奉仕部と私 (ゼリー)
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第一話

       ◇

 

 現在の境遇の原因は、おそらく、中学三年の卒業間際にあるのだろう。

 去りし日々において根本的に間違っていた時期が、なぜなら、そのときなのだから。

 

       ◇

 

 高校受験にも一段落つき周囲がやいのやいの喧しくなった二月の下旬、私は無二の友人K君からある小説を借り受けた。

 K君はその年頃の少年少女にはあるまじき早熟な面を持っており、馬鹿で阿呆(あほ)で猥褻なことしか頭にない同級生とは一線を画していた。もちろん、私はその阿呆の衆の一端を担っていた中学生であったのだが、ある時を境に、少し背伸びをしたくなったのか、一線を画しすぎてもはや敬遠されていると言っても過言ではないK君と接触を図ることにした。そしてそれを機に、K君とお近づきになり、彼の歯に衣着せぬ合理的かつ論理的な話しぶりに多少怒りを覚えながらも、親交を深めていったのである。

 

「ねえ君、君にこれを貸してあげるよ」

「?」

「なにか本が読みたいって言ってただろ、だからこれを貸してやるよ」

 

 卒業間際の2月下旬、学校の図書室においてこんなくだりでK君から小説を渡された。

 

「君にはもしかするとまだ早いかもね、このジャンルは」

「……」

「ま、とにかく読んでみなよ」

 

 いちいち癇に障ることを言わずには会話を終えないところにもK君が同級生を寄せ付けない要因があるのだろう。寄せ付けようとしなかったのは同級生たちの方だったのかもしれないのだが。小説を渡すとにやにやと気味の悪い笑みを浮かべるK君に礼を述べると、私は帰路についた。

 受験も終わり、登校する必要がなくなると時間を持て余した私は、阿呆な同級生とは一味もふた味も違う大人びたK君に少しでも近づこうと、借りた小説のページをめくっていくことにした。活字といえば教科書や少年漫画のふきだし内でしか拝んだことのない私ではあったが、目標があったためか別段苦労するということもなく読み終えることが出来た。すんなり読めたことに気を大きくした私は、過去、本屋で一度たりとも視線を送ったためしのなかった小説・書籍コーナーに赴き、借りた小説の著者の他作品や、同じジャンルの小説を幾らか買い求め、意気揚々と本屋を後にした。平生ならば漫画が詰め込まれた袋に文庫本が堂々たる姿で納入されている事実は、私をして小説の主人公を模倣させしめた。その結果、自宅へと戻る中途、四方八方に目を巡らせ幾度となく「なるほどな……」とか「矛盾だ」などと、自分に酔いながら意味深長()つ無意味な妄言を垂れ流して歩いていたのを今でも忸怩(じくじ)たる思いで記憶している。

 とにもかくにもそこから私は、小説――(つまび)らかにすれば文学の世界に没頭していったのである。

 中学生最後の一ヶ月、本の虫となった私はやたらめたらに居丈高なK君と意見を交わしながら過ごしていった。そして、四月になり入学を翌日に控えた私とK君は、離れ離れになることを惜しみつつ、侃侃諤諤(かんかんがくがく)とした話し合いの末に、出さなくてもなんら問題のない根拠の欠落した結論を導き出してしまったのである。この結論は畢竟(ひっきょう)、眼前に横たわる華々しい高校生活を自ずから薄墨色の灰スクールライフへと変貌させるには十分な代物であった。

 私は、次のような文言を心に刻みつけ、斜に構えながら高校生活の幕を開けたのである。

 

 曰く、「高校なんてものはインチキ野郎の巣窟にほかならない」

 

       ◇

 

 今思えば当時の私は、K君を決して他に阿諛追従(あゆついしょう)しない狷介孤高(けんかいここう)とも言うべき人格者と誤認していたのではないだろうか。実際は性格に著しく難がありそれゆえに周囲から逸脱していた、ただの『ぼっち』だったのではないだろうか。私の中の裁判官が判決を下そうとするが、私はそれを満腔(まんこう)の力で押さえつける。そうして「間違ってなんかなかった。そう、我々はただちょっと斜め上のほうに()れていただけなんだ」と自分に言い聞かせるのだ。だってそうでなければ余りにも悲しすぎるではないか。

 

       ◇

 

 高校に入って一年間、姿かたちの見えない架空の敵と不毛な争いを繰り広げて来たことをここに断言しておこう。

 周りの生徒たちが、輪から弾かれるのを恐れて迎合に迎合を重ねることによって友人関係を結んでいく様を、嘲笑をもってあしらっていたのも束の間、一学期の中盤には、群れからはぐれた羊のように右往左往していた私は救いようのない阿呆であった。結果、哀れな子羊は、毎朝教室に入ると、光の速度で机に突っ伏して寝たフリを敢行する始末と相成ってしまった。机に惨めな顔面を押し付けながら時には涙さえ滲ませることもあった。教室の隅で机にかじりつくようにしてむせび、庇護欲を煽りたてる赤子のような私を気にかけてくれる聖人君子は、しかしながら、教室の何処を見渡しても存在しなかった。はぐれてしまった子羊を、わざわざ群れから離れて探し出そうとする奇特な救世主など現れないのだ。そう、これがマイノリティの現実なのである。私は、寝たフリに嫌気がさすとキャンパスノートに「Stray Sheep」と筆記体で何度も何度も書きなぐり、終いには拳で机を殴ることも辞さなかった。その際、周りに訝かられないよう衝撃音を抑えることに余念がなかった私は、デキる男には違いないが、何故か胸に迫るそこはかとない情けなさに頭を悩ませることもしばしばあった。

 そうこうしている内に中間考査、期末考査と時は流れ、誰しもが胸をときめかせる夏休みを迎えた。結局のところ、私は一学期においてなんら建設的なことを成し得なかった。入学前に拵えた付け焼き刃である心得は、一ヶ月程しか私を奮い立たせてはくれず、後はチラチラと同級生たちの動向を仲間に入りたそうな目で窺うばかりであった。嗚呼、たしかに学び舎というものは勉学に励む場所であることは疑いようのない厳然たる事実である。しかし、あのように弾ける笑顔で授業中などに内密話をしている連中を見たまえ、勉学に勤しむ自分が阿呆らしくなってくるではないか。おかしいではないか。虚しいではないか。羨ましいではないか。友人の一人も作ることが出来ず、成績だけは優秀を修めて、私は夏休みを迎えた。

 

 夏休みは以下のように過ぎていった。

 夏休み初日、これで周りに惑わされ余計な神経衰弱を起こすことなく平穏無事な生活が一ヶ月は確約されたとほくそ笑んだ私であったが、すでにその日の夜、過ぎ去った一学期の亡霊が脳裏にちらつき、人恋しさと再び息を吹き返した入学前の信条が組んずほぐれつの激闘を演じ、竜虎相()つの観がある一夜を過ごすはめになっていた。激闘は主に卑猥な妄想によって高められたリビドーが理性を乗っ取り、素敵なサムシングを鎮めるといった多感な思春期の崇高な儀式を終えた直後に、決まって訪れた。それゆえ私は、夜になると劣情を抑えるべく般若心経を唱え、それでも催す場合は風呂場へ駆け込み冷水を被るという、苦行を敢行したのである。繰り返すが、救いようの無い阿呆だったのだ。笑うがいい。

 劣情を管理することに辛うじて成功した私は、その代償として昼間から悶々として過ごすことが多くなった。こんな時は、屋外で蝉時雨を存分に浴びながらスポーツで汗を流すのも悪くないなと思ったが、一人では出来ることの幅も狭まるし、なんとなく心もとない。致し方なくK君を誘ってみようと、受話器を握ってコール数回、電話に出たK君は私の誘いの言葉に「暑いから嫌だ」と辛辣極まる返答を寄越(よこ)して一蹴。愕然とした私は乾いた笑いを漏らして、静かに受話器を下ろした。なんということだ。私には夏休みを有意義に過ごし合う友人の一人もいないというのか。馬鹿げている。こんなのあんまりだ。明白すぎるほど明白なありのままの事実をこのときしみじみと感じたのである。

 そして次の瞬間、私は決意した。二学期こそは肩を並べて放課後の宵町を歩く、そんな友人を作ろうと。

 

       ◇ 

 

 自分を称えたくなるような自制心を発揮することおよそひと月。誰よりも早く教室に入り、夏休み明けの深閑とした雰囲気の中、私は武者震いしていた。

 猥褻な妄想をこそぎ落とし、同級生たちがめくるめくふしだらな遊びに呆けている間、黙々と練り上げた計画――ずばり友人を獲得する段取りを、この日決行しようとしていたのである。綿密な計画のもとに算出された、これから起こるであろう薔薇色の高校生活に早くも興奮半ば朦朧としかけていた私であったが、廊下を教室に向けて歩く足音を捉えると、椅子の背もたれに体を預け伸びをした。そうして自然な(てい)を演出しつつ、あたかも十年来の友人よろしく声を掛けようとしていたのである。しかし、ここで私は戛然(かつぜん)とある問題に思い当たる。私の次に教室を訪れたその人をターゲットに、話す内容、仕草、本日の予定に至るまで緻密に考察してきたのだが、相手の性別を顧慮していなかったのだ。愚にもつかないイージーミスである。解答欄を一行ずらして答えてしまった時のような冷やりとした感覚が背筋を駆け抜けた。この突発的な致命的問題に、ひと月前の私であったならば動揺を隠しきれず、泣く泣く机に突っ伏して、朝一無様な姿をクラスメイトに披露していたことだろう。しかし、今の私は性欲というモンスターを踏み越えた傑物、この程度のイレギュラーな事態など一笑に付して泰然と伸びていることにした。男だろうが女だろうがこの際かまうものか、ええいままよ。

 教室の引き戸をがらりと開けて入ってきたのは何処にでもいそうな平凡な男子高校生、前田君であった。女子ではなかったことを少し残念に思う不埒な助平根性が露呈しかけたが、瞬時に気を取り直して私は声をあげた。

 

「やあ、おはよう。長いものであっという間だったね夏休みも。前田君はどう過ごした?」

 

 静まり返った教室に素っ頓狂な声が響いた。久々に声を出した故に、頭の「やあ」と結びの「過ごした?」が裏返ってしまったのだ。私は、軽く咳払いをして喉の調子を確かめる振りをした。そうして相手の返答を待った。

 奇妙な間が空いた。前田君は、短髪をごしごし掻くと、ふと口を開いた。

 

「あ、あれ? えっと、ごめん。誰だっけ?」

「は?」

 

 このとき、おそらく私は前田君を化け物でも見るような目で眺めていたことであろう。その間およそ数秒、前田君が気まずそうに顔を伏せると、私は計画が土台から崩れ去ったことを悟り「あいたた」などと呟いてやにわにお腹をさすった。

 

「お腹の調子が悪いようなので、ちょっと失礼」

 

 そう言い置くと、鞄を取り廊下へ飛び出した。

 トイレへひた走りながら、私はところ構わず潸然(さんぜん)と涙を流した。そうして走りながら、私の脳裏を来し方ひと月のむにゃむにゃが走馬灯のように流れた。よりにもよってこれから二学期が始まろうとする始業式の朝に、浮き足立っていた繊細な私の心は、いとも容易く踏みにじられ下水溝にポンと蹴り込まれてしまったのである。今でもあの前田君の顔が忘れられない。私の気安い言葉に対し本当に申し訳なさそうに顔を伏せたあの顔が。前田君はきっと悪くないのだ。勿論、私も悪くない。では誰が悪いのか。諸君、教えてくれたまえ。

 トイレに駆け込んだ私は、涙でくしゃくしゃになった顔を晒して鏡の前に立った。立ったはいいが、そのいささか見るに堪えない汚らしい面構えに目を逸らし、水道水で顔を洗った。ああ、これがひと夏を犠牲にした総決算だというのか。これも一重に、一学期を棒に振ってしまった罪と罰ということなのか。仲良しこよしの輪から逸脱してしまった哀れな子羊は名前すら覚えてもらえないということなのか、ちくしょう。私は、話したことすらないというのにクラスメイト全員の顔と名前が一致している健気な自分を抱き締めてやりたくなったが、再び覗き込んだ鏡に映る己の相好をみて気持ち悪くなり止めた。

 何はともあれ、私の愚かしくも短い薔薇色の夢は前田君の一言によって無残にも校内の露と消えてしまった。まだまだ先の長い高校生活は眼前に茫漠と広がっている。たかだが一学期、これからいくらでも巻き返しがきくといえばそれまでだし、その通りである。しかし、私はもはや情熱を失ってしまったのだ。燃え尽きる寸前で薪を加え得ず、冷や水を浴びせ掛けられ鎮火されてしまったのだ。もう火種の所在は(よう)として知れない。諦めるほかないのである。

 ハンカチを取り出して乱暴に顔を拭く。そして憤然と廊下に出ると、晴れ晴れとした登校中の生徒を尻目に校門を潜り抜けた。

 始業式のその日、私は早退した。

 

       ◇

 

 一年二学期の初日から現在に至るまでの経緯については多くを語るまい。語るほど多くはないし、そんな私の傷口を開いて見せる行為に何の意味があるだろうか。見せる私は激痛に苦悶の表情を浮かべるだろうし、見せられた諸君は何かどす黒いぬちゃぬちゃしたものに吐き気を催すだろう。ただ、入学前に掲げた標榜を今一度心に刻みつけ、誰にもそして誰からも干渉をしない受けない茨の道を歩んできただけのことだ。幾度か日和(ひより)かけたこともあったが、刹那的な寂しさから赤の他人を求めるなど信条に反するとして、涙をのんで茨の道を突き進んだのだ。

 

 そして今現在、唐突ではあるが、私はとある会社のロビーで椅子に腰掛け、眼前で繰り広げられている人間関係の交錯を見学していた。

 なぜ、私がそんなところで一人ぽつねんと座っているかと問われれば、班分けという愚かしくも合理的な制度によってひどく理不尽に三人一組に振り分けられたあげく、そんな少人数の中でも馴染めなかった結果としか言いようがない。将来に対する見通しを、この職場見学を通じて妙齢の女子と語り歩くのも(やぶさ)かではないと参加したのだが、将来以前にこの場における見通しが甘すぎた。班から気が付かれずにフェードアウトした私は、合流場所のここで致し方なく他の班員を待っているというわけである。

 しかしそんなことはどうだっていいのだ。それより眼前の出来事である。

 もしかするとこれが世にいう青春というやつではないのかと勘繰り、青春に対し並々ならぬ怨恨を抱える私は、班からはじかれた情けなさも忘れて、いかなる匿名的な手段を用いてでもこれをぶち壊したいという衝動に駆られていた。私とて、赤の他人であれば青春破壊衝動に駆られる前に、精神の磨耗を恐れ、すすんでその場を退避していたことであろう。しかし、その当事者が比企谷(ひきがや)由比ヶ浜(ゆいがはま)さんであれば話は別である。あの心優しく底抜けに明るい由比ヶ浜さんが、性根と双眸(そうぼう)が腐った比企谷の毒牙にかかるというおよそ想像を絶する奇怪事が起こったら、由々しき事態である。僭越ながら、少し頭の弱い彼女はその毒牙にかかる可能性を十二分に秘めているのだ。これはもはや私一個人の怨恨だけには留まらない。由比ヶ浜さんの将来にかかわることだ。

 私が、どうにかして彼らの意識を他に向ける方法はあるまいかと周囲を窺っていると、なにやらその二人の様子がおかしい。不穏な雰囲気が流れたと思えば束の間、由比ヶ浜さんが「バカ」と言い捨て、踵を返して走り去ってしまった。残された比企谷はため息をつくとニヒルな笑みを零している。気持ちの悪いヤツめ。

 私はおもむろに立ち上がると彼に声をかけた。

 

「おい、コノヤロウ」

「うっわ、お前いたのかよ」

「許さん、俺は断じて許さんぞお」

「はあ? いきなりなんだよ」

「一人だけなに青春してるんだよ。ふざけてんのか、おまえ」

「……別にそういうのじゃねえよ」

「じゃあなんだよ今のは。そういうのじゃなきゃ何なんだよ今のは」

「関係ねえだろ。俺は帰るからな」

 

 そう言うと比企谷は私を置いてさっさと帰ってしまった。私は彼の背中に「許さんぞ」ともう一度釘を刺しておき、悶々としたまま再び椅子に座った。

 班員はさきに帰っていた。

 

 さて諸君。ここで、私がいかようにしてこの比企谷という卑屈な魂を持った矮小な男に出会ったのかを語らねばならない。

 諸君、驚くなかれ。私は茨の道を突き進むこと猪の如くであったのだが、ふとしたきっかけからある部活動に仮入部することになったのである。そしてそれが彼との出会いであった。出会い方からその後の関係にいたるまで、決して爽やかなものではないにしろ、私の高校生活において大きな転換であったことは認めざるを得ない。深山幽谷から辺境の村へ下りて来た程度の転換ではあるが、やっぱり私には大きかったのである。それらを語ることはおそらく諸君の時間を浪費することになるだろう。しかし、諸君。温柔敦厚(おんじゅうとんこう)の心でもってお許しいただきたい。

 

 

 

 



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第二話

       ◇

 

 二年に進級した直後のある日だった。

 すべての授業を終え、帰りのホームルームも滞りなく済ませた私はそそくさと帰りの支度をしていた。哀愁を漂わせながらも毅然とした私に、共に帰ろうなどと声をかけてくれる生徒など、むろんいるはずがない。私は放課後の開放感に浮かれきった声を背中で聞きながら、気安げな雰囲気を辺りに撒き散らすことを忘れずに教室を出ようとしたのだが、その寸前で担任の教師に呼び止められた。「用があるから職員室まで来なさい」と告げられ、はてなと思いつつもいたし方なく、職員室へと向かった。そして気がつけば、なにゆえか国語と生活指導を担当する平塚先生の前に立たされることになっていたのだった。

 

「なあ比企谷、私が出した課題は何だったかな?」

 

 平塚先生は、私の少し前に立つ生徒に声をかける。

 

「高校生活を振り返ってというテーマの作文でしたが」

 

 そう答える比企谷と呼ばれた生徒の後ろで、なにゆえ呼び出されたか判然とせぬ私はぼおと突っ立っていた。ぼおっと突っ立っているだけではつまらないので、二人の会話を聞き流しながら、ほとんど入室したことのない職員室を眺めていたりした。

 

「おい、お前もそうだぞ。なぜあんな作文を書いた? ――どこを見てるんだ、こっちを見なさい」

 

 出し抜けに声をかけられた私は、「はへぃ」などというおよそ言語とは呼べぬ奇怪な音を発して平塚先生を見遣った。

 

「なにが『若年層における漸次的な退廃、あるいは想像力の欠如』だ。欠如しているのはお前の耳目の方なんじゃないのか?」

「……」

 

 私が書き上げた作文は振り返りたくもない一年間に対する恨みつらみ妬み嫉みといったこの世に蔓延るありとあらゆる怨嗟が詰め込まれていながらも、血の滲むような思いで学術的小論文に昇華させることに成功した稀代の傑作である。それをこう一蹴されては、如何に温厚な紳士である私といえども黙っちゃおけない。反駁しようと拳を握ったが、平塚先生から発せられる有無を言わせぬ雰囲気に文字通り有無を言わずにシュンと黙り込んでしまった。これは戦略的撤退である。断じてヘタレなんかではない。

 とはいえ、呼び出された理由に納得はいった。振り返るべき生産的な高校生活を持たない私は、上記のような怪文を提出することによって、少しでも意趣返しがしたかったのだ。その対象はもはやなんでも良かった。鬱屈した今にも弾け飛びそうだったパトスを持て余していた私に、渡りに船だったのが件の作文だったというわけだ。職員室に呼び出されるくらいなら適当に虚実をとりまぜ並べておいた方が利口だったとちょっと後悔した。

 

「はぁ……ったく」

 

 平塚先生はため息をつくと長い黒髪をかき上げる。そしてじっと前にいる男子生徒を見つめて言った。

 

「君の目は死んだ魚のような目だな……」

「そんなDHA豊富そうに見えますか? 賢そうっすね」

 

 さらっと交わされた会話に、私は驚愕した。まるで仲のいい先輩と後輩が軽口を叩き合っているようにしか聞こえない。もしかするとこの二人は近所の幼馴染だった過去があるのではないだろうか。それにしても、男子生徒の切り返しに、「真面目に聞けっ」と、すごむ平塚先生は、死んだ魚のような目という辛辣な表現を生徒に向けておいて果たして真面目なのだろうか、甚だ疑問である。

 

「俺はちゃんと高校生活を振り返ってますよ。近頃の高校生は大体こんな感じじゃないですかね」

 

 すごまれた男子生徒は、動揺を隠しきれず度々つかえながらそう言った。

 

「小僧、屁理屈を言うな」

「小僧って……まあ、確かに先生の年齢からしたら俺は――」

 

「え?」

 

 思わず私は声をあげていた。なぜならば、平塚先生の見事な正拳突きが男子生徒の横顔間一髪の空間を占領したからである。一陣の風が吹きぬけると平塚先生は並々ならぬ怒気を込めて「女性に年齢の話をするなと教わらなかったのか」と言った。女性に年齢云々の話題を持ち出すことは失礼に当たる、それは私でも知っていたが、仮に持ち出してしまった場合、まともに直撃するとこれから先の社会生活が困難になりそうなグーが飛んでくるとは想像すらしていなかった。私は戦慄すると同時に、予め知ることが出来てほっと安堵した。

 男子生徒は一瞬硬直したが、すぐに気を取り直した。失禁でもしているのではないかと心配したがどうやら杞憂のようだ。

 

「すいませんでした。それじゃあ書き直してきます」

「同じく、書き直させていただきます」

 

 男子生徒の反省に乗じる形で、早々とここから退却するべく私は頭を下げた。

 

「まあ、待て。今日はお前たち二人にある提案をするつもりだったんだ、この作文を読んでピンと来てな」

「提案……?」

「そうだ。お前たち二人とも友人がいないだろう?」

 

 何を言い出すかと思えば、何を言い出しているのだこの教師は。私の一番ナイーブなところを易々と握りつぶす何の権利があるのか。如何ように考えても真面目じゃないのはこの教師のほうではないのか。大体において本質を突く行為は諸刃の剣に等しく、必ずしも正しいとは限らない。歴史を紐解けば、そんな諸刃の剣で大立ち回りを演じたあげくに墓穴を掘った先人たちが数多く存在したではないか。身近なところで言えばK君がその代表例である。彼の場合、墓穴を掘っているという自覚は間違いなくこれっぽっちも無かったであろうが。

 私は平塚先生の的を射た発言にぷるぷる震えながら黙秘することにした。

 

「いたらあんな作文なんて書きませんよ」

「まあ、そうだろうな」

 

 対照的に男子生徒は毅然とそう言ってのける。私は彼の度量の広さに脱帽した。ところで、彼は何者なのであろうか。高校生にもなって友人の一人もいないという人間的大欠陥を抱えながらも公然と言い放つことを憚らないその姿勢から察するに、どこか蓬莱島の仙人か、はたまたただの阿呆か。私は彼に好奇心を感じると共に薄暗い親近感を覚えた。同じく呼び出されたということは彼の書いた作文も、余程の滅法さを呈していたのであろう。是非拝読したいものである。

 

「提案と言ったがな。ほとんど強制みたいなものだ」

「はい?」

「よし、それじゃあちょっとついてきたまえ」

 

 平塚先生はそう言うと、白衣をはためかせながら職員室を出て行った。彼女の後ろ姿を見守りながら、白衣なんか着やがって国語教師としての矜持はないのかと怒鳴りつけてやりたくなったが、やりたくなっただけでそんな度胸は持ち合わせていなかった。

 

「早くついてこい」

「うっす」

 

 急かされた我々は、男子生徒の返事を皮切りに、平塚先生についていくことにした。この時、私は初めてこの男子生徒、比企谷君の姿容を確認したのだが、平塚先生の言葉はまことに正鵠を射ていると納得せざるを得なかった。そこには、ひどく縁起の悪そうな顔があったのだ。顔立ちそれ自体は決して悪いものではないのだが、とにかく目がまずかった。なるほど、死んだ魚のような目というのは言い得て妙で、それ以外の例えを探す方が難しいように思われる。一介の男子高校生を以ってしてここまで濁り腐った目をさせしめる来歴とは果たして何であろうか。平塚先生の後についていきながら私は考えた。考えてはみたものの、なんだか棚上げ作業をしているのではないかという危惧を抱きはじめ、一刻も早く鏡で自分の双眸を確かめたくなった。いや、確かめねばならない。

 私が野暮用を願い出ようか逡巡していると、平塚先生は特別棟のとある教室の前で立ち止まり我々を振り返った。

 

「ここだ」

 

 どこだ。私は今すぐに自分の目で目を確かめなければならぬのだ。トイレに向かわせてください。さもなければ、所持している手鏡の類を貸してください。一刻を争うのです。そんな想いが通じるわけもなく、平塚先生はドアを開けると教室へと入ってしまった。もういっそのこと比企谷君の瞳に映してみようかと血迷った。これ程までに濁った目であれば、相対的に私の目は光り輝いて見えること請け合いだろう。そんな気色の悪いことを考えていると、比企谷君も教室へ入ってしまったので、私は致し方なく続くことにしたのだった。

 

       ◇

 

 彼女の美しさは圧倒的であった。花のような匂い立つ麗しさと触れれば切れてしまいそうな鋭利な刃のような美しさを兼ね備えているようであった。私は、いまだかつて出会ったことのない凄絶な美を前に、情けないかな直立不動のまま動けなくなってしまった。白状しよう、私は一目ぼれという唾棄すべき錯乱行為に陥りかけていたのだ。しかし、堪えた。なぜならば、我が主義に反するからである。

 その女生徒は雪ノ下といった。

 

「雪ノ下、ちょっといいか」

 

 我々を引き連れた平塚先生は、窓際で椅子に座り優雅に読書をするその女生徒へそう声をかけた。

 雪ノ下と呼ばれた女生徒は読んでいた文庫本から目を離してこちらへ顔を向ける。その端整な顔立からは、静謐な空間を侵そうとする闖入者を咎める意思が窺えた。

 

「平塚先生。入るときはノックをお願いしたはずですが」

 

 顔立ちもさることながら、声も玲瓏として耳朶に心地よい。私は以前から、女性特有の謎のふくらみと並行して声にも重点的価値を置いており、様々な媒体を通してその研究に日夜余念がなかった。そんな私の琴線に触れる美しい声に、再び錯乱しかけた私であったが、理性を総動員しなんとか堪え忍ぶことができた。一目ぼれなどという一過性の精神錯乱、私の誇りが断じて許さない。

 

「はぁ……それで、そちらのぼさっとした人たちは?」

「彼らは入部希望者だ」

 

 平塚先生は女生徒の質問にそう答えると、比企谷君と私を紹介した。

 

「ちょ、ちょっと先生。入部って何ですか?」

 

 至極当然の質問を比企谷君が発する。暴走しようとする感情を押さえつけることに集中していた私も、なにか聞き慣れない言葉を耳にして平塚先生の返事を待つことにした。

 

「罪には罰を与えなければいかんのでな。君たちにはナメくさったレポートの罰として、ここでの部活動を命じる」

 

 厄介なことになった。私は一瞬、この美しい女生徒と放課後の洒落たランデブーを設置してくれたのではと思い、粋なことをするものだなと感心していたのだが、どうやら違ったようである。それにしても私の結実たる作文をナメくさったレポートとは言ってくれる。

 

「というわけで見ればわかると思うが、こっちの比企谷はこの腐った目と同様、根性も腐っていてな。そのせいでいつも孤独な哀れむべきやつだ。この部で彼のひねくれた孤独体質を更生する」

 

 私は、比企谷君の顔色を窺った。さしもの比企谷君といえども、今の言葉には気分を害して然るべきである。苦々しい顔つきで彼はそっぽを向いていた。

 

「そして彼だが――」

 

 平塚先生は私のほうを指して続ける。

 

「私の感知する範囲で人と喋っているところをついぞ見たことがない。提出されたレポートからはそれを裏付ける捻じ曲がった性分がひしひしと伝わってきた。哀れみ度で言えば、比企谷の上をゆく弧弱体質だな。彼もここで更生すべきだ。以上が私の依頼だ」

 

 まったく以って余計なお世話である。大体においてここに至るまでの過程で私はほとんど口を開いていない。牛に引かれて善光寺となるならまだしも、流されるままについて来てみれば刑務所かここは。目の濁り腐った比企谷君は妥当かもしれないが、清廉潔白な私を捕まえてこのような不当な扱い断固として認めるわけにはいかぬ。横暴な職権乱用に対し、いかなる慷慨演説も辞さない構えである。

 私は美しい女生徒のことなど失念して、一応のどの調子を確かめてから憤然と口を開いた。

 

「待ってください。ぼくは確かに孤独な人間かもしれませんが、決して哀れみの対象ではないし、更生の必要もないと思っています。……そこでですね、折衷案として仮入部ということで手を打ってはいただけませんかね」

 

 よく言った私。ここで言わねば、あとで後悔しても報われない。それに仮入部ならまだ猶予が残されている。入部を拒否すれば平塚先生のことだから、おそらく、物理的にものを言わせるだろう。もしかすると殴り合いの様相を呈すかもしれない。別段怖くはないのだが、女性を相手に拳を握ったとなれば私の名誉に関わる。そのような末代までの恥だけは避けねば子々孫々に申し訳が立たない。繰り返すようだが怖くはない。

 

「ふむ。一理あるな。比企谷のは論外として、お前のレポートは少々難解だがテーマから完全に逸脱しているとはいい難いところもある。いいだろう、仮入部を認めてやる。まあいずれ正式に入部することになるだろうが」

「ありがとうございます」

 

 平塚先生は最後になにやら不穏なことを付け加えたが、それは私の意思次第なのだから関係ない。そんなことよりも、ここは何部なのか。今まで部員一人で機能していたのだから、非活動的なゆるゆるとした部なのだろう。私にぴったりではないか。それに、こんな美しい女生徒と斜陽が差し込む教室で読書を嗜みつつ知的な会話を楽しむのも悪くあるまい。一年間でどこかに振り落としてしまった社交性も身につくにかもしれない。本意ではないが、柔軟な社交性が身についた結果、この美しい女生徒と「イイ仲」になったとしても、特にそれを拒む理由はない。予防線も張ってある。何かの弾みで芳しくない状況に陥ったらスパッと抜ければいいのだ。よし、この際だ、入学間際の信条にはとりあえず身を潜めていてもらおう。 

 あまりにも完璧な未来予想図に私は軽く武者震いしていた。

 

「平塚先生、話を勝手に進めないでもらえますか」

「なんだ、嫌なのか」

「はい、お断りします。そこの男の下心に満ちた下卑た目を見ていると身の危険を感じます」

 

 女生徒は我々のほうを見てそう言った。私は、まさかと動揺した。今の独白が漏れてしまっていたのだろうかと、比企谷君の方を窺った。しかし、彼の動揺ぶりも尋常じゃなかったので、「下心に満ちた下卑た目」という汚名は彼に押し付けておくことにした。

 

「彼らにそんな度胸はないよ雪ノ下。もしあったらここにこうして連れて来られることもなく、高校生活を大いに楽しんでいるだろう。だからこその哀れむべきやつらなんだ。そこは信用してくれていい」

「なるほど……」

 

 ここで比企谷君が初めて私に声をかけた。とても小さな声で「これ俺ら貶されてるよね? 馬鹿にされてるよね? 怒っていいよね?」などと言っていたが、私は比企谷くんの目が余りにも濁りすぎていて、私の目はおろか何も映らないことに気をとられ、なんとはなしに「ふぅん」と答えていた。

 

「はぁ……。はい、それでは承ります。先生からの依頼であれば無碍には出来ませんし」

「そうか。ならよろしく頼んだぞ雪ノ下」

「ていうか俺は正式入部なのかよ……」

「勿論だ。精々励みたまえ」

 

 平塚先生はそう言うと、颯爽と教室を出て行ってしまった。

 比企谷君は、ドアの方を睨んでいたが、顔を私の方へ向けると訴えかけるような目で見つめてきた。しかしやっぱり濁り腐っていて、何を伝えたいのかまるで判然としない。

 私が黙って見つめ返していると比企谷君は痺れを切らして言った。

 

「おい、ズルいぞ」

「何が」

「何がってお前……仮入部のことに決まってるだろ」

「ズルくはないだろ。仮入部は制度として認可されてるんだから」

「そういうことじゃねえよ」

「なんだよ。どういうことだよ」

「あのなあ――」

「不毛な争いをしていないで座ったら」

 

 我々は女生徒、雪ノ下さんにそう容喙(ようかい)されると、互いの顔を見合って教室の後ろに積まれた椅子を引きずり出し座ることにした。少しの間、誰も口を開くことなくゆっくりと時間が過ぎていった。少し開いた窓からは駘蕩(たいとう)とした春風が教室に舞い込んで、雪ノ下さんの長い黒髪を揺らしている。

 

「ここ何部か知ってるか?」

 

 沈黙を破って比企谷君がそう尋ねてきた。直ぐ隣に座る私は「いや、分からない」と答えて雪ノ下さんに尋ねてみるよう目配せした。

 

「当ててみたら?」

「聞こえてたのかよ……」

「弁論部」

「はずれ。どうしてそう思ったのかしら?」

 

 あてずっぽうで言った私は「なんとなく」と答えた。

 

「分かった、文芸部だ」

「へぇ。で、なぜ?」

「この部屋から推測したまでだ。大体あんたはずっと本を読んでいた」

「はずれ」

「じゃあ何部なんだよ」

「今私がここでこうしていることが部活動よ」

 

 その言葉を聞いた私は雷に打たれたようにはっとして声をあげた。

 

「哲学部だ! 間違いない!」

「違うわ。それと、突然大きな声を出さないでくれるかしら」

「え? あ、ごめんなさい」

 

 雪ノ下さんは私を鋭く睨むと、ため息をついた。

 

「はぁ……。二人とも、女の子と話したのは何年ぶり?」

 

 私は記憶を辿ってみた。事務的な会話を除けば、おそらく一年半と久しいところだろう。そんな期間を隔てた後にかくのごとく女子と言葉を交わしているという事実が、たとえこれが極めて事務的な会話に近かろうが、私のポテンシャルの高さを証明していると言えるのではないか。なんだ、やれば出来るじゃないか。

 隣でなにやら唸っている比企谷君を差し置いて、私は答えた。

 

「一年と半年ですね」

 

 雪ノ下さんは私の発言を無視して、滔々と語り始めた。

 

「知っているかしら、ノブレス・オブリージュという言葉を。現在でも階級制度が色濃く残るイギリスでは、持つものは持たざるものに対しその社会的身分に応じた施しを与えるのが義務なの。つまり無償の奉仕、ボランティアということね。私は貴族ではないのだけれど、そうね、あなたたちと私、どちらが施すべきかなんて一目瞭然でしょう? 困っている人がいれば救いの手を差し伸べる。それがこの部の活動内容よ」

 

 そこで雪ノ下さんは立ち上がって、我々を見下ろすと腕を組んだ。

 

「ようこそ奉仕部へ。歓迎するわ。頼まれた以上責任を果たすわ。あなたたちの問題を矯正してあげる。感謝なさい」

 

 私はあんぐりと口を開けたまま雪ノ下さんを見上げていた。傲岸不遜も甚だしい物言いも彼女の口から出ると何故か感謝したくなる。私は危うく、涙を流して傅こうとしてしまった。

 

「このアマ……問題だと?」

 

 私が救世主を仰ぐ虐げられた民のような目で雪ノ下さんを見つめていると、比企谷君がその顔に似合った口汚い言葉を先頭に、立ち上がって気焔を吐き始めた。これはまずい。雪ノ下さんを怒らせる真似だけはいかん。ハイキング気分で目指せるはずだった栄光ある未来が、のっけから上級者向けの峻険とした急峰に変わってしまうではないか。口を慎みたまえ比企谷君。

 

「俺はな、そこそこ優秀なんだぞ。実力テスト国語学年三位。顔だって悪くない。友達と彼女が――」

「やめなよ。世話ないよそんなこと自分でいってちゃ。恥ずかしくはないのか比企谷君」

「え?」

「どう多角的に捉えても比企谷君は腐ってるんだから。そこを理解しようよ。変な自尊心は捨ててさ、ここでやっていくべきだよ君は。ね?」

「は?」

 

 比企谷君の下らない自尊心のせいで僥倖の如くもたらされた蜘蛛の糸をぷっつりと切られ、お釈迦さまにエンターテイメントを提供するなど御免こうむる。私はもたらされた蜘蛛の糸を死守すべく、比企谷君に追い討ちをかけた。

 

「君はもうこれ以上落ちようがないんだ。見渡したかい周りを。底も底だよ。ごらん、雪ノ下さんだって引いてるじゃないか。君のせいだよ君の。だから友達が出来ないんだよ君。まずは俺が友達になってやるからその怒りを静めなよ」

 

 私は、断腸の思いで比企谷君にそう告げた。しかし、完璧な構図である。私と雪ノ下さんは相並び立ち、非行に走る少年を優しく諭す夫婦のような様相を見せている。夫の男らしい口上に、これは雪ノ下さんも頬を染めているかなと私は隣を見遣った。

 雪ノ下さんは唇を引き攣らせ、私に視線を合わせようとせず言った。

 

「ごめんなさい、ちょっと近いから離れてくれるかしら」

「え。あ、すいません」

 

 私は比企谷君の隣へと戻った。

 

「……お前、どっちの味方なんだよ」

「俺はそういうグループを作る要因となる行為は慎んでる。つまり博愛だ」

「意味がわかんねえよ。慎んでるんじゃなく、慎まざるを得なかったんだろ。友達がいないんだから」

「やかましい」

 

 比企谷君と小声で話していると、雪ノ下さんが再び大きくため息をついた。

 

「とにかく、二人とも更生しないと社会的にまずいレベルということは分かったわ。これからあなたたちは、奉仕活動を通じてその腐って捻くれた根性と感性を世間に顔向けできるくらいには矯正なさい。私が手伝ってあげるから」

「分かりました」

 

 私は即答したが、比企谷君は納得がいかずまだ反論を燻らせているようである。彼は小声で私に問いかけた。

 

「お前さ、あんな散々ないわれ方されてるけどいいのかよ?」

「いいもなにも、俺は最初に公言したからな。哀れまれる必要も更生の必要もないって」

「はあ?」

「四の五のぬかさず黙って頷けよ面倒くさい」

「おまっ、人間性否定されて黙ってられるかよ。だいたい人はそう簡単に変われるもんじゃねえだろ」

「馬鹿かおまえ。そんなことはどうでもいいんだよ。好機を掴まずしてどうする。これは好機なんだ。そこをはっきり認識しろよ」

 

 確かに比企谷君の言うことは一理あった。冷静に考えれば、なぜここまでこの部活動に執着しているのか、なぜこれが好機なのか自分でははっきりと理解できていないのが現状である。これを機に、露と消えた薔薇色の高校生活がひらけると断定するにはいささか材料が足りない。ましてや、立てば芍薬なんとやらを体現する美少女雪ノ下さんが、ゆくゆくは私と「イイ仲」になると断定するに至っては阿呆と呼ばれても仕方がないのかもしれない。しかしながら私は、ここぞというときには敢えて阿呆の汚名を被ることも辞さない男なのである。

 

「雪ノ下さん。彼も了承しました」

「ちょっ――」

「そう。では明日から放課後はここへしっかりと来るように」

 

 そう言うと雪ノ下さんは椅子に座り再び読書を始めた。

 私は比企谷君がこれ以上余計なことを喋らないように今日のところは彼と帰ることにした。

 

「それじゃあ雪ノ下さん、また明日。さようなら」

「ええ、さようなら」

 

 私は比企谷君を引っ張って教室を出て行った。

 

「俺の意思は無視かよ」

「まあいいじゃないか。どうせ暇だろ」

「ほっとけ。俺は部活なんて出ないからな」

「勝手にしろよ。平塚先生の体罰がお望みならな」

 

 比企谷君は少し青い顔をして、「くそっ」と呟いた。

 

「なにはともあれよろしく頼む」

 

 比企谷君は差し出された私の手を濁った目で見つめる。そしてぷいと逸らすと、握らずにさっさと歩いていってしまった。私は虚空をさまよう手を戻すと、比企谷君と下校するために、彼の背を追いかけたのだった。

 

 

 



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第三話

       ◇

 

 私が通う総武高校は、その普請的観点から非常に明らかである。幾何学に基づいて建てられたのだろうか、四つの辺で構成される四角のような形をしているのだ。どっしりとしていてどこまでも明らかな恰好は気持ちがいい。一つ難点を言えば、私が学ぶ教室から奉仕部の部室がある特別棟まで距離がある、それだけだろう。

 授業を終えた私は、部室へ向けた歩みをとめ、少しばかり四辺で囲まれた中庭を眺めた。のんべんだらりとした生徒たちが思い思いの時間を友人たちと楽しく過ごしている。私は意図せず「フフッ」という、自分でも得体の知れない奇妙な笑いを零した。

 

「あなた、大脳新皮質にウジ虫でも湧いているの? 気持ち悪いからやめなさい」

 

 私ははっとして、振り返った。数歩ばかり離れたところで、丁度、部室へ向かっていた雪ノ下さんが忌避の目で私を見つめていた。私は赤面すると「失礼しました」と言い、すでに部室へと入っていった彼女の後を追った。

 雪ノ下さんはいつものように定位置に腰を据え、文庫本を読み始める。同様に私も椅子に座って『星の王子さま』を取り出した。すでに数十回は読んでいるにもかかわらず、読む度に涙を流し、サン=テグジュペリに深い畏敬の念を覚えるこの本は私の愛読書のひとつであった。嗚呼、サンテックス、あなたはきっと最後の飛行で地中海からどこか遠い星へと旅立ったのだろう。私はまた涙を流した。

 

「遅いわね」

「……本当に大切なものは目には見えないんだなあ――何か言った?」

「由比ヶ浜さんと比企谷君のことよ。少し遅いようね。それであなた、なにを泣いているのかしら、気持ち悪い」

「こ、これはですね、涙の国に思いを馳せていたといいますか、あるいは――それより確かに遅いね」

 

 我々が、部室で本を読み始めてから一時間ほど経過していた。普段ならとっくに勢揃いしていてもおかしくない時間である。けがらわしいY染色体をもつ比企谷などどうでもいいが、可愛らしい由比ヶ浜さんが来ないと、どうにも活気が満ちてこない。満ちてこないばかりか、減退の一途をたどる可能性もある。

 たしかに、少し離れてはいるものの、隣には才色兼備の雪ノ下さんが優雅に本を読んでいる。これで活気が満ちないなど、奢侈思考も甚だしいと諸君は思うかもしれない。しかしながら、私の心は至って繊細且つ華奢なのである。彼女の虚飾を帯びない実直な言葉はときとして私を大いに閉口させ、全治数日の精神的裂傷を負わすということを、諸君には認識してもらいたい。そんなものが比企谷に向けられるのはいっこうに構わないのだが、私はもう切ない気持ちになりたくないのだ。ゆえに、彼女と二人きりのときは基本的に読書に没我するか、誤謬に気をつけて話をするかのどちらかであった。

 ついでに申せば、雪ノ下さんと結ばれるなどという絵空事が、不可能に近いことも悟った。彼女は始終中世ヨーロッパの城塞都市のように堅固な外壁で身を包んでおり、そこへ非武装で突入しようとしていた私は、なんとまっすぐ且つ、愚かであっただろうか。まさに愚直の一言に尽きる。

 いまや私はその城壁を攻略することはほとんど諦めていた。そして自覚したのである。私はふはふはして、繊細微妙で、夢のような美しいもので頭がいっぱいな優しい乙女が好みであると。一度自覚してみると、敢えて私がここに所属している意味がないと感じ始め、仮入部の特権を行使し、すっぱり辞めてしまおうか悩んだ。いちどその旨を比企谷に伝えると、「てめえぶち殺すぞ」と凄まれてしまい、腐った目が怒りに燃えている様に気圧された私はついつい残留を決めてしまったのである。

 

「来たようね」

 

 廊下を歩く音が近づいてくるとドアが開いた。

 

「なんだ比企谷か」

「俺で悪かったな。ていうかなに泣いてんだよ、気持ちわりいぞ」

「こんにちは。ずいぶん遅かったわね」

「おう、ちょっとな」

 

 比企谷はそう言うと、椅子に座り文庫本を開いた。この態度になぜか著しく気分を害された私は彼に詰め寄った。

 

「こら、てめえ。何スカしてんだよ」

「はあ?」

「まあ、いい。弁解を聞こうか」

「何の弁解だよ。過去にいろいろあり過ぎて弁解してたらキリが無いんだが」

「職場見学のときに決まってるだろう」

「……別にいいだろそれは」

「いいもだくだくもあるか」

 

 顔を背け、はぐらかそうとする比企谷になおも詰問しようと、私は身を乗り出したが、雪ノ下さんが「なんのことかしら」と話に加わってきたので、彼女に任せることにした。

 

「だから何でもないんだって」

「本当になんでもなかったらそういう風にあらぬ方向をみたりしないものだわ。私たちはもう慣れているから、嫌悪したりはしないわ。だからその腐った目でまっすぐこちらを見ても大丈夫よ。さあ話しなさい」

「お前、それ励ましてるのか貶してるのかどっちだよ。むしろ俺がお前らを嫌悪しまくりなんですけど」

「雪ノ下さん、コイツなめてますよ。やっちゃいましょう」

「どこの三下だよお前は。明らかに瞬殺されるザコのセリフだぞそれ」

「はぁ……話がすすまないのだけれど」

「ほらほら雪ノ下さん、コイツしばきましょう。ささやかな肉片にしちゃいましょう」

「もうお前は黙ってろよ……」

 

 どうせろくでもない癖に、わざわざ秘密をかもし立たせる比企谷にいっそう腹を立てた私は、雪ノ下さんを煽って、一泡吹かせてやろうと散々に横から口を出した。もはや、比企谷の隠している秘密などどうでもよくなり、なんとか痛い目にあわせてやりたくなっていたのが本心なのではと問われれば、否めない。否めないのだが、やっぱり気になる。

 その後も、喧喧諤諤とした言葉の応酬が続けられたが、これ以上の自白は望めないと判断した雪ノ下さんは収拾をつけるために言った。

 

「とにかく、由比ヶ浜さんに関する話ということはわかったわ。そこの目だけでなく舌も腐った男は、もうほっときましょう。あとは、彼女が来たときに訊けばいいわ」

 

 比企谷は少し安堵した様子だった。

 

「なんて口が堅い男なんだ。少し見直したぞ」

「そりゃどうも。見直したついでに、俺との関係も改めてもらえませんかね」

 

 それを機に、各々が再び読書へと戻っていった。私は、いつもならもう少し突っかかってくる比企谷の顔面から、少々覇気が失われていることが気になった。

 結局、その日、由比ヶ浜さんは部室に現れなかった。

 

       ◇

 

 奉仕部における最初の活動らしい活動は、由比ヶ浜さんの依頼であった。

 入部してから数日間、我々は互いに干渉することなく読書ばかりしていた。それに関して特に異論は無かったのだが、ある日、三人寄れば文殊の知恵という諺を引用してここを哲学部に改めるべきではないかと私は二人に主張したことがあった。

 

「よくもそんなことが言えたものね。あなたその諺の真意を理解して言っているのかしら」

「もちろん。文殊菩薩は俺の守護本尊だからね」

「はあ、阿呆ねあなたは本当に。……いかに凡人でも三人集まって話し合えば素晴らしい知恵が生まれるということよ。もう分かったでしょう? あなたと産廃眼の持ち主はきわめて的確だろうけれど、私が凡人なわけないでしょう」

「ちょっと待て。何も喋ってない俺を当たり前のように貶すのはやめろ」

「あら、貶してなんかいないわ。だって事実だもの。あなたが凡人なのも、特別管理産業廃棄物のように人に害を――」

「分かった分かった。もう俺が悪かった」

「そうやって、悪いとは露ほどにも思っていないくせに、卑屈に引き下がるのもあなたが腐っているということの証明よ。大体において――」

 

 活動方針の転換を求めた結果、比企谷に罵詈雑言が降り注いだことがいたく私の気に入った。すでにこの時から、私は比企谷の矮小な魂を見抜いており、何らかの不可抗力が彼を罰してくれることを少なからず望んでいたのだ。しかしながら、これを私の性格の悪さと断定してはいけない。あくまでも彼の成長のためなのである。比企谷を思うからこそ出た、まことの衷心なのである。

 私が悦に入って二人の会話を眺めていると、唐突に部室のドアがノックされた。

 

「ゾウリムシに――どうぞ」

 

 雪ノ下さんは、単細胞生物のくだりがどう比企谷に結びつくのか語らず、ドアの向こうの人物を促した。私は残念に思いながらも、ドアを開けて入ってきた生徒に視線を送った。

 それが由比ヶ浜さんであった。

 由比ヶ浜さんは、入ってくるなり、「チョーキモイ」や「マジアリエナイ」あるいは「ヒッキー」はたまた「ジョシリョク」などという謎の言語を操り私を辟易させた。これが巷間を騒がせている、いわゆるギャルというヤツなのかと私は由比ヶ浜さんを観察した。

 

「な、なに?」

 

 不躾な視線を送りすぎたようで、彼女が少し引いていた。

 

「その位にしておきなさい。あなたは知らないようだから言っておくけどそれはセクシャルハラスメントといって立派な迷惑行為よ。通報されたくなかったらその猥褻物のような目を閉じなさい」

 

 私は素直に目を閉じた。隣で比企谷が笑っていたので、後でコイツの読んでる文庫本のあらゆるページに付せんを貼り付けてやろうと心に誓い、雪ノ下さんが許可するまで目を閉じ続けた。

 見た目ケバケバしく、言動からは社会の何たるかを理解すること白頭に至るまで能わざる表現が垣間見られる由比ヶ浜さんは、さぞや派手な交友関係を所持しており爛れた高校生活を送っているどうしようもない不良少女であろうという大方の予想に反し、依頼はとても可愛らしいものであった。

 もじもじした由比ヶ浜さんに気を使った我々は、雪ノ下さんだけを残して飲み物を買いに出かけ、再び戻ると、その可愛らしい依頼内容を聞かされたのだ。

 なんでも依頼とは、クッキーを渡したい人がいるらしく、不味いものは渡せないから手伝って欲しいとのことであった。我々は膳は急げとばかりに、早速家庭科室へと向かうことにした。

 

「手作りクッキーなんて友達に手伝ってもらえばいいだろ」

 

 家庭科室に到着すると、比企谷は頭を掻きながらそう呟いた。友達がいないコイツが言っていいセリフなのか私は少し考えた末、いないからこそ出た発言なんだろうと納得した。

 

「馬鹿もここに極まれりだな。頼めないから奉仕部に来てるんだろ」

 

 私は言った。

 

「はあ? そういうの頼めるから友達じゃないのかよ」と比企谷。

「それは俺もちょっと分からない」と私。

「あなたたちが友達の何たるかを語るのは四千年早いわ。黙ってなさい」

 

 耳聡い雪ノ下さんが、調理器具やら材料やらを机に並べながら取り澄ましてそう言った。比企谷は「中国の歴史かよ」ともにょもにょ言っていたが、最終的に「俺たちは何をすればいいんだ」と問いかけた。私も頷く。

 

「そうね。一人でも構わないのだけれど、嗜好は人それぞれだしより多くの意見が欲しいわ。味見して感想を頂戴」

「任せてください」

 

 私は胸を張った。

 

「私、頑張って作るね!」

 

 由比ヶ浜さんは我々の方を見て意気揚々と拳を握り締めた。私は不覚にも、ナンダカカワイイじゃない、と思った。

 さて、由比ヶ浜さんの名誉のためにも、彼女が作ったクッキーの出来に言及するのは控えようと思う。彼女は度重なる雪ノ下さんの辛辣な言葉にめげることなく、むしろマゾヒストではないかと勘繰ってしまうほど嬉しそうに取り組んでいた。私はそんな彼女のひたむきな姿勢と健気さにほだされ、心の中で熱いエールを送った。

 ともかくこの一件は、比企谷の「男ってのは単純でな――」という男性代表を気取ったあつかましい説得で一応の解決をみた。あつかましいが正論だったので、特に私は反駁せず、女性陣も納得といった様子であった。

 

「で、どうするの?」

「私、自分のやり方でやってみるよ。ありがとね雪ノ下さん」

 

 由比ヶ浜さんはそう言って微笑んだ。

 数日後、家で作ったという手作りクッキーを持参して、由比ヶ浜さんが部室へ姿を見せた。彼女はお礼だからと、我々三人にハート型のクッキーを手渡した。ふわふわした模様が描かれた包装紙に包まれたクッキーは見るものを和やかにしてくれる温かみがあった。私は「ありがとうございます」と頭を深々と下げて受け取った。

 由比ヶ浜さんに押される形で盛り上がる二人を部室に残して、私と比企谷は校舎裏の階段に腰掛けた。

 

「みろよこれ。そこはかとなく不気味だな」

「……」

「うっ。まるで成長のあとが窺えない味だぞこれ」

 

 比企谷はそう言いながらもぼりぼりと完食していた。

 私は、手作りクッキーを様々な角度から眺めたのち、持って来た鞄の中に丁寧にしまった。

 

「なんだよ。食わねえのかよ」

「うん。これは我が家の神棚に飾ることにした」

「……え?」

 

 比企谷は言葉を失ったようであった。

 我ながら変態だとは思うが、こんな記念すべきものを食べるなど私には出来ない。これから先、私が歩むであろう輝かしい未来を疑いたくはないが、後にも先にもこれが唯一の手作りクッキーになるかもしれないのだ。そんな迂闊なことは言語道断である。あの天真爛漫な由比ヶ浜さんがその手でこねあげたクッキーは、神棚に置くことで霊妙さを纏うことになるだろう。将来、引きも切らさず手作りクッキーを渡されることを願って、毎朝拝む必要も出てくる。

 

「おい、誰にも言うなよ」

「お、おう。まあ、なんだ。だ、大事にしろよ」

「むろんだ」

 

 そして、これ以降、初めて手作りのお菓子をくれた女性として、私は由比ヶ浜さんを敬うことに決めたのであった。

 

       ◇

 

 由比ヶ浜さんが部室に顔を出さなかった翌日のことである。

 週末のこの日、私は以前から所望していた書籍をもとめるべく、午前中に家を出て駅前の繁華街へと自転車を走らせていた。

 すがすがしい休日の朝であった。五日間に及ぶ高校生活のけがれが、吹き寄せる向かい風とともに、私の後方へと流れ去っていくようである。私はすこぶる快活になっていく心を感じながら幹線道路を進み、繁華街への道を折れた。しかし、私のすがすがしい朝はそこまでだった。繁華街に近づくにつれ、徐々に増してくる男女の連れ合いが等しく私の気分を減退させた。休日の朝からふしだらに遊び呆けて、もっと他にやることはないのかと、私はペダルを力いっぱい踏み込みながら、風紀紊乱の世を嘆いた。

 嘆きは憤りに取って代わった。書店の前で自転車を止めた私は、何とはなしに、車が行き交う車道を挟んで反対側の歩道に顔を向けると、そこに小柄な可愛らしい女の子と歩く比企谷を見つけたのである。あのスカした前傾姿勢を見まごうはずもない。由比ケ浜さんだけでは飽き足らず、あんな可愛らしい少女にまで手を出そうというのか。たいした桃色遊戯野郎である。車道を挟んで、あからさまに明暗を分けた形となり、私は憤った。

 ゆっくりと歩いていく二人をしばし睨みつけていたが、そういうことをしていても腹が減るだけだ。私は気を取り直して、書店のドアをくぐった。

 本を購入し、再び自転車にまたがった私は、自宅へ戻る道を走った。途中、緑道に差し掛かったときである。前方から犬に引っ張られるように走ってくる由比ケ浜さんと遭遇した。

 

「犬の散歩?」

「うん。サブレ、走るの速くって」

 

 由比ヶ浜さんはそう言って、あははと笑った。

 

「昨日、部活出られなくてごめん。ちょっと用事があったから……」

「なんの。大したことはしてないから。少し比企谷をからかって終わっただけだよ」

 

「そう、なんだ……」

 

 由比ヶ浜さんは、一瞬だけ眉を寄せるとすぐに、またあははと笑った。

 私は、職場見学の際、比企谷と何かあったのか、尋ねようか迷っていた。正直なところ、経験に乏しい私は、あの時の二人の様子を、青春を彩る小粋なスパイス程度にしか考えていなかった。しかし、もしかするとあれは昼ドラじみた生々しい本格的な諍いだったのかもしれない。目の前の由比ヶ浜さんを見ていると、なんだかそんな気がしてくる。とはいえ、もしそうであるならば、もはや私の手に負えるものではない。

 私は口から出かけた質問を飲み込み、別れの言葉を述べた。

 

「それではまた学校で」

「……うん。ばいばい」

 

 私は後ろ髪を引かれる思いで、彼女と別れ、自転車を走らせた。

 

 

 



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第四話

       ◇

 

 なにか感じるところがあったのか、あの依頼を機に由比ヶ浜さんは奉仕部へ入部した。禅寺もかくやと思わせる深閑としていた部室は、彼女の声で瞬く間に賑やかになった。

 わざわざ、この場を訪れなくとも、読書は家で幾らでも出来る。依頼がない日は、部長である雪ノ下さん一人この部室にいれば、事足りるのではないか。だいたい比企谷が、雪ノ下さん一人の力で更生するとも思えない。だったら奉仕活動の端緒たる依頼が持ち込まれてから、そこで初めて、一堂に会すればよいのではないか、と私は思っていた。しかしそんな意見でも主張してみろ、私はおそらく死ぬであろう、精神的な病で。

 だからこそ由比ヶ浜さんの入部は、私にとって渡りに船であった。放課後の時間を削っているのだ、少しでも有意義に過ごすべきである。部員が部員だけにまるで身についていない社交性にも、彼女が加わることによって新たな道が開けるかもしれない。それに由比ヶ浜さんには手作りクッキーの恩もある。是非とも仲良くしたいところだ。こんな風に考えて私は由比ヶ浜さんの入部を好意的に受け止めていた。

 

「ねえねえ、なんで奉仕部に入ったの?」

 

 ある日の放課後、私は由比ヶ浜さんにそう問いかけられた。

 

「うん、それには深遠な理由があってね」

「へえ、どんな理由?」

「何を言っているの、あなたは。ただ性格に難があって友達がいないからじゃない」

「ゆ、雪ノ下さん。それは直裁にものを言いすぎじゃ――」

「本当のことじゃない。それとも、何か他に理由があるのかしら」

 

 私は言葉に詰まった。隣で比企谷が失笑していた。

 

「じゃあヒッキーと一緒なんだ。うん、どことなく二人は似てるもんね」

「おい、今までで一番心にグサリとくる言葉なんだが。なに、俺とコイツが似てる? ねえよ、天地がひっくり返ってもそれだけはねえよ」

 

 一瞬にして笑みが消えた比企谷が愕然とした表情でわめいた。いい気味である。しかし奇遇だが私も同意見であった。由比ヶ浜さんの言葉は悪意がないだけにたちが悪い。

 

「まあたしかに、比企谷くんと比べたらあなたのほうが幾分かましかもしれないわね。目が腐ってないという点においてだけれど」

「人の身体的欠点をあげつらうのは止めろ。これ以上俺の精神を削ってお前になんの得があるんだよ」

「あら、欠点と理解しているのね。だったらその矮小な脳みそを使って少しでも改善するよう努力しなさい。人を笑う暇があるのならそれくらい出来るわよね?」

「見てたのかよ……」

 

 由比ヶ浜さんと高尚な雑談をする絶好の機会が失われてしまった。私はちらっと由比ヶ浜さんのほうを見ると、彼女はなぜかにこにこしていた。

 

「なにを笑っているのかしら由比ヶ浜さん。別段おかしなところは見当たらないのだけれど」

「あ、ごめんごめん。なんだか楽しそうだったから」

「楽しそう? 一体どこをどう見ればこれが楽しそうに見えるのかしら。もしかしなくてもあなたもバカなのね」

「あーー! ゆきのんヒドすぎ!」

 

 由比ヶ浜さんはぷりぷり怒っていたが、ふと顔を伏せるとぽつりぽつりと話し始めた。

 

「私、こういうの憧れてたから。ほら前にも言ったでしょ、クッキー作ったときに。なんか全然建前とか言わないのすごく良いなって思ったの。私空気読んでばっかだったし……」

 

 皆、由比ヶ浜さんの顔を見守ったまま口を結んでいる。

 

「あはははは、こういうの変だよね。ごめん、話変えよっか」

「いえ、おかしくないわ。それじゃあ逆に聞くけれど、なぜ空気を読んでいたのかしら?」

「え……、だってみんなに合わせないとハブられるかなって……」

 

 私と比企谷はほぼ同時に笑った。おそらく同様の思考回路をたどって表情筋を振るわせた、という事実を否応なく思い知らされた我々は、顔を見合わせ、そしてしかめた。

 

「くだらない迎合ね。まあいいわ、空気を読むという行為をかなぐり捨ててきたそこの男たちの意見を聞きましょうか」

 

 比企谷はなぜか誇らしげに胸を張った。

 

「俺は空気を読むことに関してはスペシャリストだぞ。本物のぼっちは空気を読まずして成り立つものじゃない。空気を読んだうえで、あえてぼっちを謳歌してるんだ。ぼっちはいいぞ、煩わしい人間関係から解放される」

「うそつけ。空気を読んでいたら、そんな反社会的な目をしてないだろ」

 

 雪ノ下さんが生ゴミにたかる小蠅をみるような視線をこちらに向けている。私はあわてて付け足した。

 

「たしかに由比ヶ浜さんのいう空気を読むことも大切だとは思うけど、支配されちゃダメだよ。あくまでもこちらが主導権を握り、流れを変えるくらいでなくては」

「だいたいな、そんなの友達とは言わねえと思うぞ。相手の望む言葉、行為をわざわざ察知して、それを与えるなんて主従関係だろもはや。騎士道かよ」

 

 由比ヶ浜さんは少し俯きながら我々の言葉を受け止めていた。

 

「由比ヶ浜さん、あなたのそれはただの馴れ合いよ。馴れ合いはどこまでつき詰めても所詮馴れ合いなの。あるべき自分を殺してまで求める価値なんてないわ。幻想よ。それに……」

 

 雪ノ下さんは、どこか遠い目をして続けた。

 

「そういう連中は不穏分子に悉く排他的なのが通例よ、あなたが言ったハブというやつね。意にそぐわない者を手前勝手な理由で晒して悦に浸る……自己保身のために他人を排除するなんて、本当に虫唾が走るわ」

 

 最後の言葉とは対照的に雪ノ下さんは微笑んでいた。

 彼女も相当苦労したのだろう。その容貌で周囲を法界悋気(りんき)の世界に叩き込んだのは想像に難くない。決して好意的な衆目だけに晒されていたわけではなかろう。陰湿ないじめもあったかもしれない。

 

「うん……」

 

 由比ヶ浜さんは力なく頷いた。

 所属している集団から弾かれるということは、社会的な死を意味している。学校という狭い環境の中では尚更のことであろう。ひとたび、井戸の縁から顔を出せば、なんて狭い世界で右往左往していたのだろうと馬鹿らしく思うこと必定だが、我々はまだ井の中の蛙なのである。そこがすべてで、そこで生きていくことしか出来ないのだ。

 待てよ……。そう考えれば、由比ヶ浜さんの空気を読むという行為は処世術であって、決して批難されるべき対象ではない。彼女だけでなく、大抵の人間が無意識下、人間関係が損なわれるのを恐れて同様の術を行使しているのだからそれは常識の類いである。なるほど、むしろ批難されるべきなのは我々の方ではないか。蜀犬日に吠ゆとはこのことか。雪ノ下さんも含め、我々は彼女に教えを請うべきなのかもしれない。

 雪ノ下さんの言葉は全面的に首肯されるべきものではないと考えた私は、しおれ気味の由比ヶ浜さんを励ますように言った。

 

「由比ヶ浜さん。さっきも言ったけど空気を読むことは大切なことだと思うよ。俺たちを見てごらんよ。馴れ合えなかった末がこれだぜ。なにか手厳しいこと言ってるけど、客観的にみたら負け犬だから、俺たち」

 

 雪ノ下さんは「それ私も入っているのかしら」とややお怒りだったが「まあ、いいからいいから」と私は続けた。

 

「だからすべて真に受ける必要はないよ。本音で語り合うことが正しいってわけじゃないからさ。ときには言いたいことを言わなくちゃならない場面もあるだろうけど、それ以外は適当でいいんじゃないかな」

 

 朝令暮改のようで申し訳ないが本心をさらけ出せば、今、私が考えたこと、言ったことはまったくつまらないことである。そんなこと心の底では思っちゃいない。客観的に見ようが、俯瞰で見ようが、望遠鏡で覗こうが私が負け犬ということはありえないのである。余人が自己保身のために空気を読もうが、不羈独立たる私の知ったことか。空気は吸うものである。

 しかしながら、私は悩める乙女の前では、韜晦することを厭わずに敢えて道化を演じることのできる男なのである。空気を読む行為とはまた違った、自己犠牲の精神、と言い換えることもできるだろう。我ながらなんともいじましい健気さだ。

 私は、己を律した奉仕的主張を切り上げるべく「な、比企谷」という言葉で続きを促した。

 

「ま、そうかもな。俺もコイツも雪ノ下も、明らかにズレてるからな。世間の総意と捉えるのは誤りだな」

 

 物分りのよい比企谷に感謝すると同時に、私の涙ぐましい奉仕的主張を言語道断しそうな唯我独尊女・雪ノ下さんは果たしてどうかと、恐る恐る彼女の方を見遣った。

 

「そうね、由比ヶ浜さん。あなたはあなたが望むようにすべきじゃないかしら。本音が言いたいのであれば言えばいい、場に合わせたいときは合わせればいい。臨機応変ね」

 

 意外にも、雪ノ下さんはそう言った。

 由比ヶ浜さんは伏せていた顔を上げると、元気を取り戻したように笑った。

 

「うん! 私、やっぱり優美子たちとも本音が言えるようになりたい。だからなんだかよく分かんないけどとりあえず頑張ってみる!」

 

 比企谷は「なんだよそれ」とスカし気味に笑った。

 私はふぅと息をついた。ともかく奏功したようで、よかった。道化を演じた意味があるというものだ。だいいち、こんなところで由比ヶ浜さんが性狷介にして自ら恃むところすこぶる厚い孤高の乙女になってもらっては困る。私の有意義な高校生活において今のところ彼女だけが頼りなのだ。

 それにしても雪ノ下さんが同意してくれるとは思わなかった。てっきり、「あなたたちのそういう弱さを肯定するところ大嫌いだわ。むしろ気持ち悪いわ、一度死んでちょうだい」などという罵倒が飛んでくると思ったのだが。比企谷もそう感じたらしいのか、なぜ同意したのか疑問を投げかけていた。

 雪ノ下さんは目を細めて不気味に笑った。

 

「これが空気を読むということじゃないかしら?」

 

 我々は苦笑した。

 

       ◇

 

 書店から戻り、自宅の居間にでんと腰を落ち着けると、先ほどの由比ヶ浜さんの様子が念頭に上った。いまどきの高校生がどんな心の機微をしているのか、まるで分からないのが正直なところではあるが、明らかに由比ヶ浜さんの様子はおかしかった。たかが二、三ヶ月、ともに部活動に励んだだけではあったが、されど二、三ヶ月である。彼女がその豊かな感情をもってして意味不明な言葉を操り、部室の明度を大幅に押し上げていたことは言うまでもない。そんな太陽のように明朗であった由比ヶ浜さんが、なんの断りもなく部室に顔を出さないばかりか、仔細ありげに面持ちを曇らせたとあれば、まず間違いなく何かあったのだろう。きっかけはやはり職場見学か。しかしながら、あの時二人がどんな会話をしていたのか、全然記憶にない。青春破壊衝動に駆られていた自分が恨めしい。もっとしっかり会話を聞いておくべきだった。

 では、もう一人の当事者、比企谷はどうであるか。昨日の著しく覇気を欠いた顔は、やっぱり由比ヶ浜さんとの悶着に起因するのだろう。そうであるならば、その冷徹さを自他共に認める雪ノ下さんならまだしも、太平洋のように広い心とガラス細工のように繊細な感情を持つ私にまで、なぜひた隠しにする必要があるのか。話せば楽になるということもある。たとえ打ち明けられた私が、十中八九、解決に向けてなんら役に立たないとしても、話すべきである。解決できない代わりといってはなんだが、気晴らしにでもしたまえと、猥褻文書を貸してやることも吝かではなかったというのに。彼は今頃、その目と同様にどんよりと澱んだ自室で、ぶつぶつと己の不手際をかこっているのであろうか。

 そこまで考えた私は、ふと怒り心頭に発した。そういえば。

 比企谷は先ほど可愛らしい女の子と連れだって歩いていた。由比ヶ浜さんとの遭遇で、すっかり忘れていたが、あれは逢引だったのではあるまいか。私が慈愛と哀れみの心で気遣っているとも知らず、今まさに、ちんちんかもかもやってやがるのか。許せん。今すぐに家を飛び出して、街中を探し回り、見つけ次第「天誅」と叫んで猥褻文書を投げつけてやろうか。

 しかし、勇ましい考えとは裏腹に、私の怒りは急速に萎んでいった。休日の昼間から比企谷が逢引きしている現実は、平生から泰然自若をもって自任している私であってもさすがにこたえたのだ。なんだか非常に馬鹿らしくなってきた。もうどうにでもなれ。私は、比企谷のことも由比ヶ浜さんのことも頭の隅に押しやり、自室で横になるとおもむろに猥褻文書の封を解きはじめた。

 

 月曜日がやってきて、一週間が始まった。私は、このもの言わぬ巨人が現れるたびに言いたくなることがある。おまえはどうして、そう無感動にずけずけとやって来ては、去りし二日間の怠惰的生活を虚しゅうさせるのか。某国民的アニメが終わる頃、余計な焦燥に怯えてしまうのは、まったくおまえのせいなのだ。もう少し緩慢に歩んでは来られないのか。返せ。ただちに私の休日を返せ。しかし、私がいくら抗議しようが、巨人は聞く耳を持たない。頑固一徹に己の道を粛々と歩むばかりである。

 そんな月曜日の初め、鬱々とした心持ちで登校した私は、校門をくぐったところで声をかけられた。

 

「おはよう」

 

 平塚先生であった。生活指導という立場から、朝の登校時間には校門に立ってのどが枯れてしまうほど「おはよう」を繰り返すのが彼女の仕事の一つである。どうやら本日も勤しんでいるようだ。私はねぎらいの言葉を胸中に「おはようございます」と言って、そそくさと彼女の横を通り過ぎた。

 

「待ちたまえ」

 

 その声にびくりと肩を震わせて振り返ると、鋭い目をして平塚先生が手招きしていた。これといってやましいことはないが、彼女に近づくのがためらわれた。おそらく、それは彼女の目が原因であろう。

 平塚先生の目には、対象者にてんで不必要な自戒を促す謎の力があった。ひとたび彼女の視線に捕らえられれば最後、浄玻璃(じょうはり)の鏡の前に立たされた亡者がごとく己の罪業に打ち据えられてしまう。「余人の視線ごときに誇りを粉砕されてはならない」、これが私の持つ座右の一つだが、平塚先生の視線はつねに、いとも容易く私の誇りを粉々にしてきた。

 以前、どうして平塚先生ともあろうお方が生涯の伴侶にめぐり合えないのか、比企谷と論議したことがあった。論議は横暴に始まり乱暴に尽きるとして、ごく短時間に結論を見たのだが、その数日後、この目に相対した私は、彼女が知るはずもない論議内容を、「何でもお見通しだぞ」といわんばかりの謎の力によって漏らすよう強制され、結果、鉄拳制裁を甘受するハメになった。その場に崩れ落ち、殴られた腹をさすりながらうめき声をあげていた私は、なんと惨めであったことだろうか。このような有様で誇りなんぞどうして保ち得よう。彼女の視線の前に、私はあたかも春の到来を待ちわびるシマリスのように縮こまってしまうのである。

 今回も、惨劇が繰り返されてしまうのかと、私はびくびくしながら近づいた。

 

「どうだ、奉仕部は。正式に入部する気になったか」

「もう少し考えさせてください」

「そうか。本当ならとっくに仮入部期間は過ぎているのだがな、まあよしとしよう」

 

 平塚先生はそう言って微笑んだ。この美しい笑みに騙されてはいけない。私の内部にある何かやましげなものを引きずり出して、それが気に入らなければ腕力に訴え出ようという腹である。私は迂闊なことは喋ってはならぬとほぞを固めた。

 

「それと、君自身の更生の方はどうなっている。いまだにクラスの者たちと馴染んでいないようだが」

「はあ。精進します」

「あまり努力しているようには見えないな。やる気がないんだろう」

「い、いえ。決してそんなわけでは」

 

 平塚先生の目に鋭い光が宿る。私の誇りが悲鳴をあげた。このままではガラガラと崩壊するのも時間の問題である。焦った私は、「一時間目の予習がありますから失礼します」と、虚偽の言辞を弄し、会話を切り上げた。

 

「うむ。とにかくしっかり努力するんだぞ」

「はい」

 

 惨劇が繰り返されなかったことに一安心した私は、急いでその場を離れ教室へ向かった。

 

 

       ◇

 

 昨今、便所飯なるものが一部界隈で流行しているらしい。昼休み、周りを囲む談笑に耐えられなくなった孤独な人間の末路が便所であり、自分と外界を遮断する鉄壁の個室において、ほのかに香るアンモニア臭をおかずに弁当をつつくのがその一般的概念である。私は、比企谷からその話を聞いたとき、世の中にはケッタイな人間がいるものだと驚いた。軟弱者の姑息な逃避だと一笑に付すことは簡単だが、少し想像してみれば、彼らの忍耐力がいかに優れているかが分かる。アンモニア臭など序の口だ。ひっきりなしに聞こえてくる、じょぼじょぼという音を甘んじて受け入れるばかりでなく、ブボッブリュなどというおぞましい音と、その後に訪れる筆舌に尽くしがたい激臭に耐えながら食事をとるというのだ。さぞかし飯が不味いだろう。超弩級の忍耐力といわざるを得ない。そんなところで弁当を食うくらいなら、談笑に埋もれながら、己の不遇を嘆いているほうが余程いい。

 

「極めて阿呆としか言いようがない」

「そう言ってやるな。これは友人の友人から又聞いた話なんだが、慣れると臭いも音も気にならなくなるんだと。つまり五感を排してるわけなんだが、当然、味も分からなくなる。だからどんな飯でも不満がなくなる。食パンだけ持ってくれば安上がりだ」

「うそだろ、おまえ。哀れすぎるぞさすがに」

「ちょ、バッカ、おまっ。俺じゃなくて友人の友人だって言ってるだろ」

 

 昼休みになると、私は、弁当を持参して校舎裏の階段に座り込んだ。哀れな比企谷との会話を思い出しながら、ペットボトルのお茶に口をつける。頬を撫でる涼やかな風が、非常に心地いい。

 便所飯は御免だが、賑やかな教室の中で悠然と昼飯を食うくらいなど、私ほどの人間になれば造作もない。では、なぜ校舎裏の階段というあからさまな場所で昼食をとるのか。それは比企谷がどうしても一緒に食べようとしつこく誘ってきたからであり、温厚篤実な私が致し方なく了承したからである。間違っても、私が教室から逃げ出したと捉えてもらっては困る。

 たしかに、きゃんきゃんと喧しいクラスメイトたちに少々嫌気が差したことは事実である。そして、なにか契機さえあれば、よそで弁当を食べたいと願っていたことも、まあ、事実である。さらに、比企谷がベストプレイスと称して校舎裏の階段で昼飯をとっていると聞き及び、なるほど、それは悪くないなと思ったのも事実といわねばなるまい。しかしながら、階段で惣菜パンを頬張る彼の前を、弁当袋を提げ何気なく往復していた私に対して、「座れよ」と声をかけたのは比企谷なのである。諸君には、最後のまぎれもない事実だけ、しっかりと記憶してもらいたい。他は忘れてもらって、いっこうに構わない。

 私は、母親手製の弁当を開いた。生姜焼きを味わっていると、ビニール袋を提げた哀れな比企谷がやってきた。

 

「よう」

「おう」

 

 比企谷は隣に腰掛けると、いつものように惣菜パンを頬張った。

 

「おまえ、毎日似たようなものばかり食べてるな。偏食で将来、痛風になるぞ」

「いいんだよ好きなんだから。だいたい健康に気を遣ってたら何も食べられねえよ。すべての食べ物に一長一短があるんだぞ。それに食べたいものを食べられないストレスで病気になる可能性もある」

「詭弁だな。おまえの将来が見えた。痛風で年中顔をしかめながら歩き、最終的に腎臓がやられてなすびみたいな顔色になるだろう」

「不安を煽るのは止めろ、怖すぎるだろ」

「己の不摂生を墓に入る寸前まで呪うといい」

「くそっ、飯が不味くなってきたじゃねえか。この話はやめだ」

「フフフ――あ、そういえば!」

 

 にやにやと笑っていた私であったが、突然、一昨日のことを思い出し声をあげた。勢い余って、たれのよく染み込んだご飯が比企谷の顔へ降りかかった。

 

「おまえ、一昨日なにしてやがった」

「おい、きたねえぞ!――ったく。で、なんだよ?」

「一昨日何してたかって聞いたんだ」

「あ? 一昨日は……なにしてたかな」

「とぼけるなよ。ちゃあんと証拠は揃ってるんだぜ」

「はあ? 意味わからん。何が言いたいんだよ」

「ぶっ飛ばすぞてめえ。しら切るのも大概にしろ」

「っだから、きたねえよ! 食いながら喋るなボケナス」

「ごめんごめん」

 

 私はとりあえず、生姜焼きをゆっくりと咀嚼した。

 

「街に出てたよ、何か問題あるか?」

「やっぱりな。おまえなどこうしてくれる」

 

 好物とは程遠い椎茸をつまむと、私は比企谷の口の中へ押し込んだ。比企谷は濁った目を見開いて口をもごもごやっていたが、飲み込むと「うまいな」と呟いた。

 

「くそ、なんなんだよ一体」

「こっちのセリフだ。俺の優しさをコケにして、女の子と遊びやがって」

「え? いよいよわからねえ。一昨日は戸塚と遊んでたんだが」

「なるほど。意中の相手は戸塚という名前なのか。生意気にも俺たちの癒しである戸塚君と同じ姓か」

「いや、だからその戸塚だって」

「え?」

 

 私はしばし放心した。そうして、一昨日のことを思い出そうと努めた。

 小柄で華奢な体型、遠めからでも分かる大きな瞳と可愛らしい横顔。女の子と断定してもなんら不思議はないが、たしかに服装が少しボーイッシュだったような気がする。それにしても、我らが癒し、戸塚君であったとは。それまで、幸せそうな男女が幾組も視界に入っていたからであろうか、どうやら比企谷と戸塚君を同類とみなしていたらしい。我ながら、なんとも迂闊な早合点である。

 

「そうかい。なあんだ、それならいいや」

 

 ちょっと、いやかなり羨ましいが、比企谷が抜け駆けまがいのことをしていなければ、私の自尊心は保たれる。情状酌量の余地ありだ。

 私は比企谷の肩を叩きながら、「それくらいでいい。焦る必要はどこにもない」と声をかけていると、後方から、唐突に馬鹿でかい声が響き渡った。

 

「おぬしたち! 本日も良き日和であるな!」

 

 振り返った我々の眼に映ったのは、右手を虚空へ伸ばし、高らかに笑う材木座義輝(ざいもくざよしてる)の姿であった。

 

「我も混ぜたまへ、いつものように」

「しかし、念は押しておく。おまえと戸塚君は結ばれることはない。アブノーマルへの道を驀進(ばくしん)するのもいいが、引き際を間違えると帰り道がわからなくなるぞ」

「ちょっと何言っちゃてるのお前。別に俺は戸塚のことが好きとかそういうんじゃねえから。あくまでも友情を深めていただけだから。……たしかに戸塚は男子とは思えないほどカワイイかもしれないが――」

「わかる、おまえの言わんとすることは心底わかる。おまえが完全無欠のホモソーシャルな世界に棲息していることもわかる。だからといって、いくらなんでも不毛じゃないか。戸塚君は決しておまえに振り向かんぞ」

「いや、まったく分かってねえじゃん」

 

 ごちゃごちゃと喋っている我々の前に立つと、材木座が声を低くしてささやいた。

 

「あの、ほんと、無視しないで」

 

 今にも泣きそうであった。

 

「座れよ」

「そうか! それじゃあ失礼させていただこう!」

 

 材木座は比企谷と私の間に、ずんと腰を下ろすと弁当を食べ始めた。

 

「して、何の話をしていたのかな」

「口の中に物を入れて喋るなよ。きたねえだろう」

「お前がそれを言うのかよ……」

 

 私は残りの椎茸を材木座の弁当箱にねじり込むと、一昨日のことを語った。

 

「八幡。貴様、男色の気があったとは……たとえ戦国時代に男色が盛んであったとはいえ、今は現代、さすがの我も付き合い方を考えねばならないぞ」

「だからちげえっての。そいつが騙ってんだよ。俺と戸塚は健全な友情交際をしただけだ」

「じゃあなんで遊んだんだよ。珍しいじゃん、おまえが休日遊ぶの」

 

 どうやら比企谷の急所を突いたらしく、眉をひそめて少し固まってから比企谷は言った。

 

「……誘われたからだよ。ていうかなんでお前は俺のプライベートを知ってるんだよ、気持ちわりいな」

「そんなもんは知らん。ただ俺たちには休日を遊ぶ友人がいないという事実がそこにあるだけだ」

「その通りだ八幡よ! 我々は我々だけが唯一分かり合える友なのだ。そんなことも忘れてしまったのか八幡!」

「うぜぇ……そして、悲しすぎる……」

「どんな物語でも、世界を救うのは少数精鋭と相場が決まっておる。我々の手でこの世を裏から操る機関に鉄槌を下そうではないか」

「まずまっさきに、浮かれポンチの比企谷に鉄槌を下そうぜ」

「はっ、まさか八幡は機関からの刺客だとでも言うのか?」

「その、まさかだ」

「ぬぁあにぃ!? 敵がここまで肉薄していたとは! 我としたことが、主従関係を結んでいると胡坐をかいていた」

「ありもしない幻想にとりつかれているおそれがある。早急に目を覚まさせてやれ」

「おのれ八幡!」

 

 材木座は口から卵焼きを飛ばしながら激昂していた。比企谷は食事を終えたのか、盛り上がる我々を残し、「阿呆くさ、一生やってろ」と言って、歩き去ってしまった。

 

「待つのだ、どこへ行く。八幡!」

「スカしやがって。誘われたとかぬかしてたけど、本当かな」

「うむ。いずれにせよ気に食わぬ。我が誘っても遊んでくれたためしがない」

「許すべからざることだ。比企谷の分際で人を選ぶとは」

 

 その後、残された材木座と私は、弁当のおかずを交換しながら比企谷への天罰について話し合っていた。しかし、気が付けばいつの間にやら話が逸れて、学校生活の理不尽に対し口汚く罵倒しあっていた。両者、舌鋒鋭く、昼休みの終わり間際になると、材木座は平生の奇天烈な口調を忘れて、「マジで修学旅行とか必要ない。隕石落ちねえかな」と、気焔を吐いていたが、その顔たるや将門公もしり込みするような容赦のない怨念に満ち溢れていたという。

 予鈴が鳴ると、我々は校舎へと戻り、互いのクラスへと帰っていった。

 

「しばしの別れだ。明日、陽が天辺を突く刻まで、さらば!」

 

 

 



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第五話

       ◇  

 

 去年のある日、非常に痛快な光景を見た。

 私が、敢えて歩かないでもかまわない茨の道をことさら選んで再スタートを切り始めた、秋のことである。スタートラインを越えた一歩目で、私の心ははやくも折れかけていた。第一の関門とばかりに、学園祭という巨大すぎる壁が、眼前に屹立していたのである。ふわふわしたパステルカラーが塗りたくられた壁は、十代が味わうべきうれしはずかしイベントで形成され、私の目には「さあこちらにおいでよ」と誘われているようにも、「お前の覚悟を問う」と脅されているようにも映った。

 私は、憎々しげにこの壁を一瞥すると、思案に思案を重ね、十重二十重に分析した。自由登校にかこつけて参加を見送ってしまえば臆したようで癪に障るし、だからといって単独で文化祭を謳歌しようなどという暴挙に及べば精神に甚大なる損害を負うことは明白である。そこで私は、透過的参加という手段を用いることにした。透過的参加とは、いてもいなくてもなんら影響を及ぼさない人間だけが行使し得る無用の用と捉えていただきたい。私はこれを用いて、学園祭で賑わう校舎を、ごく小さな声で滑稽滑稽と呟きながら幽鬼の如く彷徨い歩いたのである。この滑稽という二文字には、浮ついた雰囲気で充満する文化祭、その醜悪さと愚劣さ、そして私に不合理な劣等感を抱かせる唾棄すべき厚顔無恥さ、その他諸々に対する万感の怒りが込められていた。私は、縦横無尽に駆け巡り、あちらでもこちらでもすれ違う生徒に滑稽滑稽とささやきまくった。そうして私は決して文化祭などに恭順の意など示さないぞとささやかな反抗を露にしたのだ。しかしながら実際は、余りにささやか過ぎて誰にも聞こえてなどおらず、抜群に滑稽だったのは、ニワトリの様な私であったことは言うまでもない。

 この不毛な戦いが、不毛であると徐々に気付きはじめた私は、急に馬鹿らしくなり恥ずかしくなった。せめて、文化祭という戦場を共に駆け抜けていく同志がいればと、無頼漢である自分を嘆いた。いかん、弱気になってはいかん。つい先日、そうやって人恋しさから、赤の他人を求めて痛い目を見たばかりではないか。私よ奮い立て。己の信念に忠実であれ。そう思いながらも、足は昇降口の方へと向かってしまっていた。そうだ、今日はここまでにしよう。我ながら精一杯。四面楚歌もかくやというべき状況において孤軍奮闘したではないか。君はじつによくやった。

 戦士には休息が必要であると判断した私は、忌々しい文化祭に背を向けるべく、蹌踉(そうろう)と下駄箱へ向かったのだが、途中、はたと足を止めた。階段の踊り場の部分で、男女が何事か話し合っていたのだ。そこを通って下駄箱へと向かいたいのだが、部外者が水を差せるような雰囲気ではなかった。そう、目の前で繰り広げられていたのは、青春の一大パノラマ、すなわち恋愛だったのである。それも、余人がその魔力にとり憑かれ猪突猛進し、高校生活の大部分を賭けて自己を放擲せんとする精神錯乱の極み、告白の場面であった。

 階段の上に立っていた私は、うんざりしながらその光景を眺めていた。すると、形容しがたい劣等感がむくむくと顔をもたげはじめた。まずい、これ以上眺めていれば精神に深い傷を負い、私の戦いが竜頭蛇尾に終わってしまう。遠回りになるが、もう一つ先の階段で下ることにしよう、そう思い足を踏み出したときであった。

 

「まず、そのちゃらちゃらとした話し方を止めなさい」

 

 私は愕然として、再び踊り場の部分を見遣った。蜂蜜に砂糖をまぶしたような場面においては、耳を塞ぎたくなるような激甘な声がしてしかるべきである。それが、かくのごとき研ぎ澄まされた冷徹な声が響くとは、何事か。その声の主は、こちらに背を向けている黒髪の女子であった。

 

「あなた、想いを伝えようとしているのよね。にもかかわらずそんな軽薄な話し方をするなんて、品性が感じられないわ。ごめんなさい、私、あなたのような人は嫌いなの」

 

 男子生徒はポカンと口をあけて、茫然自失といった体である。

 

「それじゃあ、私はこれで」

 

 そう言い残すと、彼女は、立ち尽くす男子生徒の横を通り過ぎて階段を下っていった。

 まさに一刀両断。私は心の中で快哉をあげた。

 軽佻浮薄な空気が充満しているこの文化祭において、最後の最後にあれ程までに冷ややかで理知的な女生徒を目撃するとは夢にも思わなかった。悄然と肩を落として歩き去っていく男子生徒にはいささか申し訳ないが、君の痛快なやられっぷりは、我が戦いにおける画竜点睛となってくれた。いい薬にもなったであろう。これに懲りたら、もうちっと理性的人間に生まれ変わるがよい。私は、パステルカラーの巨大な壁を一刀のもと切り捨てた黒髪の女傑に、最大級の賛辞を送りつつ、滑稽滑稽と呟きながら文化祭を後にしたのであった。

 

 諸君はすでにお気づきであろうが、その女傑は雪ノ下さんである。私がそれに気付いたのは、彼女から辛辣に罵倒されたときであるが、その内容は思い出すのも憚られるので、わざわざ語るようなことはしない。とにかく、彼女の本質を突く冷ややかな声に、去年の文化祭のことが想起され、同時に気付いたというわけである。

 放課後、私は部室に赴くと文庫本に目を落とす雪ノ下さんに問いかけた。

 

「雪ノ下さん。君はお付き合いとかしてるの?」

 

 決して不純な気持ちからこのような質問をしたわけではない。以前も述べた通り、彼女を攻略しようなどという気持ちは、すでに雲散霧消しているのだ。ただ純粋に、彼女のような女傑と並び立つ偉丈夫が、この界隈に存在しているのか疑問だったのである。

 

「なんでそんなことあなたに言わなくちゃならないのかしら」

 

 ご尤も。あまりにもつっけんどんな発言に僅かな怒りを覚えた私であったが、返す言葉もなく黙然と文庫本を読み始めた。

 

「していないわ。時間の無駄じゃない」

 

 間をおいて雪ノ下さんはそう言った。『破戒』を読んでいた私は、丑松の境遇にいたく心を震わせており、無意識に「ふぅん」と答えただけであった。

 

「……あなた。ものを尋ねておいてその態度は失礼じゃないかしら。いつまでたっても更生しない原因は人として恥ずべきそういうところにあるのよ」

 

 雪ノ下さんは私を鋭く睨みながら言った。文庫本に没頭していたため、一瞬、どうして責められているのか判然としなかった。間が空きすぎていたのだからしようがあるまい。

 

「え、え。なんだっけ。雪ノ下さんが交際してるかどうかの話だよね。で、してるの?」

「はぁ……していないわ。それであなたはこれを聞いてどういうつもりなの」

「いや、特に。まあ、そうだよね。雪ノ下さんが誰かと付き合うなんて有り得ないよね」

「へぇ、そういうこと。そうやって私を馬鹿にするためってことでいいのかしら?」

 

 話があらぬ方向に飛躍しだし、私は慌てた。

 

「滅相もない。これは逆説的な賛辞であって、決して馬鹿にしているわけじゃないんです」

「意味がわからないわ。とぼけようとしているでしょう」

 

 私は、軽い気持ちで尋ねたことをはやくも後悔していた。孤高の乙女として世に迎合しないその姿勢を誉めたところで、おそらく彼女は喜ばないだろう。だいいち、露骨に誉めそやすことを私はよしとしない。だって恥ずかしいもの。

 

「まあ、もういいわ。あなたのことだから、おおかた内容に瑕疵(かし)でもあったのね」

「その通り。察しが鋭敏で助かります」

「何度も言うようだけれど、世間で通用すると思ったら大間違いよ。過酷な目に遭うのはあなただから、私は別に構わないのだけれど」

「ご憫察、痛み入ります」

 

 私は低頭して言った。

 我々はまた読書に戻った。開け放たれた窓から蒸した風が舞い込んでくる。気が付けばもう夏である。本日もやはり暑い。

 私は長机の上においてある団扇をとるとぱたぱたと汗ばんだ顔を扇いだ。

 

「遅いわね、二人とも。あなた同じクラスよね、なにか知らない?」

 

 雪ノ下さんは、文庫本を机に置いてそう言った。

 

「あ! 忘れてた。比企谷は今日来ないってさ」

「そういうことは最初に言いなさい」

「ごめん。由比ヶ浜さんは知らない」

「そう。何かあったのかしら」

「最近元気がないようだね。一昨日、偶然会ったんだけどいつもの由比ヶ浜さんじゃなかった」

「前回の部活、あのときの話となにか関係があると思うのだけれど」

「うん、俺もそう思う」

「ということは比企谷くんに……そういえば、あなた職場見学で一緒だったのよね」

「……どうだったかな」

「目が泳いでるわよ。自分でそう言ってたじゃない。何かあるでしょう、二人を見ていて分かったことくらい」

 

 平塚先生の双眸と見まごうばかりの鋭い視線が私に注がれた。たじろいだ私は、慎ましやかな抵抗とばかりに、彼女の好きな食べ物について質問してみたが、レーザー光線に一蹴されてしまった。

 本日二回目にして私の誇りは「きゃああ」と幼子のような悲鳴をあげていた。これ以上は堪えられない、おとなしくすべて吐いちまおう、誇りはそう哀願している。我ながら脆弱な誇りを持ったものだと消沈したが、誇りが打ち砕かれようとも、その背後には魂が控えている。質実剛健な我が魂は、易々と己の恥部を晒すようなまねはしない。

 私は超然と、雪ノ下さんの端整な顔を無言で見つめた。

 

「ふざけているの。黙っていないで早く言いなさい」

 

 強靭な魂が潰走した瞬間であった。

 結局、私はそのときの心境と、彼らの会話を傾聴していなかった迂闊さを詳らかにしてしまった。

 

「まったく恐るべき阿呆ね」

 

 雪ノ下さんは、私が忸怩たる思いで語っている最中にも吹き出しており、ちょっと笑いをこらえ切れない、といった様子でそう言った。

 

「普段からほとんど役に立っていなけれど、ふっ……そういう時にこそ貢献しないで、あなたいったいどういうつもり?」

「俺が教えて欲しいくらいだね」

「ふふっ……茶化さないで。本当に使えない男ね」

 

 これといって茶化したつもりはないのだが、雪ノ下さんは真顔と失笑を繰り返すヘンテコな状態になっていた。笑われていることに微々たる苛立ちを覚えつつも、この際忍び難きを忍ぶことで、事態の好転を望んだほうが我が身のためである。

 私は、雪ノ下さんが俯いて微動している隙に、言った。

 

「過ぎたことは仕方がない。比企谷が来たときに聞いてみようぜ」

「もう忘れたの? その歳で痴呆かしら。前回の様子ではあの男はなにも喋らないでしょう」

「痴呆って。またそんなひどいことを……とにかくそれしか方法がないじゃない」

「一概にないとは言えないわ。そうね、あなた同じクラスなのでしょう」

 

 私は嫌な予感がした。

 

「比企谷くんが口を閉ざしている以上、あなたが直接、由比ヶ浜さんに聞きなさい」

「無理だ。お断りする」

「あら、どうして?」

「そんな芸当、俺にはとうていできない」

「つべこべ言わないで。職場見学のことは不問にしてあげるから、奉仕部員としての務めを果たしなさい」

「雪ノ下さんは彼女の顔を見ていないから、そんな浅はかなことが言えるんです。あの寂しげな笑顔を引きはがして尋問するなんて……心の痛みに堪えられない」

 

 雪ノ下さんは、またしても、私をけちょんけちょんにしようと眼光を漲らせた。彼女の視線は、ともすれば私に新たな性癖を目覚めさせかねないほど強烈であったが、しかし、私とて、ここは一歩も引かない覚悟である。爽やかな笑顔を湛えて、「なにか悩み事でもあるんじゃないの? そこのカッフェでエスプレッソでも飲みながら、話聞くよ」などと、二枚目俳優のごときセリフを、私が発し得ると思っているのか。私だって本当はそうありたい。しかし、それは無理な話である。それに、万が一、そういう場を設けたとしても、何も聞きだせずに、気のつまるような時間が刻一刻と過ぎていくと容易に想像できる。傷つきやすい胃腸に無理を強いて、話し合いどころか、情けなくも私はトイレに籠城することになるだろう。

 雪ノ下さんは、目元を少し緩めてため息をついた。

 

「はぁ……。仕方ないわね。もう少し様子を見ましょうか」

「異議なし」

「杞憂、ということも考えられるわ。明日になったら顔を出すかもしれない」

「いや、本当すまんね。で、あのさ。昼食二人でとってるんじゃなかったっけ」

「ええ。先週まではね」

「なるほど」

 

 由比ヶ浜さんは雪ノ下さんとの交渉すら断っているということか。これはもしかすると、奉仕部からの離脱を考えているのではあるまいか。事態は私が思っているより深刻なのかもしれない。彼女が退部してしまうのは非常に遺憾であるが、しかしながら、いくら頭を捻らせようと、私にできることはあまりないように思われた。

 しばし、黙っていた我々が読書へ戻ろうとすると、唐突にドアがノックされた。

 雪ノ下さんが「どうぞ」と促すと、水も滴るイイ男風の爽やかな男子生徒がすがすがしい笑みを浮かべて入ってきた。

 

「やあ。ちょっといいかな」

 

 己との天文学的差異に神の企みを看て取り、その姿を見るたびに天に唾を吐きたくなるほど現実を思い知らされる満場一致の美男子、葉山隼人の登場であった。

 

 

 



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第六話

       ◇

 

 葉山君は、私と同じクラスに所属している。

 休憩時間になると、教室の後方でむやみに賑やかな話し声が聞こえはじめる。男女入り混じった井戸端会議のようなその会話は、果てしなく生産性の欠落した、いかにも軽薄なものであるが、その中心でつねに笑顔を絶やさないのが葉山君であった。

 葉山君は、水も滴るイイ男である。目は澄んで、鼻もすらり、軽くあてられたパーマには嫌味なところが微塵もなく、頬にはすがすがしい微笑を浮かべている。四方八方どれだけアクロバティックな角度から見ても阿呆面に見えないという非の打ち所のない知的な顔をしている。相対するものに安心感を与える絶妙な高さの身長を有し、エースとして活躍するサッカー部において鍛えられたがっしりとした骨格は、決して剥き出しの野性味を発揮していない。そして、私が軽蔑する迎合的集合体にあって、なおその魅力を微塵も失わないほど品性に溢れ、かつ心地よい緊張感を持っている。自己を律している男とは彼のことである。私は自己を律するところにおいては葉山君に引けをとらないと自負しつつも、彼に相対すると、なにゆえおまえはそんなことになってしまったのかと、己に深い幻滅を覚えるのも無理からぬ話であった。

 そんな葉山君に対して、私が法界悋気の中で鬱々とした感情を抱いていると思ったら間違いである。彼は、比企谷のような矮小で卑屈な小物にも気軽に話しかけられる非常に篤実な人間なのだ。彼が比企谷と顔を合わせて話している風景は、驚異的な格差に違和感を覚え、なにか神話の世界を垣間見ているような気がするほどであった。

 とにかく、葉山隼人は我々とは一線を画した人間なのである。

 

「この前のことなんだけど」

 

 葉山君はそう言って、椅子に座った。

 

「職場見学は何事もなく、仲良く終えられたよ。どうもありがとう」

「仲良く、ね。それはよかったわね」

 

 雪ノ下さんは、どこか含みのある言い方をして返した。以前から感じていたのだが、彼女は、我々に対する口ぶりとは方向性を異にした、いくぶん棘のある接し方を葉山君に用いるようであった。はじめは、彼の美貌に浮かれない殊勝さに孤高を見出していたのだが、実際は、二人の仲になにか因縁めいたようなものがあるように思われた。

 

「あははは……」

 

 葉山君は眉をひそめて居心地悪そうに笑った。

 

「それで、礼を言うためだけにここへ来たのかしら?」

「いや、もちろんお礼もしたかったんだけど、もう一つあるんだ」

「もう一つ?」

 

 私は疑問を呈した。

 

「うん。実は最近、結衣の様子が変なんだ。それで何か知らないかなと思ってね」

「なるほど。やっぱり葉山君は気がついていたか、さすがだね」

「え? あ、ありがとう」

 

 彼を褒めることによって、気に入られたいとか必要以上に仲良くなりたいとかおこぼれに預かりたいとか、そういう不埒なことは露ほども考えていない。私は、単純に葉山君の人間観察能力に賛辞を送っただけである。媚を売ったわけではない。

 雪ノ下さんはなぜか鋭い目で私を一瞥してから、葉山君に言った。

 

「今、まさに私たちもそれについて話していたところよ」

「そうなんだ。じゃあ、原因は分かっているのかな?」

「いや、それが分からなくて閉口してる。比企谷と関係があるんじゃないかと推測してるんだけどね」

「そうか……」

 

 葉山君は顎に手を当てて、少し考えているようであった。

 

「それなら、俺が出る幕じゃないね。結衣のことは君たちに任せてしまってもいいかな?」

「言われなくてもそうするわ」

「あ、ああ。よろしく頼むよ。俺たちは普段どおり接することにするよ」

 

 葉山君ほどの人格者が介入すれば、たちどころに解決しそうな気もしたが、我々に任せると言っている以上、私は余計なことは言わず黙っていることにした。

 

「優美子たちも心配してるんだ。誕生日も近いことだしね……じゃあ、俺はこれで失礼するよ。本当にありがとう」

 

 葉山君は小さく呟いてから、もう一度礼を言った。そしてすくっと立ち上がると、颯爽と部室から出て行った。去り際も後を濁さずすがすがしい。

 

「爽やか極まってるな彼。男子高校生とはかくありたいものだね」

「そうかしら。有名無実なだけだと思うけれど」

「雪ノ下さんも人のこと言えな――」

「何か言ったかしら」

「さて、そろそろ帰ろうかな」

 

 軽率な発言をしかけた私は、帰る支度をはじめた。

 

「待ちなさい。さっき、葉山くんが聞き捨てならないことを言っていたわ」

「何」

「誕生日が近いって」

「誰の?」

「はぁ……あなた本当に阿呆ね。由比ヶ浜さんの誕生日に決まっているでしょう。メールアドレスにもその日付と同じ数字が入っていたの。間違いないと思うわ」

「ふぅん。誕生日ね……あっ、なるほど!」

「そう。原因は分からなくても、元気づけることは可能でしょう?」

 

 雪ノ下さんは、目を細めて「それに」と続けた。

 

「これまでの感謝もこめて誕生日のお祝いをしてあげたいの。たとえ今後、由比ヶ浜さんが戻らないとしても……やっぱり伝えたいから」

「うん」

 

 さしもの雪ノ下さんでも、由比ヶ浜さんの存在は大きかったのだ。彼女に感謝してはいるものの、今まで伝えてこなかったのはその不器用さゆえだろう。誕生日というきっかけを得て、彼女がこれまでの諸々の感謝を由比ヶ浜さんに伝えるとあれば、私にはそれを手伝う義務がある。否、同じく感謝を伝えるべきである。

 どうやら、私にもできることがあった。

 

「由比ヶ浜さんに、誕生日プレゼントを贈ろう」

 

 雪ノ下さんは微笑みながら頷いた。

 

「ええ。誕生日は来週だから、週末に買いに行きましょうか」

「じゃあ、俺は今日の帰りにでも買っていくことにするかな」

「……何を言っているのあなたは。一緒に行くに決まっているでしょう」

「は? どうして?」

「そ、それは……」

 

 雪ノ下さんは恥ずかしそうに口ごもった。私は、はてなと思いつつも、普段なかなか見られない雪ノ下さんの赤面具合を舐めるように観察することにした。

 終始堅固な外壁に身を包んでいる人が脆い部分を露にしたときの魅力たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。敢えて表現するとすれば、可愛いという一言に限る。泰然自若たる私が、危うく雲散霧消していた恋に落ちかけるところであった。辛辣な罵倒を受けたり、彼女の類を見ない性質を知るにつれて、真っ白に燃えていったはずの煩悩がふたたび燃え出しそうになったところを私はぐっとこらえ、紳士的ににやにやと観察するにとどめた。

 

「由比ヶ浜さんがどんな物をもらったら喜ぶのか分からないの。だから、その……手伝ってもらえると助かるのだけれど」

「えっ? あ、ああ。まあ、かまわないけど」

「……なんでそんなに偉そうなのよ。それと、その気持ち悪い顔やめなさい。気分が悪くなるわ」

「すみません。ただ、俺にも由比ヶ浜さんの欲しいものが定かではないから、比企谷も誘おうよ」

 

 私は、瞬時に普段どおりに戻ってしまった雪ノ下さんにそう言った。

 雪ノ下さんと休日に街をぶらぶらと歩くのは悪くないが、二人きりというのは遠慮したい。学校内ならまだしも、私は天下の往来で罵られて悦に浸るような変態ではないからである。そんなことになれば、見放し気味の誇りをついには見捨てることになりかねない。スケープゴートとして比企谷の存在が不可欠である。それに比企谷には妹がいる。なんらかの助言をもらえることだろう。

 

「そうね。あの男が一番に贈らなくてはいけないから当然ね」

「もしかすると、それを機に解決するかもしれないな」

「であればいいのだけれど」

 

 誕生日プレゼントを贈られて喜ばない人間はいないだろう。たとえ比企谷と由比ヶ浜さんのあいだで複雑な諍いがあったとしても、関係がよりこじれるということにはならないはずだ。

 時間と場所は雪ノ下さんが、追って連絡するということで、話は決まった。

 

「では、また明日」

「ええ。さようなら」

 

 私は何を贈ろうか考えながら学校を出て帰路についた。

 

       ◇

 

 職場見学に関する事前レポートを提出した日のことである。

 私は、前回の失敗を踏まえて、当たり障りのない模範的レポートを提出した。あまりに模範的すぎて、やぶへびにならないか心配したほどであったが、無事受理された。一方、比企谷は学習しない男で、再び阿呆なレポートを提出したらしく、さっそく平塚先生に連行されていた。

 彼は海馬に重大な欠陥があるのか、あるいは、殴られることに快感を覚える性的倒錯をもっているのか。一瞬悩んだが、兼ねているということで簡単に答えは出た。もはや、手の施しようのない阿呆である。いっそのこと殴られ続けて、風貌から性格まで一新したほうが彼のためであろう。暴れ馬に振り回される騎手のごとく連れていかれる比企谷を尻目に、私は奉仕部へ向かった。

 部室へ到着すると、凛とした佇まいで読書に耽る雪ノ下さんと挨拶を交わし、私も文庫本を開いた。

 数分後、由比ヶ浜さんがやってきた。

 

「あれ、ヒッキーは? 平塚先生に連れてかれたの見たからこっち来てると思ったんだけど」

「まだ来ていないわ。どうなの?」

 

 雪ノ下さんは文庫本から目を上げて私に問いかけた。

 

「職員室だと思う。連行するとき、レポートうんぬん言っていたからね平塚先生」

「はぁ、レポートって職場見学の。おおかた働いたら負けとかなんとか書いたのでしょうね、彼のことだから」

「あははは……」

 

 雪ノ下さんは嘆息交じりで由比ヶ浜さんは苦笑いである。

 

「阿呆だから、見学先を自宅にしてたりするかもしれないね」

「ありえるわね……ただ、比企谷くんもあなただけには言われたくないと思うわよ。その言葉」

「あははは……」

 

 由比ヶ浜さんに笑われてしまった。私は阿呆かもしれないが、比企谷を阿呆と断定しても余りあるほどには利口であるつもりだ。失敬な雪ノ下さんに抗議しようか逡巡したが、ちょっと考えてみれば、やっぱり阿呆であることに変わりはないのだから遠慮しておくことにした。私は勝てぬ戦はしない男なのである。

 

「あのさぁ、こういう時って不便じゃない?」

 

 唐突に、由比ヶ浜さんがそう言った。

 さすが由比ヶ浜さんである。余計な客語が省かれた素晴らしい日本語を弄するところ余人の追随を許さない。しかし、修行の足りない私にはいまいち何を言っているのか分からなかった。それは雪ノ下さんも同じようである。

 

「どういうことかしら?」

「何かあったときに連絡先しらないとか、ちょっとなって。同じ部活なんだしメアドくらい交換した方がよくない?」

「……それは一理あるわね」

「でしょでしょ!」

「と言っても、私たちはもう交換済みよね。そこの阿呆と職員室の阿呆のことかしら」

「う、うん。……どうかな?」

 

 そう言って私をうかがう由比ヶ浜さんは、潤んだ瞳で恋する乙女のようである。少なくとも私にはそう見えた。そんな彼女とメールアドレスを交換し、夜な夜な鼻から血が吹き出るような恥ずかしい睦言を交し合うのは、さぞや心躍ることであろう。しかし、悲しいかな。私は携帯電話を所持していなかった。家に置いてきたというわけでもなく、単に持っていないのである。

 

「大変恐縮なんだけど、携帯電話を持っていないんです」

「え?」

 

 由比ヶ浜さんは途方に暮れたような顔をして固まった。

 

「嘘でしょ……?」

「いやはや本当なんだな、これが」

「まるでアーミッシュね。まあ、あなたに彼らのような崇高な理念なんてないとは思うけれど」

 

 アーミッシュがどういったものか定かではないが、さぞかし誠実で心清らかな人々なのであろう。私は、心の中でまだ見ぬアーミッシュと固い握手を交わした。

 

「欲しくないの?」

 

 由比ヶ浜さんはきらびやかに装飾された携帯電話を握りしめながら、答えに窮する難問を私にぶつけた。

 

「欲しくないというかなんと言うか……」

 

 実のところ、以前、私は携帯電話を持っていた。高校入学と同時に、必要になるだろうからと両親が買い与えてくれたのだ。それはマルチタッチ液晶のスマートフォンであった。

 文明の利器を手に入れたからといって、私は決して浮かれなかった。電波を通してつねに誰かと繋がっていないと不安で夜も眠れない有象無象に成り下がるのは御免である。己を縛りつける頸木(くびき)をありがたがるなど家畜根性も甚だしいではないか。とはいえ、それは持ち手が愚かな場合に限る。(ふる)きを(たず)ね新しきを知る私のような人間であれば、たかだか手のひらサイズの金属に踊らされるようなことには断じてならない。私は、携帯電話の有用性について入念に考慮した結果、無用の長物となるくらいであれば、いたしかたなく同級生たちと繋がるのもやぶさかではないと考えた。そうして、いつなんどきでも取り出せるよう、懐に携帯電話を忍ばせて毎日登校していた。

 教室において、ときに大胆、ときに控えめな動作で携帯電話を取り出していた私ではあったが、無用の長物となるべき携帯電話は、定石どおり無用の長物となった。いつまで経っても考えていた有用性がいっこうに発揮されず、必要性を見失った一年の二学期には中古品店に売り飛ばしていたように思う。陽の目を拝むことなく任を解かれた携帯電話の電話帳には、覚えている限り、両親の名と懇意にしている本屋しか表示されていなかったはずである。

 役立たずな主人のところへやって来たばかりに不遇をかこつ羽目となった携帯電話は、ショーケースに陳列されながらさぞかし清々していることだろうが、それは私も同じことである。あんなもの持っていても、ディスプレイに明々と表示されるのは己の孤独ばかりである。

 

「それを聞くのはあまりに酷じゃないかしら。由比ヶ浜さん、もうちょっと気を遣いましょう。ね?」

「え? あ、あははは……ごめんね?」

「ちょっとなんで謝られてるのか俺にはわからないのですが」

 

 ひどく迂遠な侮辱を受けたような気がしたが、雪ノ下さんのことだからむしろ卑近なのだろう。

 

「じゃ、じゃあさ! 買えばいいじゃん! ほら、奉仕部の活動で必要になるかもしれないし。そう思わない?」

「……そうね、そういう機会が訪れないとも言いかねるわね」

 

 顎に手を当てながら少し考えてそう言った雪ノ下さんは、不気味なほど優しい笑みを浮かべて続けた。

 

「それに安心して。少なくとも私と由比ヶ浜さんは連絡先を交換してあげるから。ご家族以外の名前が並べば、あなたも満足でしょう?」

 

 諸君、かような施しまがいの発言を受けたとあれば、誇り高き私のことだから憤激して断固抗議すると考えてはいまいか。考えが甘い。非常に甘い。それでは、まだまだ私という人間の奥深さを知らないといえるだろう。

 私はうんうん呻吟しながら、彼女たちの提案を分析してみた。すると、これは明らかに好機である、と導き出せた。雪ノ下さん由比ヶ浜さん、二人の連絡先を知ること自体、十分な収穫と言えるだろう。しかし、それだけでは終わらない。提案にかこつけるわけではないが、もやしよりも成長速度の速い私は、昨年と同じ轍は踏むことはない。きっと、携帯電話の有用性を思うさま発揮し、あれよあれよという間に電話帳の登録件数は百件を超え、落ち着く暇がないほど着信に悩まされることうけあいだろう。私ほどの人間であれば、そんな未来が訪れると仮定しても、ちっとも違和感を覚えない。画面に映し出されていた孤独は、薔薇色の高校生活へと変わること間違いなしである。

 そうだ。

 今からでも遅くはない。可及的速やかに文明の利器を再び取得し、あり得べき有意義な高校生活へ飛び込もう。

 私がそんな風に考えていると、平塚先生に解放されたのか比企谷がやってきた。

 

「あぁ! ヒッキー遅いっ!」

 

 鞄を置いた比企谷のもとへ詰め寄る由比ヶ浜さんを尻目に、私は座る雪ノ下さんの前へ立って宣言した。

 

「俺、携帯電話、購入しようと思います」

「あら、そう」

 

 心ない返事を残して雪ノ下さんは読書に戻ってしまった。

 もうちょっと他に言うことがあるだろうと、依然として待機していた私であったが、雪ノ下さんは顔を上げるそぶりすら見せない。仕方がない。言質は先ほど獲得している。それを引き合いに出せば、嘘を()かない彼女のことだから必ずメールアドレスを教えてくれるだろう。

 連絡先を取得することに必死になっている己にやや慙愧(ざんき)の念を感じたが、これもすべては実りある高校生活のためと思えばこそ、恥を忍ぶべきである。私はおとなしく自席へと戻った。そこでは比企谷が悲しい過去を明らかにしていたが、彼の痛々しい歴史にさして興味もない私は文庫本を取り出して読み始めた。

 不毛な話が終わったのか、比企谷は携帯電話をもったまま話しかけてきた。

 

「おい」

 

 私は顔を上げずに適当な返事をした。

 

「携帯」

 

 彼は一言、そう呟いた。

 さすが比企谷である。まともな言語力を備えていないとは恐れ入った。その言葉だけで意思疎通が図れると考えていることがそもそも間違いである。いくら研鑽に研鑽を重ねた私の洞察力であっても汲み取れないものもあるのだ。それにしても、かような言語力をもって、国語で高得点を取れると言うから驚きだ。なんらかの不正をしていると考えるのが妥当である。でなければ奇跡だ。

 海馬だけでなく言語野にも支障をきたしている比企谷は、再び「おい」と言った。私は読みかけのページにスピンを挟んで顔を上げた。

 

「携帯がどうした」

「流れで分かるだろ。さすがのコミュ力だな」

 

 その発言に、怒りを通り越して唖然としてしまった私は、たっぷり数十秒、濁った目を穴が開くほど見つめた。

 

「な、なんだよ。気持ちわりいな」

「ひ、ヒッキー。あのね……」

「彼は携帯電話を持っていないそうよ。まあ持っていたとしても、あなたと同様に意味がないとは思うのだけれど」

「マジかよ……今どき持ってないヤツとかいるのか――ていうかさりげなく俺を罵倒するな。俺はつねに携帯の必要性を感じているんだぞ。時間とか天気とかニュースをいち早く知ることが出来る」

「電話である必要が全くないわね」

「うるせえ。んで、お前はいつまで俺を見つめてるんだ。そっちの趣味はねえぞ」

 

 私は、はっとした。今まさに、阿呆の言語力の惨憺たるありさまに思いを馳せていたのだが、その阿呆からコミュニケーション能力の無さについて言及されたのだから呆然としてしかるべきである。もはや怒る気にもなれない。

 私は、「なんでもない。とにかく、おまえは一度草葉の陰に隠れろよ」とだけ言っておいた。

 

「ちょっと遠まわしに言ってる風だけど、めちゃくちゃ直接的だからなそれ」

「ふふふっ。なかなか気の利いた言い回しね。そうね、鬼籍に名を連ねるべきかしら比企谷くんは」

「俺を対象に類語を披露するのはやめろ。不吉すぎるだろうが」

 

 その後も緩慢と口論が続いた。飽きないのかこの二人は。

 隣を見ると口論に挟まれた由比ヶ浜さんが、ぽかんとした様子で左右に首を振っていた。私は、由比ヶ浜さんに声をかけた。

 

「考えてみたんだけど、今度、携帯電話買うよ」

「えっ? あ、そうなんだ! うんうん、それがいいよ。買ったらメアド教えてね」

 

 思わず気味の悪い笑みがでかかった私であったが、紳士らしく堪えて、「うん。是非交換しよう」と、爽やかに返事をした。

 

「そうだ、もう中間近いよね。勉強とかってしてる?」

 

 話が唐突に変わり、彼女はそう私に問いかけた。

 私は、反射的に答えようとした言葉を飲み込んで、考えた。

 しているか否かで言えば、もちろんしている。しかし、滅多にない由比ヶ浜さんとの高尚な会話への糸口が目の前に開かれた今、しているの一言で片付けていいものか悩んだのだ。そして、勉強が足りていない、努力が必要、提案、協力、勉強会、という一連の流れが激流のように私の脳内を駆けていった。

 一点の澱みもない完璧な流れに、私はほくそ笑みながら返答した。

 

「いやぁ……実のところ、あんまりしてないんだな。まいったね」

「そ、そうなんだ。私も全然してないんだよね~~」

「奇遇だね。やっぱり一人だと、限界があるよね」

 

 由比ヶ浜さんは私の言葉に、何度も頭を振って頷いていた。いい兆候である。しかし、なぜか雲行きが怪しいと私は感じていた。そうだ、左右から聞こえていた口論がふっつりと止んだのである。

 そこはかとなく嫌な予感がしたが、すでに手遅れであった。

 

「何を言っているの。勉強は一人でするものよ」

「そうだぞ。勉強会とか非生産的なことしてるヤツらより点数取ってる俺が言うんだから間違いない」

「あなたが言うと僻みにしか聞こえないわね」

「うるせえ」

 

 私と由比ヶ浜さんの高尚な雑談兼勉強会予約会話は、嵐のような口論に巻き添えを余儀なくされてしまった。私は呻いた。

 流れは完璧だったのだ。しかし、この二人の奇襲までは想定していなかった。普段は黙座して読書ばかりしているくせに、こういうときに弁舌を振るいだすとは私に喧嘩を売っているのだろうか。寝ても覚めても罵り合う口論地獄へ落ちて、永久に出てこなければいいのに、この阿呆二人。

 

「じゃあさ、勉強会しようよっ!」

 

 机だけが置かれたほかに何もない真っ白な空間において、鬼の形相で口論しあう比企谷と雪ノ下さんを想像していた私は、由比ヶ浜さんのその言葉で瞬時に現実へ帰った。

 

「話を聞いていたのかしら。勉強は一人で――」

「お願い、ゆきのん。ダメ?」

「……ま、まあ。別に駄目というわけではないのだけれど」

 

 雪ノ下さんは照れたように眼をそむけながら訥々とそう言った。

 ここだ。

 私は意を決して「それじゃあ」と口走った。

 

「――それじゃあ、ファミレスでやろっ。 時間はまたメールするね! ふふっ、ゆきのんと二人で出かけるの初めてだぁ!」

 

 ものの見事に流されてしまった。

 私は盛り上がる由比ヶ浜さんと照れながらも明らかに嬉しそうな雪ノ下さんから目を逸らした。そして、固く結ばれた拳を解くと隣に座る比企谷の方を流し見た。彼は気まずそうに口角を上げると「どんまい」と呟いていた。

 

「どんまいなわけあるか、ちくしょう」

 

 私は静かにそう言った。

 

 

 



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第七話

       ◇

 

 我らが癒し戸塚彩加について語る。

 雪ノ下さんを除いた奉仕部の部員は同じクラスに所属している。戸塚君もここに所属していた。比企谷と由比ヶ浜さんのときもそうであったのだが、戸塚君が同じクラスであると知ったのは初対面のときであった。

 昼休みに校舎裏の階段で比企谷と食事をとるようになってからすぐ、私は初めて戸塚君を見た。その衝撃は忘れられない。

 

 我々は、昼休みになると、吐き出されるようにして校舎から姿を現し、別段、話すこともなく、黙々と昼飯を食らっていた。比企谷とのあいだに、笑顔が絶えない爽やかな会話が発生するはずもなく、また、させたくもなかった。当然、和気藹々とはほど遠い荒涼とした時間が過ぎていく。材木座が現れたときなど、折にふれてぽつぽつと話すこともあった。そういうとき、比企谷は卑屈根性丸出しの暗澹とした台詞や警句まがいの詭弁を弄し、私を辟易させた。高潔な魂が汚染されていくような気がすると、無視を決め込むこともしばしばあった。

 

「あいかわらずしけた面してるな」

 

 私は言った。

 

「鏡見て来い。そっくりそのまま返ってくるから。なんならお釣りも来ると思うぞ」

 

 彼は何食わぬ顔で応酬した。

 すがすがしいそよ風の中、痛々しい会話を交わす男と男。一方の発言が、他方を経由して、結局、己を痛めつけるという円環的自虐がここに成立していた。自虐が自虐を呼び、ウロボロスの様相を呈すのが、概ね我々の昼休みである。

 その日も、ウロボロス的会話をつつがなく進行させていたのだが、比企谷が私を無視してしばらく沈黙が続いたのち、一人の女生徒が我々のほうへ歩いてきた。

 

「こんにちは。いつもここでご飯食べてるんだ」

 

 学校指定の体操着に身を包んだその女生徒は、手にはテニスラケットを抱えており、首に薄桃色のタオルをかけていた。いかにもテニス部の昼練をしてきましたといった風情で、頬は上気してうっすら紅に染まっていた。

 私と比企谷は、一瞬視界の端で互いの顔を捉えると、その女生徒の挨拶らしき言葉を黙殺した。

 

「あ、あれ? あの、聞こえなかったのかな。二人に言ったんだけど……」

 

 私は膝に置いた弁当箱から顔を上げると、ゆっくりと周囲をうかがった。比企谷も同じように周りを見渡すと訝るように私に視線を投げかけた。そうして辺りに人気がないことを確認した我々は、目の前に立つ女生徒へ顔を向けた。まったくもって驚くべきことに、この女生徒は我々に話しかけているらしかった。

 

「な、なにかな?」

 

 その女生徒は我々の不躾な視線に、恥らいながらも微笑みを湛えて首をかしげた。私はそのあまりの可憐な仕草に陶然としてしまい、返事をすることも忘れて生々しい視線を送り続けていた。隣では比企谷が「ムフッ」などという気色の悪いうめき声をあげていた。

 

「ええっと……」

 

 法に抵触するのではないかと危ぶまれるような視線を放っていた私は、比企谷に小突かれてふと我にかえった。しかし、我にかえってみたはいいものの、私は見知らぬ可愛らしい女生徒に話しかけられるという前代未聞の珍事に対処できる器を、まことに遺憾ながら持ち合わせていなかった。否、正確には奉仕部を通して育んでいる中途であった。そのときはまだ、約束された黄金色の将来に心躍らせている萌芽がちょっぴり顔を出している程度で、実地で活かせるほど成長してはいなかったのだ。そこで私は全権を比企谷に委ねることにした。

 私があくまでも口を(つぐ)んでいることを悟ったのか、比企谷はぼそぼそと口を開いた。

 

「いつもここで昼飯を食ってるんだ」

 

 女生徒の問いをそのまま返すという面白みのかけらもない比企谷の返答に、相手は「へぇ」と微笑みを崩さずに頷いていた。

 なんと心優しい人であろうか。こんな邪悪な影に全身を覆われて荒みきった男に対して、分け隔てがないような笑みを振りまくなんて並みの女性ではない。

 ところで、この女生徒はどこのどなたであろうか。我々を知っていることから推察するに同じクラスの生徒だとは思うが、如何せん、私も比企谷も由比ヶ浜さんを除くとクラスに知り合いと呼べる人間がいない。むろん、私は敢えて孤軍奮闘の道を選んでいるわけであり、比企谷はただの「ぼっち」である。傍から見ればお前も「ぼっち」であることに変わりはないと言う人もいるであろうが、反駁する気は毛頭ない。その通りである。

 そんな背景を鑑みると、この女生徒がいかに慈愛に溢れているか想像がつくと思う。我々のような群れからはぐれた子羊に手を差し伸べるということは、ある種自身をも破滅させるおそれがあるのは諸君もご承知のことと察す。誰にでも出来ることではない。そんな人間と出会うなど、校内に数多(うごめ)く有象無象はむろんのこと、殺伐としたこの三千世界においては比叡山の荒行並に難しいだろう。もはやマザー・テレサ級の慈愛と言うほかない。

 つまり。で、あるならば、これは懇意にならずして如何とする。千載一遇の好機にちがいない。

 私は口を開いた。

 

「ここは静かだからね。食後の瞑想に最適なんだ。君はテニスの練習?」

 

 以前からの知り合いを装ってさも当たり前のように気軽な調子で問いかけた。同じクラスに所属していながら名前も知らないとなれば、これから築かれるであろう関係に影を落としかねない。放課後にでも名前を調べるとして、今はこれで乗り切ろう。

 

「うん、そうなんだ。うちのテニス部すっごく弱くて……だから少しでも上手くならなくちゃって。……そう言えば、比企谷くん、テニス上手いね」

 

 比企谷は判然としない間の抜けた表情で「お、おう」などと呟いている。先ほどの反応から察しは付いていたが、こいつも彼女の名前を知らないようである。私は、比企谷のことだから面と向かって誰何(すいか)するなどという暴挙に及ぶのではないかと危惧した。

 

「フォームが凄くきれいなんだよ」

「いやいや、これは、照れるなあ」

 

 そう言うと、わざとらしく笑いながら私の方に顔を向けた。

 ――よせ。

 比企谷はその腐った双眸をちらっと彼女のほうへ移してから、再びまっすぐ私の目に当てた。

 ――おい、頼む。後生だから何も喋ってくれるな。

 ほどなく悪意など微塵も感じさせないすっとぼけた声で、

 

「で、誰?」

 

 と、問いかけた。

 この刹那にも永劫にも似た時間のことを私は忘れない。

 そして、私の念頭には去年の夏休み明けのトラウマが蘇ってきた。あの時は、思い出すのも憚られるほどの形容しがたい心痛を味わい私は潸然(さんぜん)と泣いた。みっともないほどの号泣である。当然、か弱き乙女であるこの女生徒も、比企谷の冷酷無比な発言に泣いてしかるべきである。加えて、そのテニスラケットでこの阿呆の頭をスマッシュしても許容される範疇だろう。それでドローゲームだ。

 私は茫然と阿呆の鉄面皮を見つめていたが、おそるおそる女生徒のほうへ顔を向けた。

 すると、彼女は気まずそうにしながらも微笑を絶やさずに言った。

 

「やっぱり覚えてないよね。えと、同じクラスの戸塚彩加です」

「そ、そうか。悪いな、俺女子と関わりないから」

「この馬鹿野郎ッ。たとえ関わりがなくとも、クラス名簿に目を通しておくのが務めだろうが」

「どんな務めだ。じゃあお前は知ってたのかよ」

「うん」

 

 私は大きく頷いた。そうして、こっそり胸をなでおろした。

 よかった。ほんとうによかった。

 一時はどうなることかと戦慄したが、僥倖僥倖。図らずして名前を知り、且つ、比企谷を諌めることで先方に信頼感を与えたことだろう。こんな結果に相成ったのも、日ごろから神棚に奉られた手作りクッキーを礼拝してきたたまものである。今晩はお神酒を献上して丁重に祀り上げることに決めた。

 

「戸塚さん、すみませんでした。比企谷は前世の業が祟って、こんな有様になってしまったんです。どうか許してあげてください」

「おい、ふざけんな。その来歴になんかしっくりきちゃったじゃねえか、どうしてくれる」

「しっくりきたならいいだろ。末孫まで脈々と受け継いでいけ」

「って俺で(あがな)われないのかよ。ご先祖なにやったんだよ」

「おそらく破廉恥なことだな。その目を見ればわかる」

 

 そこで気まずそうに笑う戸塚さんに気が付いた比企谷は、先ほどの無礼をもう一度詫びた。

 

「わ、悪かったな。さっきも言ったが、俺女子と関わりとかないから」

「男子ともないだろ」

「勝手に俺の心を読むんじゃねえ。なんなのおまえ、テレパスなの? だいたいお前だって――」

「あ、あの!」

 

 戸塚さんは申し訳なさそうに頬を染めていた。

 私と比企谷はまたしても始まりかけたウロボロス的会話を中断し、含羞にはにかんだ可愛らしい小さな顔を覗き込んだ。そして、なんだかそこはかとなくいやらしい気持ちを胸に抱えた我々は、向こう十年はこの瞬間ほどの衝撃を受けることはないと断じられるおそるべき一言を傾聴するのである。

 

「……ぼく、男なんだけどな」

 

「え……?」

「はぃ……?」

 

 何を隠そうその女生徒は私が生まれて以来はじめてみた、超弩級に可愛い男子生徒、戸塚彩加だったのである。

 

       ◇

 

 雪ノ下さんと部室で別れた私は、帰途に着くべく学校をでた。週末に買いにいく由比ヶ浜さんへの贈り物についてあれこれ考えながら歩いていると、信号を待っている見知った顔が目に入った。

 

「どうも」

 

 私に気がつくと、川崎さんは小さくそう言った。私もつられて「どうも」と返した。

 川崎さん。本名、川崎沙希。

 私は川崎さんに対して密かに「銀狼」という名前を与えていた。そうして、一挙手一投足とはいかないまでも、折にふれてその周りに追従しない孤高然とした態度に注目していたのである。すらりと長い後ろ髪とは対照的にふわふわと特徴的な短い前髪を有し、校内では一部の生徒にしか見られないような着崩した制服をまとっていた。相対する目つきは鋭く、整った顔立ちによって幾数倍にも研ぎ澄まされていたのだが、かといってそれは、平塚先生のような対峙するものに圧迫感を与える類のもではなく、ゾクゾクするような性的倒錯を呼び起こしそうな怜悧さを帯びていると言った方が適切である。友人との花も恥らうようなお喋りをしている姿はついぞ見たことはなく、彼女は、無口で、無愛想で、不敵な、一昔前のいわゆるスケバンのような乙女であった。

 そんな川崎さんと知り合ったのは奉仕部の活動を通してで、彼女の弟が依頼人であった。

 川崎さんは家族に迷惑をかけたくないからと自身の進学のために夜な夜なアルバイトに励んでいたのだが、その涙ぐましい献身について吹聴するのを潔しとはしなかった。その結果、不幸なことに弟にいらぬ心配をかけてしまっていたのだ。弟は、彼女がその風貌だけではなく身も心も不良になってしまったのではないかと飯が喉も通らぬほどで、そんな様子を見かねた彼の同級生である比企谷の妹と共に我々奉仕部に駆け込んできたのである。

 結局依頼は、奨学金制度の利用を勧めることで完遂された。川崎さんは、今では睡眠時間をしっかり確保しているらしく、授業中にあくびをして窓の外を眺めていることもなく、しっかり勉学に励んでいるようである。

 私は、キッと前方を凝視して信号を待つ川崎さんの横顔にちらと視線を投げた。もう隣には誰もいないかのような佇まいである。奉仕部の活動を通じて知り合ったとはいえ、依頼以降特に接点があるわけでもなく、私と川崎さんの間には、豊かな水量を誇る利根川ほどの隔たりがあるように思われた。

 突如、私はなぜか緊張して口が渇き、気さくな言葉をかけねばならないような得体の知れない焦燥感に襲われた。大した交通量があるわけでもない交差点の赤信号はいまだに変わる気配をみせず、刻々とつのっていく焦燥感に苦しめられていた私は明らかに挙動不審であった。

 川崎さんは不穏な動きをみせている私を胡散臭そうに一瞥すると、渋々といった感じで口を開いた。

 

「あんたヤバイよ。不審すぎる」

「うん。まあね」

「まあねって……ま、いいけど」

 

 永久に変わらないと思われた信号が青になり、川崎さんは歩き出した。私も遅れて足を踏み出す。

 男子たるもの無駄口を叩かず、聞かれたことに対してのみ受け答えをすればよいなどという頑固一徹を信条として持たない私は、彼女から話しかけられたことに幾分か心を軽くした。

 

「どう? 勉強のほうは」

「それなりに。あんたたちから勧められたスカラシップってのを目標にね」

「なるほど。エライね。貰えるといいね」

「そうだね。……あんた家こっちなの?」

「いや、違う」

「はあ? じゃあ何してんの?」

「ちょっと、街に用事がある」

「ふぅん。あっそう」

 

 この驚くほどに味気ない会話であっても、私は重責から解放されたかのような満足感を味わっていた。妙齢の女子と普通に言葉を交わしたことも勿論であるが、事実、こうして斜陽の放課後を肩を並べて歩いていることに感激していたのだ。そして、一度は自ら放擲し諦めかけていた薔薇色の高校生活の一端を今まさに味わっていると気付いた途端、私は一瞬恍惚で立ちくらみを覚えた。

 ここまで至る道は決して容易い平坦なものではなかった。たしかに奉仕部の面々と帰ることは何度もあった。しかし、その95%は比企谷が占めており、残りの5%は雪ノ下さんでも由比ヶ浜さんでもなく、顧問である平塚先生というありさまだったのである。何が悲しくて教師と共に帰らねばならぬのだと、表面上はにこやかに従順な生徒を演じていたものの、私の憤りはギリシアが抱える借金ほどに膨れ上がっていた。しかし、それがどうであるか。隣を歩きながら説教を垂れる平塚先生に心の中で罵詈雑言を浴びせていたのももはや遠い過去。今や私は幻の至宝といわれた薔薇色のハイスクールライフに足を踏み入れたのである。

 この瞬間を皮切りに実りある高校生活が私の容量をはるかに超えて目まぐるしく展開していくように思われ自然と相好が崩れた。その様子がもしかすると彼女には卑猥に映ったのかもしれない。

 川崎さんは、眉をひそめて声を引きつらせた。

 

「うわっ、きもちわる。何にやにやしてんの」

「アッ、これは失礼」

 

 私は慌てて表情を引き締めた。川崎さんはなおも気味悪そうに顔をしかめている。いかんいかん、輝く将来への展望を自ら壊すところであった。よし、ここは咳払いをひとつ、粋な小話でも披露して教養深いところでも見せておこう。そう思って、口を開きかけたそのときであった。私は視界の隅で一人の男の姿を捉えたのである。

 その男は新緑に匂い立つ公園の一本の木の陰からただならぬ妖気を垂れ流し、隣の遊歩道を歩く我々を恨めしそうに見つめていた。そのあまりの異様さに私は思わず悲鳴をあげそうになった。

 

「今度はなに」

 

 驚愕と戦慄がごちゃ混ぜになった私の顔を見て、川崎さんは呆れたようにそう言った。陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせていた私は、すぐに平気の平左を装ったが、なんでもないと返した声はひどくかすれていた。

 

「マジでやばいよあんた。どっかおかしいんじゃないの」

 

 川崎さんはそんな辛辣なことを言いつつも、百面相もかくやと思われる私の顔芸に、ついには笑い出していた。心底おかしそうに彼女は笑っていたが、私はそれどころではない。本来であれば、和やかになりつつあるこの雰囲気を存分に盛り上げるところであるが、身の危険を感じていた私は一刻も早くこの場を立ち去ろうとした。

 川崎さんに勘付かれないよう配慮しながら足早に歩き、その場から十分に離れると私は後ろを振り返った。大丈夫だ、ついてきてはいない。川崎さんもあの男に気付かなかったようだ。

 川崎さんはなおも笑っていた。私はこんなときに何を笑っているのだと憤ったが、彼女は何も見ていないし、何も知らないのである。私は怒りを鎮めると、先ほどの男について考えた。

 

       ◇

 

 ただちに通報されても文句が言えないほどの怪しさを醸し出していたあの男は、間違いなく材木座であった。

 どうして彼があのような薄暗い場所からこちらを窺っていたのかはわからない。わからないが予想は簡単につく。大方、仲睦まじく歩く私と川崎さんの姿に、満たされることのない虚ろな魂を傷つけられたのだろう。傷口から血が滴るがごとく、傷つけられた魂からは横溢(おういつ)とした怨恨が滴りおち、遣り場のない激憤に身を焦がせた材木座は、自身に許される最大限の方法で薄暗い木陰から己の存在を誇示したのである。それもただの存在の誇示ではない。あれはおそらく私への警告も多分に含まれているにちがいなかった。

 お前を見ているぞ。

 忘れたのか。

 ともに駆け抜けた茨の道を。

 世にはびこる軽佻浮薄な輩、闇雲に結びつこうとする男女、我々を校舎の片隅に追いやった無自覚な愚民共に鉄槌を下そうと誓った言葉を。

 忘れたのか。

 お前を見ているぞ。

 材木座は目でそう語っていたのだ。しかし私としては、忘れるもなにも、だいいちそんなことを誓った覚えがない。やっかみも大概にしろ、と言いたい。

 とはいえ、思い当たる節がないと断ずるには、私はあまりに優しすぎた。

 鉄槌を下すとかなんとかそんな乱暴なことを誓った覚えはないが、我々を当然のように蔑ろにする連中や恋に遊びに大忙しな輩に対し、一緒になって口汚く罵倒してきたことは確かである。確かどころか、その音頭はとっていたのはほとんど私であった。そんな先導者としての私が、(やす)きについて女生徒と下校路を同じゅうしていては、彼とて胸中穏やかではあるまい。私は「男女(つい)になって下校する人間は、ひとしく唾棄すべき軟弱者」とまで言っていたのである。

 ここで、「材木座ごとき、前もって言うに及ばず。勝手に抜け駆けして青春の一ページを刻むことの何が悪い」と考えることは出来なかった。明白な裏切り行為、穏やかではないが材木座はそう捉えるだろう。そして涙を流すことだろう。私にはやはり責任があった。

 自分の優しさがつくづく憎い。

 隣で笑う川崎さんを尻目に、今や私は材木座のことを憐れんでいた。

 

 



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第八話

 材木座義輝という男は、認めることに我が身を切り刻む思いだが、どうやら私と近しい人間であった。容姿性格、趣味嗜好は空と海ほどかけ離れていたものの、それらが水平線で交わるが如く、決して納得のいく高校生活を送っていないという点において我々を同定するのは容易かった。

 材木座とは一年の頃、同じクラスであった。

 前述したとおり、一年の二学期には私はすでに絶望的な隘路に迷い込んでいた。迷い込んだからには断固たる信念のもと、不惑をもって自任し己の道をひた突き進もうと躍起になっていた。当然、懇意になる人間などいなかったし、それでいて私は自由な思索を邪魔されることがないなどと嘯いていた。そんなおりに、たびたび話しかけてきたのが材木座であった。

 

「学校は社会の縮図だとか、友人、恋人との交際も社会勉強のひとつなどという虚言を弄するのは愚の骨頂。ここはあくまでも勉学の徒が集う学び舎で、そんな協調性云々は義務教育課程までに身につけておくべきものだ」

 

 かつて、尖りに尖っていた私が材木座に言った無責任極まりない言葉である。材木座はこの言葉に感銘を受けたらしく、ぼさっとした風貌に極度の人見知り、加えて突飛な言動と奇天烈な口調もあいまってもとから低かったクラスメイトの彼に対する評価は、それを機に世界大恐慌時の株価なみに暴落した。班分けや体育の準備運動の際、ひとりぽつんと佇む材木座を見るとやや心が痛まないでもなかったが、同病相憐れむという言葉にゾッとした私は決して必要以上に関係を進展させようとは思わなかった。

 

「我はいつなんどき果つるかも分からぬ身、好ましく思う者などつくらぬ」

 

 彼は言った。

 私は己の境遇を嘆きながらも毅然とした態度を崩さない材木座に、「そのまま君の道をひた走れ」と心の中でひそかにエールを送っていたが、やはり表に出そうとはしなかった。

 二年に進級すると私と材木座は別々のクラスになった。そこで我々の薄い関係はいったん切れたのだが、川崎さんのときと同様、奉仕部を介して再び相見えることとなる。諸君もご存知の通り、奉仕部に入部したときからそれまでの生き方を修正した私は、何一つ変わることのない材木座の境遇に卑しい安心感を覚え、それからやっと一握の涙を零した。去年の自分に対し、決して間違っているとは思わないにしろ、少しばかりの呵責を感じていたのだ。それゆえ当然、材木座の依頼は完遂した。執筆した小説の感想が欲しいという材木座に、私を除く奉仕部の面々は歯に衣着せぬ正論という名の暴力を加えていたが、私は絶賛した。実際、そのあまりの稚拙な文章は読書家の端くれたる私を怒り心頭に発させるには十分すぎたのだが、とにかく絶賛しておいた。滂沱(ぼうだ)の涙を流して縋りつく材木座の様子に、私は去年の罪が贖われたことを実感した。願わくはどうか己の限界を知り無謀な夢に無為な時を過ごすことのなきようにと、心の中で祈りながら私は材木座の肩に手を置いて微笑んだのであった。

 それから。それからと言われても特筆すべきことはない。一向に開けてゆかない青春に疲弊していた私は学校生活に悪態をつき、ほとばしる個性を持て余した材木座は自分を疎かにする連中を罵倒した。そうやって我々は意気投合してきただけである。

 

 私はいつかのように悄然と俯く材木座の肩に手を置いた。

 

「……お主、なぜここに?」

 

 沈鬱な表情で問いかける材木座に、私は黙って頷いた。

 

「だがしかし、いいのか? 好機は掴まねばならぬとあれほど口にしていたお主が――」

「材木座、ラーメン奢ってくれよな」

 

 私は途中で別れてきた川崎さんのいる方角に視線を移してから言った。私は救いようのない阿呆かもしれない。

 

「ッ! お主、涙を流してまで……いいだろう! なんなりと好きな物を申せ、大いに振舞おうではないか!」

「うん」

 

 我々は肩を並べて夕闇迫る街を歩く。

 もしあの後、笑う川崎さんに気さくに声をかけていたらどうなっていただろうか。熱望する青春の扉は開かれただろうか。少し考えてみたが、そんな未来を描くには圧倒的に経験が足りなかった。だいたい今となっては遅すぎる。無駄なことに精神力を磨耗させるのは馬鹿げたことだ。

 ラーメン屋で最も高価なラーメン食べ終わった我々は、近くの大型デパートで由比ヶ浜さんへの贈り物を吟味してから帰路に着いた。

 

「貴様にはまだ早いということだ。茨の道を歩むもの同士、抜け駆けはご法度であるぞ」

 

 材木座は去り際に、不敵に笑うとそう言い捨てた。

 私は去っていく材木座の後姿を呆然と見つめ続け、取り返しのつかぬ選択をしてしまったと心底悲嘆に暮れた。

 

       ◇

 

 高校生活の岐路ともいうべき昨夕の出来事に、深夜まで悶々と悩んだあげく著しく精神を磨耗した私は、寝不足気味の頭に喝を入れつつ朝の登校路を辿っていた。

 私が蓮池の淵を歩くお釈迦様のごとく憐憫の情を垂らしてやったというに、あろうことか恩を仇で返すような暴言を吐いて一人すがすがしく帰っていく材木座には呆れてものも言えない。なにか思い知らせる必要がある。閉ざされてしまった私の可能性に報いるだけの罰を与えねば割に合わない。ちくしょう、制裁だ。

 いく通りもの制裁を頭の中で並べながら校門をくぐったとき、登校する生徒たちの間を縫うようにして何者かの鋭い視線を感じた。ついで「おい」という無遠慮な掛け声も飛んでくる。厳粛な思索を邪魔された私は毅然とした怒りを込めて、声の主を睨み返した。

 

「おはよう」

 

 平塚先生であった。

 

「なんだ、朝から不機嫌そうだな。何か言いたいことでもあるのか?」

「おはようございます」

 

 私はやにわに背筋を伸ばし低頭した。礼節を欠いた視線や掛け声を放つ愚か者を撃退しようと息巻いていたつもりが、結果としてささやかに「めんちを切った」らしかった。それも最悪なことに平塚先生に対してである。私はやや狼狽した。ちくしょう、制裁か?

 

「うむ、おはよう」

 

 的確に肝臓を突いてくる正拳を防御すべく鞄を腹の前に据えたが、平塚先生は意外にも優しげであった。

 

「少し話があるんだ。放課後職員室まで来てくれないか」

 

 私は彷徨っていた視線を移して慄きながら平塚先生の顔を見遣った。

 

「もしかして制裁ですか」

「して欲しいのか? 奉仕部について話があるんだ。なに、時間はとらせないよ」

 

 私は露骨に安堵の表情を浮かべると返事をして了承した。

 

「よろしくな。……そういえばさっきのめんちは――」

「一時間目の予習がありますので失礼します」

 

 私は踵を返して脱兎のごとく校舎へ向かった。

 

 人一倍こまやかな精神を有する私は、放課後に控えた平塚先生の「お話」に戦々恐々として、不要な想像を逞しくしていた。当然、授業など上の空であった。限りなく災難に近い何ものかが刻一刻と迫ってきているのに授業に身が入るわけがない。私はぼんやりと授業を受け、ぼんやりと昼飯をとり、ぼんやりと鞄を背負うと職員室へ向かった。

 私は生徒指導室に通されると、紫煙をくゆらせながら傲然と足を組んで座っている平塚先生の前に腰を下ろした。

 平塚先生は身も蓋もない巷間話を一通り喋り散らすと、新たな煙草に火をつけてゆっくりと吐き出した。

 

「近頃、由比ヶ浜は部活に来ていないだろう」

「はい」

「なぜだ」

 

 私はこの呼び出しが、予想していた剣呑な――いわゆる詰められる、というやつではなく、現在奉仕部水面下で複雑化してしまった人間関係に主題を置いているということにいくぶんか表情を和らげた。とはいえ、返答には窮した。

 

「ええと。なぜ、と言われましても」

 

 漠然と原因は比企谷と由比ヶ浜さんの間に横たわっていると考えてはいたものの、さしたる確証はない。そんなあやふやな回答を提示してみたところで、平塚先生にとっては何のことだかさっぱりだろう。かといって、二人の間に何か(いさか)いが起こり、それがもつれて絡まっているなどという憶測を打ち明ければ、「解決したまえ」とけんもほろろに返されてしまうことうけ合いだ。だいいち諍いの原因が判然としていないのだから、下手な介入は事態をより決定的にしてしまいかねない。贈り物という策を講じている今、私に出来ることは天命を待つのみである。

 私が慎重に言葉を選んでもぞもぞ口ごもっていると、平塚先生はひどく真面目な顔をして口を開いた。

 

「由比ヶ浜はああ見えて、軽薄な人間じゃあない。飽きたとか面倒くさいとか、そんな理由で部活に来なくなるとは思えないんだよ」

「はい。僕もそう思います」

「だろう? まあ、原因は何だっていいんだ。私と違って君たちはまだ若い、そりゃいろいろあるだろう」

 

 平塚先生は煙草の火を消すと「だがな」と続ける。

 

「もしそれが不和に起因するのなら早めに解決しなくてはならないぞ。関係というやつは難儀なものなんだ。深めるには時間がかかるくせに、切れるとなれば一瞬だ」

「そんなもんでしょうか」

「ああ、そんなもんだ。この歳にもなるといろいろ見てきたさ」

 

 一瞬在りし日々に思いを馳せるような目をした平塚先生は少しはにかんだ。

 

「一度切れたらそう簡単にはやり直せない、だから必死に繋ぎとめておくんだよ。わかるかい、きみ」

「ちょっと僕には難しい気がします」

「ふふっ、そうか。……由比ヶ浜には期待しているんだ。きみにはまだわからないだろうが、彼女は君たち三人を繋ぎとめてくれる数少ない人間の一人だと私は思っている」

「その点に関してはご尤もです」

 

 我々三人を繋ぎとめるかどうかは知らないが、このまま由比ヶ浜さんが部を抜けるとあれば、おそらく私も抜けるだろう。そういう意味では、彼女が私を部に繋ぎとめているといえる。彼女の声がしない部室はどうにも暗くてかなわないのだ。タンポポの綿毛のように繊細で、かつ高野山の学僧のように身を削って思索に耽っている私は、ただでさえ普段から激烈なストレスに身を晒しているというのに、あんな光の届かぬ海底のようなところにいてはいつ顎関節症になってもおかしくない。顎関節症はストレスによって引き起こされるという。

 私は顎をさすった。

 

「わかっているじゃないか。それなら話は簡単だ、解決したまえ。比企谷と雪ノ下だけなら、適当に発破をかけて引き戻させることも考えたが、きみがいる。二人とよく話し合って解決するんだ。それにどうやら、きみは当事者ではないようだからな、うまく仲裁できるだろう?」

 

 私は言葉に詰まった。ひょっとするとこの人は、私のあずかり知らぬこともすべてお見通しなのではないだろうか。その上で試練を与えているような、そんな気がしてならない。

 

「どうして僕なんです。顧問である先生が動けばすぐにでも解決すると思います。僕に出来ることなんて――」

「同じだよ。同じことなんだ、きみ。由比ヶ浜が三人にとってそうであるように、きみも同じなんだ」

「はあ」

 

 私は曖昧に頷いた。

 平塚先生は箱から煙草を取り出して咥えたが、火をつけずに再び箱に戻すと立ち上がった。

 

「さっき当事者ではないといったが訂正する。きみも仮とはいえ立派な奉仕部の一員だ。第三者である私が介入しても意味がないんだよ」

「そんなもんでしょうか」

「そんなもんだよ」

 

 平塚先生は意味ありげな笑みを零すと、白衣を翻して去っていった。その後姿を、私はちょっとカッコイイと思った。

 

       ◇

 

 生活指導室を出ると、窓を透き通して夕陽が廊下一面を照らしていた。少し話があるといいつつも、結構な時間が経過していたようだ。いまさら奉仕部に寄るのは気がすすまない。私は下駄箱へ向かった。

 平塚先生の理屈はなんだかよくわからなかった。しかし、心に迫るものがなかったかといえば嘘になる。平塚先生なりに奉仕部の面々を思いやって出た言葉であることは、いかに精神的無頼漢である私であっても伝わってきた。

 

「目的は合致する」

 

 私は呟いた。

 そう、目的は合致するのだ。私の当座の目的である、あり得べき薔薇色の高校生活。それには柔軟な社交性を身につける必要があり、そのために私は奉仕部に所属しているのである。だが、由比ヶ浜さんのいない部室はどうであるか。静謐とは程遠い身を切るような沈黙の中、協調という言葉を知らない社交性の欠落した人間たちが、各自本に没我している状態である。少しでも口を開けば痛烈な皮肉やズレた警句が飛んできて、私を辟易させることおびただしく、ここのところ、清らかで高潔であった私の魂もこころなしか矮小になってしまったようである。たしかに我々は安易に慰撫しあうための団体ではないが、しかしそれでも、高校生ならもう少し華やいだ会話があってしかるべきであろう。そんな殺伐とした薄暗い放課後を過ごしていては、卒業後、待っているのは暗澹たる絶望のみである。

 進学した大学で友人も出来ぬまま、下宿先の四畳半において鬱々と己の境遇を嘆いてはもんどりを打つ惨めな男を想像して、私は身震いした。やはり由比ヶ浜さんは奉仕部にとって必要不可欠である。目的は合致した。

 私は下駄箱で靴を履き替えると校舎をでた。

 

「待ちなさい」

 

 振り返ると、雪ノ下さんが昇降口から私を呼んでいた。

 

「あなた、部室に来ないで一体何をしていたの」

「平塚先生に呼び出されてた」

「……そう。なら仕方ないわね」

「由比ヶ浜さんは今日も?」

 

 雪ノ下さんは目を伏せると「ええ」と嘆息した。

 ここにも由比ヶ浜さんを必要としている人間がいる。私は雪ノ下さんのどこか悲しげな様子をみてそう感じた。

 

「比企谷は」

「来たわ。もう帰ってしまったけれど」

「ふぅん。で、どう。比企谷は何か話した?」

「そうね、すれ違いがあったことは認めたようだけれど」

「すれ違い」

 

 すれ違い。なんだかそこはかとなく「青春のかほり」がする単語ではないか。そういうのはとっつこうひっつこうと視野狭窄で猛進する男女間および、すでにねんごろになった男女間の交錯ではないのか。比企谷と由比ヶ浜さんとの間にそんな「青春のかほり」が漂うはずはない。何かの間違いではないのか。すれ違いなど私は断々固として認めるわけにはいかない。

 

「ねえちょっと。あなた、目が据わっているわよ」

 

 雪ノ下さんに注意されて、私は眉間の皺をゆるめた。

 

「すれ違いなんてことはないでしょう。諍いじゃないかしらん」

 

 私はそう口走った。

 

「知らないわ、そんなこと。ただ、諍いとも言っていたわね」

「ほうら、やっぱり。諍いじゃないか」

 

 雪ノ下さんは鋭い視線を私に投げてよこした。

 

「何をそんなにムキになっているのよ。諍いもすれ違いも同じようなことじゃない」

「全然違う。いいかい、諍いというのは現に今われわれの間で起こっていることを指すんだ。一方ですれ違いは、繊細微妙でふわふわした心の機微から生じる甘酸っぱいスパイスみたいなものなんだよ。わかる? この違い。雪ノ下さん、事実を歪曲して伝えるのは良くないぜ」

 

 雪ノ下さんはむっとすると言った。

 

「どうしてあなたにそんなことがわかるのかしら?」

「本で読んだからだ」

 

 しばし目を見開いて呆気にとられていた雪ノ下さんは、ふとため息をついた。

 

「ではそのふわふわした心っていうのは何?」

「恋だ」

 

 私は臆面もなく言ってのけた。だって本に書いてあったのだから仕方がない。恋愛というものの真髄を知らない私は、そこから掬い上げて語ることのほか言葉を持たない。

 

「百歩譲ってあなたの定義が正しいとすれば、たしかにすれ違いはあり得ないわね」

「うん、まったくだ。まったくあり得ない」

 

 私は同意が得られてようやく安心した。そういえば職場見学の日の二人の姿にある種の「青春のにほい」を嗅ぎ取った私であったが、そのとき比企谷は「そういうのじゃねえよ」と言っていた。うむ、そういうのじゃないのである。

 

「ともかく、誕生日プレゼントでどうにか上手くいけばいいけど」

「ええ。けれど、たとえ由比ヶ浜さんが戻ってこなくても、それはそれで受け入れるしかないわね」

「いや、それは困る」

 

 私は間髪を容れずに言った。

 すると、雪ノ下さんはかげを帯びたような陰鬱な表情を浮かべた。

 間をおいて、弱々しく、それでいて噛みしめるように呟いた。

 

「しょうがないじゃない。だって私は由比ヶ浜さんを留めておくなにものも持っていないのだから」

 

 私と雪ノ下さんは俯いてしばし黙り込んだ。

 重苦しい時間が過ぎていく。昇降口に立つ我々を、下校する生徒たちが何人も追い越していった。みな一様に、黙りこくって哀れな風情が漂う我々を怪訝そうに眺めては校門をくぐっていった。

 その通りだと思った。雪ノ下さんだけではない。私だって由比ヶ浜さんを引き止めるに値する何物も有していない。とはいえ、だから何だとも思った。そんな本当にあるかどうかもわからないセンチメンタルなモノをあてにして活路が開けるか。とにもかくにも原因だ。比企谷と由比ヶ浜さんとの間に溝を作った原因を見つけてしまえば、おのずから事態は解決へと向かうはずである。結果、由比ヶ浜さんも心置きなく奉仕部へ姿をみせてくれることだろう。

 そういう風に考え、私は意気込んだ。

 

「二人の不和をなんとか解消せにゃいかん、こうしてはいられない。雪ノ下さんよ、さらばぢゃ。あんまり弱気になってはいけないよ」

 

 私が早口にそう言うと、雪ノ下さんは驚いて顔を上げた。

 

「どうするの?」

 

 私は、間の抜けた表情で問いかける雪ノ下さんに返事することなく、校門へ走り出した。

 目指すは比企谷家である。

 

 

 



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第九話

 

       ◇

 

 少し前、とあるファミリーレストランで男同士、油を売っていたときの話である。

 そこには、比企谷の魂とおなじくらい薄っぺらい高校生の財布にもお手ごろであることから、ドリンクバーを頼むとそれきり何も頼まずに我が物顔でふんぞり返るてあいが多く見受けられた。むろん、我々はそんなてあいとは一線を画しているわけで、メニューを開いて唸ること数分、99円という端数に癇が障ることを除けば良心的な価格のドリアを頼むことが通例であった。ただしセットでドリンクバーを頼んで、奔放不羈(ふき)な脈絡のない無駄話に数時間でも粘りこむことがまれにあった、ということは白状しなければならない。

 その日も、早く帰れよと如実に語っている店員の冷め切った目に怯えながら、我々は無駄話に花を咲かせていた。咲かせすぎて収拾がつかなくなる頃にはみな一様に疲れ果てて、正視に堪えない惨憺たる顔を互いに向け合っていた。

 私は目の前に座る二人の陰鬱な表情に、にわかに憤りを覚えた。とはいえ、相手も相手で顔色を見れば決してハッピーでないことは瞭然としており、私はやり場のない怒りをストローを一心不乱に噛みしだくことで発散していた。すると、メロンソーダを飲み干した材木座がひどく憐れを誘うような声色で話し始めた。

 

「何ゆえ我はこんなにもこんな有様なのだ。どう考えても間違っている。何がどう間違っているのかはっきりとせぬが、間違っているということだけは判る。無論、我は間違ってはおらぬ。ねえ、何が間違っているの」

 

 材木座は周囲の男女和気藹々といった高校生グループを気にかけてか、そちらにチラチラと視線を投げかけながら、終始小声だった。明らかに青春のかほり芬々(ふんぷん)たる若人の群れに触発されたことが窺えた。

 

「頭大丈夫か? 禅問答なら余所でやってくれ」

 

 比企谷は興味なさそうに窓の外を眺めながらそう返した。すげなくやり返された材木座はトホホなどと呟きながら情けない顔を私に向ける。その気色の悪いどこか猥褻じみた顔にさらなる怒りを掻き立てられた私は、いたって冷静に告げた。

 

「間違っているのはおまえだ。おまえは特別じゃない。高校という枠組みの中に掃いて棄てるほどいる典型的な一般生徒なんだ。客観的になってみろ。おまえは大マゼラン雲から来たと自称する人間と仲良くなりたいか? 俺はなりたくないね」

 

 しかし、私の怒りはともすれば義憤であった。この場で、冷厳に教え諭してやらなければ、名誉あるわが日本においてひとりの奇怪な変態が世に放たれることになるかもしれないのだ。彼ひとりによって、十把一絡げに同世代の人間が罵詈されてはならない。私は唐突に使命に燃えた。

 

「あ、こいつは手遅れだ、距離を置こう。ってそうなるだろ、普通。それがまた剣豪って。十三代将軍って。なんだよそれ、阿呆だろ。そりゃ周りから人がいなくなるわけだ。いい加減、客観的になるんだ。目から鱗が落ちて、下手すると身を投げたくなるかもしれないが、そのときは止めてやるから」

 

 材木座は歌舞伎の女形のようにオヨヨとテーブルの上に崩れ落ちた。私は打ちひしがれる材木座を前にひと仕事終えた気分になって、ふうと息をついた。これで彼の高校生活も少しは有意義になるかもしれない。迷える子羊を導くというのは、つらいながらも達成感に満ち溢れたものだ。ああ、これほど良い仕事をしたのはいつぶりであろうか。

 私が救世主のような慈しみの表情を湛えていると、窓から視線を離した比企谷が気の毒そうに口を開いた。

 

「おいおい。その位にしておけよ。鱗が落ちる前に死んじゃうぞ、心弱いんだから」

「うん。まあこの辺で止めとくが、材木座。これはあくまでもおまえのためを思ってだな」

「だったらもう少し言葉を選んでやれよ。直接的過ぎるだろ……」

「言い過ぎたかな。しかし霞のような慰めを言う気はないぜ。事実だもの」

 

 比企谷は少々呆れながら言った。

 

「雪ノ下もそうだが、おまえも大概だな」

「なんだよ、何が言いたい?」

「いや、別に。ただ、おそろしく痛ましいおまえの未来が視えただけだ」

「おいおい、比企谷くん。どういうことだい? だったらこのまま材木座を放っておいてもよかったと?」

「うむ、まあ、いいんじゃね?」

「……うん。じつは俺もそう思う」

 

 私は逡巡した結果、おもむろにそう返した。すると比企谷はぷっと吹き出して、私も「えへへ」とはにかんだ。そこはかとなく解散の雰囲気が漂い始め、私は伝票を確認した。

 

「よし、いい具合に和んだし帰ろうぜ」

「だな」

 

 私と比企谷が鞄を持って立ち上がろうとすると、机に頭をのせてときおり震える以外はおとなしく打ちひしがれていた材木座が、急にがばっと起き上がった。

 

「ではお主たちに聞くが、我がマトモになれば友人が100人作れるのか? 女の子と仲良くできるのか? 班分けで余ることはなくなるのか? 答えたまへ!」

「お、おい、その話はもう終わったぞ。さっきのはちょっと言い過ぎたから、そうぷりぷりするなよ」

「そうだぞ材木座。お前はお前のままでいいんだ。そのままピリオドの向こう側まで突っ走れ」

 

 材木座は我々の(なだ)めにも一向に引き下がる様子をみせなかった。先ほどの忠告がそれほどまでに材木座の信条をぐわんぐわん揺さぶったのかと思うと、やや悪い気がして私は上げかけた腰を再び下ろした。

 

「嫌であるぞ我は! 凡俗に成り下がるのであればそれくらいの見返りがなければ! 保証してくれるのであろうな? なあ!? なあ、お主たちッ!」

「うわ、うっざぁ……」

「落ち着くんだ材木座。まずはそのメロンソーダを一杯飲んで」

 

 材木座はメロンソーダを飲み干すと、眼鏡の奥の目をぎらぎらと輝かせて私と比企谷を交互に睨みつけた。爛々たる双眸を持ち出して気色ばんだところで材木座は材木座であり、ちっとも怖くはなかったのだが、迫力だけはあったので、私は真剣に保証しうるのか考えることにした。材木座がこれまで汚い汁をまき散らして犠牲にしてきた一年間と数ヶ月、それを嘲笑うかのように築き上げられた同級生たちの絆、現在の客観的な材木座の評価とこれから育まねばならぬ交友関係、その難易度、容姿、性格、運、ダサい手袋、それらを総合的に分析してみたところ、大した時間はかからなかった。というより、瞬時に答えは導き出せた。比企谷ははなから考える気などなかったらしい。コーラを飲みながら涼しい顔をしている。

 私は慎重に、しかし断固として材木座に告げた。気休めを言うつもりはなかった。

 

「できない。こればかりはできないんだなあ。……だが逆にだ、これまで棒に振ってきたんだ、一年と言わずに卒業まで立派に棒に振ることが出来ることを保証しよう。大丈夫、俺たちがついている」

 

 材木座は奇天烈な呻き声を上げてわなわなと震えた。そしてそのまま机に突っ伏した。

 

「そう落ち込むなって。もしかするとちょっぴり先に大人の階段を昇ることがあるかもしれないけど、それまではおまえのことはしっかり見ててやるつもりだから」

「いいから、そういう余計なことは言わなくていいから」

 

 我々はやっとのことで悄然とする材木座を立ち上がらせ、会計を済ませた。レストランから出ると、材木座は今までの落ち込みが嘘だったかのように不敵な笑みを浮かべた。

 

「なーーる、なーーるである。そういうことかお主たち。我とずっと一緒に居たいのであればこそ出た失言だったということであるな。フハハハッ、いいだろうッ! 路傍に果つるその時まで共に歩もうではないかッ! これより先、我らに隠し事はなしであるぞ。忌憚なき忠言を分かち合い、清廉潔白に茨の道を進もうではないかッ!」

 

 材木座は大袈裟な身振りでそう言うと、私と比企谷の前に手を差し伸べた。

 

「変なスイッチ入っちまったじゃねえか、どうすんだよこれ」

 

 比企谷はぼそっと私に呟いた。私は「まあ、いいだろ」と答えて、面倒な弱音がぐちぐち吐かれる前に乱暴に手を重ねた。比企谷はしばらく濁った目をさらに混濁させて眺めていたが、事態の収拾を優先させたのか苦笑すると仕方なしといった感じに手を重ねた。

 ここに青春のかほりが絶望的に見当たらないむくつけき円陣が組まれた。そしてそれは円とは名ばかりの歪な三角形であった。

 

「ディメンションドライバーッ!」

「おお……」

 

 材木座のすこぶる快活な叫びは薄暗い夕闇に溶け、続いて甚だやる気のない男二人の声がその後を追っていった。

 

       ◇

 

 比企谷の住処を訪ねると、玄関の戸を開けたのは意外にも小柄な可愛い少女であった。てっきり沼の底から這い上がってきたような人間が顔を出すと思っていたため、私は不覚にもビックリして後ずさってしまった。すぐに妹さんだと気がついた私はしどろもどろに比企谷の在宅を尋ねたが、明らかに不審であった。怪しいものではないことを説明しようとさらなる挙動不審に陥りかけた私を、しかしながら、妹さんは気軽に家に上げてくれた。あまりにも気軽だったことから、妹さんの貞操を危ぶんだほどである。

 居間に通された私は大きなソファーに座らされた。妹さんは鼻歌交じりでお茶を淹れてくれている。私はクラスメイトの家にお邪魔したことなど小学生以来であり、こちこちに緊張していた。

 

「もうすぐ帰ってくると思います」

 

 台所から妹さんがそう言った。どこか楽しげな声である。続けて比企谷に買い物を頼んでいるということも笑いながら教えてくれた。私の口は火星表面のような乾燥地と化しており、言葉を返すのにひどく苦労した。

 私が大胆にも比企谷の家を訪ねたのには3つ理由があった。

 ひとつは住所を知っていたことである。これは以前、川崎さんの依頼を遂行したのちに比企谷兄妹と同伴したことに由来する。帰り道が同じであったことから、仲がよろしい兄妹を尻目に気まずい時間を過ごした私は、そこで比企谷宅の住所を知ったのである。

 もうひとつは、丁度そのときの帰り際、妹さんからぜひ遊びに来てくださいと誘われていたことが挙げられる。そのときは、真に受けていなかったし、妹さんの顔もまともに見ていなかった。

 最後は比企谷家の事情であり、私の便宜のためであった。比企谷から聞いたところによると「両親が共働きで基本的に夜遅くまで兄妹ふたりで過ごしている」らしく、クラスメイトの両親と言葉を交わすという私にとって高すぎるハードルをクリアする必要が省かれていたことは最後にして最大の理由だ。よもやそんなことになれば、私の表情筋は愛想笑いの状態で壊死することだろう。想像しただけでも神経的な胃痛に襲われる。

 ともかく、以上のような理由から私は大胆な行動に出たのであった。

 

「どうぞ、粗茶ですが」

「いやはや、これはご丁寧にどうも」

 

 妹さんはテーブルにお茶を二つ並べると、あろうことか私の隣にちょこんと腰を下ろした。そうして朗らかな笑みを浮かべて、純粋無垢な顔を私に向けた。私はやや狼狽したが、ふと妹さんの顔を捉えた瞬間に、次のような驚愕の事実を目の当たりにして全神経の注意がそこに向けられた。にわかには信じがたいことではあるが、妹さんの目はまったくもって濁り腐ってなどいなかったのである。むしろ、滾々と湧き出ずる清冽な泉のように澄み切っていた。なんとも驚くべきことではなかろうか。いかにしてこの兄妹の眼球における差異が生じてしまったのか、そこにはメンデルも匙を投げるような神秘的な法則が潜んでいるにちがいない。遺伝学的大問題である。私はそこに神の戯れを感じずにはいられなかった。

 私が長い間目を見つめていたからか、妹さんは頬を薄っすら赤らめた。

 

「あのぉ、何かついてます?」

「アッ、すいません。いや、そういうわけではなくて。何というか……」

 

 私が今度こそ狼狽していると、妹さんは面白そうに笑った。

 

「ふふっ。兄から聞いてますよ、理屈っぽくて頭が固くて、妙に馴れ馴れしくってほんの少し面白い人だって」

「はあ、そうですか。比企谷はそういうこと結構話すんですね」

「あ、いや、兄からってワケではなくて、私が強引に聞いちゃう感じですかね」

 

 私は礼を言うとお茶を一気に飲み干した。妹さんは自分のコップを両手で包み込んでちびちび飲んでいる。その姿は小動物のようで、私は素直に可愛いなと思った。こんなに可愛い妹をもちながら、どうして彼は、あれほどまでヒネくれた存在になってしまったのかと心底疑問に思った。根拠は希薄だが、仮にこんな妹がいたら、私は断じて今の境遇に甘んじていることはなかったであろう。繰り返すが根拠は希薄である。

 妹さんはコップを机に置くと、にこにこしながら私に話しかけた。訥々(とつとつ)とではあったが私も話についていく。話題はおもに、奉仕部や授業、教室での比企谷といった学校関連のことであった。そんなことを話しているうちに、他人同士という分厚い壁が取り払われ、ややもすると私は饒舌であったかもしれなかった。妹さんは、私が今まで出会ってきた誰よりも、朗らかで明るく素直な良い子であった。

 しばらくして、妹さんは唐突にほっとため息をついた。

 

「けど本当に良かったなぁ……」

 

 妹さんは微かな笑みを口元に湛えて、優しげに目を細めると、コップの底を見つめながらいたわるように続けた。

 

「良かった良かった……ずっと友達がいなかったお兄ちゃんに遊びに来てくれる人が出来て。……お兄ちゃん、ぼっちでも全然問題ないみたいなこと言ってたし、実際それで悩んでるようなこともなかったから、特に気にしてなかったんですけど……それでもやっぱり嬉しいです」

 

 妹さんは時折、言葉を詰まらせてその度に「あははっ」と笑っていたが、そのとき目元を拭うのを私は見逃さなかった。

 

「お兄ちゃんって全部一人で背負い込むようなところがあるんです。それって心を許せる人がいない、相談できる人がいないってことなんじゃないかなあって思うんですよ。たまには私に相談してくれるんですけど、全部ではないんですよね、やっぱり。だから……だから本当に嬉しいです。あの、良かったらこれからもお兄ちゃんと仲良くしていただけませんか? お願いします」

 

 妹さんはそういって私に頭を下げた。

 私は、川崎さんの依頼のために赴いたファストフード店で彼女が語ったことを思い出していた。もしかすると妹さんは、自分のせいで比企谷は友達を作ることができなかった、と思っているのかもしれない。一人寂しく家で過ごしていた自分のために、自分より先に帰って待っていてくれるようになった兄。それは嬉しい反面、どこか申し訳なさが付きまとうものであったのかもしれない。だからこそ今、こんなにも兄のために真心を砕いているのだろう。だからこそ本当に嬉しいのだろう。

 私は一瞬そう思おうとしてみたが、やはりどうしても不可能であった。妹さんよ、比企谷は決して君のために友達が作れなかったワケではないよ。彼はどんな道を選んでいても今のようなありさまになっていただろう。天稟(てんぴん)の顔が如実にものがたっている。何というか、有意義な学生生活を送れない星のもとに生まれたというべき顔をしているのだ。だから君が気に病む必要は世界中どこを探しても絶対にあるはずがないと断言できる。これはまず間違いがない。

 私はそんな言葉をかけてやりたくなったが、真心に水を差すのは道理に外れていると思い、少し潤んだ目をした妹さんに笑いかけた。

 

「いえ、僕の方こそ仲良くしていただいているので。それでも僕のような不束な男でよければこれからも仲良くさせていただきます」

 

 むろん、心にもない虚偽の言辞である。あくまでも妹さんのためであり、仲良くしてやっているのは私であって比企谷の方ではない。私はいたいけな少女のためとあらば、自己を欺瞞することも敢行して厭わない男なのである。

 私がそう言うと、妹さんは花が綻ぶような笑顔を見せた。

 

「ありがとうございますっ! ふふふ、それじゃあ私とも仲良くしてくださいねっ」

 

 妹さんはにじり寄るようにすると、私の顔の下から覗き込むようにしてそう言った。

 私はその瞬間、今現在、あまりにも典型的な異常事態を迎えていることにはたと気がついた。夕陽が差し込む虚ろな一軒家で女子とふたりきりという、なんともお誂え向きなシチュエーション。しかも相手はクラスメイトの妹という背徳的オプションつきである。ただの妹ではない、あの比企谷の妹である。これはもう冒涜的といっても差し支えない。複雑怪奇なクトゥルー的様相を自覚すると、目がくらみ意識がなかば朦朧としてきた私は、一度落ち着くためにもう一杯のお茶をお願いすることにした。

 それにしても妹さんは無用心に過ぎるのではないか。

 年上に憧れがちで好奇心旺盛なお年頃だからといって、誰もいない家に私を導き入れるとは危険である。むろん、私とて無法な暴挙に及ぶような非紳士的人間ではないが、物事には間違いというものがある。何をもってして間違いとなるか青道心たる私にはまだ分からない。分からないが、内的野獣の荒い息遣いに耳を傾ければ、それが犯罪的な、まったく犯罪的な要素を多分に含んでいることは想像に難くなかった。すると、火遊び、責任、追及、転校、迫害、転校、大迫害、引き篭もりという一連の流れが走馬灯のように脳裏を駆けた。とうてい堪えられない半生だと思って、限りなく杞憂に近いにもかかわらず、私はぷるぷると身を震わせた。これでは学校生活だけではない、人生すらも棒に振りかねない。紳士たれ。紳士たれ私よ。先ほどまで緊張からかぐっすりと眠っていたジョニーが不穏な気配をみせ始めると、私は大いに叱り飛ばして、一心不乱に呟いた。紳士たれ、紳士たれ!

 このままではいけないと悟り、一時撤退、トイレに籠城して心頭を滅却しようか迷っていたところに、妹さんがお茶を携えて戻ってきた。

 

「お待たせしました! はい、どうぞ」

 

 妹さんはお茶を机に置くと、再び私の横に腰を下ろした。鼻先にふわっと甘い芳香がにおいたつ。私は外部からの抗しがたい攻撃に、小さく縮こまってしまった。

 そんな私と反比例するように、叱責されて縮こまっていたジョニーが己の存在を主張し始めた。「もしかして、出番かい?」とジョニーはおそるおそる頭をもたげようとする。私は「時期尚早、日を改めるがよい」と(たしな)めたが、魔香にやられて語気は甚だ弱弱しい。思えば、ジョニーに自我が芽生えたのは中学3年生とやや遅れていたのだが、その分、手のつけられない暴れん坊な時期があった。般若心経と行水によって鎮静化させることに成功してはいたが、どうやらジョニーは暗い闇の中でその牙を尖らせていたらしい。初陣を飾るべく、本能という刃を構えて今か今かと法螺貝の音を待っていた。しかし、ここで主導権を譲るわけにはいかない。

 私は緩んでいた理性を総動員すると鞭を打って奮い立たせた。ジョニーはまだ年端もいかぬ青瓢箪、長年培ってきた理性が敗れることなどあり得ない。鬨の声を上げろ、いざ行かん、目指すは厠だ!

 私は決然と立ち上がった。

 

「トイレ借りていいですか?」

 

 妹さんはいささか驚いたようであったが、すぐに場所を教えてくれた。

 私は小刻みに歩いて居間を抜けると廊下へと出た。情けなくも前かがみになりながら、きょろきょろとトイレを探していると、ガチャリと玄関の戸が開かれた。

 

「……は? なにしてんのお前」

 

 ようやく比企谷が帰ってきた。

 

「やあ」

 

 私は引きつりながらも満面の笑みで「おかえり」と続けた。

 

 

 



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第十話

       ◇

 

 時は幕末。慶応年間である。京の都に上り、掲げた正義を執行しようとしていた新撰組副局長土方歳三は、近藤勇や沖田総司らと相対して座っていた際、荒れ狂う熱情に身を焦がれながらも、心は理想を宿して澄み切っていたという。そうして詠まれた句が「差し向かう心は清き水鏡」であった。

 私は、死を覚悟しながらも水鏡のごとく理想を写しあっていた新撰組幹部連に惜しみない敬意を抱き、感じ入りながら、むっつりと睨みを利かせる比企谷と差し向かっていた。

 

「おまえ、小町に何もしてないだろうな」

 

 私のような紳士に向かってこの言い草である。由比ヶ浜さんを奉仕部に引き戻すということは、奉仕部存続を意味することに等しく、ひいては比企谷ならびに雪ノ下さんの人間性を高めることに等しく、つまりそれは社会に有益な人材を育成することに等しい。そんな高邁かつ激烈に難関な任務を遂行しようとしながらも、心は澄み切り理想に燃える私に対して、かくのごとき言い草なのである。激動の時代を駆け抜けた烈士たちは、もはや現代には姿かたちもないのだと、私は憂国の嘆きを零した。

 

「してない」

 

 私の返答に、比企谷は疑わしい視線を投げて寄越した。私は蛍が生息できそうなほど澄み切った目で応対する。しばし沈黙が支配した。

 

「言っとくがな、小町に手は出すんじゃねえぞ」

「むろんだ」

「どっちだよ。言うまでもないことはわかったけど、どっちだよ」

「それはナイショ」

「はぁ、ったく……まあ、おまえにそんな度量はないだろ」

「やかましい」

 

 比企谷はため息をつくと、ベッドに腰掛けた。再び沈黙が訪れた。

 先ほど買い物から帰った比企谷は、鉢合わせた私を素通りすると、すぐに居間へ向かって妹さんの安否を確かめた。まったく失敬な行為だが、当然といえば当然かもしれない。妹さんから事情を聞いた比企谷は、廊下で呆然と立ち尽くす私をその濁った目でたっぷり数十秒は見つめてから二階の自室へと私を誘った。部屋に入ると存外片付けてあることに気がついた私は、今にもきのこが自生してきそうなほどじめじめと汚らしい私の部屋との隔絶を感じ、いささかげんなりしてしまった。同時に、比企谷から無言の余裕を感じて無性に腹も立った。だいたい部屋がきれいに片付いているような輩は、総じて軽薄なものである。私のように精神がめまぐるしく活動しているような人間は、いちいち部屋の清濁に拘泥してはいられない。部屋を磨く暇があるならば、己の魂を磨いていたほうがよほどいい。そんな風に自分を律しながら、埃ひとつ落ちていないフローリングの床に胡坐をかいて座ったのであった。

 しばらく黙ってどう切り出そうか迷っていたところ、重苦しい沈黙が漂う部屋にノックの音が響いた。比企谷が返事をするまもなくドアは開かれる。

 

「お兄ちゃん、お茶持ってきたよ」

「おい、勝手に入るなよ」

「ノックしたじゃん。はいこれ、お茶うけも」

 

 妹さんは、お茶とお菓子が載ったお盆を比企谷に渡すと、私に笑いかけてからドアのほうへ向かう。

 

「なんだ今の笑顔は。なんで今笑いかけたかはっきりしっかりお兄ちゃんに説明しなさい」

「意味なんてないよ別に。初めてのお客さんなんだから愛想良くしなきゃ。お兄ちゃんができないことを小町がやったげてるの」

「こいつはお客さんなんて上等なやつじゃない。いうなれば路傍の石だ。その辺に転がっている石となんら変わりない。おい石くれ、おとなしく河原へ帰れ」

「またそんなこと言って。ごめんなさいね、お兄ちゃんきっと照れてるんだと思います」

「照れてねえよ。こいつに照れるようなことがあれば、残りの生涯前を向いて歩んでいけなくなるだろ」

「はあ……ホントにお兄ちゃんは……こんなこと言ってますけど、本当は嬉しいはずですから」

 

 妹さんはドアに手をかけると小さな声で私にそう言った。私は「知ってます」と返して莞爾(かんじ)と笑った。

 

「聞こえてるぞ。ったく、ほら早く出てけ」

「はいはい。じゃお兄ちゃん、しっかりやるんだよ」

「何をだよ……」

 

 妹さんはサムズアップするとニヒヒと悪戯っぽく笑って出ていった。

 

「賑やかだな」

「まあな」

「妹さんを俺にくれ」

「……おまえ、口に気をつけないとぶち殺すぞ」

「失敬。つい心にもあることを口走った」

「あるのかよ。……んで、わざわざうちまで来て、何の用だ」

「それは、あれだ。俺の理想のためだ」

「はあ?」

「心は清き水鏡だ。知らないの?」

「知らん。何の話だよ」

「俺とおまえは、まことに遺憾だが、水鏡に写しあうがごとく理想を共有しているということだ。新撰組だ、鬼の副局長だ」

「はいはい、すごいね。で、理想ってなんだよ」

「えらく、せかすね」

「当たり前だろ。大事な時間をおまえに割きたくない」

「ふふふ、あれか、自己処理か。頭はそれでいっぱいなのか、この桃色遊戯野郎」

「……」

 

 比企谷はおそろしく無機質な顔をした。人はここまで感情を殺しうるのかと感心するほどである。私は比企谷の目の奥に深淵を見た気がした。

 私はお茶に口をつけて、一度間をおいた。

 

「由比ヶ浜さんのことだ」

 

 にわかに比企谷の眉がひそめられた。

 

「おまえも知ってるだろうけど、職場見学の日から部室に来てない」

「そうだな」

「単刀直入に聞くが、原因はおまえだろ」

「……だろうな」

 

 比企谷は目を逸らしはしたものの否定はしなかった。

 

「うん。何があった?」

「別になんでもいいだろ。大したことじゃない」

「そうか。けどそれは主観だ。一方的すぎる。教えろ」

「……いやだ。それに、由比ヶ浜が何も語らない以上、判断できる人間は俺だけだ。その場合、俺の主観が限りなく客観に近い事実になる。ほら、大したことじゃなくなった。俺がそう思っているんだから」

「相変わらずの詭弁だな」

「うるせえ」

 

 比企谷の言うことはもっともだった。同じ状況に置かれたら私だってそう考える。当事者の片方が沈黙しているのだから、主張した人間の判断に我々は準拠してしかるべきである。しかし、そんな正論で引き下がる私ではない。正論には持論である。これぞ、詭弁の極み。

 

「しかし、それは当事者が由比ヶ浜さん個人である場合に限る。今回の件に関して由比ヶ浜さんを捨象すれば、大したことじゃないと考えているのは俺だ。したがって当事者は俺とおまえになる。当事者が事の真相を知らないのは馬鹿げたことだ。おまえが現今の日本に生きる文明人であるならば、対等な話し合いの場を提供しろ。さあ、話せ」

「相変わらずの詭弁じゃねえか」

「やかましい」

 

 比企谷は苦虫を噛み潰したような顔をして「論点のすり替えじゃねえか」と呟いた。それきり黙ってしまった。論理的に攻めても駄目なら、感情を揺さぶりにかかるしかない。

 私はなんの効力も発揮するとは全然思われないことを述べてみた。

 

「いつか円陣を組んだだろ」

「は?」

「ファミレスの帰りにさ。あの時、約束したじゃないか。隠し事はなしに清廉潔白」

「そんなこともあったな」

「おまえは材木座の涙を忘れたのか? 材木座の慟哭をなかったことにするのか? 本当に材木座のことを親友として大事に思っているのであれば――」

「いや全然まったく」

「……そうか。うん、俺もまったく大事じゃない」

 

 少し上ずった声で感情的表現に力を入れて語りかけたつもりだが、やはりなんら効力は期待できなかったようである。材木座の役立たず加減にもほどほどにして欲しい。いずれにせよ比企谷はどうあっても話す気はないらしい。となれば、これは奥の手を使わざるを得ないようだ。

 

「いいのか? 奥の手を使うぞ」

「……なんだよ奥の手って」

「妹さんを召喚する」

「おまっ、バカっ、それはダメだろ常識的に考えて」

「しょうがないじゃん、おまえが話さないんだから。へへっ、妹さんなら何か知ってるかもな」

「くそっ、卑怯だぞ」

 

 比企谷の様子を見て、私はほくそ笑んだ。この反応から察するに妹さんはすべてとは言わずとも、一部事情を知っているとみて間違いないだろう。もちろん、ここで妹さんに尋ねてしまえばいいのだが、妹さんはブラフである。彼女を召喚するくらいなら、比企谷は自分で話す方を選ぶにちがいない、そういう男だ。これはもしかすると、一部とは言わず包み隠さず話すこともありえそうだ。

 比企谷はもはや苦虫を噛み潰しているとしか思えない表情をすると、諦めたようにもぞもぞ話し始めた。

 

「俺が入学式で事故ったのは知ってるだろ」

「うん。味わい深い悲劇だったな」

「余計なことは言うなよ。止めるぞ」

「ごめん。続けてくれたまえ」

「まあ、それで骨折って三週間入院したわけだが、なんで事故ったかは話してなかったよな」

「うん。聞いてない」

「ま、まあ。あれだ。非常に言いにくいんだが、犬がな、飛び出したんだ。交差点で……」

「おいおい、まさか庇ったとか()かすんじゃないだろうな」

「……そのまさかだ」

「なんと」

 

 私はびっくりして目を見開いた。

 

「言いたいことはわかる。だがそれは置いておけ。羞恥心で死にたくなる」

 

 別に恥ずかしがることはなかろう。身を挺して犬を救ったのだ。いや、待てよ。

 

「犬は無事だったのか?」

「ああ」

「そうか、良かったじゃん」

「それでな、俺が入院していたときに、その飼い主が来たらしいんだよ。お菓子をもってさ、見舞いってわけだ」

「そりゃ当然だ。どんな奴だった? 犬を放し飼いにするなんてまともな神経の持ち主ではなさそうだけども」

「……はは」

 

 比企谷は気まずそうに笑うと、お茶を口に含んだ。つられるように私もお茶を飲む。

 

「らしいって言っただろ。そのときは飼い主を確認してないんだよ。女の子ってことはわかってたんだがな」

 

 比企谷はそこで、言葉を区切った。陰鬱なかげを目に宿してコップを見つめている。私は黙っていた。

 

「別に俺は誰だってよかったんだ。謝罪も感謝もいらない。俺が勝手にやって勝手に骨を折った、そういう原因と結果があるだけだ。だからな、だから……」

 

 比企谷は、歯の隙間から押し出すような妙に低く切ない声で続けた。

 

「見返りを求めて助けたワケじゃないんだ。ましてや同情なんか……」

 

 その声は怒っているようにも哀しんでいるようにも、はたまた後悔しているようにも諦めているようにも聞こえた。比企谷には珍しく、軽薄で浅ましいところは見受けられなかった。再び比企谷は口を閉ざした。

 私は意味もなく部屋を見渡しながら続きを待ったが、自身の感情を反芻しているのか比企谷は一向に口を開かない。私はやや苛立ちを覚えた。何を噛みしめているのか知らないが、比企谷の感傷的ナルシズムになどさして興味が湧かないし、そう何度も黙られてはもどかしい。

 私は続きを促した。

 

「浸っているところ悪いんだけど、続けてくれ」

「お、おまえなあ……そこはフリでもいいからしんみりしろよ。そういう場面だろ……」

「続けてくれ」

「はあ……。俺もついこの前小町から聞いて知ったんだけどな、飼い主は由比ヶ浜だった」

「……マジかよ」

「ああ」

 

 つまり、どういうことであるか。私は青天の霹靂に暴風域と化した脳内をなんとか鎮めて冷静に物事を組み立てようと試みたが、何が何だかさっぱりわからなかった。由比ヶ浜さんの犬を比企谷が助けて、入院した比企谷を由比ヶ浜さんが見舞って、それを比企谷が知らなかった。このことが意味するものは比企谷のおそるべき迂闊さ以外に何もありはしないように思われる。そして、つい先日、比企谷は交通事故の原因たる飼い主が、あろうことか由比ヶ浜さんであったことを知りえた。はてな、つまり? 私の皺多き脳みそはそこで活動を停止してしまった。

 しかし、私は次の瞬間、ただちに訂正しなければならないことに思いあたり、叫ぶように言った。

 

「おい。さっき飼い主の神経がどうのこうの言った俺の発言は即刻忘れるように」

「無理だ。俺の脳内に深く刻まれてしまったからな」

「くそっ俺としたことが、つい。とにかく、絶対に言うなよ」

「どうだかな」

「ヤメテ! お願い!」

「わ、わかったよ」

「よし、それでいい。話が逸れたが、結局どういうことだ?」

「え?」

「いや、だからね。それが由比ヶ浜さんとの諍いにどうつながるのかと」

「え?」

「え? じゃない。どうつながるんだ」

「どうって……もういいだろ」

「よくないから訊いている」

「……しつけえよ。いい加減にしろ阿呆」

「阿呆って、あなた阿呆って。そんな言い方はないでしょう」

「……」

「なんだシカトか、シカトなのか? あ?」

 

 比企谷はむっつりと黙り込んでしまった。

 その後、いくら詰問しようとも口を開かなかった。何気なく下の名前で呼びかけても、お茶の催促をしても、「小町さんは俺の妹」宣言をしても顔を歪めるだけで、貝のように口を噤み続けた。比企谷の分際で、私の問いかけを無言で一蹴するなど許すべからざることであり、私は怒り心頭に発しかけたが、この辺りが頃合かもしれないと心を落ち着かせた。このまま詰問し続ければ幼稚な比企谷のことだから、へそを曲げて意固地になりかねない。そうなると厄介である。ならばここは一度退いて、私なりに考えてみたほうが得策だ。おそらく諍いの原因を示唆する何物かはすでに列挙されていたと考えていいだろう。

 

「わかったよ。おまえがそこまで強情を張るなら今日はおとなしく帰ろう」

「ああ、そうしてくれ」

 

 私は辞去するために立ち上がった。

 

「また学校で聞くからな。そのときはちゃあんと話してもらうぜ」

「……いいから早く帰れよ」

 

 その言葉に私は鼻で笑って返答した。

 一階に下りていくと、居間のほうから妹さんが小走りでやってきた。私は妹さんに諸々のお礼を篤く感謝すると玄関の扉を開けた。

 

「また来てくださいね。お兄ちゃんもきっと喜びます」

「はい。それではまた。さようなら」

 

 外はもうすっかり暗くなり、心地よい微風が吹いていた。

 私は門を出たところで妹さんに頭を下げると比企谷宅を辞去して帰路に着いた。

 

       ◇

 

 翌日。授業合間の休み時間。私は昨日の問答を反芻しながら、事態の原因を追究することに余念がなかった。

 本来であれば昨夜のうちに大方の予想をつけておいて、それから比企谷を誘導尋問にかけようとしていたのだが、自室に戻ると理性の桎梏(しっこく)を逃れたジョニーがむくむくと台頭しはじめ、私は自己嫌悪に駆られながらも初陣を逃したジョニーを慰めてやらねばならなかった。自己処理に伴う思春期特有の罪悪感と一仕事終えたあとの心地よい疲労感に身をゆだねると、私はあっという間に眠りに落ちてしまい、気がつけば清々しい陽光煌めく朝であった。自室の窓を開ければ初夏の緑が放つ濃密な気配に気持ちが晴れ晴れしたが、ふと脇を見れば使用済みのティッシュが散乱しており、昨夜の刹那的な放恣(ほうし)をひどく悔やんだことは余談である。

 ともかく、朝の登校時から授業中にいたるまで私は原因を推察しようと頭を捻っていた。辺りざわめく休み時間であってもそれは変わらない。様々な要因を分析しながらも、ふと教室隅の比企谷の席へ視線を移すと、相変わらずイヤホンを装着して寝たふりを決め込んでいた。私が二人の仲を取り持とうと日夜熱が出るほど頭を回転させているというのにあの態度はなんであるか。頭の上から消しゴムのカスを振りかけてやりたくなったが、今は原因追及が先決だ。

 飼い主が由比ヶ浜さんであったから手のひらを返したというわけではないが、彼女も比企谷と同様に、被害者のようなものである。私の浅慮から放し飼いなどと口走ってしまったが、書籍を買い求めた日を思い起こせば、由比ヶ浜さんはしっかりとリードをつないでいた。突発的な不可抗力であったのだろう、由比ヶ浜さんに非はないことは明らかだ。むろん、犬や車を運転していた人間に非を被らせるわけにもゆくまい。つまり、皆平等に被害者というわけである。不運な事故だったわけだ。したがって、そこに諍いの原因を見出そうとするのは無意味である。

 では、どこに?

 由比ヶ浜さんが名乗り出なかったからか。しかしそれでは矛盾する。比企谷は誰でもよかった、謝罪も感謝も必要ないと豪語していたではないか。それに由比ヶ浜さんだって入院当時の不面識にかこつけて以後も黙り通そうなどとするはずがない。告白する機を逸してしまったか、他に何か理由でもあるのだろう。由比ヶ浜さんの無菌室で培養されたような素直な性格を知っている比企谷であれば、そこを責めるようなことはないはずだ。となれば、ここにも原因を見出せない。

 軽口の叩き合いがものの見事に発展してしまった可能性も否定できない。つね日ごろから世間の顰蹙を買い散らかしている比企谷のことであるから、むしろこれが正解に最も近いような気がする。とはいえ由比ヶ浜さんがそれを根に持ち続けるとは考えられない。だいいち交通事故となんら関係がない。

 私は唸った。なにか比企谷の言葉に引っかかるところがあるのだが、それが判然としない。私は今一度、昨日の会話を思い出そうと努めた。すると教室後方から比較的大きい笑い声が聞こえてきた。

 私は頭だけ振り返って何事かと視線をそちらに移した。

 そこでは、葉山君と高慢な顔つきをした女生徒を中心に迎合的集合体が幅を利かせていた。なにやら、高慢顔の女生徒が面白いことを語ったらしい。鶴の一声とばかりに周囲はげらげらとだらしなく笑っていた。なんとも圧倒的な風見鶏ぶりである。彼らには意思が存在しないのではないかと危ぶまれるほどだ。

 私は繊細な思索が掣肘(せいちゅう)されたことに怒りを覚え、見咎められない程度に彼らを睥睨(へいげい)した。

 この迎合的集合体の構成員たちは、授業が始まると蜘蛛の子を散らしたように自席へ戻り、休み時間になると帰巣本能でもあるかのように教室後方へと再び姿をみせる。まるで女王への献身的奉仕を生きがいにした働き蜂である。霊長類としての誇りはないのか。そして悲しいことに、その構成員のひとりが由比ヶ浜さんであった。私は由比ヶ浜さんがそんな集合体に所属していることを苦々しく思っているのだが、彼女にとっては大切な居場所のひとつであるらしかった。

 私は目元を緩めると、楽しそうにお喋りに耽る由比ヶ浜さんを目で追った。

 彼女に事の真相を伺えたらどれほど楽であろうか。しかしそれはできない。前述したとおり、そんなことを遂行できる私であれば一年を棒に振ってなどいない。また、奉仕部に姿を見せなくなった頃から由比ヶ浜さんはほとんどひとりで行動しておらず、話し合いの場を設ける前段階で、すでに私の勇気は挫けていた。由比ヶ浜さんの隣にはたいていあの高慢顔の女生徒がふんぞり返っており、さらにその隣には眼鏡をかけた秘書然とした女生徒が控えているのである。そんな姦しさで溢れかえるところへひょっこり顔を出せるはずがない。

 そういえば以前、こんなことがあった。

 奉仕部として面識が出来たことを幸いに、私は教室においても由比ヶ浜さんと有意義な関係性を構築していく必要があることを認め、ならば手始めにと放課後に部室へ共に向かうことを提案しようと、少なからず緊張して教室後方へ向かったことがあった。ちなみにそれが、断じて男女交際の布石とするような助平根性ではないことを明記しておく。

 由比ヶ浜さんへ近づくとまず反応したのは眼鏡の女生徒であった。そのとき集合体の男子構成員たちは揃ってどこかへ姿を消していた。

 

「結衣にお客さんじゃない?」

 

 眼鏡の女生徒がそう言うと、由比ヶ浜さんが振り向いた。

 私はこのときいくらか挙動不審であったことを記憶している。

 

「あっ、やっはろー。どうしたの? 奉仕部のことで何かあった?」

「えと、そ、それがですな……」

「だれコイツ。 ユイ、知り合い?」

「誰って優美子……同じクラスだよっ? えっとねえ――」

 

 なにやら由比ヶ浜さんが私について説明してくれているようであったが、ほとんど私には聞こえていなかった。高慢顔の女生徒が、定石どおり高慢かつ無遠慮な態度だったという現実は、想定していた圧迫感を遥かに凌いで私の精神を弱体化せしめた。要するに怖かったのである。私は早くも己の蛮勇を後悔していた。

 

「あっそ。んで、アンタ、ユイに何か用でもあんの?」

「え、いや、えと、何というか……」

「あ? なに? ぜんっぜん、聞こえないんだけど」

「はい、すいません。特に用はないです」

「はあ? 意味わかんないし。なんか用があるから来たんっしょ」

「いや、散歩です。教室内の散歩、趣味でして」

「マジで言ってんの? ねえ、ユイ。コイツやばくない? 胡散臭すぎっしょ、チョーキモイんだけど」

「あはは……」

 

 由比ヶ浜さんが苦笑している。私は頬が紅潮してくるのを感じた。確かに私は胡散臭かった。そして、おそらくチョーキモかったようである。だからといって直接面と向かって言うことはなかろう。それはあまりに酷というものである。

 高慢顔の女生徒のおそるべき厚顔無恥さによって、私の出来心は完全に粉砕されてしまっていた。もはやこれまで。このまま対峙しているといかなる悲喜劇を引き起こしてしまうか分かったものではない。私はとりあえず、彼女の人間としての器を少なくとも私の十分の一以下と断定することによって、忸怩(じくじ)でいっぱいだった内心にいくらか冷静さを取り戻しつつ、限りなく負け犬の遠吠えに似た意趣返しも成功させた。そうして、私は二度とこの高慢顔の女生徒とは関わらないとほぞをこちこちに固めながらも、「では失礼します」と半ば逃げるように教室をあとにしたのであった。その後、部室において、一部始終を目撃、観察していた比企谷に腹がよじり切れるほど笑われたのはいうまでもない。

 

       ◇

 

 ともあれ。

 私は楽しそうに笑いながらも、ときおり目を伏せて俯きがちになる由比ヶ浜さんを目で追っていた。由比ヶ浜さんも諍いに心を痛めているのであろう。心根の優しい彼女のことであるから、自身を責め苛んでことあるごとにああやって目を伏せてはため息をついているのだ。なんて可哀想な由比ヶ浜さん。

 私が食い入るように見つめていると、由比ヶ浜さんはふいに顔を上げて比企谷の方へ仔細ありげな目を向けた。

 

「ねえ、ちょっと。落ちたよ」

「え」

「ほらこれ。アンタのでしょ」

 

 私の真後ろに座っている川崎さんが、シャーペンを握って私に問いかけた。どうやら身を乗り出しすぎて落としてしまったらしい。私は礼を言って受け取ると、再び食い入るように由比ヶ浜さんを見つめたが、ふとあることに気がつき川崎さんに声をかけた。

 

「あのさ、あれどう思う」

 

 私は小声でそう言いながら顎をしゃくってみせた。

 

「なに。あれって」

「ほら由比ヶ浜さん。阿呆のことみてる」

「ん?」

 

 川崎さんは私に示されると、じっと由比ヶ浜さんを観察しはじめた。由比ヶ浜さんが目を逸らしてまた集合体のほうへ移すと、川崎さんも向きなおった。

 

「なんだろうね。好きなんじゃないの比企谷のことが」

「は? ふざけてる? そういう笑えない冗談はやめてくれないかな」

「あ? なに。私は素直に答えただけなんだけど」

「いやっ、あらっ、すみません。謝るからその目はやめて」

 

 川崎さんの抜き身の刀のような視線に私は慌てた。

 今のは失言だった。川崎さんは君子ではない。ちょっと穏やかさが欠落してはいるが、いまどきの乙女である。ときには短絡的に愚劣な発言だってしてしまうだろう。それに大乾坤の狭間にはそういう不条理なとらえ方があってもなんらおかしくはない。私は博愛・平等をモットーとしているのだから、さる不条理さにも理解をもってしかるべきであった。

 私は軽率さを猛省しながら言った。

 

「ふわついたモノじゃなくてさ。あの眼差しには、こう、なにかあるとは思わない? ほらっ、また見てる」

 

 川崎さんは刀を鞘に納めると、もう一度由比ヶ浜さんに視線を送った。

 

「んーー。……よくわかんないけど、悲しんでる?」

「うん、それで」

「それでってアンタね……あとは、そうだなぁ。憐れみ? いや同情?」

 

 私は川崎さんの慧眼に脱帽した。銀狼の面目躍如といったところか。やはり彼女の怜悧な双眸は真実を明らかにする力を持っていたようだ。

 

「その通りだよ。さすがだね川崎さん」

「……?」

 

 私はにやりと笑いかけると礼を言って前を向いた。

 まさにその通りであった。私はさきほど、比企谷を見つめる由比ヶ浜さんの瞳に、断じて淡い恋心のようなものではなく、慈悲深い憐憫を見出したのである。そう、まさしくあれは憐憫、同情の類であった。つまり……。

 その瞬間、比企谷の妙に切ない声が想起され、私の中で引っかかっていたものがすとんと腑に落ちた。豁然(かつぜん)大悟とはこのようなときに使うべき言葉である。

 目の前が大きく開け光が差し込むようだ。いまや真実は白日の下に晒された。私の脳内であらゆる要素が組み上げられてゆき、入学式の交通事故まで遡行(そこう)していった。

 私は呟いた。

 

「なるほどな。しかし、奴にはちょっと悲しすぎるな」

 

 比企谷はいまだ机に突っ伏して寝たふりを続けていた。

 

 

 



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第十一話

       ◇

 

 比企谷、かく語りき。

 

「偶然も運命も宿命も俺は信じない。しかし、不運、これはある。その日を思い出すたびに恐怖でゾッとする。神に弄ばれてるんじゃないかと怒りすら感じたほどだ。本当にアレは不運としか言いようがない。たしかアレは――」

 

 中学3年の秋だった。

 周囲は受験が近いこともあってどこか浮つきながらも緊張が張り詰めた、ある種独特な空気感が漂っていた。もちろん俺もそれなりに気負っていた。断じて同級生たちと同じ高校には通いたくはない。少しでもレベルの高い学校を目指そうと意気込んでいた。だから、無意識のうちに心の慰めを求めていたのかもしれない。今思えば救えない大馬鹿野郎だと思う。なにせあれだけ裏切られてきた事実を少しの間でも忘れていたのだから。

 

 俺は、先日の席替えで隣になった女子のことが気になっていた。

 その子は、クラスで暗黙の疎外を受けていた俺に対して優しく接してくれたんだ。メールアドレスも進路先についても教えてくれた。ふった話にもちゃんと答えてくれた。正直、俺は浮かれたよ。学校へ行くのが楽しくてしょうがなかった。勉強にも身が入らないほどだった。

 だから、気がつかなかった。なぜ俺がその子のことを優しいと感じたのかに思い至らなかったんだ。

 その子の優しさは弱さだった。その子の優しさは怖れだった。その子の優しさは情けだった。

 本当に簡単なことだった。

 その子は、他人より物静かで控えめで内向的で頼まれると断れないタイプで、だから、別に俺に優しくしていたワケではなかったんだ。メールアドレスを教えてくれたのは断れない弱さだし、話をふっても答えてくれたのは誰にも嫌われたくないという怖れだし、なにより疎外されていた俺に一見優しくしてくれたのはただの同情だったというワケだ。

 そのことに気がついたのは、朝や休み時間、昼になると決まってその子が姿を消すようになってからだった。俺はすぐに察したよ。ああ、またかってね。そして予兆があったことにも気づいた。俺が話しかけると一瞬眉をひそめていたんだ。俺は気付かないフリをしていただけだった。

 避けられるようになってから俺はほとほと自分に愛想が尽きた。期待して裏切られるというお決まりのパターンを何度繰り返せばお前は利口になるんだと、恥ずかしい話だが毎晩枕を濡らしたね。もちろん、その子とは出来る限り接しないように息をひそめた。それでも事務的なことや廊下ですれ違うときは、相手から以前のように穏やかに話しかけられた。その都度、眉がひそめられて、どこか警戒しているような雰囲気を漂わせていたことを俺はひしひしと感じていたがな。

 ここまでくると、逆に申し訳ないくらいだったよ。言ってやりたかった。俺から話しかけることはないし、優しくする必要も同情する必要もないんだと。しかし、そんな自意識過剰だと思われることは俺にはできなかった。

 

 そして、その日が訪れた。

 

 俺の中学校ではあるおまじないが存在した。校舎裏の桜の木の下で、相手の大切にしているものと同じものを手に持ちながら告白すると成就するという、どこの学校にもひとつはありそうな七不思議の類だ。

 その日、掃除当番だった俺はいつものように最後のゴミ捨てを押し付けられていた。もはや恒例となっていたから拒否なんてしなかったが、心の中では、こいつら全員謎の失踪をとげればいいのにとか自分のまったく関係ないところでエグい不幸に見舞われろとか毒づいてはいた気がする。まあ、なんにせよ俺は校舎裏のゴミ捨て場へ向かった。外へ出て、重量のあるゴミ袋にぜえぜえいいながら校舎を曲がろうとしたときに、ふと落ち葉の上に筆が落ちているのを見つけたんだ。

 それは毛先がはねてて柄の部分がぼろぼろになった絵筆だった。おそらく誰かが捨てようとしたときに手元から落ちたのだろう。俺はゴミ袋を一度置くと、親切にも絵筆を拾って一緒に捨ててやろうという気を起した。そしてそれを拾ったときだった。ブロック塀で囲まれたゴミ捨て場からひとりの女生徒が姿を現したんだ。

 俺はハッとした。その子もハッと息をのんで俺を見つめていた。その目線がふと俺の右手に握られていた絵筆に移ると、その子はひきつったような顔をした。俺はとっさに何か言おうとしたらしい、一歩前へ出て口を開きかけた。するとその子は、

 

「あ、あのっ! ほ、本当にやめてっ」

 

 と叫ぶように言ったんだ。そうして涙目になりながら俺の脇を通り過ぎて逃げるように走り去っていった。

 俺は一瞬わけがわからなかったが、すぐに気づいたよ。そういえばここが(くだん)の迷信の場所だってことと、その子が美術部に所属していてコンクールに入選するほど絵が上手だってことにね。要するに俺は振られたわけだ、もはや好きでもなんでもなく、むしろ恐れているくらいの相手に。

 自分の間の悪さと信じられないような不運に俺は呆然とした。こっちこそ泣きたいくらいだった。

 しかし、不運はそれだけで終わらなかったんだ。

 やるせない気持ちになりながらもゴミを捨てて俺は帰路に着こうとした。だがこのまま帰っても、不甲斐ない自分を罵倒して自己嫌悪に陥るのは目に見えていた。気分転換でもしよう、そう思ってその日は繁華街にあるファストフード店に寄ることにした。軽く勉強しながらポテトを食べていると、どうせいまさら嫌われたところでなんだ、何も変わらんだろ、と俺の心は徐々に落ち着きを取り戻していった。

 問題集をあらかた解き終わった俺は、「ふう」と息をついて、満足感に浸りながら何気なく、本当に何気なくだぞ、まあ店内を見回していたんだ。すると離れたボックス席に座っているその子とたまたま目があってしまった。がやがやと騒がしい店内の中、客の隙間を縫うようにして、その子は俺の目をまともに見据えて凍りついたような顔をした。衝撃的瞬間だった。心臓が止まるかと思って、俺は慌てて目をそらした。学校から近いこともあってその店は生徒たちが良く利用してるらしく、知り合いと鉢合わせることは、まあ、あり得ることなんだが、それでも俺の頭の中は疑問符でいっぱいだった。少したってから目をやると、その子は女友達に慰められるようなかたちで店を出ていったところだった。

 こんな偶然なんてあるのか。いや、これはもう偶然なんてレベルの話じゃない。なにか超自然的な力がはたらいている。俺を不幸にするために仕掛けられた罠だ。もはやそう考えるしかなかった。

 俺はほとんど死にたいくらいな気持ちで筆記用具と問題集を片付けたが、またその子に会っては困るんで、用心深く少し時間を置いてから店を出た。もう今日は帰って潔く自分を罵倒しつくそう、そんでもって小町に慰めてもらおう。そう思って足早に繁華街を抜けようとすると、エプロンをつけた小柄な女性が一生懸命にティッシュを配っているのが見えた。俺は必要にかられてそのティッシュを受け取った。というのも、帰り道に泣く可能性があったからだ。ちなみにこの判断は正しかった。まあそれはいいとして、ともかく、貰ったティッシュをしまおうとすると、そこに載ったオープンしたばかりのスイーツ専門店の宣伝が目に入ったんだ。

 ああ、そういえば小町が食べたいって言ってたっけ。こういうときだからこそ、少しは良いことをして、可愛い小町に慰めてもらうのはどうだろうか。お土産にケーキを買っていけばめちゃくちゃ喜ぶに決まってる。その笑顔をみれば少しは気も晴れるだろう。そうだ、それがいい――ふと俺はそう考えた。だが結果は凶とでてしまった。

 俺は駅を挟んで反対側の繁華街へ向かった。

 目論見どおりにケーキを買い終えると、早々と店を出て繁華街を抜けた。普段とはまったく違う帰り道を、秋の夜風が吹きすさぶ中、小町の喜ぶ顔を想像して俺は足早に歩いていった。

 やがて馴染みのうすい公園脇の通りにさしかかると、一軒の家の玄関前で学生服の女生徒が鍵を出しているのが見えた。電柱の煌々とした蛍光灯が顔を上げたその女生徒を照らした。その子は玄関の鍵を開けて家に入ろうとしているらしかった。

 

 俺は絶対にその子をつけていたわけじゃない。いいか、絶対に絶対だぞ。

 

 とにかく、その瞬間の、その子の驚愕の表情を、俺は一生涯忘れないと思う。

 あまりの衝撃に、持っていたケーキの箱を落としてしまった。なにかの間違いだと思った。俺はいったいどういうふざけた星のもとに生まれてしまったのかとも思った。「違うんだ。これは別に追いかけてきたとかそういうことじゃないんだ」と叫びたかったが、そんなことできなかった。否定すればするほど、余計に怪しく変態的に思えてしまう悲劇、もうどうしようもなかったんだ。本当に、もう、どうしようも、なかったんだ。

 

 それからのことはあまり記憶にない。どうやら脳の防衛本能が数日間の記憶を曖昧にしていたらしい。

 次の日に学校へ行くと隣の席がなぜか男子生徒に替わっており、放課後に担任に呼び出されると「どんなに好きでも怖がらせるほどアタックしてはいけない。大人であればそれは犯罪だよ」と真剣な顔で諭されたことだけははっきり覚えている。

 

 ハハハッ。

 どうだ、笑えるだろ。いや、笑ってくれ。お願いだから笑ってくれ。

 おいっ、そこまで笑うなよ。

 ……とにかくだ。

 

「――これで分かっただろ? 偶然も運命も宿命も俺は信じない。しかし、不運、これだけは確かにある。神に呪われてるとしか思えない、そんな絶望的な不運だけは確かにあるんだ」

 

 比企谷は語り終えると、反抗的な目つきで痛々しく笑った。

 

       ◇

 

 これまでに辿った道を想像すれば、いかにそれが比企谷であろうとも同情を禁じ得ない。

 まさに精神衛生上の茨の道を、彼は魂から血を流し、涙を流し、汗を流し、ほかに何だかよくわからない汁をいっぱい流して、ひいひい言いながら生きてきた。その足跡ともいうべき猜疑心から培われた、悲しすぎる洞察力に関しては私も一目置くところである。ここぞという場面で彼の腐敗した虹彩は、たとえそれが自身にとって不都合な真実であろうとも決して虚飾を許さずに、穿ち、暴き、そして悲しいかな、ますます濁り腐っていくのである。突かんでも良い本質をことごとく狙い澄ましたかのように突いては自己嫌悪に陥るその内罰的な精神は、傍からみていて気の毒になるほどであった。

 今回のケースもおそらく同一の順序をたどったようである。私が同情を禁じ得ないくらいだから、御仏のように寛仁大度な由比ヶ浜さんは、心を痛めて夜毎、枕元に比企谷の生霊を幻視していてもなんら不思議ではない。

 彼女は入学式の日の事故を自身の不手際だと考え、そのせいで比企谷が孤独を甘受せねばならない立場に置かれたと信じているのだ。なんという慈悲であろうか。妹さんと同様に、彼女に決して非はなく、すべては比企谷が生まれもった資質による産物だというのに、純粋無垢な彼女にはそれがわからない。そして由比ヶ浜さんは自身の罪を(あがな)うため、報われることのなかった比企谷を救うため、関われば将来に影を落とすことはほぼ間違いないと知りつつも奉仕部の門を叩いて、今もなお粉骨砕身中なのである。おそらく彼女は、自分がいると部室が錆びた歯車のようにぎすぎすしてしまうだろうと気を遣い、心を痛めながらも今は遠くから見守ろうとしているのであろう。これはもうキリスト的精神である。世界平和である。およそ褒めるべきところがひとつもない比企谷に差し伸べられた無償の愛、私はしかと感じ取った。

 ところが比企谷は、その無償の愛を、まったく穢れなき高潔な愛を、自身にとっての忌むべき同情と受け取ったのである。上述したように、これまでの彼の生き様に思いを馳せれば無理からぬことではあるが、相手は由比ヶ浜さんなのであるから、そこは彼の見識の低劣さが原因と言わねばなるまい。由比ヶ浜さんをその辺の軽佻浮薄な女性と同じ土俵に立たせて物事を考えたことがまず間違いであり、無償の愛を金を出せば買えるような安い同情と捉えたことがさらなる間違いであり、そしてその軽率な浅慮から彼女を傷つけたことが最悪の間違いである。職場見学での諍いは、おそらく同情だと勘違いした比企谷がなにかよからぬことを口走ったことが原因で発生してしまったのだろう。愛で満たされた泉に唾を吐くような冒涜的行為、まったくもって言語道断である。恥を知るがいい。

 ともかく、原因ははっきりした。今回は、否、つねに比企谷が全面的に悪いのだから地面に頭をこすりつけてでもすっぱり謝罪して、きわめつけに贈り物をすれば万事解決だ。

 私は昼ごはんを食べにいつもの場所へ向かいながら、ようやく幕が下りそうなことにほっと安堵した。

 

「よう」

「おう」

 

 校舎裏の階段でむっつりと惣菜パンをかじる比企谷に声をかける。

 私は弁当を開くと、すぐに切り出した。

 

「昨日の話だが、原因がわかっちゃった」

「あっそう」

「スカすなよ。内心びくびくしてるくせに」

 

 比企谷は鼻で笑うと「してねえよ」とつけ加えた。

 

「由比ヶ浜さんのあれは、安い同情とは一線を画す」

「は?」

「そこのところをはき違えるなよ」

「……どういうことだよ」

「おまえの前を通り過ぎてきた女子とは違う、ということだ。彼女は」

 

 比企谷は惣菜パンを二口ほどかじって咀嚼している間、黙って前を見つめていた。

 

「なんでおまえにそんなことがわかるんだよ」

「おまえの眼球はビー玉か? 彼女と接してきたんならわかるだろ」

「……由比ヶ浜は優しい、そんじょそこらの女子よりもな。その由比ヶ浜の同情はほかの女子とは違うかもしれんが、でも、結局それは同情だ。俺は同情なんていらない」

「そこだ」

「あ?」

「おまえは根本的に勘違いをしている。あれは同情じゃない。わからんのか」

「わかんねえよ。じゃあなんだよ」

「隣人愛さ」

 

 比企谷は怪訝な表情をした。私は得意になって続ける。

 

「おまえのような、えもいわれぬ醜悪無比な人間に優しくするなんて、これはもう裏があるぞと思ってしまうのは当然だ。そこは俺も否定しない」

「うるせえよ」

「しかしだな、由比ヶ浜さんは普通ではない。まことに慈愛溢れた人間なんだ。だれかれかまわず際限なく愛を与えることのできるお人なんだ。由比ヶ浜さんが誰かの悪口を言っているのを聞いたことがあるか? 否、断じて否だ」

「キモイとか、超言われてますけど俺」

「……事実だからな。うん、それは甘受しろ。まあ、とにかくだ。彼女はおまえが今まで出会ってきた人間とは違うということを認識しろ。彼女は裏切ったり、あとで嘲笑ったりはしない。そこは安心していい」

「……」

「とはいえ、これだけは肝に銘じろ。あれは隣人愛なんだから、変に勘繰って受け取るなよ。厚意であって好意じゃない、わかる? 自分に気があるとかそんな冒涜的錯乱だけは起すなよ、あり得ないんだから」

「……んだよ、それ」

 

 比企谷はそう呟くと、紙パックジュースを飲み干して気味悪く笑った。

 

「わかったんなら、さっさと謝ってしまえ。どうせ職場見学のときにおまえが愚かな発言したんだろ」

「別にしてねえよ」

「なんて言ったんだ」

「……それは、あれだ。変な気遣って優しくするのはやめろって、それだけだよ」

「ほうら、やっぱり愚かだ。変な気じゃない、無償の愛だ。無償の愛にケチをつけるた、いい度胸だな。悪魔かおまえは」

「しょうがねえだろ、相手が何を思ってるかなんてわかんないんだから。だいたい俺はまだ納得いってねえ。そのなんだ、無償の愛? それじゃないかもしれないだろ」

 

 私は途方に暮れたような目を比企谷に向けた。ここまで諭してもまだわからないとは、さすがの阿呆である。虐待を受けた犬は、その苛酷な環境を離れても易々とは傷ついた心を開いてくれないという。比企谷も同様なのだろう、私はやや憐憫を覚えたが、毅然とした態度で返した。

 

「黙れ阿呆。おまえの納得なんてこの際必要ないんだよ。だいたいなんだ、うじうじしやがって。男のセンチメンタリズムほど汚らしいものはないぞ。とにかく謝って媚びへつらえよ」

「うわぁ、ひどいなおまえ。久々に傷ついたわ」

「おまえのためだ」

「絶対うそだろ……」

 

 比企谷はあまり釈然としていないようであったが、しぶしぶ了承した。誕生日の贈り物を渡すときに非礼を詫びるつもりだということであった。私は優しく笑いかけると、味の染み込んだ椎茸をパンの上にのせてやった。

 それから私はひとしきり由比ヶ浜さんがいかに聖母的女性であるかを滔々(とうとう)と語り聞かせ、今は慈愛によって奉仕部との距離を取っているものの、このまま確執が続けばその慈愛から部を去ってしまう可能性があることを示唆した。時おり容喙(ようかい)する比企谷の顔面にご飯粒を飛ばしながらの熱弁であった。

 やがて昼休みの終わりを告げる鐘の音が響く頃、比企谷は鋭いことを言った。

 

「じつは、おまえが由比ヶ浜に部に残って欲しいだけだろ」

「本質をつくのはよせ」

 

 私がそう返すと比企谷は濁った目をぱちぱちさせて、「だと思ったよ」と苦笑した。

 

 

 

 



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第十二話

       ◇

 

 この一週間、やはり由比ヶ浜さんは一度も奉仕部に顔を出さなかった。そのため部室は、浩然の気が満ちる屋外とは打って変わって、局地的寒波に襲われでもしたかのように寒々としていた。

 由比ヶ浜さんが来ないとわかっている部室に顔を出すのは容易なことではない。私のように繊細微妙な神経を有する者にとっては並々ならぬ精神の力を必要とし、横殴りの吹雪にも似た皮肉や警句に堪えなければならないのだ。できれば出たくない。しかし、私は誠実さにおいては余人の追随を許さぬ男であり、仮とはいえ部員であるのだから、その義務を放棄するような非紳士的なことは断じてしない。それゆえ、心をやすりでがりがりやられるとは分かりつつも、私は部室へ足を伸ばしていた。

 部室のドアを開けると、いつものように雪ノ下さんが端然と座して、読書に耽っていた。

 

「こんにちは」

「ええ、こんにちは」

 

 私は挨拶を済ませると、自席に座った。しばらく虚空を見つめながら茫然としていたが、ふいに雪ノ下さんから声がかかった。

 

「ねえ、昨日のこと覚えているかしら。帰り際のこと」

「はて。なんのこと」

「二人の不和についてよ。どうするのかと訊いたのに、あなた無視したじゃない」

「そんなことはしてない。聞こえなかっただけだ」

「なによ、それ。で、どうするつもりなの?」

「そのことなら心配いらないよ。目処は立ったから、近いうちに由比ヶ浜さんは部に帰ってくるはずだ」

 

 私がそういうと、雪ノ下さんは顎に手を当てて考え込んでいる様子だった。ひどく真剣な顔つきで考えているので邪魔しては悪いと思い、話の途中ではあるようだったが、私は文庫本を取り出して頁をめくりはじめた。

 初夏の香りをまとった風がカーテンをなびかせ、部室を吹き抜けて廊下へと出ていく。雪ノ下さんの膝の上に置かれた文庫本がぱらぱらとめくれた。

 

「ひと通り考えてみたのだけれど、あなたに解決できるような問題ではないと思うの。べつに期待はしていないから、本当のことを言いなさい」

「うん」

「ちょっと、聞いているの? ねえ」

「え? ごめん、なに」

「人の話はきちんと聞くものよ、小学生で習ったでしょう。犬だって一度躾けられたら忘れないというのに、いったいどういうつもり? 分かってはいたけれど、やっぱりあなたは犬以下ね。もしかして単細胞生物?」

「ははは……」

 

 私は卑屈に笑って非を認めた。抗弁はいくらでも湧いて出てきたが、舌戦を繰り広げれば情けない結果に陥るのは目に見えていたので私は低頭した。雪ノ下さんは満足そうに口角を上げると、話を繰り返した。

 

「まだ解決したわけじゃない。でも、解決すると思う。比企谷に謝らせるからね」

「その口ぶりだと、原因はわかったのね」

「まあね。諍いとはいっても由比ヶ浜さんが悪いなんてことがあるはずないし、おのずと答えは出ていたのさ」

「……そう」

 

 雪ノ下さんはどこか曖昧な表情をして私の顔を眺めた。まだ、問題解決の目処が立ったという私の言葉を信じることができていないのかもしれない。それは仕方のないことだ。さすがの私でも雪ノ下さんに向かって、「私を信用したまえ」とは、口が裂けてもいえない。言ったところで信じてもらえるとも思ってはいないが。

 と、そのとき部室のドアががらがらと開かれた。雪ノ下さんは口を開きかけていたが、すぐに結んだ。

 

「うす」

 

 遅れてやってきた比企谷であった。

 

「うす、とはなんだ。こんにちはと言え」

「……こんにちは」

「はい。こんにちは」

 

 比企谷は自席に座ると、「ふう」と息をついて、団扇でぱたぱたとやり始めた。私は雪ノ下さんに向き直って、さきほど言いかけた言葉を待っていたが、すでに下を向いて本をめくっていったので気にしないことにした。

 その後、我々の放課後はつつがなく進行していった。無意味で馬鹿げたやり取りが私を挟んで展開されたり、否応なしに私も巻き込まれたりと、いたって平生な暗澹たる奉仕部であった。夕暮れになり、そろそろ切り上げる頃になると、私はこの無為な時間をひとり嘆いて、由比ヶ浜さんのいち早い復帰を八百万の神々に(こいねが)った。

 

「それでは、また明日」

「ええ、さようなら。あっ――」

 

 雪ノ下さんは返事をすると、また何か言いたそうに短く音を発した。私は先に廊下へ出ていた比企谷の後を追おうと踵を返しかけていた。

 

「なに」

「ええと。いえ、べつになんでもないわ」

「気になるね。なに、言ってよ」

「ごめんなさい、引き止めてしまって。本当になんでもないの」

「いや、さっきも何か言いかけたよね。なんなの」

 

 押し問答となった。

 すると、ドアから比企谷が顔を出して、「早くしろよ。先行くぞ」と急かしつける。雪ノ下さんは奇妙な薄ら笑いを浮かべており、いささか不気味に思った私は、仕方なく続きを次回に延ばすことにして部室を辞した。

 

「なんか妙だな、雪ノ下さん」

「なにが」

「口ごもってたどたどしい。そんなこと滅多にないだろ」

「ほう、珍しいな。平気で人の欠点をあげつらう超フランク女なのに」

「もしかして告白かな、俺に」

「……」

「もしかして愛の告白なのかな、俺に」

「聞こえてるよ阿呆。繰り返すな」

「由比ヶ浜さんのことかな」

「だろうな」

 

 校庭で爽やかな汗を流しながら球蹴りに情熱を燃やす生徒たちの横を、やや縮こまり気味にやり過ごした我々は、下校する生徒たちに混じって校門をくぐった。

 夕日が、前を歩く仲睦まじい男女の影を形作っていた。私はその幸せそうな学生カップルから目を逸らした。隣では、比企谷が眉を寄せて一段と瞳を混濁させている。

 それにしても絶望的に夕日の似合わない我々の惨めさはなんということか。夕日は青春を謳歌する若者に与えられた舞台装置で、我々にとっては暗喩を多分に含んだ斜陽に過ぎないとでもいうのか。だいたい、なぜ私は当たり前のようにこの男と家路を共にしているのか。解せない、まったくすべて解せなかったが、「ひとりで帰る男子生徒にやさしく照る夕日の図」を想像すると、あまりのメランコリックに、あやうく涙をこぼしそうになったので、とりあえず何も問わないことにした。

 

「そういえば週末、材木座も行きたいとかぬかしてたが」

「はっ。あいつがプレゼントを買うの? 女物の? 嘘だろ、さすがに嘘だろ」

 

 それは我々にも同じことが言えるのではないか、と思ったが黙っておいた。

 

「なにか、こう、犯罪的だよな。あいつが女物を物色してる姿は」

「たしかに。まあ、でもべつに来てもいいんじゃないか。一応面識はあるわけだし」

「うむ。だが、今回は丁重にお断りしておこう」

「そうか」

 

 途中、緑むせ返る公園のわきで我々は別れた。私は、「家で茶でも出してくれ」と何気なく言ってみたが、容赦なく断られてしまった。比企谷は愛用の自転車にまたがると、夕日を背に受けながら颯爽と走り去っていった。

 

       ◇

 

 特筆すべきことのない数日が過ぎ、ようやく週末が訪れた。

 贈り物の購入を明日に控えた土曜日、朝早くに目を覚ました私は、気だるい体を引きずるようにして食卓につき朝飯をとった。良い天気だから散歩でもしてきたらと言う母の勧めに気のない返事をして、早々と自室へ引き返した。

 先ほど起き上がった布団の上にもう一度ごろりと体を横たえる。そうして天井を見つめていると様々な考えがシャボン玉のように浮かび上がってきた。

 由比ヶ浜さんが復帰して、以前のような奉仕部に戻ったとしてだ。果たして、薔薇色の高校生活への活路が開けることに相成りうるのであろうか。目的は合致するなどと嘯いてはみたものの、合致したところで私の未来は保証されるのか。なんだかひどく迂遠な手段を講じているような気がしてならない。彼女が戻ってきて、再び僅かばかりの活気が満ちたからといって、私の社交性が育まれるとは、とうてい思えなかった。なぜならば、数ヶ月間の奉仕部活動を通じて、ざっくばらんな社交性が育まれたという事実は微塵もなく、むしろ高貴であった魂のとめどない汚染ばかりが進んだような気がしてならないからである。もしかすると、奉仕部などに参加せず孤高を貫いていれば、哀れに思った優美な乙女の慈悲を享受できたのではないだろうか。さすがにそれは変態的妄想かもしれないが、今よりはもっと別の未来があったことは確かである。ここは、いま一度自分に深く問いただし、己の進路を策定するべき時期に来ているのやもしれぬ。

 そうだ。

 私は(まなじり)を決して起き上がると、ルーズリーフを一枚破って机に向かった。

 白紙の一番上に、でかでかと「未来予想図」と書きなぐる。うんうん呻吟しながら、まずは、入学してから今までの経緯を簡潔に記してみると、その驚くべき簡潔さに我ながら呆れ果ててしまった。おまえは今まで何をしてきたのだと、不毛な日々に罪深さを感じた私は頭を抱えた。出だしから躓いてしまったが、ともかく気を取り直して、将来的に晴れの舞台で満場の喝采を浴びる人間になるまでの過程を、箇条書きにしてみることにした。しかし、左側に黒点を打ってはみたが、続く罫線上には遅々として筆が進まない。かろうじてひねり出した最初の過程が、『柔軟な社交性を身につける』ことであった。

 阿呆か。

 その柔軟な社交性を身につけるために、汲々(きゅうきゅう)と過ごした無為の数ヶ月間を鑑みれば、それを第一項に定めるなど、極めつけの阿呆としか言いようがないではないか。駄目だ駄目だ。まずは、その道のズブの素人にも易しい、初歩的な段階を設けなければならない。そこで私は、『クラスメイトに声をかけ友人を作る』と標榜してみた。これはなかなか妥当な案に思われた。ほとんど忘れていた平塚先生の憂慮する、私の更生にもぴったりと当てはまる。友人が一人できば、その友人が友人を呼び、芋づる式に幅広い交友関係が築かれるであろう。そうなれば社交性なんてものは、待っていても向こうからやってくるにちがいない。

 しかし、私はどうにも気がすすまなかった。

「自分は選ばれた人間である」という昨今の若者にありがちな、鼻持ちならぬプライドを少なからず私も持っているわけだが、そんな「選ばれた人間」が、女王に(かしず)く迎合的集合体や、携帯ゲームに忙しい連中、なにやら意味不明な単語を呟きながら二次元を崇める少数派や、流行に敏感なお洒落馬鹿たちなどといった、有象無象と同等の位置に、自分を停滞させるのはいかがなものか、という選民思想が頭をもたげるのである。選ばれし者は、下々の民がうつつをぬかすような些事になど意を介してはいられない。私は、国家と己の将来を分け隔てなく憂えながら日々を送り、ひたすら思索に耽って魂を練る孤高の哲人である。そんな哲人がクラスメイトなどに構っている余裕はないのだ。やはり、これは却下である。

 ここで諸君はひとつ疑問に思うかもしれない。すなわち、ではおまえが「選ばれている」と信じ込んでいる根拠はどこにあるのだ、ということである。笑止。そんなもの、私の方が教えて欲しいぐらいである。しかし、どこか誰もが目をそむけたくなるような不気味な暗がりに、神器のごとく丁重に奉られて眠っていると私は信じている。

 以上のようなことを考えていると半ば恍惚としてきた私は、ありのままの自分になにか得体の知れない自信がふつふつと湧いてきて、次第に己の進路という漠然とした事柄がどうでもよくなってきた。ふと気がつくと、未来予想図の下に映画スターウォーズに登場した「ミレニアム・ファルコン」の絵を描いており、やがてこれに夢中になって、周囲の宇宙空間に、帝国軍の戦闘機「TIEファイター」をぐりぐりと描き込んだ。

 およそ1時間ほどその作業に打ち込んでから、「ふう」と息をつき、ひと仕事終えた満足感に浸っていた私は、もはや当初の目的を完全に忘れていた。ふいに未来予想図という文句が目に飛び込んできて、一瞬、恥じ入りかけたが、やはりどうでもよいと開き直った。第一、私が信じなくて誰が私を信じるというのだ。だいたい私のような未来ある若者が、将来的な不安に怯える必要などまったくないのである。どおんと構えていれば良いのだ、どおんと。

 うまく出来上がった落書きを目の前でぴらぴらさせて眺めていると、布団に投げ出してあった携帯電話が、突如、鳴り始めた。私は悪事を見咎められた子どものようにびくっと体を震わせると、携帯電話を検めた。ディスプレイには材木座と表示されている。私は、「驚かせやがって!」とディスプレイを叱り飛ばすと、そのまま放置して机に戻った。しばらくして今度は、「ライトセーバーを掲げるマスター・ヨーダ」の絵を描いていると、再び携帯電話が鳴った。私は舌打ちして無視をきめこみ描き続けていると、一旦は鳴り止んだ携帯電話が、間をおいてすぐにまた鳴り始めた。それが数回繰り返されると、いい加減頭にきた私は電話に出ると、「なんだ!」と叫んだ。

 

「我だ」

「わかってるよそんなこと。俺は今忙しいんだ。用件を言え」

「何をしているというのだ」

「お勉強だ」

「はんっ! 嘘はよくないぞお主っ」

 

 私は電話を切った。

 すぐに着信があった。私はため息をつくと通話ボタンを押した。

 

「すいません、ごめんなさい。余計なことは言わないので切らないでください」

「用は」

「ほかでもない。明日の出陣のことである」

「え」

「当方、準備は万全である。さあ、時刻と戦場を言うがいいっ!」

「あ」

 

 私は丁重なお断りの連絡を入れ忘れていたことにはたと気がついた。どうすべきか、適当に誤魔化すべきか。

 

「ええとだな。その事なんだが」

「言っておくが、もし中止だの延期だのであればその真偽を確かめるために、早朝から貴様の家の前で張ることも辞さないぞ、我」

「通報するぞ」

「構わぬっ」

 

 私は諦めた。こうなれば材木座をとめることは不可能に近い。集合場所の時間と場所を伝えると、それすらも疑い始めたので、あとで雪ノ下さんから送られてきたメールを転送するということで、ようやく材木座は納得した。

 

「では明日、戦場で相見えようぞっ! さらばだっ!」

 

 私は電話を切ると窓際に立ち、道路を楽しげに走り回る子どもたちを穏やかな目で見つめた。それから視線を遥かかなたに移して、縹渺(ひょうびょう)とした雲の下に広がる海原を眺めた。そうやって、しばし現実逃避してみたが、明日材木座が来てしまうという現実は揺るぎないものに変わりなかった。対面時の比企谷と雪ノ下さんの顔が想像できる。まずは材木座に対し不可解な表情を投げかけ、流れるようにして、次は私へ責め苛むような表情をぶつけてくることだろう。私は自分の迂闊さを呪った。

 

 午後になると部屋が蒸し暑くなってきた。暑くなると苛々してきて、図々しい材木座に対し怒りが湧いてくる。私はシャツを脱ぎ捨て上半身裸になった。机の上の落書きを眺めてみたり、『久生十蘭全集』をぱらぱらめくってみたりした。

 気分転換のために、聞き知った暗黒遍歴に対する私なりの論理的な寸評をメールに打ち込んで、比企谷に送ってやろうかと考えた。きっと悶絶して向こう数日間は寝込むハメになるだろう。面白そうだ。

 しかし、初夏の蒸し暑い部屋の中において、頭に浮かびゆく由無し言が比企谷の過去ばかりとなると、部屋がいっそう蒸し暑くなったように感じ、汗がだらだら流れ、しまいには頭が朦朧としてきた。すぐに中止すると、私はふらふらと台所へ向かい一杯の麦茶を流し込んだ。どうやら脱水症状になりかけていたらしい。あやうく、水分も摂らずに比企谷へのメールに熱中していたため病院に担ぎ込まれる、というたっぷり四半世紀は自分を許せぬハメになるところであった。私は、かろうじて防いだ汚名に戦慄してから、ついでに持ってきた酢昆布をぺちゃぺちゃねぶった。

 まだ6月で初夏だというのに、ここまで暑いと先が思いやられる。エアコンは故障していて、来週末に業者が直しに来る予定であった。そのゆえ、猥褻物陳列罪で訴えられても文句が言えない規模まで窓は開け放たれているが、それでも暑い。もう少し涼しければ厳粛な思索に没頭していただろう。私は、暑さのため奪われた体力を回復しようと、軽い気持ちで布団に体を横たえた。そのうち、いつの間にかぐうぐうと眠っていた。

 ハッと目覚めると、すでに日は大きく傾いて、私の休日は不毛に終わろうとしていた。携帯電話がやかましく鳴り響いており、これのせいで目覚めたらしかった。

 私は寝起きのぼんやりとした頭で、どうせ材木座が埒もないことで電波を浪費しやがったなと考え、不機嫌に電話をとった。

 

「なんだ!」

「も、もしもし」

「え」

 

 私は耳を疑った。驚くべきことに相手は女性であった。

 

       ◇

 

「あの、由比ヶ浜ですけど」

「え」

「あれれっ、もしかして間違ってますか?」

「いえ、合っています。大丈夫です」

 

 私は布団から飛び起きると、居住まいを正した。我が携帯電話から女性の声が発せられるという未曾有の異常事態に、心臓が跳び出さんばかりにバクバクと鼓動していた。

 

「よかったあ。それで、少しなんだけど、今、時間大丈夫?」

「もちろんでございます」

「あはは、なにその喋り方っ」

「えっ。あ、はい」

「ふふふっ、電話だといつもと違って聞こえるね、声」

「そうですね」

 

 かつてない事態に、私の脳内は上を下への大混乱状態である。耳元で女性の声が響くというのは、これほどまでに理性を使い物にならなくさせるのか。私はとにもかくにも落ち着くために、携帯電話を耳元から30センチほど離して、迅速に深呼吸を繰り返した。

 

「どうしたの? 聞こえてる?」

「はいはいっ、問題ありません」

 

 由比ヶ浜さんは、なにやら私にはぴんと来ないような世間話を間断なく喋り始めた。興味をそそる要素はまったくなかったが、さも可笑しそうに相槌を打っていると、次第に私は平静を取り戻していった。

 熱を帯びていた脳みそが冷却され通常の思考能力が回復されると、いったい由比ヶ浜さんは、こんな普通の会話をするために私へ電話をかけてきたのか、という疑問が相槌を打つたびに去来した。これではまるで親しい友人か恋人のようではないか。じつは、私の知らぬ間に我々の関係は急激に接近していて、こんな巷間話を羞恥のカケラもなく交わせるような親密なお付き合いが出来上がっていたのかもしれない。知人の垣根すら越えていなかった段階から、諸々の悲喜交々的ポイントを一挙に飛び越えて、そういう親密なお付き合いをしていると考えても、私ほどの男であればちっとも違和感を覚えない。

 そんなワケあるか。むしろ強烈な違和感しか覚えない。

 一見、無駄話としか思えないこの会話の背後には、由比ヶ浜さんの深遠な思惑が隠れているのだろう。まことに遺憾だが、わざわざ私に電話をかけてくる理由がほかに見当たらない。したがって、私はその背後に隠れた思惑を必ず読み取らねばならない。そういう風に考えて、私は耳をそばだてた。

 すると由比ヶ浜さんはふいに声を落として、それまでの能弁が嘘だったかのように、訥々とした口調で話し始めた。それは、由比ヶ浜さんが先ほどまで訪れていたという「東京わんにゃんショー」に関する話をしている時であった。

 

「あっ。そ、そういえばね。今日、そこで、あの……」

「そこで」

「う、うん。そこでね……ヒッキーとゆきのん、見たの」

「比企谷と誰?」

「ゆきのん。あははっ……見たっていうか、ちょっと話したんだけどね」

「えっ、え、え。もしかして二人は一緒に」

「……うん」

 

 私は驚きに目をみはった。

 

「でね、なにか知ってるかなあ、と思って」

「なにか、とは」

「その……だからね、二人が、もしかしてって。あはは……」

「はっ? それは二人がお付き合いをしているかってこと?」

「やややっ、そ、そんなんじゃっ……ううん、そうかな。どうなんだろって思って」

「ありえん! 断じてありえん!」

 

 私は反射的に叫んだ。

 電波の向こうで由比ヶ浜さんが小さな悲鳴を上げた。

 

「わっ、すごいおっきな声だ」

「す、すいません。僕としたことが、やや興奮してしまいました」

「ううん、大丈夫」

「とにかく、それはありえないよ。だって比企谷だぜ」

「そお、なのかなあ……」

「え。由比ヶ浜さんは二人が交際していると思うの?」

「……だって、休みの日に二人で出掛けたら、そうなのかなって」

 

 さすがにそれは低次元な決めつけ方だと思い、そう口走りかけたが、私はぐっと堪えて、「たまたま一緒になったのでは」ともっともらしいことを言っておいた。

 

「じゃあ、そういう話は聞いてないんだ?」

「うん。なにしろあり得ないからね」

「うん……どうなんだろ……」

 

 由比ヶ浜さんは私の断言にも釈然としていない様子である。私としては、「比企谷だぜ」という圧倒的説得力をもつ一言さえあれば十分にも思えるのだが、彼女に対してはその効果をいかんなく発揮することはないようであった。

 それにしても由比ヶ浜さんは、なぜこんな瑣末なことにこだわるのであろうか。たしかに「東京わんにゃんショー」などという、およそ比企谷からは連想しがたいイベントに彼が参加していて、なおかつ雪ノ下さんと共に行動しているという事実は、ある程度の驚愕とこれまたある程度の怒りは湧いてくるものの、はっきり言ってどうでもいいことである。仮に百歩譲って、比企谷と雪ノ下さんがねんごろであるという複雑怪奇な縁の結び方があるものなら、古今東西には阿呆な神様もいるものだなと、そのおいたを呆れて笑うくらいが、せいぜい関の山といったところであろう。私はむろんのこと、由比ヶ浜さんともあろうお方が拘泥するような事案ではないはずだ。にもかかわらず、なにゆえ由比ヶ浜さんはそんなに不安げな口調で言葉を紡いでいるのか。精神的無頼漢である私には、そこのところの機微がよくつかめなかった。

 しかし私の鋭敏な耳鼻は、にわかに「青春のかほり」を聞き嗅ぎ取った。それは、由比ヶ浜さんの声が職場見学の日のそれと同じ性質を帯びていたからであり、同じくその日の諍いに、私がある種の青春を見出したからであり、先日、雪ノ下さんが歪曲して伝えた「すれ違い」という単語がふいに念頭にのぼったからであった。これらの諸要因から「青春のかほり」が導き出されたわけだが、この方程式が意味する真実の中には、なにか想像を絶する大珍事が身をひそめているような、そんな気配がぷんぷんに漂っていた。私にはそれがパンドラの箱にも思われた。今はただ、その気配が漂っているだけで、中をあけて確認しなければ、依然、その正体は判然としない。しかし、もう少し考えてみればあるいは――。

 

「――でね、……って聞いてる?」

「え! あ、ごめん。なんです?」

「あのね。そのときにさ、話があるから来週部室に来てって言われたんだけど」

「それは……」

「なに?」

「いや、なんでもない」

 

 私は慌てて誤魔化すと、「勘違いです」と言い添えた。

 あやうく口走るところであった。おそらくそれは、明日購入する誕生日の贈り物を渡すために呼んだのであろう。彼らが何も詳細を伝えなかったということは、驚かそうと画策しているのかもしれない。ここで打ち明けてしまっては私の立つ瀬がなくなる。

 

「よく分からないけど、ぜひ来てよ。最近、来てなかったし」

「う、うん……。ごめんね、何も言わずにずっと休んでて」

「いいっていいって。すべてあの阿呆が悪いんだから」

「えっ。アホってヒッキーのこと?」

「うん。あらゆる原因はすべてあいつに――」

「あっ、ちょっと待って。ママが呼んでる」

 

 そう言うと、由比ヶ浜さんはなにやら大きな声で、彼女の御母堂と思われる人物と会話し始めた。しばらくの間、電波の向こう側では、由比ヶ浜家の生活感あふれるやり取りが繰り広げられた。

 

「ごめんねっ、もうご飯の時間だって。ママがうるさいから」

「そうですか。それでは、また来週。必ず寄ってください」

「あはは……あんまり行きたくないけど、うん、行くよ」

「お願いします。皆、待っていますから。もちろん僕も」

「うん。長々と付き合ってくれてありがとね。じゃ、また。バイバイ」

「さよなら」

 

 私は電話を切ると、長いため息をついた。顔が自然とにやけてくる。

 由比ヶ浜さんとお電話してしまった。相手の表情が見えないのを良い事に、健全な男女交際を育んでいる間柄にありそうな、なんともこそばゆい会話をしてしまった。なんということだ。なんということだ、これは!

 携帯電話を丁寧に机の上に置くと、私は先ほどの会話を思い返した。取り乱してしまった最初のやり取りを除けば、概ね紳士的に会話のイニシアティブをとっていたのではなかろうか。ほとんど由比ヶ浜さんが話題を提供していた、そもそも途中までの世間話は最後の由比ヶ浜さんの危惧を解消するための前置きに過ぎないのでないか、という多数の異論はひとまず却下しておこう。気が向いたら考える。

 彼女はお洒落が好きだという。クラスの友人と放課後、ウィンドウショッピングをするのが楽しいという。初めてのクッキー作り以来、あまり上達しないが家でもお菓子作りに励んでいるという。また今度お菓子を作って持っていくねという、この私に!

 電話が切られる間際の、「バイバイ」という愛想のこもった言葉を反芻すると、鼻血が吹き出そうになった。私は机の上から再び携帯電話をとると、胸に抱いてため息をついた。我ながら気色の悪い所業であり、そのあまりの気色の悪さが私を現実に引き戻してくれた。

 とにもかくにも本当に甘美な時間であった。

 私は由比ヶ浜さんの顔を想像して、明日の贈り物購入のために全力を尽くすことを誓った。そうして鼻歌交じりで夕飯の用意された食卓へと向かった。

 

 愚かだったといえば、それまでである。

 由比ヶ浜さんと電波で繋がった後の余韻に陶酔していた私は、電話の最中に嗅ぎ取った「青春のかほり」と、そこから導き出されたパンドラの箱についてなど、まったく意に介していなかった。しかし、このときに分析に分析を重ね、検討に次ぐ検討を行い、その恐るべき正体を見極めたとしても、おそらく、万事はすでに私の手の届くところにはなかったであろうし、いまさら、どっちが良かったとも決めかねる。

 ともかく、後になって思い返すのだ。あのときの電話はこそばゆいものなどでは断じてなく、浮かれていた私は正真正銘の阿呆だったということに。

 

 



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第十三話

       ◇

 

 集合場所に立ったとき、あたりは休日の喧噪に包まれていた。

 空には雲が点在しているものの、梅雨真っ只中の時期にしては気持ちの良い晴天である。

 私は時計を検めた。定刻の一時間前であった。少々はやく到着しすぎたようだ。ひとつ断っておくと、この日を待ちわびていたために心弾ませて早く来た、ということではない。私の持つ生粋の律儀さが、何らかの不可抗力によって時間に間に合わなくなる事態を避けようとしただけのことである。つまり紳士ということになる。誤解なさらぬよう願いたい。

 私は植え込みの縁に腰掛けると何気なく周囲に視線を漂わせた。

 駅を出た人々は、猫も杓子も目の前の複合型商業施設へとなだれ込んでいく。そんな蟻の熊野詣もかくやと言うべき人々の潮流の中に、私は見知った顔を発見した。普段と趣を異にした髪型と服装をしていたので、瞬時には誰だかわからなかったが、よくみればそれは雪ノ下さんであった。

 私はしきりに時計を確認する雪ノ下さんをじっと観察していたが、じきに飽きて本を取り出し読み始めた。数頁ほど繰ると、開いた本にさっと影がさした。顔を上げると、雪ノ下さんが立っていた。

 

「おはよう。早いわね」

 

 私は眩しい日差しに顔をしかめて挨拶を返した。

 

「雪ノ下さんこそ早いね」

「ええ。集合時間の前に来るのは当然でしょう?」

「うん、その通りだけど」

 

 まだ一時間前である。彼女は超然とした顔ですましているが、浮き立っている心の有り様が如実に透けて見えた。いくら冷静さを気取っていても、雪ノ下さんはまだまだ子どもなのだ。そう思うと、私はなんだか微笑ましくなった。

 

「どうしてにやにやしているのよ。ものすごく不愉快だからやめなさい。訴えるわよ」

「ひどい言い草だね。俺はただ、雪ノ下さんが嬉しそうに――」

「黙りなさい、変態」

 

 雪ノ下さんは言下にそう吐き捨てた。

 私は慌てて笑みを引っ込めた。それから、入念に辺りを窺った。そして、ふっと息をつく。よかった、誰にも見られていない。見目麗しゅう年頃の女子高生に「変態」と罵られて笑みを浮かべているようでは、それこそ本物の変態である。はたから見れば異常なやり取りが、休日の賑わいに没したようで本当によかった。

 それにしても雪ノ下さんは失礼である。だいたい私の笑みは公序良俗に反するとでもいうのだろうか。かりにそのようなことがまかり通れば、私は微笑むごとに官憲のお世話になってしまうではないか。まるで隠れキリシタンや隠れ念仏だ。どうしても感情を表したいときは、お上の沙汰を怖れて夜な夜な密かに微笑まなくてはならない。これはもう弾圧である。隠れスマイルである。抵抗して絶対に自由を勝ち取らねばなるまい。

 そんなふうに慷慨(こうがい)運動の火種をくすぶらせていると、ふいに雪ノ下さんがよろめいた。

 

「どうしたの。大丈夫?」

 

 私は怒りを忘れて問いかける。

 

「問題ないわ。暑くて頭がぼおっとしただけ」

「あ、そう」

 

 たしかに今日は暑い。汗をかくところをあまり見かけない雪ノ下さんだが、今は白磁のような肌に汗が滴っている。

 私は少し考えてから言った。

 

「まだ時間あるし、そこの喫茶店で涼を取るというのは、どう」

「……あなたと?」

「ほかに誰がいる」

「まあ、そうね、いいでしょう。仕方ないものね、暑いのだから」

 

 雪ノ下さんは片眉を吊り上げて私を見ると、自分を納得させる理由を用意してから頷いた。私はいささか自尊心を傷つけられたが、内心でいくら怒ってみてもむやみに暑くなるだけなので、陰気な薄ら笑いでなんとか受け流した。

 

「アイスティーをください」

「私も同じものを」

 

 休日ということもあって、薄暗い照明の店内には、結構な人が座っていた。我々も窓際に空いた席を見つけると、汗を拭って腰を落ち着けた。エアコンの風が心地いい。運ばれてきた紅茶はよく冷えていた。

 私はのどを潤すと、鞄から文庫本を取り出して読み始めた。わざわざ補足するまでもないことだが、向かいに座る雪ノ下さんは私より先に本を開いていた。

 奉仕部へ通いたての雪ノ下さんを意識していたあの頃であれば、こうはいってなかった。休日の喫茶店という恋人たちの舞台に、美しい女生徒と二人きり。おそらく私はどう対処していいかわからず、しどろもどろに無意味で不毛なお喋りを繰り広げていたことであろう。あるいは、会話の糸口すら見つけられず、茫漠とした無言の時間にか弱い胃腸を傷つけられていたこと請け合いだ。しかし、雪ノ下さんという人間を知った今は違う。こうして本を読みながら静かにしているのが最善であると、私は知っている。心の静謐は何にも代えがたい。君子危うきに近寄らず、である。

 我々はしばらくのあいだ、黙然と活字を目で追っていた。

 隣に置いていた鞄から、電話の着信を告げる電子音が響いた。私はおもむろに携帯電話を取り出すと、画面に材木座の表示を見出した。何も見なかったことにして、再び本に目を移す。すると、間をおかずに今度はメールの着信があった。「我、到着す。お主はまだか? 至急返信求む」と書いてある。私は、「まだ着いていない。集合時間には間に合う」とだけ書いて返信した。このあたりが我々の友情の限界であろう。

 

「もしかして比企谷くんから? 今日のことで何かあったの?」

 

 雪ノ下さんはテーブルに本を置いて、まっすぐ私を見つめていた。

 

「いや、ちがう」

「そう。電話も鳴っていたみたいだけれど」

「え? ああ、多分間違い電話だと思う」

「出ないでどうしてわかるの? それにメールもしていたわよね」

「ええと、それは」

 

 ふと、私は材木座の参加について知らせていないことに思い当たった。まさか気づかれたかと疑ったが、いまさらである。数十分後にはご対面だ。隠す必要もない。

 

「あなたがメールのやりとりをする相手なんて極々限られているでしょう。いえ、ひとりだけよね。それに内容は事務的なものではないかしら。であれば、比企谷くんと今日のことで何かあったのかとしか考えられないわ」

「材木座です。今日、来るみたいです」

 

 あまりに失礼な憶測を一挙に言ってのける雪ノ下さんに対し、私は正直にそう告げた。

 雪ノ下さんは面食らったのかぽかんと口を開いていた。そうしてすぐさま咎めるように目を細めた。

 

「あいつも由比ヶ浜さんにはお世話になっているし、別にいいじゃん。ちょっと、そんな目で見ないでよ。俺だって好きで呼んだわけじゃない。あいつが強引に――ともかく、お願いだからそんな目で見ないで」

 

 非難を映して苛烈に光る雪ノ下さんの双眸に、私は小動物のように縮こまってしまった。これ以上言い訳を並べるのは得策ではない。機関銃のごとき罵詈を受ける前に、素直に謝ったほうがよさそうである。

 私が謝罪すると、雪ノ下さんは眉間に寄った深い皺を緩めた。

 

「別に謝る必要はないわ。私はただ、事前に報告もできないあなたの幼稚な社会感覚に、心底あきれ返っていただけだから」

 

 返す言葉もない。私は神妙に俯いて、彼女が満足いくまで罵倒されるのを覚悟した。ところが、雪ノ下さんはそれ以上何も言わなかった。

 はてな。気分でもすぐれないのだろうか。訝った私が顔を上げると、雪ノ下さんはなにやら複雑な面持ちをして、こちらをじっと見つめていた。私の見間違いでなければ、やや頬が染まっているようにも見える。不気味なことこの上なかった。よもやあれは、私をもみくちゃにするような罵詈雑言では飽き足らず、粉々に粉砕して利根川に遊泳する魚の餌にしようと画策している顔ではあるまいか。このままではいけない。彼女のほとぼりが冷めるまで戦略的に撤退するべきである。

 そう思って、私がお手洗いを申し出ようとしたときである。

 

「それはもういいわ……それで、あの。少し、訊きたいことがあるのだけれど……」

「え」

 

 雪ノ下さんは、それまでの饒舌が嘘のように途端に口ごもった。視線も私の顔から、アイスティーに浮かぶ氷に変わっている。おや、と私は思った。なぜかしらないが、立ち込めていた暗雲が取り払われているようだ。

 

「ええとね、その……」

「うん」

「奉仕部のことなのだけれど……」

「うん、なに」

 

 雪ノ下さんはちらっと私に視線を投げかけて、再び俯く。普段から容赦のない言辞を弄すること田中角栄のごとき彼女が訥々と話すさまは新鮮であり、私はしらぬ間に形勢が逆転していることをほくそ笑んでいた。

 私は得意になって、ちょっとため息をついてみたりした。

 

「はあ、ったく要領を得ないな。だからなに」

 

 雪ノ下さんはキッと私を睨みつけた。それは手負いの獣を思わせる眼光で、私は、「あ、いや、ゆっくりでかまわないです」と情けない声をあげた。

 

「あのふたりの仲違いの原因について知りたいのよ。先日、あなたは由比ヶ浜さんが帰ってくると言ったわよね? それならそれでいいのだけれど、やっぱり奉仕部員として原因は知っているべきだと思うの。もし本当に解決したらあなたを労う必要があるわけだし……、それに私はこの件については何の役にも立っていないから……」

「ふぅん」

 

 なるほど。彼女は引け目を感じていると、そういう訳のようだ。おそらく、先日に部室で口ごもって話さなかった内容はこれと同じなのだろう。部長として部をまとめる立場にありながら、迂闊にも部内の軋轢を看過してしまった。そして、あまつさえその解決に何の助力も担えなかった己を不甲斐なく感じているのかもしれない。

 傲岸不遜で高飛車、冷酷無情のお嬢様である雪ノ下さんに、こんな心の機微が存在したとは驚きである。私は素直に感心した。

 

「雪ノ下さんも人の子なんだなあ」

「……なによ、その反応は。い、いいから、早く教えなさい」

 

 私は咳払いをすると、端的に言った。

 

「比企谷が悪い。この一言に尽きる」

「どういうことかしら」

「話せば長くなる。が、これは比企谷の生き方の問題なんだ。天の邪鬼で、斜に構えればカッコいいとか思っちゃっているあいつが原因そのものというわけだ。だけどね、雪ノ下さん。あいつを責めないでやってくれ。本当に、それはもう本当にかあいそうなやつなんだから」

 

 私は話していて、思わず落涙しそうになった。中学の頃の彼の話は、誰しも涙なしにはとうてい拝聴などできやしない。ちなみに私は笑い転げた。

 

「だからね、雪ノ下さんが気に病む必要はないぜ。由比ヶ浜さんが優しすぎて、そしてやつがひねくれすぎているだけなの。これから誕生日プレゼントを買って、明日渡してきちんと謝れば、それでおしまいだと思う。由比ヶ浜さんは優しいからね」

 

 二人の不和のきっかけとなった交通事故に言及するのは控えておくことにした。話すのが面倒だったし、きっかけはきっかけでそれ以上でも以下でもないと思ったからだ。あくまでも人間関係をこじらせるのは本人たちの性分である。交通事故なんぞ、ほとんど関係がないといえる。

 

「……そう。なんだかよくわからないけれど、比企谷くんが原因と言われれば納得できる気はするわね」

 

 私は大きく頷いた。そして、日ごろ思うところを述べてみた。

 

「うん。あのぬめっとして澱んだ淵みたいな目を見れば、考えなくてもわかるね。俺だって、この数ヶ月で明らかにスポイルされてるんだ。それでも、仲違いせずやってこれたのは、俺の深甚なる気配りにほかならない」

「……えっと、それは笑うところかしら」

「ん?」

「あなたはもとから台無しじゃない。以前はまともだったみたいな言い方はよしてくれる。癇に障るわ。それに気配りなんてしているところを見たことがないのだけれど。あなたみたいな無神経で不器用な人間は、世界広しといえどふたりと存在しないでしょう。嘘を吐くのはやめなさい、閻魔様に舌を抜かれるわよ」 

 

 私は呆気にとられた。なんという様変わりだ。先ほどまでの控えめな態度はなんだったのか。おそるべし、雪ノ下雪乃。とはいえ、さすがにこうまで言われて黙っていては男が廃る。私は低く呟いた。

 

「……舌を抜くのは地獄の鬼であって閻魔様じゃない。そして俺は地獄へはいかない。なぜなら日々徳を積んでいるからだ。だいたい雪ノ下さんこそ――」

 

 話すうちつい熱くなって日ごろの鬱憤を晴らそうと躍起になりかけたが、雪ノ下さんの端整な顔に青筋が入りかけているのを認めるに及んで、私は冷や水を浴びせ掛けられたように意気消沈した。

 雪ノ下さんは、「私がなあに?」とやさしげな猫なで声で問うている。私は戦慄した。これは危ない、と直感が叫んでいる。

 

「いやいや、なんでもないんです。徳を積むことにかけては誰よりも雪ノ下さんが、お得意ですからね、ヘヘッ……。とにかく、とにかくだ。部長として心配する気持ちもわかるけど、雪ノ下さんは部長らしくどおんと構えていればいいよ。明日にはもとの奉仕部に戻っているはずだから。いつものように由比ヶ浜さんを迎えて、それで盛大に祝ってあげよう。そうだ、そうしよう」

 

 いかにも無理がある締めくくり方であったが、雪ノ下さんはしばし顎に手を添えて考え込んだのち、ありがたいことに目じりを下げて、「そうね」と笑った。私はほっと嘆息した。

 雪ノ下さんの機嫌も直り、危惧も解消させたところで、我々は何気なく見つめあっていたが、どちらともなく再び本を取り出した。

 

 しばらく読書の時間が続く。カランとアイスティーの氷が小気味よく鳴った。

 活字を追うのに疲れた私は、ふうと息をついて窓硝子の向こうを走っている車を眺め始めた。ふいに楽しかった昨夕の通話が脳裏に蘇ってくる。そういえば、と私は思った。そうしてほとんど無意識に口を開いた。

 

「そういえばさ、比企谷とふたりで出かけてたらしいね。犬だか猫だか動物を見に」

 

 アイスティーを飲んでいた雪ノ下さんは、むせてあからさまに動揺していた。落ち着くと目を見開いて言った。

 

「たまたま会っただけよ。それよりどうしてあなたが知っているの」

「由比ヶ浜さんに聞いた」

「……なるほど。そういうこと」

「あのさ。まさかとは思うけど、比企谷と交際しているなんてことは――」

 

 にわかに雪ノ下さんはおそろしく冷たい目をした。私はうろたえて、「あるわけないよね」とお茶をにごす。

 

「いくらなんでも侮辱が過ぎるわよ。もしかして宣戦布告なのかしら」

「滅相もないです」

「まったく」

 

 雪ノ下さんは糸のように目を細めて眼力を漲らせていた。一旦は終息した修羅場が再度もちあがりかけ、私は焦った。すぐさま心ない言葉を詫びる。雪ノ下さんは、「本当に阿呆ね」と嘲ってから、意外そうに言った。

 

「あなたでも、そういうこと、気になるのね」

 

 気になっていたのは私ではないのだが、誰がとは言えないので黙っていた。

 私は由比ヶ浜さんの杞憂を思った。そもそも、なぜ由比ヶ浜さんは比企谷と雪ノ下さんが交際しているなどと考えたのだろうか。休日に二人で会っていたからといって交際しているとは、やや短絡的である。だいいち、交際していたからといって、どうということもないではないか。それとも、どうということがあるのだろうか。あるとすればなんだ。だめだ、検討もつかないし、なんだか混乱してきた。考えるのがじつに面倒である。

 時計に目をやると集合時間が迫っていた。私は思考を中断して、立ち上がる。

 

「そろそろ時間だ。行こう」

 

 伝票を取って会計に向かうと、雪ノ下さんは私を引き止めて、「いくらかしら」と尋ねた。私は男らしく、「奢るよ」と格好つけたが、にべもなく一蹴されてしまった。

 

「あなたに奢ってもらう理由がないわ、結構よ」

 

 小柄で可愛らしいウェイトレスの前で恥をかかされたかたちの私は、「んふっ」という我ながら気が滅入るような汚らしい声を漏らして、颯爽と店を出て行く雪ノ下さんの後を追った。

 憩うために入った喫茶店で、なんだか機嫌取りばかりしていたように思い、私はドッと疲れていた。

 




誤字、脱字の訂正をしてくださった方に、この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。非常に助かりました、どうもありがとうございます。
今後、このような不手際がないよう校正に励みます。


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第十四話

 奉仕部に所属するようになって、私が社会に資するような人間へと成長したか問われれば、以前も明示したように、残念ながら残念でしたというほかない。私の手記をここまで読まれた諸君なら涙を流して全面的に肯定してくれることではあるが、それは限りある放課後の時間を奉仕部に割いていることが原因であろう。社会的に有用な人間になるために仮入部しているはずが、より社会から逸脱していく傾向にあるのはまったくもって本末転倒である。この数ヶ月に損なわれた私の将来性は、その原因を七割ほど奉仕部が負っているといえる。では、残りの三割はどこに責任を追及できるのか。むろん、材木座である。

 ずさん極まる材木座の小説を読んで以来、我々はともに満腔の力をこめて青春を空費してきた。こんな青春の落伍者と(くつわ)を並べていては深みにはまるばかりであり、一刻も早く袂を分かつべきだと自覚はしていた。しかし、溢れ出んばかりのカースト的ルサンチマンを共有するには絶好の相手であり、ずるずると関係が続いたのち、冷静になって考えたときにはすでに手遅れ。私は自分も立派な青春の落伍者であったことを苦渋の思いで悟ったのだった。要するに、平たく言えば、我々は同類ということになる。

 しかし私は納得がいかなかった。

 奉仕部に関しては、平塚先生の顔も立てて仕方ないと割り切ることもできるが、こと材木座に限っては、腕力に訴えてでも絶交すべきなのだ。彼から受けた損害は計り知れない。挙げればきりがないが、川崎さんとの下校を思い浮かべていただければ、諸君には納得のことと思う。樹木の陰から怨嗟を垂れ流していた材木座を思うと、総毛立って自然と体が震えてしまう。もはや私に降りかかる呪いそのものである。一刻も早く手を切らねばならない。

 とはいったものの、いまだに私は拳骨をくれてやるでもなく、神社でお祓いを受けたりもしていない。それどころか、すこぶる相和して茨の道を驀進(ばくしん)するところ最前線である。もはや自分で自分が理解できないが、どうやら私は、材木座に己の弱さを見出しているらしい。なるほど、常に誠実で真摯に己と向き合ってきた私は、そう易々と自己の弱さを否定しない。さればこそ、傲慢でもなく卑屈でもない調和の取れた一個の器として、世になくてはならない存在足りえるのである。

 末世に出現した救世主たちが少なからず重荷を背負ってきたように、私もまた材木座という重荷を背負っているのは、燦然と輝く偉業を為して世界史に名を残す存在であるからかもしれなかった。

 

 目を背けたくなるような現実から、こんなふうに無理矢理自尊心を庇ってはいるが、もうそろそろ、私は限界である。

 

       ◇

 

 そうして今も、私はこのショッピングモールで重荷である材木座とツーショットであった。

 なにゆえこんな責め苦を受けているのか判然としないが、「ちょっと失敬」と言ってお手洗いから帰ってみれば、一緒にやってきたはずの面々が霞のごとく消えていたのである。残ったのはなにやら不敵な笑みを浮かべている材木座ただひとり。私は狐につままれたような感覚であたりを見回した。

 

「ほかの連中はどうした」

 

 腕を組んで傲然と屹立する材木座に私は問いかけた。

 

「さあてね! 我も知らん!」

「馬鹿をいうな。今までいたじゃないか」

「それはそうだが、しばしそこの本屋で新刊のチェックをしていたら、この有り様だ。昔を思い出してちょっぴり泣きそうであったぞ、ぬわっはっはッ!」

「なんだそれ。つまり俺たちは置いていかれたのか?」

「言葉にするでない! 胸が痛むゾ!」

 

 私は茫然とした。怒りより先に疑問が湧いてきた。それでは、何のための集合であったのか。彼らはいったい馬鹿なのか? それともこれはなにかの罠か?

 ふいに鞄の中で携帯電話が鳴った。私は屈託なく阿呆みたいに笑っている材木座を尻目に液晶を覗き込む。知らない番号だ。やや戸惑ったが、私は通話ボタンを押した。

 

「もしもし」

「あ、もしもし?」

「あれ、その声は小町さん?」

「はいはい、そうです小町です!」

 

 知らない番号の相手は、今回の贈り物選びに兄の保護者兼アドバイザーとして同伴していた小町さんであった。小町さんは今日も元気溌溂だ。私は自然と頬が緩む。

 まず小町さんは、昨夜比企谷から私の電話番号を教えてもらったとあどけなく言った。

 

「迷惑だったでしょうか?」

「いやいや、大歓迎さ」

「よかった、安心しました。ちゃんと登録しておいてくださいね! それはそうと、今ひとりですか?」

「材木座と一緒だけど……これはいったい何事なの」

「あーっと、そのことなんですけど――」

 

 そして小町さんは、私がおかれているかくのごとき不愉快な状況について、申し訳なさそうに話した。

 

「ってなわけで、お兄ちゃんのためなんです。どうかご理解いただけないでしょうか?」

 

 なんでも小町さんは、比企谷と雪ノ下さんを二人きりにさせたいらしい。その理由は不明だし、釈然としないところはあったが、小町さんが言うのであれば従うのもやぶさかではなかった。兄のためというのであれば仕方がない。彼女は私の妹でもあるのだ。私は快諾した。

 

「ありがとうございます! それで私のほうはですね、じつは同級生とばったり会っちゃいまして……本当はご一緒したかったんですけど、ごめんなさい」

 

 最後に小町さんは、心の底から私と買い物をしたかったと熱情を吐露して電話を切った。私は小町さんを攫った同級生とやらに嫉妬しながらも、満足げに頷くと携帯電話を鞄にしまった。

 背後で材木座が声をあげた。長年の対人関係喪失の産物であるところの馬鹿でかい声である。

 

「誰からであるか? なに用だ?」

「大きな声を出すな。公共の場だぞ」

 

 材木座は咳払いすると、声量を抑えて同じ質問を繰り返した。私は電話の内容を簡潔に伝えて、さっさと歩き出す。材木座はぶつくさ剣呑なセリフを呟きながら、私の隣に並んだ。

 

「これでは集まった意味が皆無だ。何のために我が馳せ参じたと思っている。貴様と買い物を楽しむためではないぞ」

「おい、こら。ふざけたこと言ってると自由行動にするぞ」

「……して、八幡のやつは女子とふたりきりだそうだな。やつの妹の真意がわからぬ。お主、どう思う?」

「どうでもいい。本当だったら俺は小町さんとふたりでプレゼント選びをしてたんだ」

「阿呆か貴様、我がいるではないか。三人だ、間違えるな。だいたい貴様にそんな甲斐性があるとは思えん」

「チッ、黙れ。未来永劫黙れ」

 

 薄暗い青春の最中に立ち尽くす男二人がイマドキの女子高生に贈るプレゼントなど選べるはずもなく、我々はなんの当てもなく蹌踉(そうろう)とショッピングモール内を歩き回った。体力だけをがりがり削られ、ベンチを見つけては座り、手持ち無沙汰になると、再度なんのあてもなくフロアを逍遥(しょうよう)した。

 当然ながら休日の盛り場、我々を囲繞(いにょう)する人々の群れからは、いわゆる幸せオーラが垂れ流され、あたり一面に充満していた。皆一様に上気し、何がそんなにおかしいのか常に笑みを絶やさない。子連れの家族、団体の若人、(かしま)しい三人組の婦人たち。そして中学生カップルに高校生カップル、大学生カップルから社会人カップル、ひいてはどう見ても不倫ではないかと疑いたくなる年の差カップルまでもが、所狭しとショッピングモールを埋め尽くしている。この一大カップル展示場に、見るも無残な男二人がヘリウムを詰め込まれたように浮いていたのは火を見るより明らかであった。

 そのうちに、我々の眼球は炯々(けいけい)としはじめた。材木座からは、「寄らば斬る」という新撰組めいた気迫が漂い、あるいは今にも憤死を遂げそうな気配が漂っていた。どうにもならない法界悋気(りんき)を持て余していた我々は、すれ違うカップルの破局までの月日を予想するゲームをして溜飲を下げることにした。そしてその都度、それが可及的速やかに成就するよう祈りを捧げることも忘れなかった。ときどき、眩しすぎて直視できないほどの美男美女カップルに出くわすと、私はひと月と答え、材木座は大胆にも今日中と気焔を吐いた。

 威勢のいい言葉とは裏腹に、ただでさえぱっとしない材木座の顔は、いまや薄墨でも塗ったかのように黒々と影を帯びている。ちょっと正視に耐えないほどだ。おそらく、私も同様であったろう。不合理な劣等感に苛まれ、これ以上不必要に傷つくのは避けたかった。

 

「正義は我らにあり」

 

 材木座がぽつんと漏らした。私は諸手を挙げて賛同する。しかし、いつなんどきも正義が勝つとは限らない。ときには浮かれ騒ぐ衆愚に圧倒され、賢明たる理性が敗北することもあろう。時代の先端を走る哲学者や科学者は数の暴力によって迫害されてきた歴史がある。その正当性が明らかになるのは後の世を待たねばならなかった。我々もまた同じである。いまは、断腸の思いで敗北を受け入れ、おとなしく白旗を振るべきかもしれない。

 贈り物は自宅近くのスーパーで適当に菓子折りでも包んでもらって済ませ、ここは一も二もなく撤退すべきである、そう考えて、私が材木座に提案しようとしたときだった。

 ふと、私の目はなにやらヘンテコな物を捉えた。雑貨屋の少し入ったところに並べられていたそれは、いわゆる信楽焼(しがらきやき)風の狸であった。私は吸い寄せられるように近づくと、それを取り上げて仔細に眺め入った。両手に収まるほどの大きさで、ちょこんと傾げた顔は可愛らしく、お腹の部分は時計になっていた。どうやら目覚まし時計らしい。本物の信楽焼ではなくてプラスチック製であり、これなら鳴り響くベルに怒って強打しても両者が傷つくことはあるまい。私はこの愛嬌たっぷりの狸時計を由比ヶ浜さんが抱えているところを想像した。悪くない。いやベストマッチングである。私は即決した。

 結構な値段だったが、親愛なる由比ヶ浜さんのためとあれば、こんな出費は痛くも痒くもない。プレゼント用に包んでもらうと、これを受け取った際の由比ヶ浜さんの幸せそうな笑顔を想像して、私は言いようのない満足を感じた。

 雑貨屋の外では、材木座が索然とした表情を浮かべていた。

 

「ぬけがけとは卑怯な。いったい何を買ったのだ」

「ポップでキュートな小物だ」

「気持ち悪いぞ。そんな面かお主」

「コノヤロウ」

 

 私が軽く小突くと、「おうふっ」と呻き声をあげて、材木座は眼鏡のレンズを拭った。

 

「我は何を買えばいい」

「しらんがな。自分で考えなさい」

「それができたら苦労はしておらぬ。いいのか? 我の右手が暴れださぬうちに教えたほうが身のためだぞ」

「さて、買い物も終えたしそろそろ帰るか。比企谷にはあとで連絡をいれておく」

「くっ、うわぁっ……まだだ、まだその時じゃない! 堪えるのだ、我が右手よッ!」

 

 私は盛大にため息をついた。このまま放置すれば、材木座はしばらく小芝居を続けたのち、周囲の痛々しい視線を浴びて悄然と帰宅するだろう。それはそれで愉快なのだが、家に帰れば自身の胸に湧き上がる恨み言を克明に書き記して、メールで送りつけてくるにちがいなかった。そんなことになれば、うっとうしいことこの上ない。私は再び雑貨屋に目を向けると、そっけなく言った。

 

「これはどうだ。由比ヶ浜さんはきっと喜ぶ」

「なにッ! どれだ」

 

 私は棚に並んでいた『サルでもデキル! 超簡単クッキングガイド』を指さした。材木座は、「おおっ」と感嘆の声をあげるとすぐさまそれを購入した。サルでもデキルとはなかなかに不穏当な言葉ではあるが、近頃料理に凝っているらしい由比ヶ浜さんに料理本を贈るのは適当に思われた。

 我々は戦利品を抱え、近くのベンチに腰を下ろした。いまだあたりはカップル見本市状態であったが、目的を遂行した我々にとって有象無象はさして気にならず、世界はこころなしか温もりを取り戻したようであった。

 しばらくの間、私は傍らに置いた紙袋をじっくりと眺め、中にある可愛らしい包装紙に包まれた贈り物に思いを馳せていた。すると、隣で携帯電話をいじっていた材木座が、「もし」と声をかけてきた。

 

「ひとりで笑ってないで、あそこを見るのだ」

「ああん?」

 

 私は名残惜しむように紙袋から目を離すと、顔を上げて材木座が示したあたりに視線を移した。そこは、まるで粘着シートに絡めとられた茶黒い昆虫たちのように、和気藹々としたカップルたちが大挙して(うごめ)いているゲームセンターであった。そんな中に、あたかもカップル然とした風情で、私のよく知る男女二人が立っていた。

 

「なにやってんだ」

 

 私はUFOキャッチャーの前に佇む比企谷と雪ノ下さんを見ながら呟いた。

 

       ◇

 

 作家、伊藤整は若さや青春を硝子(がらす)に囲まれた部屋に喩えた。周囲はひらけているように見えながらも、出ていこうとすれば硝子に突き当たってしまう。その中では自分の声がやたら大きく反響するだけで、外の人間には決して届くことがない。そうして自分の声に精神を苛まれながら、透明の部屋を大型肉食獣のようにうろうろと歩き回るのだ。なんでも若さとは、青春とはそんなものらしい。

 私はUFOキャッチャーのガラスケースを眺めながら、陳列されている景品を自分と重ね合わせ、苦渋の思いを抱いていた。もはや私は、うろうろ歩き回るのには疲れ果て、自身を責め苛む大音声にも聞き飽きている。もういっぱい。これ以上は御免である。あの逞しいアームのように、誰か私を救い上げてくれないかしら。きっとその人は、ふはふはして、繊細微妙で、夢のような美しいもので頭がいっぱいな優しい乙女であろう。私のほうはすでに準備万端である。掴まれて持ち上げられるのを、こうして今か今かと、なんだか汚い汁をいっぱい垂れ流しながら待ち呆けている。それなのに、いったい先方は何をしているのか。いささか遅すぎやしないか。早く私を呪いのガラスケースから出して欲しい。

 そんな埒もないことを考えていると、UFOキャッチャーで遊んでいた雪ノ下さんが我々の存在に気付いたらしい。憮然とした表情をして、こちらに来いと手招きをしている。小町さんに頼まれたこともあるので、私は少々迷ったが、結局、材木座を連れて二人のほうへ向かうことにした。

 

「どうやらプレゼントは買えたようね。由比ヶ浜さんへ贈るような物を買えているかは甚だ疑問だけれど。それにしてもわざわざ集合したというのに、なぜふたりで行動しているのかしら。本当に理解不能だわ、頭が悪いの? 頭が悪いのね」

 

 我々が前に立つと、雪ノ下さんは間髪を容れずに駆け足でそう口にした。

 いかに温厚篤実な性格をしている私であっても、これには閉口した。一言一句たがわずこちらのセリフである。怒り心頭に発しかけた私は、しかしながらぐっと堪えて、材木座同様へらへらとした笑いでなんとかごまかした。いつも正しい雪ノ下さんのことだから、小町さんの伝え方が誤っていて、情報が錯綜しているだけかもしれない。その場合、ひとりで顔をトマトみたいに赤くしてみても間抜けなだけである。

 私は落ち着くために、我関せずを貫いてUFOキャッチャーとにらめっこをしている比企谷に声をかけた。

 

「なにか欲しいの」

「俺じゃなくて雪ノ下がな。あのパンさんとかいうぬいぐるみだ、結構難しいなこれ」

「な、何を言っているの。私はべつに欲しいなんて一言も――」

 

 ガラスケースの中を覗くと、ずいぶんとファンシーな、目つきの悪い人形が並べられていた。思わず私は、「うわ、ぶっさいくだな」と呟く。

 

「今、なんて言ったのかしら?」

「え」

「私の聞き間違いでなければ、パンさんに向かって不細工と言ったような気がしたのだけれど」

「いえ、そんなこと、言っていません」

 

 私は地雷を踏んだことを悟り、次の瞬間には訂正していた。おそろしく迅速な判断と言わばなるまい。さらに私は、場の空気をひっくり返すため、瞬時に次のようなことを導き出した。すなわち、雪ノ下さんの反応を鑑みるに、彼女はあのパンさんとかいうぬいぐるみがお気に入りで、今現在、口では否定しているものの、じつはのどから手が出るほど欲している。また、彼女は我々の独断行動を非難しており、且つ、私の迂闊な一言でひどくお怒りである。したがって、一刻も早い機嫌の回復を施すべきであり、それにはあの不細工なぬいぐるみを獲得し献上するのが有効である。

 以上のことから、私はUFOキャッチャーに硬貨を数枚入れて、材木座を呼び寄せた。

 

「おい、あの可愛らしいぬいぐるみをとってくれ。金欠なんだ、一回で頼むぞ」

 

 市場には出回らない非売品のマニアグッズを手に入れるため、UFOキャッチャーの腕を鍛えに鍛えあげたと、以前、材木座は豪語していた。そのときは阿呆なことに金と時間を浪費しているなと鼻で笑ったものだが、まさか役に立つ日が来るとは、人生何が起こるかわからない。馬鹿と鋏は使いようである。私は、ぶつくさ言いながらも一発で獲物をしとめた材木座に賛辞を送った。

 

「材木座、おまえ輝いてるよ、今が一番」

「もっと褒め称えるがいいッ! これぞ必殺キャトルミューティレーションである! ぬわはははッ!」

「それは惨殺事件だろうが。まったく格好がついてないな」

 

 私はしたり顔の材木座からぬいぐるみを受け取ると、そのまま目を丸くしている雪ノ下さんへ差し出した。パンさんは持ってみるとむにむにしていて柔らかく、思いのほか手に馴染んだ。

 

「う、受け取れないわ。あなたのお金で材木座くんが取ったのだから、どちらかふたりのものでしょう」

「へへへ、そんなこと言って。本当は欲しいくせに」

「馬鹿なことを言わないでちょうだい。欲しくなんかないわ」

「ふむ、頑固だね。あげると言ってるんだから、受け取ればいいのに。だいたい、こんなむやみに可愛らしいぬいぐるみを材木座が持っていたら、もう、見るに耐えないだろ」

「失敬なッ、貴様も同じだ!」

「で、ではあなたが――」

「俺はいらないよ。そういう趣味はない」

 

 雪ノ下さんは困ったようにあわあわと視線を揺らしていた。その視線が比企谷に向かう。比企谷は肩をすくめて、「なにも考えずに、受け取ればいいだろ」とスカした。その後、似たようなやり取りが数回ほど我々のあいだを往復したが、最終的に雪ノ下さんが折れて、その胸に不細工なぬいぐるみが抱きしめられる運びと相成った。恥じらいで頬を桃色に染めた雪ノ下さんが抱えると、不思議とパンさんが愛らしく見えた。このぬいぐるみは、持つべきものが持つとはじめてその真価を発揮する、アーサー王の剣みたいなものなのかもしれない。

 雪ノ下さんはぎゅうとパンさんを抱きながら、もごもごと口ごもっている。どうやら礼を述べているらしい。比企谷にも材木座にも聞こえていないようであったが、私にはたしかに聞こえた。聞こえたが、紳士らしく聞こえなかったフリをした。

 理知的な眉をだらしなく垂れ下げて、にやにやとパンさんを見つめる雪ノ下さんは、それはもう大層可憐であり、私はいたく満足であった。

 

 



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第十五話

       ◇

 

 比企谷たちもすでに贈り物を購入したらしい。我々は、そろそろお開きを念頭に入れながら、なんとはなしにショッピングモール内をぶらついていた。

 目的を遂行したからには、こんな風紀紊乱の場にことさら残る必要もなく、早々に自宅へとんぼ返って猥褻文書でも紐解きたかったのだが、誰も「帰ろう」の一言を発さないので、いたしかたなく私は集団の殿を務めながら歩いていた。

 ふいにどこからか、「雪乃ちゃん」と呼ぶ声が聞こえてきた。我らが部長を気安く下の名で呼ぶものは誰ぞと、私は首をめぐらせた。

 私はそのとき、半径数メートルをきらきらと輝かせながら走り寄ってくる妙齢のご婦人を見た。否、見とれた。あまりにも美しかったからである。

 

「あっ、やっぱり雪乃ちゃんだ」

 

 名前を呼ばれた雪ノ下さんは、声のしたほうへ振り返ると、「ねえさん」と言った。ねえさん、つまり姉さん。あの美しいご婦人は雪ノ下さんのお姉さんであった。

 私は、にこにこと笑みを浮かべて雪ノ下さんの隣に立ったお姉さんを、舐めまわすように、しかしあくまでも紳士的にしげしげと眺めた。肩の上までの短めに整えられた黒髪はさらさらで、雪ノ下さんと同様に肌は白磁のように白かったが、いくぶん健康的な色合いを帯びていることを私は見逃さなかった。大きく悪戯っぽい目をしており、それは活発さを内包してプリズムのように光を反射している。鼻は小ぶりだがすらりとしていて、唇はほのかに色づいていた。それら各パーツは、収まるべきところに収まり見事に均整が取れている。どう見ても端麗な女性といわざるをえないが、同時に私は、彼女に戦国武将の妻のような意志の強さや気魄といったものを感じていた。

 雪ノ下さんのお姉さんは、自らを雪ノ下陽乃(はるの)と名乗った。これ以後、雪ノ下さんのお姉さん、といういかにも他人行儀な記し方は控えて、便宜上、陽乃さんで統一することにする。ご留意願いたい。

 さて、陽乃さんの隣でなぜかむすっとした様子をしている雪ノ下さんは、お役所仕事のように我々を紹介した。陽乃さんは顎に親指と人差し指をあてながら、頭の天辺からつま先にいたるまで、ひとりずつ品定めするように我々を見てゆく。大事な妹に関することであるから、その学友を仔細に点検するのも当然であろう。私は居心地の悪さを感じながらも、明治百五十年の男にふさわしい態度で微笑んだ。

 そのうち評価が済んだのか、陽乃さんは大きく頷いた。

 

「ふぅん、そっか。うん、みんなよろしくね」

 

 陽乃さんは我々を近くのベンチへ誘った。なにか少し話すつもりらしい。

 我々は男男男女女という具合に並んで座ったわけだが、なにゆえか私は一番端であった。隣は材木座である。これでは陽乃さんと話をするどころか、ほとんど見ず知らずの他人ではないか。いや、たしかに他人で間違ってはいないのだが、これから親睦を深めんとする端緒がこれでは、いかにも幸先が悪い。下手をしたら、明日には忘れられている位置である。これは是非とも、積極的に声をあげていかねばなるまい。

 いったいなぜ同級生の姉と親睦を深める必要があるのか自分でもよくわからないが、おそらく陽乃さんが美人であることと、ガラスケースに閉じ込められているという妄想の二つが関係しているように思われた。

 

「もしかして、比企谷くんは雪乃ちゃんの彼氏だったりして」

 

 陽乃さんは唐突にそんなことを言い出した。そうして、「言っちゃえっ、言っちゃえっ」と比企谷の頬をつんつん触っている。私は思わず、「アッ」と小さく声を漏らした。妖怪ひねくれ小僧の顔なんて触ったら不治の病になってしまうというのに、命知らずな人である。ともあれ、内面の醜さが染み出て周囲の空気を澱ませるに至る比企谷に対して、分け隔てなく接しているというのは、圧倒的な度量の大きさを示していた。これは戦国武将の妻というより、戦国武将そのものと言っても差し支えあるまい。私はますます興味が湧いてきた。なにより美人である。

 

「いえ、違います」

「そんなこと言っちゃって。うりうりぃ、本当はどうなの、どうなの」

「姉さん、彼はただの同級生よ」

「そうです。本当に彼氏とかじゃないですから」

「またまたぁー。そんなムキになっちゃって、怪しいなあ」

 

 瞬間、私は体を傾けて身を乗り出していた。何事かと材木座が迷惑そうな視線を向けてくるが、そんなことは打っちゃっておく。事態は急を要していた。事実、比企谷の肩に陽乃さんの胸のふくらみがおしつけられていたのである。では、私が身を乗り出したのはそんな破廉恥を指摘するためか? 答えは否である。そんな無粋なことはしない。それでは、ただ比企谷が興奮するだけではないかと諸君は思うだろう。これまた否。私には見えていたのである。何が? そんなもの、胸に決まっている。

 私は、蒸し暑い季節にぴったりの薄着で大胆な衣服からちらりとのぞく、陽乃さんのロマンの谷間を血眼になって凝視した。こんなに集中してものを見たのは、年度明けの視力検査以来である。あまりに熱烈な視線を送りすぎていたので、少し経って陽乃さんが体を離したのは、そのせいではないかと危ぶまれたが、材木座の無駄に幅広い体が功を奏したようで気づかれることはなかった。

 ロマンの谷間を見失った私は、何事もなかったかのように居住まいを正した。そしてふぅ、と息をつく。これは今夜が楽しみだ。大いに捗ることだろう。

 私が福々とした笑みを浮かべて来る夜伽に妄想を膨らませていると、突然、陽乃さんが胸をそらすようにして立ち上がった。ひどく神々しかった。

 

「比企谷くん。雪乃ちゃんの彼氏になったら改めてお茶、行こうね」

 

 そう言うと、「じゃまたね」と元気よく別れの言葉を述べて陽乃さんは手を振った。そのままくるりと踵を返して走り去っていく。私は呆気にとられて、ぽかんと口をあけたままその姿を見送った。嵐のような人だった。

 

「え? いったい何があったの」

「我にもわからん」

 

 材木座はまっすぐ虚空を見つめていた。目じりの筋肉がわずかに痙攣していて、口は半開きになっている。これは己のキャパシティを超えたときに、材木座がよくする顔だった。

 こいつに尋ねても仕方ないと思い、私は比企谷と雪ノ下さんへ視線を移した。

 

「お前の姉ちゃん、すげえな」

「姉に会った人は皆そう言うわね」

「だろうな、わかるわ」

「ええ。容姿端麗、成績最高、文武両道、多芸多才、そのうえ温厚篤実……およそ人間としてあれほど完璧な存在もいないでしょう。誰もがあの人を誉めそやす……」

「はぁ? そんなのお前も大して変わらんだろ。遠まわしな自慢か。なあ?」

 

 ふいに比企谷が私と材木座に話を振ってきた。陽乃さんと彼らの交流から、半ば自業自得とはいえ疎外されていた事実はさりとて一旦置いておき、私は素直な感想を述べた。

 

「温厚篤実っていうのはどうだろう」

 

 材木座もかすかに頷いた。

 

「お、おい。そこは肯定しろよ。ま、まあ、あれだ。とにかく俺がすげえっつってんのはあの、なんだ? 強化外骨格みてぇな外面のことだよ」

「ちょっと待て。そもそも君たちはいったい何の話を――」

「お前の姉ちゃんの行動――」

 

 比企谷は私の発言を言下に制して、雪ノ下さんのほうを向いた。

 

「あれは、モテない男子の理想みたいな女だよな。気軽に話ができて、人当たりが良くて、いつもにこにこしていて俺とも普通に話そうとして、あと、その……スキンシップが過剰というか、感触が柔らかいというか」

「この男、最低なことを言っている自覚はあるのかしら……」

「てめえ、最低だなコノヤロウ。死んで詫びろ」

 

 発言を流された私は怒りに任せて雪ノ下さんに同調した。

 

「ば、ばか! お前ら、あれだ、手だよ手! 手の感触!」

「ダウトだ。お前はたしかに陽乃さんの胸部の感触を楽しんでいたはずだ。見ていたからわかる。ただちにくたばれ」

 

 雪ノ下さんを筆頭に、私と材木座から注がれるありったけの軽蔑の視線を受けて、比企谷はしばし、うごうごとなにやら呟いていたが、気を取り直したのか声高に言った。

 

「ともかくだ。あれは理想であって現実じゃない。だからどこか嘘臭いんだよ。俺はあんな詐術に引っかかったりはしない」

「どの口が言ってんだよ、桃色魚眼野郎」

 

 私はそう辛辣な言葉を浴びせ掛けてやったのだが、なにやら雪ノ下さんは感心しているようであった。

 

「腐った目でも、いえ腐った目だからこそ見抜けることが、あるのね」

「お前、それ褒めてるの?」

 

 どう検討したとしても貶しているとしか受け取れない言葉である。しかし、雪ノ下さん的には絶賛したらしい。大いなる謎だ。またひとつ雪ノ下さんの神秘性が増した。

 それから雪ノ下さんはふいに遠い目をして、不機嫌そうに語りはじめた。なんでも陽乃さんは長女ということで、家の都合から多種多様な挨拶回りやらパーティーやらに連れ回されてきたそうだ。それは今も続いているらしく、世を遍く照らし出すようなあの笑顔も人当たりの良さもすべて、長年の社交術で作り上げざるをえなかった仮面なのだという。つまり、偽物ということになるらしい。

 私は陽乃さんの顔を思い出してみた。脳裏にちらつくロマンの谷間を追いやって、美しい容貌を思い描く。しかし、戦国武将のような凄烈さはあったものの、私にはそれが仮面を被った顔のようには思われなかった。もしかすると、人生経験の浅薄さが原因でそう感じるのかもしれないし、尚且つ早く帰りたかったので、私は異議を唱えることはしなかった。

 

「帰りましょうか」

 

 しばらくして雪ノ下さんが言った。我々は皆頷く。

 ベンチから腰を上げると、比企谷は携帯電話を取り出した。

 

「俺、小町と合流して帰るわ」

「我も寄らねばならぬ所があるゆえ、これにて御免」

 

 現地解散となり、二人は早々に人混みの中へ消えた。私も、「それでは失敬」と雪ノ下さんに別れを告げて帰途に着いた。

 商業施設から外へ出るとすでに日が暮れる頃だった。空はうっすらと紺色に染まりはじめている。私は手に提げた由比ヶ浜さんへの贈り物を一瞥すると、鼻歌を口ずさみながら駅の改札を抜けた。

 

       ◇

 

 発車のベルが鳴って、ちょうどプラットホームへの階段を上がってきた雪ノ下さんが電車に乗り込んできた。彼女は私を発見すると、露骨にぎょっとした表情を浮かべたが、すぐに取り澄まして近づいてきた。我々はつり革に掴まって並んだ。車内は混んでいる。

 たっぷり一駅分、無言を貫いていた我々は、やがて、どちらからともなく贈り物についての批評をはじめた。雪ノ下さんはエプロンを購入したらしい。私は得意げに手提げ袋を叩いた。

 

「狸の目覚まし時計さ」

「……狸?」

「そう、狸。お腹のところが時計になってるの。もう抜群にかわいいよ」

「ちょ、ちょっと見せてくれないかしら」

「駄目に決まっているだろう。なに馬鹿なことを言ってるの」

「そ、そうよね。ごめんなさい……――あなた、馬鹿とは失礼じゃない」

「え。あ、ごめん。つい」

 

 電車が揺れる。

 過ぎ去ってゆく町には夜の帳が降りていた。黒々とした車窓には車内灯に照らされた私と雪ノ下さんの姿が映っている。停車するたびに、乗客たちが入れ替わり、やや車内が広くなる。

 私は気になっていたことを尋ねた。

 

「そういえば、さっきお姉さんとは何の話をしていたの?」

 

 雪ノ下さんは片眉を寄せて首をかしげた。

 

「隣にいたのよね」

「……血糖値が下がっていて、ぼおってしてたんだな、多分」

「糖尿病?」

「ちがう」

 

 雪ノ下さんはため息をついた。我ながら、あまりにもぶざまな言い訳だと思った。

 

「別にたいしたことは話していないわ」

「へ、へえ。ちなみに、俺の話とかは出た?」

「いいえ、まったく」

「あ、そう」

 

 私は少なからず落胆した。

 いやしくも奉仕部の一員であり、雪ノ下雪乃の下で部活に励んでいる身の私に、お姉さんである陽乃さんが興味を持つのは当然と考えていたが、どうやら当てが外れたらしい。私はもっぱらロマンの谷間に執心していたことを悔やんだ。そして、やたらと話しかけられていたらしい比企谷を恨んだ。

 また電車が揺れる。

 

「あなたには――」

 

 雪ノ下さんは、鏡のような車窓に目を向けたまま言った。

 

「姉さんはどう映った? 比企谷くんは、ああ言っていたのだけれど」

「無類の美女」

 

 私は即答した。

 

「ちょっとお目にかかれないレベルの美しさだね、あれは」

「外見の話をしているのではないわ」

 

 雪ノ下さんが目を細めて、車窓に映る私を睨んでいた。私は慌てて言う。

 

「そもそも俺は会話してない。けど、性格は良さそうだ。なんと言っても比企谷にためらいなく関われるくらいだからね。分け隔てない度量の大きさを示していると言える」

「比企谷くんがどういう人間なのか知らないのだから当たり前でしょう。姉さんは誰に対しても初めは、ああなのよ。初めはね」

 

 雪ノ下さんは最後の言葉を強調した。

 

「ずいぶん含みがあるね。仮面とかなんとか言ってたけど、なんなのそれ」

 

 比企谷は、雪ノ下さんと陽乃さんでは笑った顔が全然違う、とわけのわからぬことをぬかしていたが、私にはそれこそ全然違いがわからなかった。顔が似ているのはもとより、どちらとも魅力的である。それだけで十分ではないか。美しい笑顔は鬱々とした青春を彷徨う男たちにとって、寒い冬に浸かる温泉に匹敵するということは広く知られている。要するに、半端ではない癒し効果があるのだ。

 

「そのままの意味よ。わからないかしら? 外面はどこまでいっても外面でしかないの。底が見えない――いえ、底を隠している人を……華のような外面で自己を欺瞞している人を、私は……」

 

 雪ノ下さんはそこで口をつぐんだ。

 私は自身の見解に疑念を差し挟む余地を認めていなかったので、率直に述べることにした。少し詭弁ぽく聞こえるが、まあいいだろう。

 

「しかしだよ、外面を含めてお姉さんそのものなわけだよね。まず自己を欺瞞しているという考えが良くない。かりにあれが仮面だと言うのなら、その仮面は、お姉さんが種々様々な経験を通して長年培ってきたものなんだ。そしてそれは、本心から形作られたものであるはずだよ。だって、仮面を作ったのは彼女自身なんだから。つまり、考え方によっては外面もお姉さんの本心の一部と言えるわけだ。そう易々と否定する気にはなれんな。凄いと思うよ。並々ならぬ努力の上に獲得した外面なんじゃないかなあれは。いや、まったく、ほんと凄いよ。なにより美人だよ。笑顔が素敵だね、お姉さん」

 

 これは、必要以上に陽乃さんを擁護して、間接的にでも自分の株を上げようとか、そんなふうに目論んだわけでは断じてない。あくまで雪ノ下さんが陽乃さんに対し、私という存在を評するときのための便宜を図っただけである。ありのまま伝えてくれればそれでいい。他意は毛ほどもないのだ。本当である。

 ともかく、私が滔々と語っているうちに、刺々しい視線がわが顔面表皮を襲っていることに気がついた。乾いた唇を舐めて、おそるおそる首を回すと、雪ノ下さんと目が合った。とてつもなく怖い顔をしていた。般若面もかくやと思われる形相である。私は一瞬、この肌の白い美しい般若面に抹殺されるのではないかと慄いた。

 ところが雪ノ下さんは車窓のほうを向いて俯いただけであった。私はほっと息をつく。

 

「……そういう考え方もあるのね」

 

 ――だけどやっぱり私は、と雪ノ下さんは悲しげに目を伏せた。それがあまりにも儚く見えたので、私は虚を突かれたように沈黙してしまった。何かまずいことを言ったのであろうか。だが、思い返せば雪ノ下さんと話していると、以前からまずいことしか言わなかったような気がしてくる。だいたい、あの奉仕部にいる人間はまずいこと以外口にしないではないか。いまさら私がまずいことを言ったところで、おあいこである。

 馬鹿馬鹿しい。私はそう思って、一切その場の空気など読まず、さらにもうひとつ気になっていたことを尋ねた。

 

「お姉さんは、彼氏がどうとか言っていたけど、あれはなに。もう一度聞くけど比企谷とはやはり」

 

 ロマンの谷間に没入していた私は、陽乃さんの話していた内容について、比企谷と雪ノ下さんが交際しているという憶測しか耳にしていなかった。これだけ近々にその類の話を幾度も聞かされれば、由比ヶ浜さんの疑いを短絡的だと一笑に付すわけにもいかぬ。むろん、比企谷という人間が、誰かと交際するという驚天動地の奇怪事が起こるとは思わないし、思えるわけがない。しかしながら、その可能性が示唆されている時点で、私としては胸中穏やかではないのである。いくらなんでも不条理だ。

 雪ノ下さんは、先ほどまでの悲嘆に暮れる乙女のような面持ちを一変させた。その瞬間、愚問だったと悟った私は、罵詈雑言が飛んでくることを見越して、きわめて冷静に非礼を詫び、すかさず話をそらすことにした。

 

「じつを言うと、由比ヶ浜さんがそんなふうに誤解しているみたいなんだ。ほら、君たち二人がなにかのイベントで偶然、彼女に出会ったときにさ。まあ、俺はちゃんちゃらおかしいよって念を押したんだけど、いかんせん多感なところあるじゃない由比ヶ浜さんという人は」

「……そう、由比ヶ浜さんが」

「うむ。昨日ちょっと電話で語り合ったんだけどね――」

 

 私は電話で語り合った、という部分をさも得意げに言った。

 

「そこのところを、いやに気にしているみたいだった。なぜだろうね。心当たりはある?」

「……ううん、とくにないわ」

 

 雪ノ下さんは顎に手を当てて真剣に考え込むと、頭を振った。どうやら彼女の怒りをうやむやにできたようだ。私は安堵して、「そうかい」と返事した。

 最寄りの駅が近づいている。我々はふたたび沈黙した。雪ノ下さんはまだ何か考え込んでいるようで、観世音菩薩のような半眼を車窓に映して蕭然としていた。

 

「……由比ヶ浜さんは喜んでくれるかしら」

 

 やがて彼女はそう言った。

 私は何気なく返す。

 

「さあ、わからん。雪ノ下さんはどう思う」

「わからないわ。ずいぶん一緒の時間を過ごしてきたと思っていたのだけれど……彼女が喜ぶものひとつ満足に選べないなんて……私、なんにも知らなかったのね」

「エプロンだっけ」

「ええ」

「桃色の」

「そう」

 

 ポケットのいくつもついたピンクのエプロン姿をした由比ヶ浜さんを想像してみる。文句のつけようがない、垂涎ものの光景だ。是が非でもその姿を拝見したいものである。

 

「比企谷くんに助言してもらったの。私一人だとあまりに心許ないから」

「え? あいつが桃色選んだの? それは最高に気持ちが悪い」

 

 だがいい判断だ、と私は比企谷の性癖にそっと感謝した。

 

「よくよく考えてみると、あなたの言うとおり、最高に気持ち悪いわね。なんのつもりかしら彼」

「ピンクを選ぶあたり筋金入りのヘンタイだよ。しばらく距離を置いたほうがいいかもしれない」

「そうね」

 

 雪ノ下さんはふふっと目じりを傾けた。なぜだか物憂げになりかけていたようだったが、今は笑っている。そちらのほうがよほどいい。

 ――どうもありがとう、君の実直な変態的所業のおかげでひとりの少女が笑顔を取り戻したよ。私は同じ夜空の下の比企谷を想った。

 

「それはともかくとして、――喜ぶかはわからないけど由比ヶ浜さんにぴったりだと思う、そのエプロン」

「……うん、私も、そう思うわ」

 

 雪ノ下さんは微笑みながら小さく呟いた。

 

「まあ、この狸時計よりは劣るだろうけどな」

 

 

 それから我々は、最寄りの駅に到着するまでいろんなことを話した。雪ノ下さんの舌鋒は鋭く研磨されており、ご機嫌が平生と変わらぬ調子に戻ったことをありありと物語っていた。私は、落ち着き払って容赦ない言葉を吐く彼女に苦笑いで追従し、ときにおだて、ときに黙殺し、ついには反駁して、できればちょっと黙っていてくれないかなと思ったりした。

 

「……参った参った、降参だよ。たしかにバンさんは可愛らしいよ」

「パンさんよ、二度と間違わないでちょうだい」

「どっちだって一緒じゃないか」

「あなた馬鹿? 濁音と半濁音の違いが理解できないなんて、文明人の面汚しね。もしかして濁音でしか会話しない未開の地から――」

 

 

 駅の改札を出ると、初夏のなんともいえない生ぬるい微風が我々を包んだ。

 私はやれやれと夜空を仰いだ。腰に手を当ててぐっと伸びをする。ちくしょう、星のひとつも見えやしない。相槌製造機と成り果てて疲弊した私に、労いがてらひと明滅くらい奮発してくれてもよさそうなものなのに、なんとすげない恒星たちであろうか。

 

「帰りましょう」

 

 雪ノ下さんが言う。ようやくお役御免である。

 

「うむ。では、俺はこっちだから」

「私も、そっちよ」

 

 おそらく私はげんなりとした顔をしたのだろう。雪ノ下さんは「失礼な顔ね。汚らしいからしまいなさい」と言った。私は頬を引き攣らせ、丁重に返事した。

 

 そうして我々は、ひたすらに不毛な会話を繰り広げつつ、長い長い家路に着いたのだった。

 

 

 



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第十六話

       ◇

 

 深夜、ひとり布団の上に寝転がっていると猛烈な緊張感に襲われた私は、いそいそと携帯電話を取り出してメールを打つことにした。

 

 『プレゼントを渡すときどんな顔をすればいいんだろう。

  やっぱり笑ったほうがいいのかしら。かりに笑うとしたら、微笑みかな。それとも満面の笑みかな。

  全然わからない。おまえはどんな顔をするつもりだ』

 

 思えばこの世に生を受けて十七年、私はいまだ誰かに贈り物をしたことがなかった。そもそも贈り物を渡す相手がいなかった。さらにいえば贈り物を渡せるような交友関係すら築いてこなかった。だから当然、私は贈り物の作法を知らぬ。

 贈り物は何を渡すかではなく、いかなる気持ちが込められているかが重要であると人はいう。したがって、贈り物を渡す瞬間がなにより大事になってくる。そこにすべてがかかっているといっても過言ではない。下手に渡そうものなら、贈り物は贈り物としての役割を全うせず、相手に不審を植え付ける種と化してしまうだろ。むやみに愛らしい狸時計が、無残にも打ち棄てられ、ゴミ収集車に回収される未来など私は望まない。これは真剣に考えねばならぬ問題だ。

 ああ、不安でたまらない。どう渡したものか。笑えばいいのか。何気なく無表情でいいのか。はたまた、恋する乙女のごとくほんのりと頬を朱に染めればいいのか。いやいや、それではまったく変態的すぎる。そんな気色の悪い贈り方をしたら、問答無用でゴミ置き場行きだろう。おまえはいったい馬鹿なのか? 恥を知るがいい。私は猛省して、ふたたび考え込んだ。しかしいくら頭を捻っても、いっこうに答えは出ない。これはもう潔くメールの返信を待つべきだろう。いささか自尊心が傷つくこともあろうが、ことここに至っては仕方あるまい。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥という言葉もある。

 

 そして悶々と待つこと数十分、ようやく比企谷から返事が帰ってきた。テストの解答を確認するかのように胸をざわめかせながら、スマートフォンのディスプレイを覗き込む。

 

『普通の顔』

 

 普通って何だ、と私は思った。

 

       ◇

 

 その日の授業をすべて終えた私は、とたんにがやがやと騒々しくなる教室を眺め回して由比ヶ浜さんの姿を探した。教室後方へ視線を向けると、案の定、女王蜂に群がる昆虫類のただなかに彼女の姿を認めた。隣には葉山君もいる。週明けの気だるい月曜の放課後にもかかわらず、彼はいつものすがすがしいアルカイックな微笑を湛えて、泰然としていた。見習わねばならないと私は背筋を伸ばして、視線を廊下側へ移す。

 いた。瘴気を撒き散らすこと夥しく、世間と隔絶されること仙人のごとき正真正銘の無頼漢、比企谷八幡大先生である。先生、今日も今日とてお馴染みの狸寝入りを敢行して少しも恥じるところがない。とうの昔に授業は終わっているというのに、微動だにせぬその厚顔無恥な姿勢はまったく見習うべきところがなかった。これから一大事が待ち受けているにもかかわらず、相変わらずの先生である。もうそのまま日が暮れるまで寝てればよいと思った。

 しかし、私は眦を決する。由比ヶ浜さんがやってくる前に、先生を起して部室へ向かわねばならない。待ち構えてこそのサプライズである。贈与の際の顔について、なんら満足のいく結論を出せずにいたが、もはや時間切れ。なるようにしかならないと腹をくくって私は席を立った。いざ、ゆかん晴れ舞台。

 

「ちょっと、あんた。私ら日直だよ」

 

 抜山蓋世、意気揚々と一歩を踏み出した直後、背後から不躾な声が飛んでくる。私は立ち止まって振り返り、歌舞伎風に声の主を睨みつけてやった。

 

「日直。なに帰ろうとしてんの。仕事しな」

 

 銀狼が切れ味の鋭い眼光を漲らせていた。私はやや狼狽して、小さな声で呟く。

 

「急いでるん、ですけど」

「あん? 知らないよそんなこと。日誌は書いとくから、黒板きれいにしといて」

 

 私は、やむを得ず黒板消しを引っ掴むとあらあらあらという間に微積分という謎の理論を親の敵のごとく消し去った。高校生を無用の苦しみに落とす公式が消えて、晴れ晴れとした面持ちでクリーナーに黒板消しを当てていると、ふたたび銀狼から声が飛んでくる。

 

「雑すぎ。ちゃんと消しなよ」

「だから忙しいんだって」

「あんたが忙しくしているところなんて、見たことないけど」

「今まさに、そうだ」

 

 川崎さんは舌打ちすると、席を立って黒板消しを手に取った。どうやら日誌は書き終わったらしい。チョークの跡を丹念にこれでもかとばかりに消していく。乱れた服装に有無を言わせぬ豪気な態度と、人目を気にしない大胆な性格を有している彼女は、ちっとばかし汚れていたっていっこうに構うまいという恬然とした女性であろうという大方の予想に反し、なかなか潔癖な女性であった。

 感心してふむふむと川崎さんの仕事ぶりを眺めていると、ひょいと肩を小突かれる。

 

「ぼさっとしてないで手伝いなよ」

「あ、うん」

 

 見事なまでに在りしときの姿を取り戻した黒板を見て、私は言った。

 

「川崎さん、じつはキレイ好きなんだね」

「はあ? ……べつにいいでしょ、わるい?」

「いや、全然。さぞかし、おうちもキレイなんだろうね」

「……まあね。だってそっちのほうが気持ちいいじゃん。あんたは掃除とかしなさそう」

「やだなあ、見損なわないでくださいよ。年に一度の大掃除は全力さ」

 

 川崎さんは目を見張って驚きを露にしていた。それから、なぜか呆れたように笑った。

 

「やっぱり阿呆だね」

「誰が。川崎さんが?」

「バカ。あんたに、決まってるでしょ」

 

 私は肩をすくめた。これだから女子というやつは困る。いきなり人を小馬鹿にしてくれちゃって、まったく手に負えない。おっと、こんなことをしている場合ではなかった。私は川崎さんから視線をはずすと、教室を一望する。すでに比企谷はおろか、由比ヶ浜さんの姿すら見当たらなかった。まずい状況である。

 

「もう仕事はない?」

 

 私は勢い込んで川崎さんに尋ねた。

 

「ええっと、うん、ほとんどね。なにあんた、ホントに急いでんの?」

「だからそう言ってるじゃない」

「あっそ。じゃあ日誌は私が職員室に持ってっとく。ほら行きなよ」

 

 私は漢気溢れる川崎さんに一礼した。この借りはいつか必ず返すと胸に誓って、男らしい背中を見せる彼女に男らしく別れを告げた。

 

「さらばだ、銀狼」

「あ?」

 

 私は逃げるように教室を後にする。

 

       ◇

 

 青春の路頭に迷うこと幾星霜、不遇をかこついわれはこれっぽちもないはずの未来ある若人が、なにゆえここまで辛酸を舐め続けてきたのであろうか。まことに人生とは端倪すべからざるところがあり、一寸先は闇とはよく言ったものである。みるみるうちに閉ざされていく栄光の扉を前にして、ひとりぽつねんと気焔を吐いていた私は、まったく幼子のように純粋無垢であった。

 おそるべき速度で手に手を取り合う生徒の群れに、限りなく正当性を欠いた理由から唾を吐いていた私であるが、いざ孤立の寒々とした味を知ったそのときから、助けを乞うでもなく、あえて一大自虐パノラマをほしいままにしてきたのはいったいぜんたい何のためであるか。

 理由はたしかにあった。誇りはたしかにあった。沽券は信条は矜持は夢破れた悔恨は、たしかにあったのだ。それはもう有り余るほどに!

 だがしかし、言ってしまうぞ、いいか諸君。

 私はもう、振り返らない! そんな暇は犬に喰わせてやる!

 苦節をともに歩んできたこの魂も肉体も満身創痍であり、限界はすぐそこまで来ていた。君はじつによく耐え抜いた。もはや報われてしかるべき。お天道様はしかとみていらっしゃったのだ。なむなむ!

 

 目的地とは真逆の方角へ全力で走ってきた印象が濃い、そんな月日の総決算。ついにこのときがやってきたのだ。赤面請け合いの一大イベント。そう、女子にプレゼントを渡すその瞬間が――。

 

       ◇

 

 深呼吸を繰り返しながら、努めて「普通の顔」を意識して部室を目指す。

 急ぎ足で向かったが、途中、心を落ち着かせるためグラウンドでのびのびと蹴球に励む生徒たちの姿を眺めたりした。ようやく私も彼らと同じ土俵に立つのだと思えば感慨もひとしおである。青春とは放課後の部活動とみつけたり。硝子に囲まれた部屋に大型肉食獣だと? そんなものはしらん。俺は霊長類だ。

 廊下の角を折れると、奉仕部室の前に人影が見えた。

 にわかにきゅっと股間がすくんで、私はその場に呆然となった。しかし、すぐに気を取り直して部室へと歩き出す。もう何年も特別棟で彼女の姿を見ていないような気がした。

 

「やあ、来たね。由比ヶ浜さん」

「うひゃあ! び、びっくりしたあ……」

 

 由比ヶ浜さんはお化けと遭遇したかのような驚嘆をもって私を迎えた。

 

「やっ、やーその、えっと、うん。来たよ」

「みんな喜びますよ。じゃ、入ろうか」

「ちょ、ちょっと待って! 深呼吸させてっ」

「どうぞ」

 

 失礼にあたる、否、それだけでは済まず全校中の侮蔑の対象になりかねないと頭では理解していても、呼吸するたび上下する由比ヶ浜さんの胸のふくらみから、私は目をそらすことができずにいた。はっと冷静になって視線を動かすと、由比ヶ浜さんはまだ深呼吸している。ジョニーの不穏な蠢動を感じた私は、禅僧のごとく壁に向かって色即是空とは何かを考えることにした。

 

「ごめん、もう大丈夫……だと思う」

 

 私はむっくり振り返る。

 由比ヶ浜さんの顔色はすぐれなかった。「あはは」と、とってつけたように笑っていたが、八の字に寄った眉が愉快な気分ではないことを明白に物語っている。敷居が高いと感じているらしく、部室への一歩を踏み出そうとしない。

 不憫に思うと同時、私は心の中でほくそ笑んだ。もうすぐ、比企谷に対する引け目や同情、あるいは部室の雰囲気を壊すという危惧のすべてが解消され、尚且つ彼女の奉仕的精神が報われることとなるであろう。

 私はドアの隙間から部室内を覗き込む。いつもの席に比企谷と雪ノ下さんが腰掛けて、それぞれ本を読んでいた。傍から見ると異様な光景である。お通夜でもやっているのかなと疑りたくなるような、しんみりとした雰囲気が芬々とドアの隙間から香ってくる。気味が悪いことこの上ない。平生は自分もあの場所に席を設けているのだと思えば、一瞬、何が悲しくてこんな部に所属しているのだろうと、根本的な問題に触れそうになった私は慌てて振り返った。

 

「よし、入ろう」

「……うん」

 

 私はドアをがらりと引いて、「どうもこんにちは」と言った。

 

「諸君、由比ヶ浜さんが来てくれたぞ。喜べ」

 

 バっと風を切る音が聞こえてきそうなほど、勢いよく雪ノ下さんが顔を上げた。続いてのろのろと亀みたいに、比企谷が腐乱した目をこちらに向ける。

 

「由比ヶ浜さん……」

「や、やほー。ひさしぶり、ゆきのん……」

「ほらほら、座りましょう自分の席へ。挨拶はそこで、ね? おら比企谷、こんにちはの挨拶はどうした?」

「……うっす」

 

 我々は自席へと着いた。

 由比ヶ浜さんは後ろめたい気持ちでもあるのか、やや雪ノ下さんから距離を取って席についている。そこで私は何気なく比企谷から離れることにした。必然的に私と由比ヶ浜さんの距離が近くなる。

 

「由比ヶ浜さん、何か飲むかい? ほら、さっさと用意したまえ、君たち」

「だ、大丈夫、大丈夫。あたしぜんっぜんのど渇いてないし」

「そう? 遠慮することないよ。え、本当にいらない? そう、残念だね」

 

 由比ヶ浜さんはひどく畏まっていて、まるで他人行儀であった。あのおそろしく馴れ馴れしい態度がなりをひそめ、まさしく借りてきた猫状態、これは果たして由比ヶ浜さん本人であろうかと思うほどの恐縮振りなのである。

 私は胸を裂かれるような思いにため息をついた。

 非をもって追及することのできぬ事故に心を痛める由比ヶ浜さんは、今、何を考えているのだろうか。私はこの場で言ってやりたかった。――あなたは悪くない、誰も悪くはないんだ。しかし、しいて悪者を挙げるとすれば、それはすなわち比企谷八幡大先生にほかならない。さあ、先生。ここは是非あなたの口から吐露すべきですよ。身体中に澎湃と溢れる懺悔の気持ちを伝えてやりなさい。……

 しかし、私は黙っていた。あくまでもこれは比企谷と由比ヶ浜さんの問題なのである。当事者でない私がぬけぬけと介入するワケにはいかない。謝罪を促すのもスマートなやり方ではないだろう。私の出番は謝罪のあと、贈り物になってからである。私は改めて盛大なため息をこぼした。

 すると、ふいに三人の視線が私に集まった。ところが、反応しようと首をめぐらせたときには手遅れで、すでに視線は外されていた。私は、はてなと思い、比企谷に尋ねる。

 

「ねえ、どうしたの? 俺の顔になんかついてるの?」

 

 すると、比企谷は前日比で二倍は濁っている目を剥いて呟いた。小さな声音だったので、やむを得ず私は椅子ごと比企谷に近づく。

 

「――この空気がわからねえのかよ。ため息とか普通つかなくね? しかもでかい声で俺に聞くし。もう呆れを通り越してすごいよ。おまえ超スゲエ」

「え、え。空気? なにそれ。どういうことだ」

 

 つられて私もこそこそ言う。比企谷は突然、「んふっ」と噴き出して肩を小刻みに揺らした。どうやら失笑を買ったようだ。意味がわからなかったものの、私が滑稽なことを仕出かしたらしいことは察しがついた。むろん腹が立ったので、事態の把握を急ぐ前に、比企谷の本のしおりの頁を変えることで怒りを鎮めた。

 

「な、何を笑っているのかしら、比企谷くん」

「いや、なんでもない」

「そ、そう……」

 

 夕日が差し込んで部室を鮮やかな茜色に染めている。窓の向こうには、水平線に消えなんとする太陽の雄大な姿が見えた。そろそろ日が暮れる。

 雪ノ下さんは机の上の文庫本に目を落としていたが、やがて顔を上げると頬を紅潮させて、「由比ヶ浜さん」と言った。私と比企谷はほんの一瞬顔を見合わせると、とりあえず部長と女子部員のやり取りに集中することにした。

 

「あ、あのっさ……その――」

 

 由比ヶ浜さんはひどく慌てた様子をして、雪ノ下さんが言葉を継ぐ前に口を開いた。

 

「ゆきのん、と、ヒッキーのことで……えっと、話がある、んだよね」

「ええ。私たちの今後のことであなたに話を――」

「いやー、あ、あたしのことなら全然気にしないでいいのにっ」

 

 相手の言葉に耳を貸すのを厭うかのように由比ヶ浜さんが容喙する。雪ノ下さんはいささか驚いて由比ヶ浜さんを見つめた。我々も黙して続きを待つ。

 

「たしかに驚いたというか、えっと、そのちょっとびっくりしたっていうか……。でも、そんなぜんぜん気を遣ってもらわなくても大丈夫だよ? むしろ、いいことじゃん! だからお祝いとか祝福とか、そんな感じだし……」

「よ、よくわかったわね。もしかして知っていたのかしら? そのお祝いをきちんとしたかったの。そ、それにね。私は、あなたに感謝、しているから……」

「や、やだなー、感謝されるようなことなんてべつに、なんにもしてないよ、あたし……」

 

 私は首を捻って比企谷に目で問いかける。やはり思うところがあるのか、比企谷も訝しげな面持ちで頷いた。何かおかしい。客観的に見て由比ヶ浜さんが途方もなく空回っている感が拭えない。

 

「いえ、本当に感謝しているわ。私だけじゃなくて、そこの二人もそう」

「え……?」

「それに、こうしたお祝いは本人の行動如何で催すものではないでしょう。純粋に私がそうしたいだけよ」

「……う、うん」

 

 なぜか由比ヶ浜さんが意気消沈してしまったところで、比企谷が「なあ」と私の耳元でささやいた。

 

「微妙に会話がかみ合ってないように聞こえるんだが」

「だな。由比ヶ浜さんがあらぬ方角へ先行しちゃってるね、どうして?」私も小声で返す。

「知らん」

「嘘をつけ。おまえが関係してるんだろう」

「はあ? なんでも俺のせいにするなよ」

「俗界万斛の凶事皆比企谷という悪漢より来る、なんて言葉があるじゃん?」

「いやいや、――あるじゃん? とか言われても、ねえからそんなもん。さもありそうな慣用句風に作ってんじゃねえ」

「ったく、これだから元凶は。自覚がないだけにタチが悪い」

「だからちげえっての」

 

 ろくでもない会話を切り上げ、改めて二人の様子をうかがうと、雪ノ下さんが救いを求めるように視線をちらちらと投げて寄越していた。あの雪ノ下さんが、困っている。どこからどう見ても困っている。困窮の果てに立ち尽くした迷い子のように、途方に暮れた顔をしている。私と比企谷は一瞬顔を見合わせると、莞爾とした笑みを浮かべて雪ノ下さんを見つめた。端的に言えば日ごろの意趣返しである。紳士たるもの、やられっぱなしではいられない。我々は常に反撃の機会をうかがっていたのだ。雪ノ下さんはますます困惑していく。それでも手は差し伸べない。安易な手助けは相手のためにならないと嘯き、我々はほくそ笑む。日ごろの鬱憤を思うままに解消する。そのうちに我々の嗜虐心は閾値を超え、妙な連帯感でさらなる辱めを与えんと、次なる行動に出ようとしていた。

 しかしそのときである。

 私と比企谷が何か甘味な飲料水を買いに二人を残して教室を出ようとすると、ふいに由比ヶ浜さんが弱々しく呟いたのだ。

 

「あ、あれ? おかしいな」

 

 由比ヶ浜さんは泣いていた。

 

「ごめんね、こんなつもりじゃなかったのに……ちゃんとおめでとうって言いたかったのに……」

 

 我々は、雪ノ下さんも含め皆息をのんだ。

 咄嗟のことで、かける言葉が見当たらなかった。ただ、呆然と小刻みに震える由比ヶ浜さんを見つめることしかできない。彼女は両の手のひらで流れる涙を拭っていた。

 

「ホント、おかしいよね、あたし。何で泣いてんだろ? バカみたいだよね。うぅ……」

 

 私は腫れ物に触るように「えっと」と声をかけた。

 

「あの、由比ヶ浜さん。君はいったい――」

「ごめん……ちょっと、ここにいられないかも。出るね、あたし」

 

 そう言うと、由比ヶ浜さんは立ち上がって小走りに教室を出て行ってしまった。

 教室は水を打ったように静まり返る。しばらく誰も何も口にしなかった。

 開け放たれたドアから視線を移すと、机の上の由比ヶ浜さんの鞄を見て、派手に飾られた鞄だなと、そんな間の抜けたことを私は思った。

 

 



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第十七話

       ◇

 

「どうすんだよこの場合は」

 

 由比ヶ浜さんが部室を飛び出してから最初に口をきいたのは比企谷だった。誰にともなく問いかけられたその言葉は、夏にもかかわらず冷え切った部室の空気の中に溶けてく。

 雪ノ下さんは絶望的な顔をしていた。まさか泣くとは思ってもみなかったのだろう。私だって思わなかった。そもそもなぜ彼女は泣いたのだろうか。突拍子もなさ過ぎて思考が追いつかない。

 

「おい、なんか言えよ」

 

 比企谷がこちらを見ていた。

 私は唸った。由比ヶ浜さんの鞄が目に入る。

 

「鞄置きっぱなしだから、まだ帰ってない。探すか」

「だな。まだ渡してねえし」

 

 誕生日プレゼントのことだろう。比企谷は立ち上がった。

 私もつられて立ち上がる。

 

「雪ノ下さんはどうする? 待っていてもいいけど」

「わ、私は……」

 

 雪ノ下さんは胸に手を当てて動揺を隠しきれない様子だった。眉を寄せて今にも泣きだしそうである。これまで接してきて薄々気づきはじめていたことではあるが、今や明らかとなった。普段の女傑のような振る舞いとは対照的に、じつは雪ノ下さんは存外傷つきやすい性質なのである。それがこういう時に如実に表れる。自身の対人関係的許容量を凌駕する場面において、彼女はひどく脆弱になってしまうのだ。誤解を恐れずに言えば、それは彼女がまともな交友関係を結んでこなかったことが原因であろう。僭越ながら、私も同じだからわかる。

 ――いや、全然違う。雪ノ下さんの場合は、その才色兼備さゆえに並び立つものがいなかっただけで、おまえは単なる阿呆が原因だ、と言う者も少なからずいると思う。黙りたまえ。むやみに本質を突くのは控えていただこう。過程に重きを置こうとするのは愚者によく見られる傾向だ。いずれにしても結果が同じであれば、ほかは些末なことである。

 話がそれた。ともかく、雪ノ下さんはどうしたらいいのかてんでわからない、といった状態だった。まさか、彼女まで泣くことはあるまいとは思うが、そのまさかが起こってしまっては我々には手がおえなくなる。私は比企谷を一瞥してから言った。

 

「由比ヶ浜さんはなにか勘違いをしているだけだと思う。すぐに見つけて戻ってくるよ」

「ああ、俺もそう思うぞ。なんかお前らの会話おかしかったし」

 

 比企谷はそれだけ言うと、「先行くぞ」と残して部室を出ていく。

 私は紙コップに入った紅茶を飲み干して、比企谷のあとを追おうとしたが、ふと立ち止まって振り返った。

 

「そういえば、ケーキ焼いてくるとか言ってたよね。その準備でもしてればいいさ」

「……ええ。けれど、私だけここにいてもいいのかしら……」

「いや、しかしね、由比ヶ浜さんが戻ってきたとき誰もいないとまずいでしょう」

「そ、そうね……」

「もしそうなったらちゃんと引き留めておいてくれよ」

「で、でも……私にできるかしら……そんなこと」

 

 雪ノ下さんは歯切れが悪く呟くようにそう言った。私はすんでのところで舌打ちが出かけたが、なんとか堪えた。彼女は心細いのだ。私が苛々してどうする。

 

「大丈夫。その前に見つけてくるからさ。ともかく用意して待っててよ」

「……うん」

 

 雪ノ下さんは小さく頷いた。その姿があまりにもか細く見えたので、私はどうしようか迷った挙句、意を決して言うことにした。あくまでも発破をかけることが目的なだけであって、苛々を発散するつもりは毛頭ない。

 

「雪ノ下さん。君はさ、部長だよね。つまり上に立つ者としての責任があるの、わかる? いつも傲岸不遜にものをいうんだから、こういうときも貫いてくれよ。いままでだって数百人くらい泣かせてきたわけなんだし、そうもじもじしないで部長らしく堂々としてなよ、ね? それでもだめっていうなら、由比ヶ浜さんが泣いたのは全部比企谷のせいだと思い込むといい。ほら、腹が立つ。ぼっちの分際で人を泣かせるとは太い奴だよ。あとで一緒にぶん殴ろう」

 

 私が捲し立てると、雪ノ下さんは少しは持ち直したらしい。わずかに目を細めて、「数百人も泣かせてないわ。数十人よ」と訂正した。それからため息をつく。

 

「……わかったわ、待ってる。だから早く連れて戻ってきなさいね」

「むろんさ」

 

 私はサムズアップしてニヤリと笑った。そうして教室を出ていこうとすると、いつもの調子で雪ノ下さんの声が飛んできた。

 

「誕生日会をするのだから、最終下校時間までには間に合うようにしてちょうだい」

 

 やれやれ、と私は苦笑した。

 

       ◇

 

 廊下へ出てみると、すでに比企谷の姿はなかった。私を置いて、一人で探すつもりらしい。本気か、と思う。泣き濡れる乙女を見つけ出し、丁重に扱い、なおかつ一度飛び出した部室へとエスコートする無類の荒行を、一人で敢行するつもりなのか。私にはとうていできない。私にできないことが、比企谷にできる法はないだろう。共同で事に当たってしかるべきなのに、無謀にもほどがある。

 しかし、そう考えつつも、比企谷には変なところで実行力を発揮する節があるのを私は知っている。やるときにはやる、という私の苦手とする思想をまれに体現する男なのだ。これと言って提示するのは、私の奉仕部活動に対する暴露的な挑戦になりかねないのであえて語るつもりはないが、彼は過去の依頼にわりと貢献してきたのである。繰り返すようだが、これといって提示するつもりはない。

 ようするに何が言いたいのかというと、比企谷が由比ヶ浜さんを部室に連れてきてくれるのではないか、という人任せな懶惰(らんだ)が私の心に芽生えていたということである。適材適所というじつに素晴らしい四文字熟語もある。少なくとも、私よりは彼のほうがマシであろう。

 畢竟、自身の可能性を入念に考慮して、ここは比企谷に任せるべきだ、と私は断じた。さて、そうなると時間を持て余す。向こう三十分と見積もって部室に戻ればいい。

 私はあてどもなく特別棟をさまよい、中庭を見下ろし、自販機でサイダーを買った。

 喉を潤して、ふたたび足の赴くままに歩いていると、開いた窓から涼やかな風が流れてきた。頬を撫でる感触がひどく心地よい。私は昼休みに弁当を食べる例の校舎裏に行こうと思った。あそこはもっといい風が吹く。図書室などもクーラーが効いていて過ごしやすいだろうが、気分がいいのはやはり自然の風である。

 やるべきことを放棄している事実にやや良心の呵責を受けながらも目をつぶり、飲み干した空き缶を捨てて私は校舎裏へ向かった。

 

       ◇

 

 間が悪いというのはこういうときのことを言うのだろう。

 校舎裏にたどり着くと、そこには先客がいた。咄嗟のことで引き返せなかった私は、膝を抱えて蹲るように座っていた人物が、緩慢とした動きで顔を上げる瞬間を、ただ愕然と見つめているばかりであった。

 私と由比ヶ浜さんの視線がぴたりと合致した。

 彼女はほんのわずかに眉をひそめて、それから弱々しく笑った。

 私は踵を返して脱兎のごとく逃げ去りたい衝動に駆られ、かろうじて頬を引き攣らせて笑みを返す。

 

「ここにいたんだね」

 

 何か言わねばと思い、私は動揺を悟られぬよう努めて冷静に言った。

 

「あはは……ごめんね、いきなり出ていっちゃって」

「あ、うん。え、え、ええと。でも、どうして。いや、別にそのことは全然気にしてないんですが……ただその」

 

 我ながら信じられないほど口が回らなかった。これでは動揺丸出しではないか。私は寸暇を盗んで由比ヶ浜さんに悟られぬよう深呼吸した。少し落ち着きを取り戻す。

 由比ヶ浜さんは視線を足元に落としていた。階段には蟻が這いまわっている。

 

「ただその、どうして――」

 

 泣いたのですか、と尋ねようとしたが、私ははっと口をつぐんだ。

 これでは直截的すぎやしないだろうか。我々は由比ヶ浜さんが何か勘違いをしていると勝手に考えているわけだが、そもそも勘違いごときで泣くものだろうか。もしかするとほかに理由があるのかもしれない。とはいえ人の心は推し難く、度し難い。それが女子高生の胸三寸ともなればもはや神秘の領域である。考えるだけ無駄だ。ここはやはり尋ねるべきであろう。

 私は深刻になりすぎないように問いかけた。

 

「どうして泣いたのかなと。何か理由があるんですか?」

「理由……それはあたしが……なんていうのかな。えっと、あたしがね……」

 

 そこで由比ヶ浜さんは、誤魔化すようにあははと笑った。

 

「えっとね……あたしが勝手に想って、その、勝手に自爆しちゃったって感じかなぁ……もっと早く気づければよかったんだけどね……」

「うん? 思って、自爆? ちょっと意味が」

「いやあ、あはは……かなり恥ずかしいかも。あんまり聞かないで欲しいかなぁ、なんて」

「アッ! すいません。ホント、すいません」

「いやいやっ、こっちこそごめん! あんなふうに出てくなんて、マジ空気読めない子だよねあたし。ゆきのんもヒッキーも絶対怒ってる……ふたりの仲の事ちゃんと話してくれようとしてたのに……」

「雪ノ下さんもあの阿呆も全然怒ってないよ。だいたい今日は由比ヶ浜さんを喜ばそうと思って集まったわけだから」

「うん……でも、きっとあたし、それ喜べないよ……」

「え?」

 

 由比ヶ浜さんは押し黙ってしまった。

 私はやや混乱していた。喜べないもなにも、由比ヶ浜さんは誕生日会のことを知っているのか。知っていて喜べないのか。

 私はまさか、と思った。本日は彼女の誕生日ではない、ということはあり得まいか? なにしろ雪ノ下さんがメールアドレスから推測したまでで、実際に由比ヶ浜さんに尋ねたわけではないのだ。誕生日が違っていることは十二分に考えられる。それなら彼女が喜べないというのも得心がいく。

 私は心底焦りながら言った。

 

「由比ヶ浜さん! 誕生日はいつ?」

「えと……今日、だよ」

「なあんだ!」

 

 私は杞憂だったことに安堵のため息をついて、ひどく咳き込んだ。

 

「え、なに? ていうか大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。由比ヶ浜さんは誕生日のお祝いとかあまり興味がない?」

「へ? ううん。興味っていうか、ふつうに嬉しいよ? 次の休みに優美子たちがお誕生日会やってくれるって言ってたし、すごい楽しみだけど」

「だったら、なぜ? なぜ――」

 

 私は次の言葉を続けようとして、ふと逡巡した。しかし、結局、由比ヶ浜さんを連れて戻るには率直であるべきだと断じる。

 

「喜べないの? これから由比ヶ浜さんの誕生日を祝うつもりなんだけど、なにか不満があったりするのかな」

 

 由比ヶ浜さんはぽかんと口を開けて目を白黒させている。

 

「ごめんっ、ちょ、ちょっと待って……もしかして、今日の集まりってあたしの誕生日のため……なの?」

「うん。本当は部室で驚かそうと思ったんだけど、そういうことなんだ」

「いやいやっ、ええっとね……それじゃあ、ヒッキーとゆきのんは……」

「あいつらがなに」

「……ふたりは付き合ってるんじゃないの?」

 

 私はあからさまに眉をしかめて、由比ヶ浜さんの顔をみつめた。この人は何を言っているのだろう。散々、否定したのを覚えていないのだろうか。雪ノ下さんではないが、失礼ながらやはり彼女は少し馬鹿なのかもしれない。そういうところも好ましい特徴のひとつではあるが、さすがにしつこいと言わざるを得ない。

 

「そんなことはありえない。そう言ったでしょうが」

「なあんだ! あたしはてっきり……」

「付き合っていると思ったんだよね。前も聞いたよ」

「そうだねよね。あはは……ごめんごめん。あー、でもよかったぁ……」

「よかった?」

 

 私は、なぜかその言葉が気になった。由比ヶ浜さんがあまりにも嬉しそうにため息とともに零したからである。

 

「え? や、なんでもない! なんでもないよ!」

「今、よかったって」

「だからなんでもないってばっ! あれっ、そういえばあたし、さっきすごい恥ずかしいこと言っちゃってたかも……」

 

 由比ヶ浜さんは唐突に顔を覆って、指の隙間からちらりと私を覗き見た。

 

「たしかに自分で恥ずかしいとは言ってたけど」

「もしかして、気づいた……?」

「気づいたって、それは――」

「ここにいたのかよ」

 

 私の言葉を遮るようにして、ふいに背後から声がした。振り返らなくてもそれが比企谷のものであると判断がつく。おそらくそれは由比ヶ浜さんも同様であったことだろう。しかし、彼女はまるで雷に打たれたかのように硬直していた。

 

「おまえら、なに仲良く喋ってんだよ。こっちは必死に探したってのに」

 

 そう言うわりには、汗一つかいていない。大方、ぶらぶら歩いていたら偶然我々を見つけたのだろう。

 

「まあいいや。ともかくさっさと戻るぞ」

 

 比企谷が急かすようにそう言った。

 私は振り返って比企谷を一瞥すると、隣の由比ヶ浜さんを見た。

 そのとき私が見た由比ヶ浜さんは頬を桃色に染めて羞恥に悶えるような顔をしていた。驚きながらも目を眩しそうに細め、秘めやかにはにかんで比企谷を仰ぎ見ている。その表情からは、人の胸を高鳴らせるような淡い「青春のかほり」が芬々に漂っていた。まるでもう恋する乙女である。恋する乙女と極めて相似している。むしろ、恋する乙女そのものである。というか恋する乙女である。

 私は、なぜかぎくりとした。

 

「ヒ、ヒッキー……もしかして聞いてた……?」

「なにをだよ」

「ううん、なんでもない」

「あ、そう。ていうかもう大丈夫なのか、おまえ」

「うんっ。あはは、ごめんね。もう全然ヘーキ」

「じゃ、行くぞ」

 

 立ち上がった由比ヶ浜さんはスカートについた埃を払って、歩き出した比企谷の後をついていく。

 一方、何か根本的な世界の理に反するような間違いが今まさに起こっているような気がして、私は不覚にもぷるぷると震えていた。

 

「おいっ、早く来いよ。置いてくぞ」

 

 比企谷がそう呼んでいる。

 私は意思とは無関係に動く体を引きずって二人の後を追った。

 

       ◇

 

 客観的に、事実のみを俎上に載せて、冷厳な目で事態の経緯を見れば、いつだって正しい答えが導き出せる。私は職場見学の日に端を発した比企谷と由比ヶ浜さんの不和について考えてみる。

 比企谷は由比ヶ浜さんの優しさを同情だと決めつけ、彼女を遠ざけるような発言をした。私も彼女の優しさについては、事故によって居場所を失った寂しい男を救わんとする慈愛だと考えていた。だからこそ、由比ヶ浜さんはぼっちの比企谷に近づいているのである。そう信じていた。

 しかし。

 しかしである。もし彼女が、同情から比企谷に優しくしているのでないとしたら――入学式の日の事故はただのきっかけに過ぎず、もっと他になにか特別な理由があるとしたら、それはなんであろうか。

 そこで私は、由比ヶ浜さんが比企谷と雪ノ下さんの交際について偏執的に疑っていたことを考える。電話で話したときだけでなく、さきほどもその疑惑に囚われていたことを考える。そして、彼女が突然泣いた理由を考える。

 すると、我々が下した何かの勘違いという推測が正しければ、由比ヶ浜さんは、比企谷と雪ノ下さんが交際していると思い込んでいて、そのために泣き出してしまったということになりはしまいか。

 嬉し泣きという言葉もあるが、一般的に悲しくつらいときに涙は出るものだ。つまり由比ヶ浜さんは二人が交際していると悲しいということになる。それはなぜか。また、彼女は二人の交際がはっきりと否定されたとき、心の底から安堵した様子を見せた。それはなぜか。

 私の脳裏を、奉仕部で過ごしてきたこれまでの時間が走馬灯のようによぎっていく。天真爛漫な由比ヶ浜さんがいつも目で追っていた人物は誰であったか。そしてつい先ほど、頬を桃色に染めた彼女が見ていた人物は誰であるか。そう、比企谷である。

 ああ、なんたることだ。そこから導き出される苦い結論を呑みこむには、多大な精神の力を必要とした。筆舌に尽くしがたい苦さに堪えるために、私は升一杯の角砂糖を欲した。

 

 「青春のかほり」をまとったパンドラの箱は今開かれた。

 由比ヶ浜さんは比企谷に恋をしているのである。

 



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第十八話

       ◇

 

 気がつくと、私は暮れかかる町を蹌踉(そうろう)と歩いて帰路についていた。途中で、鞄や贈り物を部室に置き忘れていることに思い当たったが、引き返す心の余裕は微塵もなかった。

 家に到着するとそのまま自室に向かい、音高くドアを閉めて、制服のまま布団に飛び込んだ。少し前から携帯電話が何度も着信を知らせている。私はそれをポケットから取り出すと、画面の確認もせず電源を切った。

 私は天井を仰いで、自身の胸に去来する様々な想念を思案した。そうして、なんだこれ、と思った。

 

「なんだこれ」

 

 無意識に口から漏れていた。

 案の定、モヤモヤとして冷静沈着に思案に耽ることはできなかった。どうやら、由比ヶ浜さんが比企谷に恋をしているという事実は、私の繊細微妙な魂を深々と傷つけたようである。

 

「なんだこれ」

 

 だがしかし、どうして私はこんなにもセンチメンタルになっているのだろうか。自分で自分のことがわからない。これではまるで私が由比ヶ浜さんを恋慕していて、その想いが実らなかったかのようではないか。そんなことは断じて認めない。たしかに、私は少なからず彼女に好意を抱いていたが、それはあくまでもクラスメイトや同じ部員としてである。けっして恋人になりたいとかそういう不埒な助兵衛根性はつゆとも抱いていなかったのだ。いや、ちょっとはあったかもしれないが、しかし、それは一般的男子高校生が、「あー俺も誰かと付き合いてえ」と言うような浅はかさに限りなく近い。

 

「なんだこれ」

 

 ようするに、私のこのモヤモヤは、由比ヶ浜さんが比企谷に恋をしているという事実そのものが原因ではないということになる。では、この鬱屈とした感情はなんであるか。

 

「なんだこれ」

 

 そこで私の大脳新皮質は活動を一時停止した。ひどく疲れていて、瞼が重かった。私は不愉快なわだかまりを胸に残しながら、ひとまず睡魔に身を任せることにした。

 

 じつにヘンテコな夢を見て、はっと目を覚ましたところ、すでに朝日が昇っていた。コアラ並みの睡眠時間に呆れ果てながら、顔を洗い歯を磨いた。まだ早朝で、リビングに人気(ひとけ)はない。私は食事まで時間を潰すため、朝の散歩と洒落込むことにした。

 うららかな澄んだ日差しの下、気持ちよく町を逍遥していた私であったが、ふいに昨日のことを思い出して気分が害されてしまった。こんな清々しい早朝に、ふくれっ面をしたみっともない男の姿など誰も見たくないだろう。ご近所の朝を台無しにしては申し訳ないと思い、私は早々に散歩を切り上げて家に戻った。

 誰もいないリビングのソファに腰を下ろすと、しばらくアンニュイに任せてぼおっと窓の外を眺めていた。そろそろ両親が起きてくる頃になって、自室に戻り登校の準備を始める。布団のそばに投げ出された携帯電話がふと目についた。昨日から電源が切れたままである。私は恐る恐る電源を入れた。

 やはり奉仕部の面々から連絡が来ていた。そしてなぜか材木座からもメールと電話の着信が入っている。しかも一番多かった。私は両方とも見なかったことにして再び電源を切った。

 母親が作った朝ごはんを食べ終え、玄関で革靴に足を突っ込んだ。そのときなって、私は学校に向かうのがひどく億劫であることに気がついた。憂鬱である。仮病でもなんでも使って休んでしまおうかしら、と一瞬迷った。しかし己に厳しい私はこれも修行の一環だと考えて、怠惰な魂を奮い立たせ学校へ向かうことにした。

 

       ◇

 

 早くに到着したので教室はまだしんと静まり返っていた。ホームルームまでだいぶ時間がある。

 私は放置したままの鞄を取りに部室へ向かった。

 鞄は元の位置に置いてあった。中を検めると、贈り物の入った紙袋もしっかりある。私は紙袋を鞄から取り出して机の上に置いた。大学ノートを一枚ちぎってメモ書きを残し、紙袋の横に添えておく。そうして、私は鞄だけ持って部室を後にした。

 

 教室に戻ってきた私は、そそくさと席に着くと、心をひそめてセリーヌを読んだ。しかし『なしくずしの死』を読んでいると世界に対するあらゆる憎悪や呪い、怨嗟が込められた内容に、ますます重苦しい気分になってきて、ついには吐き気が込み上げてきた。私はセリーヌを放り出した。顔を上げてあたりを見回せば、いつのまにか教室はがやがやと騒々しくなっている。

 川崎さんがやってきて、「おはよう」と挨拶を投げてよこした。私は軽く頷いて、机に突っ伏した。体調でも悪いのか、と問われたが、返事をするのが面倒で無視した。

 ホームルームが始まったが私は顔を上げなかった。右ひじを枕にしてのうのうと窓ガラス越しの青空を睨みつけていた。空の青さを見つめていると……、というのは谷川俊太郎氏の詩であるが、私は、氏のように空の青さからロマンティックな言葉を並び立てることができない。代わりにできることいっては、暗雲立ちこめる我が心と対照的なその青さに、ひたすらメンチを切ることくらいであった。

 一限目の予鈴が鳴って、私はようやくむっくりと顔を上げた。鞄から教科書を取り出そうとすると、ふと視界の端に比企谷の姿が映った。比企谷は田沼時代並みに腐敗した目でじっと私を見つめているらしい。思わず心臓がどきりと跳ねた。慌てて教科書を引っ掴み机に載せる。しばらくして、さりげなく比企谷の様子をうかがったが、すでに下を向いていたので私はほっと胸を撫でおろした。

 その後の授業には身が入らなかった。私ともあろう人間が、比企谷ごときの視線に臆するというのも忸怩(じくじ)たるものがあるが、如何せん心にやましいところが無いといえば嘘になるのだから仕方がない。自惚れているわけではないが、おそらく由比ヶ浜さんも私の後頭部に何度か目をやったことだろう。

 昨夕は紳士にあるまじき振る舞いをしてしまったと、私はほんのちょっぴり反省した。さすがになんの連絡もせずに帰宅したのは横暴が過ぎたようである。とはいえ、あのとき私は一種の心神喪失状態にあったのだから、それを責められても困る。自己を律することにおいては何人にも一歩も譲らない覚悟を持っているが、精神は人一倍繊細にできているのだ。ときには呆けて約束を破ることだってあるだろう。誰にだって弱点はあるものだ。それを(あげつら)って攻撃するというのは、弱い者いじめにほかならないのではあるまいか。

 私は拳をぐっと握った。そうして、謝らないぞと心に決めた。断固として謝らないぞ。私は悪くない。

 

 昼は校舎裏へ行かなかった。

 なるべく奉仕部の面々とは顔を合わせたくなかった。授業の合間、何度か由比ヶ浜さんが私のところへ来るそぶりを見せていたが、いち早くそれを察知した私は、涙を呑んでトイレに行くふりをしてやり過ごした。比企谷は朝以来、特に何のアプローチもしてこなかった。その無関心が今はありがたかった。

 あっという間にすべての授業が終わって放課後になる。

 私は素早く帰りの支度をして、韋駄天のごとく教室を出た。ちんけな窃盗をしたコソ泥と(いささ)かも遜色のない去り方であったが、呼び止められるよりかはわずかにマシである。むろん、部室に顔を出すつもりなどなかった。さっさと帰宅して、心の安寧を思う存分満喫する腹積もりだ。

 校門までやってくると、私を呼び止める者があった。前傾姿勢でやや俯き、粛々と歩いていたところだったので、ひどく驚いた。

 

「おい、君。部活はどうした」

 

 帰宅する各生徒に別れの挨拶をしながら、平塚先生は朗らかに言った。

 

「まだ帰る時間ではないだろう」

「あ、うんむ」

 

 咄嗟のことで言葉をうまく発せずに、奇怪な音で答えてしまった。咳払いで誤魔化して改める。

 

「期末考査の勉強をしようと思いまして」

「ほう。感心だな……と、言いたいところだが部活動が一斉休止になるのは一週間前からだぞ?」

「はい、承知しております」

「うん? では、なぜだ」

「へへへ」

「へへへ、ではない。君、何か隠しているな?」

「そんなことはございません」

「む」

 

 平塚先生の怜悧な眼光がきらりと瞬いた。私の両足は先生と相対したときからすでに瞬間的な逃走へ向けて張りつめた弓のごとく準備されていたが、こうなったらもはや蛇に睨まれた蛙も同然である。私は諦めて曖昧に笑みを浮かべるほかなかった。

 

「そういえば、由比ヶ浜の件はどうなった」

「どう、と言いますと?」

「彼女は戻ってきたかね」

「ええ、昨日」

「そうか。それはよかった」

「おかげさまで」

 

 平塚先生はにこりと優しく微笑んだ。そのとき、私の脇を姦しい声をあげながら女生徒たち数人が通り過ぎた。

 

「おい、おまえたち。少しスカートが短くないか?」

「えーこれくらい普通ですよー」

 

 生活指導としての職務を全うすべく平塚先生が女生徒たちに注意をはじめる。女生徒たちは臆したふうもなく、和やかに反抗の意を述べている。長い交渉になりそうだった。その隙を見逃す私ではない。女生徒たちのスカートがいかほど短いのか、その露出具合は非常に気になったが、「さようなら」と別れの挨拶を残して、私は一目散に校門をくぐりぬけた。後ろからなにやら穏やかでない言葉が聞こえたが、聞こえないふりで押し通して、家路を急いだ。

 

       ◇

 

 ひとりぽつねんと自室の机に着きながら、精神的ホメオスタシスの不調を引き起こした原因について、私はいくつかの回答を導き出した。簡単に言ってしまえば以下の通りである。

 職場見学を境に引き起こされた不和を、全身全霊を以て解決に挑んだ私であったが、その幕は由比ヶ浜さんが比企谷に恋をしているという青天の霹靂によって閉じられた。由比ヶ浜さんを部に帰還させるという当初の目的は果たせたとはいえ、かような結末は、彼女を取り戻そうとした私の努力を水泡に帰させるには十分すぎるほどであった。汲々として過ごした私の日々が無駄の一言で容易に片づけられるのである。なんと馬鹿馬鹿しいことであろうか。これに納得がいくはずがない。

 また、由比ヶ浜さんに対する私の思いこみが、ものの見事に的外れだったことも挙げられる。てっきり彼女を、慈愛を有した聖母のような女性だと思いこんでいた私の浅はかさは潔く認めよう。しかし、たとえ彼女が聖母でなく、人より割と鷹揚で純粋な一般女性であったとしても、恋する相手として選んだ男がアレでは、さすがの私も心穏やかではいられない。無視してもらって構わないが、これには選ばれたのが私ではなかったという幼気(いたいけ)な微々たる不満も含まれている。

 最後に、そしてこれが一番の原因といって差し支えないのだが、それはほかの誰かが自分のごく近辺で青春らしきことに身を窶していることである。世には、残念ながら高校生を青春とイコールで結ぼうとする悪しき風潮が蔓延っている。そのことを常々苦々しく思ってきたが、私とてそのすべてを拒絶するほど狭量ではない。部活動に汗を流すのもよかろう、町でゲームセンターだのカラオケだので日が暮れるまで時間を浪費するのもよかろう、東京湾に向かって大声で叫ぶのもよかろう、そして、まあ、理不尽な情動である恋愛にうつつを抜かすのだってこの際目をつぶろう。だが、しかしである。それらを青春の被害者である私の目前で繰り広げることは断じて容認できない。できるわけがない。これまで私は、奉仕部という構内の最終処分場のような空間でロシア的宿命主義の名のもとにひたすら我慢を重ねてきた。それもこれも、柔軟な社交性を身につけてあり得べき薔薇色の高校生活を送らんがためである。間違っても他人の青春を阿呆面さげて見物するためではない。青春から疎外されているという不合理な劣等感を味わいながら、これから部内で起こりうる甘酸っぱい心の錯綜を鬱々と眺めているなど、考えただけでも壁に頭を打ちつけたくなる。長くなったが、ようするに他人の青春なんぞ犬に喰われてしまえ、ということである。

 こういうことに心の整理がついたのは、私が奉仕部に顔を出さなくなって一週間が経過したあとだった。

 

 机の半開きになった引き出しから、未来予想図と題されたA4紙に描かれたマスター・ヨーダの絵がのぞいて見える。私はそういえばつい最近も同じような思案に耽っていたと苦笑した。ここ数日は、夏目漱石風の神経衰弱に苛まれて、奉仕部を辞そうかと考えてばかりいる。仮入部なのだから、べつに表立ってわざわざ辞めますと告げに行く必要はないだろう。このままずるずると休み続けてしまえば夏休みも近い、いずれ自然解消となるはずだ。厄介なのはそれを平塚先生が許諾してくれるかどうかである。十中八九、殴られるだろう。残りの一、二割に希望を見出したかったが、やはり殴られる未来しか想像できない。

 さて、どうしたものか。

 辞めるか、否か。

 ふいに携帯電話が鳴った。先ほど調べ物をするために使用したのだが、その後、電源を切るのを忘れていた。ネグレクトするつもりだったが、一向に鳴りやまない。鳴りやんでも二度、三度と立て続けにかかってくる。私は意を決して携帯電話を手に取った。ディスプレイには雪ノ下雪乃と表示されている。

 

「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入って――」

「ようやく出たわね。何度かけさせれば気が済むの、訴えるわよ」

「すみませんでした」

「それで、あなたいったいどういうつもり? 一週間も部活に来ないで。誕生日プレゼントも――」

「そのことなんだけど、じつは奉仕部を辞めようかと考えている」

「……ずいぶん唐突ね。なぜ?」

「なぜって言われても」

「真っ当な理由がなければ話にならないわ。あっても認めないけれど」

「お、横暴だ。校則にあるように一生徒としての権利を主張する」

「大袈裟ね。私はあなたを更生する依頼を受けているの。少なくともそれを完遂するまでは部にいてもらうわ」

「……余計なお世話だ。俺にそんなものは必要ない」

「本気で言っているの? もう少し客観的に自分を見てごらんなさい。あなたほど憐れまれる対象として相応しい人間はいないわ」

「なんてひどい言い草だ。平塚先生に言いつけてやる」

「あら、丁度よかったわ、どうぞご自由に。先生もお話がしたいと待望してらっしゃったの。あなた、生きて帰ってこられるかしらね」

「あっ、あっ、そ、それは脅迫だぞ! 生徒相談室に駆けこんでやる」 

「だから、好きにしなさい。ともかく、私は退部なんて認めません」

「うるさい馬鹿」

 

 私は悔し紛れに毒づくと慌てて電話を切った。苛立ちにまかせて携帯電話を放り投げると、しばらくギラギラした鷹のような目で布団に落ちたそれを睨みつけていた。すると再びその携帯電話が鳴り響いて、私は婦女子のごとく「きゃあ」と悲鳴を上げた。知らない番号であった。むろん、取らなかった。私は鼓動と着信が収まるのを待って携帯電話の電源を切った。

 金曜日の夕闇迫る逢魔が時のことである。

 

       ◇

 

 二日間の休日はいたって平和に過ごすことができた。依然として、部を去るか残留するかについてわくわくと落ち着かない心で思案していたが、天秤は退部に傾くことが多かった。今、あの部に戻っても活路が開ける云々以前に、精神衛生上悪すぎるのだ。

 土曜日はそんなことばかり考えていたが、日曜日は来客があった。失礼な話ではあるが、家を訪ねてくる同級生がいることに母親は顎が外れんばかりに驚いていた。しかもそれが今をときめく女子高生であるに及んで、ほとんど泣きかけていた。父親は泣いていた。我が両親ながらいい性格をしていると思った。

 私はやや気まずげに玄関の戸を開いて、その女子生徒と対面した。

 

「やっはろー。ごめんね、いきなり休みの日に訪ねちゃって」

「大丈夫です。それで?」

「あー、んとね――」

 

 この場では話しづらいこともあるかもしれないと、私と由比ヶ浜さんは近くの公園へと場所を移した。途中で購入した缶ジュースを飲みながら、我々はベンチに腰を落ち着ける。日曜の昼間なので、比較的大きなこの公園には散歩をする家族連れやデート中のカップルなどが見えた。

 

「よくわかったね、俺の家」

 

 私は立ち並ぶ木々の隙間からのぞく遠い景色を眺めながらぽつんと言った。

 

「ヒッキーに教えてもらったんだ。だって全然電話に出ないんだもん。だから行くしかないって」

「なるほど」

「でね」

 

 由比ヶ浜さんは楽しそうにして、抱えていたバッグから小包を取り出した。

 

「お礼がしたくてさ、誕生日プレゼントの。あの目覚まし時計すっごい可愛かったよ、ありがと! これ焼いてきたんだ、よかったら食べて」

「え、え、これを俺に」

「うん」

 

 私は由比ヶ浜さんに手渡されたリボンのついた袋を穴のあくほど見つめた。中身はどうやらクッキーのようだった。あまりの熱視線にそのうち袋が焼け焦げはじめるのではと危ぶまれてくるころ、不安になったのか由比ヶ浜さんが言った。

 

「あ、あのぉ、気に入らなかった?」

「いやや、とんでもありません。大変うれしゅうございます」

「あはは、大げさだなあもー」

「へへへ」

 

 正直に白状すると、私はその場で小躍りしたくなるほど嬉しかった。心に巣食っていた奉仕部に対するわだかまりも、きれいさっぱり失念していたほどである。これぞ夢にまで見た薔薇色のハイスクールライフなのではと半ば恍惚としていると、ふと由比ヶ浜さんが言った言葉で急速に現実へと引き戻された。

 

「あのさ、ずっとサボってたあたしが言うのも変かもだけど、どうして部活に来ないの?」

「それは、その……」

「えっと、別に責めてるワケじゃないから、そんな落ち込んだ顔してほしくないかなあ」

「ずっと考えていたんです」

 

 不安げに私の横顔を覗き込む由比ヶ浜さんの視線に、私は心がすうっと冷めていくのを感じた。

 

「高校一年を棒に振って、二年もこのままなのかとほとんど諦めていたんですが、奉仕部に入ることになって、これは好機だと思いました。それで、なんとなくこうやって数か月過ごしてきましたが……」

「……うん」

「やっぱり何も変わらなかったかなと。今までたくさん依頼はあったけど、そのほとんどを比企谷や雪ノ下さん、それに由比ヶ浜さんが解決しているばかりで、俺はなんにもしていないんです」

「そ、そんなことは……」

「慰めは結構です。ただ事実を言っているだけなので。これじゃあ、居る場所が変わっただけで、一年生の頃と何も変わらない。たしかに比企谷と戯れたり、材木座と馬鹿をやったり、雪ノ下さんに侮辱されたり、材木座を馬鹿にしたりするのは楽しいですが、それって停滞していると思うんです」

「……うん?」

「仮ではありますけど奉仕部に入ってなかったら、もっと別の未来があったんじゃないかな。なにかもっと有意義な、もっと楽しい学生生活を満喫できていたんじゃないかな。そう思いませんか」

「えー、ええっと……そう、かも?」

「俺がいかに学生生活を無駄にしてきたかって、やっと気づいたんですよ。でも、まだ遅くないと思うのです。自分の可能性というものをもっとちゃんと考えてみれば、まだ間に合う。一年生の頃は道を誤ったけど、またここで誤るわけにはいかない。ですから、奉仕部を辞めようかどうか考えているんです」

「え!? マジ!?」

「マジです」

「ほえーっ……」

 

 由比ヶ浜さんは口を半開きにして私をまじまじと見つめていた。

 近くで見ると、由比ヶ浜さんはやはりとても可愛らしい顔をしていた。奉仕部のごときなんだかよくわからない生徒が集まる部ではなく、もっとキラキラとした爽やかな汗の飛び散る活発的な部に入るべき人の相がありありと見て取れる。なぜ彼女は奉仕部なんぞに所属しているのかと一瞬考えた私は、そういえばそうであったとひどく幻滅した。

 

「人ってそう簡単に変われないと思うんだ。けど周りはすごい早さで変わってく。あたしなんか追いつくのに必死で必死で、もうわけわかんないって感じ。でもね――だからさ、どこに居たって、その環境で精一杯やるしかないんじゃないかなぁ、なんて。そうすれば、ゆっくりだけど人は変わると思うの。あははっ、なんか偉そうでごめん」

 

 由比ヶ浜さんは少しだけ声を落として言った。

 

「あたしさ、四人でいる奉仕部、好きなんだ」

 

 俯きながら組んだ手の爪の先を凝視していると、由比ヶ浜さんが私の肩を叩いた。そうして、「聞いてた?」と尋ねてくる。私は頷いた。

 

「うん、好きなの。誰かひとりでもいないと、奉仕部じゃないみたいでさみしい。でね、あたしが休んでたときも、みんなはこんな気持ちだったのかなって、自意識過剰かもしれないけどね、そう思ったんだ。どう、かな?」

「はい。皆とても寂しかったと思います」

「そっか。あはは、嬉しいな……そ、それでね! やっぱりヒッキーもゆきのんもなんだか元気ないの。張り合いがないって思ってるみたいで」

「俺がいなくて?」

「うん」

「そんな馬鹿な。嘘に決まってる」

「ううん、絶対そーだよ! もう二人ってばホントわかりやすいもん」

「……ちなみに、それは由比ヶ浜さんも?」

「だから、さっき言ったじゃん、さみしいって」

「ふーん、へえ……ふぅん」

「あ、なんか、その反応腹立つ」

「すみません」

 

 それから我々は黙々と缶ジュースを飲んで、休日を思うさまに満喫する人々を眺めていた。サッカーボールを蹴っていた小学校低学年くらいの男児が勢い余って転ぶと、由比ヶ浜さんは素早く立ち上がって手を差し伸べた。擦りむいた膝小僧を近くの水道で洗わせて、どこからか取り出した絆創膏を傷口に貼り付けてやっている。泣きべそをかいていた男児は、彼女に頭を撫でられて優しく微笑まれると、小さくお礼を言ってからべえと舌を出して去っていった。なんと羨ましいくそ餓鬼であろうか。

 

「帰りますか」

「うん、そうだね」

「これ、ありがとうございます。美味しくいただきます」

 

 そう言うと、由比ヶ浜さんは朗らかに笑った。

 



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第十九話

       ◇

 

 一時の感情に流されては、自己を律している紳士とは言えない。たとえお手製のクッキーを貰ったからといって、それが死ぬほど嬉しいことであっても、懐柔されることなく冷厳な思考で物事を判断するべきである。私は、「由比ヶ浜さんもああ言っているし、あの捻くれ野郎と傲然お嬢様もさみしいらしい。ここはいっちょ奉仕部に戻ってやるか」と考えつつある自分を厳しく叱咤した。虚心坦懐に現状を再認識してみるがよい。実際、何も変わっていないことが明々白々ではないか。私はそんな簡単な男ではない。むしろ複雑すぎて感情をぐずぐず弄んでしまい腐りかけているほどである。由比ヶ浜さんには申し訳ないが、安易に復帰することは精神の敗北だと私は考えた。

 ともあれ、由比ヶ浜さんが贈り物に満足していることは非常に嬉しかった。私が丹念に物色して選抜した狸時計が、彼女の一日の始まりを告げているというのは感慨深いものがある。これはもう私が起こしているといっても過言ではなかろう。

 変態的妄想にとりつかれながら、私はチョコチップが散りばめられたクッキーをふくふくと頬張った。

 

       ◇

 

 放課後が目前に迫るにつれて、私の意気はゆるく消沈していった。あれからいろいろ考えた挙句、奉仕部に凱旋するつもりで顔を出してやろうと決めたのだが、今はもうそんな気もなくなっていた。

 諸君には申し訳ないが、いまだに私は感情をぐずぐずと弄んでいる。どっちつかずの優柔不断がここにきて大いに躍如しているのだ。埒が明かない根性なしだと罵ってくれて構わない。

 奉仕部のことを考えるにつけ、そして、はにかみながら恋する乙女の表情を惜しげもなくさらす由比ヶ浜さんの顔を思い起こすにつけ、何か苦いものが体内でむくむくと膨れ上がった。私は形容しがたい苛立ちの矛先を恋せぬものは人にあらずという昨今の恋愛至上主義に突き付けた。そうして、胸中で一通りまんべんなく罵倒すると、あとには虚しさばかりが残ってひどく寒々しい気持ちに襲われた。不覚にも「俺だって恋してえよ」とゾッとするほど悲しい心の叫びがこぼれ落ちた。

さすがに気色悪いひとり言だと思って、私ははっとした。

 昼休みに入ったばかりで周囲は騒々しい。辺りをうかがって誰も聞いていなかったことに安堵しかけた瞬間、後ろの川崎さんと目が合った。

 川崎さんは、人を小馬鹿にするような、それでいて微笑ましいとでも思っているような生暖かい目で私を見ていた。

 

「聞かなかったことにしてくれ」

 

 私は机に突っ伏した。窓から飛び降りてやろうかと本気で思った。

 

「ま、頑張んなよ」

 

 賭けてもいい。きっと川崎さんはニヤつきながら言っている。

 

 結局、その日も奉仕部に顔を出さず帰宅した。

 

       ◇

 

「なあんにもやる気が起きない」

 

 自室に帰ってきて机に座り、しばし壁に貼り付けられたガッキーのポスターをぼんやりと眺めたのち、私はふいにそう呟いた。今日も今日とて私を見つめるガッキーの笑顔は天使と見紛うばかりに可憐であった。しかし、そのあまりの眩しさゆえ直視し続けるにはある程度心のゆとりが必要であり、今の私にそれは皆無であった。ガッキーの笑顔は人を狂わせる。

 ポスターから視線をそらして、今頃奉仕部ではどんな会話が交わされているのだろうかと想像した。大方、比企谷と雪ノ下さんが唾棄すべき舌戦を繰り広げていることだろう。間に挟まれて由比ヶ浜さんが苦笑している。いたって平常運行の奉仕部である。想像するまでもない。

 このままずるずると休み続けていれば、澄ました顔で部に戻ることができなくなるのではないかと私は思った。休んでなどいなかったかのように平然と復帰するのが最も好ましい。間違っても「恥ずかしながら帰ってまいりました」などと言うつもりはない。ないのだが、如何せん間隔が空きすぎているため、もはやどんな顔をして部室に戻ればいいのかわからなくなっている。これは非常にまずかった。経験に即して考えれば、この場合、面倒事を避けて通る公算が高くなる。すなわち、部に戻る戻らない以前に、「どんな顔で戻るか」というわけのわからない問題をこねくり回した挙句、ついには嫌気がさして思考停止に陥り、結果、すべてを投げ出してしまいかねないのだ。そういうところが私にはあった。

 であれば、いっそすべてをなかったことにしてしまったらどうだろう、ふと私は考えた。すると、それはただ元の状態に戻っただけに過ぎず、かえって日々の煩わしさから解放されて身軽になるのではないかと考えた。いまさら孤独の味を舐めることに恐れを抱く私ではない。何度も言うようだが、奉仕部に入っていなければもっと別の未来があったのだ。これはまだ見ぬ大洋に漕ぎ出す好機なのかもしれない。恐るべき不遇の果てに帆はついに風を孕んだのだ。

 

「でもなあ……由比ヶ浜さんにクッキー貰っちゃったしなあ」

 

 由比ヶ浜さんのクッキーは本当に美味しかった。神棚に捧げられているものと比べたわけではないが、かなり腕前を上げたようである。私と違って彼女は刻一刻と成長しているのだ。恋の力というやつだろう。まったく不可解で、そしてひどく羨ましかった。

 私はガッキーの眩しい笑顔に問いかけた。

 恋というのはそんなに素晴らしいものなのか。偉いものなのか。

 そんなことはあるまい、と私は戒めをこめて自答した。

 見たまえ。テレビのワイドショーでは連日不倫騒動やら痴情のもつれやらを取り上げているではないか。ときには殺人事件にまで発展してしまう災禍が恋愛なのである。我々はもっとその危険性に目を向けなければならない。しばしば「愛情が歪んだ」という表現が使われるが、恋愛というものは始めからどこか歪んでいるのだ。にもかかわらず、なぜ世の連中はああも嬉しそうに、幸福そうに、ほくほくと満足しているのか。

 人々は狂気の淵に喜んで身を投げ、溺れる姿を衆目にさらす。未だ身を投げざる人々は、可及的速やかに身を投げたい、身を投げていない自分は幸せではない、恥ずかしいとさえ思っている。断じて違う。恥ずかしいのは、溺れている姿であり、溺れたがっている姿なのだ。

 恋愛はあくまで背徳の喜びであり、できることなら人目を避けて味わうべき禁断の果実である。それを、さも人生に当然実る果実のように、ところ構わず食い散らし、汁気を他人に跳ね散らすことの罪深さを認識せねばならない。

 由比ヶ浜さんは果たしてこの残酷な真実に気がついているだろうか。否、きっと歯牙にもかけていないだろう。恋は盲目だという。きっと彼女には比企谷しか見えていないのだ。

 しかしそんな由比ヶ浜さんに言いたい。

 ひたむきなのは結構。

 しかし――。

 

「もうちょっと、ほんのちょっとだけでいいから俺にも気を遣っていただけないだろうか」

 

 私は手元にあった袋から()()()()のクッキーを取り出して音高くかみ砕いた。

 

       ◇

 

 その日の夕刻、好きな作家の新刊が発売されたということで、私は行きつけの本屋へと出かけた。

 日頃の運動不足と著しい体力の低下を阻止すべく、動きやすい恰好に着替えて目的地まで走ることにした。ひいひい言いながら汗を流し、滅多なことはするものじゃないなと後悔し始めたころようやく本屋にたどり着いた。新刊を購入して、いくらか店内で涼んだ後、ふたたび私は走りだした。ところがものの数分で力尽きた。己の体力のなさに愕然としつつもふらふらと町の中を歩き、緑道まで差し掛かったところで、ふと私の真横に真っ赤なスポーツカーが下品な排気音とともに停止した。

 すわ拉致か、と私は身構える。反射的に右手でポケットをまさぐって携帯電話を取り出した。いつでも通報する準備はできている。迅速な反応と言わねばなるまい。

 左のドアがやや斜め上方に開いた。2シーターの車内から姿を現したのは平塚先生であった。

 

「奇遇だな。運動かね?」

 

 平塚先生は私の恰好を見ながら言った。

 

「ジョギングをしていました」

 

 何かの事件に巻き込まれるようなことにならなくて私はほっと安堵していた。それだけに極力避けていた人物に遭遇してしまったことに対して、あまり注意を払っていなかった。

 平塚先生はしばし私を見つめていたが、やがて突拍子もないことを言った。

 

「乗らないか? 私の運転、見たいだろう」

「いや、全然興味ありません。遠慮します」

「まあ、そう言うな。アストン・マーティンなんて、ほいほい簡単に乗れないんだぞ?」

「僕、フェラーリが好きなんです。アストンマーティンなんて知りません。どこの車ですか」

「いいから乗れ」

 

 私はおとなしく助手席に乗り込んだ。決して鉄拳が怖かったのではない。平塚先生の承認欲求を満たしてやろうという涙ぐましい親切心である。勘違いしてはいけない。

 

「どうだ、エンジン音がたまらないだろう?」

「すばらしいです」

「そうだろう、君もわかる男じゃあないか」

「うれしいです」

「ふふっ、さあ、スピードを上げるぞ! 565馬力を見せてやる」

「ははあ」

 

 袖の下を渡す悪徳商人並みによいしょよいしょしていると、ふいに悪代官は車を止めた。どこかの幹線道路上である。

 

「君、お腹は空いていないか」

「いえ」

 

 私は一応断るそぶりを見せた。じつのところ猛烈に空腹であった。有酸素運動と追従運動でエネルギーをやたらと消費していたためである。

 

「子どもが遠慮するものではないよ。ラーメンでも食べないか」

「いただきます」

 

 我々は平塚先生が行きつけだというガード下のラーメン屋へ赴いた。

 平塚先生が語ったところによると、なんでもこのラーメン屋は狸から出汁を取っているという噂があるらしい。ずいぶん不気味な話だが、真偽はともかくとして味は無類だと先生は太鼓判を押した。

 私はどこかに狸の骨でも浮いてやしないかと、湯気を上げるラーメンをとくと凝視した。スープは黄金色で透き通っている。大きなチャーシューがでんと存在を主張していて、その脇に白くなめらかな卵が浮いていた。食指をそそられた私は、この際、狐だろうが狸だろうが構わぬとスープを一口すすった。なるほど、絶品である。細かいことを述べるつもりはない。とにかくたぐいまれなる味だ。私は唸って、次から次へとスープを口に運んだ。

 

「美味いだろう」

「美味いです」

 

 あっという間に狸ラーメンをたいらげた我々は、狸のような風貌をした毛むくじゃらな店主に礼を言って店を出た。辺りはすでに夜の帳が下りている。先生は「家まで送ろう」と言って、アストン・マーティンに乗り込んでいく。特に異議もない私は助手席に座った。

 フロントガラス越しに夏の夜の街が飛ぶように過ぎていく。エンジンの細かな振動がお尻を伝って体に妙な刺激を与え、それが心地よく満腹感も相まって私は眠気を催していた。うとうとしながら、ぼんやり等間隔で並ぶ街路灯を目で追っていると、何気なく平塚先生が言った。

 

「部活に出てないそうだな。辞めたいのか?」

 

 私ははっとした。やにわに眠気が吹き飛ぶ。

 

「すみません」

「謝らなくてもいい。訊いているだけだよ」

「どうでしょうか。そうかもしれません」

「何かあったのかね」

 

 私は言葉に窮して黙り込んだ。

 

「話したくなければかまわない。こちらも無理に訊こうってんじゃあないんだ。学生の時分は悩みの一つや二つくらいあるさ。だろう?」

「ええ」

「しかし、君は奉仕部とうまく馴染んでいると思ったんだがな。傍から見てとても楽しそうにしていたよ」

「そうでしょうか」

「うむ。君たちを引き合わせた判断は正しかった」

 

 赤信号で車が停止する。横断歩道を部活帰りの高校生集団がにぎやかに通り過ぎていく。

 

「奉仕部に足を踏み入れたのは間違いなんじゃないかと最近よく考えるんです」

 

 私は言った。先生は黙って聞いている。

 

「先生に促されて奉仕部に身を置いたときは大きな期待がありました。ですが、正直なところ何も変わりませんでした。おそらくそれは僕の態度にも問題があったのでしょう。ですが、それなら奉仕部に居ようが居まいが関係ありません。いずれにせよ現状に満足ができないのであれば、放課後の時間を取られない自由な生活のほうがいいです」

「何かほかにやりたいことがあるのかね?」

「いや、特にはないです。ただ、奉仕部で得られたものなんてほとんどないように思うんです。だったら、自力で何かを探すべきだ。僕、これからは生まれ変わろうと思うんです」

 

 車が走り出した。先生はまっすぐに進路方向を見つめている。

 

「得るものがなかったと、君は本気で言っているのかね」

「……だって、事実、得たものなんて――」

「君にとって比企谷はなんだね? 雪ノ下は、由比ヶ浜は?」

「……」

「彼らはただの部員だと、そう言いたいのか。放課後に顔を合わせるだけの知り合いだと?」

「違うんですか」

「それは君の胸に尋ねてみればいい。答えはそこにあるよ」

「……ずいぶんロマンチックなことを言いますね」

「知らなかったのか? 私はロマンチストなんだ」

 

 先生は笑った。私は無表情だった。

 

「本当に辞めたいのであれば止めないよ。本気で生まれ変わろうとしているのなら応援もする。

 しかしな、君。もう少し、周りをよく見てごらん。君は君が思っている以上に周りの人間に影響を与えているんだ。むろん、逆もまたしかりだ。私は君がこのまま奉仕部にいてくれると嬉しいよ。そしてそれが君のためにもなると信じている。ああ、これじゃあズルいな。頼んでいるみたいに聞こえてしまう」

 

 先生は苦笑すると、「私は先生だからね、どんな未来を選ぼうが君の味方だよ。好きにするといい」と言った。

 

「ありがとうございます」

「いいさ。少年、大いに悩みたまえ」

「悩むのはもういい加減にしたいです」

「そうかね。ははは」

 

 見覚えのある街並みが見えてきた。先生はコンビニの駐車場に車を止めた。私は礼を言ってドアを開ける。

 

「ごちそうさまでした」

「またいつか連れて行ってあげよう。ああ、それと。君はなぜ私の電話に出ない」

「電話?」

「何度もかけたんだがね。雪ノ下に君の番号を聞いたんだ。知らない番号は出ないとでも決めているのか?」

 

 私はここ最近よくかかってくる謎の電話を思い出した。普通、数回無視されれば諦めるのが常人だが、その電話の主の執着心といったら恐るべきものがあり、さすがにここまで執拗だとまともな人間ではあるまいと警察への相談も考えていたところであった。あれは平塚先生だったのか。

 私はゾッとして曖昧に笑った。こういうところに先生の独身たる理由があるのだと思う。根深い問題だ。

 

「ちゃんと登録しておけよ。事あるごとに電話してやるからな」

「は? やめてください」

「じょ、冗談だよ。即答で拒否するとはな。しかも真顔だし。ははは……」

「あの、本当に冗談ですよね?」

「だからそう言っているだろ。失礼だぞ君。なんだね、私からの電話が嫌なのか」

「さようなら。またご馳走してください」

 

 私は頭を下げて、車から離れようとする。

 

「お、おい。嫌なのか? 君、どうなんだ? おい、答えろ」

 

 夜風に涼みながら家路をたどる。

 平塚先生の晴れ舞台はきっと遠いだろう。なむなむ。

 

 



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第二十話

       ◇

 

 翌日のことである。

 登校して日がな一日、重苦しい気持ちで授業だ委員会だと立ち回ったあげく、私はふらりと部室の前までやってきていた。案の定、ドアにかけた手が震えている。たかが部室の引き戸が刑務所の堅牢な鉄扉のように感じられた。

 なるほど、これはなかなか重症だな。ほんの数日離れていただけとは思えないほど、奉仕部との心理的距離が開いてしまっている。今、顔を出したら十中八九恥を晒すことになる。うごうごと情けない台詞を吐き散らかして弁解したが最後、私と奉仕部の間にはマリアナ海溝に匹敵する溝が生まれてしまうことだろう。そうなればすべてがご破算だ。今の私にチャレンジャー海淵にまで潜って土を盛り上げていく気力はない。

 私は手を引っ込めてポケットに収めた。

 なんとなくここで幕引きな気がした。この足で職員室の平塚先生を訪ねて、退部届を貰ってもいいかもしれない。いずれにしても、ふらふらと優柔不断をやっているのもそろそろ限界である。とにかく何か誘因となる行動を起こすべきだ。退部届を前にすれば、また何か考えることがあるかもしれない。

 そう思って私が踵を返したときである。

 

「ようやく出てくる気になったのね」

「うわっ」

 

 雪ノ下さんが神妙な顔つきで私の傍らに立っていた。

 私は情けない叫び声もそこそこに、身を翻して廊下を駆け出した。

 

「待ちなさい」

 

 背後から鋭い声が届く。首をめぐらせて後ろを一瞥すると、雪ノ下さんが追いかけてきていた。

 

「なんと! インドア派のくせして!」

 

 階段を転がるようにして下ると、目につく角を何度か折れて校舎裏まで走り抜けた。ともすれば廊下に崩れ落ちて自分で自分を誉めそうになる衝動を堪えて、私は常日頃昼食をとる階段までたどり着いた。どっと息をついてへたり込む。否応なしに突き付けられたおそるべき持久力のなさに苦笑を禁じえなかった。中学の頃はもう少し走れていたはずだ。

 素早くあたりを見回す。人影はない。とりあえず巻いたようで、ほっと安堵する。ところが、ふいにどこからか小さな悲鳴らしき音が聞こえてきて、私はまさかと身構えた。

 息を切らしながら忍び足で壁際に近づくと、窓からこっそり校舎の中をのぞいた。なにやら女生徒が廊下のど真ん中でうずくまっている。片方の足首をさすっているらしい。

 

「むむっ」

 

 それにしても惜しい、非常に口惜しい。あと数センチ左足をずらせば、天下の大秘宝を礼拝できるというのに、この角度がなんとも絶妙だ。見えそうで見えない。

 私は逃げていることも忘れて、激しい呼吸の合間で女生徒を凝視した。

 客観的に見て、言い逃れできない行為である。弁護の余地のない変態である。恥を知るべきである。が、しかしである――ああ、恥を忍んで己の欲求を偽ることなく続行すべきか、青少年の健全的な道徳心を選ぶか、河豚は食いたし命は惜ししとも言うが、まさにこのような状況を的確に表現しているあたり、昔の人は優れた文彩を有しているのだなあ、しかしながら、結局のところ先人はどちらを選択したのであろうか、河豚を食ったうえでの栄光ある死か、はたまた――いやいや、それよりもあれは雪ノ下さんではないか。

 

「雪ノ下さん!」

 

 私ははっとして駆け寄った。

 

「大丈夫?」

「……ええ、少し足をひねったみたい」

「それはいけない。保健室にいこう」

「これくらい、平気よ」

「ほら、でも一応。折れているかもしれないし」

 

 雪ノ下さんは苦悶の表情で呼吸を落ち着かせていた。さすがに看過することはできなかった。私は雪ノ下さんをゆっくりと起こして、肩を貸した。そのまま保健室まで連れていく。

 保健室は無人だった。入口に掛けられたホワイトボードによると養護教諭は会議に出席しているらしい。しばらくすれば戻ってくるようだ。

 雪ノ下さんを丸椅子に座らせて、私はその傍らに立った。

 

「とりあえず安静にしていたほうがいい」

「……そうね」

「痛い?」

「少し」

「軽い捻挫だといいけど」

「ええ」

 

 ふと猛烈に後ろめたくなって、私は頭を下げた。

 

「すみませんでした。自分でもなんだかわからないうちに逃げなくちゃと。まさか雪ノ下さんが追いかけてくるとは思ってなくて」

「べつに謝る必要はないわ。転んだのは私の不注意よ。追いかけたのも私の勝手だから」

「だけど――」

「それより、ここまでありがとう。助かったわ」

 

 彼女は私の二の句を制してそう言った。

 

「いえ、とんでもないです」

 

 エアコンがよく効いている室内は肌寒いくらいだった。

 数日ぶりに対面した雪ノ下さんは眉を寄せて難しい顔をしている。明らかにご機嫌は芳しくない。言うに及ばず、それも当然である。ここで刺激してしまうのは、逆鱗をやすりがけするに等しい。また、雰囲気もよろしくなかった。万人が可能な限り避けて通りたいと願う「気まずい状況」であり、ひとたび口を開けば間の抜けた会話になること請け合いだった。

 私は、ここで例の件を追及されたらなにかよからぬことを口にしてしまうと考えた。三十六計逃げるに如かず、これは早々に退散した方が良さそうだ。

 

「あの、んでは、俺はこれで」

「待ちなさい」

 

 雪ノ下さんは鋭く私を見据えた。

 私は、「へえ、なんでしょう」と大店の小僧じみた態度と台詞でおどけてみせたが、案の定場の空気はいっそうに冷え込んだ。やれやれ、というやつである。

 

「何か不満でもあるのかしら?」

「はい?」

「だから、奉仕部に不満でもあるのか、と訊ねているの」

「え」

「……それとも、私に対して、かしら」

 

 ほんの瞬きの間だけ雪ノ下さんの瞳は不安げに揺れた。それから射貫くような視線が私に注がれる。

 私は慌ててかぶりを振った。

 

「雪ノ下さんに不満なんてあるわけないよ」

「……そう。それはよかったわ。では、奉仕部に?」

 

 ないといえば嘘になる。否、大嘘になる。しかし、それだけだろうか。本当に不満だけしかないのだろうか。昨夕の平塚先生の妙に勿体ぶった表情と言葉が脳裏によみがえってくる。大して顧問らしいこともしていない分際で、何を利いたふうな口を叩いているのだと家に着くやいなや心中で大閉口だったが、一考の余地は少なからずあった。

――君にとって比企谷はなんだね? 雪ノ下は、由比ヶ浜は?

 私にとって彼らは何なのだろうか。センチメンタルに心のチエノワを弄ぶのは大嫌いであったが、珍しくそのときは頭を悩ませた。一人一人の顔を瞼の裏側に描きながら、感傷的な自分に嫌悪を感じつつも、あと一歩で廉恥的皮膚から蕁麻疹が表出するという段階で、一個のあやふやな答えが導き出された。

 もしかすると、彼らは「友達」なのかもしれない。

 部員という下知にも似た学校側からの識別的呼称を超えた、ひとつの自由意志。発端は半ば強制的ではあったものの、ことさら意識することなく私が獲得したらしき関係性。やはり、もしかするとこれは一般的にいうところの、「友達」というやつなのかもしれない。しかしながら、袂を分かつこと幾星霜、それについて慮ることを忌避し続けた結果、もはやそれが如何なる定義を持つのか私にはわからなかった。

 友達とはなんぞや?

 

「友達とはなんぞや」

「……」

 

 うっかり心の声が漏れていたようで、雪ノ下さんは鳩が豆鉄砲を喰らったようなおもしろい顔をしていた。ところが、すぐに何かを悟ったようで、さらに表情を険しく歪めてからふっと緊張を解いた。

 私は自身のあまりの阿呆さ加減と間を置かずして訪れる雪ノ下さんの反応に戦慄した。

 彼女が言う。

 

「たしかに、あなたを更生するという依頼は果たせていないわ。……私だって、思うところがないわけではないの。あれだけの壮語を吐いておきながら、あなたを一向に更生させることができないなんて、ええ、それは間違いなく私の落ち度よ。けれど、あなたがここまで悩むなんてね。普段の様子から、友達なんて一顧だにしない人だと考えていたのだけれど、部活動を休むほどだとは思ってもみなかったわ……全く気が付かなかったの、ひどい怠慢よね。本当に、ごめんなさい。まさか、あなたが悩むほど友達を欲しがっていたとは……」

 

 私は小さく「あらら」と呟いた。

 もはやなんて言い訳をしていいやら、これはちょっと収拾がつかなそうである。しかし私の不手際といえども、雪ノ下さんの自己完結・早合点も大概だ。自省するのは結構だが、着地点が大幅に逸脱しすぎである。勇んで先頭を歩いたあげく、自身が致命的な方向音痴だとはつゆ知らず仲間を山中に遭難させてしまうタイプに違いない。こういう手合いは過失を責めると開き直るのがもっぱらである。虫の居所が悪ければ激昂することもままありうる。慎重に言葉を選ばねばなるまい。ああ、なんてこったい。

 

「いや、あのですね。けっしてそういうわけではないのです」

「……どういうこと」

 

 途端にぶすっとした表情になる雪ノ下さん。扱いづらいことこの上ない。

 

「まあ、我々はいったいどういう関係なのかと、ちょっと考察して参ったわけでして。これはじつのところ深遠な問題なのですが――雪ノ下さん、怒るのはあとにしてくださいね。つまり、奉仕部に所属するだけの意味が欲しかったのだけれども、考えてみればそんなものはないと思ったんですよ」

「……ない」

「うん。ただ、平塚先生に雪ノ下さんたちは君の何だ、とか言われましてね。困ったんです、いやいやそんなの部長と部員だろうと。それ以外に何かあるのかと。

けれど、ふと思ったんですよ。もしかして我々はすでに部員という枠を超えているのかもしれない。気づいていないだけで、はたから見ればそうなのかもしれないって。もちろん、きみらはどう思っているのか知らないけど、あくまでもこれは俺個人の話であって」

「それは……」

「まあ、あれですよ。あれ」

 

 決定的な言葉を使うのは憚られた。もう一度自ら口にしてしまったらなんだか負けという気がしたのである。

 

「……そんなことを、考えていたのね」

「うむ」

 

 雪ノ下さんは目を伏せて言った。

 

「友達、ね。私にはわからないわ」

「でしょうね」

 

 間髪を容れずに私が返す。

 

「……失礼よ」雪ノ下さんはむっとした表情をしてから続けた。「友達の意味は別として、あなたは私が友達だと言ったら、……それで、満足なのかしら」

「さあ、どうかな。それって確認をとる類のものだとは思わないし、そもそも、その関係性というのは相互的なものじゃない。相手の心は分からないわけだし、どこまでいっても結局は一方的なものなんだ。ようするに、俺がどう思っているのか、ということが重要になってくる」

「はあ、面倒な男ね。それで?」

「だから、言ってるだろう。友達とはなんぞや。その定義がわからないから、判断できないの」

「なるほど。では、奉仕部を休んでいる理由はそこにあるのね」

「いや、全然ちがう」

 

 私が言下に否定すると、雪ノ下さんは目を見開いて唖然とした。

 

「は?」

「そんな些細なことで俺はうじうじと深くは悩まないし、部活を休むつもりもない」

「……ごめんなさい、頭が混乱してきたわ。あなたは何を言っているの? もしかして喧嘩を売っているのかしら」

「いや、えっと」

 

 私は大きく息をついてから口を開いた。

 

「不満があるのかって訊いたよね。詳しく話す気はないけど不満はある。奉仕部にいて何か人間的に成長したかといえば、むしろ退化している気がするし、だいたい俺がいなくても奉仕部はうまく機能すると思う。けど、不満しかないかと考えたとき、平塚先生の言ったことが思い浮かんだのよ。俺が得たもの――俺にとって奉仕部の面々は果たして、……うんぬんかんぬん。とまあ、そういうわけだ」

 

 雪ノ下さんはじっと私を見つめて、それから胸に手を当てて考え込み始めた。私の語った内容に思うところがあったらしい。長い睫毛が瞬きのたびに細かく揺れていた。

 私はそわそわと落ち着かない気持ちで雪ノ下さんを見る。

 

「……きっと、それはあなた自身で答えを出すべきものよね。友達に関しては由比ヶ浜さんに訊いてみてはどうかしら、比企谷くんや私よりは適任だと思うわ」

「べつにそこまで――」

「それと」

 

 雪ノ下さんがふいに語気を強めて言う。

 

「人間として成長しないのは奉仕部のせいではなく、あなたに問題があるからよ。依頼を遂行できていない点から考慮して、雀の涙ほどの責任はたしかに私にもあるけれど、それでもやっぱり張本人であるあなたの意識の低劣さが原因ね。あまりふざけたことを言わないでちょうだい」

「……ひええ」

「だから、あなたはこれからも奉仕部にいなければダメよ。依頼を受けた私の立つ瀬がないじゃない。放棄なんて許されないわ。あと、あなたが奉仕部に役立っているかどうかだけれど、それを決めるのはあなたじゃない――この、私よ。私が奉仕部に残りなさいと言っているのだから、残ればいいのよ。余計なことは考えないの、わかったかしら」

 

 だいたいあなたがいなかったら誰が比企谷くんの相手をするのよ、と雪ノ下さんは最後に付け足して尊大な御高説を締めくくった。頬がやや薄紅色に染まっている。私は、「相手をしているのはあんたじゃないか」と強く思った。

 

「返事は?」

「ハイ」

「よろしい」

 

 私は思わずこくこくと頷いていた。どうやら雪ノ下さんの言辞には人をして喜々と頭を垂れさせる圧倒的な魔力があるらしい。熱狂的な信者を持つ教祖みたいな人である。

 しまった、と思ってから私は反論した。

 

「おいおい、勝手に決めないでくれ。俺にだって選択の権利はある」

「あら、いま返事をしたじゃない」

「それは成り行きで……ともかく、俺はもっと有意義に高校生活を送りたいんだ。奉仕部にいて叶う気がしない」

「有意義って、たとえば?」

「易々と口にしていい代物じゃあない。そして口に出して説明すべきものでもない」

「大方、恋愛とか青春ごっこがしたいのでしょう」

「まっ、なんてことを言うのです!」

 

 核心を突かれたかたちの私は、ぶざまなほどに狼狽えた。

 

「いったい、どうして、そんないきなり……」

「よく知らないけれど、一般に高校生ってそういうものじゃない。比企谷くんも、法界悋気を持て余しているってあなたのことを評していたし」

「くそっ、あいつ、ぶちのめす」

「もしかして図星なのかしら?」

「ば、馬鹿なことを言うんじゃありません! 俺はもっとこう、なにか深く思索をめぐらせて世のため人のためにと……」

「ふふっ、阿呆ね。語るに落ちているじゃない」

「うるさい、笑うな」

「大義を掲げるのも青春したいのも勝手だけれど、部活動には出なさい。奉仕部に所属していたからって他を犠牲にする必要はないのよ」

「雪ノ下さん、なにか勘違いをしているようですが、ぼくは青春に対して海よりも深い怨恨を抱えている男ですよ。そんなぼくが、やれ恋愛だ友情だに現を抜かすなんて、ちゃんちゃらおかしいじゃないですか。おかしいんですよ!」

「心配しないで、あなたがどんな恥ずかしい変態的願望を持っているかなんて誰にも言わないから。それより、もう行くわよ。湿布を貼ったから、あとで先生に伝えておかなければね」

 

 雪ノ下さんは丸椅子から立ち上がると、トントンと床を足で叩いた。もう痛みはある程度引いたらしい。

 

「どこに行くの」

「部室よ、決まっているじゃない」

「俺は行かないぞ」

 

 私が肩をいからせていると、雪ノ下さんは澄ました顔で言った。

 

「由比ヶ浜さんが出ていったときのこと覚えているかしら。約束をしたでしょう? 早く連れて戻って来るようにと頼んで、あなたは親指を上げて了承したはずよ。部長らしく堂々と言わせてもらうわ。約束は守りなさい」

 

 ぐうの音も出なかった。いたしかたあるまい。

 とりあえず私は、どこかほっとしながら恭順の意を装うことにして、楽しげな雪ノ下さんとともに部室へと向かった。

 

「お茶くらいは出るんでしょうね」

「そうね、熱い紅茶なら」

「冷たい玉露で頼む」

「死になさい」

 

 さすがにひど過ぎると思った。

 

       ◇

 

 一寸先も見えない荒涼とした高校生活のさなかに立ちつくし、私は幾度となく多数の私と議論を交わしてきた。一年生の二学期初日、天照大神のごとく天岩戸ともいうべき心の殻に閉じこもることになったあの日から今日に至るまで、定期的に意見を交換してきた会議場に、長い廊下を伝って、私はいま赴いている。

 私が登壇して、「奉仕部に復帰をしてみてはどうだろうか」と提案すると、議場は興奮の坩堝と化した。

 

「情けないぞ。あれだけ世の中に迎合しないと嘯いていたくせに」

「どうせ寂しくなったんだろう。兎みたいな男だな。人類としての誇りはないのか」

「一年前の誓いを忘れたとは言わせんぞ。この卑怯者め。歯を食いしばれ」

「青春ってなに? それ教科書に載ってるの? 面白いの?」

「由比ヶ浜さんは可愛いよね。でもそれだけサ。彼女には審美眼がない」

「裏切られたんだよ? 奔走して必死に彼女を連れ戻して、でも裏切られたんだよ? 比企谷だよ? ねえ、マゾなの?」

「鉄槌を下そう。奴は粉々にされてしかるべきだ」

「有意義な学生生活を送りたいなら、勉強をしよう。高校生の本分は学びだよ。しかし、奉仕部なんかにいて勉強ができるものかな」

「猥褻なことで頭がいっぱいなんだろう。所詮それだ。筋金入りの助平野郎め! エッチな雑誌で満足してればいいものを」

 

 ついに私は堪えかねて反論した。

 

「黙れ黙れ! たしかに猥褻なことで頭はいっぱいだが、この際それは関係ないだろう! 皆、待っている様子だし戻ってもなんら差し支えないではないか」

「ならば問おう。貴君はそれでいいのか? 流されるままに門戸をくぐり、何も成しえず負け犬のごとく逃げ出して、挙句の果てには尻尾を振って首輪で繋がれる。果たしてそれでいいのか? 貴君に意志はないのか?」

「意志はある。しかし、期待に応えるというのも、また大事なことだ」

「何を偉そうに! 貴君はただ逃げているだけに過ぎない。暗い土の中から一時的に陽の当たる地上に顔を出しても、根本的解決にはならんぞ。過去を肯定することから始めよ。奉仕部というぬるま湯で傷を癒そうとしても過去からは逃れられないのだ」

 

 私は身悶えするほかなかった。

 

「けど雪ノ下さんが……」

「女史の言うことなど放っておけ! あれはいささか乱暴だ、話にならぬ。そも、貴君は婦女子に強制されるほど軟弱者であったか? わかったら家に帰って、ショーペンハウアーの幸福論を百回音読しろ!」

 

 私は憤怒に膨れるだけで反論できず、「いやだ! 青春を謳歌するのだ!」と叫んだ。

 

「明快に説明せよ。青春とはなんぞや。友達とはなんぞや。恋愛とはなんぞや。貴君が今この時、奉仕部に帰還すべきだと主張するのならば、以上について万人の納得する定義を論理的に提示せよ」

 

 一斉に罵倒が飛んでくる。卑怯なり、裏切りなり、謀反なり、助平なり、阿呆なり、無謀なり……あらゆる罵倒を総身に浴び、壇上にある私は息も絶え絶えであった。

 

「しかし、諸君!」

 

 私は両手を上げ、満場の論敵たちに向かってかすれた声で叫んだ。

 

「しかし、一般の高校生はそれらを俎上に載せて論理的に考えているのであろうか。定義や根拠などと諸君は求めるが、そんなことに拘泥している暇があれば彼らはとっついてひっついて円満な関係を築くことに注力するのではないのか。あらゆる要素を仔細に検討してみても謎が謎を呼ぶだけに過ぎず、結果として虚空に静止する矢のごとく、我々は足を踏み出せなくなるのではないか。性欲なり流行なり俗物なり妄想なり阿呆なり、何と言われても受け容れる。いずれも当たっていよう。だがしかし、あらゆるものを呑み込んで、たとえ行く手に待つのが未曽有の悔恨であっても、闇雲に跳躍すべき瞬間があるのではないか。今ここで藁にも縋る思いで跳ばなければ、未来永劫、薄暗い青春の片隅をくるくる回り続けるだけではないのか。諸君はそれで本望か。このまま鬱々とした高校生活を送り、明日ある若者が内向的愚痴をだらだら零し続けるという切なすぎる未来を望む者がいるか。もしいるならば一歩前へ!」

 

 議場は水を打ったように静まり返った。

 私は疲れ果てて壇上から下り、また長い廊下を伝って、はっと我に返った。

 雪ノ下さんが訝しげに眉を寄せていた。

 

「何をしているの。さあ、入るわよ」

 

 いつの間にやら特別棟にたどり着いている。

 

「やっぱり行くのか……」

「当たり前でしょう」

 

 雪ノ下さんが部室のドアをがらがらと引いた。

 私は表情を引き締めて、数日ぶりに奉仕部へ足を踏み入れた。

 

 

       ◇

 

 こうして私は奉仕部に一時帰還した。

 部室にはすでに比企谷と由比ヶ浜さんの姿があり、我々の到着を一方は無表情で、一方はとびきりの笑顔で迎えてくれた。

 どんな話をしたかはよく覚えていない。一、二週間程度の不在を責められることはなく、ただ平生と何ら変わり映えのしない緩慢な時間が過ぎていたように思う。それが私にはわりと心地よかった。

 由比ヶ浜さんの顔を見つめ、視線を転じて雪ノ下さんを眺めた。いまさらながら、二人ともキレイな鼻をしているなと思った。比企谷に目を移す。相変わらずのスカした佇まいである。私は椅子を寄せると、彼の読んでいる小説の結末を微に入り細に入り克明に囁いてやった。比企谷は顔を歪ませて激怒していたが、いい気味だと思った。

 斜陽が部室をやさしく包み込む。そろそろ下校の時刻だった。

 突然、ふわふわとした妙な心持ちになってきて、あやうく涙を流しそうになった。しかしそれは自己を律する紳士のやり方ではない。私は涙を堪えて、きわめて冷静な表情を維持しつつ立ち上がった。

 

「えー、みなさん。お話があります」

 

 その日を最後に、期末考査のため奉仕部の活動は休止となった。

 

 そして同じく、私も「フルモデルチェンジする」と言い残し、奉仕部から退くことを言明した。

 

 

 



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第二十一話

       ◇

 

 その年、千葉を含む関東一帯を襲った八月の暑さは筆舌に尽くしがたいものがあった。ただでさえ覇気のない私の顔が、汗や脂や他にいかんとも形容しがたい男汁のようなものに覆われて、見るも無残な猥褻物の様相を呈していた。これで往来を歩こうとするならば官憲の世話になる覚悟が必要である。きっとお巡りさんもそんなことで労力を使いたくなかろう。世の中のためにも、暑さを追い払わねばならない。わずかな隙間でもあろうものなら自室が熱帯と化してしまうため、私は窓やドアをぴしゃりと閉じてメーターが半狂乱に回るのも厭わず、冷房でこれでもかと部屋を冷やした。

 しかしながら外に出てしまえば、ものの数分で汗が滝のように流れ始める。喉が渇いて水分を摂取すれば、それに応じて加速度的に汗となって体内の水分が失われていくような気がした。私はおびただしく流れる汗の有効活用として、含有されるナトリウムを取り出して塩を生成し、「男塩」として売り出せないものだろうか考えたのだが、それくらいには暑さにやられて錯乱していた。

 朝のニュースでは観測史上五番目の猛暑だという。これより暑い年が何度もあったのかと私は絶句した。こんな時に思い起こすのはK君のことである。たとえ極寒の零下であろうとも彼は薄着で日々を送り、アイスをぺろぺろ美味しそうに食して我々の心胆を寒からしめ、暖房器具を断固拒絶した無類の暑がりである。

 

「冬は涼しくて良い」

 

 それがK君の口癖であった。

 茹だるような暑い夏は不愉快であるが、凍りつくほど冷やしてある彼の部屋は御免こうむりたい。私は小一時間で凍死しかけた経験を持っている。いくら暑いからといって夏に凍死しては本末転倒どころの騒ぎではない。落語家も吃驚仰天のオチである。おそらくK君は今頃凍てつく部屋で悠々自適に読書でもしているのだろう。さもなくばドロドロに溶けて排水溝にでも流れているかもしれない。

 氷河期に生まれていれば、彼はヒーローになれたろうと思う。毛皮を腰に巻き、颯爽と氷河の上を走って行く彼の姿は勇ましい。考えてみれば、世間は生まれる時代を間違った人間でいっぱいである。私もまた、そうだ。

 私はもっと評価される時代に生まれるべきだった。彼らは間違っていて、私こそが正しい時代。そんな時代に生まれていれば、向かうところ敵なし、アッと言う間に人心を掌握し、酒池肉林で自由自在、そのうちにファンクラブが出来上がり、やがてはゴルディオスの結び目を一刀両断にして、アレキサンドロス大王にも不可能だった世界征服への梯子を駆け上がれたというのに……。

 そんな妄想を弄びつつ、私は容赦ない夏の日々を一日一日と刻んでいた。

 

       ◇

 

 日没が近づき、ようやく暑さが和らいできた頃、私は電車に乗って近くの繁華街へ出かけた。

 怠惰極まる不毛な夏休みを少しでも有意義なものにするため向かったのは、某予備校の夏期講習である。賢明なる諸君にはお分かりのことと思うが、私の成績は決して悪くない。むしろ学年では上から数えた方が早いくらいである。ゆえにここへ来たのは学校の勉強のためではなく、大学受験を視野に入れた先見的対策のためである。私のような人間がわざわざ暑い夏に街へ繰り出すからには相応の立派な理由があるというものだ。

 まだまだ受験ムードとは程遠い高校二年生を対象とした国立理系クラスは、ぱらぱらと一握りの豆をまいたぐらいの生徒しかおらず静かだった。私は教室の中央あたりに腰を据えた。

 机に置かれた講義予定のプリントをぼんやり眺めていると、ふいに傍らから視線を感じた。間を置かずして、人影がぬっと眼前に現れる。プリントの活字が影になって大変読みづらい。我を邪魔する奴は何者ぞと、私は鋭い一瞥を投げかけた。

 

「なんだ、川崎さんか」

 

 私は早鐘を打つ心臓を落ち着けながら言った。乱暴な人間だったらどうしようかと、やや不安だったのだ。

 

「うん」

 

 川崎さんは頷き、となりの席に腰を下ろした。

 

「あんたも受けてたんだね」

「え、そこ座るの?」

「悪い?」

「いや、うん、悪くはないが……だけどなあ」

「じゃ、いいじゃん」

 

 川崎さんはTシャツにデニムの短パンと何と言うのか知らない黒い股引みたいなものを履いていた。足元はサンダルで、まるで今から海にでも行くような恰好であった。

 艶やかなポニーテールを揺すって、川崎さんは鞄から携帯電話を取り出した。なにやら含み笑いで操作している。漏らすまいと努めているらしいが、口元の笑みを隠し切れていない。本人はさぞかし愉快なのだろうが、はたから見るといささか気色が悪い。注意しようか迷ったが、面倒なのでそっとしておくことにした。

 私が視線をプリントに戻そうとすると、「ねえ」と声がかかった。

 

「見たでしょ」

「見たよ。楽しそうだったね。よかったね」

「べつに、楽しいとかじゃないから」

「あ、そう」

「ていうか、人の顔じろじろ見るとかやめなよ」

「ごめん。しかしだね、そんなに顔を赤らめるくらいなら、公共の場でにやつくのも遠慮すべきだろう」

 

 川崎さんははっとすると、顔をぶんぶん振って辺りを窺った。幸いなことにまだ人は少なかった。誰もこちらを気に留めていない。

 

「そんなににやついてた?」

「それは、もう」

「ほんとに?」

「不気味なくらいね」

 

 川崎さんは俯いてまた顔を赤くした。普段、滅多に見ることができないその様子がなんだか微笑ましく、私もにやにやとねぶるように彼女を観察した。

 講義が始まった。内容は難しかったが、ついていけない程ではない。はじめは顔色を忙しく変えていた川崎さんであったが、いざ講師が話し出すと銀狼の名に相応しい凛とした表情を見せていた。どうやら彼女の方も理解がしっかり追いついているらしかった。

 

「そこそこ難しいね」

 

 すべての講義を終えて、川崎さんが言った。

 

「けど、あたしちょっと自信出てきたよ」

「ふぅん」

「これくらいなら国公立目指せそう」

「文理選択は決まっているの?」

「うーん、まだ。はっきりさせるのはもう少し先かな」

「へえ。ま、急ぐ必要はないもんな」

「あんたは?」

「理系だ」

「ぽいね」

 

 私は筆記用具をしまうと、ポケットから飴を出して口の中に入れた。川崎さんにも一応勧める。

 

「ありがと。……黒飴」

「なんだよ、文句ある?」

「いや、ないけど。あたしも好きだし」

「へえ。それでは俺はそろそろ」

「あ。あたしも帰るわ」

 

 我々は揃って予備校を出た。夜はだいぶ深まっている。ネオンが潸然と輝く繁華街をまだ高校生である男女が歩くのはいかにも危険であったが、駅までの一番の近道ということで我々は足早に通り過ぎた。

 

「そういえば、スカラシップ取れたよ。あんたたちのおかげでさ。ありがとう」

「お、それはめでたい。すごいじゃん」

「うん。あの時、あんたらの助言があって本当に良かったよ。大志ともうまくやってるからさ」

 

 大志って誰だ、と私は思ったが適当に頷いておいた。

 

「でさ、そのことについて比企谷たちにもお礼がしたいんだけど、連絡してくれない?」

「自分でしたまえ」

「あたし連絡先知らないんだよ」

「……聞けばいいじゃないか」

「今夏休み。しばらくそんな機会がないじゃん。ていうか、会えたらお礼してるっつうの」

「知らん」

「部活あるんでしょ。そのときでいいから」

 

 自然と顔が強張る。私は自分でもにわかには信じがたいほどか弱い声で言った。

 

「ちょ、ちょっと、部活はアレなんでね」

「はあ? なんて?」

「部活は出てないからさ」

「どういうこと?」

「……辞めたんだよ」

 

 正確には辞めていない。退部届を受理してもらえなかったのだ。平塚先生に提出したのだが、「これは預かっておく。気が向いたら取り戻しに来なさい」とけんもほろろに返されてしまった。あの時は何の権利があってそんなことをするのだと詰問すべきだった。そもそも私は仮入部なのである。とはいえ、私の方ではすでにケリはつけたつもりだ。もう奉仕部活動をすることはないだろう。

 そういえば、奉仕部の面々は先週、平塚先生とともに千葉村へ行ったそうである。平塚先生はもとより由比ヶ浜さんや雪ノ下さん、そしてなんと比企谷までもが、その様子についてメールを送り付けてきたのであるが、なんて反応をしていいのやらわからなかった私は、毅然とした態度で無視を決め込んだ。予想はしていたが、平塚先生のしつこさには頭が痛かった。というより現在進行形で悩まされている。この先返信しなければ、延々と活動報告のメールが続きそうである。一体、彼女の何がメールを送るという行為に走らせるのか。私には謎であった。その情熱をもっと他に向ければ、きっと今よりも幸せな未来が開けるであろう。

 

「マジ?」

「マジだ。比企谷のメールアドレスを教えるよ」

「あんた、大丈夫?」

「なにが」

「何がって、すごい表情に出てるけど。見てて痛々しい」

「悪かったね。もともとこんな顔なんだ」

「……あっそ。そんな顔、一度も見たことないけどね」

 

 それきり駅まで黙って歩いた。

 私は無性に腹が立っていた。理由は判然としないが、むやみに腹立たしかった。心中で、形をとらないあやふやな影を散々に罵倒することで一旦は落ち着いた。密かに深呼吸を繰り返して気を取り直しているうちに駅までやって来ていた。

 私はスマートフォンを操作して電話帳を呼び出した。比企谷の連絡先を表示させ、川崎さんに手渡す。

 

「どうも」

 

 川崎さんは二つのスマートフォンに目をやりながら連絡先を打ち込んでいた。

 

「はい、ありがと」

「ふん」

 

 私は鼻を鳴らして受け取った。スマートフォンの電源を落とすと、黒々とした画面に暗澹たる男の顔が映り込む。

 

「あたしの連絡先も入れといたから」

「え」

「一応世話になったんだし、何かあったら言いな」

「世話をした覚えはない。俺は何もしてないから」

「人の厚意は素直に受け取りなよ」

 

 まさか川崎さんともあろう人間が、私を気遣っているのであろうか。もしそうならば、今の私は、孤高無頼の銀狼でさえも憐憫を感じてしまうほど惨めな奴ということになる。冗談ではない。余計なお世話である。

 

「やかましい。川崎さんごときの手助けなんて――」

「あ?」

「失敬。早速なんですが、ラーメンを奢ってください」

 

 強烈な眼光を一身に浴びて、私は瞬間的に敗走した。彼女がこれまでで一番恐ろしい顔をしていたのだからしかたない。

 

「むり。お金ないもん」

「はあ。んじゃ、もうべつにいいです」

「……あんたがさ、教室であたし以外と喋ってるとこ見たことないんだけど」

 

 ふと川崎さんは声の調子を変えて言った。

 

「まあ、それはあたしも同じなんだけどね。だから困ってたら、さ。言いなよね」

 

 川崎さんは驚くほど真剣な顔をしており、茶化す気など毛頭ない様子が窺えた。本気で心配しているらしい。私はそこに母性の瞬きを見た。なんでも彼女には下に兄弟が二人いて妹もいるという話である。生来の世話焼きなのだろう。普段の人を寄せ付けない態度はただ社交性が著しく欠落しているだけであり、本来の彼女は真心を持った性根のやさしい人なのだ。どうやら彼女という人間を見誤っていた。すると、彼女は私を弟のような存在とみなしているのかもしれない。

 川崎さんの顔を見つめる。高校生という若さで臆面もなくこれだけのことが言えるのだ。少なからず好意を持っている人間に対するはにかみがあってしかるべきなのだが、微塵にも表れていない。もしかしたら私のことを好いているのかとちょっぴり期待してみたが、これは相違なく母性的感情のようだ。

 私は川崎さんをお姉ちゃんと呼びたくなった。

 

「では、そういうことなら」

「ん」

「あのね、ぼくって男性としての魅力ないかな」

「は?」

「ないかな」

 

 川崎さんは救いがたい阿呆を見つけたような目つきをしたが、考える素振りなく「うん、ない」と即答した。

 私はゴビ砂漠に吹く風のような乾燥した笑いを零して手を挙げた。

 

「さいなら」

「え? じゃ、じゃあね。気を付けて」

 

 同じ電車に乗ることを避けるため、私は一度逆方面に向かってから帰宅した。

 きらきらと流れゆく車窓の風景を眺めながら、筋トレをしよう、そう思った。

 

       ◇

 

 夏期講習の課程をすべて終え、学校の課題も粗方こなしてしまった私は途方に暮れていた。

 俗称コロコロとかいう掃除用具で我が愛すべき四畳半を三往復し、布団を干して、窓からホトトギスを眺め、その鳴き声に耳を澄ませてから珈琲を飲み、またコロコロで一往復したあげくに珈琲を飲んでも、まだ昼前であった。おそろしく暇である。もはや拷問に近い。

 私は部屋の隅に投げ出してあった携帯電話を手に取った。不承不承の体で、受信の欄を見る。

 

「夏の休暇、いかがお過ごしであるか。

 我はすでに宿題を終え、日々原稿の執筆に心血を注いでいるのであるが、このあたりで気分転換が必要ではないかと思い始めておる。

 なにぶん忙しい身ではあるが、骨休めを怠っては真の傑作を産むことはできないであろう。(これ)、芸術家の辛いところなり。

 さて、数少ない我のオフの日をおぬしに知らせておこうと思う。じつのところ、昨日まで体を痛めつけ死に物狂いでペンを握っていたおかげか、明日からは時間を作ろうと思えば、作れないこともないのだ。驚きなさるな、なんと最終日までである。これは相当に稀有なことだと考えていただきたく候。我もこんなに進むとは思わなかった。本心としてはさらなる刻苦勉励で執筆を続けたいところであるが、無理は体に毒である。そこで、致し方なく休養を取ろうという決断をしたのだ。

 長くなったが、もしおぬしが我と遊びたいと言うのであれば、それを拒む理由はない(何度も言うようであるが、我にも息抜きが必要)。暇な日があれば連絡求む。いついかなるときに次の予定が埋まってしまうかわからない。おぬしのためにも、なる早でよろしくお願いし候。」

 

 言うまでもなく送り主は材木座で、メールを受け取ったのが一週間前である。何度目を通しても怒り心頭に発すること必定(ひつじょう)で、その点に関していえば飽くことなき煽り名文句と言えよう。

 私は頭に血が上るのも我慢して、拷問に近いこの閑暇と材木座を天秤にかけた。しかしながら、否、当然であるわけだが、それはいずれにも傾かなかった。つまり材木座との交遊は拷問に等しいという結論が出たわけである。これにはさすがの私も薄情すぎやしまいかと恥じ入りかけた。だが、次の瞬間に届いたメールによってその気持ちも霧散した。

 

「こんにちは。

 夏休みはどうですか? ぼくは結構楽しんでいます。

 それはそうと、突然ですが明日か明後日、ひまですか?」

 

 私は単純素朴こそ真理である意味をこの時に悟った。たった三行に、レトリックも機知も世辞も作法も超越した、手紙の深奥を垣間見たのだ。手紙とはかくありなん。材木座よ、お前はまず手紙とは、メールとは何かを考えるべきだ。

 私はメールの送り主である戸塚君に間髪を容れず返事をした。待たせていいはずがない。ああ、声が聞きたい。戸塚君の成長期を素通りした玲瓏たる肉声で鼓膜を震わせたい。だが急いては事を仕損じる。この場合、電話をするのは礼節に(もと)るであろう。焦らずともすぐに会えるのだ。

 それから私は戸塚君と何度かメールのやり取りをした。むろん、材木座のことはすっかり念頭から抜け落ちていた。

 明日は戸塚君と逢引きである。

 

       ◇

 

 その日、私は自宅を出て、海浜幕張駅構内にある喫茶店を目指した。

 午後一時に昼食をとることになっていたから、正午に戸塚君と待ち合わせて珈琲を飲む約束を取り付けた。遅刻せぬように、私は午前十時に家を出なくてはならなかった。そのために午前五時に起床しなくてはならなかった。なぜならばシワのない服を選ぶのに半時間、シャワーを浴びて髪を乾かすのに一時間、歯を磨くのに五分、髪を整えるのに半時間、昨夜考えた機転の利く会話の予行演習に数時間を要し、多忙を極めたからである。

 京葉線に揺られながらざわざわと落ち着かない心を鎮めていると、車掌のアナウンスで目的の駅に到着したことを知った。私は慌てて電車を飛び降りた。夏休みということもあって、家族連れや、同じ歳の頃の若者で駅の歩廊は混雑している。

 改札を出てすぐそばにある喫茶店に私が入ったのは、午前十一時であった。まだ一時間の余裕がある。カウンターで珈琲を受け取ると、窓際に席を占め、文庫本を取り出した。

 浮き立つ精神を統一するには読書が一番である。『奥の細道』を読んでいると、自然と私の心は漂泊の思いにさすらった。ちなみに芭蕉の句で私のお気に入りは、「鎖あけて月さし入れよ浮御堂」である。いつの日か風光明媚な滋賀の満月寺浮御堂を訪ねてみたいものだ。

 そういう風にして心を落ち着けていると、いつの間にやら約束の時刻が近づいていた。文庫本をしまって、「よっしゃ、いつでも来い」と準備を整えていると、喫茶店の入り口に戸塚君が姿を現した。

 私は浮かびかけただらしない笑みを押しとどめ、頭を下げる。戸塚君は天真爛漫な輝く笑顔を見せて、手をぱたぱたと振った。それに応えるべく手を振ろうとした時である。戸塚君の背後に何やら圧倒的に不気味な人影を認め、私は思わず悲鳴を上げそうになった。

 喫茶店に現れたのは戸塚君だけではなかったのである。

 彼のうしろを不吉な影を背負って立っていたのは、あろうことか材木座、そして比企谷だったのだ。

 



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第二十二話

       ◇

 

 天使が引き連れていたのは、妖怪ひねくれ小僧と唾棄すべき不束馬鹿であった。二人が、まるでそこの角を曲がった地獄の一丁目からやって来たというような、いつにも増して深みのある顔をしているのは、おそらく私の逢引きを台無しにすることに無上の喜びを感じているからに違いない。

 私は戸塚君の手前でありながら一切の配慮なく、開口一番に言った。

 

「おい、おまえら。ぶち殺されたいのか」

「八幡よ。これは明白な脅迫行為と捉えてよろしいか?」

「そのようだな材木座。よし、法廷で会おう」

 

 材木座と比企谷は気色の悪い笑みを浮かべながら喜々として言った。

 

「すみやかに黄泉の国へ帰れ。そして二度と戻って来るな。ここはお前らの居ていい世界ではない」

「な、言ったろ? 絶対こんな反応するって」

「久しく見ないうちに、ずいぶんと尖ったようだな。それでこそ我が盟友よ。フハハハハハ」

「戸塚君、これは何かの間違いだよね。俺、霊感が強いから視えちゃうんだけど、戸塚君には後ろの悪霊は視えてないよね?」

「こらこら、失敬であるぞ。たしかに亡き足利義輝公の激烈な魂を受け継いでおるからといって、我自身はまだ生存している」

「くそ、視えるだけかと思えば、声まで聞こえてくる。まずいな、霊道かもしれん……戸塚君、ここは空気が悪い。ささ、二人でどこへなりとも行きましょう」

「相変わらずひでえこと言いやがる。戸塚、友達は選んだ方がいいぞ。こいつと一緒にいると阿呆がうつるからな」

「喋るな、低級霊! 祓うぞ!」

「まあまあ、三人とも落ち着いて、ね? 喧嘩はだめだよ」

 

 眉をひそめながらも口元を綻ばせて戸塚君が言った。

 我々はぴたりと口論を中断する。そうして同じような卑猥な面で、戸塚君の庇護欲を駆り立てる小動物のような顔に見惚れた。かわいい。

 

「とりあえず、ぼくたちも飲み物買ってくるね。待ってて」

「うん」

 

 私が頷くと、戸塚君を先頭に「休日の昼下がり似合わない選手権」の堂々一位と二位が金魚の糞よろしく、カウンターへ並んだ。それにしても材木座は真夏日だというのに、相変わらず丈の長いコートを着込んでいる。根性なしのくせに余計な忍耐力は持っているらしい。見ているだけでこちらの体感温度が五度くらい上昇しそうだ。クソ暑苦しいから、上着をすべて脱ぎ去って、猥褻物陳列罪で捕まればいいと思った。

 

「おまたせ!」

 

 戸塚君がにこにこと楽しげにトレイをテーブルに置いた。

 私は満面の笑みで迎える。

 続いて比企谷と材木座がテーブルに着いた。

 

「おまたせ、だぞっ」

「まった~?」

 

 二人は潰れかけのカエルが絞り出す断末魔にも似た、かすれた裏声で言った。

 

「おまえら、マジで東京湾に沈めるぞ。いいか、次に口を開いたら、俺は犯罪者になる覚悟だ」

「きゃっ、こわ~い。はちま~ん、助けてえ」

「ふえっ、怖がっちゃだめだよっ、義輝! これは阿呆の愛情表現なんだぞっ」

「あはは……」

 

 戸塚君が苦笑いをしている。私は理性を総動員して怒りを堪え、有り余る妄想力を駆使してここが戸塚君と自分二人だけの空間だと思い込もうとした。しかしながら、案の定、それは難航を極めた。矮小でありながらも影響力だけは凄まじい陋劣な二つの存在が、私の清らかな魂を刻一刻と汚染していくのである。可愛らしい男子生徒の形をとった有意義な夏休みの一日が雲散して霧消していく。ああ、戸塚君、俺は気が狂いそうだ。

 私はとりあえず隣に座った比企谷の肩を満腔の力でもって殴打し、次いで材木座は無視するという意志を固めた。

 

「ちょ、おまっ、本気で殴るなよ」

「これくらいで済んだことを僥倖と思え、しかるのち死ね」

「ほんとに喧嘩はだめだよっ!」

 

 珍しく戸塚君が強い口調で窘める。

 私と比企谷はすぐさま低頭した。

 

「もうっ、せっかくみんなで集まったんだから仲良くしようね」

「そうだぞ。おぬしたち、いつまでそんな小童みないなことをやっておる。恥ずかしくないのか」

「材木座君もだからね」

「う、うむ。もあっはっは」

 

 私は珈琲を一口すすると、戸塚君に何ゆえ邪魔者が存在しているのか尋ねた。すると「夏休みに一度、男同士みんなで集まりたかったんだ」と返され、私は唸ることしかできなかった。いくらでも尋問できる回答であったが、戸塚君の言うことは絶対である。反論は許されない。

 予定通り我々は、昼飯までの間、その喫茶店で時間を潰すことにした。

 誰かが夏休みの過ごし方について言及すれば、みな各々の夏休みを語った。私は語れるほど充実した休暇を過ごしていなかったため、明らかに嘘八百を並べ立てている材木座に茶々を入れて鬱憤を晴らすことに努めた。

 

「でも八幡、千葉村は楽しかったね」

「ま、それなりにな。しかし、戸塚。その話はこいつの前ではNGだ」

「あっ、ご、ごめん! ぼく、そんなつもりじゃ」

 

 恐縮した戸塚君が上目遣いで私を見つめる。

 私は慈悲深い御仏もかくやと言うべき微笑みで返した。

 

「大丈夫。まったく気にしてないから」

「だそうだ戸塚。もう、めちゃくちゃ楽しかったな! それにしても戸塚と布団を並べて寝られるとは思ってもみなかったな。やっぱり男ってのは同じ釜の飯を食って、同じ湯船につかって、同じ布団で寝てなんぼだよな」

「え、なにそれ。聞いてないぞ」

 

 はっきりと「我も聞いてな――」と声がしたが、皆に黙殺され、比企谷が割り込んだ。

 

「言ってないからな。あーあ、おまえも来ればよかったのに。残念だったなあ」

「そんな、馬鹿な。同じ湯船だと? 戸塚君、それは本当なのか!」

「もうっ、八幡! 嘘はだめだよ!」

 

 戸塚君は頬を膨らませて比企谷を叱る。

 

「なんだ嘘か」

「まあ、風呂は別だったが、隣同士布団を並べて寝たのは事実だ」

「……なんだ嘘か」

「いや、本当なんだが」

「嘘だ。おまえのようなケダモノが戸塚君と褥を並べるなんて、そんなの公序良俗に反するじゃないか。事実だとしたら、今頃おまえは臭い飯を食っているはずだ」

「認めたくない気持ちはわかる。すまない、しかし、残念ながら事実なんだ。なあ、戸塚」

「え、ええと、その、うん」

 

 頬を桃色に染めて戸塚君が頷く。

 私が悔し紛れに毒づこうとすると、材木座が何やらぶつぶつと呟いて、テーブルを音高く叩いた。そして、苦悶の表情を浮かべたと思えば、わずかな間があって頭を比企谷の方に寄せる。小さな声で囁いた。

 

「……八幡よ。()()()()()のか? と、戸塚君には本当にあれがついていたのか?」

 

 材木座の内部で、それはまことに凄惨な葛藤があったのではないかと思う。良識と好奇心の熾烈な相克を乗り越えて、あらゆる非難を予見しながら彼が捻り出した答えは、力強く心に訴えかけるものがあったが、しかしながら最低最悪だった。

 

「この馬鹿野郎! 恥を知れ!」

 

 私はすっくと立ちあがって材木座の頭をはたいた。すぐに座り直し、「で、どうなの?」と比企谷に目で尋ねる。

 

「さすがに引くわ。いや、ホント、引くわ。品性を疑うわ」

 

 濁った目を見開いて比企谷が言った。実際に椅子を引いていた。当然と言えば、当然であるが、どうやら答える気はないようであった。

 

「八幡よ、後生だからッ」

「いやいや、おまえ馬鹿だろ。ほんっと気持ち悪いからな」

「材木座がここまで言っているんだ。教えてやっても、いいと思うけどなあ……」

「けどなあ……、じゃねえよ。おまえが一番聞きたそうな顔してんじゃねえか。そもそも、何で俺が知ってるんだよ。むしろ俺が知りてえよ」

「貴様、隠すつもりか!?」

「いい度胸だな比企谷。秘すれば花というやつか、あ? 粋なことしてんじゃねえぞ」

「だから、しつけえんだよ。俺だって戸塚の――」

 

 やんややんやとやっているうちに、私の前の席に座っていた戸塚君がぷるぷる震えながら、涙声で言った。

 

「あのぉ、聞こえてるんだけどな」

「……」

 

 我々は顔を見合わせた。

 グラスの中の氷が、カランと小気味良い音を立てた。

 

       ◇

 

 昼食を食べ終えた我々は、喧々囂々たる話し合いの末、平凡な映画を鑑賞してゲームセンターへ行き、ボーリングをして本屋を巡った。普通の高校生らしい一日は、そこそこ刺激的でこんな日がいつまでも続けばいいなと思うくらいには楽しかった。

 長い夏の日は暮れかかっていて、時刻は十九時を回っていた。それぞれの顔には、疲労と満足の色が表れていた。

 

「そろそろ帰るか」

 

 比企谷の言葉を機に、もう一度夏に会う約束をして、我々は解散した。

 親が車で迎えに来ているという戸塚君を残し、かつ駅構内の本屋前で鼻息を荒くしていた材木座を置いて、私と比企谷は帰りの電車に乗り込んだ。

 折よく二つシートが空いて、我々はむっつりと腰を下ろした。

 

「あいつ、まだ本買うのか」

 

 私は材木座について言及した。彼はすでに五冊ほど新刊を購入していたのだ。

 

「いや、あれは声優のポスターに見入っていただけだと思うぞ」

「ふうん。声優、ね」

 

 携帯電話が震えた。確認すると材木座からであった。置いて行かれたことに対する恨み節がつらつらと並べられている。比企谷にも送られていたらしい。我々は何の反応もせず、スマートフォンをポケットにしまった。

 初老のサラリーマンが読んでいる新聞紙の一面に、「日照り続く。急を要する水不足対策」と書かれていた。私がぼんやりと雨乞いの儀式について考えていると、比企谷が言った。

 

「……本気か、辞めるってのは」

 

 私は横目で比企谷を見た。何を考えているのか判断できない、微妙な顔をしていた。再び新聞紙に視線を戻す。

 

「うん。だけど、平塚先生に受理してもらえなかった」

「ざまあねえな」

 

 比企谷が鼻で笑った。

 

「俺にはあの人の考えがわからん」

「考えるだけ無駄だ。あの人だけじゃない。他人の心の中なんてわからないもんだ」

「出たよ、おまえの真理を穿ってる風な発言」

「るせえな」

「イタいから、そういうの控えろよ。聞いてて恥ずかしいぞ」

「っち」

 

 比企谷は舌打ちして目を濁らせた。

 

「……雪ノ下から、なんか聞いてるか」

 

 黙ること数分、一駅またいでから比企谷が呟くように言った。

 

「なんか?」

「……いや、忘れてくれ」

「だからよせって。そのスカした感じ、背筋がゾゾっとするんだよ」

「……あの、いちいち突っ込むのやめてくんない? なんなの、俺の精神揺さぶって楽しいの? 今ちょっと俺のアイデンティティがわりとクライシスなんだけど。ちょーハズイんですけど」

「……で、雪ノ下さんが何だって?」

「うそ、やだ、なにそれ、俺の真似? 俺いつもそんなキメ顔で喋ってるの? クサすぎるだろ、いやホント、俺、クサすぎるだろ」

「やかましい。さっさと言えよ」

 

 比企谷は顔を赤らめて黙り込んだ。殴り飛ばしたくなるほど危ない表情である。誰がむくつけき男の赤面など見たかろうか。

 

「くそっ、いつもこうだ。おまえと話すとまともに会話が進まねえ」

「ふざけてんのか。こっちの台詞だ」

「はあ……。千葉村行った帰りにな、様子がおかしかったんだよ」

「雪ノ下さんが? それで?」

「だからさ、なんかおまえに連絡来てないかと思ってな」

「なぜ俺に連絡が来るのだ。そういうのは由比ヶ浜さんだろう」

「あいつと俺には絶対来ねえんだよ……」

 

 比企谷は吐き捨てるように言った。

 

「なんで?」

「まあ、いろいろあんだよ」

「ふうん。あ、そう」

「お、珍しいじゃねえか。詳しく訊いてこないんだな」

「もはや俺には関わりのない話だからね。ちなみに雪ノ下さんから連絡は来てないぞ。千葉村らしき画像が一度添付されて送られてきたが、無視して以降音沙汰はない」

「……そうか」

「ああ。残念なことに由比ヶ浜さんからもそれっきりだ」

「へー」

「材木座からはいっぱい来る」

「よかったな」

「よかない」

 

 最寄り駅に到着した。腹が減っていた私は比企谷を晩飯に誘った。どうせ断られるだろうと思ったが、意外にも彼は首肯して後についてきた。一応、「奢る気はないぞ」と釘を刺すことは忘れない。

 駅を出ると、外はだいぶ涼しくなっていた。駐輪場で愛車を拾うと、我々は駅前をさすらった。自転車を押しながら飲食店の看板に目を走らせていると、ふいに比企谷が言った。

 

「なあ、雪ノ下でも嘘を()くと思うか」

「藪から棒だな。吐くわけねえだろ、雪ノ下さんだぞ」

 

 私は「魚介豚骨背脂ドロドロ系極み」という、いかにも寿命を縮めそうな謳い文句を掲げるラーメン屋に惹かれ、何気なく答えた。

 

「おまえは、そう思うか」

「うん。それより、ここのラーメン屋はどう?」

「……いいんじゃね」

「よし、ここにしよう。奢ってくれ」

「ざけんな。むしろおまえが奢れ。誘ったんだから」

「勘違いするなよ。誘ってやったんだ」

「気持ち悪いツンデレ属性はやめろ」

「デレてないだろ」

 

 ラーメン屋は満員で、中の券売機前に行列ができていた。

 しかたなく我々は再び夜の街を彷徨い歩く。

 比企谷はむっつりと考え込んだように俯きがちで、静かに後をついてきていた。私は夜の街の喧噪を好まず、ほとんど足を踏み入れない。それは比企谷も同じようで、しかめ面をぶら下げて心ここにあらずといった感じだった。もしかすると滅多に出歩かない宵町の空気に()てられて、何かよからぬ妄念でも腹に溜め込んでいるのかもしれない。

 そういえば、と私は思った。先ほどから比企谷は妙に雪ノ下さんに拘っている。彼女の様子がおかしいとか何とか言っていたが、それが原因で没我状態に陥っているのであろうか。普段は部員同士であろうとも一線を引いているくせに、変にお人好しなところがある奴だ。大方、私の予想は当たっているのだろう。

 私は嘆息して言った。

 

「気になるならメールでも電話でもしてみろよ」

「え?」

「雪ノ下さんのことだ」

「なんで俺がそこまで……」

「では、放っておけ」

「……そのつもりだ」

 

 私は無意味に自転車のベルを鳴らして言った。

 

「なんでも女性には情緒が不安定になる日があるらしい、月のアレ。それかもよ」

「清々しいほど下衆いな。そういう勘繰りはほどほどにしとけよ。たぶん、違うだろうし」

「じゃあ、あれだ。かまって欲しいんだ。ほら、彼女、ああ見えてか弱いところあるし」

「……か弱い? 誰が?」

「阿呆か。今の話の流れで雪ノ下さん以外に誰がいるんだよ」

「雪ノ下が弱い……あり得ねえだろ」

 

 私は少し意外だった。

 褒めるべきところがおよそ一つもないと思われる比企谷だが、唯一私が感心しているのが彼の人を見る目であった。過去の痛々しすぎる行軍によって培われた洞察力は並外れたものがあり、本質を捉える目を持っているのが比企谷という男である。それゆえに余計な詮索を自らに強いて、私でも躊躇するようなことにまで言及し、その結果もたらされた不遇に浸ってシニカルに笑うのが妖怪ひねくれ小僧なのだ。そんな男だからこそ、雪ノ下さんの弱さくらい易々と見抜いているものとばかり思っていたのだが、存外そうでもないらしい。灯台下暗し、対象がより近い立場だったために彼の目は曇ったのかもしれない。それともあまりに辛辣な罵倒を受けすぎて、彼女に対する正常な判断が下せなくなったか。これはあり得そうだ。いい加減、雪ノ下さんは穏便という言葉を知るべきである。

 ともかく私は言った。

 

「やさしくしてやりなさい。雪ノ下さんだって女の子なんだぞ。たぶん、家であの不細工なパンダのぬいぐるみでも抱きしめて涙してるんじゃないかな」

 

 想像すると、これはなかなか悪くない、と思った。またチリンとベルを鳴らす。

 

「信じられん。完璧超人の雪ノ下だぞ。そんなことあるわけが――いや、でも……」

「超人って、大袈裟だな」

 

 比企谷は雪ノ下さんを形容する際にときおり「超人」という言葉を使うが、いまだに私にはその定義がよくわからない。ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で説くところの概念と関係があるのか不明である。

 

「夏休み、まだ部活あるんだろ? ちょっと気を配って接すればいいさ」

「たぶん部活はもうないと思う」

「なんで」

「そんな気がすんだよ」

「はあ? 気がするだけって曖昧だなおい。まあ、だったらおまえが集めればいいだろ」

「俺が? ねえよ。面倒くさい」

「消極的だな。そんなんだからいつまでたっても更生しないんだよ」

「おまえに言われたかねえ」

 

 比企谷はそう言ってポケットに手を突っ込んだ。

 結局、我々は目についた牛丼屋で腹を満たした。男子高校生の心強い味方と言えば、店主が痴呆気味の本屋と牛丼屋であることは広く知られている。前者はやんちゃなジョニーのご機嫌を取るためであり、後者は常時逼迫を余儀なくされている我々の財政のためである。大盛にしてもワンコインで済むというのは非常にありがたかった。

 牛丼屋を出て、我々は帰路についた。

 

「じゃあな」

「うん。言わずもがなだが、部で俺の話を出すなよ。厄介なことになりそうだからな」

「それは保証できんな」

 

 比企谷は禍々しく笑って、夜の闇へと消えていった。

 私は自転車を漕ぎながら比企谷の超人という言葉を考えた。たしかに雪ノ下さんは市井の有象無象とは一線を画した女生徒であろう。しかし「超人」と表現するにはいささか脆さが目立つ。やや短気と言えなくもないし、人と接するのが絶望的に不得手である。こちらが閉口してしまうほど率直なくせに、往々にして素直ではない。感情表現が苦手である。融通が利かない。私に引けを取らないほど体力に乏しい。友達がいない。挙げればきりがないほど、彼女にも弱さはあるのだ。それは別段、おかしなことではないだろう。普通の女生徒「らしさ」とも言える。当たり前だが、雪ノ下さんは十六歳の女の子なのだ。

 比企谷は少し理想を押し付けすぎているのではあるまいか。表面的な雪ノ下雪乃は間違いなく優等生で強く正しく美しいが、あくまでもその人間の判断基準を求むる先は内面なのだ。ゆえに、勝手に他人を自分の物差しで評価して、理想を重ねようとする行為はひどくおこがましいし、雪ノ下さんのことを良く知りもしないで、我々が彼女の人間性を語るのは愚の骨頂であろう。

 そんなふうに考えると不本意なる自省の念がむくむくと湧いてきた私は、しかしながら、もはや奉仕部とは関係ないのだからどうでもいいや、とペダルを強く蹴った。

 夜風が気持ちいい。ポケットの中で携帯電話が震えた。

 夏休みはまたたく間に過ぎてゆく。

 



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第二十三話

       ◇

 

 総武高校最大の行事と言えば、文化祭であった。

 生徒たちは授業そっちのけで準備に走り回り、肥大した妄想に打ち込み、ときには自分たちが青春を謳歌しているような気分になったりもする。学校の敷地内には所狭しと模擬店が立ち並び、味と衛生状態に一抹の不安が残る食べ物を、暑苦しいまでの元気とともに通行人の口にねじ込もうとし、校舎に入ればあらゆる教室で催しが開かれ、喫茶店だのお化け屋敷だのゲームだのと判で押したような主体性のかけらもない出し物が軒を連ねる。一方、体育館ではいわゆるイケてる生徒たちを筆頭に、歌って踊れる生徒たちが入れ替わり立ち替わりに舞台を踏み、面白くもない演劇やら特技を披露せんと客を集め、己が情熱を無理強いする。

 模擬店で、教室で、体育館で、彼らは客へ何を与えようとしているのか。訪れた人々が目にするのはあり余る暇と情熱そのもの、はたから見れば面白くもなんともないもの、すなわちあの唾棄すべき「青春」そのものにほかならない。

 また、そのどさくさにまぎれ、とっつこうひっつこうと右往左往する若人が後を絶たなかったのは言うまでもない。文化祭は高校生カップルの大量生産工程と呼ぶことができた。生徒の大半が慢性の微熱続きのような状況では、たいていの人間は理性を失い、あたかも自分がロマンティックな人生を生きているかのように思い込み、恋愛妄想はやすやすと閾値(いきち)を超え、あれれと目を擦っているうちに、仲良く下校する幸せカップルで周囲は充満してしまうことになる。あたかも残り少ない食料を奪い合うがごとき発情ぶりには苦笑を禁じえなかった。

 らんちき騒ぎを厭い、静謐と安寧を愛する私のような孤高の哲人に、カップル大量生産工程たる文化祭など、なんの御縁があろうというものか。前回の反省を活かし、私はこの度の文化祭参加を見送る心積もりでいた。

 だがしかし、そうは問屋が卸さなかった。

 

       ◇

 

 始業式を終え、休み明けの授業もそこそこに、校内は文化祭の準備で活気づいていた。

 私はぼんやりと黒板を眺めた。実行委員という肩書の下に、「比企谷」という文字が書きなぐられている。実行委員とはすなわち、文化祭の一切を取り仕切り暗躍する者たちを指す。影日向あらゆるところで幅を利かせ、祭りを盛り上げながらも生徒たちを監視し、大団円を目指して日夜頭がおかしくなるほど雑務をこなす豪の者たちである。

 比企谷はいかにして実行委員になりしか。労を厭い、群れを避け、利己を貴ぶ男がなぜかような役割を担うことになったのか。簡単である。ただ、押し付けられたのだ。文化祭の役割を決めるLHRをサボって保健室で仮眠をとっていたのだから自業自得というほかあるまい。授業を始めようとやって来た平塚先生が、未だ決定しない実行委員に「比企谷」を任命した時には、思わず頬がにやけた。さればこそ横暴極まる国語教師である。保健室から帰ってきた比企谷の顔と言ったら、えもいわれぬ味わい深いものがあった。後で、散々にこき下ろしてやろう。ちなみに、私はクラスで催す演劇の小道具制作に立候補する予定だ。なんでも「星の王子さま」を題材にした劇をやるというから、まだ台本には目を通していないが、関わらずにはいられないだろう。

 さて、放課後の現在、我がクラスは女子の実行委員を決めるべく紛糾していた。誰が好き好んで面倒な実行委員などなるものか。ましてやそれが比企谷の相棒となればなおのことである。女性陣はお通夜もかくやとばかりに静まり返っていた。

 

「このまま決まらなければ、じゃんけんにしますか」

 

 教壇に立つ男子生徒が提案すると、背後で威嚇じみた声が上がる。女王蜂である。名前は知らない。男子生徒は苦笑いを浮かべて沈黙した。

 その後もぽつりぽつりと声が教室の各所で上がったが、どれも決定的な意味を持たず雑談に似た様相を呈していた。阿呆らしくなった私は窓の外を眺めて時間を潰すことにした。そのうちにうつらうつらし始めて、机に肘をついて顎を手に載せるようにして目を閉じた。かすかに由比ヶ浜さんの声が聞こえたあたりで、私は本格的に睡魔を受け入れた。

 後ほど聞き知ったのだが、もう一人の実行委員は相模という女子になったそうである。誰だか知らないが、私は比企谷のパートナーという、あまりに過酷な道程を歩む彼女の幸運を心の片隅で祈った。

 

       ◇

 

 奉仕部を辞した現在、私の放課後は、家に籠り読書と思索、近所の本屋めぐり、あるいは文化祭準備への短時間の参加、ほぼこの三つで構成されていた。ここへ適宜、材木座や比企谷との会話、海岸の散歩などを織り交ぜてやれば、私の放課後が成立する。まだ半月ほどであるが、私の日常は非常に簡潔であった

 日常が簡潔であるに越したことはない。真の偉業は、劇的な日常とは無縁の場所でひっそりと為されるものだ。とりあえずコレといった有意義さを示すことができないのが残念だが、私もまた古今東西の偉人たちと肩を並べようとする人間であって、思索を搔き乱す波乱万丈な日常など欲していない。無駄な労力を割いていた奉仕部から離れた今、ただ静かに放っておいて欲しいと思う。ちょっと寂しいときにだけ、かまってくれれば十分だ。

 しかし、かまって欲しいと思うときにはかまってくれず、放っておいて欲しいときには放っておいてくれないのが世間というものである。

 

 翌週のことである。放課後、私は平塚先生に呼び出されて生徒指導室を訪れていた。

 受理されていない退部に関する話し合い、もとい説教であることは容易に想像がついた。重くなる気持ちに発破をかけて私は眦を決した。なぜこちらが譲歩する必要があるのか。一生徒の当然の権利を行使したまでなのだから、泰然自若としていればいいのである。臆していてはつけ込まれかねない。是々非々の砦に屹立して、堂々と相対してやろう。願わくは鉄拳が炸裂することのなきよう。

 

「どうだ、生まれ変わる算段はついたかね」

 

 先生は車中の会話を引き合いに出してそう言った。

 私は男らしく無言で頷いた。むろん、算段などまるでついていない。

 

「そうか。まあ、とにかくやってみるといい」

「はい」

 

 返事をしたものの、私は肩透かしを食らった気持だった。まさかあっさりと肯定してくれるとは思わなかったのである。だが、やはりそれには裏があったようだ。

 

「かけがえのない時間なのだ。高校生の間は望むことをすればいい。やるべきこと疎かにしてはならないが、やりたいことをするのが一番だよ」

「はい」

「ところで、君に頼みたいことがある」

 

 平塚先生は煙草の火を消して、まっすぐに私を見つめた。

 私は目を泳がせる。嫌な予感が背筋を撫でた。

 

「お断りすることは可能ですか」

「まだ、何も言ってないだろう」

「目は口ほどに物を言いますから」

「ほう。して、どんな頼みだと?」

「考えも及びませんね。ただ非常に面倒な予感がしまして」

「……ふむ。どうだろうな。それは君次第といったところか」

「ほかの人に頼めませんか」

「君でなければだめなのだ」

「そうですか」

 

 私はきっぱり諦めた。このまま禅問答に漸近していく会話をしていても、おそらく回避は不可能だろう。

 先生は口の端で微笑んでから、やや表情を固くした。

 

「雪ノ下が文化祭の実行委員をやっているのは知っているか」

「いいえ」

「うむ。あいつは実行委員会の副委員長を務めている」

「はあ」

「さすが雪ノ下だ。彼女のおかげで会議も実務も滞りなく進んでいるわけだが――」

 

 そうして平塚先生が語ったのは、現在、雪ノ下さんが置かれている状況についてだった。

 

 知らんがな。

 平塚先生の頼み事とやらを聞いて、私は思った。

 なんでも雪ノ下さんは、文化祭実行委員会の第二位の立場で粉骨砕身であるという。やることは山のようにあり、文化祭までの時間は限られているから、実行委員諸氏は放課後の時間、仕事に忙殺されていたらしい。それでも、雪ノ下さんがその辣腕をいかんなく発揮することによって委員会の雑務は滞りなく進んでいたそうだ。

 しかし。

 ある日を境にして、委員会に緩慢な空気が流れ始めた。平塚先生はその理由についても軽く触れていたが、よく聞いていなかったため覚えていない。ともかく、委員たちの出席率がひどく低下したのである。各自、クラスの用事を優先しているとのことであった。日に日に委員が減っていく中、一方で有志団体の申請やらなにやらで仕事は増えていく。結果、どうなるか。

 

「雪ノ下が一人ですべてを抱え込むという状況になっているようだ。文実とは関係ないが、進路調査の書類を提出することも忘れていたくらいだ」

 

 ああ、そういえば比企谷も頑張っているみたいだな、と平塚先生は付け足した。私は無意識に漏れかけた嘲笑を慌てて引っ込める。仕事に追われている比企谷を想像して胸がすくような快感を覚えた。

 

「それとな。あくまでも私見だが、奉仕部の方もどうやら上手くいっていないと感じた。君は知らないだろうが、夏休みの間はほぼ活動していないのだよ」

 

 平塚先生はそう言って、私の心を透視するように目を細めた。

 

「雪ノ下をサポートしてやってくれないか」

「は?」

「根を詰めすぎているよ、彼女は。誰かの助けが必要だ。かといって、素直に助力を乞う奴でもない。だからね、君からあいつを手伝ってあげて欲しい」

「どうしてぼくが」

「退部を認めたわけではないが、雪ノ下が奉仕部内で問題を抱えているらしい今、少し離れた立ち位置にいる君が適任だと思ったからだよ」

「あの、ちょっと意味がわかりません」

 

 意味は分かったが、その意味を頭の中で十分に咀嚼することが困難であった。知らんがな、私はそう思った。そしてやはり、退部の件は保留されているらしい。

 

「まあ、単純に考えてくれたまえ。気分転換させてやればいい。文実の仕事は大事だが、あいつの心身も慮らねばな」

 

 そうか、とひらめく。

 雪ノ下さんは私や比企谷に匹敵するほど知人友人の類が少ない。そして真偽は定かではないが、奉仕部にまた以前のような問題が持ち上がっている。とすると、必然的にその謎の役割が私に回ってくるということか。なんだ、簡単な方程式じゃないか。いやいや、そんな馬鹿な。合理的な暴論もほどほどにしていただきたい。

 平塚先生の口ぶりには、私をいま一度奉仕部へ近づかせようとする思惑が透けて見えた。内心うんざりして私は言った。

 

「自身の管理くらい雪ノ下さんが怠るとは思えないのですが。というより、好きでやっているのだから、放っておけばいいのでは」

「好きでやっているか……本当にそうならいいのだが」

「違うんですか」

「私の口からはなんとも、な。それに、このままだと比企谷が……いや、これはいいか。ともかく、よろしく頼む」

「拒否権は」

「断ってくれても、かまわないよ」

 

 平塚先生は素敵な笑顔で言った。私は気の触れたような断続的メールを思い起こして、慄然とした。

 

「具体的に、何をすれば」

 

 私はしぶしぶ頷いて尋ねた。

 

「うむ。少し仕事を回してもらえばいい。あとは、そうだな……休日に遊んでみるのはどうかね? 不純な交友は認めないが、ちょっとしたデートくらいなら許可しよう」

 

 私は鼻で笑って黙殺した。

 

「報酬は今度またラーメンを奢ってあげるとしよう」

 

 ラーメンごときで懐柔されるのは甚だ遺憾である。我が身を購おうとするならば、高級焼肉くらいの報酬があってしかるべきだろう。私は否を表明できない自身の意志薄弱さが恨めしかった。

 

       ◇

 

 ともあれ。

 生徒指導室を出た私は、文化祭実行委員会が開かれているという会議室まで足を運んだ。

 ドアの丸窓から内部の様子を窺うと、空席が目立つことに気が付いた。並べられた長机の半分も埋まっていない。そんな中、出席している委員たちは書類やパソコンを開いて仕事に励んでいた。金銭が発生しないにも関わらず、よくもまあ立派なものである。対価はいわゆる達成感、あるいは青春というやつであろうか。

 私は会議室全体を睥睨するように並ぶ執行役員たちの机に目をやった。一つを除いてすべて空席だ。その一人は黙々とキーボードを叩いている。副委員長の雪ノ下さんである。ひと月半ぶりに見た彼女は、心なしか顔色がすぐれないように見受けられた。平塚先生の言っていたことは本当なのだろう。

 会議室のドアが開いて、中から比企谷が姿を現した。

 

「やっているか、労役囚」

「誰が囚人だぼけ」

「え、違うのか?」

「……で、何の用だよ。メールで呼び出しなんかしやがって」

 

 比企谷は苦々しく顔をしかめて言った。

 

「いや、なに、後学のためにと強制労働の見学に来てみたのさ」

「てめえ、ケンカ売ってんのか」

「おまえに売るものなど何一つない。馬鹿にするな」

「いやいや、トチ狂ってますかあなた。明らかに馬鹿にしてるのそちらですよね」

「なあ。そろそろ本題に入っていいか」

「さっさと入れやボケナス!」

 

 文化祭準備に関する諸々の進捗を尋ねると、比企谷は「なんでそんなことを?」と間抜けた表情を浮かべたが、私が促すと簡潔に説明してくれた。彼の話は概ね先ほど平塚先生から聞いた話をなぞるものであった。一つ気になったのは雪ノ下さんの姉である陽乃さんが、しばしばOGとして文実に参加しているという話だ。

 

「大学生とは暇なのか?」

「有志で文化祭に出るらしいが、詳しくは知らん」

「ふうん。ほかに変わったことは」

「変わったことというか、驚くべきことならある。俺が労働の味を嫌というほど噛みしめている」

「やったな。過労死の日も近いぞ」

 

 私はそう茶化して、持っていた缶コーヒーを差し出した。比企谷は目を見開いて、私と缶コーヒーに視線を彷徨わせる。

 

「やるよ」

「おいおい、嘘だろ。明日は空が落ちてくるんじゃねえか。カタストロフィか」

「失礼だね君。ねぎらいだ」

「売るものがないんじゃなかったのか」

「慈悲だ、施しだ、恩賜だ」

「そうかい」

 

 比企谷はにやりと不敵に笑うと缶コーヒーを受け取って礼を言った。

 会議室に戻る比企谷の後姿に私は声をかける。

 

「委員会が終わったらメールをくれ」

「あいよ」

 

 私はそのとき、閉じていくドアの隙間から、雪ノ下さんが横目でちらりとこちらを窺ったような気がした。

 

       ◇

 

 文化祭実行委員会の活動が終わるまで、私はクラスの企画を手伝うことにした。

 前述しておいたが、我がクラスでは演劇で「星の王子さま」を披露する。私は未だ台本に目を通しておらず、つまり台本を貰っていないのだが、そのことを脚本を書いた女生徒にそれとなく仄めかしてみると、先方は非常に慌てて言い訳じみたことを捲し立てた。

 

「ご、ごめんねえ! 他の子たちが紛失とか家に忘れたとかで、いま手元に予備がないんだよ。これからコピーしてくるから待っててもらえるかな」

「あ、あ、いや。大丈夫かな。えっと、やることは分かってるから、つまりその、小道具を作るわけなんだけど。まあ、劇の内容は本番を楽しみに待つよ」

 

 私はそう言っておとなしく引き下がった。忙しくしている彼女の手間をわざわざ増やすこともなかろう。どうしても必要であれば戸塚君に見せてもらえばいい。

 眼鏡の女生徒は「そう?」と上目遣いで申し訳なさそうにしている。すると、そこへあの女王蜂がやってきた。自然と私の体は強張った。肉食獣に相対する獲物のごとき反応である。我ながらなんとも情けない。

 

「海老名ぁ、ポスターのことなんだけどさ――ん、どしたん?」

「台本が足りなくてねえ。まだ貰ってない人がいるみたいなんだ」

「誰?」

「彼」

 

 海老名と呼ばれた女生徒が私を指す。そうして、ふたたび「ホント、ごめんねえ」と眉を寄せた。

 

「うっそ、まだ台本貰ってないとか、マジウケる」

 

 ピクリとも表情筋を動かさずに女王蜂はそう言った。言動に全くつながりがない。ウケると言うなら感情を表に出して欲しいものである。

 

「けど、無いのは困るんじゃないの? あーしのあげよっか?」

 

 思わぬ提案に、私は一瞬呆然としてから手を振った。

 

「いや、いらない。本番までとっておく――おきますから」

「はあ? 何それ。つーか、あーし家に置き忘れてきただけだから、遠慮とかいらないけど?」

「そうだよ、貰っておきなよ。このままじゃ悪いし」

 

 ここで断るのは無粋な気がした。というより、断るといらぬ軋轢を生みかねないと私は判断した。クラスの最上層に位する彼女の機嫌を損ねるのは悪手だろう。念のため申し添えておくと、べつに怯えているわけではない。静謐と安寧を愛するがゆえ、それに差し障る火の粉をただ振り払おうというだけである。

 女王蜂が丸められたシワだらけの台本を差し出す。私はやむを得ず頭を下げて受け取った。

 

「では、いただきます。ありがとうございます」

「べつに、全然。てか、タメなんだし敬語とかいらなくない? キモいからやめろし」

「は? え、ああ。うん」

「ふふっ、よかったね。じゃ、小道具の方、お願い」

 

 海老名さんはそう言うと、敬礼の構えを見せて笑った。私はもう一度礼を言ってその場を離れた。背後で女王蜂の「で、あいつ誰?」という声を耳にしたが、そこはかとなく気分が高揚していた私は、聞かなかったことにして小道具制作に取り掛かった。

 

 ひたすらボール紙で星を作るという単調な作業を繰り返していると、しだいに没我の状態に入っていた私は、肩を叩かれてはっと我に返った。五芒星がヒトデに、ヒトデが人の手に見えてきた辺りで、私はおそらくエロティックな妄想に耽り始めていたと思われる。

 振り返ると川崎さんが鞄を背負って立っていた。

 

「下校の時間だよ」

「いつの間に……」

「もう、みんな引き上げてるよ。あたしも帰るけど」

「俺はあと少しだけやっていこうかな」

「あっそ。じゃあ、鍵の始末しっかりね」

「はいはい」

「はい、は一回」

「はい」

「それじゃあね」

 

 川崎さんが教室を出ていくと、ポケットの中の携帯電話が震えた。

 私は急いで作業を終え、教室の戸締りを確認して職員室へ鍵を返しに向かった。

 

 会議室の前では比企谷が超然と突っ立っていた。ほかに誰一人おらず、廊下にぽつねんと影を投げかけて佇む男の姿はどこか荒涼とした趣きがあった。

 私は悠々と歩いて近づいた。

 

「よう。終わったの?」

「ああ。で、なんか用か」

「いや、べつにおまえに用はないんだが。いや、ある。中は誰かいるの?」

「んだよ、それ。雪ノ下がまだ一人で仕事してる」

「そうか。よし、おまえにさらなる労働の機会を与えよう。ともにやってくれるな?」

「断る。いままで散々働いたっつーの。本日は店じまいだ。これ以上は一秒たりとも働かない。話がそれだけなら俺は帰るぞ。また明日も文実があるんだ」

「おい、待ってくれよ。いや、マジで――アッ、本気で帰るんだな! 俺を残して!」

 

 比企谷は背を向けて廊下を昇降口に向けて歩いて行った。取り残された私はしばらくの間、うんうん唸って意味もなく携帯電話を手に持ったり、窓の外を眺めたりしていたが、やがて意を決すると会議室のドアをノックした。

 

「どうぞ」

 

 



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第二十四話

       ◇

 

 一人しかいないのだから当然だが、会議室の中は水を打ったように静まり返り、雪ノ下さんが叩くキーボードの音だけが際立っていた。

 目頭を指で押さえた雪ノ下さんは、私が入室すると顔を上げてはっとした表情になった。しばし食い入るように私を見据えていた彼女は、ふと眉間にしわを寄せて冷たく言った。

 

「なにか用かしら」

 

 私は大変な居心地の悪さを感じながらも、軽く咳払いして言った。

 

「調子は、どう?」

「……冷やかしに来たのね。帰ってちょうだい」

「うん。では、帰る」

 

 渡りに船とばかりに私は踵を返した。相手が帰れと望んでいるのだからしかたない。御機嫌は斜めどころではなく真下を向いているようだし、素直に従うのが紳士の務めである。今日はここまで。また明日頑張ればいい。そう思って私が一歩踏み出したときである。ドアの丸窓にこちらの様子を窺う髪の長い女の顔を認め、私は夜道で変態に出くわしたような悲鳴を上げた。

 

「ど、どうしたの?」

「い、いまそこに顔が!」

「え?」

「お化けだ!」

「何もないわ」

「間違いなくそこにいたんだ!」

「馬鹿ね、あなた。幽霊なんて非科学的なもの信じているの」

「だめだよ雪ノ下さん! そういう浅はかな言辞を弄する者が、まず真っ先に呪われるんだ! 謝った方がいいよ」

「……騒がしいわね。幽霊さん、ごめんなさい。これでいいかしら」

「俺は知らないぞ。そんな心のこもっていない謝罪で……あれは、現世に深い未練を残して没した女性の霊だよ! もう知らないからな」

「結構よ。幽霊なんていないもの」

 

 雪ノ下さんの豪胆な挑戦的主張にあわあわと狼狽していた私は、インターネットで不可解な存在から身を守る方法を検索しようと携帯電話を取り出した。ディスプレイを表示させると一通メールが届いていた。

 

「私だ、馬鹿者。

 今日はここまでなどと諦めず、依頼はしっかり果たすように。

 なお、居残りの申請はしておきましたから安心してください。

 未練を残した女性より。」

 

 一瞬、何のことか判然としなかった私は、すぐに得心がいってほっと溜息をついた。よかった、雪ノ下さんは呪われずに済むのだ。ところが、安堵も束の間、紛らわしい真似をした平塚先生に対する怒りがふつふつと沸いてきた。おかげで雪ノ下さんに無様な姿を晒すことになってしまった。この責任は非常に重い。

 

「急に黙り込んで、今度はなに?」

「べつに。あ、もしかして騙された? いや、迫真の演技だったでしょう? ちょっと君の気分転換を、と思って一肌脱いでみたのだよ」

「あれが演技だとは、とうてい思えなかったのだけれど」

「もういいでしょ、終わったことだ。それより、何か仕事手伝うよ」

 

 雪ノ下さんは訝しげに私を睨んだ。

 

「……何が目的?」

「ちょっと、早くしてくれる? 俺も忙しいんだから」

 

 私はそう言って委員長の席に腰を下ろした。

 

「頼んでないわ。久しぶりに顔を合わせたと思えば、何よ、いきなり」

 

 私は胸にわだかまる恥ずかしさとやるせなさともどかしさに膨大な憤りを込めて、盛大な舌打ちをした。雪ノ下さんはちょっと驚いたようで、静かな声で言った。

 

「……怒っているの? 本当によくわからないのだけれど」

「よくわからないのはこっちだ。こんなんじゃいつまで経っても充実した高校生活なんて送れやしない。なんでいまさら俺が、雪ノ下さんを――」

 

 そこで、私はぐっと堪えた。精神の合理化を目指して自己を律しようとする男ならば、不必要な感情的発言は慎むべきである。冷静になれ、雪ノ下さんに当たっても事態は進展しない。むしろ悪化してしまうだろう。深呼吸だ、鼻で吸って口から息を吐く。私は取り澄まして言った。

 

「失礼。私としたことがやや興奮してしまった。ともかく、何か俺でも手伝える簡単な仕事はないかしらん」

「ないわ」

「まあ、そう言わずに。肩でも揉みましょうか?」

 

 雪ノ下さんは椅子ごと体を引いて、目の前にほやほやの馬糞でもあるかのように私を見た。

 

「今のは冗談が過ぎましたかね」

「……はあ。もういいわ。わかりました。あなたと話していると時間は有限だということをより強く実感できるわね。それじゃあ、これお願いできるかしら」

「お安い御用さ」

 

 雪ノ下さんは呆れた様子で、各クラスの企画申請書類を私に寄越した。この紙の束を精査して不備がないか報告すればいいとのことである。すみやかに終えて帰宅するために、私はさっそく書類に目を通し始めた。

 

「各事項の中に空欄があったら、クラスと空欄箇所をメモしておいて」

「へい」

 

 時刻は一八時半を回っていた。

 十分ほど黙々と作業した私は、小腹が空いてきたため鞄から魚肉ソーセージを取り出して頬張った。もぐもぐと咀嚼していると、隣から非難めいた視線を感じた。それでも私は二本目に手を付けて、これ見よがしに頬を膨らませた。お腹がくちくなり、作業を再開する。もう十分ほど根を詰めると、すべての企画書の点検が終わった。

 

「できたよ」

「そう。どんな具合?」

「一年は不備なし。二年は半分くらい。三年は駄目だなこれ、文化祭をナメてる」

「受験でそれどころじゃないのよ。致命的な問題じゃなければ、ある程度は無視するのが慣例だけれど、再提出してもらうわ」

「ふうん。また仕事が増えるわけか」

「……そうね」

 

 私は肩をすくめた。

 

「で、ほかに仕事は」

「今日はこれくらいにしましょう。ほんの微々たる助力だったけれど、お礼を言うわ」

 

 雪ノ下さんは疲れの滲んだ固い顔で「ありがとう」と言った。

 

「かまわんよ」

 

 私は筆記用具をしまって立ち上がった。雪ノ下さんも帰る支度をしている。開いていたパソコンを閉じて鞄の中に入れたところで私は訊ねた。

 

「それ、持って帰るの?」

「ええ」

「なんで」

「家で不足分を補うためよ。許可は貰っているわ」

「えらく頑張るね」

「仕方ないわ」

「大丈夫?」

 

 雪ノ下さんはふと手を止めて、重ね集めていた書類の一点に視線を落とした。ほんの数秒考え込むようにじっとしていたが、どこか諦めたような嘆息を吐いてふたたび書類を集め始めた。私はその様子から、だいぶまいっているな、と思った。

 消灯して会議室を出る。我々はともに職員室に鍵を返しに向かった。平塚先生は不在だった。文句の一つでも言ってやろうと息巻いていたのだが、いないのであれば、それはそれでありがたかった。

 煌々と照らされた昇降口を出ると、外はすっかり夜の帳が下りている。夏は過ぎ去って、肌にふれる風が秋の到来を物語っていた。

 並んで校門まで歩いていると、雪ノ下さんが消え入りそうな声音で呟いた。

 

「……奉仕部、辞めるの?」

「もう辞めたつもりだが」

 

 くしゅん、と雪ノ下さんが小さなくしゃみをする。

 

「君、体を壊すよ。そんな張り切っていたら、さ」

 

 雪ノ下さんは黙っていた。明らかに様子がおかしい。いつもの斬りかかるような鋭い迫力が欠けている。ゆえに私は訊ねた。

 

「もう俺には関係ないことだから、あくまでも社交辞令として訊くが、奉仕部で何かあったのかい」

「……ないわ」

 

 ためを作ってぽつりと彼女は否定した。予想していたことだ。いくら弱っていると思われても、そこは雪ノ下雪乃である。何があったか知らないが、泣き言を口にするつもりはないらしい。その心意気やよし。

 

「まあ、そう言うと思ったよ」

 

 これ以上深入りする気はない。安易な慰撫は相手を侮辱することに等しいのだ。そもそも私に慰められて雪ノ下さんが心安らぐとはとうてい思えない。私とて軽々しく憐憫をかけるなど御免である。そういうのは相手の傷の価値を露とも知らない軽薄な人間が、親切を装った自己満足で行うものである。決して紳士のやり方とは言えまい。

 しかしながら、平塚先生のこともある、これだけは伝えておこう。

 

「雪ノ下さん。君のような賢い人が、自身の体調管理を怠るようなことはしないよね。許容量くらいちゃあんと把握しているんだろう? 体を気遣って少しは――」

「そうね」

「休んだ方が……え?」

「あなたの言う通りよ」

「あ、はい」

 

 そのうち校門にさしかかった。

 私は頭をはたらかせてみたものの、もうかける言葉は見つけられなかった。というより、少々面倒になっていた。雪ノ下さんも比企谷と同様、竹を割ったような話ができないときがある。おそらく、今がそのときなのだろう。滑稽なほど謎めかせて、相手の気を引きたいのか、一筋縄ではいかない人間を気取っているのか、はたまた素直になれないのかは知らないが、もっと単純明快に受け答えできないのであろうか。いずれにしても、先方が胸中を打ち明けない以上、私にできることは極めて少なかった。

 とりあえず仕事をできる範囲で手伝えばいい、そう考えていると、ふいに雪ノ下さんが足を止めた。自然と私も立ち止まる。

 

「忘れ物?」

「ねえ……あなたは、もう……奉仕部には戻らないつもり、なのかしら」

 

 雪ノ下さんはわずかに瞳を揺らめかせ、しかしながら私から目を離さずに言った。弱々しい声音だった。

 一般に、このようなとき――ようするに相手が弱っているときは本心を偽る必要はないとはいえ、なるべく穏便に相手を慮って返答するのが望ましいのだろう。爾後の関係をこじらせないためにも「そのつもりだよ」くらいに留めておくのが最善だと思われる。しかしながら、私は唐突に、なにか堪えがたい苛立ちに襲われて、強い口調で詰問することを選んだ。どうにも雪ノ下さんの態度と、しつこい質問内容が癇に障ったようであった。

 

「君が奉仕部で抱えている問題を先に話せ。それからでないと、答える気はない」

 

 そのとき雪ノ下さんは、どこか放心しているように見えた。たとえるなら、信頼している飼い犬に噛まれてどんな反応をすればいいかわからない愛犬家、とでも言えばいいだろうか。それがまた私をむかむかさせた。良心の呵責を無視して、なおも続ける。

 

「話せないだろうね。結局、そんなもんさ。いつだって傲慢なんだよ、雪ノ下さん。なんでも思い通りになるとは思わんことだ。君は、そこまでの人間じゃあない。

 くそっ、なんか腹が立つな――いまだって、なぜそんな裏切られたような顔をしているの。そういう態度で、いったい誰が部に戻るというんだ。信用してほしいなら、信用するしかないんだよ。お分かりか?」

 

 口を閉じた刹那、私は猛烈な後悔に全身を苛まれた。体中が総毛立って、変な浮遊感があった。弁解させてもらうと、ここまで言うつもりはなかった。奉仕部の問題に介入する気などさらさらなく、自家撞着じみた詰問は、ただ雪ノ下さんのよく分からない態度が我慢ならなかっただけなのだ。事実、告白されても困るし、本意としてはちょっとお灸を据えてやるくらいの出来心だったのだが、私の予想に反して、それは口から澎湃と湧き出でてしまった。しかし、悔いたところでもう遅い。吐いた言葉は呑みこめない。

 ゆえに、だからこそ。

 

「概ね言いたいことは言った。そして言い過ぎた。ごめんなさい」

 

 私は瞬間的に謝罪した。

 驚くべき変わり身の早さと言わざるを得ない。取り返しのつかなくなる前の迅速かつ謙虚な判断であろう。

 

「鞄持つよ。パソコン重いでしょう? さあ、帰りましょう」

 

 茫然とした雪ノ下さんから鞄をひったくり、何事もなかったかのように歩き出す。

 きっと雪ノ下さんには、目の前の男がいったい何を考えているのか全然分からなかったであろう。本人である私にもいまいちよく分かっていないのだから、それも当然である。しかし、言うだけ言って別れると、後に遺恨を抱えることになりかねない。ゆえに、最悪手を打ってはいないという根拠のない自信だけはあった。とりあえずは野性の勘に従い、深い省察は後回しにして家に持ち帰ろう、私はそう思った。

 思った以上に鞄が重く、内心ひいこらしながらも私は努めて涼しい顔で最寄りの駅までの道を辿った。雪ノ下さんがどんな顔をしているのか分からないが、一応はあとをついてきているようだった。

 駅に到着するやいなや、雪ノ下さんに鞄を渡した。

 

「体に気をつけて」

 

 それだけ言うと、私は逃げるようにその場から辞した。

 

       ◇

 

 それからしばらく。

 私は放課後の時間を演劇の小道具づくりに費やした。主演の戸塚君や衣装製作の川崎さんなどと言葉少なに交流しながら、与えられたノルマを可及的速やかに終えて、自宅に帰る日が続いた。両の手は「星の王子さま」で不時着した飛行機を作りながら、頭では別のことを考えていた。

 ときおり、平塚先生が我がクラスの進行具合を見にやって来た。生徒指導の立場から、過剰な表現をけん制するため、あれやこれやと海老名さんに注意を与えていたが、目的はそれだけではなく、私に対するけん制も含まれていたことは言うまでもない。先生からちらちらと投げつけられる視線が私を苛んだ。

 咄嗟の機転で最悪の決別を回避することに成功していたとはいえ、あれだけのことを言った手前、何食わぬ顔で仕事の手伝いを買って出るには少々心の準備が必要であった。準備をしている間に、文化祭が始まってしまえばこれに越したことはないが、そうもいかないだろう。おのずとその時はやってくるに違いない。私は来たるその時に身構えながら、割合まめに小道具製作に没頭した。

 

        ◇

 

 「雪ノ下が体調を崩して、本日欠席しました。」

 

 そんなメールが平塚先生から届いたのは、文化祭まで残り一週間を切った月曜日の放課後のことだった。ただ事実だけを報告した文面に見えるが、文字列からは刺々しい非難が如実に漂っていることは猿でも分かるだろう。

 私は、平塚先生に対する言い訳を考えつつも、あれだけ健康に留意するよう諫めたにもかかわらず、体調を崩した迂闊な雪ノ下さんに腹を立てていた。一方で、誰にも頼れず相談もできない彼女を不憫に思った。孤高を拗らせた挙句に、セイフティネットワークから外れて孤独死する老婆の最期が幻視され、失礼ながらもさすがに可哀そうになった。

 携帯電話のディスプレイを睨みながら、さてどうしたものかと思案を巡らせていると、ふいに「ねえ」という声が聞こえた。

 

「ゆきのん、休んでる……知ってた?」

 

 由比ヶ浜さんが不安げに表情を曇らせていた。

 

「あ、うん。平塚先生からメールが来た」

「そっか。でね、あたしちょっと行ってみるよ」

「いいと思う」

「……うん。じゃあ、それだけだから」

 

 由比ヶ浜さんはそう言って、弾かれたように教室を飛び出していった。

 わざわざ私に告げたのには、相応の理由が込められているのだろう。おそらく由比ヶ浜さんは、私が本気で奉仕部を退いたとは思っていないのかもしれない。夏休みが明けてから何度か、「部活先に行ってるね」と声をかけられているのだから推して知れる。ではどう宣言すれば退部したことになるのだろうか。私は真剣に悩みかけ、あやうくはさみで指を切り落としそうになった。いけない、こんなことを考えている場合ではなかった。今は雪ノ下さんのことである。由比ヶ浜さんはお見舞いに行ったが、比企谷はどうするのだろうか。

 教室のドアががらりと開かれ、折よく比企谷がやって来た。相手も私に用があるらしい。

 

「聞いたか、雪ノ下のこと」

「休んでるんだってね」

「俺は由比ヶ浜とあいつんちに行くつもりだが……」

 

 そう言って、比企谷は濁った目でひたと私を凝視した。いちいち報告されることで、妙な焦りを感じたが、とりあえず無視して私は訊ねた。

 

「場所は知っているの」

「由比ヶ浜がな」

「ふうん。なら、いたし方あるまい」

 

 比企谷はふっと息をついて笑った。

 

「偉そうだな」

「おまえよりはな」

「言ってろ」

 

 私は同じ小道具係の生徒に一言断りを入れて、鞄を肩にかけた。普段から製作に励んでいただけあって、相手は嫌な顔一つせず、否、かすかに顔を顰めはしたが快諾してくれた。

 そうして比企谷と私はともに教室を出た。校門前には由比ヶ浜さんがもどかしそうに我々を待ち受けていた。

 向かうは雪ノ下さん宅である。

 

       ◇

 

 茜色に染まった空の下、私は眼前に屹立する高層マンションに圧倒されていた。天を衝かんとするその威容は、下々の民が直視するにはやや高すぎるようで、多くの人間が反感を覚え、そして首を痛めたであろうことは想像に難くなかった。

 

「いつまで見上げてんだ、いくぞ」

 

 私は首をさすりながら、比企谷と由比ヶ浜さんの後についてエントランスへと足を踏み入れた。

 

「こんなところに一人で住んでいるのか、高校生の分際で」

「おまえ、そういうこと絶対本人の前で言うなよ」

「うん」

 

 我々の会話を尻目に、由比ヶ浜さんが雪ノ下さんの部屋と連絡を取ろうとしていた。呼び出し音が鳴ったが反応はない。ここへ来るまでに先方へメールや電話をしていたのだが、由比ヶ浜さんの携帯電話に折り返しの連絡は来ていなかった。ゆえに、門前払いの憂き目に遭う可能性は非常に高かった。

 比企谷が平坦な声音で言い、由比ヶ浜さんが心配そうに答える。

 

「居留守か」

「ならいいけど、本当に出られないくらい体調悪かったら……」

「まさか」

 

 私が一笑に付すと、二人から冷たい視線が送られた。慌てて「心配だから出るまで粘ろうか」と付け加える。

 由比ヶ浜さんがもう一度ベルを鳴らした。すると、ようやくスピーカーから声が聞こえてきた。

 

『……はい』

「あたし、結衣! ゆきのん、大丈夫!?」

『……ええ、大丈夫だから』

 

 私が、よかったじゃん、と肘で小突こうとすると比企谷はひょいと前へ出てスピーカーに向かって言った。

 

「いいから開けろ」

『……どうして、いるの?』

 

 スピーカー越しの雪ノ下さんの声はいないと思っていた男の出現にやや驚いているようであった。私は黙っていた。

 

「話がある」

『……十分だけ、待ってもらえるかしら』

「わかった」

 

 十分後、由比ヶ浜さんの促しに応じる形で自動ドアが開かれた。

 エレベーターに乗り込み、我々は十五階まで上がった。なにやら観葉植物が置いてある廊下を進んで、ひとつの扉の前に立った。

 由比ヶ浜さんがインターホンを押した。わずかな間があって玄関の扉がゆっくりと開く。雪ノ下さんが顔を出した。

 

「どうぞ、あがって」

 

 我々は由比ヶ浜さんを先頭にしてぞろぞろと広い玄関の中へと入った。馥郁(ふくいく)たる石鹸の香りがして、私は思わずびくりと体を硬直させる。思えば女性の部屋に上がるのは、これが人生初であった。この快挙を前にして胸にじんわりと小恥ずかしい気持ちが湧きあがり、同時に緊張で喉がおそろしく乾き始めた。それに比べて比企谷はやけに堂々とした佇まいである。私は裏切られたような心細さを感じた。

 雪ノ下さんの先導のもと、前の二人がリビングルームへと消えていく。ひとり廊下に取り残された私は、可能な限り口の中でぺちゃっぺちゃやって唾を生成し、喉を潤すことに必死だった。そのうちにお呼びがかかる。口内は未だ火星表面のごとくからからに乾燥していたが、しかたなく私はリビングルームに入室した。

 

「あっ……あなたも、来ていたのね」

 

 雪ノ下さんは青白い顔を引き攣らせていた。びっくりと目を大きく見開いて、心底信じられないというような顔だった。どうやら今まで私の姿を確認できなかったらしい。それにしたってこの反応は幾分失敬すぎやしないだろうか。招かれて早々に私は気分を害された。まあ、招かれたわけではないが。

 

「成り行きで、ね。体は平気かい」

「……ええ。どうぞ、座って」

 

 二人掛けのソファが机を前にして二つ直角に置いてあった。机の上にはパソコンと文化祭実行委員会のラベルが貼ってあるファイルが並んでいる。私は空いていたソファに腰を下ろした。

 しばらく雪ノ下さんは、壁にもたれかかってじっと私の方を見ていたが、気を取り直して「話って何かしら」と誰にともなく呟いた。

 

「今日、ゆきのんが休んだって聞いたから、大丈夫かなって」

「一日休んだくらいで大袈裟よ。学校に連絡もしていたのだし」

 

 私はご尤もと小さく首を振った。すると比企谷が言う。

 

「一人暮らしだからな。そら心配くらいされる」

 

 私はご尤もと大きく首を振った。由比ヶ浜さんが言う。

 

「それに凄い疲れてるんじゃないの? まだ顔色悪いし」

「立ってないで座りなよ。というか、なぜ立ってるの?」

 

 私が言うと、雪ノ下さんは顔を伏せた。

 

「ほら、ここに座りなよ。代わりに俺が立つからさ」

「……結構よ」

「いや君、体調が悪かったんだよね。なぜ強情を張る」

「そうだよ、ゆきのん。無理しちゃだめだよ」

「無理なんか――」

 

 不毛な押し問答の結果、しぶしぶ雪ノ下さんは私と立ち替わり腰かけた。私はきらきらと輝く新都心の美しい夜景を一望できる窓のそばに立った。いかに考えても高校生が住むには奢侈が過ぎる部屋である。

 

「多少の疲れはあったけれど――」

「ゆきのんが一人でしょい込むこと――」

 

 私は窓際で黄昏ながら、奉仕部員たちのごちゃごちゃした言い合いを聞き流していた。自発的に口を挟む気は毛頭ない。私がここにいる理由は、平塚先生の抗しがたい圧力によるものであってそれ以上でも以下でもないからだ。

 由比ヶ浜さんの怒気を孕んだ声がした。また言葉の応酬。私はどこか冷めた心持ちで、よくもまあ赤の他人をそんなに気遣えるものだと、由比ヶ浜さんの性根に感心した。ともすれば雪ノ下さんの自由意志の掣肘にも受け取れる彼女のやさしさは、幼稚で狭量な私には少々眩しすぎた。

 そのうちに比企谷が口を開く。

 

「誰かを頼る、みんなで助け合う、支えあうってのは一般的に正しいことこの上ない。模範的な解答だろ。でも理想論だ。それで世界は回ってない。必ず誰かが貧乏くじ引くし、押し付けられる奴は出てくる。誰かが泥をかぶんなきゃいけない。それが現実だろ。だから、人に頼れとか協力しろとか言う気はない」

 

 比企谷の主張は概ね正しいと言えた。しかし、個人的に認めるわけにはいかない。私のためにも雪ノ下さんには協力的であって欲しい。一度引き受けた頼みをこれ以上疎かにするわけにはいかないのだ。雪ノ下さんが再び過労で体調を崩すなんてことがあれば、それは私の沽券に関わってくる。文化祭がどうなろうと知ったことではないが、私にもプライドがあるのだ。

 

「でも、お前のやり方は間違っている」

「じゃあ……正しいやり方を知っているの?」

「知らねえよ。だけど、お前の今までのやり方と違ってるだろうが」

 

 魚を獲って与えるのではなくその獲り方を教える、ずいぶん昔に雪ノ下さんがしたり顔で宣っていたことが思い浮かんだ。二人のやりとりは奉仕部内の問題が関係しているのだろう。しかしながら私はその内容をなにも知らない。知らないことは述べない。

 沈黙が訪れたところで、由比ヶ浜さんが奥ゆかしいくしゃみをこぼした。雪ノ下さんが慌てたように言う。

 

「ごめんなさい。お茶も出さずに……」

「いいよいいよ、そんなの。あたしやるし、ゆきのん」

「体調の方は心配しないで、一日休んでだいぶ楽になったから」

「体調の方は、か」

 

 比企谷が含みのある言い方で言葉を挟んだ。

 雪ノ下さんはそれを無視して立ち上がるとキッチンの方へ向かおうとした。そこへ由比ヶ浜さんがおそるおそるといった体で口を開く。私は、甘くないもので、という言葉をなんとか呑みこんだ。

 

「あのさ、ゆきのん……誰かとかじゃなくて、あたしたちを頼ってほしいな。あたしはべつに何か役に立つってわけじゃ、その、ないんだけどね。でも力になりたいから……それにヒッキーは――」

「紅茶でいいかしら」

「砂糖抜きで」

 

 だしぬけに私が言うと、皆一斉にこちらへ視線を向けた。由比ヶ浜さんの真心こもった親切も意に介そうとせず、薄暗いキッチンへ消えようとしていた雪ノ下さんでさえ、私を見ていた。

 私はちょっと狼狽えたが、聞こえなかったのかと思い、繰り返した。

 

「あの、砂糖は抜きで。ストレートが好みなので」

 

 異常な喉の渇きのなか、甘ったるい紅茶など断じて飲みたくなかったのである。

 しばし黙然とした間があった。

 ふいに比企谷が失笑した。由比ヶ浜さんは目をぱちぱちと瞬かせている。雪ノ下さんは呆れ顔をしていたが、こくりと頷いてようやくキッチンに入っていった。

 

「おまえなあ……ホント、おまえ、ヤバいぞ。致命的に阿呆だわ」

「え、なに」

「あ、あははは……いやあ、あれはちょっと信じられないっていうか……さすがにって感じ、かな」

「悪いが、本気で甘いものは飲みたくなかったんだ。真剣なのよこちらも」

「まあ、いいんじゃね。久々に吹いたわ、俺」

 

 そう言って比企谷は思い出したようにまた笑った。つられて由比ヶ浜さんも笑みを浮かべる。私は馬鹿にされているのは承知だったが、たしかにあの容喙(ようかい)は場の雰囲気を壊すものだったかもしれないと、二人の嘲笑を甘んじて受け入れた。

 拳を力いっぱい握りしめ苛立ちを忍んでいると、雪ノ下さんがお盆に紅茶のカップを載せてやって来た。机にお盆を置くと、棘のある口調で言った。

 

「はじめから砂糖を入れて出すわけないじゃない。何のためにシュガーポットがあるのよ」

 

 由比ヶ浜さんが苦笑いしている。私は抗議を無視していただきますと言った。ソファに腰かけるのも忘れなかった。立って飲むなどという行儀の悪いことをしては躾をした母親に顔向けができない。なお、アイスティでなかったことに落胆し、シロップ抜きでと言えばよかったと後悔した。

 三人が紅茶をふうふう冷ましているなか、私は隣に座る雪ノ下さんに言った。

 

「由比ヶ浜さんがさっき言っていたけど、俺は大賛成だな。奉仕部のことは知らんが、文化祭に関する仕事はどおんと頼りたまえ。どうせあと一週間ほどだしな。ただし、限度は弁えてくれよ。俺にもプライベートがあるんだからさ」

 

 比企谷が「相変わらず一言多いな」と呟く。静かに紅茶をソーサーに戻すと、雪ノ下さんは探るような目つきで言った。

 

「この前の……帰りの時の言葉は、どういうつもりだったの」

「謝ったじゃないか、忘れてくれ。虫の居所が悪かっただけだ。そんなときって、あるでしょう?」

「……ないことも、ないわね」

 

 雪ノ下さんは、一瞬斜向かいの二人に視線を投げてから、続けた。

 

「けれど、いいの? 奉仕部のことについては」

「かまわん。話したくないなら話さない方がいいんだよ。それに、もともと大した興味もないからね」

「……なによ、それ」

 

 カップの中に視線を落とした雪ノ下さんの表情は、先ほどと比べ幾分か和らいだようだった。それに気づいた由比ヶ浜さんも目じりを下げる。何はともあれ、お見舞いは首尾良くいったらしい。であれば、長居は無用だ。一息に紅茶を飲み干す。

 私が腰を上げようとすると、比企谷がいきなり決定的なことを言った。

 

「で、おまえ。奉仕部にはいつ戻るんだ?」

 

 これだ。私がもっとも恐れていたもの。すなわち、今の面子で集まった時、この不用意な言葉をいつか誰かが吐くと思っていたのだ。比企谷は今、敢えて言及したと思われる。口の端を歪めているのを見れば明白だ。その故意犯的所業、絶対に看過できるものではない。許すまじ。

 

「な、なに言ってんの。俺はもう辞めたんだが」

「だって、あれだろ? まだ受理されてないんだろ? 退部届」

「えー、されたような、されてないような……」

「……そうなの?」

 

 横で雪ノ下さんが目を細めて私を見つめる。

 じっとりとした視線に堪えられなくなった私は、勢いよく立ち上がった。鞄を手繰り寄せて、軽く頭を下げる。

 

「ごちそうさまでした。由比ヶ浜さん、また明日。比企谷てめえ、覚えてろよ。では、お先に失敬」

 

 そそくさとリビングを後にして廊下を抜ける。

 急いで革靴を履いていると、背後から声をかけられた。

 

「今日はありがとう」

「う、うむ。いいさ、いいさ」

 

 声で雪ノ下さんだと分かる。いたくやさしげな口調だった。一方、私は靴ベラを扱いながらかすれた声で返した。余計な詮索を受けそうで気が気ではなかった。

 

「それで、明日、手伝ってくれるかしら。クラスの準備が終わってから、少しだけ……」

「うん、いいよ」

「では、お願い、ね」

「はいはい。それじゃ、これで」

 

 私が玄関のノブに手をかけると、「あっ」と小さく雪ノ下さんの声が漏れた。まずいと思いつつも、私は振り返る。

 

「なに」

「い、いえ、べつに、その……」

「退部届のことは聞いてくれるな。つまりは、そういうことだから」

 

 この際である、私は先回りして釘を刺すことにした。

 

「それは……本当はよくないけれど、今はもういいの。違うわ……あの時の話、あなたが話せと言ったこと。奉仕部が――いいえ、私自身が抱えている問題だけれど……ええとね、いつかきっと、あなたに話すわ。だから、その――」

「いえ、気遣ってくれなくて結構。では、また明日。くれぐれも体に気を付けなされ」

「え、ええ」

「ほな、さいなら」

 

 別れの言葉を背中で聞きながら、私は雪ノ下宅を辞した。

 エレベーターに身を滑らせると、箱の中で私はほっと息を吐いた。非常に危ないところであった。雪ノ下さんはいささか感傷的になっていたように思われる。体力が衰え、つられて精神も脆くなっていたゆえに、何か私の手におえぬ重大な事実を仄めかそうとしていた。以前に私の言ったことを意図しているのであれば、一応信用に値する人間だと認められたことになるのかもしれない。それに関して喜ぶのは、まあ、やぶさかではないが、そもそも私に話すのはお門違いなのである。なんと言っても、もはや私は奉仕部員ではないからだ。

 ともあれ、あと一週間もすれば文化祭は終わり、徒労に煩わされることもなくなる。それまでは平塚先生の心証をこれ以上悪化させないように辛抱するしかなかろう。

 私は、雪ノ下さんがもう余計な心労を溜めないことを祈りながら、とっぷりと暮れた街路を歩いていった。

 

 



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第二十五話

       ◇

 

 クラス企画の進行具合は順調であった。

 劇に必要な小道具はすべて用意できていた。たゆまぬ緊張感の中、黙々と作業に打ち込んだ成果であろう。私は同じ小道具担当の男子生徒と熱い握手を交わした。これだけの小道具を作り上げたのだ。必ず観衆をあっと言わせる舞台になるだろう、私には確信があった。

 あとは文化祭当日に組み立てるだけとなり、我々小道具班は暇を出されることになった。私は教室を出て、適当な飲み物を購入すると文化祭実行委員会の開かれている会議室に向かった。

 ざわざわざわと話し声のする会議室へ入ると、その人の多さに私は面食らった。私の知る会議室は閑古鳥が躍如して鳴く物寂しい場所であったのに、いまや所狭しと生徒たちが押し合いへし合い仕事をしているのである。これはいったい何事か。

 狐につままれたような心持ちで、ふらふらと人の間を縫うように歩く。部外者である私を誰も意に介さないのは、忙しくてそれどころではないからだろう。

 

「手伝いに来たぞ」

 

 そう言って私は空席になっていた比企谷の隣に座った。

 

「……おう。その辺のやつ適当にやってくれ」

 

 比企谷は我々の間に置かれた書類の束を顎で指した。

 

「目の前のパソコンに打ち込めばいい。Excelは起動してあるだろ」

「なーる。記録雑務は楽でいいな」

「その分仕事量は負の相関になってるがな」

「ゆえに、俺が来たのだ。ほれ」

 

 私は缶コーヒーを比企谷の前に置いた。

 

「わりぃな」

「タダではない、貸しだ。ところで、なぜこんなに人がいるの?」

「ん? ああ、雪ノ下が文化祭まで全員参加にしたからだな」

「へえ。ようやくか」

「そう、ようやくだ」

 

 私は執行役員たちが座る前方の席を見遣った。

 副委員長である雪ノ下さんから指示を受ける生徒が列をなしている。皆一様に表情を引き締めてやる気に満ち満ちていた。一つの目標に向かって一致団結している姿が頼もしくもあり、やや暑苦しくもあった。並ぶ生徒たちを捌き切った雪ノ下さんが私の視線に気が付いてこくりと頷く。私はニヤニヤと頬を緩ませながら敬礼して応答した。しかしながら、すでに彼女は見ていなかった。私は気まずげに額の上に構えた手をゆっくりと下ろす。そこで、あれっと思った。

 

「雪ノ下さんの隣の人って委員長だよな」

「そうだが」

「なんか見るからに心ここにあらずって感じだぜ」

「……知らん。大役の荷が重過ぎたんじゃねえの」

 

 比企谷はどこか突き放すような口調で言った。

 

「ふうん。どこかで見たことあるような顔だな。同学年?」

「同じクラスだ」

「ほう! すると、あの方が相模さんか、おまえの相方の」

 

 比企谷はパソコンから目を離さずに鼻を鳴らした。不満げな様子が見て取れる。何か訳ありのようだ。

 

「おまえの相方を買って出るお方だから、さぞかし器の大きい人だと睨んでいたが、委員長まで務めるとはな。やはり俺の目に狂いはなかった」

「狂いまくってるぞ」

「なんだと」

「なんでもねえよ」

「ふん。あまりナメた口を利くな。それはそうと、これはいったいなんなの?」

 

 私は比企谷との間に積まれた書類の山を指した。先ほどから、一定の間隔をおいて増えている。それもそのはず、他の委員たちがなんの断りもなく無造作に積んでいくからであった。まさか、刻一刻と我々の仕事が増しているというわけではあるまいな。いくら何でも無言で仕事を押し付けるなどというパワハラが横行しているとは考えたくない。

 

「その通りだ。仕事を振られてるんだよ」

「はあ?」

 

 言っているそばから、また通りがかりの委員が書類をそっと我々の間に落とした。

 

「しゃあねえだろ。期限が迫ってるんだからよ」

「しかし、それは俺たちだって同じなんじゃ――」

 

 きわめつけに、私の言葉を制するようにして、男女対になった委員がなぜか眉間にしわを寄せながら数冊のファイルを置いた。

 私はいい加減に腹が立ち、ぐわんと相手を下から睨みつけて言った。

 

「失礼ですが、これはなんですか?」

「おい、よせよ」

 

 比企谷が小声で注意するが、私は耳を貸さない。

 

「もしかして、我々に仕事を振っているつもりですか」

 

 文句を言われるとは思ってもみなかったのか、男女は怯んだようで言葉に詰まっていた。私は内心憤怒にかられながらも、外面はいたって冷静に続けた。誰にでもできることではない。

 

「記録雑務の仕事でしたら喜んで承りますが、それにしたって何か一言あってしかるべきではないでしょうか。無言で仕事を頼むなんて、いささか礼儀に欠けているとは思いませんかね」

「で、でも、さっきから引き受けてましたよね? 何も言ってなかったし……」

 

 女生徒の方が、おずおずと言った。いつの間にか会議室の喧噪は止んで、衆目の視線が我々一点に集まっている。私はここぞとばかりに追撃に出た。

 

「まさか総武高校の生徒ともあろう者が、仕事を振る際に、一言も断りを入れないなんて考えられませんでしたからね。ですから、ここへ積まれた書類は我々の仕事だとは認識していません。積んだ委員の方々、もし万が一、我々に依頼しているのであれば、そう言ってください。さもなければ、我々はこれを無視します。ご自身らで処理してください」

 

 私は断言した。こういうのはつけ上がらせたら際限を知らない。早急かつ毅然とした対応が必要不可欠なのである。会議室中の注目を浴びていることに、居心地の悪さは感じたが、私は全くもって後悔していなかった。

 すると、もう一人の男子生徒の方がぽつりと言った。

 

「そもそも、あんたは誰なんだ」

 

 周囲で何人かが頷いている。視界の隅で、雪ノ下さんが額に手を当てて、やれやれとばかりにため息をついているのが見えた。

 

「ぼ、ぼくが何者かなんてこの際、関係ないでしょう。いまは何より――」

「おい、もういいから! ちょっとこっち来い」

 

 ふいに比企谷に腕を引っ張られ、私は立ち上がった。そのまま会議室の外まで連れていかれる。息を吹き返したようにざわめき立つ会議室を離れて、比企谷は普段昼食をとる校舎裏の階段まで私を導いた。

 

「なんだよ、いきなり」

「こっちの台詞だ。唐突にキレてんじゃねえよ」

「キレてねえよ。そういうのは精神の敗北だからな。生まれてこの方、キレたことなどない。あれは正義の名の下に一席ぶったまでだ」

「はいはい、ようござんしたね。くそっ、厄介なことしてくれたな……」

「厄介なことをしたのは彼らだ。あんな横暴を黙って見過ごせるか? 否、断じて否だ」

「正論が通じないのが群集心理ってやつなんだよ。風見鶏に何言ったって馬耳東風ってやつだ」

「ちょっと待て、群集心理ってなんだよ。なにか思惑があるみてえな言い方だな。俺たちに仕事を押し付ける理由があるのか?」

「それは……」

 

 比企谷は急にもごもごと口ごもった。私はぴんときて詰め寄る。

 

「おい、まさか。おまえ、なんかやらかしたのか」

 

 よく考えてみれば不条理極まりないことは自明である。あれではまるで、洗礼と称した新人いびりが横行していた前時代の刑務所のようではないか。いくら人をからかうことが三度の飯より好きなお年頃であっても、さすがに理不尽が過ぎる。私のことを知らないにもかかわらず、あのようなパワハラまがいのことをするとは考えにくい。とすると、原因の所在は私以外に求められるわけだが、一人しかいない。まさか、私はとばっちりを喰った、ということなのか。

 比企谷は傾き始めた日を仰いで、どこかすがすがしくもみえる表情で頷いた。

 

「ああ。ちょっとな」

「ちょっとな、じゃねえよこのオタンコナス! やり切った顔をするな。何があったんだよ」

「それはいいだろ。俺の傷をほじくり返したいのか? ほじくったところでおまえが得るものは何一つないぞ」

「納得の問題だ。言ったことを悔いるつもりはないが、墓穴を掘らされたのかどうか、気になるだろうが」

「昨日、スローガン決めで揉めたんだよ。それで最終的に俺が委員会でハブられることになった。おしまい」

 

 過程をすっ飛ばして結論を述べた比企谷は、寂しげながらも嘲るように笑った。私はふつふつと迸りかけていた怒りも忘れて、阿呆みたいにポカンとした。

 そういえば。

 周囲は存分に意思疎通を図りながら仕事をこなしていたのに、比企谷にだけは誰も声をかけていなかった。不自然なように彼の隣の席が空いており、いわば陸の孤島と化していたのも、つまりはそういうことだ。やはり、あの無造作に押し付けられた書類が意味するものは、あくまでも比企谷だけに対する当てつけであって、私に対するパワハラではなかったということである。

 私はつまらなそうに持参していた缶コーヒーを飲む比企谷を見遣った。

 こいつ、またハブられたのか。

 クラスでは、脳天からつま先までヘリウムを詰め込んだみたいに浮いているのは、もはや言及するのも馬鹿らしいほど当たり前になっていたが、強制労働の憂き目に遭いながらもなお、その場において不遇をかこつ羽目になっているのかこの男は。私は、そのあまりに哀れな男の生き様に、不可避な神の気まぐれを看破した。不憫も不憫、非業も非業と言うほかあるまい。こいつはハブられることにこだわりでも持っているのか。いやはや、それにしてもハブられ過ぎである。これが、笑わずにいられるだろうか。

 私は噴き出すと、そのまま笑い転げた。比企谷は驚いて目を丸くしていたが、そのうちに顔を歪め始めた。

 

「おい、俺がハブられるのがそんなに可笑しいのか」

 

 私は目じりに溜まった涙をぬぐって、咳き込んだ。

 

「どんだけ笑うんだよ。もういいっつーの」

「いや、すまんすまん」

 

 しばらく思うまま抱腹絶倒すると、私は息を整えて、込み上げてくる笑いをなんとか押しとどめた。

 

「ふう、まあ、なんだ。許せんな。おまえを侮辱したということは、俺を侮辱したということだ」

「絶対思ってないだろ」

「いかなる理由があろうとも、寄ってたかって雑魚をハブるとは、言語道断」

「雑魚ってなに。ねえ、雑魚って言ったよね、今」

「雑魚は雑魚なりに気張っているというのに、彼らにはそれがわからない。彼らには指導が必要だ。驕慢極まる心を正して良識ある人間へと目覚めさせねばならない」

「やっぱり雑魚って言ってるじゃん。もう、なんなのおまえ」

「よし、平塚先生に言いつけてやろうぜ。こんなときのための生活指導だろう」

「やめて! 余計惨めになるだけだからそれ」

 

 私は、ともかく比企谷が原因のとばっちりに関しては大目に見てやることにした。自己を棚に上げたままでは卑劣であるから言うが、私とてクラスの中心人物としてそのカリスマぶりを発揮しているわけではない。むしろ、ぷかぷかと洋上に漂う雲のように浮いている。しかしながらそれは、そうならざるを得なかったからではなく、あくまでもその学生形態が自らに資するものと考え、自由意志によって選び取ったということは、賢明たる読者諸氏にはお分かりのことと思う。クラスで浮いていても何ら困ることはないが、自由意志で孤高を貫くことと、意志の有無にかかわらず「ハブ」を強制されることの間には雲泥の差がある。この先、いつ果てるとも知らぬハブ街道を驀進中の比企谷に情けをかけてやるのは、狷介孤高たる賢者の使命だと私は考えた。

 しばらく校舎裏の階段でぼんやりしていた我々だったが、頃合を見計らって会議室に戻ることにした。

 会議室前で私は比企谷に鞄を取って来てもらった。彼が入室すると同時に、それまでの喧噪がぴたりと止んだことは言うまでもないだろう。

 

「ほらよ。鞄持ってどうすんだ?」

「え? どうするんだって、そんなの――」

「おまえまさか、帰る気か」

「そのまさかだよ。もう会議室には戻らない。というか戻れるわけがなかろう。厚顔無恥も甚だしいぞ」

「おい、てめえ。さっき許せんとかなんとか言ってただろうが」

「許せないが、それと俺の羞恥心には関係がない。いま中へ入るなんて阿呆の所業だ」

「それを俺に言うのかよ」

「凄い。本当に君は凄いよ。その姿勢、一切見習うべきところがない」

「うるせえ。仕事はどうすんだ」

「心配するな。おまえなら出来る」

 

 私の無責任な発言に、比企谷は目を吊り上げたが、そのとき会議室のドアが開いてなにやら華やいだ空気をまとった女性が廊下に姿を現した。

 

「あれれ、お二人さん。もしかしてサボりかな?」

 

 声を聞いたとたん、比企谷は背後にいる人物が誰だか悟ったらしく、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。陰気な顔面がよりいっそう暗く汚らしくなっている。一方、私はというと会議室から出てきた人物が、注目に値する女性リストの筆頭であったことから、瞬時にその名を思い出していた。無意識に卑猥なため息をこぼれおちる。

 

「ねえねえ、ちょっと付き合ってよ」

 

 雪ノ下さんのお姉さん――つまり、雪ノ下陽乃さんはそう言って、正視しがたいほど眩しく微笑んだ。

 

       ◇

 

 我々は食堂の一画で向かい合った。

 隣に比企谷、その前に雪ノ下陽乃さんが座っている。

 

「やあ、すごかったねさっきの啖呵。お姉さん感心しちゃったよ」

 

 すでに初対面ではなく、会話は交わされていなくともショッピングモールで面識はあったはずなのだが、なぜか私はもう一度自己紹介をしていた。どうやら、陽乃さんは私という稀有な存在をうっかり失念していたらしい。これは非常に珍しいことといわざるを得ない。こんな奇怪な出来事が起こったのも、きっと私があのとき陽乃さんのおっぱいに全神経を集中していたせいであろう。助平根性に罰が当たったのだ。

 それはともかく、陽乃さんは先ほどの私の慷慨(こうがい)的主張を評してくれているようだった。

 

「あれは私も心苦しいと思ってたんだよねえ」

「嘘つけ」

 

 陽乃さんが言うと、比企谷がすかさず吐き捨てた。

 

「あれ~、比企谷くん拗ねてるの? そんなわけないよね、だってああなること分かってやったんだもんね。悲劇の主人公気どりだもんねえ」

「……べつに、そういうんじゃないですよ」

「ふーん、まあ、お姉さんにとってはなんだっていいんだけどさ」

 

 楽しげに笑うと、陽乃さんは右手の人差し指をぴんと立てて「二人にクイズ」といった。

 

「集団をもっとも団結させる存在はなんでしょう?」

 

 数秒後、比企谷が面倒そうな口ぶりで答える。

 

「冷酷な指導者ですか」

「はい、ぶっぶー。本当は、知ってるくせに」

 

 頬を膨らませて指でばってんを作る陽乃さんを、すごくかわいいと私は思った。

 

「じゃあ、きみは?」

 

 陽乃さんに促され、やや考えてから私は晴れやかに言った。

 

「愛、ですかね」

 

 むろん、愛などという定義のあやふやなもので人々が団結するとは毫も思っていない。こちらで放任主義が愛と呼ばれることもあれば、あちらでは執着じみた干渉がラブという名を装って大手を振るっている。やさしさが愛であれば、厳しさも愛だし、本能的な愛もあれば、理性的な愛もあるという。世界には種々様々な愛があって、アマゾン奥地の愛は千葉の愛ではないかもしれないのだ。誰もがとっておきのきわめて個人的な愛を持て余しているというのに、そんなものを共有できるわけなどあるまい。愛で集団は団結しないのだ。

 ところが、愛を語る人間のなんと美しいものか。そして、捻くれた皮肉屋のなんと醜いことか。おそらく、英明果敢な読者諸君のことだから早い段階でお気付きであろうが、私は愛に溢れた人間である。愛の無力を知りながら、愛の可能性を人一倍信奉している巡礼者である。そんな人間が語る愛は、人々を感化し、瞠目させ、そして尊敬を享受させしめる。常日頃から、私はこのような機会が訪れることを、虎の眼で耽々と待っていたわけであるが、ついにそのときが訪れた。二人には、愛と答えた私はひどく輝いて見えたことであろう。心なしか陽乃さんが、頬を染めて私を見ている気がした。ちなみに、皮肉屋の比企谷は口の端を歪めてほくそ笑んでいる。

 

「……あ、愛と来たか。お姉さん、これはちょっと想定外だったなあ」

「おお、すげえなおまえ。雪ノ下姉が珍しく困っているようだぞ」

「古来よりアガペーやフィリア、エロス、ストルゲーなどといって愛にはいろんな形がありましたが、やはり人々を団結させる愛といえば、それはもちろん隣人愛的な――」

 

 私がつい先日、本で読んだ浅薄な知識について語ろうとしたところで、なぜか陽乃さんが苦笑いともとれる表情を浮かべて言った。

 

「たしかに愛も大事だけれど、もっと分かりやすいものがあるの」

 

 そして、これまたなぜか申し訳なさそうに眉をひそめて、「ええと、敵の存在かな」と解答して、「だよね比企谷くん?」と投げた。

 

「そんな困った顔で俺に振らないでくださいよ。甘く見ましたね、こういう奴なんですよ、こいつは」

「あ、あはは、そうなんだ」

「え、どうしました? 敵の存在? ああ、たしかに! それ、たしかに!」

 

 会話の流れがそこはかとなく不穏だったので、私はすみやかに陽乃さんの主張に唯々諾々と従った。盲目的な阿諛追従であったが、少し冷静になって考えてみれば、それはもっともらしい要素を多分に含んでいるように思われた。比企谷という未曽有の憎まれ役が、権化として彼女の思想に正当性を与えているのだ。私は陽乃さんの慧眼に脱帽した。

 

「う、うん、でしょ? ほら、比企谷くんみたいな悪者がちゃんとやってると対抗心が湧くみたいだね。いいよー、比企谷くんのその姿勢! 敵がしっかりしてないと成長しないからねえ」

 

 おそろしく苦々しげに顔をしかめた比企谷は、ふと携帯電話を取り出して画面を検めた。ちらっと私を流し見てから、スカし気味に立ち上がる。

 

「あの、俺ちょっと雪ノ下に呼ばれてるんで、もう行きますよ。全体共有があるらしいんで」

「えー、せっかくこれからいろいろ話聞こうと思ってたんだけどなあ」

「話ならそいつから聞いてください」

 

 そう言って比企谷は私を指す。

 

「俺は行かなくていいのか?」

「ああ、そもそもお前は文実じゃねえからな」

 

 そう言うと比企谷は、いかにも腹立たしくなるような姑息な笑みを浮かべて食堂を出ていった。

 陽乃さんは手を振って見送ると、どこかいたずらっぽい顔をして言う。

 

「二人っきりになっちゃったね」

 

 私はむふっと笑ってから表情を引き締めた。

 



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第二十六話

       ◇

 

 私が小走りで買ってきた珈琲と紅茶で我々は乾杯した。

 食堂にはちらほら生徒が見受けられ、文化祭の準備をしているものや、勉強をしているもの、あるいは男女で面白おかしく楽しむものたちがいたものの、騒がしくはなかった。

 はじめは耳触りのよい些末なことで会話をしていたが、そのうちに話題が比企谷に至ると我々の口ぶりは熱を帯びた。比企谷の悪口を言ってさえいれば話が盛り上がるという具合だから便利である。世に悪口の種は尽きない。

 

「腐ったみかん方程式じゃないですが、あいつからはさんざん悪影響を受けました」

 

 陽乃さんは頬杖をしながらにこにこと笑っている。

 

「でしょうね。なんかきみはそんな役回りな気がする」

「純白のカンバスに墨汁を撒き散らすのを趣味といいますか、生き甲斐にしているふしがあるんですよ」

「あはは、なにそれ。あー、でも影響力はありそうだよね、比企谷くん」

「そうなんです。なまじ合理的というか理性的というか、ときにこちらが驚くような正論を吐くから手に負えない」

「それでいて、人の意見は聞かない?」

「そうそう。僕はあいつから悪影響を受けたことはあっても、与えたことはないと断言できますよ。なぜなら、あいつは僕の話を聞かないからです。どこまでも腹立たしいやつですよ」

「でも、比企谷くんの一番の親友なんでしょう?」

 

 陽乃さんはそう言って、けらけら笑った。

 

「そういえば、さっき思い出したんだけど、一度、彼からきみの話聞いたなあ」

「あいつ、何を喋りました?」

 

 目を濁らせて前傾姿勢で怪しく微笑む比企谷を思い浮かべながら訊ねる。陽乃さんは不埒な嘘を吹きこまれている可能性があるので、そういった場合は断固として否定せねばならん。

 

「ええとね、犬の依頼の話」

「ああ」

 

 そんなこともあった。

 

       ◇

 

 一学期、まだ私が奉仕部と決別する前、とある依頼が舞い込んだことがあった。

 依頼主は三年生の女生徒で、ほんわかとした雰囲気の見た目からは想像できない、切迫した声で依頼内容を話していたことが深く印象に残っている。

 彼女の依頼は単純明快だった。すなわち、学校に迷い込んだあげく住み着いてしまった犬の保護である。犬と聞いたとたん顔を青ざめさせた雪ノ下さんと、そのころまだ部とは距離を置いていた由比ヶ浜さんを除いて、私と比企谷は先輩について、その犬がねぐらにしているというグラウンド脇の木立に足を運んだ。

 新緑の下で寝そべっていた犬は、先輩がやってくると尻尾を振ってきゃんきゃん鳴いた。なんという犬種かは知らないが、毛がふわふわと巻いていて、むやみに可愛らしかった。しばらく、慈しむように犬を撫でる彼女をじっと眺めていた我々であったが、ふと比企谷がいつもの調子で言った。

 

「居着く可能性くらい考えられるだろ。なんでエサなんてやったんですか」

 

 先輩は押し黙った。いまにも泣きそうに目を潤ませている。お腹を空かせた存在が、縋るように足元にすり寄ってきたら、心も揺れる。それが可愛い犬であればなおのことだ。惣菜パンの一つや二つ上げてしまうのが人情というものだろう。

 比企谷の言い分もわかるが、ここは穏便に収めるべく、私はまずしっかりと先生なり事務員なりに報告するべきだと主張した。

 

「それじゃダメなの」

「どうしてですか?」

「おそらく保健所行きだからだろ」

 

 比企谷がぼそっと言う。先輩が目を伏せて頷いた。

 恥ずかしながら保健所の役割と殺処分の現状についてほとんど何も知らなかった私は、そのふたりの悲愴的な雰囲気が理解できなかった。

 で、どうなったか。

 結果として、動物愛護センターについて教えられた私がとにもかくにも引き取ることにした。そうして勇み立ち、手綱まで購入したが、しかしながら、である。その日、一度だけ散歩をした直後、私と犬との短すぎる蜜月は幕を閉じた。なんでも先輩の親類が犬の引き取りを申し出たというのである。私は、金之助と名付けた雑種犬をこれから精一杯かわいがってやろうと思っていたので、非常に残念な寂しい気持ちを味わったのであるが、じつのところ、まだ家族の許可をとっておらず、後々聞いたところによれば、犬を飼う余裕などないと母に言われ、そういう運命だったのだと納得した次第であった。

 金之助は元気にしているらしい。ただ、いまの名前は金之助ではなく、クドリャフカであり、オスではなくメスだったそうだ。時おり廊下でばったり出くわすと、先輩は近況を写真付きで教えてくれる。スマートフォンの中のクドリャフカは、口を大きく開けて舌を垂らし、幸福そうに笑っているかのように見えた。

 

「そのとき言ったんだってね?」

 

 陽乃さんが私の目を覗き込むようにして続けた。

 

「そんなことを知ったら引き取るしかないだろって」

「え?」

「比企谷くんはそう言ってたよ」

「ああ、言ったかもしれません」

 

 殺処分されるかもしれないと知った私が、犬を引き取ると言うと、比企谷はじろりと目を細めて言った。

 

「簡単に言うなよ。動物を飼うのは難しいんだぞ」

「だって殺処分されるかもしれないんだろ、保護期間が過ぎたら」

「そりゃそうだが、それを言ったら、キリがないだろう」

「はあ?」

「じゃあ、お前は保健所の犬をすべて助けられるのかよ? きっと今日か明日にでも殺処分になる犬はいるぞ」

「いやいや、どうして俺がほかの犬を助けなくちゃいけない? そんなこと物理的に不可能だ」

「だからっ……え?」

「こうして依頼があって、先輩が困っていて、この犬もなんだか可愛いし、しかたなく引き取るんだ。可哀そうかもしれないが、ほかの犬のことなんか知らないよ」

 

 そのとき比企谷は、心底何を言っているのかわからないというような顔をしていたような気がする。

 

「……それってなんかズルくないか?」

「やかましい。ズルくて何が悪い。べつに誰も困っちゃいないんだから」

「うわっ、開き直りやがった」

「だいたいな、全部を助けられないという理由で、目の前の一匹を蔑ろにするなんて、そっちの方がよっぽどズルいだろ。その他大勢をうんぬんの相対的な話は、俺のいないところでしてくれ」

 

 そのあとも下らない押し問答があったような気がするが、もうほとんど覚えていない。たしか早々に切り上げて、ホームセンターで手綱を買いに行ったはずだ。なんだかんだで、一緒に散歩した比企谷も金之助を見て心なしか顔が緩んでいたのは記憶に残っている。

 

       ◇

 

「でね、比企谷くんは話の最後に、あいつはあの愚直なところがいいって呟いて感心してたよ」

 

 紅茶のペットボトルに口をつけてから、陽乃さんはうんうん頷いた。

 

「その話を聞いたとき、思ったんだよねー。なんて自分勝手で尊大な子なんだろうってさ、きみのこと」

「す、すいません」

「ちがうちがう、全然非難してるんじゃないの。ちょっと羨ましいくらいだよ、さっきの文実での啖呵を見た後だと余計にね」

「はあ」

「……きみみたいな子は、合わないかもねえ。けどもしかしたら――」

「合うってなんですか?」

「ううん、なんでもない。こっちの話」

 

 そう言ってやさしく微笑む陽乃さんは、それはもう飛び切り美しかった。あやうく赤面するところだったが、初心だと思われるのは男女の駆け引き的に不利になるかもしれないので、比企谷の顔を思い浮かべてやり過ごした。そもそもこれが男女の駆け引きであるかどうかの問題を解くことは無粋だからしない。

 

「でも、やっぱりきみたちはお似合いだね。良い友達だ。お姉さん、なんか二人を見てると胸がむずむずしてくるよ」

 

 それは病気なのではと思ったが、口には出さなかった。

 陽乃さんはまた紅茶を一口飲むと、手招きして顔を近づけてくる。私は、もしやと思いながら顔を出すと、彼女が言った。アールグレイの香りが鼻腔をくすぐる。

 

「比企谷くんは恋愛とかに興味があるのかな?」

「ええ?」

 

 私は顔を離して、ぽかんとした。

 陽乃さんは「いやあ、ちょっと気になってね」とけらけら笑う。

 

「彼はさ、誰かと付き合うとかできると思う?」

「いや、思いませんね」

 

 私は即答した。

 ミミズが空を飛ぶくらい無理な話である。

 

「そっかそっか」面白そうに口角を上げて、「じゃあきみは?」と陽乃さんは言った。

「……少し考えさせてください」

「あー、ちょっと待ってね」

 

 幾通りもの交際パターンを分析して分析しつくし、なおかつ、妄想において検証して検証しつくしていた私は、その一つをこの場でつまびらかにすべきかどうか考えようとしていたのだが、腕時計を確認する陽乃さんに制された。

 

「ごめんね、私、用事があるんだった。きみと話すのが楽しくて忘れてたよ」

「え、それはまことですか?」

 

 むろん、この「まことですか」は用事があるの真偽についてではなく、私との会話が楽しいということについてである。

 

「ふふふ、お姉さん、きみに興味が湧いてきちゃった。また今度、お茶しようね」

 

 私に接したものは皆、すべからく興味を持つと自信をもっていたわけであるが、このように面と向かって恥ずかしげもなく言われると、じつはからかわれているだけなのではとやや不安になった。とはいえ、やはり悪い気はしない。というより、ここ数年で一番嬉しい言葉といっても過言ではなかった。

 すっくと立ちあがると陽乃さんは華麗にウインクして手を振った。そうしてあれよあれよという間にさっさと食堂から出て行ってしまった。ショッピングモールのときも思ったが、やっぱり嵐のような人である。

 雪ノ下さんと陽乃さんはよく似た姉妹でも、内面はじつに異なるものだと、そう感心して私は残った珈琲を飲み干した。

 

       ◇

 

 時の流れるのは早いもので、ほんの少し前に夏休みが明けたと思えば、もう文化祭の幕が下りていた。少年老い易く学成り難しとよく言われるのも、まったくその通りだと頷ける。私は学びたかった。学生の本分を全うしたかった。奉仕部を辞したのも、自由を得て、精神の充実を図り、この機に将来偉くなるための布石を四方八方に打ちまくるためではなかったか。遅きに失した感がぬぐえない我が薔薇色の高校生活をこの手に掴まんとするためではなかったか。しかし、現実は私の願いを裏切って進行してしまった。何の落ち度もないはずの私が、雪ノ下さんのサポートなどという、わけのわからぬ役割を与えられ、二学期を機に袂を分かとうと勢い込んでいた奉仕部とは、ズルズルと関係が続いてしまっている。そして、忌み嫌う青春の広告塔とも言うべき文化祭に、まるで私が積極的に関わっているかのように見える、奇々怪々な現状である。いったいこれはどういうわけであろうか。もはや痛恨の至りというほかない。

 昨年の苦々しい思い出を振り返れば、文化祭に参加する暴挙が、いったいどれだけ自分を痛めつけることになるのかは重々承知のはずである。ふたたび「滑稽滑稽」と呟き、誰からも顧みられない魂から血を流すような荒行を繰り返そうというのか。私は、校門に掲げられた「WELCOME」という看板を睨みながら拳を握りしめた。

 しかしである。

 

「貴様、ここまで来て臆したか?」

 

 どこからか聞こえてきた、暑苦しい声が私の背中を叩いた。

 「漢」という存在は、――孤独な闘いを、阿呆な挑戦を、敢行してこそではあるまいか?

 

「材木座」

「うむ」

 

 材木座は私と並び立つと、歓声の轟く体育館の方へ胸を張った。戦国武将にも劣らぬ威風堂々たる佇まいだった。

 

「鬨の声が聞こえる。すでに祭りは始まっているようであるな」

「ああ」

「行かなくていいのか?」

 

 私は苦虫を嚙み潰したような顔で宣言する。

 

「文化祭などに恭順の意を示す必要などあらず」

 

 材木座は小さく「うむ」と返す。

 

「しかし、ここにきて尻尾を巻いて逃げるという選択は、俺の魂が許さない」

 

 体育館からは、我々を煽るような電子音楽が鳴り響いている。

 

「我々はこの文化祭ファシズムと真っ向から斬り合う覚悟である」

 

 一陣の風が吹いて、二人の闘士の背中を力強く押した。

 

「我々は決して奴らの軍門には(くだ)らない。青春とは戦争である」

 

 らんちき騒ぎが、いま始まろうとしている。

 

「これは宣戦布告である。敵数、甚大。されど、相手にとって不足なし。ニイタカヤマノボレ。いざ出陣」

 

 そして、材木座は天高く吼えた。

 

       ◇

 

 威勢良く気焔を吐いたはいいが、私にはやらねばならぬことがあった。紳士たるもの、己に課された責務をおろそかにするような真似をすべからず。盛り上がる開会式など無視してやったが、こればかりは目を向けねばなるまい。私は血気盛んにふうふう言っていた材木座と別れると、教室へ足を運んだ。

 開会式を終えた連中が、がやがやと騒々しくやってくるまで、私は静まり返る教室の中でひとり小道具の組み立てに没頭していた。文化祭を盛り上げるつもりなどさらさらないが、数週間もの貴重な時間を消費して作り上げた小道具の数々だけは蔑ろにできない。これらはもはや我が子同然といってもいいくらいなのである。それに、我らが戸塚君の晴れ舞台を、その辺の演劇ごっこと同列に並べて欲しくないという気持ちもある。小道具は劇を成功させる大事なファクターだ。

 しばらく熱中していると、にわかに廊下が騒がしくなって、浮かれた生徒たちが帰ってきた。

 

「うわっ、何やってんの」

「見ればわかるだろ」

 

 一番先にやってきた川崎さんは、私を見るなり驚きの声を上げた。

 

「あんた、開会式は?」

「そんなもの、出てない」

「ずっとここで仕事?」

「当然だ。遊びに来ているわけじゃないんだぞ」

 

 川崎さんは眉をひそめて苦笑すると、「いや、きょうは遊びに来る日でしょ」と呟いた。

 そのうちにぞろぞろとクラスメイトたちが教室に入ってきて、各々の役割に取り掛かり始めた。小道具担当の男子生徒は、すでに大方完成している品々を見て、しきりに私に礼を述べていた。それをニヒルに笑って受け流すと、二人で残りの小道具を完成させた。

 

「あっぱれ!」

 

 私はそう言うと、ずらりと舞台袖に並べられた小道具を前に男子生徒と抱き合った。

 演劇『星の王子さま』の初回講演は午前十時を予定している。韋駄天のごとく作業を終わらせたゆえに、開演まではまだまだ時間があった。午後からはなんとしても外せない用事がある。今のうちに敵情視察すべく、いっちょ校内を練り歩いてやるかと気合を入れていると、川崎さんに肩を叩かれた。

 

「あんた、暇?」

「暇ではない。重大な任務がある」

「あ、そう。じゃあちょこっと一緒に見て回ろうよ」

「え、聞いてた? いま、任務があるって――」

「衣装はもう出来てるし、開演前に少し顔出せば終わりなんだよね」

「そんなこと聞いてないよ。俺は任務が――」

 

 結局、川崎さんも敵情視察に同行する運びとなった。

 川崎さんは、明日の一般公開日に弟や妹たちが来るから、そのためにどのような模擬店や催し物があるのか把握しておきたいなどという、聞いてもいないことを滔々と語っていた。私が一人で行けばいいではないかと言うと、「あんたが可哀そうだから」と恩着せがましいことをいけしゃあしゃあと(のたま)う。私は、勝手にしたまえと捨て鉢気味に返答した。

 それはともかく、敵情視察は着々と進んでいった。

 生徒たちはお揃いのTシャツを着てビラを配っているもの、得体の知れない仮装で呼び込みをしているもの、それらを見てげらげらと笑い楽しむものとさまざまであった。ようするに、集団錯乱状態である。ここは学び舎だ、いますぐ立ち去るがよい、と私は小声で呟いた。

 

「なにか言った?」

「言ってない」

「そ。ねえ、見てよあれ、フィーリングカップルゲームだって」

「……なんだと!?」

 

 川崎さんが顎でしゃくった先には、けばけばしいハートマークに「フィーリングカップル」と、いかにも浮かれ切ったような丸文字で書かれた看板があった。名前からして不愉快極まりないが、きっと内容も低俗丸出しであろう催し物を、恥ずかしげもなく掲げていたのは2年C組だった。私はすぐさまメモを取る。

 

「ねえ、あれ、あんたの知り合いじゃない?」

「おいおい、そんなわけあるか」

 

 鼻で笑って私は廊下からドア越しに教室の様子をうかがう。そうして息をのんだ。

 諸君は「フィーリングカップルゲーム」をご存知だろうか?

 男女5対5で電光掲示の大型テーブルを挟んで座るお見合い形式のパーティゲームである。まずは第一印象で気になる異性を選び、次にそれぞれのアピールタイム、そして手元のボタンを操作して本命の相手を選ぶ。その結果、両想いになれば最後に電光掲示で男女の間に線が結ばれて、カップルが誕生するのである。

 今回の場合、文化祭であり不特定多数の衆目に晒されることもあってか、恋愛を手玉にとって遊ぶような軽佻浮薄な輩が集まるのは至極当然であり、必然的に容姿に自信がある、あるいは仲間内ではいわゆるイケている生徒たちが、教室中央の電光掲示テーブルを挟んでずらりと座っていた。彼ら、あるいは彼女らは、「うっわー、俺マジ緊張してきたわー」とか「ヤバい、ヤバい、あの人イケメンじゃない?」とか、「とりあえず、遊ぶところは渋谷っス」とか、「ええっとー、読モとかやってたことあるんですぅ」とか言って、和気あいあいと青春してますオーラを漂わせているのであるが、そのなかに、ただひとり何を間違ったのか、明らかに周囲から隔絶された薄暗い男が紛れ込んでいた。

 私は思わず「神も仏もないものか」と口にしていた。

 その薄暗い男は、先ほどともに文化祭へ宣戦布告を叩きつけた、材木座義輝その人であったのだ。

 材木座は男の列の一番端に俯いて座っており、どこからどう観察しても望んで参加しているようには見えなかった。おそらく、参加者が足りなかったゆえに、箸にも棒にも掛からぬような材木座に白羽の矢が立ったのであろう。したがって、彼が華やいだ空気の中で浮きに浮きまくり、そのうえで誰にも意に介されていないように見受けられるのは、おそらく見間違いではないはずだ。悄然と魂の抜けたような表情で下を向き、不遇に耐え抜きながらも悪目立ちする材木座の姿は、あまりに見るに忍びなかった。かような辱めはさすがに酷すぎるだろう。いったい材木座がどんな罪を犯したというのだ。ここまで無法な私刑を許可したのは、いったいどこのどいつだ。ああ、私には材木座の無言の呪いの言葉が聞こえてくるようであった。

 

「川崎さん、見なかったことにしてくれ。材木座の面目のためにも、どうか」

「う、うん。やっぱり知り合いだったんだね」

 

 アピールタイムで材木座が何やらうごうごと喋り出したあたりで、我々は退散した。これ以上は胸が張り裂けそうで見ていられなかった。

 

「絶対に許すまじ、2C、そして文化祭」

 

 私は手帳にそう書くと、材木座のために血の涙を流した。敵はきっと取ってやる。

 川崎さんは阿呆を見るような目で私を見ていた。

 

 



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第二十七話

       ◇

 

 その後、私と川崎さんは騒々しい校舎を練り歩き、催し物を見て回ったり、模擬店で求めたイカゲソを二人で頬張ったりして、敵情視察を終えた。

 楽しげな川崎さんをよそに、私は真剣だった。気に障ったクラスの出し物や模擬店は事細かにメモに取り、公演開始の時刻になるまで法界悋気の茨道を歩き続けた。

 

「付き合ってくれてありがと。楽しかった」

 

 川崎さんのお礼にも、手負いの獣のように眼光炯々としていた私は、ただ一言「警戒せよ」と呟いて返答した。

 ふたたび阿呆を見る目をした川崎さんと別れた私は、照明の落とされた教室の一番後ろで戸塚君、葉山君主演の舞台『星の王子さま』を観劇した。その出来栄えは無類で、思わず文化祭という敵地にいることを忘れてしまうほどであった。原作を十回以上も繰り返し味わってきた私が言うのだからお墨付きというやつである。大筋や要点はしっかり踏襲し、そのうえで創造性も加味された大変素晴らしい脚本だったし、なにより戸塚君の演技が見事だった。きっと彼はこの舞台を通して多くの生徒を不毛な恋路に誘うことになるだろう。初演が終わり一息ついた主演両名と、総指揮を執った海老名さんに称賛の言葉を贈ると、私はどこかで早めの昼食をとるべくクラスを後にした。

 

       ◇

 

「それじゃあ、張り切っていこー!」

 

 生徒会長である城廻先輩が片腕を高々と掲げたのを合図に、私は燃え滾る闘魂を抱えて会議室の席を立った。

 時刻は午後二時、昼食後ともあって、文化祭の活気は最高潮に達していた。糖分を補給したことによって有り余る情熱をさらに持て余した生徒たちが、それを他者に無理強いすべく躍起になっている時間帯である。浮ついた雰囲気は留まるところをしらず、鉄筋コンクリートの校舎は地上三十センチぐらいは浮遊しているように思われ、校内各所で暑苦しいまでの熱気が立ち込めて、上を下への大騒ぎであった。したがって、あちらこちらで諍いやトラブルが起こるのは当然のなりゆきといえる。そこで組織されたのが、文化祭実行委員会の校内パトロール班である。

 この校内パトロール班は、トラブルに対応するだけでなく、模擬店や催し物への調査も行う。たとえば、申請されていた内容と異なる出し物をしていたクラスや団体に、注意や指導をするというものである。そんなパトロール班に私も加わっていた。人手が不足していたらしく、雪ノ下さんに参加を願い出るとあっさりと承諾してくれたのだ。意気揚々と会議室を出発する面々の後ろを、これから始まる孤独な闘いを前にして私は武者震いしながらついていった。

 

「どうしてそんなに気負っているの、ただの見回りよ? もしかして緊張していたりするのかしら」

 

 同じパトロール班で隣を歩く雪ノ下さんが言う。

 

「べつに緊張なんかしてない。ただ、高めているだけだ」

「……ええと、何を」

「士気だ」

「しき」

「さむらいの気だ」

「ああ、士気ね」

「うむ、士気だ」

「なぜ?」

「きみには関係ない」

「そう」

 

 雪ノ下さんは聞き分けのない子どもと会話しているかのようにため息を吐くと、静かに言った。

 

「あまり変なこと、しないでちょうだいね」

 

 私は一笑に付して黙殺した。

 さて、私のこの文化祭ファシズムとの一戦は、やや見苦しいところがあり、その様子をすべて細大漏らさずお伝えすると、いかに寛容な諸君といえどもきっと眉をひそめて、私のことを悪しざまに罵ることになりかねないので、一部だけを書くことにする。簡潔に申せば、青春闇市たる文化祭とその厚顔無恥な無法者たちに一矢報いるため、校内を縦横無尽に暗躍して回ったのだ。本日は私単体で、そして一般公開となる二日目は息を吹き返した材木座も加え、天誅は熾烈を極めることとなった。

 まず我々校内パトロール班が向かったのは一年生のクラスが並ぶフロアである。ここでは、さきほど川崎さんと敵情視察をしていた際、立ち寄った「占い喫茶」という出し物を潰してやった。なぜかと問われれば、占い喫茶と銘打っているにもかかわらず、内実ほとんど出会い喫茶みたいな様相を呈していたことが挙げられるが、最大の問題は、あまりに不吉すぎる残酷な将来を占って私を慄かせたことだろう。「男だけのフォークダンス」を踊り狂うことになるとか、「妖怪ぬらりひょんみたいな怪人」に付き纏われて大学生活を台無しにするとか、夏の古本市でなぜか「火鍋」を囲んで死にかけるとか、そんなことを予言されて黙っていられるわけがなかった。尻の青い一年生のお子ちゃまには良い教訓になったことと思う。黒髪の乙女と喫茶店で語らっているような幸せな未来を占っていれば、彼らも涙をのむことにはならなかったであろう。ざまあみろ。

 私の助言を発端に雪ノ下さんから占い喫茶の一時営業停止が言い渡された後、我々は次に二年生のフロアへ進軍した。ここには悪名高き、あの「フィーリングカップルゲーム」の2Cがある。

 私はなんとか怒りを抑えて静かに言った。

 

「雪ノ下さん」

「なに?」

「2C、ちょっといかがわしいぜ。調査すべきだ」

 

 雪ノ下さんはちらりと視線を2年C組に送ると、提出された申請書類に目を通し始めた。その間に、私は先頭を歩く生徒会長にも進言する。

 

「生徒会長殿、このハートマークはいささか破廉恥ではありませんか? やっている内容もまるで低俗的ですよ。放っておいていいのですか?」

「うーん? じゃあ、ちょっと覗いてみよっか」

「よろしくお願いします」

 

 生徒会長を筆頭にパトロール班が2Cへガサ入れを行う。全財産を失った投資家のような虚ろな目で立ちつくす材木座の姿を見出した私は、中には入らずひとり廊下で待機していた。戦意喪失した彼に、いま必要なのは慰めの言葉ではない。彼を奈落の底へ落とした無自覚な加害者への正義執行である。

 数分後、戻ってきたパトロール班の報告を聞いて私は失望した。申請内容と特に異なった営業をしているわけではないため、不問とするとの旨を伝えられたのである。私はすぐさま生徒会長に抗議したが、暖簾に腕押しといった具合で取り合ってもらえなかった。

 

「くそっ、明らかに風営法に抵触してるじゃないか」

「大げさね。あれくらい、どうってことないじゃないの」

「県の条例違反だ! 俺は絶対に認めないぞ」

「あなたの認可なんて必要ないのだけれど」

「雪ノ下さん、見損なったよ。きみが青春ファシストだったなんて。俺は悲しい」

「お黙り。阿呆が伝染(うつ)るから、静かにしてちょうだい」

「ひっ、ひどい」

 

 こうなれば実力行使である。怒りに打ち震える身体をなんとか抑えて、私は厠と偽って一時離脱を申し出た。パトロール班を先に行かせると、私はこっそり出口側から2Cへ忍び込み、教室の隅に身を隠した。そうして阿呆面さげてキャッキャウフフと浮かれる軟弱な青春ファシストたちを興ざめさせるべく、両想いのカップルが成立するまさにその瞬間を狙い、電光掲示テーブルのコンセントをぷっつりと抜いてやった。ふいにその場は静まり返り、一呼吸おいてざわざわと不満の声が上がり始め、続いて男どもから喧々囂々たる文句が飛び交いだした。司会の生徒はオロオロと視線を彷徨わせ、他のスタッフが急いで原因を追究し、ようやくコンセントが抜けていたことに気が付くが、そのころにはすでに私はとんずらしていた。潰すまでには至らなかったが、持ち合わせていたビニールテープでコンセントプラグをぐるぐる巻きにしておいたから、しばらくはあのけしからんゲームは行えまい。ざまあみたまえ。これが天の裁きだ。材木座の受けた屈辱には足りないが、これで少しは彼も心が晴れたことだろう。

 その後、何食わぬ顔でパトロール班に舞い戻った私は、申請とはまるで異なる危険な出し物をしていたクラスを伝え、3Cのトロッコ遊びを迅速に停止処分に追い込み、またほかのいくつかの出し物を一時停止、あるいは活動内容の即時変更を認めさせるに至った。

 こうして、文化祭初日の私の孤独な闘いは、ある程度の成果と、摘んでは芽吹き、せき止めては湧いてくる途方もない敵、すなわち青春の膨大な戦力を思い知らされる結果となった。彼らは我々パトロール班との問答を面白がっているふしがあったような気がする。自分たちの正当性を主張するそのこと自体が、文化祭という空気の中で、彼らにとってひとつのエンターテインメントと化してはいなかっただろうか。私の闘いは彼らの絆をより強固にするような余興ではない。限りなく余興に似た闘いであっても、そこには富士山よりも高い誇りがあるのだ。

 

「ご苦労さま」

 

 会議室に戻ってくると雪ノ下さんが私を労った。

 

「この後はどうするの?」

 

 窓からは淡い夕日が差し込んでいたが、文化祭はまだ続くようであった。すでに生徒会長や他の委員たちは、トンボ返りのように賑やかな校舎の方へ戻っている。

 私は胸にやり場のないくすぶりを感じながら、「帰る」と言い捨てた。明日のために用意するものがあったのだ。

 

「あなた、姉さんと話したらしいわね」

 

 帰宅の準備を急いでいると、雪ノ下さんがふと言った。

 

「あの、ね。一応、言っておくけれど、姉さんには気をつけなさい」

 

 雪ノ下さんは腹になにやら思惑を隠し持っているような顔をしていた。

 

「気をつけるって、何を?」

「いろいろ、よ。どうせ鼻の下を伸ばしていたのでしょう?」

「失敬な。断じてそんなことはない」

「うそ。知っているわよ」

「な、なぜ? まさか、見てたのか!」

 

 雪ノ下さんはくすくすと笑った。

 

「ほら、そういうところ。あなた、わかりやすいのよ」

「は、謀ったな! 卑怯だ」

「これでも心配しているの。すぐにのせられるから、あなたは」

 

 かまをかけておきながら、いっこうに悪びれる様子もなく雪ノ下さんは言った。

 

「気をつけなさいね」

「余計なお世話だ」

 

 私はむっとしてそう返す。

 

「また、明日」

「……さようなら」

 

 胸の前でひらひらと手を振る雪ノ下さんを一瞥して、私は会議室を出た。

 

       ◇

 

 文化祭ファシズムとの戦いは二日目に突入した。

 きっと友人知人に囲まれて学校生活、あるいは仕事に精を出し、休日は恋人と小粋なランデブーを楽しむような読者諸兄のことだから心配ないとは思うが、くれぐれも我々の闘いを真似するようなことはしないでいただきたい。たしかに我々は己の信念に忠実であり、身を賭して文化祭を戦場と見なしていたが、一方からすればただの悪ふざけと見なされる場合もあるのだ。しかもそれが迷惑行為と断じられて、しかるべき処分を下される可能性もある。文化祭宣伝用の横断幕に落書きをしたという、どうしようもない理由で停学、あるいは退学ともなれば、もはや未来に望みを託すことは叶わなくなるだろう。自室に引き篭もって、キノコの苗床人間としての生涯をまっとうする公算が非常に高くなる。これは真夏に火鍋で死にかけるよりつらい。

 したがって、我々は文実や先生、そして文化祭ファシストの目を盗み、細心の注意を払いながら、戦場を駆け抜けた。

 

「マジで持ってきたのか」

「見損なうな。我を誰と心得る」

 

 私はやや尻込みして材木座に言った。

 

「本当にやるな?」

「天誅を加えると、あれほど猛っていたではないか」

「うん。しかし俺は天誅だと思っているけど、世間の目から見れば、間違いなく阿呆の所業だ」

 

 一応、昨日は文化祭実行委員という建前と大義があったが、これから行う闘いはかぎりなく個人的復讐に近い。

 

「世間を気にして、貴様は信念を曲げると言うのか? 我が身も心も委ねたのは、そんな漢ではないぞ」

「気持ち悪いよ」

 

 私と材木座はこそこそと移動すると模擬店が並ぶ一画の背後にやってきた。風向きを考慮に入れて、模擬店からは死角となっている校舎の影に身を潜ませると、私は持参したビニール袋、材木座は幾重にも重なった一斗缶を地面に置いた。

 

「よし、やってやるぞ」

 

 我々は四つの一斗缶に用意してきた炭を入れて火をつけた。そうして網を載せると、ビニール袋から十本近い秋刀魚を並べた。準備は整った。

 むろん、秋刀魚を焼く行為というのは、食べるためにするものである。決して、大量の煙を発生させるためだけに行うものではないし、ましてや、それを風に乗せて人に迷惑をかけたり、面白おかしく盛り上がる文化祭の参加者を攻撃するためのものではない。繰り返すようだが、くれぐれも真似はしないでいただきたい。

 今が旬の香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。同時にもくもくと薄墨色の煙が立ち込める。我々の背後から模擬店の方へ向けて、強い潮風が吹いた。自然の法則に従い、煙は一斉に模擬店へと流れていく。

 

「うひょひょひょお、いいぞいいぞ!」

 

 材木座がいまだかつて聞いたことないような声で哄笑を上げた。

 

「材木座、団扇だ! もっと炭をあおげ! 煙を増やせ!」

「合点承知! うひょひょひょッ」

 

 そのうち手が付けられないくらいに濛々と煙が立ち込め、もはやこの位置からでは模擬店が判然としないほどになった。ほとんどボヤである。

 

「よし、逃げるぞ!」

 

 私はそう言うと、きわめつけによくかき混ぜた納豆を秋刀魚の横にばらまいた。えもいわれぬ臭気が芬々と漂いはじめる。日本人の朝食的攻撃である。これで味噌汁をぶっ掛けられればなお良い。

 

「天誅、天誅!」

 

 狂ったように叫ぶ材木座を引っ張って、我々は煙と臭気で阿鼻叫喚となっている模擬店の一画を目指した。

 マスクを装着し、無事チョコバナナを売る模擬店の前まで来ると、材木座と目で合図を交わす。あたかも煙や発酵臭の被害者であるかのごとくふるまいながら、私は模擬店に張り付けてあるポップ広告に0をひとつ付け加えていく作業に没頭した。百円のコーラが千円になり、二百円のわたあめが二千円になり、三百円のラブラブ苺パフェが三十万円になった。煙と臭気の騒ぎを聞きつけた文実が現れる頃になって、我々はその場を離脱した。

 校舎裏の外階段で落ち合うと、私と材木座は無言で握手を交わし、健闘を称え合った。煙と臭気があの界隈から晴れる頃、あらゆる模擬店は物価がジンバブエ的に高騰していることに気が付くだろう。しばらくは混乱が続き、客離れが加速するはずだ。上出来で、文句なしだった。言うことなしだった。にもかかわらず、腹の奥底からは空気が抜けるように言葉が漏れた。

 

「俺たち、何やってるんだろうな」

 

 我々の総意に、材木座はうおん、と鳴いて応えた。

 

       ◇

 

 だが、しかし我々は止まらなかった。負けなかった。負けることができなかった。

 そして負けていた方が、きっと我々もみんなも幸せになることができた、とは言わない。みんなは幸せかもしれないが、我々は相対的に不幸であるという現実に押しつぶされていただろう。だから止まらなかったのだ。

 頭の片隅に何度も「不毛」という言葉がよぎったが、我々はその後も文化祭との大立ち回りを演じた。ゲリラ的に校内各所を引っ掻き回して、気が付けば文化祭も残りわずかという時刻になっていた。千里の堤も蟻の穴からということわざを信じて走り抜けたものの、我々の眼前には、「かゆいかゆい」とびくともしない文化祭が屹立していた。体育館では滞りなく閉会式が行われようとしており、これでは富士の山を蟻がせせる、だった。

 私と材木座は閉会式前の有志によるコンサート中の体育館に忍び込むと、躁状態にある群集の中へ動くおもちゃのヘビやゴキブリを解き放つことをもってして、この戦いに幕を閉じた。蠢く爬虫類や昆虫の大群にコンサートが台無しになることを願うが、おそらくもみくちゃにされたあげく、踏みつぶされてゴミになるのがオチだろう。

 

「疲れた」

「うむ」

 

 校舎裏の階段で我々は乾杯した。一仕事終えたあとのサイダーは汗と涙の味がした。

 

「やるだけのことはやった」

「うむ」

「最後に、見届けよう」

「うぬ?」

「俺たちが何を為して、何を為せなかったのか」

「それはいい考えであるな」

「なにゆえ戦い抜いた俺たちが、こんな校舎の片隅にいる必要がある? もっと相応しい場所があるだろう」

 

 俯いていた材木座が顔を上げる。

 

「覇者である織田信長が安土城から世間をあまねく睥睨したごとく、我々も彼を見習うべきだ。この戦の勝利者として」

「異議、なしである!」

 

 適当な御託を並べてみたものの、その実、生まれかけている唾棄すべき後悔を一刻も早く捨て去るために、気分転換が必要だっただけである。この校舎裏の外階段は、私や材木座にとって不遇の象徴であるからだ。

 我々は重い腰を上げた。

 

       ◇

 

 途中、気安く話しかけてきた川崎さんを無言の眼光で黙らせ、私と材木座はふらふらと特別棟までやってきた。フィナーレが近いこともあって、校内に人気はまばらだった。生徒たちは体育館に集まっているのだろう。私はふたたびヘビとゴキブリの縦横無尽の活躍を願った。おぼつかない足取りで階段を上ると、我々は屋上の扉を開いた。

 

「うわぁ」

 

 手摺付近に佇む先客の後ろ姿を見て、戦いの傷を癒そうと思っていた私は、やや気分を害された。先客は物音にはっと振り向いて、なんとも微妙な面持ちで我々を迎えた。待ち人の来訪を裏切られたかのような顔と形容すればいいかもしれない。失敬なその女生徒には見覚えがあった。たしか比企谷の相棒で、文化祭実行委員長の相模さんである。ようするに敵の総大将ということになる。

 普段であれば、曖昧な笑みでもひとつこぼして失礼するところであるが、落ち武者のごとき我々にそんな気遣いは不可能である。すでに戦は終わり、無用な争いは望まないものの、近寄らば斬り捨てるという気迫だけは持ちながら、我々は相模さんから少し距離を取って手摺に体を預けた。

 

「これでは、かっこよく余韻に浸れないではないか」

 

 材木座が相模さんを意識しながら小声で言う。

 

「なぜ女子がいる」

「知らねえよ。しかもあの人、文化祭実行委員長だぜ」

「んま! 我らが宿敵ッ」

 

 潮風に混じって、軟弱な楽器の音や誰かの歌声がかすかに聞こえてきた。体育館では何事もなくコンサートが続いているらしい。私は歯噛みした。

 

「あのぉ」

 

 おそるおそるといった声が聞こえてきたのは、材木座の携帯電話が鳴るのと同時だった。私は材木座の「我だ」という応答の声を耳にしながら、相模さんの方を向いた。

 

「なにしてるんですか? エンディングセレモニーは、えっとぉ……」

 

 私は「えっとぉ」の続きを待ったが、いっこうに続く気配はなかったので、ここぞとばかりに不敵な笑みを浮かべて言った。

 

「閉会式には出ません、開会式も出てませんからね。ところで、文化祭実行委員長、見事な文化祭でした。じつに良い勝負でしたね」

「……え、はあ、うぅん?」

 

 私はこのとき、文化祭の中心人物たる実行委員長がなぜ閉会式直前にこんなところにいるのか、という疑問には迂闊にもまったく思い至らなかった。そして、彼女がこのとき私に尋ねたのは、閉会式がすでに始まっているのかどうかについて、だということにもまったく気が付かなかった。

 

「ときに委員長殿、模擬店でのボヤ騒ぎには閉口しましたね?」

「……え? そんなのあったんですか?」

「え? いや、え?」

 

 私は愕然とした。

 彼女の耳に届いていないということは、下っ端委員の間で内々に処理される程度のトラブルに過ぎなかったということである。

 

「で、では、調理室のシャボン玉騒動は?」

「す、すいません。ちょっとわかんないです」

「そんなぁ……」

 

 彼女は本当に文化祭実行委員長なのか、という疑いが首をもたげたが、会議室において雪ノ下さんの隣で委員長席に座る相模さんを実際に見ているのだから、現実から目を背けるわけにはいかなかった。我々の闘いはなんだったのか。彼女のどこか当惑したような様子は、むしろ我々のような雑魚を歯牙にもかけない王者然とした佇まいに感じられた。ゆるく漸減していた私の意気は、この瞬間、粉々に砕かれてしまった。

 うなだれる私に、ふと材木座が言う。

 

「八幡から電話を受けた」

「あ、そう……」

「人を探しているようであったが」

「知らねえよ! そんなこと!」

「何を怒っているのだ?」

「てめえ、バカ、てめえ。これが怒らずにいられるかい」

「なぜだ?」

「なぜって、お前……もういいよ。で、誰を探しているって?」

「そこの人だ」

「え?」

「だから、そこの実行委員長だ」

「へえ。なんでだよ」

「知らん」

 

 比企谷が誰を探していようと心中では我関せずであったが、そのときになってようやく私は、閉会式が始まるにもかかわらず、相模さんがこの場にいる異常性に気がついた。

 

「比企谷に教えたのか?」

「それが、その前に切られてしまってな」

「ふうん」

 

 そのとき私には、このまま放っておけば閉会式に文化祭実行委員長が不在という、なんとも間抜けで私好みなフィナーレを迎えるのではないかという姑息な期待が生まれていた。ここで、なんとか彼女を足止めできないものかと、数十通りの策が浮かぶ。最後に意趣返しができるかもしれない! しかし、私はいくばくか逡巡したのち、紳士たるもの負けた時にこそ潔くあるべきだと前を向いた。

 

「委員長殿、そろそろ閉会式が始まるようですよ」

 

 にわかに相模さんは眉根を寄せていまにも泣き出しそうな表情をした。そんな反応をされるとは思わなかった私はかなり慌てた。

 

「ど、どうしました?」

「べつに、うちがいなくても……」

「はあ?」

 

 言っている意味がわからなくて、私は素っ頓狂な声をあげてしまった。文化祭の終わりに文化祭実行委員長がいなくていいわけがあるまい。それとも、「老兵は死なず、ただ去るのみ」的な意味合いがあるのだろうか。だとすれば、見事というほかない。老兵とは、老いた兵ではなく、戦場を斃れず生き抜いた強靭な戦士に与えられる称号なのだから。

 

「雪ノ下さんがいるし、うちはもういいの」

「なっ……」

 

 私は呆然とした。

 これが勝者の謙遜であろうか。敵ながら、あっぱれ。すがすがしい風が心の中を吹いた気がして、私は竜虎の争いを制した側の代表に惜しみない拍手を送った。彼女の物思いに沈んだように見える顔も、おそらくは使命を果たし、あとはただ静かに退場していくことへの一抹の寂しさから来たものなのだろう。完敗だった。彼女になら煮るなり焼くなり好きにされてもよい、そう思った。言い換えると、ようするに、まあ、ヤケクソだった。だって、悲しそうな乙女の取り扱い方なんてわからないのだもの。

 

「材木座、ほら、お前も早く手を叩け」

「なぜだ」

「いいから」

 

 そうやって我々がぱちぱちと最大限の敬意を表しているときだった。

 

「え、何、この状況」

 

 階段に続く扉を開いて、ぬっと下っ端実行委員の比企谷が姿を現した。

 




この場を借りて、誤字報告、訂正していただいた方に感謝を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。


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第二十八話

       ◇

 

「あの、お取込み中悪いけど、エンディングセレモニー始まるから、戻ってくれ」

「そんなものには、出ない」

「右に同じである」

「お前らには言ってねえよ!」

 

 材木座が話していた通り、比企谷は実行委員長を探していたようだ。相模さんを閉会式に連れていくためであろう。ボスがいると部下たちはのびのび出来ないことを悟り、成長を促すためにも後を託そうとする涙ぐましい彼女の決意を知らないらしい。しかし、なぜ比企谷が来たのだろうか。もっと相応しい人物がいるような気がしてならない。

 

「ていうか、いつまで拍手してんだよ。うるさいから止めろよ」

 

 私と材木座は顔を見合わせると、手を止めた。正直なところ、いい加減腕が疲れていたのでありがたかった。

 

「とにかくだ、いま雪ノ下や三浦たちが時間稼いでる。その間に戻るぞ」

「そんなものには、出ない」

「右に同じである」

「だから、お前らには言って――」

「いや、委員長殿の話だ。ですよね?」

 

 私が目をやると、相模さんはこくんと頷いた。

 

「あー、これややこしいやつだぁ」

 

 比企谷が小さく呟いた。濁った目をしばたかせて、一瞬すべてを中空に投げ出そうとする阿呆の顔つきをしていた。その様子にやや親近感を覚える。

 

「ということだ、八幡。ゆえにお主もここで黄昏に身を任せようぞ」

「任せるわけねえだろ。こっちはマジで急いでんだ、余計なこと言うな」

「目を覚ませ、比企谷。お前のそれ、本当に急ぎの用か? じつはそう錯覚しているだけ、なんてことはないな?」

 

 私が尋ねると、比企谷は途方に暮れて、即座に息を吹き返した。

 

「よし、お前らは無視する。相模、戻るぞ」

「……雪ノ下さんがやればいいじゃん」

「くそっ、もう面倒くさいな! お前じゃなきゃダメなんだよ」

「えっ……」

「お前の持ってる集計結果とかが必要なの。発表だってお前がやるんだ」

「……そう」

 

 相模さんが我々の方にちらりと視線を寄越した。私は肩をすくめる。材木座はスマートフォンをいじっている。後はご随意に。

 相模さんの目に光が宿った。

 

「いまさら戻れない。集計結果だけ持っていけばいいじゃん」

 

 今度こそ比企谷は途方に暮れた。私はふたたび拍手を送る。材木座は液晶画面を指でタップしている。

 比企谷の隣に立つと、私はその肩に手を置いた。

 

「もう、休め」

「依頼なんだよ、奉仕部活動の。最後にあいつを――相模を舞台に立たせて委員長としての責務をまっとうさせなきゃ、奉仕部を、いや、雪ノ下を否定することになるんだ」

 

 比企谷は小さな声でそう告げた。

 

「今だって、そのために雪ノ下や由比ヶ浜たちはステージに立ってるんだぞ、ぶっつけ本番で」

「マジか」

 

 なるほど、奉仕部活動か。

 私はなんとなく事態が飲み込めてきて、文実とはいえわざわざ比企谷がこの場に来たのもワケがあるのだと思った。とりあえず、雪ノ下さんならまだしも、由比ヶ浜さんの尽力を否定し、悲しませるのは酷かもしれないと瞬時に私は心の中で断じる。

 比企谷が私の耳元で続けた。

 

「こういうことはあまり言いたくないが、相模は委員長としては最悪だった。ただ肩書が欲しかっただけなんだよ。ほとんど仕事らしい仕事もしてない。だから、最後くらいは責務を果たすべきなんだ。終わりよければ、なんとやらっていうだろ。あいつのためでもあるんだ」

 

 私はすべてが瞭然としたわけではないが、ここは比企谷に従うべき場面ではないかと考えた。彼の話を聞くと、途端に相模さんが能無しのお飾り委員長に見えてきたのだから、我ながら冷血すぎはしまいかと自分が嫌になる。しかし、比企谷の人を見る目には重きを置いているのも事実だ。

 私は文化祭ファシズムとの闘いを思い出し、その戦火を相模さんが知らなかったことを考え、寛大な気持ちになってから言った。

 

「実行委員長殿、やっぱり戻りましょう。戻るべきですよ!」

 

 相模さんは眉根を寄せた。

 

「でも、うちはぜんぜん役に立ってないし……」

「たしかに役立たずかもしれない。それでもいいじゃないですか」

 

 すると比企谷に小突かれて、「言い方考えろ馬鹿」と耳打ちされた。

 私は頭をひねり、実益的な面を述べてみた。

 

「ここで中途半端に投げ出すと、内申点に響きますよ」

 

 ふと相模さんの瞳が揺れる。どこか迷っているようだ。やはりいつの時代もものをいうのは理想ではなく現実だ。現実的に益のある話をすれば誰しも目の色を変えるのである。と、そんなことを考えていたが、しかしながら相模さんは二の足を踏んで首肯しなかった。

 私は比企谷を流し見て「お手上げだ」と言った。比企谷も比企谷で出来ることは何もないと悟っていたのか、口惜しげに拳を強く握っている。材木座は相も変わらず離れたところでスマートフォンをいじっていた。わかってはいたが、ここぞというときにまったく使えない奴である。

 これ以上は無駄だし、そもそも私になんの義理があって相模さんを説得する必要があるのかという根本的な問いが、にわかに浮かび上がってきた。敵に塩を送る行為をしてなんになる? 青春ファシズムに抗っていた我々のやることではない。そうだ、おうちに帰ろう。帰って、静かに猥褻文書でも紐解こう。そう思ったときだった。

 背後の扉が開く音がして、我々はみな弾かれたように振り返った。

 

「ここにいたのか……。捜したよ」

 

 そこにいたのは我らがハンサム、葉山隼人君であった。

 

       ◇

 

 それで、どうなったか。

 一言でいえば、比企谷と葉山君が二役に分かれ、あからさまに明暗を分かつことで事態は収拾した。つまり、比企谷はお得意の陰湿な手を講じて悪役に成り下がり、姫を救う白馬の王子様役を葉山君がこなしたわけである。『ほしの王子さま』にも劣らぬ見事に演出された劇は、文化祭実行委員長である相模さんに己の責務をまっとうさせるべく奏功した。しかし、この悲喜劇を細々と書くつもりはない。私と材木座はほとんど蚊帳の外であったし、なによりそれが見るに堪えない無様なものだったからだ。御都合主義的立場からものを言うのも卑怯かもしれないが、相模さんによる愁嘆場にはいささか閉口した。どっちつかずのぐずぐずとした態度が癇に障ったのだ。だから、比企谷の直截な言葉に胸がすく思いだったのは否定しない。むしろ、もっとやれもっと言え、と心の中で扇動していたほどである。

 稀代の悪役、比企谷は言う。

 

「お前は結局ちやほやされたいだけなんだ。かまってほしくてそういうことやってんだろ? 今だって、そんなことないよって、そう言ってほしいだけなんだろうが。そんな奴、委員長として扱われなくて当たり前。本当、お前、最低だよ」

 

 いや、しかし、最低とはよくぬけぬけと言ったものである。私は「おまえこそ最低だ。しかし、悪くない」と比企谷に心の中でエールを送った。

 比企谷は陰湿さに辛辣さを加え、相手の心理を穿つ鋭い言葉を次々と吐いて、とうとう葉山君を激昂させた。怒るのも当然である。私は改めて比企谷という人間の卑劣さに瞠目した。そして、敢えて彼を諫めなかった私や材木座の卑劣ぶりもなかなかだと認めた。潔く。

 言われ放題の相模さんがしくしくと嗚咽を漏らしだすと、さすがにかわいそうになった私は、にわかに忸怩たる思いが湧いてきて、その辺にしておけと比企谷を制止しようとした。女の涙にほだされない男はいないのだ。いるとすれば、よほどの冷血漢かあるいは男にみえる女である。そしてそのときであった。

 

「比企谷、少し黙れよ」

 

 怒りに駆られた葉山君は比企谷の胸倉をつかんで壁に押し付けた。いまにも火花散る殴り合いに発展しそうで、私は伸ばしていた手を引っ込めて狼狽えた。

 暴力は紳士の見過ごすべきものではない。材木座は物陰に隠れてあわあわと震えていたので、しかたなく私が前に出た。よもや、私まで詰められるということにはなるまい。

 

「は、葉山君。乱暴はいけないよ、落ち着いて」

 

 さすがにいきなり殴り合うという非文明的なことにはならなかった。

 獣のごとく睨み合う両者をなだめるべく、後ろで呆然としていた相模さんとその取り巻きが私に加勢した。

 

「ほら、急がないと閉会式が始まってしまうよ」

「そうだよ! 葉山くん、もういいから、やめよ! そんな人ほっといて、行こ。ね?」

「そうそう、喧嘩はよくないって!」

「わ、我もそう思う」

「急ご、葉山くん」

 

 背中で息をしていた葉山君は比企谷から手を振りほどくと、平静を装って「早く戻ろう」と相模さんたちを促した。文化祭実行委員長とその取り巻きは扉を開けて、体育館へと去っていく。比企谷への暗い感情と心ない言葉を吐き捨てながら。最後に、葉山君はひどく悲しそうな面持ちで言った。

 

「どうして、そんなやり方しかできないんだ」

 

 比企谷はちらりと彼を一瞥すると、「ふん」と鼻で笑って、へなへなと腰を下ろした。強がったふうだが、明らかに震えている。私は、ものすごくダサいなこいつ、と思った。

 比企谷はしばらく身じろぎもせず、秋の暮れゆく空を眺めていた。それから、ふとこんなことを言って、私の皮膚に鳥肌を立たせた。

 

「ほら、簡単だろ。誰も傷つかない世界の完成だ」

 

 比企谷は言ってから、しまったというように顔をしかめた。

 

 余談として、私と材木座は以後数か月にわたってことあるごとにこの台詞を引用し、比企谷を赤面させた、というのは言うまでもないだろう。

 

       ◇

 

 長かった文化祭が終わった。後に残るのは熱狂の静かな余韻と役目を終えた祭りの残骸ばかりである。

 あれから比企谷と屋上で別れた私と材木座は、間を置かずしてこちらも各自赴くままに別方向へと歩みをとった。奇妙な節をつけて古いロボットアニメの歌を歌いながら階段を下りていく材木座を見送って、私は手摺の方へ歩いていった。

「宴のあと」と言うべき空しさが漂い、少し肌寒くなった潮風が身に染みた。私は盛りだくさんな一日を反芻しようと試みたが、不必要に傷つくおそれを感じてすぐに記憶に蓋をした。反省するのはいいが、やはり後悔だけはしたくない。とにもかくにも昨年の雪辱だけは晴らすことができたと心を落ち着けながら、私は長い間、手摺に気怠く腕を預けていた。

 そのうちに体育館の方角から歓声が聞こえてきて、私は閉会式の幕が下りたことを知った。ふいに、ひと際強い潮風が吹いた。文化祭にやって来て風邪をひいて帰るのも癪なので、私は屋上を去ることにした。

 さて帰ろうかと廊下を歩いていると、前方からがやがやと閉会式を終えた生徒たちがやって来た。ほくほくと満足げに言葉を交わす連中から一人の女生徒が抜け出すと、ぱたぱたと私の方へ走り寄ってくる。

 

「やっはろー」

 

 由比ヶ浜さんだった。さすがの彼女も二日間のお祭り騒ぎには疲れたらしい。心なしか元気のない顔をしていた。私たちは通る生徒の邪魔にならないよう廊下の隅に移動した。

 

「文化祭終わっちゃったねー」

「うん」

「ねえ、最後のライブ観た?」

「ライブ? いや、観てない」

「えー、あたし歌ったんだよー。でね、ゆきのんがギター弾いたの。体育館にいなかったの?」

「うん、まあね」

 

 由比ヶ浜さんは目をぱちぱちさせると、じっと私の顔を見つめた。

 

「もしかして、ヒッキーと?」

「え?」

「あ、ほら、さがみんのことで、その……」

 

 心苦しそうに口ごもる由比ヶ浜さんに、私は屋上での出来事がすでに明るみに出ていることを知った。ただ、彼女の反応を見るに、私や材木座の存在は公言されていないのかもしれない。迷ったが、いずれどこからかバレると思い、私は言った。

 

「うん。偶然だけどね」

「そっか……」

「実行委員長に聞いたの?」

「実行委員長ってさがみんだよね」

「相模さんです」

 

 私がそう言うと、由比ヶ浜さんは「えっと、周りの子がね」と苦笑いを浮かべた。

 

「あのね、たぶん、だけどね」

「なに?」

「うん……たぶんね。ヒッキー、嫌われると思う」

「だろうね。あれはなかなか酷かった」

 

 そう言って私が豪快に笑うと、由比ヶ浜さんはぷりぷりと怒り出した。

 

「もー、笑わないでよ、あたし真面目に言ってるんだからっ」

「ご、ごめんなさい」

「うん……だから、さ。ヒッキーのこと、ちゃんと見ててね。きっと男の子同士じゃないと分からないことって、あると思うから」

 

 私が返答に窮していると、由比ヶ浜さんは続けた。

 

「ヒッキーはさ、悪気があってやったんじゃないと思うんだ。何か考えがあって、それはバカなあたしには、たぶん分からなくて」

「分からなくていいと思う」

「え? うん。でもね、やっぱりみんなから嫌われるのって、すごくつらいと思うから」

「自業自得だと思うんだけどな」

「あー、すぐそーゆーこと言うし、もう」

「まあ、由比ヶ浜さんがそこまで仰るなら、わかったよ。べつにあいつのためってわけではないが」

「うん、ありがと。お願いね」

 

 由比ヶ浜さんは花が綻ぶように笑うと、「それじゃあ行こ」と言った。

 

「どこへ?」

「ん? 教室だよ?」

「いや、俺は帰るつもりなんだけど」

「帰りのホームルームは?」

 

 そんなものが文化祭当日まであるとは知らなかった私が驚いていると、由比ヶ浜さんはくすくす笑った。

 

「打ち上げの話も出るみたいだから、行かないともったいないよ。ていうか文化祭、欠席扱いになっちゃうかも」

「それはそれで、かまわないけれども」

 

 並んで教室に向かう道中、由比ヶ浜さんに「打ち上げ行くでしょ?」と尋ねられたが、私はそれどころではなかった。比企谷がこんなにも彼女に想われていることが腹立たしくて仕方なく、あのとき私も黙っていないで、相模さんを徹底的に扱き下ろすべきだったのではないかと血迷ったことを考えていたのだ。学校中から嫌われるのと、ただ一人由比ヶ浜さんにだけ理解されて心配されるのとであれば、後者を選ぶくらいには私も愛に飢えていた。

 その後、教室ではつつがなく帰りのHRが行われた。比企谷は例のごとく机に突っ伏して寝た振りをしていたし、相模さんはいまだにくすんくすんと鼻をすすっていた。葉山君はやっぱりアルカイックに微笑んで悠然としていたし、川崎さんは憂鬱そうな顔で窓の外を眺めていた。戸塚君は心配で顔を曇らせて比企谷を見ており、そしてそれは由比ヶ浜さんも同じであった。

 ふいに私は、雪ノ下さんはどうだろうと思った。彼女も屋上での出来事を知っているはずだ。すると彼女はどんな言葉を比企谷にかけるだろう。なに、きっと、私と大差あるまい。私がするように、きっと雪ノ下さんも比企谷を評価するだろう。閉会式は無事終わったらしい。口惜しいが、今度の比企谷の手腕は見事というほかない。

 生徒たちが打ち上げ会場に向けて、教室を出ていく。私はそれには混じらずに、ひっそりと廊下へ出た。すぐに見慣れた後姿を発見する。

 

「おい」

「おう」

 

 比企谷は校内一の嫌われ者という称号を得たにもかかわらず、まるで何事もなかったかのようなしれっとした顔をしていた。満足げな顔もしていないし、悲愴な顔もしていない。ただいつものようにポケットに手を突っ込んで前傾姿勢でスカしているだけである。私はやはり由比ヶ浜さんの頼みなど、真に受ける必要はない気がした。

 

「打ち上げにはいくのか」

「それを俺に訊くか」

「あえて、訊いてみた」

「んじゃ、あえて答えるわ。行くわけねえだろ阿呆」

 

 私は「だよな」と呟いた。そういう私も、むろん行くつもりはなかった。気の置けない仲の知り合いが少なすぎて腫れもの扱いが目に見えていたからである。いや、そもそも私は文化祭を楽しむ連中とは人生哲学を異にしているわけであり、彼らの道は私の道ではないのである。打ち上げに参加するなど言語道断だった。

 

「文実は大変だった?」

「まあ、多少はな。なんか馬鹿な奴がいたみたいでさ、外で秋刀魚焼きやがったんだよ。そのせいで記録雑務の俺まで駆り出されたよ。模擬店がえらいことになってた」

「ふうん、面白そうだな。そんな傾き者がいたとは。ほかには?」

「傾き者っておまえよくも……まあ、いい。ほかは特にないな。軽度のいたずら騒ぎは、毎年あるらしいし」

「へえ、そう」

 

 もはや私は意気消沈したりしない。どうせ、そんなことだろうと思っていたからである。とはいえ、日本人の朝食的攻撃がある程度の騒ぎになったのは痛快だった。

 

「で、お前、帰るのか?」

「うん」

「そうか。ちょっと部室寄ってかないか?」

「断る。奉仕部からは足を洗ったんだ」

「まだ洗えてないぞ。顧問が認めてない。それに部長も」

「……では、くるぶしくらいまでは洗った」

「なんだよそれ」

 

 比企谷はくつくつと喉を鳴らすように笑った。

 おい笑うなと比企谷の肩を小突く。

 

「慰謝料三万な」

「比企谷菌に触れた俺に? そいつはありがたい」

「ガキかよ……」

「なんだと、この野郎」

「おい、二回も殴るな」

「殴ってなどいない。これは重力に従ったまでだ」

「なら俺は神に従ってお前を蹴る」

「アッ、キックは反則だ!」

 

 そんなことをしながら我々は歩いた。廊下のいたるところに、文化祭の残骸が転がっていた。私もこの打ち捨てられた残骸の一部のような気がした。クラスの連中も、それに雪ノ下さんや由比ヶ浜さんも、そして認めたくはないが、この比企谷だって立派に文化祭を青春していたのだろう。それに比べて私はどうであるか。考えたくもなかった。

 

「文化祭なんて、未来永劫滅びてしまえばいいのに」

「いきなりどうした」

「なんでもない。本音の全部が漏れてしまっただけだ」

「一部じゃないのか。おっかねえな」

「次は体育祭か」

「そうだな」

「校庭に直径五十メートルの穴が空いたら、中止になるかな」

「そりゃ、なるだろ」

「俺はやるぞ」

「無理だろ。重機でも借りてくんのか」

「明日から毎日スコップでちょっとずつ掘る」

「掘りきる前に卒業するだろ」

「そうか、卒業しちまうか。では校長を襲おう」

「冗談でも言って良いことと悪いことがあるんだぜ」

「これは冗談ではないから、その限りではない」

「悲しいな。お前もついに退学か」

「うそうそ。冗談。失敬した」

 

 気が付けば部室前までやって来ていた。

 扉を開ける前に、比企谷はなぜか目を泳がせながら言った。

 

「助かったよ」

「なにが」

「屋上でさ、葉山に掴まれたときだよ」

「俺は何もしてないんだが」

「止めようとしただろ」

「まあ、やむを得なかったからね」

 

 比企谷のことだからいろいろ思惑があったのかもしれない。人一倍誠実であろうとする葉山君は、あの場面ではまず間違いなく怒るだろう。だが、どう転んでも切った張ったというような事態に陥ってはならない。それは誰も望まないのだ。温厚な彼のことだからそんな羽目にはならないだろうが、万が一を思えば止めに入ったのは正解だったはずである。ほかの誰でもない、葉山君のためにも。そのことを比企谷は言っているのだと思う。比企谷は誰よりも姑息で陰湿で卑劣で最低だが、同時に誰よりもやさしいのかもしれなかった。私にはそれが頼もしくあり、戦友として誇りに感じるのだった……。

 なんてことを思うはずもなく、比企谷のどこか達観した風情がじつに気に食わなかった。

 

「誰も傷つかない世界の完成だな」

「……次にその台詞を吐いたらぶち殺すぞ」

 

 私は思うことがあって、少し考えてから言った。

 

「実行委員長には謝っておけよ。すくなくともあの人は傷ついただろ」

「……やだよ。俺は間違ったことをしたつもりはない」

「いや間違いまくりだろ。正しいかもしれんが、女を泣かせるやつにロクな男はいないからな。そしてだ、泣かせる台詞というのはね、いいかい比企谷君、惚れた女にするもんだ」

 

 いつか観たハードボイルド映画のタフな主人公を真似てにやりと笑えば、比企谷はものすごく不愉快になる顔をした。正直なところ自分ではかなりイケているつもりだった。

 

「なんだ文句あんのか」

「いや、それお前が言うには五世紀くらい早いと思ってな」

「やかましい」

 

 比企谷に謝るつもりなどないことはわかっていた。当然だが、謝るくらいなら初めからあのような弁舌を振るわないだろう。いかにも青春活劇の端緒たる出来事で、謝罪から始まる不埒なラブロマンスがありそうなものだが、さすがと言うべきか、私が促した程度では彼の信条は少しも動じないようである。この何ものにも染まらない、これこそ比企谷が「ボッチ」たる所以であり、私が一目置いている理由でもあった。比企谷はやはり比企谷である。私はいつなんどきも変わらぬ比企谷に、人知れず深い安心感を覚えた。たかだか文化祭などに、我々を変える力などまったくありはしないのだ。そして肝要なのは、私が青春できないことよりも、ほかの近しい誰かが青春しないことである。己のおそるべき卑劣さにやや慙愧の念を感じないこともないが、文化祭を終えた直後ということもあり見逃してやることにした。

 私は大きく伸びをして、比企谷の肩を叩いた。

 

「ま、お前はよくやったよ。しばらくはこれまで以上に浮くだろうが、望むところだろ。何かあったらとどめは刺してやるから安心しろ」

「あー、はいはい」

 

 そのとき、ふいに部室のドアが開いて、部長の雪ノ下さんが顔を出した。

 私は彼女が何か言おうとする前に慌てて口を開く。

 

「では、俺は帰るよ」

「おい、寄ってかないのか?」

「だから、さっきもそう言っただろ。俺は奉仕部員じゃないんだ」

「部員でないと入ってはいけないなんて規則はないわ」

 

 雪ノ下さんが言った。

 私は軽く肩をすくめると、踵を返した。

 

「ま、待ちなさい」

「用事があるんだ。二人とも、打ち上げなどという馬鹿騒ぎには決して参加しないように。偏差値が下がるよ」

 

 私は手を上げて「さよなら」と残し、振り返らずに廊下を歩いた。背後からじっとりとした視線を感じたが、それ以上声はかけられなかった。

 校舎を出ると、無人となった模擬店が私を迎えた。祭りの後とはなんとも悲しげなもので、いくら怨み骨髄の文化祭であっても、どこか感じ入るものがあった。私は芭蕉の句を思い出し、「夏草や兵どもが夢の跡」と口ずさんだが、しっかりセンチメンタルになっている自分に気が付くと、情けない己を叱咤した。掲げられた看板「千葉の名物、踊りと祭り! 同じ阿保なら踊らにゃsing a song‼」を睨みつける。

 

「阿呆なら踊ってないで、もうちっと勉強せいやコラ」

 

 そう呟くと、かすかに香る秋刀魚の残り香を吸い込みながら、私は足早に校門をくぐり抜けた。

 

 その日の夜、平塚先生は労いの、雪ノ下さんからは文化祭のことでお礼のメールが来ていた。雪ノ下さんのメールの文面は感謝を表しているわりには、ひどく刺々しく、行間からは非難めいた態度が見え隠れしていたので、また私の知らないところで何かがあったのかと少々気が滅入った。しかし後に比企谷から聞いたところによると、じつは、諸々のお礼に忙しい中クッキーを焼いてきたにもかかわらず、私がさっさと帰ってしまったことが原因らしいとのことだった。

 私は呆れた。せめて連絡の一つは入れておくべきだろうに、どこまで不器用な人なのか。

 

 「クッキー、また焼いてください。次は食べます」

 

 後日、そんなメールを送ると、すぐに返事が来た。

 

 「もう二度とあなたには作れません」

 

 変な誤字が、余計に私を痛めつけた。

 

 



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第二十九話

       ◇

 

 最寄りの駅から五分のところにある、喫茶『明日堂』の古臭い扉を開いたのは夕闇迫る放課後のことだった。

 私は昔ながらの喫茶店が好きだった。全国どこにでもある舶来主義の権化みたいなチェーン店よりも、町に溶け込むようなきわめて主張の乏しいひっそりとした佇まいが、心の琴線にひしひしと触れてくるのである。いずこから仕入れてきたのかまったく分からないような謎の置物があったり、やけに隣席との間隔が狭いところや、マスターの人懐っこいふくふくした笑み、薄暗い店内とそれに融和したジャズ、そして大して美味くない珈琲と漂う煙草の白い煙、それらすべてに、なんというか可愛げがあるのだ。近頃は、洗練された英名のカフェに押されがちという話を聞くが、私は声を大にして言いたい。わざわざ都会まで変な女性の顔がプリントされたカフェに行き、呪文のような注文を唱える暇があるならば、昔からある地元の喫茶店に行くべきである。その交通費でナポリタンやらピラフやらを注文して珈琲を一杯飲めば、きっと目くるめく新たな世界が開けてくることだろう。不味かったらどうするかって? 簡単だ。かりにそうであれば、二度と行かなければよい。しかし、きっと一度でも行けば愛着が湧くに違いない。私にとってこの喫茶『明日堂』もそうであった。とにかく挑戦することが大切なのだ。喫茶店文化のためにも。

 そんなレトロな喫茶店の一つ『明日堂』に入ると、街灯の灯り始めた路地を臨む窓際の席に、私の待ち合わせ相手が座っていた。不機嫌そうに眉をひそめ、手のひらに顎をのせてぼんやり窓の向こうに目をやっている。怒っているようにも見えるが、これが平生の状態なのだから、まぎらわしいことこの上ない。

 私は向かいの席に座って、待ち合わせの相手である川崎さんに「やあ」と言った。

 

「遅かったね」

 

 不機嫌そうな顔のまま川崎さんが視線を移す。

 

「ちょっと平塚先生に呼ばれてしまって」

「へえ。あんた、またなんかしたの?」

「またとはなんだ、またとは」

「だって、よく呼び出されてるじゃん」

 

 私はそれには答えず、カウンターの向こうにいる初老のマスターにブレンドコーヒーを注文した。川崎さんはアイスティを飲んでいた。グラスの横に空になったストロー袋が縮こまっている。

 

「それで、なに? 相談したいことって」

 

 相談したいことがある。やや切羽詰まったようにそう告げられて、私は面倒だったがこの喫茶店を指定した。たとえ、それが私の手に負えない内容であっても、とりあえず話だけは聞くつもりで。

 川崎さんは、それまでのツッパったレディース総長みたいな雰囲気をいきなり引っ込めて、なぜか頬を桃色に染めていた。目線をうろうろと泳がせながら肩をすぼめ、もじもじと指をいじっている。薄気味悪いったらなかった。

 

「ちょっと、ねえ、気持ち悪いよ。なにしてる?」

「じつはさ……ってあんたいま気持ち悪いって言った?」

「言ってない」

「あ、そう。それで」

「うん」

「だからね……ええと、ほら、ええっと……」

「うん」

「ひ、ひき……ひき……」

「うん」

 

 ちょうどそのとき、お盆に珈琲をのせてマスターがやって来たものだから、もごもご口ごもっていた川崎さんは、「ふぎゃっ」としっぽを踏まれた猫みたいな悲鳴を上げた。恥ずかしかったのか、余計に頬が赤くなっている。私はマスターに礼を言うと、砂糖とミルクを入れてよくかき混ぜながら、これは長くなりそうだなと思った。

 

       ◇

 

 川崎さんから受けた相談に対する偽らざる率直な感想は、心底どうでもいい、だった。これが他人相手なら、きっと自由気ままに翼を広げた恥知らずな妄想が私の脳内を飛び回っていたことであろう。クラスで交流のある数少ない知人の一人、川崎さんだからこそ、苦痛ではあったがなんとか茶化さずに聞けたのである。それほどまでに、おそろしくどうでもいい相談だった。

 すなわち。

 文化祭の日に川崎さんは、電話越しに「愛している」と言われたそうである。そして、そんな告白をしたのは、愛という概念から一億光年は隔たっていると思われる比企谷八幡大先生であった。彼女の口から比企谷という言葉がでるやいなや、私はこの相談の重要度を退屈な古文の授業と同等の価値にまで低下させた。ようするに真面目に聞く話ではないということだ。

 なぜ比企谷の「愛している」という言葉を真面目にとらえる必要がないか。ごく簡単な話だ。

なぜなら比企谷は「愛」を知らないからである。愛を知らない男の「愛している」という言葉に意味があると思うか。答えは否である。かりに百歩譲って比企谷が愛を知っていたとしよう。しかし、その愛はぐにゃぐにゃに捻じ曲がって歪んだ比企谷フィルターを通したシロモノであり、世間一般に通ずる包み込むような温かさを持った概念とは大きく隔絶していると言わざるを得ないのだ。したがって、一考の余地さえないのである。というか、そもそも比企谷にわずかでも関連する「愛」をかように考察している現状がものすごく不愉快だった。比企谷と「愛」を同じ俎上に並べるなど、エロースに弓引く行為に等しい。そんな冒涜的なことは、私のような愛の巡礼者には恐れ多くてとてもじゃないができやしない。

 

「あ、あ、ああ、あいしてるって……やっぱり、そういうこと、だよね?」

「どういうこと?」

「だ、だから……」

 

 私はいまだにもじもじとする川崎さんに厳しい視線を送った。畏怖の念を込めて形容した銀狼の名に悖るだらしない姿である。

 

「結局、何が言いたいのかわからないな。だから、どうしたの?」

「うう……あ、あたしにもわかんないんだよぉ」

 

 だから困ってるの、そう言って川崎さんはアイスティをちゅうちゅう吸った。顔がトマトみたいに赤い。リコピンを多分に含んでいそうだ。

 

「そんなの、俺にはどうしようもないじゃないか」

「ご、ごめん……けど、あたしだってどうすればいいか……」

 

 川崎さんは、近頃比企谷の顔をまともに直視することができていない現状を語った。あれ以来、変に意識してしまって、そばに行くと混乱し、しどろもどろになって無様な醜態を晒しそうなので、極力避けるようにしているという。

 私はまさかと思い、尋ねた。

 

「比企谷が好きなの?」

「え、え、ええ!? べべ、べつに好きとかって、そういうんじゃないけどさ」

「ふうん。あのね、一応言っておくけど、やめたほうがいいよ」

「いや、だからべつに、好きとかじゃなくて、あたしは、その」

 

 おそらく比企谷はとくに深い意味もなく「愛している」と言ったのではなかろうか。深い意味も配慮もなく「愛」という言葉を濫用した比企谷の思惑に関しては、いまはちょっと置いておこう。ひねくれ小僧の心中を察しようとすれば、蟻の巣穴のごとき暗黒の迷路に絡み取られて容易に戻って来られなくなるからだ。肝心なのは、比企谷が朝のあいさつ程度の気軽さで言った、ということを川崎さんにわからせることだ。

 とはいえ、私の考えが正しくなく、比企谷にとって一世一代の大告白であった可能性も微細藻類程度は残されているため、早計な判断はできかねる。よって、私は問題の先延ばしを選択することにした。

 ストローの袋を指先で弄ぶ川崎さんに、私は言った。

 

「定かではないけどさ、比企谷はたぶんそんな気はなく言ったと思う」

「……う、うん。あたしも、そうじゃないかなーとは思ってるんだ」

「しかしだ。俺はあいつではないから本当のところはわからない。だから機を見計らいつつ、比企谷にそれとなく探りを入れてみよう」

「……誰が?」

「俺しかいないだろ。川崎さんにできるのか」

「ううん、できない」

 

 首の動きにつられてポニーテールが左右に揺れた。

 

「では、そういうことで。近いうちに報告する」

「ああ、うん。ありがと。じゃあ、よろしくおねがいします」

 

 ひと段落したことで、ようやく私は心を落ち着けて比企谷や平塚先生の悪口を言うことができた。学校外で知り合いと話す機会があるのだから、共通の話題を引用して溜まった鬱憤を少しでも吐き出すに如くはない。予想外だったのは、川崎さんが大して興味を示さなかったことであるが、そんなことには構わず私は平塚先生の横暴に対し最大級の非難を表明した。

 

「面と向かって言えばいいのに」

「虎児を得られないのに虎穴に入るようなものだよそれ」

「つまんないこと言ってないで、彼女でも捕まえる努力すれば? そっちのが、愚痴ってるより有意義じゃん」

「川崎さん、あのさ、身も蓋もないこと言わないでよ。俺はね、敢えて他者との接触を最小限に――」

「そうだね、うん、うん。いいこいいこ」

 

 まるで幼子を諭すようなあしらい方に深い侮辱を感じた私は、さきほどの相談事を今一度蒸し返して川崎さんを赤面させた。

 そうこうしているうちに、窓の向こうではすっかり夜の帳が下りていた。川崎さんは伝票を手に取ると立ち上がる。珍しく奢ってくれるらしい。明日の天気が気になるところである。

 

「相談に乗ってもらったからね」

「まあ、妥当だな」

「奢ってもらう態度じゃないね。ナメてんの?」

「失礼しました。御馳走にあずからせていただきます」

「ふん。くるしゅうない」

 

 マスターが我々のやり取りを見て微笑ましいとばかりににこにこしていた。彼には川崎さんと私が姉御とその舎弟に見えていそうで、念のため我々が対等なクラスメイトであることを仄めかす必要を感じたが、すでに奢られている最中なので諦めた。

 ネオンやテールランプのまばゆい光の中を最寄り駅まで歩いていると、そういえばと川崎さんが口を開いた。

 

「さっきの話とは全然関係ないんだけどね」

 

 川崎さんは銀狼の慧眼から明察したクラスの雰囲気について言及し、そこはかとなく気になっていると告げた。

 私はただ、へえ、と返して応答した。

 案の定、比企谷はクラスにおいて、以前より一層浮いているらしい。

 だからなんだ、という話である。

 

       ◇

 

 奉仕部から距離を取り、無意味な時間の浪費から解放されたからとはいえ、私の生活に新展開が見られたかといえば、まるきりそんなことはない。相変わらずクラスの連中とは一線を画していて、半年以上にも及ぶ心の遠距離を詰めて莫逆の関係を構築する手管はもはやないように思われた。それでいて、私はいまだに自由な思索を浅薄なクラスメイトたちに乱されるなどと嘯き、孤高であることに深い自惚れを感じているのだから、我ながらこちこちになって虚空に屹立している己の人格に対し、「いったいお前はどこまでいくのか」と途方に暮れてしまうのも無理からぬ話だ。最近の私は、有意義な学生生活への希望を大学生の自分へ託そうかと真剣に悩んでいるわけだが、おそらく未来の私にとっては迷惑千万にちがいないので、いったん「未来の私へ丸投げ作戦」は投球の構えのまま保留している状態である。しかし、全身の筋肉は張りつめ、腕は弓のごとく背後へと引き絞られているので、いつ暴投してもおかしくないことは伝えておこう。

 心の奥底では、大学に行けば彼女のひとりやふたり、気心の知れた友人の百人や千人は朝飯前だとたかをくくっているところもあるが、現状のあまりの救いのなさを鑑みる限り、決して楽観視はできないだろう。体育祭などという暑苦しい行事は眼中にないが、そのさきの修学旅行は残すところ半分となった高校生活の命運を占う分水嶺だ。いま一度、近い将来のためにも十分な社交性を身に着けるべく、気合を入れねばなるまい。修学旅行は絶好の好機である。私は来たる京都遠征に備えて、小粋なトークの思案に明け暮れていた。

 

       ◇

 

 放課後、賑やかな食堂近くの自販機コーナーにて、だしぬけに声を掛けられる。

 

「ねえ、ちょっと、話あんだけど」

 

 天然サイダーかレモンティか、あるいは死ぬほど甘いコーヒーにするか、難しい選択を迫られていた私は、それが自分に向けられた言葉だとは思いもしなかった。それゆえ、背中を小突かれれば飛び上がるほど驚くのは必定であり、定石通り飛び上がって驚いた私は、手に取ったばかりのサイダーを見事に足元へと墜落させた。

 百円の損失を請求すべく、眼力を込めて振り返ると、悪びれもせず堂々と立っていたのは、我がクラスの女王蜂こと三浦さんであった。私は、「あっ」と情けない声を上げて、すみやかにふちの凹んだサイダー缶を拾い上げた。そうして、取り繕うように笑い、その場を離脱しようと試みる。なにゆえ三浦さんが私を小突いたのか知らないが、これが後に尾を引くような悪戯の類であれば、断固として関わらないのが吉である。往々にして、イジメは些細な遊びから発展するものだと聞く。みすみすヘンテコな様を晒して、恰好の笑いものになるのは避けねばならない。我ながらとっさの判断にしては賢明すぎるといえよう。

 しかし三浦さんは、私の三十六計逃げるに如かずを良しとしなかった。

 

「なに無視してんの。話あるって言ってんだけど?」

 

 私は先ほど開いた財布の中身を思い浮かべた。たしか、三百五十円しか入っていない。これで我が身の安全を購うにはあまりに心細い。いや、そもそも三百五十円で我が身を買うなど、私のプライドが許さない。私はすでに三浦さんがカツアゲ目的であることを信じて疑っていなかった。

 とりあえず私は、努めて平静を装って何気なく言った。

 

「あ、ごめんごめん。何か飲む?」

「いいの? じゃ、あーしはレモンティがいい」

 

 紙パックを買おうとすると、高値のペットボトルの方のブランドがいいと注文をつけられ、私はおとなしく従った。

 

「おお、さんきゅ。気が利くじゃん」

「どうも。では、俺は用事があるので――」

「はあ? あーし、話あるってさっきからずっと言ってるよね?」

「言ってますね」

「うん。じゃあ、聞くっしょ、フツー」

 

 私は鞄の奥底に眠らせている、緊急時用の千円を死守するほぞを固めた。

 

「なんか、メールでも送ったんだけどさ、ほら、相模の」

「はいはい。えー、ああ、はい。は?」

 

 食堂付近とあって、我々の周囲には小腹を満たしに来た生徒でわりと混雑している。私はよく聞き取れなかったため、というより言っている意味がわからなかったため、首を傾げて三浦さんを促した。

 

「だから、悩み相談なんとかって、あれ。どうするつもりか聞きたいんだよね」

 

 私は困惑した。二度聞いても、まるで理解できない。悩み相談、メール、相模さん、カツアゲ、ひとつとして共有できそうな単語が見当たらなかった。三浦さんは人違いをしているのではないか、と私は思った。

 

「うーむ、どういうことか……ええと、つまり俺にはちょっとよく意味が……」

「なにごちゃごちゃ言ってんの。はっきり言えし」

「あ、そうですね。だから、それ俺に言うことじゃないと思うんだけど」

「は? なんで?」

 

 三浦さんは気の抜けたような顔をした。しかし、次の瞬間眉間にしわを寄せて気色ばんだ。ついに金銭を要求されるのかと私は身構える。

 

「バカにしてんの? メール送ったの見たんでしょ。なに、あーしの頼みはやる気ないってこと?」

「ややや、え、いや、えー」

 

 私は額を抱えた。

 なぜ怒っているのか、いったいこれはどういう状況なのか。私はきょう一日の生活態度を振り返り、かような状況に置かれる原因を探ろうとしたが、とくに落ち度らしきものは浮かび上がらない。したがって、最終的に行きついた先は、三浦さんが話の通じない人だという結論であった。ともあれ、これはカツアゲではないらしい。

 ひとまずは苛立ちを隠しきれなくなっている三浦さんとの意思疎通を図ることが必要であった。人間以外の、ましてや女王蜂となど会話したことがないから上手く運ぶかはわからない。

 私はレモンティを飲んでみてはいかがと勧めた。

 

「あん?」

「ほら、ちょっと落ち着きましょう。たぶん齟齬があるんじゃないかな」

「そご、ってなに」

「いいから、飲んでよ」

 

 そう言って私がサイダーのプルタブを引くと、気体と化した二酸化炭素が液体とともに噴き出した。手がびちゃびちゃになったが、気にせず何事もなかったかのようにサイダーを飲むと、勢いに押されたのか三浦さんもレモンティに口をつけた。食堂へ向かう通りすがりの生徒の好奇の視線をひしひしと感じる。

 

「おいしい? 俺はおいしい」

「うん、おいしいけど?」

 

 私は人知れず胸を撫で下ろした。どうやら一応、会話は成立するようだ。

 

「ていうか、めっちゃこぼれてるし」

「こういう飲み方が好きなんだ」

「は。絶対うそっしょ。さっき落としたの忘れてただけじゃん」

「あれはわざとやったのよ。いい具合に炭酸が抜けて、低刺激の甘い水になるんだ。でも、素人にはおススメできないね。やっぱり、ほら、ちょっと独特だからさ」

「独特っていうか、頭おかしいでしょそれ」

「まあ、そう捉える人もいるよね」

 

 三浦さんは訝しげに缶と私に視線を上下させる。それからスカートのポケットに手を入れてハンカチを出した。

 

「はい。拭きな」

「あ、結構。自分のがあるんで」

 

 私は手を拭ってから、ようやく言った。

 

「それでさっきの話だけど」

「うん」

「三浦さんの言っていることが、本当にわからない。きみ、人違いしてない? まず、俺のこと知ってます?」

 

 思い出したくもない過去を遡れば、クラスメイトであっても私のことを知らない可能性は十分にあり、ましてや三浦さんには面と向かって誰何されるという事実があった。ゆえに、この疑問を投げかけるのは至極真っ当と言わざるを得ないのだが、その答えとして彼女は「バカにすんなし」と提げていた鞄をわりと強く私にぶつけた。光栄なことに、彼女は私を認知しているらしい。べつに嬉しくはない。

 

「もういいや。ちょっと顔貸しな」

 

 そろそろ、こちらをこっそりと窺うような好奇の衆目に晒されている現状に堪えがたくなっていた折だったので、食堂で話すという彼女の提案を私は容れることにした。サイダーを爆発させた男を鞄で殴打するという血も涙もない狼藉を働いた三浦さんが、いわゆるヤバい奴認定されるのはどうでもいいが、私のような紳士がそれに付き合う変人だと思われるのは遺憾である。

 食堂の一画で私と三浦さんは、我々の間にあった齟齬を、相互了解のもと解消させた。何も知らなかった私はようやく納得がいき、それから呆れてものが言えなくなった。

 すなわち、現在、クラスには雰囲気の悪さというものが蔓延っており、三浦さんはそれを相模さんに起因するものだと感じているらしく、その解決を奉仕部に依頼したのである。そして、三浦さんはいまだに私が部員であると勘違いしていて、ゆえに依頼の進捗について尋ねたのであった。黙っていたが、私は「また、奉仕部か!」と怒鳴り散らしたい気持ちでいっぱいだった。

 奉仕部にいつまで付き纏われるのかと辟易していたのはともかく、三浦さんは得心がいって、屈託なく笑った。その笑顔は、通常時のふてぶてしい表情と比較すると大変可憐であり、働き蜂が周りをブンブン飛び回るのもむべなるかなと思った。しかし、私への数々の無礼をその笑顔で帳消しにできると考えているのなら、大間違いである。

 

「時間の無駄だったね。俺も三浦さんも」

 

 ため息にかすかな嫌悪の念を乗せた私に、三浦さんは化粧の施された大きな目をじっと注いだ。そうして、つっと目じりを下げたと思えば、やや傲慢な口調で言った。

 

「そんなことないし。あんた、結構面白いじゃん」

 

 三浦さんはレモンティに口をつけると、伸びをして立ち上がった。

 

「ヒキオとばっかつるんでないで、もっとクラスで誰かと喋れば? 友達いないっしょ? あーしがなったげよっか? あ、やっぱ無理かも。あははっ」

 

「じゃ、バイバイ」と言って、三浦さんは楽しげに去っていった。

 

 面白い話をした覚えはないし、しばらくヒキオとは誰のことだかわからなかったし、最後のはきわめて余計なお世話だったが、私は三浦さんの評価をほんの少し上方修正した。そうして寛大な心で先ほどまでの無礼を許してやろうと思った。

 

 



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第三十話

       ◇

 

「おまえ、また何かよからぬことを企んでいるだろ」

 

 体育祭を目前に控えた、ある秋の日のことである。

 教室の一隅において、この世で最も卑猥なものを思い浮かべているかのように、死ぬほど気色悪いほくそ笑みを浮かべていた比企谷に、私はいくばかの躊躇の末、声をかけた。時々、比企谷はこうやって虚空に笑いかけていることがある。本当に、危ない奴である。

 

「ふへっ?」

「ふへ、じゃない。また俺にとばっちりが来てるんだよ。いい加減にしてくれ」

 

 何か変態的妄想を邪魔されたからか、比企谷はこそばゆそうに顔をしかめた。

 

「何の話だよ」

「奉仕部のことだ。三浦さんが俺に文句を言ってきた」

「……ふっ」

 

 間をおいて、なぜか比企谷は失笑する。

 ただでさえ不愉快な顔だが、それが笑みを浮かべていると、いっそう腹に据えかねるものがあった。私は無言で比企谷の頭をはたく。

 

「いってえな」

「俺の心の方が痛い」

「はあ? で、三浦がどうしたって?」

 

 比企谷はやや声を落とすと、苛立たしげに机をトントンと叩いている三浦さんの方を盗み見た。

 彼女は最近機嫌が悪いそうである。先日、食堂でそんなことを言っていた。女王蜂の機嫌を損ねる不届きものが、まさかこのクラスにいるとしたら、それはもう比企谷を除いて他にはあり得まいと思ったのだが、どうやら私の推測は外れていたらしい。

 

「メールがどうとか、そんなことを言ってきた。そして俺は百三十円を損失した。落とし前は比企谷、おまえがつけろ」

「意味がわからん。いやわかるけど、わからん」

「俺の方がわからんわ」

「よし、じゃあ二人ともわからない、ということでおしまいだ」

「ぶち転がすぞ」

「で、出たー、暴言だぁ。平塚先生に言いつけちゃうぞ」

「相模さんのことだ」

 

 私が言うと、比企谷は、おや、というような顔をした。

 三浦さんが気に入らない人間というのは、あの忌むべき文化祭の実行委員長を務めた相模さんであった。理由は知らないし、私は女同士の火花散り乱れる争いにとくに興味もない。だが、しかしである。再び文化祭のときのように、私の与り知らぬところで、私を巻き込むような何かしらが、ぷくぷくと醸成されているような雰囲気が芬々に漂っていることは、鋭敏な感覚を有する私にはすぐに察知できた。当事者でもないのに振り回されるような事態は、いくら温厚な私とて看過できることではない。ましてや一度ならず二度までも、否、もはや数えるのが馬鹿らしくなるほど、私は否応なく巻き込まれてきたのだ。おまえは巻き込まれることに、なにか一家言持っているのかと、そう自分に詰問したくなるのも無理からぬ話である。ちっとは抵抗したらどうだ、え? そうだ、抵抗すべきだ。というわけで、早急に事の元凶に最も近いであろう比企谷、ひいては奉仕部に釘をさしておく必要があったのだ。

 

「俺を奉仕部の事情に巻き込むんじゃない。ほっといてくれよ」

「まてまて。三浦が何を言ったか知らねえが、俺たちはべつにおまえをどうこうしようって気は、ふふっ、ないんだぜ?」

「なに笑ってんだ」

「いや、べつに」

 

 大方、巻き込まれ体質な私が、いま一度巻き込まれかかっているのを、心の奥底から愉快に思っているのだろう。怪しからんやつである。私は改めて比企谷の頭をはたいた。

 

「ともかくだ。何をやっているか知らないけど、俺に迷惑をかけるんじゃないぞ。いいか、絶対だぞ」

「お前、それってフリ――」

「うるせえ、絶対だぞ! 阿呆がッ」

 

 声を張ってそう告げると、私はどしどし足音を立てて自席に戻った。

 小ぬか雨の降る気怠い昼休みのことである。

 

       ◇

 

 自販機でコーラを買った私は、屋上へと続く階段の踊り場に腰を下ろした。

 背後に見える明り取りの窓からは、比企谷の魂のようにどんよりと澱んだ空がのぞいている。階下からは、騒がしげな気配がして、密林の奥地に生息する鳥の鳴き声のような奇声が聞こえてきた。おそらく、男子生徒たちが追いかけっこでもしているのだろう。

 私は小さくため息をついた。

 直情的になってはいけない。自己を律してこそ、常に正しい行いができる。

 日頃から私は私をそうやって戒めていたにもかかわらず、あまりの腹立たしさから思わず馬鹿でかい声でどなってしまった。むろん、あらゆる悪因は比企谷に帰する。そこにはなんの疑義も挟ませない。しかしながら、あえて同じ水準まで己を落とし、救いがたい阿呆になる必要はどこにもないだろう。その結果が、衆目を浴びて、教室からいそいそと逃げ出すというのでは、あまりに情けなさ過ぎるというものだ。

 反省、反省、また反省。

 私は、比企谷への呪詛を取り混ぜながら、己の行いを省みて、コーラのプルタブを引いた。

 小気味良い音が響く。

 すると、頭上の方で気配がし、続いて女性の声がした。

 

「だれ?」

 

 私は慌てた。誰もいないプライベートエリアだと思っていたのだが、屋上につながる扉の影に女生徒がひそんでいたらしい。

 

「怪しいものではありません」

 

 立ち上がりながら、思わずそう答えていた。

 女生徒がゆっくりと顔を出す。

 

「あなたは……実行委員長」

 

 相模さんであった。目のあたりが朱色を帯びている。それになぜか鼻もすすっていた。季節外れの花粉症だろうか。

 相模さんは私に気が付くと、一瞬、眉をひそめてから、何か呟いた。

 一方、私の方は、羞恥で教室から逃げ出したはいいものの、その先でクラスメイトと遭遇するという運命的な辱めを受け、足が固まっていた。致し方なく、「へへっ」と愛想笑いを浮かべるほかなかった。

 

「委員長、ここでなにを?」

 

 私は、「じつは全然なんとも思っていません、あんなことで俺は動揺したりなどしません」的な雰囲気を醸し出そうと、平静を装ってそう声をかけた。

 

「……べつに、なんでもないよ」

「あ、そうですか。じつは俺もなんでもないんですよ」

「え? なにそれ……」

「いやいや、ちょっとばかりですね、あのど阿呆にお灸を据えてやったわけでしてね」

 

 相模さんは目を擦っている。擦っている合間にちらと除く双眸は、やや軽侮の念を湛えている気がしないでもない。

 

「えっと、うち、その……ひとりになりたくて」

「へ? ひとりに? いや、俺もひとりは好きなんですけどね。もちろん、いまだってひとりになりたくて、わざわざここまでやって来ているんですよ、ええ。孤独が好きなもんで――」

 

 当てこすり、あるいは皮肉とも捉えられる「ひとり」という単語に反応した私が、やや狼狽えながら早口でまくし立てていると、相模さんは「うち、もう行くね」と言って、階段を下り始める。

 

「教室に戻るんですね。まあ、俺もそのうちに戻りますよ。べつに、なんてことはないんですからね。いいですか、あれは比企谷がですね――」

 

 そして、いま一度無様な言い訳を滔々と語ろうとした次の一瞬であった。

「あっ」という小さな悲鳴とともに、相模さんが私のすぐ目の前で階段から足を踏み外したのである。

 そこからはスローモーションであった。たちまち我が全神経が研ぎ澄まされ躍動する。

 残り数段というわずかな高さから滑落しかけている相模さん。

 踊り場に立ちつくす私。

 階下から響く謎の「キエエエエッ!」

 時雨はじめた秋の空。

 屋上扉の張り紙「開けたら閉める」

 その刹那、私のあらゆるニューロンが一斉に発火し、シナプスを通じて筋線維が覚醒、ほとんど反射と見紛うばかりの速さをもってして、両腕が開かれる形で我が肉体の準備は完了した。相模さんを受け止めるに足る態勢である。要した時間、じつに1秒。レスキュー隊もかくやと思われる反応と言わねばなるまい。

 しかし、現実は予想の斜め上、否、やや斜め右数センチを通り過ぎた。

 なんと(当たり前だが)、相模さんは体を捻って、私を回避するように滑落したのである。しかも、回避しきれなかったのか、投げ出された腕が、豪快に私の首を刈り取るラリアット気味の滑落であった。その結果、衝撃はだいぶ緩和されたようで、相模さんは少し足を挫いた程度で済んだようだったが、肉体的鍛錬とは無縁であった私は見事にはね飛ばされて、開けたばかりのコーラが宙を舞った。

 

「うわああっ」

「きゃああ!」

 

 連日、私は炭酸をぶちまけた。

 しかしながら、女生徒の身を守ったのだから悔いはない。

 シュワシュワ。

 

       ◇

 

 保健室に、養護教諭の姿はなかった。

 こんなことが先学期もあったな、と私は思う。

 左足に湿布を貼った相模さんは、それまで貫いていた無言から、ため息、そして「ごめんなさい」と順に悲愴感をにじませ始めた。この世の終わりのような顔をして、悄然としている。

 

「コーラはまた買えばいいですから。それより足、大丈夫?」

「……うん」

「よかった。まあ、折れてはなさそうですが、一応、放課後になったら病院に行った方がいいかもしれませんね」

「……そんな時間、ない」

「え、しかし……はあ。まあ、好きにしたらいいと思いますが」

 

 それきりまた無言になった。さすれば、もうここにいる必要がない。私の役目は終わったのだ。というか、私の役目ってなんだ。そもそも私には何の非もない。どちらかといえば被害者は私のほうだといってよい。それをわざわざ保健室まで連れ立って、治療を見守り、助言まで与えたのは、純粋な善意にほかならない。これはもう表彰ものだろう。

 相模さんはいまだ発着ロビーでパスポートを紛失した人のような顔をしているが、そんなのは私となんら関係がないはずである。昼飯を食べていないから腹も減っている。強打した首元も痛いし、制服の裾が甘ったるい汁でべたつきもしている。外は憂鬱な雨模様だし、日本経済の先行きは不透明だ。どれもこれもすべて比企谷のせいである。ああ、ひとりきりでどこか遠くへ行きたい。そういえば、さきほど相模さんもひとりになりたいとか何とか言っていた。ここはさっさと辞去するのが紳士的振る舞いだろう。

 そんなふうに思って、私が丸椅子から腰をあげたときだった。

 

「もういや……なんで、うちだけこんな目に遭うの」

 

 消え入りそうな声で、相模さんがぽつんと呟いた。

 

「それは、よく足元に注意を――」

「おかしいよ……遥とゆっこだって文句ばっかで何にもしないくせに。うちばっかり貧乏くじ引かされて……」

「はい?」

 

 相模さんには私の言葉が届いていないらしかった。何か恨み言のような剣呑な台詞をぽろぽろとこぼしている。いったいどうしたというのだろうか。

 相模さんがなおも続ける。

 

「仕事ができないのはわかってるけどさ……うちだって頑張ってるじゃん。少しくらい協力してくれたっていいのにさ……」

 

 言葉を挟む余地がまるでなかった。というか、挟みたくない。では、すみやかに保健室をあとにすればいいのだが、下手に動けば相模さんの気に障りそうで余計に厄介だ。私の採るべき選択は、超然と棒立ちしているに限られた。

 相模さんは何かきわめて個人的な愚痴をこぼしているわけだし、とりあえず彼女が落ち着くまでは、あたかも空気中に漂う塵のごとく存在感を希薄にしているのが正解であろう。やがて立ち去る機会も生まれるはずだ。

 しかしながら、事態は私の予想を裏切ってより奇々怪々な方面へと舵をとった。

 

「全然だめで役に立たなかったからさっ……反省してさっ……謝ったじゃんっ……」

「えぇ……」

 

 そんな、まさかと思い私は目を見開いた。

 相模さんはなぜか泣いていたのだった。

 

「なんで、うちばっかり……もう、ぜんぶやめたい……」

 

 いやいや、泣きたいのは私の方である。

 教室では恥をかき、ひとりアンニュイに浸ろうとすれば邪魔が入り、さらには邪魔をした相手からラリアットを受けコーラを台無しにされて、きわめつけはわけの分からぬ愁嘆場である。

 現実を許容できる閾値はとうに超えており、もはや私のしわ多き脳みそは活動を停止しかけていた。

 そんな泥沼的状況だったが、相模さんが呟いたある言葉で、私の思考判断力は半ば無理矢理目覚めさせられた。

 

「もう、うちじゃなくて雪ノ下さんでいい……」

「雪ノ下さん?」

 

 私は鸚鵡返しのように思わず尋ねていた。

 ふいにびくりと体を震わせて相模さんが俯いていた顔を上げる。涙で濡れた目は、「お前まだそこにいたの」という非難がましげな光を湛えていた。しかしながら、私はそんな視線に晒されていることよりも、雪ノ下さんというワードから、なにやら不吉な芋づる式が導き出され、近い将来に不穏な影が落とされるのではないかという予感を覚えていた。

 

「雪ノ下さんがどうかしたんですか?」

 

 言ってから、しまったと思う。

 相模さんはじっと私を見つめたかと思うと、ふいに「あっ」と言うような顔をした。何かに思い当たったらしい。

 

「そういえば奉仕部だっけ……」

 

 やはり墓穴を掘っていた。相模さんは私が奉仕部員であることに気が付いたらしい(正しくは仮入部、かつ退部申請中である)。そして、この瞬間明らかになったことではあるが、さきほどの直感は正しく、またぞろ奉仕部が何か一枚噛んでいるようだった。暇な連中だ、と笑うこともできるが、彼らの傍若無人な矛先は関係のない周囲の人間を巻き込む傾向にある。否、外縁の人間も巻き込むのだ。おもに私。

 私と相模さんの邂逅には、なにか神様の戯れ的な悪縁を感じた。行き果つるところは奉仕部という奈落だ。連中は私という無垢で純白な魂を汚さんと鵜の目鷹の目で狙っているに違いなかった。怨霊みたいなやつらである。というより怨霊そのものである。

 

「いや、あのですね。俺はもう奉仕部では――」

「お願い。雪ノ下さんに頼んで。もう、うちじゃどうしようもないから」

「だから奉仕部じゃないし、相模さんが何を言っているのか――」

「お願いします」

 

 私ははたと口をつぐんだ。あまりにも相模さんの様子が逼迫していて、懇願といった調子だったからだ。

 読者読賢には、腹の底からご理解いただけていると推察するが、私は女性にとことんやさしい。ついでに弱きを助け、強きを挫く義侠的精神もふんだんに持ち合わせている。

 私は地球環境と両親には頭が上がらないタチであるが、祖母にいたってはひざまずくほど畏れ敬っており、その祖母が口を酸っぱくして事あるごとに宣っていたのが「女の子にはやさしくしなさい」であった。爾来、私は、女の子にやさしくする機会を虎視眈々と狙っていたわけであるが、そういうシチュエーションは残念ながらこの齢になるまで、ついぞ訪れることはなかった。いい加減、祖母を疑ったこともあった。そもそも女の子と関わる機会すらないじゃないかと心中で祖母を罵倒したこともあった。だが、そのときは訪れた。今である。何が起こっているのか、まったくわからないが、たぶん今である。

 私は、眦を決して頷いた。

 

「わかりました。伝えましょう」

 

 しかしながら、そのまえに聞かねばならぬことがあった。

 

「で、そもそも何が起こってるんです?」

 

       ◇

 

 私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の体育祭実行委員会を懲らしめなければならぬと決意した。私には人間関係がわからぬ。私は、青春の被害者である。法螺を吹き、理屈をこねくり回して暮して来た。けれども間違いに対しては、人一倍に敏感であった。

 

 相模さんの置かれている現状を聞いた私は、久方ぶりに憤っていた。と、同時に彼女なら、この艱難辛苦もばっさばっさと斬り捨てられるものと確信していた。なんといっても、彼女はあの文化祭を取り仕切った大親分である。

 概略すると以下のような状況であった。

 相模さんは文化祭実行委員長だけで飽き足らず、なんと体育祭の運営においてもその長の任務に就いた正真正銘の豪の者であったそうな。此度も、文化祭と同じく大団円の幕を迎えるべく骨身を惜しまず働いていたが、ここで抜き差しならない問題が発生する。

 

「問題の根幹は相模さん、つまり執行役員側と実行委員たちとの間に意見の相違があるということでしたね?」

「……うん」

 

 保健室の丸椅子に腰かけて、相模さんは小さく頷いた。

 意見の相違などと、いささか抽象的な表現をしたが、そのじつ相模さんへの挑発行為もあると聞き及んでいた。なんでも彼女がか細く語ったところによると、友人でもあった委員の数人から無視されたり、これ見よがしに悪口を叩かれたりしたそうだ。いわゆる「ハブ」というやつである。比企谷の専売特許なので、彼以外に「ハブ」を強いるのは道徳的間違いと言わざるを得ない。原因は判然としないらしいが、彼女は「たぶん……」と口火を切った。

 

「うちが目立っているのが気に入らないのかもしれない……あと、部活があるから体育祭の準備なんて面倒くさいってのも、もちろんあると思う」

「ひどい」

「……うん。でも、うちも悪かったから。会議、遅刻しちゃったりとか、あの人たちに任せっきりだった部分もあったし……」

「人間ですから、遅刻の一回や一万回くらいしますよ。それに仕事は適材適所です。できるひとができる部分をやればいい。トップはどっしりと構えて下知、これですよ」

 

 たかだか体育祭の催し物ごときで、何を一丁前らしく舌鋒鋭く喧々囂々やりあう必要があるのか。国会議事堂の討論でもあるまいに、すみやかに上の言うことを聞いて、粛々と己の役割を全うしていれば、余計な時間もとられず、だれも不幸にならないでつつがなく体育祭が終わるというのに。しかも一生懸命にその任を全うしようとしている人間を、あえて邪魔しようとするなんて、いったい何が面白いのか。もっと楽しいことはいくらでもあろうと思うのだが、連中にはそれがわからないらしい。

 

「やっぱり、うちが悪いんだ……みんな協力してくれないのは、もともとうちに人望がなくて、委員長なんて柄じゃないからなんだよ……ひとりじゃ何にもできないくせに、なに委員長なんて自惚れてるんだって……」

「許せませんね」

「……え?」

 

 果たして、そんな連中に(おもね)る必要があるのか。

 かりに相模さんが無能のお飾り委員長だとしても、――あるいは、かりにやや怪しからん思惑があって委員長になっていたとしても、彼女が前進しようとしている道を、自身では何も生まず、ただ外野から喧しく吠えたてる有象無象が邪魔立てする筋合いはないはずである。文句を垂れるだけなら、幼稚園児でもできるではないか。我々は高校生である。抗議反駁を是とするのであれば、それなりの責任と覚悟を持たねばなるまい。彼らにはそれがない。彼らからは心意気を感じない。ゆえに彼らは間違っている。

 やはり許せるものではない。

 

「相模さん。負けてはいけない」

「え?」

「たしかに酷い状況です。しかし、ここで引いたら奴らの思うつぼじゃないですか」

「……でも――」

「デモもストライキもありませんよ! 相模さんが下りる道理はないんです。口惜しくないんですか?」

「……」

「俺は口惜しいですよ。文化祭のときもそうでしたが、連中の日和見主義と、狡猾な迎合主義には我慢がなりませんよ!」

「う、うん」

 

 私は壁際からずいずいと丸椅子に腰かける相模さんの方へ踏み出した。

 

「できます。相模さん、きみならできる。何を恐れる必要があるのです? きみが抱えているのはまったく無益な煩悶だ。間違っているのはきみじゃない、連中の方だ。そして間違いは常に正さなければなりません。聞いていますか、相模さん、泣いている場合じゃありませんよ、これは。賛同者は必ずいます。俺もそのひとりです。やりましょう、相模さん。連中にお灸を据えてやりましょう!」

 

 私はふいに我に返った。相模さんは丸椅子ごと体をのけ反らせて、引き攣ったなんともいえない苦笑をこぼしている。

 

「すみません。ちょっと熱くなってしまいました。ですが、相模さんが折れる理由はないです。俺も協力しますよ。これは文化祭であなたに敗れ、涙を呑んだ一介の将からの餞です。奉仕部にはしっかりサポートするよう伝えておきます。あいつらにはそれくらいしか能がないんですから。それで構いませんね?」

「あっ、うん、えっと、うん。あ、ありがと」

 

 相模さんは圧倒されたように頷いた。

 読者読賢には、腹の底からご理解いただけていると推察するが、私は女性にとことんやさしい。ついでに弱きを助け、強きを挫く義侠的精神もふんだんに持ち合わせている。そして諸君、これはけっして学校生活が順風満帆とは程遠い、鬱屈した個人的怨みの総決算ではない。あくまでも祖母の教えと、間違いを許せない己の信条に則った正当な怒りなのである。そこのところをゆめゆめ忘れることのなきようお願いしたい。

 

       ◇

 

 教室に戻り、昼飯もとらず5、6限目の授業を受け、何事もなかったかのように帰路をたどり、自室の扉を開け放って、私は膝から崩れ落ちた。

 冷静になってみると己の阿呆さ加減に絶望を禁じえなかった。

 

「なんて馬鹿なことを」

 

 そして、柄でもない熱血漢ぶりを惜しげもなく披露してしまったことに羞恥で身もだえた。

 こうなることなど誰が予想し得よう。私はただ、ひと気のない屋上踊り場で昼休みをやり過ごそうとしていただけだったのだ。あまりにも間が悪かった。運が悪かった。そして、比企谷が悪かった。

 人の話を聞かない相模さんにも苛立ちを覚えなかったと言えば嘘になる。協力するなんて大口を叩かなければよかった。結局、私は奉仕部と関わり合う運命なのか。神はいないのか。しかしながら、もはや巻き込まれたのか、自ら泥沼に頭を突っ込んだのかわからない。自分がわからない。お前はいったい何がしたいのか。馬鹿なのか。鳴門の渦潮のようにぐるぐると埒もない問答が頭の中を巡り、高野豆腐のように柔らかい私の精神を苛んだ。

 

「けれど」

 

 そう、しかしながらである。

 相模さんの涙は本物だった。およそほかのあらゆるものが偽物であろうとも、彼女の悲しみや悔恨は真実だった。涙の成分は血液に近似していると聞く。彼女は血を流して苦しんでいたのだ。であるならば、紳士たるもの目を背けるわけにはいかない。

 これが最後だ。奉仕部との大悪縁もこれで最後。釈然としない部分も多々あるが、理不尽な迫害を受ける女生徒を救うためと割り切って腹をくくろう。

 秋も深まる夜の底、小汚い四畳半の自室で私はやや曲がり気味のほぞを固めた。

 

 

 



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第三十一話

       ◇

 

 なんやかやいっても、すでに体育祭実行委員として相模さんに協力している奉仕部の連中に、ただ、一言添えるだけだ。現状、どんな依頼があってどの程度サポートしているのか詳細は知らんが、あの雪ノ下さんがいるのだから悪い結果にはならないだろう。それに比企谷もいる。認めるのは癪だが、やり方はどうであれ厄介事を捌く手腕で彼の右に出る人間は少ない。由比ヶ浜さんも持ち前の明るさで場を明るくするだろう。

 十中八九、相模さんはやり遂げる。だから、私はほんの少し奉仕部の連中に発破をかけるだけでいい。難しいことではない。何も起こらない。私に都合の悪いことは何も起こらないはずだ。よもや、これ以上奉仕部と関わり合いになることなど……。

 

「条件があるわ」

 

 相模さんに大見得を切った翌日の放課後、実行委員会が始まる前の寸暇に私は奉仕部を訪れていた。そこで雪ノ下さんと比企谷を前に、相模さんへのこれまで以上に手厚いサポートの必要性を訴えたのだが、二人はしばらく私に背を向けて、なにやら内緒話をしていた。やがて話がまとまったのか、雪ノ下さんが怜悧な双眸をきらめかせて、条件がある、そう言ったのだ。

 

「条件とは?」

 

 雪ノ下さんが比企谷を一瞥する。妖怪ひねくれ小僧が禍々しく微笑んだ。途轍もなく嫌な予感がする。

 

「奉仕部の次の依頼をあなたが解決しなさい」

「は?」

「聞こえなかったのかしら」

「いや、聞こえたけど。どういうこと? 俺は奉仕部員じゃないんだぞ」

「まだ退部できていないわ。平塚先生にも確認したもの」

「そ、それは卑怯だ。俺はもうやめたつもりで――」

「話は最後まで聞きなさい。盛りのついた犬みたいにきゃんきゃん吠えないの」

「はい」

「退部を認めたわけではないけれど、今回は、奉仕部として依頼に臨めと言っているわけではないわ。べつに奉仕部でないと依頼を受けてはいけない、解決してはいけないという規則はないもの。だからあなたには一生徒として依頼を解決する、という条件を出しているのよ」

「……ほう」

 

 なるほど。奉仕部とは関係のない立場で、奉仕部にもたらされた依頼を解決すればいいというわけか。

 問答無用で奉仕部に復帰させるような、横暴極まりない条件ではなかったことに、私は安堵しかけた。いけない。まだ全部落着していると判断するには尚早である。

 

「依頼を解決できなかった場合はどうなる?」

 

 雪ノ下さんは顎に手を当てて、しばし考え込んでいたが、上目遣いで私を見ると、ふっと笑みを浮かべた。

 

「なに笑ってんの」

「いいえ、べつに。そうね、解決するまでお願いしようかしら」

「それは駄目だ。俺の手に負えない依頼が続けば、永久に終わらなくなる。それは駄目だ」

「一理あるな。雪ノ下、それはちょっと可哀そうだぞ。こいつがそう簡単に依頼を解決できるとは思えない」

 

 比企谷が援護するようにそう言った。信じられないくらいドス黒い思惑を腹の中に隠し持っていそうだったが、ここは否定以外ありえなかったので、丁重に乗っかっておく。

 

「そうだ。いくら何でも酷すぎる。それだと、結局、いつまで経っても奉仕部から離れられなくなるじゃないか」

「自分で言っていて情けなくないのかしら。そうやって文句ばかり言っているから、人並みにまともな学校生活も送れないのよ」

「また臆面もなく酷い言い草を、とほほ……じゃなくて論点をすり替えるな! とにかく俺は認めないぞ、そんな条件」

 

 私の絶対に引き下がらない様子を感じ取ったのか、雪ノ下さんは小さくため息をついた。

 

「本当に聞き分けのない子ね。仕方ないわ、では解決したかどうか、あなたが決めなさい」

「俺が?」

「ええ。あなたが解決したと、胸を張って納得できるのであれば、それでいいわ。もちろん私たちも協力する。これでどうかしら?」

「……ふうん」

 

 雲行きが変わった。

 

「お、おい。それは甘すぎないか? こいつ次第ってことになれば――」

 

 比企谷が何かごちゃごちゃ言っているが、私は構わず口を挟む。

 

「いいのかい? もう訂正はできないぜ」

「これくらいしないと、あなたみたいな甲斐性なしには荷が勝ちすぎるのだからしかたないわ」

「そうか。わかった。その条件、どうやら呑むしかないようだ」

 

 私は殊更重々しく頷いた。

 雪ノ下さんはどうやら私のあふれ出る誠実さを信じ、かような施しじみた提案を下したらしい。大した女性だ。素直に感服せざるを得ない。私への分相応なその期待、たしかに受け取った。

 

「くくっ」

 

 だが雪ノ下さんはひとつ勘違いをしている。たしかに私は己に厳しく、常に高い目標を掲げること余人の追随を許さないと自負しているが、ここぞという場面においては敢えて甘めの評価を自身に下すのを躊躇しない人間なのである。いやっほう、馬鹿め! 弱さを露呈したな、調子に乗って強者らしく振舞いやがって! 私を誰だと思っている。校内随一の自堕落人間であるぞ。ああ、可笑しい! ごね得とはまさにこのことだ。

 

「おいおい、いいのか雪ノ下」

「ええ。だって、私、信じているもの」

 

 雪ノ下さんがまっすぐ私を見つめる。その美貌と甘言で私の良心に訴えかけているつもりかもしれないが、残念でした、というほかあるまい。

 

「うむ。任せたまえ。全精力を以てして、依頼解決に邁進しよう」

「ふふ。お願いね」

 

 比企谷はやれやれとばかりに肩をすくめている。

 

「ま、部長が言うなら仕方ねえな。じゃ、そろそろ委員会だ」

 

 そう言うと、比企谷は机から鞄を取り上げて立ち上がる。私は、ドアへと向かう彼の背中に声をかけた。

 

「おい、相模さんのこと、よろしく頼むぞ。彼女は理不尽にさらされている」

「わかってるよ。どうせ依頼を受けてんだ。やるだけのことはやってやるさ」

「やるだけのことじゃない。体育祭を成功させるんだよ」

「成功するかどうかはしらん。非協力的な奴らがいる以上はな」

「そのために奉仕部がいるんじゃねえか。どんな手を使ってもいいから不穏分子を黙らせて、体育祭をつつがなく終えろ。相模さんがかわいそうだろう」

 

 相模さんと面と向かって約束した以上、奉仕部には全力で事に当たってもらわなければ困る。彼らに限って、依頼を蔑ろにするなどあり得ないと思うが、一応釘を刺しておくに如くはない。

 

「その本人の問題もあるんだがな……ま、わかったわかった。じゃあいくからな」

 

 比企谷はなおざりな返事をして部室のドアを開くと、振り返って言う。

 

「雪ノ下、遅れるぞ」

「ええ。すぐに行くから、先に向かっていてちょうだい」

 

 比企谷が去っていく。

 片が付いた、と私は思った。これだけ人事を尽くしたなら、まずたいがいの目論見は叶うものである。ようやく平穏が訪れる。まだすべては決着していないが、すでに私の心は太平の大海原を、風を掴んで羽ばたく大鷲のごとく自由であった。あとは依頼を待つだけだが、どんな難易度でも軍配は我が手中にある。案ずることはない。そもそも奉仕部に再三再四かかずらっている唾棄すべき状況については、この際目をつぶってやる。

 

「では俺も来たる依頼解決に向けて、自己鍛錬に励むとするかな」

 

 久しぶりに着席した奉仕部の硬い椅子から立ち上がろうとしたところ、雪ノ下さんが無感動な声音で言った。

 

「どうして相模さんに協力を?」

 

       ◇

 

 私は鞄を肩にかけながら、ちらと雪ノ下さんを一瞥した。なぜか雪ノ下さんは必要以上に眼光を漲らせている。いささか怖い。いつか、ともに宵闇を走る電車の中で、並んで話したときのことを思い出した。あの能面のような顔である。

 

「な、成り行きだよ」

「そう。また、何か企んでいるのかと思った」

「企むだなんて。それじゃ、まるで俺が何か悪いことをしようとしているみたいじゃないか」

「ちがうの?」

「断じてちがう」

「文化祭」

 

 雪ノ下さんが囁くように言った。

 

「あんなことばかりしているのはどうかと思うわよ」

 

 私は全身から血の気が引くのを感じた。

 雪ノ下さんは目をすっと細めて、じっと私を見つめている。

 

「なな、なんのこと」

 

 私はなるべく平静を装ってみたものの、明らかに挙動不審であったことは言うまでもない。

 雪ノ下さんが、くすっと小さく笑った。

 

「もう終わったことだからべつにいいのだけれど。体育祭では、変なことしないでちょうだいね」

「だから何のことか俺にはさっぱり。それよりも、相模さんのこと、えっと、頑張ってくれたまえな」

 

 私は露骨に話題を逸らした。

 雪ノ下さんが大きな目をぱちぱちと瞬きする。長い睫毛がまるで踊っているかのように上下に揺れた。

 

「本当に成り行きなの? 相模さんのこと。何も変なことはしていない?」

「なぜ過去形なんだ。し、失敬だね、きみ。あくまでも親切心だ。他意はない」

「珍しいわね。あなたが誰かのために、そこまでするなんて」

「寄ってたかってひとりを糾弾するのは見ていられないからね」

「あなたは見ていないじゃない。本当にそれだけ、かしら」

「何が言いたい」

 

 私は、私の内部にある自分でもよく分かっていない何かおかしげなものを引きずり出し、分析して粉砕されてはかなわないと思い、正々堂々と雪ノ下さんの怜悧な目と相対した。こめかみから首筋にかけて冷たい汗が流れる。

 すると突然雪ノ下さんがぷいと顔を背けた。

 

「べつに、なんでもないわ。少し気になっただけ」

「あっそう。ならいい。余計な詮索はプライバシーの侵害だよ。俺にやましいことなんて――」

「……あなたのプライバシーなんて全然興味ないわ」

「それはよかった。俺も奉仕部のプライバシーとは、近いうちにおさらばだ」

 

 ふいに雪ノ下さんが、首が引きちぎれるほどの勢いで私に向き直った。その表情からは不義理な阿呆は即刻斬り伏せんとする並々ならぬ気魄が見受けられた。「アッ」とばかりに私は硬直する。

 

「いやいや、もちろん、次の依頼はしっかり臨ませていただく所存でござい――」

「あなた……やっぱり奉仕部が、いいえ、私が……」

 

 しかしながら、般若面のような形相とは裏腹に、雪ノ下さんの声音はいたく弱々しかった。なぜかは知らんが、そんな隙を見逃す私ではない。このまま彼女の視線に晒され続けていては、危うく身に覚えのない悪事まで暴露してしまいかねない。ここは早々に立ち去って、日課である猥褻図書の研究に勤しむ必要がある。大団円は近いのだ。ゴールテープ目前で躓いていては目も当てられない。

 

「ともかく、そういうことだから。俺は帰るよ。やることがたんまりあるんだ」

「……待ちなさい」

「待たない」

 

 私は逃げるように部室をあとにする。

 ドアを閉める間際、雪ノ下さんがひどく曖昧な面持ちで言った。

 

「ねえ、次の依頼……必ず解決してね」

 

 私にはそれが、どこか諦めているような顔に映った。だからか、私は珍しく彼女を励ますように親指をぐっと立てて返した。なぜ彼女が私を鼓舞するかのような台詞を述べたのか、そしてその言葉の裏にどんな意味が隠されているかなど深く考えずに。

 

「安心してくれ。俺はやるといったらやる男だ」

 

 何の保証もない無責任な返答だったが、雪ノ下さんは驚いたように口を開け、それから花が綻ぶように笑った。

 

「期待しているわ。……さようなら」

 

 我ながらなかなかに卑怯だと認めざるを得ないが、気の毒さ半分、裏を掻いてやったという得意さ半分で部室を出た。手を振る雪ノ下さんを残して。

 

       ◇

 

 体育祭は、大過なく終わったらしい。らしいというのは、私は体育祭の運営について、その経過を何ひとつ関知していなかったことと、鬱陶しい10台のハードルを跳び越えることに夢中、かつ男汁と熱気で茹で上がりそうな棒倒しに精一杯だったからだ。紅白いずれが勝利したかも知らないし、実際に体育祭の運営委員会がどんな結末を迎えたのかもわからない。ただ、相模さんは立派に自身の役目を全うし、奉仕部は今回の依頼を無事達成したとのことだった。

 

「はい、これ」

 

 体育祭が終わり、近づく修学旅行に教室全体が妙に浮ついた秋も深まる昼休みだった。

 例のごとく校舎裏で比企谷と弁当をつついていた私が教室に戻ってくると、ひとりの女生徒がコーラを抱えて待っていた。

 

「委員長。どうしたんです、そんなコーラなんて持って」

 

 訝しんでそう尋ねると、相模さんは悪戯っぽい表情をして私の胸を指さした。

 

「きみに、だよ。ほら、この前ぶつかって飲めなくなっちゃったじゃん」

「ああ、べつに、気にしていませんよ」

「ううん、ちゃんと弁償するよ。それに応援もしてもらったしね。お礼代わりにしては、かなり安いかもしれないけど」

「はあ、まあ、そういうことなら」

 

 私はコーラを受け取った。だが、ずしりと来る重さに、1.5リットルはさすがに多いなと思った。

 

「ほんと、感謝してるから。ありがとね」

 

 そう言うと相模さんは自席へと戻っていった。すぐに彼女の周りには友人たちの輪ができる。何人かが私の方へちらちらと視線を送っていたが、その中心で、相模さんが私に向かって小さく舌を出した。

 

「ほえー」

 

 思わず気色の悪い呼気が漏れてしまい、私は慌てて口を結んだ。そして、相模さんていいな、と思った。

 

「よかったじゃん」

 

 私が呆然と突っ立っていると、後ろの川崎さんが愉快な見世物でも眺めているかのような顔で言った。

 

「いきなり、なんだよ」

「ふうん。あんたもやるときはやるってこと?」

「どうかな。あのさ、そのにやにやするの止めてもらえる。じつに不愉快だ」

「だって、なんだか嬉しくってさ」

「なぜ川崎さんが嬉しがる」

「うーん。どうしてだろーね?」

「俺が知るかいな。ったく、馬鹿にしやがって」

 

 川崎さんがなおも阿呆面で気味の悪い笑みを浮かべていたものだから、私は視界から消すことにした。

 5限目が始まるまでしばらくのあいだぼおっと落書きされた黒板を眺めていると、もしかして相模さんは私に好意を寄せているのではないかしら、という勘違いだった場合、万死に値する危険思想が首をもたげ始めた。あり得ない、と断定することは容易い。だが、そういう可能性も少なからずあると考えられはしないだろうか。一見すると教室では目立たないタイプだが、話してみるとじつは頼りがいがあって意気軒高、絶え間ない思索に耽りながらも片時もユーモアを忘れたことのない私のような快男児に、相模さんのようなクラスの人気者がはたと恋してしまうというのは、古今東西様々な創作で繰り返し手垢がつくほど用いられてきた展開である。しかも二人の間には、ともに体育祭の運営委員会という難しい局面を乗り切った過去がある。これは吊り橋効果がいかんなく発揮されていると仮定してもなんら不都合がない。やや過大に己を評価している点は見受けられるが、この際、それも些細な問題であろう。肝心なのは、互いが互いを意識しているという一点のみに収斂されるべきだ。事実、相模さんは1.5リットルの大きなコーラを私に贈っている。

 とすると、まさに今日この日が、二人の記念日になるかもしれない。

 紛糾した委員会に一度は背を向けかけた彼女を、すかさず力強くも柔和に支えた陰の立役者。私はコーラのお礼とばかりに、小洒落た喫茶店に誘うのだ。そうして間近に迫った修学旅行について、香り高い紅茶を囲みながら神社仏閣について語り合ううちに、二人の間にはいつしか互いへの信頼が生まれているだろう。その後は、天が私に与えた才覚をもってすれば、事はきわめて容易だ。万事はおのずから私の思い描いた通りの経過をたどらざるを得ない。その先にあるのは、ふはふはして、繊細微妙で、夢のような美しいもので頭がいっぱいなやさしい黒髪の乙女とともに歩む薔薇色のハイスクールライフである。

 我ながら一点の曇りもない計画で、じつに行雲流水のごとく、その展開は見事なまでに自然だ。事が成就したあかつきには、必ずや我々は語り合うにちがいない――「そういえば、あの踊り場のラリアットが私たちの運命だったね」と。

 はっとして気が付くと、いつのまにやら帰りのホームルームの時間になっていた。狐につままれた心地でいると、後ろから肩を叩かれ、辺りを見回せば私だけ起立していない間抜けた状態であった。

 慌てて立ち上がり、礼をして、着席、ほっと息をついた。

 我ながら、なんとも生々しい正気を疑うような妄想であった。しかも途中から相模さんではなく、黒髪の乙女が登場しているものだから始末が悪い。なんたる助平男なのだ、貴様は。相模さん、ごめんなさい、どうやらきみは私の意中の女性ではないらしい。

 

「ぼーっとしてるね。具合でも悪いの?」

 

 川崎さんが後ろから身を乗り出して私の顔を覗き込む。

 

「顔が赤いじゃん。風邪?」

「ちがう」

「でも赤いよ」

「うるさいな。ほっといてくれ」

「はあ? 人がせっかく心配してるのに」

「あ、いやなに、少し考え事してただけさ」

 

 私が言い繕うと、川崎さんはニンマリした。

 

「へえ、やっぱりさっきのあれ? 相模がお礼だか、なんだか言ってたけど、もしかして……」

「お、おい! 何の根拠があってそんな馬鹿なことを! 憶測でものを語るのは愚者にありがちな――」

「うわぁ……図星なんだ……」

「あ、あのね、川崎さん。きみはね、勘違いをしているよ。俺はね、もっとこう、ふんわりしたメレンゲみたいな女子が好みであってだね、エネルギッシュは埒外というか、たしかに委員長は魅力的な女性ではあるけど、ともかく――」

「わかったわかった。わかったから、ちょっと落ち着きなって。そういうことにしておいてあげるから」

 

 川崎さんは可笑しくて堪らないといった様子で、私をなだめるような仕草をした。

 

「からかうのはよせ。くそっ、ずいぶん疲れたじゃないか」

「あははっ、あんたホントわかりやすいよね」

「だから、ちがうと言っている。しつこいね、きみも」

「まあ、まあ」

 

 ざわざわと騒がしい教室から、ひとり、またひとりとクラスメイトたちが出ていく。私にもこれから重大な用事があった。今後の学校生活の趨勢を占う非常に重要な面倒事である。

 

「あ、そういえば、修学旅行の班決まったよ」

「え、いつ?」

 

 帰りの支度をしながら訊ねる。

 

「あんた……やっぱり聞いてなかったか。さっきの6時限目」

「ふうん。まあ、べつにどうでもいいが」

 

 どうせ、職場体験の班決めのように、合理的かつ理不尽に余ったところへ押し込まれているのだからどうだっていい。大切なのは、誰と過ごすかではない。いかに過ごすか、である。

 

「あんた、戸塚と同じだよ」

 

 訂正。誰と過ごすか、である。

 

「よっしゃあ!」

「あと……ひ、比企谷と葉山だってさ」

「……」

「なんつう顔してんの」

「……はぁ」

 

 いたし方あるまい。この際、戸塚君と同じ班というだけで僥倖と捉えるべきだろう。たとえ、そこに妖怪ひねくれ小僧とパーフェクトヒューマンが混じっていようとも、これ以上多くは望むまい。

 

「よし、では、行くとするか」

「帰るの?」

 

 私は首を振った。

 

「乾坤一擲」

「あ?」

「さらばだ」

 

 私は小粋にブレザーの裾を翻して川崎さんに背を向けた。

 

「ね、ちょっと、聞きたいことが――」

「悪いが、時間がないんだ。また今度にしてくれ」

「あ……うん。じゃ、また明日ね」

 

 目指すは、安寧と薔薇色の高校生活。

 いざゆかん、バケモノ巣食う伏魔殿、奉仕部へ。

 

 




 あけましておめでとうございます。
 読者諸賢の皆さまにおかれましては、ますますのご健勝、ご活躍のこととお慶び申し上げます。
 さて、本年も拙作をご覧いただき誠にありがとうございます。毎度、皆様の感想を楽しみにありがたく拝読していますが、返信につきましては、後ほど、まとめて少しずつできればと考えております。無精の為体ではありますが、何卒ご理解ご了承のほどよろしくお願いいたします。
 今後とも読者諸賢に楽しんでいただけるよう張り切っていく所存ですので、生暖かい目で読んでいただければと思います。それでは、ご機嫌よう、失敬。

 令和二年、一月吉日。


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第三十二話

       ◇

 

 結論から述べさせてもらう。

 私は、戸部なにがしとかいう男子生徒の恋愛相談に乗ることになった。この男、私が生まれて以来はじめて見た、高分子フィルム並みに軽くて薄い、吹けばどこかへ飛んでいきそうな軽佻浮薄のコンコンチキである。畏れ多くも我らが由比ヶ浜さんを凌ぐほど低次元なものの考え方をし、その能天気さはとどまることを知らず、軟派で、意味不明な言葉を操る、なぜか私と比企谷を見下し気味な超弩級の阿呆であった。いったいどうして、このような男が総武高校に紛れ込んでいるのか不思議でたまらず、依頼よりもその謎の方がはるかに解決のし甲斐があるように思われた。

 

「ジミーさん、ヒキタニさん、よろしくオナシャス!」

 

 ジミーさんとは私のことである。由来を聞いて、危うく殴り飛ばしそうになった。曰く、地味だから。なんという剛速球のストレートであろうか。同席していた由比ヶ浜さんだけでなく、葉山君や大岡君、大和君も思わず笑いをこらえきれないといった様子であったのだが、鉄面皮の雪ノ下さんと名前を間違えられていた比企谷が真顔だったので、なんとか怒りを抑えることができた。抑える必要があったかどうかは、今もってして甚だ疑問である。

 

「なあ、比企谷。こいつ、夜道に気をつけた方がいいと思わないか」

「ああ、わかるぞ。その気持ちすごくわかる」

 

 むろん、こんな男の依頼など四の五の言わず門前払いもいいところだが、悲しいかな、由比ヶ浜さんが鼻をフンフン鳴らせて乗り気であり、そうなってしまえば私としてはお手上げなのである。由比ヶ浜さんに異議を唱えるのは、私の流儀にそぐわない。その結果、修学旅行における行動班のメンバー入れ替わりが発生し、戸塚君が外され、戸部が加わるという血も涙もない提案を容れることに相成ってしまっても、私は唇を噛んで耐え忍ぶことしか許されなかった。いかに近い将来の幸福のためとはいえ、千年の都を戸塚君と過ごすという僥倖を放擲するというのは、忍耐強い私でもかなりこたえるものがある。

 

「俺、海老名さんにマジだから」

 

 というのも、戸部の依頼を解決するために、今回の修学旅行を活用しようというやや強引な流れで話がまとまってしまったからである。戸部の恋する相手というのは、同じクラスの海老名さんという女子であり、我々の行うべきは、彼の告白を陰から援助することである。そのためには常に戸部と海老名さん、両者の近いところに控えていた方が得策だというのはわかるが、そんな至極合理的な意見が由比ヶ浜さんの口から発せられるとは想定の埒外であった。

 まとめると、私(と奉仕部)にもたらされた依頼は、京都への修学旅行中に行われる戸部の告白を最大限サポートすること、である。なんとも解決の基準に困る依頼と言わざるを得ない。そもそも、私のような青春の被害者が人の恋路を応援するなど、これまで流してきた汗と涙と男汁に対し、申し開きが立たない、まさしく謀反そのものであるが、如何せん約束を交わしてしまっただけに、そう易々と反故にするわけにもいかなかった。

 

「ね、いいでしょ? とべっちも困ってることだし」

「……そこまで言うのなら考えてみましょうか」

 

 由比ヶ浜さんの懇願に、眉根を曇らせながらもそう言う雪ノ下さん。

 私がしばらく部室へ顔を出していなかったうちに、彼女の由比ヶ浜さんへの態度がひどく軟化していた。少し前なら「ダメに決まっているでしょう? 由比ヶ浜さん、あなた余計な贅肉が胸だけじゃなくて、頭にもついているのではないかしら。奉仕部はそんな腑抜けた依頼を受け付けるために創設されたわけではないの。本当におバカさんね」くらい、言い放っていたであろうに。

 雪ノ下さんが言いくるめられてしまうと、皆の視線が、私と比企谷に向けられた。

 

「お、おい」

 

 不安げに比企谷の顔を見ると、彼はため息をついた。

 

「じゃ、やりますか」

 

 こいつもこいつで、ずいぶん甘くなっていた。

 ともかく、やるしかないようだ。

 

       ◇

 

 私は速い乗り物に弱い。

 あまり長くそういう乗り物に乗っていると、きまって不安におそわれ、悲観的になり、憂鬱になり、動悸息切れがし、ついには自家中毒を起こす。たとえ降車したとしても、古代インドの宇宙観のごとく、世界を支える巨大なゾウの背中の上で移動しているような錯覚に陥ってしまう。だから原則として、私は新幹線には乗らないことにしている。しかし、今回ばかりはそういうわけにもいかなかった。

 私はごくりと唾を呑み込んで、ゆっくりとホームへ進入してくる新幹線を出迎えた。ここは東京駅16番ホーム。乗り込むは東海道新幹線のぞみで、行先は京都である。

 

「あんた顔色悪いね。寝不足?」

「我々はゾウに乗っている」

「……は?」

「地球は平面だった。我々はゾウの上に乗っているのだ」

「川崎。いいから、黙ってそいつの背中押してやれ」

「う、うん」

 

 ふいに、後ろから圧力が加えられ、私は乗降口から新幹線の内部へと足を踏み入れた。

 

「こらっ、押すんじゃない」

「後ろつかえてんだよ、早くいけよ」

 

 川崎さんの背後で比企谷が言った。

 

「心の準備があるんだよ」

「あんた新幹線苦手なの?」

「訊きながら押すな!」

 

 座席の方へは向かわず、私はいったん乗降口付近のトイレ前で高ぶる気持ちを落ち着けることにした。

 乗り込んできた生徒たちががやがやと楽しげに私の横を通り過ぎていく。大丈夫だ、落ち着け、地球は丸い。月は翳り、日は昇る。宇宙の理を、帰納的事実を信じるのだ。だいいち、古代インドにゾウが世界を持ち上げているなどという宇宙観はない。

 釈迦の呼吸法であるアナパナサティを繰り返すと、やがて私は自分自身を取り戻した。普段から実践的仏教を身につけておくと、こういうときにすこぶる役立つ。思い出すのも憚られる一年前の夏休みの己を、この時ばかりは少しだけ許せるような気がした。

 

「大丈夫?」

 

 やさしげな声に顔を上げると、眼鏡をかけた女生徒が心配そうに瞳を揺らせてこちらを覗き込んでいる。海老名さんだった。

 

「なに、朝に食べたクラムチャウダーを少し吐きそうになっただけです。心配には及びません」

「えぇ……すごく心配なんだけど」

 

 私はこめかみを引き攣らせて無理に笑顔を作った。

 

「大丈夫です。さ、席の方へ」

「う、うん」

 

 海老名さんは持参していたという酔い止めの薬をひとつ私に手渡して言った。

 

「あのことなんだけど、聞いてるよね? 比企谷くんにはもうよろしく頼んであるんだけどね。きみにも、えっと、期待しているからさ」

「ありがとうございます。は?」

 

 あのことを聞いていなかったし、比企谷と聞いて不吉な予感を抱いた私は問い返そうとしたが、すでに海老名さんは踵を返して客車のクラスメイトたちでごった返す賑やかな輪の中にうずもれてしまっていた。

 

       ◇

 

 京都駅に到着したのは、午前10時だった。

 それ自体がひとつの巨大な工芸品のような京都駅構内は、聞きしに勝る広さと解放感で私を圧倒し魅了した。男子とは、ただただ大きいものにロマンを感じる阿呆である。むろん、私も多聞に漏れない。大きいことはいいことである。

 

「でっかいなあ」

 

 広々とした改札口で思わず呟いた私は、ひどく暑苦しい気配を感じて身構えた。

 

「うむ、でかいな。さすが我が魂の故郷」

 

 材木座は片手に携帯ゲーム機を持って、50mはあろうかという吹き抜けの天井を見上げていた。

 

「なんだ、おまえ。来てたのか」

「着いて早々にひどいなお主」

「おとなしく家でお昼のワイドショーでも見てればいいのに」

「それは我も考えた」

「考えたのか。さすがだな」

「二年生という未だ学を修めていない中途半端なお年頃で修学旅行とは笑止千万。そう思っていた時期が我にもございました。なぜ我がわざわざ足労を顧みず――」

「ずっとそう思ってろよ」

「行き先が京都というのならば、これは無視できるはずがあるまい。なぜなら、我は室町幕府第十三代将軍足利の――」

 

 総武生たちの一団がぞろぞろと動き始める。どうやら駅前からバスに乗って移動するようだ。

 

「もあっはっは、つまり、これは将軍の凱旋というわけである」

「おい、いくぞ」

 

 材木座と別れて駅前に出ると、やや離れた先の歩道沿いに数台のバスが停車していた。私は新幹線にも弱いが、バスにも弱い。幼稚園の頃、送迎バスの助手席で嘔吐して以来、バスに乗り込むとパブロフの犬のごとく条件反射で気分が悪くなり、体が鉛のように重くなるのである。近頃は昔のように死んだ魚の目をして虚空を見つめながら、一瞬も気を抜けない吐き気との鍔迫り合いを演じなくなりつつあったとはいえ、油断は禁物である。

 私はポケットに仕舞い込んでいた酔い止め薬を取り出した。先ほど海老名さんからいただいたものである。私は海老名さんに深い感謝の念を捧げながら、家から持参した酔い止めを服用した。やはり信じられるのは経験である。

 息を呑んでバスに乗り込む。襲い来る自律神経の不調を全身に感じながら、空いていた窓際の席に座り込んだ。新鮮な空気を常時取り込むため、すかさず窓を開け放つ。むろん八百万の神々に祈ることも忘れない。ときに裏切られて、ビニール袋に顔を突っ込むことも多々あったが、概ね祈りは届いてきた。神社仏閣の多いこの地であれば、ご利益はきっとあるだろう。

 低いエンジン音が鳴り響き、バスが発車した。

 私は深呼吸を繰り返しながら、流れる車窓の風景に集中した。こんなとき、目を閉じて意識を内向させるのは悪手である。とにかく気を紛らわせるよりほかはない。目的地は清水寺だというから、おそらく大した距離ではないだろう。

 

「あのさ、ちょっと寒いんだけど」

 

 川崎さんの声だった。シートに座り込んだ直後から、片時も視線を動かしていなかった私は、隣に座ったのが誰だかも把握していなかった。

 

「我慢してくれ。取り返しがつかなくなる」

「なにそれ。いいから閉めてよ」

 

 そう言うと、川崎さんはずいと身を乗り出して窓を閉めようとする。

 私はなんだか柔らかいふくらみを右半身に感じながらも、毅然とした口調で言った。

 

「閉めてはいけない! 吐くぞ!」

「え?」

 

 ふわっと鼻に抜ける香気とともに、川崎さんが体を引っ込めた。

 私は窓から目を逸らさずに応対する。丁度、大仏前交番という看板が見えた。

 

「気持ち悪いの?」

 

 私は黙して車窓を追い続ける。無駄に口を開くという迂闊なことはしない。返事は最低限に留め、無意味な問いかけには黙止で返すのがバス移動の鉄則である。

 

「ごめん、気が付かなかった。背中さすったげようか?」

「いい」

「アメなめる?」

「いい」

「酔い止めは……うわっ、忘れてきちゃった」

「飲んだ」

「そっか。ねえ、大丈夫?」

「……」

「ビニール袋は?」

「不要」

「もう少しだと思うから、頑張りな」

「……」

「アメ、ホントにいらない? 黒飴だよ?」

「……」

 

 その後もなにかと世話を焼こうとする川崎さんに辟易とさせられ、返事するのに多大な精神の力を必要としたが、おかげで気が紛れたようだった。比較的首尾よくやり過ごせたと言えよう。だがまだ気は抜けない。降りるまでがバス移動である。

 バスは清水寺へと続く坂の途中にある広い駐車場に停まった。

 

「川崎さん」

「ん、どした? まだ気持ち悪い?」

「今日のバス移動は隣に座って、さっきみたいに下らないことを俺に話しかけ続けてくれ」

「……は?」

 

 川崎さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、それから目を細めて言った。やけに声が低い。

 

「あんたねえ……」

 

 しまった、いまのは失言だったか。しかし、一刻も早くバスから下車する必要がある私に、川崎さんのご機嫌をとるような心の余裕は微塵もない。

 暗澹たる面持ちで私は言った。

 

「おい、早くどいてくれ。バスから降りたいんだよ、俺は」

 

 半ば強引に川崎さんを押しのけて下車すると、晩秋の透き通った風が満身五体を吹きぬけて、浩然の気が満ち満ちてくるようだった。

 深呼吸を繰り返す。見上げれば、私の心の有様を移すかのごとく、薄暗い雲が突風にあおられて消え去っていく。覗いてみえるのは、天高く馬肥える秋の青空である。ああ、いい気持だなあ。

 莞爾とした笑みを浮かべながら両腕を広げていると、川崎さんがバスから降りてきた。私は改めて先ほどの件をお願いしようと近づく。

 

「川崎さん、助かったよ。さっき言ったこと――」

 

 しかしながら彼女は、ぷいと顔を背けて足早にクラス集団の方へ歩み去ってしまった。

 

「よろしく頼みますよ」

 

 口の中で呟くと、やれやれと私は肩をすくめた。

 

       ◇

 

 清水寺。山号は音羽山。

 非常に古くからの歴史を持つこの寺は、その伽藍や景観の壮麗なるをもって、世に遍く膾炙されていることから、全国津々浦々、否、世界中から押し寄せた観光客で、四六時中足の踏み場もないほど混雑するという。京都を訪れたものは、猫も杓子も必ず清水の舞台を踏むらしい。歴史の一ページに足跡を残さんとし、私もまた清水寺の玄関口である仁王門をくぐって境内へと足を踏み入れた。なお、言うまでもないがクラス集団の殿を務めている。つまり一番後ろである。

 諸君にはおわかりいただけるであろうか。こういうとき、なんとはなしにクラス集団とは距離を置きたくなる心情である。

 浅薄な学生がかくも阿呆であるということに、私は苦笑を禁じえなかった。

 連中は軟弱な気配を漂わせ、周囲にはとにかく無頓着、なかには「うぇーい」なる奇声を発すものまでおり、自分たちこそがこの場で一番盛り上がっていると信じで疑わない。はたから見れば猿山の馬鹿騒ぎに過ぎず、彼らは白い目であしらわれていることに絶対に気づかないのである。その腫れもの扱いがまた連中の馬鹿騒ぎを助長するのだ。そして、「ここで一番盛り上がってる俺ら最高にカッコいい」および「俺らには誰も何も言えない」という謎の類人猿的自信が、彼らのアドレナリンに火をつけてしまうという悪循環。衆人は憐みの微笑。なぜかこちらまで羞恥を感じるというのだから理不尽でやり切れない。彼らはそのうち不可逆的な累を及ぼすことだろう。そうして洒落にならない大問題に発展するのが目に見えている。というか、そうなれ。

 日常からかけ離れた地で浮かれてしまうのもわかるが、自分は決してああいうふうにはなるまいと思った。常に自己を律し、数段高い位置から俯瞰するくらいの冷静さを持ち続けて、連中とは一線を画し続けなければならない。そもそもクラス集団に馴染めていないのだからいらぬ心配だという意見もあろう。

 さて、そうなってくると、おのずから比企谷が帯同することになる。まるでクラス集団という大型船舶に曳かれる襤褸船のごとく、我々は千年の都でも相変わらずであった。

 

「知ってるか? 清水寺っていっぱいあるんだぜ」

「知ってるよ」

「嘘つけ。じゃあ、どこにあるか言ってみろよ」

「千葉にあるだろ。たしか、いすみの方だったか」

「……比企谷、見てみろよ。京の町が一望できるぜ」

「おい、合ってるのかどうか答えろ。誤魔化すな」

「あれが京都タワーか。案外大きなもんだなあ」

「っち。130メートルあるんだから、そりゃデカいだろ」

「もっとあるだろう、だってあんなに大きいんだぜ。また嘘ついたなおまえ」

「またってなんだよ。さっきのも合ってるだろうが。というか、だったら調べてみろや」

 

 ならばと私は、比企谷が口から出まかせを吐いている証拠を眼前に突き付けてやろうとスマートフォンを取り出した。そうしてインターネットで京都タワーと検索し、おもむろにスマートフォンをポケットにしまった。

 

「さて、そろそろ中に入るか。拝観料とるんだってさ」

「こらこら、何スルーしてんだよ。いま、おまえスマホで調べただろ。高さは? おい、高さは何メートルだったんだよ、おら」

「比企谷君、きみね、細かいことにうるさいね。どうしてそう、きみは細かいんだ? 鬱陶しいやつだな」

「てめえ……」

「しかもね、調べた結果、京都タワーの高さは131メートルだった。つまりお前の言ったことは間違っていたというわけだ」

「ほぼ同じじゃねえか……」

「やっはろー」

 

 いち早く阿呆な会話で修学旅行を台なしにしかけた我々のもとへ、黄色い声が届いた。由比ヶ浜さんだ。

 

「相変わらずふたり一緒だね。ホント仲いいよねえ」

「なんだお前、喧嘩売りに来たのか?」

 

 比企谷がわりあい真面目に言った。私も同感だった。

 

「ち、ちがうし! と、そうだ。面白そうなとこ見つけたからちょっと行ってみようよ」

「後でな。もう拝観の列できてるから早くいかないとまずいだろ」

 

 比企谷が言うと、由比ヶ浜さんはむうっと頬を膨らませる。シマリスみたいで可愛いらしい。

 

「仕事忘れたの?」

「旅行の間くらい仕事を忘れていたいです」

「仕事……あぁ、戸部の」

 

 私としたことが、新幹線やバスという艱難辛苦を乗り越えるのに必死で、依頼のことをすっかり失念していた。このまま、永劫に忘れられていたらどんなに良かったことであろうか。

 

「そそ。もうとべっちと姫菜は呼んであるから早く早く!」

 

 我々は鼻息を荒くした由比ヶ浜さんに袖を引っ張られ、随求堂というお堂までやってきた。なんでも胎内めぐりができるらしい。拝観入口の近くで、小さな人だかりができていた。胎内めぐりが何なのかは知らんが、願いが叶うご利益があるとのことだ。願いが叶うのというのであれば、もう一度母親の胎内からやり直させてくれないだろうか。自信はないが、次はもう少し上手くやれるはずだ。

 

「なんでこいつらまでいるんだ?」

 

 比企谷が小さく言う。こいつらとは、葉山君と三浦さんのことだろう。

 

「あの二人だけ呼んだらなんか変じゃん」

「まあ、そうか……」

 

 由比ヶ浜さんなりにいろいろ考えているようだった。奉仕部の仕事とはいえ、他人の恋わずらいによく無償で献身できるものだと感心、半ば呆れた。

 そこで、ふいに私ははっとした。

 これは本来、私に課せられた依頼であった。由比ヶ浜さんだけに丸投げしていては男が廃る。廃るような男気を所持しているかは微妙な塩梅ではあるものの、少しはデキる男っぽさを表明しておくにやぶさかではない。というより、大なり小なり関わっておかないと、後々に功労者として評価されない恐れがありはしまいか。たとえ、最終的な裁定者が私自身であろうとも、面倒な難癖をつけられるのも面白くない。私のような恋の不心得者に何かできるとは思えないが、ここは積極的に関わっている体を醸し出す必要があるだろう。

 私は阿呆の戸部に視線を送った。戸部も気が付いて、にかっと笑う。能天気な奴め。しかし、この場は海老名さんと阿呆を二人にしてやらねばなるまい。葉山君は三浦さんと連れ添うだろう。ということは、私は由比ヶ浜さんと暗闇のランデブーを楽しむことになる。しかたあるまい、これも仕事のためだ。

 

「最初にあたしたち行くから、次、優美子と隼人くんね。それから――」

「あまり時間もないし、そんなに間隔はあけないほうが――」

 

 入場する順番やパートナーが決められていく。どうやら私と由比ヶ浜さんは先頭になりそうだった。

 

「大丈夫だった?」

 

 ふいに海老名さんが近づいてきて、私に尋ねる。

 

「なんのこと?」

「ほら、新幹線のとき」

「ああ。この通り、問題はなかったですよ」

「そっか。よかったね。薬、効いたのかも」

「え、あ、はい。その節はどうも」

 

 私が飲んでいない薬の件に対して頭を下げると、海老名さんはくすくすと笑った。

 

「そんなかしこまらなくてもいいよ」

「はあ」

「――んじゃ、あたしたちから行くよー。ほら、ヒッキー行こ」

 

 由比ヶ浜さんと比企谷が床にぽっかりとあいた真っ暗闇に、二人そろって下りていく。

 

「あっ……」

 

 私は、海老名さんと話していることも忘れて、呆然とその後姿を目で追っていた。続いてすぐに葉山君と三浦さんが下りていく。

 

「ああ……」

 

 じつのところ、大方、予想していたことではあったが、かくもナチュラルにハブられると、いささか心にくるものがあった。いつから私は、「あたしたち」に含まれていなかったのだろうか。たしか随求堂に来るまでは「あたしたち」の一員だったはずである。別れはいつだって唐突だ。

 残されたのは、海老名さんと阿呆と私である。

 心の痛手はわりと深かったが、我ながら驚くほどスムーズに自身のすべきことに気を取り直すことができた。あまりに非情な現実を直視したくなかっただけともいえる。とにかく今は依頼である。

 

「では、海老名さんはそこの――」

「じゃあ、私はきみと行こっかな」

 

 遮るようにして海老名さんが言った。私に向かってである。

 

「え、いやいや。それは、どうかな。俺は一人で――」

「いいから、いいから。ほら、もう隼人くんたちが入っちゃったよー」

「ちょ、ちょっと、引っ張らないでください。あの、海老名さんは戸部と――」

 

 海老名さんは私の腕を取ると、強引に入口へと引っ張っていく。

 引っ張られつつも、私は戸部に視線を送る。

 賑やかな観光客の一団を背にして、戸部は口をパクパクとさせながら両手をわなわなと震わせていた。まるで何かに怯えているかのようだ。

 どうやら戸部は混乱しているらしい。むろん、私だって混乱している。彼から小さく「ジミーさん……」という声が聞こえた。

 これはいけないと思い、私は慌てて言う。

 

「せ、せめて3人で行きましょう」

「あ、そうだよね! ごめんとべっち。一緒にいこ?」

 

 海老名さんが申し訳なさそうに言うと、戸部は一瞬硬直し、それから満面の笑みを浮かべた。

 

「うぇーい、忘れるとかひでえよ! マジかんべんだわー」

 

 何気ないふうを装っているわりには、声が震えている。意外に情けないところがあるらしい。まったく興味のない阿呆の一面を知ってしまった。

 

「ジミーさん、サンキュな」

 

 菩薩の胎内へと続く暗闇に没していく間際、戸部がそう言って片目をつぶってみせた。

 私は小さく頷き返したが、それよりもなぜ海老名さんが友達である戸部ではなく顔見知り程度の私を誘ったのか不思議に思っていた。そしてそれ以上に、先行している由比ヶ浜さんたちの様子にいたく気をもみ、比企谷の汚らわしいY染色体が蠢きださないことを祈っていた。

 

       ◇

 

 恋など一過性の精神錯乱に過ぎない。

 いつだって壊れたテープのように己に言い聞かせてきたし、ときには比企谷や材木座にも口を酸っぱくして言明してきた。

 

「あれは疾患だよ。病院に入った方がいいぜ、阿呆どもめ」

 

 胡坐をかいた二人を前に立ち上がり、恋愛至上主義吹き荒れる世間様へ、より取り見取りの罵詈雑言で一席ぶったことも一度や二度ではない。

 大体、「惚れる」というのが胡散臭い。恋をすると盲目的になると言うが、そもそも「惚れる」というのが理性の欠如した明らかなる動物的行為なのだから当然である。そうして振った振られたなどという無益な煩悶に悩まされるているのだから、ちゃんちゃら可笑しい。はじめから合理性を欠いているのだから秩序だった答えなど出せるはずもなく、悩むこと自体が水を斬ろうとするような虚しい行為にほかならないのだ。にもかかわらず、胸が苦しいだの、あなたのことが頭から離れないだの、会いたくて会いたくて震えるだの、気味の悪い精神疾患に襲われて右往左往しているのは、傍から見ていて痛々しく、馬鹿馬鹿しかった。

 もう、震える前に会いに行けよと進言したかった。

 自己を律し、節度を重んじた人間であれば、断じて「惚れる」などという理性の敗北は喫しない。そして私はいつだって理性的な紳士であり、そんな不必要な情動を排していることを誇りに思っている。

 

「……」

 

 恒常的なバスの揺れから意識を逸らすべく暑苦しいまでの熱弁を繰り広げる私に、川崎さんは何の反応も見せなかった。

 

「つまりだ。恋愛にうつつを抜かす暇があるなら、元素周期表を暗記していた方が圧倒的に有益なんだよ。わかる?」

 

 川崎さんはむすっとしててんで取り合わない。どうやらご機嫌がすぐれないようである。それにしたって、これだけ滔々と語り聞かせているというのに無視するのは、いささか生意気だなと思う。

 バスが左折して、川崎さんがもたれかかってくる。身(胃)の危険を感じ、私は深呼吸とともに言った。

 

「軽々しく俺にぶつからない方がいい。どうなってもしらないぜ」

「……」

 

 川崎さんは、ちょっとやそっとではお目にかかれないような冷たい視線を投げてよこし、それから舌打ちした。

 

「え、え、あれ、なんか、怒ってらっしゃる?」

 

 訊くまでもなく彼女はぷりぷり怒っていた。峩々として聳え立つ眉根は、平生の十倍は大きな谷を作っている。はてな、と思ったが、ああ、そういえば先刻バスを降りるときにひと悶着あったなと他人事のように記憶が蘇ってきた。しかしながら、今の私に彼女を気遣う精神的な余裕は、重ね重ね芥子粒ほどもない。ただでさえ、いましがたの左折で胃液が逆流気味なのである。ここで、むやみに愛想を振りまこうとすれば、車内の衛生環境に責任が持てなくなり、ひいてはクラスの人間に申し訳が立たなくなる。それはいけない。私は私以外の何者にも負い目を感じることを良しとしない男なのだ。

 とりあえず、そっとしておこうと思い、私は車窓の風景に目を移した。

 それにしても怒っているくせに、彼女がわざわざ私の隣に座るのは不可解だった。いったい、これはどういうわけであろうか。諸君もご存じの通り、私は節度を重んじた人間である。したがって、隣に座ったのは彼女が私に好意を寄せているからなどという奇天烈な因果関係を導くことはしない。そのような可能性は万に一つもないからである。自身で答えを出しておきながら、そのあまりの卑屈さに小さな煩悶と怒りを感じないでもないが、論を待たない事実であるため、これは潔く受け入れるほかない。となれば、いよいよ謎は深まるばかりである。

 車窓の向こうには、鴨川の流れが見えた。夕暮れ時の川岸に幾組もの男女が等間隔に座っているなか、そこに割り込むようにして荒涼とした4人の男たちがまるで五条大橋を守る弁慶のごとく仁王立ちし、ふわふわした雰囲気と景観を台無しにしているのが目についた。彼らは暮れゆく茜色の空を見ながら、一心に煙草を吹かしている。何か、非常に困難な任を預かっているようにも、ただただ阿呆が高じているようにも見えた。私はそんな光景を眺めながら、バスに揺られていた。

 

 バスは本日の最終目的地となる宿まで近づいていた。

 辺りはすっかり夜の風情で、ちらちらと揺れる車のテールランプや街灯の光が薄暗い車内を照らしている。川崎さんが隣に座った謎を解き明かそうとあくせくしている間に、私はいつのまにか眠っていたようであった。

 

「そろそろ着くから降りる準備しとけよー」

 

 疲れの滲む先生の声で目覚めた私は、すぐさま全身に気を配った結果、軽微な気持ち悪さを感じていることに気が付いた。そして同時に、川崎さんの肩に頭を乗せてもたれかかっている現状を認識した。

 

「世話をかけるね」

 

 下手に動けば事態は悪化しそうであったため、私は視線を前席に固定したまま、か細く言った。心がときめくとか、そういうのは一切なく、何か御仏の腕に抱かれているような精神年齢が低下しそうな安心感を覚えていた。

 

「起きたの? ちょっと、重いんだからはやくどいて」

「だから、世話をかけるね、と言ったじゃないか。今は動けない。今動けば吐く、可能性が生まれる。すべてのゲロは動くから吐くんだ。俗界万斛の反吐皆動の一字より来たる、という言葉があるね?」

「知らないよ」

「あ、そう」

 

 バスが揺れる。

 川崎さんが、もう少しだよ、とやさしく言う。もう少しだから、我慢だよと。

 

「川崎さん、さっきは悪かったね。ちょっと配慮が足りていなかった。気持ち悪かったんだよ。ああ、今もだけど」

 

 しばらく沈黙があって、それからバスがどこかの角を曲がった後、彼女が小さく笑った。

 

「いいよ、べつに。それより、大丈夫?」

 

 私はそのとき、彼女が左手にエチケット袋を握りしめていることに気が付いた。窓は開け放たれていて、忍び込んでくる夜気は冷たかったが、川崎さんは乗り込んだ時のままのブラウス姿だった。ブレザーは丁寧に畳まれて膝の上に置かれたままである。

 私はなぜ彼女が隣に座ったのか、ようやく悟った。

 

「世話をかけるね」

 

 私は胸がいっぱいになり、母の偉大さを知った。

 

「もう、わかったから」

 

 川崎さんはまた、小さく笑った。

 

 




この場を借りて、誤字を報告していただいた方に感謝申し上げます。まことにありがとうございます。
今後も、可能な限り誤字脱字のないように彫琢してまいりますが、もしも発見した場合は、生暖かい目で看過していただくか、よろしければ報告いただけると恐悦至極でございます。


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第三十三話

      ◇

 

 さて、時は宿につく数時間前に遡り、清水寺を出て南禅寺を参拝、哲学の道を慈照寺銀閣に向かってそぞろ歩いていた折のことである。

 西田幾太郎が好んで散策した小径も、紅葉の季節となれば哲学はもとより、どんな思案も観光客の賑やかさにかき消されてしまう。戸部と海老名さんの縁を結ぶにはいかなる手練手管を弄するのが最適なのか、厳粛な心持で数十秒考えていた私も、周囲のざわめきを受けて潔く思案をあきらめた。こういう潔さには自信がある。つまりは紳士だということだ。

 相も変わらずクラス集団の最後尾をとろとろ歩きながら、徐々に色づき始めたもみじを眺める。緑や黄色、うっすらと染まる赤のトンネルを、心地よいそよ風の中を闊歩するのは愉快であった。

 

「やあ」

 

 安楽寺へと続く法然院橋の上で写真を撮っていると、唐突に声をかけられた。

 

「楽しんでいるかい?」

 

 振り返るとコンデジのレンズ越しに葉山君が柔和な笑みを浮かべて立っている。

 

「ぼちぼち、でんな」

「ハハッ。面白いな。ぼちぼちか、なんだかすごく楽しそうに見えるよ」

 

 これは皮肉なのかと身を固くしたが、葉山君ともあろうお方が、私ごときに当てつける必要性を感じなかったので、本心で私が楽しく見えたのだろう。事実、楽しいのだから文句はない。ただ、わざわざ団体の中心から最後尾くんだりまでやってきて、いったい私に何の用があるのだろうか。

 私が訝しんでいることに気が付いたのか、葉山君は自然と歩くように促しながら言った。

 

「依頼の調子はどうかな」

「……ぼちぼち、でんな」

「また、ぼちぼちか。つまり感触は悪くないってことかい?」

「どうだろう。ちょっとぐらい仲が深まっているとは思うんだけど」

 

 先行する集団の中で、身振り手振りを取り混ぜながら軽薄な笑い声とともに海老名さんに話しかけている戸部の姿を見遣る。日中と夜間の砂漠くらい温度差を感じるように見受けられた。見る人が見れば、「無駄なことはよせ」とすっぱり諦めることを進言するのかもしれないが、私にはよく分からなかった。

 ふたりの隣で、なぜか我々の方にちらちらと視線を送る三浦さんから目を逸らすと、私は言った。

 

「葉山君も動いているんでしょう?」

「……あ、ああ。それなりにね」

「なら、安心だ。たぶん振られるんだろうが、それでも俺は精一杯支援するつもりだぜ」

「あはは……手厳しいな。それで、比企谷は何か言ってたかい?」

「比企谷? いや、これと言って特には。何か汚らしいことを考えていそうではあるけど」

 

 葉山君は苦笑いをこぼす。それからふいに言った。

 

「きみは比企谷と仲がいいね。秘訣でもあるのかい?」

「は? 仲良くなどないが」

 

 いくら葉山君であろうとも、言って良いことと悪いことがある。

 

「いや、ずいぶん親しく見えるよ。きみが思っている以上に、二人は仲が良さそうだ」

「やめてくれたまえ。あの阿呆とは根本的に相容れないところがある。俺は祟られているだけだ。あれは呪いの類なんだよ」

「……ずっと不思議に思っていたんだ。そういうところかもな」

 

 葉山君はなにやら私の軽口に一人で納得しているようで、やや気味が悪かった。

 幸せ地蔵尊という幟が立っているお堂を横切って、木漏れ日の中を我々は歩いた。葉山君はまだ私と連れ立っている。

「気持ちいい天気だな」と彼が呟くと、それきりしばらく無言が続き、やがてぽつりと言った。

 

「現状を維持するっていうのはさ、悪いことなのかな」

「え?」

 

 総武高校とは別の修学旅行生が我々を追い越していく。幾人かの女子がちらっと振り返る。十中八九、葉山君がお目当てであろう。そんなことは、露とも気にせず彼は続けた。偉い男だと思う。

 

「関係を壊すことに、意味なんてあるのかなってことさ。いままで、それなりに結びついていた輪を無理にほどくのは好きじゃないんだ。だけど、最近、よくわからなくなってきてさ」

「……ん?」

 

 よくわからないのは私の方だった。何か彼にとって重要な葛藤を吐露しているような気配があるのだが、葉山君の顔に悩んでいるような調子はなく、淡々としていているように見受けられた。私を試しているのかもしれない。何を試しているのかはわからないが、葉山君のことだから、けしてむやみやたらということでもなかろう。ともかく、謎の多い言葉から得られたわずかな情報を類推して、私はそれらしいことを述べた。つとめて厳粛に見えるように気を配ることは忘れない。

 

「極端になってはいけない。壊すというのはちょっと乱暴だよ。仕切り直すと考えたらどうだろう。呼吸が合わなければ関取は相撲を取り直すだろう? それは新たな関係をつくるということで、つまり、ええと――そうだ、輪がほどけたら、また結びなおせばいいんじゃないか」

「……結びなおす、か」

「うん。結びなおした輪は前とは違うけど、より強く固く結ばれるんだ。骨折と一緒さ。新しくできた骨は強い」

「本当に、強く結ばれるのかな」

「まあ、保証はできない。それに新しくできた関係も、すぐに輪が切れる可能性も十分に考えられる。ただね、葉山君、きみが何を考えているのかわからないが、俺は、きみを偉い男だと思っているよ。きみはいつだって自己を律している。

 それと、これは経験則だけどね、どうせどんな道を選んだって、いつか後悔する羽目になるし、一方で、開き直ることもできるんだ。きみが進んだ道が、歩んだ道が……ええ、そうだな、その道が正道だ」

 

 もしかしたら彼は本当に悩んでいるのかもしれない。私のような不必要な情動を排した男であっても、悩みのひとつやふたつあるくらいだ。誰にだって、懊悩に苦しむことはあってしかるべきである。たとえそれが完全無欠の葉山君であってもだ。彼は非常に責任感の強い男であるから、なにかこう、重い責任を一手に引き受けているのだろう。それでも見かけは泰然としているのだから、やはりますます偉い男である。

 

「まあ、結局、葉山君の好きにしたらいいってことだ。現状維持を望むならそうすればいい。新しく仕切りなおすのもいい。自由なんだぜ、俺たちは。保証はできないけども」

 

 葉山君は「そこは保証してくれよ」と笑った。

 

「……きみみたいなやつがクラスにいたんだな。比企谷がちょっと羨ましいよ」

「なぜそこで比企谷が出てくるんだ。やめてくれと言ったじゃないか」

「ははっ、わるいわるい。そうだな、自由もいいよな」

「うん」

 

 前方の集団から葉山君を呼ぶ声が届いた。「はぁんやとぉー」という妙に甘ったるい響きのわりに、声の主である三浦さんは私を鷹の眼で睨みつけている。身に覚えがない。

 

「なぜ、あの人は俺を睨んでいる」

「なんでだろうな」

 

 葉山君は、歩きながら右手を差し出した。

 

「これからもひとつ、よろしく頼むよ」

「え?」

「あ、握手だよ。いやならいいんだ」

「ああ、構いませんけど」

 

 私は彼の手を取って、力強く握った。男と男の美しい握手だった。

 葉山君は「それじゃあ」と残して、クラス集団の方へ去っていく。

 思わぬことで妙な達成感を得た私は、いつだか、この修学旅行を高校生活の転機とする誓約を自身に課したことを思い出していた。その日が迫って来るうちに、どうせいつものようにロクなことにならないだろうという頽廃的な予感に駆られ、半ばただのイベント消化程度に見なしていたのだが、あながち大言壮語な目論見ではなかったのかもしれない。

 形容を避けたくなるようなにちゃりとした笑みをこぼしていると、葉山君が振り返った。

 

「あと、さっきのは誤用だよ。折れた骨が強くなるという根拠はないんだ。じゃ、またあとでな」

 

 私は真顔になると、なぜか会釈した。

 

       ◇

 

 慈照寺の参道で買ったばかりのキーホルダーのお土産を紛失し、通りすがりの三浦さんに舌打ちをされ、材木座と非建設的な会話をするといったアクシデントに見舞われたことのほか、宿に着くまで特に大過はなかった。

 風呂あがりに広縁で寛いでいると、念のために持参していた携帯電話に着信があった。母かなと思いディスプレイを覗くと、そこには可能であれば見なかったことにしたい名が表示されていた。

 

「あのお、はい、なんでしょうか」

「おお、やってるか少年」

「あのお、なんでしょうか」

「いつだったか約束しただろう。今がそれを果たすときだよ、きみ」

「酔ってらっしゃいますか。それでしたら、また明日にでも――」

「まだ素面だ。いいから、10分後にロビー集合だぞ、わかったな」

「先生、ぼく、まだお風呂に――」

「F組の入浴時間はとっくに終わっている。それにきみが風呂から出たところを確認済みだ」

「断る権利は――」

「ない」

 

 通話が切れた。

 材木座が、別のクラスなのになぜか目の前で寝転がっている。まるで食事を終えた豚のごとき風体である。彼がいじっているスマートフォンの充電アダプターを、コンセントから勢い任せに引き抜くと、私は客室を後にした。

 

       ◇

 

「それで、どうして、こいつらがいるんです?」

 

 私は、私の貴重なリラックスタイムを奪った挙句、秋の長い夜の寒空の下に連れ出した平塚先生に尋ねた。問いただした通り、乗り込んだタクシーの後部座席には、なぜか比企谷と雪ノ下さんが同乗している。

 

「仕方がないだろう」

 

 平塚先生が助手席から答える。

 

「ラーメンを食べに行こうとしているのを見咎められたんだ。口止め料というやつだよ」

 

 約束とは、いつぞや下品な車で拉致され連れていかれたラーメン屋の帰りのときに交わされたものらしかった。承諾した覚えはまるでなかったが、異議申し立てを行ってみたところで、正論が通じる相手ではないし、通じたためしがない。

 

「いいんですか、教師がこんなことして」

 

 比企谷が言った。非難するようなことを言いつつ、ラーメンと聞いてまんざらでもない顔をしていたのだから、とんでもないあまのじゃく野郎である。調伏された方が世のためというものだ。

 

「いいんだよ。教師だからね」

「それは開き直りではないでしょうか……」

 

 今度は雪ノ下さんである。なんのかの言っても、畢竟、ついてきている辺り、彼女も卑しい根性を持っているのだ。こんな綺麗な顔をして、じつにはしたない。

 

「ばれたら叱られるんじゃないですか」

 

 私が言った。その場合、奔放教師の巻き添えを喰うのはご免である。どうにか真っ当な言い訳が欲しい。

 

「叱られたりはしないさ。小言や嫌味を言われたり、形式的に呼び出されるくらいで済むだろう」

「叱られてるじゃないですか。いいですか、先生。ぼくの名前は出さないでくださいよ。内申に響きそうだ」

「きみというやつは……あのね、問題を起こすなという命令と、問題を解決するよう促すことはまるで違う」

「違いがわからん」と比企谷。

「そうね。あまり叱られた経験がないからかしら」と雪ノ下さん。

「先生、言質をいただきたいです。ぼくの名前を――」

 

 私の必死の主張を遮って、平塚先生はうんうん頷きながら続けた。もはや黙ることにした。

 

「そうか。では私がちゃんと叱るよ。今までも少なからず叱ってきたつもりだったが甘かったみたいだな」

「いや、結構充分です」

 

 比企谷が顔を引き攣らせて固辞する。

 

「私は特に叱られるようなこともないから構わないけれど」

「雪ノ下、叱られることは悪いことではないよ。誰かが君を見てくれている証だ」

 

 物は言い様だなと思う。教師に都合のいい方便にも捉えられる。思い通りにならない生徒を押さえつけるための強権を正当化しているに過ぎない――そう声を荒げたかったが紳士らしく堪えた。

 

「ちゃんと見ているからな。いくらでもまちがえたまえ」

 

 雪ノ下さんが、どこか思慮深げに視線を落としたところで、私が口を挟んだ。

 

「先生、ぼくの名前は――」

 

       ◇

 

 高野川と賀茂川に挟まれた三角地帯に位置する下鴨神社。京都に由緒正しき神社は山ほどあれど、なかでも下鴨神社は平安以前から存在する屈指の格式高い大神社である。縁結びをはじめ、様々なご神徳を得るべく年間多くの参拝客が訪れるが、その界隈に夜な夜なある屋台ラーメンが出没することはあまり知られていない。

 

「名を猫ラーメンという」

 

 以前、狸で出汁をとっているという真偽のほどが定かではない狸ラーメンなるものを食したが、まさかそんな珍妙なものの近縁があるとは思いもよらず、私は唖然とした。

 叡山本線の一乗寺駅付近でタクシーを降りると、夜の街を歩きながら平塚先生が「しかし」と続けた。

 

「出没場所は関係者以外に漏らすことが固く禁じられているらしくてな。私も噂だけは聞いたことがあるのだが、実際に食べたことはないし、食べたという人に出会ったこともないのだよ」

「ただの噂でしょう。実在しない都市伝説みたいなものですよ、きっと」

 

 比企谷が言うと、「まあ、その可能性も否定できない」と平塚先生は頭を振った。

 

「だが、ラーメンに生き様を求める者の端くれとして、無視できるものではないのだよ」

「変なところで熱い人だな、だからいつまで経っても――」

「何か言ったかね?」

「いえ、何も」

「そうか。まあ、いずれ比企谷にもわかる日が来るよ。人は求めてやまないものをいつか必ず持つようになる」

「大袈裟な……ラーメンからずいぶん飛躍しますね」

「きみ、ラーメンを馬鹿にしているな。いいかね、比企谷、ラーメンはな――」

 

 やいのやいの不毛な会話を続ける平塚先生と比企谷が歩いていく後ろをうんざりしながらついていくと、隣にいたはずの雪ノ下さんが、いつの間にか姿を消していた。振り返ってみると、通り過ぎたばかりの路地に彼女が入り込むのが見えた。

 

「ちょっと、どこに行くんだ」

 

 慌てて細い路地を覗き込むと、そこは呑み屋の赤提灯がいくつも連なっている、うすぼんやりとした静かな横丁だった。雪ノ下さんは通りから3軒ほど過ぎた先の、小さな喫茶店の前でしゃがんでいる。

 

「何してるんだよ」

 

 私が声をかけると、肩をびくりと震わせて、振り返った。

 

「いえ、別に。少し気になるものを見つけただけよ」

 

 私を仰ぎ見る雪ノ下さんはどこか気まずそうに目を泳がせた。

 

「なに」

「だから、別に、いいじゃない」

 

 そんなことを言う雪ノ下さんのまたぐらから、白くてなんとも愛らしいもふもふした生物が不思議そうにこちらを見ていた。

 

「ははん、ははん。なるほどね」

「気持ち悪いからあっちを向いて。ここには何もないわ。見失ったの」

 

 どうやら雪ノ下さんは、自分のまたぐらに子猫が居座っている、とんでもなくユーモラスな状況に気が付いていないらしい。可能であれば写真に収めたかったが、コンデジを忘れたうえ、シャッターを切った数秒後には訪れるであろう己の惨状を幻視できたので、スマートフォンによる代替案も断念することにした。

 コミカルな光景をしっかりと目に焼き付けると、私は満点の笑顔で指摘する。

 

「雪ノ下さん、下」

 

 私の指さす先に気が付いた雪ノ下さんは、「きゃっ」と小さく悲鳴を上げて、尻餅をついた。すると、子猫は小柄な身体をぴょんぴょこ跳ねるようにして、路地の奥へと駆けて行ってしまった。

 

「逃げちゃったね」

「……あなたのせいじゃない」

「馬鹿を言うな。明らかにきみのせいだ」

「馬鹿っていうの、やめてちょうだい」

「へいへい。ほら、戻りますよ」

 

 手を貸して雪ノ下さんを立ち上がらせる。彼女は尻をポンポンと叩いて埃を払った。

 

「あなたがいま見たものは、即刻記憶から消し去りなさい。もしくはくたばりなさい」

「だめだ。魂が拒否している」

「仕方ないわね。物理的にわからせてあげましょう」

「あ、あ、雪ノ下さん、その髪留めは、そういう野蛮な用途に使うものでは――」

 

 そういうふうな阿呆なやりとりを交わしていると、ふと、どこからか、まるで地響きのような音が聞こえてきて、我々二人ははっとして目を見合わせた。なんともおぞましい地の底から湧き上がっているかのようなその音は、路地の先、それもすぐ近くから聞こえてくるらしい。

 

「な、なんだろう」

「わからないわ」

 

 点滅する置き型のネオン看板の向こうに青いポリバケツがあって、その裏が件の発生場所のようだ。

 一歩踏み出すと、雪ノ下さんが私のシャツの袖をきゅっと掴む。

 

「…‥行くの?」

「どうも気になる。雪ノ下さんはここで待っててくれ」

 

 彼女がこくりと頷くのを見届けて、私は恐る恐る進んだ。

 左右の呑み屋からは明かりが漏れていて、賑やかな笑い声やなんだか香ばしい肉の焼ける匂いが路地まで漂ってきていた。店内とは打って変わって、路地は静かなものだった。不思議なことに人っ子一人は歩いていない。この奇妙な対比がやや不気味であった。そして相変わらず悪夢的な重低音は響き続けている。

 ようやくポリバケツまでたどり着くと、私は深呼吸をひとつ、覚悟を決めてエイヤとその裏を覗き込んだ。

 

       ◇

 

 そこいたのは着流し姿でだらしなく眠る老人であった。

 地鳴りのような音も、たしかに思えば鼾に聞こえなくもない。しかし、なんという轟音だろう。私は肩透かしをくらって呆然とし、それから、ちょいちょいと手を招いて雪ノ下さんを呼び寄せた。

 雪ノ下さんは私の腕を取りながら恐々と覗き込んで、それからすぐに腕を離した。彼女も同様に呆れているらしい。

 

「驚いたわ。人間の出せる音なのかしら」

「ずいぶんお年寄りに見えるね」

 

 老人はワインの瓶を抱きながら壁に寄りかかって寝こけている。おそらく泥酔しているのであろう。若者なら自業自得だと一笑して捨て置いたが、如何せんかなりのご老体である。よくよく見ると、非常に立派な鷲鼻をしており、寝ているだけであるのに、なんというか、ただならぬ迫力があった。

 我々はこの場にどう決着をつけるべきか決めかねた。打ち遣っておくのも寝覚めが悪い。こんなところで寝ていて凍死、あるいは追い剥ぎにでも遭ったらことである。

もしここで見捨ててしまえば、心優しい私のことであるから、きっと良心の呵責に苛まれるだろう。そうにちがいない。そのうちに、鷲鼻を持った怪しい老人の姿が常住坐臥つきまとうことになり、やることなすことすべてがうまくいかず、待ち人は来ず、失せ物は出ず、テストで赤点を取る、留年したあげくに材木座と同じクラスになる、電車内で腹が痛くなる、自転車のチェーンが外れるなどといった不幸に見舞われる――ような気がして、どうにもこの場を離れ難かった。

 なにはともあれ、老人を起こすことで私と雪ノ下さんの意見は一致した。

 

「おじいさん。こんなところで寝ていては風邪をひいて、鼻水がいっぱい出ますよ」

 

 私が老人の肩を揺すりながら言うと、「うごご」と返事があった。

 

「うごごとはなんだろう」

「鼾ね」

 

 しばらく揺すっていると、断続的な「うごご」が静まりはじめ、やがて「んがっ」という響きを残して、地鳴りのような音が止んだ。

 老人がゆっくりと重そうな瞼を開く。

 

「……弁天か?」

 

 老人は雪ノ下さんを見て、そう呟いた。

 

「ふむ、人違いか」

 

 老人はもぞもぞと身動きしたと思えば、ぶっと放屁した。そうして、私に視線を移し、ふたたび雪ノ下さんを見て言う。

 

「人間の小娘が、わしに何の用だ」

 

 凍死の憂き目から救ってやったというのに、私は人数勘定にすら入っていないらしい。なんともぶんふてぶてしいジジイである。

 

「あの、大丈夫ですか」

 

 雪ノ下さんが答えの代わりに尋ねた。

 

「夜は冷えますから、寝るならご自宅に帰ってはいかがでしょうか」

 

 老人はまじまじと雪ノ下さんを見つめて、黄門然と蓄えられた真っ白なあごひげをさすった。

 

「なるほどな、間違えるわけだ。在りし日の弁天と声も顔もよく似ておる。可愛いらしい娘ではないか」

 

 雪ノ下さんは目を丸くして、一歩後ずさった。

 この期に及んで口説き文句とはいい度胸である。年甲斐がないとはこのことを言うのだろう。

 仕方なく助け船を出した。

 

「おじいさん、家は近いのですか。お巡りさんを呼びましょうか」

「気安く話しかけるでない。わしは、お前のようなひょろひょろした人間の小僧が、阿呆狸の次に好かぬだ」

「阿呆狸って、こんのジジイ……」

 

 思わず呟くと、雪ノ下さんに「こら、よしなさい」と窘められた。

 

「ふむ、感心感心。その娘は良く心得ておるようだ。気に入った、名を何という」

 

 雪ノ下さんは、名乗っても問題がないか確認するように私に目配せする。

 私は肩をすくめた。

 

「え、ええと。雪ノ下ですが」

「雪ノ下か、良い名だ。覚えておこう」

「ぼくは――」

「お前には聞いておらん」

 

 どこまでも不愉快なジジイである。

 

「さて、おなごに名乗られて黙っていては天狗が廃る。よく聞くがいい、わしの名は――」

 

 そう言って、老人は勢いよく立ち上がろうと意気込んだ。しかし、ふいに「はうわっ」という素っ頓狂な悲鳴を上げると、へなへなとその場にうずくまってしまう。

 

「こ、腰が」

「だ、大丈夫ですか?」

 

 慌てて駆け寄ると、老人は脂汗をかいて気息奄々たる有様であった。

 

「これは大変だ! 救急車を呼びましょう。雪ノ下さん」

「え、ええ」

「よ、よさぬか。ただの腰痛だ、大事にするでない」

「しかしね、おじいさん。あなた、いまにも死にそうですよ」

「これしきで往生してたまるものか。なに、少し休めば――」

「おや、先生。そんなところで何をしていらっしゃるのですか」

 

 ふいに声がした。

 はっとして、我々が目をやると、先ほどの喫茶店の前で、ひとりの青年が愉快そうにこちらを見ている。平生から私が嫌う、いかにも軽薄そうな大学生という風情があるが、どうやら老人の知り合いのようだ。

 青年はゆっくりと近づいてきたと思えば、老人の置かれている状況を目の当たりにして、大仰なため息をついた。

 

「まったく、先生ともあろうお方が、なんと嘆かわしい」

「……矢三郎か」

「はいはい、矢三郎ですよ。これはいったい何事ですか」

「ふむ、些末なことだ」

 

 矢三郎と呼ばれた青年は、私と雪ノ下さん、それから老人を見比べて呆れ顔をしている。

 老人の知己らしき人物が現れたためか、私と雪ノ下さんの間で張りつめていた緊張感が解けた。

 

「おじいさんの知り合いの方ですか?」

「ええ、そうですとも」

「それはよかった。ここで寝ていらっしゃたので、声をかけたしだいで……」

「それはそれは。ずいぶんと迷惑をかけたようで」

「迷惑などかけておらん」

 

 青年はその言葉を無視して、「ちょっと失敬」と我々の間に入ると、老人に肩を貸して立ち上がらせた。

 

「酒くさい。やっぱり飲んでらっしゃったんですね」

「なに、金光坊に誘われてな。いささか飲み過ぎたようだ」

「わざわざ一乗寺まで来なくたって、あのボロアパートで飲んでいればいいのに」

「余計なお世話だ。わしの勝手であろうが」

「大方、弁天様の尻でも追っかけてたんでしょう」

「戯けたことを言うでない。毛玉風情が生意気な。そんなことあるものか」

 

 青年は老人をひょいと背負いあげた。まるで祖父と介抱する孫といった態である。

 

「大変、世話をかけましたね」

 

 青年が頭を下げた。我々もつられるようにして頭を下げる。

 

「このご恩は、不肖赤玉先生の高弟、下鴨総一郎が三男、下鴨矢三郎、必ず返させていただく。では、これにて失敬。先生も、ほら、お礼をなさってください」

「なぜわしがお礼をせねばならん。なにも感謝するいわれはなかろう」

 

 老人は「しかし、」と雪ノ下さんを見た。

 

「おぬしは、なかなか見所がある。わしが本領であれば、連れ帰ったものを。口惜しい」

「またそんな無茶なことを……ですが、たしかに昔の弁天様によく似てますねえ」

 

 青年は老人から何かを受け取ると、雪ノ下さんを呼び寄せて、それを渡した。

 

「またどこかで会うこともあるかもしれませんな。それでは」

 

 ふたりは通りまで出ると、タクシーに乗り込み、去っていった。

 

「なんだったんだ」

 

 たしかに現実なのだが、どこか現実味の薄い、狐につままれたみたいな出来事だった。ただ、酔っ払った偏屈老人の醜態を目撃しただけなのに、明日の朝目覚めたときにはもう忘却の彼方に追いやられていそうな、そんな幻想的な感覚がある。

 

「天狗とか弁天とか、変なことばかり言ってたね」

「ええ」

 

 私と雪ノ下さんは、しばし通りでぼんやりとしていた。

 

「何を貰ったの?」

 

 そういえばと私が尋ねると、雪ノ下さんは奇妙なものを眼前に掲げた。それは鳥の羽だった。硬くてごわごわとして、普通の羽に見えたが、どこか神秘的な趣がある。

 

「気味が悪い。捨てちゃいなよ、そんな変な羽」

「でも、綺麗だわ」

「どこが。そのへんの鳩の羽を拾っただけだろ。あのじいさん、耄碌してそうだから、紙幣と間違えて拾ったとしてもおかしくないぜ」

「……」

 

 雪ノ下さんの眉がそばだてられる。そこはかとなくリアリティのある言葉が響いたようだ。

 

「あなたに預けるわ」

「い、いらないよ。きみが貰ったものだ」

「ともかく持っておいて。捨てるのもなんだか忍びないから」

「押し付ける気じゃないか……ったく、仕方のない人だ」

 

 ポケットに羽を突っ込むと同時、携帯電話が震えた。

 

「アッ」

「どうしたのよ」

「……ラーメン」

「すっかり忘れていたわね」

 

 雪ノ下さんが冷静に言う。

 

「すでに到着しているから、地図を頼りに歩いてこいだってさ」

「そうしましょう」

「怒ってなければいいけど。平塚先生、気が短いから」

「きっと、叱られるわね」

「雪ノ下さんのせいにする腹積もりだ」

「べつにかまわないけれど、先生はどちらを信じるでしょうね」

「きたねえ……実際、きみのせいじゃないか」

 

 何気なく通りから横丁を振り返る。相変わらず静まり返っている路地からは、鼻孔をくすぐる高貴で妖艶な香りがした。導かれるようにして頭上を仰ぎ見ると、路地の細く切り取られた宵の空の遥か遠くを、細身の女性が宙を舞っているのが見えた。

 



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第三十四話

       ◇

 

 翌日も良く晴れた。

 止むに止まれぬ理由で、ぐうたらと朝寝をした私と比企谷は、一足遅く朝食バイキングの列に並んでいた。

 修学旅行の二日目は、洛西をグループで行動するらしい。太秦に始まり仁和寺、龍安寺、鹿苑寺金閣など名立たる観光スポットを巡るという。なお、行き先を決める話し合いの席で、個人的に漢字ミュージアムにぜひとも行きたいと申し出たのだが、満場一致でいともたやすく却下され、ささやかな私の願いは旅のしおりの露と消えていた。

 

「寺なんか見て、何が面白いのか」

「さあな」

 

 比企谷が受け流すように答える。

 

「寺を見て何か役に立つのか」

「しらん」

「漢字を学んだ方が、いざというとき身を助ける」

「どんなときだよ」

「たとえば、強盗に銃とキャンパスノートを突きつけられたとする」

「たとえが物騒すぎるんですが」

「強盗がこう言う。このノートに書いてある文字が読めるか? 読めなければズドンだ」

「なんなのその強盗。さっさと盗るものとって逃げろよ」

「ちなみに強盗はパンツ一丁だ」

「ヘンタイじゃねえか」

「ノートにはこう書いてる。『菠薐草』。お手本のようなゴシック体だ」

「わざわざスマホを見せなくていい」

「読めないだろう? すなわち、お前は今、死んだ」

「前提がいざという範疇を遥かに超えちゃってるんですけど」

「漢字を笑う者は漢字に泣く。いにしえのありがたい格言だ」

「ねえよ、そんなもん」

 

 私は、すぐ前に並んでいた名前も知らない生徒の助言に従って、バイキングの特性を活かした七色プレートを完成させ、一足席に着いた。遅れて、比企谷がやってくる。

 

「お前、絶対食いきれないからな」

「お前とは気合の入り方が違う。なんだその粗食は」

 

 比企谷の前に並べられた偏食極まる献立に、私は若干の怒りを覚えた。

 

「朝はトーストとスープがあれば、俺はそれでいいの」

「一年草の種子を砕いて発酵させて、捏ね繰り回して、燃やした物体を食べるなんて」

「言い方!」

「これだから欧米かぶれは困る。日本人なら白米をいただけ」

 

 もそもそと菠薐草(ほうれんそう)のバター炒めを食べ終えると、温かいほうじ茶で一息ついた。虹色を完成させるために菠薐草をよそってみたはいいが、間違いなく余計であった。それにしても、七色プレートを勧めてきたあの生徒はいったい誰であったのだろうか。見たことのない顔であった。そもそも見たことのない顔の方が多いのだから当然と言えば当然である。

 先に食事を終えたクラスの連中がぞろぞろと部屋へ戻っていく。その中に混じって、お調子者の戸部が、相変わらずフライパン並みに底の浅い笑い声をあげていた。

 

「そういえばさ、戸部の阿呆はどんな感じ?」

 

 私が問うと、比企谷は鼻で笑った。

 

「どうもこうも、見りゃわかんだろ」

「悲しいことだ」

「思ってないだろ」

「しかし、あいつが清水の舞台から飛び降りるとして、振られようが、断交されようが、絶縁されようが、俺は精一杯応援するつもりだぜ」

「たどり着く未来に何の救いもないな」

「そこに議論の余地はないからな。俺たちの可能性が介入できるのは、結果の如何ではなく、過程の有り様である」

「……うわっ、きたねえ。お前、端からそういうつもりなのかよ」

「むろんだ」

「清々しい顔をするな」

「いまさら何を言っても無駄だゼ。依頼内容はサポートであって、関係の成就ではない。馬鹿めっ」

「うん、まあ、そうなんだが。うん、まあ、頑張れ」

 

 比企谷は呆れたように言う。

 

「ああ、粉骨砕身の所存だ。こんなに誰かを応援したい気持ちになったことって、生まれて初めて」

 

 私が心を込めて言うと、なぜか比企谷は憐憫の眼差しをした。

 このときに気が付くべきだったのかもしれない。

 

「なんか、その、ごめんな」

 

 そう呟く彼の声も、どこか普段と違っていた。だが、遠い異郷の地に浮かれていた私には、気の毒そうなその声を毫も顧みず、卑劣にひん曲がった比企谷の顔もまるで眼中になかったのである。ずいぶん先の話にはなるが、大変悔やまれることになるなど、ついぞこの時は思いもしなかったのだ。

 

       ◇

 

 それはさておき。

 朝食を終えた我々は、さっそく班に分かれて、太秦映画村へと舵を取った。

はずだった。

 はずだったとは、つまりどういうことか。どうもこうもない。すがすがしい秋の日差しの下、ホテルの玄関前に立っていた私は一人であった。本来であれば、浮かれた連中の群れでがやがやと騒々しいはずの集合場所であるのに、もはや侘び寂びすら漂うこの閑散たる有様。ありていに言えば、置いていかれたのである。

 往年の鴨川を彷彿とさせる激流的便意を催してトイレに駆け籠って数分後、集合場所の玄関ロビーはもぬけの殻。班員たちはもとより、他クラスの生徒、教師の連中まで人っ子一人おらず、狐に化かされた心持でしばし呆然とした。すぐさま律儀な受付のお姉さんが、心配そうに様子をうかがいに来たが、自分でも判然とせぬまま、逃げるようにその場を後にして表へと出た。おそらくあまりに情けなかったためだと思われる。

 丸太町通りは、朝から車通りが激しかった。

 

「え?」

 

 ようやく、自身の置かれている状況の意味不明さに、疑問を呈する声が漏れる。

 

「置いていかれた、のか?」

 

 改めて確認するまでもない非情過ぎる現実を、改めて確認するように私は声に出した。

 

「まさかそんな、無茶な」

 

 私はひとまず落ち着こうとしたが、大方の予想通りそれは難航を極めた。「もしかして除け者にされている?」と不安になるのも無理からぬ話で、事態をどう打開していこうかどうかよりも、まず自身が非人徳的行為の対象になっているのではないかという疑心に苛まれ、私は額を抱えた。

 誰かを不快にさせたか、それとも溢れ出すオーラによって目立ちすぎたため出る杭のごとく打たれてしまったのかと憂慮に悶えたのもわずか、冷静になってみると、私は不快にさせるほどの付き合いを持たなかったし、打たれるほど頭角を現したこともないことに、わりあいすぐに気が付いた。なお、そもそも初めからハブられているのではという指摘には耳を貸さない。

 合理的に考えてみれば、導かれる結論はたんに忘れられていたということである。やや厳しい現実ではあるが、クラスの連中に冷罵される迷妄をたくましゅうしたあとだけに、思いのほか心理的な被害は少ない。と理屈を呑みこんだところで、置いていかれている現状には相違なく、途方に暮れるのにそう長い時間はかからなかった。

 

「これはまいったね」

 

 とにもかくにも、班員たちと合流しないことには始まらないと思い、連絡を取ろうと試みたが、比企谷をはじめ私が連絡先を知る誰とも電話は繋がらなかった。再度、疑念が首をもたげたが、おそらくバスの移動中のため、電話を取れない状況だと判断する。このような突発的不慮の事態のために何か書いてあるかと思い当たり、旅のしおりを検めたみたものの、事態を好転させるような文言は何一つ書かれていなかった。糞の役にも立たない紙切れであると断じ、くしゃくしゃに丸めて捨ててやろうと思ったが、もしかしたら糞の役に立つ可能性もあるかもしれないと思い改めて、一応保管しておいた。生憎、いま手元にティッシュはない。

 私は自分でも得体の知れない謎の微笑みを浮かべながら、岡崎別院の山門を無意味にくぐってまた戻り、進路を西にとって平安神宮の方へ歩きはじめた。とりあえずバス停に向かったのである。

 

       ◇

 

 市バス嵯峨・嵐山行きのバス停は長蛇の列だった。おそらく2、3度バスを見送る羽目になるだろう。

 私は待つという行為に我慢がならない人間である。約束の時間に遅れてきた人間がいようものなら厳粛にその理由を問いただし、それが真っ当であれば罵倒し、理外であれば容赦なく罵倒してきたほど、待つという行為を憎んでいる。忘れ置かれたという現実が、ふつふつと怒りを醸成してきた頃合ともあって、私は早々に待つという選択肢を放擲した。

 熊野神社前のバス停をやり過ごした私は、川端通りを越えて鴨川に架かる丸太町橋までたどり着いていた。土手沿いは犬の散歩をする人や鴛鴦の契りとばかりに仲良く歩く老夫婦などが散見された。はるか千年の昔、賽子の出目や山法師とともに白河法皇を悩ませた鴨川も、今世にあっては庶民の憩いの場として非常に穏やかである。

 私は土手に下りて、芝生の上に寝転がった。折り返しの連絡が来るまで、ここで少し休んでも罰は当たらないだろう。暑くもなく寒くもない快適な外気で、悠々と流れる鴨川の水音に耳を澄ませていれば、なんとも天下泰平の心持がしてくる。ぽかんと青空を眺めていると、先ほどの怒りや京都にいることすらも忘れて、無性に眠くなってきた。明け方近くまで、材木座のスマートフォンで桃色査定会を敢行していたため、睡眠時間が圧倒的に足りていなかったのだ。

 近くに聞こえていたざわめきがすっと遠のいていく。連絡が来るまで、そう決めて私はまどろんだ。

 

       ◇

 

 文化祭が終わって数日後のことだ。

 残暑にも翳りが見えはじめたころ、良く晴れた日曜日に私は京葉線に乗って南船橋のジュンク堂に出かけた。手に入れたい本がいくつかあったのだ。

 広大な床面積に余すことなくずらりと並ぶ書棚の間を縫うようにして彷徨い歩く。そうして、ひと通り目当てのものを探しあてた私は、碩学の徒としてまだ見ぬ珠玉の賢著を発掘し、高邁な見識をよりいっそう深めようという向上心がむくむくと湧きかけたが、折悪く、歩き過ぎによって右足首にかすかな痛みを覚えたため、泣く泣く向上心は『世界の珍しいモノシリーズ』コーナーに捨て置くことにした。何事も健康には変えられない。過ぎたるは猶及ばざるが如し、という言葉もある。

 本を漁るのに疲れた私はどこか一服できる場所を探して、ジュンク堂を後にした。

 ジュンク堂の入るビビット南船橋の向かいには、ららぽーとTOKYO-BAYが物々しく立っている。アメリカ西海岸を彷彿とさせるような外観・装飾の大型商業施設で、とても大きく、とても広い。私は、西海岸と名のつくものは悉く気に食わないタチだが、好んで通っているチェーンの喫茶店があるとのことで、いたしかたなく秘密任務を与ったスパイのように、息を潜めつつ、わくわくと落ち着かない心を持て余しながら、どうみてもlalaには見えないロゴマークの下をくぐった。

 ざわざわと騒がしい施設内を歩いているときだった。

 一軒の服屋の前で、なんというのか知らないふわっとしたズボンをしげしげと眺めている見知った女性が目についた。丁度、ズボンから目を離した隙に、向こうも私に気が付いたらしい。

 女性は弾けるように笑って、とことこと走り寄ってきた。

 

「こんにちは」

 

 私が言うと、由比ヶ浜さんは「やっはろー」と返した。

 

「こんなところでばったりなんてすごいね! お買い物?」

「ちょっと本屋に」

「うわっ、いっぱいだ」

 

 ジュンク堂のレジ袋を覗き込んで由比ヶ浜さんが驚く。

 

「由比ヶ浜さんは何を」

「いやさあ、聞いてよお」と由比ヶ浜さんは口を尖らせる。

 

「ママと買い物に来たんだけどね、なんかエステ行くから適当に時間つぶしててって置いてかれちゃってるの。ひどくない?」

 

 その割には楽しげな様子なので、私は曖昧に頷いた。

 

「もう帰る途中?」

「珈琲でも飲もうかなと」

「えっ、あたしも行く!」

「……珈琲を飲むだけなんですけど」

 

 私がぼそぼそ言うと、由比ヶ浜さんは申し訳なさそうに眉を顰めた。

 

「ごめん、迷惑だった?」

「ああ、いやいや、むしろ由比ヶ浜さんに迷惑じゃないかなと」

 

 気色の悪い卑屈さを露呈したかたちだが、本心ではあった。休日の西海岸風ショッピングモールで私とお茶をして何が楽しかろう。そういうのは、由比ヶ浜さんの意中の男性と行うべき催しであって、たとえば比企谷みたいな、と考えたところでふと鶏冠に来た。自然と想起された比企谷は、紛うことなき由比ヶ浜さんの意中の男である。

 

「なにそれもーっ、全然迷惑じゃないよ! ちょうど暇だったんだもん」

「あ、それなら、一緒に」

「うんっ」

 

 努めて冷静に返したが、上目遣いの由比ヶ浜さんがきらきらと眩しくて、こうやって幾人もの男を不毛な恋路に誘ってきたのだろうと容易に推定できた。こういう無遠慮な可愛さを撒き散らして果てしがないと、将来的に痛い目を見ることは必定である。忠告するのが紳士の義務に思われたが、一方で、無遠慮な可愛さを私に向けてくれなくなる可能性を考慮し、両者を天秤にかけた結果、私は黙秘を選択した。

 喫茶店でアイスコーヒーを頼んだ我々は、窓際の席に腰を落ち着けた。とりとめもない世間話を交わした後、話は奉仕部関連に移った。

 

「そういえばさー、ゆきのん怒ってたよ」

「なぜ」

「よくわかんないんだけどさ、ヒッキーが言うには、クッキーがどうとか。先に帰っちゃったんでしょ?」

「ヒッキー、クッキーって韻を踏んでいるじゃない」

「えー? いんってなあに?」

「韻っていうのは、ほら、詩とかで使われるやつで」

「うん?」

「あと、ラップとかさ」

「うんうん」

「音がこう、似てる感じ」

「あ! ヨーチェケラッチョ! みたいな?」

「まあ、それかな」

「って、全然関係ないじゃん! 何の話してんのあたしたち!」

「なんのって。押韻の話だよ」

「おういん?」

「押韻というのは、つまり韻を踏んでいるってこと」

「よーちぇけらっちょ?」

「うん、もうそれで」

「って二回目! もういいから!」

 

 由比ヶ浜さんが可愛らしく頬を膨らませてぷりぷり怒るものだから、私は「失礼しました」と頭を垂れた。

 

「で、クッキーがなんですか」

 

 由比ヶ浜さんは咳払いした。

 

「せっかく作ったのに誰かさんが無碍にしたのだわ。こちらが感謝の気持ちを表明しようとしているのに、いったいどういう未開地で暮らしてきたら、あんな人が出来上がるのかしら。まるで社会通念というものを知らないの。サムライアリの方がもう少しまともな社会性をもっているわ」

「それ雪ノ下さんの真似? 蕁麻疹が出るから止めてほしいね」

「どう、似てた?」

「瓜二つだ。よく覚えたね、そんなの」

「何回も言ってるんだもん」

「まずいな。逆鱗に触れたようだ」

「なんで帰っちゃったの?」

 

 私は回答に詰まった。

 

「ゆきのんと喧嘩でもしてるの?」

「まさか」

「じゃあヒッキーと?」

「あいつとは闘争をしていましてね」

「壮大だ!」

「じつのところ、まあ、用事がね」

 

 私が苦し紛れにいうと、由比ヶ浜さんは少し間をおいて真面目な顔をした。

 

「あのさ……辞めないでほしいな。前にも言ったけどね、やっぱりヒッキーもゆきのんも寂しそうにしてるんだよ」

「そんなこと、俺には関係がないですよ」

 

 文化祭の終わりの、あの何ともいえない置いていかれているような焦燥感を思い出し、私は柄にもなく突き放すように言った。

 

「もう辞めたんだ。未来永劫、奉仕部の敷居を跨ぐつもりはない」

「やだよ、そんなの」

「やだよなんて言われても、こっちにはこっちの都合があるもんですから」

「どんな都合?」

「それは、まあ、いろいろ将来のための布石を――」

「奉仕部、楽しくないの?」

 

 また私は言葉に詰まった。

 楽しくないと一言の下に否定してしまうことはむつかしい。しかしそれが、必ずしも有意義であるかどうかを大事にしたい私の人生哲学と交わるわけではない点には注意が必要だ。ここのところの繊細微妙な嗅ぎ分けを由比ヶ浜さんに強いるつもりはないし、そもそもそれを他の誰かが理解してくれるなどという甘い考えはとうのむかしに捨てている。他人に望むべきではない期待を敢えて託すことが諸悪の根源なのだ。私はそうやって何度も手痛い目に遭ってきたのだから、いい加減骨身に染みなければ愚の骨頂というものであろう。

 

「暗い顔してる」

「え、そうかい?」

「沙希も言ってたよ。最近、落ち込んでるみたいだって。文化祭で少しは元気になってよかったって」

「川崎さんが」

「うん。本当はさ、みんな心配なんだと思うよ。ヒッキーもゆきのんも、平塚先生だって」

「俺のことが」

「そうだよ」

「由比ヶ浜さんは」

「言わないとわからないの?」

 

 由比ヶ浜さんが目を細めてじっと私を見る。

 

「あ、いえ、どうも。そういえば、前もこんな会話した気がするよ」

「そうだっけ?」

「気のせいかもしれない」

「なんそれ」

 

 由比ヶ浜さんは笑った。それも大層キュートに。

 私はふと、こんなにも健気で可愛らしい由比ヶ浜さんが、妖怪ひねくれ小僧こと比企谷のことを憎からず想っているという宇宙の神秘に思いを馳せた。奉仕部のことよりも遥かに重大な事案と言わねばならない。彼女の胸に秘められた想いは少なく見積もっても間違っている気がするのだが、恋愛というもの自体が曖昧模糊としているだけに、断言することが難しい。とはいえ面と向かって「比企谷が好きなのかい」などと尋ねてみて、事態を決定的にしてしまうのも躊躇われる。イエスが返ってこようものなら、カフカ的不条理に絶望したあげく、鋸山の断崖に居を構えて遁世したくなること請け合いだろう。世俗を捨て去るには心残りが108つほどあった。やはりこの世にはハッキリさせなくていいこともある。

 それから私と由比ヶ浜さんは、彼女の母上がエステを終えるまで談笑した。由比ヶ浜さんは、折にふれて、奉仕部やその内情について委細漏らさず話すものだから、奉仕部に所属していたころよりもかえって奉仕部について詳しくなったみたいだった。活動内容が怪しげで意味不明な団体に明るくなったところで如何なる益があるというのだろうか。脳細胞の不必要な運動という気がしてならなかった。

 

「またいつもみたいに4人で集まりたいなあ」

「考えておきます」

 

 由比ヶ浜さんからの熱いラブコールを受け奉仕部復帰に対して考えを改めたかといえば、別にそういうわけでもなかった。なにせ、本物のラブコールではないわけだし、私はそんなに安い男ではないからである。ともあれ、休日に由比ヶ浜さんと地元を離れた地で出逢うというのは、何か運命的なものを感じる。今後、奉仕部とは一切かかわらないと決めつつも、私は由比ヶ浜さんとだけは密な連携を継続して行う必要性を新たした。

 新たにしたはずだったのだが、諸君もご存じの通り、奉仕部とは一切かかわらないという私の無垢な願いは、体育祭を機に校内の露と消えている。そうして、奉仕部とのぐずぐずに腐りきった縁は、思いもよらぬ形で続いていくことになるのだが、それはまだ未来の話である。

 

       ◇

 

 話は京都に戻る。

 私は鴨川の土手で暢気に昼寝をしていた。我ながら、本当にいい度胸をしていると思う。

 

「貴君、起きたまえ。こんなところで臍を出して寝ていると、腹を壊して便所の住人になること請け合いだよ」

 

 まどろみの恍惚と不安の間を絶え間なく揺れ動いていた私は、唐突に聞こえてきた声に死ぬほど驚いて反射的に体を跳ね起こした。

 

「君、修学旅行生だろう」

 

 目の前に、年齢不詳で蓬髪の茄子のようなしゃくれた顔の男が立っている。

 寝起きの判然としない頭では現状を正しく把握できなかったが、ともあれ、鴨川の土手で蓬髪の茄子のようなしゃくれた顔をした年齢不詳の男に話しかけられると怖い、というクリアな所感を抱くことはできた。

 

「どちらさまですか」

 

 私が尋ねると、男は満足げに笑った。

 

「近くの大学に通っている者だ」

「はあ」

 

 大学生なのか、はたまた講師、教授の類なのかはわからない。おっさんにも見えるし、大学生に見えないこともない。じつに、年齢不詳だった。まずもって不審者と断定して相違あるまい。

 男に注意が向いていた一方で、私は置き去りにされていることと、折り返しの連絡を待っていることに思い当たり、慌てて携帯電話を取り出した。携帯電話を操作している間、男は遠慮することもなく私の顔を眺めている。そうして「聞いていたのと違うなあ」と訝しんだり、「しかし、見所はありそうだ」などと一人納得したりしている。不気味に感じながらも、私は携帯電話を見て固まった。

 

「連絡が来ていない」

 

 そんなばかな。

 時間を確認すると、ホテルを出て1時間以上が経過している。さすがに到着していなければならない時刻のはずである。いくら京都のバスが混雑するとはいえ、たかだか数キロの距離に1時間もかかる道理はない。

 

「何をそんなに青ざめた顔をしている」

「いえ、べつに」

 

 私はぼんやりと立ち上がり、幽鬼のごとくふらふらと橋の方に向かって歩き出した。なぜか男もついてきて、当然のように傍らを歩いている。彼は葉巻を出して火を点け、ふわあと煙を吐いた。

 

「置いていかれた。ちがうかな?」

 

 私はぎくりとして立ち止まった。

 

「な、なぜそれを?」

「そして連絡もつかない。当たっているだろう?」

「あなたはいったい……」

 

 男は意味ありげに笑って、濛々とした煙を吐いた。

 

「私は京都のありとあらゆる情報を一手に網羅している。それは結城紬のごとく細かく張り巡らされ、どんな些細なことも見逃さない。たとえば、修学旅行でやってきた冴えない一学生が、学友に置いていかれて途方に暮れている状況の把握など、懐中時計を取り出して時刻を検めるくらい造作もないことだ」

 

 男は着流しの懐から懐中時計を取り出して、「9時45分だ」と言った。

 私はいよいよ気味が悪くなった。

 

「……失礼します」

 

 私は置いていかれている現況よりも、すべてを見透かしているようなこの男の不気味さに不安を感じ、足を速めた。しかしながら、彼はことさら急いでいるふうもないのに悠然と隣へ追いついてくる。まるで仙術のようであった。

 ああ、厄介なことになったと思っていると、男が言った。

 

「しかし、変だとは思わないか。考えてもみたまえ。たとえ君が、勉強ができないモテないぱっとしない、ないない尽くしのないない少年であろうとも、友人、知人の類はそれなりにいるだろう。連絡がつかないなんてこと、本当にあると思うか。ましてや修学旅行であるし、教諭だって同伴している。生徒の一人がいなくなったとあれば、普通、大問題になるはずだ。そうだろう?」

 

 確かに言われてみればそうである。比企谷はまだしも由比ヶ浜さんや川崎さん、それに平塚先生が私の連絡を無視しているとは考えにくい。その考えにくさを看過して、作為的に私を無視していると邪推するなどおこがましいほど、彼女たちは清廉潔白な人間であるし、教師である。

 たしかにこれはちょっと妙であった。

 

「何かあった、と考えるのが自然であろう」

「何かとは?」

「それは、わからない」

「え、いま、ありとあらゆる情報を見逃さないって――」

「しからば、貴君。そう何も急がなくても、万事はおのずから貴君の腋下に飛び込んでくるであろう。ビークールだ、貴君」

 

 橋を渡り切った先にある河原町丸太町の交差点で我々は立ち止まった。

 私はまじまじと男を見る。男は何食わぬ顔で葉巻を咥えている。

 

「それで、ぼくに何の用ですか」

 

 男はまた意味ありげに笑った。

 

       ◇

 

「桓武天皇が王城の地を定めてより1200年。今日、京都の町には150万の人間たちが暮らすという。だが、待て。人間などは我らの歴史に従属しているに過ぎない。歴史も町も造ったのは我々である、と大法螺を吹く狸もある。だが、待て、しばし。王城の地を覆う天界は古来、我らの縄張りであった。天界を住処とする我らを畏れ敬え、というようなことを傲然と言ってのける者がいる。天狗である。人間は町に暮らし、狸は地を這い、天狗は天空を飛行する。平安遷都この方続く、人間と狸と天狗の三つ巴。それがこの町の大きな車輪をぐるぐるまわしている。まわる車輪を眺めているのは確かに面白い。面白いが、忘れてもらっては困る。車輪も錆びてはまわらない。ガタが来る。ガタが来ないようにするには、油を差さねばならぬ。差すのは誰か。差すのは仙人である。仙人の汲々たる尽力があってこそ、この町は万事危うからず、ぎりぎりのバランスを保ってまわっていられるのである。

 だが悲しいかな、仙人はその並々ならぬ尽力を顧みられることもない。なぜだかわかるか。すなわち、人間も狸も天狗も、みな阿呆ばかりだからだ。阿呆が暮らし、阿呆が地を這い、阿呆が天空を飛行している、阿呆の見本市のような町が京都というところなのだ。仙人がちょこっと目を離してバカンスでも楽しもうものなら、あっという間にこの町はてんてこ舞い。常在戦場とはこのことで、気の休まる暇などまるでない。東奔西走で三つ巴の仲を取り持っている。そんなことだから、煙草を呑み過ぎる。髪が薄くなる。好物のカステラを食い過ぎる。漢方胃腸薬の世話になる。明け方に目が覚めてしまって睡眠不足になる。ストレス性の顎関節症になる。医者はストレスをなくせというけれども、人間と狸と天狗の運命を双肩に担って、へらへらとしていられるものか。

 それを天狗のやつらは、俺をいいように扱き使いやがり、狸は狸で阿呆な頼みごとを持参してくる。おまけに人間はプライドが高くて強情ったらありゃしない。どうして縁の下の力持ちとして、一番の功労者である仙人が評価されず、無造作に閑却されている現状に甘んじなければならぬのか。ふざけるな、ちくしょう。なんで俺だけ、毎日毎日こうも忙しく真面目に心を痛めて走りまわっているのであろう。何の因果でこんな道に進んでしまったのか。という思いになるのも無理なかろう。

 そう思わないか、貴君?」

 

 この妙な男は何を滔々と語っているのか。

 

「だから、あなたは何なんですか」

 

 交差点の信号が赤に変わる。

 ごごおという音を立てて10トントラックが通り過ぎた。河原町通りを挟んだ向かいの小学校では体育の授業が行われているらしい。児童の賑やかな声が聞こえていた。

 

「仙人だよ、貴君。私は仙人だ」

 

 男はどうでもよさそうに言った。

 

「はあ」

「貴君、信じていないな」

 

 私は頷いた。

 彼は「嘆かわしい嘆かわしい」と言いながら、そのくせちっとも嘆いているふうではない。良い匂いのする葉巻の煙をふわふわ秋風に流している。

 信号が青に変わった。

 私は葉巻を吹かしている男を後ろに残して、足早に歩きはじめた。こういう意味不明な人物と交わりをもっても、ろくなことはあるまい。

 

「まあ、待ちなさい」

 

 男は私に呼びかけた。

 

「君は昨夜、頭の禿げたジジイと気安げな若者に出会っただろう。一乗寺の路地裏で」

「なぜそれを」

「さっき言ったではないか。京都の情報はすべて掴んでいる」

「でも、置き去りにされている理由は――」

「些末なことは忘れなさい。私は君をある場所に連れていく。鼎立する阿呆どもの後始末とは何とも気苦労が絶えないことだが、これも仙人の役目だ」

 

 男は大きくため息をついた。

 

「とにもかくにも、ついてきなさい。べつに取って食おうというわけではない」

「お断りします。ぼくはクラスメイトと合流しなければなりません」

 

 男は「ふむ」としゃくれた顎をさすった。

 

「黒い羽根を持っているだろう」

「なぜそれを」

「貴君も分からん奴だな。京都で起きたことは何でも知っていると言っているだろう」

 

 私はズボンのポケットを触りながら次の言葉を待った。

 男は言う。

 

「それは天狗の羽根だ。なかなか手に入るものじゃない。そしてその羽根は、いわば招待状なのだ」

「招待状?」

「あるいは発信機ともいえる。いずれにせよ、もしかすると、もしかするぞ、貴君」

「どういうことですか」

「何かきわめて得難い経験ができるかもしれないということだ」

「はあ」

「ともかく、これは決まったことだ」

 

 そう言うと、右腕を高々と掲げて指をぱちんと鳴らした。

 とくに何も起こらない。

 ふいに、男は車道に身を乗り出して「タクシー!」と叫んだ。三つ葉のマークを冠した朱色のタクシーが停車した。

 

「さあ、乗った乗った。後でちゃあんと学友たちの元へ送り届けるから安心しなさい」

「本当ですか」

「私は仙人だ。嘘は言わない。送り届けられなかった場合、それは嘘ではなく、不都合、あるいは運命ということになる」

 

 男は不穏な言葉を残すと、タクシーの運転手に行き先を告げる。出町の桝形商店街というところまで聞きとれた。

 

「さらばだ、少年。また、どこかで会おう」

 

 最後まで名乗らなかった男は、京都御所に沿って丸太町通りを西へと去っていった。

 わけがわからぬ私を乗せてタクシーは進路を北にとった。

 



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第三十五話

       ◇

 

 タクシーの運転手ととりとめもない世間話をしていると、いつの間にか目的地に到着したようだった。

 そこは何の変哲もない住宅街の一角で、停車したのは小さなアパートの前だった。なぜか入口の前には人だかりができている。

 

「やや、来たか」

 

 車から降りると、近くにいた初老の男性がタクシーの運転手に料金を払った。晩秋も近いというのに、なぜかアロハシャツを着ている。

 私は頭を下げた。

 

「あ、すいません」

「いいとも、いいとも。それより君が赤玉先生のお気に入りかい。なんでも先生の窮地を救ったとか」

「はあ?」

 

 アロハシャツの男性は「おおい、矢一郎」と声を上げた。

 

「やって来たぞ。この子だろう?」

 

 人だかりを割って出てきたのはどこぞの若旦那風の和装をした精悍な青年だった。矢一郎と呼ばれた青年は私の頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めまわしてから言った。

 

「私は女性と聞いていたのですが」

「なに?」

「いや、矢三郎が言うには在りし日の弁天様のような美しい女生徒だったと」

「どういうことだ」

 

 アロハシャツの男性が首を傾げる。

 私は、その瞬間はっとした。おそらく、話題にあがっているのは雪ノ下さんのことである。そして赤玉先生と言うのは、昨夜の酔っ払いを指しているのだろう。ここまで徹頭徹尾何が何だか分からなかったが、ついに脈絡が腹に落ちた。

 昨夜の幻のような出来事の中で、老人が雪ノ下さんをいたく気に入っていた様子はしっかりと覚えている。つまりこれは昨夜の口説きの延長なのかもしれない。そしてこのアパートに赤玉先生とやらが住んでいるのだろう。

 

「では、化けているんじゃないか?」

「矢三郎が言うには人間だと。しかし、あの阿呆のことだから何か見落としがあるかもしれません」

 

 アロハシャツと若旦那風の青年は、私の方に視線を向けながらなにやらひそひそと話し合っている。その周りを幾人もの和装の男たちが囲み、事態の行く末を真剣な顔で思案している。

 もし、これが口説きの延長だとすれば、ここにいる連中は何者なのか。かりに遅きに失した老いらくの空しすぎる恋の援護射撃だとすると、大の大人が雁首揃えて平日の昼間からいったい何をやっているのか。恥ずかしくないのか。いや、そもそもこの連中は老人の恋の片棒を担いでいる認識がないのかもしれない。

 

「しかし、樋口が寄越したのだろう?」

「ええ。そう連絡がありました。鴨川の土手で見つけたと言って」

 

 どうやったのかは知らないが、あの黒い羽根を目印に私を探し当て、老人の元へ連れてくるのがこの連中の役目なのだろう。鴨川で出逢った年齢不詳の男もそうだ。しかし、相手が間違っている。私ではない。我々は昨夜、たしかに老人と出会ったし、凍死の憂き目から救っている。ただ羽根を貰ったのは彼女である。私は持っているだけだ。そこには乾坤の開きがある。

 

「赤玉先生と面識があるのは確かなのだろう。ならともかく、連れていこう。偽右衛門(にせえもん)選挙がかかっている」

「そうですね」

「ちょ、ちょっと待ってください――」

 

 私は事実誤認を正そうと口を開いた。

 

「なんだね?」

 

 アロハシャツと若旦那がこちらを振り向く。

 

「その天狗だかなんだかの黒い羽根をもらったのはぼくではありません。別人です」

 

 両者は顔を見合わせる。周りに控えていた連中も静かになる。

 

「黒い羽根は持っているのかい?」

「ええ、まあ」

「なぜ?」

「それは、昨夜、雪ノ下さん――そのあなたたちの探している女性に預けられたからです」

 

 若旦那は「なるほど」と言ってから続けた。

 

「つまり、君も昨夜、一緒にいたということですね? 赤玉先生――その老人が酔いつぶれているところを一緒に助けたと?」

「……ええ、まあ、はい」

 

 ふたたび両者は顔を見合わせて、そうして安心したように頷いた。周りの連中も露骨に安堵してざわめき始める。

 

「では、問題ないな」

「ええ、問題ありません」

「君に我々の未来がかかっている。ただ、アパートの2階に行ってくれさえすればよいから」

「いきなり連れてきて申し訳ありませんね。しかし、そういうわけですから、何卒、宜しくお願いします」

 

 めいめい勝手なことを言って頭を下げた。

 

「しかしですね、おそらく、あのおじいさんが寄越してほしいのは、ぼくではない気がするのです。ぼくが行っても、なんの進展も――」

「いいからいいから」

 

 アロハシャツが私の背を押す。

 

「きっとお礼をいたしましょう。いまは何卒」

 

 若旦那に釣られて周りの連中も一斉に低頭する。

 

「いや、でも。ぼくだって用事があるんですから」

「悪いようにしません。そうですね、十万円でいかがでしょうか」

「やりましょう」

 

 私は引き受けた。

 

「いやいや、意味が分からないです。なぜぼくが、あなたたちの個人的な理由で動かなければならないのでしょうか。お断りです。はやく、クラスメイトたちと合流させてください」などと言っても、おそらく切り抜けられる状況ではないだろう。これだけの人数に囲まれているのだ。腕力に訴えたところで勝ち目はないし、腕力に訴えるのは私の主義ではない。ここはさっさと老人と面会して解放してもらうのが利口である。

 

「ありがたい! では、中に入って階段を上ってくれ。すぐそこが赤玉先生の部屋だ」

「勝手ではございますが、くれぐれも失礼のないようにお願いします」

 

 ふたりの言葉に私は頷くと、小さな戸口をくぐってアパートの中へ入った。

 十万円があれば、いったい何が買えるだろう。

 

       ◇

 

 階段を上がった先には、縮こまるようにして小さな男の子がぷるぷる震えていた。なぜか、お尻に狸のような尻尾が生えている。そういうアクセサリーであろうか。いやにリアルで、もふもふと顔を埋めたい欲求に駆られる。

 

「兄ちゃんかい?」

 

 足音を聞きつけて、男の子が顔を上げる。

 

「あれ、兄ちゃんじゃない。あなたはだあれ?」

「通りすがりの修学旅行生だよ」

「あーもしかして、兄ちゃんが言っていた赤玉先生を救った人?」

「まあ、おそらく、そうなります」

「よかった。先生ったら、天狗風を吹かせてひどいんだ。何とかしておくれよ」

「天狗風ってなんだい」

 

 ふいに、左手にある戸の向こうで物音がした。追って低い咳払いも聞こえる。

 

「機嫌が悪いんだ。ぷりぷり怒っているんだよ」

「年寄りとは、そういうものだからね」

 

 そう言って少年に笑いかけると、私は戸を開けた。

 ぼろぼろになった障子を引くと、そこはいかにも昔ながらの木造アパートにありがちな、こじんまりとした四畳半の部屋だった。中央にはいまだかつて日の目を見たことがなさそうな煎餅みたいな布団が敷いてあり、そのうえに卓袱台が置かれている。入って右手は押し入れ、前方と左手は窓になっており、ところどころ補習された跡があったが、強風が吹けば今にも砕け散りそうに心許ない。左手の窓枠の下には、小さな文机があって大量の本が並べられていた。他にも目につくものはいくつかあったが、最も存在の主張が激しかったのは、雑然と散らかされて放置されたワインの空き瓶だった。

 この部屋をして形容する言葉は数多くありそうだったが、端的に言えば、汚い、である。

 私は眉を顰めると、部屋の主である独居老人に軽く頭を下げた。

 

「何しに来た、小僧」

 

 見事な鷲鼻を持った禿頭の老人――赤玉先生は、作務衣なのか甚平なのかよく分からない着物をまとい、じっと胡坐をかいて私を睨みつけた。かりにも命を救われた相手に対する感謝とか謙遜を微塵も感じさせない、お手本のような傲岸不遜さに、私は怒りを覚えると同時に、ややたじろいだ。

 

「半ば強制的に、ここへ連れてこられたのですよ。おじいさんが呼んだのでしょう」

「おまえなど知らん」

「ぼくだって、あんたなんか知りませんよ」

 

 思わずそう言い返すと、赤玉先生はむっとしたようだった。

 

「人の子風情が生意気な。昨晩の娘はどうした」

「雪ノ下さんですか」

「そうそう、そんな名前であった」

「彼女ならたぶん今頃太秦です」

「なにゆえ太秦なんぞにおる。学生だろう。学校はどうした」

「修学旅行だからです。ぼくだって修学旅行中なんですよ」

 

 赤玉先生は、おや、というような顔をした。

 しばらく考え込んでいたと思ったら、葉巻に火をつけてぼそりと言う。

 

「そうか、それは都合が良さそうだ」

 

 私はなぜかぞくりとした。

 

「雪ノ下さんを呼んで、どうするつもりなんですか」

 

 恐る恐る尋ねると、赤玉先生は意味ありげな笑みを浮かべて、濛々と煙を吐いた。

 

「お前には関係のないことだ」

 

 私は赤玉先生の意図を測りかねた。おそらく雪ノ下さんに執心しているのは、昨日の挙措動作から鑑みても間違いないが、一方的なものであることは言うまでもない。いくら息巻いたところで、会ったばかりの見ず知らずの他人と恋仲になれるという、自分勝手な妄想が現実にならないことは百も承知のはずだろう。

 しかし、である。

 世界のどこかには誘拐婚なるものがある。意にそぐわぬ女性を拐かして、強制的に夫婦の契りを結ぶエキセントリックな風習である。中には家族ぐるみ、あるいは組織ぐるみで行われることもあるらしい。まさか現代の日本でと思いつつも、眼前の老人からは得体の知れない自信と凄みが見て取れた。アロハシャツが「にせえもん選挙」だかなんだか言っていたが、何かしらの交換条件があるとはいえ、大の大人をあれだけ動かしているのは事実である。じつは後ろ暗い権力を持っていると仮定しても何ら不思議はないように思われた。見るからに落ちぶれた独居老人ふうの成りは世を忍ぶかりそめの姿なのかもしれない。

 私はごくりと唾を呑みこんだ。下手なことを言えば、いまよりもっとろくでもないことに巻き込まれそうだった。慎重に言葉を選ぶ。

 

「彼女は少し乱暴ですよ。普通の人間には手におえない反骨心を持て余しています」

 

 灰皿に灰を落としていた老人の手がぴたりと止まった。ふいに赤玉先生は自信たっぷりに呵呵と笑った。

 

「儂は大天狗であるぞ。反骨心、大いに結構。それくらいでないと務まらないからのう」

「て、天狗って。それは、おじいさん、偉いもんですなあ」

「当り前だ。天狗は偉い。ゆえに、儂が一番偉い」

「あははは、は」

 

 これはまずい。天狗と自称する老人がまともであるわけがない。つい先だっても仙人と自称する年齢不詳の男と出会ったが、京都は阿呆を醸す酒樽か何かだろうか。老人ホームか場末のスナックなら満場大爆笑の冗談かもしれないが、男子高校生にはやや捻りが足りなすぎる。

 ともあれ、この赤玉先生なる老人は阿呆である。皮肉も通じないあたり筋金入りの阿呆である。そして阿呆が権力を持つほどタチが悪いものはない。加えて自信家にいたっては手に負えない。

 赤玉先生を一瞥すると、何が可笑しいのかニヤニヤと相好を歪ませつつも目はらんらんと輝き、むやみに私を威圧した。

 いけない。このままでは雪ノ下さんが、一休宗純もかくやとばかりの年の差婚で世間をお騒がせする羽目になってしまう。率直に申し上げれば、雪ノ下さんが誰と結婚しようが私には何ら関係がないのだが、さすがにその相手が、汚らしいアパートの一室で逼塞している自称天狗の老いぼれとなると、さすがに不憫で見過ごせない。

 雪ノ下さんの貞操を守るにはどうすればよいか私が考えあぐねていると、階下の方でざわざわと何やら騒動が持ち上がっている気配がした。

 赤玉先生は気にする素振りすら見せず、低い声で言う。

 

「小僧、お前はもう帰れ。太秦でも漢字ミュージアムでも好きなところへ行くがよい」

「雪ノ下さんは」

「むろん、連れてこさせる」

 

 私は思い切って言った。

 

「しかし、それは誘拐でしょう。彼女の気持ちはどうするのですか」

「どうもこうもあるものか。天狗は人を攫うものである」

「何を言っているんですか。あんた、それ犯罪じゃないか」

「やかましい! 天狗に人の法が通用するか、馬鹿者が」

「天狗の法だって人に通じませんよ」

「小僧。あまり儂を怒らせぬ方が身のためだぞ。儂は腹が立つと辻風を吹かす」

 

 そう言うと、老人はやにわに立ち上がって、卓袱台の上に乗り上がった。

 

「あっ、暴力はいけません。それに、そんなところへ乗ったら危ないですよ」

 

 その時だった。

 ふいに障子ががらりと開いた。私と赤玉先生は同時に視線を送る。

 そこには、ひどく美しい女性が立っていた。

 つやつやとした黒髪を頭上で束ね、真っ白なシャツに黒いスカートを履いた美女は私と赤玉先生を順に見遣ると、戦慄的ともいえる妖艶な笑みを浮かべ、ぞくぞくするような玲瓏たる声音で言った。

 

「先生、聞きましたわ。また弟子をおとりになられるのですね」

 

 時間が止まったかのように、しばらく寂とした間が空いた。

 美女は何が楽しいのか口元は笑っていながらも、目は奇妙に据わっている。

 

「ねえ、そうなのでしょう」

「……弁天」

 

 気が付くと、赤玉先生はいつの間にか卓袱台から下りていた。

 

「い、いや、儂の弟子は弁天ただひとりだ」

「うそをおっしゃい。矢三郎から聞いたのです。千葉から来た小娘にご執心なんですってね。オホホ」

「……何を言う。そんなのは毛玉の戯言だ」

 

 私は愕然として拍子抜けした。あれだけ気焔を吐いて、威圧感を撒き散らかしていた赤玉先生が、借りてきた猫のようにおとなしくなっていたからだ。あるいは、こそこそと隠れておやつを盗み食いした幼子が叱られたときのような、妙な焦りもあるようにも見受けられた。

 美女は涼しげな目元をきっと力ませた。すると、不思議なことにふいに四畳半の空気が冷たくなった。

 私はぶるりと体を震わせて腕をさすった。鳥肌が立っている。

 

「少し頭をお冷やしになられた方がいいですわ」

「う、うんむ」

「狸たちの言うことも聞いてあげなくってはいけませんよ。あんまり可哀そうなんですもの」

「……うんむ」

 

 いまや赤玉先生は借りてきた猫どころではなく、蛇に睨まれた蛙のごとき様相を呈していた。

 

「それと――」

 

 美女は流し見るように視線を私へ投げてよこす。

 

「この少年はわたくしが借りていきます。いいですわね」

「……うむ?」

「いいですわね?」

「う、うむ」

 

 口を挟む間もなく、美女は私の腕を取って、四畳半を出ていこうとする。

 開いたままの戸口から一歩廊下に出ると、美女は振り向いて片目をつぶってみせた。

 

「浮気はいけませんことよ、先生」

 

 美女の横顔は、陶器のようなつるりとした白く、非の打ちどころのない造形をしていた。

 赤玉先生は何か言いたげに口を開いたが、もごもごやった挙句に、言葉を発さずにしょんぼりとうなだれた。

 

「あ、あの。雪ノ下さんのことは」

 

 腕を引かれるがまま赤玉先生に問いかけると、代わりに美女が私の唇に人差し指を当てつつこたえた。

 

「大丈夫よ。あなたは私についてきなさい」

 

 私がコクコクと頷くと、美女はクスッと笑い、「それではお師匠様。ごきげんよう」と言い捨てて、私を四畳半から連れ出した。

 

       ◇

 

「わかっているね、きみたち。万が一ほかの先生に見咎められるようなことがあっても、関係のないフリをしてくれ」

 

 京都初日の夜、一乗寺でラーメンを平らげた我々は、タクシーを拾って帰路についた。念のためホテルからやや離れた、丸太町通りを一本脇に入った住宅街で下車する。聖職者としての義務と食欲を天秤にかけて、迷わず後者を取るような頭のオカシイ教師はごく一部である。ホテルの目の前で降りるという暴挙に至れば、修学旅行で規則過敏になっている教師連の説教を頂戴する可能性がある。むざむざとそんなリスクは冒さない。紳士はつねに内申に余念がないのだ。

 

「いいかい、ラーメンを食べていたのはきみたちだけだ。俺は先生に拉致されてラーメン屋の前で立たされていたことにするから」

 

 運転手に支払いを済ませている平塚先生に聞こえないよう、小声で比企谷と雪ノ下さんに言明する。

 

「すがすがしいほどクズだな」

 

 比企谷は呆れたように鼻で笑った。

 

「大盛にライスまで頼んでたくせして、面の皮が厚すぎるだろ」

「やかましい。それはそれ、これはこれだ」

 

 支払いを終えた平塚先生が、「では、私は酒盛りセットを調達しにコンビニに寄るから。気をつけて帰れよ」と言って煙草に火を点けた。

 

「あ、俺もコンビニ寄ります」

 

 比企谷が言うと、平塚先生は「もう奢らんぞ」と煙を吐いた。

 

「ちがいますよ。雑誌のチェックっす」

「ふうん。本当なら夜間の外出に注意するところだが、もはやいまさらだな。好きにしろ」

「なら、ぼくも」

「おまえは駄目だ」

 

 最後まで平塚先生のお供をしていた方がなにかと無難だとついていこうとしたが、にべもなく断られてしまった

 

「だれが雪ノ下を送るんだ」

「え?」

「夜中に女子の一人歩きは危険だろう」

「どうしてぼくが。比企谷でいいでしょう」

「聞こえていたぞ。だれがだれを拉致したって?」

「ささ、雪ノ下さん。夜道は危ないですからね、ぼくが送りましょうね」

 

 咄嗟に平塚先生から視線を外して、雪ノ下さんに笑いかけた。

 

「あなたの図太さには慣れたつもりだけれど、ここまで露骨だとさすがに腹が立つわね」

「うんうん、大丈夫だから」

「なにが大丈夫なのか、まったくわからないのだけれど」

「気をつけてな。では比企谷、いくか」

「うっす」

 

 丸太町通りの方に向かう二人をしばらく見送っていた私と雪ノ下さんは、どちらともなくホテルに向かって住宅街の中を歩きはじめた。

 夜更けの住宅街は静かだった。軒下の門灯やときおり通る車のテールランプが、きらきらとアスファルトに短い光を投げている。前方遠くに寺の山門とその先へと伸びる石畳の道が見えた。どこからかパッパというバイクの排気音が聞こえてくる。中秋らしく、袖や裾から忍び込んでくる夜気が冷たかった。

 横を歩く雪ノ下さんは黙っていた。珍しく口数が少なく、落ち着き払っているようだったが、とくに私から口火を切る気はなかった。そうこうしているうちに、交番が見えてきて私は思わず俯いた。べつに何も悪いことはしていないのだが、なぜか官憲を見ると縮こまってしまうのはどういうわけか。国家権力には、無辜で清廉な学生を屈服させる謎めいた力がある。

 そんな私を見て雪ノ下さんは怪訝な表情をした。

 

「出頭するの?」

「犯罪者ではない」

「紛らわしいわね。笹原を走るようなマネはよしなさい」

「どういうこと」

「脛に疵持てば笹原走る、ということわざがあるじゃない」

「知らないね。学を衒うのはよせ」

「あなたが浅学なだけ」

「おい、失敬だぞ。俺ほど深謀遠慮な男も、そうなかなかお目にかかれるもんじゃないよ」

「たくさんいるのではないかしら」

「どこに」

「どこでもいいでしょう、べつに。そこらじゅうよ」

「答えられない、ということでよろしいか。つまり、深謀遠慮な男イコール俺、ということになるね」

「好きにしなさい」

「うん」

 

 雪ノ下さんはくすくすと笑った。下らない会話でエンターテインされたみたいだが、私としては子供じみたやりとりを面白おかしくあしらえる年季の入った器の差を見せつけられたようで気に食わなかった。

 交番を通り過ぎて、さきほど見えていた山門の脇にある細い小径を抜けていく。肩と肩が触れ合うくらいの狭さだ。京の都には、こんなふうに趣はあるが窮屈な道が張り巡らされていてきりがない。繋ぎ合わせれば、きっと太陽系の外にだってたどり着けるだろう。

 

「窮屈な道だね。前を行きなよ」

「いやよ。あなたが行って」

「きみに合わせて歩いているんだ。俺が前を行けば、雪ノ下さんは路頭に迷うことになるぜ」

「そんな方向音痴ではないわ」

「よくいうぜ。さっきはぐれたばかりじゃないか」

「あれは方向音痴とは関係ないじゃない」

「逸脱していることにかけては同様だ」

「まったく細かい男ね。なら、前を行っても歩調を合わせてくれればいいのではないかしら」

「……まあ、そうだけど」

 

 住宅街を抜けると、やがて車が行き交う大通りに突き当たった。ホテルはもうすぐだ。

 激動の一日になるとは夢にも思わず、私は修学旅行二日目の翌日に思いを馳せた。ところが期待に胸を膨らませるつもりが、ことさら思い出したくもない戸部の依頼のみが念頭に想起されたのには業腹だった。明くる朝、朝食の席で比企谷に語ったように、本心をさらけ出せば戸部の依頼なんぞは打ち遣っておくつもりだった。それは言うまでもなく、依頼達成の判断を私が握っていることと、他人の恋路に通り一遍の関心も持ち合わせていなかったためである。私の知的好奇心は遍く無辺ではあるが、男子の懸想についてはその限りではない。

 しかしながら、由比ヶ浜さんを筆頭に奉仕部の連中はいたって真面目だ。戸部の後ろ盾という何の益もないことに一生懸命である。

 

「この世で最も難解な問題は何だと思う?」

 

 錦林車庫前行の市バスが通り過ぎるのを待って私が尋ねると、雪ノ下さんは首を傾げた。

 

「何よ、突然」

「俺はね、この世で最も難解な問題は恋愛なんじゃないかと仮定している」

「……それで?」

「ようするにさ、まだ戸部には早すぎるんだよ。三角関数も怪しそうなやつが、恋愛なんていう定義も公理も定理もないような滅茶苦茶な問題に挑むなんてどうかしてる。きわめて無謀だ」

 

 雪ノ下さんはふいに立ち止まった。遅れて気が付いた私が振り返ると、彼女は目をぱちぱちさせて私を見つめた。

 

「それは、サポートしている私たちも無謀だと言いたいの? つまり、あなたは依頼を放擲すると、そういうことかしら」

「いやいやいや、そうは言ってないだろ」

「そう聞こえるのだもの」

 

 ずばりその通りである。その通りであるが、私が依頼を放擲しようがしまいが、着地点は変わらない。戸部の依頼はあくまでも告白のサポートである。汚かろうが姑息だろうが、サポートをしたと私が認めれば依頼は達成であり、すなわち達成は約束されていると言える。

 

「飛躍だ。雪ノ下さんの悪い癖が出たね。俺はちゃあんと戸部を応援するさ」

 

 しかし、ときに自縄自縛に陥るほど、義務感への潔癖さがとめどない雪ノ下さんのことだから、そんな私の本心を知れば、決してタダでは置かないだろう。余計な話を持ち出してしまったと焦りつつも私は内心を韜晦すべく、わりあい真摯な口調でそう伝えた。

 

「ほら、いつまでも突っ立ってると先に行っちゃうよ」

「……」

「もうホテルも見えているし、いくら方向音痴の雪ノ下さんでもたどり着けるからね」

「待ちなさい」

 

 雪ノ下さんは小走りで私の横に立つと、何かを考えるように目を伏せた。

 なんだか雲行きが怪しげである。

 

「ここまで来たんだからお役は御免。先に帰ってるぜ」

「……待って」

「いや、だからね雪ノ下さん、そう額面通りに受け取らないでくれよ。ひとつの意見にすぎないんだから」

「そうじゃない」

「くそっ、余計なことを言っちゃったよ。はい、わかったわかった、真面目にサポートします。これでいいかい?」

「いいえ、そうじゃないの。あのね、私が言いたいのはもっと別のことなの」

 

 肩をすくめた私に対し、雪ノ下さんは意を決したようで、ことのほか真剣だった。

 私はほんの少し襟元を正した。

 

「なに」

 

 右折車のフロントライトが雪ノ下さんの顔をさっと照らして、また暗くなった。彼女の頬が上気しているように見えたのは気のせいだろうか。なにやら嫌な予感がする。私の予感は当たって欲しいときほど見事に外し、外れて欲しいときほど真芯を喰うことで知名を誇っている。

 私はつばを呑み込んだ。

 

「もしも私が騙すようなことをしたら、あなたは、その……許してくれる?」

 

 突拍子もない問いに、私は眉を顰めた。それが不快さの顕れだと感じたのか、雪ノ下さんはややたじろいだようだったが、私の目から視線は外さなかった。

 

「なんだよ、いきなり」

「いいえ、ごめんなさい。やっぱり、いまのは忘れてちょうだい」

「待ちたまえ。不穏すぎる。眠れなくなりそうだ」

「……それなら、真面目に考えて答えて」

「だ、騙すって何のこと」

「なにも聞かないでちょうだい」

「横暴じゃないか」

「……」

 

 雪ノ下さんのきらきらとした双眸は、私を一心に射すくめている。しかもその眼光は刻一刻と漲り張りつめ、今にも火花が散りそうな塩梅である。これはただことではない。

 過去に類を見ない強力無比な眼光に対峙した私は、「あ、悪意が無ければ」と情けなさ過ぎる回答を返していた。

 

「雪ノ下さんのことだから、きっと海よりも深い理由があるのでしょう?」

「……そうかもしれない、わね?」

「どうして、きみに自信がないんだ」

「ううん、そう。大事な理由があるわ」

「であれば、許すのもやぶさかではない」

「本当?」

「むむ、不安になってきたぞ。やはり撤回していいかい?」

「イヤ」

 

 そう言うと、雪ノ下さんはむっと口を結んで栗鼠みたいな顔をした。それが可笑しくて拍子抜けした私は、もう一度「うむ、許すよ」と言った。

 

「なんでも、巷では許せる男がイイ男だそうだ」

 

 私の寛容さの背後に、一抹の思惑もなかったと言えば真っ赤な大嘘になる。戸部の恋がどのような結末を辿ろうとも依頼の達成は覆らない、というある種の八百長に対する引け目が、これで帳消しになった気がしたのである。雪ノ下さんが何をどう騙すのか知らんが、瞞着の姑息さで言えば、恥ずかしながら私の方が上をいくに決まっている。まさに渡りに船だったのだ。

 

「ふふ、ありがとう」

 

 そんな私の思惑などは露知らずに、雪ノ下さんは、彼女にあるまじき朗らかな笑顔を浮かべていた。声音にもそれが表れていて、もしかするとラーメンでお腹が膨れて、気が緩んでいたのかもしれなかった。

 

「ねえ。戸部くんの依頼、なんとしても成功させるわよ」

「言われるまでもない」

「頼りにしているわ」

 

 そう言うと、雪ノ下さんは私のそばに寄った。

 

「お、おい。えらく近いね」

「そうかしら。夜道は危険だから仕方ないわ」

「もう目と鼻の先だけど」

 

 彼女は笑って取り合わなかった。

 



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