追放されたら能力の真価が発揮されて俺だけセカンドライフがウハウハになった、の逆で冒険者としては完全無欠だったのに引退後の人生がハチャメチャになって終わろうとしている人たち (quiet)
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1話 お前の人生終わりだよ

 

 

「やったー! 勝った!!」

 

 

 ずごごごご、とすごい音を立てて荒野にモンスターが沈んでいくので、三歳児でも見ればわかったことだろう。勝った。そして五歳児程度の知能があるならわかったことだろう。その沈みゆくモンスターは伝説の魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカ。そして三百七歳であればわかったことだろう。千年に三~八回くらい目覚める伝説の魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカを、再び人類の愛と勇気が打倒したのだ。そして心からの美しい涙を流す三百七歳の下に、王子様が現れて言うだろう。君に涙は似合わない。俺と踊らないか。

 

 ところで「やったー! 勝った!!」と言いながらガッツポーズをしてぴょんぴょん飛び跳ねているのは、十九歳だった。

 

「うひゃー! 本当にやっちゃった!」

 

 彼女の名はミハロ・クローバ。

 天才魔法使いの名をほしいままにする彼女は、周囲がものすごい赤茶けた荒野であるのをいいことに、誰に憚ることもなくぴょんぴょん飛び跳ねている。具体的には身長と同じくらいの高さを跳んでいて、時には大きな杖を両腕に抱えながら宙返りまでしている。そして赤茶けた荒野にずっかんずっかん足跡を残している。

 

 ずっかん、と彼女は着地する。

 それから大きく両手を広げて、こんな風に語りかけた。

 

「やっちゃいましたよ、みなさん!」

 

 語りかけた先には、三人の仲間たちがいた。

 ひとりは剣士。もうひとりは騎士。最後のひとりが賢者。みな満身創痍で空を見上げている。なぜ空を見ているかは知らないが、構図としては絵になっている。

 

 いやあ、と言ってミハロは話し出す。話し出すというか興奮でまくし立てている。剣士は落ち着いて、騎士は笑いながら、賢者は疲労からかぼーっとした様子でそれに応える。

 

 この凄まじい荒野に至るまでの一年間、筆舌に尽くしがたい旅路と大冒険があった。具体的にどんなものだったのかと訊かれると筆舌に尽くしがたいがために何も答えられないわけなのだが(しかし、偉業とは得てしてそういうものだ)、筆舌が及ぶ範囲で語れることがあるとすれば、その旅路の中で四人は異常な回数の神経衰弱バトル(伏せられたカード群の中からペアを捲り当て、その当てた枚数を競うゲームのこと)を行い、絆を深めていた。

 

 だから話は弾んだ。ミハロが若さと興奮に任せてぺらぺらぺらぺら喋り倒しているのに、残りの三人は適切な相槌を打ってくれていた。そして空を見上げていた。なぜ空を見ていたかは知らないが、風に髪がなびいて絵になっていた。

 

 適切な相槌を得たミハロのトークは、まさしく合いの手を得た餅つきのようにとどまることを知らなかった。ぺったんぺったん。ぺったんぺったんぺったんぺったん。うわあ、餅が美味い! 結局誰が制するわけでもなく、彼女が自分の喉の渇きに気付いたり、よく考えたらこれから帰らなくちゃいけないのかめんどくさいなと思ってテンションを下げたりするまで、つまり自主的にそれを止めるまで、延々止まらなかった。ゆえに後になってミハロは思い出す。あの言葉を口にしたとき。自分のそれからの人生に大きな影響を及ぼすあの言葉を自分の喉が発したとき。あれは誰が悪かったわけでもなければ、誰の無意識の誘導を受けたわけでもない。

 

 

「こうして会えたのも何かの縁!

 何かあったらいつでも頼ってくださいね! みなさん!」

 

 自分の口が軽かったのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 共和国には『学園』と呼ばれる巨大な都市が存在し、そこには無数のフレッシュな若者たちと、残念ながら年齢という強大なアドバンテージを有してなおフレッシュとは言いがたいくたびれた若者たちがおり、さらにそれを取り囲むようにして若者たちの生気を吸い取りながら日々を生きるインフラ労働者と、一体何億年前からそこに建っているのだと思わず疑問を浮かべずにはおられないような黴臭い学園校舎がひしめいている。

 

 さあ、早速この都市の中に入ってみよう。

 

 特に塀に囲まれた都市というわけではない。学問は誰にも分け隔てなく開かれているものであるし、またたとえ学問の芳醇かつまろやかな香りに惹かれてモンスターが涎を垂らしながら乱入してきたとしても、何とかそれに対処するための手段が(もちろんこれは、誰が好む形で想像してもらって構わない。想像はいつだって自由だ)この都市の住人たちの手の中に常に存在するからだ。

 

 しかしここは、いわゆる『正門』と呼ばれる場所から入って行くのがわかりやすかろう。

 

 いっとう大きな門だ。首府から来る魔法馬車は大抵の場合まずここで止まる。もう着いたのか、という客の言葉に「ええ」と御者は答える。車から降りてきた客は眼前に広がるとんでもない上り坂を目にするや、再び車内に戻っていく。「追加料金は幾ら要る?」にやり。ちゃりんちゃりんちゃりん。がたごとと馬車は石畳を上がっていく。あたかもこの学園に訪れた若者たちに「これよりお前が目指す学問の頂はこれほど高く険しいものなのだ」と教え込んでくるような、途方もなく長い坂道を。

 

 道の脇には、「華やかな」とラベルを貼ることのできる何もかもがある。

 それはたとえば異様に盛りの多い定食屋であったり、防音が十分でないのかうっすら外にまで音楽を響かせている劇場であったり、「こんな服を着る奴が近所に住んでるのか……」と不安を覚えるようなラインナップを取り揃えた古着屋であったり、横一列のカウンターで全員が魔法書の背表紙を見せびらかしながらおしゃべりに夢中のコーヒーショップであったり、他にも色々。普通の馬であれば、あるいは普通の馬にしてもよほど落ち着き払ったダンディな馬でなければ、どこかの店に一目散に突撃して、とても車を引くどころの騒ぎではなかろう。目を奪う色とりどりの景色。それにも負けずに魔法馬車はさらに上へと登っていく。

 

 少しずつ、学園関連施設が左右に現れ始める。

 けれど大抵の場合、初めてこの学園に来た人間はそれに気付くことはない。なぜと言って、坂道の中腹あたりに存在する関連施設の多くは『大学』という高度研究・教育セクターが所有するものであり、非常に地味だからだ。立ち並ぶ店々や、往来で雪の日の犬のごとくはしゃぎまわる学生たちの存在感に勝るほどのものではない。だから結局、最も目立つその建物を目にしたそのときが「おお、これまさしく学園なり」と強く思う瞬間になることだろう。

 

 古城である。

 

 凄まじく古い。とても現代的な建物とは思われず、もしもこのスケールを百分の一にしたものが街の片隅に置かれていたら『お化け屋敷』と称されて、近所の子どもたちの楽しい遊び場に、そして近所の老人たちの危険な怒鳴り場になっていたことだろう。石造りで、風が吹けばその表面から三千年前の土がぼろぼろと零れ落ちそうに見える。上り坂のてっぺんの小高い丘に建つそれは、槍のごとく先の尖った奇妙なデザインも相まって、今にもすってんころりん街まで転げ落ちてきそうに映る。馬車客は感動と不安をないまぜにしつつ、しかし御者の気楽な鼻歌を頼りにさらに進む。がたり、ごとり。

 

 間近で見ると、さらに大きい。近付くにつれてその天辺は見えなくなり、腰や首に不安を抱えた人間でなくともすぐ気付く。何事にも適切な距離感というものがあり、近付きすぎると見えなくなるものがあるということに。流石は共和国における学問の総本山、門を叩く前から様々にお得な学びを提供してくれる。天辺を見ることを諦めて、門前で馬車を降りる。御者に金を払って気持ち良く送り出してもらう。その後にふと「帰りはどうすればいいのだ」ということにも気付くかもしれないが、些細なことだ。人生とは一方通行であり、実は帰り道など存在しない。そのこともまた、学園がいつか教えてくれるだろうから。

 

 さて、もしもこの学園を訪ねた客が。

 正当な理由を持って訪れているなら、ただ門の傍の呼び鈴を鳴らしてみればよろしい。詰所から守衛が出てきて、中へ招いてくれることだろう。また、学内案内ツアーの時期であるなら呼び鈴を鳴らさずともその辺りで所在なさげにふらふらしているだけでコンダクターが話しかけてくれる。ああもしかしてツアー参加者の方ですか毎度アリ!と。

 

 しかし、もしもその観光客が、裏側の事情に通じているなら。

 

 客は口笛を吹くことだろう。メロディはそのときに流行っているポップスなら何でもいい。ただ待ち合わせをしているような格好で、ポケットに手でも突っ込んで待っていればいい。

 

 するとどこからかふらりとひとりの人間が現れて、その口笛に口笛を合わせ始める。

 

 ひどく若い。どう見たって学生だ。彼でも彼女でも構わない。どちらにせよその学生は、目が合えば口笛を止めて、若年性の悪戯心を満面に湛える。にやりと笑う。もしかして、なんて言わない。毎度アリ、なんてことも言わない。学生は手のひらを差し出す。金を受け取ると親指を立てて、無言のままに門から遠ざかっていく。

 

 客は、その後を行く。

 

 ぐるり、と回っていった先。学生が塀の一部を叩くと、静かに音を立てて、人ひとりが通れるだけの隙間が生まれる。

 

 手招きをされる。

 芝生の上をしばらく歩いた先に、古ぼけた扉がある。学生が中に入る。続いていく。

 

 中に入ってみると、外観に相応しい内装が広がっている。

 

 黴を誤魔化したような匂いがする。湿度が高い。夏と冬が入り混じったような奇妙な空気。廊下の床板は古く、一歩ごとに軋む。長い間子どもたちの身体を支えてきたものに特有の、老成した感触が足裏から伝わる。窓枠のほとんどは「決して一筋縄で開けられはせんぞ」という奇妙な偏屈さを備え、棒鍵は触れれば匂いが移るだろう程度に錆びている。全てが色褪せた、思い出のような場所。

 

 何度も曲がりくねって道を行く。階段を上る。下がる。それは人に会わずに進むためのルートであり、誰にも不審がられないための秘密の道であり、また同時に、その学生が生業を営むために見出した手法でもある。二階、三階。また二階。四階、不思議と一階。それから五階。後は上るだけ、と学生が背中で言う。

 

 七階には、ミハロ・クローバの研究室がある。

 

 部屋の中にはたとえば、無言のミハロ・クローバがいる。無言でただ、本棚の前で考えごとをしている。広い部屋だが、広ければ豪華というわけでもない。そんな部屋。壁には大きな大きな、しかしうっすらと埃が積もりかけている杖。各国の首脳の名義で記された数々の感謝状。それに紛れて一枚だけ、一年前が発行日付の、『特例教員免許証』と題された厚紙。

 

 外で、一羽の鳥が鳴く。

 鳶だろうか。甲高い声だ。ミハロはそれにハッと我に返ったように顔を上げる。それから『特例教員免許証』を見つめる。

 

 何かを、呟こうとする。

 

 

 

 そのとき、扉がノックされる。

 

 

 

「はい?」

 ミハロは、言葉にしてから我に返った。そうだ、と。そういえばここは自分の私室ではないのだと思い出して振り返る。誰が訪ねに来たのだろう。一年前のあの日から変わらないオーバーサイズのローブを引きずって、その裾の擦り切れるのを気にもしないで扉に向かう。

 

 警戒もしないで、扉を開ける。

 

「どうぞ――っ」

 そして、ぴたっと固まった。

 

「よ」

 立っていたのは、ひとりの男だったから。

 

「あ、」

 の形にミハロは口を大きく広げた。それからよろよろと一歩下がる。二歩下がる。教室の中に不意に現れたフラミンゴを相手にするように、驚愕で目を大きくしたり、小さくしたり。それからじっと、その現れた男のつむじから爪先までたっぷり視線を四往復させて。

 

「ひ、」

 間違いない、とわかったらしくて。

 

 

「久しぶりですね! ディー・ヨド!」

 

 

 唐突に現れた男。

 一年前に共に世界を救った剣士に、そう語りかけた。

 

 

 

 

 

「久しぶりですねえ。外、寒かったでしょう」

「いや、馬車に乗ってきたからそれほどでもなかった。それより、坂道が随分長いな。通うのも大変だろう」

「そーなんですよ。職員寮に引っ越した方がいいのかなって、毎朝考えてます」

 

 あっという間の出来事だった、とミハロ・クローバは思っている。

 世界を救ってからの、この一年のことだ。

 

 教官室には生徒たちが質問に来たときのために、常にお茶の葉が常備されている。もちろん湯沸かしも。熱魔法石がこぽこぽと水を沸かすのを眺めながら、背中を向けたままで会話をしながら、ミハロは思う。

 

 あれからは、ひどく目まぐるしい日々だった、と。

 

 伝説の魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカ。それを倒すためにふらふらどこからともなく現れ、結束し、打ち倒した四人。世界は多大なる敬意と喜びを以てその帰還を祝福し、そのひとりとしてミハロもまた、様々な方面からの感謝の嵐に晒されて、気付けばこうして共和国最大の『学園』の『教授』として席を与えられることになった。

 

 十九歳。一年経ってもまだ二十歳。当然、慣れないことばかりだった。

 全く一年が……何百日も経ったとは思われないほど、忙しない日々だった。

 

「それにしても、」

 けれど、と。

 

 穏やかにミハロは思う。テーブルの上にふたり分のお茶を置きながら。目の前のディー・ヨド――かつて肩を並べて戦った四人のうちのひとり。あの万人無双の剣の使い手の顔を見ると。

 

 ああ。こんなに懐かしく感じるのだから。

 本当は随分と、長い時間が経っていたのだろうな、と。

 

 思いながら彼女は、切ないような気持ちでカップのお茶に唇を近付けて、

 

 

 

「どうしたんですか。突然訪ねてきたりして」

「破産した」

「げほっ!!!!!! ごほっ!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 盛大に噴き出した。

 

 

 

「んなっ、」

 ず、と鼻を啜る。溺れたみたいにつーんとする。一掴みいくらの茶葉の安っぽくフローラルな香りが目の奥にぶわっと広がる。悲しくもないのに涙目になる。今後の話の展開によっては悲しくもなりうる。

 

「な、何!? 何々何!? どういうこと!?」

「タカりに来た」

「いやもうここに来た動機の方はどうでも――良くないわ!」

 

 タカりに来たなら帰れ!と気丈にミハロは言い放った。この一年ですっかり生まれつきのもののように身に着けてしまった、悲しい冷たさの発露として。

 

「帰れ! 帰れ帰れ帰れ! 金ならないぞ! 塩撒くぞ!!」

「この茶、美味いな。趣味が良い」

「褒めて機嫌を取ろうとしたって無駄だ!」

 

 グルルルルル……とカバのようにミハロは唸った。しかしディーはまるでそれに頓着しない。あまつさえこんなことを言う。

 

「まあ落ち着け。語れば長い話だ」

 ディー・ヨドは、今年で二十九だか三十だかになる男である。

 

 年齢の正確なところをミハロは覚えていない。二十九も三十も二十五も三十四も大して何も変わらないだろうと思っているからである。

 

 しかし何のかんのと言って十も年齢が上の相手である。ゆえに、その声の調子にはほのかに説得力のようなものが宿っているように思えた。すっ、とディーが手のひらでソファを指し示したのに促されるまま、つい再び腰を下ろし直してしまう程度には。

 

「会うのはいつ以来だ? 結局、ちゃんとした別れの言葉もないままだったな」

「いやいいです。そういう順を追って話すとかは。結果からお願いします。論文みたいに」

「遊園地が爆発したんだ」

「やっぱ順を追って話してください」

 

 やれやれ、と彼は肩を竦める。

 こういうところは相変わらずだな、とミハロは思った。

 

 ディー・ヨド。

 傲岸不遜を絵に描いたような面つきの男である。何なら文字で書いたような、と言い換えても構わない。それで行こう。ディー・ヨド。顔に文字で『傲岸不遜』と書かれており、その他には特に何らの特徴もない男である。これで行こう。

 

 顔に文字で『傲岸不遜』と書かれた男は、茶を優雅に一口飲むと、それから語り出す。

 

「俺の生まれのことは、確か一度話したことがあったな」

「ある日空から落ちてきたんでしたっけ」

「ああ」

「『ああ』で済ますなよ」

「それで俺は落ちた先の村で様々な人々の厚意のもとに育ったわけなんだが……」

「『ああ』で済ますなよ」

 

 旅の道中で、一度聞いたことがあった。俺は空から落ちてきた。俺の生誕に歓喜した世界が竜巻を起こし、それに巻き込まれる形で飛翔したのであろう。飛び立つことが約束された人生だ。俺はすごい。ワハハ。場を和ませるための冗談だと思っていた。

 

「各方面からの褒美を手に取ったとき、俺が最初に思ったのはやはりその故郷と育ちのことだった」

「いや、その前にもっと気になることが……」

「いくら完璧な俺とあっても、幼い時分は人の手を借りて歩んできた。大切なのは……。気付いた俺は、ありとあらゆる剣の道の誘いを断り、別の道を行くことにした。そう。人を楽しませ、『この世には生きる価値がある』と伝えていく道だ」

「お、おう」

 

 ミハロは怯んだ。

 前段から「どうせとんでもないトンチキみたいな話が出てくるのだろうなあ」と呆れた気持ちでいたら、思いのほか立派な志が出てきてしまったからだ。

 

「そして人を楽しませるものと言えば遊園地だ。ここまではいいな?」

「いや、他にも色々あるのでは……」

「遊園地にも色々あるだろ。観覧車とかジェットコースターとか」

「何言ってんの?」

「というわけで建てた。ここで財産の九割を吹き飛ばした」

「何してんの?」

「あと折角この世に生を受けたからには一度くらい莫大な借金もしてみたいということで、そのへんで借金もしてみた」

「何を言って何をしてんの?」

 

 すると不思議なことにな、と。

 ディー・ヨドは顎に手を当てた。本当に不思議そうな表情と声音で、彼は。

 

「素寒貧になっていた」

「当然の帰結だよ」

「あとパレードのリハーサルで張り切りすぎて遊園地の一部を爆破してしまい、投入資金の回収が不可能になった」

「良かったですねお客さんが入る前で」

「俺はもしかして馬鹿なのか?」

「そうだよ」

 

 そうだよ、と二回ミハロ・クローバは言った。言い捨てた、と表現してもいい。そして言い捨てた瞬間に、やり切れない虚しさのようなものを感じた。

 

 在りし日のディー・ヨドのことを思い出したのだ。

 剣力無双。向かうところ敵なし。あの途方もない荒野に向かう道中で初めて出会った仲間。あのとき――颯爽と空から現れて、大地を裂くような一撃で助太刀してくれたあの瞬間、彼は間違いなくこの世で一番輝いていた。

 

 それが、今はどうだ。

 

「荒野から出るべきじゃなかった人ですね……」

「まあな」

「まあなて」

「しかし仕方がない。荒野から出てしまったのだからな。で、素寒貧で鳩とか食いながらそのへんを歩いていたら、ふと思い出した。昔、『困ったことがあればいつでも自分を訪ねてこい』と言ってくれた人物がいるではないか、と」

「在りし日の愚かな私のことですか?」

「そう卑下するな。在りし日の優しい自分と呼んでやれ」

「優しさって自分じゃなくて他人にとって都合の良いものなんだなあ……」

 

 しかし残念ながら、ミハロは思い出してしまっていた。

 そうだ、確かに言った、と。

 

 言っている。記憶を探ってみたら、確かにちょうどそういうことを言ったシーンがある。何かの妄想である可能性もあったけれど、その後三日くらい「もしもみんなが困ったらこんな風に対応しよう」「そして自分が善良であることを誰が見ているわけでもないけれど世界にアピールしよう」と考えていたことも覚えている。浅ましい考えほど長く記憶に残り、ゆえに人は年々浅ましくなっていく。

 

「わかりました」

 そう言って、ミハロは席を立った。過去の自分に責任を取るのだ。そう思い、机の裏側に回った。鍵付きの引き出しを指を振って開けて、中から財布を取り出した。

 

「いくら要りますか」

 あんまり手持ちはないんですが、と。

 

「…………」

「ディー?」

 問いかければしかし、ディー・ヨドは沈黙した。

 

 じっ、とこちらを見ていた。彼の眼力は素寒貧になってもなお強い。居心地が悪くなって、さらにミハロは言葉を重ねる。

 

「言ったことは言ったことですから。ちょっとくらいなら貸す――というか、あげます。お金だけなら正直唸るほどあるので。別に当分の生活費くらいなら、」

「いや」

 

 言って、ディー・ヨドは立ち上がった。

 薄い微笑みをたたえて彼は、あの日と変わらない颯爽とした立ち姿で。

 

「それには及ばん。帰るよ。いきなり押し掛けて悪かったな」

「え、」

 

 いや、とミハロは彼に手を伸ばす。中途半端に。

 

「いいんですよ、本当に。自分の言ったことくらい責任取れますって」

「政治家なんてみんな責任取ってないだろ」

「それはそうだけどそれが何だよ」

「『気にするな』ってことだ」

「いや政治家は気にすべきだよ」

 

 ひいては私も気にしますよ。そんなミハロの言葉に対し、しかしディーは止まらない。部屋に入ってきたときに脱いだジャケットに袖を通す。一見高級なそれの、肘のところが擦り切れているのがミハロの目に映る。あの荒野では、服の解れなんてひとつも気にならなかったのに。

 

 今では。

 

「ちょっと待って――」

 

 言葉にすると、グロテスクになる。

 しかしそのときミハロ・クローバが。かつての仲間で、颯爽として、誰より気高かったあの剣士に。今、ドアノブに手を掛けてゆっくりと扉を開くその背中に抱いた感情。それにもし、名前を付けてしまうなら。

 

 彼女は彼を。

 哀れ、と――――

 

 

「お」

「失礼。ミハロ・クローバ教授は在室していますか?」

 

 

 がちゃり、と扉が開いた瞬間に。

 廊下からもうひとり、この部屋に介入する人物が現れた。

 

「あ、は、はい。何かありましたか」

「ああ、ちょうどよかった。……こちらの方は?」

 

 ミハロは、その人物が誰かを知っていた。

『几帳面』や『規則主義』を絵に描いたような、あるいは文字で書いたような人物である。三十代中盤。女性。役職は教務主任。名前はナノ・カッツェ。

 

「あー……えっと、古い友人で――」

「近くに立ち寄ったので、挨拶だけ。すぐに失礼します」

 

 ミハロの説明に被せるように、ディーが言う。

 ナノ・カッツェは少し不審げに彼を見た。それからこちらに「本当か」という目線も。こくこくと頷いて返せば、「まあいいでしょう」という顔で彼女はディーから視線を外す。

 

 それから。

 

「用件があるのは、こちらの方ではなくあなたです。クローバ教授」

「は、はいっ?」

 

 溜息を吐くような声で、彼女は言う。

 

 

 

「前回の中間試験に関して、あなたの担当する生徒たちの成績不良が次の教授会で議題にかけられることになりました。

 

 会議の結果によっては解雇もありえますので、十分な説明の準備をしておいてください」

 

 

 

 このとき、ミハロ・クローバは思っていた。

 この部屋の壁掛け時計の秒針は、意外としっかりとした音を立てるのだなということを。かち、こち。かち、こち。やけにはっきり耳に届くなあ、ということを。

 

 それに影響されたわけでもないだろうが、ナノ・カッツェは自らの細い腕時計を見た。「失礼」と彼女は言う。

 

「これから出張の予定がありますので、取り急ぎそのことだけ。詳細については教務課に問い合わせてください」

 

 それでは失礼します、と言って彼女は踵を返す。きぃ、ばたんで扉が閉まる。その向こうでコツコツとくぐもった靴音が遠ざかっていくのが聞こえる。

 

 残されたのはふたり。

 ミハロ・クローバ。ディー・ヨド。

 

 前者は天を仰ぐように顎を上げて、茫然と。

 

 後者はジャケットを再び脱いで。ハンガーにかけて。それから勝手に湯沸かしを使って、もう一杯ずつのお茶をカップに注いで。

 

 それからどっかり、ソファに腰を下ろして。

 にやりと笑って、こう言った。

 

 

「荒野から出るべきじゃなかったな」

 

 

 



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2話 私の人生終わりだよ

 

 

 話を率直にまとめてみると、以下のようになる。

 

 

①ミハロ・クローバは学園の『教授』として講義を持っている。

 

②本人の年齢や人気の問題から、特定の分野をどれかひとつというわけではなく、十四~十五歳程度の子どもたちで構成されるひとクラスの講義全体を担当している。

 

③担当した学生の成績が終わっている。

 

④あいつ追放にしようぜ!という機運が裏で高まっている。

 

⑤表にも出てきた。

 

⑥時代が悪い。

 

 

 以上、まとめ終了。

 

 

 

 

 

 

「うおおおおおおやってられっか!!!!!」

「ここ、飲酒OKなのか」

「懲戒になります!!!!!」

「俺には何のデメリットもないということだな」

 

 共和国。学園。

 残酷な宣告のあった教官室で。

 

 ふたりの人間がソファに向かい合って座っている。片方はテーブルの上の瓶をひったくると、自分の分のカップにドボドボと注ぎ、ぐいっといき、それからひどく微妙な顔をする。「これアルコール入ってるか?」ともう片方に訊ね、「入ってません」と答えられるとさらに微妙な顔をする。

 

「アルコールってなんか不味いから飲みません! 懲戒になるし! 飲めるとよくわかんないおっさんまみれの会に連れてかれるし!!」

「じゃあなんだこれは」

「ぶどうジュース!」

「じゃあなんだそのお前の有様は」

「アルコールが入ってなくてもこうなるだろ! あんなこと言われたら!!」

 

 もう片方は片方よりもずっと豪快だった。彼がテーブルの上に置いた瓶をさらにひったくった。きゅぽん、と栓を抜くと直接ぐびっといった。そして真顔になって口を離し、そっと瓶を置いた。こういう風に飲むものではない。彼女の頭にはこのぶどうジュースの値段とここ二年くらいまともに健康診断を受けていないことへの不安のふたつが過っており、前者についてはそれをどぼどぼ注いだ素寒貧の男への憎悪を煽り、後者については安心してがぶ飲みするために健康診断に行こうという機運を煽った。

 

「で、」

 どぼどぼ注いだ素寒貧の男――ディー・ヨドが言う。

 

「どうした。素寒貧予備軍」

「なんだ? 急にニヤニヤしやがって……」

「いや、俺の今日来た本当の目的はこれだ」

「は?」

 

 実を言うとな、と彼は。

 やけに堂に入った優雅な動作でぶどうジュースに口を付けて。

 

「俺は最初からこうなると踏んでいたんだ」

「……何?」

「お前ら全員ちょっとおかしかったからな。どうせ社会に適応できずに人生が終わっているだろうと踏んで、肩を組みに来たんだ」

 

 言われたことの意味を、この部屋の管理者――ミハロ・クローバはじっくり噛み締めた。

 どのくらい噛み締めたのかを具体的に表すと、口の中からぶどうジュースの後味が七割方吹き飛ぶ程度の時間をかけて、噛み締めた。

 

「ちょっと」

「ん?」

 

 噛み締めた後、ミハロはゆっくり歩いてディーの隣に立った。両手の平を天井に向けて、二度三度、上げる動作をした。案外と素直な男なので、素直に従って立ち上がってくれた。

 

「ちょっとこのへん立ってもらっていいですか?」

「ここか?」

「そう。このへん」

 

 窓際に立たせた。窓の鍵をくるくると回して開けた。両手で窓枠を引っ掴んで、ふんっ、と裂帛の気合を込めて、がっちゃんがちゃんと窓を開けた。

 

 それから。

 

「えいっ」

「うおぉおおおおおおおおおっ!?」

 ディーの両肩を思い切り突き飛ばした。

 

 さしもの大剣士も七階から突き落とされかけると驚愕するらしい。これはミハロにとって意外な発見だった。ものすごい勢いで突っ張りを八回程度行ったためにディー・ヨドの肉体は九割九分九厘空中に投げ出されていたし、そのあと十割にもなったが、最終的には指で壁に張り付いて登ってきた。大剣士ともなるとここまでのことができる。これもミハロにとって意外な発見だった。

 

「殺す気か、お前!」

「そうだ! 文句あるか!」

「あるだろ……」

「あるか……」

 

 あると言われれば聞くほかなく、ミハロはディーからの苦情を承った。人を殺そうとするな。はい。よし。でもなんかムカついて七階から突き落としたくなっちゃったんです。なら仕方ないな。はい。このようにして対話は世界を救ってきた。

 

「で、お前はどんな風に社会に適応できてないんだ。七階から学生たちを突き落としまくってるのか」

「講義会場は一階のさっむいさっむい部屋なので突き落としたくても突き落とせないです」

「まず突き落としたくなるなよ」

「内心の自由! 内心の自由!」

 

 ふたりは再びソファに座り直す。ぶどうジュースの時間は終わりだ。再びお茶を淹れる。そして窓を開け放していたために寒風がびゅーびゅーと吹き荒び、気を遣ったディーが再び立ち上がり、ふんっ、と窓を閉め直してくれた。ばきっ、と音が鳴った。それいつも鳴るんで大丈夫です、とミハロは言った。ここ壊れてるぞ、とディーは冷静に指摘したが、目も向けなかった。ディーは肩を竦めて、それから席に着いた。

 

「語れば長い話になるんですが……」

「あえて短く結論から行ってみるか。論文みたいにな」

「学生たちの成績が上がらないんです」

「おい全然面白くないぞ。退屈な話は順を追って聞く気にならん。もう一声行こう」

「えぇ……? じゃあしかも全員退学しました」

「よし。いい感じになってきた。さらにもう一声!」

「さらに? えーっと、退学した学生たちが学園の一部を占拠して……」

「して!?」

「あらゆる銀行を襲うべく、巨大ハムスターの群れを育成してるんです!」

「ようし、俄然興味が湧いてきた! 順を追って話してみろ!」

「話せねえよ九割嘘なんだから」

 

 そんなことを言ったらこの世の九割は嘘だぞ、とディーは言った。どんな世界認識で生きてるんだよこいつは、とミハロは思った。会話を通して自分自身の世界認識まで歪ませられかねないと危機感を覚え、何らか確からしいものを見つめて脳を休めたくなった。

 

 というわけで、時計を見た。

 

「うわっ、もうこんな時間!」

 

 ばたばたと彼女は慌て出す。つぶさにその慌てぶりを見てみると適当なリズムに合わせて右に左にうろちょろしながらローブの裾を傷めているだけだったが、とにかくえらいこっちゃになっているということだけは言葉の通じない相手にも伝わるであろう動きをした。

 

「午後の講義始まっちゃうんで、続きは後でもいいですか!? あわよくばこのまま帰ってもらってもいいですか!?」

「別に帰るのもやぶさかじゃないが」

「いや嘘! ひとりだと後で感情の処理ができなそうなのでこの部屋で寂しくぬいぐるみのように待っていてください!」

「いや」

 

 言って、すっくとディーは立ち上がる。ハンガーを手に取る。肘の擦り切れたジャケットを手に取る。びしっ、と襟を整えて、彼は。

 

 

「俺も行こう。面白そうだからな」

 

 

 

 

 

「来ても何も面白いことはありませんよ」と五回伝えたが、「いやそんなことはない」と五回否定され、六回目は「なんだか自分の講義が面白くないって自分で言ってるみたいだ……」と落ち込みかけたので言わないことにした。

 

 だからミハロ・クローバは、ディー・ヨドとともに階段を駆け下りていた。七階から一階の講義室までの道のり。始業開始の一分前。もはや足音はスタタタタタとかスッタカタンタンタンとかの域には留まらない。正確に表現しよう。ズドドドドスッターンターンターン。途中から階段で幅跳びを始めている。そのくらいの急ぎ方だった。

 

「このローブ、めちゃくちゃ動きにくいぞ。お前よくこんなもの普段から着てられるな」

「人の服借りといて文句ですか!」

「いや純粋に感心してる。俺より運動センスがあるんじゃないか。それか忍耐力」

 

 褒められて悪い気はしなかったので、とりあえず鼻を高くしておく。

 

 ミハロの隣を走るディーは、彼女とそっくりのローブを着ていた。というか彼女の私物を着ていた。オーバーサイズ。ミハロより頭ひとつふたつは大柄なディー・ヨドがフードまですっぽり被ってなお裾余りのそれは、彼女が彼に「いやその顔で学園内を闊歩してたら騒ぎになるでしょう」「さっきはバレていなかったが」「教務主任は人の顔をあんまり覚えない人っぽいです」というやり取りの末に着せたものである。

 

 ズドドドドスッターンターンターンターン!

 最後のターンでふたりのローブが翻る。着地。きゅ、と靴裏が床を捉え、それからさらに爆速のダッシュが始まる。残り十秒。六秒。四、二、一。

 

「はい! それじゃあ午後の部を始めます! 席に着いて!」

 間に合った。

 

 がらり、と戸を開けてミハロは入室する。信じられないことにあれだけの速度で走ってきたにもかかわらず、戸を潜った瞬間には汗も何も引いているし、普通に歩いてきたようにしか見えない。

 

 ミハロが言ったとおり、それは一階のさっむいさっむい部屋だった。扇型に広がる階段教室で、すごく広い。百人くらい入る。そして三億人分くらいの隙間風も入る。広大な容積は寒さを貯蔵するのに十分で、冬であれば即死レベルの寒さを放ったことであろう。そして実は今ミハロたちが身を置く共和国の学園には冬が来ているため、実際に即死レベルの寒さが放たれている。

 

 即死寸前の凍える手で、ミハロはチョークを手に取った。

 

「さて、それじゃあ午前中の続きから始めましょう! 最初は魔法体の相似の話から始まって、高級魔法体に関する実証実験を相似形の低級魔法体を扱うことで効率化する方法をお話ししたと思います。ここまではとりあえずいいですよね。で、さらにこの低級相似体を扱うに当たって興味深い事例があるというところで……クゼくんなら知ってるかな。『オリニガスの現れぬ過ち』っていうんだけど」

 

「いえ。すみません、不勉強で」

 

「ううん、全然! まだまだ私が教えられることがあるみたいで安心しました! このオリニガスは、実は学園生なら誰でも知っているような人です。湯沸かし魔法石を作った人! あ、これ魔法史の穴埋め問題に出たりするから頭の片隅に置いておいてね。で、この人の作った湯沸かし魔法石っていうのは実は氷河期を終わらせるために作られた『ネ・デラ人工火山』の低級相似体を効率化することで当時の経済戦を戦い抜いたものなんだけど、そのときものすごく勢いがあった開発研究市場でオリニガスと争っていたのは、彼女の幼馴染だったんだ。タマラって言うんだけど、彼女はこの湯沸かし魔法石に対して当時の大手新聞『アラ・カルタ』を通して攻撃的な指摘をしたんだよ。『オリニガスが改造した低級相似体は五次元空間上で理想的に働かない』って。なんじゃそりゃって思うでしょ? 五次元空間上でってどういう指摘なんだって。実際当時のオリニガスとタマラは犬猿の仲だったらしくて、この指摘はろくに取り合いもされなかったんだけど、晩年になると不思議とふたりは昔みたいに仲良くなってね。春の日のバルコニーでひ孫たちが草遊びするのを見ながら、ふと思い出してオリニガスがタマラに訊いたんだ。『そういえば、あれって結局何だったの?』って。まさかそのとき、もう九十歳も近い自分たちがあの『アーカーラの時間大定理』を証明する糸口を掴まえているなんて気付かずに……。

 さ。興味は引けたみたいだから、時間大定理と熱魔力学の必要な部分をかいつまみつつ、この低級相似体を扱うことの面白さと奥深さを学んでみようか! あ、あと実際に相似体を使った商売をするときに必要になる、相似体周りの特許権についての知識もさわりだけね」

 

 そのようにして。

 時計の針は、さらに進んでいく。

 

 

 

 

 

 それから四時間喋りっぱなしだった魔法使いは、ありがとうございました、と最後の学生が頭を下げて教室を出るのに「また明日ね~」とにこやかに手を振ると、ばたんと扉が閉じた次の瞬間にゴッホンゴッゴンウエッホンホホンと慎みも何もない咳を連発した。

 

「お疲れ様」

「ゴッホンゴッゴンウエッホンホホン!」

「無理して喋るなよ……」

 

 まあ飲め、と言ってローブを着た怪しい男が水筒を手渡してくれる。ローブを着た怪しい男に手渡された水筒ほど飲むに値しないものは中々ないが、ミハロは非常に心が広く、またこの怪しい男との付き合いも悲しいかなある程度深いがために、ありがとうを意味する新しい言葉ゴッホンゴッゴンウエッホンホホンを唱えるとそれを受け取り、傾け、最後の一滴に至るまでを一息に呑み干した。

 

「ぷはーっ! 渇きすぎてミイラになるかと思った!」

「毎日ミイラになるリスクを背負い続けるよりも、水筒を持ち込んだ方が命に優しいと思わないか?」

「今日は急いでただけです!」

 

 普段は持ってきてますよこーんなでっかい水筒をね、とミハロは自分の頭頂部よりやや高いところから地面まで、架空の瓶の輪郭ををなぞるようにして両手を動かした。そして「やべ、盛りすぎた」と思った。「そうか」とディー・ヨドが普通に受け流したので、逆にちょっと傷付いた。普段からこの温度感で話を聞かれていたのだろうか。

 

「で、」

 それはともかく。

 

「どうでした?」

「ん?」

「講義ですよ。後ろの方の席でじっと聞いててくれたじゃないですか。寝てたわけじゃないなら、ほら」

 

 カモン、とミハロは両手をくいくい動かす。求めている。感想を。飢えている。感想に。

 

 そうだな、とディーは顎に手を当て、正確な記憶を辿るようにして少しずつ言葉にしてくれる。

 

「お前、早口だよな」

「うるせえよ」

「いや褒めてる。滑舌も良いし、だらだら話されると眠くなるからな。正直話の枕のところでは怒涛の専門用語の嵐に諦めかけたんだが……」

「え。マジすか。あんな実用的かつ知的好奇心をくすぐる導入で?」

「俺は魔法をやらんからな。しかし、講義自体は見事だったんじゃないか。どこでそういう知識を身に着けるのか知らんが、魔法理論の内容だけじゃなくその提唱者たちの人生や社会との繋がりまで克明に描き出す話術には思わず感動したぞ」

「よし、もう一声」

「特にオリニガスが『アーカーラの時間大迷宮』で意識を幼年に戻されてからが良い。タマラとの確執が生まれたきっかけの事件。彼女にとってはひどく重大なものだったがしかし、時間がそれすら薄れさせるという事実。その意味。理論とドラマが渾然一体となって奏でる重層的なストーリーテリングは、さながらふたりの九十年の生涯を描く大河物語のようだった」

「へへへ……」

「これならいつ学園を追われてもストリートお喋り人間として生きていけるぞ」

「おい」

 

 しかし不思議だ、と空になった水筒を受け取りながらディーは言った。

 

「内容が悪いようには思えなかったが。門外漢の俺にも相似体を扱う意義とその際の注意点はよくわかったぞ。学生の成績が低迷する理由がわからん」

「ああ……。まあ、それは……」

「それとも実際はあれはただの基礎なのか? 気になるな。教科書を見せてくれ」

 

 あっ、とミハロはディーが手を伸ばすのに手を伸ばした。

 しかし途中で観念したので、ディーは普通に教科書を手に取った。広げた。

 

「…………?」

 怪訝な顔をした。

 

「相似体……このページだよな」

「はい」

「アーカーラの時間大定理もタマラとオリニガスも、そもそも低級相似体という概念すら書いていないんだが」

「はい」

「異様に単純な平面図形同士を見比べて、どこがどのくらいの長さか求めてみろという問題が下のところに集中してるんだが」

「うるせえ!」

 

 がっ、とミハロはその教科書をひったくった。バーン!と控えめに黒板に押し付けた。

 

「教科書の内容が知りてえなら教科書を黒板に丸写しするゲームでもしてりゃいいだろ! 教科書に全部書いてあんだから!」

「教師の存在意義の半分くらいを否定したな」

「ねえよ教師の存在意義なんて! 私だって図書館で本読んでただけで誰にも教わらねえまま教壇に立ってんだから!」

 

 ワハハハハハ、と心底愉快そうにディー・ヨドが笑った。

 その心底愉快そうな笑いぶりのあまりに性格の悪そうなのを見て、ハッとミハロは我に返った。我に返り、「うお~~~~」と誰もいなくなった地に響く悲しいサイレンのごとき唸り声をあげ、両膝を抱え込むようにうずくまった。

 

「いや……わかってるんです。本当は」

「何をだ」

「最初の頃はマジで教師とか飾りだと思って教科書読み上げてたんですけど……。途中で気付いたんです。思ったよりもガキってバカだし怠惰だし、ちゃんと誰かが責任を持って導いてやらなきゃいけないんだって」

「何らかの気付きを得てなおその傲慢さのラインに立っているのか……?」

 

 じり、と慄きの顔でディーが一歩引いた。それにも気付かないまま、「しかしですねえ!」とミハロは鬼気迫る顔で叫ぶ。

 

「やらないんですよ! 宿題を出しても!」

「そんな顔で普通の教師の悩みみたいなことを言われてもな……」

「学園に入ってきたのに勉強する気がないってどういうこと!? しろよ! 何のためにここに来てんだよ!」

「肩書のためだろ」

「できなくて当たり前だよ! やってないんだから! 遅くても速くても走らなきゃゴールに着くわけないよ! そう思い、私は気付きました」

 

 急に真顔になってミハロは立ち上がる。ディーがさらに二歩下がる。それにも気付かないまま「大切なのはですねえ」としみじみ言う。

 

「目の前の勉強を何となくこなせるようにすることじゃない。これからの人生でどんなに些細なことでも『あれやりたいな』『これやりたいな』『こんなことになって困ったな。どうにかできないかな』と思ったときに、積極的に『よし、勉強してみよう!』という解決案を自然に芽生えさせることができるかどうかなんです。能力よりも意欲が先」

「お前たった一年の教師生活ですごいところに到達したな」

「だからとにかく面白い話になるように毎日寝るまで頑張って考えてるんです! 一日の講義のために毎日四十冊くらい本を読んで! どうすれば今後何かを学びたいと思ったときに必要になる基盤をすんなり構築してあげられるか! 実社会でどんな活かし方ができるって言えば退屈にならずに聞けるか! 結局ある程度人間の話をしていた方がウケが良いし記憶に残るよなとか、色々考えているんです!」

「それでどうなった?」

 

 ぱた、とミハロは口を止めた。

 それからぐるりと見回した。扇型の階段教室。ついさっきまでの講義風景を思い出して、噛み締めるように。そして言う。

 

 

 

「講義に来てくれる学生が、ひとりだけになりました…………」

「少ないと思った」

 

 

 

 そう、今日の講義が始まってから――正確に言うなら、今月の講義が始まってからずっとのことだった。

 

 前からちらほらと講義をサボる学生たちはいた。ミハロは思う。別にそのことは良い。試験で結果さえ出せるならどう勉強するかは大した問題ではない。しかし気になるのは自分で「ヤバい……私の講義、面白くなりすぎてる!」と感じ始めてからそのサボりが顕著になり始めていること。顕著になりすぎて、とうとうマンツーマン指導と化していること。

 

 午後の講義の始まりで、ミハロはこう訊ねた。「クゼくんなら知ってるかな」あれは特定の学生に謎の知識マウントを取りに行ったわけではない。ひとりしか教える相手がいないので、手っ取り早くどこからどこまでを教えるべきなのかを確認しに行ったのだ。最後の学生。「また明日」と挨拶をしたけれど、明日また会えるかはわからない(もっともそれは全ての人について言えることであり、だからこそ人は誰かと共にいることをかけがえなく思うのだが)。

 

「どうすればいいと思いますか? ディー・ヨド……」

「俺は自分と同じくらい落ちぶれている人間を見ると嬉しくなるから、そのままでいてほしいんだが」

「そこを何とか」

「うおぉおおおっ! 窓の外に突き落とそうとしてくるな!」

「ここ一階なんで! 一階なんで!」

 

 結果として一階の窓から突き落とされ、頭は枯れた芝生の上に、足は窓枠に引っ掛けたままの姿に陥ったディー・ヨド。彼は傲岸不遜を絵に描いたり文字に書いたりしたように腕を組み、「そうだな」と呟く。

 

「しかし……聞いていればお前は、何も適当に講義をしているわけではないんだろう」

「はい」

「実際聞いていて面白かったしな」

「はい!」

「確かにあの教務主任や学園から指摘されたように学力は低迷しているわけだが」

「はい……」

「しかしそれもまた、『短期的に成績を上げる』のではなく『長期的な学びの基盤を整える』ことの方が重要だという確固とした信念に基づいているわけだろう」

「はい」

 

 そうなると、と。

 ディーは足だけでぐいっと起き上がって、再び教室に入ってくる。ミハロの前に立つ。そのとき、ミハロ・クローバはかつての光景をその目に見た。

 

 

 ああ、この。

 やたらに不敵な笑みに、あの旅でも救われたことがあった、と。

 

 

 

「開き直って、クビになるまで好きにやってみればいいんじゃないか」

「確かに!!!!!!!」

 

 

 

 こんなに簡単なことだったんだ。ミハロは思った。わかってみれば何のことはない。正しいことをしているんだ。今は評価されずともいつか評価される。死後とかに。いや今教えている学生たちとはほとんど年が離れていないから自分が死ぬ段階ではもうみんなすっかり死に絶えているかもしれないけれど……待って。『死後評価される』が学生たちの『死後』を指すなら私が生きてる間に評価のタイミングも来るってこと!? ひゃっほう! 二百歳まで生きてやる!

 

 なんだか気が楽になりました。そうディーに告げたとき、ミハロの心は本当に晴れやかだった。教科書を持つ。さっむいさっむい教室を出る。なんでお前教室が一階なのに教官室が七階なんだ嫌われてるのかと失礼な問いかけをされても心は凪いでいて、三階の踊り場から窓の外に押し出す動作は非常にスムーズ。

 

 もちろん、講義開始に間に合わせるべく幅跳びをしまくった行きの道よりはゆっくりだけれど。しかし足取りはひどく軽やかだった。全ては解決した。退職を心に決めた日の空より美しいものはこの世にない。あったら教えてほしい。知ってたらすごい。ミハロは踊り場の窓から差し込む冬の光に照らされながら、それにしても久しぶりですねえ教官室に寝袋がありますから今日は泊まっていってくださいよどうせ宿もねえんだろうふふあはは、と懐かしくも麗しい会話に花を咲かせた。

 

 

 教官室に戻ると、扉の前でもうひとり行き倒れていた。

 

 

 

 

 

「よう、クゼ。今日も真面目ちゃんは律儀に講義に顔出しかよ」

「む」

 

 クゼ・ピクセルロードは『委員長』や『四角四面』を絵に描いたり文字に書いたりしたような少年である。

 眼鏡のフレームから髪の毛先まで全てが四角いと言っても過言ではない。何なら直方体と称することもできる。できることは全てしてしまえばいいというものではないが、ここでは試しにしてみよう。クゼ・ピクセルロード。直方体の少年。

 

 彼は四角い教科書を小脇に抱えて、四角い廊下を歩いて四角い学生寮に帰ってきた。そして別に全体的に四角いからと言って丸い場所を忌み嫌うというわけでもないので(扇形の教室にしっかり顔を出せていたことからも明らかだ)、その足で私室へと向かう前に、丸っこい談話室に顔を出した。

 

 クゼ・ピクセルロードは声のした方を見る。

 そこには見慣れた顔がある。同級生。

 

「そう言う君は、今日も講義に出なかったな」

「まあね。色々やることがあるもんだからさ」

 

 クゼは同級生の席の前に座る。暖炉の前。ぱちぱちと炎弾けるいっとう暖かい場所はその同級生の定位置で、冬の間はずっとうっすらとした橙色に染まっている。

 

 もしもこの場にディー・ヨドがいれば気付き、声をかけたことだろう―――よう、さっきは世話になったな。何を隠そうこの同級生こそ、彼をこの学園の中に招き入れたその学生であるのだから。

 

 しかしこの場にディー・ヨドはおらず、だから違う話題が選ばれる。

 椅子の上で立膝を作ったその学生は、ぴぃん、と高い音を鳴らして、指先に一枚のコインを弾いた。

 

「今はお勉強より、コインに夢中でね」

「そのコインが床に落ちたが」

「へへ……。手元を見ない方がカッコイイと思ったんだけど普通にキャッチミスしたぜ……」

 

 よいしょ、と立膝を解いて床の上に落ちたコインを学生は拾う。その対面で「さて」とクゼは、早速さっきの講義で取ったノートを広げ出す。

 

 おいおい、と学生は言った。

 

「早速お勉強の時間かよ。そんなにあいつの講義が面白かったか?」

「信じがたいほど面白かった。過去最高傑作だ」

「お前そんな講義に出たくさせるようなこと言うなよ~!」

 

 ずるり、と学生が椅子から腰を滑り落した。本当に腰が地面に着きそうになって、そこから慌てたようにずりずりと膝を左右に振って元の姿勢に戻る。それでも七割程度は仰向けになりかけたような姿勢のまま、天井に向かって深い溜息をついた。

 

「出ればいいだろう。普通に」

「やだよ」

「先生が可哀想だと思わんのか。夜な夜な凄腕の講談師を梯子して、僕たちのために話芸を磨いてくれているんだぞ。伝説の魔法使いが」

「だからだよ」

 

 ぴっ、と学生はクゼを指差した。

 

「最初のころのマジで退屈で灰でも食ってる方がマシって感じの講義から一変。たったの一年だぜ?」

「すごい努力だ。僕も負けていられん」

「しかも元が超優秀だから、中等科三年のクラスを相手に高等魔学の要所まですんなり呑み込ませてくれると来た」

「最高だな。あ、この間はありがとう。高等科の問題集を仕入れてもらって」

「いいよ。解けんの? あれ」

「問題形式に対応するには多少の反復が必要だが、理論については全く問題ないな。むしろこんなに簡単で良いのかと不安になる」

「と、来るわけだ」

 

 だからよ、と学生は言う。賢しげな顔で。

 

「理論上あいつの講義はどんどん面白くなり、しかも聞いているだけで万物を理解できるようになる!」

「なるか?」

「だから理論上、学園に留まっていればいるほど効率が良い!」

「そうか?」

「つまり理論上いま必要なのは馬鹿真面目に講義に出て目先の能力を高めることじゃねえ……留年しまくるために必要な資金作りだ! 目指せ百留!」

「そうかなあ……」

 

 クゼは首を傾げたが、強くは言わなかった。ガッツポーズをしてガッツを表明している学生の後ろを、また別の学生が通る。肩を叩かれてガッツポーズの学生が振り返る。「おー。どした」「なんかヒマワリの種とか全然食わねーんだけど。どうすんべ」「マジ? んじゃ生物科の資料適当に浚ってくるわ」「わり。頼むわ」そしてクゼの方を見てさらに通りがかった学生が訊く。今日どうだった? 泣けた。そんな講義に出たくさせるようなこと言うなよ~! 去っていく。

 

 ガッツポーズが下ろされる。

 大袈裟に肩を竦める。

 

「ま、こういう調子なわけ。お前もこっち来れば? クラス全員で百留して、一緒に魔法を極めようぜ」

「遠慮しておく」

「なんでだよ」

 

 ぴた、とクゼはペンを止めた。

 前から思っていたんだが、と真っ直ぐに学生を見つめた。

 

「その作戦、いつまでも先生が学園にいてくれる前提じゃないか」

「……? どゆ意味?」

「他にやることを見つけて、先生が学園を去ってしまう可能性もあるだろう。今のうちに聞いておかないと、一生聞けなくなってしまうかもしれないぞ」

 

 口がぽっかり開いた。

 それから三拍遅れて、薪のように乾いた笑いが談話室に響いた。

 

「はは! んなわけねーじゃん! あんだけ優秀な魔法使いをどうやったら学園が手放すんだよ! どっちかがよっぽどの馬鹿か、ものすげえ問題を起こしまくるかしねえとありえねえって!」

「それは確かにそうだが――」

「ていうか六留目くらいでこっちが追い出される確率の方が高えって……」

「そこはちゃんと認識してるんだな」

 

 というか、と。

 少しばかりそこで、本気でたしなめるような口調になってクゼは、

 

「そんなに気に入っているなら、支障のない範囲でいいからもう少し講義に顔を出せ。最近の先生、ずっと寂しそうにしているぞ」

「それはどうでもいい」

「なぜ」

「だってあいつ、自分以外の人間のことうっすら馬鹿だと思って見下してそうじゃん」

 

 すごい偏見を言うな、とクゼはやや仰け反った。心当たりが出てしまうと嫌なのか、あまり記憶を探った様子はないままに「そんなことはないと思うが」とも言った。

 

 あんの、と言って学生は立ち上がった。うん、とひとつ大きく背伸びをして、んはっ、と戻して。

 

「んじゃちょっと作業してくるわ。今日も深夜までやるつもりなん?」

「いや、二十二時には切り上げる。『休むのも勉強のひとつ』と教えてもらってな。実践中だ」

「ふーん……。今日たぶん夜食でピザ取るからさ。腹減ってたらこっちにも顔出せよ」

「何時だ?」

「んー……んじゃ二十時。どう?」

「顔を出すよ」

「ピザ食ってから二時間でベッド行きか?」

「……今日だけは、四時間かな」

 

 はは、と学生は笑う。

 それから学生ローブの裾を翻すように、勢いよくポケットに手を突っ込んで、

 

 

 

「わかるよ。魔法を勉強すんのって楽しいもんな。このあいだまで、全然そんなこと知んなかったけど」

 

 

 



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3話 そんな人生終わりだよ

 

 

「お茶ってすごいねえ。飲むと生き返ったような気持ちになるよ」

「ほんとだ。土気色だった顔がみるみるうちに薔薇色に」

「人間ってそんな仕組みだったか?」

 

 共和国内部。学園。

 さらにその内部にある七階、ミハロ・クローバの教官室。

 

 普段であればそこにいるのはミハロたったひとり。しかし今は、もうふたりを数えることができる。

 

 ひとりはディー・ヨド。

 世界を救い、遊園地を爆発させ、この場所に辿り着いた剣士。

 

 もうひとりは。

 

「それにしても久しぶりですね、オルキス・ハートウォーツ! 私は一年ぶりですけど、ディー・ヨドは?」

「俺もだ。結局あの後、まとまって集まることもなかったからな」

「そうだねえ。もう一年……まだ一年かあ」

 

 オルキス・ハートウォーツ。

 世界を救った四人のうちのひとり――騎士をそこに数えることができる。

 

「今日は意外な再会ばかりです。パーッとパーティでもしてみましょうか!」

「悪くないな。こうなると、レトリシア・スディもこの場に欲しくなるが」

「あ~、懐かしいねえ。レトリシア。今頃どうしてるんだろうねえ」

 

 オルキス・ハートウォーツは『おっとり』や『優男』を絵に描いたり文字に書いたりしたような印象の、二十代前半の男である。強いてそれ以外に特徴を挙げてみるとするなら、よく前髪の奥、額に絆創膏を貼っている。身長が高いために鴨居に頭をぶつけるのだ。

 

 ミハロ・クローバとディー・ヨドは、さっむいさっむい一階講義室からたっかいたっかい七階教官室に戻ってくると、扉の前で行き倒れている何者かを発見した。一旦見なかったことにするという選択肢が(少なくとも)ミハロの頭の中には生まれたが、引いて開ける扉なので困った。生きているのだろうか。後頭部を覗き込んだ。誰なのか思い出した。

 

 というわけでふたりで肩を貸して教官室に担ぎ込み、茶を与えた。

 すると地面にぼとりと落ちた椿が急に大ジャンプをして茎にもう一回突き刺さったみたいなダイナミックさでオルキス・ハートウォーツは蘇り、今のような状況になっている。

 

 四人掛けのソファがあって幸いだった。三人はそれぞれゆったりと座り、ちょっとした再会の挨拶に花を咲かせた。オルキスのカップはまた空になり、ミハロが立ち上がろうとすると殊勝にも「自分で淹れるよ」と自己申告し、自分で淹れ、再びカップを両手で握る。

 

 そして言った。

 

「いやあ、本当に生き返るなあ。素寒貧になってから何も口にしてなかったから」

「今の何気ない一言でだいたいわかっちゃったんですけど、どうして今日はここに来たんですか?」

「えっ、今のだけで? すごいなあ。相変わらずミハロは頭が良いね」

「誰でもわかるわ」

 

 そうなんだ、とオルキスは微笑んで、

 

「語れば長い話になるんだけど……」

「オルキス・ハートウォーツ。ここは結論から行こう。論文のように」

「遊園地が爆発しちゃって」

「なんで遊園地が爆発して一文無しになってるやつがふたりもいるんだよ!」

「よし、いいぞ! 順を追って話せ!」

 

 そうだなあ、とマイペースに、緩やかな口調でオルキスは語り出した。

 

「まず、あの魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカを倒したじゃないか。そうしたら各国から……」

「いやそのあたりはいい。俺たちは誰もそうだからな。飛ばせ。スキップだ」

「ちょっとディー・ヨド。そんな人を人とも思わない言い草を……」

「結局、対立していたホスト店と売上で勝負を決めることになっちゃってね」

「何が起こったんだよ」

「オルキス! 戻せ! もっと前からだ!」

「そうしたら僕、寝返りの勢いで壁をぶっ壊しちゃったらしくてさ」

「馬鹿野郎、戻しすぎだ!」

「お前も人のこと言えないしその幼少期のエピソードもなんなんだよ」

 

 放っておいたらディーの堪え性のなさのためにオルキスの生涯に渡る思い出を聞かされそうな気がしたので、ミハロは指定することにした。とりあえず色々褒美とかを取らされたところまでは共通していると思うので、その後どこに就職したとか、最初に何の事業を始めたとか、そういう話から始めてください、と。任せてよ、とオルキスは言った。ミハロはオルキスのことをかなり善良な人間だと思っているが、その言葉に安堵を覚えるにはすでに交流を重ねすぎていた。

 

「って言っても、最初は何の変哲もないんだ。僕、遍歴騎士だったからさ。ちゃんと功績を挙げたからって故郷の王国に召し抱えられることになったんだよ」

「ほう。役職は?」

「騎士団の副団長」

「ほう……フフフ」

「その『落ちる前の地位は高ければ高いほど面白い』みたいな笑い方、性格悪く見えるからやめた方がいいですよ」

「見えるだけではなく、実際にそうだ」

「知ってて気を遣ってやったんだよわかれよ」

 

 だけどね、と他人事のようなのんびりぶりでオルキスは続ける。

 

「あんまり馴染めなくて」

「どんな風にだ?」

「なんかこう……ああいうところって、ビシバシしてるじゃないか」

「そうだな」「そうなんですか?」

「そうすると自分で全部やりたくなっちゃうんだよね。可哀想で」

「ああ……」

「『自分がやった方が効率が良い』で部下を成長させられない上司の典型だな」

 

 そうなんだよ、と彼は指摘を素直に受け入れて、

 

「それで通常業務の他に経理も手伝ってたら、横領してるのを見つけちゃって」

「おっと?」「風向きが変わってきたな」

「問い詰めたら決闘になっちゃって」

「おっとっと?」「風が強くなってきたな」

「勝って罪は認めさせて、団長に推挙もしてもらったんだけど」

「おい! 話が変わってきたぞ!」

「落ち着けよ」

「『一生こういうことをやるのかな』って思ったら虚しくなって辞めちゃった」

「よし。収まるところに収まったな」

「肩組みに行くなよ雲泥だよ」

 

 でもそれ辞めない方が良かったんじゃないですか、とミハロは指摘した。オルキスみたいに不正を摘発できる人が政治の中枢にいた方が国のためになると思うんですけど、と。すると彼は答えた。綺麗に掃除してきたから大丈夫だよ。深く訊くのが怖くなり、そこでやめておくことにした。

 

「それで次は何の仕事に就こうかなって考えてさ。やっぱり、人に喜んでもらえる仕事がいいよなあと思って」

「ああ、それで遊園地に……ん?」

「いや違うな、さっき確かオルキスは――」

「ホストになることにしたんだ」

「ホスト編あるんだ! 大長編だな!」

「いいな。面白くなってきたぞ」

 

 そんなに面白くはないと思うよ、と困ったようにオルキスは笑う。というか、オルキスは困ると笑う。あまり騎士っぽくない言動なので色々就職中は苦労したのではないかとミハロは勝手に想像している。

 

「とりあえず入店してみてナンバーワンにはなったんだけど」

「こいつ全ての能力が高いな」

「荒野から出て大暴れじゃないですか」

「その土地の業界で、お客さんに対する悪質な詐欺行為が横行しているのを見つけちゃって」

「こいつ悪事を見つけるの上手いな」

「やっぱ騎士が天職だったと思うんですけど」

「問い詰めたら結局、対立していたホスト店と売上で勝負を決めることになっちゃってね」

「おっ、戻ってきたぞ」

「戻ってきたのはいいんですけどどういう世界観で動いてるんですか?」

「勝って罪は認めさせて、伝説になったんだけど」

「勝ってるし」

「悪質な詐欺行為を働いている奴らを相手に真正面から売上勝負で勝ったのか?」

「『こんなにお酒ばっかり飲んでたらお客さんの健康に悪いんじゃないかな』と思って『ホストクラブを喫茶店にしよう』って提案したら追い出されちゃった」

「優しさが仇となる」

「いや待て。法律で許された範囲の自己破壊行為を止めるのが優しさかそうでないかについては議論の余地があるぞ」

 

 じゃあ議論しますか、とミハロが訊ねると、後でな、とディーは答えた。本当に後で激論を交わす羽目になるのだろうなとミハロは思う。ディー・ヨドはそういう男だ。

 

「それで次は何の仕事に就こうかなって考えてさ。やっぱり、人に喜んでもらえる仕事がいいよなあと思って」

「リベンジか」

「そこ別にブレなかったってことはちゃんと接客楽しめてたんでしょうね」

「遊園地のマスコットの着ぐるみアクターになってみることにしたんだ」

「馬鹿野郎!!!!! マスコットの中に人なんか入ってるわけがないだろ!!!」

「いきなり元遊園地経営者としてのこだわりを表出させるなよ」

 

 ああごめんごめん、とオルキスはすぐさま謝り、うむ、とディーはそれを受け入れた。しかし傍から見ていたミハロの目にそれは納得しかねる流れに見えたので、バランスを取るために彼女はオルキスに「よっ、楽しませ王子!」とエールを送り、ディーには「ばーか」と舌を出した。オルキスは何もわかってなさそうな顔で「それほどでもないよ」と言い、ディーは二秒の間を開けてから「うむ」と頷いた。このようにして世界の調和は保たれている。

 

「でもその遊園地で人が消えるって噂が流れててね」

「遊園地にも影が差す」

「この世に安寧の地はないな」

「勝ったんだけど」

「何に?」

「悪しき闇の勢力とかだろ」

「『悪しき』か『闇』のどっちか片方に絞って良くないですか?」

「爆発したんだ」

「何が?」

「遊園地に仕掛けられた時限爆弾だろう。客の避難は何とかなったが、いかにオルキス・ハートウォーツといえど、爆弾を腹の下に抱え込んだくらいでは威力を殺し切ることができなかったのだろうな」

「そうなんだよ」

「そうなのかよ」

 

 なんで遊園地が爆発しちゃうんだろう不思議だね、とオルキスは言った。ああ全く不思議だ、とディーは言った。本当に不思議なのは、とミハロは思った。遊園地が爆発したことで素寒貧になった人間がふたりも自分を訪ねてきていることだった。

 

「で、色々あって全部お給料をもらう前に辞めちゃったからさ」

「働いた分は普通にもらえますよ、オルキス・ハートウォーツ……」

「全部普通じゃないところだったから。それに貯金も、募金箱とか見かけるたびにお金を入れてたらいつの間にかなくなっちゃって」

「優しさが牙を剥く」

「それで、そういえばミハロが『何かあったら自分を頼って!』って言ってくれてたなって思い出して」

「過去の自分に追い掛けられている気分はどうだ? ミハロ・クローバ」

「あんまり言葉って喋るもんじゃないなという教訓を得つつあります」

 

 でも、と。

 そこでようやく話は終わったとばかりにオルキスは座り直す。すでに冬の空気に冷め始めたカップを手に取って、改めてディーの方を見る。

 

「どうして君もここにいるんだい。ディー・ヨド」

「遊園地が爆発してな」

「へえ、僕と同じじゃないか! やっぱり僕たち、運命か何かで繋がっているのかもねえ」

「ふ。かもしれんな」

「こんなに嫌な運命もなかなかないだろ」

 

 そして運命の結果として自分のところにふたりが揃っているのも嫌だった。運命の輪に囲まれてぎゅうぎゅうに締め付けられているような気がする。やめてほしい。

 

「それで、その。申し訳ないんだけど何か仕事はないかな。ミハロ」

「……え?」

 

 そういうことを考えていたから、ミハロは問いかけにすぐには反応できなかった。

 

「ごめん。図々しかったよね」

「あ、いやいや! 別に全然! あ、仕事? てっきり私……」

「てっきり?」

「ディー・ヨドみたいにタカりに来たものかと」

「ディー・ヨド。君、そんなことをしに来てたの? ダメだよ」

「いいや。メインは落ちぶれた同類の姿を見て人生に喜びを見出すことであって、タカるのはあくまで第二以降の目的だ。金に困っていそうだったらもちろんタカらん。俺には良識がある」

「そう。ならいいか」

「いや良くはないですけど」

「ちなみに現時点でこいつは金に困ってなさそうなんだが、将来的に困ることが確定しているので、今回はタカらんことにした」

「確定していてたまるかよ」

「そうなの? ミハロ。共和国で学園で教授なのに……?」

 

 心配そうな顔でオルキスがミハロを見た。こんなに純粋な心配を向けられたのは本当に久しぶりで、ミハロは心を打たれた。だから話すことにした。

 

 かくかくしかじか、と。

 

「というわけで、学園の教授はほぼ間違いなくクビになっちゃうと思うんですが、悔いはありません! そして堅実に貯金もしているので将来的にお金に困る予定もありません。馬鹿が!」

 

 ディーに向かって吐き捨てて、

 

「さ、辛気臭い話はここまで! ディー・ヨドの言うことを認めるのも癪ですが、確かに私は上手く社会に馴染めませんでした! ここは社会に馴染めなかった者同士で、久しぶりに旧交を温めましょうか!」

 

 鍋しましょう鍋、とミハロは言った。

 オルキスは何も答えなかった。「あれ?」とミハロは思った。

 

 あ、鍋じゃなくてもっといい感じの……チーズフォンデュとかにしましょうか、とミハロは言った。

 オルキスは何も答えなかった。「あれ……?」とミハロは思った。

 

 見つめ合って、五秒。

 オルキスが口を開く。

 

 

 

「講義に来なくなった学生を放置するのって、ちょっと無責任じゃない……?」

 正論だった。

 

 

 

 

 

 教務主任ナノ・カッツェは『几帳面』や『規則主義』を絵に描いたような、あるいは文字で書いたような三十代中盤の女性であり、実際にその印象通り何事もテキパキこなす性質である。

 

 常に背筋は伸び、教官としての本分である講義準備など、学期の始まりの時点ですでに一から十まで終えている。朝七時半には出勤してコーヒー片手に最新論文に目を通し、夕方五時の講義を終えればそれから三十分の質疑応答の時間を済ませてすぐさま自転車で帰宅する。学園の敷地内に存在する職員寮に住所を置かないのは運動不足を解消し、さらに生活にメリハリをつけるためであるが、しかし帰宅してからの彼女の動きも常人の目から見れば十分テキパキしている。週に六日は自炊して、残りの一日はカフェテラスで専門書を読みながら少食に済ます。毎日決まった時間に眠り、決まった時間に起きる。ひょっとすると一年間の彼女の生活を再現してみれば、ぴったり全て同じ動作をしている日が神経衰弱の如く2ペアは見つかるのではないかという驚くべきテキパキぶりである。

 

 しかし今日、夕方五時を過ぎてもナノ・カッツェは学園の中にいた。

 学園の代表として、都市行政主催の横断連絡会議に出ていたからである。

 

 会議開始二十分前にナノ・カッツェは自転車で学園を出た。そして連絡会議で八面六臂の活躍を残したのち、再び自転車で学園に帰還した。門の前で彼女は細い腕時計に目をやる。昼、二時四十五分。普段より二時間後ろ倒しで講義を行うことはすでに学生たちに通知してある。全寮制で運営される学園の管理には色々と気を回すところも多いが、こうした時間の融通が利きやすいのは純粋に助かる部分でもあった。手帳を開く。『時間外 +2.0時間』と記録する。この時間の累計分、春期休講中にまとまった休みを取り、どこかに旅行に出るつもりだ。

 

 教室に着く。

 すでにほとんどが揃って席を埋めているのを見渡して、教壇に上る。

 

「はい、それでは十分後から講義を始めます。みなさん、今日はこちらのスケジュール調整に協力してもらい、ありがとうございました」

 

 きっかり十分後、ナノ・カッツェは前回の復習から講義を始めた。

 

 まずは概要と定義の確認。基本の定理は証明方法までしっかりやる。重要なことは何度も言う。板書を取らせることで、集中力を欠いた生徒たちにも多少なり講義の内容を頭に残させる。時にはいくつかの問題を生徒に投げ掛けて、緊張感を保つ。黒板に記した問題を解かせるときは多少の間延びを覚悟した十分な時間を取って、自主的な理解と整理を促す。

 

 一時間程度に一回は、休憩を入れる。

 それはもちろん体力的、知力的な消耗をリセットさせるためでもある。学生たちは席を立ち、思い思いに軽い体操をする。しかし実を言うと、これは単に学生たちのためだけではなく彼女自身のためのものでもある。

 

「…………ふう」

 きゅ、と水筒の蓋を閉めながら、ナノ・カッツェは椅子の上で溜息を吐いた。

 

 教員という仕事は、ある程度体力仕事でもある。一日に何時間も喋る上に、おおむね立ちっぱなしで過ごすのだ。喉は乾くし足はむくむ。昔から健康に気を遣う性質ではあったが、時折、「あと何年この仕事ができるだろう」と頭を過ることもある。少しずつ講義数を減らし、現場から遠ざかっていくこともあるのだろうか。

 

 時計を見る。

 十七時五十六分。最後の休憩。窓の外はすでに冬の夜。学生たちの顔色にも疲れが滲んでいる。

 

 目を瞑る。

 最後の一時間だ。学生たちより何より、まずは自分がしっかりしなくては。

 

 目を開ける。椅子から立ち上がる。気が早いけれど、自分も肩をほぐす運動でもしようとそう思って、ナノ・カッツェは。

 

 

「い、いけてる……?」

「いけてるな」

「ほら、言ったでしょ。ローブを被れば怪しくないって」

 

「……………………」

 

 

 教室の最後列にコソコソ入り込んできた、謎の不審者三人衆の存在に気が付いた。

 

 

 

 

 

「ミハロはそれでもいいかもしれないけど、講義に来なくなった子たちのことはもっと気にしてあげるべきだと思うな。だってそれって、ミハロが担当してたから講義に出なくなってるってことなんでしょ?」

 

 十七時四十二分。ミハロ・クローバは正論で詰められており、正論のない国に行きたいと思っていた。

 

「いや、あの……。まあ、多分、そう。そうなんですけど……」

「けど?」

「そう責めてやるな。オルキス・ハートウォーツ。学生が講義に出てこないのは正常なことだ。むしろ出ている方が異常だ。どうかしてる」

「おい講義に出てくれてる子のこと悪く言うなよ!」

「庇って損した」

 

 十七時四十三分。ミハロ・クローバは、やはり正論の存在する国の方が良いと思い直した。傲岸不遜を絵に描いたり文字にしたようなディー・ヨドはこのようによく大切なことを教えてくれる。本人は別にその大切なことに一切の興味がなさそうだが。

 

「なんかオルキスに言われたら急にそんな気もしてきた……。私ってもしかして無責任……?」

「きつい言い方になってたらごめんね。でも、事実だから」

「なんで今追い打ちかけた?」

「俺も追い打ちをかけてみるか。ミハロ・クローバ。お前は社会人に求められる必要最低限のあらゆるものを欠いている」

「それは別に色々諦めがついて気楽かも」

「えぇ……。ミハロ、大丈夫……?」

「二十歳にして終わり方が完成してきてるな」

 

 えーでもさあ、とミハロは口ごたえを始めた。口ごたえ。昔の彼女がとても好きだった言葉だ。今はそうでもない。する側からされる側に少しずつスライドし始めているのを感じるから。

 

「そりゃ私の講義がつまらないとか下手だとかそういうのがあるなら反省するし努力もするけどさ」

「でも自分でも『短期的な成績は上がりづらいかも』とは認識してるんだよね」

「はい……」

「それに今の誰も講義に出てきてない状況は、ミハロが掲げる『能力よりも意欲が先』って考え方にもそぐわない状況なんじゃないかな」

「はい……」

「大丈夫か。俺が代わりに反論しておこうか」

「試しに一回やってみて……」

「『いいんじゃないか、所詮はその学生の人生なんだし』」

「ダメだ……! 私は右も左もわからないバカなガキどもに対してそこまで冷酷な態度は取れない……!」

「どっちもどっちだからな」

 

 ちょっと待ってください、とミハロ・クローバは言った。十五歳のときの自分なんて思い返してみれば死ぬほどバカだったじゃないですか。いやそりゃあその時点で私は大抵の人間より卓越した頭脳を誇っていたわけなんですけど二十歳の今の私から見たらやっぱりバカガキだし目の前にいたらグーで殴ると思うんです。『若い』っていうのは絶対的にはともかく相対的には『バカ』を意味するって言い切っちゃっていいと思うんですよ。毎日毎日昨日の自分より賢くなろうっていう向上心を持って日々を過ごしてきた限り。たとえどんな人間でも、『若い』というたった一点のみで自分の身の丈を超えた愚かな選択をしてしまう可能性はあって、そうならないように周りの人間が助けるべきだと思うんです。あと普通に何かの事情で来られないだけなのかもしれないし。

 

 そうか、とディー・ヨドは言った。ちょっと優しい顔をしていた。

 

「志だけは立派だな」

「うるせえな!!! いいだろ志まで貧相になるよりは!!!!」

「それで、僕から提案なんだけどさ」

 

 ミハロがディーを七階の外に押しやっているのとは全く無関係の穏やかな口調でオルキス・ハートウォーツは手を打った。十七時四十九分。にっこりと穏やかな微笑みを浮かべて。こうして役に立てるなら今日自分がここに来た甲斐もあったという調子の、聖なる声色で。

 

 

「一度、他の教官の授業を見にいってみるっていうのはどうかな。ミハロの講義がいくら面白くても、学生たちの求めるものとは違っちゃってるのかもしれないし。何か参考になるものが見つかるかも」

 

 

 

 

 

「ミハロ・クローバ教授。何をしているんですか、あなたは」

「はい……すみません……」

 

 十七時五十七分。ミハロ・クローバは廊下に出されて問い詰められていた。

 

 途中までは順調だった、とミハロは思っている。オルキスに訊ねられた。誰か参考になりそうな人はいないの。じゃあ、とミハロは思い浮かべた。ナノ・カッツェ教務主任。接点はほとんどないが、教務主任という肩書はなんだか強そうなので講義も上手そうだと思った。そして連鎖的に思い出した。これから出張に行く、と言っていたこと。もしかするとそのために時間を後ろ倒しにして、今もまだ講義をしているかもしれない。

 

 善は急げ、ということになった。とりあえず自分だけで潜入してみようかと思ったけれど、つい数時間前に「成績低迷の言い訳を用意しておけ」と言い渡された身で堂々途中入室も気が引ける。するとディー・ヨドが言った。そのでかいローブのフードを被って変装すればいいんじゃないか。さらにオルキス・ハートウォーツが言った。変装がアリなら僕たちも一緒に行ってみようよ、違う見方ができるかも。

 

 そして順調だと思っていたのが全て錯覚だったということが、現在は発覚している。

 

 教壇から降りてきたナノ・カッツェに「ちょっとこっちに」と呼び出されて出てきた六階のさっむいさっむい廊下。そこでミハロは神妙に立っていた。

 

「そちらのふたりは……そちらは昼にもお会いしたと思いますが、学外の方ですよね」

「はい……そうです」

「入場パスを首から提げていないようですが、ちゃんと届けは出していますか? クローバ教授のご友人ということなら怪しい方ではないと思いますが、手続きはしっかりしてください。結界の仕様上、確かに学内に部外者の方が入るのは黙認されている節がありますが、いざというとき学生たちの安全管理の問題に発展する可能性もあります」

「はい…………」

 

 怪しいか怪しくないかで言うと怪しいような気もしたが、一旦ミハロは口を噤んだ。横のふたりも口を噤んでいた。呼び出されて後をついて歩く間に「余計なことは何も喋るなよ」と釘を刺しまくり、磔にしておいたのだ。

 

 ふう、とナノ・カッツェは溜息を吐いた。腕時計を見た。十七時五十八分。

 

「それで?」

「え」

「何か用があって講義室まで来たのではありませんか。昼に伝えたこともありますし。講義の再開は十八時五分を予定していますから、あと七分の余裕があります。もし急ぐようであれば、今ここで聞いてしまいますが」

 

「あ、」

 の形にミハロは口を開いた。こういう流れになると思っていなかったから、咄嗟に質問が出てこなかったのだ。

 

 ナノ・カッツェ教務主任。一年くらい前に、一度だけ挨拶をした。教務主任というすごそうな肩書を持ちながら、実を言うとミハロは彼女と仕事上の接点をほとんど持っていない。

 

 というのも、ミハロは世界を救った鳴り物入りの天才魔法使いという扱いでこの学園の教授職に配置され、ゆえに上にも横にもほとんど学内での繋がりを持っていないのだ。昨年の学期末に、ちらっと前任の講義を聴講した程度。元より学園全体が各教官ごと講義の独自性を担保しているのもあって、だからほとんどミハロは、目の前の彼女のことを知らないと言い切ってしまって構わない。

 

「えと、」

「……?」

 

 意外に思って、言葉が出てこない。

 単に「ちょっと厳しそうな人だな」程度の認識しか持っていなかった相手だから、どこからどこまでを話せばいいのか、話していいのか、わからない。

 

「もし言いにくいことでしたら、後で時間を調整――」

「能力と、意欲」

 

 咄嗟に出たのは、結局。

 

「どちらを教えるべきだと、思いますか」

 自分でも少しだけ、確信が持てていなかったからなのかもしれない。

 

 質問の脈絡が読み取れなかったのだろう。ナノ・カッツェは面食らった顔をした。

 

 けれどすぐに彼女は、いつもの冷静で真剣な顔つきを取り戻す。そうですね、とまるで練り上げた原稿を読み上げるような真摯さで。

 

 彼女は、口を開く。

 

 

 

「難しい問題ですが……最近、思うようになりました。学生の意欲まで自分の思い通りにしようというのは、自分の支配欲や、自惚れの現れなのではないかと」

 

 

 

 そこから先の会話を、あまりミハロは覚えていない。

 

 再び講義室に戻っていったわけだから、おそらく「聴講させてもらってもいいですか」くらいのことは言ったのだと思う。十九時ぴったりに講義は終わったから、おそらく廊下にナノ・カッツェを引き留め続けてしまったということもないのだと思う。けれどたったそれだけのことが、朧げになるくらいには。

 

 

 意識がぼんやりしてしまうくらいには、衝撃を受けて。

 ぼんやりしたままでも内容を覚えていられるくらいには、ナノ・カッツェの講義は丁寧で、わかりやすかった。

 

 



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4話 こんな人生終わりだよ

 

 

「支配欲の現れ……。私の『自分から楽しんで勉強できるようになってほしい』って気持ちも、押し付けだったのかな……」

「俺もお前の傲慢さについては散々指摘してきたと思うが」

「ごめんね。格下からの助言ってどうも頭に入ってこなくて……」

「たまには俺がお前を窓から突き落とすのもアリだと思わないか?」

 

 うおおおおおおおと七階教官室の窓際で激しい攻防が広げられる十九時十五分。体格や膂力からすればどう考えてもミハロに勝ち目はないように思われたが、彼女は躊躇なく変身の札を切った。日頃からオーバーサイズのローブを着ているのはそのためで、それが功を奏してごく軽快な動きでディーを窓の外に押し出した。かつてはこの変身魔法を用いてパーティの緊急前衛を務めたものである。

 

 しかしそれを懐かしむだけの余裕は、今の彼女にはなかった。

 

「支配欲の現れかあ……」

「ディー・ヨド! 生きてるかい!?」

「死んだ」

「うわあ! じゃあ今の君は幽霊ってこと!?」

「そうだ。俺は幽霊、復讐の化身……」

 

 窓から這い上ってきたディー・ヨドと、それに手を貸すオルキス・ハートウォーツがいる。「触れる!」と叫んでいる。触れるに決まっている。「いいなあ、気楽な人たちは」とミハロはアンニュイな溜息を吐いた。

 

「支配欲の現れ、かあ……」

「おい、あいつさっきから慰めてほしいオーラがすごいぞ。オルキス・ハートウォーツ。優しい言葉をかけてやれ」

「えっ。でも、ちょっと事実っぽくて僕からは何とも……」

「支配欲の現れかあ!!!」

「早く言ってやれ! 爆発する!!」

「えぇっ!? もうこうして何かを言わせようとしているのが支配欲の現れって感じしない!?」

 

 その言葉に傷付き、ミハロは一旦オルキスのことも窓際に追い詰めようかと思った。しかしまっとうな人間に理不尽に力を向けてしまったら終わりだ……その程度のことを判断するだけの理性はまだ残っており、オルキスの命は救われた。あともしかしたらオルキスが相手だと変身しても力負けするかもしれないという打算が働いた。ミハロは魔法に関する万能家であるに留まらず、戦闘知能も非常に高い。

 

「でも実際、そこまで悪いこと?」

 身体を動かしてスッキリしたのか、少しばかり気を取り直してミハロは言った。

 

「『子どもの学ぶ意欲を育てます!』とかどこでも言ってることじゃん。何がいけないの?」

「どこでも言ってるからと言って正しいこととは限らんだろ」

「でも、僕も流石にそのくらいのことは言ってもいいと思うなあ。ディー。君ならあの先生が言った理由がわかるのかな」

 

 何となくはな、とディーは言った。

 だからミハロもオルキスも、じっと彼を見た。

 

「たとえばそうだな。ミハロ・クローバ。お前がある日、魚釣りの名人が営む超巨大魚釣り学園に入学したとする」

「別に入学したくないけど……」

「だろうな。お前は魚釣りに興味がない。しかし入学することで家族が泣くほど喜んだり安心したり、卒業することで今後の収入が倍近くに膨れ上がったりすることが予想されている。これならどうだ?」

「……まあ、ギリ入るかも」

「よし。するとそこに大体二十五歳くらいの教官が現れた。オルキス・ハートウォーツ。その役をやってみてくれ」

 

 突然話を振られたオルキスは「えっ」と困惑しながらも「うん」と素直に頷いた。自分の髪を持って口の上のあたりに持ってくると、「儂は魚釣り名人じゃ」と言った。「いや二十五歳でいい。大体ありのままだ」とディーからの演技指導が入り、「こんにちは。僕は魚釣り名人です」と言い直した。爽やかだった。

 

「ミハロ・クローバ。お前は全く以て魚釣りに興味がない。入学して、卒業さえできればいい」

「うん」

「しかし魚釣り名人はそうは思っていない。お前が魚釣りをしたくてしたくてたまらないと思っている」

「うわ」

「さあ、今日も魚を釣ってみよう!」

「しかしお前は魚釣りに興味がない」

「うん」

「すると教官は裏でこう思い始めた。『魚釣り学園に入学したのに魚釣りをする気がないなんて……』」

「何のためにここに来てるんだろう、この子」

「全然魚を釣るのが上手くならないお前を見てさらにこう思う。『できなくて当たり前だ』」

「やってないんだもん」

「あまつさえこんなことを裏で普通に言葉にし始める。『生徒たちはみな幼く、ものを考える力もなく、放っておくとすぐに努力を怠るから』」

「しっかり僕が責任を持って導かないと……!」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 

 一旦ミハロはストップをかけることにした。内容もさることながら、もっと気になることがあったからだ。

 

「なんでさっきからふたりの連携はそんなにスムーズなんですか。打合せして台本作った? テレパシー?」

「なんだ、まだ気付いてないのか。得てして自分の知能に自信がある人間ほど視野狭窄に陥りがちなものだな」

「…………」

「わかりやすいやつをやってやろう。最終的に魚釣り名人はこういう結論に辿り着いた。『大切なのは目の前にいる魚を釣れるかどうかではなく、今後の人生で困難に出会ったとき、何かの技能を習得したいと自主的に思い立ち、それを楽しめるかだ』つまり――」

「能力よりも、意欲が先!」

「うわあああああああああああっっっ!!!!!!!!」

 

 あまりの衝撃にミハロは吹っ飛んで背中から壁に叩き付けられた。「大丈夫!?」とオルキスが駆け寄ってくる。大丈夫なわけはなく、ミハロはそのまま息絶えた。さようなら。

 

「ものを教えるというのは特権意識を生むものだ。あくまで予想だが、あの教務主任が答えてくれたのは『ただ魔法を教えるというだけの立場なのに』『魔法技術だけではなく本人の内心や考え方まで変えようとするのは』『自身の立場に自惚れているのではないか』という考えだったんじゃないか。実際、お前の目標は『学生たちがプライベートの時間も自主的に魔法に没頭するようになること』だと思うが、それは『他人が人生の大半の時間を何に注ぎ込むかに影響を与えたい』ということに似ている。支配欲と読み替えることもある程度可能だろう」

「ディー。ミハロが息してない……」

「安心しろ。俺のありがたい説教は天国・地国・人国の大三国を鐘の音のごとく遍く響き渡る。こいつも霊になってなお俺の声を聞くことができて幸福だろう」

「勝手なこと言ってんじゃねえぞ」

 

 そして怒りのあまりミハロは蘇生した。こんにちは。残念ながらディーの言うことは事実であり、ありがたい説教は死んでいてもなお脳に届いており、ちゃんと処理されていた。

 

「本当は……途中でわかってたんです。魚釣り名人が私だって」

「二重人格で夜な夜な魚を釣って歩いていた連続魚釣鬼の自白みたいだな」

「わけわかんねえこと言ってんじゃねえぞ。……でも。ちょっとだけ目を逸らしてみたかったんです。自分が本当はすごく傲慢で、自惚れ屋で、支配欲をこじらせてるって事実から……」

「そもそもたかだか二十年生きたくらいで人生の先達面をしながら学生にグチグチ言ってる時点で気付くべきだったな。傍から見ていて滑稽だったぞ。社会でふらふらふらふらフラついてただけのやつが社会の何を知った気になっていたんだ? それからお前は魔法を通して学ぶことの大切さを知り大変有意義な生き方ができるようになったらしいが、今のこの有様はなんだ? 説明してもらえるか?」

「追い打ちを畳みかけてくるなよ反省してんだからさあ!」

 

 たくもう、とミハロは立ち上がる。背中をはたいて埃を払う。もう痛くない。振り向いて壁をきっと睨む。お前より私の方が強い。舐めるなよ。

 

「魚釣り名人を通して客観的に自分を見つめ直してよくわかりました。私は大して年も変わらない相手に上から目線で『自分は大切なことを知っているから愚かなお前を啓蒙してやる』と鼻持ちならない態度でウザ絡みする、魔法の大天才です」

「よかった。心は折れてないみたいだよ」

「正直ここまで来ると尊敬の念も湧いてくるな」

 

 あと、と。

 さっき見てきたナノ・カッツェの講義を思い出しながら、

 

「中等科レベルの内容だけを教えて点を取らせることだけを目的として捉えたら、教務主任に普通に講義の質で負けてるかな~……」

「そうなの? ディー」

「認めざるを得ないんじゃないか。こいつの講義はものすごくでかい大掴みを一気に呑み込ませることを目的にしているが、向こうは限られた範囲を何度も繰り返す。あれだと勉強をして覚えるというか、何回も会った人間の顔だから忘れられないとか、そんな感じだろう」

「ね。私もびっくりした。中等科の教科書薄すぎだろお前の一年は三日しかないんかってずっと思ってたんだけど、ああいうのを教官側が主導で進めてたら確かにぴったりくらいに収まるかも」

「……言われてみれば僕も、全然内容はわからなかったのに重要単語だけは頭に残ってるかも」

 

 でもさ、とオルキスが言う。

 

「やっぱり僕は、『学ぶ意欲を育てる』ってことがそんなに悪いこととは思えないなあ。だって、楽しい方が良いし、学校を出た後も学び続けられるってすごく良いことじゃない? 魚釣り名人の話もそうだよ。確かに魚釣りに興味がなかったとしても、実際に教えられて魚釣りを好きになったり、何かの技術を習得するやり方を覚えられたら、きっと楽しいよ」

「まあな」

 

 言って、ディー・ヨドがソファに腰を下ろした。

 少し腰を前に出すように。ずるり、と滑り落ちかねないくらいに背もたれに体重を預けて天井を見る。ミハロも釣られて同じ場所を見たが、特に何もなかった。

 

「俺もミハロ・クローバの人格を指摘して説教するのが気持ち良かっただけという面は否定できん」

「おい」

「そして俺もお前と同じようにずっと荒野にいたから社会のことなど何も知らんし、今はこの有様だ」

「急に自爆して悲しいこと言うなよ……」

「他人の善意の怪しい側面を取り上げて声高に糾弾するなんて、どんな落ちぶれた人間でもできる一番簡単なことだからな。お前らもこんな風にはなるなよ」

「大丈夫です。心配しないで。絶対ならないから。死んでも。そこまで堕ちるのって逆に難しいし」

「おい」

 

 なれ、と言って呪われそうな手つきをディーがした。嫌だ、と言ってミハロは両腕を交差させ、バリアを貼った。カキーンと跳ね返ればオルキスに飛んでいっただろうが、彼は「そんなに自分を卑下しなくても……」とちゃんと気遣ってくれており、カキーンと跳ね返る前に場が浄化された。このようにして世界の平和が常に保たれてくれるとよいのだが、実際にはもっとひどいことになる場面の方が多く、難しい問題である。

 

「俺も別に、お前の理想の全てが間違いだとは思わん。何事にも良し悪しはあり、後は程度を見つつ評価を決めていくしかない……ただ。その言動の端々から漏れ出る傲慢さは年を重ねるにつれてひたすらにデメリットを生み出すようになるから、今のうちに隠し方を覚えておいた方が良いとは思うが」

「先輩……」

「初めて敬称で呼ばれたが、面白いほど虚しいな」

 

 ううん、と。

 言われたことを含めて、色々とミハロ・クローバは考えた。

 

 自分の考えていることはどのくらい正しいのだろうか。どのくらい間違っているのだろうか。求められた技術や知識だけを教えるべきだろうか。けれど未学者がどれだけ正しく自分が本当に求める技術や知識を把握できるだろう。それに、学生にとって本当に自分は『技術を教えるだけの人』なのだろうか。学園という特殊な環境において、本当にたったそれだけの振る舞いをしていればいいのだろうか。押し付けは悪かもしれない。なら干渉は? 影響は? 自分がするべきことは教科書の重要な場所を何度も読み上げて頭に刷り込むことなのだろうか。それとも、もっとそれ以上のこと? それ以上とそれ以下で、一体何が違う?

 

 そういうことを、色々考えて。

 

「……決めました。聞いてくれますか」

「うん。いつでも聞くよ」

「ああ。聞くだけならな」

「私は――」

 

 最終的に、ミハロは。

 

 

 

「やっぱり魔法がこの世で一番面白いと思うし、それを『つまんね』って目の前で捨てられたらめっちゃムカつく!

 

 何としてでも『面白すぎる!』『もっと勉強したいのに一日が短すぎる!』って号泣させてやりたいです!」

 

 

 

 十九時三十分。

 とうとう私欲100%の完全体になり。

 

 そのあと流れで、遊園地を作ることが決まった。

 

 

 

 

 

「…………」

 もう帰ってしまったのか、と思いながら握るドアノブは冷たい。

 

 十九時四十分。講義後の質疑応答を済ませたナノ・カッツェは、帰宅の前に立ち寄ったミハロ・クローバ教授の教官室の前で、その扉に鍵がかかっていることを確かめていた。

 

 彼女は確か、とナノ・カッツェは思い出す。職員寮の住人ではなく、学外の一軒家を借りて住んでいる。終業後に職員寮に乗り込むのも気が引けるが、これから住所録を調べて学外の自宅に乗り込んでいくのはもっと気が引ける。端的に言って気味悪くもあるし、場合によっては通報もされうるだろう。

 

「……大丈夫だったかな」

 だからぽつりと一言零すほか、今の彼女にできることはない。

 

 もう一度、ノックをしてみる。少し反応を待ってみる。返ってこない。廊下の明かりも消してみる。長年の軋みを経て生まれた壁と扉の隙間から、けれど明かりが漏れ出る気配はない。不在。念のため、もう一度ドアノブを回す。開かない。

 

 今日やれることは、とりあえずなさそうだ。

 踵を返す。ナノ・カッツェは、彼女にしては少し緩やかな速度で七階を後にした。

 

 夜の学園は暗い。昼の間も決して華やかとは言いがたい場所だが、夜になれば気温もグッと下がる。日の光が当たらなくなるというのもそうだが、ここにたむろする多くの体温が消え去ってしまうから。青い月明かり程度では、とてもその代役には荷が重い。

 

 階段を下る。七階から一階。とにかくこの学園は階段の上り下りが発生しがちだが、これはもちろん意図的なものだと教務主任は知っている。学生たちに一定の運動を強いるためだ。本当なら普段の講義でも一時間程度に一度は別の階の講義室に移動させたいと思っているが、以前にその提案を職員会議で行ったところ「面倒」「というか不可能」という理由で却下された。学園の教授たちは高齢がちで、健康にも結構な問題を抱えがちでもあり、

 

 また。

 ミハロ・クローバのような若き天才に、政治的な対抗心を燃やしがちでもある。

 

 一階の玄関にナノ・カッツェは降りていく。ガラス張りの窓からは真っ青な暗闇が差し込む。扉を押すと、きぃ、と音がする。校舎の中も寒かったけれど、外に出ればなお寒い。また今年も一年が過ぎ去っていく。そう思いながら、鞄からマフラーと手袋を取り出す。

 

 ミハロ・クローバのことを思う。

 正直なところナノ・カッツェは、彼女のことを尊敬している。

 

 ほとんど繋がりはない。学園の教授同士は、基本的には不干渉だ。そのうえクローバ教授は研究キャリアや教育者訓練課程を経ず、共和国行政府から特例で教授職に就けられた異例の人物でもある。

 

 この学園における教務主任は『対外的な折衝業務と時間割の作成業務、学内行事の運営業務における教職側の責任者』以外の何者でもなく、組織図における上位者ではない。

 

 ゆえに、ナノがクローバ教授と直接接触した回数はこれまでに六回のみ。双方向からの、と条件を絞ればそのうちたったの三回。ついさっき、講義の休憩時間中の会話。それより少し前、昼のあの通達。そして長く長く遡って、年の初めの教官室や学舎案内、時間割作成。それらの手伝いをしたとき。

 

 一方的なものは、と。

 渡り廊下の軒下で自転車の鍵を外しながら、ナノは思い出している。

 

 彼女の講義初日のこと。大丈夫だろうか、と思ってナノは、彼女の講義を見に行った。彼女はあまり学生の反応を見るタイプではないし、さっきもあれだけ稚拙な変装で乗り込んでバレないと思っていたらしかったから、恐らく気付かなかったはずだと思う。

 

 教科書の内容を読み上げるだけの、当たり障りのない、砂を噛んだような講義だった。

 

 ナノ・カッツェは、それを酷評をしようとは思わない。この程度の講義をする教授は学内にもままいる。教育よりも研究が本分、と語る人物も多く、おそらくミハロ・クローバもそのタイプなのだろうと思った。彼女はすでに魔法史の最も新しい行に名を連ねる偉大な魔法使いであり、またおそらく、彼女の遺した数多の公式は以後何百年に渡って、魔法研究者が取り組むべき最も重大な関心事として学園の中心に残り続けることだろう。

 

 むしろ、とナノは思っていた。十九歳。教壇の向かいにノートを構える学生たちとそれほど変わらぬ身でありながら、教科書などただの体裁と言いたげに教卓の上に放り投げて、滔々と淀みなく、理路整然と喋る。その堂々とした姿には一種の頼もしさすら覚えた。念のためその次の日も様子を見に行った。彼女の振る舞いは初日に限ったものではなかったことがわかった。そして夏の学期の終わり、彼女の担当したクラスは全てにおいて平均的な成績を記録した。クローバ教授は与えられた役割を全うしている。自分が十九歳だったら、と成績表を見ながら考えた。同じことができただろうか。

 

 自転車を押しながら門を出る。傍らの守衛に、「お疲れ様です」と頭を下げる。彼も帽子を上げて「どうも。冷えますから、帰り道はお気を付けて」と挨拶してくれる。「ええ、どうも」と答えながら、ふと立ち止まる。戻る。「最近、手続きに則らない学内入退場が増えているように思うのですが、所感はどうですか」「あー……。いやー……申し訳ない」「責めているわけではありません。ただ、実際仕事をされていてどうなのかな、と」「……裏道がね。心配だから、できれば全部塞ぎたいんだけど。塞いだら塞いだで、ほら、今度はどこにどうやって開けるかわかったもんじゃないですから。学生証とか公的身分証明の有無とかで結界のチェックが働いている今の方が、下手に触って悪化させるよりは、と。すみません」わかりました、とナノ・カッツェは答える。職員会議の議題に挙げてみようと思います、いつもご苦労をおかけします。ああいえいえこちらこそ、あ、この間はコーヒーご馳走様でした。貰いものですから、ではそちらもお気を付けて。ええ、どうもどうも。門を離れていく。

 

 学園から出ると、不思議と寒さはより厳しくなったように思えた。サドルに跨る。サドルが冷たい。この冷たさをどうにかするものを、そろそろ開発しようと思っている。

 

 最後の一回は、冬学期の一番初めだった。

 頬を切るような寒風に吹かれながら、ペダルを漕いで、ナノは思い出している。

 

 何か具体的な目的があって聴講に出たわけではなかった。ただの確認。変わらぬ講義が続いていることを見届けて、今学期も心配はなさそうだと安心するためだけの、名ばかりの教務主任の職務には含まれていない、ただの個人的なお節介――、

 

「――、」

 思考を切る。

 

 道の途中で、ブレーキを握った。

 

 キキー、と甲高い音が鳴って顔を顰める。長く使っている自転車だから、手入れをしてもあちこちガタが来ている。そろそろどこかで一度分解して組み立て直そう。頭の中で予定を立てる。自転車を降りる。

 

 夜の、繁華街のあたりでのことだった。

 

 家がこのあたりにあるわけでもなければ、学園からの直線距離上にあるわけでもない。単に夜になってもまだ比較的まだ明るく、人通りが多い場所だから。安全のために少しの遠回りをしてもナノはこのあたりの道を通るようにしているし、毎夜立ち並ぶ飲食店から香る油の匂いと空腹を戦わせている。

 

 けれど所詮は夜の街だから、全てが明るいというわけではなく。

 少し路地を覗き込んでみれば、いかにも危うげな暗がりがいくらでも存在してしまう。

 

 そんな場所。

 その暗闇の向こうに、知っている顔が見えた気がした。

 

「…………」

 自転車のスタンドを立てる。コートの裏にしっかりと護身用の魔法具が仕込んであることも確かめる。あまり直接的なやり取りは得意な方ではない……が、軍隊にでも囲まれない限りは、誰かを連れて逃げるくらいのことはできるはずだ。

 

 そう思うから、ナノ・カッツェは暗がりの中に早足で入っていく。

 幸いにも、どんな危険に遭うこともなく、目当ての人物には辿り着けた。

 

「こら」

「え」「うわっ」「どわあっ!!」「…………」

 

 普通に振り返った者。びくりと肩を震わせた者。こちらが驚くくらいの声を上げた者。驚きすぎたのか固まってしまった者。

 

 四人全員を、ナノ・カッツェは知っている。

 

「クローバ教授のクラスの学生たちですね。閉寮の時間はとっくに過ぎていますが、外泊許可は取っていますか。それとも、何かのトラブルですか」

 

 子どもたちは、頭ごなしに疑われるのを嫌がる。

 だからそう訊いてみたけれど、実のところ答えが「いいえ」であることはわかっていた。

 

 ナノ・カッツェは少なくとも中等科の学生たちの顔と名前は全て覚えているが、特にこの四人は覚えやすい。良く言えば目立つ。普通に言えば手がかかる。悪くは言いたくないので、言わない。

 

 夏学期の開始前、この全員をクローバ教授の担当とする編成案を事務方から見せられたときにはその政治的な……あるいはもっと小規模で些細な、体力や日々の労力を理由とした意図や背景も察するところがあった。もっとも、その他に名前を連ねていた面々も大概で、結局自分の力ではこの四人を他のクラスに散らすことができず、彼女の担当にそのまま残してしまったけれど。

 

「あー、いや。……うす」

 一番大きな声を上げた学生が言う。爪先が横を向いている。逃げるかどうか迷っている。他の三人も、その学生の動向を窺っている。学園は放任主義だから、本当にそれで済んでしまう。

 

「別に、怒りはしません」

「ぅえ」

 だからナノ・カッツェは、そう言って先手を打った。

 

 爪先がこちらに傾いた。ナノは肩の力を抜く。単純にそうしたい気分でもあったし、そうした方が学生たちも緊張しないだろうと思ったから。

 

「今は勤務時間外ですし、寮生の生活指導は私の業務管轄外ですから」

「あ、はい、」

 

 ども、と学生が小さく頭を下げるから、あまり間を空けすぎないテンポで、

 

「ただ、裏路地を行くのは控えましょう。道の陰に潜んでいるかもしれない不審者や通り魔に襲われるより、こんな風にちょっとした小言を言ってくる学園関係者に見つかる方が嫌ですか?」

 

 いや、別に、と拍子抜けしたように学生たちは顔を見合わせる。

 ナノ・カッツェは、自分が学生たちの目からどう見えているか、おおよそのところは把握しているつもりだ。細かいことにグチグチうるさい。厳しい。気難しい。性格が悪い。そんなところだろうし、別に否定するつもりもない。

 

「夜食ですか」

「あ。……まあ、そんな感じっす。成長期で」

「そう。では、行きましょうか」

「い、……え?」

 

 ただ、こういうときは便利だと思う。

 

 

「ここで七年も働いていますから。あなたたちよりは、美味しいお店に詳しいと思いますよ」

 

 

 結局、人は。

 想像していたよりも楽な結果に終わったとき、自然とガードを解くものなのだから。

 

 

 

 

 

「カッツェ教授って、もっと話しにくい人だと思ってたっす」

 

 たったこれだけのやり取りでこの打ち解け方になるのを見ると、この学生は周りからよっぽど『話しやすい人』だと思われていることだろう。そんなことを思いながら「いえ、私は話しにくい人ですよ」とナノ・カッツェは言って、自転車をカラカラと押す。んは、と学生は笑った。嬉しい気持ちになる。自分の発言で笑ってもらえることは、実を言うとあまりない。

 

 ピザ屋に、と学生たちは言った。夜にピザ、と眉をしかめそうになったが、何しろこちらと向こうでは年齢が倍以上違うし、そもそも自分も一緒になって食べるわけではない。快く頷いて、それほど値段の高くはない店に連れていく。どうやら学生たちの知らない店を上手く案内できたらしく、品物を受け取ってから「では学園まで送ります」と告げたときの反発は、思ったほどではなかった。

 

「すんません。仕事、終わってんのに」

「上り坂ですからね。あまり何度も行き来したい道でないのは確かです」

 

 今度も冗談のつもりだったが、学生たちは笑わず、むしろ委縮したように見えた。しまった、と内心でナノは焦る。自分の冗談はたぶん、わかりづらい。

 

「でも、」

 と話し出したのは、だから、その焦りから。

 

「しつこいようですが、今度から夜食を買いに出るときはこんな風に明るい道を通ってください。治安の良い街ではありますが、犯罪が絶対に起こらないというわけではありません」

「いいんすか?」

 

 言った学生を見た。見られると「う、」とたじろいだように見えた。多分こう言いたかったのだと思う。「明るい道を通るなら、閉寮後に街を出歩いてもいいんですか?」そして目と目が合って、伝わったのだと思う。「そんなわけがないでしょう」

 

「悪いことをしておいて『怒られたくない』というのは虫の良い話です。堂々と悪いことをして、見つかったら堂々と怒られてください」

「……なんすか、それ」

「悪いことをしたときの責任の取り方の話です。正直、教員の側としてもそうしてくれた方が気が楽です」

 

 はあ、と一番喋る学生は気のない返事をした。あまり理解はされていないとナノは感じたが、それを悲しんだり残念がったりはしなかった。教員をやっていれば、それほど珍しいことではない。

 

 しばらく、学生たちは喋らなくなった。脅しすぎただろうか。けれど見つけた自分の時点で多少は釘を刺しておかねば、寮監を務める教職員たちの負担だろう。このくらいで丁度良いのかもしれない。

 

 チリチリと、車輪の回る音がする。時折はガサ、と。ピザ屋でもらった紙袋を、学生たちが抱え直す音もする。夜が更け始める。気温が下がる。手袋越しでも少しずつ指先がかじかんでくる。吐く息が白い。

 

 同じタイミングで、その白が空に向かうのを目で追ったのだと思う。

 

「あ。アクロニアの三連星」

 ぽつり、と。

 一番無口だった生徒が、思わずというように零した。

 

 ナノは振り向く。それに学生たちは気付いていない。言葉を発した学生にみな目をやって、その学生はずっと空を見ているから。

 

「出た。お前いっつもそれな」

「滅びた村を、黒衣の勇士が旅立った。彼の名はアクロニア。またの名を『星の数え方を思い出した男』……」

「詠唱始まった」

「刺激するから」

「アクロニア好きすぎだろ。所詮は全身黒服の男だぞ」

「は? お洒落じゃん」

「あばたもえくぼ」

 

 アクロニア。

 その名前をもちろん、ナノ・カッツェは知っている。

 

 天体魔法学史に名を連ねる偉大な魔法使いのひとり。さらに重ねて、魔法理学のある一分野における遠因の祖でもある。

 

 この学生たちがその名を知っていても、決して不思議ではない。後者としての彼を知るためには確かに大学レベルの知識が必要になるだろう。しかし前者は、自然学で習う『アクロニアの三連星』が人名由来であることを認識していればそれで済む。

 

 だから。

 ナノ・カッツェが唖然としたのは、学生たちがアクロニアを『知っていた』からではない。

 

「てかそんなに好きなら早くあの積んでる天体魔法学の本読めよ。一生四ページ目で止まってるじゃん」

「早くアクロニアを旅に送り出してやれ」

「だってあれいきなり数学の話出てくるんだもん。無礼だろ、俺に対して」

「どういうことだよ」

「あれクゼは読めるらしいよ」

「そりゃクゼは読めるだろ。クゼが読めないもん数えた方が早えよ」

「『三つだ』『――え?』『目を凝らせ。星は三つだ。希望を数えろ。三つだ。希望の数は――三つある』」

「詠唱を始めんなって」

「なんか完成度上がってきてんだよね」

「数えるのが好きなら数学やれ」

 

 あのさあ別に俺は全くやってないわけじゃなくて日頃からコツコツさあ、と。

 ついさっきまで無口だった学生が喋り出すのを聞きながら、ナノ・カッツェは。

 

 

 学生たちが『何気ない日常の風景の中で』アクロニアの名を『自然と』『コミュニケーションのために』引き合いに出したこと。

 

 

 それがどれだけ、この『手のかかる学生たち』が学習者として成熟していることを表すか。

 そのことを思って、茫然としていた。

 

 

 



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5話 本当に終わりなのだろうか?

 

 

 ナノ・カッツェとミハロ・クローバの一方的な接触。

 その最後の一回。冬学期の一番初め。夏学期と何も変わらない講義が続いていると確かめることだけを目的とした、予定では三十分程度で離席するはずだった、その聴講。

 

 結果としてナノ・カッツェは午前中いっぱい、その席を動くことはできず。

 鐘の鳴る音と、学生たちが席を立つ音を聞きながら、こんなことを思っていたのを覚えている。

 

 

 ミハロ・クローバ。

 不世出の、若き魔法の天才。

 

 彼女ならひょっとすると、自分が『諦めた理想』に手をかけることができるかもしれない。

 

 

 

 

 

 腕時計を見る。

 結局あの四人を寮に送り届ける頃には時刻は二十時を回り、説教を終えた後となっては、さらにそこから十分が経っていた。

 

 送り届けるところまでで、ナノは自分の役割を終えるつもりでいた。しかしそうもいかなかった。叱るための役職と言っても過言ではない寮監が不在だったのだ。詳しい学生を捕まえて話を聞けば、どうも学外の自宅に所用ができたとかで、「すぐに戻る」との言葉を残して旅立ってしまったそうである。いつ戻ってくるか、具体的な伝言はなかった。

 

 仕方なく寮監に代わって烈火のごとく四人を叱り、「裏切られた」「大人はみな嘘つき」「まるで食べるために太らせたようなものだ」という感情をたっぷり与えた後、「ピザが冷めてしまうからこのあたりにしておきましょう」と喜ばせ、最後に「次に裏路地でこそこそしているのを見かけたらこの七倍は怒ります」とさらに釘を刺して、それから。

 

 寮監がいないままというのも具合が悪かろう、と。

 寮のエントランス。談話室の端で、ナノ・カッツェは少しばかり時間を潰していた。

 

 幾人かの学生の姿は視界に入ってくる。そのどれもをナノ・カッツェは知っている。そして同時に、彼ら彼女らが自分の存在に緊張していることもわかる。そそくさと部屋に引き上げてしまう者もいる。邪魔者であるのはわかっていて、さらに五分が経って二十時十五分。外に出て寒さに耐えてみようか、という気持ちが首をもたげ始めた頃。

 

 とても堂々と。

 自分の目の前で、寮の外に出ていこうとする学生の姿を見かけた。

 

「待ちなさい」

「……?」

 

 声をかける。学生が振り向く。知っている顔。今日は随分縁があると思う。

 

 ミハロ・クローバの担当クラスに所属する学生。

 クゼ・ピクセルロードが、寮の玄関で外に出る扉に手を掛けていた。

 

 意外だった。優等生だ、と思っていたから。さっき送り届けた四人とは逆。むしろクラスにいてくれた方がありがたいだろう学生のひとり。

 

「閉寮の時間は過ぎていますよ。どこに行くつもりですか」

「…………ああ」

 

 そういうことか、というようにクゼは頷く。内心でナノは思う。自分にこういう声掛けをされて、初対面で委縮しない学生は珍しい。

 

「学外には出ません。校舎の方に」

「理由を聞かせてもらえますか」

「クローバ教授の教官室に行きたくて。質問があるんです」

 

 そういうことか、と頷いたのは、今度はナノの方だった。しかしすぐに「ん?」と怪訝に思う。時刻は二十時十七分。

 

「クローバ教授はもう帰宅していると思いますよ。さっき教官室を訪ねましたが、不在でした」

 

 今度はクゼが「ん?」と怪訝な顔をする。攻守交代。

 

「そうなんですか? いつもクローバ教授は二十一時まで教官室にいて、質問を受け付けてくれているんですが」

「にじゅっ……二十一時まで?」

「家にいると家が汚れるから、できるだけ教官室で過ごすようにしているそうです。自分で掃除しなくても定期清掃が入ってくれて楽、と言っていました」

「…………」

 

 知られざるミハロ・クローバの生態を知らされ、しばしナノは言葉を失った。その反応にあまり興味はないのか、クゼは平熱の口調で「何か用事でもあったのかな」とひとりごとのように呟いた。

 

「教えてくれてありがとうございます。……えーと」

「ナノ・カッツェ。准教授です」

「カッツェ准教授。すみません。人の顔と名前を覚えるのが苦手で」

「気にすることはありません。私も毎年、名簿と突き合わせて新入生の顔を覚えるのに必死ですから。ところでクローバ教授への質問とのことでしたが、勉強に関することですか」

「まあ、はい」

「よければ見せてみてください。私で対応できるようならこの場で答えますよ」

 

 あまりこの学園では、他の教員が担当している学生の勉強を見ることはない。

 教え方の違いで矛盾が生じたとき学生がその処理に苦労する……に飽き足らず、教員同士の激しい論争に発展することもあるからだ。

 

 けれどそれを危惧して避けるのは、まずその質問事項を確認してからでも遅くはあるまい。そう思って訊ねれば、「これなんですが」と言ってクゼ・ピクセルロードは、腕に抱えていた本をこちらに開いてみせた。

 

「『エン=リック過熱体』の低級相似体が五次元空間上で動くときの軌道なんですが、どうしても理解できないところがあって。この『制御魔線①』は、『+』『-』『+』の順で動くとあるんですが、『-』『+』『-』の順ではないんですか」

 

 どうなんでしょう、と差し出されたそれに、驚かずにはいられない。

 

「『エン=リック過熱体』……」

「すみません。専門外でしょうか」

「いえ、この程度なら問題ありません。……誤植ですね、これは。クゼさんの言うとおり『-』『+』『-』の順で動きます。合っていますよ」

「誤植?」

「ええ。高等科までの教材は作成時のチェック人数が多いのであまり見られないんですが、大学レベルになるとよくあるんです。……ああ、図書館で借りたんですね。確か去年新版が出ているので、そちらを探してみるといいかもしれません。もう少し読みやすくなっていると思いますよ」

 

 それは明らかに、中等科の範疇を超えた質問だったから。

 

 低級相似体。ああ、と思う。確かに自分も、もし全てを自由に講義していいのだったら、相似体の単元を学習させる際にそこまで体系的に教えてしまいたい。教えてしまいたいと、そう思うが。

 

 実際にできるかどうかは別の話で。

 ましてそれを、いくら優秀とはいえ中等科の学生に、基本書の誤植を指摘させる水準まで一気に教え込めるのかなんて。

 

 思えば。

 

「…………?」

「ありがとうございます。カッツェ准教授。助かりました。……あ、じゃあここも誤植か。確かに多い……」

 

 引っかかることが、今あった。

 

「少し、訊いてもいいですか」

「僕に答えられることなら」

「『エン=リック過熱体』の低級相似体。それはクローバ教授の講義で教えられたものですね。相似の単元で発展として教えられたものですか」

「はい」

「普段からこのレベルの発展を?」

「教わっているのがどのレベルなのか、僕自身は正確には測りかねますが。毎回、高等科で教わる範囲より先までは講義で取り扱っていると思います」

 

 おかしい、と思う。

 最初にそれを聞いたときから。ミハロ・クローバが担当するクラスの中間試験の結果を見たときから抱えていた違和感。今それが、無視できなくなっている。きっと過渡期だからだろうとか、短期的には結果を出しにくいからなのだろうとか、そういう形で処理していた疑問が、くっきりと浮かび上がってくる。

 

 どうして。

 

「……これはピクセルロードさんの主観で、というより、答えにくければ答えなくて構わない質問なのですが」

「はい」

 

 ここまでしっかりと、優秀な学生に理解させることができているのに。

 かつては優秀とは言いがたかった学生たちに、日常的に魔法に関する言葉を引き出させることまで成功しているのに。

 

 どうして――、

 

「クローバ教授の講義について、クラス内での理解度はどうなっていますか?」

 

 詮索しすぎだ、とナノは自分に思う。肩書ばかりの教務主任の職掌を超えている。学園内の不文律を破っている。何より、本人にまず訊くべき事項を――今日の終業後、それがダメなら明日の終業後に訊くはずだったことを、周りに訊いてしまっている。

 

 クゼ・ピクセルロードはその質問を投げかけられて、数秒、考える素振りを見せた。

 そのあと、「ああ」と確かな察しの良さを発揮して、彼はこう答えた。

 

 

 

「中間試験の結果が悪いのは、僕以外が全く講義に出ていないからだと思います。

 

 みんな留年したがっているみたいで」

 

 

 

 二十時十七分。

 留年したがっているやつらが性懲りもなく裏口の戸を開けて、誰にも気付かれないよう、学生寮の外に出ていく。

 

 

 

 

 

 

 どうして人は追い詰められると遊園地を作り出すのだろう。

 その答えが、ついさっきまでミハロにはわからなかった。けれど今はわかる。はっきりわかる。凄まじくわかる。

 

 人は。

 いざというとき、遊園地を必要とするものなのだ。

 

 

「おい。この図面でかすぎないか。講義室の中に収まらんぞ」

「そうだよねえ。特にこの観覧車。一階から七階まで吹き抜け? そのくらいじゃないと」

「ぶち抜いてみますか」

「取り押さえろ!」

「あ、僕が!?」

 

 時間は遡って、二十時。学生寮の方では、ちょうど四人の問題児を引き連れたナノ・カッツェが街から帰還したころ。一方で。

 

 さっむいさっむい一階の講義室で、さっむいさっむい冬の夜。遊園地を作ろうとする者どもの、情熱の炎が燃えている。

 

 あれからミハロは、すごくよく考えた。

 自分の望み……『勉強したさのあまり時間というものの狭量さ、融通の利かなさに怒り、悲しみ、それでもただ前に進むほかないという思いを抱かせてむせび泣かせてやりたい』という美しい願いを叶えるために、一体何が必要なのだろう、と。

 

 結局は、とミハロは思った。

『魔法は面白い』ということを、自分がしっかりと伝えてやるしかないのだ。

 

 もう自信はあった。迷いは捨てた。クゼ・ピクセルロードはあまり表情に出ないタイプの学生だが、それにもかかわらず今日の講義中に五分くらいペンも握らず涙を流しているだけの時間があった。あのディー・ヨドですら少し泣いていた気がする。たぶん泣いてた。きっと泣いてた。フードを深々と被っていたからはっきりとわかるわけではないが、今から講義室の後ろの方に行って彼が座っていた席の足元を調べれば、涙の跡のひとつやふたつは見つかるはずだ。

 

 そういうことを今、オルキスの手で机の上に取り押さえられながら、ミハロは思っていた。

 

「ちょっと待ってください。流石に本気で天井をぶち抜いたりしませんけど。私こんなに信用ないですか?」

「躊躇なく人を七階の窓の外に押し出してくるやつが信用を得られると思うか」

「思います。全身から輝かしき知性と良識が可視光線として滲み出ているので」

「出てないよ」

「いや、一旦出ていることにしてみよう。激しい思い込みを頭から否定するのは危険だ」

 

 ミハロは変身した。著しい膂力でオルキスの手を振り解こうとしたが、変身の時点ですでにオルキスは手を放し、争いを事前に回避していた。彼は賢い。

 

 改めて、黒板に描かれた図面に向かい合う。

 

「確かにでかいと言えばでかいんですけど……。そもそも、講義室の中に収まる程度のものでいいのかって話もあるんですよ」

「でも七階までぶち抜いたら怒られると思うよ」

「それはそう」

 

 図面は、とてもキラキラしていた。

 こんな黒板をミハロは見たことがない。なぜなら夏学期の間はチョークの色変えが面倒だったからずっと白しか使わなかったし、冬学期に至る頃にはそもそも板書が面倒で時間効率も悪いということに気付き、図解やグラフ、計算式や綴りを殴り書きするための壁くらいにしか使っていなかったから。いちいち消すのも面倒で、講義の終わりにはいつも隅から隅まで埋め尽くされる。自分の部屋みたいだな、とたまに感じていた。

 

 しかし今のこれはどうだ!

 講義室を埋め尽くすキラキラしたイルミネーション。その予定。講義室を華やかに彩るアトラクション。その予定。講義室という空間そのものを楽しくさせる統一されたデザイン。その予定。

 

 見ているだけでも胸が躍ってくるじゃないか!

 

「部屋のでかさに対して詰め込み過ぎじゃないか?」

「うん……少なくともこんなにたくさんアトラクションは置けないよね」

「それだけじゃない。このデザイン量をこの容積に押し込めようとしたらとんでもない密度になる。イルミネーションの光もお互い干渉するし、明るすぎて何も見えなくなるぞ」

「文句を言うだけなら誰でもできるぞ、君たち!」

「文句をつける人間がいないとこの世に悪が蔓延るからな」

「僕も文句をつけるくらいしかちゃんとできることないし……」

 

 辛気臭いふたり組の寝言は放っておくとして、もちろんミハロはこの設計図をそのまま現実に再現しようなどとは思っていなかった。当たり前だ。これは自分の理想とする夢をいっぱいに詰め込んだだけ。いわば夢の具現化。夢の全てがそのまま叶ったりなんてしない。そうだろうか? そんなこともない気がしてきた。いつだって自分は他人に笑いものにされるような巨大な目標に向かって全速力で走ってきたではないか。

 

「…………バレなきゃいいか……」

「おい、バレた後のこともしっかり考えろよ」

「ミハロ。バレたらいけないことっていうのはね、そもそもやっちゃいけないことなんだよ」

「社会に蔓延る綺麗事が人間の形を取って私の行動を制限してくる」

「思わぬ高評価だな」

「これからも社会が綺麗になるよう積極的に口を出していくよ」

 

 行動が制限されたことで内心にも影響が及ぶ。大人しくミハロは、法に触れないギリギリの範囲と、良識に多少は触れているけれど誰の心にも深刻な傷を残さずに済む範囲で物を考えることにした。

 

 そのためには、前提をしっかり確認し直す必要がある。

 だからミハロは、強く強く、遊園地を作る目的のことを頭の中に念じた。

 

 

 それはもちろん。

 学生たちを、講義に引っ張り出すためである。

 

 

 ミハロ・クローバには自信がある。話せばわかる。しっかりとまとまった時間を取って講義さえできれば、必ず学生たちをむせび泣かせることができる。

 

 しかしそこで問題がある。

 あまり知られていないことだが、言葉とは一方的に投げかけるだけでは十分に機能しないのだ。

 

 別に言葉それ自体の美しさは機能するし、たとえば世界が明日滅びるともミハロは普通に魔法の研究をしてそれを公式に起こしたりしてはその美しさと自身の才能に惚れ惚れして今日の日を過ごすことだろうが、それとはまた異なる話。言葉に『他人への伝達』という機能を欲したとき、常に受け手が必要になってしまうのだ。

 

 どれだけ講義に自信があったとしても。

 その講義を聞かせることができなければ意味がない。

 

 だからこその、遊園地だった。

 これだけ綺麗な観光スポットがあれば、必ず講義室に来たくなるに違いない!

 

「でも、ここ一階だし。窓向こうの中庭をちょっと使わせてもらうくらいはセーフっぽい雰囲気ないですか?」

「ごめん。僕たちに判断を委ねられても困るかも」

「今日来たばかりで雰囲気は判断できんぞ。規則ではどうなってるんだ」

「真面目に調べたことないけど、たぶん『中庭に遊園地を作ってはいけません』って規則はないと思う」

「だろうな」

「いやもっとこう、理念規定みたいなやつがあるんじゃないの……?」

 

 中庭も遊園地に含めることにした。窓を開け放つ。寒い。一旦閉める。窓の硝子に反射して講義室の中と自分とダブル素寒貧が映る。その絵面に「もしかして今の私はヤバいのではないか?」という懸念がうっすらと頭を過る。過り切り、また別の場所を目指して去っていく。さよなら。額がついてしまうくらいの距離まで窓に近付く。やたらにじめじめした空き地が映る。前から思っていたけれど、この中庭という名の湿気まみれの空間は何を目的として作られたのだろう。墓場と言われた方がまだ納得がいく。

 

「これだけ面積が使えるなら、結構図面通りにいけそうかも」

「いけるか……? 流石に厳しいような気がするが」

「拡張魔法を使います。ほら、レトリシア・スディがよく使ってたやつ。建物相手にやるのは色々ダルいというか修理費発生しちゃうんで嫌ですけど、これだけ何もないまっさらの土地だったらいけるでしょう」

「ああ、なるほどな」

「トントン拍子で進んでるけど、トントン拍子で本当に大丈夫?」

 

 不安そうにオルキス・ハートウォーツが言った。だからミハロは彼を見た。目と目で二秒ほど見つめ合って、それから無言で親指をズバンと上げて差し出してやった。すると彼はああこのやたらに不敵なサムズアップにあの旅でも救われたことがあったみたいな感じのことを考えていそうな顔で微笑んだ。ミハロは満足した。また人を救ってしまった。

 

「オーケー。それじゃあ場所の問題は解決なんだね。で、アトラクションを作る材料はどうするの?」

「…………」

「考えてなかったの?」

 

 そしてものすごく芯を食った指摘をされた。

 

 もう一度オルキスが問い掛けてくる。考えてなかったの。ミハロは答える。勿論考えていた。考えていたに決まっている。その証拠に、何が問題なのかよくわかっている。つまり、問題は――

 

「それなんだよなあ~!」

「何もわかってなくない?」

「そんなことわざわざ口にするくらいなら言葉を捨てろ」

 

 実際のところ、とミハロは考える。一番の問題はそれだ。

 土地はこれ見よがしに「遊園地を立ててください」と言わんばかりのものがある。しかしアトラクションはそうはいかない。

 

 とりあえず最低限建造するつもりのものたち。ジェットコースター。観覧車。お化け屋敷。メリーゴーラウンド。この四点セットを揃えるだけでも大変なのに、さらに雰囲気づくりのための石畳や、イルミネーションまで必要になってくるのだ。

 

 まず以て、それらを動かすための魔力の供給も難しい。別に自分で出せなくもないが(天才なので)、できれば講義の方に集中力を割きたい。となると何らかの魔源を確保しなければならない。その上、材料までとなれば。

 

 壁掛けの時計を見る。

 二十時十分。

 

「……お店、もう閉まっちゃってるよね」

「開いていても無理だろ。仕入れを舐めるな」

「ミハロ、明日から頑張ろう。遊園地は一日にして成らずだよ」

「そうだ。日々のたゆまぬ努力が遊園地を作るんだ」

「爆発するときは?」

「一瞬だった」「一瞬だったね」

 

 言うとおりだ、とミハロは思う。ディー・ヨドとオルキス・ハートウォーツの言うとおり。何もかもは刹那に過ぎ去る。いや違う。何事も一日では済むということはない。日々のたゆまぬ努力が大事。それはわかる。

 

 わかるが。

 

「…………めんどくせ……」

「おい」「ちょっと」

 

 まだ二十二時より前なのだ。

 そのことを、ミハロは思う。

 

 ミハロは毎日二十二時に寝る。六時から八時くらいに起きる。いつも通りであれば、まだ寝るまでに二時間近く余裕がある。帰宅して入浴する時間を考えると一時間ちょっと。

 

 自分の良いところは、ミハロは考える。

「もうすぐ寝る時間だな」と思ってから実際に寝るまでの時間の間に、何かをちゃかちゃかやって明日に積み残しそうなものを速やかに消してしまえることだ(長いこと誰でもできることだと思っていたが、最近はそんなに誰でもできることではないらしいと理解が深まってきた)。

 

 一日を過ごすとき、最後まで油断してはならない。

 なぜならば『たった一日』の『たった一時間』は、一週間で七時間、一ヶ月で三十時間、一生ならば……と積み重なっていくものだからだ。

 

 というわけで、ミハロは「やっちゃいたい」と思っている。

 材料さえあれば一時間で仮組みくらいまでは持っていける。肝心の材料さえあれば。黒板を見ながら、腕組みをして考える。どうにかする方法はないだろうか。

 

「……こんなとき、レトリシア・スディがいてくれればなあ」

「だな。俺も遊園地を作るとき、あいつがいてくれればと何度も思った」

「僕も思ったなあ……。頼りになるもん」

「そう? なら呼んでくれれば良かったのに」

「確かに。連絡先とか知らなかったんですか、ディー・ヨド」

「オルキス・ハートウォーツもそうだが、途中から消息が掴めなくてな。何のかんのと言って、今でもしっかり仕事を続けているのはお前だけなのかもしれん」

「えっへん」

「口で言うやつを初めて見た」

「僕は最初からミハロのところに頼りに来ちゃったけど……。そうなんだ。何してるんだろうね。レトリシア・スディ。昔みたいにお店をやりたいって言ってたのに」

「やってはみたんだけどね」

「ああ。やってはいたんだろうが、どうも早くに閉めてしまったようでな」

「ふうん……。どうしたんでしょうね。あ、もしかして」

「ん、」「もしかして?」「想像付かないと思うけど」

「ここまで来ると、レトリシア・スディも遊園地を作ってたりするかもしれないですね!」

 

「すごい。どうしてわかったの? ミハロ・クローバ」

 

 三人は、声のした方を見た。

 二十時十三分。さっむいさっむい冬の夜。共和国。学園。一階講義室。

 

 人影四つ。

 

 

 

「確かに私、遊園地を作ってた。爆発させちゃったけど」

 

 いた。

 

 

 

 

 

 二十時四十五分。学生寮。

 いやあ大変だった、と何かをやり遂げた顔で寮監が戻ってくる。すかさずナノ・カッツェ准教授が動く。早口でかくかくしかじか自分がここにいる理由を説明した後「説教は終わっています、後は任せます」と足早に玄関から出ていく。

 

 その背中を見送ってから。

 寮監が「なんだ?」と首を傾げて自室に戻っていくのを見届けてから。

 

 かたり、とクゼ・ピクセルロードは談話室の椅子を引いて立ち上がった。

 

 暖炉から遠ざかると一気に寒くなる。古い寮内の廊下は今にも夜霜が降りてきかねない。その奥へ行く。食堂の前を通りがかる。なぜ談話室に行かないのか、ペンギンの仲間か何かなのか、寮生たちの会話の声が聞こえてくる。通り過ぎる。声が遠ざかっていく。その代わりに、目的の場所が近くなる。

 

 倉庫。

 異様に冷たいノブは、捻ると簡単に回った。埃臭い、異様に凍える空気に襲われる。クゼは顔を顰める。けれどその奥にすたすたと進んでいく。クッションを置く。その上に座る。姿勢を低くする。低い位置にある窓を開ける。

 

 窓から外に手を出す。

 心臓が止まりそうなほど冷たい、その薄い金属の筒を掴んで引っ張る。

 

 揺する。たぶん、向こうではカランコロンと音が鳴っているはずだと思う。

 

 少し待った。

 

『はいよ。誰?』

「クゼだ」

『おー。どした?』

 

 外から見た方が、きっとよくわかったと思う。

 そのブリキの筒の底には、紐糸が繋がっている。誰も通りがかって怪我する心配がないような、狭く囲われた場所。そこに糸が渡っている。仮にもし奇特すぎる人間が通りがかって足を引っ掛けたとしても、引っ掛けたことに気付く間もなく千切ってしまうだろう脆さの、細い糸。学生寮から、校舎に向かって。

 

 ピンと張り詰めているから、向こうの声が聞こえてくる。

 反対にこちらの声も、もちろんのこと。

 

「一応忠告だ。ナノ・カッツェ准教授がそっちに行くかもしれない」

『は?』

 

 唖然とした声が小さく聞こえて、それからさらにはっきりと。

 

『ピザの話? まだ?』

「いや、別件だ。君たちが講義に出ずに留年しようとしている話をしたら、顔色が変わった」

『言ったのかよ!』

「百留するつもりなら、教員側に留年の意図を隠すのは不可能じゃないか?」

 

 少しの沈黙があり、

 

『確かに』

 

 そう素直に認められても、クゼも困るところがあった。全体的にこいつらはどういう計画で動いているのだろう、と思った。

 

『え、なんでカッツェ?』

「知らない。クローバ教授と仲が良いとか、そういうのなんじゃないか」

『実際そうなん?』

「さあ。一応、教授が学内で僕以外と話しているところは見たことがない」

 

 しばらく、声は返ってこなかった。

 代わりにもぞもぞと向こう側で複数人の微かな声が聞こえてきていた。かろうじて拾えた単語もいくつかある。どうすんべ。なんでカッツェ。やっぱピザか。別に関係なくね。

 

「別に君たちの居場所を吐いたわけじゃないぞ」

 拾えたから、クゼは言った。

 

「いつもこの時間は校舎に行って怪しい計画を立ててるとかは、別に。留年の話をした後に急に顔色を変えて、寮監が戻ってきたら早足で出ていったから、もしかしてと思って。念のための忠告だ」

 

 しばらくまた、沈黙がある。

 返ってくるのは、やはり聞き慣れた声。

 

『あ、何。そゆこと? 別にこっちの方に来るかもってだけ?』

「校舎の方に向かったようには見えた」

『はーん……。なるほどね』

 

 なるほどなるほど、と声は遠ざかる。拾える音もある。自転車の置き場所。教授の方じゃね。どうせ帰ってるからそんなに時間は。

 

『了解。サンキュな』

 声が近付いてくる。

 

『証拠隠滅してしばらく大人しくしとくわ。寮監は戻ってんだよな?』

「部屋に引っ込んだ。裏口で問題ないと思う」

『りょーかいりょーかい』

 

 サンキュな、ともう一度言われる。それを最後に糸から緊張が抜ける。へにょ、と窓の向こうの枯れ芝の上に垂れ下がる。クゼは五秒待つ。それが再び張り詰めそうな気配はとりあえずのところ、ない。

 

 コップを窓の向こうに再び追いやる。窓を閉める。鍵もかける。ふう、と立ち上がる。体温を上げるために、必要以上に足の筋肉を使うような形で。

 

 さて、と踵を返す。見つからないよう、暗くしたままの部屋の中。足を止める。ふと思い出す。

 

 手の中を見る。

 相似体の扱いに関する学術書。もう一冊重ねて、高等科で使用することになる問題集。口元に手を当てる。暗闇の中で考え込む。

 

 くう、と腹が鳴った。

 クゼ・ピクセルロードは、知らない人を見つめるような顔をして、自分の腹部を見下ろした。

 

 顔を上げる。

 

「食べに行くか」

 

 忍び足で倉庫を出る。

 

 

 



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6話 本当に希望は消え去ってしまったのだろうか?

 

 

「レ、」

 

 かつてミハロ・クローバは、荒野の果てで世界を救った。伝説の魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカを打ち倒した。だが、しかし。

 

 その偉業は、ミハロたったひとりの力でなされたものではなく。

 三人の仲間と手に手を合わせ、ともに果たしたものである。

 

 仲間のうち、ひとりは剣士。ディー・ヨド。

 もうひとりは騎士。オルキス・ハートウォーツ。

 

 そして、最後のひとりが。

 

 賢者。

 

「レトリシア・スディ! どうしてここに!?」

「前にミハロが『いつでも頼ってね』って言ってくれたことを思い出して」

「あっ、出だしからダメそう」

 

 二十時十四分。学園一階のさっむいさっむい講義室。

 とうとうミハロは、懐かしき面々の最後のひとりと再会を果たしていた。

 

 いつからいたのか全く気付かなかった……が、それは特筆すべき点ではない。荒野にいたころからそうだったし、その頃からすでにミハロは、そのことを疑問に思いもしなかった。何せ。

 

 レトリシア・スディは。

『ミステリアス』を絵に描いたり文字に書いたりしたような女性であるのだから。

 

 本人曰く年齢不詳。「何年生きてるかなんて、もう忘れちゃった」――そう嘯く彼女は、その怪しげな発言にも何かの真実が含まれているのではないかと思わせる、奇妙な威厳がある。

 

 机の上にやたらに甘い匂いを放つ巨大なカフェオレボウルを(自分の分だけ)用意していた彼女は、品の良い黒手袋でそれを抱えると、わずかに唇を濡らす。そこから結構な量を一気に飲む! そのあと何食わぬ顔で言う。

 

「お金がなくなっちゃってね」

「ああ……完全にダメになっちゃった」

「語れば長くなるんだけど……」

「レトリシア・スディ。ここは結論から行こう。論文のように」

「本稿は、この一年のレトリシア・スディの職業上の主要なトラブルを時系列順に記述することで、彼女の生活上の変化についての整理を行うものである」

「すまん。言葉の綾だ。普通に順に話してくれ」

「嫌」

 

 なにっ、とディー・ヨドは言った。ミハロ・クローバが知る限りで、ディー・ヨドのこの王様めいた仕切りをにべもなく断れるのは三人だけだ。そのうちのひとりは、何を隠そうこのレトリシア・スディ。ちなみに残りのふたりはミハロ・クローバとオルキス・ハートウォーツ。大人しく従うのは焼肉と鍋のときだけ。放っておけば全部やってくれるから。

 

「だって、久しぶりに会えたのに暗い話はしたくないもの。暗い話をしていると人生全体の色調が下がって、走馬燈まで暗くなりそうじゃない? 最期くらい、鮮やかなのものを観たいでしょう」

「流石はレトリシア・スディ。すでに走馬燈のことも視野に入れて日々を生きてるんですね……」

「レトリシア、そんな寂しいこと言わないでよ」

「……そうか。『己でもどれほど長く生きたかわからない』と言うほどだからな」

 

 ええ、とレトリシアは優雅に頷く。豪快にカフェオレを飲む。それから一拍開けて、「あ」と言って顔を上げる。

 

「でも最近、自分の歳は思い出した」

「え、そうなの?」「何歳なんですか?」「三百歳とかか」

「四十七」

「おい」「ちょっと」「ふつ~!」

 

 ミハロたちは口々に言った。四十七でどれだけ長く生きたかわからなくなるわけないでしょ覚えておいて。しっかりしてください。何が走馬燈だよあと五十年はこうして集まるぞ。え、私三十歳まで生きてられる気がしないんですけど。安心しろ三十まで生きられる気がしないやつの九割は無事必要最低限の加齢の努力をこなして半自動的に三十を迎える。レトリシアって前に「昔のことはもう忘れた」って意味深なことを言ってたけどもしかしてあれも?

 

 パン、とレトリシアが手を叩いた。

 

「はい。この話はこれでおしまい」

「自分で責められる材料を提供して、挙句の果てに勝手に打ち切り始めたぞ」

「すごい会話術だ、レトリシア……。一般社会では通じにくいと思うけど……」

「はい。この話はこれでおしまい」

 

 まるで二回言えばそれで全てが通るとでもいうように、全く同じ口調でレトリシアは言った。そんなわけ、とミハロもかつては思ったが、実際に九割方ディーとオルキスはそれで区切りをつけてしまう。レトリシアからは学ぶべきところが多い。ミハロはちょっとだけ、将来はレトリシアのようになってみたいと思っている節がある。

 

「それで、楽しい話の方は? さっき、遊園地を作るのに私がいればと非常にお目が高い意見が出ていたようだけど」

「あ、そうそう! そうなんです! レトリシア、力を貸してくれませんか!」

 

 かくかくしかじか、とミハロは説明した。

 ガキをむせび泣かせてやりたいんです。

 

「それで、設計とか実装は私がいれば問題はないんですけど。どうしても――」

「材料の方、というわけ」

 

 なるほどね、とレトリシアは頷いた。ちょっと待ってね、と言うと本当に若干の時間をかけてカフェオレボウルを空にした。彼女が席を立つ。ちょっと待て、とディー・ヨドが呼び止める。洗ってくるだけか。そう、あと水を張るだけ。なら俺がやろう、冬の水は手荒れする。そう言ってボウルを受け取り、廊下に出ていく。ディー・ヨドは洗い物を積極的にしてくれるので、冬場にいてくれると助かる生き物のひとつだ。残された三人で少しだけハンドクリームの話をした。戻ってきた。

 

 水のなみなみ入ったカフェオレボウルが、机の上に置かれる。

 これから先に行われることは、ミハロにとってはあの荒野で見慣れた光景だ。

 

「とりあえず鉄? 魔鉄の方が使いやすい?」

「使い比べてみたいので、両方出してみてもらっていいですか」

 

 お安い御用、と言ってレトリシアはボウルを手に持つ。それから一言二言、呪文を唱える。

 

 ぼう、と水面が青く光る。

 空間と空間を、繋げる魔法なのだという。

 

 向こう側にある空間は世界の外。生物以外のものなら、大きさや材質に関わらず何もかもを劣化せずに保存しておける。レトリシアは空間操作において非常な卓越を誇る魔法使いである。ミハロにも真似できない……わけではないが。これについては向こうが専門だからと場所を素直に譲る程度には、彼女の魔法の力に敬意を払っている。

 

 それに、何より。

 その空間の向こうに必要としているものがストックされているかどうかというのは、魔法の技量とは全く関係がない。その魔法を使う者の、いわば人生を懸けた『コレクション』の結果というものであり――、

 

「えい」

 レトリシアが、ボウルを逆さにしてぶんと振る。

 

 

 ガシャーン!とすごい音を立てて、自転車が出てきた。

 

 

 

 

 

「お。結局来たんか」

「ピザは?」

「そこ」

 

 二十時五十分。指差された方をクゼ・ピクセルロードは見る。テーブルの上。見たことのない店のパッケージ。大きなサイズが四枚あって、いい感じに食い荒らされつつ残りつつ。もうすっかり食べ終わってしまっている可能性も考えていたから安心した。手に取る。すっかり冷めているから、魔法を使って温める。二か月前の講義で「効率悪いけど、思い出したときに使ってみると魔法の扱いが上手くなるよ」とミハロ・クローバ教授に教えてもらった。実際のところ得られる対価が温まったピザだけではとても釣り合わないほど神経を使う。温まる。口に運ぶ。さっきのは噓だった。全然釣り合う。

 

 誰も見ていなかったので、クゼはそのまま三切れ食べた。四切れ目は後に糾弾される可能性が高そうだったのでやめておいた。

 

 周囲を見渡す。

 布を被せられた大量のケージが収まった、怪しい部屋がある。

 

「これ、全部片付けるのか」

「いや。ケージは残しとく。実際、大半はこの部屋にあったやつだし。むしろ隣の部屋にあるもんを運び込んで物増やすかな。そうしたら目立たなくなるだろ」

 

 学園の中には、学生しか知らないギミックが大量に存在する。

 たとえば、ついさっきクゼが使った校舎と学生寮を繋ぐ糸通話。あれはあそこの一ヶ所だけにあるものではない。システム自体は非常に有名で、いたるところにある。いつから始まったのかは知らないが、使い方が確立されている。他にも学外の友人や恋人を招くために用いられる外壁の隠し扉とか、日常使いできて便利なものが色々。

 

 色々あって。

 この場所も、そのひとつである。

 

「それなら、その運び込みを手伝おう」

「お? マジ?」

「普段から付き合いが悪い上に、ピザまで横から取ったからな。とりあえずカモフラージュになるなら何でもいいんだろう」

「いいよ。マジで何でもいい。センキュな」

 

 手を振られて、クゼは外に出る。廊下。けれどただの廊下ではない。たぶん、多少なりともこの場所に通じている人間ならこの場所を廊下とは呼ばない。代わりにこう呼ぶ。

 

 隠し通路。

 

 ランプの明かりだけが頼りなく灯る暗闇の中、廊下では多数の学生たちが行き交いしていた。知っている顔ばかりなのは、その全てがクラスメイトだから。「おー」と声をかけられる。「手伝いに来た」と言えば「マジ?」と返される。普段の付き合いが悪いからか、こういう場に出てくると少しばかり喜ばれる。いくつか廊下に並ぶ部屋を覗いて、一番雑然とした部屋に入る。石膏像を持って部屋を出る。

 

 元は古城だったというのは、学園の外観を見れば結構誰でも容易く想像がつくことではある。

 

 そして実際に、ここはかつて――共和国が成立するより以前、貴族によって建てられた城であるらしい。名は知らない。生きた年代が古すぎて当時の発音形態が確定できず、同じ人間を指しているはずなのに表記が十も二十もある。だから不便を避けるために、学生たちは(もしその機会があるとすれば)その貴族を異名からこう呼ぶ。奇妙な城の公爵。『奇城公』。

 

 おそらく、と学生たちは推測したり、あるいは何も興味を持たなかったりしている。これは敵に攻め込まれたときに非戦闘員を匿うための空間だったのだろう。いざというときに逃げ出しやすい一階にありながら、非常に特殊な手順を踏まないことにはまず、ここに空間があることにすら気付けない。

 

 不良学生どもがしょうもない悪だくみをするには、最適の空間である。

 

 さっきの部屋に戻る。周りの人間の動きを見ながら、それっぽく空間を作れそうな場所に「よっ」と置く。思ったより腰に負担がかかった。たったの一個で心が萎えた。だからクゼは、友人に雑談を仕掛けることで「自分で手伝うと言い出したのに秒で疲れて結局ピザ食って帰っただけのやつ」の印象を他者に与えるのを避けることに決めた。ミハロ・クローバ教授の講義はたびたび人生の為になるノウハウも提供してくれて、これもその中で学んだひとつだ。

 

「それにしても、結局どういう計画なんだ」

「お前、秒で疲れて帰りたくなってるだろ」

「そんなことはない」

 

 きっぱりと、自信満々でクゼは言った。「もっと自信持て~!」――これも、クローバ教授から賜ったアドバイスである。クゼは自分のことを決して自信が足りない人間だとは思っていないが、結構な回数同じアドバイスをされたので、彼女の求める水準には全く達していないらしい。最近「もしかすると求められている水準が高すぎるのでは」と思い始めたが、何の確証もない。

 

 そういえば詳しく話したことなかったっけ、と。

 学生は、腰を浮かせる。

 

 歩いていく。ケージの方。布に手をかける。

 布を取る。

 

「もうちょい頑張れば、実用まで持っていけそうだったんだけどな」

 

 クゼは口を開けて、唖然としてしまった。

 

「なんだ、これ」

「見てわからんかね」

 

 興が乗ってきたのだろう。学生はばさっと一息に全ての布を取り去る。芝居がかった動作で、両手を大きく広げて、こちらに振り向く。

 

 にっと笑って、こう告げる。

 

 

「ハムスターだ」

 

 

 いや、とクゼは思った。

 どう見ても全部、カピバラくらいでかい。

 

 

 

 

 

 床に打ち捨てられた自転車を見下ろしていた。

 四人で。

 

「鉄……? 鉄か…………?」

「まあ、ギリギリ鉄とは……」

「言えますけど……」

 

 もちろん、自分が進んで取り組もうとしていることだから。

 代表して、ミハロが訊ねる。

 

「前ってもっとこう、ちゃんと素材っぽいもの出してくれてませんでした?」

「語れば長い話になるんだけどね」

「おい言い訳フェイズに入ったぞ」

「さっき自分でやめたのに結局語るの?」

「ちょっとうるさい。黙って。四十七歳未満に発言権はないから」

「そんな恣意的な言論統制があるか?」

「制限選挙制みたいだね」

 

 聞いてね、とレトリシア・スディは言った。自分で「聞いてね」と言った割には特にこちらに目を合わせることもなく、天井の隅のあたりを見ていた。釣られてミハロも同じ方を見たが、何もなかった。彼女はよく何もないところを見ている。溝とかにも結構足を取られるが、取られてなお「取られてませんけど?」という顔で次の一歩を踏み出し始める。おそらく人生における何か大切なことを知っているのだと思う。

 

「薬屋を開いたんだけど、潰れちゃってね」

「いきなり世界の悲劇」

「前も開いてたんじゃなかったのか」

「ノウハウとかなかったの?」

「前も同じように潰れちゃったから、荒野に旅に出たの」

「悲劇転じて世界平和へ」

「賢者の肩書からなんだその学習能力のなさは」

「でも僕たちも人のことは言えない……」

 

 でもちょっと待って、とレトリシアは言う。このときはこちらを見た。かつバーンと平手を掲げたりもした。

 

「全然私は悪くないから。貧しい人には無料で薬を処方して、豊かな人からはしっかり対価をもらって、所得や生活の状況に応じて対応に傾斜をつける形で適切に運営してたの」

「半分行政みたいになってるね」

「歩く再分配機能だな」

「それで、どうして潰れちゃったんですか?」

「もっとたくさんの人にこの薬屋を知ってほしいと思って、宣伝用として庭に遊園地を立てたの」

「努力の方向性間違ってません?」

「それ自分で言って大丈夫か」

「間違ってませんでした」

「大丈夫? ミハロ、いま一瞬我に返ってたけど」

 

 いや大丈夫です、とミハロは言った。レトリシアと自分では全然事情が違う。自分の遊園地作りは「楽しんでもらいたい」という目的と関連性もあるし、何よりここにいる四人で力を合わせればほとんどコストをかけずに製作することができる(レトリシアはそのへんにあるものをぽいぽいストックに放り込んでいくので、こういう希少性の薄いものは腐るほど持っているし出し惜しみせず提供してくれるのだ)。全然状況が違う。早くレトリシアの力を借りたい。先を促す。

 

 それで?

 

「だけど、前に治療した政治家が『金持ちから金を多くせしめようなど無礼千万、不平等千万』『国有化して運営設計をこっちで定めてやる』って遊園地ごと薬屋を接収してこようとしてね」

「遊園地が脅かされすぎじゃないですか? 何この世界」

「目を背けるな」

「それで腹が立ったから全部爆破して、なかったことにしちゃった」

「とうとう能動的な姿勢で遊園地を爆発させた人が来た!」

「流石に数枚上手だな。認めよう。俺の負けだ」

「もうちょっと、あの、根回しとか……。言ってくれれば僕も手伝ったのに……」

「お前はお前で消息不明だっただろ」

「そうだった」

「それでね。問題はそこからなんだけど」

 

 ここからなの?とミハロは思った。人生は苦難の連続だ。

 

「流石に薬屋に陳列してたものまで爆破しちゃうのはもったいないでしょ? 旅の途中で人を助けるときも困っちゃうし」

「ですね。手に入りにくい薬剤もすごく多かったですし」

「だから夜逃げの前に全部一気に水の中に入れちゃうことにしたんだけど」

「はい」

「めんどくさくて途中から適当に放り込んだら、どこに何があるんだかわからなくなっちゃった」

「あるある!」

「お前らふたりは一番『あるある』になっちゃいけない立場だからな」

 

 もうどんどん面倒になってきちゃって、とレトリシアは言う。

 でも、とカフェオレボウルを逆さに持って、彼女は。

 

「入ってることには入ってるから、そのうち出てくるはず」

「あっ」

「うおおおおおっ!?」

「待って待って! 振り回さないで!」

 

 ぶおんぶおん、とボウルを振り回した。

 その結果、希少とも希少でないともわからないものが水面からガンガン出てきた。最初の『ガン』は床の上の自転車にぶつかったりした音であり、後の『ガン』はディーとオルキスのふたりが身を挺してそれを受け止めた音である。

 

「ちょ――落ち着け! 整理をすればいいんだろ!?」

「そうね。でも、ある程度魔法が使えないとそもそも干渉できないから」

「ミハロ・クローバ! 手伝ってやれ! そういうの得意だろ!」

「えっなんで……そういうイメージあります?」

 

 ああ、と落ちてきたものを腕の中に抱えながらディーが頷く。

 

「部屋が汚そうだし、逆にな」

「名誉棄損だろ! 何を根拠に言ってんだ!」

「前にお前が雨の中に放っぽり出した杖をテントに入れたら『いつでも手が届くように効率的に置いてるんだからさ』とぶつくさ言われた」

「任せてくださいレトリシア・スディ。私は特に何の理由もないんですが、散らかったものを片付けるのが得意です」

「助かっちゃう。ありがとう。必要なものは好きに使ってくれていいからね」

 

 特に理由はないが、ミハロはディーとの会話を途中で打ち切りレトリシアと共に水の中の整理に没頭することにした。ミハロは戦闘知能が高く、無益な争いは避ける性質だ。温厚、と言い換えてもいい。自分ではそう思っている。

 

 目録とか本当は作った方がいいんだろうな、とミハロは思う。

 そのあたりは面倒だから、そういうのが得意そうなオルキスにでも任せようと思い立つ。ビーズのアクセサリーを作るのが上手そうだし、多分目録作りも上手いと思う。

 

 思って、オルキス・ハートウォーツを見ると。

 彼は自転車を引き起こして、不安そうな顔で床を見ていた。

 

「あの……」

「はい」

「床、めっちゃ傷付いちゃってるんだけど大丈夫そう……?」

 

 言われてミハロは、オルキスの視線の先を見た。元々あった傷かもしれないという一縷の望みに賭けた。絶たれた。レトリシアを見た。真剣な顔で彼女もその傷を見た。しばらく見つめると、ふう、と溜息を吐いた。どこを見ているとも知れないミステリアスなまなざしのままで歩き出した。

 

 傷の上に立って。

 そっぽを向いたまま、シュッシュッとブーツの裏を擦りつける。

 

「よし」

「何も良くないよ!?」

 

 ちょ、これこのままにしてちゃダメでしょ何かいい感じの補修材とかないの。どこかに入ってると思うけどどこかはわからない。じゃあさっさとまとめちゃおう、ディーも手伝ってよ。ああ、目録作りと物運びくらいならな。

 

 そんな会話を聞きながら、ミハロは「レトリシアの大雑把って別に荒野限定じゃなかったんだ」と発見し、「自分もあれくらい奔放に生きてみたいものだなあ」と思い、そのあと「経営してた薬屋も色々危なっかしかったんだろうな……」と心配し、最終的に「頑張りましょう!」「ええ」と水の中の整理に戻った。

 

 出てきたもの次第ではアトラクションも組み始められそうかな、と計画を立てていた。

 

 二十時二十五分のことである。

 

 

 

 

 

 二十時五十分。ナノ・カッツェは守衛から「クローバ教授? いえ、見てませんね。今日もまだ校舎の中にいるんじゃないかな。熱心ですよねえ、若くてあれだけ功績もあるのに。学園の未来も明るいや」と聴取をしたのち、「ありがとうございましたお疲れ様です」と足早に敷地の中へ戻っていく。今日は歩き通しの上、すっかり遅い時間だ。流石に疲れも出てくる。

 

 クゼ・ピクセルロードから聞いた証言は、ナノ・カッツェにとって大きな衝撃だった。

 

 講義の聞きたさのあまりに留年を志した学生がおり、しかもそれがクローバ教授のクラスの九割九分九厘を占めている。にわかには信じがたいが、クゼ・ピクセルロードにそんなにわかには信じがたい嘘を吐くメリットはない。まず本当のことだろう。

 

 今すぐに、とナノ・カッツェは思った。

 今すぐに、話を聞かねばならない。

 

 寮から出たときは、「昼は悪いことをした」という思いがずっと頭を過っていた。自分が伝えなければ誰も伝えない可能性があったから、教務課に先んじて、できるだけ早く対策が立てられるようにと出張の前に立ち寄ったのだ。

 

 三度の聴講を経たことでナノはクローバ教授に対し、「中間試験の結果が悪いのも織り込み済みだろう」「彼女であれば教授会を納得させられる十分な理由を問題なく用意できるはず」と大いに信頼を寄せていた。しかし、実態はどうだ。自分自身に落ち度のない、不可解な理由での成績低迷。学生のボイコット。それを理由に一方的に解雇をチラつかされて、この夏に二十歳になったばかりの彼女は、一体何を思ったことだろう。

 

 だからナノは、今すぐに彼女に会って、問題について話し合いたいと思っていた。

 たとえ自分の力では完全な解決まで導くことができなかったとしても、少なからず支えになることくらいはできるはずだと思ったから。

 

 すでにクローバ教授は帰宅したと思っていた。けれどクゼ・ピクセルロードは「いつもは二十一時まで校舎にいる」と言っていた。もしかすると、と思う。見逃しただけなのかもしれない。学生寮を出て校舎に向かおうとして、けれどすぐに思い立って踵を返し、足を運んだ学園正門。守衛もまた、彼女が出ていくところは見なかったという。

 

 そうであるなら、と。

 校舎の玄関扉を開けて、一息にナノは階段へと向かった。

 

 一直線に上っていく。流石に足が痛い。太ももと脛が張る。帰ってからよほど徹底的に足のマッサージをしなければ、まず明日は筋肉痛で一日中顰め面をする羽目になる。

 

 それでもナノは、再び七階の廊下に着いて。

 昼にそうしたように、そしてまたついさっきの終業後にそうしたように、再び彼女の教官室の前に立つ。

 

 ノックする。

 返事がなくて、ドアノブを捻る。

 

「…………そう」

 やはり、開かなかった。

 

 ゆっくりと、ナノはそこで深く呼吸をした。先走りすぎていた。そう思う。けれど同時に不思議に思うこともある。では、どこにいるのだろう? 学園の外に出ていないというなら、一体どこに? それとも守衛が見過ごしただけなのか。いつも極端なオーバーサイズのローブを羽織った、あんなにわかりやすい特徴のある彼女を?

 

 どこかにいるのだったら探してみようか、と。

 思ってナノ・カッツェは、瞼を閉じる。踵を返す。もう一度深く呼吸して、息を整える。瞼を開く。

 

 

「は」

 もう一度息が乱れる。

 

 

 校舎の裏に、大きな観覧車が鎮座しているのを見つける。

 

 

 

 

 

「モンスターか、これは」

「いや、魔法獣。魔力から自然発生するヌゴゴプロヌス・プロクトマギカみたいなやつとは違って――って。流石にお前の方が詳しいか?」

 

 学園一階、隠し通路。

 いや、とクゼ・ピクセルロードは答えた。

 

 少なくとも自分は、こんな風に魔法獣をケージの中に安定的に押し込めておくようなことはできない。そう思いながら、目の前の友人が作り上げたそれらの物体を見つめる。

 

 魔法獣とは、その名のとおり魔法で作られた存在だ。しかし『獣』という呼び名にまで『その名のとおり』が適用されることはない。それはモンスターと同様に、実際の性質としては動物どころか植物にすら似ていない。

 

 石とか人形とか、その仲間。

 ただしある程度勝手に動く性質を持っていて、かつとても『制御が難しい』という注釈がついてしまう、そんな存在。

 

 よくぞ、とクゼはケージに顔を近付けた。がしゃん、と勢いよく魔法獣がこちらに向かってくる。これが怖い、とクローバ教授の講義で聞いていたから知っている。

 

 聞けたのは、冬学期の初日講義でのこと。

 

「よくここまで形を取れたな」

 

 本気の感心で、クゼは友人にそう告げた。「勉強したいから留年しまくる」と嘯くだけのことはある。そう思わせてくる完成度だった。学生の身で、しかも元は定期試験の突破すら怪しいような学力で、どれだけの時間と労力をかければここまで持ち込めるのだろうか。想像がつかない。

 

「意図的に動物体を構成するのは、複雑性が高すぎて難しい」

 

 カピバラと視線を通い合わせながら、クゼは呟く。

 

「静物と違って可動域が多すぎるし、柔軟性を与えようとすればするほどジャンク魔法節が膨れ上がって思わぬ挙動を示す。魔法獣を一から作って使役するより、自然の妙であらかじめ出来上がってくれたモンスターに首輪をかける方が、よほど簡単な場合もある……」

「ちゃんと覚えてんなあ。もう何ヶ月前の講義だよ」

「日々復習している。……というか、ハムスター? カピバラの間違いだろう」

「いや、マジでハムスターに似せるつもりだったんだよ。ただちょっと、こっちの技術が追い付かなくてでかくなっちった。ジャンク魔法節もその分な」

 

 ん、とクゼは思うところがあった。

 なるほど、それをネックにしてまだ実用していないのか、と。そして、ん、とさらに思うところができる。

 

「金策」

「ん?」

「百留するのに使うんだろう。どうやってこれで儲けるつもりなんだ」

「ま。そのへんは色々と。銀行をちょちょいとね」

 

 露骨に友人に目を逸らされる。そのことには特に、クゼは思うところはない。結局自分は、ただの友人であって共犯者ではない。重大な秘密は共有されなくて当然だ。それに加えて日頃から「教員に訊ねられたら大抵のことに答えるつもりでいるから、どうしても秘密にしたいことは最初から僕に話さないでくれ」と公言しているのもある。それでも気兼ねなく接してくれる友人は多く、周囲の環境にはひどく恵まれているように感じる。

 

「そうか。犯罪はするなよ。悲しいから」

「……うす」

「それにしてもすごいな。生物図鑑とにらめっこだっただろう」

「まあまあまあ……。実はそっちはそんなに問題なかったんだよ。鼠を飼ってるやつがいたから、ちょっと見せてもらってさ」

「クラスみんなで額を寄せ合って?」

 

 クラスみんなで額を寄せ合って、と頷かれる。ふ、とクゼは笑う。でもさ、とさらに話は続いた。

 

「まー、一番苦労したのはやっぱ『動くかどうか』より『縛れるかどうか』だな。人に迷惑かけたら仕方ねーし」

「結界術か」

「いや、そっちはやる時間なくて――」

 

 おーい、とその途中で、声をかけられる。もう大体証拠隠滅終わったぜ。お、マジかはえーなお疲れさん。

 

「じゃ、後は魔法獣の安全終了だけだな」

 

 よっこら、と友人は立ち上がる。

 それから杖を持って、ケージの中のカピバラたちに向ける。

 

「縛る方さ、」

 魔力を集中させながら、呟いた。

 

「ま。癪っちゃ癪なんだけど。あれ使ったんだよ」

「あれ?」

「ほら、あいつがヌゴゴプロヌス・プロクトマギカを相手に使ったって言ってた、軽い縛りの呪文。あんな馬鹿ムズいやつを『軽い』とか言ってんのも腹立ったけど、色々試行錯誤してたら、難しいところ全部省いてもまあまあ成立するってことがわかってさ」

 

 悔しいけど基本骨格の組み立てが段違いなんだろうな、と友人が言う。

 あれ、とクゼは思った。確かに、難しい魔法の一部を易化して扱う技法は存在する。基本的に学生はずっと「魔法は教科書に書いてあるとおりに扱いなさい」「扱えないなら素直に技量不足を認めて鍛錬を重ねなさい」と教えられるが、ある一点で、しっかりと準備さえすれば簡略化が可能だということを教えてもらえる。そういうことになっている。講義で聞いて知った。

 

 ちなみにそれを教わったのがいつなのかというと。

 今日。

 

 相似体の講義でのこと。

 教科書に載っていたあの単純な練習問題を確認する限り、完全に中等科の範囲から飛び出した、普通の十五歳であれば知る由もない知識。

 

 クゼくんなら大丈夫だと思うから教えちゃうね。

 でも慣れるまではすごく簡単なものから順に、周りに人がいないところでやったり、慣れた人に傍についてもらったりしながら、安全管理に気を遣うようにしてね。

 

「習うより慣れろってやつだよな。機能は落ちるけど、ハムスターくらいのやつを縛るだけなら最低限まで削いでも全然問題ないみてーだし。発見だぜ」

 

 冷や汗が流れた。

 冬の、校舎一階だと言うのに。

 

「ちょっと待て。よく知らない魔法を相似体運用しているのか?」

「……相似体? 何それ」

「五次元軌道の相互復元性チェックは通したか?」

「何それ」

「魔法獣の安全終了を行うのは何回目だ?」

「いや、お前さ、」

 

 こんな手間がかかるやつ、こんなこともなけりゃ消すわけねーじゃん。

 言いながら、しかし魔法は止まらない。止められない。マズい、とクゼは思う。

 

 間に合わない。

 

 だから二十一時、今日の講義で習ったことが、クゼの目の前で起こる。

 

 

 

 低級相似体化に伴う高度魔法の機能変質。

 

 カピバラは消えるどころか、溢れ出した。

 ついでに、制御も失った。

 

 

 

 



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7話 まだいける! 走れ! うおおおおお!

 

 

「やば……己の才能が楽しすぎる!」

「よかったな。恐れより喜びが先に立って」

「めっちゃいいじゃん、ミハロ! 綺麗に出来てるよ!」

「私も今度、ミハロに家を建ててもらいたくなってきた」

 

 二十時五十五分。

 一階講義室で、ミハロ・クローバは大変調子に乗っていた。

 

 床には物が散乱している……というほどひどくはない。早めに引き当てた衝撃吸収絨毯の上に様々なものが降り落ちて、そのままこちら側の空間でディーやオルキスの手によってひとまとめに置かれたり、ミハロとレトリシアの手で向こう側の空間に収納され直したり。作業を始めてみれば存外早い。散らかりはそれほどでもなく、レトリシア・スディの『博物館』とすら呼べるコレクションたちは、怒涛の勢いで美しく整頓が進められていた。

 

 そして存外早いと言えばもうひとつ、肝心の目的の方があり。

 

 ミハロはこの短時間で、観覧車の基本的な設計と実装を終えていた。

 

「自分でびっくりしたかも。私、遊園地を作る才能まであるんだ……」

「正直、少し納得した。なぜ四人のうちでお前だけが今でも仕事が続いているのか不思議だったんだが……」

「人徳でしょ」

「純粋に荒野の外の社会において汎用性が違うな。『世界を救う力がある』というより、『力がありすぎて世界も救える』という方が実態に近い」

「人徳でしょ」

「二回言っても『はい、そうです』とはならんぞ」

「ミハロ。私のその話術を使いこなすためには、発言の内容や音の感覚、発話のテンポが重要でね」

「えー、すごいなー……。僕、観覧車が出来上がるところなんて初めて見たよ……」

 

 夜の闇の中には、ぼうっと観覧車が浮かび上がっている。

 寒いから講義室の窓は閉じている。さっきまでは本当に寒かった。今はそんなでもない。部屋を暖めてみたから。

 

 暖かい部屋の中から、ミハロは椅子に座って、外の景色をじっと見つめている。

 夜に見る観覧車は、大きすぎる獣のような存在感を放っていた。ついさっきまで腕によりをかけていたものであることを前提としてなお、「不気味だ」と言われたら「そうですね」と答えてしまいそうな程度には雰囲気がある。あるいは、観覧車や遊園地が本来持つはずのあの華やかで柔らかい雰囲気がない。今にも足が生えて立ち上がり、腕が生えて、校舎をゴカーン!と殴りつけてきそうに映る。

 

 それもそのはず、と。

 理由に見当がついているから、彼女は焦らない。

 

「あとは魔力源ですよね」

 きらきらさせるためのものが、まだ足りていないから。

 

「これだけだとただのでっかい金属の骨組みって感じですし。なんか怖い」

「ミハロが魔法を使って回したり光らせたりはできないの? できそうだけど」

「できる! ……けどめんどくさい。他のも色々同時に動かすと、リソース持ってかれちゃうし」

「恒常的な魔力供給を求められるものについては、非人的リソースを用いて運用するのが基本ね。事故防止にも繋がるし。……魔源。たぶん、このあたりに入れたと思うんだけど……」

「ちょっと待てレトリシア。いまお前が触ってるのはさっき諸々収納し直した場所じゃないのか?」

「気のせいじゃない? 気のせいじゃない?」

「その二連撃をやめろ」 

 

 レトリシアとディーが目録と水の中とで突き合わせを行っている声を聞きながら。すごいねえ、と窓際で白い息を吐いているオルキスの後頭部を見つめながら。頭の中で、ミハロはさらに計画を立てている。

 

 一番の大物は観覧車のつもりだった。それがこれだけ短時間でほぼ完成した。思い立って始めた時間がすでに夜だったために明日以降への持越しを覚悟していたけれど、これはひょっとしてひょっとするだろうか。徐々に作るよりも一気に完成させてしまった方がプロモーション的なインパクトもある。これは今夜、いつもより少しだけ夜更かしするのも――

 

「――ん」

 振り向いた。

 入り口の方に向かって。

 

「どうした?」

「いや、なんか今……」

 

 こういう動作をしたとき、一番最初に目敏く気付いて声かけをしてくるのはディーだ。同行者の些細な変化にすぐ気付く。「え、何かあった?」と一拍遅れて心配してくれるのがオルキス。多分この『一拍遅れる』性質が、彼を様々な組織的悪事の現場に導いているのではないかと思う。

 

「気持ち悪い感じがしませんでした?」

「した」

 そしてレトリシア・スディは大抵の場合、自分と同じものを感じてくれている。こういうところが、ミハロがレトリシアに懐いている理由のひとつでもある。

 

「結界を張っておきましょうか。念のため。私、奥の方をやるから」

「そうですね。この部屋、結構レトリシアの貴重品も広げちゃってますし。じゃ、私は廊下側で」

 

 そうと決まれば、とミハロは椅子から大きく足を伸ばして、飛び降りるようにぴょん、と床に降りた。魔力を練りながら歩く。何か媒体があるとしばらく保つからと、「このへん何か借りてもいいですか?」「このあたりがいいんじゃない?」のやり取りを経て、いくつかの魔法具を手に取る。レトリシアは窓際へ。ミハロは背中を向けて反対の、廊下の方へ。魔法具を置いて軽く魔力を――

 

 込め始めたところで。

 講義室の出入り口。寒気が入り込んでこないようにと閉めた扉の向こうから、足音が微かに聞こえてきた。

 

「誰だ?」

 耳を澄まして立ち止まれば、いつの間にかディー・ヨドが隣に立っている。誰だろう、と相槌を打つその直前に、「ああ、あいつか」と彼は言う。誰だよ、とミハロは思う。扉をわずかに開ける。

 

 誰なのか、すぐにわかった。

 階段を下りてその足音の持ち主が、廊下の向こうに姿を現したから。

 

『几帳面』や『規則主義』を絵に描いたような、あるいは文字で書いたような人物で。三十代中盤、女性。役職は教務主任。

 

 名前は。

 ナノ・カッツェ。

 

 二十時五十九分。

 

 

 

 

 二十時五十七分。

 七階の、クローバ教授の教官室の前でナノ・カッツェは茫然としていた。何か信じられないものを見ていると思った。夢だろうか。手の甲を摘まんで確かめようとした。冬の肌はつるつると痩せて掴めない。確かめられず、ただ茫然とし続けた。

 

 観覧車。

 観覧車?

 

 しかしかろうじてナノ・カッツェは、魔法学園の准教授らしい落ち着きを取り戻した。落ち着いて窓を開けた。寒い。寒さをものともせず、しっかりとその建造物を見る。たった一時間前には存在していなかった。そんなわずかな時間に建造できるはずがない。幻だと思う。幻ではない。どこかから完成品を運んできたとしか思えない。けれどそれも、一時間で観覧車が建造された可能性と同じくらいありそうにないことに思える。

 

 誰が、と思ったとき。

 すごく単純に、ナノ・カッツェの思考はひとりの人物の名を挙げた。

 

 ミハロ・クローバ。

 こんな離れ業ができるのは、学園広し深しといえど彼女くらいではないか、と。

 

 もう一度上から覗き込む。何も見つからない。だからここまで苦労して上ってきた階段をまた駆け下りる。いるとしたら一階だ。観覧車の足元だ。六階。五階。三階。どこまで行っても踊り場の向こうに観覧車が見えている。いつの間にか悪夢の中に迷い込んでいたのではないかという気分になる。次に見たときには観覧車が回り出しているのではないかと思う。何か良くないことが起こりそうに思える。

 

 階段を下り切る。

 廊下の向こうで、講義室の扉から顔を出しているのを見つけた。

 

「クローバ教授、」

 

 だからナノ・カッツェは、そうして名を呼んだときに、お互いがお互いを認識したときに生じた彼女の表情の変化にひどく安堵した。それはこの学園の中で働いていて、あまりにも見慣れたものだったからだ。

 

 彼女は「やべ、見つかった」という調子の顔をしていた。

 それから「見つかったからなんだ?」と拍子抜けしたように表情を緩めた。

 

 前者は、とナノは思う。よく問題児がやる。それは必然的に自分に叱責の役割を課すものであるので、ある意味非常に憂鬱な表情なのだけれど、今だけはそうでもない。あの観覧車にミハロが関わっていることはほとんど確かなのだろう、と推し測れたから。少なくとも学園に対する何らかの、深刻な攻撃ではないと楽観できる。そして後者の表情は「自分のしていることについて相手からの理解が得られるだろう」という予測から生み出される。そのはずだから。

 

 大丈夫だ、と思った。

 クローバ教授は、あの観覧車の見た目のおどろおどろしさ、行動の突飛さを自ら理解しながら、しかし何か「一般的に通じるはず」と自分で確信できる程度の理由を持って行動に当たっている。

 

 だから、ナノは少し歩く速度を緩めた。胸を撫で下ろした。それから遅れて、この夜の校舎に再び入った目的も思い出した。まだ彼女は帰宅していなかった。残っていた。この観覧車のことも訊きたいから、この時間からじっくりと相談というわけにはいかないかもしれないが、それでも別れ際に一言伝えるくらいのことはできるだろうと思う。

 

 つまり。

 私はあなたの力になりたいと思っていますとか、そういうことを。

 

「こんばんは。少しお話をしたいことが――」

 

 彼我の距離は十歩。

 話しかければミハロは言葉を受け入れるような顔をする。その表情が記憶していたよりも、イメージしていたよりもずっとあどけなく見えて、もっと早くにこうするべきだった、とナノは思う。

 

 もう一歩踏み出す。

 足に何か、膝くらいの高さの生温かいものが触れたような感触がする。

 

 

 二十一時。

 視線を下ろす。

 

 カピバラがいる。

 

 

 

「…………?」

 疑問符を浮かべて、ナノ・カッツェは立ち止まる。

 

 カピバラの奔流に呑み込まれる。

 二十一時一分。

 

 

 

 

 

「なん――ヤバいヤバいヤバい! 助けてクゼ!」

「助けてって言ったって――」

 

 二十一時。

 学園校舎の薄暗い隠し通路では、とても収拾のつかない事態が発生していた。

 

 カピバラの奔流である。そう言うほかない。少なくとも今日初めてここに来て、人生で初めてこんな事態に巻き込まれているクゼ・ピクセルロードにとってはそう言うほかない。そしておそらく、以前から講義をサボってこの場所に入り浸っていた他のクラスメイトたちも、その感想に大した異論は持たないはずである。

 

「おいヤバいヤバいヤバい!」

「は!? 何、ケージ割れてる!?」

「全部!?」

「何だよこれ! このまま銀行まで行く気か!?」

「ちっげーよ! 暴走だ!」

「ハムスターの反逆ってこと!?」

「やっぱり生き物を作るなんて許されてなかったんだあ!」

「何回言ったらわかんだよ魔法獣と動物の区別つけろって!」

「だから人形はやめようって言ったじゃん! 呪われるんだって!」

「人形の髪が伸びんのは湿気のせいだって言ってんだろ!」

「食われるー!」

 

 訂正。人によっては『ハムスターの反逆』や『人形の呪い』と言った感想を持つこともあるらしかった。

 

 しかし残念ながら、そうした違いからお互いの感性の多様性を確認し合ったり、それを基にして会話に花を咲かせるだけの余裕は彼らにはなかった。なぜと言ってそれはもちろん、

 

「おい扉も割れてるって!」

「塞げ! 計画が漏れる!」

「それ以前の問題だろ! バリケードぉ!」

「無理無理無理! 全然漏れてる! てか増えてない!?」

 

 大惨事がものすごい勢いで進行しているからである。

 学園校舎。隠された空間の一室。話はそれだけに全然収まっていない。

 

 カピバラを収めていたケージのことごとくが壊れた。もう途轍もなく景気良くバッキーン!と壊れた。これらのケージがさっきまではきっちりカピバラの突進に耐えていたことを考慮すると、これは魔法の失敗によりカピバラが著しく強化されていることも意味する。

 

 カピバラたちは一目散だった。

 この場に大人しく留まってやろうという気持ちを、毛ほども見せなかった。

 

 一斉に部屋の外に出ていく。さらに廊下を走りまくって、隠しエリアの外にも飛び出していく。その一目散っぷりと言ったら並のものではなかった。毎日に退屈し、ここではないどこかに飛び出そうとする青春真っ盛りの無鉄砲な若者のようだった。そのここではないどこかに飛び出そうとする青春真っ盛りの無鉄砲な若者のような勢いのまま、それを食い止めようとして立ち塞がった青春真っ盛りの無鉄砲な若者たちの腹部にものすごいパワーで突進して「おげえっ!」と吹っ飛ばしたりしていた。

 

 そして、見間違いでなければ。

 ものすごい勢いで増えている。

 

「こっちに固まれ! 僕が何とかする!」

 結局クゼは、そう叫ぶ他なかった。

 

 おおっ、と歓声が上がる。期待の目を向けられる。期待に応えられるほどの腕はない。クゼは思う。毎日講義に出て、あらゆる期待に応えられる腕を持つ人を間近で見ているからわかる。自分はそこまですごくない。

 

「全員揃ったか!?」

「おい馬鹿こっち来いって!」

「いや、ここは俺に任せて今のうちに――」

「黙らせろ!」

「はい、クゼ様っ!」

「連れてまいりました!」

「クゼ・ピクセルロード大魔法使い様っ!」

「何とかしてください、大先生!」

 

「ああ」

 

 だから、あえてクゼは皆の期待を一身に受け止めて。

 杖を振って、普通に裏切ることにした。

 

「『離れ小島の不思議な小鳥』」

 

 ふぉん、と全員の足元に青い明かりが浮かび上がった。

 は、と口に出したのはいつもの友人だけ。だからクゼは思う。多分その友人だけが知っているのだろうと。

 

 いま自分が唱えたのは、決して大量の魔法獣を処理できる大魔法ではなく。

 

 ただ全員を宙に浮かせるだけの、空中に魔法の足場を固定するだけの、中くらいの魔法であるということが。

 

「よし」

「…………え、」

 

 しばし、沈黙があった。

『離れ小島の不思議な小鳥』の効力を、クラスメイトたちが確かめるための時間。「まさかこれだけで終わるわけがないだろう」という思いが「まさかこれだけで終わりなんすか?」に変わるまでの時間。

 

「いや、ちょ――ごめん。言えたことじゃないと思うんだけど」

 口に出したのは、やはりいつもの友人で。

 

「下の方でハムスターが、すっげー勢いで素通りしてんだけど」

「ああ」

「仕様通り?」

「仕様通りだ」

「完全に学園に解き放たれてんだけど」

 

 ああ、とクゼは頷く。

 

「仕様通りだ」

 

 怒号が沸き起こった。

 

 クゼは両手で耳を塞いで、それをシャットアウトした。

 

「仕様通りでこれじゃ仕様ミスだろ!」

「どうすんだよ! 制御効いてねえんだろ!?」

「全員呪われる……」

「神の怒りだ……。人類がハムスターに支配される時が来たんだ……」

「てか何なのこれ? 全然意味わかってないんだけど」

「魔法の暴走っつってなかった? 誰?」

「やっちゃったなー、これ」

 

 そして割とすぐに収まった。

 こんなものだろう、とクゼは思った。パニックにパニックを重ねていけばとんでもない大パニックになるが、重ねなければ時間経過で解消される。足場の上で、少しずつ建設的に状況の把握が進んでいく。

 

「はいっ」

 友人が潔く手を挙げた。

 

「自分のせいです。理由は……あー、聞いた感じなんだけど――」

「君たち、魔法獣を作るときに魔法式の簡略化をしただろう」

 

 自分の非を認めるのが嫌というわけではなく、単に知識的な言い淀みだろう。

 そう判断したから、クゼはその先を引き継いだ。

 

「創意工夫の一環だったんだろうが、簡略化を完璧に扱うのは非常に難しい。相似体を高い精度で整える必要があるし、二次元的、三次元的な部分を揃えても、そこからさらにいくつかのチェックを通す必要が出る場合がある。複雑性の高い魔法獣の生成はその典型だ。『アーカーラの時間大定理』の証明過程で五次元軌道の相互復元性チェックが開発されるまでは、『魔法獣の生成式はワンオフで、性質を保ったまま加減・乗除の操作を行うことはできない』とすらみなされていた」

「…………そうなの?」

「今日の講義でクローバ教授が懇切丁寧に教えてくれた」

 

 沈黙が沈鬱に変わったのをクゼは感じた。

 とても丁寧で面白い講義だった、と追い打ちをかけてやろうかと思ったが、やめておいた。一撃で十分だろうとわかる程度には皆、一気に沈み込んだ。

 

「で、どうなんだ」

 静かになったから、そのまま畳みかける。

 

「明らかに魔法は暴走しているが、制御は無理なのか」

「無理っぽい。全然反応しねえ」

「魔力供給の遮断は?」

「無理。独立運用するつもりだったから、常時供給型じゃねえんだよ。みんなで魔力込めまくって作ったんだ」

「自然損耗率は?」

 

 訊ねて返ってきた数字を、クゼは頭の中で処理する。終わったな、と思う。この大惨事がではなく、この大惨事を自分たちで収拾できる可能性が。

 

「だあっ、くそっ! クゼ! なんか思いつかねえ!? 教員もみんな帰ってるだろうし、寮監はあれだろ。放っておいたらマズいし、いやもちろんこっちでも考えてんだけど、何かこう――畜生! もっと勉強しときゃよかった! 頼むよ、何か画期的な案を――」

「あるぞ」

 

 全員がクゼを見た。

 クゼは別に、誰のことも見返さなかった。

 

「このまま待つ」

「待ってどうなるんだよ」

「解決する」

「いや、だから教員だってもう――」

「クローバ教授がいる」

 

 瞼を閉じる。

 もうこうなっては仕方ない、と思う。さっき寮でナノ・カッツェ准教授が言っていたとおりだ。

 

 

 自分の身の安全を脅かすような行動に出るくらいなら。

 そのときはきっぱり心を決めて、潔く怒られなさい。

 

 

「さっき校舎の裏に、観覧車があった。あんなわけのわからないものを作るのはあの人だけだし――いつも夜遅くまで、学園に残ってくれてるんだ。僕たちの誰が、いつ勉強したくなってもいいように」

 

 

 

 

 

 魔法は間に合わない。

 だから気合で耐えるしかない。そう思ってナノ・カッツェは身を固くして、ぎゅっと瞼を瞑って、衝撃に備えた。

 

「…………?」

「へー。魔法獣。中等科の校舎で、こんなの作る子がいたんだ。……うわ。全然相似体の構成できてないし。禁止事項の勉強サボってるな、これ」

 

 けれど予想していたような衝撃はなく。

 近くでは、今日何度か聞いた声がする。

 

 恐る恐る、目を開けた。

 

「クローバ教授……?」

「こんばんは。カッツェ教務主任。トラブルですか?」

 

 驚くべき光景、としか言えまい。

 ナノはそれを目の前にしてもまだ信じられない。窓の外に観覧車が見えたのと同じくらいには夢のように思える。

 

 カピバラの大群が押し寄せてきたのは、夢ではなかった。

 ゆえに、今こうして衝撃を受けていないのには、怪我ひとつないまま地面の上にへたり込んでいるのには、現実的な理由がある。

 

 

 廊下の端から端まで、一瞬で結界に封鎖されていた。

 

 

 押し寄せてきた大群が、しかしものすごく緩やかな動きをしている。結界内部を緩やかな縛りの魔法が包み込んでいて、亀よりものろのろと動いている。あれだけいて、あれだけの勢いがあって、なのに全く脅威にならない。

 

 自分がやろうとしたとして、一体どれだけ精密な魔法式と膨大な魔力量が、そして人外染みた反射神経を要求されるのか。全く想像がつかないような、凄まじい魔法。

 

 それを成し遂げた若き魔法使いが、隣に立っている。

 まるで魔法など使っていないかのような涼やかで、あどけない表情のまま。

 

 その手にぎゅっと、カピバラを握って。

 

「クローバ教授。これは一体……」

「魔法獣の暴走みたいですね。とりあえずこれ以上流出しないように校舎は閉じて――」

「ミハロ。ディー・ヨドは?」

 

 言葉が途中で切れたのは、講義室の扉からもうひとり顔をのぞかせた人物がいたから。

 

 随分と背が高い――だからナノ・カッツェは、一目見てわかる。夕方頃、クローバ教授とともに自分の講義の聴講に来ていた人物だ。

 

 得体は知れない。

 けれど。

 

「お? そこに……ああ、もう行っちゃったみたいですね。あの人せっかちだから」

「いつも置いていかれる……。ここに持ってくればそれで大丈夫そう?」

「大丈夫そうです。私も後から行きますけど、有限増殖の性質持ちっぽいので、早めに集めてもらえると助かります」

 

 了解と右手を掲げて、その後こちらにぺこりと会釈して、去っていく。

 彼の颯爽とした動作は、どうにもこうした異常事態に慣れているようにも思えた。

 

「これ、心当たりあります?」

 

 去って行けば、カピバラをでんと突き出しながら、クローバ教授が訊ねてくる。

 だからナノは首を横に振って、どうにか言葉を紡ぎ出す。

 

「たぶん、一階の、」

 

 昔、この学園に通っていた頃を思い出しながら。

 

「隠し空間から出ているのだと思います。正確な場所はわかりませんが、これだけの数の魔法獣を作成するには、長期間誰にも見つからない、ある程度広い場所が必要になるはずです」

「隠し空間……。ああ、」

 

 外観と中身が揃ってないのはそれか、と独り言のようにクローバ教授は呟いて、

 

「一階っていうのは?」

「階段を下る途中では、見かけなかったので」

「なるほどなるほど……。了解です」

 

 んじゃ、と彼女はのろのろと動くカピバラの群れを見つめて、

 

「とりあえずそっちの様子を確認して、そのあと学園周りで追いかけっこかな。レトリシア・スディ!」

「私、あんまり走る気はないけど」

「お留守番をお願いします。三人でカピバラを集めてくるので、その封印用の部屋を立ててもらえると」

「動物園? 楽しみね」

 

 もうひとり、講義室から出てきて。

 そこでようやくナノは、それが誰なのかわかる。

 

「あと、こちらの方の避難もお願いしていいですか。同僚なんですけど」

「お安い御用。そちらの方、こんばんは。床は冷たいでしょう。手をどうぞ」

 

 近寄ってきて、黒い手袋を外してこちらに手を差し伸べてくれる彼女。

 伝説の賢者、レトリシア・スディ。

 

 連鎖的にナノは気付く。先ほどの青年の正体。それから昼、クローバ教授の教官室にいたもうひとりが誰なのかも。

 

「それじゃ私は行ってきます! また後で!」

「気を付けてね。ミハロ」

 

 片手を挙げて、風のようにミハロが去っていく。レトリシア・スディはこちらを見て、安心させるように薄く微笑む。

 

 恐る恐る、ナノはその手を取った。

 

「あの、」

「はい。どうかした?」

「何か、手伝えることはありますか」

 

 あまり必要もなさそうですが、と付け足したくなってしまったのは。

 世界を救うのと比べたら、それほど大変ではない問題かもしれないと思ったから。

 

 

 

 

 

「クゼー! 死ぬなー!」

「死んだ」

「本当に死んでそうな顔すんな! お前汗ヤバいし顔青いしどんどん黒目小さくなってるしマジでヤバいぞ!」

 

 二十一時三分。

 人には限界があるということをクゼ・ピクセルロードは知り、やはり学園というのは学びに溢れた場所だなあふざけるなよという気持ちになっていた。

 

 単純な話で。

 クラスメイトの全員を持ち上げるだけの魔力を延々捻り出していると、人はつらくなる。

 

「うわあああ! クゼさんの息が白く色付かなくなってる!」

「疲労のあまり体内温度が外気と同じレベルまで落ちてるんだ!」

「クゼくんしっかり! 君が死んだら私たちはどうすればいいの!?」

「落ちろ」

「クゼくんがやさぐれてる!」

「そりゃやさぐれるよこんなことに巻き込まれたら!」

「おい! この魔法、俺たちで引き継げねえのか!?」

「落ちろ」

「クゼくんがやさぐれてる!」

「これ講義でやったんだな俺たちがいないときに!」

「頼む、保ってくれ! クゼの身体!」

「落ちろ」

「あと僕たちを思いやってくれる気持ち!」

 

 もうそろそろいいか、という気持ちにクゼはなっていた。

 そもそも自分に全く責任がない。講義には毎回真面目に出てきて、ちょっとピザを三切れ食べにきただけでこの仕打ち。全く釣り合っている気がしない。この足場の魔法を解いてしまえば苦しみからは解放されるしこの勝手なことを言い散らかしている不真面目者どもは綺麗に落下してカピバラの頭突きを食らいまくって死に絶えるしで良いこと尽くめな気がする。気がしてきた。本当にそうだという気持ちになった。

 

「……クゼ」

 けれど、友人が。

 

「ごめん。巻き込んで悪かった」

「…………」

「なんか、いっつもこんな感じだよな……。ほんとごめん。振り回してばっかで」

 

 悲しそうな顔をしている気がしたから。

 それは本当にそうだ、と思いながらも、クゼは。

 

 あと一瞬くらいは頑張ってやるか、という気になって。

 

 

 

「えっ、見たことある顔ばっか」

 

 

 

 とうとう、今。

 一番聞きたい声を聞くことができた。

 

「ほんとに見たことある顔ばっかだ。えー……? カピバラの練り込みなんかは中等科離れしてると思ったんだけど。君たち――」

「せ、先生!」

「すみませんでした!」

「死にかけのクゼを助けてください! こいつだけ無実です!」

「え?」

 

 ミハロ・クローバ教授。

 クゼにとってはこの一年、ひょっとすると一番声を聞かせてもらった人が、カピバラ片手に無傷で、堂々とそこにいる。

 

 目が合えば、彼女は大いに笑って、

 

「あ、クゼくんがいたんだ! そっかそっか。で、その魔法は――うん。正面からじゃ厳しいから、上に退避したんだ。判断良いね! でも魔力量を考えると持久戦には向かないやり方になっちゃうから、もう一工夫できるとさらに良いね。足場は魔力以外で、たとえば床を捲って確保してみるとか。『魔法が上手い』っていうのは、意外と技術だけの話じゃなくて、物の見方も含んだ話だったりするからね。クゼくんの実力があれば、もう少し周りに目を向けてみるだけで劇的にやれることは増えるよ。今度の講義はそういう話も扱ってみようか」

「た、助か、り、ます――」

「先生! 次の講義までクゼを生かしてやってください!!」

「息の根が止まる前に助けてください!」

「え、うん。はいはい」

 

 大袈裟な、と言わんばかりの声音でクローバ教授は応えた。

 そして実際、彼女にとっては大したことではなかったのだと思う。

 

 パチン、とひとつ、指を鳴らした。

 

「あ……」

「クゼが生き返った!」

「息が白くなってる! 体温が戻ったんだ!」

「寒い」

「早速汗が冷えてる!」

 

 急に、力が抜けた。

 それはもちろん、クローバ教授があの一動作で『離れ小島の不思議な小鳥』を発動して、自分の魔法の肩代わりをしてくれたから。急に軽くなった感触に、反射的に魔法が解ける。割いていた分のリソースが一気に解放されて、体力も魔力も戻ってくる。

 

 足場の上で、顔を上げる。

 クローバ教授は汗ひとつかいていない。眼下に延々と流れ続けていたカピバラたちの動きが、凍ったように止まっている。増殖も止まっている。魔法獣を外側から、自分自身が使用者でもないにもかかわらず、完璧に制御している。

 

「全員大丈夫そう? 怪我とかあったら、パパっと治しちゃうけど」

 それでも彼女は、全く堪えた様子もなく。

 

 彼我の実力差に愕然とする。それと同時に――それほど年の変わらない魔法使いとしてはどうかと思うが――クゼは、安心もする。

 

 ああ。

 助かった。

 

「クローバ教授。私たちはこれからどうすれば……」

「とりあえず講義室に……って言っても、もうクゼくん以外わかんないか。一階の――」

「大丈夫です。僕が先導します。いつもの、今は観覧車の足元にある部屋ですよね」

「お、見てくれた!? めっちゃ良くできてない!?」

「見ました。めっちゃ良くできてました」

「でしょー! あれね、建てるだけなら意外と魔力を使わなくてもできるから今度クゼくんにも……って、急がなくちゃ」

 

 寮の方にも広がっちゃいそうだから、と彼女は踵を返す。半身で振り返りながら、少しだけこちらに視線をくれて、

 

「じゃあ、講義室に集合ね。カッツェ教務主任と私の友達が詰めてるから、もし何かあったらふたりを頼ってもらう形で。他に何かある?」

「教授はこれからどちらに?」

「追いかけっこ。全部追い詰めて、講義室に封印するから。他には?」

「ありません」

 

 じゃ、と彼女は言う。

 呪文を唱えると、走りやすいようにだろう、メキメキメキ、と音を立てて変身する。

 

「お気を付けて」

 

 クゼが声をかけると、彼女は頷いて応え、走り出す。

 稲妻のように早い。クゼはその背が見えなくなってもしばらく手を振り続けた。足音が聞こえなくなるくらいまでは少なくとも、ずっと。

 

「む、」

 手を下ろす頃になって気付く。

 クローバ教授が、自分たちに残していってくれたもののことに。

 

 薄青い『離れ小島の不思議な小鳥』――それが、自分の展開した範囲よりずっと長く続いていた。すごく長い。長すぎる、と言ってもいい。廊下のずっと向こうまで続いている。ひょっとすると講義室まで続いているのではないかと思う。これならカピバラが急に動き出しても決して怪我をすることはないだろうし、トラブルに巻き込まれる方が難しい。

 

 だから、クゼは立ち上がる。

 この魔法が解けないうちに――というより、教授が早くこの魔法を解除できるように、自分が先に立ってこの集団を安全な場所まで連れて行こう、と。

 

 思って、振り返る。

 

「みんな、講義室に――どうした?」

「……いや、今訊くことじゃないことかもしれねえんだけどさ」

 

 全員が全員、すごい顔をしていた。

 怪訝とか、衝撃とか、そういう言葉を絵に描いたり文字に書いたりしたような顔。歯に物詰まったとか、狐につままれたようなとか、そういう顔にも近い。

 

 あまり気の進まなそうな様子ながら。

 代表していつもの友人が、その表情の意味するところを教えてくれる。

 

 

「あの先生、いまティラノサウルスになんなかった?」

「よくなってるぞ」

 

 

 強いし、しかもなぜか速い。

 さあ行くぞ。

 

 魔法を解除したことでいつもの力強さと真面目さを取り戻したクゼ・ピクセルロードは、全員を先導して先を歩く。後ろからはやはり、怪訝な顔をしたままのクラスメイトたちがついてくる。

 

 結局。

 ミハロ・クローバの手にかかれば、この程度のトラブルは物の数にもならなかった。

 

 そのことを知るまであと十二分。

 そんな二十一時五分を、彼らは歩いた。

 

 

 



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8話 終わり

 

 

 二十一時十七分。

 事態は完全に収拾がついたが、大騒ぎになったことだけは覆しようがなく、学園の校舎周りは普段のあの奇妙な静けさや重苦しさから解放された、少なくともミハロ・クローバが教授に就任して以降で最大の賑わいを呈していた。

 

 学園中の人間がここに集っているのではないかと思われた。なんだなんだ、と野次馬のように次から次へと寮から出てきて群がり始める。捕獲したカピバラの数より見物人の方が数が多いかもしれない。それくらいの人数が中庭、レトリシア・スディの手で四方を区切られた拡張封印空間の周りに集って、それこそ動物園よろしく中に押し込められた魔法獣のカピバラを珍しがって見つめていた(あと「こっちは本当に何これ」と言いながら観覧車を見上げていた)。

 

「とりあえず、」

 そんな中、ミハロは。

 

「一旦これでカピバラ集めは終わりです。皆さんご協力ありがとうございました!」

「どういたしまして!」

「私はここで待ってただけだから、気にしないでね」

「意外に楽しめたな。結構出来が良いんじゃないか、あの魔法獣は」

 

 中庭に面した講義室の一角。

 いつもの講義で使う部屋の隅で、捕獲に付き合ってくれた三人に礼を言っていた。

 

 外はがやがやと騒がしいものだから、窓硝子を一枚隔てただけのこちら側の静けさが際立つ。壁に掛けられた時計は、いつもだったら誰にも見せないような夜の時間を指し示す。入れない場所に入ったような感覚。少しだけ、夢の中にいるような感覚がミハロの中にある。いつもならもう入浴したりなんだりと就寝の準備をしている時間帯だから、微かな眠気もある。適度な運動までしたから、なおさら。

 

 で、とディー・ヨドが言うのを聞いて、その眠気が少し晴れる。

 

「どうするつもりなんだ。ここからは」

「どうしよっかなー、って感じです。片付くことには片付いたし、別に安全終了をかけて終わりにしちゃってもいいんですけど、時間をかけて用意しただけあって内蔵魔力量は大したものなんですよね。レトリシア、結界はこれ――」

「必要なら一晩くらいは張っていてもいいけど。大した出力でもないし。でも、二日三日になると飽きちゃうからダメ」

「十分です。いつもありがとう。……うーん。折角だから即廃棄より、もうちょっと有意義な使い方をしてみようかなって気も――」

「そっちじゃなくて」

 

 話を途中で止めてきて。

 ディー・ヨドは、ちらり、と。ミハロにだけわかる程度に視線を動かして、囁いてくる。

 

「向こうの話だ」

 視線の先では、保護した学生たちが行儀よく座っている。

 

 座らせるのはすごくスムーズだった。彼らを迎え入れる係をしてくれたレトリシアはそう証言した。適当でいいから座っておいてと告げたところ、本当に全員スムーズに座った。今どきの子は散らばって座るのが上手い。テキパキしている。そういう講義もしているの? していないし、それにもちろんミハロは知っている。それは別に譲り合いの精神がどうだとか効率がどうだとか、ましてや上座と下座がどうだとかそういう話ではなく、全員が全員、定位置を知っていただけなのだ。

 

 夏学期の頃は。

 全員ここで、大人しく講義を受けていたのだから。

 

「お前の受け持ちの学生たちなんだろう。何か指導とか、説教をする場面なんじゃないのか」

「え、」

「なんだ」

「話しましたっけ、私。この子たちみんな受け持ちの生徒だって」

「いや、偏見で言った。問題を起こしたということはお前の担当する学生なのだろうな、と」

 

 怒るかどうか微妙なラインだ、とミハロは思った。

 純粋に性格から類推されている可能性もあるけれど、今日半日を「学生が全く講義に出ない」という話に付き合わせ続けたことから類推されたとすると、全く妥当な予測である気がする。一旦見逃してやるか、とミハロは思った。

 

「……説教。……どういう……?」

 見逃してやるから相談に乗れ、とも思った。

 

「どういう感じのがいいと思います? 説教マスター。なんかこう、いい感じのを伝授してください」

「ミハロ。少なくとも説教マスターだと認識してる相手に説教の仕方を教わらない方がいいよ」

「仕方ない。説教の仕方を説教してやるか……」

「ちょっと待って。私がその前に説教の仕方の説教の仕方を説教マスターに説教すれば説教説教マスターマスターになるってこと?」

「なんて?」

「その言葉って一回真ん中で分離してから左右で挟み込むんですか?」

「二連撃の変形か? これは」

「あ、全部二回言えばいい感じですか?」

「嫌だろ。全部二回言ってくる説教は」

「強いんだろうね。伝えようという意思が」

 

「――あの、」

 そんな風に話していると、不意に。

 

 声をかけられて、ひとりの学生が席を立ってこちらに近付いてきていたことに気が付いた。

 

「クローバ教授。本当にありがとうございました。それから、ご迷惑をかけてすみませんでした」

 

 深々と、頭を下げられて。

 あれ、とミハロは思う。見覚えのある顔で、ちゃんと何となくの雰囲気まで覚えている学生だったから。

 

 宿題は全然やってこないし、ノートは取らないし、その割に全然自主学習もしていないし、自己評価の割に実力が伴っていない、そんな感じの学生。裏で自分のことを「あいつ」とか呼んでいるタイプ。

 

 こんなに殊勝に頭を下げる印象はなかったな、と思えば。

 ぼそぼそと、耳元のあたりでディー・ヨドが。

 

「……一般的にはな……人は自分の身の丈を超えた失敗をすると……怖くなって急に……自律心が芽生えたりするんだ……」

「……そうなの……? ……私は全然……」

「……お前は……身長がでかすぎる……観覧車くらいある……」

 

 悪い気はしなかった。

 

「今回の魔法獣の暴走は、全部自分のせいです。特にクゼ・ピクセルロードは無関係で――」

「え?」

 

 驚いてミハロは、目の前の学生から視線を動かした。

 動かした先はもちろんクゼ・ピクセルロード。「まあ、そうと言えばそうです」という調子の顔をしている。もう一度、今度は深く驚く。

 

「クゼくんなしで魔法獣を作ったの? 独学で? 他のクラスの子も混じってないのに?」

「は、はい」

 

 えー、と思って、ミハロは。

 

「やるじゃん」

「――え、」

「形取れてるよ。関節も全体的にスムーズだし。夏期末のときは立体問題ほとんど落としてたよね。勉強した?」

「あ、えと、」

 

 はい、と学生は頷いた。

 いやでも、と。後ろを振り返った。みんなに手伝ってもらって――あ、違う。全然その、いや、なんつーか。おい水臭いこと言うなよ。そうだよ、私たちだって手伝ったよ。ノリノリだったよ。先生、俺たちも悪かったんです。今までのことも含めて、本当にすみませんでした。ありがとうございました。

 

 へー、とミハロは思った。

 そうかそうか、とも思って。

 

「じゃあみんな、講義に出てない間もちゃんと勉強してたんだ」

「……はい。というか、講義に出なかったのは――」

「そ! じゃあいいよ!」

 

 にっこりと笑う。

 素直に、嬉しくなったから。

 

「ちゃんと勉強してるなら良いよ! 話を聞いてるより手を動かしてる方が楽しいって気持ちはわかるし! 自主的に勉強して、実作まで持っていってるんだから言うことなし! それはそれでえらい!」

「え? ……え――」

「でも危機管理が甘いのは純粋に危ないから、それだけは好奇心とは別枠で先に身に着けた方がいいね。教科書だとそういうのをまとめたページがないから――」

 

 どうしようかな、言うことなしって言ったけど言うことあったな、とミハロは思う。頭の中に、様々な要素が浮かんでくる。

 自主的に勉強するようになったのは喜ばしい。だったらその危機管理に関する文献を紹介するだけでもいい気がする。けれどディー・ヨドが「指導……責任……」とおどろおどろしくも小さな声で呟くから、いやもっとかも、とも思う。責任を持って自分が教え込むべきなのかもしれない。しかし思い返してみればそもそもそれができれば、つまり自分が頭から尾っぽまできっちり教え込める環境があれば最初からこんなトラブルは起こらなかったわけで、そう、即ちこの学生たちが明日もこの殊勝な態度を保って講義に出てくるかどうかについての信頼がどうたらこうたらという話になるわけで、だから遊園地をここに――

 

「…………」

 と、思いながら。

 

 ミハロは遠く窓の外、高くそびえる観覧車を見上げて考える。

 

「やっぱ、罰ゲームね」

「ば、……つゲーム?」

「そ」

 

 使うなら、

 

 

「罰として、遊園地を作ってもらおうかな」

 

 今か、と。

 

 

 

 

 

「…………なあ、クゼ」

「さっきから手より口の方が動いてないか?」

「いや頑張ってるよ! 頑張っててこれなの!」

「そうか。すまん」

「いや……手が遅いのは事実だしいいんだけどさ。…………」

「…………」

「…………なあ」

「手」

「何やらされてんの? これ」

「イルミネーションの設計と実装」

「なんで?」

「勉強」

「クゼさーん! ジェットコースターの安全帯の設計なんですけど――」

「……こことここ。数字が違う。素直に計算ミスだ」

「クゼくん! メリーゴーラウンドのモデルにする馬の種類って――」

「さっき教授に生物図鑑を……あ、向こうで使ってるな」

「クゼ! お化け屋敷なんだけど――」

「怖くない方がいい」

「いや――」

「怖くない方がいい。……よし。それでいい」

「…………」

「…………」

「……あ、これ上まで届かね……」

「大丈夫? 高いところは危ないから、僕がやるよ」

「あ、すみません」

「全然! 気にしないで、何かあったら言ってね」

「オルキス。ジェットコースターの方の連結も手伝いでやってしまおう。力技だ」

「りょーかーい。……でも、力技でいいの?」

「さあ」

「…………」

「…………」

「…………」

「……なあ、クゼ」

「ん」

「なんで、手伝ってくれてんの。お前関係ないじゃん、この罰」

「なんでって……だって、」

「だって?」

「楽しいだろう。これ」

「…………」

「…………」

「…………うん。まあ、そうだけど」

「だけど?」

「…………そう、っすね」

 

 よし、と。

 白い息を吐きながら、小さく呟く。

 

 

 

 

 

 茫然と、ナノ・カッツェは目の前の光景を見つめていた。

 冬の夜の、夢のような光景。じっと。寒風に吹かれて、剥き出しの頬が赤くなることだって厭わずに。

 

「あ、あの~……。カッツェ准教授、今、時間大丈夫ですか……?」

「っ、はい。どうしました」

「ここ、教えてもらってもいいですか……? 低級相似体で成功した後のスケールアップで、ここの三番目の操作がよくわからなくて」

 

 ああ、ここは、と。

 差し出された専門書を指差しながら、ナノは答える。省略化されていますが、分解公式の基本形が適用されているだけで、丁寧に読み解いてみればいいだけの箇所です、と。

 

 わかりました、ありがとうございます!

 そう言って学生が離れていく。訊いてきちゃった、と元気に笑って、友人たちの輪に入っていく。その背をナノは見つめている。

 

 こんなことがあるのか、と思う。

 

「教務主任」

 今度は、知っている声で話しかけられた。

 

 だからナノは、予想しながら振り向く。予想通りの顔がある。

 

 ミハロ・クローバ教授。

 

「今、学生の質問に答えてもらってましたよね。すみません、時間外なのに」

「いえ、気にする必要は……クローバ教授。今、よろしいですか?」

「はい。大丈――そこー。なんとなくで魔法を完成させない。自信がないときはちゃんと防護壁張る。面倒でも徹底して、魔力量もちゃんと鍛えるようにしてー。……すみません、」

 

 大丈夫です、の言葉は、向こうから返ってきた「わかりました」の声にほとんどかき消されてしまう。そのくらいには、活気がある。

 

 ついさっきナノがこの事態について、集まってきた学生や寮監、さらには守衛に説明している最中のことだった。

 

 ぞろぞろと、校舎の中から学生たちが連れ立って出てきた。その中にクローバ教授の姿もあった。ナノはてっきりこう思った。ああ、注意が終わったのだろう。自分も今日のところは魔法獣用の結界作りの補助に入ったりなんだりで著しく疲労した。今日のところはこれで解散に――

 

 と、思っていたら。

 

 

「今から遊園地を作るんですけど、気にしないでください」

 一言、クローバ教授が言って。

 

 

 あとはそのまま、流れのとおり、茫然と。

 

「何のために、これは……?」

 していたから、ナノは訊ねた。

 

「あと、そもそもこの観覧車は一体……?」

「ちょっと色々ありまして……」

 

 語れば長くなる話なんですが、とクローバ教授は言う。

 だから論文みたいに結論から、とも言う。

 

 

「学んでもらおうと思ったんです。これから『自分で学ぶときに必要になること』を。重点的に」

 

 

 それは、とナノは思う。

 禁止事項のことなのだろう、と。

 

 見ていてわかった。クローバ教授は学生たちをいくつかの班に分けた。ジェットコースター。メリーゴーラウンド。お化け屋敷。イルミネーション。そしてその後、彼女はこう言った。

 

 好きに作ってみて。

 横から、鬱陶しいくらいに口出すから。

 

 実際のところ、彼女の口出しはほんの最小限のことだったけれど、そのどれもが的確だった。

 学生たちが設計を考える。実装を始める。その経過の中で、踏んでいる禁則事項があったら丁寧に指摘する。物によってはミニチュアのスケールで再現して、それによって発生する問題をその目で確かめさせる。

 

 学生はさらに創意工夫を始める。

 遊園地という『利用者の安全を第一基準とする施設』を建造していく中で、何がどういう理由で禁止されているのか、理解を深めていく。

 

 理想の教育のことを、ナノ・カッツェは思った。

 かつて目指して、諦めてしまったそれのこと。

 

「別に私は、今回のはそこまで大きな失敗だと思ってないんです。実際、監督者がちゃんとついていれば大した問題じゃないし。それよりも自分で何かをしようとしたことの方が、自分から何かを学んで、それを形にしようとしたことの方が、ずっと重要だと思ってます」

 

 澄んだ声で、クローバ教授は語る。

 見物人たちから声が上がる。先生、俺たちも参加していいですか。いいよー。たったその一言で、ここに集っていた野次馬たちが一斉に『学ぶ人』に変わっていく。お互いがお互いに教え合う。間違いがあれば、あるいは正解があれば、教員たちまでがそれに混ざって学びに向き合っていく。

 

「だったら、頭ごなしに叱り付けて禁止するより、『こうすればよかったんだよ』って教えてあげる方がいい。ただ教えて終わるよりも、『じゃあまた自分でやるときはどうすればいいんだろう』をじっくり、安全に考えられる場所を提供してあげた方がいい。一生私が傍に付いて教えてあげられるわけじゃないし、絶対にどこかでは自分の力で学び始める時が来るから。その日のための準備をしてあげたくて」

 

 それで目の前に、ちょうどいい教材があったので。

 それに作りかけで、なんだかもったいなかったし。

 

「それは、」

 そう言ってはにかむクローバ教授に、ナノは。

 

「それは――」

 昔のことを、思い出している。

 

 前職。医薬品の研究開発をしていた頃のこと。後輩たちの世話をすることで感じ始めた、教えることの喜び。これまで知らなかった自分の側面。自分より、他者の成功の方を嬉しく思うこと。その思いのままに飛び込んだ、全く新しい業界。教育現場。

 

 理想と現実のギャップ。

 別に俺たち、勉強がしたくてここに来てるわけじゃなくて――

 

「教務主任」

「っ、すみません。少し、考え込んでしまって」

「いえ、それだけならいいんですけど……」

 

 あの、とクローバ教授は声を潜めて、

 

「泣いてます?」

「いえ。泣いていません」

「そうですか?」

「ええ。全く」

 

 強がりを言って。

 瞼をきつく瞑って三秒。強がりを、本音にして。

 

「ただ、僭越ですが少しだけ。全く叱らないというのも、よくありません」

「う。……そうですか? もう反省してるからいいかなって……」

「意地の悪い言い方かもしれませんが、見た目からは本当に反省しているかわかりません。それにその反省がどれだけ正確かも。今回の場合は、その正確性に対するフォローアップはできているようですが、」

「よしっ」

「わかりやすい叱責のポーズは、問題の存在や程度を明らかにする効果もあります。『あの程度で済んだんだからもう一回』は、重なっていくとひどいことになりますよ」

 

 えぇ、とクローバ教授は言う。

 時には必要なことです、とナノは言うが、しかし思う。ひょっとすると、彼女にとってはそうではないのかもしれない。

 

 目の前に広がるこの光景。

 学生たちがその楽しさを感じながら魔法に取り組む、夢のような光景を見つめながらでは。

 

「ジェットコースター、できました!」

「お化け屋敷も終わりでーす!」

「メリーゴーラウンド、まだ手こずって……。あ、嘘。ここ計算ミス? ……すみません、いけました!」

 

 次々に、報告は上がっていって。

 最後に控えていた班も、周囲の助けを借りて、ようやく。

 

「イルミネーション。終わりました。……終わったんですけど」

「けど?」

「魔力源の確保が……。一応、クゼがやってくれれば三秒は点くんですけど」

「死にます」

「そうなるとここにいる人間の魔力を合わせてもそこまで長い間は点灯できない計算になっちゃって……。すみません、見当付いてないです」

 

 ふふ、とクローバ教授は笑った。

 

「そうかな。折角作ったものなんだから、自信を持ってあげればいいのに」

「……? 何に、ですか?」

「カピバラ」

 

 彼女は言った。魔法獣たち……ついさっきまで、そして今でも、遊園地を作る人々の足をゆっくりと動き回っていた、今や彼女の魔法の力で無力化されたそれらを指して。

 

「これ、使っちゃってもいい?」

「いい、ですけど」

「ありがと。有効活用させてもらいます。レトリシア・スディ!」

「制御? それとも供給パスの方?」

「パスの方をお願いします」

「お安い御用。そちらの方も、よければ一緒にどう?」

「……私ですか?」

「ええ。ほら、ちょっと仲良くなったから」

 

 指名されて、ナノ・カッツェはレトリシア・スディの隣に。何をするんですか、と訊ねる。教えてもらえる。

 

 絵面を想像して、ちょっとだけ噴き出す。

 

「牽引用で考えてたんでしょ?」

 クローバ教授が杖に魔力を込めながら、学生たちに問い掛ける。

 

「小さい割にパワーが強いから。魔法馬車を引く馬の代用にして、今まで以上に場所を取らないとか、そういうアピールをするつもりだった?」

「は、はい。……それでその、銀行から融資を受けて、事業を興せたらな、って」

「もうちょっと時間はかかりそうかな。あそこ、結構細かく見るから。今回の設計から不具合が取り除けても、生成コストとか実際の使いどころとか、細かいところを詰めていかないと」

 

 でも、本質はそこじゃなくて。

 

「自分で作ったものの使い道を、自分で狭めちゃうのはもったいないかもね」

 

 一、二、三。

 音楽を鳴らすように、彼女の杖の先が降られる。

 

 ぱっ、と光った。無数のカピバラたちが光の粒に変わっていく。そしてその光の粒が寄り集まっていく。数が数だから、すごく大きい。とても自分では制御できない量だ、とナノに思わせるくらいに大きい。

 

 その大きいのが。

 四、五、六、で形を取り始める。

 

 途方もなく大きな、カピバラの王として。

 

「……見ていると、思い出すな」

「ヌゴプロ?」

「お前、そんな略し方してるのか」

「昔の話をするとき不便じゃない? どうしてる?」

 

 ふたりの男が、そんな会話をしているうちに。

 七、と杖が振られる。どしーん、どしーん、と地を揺らすような重々しさでカピバラは動く。動いて、そこにすっぽり収まる。

 

 観覧車の中。

 まさか、と。そのとき半分くらいの人間が予想して。

 

 もう半分は、多分もう、笑ってしまっていたと思う。

 

「さ、供給路を」

「はい」

 

 八。最後の一振りを彼女が終える。

 そして、予想通りのことが起こり出す。

 

 

 カピバラが、観覧車を回し始めた。

 

 

 滑車を回すハムスターのごとく、一心不乱にカラカラと。すごい勢いで。だからナノも負けていられない。レトリシア・スディとともに、その運動を魔力に変える。観覧車の底に取り付けられたケーブルを介して、この中庭の、小さな遊園地全体にいきわたらせる。

 

 ぱち、とひとつ点いた。おお、と歓声が上がった。

 ぱちぱち、とふたつ点けばさらに歓声は大きく。ぱちぱちぱち、と点けば。

 

 

 もう、止まらなくて。

 光の庭と大歓喜が、夜の学園に現れた。

 

 

「さ、アトラクションを試してみてください。自分たちがどんなものを作ったのか、その目で確かめてみましょう!」

 

 それから先のことについて、少しだけ記しておく。

 学園に存在する、不思議な行事の話だ。

 

 それは冬に行われる。なぜ冬なのかと訊ねられれば、多くの現役学生はそれに答えられない。妙に歴史に詳しい者だけが、さも当然の知識かのようにこう答える。最初にやったのが冬だったからだよ。そして、ではなぜ最初にやったのと同じ時期にいつまでもやっているのか冬は寒いぞわかっているのか正気なのかと訊ねられ、うーん……と困りながら相槌を打つ。

 

 学生たちの、自主性を育むためのものなのだと言う。

 一番最初は、夜に行われた。けれど当然、夜になってまで学生を活動させるのは治安上よろしくないことだから、そのうちそれは昼に、やがては朝から晩まで、二日にわたって行われるようになった。何か実現したいアイディアを学生たちが持ち寄って、それを叶えるために様々な魔法的課題に取り組んでいく。

 

 様々なドラマがある。

 クラスやクラブの結束を試されることがある。準備の中で絆を深めて、親友や恋人になることもある。ずっと俯いて過ごしていた引っ込み思案が、研ぎ続けた力を発揮して、「自分はここにいる」と叫ぶこともある。喝采も挫折も、全てが起こる、奇妙で輝かしい時間。時を経るにつれてそれは、一番最初にあった華やかさに加えて、あまりにも様々な顔を持ち始めたから。

 

 

 やがて、こんな風に呼ばれるようになる。

 文化祭、と。

 

 

 ナノ・カッツェは、それを見ていた。

 初めての文化祭に立ち会った教員として。それを語り継ぎ、行事として確立していく者として。

 

 自分たちが学んだものが、何かに活かされていくことを知る。

 自分たちが『何かに影響できる』と知っていく若者たちの顔を、見つめていた。

 

「カッツェ教務主任。供給の方、変わります。ちょっとこれじゃキツめに――」

「クローバ教授」

「はい?」

「あなたがここに来てくれて、良かったです。心から、そう思います」

 

 

 二十二時十八分。

 それはこれから長く長く続く学園の歴史に新たな、そして非常に重要な一行が書き足された瞬間のことであり。

 

 同時に少なくない数の若者たちが、これからの一生を共にする魔法を、心から好きになった瞬間である。

 

 その一瞬があっただけで、それはどうしようもなくかけがえのない夜であり。

 この瞬間のためだけにこの一日があった、と締め括ってしまってもいい。

 

 だから。

 その後にミハロ・クローバ教授が「じゃあ後片付けも兼ねて、やっちゃいけないことを全部やるとどうなるかも見てみようか!」と全てを爆発させ、後日、順当に学園を解雇になったことなどは。

 

 まあ、別に。

 そんなに、重要なことではないのだと思う。

 

 

 



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エピローグ(終)

 

 

 お疲れさまです、と正門で守衛に頭を下げて、自転車のまま昼の学園構内に乗り込んでいく。

 

 寮の前に着く。軒下で止まる。降りてスタンドを立てる。鍵をかける。寮生たちの持つ良心への信頼が一切ないのか、ぱちぱちぱち、と立て続けに七個くらいかける。前カゴからカバンを取り出す。肩にかける。カバンのさらに下に大切に封印していた本も取り出して、小脇に抱える。

 

 眼鏡の位置を微調整しながら、寮の中に入っていく。

 談話室の机に突っ伏して死んでいる人間を見つける。

 

 無視するか一歩分の迷いが生じて、結局戻って、その横で手持ちの本の朗読を始める。

 

「……やめろ。頭が良くなる」

「良いことだと思うが」

「……これ以上良くなると、困る」

「どう困るんだ」

「……なんだっけ、あれ。脳がデカすぎて爪が見えないみたいなやつ」

「もうちょっと頭が良くなっても困らないと思うぞ」

 

 要らんて、ともう一度言われればしつこくはしない。

 クゼ・ピクセルロード――直方体の少年は、その机の上に突っ伏した友人の、対面の席に腰を下ろした。

 

「また行き詰まってるのか」

「……銀行に、午前中行ってきてさ」

「ああ」

「……特許申請した方がいい、って言われた。それで事業計画書をちょっと直せば、融資はしてくれるって。んで、学園もそのへん、ある程度転んでもフォローしてくれる制度を整えてくれてさ」

「良かったじゃないか」

 

 俯いていたのが、上を向く。

 じろり、とこちらを睨んでくる。

 

「……で、肝心のその目的が学園からいなくなってるのはどういうわけなんだ?」

 

 クゼはその視線を受け流した。

 後ろに誰かいるのだろうか、という顔で振り向いた。実際いて、「おす」「やあ」というやり取りをした。「お前だよ」という意見が友人から飛んできたので、前を向き直した。

 

 カバンの中から水筒を取り出す。

 残ったお茶をコップに入れながら、落ち着いてクゼは答える。

 

「だから言っただろう。いつまでもいてくれる保証はない、と」

「どこの世界に遊園地を爆破して学園をクビになる世界最高の魔法使いがいるんだよ」

「ここ」

「なんなんだよこの世界」

「嵐のような人だからな。嵐のようにしか生きられないんだろう」

 

 残念ながら、と。 

 残酷なことを、クゼは言う。

 

「最初から真面目にやっていた僕が、一番良い目を見たということだ」

「…………い、」

「い?」

「異論ねえ~~~~~~~よ……畜生……」

 

 はぁああああ、と長く深い溜息を吐く。クゼはそれを見ながら本を広げる。特にこの時期に準備すべき試験はない。だから好きな本を、好きなように読むことができる。

 

 しばらくして、友人は顔を上げて背表紙を見つめている。

 

「それ、何の本? 掠れて読めねえ」

「恐竜」

「は? ズル」

「ズルくはないだろ」

「いやズルだろ! そんな古っぽいのは絶対――」

 

 言葉が途中で途切れる。何だろう、とクゼは思う。友人が自分の服の袖に顔を押し付け始める。察して、カバンを自分の顔の前に掲げる。

 

 ガード。

 はっくしょん。

 

「わり」

「花粉症か」

「は? いや、違うね。花粉症になんかなるわけがない」

「根拠は?」

「なってたらつらすぎるから」

「それは、」

 

 願望だろ、と言いかけて。

 クゼは自分の服の袖に顔を押し付ける。察して、友人は自分の顔の前で両腕をクロスする。

 

 ガード。

 はっくしょん。

 

「ははは。お前も花粉症仲間だ」

「自分の花粉症を認めてるが、大丈夫か」

「ダメだ。腹も減ってるし。動く気力もねえし」

「腹が減るか動く気力をなくすかどっちかにした方がいいな」

「どっちにもしたくねえよ」

「それは……あ、」

「ん」

「ピザ。買ってきてやろうと思ったのに忘れてきた」

「買ってこいよ」

「時は戻らない」

「じゃあせめて『忘れてきた』とか言うなよ。余計腹減るだろ。失われたピザへの欲望を自覚させるな」

「わかった。すまん」

「いいってことよ」

「…………」

「……ピザ食いてー」

 

 ああ、とクゼは頷いた。

 じっ、と友人は、本の背表紙を見ていた。

 

「……魔法獣さ」

「ああ」

「恐竜にしたらウケるかな」

「内輪ウケはすると思うが」

「いや、顧客ウケ」

「ありえなくはないんじゃないか。カピバラより力強いし、見た目の可愛さに由来したクレームは減りそうな気がする」

「作ってみよっかなー」

「恐竜の実物を見つけてくるところからだな」

「だな」

「ああ」

「…………」

「…………」

「…………なあ」

「ん」

「恐竜になれたりしねえ?」

「半分くらいなら」

「何に?」

「トリケラトプス」

 

 トリケラトプスかあ、と友人は呟いた。

 トリケラトプスだ、とクゼは次のページを捲り、トリケラトプスの解説を読み上げ始める。

 

 

 今度は、誰も止めたりしない。

 

 春休みだった。

 

 

 

 

 

 きゅっ、と綺麗に短い音を立てて自転車は止まる。この間しっかり分解して組み立て直した甲斐があった。降りて、満悦の顔で自分の自転車を見降ろす。スタンドを立てる。世界全体に対して無邪気な信頼を持ったままここまで生きてきたのか、一体どれほどの善性を内に秘めていればそのようなことが可能になるのか、鍵をたった一個しかかけずにその場を後にする。

 

 外壁をぐるっと回る。このあたり、と壁の煉瓦の特定のひとつを見定めて、三回ノックする。ごごご、と音を立てて壁の中に扉が現れる。そのまま立って待っていると、「あ、」という声が聞こえてくる。さらにそのまま立って待っていると、がちゃり、と目の前の扉が内側に開く。

 

「カッツェさん! お久し――あだっ」

「大丈夫ですか?」

 背の高い青年が出てきて、扉の鴨居に頭をぶつけてガコンと仰け反る。

 

 いてて、と彼は額を押さえる。ちょっと涙目で「大丈夫です」と答える。その後「やっぱり市販の扉じゃなくてミハロに特注してもらえばよかった……」と本音も零す。

 

 けれど、彼はすぐに持ち前の爽やかさをを取り戻して、

 

「お久しぶりです、カッツェさん! え、なんか今日、すごいお洒落な恰好ですね。サングラス似合う~」

「お久しぶりです。実は、学園の方で期末試験の採点と講評が終わりまして。これから旅行に出るつもりなんです」

「旅行! 良いですね! 王国にだけは絶対に行かない方がいいですけど」

「恨みが……?」

 

 あはは、と青年は笑った。それ以上は何も言わずに「今日はミハロに?」と話題を切り替えた。怖かったのでそのまま切り替えに乗って、「ええ」と答えた。

 

「奥にいますよ。一緒に行っちゃいましょうか」

「ありがとうございます。お仕事のご迷惑でなければいいんですが」

 

 大丈夫ですよ、と言われてそのまま先へ案内してもらう。

 何度来ても慣れない、と思う。内部が完全に魔法迷路になっている。学園にもこういう場所がいくつかあるけれど、その中でもレベルの高いものが延々連結されたらこうなるだろうか、という風情。よく平然と歩けるものだな、と思うけれど、以前に訊いたところここを平然と歩けるスタッフは全員で四人、おっかなびっくり歩けるのがアルバイトの学生のもう一人しかいないと言う。

 

「じゃ、ここで」

 がちゃり、と先を行く青年が扉を開く。

 

 中で待っていてください。そう言って彼はソファに座ることを勧めると、部屋を去っていった。勧められたので座る。屋内だからサングラスは外す。手持無沙汰になる。傍らに置いた手土産を取る。中を確認する。包装されているから何がなんだかわからない。手土産を戻す。

 

 膝の上に手を置く。

 がちゃり、と扉が開いて、人が入ってくる。

 

「ナノさん! お疲れさまです!」

「お疲れさまです。お元気ですか」

「はい! 今日は午前中に薬をひとつ完成させた後、空中で完全にリールから外れて三回転するジェットコースターを作りました!」

「危険なのでは……」

 

 言いながら、「しかし彼女なら危険対策もしているのだろうな」と微笑む。その後「いや彼女なら危険対策をしていない可能性もあるのではないだろうか?」と不安が首をもたげてくる。そんな不安をよそに「わ、お土産だ! いつもありがとうございます!」と彼女は無邪気に言って、近寄ってくる。「開けてみていいですか?」と訊ねてくる。自分も気になっていたから、「もちろんです」と答える。

 

 どこから開けるんだろう、と包装を裏に表にひっくり返しているのが、学園を追われ遊園地の主となった異端の天才魔法使い。ミハロ・クローバ。

 

 破ってしまっていいですよ、とプライベートでも合理性を発揮して包装をビリビリにし始めているのが、異端の天才魔法使いが残した担当学生たちをごっそり後任として預かることになった悲劇の魔法学園准教授。ナノ・カッツェ。

 

「お茶だ! 早速淹れてみてもいいですか?」

「ええ。ぜひ」

「ありがとうございます! ちょっと行ってきますね!」

 

 がちゃり。彼女がお茶の箱を大切そうに抱えて部屋を出ていく。がちゃり。手ぶらで戻ってくる。

 

「どうしました?」

「部屋を出たところで謎の男に遭遇し、『大人しく接客をしていろ』と全てを奪われました……。たぶん後でクッキーも付けて返済されてきます……」

 

 予想はそのとおりで、その後扉がノックされる。ミハロが開ける。ふたり分のお茶と茶請けをトレイに載せた男が入ってきて、優雅な動作でそれをテーブルに置いてくれる。「いつもお世話になっています。ごゆっくり」と丁寧に挨拶してくれて、その後静かに部屋を出ていく。

 

 その背中を、じっとミハロは見つめて。

 

「一貫して猫を被っています」

 辛辣なコメントをする。

 

 ナノがカップに指を触れれば、同じテンポでミハロもカップを手に取った。ナノは慣れた手つきでそれを唇に運ぶ。ミハロは勢いが良すぎたのか、あち、と一瞬顔を歪める。それから「美味しい」と破願する。

 

 あ、と気付いた顔をした。

 

「もしかして今日、期末試験の」

「ええ。結果が出たので、報告しに来ました」

「その恰好ということは……?」

「はい。めでたく全員合格で、春期休暇中の追試もなし。もう少し季節が巡れば、高等科一年生です」

「おお~」

 

 ぱちぱち、とミハロは拍手する。

 拍手してから、「いや拍手ではないな」と気付いたような顔をして。

 

「その節は、大変ご迷惑をおかけしました……」

 

 ふ、とナノは笑う。もう一杯お茶を飲む。自分で選んできただけあって美味しい。心が休まる。

 

「本当にあれは迷惑でしたが……」

「肩、揉ませていただきます」

 心が休まってなお、その感想は出てくる。

 

 別に肩は良いです、とナノは言う。そうですか、とミハロは浮かせかけた腰を再び下ろす。落ち着かなそうにそわそわする。揉んでもらった方がかえっていいか、と思うから、やっぱりお願いします、と言う。彼女はぱっと顔を明るくする。愛嬌があり、犬などに似ている。

 

「いや、本当にお世話になりました……。教授会でも庇ってもらって……」

「庇い切れませんでしたが」

「庇い切れないほどの失態すら庇う姿勢を見せていただいて……」

 

 頑張ったのは確かだ、とナノは思う。

 あの場にいて止められなかった自分にも責があると思い、教授会での彼女の弁護を買って出た。動機が「二十二時を過ぎるといつもあんな感じに」だったのには絶句した(し、絶句の勢いのまま烈火のごとく説教もしてしまった)が、校舎それ自体にダメージが入ったわけでもなかったので、どうにか功罪相殺の形に持っていけないかと頑張った。

 

「ただ、その……」

「はい」

「ミハロさんはあまり、大きな組織の中には向かない方なのかもしれないですね」

 

 頑張った、という姿勢だけはお互いに評価し合っている。

 結果が伴わなかったとき、評価に値するのは姿勢と理念、心の清さくらいのものなので。

 

「我が強すぎてってことですか?」

「いえ、良くも悪くも行動のスケールが大きいので、安定性や継続性を重視する場にはそぐわないというか……」

「我が強すぎてってことですか?」

「前から思っていたんですが、その二回言うのはなんなんですか?」

「身内で流行ってるんです」

「誰が流行らせたんですか」

「レトリシア・スディ」

「…………」

「前からちょっと思ってたんですけど、ナノさんってレトリシアのこと結構好きですよね」

「そんなことはありません。……そんなことはありません」

「ほら」

 

 私くらいの年代であれば誰だって憧れます、とナノは開き直って言った。すると扉が開いて「あ、間違えた」閉まって、「こんにちは」開いて、「ちょっと頂戴」クッキーを摘まみ上げて「あ、美味しい」「さっきお茶をもらいましたよ」「そう。私もいただいても?」「ええ、もちろんです」「ありがとう。ゆっくりしていってね」もう一枚食べて、「さようなら。またね」閉まる。

 

「……私くらいの年代であれば、誰だって憧れます」

「二回言った」

 

 わかりますけど、とミハロは笑う。その声色からは、とナノは思う。伝説の魔法使いレトリシアの弟子どころか、彼女と同格に近い実力を持つ魔法使いの姿は見えてこない。

 

 結局、離れてしまえば。

 ただ少し年の離れた、賑やかな友人でしかなくて。

 

「順調ですか。そちらは」

「私の人生はいつでも順ちょ――いや、あの、そうじゃないときもあるんですけど」

「気にしなくて大丈夫ですよ。もう、色々と過ぎたことです。来年からは平常通りの割り振りに戻りますし。そもそも、ミハロさんが担当していた学生たちもそれほど手がかかる子たちではありませんでしたから」

「えぇ……?」

「自分たちの中にある力の向け先を、見つけられたんだと思います。魔法に関するものもあれば、そうでないものも」

 

 もちろん見つけられなかった子もいるけれど、と。

 瞼を閉じながら、ナノは呟く。それでも何となく、友達が頑張っているときは釣られて頑張ってしまうものです。

 

「正直なところ、ミハロさんは『魔法を教える人』としてはともかく、狭い意味での『教師』に向いているとは思いませんが――」

「が?」

「……不思議ですね。言う気をなくしました」

 

 えー、とミハロが不満げな声を零す。けれどそれ以上は、何も訊いてこない。きっと、と思うことがある。

 

 きっと彼女は、他者からの賞賛を本当の意味では必要としていない。

 もちろん褒められれば嬉しくなって、人並以上に自己顕示欲もあるのだろうけど。それでもこうした場面で彼女は、他者からの賞賛を強くは求めない。あれだけの学生たちにあれだけの影響を与えたのに、今ではもうそのことすらも「巡り巡って悪いことにならなければいいね」という形でしか心に留めていないように見える。

 

 結局彼女は、根本的に。

 ただその場所に現れて好きなように振る舞うだけの、比較的善良で、自信満々な――そう、たとえば。

 

 

『嵐』を。

 絵に描いたり、文字に描いたりしたような。

 

 

「これから、旅行に出るんです」

「あ、ですよね! 触れていいのか迷ってたんです、服。褒めて大丈夫ですか?」

「大丈夫ですが、それより先に訊きたいことがあります。お土産の希望はありますか? 今、メモを取ってしまいます」

「え、いいんですか? ……それはもちろん、ナノさんが無事に帰ってきて楽しかったと話を聞かせてくれること――」

「本音は?」

「食べ物がいいです!」

「素直に答えてもらえて助かります。もうひとつ訊いてもいいですか?」

「はい、何でも!」

「私が学園長になったら、また学園に来てくれますか?」

 

 手を止める。

 

 顔を上げる。顔を見る。

 

 ふ、とナノは笑う。

 旅行前に、良いものが見れたと思ったから。

 

 

 

 

 

 共和国には、とても素敵な遊園地がある。

 

 伝説の魔法使いが建てたという噂がある。噂があるが、真偽は定かではない。遊園地を求めている人にとって重要なのは『面白いかどうか』であって、『どんなすごい人がそれを建てたか』ではないからだ。

 

 そこは、学園からほど近いところにある。

 遊園地にしてはそれほど大きな敷地ではない。学園の中等科エリアより広いか、と言ったところ。けれど敷地の端から端まで続く石畳や、赤茶けた煉瓦の街並みは、決してそれを『こじんまり』とは感じさせない。国の端っこに現れた、品の良い不思議の街。それくらいのものに思えるだろう。

 

 たくさんのものがある。わかりやすいものでは観覧車、ジェットコースター。観覧車はこの大陸の端から端まで眺められるのではないかと思うほど高く、ジェットコースターは『もしも鳥になったらこんな動きができるのではないか』と子どもたちの夢を膨らませてくれる。

 

 わかりにくいものでは、診療所がある。

 遊園地を訪れたとき、迎え入れてくれるマスコット。あまり可愛いとは言いがたい、けれど慣れてくると「自分だけは味方でいてやらなくちゃ……」と不思議な愛着を湧かせてくる彼が、不意に手招きしたらそれが合図。背中を追う内に、気付けば小さな小さな小屋の前。ノックをして入った先には謎めいた女性が座っていて、後は誰もが知るとおり。

 

 あまりに遠くてとても行けやしない、なんて涙に暮れる人の前には。

 呼んだわけでもないのに案内馬車が現れる……ただし、それを引いているのは精強で美しい馬ではなくて、なんだか妙にふてぶてしくて愛らしい、大きな大きな鼠なのだけど。

 

 

 ガラガラ車輪を回して、連れていく。

『あなたに幸せになってほしい』なんて、ちょっと傲慢な願いで作られた場所。

 

 

 その一角には、小さな小さなバックルームがある。

 

 

 

 

 

 シンクにティーカップを浸しながら、ミハロはぼんやりと考えていた。

 結局自分は社会に上手く馴染めなかったな、ということを。

 

 

「カップなら後でまとめて洗うからそのままで――どうした。『結局自分は社会に上手く馴染めなかったな』とぼんやり考えていそうな顔をして」

「そんなに顔に出るものですか?」

 

 そしてそこは遊園地のバックルームだから、当然他にスタッフもいて、ぼんやり考え込んでいれば声をかけられることもある。どこにでもあるような、それこそ学園の学生寮にだってあったような、それほど広くもない給湯室。

 

 振り向くと、ディー・ヨドがいた。

 

「ああ。俺もよく鏡の前で似たような顔をしているからわかる」

「鏡の前で人生のことを考えるのってかなり虚しくならないですか?」

「どうせ勝利するなら最も強い者を相手にしたいだろう。打ち勝つ日の喜びのため、あえて虚しさを育てている」

「虚しさとの戦いでこんなにポジティブな姿勢になることあるんだ……」

 

 しかし、とミハロは思う。その姿勢には一理あるかもしれない。時たま虚しさに『襲われる』という表現を聞くことがあるが、相手が人であれ何であれ襲われたときの対応はおおむね『逃げる』か『戦う』のふたつに分かれる。嘘だ。『助けを呼ぶ』『誤解を解く』などもある。しかし自分は強い。対応は『戦う』になることだろう。

 

 そして自分は『強すぎ』であり、戦えば勝てる。

 

 スッキリした。

 まあ、なんか良い感じになることでしょうという気分になった。

 

「あ、私さっきアレなんで。ナノさんに『またいつか学園に』って誘われちゃったんで。一歩リード~」

「何を偉そうに。お前の方が十も若く、あらゆる能力が社会復帰に向き、可能性に溢れているのだから、当然のことだろう」

「勝っちゃいけない勝負もあるな……」

 

 気を落とすなよ、とミハロはディーの背を叩いた。別に落としてはいない、とディーは言う。こいつはこういうとき本当に落としていない。そのことをミハロは知っている。

 

「あ、さっきお茶ありがとうございました。ナノさんが『皆さんでぜひ』って言ってくれてたので、あなたも飲んで大丈夫ですよ」

「そうか。……なんだかいつももらってばかりで悪いな。何か今度、持たせて帰ってもらうか」

「今度旅行でまたお土産をくれるって言ってました。じゃ、そのときに何かお返しを用意しますか」

「だな。ちなみに何が好きなんだ、あの人は。傾向がわかれば買い出しのときに見てくるが」

「…………レトリシア・スディ?」

「お前もしかして、いつも自分の話ばかり聞いてもらってないか?」

 

 それならそれでレトリシアに何か見繕ってもらえばいいか。

 テキパキと決めながら、自分の分の湯を沸かし始めるディーを見て、ふとミハロの心に浮かんだ思いがある。

 

「……前から思ってたんですけど」

「ああ」

「ディー・ヨドって、本当に遊園地を爆発させて破産したんですか?」

 

 手を止める。

 少しだけ驚いたように、彼は目を開いている。

 

「なんだ。あまりの俺の完璧ぶりに現実を疑い始めたか」

「うん」

 

 だって、とミハロは。

 ここ数ヶ月の社会生活のことを思い出しながら、

 

「各方面との繋ぎとか、大体やってくれてるじゃないですか。経理はオルキス任せだけど。進行管理とか雑用とか、許可申請とか、そのへんまで全部やってくれますし」

「お前だってやろうと思えばできるだろう」

「そりゃあ、できないとは言わないけど」

 

 できると言って実際にやっているのと、できると言いつつ実際にはやっていないのとでは雲泥の差が。

 と言うのは癪だったので、そこのところは呑み込んで。

 

「どうだったのかなって。オルキスとレトリシアのふたりはもうちょっと経緯がちゃんとしてましたけど、ディーだけなんだかふわふわしてましたし」

 

 社会に出たらそういう感じになっちゃうのかなと思ってたんですけど。

 実際は、という気持ちでディーを見れば。

 

 ぽこぽこと沸き始めた薬缶を手に。

 どう説明したものかな、という顔で、ディー・ヨドは。

 

「本当に遊園地は爆発させているし、破産もしているぞ」

 そんな異常なことを、前置きとして言ってから。

 

「理由についても、何か特別なことを隠しているわけではない。お前だって『眠くて気分がおかしかった』というだけで遊園地を爆破しただろう。『気合が入っていた』と大して変わらん」

「……確かに、それはそうなんですけど」

「だろう」

 

 ただ、と。

 彼は、ふたり分のカップを用意しながら。

 

「強いて、そのときと今とで変わったことがあるとしたら――」

「あれ、ミハロ。もうナノさん帰っちゃったの?」

 

 言葉の途中で、別の言葉が重なってくる。

 

 給湯室の入り口に、オルキス・ハートウォーツが立っていた。鴨居に手を掛けて、前髪の下に絆創膏。少し雑だから、誰が貼ったのかすぐにわかる。隣にいて、一緒に中に入ってきた人物。レトリシア・スディ。

 

「なんだ。折角だからパレードまでと思ったんだけど」

「日が暮れちゃうじゃないですか。というかいつでも観られますし」

「いやいや、パレードは一期一会だよ……。真面目な話、色々成長中だから明日は違うものをやってるかもしれないし」

「ミハロ。クゼくんのレポート、私が見ておいたから。あと恐竜に興味があるみたいだから、一冊貸しちゃった」

「わ、ありがとうございます。どんな感じでした? レポート」

「字が綺麗」

「いや、中身の方が」

「あ、ディー。ごめんね僕らの分まで」

「いや、いい。ついでだ」

 

 レポートの話をかいつまんで聞きながら、ミハロは見る。ディー。彼が、ふたり分だったカップをさらにふたつ増やしたところ。水を薬缶にさらに注ぎ足して、さらに沸くまでを待っているところ。

 

 それを待つ間に給湯室の中を見回して。

 ふ、と珍しく。屈託なく笑ったところ。

 

「これだけ広い敷地のある場所で、何が悲しくてこんな狭い部屋に四人も集まっているんだ?」

「確かに。はは、おかしいね。めちゃくちゃ狭いや」

「私は狭いのも好きだけど、そうね」

 

 空気が薄くなってきたから、と。

 最初に部屋から出たのは、レトリシア・スディ。

 

「応接室の方に行きましょうか。しばらく休憩だし」

「そうだね」

 

 それに続いたのが、オルキス・ハートウォーツ。

 

「僕もパレードまではゆっくりしようかな。じゃ、先に行って……て、大丈夫?」

「ああ。幸い四人分の茶と茶菓子くらいなら、俺の力でも持てそうだ」

 

 またそんなこと言って、と笑って。

 じゃあよろしく、とレトリシアの背を追っていく。

 

 残されたのはふたりで。

 もちろんミハロは、お茶請けを自分で用意するために残ったわけでもあるのだけど。

 

 再び薬缶に向き合って、温度やら何やら細かいことを、細かくやっているその後ろ姿を見ると。

 

 やっぱり、訊きたいことはそこにある。

 

「もしかして、」

「ん?」

「私たちといないと、調子が出ないとか?」

 

 ぴた、とディー・ヨドが動きを止める。

 動かない。振り向かないから、表情もわからない。

 

 だからミハロは、背後から回り込むようにして、彼の顔を覗き込む。

 

 表情を、見た。

 

「よかったですね。ちゃんと肩組める相手がいて」

「どうかな。案外来年には学園に呼び戻されて、いつもの調子で高笑いをしているかもしれないぞ」

「そっちの方が嬉しいですか」

「まあ、そうだな。肩を組むのと背中を押すのとでは、後者の方が楽しい場面もある」

「崖の前とか?」

「それは特に楽しいかもしれんな」

 

 へえ、とミハロは言った。もう覗き込まない。背中を真っ直ぐに戻して、ただ隣に立つ。一緒になって薬缶を見る。

 

「温度、決まってるんでしたっけ」

「ああ。それが一番のポイントだ」

 

 しゅんしゅんと、薬缶が蒸気を吐き始める。それを見ながら、ミハロは思う。お湯はいずれ沸くだろう。お茶はいずれ淹れられるだろう。そしてそれらは呑み干され、空のカップの中から消え去っていくだろう。

 

「ディー・ヨド」

「ん」

 

 けれど。

 その時間があったという事実は、いつまでも残る。

 

 

 

「荒野から出ても、案外楽しいですね」

 

 思いのほか素直に頷くものだから、ちょっとだけ、ミハロは笑ってしまった。

 

 

 

(了)

 

 



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