一途な恋の弓矢 (樂川文春)
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第1話 七年目の恋心

 

 ウマ娘。

 

 それは異世界の魂と名を受け継ぎ、走るために生まれてきた少女たちのことである。

 

 人間によく似た見た目をしているのだが、不思議な耳としっぽを持ち、人間の何倍もの身体能力を誇り、美しい容姿を持って生まれてくる。

 

 ウマ娘という種族は女性しか生まれず、また、人よりもその絶対数がはるかに少なく、日本だと毎年7000人程度しか生まれない。

 少子化の進む日本ですら毎年80万人以上は新しい命が誕生しているのだから、割合でいえば1パーセント前後だ。普通の男女共学校であれば、一学年に数人ぐらいの割合でウマ娘がいるといったところだろう。

 

 珍しいけれど、異質というほどでもない。

 

 そこそこの規模の学校であれば、ウマ娘が10人以上はいる。独自に野良レースだって開催できるし、運動会といった恒例行事ではウマ娘だけを選手として集めた競技などもあり、人気をはくしている。

 人々のあいだではウマ娘というのはそれなりに身近な存在なのだった。

 

 さて。

 地元の野良レースでは他校のウマ娘にも競り負けたことがないようなウマ娘――そんな上澄みの少女たちだけを集めて、その走る才能に磨きをかけるための教育を施す養成機関が存在する。

 

 ――日本ウマ娘トレーニングセンター学園。

 

 ウマ娘の少女たちを受け入れ、学ばせ、鍛え、育て、トゥインクルシリーズと呼ばれる賞レースへと送り出すことを目的とする全寮制の中高一貫校だ。

 

 通称トレセン学園。

 

 ウマ娘養成機関というのは日本各地に点在しているのだが、ここトレセン学園はそのなかでも別格の存在だ。

 

 日本最大級の設備規模を誇っており、受け入れている生徒の数も国内随一の約2000人。一学年に350人程度と計算したとしても、毎年生まれてくるウマ娘の上位5パーセント前後しか入学することができない超エリート校だ――なお、高校卒業後も条件次第ではトレセン学園にそのまま在籍可能なので、実質的な割合でいうと毎年の新入生は300人ぐらいだろうか――。

 

 きわめて広大な敷地の中には巨大な校舎をはじめ、レーストラックやトレーニングジム、大きな飛び込み台も備えた全天候型のプール、ダンススタジオ、野外ステージなどが完備されている。ほかにも大食いが多いウマ娘たちの胃袋を満たせるほどの供給力を誇る食堂兼カフェテリア、品揃え豊富な購買部などが設置されている。トレセン学園で働く関係者の数は出入りする業者も含めれば数千と言われており、まさに日本のウマ娘界における一大拠点だ。

 

 トレセン学園では少女たちが日々勉学やトレーニングに励む。そして、レースでの勝利とその勝者のみが立つことができるウイニングライブでのセンターポジションを目指して切磋琢磨しているのである。

 

 

 

 

 

 早朝というには遅く、昼前というにはいささかか早い。そんな冬の朝のことだった。

 

 トレセン学園に所属する生徒であるナイスネイチャは朝のトレーニングを終えた帰りに、占い小屋を営むウマ娘、マチカネフクキタルとその助手メイショウドトウのもとを訪れていた。

 

 彼女らの占い小屋は校門の横に設置されていた。トタン板の屋根とベニヤ板の壁、木のつっかえ棒と荒紐、のれん代わりのカーテンといった素材で構成されている。素人の突貫工事くささが漂うちっぽけな掘っ立て小屋だ。

 

 そんな占い小屋の内部はうす暗く、簡素なパイプ椅子と折り畳み机が配置されている。その卓上では赤いミニ座布団に置かれた紫紺色の水晶球が得体の知れない光を放っていた。

 

「むむむむむ……」

 

 マチカネフクキタルは水晶球を睨み付けながら、両手をかざしている。

 

 マチカネフクキタルは栗毛の髪を外ハネさせたショートヘアに、レモンのような色合いの瞳を持つ少女である。

 右のウマ耳にだけ青と白のツートンカラーの布地に赤いラインが入ったイヤーカフをつけており、そのすぐ下に黄色い花びらを模した髪飾りをつけている。左のウマ耳はむき出しのままであるが、その根っこの近くには白い紙垂(鳥居などにぶらさがっている捻られた紙)を垂らした達磨風デザインの小さな髪飾りをつけていた。

 

 彼女の趣味は縁起物グッズ集めであり、その達磨の髪飾りもまたお気に入りの開運アクセサリーのひとつ。

 

 そんなマチカネフクキタルの特技は占い。よく当たると学園中のウマ娘から評判だった。

 

 マチカネフクキタルの背後にはメイショウドトウが立っていた。

 ミディアムの長さの鹿毛色の髪に桃色のヘアバンドをつけている。大流星と呼ばれる白いメッシュが前髪の中心に流れていた。右のウマ耳には群青色の細いリボンを結んでいた。ウマ耳が両方とも所在なさげにしょんぼりお辞儀をしている。紫色の瞳を常にうるうるとチワワのように潤わせる垂れ目がちな少女だった。

 

 頼まれると断りきれない性格の彼女はいつもここでマチカネフクキタルの助手をしているのだ。

 とはいえ、メイショウドトウとしてもそんなマチカネフクキタルとはもう何年もの付き合いになる。とても仲がいい。内心ひそかにソウルメイトと思ってすらいる。そんなわけなので嫌々手伝いをやっているというわけでもないようだ。

 

 二人は学園の冬用の制服姿である。濃淡の紫色のセーラー服にプリーツスカート。足元は黒色のニーハイソックスに茶色のローファー靴を履いていた。

 

 一方、対面に座るのはこちらはウマ娘のナイスネイチャ。トレセン学園指定のトレーニングウェアである赤いジャージ姿だ。つい先ほどまで走り込みをしていたので靴は蹄鉄つきのスニーカーである。

 

 やや赤みの強い鹿毛色の髪を両サイドでくくりツインテールにしていて、頭頂部でぴこぴこ動くウマ耳を赤色と緑色のクリスマスカラーのイヤーカフでおおっている。右のウマ耳の下に小ぶりな緑色のリボンをつけていた。

 

 ナイスネイチャはその灰色の瞳でじっと水晶をにらみ付けている。目の前ではマチカネフクキタルはむむむ、と唸り続けている。時おり「かむかむ、ほーれんそー、ほーれんそー」と謎の呪文が口から飛び出す。

 

 かれこれ五分はその様子が続いていたのだが――。

 

 いい加減焦れてきたナイスネイチャは、

「それで……フクキタル。どうなの……アタシの……」

 そこで言いよどむ。

 

 もぞもぞと所在無さげに首を振った。ぱたぱたと手のひらで自分を仰ぎ、視線を宙にさ迷わせる。

「その……」

 頬が赤く染まり、うつむく。観念したように声を落とし、ぽつりと訊ねた。

 

「……恋愛運」

 

 呪文がぴたり、と止んだ。

 一瞬の静寂。

 マチカネフクキタルが顔をあげた。目の奥に決意したような光が灯っている。

「ナイスネイチャさん……」

 

 ごくり、とナイスネイチャは喉を鳴らした。

 

「貴女の未来は……」

 

 どきどきどきどき、と胸の奥が早鐘を打つ。ナイスネイチャは卓上に置いた手をぎゅっと握ると身を乗り出した。

 

 くわっ、と目を見開くマチカネフクキタル。

 

「……わかりませんっ!」

 

「んなああっ!」

 ずこーっ、と机に突っ伏すナイスネイチャ。

 

「なんじゃそりゃーー!」

 ナイスネイチャが悲鳴をあげた。アタシのドキドキを返せー、って叫んだ。

 

「いやー! それがですね! シラオキ様にナイスネイチャさんの恋愛運、つまり、未来を訊いてもですね! 教えてくれないんですよ! 弱りましたねー!」

 

 シラオキ様とはマチカネフクキタルが信仰するウマ娘の女神様のことだ。未来予知の能力を持っていて、言い伝えではウマ娘を導くとか助けるとかいわれている。

 

 ほかにもたとえば、時間を越える力を授ける――。

 などといった眉唾物の逸話すら存在する。

 

 そんなシラオキ様の力を借りた占いをしてもらってまで知りたいことがナイスネイチャにはあった。

 恋愛運を知りたいのだ。とはいえ出会いを探しているわけではない。すでに好きな人はいる。すなわち、意中の人との恋愛は成就するのか否かということだ。シンプルな理由である。

 その算段はあえなくご破算となったわけだが――。

 

「もー。シラオキ様そりゃないって……」

 

 脱力してうなだれて机に突っ伏したナイスネイチャ。ウマ耳がへにょりと垂れていた。パイプ椅子の隙間から見えるしっぽの毛先も弱々しく地面を掃いていた。ウマ娘の感情はウマ耳としっぽに現れるのだ。

 

 マチカネフクキタルの後ろに控えていたメイショウドトウが首をかしげる。

「はうう……不思議です~。どうしてなんですか? シラオキ様がお告げをくれないなんて。今までこんなことなかったですよねー?」

 と、肩を落とす。

「ネイチャちゃんごめんねー」

 とも言う。

 ナイスネイチャは慌てて上体をあげた。

 

「あ、ドトウ気にしないで。あはは……あー、えーと。ほら、さ。シラオキ様的にはもしかしたら占いなんかに頼らないで自力でがんばれってことなのかも……」

 

 それを聞いたマチカネフクキタルが頬をふくらませる。

「占い、なんか、とはなんですか、なんかとは!」

 

 ナイスネイチャは慌てて手を振ったあと、

「あ。ごめん! そーいうつもりじゃなかったんだ。占ってもらっといてそんな言い方はないよね。本当にごめんね、フクキタル」

 今度は拝むように手を合わせて謝罪する。

 

「むう。まあいいでしょう。シラオキ様は慈悲深いウマ娘の神様ですから。こんなことで怒ったりはしません……それに私が何も占えなかったのは事実です」

 

 マチカネフクキタルは首を振る。だが、次の瞬間には両手を前に突きだし親指を上に向けて立てると、

「けど……しかーし! これは! ひとえに! 私の祈りの力が足りなかったのやもしれません! もう一度! 気合いを入れて! 祈れば! しからば! ずんば!」

 

 水晶球に手をかざす。

 

「はー! ふんにゃらはっぴー! ほんにゃらはっぴー! さんきゅーシラオキ! さあナイスネイチャさんの未来を教えてください! シラオキ様!」

 

 シラオキ様のお返事は――来ない。

 マチカネフクキタルはかくっ、とうなだれる。

「……出ません。おっかしいですねぇ」

 

 ナイスネイチャは気づかうように笑った。

「いいのいいの。うん、やっぱり自分の力で運命を変えてしまえってことなのかも。ありがとうフクキタル、ドトウ。アタシいくね。あ、お代は千円だっけ……?」

 

 ポケットから財布を取りだそうとするナイスネイチャにマチカネフクキタルは首を振った。ひらいた片手をびしっと通行止めのように突き出した。

 

「お代は結構ですっ!」

「え、でも……」

「これでもこのマチカネフクキタル、占い師のはしくれ! 何も占えていないのにお代をいただくなど、できようはずがありませんっ!」

「や、時間を割いてもらっといて、そんなの悪いよ……」

 

 渋るナイスネイチャにメイショウドトウがおずおずとした上目遣いで意見を差し込む。

 

「あの、ネイチャちゃん……フクキタルさんにも譲れないものがあるの。だから……」

「そうです! そうなのです! ですから本当にお代は結構です! お構い無く! ナイスネイチャさん! いえ! むしろ!」

 

 そこでマチカネフクキタルは妙案を思い付いたらしく、人差し指を電球でも灯すかのように天に向けた。

 

「お詫びといってはなんですが、この開運グッズをお渡ししましょう。……これですっ!」

 

 マチカネフクキタルはそう言うと、彼女がにゃーさんと呼んでいる招き猫の形をしたバッグから何かを取り出した。Uの字の形をした金属製の物体。

 開運グッズなのだといわれれば、なるほど、うっすらと神秘的な光を放っているような気がしないでもない――いや、やっぱり気のせいか。ナイスネイチャは訊いた。

 

「なにそれ。蹄鉄?」

「はい! ナイスネイチャさんは蹄鉄がラッキーアイテムだということをご存知ですか?」

「知らない。そうなの?」

 

 ナイスネイチャが首をかしげる。

 マチカネフクキタルはうんちくを語りだした。

 

「そうなんです! たとえばですね! ヨーロッパでは蹄鉄を贈られた夫婦は幸せな結婚生活を送れる、という言い伝えがあります!」

「け、結婚!」

「恋愛運が欲しいのならもってこいこい福来たれなアイテムだとは思いませんか!」

「た、たしかにそー……かも?」

「というわけでこれはお詫びです! どうぞ持っていってください! ドアに飾ると魔よけにもなるそうですから寮室の扉にでもつけるといいかもしれませんね!」

 

 そう言って胸を張ったマチカネフクキタル。右手に持った蹄鉄をナイスネイチャの前に差し出す。ナイスネイチャの視線が蹄鉄に吸い寄せられる。

 

「……いいの?」

「ええ! さあどーぞ!」

「じゃあ、もらっていこうかな……」

 

 蹄鉄を受け取ったナイスネイチャ。指先に持った蹄鉄をまじまじと見つめた。無意識だろう。ぽそりと呟く。

 

「結婚……夫婦、か……ふふっ」

 口もとをゆるめる。やや間があって、顔を上げた。

 

「ん、ありがと。今度こそ、アタシいくから」

 

 ナイスネイチャは蹄鉄をポケットにしまい込むと、占い小屋のカーテンをくぐり去っていった。マチカネフクキタルとメイショウドトウは手を振って見送る。室内に二人の沈黙が流れる。

 やがて、ぽつりとメイショウドトウが呟いた。

 

「あの~……フクキタルさん訊いてもいいでしょうか~?」

「はい? なんでしょうか?」

 

 マチカネフクキタルが振り返り、メイショウドトウを見上げた。

「……蹄鉄ってウマ娘だったら誰でも持っていますよね~? 今さらご利益とかないんじゃ……?」

 

 そう言って唇に指先を当てて、眉をひそめるメイショウドトウ。そんな彼女にたいして、マチカネフクキタルは自信満々な顔つきで指を振る。

 

「ちっちっち。甘いですよ。メイショウドトウさん! あれはただの蹄鉄ではありません。なんと! シラオキ様が実際に使っていたという曰く付きの使用済み蹄鉄なんですっ!」

「……ふぁ?」

 

 口を三角にしてポカーンとするメイショウドトウ。

 なんだか急に胡散くさいワードが飛び出してきた。有名人(神)使用済みグッズなんて、それ典型的な……。

 マチカネフクキタルは御利益がありそうな開運グッズ集めが趣味である。福がありそうなグッズを片っ端から買い続けた結果、彼女の寮室はがらくたで溢れかえっている。でっかい金のシャチホコとか意味不明なものも数多い。

 

「あの~……そんなもの、どこで手に入れたんですか~……?」

「Umazonで入手しました!」

「うまぞん……」

 

 あ、だめだこれ。メイショウドトウはそう思った。

 

「あのコダマという出品者には感謝しないといけませんね! 何十枚もまとめ売りしているんですから!」

「……」

 

 メイショウドトウは無言のまま、傍らにおいてあったにゃーさんバッグのファスナーを開ける。

 

 蹄鉄がいっぱい入っていた。

 ほろりと涙が出そうになった。

 そっと閉じた。

 

「救いはないんですね……」

「ん? なにか言いましたか?」

「いえ、なにも……」

 

 二人のあいだに海の底のような静けさが訪れる。やがて、マチカネフクキタルがあご先に指を当てて首をひねった。

 

「それにしてもシラオキ様が何も言わないだなんて……」

 

 メイショウドトウも横で首をかしげている。

「不思議ですよね~?」

 

 マチカネフクキタルがぽそりとぼやく。

「そういえば……死期が近いウマ娘の未来は占えないって聞いたことがあるような……」

 

「え~! 救いはないんですか~?」

「だ、大丈夫です! そ、そうだ! メイショウドトウさんを占ってみましょう! さっきはきっと私の調子が悪くて占えなかっただけです! ふんにゃらー、ほんにゃらー、ハイ! 出ました! 大凶!」

 

「ひどい~」

 

 

 

 

 

 同時刻。

 

 暖房を入れた室内は暖かく、陽射しが結露した窓ガラスを通して室内に入り込んでいる。床に置かれた加湿器がうっすらと蒸気を放つ。つけっぱなしのテレビの音。

 

『トゥインクルシリーズの情報をお届けするウマ娘総合情報番組UMAナミ・ズQN! はじまりましたー!』

 

 しかし、その画面を見つめるものはいない。

 

 テレビの前には足の短いガラステーブルと革製のソファーが置いてある。部屋の中央には長方形のテーブルとパイプ椅子が二つ。

 壁際には移動用のキャスターのついた大きなホワイトボードが置かれていた。

 そのホワイトボードには中山レース場の見取り図を印刷した紙がマグネットで張りつけられており、その紙の横のホワイトボード部分にはマジックでこう走り書きされている。

 

 

 目標レース 有馬記念(12月25日)

 

 本日 12月11日

 ナイスネイチャのトレーニングプラン

 

 午前 ダートコース 5周

 課題 ギアの切り替え

 

 午後 ジムにて筋トレ

 課題 瞬発力の強化

 

 追加事項 本日 午前10時45分からUMAテレビ主宰による模擬レース有り

 

 右回り芝2500メートル

 天候 晴れ バ場状態 良

 

 ナイスネイチャはトレーニング専念のため出走辞退

 だが、本番の参考のために観戦を予定

 

 

 と、こんな情報が書かれていた。

 

 

 ――みんなー! 声出していこー! おー!

 

 ――ふぁいおー、ふぁいおー、ふぁいおー……。

 

 

 外からは練習中のウマ娘たちの声が聞こえてくる。蹄鉄を着けたシューズが地面を叩きつけるどどど、という音の振動が窓の下を通りすぎていった。

 

 空に千切れ雲が流れる。陽射しが窓辺の花瓶に光を落とす。そこにさされていたのは真っ赤なポインセチアだった。開花するのは十一月から十二月。市場にもっとも出回る時期はクリスマスの頃であり、その特徴からクリスマスフラワーなどと呼ばれることもある花だ。

 

 ここはトレーナー室。

 トレセン学園に所属する各トレーナーにはそれぞれ、仕事部屋も兼ねた担当ウマ娘が活動するチームの部室が与えられる。それがトレーナー室だ。

 

 ちなみに外観はただの安っぽいプレハブ小屋だ。

 

 トレセン学園の敷地内のとあるエリアにはこんなプレハブ風の四角い小屋のデザインのトレーナー室が約十練ほど並んでいる。

 なお、ここだけではなく、トレセン学園の東西南北の各エリアにこのような集落じみたトレーナー室群が存在していた。

 

 もちろん校舎内にもトレーナー室は何十室もある。

 ――だが、トレセン学園に入学する生徒数というのは年々増えており、今やその総数は二千人近くにものぼる。

 

 そのせいでトレーナー室も校舎内の部屋だけでは物理的に足りなくなり、このように敷地内に雨後の筍のごとく乱立するようになったというわけだ。

 

 さて、このトレーナー室。

 正式には33号トレーナー室という名称だが、この部屋のたった二人の住人には単にトレーナー室とだけ呼ばれている。以前は校舎内のトレーナー室を使っていたのだが、二人だけではもて余す広さだったので三年ほど前にこちらへ移ってきたという経緯がある。

 

 トレーナー室の住人の一人は中肉中背の男だ。

 彼は学園に所属するトレーナーだった。

 

 男は――トレーナーは作業机に置かれたノートパソコンを使って仕事をしていた。

 担当ウマ娘のトレーニングプランの作成をはじめ、各種書類や稟議書の申請、グッズ販売やライブ運営に関する業務などやるべきことは多岐に渡る。ましてや、年末というのはだいたいイベント事が多く、やらなければならないことは山積みだった。

 さらにそこに担当ウマ娘との交流やメンタルケアなども入ってくる。当然それも疎かには出来ない。

 

 トレーナー業のことをよく知らない一般市民のあいだではウマ娘との交流など必要ないのでは? という意見も存在するのだが、じつはそれは違う。

 

 ウマ娘というのは実に不思議な存在であり、トレーナーとの信頼関係を深めることによって、レースで実力以上の力を発揮する。例をあげるならば、完全にスタミナが切れていたはずなのに驚異的な粘りをみせただとか、普段以上の切れ味を見せてライバルを差しきってみせただとか、そんな現象がちらほら発生しているのだ。

 

 心の強さや精神的な成長がそのような力をウマ娘に授けているのではないか、と識者のあいだではまことしやかにささやかれている。そして、その力を引き出すことが良いトレーナーたる条件ではないか、とも。

 

 とはいえ、そういった事情があろうとなかろうと、ウマ娘に真摯に向き合うトレーナーは数多い。本気で交流した結果、担当ウマ娘とトレーナーのあいだに恋愛感情が生まれる例はないこともなく、そのまま結婚までゴールインしてしまうだなんて話もあるとか――。

 

 室内にいるのは現在ただひとり。つけっぱなしのテレビからは音声が流れている。誰も観ているものはいないが、トレーナーとしてはラジオ代わりにつけているのだった。

 

『さあ、いよいよ二週間後に迫ってまいりました。暮れの大一番グランプリ有馬記念!』

 

『今日の特集では有馬記念に出走する有力ウマ娘たちからインタビュー映像を頂いてまいりました! それに加えて――』

 

『なんと! UMAテレビの特別企画として有馬記念と同じ距離である芝2500メートルの模擬レースを開催します!』

 

『本番の有馬記念に出てくる有力なウマ娘も何人か出走しますよ! 模擬レースのほうは生放送ですから、一足早く、まるでグランプリを観戦するような興奮が味わえそうですね! 実況はご存じお馴染みの赤坂アナウンサーです! チャンネルはこのまま!』

 

『……ではいったんここでコマーシャルでーす!』

 

『プリン! プリン! プリンにしてやるの! 美味しいにんじんプリンはみやこ製菓! 新商品プリンニシテヤルノ! 全国のスーパー、コンビニ、UMAストアで好評発売中!』

 

 

 

 キーボードを叩く音が止まる。

 マウスのボタンをクリック。データを送り込まれた複合型の印刷機がプリントを次々と吐き出し始めた。トレーナーは凝り固まった肩をほぐすように背伸びする。ようやく仕事に一段落がついた。

 

 ちらりと壁にかけられた時計を見る。

 そろそろナイスネイチャはトレーニングを終えて帰ってくる頃だろうか? などと考えているとトレーナー室の扉が開き、一人の少女が室内に入ってきた。

 

「ほーい、トレーナーさん。午前のトレーニング終わったよー」

 

 赤みがかった鹿毛の髪をツインテールにして両肩に垂らしているその少女はナイスネイチャ。トレーナーの担当ウマ娘だ。午前のトレーニングを終えたあと着替えたのだろう。トレセン学園の冬の制服姿だった。

 

「おかえり、ネイチャ。ごめんな、トレーニング見てやれなくて」

「ん、いいっていいって。忙しいんでしょ、もうすぐクリスマスだもんね」

 

 彼女はウマ娘としてはベテランにあたるシニアクラスの階級に所属しており、今年でトゥインクルシリーズに参戦してから七年目になる。

 だいたいのウマ娘が競走能力のピークを発揮できる期間の関係もあって、四~五年で引退することが多いから、かなり息長く走っているほうだ。

 

 もっとも、そのナイスネイチャも最近は調子を落としていて連敗が続いているのだが……。

 

 トレーナーはナイスネイチャに声をかける。

 

「冷蔵庫にスポーツドリンク入ってるぞ」

「ほんと? 喉渇いてたんだよねー」

 

 ナイスネイチャは冷蔵庫を開けた。澄み渡る景色の先へ、というコマーシャルのキャッチコピーで有名なスポーツドリンクを取り出す。

 休憩にはちょうど良い頃合いだろうと判断したトレーナーはソファーに向かった。いつものように右端に寄って、隣に人が座れるスペースを作る。ネイチャがそこにやってきて、ごく自然にその空いた左のすきまに腰を降ろす。ふたりとも無意識の行動である。距離感が近い。ナイスネイチャはシャワーを浴びたばかりなのか、ふわりと花のようなシャンプーの匂いがした。

 

「いやー、若いもんに混じってトレーニングするのは大変だわー。ネイチャさんもうクタクタですわー」

「なにいっているんだ。ネイチャだってまだ若いだろうに」

「いやいや、もうイイトシですって。商店街の皆さまからはネイちゃんもそろそろ結婚しなよ、なーんて言われるぐらいよ。お節介な親戚かっていうの? あははぁ……」

 

 結婚、か。

 トレーナーはその言葉を胸中で反芻しながら、壁に吊るされた外套に意識を向けた。

 

「まあ、あの年代の人たちは早婚も多いからなあ。それに結婚をして一人前みたいな価値観だったりするし」

 

 あの外套のポケットには指輪の入った小箱が収まっている。ナイスネイチャに渡したいと思っていた。いわゆる、そういう、左手の薬指的な――そんな意味の指輪だった。ちゃんとN.Nとも彫ってもらった。

 

 ナイスネイチャから雑談のついでといったふりをして指のサイズをさりげなく調べるのには苦労したものだ。

 

 買った指輪は飾り気の少ないシンプルな指輪だった。決して安物ではないが、ちょっと地味ではある。だが、一目で気に入って買ってしまった。ナイスネイチャは派手なものよりもこういったデザインを好む気がしたからだ。

 

 いまだに渡せていないが――というか、まだ告白すらしていない。恋人未満、というやつだった。なかなか関係を変える勇気を持てないというか。なのに先に指輪を買うというのはあまりにも先走りすぎだと自分でも呆れる。

 

 トレセン学園において、トレーナーと担当ウマ娘が恋人関係になることは必ずしも禁止されてはいない。ただ、推奨もされてはいない。学園側としては問題を起こさず節度を持ったお付き合いが出来るなら黙認するという程度だ。

 だから、障害はない。障害はないはずだ。

 トレーナーは考える。たぶん、向こうも同じ気持ち――好き、という気持ちではあるんだろう。あると願いたい。ならば告白を――だが、言い出せない。

 もし勘違いだとしたら? なのに指輪だけは買ってしまうだなんて恋人ですらないのになに舞い上がっているんだ? 順序があるだろう? とは自分でも思うのだが。

 

 ちらりと横目でナイスネイチャを見つめる。

 

 容姿はそりゃウマ娘だから整っている。でも、惹かれたのはそこではない。

 その心、在り方だった。

 口では自分なんかと否定しておきながら、いつだって勝ちたいと一生懸命に努力するところ。応援してくれる人たちの期待に応えてあげたい、喜ばせてあげたいと願う愛情の深さ。人の幸せを一緒になって喜んであげることのできる素直さ。

 

 とても魅力的な女性だった。いつの間にか夢中になってしまうぐらいに。

 

 ナイスネイチャと二人三脚で何年も駆け抜けてきた。まだ自分が新人だった頃から苦楽を共にしてきた。

 トレーナーはナイスネイチャ以外のウマ娘を担当したことはない。そんな彼に対して、チームを作らないか、という声は学園側から何度もかけられている。

 

 最近は負け続きだが、ナイスネイチャはかつてURAファイナルズの中距離部門で優勝したことがあった。

 彼女をそこまで導いた手腕をほかの娘たちのためにもふるう気はないか? そう問われるたびになんだかんだと理由をつけて断ってきた。自分はまだ未熟者だから担当ウマ娘ひとりのトレーニングを考えるのが精一杯だと。嘘だった。本当はナイスネイチャの隣で、ずっと――。

 

 学園理事長の秋川やよいはそんなトレーナーの気持ちを汲んで、できる限りの便宜を図ってくれた。

 

 だが、秋川理事長が庇えば庇うほど、ほかのトレーナーやウマ娘からは不満の声が上がる。

 

 制度上、ウマ娘は担当トレーナーがつかないとデビューが出来ない仕組みになっている。だというのに、トレーナーの数は限られている。担当がつかず、デビューすらままならずにひっそりと消えてゆくウマ娘もいるぐらいだ。つまるところ、学園は慢性的なトレーナー不足なのだ。

 

 そんな貴重なトレーナーをひとりのウマ娘が独占している――トレーナーが新人の頃なら、まだいい。経験の浅く未熟なトレーナーならば一対一でノウハウを積んで――というのはよくある話だ。だが、彼はもうベテラン。しかも、担当ウマ娘を頂点にまで育て上げた辣腕の持ち主。

 

 その横にいるウマ娘は連敗続きで落ち目の元王者ときた。一人占め、往生際が悪い、さっさと引退したら? かような妬みと僻みがナイスネイチャに向けられていた。

 

 それでももう一度頂点に立つべくトレーナーとナイスネイチャは努力し続けていたのだが――。

 

 ある日、秋川理事長はトレーナーを呼び出すと申し訳なさそうにこう告げたのだ。

 

 ――通達ッ! ナイスネイチャと二人でいられるのは今年の有馬記念のあいだまでとする。君、来年は必ずチームを組んでくれ。これは理事長命令だ。すまない……もう私では他のものたちの不満を抑えられそうにないのだ、と。

 

 頷くしかなかった。

 だから今年はナイスネイチャと二人で挑む最後の有馬記念なのだった。

 

『さて、それでは有馬記念に出走予定の有力な各ウマ娘とその担当トレーナーにインタビューをしてきましたその模様をVTRで放送いたします』

 

 テレビでは番組の放送が続いている。

 

 画面が切り替わり、そこにナイスネイチャとトレーナーの姿が映った。

 これは確か、四日ほど前に来た取材だっただろうか。リポーターは乙名史悦子。本業は月間トゥインクルという雑誌の記者だったはずだが、最近ではこんな風にテレビのリポーターもこなすようになっていた。

 なんというか、その独特のユニークなキャラがテレビ向けだということでどこかの敏腕プロデューサーに電撃起用されて以降、人気に火がついて今や押しも押されぬ売れっ子記者兼リポーターであった。

 

「あ、これこの前のやつだよね。って、うわ。アタシ寝癖ついてんじゃん。はっずー……」

 

 ナイスネイチャは頬をかいている。照れているときに無意識にする仕草だった。

 

「早朝の取材だったか? あの日はスケジュールが立て込んでたからなあ。ばたばたしてたから仕方ないよ」

 

『有馬記念連続出走記録がかかります、ナイスネイチャ選手とその担当トレーナーさんです。ナイスネイチャさん、六回連続出走というのは偉業ですよね! ご存じですか? 毎回ファン投票がすごい数になっていますよ? どうですか? 有馬記念に向けて! 調子のほどは?』

 

『えーっと、まあまあ……かな? うん、悪くは……ないデス』

 

『ありがとうございます! まさに天を突くほどの登り龍! だい! だい! 大! 絶好調、とのことです!』

 

『や、そんなこと一言も言ってないし……」

 

『続いて、トレーナーさんにもお話を伺ってみましょう。トレーナーさん? どうでしょう、やはり連続出走記録というのは担当トレーナーとしても嬉しいものなんでしょうか?』

 

『はい、有馬記念っていうのは暮れの特別なレースですから、ネイチャがそこに出られることは素晴らしいことです。だって、それだけファンの皆さまに応援して頂けているということですよね? それって、本当に凄いことですよ。ネイチャのトレーナーをやってきて良かった、嬉しい。俺はそう思います』

 

『とのことですが……愛されていますね、ナイスネイチャさん?』

 

『ふぇっ? あ、いや、そのー、あはは。参ったな。ありがとう……ございます?』

 

『それでは全国のファンに向けてナイスネイチャさんとその担当トレーナーさんにそれぞれ一言ずつメッセージを頂きたいと思います』

 

『ナイスネイチャさんファンの皆さまに一言』

 

『えーっと、まあ、勝ちたいって気持ちはあるんで応援……してくれたら嬉しいかなー、って思います。ハイ……』

 

『担当トレーナーさんからも全国のナイスネイチャさんのファンに向けて一言お願いします』

 

『レースでもライブでもうちのネイチャが一番になりますっ! なんせ、みんなの期待を裏切らない最高のキラキラウマ娘ですから!』

 

『ちょっ! トレーナーさんっ!?』

 

『す、素晴らしい! 担当ウマ娘のためならたとえ雨のなか風のなか! 勝利の暁には全財産を使い果たす覚悟! 都心の高級寿司のお店を貸し切り盛大に祝う用意がおありだなんてー! 以上、ナイスネイチャさんとそのトレーナーさんのインタビューでした!』

 

 相変わらず乙名史記者の飛躍しまくりの妄想癖は変わっていないようだ。テレビは次の場面に映る。

 

『さて、次に紹介するのは有馬記念の大本命と目されている――』

 

「勝利の暁に、か……」

 ナイスネイチャがぼやいた。トレーナーは振り向いた。目をそらされた。うつむき加減。ウマ耳が垂れている。

 やがて、ささやくような声音で言った。

「ねえ、トレーナーさん……」

 少しだけ、口にするべき言葉を探すような気配。

「……トレーナーさんは嬉しいの? その、有馬記念に連続出走してくれると。いや、連覇とかならわかるよ。でも、ただの連続出走で新記録ってさ」

「……嬉しいよ」

「そうなんだ……」

 

 テレビ番組は次の選手の紹介に入っている。

 そこには小柄な黒髪の――正確にいうならば黒みがかった栃栗毛(とちくりげ)の髪の――少女が映っていた。長い髪をツインテールにしている。髪の量が多いので大きな革製の髪留めでボリュームのあるテールを作っていた。右のウマ耳に大きな赤いリボンを結んでいる。

 

 彼女はマーベラスサンデー。ナイスネイチャのルームメイトであり、親友でもある少女だ。そして、いま日本でもっとも注目を集める現役最強ウマ娘でもある。

 

『アタシ、すっごく調子がマーベラースなの! きっと有馬記念でも最高にマーベラスな走りを見せるから応援してねー! マーベラース!』

 

 マーベラスサンデーは笑顔でカメラを見つめながら、両手を握りしめて、身体をゆらゆら、しっぽもゆらゆら。元気いっぱいにコメントを残していた。

 

『レースにかける意気込みと自信がコンセントレーション! じつによく伝わってきますね! 続いては――』

 

「頑張ろうな、ネイチャ」

「……うん」

 

 そのあと、言葉は続かず、二人は黙ってテレビを見続けた。マヤノトップガンやヒシアマゾンといった有力なウマ娘が次々と紹介されてゆく。それらも一通り終わり、映像が切り替わる。そこにはトレセン学園のレーストラックが映っていた。テロップが表示された。

 

 UMAテレビ特別企画! 模擬レース! 勝利はどのウマ娘の手に!? 

 

『間も無く模擬レースが始まります! トレセン学園の特設レースコースと中継が――』

 

 今日は模擬レースが組まれていた。

 

 このレースには有馬記念に参戦予定のマーベラスサンデー、マヤノトップガン、ヒシアマゾンという現役トップクラスを含む有力なウマ娘が数人、それから学園内の有志から募ったウマ娘たちが参加する。

 

 聞くところによるとこの模擬レース、どうもテレビ局側からの要請で組まれたものらしい。特別企画にするのだとかなんとか。有馬記念に出走予定の現役トップクラスウマ娘を含む模擬レースの生放送。たしかに視聴率は青天井を見込めるだろうな、とトレーナーは思った。

 

 もちろん有馬記念が控えている大切なこの時期に模擬レースをするのはどうかという意見もあった。

 だが、テレビ局は各種レースのスポンサーでもあり、メディア関係者との付き合いというものもある。

 つまり、ごり押しが通った、ということだ。

 

 噂によると秋川理事長に土下座し、足元にすがりつく番組プロデューサーがいたとかなんとか。驚愕ゥッ!? と、ドン引きで叫ぶ涙目の理事長がいたとかなんとか。視聴率を稼ぐのも大変なんだな、と考えさせられる話ではある。

 

 とにもかくにも。

 いわゆる大人の事情……なのは間違いないのだが、肝心のウマ娘たちからは反発は起きていない。

 

 レースに出る学園側の有志のウマ娘たちにとっては全国に自分の名前をアピールするチャンスでもあるし、有馬記念に出走するウマ娘たちにとっては実戦に近いトレーニングが出来るのは悪くないように思われたらしく、意外と好感触のようだった。

 それにウマ娘という種族は多かれ少なかれレース中毒な傾向がある。レースを求める本能が勝ったのかもしれない。

 

 ちなみにナイスネイチャにも声はかかったのだが、トレーナーはそれを断った。出しても良かったが、トレーニングスケジュールの都合を優先することにしたのだ。

 模擬レースをするとその日のメニューを大きく変更することになる。トレーナーによって、練習方針に対する考え方はそれぞれあるが……べつに何が正解というわけではない。リズムを崩さないことを優先したということだ。

 

 いや。

 最近、ナイスネイチャが調子を落としているから、万が一出走させて負けたらメンタルに悪影響があるかもしれないと考えたことも決して否定できないが――。

 

「あ、始まるね」

 

 ナイスネイチャの声でトレーナーは物思いから帰ってくる。その声につられて画面に目をやれば、枠入りは順調に進み、最後のウマ娘がゲートに入るところだった。

 

 レースは間もなく始まろうとしている。

 

 

 

 

 

 




12月21日 追記
指摘して頂いていたメイショウドトウの二人称を修正。やっぱり改善するべきだと思い直して。


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第2話 模擬レースの黒い嵐

 

 

 

『最後のウマ娘がゲートに入りました』

 

 テレビからはアナウンサーとして日本一の知名度を誇る赤坂アナの声が聞こえてくる。ウマ娘のレースの実況においては現役屈指の実力派と名高い女性である。

 

 ゲートに入ってゆくウマ娘たち。今回は模擬レースとあって、彼女たちはそれぞれのゲート番号を示すゼッケンをつけた体操着姿だった。ウマ娘の代名詞ともいえる個性的な勝負服姿が見られるのは大レースであるG1の時のみ。さすがにそれは本番の有馬記念までのお楽しみといったところか。

 

『ここトレセン学園には朝早くからたくさんの観客が詰めかけております。人々が見守るなか――』

 

 模擬レースは学園関係者のみで行う場合と一般客も呼び込んで開催される場合がある。今回は後者だ。

 テレビ局としては満員の観客席のほうがテレビ映えするとの都合もあって、大々的な告知が行われていた。

 生中継の映像に映し出されたレーストラックの観客席には一万人を軽く越える人々が集まっていた。スターウマ娘が出走するとはいえ、たった一回の模擬レースに朝からこれだけの観客が集まるというのは国民的娯楽、一大エンターテイメントの名を欲しいままにするトゥインクルシリーズの面目躍如といったところである。

 

『各ウマ娘、ゲートイン完了』

 

 各ウマ娘がスターティングゲートで身を沈める。全身に力を漲らせ、集中力を張り巡らせてゆく。

 観客席のざわめきも減ってゆき、レースの始まる瞬間を今か今かと待ちわびる期待感が醸成されてゆく。

 

『スタートしました!』

 

 かしゃん、という音とともゲートが開く。十四人のウマ娘が飛び出してゆき、一気にトップギアまで加速する。人間離れしたパワーにより芝が抉れ、風が唸り、少女たちは髪をなびかせ、駆け抜けてゆく。

 わあ、と歓声が起こった。

 

『内から内から! 先頭を伺うのは――』

 

 先頭に立ったのは有馬記念にも出走予定のウマ娘だった。短い鹿毛の髪、右のウマ耳に耳飾りをつけている。目の下から頬にかけて白い入れ墨で戦化粧をしていた。

 彼女の脚質は逃げ。その逃げ脚は重賞クラスのレースでもたびたび上位を取るほどのもので、まさしく強豪ウマ娘といってもいいだろう。内を突いて加速してゆく。彼女はちらりと後ろを見た。

 

『それを追うようにマヤノトップガンが競りかけてゆきます!』

 

 そのウマ娘を追うように小柄な少女が競りかけてゆく。長い栗毛の髪をなびかせ、肢体をぐっと沈め、一気に加速する。先頭を奪おうとしていた。そのクチナシ色の瞳に気力がみなぎっている。差を縮めてゆく。ついに並んだ。

 マヤノトップガンだった。学園内でも有名な天才少女。その飛ぶような走りからは間違いなくトップエースたる器の気迫が伝わってきた。

 

『どちらが先頭争いを征するか!?』

 

 だが、相手のウマ娘も決して弱くはない。

 むしろ、並みのウマ娘ならマヤノトップガンに抵抗すらできずに交わされるところだというのに先頭を譲らない。スピードをあげてポジションを死守する。

 

 無理に抜かないほうがいいのか、と判断したマヤノトップガンが加速を止めようとすると今度はギアを緩め、抜かせそうな雰囲気を作る。

 

 それならば、と誘いに乗ってマヤノトップガンが抜かそうとするとまたギアを上げて追い上げを阻止。 

 

 二度、三度、四度――。

 

 それを繰り返す。

 何度も何度も繰り返すうちにマヤノトップガンは完全に自分のペースを守ることも忘れて、突っかかりはじめた。

 

『マヤノトップガンが仕掛けてゆく! しかし! 交わせない!』

 

 マヤノトップガンが抜かそうとするたびにギアを上げ、抜かせない。マヤノトップガンという超一流のウマ娘を相手にしてそんな芸当が出来るのだから、あの逃げウマ娘はチームのエース格の存在なのだろう。

 

 とはいえ、さすがにこれは無茶だ。

 トレーナーはそう思った。

 

 必死の表情。逃げウマ娘はマヤノトップガンを釣り上げることに執念を燃やしていた。

 

 このままでは勝利は難しそうだが何か意図があるのか――あるいはこれも本番に向けた心理戦の一環だろうか。

 

『激しい先頭争い! 前の二人は後続を引き離してゆく! これはペースが速くなりそうです!』

 

 先頭を走る逃げウマ娘はマヤノトップガンにそのポジションを奪わせようとしない。マヤノトップガンからすれば追い抜けそうで追い抜けない、もどかしい状態のまま最初のコーナーに入ってゆく。

 

『レースは間もなく第一コーナーに差し掛かろうというところ! 各ウマ娘――』

 

 マヤノトップガンという少女は学習能力の非常に高いウマ娘ではあるのだが、いくら学習能力が高かろうとそれだけで初見の搦め手を克服できるほどレースは甘くない。

 それに天才少女にも弱点はある。それは――。

 

『最初のコーナーを駆け抜けてゆきます! 順位は変わらず、以前、先頭は――』

 

 精神面で幼い部分があるのだ。

 失敗体験の少なさがかえって仇となって、逆境に陥った際のねばり強さに欠ける傾向がある。

 

『――その横にマヤノトップガンがつけています!』

 

 マヤノトップガンがウマ耳をぺたんと伏せている。しっぽが必要以上に揺れている。苛々しているのが伝わってきた。ウマ娘にとって、競争心とは本能的なものだ。

 

 先頭を取りたいのに、取れない。

 自分の思うような走りが、できない。

 

 これはウマ娘ならば誰でもフラストレーションが溜まる状況だ。頭ではわかっていても、身体が自然に前に前に行こうとしてしまう。我慢がどんどん効かなくなる。

 

 マヤノトップガンは遠心力に逆らうように上体を内側に傾けて、コーナーを曲がってゆく。

 

 右には逃げウマ娘がいる。誘うようにギアを緩めたのが見えた。交わせるかもしれない。今度こそ交わせるかもしれない。苛々する。すごく苛々する。

 

 本来は減速して息を入れなくてはならないポイントなのだが――マヤノトップガンはむしろ、加速することを選んだ。

 

 少女の長い栗毛の髪が弧を描いた。

 まるで風を掴み離陸しようとする戦闘機のように、そのスピードが緩む気配はない。

 

 しかし――。

 それでも、それでも交わせない。マヤノトップガンが加速すると同時に逃げウマ娘も加速したのだ。カーブの内側にいる彼女のほうが走る距離は短くて済む。

 

 その差が距離損となり、交わせそうだったのに交わせないという結果をマヤノトップガンにもたらした。

 

 順位は変わらず、スタミナを浪費し、ストレスだけがもたらされる。冷静さが失われてゆく。

 

 よく見れば逃げている相手のウマ娘も歯を食いしばり、明らかに無理な逃げをしているのだが、マヤノトップガンはそれに気付く余裕もなさそうだ。

 

『――――っ!!』

 

 マヤノトップガンが何かを叫んでいる。といっても中継画面なので口パクしか見えないが。首を一度二度振るとさらに脚を前に前に進めようとする。明らかなオーバーペース。

 

「たぶん、マヤノ癇癪を起こしてるんだと思う」

「だろうなあ……」

 

 ナイスネイチャがあちゃー、と頬をかいた。

 トレーナーも同じ印象を受けた。

 

 おそらくマヤノトップガンは「もーーっ!」とか叫んでいるに違いないし、現地で観戦しているであろう彼女の担当トレーナーは胃の辺りを抑えているに違いない。

 

 とっくにスタート付近のポジション争いは終わったというのに、頑なに先頭を奪うことに固執しているマヤノトップガンを引き連れて、その逃げウマ娘はコーナーを曲がりきる。そのままレースは中盤に入ってゆく。

 

『競り合うようにしてマヤノトップガン二番手。これはちょっと掛かり気味か? 少し離れて三番手は――』

 

 三番手につけたウマ娘の背中を風避けに使いながら、マーベラスサンデーも四番手で追走していた。長い黒髪のツインテールをなびかせて、先団で脚を溜めている。

 

 おそらくラップタイム的な意味では、マイペースな逃げに近いスピードで走っているのはマーベラスサンデーの前を走る三番手のウマ娘だろう。

 

 遅かれ早かれ、前の二人は暴走状態で潰れる可能性が高い。つまり、相手としては度外視していい状態だ。

 

 十四人立てのレースから、前の二人は脱落。改めて、十二人立てのレースを送っているのだと仮定すれば――。

 

『――の背後にぴったりとつけて、マーベラスサンデー!』

 

 つまり、いまのマーベラスサンデーのポジションは逃げウマ娘の直後につける先行。

 そんなスタイルでレースを進めているようなものだ。

 

 逃げウマ娘の直後につける先行、というのはレースの定石としては模範生に近いレーススタイルである。

 勝率が比較的に高い戦法だ。

 もちろん、前をゆく逃げウマ娘が常識的なペースで逃げてくれるなら、という前提はあるが。

 

 逃げ同士で競り合ってハイペースで暴走して勝利できるウマ娘など、学園内で有名な某爆逃げコンビぐらいなものだろう。逃げ同士での潰し合いなどというのは本来やってはならない作戦といえる。勝ちを捨てるようなものだ。

 

『マーベラスサンデーはここにいました。四番手でレースを進めています。今回の模擬レースでは視聴者投票で断然の人気を集めています! 遅れてきた大器という二つ名に恥じない走りを見せられるか! 大注目のマーベラスサンデーです! 続いて――』

 

 マーベラスサンデーは意外なほどレースに対しては真面目なウマ娘である。普段の自由奔放な言動ゆえに周りからは誤解されがちだが、いったん走り出すとレースに対する高い集中力を発揮する。

 ゆえにその競走成績は四着以下のない非常に安定したものである。 

 いつもは能天気な笑顔と元気いっぱいに走り回っている印象の彼女だが、いまは菜の花のような色合いの瞳を輝かせて、何かをたくらむように口元を引き締めている。

 

 言うなれば、これはまるで獲物に飛びかかる寸前の猫。一瞬の切れ味で前を交わし、そのまま加速し続けてゴールまで粘り込むのが彼女の得意戦法だった。

 

 マーベラスサンデーは風除けにしているウマ娘の背中ごしに先頭争いをする二人を見つめていた。

 

 交わすタイミングを伺っているのである。そこに緊張は――ない。真剣ではあっても悲壮感や使命感とは無縁で、ただただレースを楽しんでいる。

 

 むしろ周りのほうが緊張しているといっていい。何故ならば、いまこのレースを支配しているのはマーベラスサンデーだからだ。このレースの起点といっていい。

 

 彼女ほどの有力ウマ娘がラストスパートに向けて動き出せば、後続のウマ娘はそれを無視できない。抜け出されてしまえば、追い付くのは至難の技だ。

 

 現にマーベラスサンデーの周囲にはウマ娘たちが固まっている。そのウマ娘たちはマーベラスサンデーの小さな背中を睨んでいた。いつ抜け出すつもりなのか? 交わすタイミングはどうするべきか? もうひとりの有力ウマ娘のマヤノトップガンはあの様子では潰れるだろう。だから、こいつさえ交わせば勝てるに違いない――そんなウマ娘たちの思惑が伝わってくるようであった。

 

 マーベラスサンデーという少女が仕掛けるとき、レースの流れが変わる。逆にいえば、彼女が動かないとレースが動かない。周りは受動的な対応を迫られてしまうのだ。たったひとりの挙動に振り回されているともいえる。渦中の少女であるマーベラスサンデーは気持ちよく走っているだけだというのに。

 

『まだ前の二人がレースを引っ張ってゆきます! 緩みのない展開になっています!』

 

 トレーナーは思う。

 彼女のいうマーベラスな走りとはいったい何だろう、と聞くたびに首をかしげたものだが、わかった気がした。

 つまり、自分にとって最も理想的なレース展開を掴み寄せる力「レースメイク」が彼女のいうところのマーベラスな走りなのかもしれない。

 

「なるほど、な」

「どうしたの、トレーナーさん」

「いや、いま最も理想的なペースで走れているのはマーベラスだ。これが彼女のいうマーベラスな走りなんだな、と」

 それを聞いたナイスネイチャは苦笑いをするとないないとばかりに手を振った。

「あはは……トレーナーさん、考えすぎ。たぶんあの子そんなこと考えてない。きっとさ。レースを楽しんでるだけじゃないのかな?」

「そうなのか?」

「うん……まあ、それで結果を出せるんだからマーベラスは本当すごいよねー」

 

 ふたりはテレビ画面に目を戻す。

 

『後方二番手の追い込みのポジションでレースを進めるのはヒシアマゾン! そして最後方は――』

 

 ウマ娘たちが駆け抜けてゆく。晴天の青空の下。

 少女たちのレースは間もなくクライマックスを迎えようとしていた。

 

『おーっと! ここでマーベラスサンデーが前との差を詰め始めた! 後続のウマ娘もつられて上がってゆく!』

 

 マーベラスサンデーの小さな身体が弾むようにターフを切り裂いてゆく。両腕を伸ばしてバランスを取るように身体を前傾姿勢で傾けて、風避けにしていたウマ娘をあっさりと交わす。体力ぎりぎりで走っていたところを並ぶ間もなく抜かれたショックで心が折れたのか、三番手のウマ娘はずるずると後退していった。

 

 マーベラスサンデーをマークしていたのだろう。何人かの少女たちもまた差し切るために加速を始める。

 

 だが――。

 

『間もなく最終コーナーにさしかかります!』

 

 小柄な黒髪の少女が、ターフを蹴りあげるたびに土が抉れ、風は唸りをあげ、加速してゆく。

 後続のウマ娘たちも脚に力を込めて、必死に追い付こうとする。だが、全力で走っているはずなのに、その差は縮まらない。

 

『マーベラスサンデーが上がってゆく!』

 

 ラストスパートというのは全速力で走ってきたあとに、そこからさらにギアを上げて、地獄のような苦しみのなかで己のスピードの限界を振り絞る行為である。

 追い付けない、追い越せないという現実の前に、やがて心が折れて脱落してゆくウマ娘も現れてくる。

 

 また一人、また一人と後退してゆく。

 

 

 

 このレースに出ていたある一人のウマ娘がいた。

 

 

 

 学園側からエントリーした有志のひとりで得意戦法は差し。自分の走りには自信があった。

 

 彼女はレース前、こう思っていた。

 

 ――なによ、なにが遅れてきた大器よ。

 

 ちやほやされているマーベラスサンデーが気に入らなかったのだ。しかも聞く話によると、ご褒美のおやつが食べたいからなんて理由でトレーニングをしているそうではないか。

 

 ふざけるな、と思った。

 

 自分は練習にも真面目に取り組んでいるし、クラスでの成績は上位だ。マーベラスサンデーとも持ちタイムはそこまで差はない。あの娘なんて偶然勝ち続けられただけ。ただ、運が良いだけのウマ娘でしょ?

 

 だから、今回の模擬レースで差しきってその舐めくさった態度をあらためさせてやるのだと思っていた。

 

 

 ――そう、思っていたのに。

 

 

 自分の呼吸が乱れているのがわかる。取り込んでも取り込んでも酸素が足りない。頭がくらくらする。

 

 周りのウマ娘はとっくに脱落していた。

 だが、それに気付く余裕すらなかった。目の前を走る黒髪の小柄な少女を睨み付け、必死に脚を動かす。

 

 ラストスパートのなかでそのウマ娘は限界を迎えようとしていた。すでに全速力を振り絞っている。同じクラスの子たちには凄い凄いと言われた自慢の末脚だって、いつも通り出せている。間違いなく、トップギアだというのに。

 

 追い付けない。

 

 黒髪のツインテールをなびかせながら前を走る、その小柄な少女に追い付けない。

 

 なぜ! なぜ! なぜ!

 

 自分より前を走っていたのだから体力を消耗しているはずだ! もう脚が残っているはずがない! 自分がこんなにも苦しいのだから、この娘はもっと苦しいはず!

 

 だからもう間も無くこの娘の方から下がってくるに違いない! 交わせるはずだ! 交わせるはずなんだ!

 

 

 だが――。

 苦しみの中で顔を上げたとき、見えてしまった。

 

 

 黒髪の小柄な少女は、笑っていた。

 それはもう、じつにじつに楽しそうに笑っていた。

 

 

 え? あ? 笑っ……えっ?

 

 

 脳裏に混乱がよぎる。

 苦しいのに、苦しいはずなのに。

 

 

 

 

 なんでこの娘、ワラッテルノ?

 

 

 

 

 声が聞こえた。

 

 

 

 ううううう……!

 

 

 

 前をゆく少女はバネを押し込めるようにぐぐっと上体を沈み込ませて、

 

 

 

 マーベラース!

 

 

 

 そんな意味不明な叫びとともに。

 トップギアをさらにもう一段階、上げた。

 

 信じられない速さだった。

 それはまさしくターフに現れた黒い嵐。

 突き放されてゆく。抉れ、飛んできた土が頬を殴りつけてくるようだ。その衝撃が、とんでもないパワーで大地を蹴り上げているのだと伝えてきた。

 

 

 自分の心が折れる音がした。

 

 

 無理だ、無理だ。

 こんなの追い付けるわけが……ない。

 

 そして、そのウマ娘はずるずると後退していった。

 

『さあ、レースは最終コーナーを曲がって直線に入ってくる! マヤノトップガン! いま! ようやく先頭を交わした! 二番手から押し切ろうとするが伸びが苦しい! じりじりと後退! 後方から追い込んでくるのはヒシアマゾン! 脚色が良い! しかし!』

 

 ヒシアマゾンが伸びてくる。長い黒髪の褐色の肌の少女がその瞳に闘志を漲らせ、加速する。

 だが追い付くには直線の距離が足りなさそうだ。

 残り1ハロン。

 マーベラスサンデーは完全に抜け出した。

 

『ここでマーベラスサンデーだ! マヤノトップガンを並ぶ間もなく交わして先頭に立った! 強い強い! マーベラスサンデー先頭! これは完全に決まったかっ!? マーベラスサンデー! マーベラスサンデー! いま一着でゴールイン!』

 

 マーベラスサンデーという名の黒い嵐が螺旋をまとい、ターフを焦がし尽くさんばかりに通り抜けてゆき――その勢いのままゴール板を先頭で駆け抜けた。

 

『走破タイムは2分34秒2! 上がり3ハロンは37秒1です! マーベラスサンデー! 両手を振ってファンにアピール! 有馬記念の大本命はやはりこの子なのか! 遅れてきた大器にふさわしい走りでした!』

 

 テレビ画面の中ではマーベラスサンデーが黒髪のツインテールを風になびかせ、その瞳を勝利の喜びできらきら輝かせながら、両手をぶんぶん振っている。

 

 マーベラース! マーベラース! という上機嫌な声がこちらにまで伝わってくるようだった。

 

 圧巻の走りだった。

 ライバルをねじ伏せ、レースを支配してみせたその実力。有馬記念に出走予定のナイスネイチャにとって、最大のライバルになるのは彼女かもしれない。3ハロンのタイムがやや遅いのは全体的にペースが早い消耗戦のレースだったからだろうか。底力がないと勝ち切れない展開でもあるともいえる。

 

 間違いなく、マーベラスサンデーというウマ娘は強い。

 

 トレーナーは顎に手を当てた。あとで対策を練らないとな、などと考える。今のレースはもちろん録画してある。何度も観返すことは半ば確定した未来といえよう。

 

「うっはー……容赦ないなー」

 ナイスネイチャが肩をすくめた。

 

「勝つのは骨が折れそうだなー。マーベラスも本番に出てくるんだよね」

「そうだな。……トレーニングたくさんしないとな」

 

 トレーナーが頭のなかで今後のトレーニングプランを組み立てている横で、

「うん、そうだよね。生半可な今のアタシじゃ……また」

 ナイスネイチャがささやくような声音で呟く。見れば、その瞳には寂しさが宿っていた。まるで、どうしようもない現実に打ちのめされているような。

「ネイチャ?」

 トレーナーが話しかけるとはっとしたように目を開き、両手を振った。

「あ、いや、なんでもないよ! ってほらほら! インタビュー始まるよ?」

 ナイスネイチャはトレーナーから視線をそらし、テレビを指差す。

 そこにはウィナーズサークルに立つマーベラスサンデーの姿が映っていた。輝くような笑顔。現実の楽しさを満喫しているような雰囲気。

 男性のリポーターがマイクを向けた。

 

『勝利者インタビューです――それでは本日の模擬レースを見事素晴らしい走りで勝利しましたマーベラスサンデー選手にお話を伺ってみましょう――まずはおめでとうございます』

 

『マーベラース! ありがとー!』

 

 マーベラスサンデーがカメラに向かって、元気いっぱいに両手を広げた。次に握りこぶしを作って胸の前に持ってゆき、ゆらゆらと上体を揺らす。彼女のウマ耳もしっぽも機嫌がよさそうに踊っていた。ちらりと横に立つ男性のリポーターを見つめる。

 

『本番の有馬記念も期待が持てますね?』

 

『そーなの! アタシすっごく楽しみなのー! だってね! 有馬記念にはね! ネイチャが出てくるんだよ!』

 

『ナイスネイチャ選手……ですか?』

 

『うん! だってね! アタシ、ネイチャと走るのが夢だから!』

 

 リポーターは戸惑ったようだった。

 

『夢……ですか? ですが、すでに一回走っていますよね? 秋の天皇賞で……。そのときのナイスネイチャ選手はえっと……着外でした。正直いまの飛ぶ鳥を落とす勢いのマーベラスサンデー選手を相手どるには……』

 

 その先の言葉をにごすリポーターにマーベラスサンデーは身体ごと向き直って声をあげた。

 

『あ! もしかしてネイチャが強くないと思っているの? 違うよ! ネイチャは強いの! すっごく強いんだから! それにすっごく頑張っているし! とってもマーベラスなウマ娘なんだよ! 考えてみて! トレセン学園に通う生徒は約二千人! つまりネイチャがチャンピオンになれる可能性は二千分の一! それなのにチャンピオンになったんだよ! すっごいことだと思わない!?』

 

『ナイスネイチャ選手は確かにURAファイナルズのチャンピオンに輝いたこともありますが……もう四年前のことですよね? あと、部門別だから二千分の一とは……』

 

『細かいことは気にしない! ねえねえ! これって日本中に放送されているんだよね!』

 

『え、まあ……』

 

 それを聞いたマーベラスサンデーは再びカメラのほうに身体ごとその向きを変える。花の咲くような笑顔が溢れだす。両手を握りしめて身を乗り出した。

 

『ネイチャー! 見てるー? 有馬記念は一緒に走ろうね! アタシ待ってるよー! マーベラース! マーベラース! マーベラーースッ!!』

 

 そんな彼女の後ろで放っておかれてしまう形となったリポーターは困惑を隠しきれないまま、

『えーと……以上! 意気軒昂なマーベラスサンデー選手の勝利者インタビューでした!』

 と、まとめるのだった。

 

 画面が切り替わる。

 番組の出演者たちがあれこれと感想を語り合っている。

 

 トレーナーはテレビを消した。辺りの音が忽然と消失し、冬のぱりぱりとした大気が室内に入り込むような静寂がふたりの間に流れ込んだ。吐息。熱。気配。それだけを感じることが出来る静かな時間が訪れる。

 

「あははぁ……まいったなあ」

 ナイスネイチャが頬をかく。呟いた。

「マーベラスはアタシをご指名か……」

 と、口をつぐみ黙り込んでしまう。

 

 やや間があって、

「……ねえ、トレーナーさん」

「ん?」

「……勝てるかな、アタシ」

 ナイスネイチャはトレーナーの袖を掴んでいた。視線を床にさ迷わせている。そんな彼女の様子を目にしたトレーナーは柔らかい吐息をついた。微笑む。

 

「大丈夫。ネイチャなら勝てるよ」

「……ふふっ、ありがと。そうだよね、勝つつもりで挑まないとね。もう二年近く勝ててないけど……」

 

 そうなのだ。

 かつては有馬記念や天皇賞(秋)も制覇し、URAファイナルズの中距離部門チャンピオンにも輝いたことがあるナイスネイチャだったのだが、それ以降は徐々に成績を落としてゆき、以前のような善戦はするけど勝てないウマ娘に逆戻りしてしまったのだ。

 いや、それどころか最近では善戦どころか掲示板にも乗れない惨敗を喫することも増えてきていた。

 ナイスネイチャのやる気が落ちたわけでも、努力を怠っているわけでもなかった。走力も現役トップクラスを維持している。まだまだ走れそうな気配があるのだ。

 

 ただ、何故か勝てない。

 ――まるで何か見えない力に引っ張られているかのように、レースでは上手く走れなくなってしまったのだ。

 

 世間ではさまざまな無遠慮な言葉がささやかれる。彼女は能力のピークを過ぎたのでは? これ以上だらだらと現役を続けるべきではない、さっさと引退してはどうか?

 そんな声も無くはない。だが、それ以上にナイスネイチャの走りをずっと見ていたいという声も大きい。ナイスネイチャのファンはその復活を夢見ているのだ。

 

 もちろんトレーナーもそのひとりである。

 

「ねえ、トレーナーさん。勝てなくなってきてるアタシに……その……がっかりさせちゃってたらごめんね?」

 

 心はまだ折れてはいない――のだが、負け続けるという現実の積み重ねがナイスネイチャの心に淀みとなって溜まり始めていた。自信を失いかけているのだ。 

 ナイスネイチャはうつむいた。髪先をいじる。

「……弱気になってるのかも、アタシ。情けないよね……ちょっとだけ頼ってもいい?」

 と、すがるようにトレーナーを見つめた。迷いと不安の色がその瞳には宿っていた。トレーナーは袖を掴んでいたナイスネイチャの指先に自らの手を重ねた。自然と彼女と向き合うような姿勢になる。

 トレーナーはナイスネイチャの瞳を覗き込んだ。誠実なまなざし。ゆっくりと諭すように話しかける。

 

「……頼っていいんだよ。俺がネイチャの逃げ場所になってやるって言っただろ。大丈夫だ。たとえネイチャにどんなことがあっても、ずっと隣にいるから」

 

「……ありがと。トレーナーさん。ちょっとだけ気が楽になった。本当に……ずっと一緒にいてくれる?」

 

「もちろん」

 

 沈黙が流れる。

 二人は至近距離で見つめ合う。

 しかし――。

 ふと、ナイスネイチャは気付いた。

 

(あれ、これ近くない?)

 

 トレーナーの顔がすぐ近くにある。吐息が触れそうな距離とはこのことか。これはあれだ。いわゆる口付けを交わすときの姿勢というやつなのでは。

 

(いやいやいやいや! なに考えてんの! アタシ! べつにトレーナーさんとはまだ、そんなんじゃないし!)

 

 アータシだけにチュゥするー、とうまぴょい伝説の歌詞が頭に流れ出す。頭のなかの特設ステージでマヤノトップガンとマーベラスサンデーがうまぴょい! うまぴょい! と踊り始めた。

 

 ネイチャちゃんオットナー!

 マーベラース☆

 

(煽るなしッ!)

 

 顔に熱が集まってゆく。ウマ耳がぴょいぴょい忙しなく動き始める。そしてナイスネイチャは、

「……って、こ、こ、こ、告白かい! いやー、ネイチャさんもさすがに照れるわー! えっと! アタシ! そうだ! 午後のトレーニングの準備しなきゃ! じゃ……じゃあ、そーいうことで!」

 

 恥ずかしさに耐えきれなくなって走り去るのだった。

 

 

 



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第3話 シラオキ様の伝説

 

 

 

 

 午後になった。

 

 トレセン学園のトレーニングジムにナイスネイチャとトレーナーの姿はあった。

 ナイスネイチャは学園指定の赤いトレーニングウェアを着ており、トレーナーは長袖のシャツに丈の長い綿パンというラフな格好をしていた。すぐそばのベンチにはトレーナーのジャケットや鞄、それと大学ノートが置かれている。大学ノートには猫のシールが貼られていた。吹き出しの落書きには「練習メニューにゃ」と書かれている。猫好きなナイスネイチャが貼りつけたものだった。

 

 室内にはさまざまな機材がある。ルームランナーやエアロバイク、クロストレーナーといった定番の有酸素運動の機械をはじめ、チェストプレスやラットプルダウンといった筋力強化の機材も多数そろえられている。

 

 周囲にはほかのウマ娘たちもいて、それぞれがトレーニングに励んでいた。時速七十キロで走り込みをする者。両手に持ったハンドルを左右に動かしている者。

 

 ほかにも天井から吊り下げられた巨大なサンドバッグに打ち込みをしている某ダービーウマ娘などもいる。思いっきり殴り付けて、弧を描くようにぶっ飛ばし――振り子運動で戻ってきたサンドバッグに逆襲されていた。

 

「ぶっふぇっ!」

「す、スペちゃーん!?」

 

 ちなみにウマ娘というのは見た目は華奢で可憐な美少女であるが、その身体能力と丈夫さは一般的な成人男性をはるかに上回っている。

 たとえば、未勝利クラスから抜け出せないような比較的弱いウマ娘でも何十キロものダンベルをひょいひょい持ち上げたりするのだ。だというのに、容姿はか弱そうな乙女のままなのである。世の中は不思議で満ちている。それゆえ世間では魔法の力、超常的なエネルギーといったものの存在はわりと受け入れられやすい傾向があった。

 

 とはいえ、いくらそんなウマ娘でも鍛えていないとその力は衰えてゆく。そこは人もウマ娘も変わらない。ゆえに日々のトレーニングの積み重ねが大切なのである。

 

 ナイスネイチャもまた、トレーニングに励んでいた。傍らには彼女のトレーナーが立っている。

 プレスベンチに横たわったナイスネイチャはダンベルを持ち上げていた。ゆっくり上げて、静かに降ろす。それを繰り返す。上半身を鍛えることによって走る際にフォームが崩れにくくなるという利点がある。今日はその部分を重点的に鍛えようとしていた。明日はまた別の部分を鍛える予定だ。部位ごとに適度な休憩を挟むことによって、トレーニングはより効果的になるからである。

 

「ゆっくりだ! そう! いいぞ!」

「うぐぐ……」

 

 歯を食いしばって、ダンベルを持ち上げてゆくナイスネイチャ。そのダンベルの重量は並みのウマ娘では持ち上げられないような重さだった。しかし、重力に逆らってじわりじわりと登ってゆく。ナイスネイチャとて最初から持ち上げられたわけではない。七年も諦めずに努力をし続けた。歩み続けた。その結果なのである。

 

「ネイチャ頑張れ、あと十回だ!」

「ぐぅぅ……キツぅー……」

 

 やがて、最後のセットを終えたナイスネイチャはダンベルを元の位置に戻す。叫んだ。

 

「終わったー!」

「よく頑張ったネイチャ! この努力がきっと明日に繋がってゆく! すごいぞネイチャ!」

 

 ナイスネイチャは寝っ転がったまま、トレーナーを振り向いた。お腹が上下している。

 

「はいはーい。そんなに褒めても何も出ないぞー?」

「褒めるさ。ネイチャがすごいのは本当のことだからな」

「もー……」

 

 ナイスネイチャは「よいしょっと」と言いながら、上体を起こしてベンチに座り直した。ベンチをまたぐようにくるんと向きを変える。足を揃えた。ウマ耳としっぽが小さく揺れている。こちらを見上げてきた。

 

「そうやってすぐ乗せようとするー……」

 

 唇を尖らせながら上目遣いでトレーナーを見つめていたナイスネイチャだったが、次の瞬間には照れながら、

「だけど、まあ、頑張んないとね、うん」

 と、口元をほころばせた。

 

「頑張れば、有馬記念だって優勝できるさ」

「そんなこと言ったって……相手強いからなー……でも、やってみないとわかんない……よね?」

「素晴らしい精神だ。その粋だぞ、ネイチャ。それでこそ商店街の――」

 

 その時、トレーナーのスマホに着信があった。ポケットから取り出して画面を見る。そこに表示されている名前は『駿川たづな』だった。

 彼女はこのトレセン学園の理事長秘書を勤めている才女である。理事長秘書の仕事だけではなく、事務作業や各種受付手続き、掲示物の管理から夜の見回りまで学園内の業務を一手に引き受けている。

 いくらなんでも仕事が多すぎるが、これは彼女自身が望んでやっていることだった。彼女自身が優秀すぎるゆえにどれもそつなくこなしてしまう。ウマ娘に対する熱意と愛情と仕事中毒っぷりにかけては右に出るもののいないトレセン学園内の有名人であった。

 

 そんな彼女から着信。なんだろうか? トレーナーはナイスネイチャに一言断るとスマホをフリックして電話に出た。その様子をナイスネイチャが眺めている。

 

「はい――ええ、大丈夫です。はい……え、書類に不備? あちゃー……すみません。すぐ行きます。はい、はい。わかりました。いえ、そんなこちらこそ。はい――ありがとうございます」

 

 スマホをポケットにしまったトレーナーはナイスネイチャに振り返った。

「すまん、ちょっと用事ができた。しばらく一人で続けといてくれるか?」

 ナイスネイチャはベンチに座ったままパッと片手をあげた。

「ほいほーい。それにしてもトレーナーさんって忙しいよね。トレセン学園ってそんなに仕事多いの?」

 と、首をかしげる。

「いや、そうでもない。せいぜい平日は二十四時間トレーニングメニューのことを考えて、指導して、土日はレースを見学して、休日も出勤して、夢の中でもうまぴょい伝説の振り付けを練習しているぐらいだ」

 と、飄々とした様子で告げるトレーナー。

「いや、それフツーに真っ黒なんじゃ……?」

 ナイスネイチャが呆れたように額に手を当てた。

「楽しいからいいんだよ」

 トレーナーがベンチに置いていた冬用のジャケットを取り出して着込み始める。ナイスネイチャが立ち上がり、トレーナーの鞄を持ってきて彼に差し出す。

「ムリしないでよ?」

 トレーナーは鞄を受けとると小脇に抱えた。

「大丈夫大丈夫。じゃあ、行ってくるから」

「いってらっしゃーい」

 トレーナーは足早に立ち去ってゆく。それをナイスネイチャはひらひらと手を振って見送った。

 

 ナイスネイチャはひとりぼっちになった。

 

「……さ、続きやろ」

 ナイスネイチャはベンチの近くに置いていた練習メニューの書かれた大学ノートを拾う。ベンチに座る。ページをめくってゆく。

「えーっと次は……」

 

 ――見てよ、ナイスネイチャ先輩いるじゃん。

 ――わ、ホントだ。あの人まだ学園にいたんだ?

 

 ナイスネイチャのウマ耳がぴくりと動いた。顔を動かさずに視線だけ向けるとトレーニングジムの出入り口にウマ娘たちの集団がいた。どうやら下級生たちのようだ。こちらを指さしながら、ひそひそと会話を交わしている。

 彼女たちの目には皮肉めいた色が宿っていた。いや、皮肉だけではない。そこにあるのはどす黒い嫉妬だ。

 

 ――諦め悪いよね? 頑張りすぎちゃってさー。さっさと引退したらいいのに。

 ――聞いた? ナイスネイチャ先輩がトレーナーに我が儘を言ってチームを作るのを妨害してるらしいよ?

 ――うわ、サイアクじゃん。根性悪ー。

 

 ナイスネイチャは下級生のウマ娘たちを睨んだ。

 下級生たちのウマ耳が怯えたように伏せられる。びくっ、と肩を震わせた。後ずさる。しっぽがピンと跳ねた。

 

 ――ひっ!

 ――こわっ!

 

 周りで練習していたウマ娘たちも手を止めると迷惑そうな表情を彼女たちに向けた。下級生のウマ娘たちは気まずい様子でお互いの顔を見合わせる。

 

 ――な、なによ。落ち目の元チャンピオンのくせに。

 ――いこいこ。外で走り込みでもしてこようよ。

 ――さんせーい。

 

 慌ただしく下級生たちが立ち去ってゆく。トレーニングジム内に平穏が戻ってくる。気が削がれてしまったナイスネイチャは大学ノートを閉じるとため息をついた。

 

「はぁ……」

 

(アタシが言われるのは……まだ、べつにいいんだ。負け続きなのは事実だし、さ)

 

 ナイスネイチャは自分自身の心に蓋をする。何も感じないわけじゃない。本当は悲しいし悔しい。だけど、傷付いてないふりをするのは慣れている。そうなのだ。みんながみんな自分を愛してくれるわけじゃない。なんでも肯定してくれるわけじゃない。時にはこういうことだってある。

 

 それに自分がトレーナーの横を独占しているのは本当のことなのだ。あの下級生たちの言うようにチーム作りを妨害しているわけではないが――。

 

 ただ、彼がいよいよチームを作った場合、ナイスネイチャがそこに居続けられるかどうかは極めて怪しい。

 

 なぜか?

 ここでネックになってくるのがトレセン学園が抱える慢性的なトレーナー不足問題である。

 トレセン学園は年々、入学希望者が増えている。だというのに、それら生徒を指導するトレーナーが足りていない。需要に供給が追い付いていないのだ。

 

 それゆえに優秀なトレーナーというのは貴重だ。学園としては優秀なトレーナーには複数のウマ娘を担当してほしい。ウマ娘からすれば優秀なトレーナーに導いてほしい。そう願うのは当然のことだった。

 

 新人の頃ならば、たった一人のウマ娘だけを担当することは何の問題もなかった。ノウハウもない新人に複数のウマ娘を担当させるのはリスクが大きいと学園側も判断しているので、二人三脚の関係を容認している。

 

 だが、もうナイスネイチャの担当トレーナーである彼も七年目だ。若手の新人といえる時期は過ぎている。ついでにいえば、決してトップクラスの才能を持つウマ娘とはいえなかったナイスネイチャをURAファイナルズ中距離部門の優勝にまで導いた実績もある。

 

 なんだかんだと理由をつけながら、チームを作ることを避けてきていたのだが、それも今年が年貢の納め時。

 来年からは彼の元、新しいチームが発足する予定になっている。まず確実に加入希望者が殺到するだろう。

 

 そこにナイスネイチャがいられるかはわからない。成績の悪いウマ娘が限りあるチームの枠を埋めているというのはいささか外聞が悪い。トレーナーは気にしないかもしれないが、ナイスネイチャが気にする。自分のせいで彼の悪評が発生するなんて嫌だった。

 

 自分の悪口を言われるのはべつにこれが初めてのことじゃない。ウマ娘の耳は聴力が優れているので、ひそひそと陰口を叩かれていても聞き取れてしまうのだ。

 

 過去に思いをはせた。どこからともなく聞こえてくる悪口。向けられた悪意。ほの暗い記憶の底で反響する。

 

 ――優秀なトレーナーを渡したくないから、ナイスネイチャ先輩がチーム作りを妨害しているんじゃないの?

 ――ありそー! きっとそうだよ!

 ――最近、負け続きじゃない。諦めたらいいのに見苦しいったらありゃしない。過去の栄光にすがっちゃって、ヤな感じ。優秀で若いウマ娘に世代交代されるのがそんなに怖いのかしら?

 

 自分の悪口だけなら我慢できる。だけど、ほかのトレーナーたちからも批判や文句は出ているのだ。その矛先はナイスネイチャのトレーナーに向けられていた。

 

 ――まぐれでたまたま早熟型のウマ娘を担当できただけの運が良い男。大したトレーニングプランも組めないから、いまの成績なんだろう? これが真の実力ってわけだ。

 ――新しいウマ娘を担当したがらないのは、自分の本当の手腕を知られたくないからかもしれないぞ?

 ――言えてる。今なら担当ウマ娘がピークを過ぎただけだからと言い訳できるもんな。ウマ娘が弱いだけってね。

 ――よりにもよって、自分の無能っぷりを担当ウマ娘のせいにしているってことか。そんな奴がトレーナーとは世も末だな。嘆かわしいよ。

 

 悲しかった。悔しかった。

 

(アタシの大好きなトレーナーさんを悪く言わないで)

 

 自分がもっともっと強くて、レースで結果を出せていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。

 そう、ナイスネイチャは思い悩んだ。

 

 そんな日々が続いたある日、ナイスネイチャはとうとう自責の念に耐えられなくなった。

 

「ねえ……トレーナーさん。チーム作りなよ。ほら、アタシのことなんて気にすることないって……」

 

 強がりだった。平気なふりをしていた。でもそんなナイスネイチャにトレーナーはこう言うのだ。穏やかに包み込むように。優しさをその目に宿して。

 

「俺はネイチャとずっと組みたいんだ。君は最高のウマ娘だ。俺は信じてる。ネイチャが一番のキラキラウマ娘だって。だから、これは、俺のわがままだ。責められるべきなのはネイチャを輝かせてやれない俺なんだ」

 

 ナイスネイチャはうつむいた。頬に涙が伝った。

 

「……そんなん言われたら何も言えないじゃん」

「ネイチャ。またいっしょに二人で輝こうな」

「……うん」

 

 

 記憶の扉がさらに開いてゆく。

 時間がさかのぼってゆく。

 

 

 あれは――URAファイナルズを優勝したばかりの頃だ。トレーナーと二人で出掛けた時にナイスネイチャは訊いたことがある。

 

「アタシのこと、どれくらい大事?」

 

 めんどくさい女の子だな、って自分でも思う。こんなこと言ったら嫌われるんじゃないかと恐れた。でもどうしても不安だったのだ。自分に優しくしてくれるのは、ただトレーナーとしての義務感からじゃないか、と。

 

 そんなナイスネイチャにトレーナーは微笑んで、

「ネイチャが一番だよ」

 そう応えてくれたのだ。

 

「だからさ……ずっと一緒にいるよ」

「……ホント?」

「うん、本当。約束する」

 

 本気で言ってくれていたことはすぐに証明された。

 

 トレーナーはその後、決してナイスネイチャ以外のウマ娘を担当しようともせず、周りからいくら苦言を申されようとも頑なに二人三脚のスタイルを崩そうとしなかった。

 

(トレーナーさんはあのとき言ってくれたキミが一番大事という言葉を守ってくれている)

 

(ずっと一緒にいるよ、といってくれた約束を守ってくれている)

 

 来年にチームを結成するという話を初めて聞かされたときもトレーナーは申し訳なさそうにしていた。

 責められるはずがない。どれだけ彼が無理を押し通してきたかは知っている。本当にどうしようもなくて、話を受けるしか無かったのだとわかった。

 

(ふがいないアタシのせいなのに。それでも文句一つ言わずに、ずっと)

 

「はあ……」

 と、ため息をついた。ふと考える。

 

(トレーナーさんはアタシのことをどう思ってるんだろう。たぶん嫌われてはない……はず。好かれている、のかな。それともただの担当ウマ娘?)

 

 頭のなかに浮かぶのは午前中の光景。

 

 ――頼っていいんだよ。俺がネイチャの逃げ場所になってやるって言っただろ。大丈夫だ。たとえネイチャにどんなことがあっても、ずっと隣にいるから。

 ――ずっと一緒にいてくれる?

 ――もちろん。

 

「良い雰囲気だったのになー。なんでアタシはひよっちゃうんだろネー……はー。七年ですよ七年。奥手にも限度があるっていうか。さすがにもうちょっとさー」

 

 このままじゃいけないのはわかっていた。だから胸に秘めた想いを告げるつもりだ。日にちは決めている。今年の有馬記念はクリスマスに行われる。男女が告白して、カップルになれる確率の高い日といわれるクリスマスだ。そんなジンクスでもシラオキ様のお墨付きでも、背中を押してくれるものにはなにかと頼ってみたい恋心。

 

「……さ。トレーニングトレーニングっと」

 

 頭を振って雑念を追い払い、トレーニングを再開しようと立ち上がりかけた瞬間のことだった――。

 

「んん……?」

 

 ふと脚に違和感を覚えて、足元に視線を送る。

 軽く動かしてみる。右、左、右、左。

 なんの問題もなく動いた。

 

「気のせいかな」

 

 べつに痛みもなければ、一瞬感じた違和感もすでに感じられなくなっていた。念のため、精密検査したほうがいいのだろうかと考えたナイスネイチャだったが。

 

 ――トレーナーさんは嬉しいの? その、有馬記念に連続出走してくれるの。

 ――嬉しいよ。

 

 トレーナーの言葉が脳裏をよぎった。

 

 彼にこのことを告げたら有馬記念を回避させようとするに違いなかった。

 あの人はそういう人だ。ナイスネイチャにはよくわかっていた。伊達に七年も付き合っていない。

 

(トレーナーさんはきっと……)

 

 自分の名誉よりもナイスネイチャの身体を何よりも優先する。だから、たぶん――いや、絶対にあの人は回避させようとしてくるに違いない。それだけ大切にされているのは嬉しい。嬉しいんだけれど――もどかしかった。

 

 ナイスネイチャは思う。

 

(だって、アタシは何もトレーナーさんにお返しできてない。アタシが負け続けているから、トレーナーさんが陰で悪く言われているのも知っている。力になってあげたい。アタシのトレーナーさんは日本一なんだと証明したい)

 

 二人で挑む最後の有馬記念、なんとしても出走するんだ。連続出走記録を取らしてあげたい。あわよくば、優勝トロフィーだって持ち帰ってあげたい。

 

(そして、有馬記念が終わったら、アタシはトレーナーさんに――)

 

 

 

 

 

 トレーナーは庭園を歩いていた。

 書類の不備の訂正はすぐに終わった。理事長秘書の駿川たづなに提出をしてきた帰りだった。

 

 この学園は広大なので、何処に行くにしてもとにかく時間がかかる。セグウェイとかに乗って移動する関係者もいるとかなんとか。だが、トレーナーは出来るだけ歩くようにしている。トレセン学園に勤めるものに必要なのは一に体力、二に体力、三に体力、四に忍耐力などという説もあるのだ。体力作りのためだった。

 

 噴水の辺りに差し掛かる。噴水の中央には三女神の石像があった。その手に持った水差しから水場に清らかな流れを注ぎ込んでいる。ウマ娘の始祖とも言われている三人のウマ娘をかたどった像だ。

 高所から落ちてゆく水流が水しぶきを作り、風が水滴を煙らせる。水面が陽の光を湛えていた。

 

 トレーナーはおぼろ気になりつつある三女神に対する知識を頭の片隅から引っ張り出す。

 

 ウマ娘の魂は異世界にあると言われている。

 その魂は三女神いずれかの魂の欠片が組まれている。

 三女神は気まぐれにウマ娘に力を授ける。

 

 ……だったか。トレーナー養成学校で習った内容を思い出す。もう十年近く前のことだ。

 いささかファンタジックな話ではあるのだが、実際にウマ娘というのは不思議に満ち満ちている。人並み外れた身体能力、可憐な容姿、神秘的な不老性、人々の心に響くその歌声。超常的な力が働いていてもおかしくはない、と感じさせる何かがある。

 世界の歴史を紐解けば、ウマ娘が妖精のような存在として崇められていた時期があるのもうなずける話だ。

 

 もっとも、その当の本人であるウマ娘たちは人と同じように笑い、怒り、泣き、楽しむ。時には悩むこともあるし、胸をときめかせて恋だってする。

 レースに対する強い執着心があったり、にんじんを異様に好んだり、変わったところももちろんあるのだけれども、その実態はごくごく普通の少女となんら変わらない。

 

 歩く。噴水が近くに見えてくる。

 気付いた。誰かがいた。

 

 トレセン学園指定の冬の制服と黒いニーハイソックス(余談だが足元の保護に効果があるらしい)の姿。

 小さな身体に黒い髪。ボリュームのある髪をツインテールにまとめており、右のウマ耳にはトレードマークの大きな赤いリボン。よく知っている少女の姿だった。

 

「あははははっ☆ マーベラース!」

 

 話していると時おり語尾に星マーク(?)が見える気がすると一部で評判のマーベラスサンデーがいた。噴水の近くにしゃがみ込んで、なにをしているのやら――その水面を指先でぱしゃぱしゃとかき混ぜている。

 

(マーベラス、か。なにをしているんだ?)

 

 トレーナーはそんな彼女の様子が気になったので話しかけてみることにした。

 彼にとって、担当するウマ娘であるナイスネイチャのルームメイトかつその親友ということもあり、ナイスネイチャの次によく話をするウマ娘であった。

 だから、気軽にマーベラスと呼んでいる。

 

「マーベラス」

「あ! ネイチャのトレーナーさんだー! やっほー! マーベラース!」

 

 パッと身体の柔らかさを感じさせる機敏な動きで立ち上がる。空でも受け止めそうなぐらい元気よくバンザイ。

 

「なになに? アタシに用事ー?」

 

 バンザイの体勢から今度は両手をぐーにして胸の前に持ってくる。しっぽをホウキのように振りながら、ゆらゆらと上体を揺らす。

 ぱあっと咲いた笑顔。興味津々といった瞳の輝き。

 なんとも落ち着きがない。

 いつものことと言えば、いつものことだが。

 

「ああ、いや、こんなところで何しているんだ?」

「ああ! それーっ? あのね! じつはそれにはすっごくマーベラスな理由があるのー!」

「へえ?」

 

 トレーナーは彼女をじっと見つめる。マーベラスサンデーは両腕をぱっと振ると身を乗り出すように話しかけてきた。目がきらきらと喜びの色をたたえている。説明できるのが楽しくて仕方ないようだった。

 

「トレーナーさんはー! 知ってる? トレセン学園には神さまがいるって! あ、三女神さまじゃないほうだよ!」

「神様? そんなのがいるのか?」

 

 マーベラスサンデーは「マーベラース☆」と叫ぶと、腰に片手を当ててピシッと天空に向かって指をさす。

 

「そうだよー! あのね! シラオキさまっていう神さまなんだよ! 栗毛の可愛いウマ娘の神さまなんだって! シラオキさまにはね! 魂に時を越えさせるマーベラスな力があるらしいんだー! なんていったかなー? あ! そう! たいむすとりっぷダー!」

 

 すっぽんぽーん、服なんていらない、全てを脱ぎ捨て全てを解き放ち――いや、違う違う。ストリップしてどうするんだ。マーベラスサンデーが言いたいのはこうだろう。

   

「……えーと、タイムスリップ?」

 

 いわゆる時間旅行、というやつだ。過去に戻れる、もしくは未来にゆく。身体ごともってゆく、魂だけが過去や未来の時間軸の肉体に宿るなど、様々なパターンがある。魂を越えさせる、という表現からして後者だろうか。

 

「あ! そうそう、それ! トレーナーさん物知りなのー! えっとね、ただ、それには代……償……? っていうのがいるんだってー? わーい! マーベラース! 今度はちゃんと言えたー!」

 

「へえ。時をねえ」

 シラオキという神さまは名前は知っていたが、三女神に比べればマイナーもいいところなので、そこまで詳しくは知らなかった。

 マーベラスサンデーは、

「だからね! アタシ、シラオキさまにお願いしにきたのー! 時をもどしてくださーいって! そうしたらおやつ何回も食べられるでしょー?」

 と言った。トレーナーは訊いた。

 

「だから三女神の像の前でお祈り?」

 

 三女神とシラオキは何も関係ないのでは? そんな気もするのだが、マーベラスサンデーはそう思わないようで、

「うん。神さまなんだから、きっとここら辺にいるんじゃないかなーって! それにこの三女神さまの近くにいるとね! マーベラスなことが起きそうな気がするのー! ほら、ここって卒業生がお祈りをささげるでんとーがあるよねっ? 祈るならここな気がしたの!」

 

 トゥインクルシリーズを駆け抜けたウマ娘はここでお祈りをすることによってその想いを次代のウマ娘たちに託し夢を繋げてゆく――トレセン学園にはそんな伝統がある。

 

「まあ……確かに」

 そういえば、とトレーナーは思い出す。

 

 ナイスネイチャがクラシック級で切磋琢磨していた頃――確か皐月賞が行われる前日のことだったか。

 ナイスネイチャと一緒に三女神像の前を歩いていたとき、奇妙な現象に遭遇したことがある。

 白昼夢のような光の道を見たのだ。それだけならトレーナーが見た幻覚と言えたかもしれない。

 

 しかし、そうではなかった。

 

(ネイチャも同じものを見たと言っていたなあ)

 

 しかもそのあとトレーニングをしたら、まるで一つの壁を越えたかのように自己ベストのタイムを更新しまくっていった。あれにはトレーナーも驚いたし、ナイスネイチャ本人もびっくりしていた。

 なぜかと聞いてみたら、あの光の道を見た瞬間にナイスネイチャの中で「こう走ればいい」という考えが急に閃いたのだという。

 自分でもよくわからないのだが、そうとしか言えないとのことだった。

 

(この場所には何か不思議な力が働いているのかもしれないな。シラオキ様ってのがいてもおかしくはないのか?)

 

「それで? どうだった? シラオキ様には会えたのか?」

 と、トレーナーは訊いた。マーベラスサンデーは首を振った。

「うーんとね! 何も起きなかった! でも、これはこれでマーベラース! わくわくする気持ちをたくさんもらったから! これってすっごくマーベラスなことだよ!」

 

 ぐっと両手の拳をにぎり、ぴょんと飛びはねた。そんな、どこまでも前向きな答えが返ってくる。

 

 ――。

 

 そのとき、学校の予鈴が鳴った。マーベラスサンデーは校舎のほうを振り向く。ウマ耳がぴんと立った。

「あ! トレーニングの時間ダー!」

 と、そこでマーベラスサンデーは「そうだ!」と言うと再びこちらに向きなおった。

 

「ネイチャのトレーナーさん! 今日のレース見てくれたかなっ? アタシ一着だったの!」

「見たよ。おめでとう。すごく速かったな」

「ネイチャも出てきたら、きっともっともーっとマーベラスだったのに! ねえねえ! ネイチャも有馬記念に出るんだよね!」

「出るよ」

「やったー!」

 

 全身で喜びを表現するマーベラスサンデー。

「ネイチャと一緒に走るのすっごく楽しみなのー!」

 こちらを見つめてくる。るんるんとご機嫌のままにお喋りを続けようとする。

 

「そうそう! 有馬記念といえばネイチャね。レースが終わったらトレーナーさんに……」

 

「俺に?」

 ネイチャが? なんだろう?

 

 そこまで言いかけたマーベラスサンデーははっと口元を両手で隠す。

「あっ、いっけなーい! ナイショにしといてってゴニョゴニョされてたんだったー!」

 はにかむように笑う。

 

「じゃあ、アタシいかなきゃ! じゃあねー!」

 そして、駆け出した。離れてゆく。

 

「……相変わらず嵐のような子だったな」

 代償を払い、時を越える奇跡をもたらすシラオキ様、か。トレーナーが感慨に浸っていると、

「……ん?」

 

 だいぶ小さくなっていたはずのマーベラスサンデーがツインテールをバランサーのようにぶんまわして、蹄鉄のようなU字ターンを決めて、こちらに引き返してきた。

 ウマ娘なので、すごく速い。どんどん大きくなる。

 あっという間に目の前で急停止する。

 

「言い忘れてたー! あのね!」

 

 息を吸った。

 じっとこちらを見つめてくる――。

 

 

「――ネイチャのこと、幸せにしてあげてね☆ 約束してくれる?」

 

 

 一瞬、虚を突かれた。やや間があって、

「……もちろんだよ。約束する」

 と、トレーナーは応えた。

 

「やったー! マーベラース! ありがとー!」

 そしてマーベラスサンデーは再び走り去っていった。

 

 取り残されたトレーナーは、

「幸せに、ね」

 そう呟く。

 

(そのつもりではあるんだが。ネイチャは俺のこと、どう思ってるんだろうなあ)

 

「……さて、ネイチャを迎えにいくか」

 そうして庭園を立ち去ろうとしたときだった。

 

 ふと、背中に視線を感じた。

 

 振り向くとそこには誰もいない。

 清い水を湛える噴水。それと三女神像だけ。

 トレーナーは肩をすくめる。

 

「……気のせいか」

 

 そのとき、空から水滴が落ちてきた。次から次へとトレーナーの身体に当たる。彼は空を見上げた。――灰色の雨雲に陽の光が遮られはじめていた。

 地面のアスファルトにぽつぽつと染みが生まれてゆく。噴水の水面がかき乱された。空気が湿気を帯び始める。

 通り雨だった。その勢いは増す一方だ。

 

「……降ってきたな。急ごう」

 トレーナーは小走りで駆けていった。

 

「……」

 そんなトレーナーの後ろ姿を見送る少女の姿があった。白い小袖と緋袴の巫女装束を着ている。栗色の長い髪を一つに縛り、背中へと流している。

 少女は噴水の近くに佇んでいた。さきほどトレーナーが振り返った場所だ。

 少女の足元には影が写っておらず、雨に服が濡れる様子もない。ウマの耳としっぽがついているからウマ娘ではあるのだろう。

 少女は物思いに沈んだ表情でウマ耳を垂らす。

 

「運命は引き裂こうとしている――二人を。世界の特異点を排除するために。あんなにも絆が深いのに――」

 

 雨が強まるとともにその少女の姿は光を絞るように薄れてゆき、そのうち完全に姿を消した。

 

 

 

 

 

「トレーナーさんおかえりー。急に降ってきたから大変だったでしょ。タオル用意しといたよー。ほーい、柔軟剤の良い香りがするタオルでーす」

「ああ、ありがとう。ネイチャ」

 

 タオルを受け取ると頭をがしがし拭き始めるトレーナー。ナイスネイチャに視線を向ける。

 

「あとどれくらいでトレーニング終わりそう?」

「もう全部終わったよ」

「早いな」

「最近、アタシ調子よくてさ。もう少し負荷かけてもいけるかも」

「無理してないか?」

「ぜーんぜん。というか物足りないぐらい。追加トレーニングしたい……していい?」

「わかった」

 

 黙々とナイスネイチャはトレーニングに励む。

 更にもう一セットのトレーニングを終えて、ベンチにてインターバルを挟んでいるときだった。

「……勝ちたいよね、有馬記念」

 ナイスネイチャがぽつりと呟いた。

 

「あんな速い子たちのなかにさ。アタシみたいなロートルウマ娘が出られるだけでも恵まれているのはわかっているんだ。連続出走記録を作るっていうのもそれはそれで凄いことなんだろうけどさ」

「ネイチャ……」

「うん。うじうじしたってしょうがないか。生姜がないなんてしょうがないなー、なーんちゃってね。会長さんの真似。さ、トレーナーさん。再開しようよ。目盛り上げてくれる? もうちょっといけそう」

 

 と、ナイスネイチャは再び機材の椅子に座り、バタフライのように広がるレバーの取っ手をつかむ。

 

「無理してないか?」

 トレーナーが眉をひそめた。

 

「大丈夫だよ。トレーナーさん」

 ナイスネイチャは左右のバーを強く握り込んだ。横目でトレーナーに視線を送る。何秒かじっとトレーナーの眼を見つめて、

「アタシ、勝つから」

 と、言い切った。

 

「……そうか、わかった。だけど、無理そうならすぐに言うんだぞ。なにかあればすぐに報告してくれ」

「うん。……わかってる」

 

(ごめんね。トレーナーさん。アタシ、どうしても有馬記念に出たいんだ)

 

 二人だけで挑む最後の有馬記念。

 実績が無ければ、来年は離ればなれになってしまうかもしれない。それほどまでに今のナイスネイチャとトレーナーの学園内での立場は悪い。

 これからも隣にいるためには出走して結果を出すことが必要で、しかもこれが最後のチャンスなのだ。

 ナイスネイチャは思う。一緒にいられなくなるのはイヤだ。それにやっぱり勝ちたいし、周りを見返してやりたい。自分の愛する人は最高のトレーナーさんなんだ、と証明してみせたい、と。

 だから、先ほど感じた違和感は黙っていようと決めた。たいしたことはない。自分は大丈夫。心中で自らにそう言い聞かせながら。

 

 

 

 

 

 午後のトレーニングも終わった。

 トレーナーは残りの仕事を片付けるためにトレーナー室に帰っていった。

 

 ナイスネイチャはこの時間からは自由時間である。さっそく心と身体を癒すべく大浴場に向かい、心身の疲れをお湯に溶かしたのだった。

 

 さて、どこに行くにしても時間がかかるトレセン学園の常として、やはり大浴場も遠くにある。学園の構造上、中央広場も兼ねている庭園は各施設に向かう際に通りすがることも多い。

 

 ナイスネイチャは庭園を歩いていた。大浴場からの帰り道だ。いまは食堂に向かっている途中だった。ちょっとお風呂に「ばばんばむんむんむーん」とのんびり浸かりすぎたせいか夕飯の時間には出遅れ気味ではある。とはいえ、ビュッフェ形式なので多少遅れたところで問題はないのだが。

 

 通り雨は過ぎ去ったようだ。雨上がりの湿度を含んだ空気。自分だけの足音が響く。辺りにはナイスネイチャのほかに誰もいない。陽は傾いてきており、夕方と夜の境目、逢魔が時。日本では古くより妖怪や幽霊、魔物が現れると言われているそんな時刻。

 

「いーちずにー」

 

 URAファイナルズ優勝を記念して作曲された自分の持ち歌であるアウト・オブ・トライアングルを口ずさむ。

 

「はーしりだーしたー」

 

 ナイスネイチャは上機嫌に歩いている。

 

「ん?」

 

 ふと、立ち止まった。

 視線を感じた。振り向くとそこには白い小袖と緋袴の巫女装束を着た栗毛のウマ娘の姿。三女神像の噴水の前に立って、こちらをじっと見つめてきている。

 

 ナイスネイチャはもしかしてアタシの後ろを見つめているんじゃなかろーか、と考えた。振り向く。しかし、そこには沈みゆく夕焼けに照らされて薄暗い影を落とすトレセン学園の校舎しかなかったし、ナイスネイチャとそのウマ娘以外の人影もなかった。

 

(あの娘、すごい見てくる……え、なに? あと、なんで巫女?)

 

 通り過ぎようとするが、ナイスネイチャが動くとそのウマ娘の視線も追いかけてくる。視線の圧がすごい。ナイスネイチャは立ち止まった。

 

「あのー……アタシに何かご用で?」

 耐えきれずに話しかけに行くナイスネイチャ。

「……」

 じっ、とこちらの顔を覗き込んでくる。

「……えーと?」

 ナイスネイチャが困惑しているのもお構い無しだった。

「……」

 ちょいちょいとその少女の目の前で手を振ってみた。

「もしもーし?」

 

 少女はその瞳に悲しみの色を乗せていた。ナイスネイチャを見つめてくる。ささやいた。

 

「やはり……あなたの時計の針はもうすぐ……」

「はり……?」

 

 ナイスネイチャの頭のなかに疑問符が溢れ出た。

 

(時計の針ってなに? ストップウォッチ? 目覚まし時計?)

 

「えっと、さ? 何の話? ……そうじゃなかったらゴメンなんだけど……初対面だよね?」

 と、ナイスネイチャは訊いた。

 

「あるいは、本来の運命に沿って動けばーーあの六回目のレースを走らなければ――その針は進み続けるのかもしれません。貴女と貴女の想い人は本来の運命を変えすぎた。揺り返しが起きているのです」

 だが、少女は虚空を見つめるような眼で謳うばかり。

 

「あ、あははぁ……そ、そーなの?」

 ナイスネイチャは頭を抱えた。

 

(は、話が通じーん! 揺り返しってなんだよー! す、推理してみよー。えーと運命? 走らなければ? 針は進む、進む、進む……むむむむ?)

 

 ナイスネイチャの頭上に浮かんだ疑問符がメリーゴーランドのごとく回転する。どういう意味だろうと頭の中で背広姿の名探偵ナイスネイチャがぽくぽくぽく、と推理する。その結果、

(わかるかーい!)

 疑問符は崖下に投げ捨てられたのである。ざぱーんと水柱をあげて沈んだ。疑問符よさらば。

 

「えっとー……あ、もしかして宗教か何かのカンユー? いやー、ごめんねー? うち、たぶん先祖代々からのバクシン教らしいんでー。じゃ、そーいうことで……?」

 

 すちゃっと片手を上げる。次の瞬間、ナイスネイチャは足早に去っていった。逃げたともいう。

 

 その場に取り残された少女はその後ろ姿を見送った。

 

「……運命は改編者を憎むから。歴史が変わるたびに流れを戻そうとするから。目が見えない手負いの猛獣のように鼻先に出された命を喰らって帳尻を合わせようとする」

 

 少女は自身の両手を見つめた。ゆっくり握りしめる。

「それでも……私は……」

 辺りが夜の闇に沈んでゆく。それとともに少女の姿も徐々に薄れて、消えた。

 

 

 

 

 

(いやー、変な子に会っちゃったなあ。でもあの子誰だったんだろ……うーん……フクキタルに雰囲気は少し似てたかも。でも見たことないよねえ)

 

 食事を終えて、食堂から寮に帰ろうとしていたナイスネイチャは遠くに小柄な少女の後ろ姿を見つける。

 しっぽの辺りまで伸びる長い栗毛の髪を背中に垂らして、頭の両サイドはツーサイドアップに結っている。右のウマ耳には黒いリボン。

 

「もーっ! トレーナーちゃんってばしつこーい! 次は逃げ切ってみせるってばー! マヤ速いもん! 今ならあの子の仕掛けるタイミングだってわかっちゃうんだからー!」

 

 マヤノトップガンだった。しっぽをぱたんぱたん、と振って、ちょっとだけ機嫌が悪い。

 どうやら担当トレーナーと一緒のようだ。

 

「……本番の有馬記念では無理な逃げはやめよう……なんなら先行や差しに変えても……」

 

 あの男性はたしか……マヤノトップガンのトレーナーだ。ナイスネイチャも何度か話したことはある。頭の回転が早いというか、雑学に詳しくて(ベルーガが白イルカの別名とか普通は知らない)妙に物知りな人だ。

 とても良い人なんだけれど――。

 

「やだやだやだー! マヤ、負けっぱなしなんてやだー! 次も逃げるのー!」

「そんなこと言って、また掛かってしまったら……」

 

 マヤノトップガンの担当トレーナーになってからというものの彼女の自由奔放すぎるその性格に振り回され続けて苦労しているらしい。

 

「ぶーぶー! トレーナーちゃんはマヤが同じ間違いすると思ってるんだー!?」

「……いや、それは思わないよ」

「次は絶対にミッションコンプリートするもんっ! 絶対にフライト成功させてみせるもんっ!!」

「……わかった。わかったよ。マヤノ、俺の負けだ。本番はきみの好きなように走ってくれていい」

「ほんと!? やったー! トレーナーちゃん大好きー!」

「俺もマヤノが大好きだよ」

「えへへー……」

 

(あいかわらず仲良しだなー……そして、マヤノの本番の作戦は逃げ、と)

 

 マヤノトップガンは逃げ、先行、差し、追い込みとどんな作戦でもこなせる天才少女である。

 しかも土壇場で作戦を変えてきたりする予測不明なところがあるから、一緒に走る相手からしたらやりにくいことこの上ない。

 だが、今日の惨敗のせいでムキになっているらしく、本番の有馬記念でも逃げを選択する可能性は高いだろう。

 

(うっはー。マヤノの本気逃げとか。緩みのないレースになりそうだなあ。差しのアタシにはキツい流れになりそー)

 

 そんなことを考えながら、ナイスネイチャは食堂を出るべく、マヤノトップガンの横を通りすぎた。

 

「へっへーん! トレーナーちゃんならわかってくれると思ってた! きっとだいじょーぶ! ばびゅーんって逃げれば、有馬記ね、ん、も……」

 

 自らのトレーナーに元気よく話しかけていたマヤノトップガンが目を丸くして、その言葉を途中で飲み込む。

 

「……」

 

 急に黙り込んでしまったマヤノトップガン。彼女の視線の先にはナイスネイチャの後ろ姿があった。マヤノトップガンのトレーナーが怪訝な顔をして、同じように視線の先を追う。

 ナイスネイチャが遠ざかってゆき、その姿も見えなくなる。マヤノトップガンは黙りこくったままだった。

 

「……マヤノ?」

「あ……トレーナーちゃん」

 マヤノトップガンは我に返ったようだった。

 

「急にどうしたんだ?」

「うん……あのね。うまく言えないんだけど……」

 

 心細そうに呟く。

「ネイチャちゃんがね……」

 マヤノトップガンのトレーナーが首をかしげた。

「ナイスネイチャさん? 彼女がどうかした?」

 

 

 

「……まるでどこかに消えちゃうような気がしたんだ。変なの。ネイチャちゃんがいなくなるわけないのに」

 

 

 

 

 

 



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第4話 暗雲の気配

 

 

 

 

 その日の夜。トレーナー室にて。

 

 トレーナーは有馬記念に出てくるライバルの動向やデータなどをまとめるための作業をしていた。室内にパソコンのキーボードを叩く音が響いている。この作業が終わっても細々とした事務作業がある。それを片付ければ、ようやくこの残業も終わりだ。

 

 室内の壁際に置かれたホワイトボードには、明日のトレーニングプランがマジックで書かれていた。

 

 

 目標レース 有馬記念(12月25日)

 

 本日 12月12日

 ナイスネイチャのトレーニングプラン

 

 午前 通常授業のため無し

 課題 時間があればイメージトレーニング等

 

 午後 プールトレーニング

 課題 スタミナの補強

 

 

 

 トレーナーは黙々と仕事を進めてゆき――。

 

「はあ……」

 ようやく終わらせることができた。なんとか日付けが変わる前にはトレーナー寮に帰れそうだ。同僚のなかには自宅からトレセン学園に通っている人もいるのだけれど、通勤時間が長くなることを好まないものはトレセン学園の敷地内にあるトレーナー寮に入寮している。彼もまた、その手のタイプであった。おかげでこのように夜遅くまで残業しても睡眠時間をそれほど削らなくて済む。

 

 ログオフの電子音。ノートパソコンが畳まれる。窓からさし込む月明かりに照らされる室内。椅子の軋む音。トレーナーは両腕をぐっ、とのばして背伸びした。

 卓上にはブックスタンドに立てられたバインダー付きのファイルや走り書きしたメモが数枚、地元商店街のロゴが入ったボールペンが転がっている。

 

 ――それらに交じって折り紙のトロフィーがひっそりと鎮座していた。端っこが折れてくしゃっとしている。トレーナーは折り紙のトロフィーを手に取った。金メッキが室内の光を反射する。

 

 たしかこのトロフィーを作ったのは――。

 

「もうあれから……六年も起つのか」

 

 六年前――。

 ナイスネイチャはまだまだ発展途上のウマ娘だった。ジュニア級ではデビューがやっと。クラシック級に昇格しても重賞ではひとつも勝ち星をあげられず、同期のスターウマ娘のトウカイテイオーには負けっぱなし。

 

 トウカイテイオーが皐月賞を勝ち、ダービーも勝ち、鮮やかに二冠を達成するのをまざまざと見せつけられた。

 

 その頃の話だ。

 

 勝てないといってもナイスネイチャは努力を怠っていたわけではない。こんなに努力するウマ娘も珍しいぐらいだった。毎日毎日必死に走り込み、苦しいトレーニングにも耐え抜いた。

 普段は斜に構えたような言動をするナイスネイチャなのだが、こちらの提示するトレーニングメニューには真面目に取り組む。いっそ素直すぎるくらい素直だった。

 純真で真面目なのが彼女の本質だったのだろう。また、周りの期待を読みとって応えようとする優しさを持つゆえに傷付きやすい。だからこそ天の邪鬼を装っていた。

 

 実際、彼女の実力はその努力に比例するようにどんどん伸びていった。いつ大レースで優勝してもおかしくないぐらいの成長を見せていたのだ。

 

 だが、結果だけがどうしても伴わなかった。

 レースに出ても勝てない。

 惜敗はあっても、勝利がない。

 応援してくれる人たちの声援には応えられず、同期のライバルにも勝てず、努力しても報われない日々。

 

 その事実がナイスネイチャの心に影を落とす。

 

 

 アタシなんかじゃキラキラのウマ娘にはなれないのかな――。

 

 

 何も実績を積み上げることができなくて、このまま輝くこともなく、沈んでいくんじゃないかと落ち込んでいたナイスネイチャ。

 

 そんなことない、とトレーナーは思った。

 

 毎日毎日一生懸命に努力を重ねて、何度へこたれようとも、何度壁にぶつかろうともそのたびに立ち上がる。

 

 本当に素晴らしいウマ娘なのだ。

 

 それなのに、すっかり自信を失っているナイスネイチャにトレーナーはもどかしい想いを抱えていた。

 

 そんなある日のこと。

 彼女は言ったのだ。寂しそうに。

 

 

 たとえばさ。

 トロフィーがあれば、頑張ったって感じがするじゃん。

 

 アタシには……何もないから……。

 

 

 トレーナーの心に悔しいという感情が弾ける。

 

 そんなことあるか!

 こんなに頑張っているのに何もないわけがない!

 

 なんとかしてやりたかった。その想いで作ってしまったのがこの折り紙で出来たトロフィーだ。

 

 とはいえ勢いで作ったはいいものの……なんだか子供扱いしているようで渡すのをためらっていた。

 だが、偶然にも折り紙トロフィーが見つかってしまい、なし崩し的に贈呈することになってしまったのだ。

 

 ナイスネイチャは喜んだ。

 自分の頑張りをトレーナーは認めてくれる。応援してくれている。心の底から信じてくれているんだ、と。

 

 ナイスネイチャは照れくさそうにはにかむ。

 

 

 このヘロヘロなところなんか、アタシみたいでさ。なんだか親近感が湧いてきちゃうというか……。

 

 ありがとう。トレーナーさん。そうだよね、アタシのしてきたことは無意味なことじゃない。

 

 きっと、道はこの先へと続いてるんだ。

 

 ねえ、また作ってくれる? そうしたらアタシ、もっと、頑張れると思うからさ。

 

 

 それ以降のことだ。

 ナイスネイチャが重賞で次々と勝利を重ねていったのは。

 

 そして、少し壁があったように感じる彼女との心理的距離もそれを境にしてどんどん狭まっていった。

 

 日々は積み重なってゆき、ナイスネイチャはどんどん成長していった。何度も一緒に出かけたり、いろんな話をして、お互いのことをより深く知っていった。

 

 やがて有馬記念や天皇賞(秋)を征して本物のトロフィーや盾が手に入るようになっても、トレーナーは折り紙のトロフィーを作り続けた。

 

 なぜならナイスネイチャが毎回、欲しがるのだ。

 

 ナイスネイチャがレースから帰ってきて、トレーナーと二人っきりになるたびに――。

 

 

 アタシ、頑張ったからさ。トレーナーさんの作ってくれたトロフィー欲しいなー……なーんて。だめ?

 

 

 だから、ナイスネイチャとトレーナーにとって、この折り紙トロフィーの贈呈式は二人だけの約束事だった。

 

 トロフィーを手に取る。

 このトロフィーは六年前の夏に初めて作ったときの試作品だ。なんと不恰好なのだろう。端っこなんか折れかけてしまっている。あの頃は手先も不器用だったから。

 それでもレースがあるたびに作っていたから、いまではだいぶ上達して綺麗に作れるようになった。

 

 いろんなことがあった。トロフィーが増えてゆくたびに「嬉しい」も「悔しい」も増えていった。

 

 勲章の数だけ駆け抜けた想いがあった。

 

 そんな日々を送っているうちにいつの間に、隣にナイスネイチャがいてくれるのが当たり前になっていた。これからもずっと一緒にいてほしいと願っていた。

 

 

 こんな心やすらぐ日々が無くなってしまうだなんて、想像したくもない。だが、彼女もいつかはトレセン学園を卒業する。それは決して遠い未来のことではない。トレーナーとは離ればなれになってしまうだろう。

 そうならないためには――。

 

 

「……想いを告げれば、運命は変わるんだろうか」

 トレーナーは窓の外を見上げた。月の明かり。星空。黒みがかった雲が月を覆い隠してゆく。

 

 

 

 

 

 時は昼下がり。冬の陽射しが注ぎ込むカフェテリアの窓辺の席にて。

 

 ナイスネイチャは困惑していた。

 その原因はマーベラスサンデー。目の前に座る小柄な少女がその瞳に天の川のような煌めきを宿しながら、ナイスネイチャを興味津々に見つめてくる。

 マーベラスサンデーの前には、にんじんスティックが突き刺さったバニラアイスとストロベリーソースのサンデーが置かれている。だが、そのスイーツに口をつけることもなく、もっぱら彼女の関心はナイスネイチャに向けられているようで――。

 

「ねえ、いいでしょ! ネイチャ! アタシね! ネイチャと一緒に……!」

 マーベラスサンデーはぐっと握りこぶしを作り、自身の胸元に引き寄せた。叫ぶ。

 

「ステージの練習がしたいのー!」

 

 ナイスネイチャの今日のトレーニングは午前中だけで、午後から半休だった。根を詰めすぎずに休むことも大事だぞ、というトレーナーからの指示だ。

 じゃあ、たまにはのんびりお茶でもしようかなとトレセン学園のカフェテリアでくつろいでいたところにマーベラスサンデーが突撃してきたのだった。

 

「うへぇー……まじ? や、ほら、アタシはさ。……午後は休むから」

 

 マーベラスサンデーのステージの練習に付き合うとへとへとになることが予想される。パワフルな彼女に引っ張られて色々引き出されてしまうのだ。若さとか。

 

 ナイスネイチャのその返答が不満だったのか、マーベラスサンデーは目を丸くする。眉をひそめた。

「えー! せっかくネイチャと予定が合ったのにー? あのね! アタシも午後から半休なんだ!」

 ふんす、と身を乗り出してくるマーベラスサンデー。

「そ、そうなんだ?」

 紅茶の入ったカップの取っ手を握りながら、ナイスネイチャは思わず仰け反る。マーベラスサンデーはウマ耳をぴょこぴょこ動かすとリズムを取るように腕を揺らす。

 

「これはもうネイチャと踊るしかないよね!」

 と、満面の笑みで言った。

 

「いやいや……」

 ナイスネイチャは自身のこめかみに指先をあてた。

「どーしてそうなった」

 マーベラスサンデーがきょとんとした様子でリズムを止めた。少しだけ考える仕草をして再びパッと笑顔を咲かせる。

「……理由? あるよ? あのね! ネイチャと一緒に歌うと楽しい! ネイチャと一緒に踊ると嬉しい! わくわくするし、どきどきする! すっごくマーベラスな気持ちになれるの! ……ネイチャはそうじゃないの?」

 と、小首をかしげる。

「うわー……相変わらずストレートだなー」

 ナイスネイチャはぼやいた。

 マーベラスサンデーは「マーベラース!」と勢いよく立ち上がると立候補するかのように両手をかかげて、手のひらを何も隠すこともないとばかりに広げた。

 

「アタシ、ネイチャと踊りたいなー! うまうまうみゃうみゃしたーい!」

 

 再びにぎった両手を身体の前に持ってきて身を乗り出し、ゆらゆらリズムを刻みながらナイスネイチャに期待のまなざしを送ってくる。返答を待ち望むようにしっぽが振られていた。

 

「う! そ、そんなキラキラした目で見られると……胸が痛いというか断われないというか……」

 

 ナイスネイチャの良心がぐらつき始めた。期待されると応えたくなる。いや、でも、しかし――ナイスネイチャは葛藤した。マーベラスサンデーは親友である。しょんぼりさせたくはない。喜ばせてもあげたい。だが、ステージでエンドレスうまぴょい伝説は体力的に――。

 

「ネイチャ大好き! うまぴょいしよー!」

 と、更なるマーベラスサンデーのだめ押し。ナイスネイチャはついに陥落した。

「にゃあああっ! もう! わかった! わかった! うまぴょいでもうまだっちでも何でもこーいっ!」

「やったー!」

 

 

 

 

 

 野外ステージに曲のオケが流れている。ナイスネイチャとマーベラスサンデーはステップを踏み、踊っている。ボーカル抜きの音源は進んでゆき、最後のサビの部分が終わるタイミングに合わせてポーズを取った。余韻を残して綺麗に決まった。

 

「……久しぶりに踊ったけど意外と覚えていることにびっくりだわー」

 ナイスネイチャは息を弾ませた。冬の空気が火照った身体に気持ちいい。横からマーベラスサンデーがぴょんぴょん飛びはねながら話しかけてくる。

「マーベラース! 楽しかったね! うまぴょい伝説! ネイチャはどうだった?」

 マーベラスサンデーがハイタッチを求めてきたので、ナイスネイチャは照れくさそうな様子でそれに応えた。

「まあ……楽しかったのは……否定できない、かな」

「うんうん」

 と、ここで言いよどむ。

「……でもさ、アタシがセンターポジション踊る必要は無かったんじゃない?」

「なんで?」

 マーベラスサンデーは不思議そうに首を傾ける。ナイスネイチャは手のひらを前に突き出した。

「や、ほら。だって最近アタシ……負け続きだし……」

「……」

 目を丸くして見つめてくる親友の姿にナイスネイチャは自分の発言を後悔した。慌てて訂正する。

「いや? 勝つぞー! とは思っているよ? だけど、時々気弱になる瞬間があるというか……ひよるというか」

 と、またしても口ごもる。

 マーベラスサンデーはぱちくりとまばたきを二度三度とおこない、言った。

 

「ネイチャはセンターにもう立てないと思っているってこと? それは……」

 

 それを聞いたマーベラスサンデーはナイスネイチャの両手を握りしめた。包むように胸の前まで持ってくる。真剣さを宿した目でこちらを覗き込んでくる。

 

「それはちがう! そんなことないよ! だって、ネイチャすっごいがんばってる! 努力してるのアタシ知ってるよ! ネイチャすっごく強いもん!」

 マーベラスサンデーはここで言葉を切ると、

「それにね、ネイチャ。気付いてた? ネイチャ、センターで踊ってるとき、とーってもっ! キラキラな笑顔になっていること」

 と、教えてくれた。

 

 ナイスネイチャは虚を突かれたようだった。

「へ? あ、アタシが?」

 

 その様子を目にしたマーベラスサンデーは嬉しそうに微笑むと、柔らかいまなざしを向けてきた。

 

「やっぱり気付いてなかったんだ。あのね、ネイチャ。笑顔ってことは嬉しいってこと! 嬉しいっていうことは幸せってこと! ネイチャが遠慮する必要なんてないの! みんなマーベラスな夢を心に抱えているからこそ、世界はすっごくマーベラスなんだよ!」

 

「嬉しい……? 幸せ……? ユメ?」

 ナイスネイチャは自分の心の蓋が開きかけるのを感じた。マーベラスサンデーはナイスネイチャから目をそらさずに見つめてくる。その瞳には信頼の色が宿っていた。

 

「ネイチャはマーベラスな夢を叶えたくないの? 本当はこう思ってるんだよね?」

 

「センターで歌いたいって!」

 

「それは……」

「わくわくわく」

「その……」

 ナイスネイチャは観念した。

 

「……あー、もー! その目はひきょーだって! そうだよ! ネイチャさんももう一度センターに立ちたいんだー! 悪いかー!」

 ナイスネイチャは頬を染めていた。マーベラスは大喜びでこう言った。

「マーベラース! ぜんぜん! ステキだよ! じゃあ、練習しよー! もう一回おどろー!」

「や、やってやるー!」

 

 

 何度も踊った。何度も手を取った。

 ナイスネイチャもマーベラスサンデーもいつしか笑顔に溢れていた。二人は見つめあい、ステップを踏んだ。

 空は青く、白い雲の隙間から陽射しが降り注ぐ。冬枯れの木々が枝を天に伸ばしながら、ふたりのバックミュージックを彩るように風に揺れていた。

 白い吐息。呼吸。冬の大気のなかで少女たちだけが熱を持つ華のように鮮やかに咲き誇る。まるでステージに生きている証を刻み込むがごとく少女たちは舞い続けた。

 

 

 太陽が少しずつ傾きはじめて――。

 

 

 二人は野外ステージの縁に並んで座っていた。その手に飲み物を持って足先を宙空に放っている。

 

「本当はさ」

 ナイスネイチャがぽつりと話しだす。

「うん」

「思うんだ。センターで歌ってね……」

 

 冬の風がナイスネイチャの髪を撫でた。目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶ記憶。たった一度きりだったけれど、鮮明に覚えている。有馬記念を優勝したその日。キラキラに輝く主人公になれた。歓声、歓喜、涙があふれてあふれて止まらなかった。胸の奥が熱くて、世界は鮮やかに色づいていた。満員御礼のライブ会場。光と音の奔流が素直になれない少女を祝福してくれた。いつしか少女は手を振って、呼び声に応えて――。

 

「また包まれてみたいなって。ライブ会場ってすごいんだ。たくさんの人たちに囲まれて、大きな声で応援してくれて、アタシの歌声がみんなを喜ばせて」

 

 ナイスネイチャは微笑む。何もない野外ステージの観客席を見つめて、その景色に想いをはせる。手を伸ばした。

 

「サイリウムが揺れてさ。光の草原みたいなんだよ」

 

 指先。想い出の泡ははじける。目の前にあるのは無人の観客席。手のひらを握り込む。力なく腕を降ろしてゆく。

 

「本当は夢見てる。もう一度あの場所に立つことを」

 

 冬の風がふたりのあいだを駆け抜けていった。

 

 マーベラスサンデーは目を輝かせた。勇気づけるようにナイスネイチャの膝に手を置いてきて身を乗り出す。

 

「きっと立てるよ! すごい! ネイチャの夢ってすっごくマーベラス!」

「ん、ありがと」

 照れ笑いするナイスネイチャ。

 マーベラスサンデーは身悶えするようにを身体を揺らす。興奮した面持ちのまま、話しだす。

 

「ねえねえ、アタシの夢も聞いてくれる? アタシね。ネイチャと走るのが夢なの」

 

 ナイスネイチャはまばたきをした。

「そうなの? そういえばテレビでもそんなこと言っていたよね。どうして?」

 

 その問いかけにマーベラスサンデーは、

「ネイチャがキラキラしているから」

 と、応える。

 

「アタシが?」

 首をかしげて続きをうながす。マーベラスサンデーは視線を外し空を見つめた。雲のヴェールの向こうには太陽が隠されている。光が溢れている。夕陽色に染まりゆく空。

 

「うん! その先にね! すっごくマーベラスな景色を見ることができるはずなの。世界はマーベラスに満ちているから! アタシ、それが見たいの! ただね、この夢は一人では見れないんだ。でも信じてる! ネイチャと一緒ならきっと――」

 

 マーベラスサンデーは振り向いた。

「だからね、ネイチャ。有馬記念、楽しみにしてるね!」

 と、満面の笑みを向けてくる。

 ナイスネイチャは頬をかいた。

「……あはは。まあ、ご期待に応えられるよう、がんばり……ます?」

「うん!」

 ご機嫌に足をぷらぷらさせるマーベラスサンデー。スポーツドリンクを飲むネイチャ。

 

 心地よい沈黙が二人のあいだに流れる。

 

「あ、そうだ! ねえ、ネイチャ」

 マーベラスサンデーは手のひらにポンとこぶしを叩きつけて、思い出したように声をあげる。

 

「んー?」

 のんびりした様子で相づちを打つ親友にマーベラスサンデーは訊いた。

「あのお手紙書けたの? 有馬記念の日に渡すんだよね」

 

 少し考える間があった。

「……あー、えっと、その……まだ」

 ナイスネイチャが歯切れ悪く言葉を転がした。

 

「きっとトレーナーさん喜んでくれると思うよ!」

 マーベラスサンデーは信じて疑わない様子だった。

 

「そう……だといいかな」

 うつむいてしまったナイスネイチャの腕をつかむ。勇気づけるように軽く揺らした。ぽんぽんと優しくたたく。

 

「だいじょーぶ! ネイチャ、自信もって! うまくいくよ! 帰ってきたらクリスマスパーティーしよ! トレーナーさんとのステキなお土産話を待ってるよ!」

 

「……ん、ありがと。マーベラス」

 ナイスネイチャも信頼のまなざしをマーベラスサンデーに返して、はにかむ。

 

「そうと決まればまた歌おう! おどろー!」

 すっくと立ち上がるマーベラスサンデー。

 

「ちょ! まだやんの!?」

 驚くナイスネイチャを置いて、マーベラスサンデーはさっさと野外ステージに走りよるとその真ん中に立った。くるりと振り向き両手でメガホンの形をつくる。

 

「ほらほらー! ネイチャもー! 早くしないとセンターポジション取っちゃうよー!」

 

「……もー……しょうがないなあ」

 そうぼやいて立ち上がったナイスネイチャの口元は、リラックスした猫のようにほころんでいた。

 

 

 

 

 

 闇。墨を溶かしたような真っ黒な空間。

 ナイスネイチャはそんな場所に立っていた。

 

(あれ。どこだろ、ここ)

 

 ナイスネイチャは自分が勝負服に身を包んでいることに気が付く。

 

 ベージュ色のパフスリーブのブラウス。袖口のカフスに赤と緑のラインが入っている。そのブラウスの上から黒いジャンパースカート風の衣装を着ていた。スカートの丈はやや短めで赤いフリルで縁取りされている。胸元には緑色の布地に赤いストライプ柄のリボン。

 

 いわゆるクリスマスカラーをイメージした勝負服だ。

 これはナイスネイチャのためだけにデザインされた彼女専用の勝負服であった。

 

 勝負服とはなにか。

 それは、一流デザイナーあるいは勝負服を着る本人がその秘めた想いを込めてデザインした、ウマ娘が有馬記念や日本ダービーといった格式の高いG1レースに挑む際に着る特殊な衣装のことだ。

 しかし、そんな大レースに出ることすら叶わずレースキャリアを終えるウマ娘は珍しくない。ゆえにウマ娘たちにとって自分専用の勝負服とは夢と憧れの象徴なのだ。

 

 そして、その服を着て走るわけだが――。

 

 想いを込められた勝負服には何やら不思議な力が宿るらしく、ウマ娘が着るとまるで魔法のような――そう、魔法のようなとしか言えない力によって、普段よりほんの少しだけ速く走れるのだと言われている。

 空気抵抗や走りやすさといった要素がたしかに存在するにも関わらず、どんなデザインの勝負服でもそれらのファクターがそこまで不利に働くことはない。一説によるとウマ娘の神様が公平な条件でレースが行えるように計らったからだともいわれているし、ウマソウルなる魂の力が働いていると主張するものもいる。はっきりとしたことはわかっていない。ファンタジーというかオカルトというか――ウマ娘というのは謎に包まれている存在である。

 

 ナイスネイチャは困惑していた。

 

(なんでアタシ勝負服を着てんの? っていうか)

 

 不思議なことに自分の手足ははっきり見える。光の無い闇の中にいるというのにまるで自分の全身だけが輝いているようだった。

 

(アタシ光ってるしっ!)

 

 その勝負服の配色も相まって、まるで闇夜に浮かぶクリスマスツリーのイルミネーションのようである。

 霧の日に見る薄ぼんやりとした灯籠ぐらいの光しか放っていないので、かなり寝ぼけたツリーではあるが。

 

(なるほど。これが本当のキラキラウマ娘……って、そんなわけあるかーい)

 

 肩をすくめる。

 両手を広げてコメくいてー、のポーズをした。

 

(……ひとりでノリツッコミしてもなー)

 

 ため息をついた。静けさのなかでその音は妙に大きく響いた。辺りをきょろきょろと見回す。

 ……とくに何もないし、誰もいないようだった。

 いや、違う。何か見えた。ナイスネイチャは手をかざした。遠くを見つめる。

 

(んー? なんか向こうに……)

 

 ナイスネイチャの前方にトンネルの出口のような白い光があった。

 

(行ってみよっかな)

 

 ナイスネイチャは歩きだした。

 光に近付く。そこには、

 

(トレーナーさん?)

 

 ナイスネイチャのトレーナーがいた。

 庭園の三女神像の前だ。噴水の近くのベンチに腰を降ろしている。うつむき加減。その頬に涙が流れていた。

 

 夢の中だからだろうか、彼の悲しみがまるで我が事のように感じられた。傷付き崩れさってしまいそうな彼の心に触れた。そんな不思議な感覚。彼の感情がナイスネイチャの心へと流れ込んでくる。

 

 それは肺の奥に刺々しい氷の針が刺さっているような息苦しさ。この世に希望なんて在りはしない。深海の果てのように絶望は深く、明日への光など欠片も見付かりはしない。

 

 彼の心は粉々に壊れていた。

 自己否定と後悔の感情で押し潰されている。

 

 ――少女の目に涙が溢れてきた。

 

(どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?)

 

 ナイスネイチャはトレーナーにそっと近付いた。なにか自分に出来ることがあるのならしてあげたかった。

 彼の冷えきった手の甲に少女は自らの手のひらを重ねた。少しでも熱を与えてあげたかった。

 

(泣かないで、トレーナーさん)

 

 

 

 

 

 そこで目が覚めた。

 ナイスネイチャはむくりと起き上がる。

 

「……なんかすごく」

 と、額に指を当てる。目じりの違和感に気付く。

「悲しい夢を見ていた気がする」

 指先で目元を拭うと涙が零れていた。

「マジか。どんだけ悲しい夢を見てたんだ」

 なんだろう。あれかな。三等連続当選記録を更新するとか、そんな夢だろうか。うん。それは悲しい。

 

 妙に目が冴えていた。

 スマホを見るとまだまだ夜も深い時間だった。

 ルームメイトのマーベラスサンデーを見る。向こうのベッドで穏やかそうに眠っていた。

 

「……むにゃむにゃ……もう食べられないよー……」

「また、そんなベタな寝言を……」

 どうしようかな、と少しのあいだ思案する。やがてベッドからそっと足を降ろす。素足にスリッパを履いた。

 

「ねいちゃ……」

 物音と気配に反応したのかマーベラスサンデーが寝返りを打った。いつものツインテールを下ろして、ウェーブのかかった長い黒髪からウマ耳が飛び出している。

 ありゃ。起こしてしまったかな、と考えてナイスネイチャは動きを止めた。

 

「……ずっといっしょだよ、ねいちゃ……」

 

 ナイスネイチャは口元に指先を当てて微笑む。静かにマーベラスサンデーに歩み寄ると寝乱れたシーツをかけ直してあげた。規則正しい寝息。上下するお腹。自分の親友が寝ているのは間違いなさそうだった。

 

 静かに室内を移動する。寮室の扉にぶらさげた蹄鉄に目がいく。友人のマチカネフクキタルから貰った御守りのようなものだ。きらりと鈍い輝きを放っている。

 

(たしか蹄鉄を贈られた夫婦は幸せな結婚生活を送れる、だったかな。魔よけにもなるんだっけ? すでに使用感があるけど誰のなんだろ? ま、いいけど)

 

 ナイスネイチャはそんなことを考えながら、クローゼットからいつもの宝物を取り出す。自分の机に近付くとスタンドライトをつけた。椅子を引いて、そこに腰を降ろす。

 

 念のため、マーベラスサンデーを起こしていないかと振り向く。彼女はもともと眠りが深いタイプだから起きないとは思うが――大丈夫そうだ。ついでにいうと寝起きもいいので、いつもきっちり同じ時間に「マーベラス!」という叫びとともにガバッと起き出す健康優良ウマ娘でもある。

 

 ナイスネイチャは若干癖のある髪を下ろしたまま、左手で頬杖をついた。右手の指先で目線まで掲げたそれは折り紙で出来たトロフィーだった。

 

「……ふふっ」

 

 それをじっと見つめる。漠然と感じていた胸の中の不安が溶けてゆき、替わりに温かな気持ちで満たされてゆく。

 

 ナイスネイチャのためにトレーナーが作ってくれたへろへろの折り紙トロフィー。

 

 自信が持てずにいたあの頃、そんな自分でも認めて前に進んでゆけるきっかけをくれたあの日。

 

 自分の歩みは無駄なんかじゃないんだ、と。

 全てを認めてくれた。

 

 無敵のトウカイテイオーみたいにならなくても、地味なナイスネイチャのままでも、キラキラ輝くことは出来るんだと教えてくれたのは彼だった。

 

 他人と自分を比べるくせが完全に無くなったわけじゃないけれど、それでも初めて等身大の自分を受け入れることが出来た。

 

 嬉しくて嬉しくて、本当は涙が出そうだったけれど、強がりを言って冗談でごまかしてしまったけれど。

 

(あれが、アタシのなかでトレーナーさんを一人の男性として意識し始めるきっかけだったよね……)

 

 時が立つにつれ、どんどん好きになってゆく。

 毎朝毎晩、トロフィーを眺める――その会えない時間もまた、少女の恋を育てた。

 

 ネイチャ、と名前を呼んでくれるその声が好きだった。もっともっと触れてほしくなった。

 

(……トロフィーが出来るたびに思い出が増えていって)

 

 作っている姿を見るのも好きだった。ナイスネイチャは彼の肩越しに引っ付いて、その風景を眺める。大好きなトレーナーさんの熱と匂いを感じた。静かな吐息。まばたき。じっと指先を見つめて作業に集中しているその横顔。

 

 たった二人だけの静かに流れる時間。それはきっと、とてもかけがえのないもので――。

 

 思い出すだけで幸せな気持ちになれた。

 ずっと隣にいたいな、って思う。

 

(あー……アタシやっぱりトレーナーさんのこと好きなんだな。好き、なんだよね)

 

 だからこそ、ちゃんと想いを告げなくちゃいけない。

 

 正面から言う勇気がなかなか持てないから、ちょっと遠回りで古典的な方法になるけれども――。

 

「……んー。よし」

 

 そして、ナイスネイチャは机の上に便箋を広げた。

 

「今日こそ……今日こそは……」

 

 机の横に置いてあるくずかごを見下ろした。そこには丸めて放り込まれた失敗作の山、山、山。

 

「書き上げたい……書き上がると……いいナー」

 と、肩をすくめた。

 

 

 

 日にちは瞬く間に進んでゆく。

 トレーニングの積み重ね。全ては勝利のために。

 

 

 

 そして、有馬記念の日がやってきた。

 

 

 

 

 

 12月25日 有馬記念 当日

 中山レース場 芝2500メートル 良バ場

 

 

 中山レース場の選手控え室にナイスネイチャとトレーナーはいた。

 

「ねえ、トレーナーさん……」

 と、控え室の椅子に腰を降ろしていたナイスネイチャは床に視線をさ迷わせる。

「どうした?」

 壁に背中を預けていたトレーナーがナイスネイチャを振り向いた。視界に入ってきた彼女の横顔は少し頬が赤かった。何かを言いかけて唇を開き――すぐに閉じた。

 苦笑いして、

「……ううん。ごめんやっぱ何でもない。いまはレースに集中しなきゃね」

 と、首を振る。まぶたを閉じて深呼吸をした。目が開いた。戦いに挑む戦乙女のように凛々しい表情となる。

「さては緊張してる?」

 と、トレーナーが訊いた。

「そうかも。ところで――」

 悪戯っぽい目を向けてきた。

「ずっとポケットに手を突っ込んでるけど……なに? 寒いの? しかも室内でコートって……不審者じゃん?」

 からかうように訊いてきた。トレーナーは頭をかく。

「あ、いや、すまん。無意識で……脱ぐの忘れてた」

「あはは。変なの。トレーナーさんも緊張してる?」

 表情がころころ変わるナイスネイチャ。比較的リラックスできているのかもしれない。気負いすぎるよりはずっと良い。平常心で挑めそうだな、とトレーナーは考えた。

「うん、まあ、な」

 むしろ集中できていなくて浮わついているのは自分のほうじゃないかとすら思う。

 

 と、そのときノックの音がした。

 扉を開けて入ってきたのはURAの係員だった。

 

「時間です。有馬記念に出走するウマ娘さんたちはパドックまで移動をお願いします」

 

「あ、はーい」

 ナイスネイチャが返事をする。係員は去っていった。

 

「じゃ、アタシ頑張るからさ。見ててね」

「わかった。今日も輝いてこい、ネイチャ」

 トレーナーは片手で握りこぶしをつくった。

「うん、いってくるね。トレーナーさん」

 手を振るとナイスネイチャは振り返らずに扉を開けて出ていった。扉が閉ざされる。足音が遠くに消えてゆく。

 静寂。

 ひとり部屋に取り残されるトレーナー。ポケットから手を出した。その手のひらには小さな箱があった。蓋を開ける。そこには金の輝きを放つ指輪が入っていた。

 

「……有馬記念が終わったら聞いてほしい話があるんだ、なんて言えないよな。こんなときに……でも、まあ焦ることもないさ」

 

 想いを告げるための時間はまだあるのだから。

 

 

 

 

 

 少女は地下バ道を通る。出口に光が見えた。空からひとすじの光線が降り注ぐ。風に透かされて少女の身体がまるで白くうっすらと輝いているようだった。

 光の向こう側へ、少女は渡った。

 

 

 

 

 

 もう間も無く枠入りの時間になる。ゲート付近には有馬記念に出走予定のウマ娘たちが集まっている。その輪から少し離れたところでナイスネイチャは物思いにふける。

 

 空を見上げた。

(恋にも勝ちたいし)

 

 次に観客席のほうを見つめた。

(センターにも立ちたい)

 

 その横のウィナーズサークルを視界におさめる。

(トレーナーさんを日本一にもしてあげたければ)

 

 視線をゲート付近に戻す。同じように枠入りを待っている親友の後ろ姿を眺める。

(ライバルとも全力でぶつかってあげたい)

 

 ナイスネイチャは肩をすくめた。

(アタシって欲深すぎじゃんね)

 でも、と思う。

(それでも――)

 

 ひときわ大きな歓声。旗を振る役目を持つスターターの係員が姿を現したのだ。

 

『今年も暮れの中山で行われます。夢の総決算グランプリ有馬記念です! 今年は十五人のウマ娘で行われます! スターウマ娘たちの誰の頭上にその栄冠は輝くのかっ!? 実況は私、赤坂でお送りいたします!』

 

 ファンファーレが鳴り響く。十万人を越える大観衆から興奮の雄叫びがあがる。ウマ娘たちのゲートインが進んでゆく。ナイスネイチャは四枠六番のゲートからの出走だった。ヒシアマゾンがすぐ右隣にいて、マヤノトップガンはそれより内側。マーベラスサンデーが外側の枠に入った。

 

 少女たちのあいだで緊張が高まってゆく。ピリピリとした気配が肌を刺す。暮れの中山に吹きすさぶ一陣の風が少女らの髪をふわりとなびかせた。

 

 ナイスネイチャは深呼吸をした。

(――勝ちたい)

 

『係員が離れまして……今!』

 

 スターティングゲートが開いた。一気にトップスピードへと加速した十五人の乙女たちが大地を一斉に蹴りあげ、身体を傾け、飛び出してゆく。

 

『スタートしました!』

 

 

 

 

 レースは早くも中盤に差し掛かろうとしていた。

(ペース……速いな)

 

 ナイスネイチャは中段につけていた。ウマ耳に風を切る音が聞こえてくる。前のほうを見れば、マヤノトップガンが栗毛の長い髪をジェットエンジンの噴射炎のようにはためかせ、先頭を走っているようだった。

 

 模擬レースで逃げていたウマ娘は何やら焦った顔をしながら、マヤノトップガンの背中を追走していた。

 

 その後ろからは何人分から離れて、マーベラスサンデーが走っている。ずいぶんと余裕がある足取りに見えた。リズム良く走れているのだと思う。黒いドレスのスカートと黒みの強い栃栗毛(とちくりげ)のしっぽを波打つようになびかせて、ターフを滑るように走っていた。

 

(やっぱりマーベラスが一番怖い)

 

 ルームメイトとして何年も一緒に過ごしてきた。何度も数えきれないほど併走トレーニングをしてきた。

 その性格も、能力も、走るときの癖もよく知っている。

 

 道中を気分よく走り切ってしまったときのマーベラスサンデーは終盤にとんでもない加速をしてゆく。かといって、揺さぶりをかけようものなら逆に彼女のペースに巻き込まれて、仕掛けたほうが自滅する。

 

(わかる。今日のマーベラス……すごく調子がいい。きっとラストスパートも凄まじいものになると思う)

 

 ナイスネイチャは考えた。この無敵の大親友に勝つにはどうしたらいいんだろう?

 

(外を回ったら、勝てない。いまのアタシの差し脚じゃ、距離損したら勝てない)

 

 さすがに昔のような切れ味は自分に残っていない。

 

(内側の経済コースを通って抜け出さなきゃ)

 

 ナイスネイチャはそう結論づける。

 

 しかし、ナイスネイチャは気付いていなかった。ほかのウマ娘たちも同じことを考えていることを。

 

 マーベラスサンデーが模擬レースで見せた走り――ほかの差しウマ娘はどうなった? 全員が届かなかったではないか。それほどまでの強さ、衝撃――。

 

 マーベラスサンデーだけじゃない。

 マヤノトップガンを途中までとはいえ、完封していたあの逃げウマ娘は何処にいた? そう、内側にいた。

 

 内側で走ることによって距離の得を稼げたからこそ、あの格上相手であるマヤノトップガンと渡り合えたのではないか?

 

 つまり、勝ちたいなら内を突くしかない。

 更にいうなら中山の直線は短い。

 ならば勝負の仕掛け所は最終コーナー。

 

 

 

 そう、皆が考えた結果――。

 

 

 

 その事故は、

 起きるべくして起きたのかもしれない。

 

 

 

『さあ、もう間も無くレースは最終コーナーに入ります!』

 

(今! ここで仕掛けるしかない! 内に!)

 

 トップスピードにギアを上げたナイスネイチャ。ラストスパートに向けて集中力が高まり、視野が狭くなる。

 

 ナイスネイチャが内に切り込もうとしたと同時に、左から何人ものウマ娘が圧を持って殺到してきた。

 

 

 その時だった。

 

 

(……え?)

 

 

 脚部への違和感。その違和感は限界までラストスパートに集中していたナイスネイチャにとって、意識の空白を作るのに充分な刺激だった。

 時間にして数秒もない、ほんの一瞬。

 しかし、レースに影響を与えるのには充分な時間。

 

 ナイスネイチャはバランスを崩した。外側に膨れて倒れ込みそうになる。

 左からはウマ娘の集団がやってきている。寄りかかってくるナイスネイチャを見て、目を見開いていた。

 

 全てがスローモーションに感じた。

 このままではほかのウマ娘を巻き込んだ大事故になってしまうだろう。

 

(――駄目! このままじゃ!)

 

 刹那の一瞬で、思考を切り替えたナイスネイチャは左脚で大地を蹴り上げた。内側にしか回避するスペースはない。事故を避けるためにとっさに横っ飛びしたのだが、バランスを崩した直後にその動作はあまりにも無理がありすぎた。

 

 ナイスネイチャは制御不能なほど、バランスを崩した。

 

 ウマ娘のトップスピードは時速にして七十キロ近いものがある。その速度を緩めることすら出来ず、ナイスネイチャは転倒してゆく。上体を傾け、倒れ込んでゆく彼女の頭部が向かう先には――鉄製の支柱があった。

 

 支柱にぶつかった反動で弾み、少女が再び反対側に弾き飛ばされる。

 レースに参加していた残りのウマ娘たちが全員通りすぎていったその背後で、ひとり、

 

 

 

 少女は地面に叩きつけられた。

 

 

 

 十万人を越える大観衆の悲鳴。混乱。どよめき。

 全ては一瞬の出来事だった。

 

 

 

『な、ナイスネイチャ転倒ッ!? これは大変なことに! 大変なことになりました!』

 

 

 

 トレーナーは見た。

 ターフの上に倒れ込み、ぴくりとも身じろぎしないナイスネイチャの姿を。

 

 

 

 彼は少女の名を叫びながら、走り出した。

 

 

 



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第5話 失われたものは

お話が成立するぎりぎりまで直接描写は削りましたが、死ネタがあります。
苦手な方はこの5話を読まずにスキップしても大丈夫です。
それでも一応読めるようにはなっております。



 

 

 

 

 ナイスネイチャは中山レース場近くの病院に緊急搬送された。意識不明の重体。トレーナーも付き添いとして一緒に救急車両に同乗した。車両の中でもナイスネイチャは意識を取り戻さず、目を瞑ったままだった。

 

 脚の骨が折れたわけではなかった。だが、倒れ込んだ先とぶつけた場所が悪かった。人体にとって最も急所である頭部への打撲。一般的な人間よりも頑丈といわれるウマ娘にとってもそれが致命的な怪我であるのはいうまでもない。

 

 両開きの扉が開かれる。キャスター付きのストレッチャーが手術室に入ってゆく。無影灯のスイッチが入る。浮かび上がる手術衣の人々。器械台に置かれたトレイでは命を繋ぐための器具が鈍い輝きを放つ。波形を刻む心電図モニター。手術室の扉の上のランプが点灯した。

 

 トレーナーは緊急手術室の前のベンチに座り込んでいた。祈るように両手を握りしめている。長い長い時間が過ぎた。永遠に続くようにも思える時間だった。

 

 手を固く握りしめる。震えが止まらず、床の一点をじっと見つめている。悪い想像が次から次へと浮かぶ。そのたびにお願いだから、と何者でもない何かに祈る。思考は散り散りに分裂して目まぐるしく現れては消える。

 

 トレーナーは恐慌状態に陥っていた。

 頭の奥がぐらぐらと揺れる。呼吸は浅く、荒く、足も震え、胸の鼓動が速まる。緊張で喉の奥がひりつく。

 

(ネイチャ、ネイチャ、ネイチャ……!)

 

 脳裏をよぎるのはターフの上で倒れる姿。呼びかけても何も応えない。こんなときのために応急手当のやり方を学んだはずなのにいざ直面すると手順が頭から吹き飛ぶ。助けなくては助けなくては助けなくては! 記憶の欠片を必死にかき集め手当てを施す。そのまぶたは固く閉じられていて意識がない。

 

 何度も繰り返し再生される地獄のような光景。トレーナーは必死に祈り続けた。

 

 少女は戦う。命の波形を徐々に小さくしてゆく。命を繋ぐ人々が死神に抵抗する。しかし――その波はきわめて微弱になってゆき――やがて。

 

 ――。

 

 手術中のランプが消える。磨り硝子の向こうに人影が現れる。二重扉をくぐり中からオペレーションを担当していた医者が出てきた。トレーナーは立ち上がる。

 

「先生……! ネイチャは! ネイチャはっ!?」

 トレーナーはすがるように医者の両腕をつかむ。

 

「我々としても最善を尽くしました――ですが」

 医者はゆっくりと首を振った。

 

 最悪の予感を悟る。やめてくれ。その先を言わないでくれ。やめてくれ、やめてくれ、やめろ!

 

「申し訳ありません――」

 そして、

 終わりの時を告げた。

 

 トレーナーは膝から崩れ落ちた。

「そんな……嘘だ……」

 

 

 

 

 

 柔らかな光の落ちる冷たい部屋で少女に再会する。

 突きつけられた絶望が、そこにはあった。

 

 

 

 

 

 ――駆けつけたナイスネイチャの母親と入れ替わるようにトレーナーは病院をあとにした。

 

 本当はナイスネイチャのそばについていてやりたかった。だが、ナイスネイチャの母親は自分だって辛いだろうにこちらのことを気遣うのだ。トレーナーがいれば、彼女は泣くことすら出来ない。退室するしかなかった。

 

 

 

 月明かり。ちらちらと雪が舞っていた。街路樹はその先端を星空へと伸ばして白銀の雲を枝に咲かせている。そんな街路樹の列が大通りのずっと向こうまで続いていた。

 

 外は真っ暗だった。街灯の下に影が伸びる。トレーナーは角を曲がり、長い道を歩き出す。ヘッドライトをつけた車が左側を通りすぎてゆく。陰影が生まれる。凍てつくような風が吹き抜けるとともにその光は消えた。

 

 トレーナーは黙々と歩み続ける。

 脳裏に浮かぶのは後悔だった。

 

 自分がもっとナイスネイチャのことをちゃんと見ていてやれば、この事故は防げたのではないか、と。

 

 だって、おかしいではないか。

 彼女はバランス感覚のとれたウマ娘だ。あんなところで体勢を崩すなんて何かあったとしか思えない。どこかに怪我や不調を抱えていたのではないか。

 

 何故、気付いてやれなかった。

 何故、助けてやれなかった。

 

 自分のせいだ。自分のせいで彼女は――。

 

 

 

 今日は12月25日。

 街はナイスネイチャの大好きなクリスマスカラーのイルミネーションに包まれていて、道行く人々は満ち足りた表情をしていた。笑い声が通りすぎてゆく。

 

 店のショーウィンドウには真っ赤なポインセチアの入った花かごが飾られている。軒先の立て看板には猫の絵が描かれていて本日限定のメニューの紹介をしている。

 傍らのクリスマスツリーの頂点にはキラキラと輝く星がついていて、赤と緑のイルミネーションライトが点滅していた。鮮やかで美しくて、幸福そうな光景だった。

 

 ガラス窓にトレーナーの姿が映り過ぎ去ってゆく。闇に消えてゆく。

 

 泥のなかを掻き分けながら進んでいるような重苦しさがあった。トレーナーは揺れる視界のなかで、なんとかそれでも歩き続ける。大通りを通って、一歩一歩。

 

 ――。

 

 どこからか歌が聴こえた。

 足が止まった。書店の軒先。有線放送が流れていた。ナイスネイチャの歌だった。希望に溢れた暖かな歌声を冬の冷え冷えとした空気のなかに広げている。トレーナーは地面に縫い付けられたようにその場から動けなくなった。

 

 耳をかたむけた。音楽には人の心の蓋をあける力がある。輝いていた記憶が呼び起こされてゆく。

 

 ポップなラブソング。

 愛する人に一途に想いを寄せ続ける心情を歌ったその曲のタイトルはアウト・オブ・トライアングル。

 

 ナイスネイチャがURAファイナルズに優勝したときに記念として作曲された。汎用曲とは違って、ナイスネイチャのためだけに作られた特別な歌だった。

 

 

 

 思い出す。

 トレーナー室に、二人。

 

 

 

 その日、オケ録りを済ませた音源入りのCDと出来上がってきた歌詞を書いた紙が届いた。

 

 二人はソファーに並んで腰を降ろしている。歌詞を読んだナイスネイチャは頬をかいた。

 

「うはあ、思っていたよりバリバリのラブソングじゃん」

「……今なら変更も出来るみたいだぞ」

 

 ナイスネイチャは照れながら、首を振る。

「ん……いや、これが……いいかな。……悔しいけど、作詞してくれた人はアタシというウマ娘をよーーーくっ! 見てらっしゃいますわー」

 

 何度も読み返す。うなずいた。

 

「……うん。アタシ、歌えると思う。というか、歌いたい……かも」

 

 歌詞をじっくりと読み込み、再生中の曲に合わせて、ボーカルを小さく口ずさむナイスネイチャはしっぽを揺らしていた。本当に気に入ったようだった。

 

「そうか。じゃあ、これで企画、通しておくから……今から楽しみだな。ネイチャがこの歌を歌うところ」

「へっ? そ、そう? あははは。トレーナーさんが喜んでくれるなら何より、かな?」

「きっとテイオーよりも人気間違いなしだな!」

「って、いまここでテイオーの名前出すの? はー、トレーナーさん。そーいうとこだぞ、そーいうとこ」

 

 

 

 ナイスネイチャの歌は続いている。

 

 

 

 レコーディングの光景を覚えている。

 希望に溢れた少女が、目を輝かせて、頬を上気させながら、歌詞に秘めた想いと優しさを乗せて、マイクに向かって楽しそうに歌っていた。

 

 シングルCDを発売した翌日に商店街を訪ねると、商店街の人たちがみんなシングルCDを買っていて、ネイちゃん歌良かったぞー、と応援されて。

 

 照れ笑いしていたナイスネイチャがいて。

 

 その商店街からの帰り道。

 寄り添って歩いた。

 

 群青色のアスファルト。夕焼けに伸びる二人の影。沈みゆく夕陽が彼女の頬を赤く照らしていた。風が鹿毛の髪を凪いでいる。機嫌よさそうに振られるウマ耳としっぽのシルエット。少女は一途な恋の歌を口ずさむ。

 

「俺もネイチャの歌、好きだな」

「ほんと? ふふっ、好きって便利な言葉だよね。上手いとかと違って、比べてない感じ?」

「だけどさ」

 そこで、言葉を区切る。へにゃりと笑う。

 

「トレーナーさんに好きって言ってもらえるとアタシも嬉しいな! なーんてね。あはは……」

 

 

 

 ――笑っていた彼女はもういない。

 

 

 

 呼吸が乱れた。呻き声が喉の奥から零れ出る。脈拍が安定しない。頭の芯が締め付けられるようだ。いっそこのまま殺してくれ、と願うほどの苦しみ。そうしたらまた会えるかもしれないじゃないか。会って謝れるかもしれないじゃないか。そんな無茶苦茶な思考が脳裏を駆けめぐる。彼女の顔がフラッシュバックする。自分は助けてやれなかった。奪った。未来を。自分が。

 

 近くの建物の壁に手をつけて動悸が収まるのを待つ。通りすがりの通行人に「大丈夫ですか」と声をかけられるが、それを手で制した。

 

 落ち着くのを待ってから再び歩き出す。

 クリスマスの光に浮かびあがる街をひとり――。

 

 歌は終わり、すでに次の曲に移っていた。

 

 

 

 

 

 トレセン学園に戻ってきた。

 その足で理事長室まで経緯を報告に向かった。秋川理事長と駿川たづなは痛ましいものを見るようなまなざしをトレーナーに送っている。トレーナーは報告を終えた。

 

 秋川理事長からは、

「気を落とすんじゃないぞ。それはナイスネイチャも望んでおらん……休暇が必要ならばいくらでも渡そう」

 と、告げられた。

 

 駿川たづなからは、

「彼女の告別式などはこちらでナイスネイチャさんのお母様とやりとりして手配します。ですから……トレーナーさんは休んでください」

 と、心配そうに言われた。

 

 頭を下げて「……ありがとう、ございます」と礼を返すと、トレーナーは理事長室を後にした。

 

 

 

 職員寮の自室の前に戻ってくると扉のそばで誰かが膝をかかえて座り込んでいるのが見えた。

 

 小柄な黒髪の少女。

 マーベラスサンデーだった。

 

「……マーベラス?」

 と、トレーナーは立ち止まる。

 

「……あ」

 ウマ耳を垂れさせていたマーベラスサンデーが顔をあげる。トレーナーを視界に入れると立ち上がり、ふらり、ふらりとこちらに近付いてくる。あと数歩の距離。たたらを踏むようにトレーナーに倒れこむ。指先で彼の服にしがみつくと、不安と怯えに揺れる瞳でこちらを見上げてきた。

 

「あのね……ネイチャが帰ってこないの。部屋にいてもひとりぼっち……ネイチャが死んじゃったってホント?」

 

 否定してほしいと目で訴えていた。トレーナーは彼女の肩を押して引きはなす。彼女は抵抗せず、しかし、視線はこちらを掴んで離さない。すがるように言葉を待った。

 

 トレーナーは自分自身も身を切るような苦しみに耐えながら、告げた。

 

「……マーベラス。落ち着いて聞いてくれ。本当だ。本当なんだ。ネイチャは、もう……」

「やだ!」

 

 マーベラスサンデーはその先の言葉を聞くことを拒絶した。目をぎゅっと閉じて、ぶんぶんと首を振る。狼狽えた様子でこちらを見上げてきた。声を荒げる。

 

「ウソ、ウソって言って! ネイチャは元気になって帰ってくるんだよねっ!?」

「……」

 トレーナーはうつむいた。

 

「どうしてッ!」

 

 マーベラスサンデーが再びすがりついてくる。その瞳から流れ落ちる星の光のような涙が零れはじめた。ひと雫、ふた雫。感情の昂りとともに呼吸が荒くなってゆく。トレーナーを睨みつけてきた。叫ぶ。

 

「嘘つきッ!!」

 

「トレーナーさんネイチャを幸せにするっていった! 約束した! ネイチャがいなくなるなんて絶対イヤ! こんなのおかしい! こんなのちっともマーベラスなんかじゃない! 幸せなんかじゃない! なんで! どうして! ネイチャがいなくならなきゃならないのっ!?」

 

 マーベラスサンデーが抱き付いてきた。どうしようもない現実を認めたくなくて、大声を出し続けた。

 

「ネイチャを連れて帰ってきてよ! どうして一緒に帰ってきてくれないの! 仲良しなんでしょ!」

「……」

「なんで! なんで! なんで! やだよ! ネイチャ! 帰ってきてよー!」

 

 マーベラスサンデーはあとは言葉にならず、わんわんとトレーナーの胸の中で泣いた。

 

 マーベラスサンデーにとって親しい者がいなくなるという経験は初めてのことなのだろう。行き場のない感情が溢れだして、パニックを起こしていた。

 トレーナーとて余裕があるわけではなかったが、それでも大人として受け止めてあげなければいけなかった。

 

(俺のせいだ)

 

 自分がちゃんとナイスネイチャのことを見ていたら、きっと、この娘がこんなに傷付くことも無かった。

 

「すまない……俺が見ていれば……本当にすまない」

 

 その後もマーベラスサンデーは泣き続けた。

 

 

 

 

 

 やがて、マーベラスサンデーはそっとその身を離した。ウマ耳を垂らす。指先で涙をぐしぐしと拭う。しゅんと項垂れながら、所在なさげに視線を床に落とす。

 

「……ネイチャのトレーナーさんはなにも悪くないのに。アタシ、ひどいこと言った……」

 後悔しているような、ぽつりと囁くような声だった。

「……ごめんなさい」

 と、頭を下げる。

 トレーナーはゆっくりと首を横に振る。

 

「いいんだ。……本当に俺が悪いんだから。ネイチャを……不幸にしたんだから」

 

 マーベラスサンデーは弾かれたように顔を上げた。

「それは違う!」

 と、叫んだ。真剣なまなざしをぶつけてくる。マーベラスサンデーは必死に伝えようとしてきた。

 

「さっきはあんなこと――幸せなんかじゃないって言ったけど、取り消すの! 間違いなの! あのね! ネイチャはトレーナーさんと一緒に……一緒に! 歩んでこれたから!」

 

 感情が高まってくる。再び瞳に涙を浮かび上がらせて、拳を握りこみ、両腕を二度三度と振り上げては降ろし、全身を使ってその想いをしぼり出すように叩きつけた。

 

「絶対に! 絶対に! 幸せだった! だってアタシ覚えてる! ネイチャ笑ってた! トレーナーさんの話をしているときも! トレーナーさんと一緒にいるときも! トレーナーさんから貰った宝物の折り紙トロフィー見つめているときだって! すっごくすっごくマーベラスな笑顔、浮かべてた! アタシ知ってるもん! ネイチャは誰よりも誰よりも! トレーナーさんのことを……大事な人だと想ってた! だから!」

 

 マーベラスサンデーはトレーナーを正面から見つめた。自分の大親友の少女はこの人を愛していたから。そんな後ろ向きな言葉はふさわしくない。認めちゃいけないんだ。

 だから、心の底から叫んだ。

 

「そんなこと言わないで! ネイチャの大切なトレーナーさんは、絶対にネイチャを不幸になんてしてないっ!!」

 

 それだけ言い切ると肩で息をしている小さな少女はこちらを見上げたまま、じっとこちらの目を覗き込んできた。沈黙が二人のあいだに流れる。

 

 トレーナーは自嘲気味に口もとを歪めた。前向きな言葉を信じるには心が擦りきれすぎている。思わず、否定の言葉が口をついて出た。

 

「……そうは言ってもだ。俺が担当じゃなかったらこんなことにはならなかった。……ネイチャが幸せだったなんて……あるわけがない」

 

 マーベラスサンデーは首を振った。言わせない。自分の親友の素晴らしい日々を否定させてたまるものか。真っ直ぐ、彼の目を見つめた。

 

「それは違う。絶対に違うよ、トレーナーさん」

「マーベラス……」

 

 マーベラスサンデーは高ぶった感情を静めるように目を閉じて、二度三度と深呼吸をした。

 さらに数呼吸分の沈黙。

 そして、ゆっくりと双眸を開いた。

 

「……アタシ、迷ってたんだけど……言うね。ネイチャね。有馬記念が終わったらトレーナーさんに……あなたに伝えたいことがあるって言ってた」

「ネイチャが……?」

「うん。ネイチャ、この手紙、毎晩毎晩悩んで書いてた」

 

 マーベラスサンデーがスカートのポケットから封筒を取り出す。そこには「トレーナーさんへ」と書かれていた。

 

「アタシね。訊いたの。ねえねえ、なんの手紙って? 最初は教えてくれなかったけど、何回も何回も訊いたら教えてくれたの。有馬記念が終わったらトレーナーさんに渡す手紙だって! あはっ……照れてたネイチャの姿、すっごくマーベラス……! ……マーベラス、だったな」

 

 それは過ぎ去りし日の温かさ。マーベラスサンデーは視線を手元の封筒に落とした。

 トレーナーにとっては思いがけない贈り物。

 

「ネイチャから、俺への手紙……」

「……うん」

 期せずしてふたりの視線が絡み合う。

「マーベラスは……読んだのか?」

 少女は首を振って、

「……ううん。読んでない。だってね、ネイチャすっごく真剣に悩んで書いてたから」

 と、応えた。

 

 来る日も来る日もうんうん唸りながら机に向かうその後ろ姿を思い出すように、少女は目をつむる。

 

 ナイスネイチャが「うにゃああああっ!」と失敗作をまた量産してくずかごに放り込んで、マーベラスサンデーがベッドに座ったまま「マーベラース! ネイチャがんばれー!」と応援して「うるさいわーい! あんたは早く寝ろー!」と腕を振り上げるその姿。

 

 ついに手紙が完成したときはマーベラスサンデーも嬉しくなって、ぴょんぴょんと「ネイチャおめでとー!」と跳び跳ねた。

 

 ナイスネイチャは「ハイハイありがとねー……マーベラスが応援してくれたおかげかもねー。たぶん」と肩をすくめて応える。

 そんな素直じゃないマーベラスサンデーの大親友。

 

「マーベラース……ふふっ」

 ゆっくりとまぶたを開いて、その菜の花のような色の瞳で手元の封筒を優しく見つめる。指先でそっと撫でた。

 

「だからね。きっとネイチャにとって、すっごく大切な手紙なの。いくらアタシがネイチャのマーベラスな友達でも、それは絶対に読んじゃダメ。これを読んでいいのは……ネイチャの大切なトレーナーさんだけ。だから」

 

 再び、こちらを見上げてくる。

 マーベラスサンデーは両手で封筒を差し出してきた。

 

「ネイチャの手紙、読んであげて?」

 

 

 

 

 

 寮の前まで送ろうか、と提案したトレーナーに彼女は首を振って断ると手紙をこちらに渡して帰っていった。

 

 自室に入る。

 

 少し散らかった室内。机のうえにはナイスネイチャの置いていった私物が取り残されたままだった。

 当たり前のようにトレーナーの元へ遊びにくる少女。本人は打ち合わせが必要だからと言い張っていた。そんな彼女はソファーに座ってテレビを観ているだけだったのだけれど、トレーナーも決して否定せず鑑賞に付き合ったりなんかして。ころころと笑う少女の横顔を思い出す。

 

「片付ける気には……なれないんだろうなあ」

 

 疲れきった足どりでソファーに近付くと、背中を預けた。無意識のうちに片側に寄って、もう一人座れるスペースを作っている自分に気付く。

 

 彼女がいることが当たり前になっていた。あまりにも当たり前になりすぎていたのだ。失ってから、どれだけ自分の中でナイスネイチャという少女が大きな存在になっていたのかに気付く。

 

 大切なものなら、手放しちゃいけないはずだった。

 トレーナーは手元の手紙を見つめる。

 

「ネイチャからの手紙、か……」

 手紙を読むのが怖かった。予感があったのだ。これを読めば、もう後戻りできないんじゃないか。自分は壊れてしまうんじゃないか。そんな気がして。

 

 それでも読まなくてはならない。

 

 ペーパーナイフで封筒を切る。

 トレーナーはゆっくりと手紙を開いた。

 

 

 

 

 

 拝啓、アタシのトレーナーさま。

 

 おいっすー、ナイスネイチャでーす。

 すごくめんどくさい感じのあなたの担当ウマ娘ですヨー。

 

 えっとですね。トレーナーさんはいきなり手紙を渡されて戸惑っていることと思いマス。

 

 トレーナーさんがこれを読んでいるときはたぶん有馬記念の祝勝会のときかな。

 いや、もしかしたら残念会かもしれないけど。

 

 えーと、ね。

 面と向かって言うにはちょっと恥ずかしすぎるので今回、アタシは手紙を書きました。

 

 トレーナーさんに伝えたいことがたくさんあるんだ。

 

 あのね。トレーナーさん。

 いつも一緒にいてくれてありがとう。 

 

 こんなめんどくさいアタシがここまで走ってこれたのはトレーナーさんのおかげなんだ。

 

 トレーナーさんがいてくれなかったら、アタシはきっと途中で諦めてた。

 

 自分なんてどうせこんなもんなんだからって言い訳して、殻を作って、いじけて、キラキラの主人公にもなれないまま走るのをやめちゃってたと思う。

 

 でもね。

 アタシがくじけそうになるたびにトレーナーさんは励ましてくれた。

 ダメなところがたくさんあるアタシなのに、そんなアタシでもいいんだよって認めてくれた。

 

 良いところをたくさん見つけてくれた。

 

 勝てなかったときも次は勝てる、だから頑張ろう。ネイチャを信じてるって言ってくれたよね。

 

 トレーナーさん。

 いつもアタシを信じてくれてありがとう。

 

 アタシさ、素直じゃないんだ。

 本当はすごく嬉しかったのに、減らず口ばかり叩いちゃってさ。

 

 いつももっと素直になれたらな、って後悔してた。

 だけど、そのアマノジャクも今日で終わり。

 

 トレーナーさん。

 聞いてくれますか。

 

 アタシ、トレーナーさんのことが好き。

 likeじゃなくて、loveって意味で、ひとりの男の人としてトレーナーさんのことが大好きです。

 

 うん。ごめん。わかってるんだ。

 こんなこと急に言い出すなんて重いかな、って。

 

 でもね。

 アタシ、自分の気持ちにもうウソをつきたくないんだ。

 

 あなたの声を聞くたびに。

 あなたの手に触れられるたびに。

 

 アタシはすごく幸せな気持ちになれました。

 

 トレーナーさんの作ってくれたへろへろのトロフィーはアタシの宝物です。そこにはアタシとトレーナーさんの思い出がたくさんたくさん詰まっているから。

 

 思い出、これからも増やしたいな。

 トレーナーさんとずっと一緒にいたいよ。

 

 もし、選んでくれるのなら……結婚だって、してもいいよ?

 それぐらいアタシはトレーナーさんが大好きです。

 

 だけど、不安なんだ。

 トレーナーさんは優しいからさ。

 

 本当はアタシのことなんてなんとも思ってなくて、ただ担当ウマ娘として優しくしてくれているだけなんじゃないか、って。

 

 そう思うと胸が苦しくなるんだ。

  

 トレーナーさんはアタシのことをどう思っていますか?

 

 あの日、トレーナーさんが言ってくれた「キミが一番大事だよ」って言葉をまだ信じていてもいいですか?

 

 もし、アタシを選んでくれるのなら。

 

 この手を繋いでくれますか?

 

 

 

 トレーナーさんのお返事、聞かせてくれるかな?

 

 庭園の三女神像の前で待ってます。

 

 ナイスネイチャより。

 

 

 

 

 

 庭園。

 トレーナーはそこに来ていた。

 ナイスネイチャがいないのはわかっていた。だが、行かない理由なんてあるのだろうか。

 

 辺りは夜の闇に包まれ静まりかえっている。街灯の明かりだけがうっすらと地面を照らしていた。

 冬の空気が肺を刺す。自らの足音だけが耳を打つ。噴水の水流の音が少しずつ大きくなってゆく。

 

 三女神像の前に着いた。

 噴水の近くのベンチに腰を降ろす。ため息。

 

「待ってる、か」

 手紙に視線を落とした。

 

 

 トレーナーさんとずっと一緒にいたいよ――。

 

 

「……ネイチャ」

 

 肺の奥に刺々しい氷の針が刺さっているような息苦しさを感じた。どうして自分はひとりなんだろう? なんでもう彼女はいないんだろう? 希望は失われた。世界は海の底のように暗い。もう生きていく意味など――。

 

 頬を涙が伝った。

 その時――。

 

 そっとトレーナーの手に誰かの指先が差し出された気がした。隣に誰かが座っている気配がした。はっきりと見えるわけではない。でも、確かにその熱を、気配を、よく知っている雰囲気を間違えるはずがない。

 

 ――泣かないで、トレーナーさん。

 

 まるで、彼女が自分に力を与えてくれたかのように心が軽くなるのを感じた。まるで彼女の優しい想いが伝わってきたかのようだった。彼女は――闇を取り除き、代わりに熱を託して、消えた。

 

「ネイチャ……?」

 振り向いた。

 しかし、そこには誰もいない。

 

「……」

 トレーナーは立ち上がった。

 白い吐息が立ち登り、星空に溶けていった。

 

(最後まで――こんな俺のために)

 

 視線を降ろす。

 そこにあるのは三女神の像だけ。

 ふと、マーベラスサンデーから聞いた話を思い出す。

 

 ――トレセン学園には神さまがいるって!

 

 ――シラオキさまっていう神さまなのー! 栗毛の可愛いウマ娘の神さまなんだって! シラオキさまにはね! 時を越えるマーベラスな力が――。

   

 ――ただ、それには代……償……? っていうのがいるんだってー?

 

「はは……そんなおとぎ話」

 

 でも。

 もしも、本当にそんなことが出来るというのなら。

 

「……シラオキ様。俺はどうなってもいい。代償なんざ、いくらでもくれてやる。だから……」

 

 彼女を取り戻したい。

 最後の瞬間まで自らよりも他者に愛を向けるのがナイスネイチャという少女の在り方であるというのならば、彼女のトレーナーである自分もまたそう在るべきだ。

 

「もし、奇跡を起こせるというのなら、あの子が……ネイチャが生きている未来って奇跡をくれないか」

 

 目を瞑った。

 すると――声が聞こえた。

 

「たとえ――それが貴方の命の大半を差し出すことになったとしてもですか?」

 

 弾かれたように顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。巫女装束に身を包んだ栗毛のウマ娘だ。うっすらと全身に光をまとっている。

 

「たとえ奇跡が成ったとしても、彼女の隣にいられる時間は僅かにしか残らないでしょう」

 

 いよいよ自分は頭がおかしくなったんだろうか。

 

 ああ、そうだ。そうに違いない。

 もしかしたら幻聴や幻覚の類いなのかもしれない。

 だが、もし本当に奇跡があるのだとしたら?

 馬鹿げた考えなのはわかっていた。

 

 だが、すがれる奇跡があるのだとしたら、形振りなど構わなかった。目の前の少女をまっすぐと見つめた。

 

 ――おそらく、この少女がシラオキ様なんだろう。

 

「ああ、構わない。俺なんかの命で済むなら使ってくれ。ネイチャが生きてくれさえいれば、それで」

 

 ナイスネイチャのいない世界なんて考えられない。ナイスネイチャが生きて笑っていてくれる未来がないなんて受け入れたくない。だから、迷わなかった。

 

「彼女の死は運命が望んだことです――誰かがその死の運命を肩代わりしなくてはなりません。つまり、あなたが背負うことになります。それでもいいと仰るんですね?」

 

「わかった。それでいい」

 

「……本気なんですね。ああ……この奇跡は成る。この取引は成立してしまいます。わかりました――」

 

 ――シラオキの身にまとう光が大きくなってゆく。

 トレーナーは思わず目を閉じた。

 

「もし、ここから運命を変えられるとしたら。それは、あの少女が――」

 

 

 

 そして時は――巻き戻る。

 

 

 

 

 



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第6話 流転

5話をスキップした方向けに5話のあらすじを書きました。


5話 あらすじ
レース中の事故で帰らぬウマ娘となったナイスネイチャ。
彼女の遺した手紙にはトレーナーへの恋慕の想いが綴られていた。
後悔し、絶望するトレーナーの前に女神シラオキが現れる。
シラオキの力により時間を巻き戻せる。それを知ったトレーナーは時を越えることを決断する。
しかし、その代償はナイスネイチャが背負うはずだった「死の運命」をトレーナーが肩代わりするというものだった。



 

 

 

 

 

 光が収まり――するとそこは――。

 

 

 暖房を入れた室内は暖かく、陽射しが結露した窓ガラスを通して室内に入り込んでいる。床に置かれた加湿器がうっすらと蒸気を放つ。つけっぱなしのテレビの音。

 

『トゥインクルシリーズの情報をお届けするウマ娘総合情報番組UMAナミ・ズQN! はじまりましたー!』

 

 トレーナーは気が付くと違う場所にいた。見慣れた景色だった。ソファー、ガラスのテーブル、テレビ、小さな冷蔵庫、窓辺のポインセチアの花――。

 

「……ここは? トレーナー室、か?」

 

 どうやら仕事机の前の椅子に自分は座っているらしい。目の前のパソコンの画面を見る。当の昔に片付けたはずの案件が未了のまま、表示されていた。

 周囲を見渡す。室内は陽が射し込んでいて明ほるい。朝だった。窓枠の影が床に映し出されている。

 

 ホワイトボードの文字が目に飛び込んできた。

 

 

 目標レース 有馬記念(12月25日)

 

 本日 12月11日

 ナイスネイチャのトレーニングプラン

 

 午前 ダートコース 5周

 課題 ギアの切り替え

 

 午後 ジムにて筋トレ

 課題 瞬発力の強化

 

 追加事項 本日 午前10時45分からUMAテレビ主宰による模擬レース有り

 

 右回り芝2500メートル

 天候 晴れ 芝状態 良

 

 ナイスネイチャはトレーニング専念のため出走辞退

 だが、本番の参考のために見学を予定

 

 

 二週間前の日付がそこには書かれていた。

 とっくに終えたはずのトレーニングプラン。

 

 窓の外から声が聞こえてきた。

 

 

 ――みんなー! 声出していこー! おー!

 

 ――ふぁいおー、ふぁいおー、ふぁいおー……。

 

 

 蹄鉄を着けたシューズが地面を叩きつけるどどど、という音の振動が窓の下を通りすぎてゆく。

 

「まさか……本当に帰ってきたのか……? 時を越えた?」

 

 つけっぱなしのテレビ。なんだか聞き覚えのあるような内容が耳に入ってくる。たしかこれは模擬レースが行われた日に放送されていた番組じゃないだろうか。

 

『さあ、いよいよ二週間後に迫ってまいりました。暮れの大一番グランプリ有馬記念!』

 

『今日の特集では有馬記念に出走する有力ウマ娘たちからインタビュー映像を頂いてまいりました! それに加えてーー』

 

『なんと! UMAテレビの特別企画として有馬記念と同じ距離である芝2500メートルの模擬レースを開催します!』

 

『本番の有馬記念に出てくる有力なウマ娘も何人か出走しますよ! 模擬レースのほうは生放送ですから、一足早く、まるでグランプリを観戦するような興奮が味わえそうですね! 実況はご存じお馴染みの赤坂アナウンサーです! チャンネルはこのまま!』

 

『……ではいったんここでコマーシャルでーす!』

 

『プリン! プリン! プリンにしてやるの! 美味しいにんじんプリンはみやこ製菓! 新商品プリンニシテヤルノ! 全国のスーパー、コンビニ、UMAストアで好評発売中!』

 

 

 やはりそうだ。今日は12月11日。ちょうど二週間前。本当に時間が戻ったのだとしたら――。

 脳裏に浮かぶのは愛しい少女の姿。

「……ネイチャが……生きている?」

 トレーナーは立ち上がった。探しにいこう。

 

 

 

 

 

「むむむむむ……」

 マチカネフクキタルは水晶球を睨み付けて、怪しげな手つきでその上に手をかざしている。その背後では気弱そうに眉をひそめたメイショウドトウが控えていた。

 その正面に座るのは学園指定のトレーニングウェアを着たナイスネイチャ。

 

「それで……フクキタル。どうなの……アタシの……」

 ナイスネイチャはそこで言いよどむ。

 

「その……」

 頬が赤く染まり、うつむく。

「……恋愛運」

 

 マチカネフクキタルが顔をあげた。

「ナイスネイチャさん……」

 

 ごくり、とナイスネイチャは喉を鳴らした。

 

「貴女の未来は……」

 

 くわっ、と目を見開くマチカネフクキタル。

 

「成就ですっ!」

「マジっ!?」

 

 ナイスネイチャは椅子からがたっと立ち上がった。目を丸くして、ウマ耳がぴょいぴょいと反応する。

 

「はい! 待ち人来たれり、願い叶う、想い通じる、相思相愛と出ました!」

「完璧じゃんっ!? うしっ! や、やった……!」

 

 小さく握りこぶしでガッツポーズをするナイスネイチャ。しっぽが興奮した様子でぶんぶん振られる。相思相愛で成就ってことはつまり、こ、恋人になれたり、け、結婚なんかもしたり!? 未来は明るい? ナイスネイチャは舞い上がるような気持ちになった。

 

「……あれ?」

 しかし、マチカネフクキタルは水晶球を見つめて、眉をひそめた。怪訝そうな表情をする。

 

「どうしたんですか~?」

 メイショウドトウが首をかしげる。マチカネフクキタルは腑に落ちないといった顔をした。

 

「……おっかしいですねえ。結果が二つあるんです。普通は占いの結果はひとつしか出ないはずなんですが」

「二通りの未来が出たということですか~?」

 

 メイショウドトウの問いかけにうなずくマチカネフクキタル。なんだか不穏な気配だ。雲行きが怪しくなってきたぞ。ナイスネイチャは一気に冷静になる。すると自分がどれだけ浮かれていたかに気付き、恥ずかしくなった。

 いそいそと澄まし顔で黙って席についた。

 

「えーと。……そうなの? もしかして片方は叶わない恋のパターンとか?」

 

 いかにも、冷静に受けとめてますよー? ネイチャさんはそう、狼狽えないからねー? とでも言いたげな神妙な表情である。マチカネフクキタルは言った。

 

「ああ、いえ、そこは安心してください。安心沢先生の笹針治療なみにあんしーんしてください!」

「それ安心できなくないっ!?」

 

 ナイスネイチャの澄まし顔はあっさりと崩壊した。

 

 安心沢刺々美。自称次世代の超天才笹針師。彼女の神業的な笹針術を施されたウマ娘は驚異的なパワーアップをすることができる――と、噂されている。

 ただし、成功率は二割以下。失敗するとバクシンしないバクシンオー並に恐ろしいナニカに変貌する、らしい。

 

「まあ、それは置いといて」

「置くんかーい!」

 

 マチカネフクキタルはふむふむ、と水晶球の示す未来の情報を精査してゆく。

 

「どちらの結果でも恋愛成就なのは変わりないです。ですが……内容はだいぶ違いますねー。ふむふむ? 片方はなんというか、これ以上ないぐらいの大大吉みたいです。もしこっちだけならふんにゃらハッピー……なんですが」

 

「……なんですが~?」

 と、メイショウドトウが横から相づちを打つ。

 

「もう片方は……成就すれど、長い孤独の縁が出ています。……運命の力としてはこちらのほうが強い気がします。まるでこちら側が本流かのような」

 

 メイショウドトウが両手をお祈りみたいに組むと、マチカネフクキタルにすがるような眼差しを送る。

「はうう……そんな~、救いはないのですか~?」

 と、訊いた。

 

 ナイスネイチャとしても気になるところである。ぐるぐると考え始める。成就したのに何やら不吉な兆し――。

 

(長い孤独、ねえ……? はっ! も、もしかして離婚とか? 成就したのに即離婚とか成田離婚じゃあるまいし!)

 

 成田離婚とは新婚旅行に出かけた夫婦が旅先でお互いの本性に幻滅し、帰ってきたあと即離婚する現象のことをさす。

 ナリタといっても生徒会の某三冠ウマ娘や、孤独癖のある某皐月賞ウマ娘とはなんの関係もない話である。

 

「こ、孤独の縁って……アタシもそれは困るなー……げ、幻滅されない方法ってあるかな?」

 

 ナイスネイチャは頭のなかで「君とはもう離婚だ! ネイチャ!」とトレーナーに置いていかれそうになって「やだー! アタシを置いていかないでー!」と彼の胴体にしがみつきずるずると引きずられる自分の姿を幻視する。

 

 なお、実際に行った場合、ナイスネイチャにしがみつかれたトレーナーは彼女を引っ張るどころか、ピクリとも動けないだろう。

 

 下手するとジャーマン・スープレックスを「どっせーい!」と大きな株を引っこ抜くような勢いで仕掛けられかねないのはトレーナーの方である。

 

 ウマ娘の身体能力は成人男性をはるかに上回るのだ。見た目は可憐で美しい少女でも侮ってはいけない。

 

「は? げ、幻滅……?」

 マチカネフクキタルは首をかしげた。何を言われているのかさっぱりという顔をする。

 ナイスネイチャは慌てて言い換える。

「だ、大吉にするにはどうしたらいいの?」

 マチカネフクキタルは表情をあらためて、

「ふむ、占ってみましょう」

 と、承ったとばかりにうなずいた。

 かざした手のひらから念を放つように水晶球に力を送り込み始める。念、念、念。すると水晶球が光りだした。これがシラオキ・パワーだろうか。

 

「ふんにゃらーほんにゃらー、シラオキ様~。道はどうすれば開けるかお教えください~……出ました! 開運のヒントは……」

 

 マチカネフクキタルはまなじりを決して、

「愛です!」

 と、力強く告げた。

 

 ナイスネイチャは困惑した。

「あ、あい? どういうこと?」

 

 マチカネフクキタルは、

「それはわかりませんっ! ですが、シラオキ様が伝えたいことはわかります。それは……! 運命を変えられるのは自分次第だと!」

 と、言い切った。

 

「おおっ! さすがシラオキ様いいこと言うじゃんっ!」

「ではお代は千円になりますっ!」

 

 しゅびっと手のひらを差し出してくるマチカネフクキタル。案外、良心的な料金設定である。開運グッズを買うのにもお金はいるから、とは本人談。

 

「ほーい。はい、これ代金。じゃあアタシ行くから。ありがとね。フクキタル、ドトウ」

 

 ナイスネイチャは代金を支払うと、しっぽを揺らして、まるでいまにもスキップで踊りだしそうなほどに機嫌良く帰っていった。

 

 その場に残されるふたり。沈黙が流れる。

 やがて、ぽつりとメイショウドトウが呟いた。

 

「あの~……それ、本当にヒントに……なっているんでしょうか~? おおざっぱ過ぎるような~……?」

 

 首をかしげるメイショウドトウ。そんな彼女にマチカネフクキタルは抗議の声をあげる。

 

「む。シラオキ様を疑うのですか、ドトウさん! そんなあなたの未来も占って差し上げましょう! ふんにゃらー、ほんにゃらー、出ました! ポケットティッシュが十連続! 大大凶です!」

 

 シラオキ様、意外と大人げない。

 

「ひどい~」

 

 

 

 

 

 トレセン学園の廊下にはウマ娘たちの小さなグループがちらほらと点在していた。模擬レース楽しみだね? 早く行かないと席埋まっちゃうかも? そんな声が何処からともなく聞こえてくる。ささやかな熱気と期待感を帯びた言葉がまるで木々の葉擦れのようにそこここで交わされており、生徒たちはそこはかとなく浮わついた雰囲気を醸しだしていた。

 

 澄んだ冬の空気。よく晴れた日の朝。長い直線廊下の窓の列から陽光が伸びて、丹念に磨かれたリノリウムの床へくっきりと格子状の影を映しだしていた。

 

 ナイスネイチャは歩く。一歩進むごとに陽の光がその姿を変えて、きらりきらりと反射した。窓硝子。青空と白い雲が左手側を流れてゆく。

 

 階段を登り降りする響きや、扉の引き戸が閉まる際の残響音。少女たちの会話する声、靴が床を打つ足音。トレセン学園のなかは今日も人々の気配に満ちている。

 

 ナイスネイチャの右手側を模擬レースの告知パンフレットを手にしたウマ娘たちが通りすぎる。誰が勝つと思う? それはやっぱり――。会話の声が遠ざかってゆく。

 

 壁際の掲示板にはチーム募集の案件が書かれた手描きのポップが複数、それと有馬記念の告知ポスターが貼られていた。その図案は有馬記念に出走する予定のウマ娘たちが集結したもので、中央には大本命と目されている少女マーベラスサンデーの姿が描かれている。

 

 ナイスネイチャはトレーナー室に向かっていた。機嫌は大変良く、しっぽを振っている。ウマ耳もはしゃぐようにぴょいぴょい揺れていた。良い気になって口元が緩みそうになるのを抑えようとしては、やっぱり気が抜けて緩んでしまう。瞳には恋する乙女の潤んだ光が宿っていた。

 

「……ふふっ」

(恋愛……成就かー)

 

 いい響きだった。何年も育ててきたこの想いは実るのだとシラオキ様からの太鼓判である。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、向こうから黒髪の少女がやってくるのが見えた。その少女も同時にこちらに気付いたようだった。パッと表情を輝かせる。

 

「おお~っ!? ネイチャだー! わーい! ネイチャー!」

 

 マーベラスサンデーだった。羽ばたくように両手を広げて、こちらにスプリントダッシュを仕掛けてきた。

 

「あ、マーベラス。って廊下では大声ださないの。校内では静かに走る、っていわれてるよね?」

「マーベラース! 細かいことは気にしなーい!」

 

 あっという間にナイスネイチャのもとに到着したマーベラスサンデーは、じゃれつく犬のようにぐるぐるとその周りを回り始めた。しっぽもウマ耳もぶんぶん揺れている。親友のナイスネイチャに対する好意の現れだった。

 

 やがて、ナイスネイチャの正面に立ち止まる。にこにことした笑顔のまま、こちらを見上げてくる。そんなマーベラスサンデーはトレセン学園指定の体操着姿だった。胸には11番のゼッケンをつけている。

 

「ねえねえ、アタシね! これから模擬レースなんだー!」

 

 そう告げたマーベラスサンデーは閉じた傘のように両手を腰の横にあわせながら上体をリズムよく揺らす。彼女は感情豊かであり、常に物事を楽しんでおり、期待感の現れとしてそわそわとした動きをすることが多い。

 今にも踊りだしそうなマーベラスサンデーを見て、ナイスネイチャは得心したようにうなずいた。

 

「あー……朝からテレビ局の人たち来てるもんねー。なんだっけ? 競技トラックのほうで行われるんだっけ?」

 

 そう訊いたナイスネイチャにマーベラスサンデーは大正解! とばかりに両手をパッと天に掲げたあと、握り拳を作って熱心に提案するように胸の前でぐっぐっと振った。

 

「うん、そーなの! ネイチャも今から出ようよ!」

「いやいや、無茶だからそれ……」

 

 ナイスネイチャは肩をすくめて苦笑いをした。

 模擬レースの受付締切はとっくに終わっている。ナイスネイチャにも出走資格はあったのだが、今回は回避だ。

 マーベラスサンデーは耳を垂らした。

「そっかー……それは残念。……じゃあ応援はしてくれる?」

 しかし、すぐに気を取り直して、期待のまなざしをナイスネイチャに向けてきた。

「テレビ観戦になるけど見てるね」

 と、ナイスネイチャが告げると、

「観客席あるよー? ネイチャは見に来ないの?」

 マーベラスサンデーは不思議そうに目を丸くする。ナイスネイチャは視線をそらし頬を染めた。気まずそうに頬をかく。言い訳がましくゴニョゴニョと言葉を重ねる。

 

「うーん、それもいいけど……えーと、ほら、外寒いしさ。風邪ひくと? いけませんし?」

 

 そのとき、マーベラスサンデーの瞳に閃きの光と理解の色が走る。

「あ! わかったー! ネイチャ、トレーナーさんと二人っきりになりたいんダー!」

 と、嬉しそうにしている。

 

「うぇっ!? ば、ばかー! そんなこと大声で言うなー!」

 

 ナイスネイチャは上ずった声でうめいた。慌てて辺りをきょろきょろと見渡しながら、マーベラスサンデーの肩に手をまわして隠すように抱き寄せる。マーベラスサンデーは腕の中でひな鳥のようにぴーちくぱーちくと口を開く。興味津々といった様子でナイスネイチャを見上げた。

 

「ねえねえ! ネイチャとトレーナーさんはいつ結婚するの?」

 

 コウノトリはどこから来るの? とでも訊いてくる幼子のように純粋な瞳を向けてくるマーベラスサンデー。

 ナイスネイチャはびしりと固まった。 

 

「ちょっ」

 

 マーベラスサンデーは善意と親切心をその瞳に乗せて、ふんすと拳をにぎって明言する。大声で。

 

「あのね! おばあちゃんが言っていたんだけど、好きな人と……えーと、添い遂げる? と、すごくマーベラスな気持ちになれるって言ってたの! マーベラス、つまりそれは幸せってこと! アタシね! ネイチャに幸せになってほしいのーーー!!」

 

「うにゃあああっ! うにゃあああああっ! その口か! いらんことを言うのはその口かー!」

 

 ナイスネイチャの指先によって、モチのようにぐーんと伸びるマーベラスサンデーのほっぺた。

 

「ふぁーふぇふぁーす!(マーベラース!)」

 

 マーベラスサンデーは楽しそうにしている。されるがままである。というか、ただのスキンシップぐらいにしか考えていない。照れる親友の姿に嬉しくなる。マーベラスサンデーとしては、ナイスネイチャとトレーナーさんは仲良しだから、結婚したらもっと幸せになれてマーベラス! という気持ちを正直に伝えただけのつもりである。

 

 そんなふうに二人がじゃれあっていると――。

 校内放送が流れ始めた。

 

『ぴんぽんぱんぽーん』

 トレセン学園の理事長秘書、駿川たづなが直接読み上げるスローテンポなアナウンス音。

 

 二人は揃って天井を見上げた。

 

 わずかに間を置いて、

『模擬レースに参加するウマ娘のみなさーん。競技トラックのほうへ移動をお願いしまーす』

 おっとりのんびりとした牧歌的な雰囲気でウマ娘たちに指示を出すのであった。

 

 放送が終わった直後、校内はにわかに活気付く。もう始まるらしいよー。いこいこー。などとウマ娘たちが移動する気配が深まる。話し声とともにあちらこちらから扉を開ける音や足音などが聞こえてきた。

 

「……って、ほら、マーベラス呼ばれてるよ!」

 ナイスネイチャはマーベラスサンデーの頬を離すと、その背中を送り出すように軽くはたいた。

「行った行った!」

 マーベラスサンデーはうなずく。

「うん、わかったー!」

 駆け出してゆく。振り向きざまに手を振ってくる。

「ネイチャ応援しててねー!」

「はいはーい」

 手を振り返すナイスネイチャであった。

 

 

 

 

 

 ナイスネイチャはトレーナー室の前にたどり着いた。

 扉を開けるまえに心の整理を始める。

 

(マーベラスめー……。ネイチャとトレーナーさんはいつ結婚するの? だなんて。そんなこと言われたらますます意識してしまうじゃん……アタシ、顔赤くなってないよね?)

 

  ナイスネイチャはクールダウンするように両頬をぺちぺちと叩く。胸に手を当てて深呼吸をした。髪を手櫛で整える。身だしなみも確認する。トレセン学園指定の冬の制服姿もばっちり。ちゃんとシャワーも浴びてきたし問題なし。いつも通りのナイスネイチャになっている、はず。

 

(いつも通りいつも通り……よし)

 そして、トレーナー室の扉を開けた。 

 

「おいっすー。トレーナーさん、午前のトレーニング終わったよー」

 

 ――しかし、そこには誰もいない。

 点けっぱなしのテレビが音と光を放っているのみだった。室内は暖房がついていて暖かった。拍子抜けした様子でナイスネイチャは中に足を踏み入れる。

 

「ありゃ……いないのかな」

 

 どこかに出かけたのかな? 部屋のなかを見回す。ソファーの前のガラステーブルにはトレーナーのスマートフォンが置かれたままだった。

 次に壁に吊り下げられたトレーナーの外套を見つめる。携帯電話を持たず、防寒着も羽織ることもせずに出かけたのであれば、遠くに行ったわけではないのだろう。

 じゃあ待っておこうかな――と考えながら、何とはなしに外套を眺めていると気付いたことがある。ナイスネイチャは歩みよった。じっと近くで観察する。

 

(……けっこうクタクタになってるよね、このコート)

 

 クリーニング代も積み重なるとけっこうな出費である。洗ってあげようかな? 丸洗いできるタイプだっけ、これ? と外套のタグを見ようと手に取って裏返した。

 

 すると、そのポケットから何かが床に転がり落ちる。

 手のひらに乗るサイズの小箱だった。

 

「なんだろ、これ」

 ナイスネイチャは拾って蓋を開いた。

「……え?」

 息を飲む。

 

 そこに収まっていたのはシンプルな指輪だった。トレーナーが身に付けるにはサイズが小さすぎる。明らかに女性用のものだ。

 その輝きはどう見ても本物の金の質感で、デザインもやや地味ではあるが決して安っぽくはない。

 

 直感的に思う。

(婚約指輪……?)

 なぜ? なぜ、彼はこのようなものを?

 

 すぐに答えへたどり着いた。そんなの決まっている。婚約指輪を持ち歩く理由なんて近々誰かにプロポーズをしようと思っているからじゃないか。

 

 すると、だれに? という疑問が頭に浮かぶ。

 もしかして贈る相手は――。

(アタシ?)

 いや、そんなわけがない。何を夢見ているんだろう。

 まだ告白もしたわけじゃないし、されたわけでもない。自分とトレーナーは恋人関係なんかじゃないのだ。

 

 つまりトレーナーは自分の知らない女性と付き合っていて、結婚を誓い合うような仲で……?

 

 ナイスネイチャが混乱し始めたそのとき、背後で扉が開く気配がした。

 

 

 

 

 

 時は少しだけさかのぼる。

 

 トレーナーはダートコースに向かっていた。

 たしか、あの日の午前はナイスネイチャはそこでトレーニングをしていたはずだ。まだそこにいる可能性は高い。

 

 トレーナー室で彼女が帰ってくるのを待っていれば、会えるのかもしれない。だが、一刻も早く彼女の無事を知りたい。その一心だった。まだ失われていないのだと、彼女は生きているのだと。逸る心が足を前へ前へと動かそうとする。とても待ってなどはいられなかった。

 

 彼女の笑顔を、優しい声を、その熱を、暖かな心をすべて取り戻したのだと確かめたかった。求めていた。愛しい少女の生きている証を。希望を。

 

 やがて、到着する。

 トレセン学園のダートコース。ちらほらとウマ娘たちの練習している姿が見えた。砂ぼこりが朝焼けの空気のなかにうっすらと浮かび上がり、少女たちが向こうから駆けてきては砂を踏みしめる音とともに通りすぎて、カーブの向こうへ消えてゆく。靴の裏の蹄鉄が砂を掴み巻き上げる。その後ろからトレーニングをしている小集団がウォーミングアップ程度の速度で走り去っていった。

 

 すいーつ、すいーつ、すいーつ――。

 少女たちが声を併せてリズムよく歩様を刻む。だだだ、と前方を横切ってゆく。集中しているようで、外ラチの柵の前に佇むトレーナーを振り向くこともなかった。

 

 なんの変哲もない、いつも通りの練習風景。

 

 その長閑とすらいえる光景に気が削がれる。ずいぶんと急いで走ってきたから呼吸が乱れていた。膝をついて、肩で息をする。ため息。自分は何をやっているんだ。

 

 自嘲の笑みがこぼれた。

 

 冷静にならなければ。ずいぶんと混乱していたらしい。これではトレーナー失格だ。思えば、こんなふうに冷静な判断ができないからこそ、担当ウマ娘を死に追いやってしまったのではないか?

 脳裏に冷たくなった少女の顔がフラッシュバックする。不幸に追いやった。彼女も。彼女の大切な人たちもみんな。そうだ。それは自分のせいなのだ。

 

 だから、今度こそは間違えないようにしないと。

 

 ――その死の運命を肩代わりしなくてはなりません。つまり、あなたが――。

 

 女神シラオキの言葉が脳裏によみがえる。

 

 もちろんだ。こんな自分なんかどうなったっていい。彼女の代わりに死ねるなら本望だ。それにナイスネイチャの隣に自分はいないほうがいいのかもしれない。

 

 だが、自分は彼女のトレーナーだ。ナイスネイチャという少女のトレーナーなんだ。彼女が幸せになれるように手を尽くす。それがせめてもの罪滅ぼしだ。

 

 ――しばらく待ったが、ナイスネイチャが駆けてくる気配はない。ここにはもういないようだった。すれ違いになってしまったらしい。

 

 トレーナーは踵を返した。

 

 

 

 

 

 ――ナイスネイチャの背後で扉が開く気配がした。

 

 ナイスネイチャは慌てて外套のポケットに小箱を突っ込むと、元の場所に外套を吊るした。振り向く。

 

 そこにいたのはトレーナーだった。

 

 今の瞬間を見られただろうか? いけないことをしてしまった気がして、気まずさと罪悪感がナイスネイチャの胸中に貼り付いた。ちらりと上目遣いでトレーナーの様子を伺う。トレーナーはおばけに出会ったような顔をして固まっている。ナイスネイチャは泣きたくなった。

 

(うう、トレーナーさんそんな顔しないで。アタシ、見るつもりじゃなかったんだって……)

 

 ナイスネイチャとトレーナーの視線が絡み合う。

 やがて、トレーナーが幽鬼じみた足どりでナイスネイチャの前にやってきた。ナイスネイチャは口元を固く閉じて、ぎゅっと目をつぶる。無言のまま、彼がこちらを見つめてきていると感じた。

 

 ――その時間がしばし続く。

 ナイスネイチャは焦りはじめた。

 

(なんでなにも言わないの? 怒ってる? 怒ってるよね、トレーナーさん。そ、そうだよね。勝手に人のコート漁って、トレーナーさんのその、大切な人――に贈る予定の婚約指輪見ちゃったんだもんね。アタシ最低だよね)

 

 恐る恐る目を開ける。顔をあげた。傷付いたような表情のトレーナーの姿があった。ますます、罪悪感が深まった。彼が息を吸う気配。何かを言おうとしている。怒られる? ナイスネイチャは狼狽えた。とっさに口が開いた。

 

「ごめん!」「すまない!」

 

 二人は同時に謝った。

「……ふぇっ?」

 ナイスネイチャはぽかんとする。

 なんでトレーナーが謝るの? そんな想いで見つめているとトレーナーの目に涙が浮かびはじめた。ナイスネイチャはびっくりした。混乱してしまう。

 

(泣くほど辛かったの!? ご、ごめん! どうしようどうしようどうしたら!?)

 

 ――抱きすくめられた。

 

「……うぇっ!?」

 ナイスネイチャの思考は振り切れた。

 

「ネイチャ……! ネイチャ……!」

 トレーナーはナイスネイチャを抱きしめたまま、大粒の涙をこぼし続けた。全身から深い悲しみがほとばしっていた。もう離さないとばかりに背中に手が回される。トレーナーはうなされるように何度も少女の名前を呼んだ。

 

「すまない……! ネイチャ! すまなかった……!」

 

 尋常じゃないその様子にナイスネイチャは呆気にとられる。トレーナーがここまで感情を露にして泣くのは今までに無いことだった。しばらくされるがままのナイスネイチャだったが――やがて、ぽつりと呟いた。

 

「……トレーナーさん?」

 

 その声にトレーナーは我に返ったようだった。ナイスネイチャを引き離す。視線がぶつかり合う。ほどなくトレーナーは下を向いた。何かを言おうとして言えず、口を閉じる。明らかに様子がおかしい。ナイスネイチャは眉をひそめた。彼の腕に手をそえる。不安と心配がない交ぜになった表情で訊いた。

 

「何かあったの……?」

 

 

 

 

 

 トレーナーはソファーに座っていた。ナイスネイチャが温かい飲み物を持ってきた。湯気をたてるマグカップが足の低いガラステーブルの卓上に置かれる。ナイスネイチャは彼の隣に腰を降ろした。肩と肩が触れあう。

 

「テレビ消そうか?」

「……いや、大丈夫だ」

「……そっか。音量は下げとくね」

 

 ナイスネイチャはリモコンを手に取った。室内の音が小さくなってゆく。画面のなかではインタビューを受けるナイスネイチャとトレーナーの姿が映っていた。リモコンを置いた。揺らぎのような気配が生まれる。

 

 やや間があって、

「それで……?」

 ナイスネイチャがトレーナーの膝に手を置く。その横顔を見る。憔悴しきった彼の表情は痛ましかった。

 

「どうしてトレーナーさんは泣いていたの?」

「……それは」

 言いよどむ気配。ナイスネイチャは身を乗り出す。

 

「どうしても言いたくない? アタシなんかには話せないこと? アタシ、そんなに頼りにならない?」

 

 ナイスネイチャは畳み掛けた。こんな言い方をすれば、彼がどう答えるかはわかっていた。

 

「そんなことは……ない」

 

 トレーナーはそう言って押し黙る。涙のあとが頬に残っていた。それほどまでにその心は痛めつけられてしまったというのに彼は頑なに話そうとはしない。

 

 直感だ。この人は何か隠している。重要なことを。

 いま聞き出さないといけない、と感じた。この人がどこか遠くに消えてしまう前に。そんな予感があった。

 

「じゃあ、教えてよ」

 

 わかっていた。無理やり聞き出すなんて最低だと。嫌われたくない。傷付けたくない。それでも。

 ナイスネイチャはそんな臆病な心を押さえつけて、言葉を続けた。立ち向かわなければ、何も変わらないから。

 

「あのね……トレーナーさん。どうしても踏み込んじゃいけないことならアタシも身を引くよ。でもね……こんなに悲しそうなトレーナーさん見たらさ……ほっとけないじゃんか。助けたいじゃんか。だからさ――」

 

 少女は指先を伸ばす。彼の目もとに残った涙を優しく拭ったあと、その手をそっと包み込む。

 

 

「――泣かないで、トレーナーさん」

 

 

 トレーナーははっとした様子でナイスネイチャを見つめた。そして、押し黙ると目を閉じてうつむく。

 

 少女は待った。彼が話すときを。

 

 やがて、トレーナーはまぶたを開いた。ナイスネイチャのほうを見つめてくる。その目には覚悟が宿っていた。

「……わかった。ネイチャ、突拍子もない話になるけど、いいか?」

「……大丈夫。アタシ、トレーナーさんを信じてるからさ。どんな話でも受け入れるよ」

 ナイスネイチャは真剣な表情でうなずいた。

 

「……その、だな」

「うん」

「……信じられないかもしれないが。俺は……」

「うん」

「時を……越えたらしい」

「…………うん?」

 

 

 

 

 

 マグカップのなかの飲み物はすでに冷めきっていて、口をつけられることもなく卓上に置かれたままだった。

 

 ナイスネイチャは額に指先を当てながら、整理するような口調でこう言った。

「えーっと、つまりトレーナーさんは有馬記念の日から今日まで時を越えて戻ってきた、ってこと? シラオキ様とやらの力で?」

 トレーナーはうなずく。

「そう、みたいだ」

「しかも、アタシがその……故障? して、有馬記念で死んじゃうわけ?」

 と、ナイスネイチャが言うとトレーナーは訂正する。

「ああ。いや、正確には故障はしていない。バランスを崩して転倒したときに打ち所が悪くて……という事故だ」

 

 ナイスネイチャはむむむ、と目をつぶって言われた内容を吟味するように考え込んだ。

 やがて、目を開く。眉をひそめて困り顔になる。

 

「……たしかに受け入れるとは言ったよ? 言ったけど、さすがにタイムスリップなんてさ。突拍子もないよね」

「……だよな」

 

 トレーナーは肩を落とす。そうだ、こんな話を信じてくれるほうがおかしい。しかし、ナイスネイチャはそんなトレーナーの手を取った。トレーナーは顔をあげた。視線が絡み合う。彼女の目には穏やかな信頼の光が宿っていた。

 

「……ネイチャ?」

「でもさ……アタシ、信じたい」

 

 ナイスネイチャは照れ笑いをしたあと、

「ほら、アタシたちってさ。これでも結構付き合い長いじゃん? だから、トレーナーさんが嘘ついているとかついていないとか、わかる」

 と、柔らかなまなざしをこちらを向けた。

 

「……ねえ、トレーナーさん、なにか時を越えたっていう証拠はないの? ネイチャさんのこのめんどくさい理性の抵抗をなんとかできるヤツをばばーんとくださいな」

「証拠か……」

 

 テレビでは模擬レースが始まろうとしている。トレーナーはそれを見て思い付いたことがあった。

 

「今から始まる模擬レースの展開、着順、走破タイムは全部覚えているぞ? それで証明できないか?」

「え、そんなの覚えてんの?」

 

 ナイスネイチャがびっくりした顔をする。トレーナーは首を縦に振る。

 

「有馬記念と同じ2500メートルの模擬戦。出てくるウマ娘も一部は本番で出てくる。すごく参考になりそうだったからな。何度も見ているうちに覚えた」

「うわー、勉強熱心。じゃあ、まあ、訊いてみようかな。このレースどうなるの?」

 

 ナイスネイチャが興味深そうにこちらを覗き込んでくる。トレーナーは頭に叩き込んだデータを思い出す。

 

「まず、勝つのはマーベラスサンデー」

「ほうほう。まあ、本命だもんね」

 

 自分の親友の少女が強いのはよくわかっていた。とくに意外な結果でもなんでもない。続きを促すような視線をトレーナーに送る。ここまではまだ予想の範疇でしかない。

 

「走破タイムは2分34秒2。上がり3ハロンは37秒1。道中は四番手。第三コーナーでポジションを一つ上げて、最終コーナーに入るときには二番手にまで上がってくる」

「お、具体的になってきたねー。それで、ほかには? マヤノとかどう? 上位進出は確実そうだけど」

 

 二着か三着辺りかな? とナイスネイチャは考えた。マヤノトップガンという少女はマーベラスサンデーに負けず劣らず、現役最強クラスのウマ娘だ。

 

「マヤノトップガンは今回、着外に終わる。七着だ」

「へ? マヤノ強いよ? そこまで負ける要素ある?」

 

 にわかに信じがたい答えが返ってきた。ナイスネイチャは目を丸くする。そのままトレーナーは続けた。

 

「道中二番手につけて、そのポジションのままずっと進んでゆくんだが……逃げ争いにこだわって掛かってしまって、スタミナを使いきって直線で沈む」

「ふーん。マヤノがねえ……」

 

 そのあともレースに出走するウマ娘がどうなるかを説明した。全着順とその着差も含めて。そこまで当たれば、もはや予言だろうというレベルの内容だった。

 

 

 そして――。

 

 

『走破タイムは2分34秒2! 上がり3ハロンは37秒1です! マーベラスサンデー! 両手を振ってファンにアピール! 有馬記念の大本命はやはりこの子なのか! 遅れてきた大器にふさわしい走りでした!』

 

「ウソ……本当にトレーナーさんのいう通りになっちゃった。何から何まで……」

 片手を口元に当てて呆然とするナイスネイチャ。テレビの画面のなかでは全着順が表示されている。トレーナーの言った通りの数字がそこには並んでいた。

 

「……信じてくれた?」

 と、トレーナーが横目でナイスネイチャを見てくる。

「う、うーん。まさか生中継のレースをここまでぴったり当てられたらそりゃ、ねえ」

 これがトレーナー以外の誰かに観せられたものだったら、何かしらのトリックかとも考えただろう。

 だけど、傷付いた彼の表情や涙は本物だったし、なによりも自分の愛する人をこれ以上疑い続けるのは嫌だった。

 

 ナイスネイチャは肩をすくめた。

「トレーナーさん信じるっきゃないでしょー」

「そうか、ありがとう。ネイチャ」

 トレーナーは今日、初めて笑った。それを見たナイスネイチャは苦笑すると悪戯っぽいまなざしを向けてくる。

 

「それで? その未来を見てきたトレーナーさんはこれからどうしたいの?」

 

「……ネイチャ、その、だな」

「うん」

「有馬記念、出走取り消し……してほしい」

「……」

 

 ナイスネイチャは目を丸くしたあと、すぐに表情を改めた。トレーナーの言葉を待つ。ウマ耳がピンと立った。

 

「俺は……俺は……ネイチャに生きていてほしい。ネイチャが有馬記念に出たいって気持ちはすごく、わかっている。だけど、何かあってからじゃ遅いんだ」

「有馬記念を……回避?」

「……ああ」

 

 つかの間、無言の時間が流れる。テレビでは有馬記念の勝利者インタビューが行われるようだ。

 

『勝利者インタビューです――それでは本日の模擬レースを見事素晴らしい走りで――』

 

 画面の中ではマーベラスサンデーが元気よくインタビューに答えている。

 

『本番の有馬記念も期待が持てますね?』

 

『そーなの! アタシすっごく楽しみなのー! だってね! 有馬記念にはね! ネイチャが出てくるんだよ!』

 

『ナイスネイチャ選手……ですか?』

 

『うん! だってね! アタシ、ネイチャと走るのが夢だから!』

 

「夢……か」

 ナイスネイチャは指先を宙に伸ばした。何かを夢見るような遠い目をしたあと、ゆっくりと腕を降ろしてゆく。小さな吐息。膝のうえに手を降ろす。足元を見つめた。

 静かに顔をあげる。こちらを振り向いた。

 

「……うん、いいよ。トレーナーさんがそういうなら回避、しよっか」

 

 ナイスネイチャは弱々しく微笑んだ。ウマ耳がぺたりと力無く垂れている。膝のうえの両手がぎゅっと握られた。

 

「ネイチャ……」

 トレーナーが申し訳なさそうに肩を落とす。

 

 ナイスネイチャは今度は片手をひらひらさせて、

「も、もー。やだなあ。そんな顔しないでよ。トレーナーさんが傷付くことなんて、ないんだよ?」

 と、言った。

 

 テレビの画面ではマーベラスサンデーが飛びっきりの笑顔を見せている。

 

『ネイチャー! 見てるー? 有馬記念は一緒に走ろうね! アタシ待ってるよー! マーベラース! マーベラース! マーベラーースッ!!』

 

 インタビューは終わったようだった。画面が切り替わる。ナイスネイチャは話題を変えた。

 

「……マーベラスには謝らないとね」

「すまない……俺のほうからも彼女には謝っておく」

「ううん。いいの。それにさ。レースは有馬記念だけじゃなくてその先にもあるんだからさ。トレーナーさんもずっと一緒にいてくれるんだし」

 

 その言葉を聞いたトレーナーが押し黙る。

 

「……」

「……トレーナーさん?」

「え? あ、ああ。そ、そうだな。ずっと一緒に……」

 

(あれ? トレーナーさん今なにか嘘ついた?)

 ナイスネイチャは一瞬、違和感を覚えた。

 

「……一緒にいられるよね?」

「あー……」

 トレーナーは少し考える素振りを見せて、

「来年はほら、チームが結成されるだろう? でもネイチャなら頑張れば大丈夫だ、きっと」

「や、たしかに来年はそうだけどさー。厳しいのはわかっているけど。実績ないとチームから除籍されかねないし」

 

 質問の答えとしては間違っていないのだけれど――なんだかはぐらかされた気がする。

 

「それより今日はもうトレーニングを休みにしないか。有馬記念も回避したことだし。なんなら出かけるか? 行きたいところがあるならどこにでも連れていってやるぞ?」

「ん、珍しいね。トレーナーさんからそう言うの」

「……まあな。そんな気分になるときもある」

 

 トレーナーは寂しそうに笑った。

 ナイスネイチャは彼の気分転換になるのならと思い、

「……じゃあ、いっちょ出かけちゃう?」

 と、応えた。その時だった。

 

 ガラステーブルの上でトレーナーのスマートフォンが振動した。

 二人の視線が吸い寄せられる。

 『駿川たづな』と表示されていた。

 

「……無視しようか」

「や、トレーナーさん。さすがにそれは……」

 

 促すような視線をナイスネイチャが送る。トレーナーは少し迷ったあと、電話をとった。電話口での挨拶もそこそこに駿川たづなが本題を告げてきた。トレーナーは怪訝な表情になる。

 

「はい。はい。あ、え? 未提出? ですが……それはもう送ったはず……え、出てない? ……あ」

 

 何かに気付いたように固まるトレーナー。そうだ。時間が戻ったのだとしたら、あの大量にこなしたはずの仕事は――。

 

「……未来で書いた書類はみんな白紙に戻ったんじゃない?」

 横で肩をすくめるナイスネイチャ。

「終わったはずの仕事をもう一回……うわー、アタシだったら耐えられんわー……」

 

 電話を終えたトレーナーは、

「……あー、えーと」

 気まずそうな色を視線に乗せた。

 

 ナイスネイチャは気遣わしげに眉をひそめる。

「トレーナーさん、忙しいもんね。うん、いいよいいよ。また今度いこうね」

「すまん、この穴埋めはするから」

「本当にいいってば。もー、真面目か。じゃあ、アタシもういくね」

 

 ナイスネイチャは立ち上がった。出入口に向かう。ドアノブに手をかける。トレーナーの視線を最後まで背中に感じながら、部屋をあとにした。

 

 

 

 

 

 ナイスネイチャは寒空の下を歩いていた。口元を片手で覆い隠しながら、首をかしげる。ぼやいた。

 

「トレーナーさん、あと一つか二つぐらい隠し事している気がする……カンだけど」

 

 先ほどの光景を思い出す。

 

 ずっと一緒にいられるよね? という質問に動揺していたように見えた。その約束は何年も前から交わしていたはずなのに。なぜだろう? 彼は簡単に約束を違える人ではない。一緒にいられない理由ができた? たとえば、結婚したい人がいるとか? それならば、まだ良い。いや、良くないけど。すごく良くないけど。自分以外の女性と付き合っている姿なんて想像するだけで泣けてくるけど。

 

 でも、それ以外の理由だとしたら? 

 

 胸騒ぎがした。

 

 シラオキ様はいるんだろう、きっと。

 神様の力でナイスネイチャを死の運命から救いだしてくれた。だけど、世の中にはただより高いものはない、なんていう格言もある。

 

 ナイスネイチャは疑問を覚えた。

 

 そんな奇跡は――。

 なんの代償も無しに行えるものなのだろうか?

 

 

 

 



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第7話 立ち向かうと決めた日

 

 

 

 

 

 トレセン学園では朝と夜の二回、職員の作った食事がビュッフェ形式で提供される。その一方で昼食は各自の自由裁量だ。お弁当で済ませたり、外食したりと人それぞれの過ごし方を送る。もちろん、トレセン学園の食堂(兼カフェテリア)は昼も営業していた。その場合は食券を購入して食べることとなる。噂によると笠松トレセン学園から転入してきた某ウマ娘はレースの賞金やグッズ販売で稼いだお金の大半を食券購入にあてたりしているとか、していないとか――。

 

 時刻は正午。

 天にも届かんばかりにご飯を盛ったどんぶりと、登山ができそうなぐらい惣菜が三角錐に積み重ねられた皿を載せたトレイを手にした芦毛のウマ娘とすれ違う。べつにいつもの光景だから気にならない。ナイスネイチャは食事の載ったトレイ(こちらは普通の量)を運びながら、きょろきょろと席を探していた。すると――。

 

 

 目の前の席が空いているよ、とばかりににこやかに手を振ってアピールする少女マヤノトップガンの姿があった。

 

 

 彼女と同席して、昼食を摂り始めたナイスネイチャだったがいまいち食が進まない。心中をかすめるのはさきほどのトレーナーの寂しそうな表情だ。つい何度も思い出してしまう。まるで何かを諦めてしまったかのような――そんな彼の様子が気がかりだった。

 

(シラオキ様の起こした奇跡っていうのと関係があるのかな……?)

 

 そんなことをスプーンを持ったまま考え込む。視線の先で突っつかれるカレーライスはちっとも減っていない。そんな悩める少女の背後では、さきほどすれ違った芦毛のウマ娘がご馳走さまと合掌したあと空っぽになったトレイを持って立ち上がる。べつにいつもの光景だから誰も気にしない。

 

(一緒にいるって約束を守れなくなる理由。それって……)

 

 ナイスネイチャは眉をひそめて物思いに沈んだ表情をしている。目の前でハンバーガーをパクついていたマヤノトップガンが不思議そうに目をまんまるくした。

 

「あれれ? どうしたの、ネイチャちゃん。浮かない顔をしてるよー。食欲ないの?」

 

 マヤノトップガンの前にはポテトとコーラが置かれていた。なんともジャンクな献立である。野菜なんて芋ぐらいしかない。彼女は大の野菜嫌いなのだ。ちなみににんじんは別腹。甘いから野菜じゃないと思っていたとは本人談。

 

「なにか悩みごと?」

 と、言った。

 片手にストローの差し込まれたグラスを持ち、黒く泡立つコーラを飲みながら、じーっとこちらを見つめてくる。

 

「……あー、いや、なんでも――」

 

 ナイスネイチャはごまかそうとするが、それよりも先にマヤノトップガンはコーラの入ったグラスの底面を開催、とばかりにトントンと卓上に打ちつけるとトレイに置く。右手を大きく天にかかげて元気よく宣言した。

 

「マヤちんのお悩み相談室、テイクオーフ! さ、ネイチャちゃん話してみて!」

 

 ずずい、と食べかけの食事が載ったトレイを横にずらすと興味津々といった様子で身を乗り出してくる。

 

「や、唐突だなー。本当になんでもないんだって」

 

 手で制止するような仕草をして困り顔になるナイスネイチャ。マヤノトップガンは両手で握りこぶしを作り、唇をとがらせる。抗議するように腕を振った。

 

「ぶーぶー! なんでもなくないよー! ネイチャちゃんがホントに悩んでいるときぐらいわかるもん!」

 

 どうやら見抜かれてしまったようだった。

 

(その直感力はどこから来るんだか)

 

 マヤノトップガンというウマ娘が天才といわれるゆえんの一つはその直感力である。その場に置ける正解をすぐにつかみ取り、隠された真実を見抜く能力だ。もちろん天才とはいっても万能ではないので、エスパーじみた読心術が使えるわけではない。学習能力と直感力がきわめて高いということを除けば、ただの年頃の多感な少女である。

 

 そんなマヤノトップガンがウマ耳をこちらに向けて、力になりたいという気持ちを全身から立ち登らせながら、

「マヤはネイチャちゃんのバディなんだよ! バディはお互いに助け合うもの! 友情! らんでぃーんぐ! ね、話してみて! マヤならぎぎゅーんと解決してみせるからー!」

 と、眉を力強くあげて宣言してきた。指先を飛行機の機首に見立てて急上昇、といったポーズをとる。

 

「う、うーん……」

 ナイスネイチャは思案した。

 

(マヤノってだいたいすぐに物事の本質を見抜いちゃうからなー。相談するのも悪く……ないのかも?)

 

 そう結論づける。ナイスネイチャもマヤノトップガンに倣って、カレーライスの載ったトレイを横に避けた。

 

「あー、じゃあ、さ……」

 

(とはいえ……さすがに未来からトレーナーさんがやってきた、なんて言えないよね)

 

「マヤノはシラオキ様の伝説って知ってる?」

 と、切り出す。

 マヤノトップガンは一瞬きょとんとしたあと、はっと心当たりがあるという表情に変わった。

 

「シラオキ様? あ、知ってる! この前トレーナーちゃんが教えてくれた! トレーナーちゃん物知りだから! たしか、シラオキ様は時を超える力を持っている、だったかなー? えーと……ほかにはねー」

 

 マヤノトップガンは指を小さな唇にあてて左上を見た。少しだけ間があって、こちらに向きなおる。

 

「代償と引き換えにその奇跡を授けるそうですよ、って言ってたかなー? ……それがどうかしたのー?」

 と、首をかしげた。

 

(やっぱり――代償とかあるんだ)

 

 予想通りといえば、そうだ。なんのリスクもなしに時を越えられるのだったら今頃トレセン学園は時間逆行者だらけだろう。ナイスネイチャは両手を組んで軽く上体を乗り出しながら、

「その代償って……なんだと思う? たとえば、たとえばの話なんだけど、死ぬはずだった女の子を助けるために過去に戻る必要があって、その奇跡を起こすために必要な……代償」

 と、訊いた。

 

「んー? だいしょう? うーん……」

 代償とはなにか? そう問いかけられたマヤノトップガンは考え込むように左下方向に視線を向けた。自分のなかの感覚と対話するように。ナイスネイチャは思う。そう、今はこの娘の直感力が頼りだ。頭の隅にちらついてならない最悪の可能性を否定してほしかった。

 

 やがて、マヤノトップガンはさらっと言った。

 

「命じゃない? マヤ、なんとなくそんな気がする」

「いのち……?」

 ナイスネイチャは繰り返した。いのち、いのち、と。

「そっか……」

 

 ああ、やっぱり。薄々そんな気はしていた。予想が外れてほしいなと思っていた。自分の代わりに愛しい人が死ぬなんて想像したくもないから意識の外に追いやっていたのだけれど、目の前の天才少女は言う。時を越える代償は命だと。彼女の直感が導きだした答えはそうそう外れることがない。

 だから、たぶん、自分のトレーナーは時を越えるためにろくでもない取引を行ってしまったのだ。

 胸の奥がずんと重苦しくなるのを感じた。

 

「……ん、ありがと、マヤノ」

 

 悩みごとは深まったが、答えが出たことで多少なりとも今後の方針を考えられるかもしれない。ナイスネイチャは相談に乗ってくれた友人にぎこちない笑顔を返す。

 

 マヤノトップガンは拍子抜けといった様子で、

「うん……って、ネイチャちゃんの悩みってそれなの? 恋わずらいとかじゃなくて?」

 と、言った。

 

 ある意味、間違ってはいない。ただし、好きな人がたぶん近いうちに死にそうなんだけど、どうしたらいいの? という重い話だけれど。

 

「そうだよ。……あー。ほら、前マヤノが貸してくれた少女漫画あったじゃん。時間旅行のやつ」

 

 あとはトレーナーと自分の問題だ。これ以上、目の前の親切な少女を巻き込むのもよくない。ナイスネイチャはマヤノトップガンの目を覗き込んでにっこりと笑った。

 その営業スマイルにも似た嘘の笑顔にあっさりと引っかかったマヤノトップガンは大きな声ではしゃぎ始めた。

 

「あ……もしかして! わんだあウマ娘! ネイチャちゃん、続きが気になって夜しか眠れないんでしょー!」

 

(……さすがにマヤノでもトレーナーさんが時間逆行してきて、なんて発想をするわけがないよね)

 

「そうそう……ソーナンデスヨー。やー、続きが気になるナーって……あと夜しか眠れないのは普通じゃね?」

 

 いつも通りの自分の振る舞いを意識する。内心の動揺を悟られないようにする。幸いにも気付かれずにすんだ。マヤノトップガンは純粋な心の持ち主だ。あっさり人の言葉を信じるところは昔から変わらない。

 とはいえ、さっきみたいに鋭く見抜いたりすることもあるから油断はならないのだけれど。

 

 マヤノトップガンは祈るように両手を組むとうっとりとした表情になる。波に揺れるように上体をくねらせた。

 

「いいよねー! ヒロインのワンダちゃんを助けるために時を越えて助けに来るだなんて! 鉄板の展開だよねー! 命がけで時渡りをした銀幕のヒーローさまがターフにまで来てくれるの! とくに京都レース場の時計塔でのシーン! ワンダちゃんをめぐるモーリ伯爵とのフェンシング対決! それがはわわって感じでまたステキなのー!」 

 

 興が乗ってきたのだろう。マヤノトップガンはきらきらと瞳を輝かせて、こちらにぐっと身を乗り出してきた。

 

「最後はワンダちゃんがナギナタで闇を切り裂いて光のウマ娘になって終わるんだよね!」

「アタシまだそこまで読んでないケド……」

 

 いとも容易く行われる結末バレという所業。

 そしてなんだその超展開。

 

「――あとねあとね! ほかにもネイチャちゃんにも読んでほしい面白い漫画があってね。マヤのオススメは――」

 

 そのあともマヤノトップガンがお気に入りの少女漫画について熱くネタバレし続けるのを延々と聞いた――たぶん、そのうちの何冊かはもう読まないと思う。密室トリックの解説までされたうえ犯人はゴルシとか知りたくなかった。

 

「マヤ、話してたらまた読みたくなっちゃったー! じゃあねー!」

 

 マヤノトップガンが両手を羽ばたくように広げて食堂を走り去ってゆく。その小柄な後ろ姿はあっという間に出入口の向こうへと飛び出していった。

 

 ひとり取り残されたナイスネイチャは頬をかく。

 

「……いやー、マヤノといいマーベラスといい、どうしてアタシの周りには暴走超特急みたいな娘が集まるんかねー」

 

 だけど、その明るさに救われて、少しだけ心が軽くなったのも感じている。問題が解決したわけじゃないけれど、少しは落ち着いて考えることができそうだ。

 

 ナイスネイチャはため息をついた。頬杖をついて一点を見つめる。椅子の下で足首を交差させるように組んだ。

 

 ――命じゃない?

 

 その言葉が脳裏をよぎる。マヤノトップガンという少女は正解を即座に導きだすという類いまれな直感力を持つ。そんな彼女が導き出した答え。

 

(命、ね……)

 

 もしかしたら、とは思っていた。

 

 訊きにいこうか。トレーナーのもとへ。

 問い詰めようか。命を差し出して時を越えたのか、と。

 

 でも、それは自分が不安だから、それを解消しようとしているだけの行為にほかならない。

 そんなのは自分勝手だ。無理やり聞き出して、それで……? 本当にそう、なのだとしたら?

 

(……そうだったとしてアタシに何ができるの?)

 

 トレーナーが隠し事をしているときの仕草はわかる。何年も付き合ってきたから。

 なんで隠そうとするのか。すぐにわかった。

 

(アタシに心配をかけさせたくないから、だよね)

 

 きっと、彼は傷付いている。

 

(トレーナーさん……)

 

 あの人は泣いていたのだ。ナイスネイチャが生きている。ただ、それだけのことで。

 命がけで助けに来てくれたのだ。それくらい想ってもらえるのは嬉しい。嬉しいけれど……それよりもずっと。

 

(トレーナーさんが死んじゃったら、アタシは悲しい)

 

 そりゃ自分だって生きていたい。でも、愛する人が自分の代わりに不幸を背負って死んでしまうのは嫌だ。そんなことになるぐらいなら、と思う。

 

(トレーナーさんには生きていて欲しかった。あなたの隣にアタシがいられないのは寂しいけれど、大切な人にはずっと幸せで生きていてほしいじゃん……)

 

 ナイスネイチャは出口のない袋小路に入り込んでしまったような、途方に暮れた想いを抱えた。

 

(……どうしたらいいんだろう)

 

 答えが一向に出ないまま、陽は暮れてゆく――。

 

 

 

 

 

 ナイスネイチャは闇の中にいた。

 

 自分の手足がよく見える。どうも身体全体が淡く光を放っているようだった。ナイスネイチャは自分専用の勝負服を着ている。辺りを見回す。何もない。

 

(あ。夢だこれ)

 

 明晰夢というものがある。はっきりと意識があるのに夢を見ていると自覚できる状態。

 

 世の中には夢の中でも意識があって自由自在に動ける人というのがいるらしいが、ナイスネイチャにはそんな芸当はできない。多くの人と同じように行き当たりばったりな夢を見ることしか出来ないし、夢の中の行動に干渉できることもない。珍しい体験をしているな、と思う。

 

「へー……なんか面白い……」

 手を握りしめたり開いたり、ジャンプしたりステップを踏んだりしてみる。身体は自由に動くようだった。

 

 ふと、思い立ってウイニングライブの練習をしてみる。

 

 だれも見ていないのだから自身をごまかす必要もない。選んだのはセンターポジションのステップ。二年以上も踊れていない勝利の舞。腕や足をリズムよく動かしてゆく。自分でも意外なほど振り付けは完璧に覚えていた。

 やがて、一曲分を踊り終えた。

 

「……やっぱりセンターで踊りたいよね。ライブでもさ」

 

 有馬記念で歌う曲は毎年変更される。

 去年は「NEXT FRONTIER」でその前年は「ユメヲカケル!」だっただろうか。どちらの場合もナイスネイチャは三着以内に入れずバックダンサーとして参加した。

 

 もちろんレースに負けたからといって手を抜くことはしない。それはレースで競いあったライバルにも、応援してくれた観客にも礼儀を欠く行為だからだ。だからちゃんと全力で踊り抜いた。

 

 ただ、それでも、ウマ娘にとってセンターポジションとは憧れなのである。その場所で歌えるのはたった一人だけ。

 

 栄光の象徴。

 

 かつてナイスネイチャはそこに立っていた。ライバルであり、越えられない壁だった無敵のトウカイテイオーを初めて差しきり、有馬記念に勝利したあの日。

 

 ファン投票で選ばれたウマ娘たちと競い合い頂点に立った。ライブ会場では無数のサイリウムの光が揺れていた。大観衆の真ん中で歓声に包まれながらナイスネイチャは歌った。夢のような時間だった。

 

 あの場所でまた輝きたい。キラキラ一番星のように。

 

 そんな想いとは裏腹に成績はどんどん下降して、勝ち星からは遠ざかっているけれど――。

 

「……有馬記念、出たいな。やっぱり」

 

 ナイスネイチャはつま先で足もとを蹴った。両腕を後ろに回してうつむく。諦めたいけど。諦めなくちゃいけないけど。それが無難なんだとはわかっている。

 

「……でも、トレーナーさんと約束したもんね。アタシ、レース中の事故で死んじゃうからって」

 

(アタシがレースを回避したら、アタシは生き続けることができる。でも……本当にそれでいいのかな。その原因って故障したとかじゃなくてアクシデントなんだよね?)

 

 ゆえに走りきれる可能性は充分にあるんじゃないか、とナイスネイチャは感じていた。

 

 レースに出走することは問題なくできたわけで、深刻な怪我や不調を身体にきたしていたとは考えにくい。それに世の中では、脚部不安を抱えたウマ娘がトゥインクルシリーズを駆け抜けていたりすることも珍しくはない。

 故障の恐ろしさを知らないわけじゃないけれど、走れたのに走らなかったというのは、一人のウマ娘として、それはそれで後悔しそうな気もするのだった。

 

 だが、出るにせよ出ないにせよ、だ。

 気がかりはもう一つ。

 

(トレーナーさんはやっぱり命を代償にして時を越えたのかな……?)

 

 と、考えたときだった。

 闇のなかに光が現れた。目を閉じる。

「わっ! なに!? ……トレーナーさん?」

 ゆっくりと瞼を開く。

 

 すると、そこにはトレーナーがいた。思わず、ナイスネイチャは触れようとする。だが触れようとしても触れることができない。指先が空を切るだけだった。

 立体的な映像とでもいうのだろうか。ナイスネイチャはまじまじと観察する。トレセン学園の三女神像が見える。どうやら庭園の噴水前のようだった。

 

 彼の前に見覚えがない栗毛のウマ娘がいた。二人は向かい合っている。やがて、その少女は告げる。

 

「たとえ奇跡が成ったとしても、彼女の隣にいられる時間は僅かにしか残らないでしょう」

 

「ああ、構わない。俺なんかの命で済むなら使ってくれ。ネイチャが生きてくれさえいれば、それで」

 

「彼女の死は運命が望んだことです――誰かがその死の運命を肩代わりしなくてはなりません。つまり、あなたが背負うことになります。それでもいいと仰るんですね?」

 

「わかった。それでいい」

 

「……本気なんですね。ああ……この奇跡は成る。この取引は成立します。成立、してしまいます」

 

「もし、ここから運命を変えられるとしたら。それは、あの少女が――」

 

 

 映像はそこで消えた。

 そして、栗毛のウマ娘だけがそこに佇んでいた。

 

 

 ナイスネイチャを彼女をじっと見つめた。

 なんで自分がこんな夢を見ているのかがわかった。正確には見ている、というより目の前の少女に見させられているのだろう。その正体には検討がつく。

 

「シラオキ様……だよね?」

 

 ナイスネイチャは少女を見つめた。栗毛の長い髪を後ろで結っており、左のウマ耳の下に花簪をさしている。服装は白い小袖に緋色の袴を着ている。足もとは白足袋に草履。草履の後ろには足首に固定するための結び紐がついている。いわゆる巫女の衣装だ。

 

 その少女は――シラオキはナイスネイチャの問いに首肯した。ナイスネイチャは一歩を踏み出した。

 

「どうして――」

 近付く。胸に手をあてて、問う。

「どうしてあんな取引を受けたの?」

「……」

 

 シラオキは悲しそうに顔を伏せる。ナイスネイチャは首を振った。淡々と告げる。

 

「アタシ、トレーナーさんに死んでほしくないよ。トレーナーさんの命を犠牲にして生きても、嬉しくない」

 

 シラオキは頭を下げた。

 

「……申し訳ありません。私だって、こんな不幸を生み出すような時間の巻き戻し方はしたくないのです。ですが、彼の望みを叶えるには私だけの力では足りなかった」

 

 ナイスネイチャは姿勢を正した。真剣なまなざしでシラオキの目を覗き込む。

 

「取り消せないの?」

「一度成立してしまえば……それを覆すのは難しい」

 

 ナイスネイチャはその言葉に引っかかりを覚えた。

 

「……難しい? できない、じゃなくて難しい?」

「私ひとりの力ではどうにもなりませんが……ナイスネイチャさんが奇跡を起こせば、あるいは」

「アタシが……?」

「はい……私があなたに会いにきた理由もそこにあります」

「……その話、聞かせてくれる?」

 

 シラオキはうなずいた。

 

「魂には定められた運命の道というものがあります。ナイスネイチャさんは善戦すれど大舞台での勝利には縁がない、そんなウマ娘になるはずでした――トレーナーさんに出会わなければ。……あなたとトレーナーさんの強い意思と結び付きが、その身に宿る運命を変え続けてきたのです。まるで、物語の主人公のように。……結果として、あなたの周囲の人々に変化を与えるほど、その影響力は大きくなっていました」

 

 シラオキは続ける。

 闇のなかを歩く。しっぽがなびく。立ち止まる。

 

「ですが運命には修正力があります。振り絞った弓の弦のように押し込めば押し込むほど反発力は大きくなる。有馬記念の時点で修正力は限界まで高まっていました。そして強引に辻褄合わせが成されてしまった――その結果がナイスネイチャさんの事故でした」

 

 と、ここでシラオキは振り返った。

 

「しかし、運命は手強くはありますが、絶対無敵の存在ではありません。あとほんの少し修正力に過負荷をかければ、死の運命そのものを無くすことも可能でしょう。無理やり作られたばかりの今なら不安定な時空構造をしていますから」

 

 ナイスネイチャは訊いた。

「……死の運命を無くすってことは、アタシもトレーナーさんも生きられるってこと?」

 その問いかけに首肯が返ってきた。

「はい」

「どうすればいいの?」

「それは……」

 

 そこでシラオキはじっとナイスネイチャを見つめて考え込むような雰囲気になる。

 

「ふむ……勝負服、ですか」

 

 ナイスネイチャは自分の手足に視線を送った。

「あ、これ? なんでこの格好なのかはわからないんだけど気が付いたらこうだったんだよね」

 

 シラオキは得心したように頷く。

「あなたの魂にとって、レースはまだ終わってないのですね。ウマ娘が自分の運命を変えられるとしたら、やはりそれはレースが……わかりました。ナイスネイチャさん」

 

 シラオキは確信を持った口調で、

「有馬記念に勝利することが運命を変えられる唯一の方法です。そこが歴史の分岐点、そこを変えてしまえば修正力の壁を破れるはずです」

 と、告げた。

 

「アタシが有馬記念を勝てばいいの……? そうすれば、トレーナーさんは助かるの?」

 

 シラオキはうなずいた。

 

「……わかった。アタシ、有馬記念出るよ。出て、勝って、必ずトレーナーさんを助けてあげるんだ」

 

「頑張ってください。ナイスネイチャさん。勝利を目指して、そして、未来をその手に――」

 

 

 

 

 

 目が覚めた。起き上がる。

 薄暗い室内。窓の外を見れば、月と星空。

 

 夢の内容は鮮明に覚えていた。

 トレーナーがナイスネイチャの未来を変えるために時を越えた代償として命の大半を引き換えにしたということ。有馬記念に勝てば、彼の失われたはずの時間を取り戻せるということ。

 

 トレーナーと一緒に生きていく未来を掴むためにはナイスネイチャは有馬記念に出走し、勝利せねばならない。

 

 ふと、横を見つめた。向こう側のベッドにはルームメイトの姿。ふくらんだシーツが寝息と共にゆっくりと上下している。髪をおろしたマーベラスサンデーの寝顔はじつに穏やかで幸せそうだった。

 

「むにゃむにゃ……もう食べられないよー……」

 

 最高のライバルで親友の少女。

 有馬記念ではこの娘にも勝たないと駄目なのだ。

 一度だけレースで対決したことはあったけれど、その時は影すら踏むことも出来なかった。正直いって勝ち目は薄いのかもしれない。

 だからといって諦める気はなかった。

 

 静かにベッドを抜け出すとクローゼットから折り紙のトロフィーを取りだした。机の上のスタンドライトをつける。椅子を引いて腰を降ろす。見つめるトロフィーの向こう側に有馬記念の舞台、中山レース場のゴール板の風景を重ね合わせた。

 

「……絶対にトレーナーさんを死の運命なんかに連れていかせないから」

 

 その瞳に情念を込めて、呟いた。

 書きかけの手紙を取り出した。

 

「運命を変えてやるんだ。それで、アタシは」

 

 手紙の両端を握りしめる。

 破り捨てた。

 

「トレーナーさんに何があっても隣にいるよって伝えるんだ。もう決めた。勝ったら、トレーナーさんが天国に逃げられないように抱き付いてやる。そして、これからもずっとトレーナーさんのそばで長生きしてやるんだ……!」

 

 手紙なんてもう自分には必要ない。想いは正面から伝えるものだから。願いは、勝ち取るものだから。

 

 

 

 

 

 翌日。

 トレーナー室にて。

 

 

「トレーナーさん。大事な、すごーく大事なお話があります!」

 

 机にダンッと両手をついてナイスネイチャがまなじりを決する。仕事に追われていたトレーナーは気圧されたように上体をそらした。

 

「ネイチャ?」

「あと……アタシね。怒ってます。これ以上ないくらい」

 

 ナイスネイチャは息を吸った。ぎゅっと目をつぶり、両手を握って思いっきり下に振り下ろす。次の瞬間、まぶたが開いた。瞳には怒りの炎が宿っている。

 

「トレーナーさん! アタシ、トレーナーさんの命を犠牲にするのなんて絶対イヤだ! そんなの全然嬉しくないよ! なに考えてるの! 死んじゃったら意味ないじゃん! トレーナーさんのバカァァァァッ!!」

 

 まるで爆弾でも落としたかのような怒りの声が室内を震わせた。あまりの大声にトレーナーはびっくりして椅子から立ち上がりかける。膝が机にぶつかり、商店街ロゴのついたペンが卓上をころころと転がった。

 

「ネイチャ……」

 

 肩を震わせるナイスネイチャは二度三度と深呼吸した。感情が昂るあまり目の端っこに浮かんでしまった涙をこぶしでぐしぐしとぬぐう。自分の胸に手をあてる。念には念を入れて、もう一度長く息を吸って、ゆっくりと吐いた。トレーナーを見つめた。

 

「……アタシもさ。シラオキ様に会ったんだ。そこで知ったの。トレーナーさんがアタシを生かすために過去に戻る代償として命を差し出したっていうこと」

 

 トレーナーは観念したように肩を落とした。

 

「そうか……すまん。黙っていて。ネイチャの負担になるつもりはなかったんだ」

「それで? アタシが有馬記念を回避して、そのあとはどうするつもりだったの?」

 

 ナイスネイチャは追及の手をゆるめない。目が据わっている。なにがなんでも聞きだしてやる、という意思がその灰色の瞳には宿っていた。

 

「……トレーナーを辞めて、どこか誰も知らない場所でひっそりその時を待とうと思っていたよ」

「アタシを置いて?」 

「……ああ」

 

 ナイスネイチャはトレーナーから目をそらさない。じりじりとした緊張の時間が流れる。

 

「やだ」

「ネイチャ、わかってくれ」

 

 トレーナーは立ち上がるとナイスネイチャの肩に手を伸ばす。少女はその指先をするりと躱すと腕を組んで、ぷい、と視線を明後日の方向に向ける。

 

「やだ。ネイチャさんはそんな未来を認めません。ねえ、トレーナーさん。アタシやっぱり有馬記念に出ることにしたから」

 

 ナイスネイチャはそう告げると日光が注ぎ込む窓辺へと近付いた。ポインセチアの花を指先でさわる。背後からトレーナーが追いかけてくる気配があった。

 

「ネイチャ。だめだ。それではネイチャが」

 

 彼のほうを振り返った。背中から降りそそぐ太陽の光がナイスネイチャの髪を透かし輝かせる。トレーナーは立ち止まった。少女の灰色の瞳がこちらを射抜いた。

 

「あのね、聞いて。トレーナーさん。シラオキ様が言っていたんだけど――アタシが有馬記念に勝ったら運命を変えることが出来るんだって。そこで勝ちさえすればトレーナーさんの命もどうにかできるみたいなんだ」

 

 トレーナーは呟いた。

「ネイチャがレースに勝てば……運命が?」

「うん、そう。だからアタシ、レースに出たい」

「……もし、また転倒なんてしたら」

 

 そう言いかけるトレーナーにナイスネイチャは首を振る。恐れることなんてないとばかりに微笑む。

 

「有馬記念に出たら故障するとは限らないでしょ? それに実際アタシの足は骨折なんてしてなくて、バランスを崩して転倒したときに当たりどころが悪かったのが直接の死因、そうだよね?」

「それは……そうだが」

 

 言いよどむトレーナーにナイスネイチャは近付いた。正面に立つと胸に手をあてた。

 

「アタシね。運命と勝負することにしたの。今度の有馬記念で一着になれれば、アタシの勝ち。勝ったら、トレーナーさんの命を返してもらうってね」

「ネイチャ……」

「だからさ。運命なんかに負けない。負けたくない。勝ちたいよ。トレーナーさん。お願い、力を貸して」

 

 トレーナーは迷った様子を見せる。やがて、頷いた。

「……わかった。それがキミの望みなら」

 

 

 

 

 

 トレーニングの日々が続いた。

 

 

 

 

 

 有馬記念の日が近付くに連れて、ナイスネイチャの口数は少なくなっていった。

 敗北は愛する人の死に繋がる。なにがなんでも勝たなければならない。そのプレッシャーはナイスネイチャの心身に多大な緊張と重圧を与えていて――。

 

 

 そんなある日のことだ。

 

 

 ナイスネイチャはトレセン学園近くの喫茶店にやってきていた。

 テーブルのうえのコーヒーにはまったく口がつけられていない。ナイスネイチャは終始、うつむき加減だった。

 

 店の扉が開かれた。ナイスネイチャのウマ耳がぴょこんと立つ。視線を出入り口の辺りに向ければ、そこにはふたりのウマ娘の姿があった。マーベラスサンデーとマヤノトップガンだ。彼女たちはきょろきょろと辺りを見回す。案内役の店員がやってきて、彼女たちに「二名様でよろしいですか?」と話しかける。

 

 ふたりは首を振った。

「友達と待ち合わせをしているの☆」

 と、マーベラスサンデーの元気な声。

 

 きょろきょろしていたマヤノトップガンの視線がこちらに定まる。ぱっ、と笑顔になった。

「ネイチャちゃん発見!」

 やっぱり彼女も元気いっぱいな様子だった。

 

「ネイチャちゃん、こんにちマヤヤ~!」

「こんにちマーベラース!」

「うん。マヤノもマーベラスもこんにちは。急にごめんね。呼び出しちゃって」

 

 ふたりはナイスネイチャの向かい側の席に座る。

 

「全然いいよ! 気にしないで! でもー……ネイチャちゃんが呼んでくれるなんて珍しいね? ウマインが送られてきたときはびっくりしちゃった! マヤとマベちんに大事なお話があるんだよね? どーしたの?」

 

 マヤノトップガンが首を傾げた。

 横でマーベラスサンデーが両手で自らの口もとを隠しながら、

「もしかしてー……マーベラスな恋の相談なのかもー☆」

 と、言った。目に好奇心の輝きが灯る。

 

「え、うそー! ひょっとするとネイチャちゃんが大人のオンナになっちゃったとかー?」

 

 マヤノトップガンが両手を頬に当てて、しっぽをぶんぶんと振りながら頬を赤く染める。

 なお、マヤノトップガンのなかの『大人のオンナ』の行為とは好きな人とキスしているのが最大級の進んだ関係である。その先のことなど想像すらできない。意外なほど箱入り娘なのがマヤノトップガンという少女であった。

 

「あ、あはは……アンタたちはもー。変わらんねー」

 ナイスネイチャが苦笑いした。

 

「話を聞くまえにー……! まずはなにか頼もー!」

 マーベラスサンデーがメニューを広げる。横からマヤノトップガンも覗き込んでくる。迷う時間は十秒もなかった。即断即決マーベラスである。

 

「アタシ、サンデー! このマーベラスなサンデーが食べたーい!」

「マヤはこの三段重ねのアイスにするー!」

 

 マヤノトップガンも空軍のパイロットのように決断が早い。流れるような動きで卓上の呼び出しボタンを押した。ふたりはやってきた店員に注文を告げる。電子PADを持った店員がタッチペンでその内容を入力し、去ってゆく。

 

「それでネイチャのお話ってなーに?」

 マーベラスサンデーが訊いてきた。

 

 ナイスネイチャは喉を鳴らした。手のひらにはじっとりと汗をかいている。視線がさ迷いがちになった。

 

「あー……えっと……さ」

 ナイスネイチャは机の下でこぶしを握りしめる。

「……今度の……有馬記念の話、なんだけどさ……」

 

 ナイスネイチャは押し黙る。

 

 マヤノトップガンとマーベラスサンデーは目をきょとんと丸くした。

 てっきり恋バナか何かかと予想していたら、レースのお話だった。ウマ娘にとってレースというのは意外な話題ではないのだけれど、わざわざ大事な話だから、と呼び出してまでするような話なのだろうか?

 

「有馬記念?」

「それがどうかした?」

 

 とはいえ、自分たちの親友は意味もなくそんなことをするような子ではない。二人は首をかしげつつも、ナイスネイチャの言葉の続きを待つことにした。

 

「ふたりとも……出走するよね? ファン投票、一番人気と二番人気で……」

 

 ナイスネイチャは自分の告げようとしている言葉がどれだけ醜悪なことがわかっていた。

 

 トレーニングをしても不安は募る一方。最近負け続きのウマ娘が有馬記念という日本最高峰の大舞台で一着を取る――それがいかに難しいことかはよくわかっている。

 

 ナイスネイチャのなかの悪魔がささやいた――。

 彼女たちに共犯関係になってもらえれば……?

 

 一度そんな気弱な発想が浮かんでしまえば、容易に振り払えるようなものではなかった。

 

 

 マーベラスサンデーとマヤノトップガンという有馬記念の優勝候補筆頭のふたりは、ナイスネイチャの親友でもある。

 

 そして、ふたりとも友達想いの優しい娘だ。ナイスネイチャの愛しい人の命がかかっている、と知れば、平常心ではいられないだろう。

 

 全ての真実を話せば、この娘たちなら信じてくれるだろうという確信があった。しかし、それはふたりに重い十字架を背負わせることと同義だ。

 

 ナイスネイチャは思考の海に沈んでゆく。

 

 ――トレーナーさんの命を助けたいんだ。あの人が死んじゃうなんて……そんなのいやだ。

 

 だからさ。勝ち目のある二人には今回の有馬記念を回避するか――もしくは出たとしても、アタシに――。

 

 ――その先に続く言葉を考えたくない。なんとおぞましく、身勝手で、下劣な頼みなんだろうか。

 

 自分はふたりのウマ娘としての誇りを侮辱しようとしている。親友に最低な行為を行おうとしている。

 

 おそらく、全てを知ってしまえば、ふたりはレースを回避するだろう。仮に出走してきたとしてもその優しさが仇となって本領を発揮できない。

 有馬記念最有力の二人がどうにかなるのなら、今のナイスネイチャの実力でも勝算はかなり高い。

 

 だが、その行為をしてしまえば、ナイスネイチャは一生自分自身を許せなくなる――。

 

「……ネイチャちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ?」

 気付けば、マヤノトップガンが心配そうにこちらを見つめてきていた。

「眉がきゅっ、てなってるね? ……有馬記念、緊張しているの?」

 と、マーベラスサンデーも気遣うように声をかけてくる。ウマ耳がへにゃりと垂れていた。

 

 

 ナイスネイチャは――。

 

 

「……そ、そうなんだー。あはは、じつはネイチャさん柄にもなく追い詰められててさ。自信ないんだー……ほら、最近勝ってないじゃん? いよいよアタシもダメかなって」

 

 やっぱり、言えなかった。

 言えるはずがない。とっさにごまかしてしまう。とはいえ、自信がないのは本当のことだから、決して嘘というわけでもない。

 

 マヤノトップガンはナイスネイチャの言葉を額面通りに受け取った。ネイチャちゃん、落ち込んでるのかな? 元気になってほしいな、と優しい気持ちが溢れてくる。

 

「……ふーん。そうなんだ? でも、ネイチャちゃん、そんなに落ち込むことないと思うなー? 今度の有馬記念ね。マベちんか、ネイチャちゃんか、あとはヒシアマさんぐらいしかマヤに勝てそうな子いないよ? ネイチャちゃんはすごく強いウマ娘さんなんだよ?」

 

 マヤノトップガンがそう言えば、横からマーベラスサンデーも両手をぐっ、と握りしめて身を乗り出してくる。

 

「そーだよネイチャ! 自信持って! アタシ、ネイチャと走るのが夢なんだから!」

「……夢?」

 と、ナイスネイチャが聞き返した。マーベラスサンデーは力強く話しつづけた。

 

「うん! あのね! アタシ、URAファイナルズで優勝したネイチャを見てからね! 胸がずっとドキドキわくわくマーベラスなの☆ そんなネイチャと最高の舞台でマーベラスなレースがしたいから、アタシ、トレーニングすっごく頑張ったんだよ! トレーナーから指摘された悪い癖だって全部治したし、どんなにきついメニューだって、マーベラスな気持ちで乗り越えてきたもの!」

 

 ナイスネイチャが夢を叶えたその姿は彼女のルームメイトにして大親友の少女の心に大きな影響を与えていた。

 もしかすると、ナイスネイチャが善戦ウマ娘のままであれば、マーベラスサンデーはここまで強くなれなかったかもしれない。

 

「そうだよ、ネイチャちゃん。マベちん凄いんだよ。秋の天皇賞だって、マヤが勝てそうだったのにばびゅーんって交わしてゆくんだもん! ネイチャちゃんはあのときはあまり力を発揮できなかったけれど……って、あれ? 思い出してみれば……なんでだろ? ネイチャちゃん、まるでなにか見えない力に邪魔されているみたい。本来の実力が発揮できていれば、マヤとマベちんとネイチャちゃんでトップ争いしていてもおかしくないのに……」

 

 マヤノトップガンが違和感に気付いたように眉をひそめる。世間はナイスネイチャがピークを過ぎたとか、能力が落ちたとか言っているのはマヤノトップガンも知っていたけれど、そんな言説はとても信じられなかった。今のナイスネイチャと併走トレーニングを行ってみれば、わかる。

 その競走能力はURAファイナルズに優勝した頃と比べても遜色ないどころか下手するとその頃よりも強いんじゃないか、とマヤノトップガンは感じていたのだ。

 

 むむむ、と考え込みはじめたマヤノトップガン。

 

 そこに店員がやってきて、彼女のまえに三段重ねのアイスの乗った皿を置く。マーベラスサンデーの前にはストロベリーソースのかかったサンデーが置かれる。

 思考は中断を余儀なくされる。

 

「わ! 美味しそー!」

「いただきマーベラース☆」

 

 スプーンを動かして、せっせと甘味を口に運びはじめるふたり。ウマ耳がぴょこぴょこと揺れていてご機嫌そうだ。

 

「とにかくー。ネイチャちゃんは大丈夫だよ。ほらほら、元気だしてー? あ、この限定チーズケーキ味おいしー」

 マヤノトップガンが笑顔で励ましてくる。匙はそのあいだも止まらない。じつに器用なものである。

 

「アタシも何度だって言ってあげる! ネイチャがんばれー! きっと望みは叶うよー☆」

 マーベラスサンデーもそう締めくくる。口もとにクリームをつけながら幸せそうにスプーンをくわえていた。

 

 そんな笑顔の親友たちの姿にナイスネイチャは吹き出した。

 

 ――ああ、駄目だなアタシ。こんな良い子たちの期待を裏切ったらだめじゃんか。アタシは信頼に応えるウマ娘なんだから。トレーナーさんがそうあれ、と育ててくれたアタシ自身をアタシは否定できないんだ――。

 

「……マーベラスもマヤノもずいぶんとアタシを信じてくれてるんだ?」

 

「うん。だってネイチャちゃん強いもん。ねー?」

「ねー☆」

 

「……ふふっ。そうだね。アタシ、有馬記念がんばるからさ。良い勝負に……しようね?」

「わーい☆ アタシ、すっごく楽しみー☆」

「マヤも負けないよー!」

 

 

 

 

 マーベラスサンデーとマヤノトップガンには結局真実を話せずじまいだった。でも、それでいい。自分は全力全開の彼女たちに勝ちにいくしかないのだから。

 

 

 

 

 トレーニングの日々はさらに続いてゆく――。

 

 

 

 

 トレーナー室のホワイトボードには中山レース場のコースが描かれている。各コーナーのポイントや要所での位置取りについて記入されていた。ただ、最終直線の部分だけは何も書かれていない。

 ふたりはそのホワイトボードを見つめながら、話し合いをしていた。

 

「ネイチャ……今度の有馬記念なんだが、マヤノが逃げて速い流れになる」

「そっか、未来で見てきたから展開とかがわかるんだ。ちなみに誰が勝ったの?」

「すまん。直線は見ていなかったし、着順は覚えていないんだ……混乱していてそれどころじゃなかったから」

 

 ナイスネイチャは気まずそうに眉をひそめた。

「あ、ごめん。えっと、じゃあ誰に注意したらいいかな」

 

 トレーナーはしばし考え込む。

「……脚色としてはマーベラスとマヤノが抜けていたように見えた。この辺りが怖いところだな」

「マーベラスにマヤノか……うん、アタシもふたりが最大の壁になると思う。でも、越えるしかないよね。……あ、ヒシアマ先輩はどう?」

「彼女は追い込み型だからな……対策といっても、しのげ、としか言えない。前の二人を交わしても気を抜かないことってぐらいだ」

「わかった」

 

 やがて、トレーナーがぽつりと言葉をもらす。

 

「なあ、ネイチャ……」

「なに? トレーナーさん」

「無事に帰ってこいよ」

「……うん」

 

 

 

 かくして時は過ぎてゆき――。

 

 

 

 有馬記念 前夜 クリスマスイヴ――。

 

 全てのトレーニングを終えて、あとは本番を待つのみとなった、そんな夜。トレーナーの自室にノックの音が響く。扉を開けるとそこにはナイスネイチャが立っていた。制服の上から白いロングコートを羽織っている。

 

「トレーナーさん、ちょっと歩かない?」

 と、照れ笑いを浮かべた。

 

 

 

 ふたりは庭園に来ていた。ゆっくりと歩みを進めてゆく。少女の唇から白い吐息がこぼれる。こちらを振り返った。首をかしげて優しげな色を瞳に宿す。

 

「そのマフラー、まだ使ってくれてるんだ?」

 

 ナイスネイチャが彼の首もとを見つめる。そこに巻かれた手縫いのマフラーは何年も前に彼女がトレーナーにプレゼントしたものだった。

 

「ああ、ネイチャがくれたものだからな。愛用しているよ」

「そっか。嬉しいな。編んだかいがありましたわー」

 

 少女は口元に笑みをつくり、前を向く。

 ふたりのあいだを冷たい風が通りすぎた。髪がなびく。コートの裾がはためいた。少女はうつむいた。

 

「手を繋いでもいい?」

「……ああ」

 

 その指先が彼の手を掴む。

 肩と肩が触れ合いそうな距離。

 月明かりがふたりに降り注いでいる。庭園の噴水の前にたどり着いた。視界の先では、星の光のように煌めく水面が月を映し出していた。

 

「あのさ。トレーナーさんに話があるんだ」

「俺に?」

「うん」

 

 ふたりはベンチに座る。前方に街灯の光が見えた。影が伸びる。水のせせらぎの音。少女はトレーナーと手を繋いだまま、目を閉じて彼の肩に頭を乗せる。イヤーカフをつけたウマ耳がリラックスするように横方向に揺れていた。

 波にたゆたう小舟のような穏やかな静寂。寄る辺ない冬の凍える空気のなかで生きる者の熱を確かに感じた。

 

「……トレーナーさん。本当はね、有馬記念が終わったら話そうと思っていたんだけど」

 

 ナイスネイチャはゆっくりと目を開いた。深呼吸をした気配。肩から離れるとトレーナーへと乗り出すように顔を近付けてくる。目線が絡み合う。少女の頬は上気し、その灰色の瞳が潤んでいる。白い吐息が溶けた。

 

「アタシ、トレーナーさんのことが好き。ずっと前からあなたのことが大好き。これからも一緒にいたい。あなたのいない日々なんて受け入れられない。だから、アタシをあなたの恋人にしてほしいんだ。……どうかな?」

 

 トレーナーはナイスネイチャから目をそらさなかった。いまはここにない手紙のことが脳裏に浮かぶ。愚かな男が全てを失ってから初めて知った少女の想い。

 

 ――もし、アタシを選んでくれるのなら。

 ――この手を繋いでくれますか?

 

 トレーナーは繋いだその手を握りかえす。ナイスネイチャの瞳を覗き込み、渡せなかった言葉を告げた。

 

「……俺もネイチャのことが好きだよ。愛してる」

「ホント? ……やった。ふふっ……言質はとったぞー? トレーナーさん? じゃあ遠慮はいらないよね?」

 

 ナイスネイチャは嬉しそうに笑った。その目にからかうような色を込めた。衣擦れの音。ふたりの距離が近付いて、離れた。少女は照れくさそうに唇を撫でる。

 

「これでトレーナーさんはネイチャさんが予約済みでーす、なーんてね? ねえ、結婚もしてくれる? アタシ、指輪が欲しいな。もう買ってあるんだよね?」

「どうしてそれを……」

「ごめんね、知ってた。わざとじゃないんだよ? トレーナーさんのコートを持ち上げたときに偶然落ちてきてさ。見ちゃったんだ。すぐに戻したけど」

 

 視線をそらす。足もとを見つめる。自身のツインテールの髪先で頬を隠しながらもごもごと言葉を転がす。

 

「たぶん、そういう意味の指輪なのかな、相手はアタシだったらいいなって期待してた。……まあ、そうじゃなかったら怖いから。そうと決まったわけじゃないし、トレーナーさん他に好きな人がいるのかもよ、って自分で自分に予防線を貼ったり、勝手に落ち込んでいたりしたんだけどさ」

「ははっ。そうか」

「トレーナーさん?」

 

 ナイスネイチャが首をかしげる。トレーナーは、

「じつは俺もなんだ。ネイチャが俺のことをなんとも思ってなかったらどうしよう。俺の一人相撲だったらって」

 と、言った。

 それを聞いたナイスネイチャはぷっと笑う。

 

「そっか。アタシたち、どっちもおんなじような考え方をしていたんだね。いやー、さすがアタシのトレーナーさん。似た者同士ですなー」

「そうだな……もっと早く言えていたらよかったのかもしれないな」

「……両想いなのに七年もかかっちゃうんだから笑っちゃうよね。……それでさ。エンゲージリングを買ったぐらいなんだし、結婚してくれたりはするのかな?」

「……それは」

 

 トレーナーは口をつぐんだ。気持ちは通じあっていたとしても――共にいられる時間が僅かだというのなら、添い遂げたとしてもすぐに別れは来る。ひとりぼっちにしてしまう。そんなことをしてもいいのだろうか?

 ナイスネイチャは彼から視線を外した。街灯の光が当たらない影へとその目を向けた。

 

「……答えられない理由はわかるよ、トレーナーさん。本当はさ。アタシ怖いんだ。明日のレース」

「ネイチャ……」

「だってトレーナーさんの命がかかってる。わかってるよ、ウマ娘にとってレースは命がけ。だからさ、アタシの命をかけるだけなら、そんなに怖くない。だけど……大切な人の未来を背負って走るのはやっぱり怖い」

 

 繋いだこの手を離したくない。ふたりの気持ちは同じなのに明日のレースで全てが決まってしまう。この人は二度と手の届かない遠いところへ旅立ってしまうかもしれないんだ。

 

「大好きな人の隣。そんな欲しくて仕方なかったものが手に入ったのに……なにもかも無くなっちゃうかもしれない……アタシはそれが怖くて怖くて仕方ないんだ」

「どんな結果になっても俺は後悔しない。運命を受け入れるよ」

「そんなのやだよ。一緒にいて。約束して」

「……ネイチャを苦しめるかもしれないのにか」

 

 ナイスネイチャはそれに対して何も言わずにトレーナーを抱きしめてきた。離さないとばかりにギュッと。

 

 

 

 

 



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第8話 グランプリに夢を乗せて

 

 

 

 

 12月25日 クリスマス 中山レース場

 

 

 まだレースも始まっていないというのに抑えきれない高揚感を語り合う人々で開門前の正門はごった返していた。推しのウマ娘がいかに可愛く速いかについて語っていたり、レース展開の予想をいっぱしの識者気取りで解説していたり、あるいはパンフレットに載っているレーシングプログラムや中山レース場の案内図を黙々と熟読していたりする者もいる。

 

 一般客のなかにもちらほらとウマ娘がいた。集団のなかでウマ耳がぴこぴこ。しっぽがそわそわ。ウマ娘たちは一人で来ている者もいれば、友達同士だったり親子連れだったりと様々な顔ぶれだった。

 

「おかーさん、まだはじまらないのー?」

「もうちょっとだから、ね?」

 

 待ちくたびれて、ぐずる幼女のウマ娘を母親が宥めていたりする。もしかすると今日の有馬記念を見たあと、この小さなウマ娘も大レースに憧れを抱き、将来トゥインクルシリーズを走ったりするのかもしれない。

 

 人々は今日のレースではどんな伝説が見られるのだろうか、という期待感に満ち満ちていた。有馬記念とは毎年のようにドラマが生まれるそんな偉大なレースなのだ。

 

 レース場の壁や柱などには有馬記念のポスターが貼られている。そこには出走予定のウマ娘たちが描かれていた。

 ファン投票の結果や最近の競走成績を反映してか、構図のなかではマーベラスサンデーが主人公のようにもっとも大きな扱いをされていた。マヤノトップガンやヒシアマゾンといった少女も目立つ位置でポーズをとっている。ナイスネイチャは端っこに小さく載っているだけで、どう見ても脇役として扱われていた。

 

 人々の頭上は青く澄んで晴れ渡っており、その上空をテレビ局のヘリコプターが通過してゆく。

 

『ただ今、私たちは中山レース場の上空を飛んでおります! ごらんください! 早くもここから見てもわかるほどの大行列ができています! さきほど入ってきました情報によりますとすでに十万人近い観客が集まっているとのことです! また、近隣の駐車場は満車状態ですので、これからご来場される方は公共の交通機関をご利用ください!』

 

 高周波にも似たノイズ音が響く機内。席に座る興奮気味のリポーターの声に合わせて、カメラが中山レース場の正門付近をフレーム内に収めた。まるで大河のごとき人の群れが何百メートルも続いていて、到着したバスや近隣の駅舎などから次から次へと人が吐き出されてはその最後尾に合流してゆく。ブレードを回転させるヘリコプターの影が彼らの頭上を羽根虫のように飛び越えていった。

 

 トゥインクルシリーズは日本中の関心を集める一大エンターテイメント、といわれているがまさにそれを象徴するかのような光景だ。中山レース場に来れなかった人々もまた、テレビやスマートフォン、パソコンやラジオといった各媒体を通して、この日の有馬記念に注目していた。

 

 カメラは次に中山レース場を撮影してゆく。芝コース、ゴール前の急坂や310メートルの直線。第2コーナー付近で内回りと外回りに分岐するコースなど、幾多のウマ娘たちが駆け抜けて夢を叶えた――もしくは夢破れた中山レース場をじっくりと映像に収めてゆく。

 

 やがて、収録を終えたスタッフを乗せたヘリコプターは機体をゆっくりと傾けると彼方へと飛んでゆき、地上の中山レース場からは見えなくなった。

 

「走らないでくださーい! 走らないでー!」

 

 開門の時間とともに人々が雪崩れ込んでくる。売店ではウマ娘のグッズが売れに売れてゆく。商品のラインナップは「足りるだろうか」と書かれたどんぶりやURAのロゴが入ったサーモボトルなど色々あるのだが、中でもスターウマ娘をモデルにしたヌイグルミのぱかプチが特に売れ筋のようで、どんどんウマ娘ファンたちの手に渡ってゆく。

 

 さきほど並んでいた親子もぱかプチを買おうとしていたのだが、まごまごしているうちに人気のあるマーベラスサンデーやマヤノトップガンが買えずじまいになってしまった。

 

「困ったわねえ。マーベラスちゃんもマヤノちゃんも売り切れだって」

「えー! ほしかったのにー!」

 幼女のウマ娘が地団駄を踏む。母親が困ったように指をさす。

「この娘のぱかプチならまだあるみたいよ。えーと、ナイスネイチャ?」

「ないすねーちゃん? かわいい名前ー! しらないこだけど速いの?」

「速いかはわからないけれど、頑張ってはいるわよ」

「じゃあ、あたし、ないすねーちゃんのぱかプチにするー。おうえんしてあげるんだー」

「あらあらまあまあ」

 

 がこん、というスターティングゲートの開閉音。

 

 レースが始まった。

 メインレースである有馬記念は午後からなので、いま走っているのはメイクデビュー戦をむかえたウマ娘たちである。

 レース場を走り慣れていないせいか真っ直ぐ走れずフラフラしていたり、隣の娘にぶつかりそうになっていたりするが、誰もが必死にゴールを目指している。そうなのだ。この日のためにたくさん練習してきた。夢を叶える第一歩を踏みだした少女たちに人々は暖かい声援を送っている。

 

 ゴール板を通りすぎたあと、嬉しいという涙や、悔しいという涙を流すウマ娘たち。勝利者の少女が笑顔で手を振ると拍手が起きる。走った結果として、友情が生まれたり、ライバルが出来たり、ウマ娘ひとりひとりの人生に彩りが添えられて、今日もターフやダートには青春の足跡が刻まれてゆくのだった。

 

 

 

 

 

 そんな華やかな舞台の裏で――。

 

 

 

 中山レース場の選手控え室。

 

 ゴール板前のホームスタンドの喧騒もここまでは殆ど届かない。歓声がほんのわずかにピリピリとした振動となって伝わってくるぐらいだった。

 

 室内の空気は張り詰めていた。

 ナイスネイチャは椅子に座って、じっと集中している。トレーナーは脱いだコートを腕に持ったまま壁に背を預けていた。時おり、閉じられた扉を隔てて廊下を行き来するウマ娘の足音や話し声が聞こえてくる。

 

「もうすぐ、だね」

 ナイスネイチャがぽつりと呟いた。

「……そうだな」

「トレーナーさんは緊張してる?」

 ナイスネイチャはちらりとこちらを見つめてくる。トレーナーは頷いた。彼の瞳には少女が認めたくない類いの感情の色が宿っているように見えた。

「……どんな結果になっても受け入れる覚悟はできているよ」

 その言葉を聞いた少女は、

「……そっか」

 寄る辺ない街の真ん中に取り残された小さな迷い猫のような寂しい気持ちになった。震える指先を押さえ付けて、目を閉じて、首を振る。

「アタシ、頑張らないとね」

 不安に揺れる心を隠して、笑った。

 

 ノックの音がした。

 URAの係員が入ってきて告げる。

 

「時間です。有馬記念に出走するウマ娘さんたちはパドックまで移動をお願いします」

 

 ナイスネイチャは首肯した。URAの係員は頷き返すと次の選手の控え室へと足早に去っていった。

 

「じゃあ、行ってくるね」

「ああ……無事に帰ってこい」

 と、トレーナーが応える。ナイスネイチャはうつむくと足元を蹴るような仕草を見せる。

「……どうした?」

「ん……なんでもないよ。自分でもよくわかんない」

 少女は顔をあげた。弱々しく笑う。

「今日も商店街の人たち来てるだろうし、元気な姿を見せてあげないとね。アタシ頑張るよ」

 

 ナイスネイチャはドアノブに手をかけると「またね、トレーナーさん」と言い残して控え室をあとにした。

 

 トレーナーは迷っていた。

 

 自らの運命をあの愛しい少女に背負わせるべきじゃないんだ。たとえ、自分が死んだとしても彼女には幸せになってほしい。本当は身を引くべきなんだ。わかっていた。

 

 だが、彼女はいま戦っているのだ。こんな自分なんかと一緒にいるために。なにかしてやれることはあるだろうか、と考える。――答えは決まっていた。

 

 いいや、自分に出来ることなんて、きっとない。

 

「……パドック、か」

 

 自分が見にいったところで彼女の助けになんてなれない。邪魔なだけに違いない。それよりもホームスタンドの関係者席にいって彼女が走り出すのを待とう。

 

 トレーナーは扉を開けて廊下に出た。

 

 廊下の向こう側に「マーベラース!」と機嫌よさそうにしっぽを踊らせながら歩いているマーベラスサンデーの後ろ姿が見えた。ツインテールがなびく。ぴょこぴょことウマ耳を揺らしながら、廊下の曲がり角をゆっくりと綺麗に右旋回していった。右のウマ耳の下に結んだ赤いリボンが印象に残る――。

 

 今からマーベラスサンデーもパドックのレッドカーペットでのお披露目をしにいくのだろう。

 

 トレーナーは廊下の真ん中で立ち尽くす。やっぱりナイスネイチャのパドックを見に行こうかと悩む。

 

 首を振る。やめておこう。

 

 マーベラスサンデーが歩いていった廊下の角に背中を向けて、トレーナーは歩きだす。その距離はどんどん離れてゆく。

 

 ナイスネイチャのレース結果がどんなものでも受け入れようと思いながら。みっともなく足掻くべきなんかじゃない。それが正しい大人の在り方に違いないのだ。

 

 

 

 

 

『四枠六番ナイスネイチャ! ファン投票では十番人気の支持を集めています!』

 

 ナイスネイチャはパドックに立っていた。集まっているファンに向けて手を振り、ポーズを取る。まばらな拍手が起きた。その灰色の瞳は不安に揺れている。周囲を見渡す。大好きなあの人は――いない。心細さを押し隠して、少女は孤独な戦いへと赴く決意を新たにした。

 

 

 

 

 

 時は進んでゆく――そして、有馬記念のファンファーレが鳴り響いた。

 

 

 

 ゲートインは完了した。

 ウマ娘たちはスタートの瞬間を待った。

 

 

 

『係員が離れまして……今!』

 

 スターティングゲートが開いた。一気にトップスピードへと加速した十五人の乙女たちが大地を一斉に蹴りあげ、身体を傾け、飛び出してゆく。

 

『スタートしました!』

 

 

 ナイスネイチャは好スタートを切ると周囲の様子を伺いながら、ポジションを少しずつ下げてゆく。

 

 

『さあ、飛び出してゆきます。内からは――』

 

 

 ナイスネイチャの横をすっと伸びてゆくのは模擬レースでも逃げの戦法を打ったウマ娘だった。短い鹿毛の髪、右のウマ耳に耳飾りをつけている。目の下から頬にかけて白い入れ墨の戦化粧をしていた。今回はG1の有馬記念という大レースなので、模擬レースのときとは装いも新たにしている。赤と白を基調とした勝負服に身を包んでいた。

 

(たしか、この娘は……模擬レースでマヤノに牽制戦術を仕掛けた娘だったっけ)

 

 ナイスネイチャはそのウマ娘の様子をうかがいながら、ベストポジションをすかさず確保した。

 

『やはり行きました――模擬レースでも見せたその逃げ脚を見せて先頭を狙っていったのは――』

 

(宝塚記念は……六着だったよね。たぶん、地力勝負は不利と見て、相手に力を発揮させない戦法、かな?)

 

 逃げ牽制、逃げ駆け引き。

 

 相手の仕掛けるタイミングを読み切り加速し、相手が減速すると同時に自分も減速する。時おりわざと隙を作り、挑発する。

 ウマ娘の本能に刻まれる追い抜きたい、負けたくない、という情動を刺激して、掛かり状態を誘発させる。

 

 言ってしまえばそれだけなのだが、言うは易く行うは難しとはよく言ったもので、相手が加速すると踏んで加速したら自分だけがオーバーペースで走ってしまう。相手が減速すると判断してスピードを落とせば、自分だけが置いていかれる。

 

 必要なのは相手のリズムや気配を読み取る力。おそらく、牽制戦術を完璧に習得するためにあのウマ娘は並々ならぬ努力を重ねてきたはずだ。

 

 その甲斐もあって模擬レースではマヤノトップガンを翻弄することに成功している。だけど――。

 

(ダメだよ、それ。仕掛けるなら今日という本番の日まで隠しておくべきだったんだ。だって、マヤノには――)

 

 ナイスネイチャはこのあとの展開が容易に予想できた。あの逃げウマ娘はもう――。

 

 

 

『それに続いてマヤノトップガンが負けじと上がってゆきます――!』

 

 

 マヤノトップガンが外から上がってくる気配をその逃げウマ娘はレーダーで捉えるように正確に察知した。

 

 ぴたり、と横につけられた。見なくてもわかる。

 マヤノトップガンはこちらを間も無く交わそうとしているはずだ、と予想した。その仕掛けのタイミングを計るべく、逃げウマ娘は集中力を研ぎ澄ませる。

 

 まだか、まだ来ないのか?

 

「……」

 じーっと見られているのを感じた。

 逃げウマ娘は気になって視線を向ける。

 

 自分より一回りは小柄な身体、空軍パイロットのフライトジャケットを模した勝負服に身を包み、栗毛の長い髪をツーサイドアップにした少女。

 やはり、マヤノトップガンだった。その少女がクチナシ色の真ん丸な瞳でこちらを見つめていた。

 

 あきらかに観察されていた。

 ――五秒ほど経った。マヤノトップガンが不敵な笑みを溢す。

 

「うん……マヤ、わかっちゃった! へっへーん! もうマヤにはその作戦は通用しないよー!」

 

 逃げウマ娘は内心で苛立ちを覚える。

 そう簡単に見破られてたまるか! たった一度見ただけの戦術を把握できるわけがない! ……ブラフだ!

 

 マヤノトップガンが仕掛け始める気配を読み取った。

 

 抜かせるか……!

 

 逃げウマ娘も加速するが――気付けば、加速しているのは自分ひとりだけだった。相手の仕掛ける気配を見誤ったのだ。

 

 

『ここで――――が、大きくリードを広げました! これは作戦でしょうかっ!?』

 

 

 読み間違えた!? そんなバカな!

 

 ちらりと後ろを見た。マヤノトップガンは楽な様子で追走していた。差は二バ身ほど。逃げウマ娘は前を向いた。

 

 落ち着け……! レースはまだ序盤! 冷静に……冷静にペースを落とすのだ……!

 

「マヤはね。一度見た戦術は忘れないよ?」

 

 ほんのわずかの意識の空白に入り込むように、マヤノトップガンがすぐ隣にまでポジションを上げてきていた。

 

「なっ!?」

 

 加速する気配を感じられなかった……!

 

「でも面白い作戦だね? マヤも真似しちゃおー」

 

 本当に一瞬でコピーしたというのか。見ただけで覚えたというのか。……逃げウマ娘の心に恐怖が生まれる。

 

「な、く、来るな……!」

 

 逃げウマ娘が加速した。ウマ耳をぺたりと伏せ、逃れられない現実から逃げようとするかのように。

 

「ユーコピー?」

 

 マヤノトップガンはその気配を完璧に読み取り、横にぴったりつける。少女の栗毛の髪がなびく。

 

 ターフという戦場を前傾姿勢で加速するその様子はさながら死角から接近してくる戦闘機。

 

 もはや完全に追い詰められ、潰されようとしているのは逃げウマ娘のほうだった。

 

 ――引き離せないっ!? 地力が違いすぎる!!

 

「アイコピー!」

 

 逃げウマ娘が加速と減速をいかに繰り返そうとも、どこまでもその軌道を模倣し、寸分の狂いなく着いてくる。機体性能もパイロットの腕も完全に負けていた。

 

 空戦に例えるなら、すでに背後を取られている完全に詰みの状態――。

 そう、天才少女と称されたエースパイロットのロックオンはすでに終わっているのだ。その指先は操縦桿に備え付けられた誘導弾の発射ボタンにそえられている。

 

 ――私は、この娘に勝てない。

 逃げウマ娘は――悟ってしまった。

 

「追撃ちゅーいっ!」

 

 かくして彼女の心は粉々に撃墜されたのである。

 

 

 

 

『各ウマ娘が中山レース場の第一コーナーに入っていきます! 先頭がここで入れ替わりました! 先頭はマヤノトップガン! 鮮やかに交わしてゆきました! リードは三バ身ほど!』

 

 

 有馬記念は外回りのコースからスタートし、最初はある程度真っ直ぐ走り、次にゆるやかにコーナーを曲がって、観客席のあるホームスタンド前を通過するレースだ。

 

 十五人の乙女たちがその美しい髪ときらびやかな衣装を風になびかせながら、走ってくる。

 ゴール板の辺りから眺めていれば、坂を登る少女たちのウマ耳と必死な表情が見えてくることだろう。

 

 ホームスタンドでは十万人以上の大観衆が興奮の雄叫びをあげて、びりびりと彼女たちを包み込む。万雷の拍手がわき起こる。推しのウマ娘を応援する声や雄叫びに近いエールが少女たちの背中を押してゆく。

 

『ホームストレッチを過ぎてレースは第二コーナーに差し掛かろうというところ!』

 

 冷静さを失って練習通りの成果を発揮できず、リズムを崩し掛かってしまうウマ娘は少なくない。経験が浅いならなおさらである。何人かのクラシック級のウマ娘たちが坂を加速してゆく。その険しい視線の先にあるのは――。

 

『大本命のマーベラスサンデーはここにいました! 虎視眈々と前を狙える位置につけているぞ!』

 

 マーベラスサンデーは先頭から五、六番手の位置につけていた。栃栗毛(とちくりげ)の二対の長い黒髪を風の中で泳がせている。模擬レースの時よりはやや後ろではあるが、先行集団の一角を形成していた。

 

 マーベラスサンデーはマヤノトップガンが逃げウマ娘をことも無げに競り潰したのを見て、眼を輝かせていた。

 ライバルが強いとわくわくする。あの天才少女を捕まえにいくのが今から楽しみだった。

 

(マヤノ、すっごくマーベラース☆)

 

 有馬記念というG1の舞台。彼女もまた専用の勝負服姿であった。黒いドレス風の衣装に身を包み、走っている。

 

 二週間前の模擬レースでもその卓越したレースセンスを発揮したマーベラスサンデー。なにかと騒がしい印象のある彼女だが、レースをしている最中は大人しい。集中力の高いウマ娘なのだが、マイペースな部分もある。それら二つの要素が加わった結果、周りは気にせず自分のやりたいようにレースに徹するというスタイルが彼女の中で確立していた。

 

(今日はマーベラスな景色、見れるかな?)

 

 彼女にとって「マーベラス」という言葉は祖母から教えてもらった素晴らしさ、驚きを表現する魔法の言葉である。

 

 マーベラスサンデーの脳裏に浮かび上がる想い出――それはまだ幼かったころ、祖母に手を引かれて、初めて連れていってもらったレース場の景色。

 

 息をするのも忘れ、眼を見開き、うるうるきらきらと瞳と輝かせるマーベラスサンデーの視界の先には、遥かな夢のゴールを目指し競いあうウマ娘たちの姿があった。

 

 ――それは大切な記憶。原点だった。

 

 その日の帰り道、興奮でいまだに落ち着かない様子の彼女は大好きな祖母と手を繋ぎながら、たどたどしい言葉で自分の想いを表現しようとする。

 

 ――あのねあのねあのね! すごかったのー! みんなキラキラしててね! なんというか! あのね! うー! うまくいえないよー! ねえねえ! おばあちゃん! こんなときなんていうの!?

 

 ――マーベラス、かしらねえ。

 

 ――マーベラス? それってアタシのなまえだよ?

 

 ――あら、あなたのマーベラスサンデーという名前にはちゃんと意味があるのよ? それはウマ娘の神さまがね、マーベラスちゃんが驚くほど素晴らしい景色を見れますように、ってつけてくれた名前なの。

 

 ――わあ、すごい! ほんと!? あのね! おばあちゃん! アタシもね! あのレースではしっていたおねえちゃんたちみたいにマーベラスなけしき、みられるかなー!?

 

 ――きっと見られるわ。でもね、忘れないで。マーベラスちゃん。ステキな景色はね。決してひとりでは見られないものなの。

 

 ――ひとりで、みられない?

 

 ――そうよ。一緒に走ってくれる人がいないと、その先を決して見ることはできないの。

 

 ――だから、お友だちやライバル、ううん。それだけじゃないわ。レースを見にきてくれた人や支えてくれる人たちも大切にしてあげてほしいの。あなたはだれかを愛する優しさと、与えることを惜しまない心を持った素晴らしいウマ娘なのよ。きっとできるはずだわ。

 

 マーベラスちゃん、約束よ。もし大切な人たちが困っていたら、その手をとって助けてあげてね。

 

 そうしたら、きっと。

 

 見られるわ、あなただけの夢。

 出会えるわ、あなただけのステキなライバル。

 

 そして届けてあげることができるはずよ。皆にとってもマーベラスな景色を、きっと――。

 

 

 

『ファン投票一番人気のマーベラスサンデー! 現在六番手! 前のウマ娘たちを射程圏に捕らえたまま!』

 

『第三コーナーを過ぎて、レースは中盤戦!』

 

『マヤノトップガン依然先頭!』

 

『大本命マーベラスサンデーはどこで仕掛けてゆくのか! 遅れてきた大器は再び黒い嵐となって中山レース場を駆け抜けるのか! 多くのファンが注目しています!』

 

 レースはどんどん進行してゆく。

 

『――を見るようにしてナイスネイチャが追走! その後ろから行きますのは――』

 

(アタシね! ずっとネイチャと走りたかったの! マーベラスなレース! その先の景色が見たいから!)

 

 マーベラスサンデーの心にはURAファイナルズの中距離戦決勝で走るナイスネイチャの姿が焼き付いている。

 

 まだマーベラスサンデーがその脚部不安のせいでデビューできずにいた頃、レースを観戦しにいったのだ。

 

 優勝を決めたクリスマスカラーの勝負服の少女。大外からターフを駆け抜けてくる彼女の姿は、まるで太陽のようで――誰よりも眩しかった!

 

 あの日、マーベラスサンデーは新しい夢を見つけた。

 大好きな親友でもあり、最高のライバルでもあるナイスネイチャというウマ娘とともにレースを走り、輝く太陽のようなマーベラスな景色を一緒に見る! そんな夢を叶えることを心に誓ったのだ!

 

 ――名付けて、世界☆マーベラス計画!!

 

 

 

 

 

 風が唸っていた。

 ウマ娘たちの吐息。

 蹄鉄がターフをえぐる。

 内ラチが視界の右側を流れてゆく。

 冬の空。雲が浮かぶ。遠くに見えるは大観衆が詰め寄せる中山レース場のホームスタンド。

 

(すごいペース……想像していた以上に速い)

 

 ナイスネイチャは中段につけていた。

 事前にわかっていたつもりではあった。

 

 本来、ハイペースというのは後ろからレースを進めるウマ娘にとって有利に働くことが多い。

 それが何故有利なのかといえば、体力を温存することによっていわゆる脚を溜める、ことができるからだ。

 

 だが、前が速い流れになって、全体が釣られるように速くなり、息をつくタイミングも得られないような底力を問われるレースになってしまった場合はその限りではない。

 

 たとえ、後ろにいようが消耗戦に巻き込まれてしまい、最後の切れ味を活かすことが出来なくなるのだ。

 

 全員がバテているなら、単純に前にいるウマ娘がそのリードを保ったままゴールするだけなのである。

 

(仕掛ける? いや、でも――?)

 

 ポジションを上げてゆくべきか。

 判断に迷ったのは一瞬。前を走っているマーベラスサンデーを見た。なぜか、彼女が追いかけてきてほしいと背中で語ってきたような気がした。

 

(マーベラス……アタシの大親友で最強のライバル。越えなくちゃいけない壁……)

 

 ――勝ちたい。勝ちたい勝ちたい勝ちたい!!

 

 

 

 マーベラスサンデーは笑っていた。

 背後から燃えるような圧が迫ってくるのを感じていた。

 

(ネイチャ……アタシにはネイチャが何を考えて、このレースに挑んでいるのかはわからないよ? でも……アタシやマヤノのために正々堂々と勝負することを選んでくれたんだよね)

 

 黒髪の乙女は走っている。

 

(……ありがとう。ネイチャ)

 

 勝負服のドレスのスカートを螺旋のようにひるがえらせて、その小さな身体に無限のエナジーを封じ込め、世界に革命の嵐を巻き起こすために――駆け抜けてゆく。

 

(アタシはネイチャと走れてすっごく嬉しい! いますっごくマーベラスだよ! でもまだまだ! もっともっともーっとマーベラスなレースにしようね!)

 

 マーベラスサンデーは足に力を入れた。

 大本命の加速を察知した観衆から大歓声が沸き起こる。

 

(追いかけてきて! ネイチャ!) 

 

『マーベラスサンデーが仕掛けてゆきます! マーベラスサンデーが上がってゆくぞ!』

 

 

 

 

 

(うん、捕まえにいこう!)

 

 加速のタイミングとしては少し早いかもしれないが、直線に入ってからでは周りがごちゃついて抜け出すチャンスを失うかもしれない。

 

 前のウマ娘を交わしてゆくマーベラスサンデーを追いかける。風の音が変わった。スピードが上がる。

 

 ――そのまま、レースは終盤に向かってゆく。

 

(最後の直線――内から行くべきなのかな? それとも外から?)

 

 いまの自分では差しても届かないかもしれない。

 昔のような走りはできない。有利な内を突くべきだ。

 

 ナイスネイチャはそう結論づける。

 

 

 

 

 

 これが運命の分岐点。

 

 

 

 

 



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END.1 「ずっと待ってる」

 

 

 

 

『さあ、最終コーナーに入って各ウマ娘、ラストスパート! 中山の直線は短いぞ!』

 

 ナイスネイチャが選んだのは内側だった。最終コーナーに突っ込んでゆく。

 

(アタシに昔みたいな走りはできないから)

 ナイスネイチャは加速してゆく。

 

(その分経済コースを走って距離を稼がなきゃ!)

 外からほかのウマ娘も殺到してくる。

 

(っ!)

 

 足元への違和感。バランスを崩しかけるが立て直す。

 一瞬の不利。やや、減速してしまったものの、このような事態が来るかもしれないとはわかっていたので転倒までには至らない。再加速を始めようとするが――ナイスネイチャに生じたその隙を見逃すほど、有馬記念に出走するウマ娘たちは甘くなかった。

 

 ほかのウマ娘に内側を取られてしまう。抜け出すタイミングを失った。前を走るウマ娘たちが壁になってしまい道は閉ざされてしまった。

 観衆の大歓声が聴こえる。ゴールが近いということだ。つまり、もう時間がない。ナイスネイチャは右に左に視線を巡らした。

 

(やばっ! くっ! どこか抜け出せる場所は!)

 

 中山の短い直線。

 残りは300メートルを切っている。

 

(外から交わすしかない!)

 

 ナイスネイチャは外に進路を求めた。ようやく抜け出すとラストスパートを開始した。目を見張るような末脚。前を交わしてゆき、やっとの思いで三番手まで上がってくる。前にはマーベラスサンデーとマヤノトップガンの姿があった。

 

 粘るマヤノトップガンをついにマーベラスサンデーが交わす。ナイスネイチャはその三バ身後方にまで上がってくる。歯を食いしばって、脚に力を込める。

 

(追い付かなきゃ! 絶対に! 絶対に!)

 

 差が詰まってゆく。

 しかし、なんとかマヤノトップガンに並んだところでその二バ身先をマーベラスサンデーが走っていて――そのまま彼女はゴール板を駆け抜けた。

 

『マーベラスサンデー、一着でゴールイン!』

 

 ――レースは終わってしまった。

 

 今年の有馬記念の覇者はマーベラスサンデー。電光掲示板には三着の位置にナイスネイチャの番号が表示されているのが見えた。

 

「……え、うそ……アタシ、負けたの?」

 

 呆然とするナイスネイチャ。

 

 遠くでは自分の親友が両手を振って観客にアピールをしている。盛り上がる中山レース場の喧騒のなかでナイスネイチャはターフに立ちつくしていた――。

 

 

 

 

 

 地下バ道。

 ナイスネイチャが歩いていた。表情は固く、唇を引き締めている。背後のメインスタンド側からは空の光がさし込んでいた。やがて彼女は足を止める。

 

「あ……」

 

 そこにはトレーナーが立っていた。

 ナイスネイチャは視線を合わせられない。そんな彼女の様子を見て、トレーナーのほうから近付いてきた。ふたりはすぐ近くで対面する。黙りこくるナイスネイチャにトレーナーは目を細めて微笑んだ。

 

「ありがとう、ネイチャ。よく頑張ったな」

 すべてを受け入れるような優しい声だった。ナイスネイチャの肩が震えだす。頬を熱が伝う。

 

「トレーナーさん……トレーナーさんっ!」

 

 ナイスネイチャは彼に抱きついて泣いた。次から次へと大粒の涙がぽろぽろと溢れ落ちてゆく。

 

「ごめん……ごめん、なさいっ! アタシ、アタシが負けちゃったからっ! トレーナーさんが……!」

 

 トレーナーはそっとナイスネイチャの背中に手を回した。あやすように撫でる。

 

「いいんだ。いいんだよ」

「でも……! アタシのせいでトレーナーさんは……死んじゃうんだよ。良くなんてないよ……」

「そんなことはない」

 

 トレーナーはナイスネイチャの両肩に手を置くとゆっくりと引き離した。静かに告げる。

 

「なあ、ネイチャ。俺はずっと幸せだったし、ネイチャと入れて良かった。たとえ、この身がどうなったとしてもネイチャが生きてさえいれば、俺はそれでいいんだ」

 

 ナイスネイチャはいやいやするように首を振った。

 

「……トレーナーさん。そんな悲しいこと言わないでよ。アタシを置いていかないで」

「……どこにもいかないよ」

 

 ナイスネイチャは涙に濡れる瞳でトレーナーをじっと見つめる。

 

「嘘、置いてっちゃうくせに」

「ごめん……」

 

 トレーナーは苦笑して肩をすぼめる。

 ナイスネイチャは涙を拭って、胸に手を当てて深呼吸すると恐る恐る彼の腕に指先をそえた。

 

「……ねえ、あと、どれくらい生きられるの?」

「わからない――だけど、そんなに長くはないというのはわかる。うまく説明できないけど、確信があるんだ。ただ、明日や今日という話ではないと思う。少なくとも……最後の日々を送るぐらいはあるんじゃないかな」

 

 身じろぎする気配。視線が絡み合う。

 

「……じゃあさ。その日々にアタシが隣にいることって出来る? ううん、出来るとか出来ないとかじゃなくて、アタシはあなたの隣にいたい。いさせて?」

 

 ナイスネイチャはトレーナーから目をそらさない。トレーナーは空いた片方の手でナイスネイチャの頬を触る。海の底の静けさのような悲しみを視線に乗せた。

 

「ネイチャ……俺はお前を残してゆくんだぞ」

 

 少女は頬に当てられた彼の手に自らの手のひらを重ねた。長いまばたき。ひとすじの雫が流れおちてゆく。

 

「それでも一緒にいたいよ。トレーナーさんの隣は誰にも譲りたくない。一人占めしたいんだ、トレーナーさんを。……だめかな? こんなアタシじゃだめ?」

 

 首をかしげた少女の濡れた瞳。そこには慕うような愛情の色が宿っている。トレーナーは見つめ返した。

 

「……そんなネイチャが好きだよ」

 

 それからトレーナーは床に視線を落とす。しばし迷った末にナイスネイチャへと向きなおり、話し始めた。

 

「……だから、ネイチャの将来を考えると、こんな身勝手なお願いをするのは良くないんだ。静かに前を去るべきだとわかっている。だけど……やっぱり、ネイチャには最後までそばにいてほしい。寂しい想いをさせるかもしれない。苦しい想いをさせるかもしれない。だけど、一生懸命あなたを愛します。だから――ナイスネイチャさん。俺と結婚してください」

 

 ナイスネイチャはゆっくりとトレーナーにもたれかかった。彼の胸に頬をあてて、目を閉じる。

 

「……うん。アタシも……トレーナーさんと結婚したいです」

 

 ずっと夢を見てた。

 大好きな彼から愛の告白を受けることを。夢は叶ったんだ。叶ったはずなんだ。

 

 それなのに。

 嬉しいはずなのに。

 

 どうして、こんなにも胸が苦しいのだろう。

 

 

 

 

 

 数日後――。

 ナイスネイチャとそのトレーナーは揃って引退し、トレセン学園を去った。

 

 ふたりはアパートの一室を借りた。そして、同じ屋根の下で暮らしはじめる。

 籍を入れても式は挙げなかった。ナイスネイチャの実家の伝手で仕事をして、彼女が幼少期を送った小さな町でふたりは日々を送る。

 運命がくれた僅かばかりの慈悲――その時間を駆け抜けるように笑い、泣き、穏やかな時を過ごした。

 

 

 そんなある日のこと。

 

 

 シンクの水が流れる音。ナイスネイチャが洗い物をしている。かつて、トレーナーだった男は壁を背にして床に座っていた。妻となった少女の後ろ姿を眺める。彼には予感があった。

 

「なあ、ネイチャ」

「ん、なあに。あなた」

「たぶん……今日だ」

 

 少女の動きが、止まる。

 男は続けた。話し出せば、それは確信に変わった。

「今日、俺は……」

 

 ナイスネイチャは蛇口をひねって水を止めた。

 排水口に水が吸い込まれる。

 

「それ……本当?」

 少女はふりむく。夫となった男の表情からその言葉が真実を告げているのだと読み取った。

 

「本当、なんだね……」

 そう言ったきり、うつむいて黙り込む。波となって寄せてくる喪失感に耐えるように目を瞑る。

 

「そっか……」

 彼女は息を吸うと、口もとにぎこちない笑みを浮かべて、不自然なぐらい明るい声で言った。

 

「じゃ、今日は一緒にいようか。……うん、大丈夫。アタシ、覚悟できてるから、さ」

 

 手を拭いて、エプロンを外すとナイスネイチャは夫の隣に座った。膝を崩すと手を繋ぐ。彼の手は冷たかった。徐々に熱が抜けていっているのを感じた。ああ、やはりこの人は――。少女は繋いだ指先に力を込める。彼には凍えるような想いをしてほしくなかった。わずかばかりでもいいから熱を与えてあげたかった。

 

 吐息すら聞き取れるほどの静けさ。

 やがて、彼は口を開いた。

 

「……前みたいにさ……トレーナーさんって呼んでくれないか」

 

 ナイスネイチャは微笑んだ。

 

「……いいよ。トレーナーさん……ふふっ、もう辞めちゃったのにね。変な感じ」

「……ネイチャと駆け抜けた日々にさ、浸りたくて」

 

 どこかここではない遠くを見つめる目を彼はしていた。自分自身のルーツや現体験といったイメージを心の奥から取り出して眺めているような雰囲気だった。

 

 ナイスネイチャは横目で、

「ん、いーよ? 思い出、振り返っちゃう?」

 と、その瞳に慈しみの色を揺らしながら首をかしげる。ウマ耳を力なく垂らしながら、彼が――トレーナーが話しだすのを優しく見守った。

 

「……いろんなことがあったな」

「うん……そうだね」

 

 トレーナーの脳裏に浮かぶのはナイスネイチャと初めて出会った日の出来事。斜に構えていて、どこか自信なさげで、応援する人たちの声から逃げ回るそんな少女の姿。

 

 選抜レースで走る彼女の姿に衝撃を受けた。

 

 唸るように風を切り裂いて。

 未来への可能性に満ちたその末脚。

 前傾姿勢で前を交わしてゆく。

 

 その光はまだ小さくとも。

 心を奪われるほどの星の輝きがそこにあった。

 

「ネイチャの駆ける姿を初めて見たとき、なんて素敵な走りをするウマ娘なんだろう、って思った」

 

 絶対にこの娘のトレーナーになるんだ、と決意した。

 彼女しかいないとも感じた。

 

「俺は……キミに夢を見たんだ」

 

 ぽつりぽつりと零れる大切な思い出。

 

 少女が自分の弱さを叱咤し、大きな壁に立ち向かうと決めた日。努力をしても越えられない壁に苦しんだ日々。

 夏の遠征。自分の殻を打ち破った。二人のあいだに新しい約束事が生まれた。それは折り紙のトロフィー。

 

 勝利を手に入れられるようになってゆき、ついには宿命のライバルに勝ち、栄光の頂点にまで登り詰める。

 

 幻想的な光のなかで歌う少女を見て、生きていてよかった、と心の底から満たされた。

 

 再び始まる苦難の日々。

 それでも必死にもがき続けた。

 

 そんな大切な記憶を語った。それは人生だった。

 ナイスネイチャは彼の遺す言葉に耳を傾ける。

 

 やがて、彼は全てを話し終えた。

 

 トレーナーはこくりこくりと頭を凪いだ。身体からどんどん力が抜けてゆく。思考に靄がかかりはじめている。

 少女は問いかける。

 

「……んー? トレーナーさん、眠いの?」

「そう、みたいだ。なんだか……すごく」

「寝ちゃいなよ。膝枕してあげる」

 

 ナイスネイチャは自身の膝をぽんぽんと叩く。

 トレーナーは抵抗せず、静かにそこに頭を降ろした。

 

「トレーナーさん」

「ん……」

「ずっと一緒にいるからね」

 

 トレーナーの髪を優しく撫でる。

 この人はもうすぐいなくなってしまう。一人で旅立ってしまうのだ。

 ナイスネイチャはもう一つの覚悟を決めていた。

 共にいよう。黄泉の果てまで。

 

 少女の言葉を聞いたトレーナーはしばらく押し黙った。彼は言うべきことを頭のなかでまとめる。心のなかで彼女に謝ったあと、口を開いた。

 

「……それとな。もうひとつ、お願いをしてもいいか」

「なあに」

「ずっと長生きして、笑っていてくれるか? みんなに愛されるような、そんなウマ娘でいてくれるか?」

 

 息を飲む気配があった。彼の髪を撫でる手の動きが止まる。やがて、ナイスネイチャは呟いた。

 

「……気付いてたの? アタシがあとを追うことを考えてるって」

 

 トレーナーは苦笑いをした。

 

「ネイチャのことはずっと見てたからなあ。ネイチャが幸せでいてくれることが俺にとって、何よりの望みなんだ。だから……頼まれてくれるかな」

 

 ナイスネイチャという少女はきっと受け入れてくれる、そんな全幅の信頼を込めてトレーナーは頼んだ。

 少女の視界がにじむ。唇が開き、熱い息を吐いた。

 

「……ひきょーだなあ、トレーナーさんは。そんな優しい声で言われたら断れないじゃん。うん……約束するよ。アタシ、長生きするね。みんなに愛される、かどうかまではわかんないけどさ」

 

 彼はトレーニングメニューを指示したときのように口角で微笑みをつくる。満足げな様子だった。

 

「トレーナーの指示だからな、ちゃんと守ってくれよ?」

「はいはーい、トレーナーさんのお気に召すままに」

 

 少女も気楽な口調で応える――ふりをする。

 彼とともに走り抜けた、楽しくて、輝いていたあの頃のような口調を再現する。できていると、いいけど。

 

「それを聞いて安心したよ……安心したら、なんだか眠くなってきたな……」

「ふふっ、もう寝ちゃう? いいよー、このまま寝ても。ネイチャさんの膝枕は極上だからねー」

 

 ナイスネイチャにも感じることが出来た。トレーナーの命の灯火がまさに今、消えようとしているのだと。

 

 いかないでほしい。

 頬を涙が伝った。

 

(だめだ。だめだ。アタシはトレーナーさんを笑顔で見送るって決めたんだ。だから笑えアタシ。キラキラ一番星の、最高の笑顔で)

 

 声の震えを隠せたかはわからない。自分はいまちゃんと笑えているだろうか?

 

「天国にも……いけちゃうかもよ?」

「もう真っ暗でな、何も見えないんだ。でもネイチャの笑顔はわかる。ははっ……やっぱり可愛いなあ」

 

 トレーナーは少年のように無邪気に笑った。

 その顔は本当にずるいな、って思う。穏やかで、悔いなんてこれっぽっちもない彼の表情。胸が苦しいのに暖かいんだ。一生、忘れられそうにないじゃないか。

 

「ありがと。トレーナーさんも格好いいよ。アタシの中では堂々の一着。ずーっと、ずっとね」

 

 ナイスネイチャは目を細めて微笑んだ。もう眠っちゃうんだ? いいよ、でもね?

 

「いつか、また会いにきてくれる?」

「……ヘロヘロトロフィー持って、必ず、迎えにいくよ」

「待ってるね、トレーナーさん」

「……愛してるよ」

 

 彼が優しく名前を呼んでくれた。

 

「ネイチャ……」

「……うん、アタシも愛してる」

 

 そして――。

 彼は深く息を吸って、静かに吐き出した。ゆっくりと、もう目覚めることのない眠りの底に沈んでいった。

 

「おやすみなさい――アタシだけのトレーナーさん」

 

 その日、一雫の星の光が夜空に流れた。

 

 

 

 

 

 季節は巡り、春が訪れる。

 

 ナイスネイチャはひとり、中山レース場近くの公園を歩いていた。

 よく晴れた気持ちの良い昼下がりだった。だいぶ暖かくなってきたとはいえ、まだ少し寒さの残る時期だ。

 樹木は芽吹き、色とりどりの花が咲いている。長く長く、風が吹いた。枝が一斉に震えだす。その協奏曲の中心で少女は歩みを進めてゆく。

 

 ちょっと冷えるし温かい飲み物でも買おうかな、と考えて、1.5リットルのコーラまで売っている変な品揃えの自動販売機で缶コーヒーを買った。がこん、と落ちてきた商品を取り出し口から拾いあげる。

 

 ナイスネイチャは辺りを見回した。遠くにベンチがあったので、そこに向かってのんびり歩きだす。

 

 公園は活気にあふれていた。

 広々とした敷地内ではウマ娘の切り絵風の飾りがついたブランコや、ウマ娘を模した滑り台など様々な遊具が設置されており、多くの子供たちが興奮したように駆け回り、笑い声をあげている。そんな子供たちの目の届く位置では母親たちが楽しげに談笑していた。そのうちの何人かはウマ娘の奥さまで、彼女たちは幸せそうな表情をしている。

 

「ほーら! 踏み切ってー! ジャンプー!」

「あはは! おとーさんすごーい!」

 

 家族サービス中なのだろう、ブランコに乗った幼いウマ娘の背中を父親らしき男性が押していて、きゃーきゃーと楽しげに笑う子供の声がここまで届いてきた。

 

 ナイスネイチャは立ち止まった。

 しばしの間、その光景に見とれた。

 

 ぴょんとその子供がブランコから飛び降りて、近くまでやってきた母親に駆け寄ってゆく。母親も子供もウマ耳としっぽがついているウマ娘だ。機嫌よさそうにしっぽが振られていた。その後ろから父親らしき男性が追い付いてきて、親子三人で楽しそうに会話をはじめる。

 

 自分にも有り得たのかもしれない、それは――。

 

 ナイスネイチャは何か余計なことを考えてしまう前にそっと視線をそらした。再び歩みを進めはじめる。

 

 やがて、ベンチにたどり着いた。

 ナイスネイチャは座ろうとして、そこに小さな先客がいることに気が付いた。

 

 それは、ぱかプチと呼ばれるウマ娘のヌイグルミだった。思いがけないことにそのぱかプチのモデルになっているウマ娘はナイスネイチャだ。本物のナイスネイチャはもう二度と袖を通すことがないであろう、クリスマスカラーの勝負服に身を包んだぱかプチがベンチにポツンと座っている。

 

 本物のナイスネイチャとぱかプチのナイスネイチャはしばらく見つめあっていたが、なんだか可笑しな気分になってきて、少女は苦笑しながら話しかけた。

 

「きみもひとり? 奇遇だね、アタシもなんだ」

 

 返事はもちろん戻ってこない。

 ナイスネイチャはその隣に腰を降ろすと、缶コーヒーのプルタブを開けた。一口飲むとわずかに振り向いて、ぱかプチのナイスネイチャに語りかける。

 

「時はもう戻らないんだって。ナイスネイチャさん?」

 

 少女は思い出す。

 もう一度やり直せないか、今度こそ彼を助けられないかとシラオキ様を探したことがあるのだ。

 けっきょく見付けられなかったのだけれど、夢枕としてなら一度だけ向こうから会いにきてくれたのだ。

 彼女はナイスネイチャの頼みを断った。

 

 ――もう一度は無理です。あの日に帰ることはできません。

 ――どうして?

 ――時間を指定して戻すことが出来ないのです。あの日、有馬記念の二週間前に戻ったのは偶然じゃないんです。前回の時間軸ではあの日に私とナイスネイチャさんの間で何かしらの強い縁が生まれたから上手くいったのでしょう。

 ――縁っていうと、どんな?

 ――たとえば、聖遺物とかでしょうか。私にまつわる物などをお持ちになっていたんじゃないですか? 心当たりはありませんか? ナイスネイチャさん?

 ――シラオキ様にまつわる聖遺物? なんだろう? わからないかな。たぶん持ってないと思う。

 ――それでしたら、もう私の力ではどうにもなりません。本当にごめんなさい。ナイスネイチャさん。

 

「助ける代償がアタシの命でいいなら――と、思っちゃうよね。けっきょく出来なかったわけだけど。トレーナーさんもこんな気持ちだったのかな」

 

 もちろん、今は生きるつもりだった。

 だって、約束したから。長生きするよって。

 なぜなら、彼は約束してくれたから。

 必ず迎えにいくよ、と。

 

 だから――ナイスネイチャはいまもあの人を待っている。

 

「そのあいだにトレーナーさん、すっごいトロフィー作ってくれてそうだよね。何十年もあるわけですし? どう思うよ、ナイスネイチャさん?」

 

 少女は傍らのぱかプチを見た。当然なにも語らない。ただ、愛らしい瞳で前方を見つめているだけだ。

 ナイスネイチャは頬をかいた。

 

「……って、アタシはなにヌイグルミに話しかけてるんだか」

 

 そんなことを考えていると、近付いてくる足音に気が付いた。顔をあげると、先ほど眺めていた幼いウマ娘が走り寄ってきていた。

 その子は父親と母親が立っている方向を振り返り「ないすねーちゃん連れてくるからまっててー!」と叫ぶ。その小さな両手で大事そうにぱかプチを抱きかかえる。

 

 ――そして。

 ナイスネイチャと目が合った。

 

 幼いウマ娘はこちらを見つめたまま、ぽかーん、と口を開けていた。

 やがて、状況が飲み込めてきたのか、その瞳に憧憬と興奮の光が宿りはじめる。

 

「な、な、な、ないすねーちゃんだあああああっ!?」

「ちょ、うぇっ!?」

「うそ、うそ!? ホンモノッ!? うわあああっ!? ホンモノだああああっ!? ホンモノのウマ娘のないすねーちゃんだあああああっ!?」

 

 幼いウマ娘は腕の中のぱかプチを強く抱きしめて、ウマ耳としっぽをぶんぶん振りながら、きらきらと輝く目でナイスネイチャに身を乗り出してきた。

 幼いウマ娘の両親がその声を聞き付けて、こちらにやってきた。父親よりも母親のほうが圧倒的に駆けつけるのが速い。

 

「どうしたの? 急に大きな声出して?」

「おかーさん! みて! みて! ないすねーちゃんだよ! ホンモノのないすねーちゃんだよ!」

「え? ……あら、まあ」

 母親はこちらを見つめて、目を丸くする。

 ナイスネイチャは、

「あ、あはは。えっと……どーも? ナイスネイチャ本人でーす? そっくりさんじゃないですヨー?」

 と、照れ笑いしながら手を振った。

「あの! あの! あの!」

 幼いウマ娘がぐいぐいと近付いてくる。

「あたし、ないすねーちゃんの大ファンなの!」

「アタシの……?」

「うん! がんばる姿に、すっごくカンドーしたんだ! あたしもがんばって、ないすねーちゃんみたいなウマ娘になるの!」

「えっ? そ、そうなんだ?」

「ねえねえ! 握手して! あと耳もさわっていい? さわるねー! しっぽもふわふわー! かわいいー! ないすねーちゃん、かわいいー! いい匂いもするー!」

「うひゃあああっ!?」

 

 

 しばらくのあいだ、ファンガールの幼いウマ娘にもみくちゃにされるナイスネイチャであった――。

 

 

「ないすねーちゃん、バイバーイ!」

「なんかウチの娘がすみませんでした……」

「お、お気になさらずー。あははぁ……あ、どもども」

 

 幼いウマ娘は手をぶんぶんと振った。両親は恐縮しきりでぺこぺこ頭を下げてくる。ナイスネイチャもぺこぺこ頭を下げかえす。ヘロヘロヘイローとでも言いたげに彼女のウマ耳が疲れたように垂れていた。

 とりあえず、幼いウマ娘には手を振り返しておく。なんだかんだで好意を向けられると優しくしてあげたくなるのがナイスネイチャというウマ娘であった。

 

「うーん……なんか疲れた……」

 

 親子たちが去ったあと、ずずっと縁側のおばあちゃんのような仕草で缶コーヒーをすするナイスネイチャ。微糖にしておいてよかった。その糖分が疲れを癒すような――気がしないこともない。ウマ耳が同意をしめすようにぴこぴこ揺れた。ぷはー、とため息。

 

「あと、ねーちゃんじゃなくて、ナイスネイチャなんだけどね……ま、いっか……」

 と、ナイスネイチャがぼやいていた時だった。

 

「ネイチャー! おーいおーい! ネイチャー!」

「あ、きたきた」

 

 ナイスネイチャは立ち上がる。飲みきった缶コーヒーをすぐそばのゴミ箱に捨てた。

 

 公園の出入り口のほうから、その黒髪のツインテールを揺らしつつ小柄なウマ娘が駆け寄ってくる。ナイスネイチャの親友マーベラスサンデーだった。

 外行きのガーリーな雰囲気の私服姿である。肩掛け鞄をぽんぽん弾ませながら近付いてくる。

 ほどなく到着。

 楽しそうにハイタッチを求めてくる。

「やっほー☆ ネイチャー! 久しぶりー!」

「うん、久しぶり」

 ぱしん、とそれに応えた。

 

 マーベラスサンデーが申し訳なさそうに眉をひそめて、

「待ったよねー? ごめんね、ネイチャ! 撮影が長引いちゃって!」

 と、言った。

 

「ううん、大丈夫大丈夫。アタシ、待つの慣れてるから。きっと何十年でも待てるくらい」

 

 マーベラスサンデーはきょとんとした。だが、意味を理解した次の瞬間にはお腹をおさえて愉快そうに笑った。

「あははははっ☆ ネイチャ、それは気が長すぎー☆」

 ナイスネイチャも口もとを手で隠して肩を揺らす。

「ふふっ。なーんてね! さ、どこいこっか? マーベラスはどこか行きたいところある?」

 

 ふたりは公園を去ってゆく。

 

「そうだねー? カラオケいこー! ゲーセンいこー! ショッピングいこー! ぜんぶいこー!」

「はいはい、仰せのままに。やれやれ、ネイチャさん、こりゃ明日はパジャマ姿で三度寝確定かなー」

 

 

 春の息吹きが髪をなでる。

 太陽の光がふたりの少女を優しく包み込んでいた。

 

 

 

 

 

 



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END.2 「待ち人来たれり」

 

 

 

 

 いつだって、未来を決めるのは人の意志だ。

 

 もしも、これが運命の定めだからと諦めていなかったとしたら世界はどうなっていただろう?

 

 もしも、あとほんの少しだけ愛と友情と、わずかばかりの幸運がふたりを助けていたとしたら、どのような道が続いていたのだろう?

 

 これはそんなもう一つの未来。

 

 

 

 

 

 有馬記念前夜、クリスマス・イヴの日。

 

 ナイスネイチャとトレーナーはお互いの気持ちを話し、想いが通じあっていることを知った。

 

「……両想いなのに七年もかかっちゃうんだから笑っちゃうよね。……それでさ。エンゲージリングを買ったぐらいなんだし、結婚してくれたりはするのかな?」

「……それは」

 

 トレーナーは口をつぐんだ。気持ちは通じあっていたとしてもーー共にいられる時間が僅かだというのなら、添い遂げたとしてもすぐに別れは来る。ひとりぼっちにしてしまう。そんなことをしてもいいのだろうか?

 

「……答えられない理由はわかるよ、トレーナーさん。本当はさ。アタシ怖いんだ。明日のレース」

「ネイチャ……」

「だってトレーナーさんの命がかかってる。わかってるよ、ウマ娘にとってレースは命がけ。だからさ、アタシの命をかけるだけなら、そんなに怖くない。だけど……大切な人の未来を背負って走るのはやっぱり怖い」

 

 ナイスネイチャは話し続ける。

 

「大好きな人の隣。そんな欲しくて仕方なかったものが手に入ったのに……なにもかも無くなっちゃうかもしれない……アタシはそれが怖くて怖くて仕方ないんだ」

「どんな結果になっても俺は後悔しない。運命を受け入れるよ」

「そんなのやだよ。一緒にいて。約束して」

「……ネイチャを苦しめるかもしれないのにか」

 

 ナイスネイチャはそれに対して何も言わずにトレーナーを抱きしめてきた。離さないとばかりにギュッと。

 

(本当に俺はこれで、いいんだろうか)

 トレーナーの心に一抹の不安がよぎる。

 何か大切なことを忘れている気がする。

 

 それは――なんだっただろうか。

 

 

 

 

 

 有馬記念 当日。

 

 選手控え室にて。

 

 ノックの音がした。

 URAの係員が入ってきて告げる。

 

「時間です。有馬記念に出走するウマ娘さんたちはパドックまで移動をお願いします」

 

 ナイスネイチャは首肯した。URAの係員は頷き返すと次の選手の控え室へと足早に去っていった。

 

「じゃあ、行ってくるね」

「ああ……無事に帰ってこい」

 と、トレーナーが応える。ナイスネイチャはうつむくと足元を蹴るような仕草を見せる。

「……どうした?」

「ん……なんでもないよ。自分でもよくわかんない」

 少女は顔をあげた。弱々しく笑う。

「今日も商店街の人たち来てるだろうし、元気な姿を見せてあげないとね。アタシ頑張るよ」

 

 ナイスネイチャはドアノブに手をかけると「またね、トレーナーさん」と言い残して控え室をあとにした。

 

 ひとり取り残されたトレーナーは考える。

 自分はこれでいいのだろうか――。

 答えは出ない。

 

 首を振る。とにかく関係者席に行こう。トレーナーは向こう側の確認もしないまま控え室の扉を開ける。

 

 ――それは、ゴールした瞬間の決勝写真並みに絶妙なタイミングだった。

 

 目の前に黒いドレス風の勝負服姿のマーベラスサンデーがいた。彼女はちょうどトレーナーの出てきた控え室の前を通りすぎようとしていたところだったのだ。

 

 ドア枠の範囲内にパッとウマ娘あらわる――あまりにも予想外の出会いにトレーナーは一瞬、思考が止まる。マーベラスサンデーもびっくりしたように目を丸くして、こちらを見上げてきていた。扉が急に開いて真横から知り合いが出現したら、そうもなるだろう。

 

 彼女のなかで状況の理解が追い付いて、その奇妙な均衡状態は終わりをとげる。

 マーベラスサンデーの目に喜びの色が宿りはじめた。両手をぐっと握りしめて、こちらに向き直る。

 

「おお~!? ネイチャのトレーナーさんだ! なんてマーベラスなタイミング!」

「ああ、ホントにな。俺もびっくりしたよ……というか、急に扉を開けるのは配慮が足りてなかったな。すまん」

「気にしないでー! それに面白かったよ?」

 

 トレーナーは廊下側に出て扉を閉めた。マーベラスサンデーはぐるぐると衛星のようにまとわりつく。

 やがて、ちょうどいい位置を見つけたのだろう。トレーナーの斜め前に立った。興味深そうに訊いてきた。

 

「もしかして、ネイチャのパドック見に行くの? アタシもこれからパドックだよー! いっしょにいくー?」

「あ、いや……俺は」

 

 言いよどむトレーナー。言葉に詰まってしまった彼を見て、マーベラスサンデーは不思議そうに首をかしげた。

 

「……応援しにいかないの?」

「いや、俺なんかが行っても……」

「行っても?」

「ネイチャの邪魔になるし……」

「なんで?」

「それは……俺は彼女の重荷になっているからだ」

 

 マーベラスサンデーは上体と腕をそらして驚いた。眉をひそめて心配そうにトレーナーの目を覗き込んでくる。

 

「ええっ! そんなことないよ? どうしちゃったの? いまのトレーナーさん、なんか元気ないよ? ネイチャとケンカでもした?」

「……してないよ」

「じゃあ、いこうよ! ネイチャはね! きっとトレーナーさんを待ってる! 会いにいってあげようよ!」

 

 マーベラスサンデーはぐっと両こぶしを握った。こちらをふんす、と覗き込んでくる。

   

「あのね! 大好きな人にがんばれ! って応援されるとすっごく元気になれるんだよ! ううん! それだけじゃないの! 応援はね! したほうも、されたほうも、元気になるんだよ! だからいこー!」

「がんばれって応援なら、しているが……」

 

 マーベラスサンデーは首を振った。納得できないといった様子だった。彼女のなかに満ちるマーベラスな情熱を全力でぶつけてゆく。まごうことなき本気でこう宣言した。

 

「心の底から相手を信じることが大事なんだよ!」

「信じる?」

「そう、信じる! 人は手を取り合えば、マーベラスな奇跡だって起こせるんだから!」

「……信じて、手を取り合う、か」

 

 少女の力説にも関わらず、彼は悩んでいるようだ。しかし、確実にその気持ちはぐらついている。あともうひと押しで何かの殻を破れそうな気配がある。だが、なかなかその一歩が踏み込めないようだ。

 

 そんな煮え切らないトレーナーを見つめていたマーベラスサンデーはふと、昔祖母から言われた言葉を思い出した。

 

 マーベラスちゃん、約束よ。もし大切な人たちが困っていたら、その手をとって助けてあげてね。

 

 そうしたら、きっと。

 

 見られるわ、あなただけの夢。

 出会えるわ、あなただけのステキなライバル。

 

 そして届けてあげることができるはずよ。皆にとってもマーベラスな景色を、きっと――。

 

 もしかして、この人はいま困っているんじゃないかな、と考える。自分はいないほうがいいんだと思い込んで、引っ込み思案になっちゃっているんじゃないかな。

 

 結論――そんなわけがない。トレーナーさんは自信をどっかに落としちゃって、弱気になっているだけ。だから助けてあげるべき。よーし! 世界はマーベラスに溢れているのだと教えてあげよー!

 

 そうと決まればあとは早い。世界☆マーベラス計画とは即断即決即実行がモットーである。

 

 方法――とりあえず行けばわかる! マーベラース!

 

 トレーナーの手を掴んだ。

 

「……え?」

「パドックみにいこー!」

「ちょ、ちょ!」

 

 行動力の化身みたいな少女に腕を引っ張られて連れ去られるトレーナーであった。

 

 なお、余談だが彼女の祖母は存命である。

 もちろん、大の仲良し。

 

 

 

 

 

『本日のメインレース有馬記念の時間が近づいてきました。パドックのファンの前に選手たちが姿を見せます』

 

 マーベラスサンデーはトレーナーをここまで連れてくるとさっさとパドックの楽屋裏へと走り去っていってしまった。しかもご丁寧にナイスネイチャのファンクラブである商店街の方々の輪のなかにポーイと放り込んでいったものだから、トレーナーは今さら逃げることもできず、パドックを見ていくことにした。

 

「ネイちゃーん! がんばれー!」

「俺たちがついてるからなー!」

 

 商店街の人たちが声援を飛ばす。

 

『四枠六番ナイスネイチャ! ファン投票では十番人気の支持を集めています!』

 

「なんでえ、みんな見る目がねえなあ。俺たちのネイちゃんが勝つに決まってる! な、ネイちゃんのトレーナーさん。あんたもそう思うだろ?」

 

「え? ええ、まあ……」

 トレーナーは生返事をした。

 

「ん? どうした。らしくねえな。あんたいつもこう言っているじゃねえか。勝つのはうちのネイチャだって。今回もそう言ってやったんだろ? ネイちゃんに」

 

「ええ、それはもち……ろ、ん……」

 言いかけて、気付く。

 

(俺は言ってあげただろうか――キミは勝てるって)

 

 トレーナーとしてやらなければならないこと、それは――。

 

「だよな。しっかし、ネイちゃんがあんな不安そうな表情をしているのは初めて見る気がするな。それだけ今回のレースにかけるものがあるんだろうなあ」

 

 ――担当ウマ娘を輝かせてやること。

 

 ナイスネイチャがこちらに気が付いた。不安に揺れる瞳に安堵の感情が宿ったのが見てとれた。

 お互いにうなずき返す。ナイスネイチャのお披露目は終わり、次のウマ娘と交代してゆく――。

 

 なんと情けない。ナイスネイチャは自分を信じてくれているというのに、それに引き換え――。

 

(俺はどうなったっていい? なんで最初からネイチャが負ける前提なんだ。まるで俺はネイチャの勝利を信じていないって言っているようなものじゃないか?)

 

 自らの思考に没頭しているうちにパドックが終わっていた。人々が一斉に観客席に移動し始める。

 

(俺はトレーナーなんだ。だったらやらなきゃいけないことがあったはずだろう!?)

 

 トレーナーは走り出した。

 何をするべきかがはっきりとわかった。

 過ちを正しにいこう。

 

 

 

 

 

 地下バ道。

 

 

 

「ネイチャ!」

「……トレーナーさん?」

 

 ナイスネイチャが振り返るとトレーナーが駆け寄ってくるところだった。トレーナーは息を整えると背筋を伸ばし、真剣な表情でナイスネイチャと向き合った。

 

「ネイチャ、俺はキミに謝らなくちゃいけない」

「アタシに……? トレーナーさんは何も悪いこと……」

 

 ナイスネイチャが首を振りかけるが、それをさえぎるようにトレーナーはこう懺悔した。

 

「キミを信じ切ることができていなかった」

「……!」

 ナイスネイチャが息を飲んだ。

 

「俺はバカだ。トレーナーなのに、ネイチャの勝利を信じてやらないで。俺はね、キミにこう言うべきだったんだ」

 

 見つめ合う。

 

「俺もネイチャと同じ未来が見たい。同じ場所にたどり着きたい。キミの勝利を信じているんだ、って」

「そんなこと……そんなこと言ったって」

 

 ナイスネイチャの瞳が潤む。

 弱気が頭をもたげてくる。視線を床にさ迷わせる。

 

「……負けるかもしれないんだよ、アタシ。そうしたらトレーナーさんは」

 

 トレーナーはナイスネイチャの両肩を掴んだ。彼女はその衝撃にびっくりして弾かれたように顔を上げる。

 

「勝てる! 絶対に勝てる! 世界中のだれもが否定したって関係ない! 俺はネイチャを信じているんだ!」

 

 その大声に眼を丸くするナイスネイチャ。彼女はトレーナーと付き合いが長い。だから、彼が本気で言っている言葉はすぐにわかる。心の底からナイスネイチャというひとりの少女を信じてくれている。その気持ちは確かに少女の心へと響いていた。

 

「そして俺はずっと生き延びる! 当たり前だろう? だれにもネイチャの隣を譲る気はないさ!」

「だから……走れ!」

 

 トレーナーはナイスネイチャを抱きしめた。手のひらが少女の背中に回されている。少女は身体を彼に委ねた。彼の熱が伝わってきた。大好きな人の匂いを感じた。すると恐怖に染まっていた心が溶かされてゆく。信頼と愛情が胸の奥を揺さぶり、世界に勇気という名の色が戻ってくる。

 

 そうだった。自分は信頼に応えるウマ娘だった。

 誰よりも愛しい彼に勝利を信じてほしかった。

 

 ――少女の夢を信じる彼が、ここにいた。

 

「キラキラに輝いてこい! 俺の大好きなネイチャ!」

「うん……うん!」

 

 ナイスネイチャの瞳から涙が零れる。

 そのひとすじの光は、愛と勇気に変わった。

 走ろう、世界を変えに往くために。

 

 

 

 

 

『今年も暮れの中山で行われます。夢の総決算グランプリ有馬記念です! 今年は十五人のウマ娘で行われます! スターウマ娘たちの誰の頭上にその栄冠は輝くのかっ!? 実況は私、赤坂でお送りいたします!』

 

 ファンファーレが鳴り響く。十万人を越える大観衆から興奮の雄叫びがあがる。ウマ娘たちのゲートインが進んでゆく。ナイスネイチャは四枠六番のゲートからの出走だった。ヒシアマゾンがすぐ右隣にいて、マヤノトップガンはそれより内側。マーベラスサンデーが外側の枠に入った。

 

 少女たちのあいだで緊張が高まってゆく。ピリピリとした気配が肌を刺す。暮れの中山に吹きすさぶ一陣の風が少女らの髪をふわりとなびかせた。

 

 ナイスネイチャは深呼吸をした。

(アタシは……勝つ。勝てる。絶対に!)

 

 ナイスネイチャは遠くのホームスタンドを見た。あの場所のどこかに自分のトレーナーがいる。勝利を信じてくれる最愛の人がきっと。

 

(だからさ。トレーナーさん――)

 

 

「そこで見ててね」

 

 

 ナイスネイチャは前を向いた。

 いっそ心地よいと感じるほどの緊張感。

 いつでも走り出せる。どこまでも駆けてゆける。

 ああ、スタートが待ち遠しい。

 

『係員が離れまして……今!』

 

 スターティングゲートが開いた。一気にトップスピードへと加速した十五人の乙女たちが大地を一斉に蹴りあげ、身体を傾け、飛び出してゆく。

 

『スタートしました!』

 

 

 

 

 

 レースは間も無く終盤戦に差し掛かろうとしていた。

 ナイスネイチャは考えていた。

 

(内か外か)

 

 さすがに昔のような切れ味は自分に残っていない。ナイスネイチャはそう思っていた。

 

 ――つい、さっきまでは。

 

 トレーナーとともに築き上げてきたこの走りを信じていなかったのは自分だ。通用しないに決まっている、と度重なる敗北が眼を曇らせていたのだ。

 

(考えるまでもないよね)

 差し切れないはずがない。

 

(トレーナーさんが勝てるといったんだ)

 勝利への道はそこにある。

 

 

 最終コーナーが見えた。

 未来を変える直線を駆け抜けよう。

 

 

 

 

 

 トレーナーは気が付いた。

 ナイスネイチャが外を突こうとしていることに。

 

 ほかのウマ娘が内を目指してゆくのと対照的にたった一人だけが外を目指してゆく。

 

(それでいいんだ、ネイチャ)

 

 ここまで来たら自分にしてやれるのは応援だけだ。

 背中を押して、送り出してやることだけだ。

 だけど、それこそが大切なことなんだ。

 キミの勝利を心の底から信じる。

 

 そう、自分はナイスネイチャのトレーナーなのだから。

 

「ネイチャァァァァッ! キミの走りなら絶対に届く! 自分を信じろォォォォッ!」

 

 

 

 

 

 その声はナイスネイチャにも届いていた。

 最後まで信じてくれる彼の言葉に背中を押される。

 

(ありがとう、トレーナーさん。アタシ、自分を信じる。あなたの信じてくれた走りに全てをかけるよ)

 

 ほかのウマ娘が内に殺到してゆくのを横目に、ナイスネイチャは外側へと進路を取った。

 

 目の前にはだれもいない。

 誰かの通った道はもうなぞらない。

 

 ここから、走ろう。

 決着を付けにいこう。

 

 レースに負けて、どうしようもない現実の中でふたり、最後の日々を送るようなそんな未来。

 

 もしかしたら。

 そんな運命もあったのかもしれない。

 

 だけど、決めたんだ。

 運命なんて変えてやるんだって。

 

 ウマ娘にとって、競走とは人生そのもの。

 

 みんな勝ちたいと思っている。

 ウマ娘はレースに命をかけているんだ。

 

 一人一人が、それぞれの想いを秘めている。

 

 見たい景色がある。

 越えたい背中がある。

 掴みたい栄光と叶えたい夢がある。

 

 

 それでも勝利を掴めるのはたったひとりだ。

 

 

 生きてゆくっていうことは、きっとエゴのぶつけ合いでもあるんだ。

 

 こうありたい、こうなりたい、こうしたい。

 そこに良いも悪いもあるものか。

 

 人生はレースみたいなもので、やりたいことを遠慮していたら、すぐに終わってしまうんだ。

 

 走る理由が愛する人のためだなんて、レースに挑む一人のウマ娘としてはふさわしくない在り方なのかもしれない。

 

 勝利を求める欲望と執念が、土埃ととも刻み込まれる神聖な戦場――ターフへと持ち込むには相応しくない感情なのかもしれない。

 

 

 だけど、構うものか。

 勝利の果てに見える未来を誰よりも求めている。

 

 

 あなたが欲しい。

 共に生きてゆく未来が欲しいんだ。

 

 

(諦めない! アタシは絶対に諦めないから!)

 

 

(運命なんて知らない! 未来を決めるのはアタシ!)

 

 

(アタシは! トレーナーさんと一緒に生きていきたい!)

 

 

 

 アタシが起こしてやるんだ! 奇跡を!

 本来の運命? 修正力? アタシが主人公になるのがそんなに不満? うっさい! お前の言いなりになんてなるもんかっ!!

 

 

 

「――見てろ運命ッ!」

 

 

 

 人の恋路を邪魔する憎いこんちくしょうなんて!

 ウマ娘に蹴られてしんじまえ!

 

 

 何度も何度も蹴り込んで!

 運命なんてターフの底に沈めてしまえ!

 

 

 恋する乙女を! なめんなッ!

 このレースに勝つのは――アタシだっ!!

 

 

 

「ぐぅぅっ!」

 

 ナイスネイチャは深く身体を沈み込ませる。

 

 

 ターフ。その道の先に光が見えた。全てがスローモーションに感じた。ほかのウマ娘たちの息遣い、蹄鉄が地面を叩く音、中山レース場に集う観衆の大歓声。それらが徐々に小さくなってゆく。

 

 

 意識が集中の極みに達した。

 一瞬の静寂のあと、風も音も光も戻ってくる。

 

 

 聞こえてくるのは自分の心臓の鼓動、風を切る音。

 感じるのは全身を熱く炎のように燃え上がらせる闘志。

 

 

 前に見えるは、

 追い抜くべきライバルの背中。

 

 

(マーベラスもマヤノも追い抜かすそんな走りをアタシはしてみせる! 負けるなんて絶対イヤ!)

 

 

(――トレーナーさんっ!)

 彼のくれた想いは、ここにある!!

 

 

 脚に全てのエネルギーを注ぎ込んで、運命の弓の玄を限界まで引き絞る。たった一度の勝利でいい。覚悟を込めて放つは恋する乙女の意地を込めた一陣の矢。

 

 

 必ず射止めてみせると決意を込めて、

 勝負のときは今!

 

 

 

 

 

 

 行こう! その先へ!

 

 

 

 

 

 

「どぅおりゃあァァァァァッ!!」

 

 

 

『外から! 外から!?』

 

 観客のボルテージがさらに上がる。観衆の視線が一点に吸い寄せられる。外から飛んでくるのはクリスマスカラーの勝負服。前傾姿勢で大地を蹴って蹴って蹴って! 中山のターフを切り裂かんばかりに伸びてくる! 唸れ豪脚! 喚べよ嵐! 大地に証を刻み込め!

 

 

 刮目せよ。

 その少女の名は、ナイスネイチャ。

 

 

 歓声が、爆発した。

 

 

『ナイスネイチャだああああっ! 凄まじい末脚! 恐ろしいまでの切れ味! 次々とほかのウマ娘を交わしてゆくぞ! かつてのURAファイナルズの覇者の走りが中山のターフに蘇ったか!? ナイスネイチャ、脚色は衰えない――いや!』

 

「ネイチャ! やっぱり来てくれた!」

「ネイチャちゃん!? 凄い! マヤ、負けないもん!」

 

 前にいるのは残り二人。マーベラスサンデーとマヤノトップガン。歴史に残りうる大器と称された少女と、不世出の天才少女。ここに来て、二人とも最後の力を振り絞る。さらに前へ前へと出ようとする。

 

「うああああァァァァッっ!!」

 

 ナイスネイチャは裂帛の気迫とともにさらに第二の矢を放つ。上体が一瞬沈む。次の瞬間、スピードがぐんっと加速し、あっという間に二人に並ぶ。

 

『ここでナイスネイチャ! さらに加速っ!? マヤノトップガンとマーベラスサンデーをかわすか! かわすか! かわした! かわした! 並ぶ間もなく! ナイスネイチャだ! ナイスネイチャが先頭!』

 

 一バ身、二バ身――。

 離れてゆく背中から目を離せなかった。

 

(ネイチャちゃん――)

 

 マヤノトップガンはナイスネイチャの走りのなかに一つの情景を見た。

 

 黒い嵐のなかを抜けたその先、台風の目のように澄み渡る青空の中を進む戦闘機のコクピット。視界に広がるのは真っ白な光。音速の向こう側、静寂のなかで見たのは決して追い付けない、決して触ることのできない太陽の姿。

 世界を暖かく照らす愛という感情の光だった。

 

(すごく――綺麗)

 

 

 

「マーベ……ラースッ! もっ……と。もっと!」

 

 マーベラスサンデーの額に汗が流れる。身体は限界だと悲鳴をあげているのに、どうしたことか。圧倒的なまでの感動で埋め尽くされている心がさらに速く走ることを望んで止まないのだ。

 

(ネイチャ……!)

 

 自分の大親友が、夢を連れてきてくれた。マーベラスサンデーの求めていたマーベラスな景色がそこにあった。史上最大級の太陽の輝きに魅せられてしまう自分がいた。

 求めていた光はここにあった。走りたいと願った奇跡の道はそこにあった。夢はすぐその先にある。

 

(ネイチャ――すっごくマーベラス! 追い付きたい! アタシももっと! ずっと! 一緒に見たい! 夢を駆けたい!)

 

 マーベラスサンデーの瞳に一滴の涙が流れ、風に溶ける。歓喜に震える心が脚に力を与えてゆく。

 

「うう……!」

 

 マーベラス、それは魔法の言葉。

 いつまでも終わってほしくない魔法の時間を心ゆくまで楽しむためのとっておきの呪文。苦しいのに、辛いのに、笑顔が溢れて、楽しくて仕方がない。世界に届け。少女の夢見たマーベラスな景色。

 

「マーベラース!!」

 

『マーベラスサンデーが差し返そうとしている! 差が縮まる! 並ぶか! 並ぶか!?』

 

 それでも、その魔法の力は太陽にまで届かない。

 ゴール板がすぐそこまで迫り――決着の時が来た。

 

『いや! これは届かない! これは届かない! ナイスネイチャだ! ナイスネイチャだ!』

 

 

 

 

 

『ナイスネイチャいま一着で、ゴールイン!』

 

 

 

 

 

 圧倒的なデッドヒートを魅せ付けられた観衆が雄叫びをあげる。ナイスネイチャはゴール板を先頭で駆け抜けた。その後ろからマーベラスサンデーとマヤノトップガンが遅れて入着。やや、間があって、ヒシアマゾンを始めとする各ウマ娘たちがゴール板を通りすぎてゆく。

 

 だれも故障することなく、無事にレースを走りきったのである。歴史は間違いなく変わったのだ。

 

 ナイスネイチャは徐々に減速する。立ち止まった。肩を揺らしながら呼吸を整えてゆく。

 

『ナイスネイチャがやりました! 二年ぶりの勝利をここ中山レース場の大一番のグランプリ、有馬記念にて挙げました! かつての覇者が復活! 間違いなく歴史に残る豪脚を見せつけて、ナイスネイチャ! やった!』

 

 やがて、電光掲示板には着順が表示された。

 ナイスネイチャが、一着だった。

 

「アタシ……勝ったんだ」

「ネイチャ!」

 

 つんのめりそうになりながら走り寄ってくるトレーナーの姿が見えた。たどり着くと、ナイスネイチャの肩を掴んで、あちこちを覗き込むように頭を動かす。

 

「怪我はないか! 大丈夫か!」

「ちょっとちょっとー! トレーナーさん! そこはまず、おめでとうじゃないのー?」

 

 ナイスネイチャの抗議の声。でも彼女の口もとには仕方ないなあ、と言わんばかりの苦笑いが浮かんでいる。トレーナーははっとしたように肩から手を離して、姿勢を正す。

 

「あ、すまん……ネイチャが無事かどうかはやっぱり不安でな」

「もー、大丈夫だって。アタシはどこもケガしてないよ。ってか、レースが終わったばかりのコースに入ったら怒られるんじゃない? いいの?」

「いいさ、そんな些細な問題。……優勝おめでとう、ネイチャ。よく頑張ったな」

 

 ふたりのあいだを風が通り抜けた。少女は髪に手を当てて、満足そうに顔をほころばせる。その瞳に暖かな陽射しのような優しさの色を乗せて、ゆっくりと目を細めた。

 

「うん……アタシ、一番になれたよ」

 と、少女は言う。

 

 トレーナーはやり遂げた現実を噛みしめるように息を吐いて、天を仰いだ。視線をもう一度、少女に向けた。

 

「なあ、ネイチャ……」

「ん? なに?」

 

 ナイスネイチャがリラックスした様子で言葉の続きを待った。小さく首をかしげている。

 

「ネイチャは生きて……いるんだよな?」

 

 笑う。彼の頬に手を伸ばす。言い含めるように告げた。

 

「……生きているよ。アタシもトレーナーさんもね。それだけじゃない。生きてゆくんだ。これからも、ずっと」

 

 そのまま、ナイスネイチャは彼の胸へと手のひらを滑らせて、ゆっくりと寄りかかってゆく。そんな少女を彼は柔らかく腕のなかで抱きしめてくれる。

 

「ずっと、あなたのそばにいるよ」

 

 愛おしげに息をついた。

 

「――アタシのトレーナーさん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おーっと、ここでナイスネイチャ選手! 担当トレーナーさんと熱い抱擁を交わします! お聞きくださいこの拍手と大歓声! 中山レース場がまるで結婚式場のように生暖かく燃えているゥゥゥッ!』

 

 

 

 

 

 場内に赤坂アナウンサーの放送が響き渡る。

 

 電光掲示板横の巨大液晶ターフビジョンにはお互いを抱きしめ合うナイスネイチャとトレーナーの姿がばっちり映っている。メインスタンドに集った十万人を越える大観衆からは囃し立てるような口笛と拍手の波が巻き起こった。

 

 そう、ナイスネイチャはお忘れかもしれないが、ここは中山レース場である。ターフでラブラブっぷりを見せ付けたウマ娘として、歴史に名を刻んだ瞬間であった。

 

 ちなみにこの模様は地上波デジタル放送で日本中に生中継されており、後日ネット配信でも世界中に拡散されてゆくことが確定している。

 

「え? ちょっ! えっ、えっ、えぇぇぇっ!?」

 

 顔を真っ赤にして悲鳴をあげるナイスネイチャ。ウマ耳をせわしなくぴこぴこぴょいぴょいと動かす。しっぽがぶんぶんと振られていた。身体を固まらせる。

 

 この二人の抱き合う姿は瞬間風速的に日本中の話題をかっさらった。同時刻のウマッターやウマスタグラムでは#ナイスネイチャのハッシュタグがついた投稿が飛び交い、トレンドは急上昇。レースのみならずこちらでも一位をとっていた。 

 

 ほかにもトレセン学園でテレビ中継を見ていた生徒たちが黄色い悲鳴をあげていたり、ある生徒などは「ヒョエエエッ! 推しの照れる顔が……尊いッ!」と鼻血を吹き出し、ぶっ倒れて保健室に運ばれていたりもした。

 

 拍手に包まれる中山レース場。

 商店街の人たちが祝福の声をあげる。

 

「ネイちゃーん! おめでとー! トレーナーさんと末永くお幸せにねー!」

「やっとかー! 待ちわびたぜー! 結婚式には俺たちも呼んでくれよなー! ネイちゃーんっ!」

 

 口笛がぴゅーぴゅーと飛び交う。中山レース場は大変な大盛り上がりだ。親戚一同の集まった親睦会なみにゆるい雰囲気と化す。緊張感が、無い無いナイスネイチャ。

 

「う……」

 ナイスネイチャの頬に熱が集まってゆき、 

「うにゃああああっ! は、恥ずかしーー!」

 ツインテールで顔を隠すようにして、その場にうずくまるのであった――。

 

 

 そんなナイスネイチャたちの様子を遠くから眺めているのはレースに出ていた他のウマ娘たちだ。

 

 マヤノトップガンは両手を顔に当てて、でも指の隙間からはちゃっかり視界を確保しながら頬を赤く染めていた。

 

「はわわ……ネイチャちゃん大人のオンナだったんだ……はわわわわ……」

「はいはい、あんたには刺激が強かったね。ほら、行くよ。ウイニングライブの準備あるんだろ」

 

 ヒシアマゾンに首根っこを掴まれて、連れていかれるマヤノトップガン。ぷしゅー、と煙でも出そう。純情な天才少女が大人のオンナになれる日はまだまだ遠そうである。

 

「ネイチャー!」

 マーベラスサンデーが両手をぶんぶん振りながら走り寄ってきた。ナイスネイチャは顔をあげた。

 

「すっごくネイチャはマーベラスだった! あのね! ネイチャ本当にすごかった! またいっしょに走ろーね!」

 

「あ、ありがと。マーベラス」

「マーベラース! ネイチャ大好きー!」

 

 マーベラスサンデーは額に流れる汗をぬぐうこともせず、眩しいばかりの笑顔でトレーナーにも向き合う。両手を握りしめて、こちらを見上げた。

 

「ねえねえ、ネイチャのトレーナーさん! ネイチャを幸せにしてくれてありがとー! これからももっともーっとマーベラスな祝福を与えてあげてね☆」

 

「…….ああ!」

 

 トレーナーは力強く頷くのだった。

 

 

 

 

 

 ライブ会場は大盛り上がりだった。

 ナイスネイチャがセンターで歌っており、マーベラスサンデーとマヤノトップガンがその左右で楽しそうに踊り、いっしょに歌っている。

 

 トレーナーはそんな彼女たちを関係者用の席から見つめていた。

 そこに――。

 

「歓喜ッ! 今宵も素晴らしいライブであるな!」

 

 学園理事長である秋川やよい(と彼女の帽子の上に乗っかっている謎の猫)が訪ねてきた。

 彼女の後ろには理事長秘書の駿川たづなの姿もあった。

 

「トレーナーさん、おめでとうございます! ナイスネイチャさん、素晴らしい走りでしたね!」

 

 トレーナーは頭を下げた。

「秋川理事長、たづなさん――ありがとうございます」

 

 秋川理事長は閉じた扇子を手のひらにぱしぱしと当てる。頭のうえに乗せた猫が「にゃ、にゃ」と鳴いた。

 

「うむ、うむ。ところでだな。君はこんな感動的な走りを見せてくれたナイスネイチャにはご褒美があってもいいはずだと思わないか!」

「それは……もちろんです」

 

 トレーナーの返事に満足そうにうなずく秋川理事長。

「そうだろう! そうだろうとも! そこでだ!」

 パッと広げられる扇子。

「提案ッ!」

 

 秋川理事長がそう前置きをして話し出した内容にトレーナーは驚き、最後には笑って承諾した。

 

 

 

 ライブはどんどんと進んでゆき、最後の曲目が終わった。ウマ娘たちが手を振りながら、ステージを去ってゆく。

 

 

 ――アンコール! アンコール! アンコール!

 

 

 アンコールの声が渦となって響き渡る会場。

 舞台裏に移動していたナイスネイチャのもとにトレーナーがやってきた。

 

「ネイチャ、アンコールでもう一曲歌うことになった! 歌えそうか?」

「ん、いいよ。なに歌うの? うまぴょい伝説? GIRLS' LEGEND U?」

「いけばわかる。頼んだぞ!」

 

 ぱしぱしと背中を叩き、ナイスネイチャを追いやるトレーナー。

 

「ちょ、もう」

 

 指示された場所に向かうとスタッフたちが慌ただしく動いていた。ナイスネイチャが現れると、とたんにスタッフたちが色めきだす。

 

 ――ナイスネイチャさんが入ります!

 ――了解です! いつでもどうぞー!

 ――ナイスネイチャさん! そこに立ってくださーい! そう、そこの昇降台です!

 

 辺りを見回すと自分以外のウマ娘がいない。

(あれ? ほかの娘たちがいない?)

 

 ――ナイスネイチャさん、準備はいいですかー!

 ――動かしますんでー!

 ――本番五秒前ー! 

 

(もしかしてソロ? え、どういうこと?)

 

 あれよあれよという間にナイスネイチャはステージに上げられてゆく。

 

 そして、これから始まる曲のイントロが流れはじめた。ライブ仕様に合わせてやや長めに調整された前奏部分。それはナイスネイチャのよく知るメロディだった。

 一途な片想いに身を焦がす、ひとりの女の子を歌ったラブソング。ナイスネイチャの代名詞ともいえるその曲。

 

(これって――)

 

 ステージに上がったナイスネイチャ。観客たちが拍手と口笛ともにナイスネイチャを迎え入れる。

 

 どういうことかと関係者用の席に視線を移す。

 

 すると笑顔でサムズアップするトレーナーが見えた。隣で秋川理事長が『応援ッ!』と書かれた扇子を掲げている。その横には両手に持ったサイリウムを振るマーベラスサンデーとマヤノトップガンと駿川たづなの姿があった。

 

 ここまで来れば、ナイスネイチャもさすがに悟る。

 

(もう! さては仕組んだなー!)

 

 よく見れば会場のサイリウムは緑色と赤色で統一されていた。ナイスネイチャの勝負服と同じクリスマスカラーだった。幻想的な光の波が会場全体に広がっている。

 

「ネイちゃーーんっ! おめでとー!」

 どこからか商店街の人たちの声が聞こえた。

 

 

 Out of Triangle Love――。

 Out of Triangle Love――。

 

 

 オオトリを飾るのはナイスネイチャの持ち歌。

 アウト・オブ・トライアングル。

 

 緑と赤のサイリウムが風に吹かれる麦穂のように右に左に揺れていた。会場全体が光のドームとなってナイスネイチャを包んでいるかのようだった。

 

 もう一度立ちたいと願っていた最高のステージ。

 ――その夢は叶った。

 

(……すごい!)

 胸が熱くなる。その感動の赴くままに投げキッスを送ると大歓声が起きた。会場はさらに盛り上がる。

 

 トレーナーと目があった。トレーナーが何かを言ったのが見えた。聞き取れなかったけれど、伝えようとしてくれたことがナイスネイチャにははっきりとわかった。

 

 

 ――輝いてこい! ネイチャ!

 

 

 自分の中の情熱が最高に燃え上がる。

 

(……おっけー! 歌ってやろうじゃん! キラキラに輝く主人公のラブソングってやつをね!)

 

 

 少女は息を吸った。

 そして、最初のフレーズを歌い出し――。

 

 

 

 

 

 ――その日のライブがクリスマスを彩るのに相応しい最高の盛り上がりを見せたことは、言うまでもない。

 

 

 

 

 

 時は流れて。数年後――。

 

 

 

 

 

 商店街の路地裏にある小さなスナックにて。

 

 

 ナイスネイチャはバーカウンターの奥でロックグラスを布でみがいていた。時おり入ってくる注文に合わせて、お酒やツマミを用意して席まで運んだりもする。

 

 時刻はすでに夜。常連客である商店街の男たちがいつものように集まり、テーブル席で騒いでいた。

 顔を真っ赤にした男たちがビールの入ったジョッキを傾けながら、ナイスネイチャに大声で話しかける。

 

「トレーナーさんがよー! この前、酔っぱらったときに言ってたぞー! ネイチャの子供が欲しいって! 愛されてるねー! ひゅーひゅー!」

 

 ロックグラスをみがく手の動きを止めた。

 

「こーらー? どうして、そーいうことを言うかなー? それセクハラ! まったく。このセクハラ親父どもめー。というか、なんで人の旦那と勝手に飲みにいくのかなー」

 

 ナイスネイチャは眉をひそめて不満げに唇をとがらせる。とはいえ、酔っぱらい相手にいちいち本気で怒ったりはしない。手に持っていたロックグラスをカウンターの上に置いた。すぐ傍らのアイスペールからトングで氷を掴んでは、そこに放り込んでゆく。

 

「そりゃ決まってる! トレーナーさんから俺たち商店街一同最推しアイドル、ネイちゃんの惚気話を聞きたいからだ!」

「はいはーい。ビール飲み放題の日、出禁ねー」

 

 目を細めて、気だるげにそう告げるナイスネイチャに商店街の男たちは声をうわずらせた。

 

「おいおい、そりゃねーぜ! ネイちゃん!」

「べろんべろんに酔っぱらってネイちゃんの話で盛り上がるのが俺たちの楽しみだってのに!」

「アタシは酒の肴かーい……」

 

 呆れた顔で片手で宙を切るナイスネイチャ。毎回毎回こんな調子でからかわれると流石に慣れてしまい、軽く流せるようになっていた。

 それに商店街の人たちは純粋にナイスネイチャの話をするのが大好きだからしているだけなのである。おとしめようなんて意図は一切ない。そこには愛しかないのだ。

 

 苦笑いをしながら水割りを作り始める。

 

「もー、とっくに現役引退したウマ娘に何をこだわる必要あるんかねー」

 

 有力なウマ娘は次々と現れてゆく。世代交代はどんどん進んでゆくのである。ナイスネイチャの記録を越えるウマ娘は今もまた何処かで生まれ続けているのだ。

 

「アタシはもう過去のヒトですよーっと。今は小さなスナックのママやってるだけの平々凡々なウマ娘だし……」

 

 なので、あまり褒められ続けても、身の置き場に困るようなムズムズした気持ちになってしまうのであった。

 

「なに言ってんだい。伝説のウマ娘がさ!」

「や、伝説とかそんな大げさな……」

 

 ナイスネイチャが困ったように手を振る。しかし、応援して勇気づけるような口調の大声が返ってきた。

 

「大げさなもんか! 最後の一年は凄かったよな。マーベラスのお嬢ちゃんとマヤノのお嬢ちゃんとネイちゃんの三つ巴の争い!」

 

 そう叫んだのは焼き鳥屋の店主である。

 傍らでうんうんとうなずくのは魚屋の大将だった。

 

「たしかに。いまだにファンの間では名勝負しかなかった一年間って言われているもんなあ」

 

 横から、盆踊り好きの隠居親父も口を差し込む。

 

「だな! 春の三冠を分けあった三強のデッドヒート! 大阪杯のマーベラスちゃんに天皇賞(春)のマヤノちゃん、そして宝塚記念の我らがネイちゃん! あれは凄い戦いだった。どれも三人で上位独占!」

 

 焼き鳥屋の店主がわかるわかると相づちを打った。

「ああ、ほんと。最高の一年だった。そうそう! とくに最高といえば――」

 

 商店街の男たちがそんな談義に花を咲かせる。ナイスネイチャがその素晴らしい素質を発揮して、いかにトゥインクルシリーズを駆け抜けたかについて熱弁をふるう。

 

「やれやれ。酔っぱらいどもがまーた語りだしたよ……」

 コメくいてー、な顔で肩をすくめるナイスネイチャ。

 

「なに言ってんだ。語るに決まってるだろ! オレたちの愛されウマ娘、商店街のアイドル! ネイちゃんをよ!」

 

「そーだそーだ!」

 と、囃し立てる男たち。

 

「あのときのネイちゃんは間違いなくチームのエースだったよな。最後の有馬記念の時なんてチームの後輩の子たち、みーんなぴーぴー泣いてたじゃねえか」

「女の子泣かせるなんて罪作りなウマ娘だよなあ。ネイちゃんは」

「ついでにトレーナーさんとの結婚式でもオレたちを泣かせてくれやがってよー!」

 

 次第に空気に湿っぽさが混じり始める。大の男たちが鼻をぐずらせ、唇を噛みしめ、えぐえぐと腕を目もとに当てて泣き始める。広がっていく感動の輪。

 

「ああ、良かったよな、ほんと。オレ思いだすだけでも涙が。うう……ネイちゃん、おめでとう……おめでとう!」

「うおおおんっ!」

 

 カオスのるつぼと化す店内にナイスネイチャの呆れた声が響いた。

「も、もー! 笑ったり泣いたり忙しいなー。飲み過ぎじゃないの……?」

 

 おめでとー、おめでとー、と止まないコール。なんだか可笑しくなってきて、ナイスネイチャは口もとに手を当てて吹き出した。

「……ふふっ。はいはい、ありがとねー」

 

 そうやって笑うナイスネイチャの左手の薬指にはシンプルなデザインの指輪がはめられていた。

 

 

 そうなのだ。

 あの有馬記念での勝利によって、全ての物事が良い方向に走り出したのだ。

 

 

 翌年、トレーナーがチームを結成したときも、その中心にナイスネイチャがいることに文句を言う者なんて誰もいなかったし、後輩の子たちはみんな良い娘でナイスネイチャを慕ってくれた。むしろ憧れのスターウマ娘として尊敬の視線を向けられ、戸惑ってしまったぐらいだった。

 

 ナイスネイチャも有馬記念の勝利のあと調子を取り戻し、マーベラスサンデーやマヤノトップガンといったライバルたちを相手にしてはさすがに全勝とまでいかなかったが、それでも有馬記念を連覇し、有終の美を飾ってその年いっぱいで引退したのだ。

 

 トレーナーから正式にプロポーズも受けた。もちろん答えはイエス。獲得したレースの賞金で小さなスナックを開いて、ささやかだけれど幸せな日々を送っている。

 

 ナイスネイチャの母親も「孫の顔を見れるのを楽しみにしているわ。トレーナーさん、この子をよろしくお願いしますね」と嬉しそうに二人を祝福してくれた。

 

 ナイスネイチャのトレーナーは今もトレセン学園で働いている。日本でもトップクラスの腕を持つトレーナーとして評判だった。テレビでその顔を見る日も決して珍しくはないほど有名にもなった。

 ナイスネイチャが抜けたあとのチームの娘たちも順調に育ち始めていて、彼はますます忙しい日々を送っている。

 

 あの人はこれからもトレーナーを続けるつもりみたいだった。

 

 一緒にお店やらない? と言いたい気持ちはあった。

 二人三脚でやっていきたいな、とも思う。

 

 だけど、トレーナーは言うのだ。

 この仕事を続けていきたい、と。

 

 ネイチャのようにあの娘たちもキラキラの一番星にしてやりたいんだ、と優しい微笑みとともに夢を語られてしまえば反対なんて出来るはずもなかった。

 

 トレーナーがナイスネイチャの夢を応援してくれたように、今度はナイスネイチャがトレーナーの新しい夢を応援してあげる番なんだと思った。

 

 自分に出来ること。

 それはあの人の帰る場所を守ってあげることだ。

 

 ただ、それでも――。 

 わかってはいても、ひとりで待っているのは寂しい。

 

 今日も店の中はナイスネイチャとトレーナーの夫婦を応援し愛してくれる人たちで賑わっていた。話し声は絶えず、時おり笑いがあがる。ひとりではあるけれど、孤独ではない。孤独ではないけれど、ひとりだ。

 

 愛する、というのは与えるということだ。もちろんナイスネイチャは応援してくれる人たち全てに愛で応えている。だけど、生涯を共に生きていきたいと願うほどの愛しい相手はいつまでも"トレーナーさん"ただ一人なのだ。

 

 店内には控えめな音量で有線放送が流れていた。スローテンポなバラードがしっとりとした歌声で歌われている。

 曲名は「ありがとう、神様」だった。ウマ娘たちのあいだでは定番の卒業ソングの一つである。

 

 

 世界で一番大きく 愛おしい宝物――。

 

 

 ナイスネイチャの背後の棚には酒類のボトルのほかにも折り紙で作られたへろへろのトロフィーが飾られている。運命の有馬記念を乗り越えたあの日、愛しのトレーナーから授与された折り紙のトロフィー。ちょっとだけ端がくしゃっとなっているのがご愛嬌というか、微妙にしまらない感じがじつに自分達らしくて気に入っている。

 

 

(まだかなあ……)

 優しいまなざしで、そのトロフィーを見つめるナイスネイチャ。

 もうすぐ愛しい人が帰ってくる時間だった。

 

 

(あ――)

 ナイスネイチャのウマ耳がぴんっと立つ。

 聞き慣れた足音が近付いてくるのが聴こえた。

 

 

 

 

 今日も帰ってくるのを待っていた。

 自分はこれからも、ずっと。毎日。

 想い人を待ち続けるんだろう。

 

 でも、それでいい。

 あの人は必ず来てくれるから。

 

 

 

 

 曲が終わった。

 店内に静寂が訪れる。

 

 扉が開いた。ドアベルの音。足音はまっすぐこちらに向かってきて、ナイスネイチャの前で止まった。

 

 

 ――お、トレーナーさんが帰ってきたぞー!

 ――俺たちのヒーローの凱旋だー!

 

 

 視線を上げればそこには待ちわびていた笑顔。これからもずっと隣にいてくれる大好きなあなた。

 

 

「ただいま。ネイチャ」

「うん、おかえりなさい。待ってた」

 

 

 愛おしい気持ちが溢れてゆく。

 キスしてあげたいな、だなんて思ったり。

 

 

 そして、あーあ、またバカップルなんて言われるんだろうなーって考えながら、愛しい人の頬に両手を当てて、そっとつま先立ちをした。

 

 

 

 

 



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