてきた声に、神谷は思わず苦笑を(こぼ)す。前回の皐月賞に引き続いて今回もまた、シフォンと呼ばれた娘は友人をほっぽり出してパドックに来ていたようだった。

「うわわっ、ごめん! サフィールちゃん!」

「知らないっ」

 サフィールと呼ばれたウマ娘に叱られ、慌てて謝るシフォンに、拗ねてそっぽを向くサフィール。そのようなほのぼのとした一コマに、神谷達だけではなく、周りの観客達も微笑ましく見守っていた。

 

 出走ウマ娘達がパドックでの姿見せを終えると、舞台となるコースへ向かうために地下バ道をゆっくりと歩いていく。ヴァイスシュトルムもそれに続いているが、不意に彼女の前を歩くノーブルライトが足を止めた。足を止めたノーブルライトは、ヴァイスシュトルムが追い付くと隣に並んで再び歩き始める。

「……ヴァイスシュトルム先輩。今日は負けませんから」

 普段、ヴァイスシュトルムや他の先輩達と話すときはおどおどとした様子をよく見せるノーブルライトだが、今は違った。過度な不安や恐れから来る震え声は欠片もなく、そこにはただ、覚悟を決めたウマ娘が並んでいた。

「普段から堂々としていれば良いのに……。私も負けないよノーブルライト。あなたが得意なマイルでも勝利して、クラシック級最速のウマ娘は私だと言わせてもらう」

 気迫のこもったヴァイスシュトルムの宣言に、今までのノーブルライトならば気圧されていただろう。しかし、今日のノーブルライトは怯む事なく、真っ向からヴァイスシュトルムの言葉を受け止めた。

「絶対負けません! クラシック級マイル王には私がなります! クラシック級最速の称号は私が貰う!」

 視線を交わして睨み合う二人の身体には、それぞれ真紅と青藍の炎が立ち上っているかのような錯覚を起こすほどに熱が高まっていた。

 

 




お待たせしました。いや、お待たせしすぎたかもしれません。21話です。

いやほんとにお待たせしました。前回の投稿からかなり間が空いてしまい、楽しみにして頂いている方には申し訳ない気持ちでいっぱいです。

色々とあったのですが、それは同時投稿されているはずの22話の後書きにて。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯22.NHKマイルカップ

 発走時刻が刻一刻と迫る中、ほぼ同時に入場してきたヴァイスシュトルムとノーブルライトに、観客席からは大きな歓声が上がった。

「ノーブルライトの今日の気合いの入り方すごいな! ヴァイスに負けるなよ!」

「早くヴァイスの美しい走り見たいー! ノーブルなんて蹴散らしてー!」

「幾らノーブルが強いと言っても、ヴァイスには(かな)うわけないって思ってたけど、今日のノーブルならワンチャンあるんじゃね?」

 二人の対決は大きな話題となっているようで、大多数の観客はヴァイスシュトルムかノーブルライトへ声援を送っていた。もちろん、他の出走ウマ娘への声援もあるが、その声は小さく、大きな声に飲み込まれてしまっていた。

「……どこの国でも、こういう時は似たようなものなんだね」

 ポツリと呟いたシュプリュレーゲンの声も、大きな声援にかき消され、誰の耳にも届かずに霧散していく。後にはただ、熱と興奮だけがその場に留まり続けていた。

 

 発走時刻直前となり、遂に出走ウマ娘が本バ場へと入場していく。スタンド前を軽く走り、ゲートへと向かっていくウマ娘の姿に、観客の期待は否が応でも高まっていく。

『GⅠ「NHKマイルカップ」に出走するウマ娘が続々と本バ場に入場して参りました!』

 実況のアナウンサーが、やや興奮気味に出走ウマ娘の名前を番号順に読み上げていくと、そのアナウンスに場内からは歓声と声援が次々と上がる。

『本日の一番人気こそ譲りましたが、一着までは譲る気はありません。四枠8番ノーブルライト』

 ノーブルライトが登場すると、より一層歓声は大きくなる。ノーブルライトの次に呼ばれたウマ娘の名前が聞き取りづらくなるほどの歓声に、シュプリュレーゲンは肩を跳ねさせる程だった。そして、遂に歓声が最大限となるウマ娘が本バ場へ登場した。

『本日のNHKマイルカップ。ファンはこのウマ娘を一番人気に推しました。月毛の美しい髪を棚引かせ、堂々入場です。六枠11番、ヴァイスシュトルム!』

 割れんばかりの大声援に迎えられて、ヴァイスシュトルムは正面スタンド前からゲートへと駆けていく。スタンドの最前列から走りの様子を見ていた神谷は、ヴァイスシュトルムの調子がかなり良い事を改めて確認し、安心したようにターフビジョンに映る彼女を見送る。

 最後のウマ娘がゲート前へ到着し、ゲート入りを待ち始める。それから凡そ十分後、静けさを取り戻していた東京レース場に、クラシック級最速を決めるレースのファンファーレが高らかに鳴り響いた。

 

 発走委員の持つ赤色の旗が風に靡き、トランペットの音が快晴の青空に溶けるように響き渡る。五万を超える観客の大きな拍手が鳴り止むと、東京レース場は今ひとたび束の間の静けさを取り戻した。

『五万を超える拍手。大きな拍手の後、一時の静けさが戻ってきたところです、東京レース場。ゲートでは枠入りが始まっています』

 静かに枠入りを済ませるウマ娘達はしかし、その胸の内に情熱を燃やしていた。ヴァイスシュトルムとノーブルライトの対決が決まってからの数日間、注目されるのはヴァイスシュトルムとノーブルライトの二人だけで、自分達はまるで添え物……刺身のツマのような扱いだった。

 居てもいなくてもレースの大局に違いはない。そんな言葉すら聞こえてきそうな報道に、こみ上げてきたものは怒りだった。

 NHKマイルカップに出走するのは、ヴァイスシュトルムとノーブルライトだけじゃない。それを知らしめる為にも、このレースに負けるわけにはいかないと、多くのウマ娘達がその思いを胸に秘めてスタートを待っていた。

『最後に大外18番、サザンエースが収まります……体勢完了! GⅠ「NHKマイルカップ」今スタートです!』

 ゲートが開くと勢い良くノーブルライトとサザンエースが飛び出していく。それに続々と追走する多くのウマ娘。鬼気迫る勢いで団子状態となっていく彼女達の様子を見ていたヴァイスシュトルムは、それを見送って中団に控える形を選んだ。

「気合い入るのはいいけど、スタミナを無駄に使うのはダメでしょ……ありがたく風よけに使わせてはもらうけど」

 ぼそりと呟いたヴァイスシュトルムの言葉は、誰に聞かれることもなく風に溶けていく。しかし、彼女の言葉通り、先団の団子内ではスタミナを奪い合うような激しい位置取り争いが起こっていた。

『アカノリュウセイ前に行きそうか、ササノホマレ、ノルデンスクエアと続きます。その後ろからサザンエース、ノーブルライトも続いています。ヴァイスシュトルムはここにもいません!』

 スタートの勢いそのままにぐんぐんと加速し、先頭を走るアカノリュウセイ。それに引き摺られるようにして、普段なら控える事を選ぶウマ娘までもが前へ前へと殺到する。

「っ……! 何でこんなに混み合って……!」

「走りにくい……、ヴァイスシュトルム先輩がどこにいるのかさえ掴めない……!」

 サザンエースの呟きは、ノーブルライトも感じていたことだった。今回逃げを選んだアカノリュウセイとササノホマレ、ノルデンスクエアはともかく、先行が苦手なはずのホワイトデモンやフレアカンパリ、エクスナイトホークやスウィートメモリーまでもが先団に固まって走っていた。

 おかげで、多くのウマ娘はマークするべき本命がどこにいるのか把握できないまま走ることになる。把握はできていないが、きっとヴァイスシュトルムもこの団子に取り込まれているだろうと、そう思い込んでいた。実際には、ヴァイスシュトルムは先団の遥か後方で足を残して悠々と走っていたのだが、それを知っているのは後方一気を作戦に選んだウマ娘だけだった。

『先団はまさに団子状態となっています。抜け出すのには相当苦労しそうです』

『ヴァイスシュトルムは珍しく後方に控えていますが、先団の分厚い壁を突破できるのか、少々不安ですね』

 ややペースは速いまま、アカノリュウセイを先頭に1000Mを通過して第三コーナーへ入っていく。それでもなお、ヴァイスシュトルムは中団より後ろに控えたままだった。

『800Mを今通過、タイムは四十五秒七とややハイペース。ヴァイスシュトルムまだ後方、ここから差し返せるか!』

 大欅(おおけやき)を左手に見ながら通過して、ようやくヴァイスシュトルムに動きが見られた。第四コーナー半ばから、ゆったりとしたペースでぐんぐんと加速するヴァイスシュトルムに、後ろを走っていたオイシイパルフェとフレアイェネーバは首を傾げた。

「ヴァイスの加速が遅い……?」

 

 先団の団子の中に取り込まれたままだったノーブルライトとサザンエースがそこから抜け出す目を見付けられたのは、第四コーナーの終盤、600Mを通過してからようやくだった。各々がスパートを掛けようと団子が解かれてできた隙間を見逃すことなくかいくぐる。

「! これなら行けるっ!」

『サザンエースとノーブルライトがほぼ同時に団子から抜け出した! ここから一気に千切ることができるか! ヴァイスシュトルムはまだ中団!』

 ノーブルライトは最内から、サザンエースはやや外側から先団を抜け出すと、先頭のノルデンスクエアに並び立てる。

『ノルデンスクエア先頭! しかし、後続のノーブルライトとサザンエースがすぐ後ろに迫る! ノルデンスクエア厳しいか!』

 必死に走るノルデンスクエアを尻目に、遂にサザンエースが先頭に立つ。その半バ身後を追うノーブルライトに観客席からは歓声が上がる。

『残り400M! 坂を駆け上がるサザンエース! ノーブルライト追い縋る!』

「っ、あああっ!」

 サザンエースとほぼ並んで走るノーブルライトの頭からは、ヴァイスシュトルムの事がすっかり抜け落ちていた。それは隣で走るサザンエースも同様だった。だからこそ、大外から飛んできた月毛の影に水を掛けられたような気分にさせられた。

 観客も、実況も先頭で激しいデッドヒートを繰り広げる二人に夢中だった。だからこそ不意に、閃光の如くその争いに加わってきたウマ娘に気が付くと、思わず言葉を失っていた。

『なっ、なんとなんと、ヴァイスシュトルムだ! ヴァイスシュトルム、ここで先頭の二人に並んできた!』

「ヴァイスさんすごい!」

「よーし、行けー! ヴァイス!」

 観客席で神谷と並んでみていたアイネスフウジンも、ソフィアと呼ばれていたウマ娘も大興奮で声を張り上げる。声にこそ出していなかったが、それは神谷もシュプリュレーゲンも一緒だった。

 手に汗握る白熱のレース展開に、観客の興奮は一気に最高潮となっていた。

 

 第四コーナー半ばからゆったりと、それでいて結構な速さでスパートを掛けていたヴァイスシュトルムは、先団が固まっている内と外に一瞬面食らった。だが、すぐに外の更に外。大外のルートを見つけるやいなや、すぐさまそれを選んだ。

 そこからは残った脚とスタミナをゴールまで保たせる必要なんてないとばかりに、本気のスパートを掛ける。坂までの短い距離で一気に十五人を抜き去ったヴァイスシュトルムは、坂を飛ぶように駆け上がる。そして遂に、先頭の二人を捉えた。

「お待たせ、ノーブル、サザン」

「……っ!」

 楽しそうに頰を緩ませて、あっという間に並んできたヴァイスシュトルムに、サザンエースとノーブルライトは改めてヴァイスシュトルムのポテンシャルの高さに舌を巻く。

「後ろの壁、かなり分厚かったはずなんだけど?」

「ああうん、あまりにも分厚いから割り込むのは無理だなって。だから壁の外から抜けて来た。その方が」

 悔し紛れのサザンエースの言葉に、何でもないことのように話すヴァイスシュトルム。大外を回ることになるため、数M余分に走らなければならないデメリットと、最終直線に全力で突入できるメリットを考え、即座にそれを選択する判断力。それをレースの最終直線前に選べるか、サザンエースには自信がなかった。自分ならばそのロス分を最後の直線に回したいと思ってしまうだろうなと、思考が逸れてしまう。

「……やっぱり、楽には勝たせてくれないんですね」

「当然でしょ、ノーブル。それに、ノーブルもサザンも、簡単に勝てるレースだなんて思っていなかったでしょ?」

 さも当然といった顔でノーブルライトに答えたヴァイスシュトルムは、挑発的な笑みを浮かべて二人を見る。あからさまな挑発に、二人が触発されないわけがなかった。

「……絶対勝つ!」

 二人の声が重なり、ヴァイスシュトルムは満足そうに再び前を向く。坂の頂上はもう、すぐそこだった。

『坂の頂上で三人が横一線! ノーブルライトは差せるか、サザンエースが逃げ切るか、それともヴァイスシュトルムが二人(まと)めて差し切るか! 残り300Mを切った!』

 

 隣に並ぶヴァイスシュトルムの落ち着いた息遣いに、ノーブルライトは内心焦る。自分が得意なマイル戦のはずが、自分の方が早く息切れして追い詰められている。様々な要因はあったが、先団が団子状態となり、余計にスタミナを消費してしまったのが一番の原因だった。

「(やっぱりヴァイスシュトルム先輩すごい……! でもっ)」

 自分の隣を走るヴァイスシュトルムを横目で見ながら、負けたくないと必死に食らい付く。ヴァイスシュトルムとサザンエースの二人に挟まれたノーブルライトは、プレッシャーに負けそうになる自分を叱咤するのに必死だった。

『残り200M! まだ三人が並んでいる! サザンエース譲らない! ノーブルライトはやや苦しいか!』

 徐々に横並びから遅れ始めるノーブルライトに、ヴァイスシュトルムもサザンエースも気にした様子はない。二人の先輩は目の前のゴールだけを見据えて走り続けていく。

 それを悔しいと思うと同時に、二人の強ウマ娘相手に健闘した方だと割り切る思いも湧いてくる。

 そうして顔を下げてずるずると後退しかけたノーブルライトの耳に、鋭い一声が飛び込んできた。

「ノーブルっ! まだレースが終わってないのに、諦めてるんじゃないわよっ!」

 ノーブルライトがその声にハッとして観客席へと目をやると、そこには昨晩、このレースの応援には来ないと宣言していたはずの親友の姿があった。

「私の目の前で諦めて負けるなんて、絶対に許さないんだから!」

 小さな身体で、精一杯声を張り上げるメイクンリリー。その声は大歓声の前では細くか細いもので、殆ど聞こえた人は居なかっただろう。ましてや、レース中のウマ娘に届くものではなかった。しかし、彼女の耳にはしっかりと届いていた。

「……リリーちゃんが見てくれてるのに、諦めるわけには行かない!」

 諦めを顔に浮かべていたノーブルライトは、今再び気合いを入れ直す。残り100M、ゴールは目前に迫ってきていた。

『残り100Mを切って、先頭二人の一騎討ち! サザンエースか、ヴァイスシュトルムか! ここでノーブルライトが再び並んできた! 残り50M! サザンエース苦しいか、徐々に後退しているぞ!』

 残り50Mで再びサザンエースとヴァイスシュトルムに並びかえしたノーブルライトに、ヴァイスシュトルムは嬉しそうに口の端を持ち上げた。

 ノーブルライトが再び上がると引き換えに、サザンエースはジリジリと後退していった。

「……もう、脚が……っ!」

「頑張れ! サザンエース!」

 悔しそうに顔を歪めながらも、それでもなお勝利を諦めないサザンエースに、ヴァイスシュトルムとノーブルライトを応援していた声の中からもサザンエースへの声援が飛び始める。

 それでも、サザンエースは前でしのぎを削る二人には届かなかった。

『ヴァイスシュトルムか! ノーブルライトか! ヴァイスか! ノーブルか! 二人並んでゴールイン! 勝ったのは一体どっちだ!!』

 サザンエースが千切れ、二人の一騎討ちとなってからは、観客も実況も固唾を呑んで見入っていた。

 掲示板の一着と二着の間に差を表示する部分には写真の文字が点灯し、すぐにはどちらが勝ったのかがわからない。短くて長い1600Mの戦いは、写真判定の結果待ちとなった。

「ぜぇっ、ぜえっ……」

「っ……」

 ほぼ同時にゴールへと飛び込んだヴァイスシュトルムとノーブルライトは、ターフに頽れるように倒れ込んだ。ノーブルライトだけでなく、坂を登り切った時点では息を乱していなかったヴァイスシュトルムまでもが息も絶え絶えとなっていることが、どれほど白熱したレースかを物語っていた。

「ヴァイス!」

「ノーブル、しっかりしなさいよ!」

 ターフに膝をつく二人に、観客席から思わず飛び出したアイネスフウジンとメイクンリリーが駆け寄る。そして、立てない二人を支えるように肩を貸すと同時に、審議と点灯していた掲示板に確定のランプが灯る。そこに表示されていた一着の番号は、「11」だった。

『激戦となったNHKマイルカップ、勝利したのはヴァイスシュトルム! ヴァイスシュトルムです! ノーブルライトは惜しくも二着!』

 掲示板を見て喜びで顔を綻ばせながらアイネスフウジンに抱き着いたヴァイスシュトルムと、悔しさからメイクンリリーに縋り付いて大泣きするノーブルライト。二人の対照的な姿は、写真に撮られ多くのメディアにしばらくの間出続けることとなった。

 

 

 ヴァイスシュトルム、NHKマイルカップ制す。

 ゴールデンウィーク最終日となる日曜日、GⅠ「NHKマイルカップ」が実施された。クラシック級の最速ウマ娘を決めるこの一戦、制したのはヴァイスシュトルムだった。

 スタートで先行したアカノリュウセイ、それに多くのウマ娘が引っ張られて団子状態になる中、冷静に後方からレースを進めたヴァイスシュトルムは、四コーナーまで中団のすぐ後ろに控えていた。

 対照的に、アカノリュウセイに引っ張られる集団に飲み込まれてしまったノーブルライトとサザンエースは、平均よりもやや早い四十五秒七で八○○Mを通過。中々抜け出すことができないまま、集団の団子の中で脚を削られる結果となってしまった。

 四コーナー終わりでようやく解けた団子から抜け出したサザンエースとノーブルライトは、坂の途中まで一騎討ちに。しかし、そこに大外から捲って上がって来たヴァイスシュトルムが加わり、激しい三つ巴の戦いになった。

 残り200Mまでは三人とも譲らなかったが、ノーブルライトがここで一度下がる。ヴァイスシュトルムとサザンエースのどちらかで決まりかと思われたが、残り50Mで再びノーブルライトが差し返す波乱の展開に。

 真っ先にサザンエースが脱落し、残る二人も死力を尽くしての大接戦。二人同時にゴールへと飛び込んだ。

 ターフに膝をつく二人の元には、友人のウマ娘が駆けつけ、助け起こすように二人に肩を貸す。そうこうしているうちに、遂に掲示板の一着に「11」と表示され、確定の赤ランプが点灯した。

 クラシック級最速ウマ娘の称号を手にしたのはヴァイスシュトルム。惜しくも二着に破れたノーブルライトだが、その走りが一級品であることに違いはなく、これからの活躍が楽しみなレースとなった。

 

 全着順と着差は以下の通り。

 一着、11番ヴァイスシュトルム、一分三十一秒六。

 二着、8番ノーブルライト、ハナ差。

 三着、18番サザンエース、クビ差。

 四着、1番ノルデンスクエア、1と3/4バ身差。

 五着、3番エクスナイトホーク、ハナ差

 六着、7番ブリッツストライカ、3/4バ身差。

 七着、2番アケノシラギク、一バ身差。

 八着、5番フレアイェネーバ、1/2バ身差。

 九着、6番フレアカンパリ、ハナ差。

 十着、12番ササノホマレ、3/4バ身差。

 十一着、10番ホワイトデモン、ハナ差。

 十二着、15番ミッドナイトアイ、ハナ差。

 十三着、14番アカノリュウセイ、ハナ差。

 十四着、9番オイシイパルフェ、三バ身差。

 十五着、16番ドタバタ、一バ身差。

 十六着、13番スウィートメモリー、一バ身差

 十七着、4番ラディカルキャット、1/2バ身差。

 十八着、17番クイーンズホロー、クビ差。

 

 




本当に大変お待たせしました。
21話の執筆中にコロナに罹り、一週間ほど生死の境を彷徨っていました。
コロナが落ち着いてからも、暫くは咳と倦怠感に悩まされ続ける日々を過ごすことになってしまい、結果的に投稿がずるずると遅れてしまうことになりまして……楽しみにして下さる読者の皆さまには、非常にお待たせすることになってしまいました。重ね重ねお詫び申し上げます。
皆さまもくれぐれもコロナにはご注意くださいネ。

それではまた、次回お会いしましょう。
早ければ10月中に投稿します(希望的観測)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯23.大雨の日本ダービー

 ――東京レース場、芝コース2400M――。

 快晴の良バ場で行われた今年のオークスは、距離適正を不安視された一人のウマ娘が圧勝してみせた。

『メイクンリリーだ! メイクンリリーだ! メイクンリリー、今一着でゴールイン! 二着は接戦です! ライラックブーケがわずかに体勢有利か。メイクンリリー、桜花賞に続きオークスも無敗で戴冠(たいかん)! ティアラ最終戦の秋華賞への期待が高まります!』

 二着のライラックブーケと三着のシトラスノートを五バ身も引き離して勝利したメイクンリリーの活躍に、翌日の新聞やニュースサイト、テレビ番組などには『最強女王メイクンリリー、オークスも堂々戴冠!』といった見出ししか躍っていなかった。

「上がり3ハロンが三十三秒九……。メイクンリリーはマイラーだと思っていたが、クラシックディスタンス(中長距離の中で最もスタンダードな距離と言われる2400Mで行われるレースのこと)でも問題なく実力を発揮するか……」

 メイクンリリーの記録したタイムを新聞で詳しく追う神谷は、眉間に(しわ)を寄せて唸るように呟く。そして手に持った新聞をやや乱雑にたたむと、神谷はパソコンに向き直り、URAがウマチューブ上で公開している重賞レース映像の再生リストを表示する。最新の投稿として一番上に表示されているオークスの動画を再生すると、神谷はメイクンリリーの走りに注目してじっくりと研究を始めた。

「何回見ても、筋肉の付き方、走りは共にマイル向き……、中距離で走れても良いとこ2000Mが限界そうなんだがなぁ……。一体この子の小さな身体のどこにこれだけのスタミナが……」

 文字通りパソコンに(かじ)り付いてメイクンリリーの走る姿を見返す神谷は、画面と手元に置いた研究ノートを交互に見ることに精一杯で、休憩も昼食も忘れて研究に没頭していた。だからこそ、トレーニングの開始時間となり、ヴァイスシュトルムとアイネスフウジン、そしてシュプリュレーゲンがトレーナー室に入ってきたことにも気が付かなかった。

「一体トレーナーさんは必死な顔で何を見て……、うわ……」

 突然頭上から聞こえてきた聞き慣れた声に、神谷は声の主の方向へと体を向けて、心底驚いた様子で固まった。神谷の頭越しに画面を見ていたヴァイスシュトルムは、メイクンリリーの脚、特に太腿(ふともも)がアップになったシーンで一時停止されていたパソコン画面と神谷を見比べて、非常に冷めた、軽蔑したような冷たい視線を彼に向けていた。

「……ふーん。トレーナーさんはリリーの太腿がお気に入りなんだ?」

「いや、これは違っ! あくまで研究用に見てただけで!!」

「中等部の子の太腿を大写しにした映像で何を研究するのさ! この変態!!」

 ヴァイスシュトルムの冷め切った声で我に返った神谷は、大慌てでヴァイスシュトルムに弁明するが、ヴァイスシュトルムの機嫌は最高に悪かった。耳を絞って笑顔で神谷に相対するヴァイスシュトルムを尻目に、シュプリュレーゲンは神谷が書き込んでいたノートを手に取るとざっと目を通す。そこには神谷の言葉通り、メイクンリリーが見せたオークスでのパフォーマンスについての考察と私見が書き込まれていた。

「トレーナーさんってば、何もやましい事なんてないんだから、堂々としてれば良いのに」

 シュプリュレーゲンの肩越しにノートを覗き見たアイネスフウジンは、呆れを含んだ優しい声音でそう言うと、神谷に助け船を出すべくヴァイスシュトルムへと向き直る。シュプリュレーゲンはアイネスフウジンが神谷の弁護を始めるのを流し聞きながら、手に持ったままだった神谷の研究ノートをじっくりと読み進めていた。

 

 アイネスフウジンのお陰で、何とかヴァイスシュトルムの誤解を解消できた神谷は、額の冷や汗を拭うと安堵の息をついた。

「危うく首が飛ぶところだった……」

「アハハ……」

 本心からそう独り言ちた神谷に苦笑いを向けたアイネスフウジンは、一人静かにノートを読み耽るシュプリュレーゲンに近寄ると横からノートを覗き見る。そこに書かれていた几帳面ながらも、さながら呪文のような文字の羅列に顔を一瞬(しか)めて、しかし面白そうに眺めていた。

「それで、リリーの太腿から何がわかったの?」

 まだほんの少し怒気の混じったヴァイスシュトルムの声に、神谷は慎重に言葉を選ばなければならなかった。もし万が一にでも、たづなの耳に「ウマ娘の太腿に欲情している」等と聞こえようものなら、今晩から冷飯すらも食べられなくなるだろうことは想像に(かた)くない。それだけは避けなければならなかった。

「あー、その、だな。まず第一に、メイクンリリーの筋肉の付き方を見ると、あの娘の適正距離は千六(1600Mのこと)だと言わざるを得ない。どれだけ頑張っても、一着争いができるのは二千までだ」

「でも、2400Mのオークスで五バ身差の余裕勝ちだったじゃない?」

「こういう言い方は誤解を招くかも知れないが……。オークスで競ったウマ娘達が、メイクンリリーに至らなかった、オークスで勝てる水準になかったとも言える。現に、元競走ウマ娘の識者や陸上選手……もちろん走りを専門にする選手な。彼らからは俺と同じような意見もいくつかでてきてる」

 そう言って神谷がヴァイスシュトルム達に渡してきた紙には、確かに神谷が今述べた意見が(まと)められていた。

「もちろん、そんなことはなく、メイクンリリーがオークスに向けてスタミナを徹底的に鍛えたとも言えるが、それだけで距離適正の壁を打ち破ったとの判断はできない」

 いくらスタミナを付けたと言えども、マイルと中長距離では求められる、必要な筋肉の質が異なる。短距離・マイルを得意とする選手が長距離を苦手とするケースは多く、その逆もまた然りだ。

 短距離・マイルを主戦場とするメイクンリリーは中距離までは何とか対応できる可能性はある。実際神谷や他のトレーナー達の多くは、メイクンリリーはティアラ三冠の内、桜花賞と秋華賞の二冠を取ることは可能だが、中長距離となるオークスは無理だと桜花賞時にメイクンリリーが見せた生長度から判断していた。よしんばスタミナを鍛えたとしても、掲示板がやっとだろうと。

 しかし、実際の結果は、何とか掲示板どころか、二着に五バ身もの差を付ける圧勝をして見せた。

「身体の限界を超える『何か』があったのか……だとしたら、その『何か』は一体何だ?」

 ヴァイスシュトルムに話しながら、次第に思考の海へと潜っていく神谷から目を外したヴァイスシュトルムは、汗ばむような陽気に包まれた窓の外へと目をやった。澄み切った青空に現れた白い直線は、まっすぐに長く横切っていく。一直線に伸びる飛行機雲は、風に流されながらも長く、長く残り続けていた。

Flugzeugwolken......(飛行機雲、か……)

 ヴァイスシュトルムが零した呟きは、誰の耳に入ることもなく消えていく。後のトレーナー室には、シュプリュレーゲンが(めく)るページの音が規則的に鳴るだけだった。

 

 

 先週の日曜日に快晴だった事がまるで嘘だったかのように、週の半ばから大きく崩れた天気は回復することなく過ぎ去り、日本ダービー当日となった今もなお、朝から雨が降ったり止んだりと不安定な状態が続いていた。

「今年の日本ダービーは雨で不良バ場か……」

「これはヴァイスシュトルムのダービー勝利に危険信号が灯ったな!」

「バカ、何言ってんだお前。今回のメンバー内で唯一不良バ場経験者だぞ、ヴァイスシュトルムは」

「そうは言っても、たかが未勝利戦の一レースだけだろ? 重賞ならともかく、そんなの経験の内に入らねぇって」

 開場前から並んでいた男性達が話す内容が聞こえてきたシフォンエクレールは、耳を(せわ)しなく動かしてその話題に対して無言の抗議を行った。

 ――ヴァイスシュトルムさんは、不良バ場でも負けないもん――。

 胸の前でその小さな手をぎゅっと固く握りしめたシフォンエクレールは、早くヴァイスシュトルムの姿を見たいと思っていた。

 

 日本ダービーのパドック終了までは雨の止み間で曇っていた空も、本バ場入場の時には再び降り始めていた。

『生憎の天気となりました、東京レース場。気象庁は今週の水曜日に、例年よりも早い梅雨入りを発表しています。バ場状態は芝、ダート共に不良と発表されました』

 雨脚が強くなりつつある中、ターフへと姿を現したヴァイスシュトルムは、うんざりした顔で空を仰ぎ見た。

「雨降りすぎ、ジメジメしすぎ……。トレーナーさんの言うように、しっかり身体を暖めないとキツいかな……」

 そう呟いたヴァイスシュトルムは、スタンド前をゆっくり駆け抜ける(もちろん、観客席に手を振ることも忘れなかった)と、身体を冷やさないようにゲート前で入念にウォーミングアップを始めた。

 入場前に暖めておいた身体は、雨に濡れた箇所からどんどん冷えていく。それを少しでも遅らせ、また冷えてしまった筋肉を暖めることに、出走するウマ娘は皆集中していた。

(……この強い雨も問題だけど、ほんの少し踏み締めただけで(あふ)れる水も厄介かな。ここまでグチャグチャだと、踏み込むときに気を付けないと滑りそう……ああ、考えることが多すぎる!)

 ヴァイスシュトルムは地面を睨み付けるように唸ると、頭を振って余計な考えを振り払う。

「よし」

 無意識のうちに、口に出していた言葉に少しだけ笑って、ヴァイスシュトルムは真剣な瞳でゲートを見つめる。彼女の準備は整い、後はその脚で「日本ダービー制覇」という栄冠を掴み取るだけとなった。

 

 観客席へヴァイスシュトルムの両親を案内した神谷とシュプリュレーゲンは、彼らの後ろに立つと、他の観客に習ってゲート前へと目線を移す。

 ゲート前に集った多くのウマ娘は、雨で柔らかくなった地面と、滑りやすくなった芝に辟易(へきえき)した様子を見せているが、地面を確かめて軽く頭を振ったヴァイスシュトルムは一人だけ雰囲気(ふんいき)が異なっている。その姿に、観客席で神谷と共に並ぶシュプリュレーゲンは口許を綻ばせた。

「大雨の未勝利戦のレース映像を見たときも思いましたけど、やっぱりヴァイスは雨をあまり気にしませんね」

「ああ、こうも酷い雨とバ場だと、どうしても走り方を変えないといけないからな。それを嫌がったり、走りにくいと不満を現す娘は多いんだが……」

 幸いヴァイスシュトルムは走り方を変えることに対して抵抗がないから、そこは強みと言えるだろうと締めくくる神谷に、シュプリュレーゲンも同意する。

「大雨で実力を発揮できないまま、着外に沈む娘は多いですからね。その点、ヴァイスは晴れでも雨でもいつも通りに走るから、一緒に走る娘は嫌でしょう。もし私がそうだったら、嫌なプレッシャーを感じていたと思います」

 どこか楽しそうにゲートの方向を見るシュプリュレーゲンに、神谷は複雑そうな表情を一瞬浮かべる。しかし、何も言うことはなくシュプリュレーゲンに習ってゲートの方向を見据える。雨の中鳴り響くファンファーレに、ヴァイスシュトルムが無事に2400Mを走りきってくれることを祈ることしか神谷にできることはなかった。

「ヴァイスシュトルムは、中長距離適性は間違いなくある。でもまだ、スタミナと身体とが適応できていないんだよな……」

「……後はもう、ヴァイスのダービーにかける思いが他の娘達を上回っていることを願うしかないですね」

 神谷の呟きに対して、真剣な声でシュプリュレーゲンは答える。

 思いの強さという不確かなもので距離適性を覆すことが本当にできるのか、神谷は半信半疑だった。しかし、現役時代に欧州のGⅠで三勝をあげ、「ドイツの至宝」とまで呼ばれていたシュプリュレーゲンの言葉を、頭から否定することはできなかった。

 実際にレースで走り、結果を出してきたシュプリュレーゲンの言葉に対して、そんな経験を一度もしたことのない神谷がいくら否定しても、それは単なる空虚なものにしかならない。

(……現役時代に、シュプリュレーゲンは思いの力を感じたことがあるのだろうか? それとも、彼女自身思いの力で勝ったことがあるのだろうか?)

 神谷は隣に立つ元競走ウマ娘をじっと見る。神谷の視線に気付いた様子もなく、ただただ楽しそうにゲートを見つめるその横顔に、神谷は再びシュプリュレーゲンの心情に思いを馳せる。だから神谷は、次のシュプリュレーゲンからの問いかけに反応するのが遅れてしまったのだった。

「そういえば、おじさんとおばさんがこのレースを見に来れてよかったですね」

「えっ、……ああ、そうだな。本当によかった」

 反応が遅れた神谷に、不思議そうに首を傾げたシュプリュレーゲンは、しかし深くは追求せずに再び視線を戻す。そんなシュプリュレーゲンを見ながら、神谷は再び先ほど考えていたことを思い浮かべる。

 いくら神谷が考えたところで意味はないが、それでも、彼女がヴァイスシュトルムやアイネスフウジンを指導する姿を見る度につい考えてしまう。

 ――シュプリュレーゲンは本当に、レースに対して未練はないのだろうか――と。

 

 

『梅雨の大雨に見舞われました、東京レース場。降り(しき)る雨の中、詰めかけた九万人の観客は熱気に包まれています。本日のメインとなる第十一レース、東京優駿「日本ダービー」は、いよいよ発走の時を迎えます』

 発走委員が手に持った赤色の旗を振り上げた時、雨脚は更に強くなっていた。東京レース場に鳴り響くファンファーレの音が、雨で籠もったようにぼやけて聞こえる中、ゲートに収まるウマ娘達は、誰も彼も溢れる闘志を隠そうとしていない。雨で冷える東京だが、日本ダービーの発走を待つ東京レース場だけは、出走するウマ娘と詰めかけた九万人の観客による熱を(たた)えていた。

 雨に打たれながらも前を見据えるヴァイスシュトルムは、水を吸って重くなった真紅のパーカーを気にした様子もなく、ゲートが開く瞬間を静かに待っていた。

 雨によってじわじわと奪われていく熱が気がかりではあるが、ゲート内でできることも限られている以上、どうしようもないと割り切るしかない。後は全力を出すだけだと思い直し、ヴァイスシュトルムはゲートが開くその時を、ただひたすら集中して待っていた。

『各バ体勢整いました。生涯一度の栄冠に、十八人のウマ娘が挑みます。東京優駿「日本ダービー」今スタートです!』

 

 ゲートが開くと同時に、十八人のウマ娘達が飛び出していく。弾かれたようにゲートから飛び出したヴァイスシュトルムは、自分が走りやすいポジションに落ち着くために周囲の様子を横目で(うかが)った。

『本日の一番人気、13番サファイアペガサスは後方から。7番ヴァイスシュトルムはNHKマイルカップとは打って変わって現在先団にいますが……やや速度を落としたか』

『最高の形でスタートを切れただけに、そのまま先団で走った方が良いように思いますが……。彼女の何かしらの作戦でしょうか』

 8番のラッキーフィールドを先頭に据えて走るウマ娘達は、それぞれが走りやすいポジションを争っていく。肩や腕をぶつけ合い、誰もが押し合い()し合いしながらポジションを形成していく。しかし、ヴァイスシュトルムはそのぶつかり合いを上手く(かわ)していた。

「ヴァイス、そこは私の場所だから!」

「どうぞどうぞ。譲るから追い抜いて行ってよ」

 すんなりとポジションを譲ったヴァイスシュトルムに、得意気な顔をして追い抜いていく10番のナイトメアドリーム。彼女に心の中で舌を出したヴァイスシュトルムは、中団やや外側に落ち着くことができていた。後方の様子も先頭の様子も全てを把握するのに丁度良い場所で、ヴァイスシュトルムは改めて周囲を把握するように努める。

(……ラッキーが先頭、サザンは前方内側の五番手、グレアは私の少し前最内側。ペガサスは私の左後方にいて、カンパリがその後ろ)

 レースの全体図を頭の中で描き出したヴァイスシュトルムは、神谷が予想して見せた通りの展開におおよそ収まっていることにほくそ笑む。数日前に変態だの何だのと罵倒したりもしたが、やはり自分のトレーナー、神谷の読みは素晴らしいものであると再確認できた。

(……やっぱり、トレーナーさんは優秀なんだよね。もっと評価されてもおかしくないのに)

 ふとヴァイスシュトルムが思い出すのは、もう一年以上前になる屋上での神谷との出会いだった。

 

 ――自信なさげな顔をして屋上へとやって来たくせに、自分を見るなり惚けたような顔をして固まった新人トレーナー。話を聞けば、スカウトが全滅したと言って悄気る顔が気に入らなくて、自分から担当契約を結ばないかと持ちかけた。

 丁度、エアグルーヴからもいい加減選抜レースに出ろと催促されていたのもあって、スカウトが全滅したトレーナーであっても契約すれば、うるさく言われないだろうしと打算があってのことだった。自分の外見には自信があったし、トロフィーとしてでも欲しがるトレーナーが多くいたから、断られるなんて欠片も考えていなかった。ところが、彼からの返答は「まだ契約できない」だった。

 衝撃だった。自分のプロポーズを断るトレーナーがいるなんて思いもしなかった。

 今まで走りなどどうでも良いから、トロフィーとして、客寄せパンダとして契約してくれだの、クラシックは無理でも重賞なら何とか勝てるようにはしようだの、珍しい月毛で美少女としての外見だけが必要とされていた状況を彼に、神谷トレーナーによって変えさせられた。

 走りを見ないと契約しない、そう言ってのけた新人トレーナーに「是非とも契約してくれ!」と言わせたいが為に直近の選抜レースに見に来るように伝えたのは、意地もあったに違いないと今は思う。

 走る前から諦めるウマ娘とは契約しない。そうとも聞こえた言葉に頰を張られた気分だった。だからこそ私は走れると言いたかったし、私の走りを本当に見て欲しいと思ったのだから。

 走りで驚かせたい相手にトレーニングを付けて貰うのも(しゃく)で、神谷トレーナーと同期の桐生院トレーナーに無理を承知で選抜レースまでのトレーニングを見て貰い(桐生院トレーナーも嫌な顔を見せずに、むしろ楽しそうにトレーニングを付けてくれた。彼女は彼女で人が良すぎると思う)。そのお陰で選抜レースで見事に勝ち切って見せた。

 選抜レースでの走りを見てから、約束通り契約を結んでくれた神谷トレーナーさんのトレーニングは、優しいメニュー見えてその実本当にキツくて(桐生院トレーナーの方が遥かに優しいと思えた)、契約した当初は寮に戻ればベッドに倒れ込む毎日だった。でもそのお陰で私は、今、ここで、日本ダービーで、強力なライバル達と競り合えている――。

 

「……トレーナーさんにこのお礼をするには、やっぱり勝つしかないよね」

 そうポツリと呟いたヴァイスシュトルムは、大雨で(にじ)む視界の中、顔を上げる。

 顔を上げた先では、ラッキーフィールドに続いて先頭集団がバックストレッチにある坂へと差し掛かり、先頭で逃げるラッキーフィールドとの距離が詰まるところだった。それを見たヴァイスシュトルムは、ほんの少し息を入れると、速度をやや上げる。第三コーナーで先頭に食い込み、ゴールを先頭で駆け抜けるための準備に取りかかったのだ。

 日本ダービーの道程(どうてい)は、まだ(ようや)く半分……1200Mを終えたところだった。

 生涯一度しか挑戦できない栄冠が輝くゴールまでは、まだまだ遠く厳しい道のりが残されていた。




お・ま・た・せ♡

あっ、ちょっ、石投げるのは止めて!
どうせ投げるならケーキにしてく……ゲフゥ

いや本当に遅くなって申し訳ありませんでした……。
待望の(?)日本ダービー編でございます。

Q.ここまで待たせておいて続くの?
A.すまない。どうしても一話に纏めきれなかったんだ。

そんなこんなで、日本ダービーは久し振りの前後編になります! うん? 前後編で収まるのか?
……中編が入るかも知れない。

なるべく早く次を出したいとは思っているので、日本ダービーの結果はもうしばらくお待ちください。
ヴァイスシュトルムは無事に日本ダービーを勝てるのか、乞うご期待!










(プロローグで結果はわかっているだろってツッコミはしてはいけない。いいね?)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯24.世代の頂点

 第二コーナーを抜けて、中団やや後方からレースを進めるヴァイスシュトルムを、不安そうな、あるいは心配そうな面持ちで一組の夫婦がじっと見つめていた。

 夫婦が見つめる東京レース場の巨大なターフビジョンには、バックストレッチを中団やや後方で走るヴァイスシュトルムが丁度映し出されたところだった。画面に映るヴァイスシュトルムは、残り半分を過ぎてなお中団やや後方に留まっており、前へ行く様子が見受けられなかった。

「|Trainer, kann meine Schatzi dieses Rennen gewinnen?《トレーナーさん、娘はこのレースで勝てるでしょうか?》」

「正直に言わせていただけるなら、わかりませんとしか申し上げられません。ヴァイスシュトルムは、このレースに向けて必死にトレーニングをしてきました。しかしそれは、このレースに出走している他のウマ娘達も同様です」

 神谷の言葉をシュプリュレーゲンの通訳を介して聞いたヴァイスシュトルムの母親は、顔とウマ耳を伏せる。しかし、続く神谷の言葉に耳をピンと立てて、ハッとした様子で顔を上げた。

「ただ……。私は、ヴァイスシュトルムこそが日本ダービーという冠に一番相応(ふさわ)しいと思っています」

 そう言い切って、まっすぐにヴァイスシュトルムの姿を見つめる神谷に、安心したよう頰を緩めたヴァイスシュトルムの両親は、再び娘の姿を大きく映し出したターフビジョンに目を向ける。不良バ場と土砂降りの雨、そして跳ね上がる泥にまみれながらも懸命に走る娘の姿を見て心配そうな顔をしたものの、先ほどまでの不安そうな雰囲気は見当たらなかった。

 そんなヴァイスシュトルムの両親をチラリと見て、再びターフビジョンに目を戻した神谷は、数日前にヴァイスシュトルムと交わした話を思い出していた。

 

 

 突然の激しい雨と雷に襲われ、慌ててトレーナー室に駆け込んだ神谷(たち)は、一瞬にしてずぶ()れになった髪と体をタオルで拭く。そうしてゲリラ豪雨が()むまでの間、滝のように激しく落ちていく雨粒を見ながら、何の気なしに「御両親はいつ頃こちらに来るんだ?」と聞いてきた神谷に対して、尻尾を丁寧に拭いていたヴァイスシュトルムは、一拍置いてから口を開いた。

「招待してないし、日本ダービーに出走することも伝えてないよ」

「えっ、いや何で……」

「うーん。うちのお店、ドイツ中……下手したらEU中から毎日のようにお客さんが来るからね」

 毎日が忙しいのに、主力の二人を娘のたった一レースのために独占できないでしょ? そう言って笑うヴァイスシュトルムに、神谷は二の句が継げなくなる。たった一レースとは言うが、その一レースは娘の生涯一度きりとなる栄誉あるレースであり、日本国内一の格式を誇る日本ダービーだ。世界的にもかなり上位の格式を持つこのレースに出走する、娘の晴れ姿を本当に見なくて良いのだろうか。

「本当に、御両親を呼ばなくていいのか?」

「うん。長時間のフライトもだけど、こっちにしばらくいるとなったら、お店回らなくなっちゃうから」

 これでも、ドイツ一の肉屋の娘だよとほんの少し寂しそうに笑うヴァイスシュトルムに対して、神谷は何も言えず、その後ろに立つシュプリュレーゲンは(あき)れたように顔を伏せた。

 

 雨が止み、トレーニングを再開するねとトレーナー室から駆けだしていったヴァイスシュトルムを見送って、神谷はシュプリュレーゲンに向き直る。シュプリュレーゲンも予想していたのか、すぐに一枚のメモを書いて神谷に渡してきた。

「これ、ヴァイスのお母さんの電話番号……ああ、そっか。ねえトレーナーさん、ドイツ語喋れる?」

「……相手が何を言ってるのか何となく理解できるくらい」

「それってヴァイスと直接顔を合わせてるときじゃない?」

「う……」

 シュプリュレーゲンの指摘に思い当たる節しかなかったのか、神谷は一瞬押し黙る。事実、シュプリュレーゲンの指摘は正しく、神谷はヴァイスシュトルムと顔を合わせているときにしかドイツ語で(しゃべ)るヴァイスシュトルムの言葉を理解できていなかった。神谷が次に口を開いたときには、気まずそうにシュプリュレーゲンから顔を背けていた。

「ぐ、ぐーてんたーくとだんけしぇーんくらいしか……」

「だよね」

 神谷から予想通りの返答が来たシュプリュレーゲンは苦笑いを浮かべる。そして、こう提案した。

「それじゃあ、私が通訳として同席するよ。トレーナーさんは何が言いたいのかまとめておいて」

 そう言って(にこ)やかに笑うシュプリュレーゲンとは対象的に、神谷は何とも言えない複雑そうな顔で応じる。シュプリュレーゲンは心強い味方であるとともに、こういった場面で大人の自分よりも頼りになるという事実に腑甲斐(ふがい)なさを感じていたのだった。

 その晩、シュプリュレーゲンに通訳として横にいて(もら)いながら何とかヴァイスシュトルムの両親と会話を交わした神谷は、大真面目にドイツ語の習得を検討し始めるのだが、それはまた別の話である。

 

 ヴァイスシュトルムの両親がこの日本ダービー開催週に来日する予定があったため、運良くレース観戦に来て貰えることになった。それを知ったときに一番喜んだのは、神谷の隣にいたシュプリュレーゲンだった。自国のダービーで走る姿を親に見て貰えるということはやはり、ダービーで走ることができるウマ娘にとって大切なことなのだろう。

「一生に一度きりの晴れ舞台だからね。両親の目の前でダービーを勝利するなんて、競走ウマ娘にとってこれほど(うれ)しいことはないんじゃないかな」

 懐かしむように口許(くちもと)(ほころ)ばせるシュプリュレーゲンは、大切な記憶を優しく()でているかのように優しい微笑(ほほえ)みを浮かべる。

「シュプリュレーゲンもやっぱりそうだったのか?」

「まあね。ママもパパも、イギリスダービーで勝利したときはもちろん喜んでくれたけど、ドイチェスダービーを勝利したときは、その比じゃなかったなぁ」

 普段はサッカー一筋のパパが、贔屓(ひいき)チームの優勝以外であんなに喜んでいたのは初めて見たよと締めくくるシュプリュレーゲンは、楽しそうな顔をして向こう正面を駆けるヴァイスシュトルムを見続ける。

 その横顔に浮かぶ笑みに、そんなにかとだけ返して神谷もヴァイスシュトルムの姿を目で追いかける。レースはいよいよ第三コーナー、東京レース場名物「大(けやき)」がその姿を現していた。

 

『第三コーナーに入りまして、残り1000M。先団と中団が一つにまとまろうとしています。先頭は8番ラッキーフィールド。そのすぐ後ろに10番ナイトメアドリームが迫っています』

『ややペースが速い気もしますが、ナイトメアドリームは大丈夫でしょうか』

 大欅を左に見てからすぐに第四コーナーへ入り、それと同時に現れる六ハロン棒。ここまで中団やや後ろからレースを進めていたヴァイスシュトルムは、その六ハロン棒が視界左に入るや否や先頭へ向けて加速を開始し始めた。

「ここから……っ!」

 踏み込むたびに(あふ)れる水と靴に(まと)わり付く泥を気にした様子もなく、まるで良バ場で走るかのようにぐんぐんと速度を上げていくヴァイスシュトルム。

 ヴァイスシュトルムの後ろにいたウマ娘や追い抜かされたウマ娘は、彼女と同じように加速しようとして、溢れる水と泥に脚を取られて思うように加速できないことに気付く。踏み締めるたびに溢れる水は芝と相俟(あいま)って滑りやすくなり、靴に纏わり付く泥は地面に靴を吸い付けるように重い。そんな中で軽やかに加速するヴァイスシュトルムに、ただただ驚愕(きょうがく)するしかない。

「……ヴァイスは怪我(けが)が怖くないの?」

 誰かが呆然(ぼうぜん)としたように発した言葉は、ヴァイスシュトルムが悪条件の中で普段(ふだん)通りに加速する姿を見た皆の感想そのままだった。

『第四コーナー終わって最初に駆けてきたのはラッキーフィールド、続いてナイトメアドリーム。外からヴァイスシュトルムが猛然と突っ込んできた! ナイトメアドリームは一杯になったか!』

 最終直線で三番手にまで上がってきたヴァイスシュトルムは、勢いそのままにナイトメアドリームをかわすと既に坂を登っていたラッキーフィールドに続いて坂を登る。降り続いていた雨は、その勢いを弱めており、雨粒で視界が悪いと言った状況は大分改善してきていた。

「……? 足が重い……?」

 ゴールまで300Mほどの距離を残していながら、思うように加速できないことにヴァイスシュトルムは首を(かし)げる。それは、観客席にいる神谷とシュプリュレーゲンにもはっきりと見て取れた。

『ヴァイスシュトルム伸びないか! ラッキーフィールドに届きません!! 後ろからサファイアペガサスが伸びてくる! ラッキーフィールド先頭!』

 ほら言ったとおりだろう? 幾ら重バ場が得意でも、こんな不良バ場じゃわからないって。観客席のどこかからそんな言葉が聞こえてくる。その言葉を神谷は内心強く否定して、ヴァイスシュトルムを見守る。

(違う。ヴァイスシュトルムの不良バ場への適性は、今年のクラシック級ウマ娘の中でも頭抜けている。ただ、2400Mという距離の壁に挑むには、実力がまだ足りていなかっただけだ……それは、ヴァイスシュトルムに無理をさせることになったのは、(ひとえ)に俺の責任だ。俺のトレーナーとしての技量が見合っていなかったばかりに、ヴァイスシュトルムに生涯最高の晴れ姿を見させてやる機会を奪ってしまった)

 ヴァイスシュトルムから目を離した神谷は、必死に娘を応援する夫婦を横目でちらりと見てから、大舞台で実力不足を痛感させられたショックに沈んだように下を向く。そんな神谷を見て痛ましそうに顔を(ゆが)めたシュプリュレーゲンは、必死に駆けるヴァイスシュトルムの姿を再び見る。

 必死に、しかしじわじわと先頭に迫って行くヴァイスシュトルムは、苦しそうな顔をしてこそいるが微塵も諦めの色を浮かべてはいなかった。力強く前を見据え、ラッキーフィールドを追い抜くことしか今は考えていないだろうことは、彼女を映し出した画面越しにも良くわかった。その諦めていない姿にシュプリュレーゲンは目を見開くと、再び神谷へと視線を戻す。相変わらず(うつむ)きがちになってレースの状態も把握できていないでいる神谷の姿に、シュプリュレーゲンの中で何かが燃える感覚があった。

 一つ大きく息を()いたシュプリュレーゲンは、気持ちを落ち着けるように目を閉じる。そして、目を開くと同時に、腑抜けた神谷に活を入れるかのように、しっかりと手入れの行き届いた自慢の尻尾で彼の裏腿(うらもも)を一打ちした。

「った! シュプリュレーゲン、一体何を……」

 裏腿に走った痛みと衝撃に、神谷はシュプリュレーゲンへと向き直る。そこには柳眉を逆立てて耳を絞ったシュプリュレーゲンが、神谷を(にら)み付けるようにして立っていた。そのあまりもの迫力に、向き直った神谷はたじろぐしかできなかった。

「トレーナーさんがいの一番に諦めてどうするの! まだ負けが決まったわけじゃない。ヴァイスの目は、まだ諦めてない! なのに、何でっ……。トレーナーさんは、自分の教え子が勝てると思ってレースに送り出したなら、結果が出るまで信じ続けてないとダメなの!」

 普段、穏やかに笑っていることが多いシュプリュレーゲンが、怒りのままにまくし立てるという珍しい姿に目を白黒とさせる神谷は、彼女の綺麗(きれい)琥珀(こはく)色をした瞳に涙が浮かぶのを黙って見ていた。それと同時に、シュプリュレーゲンの言葉が重く心にのしかかり、足元へと視線を落とした。

 確かについ先ほどまでの自分は、ヴァイスシュトルムの勝利を信じ切れていなかった。練習の質がどうだの、トレーニング時間がどうだの、成長率がどうだのと言い訳を並べ連ねていた。だがそれでも、レース開始前までの自分は、それらを加味した上でなお、ヴァイスシュトルムの勝利を信じていたのではなかっただろうか? そこまで思い至ったとき、周りの観客が一際大きく沸いた。

『並んだ並んだ! ヴァイスシュトルム、まだ諦めていません! ラッキーフィールドに並んで見せました! 残り200Mの攻防、勝つのはどっちだ!』

 実況の声に神谷はハッとしたように再び顔を上げてターフを見る。そこには、残り200Mを切ってなお、ラッキーフィールドと激しい先頭争いをするヴァイスシュトルムの(まばゆ)いばかりの姿があった。

 実際にヴァイスシュトルムが光を放っていたわけではない。しかし、神谷には(まぶ)しく輝いて見えたのだ。その光に引き寄せられるかのようにコースへと蹌踉(よろ)けながら近付いた神谷は、観客席最前列にあるコースと観客席を隔てる柵を固く握り締め、大声で叫んでいた。

「勝てーっ! ヴァイスシュトルム!」

 

 

 ――坂を登り切ってから足が重い。体を思うように動かせない。息がしんどい、肺は破れそうだし、口の中はずっと血の味がしてる。東京ってこんなにしんどかったっけ……? 濡れた勝負服とベタベタした汗が気持ち悪い……、けど、だからといって諦めるわけにもいかない。目の前にいるのはラッキーだけ、他のコは多分まだまだ後ろ。

 ゴメンね私の体。もう少し、あとちょっとだけ無理させて。レースが終わった後どうなってもいいから。「ダービーウマ娘のトレーナー」って名誉称号を私のトレーナーさんにあげる最初のウマ娘は、私がいい。私じゃないとダメなの。

 これだけは、アイネスにも、トレーナーさんがこの後担当するコにも、もちろんその内担当されるだろうフジにだって譲れない、譲らない。神谷輝征トレーナーの一番目のダービーウマ娘は、私だ!――。

「勝てーっ! ヴァイスシュトルム!」

 ヴァイスシュトルムが再び前を睨み付けるようにして正面を向くと同時に、まだまだ先の観客席から聞こえないはずの声が聞こえた。大きな歓声にかき消され、届いたはずがないその声援はしかし、きちんとヴァイスシュトルムの耳に届いていた。

「……私のトレーナーさんがそう言ってるんだから、絶対勝たないとね? もう裏切りたくないでしょ、私」

 そう呟いたヴァイスシュトルムが脚に力を込めると、限界だったはずの脚に力が戻る。つい先ほどまでの重さと怠さは感じられず、普段と同じような脚の感覚にヴァイスシュトルム本人も驚く。しかし、それもすぐに笑みに変わり、ヴァイスシュトルムはぐんぐんと加速していく。

「すごい……、こんなに楽に走れるなんて。これなら!」

 ヴァイスシュトルムの視界に入る周りの風景はゆっくりと流れ、思考はどんどんクリアになっていく。脚が重くなってからずっと、頭の片隅にあったはずの不安や焦燥は既になく、ただただ走ることが楽しくなっていた。ヴァイスシュトルムの隣で競うラッキーフィールドの姿も、ヴァイスシュトルムの視界にはもう入っていない。

 走りに関係のないものは何も目に入らない。そんな状態の中で、ヴァイスシュトルムの視界に例外として一人だけが映り込む。ゴールまで残り100Mといったところの観客席で、先ほど大声を上げて声援を送った神谷は、最前列に設置してあるコースとの間を隔てる柵を握りしめ、必死な顔をしてヴァイスシュトルムを見ていた。そんな神谷の姿に満面の笑みを浮かべたヴァイスシュトルムは、ほんの一瞬だけそちらに顔を向ける。

 ヴァイスシュトルムの笑顔に言葉を失った観客達が我に返る頃には、先ほどまでの加速に加えて、更に勢い良く加速していくヴァイスシュトルムの姿だけが映っていた。彼女が見せた最早異次元レベルと言って差し支えのない鋭い末脚に、観客席は驚きと歓声の入り交じった大声援が沸き起こっていた。

『ヴァイスシュトルム抜けた! (つい)にラッキーフィールドを抜きました! ラッキーフィールドはもう一杯か! ヴァイスシュトルムの加速に追いつけるウマ娘はもういないか! ヴァイスシュトルム先頭! ヴァイスシュトルム先頭だ!』

 残り100Mを切って、ヴァイスシュトルムを追走するウマ娘は誰もいなかった。ヴァイスシュトルムと二から三馬身ほど空けた後方で、サファイアペガサスがラッキーフィールドと熾烈(しれつ)な二位争いを繰り広げているだけで、先頭を走るヴァイスシュトルムを脅かすウマ娘は誰一人としていなかった。正確に言うならば、雨上がりとはいえども過去に類を見ない不良バ場の中でヴァイスシュトルムの鋭い末脚について行けるウマ娘がいなかった。そして遂に、今年のダービーウマ娘が決定した。

『ヴァイスシュトルムだ! ヴァイスシュトルムだ! 今年のダービーウマ娘はヴァイスシュトルムです! 皐月賞に続いて日本ダービーも堂々勝利して見せました!』

「……勝った?」

 ゴール板を一番に駆け抜けて見せたヴァイスシュトルムは、自分が勝ったのかどうかさえ上手(うま)く認識できないでいた。限界を超えて酷使した身体は、傍目(はため)にも限界のように見える。今にも(くずお)れそうなほど憔悴(しょうすい)していながら、気力だけで(たも)たせているような雰囲気すらあった。

 小雨となっていた雨は、ヴァイスシュトルムがゴールするとほぼ同時に止んでおり、厚い雲には所々切れ間が見え始めていた。掲示板の一着欄に表示された自分の番号を確認し、そのまま視線を上にずらして雲の隙間からのぞく青い空を仰ぎ見たヴァイスシュトルムは、泥が跳ねた顔に満足そうな笑みを浮かべた。

「ヴァイスシュトルム!」

「……トレーナー、さん」

 黒のスラックスに泥を跳ねさせながら、ダービーウマ娘となって見せたヴァイスシュトルムに神谷が駆け寄ると、ヴァイスシュトルムは満足そうな笑みを浮かべたまま、ぐらりと横に(かたむ)く。彼女が倒れ込む寸前でしっかりと抱き留めた神谷は、満足そうに笑みを浮かべたまま寝息を立てているヴァイスシュトルムに安堵(あんど)の息を吐いた。

「おめでとう、ヴァイスシュトルム。素晴(すば)らしい走りだった」

 神谷の口をついて出てきた賞賛の言葉は、本人の耳に届くことなく風に乗って消えていく。

 雨上がりの東京レース場には、神谷の腕の中で穏やかな笑みを浮かべて眠る少女へ万雷の拍手と歓声が送られていた。

 

 

 ヴァイスシュトルム堂々二冠達成!

 競走ウマ娘にとって生涯一度の大舞台、日本ダービー。生憎(あいにく)の大雨開催となった今年のダービーだが、東京レース場に詰めかけたファンと出走するウマ娘達の熱気は、大雨にも関わらず非常に高かった。

 大雨の中、日本ダービーを制したのはヴァイスシュトルム。道中は中団やや後方からレースを進め、第四コーナー終わりから直線で鋭い末脚を見せると、ライバル達を一蹴し見事日本ダービーの栄冠を勝ち取って見せた。勝ち時計は大雨の不良バ場という悪条件にも関わらず、二分二十九秒八と素晴らしい記録。この条件下で開催された日本ダービーにおいて、二分三十秒を切って見せたのはヴァイスシュトルムが初となる。

 NHKマイルカップから中一週という過酷なスケジュールで日本ダービーに挑むこととなったヴァイスシュトルムには、NHKマイルカップで蓄積した疲労の影響や、2400Mへの距離に適応できるのかなど、様々な不安説も囁かれていたが、その不安がる声を見事はね()けてダービーの栄冠を掴み取って見せた。

 ヴァイスシュトルムを担当する神谷輝征トレーナーは、これが嬉しい日本ダービー初制覇。まだ一年目の新人トレーナーながら、ヴァイスシュトルムをダービーウマ娘へと導いた手腕は確かな物であり、神谷トレーナーとヴァイスシュトルムの今後の活躍が非常に楽しみである。今後とも注目していきたい。

 

 レース詳報

 各ウマ娘はキレイに並んでゲートを飛び出すと、そのまま激しい位置取り争いに。いち早く集団から抜け出したのは8番ラッキーフィールド。一番人気に推された13番サファイアペガサスは後方内側からのレースとなった。

 三番人気となっていた7番ヴァイスシュトルムは最高の形でスタートを切ったが、先行争いには加わることなく中団やや後方外側に陣取ると、第三コーナーまでじりじりとした走りを見せる。

 皐月賞・NHKマイルカップで好走して見せたサザンエースは、五番手で第三コーナーまで進み、スパートをかけたヴァイスシュトルムに追走して見せた。しかし、彼女の加速について行くことはできず、ラッキーフィールド、サファイアペガサスから四バ身ほど離されたまま最終直線へ。

 不良バ場をものともしない豪脚を見せてラッキーフィールドを捉えたヴァイスシュトルムだったが、坂の頂上付近では失速し始めておりレースを観戦する誰もがここまでかと思っていた。しかし、観客席前を通過する際に再び加速したヴァイスシュトルムは、最終直線に入ったとき以上のスピードを見せつけ、二着のサファイアペガサスに二バ身半もの差を付けてゴールを駆け抜けた。

 ヴァイスシュトルムが見せた走りに東京レース場は総立ちに。その興奮は、彼女がトレーナーに抱きかかえられてターフから姿を消してもなお続いていた。

 ヴァイスシュトルムに続いてサファイアペガサスが二着に、その後ラッキーフィールドと続く。四着にはサザンエースを坂の頂上でかわしたフレアカンパリが入った。サザンエースはグレアダイヤモンドと激しい順位争いを繰り広げ、掲示板も厳しいかと思われたが、最後に意地を見せてグレアダイヤモンドとの順位争いをハナ差で制して五着に滑り込み、掲示板は死守して見せた。

 掲示板こそ逃したグレアダイヤモンドだったが、サファイアペガサス、フレアカンパリと同様に距離延長を苦にした様子は見受けられない。この三人が揃って菊花賞に挑戦するかは今のところ未定だが、もしそうなるならクラシック最後の一冠、菊花賞が今から非常に楽しみである。

 全着順は以下の通り。

 一着、ヴァイスシュトルム、二分二十九秒八。

 二着、サファイアペガサス、二バ身半。

 三着、ラッキーフィールド、一バ身半。

 四着、フレアカンパリ、半バ身。

 五着、サザンエース、一バ身。

 六着、グレアダイヤモンド、クビ。

 七着、アクアインパルス、一バ身。

 八着、ヒョウケイスター、半バ身。

 九着、エストカテドラル、ハナ。

 十着、タイムジャンパー、半バ身。

 十一着、シトラスノート、クビ。

 十二着、ノルデンスクエア、二バ身半。

 十三着、ルナティックアロー、三バ身。

 十四着、エクスナイトホーク、一バ身。

 十五着、スウィートメモリー、二バ身。

 十六着、ドタバタ、一バ身。

 十七着、ナイトメアドリーム、半バ身。

 十八着、バイトアルヒネムイ、半バ身。

 

 ――毎日スポーツ 佐倉――




お待たせしました。
年内最後の投稿になります。
今年一年、応援いただきありがとうございました。
この話が一応の一区切りとなります。
まだ話中ではクラシック級途中ではありますが、やはり日本ダービーの決着が大きな区切りになるのではと思います。

もちろん、一区切りなだけなのでまたすぐ(すぐ?)続きの方も投稿していきますので、来年もまたヴァイスシュトルムの物語をお楽しみ頂ければと思います。
……第二部では、ヴァイスシュトルムのライバルウマ娘たちの話ももっと書いていきたいなぁ……。

それではまた、次回のお話でお会いできますように。
良いお年を!

2022/12/31 蒙駄目猫


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯25.潜む不調

『ヴァイスシュトルム、二冠達成!』

 大雨の中開催された今年の日本ダービーは、ドイツからやって来た月毛のウマ娘が制した。

 水を多く含んだ柔らかいターフと、激しさを増すばかりの大雨。大きく冷たい雨粒は、出走するウマ娘たちに襲いかかり、身体を暖めた傍から容赦なくその熱を奪っていく。近年まれに見る過酷な環境でありながら、ヴァイスシュトルムはそれをものともしない走りで見事に『ダービーウマ娘』の称号を勝ち取って見せた。

 またそれと同時に、皐月賞・NHKマイルカップと合わせて『変則三冠ウマ娘』も達成し、最高の成績で春競走を終えることができた。

 ヴァイスシュトルムはダービー後から二か月ほど休養に入ると陣営からは告知されており、春を締めくくる総決算のグランプリ、宝塚記念の出走は見送ることが既に発表されている。それにもかかわらず、ファン投票の中間発表では堂々の一位を獲得しており、ファンからの期待が多く寄せられる結果となっていた。

 日本ダービー後に倒れ込んだ様子から、体調面は不安視されているが、何事もなければ秋のオールカマーから始動するとされている。

 オールカマー以降のプランは何も示されていないが、距離の観点からクラシック級最終戦の菊花賞は回避するとみられている。

 何にしても、暑さ厳しい夏の間にしっかりと休養を取ってもらい、秋からまた、すばらしい走りを見せてもらえることを大きく期待している。

 ――月刊トゥインクル 藤城茜(ふじしろあかね)――。

 

『最終コーナーを一番に回ったのはやはりメイクンシャイン! その後ろから、このレース二連覇を狙うファイントパーズが迫ってくる!』

 阪神レース場で行われる、春を締めくくるグランプリ宝塚記念。今年シニア級に上がってきたウマ娘たちを差し置いて、激しい先頭争いを繰り広げているのは昨年と同じ顔ぶれだった。先頭の二人の激しい追い比べに、太刀打ちできずに離されていく新たなシニア級ウマ娘。その光景は暗に、シニア級の壁が分厚いことを示しているようでもあった。

『ファイントパーズが差し切るか! メイクンシャインが逃げ切ってみせるか! 意地と意地のぶつかり合い! 仁川の坂を駆け上がります!』

 昨年の雪辱を果たしたいメイクンシャインと、二連覇を成し遂げたいファイントパーズの熱戦に、観客も、トレーナー室でテレビ中継を見ていた神谷とシュプリュレーゲンも手に汗握って決着を見守る。

「良バ場だとメイクンシャインの方が力は上みたいだな」

「うーん……。まだわからないと言いたいけど、確かに厳しそうかな。坂で脚が完全に止まっちゃってるし」

『ファイントパーズ苦しいか、メイクンシャインを捉えられません!』

 神谷とシュプリュレーゲンの会話通り、坂で脚が止まってしまったファイントパーズは、じわりじわりとメイクンシャインに引き離されていく。その差は坂を登り切ってからも決して縮まることはなく、ファイントパーズはメイクンシャインに二バ身もの圧倒的な差を付けられて、宝塚記念連覇を逃すこととなった。

『メイクンシャイン、見事に雪辱を果たしました! 今年の春グランプリ王者はメイクンシャインです!』

 テレビの中では、(うれ)しそうにガッツポーズを取るメイクンシャインが大写しになる。しかしシュプリュレーゲンは、メイクンシャインの後ろで悔しそうにするファイントパーズの姿から目を離せなかった。

 テレビから視線を外した神谷は、膝の上に置いていた月刊トゥインクルのページを(めく)る。ドッグイアを付けた記事の中で、満足そうな笑みを浮かべたヴァイスシュトルムの写真に目を落とすと、彼女の現状にため息を吐いた。

 ――日本ダービーから一か月が経過しても、ヴァイスシュトルムの体調は回復の兆しを見せていなかった――。

 

 

 日本ダービーを勝利で飾り、神谷に横抱きにされて控室に戻ったヴァイスシュトルムは、浅い呼吸を繰り返して頰を紅潮させていた。

 限界を超えて酷使した脚は(ひど)く熱を持っており、その熱が冷えていたはずの身体にどんどん伝播(でんぱ)していく。この短時間の間に、ヴァイスシュトルムの身体は熱という形で悲鳴を上げ続けていた。

 控室のソファにヴァイスシュトルムを横たえた神谷は、まだ観客席にいるであろうシュプリュレーゲンにLANEで「控室にきて欲しい」と短くメッセージを送ると、特に酷い熱を持つヴァイスシュトルムの脚に手早くアイシングを施していく。

 太腿(ふともも)、膝、足首に氷嚢(ひょうのう)やアイスパックを固定し、額と頸動脈(けいどうみゃく)にも氷嚢を当てる。そうして応急的な手当を施しているうちに、シュプリュレーゲンが控室へと入ってきた。

 汗と雨と跳ねた泥水でずぶ()れになったままでいたヴァイスシュトルムの着替えを、シュプリュレーゲンとその後ろから着いてきていたヴァイスシュトルムの母親に任せ、神谷はスマホを手に控室を出る。一拍置いてから神谷の後を追って控室を出てきたヴァイスシュトルムの父親は、壁に背中を付けたまま通路にへたり込む神谷の姿に、驚いた様子で駆け寄った。

Geht es Ihnen gut(大丈夫ですか)!?」

「あー……。Ja, mir geht's gut(ええ、大丈夫です)

 ヴァイスシュトルムの父に心配されて、神谷は何とかドイツ語で返事をする。神谷の返答に安心したのか、ヴァイスシュトルムの父はホッと胸をなで下ろした。

 そんな彼の様子に、娘のことだけでなく、自分のことまで心配をかけてしまったことに対して負い目を感じながら、神谷は長く息を吐く。レースは無事に終わり、応急処置も施した。とはいえ、考えることは山ほどある。この後に控えているウイニングライブのことはもちろんだが、ヴァイスシュトルムが高熱を出したことが気掛かりだった。そして何よりも、明日以降無事に彼女の体力が回復するか、という懸念が神谷の頭には浮かんでいた。

 能力的に、あるいは適正的に無理だと目されたレースにおいて、自らの限界以上の力を振り絞って勝利したウマ娘の話は、しばしば感動的な話として引き合いに出されることが多い。しかし、その話は多くがこう続く。――自らの限界を(はる)かに超えて勝利をもぎ取ったウマ娘(ウマ娘に限らず、人や動物にも言えることかもしれないが)はその後、「競走能力を喪失し引退している例が非常に多い」と――。

 

 人間を含む生物の体には、防衛機構としてリミッターがかけられている。そのリミッターは生物の防衛本能の一つであり、通常は本人の意志で外すことは決してできない。しかし、そのリミッターが外れる状況が一つあることが知られている。

「火事場のバカ力」という言葉を聞いたことがあるだろう。この言葉が生まれた背景には、火事で燃え盛る家屋(建物)から逃げ出す際に、普段からは信じられないほどの力(この場合は主に筋力のことを指す)を発揮して、一人では到底持てない家財道具を持ち出せたり、到底持ち上げることが叶わない重量物を持ち上げることができたりすることで、その場から逃げ出すことができ、結果として命を守ることができたといった例によっている。

 つまり、命の危機に差し迫るほどの状況になると、普段制限をかけて筋肉の出力を調整している脳が、緊張状態による興奮などによって制限をかけられなくなり、結果としてフルパワーを発揮できるようになるのである。しかし、これにはもちろんリスクが伴う。

 普段使用することが可能な筋力に制限がかかっていると言うことは、裏を返せば、制限をかけなければ、「筋肉が自らの力に耐えきれず、破壊されてしまう」あるいは、「筋肉の強すぎる力に、骨や腱が耐えられない」ということでもある。

 火事場とは、それほどの力を発揮しなければ命が助からない切迫した状況と言い換えることができる。そんな状況に陥ることはそうそうない、だからこそ筋肉にかかっている制限は解除されないし、解除する必要もない。

 しかし、筋肉の制限を外さなければ危ない状況にあると脳が判断したならば、その制限は解除される。制限がなくなった筋肉は、本来の力を発揮し、競技においてはすばらしい記録を残すことに貢献するだろう。そうして、脳が興奮状態から落ち着き、再び筋肉に制限をかけたとき、発揮した力の反動が身体を襲うことになる。

 反動の強さが、筋肉痛程度で済むのか、骨折になるのか、はたまた死に至るほどの物になるのかは、その時にならなければわからない。しかし、今ヴァイスシュトルムを襲っている全身の高熱は、間違いなく何かしらの反動が起こった結果だと言えるだろう。

 また単純に、火事場のバカ力ではなく、競走ウマ娘としての全ての力を振り絞った可能性もある。競走寿命の全てを使い切って、限界以上の力を振り絞った結果としてああなっているのであれば、それも理由としては間違いだとは言えないだろう。

 どちらにしても、ヴァイスシュトルムにはしばらくの間、十分な食事と休養が必要なことに変わりはないし、これから神谷がやるべきことも変わらない。全レース終了後に行われるウイニングライブには、残念ながら今のままでは参加不可能だということは誰の目にも明らかだろう。そのことを関係各所に連絡しなければならないし、ヴァイスシュトルムを一度病院に連れて行かなければならない。彼女がレースに復帰できるのかどうかを考えるのはその後のことだ。

 それでも神谷の脳内では、全身全霊を賭して駆け抜けたヴァイスシュトルムが、競走生命の全てを使い切ってしまったのか、それを慎重に判断しなければという考えが残り続ける。それを振り払うように頭を振った神谷は、天井を見上げると再び大きく息を吐いた。

「取り敢えずは、ヴァイスシュトルムが無事で良かった」

 神谷はそう一言(つぶや)いてから立ち上がると、ヴァイスシュトルムの着替えが終わっているかを確認するために控室の扉をノックする。いつまでもヴァイスシュトルムの父親をこんなところに付き合わせる訳にもいかないし、彼自身ヴァイスシュトルムの異常発熱が、この十分ほどの短時間で落ち着きを見せ始めているかどうかが気になっていた。

 

 シュプリュレーゲンと母親によって着替えさせられたヴァイスシュトルムは、先ほどまでの荒い息が(うそ)だったかのように穏やかな寝息を立てていた。神谷はおもむろにヴァイスシュトルムの足元にしゃがむと、彼女の足を触って問題がないかを改めて確認していく。

 神谷がヴァイスシュトルムを控室に運び込んだ際に、彼女の足から発生していた異常な熱は、この数分間ですっかりと下がっていた。異常な発熱が感じられなくなり、見かけ上は平穏を取り戻したことに安堵(あんど)した神谷は、そのままぺたぺたと無遠慮にも思える触り方で足裏から脹脛(ふくらはぎ)、太腿へと当てた手の平を動かしていく。神谷が手を動かす(たび)に、ヴァイスシュトルムは体を身動(みじろ)がせた。しかし、それを気にする余裕もないほどに神谷は真剣だった。確りと神谷が足を確認した結果、骨や腱、筋肉にも素人目には大きな問題は見当たらなかった。詳しくは病院で検査をしないとわからないとはいえ、大きなケガがないことにその場にいた全員がホッと胸をなで下ろした。

「異様な熱さはなくなったな。これなら、意識が戻るのを待ってから病院に連れてい……ぐふっ!?」

 神谷の手の平が太腿から股関節付近へと移動した瞬間、彼の体は勢い良く後ろへと吹き飛ばされていた。

 幸いにも、シュプリュレーゲンが慌てて神谷を受け止めたので、壁に頭をぶつけて大ケガをすることこそなかったものの、神谷の鼻からは真っ赤な血が垂れていた。

「人が寝ている間にイヤらしいことしようとするなんて……、この変態トレーナー!! ……Papa(パパ)? Mama(ママ)? Warum sind Sie hier?(どうしてここに?)

 勢い良く跳ね起きて真っ赤な顔をしたヴァイスシュトルムは、神谷に対して柳眉を逆立て耳を絞る。そんなヴァイスシュトルムの姿に、彼女の両親は目を丸くして驚きを見せた。

 ヴァイスシュトルムもまた、視界に入った二人――今の時間ならば、ドイツの自宅兼店舗でお客相手に忙しくしているはずの両親――がいることに、困惑したような表情を浮かべて、先ほど蹴飛ばした相手、神谷へと顔を向ける。

「……それだけ元気があるなら、取り敢えず安心したよ」

 シュプリュレーゲンに支えられたまま、力なく呟く神谷に対して、彼を支えるシュプリュレーゲンは気の毒そうに見ることしかできなかった。

「トレーナーさん! レーゲン! どうしてパパとママがここにいるのかちゃんと説明して!!」

 

 

 口をへの字に曲げて、不満をありありと表明するヴァイスシュトルムから、事情を説明し終わった神谷とシュプリュレーゲンは気まずそうに顔を背ける。

「ふーん。私に何の説明もなくそう言うことしちゃうんだ。ふーん!」

「いや、そのだな……」

「えっとね、ヴァイス、その……」

「ふーーーーーーん!!」

 酷く()ねた様子のヴァイスシュトルムは、神谷とシュプリュレーゲンの弁明に対して、全く聞く耳を持とうとしなかった。そんな彼女に、一体どうしたものかと神谷とシュプリュレーゲンは頭を悩ませる。彼らの様子を遠巻きに見ていたヴァイスシュトルムの両親だったが、娘と娘のようにかわいがっているシュプリュレーゲン、そして娘のトレーナーである神谷のやり取りが面白かったのか、どちらともなく吹き出すと体を震わせて大きな笑い声を上げた。

「Papa? Mama?」

Entschuldigung(すまない). A. A. Aber(で、でも) ......Hahaha!」

 低い声を出して威嚇するヴァイスシュトルムは、肩を震わせる両親をじろりと(にら)む。愛娘(まなむすめ)の冷たい視線を受けて、必死に笑いを堪えようとする父親だったが、結局は堪えることはできなかった。体を折り曲げて大笑いする父親の隣で、そっくり同じような姿勢で笑う母親も、娘の視線を気にした様子は全くなかった。

 ただただ笑い続ける両親に、ますます口を尖らせたヴァイスシュトルムは、怒りの矛先を再び神谷とシュプリュレーゲンに向けて睨み付ける。射殺さんばかりの威圧的な視線から逃れるように、神谷とシュプリュレーゲンは取り繕うことを放棄して、完全に背中を向けて知らぬ存ぜぬを通そうとしていた。

 神谷とシュプリュレーゲンの背中に向けて、大きく(当てこするように)ため息を吐いたヴァイスシュトルムは、耳を絞ったまま(うつむ)いて考え込んでいた。

 ――面白くない。パパとママに時間的にも精神的にも負担をかけたくないから、諦めようとしていたのに。勝手に連絡して、日本ダービーを観戦させて……。私が諦めようとすること全部、諦めさせてくれないとか本当に面白くない。こんなことされたら、どうやって恩を返していけば良いのか、わからなくなるじゃない――。

「ねえ、トレーナーさん」

「そうだ、神谷トレーナー。ウイニングライブの件連絡しないと!」

「ああ、そうだな。ファンには悪いが、今回のライブにヴァイスシュトルムは不参加だと……」

 ヴァイスシュトルムの声を遮るように、シュプリュレーゲンが神谷にわざとらしく声を掛ける。それに益々(ますます)苛立(いらだ)ったヴァイスシュトルムだったが、神谷の言葉を聞いた瞬間、怒りも不満も全て忘れて、彼の手からスマホを奪い取っていた。

 手の中から消えたスマホの感触に驚いた神谷は、まるで空を掴むような手をそのままにして、スマホを奪った人物へと視線を向ける。

「ヴァイスシュトルム?」

 神谷のスマホを胸に抱いたヴァイスシュトルムは、顔に少しばかり戸惑いを浮かべていた。

「出るから」

「は……」

「ウイニングライブには絶対出るから」

 大切な物を取り上げられまいとする子どものように、震える声で宣言するヴァイスシュトルムに、神谷は二の句が継げなくなる。

 ウイニングライブ中に足を痛めたらどうするだとか、そもそも、今は痛みがないだけで、実は骨折していたらどうするだとか、言いたいことは山ほどある。しかし、ヴァイスシュトルムがこうと決めたときの頑固さを理解している神谷は、諦めたようにがっくりと肩を落とした。

「……わかった。ただし、少しでも足に違和感があれば無理をせずに振り付けを変えることが条件だ。それができないというのであれば、ライブへの参加は無しだ」

 そう言った神谷は、ヴァイスシュトルムにスマホを返すようにと手を差し出す。神谷がウイニングライブへの参加を許可したことに対して、あからさまに安堵の表情を浮かべたヴァイスシュトルムは、素直に神谷のスマホを彼の手の上に置いた。

「はぁ……全く、心配するこっちの身にもなってくれ……」

「わかるよトレーナーさん……。ヴァイスは昔からこんな感じだから……」

「……ありがとう」

 神谷に対して、心底同情的なシュプリュレーゲンに慰められても、神谷の心労が消えるわけではない。しかし、理解してくれる人物がいることの心強さに、神谷は多少なりとも心が軽くなったような気がした。

 そんなシュプリュレーゲンと神谷のやり取りに、ヴァイスシュトルムは再び拗ねたような顔を見せて呟いた。

「なーんか、二人に失礼な意気投合をされてる気がする」

 




新年明けましておめでとうございます。今年も当作品をよろし……え? 何? 半年以上過ぎてるって? 
………………。
投稿が遅くなり申し訳ありませんでした!!!!

遅くなった原因は、大体死にかけてたり、ハイラルを駆け巡ってたり、プラグインしたり、それゆけボウケンシャーしたり、また死にかけてたりしたせいです。はい。

これからまたぼちぼち投稿していくので、完結まで付き合って頂ければ幸いです。
それではまた、次回の後書きでお会いできることを願って。
2023/07/13


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯26.コーヒーブレイク~帰ってきた青汁(強化済み)~

 結論から言えば、ヴァイスシュトルムがセンターを務めたウイニングライブは無事に成功を収めた。

 神谷の不安は杞憂(きゆう)に終わり、無事に控室へと戻ってきたヴァイスシュトルムは、満足そうに頰を緩めてウイニングライブの余韻に浸る。

「んーっ、終わったぁ」

「そうだな。それじゃあ行くか」

「? 行くって、どこに?」

「神谷トレーナー。たづなさんがタクシーの手配してくれたって」

「ありがとう、シュプリュレーゲン」

 首を(かし)げるヴァイスシュトルムを余所(よそ)にして、神谷とシュプリュレーゲンの二人は手早くヴァイスシュトルムの荷物を仕分けていく。

「ヴァイスの勝負服は専門の業者さんに渡すから良いとして……(かばん)はどうしたらいい?」

「フジキセキに渡しておいてくれ。ついさっき正門に着いたってLANEに送られてきたから、すぐに来るだろう」

 ヴァイスシュトルムは自分についての話なのに、神谷とシュプリュレーゲンの会話が欠片(かけら)もわからないことに困惑を隠せずにいた。そんなヴァイスシュトルムを置き去りに、神谷とシュプリュレーゲンの手であっという間に移動する準備が整う。訳もわからないまま流されていたヴァイスシュトルムも、二人の流れるような早業に舌を巻くことしかできなかった。

Trainer, meine Schatzi, bitte(トレーナーさん、娘をお願いします)

Ja, ich kümmere mich darum(ええ、任せてください)

Bis später, Weiße(またね、ヴァイス)

 神谷に頭を下げるヴァイスシュトルムの両親に見送られながら、ヴァイスシュトルムは神谷に連れられて部屋を出る。神谷の後に着いて東京レース場を出ると、そこには予約と表示したタクシーが既に待機していた。

「ねぇ、トレーナーさん。どこに行くの?」

「どこって、ライブ前に話した通り病院に……」

「聞いてないよ!?」

「あれ? まぁ、そんな些細(ささい)なことはいいか。脚の状態によっては今後のプランに関わってくるから、しっかり見てもらうんだ」

 神谷の言葉に、思い切り顔を引きつらせたヴァイスシュトルムは、逃げ場のないタクシー内で項垂れるしかなかった。

 

 

 診察を受けた結果、酷使した脚の筋肉全体に炎症を起こしてこそいたものの、骨や(けん)、関節などに深刻な問題は見つからなかった。

 問題があるとすれば、病院に着いてすぐに逃げ出そうとしたヴァイスシュトルムを捕獲しなければならなかったこと(たづなが連絡していたのか、スタンバイしていた元競走ウマ娘の看護士にすぐ捕獲された)と、診察後に抗炎症剤の注射を嫌がってヴァイスシュトルムが大暴れしたこと(もちろん、すぐに元競走ウマ娘の看護士二人に取り押さえられていた)くらいだった。そう、脚には何の問題もなかった。

 診察結果を受けて、神谷はヴァイスシュトルムに二週間の完全休養を取らせた。神谷の目算では、この完全休養でダービー後、大幅に落ちてしまっていた体重もダービーの前と同じ水準にまで戻せると確信していた。

 しかし、その目論見は外れ、トレーニングを最低限にまで減らし、多めの食事をきちんと取らせても、ヴァイスシュトルムの体重はダービー後と変わることはなかった。

「結局、六月中にヴァイスシュトルムの体重が増えることはなかったな……」

「ううん、軽度なトレーニングをしているとはいえ、一日に摂取している総カロリー量から見ると、増えないとおかしいんだけどなぁ」

「実は食事を満足に取れていないのかと疑ってみたものの、フジキセキとアイネスフウジンからは『しっかり食べている』と言われたしな。一体全体どうしたら良いのか、さっぱりわからん」

 椅子の背もたれにだらしなく寄りかかった神谷は、両手を脱力して空中に投げ出したまま天を仰ぐ。天井の化粧石膏(せっこう)ボードを仰ぎ見る神谷に、シュプリュレーゲンも彼と同じような姿勢を取りたくなった。

 競走ウマ娘であれば、レース後に体重が大幅に落ちること自体は普通に起こり得ることであるし、神谷とシュプリュレーゲンもしっかりと理解している。シュプリュレーゲンに至っては、現役中に自分がそうなったことも珍しくない。

 大抵は一週間単位での休養を取ることで元に戻すことができるし、本人の食欲がある以上はそこまで深刻に捉える必要がない。

 しかし、ヴァイスシュトルムに関しては深刻と言って差し支えがなかった。普段の食事よりもカロリーを大幅に増やして食事メニューを組み、ヴァイスシュトルムの食欲も旺盛(おうせい)だ。にもかかわらず、彼女の体重は増える気配がまるでない。

 二週間の完全休養明けに、嫌がるヴァイスシュトルムを連れて病院で検査してもらったものの、彼女の身体に異状は見つからなかった。ヴァイスシュトルムの食事メニューと体重の推移をデータとして医師に渡したところ、そのデータを見た医師や看護師までもが首を(ひね)る始末だった。

「一体、どうすればいいんだか……」

 天井から背中側の窓へと逆さのまま目線を移した神谷の視界には、梅雨晴れの青空を切り裂くように二本の白線が細く棚引いていた。

 

 

 神谷から今日のトレーニングは休みだと連絡を受けたヴァイスシュトルムは、LANEのトーク画面を見ながらため息を吐いた。

 トレーニングが中止になった理由は、自分の体重が戻っていないことだと理解しているヴァイスシュトルムは、憂鬱そうに窓の外を見る。梅雨()只中(ただなか)にしては珍しく、雲一つない青く澄み渡った快晴の空は、今のヴァイスシュトルムにとっては気分を重くするだけだった。

「いい加減、何とかしないとダメなんだけどなぁ……トレーニングもままならないし……」

 (うつむ)いて愚痴をこぼしたヴァイスシュトルムは、再びため息を吐くと、とぼとぼと歩き出した。どこに行くでもなく、気落ちしたままに足を進めていたヴァイスシュトルムは、鼻腔(びこう)をくすぐるコーヒーの香りに顔を上げる。視線の先には、旧理科準備室――マンハッタンカフェとアグネスタキオンが共同使用している部屋――があった。

「カフェのコーヒーは魅力的だけど……」

 でも、今はなあと(つぶや)いて(きびす)を返したヴァイスシュトルムは、引き戸を開けて旧理科準備室へと入っていく。

「……? えっ、なんで!?」

 無意識の行動に目を白黒させたヴァイスシュトルムは、慌てて部屋を出ようとする。しかし、その意思とは反対に、丁寧に扉を閉めてから彼女の足は部屋の奥へと向かう。自分の体が勝手に行動する恐怖に、ヴァイスシュトルムは顔を引きつらせた。

 ふらふらとした覚束(おぼつか)ない足取りで、ソファへと向かってくるヴァイスシュトルムをじっと見つめていたマンハッタンカフェは、不思議そうな顔をしてヴァイスシュトルムのやや後ろを見る。彼女にだけ見える『お友だち』は、憤ったような衝動を覗かせながらも、どこか楽しそうな様子でヴァイスシュトルムに半分埋まりながらその身体を操っていた。

「……あまり……ヴァイスをからかっては……いけませんよ……」

 そう『お友だち』に向かって呟いたマンハッタンカフェは、ソファから立ち上がると自分のコレクションを保管している戸棚からマグを一つ取り出す。そうして再びソファへ座り直し、自らブレンドしたコーヒーをそのマグに注ぎ始めた。

「コーヒー注いでないで助けてカフェ! 体が言うことを聞かないの怖い!!」

「ええと……『お友だち』に……ヴァイスを傷つけるつもりは、ないので……大丈夫です。……多分」

「多分!? ねぇ、多分って言った!?」

 マンハッタンカフェの言葉に再び抵抗を始めたヴァイスシュトルムは、『お友だち』によってじりじりとソファへと追い込まれていく。そしてついに、抵抗も虚しくソファへと放り投げられた(正確には、自らソファへ飛び込んだと言うべきか)。

「……そんなに警戒しなくても……大丈夫ですよ。……あの人と違って……変なものは、入れていません……」

 必死に威嚇する子猫のような姿勢を取るヴァイスシュトルムにそう告げると、マンハッタンカフェはサイフォンを手に取り、中に残っていたコーヒーを自分のマグに注ぐとそのまま飲んで見せた。

 マンハッタンカフェは「……ほら……大丈夫でしょう?」と、ヴァイスシュトルムに顔を向けて優しく微笑んで見せる。それでもなお、ヴァイスシュトルムは警戒を解こうとはしなかった。しかし、そのやり取りに()れた『お友だち』は、再びヴァイスシュトルムの身体に半分ほど埋まる。そうしてヴァイスシュトルムから右腕の支配権を勝手に奪うと、彼女の意思に反して右腕を動かし始めた。

「ちょっ! また勝手に!」

「あ……マグカップは……自分の意思で傾けた方が、良いかと……。そうしないと……」

「そうしないと……、何?」

「……熱々のコーヒーが……ヴァイスの口に、大量に入ることに……」

「飲む! 自分で飲むから手を離してお願い!!」

 ヴァイスシュトルムの腕を楽しそうに操る『お友だち』を見ながら、マンハッタンカフェはそうヴァイスシュトルムに告げる。淡々と告げられた事実に、ヴァイスシュトルムは大慌てでマグを自らの意志で口元に近づけた。

「ふふっ……。お友だちも楽しそう……」

 ヴァイスシュトルムの様子を見ながらそう言ったマンハッタンカフェは、嬉しそうに顔をほころばせて、耳を軽く左右に倒していた。

「私は全然楽しくないからね……。あ、おいしい……」

 警戒しながらコーヒーを飲んでいたヴァイスシュトルムも、二口目のコーヒーを飲む頃にはすっかりリラックスしていた。対面に座るマンハッタンカフェと同じように、耳を左右に軽く倒れさせたヴァイスシュトルムは、静かにコーヒーを楽しむ。

 二人の間に流れる、穏やかでゆったりとした空気はしかし、一人のウマ娘が入ってきたことで簡単に霧散してしまった。

「おやおや、私の探し人はカフェと一緒にコーヒーブレイク中とは……。私を仲間はずれにしないでくれたまえよ」

「……タキオンさん……うるさいです……」

「辛辣だねぇ。でも、ヴァイスを独り占めするのは、良くないんじゃないかい? カフェ」

「……独り占めなんて……ただ……ヴァイスと一緒に、コーヒーを楽しんでいただけ……です」

「それを一人占めと言うんじゃないかい? ヴァイス、隣失礼するよ」

 無遠慮にヴァイスシュトルムの隣に座ったアグネスタキオンに対して、マンハッタンカフェは顔を渋くする。

「……勝手に……ヴァイスの隣に座らないでください……っ!」

「そういうカフェこそ、今までヴァイスを独り占めしていただろう? 少しくらい譲ってくれても良いじゃないか!」

「……そういう問題では……ありません……!」

 ヴァイスシュトルムと過ごす、穏やかな時間を邪魔されたせいか、マンハッタンカフェにしては珍しく語気を荒げてアグネスタキオンに言い返す。それに負けじとアグネスタキオンも言い返し、どんどん激しい言い争いへと変化していく。

 ぎゃんぎゃんとまくし立てる二人を横にしながら、言い争いの原因であるヴァイスシュトルムは、マンハッタンカフェの()れたコーヒーに没頭していた。

「……カフェのコーヒー本当においしいな。……トレーナー室とかに常備させてもらえないかな? ……あ、そっか。カフェがトレーナーさんの担当になれば解決するのか」

 トレーナーさん、カフェの担当にもなってくれないかなぁ……と呟くと、ヴァイスシュトルムはほうと息を吐いた。彼女の言葉は、(いま)だに言い合いを続ける二人の耳には入ることはなく、コーヒーから立ち上る湯気と同じように空中へ溶けていった。

 

 マンハッタンカフェとアグネスタキオンが息を切らし始め、投げ合う言葉に勢いがなくなってなお、ヴァイスシュトルムは二人を気に留めていなかった。

 スカートのポケットからスマホを取り出したヴァイスシュトルムは、ウマチューブを鼻歌交じりに視聴し始める。言い争いをしていた二人は、そんなヴァイスシュトルムの姿に、じっくりと顔を見合わせると、彼女の上から覆い被さるようにして覗き込む。手元に影が差し、その暗さを感じたヴァイスシュトルムは顔を上げ、自分に覆い被さる格好の二人へ視線を向けた。

「あ、終わった?」

 呑気(のんき)にスマートファルコンのダンス動画を見ていたヴァイスシュトルムに対して、二人の取った行動は素早かった。マンハッタンカフェがヴァイスシュトルムの前に立つと同時に、アグネスタキオンが毒々しい色をした三角フラスコを手に持った。三角フラスコの中の液体は、緑色と紫色に延々と混ざり続けるという不思議な挙動をしており、時折、禍々しく煙を噴出していた。

 ヴァイスシュトルムが三角フラスコに目を向けていることにむっとしたのか、マンハッタンカフェはヴァイスシュトルムの頰に優しく手を触れると、自分の方へと向き直らせる。

「……私を見てください……ヴァイス」

 マンハッタンカフェがヴァイスシュトルムに顔を近づけると、ヴァイスシュトルムは困ったように頰を赤く染めて目を逸らす。マンハッタンカフェは、ヴァイスシュトルムの仕草に満足そうに息を吐くと、隣に立つアグネスタキオンに目配せをした。それからヴァイスシュトルムに向き直ると、慈愛に満ちた微笑みを彼女へと向けた。

「か、カフェ……マンハッタン、カフェ……さん? その……近すぎない? いや、その、嫌とかじゃないんだけど、カフェの綺麗な顔が近いと落ち着かないというか、ドキドキするというか、その」

「……ヴァイスは、罪作りな自覚を……もっと持つべき……です。……この数日……私が、どれだけ貴女の心配をしたか……。だから……これは、おしおき……です」

「……へ?」

 マンハッタンカフェの(たお)やかでほっそりとした指を頰に添えられ、至近距離で彼女の整った顔を見せられたヴァイスシュトルムはどぎまぎする。しかし、そのときめきにも似た胸のざわめきは、マンハッタンカフェの不穏な言葉を最後まで聞くと同時に、別の意味で大きく、騒がしく変化した。

 ヴァイスシュトルムの頰へ添えた指に力を込め、奥歯と奥歯の間にするりと指を滑り込ませるマンハッタンカフェは、その指の力を強めると、ヴァイスシュトルムが簡単に口を閉じることができないように顎を固定した。突然顎を下方向へと押さえつけられたヴァイスシュトルムは、目を白黒させて慌てふためいた。

「!? むー!!」

 いやいやと首を振って拘束から抜け出そうと試みるヴァイスシュトルムだが、体はまるで金縛りにあったかのように微動だにせず、唯一動かせる首を精一杯振ることしかできない。

「ほうらヴァイス、お薬の時間だよ。何、心配しなくても大丈夫さ。前回、キミに渡した薬よりも、栄養の吸収補助機能は格段に強化されている。これを飲めば、君の体重が減り続けるストレス性の症状も改善するだろうさ! その代わりと言っては何だが、味の方は改善できなくてね。いくら砂糖を足しても、とても飲めた代物(しろもの)では……ゴホン。何、心配する必要はないとも。以前飲んでもらったものに比べて、ほんの少し。ほんの少しだけ、大地の味を強く感じるようになっただけだからねぇ! ……因みになんだが、味見をしてくれたモルモット君は、一口飲むなり吐き出して、地面と熱いキスを交わしていたよ」

 それは前回のものよりも(ひど)くなっているじゃないかと抗議したいヴァイスシュトルムだったが、口を抑えられていては発言することは叶わない。そうこうしているうちに近づいてきたアグネスタキオンは、容赦なくヴァイスシュトルムの口に三角フラスコの中身を注ぎ込んだ。流し込まれた毒々しい色をした液体は、土と青々とした草のとても酷い味をもってヴァイスシュトルムに襲いかかった。

「~~~~っ!!!?」

 アグネスタキオンの言葉に嘘はなかった。確かに謎の不調は消えたような気がする。しかし、しかしだ。それと引換えに、ヴァイスシュトルムの口の中では粘土と青々とした草と木、そして後からミントのような清涼感が渦巻いて混沌としていた。

 気絶しなかったのは、前回改良前のものを飲んでいたからだろうか。それでも、気絶できるなら気絶したかったと思いながらヴァイスシュトルムは力なくソファへともたれかかる。

「おや、すぐに元気百倍となるかと期待したが、そうでもないようだねぇ。味が酷くとも、効果には関係ないはずだが……ふぅン」

 もう少し改良が必要かな、と呟くアグネスタキオンを渋い顔で見ていたマンハッタンカフェは、ぐったりと目を瞑ったヴァイスシュトルムを心配そうに見る。

「何、そんなに心配そうにしなくても大丈夫さ。ヴァイスのあれは、ダービーで全力を超えた反動みたいなものだからね」

「……その心配は……していません……全く」

「それにしても、カフェがヴァイスにお熱だとは思いもしなかったね。いつからヴァイスのことをそんなに想っていたんだい?」

 角砂糖が山盛りになったティーカップ片手に、アグネスタキオンは先ほどまでのにやけ面を消してヴァイスシュトルムを見つめる。かと思えば、にやにやとした顔でマンハッタンカフェに質問をしてきた。そのにやけ顔に、ため息を一つ吐いて、マンハッタンカフェは静かに自分のマグを傾ける。瞬間、口の中に広がった粘土と土と青々とした草木、最後に不愉快な清涼感と化してしまったミントの味に、尻尾の毛を逆立てピンと思い切り跳ね上げた。

「おや、特製コーヒーの味はどうだい? 質問を無視するからバチでも当たったかな?」

 にやにやとした下卑た笑みを浮かべて、白々しく味を()いてくるアグネスタキオンを、マンハッタンカフェは口を抑えながら(にら)み付ける。それと同時に、内心でヴァイスシュトルムに深く謝罪した。まさかこんなに酷い味だとは思ってもいなかった。

「……タキオンさん……覚悟は、できていますね……?」

「なんだいカフェ、そんな怖い顔をして……。ほんの冗談に……決まって……」

 声を出せるようになったマンハッタンカフェは、地の底から響くような低い声で、アグネスタキオンにそう問いかける。尻すぼみに言葉から勢いをなくすアグネスタキオンは、顔を青くしながらマンハッタンカフェから距離を取ろうとして、パチパチと鳴る音と何かが燃えたときのツンとする焦げた臭いに気が付いた。

 鼻を刺激する臭いの元に心当たりがあるのか、はっとした様子で慌てて自分の研究スペースにある机を見たアグネスタキオンの目に入った光景は、青色の炎に包まれた紙の束が燃え尽きるその瞬間だった。

「なっ!? ちょっと待ってくれ、それは今朝ようやく書き上がった……あああぁぁーーーー!?」

 アグネスタキオンの悲痛な叫び声が部屋に響き渡るが、時既に遅く、最期の欠片が白い灰となり宙に舞い上がる。

 研究レポートらしき紙の束を燃やし尽くした青い炎が、静かに消えると、後には真っ白な灰の山と、宙に舞う燃え尽きたばかりの灰だけが残る。何日分かの成果が、奇麗さっぱり灰となったアグネスタキオンは、涙を流して最後の灰が机に落ちる様子を見つめることしかできなかった。

「……やりすぎじゃない……? ……え? ……中身は入れ替えてある……? ……じゃあ、あれは……ただの紙の束? ……そう……なんだ……」

 マンハッタンカフェとお友だちの会話は、残念ながらアグネスタキオンの耳に届くことはなく、彼女はただただ呆然(ぼうぜん)と涙を流してその場に立ち尽くしていた。

 

 

「ううん……まだ口の中が土臭い気がする……ってうわ。タキオンが灰を見ながら泣いてる。えぇー……」

 ようやく喋ることができるようになったヴァイスシュトルムは、白い灰の山を前にして涙を流すアグネスタキオンの姿に面食らう。そんな彼女の言葉が耳に入ったのか、マンハッタンカフェが顔を上げてヴァイスシュトルムを見てきた。

「……もう……口の中は、大丈夫ですか……?」

「え、うん……? カフェに聞かれるのも変な感じではあるけど」

「……それは……その。……すみません。……あんなに……酷い味だと、思ってもみませんでした……」

 ジトッとした目でヴァイスシュトルムに見つめられたマンハッタンカフェは、シュンと落ち込んだように耳と目を伏せた。そんな彼女の姿に溜飲(りゅういん)が下がったのか、ヴァイスシュトルムは口角を(わず)かに上げると、マンハッタンカフェの隣に座り、彼女の肩にもたれかかった。

「……あの……ヴァイス……?」

「……」

 頰を染めて突然もたれかかってきたヴァイスシュトルムに、今度はマンハッタンカフェがどぎまぎする番だった。千年に一度の美少女ウマ娘とも言われる、ヴァイスシュトルムの整った顔が近くにあることに、マンハッタンカフェは平静を装えなくなる。それと同時に、何故、彼女が自分の肩にもたれかかってきたのかわからずに困惑の表情を浮かべていた。そんなマンハッタンカフェの言葉を遮るようにして、ヴァイスシュトルムは口を開いた。

「カフェの美味しいコーヒーで、さっきの私への酷い仕打ちはなかったことにしてあげる。だから、コーヒーおかわり」

「! ……はい」

 困惑させていた顔をぱっと明るくさせて、マンハッタンカフェは嬉しそうに耳を動かした。ヴァイスシュトルムが肩に寄せる体重を受け止め、彼女の好きなようにさせる。それに甘えるようにして、ヴァイスシュトルムもまた、アグネスタキオンが入ってくる前と同じようにリラックスしてコーヒーを楽しむことにしたのだった。

 灰を前にして滂沱(ぼうだ)の涙を流すアグネスタキオンと、マンハッタンカフェに甘えながら穏やかにコーヒーを楽しむヴァイスシュトルム。それに対してまんざらでもない様子のマンハッタンカフェという、傍から見れば奇妙な室内の様子は、こうして完成したのだった。




お読みいただき、ありがとうございます。
お待たせしました26話です。

久し振りに登場したら研究資料(複写)を燃やされるタキオン……正直すまんかった。
マンハッタンカフェとヴァイスシュトルムのイチャイチャを書きたかっただけなのに、気が付いたらタキオンの研究資料が燃えてました。是非もないネ。

今回の話は息抜き回なので、今のうちに存分に息抜きして頂いて、今後の展開にご期待頂ければと思います。
それではまた次回、お会いできることを願って。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯27.出走取消

『第三コーナー、先頭で淀の坂を駆け下りるのはライラックブーケ、差がなくクイーンズホローとスイートメモリーと続きます! 無敗ダブルティアラのメイクンリリーは、まだ中団やや後ろ。ここから果たして届くのか!?』

 ティアラ路線最後の一冠、GⅠ秋華賞が京都レース場で開催されていた。一番人気はもちろん、無敗で桜花賞とオークスを制したメイクンリリー。今日、京都レース場に訪れた観客の多くが、無敗トリプルティアラウマ娘が誕生する瞬間を一目見ようと足を運んでいた。

 もちろん、秋華賞に出走しているウマ娘たちは、メイクンリリーのトリプルティアラ阻止と、最後の冠が相応しいのは自分だとの自負を持っている娘ばかりであり、それが必ずしも達成されるとも限らない。しかし、祈りにも似た期待はあまりにも大きかった。

 最後のティアラを自分の手にするべく、十八人のウマ娘たちが第四コーナーへ殺到する。

『きたきたきた! 第四コーナー半ばで遂にメイクンリリーが先団に取り付いた!! ライラックブーケ厳しいか! 先頭はクイーンズホロー! メイクンリリーが外からどんどん差を詰めて来る! クイーンズホロー逃げ切るか! メイクンリリー並んだ並んだ! 後100mを切った! クイーンズホロー意地を見せるか! スイートメモリーも再び並んできた! 勝つのは誰だ!』

 実況も観客も、最後の直線で繰り広げられる抜きつ抜かれつの大接戦に興奮しっぱなしだった。残り僅か50m、三人並んでの白熱した攻防に、観客席は総立ちとなる。

 ずっとこのレースを見ていたい。そう思わせるほどの白熱したレースはしかし、メイクンリリーが頭一つ抜け出した瞬間に幕を閉じた。

『三人並んでゴールイン! メイクンリリー、わずかに体勢有利か!』

 実況の言葉通り、掲示板の一着欄に点灯した数字は「7」、メイクンリリーのものだった。

『メイクンリリー! メイクンリリーだ! トリプルティアラ最後のティアラもこのウマ娘のものでした! メイクンリリー! 桜花賞、オークスに続いて見事秋華賞も手にして見せました! 無敗でトリプルティアラを達成! 歴史に残る快挙です!!』

 興奮しっぱなしの実況の言葉はしかし、それだけのものであることの証左とも言える。無敗トリプルティアラは、かのメジロラモーヌですら達成し得なかった偉業である。

 嬉しそうに涙を流しながら笑顔を浮かべるメイクンリリーの写真は、無敗トリプルティアラのベストショットとして今後幾度(いくど)となくニュースや雑誌などで使われることとなる。

 そして、その一週間後に同じく京都レース場で行われたクラシック級最後の一冠、菊花賞でも興奮が沸き上がった。

『もう誰も追いつけないか! アクアスフィア完全復活!』

 二着のグレアダイヤモンドに七バ身もの圧倒的な差を付けて快勝したアクアスフィアに、京都レース場は熱狂に包まれた。

 その後、春クラシック全勝のヴァイスシュトルムと完全復活を遂げたアクアスフィアの対決を待ち望む声は、次第に大きくなっていく。しかし、話題の中心となるヴァイスシュトルムの体調は、絶好調にはほど遠かった。

 アグネスタキオン特製の栄養剤を服用した日から、体重の減少はなくなり増加へと転じた。しかし、幾らトレーニングを行っても、落ちた筋肉は緩やかにしか戻らず、走りのキレを取り戻すには時間がまだ必要だった。

 日本ダービーでヴァイスシュトルムが見せた、閃光のような鋭い走りが見られなくなってから、早くも五ヶ月が経過していた。

 

 

 放課後になり、神谷のトレーナー室へと入ってきたヴァイスシュトルムは、応接スペースのローテーブルの上に置かれていたスポーツ新聞を一瞥(いちべつ)して複雑そうな顔をした。でかでかと『アイネスフウジン視界良好! 朝日杯フューチュリティステークスに向けて不安なし!』と、書かれた見出しと共に満面の笑みを浮かべるアイネスフウジンの写真は輝いて見え、それが殊更(ことさら)ヴァイスシュトルムの神経を逆撫でするように感じられた。

 もちろん、アイネスフウジンが勝利した十月三週目の未勝利戦は、現地観戦していたヴァイスシュトルムも素直に喜び、アイネスフウジンに直接おめでとうと祝福もした。しかし、いざ自分の不甲斐ない現状を考えると、もやもやとした言語化できない何かが胸の内に(くすぶ)っているのもまた事実だった。

「はー……。焦ってるのかなぁ、私……」

 そう独り()ちてソファに座ると、そのまま横にコテンと倒れる。倒れ込んだまま、ソファの座面に顔を埋めてくぐもった声を上げたヴァイスシュトルムの脳裏には、アクアスフィアが菊花賞で見せつけた、圧倒的な勝利の瞬間が鮮やかに再生されていた。

 距離適正、未だ不安定な体調の二面から出走を取りやめたヴァイスシュトルムとしては、復帰レースで圧勝して見せたアクアスフィアに心穏やかにいられるはずもなかった。

 到底簡単には出来ない、圧倒的な実力差を示して快勝するなどといった離れ(わざ)を、復帰して早々にやってのけたアクアスフィア。彼女の胆力と実力は、ただただ脅威の二字しか当てはまる言葉がなかった。

 一頻(ひとしき)り押し殺した声を上げたヴァイスシュトルムは、もぞもぞと起き上がると、手櫛で少し乱れた髪を整える。そして、レース前の作戦会議などで使用するホワイトボードの方へ顔を向けると、そこに貼り付けられている東京レース場のコース図を厳しい目で睨み付けた。

 数日前まで、アイネスフウジンの未勝利戦1600mについての情報が所狭しと書き込まれていたそれは、早くも2000mのものに張り替えられ、『天皇賞(秋)』について書き込まれ始めていた。

 真新しい紙の白さを(たも)った2000m用のコース図の上には、まだ名前を書いたテープを貼り付けていない、白、黒、赤、青、黄、緑、橙、桃色をした十八個ものマグネット――枠に設定された色と同じもの――が整然と並ぶ。

 コース図の用紙外には、『天皇賞(秋)』に現時点で登録している二十数名のウマ娘の名前が並ぶ。その中には、ヴァイスシュトルムの名前も並んでいた。

「……」

 天皇賞(秋)からジャパンカップ、有馬記念と冬の中長距離GⅠ制覇は、『秋シニア三冠』と呼ばれる。ただし、開催期間が集中していることもあり、同一年の達成は困難を極めるレースでもある。

 また、クラシック級であるヴァイスシュトルムにとって、海千山千のシニア級ウマ娘たち相手に、引けを取らない実力を発揮して見せなければならない。そういった意味でも、ヴァイスシュトルムにとって、今後シニア級のGⅠ戦線で通用するかどうかを占う試金石となる。

 とは言え、距離適正の観点から出走を諦めた菊花賞への未練もヴァイスシュトルムにはもちろんあった。例え大敗したとしてもクラシック競争最後の一冠に出たいという欲求は、簡単に捨てきれるようなものでもない。

「はぁ。……よし」

 ため息を吐いてホワイトボードから視線を外したヴァイスシュトルムは、鞄から体操服を取り出すとトレーナー室に新しく設置された一人用の簡単な更衣室に入る。パーテーションとカーテンだけで簡単に作られたそれは、運動着に着替えるだけなら充分な出来だった。半袖の体操服の上から長袖の上着を着用し、勢い良くファスナーを上げる。首元までしっかりとファスナーを閉じたヴァイスシュトルムは、トレーナー室の施錠を済ませると、トラックコースへと駆けて行った。

 

「芝コースあと一周で今日は終わろうか。ゴールしたらそのままクールダウンに入ってくれ」

「はい!」

 ヴァイスシュトルムは神谷に返事をして、芝コースに立てられたパネルをちらりと見る。首に『スタート』と書かれた札を下げ、真面目な顔をしたエアグルーヴの写真パネルに、ヴァイスシュトルムは何度見ても笑みを零してしまう。

「一体どんな気持ちでこのパネル用写真を撮ったんだろ……。でもまぁ、エアグルーヴなら生徒会活動の一環とでも言われたら丸め込まれそうではあるか」

 至極真面目にポーズを取るエアグルーヴを撮影するシンボリルドルフといったような想像をしたヴァイスシュトルムは、それにくすくすと笑ってから真剣な表情をした。見据えるターフの先には、東京レース場のコース風景が浮かび上がり、隣には天皇賞(秋)勝利を目論むウマ娘たちの幻像が、ゲートの開く瞬間を待っている。

 神谷の「スタート!」という掛け声と同時に、想像上のゲートがガシャンと音を立てて開く。瞬間、飛び出したヴァイスシュトルムは想像上のウマ娘達を置き去りにして、ぐんぐんと加速していった。

「……! 久し振りに足が軽い!」

 一本前の走りまで感じていた足の重さは、嘘のように取れ、調子を崩す前のように走れることにヴァイスシュトルムは顔を綻ばせる。そんなヴァイスシュトルムの様子に、神谷は一瞬驚いた後、彼女と同じように喜色を浮かべた。

「驚いた、まさかここに来て調子を崩す前の走りに近付くとは」

 放たれた矢のように飛び出したヴァイスシュトルムは、勢いそのままにぐんぐん加速していく。決してシニア級にも引けを取らない彼女の走りに満足して頷いた神谷は、手元のバインダーに目を落とした。

 天皇賞(秋)が目前に迫っていながら、ヴァイスシュトルムのトレーニング結果は芳しくなかった。デビュー以来、毎日のように更新していた成長度グラフは、日本ダービー後にガクンと落ち込んで以降、デビュー前よりも下を記録し続けていた。

 結果が出ないことに、ヴァイスシュトルムと同じかそれ以上に、神谷は気を揉んでいた。しかし、今ヴァイスシュトルムが見せた走りは、日本ダービーの直前トレーニングでヴァイスシュトルムが記録して見せた走りと遜色(そんしょく)のないレベルだった。

 

 日本ダービーで見せた走りとまでは行かなくとも、このまま順調に行けば、充分な実力をもってシニア級に乗り込める。神谷はそう確信していた。そしてそれは、神谷だけではなく、シュプリュレーゲンも、アイネスフウジンも、そして、彼女のライバルとなるウマ娘たちも同じ考えだった。

「ヴァイスの調子は上々といったところか。貴重なデータとしてきっちり記録しなければね」

「……あんなに急に速度を出して、……体の負荷は大丈夫でしょうか」

「カフェはヴァイスのことになると、途端に過保護になるねぇ……。ふぅン、何か特別なものでもあるのかな?」

「……無事に終われば、良いのですが」

「無視するのはやめたまえよ!」

 スタンドからヴァイスシュトルムを見守るマンハッタンカフェは、隣でギャーギャーと騒ぎ立てるアグネスタキオンの言葉も耳に入らないほど、ヴァイスシュトルムを注視する。

 軽快に駆けるヴァイスシュトルムの右脚からは、言葉にはできない嫌な予感が漂う。その嫌な予感はマンハッタンカフェにべったりと張り付いて離れなかった。

 

 調子良く駆けるヴァイスシュトルムは、半分となる1000mを59秒で走破し、なおもペースを保ったまま第三コーナーへと入っていく。

「もう少しペースを上げても平気かも」

 そう口の中で呟いたヴァイスシュトルムは、今までの不調が嘘だったかのように、軽やかな動きをする自分の身体に目を爛々(らんらん)と輝かせる。まるで、新しいオモチャを手にした子どものような笑顔を思わず浮かべたヴァイスシュトルムは、一体どこまで速く走れるのか試してみたくなった。

 第四コーナーに差し掛かろうとするタイミングで、今までよりもほんの少し力を込めてターフを踏み締める。グンと力強く地面に押されて身体は前へ進む。地面から力強く受ける反発が楽しくて、ヴァイスシュトルムは更に脚へ力を込めて再びターフを踏み込んだ。その瞬間、地面を踏み込んだ右脚からあらゆる感覚が消えた。

「……え」

 まるで、(くう)を踏んだかのような手応えのない感覚に、ヴァイスシュトルムは戸惑う。だが、それも(わず)か一瞬のことで、バランスを大きく崩した彼女の身体は、走りの勢いそのままにターフへともんどり打って倒れ込んでいた。勢い良く倒れ込んだことも手伝って、地面の芝を全身で(えぐ)り取りながら身体は何mか滑り続け、コースの外埒(そとらち)に近いところでようやくヴァイスシュトルムは停止した。

「ヴァイスシュトルム!」

 調子良く走り、ラストスパートに向けて準備していたはずのヴァイスシュトルムが、突然体勢を崩した瞬間、神谷の脳は何が起こっているのか認識できないでいた。ただ、とんでもないことが起きたという事実に、体は無意識のうちに駆けだしていた。それは、コースから離れた場所で見ていたシュプリュレーゲンとアイネスフウジンも同様だった。神谷と同じように、一体何が起こったのか理解できないといった表情を浮かべながらも、ヴァイスシュトルムへと駆け寄っていく。

 アイネスフウジンと遜色ないスピードでターフを駆けるシュプリュレーゲンに遅れながら、神谷もヴァイスシュトルムの元へと直走(ひたはし)る。彼が着いた時には既に、シュプリュレーゲンがヴァイスシュトルムを抱きかかえて楽な姿勢を取らせようとしているところだった。

「……ぅ」

 痛みに顔を(ゆが)ませるヴァイスシュトルムに、シュプリュレーゲンも思わず悲痛な表情を浮かべる。幸いなことに、ヴァイスシュトルムの足が、曲がってはいけない方向へ曲がっている、などといったことはなかった。それでもシュプリュレーゲンは、ヴァイスシュトルムの足が骨折しているかどうかを確かめることはできなかった。

 顔を青くしてヴァイスシュトルムの足から目をそらすようにするシュプリュレーゲンの姿に、神谷は奥歯を噛みしめた。

「ヴァイスシュトルム、足を触るぞ」

 そう固い声でヴァイスシュトルムに告げた神谷は、手を震わせながらヴァイスシュトルムの右脚へと手を伸ばす。

 ゆっくりと、足首から(ひざ)の方へと手を動かす。そして、()れ始めた膝の外側に神谷の手が触れた瞬間、ヴァイスシュトルムは激痛に顔をしかめた。

「痛っ! いたいぃ……」

「大丈夫、大丈夫だから落ち着いてヴァイス」

 足を襲った痛みに暴れ、まるで子どものように泣き出したヴァイスシュトルムに、手を握っていたアイネスフウジンが、なだめるようにヴァイスシュトルムの頭を撫でて落ち着かせようとする。それを横目に、神谷は呆然とヴァイスシュトルムの足を見ることしかできなかった。

「……とりあえず、病院に行こう。診察と治療して貰わないと……」

 順調にトレーニングの成果が見えてきていた矢先に、ヴァイスシュトルムを襲ったケガは、神谷たちを絶望的な気分にさせるのに充分だった。

 

「うん、膝蓋骨(しつがいこつ)……膝のお皿の脱臼(だっきゅう)だけで、骨折はしていないですね。靱帯(じんたい)も断裂はせずに少し伸びた状態なだけなので、五ヶ月ほどで本格的なトレーニングはできるようになるかと思います」

 レントゲン写真を見てそう言った医師は、脱臼の整復を行い、大事を取ってギプスで固定されたヴァイスシュトルムの右足を再び見る。医師の言葉に胸をなで下ろした神谷は、その後に続く医師の言葉をよりしっかりと聞く姿勢を取る。

「ただ、レースへの本格復帰は、大腿部(だいたいぶ)の筋力が回復するまで見送った方が良いでしょう」

「それは、何ヶ月ほどになるのでしょうか?」

「筋力の戻り方次第ですが……十ヶ月程度は覚悟された方が良いかと思います」

「十ヶ月……もですか!?」

 医師の言葉に目を見開いた神谷は、愕然(がくぜん)とした表情で聞き返す。それは、シニア級のほぼ一年はレースに出られないと宣告されたようなものだった。

「膝蓋骨の脱臼に限らずですが……、脱臼は繰り返す可能性が高く、特に癖になりやすいんです。癖になってしまえば、とても競走ウマ娘を続けることはできません。そうならないためにも、腰を据えてしっかりと治療することをオススメします」

「……わかりました」

 医師の真剣な表情に、神谷は引き下がるしかなかった。医師の言うとおり、脱臼が癖になることで付随する可能性がある骨折や、靱帯の断裂などを引き起こすリスクを考えると、医師の言葉に従うほかなかった。

 病院を後にするタクシーの車内で、ぐったりとした様子で自分にもたれかかってくるヴァイスシュトルムを横目に、神谷は暗澹(あんたん)とした考えに陥っていた。それは、天皇賞(秋)にヴァイスシュトルムが出走できなくなったことが原因ではなく、彼女の体調をきちんと見ることができなかった、自分への腑甲斐なさから来るものだった。

 どこか虚ろな目をしたままため息を吐く神谷に、ヴァイスシュトルムもまた、閉じていた目を薄らと開けて、情けない気持ちで神谷の顔を見上げた。自分の体調管理の不備を、我が事のように捉えて、辛そうに顔を歪める神谷が痛々しく、そんな顔をさせている自分が情けなかった。

「……すまない、ヴァイスシュトルム」

 神谷からこぼれた謝罪は聞かなかったことにして、ヴァイスシュトルムは再び目を閉じる。

 謝るべきは自分の方だと思うヴァイスシュトルムは、悔しさから目尻に薄らと涙を滲ませた。その悔し涙は、瞑色(めいいろ)をした空に煌々(こうこう)と浮かぶ満月だけが見つめていた。

 

 

『ヴァイスシュトルム、天皇賞(秋)出走取消』

 URAは本日午後、天皇賞(秋)に出走登録していたヴァイスシュトルム(日本ウマ娘トレーニングセンター学園)がケガのため出走を取り消したと発表した。詳しい症状(しょうじょう)については未発表。天皇賞(秋)は十七人で争われる予定。

(東京レーススポーツ)。




大変遅くなりました(土下座)。
第27話でございます。
28話の方も今月中に上げるので、よろしくお願いします。

実際の競走馬だと、脱臼してしまうとほぼ確実に予後不良となってしまうのですが(一部治療例も)、ウマ娘は幸いにも人型であり言葉も通じるので治療できる。この事実が個人的にはとても嬉しく思います。

さて、それではまた次回お会いしましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯28.予測できないケガ

 タクシーが寮前に着くや否や、ヴァイスシュトルムはさっとタクシーを降りる。引き留める神谷の声も聞かず、栗東寮へと入ったヴァイスシュトルムは、慣れない松葉杖を使っての行動に悪態を()いていた。

「ああもう、動きにくいなぁ……っ」

 靴を下足棚に仕舞うという何気ない動作だが、松葉杖を持つと途端に難しくなる。かといって下手に松葉杖を下に置くこともできず、ヴァイスシュトルムは肩を落とした。

「初日からこんな感じだと、これからどうなるんだろ」

 ため息を吐いてから、再び靴を取ろうとした瞬間、それはヴァイスシュトルムの後ろから伸ばされた手によって持ち上げられていた。

「全く、トレーナーさんの呼びかけを無視するなんて、いけないポニーちゃんだ」

「……フジ」

 ヴァイスシュトルムの後ろから、揶揄うように明るく軽口を叩いたフジキセキの声色には、多分に心配が含まれていた。手に持っていたヴァイスシュトルムの靴を下足棚に仕舞うと、フジキセキはくるりと向き直る。

 眉をハの字にして困ったような笑みを浮かべるフジキセキに、ヴァイスシュトルムはバツが悪そうに顔を背ける。

「……別に、大したことないし。一人でもできたし……」

 ヴァイスシュトルムがぼそぼそと口の中で呟いた言葉をきちんと聞き取ったフジキセキは、何も言わずにヴァイスシュトルムを促すと、彼女の部屋へ付き添い歩く。有無を言わせないフジキセキの雰囲気に、ヴァイスシュトルムは何も言わずに大人しく自室へと向かうしかなかった。

 

 

 部屋に入るとすぐ、ヴァイスシュトルムはフジキセキの手によってテキパキと着替えさせられた。あっという間に楽な部屋着姿にされたヴァイスシュトルムは、座ったベッドの上で頰を膨らませてむくれていた。

「一人でもできたのに……」

「大変な時は、周囲に甘えても良いんだよヴァイス。特に、普段から頑張りすぎている子はね」

 拗ねて不機嫌さが言葉の端々に(にじ)み出ているヴァイスシュトルムに対して、穏やかに返したフジキセキは一つウインクをすると、そっとヴァイスシュトルムの頰を優しく撫でる。その指には一滴、雫が伝っていた。

「……え、あれ」

 フジキセキの指に付いた涙に、慌てて顔を手の甲や平で乱暴に拭うヴァイスシュトルムだが、何度拭っても一度溢れ出した涙は止め()なく溢れ続ける。

 次第に顔を拭う動きは緩慢(かんまん)になり、肩を大きく震わせ始めたヴァイスシュトルムの声には、嗚咽(おえつ)が混じり始めていた。

「せっかくっ、調子戻ってきたのに……っ、なんで、なんで……! なんでこんなタイミングで……っ! っ、うああぁぁ」

「……」

 ヴァイスシュトルムの慟哭(どうこく)に、隣に座り直したフジキセキは何も言わずに、ただ背中を優しく(さす)ることしかできない。彼女の悲しみに対して、同意を示すことは簡単ではあったが、フジキセキはそれをしたくなかった。大切な友人の悲しみを、自分勝手な解釈で理解した気になりたくなかった。

 悲嘆(ひたん)に暮れる友人に、何もできることがないという事実は、フジキセキに無力さを痛感させるのに充分だった。

「……力になれなくてごめんね」

 ヴァイスシュトルムの頭を優しく撫でながら、フジキセキのこぼした言葉は空に消えていく。ヴァイスシュトルムのすすり泣く声だけが響く部屋には、重苦しさだけが降り積もっていった。

 それから何分か()ち、ヴァイスシュトルムの呼吸が一定のリズムを刻み始める。泣き疲れて自分へと寄りかかって寝息を立てるヴァイスシュトルムに、フジキセキは「ゆっくりお休み」と、囁くように声を掛けた。ヴァイスシュトルムを起こさないように気を付けながら、そっとベッドに寝かせたフジキセキは、彼女の頭をもう一度だけ優しく撫で、静かに部屋を後にする。

 フジキセキが部屋を出ると、エアグルーヴとサザンエースが目を伏せがちにして目の前に立っていた。フジキセキと入れ替わりに部屋へと入ろうとするサザンエースを制止して、エアグルーヴが口を開いた。

「……ヴァイスの様子はどうだ?」

「今は泣き疲れて眠っているよ。悪いけどサザン、部屋に入るのはもう少し後にしてあげて欲しいんだ」

「う……わかった」

 大きく心配だと顔に書いてあるサザンエースは、フジキセキの言葉に対して落ち込んだように耳と尻尾を(しお)れさせる。そんな彼女の姿に困ったような笑みを浮かべて、フジキセキは二人を談話室へと誘うのだった。

 普段、消灯時間ギリギリまで騒がしく賑やかにしている栗東寮の談話室は、まるで水を打ったかのように静まり返っていた。誰かが点けて、そのままになっていたテレビの音だけが虚しく響く談話室で、そこにいた誰もが落ち込んだように俯いていた。ヴァイスシュトルムの大ケガが、決して少なくない影響を与えていたのは、明らかだった。

「フジ先輩、ヴァイス先輩は……?」

「すぐに元気になりますよね!?」

 談話室に入ってきたフジキセキへと詰めかけ取り囲み、口々にヴァイスシュトルムの様子を心配するウマ娘たち。彼女たちを落ち着かせるのに、フジキセキとエアグルーヴは二人がかりで苦心することになった。

「ごめんね、私もヴァイスがどれほど酷いケガで、復帰にどれくらいかかるのかはわからないんだ」

 フジキセキの素直な言葉に、詰め寄っていた集団は皆一様に耳を萎れさせて、俯いてしまう。

「……このまま引退なんて」

「っ! そんなわけっ! ……そんなわけ、ない……」

 誰かが発した『引退』と言う単語に、何人かが勢い良くその声のした方向へと振り返る。勢い込んで反論しようとした言葉はしかし、何も言えずに弱々しく(しぼ)んでいった。

「確かに、ヴァイスのケガは大ケガではあるが、まだ走れないと決まったわけじゃない。本人が決めてもいないのに、うだうだ言ってもしょうがないだろう」

 エアグルーヴはそう鋭く言うと、話は終わりだと言わんばかりに元からいたウマ娘たちを解散させる。エアグルーヴの有無を言わせぬ迫力に、彼女たちは落ち込んだような仕草を見せつつも大人しく自室へと引き上げていった。

「……この程度でヴァイスが諦めるものか」

 エアグルーヴが押し殺したように発した言葉は、フジキセキとサザンエースも内心、そうあって欲しいと強く願っていた言葉でもあった。

 

 

『ファイントパーズ、天皇賞(秋)制す! 悲願の秋シニア三冠制覇へ好スタート!』

『アクアスフィア、ジャパンカップ回避! 有馬記念へ』

 購買部できちんと並べられたスポーツ新聞の一面に、神谷は思わず苦い顔をする。ケガさえなければ、ヴァイスシュトルムのローテーションは、昨日開催された天皇賞(秋)からジャパンカップと有馬記念を走る、秋シニア三冠コースが組み込まれていた。中長距離の王道とも言えるこのローテーションは、ヴァイスシュトルムの今後を占う大事な試金石となるはずだった。

「……たらればを言っても仕方ない、か」

 何の前触れもなく、突然、ヴァイスシュトルムを襲った大きなケガは、神谷にとっても決して小さくない衝撃をもたらした。

 はっきりと目に見える兆候がなくとも、大きなケガを負う可能性があるという事実は、神谷の今までの経験や知識には存在しないものだった。

「絶好調からの大ケガか……防げるものなのか、これは」

 そう独り()ちた神谷は、並ぶ紙面を手に取ることなくその場を後にする。背中を丸めて考え込む神谷は、自分が購買部に来た目的を完全に失念してしまっていた。しかし、彼がそのことに気が付いたのは、トレーナー室にある空になったインスタント食品の段ボール箱を見てからだった。

 ため息を一つ吐いてから、神谷はパソコンを設置しているL字型の事務机に着席するとパソコンを立ち上げる。パソコンが起動するのを待つ間、応接スペースにふと目をやった神谷は、そこにあるローテーブルの上に置かれていた茶色の紙袋に気が付いた。

 座ったばかりの自席から勢い良く立ち上がり、早足でローテーブルに近づいた神谷は、その紙袋が駅前の大型書店のものであることと、そのすぐ傍に、丁寧な字で走り書きされたメモが添えられていることに気が付いた。

『取り急ぎ、最新の骨折・脱臼に関する医学書と、競走ウマ娘の運動機能障害リハビリテーションに関する本はご用意させていただきました。神谷トレーナーさんより依頼されたリストの内、残りの書籍、資料につきましては、ご用意でき次第お持ちいたします。駿川』

「……たづなさん、わざわざ走ってくれたのか」

 神谷がヴァイスシュトルムのケガの件と、彼女のリハビリに必要だと思う書籍をリスト化して、たづなに手渡したのは僅か一時間前のことだった。

 普段ならば昼休憩を取っていたはずの時間にも関わらず、神谷が一刻も早く欲しいと思っていた辞書のように分厚い本二冊を、たづなはすぐに用意してくれていた。かなり急いでくれたらしく、たづなが掴んでいたと見て取れる紙袋の部分には、汗で湿った跡と深いシワが刻まれていた。

「……今度お礼しないとなぁ」

 しみじみと呟いた神谷の内には、たづなへの感謝が溢れていた。

 ずしりと重い紙袋を手に取った神谷は、事務机に戻るとすぐに紙袋から本を取り出して読み始める。専門書なだけあって、すぐに内容が理解できるような生易しい代物ではなかったが、神谷は一心不乱に読み続けた。ヴァイスシュトルムがレースに少しでも早く復帰する手助けになるなら、難解な専門書を読むことなど神谷にとっては大した問題にはならなかった。

 結局、神谷は昼休憩も夕食も、何もかもを忘れるほどに専門書を読むことに没頭してしまっていた。夜になってトレーナー室へ顔を覗かせたシュプリュレーゲンが、強く体を揺すってくるまで神谷は本を読むことを止められなかった。

「……」

「トレーナーさん?」

 穏やかな微笑みを浮かべるシュプリュレーゲンだが、浮かべた笑顔とは対照的に耳は絞られていた。細くしなやかなシュプリュレーゲンの指は、組んだ腕を規則正しく叩く。まるで不機嫌さを現すメトロノームかのような正確さでなる微かな音に、神谷は内心冷や汗が止まらなかった。

 日がとっぷり暮れ、すっかり暗くなった窓の外を無言で見続ける神谷に、シュプリュレーゲンは大きくため息を吐いた。

「……ヴァイスの今後とフーのトレーニングについて話したいことがあるから、夕方にカフェテリアでご飯食べながら話をしようと提案してきたのは誰だったかなー?」

「うっ……!」

「カフェテリアで一人寂しく、来ない人を待ち続けるのは辛かったなー?」

「ぐぅっ……!」

「どれだけLANEでメッセージを送っても、電話を掛けても無視されたのも悲しかったなー? 周りの目も、まるでデートをすっぽかされた可哀想な『美少女ウマ娘』を見る目に変わっていったしなー」

「いやいやいや、待ってくれ。流石に電話が鳴っていれば気付くに……あっ」

 それまでシュプリュレーゲンの言葉に、胸を押さえるように大仰なリアクションを取っていた神谷は、彼女の言葉に弾かれたように振り向いた。慌ててスマホの通知がなかったことを確認しようとした神谷は、ロック画面に表示された不在着信とメッセージの件数に愕然とした。

 メッセージと着信を合わせた数とはいえ、軽く十件を超える通知に神谷はじわりじわりとシュプリュレーゲンへ向き直る。そして、(うかが)うように見遣った先では、シュプリュレーゲンがふふんといわんばかりに胸を張っていた。そんな彼女に対して、神谷が取れた行動はたった一つだけだった。

「……この度は大変なご迷惑をお掛けし、心より深く謝罪申し上げま……」

「待って待って待って!! そこまでしなくて良いから!! トレーナーさんにそこまでさせたかった訳じゃないから止めてお願い!!」

 おもむろに崩れ落ちたかと思えば、そのまま日本古来より相手に恭順の意を示す(最近はこの神谷のように、相手への謝罪に使われる方が多い気もするが)最上のスタイル――土下座へと移行した神谷に、今度はシュプリュレーゲンが慌てる番だった。

 床に頭を擦りつけようとまでする神谷を、何とか床から引き剥がしてシュプリュレーゲンは荒く息を吐いた。

「……はぁ。それで、これからどうするの」

「どうしたものかな。絶好調で足に何も問題がなかったにもかかわらず、大ケガをするなんてコト、俺にとっても初めてだからな」

 シュプリュレーゲンの問いかけに答えた神谷は、自分の椅子に座り直すと、お手上げだといわんばかりに両手を上に上げて天井を見つめた。そうして間をたっぷりと置いてから正面を向き直すと、机上のレターケースから一枚の紙を取り出した。

「それは?」

 不思議そうに首を傾げたシュプリュレーゲンにその紙を渡すと、神谷は先ほどまで読み(ふけ)っていた医学書を再び手に取り、ページを開くと同時に口を開いた。

「本当ならドイツに療養帰郷……あー、里帰りの方がわかりやすいか。まあ、そうさせてやりたいところなんだがな、URAの許可が下りなかった。だから、その代わりだ」

 そう言われてシュプリュレーゲンが紙に目を落とすと、寮の外出届と共に、聞いたことのあるURAが運営する療養施設の予約票が二枚、クリップで留めてあった。

「シュプリュレーゲン、ヴァイスシュトルムの療養旅行の同行よろしくな」

「……えっ、私!?」




というわけで28話はいかがだったでしょうか。
重く暗い話になりすぎていないか心配なところもありますが、楽しんで頂けたらなと思います。

全体としては、大体この辺りが折返しになるかなぁといったたところです。……いや、全56話とかにはならないと思いますが。恐らく、きっと、多分、maybe。

完結までお付き合い頂ければ幸いです。
それではまた次回、お会いしましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

♯29.療養

 ――トレーナー見習いの実技みたいなものだと思えばいい。トレーナー資格取得前に経験できる機会なんて、めったにないぞ――。

 困惑するシュプリュレーゲンに対して、神谷は爽やかな笑顔でそう告げてくる。アロハシャツに白のハーフパンツ、頭にはかんかん帽といった、常夏のリゾート地に行くような格好をした神谷はそう言って(さわ)やかに笑って見せた。

 シュプリュレーゲンは困惑したまま何かを言おうとした瞬間、大きな揺れとともに大波が神谷の背後から迫ってくる。神谷はその波に()まれてなお爽やかに笑い続け、すぐにシュプリュレーゲンもその大波に呑み込まれる。そうして暗転した世界にシュプリュレーゲンはキツく眉を寄せた。

「……ううん」

 目を薄らと開けたシュプリュレーゲンは、規則正しく響くガタンゴトンという音と、窓の外を飛ぶように流れていく景色にますます顔を渋くする。寝起きの頭で今の状況を何とか思い出そうとしていると、隣に座っていたヴァイスシュトルムが心配そうに顔をのぞき込んできた。

「レーゲン?」

 気遣うように声を掛けられて、シュプリュレーゲンは自分が今いる場所をはっきりと思い出す。彼女たちを乗せた電車は、定刻通りに田園風景の中を駆け抜けている最中だった。

 まかり間違っても常夏のリゾートではないし、シュプリュレーゲンが神谷からトレーナー見習い云々(うんぬん)と言われたのは、すっかり通い慣れたトレーナー室でのことだった。

(……そもそも、トレーナーさんがふざけた格好であんなこと言うわけないでしょ……。ああ、でも。アロハシャツとかんかん帽は結構似合ってたな……)

 取り留めない思考でぼんやりとするシュプリュレーゲン。そんな彼女に、ヴァイスシュトルムは遠慮なく質問してきた。

「ねぇ、レーゲンって今も電車に弱いの?」

「……そんなことはないと思うけど。別に酔ったりはしてないし……」

「うーん、レーゲンは昔から乗り物に酔うというより、乗ったらすぐに目を(つむ)って、それからすぐに(うな)されてる記憶しかないからなあ。そんなに変わったように思えないんだよね」

 ヴァイスシュトルムの言葉に対して、眉を寄せて顔をしかめてみせるシュプリュレーゲン。しかし、そんな彼女を気にした様子もなく、ヴァイスシュトルムは鞄から(あめ)の入った袋を取り出す。中から個包装になっている飴を取り出すと、袋を破いて中身を()まみ上げる。そしてその指を、眉間に(しわ)を寄せたまま難しい顔をしているシュプリュレーゲンの口に突っ込んだ。

「むぐっ」

 突然口の中に飴を突っ込まれたシュプリュレーゲンは、眉を跳ね上げてヴァイスシュトルムを(にら)み付けようとする。しかし、口の中に広がる酸味と爽やかな香りに、すぐに顔は緩んでいた。

「レモン味の飴で顔がゆるゆるになるのも変わりなし、と」

 昔から変わっていない、親友の緩みきった表情に、ヴァイスシュトルムは懐かしさを覚える。現役のときは凜々(りり)しくしていたあのレーゲンが、実はレモン飴一つでだらしなく緩んだ顔を見せるなんて……。彼女の熱心なファンが知ったら驚くだろうな、などと考えながらヴァイスシュトルムも同じように飴を一つ口に放り込んだ。

 口の中でレモン飴を転がしながら、ゆっくりと後方へ流れていく遠くの山々をずっと眺めるヴァイスシュトルムは、シュプリュレーゲンが目を覚ますまで考え続けていたことに再び思考を巡らせた。

 

 

 福島県いわき市にある、URAが管理、運営する『競走ウマ娘リハビリテーションセンター』に、ようやくたどり着いたヴァイスシュトルムとシュプリュレーゲンは、受付で手続きを済ませるとすぐに部屋へと案内された。

「温泉施設って言うから、旅館みたいなものかと思ってたけど……。普通によくあるホテルとあんまり変わらないんだ」

 部屋に入るなりそう呟いたヴァイスシュトルムに続いて入室したシュプリュレーゲンも、ヴァイスシュトルムと似たような感想を抱いた。温泉も湧いているリハビリテーション施設ということで、内装や部屋は老舗(しにせ)温泉宿のような純和風なものだろう、とシュプリュレーゲンは勝手に思い込んでいた。しかし、布団に慣れている娘もいれば、ベッドに慣れている娘もいる中で、足を悪くしたなら慣れている寝具が選ばれるのは、ある意味当然のことだと思い直した。

「私たちが想像していた温泉旅館は、元気になってからのお楽しみ、ということかな。そのときはトレーナーさんに連れて行って貰わないとね」

 楽しそうに茶化して言うシュプリュレーゲンに、ヴァイスシュトルムはほんの一瞬だけ顔を(くも)らせる。

 ケガをしてからのヴァイスシュトルムは、神谷ときちんと向き合うことを意識的に避けていた。もちろん、神谷の話はちゃんと聞くし、自分のリハビリ方針についても納得している。しかし、どうしても神谷に対する後ろめたさが(ぬぐ)いきれず、話が終わるとそそくさと寮へ帰る日々がここ一週間の常だった。

「はぁ……」

 自らの腑甲斐(ふがい)なさに、ため息を()くヴァイスシュトルム。そんな彼女に対して、シュプリュレーゲンは何も言わなかった。神谷もシュプリュレーゲンも、ヴァイスシュトルムが意図的に避けていることに気が付いてはいた。しかし二人は、ヴァイスシュトルムが自分の中で気持ちに折り合いを付けるまで、そのことには触れずにおこうと決めていた。もちろん、ヴァイスシュトルムが思い詰めすぎたり、助けを求めてきたりした場合はその限りではないが、彼女の性格的にそうはならないだろうと二人は踏んでいた。

荷解(にほど)きしたらすぐ診察だって。それが終わればリハビリと今後の筋トレの方針を決めるってさ」

「あ、うん。……うん? 診察……?」

 シュプリュレーゲンの言葉に返事をしたヴァイスシュトルムは、決して聞き逃せない単語に反応して動きを止める。それに気が付いたシュプリュレーゲンは、きょとんとした顔でヴァイスシュトルムに向き直った。

「どうかした?」

「ええと……ねえレーゲン。私の聞き間違いだと思うんだけど……今、診察って言った?」

「え? うん」

 何を当たり前のことを聞き返しているんだろうと、不思議そうな顔をするシュプリュレーゲンとは対照的に、ヴァイスシュトルムは顔を見る見るうちに引きつらせていく。

「診察して(もら)ってから、リハビリの方針を決めるって。ヴァイスの場合はよりにもよって脱臼(だっきゅう)だからね。少なくとも二箇月はここの専門家さんの元でリハビリと筋力トレーニングの日々になるよ」

「二箇月も!? クリスマスもここで過ごすの!?」

 元気をなくしてだらんと尻尾を下げ、耳もへたれたヴァイスシュトルムの様子に、シュプリュレーゲンは荷物をベッドに出していきながら首を(かし)げる。こんな環境でしっかりとリハビリできるなんて、(うらや)ましいとさえ思っていた彼女は、ヴァイスシュトルムが元気をなくしている理由がよくわからなかった。

「ほら、診察の時間が(せま)ってきてるから行くよ?」

 そう言ってシュプリュレーゲンはヴァイスシュトルムの腕を取る。しかし、取った腕は微動だにしなかった。

「……」

 シュプリュレーゲンが顔を上げると、決して自分と視線を合わせようとしないヴァイスシュトルムの姿がそこにはあった。(かたく)なに視線どころか顔すらも合わせまいとして逃げるヴァイスシュトルムに、シュプリュレーゲンの耳はゆっくりと絞られていく。いつまでも動こうとしないヴァイスシュトルムに対して、シュプリュレーゲンが強硬策を選び取るまで時間はかからなかった。

「!?」

 ひょいっとヴァイスシュトルムを抱き上げたシュプリュレーゲンは、まるで米俵を担ぐかのようにヴァイスシュトルムを片腕で抱え直すと、部屋を後にしてそのまま歩き始める。

「ほら、時間もないんだからきびきび行くよ」

「待ってレーゲン! ちゃんと自分で歩くから、だから降ろして!!」

「ダメ。私の方が歩くの早いし、このまま連れて行くから。……あっ、こら、暴れないの! 落としたら余計なケガするでしょ!!」

「これはケガ人にするコトじゃないでしょ!! ちょ、やめ、降ろして!! レーゲンってば!!」

 じたばたと暴れるヴァイスシュトルムと、それを意に介さずしっかり抱えて歩くシュプリュレーゲン。その二人の珍妙な姿は、リハビリテーション施設にいた人々の耳目を集めるのに十分だった。遠巻きに自分たちを眺める人々が増えていく様子に、ヴァイスシュトルムの顔は真っ赤になっていた。

 ヴァイスシュトルムの情けなく恥ずかしい姿は、リハビリテーション施設の笑い話兼、教訓として長らく語り継がれることとなる。診察を過度に嫌がりすぎると、米俵のように担がれながら叫ぶことになるから気を付けるように、と。

「ちゃんとするからぁ!! お願いだから許してレーゲン!! 恥ずかしいからぁ!!」

 ヴァイスシュトルムの情けない声は、診察室にたどり着くまでの間ずっと施設中に響いていた。

 

 

 朝日杯フューチュリティステークスに向けてトレーニングを行うアイネスフウジンの調子は、絶好調と言っても差し支えなかった。未勝利戦からこっち、調子を落とすことなく絶好調を保っているアイネスフウジンに、神谷は言い知れない不安に(さいな)まれていた。ヴァイスシュトルムのように、急に大ケガをしたら等と常に頭の片隅に不安が付き(まと)う。その(たび)に神谷は、頭を振ってその不安を追い払うということを繰り返していた。

「アイネスフウジン、ラスト一本。思い切り行け!」

「! はいっ!!」

 神谷の声を聞くと、アイネスフウジンはぐんぐんと加速していく。ジュニア級の中でも屈指のスピードを誇るアイネスフウジンは、神谷の期待に応えるように走り、無事にタイムを更新して戻ってきた。

「この調子なら本番も問題ないだろう。朝日杯、取りに行くぞ!」

「うん! 任せて!」

 屈託のない笑顔を見せるアイネスフウジンに、神谷はほんの一瞬だけ不安になる。しかしそれを(おくび)にも出さず、決して目の前で笑う彼女に悟られないように振る舞った。

「ああ、期待してる」

 左手の腕時計を見て、今日はここまでだなと呟いた神谷は、アイネスフウジンを着替えさせるため、先にトレーナー室へ向かうように言う。それを聞いたアイネスフウジンがトレーナー室へと駆けていく後ろ姿を見送って、神谷はポツリと言葉を落とした。

「アイネスフウジンは無事に調整が済んだか」

 アイネスフウジンが何の問題もなくトレーニングを終えたことに、神谷は言いようのない不安を覚えていた。ヴァイスシュトルムのケガ以降、神谷は意識・無意識問わずトレーニングの詰めを甘くしてしまうようになっていた。

 先ほど終えたアイネスフウジンのトレーニングでも、以前の神谷ならば一本ではなく二本走らせていただろう。しかし、神谷はそれをさせずにトレーニングを切り上げさせていた。それは筋力トレーニングでも、スタミナトレーニングでも同様で、最低限必要なトレーニング量かそれ以下で切り上げることが増えていた。

 成長するタイミングで適切な負荷を与えないことによって、後々悪影響をもたらす可能性があることは神谷ももちろん理解している。それでも神谷は、軽めのトレーニングの指示しかできずにいた。

「……このままじゃダメなんだけどな」

 人気(ひとけ)がなくなったコースで一人そう呟いた神谷は、アイネスフウジンに遅れてゆっくりとトレーナー室へと歩き始める。夕陽(ゆうひ)に照らされたその後ろ姿は、今にも消えそうなほど頼りないものだった。

 

 

 トレーナー室に戻った神谷は、アイネスフウジンと軽く言葉を交わし、バイトへと向かう彼女を見送った。静かになったトレーナー室で自席に座った神谷は、机に出しっぱなしにしていたリハビリ書を手に取る。早くも草臥(くたび)れ出している本を惰性(だせい)で開いたものの、今の神谷には一文字も頭に入ってこなかった。目は文字を追いこそすれど、目に入ってきた文字が文字ではなく絵に見えてしまい、内容を欠片も理解できない。同じ文を読み返しては目が滑り、また同じ文を読む。それを何度も繰り返して、ようやく神谷は本を読むことを諦めた。

「……情けないな俺は」

 ぼんやりと空を見ながらため息混じりに呟いた神谷は、そのまま仕事用のノートパソコンの画面に目を向ける。スリープ状態になっていた画面を見てため息を吐いた神谷は、面倒臭そうにパソコンのスリープを解除する。ぱっと画面に表れた、ケガに関するレポートの続きを書こうとするも、どうにも続きを書く気分にならない。そんな自分に更に嫌気が差して、結局神谷は何もせずにノートパソコンをシャットダウンしてしまった。電源が落ちて真っ暗になった画面を前に、神谷は帰り支度(じたく)をするでもなく、ただぼんやりとそれを見つめていた。

「はぁ……」

 一際(ひときわ)大きなため息を吐いて、神谷は自席からのそりと立ち上がる。今日の仕事を切り上げた以上、神谷がここにいる理由もない。それにもかかわらず、神谷は一向に帰ろうとはしなかった。

 それどころか、ソファの背もたれに掛けてあった厚手のブランケットを手に取ると、そのままソファにごろりと寝転んだ。

「アイネスフウジンの朝日杯もあるって言うのに、どうしようもないな……」

 自嘲(じちょう)気味にそうぼやいてすぐ、神谷の意識は暗闇へと落ちていく。

 神谷がまともにトレーナー寮の自室に帰らなくなってから、早くも二週間が()とうとしていた。




新年明けまして……え? もう二月も終わる?
…………大変お待たせいたしましたことを深くお詫び申し上げます。

新年早々風邪を引き、一月中は高熱に魘され、二月もそんな感じでとても投稿できる状態ではなかったので、今になりました。

またぼちぼちと完結に向けて書いていきたいと思いますので、思い出した頃に読みに来て頂けると幸いです。

それではまた次回をお楽しみに。





……投稿通知用にSNSでも開設した方が良い可能性が?


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。