肉塊の魔女 (なな)
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1 呪子の誕生

な?


 わが子の顔を見ることなく母親の命は果てたが、むしろ彼女は幸運だったろう。

 

 呪子(のろいご)が産まれた。

 誰の目にもそれは明らかだった。

 

 母胎を食い破るように生まれた赤子は、文字通り血の赤に塗れていた。

 肉体にはいくつか足りない部分があり、また余計な部分があった。真っ赤な肉が蠢いて、ぐちゃぐちゃと気持ち悪い音を立てる。腕や脚の末端は裂け、捩れ、愉快な振り付けを踊っている。

 頭と四肢があるから人に見えるだけの、蠕動する肉塊。

 

 生きるだけで呪いを振りまき、また殺した者を呪う災厄、それが呪子だ。

 だから呪子は捨てなければならない。それも、可能な限り早く死ぬように。

 

 長老は父親がその役目を果たすべきだと判断した。

 愛する妻を殺した肉塊を背負い、彼は「澱みの森」に踏み込んだ。

 

 木こりも狩人も引き返す境目を超え、さらに森の深く。

 一歩進むごとに霧は濃くなり、もはや目の前すら定かではない。

 呼吸をするごとに気が遠くなり、肺は千の針で突き刺されたように痛む。

 

 そこまで来てようやく彼は足を止めた。

 枯葉に覆われた地面に、そっとわが子を横たえる。

 

 肉塊は泣き声一つ上げず、じっと彼を見つめ返してきた。まるで彼が実父であることも、今まさに獣の餌にされようとしていることも、何もかもを見通しているように。

 

 おぞましい。

 

 その不気味な姿を見て、わずかに感じていた親子の情も消え失せた。

 父親は踵を返し、そして、

 

 濃霧から現れた牙に胴体を食い破られた。

 

 鮮血が噴き出し、赤子にふりかかる。

 胎内にいたころの温もりを思い出し、赤子は安堵の感情を覚える。

 

 霧の中から現れたそれは、狩人が見れば鎧を纏った狼と言っただろうし、神父が見れば悪魔の使いと言っただろう。

 ばりばりと骨を噛み砕き、内臓を啜っている獣には、まだ名がついていない。

 澱みの森の深く。人間の立ち入らない領域に棲む獣。出会うものはおらず、出会ったときには死んでいる。そんな禽獣がここにはごまんといる。

 

 男の血液で喉をうるおした獣は、地面にうごめく小さな命に気づいた。すでに腹は膨れていたが、せっかくのおやつを我慢することもない。

 軽く一呑みにしてやろうと開いた口は、しかし閉じることはなかった。

 

 獣は困惑する。

 

 その時には獣の下顎は削り取られていたのだが、気づくことはできない。

 ただ原因不明の痛みと、この森で何よりも必要な直感が、異常な危機を訴えていた――逃げろ

 

 もちろん手遅れだった。

 肉塊は一瞬大きく震えると、ぐちゃぐちゃと触手のように形を変え、獣の脚に絡みついた。

 獣は悲鳴をあげて振り払おうとして、望み通り逃れることはできた。己の四肢と引き換えに。

 

 獣の脚を捻じり切った触手の先端が開き、さっそく食餌を呑み込んでいく。母乳を吸うこともできず、空腹に苦しんでいた肉塊は喜んだ。

 

 地面に転がる芋虫となった獣は、己の体が細断され、肉塊に取り込まれていく様をじっと眺めていた。

 肉塊は獣を食うほどに膨れ上がり、かと思うと縮み、絶えず全身の形を変えていく。

 人型に戻ろうとして、けれど肉体に収まりきらず、形が崩れるのを繰り返している。

 

 やがて獣が意識を失いかけたその時。

 肉塊は気まぐれなのか、違う形になろうとした。

 それが産まれてから今まで見た中で最も強い形だった。

 

「――――――!」

 

 獣は、肉塊の腕から自分と同じ頭が生えるのを見た。

 肉でできた獣の頭は遠吠えをあげ、結局その形を保てずにどろりと溶けていく。

 しかし遠吠えは樹々のあいだを抜け、霧に染み入るように長い残響を残していった。

 

 ……それが肉塊の魔女の始まり。

 

 魔女の産声が消えるころ、もう獣の目に光はなかった。

 

 

 

 

 

 

 はい、つーわけでね、転生したんだけども。

 まあ赤ん坊のころとか、小さいころの記憶は全くない。物心つくのに合わせて、前世の記憶もぼやぼや思い出してきたっていう感じだ。前世は単なる一般人だったんでノーコメント。男だったのが女になってるが、まあ今さら気にならない。

 転生のお約束のチート能力だが、よくわからない。自分以外の人間に会ったことがないからだ。気づいたときにはこの森で一人だった。それでも生き抜けるサバイバル能力がチートとかか? 魔法とか使いたいんだけどなあ。

 ときどき人影っぽいのを見かけるんだが、寄ってったころにはもう消えている。一人は寂しいよ。

 

 あとチート能力ではなく隠し芸的なところで言うと、体中に気持ち悪い生肉みたいのが付いていて、好きな形に変えたり、うにょーんと伸ばしたりできる。

 これは結構便利で、樹になっている果物を取ってそのまま吸収したり、森の動物に襲われたとき勝手に防御してくれたりするし、勢い余って殺しちゃうこともある。殺すと他の動物が寄ってくるから、あんまりやりたくないけど。丸呑みすると胃にもたれるんだよ。

 

 この世界の動物たちは、なんか炎を吐いたり、ビーム打ったり、そういうのがなくても単純にでかくて硬くて強かったりと、前世よりはるかに恐い。たぶんだが、人間が進化の過程で身につけたのがこの生肉なんだろう。こんなんでもなけりゃとても生きていけない。

 まあ普段は邪魔だから洋服代わりで体に巻き付けてるんだけど。

 

 今は日課の散歩中だった。散歩といっても、家の近くを小さく一周するだけだ。

 とにかくこの森は霧が濃い。日によって濃さは変わるが、一メートル先見えないのが五メートル先まで見えるようになるとかその程度で、目印をつけずに遠出した日には遭難間違いなしである。

 

 この霧のせいで一日の区切りも曖昧だ。森はいつも薄暗く、今が昼なのか夜なのか、この世界に昼や夜があるのかもわからない。

 ふと思い立って毎日線を引いて数えるのをやってみたこともあったが、百日くらい数えてやめてしまった。別に数えたところでどうしようもないしな。そういえばあの時使った石はどこにやったっけ……。

 

 とかどうでもいいことを考えていると、散歩コースを一回りして、家に戻ってきていた。

 

 この家はなかなかの自信作だ。建てたのはいつだったか……覚えてないが、前の家より良くなってるはずだ。灰色の石造りで色味はないが、少なくともまだ崩れていない。帰ってきたら家が壊れてるの、けっこうがっくりくるんだよな。

 

「ただいま~っと」

 

 もちろん誰も応えてくれない。出迎えは冷たい空気だけだ。

 

「はあ……」

 

 ……暇だ。

 

 そりゃ当たり前の話なんだが、自分以外に誰もいない、見通しもきかない森だ。娯楽というものが一切ない。なら自分で創り出すべきなのだろうけど、なんかこう、面倒なんだよなあ。

 前世で過労死ぎみに働いてた影響か、気力とか活力というものが体のどこにも残っていないのだ。まあ生きるのには困ってないし、とりあえずいいか、と思ってしまう。あれかね、新型鬱ってやつ? まさか死んでも治らないとは。

 

 木と動物の皮で作ったソファに腰を下ろし、ぼんやりと向かいの壁を見つめた。

 なんか彫るか、と生肉を動かして、壁に思い付きの線を彫っていく。しばらく熱中したが、なんだか歪んだ絵になってしまってやる気が失せた。こういう繊細な作業とか向いてないんよ、俺。

 

 飯でも食うか、と腰を上げかけたが、よく考えなくても腹は全然減ってない。なんせ起きて、散歩して、帰ってきただけだ。腹が減るわけがない。

 しかもこの間備蓄を食べ尽くしたところだった。また外に出て狩りをするってのも面倒だ。次に外出したときついでに頑張ればいいだろう。

 

 あれ、でも備蓄が切れたのって何日前だっけ? 昨日……ではないな。五日前くらいか? 人間って何日くらい飲まず食わずでいられるんだっけ……。生活サイクルがめちゃくちゃなせいでよくわからない。

 

 ま、でもこうして生きて動けてるんだから問題ないわな。うん。 

 

 で、結局。

 

 大して眠くないけど寝るかと、ごろんと横になる。

 状況を変えようと思ったら森の外に出るしかねーよなー、と天井を眺めながら考える。森の動物はどいつも目が合うなり襲ってくるやべー奴らばっかだし、下手に出歩くのは危ないんだけど、こんな生活をしてても何も変わらない。

 うん、そうだよ。ちゃんと備えをして、少しずつ行動範囲を広げていけば、いつかは外に出られるはずだ。

 えーっと、そしたら何が必要になるんだ? えーっと……。

 

 まあ、起きてから考えればいいか。明日やれることは明日やるべきだ。

 なんか横になってたらほんとに眠くなってきたし、頭がすっきりした状態で考えることにしよう。それがいい。

 

 なんか……昨日も、その前も、その前の前も、ずっと同じことを考えて寝入った気がするな。

 でも今日はいいや、時間はいくらでもあるんだし。

 

 一秒考えて、俺は目を閉じることにした。

 

 

 

 

 

 

 少々時をさかのぼる。

 呪子が産まれ、森へ捨てに行った父親が帰らず、それが話題になることもなくなったころだ。

 村は珍しい客を迎えていた。

 

 馬に乗り、鈍色の鎧に身を包んだ五人の騎士たち。そしてその供回り。彼らはこの村が属する領主の旗を掲げており、さらに先頭の男は王室の徽章を付けていた。

 恐る恐る距離をとった村人を前に、男は兜を脱いだ。

 齢は三十半ばほどか。くしゃくしゃの黒髪とだらしないひげ面で、とても騎士には見えない。

 彼は人好きのする笑顔を浮かべ、村人にむかって手を振ってみせた。

 

「いやあ、突然大勢で申し訳ない。こんな物騒なもんを持ち込んじゃったら怖いよな? えっと、村長さんは?」

 

「儂です」

 

 長老が前に進み出る。真っ白な髭を蓄えた老人で、その顔には厳しい皺が刻まれていた。

 

「ああ、どうもどうも。俺はカルメウス。これでも王室直属の騎士で……へへ、見えないだろ?」

 

「そのようなことは」

 

「で、付いてきてる彼らは領主さんとこの騎士。今回の仕事の手伝いに借りたっつうか、まあ気にしないでいいんで」

 

 カルメウスはひらひらと手を振るが、長老は気が気でない。

 しかし騎士たちは不満そうに顔をしかめるだけで、不満を口にすることはなかった。それくらいの立場というものは彼らも弁えている。

 

「しかし仕事、ですか? カルメウス殿、こんな何もない村に何の用があると?」

 

「そうなんだよぉ。しかも国王じきじきの勅令だぜ? まったく参っちゃうよなあ。ま、お互いちゃっちゃと終わらせましょうや」

 

「勅令とは……」

 

 村人たちの間に動揺が広がっていく。

 この村に対して国王がなにか望むとしたら、一つしかないと誰もが知っていた。そしてその望みを阻むためにこそこの村は存在するのだ。

 

 長老は近くの女を呼び寄せ、二言三言耳打ちする。女はすぐ村の奥へ走っていった。

 騎士たちの方に向き直り、長老は腕を開いた。

 

「そういった事情であれば、集会所でお伺いしましょう。何もない村なりに、歓迎させていただきます」

 

「そりゃありがたい。お言葉に甘えるとするかね」

 

 カルメウスは軽い足取りで後に続いた。

 

 集会所に入ってきたのは、カルメウスと、彼の連れらしい外套の人物だけだった。頭まですっぽりと黒いフードを被り、一言も口をきいていない。

 まあコイツのことは気にしないでくれや、とカルメウスが笑う。

 

「それで村長さん、俺たちが来た理由なんですがね」

 

「澱みの森に入る、と言うのでしょう。森を抜け、清河国(ムイラ)へ攻め込むために」

 

「さっすが、話が早い。で、村長さんはそれを止めたいんでしょう?」

 

「…………」

 

 長老は鋭い視線で相手を睨みつけたが、カルメウスは変わらず浮薄な笑みを浮かべている。

 その余裕がかえって不気味だった。

 

 東の銀峰(メーシル)王国、西の清河国(ムイラ)――両国がなぜこれほど争いを続けているのか、正しく理解している者は一人もいない。

 

 銀峰(メーシル)は人間種の国家で、清河国(ムイラ)は獣人種の国家だった。それが理由。

 銀峰(メーシル)の教えは獣人を否定し、清河国(ムイラ)の教えは霊長を否定した。それが理由。

 銀峰(メーシル)は相手の穀倉地帯が必要で、清河国(ムイラ)は相手の鉱床が必要だった。それが理由。

 

 いずれにせよ両国は長く争い続け、しかし決着がつく気配はなかった。

 それというのも、両国の間には大きな壁が横たわっているからだ。

 

 国境の中央には巨大な運河が流れ、どちらから攻めるにしても困難を伴う。

 南に目を向ければ竜の棲み処である蒼白山脈が聳え、踏み入ることすらできない。

 

「そこで北ってわけだな。呪い渦巻く霧の森林、澱みの森。ここを抜ければ、あっさりと敵の後背を衝ける」

 

 カルメウスはにやりと笑った。

 それを見て長老は眉根を寄せる。

 

「どうも、理解されていないようですな、あの森がどのような場所かを。澱みの森は呪いの地です。森に満ちる霧は、触れるだけで人間には苦痛です。半日も過ごせば意識を失い、二度と帰れぬでしょう。とても人間の踏み入る場所ではありませぬ」

 

「そりゃあ理解してねえよ。何しろこの森はずっとあんたたち――守護の村が隠してたからな。呪いに近づくなと言って、王室の要請をすべて撥ね退けてきた」

 

「それだけ恐ろしい場所だ、ということです。何も知らぬ市民に呪いが降りかかることになります。それでもなお近づくというのであれば……」

 

 長老が壁にかかった槍に視線を向ける。白い柄に紋様が刻まれた、古くから村に伝わる長槍だ。

 とつぜん膨れ上がった殺気を前にして、カルメウスは苦笑した。

 

「ああ、聞いてるよ。澱みの森にほど近いこの村で育った連中は、どいつも常人を超える力を持ってるんだろ? だからこれまで誰も手を出せなかった」

 

「これも呪いの力です。そんな力を騎士殿に向けたくはない」

 

「……だってさ。どう思う、博士?」

 

 肩をすくめたカルメウスが話しかけたのは、これまでずっと黙っていた外套の人物だった。

 

「呪い、ですか」

 

 そう言ってフードを脱いだ下にあったのは無表情な女の顔だった。

 あまりに場違いな姿に、長老は言葉を失う。

 氷を削り出したような水色の髪と目は、その身動ぎしない様子も相まって、よくできた人形のように見えた。夜会で男どもをあしらう令嬢といった風体で、胡散臭い騎士と一緒にいるような人物ではない。

 彼女は淡々と言葉をつづけた。

 

「呪いと呼ぶことでしか理解できない時代もあったのでしょうが、今となっては非文明的な語彙と言わざるを得ません」

 

「それは我らの村を侮辱しているのですかな? そもそもあなたは誰です?」

 

「侮辱の意図はありません。申し遅れましたが、私はミルネ=ハイン。王都で研究者をしております。国王から澱みの森の研究責任者を仰せつかりました」

 

 ハインはわずかに頷いて挨拶した。

 

「澱みの森に満ちる霧の成分を分析し、人間が耐えられる装備を開発する。それが私の仕事です」

 

「ま、というわけだ。このハイン博士が『あんなの呪いじゃない』とか言っちまったせいで俺が仕事に駆り出されたわけ。まったく余計なことを――おっと」

 

「――!」

 

 完全に虚を衝いたはずだった一撃は、空を貫いた。

 

 カルメウスが今まで座っていた場所に、長老が放った槍の穂先が突き刺さっている。

 あぶねーな、と呟きながらカルメウスが軽く蹴りを放ち、それで家宝の槍は二つに折れてしまった。

 

 信じられない思いで長老は唇を震わせる。

 

「馬鹿な、こんなことが……」

 

「ま、ま、村長さん。そう興奮すんなって。呪いの力最強だーって思ってたらあっさり負けちゃったのが悲しいのはわかるけどさ」

 

「お、お前たちは何も分かっておらん。この世には人知の及ばぬものがある」

 

「分かってないのはそっちじゃないか? 人間の文明ってものは案外嘗めたもんじゃない。万能には程遠くとも、天才たちの積み重ねってやつはそれなりに強力だ」

 

 そう言ってカルメウスはハインに微笑みかけたが、またも返事は無視だった。やれやれ、と首を振る。

 

「そもそも儂一人封じたところで、村の皆が黙っては……」

 

「あー、それも終わったころじゃないかな?」

 

 長老を背にして、集会所の扉を開ける。

 ……そこには。

 

 苦々しい顔で村の子供たちに武器を突き付ける騎士たちと、

 青ざめた顔で武器を捨てる村の男たちが立っていた。

 

 長老は泡を食って彼らの前に這い出た。

 

「な、何をしている!? 我らの使命を思い出せ! 子供を殺される程度で――!」

 

 目を血走らせて叫ぶ彼の言葉に、しかし答える者はいない。

 代わりに返ってきたのは、カルメウスがゆっくりと拍手する音だった。

 

「よーしよし、死人が出なかったのは上等だ。これから研究基地を作るってのに、人手を減らしてる場合じゃねえからな。ですよね、博士?」

 

「それは私の判断する領域ではありません」

 

「そーですかい。じゃ、差し当たりこの集会所でも使わせてもらいますかね。見たところ、この建物が一番広そうだ」

 

 指示を受け、騎士や供回りたちが早速作業を始めていく。

 自らの村が壊されてゆく様を、長老は信じられない表情で眺めるしかない。

 その呆然とした肩に手を置き、カルメウスはへらりと笑いかけて言った。

 

「ま、百年以上前の使命ってやつに命かけられるほど人間強くねえってことですよ、結局」

 

 リューケル=カルメウス――王室騎士団でも、素行の悪さと()()()()()()()()()において右に出る者はいないと言われる男だった。



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2 餌耳の子

 つーわけでね、森の探索をするんですけども。

 

 理由は分からないが今日は目覚めもすっきりだし、なんか体がやる気に満ちている感じがする。

 物心ついてからこっち、明日やる明日やると先延ばしにしまくってたけど、そろそろ頑張ってもいい頃合いだろう。

 それに幸運なことに、今日は霧が薄い。絶好の探索日和だ。薄いって言っても昼だか夜だか分かんないのは同じだが。

 

 よし、ではさっそく。

 

 適当に家から離れたところで、体を包んでいる生肉を広げる。

 あとは思いっきり腕を伸ばすイメージで、四方八方に細くした生肉を伸ばしてみる。

 

 この生肉だが、俺が飯を食えば食うほど勝手にでかくなるという謎の機能がある。普段は変形機能を使って圧縮し、邪魔でない程度にしているのだが、今回は思いっきり密度を小さくして周囲に広げてみた。

 

 で、これで何を調べるかというとだな……。

 

 うん……。

 

 何も考えてなかったわ。

 

 別に何かにぶつかったところで、それが木なのか動物なのか人なのか判別できるわけじゃないし。

 とりあえず、あれだなあれ。なんかムズムズする感覚があるので、それを探ってみよう。意外と転生特典で第六感とかあるのかもしれん。単なる花粉症の可能性もある。

 

 そんな感じでにょろにょろ調べていると、ある方向に向かった生肉から強烈なムズムズ感が伝わってきた。いや、ムズムズというよりヒリヒリ? なんとも言いようのない感覚がする。あ、クシャミ出そう。

 とりあえずそっちに向かうことにして、展開していた生肉をひっこめる。

 

 しかし結構距離あるな……。しゃーなし、生肉くん、変形だ。

 ぐねぐねと生肉の形を変え、足もとに纏わりつかせる。自前の脚に加え、追加で何本もの脚を付けていく感じだ。ついでに腕も増やしておこう。

 

 あとはそうやって増やした脚をぐるぐる回して走るだけだ。見た目は海底を移動するタコみたいで気持ち悪いのだが、森の移動にはかなり使える。段差や障害物は簡単に乗り越えられるし、スピードも結構なものだ。バイクくらいは出てるだろう。

 事前に伸ばした生肉で樹々の位置は把握しているのでぶつかる心配もない。ときどき探知から漏れた枝なんかが邪魔をするが、増やした腕をぶんぶん振っておけば何とかなる。快適快適。

 

 途中、出くわした動物をぽこぽこ殴って腹の足しにしつつ、流れていく森の景色を観察する。と、ふと気づいた。

 

 なんかその……霧、濃くなってね?

 

 気温が下がった感じはしないけど、目に見えて目の前が白く染まりつつある。それも何というのか、ただ濃いだけなら家にいるときもよくあったけど、今はそれに加えて重みを感じる。比例するように、例のムズムズ感もどんどん強くなっている。ムズムズを超えてちょっと痛いくらいだ。

 

 ムズムズ感が最高潮に達したころ、開けた場所に出た。

 

 鬱蒼とした森がとつぜん途切れ、円い原っぱのようになっている。相変わらず霧は濃いのだが、空気の流れがあるのか、ここだけは見通しが利いた。

 原っぱの中央には一本だけ立派な樹が生えている。横に枝が張り出しているタイプの、あれ、名前が思い出せないが「この木なんの木」みたいなやつ。

 

 そしてその樹の巨大な枝に、異様な物体がぶら下がっていた。

 いや、異様っていうのはおかしいか。形がおかしいわけじゃない。

 

 タコ足疾走をやめ、自前の脚を使って樹の幹に歩いていく。

 

 近づくにつれ、その巨大さがますますはっきりしてきた。樹の大きさじゃない。そこにぶら下がっているもの――。

 一言で形容するなら、それは白い(サナギ)だった。

 

 蛹、前世で見た蝶の蛹と形はそっくりだ。ただ、そのサイズが異常。

 どう見ても人間より大きい。タコ足で背が高くなっている俺と同じくらいだろう。

 シミ一つない純白の蛹が、太い枝にぶら下がって、静かに眠っている。

 

 まるで精巧なガラス細工。

 

 何より驚いたのは、その工芸品のような蛹の先端から、白い霧が噴き出ていることだ。

 噴き出た白い霧は、周囲に滞留した霧と混ざり、森の中へ、樹々の間を充たしていく。

 

 俺は腕の生肉を伸ばし、そっとその蛹に触れた。

 

 抵抗はなかった。

 

 ただ、柔らかく、弱々しい感触。

 

 羽化の時を待っているだけの、か弱い生命がそこにあった。

 

「なるほどな……」

 

 それで俺は色々と悟った。

 この霧の森は、この蛹が作ったものだ。

 

 霧を通して肌を刺してくる、このムズムズ感、というか痛み。これだけが外敵が近づいてこないようにする防衛手段。成虫になるまでの間、まったく無力な己を守るための、唯一の武器。

 そうやって、羽化までの永い時を待ち続ける生命。

 

 この不気味な森の主が、こんな柔らかい蛹に過ぎなかったとは。

 

 さて、どうしたもんか。

 

 生肉をちょいと動かして枝から落としてしまえば、この蛹は簡単に死ぬだろう。

 そうすれば二度と霧が満ちることもなく、今よりずっと森の見通しは良くなる。そうなれば人間の集落も簡単に見つけられるかもしれない。危険な動物たちに不意打ちされることもない。

 

 蛹は黙って揺れている。

 

「…………」

 

 俺は慎重に生肉を引っ込めた。

 

 まあ人恋しいと言っても、こんなモノを壊してしまえるほど荒んでないというか。

 とにかく俺なんかが手を出していい光景には見えなかった。それにまあ、羽化したときの姿も気になるし?

 そうして、眠る生命に背を向けた。

 

 ……ところで帰り道どっちだっけ。

 

 

 

 

 

 

 澱みの森を挟んで向かい合う二つの国。

 東の銀峰(メーシル)王国と西の清河国(ムイラ)

 とある研究者の報告によって銀峰(メーシル)が森の突破を目論んだように、清河国(ムイラ)もまた森を抜ける方法を探っていた。

 もっとも、銀峰(メーシル)のように洗練された手法ではなかったが。

 

 

 澱みの森の獣たちがどうやって自分を見つけているのか、餌耳(フォア)たちはよく知っていた。

 この霧で満ちた森において、視覚はほとんど役に立たない。互いが見える距離とは、既に互いの爪が届く距離である。

 必然的に、頼りになるのは嗅覚と聴覚だけ。連中は音と臭いで探っている。獣人も鼻や耳の利く種族だが、()()()()()()()()

 

 だから、もし奇跡的な幸運によってこちらが先に気づいたときは、絶対に動いてはならない。

 

 クロンもそのことはよく知っていた。

 知っていなければ、餌耳(フォア)になって三年ものあいだ命を繋いではいられない。その間の被害が片腕だけで済んだのは、まさに奇跡と呼ぶしかない。何しろ彼女は生まれつき片目を持っていない。あと片脚をなくせば綺麗に半分だ、というのがお気に入りの自嘲だった。

 

 彼女のくすんだ金色の耳がぴくりと動く。

 風に乗って、落ち葉を踏む足音が聞こえた気がした。

 こちらが風下で、向こうが風上。だから、まだ気づかれていない。そのはずだ。

 

 穴の中に体を入れて、口と鼻を抑え、目を閉じてうずくまる。

 体中に塗りたくった薬草の酷い臭いで、体臭はそれなりに誤魔化せる。恐怖によって体が震えたり、嗚咽を漏らしたり、失禁などしたら終わりだ。

 

 だから何も考えない。

 死を恐れることも、助けを祈ることすらも余計。幸いなことに、心を殺すことはすっかり得意になった。

 

 どれほどの時間が経過したのか。

 彼女はゆっくりと身を起こした。

 ずっと前から足音は聞こえなくなっていた。いや、本当にあれは足音だったのか定かではない。単なる風の音を聞き違えたのかもしれないし、恐怖からの幻聴だったかもしれない。それすらどうでもいいことだ。

 

 自分用の円匙(シャベル)を背負い、クロンはやって来た塹壕を引き返していった。

 

 

 餌耳(フォア)――自嘲を込めて、彼らは自分たちをそう呼んでいた。

 それは古い御伽噺に出てくる、自らを犠牲に聖人を救った妖精の名だった。妖精は自らの肉を聖人に与え、聖地に辿り着いた聖人は、奇跡の力で妖精を蘇らせる。そんな伝説。

 

 もちろん、ここにいる餌耳(フォア)たちは蘇らない。彼らは森の中で()()()()になり、帳面のバツ印としてその生涯を終える。死体すら還ってくることはない。

 

 

 塹壕の中を這いずり続け、ようやくクロンは森の外に出た。片腕を失ってからというもの、移動するだけで一苦労である。

 周りを見回すと、他にも何人か森から出てくる獣人たちがいた。今日を生き延びられた喜びを浮かべる者、憔悴した表情を浮かべる者。前者はここへ来て半年未満の者たちで、後者はそれ以上だとすぐ分かる。それがここに希望がないことを知るために必要な期間だ。

 

 澱みの森の西。森のほど近くに清河国(ムイラ)の前線基地がある。司令官が過ごすそれなりに立派な建物を中心に、掘っ立て小屋が周りを囲む。さらにその小屋を何重にも囲む柵、そして監視塔。

 今は、掘っ立て小屋の前に列ができている。列の前には国軍の男が、棍棒を片手に立っていた。

 

「次、前へ」

 

 男の指示を受け、クロンは前に出る。

 この男ともすっかり顔馴染みだが、彼は何の感情も浮かべていない。軍人には餌耳(フォア)の顔を覚える必要などないのだろう。

 

「報告しろ」

 

「今日は3ユーク*1進んだ」

 

「2ユーク足らんな。なら二発――上官に反抗的な視線を向けた分で、二発追加しておこう」

 

 男はそう言って、クロンの頭に棍棒を振り下ろした。

 

 

 人間が触れれば意識を失う霧も、獣人たちは辛うじて耐えられる。だから清河国(ムイラ)にとって、澱みの森の突破とは、安全な道筋を見つけることだった。

 森の獣たちが寄り付かない場所に、霧の薄い場所。そんな地点を探しては塹壕で結んでいき、来るべき行軍に備える。それがこの基地の仕事だった。

 

 もちろん、そんな道筋は存在しない。

 澱みの森に安全地帯なんてものはなかった。踏み入れば、どこだろうと霧は濃く、獣は神出鬼没で襲ってくる。外部の生命を拒絶する禁足地。それが澱みの森だ。塹壕など、何の役に立つものでもない。

 

 ()()()()()()()()()()

 塹壕は伸び続け、途切れ、また別の方向へ進む。地図には危険地帯と安全地帯が書き加えられ、修正され、司令部へ提出される。

 

 澱みの森調査のために毎年国家予算が投じられ、上から下へ流れていく。その過程であらゆる関係者に利益を与え、経済をうるおし、人々の糧となる。そのためには成果が必要だ。だから成果が出る。出さなければならない。

 

 あらゆる蜜を吐き出しきった残り滓が、最底辺のごみ溜めに生きる子供たちの口に入る。

 戦災孤児、捨て子、障碍児、望まれない子供、国中の不要物――餌耳(フォア)の口へ。

 

 

 クロンの受け取ったスープにはハエが浮いていた。

 文句も言わず、長机に腰を下ろし、匙を動かす。虫は良い。小さくても肉は肉だ。

 他の獣人たちは黙って距離を取っている。こんな環境なので、女の餌耳(フォア)が襲われるのは日常茶飯事だったが、彼女を襲う度胸のある男はいなかった。

 

 包帯で覆われていない方の目は、周囲を険悪に睨みつけている。左腕がなく、やつれた貧相な身体をしているのに、全身から放たれる強烈な殺意は、近づいただけで八つ裂きにされそうだった。

 

 しかし、そんな彼女の向いに座る男が現れた。

 黒いふさふさの耳に、柔和な笑顔。相手にちらりと視線を向け、クロンはため息をつく。

 

「遅かったな、シダ」

 

「喧嘩の仲裁をしててね。クロン、今日は何発殴られたんだい?」

 

「四発」

 

「君にしては珍しい。途中で獣が出たんだね」

 

 クロンは視線をそらして答えない。

 そんな彼女の反応も慣れっこなのか、シダは気にした様子もない。スープを一口すすると、悲しげに眉を下げた。

 

「……今日は、マイユとススが帰らなかったらしい」

 

「そうか」

 

「残念だよ。良い子たちだった」

 

 シダは彼女と一緒にこの基地へやってきた孤児だった。一緒といっても、同郷だったわけではない。国のあちこちから拾われ、たまたま同じ馬車に乗っただけのことだ。その日のことを彼女はよく覚えている。

 

 絶望に満ちた餌耳(フォア)の中で、彼だけは特別だった。

 いつも笑顔を絶やさず、皆へ優しさを向け、失った同胞を悲しむことができる。それがこの環境でどれほど難しいことか、クロンには想像もできない。

 それは他の皆も同じなのか、この基地にいる獣人たちも、シダだけは信頼していた。獣人同士の諍いは絶えないが、彼が間に入ればすぐに収まってしまう。

 

 そんな彼の存在が、クロンには眩しい。

 生まれつき片目がなく、軽蔑と暴力の中で育ってきた存在。それがクロンだ。ついに片腕さえ失い、塹壕を掘ること(無意味な仕事)すら満足に果たせない。

 そんな自分にさえ、シダは思いやりを向けてくれる。それが何とも恥ずかしく、情けなかった。

 

 彼を前にすることで、己の歪さが際立つように思えてくる。

 だからいつも必要以上に冷たく接してしまうのだ。

 

「ねえ、クロン。覚えてるかい?」

 

 スープを飲み終えたシダが、声を潜めて話しかけてくる。

 

「何を?」

 

「明日、君の誕生日だろ? 前に教えてくれたじゃないか」

 

 暦を見る必要もない日々で、むしろよく気づいたものだ、とクロンは感心する。そもそも誕生日を祝った経験すら彼女にはない。

 

「それで? 何か贈り物でももらえるのか、私は?」

 

 彼女にしては珍しく冗談を言ったつもりが、対するシダは真面目な顔で頷いた。

 

「ああ、準備している。ただ、渡す時間が重要なんだ。今ここで渡せるものじゃない」

 

 シダは唖然とするクロンの耳元に口を寄せた。

 

 

「……本当に、あった」

 

 その日の夜。月が中天に至ろうとする真夜中、伝えられた場所に来たクロンは、思わず周囲を見回した。

 基地を何重にも囲む柵の中に、人ひとりが通れる程度の穴が空いている。穴は草木で巧妙に隠され、そこにあると知らなければとても見つけられない。

 それに、仮に見つけたとしても、そこから脱出を図る者はいなかっただろう。

 

 穴が空いている先は澱みの森だった。

 この基地は監獄だが、だれが好き好んで地獄へ逃げるだろう?

 

 クロンが穴を抜け柵の外に出た所は、もう森の中だった。振り返ると、監視塔の明かりが夜空に浮いて見えた。

 

「クロン、こっちだ」

 

 樹の陰からシダが手招きしている。

 近づいていくと、彼はいつになく真剣な顔でこちらを見つめた。

 

「それで、贈り物は?」

 

「ここにある」

 

「真夜中の逢瀬が贈り物ってことか?」

 

「茶化さないでくれ。これだ。僕が掘った」

 

 そう言って彼は足元を指した。クロンにもよく見慣れた塹壕がそこにあった。塹壕はまっすぐ、暗い森の中へ続いている。

 意味が分からず、彼の顔を見返す。

 

 シダはいっそう声を潜めて言った。

 

「これは、森の外へ続いている」

 

「え――」

 

「まだ軍の奴らには気づかれてない。逃げるんだ」

 

「これ、いつ森の外に通じたんだ?」

 

「今日だよ。だから慌てて戻って来たんだ。クロンと逃げるために」

 

「……一人で逃げれば良かったのに」

 

 一秒も考える必要はなかった。

 行こう、とクロンは頷く。

 

「クロンが先に行ってくれ。軍の追手がかかるかもしれない。僕は基地の様子を見てから後を追う。さあ、急いで」

 

「……シダ」

 

「なんだい?」

 

「ありがとう」

 

 それが、クロンに言える精一杯の素直な言葉だった。

 シダは一度驚いたように瞬いて、いつもの微笑みを浮かべた。

 

 

 いくら獣人の夜目が利くといっても、光源がなくてはどうしようもない。森には月の光も届かず、ただ塹壕の壁を頼りに進んでいくしかなかった。

 片腕のないクロンにはさらに難しく、何度も顔や腕を擦りながら、それでも懸命に這い進んだ。

 

 夜は森の獣も眠りにつくのか、今のところ不吉な気配はない。

 いや――背後から接近する足音。

 

 とっさに身を縮めたが、よく聞けば足音は獣のそれではなかった。シダが追い付いたのだろう。

 背後を振り向くと、橙色の小さな灯りとともに、獣人の姿が浮かび上がった。

 

 見慣れた黒い毛並みの穏やかな顔と――、軍服を着た、男の顔。

 彼は銃を手に、面白そうな顔でこちらを見つめている。

 

「シダ?」

 

 ……その声は、果たして本当に話せていただろうか。

 

 シダはいつもと変わらぬ穏やかな口調で。

 心底から悲しそうな表情を浮かべていた。

 

「クロン、残念だよ。君とはずいぶん仲が良いつもりだったのに。まさか脱走を企てていたなんて……」

 

「は、何? ど、どういうことだ?」

 

 兵士がクロンの疑問に答えた。

 

「こいつから通報が入ったんだよ。不具の女が一人、柵の外に逃げたってな。残念だが、脱走者は処刑だ」

 

「通報――」

 

 クロンは必死に頭を働かせる。

 そう、きっと、クロンが森へ入った後、シダは見つかってしまったのだろう。

 兵士に問い詰められ、彼はやむなく、クロンが逃げるのを見たと彼らに話したのだ。そうに違いない。

 

 そしてその判断は正しい。

 

 いずれにしても兵舎は調べられ、クロンの不在はばれてしまう。そうなれば追手がかかり、クロンもシダも捕らえられる。

 ならば、二人が犠牲になるより、一人の犠牲で済む道を選ぶべきだ。そうでなくてはならない。

 

 だから構わない、とクロンは思う。

 

 もとより脱走の危険性は理解している。ただそれが失敗しだだけ。

 自分の命でシダが助けられるなら――まったく構わない。むしろ望ましい死に方といえる。

 

 クロンは黙って右腕を上げ、そして。

 

「それにしても、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 理解できない言葉を、耳にした。

 

「はは、基地の子たちはなんでも僕に相談してくれますからね」

 

「ま、こういう反乱分子はさっさと潰すに限るな」

 

「それよりも、よろしくお願いしますよ?」

 

「ああ、向こう三か月、お前は森に入らない仕事に回しとくよ」

 

 彼らの間で和やかに交わされる一連の会話。

 その、意味。

 

 それを理解する間もなく。

 

 シダと兵士の頭が弾け飛んだ。

 

 首から噴き出る血。糸の切れた人形のようにくずおれる身体。

 兵士の落としたランプが、塹壕の落ち葉に燃え移り、赤々と森を照らす。

 

 とっさに伏せたクロンの頭の真横を、風切音と、鋼鉄のような爪が横切っていく。

 

 鳥だ。

 それだけ理解できた。

 

 それは音もなく切り返し、再びこちらへ向かってくる。

 その嘴と爪が描く軌道が赤い森に残像を描いた。

 

「――!」

 

 クロンは塹壕を飛び出し、夜の森を駆ける。

 奴は、すでに二体の獲物をしとめている。もう一体が離れれば、追ってくることはないはずだ。否、そんな計算は後付けで、ただ彼女は恐ろしく、一刻も早くあの場所を離れたかった。

 

 いったい何が恐ろしいのだろう?

 食われることが、死ぬことが恐ろしいのか?

 

 あのとき、シダが口にしたことの意味。

 

 この現実と向き合うことが、恐ろしいのか?

 

 樹々にぶつかり、何度も転び、全身に傷を付けながら、でたらめに走った。

 息が切れ、もはや脚が動かなくなっても、無理やりに身体を動かし続けた。

 

「ぐっ――」

 

 樹の幹に正面からぶつかり、地面にごろごろと転がる。

 

 それでも起き上がろうとして、右腕に力が入らないことに気づいた。

 

「……そうか」

 

 クロンは、ぼんやりと空を見上げる。

 暗闇と霧に満ちた森からは、星の姿すら見えやしない。

 

 風切音が近づいてくる。

 目の前に差し出された容易い獲物。そんなものを見逃す気はない。

 

 そして。

 

 ――朱い。

 

 炎よりも血よりも朱いものが、一瞬、視界を覆った。

 

 ぐちゃぐちゃ、ぬちゃぬちゃと。

 

 気味の悪い音が耳朶を打つ。

 

 これは何なのか。

 腕らしいものと脚らしいものと頭らしいもののついた歪な生命。

 細かく変形と蠕動を繰り返し、まるで生きた内臓をそのまま見ているような、おぞましい何か。

 

 それは、まるで知能があるかのように、首をかしげ、こちらの顔を覗き込んだ。

 

 その姿を。

 

 ――遠くなる意識で。

 

 まるで、御伽噺に聞いた魔女のようだと。

 

 美しいと、そう思ったのだ。

*1
78.3cm




ストック切れちゃった


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3 魔女と獣人

 え、帰り道がわからなくなって半泣きで夜の森をさ迷ってたらケモ耳少女拾ったんだけど。どうすんのこれ。

 

 どこから見ても痩せほそった子供の見た目だが、ピンと立った耳に、毛並みは悪いが毛量の多い金色の尻尾はまぎれもない本物だ。引っ張って確認したから間違いない。狐ちゃんなんか?

 しかも野生児ってわけじゃなく、洋服をちゃんと着ている。ぼろぼろの作業着って風情だが、やっぱり森の外には人の集落があり、文明があるんだろう。

 にしてもケモ耳種族には付いてないんだな、生肉。やっぱり動物パワーで素の身体能力が高いから不要なんだろうか。

 

 とりあえず鳥につつかれて困ってたみたいなので、生肉を伸ばしてはたいておく。鳥は「ぴー」と一言鳴いて絶命した。この鳥、一度目が合うとどこまでも追ってくるから面倒なんだよな。殺しても骨ばっかりで食いでがないし。

 

 ごりごり音を立てながら触手で鳥を呑み込みつつ、ケモ耳少女を観察する。

 

 彼女は全身を擦りむき、血がにじんでいた。顔には包帯を巻いて片目が隠れているし、左腕は途中からないらしく、服の袖がぷらぷらと揺れている。俺が手を伸ばすと、ぼんやりした表情で気を失ってしまった。まさに満身創痍って感じ。いたそう。

 しかしマジでどうしよう。傷の手当をしようにも、俺には道具も知識もない。この森に薬草的なのがあるかすらわからん。

 

 いや待て。

 

 ぴーんと思い出した。昔なんかで見たぞ。なんでも、どこぞの古代文明では傷に生肉をあてがって治療したという。

 生肉、生肉ね。ちょうどここにいっぱいあるじゃないか。主に俺の体にうねうねと。

 にしてもこのタイミングで思い出すとは……やっぱ天才かもしれん俺。

 

 さっそく生肉を伸ばし、荒い呼吸を繰り返す少女の肌に這わせてみる。

 頬の傷に触れると、少女の身体がぴくりと震えた。どう? 冷たくて気持ちよくない?

 

 返事がないので、さらに何本かの生肉を集めて傷を覆っていく。見た目が気持ち悪すぎること以外はいい感じだ。

 少しすると、少女の呼吸が安定してきた。やっぱ効果あるじゃん、生肉。傷口の止血とかになってんのかな。

 

 で、どうしようか。

 

 怪我人なだけに安静に過ごせる場所に連れていきたいが、この森にそんなセーフゾーンはない。すぐ血の臭いにつられた動物が殺到してくるだろう。

 この子がやって来た方向がわかればそっちへ連れて行くんだが、残念なことに足跡は途中で途切れていた。飛んだり跳ねたりして来たようだ。やはり身体能力が凄いんだろう。

 

 となると、あとは俺の家くらいか。

 理由はわからないが、俺が住み始めてから、あの辺りで動物って見かけなくなったんだよな。そのせいで狩りのために遠出する必要があるんだけど。

 幸い、さんざん迷ってたおかげで家の近くまで戻ってこれたわけだし。

 よし、そうしよう。

 

 拾った女の子を家に連れ込むのは事案だろうが、さすがにこれはセーフだろ。セーフだよね?

 それにあれだ。ケモ耳少女も俺に助けられたことに感謝して、集落の人たちに紹介してくれるかもしれない。この子のお父さんやお母さんから夕飯ぐらいご馳走してもらえるだろう。

 そう考えたらテンション上がってきたぞ。善は急げで家に連れていこう。

 

 だが、んー、この状態で抱えるとけっこう揺れるよなあ。生肉って繊細な作業には向いてないんだよ。

 

 もっとこう……、寝袋的な形にして、と。

 粘着質の音を立てて生肉が思う形に変わっていく。

 

 よしよし、これで全身をくるんだあと、梱包材のプチプチよろしく細かい隙間は内側から生やした凸凹生肉で埋めればいい感じだろう。

 

 そんなこんなで少女を生肉の中、というか俺の体内に格納した。気分はカンガルー。

 時折ケモ耳少女が呻いてもぞもぞ動くが、身体にぴったりフィットするよう調整したので中はめちゃくちゃ快適のはず。何だったら俺も入りたい。やっぱ今日の俺は冴えてるな。天才と呼んでくれ。

 

 よーし、帰るぞー。

 

 

 やべ、空気穴付けるの忘れてた。

 

 

 

 

 

 

 これは一体どういう状況なのか、とクロンは思わずにいられない。

 基地を脱走し、獣に襲われて死にかけ、実際に死んだと思ったあの日から数日後。

 

 片目片腕の元餌耳(フォア)は、石造りの部屋の中で身を縮めていた。

 

 部屋には窓があったが、ガラスはなく、薄明りとともに森の冷たい空気が流れ込んでくる。寝台や椅子のような形をした、家具らしきものもあった。壁に刻まれた呪術的な紋様を見逃せば、猟師小屋と思えないこともない。ここが澱みの森でなければ、の話だが。

 あの状況から生還し、風雨をしのげる場所にいる。それだけで感謝するべきなのだろう。

 

 それでも震えているのは、寝台の上でクロンと向き合う存在――朱い異形のせいだ。

 

 それは一度揺らめくと、ぬちゃぬちゃと身体を変形させ、彼女へ触手を伸ばしてくる。触手というか、身体の構造からいえば腕だろう。

 

「おいっ、ま、またやるのか?」

 

「譁?ュ怜喧縺醍峩縺励◆縺ョ?」

 

 こちらの言葉に答えるように、相手は首をかしげてこちらを見つめた。

 その頭には眼と口にあたる器官が付いていた。音はそこから発せられている。

 

 何かを伝えようとしている。少なくとも知性のない存在ではない。……彼女の真似をしているのでなければ、だが。

 

 しかし今のところ意思の疎通はほとんど図れていない。その証拠に、相手はクロンの制止を振り切って触手を身体に伸ばしてくる。

 二本、三本と、冷たく弾力のある物体が肌を這いまわる。何とも言いようのないぞわぞわとした感覚。

 

「菴輔b縺ェ縺?¢縺ゥ縺ュ?」

 

「あっ、んっ、んぅぅ……、ちょっ、うううう……」

 

「陷り惧繧ュ繝ウ繧ォ繝ウ縺ョ縺ゥ鬟エ」

 

「わ、わかったから……んんぅ」

 

 ひたすら無心になって謎の時間をやり過ごす。

 数日かけてクロンが理解したのは、どうやら()()は自分の傷跡を撫でているらしい、ということだ。たぶん血を飲んでいるんだろう、とは思う。この間わざと指を切ってみせたときも大急ぎで触手を伸ばしてきた。

 ただ、どこからも吸っている様子がないので妙だ。触手に付いた血を葉っぱで拭っている姿も見たことがある。だったらこの時間は何なんだ、と言いたくもなる。

 

 たっぷり時間をかけて撫でられた後、クロンは解放された。

 

「はあ……」

 

 乱れた服を直している間に、相手は寝台を降りていた。こちらの顔を見ながら、触手をゆっくりともたげ、扉の外を指している。出かけよう、の合図だ。

 

「縺翫>縺励>迚帑ケウ」

 

「分かったよ、魔女さま」

 

 クロンが頷くと、それはまた変形して身体に袋状のものを作った。

 

「だ――だから、それには入らないって!」

 

「縺s縺?」

 

「もう歩けるから。大丈夫」

 

 自分も立ち上がり、歩く素振りをしてみせた。

 

 さしあたって『魔女』と呼ぶことにしたこの存在が何を求めているのか分からないが、全身を呑み込まれた状態でぶにゅぶにゅした突起を押し当てられるのは、一度経験すれば十分である。

 

 

「…………」

 

 澱みの森を歩く。普通に立った状態で、いつもと同じ歩幅で。それがどれほど異常な行為であることか。クロンはまだ慣れなかった。

 どこかで物音がするたび、心臓が縮み上がり、その場で動きを止めてしまう。

 

「ク縺?⊇」

 

 魔女が立ち止まり、足を止めてしまったクロンを振り返る。何をやっているんだ、とばかりに戻ってくると、彼女の腕を取ってまた歩き始めた。

 と同時に、魔女の姿も変わり始める。

 

 どのような仕組みなのか、こうしているときの魔女の姿はかなり人間に近くなる。全身から触手状のものが飛び出しているのは変わらないが、朱いドレスをまとった女性――に見えなくもない。ところどころ白い地肌がのぞいている箇所もあった。

 

 しばらく歩いていくと、ふいに魔女は立ち止まった。蠢いている触手の一本が、するすると霧の中に伸びていく。

 やがて霧の向こうから戻ってきた触手は、先端に角のついた獣を捕まえていた。獣の首は赤く染まり、もう目に光はない。

 

 重い音がして死体を地面に落とすと、魔女はこちらの顔を見つめた。

 

「あ、ありがとう。魔女さま」

 

 向けられる視線を気にしつつ、クロンは慎重な仕草で獣の腹に牙を立てた。生温かい血が口元を濡らした。肉だ! 脳が焼けるような快感とともに、夢中でかぶりつく。肉だけの食事なんて、ここに来るまで味わったことがない。

 やがて魔女も触手を伸ばすと、クロンが口を付けなかった部分を丸呑みにしていった。

 

 しかし、どうして魔女は自分を食わないのか?

 

 この状況について疑問はいくらでもあるが、最大の謎はこれだった。

 ここ数日見ていて、魔女の行動原理は睡眠と食事しかないようである。クロンにかかわることを除き、それ以外の行動を見たことがない。澱みの森の獣をあっさりと殺し、丸呑みにする姿は、御伽噺の魔女より恐ろしい。

 

 だが魔女はいっこうに襲うそぶりを見せないし(触手で傷に触れるあれを除けばだが)、それどころか自分の安否を気遣っているようでもある。気に入られた――のだろうか、食欲以外の目的で。

 

 そして、もう一つの可能性。

 

 食事を終えた魔女は、いつもの動作を見せた。

 腕でクロンを指し、次に別方向を指して、肩をすくめる。日によって少しずつ動きは違うが、やろうとしていることは分かる。

 魔女は、クロンが元居た場所を訊ねている。

 

 それが森に迷い込んだ少女を帰してやろう、という常識的な親切心であれば良い。いや、基地には戻れないので良くないのだが、理解はできる。

 

 問題は、餌場を探している可能性だ。

 

 クロンを食べやすい獲物だと考え、同じ種族が暮らしている巣を訊ねている可能性がある。

 別にあの基地になんの思い入れがあるわけでもない。けれど、あそこには餌耳(フォア)の子供たちがいる。彼らが無残に食い荒らされる姿は、できれば想像したくない。

 

 結局、クロンは「何が言いたいのか分からないな」と言いつつ首を振る。

 

 その意味が通じたのか、魔女は触手を戻し、肩を落とした。

 その仕草はやはりとても人間らしく――言葉が通じないだけの優しい相手なのか、とも思うのだが。

 

 ふたたび肉塊が変形し、魔女の姿は人間から離れていく。

 腕が増え、脚が増え、ずるずると身長が伸びていった。

 途中で三本に分かれた腕がクロンを持ち上げると、魔女は森を疾走しはじめた。血の臭いに集まってくる獣の存在を感じ取ったのだろう。

 

「……やっぱり違うかもしれない」

 

 とはいえ、しばらくは一緒に過ごしてみよう、と思うクロンだった。

 

 

 

 

 

 

 霧の向こうに黒い影を認め、鎧をまとった騎士たちの動きが止まる。先頭の三人が横並びになり、大盾を構えた。

 

先追鹿(ベンシ・ケーヴ)か」

 

 呟き、カルメウスは背後に構える騎士たちに合図を送った。

 何股にも分かれた角を持つ大鹿は、鼻息荒く盾に向かって突進してきた。

 

 まるで鉄と鉄がぶつかったかのような耳障りな音が響く。

 ぐぁ、と呻いて一人が盾を落としかけたが、なんとか堪えたようだ。大鹿の方も無事では済まず、予想外の衝撃に動きを止めている。

 

 その隙に他の者たちは相手の横に回り、長槍で胸を突き刺した。

 

「――――!」

 

 獣は絶叫し、のたうち回る。その力に耐えきれず、槍を持った一人が地面に投げ出された。

 だが心臓を突かれていつまでも暴れることはできない。徐々に力は弱まり、大鹿は大地に倒れ伏した。

 

 ほう、と騎士たちは安堵の息を漏らす。

 

「腕の骨にヒビ入ったのが一人、足首の捻挫が一人ってとこか。今日のところは撤退だな」

 

 カルメウスは周囲を見回し、ため息をついた。

 

 

 大鹿を担いだ騎士たちが東の村に戻ると、村人たちは仕事の手を止めて彼らの周りに集まってきた。

 特に子供たちは興奮した様子で、獲物について早口で訊ねている。

 

 その輪から外れつつ、カルメウスは苦笑した。

 村にやってきたばかりのときはあれほど警戒されていたのが、森でとれた資材や獲物を分けてやるだけで、あの歓迎ぶり。自分が得をすると分かれば人は変わる。まったく現金なものだ。

 もちろん、そんな人間の習性を利用することを決めたのも彼である。村人が協力的になったおかげで、研究所作りは順調に進んだ。

 

 村の通りを歩いていくと、研究所の外に椅子を出して座っている女性がいた。傍らの机には灰色の粉が入った小瓶が乗っている。

 

「よお、博士。また難しいことを考えてるんですかい?」

 

「休憩中です」

 

 ミルネ=ハインは眉一つ動かさず答えた。

 言外に一人にしてくれ、と伝える言葉だったが、カルメウスは無視して隣に腰を下ろす。

 

 視線を前に向けたままハインが言った。

 

「先ほど、女性の方が来ていましたよ」

 

「女? ……ああ、ミリアか」

 

「あの方と結婚しているんですか?」

 

「はあ? ミリアがそう言ったんですか?」

 

「いえ、ただそのような口ぶりでしたので」

 

「はは、こんな田舎の娘と結婚するなんてぞっとしませんね。たまに相手してるだけですよ。この村じゃ一番器量がいい。なに、ちゃんと金もやってます」

 

「そうですか」

 

「おっと、それよりも早く記録しとかないとな」

 

 カルメウスは懐から帳面を取り出し、ぱらぱらと頁をたぐった。

 そこには今のところ彼が得た最大の成果――森で出遭った獣について、特徴や姿が仔細に記録されていた。

 

「今日は何が出ました?」

 

 それを横目に見ながらハインが訊ねる。

 

先追鹿(ベンシ・ケーヴ)。今までで最大。子持ちでもないのにやたら荒れてましたね」

 

「発情期なのかもしれません」

 

「やれやれ、俺は生物学者じゃないんですが」

 

「名乗っても構わないと思いますよ。短期間でこれほどの新種を発見し、名前を付けたのはカルメウスさんくらいです。王都の生物学者は羨んでいるでしょう。実際、何件か申請が出されたと聞きます」

 

「誉め言葉と受け取っておきましょうかね」

 

「単なる評価です。誉めても貶してもいません」

 

 そうですかい、と皮肉げに口元をまげて、カルメウスは鎧を緩めた。

 鎧の下には薄手の黄色い衣服を付けている。これが今のところハインが得た最大の成果だった。

 澱みの森に満ちる霧から人体を守り、長時間の行動を可能にする。カルメウスには見当もつかないすべすべした素材で、ハイン曰く「まだ完璧ではない」ということだったが、それでも十分な効果だった。

 

「ところで、その小瓶は? 秘密の薬ですか?」

 

 カルメウスが机に乗った瓶を指すと、ハインは人形のような仕草でそれを持ち上げた。

 曇った瓶のなかで、灰色の粉がさらさら動く。

 彼女は顔の前に瓶を持ち上げ、小さな口を開いた。

 

「これは、霧です」

 

「はい?」

 

「以前、霧を集める装置を作ってもらったでしょう。それで集めた水を分離機にかけた結果、集まったものです」

 

「えーっと、話が見えないんですが。俺みたいなもんにもわかるように言ってくれます?」

 

「ようするに、澱みの森に満ちる霧が特別なのは、霧のなかにこの物質が混ざっていることが原因です」

 

「なるほど。その粉のせいで森の獣どもが生まれたってわけですね?」

 

「現在王都で分析中ですが、おそらくは……」

 

 カルメウスは続きの言葉を待ったが、彼女はそこで口を閉じてしまった。学者先生によくあるこだわりか、と納得しておく。自分に関係のあることなら、どうしたっていずれ知ることになるのだ。

 

「そういえば聞いてませんでしたが、博士は何学者なんですか?」

 

「どうしたんです、急に」

 

「いえね、博士ってこういう服も作るし、装置の設計もするし、動植物にも詳しいでしょう? 一体なにを専門にしてんのかなーと」

 

 それを聞くと、ハインは口元に手を当てて俯いた。

 なにか不味いことをきいたのか、とカルメウスが不安になり始めたころ、彼女は小さくつぶやいた。

 

「……呪子(のろいご)

 

「え?」

 

「ご存じですか?」

 

「そりゃまあ。でも呪子って差別発言ですよ、博士。あれは確か――発生過程における多臓器不全のせいで生まれる未熟児のことでしょう? 母体に負担をかけるし、周囲に有害な魔力を垂れ流すこともありますけど、適切な処置があれば普通に生きられます」

 

「案外、お詳しいのですね」

 

「騎士ですからね。勉強できなきゃ出世できないんで。で、それがどうしました?」

 

「強いて言えば、それが私の専門です。呪子の研究者」

 

「はあ……?」

 

 カルメウスは不思議そうに首をひねる。なぜそんな人物がこの森の調査に駆り出されたのか、いまいち理解できなかった。

 

 特に理解してもらおうとも思っていないのか、ハインは淡々と言葉を続ける。

 

「カルメウスさん、先ほど、適切な処置があれば呪子も普通に生きられる、と言いましたが、そうでない場合はご存じですか?」

 

「そうでないって、処置されない場合ですか? まあ、苦しんで死ぬんでしょうね」

 

「基本的にはそのとおり。ですがごくまれに、処置を受けずに生き残る事例が報告されています」

 

「へええ、そりゃ初耳です」

 

「私は、そのためにここへやって来ました」

 

「えーと……? 澱みの森って意味すよね、それ」

 

 困惑するカルメウスを前に、ハインは森の方角に顔を向け――微かに、笑みを浮かべた。



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4 霧と獣

 ケモ耳少女とのコミュニケーション難しすぎ! 

 

 いや、俺なりに努力はしてんのよ。

 何しろこっちの世界で初めて会えた意思疎通できる相手だ。見た目も人間みたいなもんだし、ケモ耳少女マジで癒し。死ぬほどお話がしたい。

 

 でも当然日本語は通じないし、発音はともかく英語も通じない。それ以外の言語は……無理なので、ボディランゲージを試みている。

 これが当たりで、身体の構造が同じだからジェスチャーの意味も大きくは変わらない。特定の場面に限ってはわりと意思の疎通ができるようになった。

 

 でも、君どこから来たの? って質問には全然答えてくれない。いや、俺が上手く質問できてないのか。

 色々バリエーションを付けて訊いているんだが、毎回すっごい嫌そうな顔して首を振るばかりだ。嫌われてんのかな、俺。

 

 いやいや、別に好感度は悪くないと思うんだけどな。

 毎日の治療も、最初は嫌がってたけど、最近はけっこう受け入れてくれてるし、むしろ気持ちよさそうにしてる感じもあるし。生肉マッサージの腕が上がったか。

 

 あとはそうだなあ、生肉を変形させて遊んだり、一緒にお散歩したり、ご飯もちゃんとあげてるし。美味しそうに食べてるのを見るとこっちまで嬉しくなるね。……なんかペットの世話みたいになってない?

 

 まあ、それは置いといて。

 真面目な話、そろそろケモ耳少女を家に帰さないとマズい気がしている。出会ってからもう一週間以上……あれ二週間か? とにかく一緒にいる期間が延びつつある。

 この子の保護者知り合いはどれほど心配していることか。行方不明で捜索されてるだろうし、いくら危機を救ったとはいえ俺も誘拐罪に問われかねない。

 

 だから何とかしなくちゃ、という問題があるんだが、ここでもう一個別の問題が発生していた。

 

 なんか、森の様子がおかしい。

 

 おかしいっつうか一目瞭然なんだけど、あれほど濃かった霧がどんどん薄くなっている。気のせいかと思ってたが全然気のせいじゃなかった。最近変だなーってぼんやりしてたらこれだよ。

 

 ここ数日の間に、俺の家の周りの霧はすっかり晴れていた。うっすら白んでいる程度で、もう普通の森と変わらないレベルである。

 そのうえ、どうなってるんだと思って森を見歩いてみたところ、動物たちがまったく姿を見せなかった。あいつらどこに消えたんだ。

 

 いや、本当は見当がついている。家の周りの霧が晴れたと言ったが、まだ霧が漂っている場所がある。例の蛹がある方角だ。

 そっち方面は、もはや霧と言うより白い壁みたいになっている。たぶん動物たちはあの霧の中に集まっているんだろう。

 

 しかし同じ森の中でなんでこれまでハッキリと濃さが分かれているのか。

 この霧は単なる自然現象ではなく、あの蛹が自分を守るために出ているものだ。とすると、蛹に何かあったのか、あるいはこれから何かが起きるのか。例えば、羽化とか。

 

 うん、めっちゃ気になる。

 

 あの美しい純白の蛹からどんな成体が誕生するのか、正直めちゃくちゃ見てみたい。転生してからこっち、見通しの悪い森と危ない動物だらけの生活には辟易している。そろそろ異世界ならではの美しいものを目にしたいところだ。

 

 つーわけでね、一人森の中心へ向かってるわけですけども。

 

 ここ最近はどこへ行くにも一緒だったケモ耳少女は、今日はお留守番だ。

 霧が薄くなったおかげで、俺の家で動物に襲われる危険はほとんどなくなったし、俺の考えが正しければ、範囲の狭まった霧には動物がうじゃうじゃいるはずだ。いくら生肉が優秀とはいえ、怪我させてしまうかもしれん。

 

 と、思ったんだけど。

 

 全然そんなことなかったわ。むしろ霧の中は、霧の外以上に静穏だった。

 というのも、一体どうなってるのか、霧の中で出遭った動物は、みんな地面に伏せて眠っていたのである。

 でっかい狼も、しつこい鳥も、その他あいつもこいつも、安らかに目をつむり、まるで祈るように、呼吸に合わせてゆっくりと腹を上下させている。

 

 動物が霧の中に集まっているのは確かなようで、これまで見たことのない数が集まっている。場所によっては足の踏み場もなく、踏まないように気を遣わなければならない。気持ちよく寝てるときに踏まれんの、マジでムカつくからな。

 生肉を脚にして、地面が見えている場所を踏んで大股で歩いていく。

 

 ちなみにそんな霧の中に入って俺は眠くないのかって話だが、普通に眠い。

 けど我慢できる範囲の眠気だ。飯食った後のぽやぽやした感覚に近い。良さそうな布団があったら昼寝したいが、用事があれば我慢できる程度ね。

 

 そうして辿り着いた森の広場で。

 蛹は、ゆっくりと揺れていた。

 

 木の枝にぶら下がった白くて柔らかい寝床は、今は左右に震え、そのたびに霧を強く噴き出していた。

 静かに眠っていた生命が、目を覚まそうとしている。

 間違いなく羽化の前兆だ。

 

 俺はしばしその光景に心を奪われ、その後こうしちゃいられないと元来た道を戻り始めた。

 まあ蛹の期間がこれだけ長かったんだから、羽化にもそれなりの時間がかかるはずで、そこまで急ぐ必要はないと思うけど。

 こんなレアそうなイベントを独りで見るなんてもったいない。

 

 ケモ耳少女、一緒に羽化の観察をしようじゃないか。

 

 俺に誘拐の疑いがかかったら、自由研究をしてたってことで一つお父さんとお母さんに言い訳してくれ!

 

 

 

 

 

 

 澱みの森の霧が薄くなっている。

 無論、東の村からも、西の基地からも、その様子は確認されていた。

 彼らは日々命がけで森と対峙している。些細な変化も見逃すことはない。

 変化にどう対応するか、に差はあったが。

 

 

 森の西側、清河国(ムイラ)の基地に目を向ければ、彼らは混乱していた。

 

 澱みの森の探索というのは、成果を出さないことを目的に行っている事業であって、どういった形であれ進展があることを想定していなかった。

 考えていたのは、せいぜい銀峰(メーシル)の人間どもが、無理やり霧を抜けて攻め込んでくる、その程度の可能性。その際の防御作戦くらいは立案されていた。

 

 しかし、この事態は何だ?

 

 森の霧が晴れ、獣たちが姿を消す?

 

 つまり、森は進軍可能な領域となり、逆に侵攻される空隙となり、曖昧だった国境線を明確に引かなければいけない土地となる。なってしまった。

 そんなことは誰も考えていない。森で日々命を散らす餌耳(フォア)、彼らへ命令する現場司令官。さらに離れた場所で作戦指揮を執る上官、責任者、外務大臣、誰一人。

 

 こうなった場合の指示など誰も受けていなかったし、何かをした際の責任を負いたくもなかった。

 

 よって、獣人たちは停止する。

 あらゆる行動を中止し、餌耳(フォア)たちは慣れない休みを過ごすことになる。子供の管理だけが仕事だった司令官は中央に報告し、向こうからの指示が届くまでの間、一切の判断を保留することにした。

 

 とつぜん澱みの森の脅威が遠ざかり、これといった仕事もなく、弛緩した空気が流れる基地で。

 ――監視の目が緩んでいることに、いずれ賢い餌耳(フォア)が気づくだろう。

 

 

 森の東側、銀峰(メーシル)王国の騎士は、すぐさま探索方針を変更した。

 霧を抜けるための装備を作り、森の獣たちを観察していた彼らだが、それらは手段に過ぎない。

 

 この仕事の最終目標は「澱みの森の突破」であって、森が無害化するのなら全く構わない。

 彼らはすぐさま王都へ報告を送ると同時に、探索班を小編成に分けることにした。

 

 カルメウスが今は研究所となった元集会所へ入ると、ハインは机の上に並んだ覆面を眺めていた。

 ちょうど数日前に届いたばかりの、防霧の装備である。これが完成すれば、進軍を阻むものは森の獣だけになる、と彼女は語っていた。

 

 そのうちの一つを拾い上げ、顔に被ってみる。視界の大部分が制限され、呼吸もしづらい。これで獣と戦う必要がなくなって幸運だな、と素直に思った。

 

「残念でしたね、博士。俺らの努力、ムダになっちまいました」

 

 カルメウスが覆面越しにくぐもった口調で語りかけると、無表情の学者は「酒臭いですね」と冷静に指摘した。

 

「ああ、こりゃ失礼。久しぶりに昼から呑めるのが嬉しくって。こんな不味い蒸留酒でも進んじまう」

 

「貴方は森の探索に加わらないのですか?」

 

「本来俺は現場で体張る人間じゃないんですよ。下に働かせて楽するのが俺のやり方でしてね。さすがに呪いの森では前に立つ必要があったが、ただの森なら話は別です」

 

「しかし、霧はまだ残っている」

 

 違いますか、と視線を向けられたカルメウスは、おどけた様子で肩をすくめてみせる。

 しかし彼が覆面を脱ぐと、その下からハインを睨む鋭い目つきが現れた。

 

「やっぱりこの森に何かあるんですね、博士? この覆面作りは軍のためじゃなく、自分のため。あんた自身が森に入りたいんだろう?」

 

「突然どうされました?」

 

「ミルネ=ハイン――生まれは分からなかったが、これまで大した功績もない()()()()。どこぞの貴族に飼われて家庭教師をやってたらしいが、先年突如として王室に論文を提出している。澱みの森の霧についての理論的予測。呪いではなく、適切な装備による突破の可能性。それでこの研究の責任者に命じられ、わざわざ村までやって来た。

 

 何の実績もないあんたの論文に注目し、この計画を立ち上げたのは誰だったか? 好色で知られるあの内務大臣の爺さんだ。あんたほどの美人なら犬みたいに飛びついたろうよ。俺だって仕事仲間じゃなきゃ口説いてる……にしても、あの爺さんもう七十過ぎだろ? あんたよく相手できたな。いや、むしろ爺さんがよく頑張ったな、と言うべきか」

 

 カルメウスはそこまで言って、相手の顔を観察した。

 しかしハインの横顔に動揺の色は浮かんでいない。ここまで調べられることも、当然予想の範疇だったということか。

 

 彼女は表情を変えず、淡々と答えた。

 

「大臣は賢明な方ですよ。論文の内容を吟味し、他の学者の意見を聞き、この研究の価値を見極めてから、ようやく私と関係を持たれました」

 

「博士の論文がでっち上げじゃないことは分かってますよ。実際、霧を防ぐ装備には効果があった。今探索に出てる連中にも、念のため着せている」

 

「それが良いでしょうね」

 

「個人的にも博士のことは嫌いじゃない。なにか目的があるなら多少の便宜を図ってやってもいい。だから、そこまでして何がしたいのか教えてくれませんかね。以前話してた呪子(のろいご)……それと関係が?」

 

 しばらくの間、ハインはかすかに俯いて黙っていた。

 やがて彼女は机の覆面を手に取り、これです、と言った。

 

「えっと、どういう意味ですかね、博士。その覆面が何か?」

 

「霧が薄れたといっても、まだ霧が出ている場所があるでしょう。この覆面を使う可能性はあります。ですから、私自身の手で性能を確かめたいのです。森に入って構わないでしょうか?」

 

「……当然、俺も一緒に行きますよ。博士は重要人物だ。護衛が必要でしょう」

 

「おや。下に働かせて楽をするのがカルメウスさんのやり方だったのでは?」

 

「そのはずなんですがね……」

 

 

 

 

 

 

 カルメウスの判断によって銀峰(メーシル)の騎士たちは三人一組に分かれ、森の探索を凄まじい速度で進めている。

 霧が晴れたという報告が王都に届けば、すぐに本格的な軍隊が派遣されるはずであり、彼らの仕事はその下準備。先遣隊といった役割だった。

 いまだ森の中央に残る霧は無視して、西に抜ける道筋の確保が急務である。

 

 皮鎧を纏った一人と、鉄鎧を纏った騎士からなる三人組が、森の中を進んでいた。

 つい先日まで恐る恐る、それも牛の歩みで進んでいた森を、普通の歩調で進む。それだけで奇妙な感覚を覚えてしまう。

 

 鉄鎧の一人は、先頭を歩く皮鎧の男に声をかけた。

 

「ドルマンさん、なんで皮鎧に替えちゃったんですか? 獣が確認できないって言っても、どこかに隠れてたりしたら……」

 

「三人しかいないのだ。鉄だろうと皮だろうと獣に遇えば食い殺される」

 

 ドルマン、と呼ばれた男は低い声で答えた。顎鬚を蓄えた壮年の偉丈夫で、三人の中では最も年長にあたる。領主の騎士団の中でも古株で、研究の進展にあわせて後から送り込まれてきた男だった。

 

 ドルマンの返答を聞き、若い騎士は顔をしかめる。

 

「そりゃ、そうかもしれませんが」

 

「今はわずかでも探索範囲を広げることが先決だ。分かっておるかね? 霧が晴れたということは、獣人どもも森を進んでくるということ。間もなくこの森は戦場になろう。時間との勝負だぞ。そんな鈍重な鎧でどうする」

 

「しかしですねえ」

 

 若い二人の騎士とドルマンは微妙にすれ違う会話を交わしながらも、着実に森の調べを進めていく。

 恐れていた獣との邂逅はない。それは喜ぶべきことではあるのだが、しかしこれだけ歩き回って一匹の獣も見つからないのは、それはそれで気味悪かった。

 

 緊張感と退屈の混ざった探索を進め、そろそろ引き返すか、とドルマンが二人を振り返ったときだった。

 鉄鎧の一人が、呆然とした様子で樹々の向こうを指していた。

 

「何だ。獣か?」

 

「ち、違いますよ。ほら、あれ――」

 

 彼の指す方を見て、ドルマンも唖然とする。

 

「あれは、小屋か?」

 

 間違いなくそれは人家だった。

 石を積み上げただけの簡素な造りで、森の猟師小屋か杣小屋かという、平々凡々な建築物。どこの森にもあるような、何の注目にも値しない小屋。

 

 ただ、それがこの森にあることだけはおかしかった。

 澱みの森、人跡未踏の呪いの地。そこにこんな物があるなど考えられない。

 

 騎士たちは背中を流れる冷たい汗を感じながら、小屋を外から観察する。

 若い騎士がひきつった声を出した。

 

「じゅ、獣人どもの基地でしょうか?」

 

「いや。この小屋、建ててからそれなりに時間が経っておる。霧が晴れる前からここにあったのだろう」

 

「誰が建てたっていうんです? この森に人が住んでいるとでも?」

 

「それは確認すれば分かること」

 

 そう言うと、ドルマンは躊躇なく小屋の戸を叩いた。

 こんこん、と控えめな音を立て、領主の名と己の立場を明かす、どこまでも真っ当な名乗り。少なくともこれを非礼と感じる人間はいないだろう。

 

 しかし返答はない。

 

「やむを得ない。家主には申し訳ないが、入らせてもらう」

 

 ドルマンは丁寧な仕草で戸を開き――中にいる相手と目が合った。

 

 

 カルメウスが騎士たちに指示していたのは、「とりあえず撤退しろ」ということだった。

 霧が晴れたとはいえ、何があるか分からない澱みの森。そこで何と出会い、何が起きたとしても、最優先事項は逃げることである。未知の鳥、未知の獣、あるいは清河国(ムイラ)の斥候。とにかく戦いを避け、情報を持ち帰ること。それが探索で重要なことだ、と彼は厳命した。

 

 それはドルマンも若い騎士も重々理解している。

 しかしその上で、この事態にどう対処すべきか分からないままでいた。

 

 小屋の中は、これまた人間の住居と変わらない。家具が少なく、煮炊きの道具もないが、やはり単なる小屋に過ぎなかった。

 そしてそこにいた人物も、ある意味で平凡なもの――獣人の子供だった。

 

 そこにいたのが獣人の兵士だったら話は違っていただろう。戦うか逃げるか、彼らは即座に判断できたはずだ。しかしいくら敵国の人種とはいえ、片目と片腕のない、しかも少女を襲うことはできず、無論逃げる必要も感じられない。

 

 ちなみに銀峰(メーシル)王国と清河国(ムイラ)の言語は大部分が共通している。それぞれ独自の単語はあれど、日常会話で障碍になることはほとんどないはずだった。

 

 そうして結局。

 

「あー、私は銀峰(メーシル)の騎士のドルマンという。外で見張りをしてるのと、隣の鎧男は私の部下だ。それで……その、君はここに住んでいる、のか?」

 

 こくり、と。

 獣人の少女は頷いた。

 話すことができないのではなく、恐怖で口が利けない様子である。いきなり武装した大の男が三人も踏み入ってきたのだから、当然の反応ではあった。

 

「住んでいるというのは、君一人でかね?」

 

 ふるふる、と今度は首を横に振る。

 

「ふむ、今はお出かけ中か。その同居人も獣人なのだね? 軍人か?」

 

 当然縦に振られると思っていた首は、しかし横に振られた。

 

「獣人ではない? 人間と住んでいるのか?」

 

「違う」

 

 少女は震える声で返答した。

 

「ま、魔女さま……と、住んでいる」

 

「魔女?」

 

 何だそれは、とドルマンと鉄鎧は顔を見合わせた。その語彙は彼らにもあったが、意味するところが分からない。獣人の国には御伽噺の存在以外に単語の意味があるのだろうか。

 とはいえ、目の前のおびえた少女の姿は痛々しく、問い詰めるのも憚られた。

 

「で、その魔女はいつ頃帰ってくるのだ?」

 

「分からない」

 

「ふむ……。君、私たちの村に来られないか? もっと聞きたい話があるが、ここは場所が悪い。魔女には書置きなりを残して――」

 

「駄目だ! 魔女さまが心配してしまう」

 

 一体何が癇に触れたのか、毛を逆立て、少女は二人の騎士を睨みつけた。

 二人からじりじりと離れ、いつでも逃げられる体勢を取っているようだ。

 

 さてどうしたものか、とドルマンが思案を巡らせた時だった。

 見張りの男による、恐ろしい悲鳴が響き渡ったのは。

 

 

 

 

 

 

 えっ、最速のタコ足走りで帰ってきたらかっこいい鎧付けた人が家の前に立ってるんだけど。

 全身鎧のせいでケモ耳種族か人間種族かそれ以外かわからん。でも順当にいけばケモ耳少女の保護者か?

 

 ……やばいな。誘拐犯扱いされるぞ。

 

 えーっと、すみません。我が家に何か用でも。

 

 えっ、ちょっ、何?

 

 何何何何何何何何何何?

 恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い!

 

 何でいきなり切りかかってくるんだよ! 剣? それ剣!? 危ないって!

 

 あぶねー、生肉をちくちくされるだけで済んだ。誘拐犯扱いするにしても、問答無用で攻撃ってひどくないですかね。それともこっちの世界では割とメジャーな挨拶なのか? 確かに生肉があれば簡単に防げるしな。

 

 ともかく仲直りの握手でもしましょうよ。えーっと、それともハイタッチ? E.T.? 文化が分かんないんだけど……。

 

 あ、家からまた他の鎧さん出てきた。なんだケモ耳少女もいるじゃん。やっぱり保護者か?

 

 あれ、でもこっちの軽装の人、別にケモ耳とか付いてないよな。普通に人間?

 

 え、人間?

 

 

 ……生肉、付いてないんだけど。



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5 鏡

 「未知の事態になったら撤退しろ」――カルメウスの指示に従うなら、騎士たちはすぐさま逃げるべきだったし、彼ら自身そうする気でいた。

 この森の恐ろしさは身をもって知っている。霧に満ちた樹々の間から、殺意に満ちた獣たちが襲ってくる。いくつかの種とは交戦を重ね、対処法も分かっていたが、依然として未知の森であるには違いない。

 

 だから未知に遭遇したときは必ず逃げること。

 何かあれば、たとえ仲間を見捨ててでも、村に情報を持ち帰らなければならない。

 

 だが、それは騎士たちの「未知」からも外れた存在だった。

 

 森で出遭った恐ろしい獣たちは、初めて見る存在でも、彼らの常識に収まる範囲の未知だった。それらは鳥や狼や鹿の延長にある、つまり禽獣の括りで理解できる相手に過ぎなかった。

 

 しかし、目の前にいる、このおぞましい肉塊は。

 

「来るなあああああああ!!!!!」

 

 ドルマンが小屋から飛び出たとき、見張りの騎士は恐慌をきたしていた。

 肉塊が触手じみたものを伸ばしてくるたびに悲鳴を上げ、狂乱しながら剣を振り回している。技術も何もあったものではなく、迂闊に近づくこともできない。

 

 いくら荒い剣筋とはいえ、そこは騎士だ。当たれば人体くらいやすやすと切り裂く斬撃である。それなのに、切り付けられても触手にはまったく傷ついた様子がない。すべて跳ね返されている。

 ただ肉塊も絶叫しながら剣を振り回す男には警戒しているのか、慎重に距離をとり、ゆっくりと触手を動かして様子を窺っている。

 

 その光景がドルマンには恐ろしい。

 まるで目の前の肉塊が知性を持っているようで。

 

 そんな思考を見透かしたかのように、肉塊はこちらへ顔を向けた。

 

「譟ソ縺ョ遞ョ」

 

 ドルマンの背筋を悪寒が走り抜けた。

 これはまずい。触れてはいけない。とにかく関わるべきではない。肉塊を見た瞬間に凍り付いていた思考が再開し、カルメウスの指示を思い出す。

 

「――ッ! 撤退だ! 今すぐ逃げる!」

 

「でも、まだあいつが戦ってます」

 

「もう奴を正気には戻せん! 我々だけで逃げるしかない!」

 

 自分同様に思考が停まっていた様子の鎧騎士を怒鳴りつけ、ドルマンは獣人少女の姿を探した。

 しかし先ほどまで背後にいたはずの彼女は、あろうことか肉塊に近づこうとしていた。触手と剣が交錯する危険地帯へ、無防備に走り寄っていく。

 

「止まらんか!」

 

 ドルマンはとっさに彼女の襟首をつかんだ。しかしなおも少女は足を止めようとしない。

 そればかりか、敵意に満ちた表情でこちらを睨み返してくる。

 

「お前たちこそあの人間を止めろ! 魔女さまに何をしてるんだ!?」

 

「魔女、あれが?」

 

 信じられない思いで少女と肉塊を見比べる。

 彼女は言ったはずだ。あの小屋で魔女と共に暮らしており、そのために小屋を離れられないと。その相手が、あの醜怪な化け物だとでも言うのか。

 

 そのときドルマンの脳裏に思い浮かぶ知識があった。

 

 特殊な分泌物を出すことで知られる植物がある。その分泌物を精製した物質は幻覚剤に用いられ、中毒症状を発した人間は精神に異常をきたすという。

 そうなると完全に人が変わってしまい、妻の姿が化け物に見えて襲い掛かったり、逆に何もない場所や野犬に向かって求愛することもある。

 

 この少女も、あの化け物になにか投与されたのではないか。あるいは、それこそがこの肉塊の力なのか。そうでなければ、腕の中で本気で暴れる少女の姿に説明がつかない。

 

 身体能力に優れた獣人とはいえまだ子供だ。ドルマンは無理やり少女を抱え上げると、鎧の騎士に投げ渡した。

 

「この子を連れて先に逃げろ!」

 

「先にって、ドルマンさんは!?」

 

「暴れるようなら気絶させても構わん。私はこいつが追ってこないよう食い止める」

 

「あんな化け物相手に無理ですよ! 一緒に――痛ぇ!」

 

 拘束が緩んだ隙をついて、クロンは騎士の指に噛みついた。牙が骨まで届いた感覚とともに、身体は地面に投げ出される。

 魔女と別れ、人間どもの集落に連れていかれるというのは、彼女にとっては死刑と同義だった。

 

 一方で親指に噛みつかれた騎士は、あまりの痛みに一瞬我を失っていた。

 そもそも彼にしてみれば、獣人の少女を連れていけ、というドルマンの指示が不満だったのだ。仲間の騎士を助けるならともかく、少女とはいえ敵国の市民。あんな怪物を前にして、なぜ人間たる自分が命を懸けて獣人を助けなくてはいけないのか。

 

「クソ、いい加減にしろ!」

 

 激高とともに倒れた少女に馬乗りになると、腰の剣を引き抜く。

 教練で何度か試したことがあった。柄で眉間を殴りつけ、気絶させる技術。当たり所が悪いと相手を殺してしまうが、彼にはそれなりに自信があった。獣人の丈夫さなら死なないだろう、という計算もある。

 

 いずれにせよ倒れたクロンからは、怒り狂った人間が剣を振り下ろしてくるように見えた。

 

 そうして。

 

 クロンは生まれて初めてその言葉を口にした。

 物心ついたときからそんなものは無いと知っていて、応えてくれる相手がいないことは明らかで。

 だからどこまでも空虚で、心に浮かべる価値もない、今までの彼女にとってまったく無意味だった言葉を。

 

()()()……魔女さま」

 

 

 ……その言葉の意味は知らずとも。

 

 恐怖と嫌悪に満ちた視線で睨まれ、信頼に満ちた視線で助けを求められた肉塊は。

 

 きっとこう見えたのだろう。人間が獣人を無理やり連れ去ろうとし、それに抵抗されたことに腹を立て、首筋に刃を突き立てるのだと。

 

 あるいは知らなかったのかもしれない。森の外にいるただの人間が、森の獣たちとくらべてどれほど脆いかを。

 

 

 若い騎士は口元に怒りを残したまま、背後の幹へと吹き飛ばされ、不自然に捩れた姿勢で動かなくなる。

 

 その胸元から、光り輝く欠片が地面に転げ落ちた。

 それは彼が不器用な妻に持たされていた魔除けのお守り。

 

 小さな小さな円い鏡が、枝葉を透けて降り注ぐ太陽の光を返している。

 

 その、罅割れた鏡に映った己の姿と。

 相変わらず狂乱する騎士の姿と、新たに剣を振りかざした人間の姿を見て。

 

 肉塊は一度、大きく震えた。

 

 

 

 

 

 

 ど、どうしよう。どうすればいい? 死体が、人間の死体が、一人、二人、三人? 正当防衛? 殺人犯?

 

 俺は化物なのか?

 

 いや、でもまだバレてない。誰にも見られてない。じゃあ証拠隠滅だ、死体がなければ行方不明だ、だれかに訊かれてもそんな人たち見てないって言えばいいじゃん。そうだよ、死体を隠さなきゃ。ここは森の中なんだから穴掘って埋めれば――いやいや、もっと簡単な隠し方あるだろ。頭まわってないな。

 

 この生肉は何なんだ?

 

 よし、死体は消したからこれでオッケー。ここには誰も来ていない。ここでは何も起きていない。……じゃない、死体消したらだめだろ。警察に出頭して事情を説明すれば情状酌量されるはずだ。ケモ耳少女だってきっと証言してくれる。あ、でももう死体食べちゃった。どうしよう、これじゃもう言い訳できない。

 

 俺は人間じゃなかったのか?

 

 言い訳できないなら――逃げよう。逃げるしかない。あいつらはきっと霧が晴れたからやって来たんだ。なら、まだ霧が濃い場所に行けば誰も来ないはずだ。残念だけどこの家は捨てよう。家具は、もういいや。だれかが来る前にここから消えなくちゃ。

 

 俺は――

 

 駄目だ、混乱してる。頭がまったく回ってない。疲れてるな。とにかく霧に、霧に隠れよう。霧に隠れて、とにかく休みたい。何も考えない時間が今の俺には必要だ。そうだ、霧の中で眠っていた動物たちと一緒に眠ろう。あの美しい蛹の前で。問題は時間が解決してくれるさ。それまで寝て暮らそう。それがいい。

 

 あ、ケモ耳少女、君も来る? いいよ、一緒に行こう。ほら、転ばないように手を――ああ駄目だ駄目だ、生肉は気持ち悪いよね、生肉じゃなくて俺も自分の手を、えっと、どれだっけ――?

 

 ……ああ。

 

 君が握ってくれたこの手が、俺の手か。

 

 良かった、ちゃんと君と繋げる手が見つかって。

 

 

 

 

 

 

「これは良くないなあ」

 

 カルメウスは鬱陶しく垂れる髪をかき上げて言った。

 そんな彼を見て、ハインは不思議そうにあたりを見回す。

 

 一緒に来た三人の騎士が森の樹々を調べている。帰ってこない探索隊を探しに来た先で見つかった、石造りの粗末な小屋。そこで彼らは足を止めていた。

 

「特に何もありませんが。無人の小屋があるだけでしょう」

 

「そう見えますかね? 小屋の周りの森、争った形跡があるでしょう。地面の土はえぐれてるし、枝も折れてる。この鋭い傷は剣じゃなきゃつきません。探索隊はここで何かに遇って、まあ、消えたんでしょ」

 

「消えた?」

 

「ええ、ここから先、三人の痕跡は綺麗になくなってます。獣に食われたとしても血の跡が残るでしょうが、それすらなし」

 

「小屋にはなにかありました?」

 

「簡素な家具だけですね。あとはまあ、獣人の毛が中に落ちてました」

 

「なるほど、住人は獣人でしたか。彼らには霧の効き目が薄いのでしょうね」

 

「そんだけの理由で獣人が森に住めるなら、銀峰(メーシル)はとっくに滅ぼされてますよ」

 

 まったく良くない、とカルメウスは肩をすくめた。

 予想を超える異常事態に、彼の直感が最大の警告を発していた。とにかく良くないことになっている。一刻も早くこの場を離れるべきだ、と。

 

 しかしハインには危機を感じる感覚器がないのか、いつもの口調で話している。

 片手に持った霧避けの覆面を持ち上げ、こちらに見せた。

 

「では、そろそろ霧の中へ行きましょう。調査も終わったようですし、これの性能を確かめないと」

 

「すみませんがそいつは無理ですよ、博士。今すぐ村に戻ります」

 

「失踪した探索隊の調査が終わったら霧に入る、という約束のはずです」

 

「探索の指揮は俺が執るって約束はしてませんがね、でもこの場では俺の判断が優先です。残念ですが」

 

 苦笑しながらカルメウスが促すと、ハインは「それは困りましたね」と俯いた。

 

「この覆面の試験は急いでする必要がありますし、その重要性は理解していただけたはずですが。ですよね、皆さん?」

 

「皆さん? それは誰の――っと」

 

 カルメウスは腰の剣に伸ばしかけた手を止めた。

 

 先ほどまで森を調べていた四人の騎士たち――そのうち三人が腰に手をやりながら、カルメウスを鋭く睨んでいた。

 

 じりじりと距離を詰めながら、騎士の一人が真剣な顔で言った。

 

「隊長、私も霧に入るべきだと思います。今しかないですよ」

 

 残りの二人もその言葉に頷いている。

 

「おいおい、上官への反逆か? 度胸あんなあ」

 

「単なる意見を述べているまでです。剣に手を伸ばしているのは、森の獣を警戒してのこと」

 

「そいつは頼もしいね」

 

 カルメウスは笑みを浮かべ、ハインの顔を見た。

 

「なるほど、さすがの手管だな。まさかこんな短期間で誑し込んでたとは。こいつら全員、妻帯者のはずなんだが」

 

「この実験の意義を丁寧に説明して、理解していただけました」

 

「丁寧な説明なら、俺にしてくれりゃあ話が早かったのに」

 

「あなたはそんなことで靡かないでしょう」

 

「ずいぶん真面目な男に見られてたんだな」

 

 さてどうするか、と頭の中で計算する。

 この三人を相手して、倒すことはできるだろう。最も弱い相手から襲って、三人の意表をつけば可能だ。その場合、自分も手傷を覚悟しなければいけない。出血しながら、村まで歩いて帰れるかどうか。

 

 しかしこの三人も、ハインの命令に絶対服従というわけではないはずだ。現に、彼らの構えにはカルメウスを殺してやろうという殺気がない。心配性の隊長を説得するだけ、とか、霧にちょっと入るだけ、とか、そんな軽い頼み事を聞いているつもりなのだろう。

 もし霧の中で、ハインが致命的な行動を取ろうとしたら、それには協力しないはずだ。

 

 やれやれ、とカルメウスはため息をついた。

 

「わっかりましたよ。博士の実験に俺も付きあいましょう」

 

「ご理解、ありがとうございます」

 

 そう言って、ハインはその端正な顔を微笑ませた。

 

 

 ハインの作った覆面は十分にその効果を発揮した。霧の中に入っても、いつもの息苦しい感覚や肺の痛みがなく、活動にほとんど支障を感じない。

 それで彼女の実験は終わりのはずだったが、当然彼女の足は止まらず、霧の奥へ奥へと進んでゆく。そのすぐ後ろにカルメウスが続き、さらに後ろを騎士たちが追った。

 

 霧の中では森の獣たちが眠りについている。

 縄張りも種も異なる獣たちが一様に臥せっている様は、異常そのものだ。普段のカルメウスなら剣を放り出して逃げ出していただろう。

 

 歩きながら背後の様子をうかがったが、騎士たちはこの光景に驚きながらも、まだハインに従うつもりらしく、律儀にこちらを監視している。

 

 まったく、と内心で舌打ちする。人間というのはかなりの異常事態であっても、それを認識しようとしない。ましてや、目の前にハインのように平然と振る舞う者がいればなおさらだ。

 

 ふと見ると、先を歩いていたはずのハインがすぐ横に並んでいた。覆面越しに氷のような瞳がこちらを捉える。

 彼女はくぐもった声で、小さく話しかけてきた。

 

「以前、呪子(のろいご)の話をしたでしょう」

 

「ああ、覚えてるよ。確か言ってたな。生まれたとき処置を受けなかった呪子(のろいご)でも、まれに生き残ることがあるって。しかし生き残ったとして、まともな人生を送れるとは思えんが」

 

「そのとおり。彼らは体内魔力の調律ができず、全身がめちゃくちゃな成長を遂げますからね。結局環境に適応できず死ぬこともありますし、およそ人間とは思えないような姿になってしまいます。私たちの常識では測れないような姿に」

 

「あいにくと俺は見たことも聞いたこともないが」

 

「おや、魔女の御伽噺を聞いたことはありませんか?」

 

「え? まあ、小さいころ婆さんに聞いたよ。あれだろ? 悲鳴林に住んでいたっていう、下半身が馬で上半身が女性の姿で、しかも全身を茨が覆ってたっていう、童話の化け物」

 

「彼女も呪子(のろいご)の育った姿だと私は考えています」

 

「いやいやいや、あれはただの寝物語だろう。まさかあんた、あれが実話だったと考えてるのか?」

 

「御伽噺というのは、根を辿っていくと歴史的な記録に行き当たることが多いんですよ。そのすべてが真実とは限りませんが」

 

 カルメウスは眉をひそめてハインの横顔を見た。

 彼女はただの貴族の家庭教師。三流天文学者だったはずだ。それがなぜ、ここまで呪子(のろいご)に詳しく、執着しているのか? そしてその執着の先が、なぜこの霧の奥へ向かっているのか――?

 

 しかしそれを訊ねる前に、彼らは到着してしまった。

 

 カルメウスの足が止まる。

 

 異様な森の、異様な霧を抜けた先。

 一本だけ葉を茂らせる巨木と、その枝に吊り下がった――巨大な白い蛹。

 

 その、蛹の真ん中に。

 一筋の、黒い切れ込みが入っていた。

 

 

「何なんだ、あれは……」

 

 カルメウスは呆然と立ちすくんでその光景を見た。

 

 白い蛹は身体を前後に揺する。その黒い穴からは、雪のように純白の、優美な翅がゆっくりと姿を見せていた。

 

 背後を振り向いたが、当然三人の騎士たちは何も知らされておらず、口を半開きにして突っ立っている。

 一人ハインだけが、軽やかな足取りで蛹へ接近していた。

 

「待て! 何なんだあれは!」

 

「この森の本体です」

 

 ハインが振り返って答える。彼女は自分の足元を指さした。

 

「これ以上は近づかない方がいいですよ」

 

 ハインの忠告を無視して、カルメウスは彼女の後を追った。

 とにかく、彼女の目的はあの蛹だ。あの蛹に何をしようとしているかは分からない。だが何であれ、彼女の思う通りにさせてはならない。それは断言できる。

 

 しかしなぜか彼女にはどんどん距離を離されている。足がやたらと重い。息が苦しい。気づけば、霧を吸い込んだ時のあの痛みが復活していた。急に霧が濃くなったのか、それとも覆面の効果が切れたのか。

 カルメウスは膝から崩れ落ち、激しく咳き込んだ。

 

 そして、荒い呼吸を繰り返しながら、それでも前に進もうとした彼の視界に、さらに信じられない光景が飛び込んでくる。

 

 白い蛹は大きく震え、無理やりにでも身体を出そうと蠢いている。しかし羽化を焦ったかのように、その体躯はところどころ溶けたように爛れ、未熟な裸体を曝している。

 

 そう、裸体。

 

 カルメウスが知る限り、天使、という単語がそれには最もふさわしい。

 

 翅を背負った少女が、蛹から生まれようとしている。



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