Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ) (どっこちゃん)
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プロローグ

 サイレント・ノイズ。――そんな怪談めいた噂が流れ始めたのはいつのころからだっただろう。

 

 午前零時を過ぎると何処からともなく流れ始める、『耳』では聞こえない、聴覚では捉えることの出来ない、それでも何かしらの感覚に、確かに響いてくる不可思議(サイレント)雑音(ノイズ)。 

 

 それが流れる間は決して外に出てはいけない。そのノイズにまぎれて、助けを呼ぶ声までもが、掻き消されてしまうかもしれないから――

 

 ――サイレント・ノイズ――それが怪異の始まりだった。

 

 

 

 

   プロローグ 

 

 

 ――その剣閃は稲妻であり、対する怒号は地響きのそれに似ていた。

 

 続けざまに弾けた剣戟の音は幾重にも連なり重なって、烈震する大気の怒濤となった。

 

 それはこの世界そのものを削り取って侵食し、また新たな秩序を形成しようとするかのような、人ならざるモノの姿を夢想させた。

 

 それはまさしくこの現に再現された創世の模倣であった。しかし、それらは怪異ではない。決して、怪異ではないのだ――。

 

 夜の天蓋には眉のように薄く細い月が見える。

 今宵は既朔(きさく)。新たに新生した幼月が、恥らいながらもその初々しい艶光を地表に注ぎ始めている。

 

 ――時候は、半年程前のこと。

 

 そこはいくつもの西洋式の墓石が並び立つ場所であった。墓所であろうか。俯瞰の先に水平線を臨む高台に設えた、物悲しさを無言で綴る永劫の暗所であった。

 

 しかしこのときばかりは、潤んだ様な月光がその暗鬱とした地表に注がれているようであった。ほのかな光が無人の墓所を芒と彩っているのだ。

 

 否、そこは本当に無人なのだろうか? 高台を照らしているのは月の光だけではなかった。そこには確かに輝きを放つものがあったのだ。

 

 月光に紛れるように、月光を弾くように、月光を呑むようにして、そこに微細な光を撒いて駆動する二つの影があった。

 

 照らされた高台にはそれ以外の影は絶無であった。そう、唯の二つ、薄闇の中に並び立つ彼らの姿を除いては。

 

 内、一つは「巨人」であった。その巨躯は小山程もあろうかと見受けられた。天をつくような屈強な裸体は凍てつく外気に晒されてはいたが、そんなことを露ほども気にかけることなく、(そび)え立つような巨躯を忘却させるかのような豪速で地を馳せる。

 

 その有様は、まるで飛燕もかくやというほどの奇怪なまでの軽妙さを想わせた。

 

 もう一つの人影は勇壮な西洋風の甲冑を着込む人物だった。まるで中世の騎士を想わせる姿だが、どちらにしろ、現代日本の情景には似つかわしくない装いであることは間違いない。

 

 だが、比較対照が常軌を逸した巨人であったことを差し引いても、その騎士は殊更に矮躯であった。

 

 煌びやかで頑強そうな装甲にその身を包んではいたが、その体躯は贔屓目に見たとしても成人前の少年のものとしか見受けられなかった。

 

 確かにその双眸は若輩と称するには厳しすぎるほどの眼光を湛え、その身に纏う荘厳たる威光を主張してはいたが、しかしそのどこまでも白く、滑らかな輪郭には無視できない柔らかさが見て取れた。

 

 その整いすぎた感のある美貌は、まるで儚げな少女のようですらあった。

 

 暴風を纏う巨躯の益荒男と、輝光を放つ壮麗なる美剣士は一瞬たりとも静止する(とどまる)ことを知らなかった。

 

 その巨人の駆動を巌の如き鉄塊の流動だとするのなら、その金の髪の騎士の疾走はさながら妖精の舞踏であった。その躍動はもはや、涼風に舞う綺羅星の瞬きだ。 

 

 時候は如月――未だ凍えるような寒さの染み付いた夜気の中で、その二つのヒトガタからはボイラーかと見紛う程の蒸気が発せられ、天の薄月へ向けて立ち昇っていく。

 

 もはや人の身に宿せる熱量ではない。薄闇に躍動する巨人と騎士はそれぞれが大排気量のエンジンと変わらぬほどのエネルギーをその五体から炸裂させているのだ。

 

 それらは幾度となく激突と排熱を繰り返し、それぞれの身体を烈火の砲弾と化して渾身の打突をぶつけ合う。

 

 それは闘争だ。彼らがを執り行うのは、己が五体を駆使する中世の時代の前衛的な決闘だったのだ。なんという矛盾であろうか。それは人の手の届かぬ領域の闘争を思わせながら、それでもなお人の手によってなされるべき仕儀に則った凌ぎあいなのだ。

だがそれは決して怪異ではない。

 

 なぜなら、それを執り行うものたちの存在それ自体が、この世の条理からかけ離れた、異なる次元のものだったからだ。

 

 きっと、彼らはこの世のものではないのだろう。人とも思えぬ男の巨躯も、若輩の騎士が放つ輝きも、それは唯人との乖離を表す記号なのだ。

 

 それは言葉にするまでもなくある事実を告げている。ならば仕方がない。地表すら割りかねない巨剣の乱打も、それをものともしない虚剣の残影も、それを執り行うものたちが此の世とは位相を異にする次元の住人――所謂『神』と呼ばれうる存在だったというのなら、いったい誰にその真偽を糾すことが出来るというのだろうか。 

 

 ただひとつ、この光景に明らかな怪異があるとすれば、それはこれらの存在が幽鬼の如き虚ろな陽炎ではなく、確かに肉の実態を持ちその大地を踏みしめていることであった――。

 

 壁に設えられた巨大な立て鏡のスクリーンの中に、その光景はまるで映画のワンシーンの如く映し出されていた。

 

 それは今まさに勝敗を決さんとする彼らの姿を克明に捉えている。拮抗していた筈の趨勢が僅かに傾き、小山のような巨躯が僅かに傾いだ。

 

 瞬間、不可視のはずの剣が確かな刃のヴィジョンを振り乱し、凄まじいまでの閃光の連打と共にそこに叩きつけられようとした――そのとき、何処(いずこ)からか飛来した光弾が両者の頭上で爆ぜ、耳を聾するほどの白光と共に辺りを包み込んだ。

 

 それで、その戦いには終止符が打たれたらしい。閃光の去った後には既に希人たちの姿はなく、後に残ったのはその轟爆の跡とは思えぬほど静かに灯る燃え殻の臭いだけであった。

 

「……これか? 見せたいといっていたものは」

 

「はい」

 

 応えたのは奇怪な声音だった。声からは男なのか女なのか判別できない、奇異ではあるが印象に残らない。それがかえって不気味な印象を残すような声だった。

 

 老人は大柄な身体を僅かに揺すって、深く嘆息した。

 

 互いの表情すら窺い知れぬであろう、澱んで粘りつくような闇の中で危うげに揺らめく蝋燭の明かりが、その中で微動だにせずにいる二つの影の輪郭を辛うじて浮かびあがらせていた。

 

「どうでございましょう、お館さま」

 

 奇異な陰は問いかけた。ひずんだような返答はしばし惑うように滞った。声すらもが老いたような響きである。

 

「……我々はアインツベルンとは違う。きゃつらが二百年の時を費やしてなお届かぬ奇跡……そんな不良品は我らには無用のものだ。そのような不確定な奇跡など必要ない」

 

 すると影のようなヒトガタの気配が僅かに微笑んだ、……かのように妖しく揺らいだ。

 

「お見せしたかったのはその過程でございます。御覧ください、七人の魔術師と七騎の英霊。それらが生死をもって雌雄を決する適者生存競争(バトルロイヤル)。……多勢から最も優れた一人を選出するには是非もない手法ではありませぬか」

 

 それを聞いた老人は細待った目を見開き、動かぬ身体を震わせて身じろいだ。

 

「知っておったのか。……いや、わしの憂いなど、御主にはお見通しのことなのかもしれんな……」

 

 自嘲するように気配を震わせた老人に、フードの怪人はただ恭しく礼を取って老人の問いを肯定する。

 

 老人は苦しげな呼吸を落ち着けようとするかのように深く息を吐いて身をよじった。

 

 それだけで体が半分鉛になってしまったかのような疲労感が押し寄せてきた。呼吸すらもが途方もない重労働のように感じられていた。老いたものだ。老人は再び胸の内にて自嘲を繰り返した。

 

 きっとこの弱気の虫もこの老いが運んできたのだろう。いくら魔術師として条理の外を歩もうとも、いずれはこの身も朽ち果てるのだ。もう、そう遠くない未来に。それは確定したことなのだろう。それは構わない。既に百年近い時を生きた。既に己の運命については総てを受け入れている。しかし……

 

「……争えというのか……。後継者の座を巡って、決闘という形で決着をつけろと……」

 

 苦しげに息を吐きながら、老人は震えるような声でいま一度問うた。

 

 彼がこの今際の床に納まりながらただ一つ案じること。それは己が家門の行く末であった。そこに鬱積した暗雲のごとき澱。それだけがこの余命幾許もない老魔術師を未だこの世に引き止め続けるものであった。

 

 瘧を孕んだようなその声を聞いた影はただかしこまるように身を縮めた……ように感じられた。

 

「私はただ……御館様の心の憂いを払えれば……と思い立ちました次第であります」

 

「…………」

 

 それはつまるところ、次期当主の座を巡っての相続争いであった。

 

 相続争いとは魔術師の家門に限らず、いつ、何処の家系に起こっても不思議のないものである。それがもたらす争いと混乱は古今東西の区別なく、歴史的に見てもその難しさには列挙の暇がない。アレクサンドロス大王やローマ皇帝の例に漏れず、生前築き上げた地位と財産が子息たちにもたらすものは総じて益得だけではないのだ。

 

 このまま捨て置けば、いずれ後継者同士の争いにより家門が内側から崩壊する事態も考えられる。

 

 さりとて、かつて見込みなしと見限った筈の四人の子息たちはいまや、それぞれが真っ当な後継者たりうる資質を開花させているのだ。

 

 当初こそ、それを喜びはしたが、ここに来てそれが大きな問題となって残り幾許もない老魔術師の心胆を苦しめることになろうとは……。

 

 決してこのままにはしておけぬ! が、さりとて如何なる手段を用いるべきなのだろうか。――この怪人、テーザー・マクガフィンから「見せたいものがある」との声が掛かったのは丁度、そんな鬱屈とした思案に耽っていた夜のことであった。

 

 この怪人の素性はようとしてしれない。

 

 常にローブと仮面で素顔を覆い、正体をさらさぬこの怪人を老翁が客人として己が領地内においているのには無論、それなりの理由があった。

 

「マクガフィンよ。なぜ御主がそこまで骨を折ってくれる必要がある? それに、なぜわざわざあのような辺境での儀式にこだわる?」

 

「それにつきましては、現時点で手を尽くせる最良迅速の手段を模索した結果としか申し上げられませぬ。そして彼の地を選びしは、彼方が如何な死地になろうともこの我ら(・・)がサンガールの領土にとっては何の痛痒もなきが故に……」

 

「……うむ、それは誠に然り。」

 

「……加えまして、なにより、この事態の責は私にもあります故」

 

「なにを言う、なにを言うのだ」

 

 怪人が洩らした、押し殺すような雑音に、老翁は巌のように凝り固まった面相を矢庭に歪めて苦しげな声の調子を無理に和らげようとした。

 

 先述の如く、この老魔術師が日に日に細り行く己の命の灯火を明確に認識するようになったのはいつのころからであっただろう。

 

 今になって思えば、それは突然に現れた、思いがけぬ安堵の念に、張り詰めていた筈の緊張の糸がフツ、と途切れてしまったときからであったかもしれない。

 

 本来、魔術師の家門とはよほどの大家でもない限り一子相伝を徹底するものであるが、しかしこの老人の場合は少々事情が込み入っていた。

 

 この老齢の魔術師が当たり前に望んだ、己が血を後世に伝えんがための後継者たちは、しかしそのことごとくが魔術師としての素養にめぐまれていなかったのである。何人もの妻を迎え、長年それをどうにかしようと精力的に手を尽くしてきたが、その総ては徒労に終わった。

 

 その間にも無情なる時は光陰の如く過ぎ去り、彼を老いという終幕の袋小路へと追いやっていったのだった。

 

 そんな矢先のことであった。もはや老い()れ、万策尽きたとばかりに吶喊するしかなかったはずの事態は、そのときから一変して好転し始めたのだ。

 

 何処からともなくふらりと現れた、見も知らぬ無頼の魔術師がそれをいとも簡単にやってのけたのである。その怪人は、名をテーザー・マクガフィンと名乗った。

 

「御主のおかげで枯れ行くだけかと思っておった我が一族に再興の兆しがみえたのだ。感謝こそすれ、怨むなど筋違いというものだ。

 むしろワシは嬉しく思う。……思えば不運であった。計り知れぬ労を費やして十余の子を為したにもかかわらず、魔術回路を有していたのが僅か四人だけ、しかもそ奴らですら、とても魔術師として大成できるような素質を備えてはおらなんだ……」

 

 言に上った「魔術回路」とは魔術師が体内に持つ擬似神経のことである。

 

 生命力を魔力に変換するための路であり、人が魔術を使うために必要不可欠な機能とも言い換えられる。それはそのまま魔術師としての資質とも言いえるものであり、そのため魔術たちはより強力な魔術回路を持つ後継者をもうけるために優生学的な手段に訴えてまで魔術回路の増強に腐心するのである。

 

 この魔術回路は生来増えも減りもしないとされるもので、ひとえに「内蔵」と例えられるのはそのためである。

 

 しかし、その魔術師の常識をこの怪人は破って見せたのだ。以来、この怪人は客分という形でこのサンガールの城に逗留していたのである。

 

 このままいけば久遠の時を待たずして『根源』に到達するものが居てもおかしくない。もはや閉ざされたとばかりに嘆くばかりだった家門の、血統の未来に光明たる道が見えた様な気がしたのだ。

 

 生涯を持っても感じた事のない安堵が、翁の身体を包み込んだようだった。

 

 きっと、この瞬間(とき)だ。これで己の責務が十全に果たされたのだと感じたこのときから、それまで寄せつめもしなかった死の影が、そぞろにその身体に這い回り始めたのだった。

 

 しかし、そのおかげで予想すらしていなかった一つの問題が浮かび上がってきたのである。

 

 今や後継者の権利を有するまでになった四人の後継者たちは、いずれも劣らぬ魔道の才を後天的に獲得してしまったのだ。

 

 当初より万に一つの可能性を期して、四人の後継者へはそれぞれに魔術の知識だけは授けてあった。

 そのせいで後継者たちは今やそれぞれに家門の高弟や財界のパトロン、果ては協会の有力者など、方々の後ろ盾を得た上で、己こそ後継者に相応しいとの見解を示しているのだ。

 

 その欲求は魔術師ならば当然のことだといえる。だからこそ常なる魔術の家門はそれぞれの秘蹟の一子相伝を徹底するのである。

 

 予期できたはずのことであった。総ては焦燥ゆえの蒙昧と予期せぬ喜悦に我を見失った己の過ち。悔やんでも悔やみきれぬ悔恨の念が、いっそうにその老齢の身体を蝕んでいくようであった。

 

 そんな折、まるで機を計ったかのようにふたたびこの魔客からの進言があろうとは夢にも思っていなかった。

 

 而して、そう。これこそまさに天明ではないのか。老翁はしばし考え込んでいたが、やがて観念したかのように身じろぎをしたあと、この影のような怪人に告げた。

 

「……御主があ奴等の魔術回路を増設してくれなんだら、我が一族はとうに絶えておったわ。礼をいうぞ、テーザー・マクガフィン。わが盟友よ。そして御主になら全てをお前に任せられる……」

 

「では」

 

「……いいじゃろう。生き残ったものに当主の座を譲る。御主が立会人じゃ……」

 

「委細承知いたしました。全ては御心のままに」

 

 影は畏まった。まるで打ち震えるかのように全身全霊で畏まった。そして、意識を失うように眠りに吐いた老翁へ、不気味なほど優しげに微笑んだ。

 

 おそらくは、己の余命の幾許もないことを悟ってからはこの稀代の魔術師の心胆もその身体同様に痩せ細り、目に見えて衰えて憔悴してしまっていたから、このような魔の諫言にも耳を傾けてしまったのかもしれない。

 

 それがなにを意味するということなのか、この老翁は最後の最後まで想像することすらなかったのである。

 

 ――この六代を数える魔術の名門サンガール家の当主・アルベルト・ド・サンガールが身罷ったのはそれから数日後のことであった。

 

 

 

 ――現在。時候は九月の末。秋口の夜半であった。

 

「そんなっ! ――」

 

 ――ありえない。と、眼前の人物が語る内容に脳裏で繰り返してきた言葉が口をついて出かかった。

 

 それほどまでに眼前の老人が語る事態の真相は、彼女の予見していた『最悪の状態』を軽く飛び越え、その思考と意識とを沸騰させるのに充分すぎる内容だったのだ。

 

 しかし、言いさした言葉尻が宙に浮く。突きつけられた事実がどうしようもなく反論の余地を奪っていく。

 

 目の前に現れたそれがなんなのか、彼女は問うまでもなく知っているのだ。老人の傍らに実体化し、微笑を浮かべるその希人(まれびと)の威光を前に、彼女は押し黙るしかなかった。彼女には、いや、彼女だからこそ、それが嘘偽りではないことだと理解できたのだ。

 

「――本当、なんですね」

 

 不意に戸惑わせた己の声に、自身の狼狽を悟られぬよう、黒髪の少女は声を硬くした。

 

 じっと息を呑んで見つめてくる少女の考えを見透かすかのように、眼前の老紳士は厳かに、そして高らかに告げる。――

 

 

 

 ――その来訪は夜も深奥に差し掛かる頃であった。そう、それは未だ淡い鎮静の月が弧を描きながら昏い夜の頂に足を掛け始めたばかりの頃ではなかったか。

 

 その月はこれ以上満ちることは出来ない。後は黒い空に呑まれるまで日を重ねるごとに痩せ細っていくだけだ。 

 

 しかしその事実を認めようとしないかのように、糸のような偃月は分不相応なほどの光を弾いて地表を照らしていた。

 

 予報によれば嵐が近いらしい。にもかかわらずこの日の風はひどく生ぬるいもののように思えた。

 

 何時からか、ひどく静かな、けれど決して清浄とは呼べない夜がこの冬木の地に訪れるようになっていた。

 

 連日の夜が引き連れてくる得体の知れない恐怖に、町の住民たちは不吉なものを感じ取り、誰知らず口をつぐんでいた。

遠くで消防車がサイレンを鳴らしている。いや、もしかしたらすぐ近くなのかも知れない。

 

 カーテンの隙間からのぞく、やたらに明るい月に照らされた町並みを眺める。何も変わったようには見受けられない。サイレンの行き先はこの深山町のちょうど北側に位置する住宅街の方角だろうか。

 

「まぁ、大丈夫だとは思うけど……」

 

 窓の外を眺めてつぶやく少女の華奢な身体は、そんな夜を見つめながらも泰然とした空気をまとっている。

 

 常人離れした美貌のせいか実の年齢よりも大人びて見えるようであったが、その白い頬や大粒の瞳にはまだ少女らしい幼い線が残っている。しかしそこに夜の気配に怯える脆弱さは微塵も感じられない。それも当然だった。彼女は魔術師だったのだから。

 

 魔術師とは国籍・ジャンルを問わず魔術を学び、それを駆使する者達の事をいう。計測できないモノを信じ、操り、学ぶ、現代社会とは相容れない存在だ。故に彼らは世に隠れ忍ぶ異端者でもある。つまりは、彼女もそうした者たちの一人であったのだ。

 

 しかし、いまその美しい顔には相応しくない憂いと疲労の色がかすかに窺えた。かれこれ、三昼夜を費やした調査もまるで身を結んでいないのだ。

 

 一週間ほど前のことになる。何の前触れもなく彼女の右腕に三画の形を取り戻した聖痕。

 

 彼女の徒弟である少年の手の甲にも同様のそれが現れていた。

 

 ――この冬木の地に再び異常が起きているかもしれない。そう判じた彼女は先に同居人たちに街での調査を頼み、自身は生家に戻って異変の究明に努めていたのだ。

 

 しかし、どうやら先を越されたらしい。何に? おそらくは、――その怪異そのものにである。

 

 その来訪者が戸を叩くより先に、結界の先触れで彼女はそれを察知していた。

 

 そこに居たのは歳若い侍女をつれた一人の老紳士だった。その佇まいを見れば勘ぐるまでもなかった。

 

 眼前に居るのは魔術師だ。それも超一流の。

 

 その老獪な気配と蓄えた顎鬚の白さからそれが老人なのだと判ずることが出来た。しかし積み重ねてきた気品と克己が年齢による衰えを微塵も感じさせていなかった。

 

 長身にケープド・オーバーの外套を纏った老練の紳士だった。だが鍔広の帽子の影になってその面相は窺い知ることができない。

 

 ただその双眸を覆う色付の丸眼鏡だけが暗色のシルエットの中に芒と浮かび上がっていた。

 

 彼女は息を呑んだ。そのどれもが魔術師の礼装として充分すぎるほどに時代を重ねた一級品であることが窺えたのである。

 

 多少の動揺はいなめなかったが、突然の来訪に応じる彼女の態度には怖じるところはまったくなかった。「常に余裕をもって優雅たれ」それが彼女の家に伝わる家訓だ。

 

 彼女は常にそれを心がけている。この夜の突然の一幕の終始において、この老齢の魔術師が己から見れば若輩に過ぎない彼女を対等の存在として扱い礼をつくしていたのは、ひとえにその気概を感じ取ったからに他ならない。

 

「夜分、申し訳ない。もう少し早く訪れるつもりだったのだが、ちと道草をくった次第でな……」

 

 その老紳士は屋敷内に迎えられると、そう流暢な日本語で言って礼を取った。不意に香った、嗅ぎ慣れない硝煙の臭いに彼女はその整った形の眉を顰めた。

 

 聞けば、先々代の遠坂とも面識のあるというこの老人は、その名をワイアッド・ワーロックといった。

 

 その名には聞き覚えがあった。たしかワーロック家は八代を数える魔術の名門であり、一昔前なら、英国は時計塔の重鎮だったこともあったという。

 

 土系統の魔術(アース・クラフト)を代々継承する妖精使いの大家で、古くは宝石を使用する遠坂とも密接な関わりを持っていたとも……。

 

 だが、聞いた話には既に跡取りを亡くし、その魔道の血を存続する術を喪失したために、その老当主は英国の田舎で既に隠居していたはずなのだが……。

 

 ともかく、いまさらそのような古い縁の交流を深めにきたのではないということは一目瞭然だった。その老齢の身にまとうのが死を賭して戦地に赴く者の気配だと、少女は既に知っていた。

 

 よりにもよってこの時機に、外来の魔術師からの直接的なコンタクトを受けるというこの事態。

 

 この符合を偶然と流してしまうほど、彼女の思考は鈍くはない。よって、彼女はこの珍客を迎え入れることにしたのだ。後手に回るのは甚だ信条に反することだったが、ここで反目してもしょうがない。

 

 何より、この客人が今起こっている怪異に対する詳細を知りうる人物ならば危険を冒してでも話を聞く価値は充分にある。

 

 そうして、彼女の代になってからはついぞ客人(・・)を招き入れた憶えのない応接間に、彼らを通した。

 

 そして、程なくして老紳士は語り始めた。――

 

 

 

「――本当、なんですね」

 

 少女はしばし思案顔で、返すべき返答の行く先をもてあそんでいたが、観念したようにそう言った。毅然とした声ではあったが、さすがにその声の端にはほんの僅かだが狼狽の色が窺えた。

 

 その返答の空白(ブランク)に付け入るかのように、老紳士は語調を変えた。鋭く、不意を突くかのように告げる声は厳かに、そして高らかに響き渡る。

 

「これ以上疑っても埒はあくまい。偽り無い事実だ。――そう、唯の一度だけ、冬木の聖杯戦争は再開される!」

 

 そう、――この状況はまるで半年前の闘争の気配そのものだ。しかしそれはありえない。あの時確かに聖杯は破壊されたはずなのだ。

 

 他ならぬ彼女――遠坂凛のサーヴァントの手によって――。

 

 

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」-1

 

 ……あの日、薄暗い城の地下牢の深奥で、勇者は囚われの妖精の姫君を見つけた。

 

 それからというもの、その小さな勇者は毎夜愛しい姫君の元に馳せ参じ、いつか自分がこの城の王となり、彼女を助けることを誓いながら、その証にいくつもの詩を贈る。

 

 妖精の姫は人のものとも思えないほどに美しい、宝石のような瞳を瞬かせながら毎夜運ばれてくる泡沫の調に銀色の絃音で応えるのだった。

 

 あの日、そんな、まるで始まりの戯曲の一幕のように――――。

 

 

 ……眼が覚める。テラスから差し込んでくる日の光に開きかけた瞼を眇める。時刻はもう正午を過ぎた頃合らしい。そこは薄暗い城の地下牢(ダンジョン)ではなく、仄かな光の差し込んでくる、既に見慣れはじめていた彼の寝室であった。

 

 確かに、石に囲まれた暗鬱な空気だけはよく似ている。それで、あんな夢を見たのだろうか。

 

 豪奢な洋室の一間だった。広い床にはそこかしこに何かが散らばっている。それは楽譜であった。しかし、奇怪なのはそこに刻まれているのは単なる音符ではないことだ。

 

 そこには奇妙な図形や数式の羅列までもが複雑怪奇に、音符の変わりに刻まれているのだ。

 

 これは彼の手癖のようなものであった。耳にした雑多な声音や雑音を数値化し、そこから任意の音だけを取り出して一種の暗号として情報化すること。彼にとっては慣れ親しんだ初等魔術の一工程に過ぎなかったが、とりわけ難易度が高いわけでもなく、これだけでは魔術として成立もせず、何の意味もない作業であった。

 

 しかし彼は暇をもてあますと手慰みに手ごろな雑音を解体して無聊を慰めることが多かった。静かな森の中の石造りの城にいてさえ耳を澄ませばいくらでも音を拾うことは出来る。

 

 年のころは十四・五歳程度だろうか。線の細い、柔らかそうな白銀の髪は四肢とともに投げ出され、長い前髪がその顔を隠してしまっているがその面相はまだまだあどけなさの残る、幼い少年のものであることを容易に窺わせた。

 

 しかしその若々しい、染みひとつない眉間には彼の年齢にはまるで似つかわしくない縦皺が刻まれている。

 

 その苦りきった苦悶の表情はその心痛を物語って余りあるものだった。ベッドから起き上がろうとすると、(なず)むような脱力感だけが体中を埋め尽くしたかのようだった。

 

 体が、ひどく重く感じる。そういえば昨日からなにも食べていない。体中痛いし、疲労感のせいで動きたくもない。本当に、踏んだり蹴ったりだ。本当に何もかも――。

 

「……全部、アイツのせいだ……」

 

 寝返りを打って横になりながら何度目かも判然としない愚痴をこぼす。絹のような髪が指と指の間を流れ落ちた。そしてふいに右手の甲のあるそれを仰いで見る。刻まれた聖痕。

 

 その意味を、少年はあらためて反芻する。彼がそれを有するということの意味を。

 

 彼はなんとしてでも勝たなければならなかった。それ以外の未来は用意されていない。その未来を掴み取らなければ彼という存在にはもう未来などない。そこで、終わりなのだ。

 

 ――選ばれた七人のマスターがそれぞれに「サーヴァント」と呼ばれる専用の使い魔を使役し、互いを標的として戦闘を行う。

 

 そうして残り六人の敵を殲滅し尽くした者にのみ、あらゆる望みをかなえるという宝物「聖杯」が与えられる。――

 

 それが彼に教えられたこの「聖杯戦争」なる儀式の大まかな概要だ。そしてここからは彼が拙いながらに調べ上げたその儀式の詳細である。

 

 サーヴァント――それは受肉した過去の英霊であるという。英霊とは神話や伝承に名を残す超人や、歴史にその名を刻まれた偉人たちのことである。

 

 真偽と問わず、人の間に永遠の記憶となった彼らは死後、輪廻の枠から外されて崇め奉られることによって、擬似的な神または精霊に近しい存在に奉り上げられる。

 

 それらが『英霊』と呼称される概念である。それを現世に呼び出して魔術師の走狗として現実の肉体を与えたもの、詰まるところの使い魔に近い存在であるが、そんな言葉で呼び交わされる有象無象とは一線を画す、まさしく規格外の存在なのだ。

 

 聖杯戦争――それは奇跡を叶えるという『聖杯』の力を追い求め、極東の国、日本は冬木なる場所で繰り返されてきた奇跡の争奪戦。七人の魔術師たちによる命をかけた相克の儀式である。

 

 とはいえ、今回の儀式ではそれは二次的な報償でしかないことは折り込み済みの話だ。大体今まで五度もおこなわれながら、一度たりとも成功してないなどという儀式を、しかも無断拝借も同然の形で再度行おうというのだ。

 

 まず、(くだん)の聖杯を降ろすことなど出来はしまい。

 

 つまり、重要なのは勝ち残ること。この闘争に勝ち残った者こそが我が魔道の家門サンガールの次期後継者となるのだ。それが、この儀式における彼らの本命の、そして第一の目的である。そして、彼は今現在、その闘争の真っ只中にいたのだ。

 

 彼の名はカリヨン・ド・サンガール。サンガール家の時期当主を決定するためのこの儀式において正当な権利を有する一人であった。

 

 そんな彼がこの部屋に引きこもって既に丸一日になる。その間食事も取らずにもくもくとこの手慰みの作業に没頭し、その挙句に眠りについてしまい、今に至るというわけである。

 

 ――やはり、少しばかり言葉が過ぎただろうか――繰り返し、昨日のことを少し思い返してみる。いや、しかし本当のことだ。

 

 だがやはり『期待はずれ』とは言いすぎたかもしれない。そこまで言うつもりはなかったのだ。それでもつい言葉が尖るのを抑え切れなかった。

 

 それもこれも、アイツのせいだ。アイツが居なければ総て――とまではいかずともそれなりに順調にいっていたというのに。

 

 いや、そうでもないのだが。……それでもこんな事態にはならなかったではないか。思い出すだけで実に腹立たしい。

 

 彼が従者を放り出して自室にこもってしまったのは思い通りにいかない状況に業を煮やしたことが大きな理由でもあったが、それは隠し切れぬ己の幼さゆえの醜態を隠し切ることができなかったからだともいえた。

 

 キャスターが自分のあずかり知らぬ間に、見ず知らずの敵と同盟を組んでいたことには正直腹を立ててはいた。しかしそれものは最初だけだ。やる気になってくれているのはむしろありがたい。頼りない戦力を少しでも増強しなければならないのは自明の理だったからだ。

 

 だからこそ昨日は少しくらいアイツの手伝いをしてやってもいいかという気になったのだ。しかし、

 

「――くそっ」

 

 それが大きな間違いだった。昨日はそのせいで一日中あの無粋な居候の妙な工作に付き合わされて泥だらけになった上に、今も体中が痛い。その上抗議のつもりで閉じこもってはみたが、あいつらはどうして自分が抗議しているのかさえもわかっていないのではないのだろうか。

 

 そう考えると、この篭城もなんとも報われない努力に思えてくる。この行為そのものが、そろそろばかばかしいものにさえ思えてきた。

 

 しかしキャスターもキャスターだ。人を子ども扱いしておせっかいばかり焼こうとするというのはいかがなものか! ――と、重ねて憤慨してはみるが、結局のところは頼りにならない主のために余計な気苦労ばかりが耐えないというのが正直なところなのだろう。

 

 こんなところでも、自分はお荷物以外の何ものでもないのだろうか?

 

 どうせなら、叱責してもらった方がまだマシだ。とさえ思う。

 

 昔からそうだった。いつだって自分にできるのは悔しさに歯噛みすることだけだったのだから。

 

 最初から、彼に期待を寄せる者は皆無であった。

 

 それが、その事実が彼を掻きたてている。最も見込みのない候補者、何の異能も開花できなかった不実の種――概ね、それは正しい。

 

 他ならぬカリヨン自身がそう思う。何の価値も力も意味もないストック。

 

 もとより選択肢などなかったのだ。何もできない自分。何の能力もない自分。それが彼という存在の全てであった。

 

 それでも、否、だからこそこれはチャンスだ。チャンスの筈なのだ。このままいけば一生を兄弟たちに何かあったときの代用品として据え置かれるだけだったのだ。

 

 例え万分の一の確率といえども、自らの力で当主の座を奪い取る機会と口実を得たことは僥倖と呼んでいい。

 

 この戦いに勝利できれば、まず誰も彼を蔑ろにすることなどないだろう。誰もが彼を認めてくれる。

 

 これが、きっと最初で――最後の、チャンスだ。

 

 当初、彼は此度の当主選定の儀式の詳細を知るや否や、勇んで準備を始めた。時期当主、それは彼が最も求めていた筈の力であったからだ。

 

 だからこそ万全を期するべく準備を整え、彼は一人でこの極東の地へと乗り込んできた。

 

 もっとも、彼が到着したのは他の兄弟たちに比べてはるかに遅かった。理由は明確だ。他の兄弟たちには一族の内外に幾らでも後援者がおり、資金と人材、労力を提供してくれる。

 

 それらの従者は戦場までは随伴してはならない取り決めなので、戦いは文字通りの一騎打ちと決められてはいるのだが、支援者を得られなかった彼は最初から総ての準備を一人で手配しなければならなかった。

 

 そうして、やっと極東の地に辿り着き、見知らぬ土地で四苦八苦しながらサーヴァントの召喚までこぎつけた。

 

 決して負けることが許されない彼が選んだのは最強の魔女。ある南海の、異国の教義において、それは世界の半分、つまりは全ての悪性を司るとされる最悪の魔物にして同時に神でもあるという。対となる聖獣と永遠に戦い続けるという不滅の闘争者。

 

 バトルロイヤルにおいて、これほど適した存在はいない。

 

 召喚対象としての格は度外視した。どの道、正攻法では他の候補者に対抗することなどできはしないのだ。ただでさえ勝ち目のない自分はその差を埋めて余りある程のサーヴァントを得られなければ、そもそも勝ち目などない。

 

 そして命と、それまでの人生と全ての想いと賭け、彼はそれを呼び出した。

 

 生涯一度きりのギャンブル。命を賭けることは他愛のないことに思えた。だがそれは彼にはかけられるものが最初からそれしかなかったということの裏付けでもあった。

 

 だが結果として、その命すら賭けた一か八かの挑戦は失敗に終わった。召喚術式それ自体が失敗したわけではない、命の危険があったわけでもない。むしろ未だ魔術刻印も持たず、師も持たず、ほぼ独学で魔術を習得してきただけの少年がサーヴァントの召喚を見事に成功させたことを思えば、それは充分に賞賛に値する結果だったかもしれない。

 

 ただ、呼び出されたサーヴァントがあまりに期待はずれだっただけのことだった。

 

 サーヴァントを召喚し、マスターと認められた者にはサーヴァントの状態を見通す透視力が与えられる。

 

 故に、彼には見えてしまったのだ。クラスはキャスター。事前に調査した情報から推測するなら、いうまでもなく最弱のクラスである。それでも人間には及びもつかない存在であるのは間違いなかったのだが、そのステータス能力値はどう見ても平均以下でもなければ以上でもない。

 

 勝てない。

 

 到底勝てるわけがない。ただでさえ低かった可能性がここで閉ざされたも同然だった。

 

 奴らの(カード)がどの程度のものであれ、この程度のサーヴァントであの怪物のような兄姉たちに挑むことなど出来はしない。

 

 その後、彼は呼び出したキャスターとろくに会話もせずに古い空き家の一室に設えておいた簡易的な寝床に潜り込んだ。

 

 あまりの失意に、そして召喚の疲れも手伝ってその後丸二日も目を覚ますことはなかった。

 

 だが、眠りにつきながら一方でそれが当然だと納得している自分もいたのだ。

 

「ああ、やはりこんなものだったか」「仕方がない。だって今までだってそうだったじゃないか」「いまさら、別の結果が出るものか」「いったい、なにも期待していたというんだ?」

 

 ――そんな、何処からか自然に湧き出してくる言葉に埋め尽くされて、彼は身動きも取れない眠りに落ちていく。いつものことだ。

 

 そして、夢現に思い至った。キャスターは自分を殺すかもしれない、と。

 

 サーヴァントはそれ自身が聖杯に賭けるだけの望みを持ってマスターの召喚に応じるのだという。呼び出しておいてやる気をなくしたなどという言い訳を了承するサーヴァントはいまい。

 

 いや、そもそも相手はキャスター。魔術師のサーヴァントだ。殺されるよりもひどい責め苦が待っているのかもしれない。

 

 それでも構わないと思えた。どうせ、この儀式に参加した時点で選択肢は時期当主に選ばれるか、それとも死ぬか、その二つしかないのだ。

 

 結果は、もうでてしまったようなものだった――。

 

 諦めが少年の細い身体を弛緩させ、そこで意識はプツリと途切れた。

 

 抗いようのない、死にも似た深い眠りは絶望に澱んだ少年の身体を、ことのほか優しく連れ去ってくれた。

 

 そうして二昼夜の後に、優しく髪を撫でる気配で彼の意識は覚醒した。

 

 いつもは寝ながら頬を濡らす筈の朝露が拭われていることにも気がついた。そこには見知らぬ城の一室と、予想に反してかいがいしく彼を介抱してくれる忠実な、もとい過分にお節介なサーヴァントがいたのだった。

 

 あのときの手の感触を覚えている。――それを反芻しながら、考える。

 

 昨日のことだ。やはり、言いすぎてしまったと思う。『アイツ』はともかく、キャスターにまで八つ当たりしたのはよくないことだった。

 

 おかげでどうやって顔を合わせたらいいのかわからない。

 

 結局のところ、彼が未だに部屋に引きこもったままでいる理由はそちらの方の比重が大きいのであった。

 

 そのうちに考えるのも面倒になり、またゆっくりと瞼が下りてくる。ああ、またこのまままどろんでしまおうか。

 

 そうすればもう一度、あのころの夢を見れるかもしれないから――。

 

 しかし、そのときテラスから差し込む光の中から、見覚えのある使い魔が姿を現したのだった。

 

 

 

 まだ日も高いというのに、その森の中はまるで夜のように暗かった。

 

 鬱蒼と茂る木々の枝が、日の光の恩恵をここまで運んでくることを阻んでいるのだ。その暗がりのなんという冷たさなのだろう。

 

 その闇にただ見入るだけでじわじわと体の熱が奪われていくような悪寒が背筋に走る。まるで幾多の悪霊がその静寂(しじま)のそこら中に隠れ潜んでいるのではないかと思えるほどだ。

 

 否、事実、いる。その暗がりには、いや今この冬木という地には、今や数え切れないほどの悪霊が声を潜めて今か今かと夜の訪れを待っているのだ。

 

 取り分け、この森はひどいものだ。彼女がこの森の支配者に取って代わってから今日で丁度一週間になる。

 

 その間に期するでもなく自然とそれらは呼び集められ、彼女を慕い付き添うようにこの森に居座るようになったからだ。

 

 その森の深奥に魔女はいた。

 

 長い睫毛に彩られた瞳は慈悲深くまどろみ、何気ない慎ましげな所作でさえもがまるで聖母のそれであるかのように美しく稀有な神性に彩られている。

 

 しかし、その姿を聖母と呼ぶことは聊か以上に憚られた。清らかな菩薩のようとみえて、その実体は果たしてなまめく妖女のそれであったからだ。

 

 異様なほどに白い肌に浮かぶ漆黒の瞳と真紅の唇は、その美貌とあいまって清楚さや貞淑さからは程遠い淫靡さを漂わせている。

 

 軽く結い上げた黒曜石の如く煌めく黒髪も着崩した華美な衣装も雄の獣性を暴き出し助長するための記号にしか見受けられない。

 

 にもかかわらず、その視線が作り出す厳かな色合いには見るものを畏怖させずにはおかない威厳と凄みがある。そのアンバランスさは混沌の中にある神秘を垣間見るかのような印象を与え、万人を魅了する毒蛾の香気を漂わせている。

 

 しかし微笑の一つも浮かべたならばどんな男でも虜にしてしまえるであろう、その口元は一向に笑みを湛える気配がない。

 

「ふぅ、……」

 

 魔女は重ねて艶やかな厚唇から憂いの篭る溜息をこぼす。さて、これは今日何度目の溜息だっただろうか。

 

「引っ込みがつかなくなってんじゃないの?」

 

 たった二人で囲むには大きすぎる、豪奢なテーブルの隅で顔を付き合わせて食事をしていた女が眼前の妖艶な美女に向かって告げた。

 

「ほら、大人でもそうだけどさ、男の子って意地になっちゃっうとどこで引いていいかわかんなくなっちゃうんだって。だからこっちから何しても逆効果にしかなんないわけっ」

 

「それはともかく、お箸で人を指すのはお止めなさい」

 

 わかる? といって行儀悪く箸を向けてくるのを止めさせ、それを聞いた妖女はさらに重ねて溜息を漏らした。もう、これが何回目の溜息なのか本人にもわからない。

 

「そういうものかしら……でも、だからといってなにもしないでおくというわけにもいかないでしょう? それに、なんで怒こらせてしまったのかもよくわからないし……とにかく話だけでもきかないと……」

 

 食事もとらないままでは心配だ、と付け加えて魔女はうなじの辺りに結わえた艶やかな黒髪を揺らす。

 

 少し遅めの昼食の席であった。用意されている食事は三人分。しかし、そのうちの一皿には手をつける人間がいない。

 

「どうしてもっていうなら、……実力行使しかないよね。引っ張り出しちゃえばいいじゃない。後は野となれ山となれってね? 私が連れてこよっか?」

 

 憂いをこぼす妖女に対して、向いに座る若い女の、これもまた長い黒髪を後頭部で結わえただけのポニーテールがこぎみよく跳ねた。

 

「おやめなさい! どうしてあなたはそう極端なのです? そう、マスターの年頃ならもっとデリケートな問題なのかもしれません。もっと慎重に対処しましょう。だいたいですね、あなたは常識というものを踏まえながらあえて守らないというところがあるように見受けられますよ。悪癖です。直しなさい」

 

 その妖艶な外見には似合わぬ杓子定規な苦言に、ポニーテールの女は揶揄するように眉を顰めた。

 

「えぇー、不思議存在のサーヴァントに常識って言われちゃうの? なんか納得いかないような……。まあ、いいや。でもさ、だいたいからして気に入らないのよ。何も言わずに引きこもっちゃうのがさー。子供の癖に陰険っていうか……」

 

 そう言い返されたサーヴァントの女――キャスターはまた息を大きく吐き漏らした。

 

「お願いだから、喧嘩はしないでちょうだい。……そうね、やはり貴方と共闘する旨を事後報告にしたのがそもそもの問題だったのかもしれないわね……」

 

 キャスター自身としては最善を尽くしたつもりだったのだが、たしかにマスターにしてみれば気のいい話でもないだろう。

 

 あの日、自らを召喚したマスターと見えた少年はその後遺症からか丸二日ほど気を失ったままだった。

 

 それ自体は特に不思議なことでもない。サーヴァント召喚の後遺症は魔術師にとってもかなりの負担となるのだ。加えて、まだ年端もいかない彼女のマスターならば無理もないことであると言えた。

 

 とはいえ、そのままマスターが覚醒するまで待ち呆けるわけにもいかず、彼女は独自に行動を開始することにしたのだ。

 

 マスターの安全を確保するべく、できるだけ市街から離れた隠れ家を探し出した。幸運にも魔術師の持ち物らしい居城を見つけたので、無人なのを確認して拝借した。

 

 主である魔術師が去ってから久しいのか、手入れもろくにされていないようで随分荒れていた。――というかほぼ半壊していたのだが規模と立地は申し分ない。

 

 この場を己のものとすると同時に修繕するのに丸一日、自分だけでは戦力が不足していることも考慮し、街を出歩いてこの儀式に巻き込まれてしまったという人物を保護して協力を仰いだ。これでさらに一日。

 

 ところが目を覚ましたマスターにそれらのことを報告したところまではよかったのだが、『彼女』と主との相性はよくなかった、というかすこぶる悪かったようで……主の機嫌はまったくよくなる気配がなかった。

 

 彼が覚醒してから今日ですでに四日になるというのに、いまだに『彼女』――この、(さや)という女とは馴れ合おうとしてくれない。

 

 それに反して鞘はキャスターとは何の苦もなく打ち解け、既に数年来の友人の如く話に花を咲かせているほどであった。

 

 そして、目下彼女たちは昼食を伴った作戦会議中だったのである。

 

「変だよねー。昨日は結構機嫌よくてさ。私の手伝いまでしてくれたのに」

 

「……もしかしたら、と思うのだけど。……鞘、マスターはそのことで怒っている、ということはないかしら」

 

「? なんでぇー? だって楽しそうだったじゃん?」

 

「……」

 

 キャスターが自信なさげに首を捻るのもさもありなん、であった。

 

 それは一昨日のことである。暇をもてあました彼女は森中の防衛対策の一環として簡易的な罠(ブービートラップ)作りを自ら進言し、有無を言わさず危険な工作に打って出たのである。

 

 不用意にその手伝いに駆りだされてしまった少年は半日にわたる彼女の蛮行に涙すら浮かべて嬌声を張り上げさせられていたのであった。

 

 あれを愉悦の歓声、と捉えてしまって果たしてよいものなのかしら。と、キャスターは判じかねて傍観していたのだが……。

 

 それが原因なのかどうかはわからなかったが、その後癇癪を起したマスターをなだめようとしたところ、今度はキャスターのほうが『期待はずれのサーヴァントめ、何の役にも立たない!』とまで言われてしまったのだ。 

 

 そして現在、それっきり自室に引きこもってしまった少年に二人は今も手を焼いている次第であった。

 

「ていうか、あの子の態度よくないよ。キャスターもさ、なんで期待はずれ、なんて言われて何も言わないのよ」

 

「別に目くじらを立てるほどのことでもないでしょう、思い当たることもありますし……。」

 

「それよ。せっかくサーヴァントの方がやる気出してるのにさ、それを本人が期待はずれだから ヤル気なくした だって! どういう育ち方してんのあの子!」

 

「……マスターも不安なんでしょうね。とにかく、何とかマスターには自分の目標をしっかり見据えてもらわないと……」

 

 それを聞いた鞘は呆れたような顔になり、幾分声のトーンを落として苦言を呈した。

 

「……ちょっと待ってよ。それって、あの子が自分で考えなきゃならないことじゃないの? 誰かに助言してもらえるのは方法論まで、目標や目的なんてのは人に決めてもらうものじゃない。自分で考えて、自分で決めるものよ。……ちょっと甘すぎるんじゃない? キャスター」

 

 鞘の意外な提言にキャスターは一瞬呆気に取られたが、うって変わって生真面目そうな顔になって眉をひそめた。

 

「そうかしら……、いえ、そうね。解かってはいるのだけれど……」

 

 ことのほか深刻そうに意気消沈するキャスターの様子に、鞘も見かねたように溜息を吐いて語気を和らげた。

 

「まぁ、私も嫌われてるっぽいのは、なんとなく解かるけどね。……でもさ、お互いに利得があるからこうなったんだし、いまさら臍曲げられても困るんだけどなぁ」

 

 そう言って猫のように大きく伸びをした彼女――伏見(ふしみ)鞘(さや)が数日前からキャスターの協力者としてこの城にいるのは、彼女らに助勢することだけが目的ではない。

 

 この街で偶然魔術師たちの儀式に巻き込まれてしまった一般人であるという彼女には戦うよりも先に圧倒的に情報が足りていなかったのだ。

 

 だからこそ彼女はキャスターからの共闘の申し入れにもすんなりと応じたのだろう。多分、そこに深い熟慮はなかったに違いない。彼女の方はカリヨンと違って特に斟酌する様子もしていないようだったが。

 

「マスターは鞘のことを嫌っているわけではないとおもいますよ。そうね、多分恥ずかしがっているというのが正しいんじゃないかしら」

 

 鞘につられて微笑みながらキャスターは言う。彼女の一見、鋭角で怜悧な面相はしかし、ひとたび柔らかい笑みを浮かべると、ひどく優しい色合いを帯びるのだった。

 

 まるで聖母神のごとき柔和な笑顔は、その華美な意匠や雰囲気には実に似つかわしくないようにも見えるのだが、鞘もその笑顔を嫌ってはいなかった。

 

「そっかな?」

 

 鞘が笑い返すと、キャスターの頬も自然とゆるんだ。

 

 そう、マスターがなんと言おうと、キャスターにとってこれは最善の選択だったことは揺るがない事実であった。

 

 キャスターというクラスが最も警戒しなければならない敵を味方に引き入れることができたのだ。これを最善といわずなんと言おう?

 

「ところで鞘、『セイバー』の調子はどう?」

 

 すると、それまでまるで童女のようだった鞘の笑い顔がやにわに歪み、次いで能面のように凪いだ。虚空を見つめた彼女はボソリと、虚ろに声を漏らす。

 

「いいよ。(すこぶ)る、いい」

 

 魔術師と、そして剣のサーヴァント。戦うとなれば最悪の相性も、共闘するとなれば最良のそれに転ずるだろう。主の杞憂とは裏腹に、備えは万全だった。あとは――戦端の開く夜を待つばかり……。

 

 と、そこで何かが食堂に入り込んできた。

 

 一匹の蝶だった。まるで宝石細工(エメラルド)のような色合いの大きな蝶であった。

 

 するとキャスターは口内で何事かを呟き、石膏の彫像のような右腕をかざして宙を舞う蝶に向ける。

 

 すると蝶はその空間に虫ピンで繋ぎ止められたかのように静止し、やおら融解してなんとも美しい一枚の翡翠色のガラス板に姿を変えた。否、一見してガラスと見えたそれは紙なのか石なのか、ようとして判じがたいものであったがやはりガラスの板のように見えた。

 

「いきなり結界の中に入ってきたから何かと思っていたけど……」

 

 それはそのままキャスターの手元に引き寄せられ、人ならざる美麗な指にからめ執られた。

 

「……手紙? かしらね」

 

 キャスターがそう言うと、虚ろだった鞘の顔がまた一転して豊かな表情を取り戻し、子供のように身を乗り出してきた。

 

「へー、誰から? つーかさ、ねえ、それってヴードゥー教?」

 

「……ぜんぜん違います。でも何かしらね、これは……? 手紙というか、カバラの数秘術か何か似ているようだけど……なにかの暗号?」

 

 紙面を見たキャスターはそこで、はて、と首を傾げざるを得なかった。そこに書いてあるのはただ奇妙な数字の羅列だけであったのだ。

 

「カバラってなに? フォース?」

 

「ええと、だから……」

 

「なにを言っても無駄だぞ、キャスター」

 

 言葉を捜して空を仰いだキャスターの背中に声が掛かった。

 

「あら、マスター」

 

「オハー、お寝坊さんだねー」

 

「一々付き合うな。そいつに魔術の解説をしてたら日が暮れるぞ」

 

 丸一日振りに部屋から出てきたカリヨンは意図的に鞘を無視してキャスターから手紙を受け取る。

 

「これはカヴ=エリの変形だ。暗号だよ……監督役からの呼び出しみたいだな」

 

「呼び出し……か。ねっ、なんかやったの?」

 

 意地の悪そうな顔で上目遣いに見上げてくる鞘を、カリヨンは眉尻を上げながらも再度無視する。

 

 彼はどうにもこの日本人が気に入らない。何かと、キャスターとは違った形で自分を子ども扱いするところも、意味もなく体のラインを強調するような服装も、どうにもやり切れないようなもどかしい想いを蜂起させるのだ。

 

 妙になれなれしいところも、知性の感じられない口調も癇に障る。というか、いちいち対応に困る。

 

「これには候補者全員が集まるように書いてある。僕らを名指してってことじゃないらしい」

 

「全員、ですか。……どうしますマスター。使い魔を行かせれば危険はないと思いますが」

 

「……いや、行こう。ここで隠れていても仕方がない。準備してくれキャスター」

 

 これは後継者を選定する儀式だ。ただ勝てばいいというものでもない。時期当主に相応しい『器』を示さなければならないのだ。カリヨンはそう考えた。

 

「――でっ? 私はなにをすればいいのっ?」

 

 満面を喜色に輝かせながら顔を突き出してくる鞘を見やって、顔を見合わせたサーヴァントとその主はともに、一瞬だけなんともいえないような困った顔を見せあったあとで、

 

 片や表情の削げ落ちた真顔で、

 

「……まぁ、ダメだろうな……」

 

「……は?」

 

 片や底知れぬほどに朗らかな笑顔で、

 

「朝までには戻れると思いますから、おとなしくしていてくださいね」

 

「え――と、つまり?」

 

「留守番だ」

 

「お願いしますね、サヤ」

 

「いっ―――――――」

 

 やだッ! との声が城中を突き抜けるように響き渡ったが、それ以上の問答の一切を切り上げたカリヨンはもとより、キャスターもまた抗議しようとする鞘の声をやんわりといなしつつ、会合への準備に取り掛かった。

 

 取り敢えずは、腹を減らした主の食事を暖めなおすところからである。

 

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」ー2

 

 ――そのときの私には総てが曖昧だった。総てが、である。

 私は空白だった。中身の無い容器だった。それまでの私というものを構成していた筈の総てを、私はまるで濃霧の中に放り出されたかのように見失っていたのだ。

 

 ただ、その空の容器の底に、こびりつくようにして一つだけ残っていたものがあった。それは私の芯をなしているかのようなもので、虚ろな私の存在の中で唯一確かで、安息ににも似た確信だった。

 

 その安堵が、安心感だけが私を証明していた。それはきっと自分の安全のことではなく、何か別の――大切なことを成し遂げたかのような達成感に近いものだった。

 

 そうだ。私は何か、大事なものを護ったのだ。ただ、それが嬉しくて、誇らしかった。それだけで、私は己の存在を肯定できた。

 

 それだけが、そのときの私の持ち物だった。

 

 後は全てが用を成さない、かすれたような雑多な記憶の欠片で、それが不協和音のように私の中に沈殿していた。

 

 その大事なものを護った代わりに、他のものが全部崩れて霞が掛かったように薄れていた。

 

 もう、その大事なものがなんだったのかも思い出せない。それでも私にとってそれだけが事実で、大事なものだったのだ。私はその思いだけを抱えて私以外の全てを埋め尽くしていたかすれた残響(サイレント・ノイズ)の中で、ひとり身を縮めていた。

 

 それまでの記憶の連続が「私」というものを形づくっていたのだとするのなら、それが断絶してしまったそれまでの「私」は確かにそこで死んだのだろう。

 

 そして、それが同時に今の私の「始まり」だった。

 

 最初は、そこが何処なのかわからなかった。もっとも、今でも正しく理解しているわけではない。

 

 そこはひどく清浄で、簡素な牢獄を思わせる場所だった。前後不覚に陥っていた私は剥きだしの寝台の上に無造作に投げ出されていた。

 

 身体を満足に動かすことも出来ない。まるで浜辺に打ち上げられた軟体動物のようだった。それが人間の姿に見える者は居なかっただろう。

 

 もっとも、周りに居たやつらにとってはそんなことなど、どうでもいいことだったらしい。

 

 それがどういう連中なのかを知っていた私は、大して訝ることもしなかった。

 

 「魔術師」なんて連中の考えることが、私に分かるはずもなかったからだ。とはいえ、いわゆる、魔術師などという輩について確かな知識があったわけじゃない。「仕事」の経験上、何度かそれらと闘ったり、殺したりしたことがあったので、そのときに最低限の知識を与えられたに過ぎなかった。

 

 それが誰に与えられたものかはわからなかったけれど。 

 

 だからやつらの思惑については予測なんてできない。――が、行動は予測できた。

殺す気ならとっくにやっているだろう。

 

 やつらは面白い武器を拾ったので、それを使えるようにしたいらしい。

 

 ともかく、微動だに出来ない体ではこんな思考も意味を持たない。私はそこで思考を切り上げ、傷の回復を図るべく眠りについた。

 

 そのときの私はよほど消耗していたようだった。まともに人の形をとれるようになるまでしばらくかかった。

 

 目覚めてからしばらくは、案の定「糸」のことなどを聞き出そうとする輩がいたが、私は取り敢えずは恭順しながらも沈黙していた。

 

 しかし、それも私がようやく人の形を取って歩けるようになった頃には、ぱったりと途絶えた。

 

 そのころには 私の記憶はある程度固まっていた。やはりほとんどの記憶を失っていたようだけど、あまり気にならなかったし、哀しいとか、寂しいとか、そんな感情がともなうこともなかった。

 

 だから多分、持っていてもあまり意味ない記憶ばかりだったのだろうと思った。

 

 名前はテフェリー。セカンドネームもミドルネームも思い出せない。もしかしたら最初からないのかも知れない。

 

 私は己を武器なのだと断定した。なぜなら、私が思い出すことは戦うことについての知識ばかりだったからだ。

 

 にもかかわらず、戦う理由についてはまるで欠片すら思い浮かばない。つまり私はそれまで誰かの命令にしたがって敵を殲滅する一個の自立兵器なのだと推察されたのだ。

 

 そう思うと、妙に落ち着いた気分になった。なるほど、私は武器だったのだ。私はようやく己というものについて一応の認識を得ることができた。

 

 しばらくの間、その魔術協会とかいうところにいた。そして多分、一年ほど経ったあとだったと思う。極秘扱いで一度も外どころか部屋からも出されなかったが、ある日いきなり出ろといわれた。

 

 どうやら新しい運用先が決まったようだった。

 

 それを聞いた私は内心で安堵していた。これはたとえ記憶が無くとも、大前提として理解していたことだったのだろう。

 

 私は人ではなく「道具」であり、「武器」であり、一本の「剣」だった。在り方も、その用途も用法も。そういう意味では私はサーヴァントと近しい存在なのかもしれない。

 

 だから、安心していたのだ。

 

 そのまま破棄されるというならそれでもよかった。それで終わりならそれでもよかった。それについての恐怖は抱かなかった。ただ、生きていたなら生きていたで、使用されないことは率直に怖かった。

 

 使用されない武器は存在する意味を失う。だから、例え誰であっても、捨てられた自分を使用するものがいることは救いだった。

 

 無論、誰が使うかなどとは考えもしなかった。己が誰に使われるかなど、武器の判断が及ぶ範疇ではないからだ。

 

 そこを――いわゆる魔術協会の総本山であるという「時計塔」なる場所を出る際に受けた説明では、後継者を失ったというとある魔術師が己の秘術と研究の集大成である魔術刻印を受け継がせるための代用品として私に適正があるらしい。

 

 意外だったし、自分の知識では理解できない部分も多かったが、そう決まったのなら是非もない。道具の使い方は持ち主の自由だ。

 

 その日、外を出歩いても騒ぎにならないよう、それらしい格好をさせられた私は表面上は徒弟として、その魔術師の元に向った。

 

 初めて目にする都会の風景もそっちのけで、魔術師の敵は魔術師なのか、それとも別の何かなのか、その場合はどう戦えばいいのか、そんなことを考えながら車に揺られていた。

 

 別段、私は戦うのが好きなわけではなかった。ただ、それがなくなれば自分の存在意義は消滅する。今思えば、その恐怖心が強い強制となり私を動かしていたのだ。

 

 しかし、奉公先で私は生まれて初めて肝を抜かれることになった。

 

 私の予測は圧倒的に甘いと言わざるを得なかったのだ。そこでの生活は想像を絶するものだった。

 

 途方にくれるというという言葉の意味を、あれ程までに噛み締めた経験はあとにも先にもありはしない。

 

 率直に言えば、私は自由だった。

 

 静かな郊外の豪邸の中で自分の新たな所有者の老人と、ただ二人だけの生活。聞かされていたような魔術師になるための鍛錬だとか、敵を排除するという本来の役目も命じられない。

 

 命じられたのは屋敷の管理や雑用だけ。

 

 たしかに、道具をどう使おうともそれは所有者の勝手ではある。しかし、本来その用途の使用を前提としていない道具を別のことに使うというのは、あまりに非効率的だとしか言いようがない。

 

 剣で畑は耕せないし、盾は鍋の代わりにはならないのだ。

 

 しかし、やれと言われれば是非もなかった。

 この手の雑務など経験したこともない私には、当たり前の炊事や掃除でさえ困難極まりないものだったが、幸いにも私は弱音を吐くという行為を最初から知りもしなかった。

 

 それが良かったのか悪かったのかは未だ不確定だったが、とにかく私は与えられた仕事を愚直にこなした。いや、愚直に失敗をし続けた。

 

 結果が伴っていないことは明白だったが、なぜかその老人は私の運用法を変えようとせず、私が失敗するたびに一言二言、「次はうまくやるように」とだけ告げるだけだった。

 

 そのまま幾許かの時間が過ぎた。

 

 しばらくすると、こんな私でも何とか形だけは仕事をこなせるようになった。

 

 しかし、そこでまた大きな問題が表層化してきたのだ。私は暇が出来れば別の仕事が与えられるとばかり思っていた。

 

 そうすれば本来の用途での使用があるかもしれない。前にも言ったが、別段それが好きだったわけではない。しかしそちらの仕事ならうまくやれるという確信があったのは事実だ。

 

 今思えば、それは私がそれまでの人生で獲得した唯一の矜持だったのかもしれない。

だからこそ、空いた時間を『好きに過ごせ』といわれたときの衝撃と困惑は、ある意味新鮮であったとすら言える。

 

 もはや途方にくれる余り、私は生まれて初めて所有者に対して抗議らしいことをしてしまった。すると主は『ならば本を読め』とだけ言って、膨大な書庫から抜き取った一冊の古びた本を渡してきた。

 

 魔道の修練のためのテキストだろうか?

 

 なるほど、そちらが先だったか。それも思い当たる節がある。マスターが私を引き取ったのは確かそういう理由からだったはずだ。

 

 私は勇んでそれの読解に取り掛かった。

 

 一応、字を読むことは出来たが、実際に本を読んだことのなかった私にとって、それは難解な作業だった。しかし、私は庶務の合間を縫って脇目も振らずにそれに没頭した。

 

 降霊か、薬学か、錬金術か、世界に秘匿されるべき御業の末端に触れようとする作業である。生半可な覚悟ではつとまるまい。

 

 しかし、そのうちに妙なことに気付いた。おかしいと思ってさらに読み進めると、それが「調理の基本」についての本なのだとわかった。

 

 人生で二度目の深い落胆を味わいながらも、合点がいったことは確かだった。私の作った料理は何とか実用に耐えるというレベルで、品質がいいかと問われれば首を振るしかないというものだということは自明だったからだ。

 

『……はぁ』

 

 私はそこでおそらくは人生初であろう溜息をつきながら、ようやく理解していた。どうやら、ここでの私の用途はあくまで「使用人(メイド)」ということであるらしい。

 

 適正がどうであれ、そう求められるならそうするほかない。それが道具である。

 

 そこで、またもや人生初の諦観をすることにした私は、良き使用人になるため、あらためて料理の基礎の本に没頭しはじめた。

 

 ……以来、七年ほどになる。大きなお屋敷の中でマスターと二人、膨大な書物に囲まれての、本当に静かな生活が続いた。

 

 慣れてしまえば、それは存外に穏やかで想像していたほどの困難もない生活だった。

 

 ただ、ひとつだけ、自分がマスターの役に立てているのかだけが気がかりだった。道具としてここに来たはずの私は本当に期待されていたほどの成果を挙げることが出来ているのだろうか? と。

 

 だから――此度の機会を私はチャンスだと捉えている。詳しい事情は知らなかったが、今度は私でも役に立てるかもしれない。

 

 何せ、これは私の本来の用途だ。戦場に投入されればその真価を披露することも出来る。そのはずだ。

 

 それだけはよくわかるし、憶えているのだ。誰かが、おそらくは以前の私の所有者が、繰り返し私をそのように使用していたことを。

 

 そう、この戦いでなら、きっと――

 

 

『どしたァ、マスター。何か気付いたか?』

 

 彼女を浅い、けれどどこか鮮やかな色彩の追憶から引き戻した声は聴覚ではなく、意識に直接波紋を落としていくような響きだった。

 

 彼女、テフェリー・ワーロックはその決して不快ではない漣の音を、「糸」を伝って聞こえてくる樹幹の囁きのようだと感じていた。

 

 辺りには彼女以外の人影はない。在るのは唯一人、しなやかな痩身を高級そうな白亜の外套で包み込んだ女性、いや、少女が佇んでいるだけだった。

 

 長い艶やかな黒髪は鋼の如く煌めき、耳朶から顎先にかけての蝋のように白く柔らかな輪郭をいっそうに際立たせている。

 

 その、まるで色が抜け落ちたかのようなモノトーンの色調はしかし、決して華やかさと無縁の凡庸なものではなかった。

 

 彼女の容姿をひどく印象深いものにしているのは、その大粒の瞳だ。殊更に色彩を強調するような、もはや人のそれとも思えぬ色違いの瞳色(オッド・アイ)

 

「いえ、何でもありません。けれどランサー、何度も言いますがあなたのマスターは私ではありませんよ」

 

 辺り一面は、真っ黒に焼け爛れていた。

 

 ここ何日かの間、ここ日本国は冬木市郊外で広範囲においての火災が連続しているのだった。

 

 この場所は昨夜発生した、もっとも新しい焼け跡であった。新都郊外の雑木林を原因不明の火災が襲ったのである。

 

 その規模や立地、状況などには共通点は見られず、個々の火災には何の関連性も見受けられないという。

 

 解かっていることといえばその火種の原因が一様に不明であるという点だけである。ここまで出火の原因が特定できないというのも珍しい。目下、不可解な手段で行われている連続放火ではないかという線で調査が続けられているが、今のところ有力は手がかりはなく、消防や警察も頭を悩ませているという。

 

 だが彼女は知っている。この時勢にこの土地で連続する不可解な不審火。

 

 この火災が偶然に起こっているものである筈がない。その意図までは計り知れないが、これは誰かが人為的に引き起こしているものなのは間違いない。

 

 既に戦端は開かれているのかもしれない。彼女――テフェリー・ワーロックは焦燥に駆られる気持ちを押さえつける。

 

 いくら調べてみてもここは本当にただの焼け跡のようにしか見受けられなかった。それらしき痕跡、つまりは魔術を行ったような、作為的な形跡は何も見つからない。

 

 敵もそう馬鹿ではないということか。少なくとも証拠、痕跡の始末は徹底しているようだ。これでは一般の鑑識では手に負えないもの当然だろう。

 

 テフェリーは嘆息した。言いつけを破ってまで出てきた割には、微々たる成果だといわざるを得ない。

 

 彼女の主は明日の払暁にもこの極東の地に参ずるという手はずだ。出来ればその前に何らかの戦果を挙げておきたかったのだが……。

 

『んー。まァそう、気ィ落とすなマスター。あたしとしても甚だ不満ではあるが、戦は功をあせりすぎてもだな』

 

 人形のような白い顔は微動だにせず精緻な無表情を崩してはいない。が、それでも目に見えて意気消沈する少女の気配の傍らで、守護霊の如くつきしたがっていた陽炎が気遣わしげな口調で声をかけてくる。

 

 もっともそれは先ほどと同じように耳ではなく、直接彼女の頭に響いてくる甘美な波紋であったが。

 

 闇の中でも光り輝く双瞳が、揺れる鋼色の髪の間から何もありはしない虚空へ向けて鮮やかな二色の視線を送る。

 

「わかっています、ランサー。ですがあなたのマスターは――――っ!?」

 

 言いさした刹那。緩み、(ほつ)れかかっていた彼女の四肢を強引に引き絞るかのような緊張感が、総身を貫いた。

 

 訳もなく、ただ殺されると確信したほどの不可避なる殺意の波動。それは彼女に向けられたものではなかった。いわば押さえきれずに零れただけの殺気の余波でしかなかった。

 

 振り返って見れば、傍らの暗がりに凶貌が浮かんでいた。

 

 虚ろに浮かぶだけのそれには牙を剥く獣の笑みが張り付いている。そしてその虚ろな面貌が次第に厚みを帯びていく。

 

 沸き上がる陽炎の如きうねりが実体を獲得し、たしかな(かたち)を成していく。しかし、人を食い殺さんばかりだったはずの面貌はしかし、実態を得ていくにつれ確かな輝きを発しながら神々の戯れを現実に暴き出していく。

 

 まるで、そこだけが夜を置き去りにしたかのように煌めき、光彩を放っていた。

 

 夜闇を払うほどに輝くそのヒトガタは、獣と呼ぶにはあまりにも美しすぎた。

 

 実体化した美獣は山吹色(サンライトイエロー)の揺蕩う流髪をかきあげ、彼方を臨みながら傍らの主に告げる。

 

「――確認したぞ。喜べマスター、どうやら手柄は向こうのほうからやってきたらしい」

 

 そう言われる頃には、テフェリーも既に状況を把握し準備も整っていた。

 

 にもかかわらず、感歎が彼女の反応を僅かに鈍らせる。改めて耳から伝う、その現の声色のなんと甘美なことだろうか。陶酔に似た甘い色が視界に滲みだし、機械人形の如き少女の調律を狂わせていくようだ。

 

 幼少の折から魔に対する兵器として運用されてきた彼女の魔力抵抗は、常人の比ではない。

 

 にもかかわらず、テフェリーもその魅了の魔力を跳ね除けることが出来なかった。否、それは魅了の魔術とは別種のもののようだった。

 

 相手の意思を捻じ曲げることなく、ただそこに美しく在る。それだけであらゆる人間の心を雪いでしまうような。そう、それはまるで戦場に咲く一厘の華のような……。

 

「……ええ。異論はありません、初めましょう、ランサー。これが初陣です。……ですが、何度も言いますがあなたのマスターは、」

 

 なおも先と変わらぬ文言で事の是非を訂正しようとする彼女の台詞を聞き終わるより先に、再び実体を失ったその気配は夜気に秘しきれぬ灼熱の残影だけを残し、主を先導して月下の薄闇に溶け込んでいった。

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」-3

 時刻は草木も眠る丑三つ時。

 

 僅かに風があるが、夜空には余計な雲がないせいか天上にから降り注ぐ月光の輝きを遮るものはなにもない。

 

 住宅地のある深山街から深遠川を挟んで対岸にある冬木市は新都。中心部こそ深夜までにぎわうことも少なくない繁華街ではあるが、そこから外れれば昔ながらの街並みが残っており、簡素な町並みを見ることが出来る。

 

 そんな中でも特にひっそりと人気の絶えた感のある郊外の高台には、半年前のある一件で主を失い、そのまま閉鎖されたままとなっている教会がある。

 

 地方都市には似つかわしくないほどの規模の立地で、外来・地元民を問わず利用する者も少なくなかった。しかし、今となっては管理する者もいないのか、この神の家に足を運ぶものも絶えて久しいようだ。

 

 そこへ続く、なだらかな坂道の斜面には十年あまり前に立てられた外人墓地があった。常の夜半なれば、まさか人の影があろうとは思われぬ物寂しい場所だ。しかし今この場には確かに二人ばかりの人影が認められたのだ。

 

 うち一人は星屑の粉を纏ったような金の髪の少女であった。もはや人とも思われぬ存在感と威風がその矮躯をまるで眠れる金色の獅子の如く着飾っている。

 

 それも当然のことであったかもしれない。そも、彼女は人ではなかったのだから。

 

「それで……半日もその御老人を伴って道案内をしていたのですか?」

 

 その少女に半ば呆れたような声をかけられたのは、この場にいたもう一人の人物であった。

 

 意志の強そうな目元が印象的ではあったが、傍らの天の砂金を纏ったような少女に比べれば、その存在はひどく凡庸であるといえた。それでも彼はこの場においてはこの少女を『使役』する立場にある存在だった。

 

 名を、衛宮士郎といった。

 

「案内しながら話を聞いてるうちに、勢いがついてきちゃったみたいでさ。表情は読めなくておっかなそうな人なんだけど、話してみたら結構気さくな爺さんだったんだ」

 

「何か……怪しいとは思わなかったのですか? なぜ街行く人の中からわざわざ貴方を選んだのかも解かりません。シロウ、日中とはいえ、もう少し警戒すべきです」

 

「ああ、悪い。でも、本人が言うには久しぶりにここに来たんで道に迷って辻占をやってたなんていうんだ。英国の人だっていってたのに、おかしな話だと思ってさ」

 

 辻占とは古来の日本で行われていた習慣のようなもので、何かを自分の判断で決めかねるとき、辻、つまりは今で言う交叉点に立って、初めて出会った人の意見を仰ぎ、それに従うというものである。

 

 そこで偶然老人が声をかけたのが彼、衛宮士郎であり、彼は何とそのまま日が翳るまで半日近く街中の案内をしていたというのだ。さすがに、この少女が訝るのも無理はない。

 

「何も普通に道を尋ねればいいのではないですか……それにたとえ引き止められたのだとしても、そこまで長々と付き合う必要はないでしょう」

 

「ああ、いや、確かに最初は道を聞かれただけだったんだけど……」

 

 さらに彼女が問いを重ねてみると、どうやら、彼のほうも興がのって相槌をうつ手にも力が入ったというのがそもそもの要因らしい。確かに、彼がロンドンについて話を聞きたがるのはわからない話でもない。彼も遠くない将来、魔術師の総本山である時計塔に足を運ぶことになるのだから。

 

 それで、道案内をするだけのはずが思わず長話になってしまったのだという。それを聞いて、金砂の光を纏う少女はやはり呆れ気味に息を吐いて眉根を上げた。

 

「シロウ、あなたらしいといえばそれまでですが。……しかしですね」

 

「……いや、悪かったよ。晩飯の用意が三十分も遅れたのは謝る。確かに軽率だった」

 

「マスター、早合点するのは良くない。私は貴方の迂闊な行動を心配をしているだけです。……しかし、どうやらその老人の方も貴方に負けず劣らずの変わった御人のようですね」

 

「まぁ、日本語も達者で面白い話も聞けたし、悪い人じゃなさそうだったな。なんていうか、厳しそうな人なのに雰囲気がそんな剣呑な感じじゃなかったっていうか。……そうだ、老人っていえば、今まで桜にお爺さんがいたなんて話も聞いたことなかったな」

 

「……シロウもそのことを知らなかったのですか?」

 

 二人は夜風に向かい踵を返すのに合わせて、話の向きを変えた。

 

「そうなんだ。家にも何度かお邪魔したことはあったんだけど、そのときは桜たち以外の人間が住んでいるとは思えなかったんだ」

 

「それで、桜はしばらくの間来れないと言っていたのですね」

 

「ああ、普段世話になってるんだし、できれば手伝ってやりたいとこだけど。何せ事情が事情だしな。それに今はこっちもこんな状態だし」

 

 話に上がった桜、というのは彼、衛宮士郎の友人の妹に当たる少女で、以前のある出来事をきっかけにして彼の家に家事の世話をしにきてくれている少女であった。そして彼にとっては学び舎の後輩でもある。

 

 彼女――間桐桜の兄は半年ほど前、彼らにとっても縁浅からぬとある事件に巻き込まれ、最近まで市内の病院に入院していたのだが、その彼がようやく退院した矢先に今度は彼女達の祖父に訃報があったと言うのだ。

 

 しかし士郎はこれまでそんな人物のことをなにも聞いたことはなかった。もっともどうしても友人の家族構成を把握しておきたいなどと言うつもりは彼にもさらさらなかったので、そこまで訝るようなことはなかった。

 

 士郎の言葉に、金の髪の少女も首肯する。

 

「その点にかぎって言えば、むしろよかったのかもしれません。いまこの街になにが起こっているにしろ、彼女に余計な心痛をかけるのは心苦しい」

 

「そうだな……」

 

 現在、二人はこの近日の内に新都近郊で連続している火事や小火騒ぎの調査に来ていたのだった。

 

 しかし特に何の成果をえることもなく、ほどなくこの外人墓地に立ち寄ったのだった。この外人墓地に眠るのは十数年前の大火災の被害者だけのはずなのだが、林立する墓石はまだ真新しいものばかりだ。

 

 すっかりと整地され、真新しくなった墓地は半年前のある事件によりほぼ全壊という憂き目を見ることになったのだ。

 

 林立する墓石の中を進みながら、少女はそのときのことを思い出していた。もう半年も前になるのだろうか、今でも鮮明に思い出せる戦華の日々であった。

 

 見上げた天蓋には、まるで夜の裂け目のような月が張り付いている。

 

 もう数日を待たずに消え行く運命の尖月は、——しかし、眉程に痩せ細りながらも淡い光の膜となって静寂の中に佇む少女の白く柔らかそうな輪郭をやさしく包み込んだ。

 

 そうして物思いにふけるように口をつぐんだ少女の横顔に降り注いだ光は、彼女の人ならざる輝きを矢庭に暴き出す。その光景はまるで一枚の絵画のようですらあった。

 

 士郎も、その横顔を見ながら静かに黙りこんだ。

 

 二人とも、言葉にこそ出さなかったがそれぞれに奇妙な予兆を感じていたのだ。

 

 きっと、もういつものような安穏とした夜はこの街には訪れない。他ならぬ街の気配が、空気が、しじまのざわめきがそれを物語っている。

 

 今のところ何の確信があるわけでもない。しかし、それはきっと確証を目にしていないだけで、目に見えないところで何かが蠢いているのだ。

 

 きっと数日を待たずして、否、もしかしたら今この次の瞬間にも、暗い虚の淵ぎりぎりにまでにじり寄ってきている気配が、泡のように弾ける瞬間を待っているのかもしれない。

 そんな理由なき確信を二人は同時に抱いていたのだ。

 

 それは決して確たるものではなかったかもしれない。だが強いてこの状況を言葉にするというのなら、今のこの街の気配は――あの時のそれに似すぎている、ということになる。

 

 士郎はふと傍らの少女から視線を外した。彼女の発する宝玉の如き稀人の煌めきに、今更ながら目が眩んだせいかもしれなかった。

 

 そして彼女に倣うように視線を上げた、——そのとき。彼は何か、奇妙なものを見つけた。

 

 星のない、真に暗き空の天蓋に唯一煌々と照りつける細った三日月の淵から――何か得体の知れないものが垂れ下がっていることに気が付いたのだ。

 

 それはまるで銀色の雫のようであった。それが細く煌めく一筋の線となり、月から滴り落ちているかのように煌めいて見えるのだ。

 

 ――月光の残滓!?

 

「なんだ……あれ」

 

 奇怪なれど、この世のものとも思えぬ美しい光景に暫し息を呑んだ士郎が、思わず口に洩らした次の瞬間、雫は不意にその数を倍に、倍々にと増やした。

 

 と、思われた途端。まるでそれぞれが意志を持っているかの如く戦慄いた銀色の蛇たちは目下の少年目掛けて殺到してきたのだ。

 

 飛来した銀色の線光は彼らのいた外人墓地そのものを両断していた。辺りにはまるで軽石の如く砕かれ、そして両断された墓石の欠片だけが無残な礫の山として辺りに散らばった。

 

 銀光の筋の標的となったはずの衛宮士郎は――果たして、無事であった。

 

「セイバー!」

 

 凄まじい炸裂音が響き渡り、次の瞬間には一瞬の内に銀色の戦支度に瞬転し、彼の身体を抱きかかえた騎士――セイバーと呼ばれた少女の姿があった。

 

 天の砂金を思わせる銀鈴の光を纏いて。

 そのきらめきは青の戦装束に身を包んだ彼女にこそ相応しい。戦女神の如き静謐の騎士が今再びこの冬木の地を踏みしめる。

 

 彼に先んじて月雫の異変を見て取ったセイバーは一瞬のうちにシロウを抱え、身を翻してその「斬撃」を回避していたのだ。

 

「大丈夫ですか、シロウ」

 

「ああ、問題ない。けど、今のは……」

 

「来ます!」

 

 セイバーは士郎を下ろし、その前に立って彼方の敵影を睨みつける。間を置かずに再度飛来する銀色の蛇の群れ。

 

 士郎は今度こそ、その怪異の正体を見た。

 

 それはどこまでも細く、繊細に鍛え上げられた鋼線だった。月下の暗空に幾重にも瞬きながら飛来したそれらをセイバーはその手に執る剣で打ち落とす。

 

 月光の加護なくば、目視も叶わぬであろうそれを正確無比なる太刀筋にて打ち払うその手練は、まさしく彼女が唯人ならざる剣の英霊であることの証であった。

 

 しかし、打ち払われてもなお、地にのたうつ銀色の竜たちは何の斟酌も見せず二人の周囲を取り囲んでいく。その数はさらに倍々に膨れ上がっている。一体何本の糸が蠢きながらこの空間を囲んでいるのかももはや判然としがたい。

 

「くッ――」

 

 苦悶の声を漏らす主にセイバーは声をかける。

 

「シロウ、私から離れないでください」

 

 士郎にも、柄を握り締めるセイバーの篭手の軋みが聞こえた。

 

 次なる斬糸の大渦を予見して、セイバーの集中力は極限まで高められていく。しかし彼らを取り囲んでいた銀の糸は一転、それをあざ笑うように彼女たちではなく周囲にあった墓石を両断し始めたのだ。

 

 まるで砂糖菓子か何かの如く両断されていく墓石。しかし何のつもりだろうか? 訝るセイバーを余所にそれまで鋼の鞭のようだった糸の躍動が、今度はまるで動き回る蛸の足の如く生動しはじめ、やにわに無数の石塊に分断された破片を掴み上げると、彼女らの頭上へ向けて跳ね上げ始めたのだ。

 

 同時に、周囲を取り囲んでいた陰色の渦が旋回を始める。それは降り注ぐ磊落の雨と蜘蛛糸の如き収斂(しゅうれん)線の競演であった。

 

 例えるならば頭上から降り注ぐ砲火と四方から迫るギロチンとが同時に襲い掛かってくるようなものだった。

 

『拙い――ッ!』

 

 それはサーヴァントであるセイバーが単騎であったなら、大した痛痒にもならぬ攻撃であったといえる。しかしこの凶器の嵐の只中に、主である士郎までもがいることが致命的だった。

 

 どうする?

 

 彼を抱えて跳躍し、鋼線の罠を避けると同時に磊落する石の雨の中に己が剣戟で道を切り開くのか?

 

 それとも四方から迫り繰る糸を断ち切り、主と共に石の飛沫の及ばぬ範囲まで跳び退くのか?

 

 セイバーはコンマ数秒のうちにそれぞれの対応策の可否を己が直感に問うていた。しかし、――駄目だ! いずれの方法も主の安全を確保できる保証は無く、さらには回避の後の一瞬の隙に、無防備な状態で更なる追撃に晒されることになる。

そうなれば如何にセイバーといえどもマスターを守りきることは叶わないだろう。

 

「セイバーッ!」

 

 そのとき、背中越しに彼女を呼ぶ声だけが耳に届いた。切迫するのでもなく、狼狽するのでもない。ただ澄んで、揺るがぬ声だった。

 

 それは信頼と覚悟の証だ。たとえどんなに危険な状態であろうとも、間違いなくセイバーを信じ抜くと言う絶対の信頼がその一言に込められていた。

 

 それを過たず聞き取ったセイバーの顔からも、惨とした表情が抜け落ち、力強い微笑が戻る。強い力が、体中に満ちていくのが実感できた。そうだ、怖じる必要などない。

 

 そも、英雄とは奇跡を担う者をさす言葉! 故にこの程度の危機は彼女たちを窮する脅威と呼ぶには程遠い!

 

 セイバーは眼を閉じた。それは石片の鈍い角刃が、迫る斬糸が彼女の金の前髪に触れようとした瞬間だった。

 

 それを見つめていたものたちはただひとりの例外もなく、眦を決したように目を見開きそれに魅入っていた。舞っている。瀑布の如く降り注ぐ石雨と、触れれば裂ける死の糸の渦とが交差する決死の嵐の中で、流麗なる星の輝きが妖精の如き剣舞を舞っているではないか。

 

 セイバーが選択したのは、迫り繰る二つの脅威の内一つを撃墜し、もう一方を回避するというものではなく、総ての脅威を己が剣によって打ち払うというものだったのだ。

 

 その脅威の群が目視の叶わぬ雨と風の大嵐だとするのなら、己が目に依らなければいいだけの話だ。

 

 彼女は判断の総てを己が「直感」のスキルに任せ、迫り来る危機の内から真に致命に到るものだけを紙一重で選別し、それを集中的に迎撃していったのだ。そうすることで、敵の攻撃を回避した後であっても隙に付け入られることもない。

 

 そして未来予知にさえ等しいといわれる危機感知能力と、最良の異名をとる剣士のサーヴァントの潜在能力は、見事にその危機を乗り切って見せたのだった。

 

 そして旋刃磊落の嵐は去り、彼女とその主はようやくこの襲撃を行った凶手の姿を見つけていた。

 

 百メートル以上も離れた高い鉄塔の上、そこから爛と閃く視線が、濛々と立ち込める土煙を隔てて千の星の光を束ねたかのようなセイバーの貴姿を静かに見つめていた。

 

 その二つの瞳はまるで別の表情を湛えながら眼下にいる二人を、ただ見つめているだけだった。己の奇襲が何の効果ももたらさなかったことなど何の斟酌もしていないかのように。

 

 月を背にする無機質なシルエットはひどく清潔な印象を与え、白い貌と黒鋼色の長い髪の陰影が簡素なモノトーンの輪郭を際立たせる。

 

 ただ、それが彼女の容貌を凡庸なものにしているかといえば、決してそうではない。誰もが一目見たのならば忘れることの出来ないであろう、宝石を想わせる大粒の二色の瞳(オッド・アイ)。その薄いグリーンとブラウンの色違いの双瞳のもたらすコントラストが焼きついたように目から離れない。

 

 それが敵であるかの判断以前に、それが本当に人なのかと言う疑念こそがまず先に立つ。それほどに、その無機質な存在感と煌めく双瞳は常人とは一線を画くほどに美しかった。

 

 しばし言葉を失う両者を見下ろすでもなく睥睨するでもなく、ただ真っ直ぐに見つめてくる色違いの視線。

 

 少女は言葉もなくただゆっくりと片腕を掲げあげる。すると背後の月輪がやおらに飛沫を跳ね上げた。銀色の弦糸が月夜の虚空に戦慄き、それらはまるで今まさに得物に襲いかかろうとする獣の下肢の如くこわばりを増していく。

 

 しかしそこで、その少女の挙動を遮るかのように凛とした声が当たりに響き渡った。

 

「――待ったァッ!!」

 

 セイバー達のいる地点から十メートルほど離れた場所。丁度そのニ色の瞳の少女を背にする形で、その戦士の姿はやにわに実体化を果たした。煌めきと共に現れ出でたのは一人の荘厳なる、紛れもない伝説の具現であった。

 

 そこからでも、対峙するセイバーと比しても頭一つ分以上はゆうにある上背と重厚な装甲を纏う堂々たる体格が見て取れた。しかし、今の硬質でありながら伸びのある声質から察するにこの戦士もまた女性であろうと察せられた。

 

 だが、その姿を前にした二人が今度こそ呆けたように声を無くすしかなかったのには別の理由があった。

 

 いかなる神の工法がこのような奇跡を現に織り成すというのか、その戦士の纏う凱甲は月光を弾いて輝くに止まらず、光を呑んで透化させている。

 

 その材質は金属でない。ましてや獣皮や布木などではありえない。強いて言うなら鉱石だ。まるで白乳に煙ぶる紫水晶(アメシスト)

 

 輝ける多面体で構成されたその甲冑は、造詣こそ粗暴にして無骨でありながら、荘厳と呼ぶにはあまりに美しすぎた。どんな豪奢に彩られた鎧飾りにも劣らぬ美の甲殻を、この戦士はまるで当然のように纏っていたのだ。

 

 そこでセイバーに向けて揚々と声を続けたのは、その紫晶甲の女戦士の方であった。

 

「先の奇襲は礼を欠いたようであったなァ。まぁ許せ。我がマスターは麗しき外見(そとみ)に反して、ことのほか性急なようでなァ」

 

 重厚な兜の奥に隠れて戦士の顔は窺い知れないのだが、唯一覗く口元だけでも彼女がひどく上機嫌なのはわかった。

 

「さて、それではぶしつけでアレなんだが、一応問うておこうか。貴殿はサーヴァントで相違ないな?」

 

 一見呑気そうに聞こえる声音は、しかし鈴の音というにはあまりに鋭く、硬質な響きを孕んでいた、それはむしろ剣戟に鳴る刃の響きを連想させた。

 

 本当に聖杯戦争が再会されているというのか! 今その眼前に提示されたセイバー以外のサーヴァントが現界しているという揺るがしようの無い事実。

 

 士郎は不可解なる驚愕を、セイバーは思考に先んじた直感的な確信を持ってその事実を受け止めた。

 

 しかし――彼女たちの目的はあくまでこの怪異の解明である。今はともかく襲撃の件を棚上げにしてでも事情を聞き出す必要があった。セイバーは対峙する戦士の話に応えて疑問を口にしようとした。

 

「いかにも。……だが、問うのはこちらが先だ。なぜいまさら――――ッ!」

 

 だが戦士は応えず、ただ微笑しながら肩に担いだ大槍――これも甲冑と同様に煌めく多面体で構成された鉱石の彫像であった――と、長くしなやかな四肢を大仰に振るい、執り成した。

 

「礼を欠いたことの――」

 

 そこでセイバーは気付いた。

 

「――償いは我が槍にて為したい――」

 

 この相手が、最初(ハナ)からこちらの返答などまったく聞く気などなかったのだということに。

 

「――――いざァッ!!」

 

 裂帛の気勢。そう、元よりこの女戦士はこれ以上眼前の敵と言を交わすつもりなどなかったのだ。最低限の礼としての挨拶は済ませた。ならばもう、後は刃を交えるのみ。それがこの女戦士の思考なのであった。

 

「……下がってください。シロウ」

 

 セイバーは自分でもいつからそうしていたのか気付かぬうちに、迎撃の用意を終えていた。もしかしたら、あの戦士とその侠気とに対峙したその瞬間から、彼女はこの戦闘が避けられないことを悟っていたのかもしれない。

 

「セイバー……」

 

 問答をしているような場合ではないことは、士郎にも過たず理解できた。

 

 一瞬でも気を抜けば、あの戦士の殺気と槍の穂先が刹那のうちにこちらの首を諸共に落とすだろう。この戦士はこの場に現れたときから既に針が振りきれる寸前の臨戦態勢であったのだ。

 

 斜に構えたセイバーを見止めて、煌めく兜の隙間から覗く口元がニッと口角を吊り上げて笑う。

 

 厚い口唇が可憐に歪んだ。

 

「――んじゃ、始めるか……っと、オオ、そうだ」

 

 そこで不意に何かを思い出したように、ランサーは獣が獲物に跳びかからんとするような姿勢もそのままで、器用に背後へ言葉を投げる。

 

 いつの間に下りてきていたのか、そこには先ほど百メートルも離れた鉄柱の上にいたはずの白衣の少女の姿があった。

 

「一応言っておくが――邪魔だけはしてくれるなよ? マスター」

 

 少女もすでに自分の攻撃ではセイバーを撃破することが叶わないであろうとこを推し量っていたのか、おとなしくその言葉に首肯した。

 

「分かりました。ここはアナタに任せます。……ですがランサー、何度もいうようですが、あなたの……」

 

 豪壮たる女戦士は、言いさした主の言葉を最後まで聞くこともしようとせず、走り出していた。

 

 その総身に紅水晶の輝きを煌めかせながら、夜の静謐を埋め尽くさんばかりの灼熱は今、眼前の玲瓏たる騎士に向けその抑え切れぬ熱量の捌け口を求めて吼え猛る。

 

 その真紅の瞳を、ただ血色の愉悦に染め上げながら。

 

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」-4

 その日の陰りは異様なまでに速かった。

 

 陽光は夕焼けを待つまでもなく紫色に変わり、すぐに街を暗青色の帳で包み込んでしまった。

 

 地方都市のイルミネーションは大都市のそれとは比べるべくもないが、それでもその輝きはいつもなら日の翳った街にそれなりの賑わいを齎してくれるはずだった。

 

 しかし今宵の冬木は様子が違った。繁華街にも人影は少なく、まるで海の底のように静まり返っている。誰もが貝の用に押し黙り、そそくさと家路を急いでいた。

 

 誰もが声に出さずとも感じ取っているのだ。こんな夜は出歩いてはならないと、この街のいたるところに刻まれ、残されていた惨劇の記憶。物に記憶が残るように、街もそれ自体が過去の出来事を記憶している。

 

 日常からそれらに触れ、慣れ親しんでいた住人たちは己の意志とは無関係なところで本能的な防衛行動へと追いやられていたのだった。

 

 ――その影は深海を想わせるほどに静まった路傍の陰影の中を、居並ぶビル群の隙間から齎された月光の恩恵すら拒むかのようにして、薄闇からより深き暗がりへと、ひたすらに澱んだ陰りを求めて疾走していた。

 

 もはや人とは思えぬ身のこなしであったが、その影は確かに人の形にみえた。

 

 それはきわめて異様な風体の男であった。

 

 男の名は誰も知らない。ただ、彼を天敵と呼び恐れるサンガールの血族だけは、その狩人を通称D・Dとだけ呼称していた。

 

 その男には色がなかった。その屈強な総身をあますことなくモザイクが覆っている。

それは鱗であった。男が身に纏う外套、その下のボディ・アーマーにいたるまでの表面を無数の鱗片が不規則な配列で覆っている。 

 

 その鱗片の一つ一つがそれぞれに別の色のグレーによどんでいる。まるで周囲の光を侵食して取り込んでいるように見えるのだ。

 

 それがまるで保護色のように薄闇の中で光を鋳潰しながら、男の輪郭をぼやかせていた。

 

 加えてその面相もまた窺い知ることはできなかった。その顔は奇異なる仮面によって秘されていたのだ。

 

 しかし異様な仮面であった。面以外の部分、側頭部や後頭部はその他の部分と同じように大小さまざまの鱗片がスケイル・アーマーの如く覆い隠しているのだが、その面だけは趣が違った。否、それを面と読んでいいものか。

 

 その造詣には凹みがなかった。まるで鏡をおもわせる磨き上げられたなだらかな凸面だけが細った月の如くそこに張り付いているのだ。

 

 奔る。常人の目にはその残像すら捉えられぬほどの俊足を持って夜を翔ける。その速度だけで、この怪人が条理の外を歩む者なのだということが容易に窺い知れた。

 

 しかしそこで男は唐突に立ち止まった。感じたからだ。確かに――なにかを。

 

 辺りには何者の影もない。見えず、聞こえず、匂わない。しかし、確実に何かがいる。

 

 肌がざわめき、皮下にへばりつくような奇怪な感覚だけが渦を巻いて総身を駆け巡った。

 

 しかし、男には動揺もなければ焦りもしない。今この地に足を踏み入れるなら予期して当然の事態だ。この街は、この夜は、既にまぎれもない死地に他ならないのだから。

 

 懐で、鞘込めのまま携帯していた短剣が奇怪な振動によって不可解な鳴動を上げ始める。まるで危険が迫っている事を担い手に知らせようとするかのように。

 

 それが呼び水となり、敵の姿を視認する前から男の中で迎撃の態勢が整っていく――。

そのとき、確かに感じ取っていたそのなにかを捉えていた感覚が直覚から別の感覚へとシフトした。

 

 音。聴覚だ。

 

 静かに鳴り響く短剣の調(しらべ)とは異質な、そして聞き逃すにはあまりにも奇怪な響き。

 

 それは靴音だった。固い上質な靴底が石畳を軽快に踏み叩くような澄んだ残響。奇怪なのはその甲高い響きがただの一度だけしか聞こえないことだ。

 

 モザイクの男は、総ての感覚を総動員してそれを探す。捉えたのはまたもや聴覚。

 

「――――ッ!」

 

 不意に押し殺すような笑い声が沸き起こった。それは男の足許から聞こえてきている。

 

 (そぞ)ろに動き回る無数の気配が、彼を取り囲んでいた。明らかに人のものではない。

 

 しかも、いるのは一人や二人ではない。声は子供がはしゃぐような笑いではなく、仕事を終えた工夫たちが盛り場で噂話でもしているような喧騒さえ感じ取れる。しかし足許には無論そのような影などあろうはずもない。

 

 次いで感じ取ったのは殺気。男が足許の笑い声に気を取られた数瞬の後、豪雨の如く頭上から降り注いだのは、風切り音ととも舞い降りたの流星の群れ。

 

 先ほどの疾風の如き走駆でさえ、この怪人にとっては児戯にすぎなかったというのか。その加速性能はミサイルの雨をおもわせる魔弾の雨を舞い散る木の葉でも見送るかのように完全に回避していた。

 

 魔弾の雨に穿たれたアスファルトは爆ぜたように穴を穿たれ、捲り上げられたように破砕されていた。

 

 男の視線はアスファルトに穿たれた穴の中心に注がれる。その魔弾の核となったであろうそれを見止め、くぐもったような声をあげた。

 

「これは……っ!」 

 

 アスファルトを抉り取り、深々と突き刺さっていたのはなんとも頼りなさげな木の枝であった。今摘み取られたかのように瑞々しい、その小枝はケルト、及び北欧の魔術における触媒として多用される奇生木(やどりぎ)の小枝であった。

 

 推察(プロファイル)を完了する材料はそれだけで充分だった。相手は魔術師。しかもその技量は一流――もしくはそれ以上!

 

「――良い夜じゃのう。こんなときは月に見とれて寄り道してみるのもいいものじゃ。思いがけず幸運を拾うこともあるのでな」

 

 豹の如く周囲に意識を張り巡らしていた男の完全な死角から、老獪な声は語る。闇間から姿を現したのはまるで総身に裏打したかのような厳格さと優雅さを随所に覗かせた紳士であった。

 

 その姿勢、その立ち振る舞いには声の老獪さから察する老いなど微塵も感じさせていない。手には捩れた樫材の杖を持ち、漆黒の外套を纏いて深々と帽子をかぶったその様はまさしく老練の魔術師と呼ぶに相応しい。

 

 男が驚愕したように声を荒げた。

 

「――ワイアッド・ワーロックッ!」

 

「ほほう、ワシを知っとる……か。さてこんな無礼者の知り合いがいただろうかのぅ――(おもて)を見せい!」

 

 再度射出されるヤドリギの矢。その一連の動きには何の予備動作もありはしなかった。

 

 矢は夜気を裂くほどの魔力の筋を残し、空を切った。

 それは男の鏡のような仮面に擦過して、その鏡のような仮面を弾き飛ばす。男が銃火器の正射すら目視してからそれを躱せる程の体術を持っていたことを考慮するなら、ただそれだけの初等魔術がどれほど高密度な魔力と卓越した魔術式によって組まれているのか、その手練が窺えたであろう。

 

 男はまたくぐもったような声を漏らし、ついで思い出したかのように怨嗟の声を張り上げた。

 

「――貴様ッ!」

 

 それを見た老魔術師――ワイアッド・ワーロックも暫し口を噤んだ。しかし年代物の色眼鏡と唾広の帽子が作り出す陰翳のせいでその表情はようとして窺いしれない。

 

「……なるほど、知った顔のようじゃな。……貴様、なぜこんな場所におるのだ」

 

「――アサシン。先に行け」

 

 男は問いかけを無視して己がサーヴァントに指示を下した。その声に応えることなく、老紳士の背後、闇にぼやけた影の中で隙を窺うかのように蠢いていた無色の気配がそっと擦れて消えるかのように遠ざかっていく。

 

 無論、とっくにそれを看破していた老紳士はなんの斟酌もなくそれを見送った。しかしその気配には幾許かの懐疑の念が混じる。

 

 確かに殺気立つ敵を前にしながら己がサーヴァントと別行動をとるというのは正気の沙汰とは思えぬ判断であったが、ともかくこの怪人には優先すべきことがあったのだ。

今現在、目指す海上の一所にはサンガールの後継者たちと、そしてあの怨敵が、今はテーザー・マクガフィンと名乗るあいつが、すぐ手の届く範囲にいるのだ。

 

 一網打尽できるとまでは考えていななかったが、ともかく奴の寝床だけでも知らなければならない。

 

 無論、彼がサーヴァントを自衛のためではなく本来の目的を優先させるため手放したことも、単なる暴挙ではない。 

 

 おそらくこの儀式に呼ばれたゲストというのがこの因縁浅からぬ魔術師、ワイアッド・ワーロックなのはこの状況から確定だ。それが何故この儀式に参加しているかは慮外であったが、この場合はそこに言及している場合ではない。

 

 だが、それゆえにこの敵の思考や行動にはある程度の予測が立てられる。この怨敵はなぜか現在サーヴァントを伴ってはいない。たとえ霊体化していたとしても、この距離で完全にその気配を遮断できるサーヴァントは彼のサーヴァントであるアサシンのみ、ゆえに、ワイアッドが己の英霊を呼ぶには令呪を使用して遠方にいるはずのサーヴァントを強制召喚しなくてはならない。

 

 この老紳士が貴重な令呪をそのようなこと――つまり彼我の戦闘――に使用するほど無謀な性だとは思えないということ。

 

 何よりも、彼は別段この敵を倒す必要などなく、そしてサーヴァントに依らずとも眼前の敵から逃げおおせるだけの算段が既についていた。

 

 敵が守りの要たるサーヴァントを手放したことをどうとったのか、沈黙する怪人を眼下に見下ろしながら、老紳士は語りかける。

 

「――さて、なぜここにいるか、諸々のことはさて置くとして。サーヴァントを連れとった以上は貴様もこの儀式に関っとるのは間違いないようじゃな。と、なればわしもマスターとして貴様を見逃す手は無い、ということになるのう……」

 

 マスターがマスターを殺す。それがこの聖杯戦争という儀式である。しかし、互いをマスターと確認しあう以前から、彼等は互いを敵だと認識していたのではなかったか。

それは今しがた互いの素性を知り合ったときからでも無く、それよりも遥か以前からこの二人の男たちは互いを明確な敵だと判じていたのではなかったか。

 

 とかく、この両者がいかなる縁にて相通ずる間柄なのかは、いくらこの場で両者の文言を斟酌したところで決して推し量れるものではないだろう。

 

 何よりも、それはこれより幾許の間、彼らを包囲し、いざなうであろう殺戮と戦闘の予感には全く関係のない事柄なのは確かであった。

 

 ――これ以上の問答は不要。モザイクの男はそう判じ、外套の下で得物の冷たい感触に手を伸ばした。確かに予期せぬ誤算ではあったが、こんなことで時間を無駄にしている暇はないのだ。

 

 たとえ何者であろうとも邪魔だけはさせない。そう、たとえ、それが何者であろうとも。

 

「――参る」

 

 雲間からのぞいていた月光が群雲に覆い隠された刹那、不意の暗闇の中で老紳士の放ったその厳かな声音に、色の無い男の無声の音波が重なった。

 

 それ以上の言葉は紡がれることなく、今宵この冬木において二度目の殺し合いがその幕を開いた。

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」ー5

 決して比喩ではなく、そこは戦場であった。

 

 辺りには燃え殻のような匂いが立ち込めていた。アスファルトの足場は田畑のごとく畦を穿たれ、其処(そこ)彼処(かしこ)に投げ出された無数の武器が林立している。闇の中で打ち鳴らされる怒涛の如き剣戟は列火の華を乱舞させ、夜の帳までをも引き裂いて辺り一面を白昼のごとく照らし出していた。

 

 甲高い音が幾重にも響き渡る。連続する残響と残響とが大気の怒濤を生み出しては同時にそれを掻き乱していく。突いては離れ、再三の激突を繰り返す二つの影は、破壊しつくされた外人墓地から街路樹の連なるなだらかな坂道にその戦いの場を移していた。

 

 まさに戦場。先ほどから眉の一つも動かさずにいる白い外套の少女――ランサーと呼ばれた女戦士のマスターも、これには驚愕の色を隠しきれない。たった二体の人ならざる御霊にこれほどの破壊を許すというのなら、もはやそれこそが至上の奇跡と呼ぶべき現象なのではないだろうか。

 

 ――夜気に剣閃が奔る。

 

 ――虚空に火花が咲く。

 

 ――薄闇の大気が轟く。

 

 それらは瞬きほどの間に幾重にも繰り返され、生み出された暴風と熱量とが世界を侵食していく。

 

 これこそが英霊を英霊たらしめている所以だ。まさしく世界を削り、そぎ落とし、磨き上げたと語られる神々の所業。

 

 それは創世の再現であるかのように映っただろう。これが聖杯戦争。たった一つの奇跡の願望機を求めて集う、魔術師たちと英霊による外法の饗宴。

 

 しかし、戦闘が始まって以来、常に敵を追い詰めているかに見えるセイバーは未だ決定打を放つことが出来ないでいた。

 

「はあああっ!」

 

 一閃。セイバーが振るう渾身の一撃が透き通る躑躅(つつじ)色の盾を砕き、透光に煌く左肩の甲冑を抉った。敵の武器と装甲を砕いたセイバーは追撃を放つべく至高の宝剣を振りかぶった。対するランサーは後退しながらも既に用を成さぬ盾を放棄する。

 

 当然、丸腰のランサーにはセイバーの猛攻を防ぐことなどかなうはずもない。――勝機!

 

 だが次の瞬間、空になったはずのランサーの両手にはあろう事か、煌めく双剣が握られていたのだ。

 

「フッ――」

 

 ランサーは後退の速度を緩めることなく、セイバーの踏み込みに合わせて左手の短剣を敵の足元に投げ放つ。と、同時に右手の長剣で上段から斬りかかってきた。

対処しづらいとされる対角線のコンビネーション。

 

 ――超高速で繰り出された上下のニ連撃は確かに一線級の鋭さを持っていた。しかし、それ自体は決して予期し得ない戦法でも、奇抜と呼べるような戦術でもない。なべても、最優の剣の英霊たるセイバーにとっては大した障害にもなるはずもない。

 

 ――にも拘らず、セイバーはその敵の一挙手一投足に対して必要以上の警戒を余儀なくされていた。

 

 飛来する輝剣を上段からの打ち下ろしで弾き、返す刀でその隙を突こうとしていた二本目の剣を横薙ぎに叩き落す。

 

 セイバーはそのまま振り切った刃筋を流れるように返し、空手になった敵の脳天にふたたび大上段からの渾身の剣撃を叩きつけようと仰け反りかえる。

 

 後退することしか出来ないランサーと、それを追い立てるセイバー。どう見ても、戦いの趨勢は圧倒的にセイバーに傾いている。傍目に見れば、戦況は確かに.そのように見て取れた。しかし――。

 

 そのとき、剥き出しになったセイバーの白い喉に、無数の爪が剥き出しの頭蓋を掻き毟るような、不快な音を立てて伸びてくる三本目の煌刃がそこにあった。

 

 それは白銀に煌めく彼女の胸元の甲冑を抉りながら、今まさに敵を両断せんとするセイバーの死角、顎部の真下から垂直に現れたのだ。

 

「――――――ッッッ!!!?」

 

 首筋が泡立つような直感でそれを悟り、目視もかなわず体を投げ出したセイバーはそのまま空転して体制を立て直し、大きく後退した。

 

「――くッ!」

 

 またもや同じ展開の繰り返しであった。

 

 度重なる剣戟の末、幾度となく、後一歩のところまで敵を追い詰めながらもその総てが徒労に終わるという結末に、セイバーは声もなく臍をかんだ。

 

「――ハッ! 今のを躱すか! いい勘してるなァッ、セイバー」

 

 対照的に再び距離を取ったランサーは、なんの斟酌も見せずに兜の奥の口元に微笑を浮かべている。無論その双手は未だに無手だ。

 

 その火のような闘志とは裏腹に、敵に先手を譲りあくまで後の先を取ることに専念するというランサーの戦法は初見から察する彼女の嗜好性から見ても意外ではあった。

 

 しかし、それ自体は驚くことではない。溢れんばかりの闘志をその身に秘めながらも決してそれに溺れることなく、冷静な判断を下せることは最良の戦士の条件のひとつだ。

 

 それだけならばセイバーもこの相手を唯、それなりの難敵だと判じ従来どおりの戦法で相手を斬り伏せることに集中できただろう。

 

 だが、問題はランサーが扱う武装だった。

 その両手には当初から携えていたはずの長槍も、セイバーの先の踏み込みに備えて執った双剣もありはしない。では、先程死角からセイバーの喉を狙った三本目の剣はどこにいったというのだろうか。

 

 それはランサーの右膝を覆う脛当てから突き出ていた。否、それだけではない。その脛当てには一面膝の剣に倣うように仄かな紅の鉱石が列を成して突き出ている。その様相は血に濡れた鮫の歯をおもわせて禍々しい。

 

 無論、セイバーの不意を突いたそれは最初からそこに用意されていたものではない。セイバーが必殺の一撃を放とうとした刹那、ランサーの纏う膝当てが突如としてその形態を変容させたのだ。

 

 セイバーがランサーに対して後手に回ることの出来ない理由。そのひとつがこの武装特性であった。

 

 彼女はこれまでの戦闘で二〇を越えるランサーの武装を破壊し、打ち落としていたが、その度にあの煌めく装甲の一部が甲冑から外れ、硝子の割れるような音と共に変形して新たな武装を形成するのだ。

 

 それは装甲自体を砕いたときも同様であった。砕かれ、抉られて破壊されたパーツはそのまま破棄(パージ)され、その下から突き出るように新たな装甲が形成されるのだ。

 

 今もまた、抉られた左肩の装甲はひとりでに外れ、甲高い音と共に僅かの傷もない新たな外殻が生え変わった。逆に右膝の刃の列は音も立てずに装甲の中に格納されていく。

 

 セイバーは確信しつつあった。ランサーの宝具はあの煌めく具足そのものだ。

 

 あらゆる武具に換装できる甲冑を持つがゆえに、あの戦士は偶然に槍の英霊の座に据えられたに過ぎない。槍兵とは名ばかりの英霊なのだ。

 

 事実、ランサーがいままでに使った武装は何一つとして同様の物がなかった。何本もの槍や大鎌といった長柄、手斧に丸盾、さらには多節に分解する棍棒、そして双剣。加えて鮫の歯のような脛当といった分類できないような凶器まで。

 

 傍目には一方的にランサーを追い詰めているように見えるセイバーだが、実際には四方八方から飛び出してくる予測できない攻撃に翻弄されていたのだ。

 

 これでは姿の見えない無数の敵に囲まれているのも同然である。故にセイバーは後手に回るわけにはいかず、常に先手を取って攻撃に徹するという方法でしかランサーの多変装甲に対処することが出来なかったのだ。

 

 この相手。まるで戦場の申し子とでもいうような戦士であった。

 

 その生涯を通して戦いに生きたという英霊は決して少なくないが、これほどまでに闘争そのものを象徴するような宝具は見たことがない。勝つことで無く、殺すことで無く、生き残ることで無く、ただ戦うための宝具。

 

 まさしく軍神とでも呼びたくなるその在り様。間違いなく神代の英雄であろう。まだまだ底の見えない敵の能力のとその宝具特性に、セイバーは胸のうちに徐々に湧き上がってくるような熱狂にも似た戦慄を感じはじめていた。

 

 一旦己から距離を開けたセイバーは動きを止めず、タイミングを計る。間合いの利があるのは向こうだ。このように開けた場所では止まったとたんに狙い撃たれるのは必至。

 

 ――だが、そこにこそ穿つべき一抹の勝機がある。

 

 案の定、彼我の間合いが開けたとみるや、ランサーが次に用意したのは遠距離用の投射兵装であった。

 

 突き出された左腕部の光り輝く装甲はひとりでに分解し、繁茂する若枝のごとく伸長して豪奢な弓を成した。同時に、折り重なっていた右肩の装甲は雛鳥の嘴のごとく口を開く。 

 

 その中には二〇ほどの突起が規則正しく列を成している。ランサーが右手でその突起を引き抜くと、それらは引き伸ばされた飴細工のように変じて細身の矢へと変じた。

弓も矢も、共に紅い月の残光を思わせる流麗にして煌びやかな輝器であった。

 

 ――良し!

 

 そこで、敵の次なる武装が既知であることを吉兆と見て取ったセイバーは、ここであえて動きを止め、ランサーを真っ直ぐに見据えて体制を整えた。

 

「――――?!」

 

 セイバーの不適な視線は矢を番えるランサーの挙動を、逆に射抜くかのように鋭い。

 

 ここで初めて先手を譲られる形になったランサーはしばしそのセイバーの佇まいを見据えた後、不意に兜の奥に得も言われぬ微笑を浮かべた。と見るや、一切の躊躇なく引き絞った矢を連続で正射した。

 

 対するセイバーもアスファルトを蹴って臆することなく矢面に立つ。

 

 焦れるような一瞬の静寂を置き去りにするかのように、弾けた両者の初動はまったくの同時であった。立て続けに瞬く輝弦の煌めきは、息をもつかせぬ速射の表れであったが、セイバーはそれを最小限の動きだけで躱し、残像を置き去りにするかのような速度で前進する。

 

 いかなる投射兵器であれ、真正面から放たれたならばそれはセイバーにとっての脅威とはなりえないのだ。

 

 ――取った!

 

 ランサーが十余の矢を撃ち尽くす頃、セイバーは既に一足一刀の間合いまで肉薄していた。このまま勢いに任せ、未だ弓を構えたままの槍兵の首を落とすことはあまりにも安易に思えた。

 

 セイバーは下段に構えた聖剣の柄を握り締める。絶好の間合い、絶好の勝機、確信に似た必勝の予感は、しかし――否、だからこそ仕掛けられた凶刃の陥穽に他ならない。

 

 無意識の直感がセイバーの足を強引に押し留めたその刹那、今まさに踏み込もうとした空間に視界の端の薄闇から幾つもの三日月が煌きながら躍り出た。弧を描いて旋回するその輝きは、やはり白濁で飾る紫水晶。

 

 おそらくは矢の正射と共に、セイバーから見て死角となる背面の装甲から直接虚空へと放たれた物だろう。

 

 弧を描くようにして飛来したそれは、一見して凶器には見えぬほどに優美な刃だった。

 

 月牙と呼ばれる、三日月の形を模した暗器である。それは透光に彩られる美しさとは裏腹に、音も無く敵の首を両断するであろう鋭さを窺わせる、まぎれもない鋭角の凶器であった。

 

 何の技巧もない真正面からの矢の投射と見せて、それを前にしてもなお後退することは決してないであろう敵の思考を読みとり、必勝を期させることで作り出した死角からその首を狙う――。

 

 それは至極単純でありながら、戦慄するには充分すぎる狡知の策略であった。

 

 たたらを踏んだセイバーは、再び正射された矢雨から逃れるために夜気を裂くような速度で後退する。

 

 しかし、謀れたにもかかわらず、いまセイバーの胸中を占めるのは鮮烈なる闘志だけであった。湧き上がるような戦慄は苛烈なまでの燃焼剤とへ変じ、胸の篝火を焚きつけていくようだった。

 

 ランサーは確かに多彩な武器を所有しているが、いくら大量の武装を持っていたとしても、それを使いこなせないのでは宝の持ち腐れに過ぎない。ランサーはその総ての武装を十全に操っており、繰り出される攻撃は総てが一線級の鋭さを持っていた。

 

 ――惜しい。

 

 疾走を続けながらも、セイバーは胸の内にて声なく震えた。

 

 彼女とて、その妙技に思うところがないわけではないのだ。しかし、いま知らなければならないのはなぜ現れるはずのないサーヴァントが現界しているのかであり、ここでいたずらに戦闘を長引かせるわけにはいかない。

 

 一刻も早くこの敵を制し、事情を聞き出さなければならないのだ。

 

 それでもセイバーは己の全身に満ちる闘志が、密度を増していくのを忌避できなかった。かつて幾度となく戦場を駆け抜けた戦士としての血が今、溢れんばかりに滾っている。

 

 それはこの空気のせいだ。夜の静謐を塗りつぶすほどの熱量と共にランサーの周りから巻き起こる甘美なまでの闘争の気配が、沸騰する夜気を介してセイバーにも伝染しているのだ。

 

 間髪をいれずに降り注ぐ群雷のごとき輝矢の雨。後退してそれをかわしながらも、セイバーはその身を焦がすほどの熱が否応なしに自身のギアを加速していくのを感じていた。

 

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」-6

 

 水面が写す空の色は、既に夕焼けを待たずして茜色から星すら見えぬ夜のそれへと変じている。

 

 漆黒の夜の足元で、流動する闇が静かにうねり、微かな潮騒の音を運んでくる。嵐が、近いのだ。

 

 そこには音も無く進む一隻の小船の姿があった。

 

 ひどく襤褸で、今にも朽ち果ててしまいそうな、廃棄寸前の代物だった。おそらくは港の端にでも捨て置かれたものであろう。

 

 しかし奇異なのは、それがまるで強烈な引力によって引き寄せられていくかのような、尋常でない速度で暗い波間を掻き分けていくことだ。

 

 黒々とした海面に白波の線を引く船の上にはひっそりと佇む影があった。周りの闇と海の色にまぎれるような黒塗りの衣布を頭から被り、ただ狭い船上に独りで直立する様からは年齢も性別もようとして知れない。

 

 ボートは夕刻も差し迫った黄昏時に、人知れず冬木の港を出た。それから半刻ほどの間こうして絶えず海上を馳せているのだから、ここは既にかなりの沖合いということになる。

 

 ――はたして、なにゆえに監督役は斯様な場を会合の場として指定してきたのだろうか、それほどまでに警戒しなければならない敵が、まさかこの地にいるとでも言うのか? 

 

 彼は沈殿していく自らの思考の澱が、要らぬ懐疑と焦燥を呼ぶことを忌避するようにして、誰に向けるでもなく闇に向けて声を上げた。

 

「キャスター、もっと速くならないのか? もう時間がないぞ」

 

 返答などあろうはずもない余人の姿無き船上で、その声に応じたのは果たして夜に伝い響いた、声ならざる玉響(たまゆら)であった。

 

『これ以上速度を上げますと、船体のほうが持ちません。目的地まではもうじき着くはずですのでご安心を』

 

 この古びた小船には、無論のこと推進器の類は設置されていない。

 

 にもかかわらず、それが水上を本来ありえないほどの速度で滑走できたのはこの姿無き魔術師のサーヴァントの手練であった。彼女の繰る怨霊と水妖の群が、黒い水面の下から船底を押し上げてただ浮いているだけの朽ちたボートを貨車の如く牽引していたのだ。

 

「……まったく……」

 

 黒衣に身を包んだ少年は三度愚痴をこぼそうとして、それを取りやめた。

 

 本来ならばもっと余裕を持って来たかったのだが、森の城を抜けてくるのに思いのほか手間取ったのだ。

 

 理由はただひとつだ。留守番するよう告げたにもかかわらず、鞘は一人で城の中に残るのがいやだと駄々をこね始めた。キャスターがそれを根気よくなだめ、どうしても同伴できないことがわかると、彼女は「じゃあ、いい!」といってふてくされたまま二人に先だって街に出かけてしまったのだ。

 

 確かに日用品が足りていないので近々買い出しにいく必要はあったのだが……。

 

『……なにも、こんな夜半に出歩くこともないと思うのですけどね。無茶をしないといいのですけど……』

 

「だから言ってるだろうキャスター。ああいう奴になにを言ってやったところで結局は無駄になるんだ。……それより、もうちょっと緊張感とかあってもいいんじゃないのか!?」

 

 気配だけの従者が、傍らから気の抜けたようなことを言うのを声ならざる声にて聞き、カリヨンはおのずから意図して噤んでいた口を決壊させ、堰を切ったように叱咤を始めてしまった。

 

 霊体化したサーヴァントは実際には口頭での意思疎通が出来ず、その手段はパスの繋がったマスターとの霊感を通してのものになるわけだが、それでもキャスターの呑気振りはカリヨンにもありありと感じられた。

 

 今から殺し合いを演じることになる相手たちと直に対面を果たそうというのだ。だというのに、このサーヴァントはもうちょっと何とかならないのだろうか?

 

『はあ……そう言われましても……』

 

 さも困ったような声を上げるキャスターに溜息ひとつ残して、カリヨンは再び押し黙った。

 

 喉も口内もひどく渇いていて、それ以上話すのが億劫だった。彼のほうは逆にひどい緊張感に吐き気すらおぼえているというのに。

 

 とはいえ、鞘をこの場につれてくるというのは論外の選択であったのは事実だ。そもそもこの儀式がどうしても七つもの席を必要としているということが、サンガールの後継者たちにとっては蛇足としかいえないルールなのである。

 

 用意しなければならない席は七つ、後継者は四人、そして儀式の成立に手を貸したというゲストが一人、残りの二つは全く放置の状態だ。

 

 監督役の話では、余りの席には取るに足らない有象無象が入ることになるだろうが気にする必要は無いということだった。もっとも、カリヨンはそのひとつに無粋な厄介者がしっかりと入り込んでいることを既に知っているのだが。

 

 間もなくボートは静止した。薄墨のような靄が烟り、振り返ってももう冬木の明かりは見えない。

 

 ようやく指定の海域に着いたのだが、案の定ここにはなにも見当たらない。さて、このまま船を寄せ集めて話をしようとでもいうのだろうか?

 

 訝っていると、キャスターが耳打ちをするようにある方を示した。それを見上げ、少年はあっと声を上げた。彼もさすがにこれには驚嘆を禁じえなかった。

 

 漆黒の霧が掛かったような、一帯の靄の如き闇の中から彼の視界にまろび出たのは、はたして著しく巨大な代物であった。海の上に浮かぶ城が見えた。否、それは巨大な黒塗りの巨大な船であった。所謂豪華客船というものであろうか。

 

「……よく用意したな、こんなもの」

 

 近づくと、警戒を解くかのように船を包み込んでいた暗鬱な澱が取り払われた。

 

 少年は一面の黒い壁面以外なにも見えない虚空を仰ぎ眺めた。近くから見上げるその威容はまさしく海の上に浮かぶ巨城だ。

 

 いやそれどころか、これでは北海に浮かぶ氷山のようでさえあるではないか。それは巨大な、あまりに巨大な黒塗りのフェリーであった。

 

 合図をするとカリヨンの身体はふわりと浮かび上がり、甲板に降り立つ。気配だけのキャスターに先導されて船室の中に入ると、目もくらむような光に迎えられ、驚くほど絢爛な一室に誘導された。

 

 その開けた空間には見知った顔が二つあった。

 

「やあ、カリヨン」

 

 軽く声を掛けてきたのはサンガール家の次男であるオロシャ・ド・サンガールであった。椅子に腰かけ、目を弄するには及ばぬシャンデリアの光の下で艶めかしい装丁の書物に視線を走らせている。

 

 浅く腰掛けた椅子は船の内装とはまた趣が異なる。おそらくは自分で持ち込んだ手製のものなのだろう。血に濡れたような革張りの光沢が絢爛ながらも生々しい。そして、手にするそれは魔導書の類ではなく、名も知らぬ詩人の断末魔を綴った詩集だ。

 

 その傍らにはカリヨン同様に気配だけの存在が守護霊の如くつき従っている。だが外界を熱断層によって隔てるかのごとき存在感だけでキャスターとの格の差は歴然だ。備えは万全といったところか。

 

 灰色の瞳を蠢かしてにこやかに挨拶してくる兄に、しかしカリヨンは笑顔も見せずに会釈だけを返した。

 彼は兄のその整いすぎた感のある、あえて創った様な笑顔がどうしても好きになれなかった。一応の礼を済ますと、今度はその次男から距離をおくようにして小山のようなソファに寝そべっている女性にも声を掛けた。

 

「姉上も、お久しく」

 

 宝石細工の煙管をマゼンダの唇に咥えた女性は、しかしカリヨンに目もあわせず、ただ興味無さげに手を振った。それきりである。

 

 彼女は四人の候補者の紅一点である長女、ベアトリーチェ。

 

 カリヨンにとっては姉にあたる人物だ。彼女は彼らとは違いサーヴァントを伴ってはいないようであった。

 

 しかしカリヨンはさして訝るでもなく納得した。彼女の持つ「異能」は長兄のそれと並んで直接戦闘に向く。たとえサーヴァント相手でも簡単に遅れを取ることはないと言う自負からであろう。華奢で麗しい見目に反して豪胆な姉らしい選択だ。

 

 そう。——それら、兄姉たちの秘める底知れぬ力を知るからこそ、カリヨンは己のサーヴァントの強さに殊更にこだわっていたのだ。自分単独ではそもそも兄姉たちの相手にはならない。

 

 だからこそ、その差を埋めることの出来るサーヴァントを彼は望んだのだった。その事実が、無駄だとは知りつつもいまさらながらに苦い感情を湧き起こさせるのだ。

 

 最弱のサーヴァントに守られた最弱の自分。カリヨンは毅然と構えようとはしていたが、その実小動物めいた恐怖感から緊張しないわけには行かなかった。

 

 カリヨンも平静を装い両者から距離をおいて壁にもたれかかる。指令された時刻までもう間もない。座って待つこともないだろう。

 

『マスター、よろしいので? ご兄弟なのですからもう二、三言葉を交わされても……』

 

「いいんだよ! 余計なことは考えなくていいから、よく周りを見張っておいてくれ。なにがあるのか分からないんだから」

 

 既に彼等は血を分けた肉親ではなく、互いの命を狙いあう怨敵同士にすぎない。だいいち、もとから一般人の兄弟のように馴れ合うような間柄ではないのだから、たとえ今生の別れとなるやも知れぬ挨拶もせいぜいこんなものだろう。

 

 しかし、このサーヴァントはこの危機的状況がなぜわからないのだろうか? 余計なことに気を回している場合ではないだろうに!

 

 そう思うと、気が立っていることも手伝ってカリヨンは余計に憮然とせざるをえない。

 

「それよりも、変だ。もう時間もないのに候補者が全員集まってないなんて。キャスター、それらしい使い魔はいるか?」

 

 押し黙るキャスターを余所に、カリヨンは姿を見せない長兄について訝っていた。サンガールの長男ゲイリッドは今回の後継者争いについても無論大本命だ。それが姿を見せないのはおかしい。

 

『……いえ、この場を見張れるような位置には使い魔は一匹も見当たりません』

 

「どういうことだ?」

 

 そのとき、遂に沸き起こった耳鳴りとともに不吉な印象をばら撒いて、一つの影が忽然と現れた。

 

 いったいいつからそこにいたのか、少なくともカリヨンにはわからなかった。

 

『皆様、今宵は我が招待に応じていただき感謝の言葉もありませぬ」

 

 室内のどこから聞こえてくるのかも解からない、不快なノイズを集積したような声が語り始める。

 

 いつ見てもつかみ所のない、そして不気味な奴だ。カリヨンは思う。テーザー・マクガフィン。この怪人は先代の盟友であり一族の相談役としてサンガール家に出入りしている氏素性の知れない魔術師で、今回の儀式の発案者でもある。

 

 先代の遺言としてこの相続争いが決着するまでその陣頭指揮と取るということだ。そのフードの下の顔を見たものは居らず、今もその顔を窺い知ることは出来ない。それでも、カリヨン達兄弟にとっては恩人と呼べる人物なのだが、やはり、到底信頼できる手合いでないのは確かだった。

 

『長々しい挨拶も無用のことと存じますので、さっそくですが、本題のほうに移らさせていただきたいと思います』

 

 その言葉にオロシャが声をかけた。この場に居合わせた誰もが抱いた疑問だ。

 

「まだ、兄が見えないようですが……」

 

『……では、まずはその件についてお話させていただきます。長兄であらせられますゲイリッド・ド・サンガールさまは既にこの儀式から脱落されております』

 

「えっ!?」

 

 声を上げたのはカリヨンだけだった。それは意外すぎる言葉だった。全くの予想外。しかし、うろたえたのは彼だけだった。

 

 次兄オロシャはその白すぎる顔を歪ませることもなく。長女ベアトリーチェは兄の唐突な訃報に憚りもせずに頬をほころばせた。

 

「まあ、それはよい知らせ。この七面倒な儀式も、存外に幸先が良いようですわねぇ。……ねぇ、カリヨン?」

 

「え――っ、あ、……」

 

 急に水を向けられて(うめ)くことしか出来ない末弟を、姉は声もなく嘲笑った。

 

「説明をいただけますか? 監督役殿」

 

 オロシャはやはり、道でも尋ねるかのように問うた。

 

『御意に。……あれは八日ほど前になりましょうか、誰の手に掛かったのかは定かではありませんが、おそらくはサーヴァント召喚の直後だったのだと思われます。ゲイリッド様は袈裟懸けに切り捨てられそのまま事切れたようで……』

 

 そこでオロシャは丁寧にかぶりを振った。

 

「いえ、そうではありません。お聞きしたのは今夜、我らをわざわざ呼び集めたのはそのような些事(・・)のためだったのか、ということです」

 

 さしものカリヨンも絶句していた。彼は改めて兄弟たちの人間性の欠如を思い知らされた。そしてそれが魔術師の質としての己と彼らとを画す要素であるとも。

 

「――では、経緯は省きまして核心について話させていただきます。今宵、皆様にお集まりいただきましたのはこの次期後継者選定の儀式に生じましたイレギュラーについて、早急にお耳に入れなければならないことがありました故」

 

「イレギュラー?」

 

 オロシャはさして驚いたでもないような声色で問うた。

 

「端的に申し上げますと、八体目のサーヴァントがこの地にいることが判明いたしました」

 

「なんだって?」

 

 カリヨンも色めきたって声を上げた。怪人はそれに煽られたのか、それともいたってマイペースなのかもよくわからない、性急なピッチのノイズのような声を続けた。

 

『既にご存知のことかとは存じますが、この度相続争いにおいて誂えましたこの『聖杯戦争』なる儀式はこの極東の地において幾度か繰り返されてきたものであります。そのたびに呼び出されて来た英霊の、うち一体が未だこの現世につなぎとめられているようなのであります』

 

「別に、捨て置けばいいのではないのですか? 邪魔者が増えたというだけのことでしょう。……それに、そう。もともといらぬ邪魔の多い話でしたでしょうに」

 

 気だるげな長女の言葉である。どうやら彼女にとってはこの事態も取るに足らないことなのか、はたまたどうでもよいことなのか。対して、多少考え込むようなそぶりを見せていた次兄が白い顔のまま問うた。

 

「――で、どうするというのです? 我らの力の総力を持って、まずはそのイレギュラーを排除する、とでも言うつもりですか?」

 

『いえ、それには及びませぬ。そちらには先ほどワタクシめの命にてサーヴァントを送りました』

 

「なに!?」

 

「どういうことです?」

 

 カリヨンと、兄オロシャの声がこのときばかりは重なった。長女も初めてこの監督役に刺すような眼差しを向ける。(ひず)んだ影のようなテーザー・マクガフィンは畏まったかのように身を縮めた。

 

『先ほどお話しましたゲイリッド様のサーヴァント。実は未だ健在でして、事後処理といういう名目でワタクシが徴用してございます』

 

「どういうつもりだ!」

 

『ご心配には及びません。皆様の奮闘に水をさすような真似は決して……』

 

「そうじゃない! どうして監督役のお前にサーヴァントが要るんだ!?」

 

 カリヨンは色めきだって監督役に詰め寄ろうとした。しかし席を立ったオロシャがその奇異なほどほっそりとして美しい腕を上げてカリヨンを制す。

 

「構いませんよ。これはあなたが勝っても何の意味もない戦いですからね。そうじゃないかい? カリヨン」

 

「……しかし、兄上……」

 

 言いさしたカリヨンに代わって紫煙を吐いたのは、ベアトリーチェだった。

 

「そうよ、お兄様。監督役に預けておくくらいなら私がもらうわ。実は、なんだかハズレを引いてしまったみたいなのよ。ねぇ、いいでしょう?」

 

 妹はそう言って豪奢なソファに寝そべったまま、熱の篭った視線を兄に向けるのだ。

 

 オロシャは突如として豹変した妹の艶かしい媚態に苦笑して応じた。

 

「そんなことをいって、君はまたそうやって人のものを欲しがる……。それで、今日はその外れのサーヴァントは置いてきてしまったのかい?」

 

「知らないわ。言うことは聞くのだけれど、喋らないし、側に置いておいてもつまらないから好きにさせてるのよ。そう、それに……そのほうが力もつくし」

 

 その言葉にカリヨンが凝然として声を上げた。

 

「そんな、では――姉上はサーヴァントが魂食いをするのを野放しにしているというのですか?! もしも一般人にばれたら……」

 

 すると宝石細工の煙管が揺れ、忌むような視線と共にベアトリーチェの吐息がカリヨンに向けられる。当然というべきか、薫る紫煙はただの煙草のものではない。常人なら、一吸いで心身を諸共に病むやもしれない猛毒の類だ。

 

 カリヨンは思わずのけぞりそうになってキャスターに細い背中を支えられた。

 

「大丈夫よ。サーヴァントのくせに私よりも弱いくらいだから、たいしたことはできないし。……それに、そう。だいたい、あなたたちだって気付かなかったじゃないの」

 

「それは……」

 

 すると二人の会話を切り上げるように、オロシャが言葉を挟んだ。

 

「ベアトリーチェ、悪いけど、それは認められないよ。少なくとも一人が一騎のサーヴァントを持つというのは公平なルールだからね」

 

 すると、彼女はまたヤル気なさげにソファにふんぞり返ってそっぽを向いてしまった。

 

 後は兄を見ようともしない。対して、まだ何か言いたげな末弟に先んじるようにオロシャは言葉を続けた。

 

「それに、実際に役立っているというのなら、そう非難してばかりもいられないだろう。……どうなんです、例の件は」

 

『オロシャ様のご察しの通りにございます』

 

「何の、話です?」

 

 声を尖らせた末弟に対して、再び椅子に腰かけた次兄は詩集を開きながら優しく諭すかのように応える。

 

「この土地にも何人か土着の魔術師が居てね、儀式の邪魔になるとよくないから、僕のほうから露払いを頼んでおいたんだよ。それで……えーっ、なんといったかな? あの、始末のすんだといっていたほうの……」

 

『マキリですか』

 

「そう、それです。どうでした? 手ごわかったですか?」

 

 手元の詩を吟じてでもいるかのような次兄の美声は、相も変わらず、人理から外れているかの如く儚くも毒々しい。

 

『はい。なにぶん、ワタクシ一人の手には余りそうでしたので件のサーヴァントの手を借りることになりました』

 

「なるほど。そういうことなら、そのサーヴァントも無駄にはなっていないようですね。外部からの邪魔が入らないことはありがたいことです。たとえ魔術協会や聖堂教会が趣旨変えをしようとしても、いきなり英霊をどうこうできる戦力を用意することは出来ないでしょうからね」

 

『ご理解いただき、言葉もありませぬ』

 

 カリヨンもその説明には憮然とするしかなかった。この儀式における最大のネックは外部からの予期せぬ邪魔なのだということを、彼もまた理解してはいたのだ。

 

「それで……今度のイレギュラーも、この土地の魔術師がらみのことなのですか」

 

『はい。遠坂という、この土地の管理者の家系です。といっても今は若い娘がひとりいるだけなので出来ることなら捨て置こうかとも思いましたが、どうやらそうも行かなくなりました次第であります』

 

「ト、オ、サ、カ……ね。ええ、一応覚えてきますよ。あまり意味はないでしょうけどね。しかし、生き残りのサーヴァントですか……」

 

 オロシャは細く美しい造詣の指で付箋紙を玩びながら、手にしていた詩集からまっすぐに顔を上げた。

 

「それは――つまり前回の勝者ということですか?」

 

『そのようで。既に受肉しているように見受けられますので間違いないかと』

 

「随分、性急に事を運ぶんだな」

 

 カリヨンの発した、精一杯の棘ある声に、しかし動じる者はこの場には一人もいなかった。

 

『さすがに八体目のサーヴァントは問題ですので……』

 

「まぁ、僕ら意外にも余計な部外者が三人もいる計算になるからね。そっちに対処してくれるだけでもありがたいとはいえるんじゃないかな」

 

『ワタクシが関与できるのはあくまでこの儀式の部外者だけになります。ゲストについては関与できませぬのであしからず』

 

「そういえばそうでしたね。……確かロンドンの古豪ワイアッド・ワーロック老でしたか」

 

『はい、この儀式が成立しているのは御方(おんかた)の労によるものであります』

 

「その見返りがこの儀式への参加資格……か、さて、何を考えているのやら」

 

『そればかりは、測りかねるものでございますな』

 

 と、和やかささえ漂わせて談笑する次男と監督役の怪人に、カリヨンは戦慄を禁じえなかった。

 

 それは次兄についてだ。やはり彼はこの兄が恐ろしかった。白い肌は女性的で美しく、だがひどく作り物じみている。その整いすぎた感のある美貌は、完成されたようでいてひどく歪でグロテクスなものさえ連想させる。何よりもその灰色の双眸が、意味もなく耐えがたい。

 

 人でないものが無理に人の真似をしているような。そんな奇怪さがあった。見るに耐えないとばかりに眼を伏せ、カリヨンは食い下がるように声を掛けた。

 

「……そのサーヴァントはちゃんと言うことを聞くのか?」

 

『きゃつは己の不手際にてマスターを死なせたことに未だ負い目を感じているようなのです。真っ当な英霊ほど己を縛る枷も多いものでして。今のところは大人しくワタクシの指示に従っております』

 

「もしもの時はどうするつもりだ?」

 

『用意は整ってございますので、どうぞご心配めされませぬよう』

 

「…………」

 

 カリヨンはその後幾つか交わされた取りとめもない会話を、ただ黙して聞いていた。

 

『――では、お伝えしたかった用件は以上でございます。皆様、処理が済むまではくれぐれもイレギュラーのサーヴァントにはお近づきにならぬようお願いいたします』

 

 語るべきことを伝え終えたのか、闇色の怪人は暫しの間をおいて告げた。

 

『これからワタクシは完全に中立の立場となります。皆様とも、これ以降の面通りはかなわなくなるやもしれません、ご健闘を願います』

 

 監督役として諸々の面倒ごとを片付けるのがこの怪人の役目だ。確かにのんびりしている暇は多くないのだろう。そしてそれは同様にカリヨンにもいえることだ。そう、すでに七人のサーヴァントは揃い、脱落者すら出ている。彼の知らぬ間に、彼の命運を分ける戦いの火蓋はとうに切られていたのだ。

 

 儀式は始まる。彼にとって全てを賭けた生存競争が、いまその幕を開けたのだ。ま

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」-7

 姿は見えない。しかし、彼らがそこにいたという痕跡はたしかに刻み込まれていた。

 

 それは「音」であった。何かが高速でアスファルトと大気とを切り裂いていく音。時折高らかに鳴り響く硬く、澄んだ靴の音。そして密やかに沸き起こる泡沫の喧騒と笑い声。

 

 安眠を貪り続ける住人の弛緩した耳の片隅にだけその痕跡を刻みつけながら、それらの音色は疾く深山町を縦断していった。

 

 しかしたとえ今が白昼であり、住人たちが両の眼を確かに見開いていたとしても、それらの駆動を知覚し得るはやはり耳だけであったかもしれない。

 

 二つの影は月光の下、冷えきった道程をめまぐるしく行き交い、駆け比べでもするかのように真夜中の追走劇を演じていた。

 

 それらはさらに高速の狂想曲を加速していく。その挙動の迅速さはもはや常人の目には捉えられぬほどの速度であった。

 

 凸鏡の仮面の男は疾風以上の速度で地を駆け抜けていく。 

 

 それは、かの中国四大奇書のひとつ『水滸伝』において語られる『神行の術』を思わせるような人知を超えた走行法であった。

 

 これはまたの名を神行法とも呼ばれ、『神行太保』の異名を持つ梁山泊百八人の好漢の一人、戴宗が使用したと伝えられる神術である。彼の(あざな)の太保とは「(かんなぎ)」つまりは神術を使う行者のことを表している。

 

 しかし、それほどの神脚を駆使するモザイク柄の男の顔には消しきれぬ驚愕の相が刻み込まれていた。たとえ仮面の上からでも、その狼狽にも似た苦悶は見て取れたであろう。

 

 さもありなん。それほどの秘術を駆使してもなお、彼は眼前の老紳士に追いつくことが出来なかったのだ。先ほど目と鼻の先まで詰め寄ったはずの老紳士は、次の瞬間には再び十メートルほどの距離を開けて優雅に佇んでいるのだ。

 

 男は訝るより先に再度加速する。

 

 しかし、届かない。追いつかない。

 

 怪異であった。男にも、敵の『加速』が理解できない。いや、その優雅すぎる居住まいは最初から加速などしていないとでも言わんばかりだ。

 

 この仮面の男が人知を越えた速度で加速し、蹂躙するかのようにアスファルトを穿ちながら地を蹴るのに対し、この老魔術師のしたことは畏怖さえ覚えるほどに軽やかであり静的であった。

 

 老紳士は素早く九字を唱えると共に澄んだ靴の音を打ち鳴らし、九足の歩法(ステップ)を刻んだ。

 

 その優雅な音色は足裏のアスファルトを伝い地の底にまで深く、深く浸透していく。

 するとどうしたことであろうか、老紳士が優雅に歩行するだけで神速の怪人はいっこうに追いつくさえ出来なくなるのだ。

 

 これは反閇(へんばい)と呼ばれる行為であった。古来陰陽師達の間で使用された呪的歩方術の一種である。己が出行する方位の土を清め、悪しきものを打ち破ると言う呪禁の方術であり、一般に知られるところでは力士の行う四股もこの行為にその源流を求めることが出来るという。

 

 老紳士は、これを魔術の発動呪文の代用として使用しているのであった。

 

 ひとえに、この老魔術師が先ほどから幾多の秘蹟を織り交ぜて駆使する秘術とは、おそらく『縮地法』と呼ばれる遁甲術であると見受けられた。

 

 これも、古くは中国の伝承に語られる恐るべき東洋魔術(オリエンタル・マジック)のひとつであった。

 

 だがこの老獪なる魔術師の真に恐るべきところは、東洋の魔術を再現するために己が生来から有する西洋魔術のエッセンスを大いに活用しているところであった。

 

 この老魔術師は地中に放った地妖精、精靴職人(レプラコーン)の加護によって大地に奔る地脈を操作し、まるで千里もの距離をたった一歩の距離にまで縮尺しているのだった。

 

 西洋魔術の大家に生を受けた彼が、元来は畑違いであるはずの東洋の地相占術を貪欲に学び、その上ただそのまま模倣するのではなく、それを己の持てる専門的技術とすり合わせることによって、より効率的で実用的な秘術として己のものとしているところから、この老練の魔術師がどれほど破格の才覚を持ち、それを練磨し続ける半生を送ってきたのかが窺い知れるのであった。

 

 この予想だにしなかった展開に、モザイク柄の怪人は仮面の奥で歯噛みせざるを得ない。己の加速性能を持ってすれば逃げきることは造作もないと考えていた甘すぎる見通しは、無様にも月光の下に露呈し、かの老魔術師の秘術の前に、まるで雲霞の如く掻き消されることと相成ったのだ。

 

 しかし、だからといってこの男がその失意によって戦意を挫かれることはなかった。対峙する魔術師に対して、加速によって優位に立つことが不可能だと悟った時点で男は怪異の究明を保留し、足を止めていた。

 

「なんじゃ、もう徒競走は終わりか?」

 

 同じく歩行(・・)をやめ、人を食った言葉を掛けてくる敵を黙殺したまま、男は腰のホルダーから抜いた短機関銃(スコーピオン)の銃口を向け、かまわず発砲した。

 

 卓越した魔術師と戦闘になった場合、後手に回ることは高確率でこちらの死期を早めることになるだけだ。最良の選択は敵が何らかの対策をとる前に殺すこと。 

 

 撒き散らされる薬莢と乾いた破裂音。しかし、射撃手の意に反して弾丸は敵に届かなかった。

 

 それは、いい。

 

 もとよりこんなものが真っ当な魔術師を相手に何らかの効果をもたらすとは考えていない。よほどの三流でもない限り、こんなもので魔術師を仕留めることなど出来はしない。

 

 それは経験上、充分に承知している。今の正射はあくまで牽制と自分のペースを作るためのものだった。しかし――。

 

「……五月蝿いぞ。そんなものはやかましいだけで何の効果もないわ。周りに迷惑なだけだから止めておけ」

 

 向けられた銃口を何の痛痒でもないように静かに一瞥した老紳士は、不動の直立を崩さぬまま胡乱げに告げた。

 

 怪人が引き金を引き絞るより先に、この老紳士は先手を取っていたのだ。

 

 彼は敵を嘲るような声を上げながら、同時に優雅な仕草で両の手から白手袋を脱ぎさり、虚空に向けて放っていた。

 

 それは先の怪人の疾駆により抉られたアスファルトから、剥き出しになっていた地表の上へ舞い降りた。

 

 その灰銀色に輝く白布の掌の部分には、なにやら複雑な文様が刻み込まれている。それらは主の手から離れ夜の虚空で白亜の蝶を思わせるように揺らめいた。

 

 その奇妙な文様の形態は、左右で微妙に異なっていた。

 

 文様の根幹を成す中央の図形の形が違っているのだ。右手には五芒星(ペンタグラム)が、左には六芒星(ヘキサグラム)がそれぞれ、中央に設えられている。

 

 それぞれが地に落ちて土に呑まれ、そこから沸き起こった小石の群れが中空に舞い上がり、バラ撒かれた銃弾の直進を阻害したのだ。土くれはさらに溢れ出し、そこから主を守護するように唸りを上げる二匹の獣が出現した!

 

 五芒星からは数秘学的に中央数、即ち〈最高〉の魔力をあらわす龍蛇の如き使い魔が。

 

 六芒星からは数秘術的に完全数、即ち〈万能〉の魔力をあらわす合成獣(キメラ)の如き使い魔が、それぞれに現れた。

 

 五芒星は魔除けとして東西の洋を問わず使用される。ソロモンの封印としても知られ、日本では清明紋もしくは五行の紋とされる。その起源は古代インドやメソポタミヤの五大説にあると考えられている。

 

 対して六芒星は錬金術における賢者の石のシンボルであるとされ、ダビデの星として広く知られる他、日本では篭目紋とも呼ばれ、魔除けとしても古くから利用されてきた。

 

 駆け引きの機を逃し、警戒していたはずの後手に廻らされた男を中心に挟み込むようにして取り囲んだ二匹の使い魔たちは、一斉に牙を剥いて男に踊りかかった。

 

 しかし次の瞬間、唱和する様に響いていた獣の唸り声は止んでいた。いざとなれば銃弾にすら先んじるはずの猟犬たちはその挙動を止めていた。なぜならそれらはあろうことか目前の標的の姿を見失っていたのだ。

 

 色の無い男は距離を置いた攻撃が無効と判じるや否や、信じがたい速度で再び魔術師との間合いを詰めていたのだ。

 

 その速度の緩急たるや獣の反射神経すら置き去りにするほどであった。全くの静止状態からの残像も残さぬほどの急加速。単なる体術どころか魔術による身体強化をもってしてもこれほどの離れ業は不可能であろう、まさしく異能と呼ぶに相応しい。

 

 男の初動に遅れて事態を知った二匹の式神たちは、牙をむいて主の下に馳せ参じる。そこで弾丸そのものだった男の動きが突如として鈍重なものに切り替わった。

 

 それまでの挙動が嘘のような足どりに、獣たちはこれ幸いと背後から男に襲いかかる。——が、次なる刹那、六本もの金属製の棒のようなものが、その光沢を弧の筋として虚空に引きながら土塊の獣を貫いた。

 

 次の瞬間には獣たちは最後まで消えた男の居所を知ることなく、戸板ほどの手応えも無く粉砕され、半実体の身体を四散させられたのだった。

 

 冷えた路上には、脆くも崩れ去った土塊と切り裂かれた白亜の布辺だけが散らばった。瞬きほどの刹那に行われた攻防であった。男が見せた凄まじいまでの緩急の旋回性能は式神たちにその擬似的な死すら認識させなったことだろう。

 

 とても常人に出来る芸当ではない。しかし、今の攻防を観察していた老紳士にはそれが魔術によるものではないことが分かっていた。

 

 人知を超えて加速する男の駆動からは、しかし生来有する筈の魔術回路の励起がほとんど感じられなかったのだ。しかしミスリルとヒヒロイカネの無重力合金を縫い込んだ魔術礼装を続けざまに切り裂いたのだ。もはやただの体術とも思えぬが……。

 

 しかし老紳士はそこで敵の戦力分析を切り上げねばならなかった。ゆっくりと思案にふける暇などは残ってはいなかったからだ。

 

 男はそのまま加速した速度を落とさずに夜の車道を縦横無尽に動き回り、目前の魔術師に詰め寄る。その速さは異常だった。先ほどの比ではない。もはや獣にも追いすがること敵わぬ砲弾の如き激走。

 

 老魔術師の戦略は悪手だったのだ。使い魔など呼び出さず、彼我の間合いを維持しながら時間をかけて敵の体力を削っていくべきだったのだ。

 

 今度こそ逃しはしない――そう宣言するかのように、男が手にしていた銀色の棒状のものが老体に迫る。

 

 それは所謂特殊警棒であった。民間で手に入るような護身用の物ではなく、真剣ですら受け止められそうな肉厚の特別製と見て取れた。

 

 それがこの怪人の持つ埒外の異能によって「加速」されると、やおらその滑らかな円筒の曲面は確かな「切れ味」を帯びるようになるのだ。

 

「――――ッ!」

 

 しかし振り上げられた銀刃の円柱は――またもや空を切った。否、それは矢庭に虚空で停滞し、そのまま停止した。

 

「なんとも、気忙しいやつよな……」

 

 それまで距離を取ることに専念していた紳士が一転して動きを止めたのには理由があったのだ。それは逃げる必要がなくなったことを意味すると同時に、必勝を確信したからに他ならない。

 

 なぜならば、男の疾走もまた同じように止まっていた。――否、止められていたからだ。

 

沸き立て(greater of) 大いなる(preservation) 禁猟区(boil over)

 

 厳かにして簡潔な詠唱が、周囲に響き渡った。

 

 蹂躙され尽くしていたアスファルトの上には、今や幾つかの淡い光源が明滅を繰り返している。

 

 移動しながら刻みつけた印章(シール)、同時に散開した靴職人(レプラコーン)達が配置した秘石、そして今もオーク製の杖の洞から繁茂し伸長していくヤドリギは矢に変じて地に投射され、地表に光点を穿つ。

 

 魔音が響く。打ち鳴らされた靴底を起点として寂寥たる闇間に暴き出された二七の光芒は、中継ターミナルとなって魔力を相互循環させ、今、ここに広大なる三層の境界線を築き上げる。

 

 それは自衛のための「守り」に有らず、敵を逃さぬために張り巡らされた「檻」であった。三重のサークルから成る複合捕縛結界。もはや、モザイクの男には身じろぎのひとつも許されない。

 

「――ぬ、う!」

 

 迂闊であった。男が仮面の下から切歯して苦悶の声を漏らす。あれほどの高速の攻防の中で、よもやこのような策を講じる暇があろうとは!

 

 動けぬ敵を前に老紳士は歩を進める。地脈を歪め、瞬間的に長大な距離を跳ぶような動きではなく、ただゆっくりと厳かに靴の音を打ち鳴らす優雅な歩みで。

 

 しかし止めを刺そうとしたそのとき、彼は気付いたのだ。この刹那の攻防の隙に何者かが介入を果たしていた事実に。

 

 気が付けば、辺り一面は既に朝焼けを待たずして茜色に染まっているではないか。――火事か?

 

 彼らの周囲にはいつの間にか空を照らすほどの火の手が上がっていたのだ。

 

「いかんッ――――!?」

 

 急いで止めを刺そうとする老魔術師であったが、そこであるものに眼を奪われた。――そこに、何か白い幽鬼のようなものがいた。やにわに実体化したそれは白い女の姿をしていた。

 

 まるで燃え尽きた灰のような、生気のない肌が、燃え盛る炎の赤に照らされて艶かしく動いている。女は火の中で嬉しそうに奇怪な舞を演じていた。

 

 それに気を取られた瞬間。それまで十全に機能していたはずの結界からモザイク柄の怪人が飛び出した。

 

 燃え盛る炎がヤドリギを焼き焦がし、相互結界の末端を僅かに(ほつ)れさせていたのだろうか?

 

 確かに、相手が真っ当な魔術師ならば簡単には解呪出来ぬであろう三重相互式複合結界は、さすがは老練たる一流魔術師の必勝の策であったと言えた。

 

 たとえ、多少解れたところで簡単に突破することなど叶わぬ筈なのだ。

 

 しかしそれがいかなる奇跡によってか、モザイクの男はそれを突破した。

 

 いざ刮目してその姿を見れば、全身のうろこ状のものがそれぞれに剥がれ落ち、砕け、燃え尽きているものもある。老魔術師は初見でそれを見抜けなかったことを痛恨の失策と受け止めた。

 

 あのスケイルはその全てが加工された東西・文明・時代・宗教を問わぬ各種の魔除けの護符(アミュレット)なのである。

 

 一つ一つの対魔力が弱かろうともあれだけの量を身に纏えばかなりの魔力抵抗値を期待できる。まっとうな魔術師ならばまずやらない無粋極まりない手段であった。量より質を取るのが常道の魔術師の思考だからだ。しかし、それゆえに気付けなかった。

 

 檻から逃れた獣は影さえも置き去りにせんばかりの速度で逃走をはかる。否、これは明らかな敗走であった。故に、手負いの獣の疾走はより一層にけたたましく、形振り構わぬものとなる。瞬きの終わらぬうちに距離は開いていく。

 

「逃がさん!!」

 

 手に執るオーク製の杖の洞からは、また新しいヤドリギが急速に繁茂して顔を覗かせている。

 

 歴代を重ねてきたワーロック家伝来の魔術刻印はその魔術起動に一言の呪文すら必要とさせず、コンマ数秒で自動術式を励起させ、そのヤドリギを巨石をも穿ち抜く破壊の矢へと変えて撃ち放ったのだ。

 

 同時に打ちつけられ、鳴り響く秘石の踵。

 

 何の狙いもつけず、ただ敵の破壊だけを目論む力任せの術式によって、虚空へと放たれた三条の矢は一時こそ的外れな弧状の軌道を描いたかと思えたが、とたんに進路を揃え自ら狙いを定めるように怨敵を追走し始めた。

 

 盟主の命により地中を駆ける地妖精、靴職人達(レプラコーン)が出鱈目に打ち放たれた破壊の矢を先導し、どこまでも獲物を追い立ててくびり殺す猟犬へと変貌させたのだ。

 

 多少なりとも魔道を知るものならば、地脈に遁行する地精との駆け比べなど冗談にもならないことを知っていよう。いかに高速で移動しようとも逃げられる道理は―――。

 

「むう?」

 

 かくして必勝を期した自動追尾弾は敵影を捕らえるにいたったが、着弾の寸前に男の体はまるで熱砂の蜃気楼のごとく二重、三重にぶれた。魔弾は引き寄せられるように男の広い背中に着弾し、それらをまとめて四散させたが――案の定、男の体は跡形もない。

 

「寄せ餌、か……」

 

 敵もさるものであった。奴は逃走と同時に囮としてデコイをばら撒いていったのだ。

 

 そして見渡してみれば、あの幽鬼のような女は彼らには何の興味もないらしく、未だに炎のなかで、まるで灰でも浴びるようにして何かを貪り、狂態をさらし続けている。見るからに狂人の相である。

 

「……死人の魂を食らうか。魂とは第二要素。霊体、すなわちサーヴァントの食性の餌食というわけか。……しかしこうも大っぴらにとは。なっとらんな、サンガールの小童どもめ」

 

 老魔術師は溜息交じりに呟きつつ、踵を鳴らす。

 

 では、あれもサーヴァントなのであろうか? ——たしかに、サーヴァントの中には狂気を纏う獣の如きクラスがあったと聞く。しかし、それにしてはあの女の気配は脆弱すぎ、また存在感は希薄すぎるように感じられる。むしろ、ただの亡霊のように見えなくもないのだが……。

 

 兎角、こちらから手を出さなければ被害をこうむることはないであろう。と、老魔術師は判断した。その気ならとっくに戦闘になっているはずだ。

 

 どの道、これ以上の追撃は無駄に終わるだろう。すでに周囲一帯には「警戒」の魔術を施した。火の手がいかに広がろうと、住民たちはその前に寝耳に水とばかりに飛び起きる寸法である。もはや人目を避ける術はない。

 

 老練の魔術師の胸中には忸怩たるものが沸き起こっていた。千載一遇の機会を生かせなかった以上、あの男との次の戦いはさらに苛烈さを増すに違いない。そう、ならざるを得ない縁が、必然が両者の間には在るのだ。

 

 舞い戻った靴職人達(レプラコーン)を引き連れ、これより始まる激闘の予感を燃え殻の臭いと共にその肺腑の内に感じながら、老紳士は踵を返した。

 

 だいぶ時間をくってしまったが、本来の目的地に向かわなければならない。古き盟友の家門へ、久方の友好を暖めに行くとしよう。

 

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」-8

 

 降り注ぐ輝光はその数を増していた。

 

 疾走するセイバーに対し、ランサーは再度矢を放ち続ける。しかしそれと同時にその総身を飾る甲冑がまったく別の挙動を見せ始る。

 

 いかにも鋭角で硬質な印象を与えてくる輝甲の、そのうちの肩や背中、脹脛の甲冑がやにわに風船の如く膨張し、それらが張り裂けるかのように次々と口を開くのだ。

 

 その刹那、特大の真珠の如く艶めく曲面の中からは幾多もの短刀や小柄、投げ矢、手裏剣など、東西の洋を問わぬ投擲兵器が群れを成して飛び出してくる。

 

 その数は一度に四、五〇ほどにもなろうか。しかもそれらはひとつとして同じ形状のものがなかった。

 

 故にそれらが同様の飛来軌道を描くはずもなく、結果として縦横無尽に飛び交うことになった刃群と連射される輝矢の直線的な射線とがあいまって作り上げられる光の弾幕は、セイバーの直感と反射速度をもってしても確実に回避できる現界を明らかに超えていた。

 

 やむなく、セイバーは群をなす輝刃の中から回避しきれなかった一本の矢を左手の篭手で受けとめる。しかし、その矢はまるで障害などないかのように彼女の装甲をスルリと貫通し、セイバーの左手を串刺しにしたのだ。

 

「――クッ!」

 

 苦悶の声は苦痛に耐えかねてのことばかりではない。先の近接戦でセイバーは千万変化するランサーの攻め手を封じるために自ら先手を取らなければならなかったが、加えてもうひとつ、ランサーの武装には厄介な特性があったのだ。

 

 あの輝ける具足の、防具としての強度は決して高くない。実際ランサーの使用した盾や装甲は、先ほどから幾度となくセイバーの攻撃に耐え切れずに硝子のごとく砕け散っている。

 

 最も、唯人の手による武装ならば至高の宝剣たるセイバーの一撃を受けきれないからといってなにも訝る必要はない。しかし、仮にもあの甲冑がランサーの英霊としての威光を象徴する貴器――『宝具』なのだと仮定するならば、その耐久性は些か以上に脆すぎるのではないだろうか?

 

 その疑問に対する回答がこれだった。ランサーの防具は守りに回ると途端に強度を失うが、逆に武具として攻撃に使用された場合はセイバーの防御をやすやすと突破するほどの凶器となるのである。

 甲冑としての体裁をとりながら、あくまで攻めることでその真価を発揮する宝具なのだ。

 

 それは語るよりもなお明朗に、あの英霊の特性を物語っていた。

 

 これほどまでに攻性に特化した敵を前に、何時までも防御に徹するという愚を犯すわけにもいかず、結果としてセイバーは改めて攻め手に回るため、無数の流星を思わせる弾幕を躱しながら機を待つより他になかった。

 

 しかしそんな状況でもなおセイバーの口元には隠しきれぬ笑みが浮かんでくるのだ。もはや自分でも加速していく己の鼓動を止められない。

 

 一方で、どこかで醒めた思考が、この高揚すらもが敵の用意した何らかの策謀やもしれぬという懐疑をささやく。

 

 果たして敵の真意はどちらにあるのか――暫し脳裏に浮かんだ一抹の葛藤を、セイバーは迷わず杞憂と断じた。おそらくだが、この攻防に斯様な(はかりごと)はありえない。

 

 全身の動悸が烈火のごとく高鳴っていても、セイバーの精神は清涼なまま澄みきっているのだ。自身ですら驚くほどに、今の彼女は十全の状態だった。

 

 初見ではあったが、セイバーにはこの相手の行動原理がよく理解できたのだ。技巧による計略はあっても、そのような歪曲な駆け引きや策略をこの英霊は決して望みはすまい。洞察からではなく確かな直感から、彼女はそれを確信する。

 

 何よりもランサーの兜の深奥に光る瞳が、それを如実に物語っていた。過熱する剣士の鼓動と熱狂とがまるで鏡写しのように対峙するこの女戦士の魂をより高い闘争の次元へと誘っていく。それはまるで真夏のアスファルトに照り返す反射熱の如く、まるで際限のない灼熱の庭であった。

 

 

 そのあまりの歓喜と興奮に、女戦士の口元はひりつく様な薄ら笑いを抑えきれない。

 

 事実、この展開こそ、この槍兵の望むところの総てであった。彼女はただこのためだけに魔術師に与することを承諾し、この現代に呼ばれたのだ。

 極限の戦いで、燃え尽きるほどの闘争と――そして証明のために――この蛮勇の女王は、冬木の地に馳せ参じたのだ。

 

 だが、貝のように防御を固めて隙を突くなどという戦法は彼女の流儀ではない。本来ならば常に先手を取り、攻勢に徹するのが前提以前の必然である。その生来の戦闘狂が死力を尽くす絶好の機会を逃してまで、飛び道具の有利と物量に任せるという消極的な戦法を取らざるを得ないのには無論、理由があった。

 

 彼女の誇る宝具、あらゆる武器・防具に換装可能な輝ける軍神の具足。『沸血装攻(マーズ・エッジ)』をもってしても、このセイバーとの近接戦闘は容易なことではなかったのだ。

 

 一見して見解を述べるとしたら、この戦いにおける両者の処方は共に、あまりにも奇抜であり同時にあまりにも対照的であったといえる。

 

 全身の装甲から輝く刃を幾重にも繰り出す槍兵の奇異なるはいまさら言及するまでもないことだか、対する剣士の処方もまたあまりにも不可思議であったのだ。まず驚愕するべきはこの剣士が無手であったことであろう。

 

 百貨繚乱と咲き乱れる華の如く四方八方から繰り出される紅石の刃が、その矮躯からは到底及びもつかぬ、凄まじい剣圧によって弾かれ、砕かれ、そして削り取られて夜気に散華していく。

 まるで小型の削岩機かと見紛うその剣士はしかし、間違いなく確かな剣気を纏い、輝ける槍兵に迫る。――そも、無手でありながら剣士とはこれいかに。

 

 ランサーが敵に先手を取らせるのを良しとしたのも、セイバーとの接近戦を厭う余りの苦肉の策であったのだ。

 

 このランサーほどの豪の者がそうせざるを得なかった理由――それこそがこの騎士王の持つ不可視の剣『風王結界(インビジブル・エア)』の脅威であった。そう、先ほどからセイバーが縦横無尽に振るう剣は確かにそこに存在しながら、サーヴァントであるランサーにも目視することが叶わなかったのだ。

 

 不可視の剣。その効果は宝具としては特にシンプルな部類に属するが、それを振るうのが他ならぬこのセイバーだったなら、話は大きく変わってくる。

 

 セイバーの近接戦闘における単純な戦闘力はランサーのそれを明らかに上回る。そのスピードも破壊力も、楽観視できる範囲の内にはない。ましてやそれが見えぬとあっては、たとえ主義を曲げてでもまずは生き残るのが先決だと、この歴戦の蛮勇も判じざるを得なかったのである。

 

 そして何よりも危惧が先にたった。よもやこの闘争が無明の内に終わってしまうのではないかという予感が。――そう、あのときのように、死力を尽くす暇すらなく――

 

 このときまでは、確かにそのような危惧が在った。それが彼女の足を留めていた。それが彼女の腕を縛っていた。ゆえにランサーは業腹でありながら意にそぐわぬ選択をせざるを得なかったのだが――

 

 それもここまでが限界だった。

 

 再度、乱れ飛ぶ矢群を潜り抜けたセイバーがその間合いにランサーを捕らえようとしたそのとき、セイバーの視界は突如として一面の透光にさえぎられた。

 

 それまで待ちに徹していたはずのランサーが自ら前進し、一瞬で距離を詰めてきたのだ。そればかりか、ランサーは左手の弓をさらに変容させ傘の如く展開して創り出した鏡のごとき大型の盾を、セイバーの眼前に突き出してきたのだ。

 

 一瞬、ランサーの挙動の是非を判じかねたセイバーだが、すぐに敵の意図を理解した。

 

 突き出された盾の影になって、今のセイバーの目には敵の姿が映らない。それは同時にランサーの右手が、新たに執ったであろう得物の形状がわからないということを意味している。

 

 そう、敵の剣が見えぬというのなら、同様に己の剣も見せなければいいだけのこと。

 

 ここにきて、両者は互いに、目視の適わぬ刃にその身をさらすこととなったのだ。

 

 〝――これで、五分だ!〟

 

 セイバーは盾の向こうに、そう不敵に嘯くランサーの血色の双眸を確かに見た。

 

 だがそれで怯むセイバーではない。右か左か、上か下か、それとも後ろからか。ランサーの宝具特性を鑑みるならば、凶刃はどこから来てもおかしくない。

 

 故にセイバーは防御を捨てた。防御面は己の直感に預け、総ての専心は敵を切り捨てることのみに注がれる。盾が邪魔だというなら盾もろともに敵影を切り捨てるだけのことだ。

 

「はあぁぁぁッ!!!」

 

 案の定、全霊をかけた横薙ぎの一撃は眼前の鏡の如き盾を砕き、一文字に切り裂いていく。輝ける飛沫の如き硝子片が、滑るような月光の下に舞い上がった。

 

 だが、彼女はここで訝るべきだったのだ、以前にも増して脆すぎる、その紫水色の輝きを。

 

 紅光が奔り、凶刃は現れた。

 

 それはさしものセイバーも予想だにしなかった場所――今しがた自身が切り裂き、粉砕ししようとする盾の裏(・・・)から、それを貫きつつ一直線に現れた。突き穿つ意図を持って繰り出されたそれはまさしく決殺の一撃だった。

 

 セイバーに突貫する際ランサーがあえて用意した、大きくそして薄い盾(・・・)

 

 その狙いは敵の眼前に突き出すことで敵の視界を塞ぐとともに、その注意を用を成さない防具(・・・・・・・・)に向けさせることにあった。そしてランサーは遮蔽物の裏側、つまりは死角となったセイバーの前方から自らの盾ごと彼女を串刺しにしようとしたのだ。

 

 月夜に舞う細雪(ささめゆき)のごとく散華する紫水晶欠片の唯中で、二つの影法師がまるで溶け合うかのように交差した。しかし、辺りには誰の倒れこむ音も響かず、苦悶の声も上がらない。結果として、またもや両者は健在であった。

 

 星の瞬くほどの刹那、光塵の被膜が月光にさざめき硬質な夜を彩る。次いで、再び天蓋が漆黒の帳を纏うまでの一瞬の静寂の後、両者は弾けるように離れ、再び五間ほどの距離をとった。

 

 僅かに滲んだ鮮血が、翠緑の瞳を飾る長い睫毛と、紅兜の奥の厚唇とを淡く彩る。

 

 ランサーの必殺の刺突は直感によって即座に身を捩ったセイバーの前髪を一房だけ切り取るに留まり、体勢を崩したセイバーの振り抜きもまたランサーの兜に擦過して僅かの罅を残しただけだった。

 

 

 降るかの如き月光に照らされて、両者が再びその威を顕わにしたそのとき——震えるような静寂が、世界を包み込んでいた。

 

 そのとき、すべてのものが静止を余儀なくされていた。

 

 距離を置いてなおも止まらず、再三の打ち込みに備えようとしていたセイバーの足でさえもが滞り、最後には停止した。

 

 不意を衝かれたように芒と立ち尽くすセイバーとは対象的に、ランサーは微笑を崩さずに泰然と棒立ちしているだけだった。総ての武装を具足の内に格納した彼女は無手で構えすら取っていなかった。

 

 本来のセイバーを前にしたならば、それは致命的ともいえる隙であっただろう。しかしその瞬間、彼女には一切の挙動が赦されていなかったのだ。

 

「止めだな」

 

 ランサーは呟くように漏らした。

 

 セイバーは見た。それを、真正面から。

 

 ランサーのしたことは罅割れた兜を脱ぎさり、素顔を晒したということだけ。

 

 それだけ。

 

 唯それだけで、セイバーは一時の思考をまるごと奪われていたのだ。

 

 それは、あまりにも――

 

 ――美しい。

 

 何かを憂いるかのようなその面持ちは祈りを捧げる女神の彫像を思わせる。山吹色(サンライトイエロー)に煌めく流髪は揺蕩う陽光のようであり、仄かに赤らんだ頬までもが生気に満ち溢れ燦然と輝いているようにさえ見えるのだ。

 

 しかしその全体像は血に濡れた宝剣を思わせる、華美な凶器とも見て取れた。

 

 その在り方は奇異であり、同時に奇跡だった。蛮勇と壮麗さとが共存するかのような、かのごとく美しくありながらも異形であった。そんな言葉では追随できぬほどに神掛った美がそこにあった。

 

 戦場にありながら、否、戦場だからこそ戦士達の心を、ほんの一瞬だけ奪い去ってしまうような。そんな在り方が――気まぐれな夜に訪れた一瞬の静けさに包まれて、剥き出しになった騎士王の心中の何かを捕らえていた。

 

「ランサー、何を言っているのです!?」

 

 互いのサーヴァントを挟む形で、セイバーが背にしていた士郎と向き合い、戦いを見守っていたテフェリーもランサーの言葉の真意を測りかねて背後から声をかけた。

 

「だァから、止めだ。止め」

 

 ランサーは事も無げにそう言って、罅割れた兜を変形させて鎧に格納する。

 

 瞬きほどの放心のあと、すぐに我にかえり気を引き締めたセイバーも完全に機を逃してしまい次の手に出られないでいる。

 

「……剣を引くというのか、ランサー?」

 

 努めて冷静を装い、問いかけたセイバーの声にも知らず不満そうな困惑の色がこもる。セイバー達の目的は、あくまでも街の異常の調査である。本来ならここで一度戦闘を取りやめるというのは彼女にとっても是とすべき展開であるはずなのだ。

 

 しかし不完全燃焼をやむなくされたセイバーの闘志は、彼女自身が静止を意図してもなお止まらずに燻り続けているのであった。

 

 ランサーもそんな問いに鼻を鳴らして苦笑した。

 

「ンなわけがあるか。ただ、我ながら柄にもないことをしたと思ってなァ。この有様では我が父神に申し開きのしようもない」

 

 その言葉の意をセイバーが判じようとするよりも先に、ランサーが新たに取り出した武装はそれまでの紫水晶のごとく煌く武具とは一線を画すものであった。

 

 長柄ではあったが槍ではない、それは両の刃で白亜の翼を模して鋳造された巨大な戦斧であった。

 

「これ以上小競り合いを続けるのも詰まらんのでなァ。この辺りでケリを付けようかと思うのだが――」

 

 そこに充満する大気すら捻じ曲げんばかりの魔力は間違いなく宝具であろう。セイバーも士郎もあの自在に換装し、如何様にも千万変化変するあの紫水晶(アメシスト)のごとき甲冑こそがランサーの宝具だと半ば確信していた。

 

 しかし、どうやらあれが槍兵(ランサー)としての(クラス)に据えられた、あの女戦士の本命の宝具のようだった。他ならぬセイバーがそうであるように、サーヴァントの中には切り札と呼ぶべき宝具を二つ、三つと秘蔵する者もいるのだ。

 

「――如何かな、セイバー?」

 

 大仰な様で戦斧を掲げ上げ、ピタリと静止したランサーは問う。およそ人の手には負えぬ神与の彫像の如き美貌を輝かせながら、その構えは地に伏せる野獣がごとく、低く、深く、それでいて微塵も揺らがない。

 

 セイバーは対峙するランサーにも劣らぬ、その美しき翠緑の双眸に僅かに躊躇するような気配を浮かべた。

 

 はたしてこの展開を喜ぶべきか、彼女の心中は複雑だった。その意味を問うというのなら、この戦いは無為だ。本来ならばこれ以上意味のない勝負を、と厭うところなのかもしれない。

 

 しかし、不適に笑うランサーを前にセイバーも嘆息して応じる構えを見せた。その顔には抑えようのない微笑が覗く。

 

 彼女にとってもこの展開は半ば予見するところであったのだ。むしろ心ならずも予定調和とさえ思ったほどだ。これほどに嬉々として闘争を楽しむ輩がそう簡単に勝負を預けるはずはないだろうという予感ははたして的中したのだった。

 

 そしてセイバーの本心も紛れもなくこの展開を是としていた。彼女もまた高鳴る鼓動を無視することが出来なかったのだ。

 

 セイバーはただ厳かに、真っ向からランサーの視線を捉えることでそれに応ずる。異存はない。もはやここに至っては雌雄を決すること無くして退けられる敵ではないだろう。

 

 両者は間合いを空けて対峙したまま、無言の視線を交わして互いの必殺を約束しあう。

 

 

 しかし、そこで――その場にいた者達はほぼ同時に、それ(・・)に気付いた。

 

 はるか彼方の天空から、ゆっくりと飛来するそれが尋常なものでないことは明らかだった。それでも交差する視線が逸らされることはない。今まさに衝突せんとした彼女たちにはそれをかんがみるだけの猶予など、微塵も残っていなかったのだ。

 

 女達は止まらなかった。

 

 振りかぶられた戦斧に込められた戦意は臨界を超え、解かれた旋風は眼前の敵を穿たんとして荒れ狂う。

 

 自らの剣に必勝を誓い、敵を討つと決めたならば、余計な諸所に向ける注意など残っていない。ましてや、それが到達する頃にはこの戦いはとうに決着していることだろう。ならばなおさらだ。

 

 両者は互いから目を離すことは出来なかった。この刹那だけは互いこそが世界の総てであった。――そう、飛来してくるそれが本当に誰を狙ったものでもない、的外れな牽制の一投であったのなら。

 

 サーヴァントたちはそれを見ていなかった。しかし彼女らの主たちはありあまる驚愕を持ってそれを見上げていた。

 

 目視できる位置まで飛来したそれは、夜を裂くかのような一筋の紅光だった。箒星を思わせる焔尾を撒いて迫りくる紅弾は途中二股に別れ、そしてその数を倍々に増やしながら一様に停滞するかに見え、そこで渦を巻いて燃え盛り、膨張し、爆ぜて――灼熱の弾雨へと変じたのだ。

 

「――ッな?!」

 

「――くッ!?」

 

 降り注ぐ幾多にもわたる烈火のごとき礫。それはまるで燃え盛る土砂降りの雹塊のようであった。

 

 さしものサーヴァントたちも、これを無視することは出来なかった。

 

 天から舞い降りた無数の紅弾。ランサーは咄嗟に主を庇うように後退し、これらを手にしていた戦斧で迎え撃った。

 

 巨大な刃が垂直に振り下ろされた瞬間。飛来する紅蓮の弾雨がやおら、その軌道を歪ませ、救世主(メシア)の前に道を開く大海の如く割り開かれたのだ。それでも幾つかの散弾は執拗に獲物に喰らいついていたと見え、そのうちの幾つかは煌めく鉱石の如き装甲に小さな穴を穿っている。

 

 セイバーの反応は対峙していたランサーと比してもなお迅速であった。いち早く飛来する光弾群の脅威を感じとったセイバーは主の元まで後退しながら次々と飛来する光弾を打ち落としていった。

 

 数多の赤雨がアスファルトの大地に降り注ぎ、辺り一面を溢れかえった溶鉱炉の如き様相に変貌させていた。あのちっぽけな礫が、なんという熱量であろうか。

 

 狙撃主はどこに――!?

 

 総ての紅弾を速やかに打ち払い。未だ見ぬ新たな敵の姿を探して彼方を臨んだセイバーだったが、その視界の隅にふと――なにか、赤い揺らぎが掠めた。

 

 不思議に思って見てみれば、己が手に執る不可視の剣の先端に僅かにこびりつくようにして先の火弾の欠片が残っているではないか。

 

 ゾッ――と、するような黒い悪寒がセイバーの首筋を駆け抜けていった。戦場で感じるような、抜き身の鋼に晒される危機感とは別種の、もっと本能的で、それゆえに致命的で耐え難い。――そんな感覚だった。

 

 次の瞬間、その火の粉が爆発的に燃え盛りセイバーの腕をも巻き込んで炎上し始めたのだ。火の勢いはとどまることを知らず、風王結界に封じられた風を侵食し、さらにはセイバーの白銀の甲冑をも削り取るように燃え盛る。

 

「なッ――」

 

 なんという奇怪な火炎か、まるでこの炎はセイバーの魔力そのものを食いつくし、貪っているようではないか。

 

 セイバーの纏う装甲やインナーは見る影もなく焼け爛れ、侵食されつくした風王結界はその役割を果たすこと叶わず、本来は包み隠さなければならないはずの聖剣の輝きを露呈させるに到っている。

 

 対峙するランサーでさえ、その怪異に息を呑んだ。彼女にはこのような怪異は起っていないのだ。

 

「セイバー!」

 

 尋常ならざる事態に、彼女のマスターもセイバーの傍に駆け寄ろうとする。

 

 そのとき、裂帛の気合とともにセイバーの身体から放出された魔力の奔流が、彼女に纏わりついていた怪炎を吹き飛ばした。

 

「――ッ、問題はありません。シロウ、下がってください」

 

 そしてすぐさま装備を修復したセイバーは主を押し止め、目下の敵であるランサーの動向を窺う。

 

 今の隙をランサーに突かれたならば危なかった。だがランサーはセイバーを見てもいなかった。美しい双眸を不機嫌そうに眇める彼女の視線のその先に、セイバーも重厚すぎる気配感じ取り、それを視た。

 

 そのとき、直視を許さぬほどの赫い光が一瞬、セイバーの視力を奪う。厳かな声がそこから響いてきた。

 

「……(ナーガ)の気を纏うか、ならばこの炎は辛かろう」

 

 悠然と姿を現したのは屈強な男だった。艶めかしい茶褐色の肌を露出し、見るからに鍛えこまれた堂々たる体躯を、今も煌々と燃え盛る赤い炎が照らし出している。

 

 その赤光の焔はあろう事かその男の手の中にあった。

 

 揺らぎながらも確かな形を保つ炎の弓。そう、男は煌々と燃え盛る弓を平然と携えているのだ。

 

 渦を巻きながらながら燃え盛る紅蓮の翼弓、天空から飛来した赤弾、そして撒き散らされた烈火の礫。……今の横槍をこの男の所業だと判ずる状況証拠は充分だ。

 

 だがサーヴァント達の示す警戒色が明らかな攻撃の意思に転じようとしたそのとき、男の持つ紅蓮の弓はあろう事か萎縮し始め、小さな種火となって男の分厚い掌に納まってしまった。 

 

 やおら得物を収めた闖入者の意図を読めずに一同は固唾を呑んだ。それまで炎に照らされていた周囲は再び闇に飲まれる。しかし暗夜に伏してなお、苛烈にして厳かな意思を湛える双眸が際立つ。()の如く燃え上がる烈火の眼差しが闇の中に輝いている。

 

 誰もがその男の奇怪さ以上に、その偉容に二の足を踏んでいた。

 

 上半身には衣服はなく、代わりに金色の装飾品の数々がその屈強な褐色の裸体を着飾っている。いつの時代、どこの英霊なのかまでは判じ切れないが、身に纏う高貴な空気と威容とが生前の高い身分を物語っている。

 

 すると、両サーヴァンとの視線を受けて男は唐突に声を張り上げた。

 

「双方待たれい! その闘いに意義はあらず! この場はこの化身王が預からせてもらおう!」

 

 困惑する両者を差し置き、男はそう一喝した後で、今度は語りだした。低く、厳かであるが、よく通る声であった。

 

「いや、まずは非礼を詫びるのが先であったな。ランサー、そしてセイバーよ。察しのついている事であろうが、この身は此度の儀式にて召喚されしアーチャーのサーヴァントである」

 

「化身……王?」

 

「あァ? 預かる、———ってのはどういう意味だ?」

 

 いきなり現れたこの男の意図が読めず、一同は困惑の表情を崩せない。セイバーとランサーの闘いに乱入して消耗した両者をもろともに討ち取る、というならまだ話も通るというものだが、まさか本気でこの闘いの仲裁でもしようというのだろうか? 

 

 その言葉を信じることもできず、誰もが困惑の表情を浮かべることしか出来ない。

 

「言葉どおりの意味に相違ない。其処許(そこもと)等の戦いは何の意義も持たぬものであるが故、引き止めたまでのことだ」

 

「意義がない、だと? ……いきなり現れて人の喧嘩のイチャモンをつけようとはいい度胸だなァ貴様ッ」

 

「うむ、説語が必要であろうな。よろしい。ではまずセイバーよ、其処許は此度の召還によって招かれたサーヴァントではないな?」

 

 剣呑な殺気の矛先を向けてくるランサーを前に、アーチャーを名乗るサーヴァントは勝手に話を進め始めた。これにはランサーも「はァ?」と呆気にとられるほかなく、水を向けられた当のセイバーも状況を判じかねて憮然と応じるしかない。

 

「……それについてはこちらが問いたいところだ。何故再開されないはずの聖杯戦争が執り行われているのか。そして、いったい誰が、なんの目的でこの事態を引き起こしたというのか」

 

「……そうか。ふむ、何らかの悪意によって参じたというわけでもないらしいな。他意はない、ということか。……そうか……」

 

 またなにやら考え込むように思案し始める様子のアーチャー。そうしてなにやら合点がいったのか一人で頷くと、押し黙るセイバーを余所にまたもやランサーに向き直り、

 

「ランサーよ、聞いてのとおりだ。これでそこなセイバーと其処許が戦う理由はないことがわかったであろう」

 

「……」

 

 ランサーはもはや言葉をなくしたかのように表情を凍らせたまま閉口していた。男はまたランサーの返答を待つまでも無く、再度セイバーに向き直った。

 

「して、セイバーよ、残念だが(それがし)には其処許(そこもと)の問いに答えることができぬ。なにも聞かずに此度のことは忘れて息を潜めていてはくれまいか?」

 

 指示を仰ぐように士郎を見るセイバーだが、当の士郎も状況を判じかねて押し黙っている。仕方のないことだ。

 

 セイバーとてまだ問いただしたいことはあった。たとえ剣に訴えてでも怪異の情報を聞き出したいところではあった。

 

 しかし彼女の戦闘者としての冷静な危機感知が述べている。この男は危険だ。得体が知れない、というよりも底がしれないといったほうがいいかもしれない。

 

 そのとき、ランサーがいよいよ憮然とした様子で声を上げた。

 

「……で、セイバーを下がらせて、あんたがアタシの相手をしてくれるってわけかい?」

 

 低く揶揄するようなランサーの声。しかしその歌うような声色のうらに、猛獣の唸りにも似た苛立ちが見え隠れするのを、はたしてこのアーチャーは気付いていたのだろうか。

 

「否、それも無用だ。なぜならばこの身は既に……」

 

 そこで、ランサーはさらに言を重ねようとしたアーチャーの言葉を厭うように声を上げた。

 

「ああ、そうかい。……もういい、言いたいことは大体解った」

 

「なにを言う? ランサーよ、其処許も事情を知らぬままに引くはやぶさかではあるまい。遠慮することはない、某が話せることなら仔細まで話そう。まずは某の立ち位置をはっきりさせねばならぬであろう。今現在この身は……」

 

 何処までも生真面目に、そして誠実そうに語りかける男の言にランサーは今度こそかぶりをふってそれを遮った。

 

「いいや、もういい。大丈夫だ。つまりはアレだろ? この場合、アタシらは戦略的には引くのが正しいわけだな? おとなしく帰って、しかるべき相手を探してそこで雌雄を決するべく力を振るう、と」

 

 思いのほか聞き分けのいい相手の態度に、アーチャーは ほう、と満足そうに頷いた。

 

「そのとおりだ。うむ、某は手を出さぬ故安心するがいい」

 

 それを前にランサーも始めてアーチャーに向けて満面の笑顔をみせた。しかし、まるで大輪の華の如きその美貌は先ほどまでの愉悦から来る笑みとは、明らかに一線を画していた。

 

「……そうかそうか、なるほどな。……で、最後にひとつ気になっていることがあるんだが、いいか?」

 

「うむ、申すがよい」

 

 それも知りもしないアーチャーは邪気のない微笑を返す。――が、次の瞬間、世界は一瞬でそれ(・・) に飲まれていた。

 

「キサマ、いまこのアタシに見逃してやる(・・・・・・)とぬかしたのか?」

 

 静かに、しかしその実、夜を満たさんばかりに溢れだした殺気の波濤が、空間そのものを沸騰させんばかりに燃え盛っている。

 

「ランサー、待て……!」

 

 この美獣の次なる挙動を過たず予期したセイバーは彼女を制そうとしたが、もはやこの槍兵を止めうることは神々の換言をもってしても叶わぬことであった。——もっとも、彼女の奉ずる神々の中に、この暴挙をとどめようとする神は一柱としてなかったが――

 

「退いていろ、セイバー。続きはこの阿呆を黙らせてからだ!」

 

「…………」

 

 しかし、それほどのむき出しの憤怒を向けられてもなお、当のアーチャーは依然として何やら難しい顔をしたまま首を捻っている。

 

「……うむ。失言は認めるが、できればこちらの意を汲んでもらいたい。某は決して……」

 

 そのとき空間そのものを激しく打った音無き烈波は、ランサーの口腔から放たれた覇気だったのか、それとも彼女の中で何かが決定的に切り替わった合図だったのかは分からない。

 

 もう問答になど興味はなかった。

 

 返答など聞く気もなかった。

 

 ランサーは再び大上段に振りかぶった戦斧を誰に向けるでもなく、己が足元(・・・・)へ目掛けて横薙ぎに打ち下ろした。

 

鋳造されし(プテロ)――』

 

 紡がれる神斧の真名。宝具とは真実の名をもって放たれる奇跡を封じたものであり、奇跡とは、この世界では起こる筈のない暴挙である。故に、

 

『――不和の双翼(エリス)!!』

 

 それは至極単純にして、ただ明瞭な『奇跡』であった。

 

 まるでクレバスのような大口の亀裂を残し、分厚い刃がアスファルトを切り裂いた瞬間、揺らぐはずのない世界が歪み、絶対の筈の秩序が消失していた。

 

 一体誰がこの事態を予想し得ただろうか、今まさにランサーの放たんとする宝具の威力と、それが為しうるであろう奇跡を。

 

 その場に居合わせたものたちが四者四様の展開を予測し、その総てが悉く覆された。誰もが動転しながらも必死に足を掻いた。地面があまりにも遠かった。

 

 次の瞬間に己の踏みしめる足場が全く消失するなどという事態を一体何者が的確に予測しうるというのか。

 

 正確には、地面が雲散霧消したというわけではない。その瞬間あらゆる森羅万象が慣れ親しんだ万有引力の頚木から解き放たれ、舞い上がった先の虚空に繋ぎ止められたまま浮遊していたのだ。

 

 これこそ、『トロイア戦争』の引き金となった、『黄金の林檎の逸話』に知られる不和の女神『エリス』によって彼女に賜わされたという神斧の力の顕著であった。

 

 そも、人と人が互いに不可避な魅力を感じる時、否応なしに引き付け合い、いつしか互いに離れがたい「引力」を認識することがある。

 

 その、人と人の間を友愛によって引きつけ合う引力こそが「和」と呼ばれる概念であるとするのなら、彼の女神が司る「不和」とは人と人の間に否応なしの拒絶を齎すものといえるのではないだろうか。

 

 二つの物体を引き離そうと作用する反発力。それ即ち「引力」と対を成す「斥力」に他ならない。

 

 つまり、彼の女神の双翼を模したこの戦斧は、その神格を現実の物理法則の世界に顕著させていたのだ。

 

 その宝具の炸裂によって生み出された不可思議なる斥力が地球上の万物に等しく与えられていた重力の恩恵を相殺し、この一帯をまったくの無重力空間へと変容させたのだ。

 

 いきなり足場を失った人間にどのような回避行動がとれるというのだろうか。それはたとえ人の臨界を超越した絶対者であるサーヴァントであっても変わることはない。

 

 それが人という根本に根ざす存在である以上、予期し得る埒外の理不尽には誰もが平等に驚愕と混乱の憂き目を免れないのだ。その刹那、誰もが本能的に踏みなれた地表を探して足を掻くことしかできなかった。

 

 故に――魔力放出による姿勢制御のおかげでなんとか体面を正せたセイバーはいざ知らず、ただ虚空に浮遊することしかできなかったアーチャーがたいした対策も取れずに、それ(・・)をまともに受けたことは仕方のないことかもしれなかった。

 

 輝爪の具足(アンカー)で自らの体を固定したランサーは、宝具による初撃の後間を置かずに二撃目を放っていた。ただし、今度は地面にではなく彼女の闘気に揺らぎ捩れる背後の虚空に目掛けて。

 

 再度見舞われた渾身の一撃は、何もないはずの打突点に凄まじい炸裂音を響かせる。そして次の瞬間、ランサーの身体そのものが一帯の夜を裂く一筋の閃光と化した。

 

 ランサーは戦斧から発する反発力を推進力として利用し、未だ宙に繋ぎ止められたままのアーチャー目掛けて「飛翔した(とんだ)」のである。

 

「そォ――ッ、らあああぁぁぁッッ!!!」

 

 そしてさらに三度、虚空で斧を炸裂させ、直線だった進行方向へ『弧』のベクトルを発生させたランサーは己を一本の軸として、駒の如く戦斧を旋回させる。

 

 そしてハンマー投げよろしく極限まで加速された分厚い戦斧の刃を、虚空で無防備なまま漂っていたアーチャーへ向けて無慈悲に叩きつけたのだ。

 

 同時に、不可解な斥力場は消失していた。宙空から重力の加護を取り戻して地面に投げ出された衛宮士郎は、その光景をしかと見届けていた。

 

 それはいつ見たのかも忘れてしまったブラウン管の向こうの光景を思い出させるものだった。哀れな子供が誤って今飛び立たんとする小型飛行機のプロペラに巻き込まれてしまうという、まるで現実味のないハプニング映像だ。

 

 だがいつまでもそんな揺籃の回顧に浸っている暇はなかった。鉄骨が圧し折れるような不快な音を立てて木っ端の如く弾き飛ばされたアーチャーは遥か遠くの彼方まで消え行くかに夢想されたが、実際には瞬きの終わらぬ刹那のうちに、彼の目と鼻の先まで迫ってきたではないか。

 

 同様に浮遊感から開放されていたセイバーは危なげなく地表に着地をはたしていたが、次の瞬間には怒涛を撒いて主へと迫る砲弾と化したアーチャーの姿を視止め、愕然と眼を見開いた。

 

 飛来するアーチャーの軌道を己が身体を以て変えようにも、残像さえ残さぬその速度を見ればもはや手遅れなのは明白だった。

 

 今の状況からでは士郎にはどのような回避も間に合わないだろう。――故にセイバーの意思は刹那に先んじて決定された。もう、猶予はない。ならば対処策はひとつ。この位置からアーチャーの軌道を変えるよりほかにない!

 

 瞬間、大嵐の如くうねった大気は咆哮を張り上げた。

 

「奔れッ! 風王鉄槌(ストライク・エア)!」

 

 セイバーは咄嗟にランサーとの打ち合いにおいて解きかけていた『風王結界』の旋風を開放し、主へ向けて飛来するアーチャーにむけて風圧の巨塊を叩きつけたのだ。

 

 セイバーの持つ宝具『風王結界』は剣そのものが透明なわけではなく、実際には剣の周囲に纏わせた高密度の圧縮空気により光の屈折率を折り曲げ、その聖剣の真の姿を隠蔽しているものである。

 

 そして、この超高密度の圧縮空気には副次的なもうひとつの使い方があったのだ。それこそがこの『風王鉄槌』である。光を捻じ曲げるほどの高密度の大気を瞬間的に解き放つことで一度限りの遠距離攻撃としても使用することが出来るのだ。

 

 剛風の剣戟によって横撃されたアーチャーの身体はその軌道を捻じ曲げられ、シロウの脇を通り過ぎ、隣接していた古い廃屋とその前にあった街路樹とをまとめて粉砕しながら吹き飛んだ。

 

 それを遠目で見届けたあとセイバーはねめつけるようにランサーを睨んだが、当のランサーは大戦斧を肩に担いだまま、その燦爛たる美貌をセイバーに向けて鈴を転がすようにカラカラと笑う。

 

「ナハハハ。やるなァ、セイバー!」

 

 セイバーはもはや嘆息するしかなかった。結果としては二対一で一人の敵を痛めつけたようなものだ。

 

 セイバーとて、この闖入者の言を信じて闘いを避けようなどとは夢にも思っていなかったが、さすがにこれは騎士王の本意ではない。

 

 サーヴァントの宝具による渾身の二連激。――端的に推察するなら少なくともAランクを軽く上回る程の破壊は免れまい。並みのサーヴァントなら悪くすれば即死、少なくとも戦闘不能は避けられないほどの攻撃だったはずだが……。

 

 しかし次の瞬間、その場に居た全員が閉口して眦を見開いた。

 

 瓦礫の中からのそりと姿を現したのはまぎれもなく、無傷で悠然と佇むアーチャーの姿だった。

 

 しかし、言葉を失うほどの一同の驚愕はその事実だけによって齎されたものではない。それは先とは一変したアーチャーの出で立ちによるものであった。

 

 とはいえ、アーチャーの身体そのものが異形のそれへと変じたわけではない。果たして一変していたのは――その肌の色だった。

 

 先ほどまでの、はちきれんばかりに輝くようだった茶褐色の体色が今ではひどく青ざめて――――否、それは青銅の彫像を想わせるほどの真蒼に染まっているではないか。

 

 あまりにも奇怪に人間味を失ったその姿は……しかし不吉な邪悪さとは程遠く、眩いばかりの神々しさと尊さに満ち溢れている。それこそが、この場の一同をもって最も奇異に感じさせたものの正体だったのかもしれない。

 

 そしてよく見てみれば、彼は決して無傷というわけではなかった。

 

 その分厚い胸板には一文字に切り裂かれた傷がうっすらと残っている。おそらく、中空に浮いたまま、無防備に受けたランサーからの一撃によるものだろう。しかしその皮一枚を裂いたような傷が、あの巨大な戦斧から受けた傷と見受けられたのが余計にその奇怪さを助長していた。

 

 それは同時に、彼が攻撃を避けたのでも、いなしたのでもないという事実を物語っていたからだ。

 

「ハッ、出鱈目なやつめ……」

 

 そのあまりにも規格外なアーチャーの頑強さに、ランサーはもはやあきれ返って嘆息した。

 

 己の秘剣の威力を知るが故に、セイバーも瞠目せざるを得ない。セイバーの風王鉄槌をまともに受けながらその真蒼の体躯にはまるで影響が見受けられない。おそらくは何らかの宝具による防御。そうとしか考えられなかった。

 

 当のアーチャーは何事もなかったように首を鳴らし、一息ついて諭すような口調でランサーに語りかけた。

 

「うむ。ランサーよ、今の攻撃は先の失言のつけとして受け取らせてもらおう。故にこれ以上の無意味な戦闘は避けたいと思うのだが、聞き入れてはもらえぬか?」

 

 今しがた己に対して凶刃を振るった相手に掛ける言葉としてはこの上なく穏当極まりない言葉だといえたが、当のランサーにとってそれは侮辱以外の何物でもなかったに違いない。

 

「……()ァれたことをッ!」

 

 憤怒のあまりに言葉に詰まりながらもアーチャーに向けて再び大地を踏み抜かんばかりに駆け出そうとしたランサーの踏み込みを、寸でのところで一歩先んじたセイバーの身体が遮った。

 

「――ッ! 止めるな、セイバー!」

 

 セイバーは背中でランサーを射止めながら、ただ無言でアーチャーを見据える。

 

「アーチャーのサーヴァント。いや、化身王といったか……用があるのは私のほうであったな」

 

「然り。……引くのだ、セイバーよ。我らの争いは無為だ」

 

「それでも引かぬ……と言わば、貴殿はどうするのだ?」

 

「……其処許をこの儀式から排除せねばならぬ。だが先刻申した通り、互いに手を出さずにすむのならばそれに越したことはない。今ならまだ引く道もあるのだ。これは其処許を高名なる騎士の王と見込んでの諫言である。……どうか聞き入れてはもらえぬか?」

 

 やはり知られていたか。セイバーはさして動じることもなくその事実を受け入れた。

 

 先の怪異なる炎により衆目にさらされることになった黄金の宝剣は彼女の真名を何よりも雄弁に物語ってしまっていたのだ。

 

 それを聞いていたランサーも、特に動揺したふうもなくセイバーの後ろからアーチャーを見据えている。彼女もとうにその可能性に行き着いていたのだろう。

 

 しかし、その程度のことで動揺するセイバーではない。静かに返答を返す。

 

「……いいだろう」

 

「では、引いてくれるか、騎士王よ」

 

 しかし突き返されたのは不可視のはずの切っ先であった。それは揺らぐような剣の輪郭を夜気に描き出し、浮かび上がった刃は灼熱をともなって真っ直ぐに化身王の喉元へ向けられる。

 

「ああ、この身を騎士王と知って挑んでくるならば是非もない。貴殿の挑戦を受けよう!」

 

 セイバーの意志は既に決定していた。

 

「……これは無益無用な争いといった筈!」

 

 それでもアーチャーは食い下がるように言葉を洩らす。しかし既にセイバーの意思は決していたのだ。

 

「くどいぞ。化身王とやら、ここでむざむざと引き下がるものを英霊とは、ましてや一国の王とは誰も呼ばぬ」

 

 元より彼女達の目的は怪異の調査、解明と、それを補足した上での打破、解決である。怪異の真相こそわかってはいなかったが、二人目のサーヴァントが現れた時点でセイバーは怪異の究明よりもその解決こそ優先すべきと言う判断を下していた。

 

 いかなる理由であろうと、この冬木の地が今再び魔の動乱に蹂躪されようとするのならば、彼女はその剣によってその災厄を打ち払うのみだ。彼女の正規マスターである少女も必ずそうに断じるはずである。 

 

「そして、貴様らが何をするつもりなのかは知らぬが、この怪異の全貌を知るまではおとなしく引き下がることなど出来ぬ。わが騎士道に誓ってな」

 

 しばし沈痛に太い眉を顰めたあとで、アーチャーは深く息を吐いた。言葉を弄したところでどうなる相手でもないと悟ったのであろう。

 

「……仕方あるまいな。ならば――」

 

 そこで言葉を切ったアーチャーの、青銅色に染まっていたはずの肌がやにわに色味を増していく。

 

 それだけではない、苛烈なまでの眼光を放っていた紅蓮の瞳すらもが黒曜石のごとき光沢を帯びた墨色に染まっていくではないか。そしてその黒真珠の如き黒曜色の煌めきは眼球はおろか口腔まで、それこそ全身を覆っていくのだ。

 

 息を呑むセイバーを前に、やおら転身を果たした漆黒の魔人が吼え猛る!

 

「闘うという以上、某も容赦の出来ぬ身の上だ。行くぞ、騎士王よ!」

 

 セイバーも斜に構えてそれと対峙する。この得体の知れぬ難敵の更なる怪異に、彼女の危機感知はいよいよけたたましい警報を鳴らし続けている。

 

 対峙する剣士と弓兵。間合いは十メートル弱。サーヴァントにとっては既に必殺の間合いだ。趨勢は、近接戦を主体とするセイバーにやや有利な状況であろうか……。

 

 しかし、一人蚊帳の外に追いやられた感のあるランサーがこのまま黙っている筈もない。

 

「ふざけんな! いい加減にしろ! アーチャー! それにセイバーもだ、我らの決着を如何とするつもりだ!」

 

 しかしそのとき、憤るランサーの背中に硬い琴線の鳴るような声が掛かった。

 

「駄々をこねずに下がりなさい、ランサー。あなたは勝ったほうと存分に戦えばいいでしょう?」

 

 そんな台詞をニコリともせずに語るテフェリーに言葉も返さず、暫し牙を剥くようにして主を見据えていたランサーはやおら霊体化して一瞬で主の傍らまで移動した。再び燦然と実体化を果たし、そしてそこであらん限りの声を張り上げた。

 

「…………ッったく、―――――――――ンだってんだあぁぁッッッ、あああああああああぁぁ―――――ッ!!」

 

 最後に――チクショウッ! と付け加え、一通り吼え猛けた後でランサーは顔をしかめたまま近くの縁石にどかり、と腰を下ろした。

 

「――お断りだ。戦士のすることではない」

 

「ならば大人しくしていなさい――見ものですよ」

 

 漁夫の利をさらえというテフェリーの指示はバトルロイヤルにおいてはむしろ定石であり、ランサーにとってこの状況は本来なら願ってもないはずだった。が、そんなことは無論、彼女の流儀と目的からすれば見逃せることではなかった。

 

 そして当のランサーがそのような無粋な仰せに従う手合いでないことは、テフェリーもすでに承知している。しかし、ここであのサーヴァント達の特性を見られるならば再戦においては有利に働こう。

 

 静観を決めた二人の視線は、いよいよ対峙する二王の挙に向けられた。

 

 

 

 



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一章 過加速「ディーン・ドライブ」-9

 
 ※我らのセイバーがガチでボコられるシーンがあります。一応気を付けてください。


 

 

 不可視の剣閃が奔った。夜陰を裂く切っ先が、夜の漆黒に浮かび上がる益荒男の輪郭を捉える。

 

 対峙は一瞬。先手後手の駆け引きは刹那の内に結実した。

 

 セイバーは颶風もかくやという速度でアーチャー目掛けて突貫し、瞬時に一足一刀の間合いまで詰め寄った。

 

 その選択は何処までも彼女らしく愚直であり、同時に剣士が弓兵に対して取る戦法としてはあまりにも至極当然、かつ効果的なものであるはずだった。

 

 無論、いかな敵が相手であろうとセイバーの取りうる戦法は唯一にして絶対の一であり、それ以外の処方など彼女の王道には必要ない。

 

 しかし、夜に溶けるような斬撃がアーチャーの身体を捉えようとしたそのとき、巌の如き黒檀色(エボニー)の肉体が何の予備動作もなく中空に浮き上がり、波うねり星を呑む水面の如く躍動し、旋転した。

 

 途端、セイバーが放った筈の剣線がその軌道を弾かれ、予期し得なかった衝撃にセイバーはたたらを踏んで後退った。

 

「――なっ!」

 

 セイバーの不可視の刃を弾いたのはその身体同様、漆黒に変じたアーチャーの右足であった。つまりは――刃そのものを裸足による蹴りによって打ち払ったというのだろうか?

 

 まさか、という思いがセイバーをして思考を滞らせるほどの驚愕をもたらした。その驚愕をも置き去りにするかのように、アーチャーは立て続けに拳足による連打を放ってきた。

 

 セイバーの当惑を他所に、射撃をその戦術の主体とするはずのアーチャーが距離を空けようとするのではなく、逆に詰めてくるのだ。

 

 驚愕は当惑へと変わり、さしものセイバーも憮然とならざるを得ない。これはどう考えても愚行としか受け取れない行為だ。

 

 戦略上、弓兵が剣士の制空域にその身を曝しながらそれでも前進してくるなどとは、もはや奇策を通り越して狂乱の行いとしか言いようがない。 

 

 当然の対処としてセイバーはすぐに迎撃の態勢を整えようと、剣を振りかぶるために半歩分距離を開け――――またすぐに半歩後退し、さらにもう一歩下がる。そこでようやく、セイバーはある事実に気付いた。

 

 ――剣が、振れない!?

 

 そこでセイバーもようやくこの戦況の如何に危機なるかを察した。が、時既に遅くその双眸には苦悶の相が刻みこまれていく。

 

 意外に思われるかもしれないが、槍などの長物よりははるかに小回りが効くとはいえ、長剣もまたその威力を充分に発揮するにはそれなりの有効距離を確保することが必要になってくる。

 

 いかな形状であれ、それが剣である以上、剣先が充分に加速した状態でなければ求める破壊力は生まれない。それは至高の宝剣たるセイバーの宝具であっても変わることのない道理だ。

 

 故に組み付ける位置にまで潜り込んでくる拳士に対して、剣士が取りうる有効策は多くないのだ。剣を振るう隙間さえない、ショートレンジよりもさらに密着したクロスレンジでの格闘戦こそが、この場で取りうる最上の策。この弓兵はそう断じたのだ。

 

 もっとも剣の英霊に据えられるだけの英霊に対して、徒手空拳で近接格闘を仕掛けるなど、本来なら正気の沙汰ではない。

 

 とはいえアーチャーは決してセイバーを侮っていたわけではない。むしろ十二分にその戦力を評価したからこそ、この選択なのである。

 

 現状、単純な剣士としての彼我の能力差は歴然である。そのような相手に剣を持って相対するは愚行でしかない。故に――この間合い。

 

 たとえ宝具による規格外の頑強さを誇ろうとも、セイバーもこの敵を弓兵と認識した時点で、この戦いが引き下がる敵を『追う』ことに終始するものになるだろうという予想を懐いていた。しかし、この弓兵は引かなかった。むしろ逆にセイバーの小さな懐に目掛けて強引にその屈強な五体をねじ込んでくるのだ。

 

 次いで、セイバーの両腕の隙間から強引に割り込んできた何かが、彼女の細い顎先を掠めた。

 

 それは巌の如き拳骨であった。

 

「――くッ!」

 

 一瞬の陶酔にも似た感覚に更なる後退を余儀なくされたセイバーは、混濁した景色の只中に陽炎の如く爆ぜる漆黒の肉体を見た。

 

 鋭角に切り込んでくる膝と肘、拳と踵の打突が依然として剣を振るうに足る間合いの確保を許さない。

 

 凄まじい圧力を持って迫る黒曜石の剛体。さらに漆黒の金剛石を思わせる拳打が僅かにこめかみを擦過した。それだけでセイバーの視界は歪み、用を成さぬほどに変溶する。

 

 次いで雪崩れ込んでくる肘打ちと膝蹴りによる超至近距離でのコンビネーションの猛攻に、振るうことの出来ぬ不可視の剣を盾にするようにしてセイバーは守勢にまわるしかない。

 

 そうして僅かに傾いだセイバーの体制をすかさず見咎めたアーチャーは、まるで砲撃のような蹴りの突き上げを放ってくる。

 

 旋視。翠緑の眼光が翻る。セイバーは咄嗟にその背足を剣ではなく足裏で捕らえようとした。このまま敵の蹴り足の勢いを利用して一気に間合いを開けようと、考えに先んじて体が行動していたのだ。

 

 しかし、足場にしようとした敵の剛脚は矢庭に静止し、跳び退ろうとしたセイバーの勢いを削ぐ。不意に首の後ろ回された漆黒の両手が、がっちりとセイバーの身体を固定した。

 

 失策を理解するより先に危機感が先んじて、セイバーは咄嗟に左手の篭手で体の前面を固めた。先ほど振り上げられようとした蹴り足は今度は折り曲げられ、よりコンパクトな膝蹴りとなって強靭に押さえ込まれたセイバーの矮躯を突き上げる。

 

 首相撲の形から連続で繰り出される膝蹴りは、ガードしている銀の篭手ごとセイバーの腕を粉砕してしまいそうなほどに苛烈であった。

 

「――ッッッ!」

 

 しかし今度は逆に凄まじいまでの衝撃がアーチャーの鳩尾を捉えた。勢いづくアーチャーへ、負けじとばかりにセイバーが放った打突である。

 

 使用したのは剣の柄頭だ。これなら剣先を加速させる必要はない。しかし本来なら四五メートルは吹き飛ぶと思われた手応えに反し、弓兵は依然として超至近距離の間合いを崩していない。

 

 なぜなら、そのエボニーの右腕は篭手に包まれたセイバーの右手首を、特大の鉄錠の如く掴み執っていたのだ。

 

 刹那の間すら置かず、漆黒の光沢が閃いた。今度は左腕の肘だ。予備動作さえ知覚させない剃刀のような振り抜きが、今度こそセイバーのこめかみを捉えた。

 

 天地が反転したかのような衝撃が見舞われ、しかしすぐに消えた。すると今度は視界が一瞬にして消失し、ただ白い空白だけがセイバーの思考を覆っていた。完全な死に体だ。

 

 弓兵はさらにそのとらえた右手を引き込み、右踵、左膝、打ち下ろしの左肘を連続で頭部へと叩きこむ。そして、そのまま傾いだセイバーの矮躯を組み敷こうとした。

 

 ――が、その直前、意識の完全な死角からその側頭部に見舞われた凄まじいまでの衝撃によって、アーチャーの身体は今度こそ彼方まで吹き飛ばされ、錐揉みしながら二転、三転して地に叩きつけられた。

 

 アーチャーを吹き飛ばしたのは、セイバーが左手に執っていた不可視の剣だった。

 

 敵の猛攻によってその身をくの字に折り、敵を見失ったセイバーではあったが、ただその未来予知に近しいとさえいわれる直感によって敵の位置を断定し、狙いもつけぬ横薙ぎの一閃で屈強なアーチャーの身体を打ち飛ばしたのだ。

 

 

「ヌハッ! 見たかマスター、今の! ありゃあ、相手を見てすらいなかったッ。セイバーの奴め、勘で当てたのか?」

 

 先の咆哮で怒気をあらかた吐き出したのか、傍らで息を呑むテフェリーを他所に、ランサーは打って変わって嬉々とした感嘆の声を漏らした。

 

 そしてひとしきり笑ったあとで、呆れたように嘆息して、再び起き上がったアーチャーのほうを見た。

 

「――しっかし、あっちはあっちでホントに頑丈な奴だなァ、おい。いったいどうなってやがるんだか……」

 

 セイバーが形振り構わず放った一撃がまともに頭部を直撃したのだ。本来なら首から上が消し飛んでもおかしくはないはずなのだが、実際にアーチャーの身体に残る斬撃の痕跡はひいき目に見てもかすり傷としか見受けられない。どうにもあのアーチャーの耐久力は常軌を逸しているように思えてならない。

 

「……おそらくは何かしらの宝具によるものでしょう。あのアーチャーの肉体そのものがある種の概念、(ことわり)によって守られている……」

 

 同じく当惑していたであろうテフェリーがその怪異について生真面目な考察を述べてくる。

 

「んー、一種の概念武装……ってことか。確かに、ただ硬いってんじゃなさそうだが……。しかし、どんな(ルール)があるのか解からんことにはなァ……」

 

「少なくとも、効果対象にはムラがあるようですね。セイバーの攻撃がほぼ無効化されているのに対して、ランサー(あなた)の攻撃はそれなりに効いているようです」

 

 かすり傷程度、皮一枚を裂くセイバーの剣に対して肉を抉る程度には通用していたランサーの戦斧。もっとも、どちらにしろ超常兵装たる宝具を持ってつけられたとするならばありえないほどの軽傷ということになる。

 

「それは――、アタシがすんごく強いからっ、て説はどうだい?」

 

 ランサーはニッと口の端を吊り上げるようにして微笑む。その微笑は美貌の戦人というよりはまるでおどけて見せる少年のようだ。

 

「……比較対象があのセイバーでなければそれも一考の価値がありますが……もっと、何か明確な基準があるはずです……」

 

 生真面目に返すテフェリーに、ランサーはさもつまらなそうに鼻を鳴らして、更なる戦火に眼を向けた。

 

 視界の揺れが収まったセイバーの双眸は、起死回生の一撃を見舞った痛快さとも趨勢を持ち返した余裕とも無縁であった。むしろその眉間に刻まれた皺はその深さを数段増している。

 

 セイバーは油断なく身構えながらも不可視の剣を右手に持ち替え、右半身の体で左手を篭手の中に握りこみ、敵の視線から隠す。その右手の篭手にもまるで獣の爪が食い込んだかのようなひしゃげた傷が残っている。

 

 ――硬い!

 

 奴を打ち据えたはずの左手が千の虫に這い回られるかのような、尋常ではないほどの痺れに見舞われている。

 

 ほんの束の間ではあるが、これではまともに剣を握れない。それを知られてはならなかった。しかし、あまりにも予想外の手応えだった。渾身の振り抜きが直撃したにも関わらず、打った手のほうが尋常でない痺れに見舞われるとは……。

 

 その規格外な頑強さにあらためて驚愕しつつも、セイバーの脳裏にはある疑問が沸き起こっていた。それは敵の不可解なに防衛力にでも、その近接戦闘力でもない。それはもっと根本的な懐疑であった。

 

 この選択が、アーチャーにとって利になるとは思えないのだ。

 

 いくらアーチャーが頑強な肉体を持っているのだとしても、この距離での格闘戦は明らかに悪手だ。先ほど見せた散炎の矢は、その拳足以上にセイバーにとって致命的だったことは火を見るより明らかだった。

 

 わざわざ危険を冒してまで近接戦を挑む必要などないではないか。むしろこの距離はセイバーにとっても反撃に転じる余地のありえる間合いである。

 

 セイバーにとっては有難い展開だ。彼女の攻撃も完全に無力化されているわけではない。たとえ皮一枚の攻撃でも、急所を捉えられれば趨勢が一発で逆転することも有り得るだろう。

 

 アーチャーがやったのは、そういう選択なのだ。なぜそんな危険を冒す必要がある?

 

 その判断が誤っていることくらい、このアーチャーほどの英霊がわかっていないとは思えない。

 

 それは、つまり――

 

 対して先ほど薙ぎ飛ばされた場所で悠然と立ち上がったアーチャーは、こめかみから流れる紅い血を拭うこともなく、地を這う蛇が如き動きで再び距離を詰めようとする構えを見せる。 

 

 しかし――

 

「――ッ?」

 

 しかし、セイバーは動かない。

 

「セイバー……」

 

 槍兵とのその主が両者の戦いを傍観しながらその戦力についての考察を続ける一方で、セイバーの主としてこの場に居合わせている少年、衛宮士郎は彼女らとはまったく別の視点から己が騎士を慮る声を漏らした。

 

 士郎が息を呑んだのはセイバーの劣勢を見たからでも、その身のダメージを案じたからでもない。ただ、その震える双肩が、どれほどの激情から来るものなのかを推し量ったからであった。

 

 その色のない視線だけが漆黒の化身王を見つめている。その眼に映る感情は闘いの歓喜でもなく焦燥でもなく、ただ鮮烈なまでの零下の怒りだけだった。

 

「――ッ!」

 

 アーチャーの挙動が射すくめられたように止まる。

 

「……どうした化身の王とやら、ここは貴様の間合いだ」

 

 それは、その挑発するでもなく揶揄するでもなく粛々と語るセイバーの語調が、焚きつけられるようだった鮮烈な視線が、そのとき決定的に変化していたことに気付いたからだった。

 

「侮るつもりか! 騎士王」

 

 やおら怒号の如き気を吐いたアーチャーへ、しかしセイバーはただ無言で色の無い視線を送る。その翠緑の瞳が語っていた。自ら動くつもりはない、と。

 

 セイバーはこの弓兵を前に自ら距離を取ったのだ。それは剣士である彼女にとってあらゆる意味で何の益特もない行為だと言えた。しかしセイバーの瞳には動揺も悔恨もありはしない。

 

 アーチャーは詰められない。そのセイバーの静かな瞳に、先のランサーの怒りとは全く別種の怒りの色を見ていたからだ。そこに込められたものがなんなのか察することが出来ず、アーチャーの身体はまるで凍りついたかのように滞った。

 

 しばしの間を置き、意を決したように眦を開いたアーチャーの左手から、やおら紅蓮の炎が噴き出した。その炎が逆巻きながら形を整え、一本の棒のような形を作り上げる。

 

 アーチャーが右手を添えるとその棒が三日月の如く撓り、赤火の羽毛が渦を巻く。そこには、いつの間にか美しい真紅の弦が張られていた。

 

 本人ですら気付いていなかったことだが、このときアーチャーは僅かに後退していた。彼は弓を執ったのではない、執らされていたのだ。前に出ることが出来ぬからこそ、弓を執る以外の選択肢がなかったのだ。

 

 瞬きほどの間、両者の視線が再び激しく交錯した。

 

 逞しい腕が真紅の絃を厳かに引き絞る。すると弓全体で燃え盛っていた炎が一点に集束するように沈静化し、絃が解き放たれるのと同時に倍する輝きを放ちながらひとつの紅い礫を吐き出した。

 

 

「……なぜセイバーがあんな選択をしたのかわかりませんが、どちらにしろ、勝敗は見えましたね。後はセイバーがどれだけアーチャーの実力をひきだせるのか……」

 

「あや? マスターはこの勝負がアーチャーのものだと思うか?」

 

 両者の激突が終盤に入ったとみるテフェリーの言葉に、ランサーは胡乱な声で揶揄するように返す。

 

「だからあなたの……いえ、今はいいでしょう。ここから勝敗が動くことがあるというのですか? アーチャーは攻守そしてさらには距離において優位に立ちました。セイバーのポテンシャルは侮れませんが、さすがに手詰まりでは?」

 

「賭けるか?」

 

「なにをです」

 

「それはおいおいな。……勝ってから考えるとしよう」

 

 言って、ランサーはむふりと笑う。

 

「誰もやるとは言っていませんが……、ではあなたはセイバーがここから勝つというのですか?」

 

「無論だ」

 

 考えるまでもないと言わんばかりのランサーの言にテフェリーは逆に考え込んでしまった。ここからセイバーが逆転するには戦闘のスタイルを変えるか、もしくは何か敵の意表をつくような切り札に頼るよりほかないだろう。

 

 ランサーは未だ隠されたセイバーの奥の手を知りえたというのだろうか? この劣勢を覆すほどの……。

 

 

 疾走するセイバー、そして迎え撃つアーチャー。決闘の趨勢はようやく剣対弓の本来の形態へとなっていた。

 

 今度の戦いも最初のランサーとの攻防の焼き増しになるかと思われたが、セイバーの突風の如き前進は次第に滞り、ついには走りとも呼べぬものへと変わっていく。

 

 炎翼の弓から放たれた紅弾は宙空で炸裂し無数の烈火の雨となって、衝角としてセイバーの身を守るはずの風王結界を、身体を包む白銀の甲冑を、見る見るうちに食い荒らしていく。

 

 さしものセイバーも、この怪異なる紅蓮の群焔にその歩みを阻まれざるをえないのだろうか? 

 

 ――否、止まってはいない。前進の速度は最初の颶風を纏いたそれとは比べるべくもないが、それは同時に揺るぎのないものへと切り替わっていた。その戦意は微塵も衰えることはなく、瞳は前だけを見据えている。

 

 襲ってくるのが点や線ではなく回避の叶わぬ面だというのなら、逆に己を一点の楔と成してその面を突き破るほかない! そう判断したセイバーは低く腰を落ち着けて愚直に歩を進め行くための戦法にきりかえたのだ。

 

 その様は、まるで真紅の豪雪を書き分けて突き進む除雪(ラッセル)車を想わせる。

 細かい動きはいらない。敵の攻撃が怒涛の如き烈火の雪崩だというのなら、真正面から受け止め蹴散らして前進するだけのことだ。

 

 余裕などありはしない。引けば、終わる。だからこそ進むのだ。前へ、ひたすら前へ歩を重ねていく。

 

 それこそが、この「天敵」を前にしてなお揺るがぬ騎士王の処方であった!

 

 火達磨にされ、幾度となく片膝をつきながら、それでもこの勝負、優位に立っているのは間違いなくセイバーのほうであった。

 

 英霊たちにとって、その属性も、持ちうる武装の差も、サーヴァントとしての相性さえも、勝敗を分ける絶対的な要素にはなりえない。彼らの戦いを分けるのはその誇りと信念だ。その点で拮抗するからこそ性能の違いが勝敗を決する要素となりえる。

 

 たとえ総ての能力で敵を圧倒していようとも、その心胆が歪んでいるのなら勝利を手にすることなど出来はしない。それは英雄として伝説にその名を刻む者たちにとっての絶対の不文律に違いない。

 

 ――だからこそ、セイバーの眦には深い苦悩の色が刻まれていく。敵の攻撃がその身を削るからではない。怪炎がその魔力を食い荒らすからではない。

 

 その総身は紅蓮の炎に燋爛し見る影もない。にもかかわらず、不利を承知で矢面にたったはずのセイバーの瞳に浮かんでいるのはひどく悲しげな憐憫の色であった。

 

 ただ、哀れだった。そんなことを、そんな英霊として当然のことを違えてしまうほどに己を見失っているこの男が、セイバーは哀れでならなかった。

 

 セイバーはそれ以上の前進をせず、アーチャーも弓を引くことをやめていた。

 

「――アーチャー、先ほど問うたな。侮るつもりか、と。その言葉そのまま反させて貰おう! 迷いを残す拳、気迫のこもらぬ射、それが侮辱でなくてなんだというのだッ」

 

「――――ッッ!」 

 

 憤怒を湛えるセイバーに一括され、アーチャーは呆然と眦を見開いた。

 

「この闘いを穢したのは貴様だ、アーチャーのサーヴァントよ!」

 

 漆黒であったアーチャーの体色が、元のそれへと戻っていく。黒から青銅へ、そして今や色あせたようにさえ見える褐色の身体へ。

 

 剣と拳を交えながら、セイバーには解かったのだ。頭で理解できたわけではなく、直感的に悟ったといってもいい。今のこの男の行為の元にあるもの。それは(やま)しさだ。

 

 この男は己の行いに負い目を残しているのだ。そのために英霊同士の真剣勝負に軽薄な手加減を加えたのだ。

 

 セイバーにとってそれは耐え難い行為であった。しかし本来ならば全身を引き裂かんばかりの怒りがその総身を駆け巡る筈が、いまのセイバーの内側を占めているのはなぜか哀しさだった。

 

 自分でも理解できぬままに、やり切れぬ悲しみがその胸を埋め尽くしている。

 

 この男の在り様があまりにも滑稽に見え、直視できぬほどに哀れだと感じられて仕方がなかった。

 

「――そうか。……この勝負、始める前から某の負けであったか。いや、そもそも、この穢れた身体で其処許ほどの英霊の前に立つべきではなかった……」

 

 呟いたアーチャーに、セイバーは慰めにも似た悲痛な言葉を絞り出した。

 

「……もうやめろ。そうまでして、自らの道に背いてまで戦うな。……そうまで己を蔑ろにしてまで手に入れた聖杯に、貴方はいったい何を望むつもりなのだ……」

 

 セイバーの懐く表情は怒りや悲しみを通り越して、既に憐憫に近いものになっていた。

 

 それぞれの武を交えることでセイバーは知ったのだ。対峙するこの男が己の信念とは別のところで行動していることを、そして、その行為を自らが納得できぬ行いに手を染めているということに。

 

「答えろ化身の王! 己が王道を辱めてなお求める奇跡とはなんだ。貴様の本当の目的は!」

 

 再び双瞳を真紅に変じたアーチャーはしばし押し黙り、セイバーの瞳を見据え、観念したかのようにゆっくりと口を開き、さも重そうに言葉を吐き出した。

 

「某は……聖杯を、求めはせぬ」

 

「ならば……なぜ貴様はここにいる!」

 

「……責務ゆえ」

 

「……どういうことだ?」

 

「この身に残されているのは、もうそれしかないのだ。……今、某に指示を出しているのはこの身を召喚したマスターではない。某は……元のマスターをみすみす見殺しにしてしまった」

 

 沈鬱に、今やただの男となった魔人は語り始めた。

 

「総ては某の迷いがもたらしたこと。その迷いがこの世に現界してなおこの両の手を惑わせたのだ。その隙に、我がマスターは命を落とした。総ては某の不徳が招いた事。悔やんでも悔やみきれぬ……。

 だが、そのまま消滅しようとした某に、この儀式の監督役なる者が声を掛けてきたのだ。もしも己の不徳を悔いるというのなら、先のマスターの遺志を尊重するためにも儀式のガーディアンをつとめろ、とな。

 ……故に、今の某は先の不徳を雪ぐために責務を果たそうとしている次第なのだ」

 

 それを訊きながら、セイバーはその言裏に何があるのかを想っていた。この男が欺こうとしているのはきっと己自身なのではないだろうか。

 

 それはつまり、己の捨てきれぬ願望を疚しいと思うからなのか。心に覆い隠したいと思うことがあるからこそ、己を正当化するために自覚せぬうちに虚偽を重ねる。――英霊にあらざる行為だ。ましてや王を名乗る英雄ならばなおのこと! 

 

 だが、その血を吐くような言葉が虚偽に重ねてさらに上塗りされた虚言だというなら、この英霊は己を欺いてまでいったいなにをひた隠そうとしているのか。セイバーにはそれを推し量ることが出来ない。

 

「そして、なによりも……、我が望みは……叶うべきものでは……ない」

 

「!?」

 

 誰に向けるでもなく、むしろ己に言い聞かせるかのように絞りだされた言葉だった。アーチャーはそれ以上の言葉を発することなく、ただその烈火の如き瞳を伏せ、口をつぐむばかりだった。

 

 どれほどの間、闇に伏すように沈黙していたのだろうか。ふと、アーチャーは何かに気付いたようにあらぬ方角を仰いだ。

 

 ここからは何も見えなかったが、鷹の目とも称されるその視力によって何かを捕らえていたのだろうか。そして遠くから聞こえてくるサイレンの音。サーヴァント達だけが遥か遠方より届くそれに耳をそばだてた。

 

 アーチャーはそのまま何も言わずに霊体化し、その場立ち去った。

 

「ランサー、なんなのです? ――――まさかッ!」

 

 そこでテフェリーもある可能性に行き当たり、憮然と彼方を仰いだままのランサーに向き直った。サーヴァント達がその見つめる方角に、凶気を見たのだ。

 

「ランサー、マスターは今どこに?!」

 

「ん。……確かに向こうの方にいるな。まァ、別段負傷してるってわけじゃあなさそうだが……」

 

「――――では、すでにこの地に?! ――それも戦闘中だというのですか?! なぜ言わないのです!」

 

 すぐに鋼糸をひらめかせて虚空に跳ねあがった少女は、そのまま銀色の軌跡を描きながら、まるで飛ぶように夜を駆ける。

 

「来なさいランサー! 何をしているのですか!」

 

「やァーれやれ。ったく、今宵は邪魔の多いことだ。……預けたぞ、セイバー」

 

 心底からの深い溜息を残して、ランサーもその後を追った。その輝きの残り香だけが夜を眩く彩っていた。

 

 そして辺りには最初のようにセイバーと士郎、二人だけになった。

 

 途端に装甲を霧散させたセイバーの小躯が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。その身体を、駆け寄った士郎が受け止め、支える。

 

「セイバー!?」

 

 あのアーチャーの怪異なる火箭は、もはや己の身を支えることも出来ぬほどにセイバーの身体を蝕んでいたのだ。

 

「セイバー、どうしてこんな無茶を……」

 

「申し訳ありませんでしたシロウ。……引くわけにはいかなかったのです。断じて、あのアーチャー……化身の王と名乗るあの男の前から、私は引くわけにはいかなかった……」

 

 その声にはただ負けられぬという矜持だけではなく、どこか義務感のようなものさえ感じられた。ただ、セイバー自身にもそれがなんなのかを未だに知ることができないようであった。

 

 残された士郎達の胸中を占めるのは疑問だけだった。いったい、この冬木の地で再び何が始まっているというのか。――

 

 




 一章はこれで終わりになります。
 しかし読み返してみると、果たしてセイバーの性格はこれでいいのだろうかと思えてきますね。ですが、根本的に書き直すのはアレなのでこのままでいきます。うちのセイバーはこういう感じなんだということでご了承ください。

 あとで現時点でのサーヴァントステータスも上げておきます。



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一章終了時点でのサーヴァントステータス

 
 


 ステータスが更新されました

 

クラス     セイバー

マスター    伏見鞘

真名 

性別 

身長 

体重 

属性 

能力値 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具   

イメージカラー 

特技      

好きな物    

苦手な物    

天敵      

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

ランサー

マスター    ワイアッド・ワーロック

真名      

性別      女性

身長      180cm

体重      62kg

スリーサイズ  95・58・90

属性      秩序・中庸

能力      筋力A 耐久D 敏捷B 魔力C 幸運D 宝具B    

イメージカラー アメジスト(紫水晶)※髪色はサンライトイエロー

特技      

好きな物    

苦手な物    女々しい男 

使用武術    アマゾネス式喧嘩殺法

天敵      

 

クラススキル

『対魔力C』

 二小節以下の詠唱による魔術を無効化する。大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。

 

保有スキル

『騎乗B』

 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、魔獣・聖獣ランクの獣は該当しない。アマゾーン(女人族)は騎馬民族であり、騎乗能力に優れた部族であった。

 

『勇猛B』

 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉に対する抵抗力。それらの効果を高い確率で無効化できる。加えて格闘ダメージが向上する効果もある。

 

『神性B-』

 

宝具

『鋳造されし不和の双翼(プテロ・エリス)』ランクB 対人宝具 レンジ2~4 最大補足1人

 ――不和の女神エリスから賜った両刃の戦斧。

 刃そのもの、又は切りつけた対象から斥力を発生することが出来る。

 地面、もしくは壁などに使用することで一時的に無重力状態を作り出し、敵の動きを封じたり跳躍、走行時に推進剤として使用することも可能。

 不和=引き離すというエリス神の神格の具現。

 

『沸血装甲(マーズ・エッジ)』 ランクC+ 対人宝具 レンジ1~50 最大補足10

 本来は古今東西の戦場で振るわれ、戦士と共に朽ちた幾千幾万の武具であり、それを元に戦士の血によって鍛え上げることで甲冑と成したもの。各種の具足を一時解体し再度武器として使用することが可能。

 それぞれの武装は武器として一級品でありながら防具としての耐久性は低く、あくまで攻性に傾いた防具である。

 金属というよりは紅く濁る鉱石のような材質でできている。(正しくは躑躅(つつじ)色の紫水晶[アメシスト])

 武装は剣、槍、弓にとどまらず、盾、戦斧、短剣、鎌、戦槌、鉄鎖、鉄爪、鞍、杭、衝角、仕込みや、火器類から複合武器まで多岐にわたる。

 鞍や馬鎧(カタクラフト)を装着することでバイクのような機械でさえも宝具として使用することが可能。

 時代とともに戦場で使用される武器が変わるにつれ、常に変化していく性質がある。

 

備考

 

 

クラス     アーチャー 

マスター

真名      

性別      男性

身長      178cm 

体重      86kg

属性      秩序・善

能力      筋力B+ 耐久A 敏捷B 魔力B 幸運C 宝具A+

イメージカラー 黒陽

特技      人助け

好きな物    公明正大・妻

苦手な物    不公平

天敵      なし

使用武術    古式ムエタイ

 

クラススキル

『対魔力C』

 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。大魔術、儀礼呪法を以ってしても傷つけるのは難しい。

 

『単独行動A』

 マスター不在でも行動できる。

ただし、宝具の使用など膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。

 

保有スキル

『神性—』

 

『カリスマA』

 大軍団を統率・指揮する才能。人ならざる稀人としての求心力であり、常人の獲得しうる人望とは一線を画す。

 

『マントラEX』

 その身体に宿る神々の真言。その時々に必要な感覚・技能・知識・経験等が自動的に顕著する。他、「透化」「千里眼」「千獣の賛歌」「ムエタイ」「仙術」「隠者の作法」といったスキルを任意のランクで獲得できる。

 

宝具

『華神紅輪(クリムソン・ギア)』ランクB対軍宝具 レンジ2~50 最大補足50人

 ――炸裂する火箭。

 放たれた矢は目標の眼前で炸裂し無数の紅弾を雨のごとく降らせる。

 龍または蛇の属性を持つ敵に対しては追加ダメージが発生する他、着弾と同時に魔力そのものに対する侵食作用が起きる。

 

『第七権限』ランク‐ 対人宝具 最大補足1人

 アーチャーの身体に施された概念武装。

 使用と共に褐色の肌が蒼く変化し、さらに黒色へと変わっていく。最終的には皮膚だけではなく、眼球や口腔までもが光輝く黒陽色に染まる。

 あらゆる身体性能が飛躍的に上昇し、スキル・宝具を含むすべてのランクが最大A++まで増強される。

 さらに通常時は隠蔽されている神霊適正が顕著し、自身よりも神霊適正の低い対象からの干渉を大幅に軽減する。(ただし無効化することは出来ない)。

その場合、筋力・宝具等のランクは関係なく、それを行使する者の神性スキルの高さのみが効果判定に影響する。

 また、黒曜石のごとき肉体は高性能の『ビーム・アブソーバー』として機能し、光線系、雷撃系、炎熱系のダメージを無効化し、逆におのれの魔力として充填することが可能。

 

備考

 

 

 

クラス     ライダー

マスター    オロシャ・ド・サンガール

真名 

性別 

身長 

体重 

属性 

能力値 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具   

イメージカラー 

特技      

好きな物    

苦手な物    

天敵      

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

クラス     キャスター

マスター    カリヨン・ド・サンガール

真名 

性別      女性

身長      160㎝

体重      56㎏

スリーサイズ  88・61・90

属性      中立・中庸

能力値 筋力D 耐久E 敏捷C 魔力B 幸運A 宝具C  

イメージカラー モノトーン

特技      ゲリラ戦術

好きな物    

苦手な物    獅子舞

天敵   

使用武術    プンチャック・シラット

 

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

クラス     アサシン

マスター    D・D

真名 

性別 

身長 

体重 

属性 

能力値 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具   

イメージカラー 

特技      

好きな物    

苦手な物    

天敵      

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

クラス     バーサーカー

マスター    ベアトリーチェ・ド・サンガール

真名 

性別      女性

身長 

体重 

属性 

能力値 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具   

イメージカラー 灰白色

特技      

好きな物    

苦手な物    

天敵      

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

クラス     セイバー

マスター    遠坂凛

真名      アルトリア

性別      女性

身長      154㎝

体重      42㎏

スリーサイズ  73・53・76

属性      秩序・善

能力値 筋力B 耐久A+ 敏捷A 魔力A+ 幸運A 宝具A++ 

イメージカラー 青

特技      勝負事

好きな物    きめ細かい作戦・正当な行為

苦手な物    大雑把な作戦・卑怯な行為

天敵      

 

クラススキル  

 『対魔力A』

   A以下の魔術は全てキャンセル。事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけら   れない。

 

 『騎乗B 』

   騎乗の才能。Bランクでは魔獣・聖獣以外のあらゆる物を乗りこなす。

 

保有スキル

 『直感A』

   戦闘時、自身にとって最適な行動を「感じ取る」能力。研ぎ澄まされた第六感は  もはや未来予知に近い。視覚・聴覚に干渉する妨害を半減させる。

 

 『魔力放出A』

   武器、ないし肉体に魔力を帯びさせ、瞬間的に放出することで能力を向上させ   る。魔力によるジェット噴射。

 

 『カリスマB』

   軍団を指揮する天性の才能。

   カリスマは希少なスキルでBランクは一国の王として十分な度量である。

   集団戦闘において、自身の軍の能力向上効果がある。

 

宝具

 『風王結界(インビジブル・エア)』ランクC 種別 対人宝具レンジ1~2 最大捕捉1人

   不可視の剣。

   セイバーの剣を幾重にも覆う風で光を屈折させて不可視とする宝具。白兵戦にお  いては武器の形状、間合いを相手に悟らせないため、優位に戦うことができる。

   また、『約束された勝利の剣』はアルトリア、つまりアーサー王たるセイバーの  シンボルとしてあまりにも有名過ぎるので、真名開放をせずともその剣を見られた  だけで彼女の真名が割れてしまう危険性が高い。

   そのため、不可視にすることでそれを防ぐ意味合いもある。

 

 『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』ランク:A++ 種別:対城宝具レンジ:1~99 最大補足:1000人

   光の剣。人造による武器ではなく、星に鍛えられた神造兵装。聖剣というカテゴ  リーの中では頂点に立つ宝具である。

   所有者の魔力を“光”に変換後収束・加速させて運動量を増大させ、神霊レベルの  魔術行使を可能とする聖剣。

   放たれた斬撃は光の帯のように見えるが、実際には攻撃判定は光の先端のみであ  り、光によって形成された断層が通過する線上の全てを切断する。

 

備考

  真名はアルトリア・ペンドラゴン。

  イングランドの大英雄、かの有名なアーサー王であり、ブリテンを統べた王。円卓 の騎士の一人でもあり、「騎士王」の異名を持つ。

  半年前の冬木における第五次成敗戦争に召喚され、最終的に汚染された聖杯を破壊 した。聖杯戦争の終結後も通常の使い魔として現界している。

  当初は衛宮士郎に召喚されたが、後に遠坂凛をマスターとしている。しかし現在も 士郎との仲は良好であり、ともに衛宮邸に三人で生活している。

  現在は冬木の管理者としてのマスター、遠坂凛の命により「再開された聖杯戦争」 という有りうべからざる怪異に対処するため再び夜を馳せる。

 

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-1

 

 ――つまりは一触即発の状態であった。

 

 時の頃合は既に明け方の黎明に臨み、東の空は白み掛かっている。

 

 時間は弛緩したかのように黙したまま流れ――暫しの静寂の澱がデルタ形の間合いの間に鎮座していた。誰もが微動だにせず、静寂に声を潜めていた。

 

 誰かが仕掛ければその隙を第三者が突くであろう、この状況――有体に言えば三つ巴、或いは三竦みとでも言うべき状態であった。

 

 このときばかりは吹き荒んでいたはずの旋風も陰鬱に凪ぎ、予期せぬ事態によってこの場に繋ぎとめられることとなった三匹の獣たちは、それぞれがほぼ均等に間合いを計り、引きちぎれんばかりの野生を解き放つ瞬間を刻々と待ち望んでいた。

 

 辺りには超重圧にも似た緊張感が満ち満ちている。行き場を失った殺気の余波だけがトライアングルの檻の中で相乗するかのように乱反射を繰り返しているのだ。

 

 だが彼等は唯の獣ではない。檻の中でおとなしく静観を決め込むような輩では断じてないのだ。

 

こんな沈黙は、いつまでも続かない。故に、動く。誰かが、必ず――。

 

 

 半刻程前――それは夜の深奥がその漆黒の色合いを仄かに濁らせ始めたころであっただろうか。

 

 一台の車がけたたましいサイレンと共に緋を灯しながら冬木駅前の大通りを抜けていった。一筋の赤い灯火と共に、夜の道を行く朱色の大型車両。通称、消防車と呼ばれる消防ポンプ自動車だ。

 

 搭乗する消防士たちはここ数日の間に連続する小火騒ぎに神経を尖らせ、同時に磨り減らしていた。なぜこうもこの冬木市近辺でばかり不審火が頻発するのか。

 

 当初から放火かとも疑われてはいたのだが、難航を極める警察の調査からはこれといった証拠や有益な情報はもたらされていなかった。

 

 だがこの場でそのような思索にふけることに意味などない。今は心を煩わせる暇も惜しいのだった。一刻も早く現場に到着しなければならい。車両は脇道に入った。この先は入り組んではいるが現場までは直行できるし、道幅も充分であった。

 

「――――――」

 

 そのとき彼等は一斉に聞きなれない音を聞いた。何かが唸るような、奇妙な音だ。そして同時に在り得ないものを夢想してひどく本能的な怖気を感じた。まるで子供が一人で底なしの闇の中に置き去りにされたかのような、得体の知れない恐怖だ。

 

 もっと具体的に表現するなら、静寂の中で姿無き巨獣の声を聞くかのような、まるで大乱の嵐がささやくような――そんな、絶望的な危機と隣り合うことへの恐怖が刹那のうちに彼らの心を捕らえてしまったかのようだった。

 

 そして彼らが言いようのない悪寒に苛まれた次の瞬間、唐突な怪異が彼らに襲い掛かった。

 

 まるで今まさに対向車と正面衝突したかのような耐え難い衝撃と揺れが彼らを包んだのだ。だが奇怪なのは乗車の走行が依然として滞っていないことである。何が起こったというのだろうか? 咄嗟の出来事に事態を把握しかねた搭乗員たちは悪戦苦闘しながらも冷静さを保とうと努め、外の状況を確認しようとして貌を上げた。

 

 そして呆然と泡を食うこととなった。

 

 彼等は一斉にそれを見つけていたのだ。それは薄笑いを浮かべながら走行中の車両のフロントガラスに張り付いていた。人のようにも見えるそれは兇器のような視線をそのままに、牙を剥く口元に指をあて、囁くかのように口淵を尖らせた。

 

静粛に(ビー・サイレント)……」

 

 そして搭乗員たちの魂切るような絶叫が彼らの周囲を包む豪風に紛れ、かき消されたのはその次の瞬間のことであった。

 

 

 

 遠ざかっていくサイレンの音が聞こえてくる。

 

 未だ闇色の空は暗さを保ち、吹きぬける風が細く引き締まった女の肢体を薙いだ。しかし深夜のコンビニエンスストアから一人で出てきた女は豹か何かを思わせる、細身ではあるが底知れぬバネを秘めた脚を子気味よく撓らせて、愛車のもとへと向かった。

 

 レザーの光沢に濡れ光る黒のライダース・ジャケットに身を包んだ、これまた艶光に濡れる黒の長髪を流した女だった。

 

 こんな時間帯でも生活必需品が安易に手に入るというのはありがたいものだ。と、彼女は感慨に耽っていた。背にはこれまた黒い背嚢を背負っている。それほど大仰な大きさでもなかったが中にはみっしりと生活雑貨や食品などが詰め込まれていた。

 

 中の分量を見たなら本当にそれが総て納まっているのかと疑いたくなるほどの量だ。しかしそれもまだ十台も半ばのころから、人生のほとんどを海外での放浪に費やしてきた彼女にとっては何のこともない技能であった。

 

 久しぶりに帰ってきた故郷は随分と便利のよいところになっていたようだ。別段大した里心など持ち合わせていない彼女もその点については素直に有難さを感じていた。

 

 そのとき、聞こえていた筈の消防車のサイレンが唐突に止んだ。近くには誰もいなかったし、いたとしても誰もそれを気にも留めなかったかもしれない。

 

 ここ連日の小火騒ぎのせいで遠鳴りのサイレンなどには皆大した反応を示さなくなっていたからだ。しかし、彼女(・・)はそれを耳ざとく聞きとめていた。

 

 漆黒の大型二輪車をアイドリングさせたまま、彼女は彼方を仰いだ。サイレンの止まった場所はそれほど遠くもない場所のようだった。

 

 彼女は別段大した思慮の元にそうしたわけではなく、ただ消防車だろうが救急車だろうがパトカーだろうがなんだろうが、兎に角その手の音を発するものが止まった場所になら、何かしらの事件性や怪異があるのかもしれないという閃きに任せただけのことである。

 

 外出の目的は必要な物資や食料の買出しであり、既にその用も済ませているのだから、そんなことに顔を突っ込む必要はまったくないのであったが、彼女の好奇心は既にその予感に囚われていた。そして何よりも厄介なことは、彼女はその確かな好奇心というやつを己にとっての最大の行動指針とすることを決めていたことであろう。

 

 つまるところ彼女――伏見鞘にとって『好奇心は猫をも殺す』などという言葉はまるで立て板に水とでもいうべき意味のない格言なのであった。

 

 冷たいアスファルトの起伏を確かなグリップで捉え、車輪は既に一路その方向を目指し、廻り始めていた。

 

 ほどなくして、彼女はサイレンの途切れた現場に到着していた。人通りのある大通りからは外れた住宅地の一画だ。道幅はそれなりに広いが見通しはきかない。なるほど人間二人が決闘したくらいではすぐ大事に至ることはあるまい。

 

 もしも、「敵」に遭遇するとしたら、お誂え向きの場所だといえた。

 

 だが、現場に到着した鞘はその光景を前に言葉を失っていた。

 

 もとよりさして期待もしていなかったのだが、その光景は予想を遥かに凌駕するものであった。どうやったらこんなことが出来るというのだろうか。そこにあったのは確かに目論みどおりの消防車らしきものではあったが、しかしその有様を見るにつけ、本当にそれが消防車だったのかと問われれば暫し返答に窮するやも知れぬ代物だった。

 

 朱の色に染められていた筈の外装は丸ごと削げ落ち、まるで体長数十メートルに及ぶ魔獣の爪に蹂躙されたかのような傷が車体の上に縦横無尽に走っていた。

 

 これが本当に先ほどのサイレンの元なのだとするならこれは今しがたまで正常に動いていたということになる。ならばこの惨状を引き起こしたものもまだ近くにいるはずなのではないか。鞘はいずこかに消え失せた下手人の痕跡を求めて半ば鉄塊と成りてた車体に近づき、視線を走らせた。

 

 刻まれた爪痕。一体どれほどの巨獣(バケモノ)が――、

 

 そのとき不吉な予感が、彼女の脳裏に危険な空想を運んできた。

 

『まさか――本物の!?』

 

 それは平時なら鼻で笑うような、取るに足らない与太話の類だとしか思われなかったであろう。しかし、今の彼女にはそれを信じうる材料と根拠があった。伝説の中に生きる者たちがこの現の夜を闊歩しているという事実。

 

 空を翔けるそれを討った者がいる。火を吐き出すそれの血を受けた者がいる。——なら、幻想の中に生きるそれを繰る者がいたとしても、不思議ではないのではないか?

 

『――ばかばかしい』

 

 さしものの彼女もその途方もない空想に身をこわばらせ、強く自省して胸の内で言葉を打ち消した。あまりにも荒唐無稽すぎる。だが本人も知らぬ間に彼女のしなやかな背には冷たいものが噴き出していた。

 

 ――だが、しかし――もしも、もしもそんなものが本当にいたとしたら――。

 

 沸き起こる夢想は止まらない。例えば、もしも今彼女の背後、息の掛かるような距離に喉を鳴らす巨獣(ドラゴン)の顎があったとしたなら――――否、確かに居る!

 

 まるで猛獣が喉を鳴らすような唸り声が、それを肯定した。

 

 まるで沸き立つかのような灼熱の獣臭が、それを肯定した。

 

 まるで巨壁が四方から迫るような重圧が、それを肯定していた。

 

 白い喉が鳴った。五感が用を失い、全身の毛が総毛立つ。得体の知れぬ未知の恐怖で体中の血が氷結していくかのようだ。だが――、

 

 ――いいだろう、上等だ! ――

 

 瞬きほどの刹那の間に、彼女の覚悟は固まった。居るというならそれで別に構わない。何が変わるわけでもない。首を落として心臓を貫くだけのことだ。何も変わらない。やるべき事に何も変わりなどありはしない。

 

 鞘はその面貌に牙を剥くような笑みと共に狂相を浮かべ、瞬間、猫のような敏捷さで振り向き様に右腕を背後の虚空へ叩き付けた。振るった腕の延長線上には目視のかなわぬ漆黒の刃が現れ、月光の残滓だけがその刃の存在と輪郭を照らし出していた。

 

 しかし、轟音と共に振るったはずの剛刃は幻獣の顎を捉えることはなく、ただ冷えたアスファルトと夜の断片を切り裂いただけだった。

 

 いたのは獣ではなかった。そこにいるのは十メートルほどの遠間から、ただ静かに彼女を見つめる一人の男、それだけだ。

 

 男は面長の貌の切れ目からじっと氷塊の如き冷気を発している。まるで刃のような眼光だ。

 

 それを見止めた鞘は咄嗟に男に向かって身構え、息をついて滴る汗を拭った。今、彼女は再び無手だ。その手の中には剣など握られていない。

 

『脅かしやがって……!』

 

 己の誇大妄想に一人肝を冷やしていただけなのだと知ると、今度は途端に冷えた全身を赤火するかのような羞恥と怒りの熱が沸き起こってきた。それを見透かすかのような男の薄笑いがその熱に拍車をかける。鞘は押さえきれぬ憤怒を持って男を睨みつけた。

 

 だがいくら眼を凝らしても薄闇の中に立つ男の貌はどうしてか正視することが叶わなかった。それは目深にかぶった帽子と古めかしくも洒脱な外套の襟飾りのせいでもあったが、何よりもそれを困難にしていたのは二人の間に幾重にも立ち昇る真夏の陽炎にも似た靄のせいであった。否、それは果たして靄なのだろうか、それは立ち並ぶ幾多の竜巻のようにも見えた。

 

 否々、それはまた白乳色の雨のようにも見受けられた。それはあたかも男の周りを幾つもの大気の歪みが取り囲んでいるようでもあったが、所詮鞘には見当の付きかねる物なのは確かであった。

 

 ただ一つ、そこで彼女が確信できたことがある。彼我の間合い。踏み込めば届くはずの距離にも関わらず、張り詰めた弓弦の如く引き絞られた彼女の闘気をもってしてもそれを詰めることを躊躇わせている――鬼気。この男は獣だ。その冷えた視線からは想像もできないが、この男がいかなる幻想にも引けをとらない真正の魔獣になのだということは推し量るまでもなく理解できた。

 

 しかし、そこで鞘の熱狂のボルテージは今まさに最高潮を迎えようとしていた。

 

『面白い!』

 

 それは間違いなく彼女(ソレ)にとっての僥倖に他ならなかった。

 

 ――こ、この敵に不足はナイ。コ、これでよ、ヨウヤく、幾星ソウの鬱……憤ヲ、晴らセ、せルとイウ…いウ……いうモノォ――ッ! ——

 

「おおおおおお――オオオォォォ!!」

 

 瞳が黄色の狂気に囚われる。黒一色だった肢体の末端に金色の光が芽生え、再び露になった刀身が確かな現に現出し、女は自身を電光の瞬きと化して地を蹴った。

 

 対峙する男も長い外套の裾を翻す。

 

 すると突如として吹き荒んだ突風が、両者の間で暴風の刃へとその姿を変容させた。

 

 金切る咆哮と共に牙を剥いた大嵐の顎を、煌めく金色の光刃がなぎ払い、突き破る。

 

 切り払われた真空の屑が男の分厚い掌に集束し、そこに潮騒を引き連れた灰銀色の鉄塊が現れる。

 

 轟流の如き黒檀(エボニー)の斬刃を、龍爪の如き鋼鉄の熱断層が受け止めた。

 

 瞬く間の攻防。溢れる暴風と魔力の奔流が夜を切り裂いた。

 

 体を入れ替えた二つの人影は、たった一合の打ち合いで静かな夜を戦乱の死地へと変質させていた。

 

 しかしそこで総ては制動し、獣共は睨みあう。

 

「サーヴァントか……」

 

 男が静かに声をあげた。初めて聞く男の肉声だった。やはり命を持たない機械仕掛けの凶獣が唸るかのような抑揚のない声だ。

 

 だがそれは今しがた打ち合った好敵手に対するものではなかった。両者は共に機を測りあって動きを止めたわけではない。動くことが出来なくなっていたのだ。鞘もまた対峙する男ではなくまったく別の敵に視線を向けていた。

 

 何時からであろうか。それは隣接する雑居ビルの屋上から両者を見下ろすかのように立っていた。

 

 全身に真紅の水晶を纏ったかのごとき姿は語るまでもなく奇怪であり、異様であり、そして同時にこの世のものとも思えぬほどに美しかった。

 

 甲冑を纏った女だった。見るからに人間ではないことは一目瞭然だ。それはつまり、今この街に存在する七騎の戦鬼のひとつに違いないということを意味する。

 

 金属塊の如く沈黙する男を他所に、鞘の漆黒の瞳からは再び黄色い狂気が滲み出す。■■(ソレ)はほくそえんだ。

 

 ――一夜ノ、のうちに二匹も。これはコレはこれハ、幸先がいイィ――

 

 意図の読めぬ第三者の闖入によって三者は暫し膠着することとなり、

 

 

 

 ――そして今静かに、ゆっくりとその沈黙を押し破ったのはいったい誰だったのか。――ともかく、一匹が動き出した。

 

 同時に突如としてひしゃげていた筈の消防車の残骸が、内側から何かの浸食を受けているかのように膨れ上がった。まるで深海に住む魚の目玉が陸に吊り上げられて飛び出すように。

 

 鞘はそれに気をとられた。

 

 男は既に動いていた。

 

 紅水晶の戦士は動かない。

 

 車体内の貯水槽(タンク)に残っていた水が、まるでスチームの如く噴き出したのだ。見る見るうちにあたりは白い濃霧に包み込まれた。

 

「――っ、」

 

 眼くらましか!? 鞘は猫のように身体を撓ませ、受け太刀の体勢を取った。どこから何が来ても対応できるように。——それが間違いだった。

 

 そのとき夜に沈殿するかのように凪いでいた筈の空気が一瞬にして旋風へと姿を変え、炸裂するような轟音と共にスクラップ同然だった巨大な車体を連れ去ったのだ。

 

 運転席にはその車体をスクラップ同然にした張本人である男がハンドルを取っていた。

 

「に、――逃げた?」

 

 凄まじい速度で急発進した暴走車両を呆然と見送るしかなかった鞘は咄嗟に我に返り、すぐさまその場に居たもう一人の敵に向けて切っ先を構えた。あれだけヤル気にさせておきながら尻尾を巻いたあの男には憤慨の念を禁じえないが、むしろ丁度いいのかもしれない。

 

 三人もいるから場がややこしくなるのだ。ひとりが去ったというなら、後は至極簡潔な事実しか残らない。鞘は気を取り直し、むしろこの事態を歓迎した。――が、

 

 その赤尖晶(レッドスピネル)の隻影は突如として月をも飛び越えるかのように空を駆け上がり、鞘の遥か頭上を飛び越えて彼女の後方、ちょうど彼女のバイクがとめてある路側帯の辺りに降り立った。

 

 まるで銀月の女神(アルテミス)が月光の階段(アーチ)を踏みしめながら地に舞い降りるかのごときその跳躍は、今まさに剣を構える彼女にすら幻想的な光景を夢想させ、それを放心のままに見送る以外の挙を許さなかった。

 

 しかし鞘にはその貴敵の行為の意味が理解できなかった。後ろを取ろうというにはあまりに優雅すぎて間延びするような動作だ。しかも変わったのは位置関係だけで間合いの上でも大して変化していない。ただ互いの方位が変化しただけのことだ。その行為に何の意味があるというのか。

 

 すると背中を向けていたはずの晶甲の女戦士は訝る彼女に振り返り、喜色満面といった笑顔を向けてきた。その美貌は天に細る鎮静の月を睥睨するかのように光り輝いていた。

 

 まるで己こそがこの夜の天球の主に相応しいとばかりに。

 

 しかしその美貌の女戦士は何を思ったのか、傍に止めてあった彼女のバイクを長すぎる脚で一跨ぎしてそれに乗り込んだのだ。

 

「――あ、コラ!」

 

 咄嗟のことに固まっていた鞘は思わず語気を荒げて声をあげたが、

 

「名残は惜しいが、この場は失礼。可憐な黒猫殿よ。――今度お茶でも」

 

 そう言って、甲冑の女は再度彼女に溢れんばかりの笑顔を送り、勝手知ったかのごとき動作でバイクをスタートさせると、

 

「ニ゛ャ!? ……なっ、あ――っ!!」

 

 そのまま逃走した男を追って走り去ってしまった。静まり返った戦場跡に独り取り残されて唖然とするしかなかった鞘には、

 

「こッ! ……バ、バカァッ! ドロボーーー!!!」

 

 ――とりあえず、紅彩の一筋を残して去る輝影に罵声をあびせるという以外の手段が残されていなかった。

 

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-2

 

 明け方の深山町の一画には一面に(すす)けた空気が漂っていた。

 ここは昨夜、何の兆候もなく上がった火の手によって一帯を火に巻かれ、逃げ遅れた三人の住人が無残な焼死体と成り果てた場所である。

 

 既に現場検証も終わり、辺りには人影はない。近日連夜冬木市のあちこちで頻発する火災や小火騒ぎに言い知れぬ不吉を感じていた住人たちは、一度は野次馬として火の手の周りに群がったものの、次第次第に真っ黒に焼け焦げた現場を避けるようにして立ち去っていったのだった。

 

 しかしその空気までもが燃え殻の匂いで煤け立つ、総てが黒く焦げた空間の中でただひとつ趣を異にするオブジェがあった。それは黎明に照らされる青白い女の顔だった。

 

 その白い貌にはまるで生気がない。いかにも女性らしい柔らかにして豊満な肢体は身じろぎのひとつもすることがない。それも当然だ。それは死んでいるのだから。そこにあったのは紛れもない死体であった。

 

 しかし奇妙な話であった。一面火の手に焼き尽くされた世界にありながら、火傷一つしていないところを見ると火が鎮火した後にわざわざこの現場に訪れ、その後にこの場で事切れたということになる。

 さらに奇異というべきなのは、その身体には火傷のみならず他にも一切の傷がなかったことであろう。

 

 蒼白に染まり、驚愕のままに眼を見開いたそのままの形で硬直した女の顔は他ならぬサンガール次代の四人の後継者の紅一点ベアトリーチェのものであった。

 

 そのとき横たわる女のすぐ傍に、煤を吹き飛ばす勢いで彼方から降り立った物があった。

 

 よもや砲弾かと見紛う程の豪速で飛来したそれは、あろう事はそのまま揺ぎ無く立ち上がると、女の顔を覗きこめる位置にまで歩を進めたではないか。

 

 それは昨夜、近隣を馳せ廻りながらあの老魔術師と闇夜の追走檄を演じたモザイク柄の怪人であった。

 

「……首尾はどうなっている」

 

 横たわる女の傍らに立った男は、死者意外には無人の薄闇しかない虚空に声をかけた。すると煤けたしじまの一角に蹲っていた暗闇の中から、スッと立ち上がったものがあった。

 

 影から浮かび上がったのは黒衣に身を包んだせむし男であった。――サーヴァント・アサシンである。

 

 実体化を果たした髑髏の面の下からは、ひどくしゃがれた老獪な声が返ってきた。

 

「手はずの通り、仕留めましてございます。主の仰るとおり、絹程の手ごたえもありませんでしたな」

 

「そうか」

 

 背後のアサシンのほうには目もくれず、声だけで首肯した怪人は女の傍らに屈み込んだ。そしておもむろに死体の胸の辺りに手を置いた。するとゾブリ、としゃくれるかのように手は沈み、次に手が引き抜かれたときそこには、煌めき硬質な質感を伺わせる何かが握られていた。

 

「主よ、それは……」

 

「知る必要はない」

 

 訝るような従者の声に取って返したのは、一段と厳しい巌のような返答であった。

 

「……仰せのままに」

 

 歪躯の影はかしこまった。確かに不用な発言だった。この暗殺者にとって事の仔細など無用なのだ。ただ殺す、故に我、無謬で有るべし。それがこの伝説となった暗殺者達の教義の極みなのだから。

 

「――して、主よ。こちらはどういたす?」

 

 見ればそこにはアサシンの実体化と共に現に浮かび上がったものがあった。それは拘束された女の姿であった。和装の女だ。まるで灰に塗れたかのような色合いの女だった。

 髪も、肌も、装束も、ごっそりと色が抜け落ちたかのように仄白く染まっていた。さらにその存在そのものが今にも消え失せそうなほどに希薄になっていたから、なおさらにそう見えるのだった。

 

 だが女は幾重にも厳重な拘束を受けながらも、それに反目するような意志を持ち合わせていないようであった。ただぼんやりと呆けたように目を細め、まるで今にもまどろんでしまいそうにも見える。

 その眼には狂人の相が見えた。狂女だ。この女は理性と意志を剥奪された物狂いの眼をしているのだった。

 

 聖杯戦争におけるサーヴァントのクラスには相対的な相性と言うものが在存在する。それは決して絶対的なものではない。——が、しかし考慮に入れてしかるべき要因ではあるといえる。

 

 最も顕著な例はセイバーとキャスターの相性だろう。基本的に高い対魔力が設定されているセイバーのクラスには魔術を基本戦法とするキャスターのクラスは圧倒的に不利な状況に立たされるという具合である。

 

 それと同様にバーサーカーのクラスに対して最もアドバンテージを獲得できるのがアサシンのクラスである。そもそもバーサーカーは狂化と引き換えに攻撃力を倍化したサーヴァントであり、制御できるかどうかが勝利の分かれ目となるクラスである。

 

 敵を粉砕するための真っ向勝負でならばセイバー、ランサー、アーチャーの三騎士すらも打倒し得る可能性をもつバーサーカーであるが、しかしマスターの護衛という面においては全クラスの中で最も拙いといわざるを得ない。

 ましてや、それが暗殺という細心の注意を払うべき間者の凶刃となると、狙う側からすればそれこそザルとしか言いようがない。

 

 果たして、此度の聖杯戦争においても狂戦士のサーヴァントは己の主を守りきることが出来なかったのであった。バーサーカーはその見えず、聞こえず、触れることすらできない凶手に気付くことも出来ず、主であった女は自身ですら知らぬ間に黒衣の暗殺者にその命を掠め取られたのだ。

 

 上記のクラス間の相性によってバトルロイヤルの常道に倣うなら、このバーサーカーに出来る限り敵を倒させてから、最終的に労せずこの敵を殺すのが最良の手である。

 

 しかし、昨夜命からがらの逃走を計りながらも、この怪人は不可解な炎と共に己の眼前に現れた灰色の女が狂戦士のサーヴァントであることと、その特性(・・)を確認していたのだった。

 

 その刹那、彼の脳裏にはさらに上質の閃きが生まれていたのである。

 

 男は厳重に呪符帯で拘束されながら、抗うこともせずぼんやりと佇んでいる和装の狂女の前に進み出た。そして横たわる女から千切り取った三画の刻印が刻まれた手首を、虚空を抉るかのように突き上げた。

 

 やおら炎に包まれたそれを頭上に掲げて、モザイク柄の男——D・Dは新たなる己の僕に最初の命令を下した。

 

「――これより、我を唯一の主とし、我が命に従うのだ。バーサーカーよ!」

 

 ほの暗い灰白色の肢体に一点だけ浮かぶ赤い唇が、それに応えるかのようにそっと微笑んだ。

 

 ただ妖艶に、(くゆ)る紅蓮のように。

 

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-3

「――鳥、ですか」

 

「うむ」

 

 思いのほか会話が弾み、辺りにはいつの間にか夕刻の色が滲んでいた。

 

 なんでもこの珍妙な老人も、予定よりも一日早くこの街に着いたとかで時間をもてあましていたのだという。

 

 そんなこともあってか、最初はちょっと道を尋ねられただけだったのが、話の弾むうちに街のあちこちを案内することになっていた。

 

 重度のお節介焼きであり、人助けが趣味とも言える彼にしてはまあ、そう珍しいことでもないのであったが。

 

「……鳥を用いた卜占というのは世界中にあってな、古い物では古代ローマまで話はさかのぼる。ローマ建国神話に登場する双子の英雄ロムルスとレムス。彼等はともに赤子のころに王位を追われ、神に使わされた狼の乳を呑んで育った。

 そして成長して王位に返り咲いたのじゃが、そこでどちらが王になるかで争いになり、それを決するべく当時流行だった鳥を使って神託を諮る法を用いたのだ。

 

 それは総てを投げ出して命を天運に任せたということではなく、つまりは神の意思に総てを託すという古代人の思想から来るものだといえるだろう。

 

 これには古代中国においても似たような話がある。やはり鳥は神の意思を伝えるものだと考えられていてな、そのため同じように鳥占いが行われていたそうだ。そのため、今でも漢字にはそれにちなんだものが数多くある。

 ――例えば「進」だ」

 

 老人は枯れ木の枝のように細長い指腕を振るって、虚空を掻いた。

 

「日本人でも馴染みのある文字だな? 左側の偏部分は「道を行く」ことをあらわし、そして右側の傍部分が「鳥」を表すのだ。つまりこれは軍隊を進軍させる際に鳥占いをして神託を求めたということから来ている。それが現代の文字にも現れているのだ。

 

 またフランスにも「augare(オギュール)」と呼ばれる鳥占いが存在する。これはかのノストラダムスの詩篇の一節にも出てくる言葉なのだが、これは暗喩的に血腥い行為を表すとされる。

 

 確かにこの占術は鳥の行動を観察するだけではなく、さらには鳥を腑分けしてその内蔵の状態から吉凶を占うということも行うからだ。そして……」

 

 そうして叨々と語るうちに、彼はふと足許に見て取った影の長さを見て日がすでに傾いでいるのに気付いたようだった。

 

 老紳士は西洋人らしい長身をピンと伸ばしたまま、老いの見えない厳格そうな声を上げた。

 

「おおっ、これは悪いことをした。この老いぼれのせいで若者の貴重な時間を無為に過ごさせてしまったようだ」 

 

 少年はつられて足許の影法師を見つめた。そのとき、ふいに視界の焦点が何かに吸い寄せられた。

 

 それはこの老紳士の履いている靴だった。日常で見るような大量生産品でないことは一目でわかるほどに古めかしい、いっそ魔道器か呪物の類かとでも思えてしまうほどの一品だった。

 

 しかし、それがいっそう眼を引いたのには別の訳があった。彼の履いた靴は左右で別のものだったのだ。彼は左右の足にそれぞれに別のかたちの靴を履いているのである。

 

 まさか海外まで出向いてきたというのに靴を間違えてそのまま来た、ということもあるまい。

 

 ためしに左右の靴の構造を透かしてみると、やはり双方の構造もまるで違う。

 

 妙だとは思った。しかし彼はこのときはそれ以上の詮索をしようとは思わなかった。不思議と警戒心が弛緩したように働かなかったのだ。

 

 そのためか、この翁の珍妙な格好についてはそれ以上気に止めることもなかったのだった。少なくともこのときは。

 

「……いえ、かまいませんよ。面白い話も聞けたし」

 

 なによりも、この見るからに古めかしい洋装の英国紳士然とした老人が流暢な日本語で語る内容が彼も知りえない、ある意味で魔道にも通じる知識とその成り立ちついての寓話と言うのがことのほかこの彼の興味を引く結果となったのだ。

 

 これでも魔道を志す人間の端くれである。こういう知識は知っておいて無駄にはならないはずだ。

 

「また会うかも知れんな、そのときはまたよろしく頼みたい」

 

「ええ、もちろん」

 

 

 ――以上が昨日の昼間、『彼』こと衛宮士郎がセイバーと夜の巡回に出る前の夕暮れ時の出来事である。

 

「また会ったな、少年」

 

 呆気にとられる衛宮士郎を前に、その人物は気さくに挨拶を交わしてきた。

 

 ひどく年季の入ったケープド・オーバーのコートと唾広のシルクハット。そして捩じくれた樫の木の杖を持った長身痩躯の老人。しかしその姿勢のよさと身に纏う厳格さがその老いをまるで感じさせない。

 

 が、士郎はその老紳士の装いを前に、どうして昨日の自分はこれを何の疑いもなく見ていたのだろうか? という当惑を抱かずにはいられなかった。それほどにこの老紳士の存在そのものが奇異であり、奇抜であった。

 

 そこでようやく彼はあの時自分が何らかの巧妙な魔術の影響下にあったのであり、目の前の老人が間違(まご)うことなき魔術師なのだと気付いたのである。

 

 

 呼び鈴が鳴ったのは、そろそろ昼餉の支度を始めようかと腰を上げたころであった。

 

 昨夜の戦闘についての概要は既に知らせてあった。既に現界しているサーヴァント達。しかも奴らは問答無用でセイバーに戦いを仕掛けてきた。その正規のマスターである彼女が安全であるとは決して言い切れない状況だ。

 

 士郎はすぐ戻るように再三に渡って連絡を取っていたのだが、彼女が言うには既に事態の大まかの概要は掴んでおり、そのことも含めて話しに行くつもりなのでそこで大人しくするようにと逆に申し付けられてしまった。

 

 そして三日ぶりにこの屋敷に帰還した彼女――遠坂凛を玄関先で出迎えた衛宮士郎は二重の意味で驚愕を味わうという事態に直面していた。驚愕したというのは彼女についてではなく、彼女に随伴した二人の人物についてであった。

 

 奇しくも、その二人は共に昨日対面を果たしたばかりの知人であったのだ。一人は昨日彼がこの街で道案内をした老紳士であり、

 

「縁とは奇異なものよな……」

 

 言葉を無くす少年を前に老人はさして驚くでもなく、丸い色眼鏡の向こうで僅かに目じりを緩ませながら挨拶を交わした。どうやら士郎がここにいることについて彼は既知だったようだ。そして、

 

「どうかしたのですか、シロウ……!」

 

 異変を察して居間から出てきたセイバーの語尾がその姿を確認するや否や、一瞬にして鬼気を纏う。その刺し貫くような視線は彼女の主の前に立つ長身の紳士にではなく、その影に隠れるようにして随伴していた、もう一人の小柄な人影に注がれていた。

 

 その翠緑の視線を受け止めるのはアレキサンドライトを想わせる茶褐色と翠露の双瞳。黒銀色の長髪をうなじの辺りで緩やかにまとめた白い顔の少女であった。それはすなわちランナーのサーヴァントを伴い、昨夜彼らを襲撃した人物に他ならない。

 

「シロウ、下がってください!」

 

 既に臨戦態勢に入っていたセイバーが床板を踏み抜かんばかりの勢いで駆け出そうとしたが、それを老紳士の影から顔を見せたもう一人の少女が制した。

 

「大丈夫よ、セイバー。いまのところは敵じゃないから、身構えなくてもいいわ」

 

「凛……しかしッ!」

 

「昨夜は失礼をいたしました」

 

 そのメイド服姿の少女は、老紳士の右斜め後方で彫像のようにギクシャクと礼を正し、落とすように頭を下げると開口一番そう告げた。この昨夜からの豹変振りには、セイバーもしばし言葉を失うしかない。

 

「遠坂……どういうことなんだ?」

 

 困惑した二人に顔を向けられた少女――遠坂凛はざっと彼らを見回し、落ち着き払った声で告げた。

 

「それも含めて説明するわ。とにかく、ここじゃなんだから中に入りましょ」

 

「「……。」」

 

 

居間に通されると、老紳士は特に気負うところも見せずに老齢を感じさせない明朗な声で語り始めた。

 

 あらためて見てみれば、古都ロンドンならいざ知らず、まさかその十九世紀の欧州貴族を思わせる優美な格好でこの現代日本の地方都市を闊歩してきたのかと質したくなるような老紳士の装いであった。

 

 しかしそのたたずまいは不思議と近代の日本に馴染んでいるように見えるのだ。

 それはきっと本人が周りの情景や空気といったものと相反する意識を持たないためだろう。

 ——しかし盛大な違和感は依然として消えはしない。

 

 貴族然とした老紳士とは逆にそれに随伴する家事使用人といった様相の少女は明らかな違和感を撒き散らしている。それが主と同様に済ました顔をしているのは、おそらく彼女がその違和感に頓着していないだけなのか、もしくはそれを感じる術を持たないかのどちらかであろうと思われた。

 

 老人の語る日本語は流暢なものであった。昨日の話し振りからも少なくともこの老人は意外と日本という国に馴染みが深いのではないかということは安易に察せられたが、加えて和風家屋にも慣れているのだろう。やはり不思議と違和感というものがない。

 

「何処から話すべきかな……此度の怪異、君たちが聖杯戦争と呼ぶこの冬木市にて執り行われてきた儀式。今行われているのはその再現だ。そしてそれを執り行っているのはある三名の魔術師だ」

 

「再現って……それが一番解からないんだ。どうしてもう起こる筈のない聖杯戦争が再開されているんです?」

 

 老紳士はちょうどいいとでも言うように首肯して、その声に応えた。

 

「では、まずそこから話すとしようか。まず伝えるべきは、この奇跡を起こしているのは厳密には『聖杯』ではない。別の宝具である『宝典』によるものだ」

 

「宝典!?」

 

「うむ。この現象は実際には聖杯の機能を再読(リロード)しているだけなのだ。本来ならば太極陰陽を統べ、森羅万象をも御し得るという、大陸に伝わる偉大なる宝具によってな」

 

「けど、そんな」

 

 食い下がろうとする若輩を手で制し、含めるように老紳士は笑う。

 

「奇跡を起こしうる宝具はなにも聖杯だけではあるまい?」

 

「……」

 

 確かにそうだ。奇跡を起こす魔道器の伝承は世界中に点在する。聖杯とは本来その中の一つにすぎないのだ。それに比肩しうる宝物が存在したとしても決して不可思議ではないが、しかし――

 

「もっとも、これはその宝具を再現しようとして失敗したものの一つに過ぎん。言わば劣化コピーとでも言うべきものなのじゃ」

 

「つまり――失敗作なんですか?」

 

「うむ。この宝具は本来は森羅万象を意のままに書き換えるという機能を持っているはずの破格の魔道器なのだ。しかしこのコピーが有するのはその中のほんの一部の機能でしかなかった」

 

「それが事象の再読(リロード)……ですか」

 

「うむ」

 

「森羅万象を書き換える? それじゃまるで……」

 

 そこで横合いから聞こえた、息を呑むような声は凛のものだ。

 

「そういうことじゃ。その宝具とは総ての魔術師の求めるもの。『根源の渦』そのものに足をかけるといっても過言ではない可能性……じゃった。

 しかし成功した者は未だない。数千年の時間と膨大な人員、そして知識を幾重にも総動員してもなお出来上がるのはこういった出来損ないばかりでな。これについてはワシも若い頃に見切りをつけた。

 そして次に取った手段というのが……」

 

「マスター」

 

 話に熱が入りすぎたのか、やおら脱線しかかった話題を脇に控えた少女が合いの手をうって制した。

 

「む? いや、そうじゃったな。まあ、そういう意味で聖杯と同じように幾度となく再現が試みられて来た宝具であり、それはそのまま魔術師の挑戦の歴史の副産物ということになる。

 言い方は悪いかもしれんが、そういう意味ではそこなセイバーとも似たような存在だといえるかも知れんな」

 

 まるで教壇に立つ講師のような老魔術師の話し振りに、昨日のことも思い返しながら士郎がひそやかな声を漏らした。

 

『……けっこう人に物を教えるのが好きなのかな、この人。まるで先生かなにかみたいだ』

 

 すると脇で静観していた凛も、ばつが悪そうに士郎の耳元で声をひそめた。

 

『もともと時計塔で教鞭をとってたような人なのよ。私たちが生まれるよりかなり前の話らしいけど……』

 

 なるほど、彼女らしく終始毅然な態度を崩してはいなかったが、古豪の魔術師が相手となるとさすがに気の一つも引けるようで、どこか消沈したように静かだった彼女の疲弊具合にも納得がいった。

 

 凛はワイアッドの一通りの説明が終わるまでは質問することもなく憮然としていたが、ここでかねてから、といった様子で老紳士へ向けて口を開いた。

 

「随分とその宝具についてお詳しいのですね。ミスター」

 

「察しはついとるのかもしれんが、この宝典・『太極偽典図』はワシが提供したものじゃ」

 

 何ら悪びれた様子もなくワイアッドは告げた。士郎とセイバーはその言葉に息を呑んだが凛は溜息一つ漏らして呆れたように先を続けた。

 

「なるほど。それで……それは今どこに?」

 

「解からん。提供はしたが、設置は監督役が行ったはずだ。それを探し出して確保するともこの闘いの勝利の条件の一つとなるらしいな。起動したそれはすでに物質ではなく、増殖した魔術回路で編まれた霊体じゃ。扱いは正規の儀式における聖杯と何ら変わりはない」

 

「つまり、それに触れられるのはサーヴァントだけってことね」

 

「それじゃあその三人の魔術師って言うのは」

 

「わしを含めて三人ということになるな。もっともわしがやったのはそれだけじゃ」

 

 この老人、事件の詳細を知る人物かと思いきや、間接的とはいえこの街の怪異を巻き起こした張本人であったというのか。それがこうも堂々と彼らの前に姿を現すというのはなんとも人を食った話ではないかと思われた。しかも彼は凛たちの事情を予め承知した上で姿を現しているのだ。

 

「……けど、それで本当に大聖杯と同じように機能するとは思えませんわ、ミスター」

 

 凛はやはり得心が行かないかのように声を上げた。さすがにその声は苛立っているようにも聞こえた。

 

 それも仕方のないことなのかもしれない。彼女の家門が二百年に渡って追い求めてきた奇跡が、遠坂という家門の歴史が今まったくの部外者たちによって踏みにじられようとしているのだ。いくら平静を装っても心中穏やかではあるまい。

 

「うむ、彼奴らにとって聖杯によってもたらされる奇跡というものはあくまで付属品にしか過ぎないのだろう。この儀式をもって根源にいたるつもりも元よりないと考えるべきじゃろうな。

 彼奴らにとってこの借り物の儀式そのものが余興でしかないかも知れん。やつらの最大の目的は確かな決着を持って勝敗を決することにあるのだから」

 

「どういうことなんです」

 

 士郎の声に老紳士は深く息をついた。

 

「ワシも儀式に参加する権利と引き換えに協力しているだけの部外者にしか過ぎんのでな、真相までは解からんが、奴らの真の目的は次期当主の選出なのだそうだ」

 

 武を持っての競い合いによる完全なる決着を持って余計な時期当主の後継者を選出し余計な候補者を間引くこと。それが奴等――敵の目的。

 

 しかし士郎はますます解からないとでも言うように、眉を顰める。

 

「でもどうして相続争いなんてする必要があるんですか? そうならないために魔術師は二人以上の後継者に魔術の相伝をしないはずなんじゃ……」

 

 そう言って士郎は凛を見る。彼女も静かにそれに頷いた。同年代の少女であったが彼にとっては彼女は魔道の行く上での師に当たる。彼女からの教えに照らし合わせればこの老紳士の言には不可解な点があるといわざるをえない。

 

 老紳士はそう質されることを予見していたかのように、一度大きく頷いてから言葉を続けた。

 

「……真偽は定かではないのだがな。かのサンガール家前当主、アルベルト・ド・サンガールは魔術師としては優秀な男ではあったが、その遺伝的な衰退からは逃れられなかったそうだ。

 奴が何人子供を成しても、備わる魔術回路の数はとても魔術師として後を継ぐことの出来るものではなかったのだという。奴自身の魔術回路もその前の当主のものに比べれば劣化していたらしい。

 魔術師が歴代を重ねるごとに魔術回路が縮小してしまうというのは、まあ珍しい話でもあるまい」

 

 魔術回路とは文字通り魔術を励起させるための器官である。生まれながらに持てる数が決まっており、増えることも減ることもほとんどない。物質的な部位ではないにも関わらず、「内臓」と例えられるのはそのせいである。

 

 そのため魔術師の家系は自分たちに手を加えて一本でも魔術回路が多い後継ぎを誕生させようとする。それゆえ古い家系の魔術師ほど優秀な資質を持って生まれてくるのである。

 

「じゃあ何でこんなことに? 誰も魔術刻印を相続できないなら、こんな大掛かりなことやる必要ないじゃないですか」

 

「そこでもう一人の魔術師。テーザー・マクガフィンのことを語らねばなるまい。とはいえこの男――いや、実のところそれすらも確証はないのだがな――、奴の素性その他についてはほとんどのことが分からん。

 唯一分かるのは、数年前にサンガールの家に入り込んだフリーランスの魔術師であるということだけじゃ。

 この儀式を提案したのも、現在監督役として取り仕切っているのも奴じゃ。奴はサンガールの家に入り込む条件として四人の後継者の魔術回路を増設したのだという。無論、藁をも掴む想いだったサンガールの当主が嬉々として奴を迎え入れたことは想像に難くなかろう。

 

 これは推測の域を出ない話だが、その術式は予想に反して期待以上の成果をもたらすことになったのだろう。後継者たち四人の魔術回路は総て十全以上に機能しはじめ、同時に四人もの後継者が我こそ党首に相応しいと名乗りを上げる事態になった。  

 

 皮肉なことに、そのせいで前当主は最後のときまでその問題に苦悩することになったということなのだろうな」

 

「最後?」

 

「前当主、アルベルト・ド・サンガールは既に死去したそうだ。それも半年以上前にな。……おそらく、こんな無謀を許諾したのも己の命が残り少ないことを危惧するあまりに心を乱したからなのじゃろう。

 

 ……そういうものだ。内心にしこりを残した老兵が心安らかに逝くことなど叶わぬ夢なのだろうからな……」

 

 そのとき、凛が食い下がるかのように口を挟んだ。

 

「ちょっと待ってくださいミスター。魔術回路の増設なんて簡単に仰りましたけど、そんなことができるとは思えません」

 

「確かに。魔導の常識で考えれば不可能だ。ワシもその点については訝ってはいた。しかし、いまさらそれを論じても始まるまい。事実として奴らはそれぞれにサーヴァントを従えうるだけのマスターとなって既にこの街の中に入り込んでいるのだからな」

 

「……」 

 

「それに、君たちの身体にも説明のつかない変化が起こっている筈だ」

 

 士郎、そして凛の身体に最装填された三画の令呪。そして聖杯戦争時と同じコンディションを取り戻したセイバー。確かに、彼等はその変化を知ってこの調査に乗り出したのだった。

 

 凛は何かを考えるように押し黙った。確かにその通りだった。現実として怪異は起こっている。ならば起こりえないはずの事態を起こしうる何かがあるのだ、この事件の黒幕には。

 

 するとしばし凪いだ沈黙を切り替えようとするかのように今度は士郎がある疑問を口にした。

 

「大方の話は分かったけど、どうして俺たちの前に出てくる気になったんです?」

 

「わたしたちに協力を求めたいということなのよ」

 

 それには傍らで黙していた凛が応えた。

 

「本来は身の安全を保障する変わりにこの街でのサポートを頼むつもりだったのだが、まさか前聖杯戦争の生き残りのサーヴァントがいるとは思っても見なかったのでな。戦力的に拮抗している以上、この状況では共闘ということになるだろう」

 

 なるほど、そういう意味では確かにセイバーの存在は誰にとっても想定外のイレギュラーだったということになるのだろう。昨夜あの漆黒のアーチャーが語っていたことにも、一応の合点がいった。

 

「わたしだけの独断でできることじゃないから、セイバーと士郎にも意見を聞くまで結論は出さないってことになってたのよ」

 

「凛はそのことについて了承しているのですか」

 

 談話する魔術師たちから一歩引く形で話し合いを見守っていたセイバーが、静かに問うた。

 

「……どの道、闘うことになるのは避けられないわ。私はこの地を管理する遠坂の魔術師よ。この街で勝手なことをさせるわけにはいかないわ。それがたとえ誰であってもね(・・・・・・・)

 

 凛は老紳士の丸い色眼鏡に向けて、毅然と言い放った。

 

 しかしその言葉に眉根を寄せて反応を見せたのは老紳士ではなく、傍らの二色の瞳の少女だけであった。大小の差こそあれ、往々にして常人とは一線を画す自尊心を持ち合わせているのが魔術師という輩の常である。

 

 本来なら格下の魔術師にそのような物言いをされれたならば、それだけで殺し合いになってもおかしくない。——はずなのだが、しかしこの老魔術師は凛の言葉に色眼鏡の奥から老獪な笑みを垣間見せただけだった。

 

「……だから、一時的には協力関係もやむをえないと考えるわ。そのサンガールとかいう田舎者を残らず撃退するまではね。ミスター・ワイアッドにはこちらから力を貸す代わりに私の管理下に入ってもらいます。よろしいですね、ミスター?」

 

 凛はその持ち前の美貌を白く凍りつかせながら、目を細めて宣下した。

 

 あくまで選択の権があるのはこちらだといわんばかりの態度である。そこにはまるで女帝が臣下に宣下するかのような、傲慢でありながら同時に峻厳なる高貴さが表れていた。

 

 その実、憤懣やるかたないといった内情には依然として変わりはないのだろうが、彼女が己が奉ずる遠坂の家訓に忠実であろうとするならば、いつまでも座して憤慨しているわけにはいかった。

 かの家訓に曰く、常に余裕を持って優雅たれ、とある。それに倣うならば彼女は速やかに、徹底的に、そしてあくまでも流麗に、この地から怪異を排除しなければならないのだ。

 

「――無礼な!」

 

 老紳士の傍らで、先ほどから眉の間に険しい筋を立てていた少女がたまりかねたように声を漏らし、膝を立てようと身を起こす。しかし、

 

「ふむ、妥当なところじゃろうな」

 

「マスター……」

 

「まあ、座っておれ」

 

 その少女を諌めるというよりは拍子抜けさせるような声で老紳士は言った。これには凛も逆に肩透かしを食らったような感覚が否めない。自分如きの虚勢は総て見透かされているとでもいうのだろうか?

 さしもの天才魔術師もこの老獪なる紳士の真意をはかることは出来なかった。

 

「……はい、失礼いたしました」

 

 飾り気のない使用人服の少女は、そう言うと悄然と座り込んでしまった。

 表情こそ先ほどの能面のような顔に戻ってしまっているが、しかしどこかふてくされて黙り込んだ子供のようにも見えなくもないという気が、士郎にはしていた。

 

 昨夜のことも含め、終始無表情を貫いている彼女だが、それでもまるで感情がないというわけではないようだ。

 

「君はどうかね? 遠坂嬢の話では君にも彼女たちと同様の権があると聞くが……」

 

 急に水を向けられ、士郎はしばし言葉に詰まった。

 

「……じゃあ、昨日俺たちに昨日襲撃をかけてきたのは……」

 

 念頭にあった疑問をようやく思い出し、やや遅れて問いかけた。すると真っ先に声をあげたのはテフェリーだった。

 

「昨夜のことは、……私の独断です」

 

 そして色違いの瞳の少女はまた謝罪の言葉を繰り返した。

 

「……どうやら勘違いを起こしたようでな。わしが到着する予定だった今日までは動くなといってあったんじゃが……」

 

 テフェリーは未だに頑として無表情を保ち続けてはいたが、白い頬には僅かに朱がさし、眼を伏せがちに俯いてしまった。どうやら彼女なりに己の失態を恥じているようであった。

 

 士郎はあらためて昨夜のことを思い出しながら考えをめぐらした。いきなりセイバーに襲い掛かってきたことは簡単に流せることではなかったが、昨夜のセイバーの疲弊具合、あのアーチャーの驚異的な戦闘力、そしてセイバーと互角に渡り合って見せたランサーの手練。もしもあのランサーが味方につくというのなら昨夜のことをなかったことにしても余りある利得なのではないか、とも思えた。

 

 確かに、セイバーが狙われているのも事実ではあるのだ。それは同時にセイバーのマスターである凛を、否この街に存在する総ての魔術師を儀式遂行の障害として排除する構えなのだと見ておかしくはない。

 

 そのとき、静かに話を聞いていたセイバーが、今度は客人である老紳士とその使用人の少女へ向けて質問した。

 

「ランサーが同行していないのはなぜなのですか」

 

「それは……」

 

 その指摘を聞いた途端、テフェリーの鉄面皮にさらに朱が指し、うろたえたように言葉尻を濁した。

 

 そういえば確かに、昨日見た灼熱の気配は何処にも感じられない。いかに目的が交渉だとはいえ、サーヴァントを伴うこともなく相手の居城に赴くなど無謀もいいところである。

 

 老紳士の後ろに控えていたテフェリーは、とうとう口ごもるように謝罪の声を上げた。

 

「……申し訳ありません、マスター。私は本当に偵察を命じただけだったのですが……」

 

 顔にさしていた朱がいまや耳朶まで広がり、声を上ずらせてしまう。

 

「まぁ、なんぞ寄り道でもしとるんじゃろうな。どの道、話し合いの席にはアレは不要じゃろう」

 

 老翁は何の気もなしにさらりとそう言った。散々な言われようではあるが、昨夜直接対峙した士郎には頷けなくもないことだった。確かにあのランサーが交渉の席で大人しくしているような手合いだとは思えない。

 

 しかし、ともすればこの場で戦闘になる可能性とて無くはないこの状況で、なおも悠然と構えていられるこの老魔術師の胆力こそ驚嘆すべき点であろうか。

 

「凛の心は決まっているのですね」

 

 セイバーはその碧眼を真っ直ぐに向け、改めて主に問う。

 

「……ええ。逆にこっちから打って出る。この冬木の地でそんな勝手は許さない。当然、排除するに決まってるわ!」

 

 遠坂の家門は代々この冬木の地のセカンドオーナー、即ちこの地における霊脈の管理と怪異の監視を魔術協会から委任されてきた責任職にある。当然この地で何の断りもなく勝手を始めようなどという輩は速やかに排除する義務があるのだ。

 無論、敵もそれを見越してこちらを排除対象としているのだから、どの道戦闘は避けられない。

 

「異存はある? セイバー」

 

「いえ、私もあのアーチャーとの件をこのままにしておくつもりはありません。凛の方針は願っても無いことです」

 

 意見を束ねようとしている少女たちを余所に、士郎はまた老紳士に向けて言葉をかける。

 

「そういえば、聖堂教会や魔術協会はどうなってるんですか、まさか野放しにしておくとは思えないけど」

 

「魔術協会のほうにはワシから言伝しておいた。儀式の間は放っておけとな。見返りにワシが聖杯を手に入れたならそれを譲る、ということで決着もしておる」

 

「え?」

 

「とはいっても先にも言ったとおり、この擬似的な聖杯戦争で聖杯を降ろせる可能性はほとんどない。

 向こうも、万が一それで聖杯が手に入ったなら良し、駄目なら駄目でそのときはワシとサンガールの家をまとめて封印指定できるというわけだ。

 

 協会にとっては、枯れかけの家門なぞは衰退するよりも検体となってくれたほうが旨みがあると考えとるんじゃろうな。実は遠坂嬢への説得もついででやっておけということでな。協会は一切の関与をしないから遠坂の家と協力して怪異の漏洩は避けるようにとのことじゃ」

 

 それを聞いた士郎は、傍らの凛に視線を移す。

 

「じゃあ、協会からも今回のことは協力するように言われてるのか?」

 

「協会からの辞令には好きにしろって書いてあったわ。余計な干渉はしない代わりに総てのことは自己責任でってことなんでしょうね」

 

 つまり協会はもう聖杯を降ろせる可能性の無い冬木よりも、今回の儀式で手に入るかもしれない旨みのほうを優先したことになる。らしいといえばそれまでだが、魔術協会の体質には知れば知るほど辟易することも少なくない。士郎は改めてそんな思いに捕らわれた。 

 

「聖堂教会のほうは?」

 

「協会のほうから圧力をかけるくらいのことは頼んでおいたが……どれほど効果があるかは定かではないな。もしかしたら教会の連中が大挙して介入してくる可能性もあるが……何せ今回のことは『宝典』が聖杯の真似をしとるだけじゃからな。奴らが本腰を入れるとも思えん。まぁ、こればかりは邪魔が入らんことを祈るしかあるまいな」

 

「随分ずさんな話ですわね。ミスター」

 

 棘のある言葉に再度、眉根を寄せて反応したのは声を掛けられた本人ではなく、またもや傍に控えた使用人だった。しかし当の翁はさして斟酌した様子も無く、

 

「なにぶん、急を要したものでな。万事万端というわけにはいかなんだわ」

 

 と嘯くだけであった。

 

「――さて、どうだろう。サンガールの魔術師共は君たちを障害としか見ないだろうが、私は味方として君達と協力し合いたい」

 

 老紳士は老獪な微笑もそのままに、凛を含めた三人にそう問うた。

 

「士郎はどう? 私達の意見は決まったわ」

 

「ああ、オレも共闘については文句ない……けど」

 

 そして最後に士郎が聞いた。

 

「ワイアッドさん、あなたは何でこの儀式に……」

 

 そう、今までの話では肝心のワイアッドの目的が語られていない。この儀式を戦い抜いて彼が得る報酬とはなんなのであろうか。

 

「……この年になると、いろいろとしがらみも多くてのう」

 

 しかし、老紳士はそれ以上なにも語ろうとはしなかった。

 

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-4

 

 仄暗かった夜が次第に白み始めたころ、それでもなお深い闇の中にそれはあった。通称、アインツベルンの森。その闇の奥深くに懐かれるように佇む一つの威容であった。

 

 城、である。未開発の森の中にまるで冗談のように据えつけられた様は、童話の中の御伽の城を見るようですらあった。

 

 その城の門の前で一人、何かに取り残されたように佇む女の姿があった。

 

 その華美な美貌は妖艶なようでいて、しかしどこか我が子の帰りを待ち呆けている母親のようでもあった。

 

 魔術師のサーヴァント、キャスター。彼女もまた不条理の極みによりこの冬木の地に招かれた稀人の一人であった。

 

 しかし妖艶なる白衣の魔女はまた一つ、憂いの篭る吐息をこぼす。はて、これは何度目の溜息だったであろうか? 胸の内を駆るのは焦燥というほどのものではない。しかしそれが決して無視できないものであることも、また確たる事実であった。

 

 昨晩、一人で留守番をするのを嫌がった鞘は生活に必要なものを手に入れるといって買い出しに出たはずなのだが、その彼女が未だに戻ってこないのだ。

 

 マスターが城から出ようとしないので、それを放ってキャスターが外出することは出来ない。彼女のマスターの魔術では、はっきり言ってサーヴァント相手の自衛はままなるまい。だからこそ自由に動ける協力者の存在は存外にありがたいもの、だったはずなのだが――それが肝心なときに姿が見えないというのではたまらない。

 

 と、いうよりも何よりも、彼女に戻ってもらわないことにはキャスター自身の今日の行動にも差し障りが出てしまう。自分の代わりに留守番を頼むことも出来ないのだ。

 

 だから外出するならさっさと戻るよう伝えてあったというのに……。やはりもう少し強く言い含めておくべきだったか。

 

 さりとて、多少語気を荒げた程度で素直にそれを承諾するような娘でもないか……。

 

 実際、いまのところ問題らしい問題があるわけでもない。むしろ予定調和と言えなくもないほどに。彼女の聖杯戦争における戦略は順調だった。しかし心配の種だけはなかなかに尽きない。それが魔女の溜息の数ばかりを無駄に浪費させているのであった。

 

「まったく、鈴の一つもつけてやればよかったかしら……」

 

 皮肉を口にしながら、実際、探索用の使い魔でも飛ばしてみようかと考えるが、しかしすぐに首を振ってそれを棄却する。

 

 それは無駄だろう。いったい誰がやっているのかは知らないが、今この街全体に奇妙な『霊的雑音』とでも言うのか、奇妙なノイズのようなものが充満しているのだ。

 

 今までは深夜になると時折聞こえたり、途絶えたりしていただけだったが、今日になって昼夜を問わず其処彼処に堆積するかのように流れている。

 

 耳に届くわけではないのだが、このノイズのせいであらゆるサーヴァント・魔術師を問わず霊的感知能力を著しく阻害されているのだ。その効力は例えキャスターのサーヴァントである彼女にも容易に退けられるものではない。

 

 誰が、何のためにやっているのか知れたものではないが、諜報戦を嫌うものが強硬手段に出たとも考えられる、それともいずれかのサーヴァントの宝具やスキルなのか。

 

 どちらにしても、やはり何かしらサーヴァントの位置・居場所の特定だけでも出来る手段が必要になってくる。……ともかく鞘の居場所だけでも把握できるようにしなければならない。このままではあの奔放な娘の行動は把握することもままなるまい。

 

 そうなると計画の修正が必要になってくるかもしれない。

 ……丁度いいのでアレを使ってみようか、居場所を知るだけならば最適の装置になるだろう。

 

 とはいえ鞘の居場所が分からないことにはその準備も始められない。さて、どうしたものだろうか……。

 

 つらつらとそんなことを考え、また一つ息をこぼそうとしたところで、木陰の間から姿を現した人影があった。

 

 考えに集中しすぎて結界の先触れに気がつかなかったのだ。らしくないことだが、それも先のノイズと、その人物の穏行と、そして彼女自身の心痛ゆえのことであった。

 

 キャスターは顔を上げた。先ほどまでの面持ちとは打って変わって、飄々とした声色で語りかける。

 

「おかえりなさい、鞘。でもちょっと遅すぎるんじゃないかしら? 明るくなる前に戻るように言ったでしょう?」

 

「うっ、た……ただいま。……いいじゃない、別になにもなかったんだから」

 

 こんな場所で出迎えを受けたのが予想外だったのか、猫のように一歩後ずさった鞘はぶっきらぼうに答えた。

 

 彼女には悟られぬよう、キャスターは困り顔のまま内心で深く安殿していた。

 

「何もなかったなら、どうしてこんなに遅くなったの?」

 

「ぐ……ッ」

 

 一瞬、痛いところを突かれたようにひるんだ鞘だったが、観念して腹を決めたのか語気を荒げて言い放った。

 

「仕方ないじゃない! バイク盗られたんだからッ!」

 

 言われてみればたしかに、彼女が移動するときに使っていた二輪の駆動機械が見当たらない。それでは街からこの森まで歩いて戻ってきたのだろうか? なるほど朝まで掛かる訳である。いつも飄々とした彼女には珍しく機嫌が悪いのもそのせいだろうか。

 

 キャスターは鞘を刺激しないように、ゆっくりと問いかけた。

 

「何が……あったの?」

 

「それはっ…………、そ、それよりもさ、キャスターこそなによ、こんなところで。待っててくれたの?」

 

 するとキャスターはその妖艶な美貌からは予期しえぬほどのにこやかな笑顔で、おどけるように答えた。

 

「そう答えてあげたいところですが、マスターの機嫌を損ねて追い出されたというのが一番妥当かもしれませんね」

 

 すると鞘もようやく微笑し、肩の力を抜いて呆れたように溜息をこぼした。

 

「あの子また駄々こねてんの? 思うんだけどさ、やっぱり甘やかしすぎなんじゃないのキャスター」

 

 それからの掛け合いにもキャスターは破願して応じた。それでも存外に刺々しい気配は残ったままの様子の鞘に、それ以上そのことについて言及するのを控えることにした。

 

 おそらく何者かと戦闘を行ったのだろうということは容易に察せられたが、自ら語ろうとしないならそれについての追求はやめることにしておいた。必要な情報なら後で自分から話すことだろう。

 

『たしかに……甘やかしすぎかしらねぇ……』

 

「もう、ホント過保護なんだから」

 

 内心でひとりごちるキャウスターに、鞘はまた揶揄するような声を掛ける。それが妙に可笑しくてほころんだような微笑が苦笑いになる。

 

「……言い訳みたいかもしれないけれど、子を持った親というのはそういうものなのよ。別に自分の子供でなくても、心配は……もう習慣みたいなものなのよ。親は子を持つと強くなるか弱くなるか、それともその両方なのかしらね。……あなたにはまだわからないかもしれないけど……」

 

「……わかんないこと、ないよ。あたしも子供、居るし」

 

「え?」

 

「うん、すんごいカワイイの!」

 

 鞘は屈託もなく言って見せたが、そんな言葉で済ます問題ではない。キャスターは表情を凍りつかせて憮然となった。

 

「そんな――その子は今何処に――」

 

 そうしてキャスターは図らずも追及じみた言葉を投げかけようとして、しかし言いさした何事かの言葉を呑み込んだ。

 

 不意に語調を早めたキャスターに鞘が一瞬、理性の抜け落ちたような呆けた表情を見せたからだ。まるで幼い子供のような。

 

「……ワカンナイ……」

 

 そう呟いた鞘にキャスターはそれ以上の問い掛けをしなかった。否、出来なかった。

 

 鞘の年頃を考えれば、まさかその子供がひとり立ちしていることはないだろう。そんな幼子と母親が互いの居場所を知らずに居るというのなら、そこにいかなる事情があるのか推し量るに難くない。

 

 その上、彼女はつい先日まで魔術師の存在も知らない一般人だったのだ。そんな子供を放ってまでこんな外法の戯れに付き合う必要はないではないか。

 

 だが奈落よりもなお深い自責の念がそれを糾そうとする言葉を押し止めた。彼女自身、生前に我が子のことをどれほど知っていたというのだろうか。

 

 彼女の娘がどんな最後を迎えたのか、どんな怨嗟の言葉を母に投げつけたのか、どれほど母の愛を知っていてくれたのか。今となってはその結末を知る術すらないというのに。

 

 ……そんな愚かな自分が、誰かに説法を説くなどできるはずもない。

 

 ただ、たとえ魔女であろうとも唯の人であろうとも、愛する我が子に触れられぬことの心痛に変わりなどあろうはずもない。だから、その痛みだけは理解できると伝えたかった。

 

「……そうね、私も――」

 

『――最後まで、わかってあげられなかった――』

 

 だが彼女に言えたのはそれだけだった。慰めの言葉は最後まで口腔から流れなかった。そのような言葉で癒されるのは鞘ではなく己の惰弱な心のほうだと知っていたからだ。

 

「……さぁ、中に入って、鞘。貴女はサーヴァントとは違うんだから、しっかり養生もしないとね」

 

 キャスターは再び笑顔で会話を打ち切り、鞘を城の中へ促した。鞘も疲れたような微笑を返す。

 

「……ん。解った。たしかに疲れちゃったからもう寝る。あっ、お風呂入れる? 汗かいちゃった」

 

「用意はさせているからすぐにでも。今度は私が出掛けるから留守番お願いね」

 

 城の中に使役させている低級霊たちは、鞘が戻るのと同時に湯谷と寝床の用意を始めていた。キャスターが常時使役している悪霊や死霊の数は幾百にも及ぶ。

 

 それらのまつろわぬ霊を従えることは、彼女がもっとも得意とする「左手の呪術(プンギワ)」の一つであった。

 

 そこで一路、揚々と城の中に歩を進めようとした鞘はふと、キャスターの言葉を反芻してあることに気が付いた。

 

「出掛けるって……どこ行くのさ?」

 

 キャスターはまた笑顔のままで答える。

 

「この儀式もどうやら本戦に突入したようですからね。情報収集、聞き込みに交渉……まずは基本の定石から固めていくことにしましょうか。私もいそがしくなりますね……」

 

 などと呑気な声を上げるキャスターに、鞘は呆れたような顔を見せる。

 

「今だって充分忙しそうじゃん。周りで忙しくされるとこっちも休めないよ」

 

「なら、私がいない間にしっかり休んでおきなさい。それにそろそろ調整も大詰めなのでね。微調整は実際に現場に行ってから出ないと出来ませんから。……その間、マスターのことを頼みますよ。まだ寝ていると思いますから静かにお願いしますね」

 

「あいあい、任されました」

 

 笑って応じた鞘の、幼さの抜けぬ屈託のない笑顔が魔女の胸の内を温かく満たした。キャスターは静かに決意していた。もしもいつか鞘が事情を話してくれるなら、できるだけのことをしてやりたいと強く思ったのだ。

 

 たとえ自分のような魔性にはそれが叶わないのだとしても、聖杯ならそれを叶えてくれるのだろうか。……と、ふと、そんな考えを頭によぎらせながら。

 

 

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-5

 

 早朝の深遠河中域周辺は野次馬や報道陣でごった返していた。昨夜、突如として消息を絶っていた一台の消防車が河の浅瀬に垂直に突き刺さる形で発見されたのだ。

 

 しかも車内は全くの無人であり、同時に消息を絶っていた搭乗員たちの行方はようとしてして知れなかった。

 

 そんな朝の喧騒が響く河川敷からは程近い市民公園内、そこにある中央図書館では逆に異様ともいえる静寂が鎮座していた。

 

 休日ともなればそれなりに足を運ぶ人間も多いこの場所で、行方不明事件があったのはつい数日前のことだ。

 

 何人かのグループで図書館に訪れていた大学生グループの内、何人かが忽然と姿を消したのだ。さらに事態を深刻なものにしたのは同時に見つかった大量の血痕だった。

 

 すぐさま図書館全体が封鎖され、連日に及ぶ調査が行われていたのだが、今となっては関係者達の注目はもっぱら消えた被害者たちの身辺調査に向いており、周辺住民たちの目も今朝方の河原の怪事に向けられていたために封鎖された図書館の中にはことさらに冷えきった沈黙だけが取り残されていたのだった。

 

 『彼』の帰還は既に空が白んだ後だったが、締め切られた深奥の一室は今もそこが真夜中であるかのように暗かった。しかし人気の失せた館内にあって、ただ一箇所だけ薄ぼんやりと辺りを照らす淡い光が揺らめいている場所があった。淡い光は床の上に散らばり、雑多に積み上げられた書物の山に柔らかな影を引いていた。

 

「君も本でも読んでみたらどうだい?」

 

 ――――。

 

「退屈はしないと思うのだけど、ね……」

 

 ――――。

 

 応える者のない、独り言のような声だけがたびたび冷えた薄闇の中に四散していく。薄明るい灯籠の灯りだけがボンヤリと照らす広い部屋の中、その中央で本の山に囲まれながら瀟洒(しょうしゃ)な椅子に腰を下ろし、分厚い書物の項に白蝋のような細い指を這わせているひとりの青年の姿があった。

 

 滑らかに項をめくる指先や色味の薄い容貌はひどく女性的で美しく、しかし同時にどこか人間味を欠落したような得体の知れない奇怪さがあった。

 

 広大な空間の四隅に鎮座する闇以外には、その独白の如き呼びかけに応えるものは何もない。そこで青年は持っていた書物を静かに閉じ、物憂げに息を洩らした。若枝のような細い肩が参ったといわんばかりに竦められた。

 

 青年は多少砕けた調子で傍らの淡い影法師に語りかけた。

 

「……僕も悪いとは思っているんだよ、サー」

 

 ――――。

 

 依然として応答はない。

 

 だがそのとき、締め切られたはずの室内を吹きぬけるような一陣の風がサッと薙いだ。

 

 突然の横風に呷られて、やおら傾いだ淡い灯り火の揺らぎにあわせて、影法師が戦慄くように大きく波打った。青年の鼻腔が僅かに西南から吹き抜けてくる潮騒の香りを感じ取っていた。

 

 深奥の夜の如き密室に突如として薙いだ不可解な風は去り、そこには再び凪いだ薄闇の濃淡だけが散らばっていた。――否、そうではない。そこには冴ざやいているモノがあった。ざわめいているモノが確かにあった。影法師だ。送風に呷られた影法師だけが、未だ漣の如く静かな質量感を持ちながらそこに揺らぎ続けている。

 

 ところがいつの間にか、影法師には輪郭が出来上がっていた。分厚い雲が照りつける茜色の陽光を覆い隠しきれずに光の輪を纏うように。

 

 そこにあったのは光り輝く一人の人間の姿であった。

 

 堂々たる体躯の人物だ。壁に映る影法師の変わりに忽然とそこに寄りかかっていたのは鍛え上げられた長身と面長の顔に紳士然とした顎鬚を蓄えた男だった。

 

 憮然とした面長の貌が正面から見据えていた。口には出さずとも態度で大いに不満を表している。

 

 青年はゆるく流し目を送りながら、その人影に向けて謝罪するかのように言葉を続けた。

 

「英霊たる君にまでこんな雑務を手伝わせていることについては、本当に僕も心苦しいんだ。でもまだ駒が足りなくてね。……いや、そうじゃなかった。解かっているよ、貴方が不満に思っているのはそんなことじゃなかったね」

 

 そうだ。この男にとって重要なのはそんな英霊としての誇りなどではない。重要なのは魂を開放する場所に還ることなのだ。その場所こそがこの男の戦場であり、駆け抜けた世界であり、願望器に託す願いでもあった。

 

「……」

 

 未だ返答はない。

 

「でも心配は要らないよ、サー」

 

 青年は改めて含めるような物言いで、告げた。

 

「……」

 

 無言の声が、気配だけで待ちわびた言葉に反応する。

 

「次は、海だ。――貴方には船を出してもらうよ」

 

 青年がそう言ったとたん、男の細まっていた眼がカッと見開かれ、全身から爆ぜたかのように気迫と暴風とが噴き出した。その存在としての生命力がまるで水を得た魚の如くその全身に漲り始めたのだ。

 

「それは――、」

 

 ここに来てようやく、男は獣が牙を剥くが如き笑いを見せた。繕ったような紳士の面相は崩れ去り、そこにはひどく獰猛なものが貌を覗かせていた。

 

「――それは、すばらしい」

 

 それまでほのかに燻っていただけに過ぎなかった獣の体躯には、今や烈火の如き篝火が灯り始めていた。その総身から吹いてくる潮風の温度が数段熱量を増したことで、それが青年にも伝わった。

 

「ただね。それには、やはりもう少しばかりの手駒が必要なんだ」

 

 向かい合っていた白い、整った蝋のような面相が歪むようにして微笑んだ。

 

「準備を、しないとね……」

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-6

……確か、最初にこんなやり取りがあったのだ。

 

 あの後、必要な会話を済ますとワイアッドは自分でももう少し調査をしてみたいといって、さっさと出かけていってしまった。

 ワイアッドが単独行動に出たことについては凛にも思うところがあったのか、誰に向けるでもなく独り言のような苦言を呈していた。

 

「散々調べた、とは言ったんだけどね。それでも自分で霊脈を診てみたいっていうのよね。まあ、あれも魔術師のならいってやつかしら」

 

 すると静かに声を尖らしてそれに応じたのは、テーブルの隅にひっそりと陣取っているテフェリーであった。

 

「マスターは東西の洋を問わぬレイライン及び地相占術の専門家です。畑違いの方々の見解とは得る物も違って当然でしょう」

 

「……」

 

「何か?」

 

「いいえ、別に。けど、よかったのかしら、あなたも置いていかれちゃったみたいだけど?」

 

「……それがマスターの意向なら是非などありません」

 

「へえ、そう?」

 

「……」

 

 それ以降、両者共に言葉を発することもなく、どこか上の空のセイバーも含めて居間には重苦しい沈黙が横たわっているのであった。

 

 協定についての話が終わったころ、時刻は既に午後の一時に近かった。よって衛宮士郎はいそぎ昼食の用意に取り掛かっていた。

 

 手伝いが要るようなことでもなかったので、残りの三人は居間で待たせてあったのだが……厨房にいてもそれとなく耳に入る斯様な会話を聞いていた士郎の背中には、得体の知れない冷たい汗が筋を引いていたのであった。

 

 居間に横たわる重く刺々しい空気を、これ以上悪化させるわけにも行かない。これから共闘していくというのならなおさらのことである。

 

 何はともあれ、まずはテフェリーが打ち解けてくれるのが一番だ。セイバーと凛だけなら険悪になることはないのだから、しかし……

 

「さっきもお茶を出しただけで妙な圧力を感じたからな……」

 

 先ほど昼食までのつなぎとして彼が用意した紅茶を一口含むなり、テフェリーは鉄面皮をさらに凍りつかせてなにやら眉間に皺を寄せていたのだった。

 

 何せ相手は本場(?)英国の、しかも本業のハウスメイドである。下手な料理なぞ出そうものならさらに機嫌を損ねることもありえるのだ。そうなってはあの居間の空気を緩和するどころの話ではなくなってしまう。

 

 そう考えるにつけ、自然と調理の手にも力が入るというものであった。ここは腕の見せ所である。義理の父が亡くなってから、まがりなりにもこの家の台所を取り仕切ってきた彼である。ここで奮い立つべき矜持くらいは持ち合わせがあった。

 

 それに、ここでそれなりの評価がもらえればそれをかわきりに打ち解けていく切っ掛けを掴んでいけるだろう。と、どこか使命感のようなものにも駆られて、衛宮士郎は持てる力の総てをそそぎこもうとさらに調理の手に意識を集中しようとした。

 

 しかし、そのとき叩きつけるように響き渡った轟音が屋敷そのものを震わせた。

 

 大排気量の車両が屋敷の前に乗りつけたような音が聞こえる。それも大気を揺らすかのような、まるで炸裂音かと聞き違うほどの大音量であった。

 

 居間にいた士郎以外の三人は、すぐさま外に飛び出した。

 

 士郎もそれに続こうとするが、それを見止めて振り返ったセイバーに、

 

「こちらはお任せください。シロウは昼食の準備に支障なきようにご注意を!」

 

 と、至極まじめな顔で言われてしまった。出るに出られず、仕方なく彼は食事の用意を再開した。

 

 遠坂凛、セイバー、テフェリー・ワーロックの三人が庭先にまろび出たとき、そこにいたものは見るからに大排気量の大型バイクとそれを駆る長身の女性バイカーの姿であった。

 

 その姿は確かに一見すると上下一揃いのライダースーツに身を包んだ女性に見えた。しかし――。

 

 その女性はおもむろに、やたらと重厚で硬質な感のあるヘルメットを脱ぎ去った。

 

「いやあ、これはこれは一同おそろいで……っと。おほぉ、これはなんとも眼福な眺め……」

 

 ヘルメットの下から溢れ出たのは、陽光の泉の如く揺蕩(たゆと)う流髪の山吹色(サンライトイエロー)の輝きであった。何人たりとも息を呑まずにはいられないであろうその美貌は、昨夜セイバーと死闘を演じたランサーのそれに相違なかったのである。

 

 だが一同が息を呑んだのは、それだけが理由ではなかった。誰もが瞠目せずにはいられない訳がそこにはあったのだ。言うまでもなく、ランサーの姿は昨夜のものとは一変してはいたのだが、彼女は別に当世風の衣装を着込んでいたわけではなかったのだ。

 

 バイクに跨るそのタイトな装束は、昨夜と同様の鉱石の装甲板で構成されていたのである。

 

 重厚な鎧姿からは想像もできない、細く、しなやかに引き締まった肢体はタイトなライダースーツのごとく変容したプレートメイルで覆われていたのだ。極力光沢を押さえた質感とオーダーメイドでも有り得ないほどの身体との一体感のおかげで一見してそれが甲冑だとは判じがたいが、さすがに限界はある。

 

 その格好で街中を疾走してきたというのでは、平日の昼間とはいえさぞかし人目を引いたことだろう。

 

 しかし執拗な視線を受けた当のランサーは、

 

「ぅん、どこか変か? たしかこんな感じだったはずだが……」

 

 と呑気に声を上げるばかりである。そこで閉口する凛とセイバーをおいて、真っ先にランサーへと詰め寄ったテフェリーが開口一番詰問じみた声を張り上げる。

 

「ランサーッ、なんなのですかそれは?!」

 

 テフェリーが指す「それ」とは今現在ランサーが駆る大型の二輪駆動装置のことだ。無論のこと先の爆音はこれが原因なのは明白だ。

 

「うぅむ。よくぞ聞いた。戦利品だ。こいつはなかなか具合がいい」

 

 その返答にさしものテフェリーも閉口し、もはや何から驚いていいものか困惑する一同を前に泰然と佇むランサーは喜色満面で持ち前の美貌を綻ばせている。

 

「何が、……何があったのです? 私は偵察を……」

 

 咽ぶかの如き息を、何とか落ち着かせて問おうとする主の言を、しかしみなまで聞かずにランサーが応えた。

 

「うむ、その偵察中にちょいと戦り合っている奴らを見つけてな。ちょっかいをかけたんだが、一方がいきなり逃げ出したもんだから、自然と追いかける形になってだな、そしてそうこうしているうちにこの時間になって……」

 

「……私が、あなたに命じたのは、偵察だけだった筈——ですが? それに随分時間がかかったようですね?」

 

「いやあ、それはまぁ……成り行きというか、勢いというか。それに先の戦闘は我らの初陣だというのに無粋な邪魔が入っただろう?」

 

 見上げてくるツートンカラーの視線が、不動のままに零下にまで冷却されていく。それを前にしてようやくランサーも己の不覚を悟ったらしく、やおら言い訳じみた言葉を重ね始めた。

 

「だか……ら、その、な? 憂さを晴らしたかったというか、」

 

「…………」

 

「その、なんというか、ノリでな。……そのまま街をほんの二・三……四五周ほど……」

 

「……………………」

 

「い、いや、直接の戦闘は避けたのだぞ? 本当に。だから、少しだけと思って……」

 

「…………………………………………」

 

「す、すまん。確かに迂闊な行いであった。ああ、今後は気をつけよう、うむ」

 

 さしものランサーもその沈黙と揺るがぬツートンカラーの視線に口元を引きつらせながらしどろもどろになる。それでも不動のままにランサーを見つめ続けているテフェリーに凛が声をかけた。

 

「もういいわ、それ以上のことは後にしてあげて」

 

「……承知しました」

 

 その言葉に、テフェリーはおとなしく従った。もとより主からここでの行動についてはこの界隈の魔術師の代表でもある凛に従うように申し付けられていたからだ。

 

 そこで大仰に安堵の息を洩らしたランサーは憮然と押し黙るテフェリーを尻目に、目が眩むほどの笑顔を咲き乱して今しがたテフェリーの叱責を止めてくれた凛に向き直った。

 

「いや、助かった。と、いってはまた主の心痛よろしからざるやもしれんが、しかしこのご恩は忘れようとてそうは行かぬもの。感謝いたしますぞ、若く麗しき魔術師殿」

 

「ランサーも元気そうで何よりだわ、顔を見せないから何かあったのかとおもったわよ」

 

「おお、まさか心配していただけるとは、これぞ光栄の極み!」

 

 ランサーは感極まったように謳いながら、テフェリーから距離をとって凛とセイバーの方に近づいた。

 

「だって、期待した戦力がいきなり欠けたら共闘の意味がないでしょ?」

 

 凛は微笑しながらぴしゃりと言い放った。

 

「っと、これは手痛い」

 

 言葉とは裏腹に、すり寄ってくるランサーの美貌は光の奔流となって咲き乱れんばかりだ。

 

「ランサーとも初対面ではないのですね」

 

 凛の背後に控えるようにしていたセイバーが主に声をかけた。

 

「会ったのは昨日ね。ワーロック翁が最初にうちに来たときは一緒にいたのよ。じゃなきゃいきなり聖杯戦争が再開されたって言われたった信じないわ。でも生のサーヴァントを見せられたんじゃそうも行かなかったってこと」

 

 つまりランサーたちは昨夜セイバーたちとの戦闘を離脱したあとすぐにワイアッドと合流して共に凛の屋敷に向かったということになる。

 

「ふふ、こうして再会できたことは誠に嬉しい限り。昨夜は邪魔なジジイのせいでろくな挨拶も出来なかったのでな、それが心残りとなってまるで心の臓に矢傷を受けたかのような次第でしたぞ。いやぁ、邪魔なジジイがいなくなったのは本当に良……ハッ!」

 

 浮かれて漏らした言葉に、距離をとられたテフェリーの双瞳が冷たい光を宿すのを感じてランサーは口を噤んだ。それから逃げるかのようにして足早に凛の眼前まで歩を進めた。

 

「兎角、感謝いたします。麗しきは魔術師殿。協力すると決まった以上、ご期待に沿えるようこの身を粉とするも厭わぬ所存」

 

 そしてやおら方膝をついて丁重に騎士の礼をとったのだ。

 

「ええ、期待させてもらうわ」

 

 大仰に礼をとる神代の女戦士に、凛も微笑を返した。それは少女の微笑ではなく騎士に賜わされる貴婦人からの賞賛の眼差しであった。

 

 その威厳すら纏う物腰に、背後でそれを抜け目なく見守っていたセイバーにも誇らしげな感慨が湧き起こってくる。このような光景は彼女にとっても古き時代を呼び起こすものだった。――しかし、それが一瞬の隙となった。

 

 ランサーは不意をつくように立ち上がり、一瞬で己よりも頭一つは小柄な少女の背後を取ると、そのまま抱き竦めるように腕を回したのだ。

 

 飛燕のごとき、――否、まるで獲物を仕留めんとする豹の如き身のこなしであった。

 

 やおら蛮行に走ったランサーは、そうして驚愕に曇り年相応の少女の顔に戻った凛の顔を直下に見下ろして、満足そうにくすぐるような笑みを浮かべている。その貌もまた牙を剥く美豹そのそれを想わせる。

 人の顔というものはこれほどに美しさを保ったまま、その装いを変じるものなのだろうか。

 

「美しい。まるで新月の夜空を写し取ったかのようではないか。……テフェリーの黒銀のそれともまた違う」

 

 そうして陶酔するように凛の黒髪を掬いながらささやく。白い耳朶を熱い吐息が過ぎり、さしもの魔術師も身を捩る。

 

「――――ッ、ちょ、」

 

「ああ、――失礼をした。あまりの御髪(おぐし)の美しさに、つい悪戯心が抑えきれなんだ。蛮人の倣いと思ってどうか許されよ」

 

 そうは言いながら、腕の中に捕らえた少女を放す気はないらしい。ランサーはそのまま話を続ける。

 

「ところで、不躾だが魔術師殿、「凛」と呼ばせてもらっても?」

 

「……名前まで覚えててくれたみたいね」

 

「忘れる筈がなかろうとも」

 

 凛は息を整えるようにして溜息を漏らした。ここは冷静さを乱したほうの負けだ。挑発に乗って怒鳴り散らしては元も子もない。

 

「かまわないわ。でもこういうことはこれっきりにしてもらえる?」

 

 そして背後に立つ長身の相手に向けて、今度は微笑ではなく厳しく刺すような視線を送った。

 

「さて、それは惜しい――」

 

 その眼差しがさらなる愉悦を呼んだのか、さらに身を摺り寄せようとしたランサーを引き剥がすようにして、そのとき余人の一人が両者の間に割って入った。

 

「下がれ、ランサー! それ以上我がマスターに狼藉を働くことは許さん!」

 

 セイバーであった。本来ならランサーが凛の背後に廻った時には反応する筈だったが、ランサーが何をするかもわからなかったので、今まで息を呑んで見ているしかなかったのだ。ランサーがその気ならば一瞬で腕の中の凛の身体を二つに捻じ切ることも容易い筈だったからだ。

 

 しかしそんなことはなく、ランサーはおとなしく凛から手を放した。今度はセイバーがランサーの前に立ちふさがる形になった。これもまたかなりの身長差があるので、今度はセイバーの矮躯を長身のランサーが抱きこむような姿勢になってしまう。それでも見上げる翠緑の視線に怖じる気配などあろうはずもない。が、しかし

 

「おお、健勝かセイバー? 昨日の今日でまた妙な運びになったな」

 

 向けられる視線の厳しさに関わらず、ランサーはこの上なく呑気な声を上げる。

 

「別にいいわ、セイバー、何をされたってわけでもないんだし」

 

 凛は背後からセイバーを諌めた。少々、声のトーンに刺々しい我が出たが、ランサーはそれをも愛でるように眼を細める。

 

「んふ、失敬失敬。これは些か無礼が過ぎたようであったなァ。しかし貴殿ほどの英霊のマスターがまさか……とは思っていたが、」

 

 ランサーの光を伴うような視線が、再び凛に向けられる。

 

「どうやら杞憂であったようだな。昨夜は何事かと思っていらぬ心痛を重ねたものだ。……しかしこれは良い運びとなったようだ。これが天の配剤だとするならば、我が父神に礼のひとつもを差し上げねばならんだろうなァ」

 

 ランサーは加えて、近くに良い狩場でもあればいいが、などと独り言を洩らしつつ、この場に居合わせる三者三様の少女たちの顔を舐めるように見回して悦に浸っているのである。

 

「貴女は私の話を聞いていないのか? ……それと昨夜のことも含めてだが、昨夜の我が連れ合いもまた間違いなく私のマスターだ。故にそれ以上の侮辱は騎士として見過ごすことは出来ぬ」

 

 憤慨したように色めき立つセイバーに、しかしランサーはまともに取り合おうとしない。

 

「……何を馬鹿な。偉大なる騎士王の主があのようなガキだなどと」

 

 ランサーはそう言い、呵呵と痛快そうな笑いを上げてセイバーの言葉を取り合おうとしない。どうやら彼女は昨夜、セイバーの傍らにいた士郎のことをマスターだとは信じていないらしい。

 

「二度は言わぬぞ、それ以上の侮蔑は聞く耳持たぬ」

 

「ふふ。まぁ、そう邪険にしてくれるな。セイバー、警戒せんでも戦闘の意志はない」

 

「大丈夫よ、セイバー。とりあえず今は引いて」

 

「凛っ、しかし……」

 

 ランサーは今度は長身を屈めるようにしてセイバーに身を摺り寄せてくる。細まった視線は蛇の如きと称するには些か鋭すぎる鋭利さを持っていた。

 

 一見おどけているように見えて、ランサーは微塵も気を抜いては居ないのだ。その実抑えきれぬほどの殺気を己という入れ物に押し詰め、必死に押さえ込んでいるようでさえあった。

 

「しかしも何もないものだ、セイバー。それとも、ここで始めるのか? どうしてもというなら、こちらもやぶさかでもないが、マスター同士が労を重ねて共闘関係を結んだ矢先にとは、いささか心苦しいものがあるなぁ。そうは思わんか?」

 

「むッ……」

 

 言葉こそ放ってくる殺気とは裏腹だが、そういわれてはセイバーも口を噤まざるをえない。共闘の旨は既にマスター同士の間で執り成されたことだ。今この場で彼女がそれを反故にしてことを荒立てるわけにもいかない。

 

 ここで声を上げたのはテフェリーだった。たまりかねたように声を上げる。

 

「ランサー、いい加減にしなさい。大体、あなたはなぜマスターについていかないのです! マスターはもう出かけられたのですよ!?」 

 

「ふふ。まぁ、そう妬いてくれるなマスター。いくらあたしでも照れるぞ……ワイアッドの奴が要らんというのだから仕方あるまい」

 

「あなたは何度言ったら事の是非を理解できるのですか。あなたの主は我がマスター、ワイアッド・ワーロック様をおいて他にはありえません! どうして私をマスター扱いしてワイアッド様を呼び捨てになどするのです!」

 

 語気を荒げた叱咤にも全く堪えた様子はなく、ランサーは鼻歌交じりに口を尖らせた。

 

「いいではないか、当の本人が気にせんといっとるのだから。枯れた爺をマスターなんぞと呼びたくないぞ」

 

「――――とにかく、あなたは一刻も早くマスターを追いなさい」

 

 そこで息を巻くテフェリーに声をかけたのは凛だった。

 

「いいえ、これでいいのよ。ランサーには私たちと行動をともにしてもらうわ」

 

「……」

 

 テフェリーは凛に訝る視線を向けた。その二色の双瞳には刺すような攻撃の色が浮かんでいる。どうやら、彼女自身凛の命に従うというのはあまり歓迎できる話ではないらしい。見た目にはクールな細面の少女であったがその実はかなり強情な我の持ち主なのかも知れなかった。

 

「説明するわ。ともかく中に入りましょう」

 

 

 居間では斯様な次第で戻ってきた四人を、何も知らぬ士郎が出迎えた。

 

「ああ、そうかランサーが来たのか」

 

 揃って居間に戻ってきた面々に、士郎は得心が言ったように漏らしたのだが、

 

「む、なんだお前は。いきなり無礼な餓鬼め」

 

「は……?」

 

「ふむ、狭いところだな。これでは――動きにくい」

 

 言うが早いか、ランサーはやおら纏っていた外装の一切を総て脱ぎさってしまったのだ。

 

 それまで着ていたはずの装甲は見る見るうちに首飾り程度にまで縮小し、まったく別の形に成形された。

 

 それ以外は一糸纏わぬ状態となった彼女の身体からは光があふれ出して見える。その存在から放流するかのごとき山吹色の輝きは昨夜の比ではない。その存在を前にするだけで誰もが知らずの内に呼吸を忘れ、鼓動が早鐘を打つかのようであった。

 

 そして周囲に溢れ出す、柔らかなサンライトイエローの光と共にランサーの衣装は先ほどのようなライダースーツのごときプレートメイルではなく、昨夜の荘厳な甲冑でもなくまったく別の外装を形成へと変容したのだ。

 

 古くは古代ギリシャの胴衣として知られるキトン・ドレスと呼ばれるそれは、足首まで隠れるような多数の襞を形作る優美な装飾が見て取れる。否、しかしそれは装飾によって飾られるのではなく、それ自体が装飾物の塊であった。

 

 そのドレスを形作るのは柔布ではない。それはあまりにも微細な装飾物を鱗の如くつなぎ合わせることによって人の身体を覆う役割を与えられているのだ。つまり、それは一種のチェーンメイルと呼ばれる、紛れもない武具の一種であった。ともあれ、宝石もかくやと言わんばかりに磨き上げられた鉱石の連続が、引き締まりながらも女性特有の柔らかな起伏を主張する白い肌の上に据えられる様は武装などという響きを許さず、いかな賛美を持ってしてももはや的確に言い表すことは出来ぬとさえ思わせた。

 

 そしてそんな楚々とした華美な装いの貴人が近代日本のお茶の間にたおやかに佇んでいるこの状況を、如何な言葉で言い表すべきなのだろうか。

 

「な、何考えてるんだランサー。着替えたいなら先に言ってくれ!」

 

 その行為に泡を食った士郎は暫し呆然とした後で文句を言ったのだが、当のランサーは、

 

「む? なんださっきから。小間使いのくせに無礼なやつめ。子供(ガキ)の前で何を警戒しろというのだ。それとも何かする気でもあるのか?」

 

 などと言うばかりであった。

 

「……」

 

 とはいえ、そのあっけらかんとした表情を見る限り、どうやらランサーには悪気は一切ないらしい。つまり、彼女は昨夜セイバーの傍らにいたはずの士郎の顔をまったくもって認識すらしておらず、今現在もそのときの同一人物とは思っていなかったということらしい。

 

 そして、彼女にとって給仕に勤める男子などは人間だという認識すら薄いらしくもはや景色の一部としかみていないようであった。それゆえに裸体を見られることさえ斟酌しないらしいのだ。

 

「……なんだ、そうか。……はて、貴様、昨夜もこんな顔だったか?」

 

 説明を受けてようやくその少年が昨日セイバーに付き従っていた人間なのだと理解したようだったが、ランサーはしげしげと士郎の顔を覗きこんで未だにそんなことを言っている始末である。

 

 だが当の士郎としてはそれどころではなかった。覗き込んでくるランサーのその存在が放つ光に、あらためて感嘆の感情がわきあがってくるのだ。他の英霊達が身に纏う威光とは又違った輝きだった。

 セイバーに惹き付けられる感情が彼女を仰ぎ見る羨望に近いとするのなら、ランサーの魅力は人を惹き付けるというよりは勇気付け、活力を与えるような煌めきだった。

 

 一方、今改めてランサーの宝具特性を把握したセイバーは、士郎に対しての態度を咎めるのも忘れて、あらためて感心したような声を漏らした。

 

「なるほど、それが貴方の宝具特性ということか。……確かに、汎用性という意味では類を見ない……」

 

 ランサーはそれを聞いて、満面の笑みとともにセイバーに向き直る。

 

「そういうことだ。わが秘蔵の第一宝具、『』にはこの時代までの古今東西、あらゆる時代の武具が内包さている。槍でも弓でも、必要なら言ってもらって構わんぞ? セイバー」

 

 すると今度はセイバーが嘲るような、挑発的な笑みで応える。

 

「無用だ。我が身命を賭すに足りるはこの剣のみ」

 

「なるほどな。……ふふッ」

 

 そういうと、ランサーは桜色の厚唇から見えるような吐息をもらした。セイバーはその視線に何か含むようなものを感じて声を尖らせた。

 

「なんだ。何か言いたいことでもあるのか、ランサー」

 

 するとランサーは声を硬くするセイバーの細い肩を優しく抱くような格好で身を寄摺り寄せ、くすぐるような声で囁いた。

 

「いや、たとえ荊のような笑みであれ、そなたの笑顔を見れたのが嬉しくてな。ついこちらもつられたわ。――さて次は陽の下の野薔薇のような笑顔を見せてはくれまいか?」

 

「――ッ」

 

 その吸い込まれるような美貌に妙な危機感を抱いたセイバーは、咄嗟にランサーの手を振り払い後退さった。

 

「んふ、つれんなぁ……まあ、それはそうと」

 

 するとランサーはハンカチでも取り出すような動きで肩口の(きれ)を引き抜いた。それがいきなり風呂敷程にもふくらみ、やおら彼女が着るような重ね布のドレスに形態を変容させたのだ。

 

「どうだセイバー、興味があるなら着てみてはどうだ? 武器でなくとも、服なら差し障りもあるまい。さあ、着てみても構わんぞ? というかむしろ着てくれ! ぜひとも!」

 

 手には彼女自身が今身にまとうものよりも、遥かに装飾過多で雅なドレスがあった。どうやらサイズについても調整可能らしく丈の法もセイバーに合わせてあるようだ。無論そんなわけの解からない申し出を受けるセイバーではない。

 

「何を馬鹿なことを。だいたい、他の英霊が自分の宝具を纏うことに抵抗がない英霊などいない。それともそんな矜持を持ち合わせない手合いなのか? 貴女は」

 

 すると覆いかぶさるように再び距離を詰めたランサーの桜色の厚唇が、セイバーの耳朶に触れそうな位置まで降りてくる。そして細い顎先に触れるか触れないかという距離で、その豪勇さから想像し得ないほどに細く美しい指先を遊ばせながら、

 

「そちらこそ、馬鹿を言ってもらっては困る。そなた以外の何者であろうとも、たとえ天上の神々であろうとも許しはしないさ。だが、そなただけは別だ……」

 

 その真紅の瞳を潤ませるような光で満たしながら、頭上から降り注ぐたおやかな視線にさしものセイバーもたじろぎ、後退を余儀なくされる。そしてまた退がる。さらに退がり――、しかし後ろは既に壁際だった。

 

「――ッ」

 

 ルビーレッドの瞳からこぼれる光がまるで熱を持ち、セイバーの白い肌の上を淡く炙るかのように燃え盛る。しかしランサーは焦らない。何時のまにか両の手に執った煌びやかなメイルドレスで左右へのエスケープを封じながら、ゆっくりと、そして確実に距離を詰めていく。

 

 この窮地に至ってセイバーも覚悟を決める。もはや退路はない。ならばこの上はこちらから――どうするのであろうか? ランサーはセイバーに危害を加えようというのではない。ならばセイバーのほうから剣を抜くわけには行かない。そして迫り来るランサーを前にこれ以上退がることも出来ない。

 

 全力で逃げれば逃げられるだろうが、それだとランサーも全速でセイバーを追うだろう。そうなれば必定、部屋の中はめちゃくちゃになるであろう。――

 

「……退がれ、ランサー。これ以上は遊びですまなくなる」

 

「そうまで嫌われたとあっては立つ瀬もない。……が、その展開もありだな」

 

 八方塞がりとなったセイバーに打つ手はあるのだろうか。詰めるランサーと詰められるセイバー。趨勢は昨夜とは真逆であった。拮抗し、張り詰めた空気は今にも弾けそうなほどの臨界に達しつつあった。――

 

「……それはともかくとして、座ってほしいんだけどな……」

 

 配膳のほうも既に終わり、セイバーとランサー以外の三人は既に座っていた。テフェリーがランサーを制してくれれば速いのだが、なぜか当のテフェリーは配膳された料理をじっと睨んだまま動かない。

 

「……追い詰められてるセイバーっていうのも珍しいわね」

 

 凛も気の抜けたような声を上げるばかりだ。

 

「言ってる場合か」

 

「まあ、仲がいいならそれに越したことはないわよ。少なくともランサーのほうはセイバーを気に入ってて協力的みたいだし、好都合じゃない」

 

「けど……」

 

「……セイバーの心配ばっかりし過ぎなんじゃないの。士郎?」

 

「そ、そんなことないだろ」

 

「じゃ、いいんじゃない」

 

「……」

 

「ほら、さっさと食べましょ。私も朝はろくに食べる暇なかったからお腹へってるのよ」

 

 ――と、様々な障害に見舞われた感のある食事も無事に終わり、なぜか無用な疲弊を被った衛宮士郎は深々と嘆息した。これが毎食ごとに起るのではたまったものではない。

 

 

「なによ、士郎。今日はずんぶん豪勢だったじゃない」

 

「そ、そうかな」

 

 そういって、士郎は横目で使用人服の少女を見る。必要以上に手に力も篭ろうというものである。彼女が自分の料理にどんな批評を下すであろうか、戦々恐々としていたのは事実なのだから。

 

 そのとき、テフェリーの鋭い眼光が真っ直ぐ士郎に向けられた。案の定、人の憩うべき団欒の場が、いま再び張り詰めた空気に支配されていく。

 

 士郎は身を硬くしたが、すぐに力を込めてその大粒の双瞳を見返す。悔いはない。どのような裁定が下されようとも、彼は出来る限りのことを成したのだ。ならば、後はすべての結果を真摯に受け止めるのみ。

 

 しかしテフェリーはすぐに無念そうに眼を伏せ、洩らした言葉は、

 

「…………参りました……」

 

 の一言であった。

 

「……は?」

 

「……あー、あまり気を落とすな。な、マスター」

 

 ランサーはデザートの林檎に手を伸ばしながら、鉄面皮もそのままに意気消沈するテフェリーを気遣うような声を出した。

 

 ちなみに、当然のことのように食卓に居たランサーはセイバーに負けず劣らずの健啖振りを見せていたのだった。

 

「……気遣いは無用です。そして私はマスターではありません。だいだいからしてランサー。なぜあなたがここにいるのです? サーヴァントが食事をする必要はないでしょう。まさかマスターからの魔力供給が不十分だとでも言うのですか?」

 

「いや、それについては不足ない。が、じじいの魔力だけでは足りんのだ」

 

「マスターとお呼びしなさい! 何が足りないというのです?」

 

「うまくは言えんのだが、何かが足りん。なにせじじいだし、その辺に問題が……」

 

「ランサー……ッッ」

 

 いよいよ殺気を孕んだ低い声で唸るメイドを前に、ランサーは逃げるようにセイバーに水を向ける。

 

「ふむ、よい使用人と主を持っているようだなセイバー。なるほどこの男、ただの小間使いにしておくのはもったいないかも知れんな。少なくとも飯炊きについてはだが……」

 

「ランサー、料理についての評価は嬉しく思うが先ほどから思い違いをしているようだな。シロウは召使でもなんでもなく、間違うことなき私のマスターだ。――しかし、それはそれとして」

 

 そう言ってランサーに負けじとデザートの皿に手を伸ばしているセイバーはどこか誇らしげに、うつむくテフェリーに勝ち誇ったような、やさしげな声をかけた。

 

「そう悲観されることはない。シロウの料理の腕は私が保証するところだ」

 

「……くっ」

 

 テフェリーは己の無力を嘆くかのように苦悶の声を上げた。

 

「何でそこでセイバーが得意げなのよ。……まあいいわ、とりあえず落ち着いたわね。ちょっとみんな聞いてくれる? 士郎も片付けは後でいいから」

 

 雰囲気を切り替えたかのように重みを増した凛の語調に、テーブルの上から食器を片していた士郎も手を止めた。

 

「どうしたんだ?」

 

「ここいらで本題にはいりましょうか」

 

 その場にいた各人の視線を一手に絡めとって、凛がいった。

 

 曇り空のせいか日中であるにも関わらず部屋の中はどこか平時よりも薄暗らかった。ただ、そのためなのか室内に顔を並べる稀人達の持つ輝きがあわく室内を照らしているようにも感じられた。

 その様はまるで揺らめく灯籠の陰のように感じられた。

 

 場は一時静まり返った。遠坂凛は調子を焦らせることなくしっかりとした語調で切り出した。

 

「とはいっても、現時点での情勢はまだ下調べの段階だけど、とにかくそれぞれの配置だけでも指示させてもらうわ」

 

 その視線は確認を取るように各人の顔をざっと見回した。

 

「まず、セイバーの正規マスターである私はミスター・ワイアッドと同じようにこれからは一人で行動させてもらうわ。セイバーは今後も士郎と組んで。そしてランサーたちとも離れないように意識して頂戴」

 

「はい」

 

「士郎もいいわね?」

 

 セイバーは即答したが、士郎は訝るような視線を返した。

 

「一人で行動するなんて大丈夫なのか? 遠坂」

 

「あら、心配してくれるの?」

 

 凛はいつものように含んだように微笑を返しながら士郎を見る。

 

「そりゃあ……」

 

 士郎は思わず目を逸らしてそういった。

 

「ありがと。でも問題ないわ。本来なら危険かもしれないけど、今はサーヴァントが二人いる。私が危険を感じてセイバーを強制召喚するような状況になってもランサーがいてくれるなら問題は解消されるでしょ?」

 

 これがワイアッドと凛の用意した戦略であり、ランサーがこの場に残った理由でもある。マスターが危険にさらされた場合にも令呪を使ってサーヴァントを呼べるから問題は無い。加えてどちらかのサーヴァントが戦闘中に強制召喚されても、もう一方がその場に留まり対応することは出来る。

 信頼できる代行マスターが居るなら、本当のマスターが別行動を取るというのも、なるほど一つの手だ。

 

「もちろん、それはあなたたちにもこちらの指示に従ってもらうって言う大前提があってのことだけどね」

 

 凛はテフェリーとその脇で凛に向けて愛でるような視線を向けてくるランサーに向けて声を掛けた。テフェリーはいつものように抑揚のない声で応える。

 

「それはマスターの発案なのでしょうか?」

 

「そうね、ミスター・ワイアッドが提案してきたことよ」

 

「ならば私には異論はありません」

 

 是非もないとでもいうような簡潔な応答だった。彼女にとってはその戦略がどうのということよりも、それが主からの指示なのかどうかが重要なようであった。 

 

「貴女はどうかしら、ランサー」

 

 テフェリーの反応に一拍息を漏らし、今度はその傍らにいるランサーに問うと間髪いれずにランサーはにこやかに快諾した。

 

「喜んで仰せに従おう」

 

「あら、私がいなくなって嬉しいのかしら?」

 

 ランサーは染み一つない眉間に美しく整った眉を寄せて苦笑いをした。

 

「いやいや滅相もない。凛殿と離れるは心苦しい限りだが、あのジジイにしては気が効いていると思ったまでのこと。これでテフェリーとあのジジイの立場が逆だったなら心配で仕方がなかっただろうからな」

 

 相も変わらずのこのランサーの発言に、済ましていたはずのテフェリーは幾度繰り返したかわからない調子で声を荒げる。

 

「何度言ったらわかるのです。私のことなどよりマスターの心配をなさい! マスターに限って危険なことなど考えられませんが、万位一つということもないとは言い切れません。敵がどのような罠を仕掛けているかもわからないのです。そうなったら、あなたはすぐにでも駆けつけなければならないのですよ。気を抜かないようになさい!」

 

「わかった、わかった。だからもう少し笑ってはどうだマスター。そんな仏頂面ではワイアッドも肩が凝るであろうに」

 

「――――ッ」

 

 そう言われ、しばしテフェリーは硬直してしまった。

 

「そ、そうでしょうか。……いえ、関係ありません! ランサー、無用な戯言はやめなさい。そしてマスターは私ではないといっているでしょう。今の関係もあくまで代行という形なのです。それから、マスターに何かあったら些細なことでもすぐに報告なさい。昨日のようなことは許しませんよ」

 

 まくし立てるテフェリーに、ランサーはどこか嬉しそうに生返事を反していた。

 

「そろそろ、続けてもいいかしら?」

 

 凛がそういうと、テフェリーは怨めしげな視線を向けて「どうぞ」といった。その二色の瞳は、あなたが余計なことを言ったからではないか、とでも言いたげに見えた。

 

 凛もそれを面白そうに一瞥したが、すぐに表情を引き締めて本題に戻った。

 

「じゃあ、後は今わかっている敵について整理しておきましょう」

 

「とはいっても昨日の今日だし、あのアーチャー以外に敵の情報なんてあるのか?」

 

 士郎が口を挟むと、凛は心得ているというように頷いた。

 

「確かに、一番情報のありそうなのは昨日あなた達が戦ったって言うアーチャーね。コイツについては長くなりそうだから後回しにしましょう。他にわかっていることがあれば教えて頂戴。例えばさっきランサーが見たって言う敵のこととか」

 

 それを聞いてテフェリーはランサーを見た。

 

「ランサー、あなたが偵察に行って行き当ったという手合いについて話しなさい」

 

 そういわれたランサーは頭を掻きながら鷹揚に構えた。もっとも彼女がやるとまるで女神が陽光の穂先を捕まえて弄んでいるかのようにさえ見えてくる。

 

「大したことは何もわからんのだがな、あたしが乱入した時にもまだ始まったばかりといったところのようだったのでな」

 

「……なぜ、そこで静かに観察できなかったのですか」

 

 生真面目なテフェリーの恨み言に、ランサーは何のこともないように微笑する。

 

「いやあ、近づきすぎたようだな。平気かと思ったんだが、すぐに気付かれた。のぞきはあまり趣味ではない」

 

 むしろ、それは仕方がないのかもしれない。本来そこまで近づいた状態で気配を完全にたって諜報を行えるのはアサシンのクラスだけだ。ランサー本人の適正の前に、やはりそのまま気付かれずにやり過ごすと言うのは難しかったかもしれない。

 

 それがわかっているからなのか、テフェリーも眉根を寄せただけでそれ以上の言及には及ばず、仔細についてを促した。

 

「では、わかることを述べさない。人となりはどうだったのです?」

 

「一人は髭面の男だ。まるで刃のような目をしていたな。アレはかなり面白そうな手練れと見えた。で、もう一人が女だ。華奢な格好の、黒髪の美人だった。身の丈ほどの剣を持っていたが、さて、こちらはおかしな手合いで」

 

「どのクラスだったかはわかりますか」

 

 セイバーが聞いた。なるほどサーヴァントを外観から推察しようという場合は、まずはそこから推察していくのは常道だろう。

 

「さてな。しかし両者とも相対してみた感じでは狂っているようには思えなかった。バーサーカーではあるまい。それから魔術を使うような素振りも見えなんだ。そして両者とも得物は剣だったように見えた」

 

「じゃあ、その二人はセイバーとライダーってことかな?」

 

 士郎が言うと、しかしランサーは首を捻った。

 

「さて、それがおかしいといった故でなぁ。あの男の方も別に何かに乗っていたわけでもないし、なによりも黒髪の美人の方が、どうにも妙でなぁ」

 

 どうにもすっきりしないとでも言うように、ランサーは長い五体を余すことなく使って捻じ曲がっている。確かにおとなしく座っているのが苦手なたちのようだ。

 

「美人かどうかは関係ないでしょう。ランサー」

 

「いやいや、大事なことでないか。もしかしたらその外面から正体が割れるかも知れんのだしな。そうそう、その煌めく鋼のような黒髪は良く御主に似ておったぞ」

 

 振り乱したせいで雄獅子の(たてがみ)の如くばらけてしまった陽光の束の如き己の流髪に手櫛を入れながらランサーがそう言うと、テフェリーは溜息を漏らした。

 

「こんな髪色は、この辺りでは珍しくないのでしょう」

 

「こんな、とは随分だなマスター。もっと自身を持つがいい。これほどに杞憂な髪を持て余すは逆に罪と言うものだ。まるで融解し流れ出した黒真珠のようではないか、ふふ、誠に美しい……」

 

 ランサー自身の乱れきった髪は手串を入れただけで嘘のように整ってしまい、手持ち無沙汰になった彼女は繊細なる硝子細工でも愛でるかのような手つきで、うっとりと束ねられたテフェリーの黒髪に手を伸ばし、叨々と賛美を口に続けている。

 

「その髪色に似ているということは長剣の女性はこの国の英霊だというのですか? もしくは東洋の?」

 

 セイバーがそう聞くと、ランサーは手に取った主の黒髪を見つめる艶やかな視線もそのままに応えた。

 

「……いや、そうではなかったな。手にしていたのは北欧辺りで流行っていた古い型の剣だった。いや、妙といったのはそこでな。その女、なぜか当世風の服装をしていたようでな」

 

「当世風? セイバーみたいに?」凛が平時の白い洋装に身を包んだセイバーを見た。

 

「うむ。先ほどあたしが真似ていた格好がそれだな」

 

 一同はランサーが着ていた、まるでライダースーツのような甲冑を思い出した。ランサーはその人物からあのバイクを拝借したのだろうか? しかし霊体化して移動できる筈のサーヴァントがわざわざそのような格好までしてバイクに乗る理由が見当たらない。

 

「それはサーヴァントじゃないんじゃ……」

 

 士郎が呟くと、ランサーもテーブルに肘を突いてまた首を捻った。

 

「そこが、どうにもわからんところでな。見るからにこの時代の人間らしいのだが、確かにその近くからサーヴァントらしき気配がしていたのは確かだし、手にしていた長剣もおそらくは宝具だと思うのだが……それにしても、妙でな。いや、美人なのは間違いないのだが……」

 

 古今東西の武装を余すことなく操って見せるランサーが、敵の武装の程度を見誤る筈はなかった。だとすれば、その剣士がやはりセイバーのサーヴァントだと見るべきだろうか。

 

「他には何かある?」

 

 ランサーが言葉を切ったのを見て取って凛が言った。

 

「後は、マスターが昨夜行き当たった敵について伝え聞いております」

 

 士郎は昨夜テフェリーが泡を食ったように離脱して言ったときのことを思い出していた。確かにあの時彼女はマスター、つまりワイアッドが戦闘中だといって焦燥に駆られているようであった。

 

「昨夜、夜になるのを待って遠坂さまのところへ向かったマスターは近くで火災が起きたのを感知してそこに立ち寄ったそうです。それがただの火災でないことはすぐに察せられたのだといいます。そこにはサーヴァントがおり、火の中で佇んでいたとか……」

 

「そのサーヴァントが火をつけてたってこと?」

 

「おそらくは……、その後僅かに小競り合いをしただけでサーヴァントのほうが姿を消したということですので、仔細については何も……とのことです」

 

「そっちも、いまいちパッとせん話だな」

 

 今度は頬杖をつくだけでは飽き足らずにテーブルの上にぐにゃりと突っ伏しているランサーがテフェリーを見上げながら、つまらなそうにそういった。

 

 まるで退屈しきった猫のようであった。いや、彼女の実情を察するならそれはなんとも厄介な虎であっただろう。

 

「何を言うのです。むしろその程度の小競り合いで済んだのは僥倖でした。いくらマスターとえども単体でサーヴァントと戦闘を行うのは危険が大きすぎます」

 

「ま、序盤なら誰でも全力の戦闘は避けるのが普通よ。小競り合いが多くなるのは仕方がないわ。でもそのサーヴァントも見た目の特徴くらいはわかるんでしょ?」

 

 凛がそう言って促すと、テフェリーは応えた。

 

「そのサーヴァントは「和装の女性」だったとのことです」

 

「和装? 着物ってことか? そんなサーヴァントいるのか……」

 

 士郎が不可解そうな声を上げた。

 

「聖杯の機能のリピートだけあって、随分融通が利くようになっちゃってるみたいね。ま、もともと英霊じゃないものも随分呼んでたみたいだし、驚くほどのことでもないわ。

 とにかく、そいつらについては早合点しないほうがいいわね。決め付けてかかるとかえって危険だわ。……じゃ、次よ。今度こそ、そのアーチャーについて聞きましょうか。みんなそれだけ戦ったのならある程度の辺りはついてるんじゃない?」

 

 そういうとランサーが背筋を伸ばした。

 

「まぁな、あんな名乗りを上げたくらいだから、向こうもあまり真名を隠すつもりもなかったんだろうさ」

 

「じゃあ、あいつが誰なのかわかったのか」

 

 士郎の問いに、ランサーはさもありなんと首肯した。

 

「というか、あれほど出鱈目な阿呆は東西の洋を問わず数えるほどしかいまいよ。調べればすぐわかることだ」

 

 するとテフェリーが脇からランサーの言葉を継いだ。

 

「アーチャーの真名はおそらくラーマ。古代インドの宝典『ラーマーヤーナ』に語られる神の化身にして人の理想を極めた絶対の王だと言われます。その威名はたしかに騎士王のそれにも劣るものではないでしょう」

 

「理想の……王」

 

 セイバーはその言葉を小さく、そして反芻するようにくりかえした。

 

「なるほどね、セイバーがボロボロになった理由がわかったわ」

 

 凛は得心が言ったように漏らしたが、士郎にはその言葉だけではよくわからなかった。西洋の伝承や神話ならともかく古代インドとなると彼には知識がなかった。

 

 ランサーは構わず続けた。

 

「奴の宝具は少なくとも二つ。弓兵としての主武装である烈火の弓と、あの漆黒の身体そのものだ」

 

 そうだった。士郎は昨夜の記憶を反芻する。確かに奴の宝具はあまりにも不可解でありあまりにも強力無比な代物ものだった。セイバーの剣を弾く剛体。そしてセイバーの魔力を食い荒らす怪炎。

 

 アレは双方とも、ある一定の理を顕著させる概念武装と見て間違いない。

 

「それについての分析は出来てるの?」

 

 凛の問いに、ランサーが微笑を持って答えた。

 

「腹立だしいことこの上ないのだが、昨夜あたしは除け者にされてしまったのでな。セイバーとあの阿呆の闘いはつぶさに見させてもらった」

 

 ランサーの流し目にセイバーは強い視線で応えた。目に力が篭るのはやはり昨夜の劣勢が記憶に新しいからであろう。テフェリーが続けた。

 

「まず、アーチャーの防御についてですが」

 

「あの黒い身体か……」

 

「そうです」士郎の声にテフェリーは首肯した。

 

「そのアーチャーの体のこと?」

 

 昨夜の光景を見ていない凛に、士郎は掻い摘んで昨夜見たあのアーチャーの脅威的な防護性能について語った。

 

「体が青くなって、さらに黒く、か……」

 

 凛もその情報から敵の背景を推察しているようだった。

 

「続けてもよろしいですか」

 

「……いいわ」

 

 しかし、テフェリーは凛の推察を待つことなく話を続けた。

 

「セイバーの剣がほぼ無効化されていたのに関わらず、ランサーの攻撃はまだ傷をつける程度には効果がありました。攻撃が弱体化させられている点は共通ですが、ダメージ軽減の比率に差があるのです。これはセイバーとランサー攻撃力の差から来るものではなくの性質の差から来るものだと推察されます」

 

「それは?」

 

 凛の声にテフェリーは真っ直ぐに視線を合わせた。

 

「神霊適正です。ランサーには神霊適正がありますが、セイバーにはそれがありません。化身王は神の加護――どころかヒンドゥー教における主神の一柱そのものといっても過言ではない存在です。おそらくですがあの宝具は神以外のものが神に抗する事を禁じる神威なのです」

 

 凛はテフェリーの視線をそこで受け流し、ひとり頷いた。

 

「それで体色が変わるのか……なるほどね」

 

「遠坂、なにがなるほどなんだ?」

 

 得心言ったように漏らした凛に、士郎が聞いた。

 

「う――んと、……インドの古い寺院とか書物なんかに描かれてるラーマや他の神様って蒼い肌で描かれてたりするの、見たことない?」

 

「いや、それはちょっと……そもそもインドの神話自体、詳しくは知らないし」

 

 士郎がそう言うとテフェリーが、「少々お待ちを」といって当初から彼女が持ってきたスーツケースから何冊かの本やファイルを取り出した。

 

「昨夜から目星はついていましたので、あのアーチャーについての資料は少し集めさせていただきました。遠坂様が仰ったのは、このような絵のことですね?」

 

 そこには、寓意的に描かれた絵巻物のような絵が並んでいた。

 

「この、弓を持ってるのがラーマ王子ね」

 

「本当だ。確かに蒼いな……でもどうして……」

 

「インドの絵画なんかではこういう風に書くのが一般的らしいんだけど、これは人間との乖離を表すものらしいのよ。神様の血を引いている英雄がその辺の人間と同じはずはないってことらしいんだけどね」

 

「へえ」

 

 士郎が感心したような声を上げると、凛はさらに続けた。

 

「それから、実はこういう人間との乖離を表す場合って、最初は全身黒で描かれてたらしいのよ。こういう風に蒼く描いてあるのは、絵として描いた時に真っ黒になっちゃうと見栄えが良くないからなんだって、何かで読んだことがあったの。

 おそらくだけど本来の神としての側面を表面化させた、その全身が真っ黒になった状態こそが神の化身としての、アーチャーの本当の姿なんじゃないかしら」

 

「神そのもの……か。厄介な敵だな」

 

 昨夜の弓兵が見せたあまりの規格外さを思い出して、士郎が重そうに言葉を絞り出した。

 

「そうね、セイバーだけじゃ攻略は難しいかもしれない」

 

「では、攻撃力のほうについてですが……」

 

 しかし、今度はテフェリーの言葉を凛が遮った。

 

「それについては必要ないわ。今までの話しで、私にも大体の予測はついてる」

 

 テフェリーはムッとしたように凛の目を見た。

 

「……お聞きしましょう」

 

 そしてなぜかランサーは真横からそのテフェリーの顔を見てにんまりと微笑んでいる。なぜかご満悦といった表情だ。どうも彼女のふくれっつらが面白いらしい。

 

「本当なのか、遠坂」

 

「そいつがラーマ王子だっていうんなら話は簡単よ。セイバーの魔力が食い荒らされたのも納得がいくわ。士郎、その火の弓って鳥の翼みたいな形だったんでしょ?」

 

「あ、ああ」

 

「それはきっと神鳥ガルダの力よ。ラーマの主神であるヴシュヌ神の騎獣(ヴァーハナ)だって言う神鳥だわ。幻想主の頂点たる竜種を常食してるっていう化け物だもの。竜の因子に起因するセイバーじゃいくらなんでも相性が悪いわ」

 

「そうか、それで……」

 

 士郎はセイバーの装備や風王結界の魔力を食らい尽くそうとした怪炎を思い浮かべた。

 龍殺し。つまりあの炎の弓は一級品のドラゴンキラーに他ならないのだ。セイバーとの相性は最悪の部類に入るだろう。単純な強さではなく、もはや揺るがしがたい「相性」の問題なのだ。ジャンケンでグーがパーに勝てないようなものだ。

 

「どうかしら?」

 

 凛はテフェリーを見た。表情こそ硬いままであったが、テフェリーは素直にその論を肯定した。

 

「……異論はありません。私達も騎士王であるセイバーの魔力が「食われた」理由は他にないと考えておりました。ラーマ王子は神話上においてもガルダの加護を受けた矢によって悪魔の放つ蛇神(ナーガ)の矢を退けたとの記述があります。おそらく、間違いはないかと」

 

「にしても遠坂、良く調べもしないでわかったな」

 

「まあね。でもこの話ってかなり有名よ? ギリシャ神話のイリアスやカレワラっていうフィンランドの神話なんかと一緒に、世界三大叙事詩って言われてるくらいだし、 士郎も一度ぐらいは目を通しておいて損はないんじゃない?」

 

「……って、簡単にいわれてもな」

 

 するとなぜかランサーがふてくされたような声を上げた。

 

「ああ、無理に読まんでいいぞ、坊主。実際とはかなり違うことばかり書いてあるようだからな。あんなもの出鱈目だ」

 

「はあ?」

 

「余計な事を言うのはやめなさい、ランサー」

 

 声を顰めたようにテフェリーが言った。

 

「それにしても、セイバーも厄介な相手に狙われたものね」

 

 首を傾げたシロウを余所に凛は話を続けた。テフェリーも首肯する。

 

「そうですね。何よりも危険なのは、未だあのアーチャーの底が知れぬという点です。真名が知れても、あの化身王には弱点らしい弱点がない。ランサーの助力があっても攻略は容易ではないかと思われます」

 

 テフェリーの意見に凛も首肯せざるを得なかった。確かに神話上においてもあのアーチャーには弱点というものがない。一つ上げるとするならば、それは彼に付き従っていた一人の姫君の存在ということになるのだが……。それはこの聖杯戦争という儀式においては意味のない要素に思えた。

 

「セオリーではあるけど、やっぱりマスターと引き離してそっちから叩くべきかしらね。士郎、確かそのアーチャーは今のところこの儀式を監督してるヤツについてるんだったわよね」

 

「ああ、確かにそう言ってたな」

 

「たぶん嘘のうまいタイプじゃないだろうし、その言葉は信用できると考えるわ。なら、向こうから責めさせるのは得策じゃないわね。出来るだけ早くその監督役をやってる魔術師を見つけなきゃならないわ。……私はそれを念頭において諜報に入るから、ミスター・ワイアッドにもこの件の報告を……」

 

「いいえ、奴は恐れるには値しません」

 

 そのとき断固とした声が響いた。それまで黙して耳を傾けていただけのセイバーが一喝するかのように声を発したのだ。一同の視線がセイバーに集まる。

 

「確かにあのアーチャーは、戦闘力の上では私よりも優れているかもしれません。決して簡単に退けられる敵でないことは分かります。しかし、それでも私が敗れることはありえません」

 

 セイバーは強い視線をテーブルの上に落とし、毅然と言い放った。

 

「セイバー……」

 

「なぜです」

 

 声をかけようとした士郎のそれに先んじて。取って返したように、テフェリーが言った。セイバーの視線が向けられる二色のそれに重なる。

 

「論拠を述べていただきたい。それなりの理がなければ貴女の言葉は――」

 

「まあ、そうだな。あの腑抜けではセイバーは討てぬ」

 

 やおら詰問の色を帯び始めようとしたテフェリーの声を、しばしその桃色の唇をお茶を啜らせることに専念させていたランサーが遮った。

 

 テフェリーの視線は、一翻、すまし顔のランサーに向けられる。

 

「……昨夜もあなたはそう言っていましたね、ランサー。よもや意地や矜持などを押し通そうとするあまりにそのような言葉を口にしているというならば、それはサーヴァントとしての役割からの逸脱行為です。戦闘代行者である貴女たちが戦略に口を挿む必要はありません。あのアーチャーに対してはあなた達が共闘して対するは当然の戦略で――」

 

「出来んなァ、そんなことは」

 

 素っ気ないランサーの応答に、テフェリーはそれまでまくし立てていた声を顰め、低く絞った声音を発した。

 

「……そんな物言いが通ると思っているのですか、ランサー?」

 

「さて困ったことになったな。これは契約条件について話し合う必要がありそうだ。これ以上何かを強制するつもりなら、正規マスターであるワイアッドを通してもらおうか。代行マスターにそんな強制権はないからな」

 

「…………ッ!」

 

 普段は散々己の主、マイマスターとテフェリーのことを持ち上げておきながら、いざとなるとこれである。テフェリーはしばし白い顔を怒りで赤らめさせた後、セイバーに視線を向け、その後で凛を見据えた。

 

「セイバー、あなたもそのように無益な稚気を振りかざすつもりですか? そして遠坂さまはこのサーヴァントをどう御されるおつもりですか」

 

「ま、ちょっと落ち着いたら?」

 

 いきり立つテフェリーに、凛もまた冷やかな態度で応じた。

 

「わからなくもないけど、英霊ってそういうものよ。それにセイバーが勝てるというなら、そこには論がなくとも理があるのよ。私達はそれを信じたいわ」

 

 テフェリーは絶句している。言葉を無くしたままのテフェリーの脇からランサーが喝采の声を上げた。

 

「いやぁ、さすがにわかっておられるな。これは見習わねばならんぞ、マスター?」

 

「ランサー……ッ」

 

 調子の良すぎるその物言いに、いよいよテフェリーの怒気が膨れ上がるのが明確に察せられた。するとランサーはそれまでの調子を一変させ、幼子にいい含めるようにいいった。

 

「……いいか、テフェリー。我ら英霊にとっての闘いとはそういうものではないのだ。打算、採算……損か得かの計算など意味がない。勝てるからやる、勝てぬからやらない、英霊の戦いとはそういうものではない」

 

「それが我侭でなくて、なんだというのです!」

 

 テフェリーはいよいよ鬼気さえこもった目でランサーをにらみつけたが、とうのランサーはまったく斟酌せず、それどころか少し困ったようにテフェリーの視線を受け流していた。

 

「セイバー、テフェリーのいうことにも一理ある。せめて理由だけでもいってくれないか」

 

 声を上げたのは士郎だった。これはテフェリー自身も慮外のことだったようで二色の瞳を丸くしていた。

 

「――シロウ、この件については私に総てを預けてはもらえないでしょうか」

 

「俺だってセイバーを信じたいのは同じだ。ただ、また昨日のような戦い方を繰り返すなら、手放しで賛成は出来ない」

 

「…………」

 

 セイバーは押し黙り、テフェリーは改めて焦れたような視線をセイバーと凛へ交互に送る。

 

 しかしここでまた刺々しいイントネーションが響いた。

 

「なによ、珍しいじゃない士郎。セイバーの味方をしないなんて」

 

「……あのな、それじゃあ俺は常に考えもなしにセイバーの意見に乗っかってるだけみたいじゃないか。時には諌める事だって必要だ」

 

「ええ、そうよね。常に考えた上でいつもセイバーに優しいのよね?」

 

 なぜまた急に凛の矛先が自分を突付きはじめたのかわからず、士郎も妙な疲弊を感じていた。どうにも空気が重いのだ。

 

 考えてもみれば、彼女のテフェリーに対する態度も少々大人気ないのではないのだろうか。平素ならばもう少し柔らかい対応もできるはずなのだが……。

 

「いや、ちょっと落ち着こう。こんな状態で話し合っても意味がない。テフェリーも少し気を静めてくれないか? 何も君の意見を蔑ろにしようとしてるんじゃないんだ」

 

「……わかりました。確かに少々取り乱したかもしれません。それについてはこちらに非があると認めます。しかし、納得の行く説明もなしに戦略に反対されたままにはして置けません」

 

 幾分トーンは下がったものの、それでも詰問の姿勢を改めようとはしないテフェリーに士郎も辟易する。

 

 悪い娘ではないのだろうが、こうも杓子定規では場を和ませるどころの話ではない。しかしこの生真面目さにはどこか既視感があるようにも思えた。

 

「どうしたのです? セイバーもランサーも黙ったままでは……」

 

 そのときであった。無言で耳を済ませていた二人のサーヴァントがカッと目を見開いたのと同時にチャイムがなった。

 

「あっ、藤ねえかな?」

 

 これ幸いと立ち上がろうとする士郎だったが、

 

「お待ちください。シロウ」

 

 ただならぬ鬼気をはらんだセイバーの声色に、士郎も息を呑んで足を止めた。   

 

「どうしたんだ?」

 

「……正気か? これはまたバカがいたもんだな」

 

 士郎の言葉には答えず、ランサーが驚愕を洩らす。

 

 二人のサーヴァントは、共に驚愕の表情を浮かべたまま硬直している。

 

「……門の前に居るのはサーヴァントです。シロウ」

 

 重苦しい響きとともにセイバーがつぶやいた。その手にはすでに不可視の剣が握られている。



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-7

 

 ひどく深い闇が鎮座している。そこは森の中であった。虚空に浮かぶ奇怪な異形が見える。

 

 土塊で出来た土偶のようなそれはまるで鳥のような流線型を保ちながら、いくつもの動物の特徴を揃えた頭をいくつも持っていた。

 

 それはキメラだ。ギリシャ神話に語られる異形の幻獣。その土塊はそれにもまして奇怪な形状をしていた。足は一本もない、まるで海豚か航空機かと見受けられるような流線型の胴体から、いくつもの頭が四方八方を向いて突き出しているのだ。

 

 それが流れるような動きで魔夜の如く深い闇の仲を進んでいく。なぜかその直下に影が見える。頭上に生い茂る木々の枝は四方に伸び、木漏れ日でさえもその森の懐には入り込めない。その闇はどこまでも漆黒であり、その暗がりに影など出来ようはずもないのだ。ならば、その闇の中でさえはっきりとその輪郭を主張するそれは果たしてなんなのであろうか。

 

 すると流れるようだった土塊の動きがやにわに滞った。

 

 その前方に張り付いた怪鳥の如き面相が何かを見つけたのだ。木々の太い幹の間にそれは漂っていた。それは白い靄のようであった。同時にそれは白い布切れのようでもあった。そんなものが木の枝から垂れ下がるかのように、ゆらゆらと揺れている。

 

 鳥面の眼が、何の生気も感じられない泥団子のようなそれが一度だけ、瞬いた。

 

 次の瞬間、白布は奇怪な髑髏と豚牛の混ざった、八畳ほどもありそうな、ぶよぶよとした奇怪なものに変容を遂げ、人間の狂声と歓声とを混ぜ合わせて合唱させたような甲高い雑音を撒き散らしながら、土塊を抱き込んで捕らえようとしてきた。

 

 土塊は流れるような高速旋回によってそれを躱すと、同時に正面とは反対側に位置していた猿のような面が口から何かを撃ち出した。

 

 闇夜でさえ光り輝くそれは金で出来ていた。薄い円柱と見えたそれは大判の金貨ではないか。それがまるで銃弾の如く闇を裂き、白い布の化け物を貫いた。白布はそのまま溶けるように靄に戻り、闇の中に霧散した。

 

 土塊は立て続けに金貨を撒き散らした。上を向いた馬の顔や、右側面にとってつけたようなロバの顔、左の側面はヤギ・羊だ。それらが引き裂けんばかりに口を開き、奇妙な弧を描く金貨を打ち出していく。なぜなら、白布の如き悪霊・魍魎は一体だけではなく、既に土塊を取り囲むように集まってきていたからだ。

 

 土塊は今までにないほどの速度と旋回性能を発揮し、離脱を図る。悪霊たちは先ほどのように膨らんだりはせず、個々に矢型の白布となってそれに追いすがった。

 

 木々の間を飛び抜けながら、土塊は全身の口腔から輝く弾丸を絶え間なく吐き出し続ける。その金弾は追いすがる悪霊を追尾するように独自に旋回し漆黒の虚空に縦横無尽の奇跡を描き出していく。

 

 打ち落とした白霊が三桁を数えるころ、とうとう勝敗は決した。決着は物量に物を言わせた悪霊供が土塊の四方を塞いだことで決まった。

 

 森を守るために暗がりに潜んでいた悪霊達は面目躍如といったところで嬉々として獲物の解体に取り掛かった。しかし、土塊と見えたそれはまさしく土塊でしかなく、捕らえられるや否やただの砂になって崩れてしまった。

 

 それを芒と見守るしかない白々しい靄共を尻目に、崩れ去ったはずの土塊の影だけがその場に留まっていた。混乱する悪霊達はそれに気付かず、影はいくつかの固まりに分裂して、するするとその場から離脱した。

 

 闇の中から逃げ延びた影は一目散に魔の森の暗がりから抜け出し、森の際に佇んでいた人物の足もとに擦り寄った。

 

 それらはしばらくの間狐狸(こり)の如く忙しなく動き回っていたが、そのうちにその人物の影のうちに溶け込んだ。

 

 しばらくして総ての影がそこに治まると、なにやら甲高い音があたりに響き始めた。キンキンキン。カツンカツン。まるで槌で金床を打ち鳴らすような澄んだ音だ。

 

 それは先ほど影に溶け込んだ人物の足許から聞こえてきていた。それもひとつやふたつではない。合唱するように鳴っていた金属音はこの老人が軽く靴底を打ち鳴らしたことでピタリと鳴り止んだのだ。

 

 この人物――ワイアッド・ワーロックは続けて靴底を高らかに打ち鳴らす。靴職人達へのねぎらいの言葉だった。答えるように甲高い音が一斉に一度だけ鳴り響く。

 

 報告によれば、この森の中は数百にも及ぶ悪霊がひしめいているそうだ。

 

 そう。先ほどの金床を叩く音と打ち鳴らした靴底の音で、この老魔術師は妖精とを会話していたのだ。

 

 ワイアッドは常に七体の地属性妖精(レプラコーン)を引き連れている。この妖精たちは魔術刻印とともに継承されるもので、ワーロック家の血に縛られると同時に忠義を尽くす臣下でもあるのだ。

 

 初代のワーロック卿が靴職人妖精(レプラコーン)と契約したことが、この家門の魔術師としての始まりであり、ワイアッドで八代目となる魔道の大家であった。

 

 爾来彼らは土に住まう妖精との共存を可能とする魔術を継承してきた。この地霊との交信・交流に特化した妖精使いの家系であるワーロック家の当主である彼が、その研究の過程として大地に流れるレイラインに並々ならぬ興味を示したことは至極当然なことであったといえる。

 

 しかし、彼の生まれ持った才覚はその程度の常道には納まりきるものではなかったのだ。彼の素質において非凡な要素があったとするなら、それは彼を知る人間が共通して抱くであろう識者としての静的素養ではなく、全く逆の、燃え滾るような未知への探究心、それに根ざして彼を駆動させ続けた、情熱への静かなる動的素養であった。

 

 そして彼の魔道に対する情熱と探求心は、東西の垣根を飛び越えるのに充分であった。

 若かりし日の彼が着目したのは東洋の地脈・龍脈に関する地相占術と風水に代表されるその制御法である。支那や日本などで独自に進化した魔術体系に魅せられた彼はアジアを駈けずり廻るようにしてその知識を吸収し、実地のフィールドワークを重ね、ついにそのレイラインの根幹に「根源」の可能性を見た。

 

 人類から伸びる繋がりをたどるよりも、生命の発生以前から大地に根を張るこの大流にこそ、その可能性があるに違いない。確信に胸躍る日々だった。

 

 ……古い話だ。己の長い影から目を背けて、老紳士は回想を遮った。

 

 ワイアッドは今日半日を使っての諜報活動によって、大方の敵の居場所を既に把握していた。

 

 地脈に沿って霊石を配置し、地中に放った靴職人達に地脈の流れの微細な変化を逐一報告させ、この町全体の霊的変動をつぶさに調べ上げていたのだ。

 

 サーヴァントほどの強大な御霊が行動すれば、それがどのような些細なものであれ何らかの痕跡を残しているものだ。

 

 もっともそれは微細な脈波の乱れに過ぎず、その機微を感じ取り、そこからサーヴァントの行動を推測するなど並みの魔術師に出来ることではない。いや、例えそれが一流と呼ばれるほどの魔術師であっても、決して容易なことではなかっただろう。

 

 東西の洋を問わず、龍脈やレイライン、地相占術といった地学の魔術の数々を修め、地霊を総べる専門家だからこその手並みである。

 

 そうして行き着いた先は広大な森だった。聞いた話では、ここには彼のアインツベルンがその工房である城を構えているという。人呼んでアインツベルンの森である。アインツベルンは今回の件には絡んでいない。それについては既に確認済みだ。大方、ホストの不在をいいことに、どこぞの魔術師が廃物件の有効利用を思いついたのだろう。

 

 敵の居場所が知れた以上、本来ならここにも斥候を放ち、味方にこの情報を伝えるために疾く一度帰還するのが常策だといえた。

 

 しかし、それらの情報は彼の従者たちや協力相手にも知らされることはなかった。

 

「居るな――間違いなく、あ奴が居る!」

 

 老紳士はそのまま森の結界を強引に紐解き、敵の居城の中に足を踏み入れたのだ。その相貌に、並々ならぬ覚悟の念を滾らせながら。

 

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-8

「――門の前に居るのはサーヴァントです。シロウ」

 

「なッ……」

 

 士郎も両サーヴァントの諫言に息を呑んで動きを止めたが、訪問者は平素と変わらぬ陽気な声を掛けてくる。

 

「あれー、士郎―。いないのー?」

 

 聞こえてきた声は聞き知った馴染みの人物のものだ。

 

「なんだ、やっぱり藤ねえじゃ……ッ!」

 

 言いさして、この状況の危険さに行き当たる。知己の一般人がサーヴァントと連れ立ってこの屋敷の前に居るという現状。

 

 嘘であって欲しい。セイバーの杞憂で有ってくれれば――、そう思いながら彼は足を縺れさせて玄関に向かった。

 

 そこにいたのは案の定、藤ねえこと藤村大河その人であった。いつものように勝手知ったるといった様子で、すでに玄関に入り込んでいた。

 

 幸い、彼女自身にはさして変わった様子は見受けられなかった。しかし、いやでも目に付く虚ろな陰影が、揺らめくようにしてその傍らに張り付いていた。

 

 それはモノトーンの女だった。妖女だ。一見してそれとわかる、美麗にして同時に異形を成すその容姿。まるで白と黒の極彩色が滲み混じる水墨画のようであった。

 

「ああ、そこで一緒になっちゃってさー、キャスターさんもここに来るって言うから……」

 

 と、大河はまるでそれが当然であるかのように声を掛けてくる。特に常軌を逸したきらいは見受けられなかったが、彼女は今何らかの魔術的制約下にあり、傍らの妖女のことを完全に既知の人物と思い込まされているようであった。

 

 この屋敷の家主たる少年は掛ける言葉を見失い、暫しの沈黙を余儀なくされた。しかし、すぐに極力動揺を洩らさぬようにと専心し、一泊の深い息を置いて、

 

「と、兎に角ここじゃなんだから、上がって――」

 

 とだけ、何とか言葉を絞り出した。しかし――。

 

「あっ、私は案内を頼まれただけだから、もう帰るわね」

 

 そういって、藤村大河は呼び止める間もなく帰ってしまった。

 

「ふふっ、いいお姉さまですね。……衛宮士郎君」

 

 一人土間に残されたモノトーンの妖女はそういって、

 

「……お前!」

 

「上がっても?」

 

 朗らかに微笑むのだった。

 

 

 女は当世風の装いに身を包んでいた。地方都市の町並みには似つかわしくないほどの高級そうな白の洋装を見事に着こなしていた。

 

「……ああ、これは姿を隠さぬために着用したまでのことですので、ご心配なく。……いえね? わたくし、無辜の住民の方々にまで下手に術をかけるというのも、あまり好きませんもので……」

 

 居間に通された妖女は自らキャスターのサーヴァントを名乗り、開口一番己の目的は争うことではなく、対話に依る交渉であると静かな声で明言した。しかし、それ以降はこうして他愛のない口上をニ三並べてるばかりであった。

 

 その挙動や表情は、敵陣に単身乗り込んできたという気負いや覚悟とも無縁であるように見えた。

 

「それよりも、いい加減本題に入ってくれないかしら」

 

 押し殺したような、それでもなお明瞭に宣下するかのような声を掛けたのは遠坂凛であった。ワイアッド不在の今、セイバーの正規マスターである彼女がキャスターの正面で問答に応える形になっている。

 

「これは失礼」

 

キャスターは酷く鋭角なその面相には似合わぬ、真摯な所作と面持ちで静々と礼を取った。

 

「では、まずはこのような不躾な訪問にもかかわらず席を設けてくださったこと、心より感謝いたします」

 

 この妖女と向かい合うようにして凛が座り、その左右には彼女を守るように二騎のサーヴァントが座りもせずに妖女の挙動に睨みを効かせている。

 

 その後には士郎とテフェリーがこれもまた立ったままキャスターを見下ろしている。凛との交渉中に不振な動きの一つも見せればすぐにでも対応できるようにといった陣形だ。

 

 にもかかわらず、キャスターはさして斟酌する様子も見せずそういって優雅に礼をとるのである。

 

「人質を取っといてよく言えたもんね」

 

「タイガさんのことでしたら、ご心配なさらずとも害になるようなことは何もしていませんよ。ただ、道すがらいろいろとお話させていただいただけのことですから。ふふっ、それにしても、とても愉快で素敵な方でしたわ」

 

 尖らせた少女の声に妖女は困ったように眉を下げて、まるで稚児をあやすような声で応える。下手をすれば嘲りとも取れるような口調であったが、この声色にどこか得体の知れない凄味のようなものを感じ、凛も一時口を閉ざした。

 

 それを知ってか知らずか、そこでキャスターが思い出したように声を上げた。

 

「ああ、その前に、一つお聞きしても?」

 

「……なにか?」

 

「失礼かとは思うのですが、表においてある二輪の自走機械があったでしょう? じつは私の連れ合いが、あれに似たものを盗難にあったと言っていたのですよ。……どちら様かお心当たりのある方はいらっしゃいませんでしょうか?」

 

 誰知らず、部屋中の視線がランサーに集まるが、当のランサーはといえば、

 

「はァてさて、気の毒かとは思うが、此方には何のことやら。皆目見当がつかんなァ」

 

 と、本気でとぼけるつもりがあるのかと質したくなるよう大仰なそぶりで、わざとらしく首を捻っていた。

 

「……まぁ、いいでしょう。どのみち私では持って帰るのも骨ですからね」

 

 これにはさすがに眉根を上げて息を漏らし、キャスターはこの話題を切り上げた

 

「では、本題の方に入らせていただいてもよろしいでしょうか」

 

「そうね。で、何なのかしら? 悪いんだけど、休戦や協力関係の交渉をしたいっていうんなら話すだけ無駄よ?」

 

 すると妖艶な憂いを湛えていたその美貌が、一変して鈴を転がしたかのように微笑(たわ)んだ。とたん、熟れて崩れた果実のような、ひどく甘美な香りが室内に充満した。思わず目の眩むような感覚に見舞われた士郎は、その芳香から思わず顔を背けた。

 

 だがそれでも、この膿んだような甘い香りは脳の一番古い場所にしみこんでくるかのように鼻腔をくすぐるのである。それほどに、この毒は甘いのだ。ランサーが手に取れるような淡光をその身にまとうように、この妖艶な女は目に見えるような芳香をその身にまとっているのだ。

 

「それで結構ですわ。私は取引をしに来たのですから」

 

「取引? 藤村先生の身の安全でも保障でもしてくれるって言うのかしら」

 

「先にお話した通り、何もしませんよ。報酬は私の持っている情報と全面的な協力です」

 

「で、その対価は?」

 

 戦力か? 情報か? しかしキャスターの求めるのぞみは意表を突くものだった。

 

「一つ皆様に、そして特にはセイバー、ランサーお二方にその偉名に誓って盟約していただきたきことがございます」

 

 キャスターはその何処までも漆黒な瞳で、両雄を順に見据えた後でまた正面の凛に視線を戻し、そして真摯な仕草で頭を垂れたのだ。

 

「もしも私が消滅した後、皆様がご存命であった場合のことになりますが。この儀式が終わるまで、我がマスターの身の安全のためにできうる限りの便宜を図っていただきたいのです」

 

 しばし場にいた一同が呆気に取られた。それはつまり、たとえ自分が消滅た後であっても己のマスターの身の安全を保障してくれるのなら、現時点での全面的な協力を約束しよう。ということであろうか? 

 

 その妖艶な外見とは裏腹に、率直な言葉に込められたものはひどく真摯だった。少なくともその場に居る者たちにはそう聞こえた。

 

 そこで、それまで無言だったセイバーがキャスターに問いかけた。

 

「問おう、魔術師のサーヴァントよ。貴様自身の願いはなんだ」

 

「ご察しの通りですわ。つまるところ、願いらしい願いなどありはしないんですよ。私には」

 

「ではなぜ召喚に応じたのだ」

 

 座したまま背筋を伸ばした妖女は、目を伏せ、静かに続ける。

 

「そもそもわたくしは基本的に、悪人や魔術師のお願いを断れないようになっているんですよ。建前とはいえ「悪の神様」ですからね。いかなる場合でも、魔術師の召喚には応えますとも。

 もっとも、私程度ではたいしたことも出来ませんもので、こうして骨を折ってできる限りのことをしようと思い立ったわけでして……」

 

 悪神を自称しながらも、その物言いには何の気負いも威厳もない。ただ話の種に身の上話のさわりを語るかのような飄々とした語り口であった。

 

 その柔らかな物腰には、さしものセイバーとランサーも些か気勢を削がれてしまったようだった。

 

「協力はしません」

 

 一方で、なんとも和やかな雰囲気で話す妖艶な魔女の言葉に、しかし断固とした返答が下された。

 

 声は一番後ろから聞こえてきた。いままで部屋の隅に彫像のようにして佇んでいたテフェリーの声だった。

 

 士郎や凛たちの手前、キャスターに随伴した一般人の女性のことをふまえてその場は静観したテフェリーだったが、彼女はキャスターを確認した時点で撃破以外の選択は考えていなかった。

 

 故に彼女にとって、これ以上の問答は時間の無駄以外の何物でもない。

 

 その声を受けて、ランサーは装束の袖から一本の柄を引き抜く。するとそこから鋭く輝く刃が繁茂し、肉厚の短剣を形成した。おそらくは室内での執り成しやすさを意識しての選択だろう。

 

「あらまぁっ。神話に名だたる英霊ともあろうお方が、無抵抗な女を切り伏せるおつもりで?」

 

 それを見たキャスターは声をあげて大仰に驚いて見せる。が、その実切迫した様子は微塵も見受けられない。

 

 見たところ、キャスターの魔力はそれほど強くない。そのステータスも、それぞれマスター達が推し量れるところのアベレージと照らし合わせてみても、せいぜいが並といったところだろう。

 

 キャスターの様相は、そんな最弱のサーヴァントが戦闘に特化した騎士のサーヴァントニ騎を相手にしてとる態度とはとても思えなかった。つまり、この妖女にとってこの状況はこの上ない危機のはずなのだ。

 

「そいつぁ、時と場合によるな、確かにただの女なら我が父神の御名において手にはかけまいが、明らかな魔性を目にしたときは別の話だ。……悪いが、貴様は後者だな」

 

「困りましたね……そんなつもりではなかったのですけど……」

 

 しかし片手を頬に当ててしな(・・)を作る様子からは、今にも眼前の輝刃にその柔肌を晒されようと言う切迫した感情は読みとれない。

 

 セイバーもまた瞬時に武装して不可視の剣を抜き放つ。むけられた剣気だけでキャスターには突きつけられた刃が感じ取れただろう。

 

 キャスターの発した言葉は間違いなく誠実なものであり、その面持ちからは真摯な姿勢が感じられた。しかし、この女の存在そのもの、纏う気配は間違いなく魔なのだ。それは違えようのない事実だった。

 

 それゆえにセイバーも、このキャスターの言葉を信じるきることができなかった。

 

「……止めておいた方が良いと思うのですけどね」

 

 そう言うと、キャスターはゆっくりと左手の手袋を外し、それを掲げた。

 

「「動くな!」」

 

 セイバーとランサーの声が重なる。だがそれを目にして、その視線が縫われたようにそれに固定された。それはいやでも眼にとまる異様な腕だった。柔らかく、しなやかでいかにも女性らしい左腕だ。だが、異様なのはその体色だ。

 

 それはあまりにも黒すぎる。まるで周囲の光をすべて呑み込んでしまうかのように、その輪郭さえもが僅かに滲んでいる。その肘も、五指も、美しい楕円の爪までもがとても人の腕には見えないほどの黒色にそまっていたのだ。

 

 その異様さは、あのアーチャーの黒曜石の如き剛体を想わせるが、そこから感じる印象はまるで逆だった。アーチャーの黒い身体からは神秘的な神々しさを感じたが、この左腕からは異様な妖しさしか感じられないのだ。

 

 セイバーの直感による危機感知は警鐘を鳴らしていた。感じるのは敗北の予感ではない。しかし不気味な危機感を感じ取っている。この黒腕には、何かがある。 

 

 セイバーは状況を推し量る。拙いのは何だ? 距離だろうか? それとも室内という状況か? この場で戦闘になった場合、果たして自分たちだけでなくマスターまでをも守りきることが出来るのか、彼女の危機感知の琴線に触れたのははたしてそれであったのだろうか。――

 

 その時、意に反した静止と良しとせず、ランサーのしなやかな五体が、引き絞られた弦のごとく撓み、

 

「ランサー」

 

「案ずるなセイバー、一瞬で――終わる!」

 

 弾ける。掲げ上げられる剛剣の輝ける厚刃が、ほっそりとした妖女の首に吸い寄せられるように迫る。しかし、そのときキャスターはあろう事か、己に凶刃を向けるランサーから視線を外し、セイバーへ向けて語りかけて来たのだ。

 

「ええ、案ずることはありませんよ? セイバー。心配せずとも」

 

 キャスターの行動は自殺志願もはなはだしい。ランサーは瞬きの間に五回はキャスターを殺せる。そういう間合いだ。

 

 この距離で魔術が剣に先んじることはありえない。にもかかわらず、この期に及んで眼前の敵から視線を外すとは、愚鈍だとしてもあまりに度が過ぎよう。

 

 当然、刹那の内にそれを侮蔑と受け取ったランサーはことさらに速度を上げ、残像だけを残して無防備なキャスターの細首に斬撃を見舞った。

 

 しかしそのとき、呟くかのような、ひそやかなキャスターのささやきが、室内に響いた。

 

流転齎す闇夜の吐息(カーリー)

 

 そして響き渡ったのは鋼の音。刃と刃が打ち鳴らされる、剣戟のそれであった。

 

「なっ!?」

 

 ありえない事態に誰もが言葉を失った。ランサーの輝剣は止められていたのだ。しかし、眼を剥く驚愕はそのためではない。その剣を受け止めていたのは剣を向けられた筈のキャスターではなくランサーの傍らにいたはずのセイバーだったのだから。

 

「……後ろのマスターたちに危険は及びません」

 

 笑顔のままで台詞を続けるキャスター。しかしその顔は初めてこの女が見せる悪魔のような、全くもって怖気(おじけ)の奔る貌であった。

 

「ランサー、なにを……!?」

 

 剣を弾き、ランサーに向き直ったセイバーは、そこで眦を見開いた。それはランサーの双眸に浮かぶ、己以上のただならぬ驚愕の相を見てとったからだった。

 

 実際、驚愕の度合いでいうなら、ランサーのそれはこの場の誰よりも大きかったといえる。

 

「……狙いをはずされたんじゃない……。いまあたしは今最初から(・・・・)セイバーを狙っていた。……どういうことだ」

 

 その言葉を、そしてこの事態を正しく垂下できる人物はこの場にはいなかったであろう。無論それは剣を振るったランサーにとっても同じことだった。

 

 確かに、ランサーはキャスターに向かって仕掛けたはずである。しかし、今しがたのランサーは体ごとセイバーに向かい、その首に向けて剣を執っていた。いつの間にか、過程と結果とが入れ違いになり、まるで噛み合っていない。

 

「これは……因果の逆転か、いや……」

 

 セイバーだけが口腔の中で呟く。しかしあるのは疑念だけだ。ただひとり、その場で済ましていた妖女が嘯いた。

 

「言ったでしょう? マスター達に危害は加えない、と。狙いをランサー本人に向けなかったのは誠意だと思っていただければいいですよ。先にも言ったとおり、私は話し合いに来たのですから」

 

 業腹ではあったが確かに認めるしかなかった。完全なる不意打ちだった。ランサー自身を含め、セイバー以外に今の攻撃は防げなかっただろう。

 

「上等だッ……!」

 

 そのとき奥歯を鳴らして再度の攻勢に出ようとしたランサーとキャスターの間を隔てるように、銀色に光る蜘蛛の巣が張り巡らされ障壁となって両者を押し止めたのだ。

 

「待ちなさい、ランサー」

 

 それはテフェリーの繰る銀色の糸であった。それは本来ならサーヴァントを押し止めるには脆弱な糸の網であったはずだが、それでも彼女たちが足を止めざるを得なかったのは、瞬きの内に行われたそれが、超常の存在である彼女たちですら魅せうるほどの絶技であったからに他ならない。

 

 もとより敵サーヴァントの殲滅を第一と考えていたテフェリーも、この怪異には容易ならざるものを感じていたのだ。この不可解な敵、というよりも今の能力――もとい宝具にランサーをこれ以上向かわせるわけにはいかなかった。

 

 キャスターの言を鵜呑みにするなら、ランサーは今実質一度殺されたことになるのだ。

 

「残念ですが、ここまでのようですね。この場は御暇いたします。もしも気が変わるようなことがあれば、又の機会に」

 

 そういって恭しく礼をとったキャスターは、銀色の網の向こうで立ち上がりそのまま悠然と立ち去ってしまった。

 

 そしてテフェリーが腕を上げると、それだけで居間を横断していた鋼線の波状網はあっという間に滅形し、彼女の装束であろうか? 兎角、いずこかに収まってしまった。彼女自身はほとんど身じろぎもしていないというのにである。

 

 すぐさまランサーとセイバーがその後を追って玄関にまろび出る。凛と、士郎もその後を追おうとしたが、そのとき凛が振り向きざまに士郎に言った。

 

「士郎はここにいて。まずは藤村先生の安否の確認をお願い」

 

「分かった」

 

 士郎はすぐに携帯電話を取り出しコールする。そして呼び出し音だけが響く間、悔しそうに眉根を顰めるテフェリーと目があって、

 

「……すごいんだな」

 

 テフェリーがこともなげに披露した絶技に思い当たり、士郎はあらためて素直に感嘆の声を漏らした。更なる奇怪な魔術を幾多も見にした覚えのある彼ではあるが、今は彼女の技がそれらの魔術とは関わりのない技能であることを知るが故に、二重の驚きを覚えたのだった。

 

「……これだけが……この糸を手足として操ることだけが、私の持ちうる機能のすべてですから……だから……ッ!」

 

 士郎の唐突な声にそこまで応えて。彼女はなにを思ったのか不意に言葉を切ってそっぽをむいてしまった。よくわからないが、今の発言は彼女にとって何か不都合なことでもあったのだろうか。

 

 訝りながらも、士郎はようやく繋がった電話の向こうから聞こえてきた、それだけで無病息災ぶりが窺えるような元気そうな声に、ほっと安堵の息を漏らした。

 

「待ってセイバー、それにランサーも落ちついて!」

 

 凛は先に玄関先に出ていた両サーヴァントを引き止めるように声を上げた。

 

「……一人で追うならよかろう」

 

「駄目よ。今戦力を分断するわけにはいかないわ」

 

「凛、しかし、……それでは」

 

 歯噛みするセイバーと苛立ちを隠せないランサー。共にこのまま追いすがるわけにはいかないのだと、理解はしているのだ。しかしそれでも憤懣やるかたない様子のランサーは急いたように舌を鳴らした。

 

「ならばどうする? まァさか、このまま捨て置くわけにもいくまいッ!」

 

 セイバーも指示を仰ぐように己がマスターを見据える。そこで凛はしばし黙してから、言葉を切り出した。

 

「私が行くわ」

 

「――むっ、」

 

「――凛、それは」

 

 ランサー、セイバーもさすがに息を呑んだ。しかし、凛は決然と言葉を継ぐ。

 

「もともとそのつもりだったし、少し早いけど問題はないわ。セイバーもここに残って。いざって時にはこっちから召喚するから、準備だけしておいて」

 

「……分かりました」

 

「ランサーも、いいわね」

 

 しばし巌のように押し黙っていたランサーも、最終的には観念したように眉を下げた。

 

「仕方あるまい……」

 

「マスター、お気をつけて」

 

 セイバーの言葉に首肯し、凛はそのまま衛宮邸を後にした。

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-9

 堆積し始めた闇の濃さは黄昏時のそれを通り越し、既に夜の色をしていた。

 

 新都側の未遠河口には海兵公園から港へ抜ける倉庫街があった。本来。この時間ならば人通りも絶え、物言わぬプレハブ倉庫がひっそりと影を連ねるだけの閑散とした場所である――はずだった。

 

 しかし、その褪せたような静寂の中を、常人とは思えぬほどの速度で疾走していく一団があったのだ。

 

 その数は十を超える。それぞれが並々ならぬ体術を身につけた男たちなのはすぐに見て取れた。だが、彼らは異様なまでに歪んだ形相を憚りもせず露にしている。

 

 その顔には絶望と恐怖だけが充満している。彼らは逃げ惑っているのだ。どうしようもない恐怖に見舞われながら、必死で足を動かすことだけが己の精神の崩壊を押し止める手段なのだとでもいうかのように。

 

 此度の儀式において、この街で行われるサーヴァント同士の破壊の痕跡を隠蔽するのは監督役であるテーザー・マクガフィン。ひいてはサンガールの血族たちがその責を負う訳だが、なにせあらゆる外部勢力。つまりは聖堂教会や魔術協会にもほぼ見通達で始められた、大規模でゲリラ的な魔術儀式である。

 

 当然の如く、それを傍観することを良しとしない者たちは直ちにこの事態に介入すべく一路極東の地を目指したのであった。しかし今現在のところ、その目的を果たすことが出来た勢力は皆無であった。

 

 いま海に向けて敗走する彼等は急遽かき集められた聖堂教会のエクソシストたちであった。彼等は本来ならばこのような極東の地にわざわざ足を運ばされるような、凡俗な使い手たちではないのだ。

 

 彼等は実際に怪異の現場に赴き直接的に魔と対峙するためのエクソシスト。通称『代行者』と呼ばれる、魔に対する実働部隊である。本来ならただの調査や怪異の確認ために現場に赴くことなど有り得ない。

 

 しかし、この街の調査に向かったのは実は彼らが最初ではないのだ。彼らよりも先にこの地に足を踏み入れた信徒たちは、皆一様に連絡を絶ち、消息をくらませてしまった。その事実が、が彼らほどの手練れをこの地へ呼び寄せる故となったのだ。

 

 もはや容赦はない。神罰の代行者たる彼らは調査でも闘争でもなく、ただ一方的な殺戮だけをもくろみ、この冬木の地へと足と踏み入れた。

 

 だが!

 

 甘かった。彼等はようやくことの重大さを認識するに至ったのだ。

 

 意気込んでこの地に到着した筈の彼らは、既に壊滅の憂き目にあっていた。無論、この儀式に関する情報は事前に通知があった。今この街にひしめいているのは物質化した英霊。それがどれほど驚異的な怪異であるかは十二分に解かっていた筈だった。それゆえの準備も怠ってはいないはずだった。しかし、それでもなおその予想は甘かったといわざるを得ない。

 

 英霊と戦うということが一体どういうことなのか、彼らは身をもって知ることとなったのだ。あんなモノに勝てるわけがない。あんなものを止められるわけがない。神の名の下に誓った筈の狂信者たちの矜持が根本からへし折れてしまうほどに、それは圧倒的だったのだ。

 

 そして必死の敗走を続ける彼等は、ついに港に辿り着いた。そこには彼らが隠匿していたしていた黒塗りのボートがある。それに乗り込めば逃げ切れるのだ。

 

 しかし、彼らを追い立てていた影はそこで追い足を緩めた。

 

「……行くがいい。そのまま去るならば追いはしない」

 

 そう言って褐色の貴影は海に向かう一団を見送る。出来ることなら殺したくはないのだ。自らこの地より去ってくれるというのなら是非もないことだ。

 

 儀式の間、この冬木の地を外部の勢力の干渉から守るガーディアン。それがこの冬木の擬似聖杯戦争におけるアーチャーのサーヴァント、化身王ラーマに課された命題であった。

 

 ゆえにイレギュラーを除いて他のサーヴァントとの戦闘を禁じられているアーチャーであったが、その間何もしていなかったというわけではない。彼もまた魔術の隠蔽や外部勢力へのカウンターとして、言わば舞台の裏方を一手に引き受けていたのだ。

 

『――空しい』

 

 だが、今王の胸の内に吹き荒ぶのは寂寥の念だけであった。それは事態の裏方を押し付けられることになったことではない。むしろそれについては当然の行いだと彼は考える。

 個人の欲望のために、どうして無辜の人間を撒きこむことが出来ようか。

 

 それでも、それでも思わずにはいられなかった。今の己の有様には自嘲の笑みさえ浮かんでこない。

 

 昨夜、あの銀色の騎士王が放った言葉が彼の胸に幾度となく去来する。

 

『己の道を違えてまで戦うな。それが英霊の在り方か!』

 

 手心を加えたつもりなど毛頭なかった。それでも、無意識のうちに最善でない戦法に甘んじようとしたのは確かだ。対峙する相手を対等だと認めるなら、敵の弱点を突くのは是非を問うまでもないこと。それを破ったのは――つまるところ、己の行動そのものを肯定できていないという心理によるものだ。その慙愧が己の拳を鈍らせていたのだ。

 

 あの時、言い返す言葉を彼は持ちえなかった。応える言葉を持ち得なかった。詫びる言葉さえ、持ち合わせてはいなかった。

 

 浅ましき己の願望にしがみつき、魔術師の思惑の通りに動かされているという事態。

 

 何より彼を静かに懊悩させるのは、その総てを理解しながらいまだに己の望みを捨てきれない己自身の心胆。その是弱さであった。

 

 彼は今になって始めて知ったのだ。人の理想を極め、王として生きることを苦とも思わなかったこの神の化身が、胸の内に抱く人としての齟齬を御する術を持たぬとは……。

 

 だがアーチャーが己の惰弱さに憂いの溜息を漏らしたとき、辺りに海を割るかのような炸裂音が響き渡り、一路外洋まで逃げようとしていた代行者たちの前方に天を貫くかのような白亜の巨壁が忽然と姿を現したのだ。そうして見る見るうちに壁は彼らを飲み込んでしまった。

 

「これは……」

 

 突然の事態にさしものアーチャーも瞠目した。急ぎその壁に近づこうとしたが、さながら白波が渦を巻いて逆立ったかのようにも見えるその壁の前に、古風な傘をさした一人の人物を見止め、足を止めた。

 

「何奴!」

 

「そこまででいいよアーチャー。君にばかり手を煩わせるもの心苦しいからね」

 

「……正規の参加者か」

 

 そこには一つの華奢な陰があった。

 

「その通り。僕の名はオロシャ・ド・サンガール。此度の後継者争いの儀式ではライダーのサーヴァントを統べる。正式な候補者の一人さ」

 

 謳う様な声で、白い貌の青年は告げた。

 

「……して、その候補者殿が何の用があって某の邪魔をするか」

 

「邪魔をする気はないんだ。ただ、忙しい君の手伝いを、と思ってね」

 

 青年――オロシャは余人を蕩けさせるような双眸を闇間に煌めかせ、ラーマを見据える。異様な視線は光を孕んでいるかのようにも感じられた。

 

「気遣いは感謝しよう。だが手出しは無用! その者たちはこちらに引き渡してもらいたい」

 

 歪むような美麗な笑いが、闇の隙間から、その巌のような問いに応じる。

 

「悪いんだけど、そうはいかないんだよ。アーチャー。こっちも遊びじゃないんだ。実を言うとちょっと手駒が足りなくてね」

 

 アーチャーは気付いていた。挑発とも嘲笑とも取れる微笑を浮かべるこの青年の背後。白い巨壁の向こう側から幾千の針の如く撒き散らされている、明らかな殺意の波動。

 

 サーヴァントがいるのだ。あの白き巨壁の向こうに。

 

「君はもういいよアーチャー。これら(・・・)はもう邪魔にならないし、僕らが有効に使うから」

 

 磁器のような美貌を歪ませて笑う男の言葉には、一遍の誇張も嘘もない。この男は本気でそう思っている。

 

「……それとも、力ずくで取り返すかい? 監督役との約束を保護にして、僕のサーヴァントと争ってまで」

 

「……ッ!」

 

 巌のように押し黙るしかなかったアーチャーは、ひたと目を閉じ踵を返す。

 引き下がるしかなかった。どの道、今サーヴァントと戦うことはできないのだ。彼自身の望みが、苦悶の責め具となってその神与の肉体さえをも縛る。ひたすらに無念を噛みしめ、剛体は声無き断末魔の如く崩れ霧散して、夜気に掻き消えるように去っていった。

 

 

 

「――君はどう思う?」

 

 一人闇に取り残されたオロシャは振り返る。背後に滑るような視線を向けながら。

 

 すると水柱は潮騒の香る霧雨を残して消失した。その中に囚われたはずの代行者たちの姿も見当たらなかった。あとに残るのはバラバラに破壊された黒塗りのボートの残骸だけだ。

 

「どうだろうか、サー。彼は僕らにとっての障害になるだろうか?」

 

 ――さてな、あのザマでは捨ておいても問題はないかもしれん――

 

 声ならざるその声は、真っ黒な波間のしじまから漂うように聞こえてきた。陶磁器人形(ビスクドール)じみた青年の顔が、まるで困ったかのように傾いだ。

 

「そうは言ってもね。アレを――あんなものを無視するのは賢明とは思えないよ。……君ほどではないにしろ、あれは強大な英霊に違いない」

 

 すると剥き出しの鋼塊のようだった気配が実体化し、やにわにおどけたような声を上げる。

 

「いやいや、マスターよ。見え透いた世辞はやめてもらおう。ケツが痒くなる。……強いとも。現界したサーヴァントの中でも、アレは別格のバケモノだ。どれだけ腑抜けようとも、いざ対峙したならこのオレの勝機は千に一つか万に一つか……」

 

 実体化したのはオロシャよりもはるかに上背のある偉丈夫であった。この男はその金属のような視線を器用に歪ませ、何故か心底から喜悦を持て余すかのように、己の劣勢を諳んじて見せる。

 

「……笑いごとではないよ、ライダー。ならばなおさら、アレは確実に排除しなくてはならない。僕には一か八かの選択など許されないのだから」

 

「おやおや、マスター殿はバクチの機微はご存じないと見える。勝ち目がないときほど、熱いものだがな、バクチも――戦も」

 

 時として異様なほどの沈黙を良しとするこの益荒男が、今宵ばかりは酒瓶片手に実に芝居がかったそぶりで裾をひるがえす。さて、何がこの怪人の琴線に触れたのか。

 

 オロシャは作り物じみた顔を歪めもせず、銀の髪を揺らして、しばし考え込んだ。

 

「……悪いのだけれど、僕には君の言わんとするところが理解できない。運否天賦に身を任すなど論外だ。考慮にさえ値しない。我が末には確約された勝利以外は不要だ」

 

 抑揚のない青年の言葉に、サーヴァントは苦笑を返す。

 

「ククッ――『確約された勝利』とは、これほどつまらなそうな戦もない。が、――まぁ、御所望とあれば是非もない」

 

「では、方策は有ると? 勝機は万に一つと聞いたけれど?」

 

「おやおや、マスター殿は本当に寡兵の戦に明るくないと見える」

 

 アイロニカルな態度を崩さぬサーヴァントに、オロシャも苦笑を返す――否、それは苦笑しているのではない。苦笑の真似らしきことをしているだけだ。一見して美しいその白蝋のような皮膚の内側は、きっと膠で塗り固められたように凝り固まっているに違いない。

 それは表皮の代わりに、白い線虫の群れが無機物の上をのたうち回るかのような光景を連想させた。

 

「実際、考えたこともないね。僕にとって、闘争とは常に圧倒するだけのものだったのだから。魔術師になってもそれは何も変わらない」

 

 そんな、主の器物めいたグロテスクな美貌を前に、しかし眉の一つも動かさず、このサーヴァントは何処からか取り出したグラスに手持ちの酒を注ぎ、慇懃な皮肉を添えて主に差し出す。

 

「それはそれは、さぞや退屈な生であったでしょうなぁ」

 

「どちらでもいいことさ。詰まる詰まらないは、問題ではない。僕が求めるのは勝利だ。それについては、――ご教授願えるかな。サー」

 

 杯を受け取りひとしきり弄んだあと、オロシャは改まって猟奇怪異劇(ギニョール)人形のように姿勢を正す。サーヴァントもまたこれに正対して大仰に礼を取る。

 

「かしこまりまして、マスター。――なぁどと、ハッ! 言ったところで!!」

 

 しかし真摯に慇懃な声は、一転して今度は爬虫類のように様相を歪ませた。ライダーは再び喇叭でも吹くようにして酒瓶を煽り、ヤジでも飛ばすような奇声を張り上げる。

 

「難しいことなど何もないッ! 強者を下すにはどうすればいいのかだと? ――答えは簡単だ。弱らせればいいのだよ! どんな強者も常にその強さを維持できるものではない。戦う以前に、こちらよりも敵を弱らせればすむ話だ! 当たり前の道理だッ! ああ、クソッタレ!」

 

「――なるほど」

 

 歌劇めいて豹変するライダーの様を、少女のように目を丸くして観ていたオロシャは、実にゼンマイ仕掛けめいたマイペースさで首肯した。

 

「確かにそうだね。そのためには――」

 

「ああ、敵を知ることだ。情報を集め、ヤツの力を削ぐのにはどうすればいいのかを考えれば、ハッ! それでよろしい。万事は上手くいく。――多分な」

 

「なるほど。――なるほど確かに簡単だ。さすがだよ、サー。僕には無い発想だ」

 

 喝采も何の変哲も、ヤジすら無い。つまりはおもしろみの欠片も無い返しに、サーヴァントは一時萎んだように肩を竦め、しかしまた一変して今度は重苦しい声色で告げる。

 

「やれやれ。しかしな、――契約を違えるなよマスター。オレはそんなことをしに出てきたわけではない」

 

「……構わないよ。それが解ればアーチャーと監督役の方は僕のほうで手を打とう。幸い、良い駒が手に入ったことだしね。そう、それに。例の八人目のサーヴァントとやらも上手く使えれば……」

 

「マスター」

 

「ああ、解ってるよ。とりあえず、明日は予定通りに君の要望に応えよう。アーチャーの事はさて置いて、まずは狩れる相手から狩っていくことにするよ。君の出番だ。好きだなだけ船を駆ってもらって構わない」

 

「よかろう! 浅瀬なのが不満だが、陸で燻ぶるよりはいくらかマシだ! まったくクソくらえだ! 女王陛下万歳!!」

 

 濁声で吠え、気を吐き、すべての下賎を謳歌して、ライダーは空の酒瓶を投げ捨てる。そして次の瞬間には呵々と潮風めいた哄笑と共にその存在は掻き消え、跡形もなく漆黒の海原へと消え失せていた。

 

「さて。それではそろそろ開幕の時間――いや、閉幕の、というべきかな」

 

 英霊の消失とともに舞台からの灯りは落ち、伽藍のような暗がりに一人取り残されたオロシャは、蝋人形めいて一人闇の中にひずみながら、仰いだ琥珀色のグラスを闇色に変える。

 

「会いに行くよ、カリヨン。最後の夜を楽しむといい。それだけが、君に残された役目なのだから」

 

 芒とした眼光だけが闇間に閃いた。その灰色の奇妙な光がLEDめいた人工的な無機質さを孕み、増大し、収束して、そして――不意に消えうせた。

 

 跡に残るのは、藻屑のような夜の残骸ばかり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-10

 

 処は新都。郊外の外れ、丁度街の外輪とでも言うような辺鄙な場所であった。

 

 辺りは既に閑散として人気がない。刻の頃は既に逢魔ヶ時。いつの間にかあたりには暗い夜の帳が降り始めている。

 

 遠坂凛は依然としてキャスターの追跡を行っていた。もっとも、それは追跡というほど手の込んだものではなかった。

 

 別段、姿を隠す気もないのか。キャスターは街中を足に任せてフラフラと歩き回っているだけだった。すれ違う人間にも、にこやかに会釈など返しながら、物腰柔らかく、それとなく人の群れの中に紛れていた。

 

 サーヴァントの気配以外には特に気も払っていないのか、彼女の尾行に感づく様子もない。だがキャスターの向ける視線の先を追っていた凛にはその意図と思索の的確さが苦もなく読みと取れた。気の抜けるほど呑気に街中を散策しているように見えるキャスターだが、その目は地形の要点を抑えながら地勢の概要を逐一把握しているのがよくわかる。どこで戦い、どの地脈を押さえ、どこに罠を張るべきなのか。――

 

 このサーヴァント、キャスター。やはり魔術師としての格はかなりのものだ。いきなりセイバーとランサーの前に姿を現したこと、そしてその状況からあっさりと生きて離脱して見せたことといい、決して侮っていい相手ではない。

 

 凛の身体にも半年前の感覚が戻ってくる。皮下をざわめかせるような恐怖感が、臓腑を引き絞るような緊張感が、今更ながらに自分が聖杯戦争の只中にいることを思い出させてくれる。 

 

 そこで、不意に足を止めたキャスターが白い影のように振り返り、静かに声をあげた。

 

「そろそろ出て来ては如何ですか」

 

 ――気付かれていた?!

 

「いつまでも、そんなところで隠れているものお辛いでしょう?」 

 

 一気に緊迫した空気の中、凛は未だ身を隠したまま手の令呪を意識する。もし見つかったのならセイバーを召喚しなければならない。

 

 しかしその時、彼女よりもさらにキャスターに程近い物陰から、溶け出すかのようにして黒い塊がのそりとその姿を現したのだ。

 

 凛もこれにはあっと息を呑んだ。まさか己の視界と霊的知覚域の範囲内に、知らずの内に二体目のサーヴァントがいたなどと、どうして信じられようか。

 

「素直ですね……。それとも相手が「魔術師(キャスター)」なら、組みやすいとでも思いましたか? 「魔術師殺し」のサーヴァント殿」

 

 しかしその声に返って来たのは無言の返答だけだった。後はもう押し隠す必要もない、骨にまで食い込んできそうなほどの鋭い殺気だけが、薄暗い大気を淡く歪ませている。

 

 実体化した姿は醜い黒衣の男だった。身体が前傾にへし曲がり、頭ほどもある大きな瘤が左肩の上にある。まるで頭が二つあるのかと錯覚されるほどだ。

 

 顔に張り付いた骸骨のよう白面には獣毛が斑に植えられ、奇妙に水気を湛えて粘液を滴らせている。その様はまるで今にも腐り落ちようとする腐乱死体を思わせる。その妖姿には凛も物陰で眉を顰めた。

 

 異様ではあるがこの怪人は間違いなくサーヴァント・アサシン。本来この冬木の聖杯戦争で呼ばれるはずの正規の暗殺者のサーヴァントと見受けられた。

 半年前の聖杯戦争ではイレギュラーな形でアサシンが現界したはずだが、この猿真似の儀式でまさか正規の形での召喚が行われようとは。

 

 しかしいま、注視すべきはその怪人の手元である。凛は瞬きさえをも禁じて異様な暗殺者の挙動に備える。

 

 その右手には既に奇怪に枝分かれした歪なナイフが握られていた。枝分かれした刃の鎬の部分にも仮面と同じように滑り光る毛のようなものが植えつけられ、その異形の凶器の奇怪さを強調しているようだ。

 

 そして巨大な瘤の下から伸びる左腕は地斑の包帯で幾重にも巻かれ、まるで骨折でもしたかのように首から吊られていた。まさか手負いだとでも言うのだろうか。

 

 しかし今目にするその異様なシルエットから受ける印象は、とても手負いのそれとは見受けられない。

 

『いったいどんな――ッ!?』

 

予兆(きざし)はまるで無かった。遠見でその間者の見姿を観察していた凛の大粒の瞳が、わずかに揺れ動いただけの一刹那。その内にアサシンは音もなくキャスターの細い肢体をその剣域に納めていたのだ。

 

 眼で追うことさえできなかった。正対していたキャスターも咄嗟に跳び退いてそれを避けようとする。それは魔術師のクラスとは思えないほどに迅速で機敏な身のこなしではあった。が、さすがに相手が悪い。有無を言わさずに肉薄され、奇怪な刃がその白い首に迫る。

 

 しかし――その奇刃が届くことはなかった。

 

 白い肌が裂かれることはなく、代わりにアサシンの奇怪な刃はキャスターが手にした波打つ刀身を持つ短剣(クリス・ナイフ)に止められていたのだ。

 

 遠目にも優美で瀟洒な装飾が見て取れる美麗な刃だった。だが一見して儀礼用の呪具と見て取れたそれは、意外にも硬質な響きを纏いながら返す刀で飛燕の如く一閃された。

 

「――ッ」

 

「ハッ!」

 

 キャスターは裂帛の気合とともにアサシンの刃を弾き、洗練された感のある鮮やかな動きで二の撃を返したのだ。

 

 先ほどの反応といい、この堂の入った立ち振る舞いといい、魔術師らしくない体術と機転だ。それはこの魔女が相当に場慣れしていることを物語っている。

 

 ここにきてキャスターは武装した。着ていた筈の洋装が瞬く間に転変してエキゾチックな白亜の装束へと変じたのだ。あれこそがこの魔女のサーヴァントとしての礼装なのだろう。

 

 敵の凶刃を凌ぎ、再度間合いを開けようとするキャスターは先ほどとは段違いの速度で後退する。まるで地を滑るようかのような、歩むというよりは何かに引き寄せられているかのような、軽やかな動きだ。

 

 対して、それを追うアサシンは上体を動かさずに足だけが小刻みにうごめく、巨大な蜘蛛のごとき異様な走りで、路傍の影にまぎれるように移動していく。

 

 共に常人には理解しがたい奇異な走行法で地を馳せる両者であったが、その速度にはやはり明らかな差があり、またもやアサシンは見る見るうちにキャスターとの間合いを詰めていく。

 

 しかしアサシンがキャスターを追い詰めようとしたそのとき、キャスターの動きはただ遁走するだけの後退から、思いもよらぬものへと変化していたのである。

 

 軽やかに拍子を刻む足は後退するにあらず、たおやかに掲げられた両手は争うにあらず、伏せられながらも闇の中に煌めく黒瞳は、怯え逃げ惑うにあらず。

 

「――ムッ?!」

 

 そしてさしものアサシンも、このキャスターの意図を読みこむことはできず、掠れた声色を漏らすしかなかった。

 

 舞っている。この女は、今まさに己を殺傷せんと気色ばむ間者を前にして、妖艶なる闇夜の舞踏に没頭し始めたのだ。その仕草、振る舞いの優美さは指先一つで観る者の心を捉え、その鼓動、躍動するしなやかな女の総身は人ならざる怨霊すらをも魅了してやまない。

 

 すると後退しながらも舞い踊り続けるキャスターの周囲の薄闇に、乳色の白濁した影が無数に染み出してきた。それらは彼女を取り囲むようにくねりながら、その醜い異形をあらわにする。魔女が不可視のままに控えさせていた闇の従者たちが、主の危機を感じ取り半実体化を果たし始めたのだ。

 

 さらにその怨霊共はキャスターが扇情的にその身をくねらせるのに合わせてその周囲をおどろおどろしく飛び回りはじめ、そのうちに地を滑るようであったキャスターの足はついに地表との接地をなくし、虚空に舞い上げられていくのである。

 

 宙空に身を翻した妖女は、天女さながらに白亜の(ころも)を纏いながら、虚空を踏んで舞い踊るのだ。

 

 さる東洋の秘術に「剣歌」なるものがある。古くは支那の仙道に端を発するとされ、舞剣騰空(ぶけんとうくう)の術とも呼ばれるこの秘儀は、宝剣を持ち呪歌を口ずさみながら舞うことで術者は時として十丈もの跳躍を可能とし、さらには宙に浮遊して空に舞い上がることができるとされる。

 

 その特異な出で立ちや立ち振る舞いから、キャスターがいかなる系統の魔術師なのかを察することは容易ではなかったが、おそらくはこの奇怪な虚空舞遊術が、かの幻の東洋魔術とその術理法論を共有するものなのは間違いないと思われた。

 

 これにはさしものアサシンも手詰まりかと思われたが、この怪人ははるか上空に舞い上がったキャスターを見上げるや否や、近くのビル壁に蜥蜴か蜘蛛の如く跳びつき、己の四肢だけを用いてよじ登り始めたのだ。いや、四肢ではない。左手は依然として呪帯できつく封じられたままであったから、使用しているのは右手と両の足だけということになる。にもかかわらず、これがまた異様とも飛ぶべき速度であった。

 

 そしてアサシンは瞬く間に怪しく虚空に舞うキャスターの高さを追い抜き、彼女の頭上の壁面から、天地反転した格好のまま錐のような視線と殺気を放つ。

 

 一方虚空のキャスターの方を見てみれば、壁面にへばりつくアサシンと彼女のの間には、さらに数を増した白い陰が十重二十重に染み出し、主であるキャスターを守護するように取り巻いている。

 

 その量はかなりのもので、このままではたとえアサシンとても容易にはキャスターの元へは辿り着けないと思われた。

 

 しかし、それを前にしてもアサシンは毛筋ほどの躊躇も見せず、虚空のキャスターめがけて幾つかの白い球体を放り投げ、それを口元から飛ばした何かで撃ち抜いた。すると投擲物はやにわに炸裂し、たちまち辺りはすさまじい閃光に包まれる。

 

 ――目潰しか! 即座に敵の意図を察したキャスターも過たず動いていた。ひたと瞼を閉じながらも再びクリスナイフを抜き放ち、中空にてそれをはためかせながら妖艶に剣舞を振るい始めたのだ。

 

 すると手にする白刃の波打つ刀身がさらに溶変し揺らめき始め、いつの何かそれが二本に、四本に、また八本にと倍々に数を増やしたではないか。

 

 そしてキャスターが指揮するかのように両腕を振るうと、それらは一路、アサシンが張り付いていた壁面目掛けて殺到する。ビルの壁面へ閃光を切り裂きながら無数の刃がさかしまの雨となって降り注いだ。

 

 眼を眩ませ、耳を聾するほどの破砕音が辺りに響き渡る。

 

 もとより狙いなどつけていなかったであろうキャスターは、戻りかけの視力で敵影を探す。しかし次の刹那、ようやくキャスターは己の頭上で目視のかなわぬ気配と殺気の揺らぎを感じたのだった。

 

 見上げれば、猟犬と化した怨霊たちが、霊体化をしたままキャスターの頭上を取ろうとしていたアサシンの痩躯に牙を突き立て、姿なき暗殺者を現の薄月の下へと引きずり出そうとしていた。

 

 実体化を余儀なくされたアサシンを頭上に仰ぎ、更なる悪霊をけしかけようとキャスターのしなやかな腕が上がる。しかしそのときアサシンの身体に喰らいついていたはずの悪霊たちが、一斉にこの世のものとも思えぬ絶叫を上げながら溶け崩れたのだ。

 

 この世のものとも思えぬおぞましき絶叫の声音が当たりに響いた。凜もとっさに耳を覆いレジストする。もしもこの場に常人が居合わせたなら確実に耳と心を病むであろう、それはもはや呪いと大差ない魔の波動であり、それが不快な残響とともに幾重にも辺りに木霊していった。

 

 崩れ落ちる怨霊どもの屍骸の上を悠然と跳躍しながら、アサシンは眼下のキャスターの頭上目掛けて落下していく。

 

「――!?」

 

 とっさに背後の虚空へと舞い去ろうと虚空を蹴ったキャスターの頭上に、大量の液薬が降り注いだのはその次の瞬間だった。

 

 アサシンへけしかけられる筈だった悪霊たちは、その身を挺して主の盾となり傘となってその液体を遮った。しかし、その途端にまたもや人の発声機能では到底不可能であろうおぞましい悲鳴と共に、その霊魂を焼き尽くさんばかりの燐気が巻き起こった。

 

 青白い鬼火に包まれる怨霊たちの姿は夕闇を不気味に照らし出し、落下してくる暗殺者の姿を下方に位置したキャスターの視界から包み隠した。

 

 瞬きほどの刹那、再び敵の姿を見失ったキャスターは視線を泳がせる。

 

 アサシンの目的が逃走ではなく彼女を討ち取ることだとするなら、霊体化することはありえない。ならば自由落下に任せるだけの今のアサシンがまさか空中で静止するはずもないだろう。キャスターは舞い散る燐火の明るさに黒瞳を細めながら、己に向けて一直線に向かってくるはずの間者を待ち受けた。

 

 しかしこの対応はあまりに遅すぎたといえる。キャスターが迎撃の準備と意志を固めた頃には、燐気にまぎれた間者は彼女のすぐ眼前にいたのだから。

 

「――――ッ」

 

 アサシンには、女の細い喉から息を呑む気配がありありと伝わってきたことだろう。

 

 虚空にて交じり合うように交差した二つの影。キャスターの波打つクリス・ナイフが、アサシンの持つ怪しく濡れ光る怪刀を受け止めようと強張る。三度刻まれた剣戟の音が当たりに響き渡り、そのまま両者は地表に落下した。

 

「――――ククッ」

 

 危なげなく着地したアサシンは仮面の下でほくそ笑みながら後方を振り返る。案の定、背後からはドッと何かが地面にたたきつけられたような鈍い音が聞こえていた。まったくもって呆気無い。

 

 振り返れば、そこには倒れ伏したそのままの姿で横たわる細い肢体があった。

 

「他愛無い……」

 

 ――容易すぎる。まるで話にならない。所詮は魔術師のサーヴァントということか。懐に入ってしまえばどうとでもなる。むしろこの脆さも当然のことか――とでも言うかのように、アサシンは笑いを噛み殺しながら止めを刺そうと踵を返した。しかし、

 

「あら、どちらへいかれます?」

 

「――ッッ!」

 

 アサシンは泡を食ったように四肢をこわばらせて背後からの声に向き直った。そこにあったのはまちがいなく、たった今切り伏せた筈の妖女の姿であった。そしてその女が倒れ伏したと思えた場所には、ただ白布だけが横たわっている。

 

 しばし無音の緊張が張り詰め、そして両者はここで静かに息を吐いた。分かっていたことではあったが、両者はここに来てようやく互いが互いを容易ならざる相手だと認識したのであった。

 

 再度対峙した両者の間には、それまでとは比べ物にならぬ密度の殺気が満ち満ちている。

 

 終わりではない。終わったのは小手調べに過ぎない。ここからは互いにサーヴァントとして全力を持って対処することになるだろう。そもそも、サーヴァント同士の戦闘とは互いの宝具による競い合いに他ならない。

 

 故にこれまでの戦闘が如何に奇想天外な所業と見受けられたとしても、それは彼女たちにとっては様子見でしかないのだ。

 

 そして敵はアサシン、そしてキャスター。両者とも一度見た宝具の特性を見誤るような手合いではない。それはつまりこの戦いに二度目はない、ということを意味する。互いに秘儀を晒す以上、必殺こそが勝利以前の大前提だった。

 

 両者の意識は共に互いの、そして己の左椀に集中していた。妖女はその異様なまでに黒く、しなやかな左腕を。せむしの男はその血塗られた呪布で幾重にも封じられた左腕を。互いに意識し、そして警戒し合っていた。

 

 遠坂凛は依然として、それらの光景を見ていた。

 

 輝ける英霊同士の真正面からのぶつかりあいとはまた違った、まさしく怪異な競い合いに、さしもの彼女も息を呑まざるをえなかった。

 

 だが、ここで奴らの宝具が視認できるなら、それは願ってもない僥倖だった。先に見たキャスターの奇怪な黒腕についても、また新たに何か分かるかもしれない。

 

 確か、あの妖女は悪の神を自称していたはずだ。そしてあの漆黒の体色を持つ左腕のそれは、先に聞き知ったアーチャー、化身王ラーマの防御性能との共通点が見受けられる。そして今目にしているどこかエキゾチックな雰囲気の原始的な白装束。……その出展はおそらくアーチャーと同じヒンドゥー系の神話に由来があるのかもしれない。

 

 だが、それぞれの持つ魔の密度が最高潮を迎えようとしたそのとき、突如としてキャスターの身体を不可解な現象が包み込んだ。

 

「――なッ!?」

 

 とっさに出た、誰に問うでもない言葉が終わらぬそのうちに、彼女の身体は気配も残さずに掻き消えた。霊体化したわけではないことは、対峙していたはずのアサシンですらもその存在を見失っていたことから明らかだった。

 

 傍から見ていた凛には、それがなんなのか予測できた。

 

『あれは――令呪による強制召喚?』

 

 即ち、それは令呪を有するマスターが、その一画を消費してサーヴァントを何処かへ転送したということだ。

 

 それ以上のことは推測のしようもない。標的を見失ったアサシンが歪むように姿を消すのを確認して、凛も深まった闇の中で踵を返した。

 

 その美貌は悔恨に捻じれるようであった。あのアサシンの邪魔が入らなければ、キャスターの根城だけでも突き止められたものを。

 

 とはいえ、だからといってアサシンを追跡することは不可能だ。アサシンには気配遮断のスキルがある。ここはおとなしく帰る他ないだろう。

 

 そうして消沈したように夜の帰路についた少女の後ろ姿を、しかし――薄闇からじっと見つめる視線があった。

 

 淡い白色で咲き乱れたような髑髏(しゃれこうべ)が、音も無く、嗤った。

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-11

 

 常に真剣で集中力もあり、手順も間違えないし変な創意工夫を凝らそうなどというムラッ気も起こさない。分量の軽量だって正確だ。しかしあえて率直に言うのなら、彼女はひどく不器用なのだ。ちょっと指導したくらいではどうにもならないほどに、である。

 

 というよりも少々手先の反応それ自体が鈍いのではないかとすら思い、士郎はあえて聞くまいと思っていたことを問うてみた。

 

 彼女は調理をするときも決して手袋を外さなかったのだ。それについては最初に断りをいれられたのであったが、なにか関連があるというのなら、とそのことについて尋ねてみたのだ。

 

 すると彼女は一瞬言いよどみ、吟味するように言葉を選んでこう告げた。

 

「……私の両腕には……痛みや温度を感じる機能がありません。……教えを乞うておきながら申し訳ありませんが、……どうか、詳しいことはお聞きにならないでください」

 

「いや、いいんだ。詮索しようと思ったわけじゃない」

 

 衛宮士郎はまた食事の用意に取り掛かっていた。今度は夕食の用意である。しかし今度は台所にはもうひとりの人間の姿があったのだ。鮮やかな濃紺の使用人服に身を包みながらもこの場に立つのが恐ろしく不釣合いな人物であった。テフェリーである。

 

「それと……先ほどはランサーが失礼を……」

 

「……いや、これもホントに謝られるようなことじゃないから……」

 

 そして士郎の顔には、なぜか真新しい青あざが目立つのである。

 

 キャスターが去り、凛がその後を追って行った後、特に何の予定もなかった士郎は「心配ばかりしても仕方がない」と言ってセイバーをいつもの日課に誘ったのだ。剣術の稽古である。

 

 生真面目な彼女のことであるから、何もせずに待てというのは辛いところであろうとの気遣いのつもりもあったのだ。しかし、ここでひとつ誤算があった。

 

 いつもならセイバーに相手をしてもらうところなのだが、それを見ていたランサーがこれに興味を示し、矢庭に参加を表明したのだ。

 セイバーとランサーが竹刀で打ち合ってもこれは意味のないことなので、結果として相手をさせられた士郎が加減を知らないランサーにことのほか手荒く扱われてしまったと、いう次第であった。

 

 当のランサーは「なぁんだ坊主。思ったよりも骨があるな。小兵のわりに大したもんだ」といって豪快に笑っていた。……多少は見直されたというのならまあ、利がないともいえないと士郎は思う。――だが傍から見ていたテフェリーからすれば、到底理解の及ばない行為なのかもしれなかった。

 

 そして、ことの起りはその剣術の稽古が終わった後であった。

 

「エミヤ様。少々よろしいでしょうか? 先ほど……相談があれば話して欲しいというお言葉をいただきましたが。……あのお言葉、真に受けてもよろしいのでしょうか?」

 

 ぼろ雑巾のようになりながらもなんとか台所に立とうとした士郎に、手フェリーが声を掛けてきたのだ。そういえば食事の席で彼の作った料理を食べてなぜか急に意気消沈してしまったテフェリーにフォローのつもりで言葉をかけたのだった。そのときはさしたる反応もなかったのだったが、

 

「ああ、別にお世辞で言ったつもりはないけど」

 

「さようですか。では、折り入ってご相談したき儀がございます」

 

 やおらキッチンを占領した言い様のない重圧を感じながら、士郎は真正面から見上げてくるニ色の視線を受け止める。

 

「拝見しましたところ、貴方はかなり腕の立つ方だとお見受けしました」

 

「は?」

 

 はて、何のことなのかわからない。魔術にしろ剣術にしろ、彼女に一目置かれるようなことはなにもしていないはずなのだが、

 

「……いや、なんのことだか」

 

「先ほどの昼食はエミヤ様が用意されたものですね。何でもエミヤ様は常にここの食卓を取り仕切っていらっしゃるとか……」

 

 最初、士郎は彼女が昼間の食事の時に様子がおかしかったことでなにか文句でも言われるのかと戦々恐々としていたのだが、どうやらそうではないらしい。

 

 そういえば、士郎がランサーの猛攻にさらされている間、道場の隅で隣り合ったテフェリーとセイバーは意外にも話が弾んでいるように見受けられ、士郎は内心胸を撫で下していたのだ。

 

 しかし一方で、いったいあの二人の間にどのような会話が交わされているのかは皆目見当がつかなかったし、何よりも、正直それどころではなかったのだ。

 

 どうやら、ここで事の内実が見えてきたらしい。

 

 テフェリーは彼の用意した食事に感嘆し、自らの技術がそれに遠く及ばないことを知って意気消沈していたのだ。そしてその事実を知ったセイバーはことのほか気を良くしたようで、彼女らしからぬ饒舌さで士郎の料理について語り明かしたのだろう。

 

 そしてテフェリーは、意を決したかのように口を開いた。

 

「あなたが使用人としてかなり有能だということは、実感させていただきました。つきましては、」

 

 そしてこの勘違いについてはセイバーの言もさしたる効果を結ばなかった――否、もしかしたらセイバーは士郎の料理が如何にすばらしいかを語るのにかまけ、件の訂正については二の次だった可能性もある。というかそう考えてみると、もうそうなのだろうなという諦観の思いさえ浮かんでくるのだった。

 

 使用人として腕が立つという評価を果たして喜んでいいものか複雑な心境であったが、それはともかくとして、

 

「恥をしのんで申し上げます。どうか、わたくしに調理術の指導をしていただけないでしょうか」

 

 そう言われたなら、別段断る理由もない。そこでさっそく夕食の準備がてらの指導講習と合いなったわけである。

 

 考えてもみればどんなハウスメイドだろうとも最始から家事や料理がうまいというわけでないのは当たり前のことで、士郎もこのことをさして訝るでもなく承知したのであった。

 

 長い睫毛を伏せて調理に集中している少女の顔を、士郎はあらためて観察してみる。彼女から受けるのはやはりどこか硬質な印象ではあったが、それは宝石のような煌びやかさとは違う。それは研ぎ澄まされた鋼の美しさに似ているようにも感じられた。

 

 年のころは士郎と同じか少し下といったところであろう。飾り気のない平淡な顔は一見して東洋人的であったが、けれども、やはりその色違いの大粒な瞳は西洋の血脈を主張するように煌めいている。

 

 それだけではただ白いだけの肌は、控えめな翡翠色と琥珀色のコントラストを大いに際立たせ、逆に華美な印象さえ与えてくる。白い輪郭と、瞼を際立たせる髪と睫毛は時折銀色にかげるような黒鋼色である。

 

 その総てのパーツが取ってつけたような感があるにも関わらず、同時にそこにあるために予め誂えられたかのように精妙に納まっているのである。まるで無駄という要素を丸ごとそぎ落としたかのような、それ以上は磨くこと無用な鋼の工芸品のようだった。

 

 ――ただ、それは果たして人に対して抱くべき賞賛であろうか。

 

「エミヤ様、どうかなさいましたか? もしやなにか手違いでもいたしましたでしょうか」

 

 いつの間にか、大きな色違いの瞳はこちらを見上げていた。しげしげとそれに見入っていた士郎は、ことのほか大仰に狼狽して言葉を濁した。

 

「い、いや。なんでもないんだ」

 

 そして誤魔化すように味見をしてみる。

 

「それにしても、これは上出来だ、と思うよ。指導なんて必要ないくらいだ。時間を掛ければ手違いも減ると思うし」

 

「……そうなのでしょうか」

 

「まだ何か不安でも?」

 

 今までの手つきを見る限り、確かに器用ではないが丁寧な仕事が見て取れた。出来上がったものも、それほどひどい代物でもなかったように思うのだが、しかしテフェリーはどこか納得がいかないようにかぶりを振るのである。

 

「前に、何かひどいことでも言われたりしたとか……」

 

「そんなことはありません。むしろ逆です。マスターは私の作った食事になにかを仰ったことがありませんので……」

 

 それで士郎もああ、と得心がいったように頷いた。文句を言ってもらえればまだ改善も出来るが、何の感想もないというのでは、なるほど調理の指針が定まらないというものだ。それで彼女は雲を掴むような心もとなさを感じていたのだろう。それなら、話は簡単である。

 

「それなら、こっちから感想を聞いてみればいいんじゃないかな、やっぱり意見を聞いてみるのは大事なことだと思うし。自分から聞いてみたことは?」

 

 するとテフェリーは途端に顔色を曇らせて、不安そうな声を漏らした。

 

「ありません。畏れ多い……。いえ、どんな答えが返ってくるのか不安で……。そうですね、私は怖いのだと思います」

 

 どうなのだろう、ワーロック翁はこの娘にそんなにひどいことを言うような人間には思えなかったのだが。士郎がそう言うと、テフェリーはまた黙り込んでしまうのだった。

 

「なら、今度はこっちから聞いてみればいいさ。オレも手伝うからさ、案外絶賛されるかも知れない」

 

 するとテフェリーはきょとんとした顔で暫し固まったあと、また目を伏せて呟いた。

 

「……あなたは変わった人のように思います……」

 

「え?」

 

「指導を願い出ておいて不躾ではありますが、私は昨日あなたを殺そうとしたというのに。……どうしてそこまで親身になってい頂けるのか……」

 

「それはお互い様だよ。それに、もう意外と慣れちまったっていうのもあるかもしれないけどさ」

 

「そんな……。でも、そうですね。もしも喜んでいただけたなら、どんなに……」

 

 そう言ってテフェリーは想いを馳せるはせるように目を伏せて微笑んだ。それはこの少女が彼の前で始めてみせる笑みらしきものであった。それは鋼の鉄面皮が僅かに綻んだかに見えただけの淡いものでしかなかったのかもしれないが、それでもどこか無機質だった彼女を、年相応の少女に引き戻すには充分すぎて……。

 

 一瞬それに見とれていたシロウは、そこで初めて背後から自分を見つめていた視線に気が付いたのだった。

 

 振り返るまでもなく、セイバーとランサーがそこからこちらを見ているのではないかと察せられた。彼も多くのサーヴァントと対峙してきた経験の持ち主である。その人ならざる覇気の対しては敏感にそれを感じ取ることが出来る。

 

 そこでキッチンから出てみると、案の定二人の英霊は並び立ち、セイバーはただ無表情に、ランサーはひどく苦々しい表情で、じっと士郎に視線を送ってくるのである。

 

「ど、どうしたんだよ。二人とも……」

 

 そうして声をかけようとする士郎を突っ張るようにして威嚇しながら、ランサーが怨嗟の如き恨み声を囁いた。テフェリーには聞こえぬようにである。

 

「寄るな小僧めッ! どうやらアタシは貴様を見くびっていたようだ。なんたる不覚! ……今はっきりと、キサマを敵と理解したぞ!」

 

「な、なんだ。いきなり?」

 

 さらにランサーは眼下に見下ろす少年に、とぼけるな! と一喝した。無論小声で、である。

 

「何の断りもなしに人のマスターに粉ァかけようなどとは言語道断! ……どうやらもう少し叩き直されたほうがよさそうだなァ? んん?」

 

 密やかに殺気立つランサーを前にしながらも、これには士郎も憮然と眉を顰めた。これはひどい言い掛かりである。彼の行為は完全なる善意から来るものであり、無論のこと下心などあろうはずもないではないか。

 

「なっ!? オ、オレには何もやましいところなんてないぞ。なぁ、セイバー」

 

 しかし、ランサーと供だって現れたセイバーが返してくれたのは、冷やかな視線だけであった。

 

「……シロウ、今はいつ戦闘になるかわからない状況です。あまり気を抜かれては困る」

 

「な、なにを言い出すんだセイバー。気を抜いてなんかないぞ!」

 

「ええ。大方そのとおりのようなので、凛にもそのように報告しておきます」

 

「な、なにを言って……。そ、そのようにってどのようにだ!?」

 

 士郎はそこで始めて事の重大さに気付いたのである。ランサーのことはさて置くとして、これは士郎にとって見過ごせぬほどの大問題であった。セイバーまでもがどうしてこのように気分を害しているのかは測りかねたが、このまま行くと明日には問答無用で赤色の敵がもう一人増えるような気がしてならない。即刻セイバーだけでも機嫌を直してもらわなければ!

 

 しかし彼には天地神明に誓ってそのような心当たりは全くないのだ。ランサーが何か余計なことを言ったのだろうか? とにかく事の次第をセイバーに問いただそうとして口を開きかけたとき、戻らぬ士郎を見かねたテフェリーがキッチンから声をかけてきた。

 

「エミヤ様、どうかなさいましたか」

 

「あ、いや。……何でもないんだ」

 

 見るとセイバーとランサーはすでに揃って居間に戻ってしまっていた。

 

 その後、士郎はもはや悩んでも詮無いことと割り切り、一転奮起してテフェリーと共に本格的に夕食の用意に取り掛かった。サーヴァント達の機嫌を取るには生半可なものは出せそうにない。これは自分も持てる技術の粋を集める必要がありそうだ。……

 

 

 

 ――そうして、この擬装された聖杯戦争において彼らに許された最後の安穏な夜は更けていった。

 

 しかし彼等があずかり知らぬところでも、この夜の暗がりで乱舞する戦闘者たちは競い合うかのように剣戟の火花を散らし、権謀術数の手練を競い合っていたのであった。

 

 それを知らぬことを許される最後の夜が、今終わりを迎えるのである。もはや火蓋は切って落とされた。これより始まる夜が伴うのは、修羅の地獄に他ならない――。

 

 



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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-12

冷たい石造りの城の中。彼女一人には大きすぎる豪奢な寝台の真ん中で柔らかな毛布に包まりながら、伏見鞘は泡沫の夢にまどろんでいる。ほぼ丸一日を費やした眠りは既に浅くなりつつあったが、鞘は未だにそのヒュプノスの残り香を懸命に貪ろうとしていた。

 

それでも夜の陰りは滞りなく進行し、否応無しに彼女を戦いの現実へと引き戻そうと――。

 

「――?」

 

 だがそこで、濡れた毛布を見て気付くのだ。自分は寝ながら、泣いていたらしい。

 

 なぜだろう? と考えるが、霞がかかったような頭ではうまく答えを見つけられない。でもこの霞が去ってしまえば、きっとこの涙の理由(わけ)も綺麗さっぱりと浚われてしまうのだと思った。

 

解かるのは夢を見ていたということだけ。不思議な夢だった……。二つの色違いの瞳が自分を見ている。困ったような貌をして、でも最後にははにかんだ。優しい、見ているだけで安心できる男の顔。――誰なのだろう。

 

「なぁ」

 

「……」

 

「なあってば!」

 

「…………んん~?」

 

 彼女のベッドの脇には既に見慣れた感のある、線の細い少年の顔があった。

 

「ん~、なによ~。おしっこ? それとも一緒に寝たいの?」

 

 半裸のまま毛布の中から這い出してくる鞘の姿に目を剥き、カリヨンはすぐに赤面しながら目をそむけて、いつものように声を裏返した。

 

「寝ぼけるなバカ! ……何か変なんだ」

 

 しかし、それでなけなしの空元気を使い切ってしまったのか、少年はすぐに不安そうに声をひそめた。

 

 大きく伸びをしながらも、鞘は状況の深刻さを推し量りつつ顔を引き締めた。この初心(うぶ)な少年があえて鞘の寝室にまで入り込んできたというのは、よほどの自体なのかも知れない。

 

「なんか、……あったの?」

 

「それが、その、なんというか……」

 

 少年の狼狽振りを見ればキャスターが未だ戻っていないのは見て取れる。ようやく頭が正気に戻ってきた。

 

 よく寝た。というより、むしろ寝すぎたくらいだ。体中に力が漲り、思考は氷のように冷えてクリアだ。雑念もキレイに消し飛んで、次から次に昂ぶるような衝動が沸き起こってくる。今、彼女は間違いなく十全の状態であった。

 

「なーに?」

 

「森の中で何かが魔術を使っているみたいなんだ」

 

 ひどく上機嫌な鞘に、カリヨンは深刻そうに息を呑んで続けた。

 

「結界が破られたのかもしれない」

 

 しかし鞘の応答は至極簡潔なものだった。

 

「なぁんだ、そんなことか」

 

「な……なんだよ、そんなことって」

 

「そりゃ、来ることもあるんじゃない? 戦争中な訳だし」

 

「……」

 

 息を呑む銀髪の少年を尻目に、女は気だるげに笑う。

 

「まっ。任せときなって。どの辺?」

 

「え?」

 

「どの辺が怪しいの?」

 

「え……と、森の南側だ。明日お前が罠を張るって言ってたあたり」

 

「あー、そうだった。そうだった。晴れるといいよねー明日。あんたちゃんと手伝ってよね」

 

「そ、そんなこと言ってる場合じゃないだろ! どうするんだよ、キャスターもいないのに……」

 

「だーから、任せときなって……」

 

「どうするんだよ!?」

 

 カリヨンがまた癇癪を起こしそうになったとき、ふいに室内に突風が吹いた。室内の灯りが一斉に掻き消え、室内に唐突な薄闇をもたらした。突然の滅明にカリヨンは尻餅をついて小さな悲鳴を上げようとして、そしてそれを必死に噛み殺した。

 

 いきなりこの場に襲撃者が現れたのかと思ったからだ。しかし灯りの途絶えた室内には彼ら以外の何者の姿もありはしない。ただ一つ変化していたことがあるとすれば、それはベッドに座したままの鞘の手に長大な凶器が握られていたことだろう。

 

 その刃から滲み出す黄色い光。その威容に射すくめられたような気がして、少年は床にへたり込んだまま息を詰まらせた。

 

 それは、同様に澱むような黄色い光を放つ鞘の瞳に、言い様のない凶気を見たからでもあった。

 

「あ……サ、サヤ」

 

「お客さんが来たんなら出迎えないとね。……せっかく留守を預かってんだしさぁ」

 

 虚のように澱んだ瞳から滲み出した黄色い光が、光陵を倍増しにしてうす闇の中で光り輝く。

 

「精魂こめて……ネ」

 

 そう、誰に告げるでもなく、呟くように虚空に言い放ったサヤは次の瞬間には部屋の中から消失していた。

 

 カリヨンは、ただそれを呆気にとられて見ていることしかできなかった。後に残ったのは、まるで砲弾でも打ち込まれたかのように粉砕されたベッドと大穴を穿たれた外壁。

 そしていつまでも少年の耳に残って離れない、鞘の鼻歌の旋律だけであった。

 

 

 並み居る死霊の雑兵や、其処彼処に設置されたトラップをものともせず、森の中を直進して行く影があった。

 

 この闇色に染まった森に足を踏み入れていたワイアッド・ワーロックである。結界を破ったにも関わらずひどいノイズが奔る。森に入ってからというもの、この霊的雑音は大きくなるばかりだ。

 

 それでもまだ令呪を使えばランサーを呼ぶことは出来るだろう。だがワイアッドはそうしなかった。もとより、応援を呼び寄せるつもりなどはないのだ。

 

 そして満を持して、一陣の風とともに老紳士の前に現れたのは半裸の女だった。

 

「……なんじゃその格好は。けしからん娘じゃな」

 

「ちょいと遊んでもらうよ。爺さん」

 

 黄色い光が、狂った愉悦のままに殺意の稲妻となって獲物に注がれる。

 

「悪いが、今夜はうぬらなぞに用はない。……邪魔をするな!」

 

 予備動作無し(ノーモーション)で放たれた光弾。その数、一正射にして実に二十七。

 

「やるぅ♪」

 

人類の理解を置き去りにした超絶軌道の瞬きをもって、その悉くを打ち落とした鞘は進行方向にある邪魔な巨木を薙ぎ倒しながら一直線に魔術師のもとへ迫る。

 

 地妖精(レプラコーン)たちは一斉に金床を打ち鳴らし主に危険を告げる。しかし老魔術師は引こうとはしない。

 

 そして響き渡る地響きと甲高い剣戟の音が、森の魔宴の幕を開ける。

 

 

 一人、暗い城内の冷やかさに怯えていたカリヨンはしかし同時に抑えきれぬ憤慨の念に囚われていた。もっともそれが恐怖を打ち消してくれるかと言えばそういうわけでもなく、憤慨は焦燥となって彼の怖気を助長していくだけである。

 

 冷静に考えても見れば、わざわざ迎撃になど出る必要はないではないか。せっかく己を守るための城壁があるのだ。どうしてその利を生かさずにわざわざその外で戦う必要がある? 馬鹿なのだ。アイツは掛け値なしの馬鹿なのだ。

 

 今更ながらに腹が立って仕方がない。どうしてこちらの話を聞こうとしないのか、……まぁ、そんなことを話し合う前にあいつは文字通り飛び出していってしまったわけなのだが。

 

 ――と、そこで不意に寒気を感じ、少年は振り向いた。そして目にした光景を疑い、ついでわが目を疑った。長い前髪に隠れたその瞳は、陰に塗れた廊下の向こうに、ひとりの男の姿を見つけていたのだ。

 

 それはまるで闇から溶け出すかのように姿を現した、モザイク柄の怪人の姿だった。

 

 息を呑むのでも、漏らすのでもない、彼の息は止まっていた。

 

 少年は動くことも出来ず、それを傍観することしか出来なかった。

 

 なんということだろうか。侵入者は一人ではなかったのだ。これは当然考えておかなければならない事態のひとつのはずだった。敵が二手に分かれてこない保障など何処にあったというのだろうか。

 

 自らの愚かしさに泣き出しそうになりながらも、カリヨンは必死にその侵入者と向き合う。

 

 だがこの敵は鉄壁のはずの罠も、結界も、怨霊も、城壁も一っ跳びで越えてきてしまうような相手だ。自分がこんな奴に太刀打ちできるというのだろうか?

 

 いや、生き延びるには、生き残るにはこうするしか、戦うしかないのだ。それはとっくに覚悟した事だったではないか!

 

 カリヨンは精一杯の虚勢で己を奮い立たせながら、城中の怨霊たちを呼び集めて自己の防衛をはかる。戦闘用の魔術など何一つ使えない彼にとって、今はキャスターが残したこの城の防衛機能だけが身を守る手段の全てだった。

 

 白い靄のように虚空を漂っていた悪霊達が、今度はそれぞれに歪な怪鳥の如くその姿を変え、モザイク柄の怪人に襲いかかった。

 

 しかし男は目にも留まらぬ動きでそれらを叩き落した。カリヨンの目にはそれがどのように成されたのか、いやそれどころか、その残影すら計り知れなかった。

 

 趨勢は瞬きの間に決してしまったのだ。

 

 しかし同時に、それとは別に、なにか言いようのない悪寒が彼の体の根幹を走った。恐怖ではない。驚愕ではない。ただ、彼はここで絶対に肯定したくない事実に思い当たったのだ。

 

 この男のその動きに、その圧力に、その殺気に、カリヨンはある男の姿を重ねていたのだ。知っている。自分はこの男を知っている。

 

 そして恐怖のどん底に陥る。へたり込んで声もないカリヨンがただ一言、絞り出した言葉は、

 

「……お前、まさか、あのときの……ッ!」

 

 それだけだった。

 

 無言。当然のように応じる声はない。ただ、低い声音が有無を言わさぬ圧力を持って問いを発した。

 

「……おまえの持つ欠片を渡せ。そうすれば命までは取らぬ」

 

 無言。答えなかったのではない。恐怖で答えることが出来なかっただけだ。そもそもカリヨンにはこの問いがなにを指すのかさえわからなかった。

 

 男はそのまま無造作に肉薄し、無貌の仮面の向こうから虚のような視線でカリヨンを見下ろす。子犬のように震えることしか出来ない少年に、いよいよ掲げ上げられた鈍器の輝きが降り注ぐ。

 

 心の中に渦巻いていた絶叫すらもが消え失せ、心からは総てが抜け落ちたかのように空白になった。真っ白な恐怖だけが少年の総てを埋め尽くしていた。ただ、彼の弛緩した身体の中でただ一箇所だけ、その恐怖に反応したものがあった。

 

 彼が明確に意図したわけではなくとも、その危機に反応してカリヨンの左手の甲から三画の内一画が失われたのだ。

 

 そして薄暗い廊下に閃いた白刃は、少年の脳天には振り下ろされず、逆に怪人の左手を斬り落としていた。華のような血潮が、カリヨンの頭上に舞った。

 

『流転もたらす闇夜の吐息(カーリー)』

 

 振り下ろされた鈍い銀器の輝きが、いつの間にか反転し柄を握る本人に向けられていたのだ。

 

 それは、そもそもは一直線に怪人の喉下に迫り、一息に命脈を絶つはずのものだった。しかし寸でのところでこれに反応したモザイク柄の怪人は、逆の手を犠牲にすることで辛うじてそれを防いだのだった。

 

 闇がさざめき、閃くようにめくり返された。途端、城中の総ての燭台に明かりが灯り、そこかしこから染み出すかのように現れてきた怨霊・悪霊が呻き、空間という空間を鮮烈なまでの妖気で埋め尽くしていく。

 

 まるで四方からの灯りにあおられて虚空に逃げ集まった闇が、そこで凝縮され液体となって流れ出してくるかのようであった。

 

 同時に、まるで硝子で出来た駒鳥の大合唱のようなさえずりが響き渡っていた。まるでけたたましい悲鳴のように鳴り響いているのは、このモザイク柄の怪人の懐中にしのばされた装飾剣である。これは一種の魔具であった。敵の接近を所有者に先んじて感知し、まるで警報のような叫びによってこれを知らしめるという効果をもつのだ。

 

 これによく似た効果を示す宝具の逸話がケルト神話の一幕において伝えられている。ケルト神話におけるアルスター国の王、クルフーアの持つ盾、「オハン」である。これは別名「叫びのオハン」「叫ぶオハン」等とも呼ばれており、その名のとおり持ち主に危険が迫れば金きり声で叫んでそれを知らせるという力を秘めていたのだ。アルスターの輝ける豪勇クーフーリンはこのオハンの叫びのおかげで三度王に危機があったことを知ることができたのだと伝えられる。

 

 あの夜、ワイアッド・ワーロックとの戦闘においても、いちはやくその危険を察知し鳴り響いていたのがこの短剣であった。オハンほどの通達力こそないが、この短剣もその危険に対する知覚力では引けをとらず、度々この怪人の危機を救ってきたのであった。

 

 そしてあの時とは比較にならぬほどの、この悲鳴のような震えが意味するのは今ここに現れたのが、あの老魔術師などとは比較にならぬほどの危うさと妖気を秘めた敵であるという事実である。

 

 そして寄り集まった悪露(おろ)から染み出すかのように、忽然とそこにまろびでた人影があった。この魔の巣窟と化した城の主、キャスターである。

 

 その足許には今しがた両断された怪人の腕が転がっていた。怪人がふるう特殊警棒はそのあまりの加速ゆえにその何の変哲もない局面に鋭利な「切れ味」を帯びさせるのだ。――もっとも、その絶技はこの場ではまさしく諸刃の刃と化して己に降りかかってきたわけだが。

 

 それをしなやかな爪先で踏みしめるキャスターの総身からは、溢れんばかりの魔力が滾っている。

 

 これが最弱のサーヴァント? もとより声を奪われていたカリヨンはそれでもなお絶句した。彼はいま初めて、本気の闘争に臨む英霊の、人の届かぬ領域の存在を、知識ではなく実感として目の当たりにしたのだった。

 

 キャスターが市街を歩くときに引き連れていた悪霊は数十といったところであったが、この場に居合わせる魑魅魍魎の総数はその十倍以上である。まごうことなく彼女は聖杯に呼ばれた魔術師の英霊に他ならなかったのだ。

 

 工房の主が舞い戻った以上、この城の守りは鉄壁のものとして機能を取り戻し始めている。

 

 怪人は手にしていた大型の特殊警棒を収めると、血を滴らせたまま踵を返した。主の不在を知ってこその城攻めであったから、それも当然であったといえる。欲を出しすぎるのは禁物だ。ここは令呪の一画を使わせただけでも良しとしなければならない。

 

 だが風の如く疾走しながら、男は靴底に感じる異様な感触に思わず歩みを止めた。見れば豪奢な城の内装が奇怪に変容し、臓腑の如く蠢いているではないか。それらの床が、内壁が狭まりながら残りの四肢に汚泥の如く絡みつき、その自由を奪い拘束していく!

 

「……ッ!」

 

「どちらへ?」

 

 凝然と振り返った男に、キャスターはゾッとするような笑顔を向けた。

 

「どうやら先の間者もあなたの手の者のようですね」

 

「……」

 

 無言。当然のように返答は無い。しかしキャスターは悠然と言葉をつづける。まるでこの相手を労わるかの如く。

 

「ご安心なさい。二、三お聞きしたいことがあるだけですから」

 

 そう言いながらも、このとき常頃から優しげでたおやかだった筈のキャスターの笑顔は、この世に在らざるほどに美しく、そして邪悪な鬼女の面相と成り果てていた。

 

 そこにあるのは掛け値なしの怒りであった。ただ留守の工房を荒らされたというだけの魔術師のそれとは一線を画す、押し隠すことの出来ない憎悪の念だった。

 

 彼女の主でさえその様相に肝を抜かれようかとしたところで、しかし怪人は臆することもなく臓腑の壁に特大のリヴォルバー拳銃で立て続けに弾丸を撃ち込んだ。

 

 が、それは全くの無駄であった。怪奇なる腑壁は高速で撃ち出されたはずの弾丸を受け止め、ズブズブと飲み込んでいくのだ。

 

「いくらやっても無駄ですよ。たとえ魔術であろうとも破れるものではありません。ましてやそんなモノでは……」

 

 しかしそこで無言のままリヴォルバーを斜に構えなおした怪人は、再度発砲した。それは先ほどと何ら変わらぬ行為であったはずだが――瞬間、凄まじい勢いで大気が引き裂かれ、巌の如き臓腑に覆われ、守られていたはずの壁を崩壊させ、大穴を穿っていた。

 

「なッ――?!」

 

 キャスターも驚愕の声をあげる。彼女とて近代兵器に明るいわけではないが、これがただの銃弾では成し得ない規模の破壊だということは一目瞭然であった。必定、次の刹那にはすでに怪人の姿は跡形も無い。

 

 そこにはただ内側から捲れかえったようにひしゃげた鉄屑だけが残されていた。おそらくは男が使用したリヴォルバー拳銃の成れの果てであろう。 

 

「……マスター、銃弾というものはこれほどに……」

 

 キャスターは視線だけは怪人の行く末を警戒しつつ、ここで初めて傍らの己が主に声をかけようとした。しかし彼女の主たる少年はそれに応えようともせず床に座り込んだままだ。

 

 キャスターはいつものようになじられることも承知の上で、主たる少年の細い肩に恭しく手を置いた。

 

「マスター……」

 

 だが、予期したような反応はなく、彼はただ肩を震わせているだけだ。

 

「マスター、どこかお怪我でも……」

 

 しかし震えるばかりの少年はその手をふりはらうこともせず、すがりつくようにしてキャスターの腕に身を任せた。彼は己の内側の黒い混沌に怯えていた。これは今殺されそうになったというだけの恐怖ではない。人の悪性を司る魔女はそれを見抜いていた。彼は今本能的に喪失を恐れているのだ。

 

 恐らくは過去に体験したおぞましい喪失感と、それによってもたらされる根源の恐怖のフィードバックに晒されている。

 

「マスター……」

 

 魔女は遠慮がちに、冷たくなった少年の細い身体を抱え込む。そしてその震えが止まることを祈って強く柔らかく、モノトーンの両腕に力を込めた。

 

「……大丈夫ですよ。もう何処にも行きませんから。大丈夫ですからね……」

 

 そうしてキャスターは遠慮がちに、しかししっかりと少年の身体を抱きとめた。そうしてこの幼い主が泣きつかれて眠りにつくまで、決してその手を放さなかった。

 

 いつまでも、その細い肩の感触を愛おしむように、いつまでも。いつまでも――。

 

 

 





 二章はここまでになります。

 三章も順次上げていきますが、その前に現時点でのサーヴァントステータスを用意してます。……あんまり更新はされてないですが(汗

 三章はもっとがっつりバトルになりますので、期待していただけたらと思います。


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二章終了時点でのサーヴァントステータス

 あんまり変わってないですが、挙げておきます


 ステータスが更新されました

 

 

 

クラス     セイバー

マスター    伏見鞘

真名 

性別 

身長 

体重 

属性 

能力値 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具   

イメージカラー 

特技      

好きな物    

苦手な物    

天敵      

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

ランサー

マスター    ワイアッド・ワーロック

真名      

性別      女性

身長      180cm

体重      62kg

スリーサイズ  95・58・90

属性      秩序・中庸

能力      筋力A 耐久D 敏捷B 魔力C 幸運D 宝具B    

イメージカラー アメジスト(紫水晶)※髪色はサンライトイエロー

特技      

好きな物    

苦手な物    女々しい男 

使用武術    アマゾネス式喧嘩殺法

天敵      

 

クラススキル

 

『対魔力』:C

 二小節以下の詠唱による魔術を無効化する。大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。

 

保有スキル

 

『騎乗』:B

 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、魔獣・聖獣ランクの獣は該当しない。アマゾーン(女人族)は騎馬民族であり、騎乗能力に優れた部族であった。

 

『勇猛』:B

 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉に対する抵抗力。それらの効果を高い確率で無効化できる。加えて格闘ダメージが向上する効果もある。

『神性B-』

 

宝具

 

『鋳造されし不和の双翼(プテロ・エリス)』ランク:B 対人宝具 レンジ2~4 最大補足1人

 

 ――不和の女神エリスから賜った両刃の戦斧。

 刃そのもの、又は切りつけた対象から斥力を発生することが出来る。

 地面、もしくは壁などに使用することで一時的に無重力状態を作り出し、敵の動きを封じたり跳躍、走行時に推進剤として使用することも可能。

 不和=引き離すというエリス神の神格の具現。

 

『沸血装甲(マーズ・エッジ)』 ランク:C+ 対人宝具 レンジ1~50 最大補足10

 

 本来は古今東西の戦場で振るわれ、戦士と共に朽ちた幾千幾万の武具であり、それを元に戦士の血によって鍛え上げることで甲冑と成したもの。各種の具足を一時解体し再度武器として使用することが可能。

 それぞれの武装は武器として一級品でありながら防具としての耐久性は低く、あくまで攻性に傾いた防具である。

 金属というよりは紅く濁る鉱石のような材質でできている。(正しくは躑躅(つつじ)色の紫水晶[アメシスト])

 武装は剣、槍、弓にとどまらず、盾、戦斧、短剣、鎌、戦槌、鉄鎖、鉄爪、鞍、杭、衝角、仕込みや、火器類から複合武器まで多岐にわたる。

 鞍や馬鎧(カタクラフト)を装着することでバイクのような機械でさえも宝具として使用することが可能。

 時代とともに戦場で使用される武器が変わるにつれ、常に変化していく性質がある。

 

備考

 

 

 

クラス     アーチャー 

マスター    テーザー・マクガフィン

真名      ラーマ(化身王)

性別      男性

身長      178cm 

体重      86kg

属性      秩序・善

能力      筋力B+ 耐久A 敏捷B 魔力B 幸運C 宝具A+

イメージカラー 黒陽

特技      人助け

好きな物    公明正大・妻

苦手な物    不公平

天敵      なし

使用武術    古式ムエタイ

 

クラススキル

 

『対魔力』:C

 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。大魔術、儀礼呪法を以ってしても傷つけるのは難しい。

 

『単独行動』:A

 マスター不在でも行動できる。

ただし、宝具の使用など膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。

 

保有スキル

 

『神性』:-

 半神半人としてこの世に生を受けたラーマは現世における神威の代行者であり、本来は神そのものといっても過言ではないほどの最大の神霊適正をもつ。しかしその神霊性は普段は厳重に隠匿されており、宝具「第七権限」の使用により隠された神霊性が顕著する。

これはラーマが「神によっては殺されない」という力を持つ羅刹王ラ―ヴァナに対抗するために与えられた性質である。

 

『カリスマ』:A

 大軍団を統率・指揮する才能。人ならざる稀人としての求心力であり、常人の獲得しうる人望とは一線を画す。

 

『マントラ』:EX

 その身体に宿る神々の真言。その時々に必要な感覚・技能・知識・経験等が自動的に顕著する他、「透化」「千里眼」「千獣の賛歌」「ムエタイ」「仙術」「隠者の作法」といったスキルを任意のランクで獲得できる。

 

宝具

『華神紅輪(クリムソン・ギア)』ランク:B 対軍宝具 レンジ2~50 最大補足50人

 

 ――炸裂する火箭。灼熱の迦楼羅炎によって作りだされた弓の形状は神鳥ガルーダの翼を模している。

 

 放たれた矢は目標の眼前で炸裂し無数の紅弾を雨のごとく降らせる。紅弾は一つ一つがビシュヌ神の象徴たるチャクラムを模した極小のベアリングであり、高い貫通力を持つ。

 

 『ラーマーヤーナ』において、龍蛇を矢として使うラーヴァナに対し、苦戦したラーマは神鳥ガルーダの加護を得た弓によってこれを退けたという。そのためナーガ(神蛇・龍種)に対する圧倒的な優位性を持ち、龍または蛇の属性を持つ敵に対しては追加ダメージが発生する。また、着弾と同時に魔力そのものに対する侵食作用が起きる。

 

『第七権限(アヴァーターラ)』ランク:‐ 対人宝具 最大補足1人

 

 アーチャーの身体に施された概念武装。

 使用と共に褐色の肌が蒼く変化し、さらに黒色へと変わっていく。最終的には皮膚だけではなく、眼球や口腔までもが光輝く黒陽色に染まる。

 あらゆる身体性能が飛躍的に上昇し、スキル・宝具を含むすべてのランクが最大A++まで増強される。

 さらに通常時は隠蔽されている神霊適正が顕著し、自身よりも神霊適正の低い対象からの干渉を大幅に軽減する。(ただし無効化することは出来ない)。

その場合、筋力・宝具等のランクは関係なく、それを行使する者の神性スキルの高さのみが効果判定に影響する。

 また、黒曜石のごとき肉体は高性能の『ビーム・アブソーバー』として機能し、光線系、雷撃系、炎熱系のダメージを無効化し、逆におのれの魔力として充填することが可能。

 

備考

 

 

 

クラス     ライダー

マスター    オロシャ・ド・サンガール

真名 

性別      男性

身長      188cm

体重      80kg

属性      混沌・中庸

能力      筋力B 耐久C 敏捷D 魔力B 幸運A 宝具A+     

イメージカラー エメラルド

特技      

好きな物    

苦手な物    長い陸上生活・退屈な隠居生活

天敵      なし

 

クラススキル

『騎乗』:A

 幻獣・神獣ランクを除くすべての獣、乗り物を自在に操れる。

 

『対魔力』:D

 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。魔力除けのアミュレット程度の対魔力。

 

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

クラス     キャスター

マスター    カリヨン・ド・サンガール

真名 

性別      女性

身長      160㎝

体重      56㎏

スリーサイズ  88・61・90

属性      中立・中庸

能力値 筋力D 耐久E 敏捷C 魔力B 幸運A 宝具C  

イメージカラー モノトーン

特技      ゲリラ戦術

好きな物    

苦手な物    獅子舞

天敵   

使用武術    プンチャック・シラット

 

クラススキル

 

『陣地作成』:B

魔術師として自らに有利な陣地を作り上げる。工房の形成が可能。

 

『道具作成』:C

魔力を帯びた器具を作成できる。

 

保有スキル。 

 

『千獣の賛歌』:A

 獣であるならばあらゆる幻獣・神獣とも意思の疎通が可能。対象を操ることはできないが魅了の効果があり、高ランクでは獣達が自然と役に立ってくれる

 Aランクでは他人の使い魔からでも情報を引き出せる。

 

『芸能炯眼』:C

自他の外観に対する観察眼とプロデュース能力。

対象を視認するだけでそれが特別な隠蔽効果を持つ物でない限り高確率で外部装備および装飾品の効力・状態を看破できる。

 

『呪歌』:B

類稀なる美声。歌って踊れる才能。

 声を聞くだけで魅了・幻惑等の精神干渉が起こる。

 

宝具

 

『流転齎す闇夜の吐息(カーリー)』ランク:C 対人宝具 レンジ1~10 最大補足50

 

 ――左腕のブラック・マジック。

 能力は負の感情の流転。時間をさかのぼり単一のモノに対する悪意・害意・敵意などの対象を別の対象に書き換える。かなり高位の幸運もしくは直感が無ければ察知、回避は難しい。負の感情が強いほど高い効力を発揮する。

 カーリーはヒンドゥー教におけるの狂悪にして強大な女神の名であり、その名は「カーラ」『黒』又は『時間』を表すマントラが元になっている。

 

 

 

クラス     アサシン

マスター    D・D

真名      ハサン・サッバーハ

性別      男性

身長      180cm

体重      60kg

属性      中立・悪

能力      筋力C耐久C敏捷A魔力B幸運E宝具D      

イメージカラー 斑(まだら)

特技      ブービートラップ・詐欺

好きな物    動物実験・傷痕

苦手な物    

天敵      ラーマ

 

クラススキル

 

『気配遮断』:A+

 サーヴァントとしての気配を断つ。隠密行動に適している。完全に気配を経てば発見する事は不可能に近い。ただし、自らが攻撃態勢に移ると気配遮断のランクは大きく落ちる。

 

保有スキル

 

『風除けの加護』:A

 中東に伝わる台風避けの呪(まじな)い

 

『自己改造』:B

 自分の肉体に、まったく別の肉体を付属・融合させる適正。

このランクが上がればあがるほど純正の英雄から遠ざかっていく。

 

『薬物調合』:A

 あらゆる毒物・薬品等を調合できる。ただし、魔術的な効果は付属しない。毒物の効果は致死から催眠、麻痺、幻惑等さまざまで、死期操作可能な秘薬カンタレーラや万能解毒薬ミトリダティオンなどの精製も可能。

 

『偽装工作』:C

 変装、詐術、罠の隠蔽といった敵を欺くための能力。

 

宝具

備考

 

 

 

クラス     バーサーカー

マスター    ベアトリーチェ・ド・サンガール

真名 

性別      女性

身長 

体重 

属性 

能力値 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具   

イメージカラー 灰白色

特技      

好きな物    

苦手な物    

天敵      

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

クラス     セイバー

マスター    遠坂凛

真名      アルトリア

性別      女性

身長      154㎝

体重      42㎏

スリーサイズ  73・53・76

属性      秩序・善

能力値 筋力B 耐久A+ 敏捷A 魔力A+ 幸運A 宝具A++ 

イメージカラー 青

特技      勝負事

好きな物    きめ細かい作戦・正当な行為

苦手な物    大雑把な作戦・卑怯な行為

天敵      

 

クラススキル  

『対魔力』:A

A以下の魔術は全てキャンセル。事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけら   れない。

 

『騎乗』:B

 騎乗の才能。Bランクでは魔獣・聖獣以外のあらゆる物を乗りこなす。

 

保有スキル

『直感』:A

 戦闘時、自身にとって最適な行動を「感じ取る」能力。研ぎ澄まされた第六感は  もはや未来予知に近い。視覚・聴覚に干渉する妨害を半減させる。

 

『魔力放出』:A

 武器、ないし肉体に魔力を帯びさせ、瞬間的に放出することで能力を向上させ   る。魔力によるジェット噴射。

 

『カリスマ』:B

 軍団を指揮する天性の才能。

 カリスマは希少なスキルでBランクは一国の王として十分な度量である。

 集団戦闘において、自身の軍の能力向上効果がある。

 

宝具

 

『風王結界(インビジブル・エア)』ランク:C 種別 対人宝具レンジ1~2 最大捕捉1人

 

 不可視の剣。

 セイバーの剣を幾重にも覆う風で光を屈折させて不可視とする宝具。白兵戦にお  いては武器の形状、間合いを相手に悟らせないため、優位に戦うことができる。

 また、『約束された勝利の剣』はアルトリア、つまりアーサー王たるセイバーのシンボルとしてあまりにも有名過ぎるので、真名開放をせずともその剣を見られただけで彼女の真名が割れてしまう危険性が高い。

 そのため、不可視にすることでそれを防ぐ意味合いもある。

 

『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』ランク:A++ 種別:対城宝具レンジ:1~99 最大補足:1000人

 

 光の剣。人造による武器ではなく、星に鍛えられた神造兵装。聖剣というカテゴリーの中では頂点に立つ宝具である。

 所有者の魔力を“光”に変換後収束・加速させて運動量を増大させ、神霊レベルの魔術行使を可能とする聖剣。

 放たれた斬撃は光の帯のように見えるが、実際には攻撃判定は光の先端のみであ  り、光によって形成された断層が通過する線上の全てを切断する。

 

備考

 

 真名はアルトリア・ペンドラゴン。

 イングランドの大英雄、かの有名なアーサー王であり、ブリテンを統べた王。円卓の騎士の一人でもあり、「騎士王」の異名を持つ。

 半年前の冬木における第五次成敗戦争に召喚され、最終的に汚染された聖杯を破壊した。聖杯戦争の終結後も通常の使い魔として現界している。

 当初は衛宮士郎に召喚されたが、後に遠坂凛をマスターとしている。しかし現在も士郎との仲は良好であり、ともに衛宮邸に三人で生活している。

 現在は冬木の管理者としてのマスター、遠坂凛の命により「再開された聖杯戦争」 という有りうべからざる怪異に対処するため再び夜を馳せる。

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-1

 

 周りの空気は既にとっぷりと夜の色に染まり、月もなければ星も見えない夜の道を、緩やかな坂道に沿って並び立つ街灯の光だけが味気なく照らしていた。

 

 その日、「彼」はいつもどおりに多めの残業をこなし、夜も遅くに家路についた。いつもの光景。彼はいつものように徒歩だ。行き着く先の社宅はゆっくりあるいても二十分も掛からないところにある。いつもの通り、平凡なサラリーマンの繰り返す、平凡な家路への帰途であった。

 

 しかし、その家路に続くはずの道が、いつもとは違った。彼の足はまるでそうすることが当然であるかのように、いつもとはまったく別の方向を目指して歩み始めたのである。

 

 そうしてしばらく歩いたころ、周りにはいつの間にか何人かの見知らぬ男たちが、同じようある方向を目指してひたすらに歩を進めていた。

 

 彼と同じ仕事帰りのスーツ姿の者もいれば、寝巻きの者や警察か警備員のような制服を着ているものもいる。それも一様に声を発する者はいない。余所見をする者もいない。まるで歩む以外の機能を最初から持ち合わせていないかのように。唯一路、ある場所を目指して進んでいく。

 

 どうしてこんなことをしているのだろう。ふと、不思議に思って彼は考えてみようとした。しかし、なにも浮かんでは来ない。それでも一生懸命に考えようとしてみた。すると少し思い出すことができた。

 

 そうだ。

 

 目だ。

 

 目が見えたんだ。

 

 あれは確かに目だった。

 

 そしてどうなった? そうだ。次に目以外のものが見えなくなったんだ。そして声が聞こえた。――

 

 そこまでだった。そこで彼という存在に残された時間は唐突に終わりを告げた。

 

 それでも彼の身体は歩く。動く。ある場所を目指して。

 

 「彼」がそれを思い返すことは二度とないことであったが、それは今日の昼間のことであった。

 

 

「……言い方はよくないかもしれないけど、これまでの俺の人生は平凡そのものだった。可も無く不可もなく、でも堅実にやってきたつもりだ。

 

 仕事だって頑張ってる。朝は八時から夜は十時過ぎまで、常に三、四時間の残業をこなすし。名目上二時間はとらなきゃならない休憩も、自主的に半分返上して、月に一回は休日出勤が入る。――白状すれば、決して楽じゃあないさ。でもやっていける理由があるんだ。

 

 昔は馬鹿もやったが、今は丸くなって家族だけが宝物だと思ってる。ホント、仕事はつらいけど、毎日が充実してるよ。今じゃ仕事が俺のプライドさ! 確かに平凡だったかもしれない。でもいつも全力で精一杯に生きてきた。だから不満は何処にもないんだ……」

 

 しかし滔々と語るその声に応えたのは、まるで溜息のような深い憐憫を込めた言葉であった。

 

『君たちは、本当に……滑稽なほどに意味の無い生き方をしているんだね……。まるで辺獄の囚われ人のようだ……。でも安心して欲しい。その、まるで無為な人生に、僕が重要な意味を与えてあげるから……』 

 

 もはや感心するとばかりに、つぶやくように。するりと内側まで侵入(はい)って来る、ひどく優しい言葉……。

 

 時間にすればほんの数分程度の時間だったことだろう。

 

 最初は向かい合っていた青年の目が、灰色の光芒を発して光るのが見えたのだ。白昼の陽炎にまぎれて淡く光っていたそれが一瞬にして光量を増した。否、そうではない。

 

 その光以外のものが彼の視界から消失し、その仄暗い光だけが全く塗りつぶされた闇の中で輝いていたのであった。

 

 それを見つめた瞬間、彼の意識からは時間、空間の認識が取り払われ、むき出しになった自我は個という矜持を否応なく剥奪された。

 

 そして眼窩から頭蓋の中に冷たい手のようなものが入ってくるのが分かった。それはま水母の足のようなものにも思えた。人の手かと思われたものに、くらげの足のような指が幾つも生えていたようだったからだ。それが彼の最後に残っていたものに取り付いてバラバラに分解しはじめた。ほどかれ、はずされ、洗われて、攪拌され、削られ、つなげられ、磨き上げられて――最後には彼の中身はまったく別のかたちになっていた。彼ではあったが別のものであった。それは彼という部品で組みかえられた別の彼であった。

 

 それを見る。見つめて、目が会う。おぞましい吐き気に襲われ、

 

「はっ?!」

 

 ――絶叫を張り上げる代わりに我に返った。今しがたまで見ていた気味の悪い夢のことは忘れていた。なぜか? 忘却せねば生きていられぬからだ。しかし幸か不幸か、彼はそれを最後まで知りことはなかった。

 

 彼はあたりを見回す。なじみの公園。よく座る木陰のベンチだ。

 

「あれ?」

 

 そうだ、自分は昼休みに食事をしようと外にでてきて、それで妙な外国人に声を掛けられ、どうでもいいようなことを話したのだった。

 

 だがその途中からの記憶がない。見回してみても、もうあの外人の姿も見当たらない。

 

「あっ、昼休みが終わっちまうじゃないか」

 

 時計を見ると時刻は既に一時近い。結構な時間呆けていたらしい。こうしていられない、早く仕事に戻らなければならない。

 

「……疲れてんのかなぁ?」

 

 駆け出す背広姿の男性の背中を見送って、芝生の上に腰を下ろして分厚い本を愛でていたその青年はゆっくりと立ち上がると、その場から立ち去った。

 

 道すがら、青年は春の風がほころんでいるかのような華やかな声を歌っていた。

 

「これで……四〇と一……いや、二か。もう少し欲しいところだけど、まぁ城攻めの用意としてはこんなところかな?」

 

 傍らの気配が音もなくそれに首肯した。伝わってくる気配には待ちきれないかのような急いたものが感じられた。青年はフッと微笑を浮かべ傍にいる霊体に語りかける。

 

「さあ、行こうか、ライダー」

 

 決行は夜。準備は整った。 

 

「君流に言うなら……そう、『ショータイム』だ」

 

 

 そして深夜。ひたすらに歩き続けた男たちの一団は次第にその数を増し、郊外の県道に用意されていた何台かの車両にすし詰め状態になるのも構わず乗り込んだ。

 

 その車種も業務用のトラックから乗用車、果ては救急車や消防車まで、まるで寄せ集めの出鱈目な組み合わせであった。にもかかわらず、その烏合の衆のはずの男たちの集団は全く揉めることも、否、一言の会話をすることもなくおとなしく押し込められ、そろってある場所を目指して走り去ったのだ。

 

 まるで家畜のようにトラックの荷台に押し込まれた「彼」は去り行く街の明かりをぼんやりと見ながら最後に、はやく家に帰りないなぁ、と思った。

 

 しかしそれっきり、彼が日の目を見ることはなかった。彼が、慣れ親しんだ我が家に帰りつくことは二度となかったのである。

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-2

 

 正午を過ぎてしばらく経ったころであったから、もう時間的にも来客のピークを過ぎていたのか、はたまたその少女の纏う空気に気圧されて誰知らず道を明けたのか、彼女は特に問題もなく注文を済ますと、運ばれてきた二人分のコーヒーを受け取りそのまま店を出た。

 

 まだ日の高い秋口の午後、暖かい陽光を浴びながら少女の足は規則正しくアスファルトを蹴る。

 そして少女は結い上げられた柔らかな金の髪を揺らしながら、人ごみを避けるように細い路地へと入っていく……。

 

 そして少女が辿り着いたのは袋小路であった。目の前にあるひときわ大きな壁は先日移転してしまった大手デパートが入っていたビルの背面であった。市内でも古くから愛されてきた老舗で、彼女も何度か知人に連れられて訪れたことのある場所である。しかし、今では老朽化を理由に取り壊しも決まっているらしくビルそのものが既に封鎖されてしまっていた。

 

 しかし封鎖如何に関わらず、どちらにしてもこの場所からでは裏口も何もなく、ビルに入ることは出来ない。

 

 だが少女は眼前に聳え立つビル壁をゆるりと仰ぐと、ガラスの階段でも登るかのような足どりで天高く跳躍し、そのまま垂直な壁面を蹴って屋上まで駆け上がってしまった。無論、常人になしえる体術ではない。

 

 そして少女は羽でも舞い降りたかのような軽やかさで、音もなくそこに降り立つ。人の営みが絶えて冷え切った無機質な空気が彼女を出迎えた。

 

 人目を気にするなら、新都で最も高い場所であるセンタービルの屋上というもの考えたが、あそこは閑散としすぎていて談話の席としては相応しくない。それで彼女は見覚えのあったこの場所を選んだのだ。

 

 デパートの屋上はベンチや植え込みが設置され、天蓋付きのカフェテラスも以前見たままの状態で置かれていた。彼女はそのうちの一つに腰を下ろした。

 

 おそらく最後の終業の後にもしっかりと清掃してあったのだろう。既に廃棄が決まっているにも関わらず、白いテーブルやチェアーも思いのほか清潔に保たれていた。この場所が如何に大事にされてきたのかが窺えて、彼女は僅かに眼を細めた。

 

 そして、待つ。新都に入ってから、否、あの夜から常に彼女についてまわっていた紅い視線の主を。

 

 するとほどなくして、彼女の背後の植え込みのあたりで重厚な存在感が実体化を果たし、ひどく厳格な響きの声音を発したのである。

 

「なんのつもりか、騎士王」

 

 

 

 この日、テフェリー・ワーロック、ランサー、セイバー、そして衛宮士郎の四人はあるものを手に入れるために新都の中心街を訪れていた。何でも当初からランサーが所望していたものであるらしく、知らせを受けてからというもの彼女は終始ご機嫌であった。

 

 対照的に意気消沈している。――筈なのが、その代行マスターとして同行しているテフェリーである。

 

 昨夜のことだ。

 マスター・ワイアッドに、自分の作った料理の感想を訊いてみたらいいのではないか、という提案をした士郎の言葉に奮起した(と、思われる)彼女は(傍からはそうとわからずとも)かなりの意気込みを抱いていたようで、その気の入れようは脇で作業を見守る士郎にもありありと感ぜられたほどだ。

 

 しかし、万全の用意を整え、彼が何時戻ってきてもいいようにと不眠不休の体制で主の帰還を待っていたテフェリーだったが、しかしその主たるワイアッド・ワーロックはとうとう戻ってくることはなかった。

 

 その日は「特に取り上げるような事柄はなし、戻る手間が惜しいのでこのまま調査を続行する」とだけ、使い魔による簡潔な報告だけを入れるに留まったのだ。

 

 おかげで、気合を入れてテフェリーと士郎が用意をしていた料理は、ワイアッドの口に運ばれることはなかった。

 

 とはいえ、夜半になってキャスターの追跡から戻ってきた凛、及び事情を知っており、テフェリーを慰めようと率先して(?)その夜食に参加したサーヴァント達には大いに好評であったのだが、それでもテフェリーが消沈しているのは眼に見えて明らかであった。

 

 気持ちは解る。と、気遣う士郎に、テフェリーは、別に問題はありません、といってそれきりだった。

 

 今朝になって、凛が再び単独行動に移り、今こうして四人で外出する弾になっても、ついぞ平時の鉄面皮を曇らせる事のなかった彼女だったが、やはり何処か気落ちした刺々しい気配は否めなかった。

 

 正規マスター達が単独で別行動をとっている間、彼ら四人は常にまとまって行動する方針となっていたので四人は昼食を済ませた後でそろって新都へ向かった。

 

 しかし、残りの三人を引率しながら衛宮士郎は辟易して溜息を漏らしかける。覚悟していたことではあったが――この三人、異様に、目立つ。

 

 如何ともし難く、目立つのである。本来ならセイバーひとり連れ歩くだけでも道行く人々の好奇と感嘆の視線を集めてやまないというのに、今日はさらに大仰な看板を二枚も背負っているのだからたまらない。

 

 どうあっても集まってくる視線の雨を避けることは出来ない。しかもここは新都の中心街である。怪異なる空気の席捲する夜間ならいざ知らず、昼間の間は普段と変わらず相当数のギャラリーがひしめいている。

 

 せめてランサーだけでも霊体化できないかと取り合っては見たのだが、当の本人は「霊体化したのではテフェリーやセイバー、そして道行く野花のような少女たちの顔をこの目で眺めることが出来ないではないか」などとのたまい、取り合おうともしないのであった。

 

 それはテフェリーから言及があっても同じことであり、結局は彼女も折れて(不本意ながらもこういう事態のために)用意してあったランサー用の私服を着せて同伴することと相成ったのである。

 

 さすがにあの凱甲仕立ての衣装で出歩かせるかけにはいかないということは、彼女たちにしても予見してしかるべき事態であったのだろう。

 

 そして忘れてはならないことだが、テフェリーもまたそのままでは往来を往くも憚られるであろう服装である。よって、その俗に言うメイド服の上にはあの夜と同じ真っ白な外套を羽織り、首元までぴっちりと襟を合わせていた。浮かぶのはあのときと同じ、漆黒の夜の中で月を背負った白と鋼のシルエットだ。

 

「――どうかいたしましたか、エミヤ様」

 

 まだ日も高く、下手したら少々暑いのではないかとも考えたが、余計な詮索かと思い、士郎は口を噤んでいた。

 

「あ、いや、なんでもない。それよりもセイバーはどこ行ったのかな」

 

 新都の中心街に着いてみると案の定、四人は人ごみに呑まれてしまった。連休中ということもあり思いのほか人の数も多い。何かイベントでも催されているのかもしれない。慣れない者ならこのまま人波にさらわれてしまう可能性もある。

 

 そう思って注意を呼びかけようと三人の姿を探したのだが、どういうことかセイバーの姿が見えないのだ。うかつであった。召喚されて間もないランサー、日本に慣れていないテフェリーの両名に比べれば、半年以上この街で生活しているセイバーのことは安心していたのだが、そのセイバーとてこの中心街に出向いたことは数えるほどなのだ。決して迷わない、と断言できる保障はなかった。

 

 パスの繋がった正規のマスターならすぐにその居場所を探ることもできるのだろうが、今現在は代行のマスターに過ぎない彼には、それが叶わない。

 

「やっぱりはぐれたのか? くそ、俺がもっとしっかり見ておけば……」

 

「いいえ、違います。……どういうことですか、ランサー」

 

「え?」

 

「はて、何のことか……」

 

 そらっとぼけようとするランサーの態度に、テフェリーはあくまでも生真面目に詰問の声を投げかけた。

 

「私がセイバーに付けておいた『糸』がはずされています。……どうやらセイバーは単独行動をとるつもりのようですね。ランサー、なぜあなたはそれを見送ったのです、気付かなかったはずはないでしょう」

 

 言葉もない士郎を他所に、ランサーはその闘時の重厚な鎧姿からは想像もできないほどに白く細い肩を竦ませると、『ばれたか』とでも言わんばかりに素知らぬ顔で舌を出した。

 

「セイバーが!? いったいどうして……いや、それよりもまず『糸』ってなんだ」

 

 そのランサーの様子に士郎もようやく声を上げたが、そのとき唐突にベルトのあたりを引っ張られた。何かと思って驚愕混じりに振り返るが、後ろにいたのはランサーだけだった。

 

「え? ランサーか、今の」

 

「やれやれ、鈍い奴だな」

 

 すると今度は上着の裾が前に引き寄せられ、前につんのめりそうになる。そしてようやく気付いた。疎らな雲間から降り注いだ淡い日の光に照らされて、一条の銀の筋が見えている。あの夜と同じだった。こうして注視してみなければ、その存在に気付くことすら出来ない繊細な銀の糸。

 

 それがまるで犬に付けるリードのように彼の身体とテフェリーの手を繋いでいたのであった。

 

「ちょっ……これっ」

 

「申し訳ありませんが、屋敷を出るときにお二人にはつけさせていただきました。よほどの魔術師でもない限り察知することもできないでしょうから、あまり落ち込まれる必要はありません」

 

 そういう問題ではない。……といってみたところで何も始まらないのだろうか?

 

 ともかく、つまりはこの糸はセイバーにもつけられており、彼女はそれを自力ではずして独断先行という挙に打って出たというのだろうか?

 

「セイバーが一人で行ったなら、あなたが気づかないはずもないでしょう。どういうつもりなのです、ランサー」

 

「ちょいと、野暮用だそうだ」

 

 どうやらランサーはセイバーの思惑を知っているようだった。もしかしたら昨日のうちから二人で申し合わせていたのかもしれない。

 

「野暮用って、セイバーがどこに行ったか知ってるのか?」

 

「どうやらヤツと一度サシ(・・)でやりあうつもりらしいな。フフ、さすがは伝説の騎士王。やることが粋だとは思わんか」

 

 士郎はしばし息を呑んで言葉を失った。ランサーの言う『ヤツ』とはつまり、

 

「……まさか」

 

「そういうことだ。あの阿呆を呼び込んで直に話をつけるつもりらしい」

 

 アーチャー。あの黒陽色の巌の如き剛雄と、セイバーは今一度対峙しようというのか? しかも今度はたった一人で。

 

「何故止めなかったのです、ランサー」

 

 士郎が驚愕のあまり出そうとして出せなかった言葉を代弁して、テフェリーは刺すような視線を従者に送るが、しかしランサーは鼻息一つでそれをあしらった。この女、相手が懇意の対象だからと無条件で従うというほど殊勝な性質ではないらしい。

 

 相手が誰であれ、己が矜持にそぐわぬことには全力で抗うのがこの蛮勇の常なのであろう。そしてこのランサーの戦闘者としてのそれはセイバーよりも遥かに粗暴で、そして不可侵なるもののようであった。

 

「今後ヤツが来るのだとしても、このまま二人がかりで相手をするなぞ無粋の極みだ。こちらとしても、そんな茶番は願い下げなのでな」

 

「けど、」

 

 食い下がろうとする士郎に、ランサーはひどく真摯な声で告げた。

 

「行かせてやるがいいさ、セイバーにも、そしてあの腑抜けにも英霊として通すべきスジというものがあるということだ」

 

「……」

 

 それでセイバーは独断先行してしまったということなのだろうか? 平時の冷静な彼女ならありえないことだと思えたが、士郎はここで一昨日の夜からひとり物思いに耽るふうであった彼女の様子を思いだす。そうまでして彼女に行動させてしまう何かがあったのだろうか? つまりはあのアーチャーに。

 

「ともかくセイバーの行動は許諾できるものではありません。私が探しに行きます」

 

「じゃあ、みんなで手分けして」

 

「無用です。ランサー、なにかあったら糸で伝えなさい」

 

「……」

 

 ランサーは返答の代わりとでも言うように、いつの間にか指先に取り付いていた、ほとんど目視もかなわぬ光の筋を弾いてみせた。

 

 しかし今、本当にセイバーがどこかであのアーチャーと対峙しているというのなら自分がこんなところにいるべきではないのではないか。士郎は焦燥に顔をゆがめるが、

 

「まァ、問題はあるまい。双方とも、どう転んでもこんな場所でことを構えるような輩ではなかろうよ」

 

 それを見透かしたかのように、ランサーは落ち着き払った声で語るのであった。

 

 だが士郎は悲痛に歪めた眉根を緩めることが出来ない。セイバーはなぜそんなにもむきになってあのアーチャーに執着するのか。

 

 唇を噛む士郎を見下ろして、ランサーもそれを真似るかのように、さも忌々しげに眉根を寄せて告げた。

 

「悪いが、行かせるわけにはいかんぞ。貴様のことはセイバーに頼まれとるからな」

 

「え?」

 

「ふん。セイバーはな、不忠を責められるのは覚悟の上だが、それでもお前にいらぬ心労をかける、とまで言って辛そうな顔をしていたぞ。あのような可憐な眉根をひそめてまで、なッ。……全く、お前のようなガキにはもったいないことこの上ない」

 

「それは……」

 

「つまりは追って欲しくない、ということだろうさ、分かれ。そして察しろ。言わずとも」

 

「……追わないにしても、ランサー。セイバーの気配だけでも探れないのか? 居場所だけでも……」

 

「無理だな。あたしの探知力もセイバーのそれとそう変わらん。それにな、たとえ探れるほどの力があっても今は無理だ。何時からなのかは知らんが、町全体に妙な雑音みたいなものが流れている。そいつのせいで今この街では魔術的な探査が一切出来んのだ。

 我らがここに来たばかりのころはまだ出たり消えたりしていたが、このころは延々と流れて来とるようだな」

 

 そういえば、と士郎は思い返す。確かに遠坂がそんなことを言っていた気がする。最近、深夜になると流れ始める、耳では捕らえられない奇怪なノイズ。それがこの怪異を疑い始めるきっかけになったのだとも。

 

 しかし、魔力探知など出来ない士郎にはいまいち実感の出来ない感覚なので今まで失念していたのだ。

 

「それなら、なおさらバラバラになるのは危険じゃないか」

 

「まァ、そう心配する必要もなかろう。セイバーもテフェリーも、可憐ではあってもひとかどの戦士だ。ほっといてもさして問題はないだろう。自分の身ぐらいは守れるだろうとも。……というか、一番の問題は弱っちくて自衛もままならそうななお前のほうだろうが。少しは自分の心配をするんだな」

 

「…………」

 

「ほれ、さっさと用事を済ませてしまおうではないか。とっとと案内せんか!」

 

 何も言えない士郎の背中を、馬の尻でもひっぱたくような勢いでどやしつけながら、ランサーは急かして来る。

 

 連絡された住所を頼りに目的地まで辿り着くには、地元の地理に明るくなければ難しい。それは分かる。分かるのだが、ランサーのこの刺々しい言い草はどうにかならないものかとも、さすがに思うところではあったが、確かに半分は間違っていないかもしれない。

 

 このメンバーの中では自分が最も脆弱であるのは自明のことだし、ランサーも別段悪意があったわけでもなく、ただ事実としてそういっただけの話なのであろうが、

 

「……しかしあれだな。心配といえば、むしろ、どちらかといえば、セイバーとうちのマスターとの関係が崩れないことを祈るべきだな……」

 

 そう言って今度は彼女らしくない憂いにその顔を歪めた。しかしころころと様変わりするその表情のどれをとっても、それぞれがまったく別の造形美を主張する絵画のように空間に収まってしまうのだから、どうにも始末が悪い。

 

 そして、その言葉もまた正確に的を射ている。あのセイバーのことである。テフェリーのどんな叱責も甘んじて受けるつもりなのだろうが、どちらも融通のきかなそうな性格だけに、ランサーの言にも頷かないわけには行かない。

 

「心しておけよ? いざとなったら骨を折るのは貴様の役目だゾ、小僧」

 

 他力本願この上ない己の言葉にうんうんと首肯しているランサーを、憮然としながら背中で(いざな)い、士郎は目的地の住所を目指した。

 

「……ここだ」

 

 そうしてランサーにせっつかれながら辿り着いた先にあったのは、大型の貸しガレージであった。

 

「おお、ここか! どれどれ……うむ?」

 

 士郎を押しのけたランサーは見慣れないシャッターに少し面食らっていたが、すぐに考えるのをやめたようで、今度は嬉々満面として力任せにシャッターを押し破ろうとした。

 

 それを慌てて止めさせ、士郎が改めて伽藍のような倉庫内を先導する。中は殆ど物がなく、開けた空間の中央には唯一つのものが鎮座していた。

 

「――これはッ……」

 

 予想だにしなかったその威容に思わず息を呑んだ士郎に、ランサーが白く輝く歯を剥き出してみせながら微笑んだ。

 

「――まさか、この時代で軍馬を所望するわけにもいかんからなぁ」 

 

 士郎は暫し呆けるより他なかった。さすがにはじめて真直に目にするそれに、驚きを隠せなかった。

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-3

 早朝からあてどなく街をさ迷い歩いていた彼の細い足は、既に棒のようになってしまっていた。

 

 もはや万策尽き果てて公園の中のベンチに腰を下ろす。太陽が昇るにつれて人の数もどんどんと多くなってきていた。人ごみに不慣れな彼は人の波に酔ってしまいそうになり、ここまで避難してきたのだった。

 

 そして途方に暮れる。どうしてこんなことになったのかと、無益だとは承知しながらも一時の気の迷いにかどわかされた己の迂闊さを、繰り返し嘆かずにはいられなかった。

 

 一昨日に留守番を嫌って深夜まで買出しに出ていた鞘は、そのとき幾人かの敵と戦闘になり、買い出した物資ごとバイクを盗難にあったのだという。

 

 一時ばかりは日頃の不徳の成せる業だと、それを密かにせせら嗤ってみたカリヨンであったが、まさかこういう形でそれが己の身に跳ね返ってくることになるとは予想できなかった。

 

 今朝になって再度買出しに行くと言い出した(日用品といっても、ほとんどは鞘個人の買い物なのだが)鞘に、彼は有無を言わさずにこの新都まで連れだされたのだった。

 

 まさしく寝耳に水の事態であったが、しかし一方でそれを僥倖だと感じてもいる自分も確かにいたのだ。無論のこと、こんなところに連れてこられるのは不本意きわまりないことであったが、正直なところ、現状の彼は何処でもいいからあの城から離れたいと思っていたのだ。

 

 理由は一つ。昨夜、この上もない醜態を見せてしまったキャスターに、今になってどのような顔を向ければいいのかわからなかったからだ。

 

 また引きこもっていらぬ心労をかけたくはなったが、面と向かうには少し時間が欲しかった。だから、鞘に買い物に付き合ってと言われたときにはむしろそれを天の助けかとさえ思ったのだ。

 

 本当に、どうかしていたとしか思えない。

 

 そう思っていたのも束の間。このような事態になってはとてもそうは言っていられない。新都に着くや否や、地に足が着いていないのかと錯覚するほどに浮き足立った鞘はカリヨンを放ったままどこぞへ姿を消してしまい。今現在彼は鞘を捜して見知らぬ街をさ迷い歩いていたのだった。

 

「最悪だ……」

 

 そして今はひとり腰掛けた公園のベンチで、辟易したように悪態をついてみる。

 

 こんなところで一人にされてしまってはどうしようもないではないか。鞘をひとりおいて帰ってしまうわけにも行かないし、そもそもキャスターを連れずに来ているのだから、鞘をおいて行動したのでは、いざという時危険な目に会うのは自分なのだ。

 

 キャスターも白昼の間、さらに鞘が一緒ならば、という条件で渋々自分を送り出したというのに――まったくどうしてああも思慮の足りない判断ができるのだろうか。

 

 いくら考えてみてもその行動哲理を理解できず、カリヨンは理不尽な不条理に苦しまざるを得ない。

 

 その白い貌に浮かぶ沈鬱な表情は、そのねじくれた理と情の齟齬からくる発露であった。

 

 しかしこうして一人になってみれば、どうしても昨夜のことを考えざるを得なくなる。今でさえ、アレが悪夢だったのではないかと思えてくるのだ。

 

 いや、事実アレは悪夢だった。冷えた風が、白い首筋を薙いだ。少年は本能的に己の痩せ細った身体を抱く。今になっても恐ろしくてたまらないのだ。

 

 それは、あれが彼にとっての、恐怖と喪失の原風景だからに他ならない。

 

 少年は独り、昨夜の凶事を思い出しては体を強張らせる。いくら追い払おうとしても、過去から逃れられないのだと言う絶望の感覚が、こびりつく様にして離れようとはしてくれない。

 

 他にできることもなく、陰惨な思考を振り払おうとして再び一人で悪態をつこうとして、それさえも出来なくて、少年はなにかから身を隠すように小さな背を丸めていた。

 

 しかし、そこではた、と自分に注がれる視線を感じて顔を上げた。

 

 見えたのは鮮やかなグリーンとブラウンの双瞳であった。

 

 カリヨンは思わず呆然として思わず「あっ」と声をもらした。わが目を疑い。夢現の区分を失い、ただただ、惚けることしかできない。

 幻覚か? 亡霊か? ――否、例えそうであっても、構いはしない。

 

 彼の心の中に、久しく感じることのなかった暖かいものが溢れた。あの日、揺籃の記憶と共に置き去りにしてしまったはずのものが、――失ったはずの半身が、今、何の予兆もなく、再び彼の元へと姿を現したのだ。

 

 感じたこともないほどの強烈な郷愁をともなって。まるで厳冬に追いすがる春風のように――

  

 

 

 一人単独で行動を始めてしまったセイバーを探していたテフェリーだったが、今度は自分の方が慣れない人ごみに迷ってしまった。それでも彼女は四方に探索用の糸を飛ばし、構わずにセイバーを探す。

 

 マスター・ワイアッドは四人で行動するように言ったのだ。勝手にその規律を乱そうとすることは許せない。なんとしてもセイバーを探し出し、一刻も早くランサーたちに合流させなければならない。

 

 セイバーがあのアーチャーと接触しようと目論んでいるのであれば、まずは人目につかない場所を選ぶ筈である。この人の溢れる界隈ならば自然と場所は限られてくる。戦うつもりがないというのならば、人二人が対面できる死角の多い場所。

 

 そう考えて、テフェリーは近くの公園に足を運んでみた。確かに人の数も多いが、雑踏に比べれば死角や物陰は多い。まずはこの公園全体に糸を廻らせて異常がないかどうかの確認をしようとして、そこで彼女はあるものを発見した。

 

「――魔術師ッ」

 

 テフェリーは静かに、そして低く声を上げた。この距離に近づくまで分からなかった。そこにいたのは確かに令呪を備え持った少年の姿。それは彼女の知らぬサーヴァントのマスター。つまりは彼女の敵だと言うことを意味する。

 

 少年がふいに顔を上げ、長い銀色の前髪の奥の視線が彼女の二色のそれと交差した。

 

 もちろん今は人目もある。いきなり首を落として終わり、というわけにもいかないだろう。何より、どこかにサーヴァントを待機させているのなら、奇襲は無駄に終わる。

 

 かといって、逃げるもの得策ではない。この彼我の間合いでは敵からの接触を阻むことは難しい。故に、彼女はまず敵と対峙することで情報を得ようと考えた。

 

 ある意味では無謀な行いとも思われたが、彼女は果敢であった。今更己の保身など考えはしない。殺せるならこの場で刺し違えてでも殺す。殺せないなら一つでも多くの情報を得てそれをランサーに告げてから死ぬ。そう決意した。決めた――はずの瞳は、しかしすぐに不可解な瞠目によって曇らされることとなった。

 

「……ほんとうに、きみなの……?」

 

 敵対した筈の魔術師、敵だと認識した筈の少年の白い頬にいくつもの涙があふれていた。

 

 立ち上がった背丈は彼女よりも幾分低い、矮躯の少年。その顔を見下ろすように注視すると、その顔に浮かんでいたのは紛れもない歓喜だった。

 

 予期しえぬ敵の反応に、テフェリーは一層警戒を強める。しかし動揺は否めない。この敵の挙動はあまりにも予想外すぎた。

 

「止まりなさい! ……何者です」

 

「そんなッ……テフェリー。――僕だよ、カリヨンだ! わからな……い、の?」

 

 歩み寄ろうとする少年を声で押し留めようとするが、聞こえていないのか、彼は止まろうとしない。

 

「……どうして、私の名前を!?」

 

「でも、……でも、よかった。……よかったよ、テフェリー。だってもう、二度と、会えないって。思って、僕は、ずっと…………ッッ、そうじゃない。違う。とにかくよかった。生きててくれて、君が生きてたのが嬉しいんだ。よかった……」

 

 そう言いながら、なかば咽びながら、少年は無造作に間合いを詰めてくる。どうする? 元よりこの距離ならば首を落とすことも容易い。しかし敵の言動があまりにも不可解過ぎる。

 

 さしものテフェリーも、先手を取ることを躊躇せざるを得ない。

 

 錯乱しているのか? それとも、元から? 初めて見る敵。何かの儀式、準備、用意、ブラフ、フェイント、時間稼ぎ……。

 

 彼女の間合いでなおも無防備な姿をさらす相手。不確定要素が多すぎる。まずはこの敵の情報を知らねばならない。少なくとも、向こうは自分のことを知っている。……の、だろうか? それとも、そのように振る舞っているだけなのか。

 

「――なにを言っているのです。私は、あなたのことなど……知りません」

 

「そんな…………僕だよテフェリーッ、カリヨン・ド・サンガールだ。僕らは……」

 

「サンガール! ……ならば、あなたは間違いなく私の敵に相違ありません。断言しますが、あなたは――ッ、私の敵です!」

 

 少年は唖然として、その後何事かを訴えかけるようにしてテフェリーに転び寄ろうとした。刹那、二人の間で銀色の糸が鋼板の鞭の如く振り下ろされ、地面に幾つもの斜線が引かれる。

 

 テフェリーの威嚇だ。しかし少年はその閃刃の鋭さではなく、自分を知らないといった彼女の言葉にこそ打たれたかのように、言葉尻を掠れさせる。

 

「覚えて、ないんだね……」

 

「なにを……」

 

「い、いきなり、ごめん。……でも嬉しかったんだ。僕は、……僕は君が、あの時、死んでしまったと、思ってたから……。あの時、――あの時、七年前ッ、僕はまだ七歳で、君は、十歳ぐらいだった……」

 

「……何のことです? 貴方は何者です? 誰だというのですか? そんなこと、私は知らな……」

 

 都度、(つか)えるように絞り出す少年の言葉。それを断じようとしたテフェリーの内側で、しかし、不意に色彩がざわめいた。

 

 記憶の奥を揺さぶるような色。蒼い色。なんだろう、これは何なのだろう。同時に沸き上がる見知らぬ感情。恐ろしくなった。奇妙に温いそれを、彼女は反射的に忌避していた。

 

 テフェリーは頭を抱えた。萎えた銀糸を振り払い、カリヨンは無造作に彼女に駆け寄り、その肩に触れる。

 

「大丈夫だよテフェリー! 大丈夫だから……」

 

 瞬間、体が弾けそうになった。よく解らないものが体の内側から脳天に向けて、爪先に向けて四散した。全身を貫いた。貫いて取って返して引き裂こうとした。まるで訳が解らない。

 

 これが、この敵の攻撃なのだろうか? こんなにも苦しく、こんなにも恐ろしいのならば、もはやこの敵を探る必要も、様子を見る必要もない。はやく、はやくこの敵を引き裂いてしまわないと――

 

 わななく幾筋もの鋼糸が少年の体に巻きつく。後は力を込めればいい、それで終わる。そうすればこの柔らかく暖かい手も、華奢な身体もみんな八つ裂きにしてしまえる。

 

 そうだ、この白い頬も、懐かしい匂いのする銀色の髪も、■■だった■色の瞳も、優しい声色もみんな――。

 

「――――あ、あっあ――」 

 

 しかし彼女の頬に流れたのは引き裂かれた少年の血色の雫ではなく、見たこともない色の涙だった。初めて見た自分の涙の色だ。

 

 彼女の混乱はここに極まる。どうして殺せない? 私は武器だ。なのに。――

 

 理解できない。何も理解できない。何も分からない。恐怖だった。恐ろしい。恐くてたまらない。恐い、恐い、恐い。――

 

 総てが恐ろしかった。世界の総てが理解できなくなって声を上げそうになった。誰もいない真っ暗な海の上を歩く迷子みたいな、か細い声を上げそうになった。

 

 世界のあらゆるものが恐ろしかった。多すぎる見知らぬ人間も、始めてみる町並みも、嗅いだことのない匂いも、逃げ出そうとして踏みしめる土の感触さえ、恐ろしくて仕方がない。

 

 なのに、それなのに、いま眼前にいるはずの、敵であるはずのこの少年だけが――恐くなかった。それが、一番理解できないことだった。

 

 とっさに肩に置かれた少年の手を振り払い、立ち去ろうとしたテフェリーだったが足が縺れてその場にへたり込んだ。何かを吐いてしまいそうだった。思いもがけぬ潜在的な恐怖があった。それは正体と大きさの計り知れないものが、今にも足の真下から浮かび上がってくる恐怖に似ていた。

 

 蹲ってしまったテフェリーの背中をそっと捕まえ、カリヨンはどうするかを考える。糸は彼の体から流れ落ちるように離れ、足許に幾重にも弧を描いて散らばっている。まるで今のこの少女の心を代弁するかのように。

 

 彼女の混乱は充分理解できた。様々な思考、想い、感情が彼の中を混在しながら右往左往する。彼もまた混沌の坩堝(るつぼ)の中にいた。しかしそこで、ただ一つの事実が、ある答えを導き出した。

 

 今、この街にはアイツ(・・・)がいる! 

 

「聞いて、テフェリー」

 

 それだけでも伝えなければならないという一念で、カリヨンは彼女に語り掛けようとした。しかし、彼女の混乱は、もはやそれに取り合う暇を許さなかった。

 

「――あッ――う、」

 

「いま、アイツが、」

 

 あの日、君を殺した。殺そうとした、アイツが……

 

 言い終わるより先に、テフェリーは少年の矮躯を突き飛ばし、空を蹴って逃げ出した。

 

 そしてまたも彼女の中に訳の解からない感情が巻き起こる。テフェリーの身体はビルの間を飛び去る間もひどく強張ったままで、もはや瘧に見舞われたかのように震えていた。

 

「テフェリー……」

 

 取り残されたカリヨンはそのまま跳び去るテフェリーを呆然と見送ることしか出来なかった。

 

 気が付くといつの間にか口の中に血の味がした。突き飛ばされて切ったのかもしれない。それで、確かめるまでもなく理解してしまった。これが気まぐれの夢魔が用意した、悪辣な白昼夢ではないのだということを。

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-4

 

 切歯する心情を、しかしその白い相貌には上らせることなく、彼女はただ黙して待ち人の到着を待つ。

 

 ヤツは来るだろうか?

 

 ――来る。セイバーには確信があった。

 

 新都に入ってからますます強烈に彼女についてまわっていた視線。それが今さらに苛烈に温度を増してセイバーの全身に照りつけているのである。来る。必ず。――そして。

 

「何のつもりか、騎士王」

 

 果たして、待ち人は来た。

 

 案の定、現れたのは見るまでもなく明白な気配。そして茶褐色の剛体と金剛石を想わせる硬質な存在感であった。アーチャー。一昨日にセイバー、そしてランサーと武を交え、神の化身を名乗る弓兵のサーヴァント。

 

「――まずは、座らないか」

 

 そう言って問いには答えず、セイバーは向かいの席にテイクアウトしたお茶を差し出した。暫しのあいだ黙し、アーチャーは大人しく席に着いた。

 

「……(かたじけな)い」

 

 恭しく礼を言い、しかしさすがに当惑を隠しきれない様子でアーチャーは先だっての言葉を続けた。

 

「しかして、これは異なことだ。騎士王よ、(それがし)を斯様な席に招いて何を語ろうというのだ」

 

 セイバーは真っ直ぐな視線とともに、低く厳格な声音を向ける。

 

「語るのではない。私は、貴殿に問わねばならないことがある」

 

「問い、とな?」

 

 さらに当惑を深めた様子のアーチャーを見すくめながら、セイバーは言葉を重ねる。

 

「解せぬか。化身王」

 

「……解せぬ」

 

 セイバーは己を落ち着けるように一拍の息を置き、言葉を切り出した。

 

「ならば言おう。貴殿が何に惑い、何を迷うのか! 私は……身命を賭して、この場でそれを問いたい」

 

「……その覚悟の程、敬服いたそう。しかし、まさか揶揄の類とは思わぬが……」

 

 そこで初めてアーチャーは差し出されたお茶に口をつけた。そして一泊の間をついてから、その真紅の双瞳を見開いた。

 

「それを問うてどうするつもりだ。騎士王、問うて……其処許(そこもと)は如何とする?」

 

 セイバーの翠緑の瞳が、向けられてくる真紅の視線を真っ向から受け止めた。対峙する両者の間では剣戟のそれにも似た火花の気配がパッと咲き閃いたかのようだった。

 

「貴殿の心を聞き、見定める。そして、決めるのだ。――我が剣の切っ先の行方を!」

 

「……」

 

 断固として言い切ったセイバーに、アーチャーは反駁するでもなく押し黙る。

 

 セイバーはさらに言葉を続けた。

 

「『我が願いは叶うべきではない』、あの時、去り際に貴殿が漏らした言葉だ」

 

「然り。……だが、なぜそうまでして其処許がそれを気にかける?」

 

「私には……その願いが解からない。なぜ叶うべきではないのか、ということ以前に、どうして貴殿に願いがあるのかがわからない」

 

「某が願いを持つのが不満か?」

 

 激した様子もなく、たくましい胸板を晒す男は寂然と問い返す。

 

「そうではない。ただ、予想もつかぬのは確かだ。……貴方は己の伝説に悔いなど残していない筈だ。それが、なぜ王としての、英霊としての信条を曲げてまで現世にとどまり無様な拳を振るったのか……。私は知りたい。いや、私は――それを知らなければならない!」

 

「……耳の痛い話だ。(くだん)の非礼は詫びよう」

 

「無用だ。もとよりここでそれを糾すつもりでもない」

 

 しかしセイバーはそこで、ただ、と付け加え、

 

「貴方には答える義務があるはずだ。他でもない、……同じ道を歩もうとした、この私に」

 

 切迫したかのような声を上げたのだった。

 

「……」

 

 しかし、まるで心を吐露するようなセイバーの糾明に、即応するべき言葉を持たぬがゆえか、それを聞いたアーチャーは依然として巌のように表情を曇らせたままであった。

 

「それは……王としての問いであろうな。騎士王」

 

「無論だ」

 

「ならば、某もまた王としてそれに答えねばならぬ。……が、残念だが今の某には語るべき王道はない。その資格は、ない」

 

「なにを――」

 

 セイバーは驚愕のあまりに言葉に詰まりながらも、努めて抑えた声で低く、そして断固とした視線で問う。

 

「なにを言うのだ!? アーチャーよ。御身は確かに化身の王であるはずであろう!」

 

「……某の、捨てきれぬ願いとは、この身が王である以上は叶わぬものだからだ」

 

 己の驚愕にすら先んじて、セイバーは反射的に問う。低く、そして苛烈に。

 

「そも――貴殿は聖杯になにを願う」

 

 しかしアーチャーはその言葉には応えず、逆に問いを返した。

 

「……ならば騎士王よ、その問いに答える前にこちらから問おう。其処許にはいま、詫びたいと思う相手がいるだろうか」

 

 唐突に突き返された問いに戸惑いながらも、セイバーは一拍息を抑えアーチャーの声に真摯な面持ちで応える。

 

「……数え切れぬほどに。救えなかった臣民達に、私はいくら詫びても詫びきれない」

 

「ではその者たちに今一度再会できるとするなら、其処許はその(こうべ)を垂れようと思うか?」

 

「それは――」

 

 ――否。それは出来ない。返答は言葉にするまでもなかった。

 

 王がいくら詫びたいと願ったとしても、それは許されることではない。それは己が王道を王自身が否定するということと変わらないからだ。

 

 たとえどんな結末に終わったのだとしても――総ての王は己が王道を誇り、示さねばならない。それが総ての民に対して王を王たらしめる唯一無二の理なのだ。それを違えた者は、もはや王を名乗ることはできない。――彼女は、騎士王たる彼女は、誰よりもそれを知っている。

 

「……だが、それが貴殿の願いと何の関係がある?」

 

「騎士王よ、其処許の真摯なる問いゆえに、某も恥を押して語ろう。この愚王の願いとは、捨てきれぬ願いとは、その謝罪に他ならぬのだ。生前、伝えられなかった詫びの言葉を伝えたい。それが聖杯に託す我が願いだ」

 

「馬鹿な!」

 

 半ば反射的に発せられたセイバーの怒声が、今度こそアーチャーの言葉を遮った。

 

「貴様、――よりにもよって己が王道を否定しようというのか!」

 

 それは予想し得ない返答であった。それだけは言ってはならない。王たるものは己の王道を汚してはならぬのだ。――唾棄すべき愚王、狂王ならばいざ知らず、この男が、この王が、それを口にすることは赦されない。いや、許せないことだった。

 

 何よりも、彼の化身王の王道に悔いなどあろうはずもない。少なくとも今の今までセイバーはそう考えていた。だからこそ、このアーチャーの言動が理解できない。

 

「なぜだ――貴方は完全な王だったはず。それがなぜ、そのような願いを抱くというのだ。王よ――英霊ラーマよ……」

 

 そのときセイバーの胸中を埋め尽くしたのは、怒りでも嫌悪感でもなく、絶望にも似た失意の念であった。

 

 化身王ラーマ。古代インドに名だたる大叙事詩『ラーマーヤーナ』にその名を輝かせる無窮の王。故国インドでは今もなお君主の理想像として語り継がれる名君。

 

 先日に聞き知ったその偉名についての知識は、セイバーの懐疑をさらに深めるものだった。その王としての在り方は、彼女が目指したものと同種の物であり、その王道は彼女の歩んだものと同じであるはずだった。唯一つ、違ったことをあげるなら、それはその伝説が無欠であったということ。

 

 理想の王と呼ばれ、無双の偉名を誇りながらも最後は悲劇に見舞われ、国に破滅をもたらした彼女が、アーサー王が今際の際まで夢想し続け、そしてその両手の隙間からこぼしてしまった絶対の法政。絶対の支持。そして絶対の正しさ――。

 

 押し黙るアーチャーを前に、セイバーは薄絹のようなか細い言葉を重ねる。

 

「……貴方はこんな場所にいるべきではない。人の理想を全うした筈の貴方が、どうして自らの王道を否定しようというのだ。貴方は自らの民の前で膝を折るつもりなのか……?」

 

 最後まで正道の王であり続けたというこの男こそは、彼女の理想を全うした者でなくてはならないはずなのだ。なのに――

 

 そうして、彼女は気付いた。この男の、この王のその真名を知ってより今の瞬間まで彼女の胸にあったのは、少なからず憧憬の念だったのだと。

 

 セイバーは今にしてようやく、己の激情の由来を知ったのだ。己以上の正しき王。それはかつて彼女が求めた奇跡だったのだ。たとえ交わることのない縁であったとしても、その姿が、正義が汚される様を、彼女は見たくはなかった。

 

 だから糾さずにはいられなかったのだ。彼女が誰よりも求めた十全の王道。それを成したはずの男が、今自らそれを否定しようとしている。それだけは、許せなかった。聞き流すことは出来なかった。

 

「そうまでして――なぜ、何のために、誰に詫びるというのだ!? 答えろ、アーチャーのサーヴァントよ!」

 

 喝破したはずの言気が、しかしどこかへ消え失せたかのように、アーチャーは泰然と黙したままだった。もはやその姿は、巌の如き輪郭をなくし、深淵の底のように芒としてとらえどころのないものと、セイバーの目には映っていた。

 

 そうして押し黙っていたはずのアーチャーは、不意に、短く、それに応えた。

 

「――愛するが、故に」

 

「――ッ!?」

 

 慮外の回答であった。応答に窮すセイバーを余所に、アーチャーは語り始めた。その胸の内を。

 

「某にも最後まで捨てきれぬ想いが、願いがあったのだ。愛するが故に今この身は冥府に迷い、そして今もまたこうして現に惑うている……」

 

「……それは、……恥じることではない。人として生まれたならば、何かを愛することは必然のことだ。だが、それを脱して、人は王と成るのではないのか。貴方は未だそれを脱しきれぬというのか?」

 

 彼女自身がそうであった。まだ唯の人であった彼女は、愛するが故に少女の身でありながら選定の剣の前に立ったのだ。国を、民を、それらの未来を愛し、その幸を願ったからこそ、彼女は王となったのだ。その幸を願うが故に、その総てと己を切り離すことになったのだとしても。

 それで、――彼女が愛したものは救われるのだから。

 

 しかし、神の化身とまで謳われた救世の王は、彼女の哲理を真っ向から否定した。

 

「否、某にはそれだけであったのだ。人として誰もが持つはずの我意が、某にはそれしかなかった。それが、そのたった一つの想いだけが、某が人として生きた証であった」

 

「馬鹿な――それではなぜ、何のために貴方は王になったのだ?」

 

「騎士王よ。人から王へと成った其処許には解からぬことかも知れぬ。しかし、この身は元より王であった。王となるべくして地上に齎され、王位に着くより以前からこの身は王以外の何者でもなかった。それゆえに、某には最初から我意などありはしなかったのだ」

 

 呆然と言葉を失うセイバーに向けて、アーチャーは逆に問う。

 

「その某が、いま一人の人間として一つの願いを抱いている。これは――間違いなのだろうか? これは堕落だろうか? 騎士王よ、其処許はこれを嘲笑うか?」

 

 セイバーには答えられなかった。笑い飛ばすことも、断ずることも出来なかった。ただ言葉を失い、なにか異質なものでも見るような目で眼前の男を見ていた。

 

 王たる己と、その道の哲理を同じくすると思っていたこの男が、同じ道を、同じ理想の元に王であったはずのこの男が、その実、己とはまるで逆の存在であったのだということに、彼女は今初めて気が付いたのだ。

 

「……某にはもはや解からぬ。それが其処許の言う迷いであろうな」

 

「何故迷うのだ? なぜ今更になってそれを否定しようとする必要がある。人を愛することが罪悪であるはずもない。王とて誰かを、何かを愛する。国を、臣民を愛するからそこ平穏を、繁栄を願うのではないか?」

 

 その、乞うような響きさえ孕む言葉をしかし、アーチャー、化身の王は真っ向から断じた。

 

「――否。王とは何物にも執着することなく、どのような願いも持つことはない。それが真理だ。王の抱く執着は国を破滅へと導く」

 

「国を愛さずに、国を治められるというのか!」 

 

「然り。その愛も、平穏への祈りも、真の治世においては――不純。それは執着だ。それが破滅を招く、国への執着、繁栄への執着、権威への、愛するものへの執着、それはいずれ国に破滅を招くことになるだろう」

 

「馬鹿な! ――馬鹿な、それはッ――それでは……」

 

 続けようとした声はしかし掠れて消えた。否定したかった。違うと、それは間違いだと大声で是背したかった。しかし、今の彼女にはそうするだけの言葉がない。答えがない。

 

 事実として破滅を免れなかった騎士王に、どうしてそれを否定することが出来るだろうか。

 

 方法論そのものは変わらない。セイバー自身も己を無謬とすることで己の道を王道へ近づけようとした。だがそれは、その根底には確かな願いが、愛が、祈りがあったからこそだ。彼女はその溢れる想いを己から切り離すことで、自身を王として律してきたのだ。

 

 だがこの男は違う。この男は最初から理想の王道の中に在り、最初から無謬のものとして生まれたのだ。彼は最初からセイバーの目指した場所で生まれた理想の化身であったのだ。

 

 だが、それをセイバーはうらやむ気にはなれなかった。彼女の目にはただ、それが憐れな男の姿にしか映らなかった。それが哀しかった。かつて望み求めた筈の理想の姿がこうまで痛ましく無残なことがたまらなかった。

 

 人の身で無謬になろうとする苦しみと、始めから無謬であったものが人として何かを愛することを知る苦しみとは、はたしてどちらがより苦しいものだろうか。

 

 今までセイバーはこの男に対して少なからぬ憧憬と、それゆえの失意の念を抱いていた。生前、己の成し遂げられなかった無謬の正しさ、それを成した王。それが――何故、と。しかしそれはセイバーの思い違いだったのだ。

 

 この男にはそれしかなかったのだ。最初から正しき王道以外の道がこの男にはなかった。それは少なくとも、選定の剣を前にして己の未来を選ぶ機会を得た騎士王に比べ、なんと不運なことなのだろうか。

 

 凍りついたような白い頬を流れ落ちた一筋の涙が何処から来ているのか、セイバー自身にも分からない。いくつもの感情が彼女の中で急激に萎靡していくのがわかった。

 

 しばしの沈黙。それを破ったのは独白するようなセイバーの声だった。

 

「……私はかつて、聖杯に歴史の改竄を求めようとした。あの滅びを、何とかして回避したかった……」

 

「……」

 

「だがそれは間違いだった。総てをなかったことにしたいという逃避でしかなかった。だが、私はそう願わずにはいられなかった。破滅の運命にとらわれた人々を、この手で解き放ってやりたかった。そして、己の無力さを是正したかった。…………私は、もう少しで大事な事を違(たが)えてしまうところだったのかもしれない」

 

 すると黙してセイバーの話を聞いていたアーチャーが、押し殺したような、しかしどこか慰撫するかのような声で応えた。

 

「……国の命運とは人の手に余るもの。だからこそ神が定め、王がそれを示す。……其処許一人だけが負うべきものではあるまい」

 

「貴殿は、その双肩に故国を背負ってはいなかったというのか?」

 

「某が背負ったのは半分だけだ。いや、それ以上のものを、背負わせてしまった――」

 

「……」

 

「背負わせてしまった者が、いるのだ。我が王道の正しさ、その齟齬を……」

 

 だから、詫びたいのだと。ただ一人、理想の王の齟齬を背負わせてしまった最愛の人に心から詫びたいのだと。声にならぬ慟哭が掠れ行く言葉尻を未練がましく滲ませる。

 

「某さえ王などでなければ、神の化身でさえなければ、救えたかも知れなかった。しかしこの身は王以外の何者でもない。この化身王の両腕は何時いかなる時でさえ、事の是非を違えてはくれぬのだ!」

 

「……」

 

 喉を裂くようなアーチャーの言葉を皮切りに、場にはしばしの静寂が舞い降りた。それは鋼の羽毛の如く、重苦しくも冷えて血の通わぬものだった。

 

 それを押しのけるようにして言葉を発したのはセイバーだった。

 

「……化身王。確かに貴方の願いは間違いだ。そんなことをしても何も変わらない……誰も救われない……」

 

「そのとおりだ。解かったであろう、騎士王よ。其処許の言うとおりだ。某の願いは、かのように詮無きもの。故に――」

 

 叶うべきではない、と。

 

 アーチャーは自嘲にも似た言葉を三度重ねようとする。しかしその未練に滲む慟哭にセイバーの洩らした静かな吐息が先んじた。

 

「……だが、忌憚なく言うなら、私は――それがうらやましい」

 

「――ッ」

 

 まったく予期せぬ言葉に、凝然と驚愕するのはアーチャーのほうであった。

 

 美しく縁取られた翠緑の瞳を悲しげに伏せながら、セイバーは抑揚もなく王の心の有様を告白する。

 

「それほどまでに、苦悩すら分かち合える無二の相手に、私は最後まで出会えなかった。――化身王よ。確かに貴方の願いは間違っているのかもしれない。その願いが叶ってもその相手もあなた自身も決して救われないからだ。……それでも、そうして己が半身を思いながら苦悩できることが、私は心からうらやましいと思う」

 

「騎士王。其処許は――」

 

 それ以上の言葉はなかった。暫し、重苦しい沈黙が蟠った。――そして意を決するように男は真紅のまなじりをかっと見開いた。

 

「――騎士王よ。某は其処許の問いの答えた。これは其処許の問いが真摯であればこそのもの。なれば、今度は我が願いをひとつ聞いてもらいたい」

 

「……聞こう」

 

 清廉なガラス細工のように響く声には、もはやなんらのわだかまりも含まれていない。壮麗なる双眸が、アーチャーのそれを受け止める。

 

「某を斬れ」

 

「――ッ」

 

 予期せぬ申し出に、セイバーは眉尻を上げる。しかし、それでも宣下するような声で、静かに問う。

 

「何を言う? 今しがたまで、貴方は願いを捨てきれぬと言っていたではないか。そして、その願いを捨てる必要などないと……」

 

「監督役の狙いは、自らが聖杯を手に入れることだ」

 

「!」

 

「ヤツは最初から他の参加者を欺き、総てを手に入れるつもりで画策していたのだ。そして某が願いを捨てきれぬことも見透かした上で、総てを知って暗躍している。……ヤツは、余人の心を暴き見通す術を持つ、おそらくは人ならざる魔性に近きモノに違いない。

 この身、この上はもはや、そのような者の片棒を担ぐことままならぬ」

 

「……そして、願いを捨てることも出来ぬから、私に斬られようというのか?」

 

「然り。もはや他に取るべき手もうかばぬ。今ここで其処許にめぐり合えたことは、……天命やも知れぬ」

 

「……」

 

 その白い貌には何の感情も浮かんでいない。ただ、色の無い宝石細工のような御姿をさらすセイバーは、

 

「斬れ! 騎士王!」

 

「断る!」

 

 アーチャーの声に応じて一気に爆ぜ上がり、一瞬でその眼前にまで不可視の聖剣を突き付けていた。凛とした声が、静寂を断つ。

 

「これ以上我が眼前で、そのような戯言を吐き漏らすこと許さぬ!」

 

「何故だ!? 何故解かってくれぬ? 其処許だからこその頼み!」

 

 哀願するようなアーチャーに、しかし応えるセイバーの声は低かった。

 

「我が剣を侮蔑するつもりか。我が剣は世に名だたる聖剣にして我が誇り! 決して狗を斬るためにあるのではない!」

 

「――ッ」 

 

 苛烈なまでの眼光でそれ以上のアーチャーの言葉を封じ、セイバーは剣を収め、そして踵を返した。

 

「だが、もしも――――もしもいま一度、王たる英霊として我が前に立つつもりがあるというのなら、わたしは逃げも隠れもしない。

 いつなりとも、――挑んでくるがいい。化身の王よ」

 

 声は剣戟のごとき鋭さであったが、しかしどこか諭すような響きがあった。

 

「……騎士王……」

 

「そして、貴方には聖杯を求める理由がある。私にはそれを認められないが、それでも貴方の愛は誇るべきものだと思う。……化身王よ、我らはサーヴァント。聖杯の縁によりて呼び集められ、誇りによって競い合うべきものだ。

 ならば、我らの闘争は憂いのない鬩ぎあいでなければならない」

 

「……そうか」

 

 それきり、その細い背に視線を向けることなく、アーチャーもまた背合わせに席を立つ。

 

 次の対面がどんなめぐり合わせによって成るかはわからない。しかしわかることは一つ、次の対峙には、もはや対話の入り込む余地など残されてはいないだろうということだけだ。

 

 しかし、アーチャーは去り際に一度だけ振り返った。

 

「騎士王よ、馳走になった礼にひとつ言っておくことがある。我がマスターを斬り捨てた敵には気をつけるがいい。あのときの某には確かに迷いがあったかも知れぬ、しかし油断はしていなかった。――この意味が解かるか剣の英霊(セイバー)

 その相手とは、此度の召喚によって招かれた「剣」のサーヴァントに他ならぬ」

 

 そう言うと、巌の如き気配はそれきり実体を霧散させ現から姿を消した。残されたセイバーはしばしその場に立ち尽くした。その瞳がなにを思うのかは、もはや誰にも推し量ることはできなかった。

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-5

 当初の予想とは真逆の事態であった。

 

 結局、テフェリーがよろめくような足取りで士郎・ランサーと合流したのは、独断行動していたセイバーが戻った後の事だった。

 

 当然、セイバーを見つけるなり詰問攻めにするするかと思われたテフェリーは、しかし真っ青な顔をしてへたり込んでしまったのだ。

 

 一同は試運転(・・・)やその後の実地調査といった、それ以降の予定は切り上げることとし、急きょそのまま帰途につくことになった。

 

 その間も慮るようなランサーの言葉にも、セイバーの詫びの言葉にも耳を貸さず、テフェリーは呆然と俯くばかりだった。敵のサーヴァントや魔術師に何かされた――というわけではないらしいが、その様子は甚だ尋常ではなかった。

 

 そして事の仔細もはっきりせぬまま、彼女は衛宮邸に着くと、そのままあてがわれた個室に入ったきり出てはこなかった。

 

 平時の彼女を知るだけに、皆その様子をいぶかしんではいたが、身体的に異常がない以上、出来る事はなかった。凛かワイアッドが戻るまでは様子を見守るしかないということで結論付けるしかなかった。

 

 いつもよりも静かで、何処か堅苦しい夕食の後、士郎も一人台所に立ちながら煩悶するしかない。歯がゆい限りだが、一方でセイバーは今朝方まで消沈したように見えていた顔に、精気と強い決意の相が戻っていた。

 

 それが救いといえば救いだったかもしれない。ただ、戦闘にはならなかったようだが、士郎に侘びを入れたときも、セイバーはそのときのことについては「何もなかった」としか語らなかった。戦闘こそなくとも、そこであのアーチャーとの接触があったのは確かなのだが。

 

「できる事を、やるしかないか……」

 

 士郎は己に言い聞かせるように呟く。それがセイバーの意思なら、その邪魔はすべきではないのだろう。

 

 とにかく部屋に籠もってしまったとはいえ、テフェリーも少しは食事を取ったほうがいい。そう考え、士郎はいつでも手を付けられるようにと、作り置きの出来る料理を用意しておくことにした。

 

 本当ならテフェリー自身に教えながらの方が良かったとも思うが、問題はないだろう。何せ今邸に居るのは食の太い連中ばかりなのだ。機会はいくらでもあるはずだ。

 

 衛宮士郎は、この時そう信じていた。信じようとしていた。真摯に。そして、頑なに。

 

 

 

 ――その頃、テフェリー自身は部屋の中で膝を抱えながら、鈍い思考を巡らせていた。

 

『食事の用意も手につかず、衛宮様に任せきりになってしまった。情けない。こんな姿をマスターが見たらなんと言われてしまうのだろうか?――』

 

 しかしそう考えながらも、思考は流転して其処に行き着く。

 

 誰なのだろう? 

 

 そして脳裏を過ぎる蒼い色。これは何なのだろうか。胸が、ざわめいている。五体が引きちぎれるかのようだ。割れるような額に手をかざす。

 

 人は身体のどこかに苦痛を感じたとき、無意識の内に痛むところに己の手をおき、掌を当てていることがある。一説にはこれが治療の事を手当てという言葉の語源と考えられてもいる。

 

 頭痛、歯痛、腰痛、腫れ物、打撲、切り傷、擦過傷。傷種を問わず、そこに自然と手を添えるのは本能的な苦痛を回避し和らげようとする行為であると考えられる。

 

 その効果の由来とはなんであろうか。元来各々の伝説に名を残す聖人偉人が手をかざしただけで他者の病や苦痛を消し去るという伝説は数多い。

 

 それが魔術や奇跡の類でなくとも、その行為がもたらす温もりといたわりの心から来る安心感が苦痛を癒すのは想像に難くない。人は時として何の変哲もない掌の一つで癒されるものなのだ。

 

 しかし、今、彼女の手にはそれが叶わない。額に当てた掌は何の温もりも返してはくれない。その冷たく無機質な感触は何の安心感ももたらしてはくれない。慣れない寝具にしどけなく身を横たえ、やりきれない苦痛に耐えながら、テフェリーは不意に、誰かの暖かい掌の温もりも思い出した。

 

 いつか、誰かの手に触れた記憶はあるのだ。ただ、それが誰だったのか、思い出せない。

 

 今日、始めて街の中に一人佇んだときのことを思い出す。

 

 誰も彼女のことなど知らない。気にもとめない。それが当たり前だった。彼女の生涯にとってそれは当然のことだった。

 

 なのに、今日初めての例外がいた。あの少年は誰なのだろう。確かにマスター・ワイアッドに出会う以前、魔術師に拾われるまでの記憶は失われている。

 

 だが彼女はそんなことを気にも留めなかった。己が身の様相を鑑みるなら、自分がどういうものなのかは明白だったからだ。私は一つの武器だ。私は道具で、一本の剣だった。どうして彼はそんなものに声をかけたのだろうか? 彼の知る私とは一体なんだったのだろうか?

 

 解からない。恐ろしい。味わったことのない恐怖感が少女の心を蝕んでいく。

 

 テフェリーはただ、得体の知れない恐怖に冷たい身体を抱くことしかできなかった。

 

 マスターに会いたかった。先ほど、夜になってから使い魔によって書簡による連絡があったそうで、ランサーが伝えに来た。時間が惜しいので今夜も帰らずに調査を続けるとのことだった。

 

 それで、余計に動揺してしまったのだ。思えば七年もの間、彼女の主はいつでも会いにいける場所にいてくれた。それが、どれだけありがたいことだったのか、いま少女は噛み締めていた。

 

 彼女にとっては、その七年がこの生の総てなのだから……

 

「マスター……」

 

 呼んでみても、当然返事はなく、孤独感が増すばかりだ。おかしな話だ。あんなにも独りであることを受け入れていたはずの自分が、今はこんなにも一人であることを恐れているのだから。

 

 そう考える内に、口をついて出ようとした台詞を飲み込んで、でも言ってみる。

 

「……カリ、ヨン……」

 

 混沌は、深まる。なのに、それでも鼓動は収まって行くのだ。知らない言葉なのに、聞くだけで、言ってみるだけで心は平静を取り戻すのだ。彼はいったい己にとってのなんだと言うのだろうか。

 

「私は、いったい……」

 

 答えを乞う声に、しかし応えてくれるものは何処にもなかった。ただ、何処からか聞こえてくる実感の伴わない耳鳴りが彼女をどこかに誘おうとしているかのように感じられた。

 

 まるで聞こえる筈のない雑音(サイレント・ノイズ)が確かに彼女の中に堆積しているようだった。彼女は、そのまま眠りについた。

 

「『マスター』……。『カリヨン』……カリヨン……、カリ、ヨ、ン……――――」

 

 夢現のうわごとにも、応える声は、何もない。

 

 

 

 

 やはり、レイ・ラインが堰き止められている!

 

 ワイアッド・ワーロックは昏い夕闇に泥む河川敷でひとり、苦悶の唸りを漏らした。

 

 これほどの事態に、なぜ今まで気付けなかったのか。だが、巧妙と言えば巧妙であった。大河の流れを急激に押し止めようとするのではなく、除々に異物を堆積させ、緩やかに地脈の流れを断っていく。おそらくは新都全体の地脈にも同様の細工が施してあるに違いない。

 

 なんという手際か、これほどの規模の儀式をかくも静かに行って見せるとは。この手練はサンガールの魔術師のものではない。おそらくはキャスターのサーヴァントの手によるものであろう。

 

 その最終的な意図までは判じきれなかったが、ともあれ、少しでも流れをもとに戻しておかなくてはならない。それで多少は、この大規模な魔術の発動を遅らせることができるはず。

 

 ワイアットはすぐさま踵を打ちつけて靴職人(レプラコーン)達に号令を下し、他の澱みに向わせた。この単純で、それゆえに強固な術式を解呪している暇はないが、別の枝道を作って流れの勢いを分散することは出来る。

 

 老魔術師はやおら懐から取り出した、幾つかの金貨を河川敷の上に放った。

 

 それらはつつ、と弧を描いて転がり、それぞれに光の尾を引きながら綺麗なサークルを描いていく。光彩によって陰から暴き出された円環状のラインは徐々に繋がり、交わり、絡み合い次第に巨大な魔方陣を地表に描き出していく。

 

 そして最終的に陣形の中央に集結したそれらはそこで静止し、今度はまとまって地中深くに吸い込まれるようにして潜っていった。その地点は霊脈のツボとでも呼ぶべき澱みであり、そこに刺激を与えることでレイラインを操作しようというのである。

 

 日本の伝承においては要石と呼ばれる、地脈・レイラインの操作・調律方の変形であった。

 

 これに類似する魔術の痕跡は世界中に見ることが出来る。ピラミッドやストーンヘッジなどの古代遺跡もレイラインの要点、風水で言うなら龍脈の頭をそれらの石で押さえ込むことによって巨大な地脈の力をコントロールすることを目的としていたと考えられている。

 

 しかし、いまワイアッドによって使用されているのは霊石の類ではなく金貨であった。無論のこと唯の金貨ではなく。彼の使役する西洋の妖精からもたらされた呪物(オブジェクト)である。

 

 代々、地中に生息する妖精とのかかわりを強く持ってきた西洋魔術の大家ワーロック家の当主を継いだワイアットは、しかし若年のころより東洋の魔術である風水と呼ばれる地相占述や地脈、竜脈についての術式に多大な興味をしめした。

 

 彼は従来の西洋魔術の欠点をそれらで埋め合わせることで、レイラインを遡ることによって根源に至ろうというワーロック家代々の試みに、新たな展開をもたらそうとしたのだ。

 

 あらゆる人間がそれに繋がっているように、地中に走る龍脈には根源に至る道がたしかに在る。その可能性を確信したワイアットはさらに研究に没頭した。時期当主であったはずの一人息子が姿を消したことなど、気にも留めずに――

 

 ――古い話だ。

 

 苦い追憶をそこで断ち切り、老人は作業に集中しようとする。

 

「しかし……」

 

 ここで老紳士は物憂げにかねてからの疑問を口に出す。

 

「なぜ誰も聖杯を降ろすための拠点を確保していない?」

 

 この冬木にある四つの霊地の内、遠坂の屋敷に位置するそれにはその主がいる。教会や竜動寺は押さえられてはおらず、もう一箇所の候補地にもそれらしい手は入っていない。

 

 なぜだ? まだ序盤とはいえ、皆が皆ここまで無頓着なのは一体……。

 

 特に監督役だ。この聖杯戦争という儀式はある程度進行すると、陣取り合戦の様相を呈してくるのが必定とされる。聖杯の代替として宝典を設置するなら、どこかの霊地にだろうと当たりをつけていたのだが、そうではないらしい。

 

 もしや何処にも設置せずに移動しているとでも言うのだろうか? 意味のないことのようにも思えるが、何者かが既に宝典を手に入れ、常に所持して持ち運んでいるというのならば話も分かる。とはいえ、ただでさえ不安定な宝具をそのように扱うというのはあまりにも下策に思えるのだ。

 

 やはり、彼奴らには聖杯を完成させるという意図そのものが無いというのだろうか。

 

 そもそも、彼奴らがわざわざこの儀式を選んだ理由はなんなのだろうか。今更になって、かねてからの疑問が頭を擡げてくるのであった。どうにも解せないのだ。当主の選定に、なぜこれほどまでに手の込んだ真似をするのだ?

 

 ワイアッドはそこで堆積し始めた思考の澱から一度手を放した。これ以上は疑心暗鬼になるだけだ。思考は常に柔軟に保っておかなければならない。それが行住坐臥、いつ襲われるとも知れぬバトルロイヤルならば、なおさらのことである。

 

 今は一度戻ろう。己にもしばしの休息が必要だ。なにより、今度こそ違えてはならない誓いがあるのだから。――

 

「――貴様、魔術師だな」

 

 心の内からの刺すような痛みが一瞬、この老練の魔術師の思考を滞らせたそのとき、川面に立つ声が巨大な猛禽の爪の如くその身体を捕らえていた。

 

 悔恨を持て余し反芻するかのような思考が、在りうべからざる稚気が、この老練の魔術師の反応をわずかに遅らせることになったのだ。

 

「ッ!?」

 

 ワイアッドは長身を翻し、老いた鷹のような視線で既に黒く染まり始めていた水面を見据えた。色眼鏡越しに見た其処には、広い河の中腹に立つ洒脱な男の艶姿があった。

 

 それが声の主だと判じた次の瞬間、しかし、既に決着はついていた。退避の魔術を起動しているはずであったワイアッド・ワーロックの魔術刻印は沈黙し、その視界は暗転する。

 

 そして何重にも防備されていたはずの老魔術師の意識と思考もまた、そこで細糸を断つかのように、ふつりと途絶された。

 

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-6

 

 からりと晴れた薄墨色の空には、人工の光に遮られることのない星光が、慎ましくも揚々と瞬き始めている。しかし、その金砂を纏うが如き夜天の艶姿も、ここからでは見上げることができない。

 

 鬱蒼と茂る木々の枝が、一面に広がる空を覆い隠している。――否、そうではない。覆い隠されているのは色味を増しゆく空ではなく、足早により深き暗闇の中を進む女たちの姿のほうであった。

 

 珍しく硬い表情を浮かべたまま前を歩いていくのは、上天を遮る枝葉の隙間から差し込んでくる月の光に、鋭利な黒の輪郭を浮かび上がらせているライダース・ジャケットの女――伏見鞘であり、

 

 困り果てたような顔でそれに追随するのは、暗い森を滑べるように駆けながらもあくまで妖艶な物腰のモノトーンの女――魔術師のサーヴァント・キャスターであった。

 

 暗闇のなか、見えぬ足元には無数にうねくる樹の根が広がっていたが、女たちは特に苦にする様子もなく、共にするすると木々の間を進んでいく。

 

「……鞘、お願いだからもう少し大人になって頂戴……」

 

 そう、沈鬱そうな溜息交じりに聞こえてくるキャスターの声に、鞘は前を向いたまま棘のある声で応えた。

 

「やだね。悪いんだけど私、そういう言い方気に入らない」

 

「……私はまだ戦えないし、打って出るには早いとは思わない? もう少し体制が整うまで

待っていてくれれば用意も整うし、存分に戦う機会を上げられるわ。それではダメなの?」

 

 すると鞘は溜息混じりに足を止め、キャスターに向かって振り返る。そして「だ・か・ら、」と語気を荒げ、そして罵倒もかくやと言わんばかりに吐き捨てる。

 

「もう留守番は飽きたの! それにね、気に入ってたドゥカティ盗られたんだよ?! あーッ、思い出したら腹立ってきた! 昨日の爺さんもさっさと帰っちゃうしさ。分かる? 私不満なの。欲求不満てヤツ。じっとなんてしてなんていられないの! 大体からして、最初に言ったよね?! 私は「冒険家」なの!

 

 この世の果てを、隠された神秘をこの目で見てみたい。体験したい。だから戦場(ここ)いるし、あんたたちと協力することにもしたんだよッ。いつ来るかもわかんない仕事と指示を、ボケーッと待ってるだけの手下としてじゃなくて、あくまで同格の、上も下もない協力者としてね!」

 

 まくし立てるサヤを向こうに、キャスターは困り果てたように自分の肘を抱きかかえて今夜何度目かになる溜息を漏らした。そこには心痛ここに極まれり、といった様子がありありと窺えたが、

 

「それはもちろん解かっていますよ、鞘。なにもあなたに命令する気はないし、何かを強制することもできません。けどね、今出て行かれたら私は何の援護もできないのよ?」

 

 すると鞘は肩に担いでいた黒剣を足元の木根に突き立て、その柄頭に寄りかかるようにして身を折った。そして己が視線を捻じ曲げるようにして上目遣いに目を眇める。漆黒の瞳が怖じることもなく、真っ直ぐにモノトーンの魔女を捉える。そこに浮かんでいるのはそれまでの苛立ちとは別種の怒りだ。

 

「……私まで子ども扱い? どーでもいいけど、それってあの子のためになると思う?」

 

 無造作に突き抉るようなその言葉に、キャスターは暫し喉を無くしたかのように押し黙った。そして沈鬱な声を漏らす。

 

「そうね。確かに……そうかもしれないわね。ただ、私は……」

 

 やおら声を詰まらせた魔女の生真面目な対応に、今度は鞘の方が気まずそうに視線を逸らして嘆息した。

 

「あーっもう、いいよ。悪かった。ごめん。私も別に意地悪が言いたいわけじゃあないんだ。――何もなきゃあ、それですぐ帰ってくるよ。ただ、なんかじっとしてられないんだ」

 

 俯き肩をおとしたキャスターに、鞘は苦笑するようにしてぎこちなく笑って見せた。それで重く沈んでいた場の空気がすこし緩んだのか、キャスターも声の調子を戻し、

 

「そう。……でも、もう移動のための足もないんでしょう? どうやって街まで行く気なの?」

 

 昼間、バイクを失った鞘がカリヨンを伴い新都へと出向いたときは緊急の時のためにと鞘があらかじめ連絡を取っておいたタクシー会社を利用した。しかし今また同じ手段を使うわけには行かない。この時間帯では他のサーヴァントの襲撃を受けて一般人の運転手を要らぬ危険に晒すことにもなりかねないからだ。

 

「そりゃあ……」

 

 おそらくは、そのときまでまるで考えなしであったであろう鞘は言いよどんで首を捻った。まさにそのとき、幾許かの木々の向こう側、ちょうど国道の奔っているあたりに浮かび上がる一筋の光芒が見てとれたのだった。それを見初めた彼女は、

 

「…………適当に乗っけてってもらうさ。ヒッチハイクは大得意」

 

 そう言って口の端を吊り上げ、心底意地の悪そうな笑みをキャスターに向けてきたのだった。

 

 キャスターはもはや吐きつくした感のある溜息さえ漏らせずに、こう返答を返すしかなかった。

 

「……いってらっしゃい……」

 

 しおれるような声は、もはや彼女が諦観するしかなかったことの証左と言えなくもない。

 

 

 

 

 

 その後、鞘を見送った国道沿いの森淵から城に戻ってきたキャスターは自室を通り越してさらに城の奥へと重そうに足を運んだ。

 

 そしてある一室の前で暫し躊躇。意を決したように部屋の中へと踏み、中にいた人物に語りかけた。

 

「失礼します、マスター。鞘は出かけましたので出来れば私の近くに……」

 

「……」

 

 部屋の中で膝を抱えていた少年――カリヨンは応えない。

 

 部屋の中には灯りすら点いておらず、薄暗い闇の中では主の顔色も伺うことが出来なかった。キャスターは途端に胸を締め付けられるような不安を覚え、再度呼び掛けた。

 

「どうかしたのですかっ、マスター!?」

 

 と、思ったより声が大きくなってしまい、カリヨンが目を剥いて振り向いたのを見て、今度は慌てたように己の口元を押さえた。ここは己の要害の只中である。何もあるはずなどないというのに。

 

「――えっ? あ、いや、なんでもない。……どうかしたのか」

 

 二重の意味で、取り敢えずは安堵する。どうやら具合が良くないわけでも、彼女が考えていたほど機嫌が悪いわけでもないようだった。しかしその姿は、やはりどこかひどく意気消沈しているようにも見えてくる。

 

 昨夜ともまた違った意味で挙動の不振なマスターに、一度は眉をひそめたキャスターだったが、取り敢えずは息を正し、

 

「鞘のことなんですが、その、また一人で飛び出して行ってしまいまして……」

 

 と、さもバツが悪そうに報告をする。キャスターとしてはこれでまた主が癇癪を起こさねばいいが、と思っていたのだが、しかし、

 

「そっか……元気な奴だな。ホントに」

 

 カリヨンはどこか上の空のような、胡乱げな台詞を吐いただけでまた何かを考えるように黙り込むのだ。

 

「……私は別室にいますので何かあればいってください」

 

 他にも、なにか声をかけようかとも思ったが、なんと言っていいものか分からず、キャスターはそのまま主の部屋を後にした。

 

 燻るような淡い光が照らし出す光芒が、瀟洒な城内を一層味わい深く彩っている。しかしキャスターはそれに目を向けることもなく長い睫毛を伏せていた。

 

 柔らかな曲線を描く細い肩を落として自室に戻る道すがら、いかにも重そうに引きずっていた脚を止める。

 

 そもそも、卓越した魔術師であり、それ以前にサーヴァントでもある彼女がわざわざ己の足で歩く必要はないのだが、今宵はそうして澱の如く蟠った己の考えを、少しでもまとめたかった。

 

 彼女は今朝からずっと思い悩んでいたのだ。主の様子がいつもと違うのは、昨夜の自分の行いのせいではないのだろうか、と。少々軽率に過ぎたのかもしれない。

 

 ――しかし、それでも。と、今この魔女は思うのだ。

 

 己は最善を尽くさなければならない。たとえ、当の本人たちが望まぬのだとしても、彼らが己の命に代えてでも望みを果たそうという覚悟であろうとも。その意を捻じ曲げることになったのだとしても。キャスターはカリヨンの安全と、そして鞘の無事を願わずにはいられなかったのだ。

 

 なぜであろうか。

 

 懊悩する心はさらに流転する。

 

 理解はしていた。それは出すぎた干渉であろうと。彼女らの主従関係に照らし合わせるならそれはまず間違いないことだ。サーヴァントとマスターはそもそも互いの利害関係によって協力しているに過ぎない。その役に殉じようとするのなら、彼女が望むものは彼女の求めるものでなければならない。

 

 ――しかしそれでも、と。この魔女は思うのだ。

 

 それを全く承知した上で、やはり思わずにはいられないのであった。

 

 昨夜の、主である少年を抱きしめた感触が、震える肌の暖かさが、魔女の腕に未だに残っているのだ。それはもはや恋慕すらをも通り越した情愛の一種となって、悪神の胸の奥に尽き得ぬ燐光を灯している。

 

 いま、彼女は己の本分から逸脱してでも、傍にいる者たちを救いたいと思い始めていたのだ。それは偽らざる彼女の本心であった。

 

 そうして、再び自室へ向けて歩み始めた彼女の漆黒の瞳は総てを決意したかの様に細められ、そこには冷たく怜悧でありながら、辺りの闇を掃い去るほどの強い光が宿り始めていた。それはあらゆる物を引き換えにしてでも何かを守り抜くという覚悟の光であった。

 

 それを決意させた情念とはなんであろうか。それは母性であった、母となったあらゆる女がその根本に根ざす、我が子を守ろうとする必死の想い、決死の愛であった。それは間違いなくこの世で最も美しく尊いものであったことだろう。しかし、それは同時にこの上なく恐ろしい事態をも意味していた。

 

 およそこの世界において、あらゆる凶事を生み出す元凶となるのはあまねく万象に人々が向けるさまざまな愛情に他ならないではないか。人はあらゆる愛に狂い、そこから尽きることのない呪詛と怨嗟を生み出し続けてきたのだ。

 

 その愛の篝火のためならばこの魔女はどんなことでもやってのけるのであろう。いま、無色無害であった筈の中性の魔術師は、その本質を間違うことなき邪神鬼母のそれへと変じさせ始めたのだ。 

 

 愛に狂う魔女。これ以上に恐ろしいものがはたしてこの世に二つとあろうか。その胸のうちに燃え滾る炎が強ければ強いほど、そこから生み出される災厄は苛烈さをまして行くのだろう。

 

 今この瞬間にも時は過ぎ、夜は転じ、魔は加速していく。もはや一刻の猶予もなかった。

 

 絡み合いながら膨れ上がり続ける邪の気配と姦計の糸が、臨界を超え張り裂ける瞬間はもう目と鼻の先に迫っているのであった。

 

 

 

 

 

 キャスターが部屋を後にしたのを確認して、カリヨンは思考を再開する。朝のように暗鬱な気分のまま部屋に引きこもっているようにも見えるが、彼自身には全くそういうつもりはなかった。

 

 それどころか、いまの気分は悪くないとも思えるのだ。それはきっと、見つけたから。何か、なくしてしまった寄す処(よすが)のような、縋るべき糸ようなものを。

 

 しかし驚いた。どうやらキャスターが来たことにも気付かないほど考え込んでいたらしい。考えていたのは無論、昼間のこと。テフェリーのことだ。 

 

 再会したテフェリー。彼女は、カリヨンの初めての友達だった。そして死んだ。彼を守って死んだと、そう思っていたのだ。生きていてくれて率直に嬉しいと思う。だが彼女は以前の記憶を失っていたようだった。

 

 あの時のことを思い出す。カッと身体が熱くなった。初めて彼女を見たときのように、あの瞬間、焼けつくような鼓動だけが彼の支配者だった。

 

 まるで本当の妖精のように彼の前に現れ、そして消えてしまった彼女。

 

 それが生きていてくれた。この街にいてくれた。それが何よりも――――――いや、待て。この街に、居た?

 

 そこまで考えて――ようやく――あることに気が付く。

 

 途端に息が詰まり、総身からは汗が滲み、呼吸も忘れて心臓は早鐘を打ち始める。昨夜以上の黒い恐怖が少年の体を抱きこむように覆いはじめていく。

 

 どうして、彼女は ここ(・・)にいたのだ!?

 

 そうだ。彼女は自分を魔術師と見て警戒していたではないか。それは、つまり彼女がこの聖杯戦争の、外法の儀式の参加者だということを意味しているというのか。

 

 なのだろうか? なぜ? どうしてこの後継者争いに彼女が関係しているというのだろうか? まさか、また誰かがテフェリーを道具のように扱っているというのだろうか? どうしてそんな……。

 

 ――今朝、いや、既に昨夜の襲撃のときから、カリヨンの心は折れていた。

 

 昨夜、あの男に命を掠め取られると確信したそのとき、彼は始めて己の本心と向かい合うことになったのだ。己の死の淵に立ち、それを見つめさせられ、彼の心は根元からぽっきりと折れてしまっていた。

 

 それも当然の事だったのかも知れない。彼は自身にとっての闘いの意義を見失っていたのだから。――否、そうではない。そうですら、ない。

 

 彼をこの儀式に向かわせていた総ての理由は、彼にとって預かり知らぬものでしかなったのだ。それをカリヨンは今更になって痛感させられていたのだった。見失うどころではない。そんなものは最初から無いも同然だったのだ。

 

 もう戦いたくなかった。闘うことなど出来なかった。最初から後継者争いなんてしたくなかった。それが、いざ死に臨んで少年が吐露した本心だった。

 

 ただ、誰かの都合で戦わねばならないと、必要なことだからと、成さねばならないことだから、といわれ、有無もなく是非を問う機会もなく、彼は大局に流されるに任せてここまで来た。

 

 そして死に掛け、ようやく悟ったのだ。誰かの都合で殺されることなど決して容認できないのだということに。

 

 カリヨンは今、改めて考える。人が己の命を掛けるのは、それ相応の故があるからなのだろうと。彼以外のマスターは皆己の身命をかけて余りあるものを求めてこの闘いに参加しているのだろう、と。

 

 自分にはそんなことは出来ない。〝時期当主になりたい〟〝自分をストックとしか見なさなかった奴らを見返したい〟――そんな理由は後付でしかなかったのだ。カリヨンの望みはそんなものではなかった。

 

 闘いとは、一個人の生命を賭すべき闘争とは、その是非を問わず、その如何に関わらず、まずはその根底に、それに足るだけの理由が無ければならないのだ。

 

 彼にはそれが無かった。これは彼が始めた戦いではない。理由を誰かに預けてしまった闘いはもう彼の闘争ではないのだ。故に、この闘いによってもたらされた勝利はカリヨンを戦わせた者の勝利でしなかく、カリヨン自身の勝利ではない。誰かのための戦いで己が手に入れられるものなど、有りはしないのだ。

 

 それは闘い以外の何かに堕落するのであろう、必要なのは理由なのだ。だから、彼がこの先闘い続けるには彼だけの理由が必要だったのだ。

 

 それがなければ、それは彼のためではなく、彼のあずかり知らぬ誰かのためのものでしかないのだ。

 

 そんな理由のために戦うことなど出来ない。彼の聖杯戦争はもはや終わったも同然だった。

 

 ――――だが。と、そこでカリヨンは思う。諦観によって委縮していた意思に、今や否と応じる何かがあったのだ。冷えた伽藍も同然であったはずの己の内に、確かに、何かが在る。

 

 それが何なのかはわからない。どうしてそう思うのかも、上手く言葉にできない。それでも確信に似た感覚が、折れたはずの心を太く強靭に立て直し、又それを幾百もの灯火が照らしだしているかのように思えるのだ。

 

 昼間に切った唇の傷にそっと舌を這わせる。痛みがある。テフェリーはいたのだ。あの時、あの場所に。あれは夢ではないのだ。彼女は確かにこの現実の世界に存在している。

 

 思考よりも先に、彼の意志ではなく、もっと根源的な、彼という存在そのものがそれを肯定した。それが理由なのだと。失った筈の半身を求めるかのように。

 

 そうだ。彼は、カリヨン・ド・サンガールはずっと彼女を救いたいと、そう願い続けてきたのだから。もういないはずの彼女を思い続ける日々が、幼い少年からあらゆる〝理由〟を取り上げていたのだ。

 

 だが今なら。今ならば、それを是正できるのだ。

 

 ならば、どうする? 解からない。でもまずはもう一度彼女に会いたいと思った。もう一度、彼女に、テフェリーに会いたい。会わなければならない!

 

 もう一度会って――――そうだ。教えなければならないことがあるではないか。またアイツが、あの男がこの街にいるのだ。昨夜単身でカリヨンを狙い、そして七年前、彼の目の前でテフェリーを殺したあの男が。

 

 助けられるかなど分かりはしない。何を出来るのかもわからない。自分は何も持たず、何も出来ない子供だ。それでも、行きたいと思った。出来るかどうかではなく、そうしたいから、彼は行きたいと思ったのだ。

 

 もう一度会いに行こう! 

 

 迷いはなかった。決意は既に大樹の根よりも強靭に彼の心に根ざしている。あの男が居る以上、時は一刻を争うかもしれないのだ。今すぐ……は駄目だろうか。まずはどうにかしてキャスターを説得しなければならない。それでも、できるだけ急いで――

 

 しかしそのとき、腰を上げようとしたカリヨンの耳が、微かなそれを捉えた。それはあり得べからざる――夜の森のざわめきであった。

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-7

 

 セイバーとランサー、そしてアーチャーが互いに刃を交えたあの最初の接触より、数えて三日目の夜であった。

 

 天のきざはしに浮かぶ月はますます細くなり、閉じかけた瞼のように見えて夜のまどろみを連想させる。だが、今宵の空はそれほどに安穏としてはいられない。

 

 あの最初の闘いのときもセイバーたちは郊外で頻発していた小火騒ぎや火事に注目し調査していた。テフェリーとランサーもまた然りである。故に彼等は依然としてこの怪異なる火災事件の情報に敏感になっていたのだが、――今宵の火の手は探すまでもないほどに明確だった。

 

 三度落ちた夜の帳は、いまやその黒の色味を淡い朱色で濁されている。炎は冬木大橋を挟んだ対岸からでも黄昏の空を赤く染め上げているように見え、立ち昇る黒煙が赤い空に幾つもの筋を引いているのだ。

 

「でも、ほんとによくこんなものを……」

 

 その真紅の地獄を目指す四人は、その赤の光源を野次馬でごった返す河川敷のはるか上空から目にしていた。

 

 黒塗りの四座席小型ヘリ「ロビンソンR44」。いかなる時も市街地を迅速に移動するためにと、ランサーの要望に応えてワイアッドが急遽用意したものである。昼間、ランサー達が引き取りにいった荷物というのがこれであった。

 

 多少は強化補強を施してあるが、特に武装などはしていない。これを駆るのが他ならぬランサーだというのなら、もとよりそんなものは必要ないからだ。

 

 むしろ充実しているのは高度な認識阻害、及び攪乱の魔術的補強のほうであろう。

 

 それらによってその存在を隠蔽された魔なるステルスヘリは、さらに上昇して一路燃え盛る新都都心を目指す。

 

「こいつはいいな! 軟派な神のように空を駆るというは如何なものかと思っとったが、こいつはなかなか粋な代物だ」

 

 その旋回性能に酔い痴れるように、ランサーが嬉々とした声を上げる。

 

 

「けど、どうして今になって……」

 

 煌々と赤く照らされる空を見つめながら、苦悶の声をあげるようにして衛宮士郎が呟く。

 

「今までのように小規模の火災を起こす必要がなくなったからではないでしょうか。何かしらの前準備が済んだのだと見ることも出来ます」

 

 対して、同席するテフェリーは斟酌する様子もなく淡々と冷静な言葉を返した。

 

 自室で塞ぎこんでいたはずの彼女だったが、事態を察するとランサーと共に率先して戦場を目指した。どうやら先だっての不可解な失調は改善されているようで、平時と変わらぬ様相を保っているようであった。

 

 しかし、誰もが彼女の仔細を気にかけていられないことも事実ではあった。近日、郊外で連続していた不審火。それが今夜に限っては桁違いの規模で起こったのだ。

 

 それも未だ人通りの多かった夕刻の新都、オフィス街でである。今までは郊外で、それも小火程度のものがほとんどだったにも関わらず、なぜ今になってこんな都市の真ん中でことが起こったのか。

 

 セイバーも窓の外を注視しながら己の推量を説く。

 

「……もしくは陽動かもしれません。あれだけあからさまに郊外で連続していた火災が今度は狙い済ましたかのように都心で起こる……。あの火事の特異性に気付いてマークしていた者なら、この件を放ってはおかないでしょう。……今の私たちのように」

 

「それは――」

 

 それを問い返そうとした士郎の言葉を横からさらうようにして、ランサーの鞭のような声が閃く。

 

「罠、ということか。――面白い!」

 

 どの道、この先に待つのは紅蓮の地獄だ。罠の一つや二つないほうが不自然というもの。それに臆していては戦場を往くことなど出来はしない。

 

 ロビンソンが本物の獣の如く嘶き、加速する。まるで独自の意思をもってそのランサーの覇気に賛同するかのように。

 

 そのとき、真っ直ぐ新都を目指していたはずのヘリが一転バレルロールよろしく急旋回して空中で急静止した。

 

 予期せぬ衝撃に機内でたたらを踏んだマスターたちが、怪訝な表情を見せる。

 

「な、なんだ!?」

 

「どうしました。ランサーッ」

 

「サーヴァントだ」ランサーは声を低くして告げた。それにセイバーも首肯して同意する。

 

「……どうやら、ここよりも上流、橋の近くで何らかの能力を使用している手合いがいるようです」

 

「なんだって?!」

 

 予期せぬ事態であった。紅蓮の渦中はまだ先である。どうする? 四人は一時顔を見合わせた。この火災がサーヴァントの仕業であるにしろ、マスターの張った罠であるにしろ、敵がその只中にいる可能性は大きい。

 

 しかし、同時にあの紅蓮の首謀者が既に逃走してそこにいるのだという可能性も、見逃すことは出来ない。加えて、こんなところにいるというのなら、それは彼らと同様に灯に魅せられて寄り集まった別の勢力だという可能性も、また考慮せざるを得ない。

 

 咄嗟に押し黙った一同の中で、セイバーが凛とした声をあげた。

 

「私が行きます。皆は先に」

 

 一時的にとはいえ戦力を分散することへの不安はあったが、どちらの怪異も見逃せないのは事実だ。ならばセイバーに任せておくのが最良の手か。士郎は視線でテフェリーとランサーに是非を窺う。どちらも異論はないようだった。

 

「よし。セイバー、頼む。ただし深追いはしなくていい」

 

「わかっています。シロウも無茶はしないように」

 

 そしてはるか上空から河面に向けて飛び出したセイバーの装いは、瞬きほどの刹那のうちに白銀の戦支度へと変転し、金色の貴光が夜の虚空を馳せ駆ける。

 

 

 

 

 夜の薄暗い水面はまるで銀幕のスクリーンのように滑り、遥か遠方で逆巻く炎が夜を染める様を映し出している。そんな水面の上をセイバーの足は沈むこともなく捉え、颶風もかくやという速度で疾走していく。

 

 彼女の真名は世に名だたる伝説の騎士王「アーサー・ペンドラゴン」。その身は湖の乙女より奇跡の加護を授かっている。故に如何な大乱の怒濤であろうとも彼女の歩みを推し止め得る物ではない。ましてや波ひとつない、鏡の如く平淡な水面など月夜の平丘と大差ないものでしかなかった。

 

 セイバーはサーヴァントの気配を追って一路、河面を駆け上がった。そこで自身と同様に水面に屹立する者の存在を見咎めて、筋を引く白波とともに足を止めた。

 

 そして白霞の如く飛び散る鮮烈な飛沫の向こうに、仄かに朱の色と混じる夜の帳を仰ぎながら、セイバーに背を向けて立つ屈強な体躯を見咎めた。

 

 長身の男だった。ゆったりとした洒脱な外套にその身を包む威容はこの距離からでも充分に見て取れる。しかし既に互いの顔を判じれるほどの距離にいながらも未だ男はセイバーに顔を向けようとしない。

 

 むしろ、奇異なのはセイバー自身がこれほどの距離まで不用意に踏み込んでしまったことの方かも知れなかった。

 

 セイバーはさらに歩を進めて男の顔を確認しようとした。しかしそのとき、男は背を向けたままに低く、しかしまるで水底から轟いくかのような重苦しい声色を囁いたのだ。

 

「――否、後ろだ」

 

「ッッッ!!」

 

 途端、セイバーのうなじに悪寒が走った。それとほぼ同時に彼女のすぐ背後の水面が音もなく持ち上がり、奇怪な塊がぬっと姿を現したのだ。

 

 その異物は薄墨のような河面の皮膜を内側から押し破るようにして躍り出ると、飛沫を散らしながらセイバーに向けて連続で何かを投擲した。

 

 目視すら敵わぬそれは短剣か、はたまた飛礫であろうか。だが無論のこと、いずれであろうとも彼女にとっては同じことであった。

 

 やおら反転して身構えたセイバーは捉え得ぬはずの闇からの飛来物を、ただ風切り音と持ち前の予知直感によって危なげなく打ち払う。

 

 しかし、そのうちの一つを剣で弾いた途端、それは甲高い亀裂音とともに砕け散り、中から得体の知れぬ液体が四散したのだ。本能的な危機感知によって身を引いたおかげでそれを直に浴びることは免れたセイバーだったが、その液薬が付着した銀の装甲がみるみるうちに腐食していくではないか。

 

『劇薬の類か!』

 

 さしものセイバーも、まさかこの場にもう一人の敵が存在しようとは予想もしていなかった。すぐさま破損した外装を修復したセイバーはこの異形を斬りすてようと水面に歩を進めた。

 

 しかし攻撃を仕掛けてきたはずの間者はひたすらに息を殺しているのか、再び水中に没したまま姿を現すことはない。

 

 ――どこにいるッ! 

 

 水中に逃れ潜んだはずの薄ら黒い異形は、サーヴァントたるセイバーの視力で水中を探ってもその存在を見つけることが出来ない。ということは、この敵はその身を霊体化させその実体を霧散させたということなのだろう。

 

 そして、この距離でもなおセイバーにもまったく気配を感じさせずに奇襲におよんだ手際。つまりは高度の「気配遮断」のスキルを持つサーヴァント――。

 

 切迫する思考の澱が知らずその銀色の足先を危ぶませたそのとき、再びコールタールのような昏い水面に没していた黒い異物が水面から姿を現す。今度こそ、その異形は夜気を掃うような茜色の燐光にしっかりと照らし出されていた。

 

 総身を覆う黒衣のローブ。その隙間から垣間見えたのは青白い奇怪な骨の色。暗がりの水面に映る月影のような仄白い死の幻影。それは髑髏の仮面であった。

 

 セイバーは確信していた。その敵こそ、生存競争(バトルロイヤル)の場においてもっとも警戒しなければならない敵の一つ、アサシンのサーヴァントに違いない!

 

 昨夜の凛からの報告により、彼女の眼前でキャスターと小競り合いを演じたということだけは聞き及んでいたが、この間者の闘法、及び能力等の仔細についての仔細はわかっていなかった。

 

 つまりその仕儀の、如何に危機的なるかをセイバーが実感したのは今しがた、ということになる。

 

 異形はさらに奇怪な薬液に濡れ光る飛刀を連続で投擲する。セイバーは再びそれを弾くが、そこから滴る数滴の飛沫が異臭を発しながら彼女の美しい髪や装束を妬き焦がした。

 

 戦慄は今や揺るぎない脅威の予感となって、彼女の白いうなじを総毛立たせる。毒殺を得手とするサーヴァントが使うというなら、ただの液薬・劇物の類でない事は用意に窺い知れた。

 

 まさかこの程度の稚戯で最良のサーヴァントたるセイバーが倒されることはありえない。しかし、事が彼女とは別のところに及ぶならば話は別だ。この敵がマスターに近づくことは、その時点で既に致命的な状況を意味している。

 

 セイバーは戦慄すると共にすぐさまその意を決した。――この敵を逃がしてはならない! この場で必滅あるのみ!

 

「――なに!?」

 

 しかし、セイバーはすぐさま当惑を露にすることとなった。再び水面から姿を現した暗殺者はセイバーに襲い掛かるかのような仕草を見せたかと思えば、やおらその身を反転させ、セイバーの振るう剣域に身を晒すことなく逃走を始めたのだ。

 

 セイバーの魔力探知では完全に気配を断ったアサシンのサーヴァントを見つけることは難しい。このまま逃げられることだけは避けなければならない。

 

「――――ッ!!」

 

 しかし、追おうとしたセイバーの総身を、そのとき後ろから射抜くかのような剣気が襲い、彼女の両足を強引にその場へと強引に繋ぎ止めた。

 

 セイバーはすぐさま振り返り、その男の涼やかな眼光を真っ直ぐに受け止めた。

 

「いきなり出てきたかと思えば、今度は挨拶もなしで立ち去る気ですかな? お美しい 」

 

 途端、感じたのは何か、大きな真綿がのしかかってくるような、粘土のような固形の空気が纏わりついてくるかのような重圧感であった。それが無視できぬ抵抗となって彼女の足を押し止めているのだ。

 

 初めて見る男の貌であった。それまで背を向けていたはずの男の体はいつの間にか反転し、セイバーの正面に向けられていた。軽やかな色彩の、しかし重苦しい重厚さをかもし出すビロードの外套で身を固めた男だった。

 

 口ひげを蓄え、いかにも紳士然とした風体ではあったが、その面長の顔に入った切れ目のような双眸がひどく冷たい眼光を放っている。その瞳の奥にあるものは凶人というよりも、もはや肉食獣のそれに近いもののように感じられた。

 

 ――この男は、危険だ。

 

 確かにあのアサシンも捨て置くわけには行かない、厄介な手合いではあるだろう。しかしむしろ脅威の度合いで言うのなら、この男は間違いなくアサシンとは比較にならない。

 

 セイバーは一分の隙もなく身構えた。今背中を見せれば次の瞬間命ともろともに心臓を抜き取られる。そんな予感が彼女の身体を包み込んでいる。それは、おそらく事実だ。セイバーの条理ならざる危機感知が否応なく警告を発し続けているのだから。

 

「しかし、いささか性急過ぎるのではないですかな? 我々は未だ互いの名も知らず――」

 

 そう言って、男は明らかな戦意の熱狂を含んだ瞳で、セイバーへ熱のこもった視線を向けてくる。

 

「――握手もしていないというのに」

 

 対峙するセイバーは声に応えることもなく、この男を改めて観察していた。まずはそのクラスを探るためだ。

 

 この男、始めて対峙するサーヴァント。まず既知のランサー、そしてアーチャー・キャスターは除外だ。理性ある言動はバーサーカーでないことを示し、今逃走した間者をアサシンとするなら、残るはこの聖杯戦争で呼ばれた、彼女とは別の『セイバー』か、もしくは『ライダー』。

 

 ――眼前の男から受ける印象から推し量るに、おそらくは後者。セイバーはそう結論づけた。この男が放つ気は剣士のそれとはまた別種のものだと思えたのだ。

 

 おそらくだが、あのアサシンは何らかの理由でこの男と戦っていた――もしくは、逃げていたのかもしれない。もしもそうだとするならセイバーは図らずもアサシンの逃走に手を貸してしまったことになる。

 

 己が失策を悟ったセイバーは逸る気持ちを抑えながら、横目でアサシンの走り去った方角を見やる。できることならすぐにでもマスターたちの元に駆けつけたかった。

 

 アサシンがセイバーに目もくれずに遁走したのは彼女に恐れをなしたからではない。この場にマスターがいなかったからだ。

 

 本来アサシンのクラスはサーヴァントと直接の戦闘は極力避け、マスターのみをその標的とすることを基本戦術としているサーヴァントだ。加えて、奴らは無駄な戦闘をしない、必要最低限の労力で必要な命だけを音もなく掠め取る、それが暗殺者の処方なのだ。

 

 セイバーもその程度のことは考えるまでもなく理解していた。だからこそあの敵は危険なのだということも。

 

 もしもいま走り去ったアサシンがランサーの元に向かったとしたら、すぐにでも傍らにいるマスターたちを狙うだろう。

 

 セイバーは男に向けて不可視の剣を正眼に構える。ここにきて無駄に足止めを喰らうのだけは避けたかった。状況は一刻の猶予もないところまで来ているかもしれないのだ。もし戦うというのなら、この敵は一刀のうちに切り伏せるしかない……!

 

「――むッ!」

 

 すると、それまで泰然と佇んでいたはずの男は何かに思い当たるや否や、突如として表情を引き締め、水面に片膝をついて恭しく礼を取ったのだ。

 

「これは無礼をいたしました。麗しきは壮麗なる騎士王よ。どうかお許しください。不肖ながら、この身もまた一人の騎士として拝謁の機にまみえた幸運に言葉もありませぬ!」

 

「なッ?!」

 

「しかしながら、このような巡り合わせは不運としか申し上げられませぬ。なればこそ此度の戦いは尋常な勝負にて雌雄を決したいと望む所存でありますが……。如何でしょうか?」

 

 いきなりの男の豹変に、さしものセイバーも動揺を隠せない。

 

「……そなたは我が真名に心当たりがあるというのか?」

 

 有り得ない事態だった。風貌から察するに確かにセイバーが生きた時代の騎士ではない。本人の言うとおり初対面なのは間違い無いようだ。だが、それならばなおさらに不可解であった。この男は如何にして一見しただけのセイバーの正体を看破し得たというのだろうか?

 

 困惑を隠しきれないセイバーの声に、男は微笑を湛えて答える。

 

「心当たりも何も、その黄金の宝剣を見間違える英霊などおりますまい。ましてや御身は我が故国の救世の魂にして悠久の記憶たる護法。それを違えろとおっしゃる方が酷というものではありませぬか!」

 

「……」

 

 謳うように語る声は芝居がかっており、次第に感極まるようですらあった。しかし解せない事には変わりない。なぜ風王結界の鞘に包み隠された至高の聖剣の正体が見破られたというのか。

 

 訝るセイバーが己の宝具に視線を落とした、僅かの挙動を目ざとく見止めた男――ライダーは苦笑しながらも声を上げた。

 

「その『そよ風』がどうかしましたかな?」

 

「――ッ!」

 

 一瞬にして怜悧な怒気をはらんだセイバーの視線を、ライダーは臆することなくまっすぐに受け止めて微笑を返した。間違いない。この男には風王結界の隠蔽能力が効果を発揮していないのだ。

 

 確かにセイバーの宝具風王結界の透化力は見る者の視覚効果に訴えるものであり、それ以外の、たとえば魔術的な識別力を使われたならそれを遮ることは出来ない。しかしこの男は一体、いかなる能力によって不可視の剣を看破して見せたというのか。

 

「本当にそよ風かどうか、試して――」

 

 みるか。と、むけられた挑発に剣気を持って応えようとしたそのとき、セイバーはそれに気付いた。

 

 この男は水面に立っているのではない。この男の足の下、水中に何かがあるのだ。

それはひどく巨大なものであろうと思われた。なぜならそれはこの男の足許だけではく、セイバーの踏みしめる足裏の下にも幾許かの水を隔てて存在していたからである。

 

 サーヴァントの透視力を以てしても薄暗い水の中にあるそれを識別することは出来ない。その全長は概算でも二・三〇メートルはあるのではないかと見受けられた。

 

 なんだ、これは? その大きさと近づきすぎたが故に気付くのが遅れたが、こうして一度認識してみれば、その異様なほどの濃密な魔力は確かにそれが宝具か、もしくはそれに類する奇跡であることを物語って余りある。

 

 これが、この水下に潜む巨大な異物が、この男――おそらくはライダーの騎兵たる由縁の騎乗宝具だとでも言うのか? 

 

 セイバーは再び己の背筋に冷たい汗の一筋を感じた。兎角、もっとも重要な事実は、己がとっくに後手にまわらざるを得ない状況に追い込まれていたということだ。足下に広がるそれはセイバー自身に向けられた、違うことなき凶器に他ならない。

 

「……いいえ。心苦しい限りですが遠慮させていただきましょう。今宵は少しばかり沖のほうに諸用がありましてな。残念ながら騎士王のお相手をしている暇が有りませぬ。先ほどの無礼は陳謝いたしますゆえなにとぞ……」

 

 丁重な礼節の篭る進言と見えて、どこか挑発するような危うさがセイバーの持つ脅威に対しての触覚にチラチラと接触する。そこには今セイバーが斬りかかってくるのならばその展開も望むところだという蛇のように狡猾な戦意の表れかと見受けられた。

 

 セイバーの足下からもその凶気はじわじわと蠢き、水面(みなも)を幾重もの波紋の輪で彩るかのようにして伝わってくる。だが、セイバーは今にも己の真下から襲い掛かって来そうな剣呑な気配からはあえて意識を逸らし、再び目前の男を見据えた。

 

 騎士を名乗りながらもこの男の持つ気配、立ち振る舞いは騎士道のそれとは節理を異にするもののように思える。獣のような眼光。英雄の持つ輝き、賊人のような狡猾さ、そしてどこか少年のような潔白さがその根底に混在しているように思えたのだ。それらの混沌とした印象がこの男の心胆をようとして窺わせない。

 

 纏う光輝を金粉のごとく翻し、セイバーは男に背を向けて走り出した。ライダーの挑発に剣を持って応えられないことは業腹だったが、しかしここで時間を浪費するわけにはいかないのも事実だった。

 

 一路群炎の中心を目指したアサシンを追う様にして、セイバーも新都を目指して疾駆する。

 燃え盛る炎に追いやられた風が涼しさを求めて流水の上に舞い降り、夜気を切るセイバーの頬をなでさすった。

 

 その背中に何ら言葉をかけるでもなく、狩り逃がした若鹿でも愛でるかのように悠然と見届けたあと、ライダーは河口へ向けて滑るかのような静けさで未遠川を下り始めた。

 

 後には写すべき英霊達の威光を見失った薄暗い水面だけが、寂しげにその闇色の銀幕を波立たせていた。

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-8

 そのとき、何かが森の触覚に触れた。

 

 その感覚から、魔女は即座に敵の詳細を推し量る。サーヴァントではない。他ならぬキャスターの工房であるこの城に、今まさに攻め込もうとしているのはマスター、もしくはそれに随伴する雑兵だけだ。少なくとも人間以外の者はいない。

 

 ならば――問題にならない。程度はあれキャスターのクラスに据えられるほどの魔術師に対して工房攻めを行うというのなら、それ相応の準備が必要になるはずだ。いまやこの森は幾千のもの魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿と化しているのだ。悪霊使いたるキャスターの庭に入り込む者は、余すことなく阿鼻叫喚の憂き目を見ることになるだろう。

 

『このくらいなら……』

 

 キャスターはそれを揺るぎない事実として導き出した。この程度なら自分だけでも問題なく対処できる。騒ぐほどのものでもない。

 

 案の定、侵入者どもは猟犬代わりの悪霊達に攻め立てられ、連日暇をもてあました鞘が森に仕掛けまくったブービートラップの餌食になっている。

 

 結界の変化の推移からそれを判断したキャスターは、分析をそこで切り上げた。それらを意識の外に締め出し、再び目下の作業に集中する。いま、気がかりなのはむしろこちらの方なのだ。

 

 豪奢な内装のサロンは趣を一変させていた。その床一面には白い布が敷き詰められている。その布には複雑な皺と凹凸とが浮き上がっており、規則正しく、時にはなだらかに、うねり、列を成している。

 

 一見しては分かりにくかったが、一歩引いて俯瞰するならば、それは山林や河川、軒を連ねる家屋や公共施設、果ては群れ成すような高層ビル群の、精巧なミニチュアと見て取れるではないか。

 

 キャスターはカリヨンの部屋から戻った後、自室には戻らずにこのサロンに足を運んでいた。今日までに観察し、収集した情報を元に冬木市の全貌をこの一室に再現していたのだ。

 

 その理由はといえば、第一に冬木市全域のサーヴァントの位置を把握するためであった。この措置により、彼女は総てのサーヴァントたちのいる大まかな位置を把握することができた。

 

 そして今、白布の上を滑るように幾つかの丸石が動き回っている。これは一つ一つがそれぞれのサーヴァントたちに連動してその行動をトレースしているのだ。色違いの石たちは内四つが一所に集まり、淡い光を発しながら暗明を繰り返している。

 

 他方、一つは郊外の森中で微動だにせず、光を発することもない。この一つはアーチャーだろう。昼間に確認したときと同じ場所で静止している。

 

 石が放つ光の点滅はそのサーヴァントがどれほどの魔力を発しているのかをあらわしている。よって集まっている四騎は戦闘中。逆にアーチャーの方は実体化すらしていない。

 

 本来なら、キャスターである彼女にとって他のサーヴァントの位置を確認することくらいのことは雑作もないことだった。しかし、連日この街を覆っている不可解なノイズがサーヴァントや魔術師の魔力探知能力に介入して、その悉くを無効化しているのだ。

 

 諜報戦を嫌うものの犯行なのかどうなのかは定かではないが、兎角サーヴァントの位置くらいは把握しておかなければ話にならない。そのため、キャスターはこのような手間の掛かる手段を取らざるを得なかったのである。

 

 なにより、こうでもしないことには無軌道に出歩く鞘の居場所は確認できないのだから、そう無駄な手間とも言っていられない。

 

 現在確認できるサーヴァントは自分を含めて七。今サーヴァントの大半が集中する戦場に向けて真っ直ぐに移動していくのは鞘だ。

 

 彼女にはこの部屋のことは知らせていない。本人がその手の戦略に無関心ということもあるが、出来れば戦場の位置など知らせたくなかったからだ。そうでなくとも複数のサーヴァントが入り乱れるような場所に好んで送り込みたいとは思わない。

 

 そう思えばこその処置であったのだが、彼女の方策は功を奏することもなく、丸石は戦禍の中へと一直線に滑っていく。

 

 これだけの魔術的なノイズが入る中、鞘が意図的にそこを目指しているとは考えにくい。おそらくは気の向くままに突き進んでいるだけなのだろう。つくづく厄介な勘のよさに辟易しつつも、一方では監視しているようで申し訳ないという気持ちもあった。が、そこはさすがに老婆心ということにしておいた。

 

「しかし……」

 

 キャスターはそこで、改めて白布の上に視線を泳がせる。置石の数は現在七つ、イレギュラーのセイバーがいるのだから、一つ足らないことになる。見れば、先ほどまでライダーをマークしていたはずの一つが白布の内ではなく外に出て彼女の足許に転がっていた。

 

 それを拾い上げて再び布の上に石を放ってみるが、置石は居場所を見つけられずにふらふらと彷徨った挙句に弾かれて再び布の外に弾き出された。

 

 これはこの白布によって模倣された冬木市全景の内にそのサーヴァントはいないということを表す。いつの間に? 先ほどまでは確かに白布の上に収まっていたはずなのに……既に脱落したとでもいうのだろうか……?

 

 もしくは冬木市の外まで出ているということなのだろうか? ならば確かに置石は弾かれるだろう。

 

 おそらくは後者。脱落したと見るには要因が少な過ぎるし、これが他ならぬ騎兵(ライダー)だというのなら充分に予想できる事態だ。素性まではわかってはいないが、奴がサーヴァント中最大の機動力を持っている可能性は高い。この戦場から離脱するのもその気になれば造作もないことだろう。

 

 しかし、なぜそんなことをする必要がある? 負傷して遠方に逃げ延びたとでもいうのか? 先ほどのセイバー、アサシンとの邂逅時においてさえ、たいした戦闘もせずに立ち去ったくせに……。

 

 奴は何を考えている? 言い知れぬ焦燥と不快な感覚を、胸の奥に感じ始めていたそのとき、不意にサロンの扉が開かれた。

 

「何だ。ここにいたのかキャス…………!?」

 

 部屋に入るなり、少年は思わず息の呑んで瞠目した。

 

「なんです? マスター、何かありましたか?」

 

「……おっ、怒ってるわけじゃあないんだな?」

 

「はい?」

 

 堆積した思考の深みから引き剥がされたキャスターの顔からは、いつのもたおやかさが抜け落ち、カッと目を見開いた面相は主たる少年を凍りつかせる程度には充分すぎるほどに怜悧であった。

 

「あ――ッ、いや、なんでもない。それより、森が騒がしいような気がしたんだけど、何かいるんじゃあないか?」

 

「ええ、諜報の類が幾らか来ているようですね。しかしサーヴァントはいませんし、警戒するほどのものでもないかと……」

 

 キャスターの表情がいつもと同じに戻ったことと、安全面の確認が出来たところで、カリヨンは取り敢えず安堵して、息を吐いた。

 

「そうか。……じゃあ、それでさ、キャスター……」

 

「……ですが少々気になることもありまして」

 

「え?」

 

「マスター、この敵勢について何か知っていることはありますか? どうにも不可解に思えてなりません」

 

 キャスターは使い魔達の視界を介しての映像を、虚空に漂う靄のようなスクリーンに映し出した。

 

「あ、兄上……」

 

 驚愕の声はカリヨンのものだ。そこに映し出されていたのは蝋のように白い貌をした美貌の青年。カリヨンと同じ父親譲りの白銀の髪を持った男の姿だった。

 

「確か、あの夜に会った次兄の方でしたね。……ですが気に掛かるのは連れている雑兵のほうです。一見してただの一般人にしか見えないのですが」

 

 キャスターの言葉どおり、城を取り囲んでいるのは数十人の男たちだった。それもどうやら徒弟というわけでもないらしい。彼が引き連れているのはくたびれたスーツに身を包んだサラリーマン風の男たちだった。なかには法衣を着た聖職者のような連中や 警官か何かの制服のようなものを着た連中も混じっている。

 

 何よりも妙なのはその顔つきだ、操られているというほどには虚ろでなく、しかし正気というには意思の光があまりにも希薄だ。

 

「単なる暗示や催眠とも違うようですね。……マスター、何かご存知ですか」

 

「兄上……いや、アイツの力については何も分からないんだ。ただ、聞いたことはある。そのときの台詞はこうだった『人の精神を操るのでもなく、惑わすのでもなく、根本から裏返してしまう。げに恐ろしきは異能の業』だって……」

 

「異能者……」

 

 キャスターは含むように反芻する。サンガールの後継者たちは皆魔術回路の増設にともなってある種の、魔術とはその摂理を異にする何らかの能力を発現したのだという。そもそもの魔術の意義を失うほどの。強力な異能を。

 

 ただし、それはカリヨンを除いて、の話である。彼だけは魔術回路を増設された後も何の異能を発現することも出来ず、そもそもの魔術回路の質もおざなりだったために、最も見込みのない後継者と見なされていたのだった。

 

「けど、この状況ってそんなに危ないのか? 大丈夫だって言ったじゃないかッ」

 

「そこです。敵の布陣が城を攻めるにはあまりにおざなりなのです。これでは何の意味もありません。お粗末過ぎる」

 

「な、なんだ、そうなのか……」

 

 安堵の息を吐こうとするカリヨンに、キャスターはしかし、戒めるような声を重ねる。

 

「だからこそ不可解なのです。まだ脱落したサーヴァントはいないはずです。サーヴァントが健在なら、それを筆頭に雑兵を率いてこの城まで攻め入るのが常套手段のはず。なぜあの敵勢は無二の最大戦力であるはずのサーヴァントを伴っていないのでしょうか……。

 マスター。お兄様……いえ、攻め手の方はそのようなお人でしょうか? 考えも無しに真正面から事に当たる野放図な方でしょうか……」

 

「いや、そんなわけはない。考えなしなんてことは……ありえない」

 

 彼は以前から意味も無くこの次兄――オロシャを恐れていた。無論他の兄姉も凶大な暴力を身に宿す魔性の者であったが、この次兄はその性質が違っていた。

 この男に対しての感覚は畏怖というよりは忌避に近いものがあったかもしれない。毒蛇のように狡猾で、秘密裏に他者を貶め、絡め取るような手段を好むのだ。故にその頭脳の明晰さについても、幾度となく聞き知っている。吐き気を催すような仔細までをも含めて。

 

 ゆえに、カリヨンはこの男のすべてが恐ろしかった。対峙したくないという意味では長兄ゲイリッドや長女ベアトリーチェよりもはるかにその気持ちが強かったといえる。

 今も、靄の中に浮かび上がるあの整った笑い貌が恐ろしかった。まるで無理に引き伸ばされた作り物の顔がそれ以上の伸縮を許されずにいるような、次の瞬間には崩れてしまいそうな……。

 

「マスター……」

 

 カリヨンはそこから目を背けて言葉を切った。時刻は、そろそろ夜の深奥に差し掛かり始めている。

 

 そんなカリヨンを慮りつつも、キャスターの脳裡は決して無視することのできない予感に捉えられている。これは、悪霊の群れと悪辣な罠の山に阻まれ、立ち往生するだけの雑兵の群れに感じる脅威ではない。

 

「-―――そ、それで、キャスター。ちょっと相談があるんだけど……」

 

 暫し泥んだような沈黙を持て余したカリヨンは、意を決したようにか細い声を掛けようとした。しかしキャスターの耳には届かない。それほどに、この事態には何らかの意図があるように思われてならないのだ。

 

 だが、それが何なのか、彼女にもわからない。困惑は極まる。所詮は魔術師のサーヴァントと侮られているのだろうか? それだけならば問題はないが……。

 

「なぁ、キャスター……」

 

 しかしなぜ、ああも距離を開けている? 攻めあぐねるにしろ、あれでは攻めるのではなく城を囲んで傍観しているに過ぎない。しかも妙に散開して、あれではむしろ……、いや、これは…………――――。

 

「キャスター、ちゃんと聞いてくれ。こっちも大事なはなし」

 

 ――――〝 取り逃がさないため(・・・・・・・・・)か!!〟

 

 直感的にそう判じた次の瞬間、それは同時に、夜を昇る細月がその頂の天井に足をかけようとしたのと時を同じくしていたことを、キャスターが気付くことはなかっただろう。

 

 ましてや、それが今宵の饗宴の始まりの合図になっていたということなど、まさしく知るよしもなかったに違いない。

 

「――拙い! マスター、早く外へッ!!」

 

 何かを判じる猶予はもはや残されていなかった。サーヴァントとしてのキャスターの聴覚はそれを明確に捕らえていた。音。ほんの微かな。何かが風を引き裂きながら落下してくるような、それでも確実に此方へと迫ってくるような、尾を引くような致命の音色。

 

「えっ?」

 

 キャスターの切迫した声がカリヨンの耳に届くか否かなの刹那、森の深奥にあった石造りの城に閃光と暴風とが大挙して押し寄せ、同時に、音と城壁と静寂とが、消失した。

 

 

 

 

 建物にも「格」というものが存在するというならば、この古城のそれは正しく破格であったことだろう。

 

 機能的な近代的建築物と比するならば誠に奥ゆかしく簡潔な構造でありながら、辺りを祓うような威厳と気品は、ある種の神秘さすら感じさせるほどだ。

 

 しかし、それもむしろ当然のことであったといえる。ここは本来、かつてこの冬木の地において聖杯の召喚に臨んだ三家の魔術師の家門の一つ、アインツベルンの魔術師が度重なる聖杯戦争時においての居城とするために〝移築〟したものなのである。

 

 しかしいくら無人だからといってまさか、その魔の居城に図々しくも勝手自在に住み着くものがあろうとは、さしもの彼女も思い至らなかった。

 

「やっぱここか……。あっきれた、よくこんなとこ使う気になったわね……」

 

 彼女――遠坂凛がここを突き止めるに到った経緯はほぼ偶然と言っていい。敵の情報――特に昨夜追跡を断念せざるを得なかったキャスターの足取りを求めて夜半の市街を探索するうちに、ある異様な一団見つけ、それを追ってきたのだった。

 

 それは一種異様な集団だった。何台もの車両が一様に連れ立って同じ方向を目指していたのだ。それも乗用車やバイクだけではない。バスやトラック、果てはパトカーや救急車までをも含めたそれらが一様に足並みを揃えて郊外の森を目指す様は、まさしく怪奇異様な様であると見受けられた。

 

 そして彼らの目指す先がこの城なのだと察してからは容易に合点がいった。半壊したままだったはずの城が完全に工房として機能している。こんなことが出来るのキャスターのサーヴァントしか考えられない。さすがは聖杯に呼ばれるだけの魔術師の手練といったところか。

 

 しかし、果たして彼女はここで考えあぐねざるを得ない。

 

「さて、どうしようかしらね……」

 

 問題はここからどうするのか、ということである。できればもう少し偵察を試みたかったが、それは難しい。

 

 彼女がここに来たのは今宵が初めてというわけではない。以前なら敵が健在であっても忍び込むくらいのことは容易であったが、今宵のこの森にはそれすらもかなわない。

 

 彼女には今、この森全体がひとつの堅固な要塞に見えた。そこかしこに人の手によるトラップが張り巡らされ、さらには無数の悪霊が溢れかえる伏魔の巣窟と化していたのだ。

 

 現に、先にこの森に踏み込んだ男たちは悪霊に襲われ、トラップにはまって無残に死んでく。ましてや一人で攻め込むなど論外であろう。

 

 しかし彼等はそれでも止まらない。男たちは地獄の窯も同然の伏魔の園へと無謀にも突っ込んでいく。まるで恐怖を感じていないかの様だ。強烈な暗示にでも掛かっているのだろうか。そうでなければ説明がつかない。アレらは明らかに聖杯戦争に関係のない一般市民たちなのだ。

 

「なんてことを……」

 

 それを察した彼女の中に怒りの感情が渦を巻く。しかし、今一人でこの狂った城攻めに介入するのはあまりに危険だ。やはり今宵はこのくらいで引き上げるべきなのだろうか……。

 

 悔しさの余り、木陰に身を隠しながら凛が唇を噛み締めたそのとき。彼女は森を包む静寂が引き裂かれる、耳を弄するような断末魔を聞いた。

 

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-9

 ひどく昏い平野が見える。遮る物のない開けた伽藍。まるで奈落の淵を見るかのよう。――それは漆黒の海面であった。

 

 先刻まで燃え殻を孕むような風に呷られ、沸き立つかのようだった海原はしかし何時からか凪いでいた。それも空恐ろしいまでに、暗鬱に凪いでいるように見て取れた。まるで海が死んでいるかのようだった。

 

 そのとき、その漆黒の水面を押し上げるようにして、何か、煌めくかのような強大な物体が、海中から姿を現した。

 

 これほど凪いだ海ならば、それを見にする者がいてもおかしくはないはずだった。しかし、この夜、その光り輝くものを目にした者は皆無であった。たとえ海岸沿いからこれを眺めたのだとしても、きっとその姿を正確に捉えることの出来た人間はいなかったと思われる。

 

 なぜなら、それはこの静かな海原に在りうべからざる〝不可視の〟暴風に囲まれていたのである。

 その膨大な量の風は常に内側へと流れ込み、異常なまでに圧縮された大嵐の城壁を形成していた。

 一方でその風は外側に漏れることなく、僅かの波紋さえ外へ漏らそうとしないのである。

 

 そしてその分厚い大気圧の外殻は水面に照り返す星の光をさえをも捻じ曲げ、その一帯の虚空をあたかも黒瑪瑙(オニキス)の如く擬態させていたのだ。

 

 その深奥で、囚われの老魔術師は目を覚ます。

 

 気が付くと、そこは頼りないオイルランプの灯りに仄照らされる薄暗い空間であった。奇妙な洋室のような場所だ。ここは何処であろうか? 見慣れない場所であり、そして何よりも異質な空気が漂っている。身体を起こそうとするが、自由が利かない。どうやら椅子に拘束されているらしい。

 

 命じてみるが、靴職人(レプラコーン)達もまた靴の中に留まったまま出てこようとしない。いや、出られないのだろうか? だとしたらここには地面がないということになる。即ち空の上か、それとも高層建築物の上なのか――いや違う。

 

 耳を澄ましてみれば、室内にまで僅かに流れくるのはまるで急くような漣の音であった。つまり、ここは海上だということになる。

 

 なんたる――不覚! 老魔術師は内心で己の失態と危機的状況に舌打ちをした。

 

 土の魔術(アースクラフト)、とりわけレイラインの操術と応用を専門とする彼、ワイアッド・ワーロックにとっては、レイラインの恩恵を受けづらい空中や海上というのは文字通りの鬼門なのだ。ここから単独での脱出は難しいかもしれない。

 

「諦めろ、客人。ここからは逃げられん」

 

 彼の考えを見透かすように声を掛けて来たのは、ワイアッドに向かい合うようにして豪奢なチェアーに腰掛け、無造作にラム酒(グロッグ)を呷っている男だった。さしものワイアッドも息を呑んだ。今の今まで、そこにいたはずの男――否、サーヴァントに気が尽きもしなかったとは!

 

 丸窓から差し込む月の光が、豪奢な卓上を照らしている。そのテーブルの上には、冬木市のものらしい地図と美しい装飾が施された天測器の類が並べられている。

 

「失礼――そろそろ頃合いだ」

 

 サーヴァントの男はそう言って静かに立ち上がり、そのうちのデバイダーと呼ばれる二脚の製図道具を手に取った。そして地図上にコンパスのような二股の針を落として、何かの距離を推し測り始めた。

 

「どうした? 目が覚めたなら、なぜサーヴァントを呼ばん? それとも、これがなければできんのかな?」

 

 男は視線もむけぬまま、ワイアッドに声を掛ける。見れば、テーブルの上に上がっていたのは天測器だけではなくワイアッドとサーヴァントを繋いでいる偽臣の書であった。

 

 男はそれを手にとって、悠然と彼に向き直った。金属が滑るような眼光が、色眼鏡越しにワイアッドを貫く。

 

「なかなかの手練と見えたが、まさか代行のマスターだったとはな。……まあ、こちらとしてはどうでもいいことだ。もとよりサーヴァントにしか用はないのでな。さあ、どうする? これで己がサーヴァントを呼び寄せたいなら――――!?」

 

 言い終わるよりも先にワイアッドが何事かを呟くと、偽臣の書は一瞬で怪異な炎に包まれ、見る間に靄の如き灰となって消え失せた。

 

 すかさず男が手をはためかせると、老魔術師の身体を拘束していた荒縄がまるで生きているかのようにざわめき、彼の首を締め上げた。呻く暇もなく、ワイアッドは再び意識を奪われた。

 

「やれやれ……期待したのだがな」

 

 男はぼやきながら、これもまた華美なまでに飾られた望遠鏡を手に取ると、船長室から外の甲板に歩み出た。

 

 懐かしい潮の香りと柔らかな潮騒の気配が、彼の身体を包み込んだ。あれほどに吹き荒れた板はずの大嵐の防壁も、今ばかりは何の痕跡もなく消え失せている。

 

 いかにも潮風の似合う男だった。辺りにはうねるような夜。ただ漆黒の、ただ暗黙の夜だけが静かな潮騒の音を引き連れて流れていく。

 

 ――嗚呼。ここは、良い。

 

 初めて目にするはずの海だった。しかし同時に懐かしい海でもある。世界は海で繋がっているのだ。ならばたとえ始めて目にする場所であっても、ここは彼の故郷に違いない。

 

 だがどうせならこんな浅瀬ではなく、もっと沖を目指したいところだった。空と星と、そして何もない水平線だけが己を取り巻く世界へ、未知の渇望に胸を焦がしたあの日のように。揺籃の波頭に栄光を夢見たあのころのように――。

 

「……いい風、そしていい波だ」

 

 洩らしながら、彼は己の総身が南洋の浅瀬に見た薄水のグラデーションのように澄んで行くのがわかった。そして気分が変わり、考えを改め直すことにした。

 

 これも仕方がないことなのだ。ここでサーヴァントを喚ばれては今夜の予定に支障をきたすことになりかねない。

 

 当初から彼はこの作戦には乗り気ではなかった。そのうえ途中で偶然捕らえた魔術師をつれていた上に、通信のためにと言って持たされた通信機まで積み込んでいたおかげで霊体化して移動することも出来ず、余計な手間を取った。

 

 加えて、アサシンなんぞにも無用のちょっかいを出される羽目になったのは並べても業腹の極みであった。とはいえ、いまはそれらを差し引いても存外に気分は悪いものではない。

 

 それほどに彼の心は晴れ渡っていた。なぜならその寄り道のおかげで、ひどく幸福な出会いがあったのだから。

 

 あの時、翠緑に光り輝いていた騎士王の瞳を彼はうっそりと思い出す。

 

 潮騒の中で脳裏に浮かび上がり、蘇ってくるのは過ぎ去りし日々に仰ぎ見た我が女王(マイ・クィーン)の威容であった。あの克己の眼差しが、そしてその王気があの騎士王を名乗る少女のそれに重なるのだ。

 

 身体中が戦の予感に沸き立ち始めている。嗚呼、血が滾る。戦場の気配を、戦場の風を、あの眼差しがつれてきたのだ!

 

「ふふ。――さて、開戦までは如何ばかりか……」

 

 巨大な船体を再び暴風の殻で包みながら、待ちきれないとばかりに男――ライダーのサーヴァントは嘯く。

 

 猛獣のようなその眼差しを兇気の喜悦に染めて、かつて魔竜とまで呼ばれた男は今まさに天蓋の頂点に足を掛けようとする月を見据えていた。

 

 

 

 

 

 目指すべき災禍の深奥は新都オフィス街だった。出火したのはそろそろ日が落ちようかというころで、未だ職務についていた人間も多かったのだろう。一気に燃え広がった紅蓮の波から逃れられたのは、ごく一部の幸運な人々だけだった。

 

 火に巻かれ、崩れ落ちた瓦礫の下敷きになってもだえ苦しむ人の声と、逃げ惑う人々の狂乱の声とが合唱しあい、響き渡って燃え盛る炎をさらに煽り立てているようであった。まるで戦場。魔に蹂躙された営みの庭は、もはや地獄の釜の底の如き様相を呈していた。

 

 すぐに人々を救出しようと機内から降りようとした士郎だったが。しかし助けようとした人間を悪辣に呑み込む焔の群れにを前にどうすることも出来ない。

 

「くそっ」

 

「小僧、暫し待て。今降りる場所を見つける」

 

 ランサーの駆るロビンソンは火災で巻き起こる強烈な上昇気流をものともせず、ビル群の隙間を縫うようにして低空飛行を開始する。今回初めて操縦桿を握った筈にもかかわらずランサーの操縦技能は正規のプロパイロットのそれを凌駕していた。

 

 これがサーヴァントにそなわる『騎乗』のスキルである。本来、クラススキルとしてはこの能力を持つことの無いランサーだが、彼女は元来が伝説の騎馬民族の出自を持つ英霊である。そのため、固有のスキルとしてこの能力が備わっていたのだ。

 

 しかし、このときばかりはその卓越した操縦技術が仇となった。

 

 そのとき、未だ炎に巻かれてはいなかったはずの、彼らの背後に聳えていた高層ビルがいきなり内側から火を噴いたのだ。それは臨界を迎えた風船が内部の圧力に負けて破裂する様に酷似していた。

 

 溢れ出した炎と瓦礫の雨が彼らの頭上に降り注ぐ。否、それはもはや灼熱の大瀑布であった。

 

「つかまれ!」

 

 ランサーはすぐさま機を上昇させて離脱をはかる。だがそれは崩れ落ちる幾千万の瓦礫の前にして、あまりにも無為な行いと言わざるを得なかった。一面の赤朱が、やおら翳った視界を覆っていく。――

 

 

 ――辺りは倒壊したビルの破片で埋め尽くされ、哀れ、瓦礫の山と化していた。それらはすぐに群れ成すような斑炎に囲まれ、周囲の様相は一変、炎と黒煙の大海原へと姿を変える。

 

 刹那、その一角が盛り上がり、その下からせり上がるように紫水晶の威光が姿を現した。七、八メートルはありそうな長槍が次々と突き出し、彼らの頭上で円錐形の槍衾を形成したのだ。

 

 言うに及ばぬことだが、それはランサーの変幻装甲の賜物であった。そうして作り上げられた即席の楔形陣形が彼らを紅蓮の怒濤から守りきっていたのだ。

 

 しかしそのせいで乗ってきたロビンソンはズタズタに粉砕されてしまっていた。運転席にいたランサーが内側から槍衾を形成したからである。

 

「すまんな。たった一度しか駆ってやれぬとは……」

 

 ランサーはものいわぬ鉄塊と成り果てた愛騎に哀悼の眼差しを送り、肩を落として僅か半日足らずの付き合いだった相棒に別れを告げた。

 

「ランサー、あれを!」

 

 そこで、槍衾から這い出したテフェリーが、まずはそれを見つけた。それにつられるようにして士郎とランサーが、それを見る。

 

 それはそこから程近い焔の向こう、小高く積みあがった瓦礫の丘の上に、呆けたように立ち尽くしていた。それは奇怪な和装の女であった。その姿はまるで灰でできた彫像のようだった。瞳がちな目はひどく虚ろで、その滑らかな肢体にはまるで生気が無い。死人の如く青白い肌が幽鬼を想わせる灰白色に濡れ光り、その女から人間性というものの悉くを奪いさっているようだ。

 

 その上、淫らに着崩した鈍色(にびいろ)の着物と髪が、真紅に染め上げられた炎の文様を浮かび上がらせているのだ。その紅蓮の炎の染め抜きが、青白い肌の上でひどく禍々しいものに映る。蝋のような白い顔に、呆けたような恍惚とした表情を浮かべる様相はあまりに淫靡で、同時にどうしようもなく人間味に欠けていた。

 

 そして、その虚ろな眼には物狂いのそれとしか見えない凶暴な色が覗いているのだ。

 

 着物の女は炎の中でしきりに身体をくねらせていた。妖艶に起伏した肌がびくり、びくりと痙攣するたび、音もなく漏れ出る女の息が、あでやかな法悦の色を帯びるようだ。

 

 まさしく狂人の振る舞いと言えた。その行為がなにを意味するのか、一見しただけで理解出来る者など皆無であっろう。ただ、視界を半歩引いて全体の光景を俯瞰して見るならば、それは文字通り一目瞭然だった。誰もが瞬時にそれを理解した。

 

 衛宮士郎は「あっ」と声をあげそうになり、目を見開いた。見上げてみれば、その女の頭上には夜のキャンバスに乱れ逆巻くかのような焔色の漣が渦を巻き、脈動するかのように収縮を繰り返しているのだ。

 

 そして渦の中心にいる女に向けて灰塵か白煙か、なにやら判然としない白い靄のようなものを押し流しているように見える。常人の目にはその程度の光景にしか映らなかったが、魔術師である彼にはそれがなんなのか如実にわかった。解かってしまった。

 

 ――魂喰い。

 

 吸っている。呑んでいる。喰らっている! あの女は、霊体になっても尚、炎に巻かれ焼け続けている人々の命を貪っているのだ。もはや間違えようもない。連日の火災はこの女の仕業だ。

 

「や、やめろッ!」

 

 士郎はすぐさま気を吐いて灰色の妖女目掛け駆け出そうしたが、それに先んじたランサーの輝影がそれを制した。

 

「……下がっていろ」

 

 声は冷めて冷徹に、瞳は燃えて灼熱に。そこには万全の支度を整えた戦女神が光臨していた。それはこの事態がもはや人の出る幕ではないことを示している。

 

 テフェリーとも視線を交わし、士郎は大人しく引き下がった。激情は抑えがたいものであったが、セイバーとの約束もあり、無理は出来ない。何より、既に火のようになったこの蛮勇を差し置いて前に出ることは、無謀を常とする彼をして、なおも叶うものではなかった。

 

 逆巻く炎の向こう側でひとしきり紅蓮の波間に揺られていた狂女は、そこでようやく目視できる位置にいたランサーたちに気付いたのか、ビクリ、と一際大きく身を震わせ、機械仕掛けの人形を思わせる奇怪な動きでよたよたと歩みはじめた。

 

 ――――かと思えば、途端にその両袖口から飛び出した巨大な鉄爪を振り乱し、紅蓮を纏いて跳躍した。

 

「………ッ――――――――――――――――――――――――ッッッ!!」

 

 奇声。とうてい人のそれとはおもえぬ金切り声を張り上げながら、灰白色の女は夜気に緋の尾を残し、一瞬でランサーとの距離を詰めてくる。傍らの主の指示を待つまでもなく、ランサーも轟と大地を蹴る。

 

 赤火にまみれる瓦礫を掻き分けながら激突する紫水晶と白灰色。技巧も何もありはしない。まるで砲弾と砲弾が中空で衝突したかのような衝撃が、赤熱する粉塵と灰燼とを夜の虚空に巻き上げる。

 

「むぅッ!?」

 

 驚嘆の声はランサーのものだ。手にした短槍を弾かれ、しなやかな長身が僅かに後退する。果たして真正面からの力勝負の行方は灰色の女に軍配が上がったのだった。この狂女の攻撃には精緻なる技巧などありはしない。対する槍兵に比べ、遥かに矮躯でありながら、この灰色の女はただ膂力だけでランサーを圧倒したのだ。

 

 舞い上がる火の粉の群れが、滲むような夜気を焦がし、嬉々として妖舞する狂女の姿を照らし出している。

 

 狂戦士(バーサーカー)。もはや推し量るまでもない。力押ししか能の無い戦法、そして怪鳥のごとき奇声を張り上げての狂態はまさしく理性を奪われた獣のそれでしかありえない。

 

「くそッッ」

 

 それを見て歯噛みする士郎に、注意深く辺りを観察していたテフェリーは声色も変えずに告げた。

 

「お気を付けください。この火災は人為的に広がるように手を入れた跡があります。さっきのビルの崩落も、おそらくはバーサーカーのマスターがやったものです。まだこの近くに居るかもしれない」

 

 言うや否や、奔る無数の銀の糸。最初にランサーとセイバーが戦ったときにこのメイド姿の少女が見せた礼装である。あの夜と同様に、今もまたに無数の糸が虚空に踊る。

 

 炎光に照らされるそれは、月光に溶け入るかの如き冷ややかな様相とはまた違った艶やかさを帯びて、夜に舞う。

 

 それらの銀糸は燃え盛る木材やコンクリートを括り、崩し、切断し、いとも簡単に巨大な瓦礫を粉砕していく。ふるわれる両腕はまるで羽ばたくかのように軽やかであり、舞うかのようなその様は楽団を率いる指揮者の姿すら連想させる。

 

 そうして砕かれ、切り崩された瓦礫群は糸によって綺麗に取り除かれ、古代の円形舞台(オルケストラ)を想わせる開けた空間を作り上げた。

 

「ランサーッ!」

 

 さらに、ちょうどそこに隣接する観客席(テアトロン)のような瓦礫の上へ、士郎を連れて跳び上がったテフェリーは、号令でも掛けるかのようにランサーへ呼びかけた。

 

 するとランサーも始めから申し合わせたかのように、その広間の中央に陣取った。獲物が動きを止めたことを好機と取ったのか、バーサーカーは再び弾丸の如く真正面からランサーに突進する。

 

 ここでひとつ、奇怪な事実がわかった。その狂女の周囲、その身体の通る跡にはまた新たな火種が燃え始めているのである。あの女が動く度、その振袖や裾布をはためかせる度に、その身体の周囲にはパッと金蛾の如き火の粉が舞い散らばるのだ。

 

 闇の深い夜にはそれがなんとも美しく浮かび上がるのだが、そのせいで周りの家屋は次々に炎に包まれるのだから、座して眺めるにはあまりに悪辣な趣向だといえた。

 

 再度、何の技巧もなく一直線に向かってくるバーサーカー。紅蓮を巻く一筋の紅線を、再び真正面に迎え撃つランサーは深く腰を落とし、手にする短槍の端を両手でしかと握り締めた。

 

 すると、やおらその反対側の穂先が腫れ物のごとく丸みを帯び、そして大玉の西瓜(すいか)の如き大きさまで一気に膨れ上がったのだ。

 

「おおぉぉぉぉぉ――っらぁぁぁぁッッ!!!」

 

 気合一閃。最大限まで捻転された長身を余すことなく駆動させ、砲弾の如く撃ちだされた鉄球が夜陰に舞う焔ごと鈍色の女影を薙いだ。しかしその瞬間、直進して来た筈のヒトガタは赤熱する流砂の如く崩れ落ち、火の粉の塊となって暗闇に溶け入るかのように消え失せたのである。辺りには紅く散らばった燃え殻が点々と残るだけだ。

 

 すると同時に、辺りの瓦礫で燃え盛っていた炎がやおら立ち上がり、いくつものヒトガタを形作ったではないか。ランサーは再度鉄球を振り被り、瓦礫ごとそれらを吹き飛ばしたが、そうする度に舞い上がる火の粉がまた新たなヒトガタとなってゆらゆらと燻り始めるのだ。

 

「――チッ」

 

 予期せぬ狂戦士の幻影の術に業を煮やしたのか、ランサーは持っていたモーニングスターを引き延ばし、再び武具の換装に取り掛かった。しかしそのとき、ランサーの死角で鎌首をもたげる炎塊があったのだ。

 

「後ろだ! ランサー」

 

 士郎は思わず叫んでいた。しかしその咄嗟の叫声は炎から姿を現したバーサーカーに先んじることなく、炎灯に煌めく甲冑の隙間から覗いたランサーの白い首めがけて、巨大な凶爪が薙ぎ放たれた。

 

 ランサーの相手をさせていたのは、総て唯の幻炎でしかなかった。炎を固めて作っただけのフェイク。後ろを取るための布石だったのだ。紅蓮を撒く鉄爪が迫る。が、しかし――その爪が標的に届くことは無かった。

 

 観れば、今まさに凶行に打って出ようとしたバーサーカーの身体は、まるで時が止まったかのように、宙に浮いたまま、虚空に固定され静止しているのである。その姿は、まるで丁寧にビス止めされた蝶の標本のようであった。

 

「!!ッ――――――ッ!――――ッ――…………」

 

 もはやバーサーカーは声にならぬうめきを漏らすことしかできないようであった。

 

 その五体はいくつもの煌めく刃や杭に穿たれ、その虚空につなぎとめられていたのだ。ランサーは一歩も動いてはいない。その無数の刀身はランサーの纏う紫水の甲冑の背面から伸びていた。

 

「――阿呆め。我が沸血装甲(マーズ・エッジ)に死角など有るものか」

 

 言って、ランサーは襤褸切れのようになった女を地面に投げ出した。周囲を囲んでいたヒトガタもまた、火の粉の群れと化して溶け崩れた。跡に残るは煤ばかりである。

 

 見守るテフェリーも最初からの涼貌を崩していない。戦う前からわかっていたことだった。あの程度のサーヴァントでは、このランサーの相手になりはしないと。

 

「拍子抜けもいい所だな、この程度で英霊を名乗るとは笑わせる」

 

 ランサーもまた一合目で敵の力量を看破していたのだろう。主の信頼を知ってか知らずか、圧勝したわりには存外に不満そうな声を漏らした。

 

「―――ッツ―――ッ……ッ」

 

 女――バーサーカーは痙攣を繰り返すだけで、もはや戦うどころか動くこともままならぬようであった。

 

 ランサーは折り畳んだ得物を両手に執って振り降ろした。すると引き延ばされるように伸び上がった紫の鉱石が、新たに奇妙な形状の刀身を作り出す。

 

 刃は分厚く、切っ先は丸まり刺突には使えない。握りの長さもほとんど余裕がなく、機敏なとりなしには向かないだろう。およそ実戦に堪えるものではない。それもそのはず、その形状はただの一度で如何に人の首を落とすかという一点についての機能を追及した結果であったのだ。

 

 それは。断罪の大剣(エクスキューソナーズ・ソード)。即ち、介錯のための慈悲の刃であった。

 

「これも情けよな。――悔やむなら現世に迷い出たことを嘆けよ、亡霊」

 

 そう言ってランサーが大上段に大剣を振りかぶった、その時であった。まるで地獄に倣うようなこの場所に清涼な一陣の風が飛び込み、次いで飛来してきた何かを立て続けに打ち落としたのだ。

 

「セイバー!」

 

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-10

「セイバー!」

 

主の声でその生存を確認したセイバーだったが、しかし安堵の息を漏らす間もなかった。

 

 再度暗闇から投擲された礫は十二、それらは二人の代行マスターたちの頭上めがけてばら撒かれた。

 

「砕くな! 落とせ、ランサーッ!」

 

 今度ばかりは軽口を漏らす暇もないのか、セイバーの切迫した声にランサーも首肯のみでそれに答え、手にする大剣を一瞬で三叉の長槍に変転させ宙空に跳び馳せる。

 

 共に虚空に身を躍らせた二騎のサーヴァント達は、紅蓮に照らされる深夜の舞台に即興で剣舞の華を閃かせる。弾かれるのではなく、真下に打ち落とされた漆黒の陶器は炎逆巻く瓦礫の上に散らばり、中の液薬を撒き散らすだけで標的に届くことがなかった。煤に混じり、得体の知れない刺激臭が微かに鼻をついた。

 

「なんだ!?」

 

「アサシンです。シロウ、気をつけてくださいッ!」

 

 虚空から主のそばに舞い降りたセイバーは、ランサーと共にマスター達を守るようにして並び立つ。

 

「毒使いか……」

 

 ランサーもすぐにその意味を悟ったのか、声色にいつもの軽妙さがない。

 

 そこでまたもや、一陣の夜が星屑の如き群炎に包まれる。切り伏せられ、既に虫の息だったはずのバーサーカーがバネ仕掛けのように起き上がり、四方に無数の鬼火を撒き散らしたのだ。

 

 そしてその赤光に照り塗れるような闇間から、ぬっと姿を現した何者かの姿があった。月明りも、星影さえも届かぬその暗がりに、無造作な切れ目を入れるようにして、今初めて衆目に姿を晒したこの黒衣の異形こそ、アサシンのサーヴァントに他ならない。

 

 身構える両雄を前に、アサシンはすかさずバーサーカーの炎に向けて何かの液薬を撒き散らした。すると微々たる燻ぶりでしかなかった鬼火までもが、途端に巨大な火炎となって聳え始めたではないか。辺りはすぐにまた一面の炎に包まれた。

 

 それで誰もが理解した。もはや疑いようもない、バーサーカーの手助けをして火災を広げていたのはこのアサシンの仕込みに違いない。この二体のサーヴァントが協力関係にあるのは火を見るよりも明らかだった。

 

 案の定、二体のサーヴァントはセイバー達と向かい合うように並び立つ。奇しくも趨勢は二対二。逆巻く炎が即興の闘技場を茜色に照らし出していた。

 

 アサシンは黒衣の装束を脱ぎさった。現れたのは斑色のせむしの男だった。左手はどす黒い血で斑に染まる包帯で幾重にも巻かれ、首に吊られている。その左腕の付け根には巨大なこぶがあった。左腕とはまた違った包帯のような拘束具で厳重に固められたそれは人の頭ほどもあり、異形の暗殺者のシルエットを際立たせている。

 

 先ほどの毒飛礫(つぶて)が尽きたのか、アサシンは新たに奇怪な刃を握っている。およそ何に使うのかもわからぬほどに枝分かれし、突き出す突起が拷問具のような刃物だ。

 その上、刀身の鎬の部分には何かの獣毛のようなものがびっしりと植えつけられ、そこから透明な液体が滴り落ちている。おそらくはあれも劇薬の類であろう。掠りでもすればどうなるか解からない。

 

 だが、それがセイバーやランサーに通用すると考えているのなら――その見通しは甘すぎる! 一刹那、不敵に微笑んだ二つの輝影が赤炎の壁を突き破るようにして爆ぜた。跡には居並ぶ炎が真紅の円環と化してその突撃の凄まじさを物語る。

 

「ヒ――」

 

「――ッ」

 

 悲鳴の漏れる暇こそあらば、一閃。ただの一閃としか見受けられなかった鳴戟の刹那、旋風(つむじかぜ)に舞い上げられる木っ端の如く、狂女と間者は十メートル以上も弾き飛ばされた。それでも尚敗走せずに身構えたのは、さすが聖杯の機能によって喚ばれた英霊の端くれたる矜持からであろうか?

 

 だがそこまでだ。果敢にも攻勢にまわろうとするアサシンとバーサーカーを、セイバーとランサーは歯牙にもかけない。もはや、戦況は要撃戦ではなく殲滅戦の様相を逞しつつあった。敵を引き入れる筈の必殺の罠場は、今や彼奴らにとっての死地となったのだ。後は敵を掃討し、引導を渡すだけ……。

 

 だがそのとき、セイバーとランサー追撃がやにわに滞った。見ればあろう事か、追い詰められた筈のアサシンが手でバーサーカーを制し、近くの瓦礫の上にゆっくりと腰を下ろしたのだ。

 

「……いや、参った。これは敵わん」

 

 初めて聞くアサシンの肉声だった。ひどく落ち着きのある。老成した声音ように感じられたが、一転してそれは声だけでは男なのか女なのか、若年なのか老人なのかも判然としない奇異な響きをもっていた。しわがれた老人のような、それでいて不思議と伸びのある、あまり印象には残らない奇異な声音だ。

 

「……さすがは伝説に名だたる両雄。ワシらなぞではかなう道理もありはせんな。いやはや、真に見事。……その威名と武勇に敬意を評して、ここでひとつ斯様な話を送りたい」

 

 聞く道理なし! 考えるまでもなくそう断じたセイバーとランサーは同時に乾いた地面を蹴る。しかし、

 

「こんな話を知っておるかね?」

 

 同時だった。アサシンの老獪な声に微かな愉悦の響きが生じたのと、背後に庇うように控えさせていたマスターたちが途端に呻き、苦しみだしたことが。

 

「シロウ!?」

 

「テフェリー! どうした!?」

 

 両サーヴァントは大地を抉って急停止し、一斉に主を振り返り声って驚愕の声を張り上げた。それでもアサシンの言葉は終わることなく続いている。

 

「……古の時代から、暗殺者たちは手を替え品を替え、あらゆる方法で毒を使いこなしてきた。いや、暗殺者だけではない。それは人の歴史と共に積み上げられてきた――」 

 

 二人のマスターたちは瓦礫の上に身を投げ出し、苦しげに呻いている。士郎は苦悶に顔を歪め、テフェリーも膝をついたまま動けずにいるようだ。

 

「――いわば人類の負の遺産とでも言うもの。ある者は毒の染み込んだ肌着を介して、ある者は体内に毒を持つ女と交わったために。そしてある者は――」

 

 ――毒物!? 馬鹿な! セイバーの思考は一気に沸騰しかかっていた。なぜ? いつ? どうやって?

 

「――松明に仕込まれた毒の、その燃え殻の香りによって命を落としたという」

 

 その声に、ようやく現実に引き戻される。先ほどばら撒かれ、セイバーとランサーによって叩き落とされた毒飛礫。そこから零れ出た薬液。それは初めから誰を狙ったものではなく、バーサーカーの炎によって燻り出されることが前提のものだったというのか!

 

 ものも言わず、セイバーは颶風を巻いて再び突貫した。が、

 

「ワシを殺すと解毒はできんぞ?」

 

 セイバーとそれに続こうとしていたランサーの動きが制動をかけたかのように止まる。驚愕と苦渋の入り混じった相を浮かべる両雄に、アサシンは嘆息交じりに語る。

 

「毒使いなら当然の備えよな? 自らの毒に侵されては元も子もない……」

 

 そう言ってアサシンは何かを取り出した。何かの液体で満たされた透明な容器のように見受けられた。

 

「これはあらゆる毒物の効力を中和させる効果を持つ、万能解毒薬『ミトリダティオン』。よければ使うかね? もしも使うなら急いだ方がいい、あの様子では後いくらも――」

 

 ――持たない。そう、言い終わるより先に、二人の英霊は動いていた。一時の静止はその足が前に出ようとするのを無理やり押さえ込んでいたに過ぎない。その解毒剤が本物であれ偽物であれ、この敵を生かしておくことは論外なのだ。

 

 それを見たアサシンは乾いた笑いとともに、高く掲げ上げていたその容器をそのまま虚空に放り投げた。同時にアサシンの背後に控えていたバーサーカーは炎と共に両者の前に立ちふさがる。

 

「ランサーッ!」

 

「応ッ!」

 

 申し合わせたように動いた両雄の連携は一糸の乱れもなく完璧だった。セイバーがバーサーカーを制するのと同時に、ランサーは放り上げられた容器を危うげなく受け止めた。

 

 バーサーカーを鎧袖一触に蹴散らしたセイバーは、そのまま動かずにいるアサシン目掛けて不可視の刃を掲げ上げる。だがそのとき、瓦礫と炎の円形闘技場(テアトロン)に厳かな声が響き渡った。それがどこから発せられているのか、セイバーたちにもまるでわからなかった。ただひとり、蹲っていたテフェリーだけが、不吉な既視感に動かぬ身体を振るわせ、その大きな目を見開いた。

 

『バーサーカーよ、汝が第二の主の名の下に令呪を持って命ず。――狂気の代償に失われし宝具を今ここに開放し、そこなサーヴァント両名を拘束せよ』

 

 瞬間。今しがたセイバーに切り伏せられ、彼女の背後に身を投げ出していたはずのバーサーカーの全身から、爆ぜるように魔力が噴き出した。そして紅蓮に燃え盛っていた周囲の炎をも巻き込んで、一気に集束をはじめる。

 それらは過たずセイバーとランサーの五体に殺到し、粘りつくかのように凝固して両者をその場に磔にしたのだ。

 

 ――『火刑(カケイ)緋炎魔(ヒエンマ)』――それはかつて、この狂女がその生涯の終わりに甘んじてその身を投げた贖罪の炎であった。

 

 しかし悲しいかな、それは奇跡すら凌駕する英霊達を押し留めるにはあまりにか細く、あまりに脆弱であった。

 

 セイバーが全身から発した渾身の魔力放出とランサーの攻性装甲の輝きは、彼女らを拘束する紅蓮の炎をいとも簡単に蹴散らした。この程度の宝具では正規の英霊たる彼女たちを押し留めることなど出来はしない。もって数秒の足止めが限度――だがそれは、もとより承知のことでもあった。

 

 なぜなら、アサシンにとって、必殺に要する条件はそれで事足りたのだから。

 

 地に伏したバーサーカーが五体から炎を吐き出すのと同時に、アサシンの左肩の瘤は異様な脈動を始めていた。そして分厚い呪符の下からまるで具現化した呪詛の如き黒血が染み出し、しだいに滴り始める。それは通常ならば有り得ないほどの出血だった。もはや尋常な量ではない。そしてどす黒い血に染まった左手の包帯が取り払われる。 

 

 おぞましくも奇怪な腕だった。アサシンの左腕にはいたる所に裂傷があり、むしろ裂傷が集まってできているのがあの腕なのかと思われるほどであった。そこから溢れ、流れ滴る黒い飛沫が、あわや頭上の虚空に向けて迸り、仄明るい夜空に黒血の雲霧を形成し始める。

 

回想傷痕(ザバーニーヤ)!』

 

 呪いの言葉と共に撒き散らされ、虚空に四散した血霧はまるで見えぬキャンパスに絡みつくかのように昏い空間に留まり、セイバー達の視界をどす黒く染めあげた。そしてうねり、収束しながら見たこともない文様を描き出していく。

 

 炎の拘束を蹴散らした二大サーヴァントは、主達を背にかばう形でその血の紋に対峙した。この宝具がどのような代物なのだとしても、背後で膝を折る主たちに危害を加えることだけは断固として阻止する!

 

 浮かぶ朱紋の次なる怪異を予想し、身構えたセイバーとランサーはその文様をしかと凝視した。しかし、血の紋はそれから何の効果も齎さずに崩れ、炎に照らされる夜気にあっけなく四散してしまった。

 

「…………?」

 

 まさか不発か? 訝るセイバーだったが、すぐに蹲る主の容態を窺う。

 

「セ、……セイバー!」

 

 動けぬ身体で必死に叫びかけてくる主の声が聞こえた。ふらつき、崩れそうになりながらもセイバーの元に歩み寄ろうとしている。セイバーは内心で僅かながらに安堵した。あいも変わらず無理をしようとするのは困ったものだが、あの様子ならすぐ命に別状があるわけではなさそうだ。

 

「問題は有りません。すぐに行きますからシロウはそこで――ッ?!」

 

 そこで、セイバーは己の足元がひどくぬかるんでいるのに気付いた。

 

 火に焼かれ乾いていたはずの土が、今や土砂降りの後の地面かと見紛う程にたっぷりと水気を吸っているのだ。見れば足を捕るのは大量の血泥である。先ほどアサシンが中空に撒きちらしたものだろうか? 否、それにしては分量が多すぎる。

 

「セイバーッ!!」

 

 必死の形相で叫ぶ士郎の姿が見える。そこで、その叫びの意味が、やっとセイバー自身にも理解できた。

 

 そう、それはアサシンの血ではなかった。足下を濡らす血溜まりは、騎士王の白銀の甲冑から滴り落ちる鮮血によって齎されたものだったのだ!

 

「何だ……これは?」

 

 驚愕の声はランサーのものだ。彼女もまた同様の有様だった。煌めく装甲は全身から噴き出してくる鮮血によって紅黒く染め上げられていた。さしもの彼女も、この事態には言葉もないようであった。

 

 有り得ない。セイバーもランサーも驚愕の念は同じだった。いつの間にこれほどの傷を負わされたというのか? 共に高い対魔力を持ち合わせる騎士のサーヴァント二人に触れもせずにこれほどの傷を負わせるなど、並大抵の魔術や宝具ではありえない。

 

 何よりも解せないのは、先ほどのアサシンの宝具は確かに不発だったことだ。中空に紋を描いただけで、大した魔力も伴わずに四散した。それは間違いない。

 

「そんなに不可解かね? 自身の身体が傷つくことが?」

 

 左腕を厳重に封印し直し、斑模様のアサシンは警戒した様子も無く歩み寄ってくる。しかしセイバーには問答に応じる気など有ろうはずも無かった。

 

 セイバーは傷を無視して赤黒い泥を蹴散らした。アサシンが悠然と構えている場所はセイバーの立ち位置から五メートルも離れていないのだ。セイバーにとっては必殺の、アサシンにとっては致命的な間合いである。

 

 不可解な事象に気を取られている場合ではない。如何に多数とはいえこの程度の傷はサーヴァントたる己を縛るほどのものではない。持ち前の再生力はすぐにも傷を塞ぐだろう。

 

「はぁぁッ!!」

 

 血煙を撒いて唸りを上げる不可視の剣は、不遜な暗殺者に分不相応な慢心の付けを払わせるべく振り上げられ――――

 

「ッッッ?!」

 

 ――――そして、主たる騎士王の鮮血で、さらにどす黒く染め上げられることになった。

 

 セイバーは再び己が矮躯から爆ぜるように噴き出した鮮血の中へ、倒れ込むように片膝をついた。

 

「無理をしないほうがいいぞ、セイバー。いや、騎士王殿。それは軽い傷から先に開いていくのだ。だんだんと大きく、重い傷が口をあける」

 

 確かにサーヴァントとしての再生力は傷を治癒している。しかし、それにも増す勢いで傷はどんどん増えていくのだ。

 

「傷を……開く、だと?」

 

 唸るようなランサーの声。平時と変わらぬ声色はしかし、焦燥の色を隠しきれてない。

 

「そうとも。我が宝具はそれだけではサーヴァントどころか人も殺せぬ出来そこないだが、それゆえの利点もある。これは直接人間に害を加えることはしない、血の文様によってある種の記憶を思い出させるだけだ。わかるか? 傷を開いているのは私の宝具ではなく、お前たちの魂と体が記憶している傷口の形だ。魂であれ、脳であれ、細胞であれ、そこに刻まれた記憶は嘘をつくことはできぬ」

 

 アサシンの抑揚のない口上は、それとは裏腹に次第に熱を帯びるかのようであった。

 

 セイバーは煩わしい声に歯噛みしながらも全魔力を治癒に当て、静かに傷が塞がるのを待っていた。まだ勝機はある。アサシンの宝具は種が割れてみれば他愛の無いものだ。生前に負った総ての傷が開こうが、今のサーヴァントとしての己の肉体はすぐにそれを塞ぎ、戦闘をも可能とするだろう。  

 

 アサシン本人が言うとおり、この宝具は必殺を期することの出来ない出来損ないだ。事実、すでにセイバーの傷は開くと同時に再生を始めており、大方が行動に支障のない程度まで回復している。

 

 本来ならすぐにでも必殺の剣に訴えるところだった。しかし、ほぼ完治したはずの身体は未だ自由にならなかった。身体には力が入らない、それどころかどんどん消耗しているようにさえ感じる。今度の怪異の原因は明らかだ。なぜか一箇所だけ、この腹部の傷だけが全く治癒していない。

 

 見れば、ランサーも同様であった。彼女も持ち前の再生力によってすでに大方の傷は塞っている。だがその美貌は未だ蒼白で回復の兆しを見せていない。

 

 彼女もまた鮮血が流れる胸元を押さえたまま動けずにいるのだ。なぜ塞がらない傷があるのだろうか。アサシンの宝具が言葉どおりのものならば、開かれたのは一度治癒した後の傷に過ぎない。彼女たちはすでにその傷を克服してここにいるはずなのだ。

 

「脆いものだな、伝説の騎士王。そして女人族(アマゾーン)の蛮王……だったな。それでよく一国の王など務まったものだ」

 

 アサシンはさらに高揚したようにしゃべり続けている。真名を知られていたことよりもその裏にある真意を読めずに、両雄は呻いた。

 

「ククッ、悪いがおまえたちのことはまとめて調べさせてもらった。昨夜、貴様らの仲間を一人つけさせてもらったのだ。気がつかなかったか? さすがにうぬらの前では手が出なんだが、幸い耳を立てるには支障はなかった。――当たり前だろう? 如何に英霊といえど、その死に様はそれぞれだ。寿命を全うした者も病死した者もいるだろう。そういう輩にはワシの宝具は使えん、故に敵の真名を優先的に調べ上げるは当然の仕儀よ」

 

 セイバーとランサーは、間者の言の真意を判じかねて共に目を眇める。

 

 二人のサーヴァントが居たにもかかわらず正体を隠匿しとうしたアサシンの秘匿性にセイバーは改めて畏怖の念を懐いた。暗闇に蠢く暗殺者。やはり、この敵は脆弱でありながらもっとも危険な敵なのだ。しかし、なぜだ。なぜいまこの場で彼女の騎士王としての真名が意味をもつのか?

 

 確かにセイバーの最後は寿命や病魔によるものではなかった。彼女の最後、そう、それはあの落日の丘で――。

 

 それを見ていたアサシンはとうとう、滑稽だといわんばかりにおどけながら声を荒げた。

 

「まだわからんと見えるな? それが何なのか思い出してみろ、その傷は生前に付けられたもののはずだ。いつだ? それは誰に付けられた傷だ? お前たちはそれをよーく知っているはずだぞ? 簡単なことだ。思い出せ、貴様らの最後の時を!」

 

 最後……死に様……傷…………死因?!

 

 セイバーとランサーの目が同時に見開かれる。そう、この傷は血に染まったあのカムランの丘で、あのトロイアの平原で体験した鮮血の記憶ではなかったか。

 

 女たちは理解した。それは王たちの、それぞれに確定された「死の形」。

 

 白亜の仮面の下、無貌であるはずのアサシンの面相が確かな笑いで歪んだ。歓喜と、そして嗜虐の愉悦とに。

 

「思い出したか? 己が死へ至る(・・・・・・)傷口(・・)を!」

 

 既に一度確定された決殺の記憶。その歴史に刻まれたそのピースをもって、アサシンの宝具は完成する。死因の再現。それは、なによりもおぞましい呪詛であった。生者には使用できない、戦場で散った雄々しき英霊にのみ効果的な、そして致命的な必滅の呪いであった。

 

 もはや文字通り死を待つばかりになった二人の女の前で、アサシンは悠然と踵を返した。

 

「なッ! どこへ行くッ!」

 

「勘違いをするでないぞ、セイバー。ワシの標的は最初からうぬらではない」

 

 既に熱狂の熱を失ったアサシンの声は元の平淡で抑揚のないものに戻っていた。

 

 セイバーは既に青ざめた相貌からさらに血が引いていくのを感じた。アサシンはこの期に及んでまだマスターたちを狙うつもりなのだ。

 

「そんな――シロウ、逃げてください! シロウッ!!」

 

 しかし少年は満足に動けないはずの身体で、なおもセイバーの元に歩み寄ろうとしている。セイバーの必死の叫びも意に介していない。

 

「セイバー、まってろ。今……」

 

 分かっていたことだ。彼女のマスターがこんな時にどう動くのか、知らない彼女ではない。それを想い、彼女の心中で複雑な歓喜と絶望とが絡み合う。

 

「あなたという人は……ッ!」

 

 そして即座に彼女も覚悟を決める。マスターが引かぬというなら、騎士王にもまた後退はない。――しかしそのとき、傍らの少女が少年の行く手を押し留めた。

 

「――放してくれ、俺はセイバーを――」

 

 テフェリーは無言のままランサーに目配せすると、有無を言わさず彼の身体を抱え、虚空へと飛び上がった。そして信じがたい速度で燻る瓦礫の間を跳んでいく。

 

 それを見たアサシンは、仮面の下で呆れたように嘆息した。

 

「……死なぬとはいえ軽い毒ではないのだがな。よく動けるものだ」

 

「なん……だと?」

 

 その呟きを耳にして、セイバーが驚愕の形相でアサシンを見上げる。

 

「ああ、毒のことなら心配は無用。致死に至るようなものを使ってはお主等に感づかれる可能性があったのでな。アレは一時的に手足をなえさせる程度のものよ」

 

「貴様……ッッ!」

 

 肺腑の奥から絞り出すような声は誰のものだったのか、兎角血に伏せる英霊たちは虚実の兵法によって謀られたことの悔恨で脳裏を焼かれ、身を焦がすような憤怒をもてあます。

 

 滔々と語ったアサシンの抑揚のない口調は、しかし未だに僅かばかり高揚しているのが窺えた。名立たるサーヴァントを並べ磐石であったはずの布陣が、予期もせず崩され、そのために慌てふためき無謀な逃走に打って出た愚かなマスターどもの醜態に、無貌の暗殺者もこぼれる喜悦を隠しきれていないのだ。

 

 アサシンは足取りも軽く彼女らの追跡を開始しようとする。

 

 ――させない! セイバーは瀕死の身体を意に介さずアサシンの前に立つ。が、アサシンの前に立ちふさがろうとする彼女を、紅蓮の魔爪が打ち据えた。

 

「―――――ツッ!」

 

 踏ん張りも効かず、たたらを踏んで後退するセイバーの小さな身体をランサーが受け止める。

 

「心配はしなくていいぞ、セイバー。退屈はさせぬようにもてなし(・・・・)は残していく」

 

 そう言って闇に溶け込むように走り去る黒衣の暗殺者。おのれ、卑劣な! 己が奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばりながら、それでもアサシンに追いすがろうとするセイバーだったが、しかしそれを再びバーサーカーの紅蓮の魔爪が狙い打とうとする。

 

 しかし攻撃にさらされようとしたセイバーの矮躯を、ランサーが引き止めた。

 

「?!ッ ランサー、何を……」

 

 ランサーは手甲を分解して形成した数本の投げ矢を放ち、バーサーカーとの距離を開けた。

 

「落ち着け、セイバー。今はむやみに動き回ってもどうしようもない」

 

 バーサーカーは穏形するように炎の中に姿を消した。ダメージを負っているのはセイバーたちだけではない。何の問題も無いかの如く動き回ってはいたが、先の戦闘でランサー、セイバーにそれぞれ負わされた傷は軽くはなかったのだろう。回復に専念したいのは向こうも同じなのだ。

 

 だがこのランサーの落ち着きように、セイバーは言いようのない不安を覚えた。

 

 まさか。――まさかランサーは最悪、今現在の正規のマスターではないあの二人を失っても、サーヴァントである己が生き延びるべきだと考えているのではないだろうか?

 

 実際、アサシンはあの二人をセイバーとランサーの正規のマスターだと誤解している。この二人のサーヴァントが図らずも最初から代行のマスターとのみ行動を共にしていたことが事態を好転させた結果だといえよう。

 

 しかし、――それは出来ない。戦略上の観点から言うならば、確かにセイバーの現時点でのマスターは凛である。その凛が無事である以上、この場はバーサーカーの追従をどうにかして離脱を計るのが戦闘代行者たるサーヴァントとしての正しい選択だといえる。

 

 しかしそんな選択は、セイバーの中に存在すらしていなかった。

 

 ランサーにしてもそうなのではないのか。いかに戦火の雄とはいえ、いかに勝利のためとはいえ、簡単に仲間を、テフェリーを切り捨ててしまえるというのだろうか。

 

 否。しかし――そこでセイバーはその光景を思い出す。それはセイバー自身が何度も行ってきたことではなかったか……。

 

 そうだ。それこそが彼女の成してきた王道だった。本当に救うべきもののために、見果てぬ理想のために、彼女はそれらを切り捨てながら最善の決断を下し続けてきた。そこに疑いはなかった。しかし、生前に下せたはずの決断が、今は下せない。

 

「セイバー、こっちを見ろ」

 

 俯くセイバーにランサーが呼び掛ける。だが、セイバーには見れなかった。正しいとは解っていてもその判断に頷くことだけは出来ない。だが、それを非難する資格も、また己には無いのではないか。

 

 そこで、不意に気付く。もしや己のやってきたことは、唯何かに執着し、そして他のものから目を背けていただけの事だったのではないのか?

 

 ――過去への、愛するものへの執着。それこそが破滅を招いたのだ――

 

 脳裏に言葉が木霊する。あの化身の王の言葉が。

 

 ――まだ解からぬか、騎士王。その愛が、執着が、破滅を招くのだ――

 

 セイバーは愕然とその眦を開いた。私は、己の『私』を滅していなかった? かつての理想への執着が、あの破滅を招いたとでもいうのか? ならば、今衛宮士郎に向けられるこの気持ちも――〝執着〟――、同じ破滅への道だというのだろうか。

 

 かつての彼女が故国の滅びる様を見つめながら、それでも理想を手放そうとしなかった事と同じように……

 

 なんということだろう。何も変わってはいなかったのだ。ただ、執着する対象が変わっただけの事でしかない。かつては理想に、次いでは聖杯に。ひたすらに執着してきただけなのだ。そしていま、その対象が、衛宮士郎に変わったというだけの事ではないのか。

 

 それが騎士王の王道だというのだろうか?! ならば、どうして無私を貫いたあの王に、それを誇ることなどできようか。虚言にてあの化身の王を謀ろうとしているのは、この己の方なのではないのか―――

 

 セイバーは火を噛むようにして懊悩した。しかし、それでも。今彼女が衛宮士郎を失うということもまた、即ちあの破滅と同じことだ。

 

 それを、受け入れることなど出来はしない。たとえそれが執着なのだとしても、滅びの道なのだとしても、セイバーにはそれを捨てることが出来ない。

 

 たとえ止められたとしても、主のもとへ馳せずにはいられない!

 

「ランサー、私は……ッ」

 

 意を決してなお、セイバーは顔を上げることが出来なかった。しかしそこでランサーはセイバーの両肩を掴み、強引に振り向かせた。

 

「……!」

 

「アタシを見るんだ、セイバー」

 

 そのときセイバーの視界は、柔らかな一面の光で埋め尽くされた。

 

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-11

 

 絶――無音、

 

 虚――真空、

 

 轟――絶叫、

 

 削――暴風、

 

 穿――轟音、

 

 彩――赤火、

 

 揺――火花、

 

 烈――紅蓮、

 

 塞――閃光、

 

 潜――稲妻、

 

 緋――熱風、

 

 破――舞い上げられ、粉塵と化した城壁。

 

 それらは次々にではなく、滂沱の如く同時に、断間なく叩きつけられてくるのである。凄まじい不幸和音が轟き、音が、光が、振動が、刹那に押し込められ満遍の意味を忘却した。

 

 それはもはや敵を討つための攻撃ではなく荒れ狂う暴風雨の断末魔。大嵐という名の紛れもない自然災害に他ならなかった。あらゆるものの存命を許さぬ破壊。破壊。破壊。――極限の大破壊。全く持って「やりすぎ」の一言に尽きる光景であった。

 

 深と冷え切っていた筈の夜の森。そこに、濁流の如き大乱の嵐が降り注ぐ。遠目からでもその様が充分に視認できた。なぜなら彼女の視界を遮っていたはずの森の一角が一瞬で消失していたからだ。

 

 これは――狙撃? 否、これは砲撃だ。何処から撃っているのかも判然としない。ただ、暗い天空から雷と光と嵐と轟音が降り注ぐ。爆心地はあっという間に更地になり、文字通り根こそぎにされた巨木が粉砕されて遥かな上空にまで舞い上がる。

 

 だが城の惨状はその光景をはるかに上回っていた。荘厳な威容を誇っていたはずのそれはその全容の五割を瞬きほどの刹那に抉りぬかれ、吹き飛ばされていたのだ。

 

 言葉がなかった。敵の居場所を突き止めた時点で退散するかどうかを考えていた遠坂凛も身動きをすることが出来なかった。幸い、砲火の矛先は正確だ。息をひそめて今をやり過ごせば、逃げることも出来るだろう。しかし――。

 

 一度連絡を入れておくべきだったが、そうも言っていられない。念話の類は妙な霊的ノイズで妨害され、使い魔もこの状況でははたして目的地まで辿り着けるか疑問だ。そして少し前に買った携帯電話は――たしか実家の引き出しに入れっぱなしだった。

 

 そんな思案すら吹き飛ばすように、第二第三の衝撃が襲う。破壊。破壊。破壊――。いつまでもこうしている場合ではなった。凛は息を潜め、そのまま状況を探るように穏行に専心しながら森の中へ足を踏み入れた。

 

 彼女は意を決したのだ。この混乱こそ好機、と。

 

 そう果敢に判じることが出来たのは彼女の持ち前の気性と、己の確たる才覚を恃むが故の事であり、そして何よりも、この地を管理すべき己が家門の責務を果たさんとするが故の勇み足であった。

 

 それは彼女らしい勇敢さと矜持のなせる業であったと言えたが、この判断を英断と見なすのは尚早であったことだろう。

 

 なぜなら、この森の境界線より先は正しく人外魔境の最果てにして、もはや伏魔殿の深奥と成り果てているのである。いかに条理の外を歩む魔道の徒であれ、無事で済む保障など、――――在りはしないのだから。

 

 

 

 

 まるで地を掃うかのような砲火は未だ止まない。降り注ぐ破壊は今も堅固な筈の石造りの城壁を砂糖菓子か何かのように削り取っていく。

 

 だが、粉みじんに砕かれて石片へと変わっていく城から少し離れた場所で地面が盛り上がり、その下から大きな白球がごろり、と押し出されるように出てきた。直径にして三メートルばかりもありそうな巨大なものであった。すると、その滑らかだった表面が不意に空気の抜けた風船のごとくしぼみ始め、終いには小さな手布になってしまった。

 

 中から出てきたのはキャスターと、それに連れられたカリヨンだった。

 

 外に出た途端に地面にへたり込んだカリヨンが怖じけて、か細く震えた声とも取れぬうめきを漏らす。

 

「キ、キ、キ、キャスター。何でそのまま森の外まで行かないんだ。こ、ここんなところにいたら……」

 

「私は気配を遮断できるわけではありませんから、地中にいてもすぐ見つかる可能性が高いのです。それにその程度のことは相手も先刻承知でしょうから……」

 

 依然、声ばかりは冷静さを保っているキャスターも、その貌に昇る焦燥の色を隠せていない。

 

 ここで取りうる選択は? まずは逃げることだろう。これほどの砲火、間違いなくサーヴァントによるものだ。どこから砲射しているのかまでは知れないが、少なくともこちらからは反撃できるような場所から撃ってきてはいないのは明白だ。

 

 つまり今の状況ではこちらが一方的に殴られるだけの位置関係に置かれているということになる。勝負にもならない。そして、相手は当然キャスターたちが逃げを打つであろう事を承知した上で、それを逃がさぬための包囲網を引いていた。つまり――、

 

「うああああッ」

 

 カリヨンが悲鳴を上げる。何の予兆もなく、突如として頭上から、木陰から、繁みからいっせいに人が振ってきたのだ。それはとても人の動きとは思えない、猿どころか、むしろ巨大な爬虫を思わせる動きで二人に襲いかかかる。

 

 ――が、

 

流転もたらす闇夜の吐息(カーリー)

 

 闇を伝播したかの様な真言(マントラ)が虚空に響き渡り、歌声かと違うほどの流麗な声は各々の耳でなく、世界の根本にまで深く染みこんでいった。

 

 そして在るべき秩序は狂い、変転し、捻じ曲げられて、ここにひとつの悪意を結実させる。

 

 襲い掛かってくるかに思えた雑兵たちはやおら矛先を転じ、互いに噛み付き合い、組合い、ぶつかり合って一つの肉塊の如く絡み合うようにして争い初め、――じきに動かなくなった。

 

「……簡単に逃がしてはくれないでしょうね」

 

 とはいえ、仮にも正規のサーヴァントであるキャスターをこの程度の雑兵を配置した程度で包囲した、などとは笑止である。相手は詰めの手を誤った。この手は悪手だ。――ならばまだ、付け入る隙はあるということだろうか? 

 

「行きましょう、マスター。このまま囲みを突破して――」

 

 そう言って仰天したまま固まっているカリヨンの手を引こうとしたとき、絶命した筈の雑兵の遺骸から光が漏れた、そして次の瞬間には夜の森を一瞬で染め上げてしまうほどの凄まじい光と轟音を発しながら男たちの躯が炸裂したのだ。

 

 カリヨンは身体を丸めて悲鳴を上げている。これは致し方ないことだろう。いきなり視覚と聴覚を失えば人間は誰でもこうなるものだ。

 

 カリヨンの小さな身体を抱きかかえるキャスター自身も一時的に聴力と視力が麻痺していた。よもやこんな手で来るとは思っても見なかった。彼女は内心でこの包囲を悪手だと断じていたが、どうやら敵は彼女の予想以上に試合巧者であり、同時に人でなしであったようだ。

 

 キャスターは舌打ちする。殺しただけで自壊炸裂するのでは近寄られるだけで終わりだ。

 

 彼女が単身だったならともかく、マスターを連れて戦うには、否、逃げるには厄介な敵だと言う他ない。

 

 キャスターは白布を振るい、周囲の悪霊を呼び集めて即席の騎乗獣を用意した。あの自爆兵が大挙して押し寄せたのでは、彼女もさすがに対処しきれない。だが召喚獣を駆ろうとした瞬間、今度はまたあの砲火の雨が襲い掛かってきたのだった。

 

 そして間をおかずにまた雑兵が襲ってくる。彼らの五体は引き裂かれたように血まみれになっていた。度を越した使用がただの人間だった彼らの体を蝕んでいるのだ。彼等はもはや人ではない。自滅すら厭わぬ、狂った猟犬に他ならないのだ。

 

 自己を護るために備わっている筈の恐怖や痛みといった防衛本能を剥奪され、主に下された目的だけをその生存目的とするプログラムに書き加えられた捨て駒の群れ。さしものキャスターもこの敵に戦慄せざるを得ない。己が命を顧みないというだけで、唯の一般人がこの上なく厄介な手合いに置き換わる。敵は消耗品(・・・)の使い方をこの上もなく心得ている。

 

 キャスターが魔術でそれを撃退すると、またもや強力な光を発しながら派手に爆発した。

 

 それからも次々に雑兵は襲いかかっては自爆する。キャスターはカリヨンを連れて森の中を逃げ回る。この雑兵に加えて砲撃にも対処するためには、一時たりとも一所にとどまることは出来ない。

 

 しかし、強烈な音と閃光でキャスターの反応も僅かにズレが生じてくる。逃げ道は制限され、心身は徐々に削られていく。

 

 そしてまたもや飛来した暴風の砲火はキャスターの立ち位置から五メートルと離れていない場所に着弾した。それだけで騎乗獣が即死し、キャスター自身の防護障壁も粉砕された。

 

 周囲からは命知らずな特攻。遠方からは正確無比な砲撃。これではたまったものではない!

 

 現在、サーヴァントの大半は新都に集まっており、そこで戦闘が繰り広げられているのは疑いようがない。しかしその乱戦の中から遥か超遠距離のキャスターを狙うものがいるとは考えにくい。

 

 狙撃といえば真っ先に思い当たるのが弓兵、アーチャーのクラスだが、だからこそ注意深く観察していたし、アーチャーが狙撃を始めようとするならすぐに察知できる準備はしていたのだ。この砲撃はアーチャーの仕業ではない。

 

 ならば信じがたいことではあるが、考えられるのは一つ、キャスターが感知し得ぬ冬木市の外からこのアインツベルンの森を攻撃しているアーチャー以外のサーヴァントがいるというのだろうか。ならば推察が行き着くのはひとり、ライダーだ。

 

 しかし、それがこの状況を好転させる材料にはならない。敵の正体がわかったとして、これをどう捌くかが問題なのだ。狙撃を前提としたクラスでもないのに、なぜこれほど正確な砲撃が出来るのか? そのうえ、この破壊力は既に砲火ではなく爆撃のそれに近しい。

 

 如何にサーヴァントといえども、それほどの遠距離からこちらの正確な位置を掴むことなど出来るはずもない。ましてやここは深い森の中だ。千里眼でもない限り標的の位置を把握することは出来ないはずなのだ。

 

 この敵は、どうやって移動し続けているキャスター達の位置を掴んでいるのだろうか?

 

 そのとき 夜の森を疾走するキャスターの左右から、雑兵が襲い掛かってきた。

 

「チッ――――?」

 

 しかし、彼らは迎撃しようと白布を振りかざしたキャスターには近寄ろうとせず、不意に足を止めると、やおら自らの喉を掻き切り強烈な音と光を撒き散らして自爆した。

 

 間髪入れず、またもや夜の森を暴風が襲った。またもや、砲弾の照準は正確だった。

 

〝そういうことか〟

 

 爆風に薙ぎ払われながらも、キャスターはようやくこの敵の使用する攻法のロジックに思い至った。遥か遠方の狙撃主はキャスターを狙っていたわけではなく、最初からあの雑兵の発する光を狙っていただけだというのか。

 

 ならば、この雑兵は最初から戦力でも武器でもなく〝的〟だったという事になる! 

 

 そして総てを理解したキャスターを囲んでいた雑兵たちは、これで最後だといわんばかりに総員で特攻を掛けてきた。

 

「―――――マスターッ、」

 

 そして濃紺の夜が紅蓮に染まった。

  

 

 

 

「――――――マスターッ、ここは私が引き付けます。それでどうか……」

 

 ひとりで……と、続くその苦りきった声は、しかしカリヨンの耳には届いていなかった。

 

 このとき、少年の耳にはあらゆるものが聞こえていなかった。脳裏に届く声はどこか別の世界のざわめきのように聞こえていた。ここが現実だなどということが信じられなかった。彼はこれが走馬灯なのだと思った。

 

 なぜなら、総ての光景が緩慢に滞り、聞こえ、そして飛び散る木っ端や空気の撓みまでもが本来の物理法則からかけ離れた動きを見せているのだ。

 

 これはきっと死の直前に与えられる猶予なのだ。一抹の慈悲なのだと思った。ならばとカリヨンは必死に思い出そうとしていた、これまでの自分というものを。

 

 しかし彼にとっての過去とは、もう一度思い返したいような、反芻したいと思うような輝かしいものではないのだ。だから彼はこのひどく緩慢な時間の停滞を持て余しかけ、そしてひとつの煌めきに行き着いた。

 

 テフェリーだ。そうだ。さっき決意したばかりではないか。もう一度、彼女に会うのだと。なら、こんなところで安寧な死を願っている場合ではない――。

 

 瞬間。周囲の景色が、先ほどとは比べ物にならないほどの停滞に陥った。総てが静止しているようだった。

 

 焦燥に駆られたキャスターの瞳が警戒するように周囲を巡った後でゆっくりと自分に向けられる。その様をカリヨンはしげしげと観察していた。まるで蝸牛が這うような速度で木っ端の欠片が虚空を泳いでいく。それがキャスターの頬に当たりそうになったので、彼はそれを手で捕まえた。

 

 凄まじい豪速で飛び交っている筈のそれは意外にも難なくつかみ取れた。自分に向けられていたキャスターの視線が唖然とした驚愕に変わるまでのその間に、カリヨンは彼女の腕から抜け出し、逆にその身体を抱えて安全圏まで走った。

 

 ひどく緩慢に流れる爆風は粘土のようで、よろけながら進んでいく。しかし彼がそうやって歩くだけでも、あらゆる万象は彼に追随することさえ出来ないのだ。

 

 これが走馬灯? 違う! カリヨン自身の体感速度が、尋常でないほど加速しているのだ。どうしてなのかは解からないし、因果関係もさっぱりだ。でも、今はそんなことは存外どうでもいいことだった。

 

 ――ただ、キャスターだけは驚愕しながらも主のこの行為の意味を察していた。その動きには見覚えがあったのだ。これは昨夜、あの鏡面の間者が見せた高速体術に他ならない! サーヴァントとしてのキャスターの認識は狂いようもなくそれを結論づけていた。無論、彼女とて倫理的な回答を探しあぐねていたのだが――

 

「――マスター、これは……」

 

 それまで引き延ばされたようだったキャスターの声が元に戻る。同時に緩慢だった時間が常態に帰結し、彼の耳にも再び耳をつんざくような轟音の旋律が正常に再開される。そして次の瞬間には、今までの比ではないほどの弾雨が飛来する。

 

「話は後だキャスター。……いけるかもしれない!」

 

 気を吐くようにカリヨンは声を張った。

 

 再び彼の眼前に死が押し寄せる。彼の脳裏にはその死から連想される男の顔が浮かんだ。あの日から彼を追いかけてきた死の象徴だ。そしてもうひとつ、時を同じくして彼の根幹に刻み込まれた最愛の少女の死。それに加えて死者との再会の喜び。そしてその危機。それらが一纏りになって彼の脳裏ではじけた。生まれたのは意志だ。彼の人生で初めて生まれた、克己の意志!

 

 それはこんなところでは死ねないのだという、生への執着に他ならない。

 

 再び、世界の流動は緩慢に引き延ばされ、彼は再びその神の速域を馳せるべく地を蹴った。

 

 もう、誰も彼に追いつくことなど出来ないのだという、確信とともに。

 

 

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-12

 

 気が付けば、連日連夜あれほど吹き荒れていたはずの風は今宵に限りすっかり凪いでしまっていた。まるで大気そのものが、何者かに風を搾取されてしまったかのようでさえあった。

 

 おかげでオフィス街の火事は必要以上に飛び火することもなく、被害は最小限ですんだと言える。強風によって火が街中に蔓延したときのことを考えると、これはまさしく天の助けだといえた。

 

 しかし、今の衛宮士郎にはその幸運に想い至る暇はなかった。

 

 毒煙幕と火炎陣の織り成す致死の煉獄から逃げ延びたテフェリーと士郎の二人は既に新都駅前通りを超え、冬木大橋の手前にまでさしかかろうとしていた。

 

「放してくれ! 俺はセイバーを! ええい、くそ!」

 

 テフェリーに抱えられながら士郎は叫ぶ。しかしテフェリーは無言。力ずくで脱出を試みるが一見して華奢な少女の細腕は微動だにしない。

 

「――ッッ、鉄みたいな腕しやがって、……どうなってるんだ!」

 

「……ここで手を放したら即死の上に無駄死になりますが、それでもよろしいので?」

 

 ようやく口を開いたテフェリーは、幾分上ずってはいるものの平時と変わらぬ声色で素っ気もなく告げる。

 

 テフェリーは鉄塔や建物の間に銀色のワイヤーを張り巡らしながら跳躍を繰り返して移動しているのだ。その高度と速度はかなりのものであり、確かに彼がこの高さから落下すれば、まず命は無いだろう。

 

「関係ない! 放って置いたらセイバーが!」

 

 それでも、衛宮士郎はお構いなしに彼女の腕から逃れようとする。あのセイバーの有様は尋常ではなかった。自分に何が出来るわけでなくとも、彼は彼女の傍らにいなくてはならない。それが彼の果たすべき役目なのだから。

 

「そう思うなら静かにしてください。――敵を分散させることには成功しました」

 

「何?」

 

 いまだ火の手が上がる紅蓮の闇を背にしながら、彼女たちに伴走するひとつの影が浮かび上がる。アサシンッ、追って来ていたのか!

 

「このままアレを引き付けてランサーたちが離脱する時間を稼ぎます。相手がバーサーカーだけなら何とかなるかもしれない。……申し訳ありませんが、お覚悟を願います。今はマスターでもない私たちよりも、サーヴァントの生還が優先される!」

 

 少年はしばし唖然としていたが、すぐに意を得たように力強く頷いた。

 

「……ごめん。俺、勘違いしちまってた。その方針には賛成だ。あの二人がそう簡単にやられるはず無いもんな」

 

 その返答に、今度はテフェリーの方が面食らう番であった。サーヴァントを生かすために己を犠牲にするという決断に、まさか賛同するものが居ようとは思っていなかったのだ。むしろ激しい拒絶や錯乱を予想して、さらに強力に縛り上げる用意までしていたのだが。

 

「……貴方は……」

 

 自分を犠牲にすることに、躊躇は無いのですか? と、そう無防備なままに問いかけそうになり、テフェリーはあわてて言葉を飲み込んだ。背後に追手の影を捉え、いかなる隙もなく、集中力も切らしてはいない。それでも無防備だった。理由はわからないけれど、今の自分は驚くほど無防備だった。

 

 しかしそんな彼女の混乱を露ほども斟酌することなく、衛宮士郎はここで驚くべき提案をした。

 

「あいつを引き付けることには賛成だ。けど、ただやられるわけには行かない。あいつは、ここで仕留める!」

 

 その埒外の提案に、流石の彼女も憮然と双色の眼を剥く。

 

「バカな! それこそ無謀です。魔術師が何人そろったところで、サーヴァントに太刀打ちできる道理が無い」

 

「手なら有る。あいつを少しだけ足止めしてくれれば……」

 

「……」

 

 テフェリーは押し黙る。果たしてこの半人前の魔術師に、そのような手段があるかは疑わしい。この少年が代理でセイバーのマスターを努めているのは、ひとえにセイバーとの連携に問題がなく、代理という任務に適しているとためだと彼女は思っていた。

 

 実際、代理のマスターでありながら彼とセイバーとの連携には軋轢は感じられない。それどころかこの少年はセイバーのためにその身を投げ出そうとさえしている。適正は充分だといえた。

 

 しかし、事がサーヴァント戦に及ぶ場合はそうは行かないだろう。彼自身の戦力が勝敗を左右しうる要因にはならないと判じられたからだ。もっとも、彼女自身も相手がサーヴァントではたいしたことは言えないのだが。

 

 ――が、考えようによっては、その意見は思わぬ英断かもしれない。このまま逃げても後ろから追走するアサシンの攻撃はかわせずに遠からず殺されるだろう。ならば正面から挑んだほうがまだ時間稼ぎにはなる。

 

「わかりました。そのほうが――」

 

「危ない!」

 

 幾許かの逡巡がもたらした思考の隙。その刹那に滑り込むようにして、闇の中から出現した巨大なうねりは後ろからではなく真正面のビル壁をぶち抜いて出現した。まるで彼女らの進路を塞ぐかのように。

 

 アサシンではない。それは無人の雑居ビルを無残な瓦礫に変え、粉砕しながら現れた貨物運搬用の大型トラックであった。

 

 ブレーキが壊れているとしか思えないほどに暴走する巨体は、アスファルトの上で足を止めざるを得なかった二人の前で玩具の様に横転し、そのまま一回転して正常位に戻りながら真正面から近くの電柱に突っ込んだ。

 

 薙ぐような衝撃波が大気を打つ。ほどなくして、中心街の飛び火を免れていた筈の周囲は予期せぬ炎に包まれ始めた。

 

「あれ~? サイドブレーキどこよ? あ~~あ、ヤバイかな? これ一応借り物なんだけどなー。……あっ、これか」

 

 すると、もはやスクラップと化した車体の中から呆気にとられるほど暢気な声が聞こえてきた。呆然とそれを見ていた二人の前で、歪んだドアを蹴破って車内からひとつの影が直接黒い宙空に踊り出た。

 

 現れたのはタイトな黒のライダースーツに身を包んだ女だった。漆黒の瞳と、後頭部で結わえただけの長い黒髪が茜色の炎を背景に鋭角なセピアの輪郭を描いている。

 

 彼女、伏見鞘がこの場に行き着いたのはただの偶然であった。彼女は郊外の国道で快くトラックを貸し与えてくれたドライバーに深く陳謝し、いたわりながらも速やかに車外へ蹴り飛ばしたあと、ほぼノーブレーキで新都までトラックを走らせ、火災の中心を目指して直進してきたのだった。

 

 そこに敵がいるという確証などなく、騒ぎの渦中を適当に渉猟する意図でこの場に参じただけの話だったのだが。それでも尚、彼女がこの場面に行き着いたのは運命だったのか何かの導きだったのか。――それとも奸計であったのか。

 

 その光景、いや、その刃影に衛宮士郎は息を呑む。まるでズレていたピントが合うように視線はそれを追っていた。見惚れる――否、魅入られるかのような鋼の気配。士郎は現在の状況すら忘却して溜息をつきそうになった。なんと美しいのだろう。それは彼のよく知る潔白な輝きとは真逆の、触れてはならない妖艶なる凶器の光だった。

 

 彼女はいつの間にか身の丈に迫ろうかという大剣を携えていた。闇を食らう炎の中で赤光さえも貪るそれは正しく魔剣。人には届かぬ幻想の結晶――それは宝具に他ならなかった。

 

 だがそれはおかしい。間違いなく宝具を携えながら、その女は確かに人間だった。

 

 その大粒の瞳には既に交戦の意図しか映っていない。鞘は正面にいた士郎を真っ直ぐ見つめながら語りかける。

 

「悪いね、とりこんでるようだけど混ぜてもらうよ。え――っと? まずは自己紹介、かな? 私の名前は鞘。そこの君は――、お?」

 

 テフェリーは女――鞘が言い終わるより先に動いていた。この相手がランサーの報告にあった盗人なのかどうかも斟酌しなかった。後ろには致命の追っ手を背負っている状態だ。敵か味方かを判じている時間すらも惜しいのだ。彼女は()()()()()()() ()という思考を放棄した。

 

 既に先刻から黒い女の周囲を取り囲むように展開されていた銀色のラインが炎の中から姿を現し、輪を縮めるように収束していく。秒を待たず柔な肢体をひき肉にせんとする二〇もの銀竜が、死の綾取りを紡ぎ始めた。

 

 しかし、瞬きのうちに百もの人間を屠るであろう銀糸の饗宴も、所詮は人の業に過ぎない。大神すら退けたという魔剣に、追いつく道理などありはしない!

 

「いいねッ、いいねーッ! やる気満々ってか?」

 

 鞘は嬉々として暢気な声を漏らし、手にした長剣を頭上高く掲げた。すると水銀の流動を思わせていた銀糸の収束は滞り、ついには停滞する。

 

 なんという悪食か。

 

 (むさぼ)っている。

 

 あの刀身は周囲にある魔力を、否、熱や光までをも食らい尽くし、飲み干している。それは周囲に渦を巻いていた火群までをもかき消し、夜の燃え殻すらも凍てつかせていく。  

 

 暴飲暴食の限りを尽くされた空間はそこだけが死んでいた。まるでぽっかりと開いた穴のように、そこだけが世界から取り残されているかのようだった。

 

「はぁぁぁっ!」

 

 鞘の気声と共に長剣が一気に振り下ろされる。それが悪食の末路だとでも言うのか。己を輪切りにしようとした女を逆に焼き尽くさんと目論み、その魔剣は低重音の唸りとともに、飲み下した熱と魔力とをまとめて吐き戻した。

 

「クッ!」

 

 迫る魔の灼熱を前に、テフェリーは動けない。縦横無尽に張り巡らせた銀色の四肢はその長さが仇となり、逆に零下の澱に(まみ)れている。

 

『――ここまで、か』

 

 離脱が望めないと分かると、彼女は何の感慨も無く冷徹にその事実を受け入れた。

 

 最後には使い潰される。当然のことだ。それが道具の末路である。だが、そこで、ふと考えがよぎった。

 

 少しだが、悔いがあるかもしれない、と思ったのだ。自分が思っていたほど役に立てなかったのが悔しいといえば悔しかった。ランサーは何とか脱出できただろうか? おそらく大丈夫だろう。

 

 あれで憎らしいぐらい冷静に戦況を判断できる女だ。今後はマスターの指示で戦うことになるだろうが、ちゃんと言うことを聞くだろうか? 迷惑をかけなければいいのだが。――それだけが心配だった。

 

 しかし考えても見れば、それぐらいしか自分にやれることはなかったのだなと改めて思う。本当に役立たずだったな、とも。戦うことしか出来ないのだから、今回こそは料理や掃除よりはうまくできるかと思ったのだが……。どこにも行くところがなかった、何をしていいのかも解らなかった自分を、家に置いて家事の真似事をさせてくれた人。マスター・ワイアッド。

 

 自分は、少しでもあの人に恩返しが出来たのだろうか。

 

 それに、あの少年は誰だったのだろう。その疑問がざわめくように、脳裏を過ぎる。

 

 思ったよりも、考えることは多いのだ。想うことは多いのだ。きっと、この刹那では足りないくらいに。

 

 気付く。ああ、そうか、いま私は少しだけ――死にたく、無いのかもしれない。

 

投影(トレース)()開始(オン)

 

 テフェリーは瞬きの間にそこまで思考し、聞いたこともない呪文の詠唱(つぶやき)によって現実に引き戻された。気付けば、灼熱の刃濤(はとう)は彼女まで届いていない。今まで女に追従するだけだった少年は間違いなく宝具によるその一撃を受け止めていた。

 

「そんな、――――宝具を!? どうやって……」

 

 少年の手には陰陽の双極剣。放つ魔力もその存在感も、確かに英霊が持つべき宝具と呼ぶにふさわしい代物であった。

 

「諦めるな!」

 

 こちらに背を向ける少年と肩越しに目が合う。ここで死ぬ気など、死なせる気など微塵も無いという強い瞳。既視感。いつかどこかでこんな瞳を見たことがある。いつ、何処で見たのだろう。もっと鮮やかで鮮烈だった。強い、眼光。――

 

「――は、はい……」

 

「来るぞ、後ろだ!」

 

「!」

 

 背後から飛来するのは黒塗りの凶刃。放ったのは当の昔に彼らに追いついていたアサシンであった。既に零下の檻から開放されていた銀糸たちは見えぬ飛刃を絡めとる。弾くことは出来ない、致死性の毒を散布されては今度こそ確実に殺される。

 

 その事態に対応するために、さらに本数を増やした銀糸の剣は実に四〇を超える。もはや人の手に叶う所業ではない。

 

 しかし、なぜアサシンは新たなる闖入者のおかげで既に風前の灯とでも言うべき状況のマスターを、わざわざ狙ったのか?

 

 新たな闖入者を警戒して気配を断っていたアサシンも、とうとう痺れを切らしたのだ。あの女のやり方に任せたばかりに、おめおめと標的を逃がすことだけは避けなければならなかった。

 

 加えて、彼にはあの少女とランサーを殺すことだけは絶対にするな、との指示がなされていたのだ。特にあの鋼色の髪の少女だけは殺すことなく生け捕ることが最大の条件であると厳命されていた。なぜかは訊かなかったが、それが主の指示であるのなら是非もないことだ。

 

 ただ逃げるだけの標的なら欠伸(あくび)をしながらでも容易な任務だが、そこに茶々が入るのは好ましくない。ましてや、生け捕りを厳命されている標的を殺されでもしたらたまらない。

 

 いかなる妨害があろうと、あの糸使いだけはこの場で確保しなければならない。

 

 しかし、もはや押し隠すことも無いプレッシャーを撒き散らすアサシンを歯牙にもかけず、大剣を担いだ女は少年の持つ双剣をぼんやりとした表情で眺めている。

 

「――あれは――、へぇ、投影って言うの? ――魔術師って、そんなことも出来るんだ? ――え? あれは普通じゃない?――」

 

 言葉は眼前の誰に向けたものでもない。少女はただ少年のもつ剣だけを見つめて言葉を紡いでいる。

 

「――それなら、ちょっとは、面白そーかな?」

 

 初動すら見えなかった。

 

 女は少年に向かって一瞬で肉薄し、音もなく長剣を振るってみせる。それはやはりサーヴァントの、否、剣の英霊たるセイバーのものと比しても全く遜色のない一撃だと想われた。

 

 振るわれた長剣は一撃で双剣を砕き、少年の身体を吹き飛ばす。

 

「が――ッ」

 

 いかに武装で肉薄しようとも、大本の実力に差がありすぎる。この女、人と見えてその能力は間違いなく英霊たるサーヴァントのそれである。

 

 テフェリーは糸で士郎の身体を受け止めようとしたが、網の目のような銀糸の間をすり抜けてくる毒刃にそれを阻まれる。

 

「―――ッ!」

 

 毒礫の凶刃は銀の網をすり抜けて少年をも狙う。が、それを打ち落としたのは他ならぬ鞘であった。彼女は舌打ちひとつを挿み、

 

「いーいところなんだ。――邪魔を、するなぁぁ!!」

 

 またもや周囲の熱を枯渇させるまで取り込み、火炎破の刃をアサシンへ向けて撃ち放つ。

 

「――」

 

 それを難なく躱したアサシンではあったが、この紅蓮の熱と炎の勢いにはさすがに危険と判断したか、またもや群炎と瓦礫の影裏にまぎれこむように隠形した。

 

 長剣の女はアサシンの味方をするつもりは無いようだ。――しかし! テフェリーは臍を噛んだ。これは判りきっていたことだったが、このままサーヴァント相手にまともに戦っても勝つことはおろか生き残ることも出来はしない。せめてどちらかの敵を退けなければ……。

 

 ――生き残る?

 

 何を言っているのだろう。さっきまで死ぬことを前提として行動していたはずなのに。現時点でも「時間稼ぎ」という目的を忠実に遂行するならば、例えこのままジリ貧でなぶり殺されるのも良しとすべきなのだ。なのに……

 

 『諦めるな!』と言うあの言葉が耳に残っている。いつ訊いたのかも解からない。でも確かに聞いたことのある厳しい、そして優しい言葉。

 

 真にうけているのだろうか……。あんな何の確証もない言葉を。否、図らずも受け入れてしまったのは、あの強い意志を秘める瞳のせいではないのか。いつか見た揺籃の日の、真蒼の眼差しのような、あの強い瞳に。

 

 そのことを想うだけで身体が軽くなり、思わぬ力が湧いてきた。「まさか」と、口に出してそれを打ち消しながらも、いざ行動に出ることには何の躊躇も無かった。

 

 己を狙うアサシンを放置し、テフェリーは少年と魔剣士の間に躍り出た。

 

「「!?」」

 

 驚愕は誰のものだったのか。しかし少年は過たず理解する。翻る鋼色の長髪の隙間から一瞬だけ覗いた視線が、確かな意思を伝えていた。

 

『時間を稼ぐ。貴方の策に掛けます』――と。

 

 それを受け取った少年もまた躊躇わなかった。外敵への注意、防備をも(なげう)ち最速で己の内に埋没していく。

 

「――――投影(トレース)()開始(オン)

 

 

 

 

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-13

「アタシを見ろ。セイバー」

 

 そのとき、虚ろに見開かれたセイバーの視界は柔らかな光で満たされていた。それだけではない、今やセイバーの全身をも包み込むサンライトイエローの光はたしか、ランサーの輪郭を彩っていた光ではなかったか

 

 その輝きの中でセイバーは息を呑んだ。

 

 有り得ないことだった。

 

 ほんの刹那とはいえ、騎士の王たる彼女の意識は戦場の只中で敵の存在を忘却していたのだ。

 

「――ぁ、」

 

 異常であった。通常ならば有り得ない。しかしその惑う心すら捉えてしまうほどに、ランサーの美貌は輝いていた。それを見つめているだけで訳も無く動悸が早まり、陶酔に似た多幸感が胸を満たしていく。

 

「――――ッ!」

 

 我に返ったセイバーはランサーの手を払い、周囲の気配に気を配った。それでも胸をしめつける様な胸の動悸に戸惑うしかなかった。

 

 しかし自分の反応もそうだが、この状況でランサーの行動もあまりに不可解ではないか。

 

「ランサー、いったい何を……!」

 

 咎めようとするより先に、セイバーは自身の身体の異変に気付く。身体が軽い。つい今しがたまで全身を苛んでいた疲労感や倦怠感が微塵も無い。むしろ、以前の状態よりも今の身体に満ちる活力は数段勝っているではないか。

 

 傷の状態は――こちらもほぼ問題ない。ほとんどの傷は癒着し後も残っていない。腹部の傷も、痛みこそあるがしっかりと塞がれている。これならば動くことは勿論、戦闘であろうと支障はない。

 

 理由はわからなかったが、絶望的な状況が好転したことだけは確かだ。

 

 サーヴァントの再生能力でさえ癒せない負傷をこれほどの短時間にほぼ完治させるというなら、それを成しえるのは宝具だけだ。おそらくランサーの三番目の宝具。彼女は自身の負傷をリカバリーする宝具の機能を、己だけでなくセイバーにも流用したのではないだろうか。ともかく――

 

〝――これならいける!〟

 

 セイバーは己を奮い立たせる。ともかく、回復したのならすぐにでもアサシンを追わねばならない。一刻を争うというなら、ここは一人が邪魔なバーサーカーを留めもう一人がすぐにでも追走を始めるべきだ。

 

「ランサー、動けるか? 私はアサシンを…………!?」

 

 しかし、そこでセイバーは己の推察が根本的に間違っていたことに気付いた。

 

「……わかっている。早く行け、セイバー」

 

 向けられる微笑は尚も輝いて見える。嬋娟(せんけん)たる美しさはいささかも衰えてはいない。しかしその相貌は未だに蒼白であった。ランサーの胸元から滴る血潮は止まらず、その総身は細り、刻一刻と生気を失っていく。

 

「バカなっ! なぜ私の傷だけが……」

 

 それがセイバーの失われた宝具、使用者の傷を癒し老朽化さえ押しとどめるという聖剣の鞘『全て遠き理想郷(アヴァロン)』と同系統の回復系宝具だというのなら、本来の持ち主が使用したほうが高い効果を得られるのは当然だ。ランサーはなぜ自分を差し置いてセイバーの傷を修復したのか?

 

 当惑するセイバーの声を、そのとき再び燃盛った炎と狂声とが遮る。

 

 大きくうねる業火から姿を現したのはバーサーカーだ。どうやら炎の中に潜む間に自力で傷を塞ぎ回復したようである。

 

 炎を纏い繰り出す出される凶爪。しかしセイバーはそれを意にも介さず、炎群諸共に切り裂きながらバーサーカーを吹き飛ばした。剣を取る腕にも十全の手ごたえを感じる。あのアーチャーの放つ迦楼羅(かるら)炎に比べれば、この程度の火の粉などはもはや何の痛痒にもならない。しかし――

 

 一撃で十間ほども飛ばされたバーサーカーはそれでセイバーが戦闘可能な状態まで持ち直していると判断したようで、再び翻るように炎の中へと遁走し、姿を隠した。

 

 セイバーの焦燥は募る。ここに来てこの敵は厄介だった。

 

 ほぼ全快した以上、セイバーがこのバーサーカーに遅れを取る可能性は無い。しかし、かまわず救出に向かったとしても追走を許せばそれは致命的な時間のロスになる。

 

 かといってこちらから攻めることも出来ない、そうすればバーサーカーは逃げ回って時間を稼ぐだけだろう。

 

 どういうカラクリかはわからなかったが、クラス効果で狂化しているにもかかわらず、あの女は下される指令に忠実なのだ。現在も指示されたのであろう〝二大サーヴァントの足止め〟を忠実にこなしている。本来、バーサーカーというクラスでは有り得ないことなのだが……。

 

「ランサー、私の回復はもう十分だ。後は自分を……」

 

 打開策としては即刻ランサーにも回復してもらい、この場を任せることなのだが……。

 

「……ならば早く行け。この宝具はあたし自身には使えん」

 

 セイバーの考えを察したかのように、言い終わるより先にきっぱりと告げるランサー。

 

「な――なぜだ!? 宝具とは各々の英霊のために特化した専用武装だ。自分に使用できないなどと、そんな宝具があるはずは……」

 

 セイバーはそこではた、と思い当たった。セイバーたちは最初からその宝具を見ていたのではないか。

 

 今はセイバーの身体をも暖かく包み込んでいる、ランサーの輪郭を覆う柔らかな光。それは最初の戦闘では見えず、ランサーと共闘することになってから見え始めたものだ。

 

 もしもその光が宝具なのだとしたら。ランサー自身に効果を及ぼさないのも道理だ。人はどれほど光を発しても、己が発する光を見ることは出来ない。これが、最初から己の〝味方のコンディションのみ〟に作用する宝具なのだとしたら……。

 

 その身体を包む光はますます強くなる一方だというのに、その癒しの効力は一向にランサー本人に向けられてはいない。

 

 その様は野に咲く花を想わせた。花に出来るのは見る者のも心を鼓舞し時に癒すことだけ。それがどれほど美しかったとしても、花には己を見る機能はないのだ。

 

 宝具『美しき戦華護法(アキレア)』――それは古の神話を彩る、一厘の花の名であった。

 

「何をしている、早く行けといっただろう」

 

 声は俯くセイバーの頭上から降ってきた。僅かの逡巡の間に、もはや立ち上がることすら不可能なはずの女戦士は、短槍を杖代わりにして直立していた。

 

「ランサー……」

 

 セイバーは息を呑んだ。血に濡れてなお――否、血風の舞う戦場でこそ、この戦士の美しさはいっそう引き立って見える。あまりにも悲壮な光景を、それでも是とするほどに、血に濡れたこの女神は美しかった。

 

 その背中が告げていた。ここを任せて、マスター達を救えと。満身創痍の自分を置いていけと。

 

 諭すべき言葉はいくらでもあるだろう。しかし、もしもこの立場が逆なら自分はそんな言葉にうなずくだろうか?

 

 否。断じて、断じてそんなことは出来ない。誇り高き戦士の意を汲むことが出来る方法は一つしかなかった。

 

「……ここは、任せた」

 

 セイバーは万感の思いを込めて告げた。

 

「ああ。あたしのほうも、テフェリーのことを頼む」

 

 応える微笑はなおも変わらず、美しくも煌びやかに輝いたままであった。

 

 互いに強く首肯を返し、セイバーは己を一つの弾丸と化して主の下に馳せる。

 

「――――ィィィィィィ―――――――ッ」

 

 (つんざ)くような奇声とともに、セイバーの行く手を阻もうと肥大した炎の影がうねる。セイバーの頭上から姿を現した凶爪を、背後から煌いた透光の輝きが打ち落とした。

 

 駆け抜けるセイバーの背後で、打ち鳴らされる剣戟の音だけがいつまでも鳴り響いてた。

 

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-14

「邪魔!」

 振りかぶられた大剣は、夜をも引き裂かんばかりに打ち下ろされる。鞘にとって目の前に現れた女は正しく邪魔以外の何者でもなかった。

 

 この間合い、もはや如何なる回避も許さない。どこに逃げようとも確実に切り刻む。

 

 しかし――何を思ったのか、この少女は鞘に向けて駆け寄りながら左腕を掲げるだけで、何の防御も取っていないのだ。まさか、その掲げた細腕が何かの盾になるとでも言うのか?

 

 別に構いはしない、好きにすればいい。何をしようがそのまま真っ二つにしてやるだけのことだ!

 

 漆黒の剣閃が直下に奔る。――しかし、世界を焼き尽くし、万物をも食いちぎり両断するはずの魔剣は、そこで止まっていた。

 

「なッ!?」

 

 さしもの鞘でさえ、その光景を前に驚愕に息を呑まずにはいられなかった。

 

 魔剣に切り裂かれた袖の下には人の腕などなかった。そこにあったのは鋼色の(かいな)。魔剣すら受け止める、美しすぎる白銀の彫像。

 

 しなやかな銀の腕は、そのまま魔剣を巻き込みつつ融解していく。――否、それは腕ではなく銀の糸だった。いったい何本あるというのか、目に見えぬほどに細く鍛えあげられた剣を束ね、編みこむことで人の腕を偽装していた糸の群れは、いま本来の姿に戻ることを許され、水銀の奔流となって魔剣の刀身を拘束していく。

 

『この糸を手足の如く扱って見せることだけが、自分の存在意義』――以前、少女はそう語った。それがすべてであった。

 

 彼女にはもともと四肢などなかった。切り取られたのか、もともと無いのか。本人も知らない。ただ物心が付いたころからその形だった。何もするにも手足の断面から無数に生えている銀色のものを使わなければ生きていくことが出来なかった。

 

 だから最初からそれを手足同然に繰ることだけが、彼女の存在意義だったのだ。魔術礼装の一部であり部品。

 

 なぜ、だれがそんなことをしたのか。理由など知らなかった。仇なすものを排斥するための兵器。武器としてのみ生存を許された生命。そして武器として運用され捨てられた。ただ、それだけのこと。そして拾われ、ここにいる。――ただ、それだけのこと。

 

 しかし、それでも鞘は剣圧でテフェリーを吹き飛ばし、その白い首を捕まえて地に組み敷いた。

 

「――くぁッ!」

 

 そこで、鞘はじっとテフェリーを見つめて来る。その顔に湧き上がるのは何か奇妙なものを見つけたような当惑の色だった。鞘はさらにテフェリーの双瞳を覗き込む。

 

「綺麗な眼――アタシ、あんたを知ってる?」

 

「……?」

 

 その言葉に、テフェリーもまた刹那の困惑に捕らわれた。しかし、そこで彼女を見降ろす漆黒の瞳が、瞬く間に虚ろな黄土色の光に濁り始める。

 

 ふいに理性を失ったかのように、鞘はテフェリーから目を離しカクリとある方角を仰いだ。

 

 ――まるで、そこに流星の光でも見つけたかのように。

 

 その隙にテフェリーは役目を果たすために動いていた。鞘に組み敷かれながらも同時に四肢の外形から解きほぐされ、自由を得た幾千万もの銀糸は最大展開され、闇に潜んでいたアサシンを包囲していたのだ。

 

「ぬ――うッ?」

 

 もはや蜘蛛の巣どころか、それは銀の流水で編みこまれた帳であった。この世のものとも思えぬ艶美な光景にはさしものアサシンも泡を食って瞠目した。しかし相手は半霊体存在であるサーヴァント。これも大した時間稼ぎにはなるまい。それは充分に承知している。

 

 だがそれで十分だった。――すでに、詠唱は完成していた。

 

 そこには漆黒の弓を引き絞る少年の姿があった。

 

 彼の用意していた打開策は至極単純なものだった。衛宮士郎とサーヴァントの間に超えようの無い差が有るなら。何かでそれを埋めてやればいい。――さしあたっては、『宝典・大極図』の再読機能により再装填されたこの令呪だ。

 

 この令呪の用途は既に凛から指導を受けていた。未だ契約の対象を定められず、現在は無用の長物でしかない三画の令呪は、しかし無属性の魔力を捻出することにも転用できるのだ。

 

 魔術刻印を持たない衛宮士郎にとって、それは足りない戦力を補うに充分な要素であった。

 

投影(トレース)()開始(オン)

 

 令呪の第一画が消費され、生み出された秘蹟たる魔力が体内を迸る。魔術回路に流れ込む膨大な魔力の奔流は、紡ぎあげられながら奇跡の形骸を成し、幾重にもわたる工程を経て、今、ここに神代の紅き稲妻を再現する。

 

 それを見たアサシンは言いようのない危機感を感じ、引いた。暗殺者としての直感が告げていた。アレは己以上に殺しに長けたモノだと。

 

 その対象は弓を構える少年それ自体ではなく、彼が弓に番える一本の矢。いや、その真紅の、矢とはいえぬほどに長大なそれはまるで――槍?

 

 番えられた瞬間、その槍は縮小した。細く、短く、――そして鋭く。

 

 逃走など何の意味もない。なぜならその赤光は、放たれれば必ず怨敵の心臓を穿つという伝説の魔槍。

 

(I) (am) (the)( boon) ( of) ( my) 飛ぶ( sword)」  

 

 飛翔すべきその矢の名は――

 

「――――〝贋槍・不可避の紅痛(ゲイ・ボルグ)〟」

 

 誰を狙うでもなく、ただ虚空に放たれた矢は、しかし本来有り得ない超絶軌道を描き、炎に炙り出される影を捉えた。

 

「ぎいいいぃぃぃ――ッッッ!?!?!?」

 

 必中着弾。それは確かに心臓を穿った。しかし止まらない。心臓を貫かれたにもかかわらず、暗殺者は敗走を続ける。

 

 槍が貫いたのはアサシンの左肩にあった人の頭ほどもある瘤であった。セイバー達を行動不能に陥れたアサシンの宝具。その使用時にかくも不気味に脈動していたそれは、まさしく異形の技によって移植された、呪われし罪人の心臓だったのである。

 

 その呪われた血流が生み出す魔のサブリミナルこそが、セイバーとランサー、二大サーヴァントをして不覚を取らせた暗殺術の正体であったのだ。

 

 その怪異なる暗殺機構が、期せずして衛宮士郎の異能とも呼ぶべき固有魔術『投影』によって再現された、放たれれば必ず敵の心臓を穿つという魔槍『ゲイ・ボルグ』の必殺を遮ったことを、アサシンは知りえず、また士郎自身もその事実に思い至る暇はなかった。

 

 アサシンの左肩のこぶを貫いた〝矢〟は更に炸裂し、アサシンの体内を縦横無尽に駆け巡った。しかし止まらない。本来の目的すらかなぐり捨てて、朱の色味を増した斑の間者は必死の逃走をはかる。それはもはや何のためにここにいるのかをすら忘却し、ただ本能的な恐怖から逃れるためだけの敗走であった。

 

 一度で駄目なら二射目を放つまで。士郎は再び敵の背中を見据え意識を集中させていく。黒血を撒き散らしながら逃げ退ろうとするアサシンの背中は既に死に体だ。

 

 しかし再度の必殺に挑み眇められたその視線が、そのとき彼方から馳せ参ずる鮮烈な光を見止めて緩んだ。それは、この戦闘がすでに終結している事を確信したからに他ならない。

 

「ギィ、……ひィ――――ッ」

 

 必死で確保した退路の先に生還の未来を見ようとしたその瞬間、しかしそこでアサシンの敗走は終わった。

 総てを放棄して吶喊し、立ち止まるしか他に手段はなかった。なぜなら、その目は迫り来る白銀と紺碧の流星を、鮮やかに捉えていたのだから。

 

 ――だが、そこで棒立ちになったアサシンの痩躯を両断したのは正面からではなく、背後から現れた漆黒の刃であった。

 

 

 

 

 バーサーカーの相手をランサーに任せ、マスターの救出に向かっていたセイバーはそこに死に体となったアサシンの姿を確認し、すぐさま剣を見舞おうとした。

 

 が、いざ眼前で切り捨てようとしたアサシンの身体は彼女の刃が触れるより先に両断されたのだ。セイバー自身の剣によってではなく、いま暗殺者の背中側から現れた漆黒の切っ先によってである。

 

 虚ろな死灰の如き砂と成り果て、雲散霧消した間者の影から、冷たく笑う美貌が覗く。そこにはひとりの黒い女の姿があった。

 

 セイバーは視界の隅で倒れ込むように膝を折った士郎と、それを受け止めるテフェリーの姿を窺う。テフェリーの目配せでその安否を確認したセイバーは二人を背にかばうようにして回り込み、この場に独り残った敵と対峙した。

 

 サーヴァントであるアサシンを斬り捨てた以上、この擬似聖杯戦争の参加者であることは間違いない。が、果たしてこの場においてはどうなのか。いまだに二人のマスターたちが健在なのは、この人物の手助けによるものではないのだろうか。

 

 ――いや違う。秋波とともに送られてくる剣呑な殺気と刺すような視線から、セイバーはその推察を否と断じた。

 

「――そっ。別にあんた達を助けたわけじゃあない」

 

 女は殺気を隠すこともなく、口角を吊り上げて牙を剥く様に笑った。

 

「まー、邪魔だったしね。あの黒いのはさ」

 

 セイバーは言葉を返さずに、ただ正眼に剣を構えた。

 

「それに、あんたのほうが面白そうだったし――」

 

 鞘の興味は既にセイバーのほうに釘付けだった。あの少年や――奇妙な二色の瞳の少女にも興味はあるが、この相手はなおも興味深い。

 

「――ねッ!!」

 

 間髪入れる暇もあらず、漆黒の剣影が奔る。それを不可視の輝影が危うげなく受け止めた。セイバーにとっても、これは臨むところだった。今や肉体的なダメージはほぼ解消されている。――これが新たな敵だというのなら、その挑戦、是非もない!

 

 剣戟の火花が、無数に閃いた。足を止めた両者の間で十重二十重に刻まれる空間は次第に萎縮し、周囲の大気がそこに集束していく。生み出された気流が両者を強引にも引き合わせようと、その剣域へと殺到し始める。

 

 打ち合わされる剣は目視できず、辺りにはただ苛烈な不協和音だけが響き渡る。再び人手のごとく編みこまれた銀色の腕で士郎の体を支え、それを見守るテフェリーには、もはやそれを剣戟の音なのだと判ずることさえ出来なかった。

 

 驚愕は誰のものだったのだろうか。

 

 今のセイバーは間違いなく本気である。最良のサーヴァントであるセイバーに、事もあろうに剣技で、剣圧で、そして剣気で対抗しうるこの相手――実体の肉体を持ち、令呪もある。間違いなく人間のマスターだ。

 

 しかし確信が理解に先立った。最良の剣の英霊の前に立つのは、最凶の剣の英霊。この敵こそは、この擬似聖杯戦争で呼び寄せられた筈の剣の騎士。三度の聖杯戦争を経て彼女が始めて相対する、剣の英霊(セイバー)に他ならぬのだと。

 

「アハッ!」

 

 剣響に混じり笑い声が漏れ、周囲にこだまする。

 

 同時に打ち鳴らされる剣閃はさらに苛烈さを増していく。

 

「アハハッ、アハハハハハ!」

 

 付き合うつもりはない。敵のリズムの付き合っては駄目だ。両者ともに剣を構える以上、どうしても不可視の剣の効果は薄くなる。一度切り結ぶリズムがかみ合うと互いに次の剣戟の軌道を予測しやすくなるからだ。

 

 だがセイバーは正々堂々真正面から連撃を打ち込み、鞘を後退させていく。それでいい。即殺を免れたとはいえ、そこはやはり人とサーヴァント。自力の差は埋めようがない。このまま行けば先に消耗するのは鞘のほうだ。セイバーはただ躊躇なく隙なく油断なく正道の剣を持って攻めればいい。

 

 しかし次の瞬間、拮抗していた剣戟が崩れ、それまで直線的だった鞘の連撃が突如蛇の如く揺らぎ始めた。のたうつ刃がまるで鞭のようにセイバーの剣に絡みついてくる。

 

「――むッ!」

 

 セイバーがこれには瞠目したのも無理からぬことであった。その剣技はそれまでの鞘が振るっていたものとは一線と画していたのだ。さらに驚くべきは、幾重もの打ち込みを重ねるその度に、その剣筋がまるで別人かと思うほどに変化し始めたことだ。

 

 時に荒々しく、時に変転し、時に精緻を極めるこの技巧。最良の剣の英霊たるセイバーが敵の太刀筋を見誤る筈もなく。ゆえにそれは白昼夢の如き怪異に他ならない。

 

 そして今もまた、軽妙なる螺旋を描いていた幻惑の太刀筋が、次の瞬間には漣の如き峻烈の連撃へと変転し、セイバーの振るう豪速の剣を持ってさえ、拮抗を余儀なくさせているではないか。

 

「アァハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」

 

 赤火するほどに打ち鳴らされる剣戟の音色、それが加速すればするほどに薄月の如く歪んだ口腔から漏れ出す哄笑も際限なく高まっていく。

 

 耳障りなそれを打ち払うかのように、セイバーも剣を執る手に力を込める。

 

 彼女の憤慨こそ切実であった。よもや己が唯の人間相手にここまで詰め寄られようとは! 無論、倣岸などとは縁遠い彼女ではあったが、これには騎士たる誇りを傷つけられる思いであった。

 

 一拍間、距離を取った両者は剣を交えながら並走して冬木大橋のアーチに飛び上がり、そこで再び剣舞を交え始める。

 

 セイバーの渾身の一撃で薙ぎ飛ばされた鞘は逆にそれを利用して距離を開けるべく跳躍し、河川敷に降りた。セイバーもそれ追うが、そこで彼女はなにやら奇妙な物音を聞いた。

 

 パキン、と言う、グラスの中の融けかけの氷が鳴らすような硬質な音だ。それが河面の方から聞こえてきた。

 

 だがそんなことに気をとられている場合ではなかった。高らかに響いていた哄笑は止まった。黒い女の顔はあらゆるものが向け落ちたように呆け、そして次の瞬間、右手に見えていた令呪が発光とともに消失したのだ。

 

 先ほどの、何かが割れるかのような音がまた聞こえた。今後はギシギシと何かが軋れるかのような音も交えながらである。やはりそれは敵が立っている近くの河面から聞こえる。見れば、凍っているのだ。流れる未遠川の水面が、風に波立った波頭の形もそのままに凝固しているのだ。

 

 凍っているのはそれだけではない。今や二人の剣士を取り囲む総てのもから、あらゆる熱量が略奪され氷結しているのだ。

 

 急激な気温の低下にセイバーの漏らす吐息までもが白く曇り始める。剣に寄らぬ敵の攻撃かと訝るが、しかしこの程度の冷気はサーヴァントたるセイバーにとっては大した痛痒にもなりはしない。すぐさま剣戟を再開しようとして――ようやく――セイバーは気付く。敵の思惑に。

 

 奪い取った熱量が、略奪しきった魔力が今、大上段に掲げられるあの黒剣の中で集束し、増大していくのだ。

 

 まさか、あれでは、まるで――ッ。

 

 セイバーはその行為と効力とを察して、不可視の鞘から聖剣を抜刀した。あふれ出す光の奔流。しかしその貴光すらもが総てを飲み込む黒い刃に吸い込まれていくようだ。

 

 瞬間、白く凪いでいたはずの女の面相が、禍々しい喜悦に歪んだ。黒剣が振り下ろされる。

 

密約されし目覚めの刃(ヴァク・ウォーデン)!』

 

 セイバーももはや思考に寄らず同時に剣を振るっていた。幸い、この位置からなら彼女の光の剣は河口に向かって伸びるはず、街を薙ぐ心配はない。

 

『――約束された勝利の剣(エクス・カリバー)!』

 

 だが予想に反し、貴剣の切っ先は河口に届くことがなかった。敵が振るったのはまさしく至高の聖剣たる彼女の宝具に酷似した黒き極光の刃だったのだ。

 

 閃光と閃光がぶつかり合い、河面を光が席巻する。――だが、拮抗は一瞬だった。

 

 セイバーの放つ光の奔流は敵のそれを一気に飲み込み、そのまま河口を通り過ぎて、遥か彼方の水平線をも両断した。残留する熱と光の粒子が、漆黒の空と海とに一条の残光の筋を引く

 

 ――当然の結果だとはいえ、たとえ一瞬でも己の最高宝具に渡り合うほどの難敵だ。今の攻撃で倒しきれたとも限らない。

 

 セイバーはすぐさま河口へ向けて河川敷を下ろうとしたが、其処で足を止めた。それは第一に、残してきたランサーや士郎達のことを思い返したからであった。これ以上ここで時間を食うわけにはいかない。敵を撃退しただけでもここは良しとしなければならない。そして――

 

 セイバーはそこで西の空を仰いだ。

 

 ――何よりも深追いできなかった最大の理由は、

 

「…………凛?」

 

 曇天の空から雲が取り払われるかのように、不意に消え失せた霊的ノイズの向こうに感じ取れた、己がマスターの危機的状況を知らせる一拍の鼓動ゆえだった。

 

 

 



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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-15

 

 静かな夜の森の中で真っ赤に炸裂する炎の華と砲弾の雨。もはやあの一帯は禿山どころかクレーターになってしまっていることだろう。

 

それを見届けて、オロシャはトランシーバーの向こう側に声を掛けた。

 

「聞こえるかい? そこまでで良いよ、サー」

 

『首尾はどうかな、マスター?』

 

「上々だと言いたいけれど、ちょっとやりすぎたね。これじゃ死体の欠片も残ってなさそうだ」

 

『フハハ。それはしまった。追及を受けねばならんかな?』

 

 無線機の向こうから上機嫌に笑い返すライダーの声が聞こえてきた。どうやら今宵の些事は、よほど彼の豪勇の無聊の慰めとなったらしい。

 

「その必要はないよ。でももうちょっとそのままで待っていてくれるかい? ――飛び入りのお客さんが、まだ残っていたらしいから」

 

『ふむ?』

 

 周囲にはいつの間にか彼を囲むようにして、淡い鬼火が群れを成していたのであった。

 

 それらは次第に数を増しながら、無残に破壊された昏き森の残骸を仄かに照らし出していく。

 

 オロシャは既に察していたのか、磁器のような面貌に漣ほどの驚愕も浮かべようとしない。

 

「そこまでよ」

 

 オロシャは声のほうに振り向く。そこには左腕を掲げて彼を睨みつける、一人の少女の姿があった。

 

「誰かと思えば君か。……始めまして、たしかミス…………トオ、サカ。だったかな? お会いできて恐縮の至り」

 

 失笑を交えて応える様は余りにも無防備だ。まるで突き出された彼女の左手が、必殺の銃口に他ならないのだということを、知らないかのように。

 

「さて、これは……蛍石(フローライト)だね? なるほど、君は鉱石を使うんだったね。これは面白いな。うん、芸が細かくていいよ」

 

 それは鬼火の結界であった。

 

 凛は雑兵たちが一勢にキャスターを追っていったのを見計らって細かく砕いた蛍石の欠片を撒き、即興で小規模の結界を作り上げていたのだ。

 

 無論、それはこの奇襲が既に完成したことを意味する。後は詰めを打つだけと言う段階だ。

 

 にもかかわらず、この鳥かごの中の鳥はその揚々と歌うような美声を詰まらせることすらなく、少女に語りかける。

 

「しかし、君はこんなことをしている場合じゃないだろうに。なぜ僕を狙うんだい?」

 

「言うまでもないわ。私はこの冬木を管理する遠坂の魔術師よ。アンタ達にこれ以上この土地で好き勝手はさせないわ!」

 

「フン、くだらないな。これだから外の魔術師は……」

 

 再び嘲笑をもらしそうとした青年の前髪を、ガンドの軌跡が揺らした。オロシャをかすめたそれは、周囲の鬼火を巻き込んで連鎖的に炸裂し、仄暗い夜気を払う。

 

「戯言はそのくらいにしておきなさい。次は当てるわよ?」

 

「おや、今のはわざと外したと?」

 

「ええ、あなたのサーヴァントにも伝えてあげなさい。下手な狙撃なんてしようものなら、余波だけでご主人様が黒焦げになるってね」

 

「……なるほど、僕のこの状況は絶体絶命というわけだ。さすがに、一度聖杯戦争を生き抜いたというのは伊達ではない、ということかな」

 

 確かに、このような機雷のごとき鬼火の群れに囲まれていては、砲撃によるライダーの助勢は期待できない。

 

 万全の策を用意し、装備を使い尽くしてまで敵を討ったなら、その後の機微にまで心を配るべきだったのだ。バトルロイヤルにおいて、勝利を確信した瞬間こそが最大の隙となるのだから。

 

「そういうことね。それと、私が目の前のチャンスは絶対逃がさない主義だってことも、よく覚えておきなさい」

 

 会話を続けながらも、凛は離脱のための身体強化と軽量化に加えて、爆風避けの気流調整の準備を既に始めている。ここでマスターを倒したとしても、サーヴァントがどんな挙動に出るのかは予測できない。

 

 故にこちらの攻撃と同時に砲撃が開始されても、この場から生きて離脱できるだけの用意をしていた。

 

 そうして気を張り詰めていたからこそ、――次の不意打ちにも彼女は十全に対応することが出来たと言えるだろう。

 

 突如として地中から繁茂するかのように突き出した何本もの腕が、彼女の足を捕らえようと蠢いたのだ。

 

「――なッ?!」

 

 まだ伏兵がいたのか!? 寸でのところで身をを躱した凛は、すぐに起爆のガンドを放とうとした。しかし、凛を捕らえそこなった雑兵たちは、ぞろぞろと地表へ這い出し、そのまま彼女への攻撃に廻るのではなく、主である青年の元へと寄り集まったのだ。

 

 そして彼らは何を思ったのか、主であるオロシャの身体を覆うようにして纏わりつき、己の身体を次々に積み重ねていくのだ。

 

「――ッ!?」

 

 目の前で展開される異様な行為に、さしもの凛も咄嗟にはその意味を判じかね言葉を無くす。そのとき、その間隙を突くようにして、積み上げられた肉の壁の間から、ひどくおぞましいものが垣間見えた。

 

 薄月のように歪む灰色のそれは、嘘のように美しい声で殺意の呪詛を吐き漏らした。

 

「撃て、ライダー」

 

 凛がその肉壁の意味を察した一刹那の後、暴風は再び舞い降りた。

 

 咄嗟に虎の子の宝石を使って簡易的な障壁を作った。その守りは瞬発的ながら城壁の護りにも匹敵しよう。――が、それほどの堅固さを持ってしても降り注ぐ砲弾は防ぎきれず、作り上げた機雷結界もろともに周囲を焼き尽くし、彼女の身体は暴風に吹き飛ばされた。

 

『そりゃあ、そうよね……』

 

 考えても見れば、自分はこの砲火で城壁どころか城そのものが削り抉られる様を目にしているのだ。城壁程度ではこの砲火は防げない。

 

 投げ出された彼女は、すぐに身体の損傷を確かめて立ち上がった。幸い、傷は最小限ですんだといえる。だがそれ以上傷を慮っている暇はない。奇襲が失敗した以上、もはやこれ以上の長居は無用だ。

 

 しかしすぐさま離脱をはかろうと跳ね起きた瞬間、黒焦げとなった肉壁の隙間から灰色の光が飛び散るのを、彼女は見た。それは光り輝く瞳と見えた。魔眼の類か?

 

 訝る凛だったが、そこはさすがに歴代を重ねる魔術師。咄嗟に魔術刻印が起動し、邪視・魔眼用の対魔術式がレジストを試みる。もとより、ちゃちな魔眼などでどうこうされる彼女ではない。

 

 しかし、このまま追撃を許しては離脱もおぼつかないと判じた彼女は、今一度行きがけの駄賃とばかりに攻撃を加えようとその眼を見据えた。

 

 それは己の対魔術式に対する絶対の自信ゆえであったが、この場においてはその判断が逆に仇となった。

 

「――あ、れ?」

 

 気付いたときには、彼女の視線はその灰色の光芒に吸着されていた。すぐに周りの景色は闇に沈んでいく。そして黒く色味を増した光は、その不気味な輝きを強め、視界からはそれ以外のものが全く消滅してしまう。

 

『しまった――』

 

 思考からではなく、反射的な危機感知からそう感じる暇こそあれ、遠坂凛の意識はそこで断絶した。

 

 青年が使った怪奇なる眼光は、常道なる魔術とはその摂理を異にするものだったのだ。それは既に術の領域にはなく、この青年の、正しく異能と呼ぶべき生体機能なのであった。

 

 それは魔術と言うよりは、むしろ近代科学の光学装置に近いものだと言えた。それは光情報による他者の意識内への介入とでもいうべきものであったのだ。

 

 もはや炭となった肉の防壁は、まるで剥がれ落ちるように乾いた音を立てて崩れた。

 

 その中から傷一つ負うことなく現れた青年は、優雅な仕草で煤を払いながら足許に散らばった残骸に謝辞を述べた。

 

「ありがとう、みんな。おかげで助かったよ」

 

 声には皮肉など有りはしない。彼は心のそこから自分で使い捨てにした命に感謝の言葉を述べた。

 

「ふふ、化かしあいではまだまだ……。いや、なんでもないよ、ライダー。今夜はもう帰るとしよう」

 

 そうして無線での通信を終えた青年は、傍らで既に意識をなくしているはずの少女へ向けて問うた。

 

「名は?」

 

 意識をなくし、がくりとうなだれていたはずの遠坂凛の口からは、しかし今までその口が発したことのない名が流れたのだ。

 

「遠坂――(みやび)

 

 少女の口は自身も知らぬその名を、揚々とした声で発した。俯く顔の口元には浮かべたこともないほど妖艶な微笑を湛えていた。この場に以前の彼女を知る者がいたとしたら、そのただならぬ様相に閉口したことは間違いない。

 

 それほどに、その瞳に映る光は、その身から発せられる気配は、遠坂凛のそれとは一線を画していたのだから。

 

「はじめまして、ミヤビ。泥だらけになってしまったね。まずは着替えようか。さぁ、おいで」

 

はい、創造主さま(イエス・クリエイター)……」

 

 差し出された手を、意識のないはずの少女の肉体は恭しく取った。そして彼女は、遠坂凛であったはずの少女は、青年と連れ立ち煙り始めていた朝靄の中へと姿を消したのだった。

 

 

 

 

 

 舞い上がる煤が、白み始めた夜の端で風に攫われていく。夜を掃うようだった郡炎の狂態も今ではほぼ鎮火し、所々に大火災の残り香を燻らすのみとなっている。既に炎の外縁部は消防隊によって消火され、炎の中心部だったここにも、間もなく人の目が届くことになるだろう。

 

 小高い丘のようになった瓦礫の上で、荒々しく息を吐く者がある。血と炎で乱れきった髪もそのままに天を仰ぎ肩を上下させる。その呼吸はまるで獣のようだった。今まさに息絶えんとする、手負いの獣のそれだ。

 

 だが、黎明の空にその獣は一枚の絵画のようにその空間に納まっていた。周囲に乱立する鉱石の武具が、本来の役目も忘れその透光で主を囲う余白を艶やかに彩っている。無類の凶器たちでさえもがそうせざるをえないほどに、この獣は美しいのだ。

 

 ランサーは未だに実体を保ったまま現界していた。霊体化すればその間はダメージも消えるのだが、そうはしなかった。心地よかったのだ。傷が、血が、疲労が、痛みが、生の実感となって彼女の身体を取り巻いていた。

 

 セイバーを主たちの救出に向かわせたあと、彼女はそれを追おうとするバーサーカーと戦っていた。ともに手負いだったこともあり、もはや英霊同士のサーヴァント戦と言うよりは獣同士の闘争だった。それでもどうにか敵に実体化しきれないほどのダメージを負わせ、ランサーはバーサーカーを撃退することに成功したのだ。

 

 そのまま膝を突き、立つこともままならぬ身体で、それでも天を仰ぐのだ。満身創痍で、それでも満足げに笑って見せるのだ。

 

 もう少しだった。もう少しで、彼女の願いは叶うところだった。しかし、今回は相手が悪すぎたかも知れない。やはりセイバーか。彼の騎士王でなければ、彼女は満足できないかもしれない。そうでなければ、彼女の願いは叶わないかもしれない。

 

 だから、ランサーは今あらためて思うのだ。もう一度セイバーと戦いたいと、掛け値なしの全力で。――そうすれば、きっと、彼女の願いは叶う筈だから。

 

「どうやら、アサシンも失敗したようだな……」

 

 背後に男が立っていた。奇妙なモザイク柄の、隻腕の男だ。男はまるで独り言のように呟く。それは彼女の主たちの生還を意味していたが、

 

「なんだァ、てめぇは……」

 

 ランサーは静かに立ち上がって男と向き直った。

 

 察しはついた。この男――おそらくはアサシンか、もしくはバーサーカーのマスターであろうか。どちらにしろ味方ではない。何のつもりかは知らないが、こんなところにのこのこと現れた以上は放ってはおけない。

 

 ランサーは傍らの槍を引き抜き、右手の篭手と一体化させてパタと呼ばれる剣具複合の武器へと換装した。指先の感覚が無く、槍や剣を握れないからだ。

 

 だが、たとえ瀕死だろうがなんだろうが、マスターがサーヴァントに敵う道理はない。とりわけ、攻撃に特化したランサーのそれは、瀕死如何に関わらず人間にとって致命的に過ぎる。

 

 ランサーは剣を振りかぶり、人間には知覚出来ないほどの速度で打ち込みを放った。それで終わり――のはずだった。

 

 ランサーは二重の意味で驚愕した。男は無いはずの左手でランサーの篭手を掴み取っていたのだ。ランサーの眼は見ていた。自分以上の速度で懐に入り込んできた男の動き、そして見る見るうちにその断面から生えてきた男の左手。それが、今やランサーの腕を掴み取って捻り上げている。

 

 ランサーは驚きを通り越して呆気にとられていた。なぜただのマスターが、人間である筈のこの男が、サーヴァントである己を圧倒しているのか。

 

 ――理性的思考は、そこで途切れた。

 

 零下から一気に沸点にまで到達したかのような怒りが、飛矢の如く弾けようとしたその瞬間、しかしすでに男の右手はランサーの装甲を砕き、その身体を地に叩き付けていた。

 

 ――有り得ない。――なぜ、自分が沈むのだ。

 

 男はそれを最後に、踵を返した。

 

 ――おい、待てよ。まだ、途中だろうが――…………。

 

 最後にそう、言葉にすることも出来ずに、限界を迎えていたランサーの身体は霊体化を余儀なくされた。輝きが、逆巻く赤火の粉雪となって散逸していく。

 

 男はその美麗なる光景を振り返ることもなく、歩を進めていく。アサシンが敗れた以上、すぐにここにもセイバーが戻ってくるだろう。早々に引き上げなければならない。

 

 一条の影の様にその場を去りながら、男は一度だけ黎明の空を見上げ、そして呟いた。

 

「魔剣よ。――貴様の思い通りには、させん!」

 

 

 



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三章終了時点でのサーヴァント・ステータス

 ステータスが更新されました。


クラス     セイバー

マスター    伏見鞘

真名 

性別 

身長 

体重 

属性 

能力値 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具   

イメージカラー 

特技      

好きな物    

苦手な物    

天敵      

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

ランサー

マスター    ワイアッド・ワーロック

真名      

性別      女性

身長      180cm

体重      62kg

スリーサイズ  95・58・90

属性      秩序・中庸

能力      筋力A 耐久D 敏捷B 魔力C 幸運D 宝具B    

イメージカラー アメジスト(紫水晶)※髪色はサンライトイエロー

特技      ナンパ・鼓舞

好きな物    美しい女性全般・ガチンコ

苦手な物    女々しい男 

使用武術    アマゾネス式喧嘩殺法

天敵      

 

クラススキル

 

『対魔力』:C

 

 二小節以下の詠唱による魔術を無効化する。大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。

 

保有スキル

 

『騎乗』:B

 

 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、魔獣・聖獣ランクの獣は該当しない。アマゾーン(女人族)は騎馬民族であり、騎乗能力に優れた部族であった。

 

『勇猛』:B

 

 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉に対する抵抗力。それらの効果を高い確率で無効化できる。加えて格闘ダメージが向上する効果もある。

『神性B-』

 

宝具

 

『鋳造されし不和の双翼(プテロ・エリス)』ランク:B 対人宝具 レンジ2~4 最大補足1人

 

 ――不和の女神エリスから賜った両刃の戦斧。

 刃そのもの、又は切りつけた対象から斥力を発生することが出来る。

 

 地面、もしくは壁などに使用することで一時的に無重力状態を作り出し、敵の動きを封じたり跳躍、走行時に推進剤として使用することも可能。

 

 不和=引き離すというエリス神の神格の具現。

 

『沸血装甲(マーズ・エッジ)』 ランク:C+ 対人宝具 レンジ1~50 最大補足10

 

 本来は古今東西の戦場で振るわれ、戦士と共に朽ちた幾千幾万の武具であり、それを元に戦士の血によって鍛え上げることで甲冑と成したもの。

 

 各種の具足を一時解体し再度武器として使用することが可能。それぞれの武装は武器として一級品でありながら防具としての耐久性は低く、あくまで攻性に傾いた防具である。

 

 金属というよりは紅く濁る鉱石のような材質でできている。(正しくは躑躅(つつじ)色の紫水晶[アメシスト])

 

 武装は剣、槍、弓にとどまらず、盾、戦斧、短剣、鎌、戦槌、鉄鎖、鉄爪、鞍、杭、衝角、仕込みや、火器類から複合武器まで多岐にわたる。

 

 鞍や馬鎧(カタクラフト)を装着することでバイクのような機械でさえも宝具として使用することが可能。

 

 時代とともに戦場で使用される武器が変わるにつれ、常に変化していく性質がある。

 

備考

 

 

 

クラス     アーチャー 

マスター    テーザー・マクガフィン

真名      ラーマ(化身王)

性別      男性

身長      178cm 

体重      86kg

属性      秩序・善

能力      筋力B+ 耐久A 敏捷B 魔力B 幸運C 宝具A+

イメージカラー 黒陽

特技      人助け

好きな物    公明正大・妻

苦手な物    不公平

天敵      なし

使用武術    古式ムエタイ

 

クラススキル

 

『対魔力』:C

 

 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。大魔術、儀礼呪法を以ってしても傷つけるのは難しい。

 

『単独行動』:A

 

 マスター不在でも行動できる。

 

 ただし、宝具の使用など膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。

 

保有スキル

 

『神性』:-

 

 半神半人としてこの世に生を受けたラーマは現世における神威の代行者であり、本来は神そのものといっても過言ではないほどの最大の神霊適正をもつ。しかしその神霊性は普段は厳重に隠匿されており、宝具「第七権限」の使用により隠された神霊性が顕著する。

 

 これはラーマが「神によっては殺されない」という力を持つ羅刹王ラ―ヴァナに対抗するために与えられた性質である。

 

『カリスマ』:A

 

 大軍団を統率・指揮する才能。人ならざる稀人としての求心力であり、常人の獲得しうる人望とは一線を画す。

 

『マントラ』:EX

 

 その身体に宿る神々の真言。その時々に必要な感覚・技能・知識・経験等が自動的に顕著する他、「透化」「千里眼」「千獣の賛歌」「ムエタイ」「仙術」「隠者の作法」といったスキルを任意のランクで獲得できる。

 

宝具

 

『華神紅輪(クリムソン・ギア)』ランク:B 対軍宝具 レンジ2~50 最大補足50人

 

 ――炸裂する火箭。灼熱の迦楼羅炎によって作りだされた弓の形状は神鳥ガルーダの翼を模している。

 

 放たれた矢は目標の眼前で炸裂し、無数の紅弾を雨のごとく降らせる。紅弾は一つ一つがビシュヌ神の象徴たるチャクラムを模した極小のベアリングであり、高い貫通力を持つ。

 

 『ラーマーヤーナ』において、龍蛇を矢として使うラーヴァナに対し、苦戦したラーマは神鳥ガルーダの加護を得た弓によってこれを退けたという。そのためナーガ(神蛇・龍種)に対する圧倒的な優位性を持ち、龍または蛇の属性を持つ敵に対しては追加ダメージが発生する。また、着弾と同時に魔力そのものに対する侵食作用が起きる。

 

『第七権限(アヴァーターラ)』ランク:‐ 対人宝具 最大補足1人

 

 アーチャーの身体に施された概念武装。

 

 使用と共に褐色の肌が蒼く変化し、さらに黒色へと変わっていく。最終的には皮膚だけではなく、眼球や口腔までもが光輝く黒陽色に染まる。

 

 あらゆる身体性能が飛躍的に上昇し、スキル・宝具を含むすべてのランクが最大A++まで増強される。

 

 さらに通常時は隠蔽されている神霊適正が顕著し、自身よりも神霊適正の低い対象からの干渉を大幅に軽減する。(ただし無効化することは出来ない)。

 

その場合、筋力・宝具等のランクは関係なく、それを行使する者の神性スキルの高さのみが効果判定に影響する。

 

 また、黒曜石のごとき肉体は高性能の『ビーム・アブソーバー』として機能し、光線系、雷撃系、炎熱系のダメージを無効化し、逆におのれの魔力として充填することが可能。

 

備考

 

 

 

クラス     ライダー

マスター    オロシャ・ド・サンガール

真名 

性別      男性

身長      188cm

体重      80kg

属性      混沌・中庸

能力      筋力B 耐久C 敏捷D 魔力B 幸運A 宝具A+     

イメージカラー エメラルド

特技      操船・海賊行為

好きな物    海・冒険・女王

苦手な物    長い陸上生活・退屈な隠居生活

天敵      なし

 

クラススキル

 

『騎乗』:A

 

 幻獣・神獣ランクを除くすべての獣、乗り物を自在に操れる。

 

『対魔力』:D

 

 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。魔力除けのアミュレット程度の対魔力。

 

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

クラス     キャスター

マスター    カリヨン・ド・サンガール

真名 

性別      女性

身長      160㎝

体重      56㎏

スリーサイズ  88・61・90

属性      中立・中庸

能力値 筋力D 耐久E 敏捷C 魔力B 幸運A 宝具C  

イメージカラー モノトーン

特技      ゲリラ戦術 歌・ダンス・プロデユース

好きな物    娘・子供 

苦手な物    自分・獅子舞

天敵   

使用武術    プンチャック・シラット

 

クラススキル

 

『陣地作成』:B

 

 魔術師として自らに有利な陣地を作り上げる。標準的な工房の形成が可能。

 

『道具作成』:C

 

 魔力を帯びた器具を作成できる。

 

保有スキル。 

 

『千獣の賛歌』:A

 

 獣であるならばあらゆる幻獣・神獣とも意思の疎通が可能。対象を操ることはできないが魅了の効果があり、高ランクでは獣達が自然と役に立ってくれる

 Aランクでは他人の使い魔からでも情報を引き出せる。

 

『芸能炯眼』:C

 

 自他の外観に対する観察眼とプロデュース能力。

 

 対象を視認するだけでそれが特別な隠蔽効果を持つ物でない限り高確率で外部装備および装飾品の効力・状態を看破できる。

 

『呪歌』:B

 

 類稀なる美声。歌って踊れる才能。

 

 声を聞くだけで魅了・幻惑等の精神干渉が起こる。

 

宝具

 

『流転齎す闇夜の吐息(カーリー)』ランク:C 対人宝具 レンジ1~10 最大補足50

 

 ――左腕のブラック・マジック。

 

 能力は負の感情の流転。時間をさかのぼり単一のモノに対する悪意・害意・敵意などの対象を別の対象に書き換える。かなり高位の幸運もしくは直感が無ければ察知、回避は難しい。負の感情が強いほど高い効力を発揮する。

 

 カーリーはヒンドゥー教におけるの狂悪にして強大な女神の名であり、その名は「カーラ」(『黒』又は『時間』を表すマントラ)が元になっている。

 

 

マスター    D・D

真名      ハサン・サッバーハ 

性別      男性

身長      180cm

体重      60kg

属性      中立・悪

能力      筋力C耐久C敏捷A魔力B幸運E宝具D      

イメージカラー 斑(まだら)

特技      ブービートラップ・詐欺

好きな物    動物実験・傷痕

苦手な物    

天敵      ラーマ

 

クラススキル

 

『気配遮断A+』

 

 サーヴァントとしての気配を断つ。隠密行動に適している。完全に気配を経てば発見する事は不可能に近い。ただし、自らが攻撃態勢に移ると気配遮断のランクは大きく落ちる。

 

保有スキル

 

『風除けの加護A』

 

 中東に伝わる台風避けの呪(まじな)い

 

『自己改造B』

 

 自分の肉体に、まったく別の肉体を付属・融合させる適正。

 

 このランクが上がればあがるほど純正の英雄から遠ざかっていく。

 

『薬物調合A』

 

 あらゆる毒物・薬品等を調合できる。ただし、魔術的な効果は付属しない。

 毒物の効果は致死から催眠、麻痺、幻惑等さまざまで、死期操作可能な秘薬カンタレーラや万能解毒薬ミトリダティオンなどの精製も可能。

 

『偽装工作C』

 

 変装、詐術、罠の隠蔽といった敵を欺くための能力。

 

宝具 

 

『回想傷紋(ザバーニーヤ)』ランクD 対人宝具 レンジ5~9 最大補足20

 

 ――呪いの血文字。このハサンは左肩の瘤に呪われた殺人鬼の心臓を移植している。そのため左腕は通常使い物にならない。

 

 その包帯を開放し、肩の心臓を急激に脈動させて包帯の下の傷から血霧を撒き散らすことで、宙空に紋を描く。

 

 それを目視した人間の記憶を強制的に〝回想〟させ、今までに負った「傷」を総て再切開する。

 

 場合によっては人一人すら殺すのが困難な宝具であるが、実際には毒物との併用によって効果を発揮させる。

 

 また、その効力は魔術でも幻惑でもなく、あくまで視覚効果によって記憶を回想させるにとどまり、実際に傷を開くのはその対象自身の魂が記録している傷痕の記憶であり、イメージである。

 

 そのため回避には魔力・幸運等の高さは影響しない。

 

 生きている人間よりも、生前に戦場を駆け、そして戦場で死んだ英霊にこそ絶大な効果を発揮するという特異な性質をもった宝具である。

 

備考

 

 毒使いの暗殺者。基本的には諜報活動に徹し、策略やトラップによって敵を貶める戦法を好む。

 

 戦闘のスタイルは刃に毛を植えつけた怪刀を使用する。これは毒を染み込ませた鞘(この鞘の内側にも毛が植えてある)に収めておき、かすっただけで致命傷を与えることができるという代物。

 

 また黒塗りの小瓶を投擲して毒を浴びせたり、毒霧を吹きかけたりといったことも行う。

 

 これらの戦法は宝具である『回想傷紋』と併用した場合高い効果をもたらす。それがこのアサシンの本来の戦法である。

 

 

バーサーカー

マスター    ベアトリーチェ・ド・サンガール

真名      八百屋於七

性別      女性

身長      158cm

体重      40kg

属性      混沌・狂

能力      筋力C 耐久E 敏捷D 魔力E 幸運E 宝具D      

イメージカラー 灰白色・鈍色

特技      なし

好きな物    焦がれるような恋

苦手な物    ひとりぼっち

天敵

 

クラススキル

 

『狂化D』

 

 筋力・耐久・敏捷のパラメーターのランクを上昇させるが自立的な思考力・言語力を失う。

 

保有スキル

 

『怪力C』

 

 一時的に筋力のパラメーターをアップする。

 

 彼女の属性は反英霊というよりも、悪鬼に取り込まれた偶像としての側面が強いため、付属した能力。

 

『偏愛A』

   

 単独で行動することができなくなるが、マスターに対して従順になる。加えて、瞬発的に特定のパラメーターをアップすることができる。

 

『戦闘続行E』

 

 自己防衛意識の欠如。己の負傷を省みず、死ぬまで戦闘力を低下させずに戦い続けることができる。

 

 

宝具

 

『火刑・緋縁魔(カケイ・ヒエンマ)』ランクD 対人宝具 レンジ2~9 最大補足5人 

 

 ――かつて裁かれた断罪の炎。

 

 対人拘束宝具。周囲の火炎を収束させ対象を拘束しそのまま焼き殺す。周囲の炎が大きいほど拘束力が高くなる。

 

 現在はクラス効果により使用できない。

 

『火景・飛炎魔(カケイ・ヒエンマ)』ランクE 結界宝具 レンジ10~50 最大補足100人

 

 ――かつて魅せられた偏愛の炎。

 

 常時発動型の宝具。バーサーカーは実体化しているだけでそこら中に火の粉を撒き散らして、火災を引き起こし続けるという性質がある。さらに、その中で死んだ人間の魂(魔力)を常時吸い上げ続けている。これらは意識的ではなく、完全に無意識のうちに行われる。

 

 撒き散らす種火には特殊な効果は付属せず、燃え広がる前なら人の手でも鎮火できる。種火から自然に広がった火災はバーサーカーが有利に立ち回るための結界として作用し、周囲の炎で分身を作り出し敵を幻惑することなどが可能。

 

備考

 

 炎海に潜む女怪。

 

 戦闘スタイルは巨大な魔爪(一つ一つが自分の身体ほどもある)を使用する。動きは素人に毛が生えた程度。

 

 イメージカラーは灰色・鈍色で、髪と着物も灰白色。そこに、うねるような炎を模した紅蓮の染め抜きがある。

 

 その実は反英雄。本来は英霊ではなく悪鬼の類。日本で最も有名な放火犯である。

 

 恋慕の挙句に放火未遂事件を引き起こし捕らえられて火刑となり、浄瑠璃等の題材として使用されるようになった。このイメージに丙午の迷信や男を誘惑し精気を吸い尽くすという悪鬼の側面が取り込まれ、反英雄として祀り上げられたもの。

 

 生前の本人は唯の人間であり、おそらくは史上再弱のバーサーカー。

 

 そもそもバーサーカー以外の適正はなく、その能力は複数のスキルでドーピングしても他の英雄たちに及ばないが、反面マスターの負担が少なく、従順で暴走しにくいという利点がある。また、火災の中でなら魔力を補充しながら他の英霊とも互角に戦うことが可能となる。

 

クラス     セイバー

マスター    遠坂凛

真名      アルトリア

性別      女性

身長      154㎝

体重      42㎏

スリーサイズ  73・53・76

属性      秩序・善

能力値 筋力B 耐久A+ 敏捷A 魔力A+ 幸運A 宝具A++ 

イメージカラー 青

特技      勝負事

好きな物    きめ細かい作戦・正当な行為

苦手な物    大雑把な作戦・卑怯な行為

天敵      

 

クラススキル  

『対魔力』:A

A以下の魔術は全てキャンセル。事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけられない。

 

『騎乗』:B

 騎乗の才能。Bランクでは魔獣・聖獣以外のあらゆる物を乗りこなす。

 

保有スキル

『直感』:A

 

 戦闘時、自身にとって最適な行動を「感じ取る」能力。研ぎ澄まされた第六感はもはや未来予知に近い。視覚・聴覚に干渉する妨害を半減させる。

 

『魔力放出』:A

 

 武器、ないし肉体に魔力を帯びさせ、瞬間的に放出することで能力を向上させる。魔力によるジェット噴射。

 

『カリスマ』:B

 

 軍団を指揮する天性の才能。

 カリスマは希少なスキルでBランクは一国の王として十分な度量である。

 集団戦闘において、自身の軍の能力向上効果がある。

 

宝具

 

『風王結界(インビジブル・エア)』ランク:C 種別 対人宝具レンジ1~2 最大捕捉1人

 

 不可視の剣。

 セイバーの剣を幾重にも覆う風で光を屈折させて不可視とする宝具。白兵戦にお  いては武器の形状、間合いを相手に悟らせないため、優位に戦うことができる。

 また、『約束された勝利の剣』はアルトリア、つまりアーサー王たるセイバーのシンボルとしてあまりにも有名過ぎるので、真名開放をせずともその剣を見られただけで彼女の真名が割れてしまう危険性が高い。

 そのため、不可視にすることでそれを防ぐ意味合いもある。

 

『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』ランク:A++ 種別:対城宝具レンジ:1~99 最大補足:1000人

 

 光の剣。人造による武器ではなく、星に鍛えられた神造兵装。聖剣というカテゴリーの中では頂点に立つ宝具である。

 所有者の魔力を“光”に変換後収束・加速させて運動量を増大させ、神霊レベルの魔術行使を可能とする聖剣。

 放たれた斬撃は光の帯のように見えるが、実際には攻撃判定は光の先端のみであり、光によって形成された断層が通過する線上の全てを切断する。

 

備考

 

 真名はアルトリア・ペンドラゴン。

 イングランドの大英雄、かの有名なアーサー王であり、ブリテンを統べた王。円卓の騎士の一人でもあり、「騎士王」の異名を持つ。

 半年前の冬木における第五次成敗戦争に召喚され、最終的に汚染された聖杯を破壊した。聖杯戦争の終結後も通常の使い魔として現界している。

 当初は衛宮士郎に召喚されたが、後に遠坂凛をマスターとしている。しかし現在も士郎との仲は良好であり、ともに衛宮邸に三人で生活している。

 現在は冬木の管理者としてのマスター、遠坂凛の命により「再開された聖杯戦争」 という有りうべからざる怪異に対処するため再び夜を馳せる。

 

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-1

 冬木市は新都センタービル。昨夜オフィス街で巻き起こった紅蓮の火の手も、ここまでは届いていなかった。その為、人々はこの日も通常通りにこのビルを訪れていた。

 

 しかし、この日はどこか妙な違和感があった。昨夜の影響で少なからずとも騒がしいのを別にしても、どこか奇妙な感覚を憶える瞬間があった。

 

 にもかかわらず、その違和感が何なのか、わかる人間は一人もいなかった。このビルの階層が人知れず一つ分少なくなっていることに、誰も気付くことが出来なかったのだ。

 

 深夜の森の攻城戦から一夜。命からがらといった風体にて冬木の市街まで逃げ延びていたカリヨンとキャスターは、逃走の途上で海岸に打ち上げられていた鞘を発見していた。

 

 彼女はセイバーとの一騎打ちに敗れ、遥か沖まで吹き飛ばされながらも、未だにしかと生存していたのだ。

 

 鞘がどうやって海岸まで辿り着いたのかは定かではなかったが、彼女の脳裏から粗方の事の次第を読みとったキャスターは思わず貌を顰めざるを得なかった。

 

 昨夜、行き当たりばったりに戦禍の只中に飛び込み、その挙句の果てにあの騎士王相手に一騎打ちを仕掛けるというのはあまりに無謀が過ぎるではないか。この有様も当然と言えば当然のことだ。命があっただけでも僥倖だと言えよう。

 

 兎角、意識不明になっていた鞘を回収し、このセンタービルに辿り着いたのはもう空の色が大分白んでいたころだった。キャスターはすぐさまこの高層ビルのワンフロアを接収した。

 

 さらにこのビルに足を踏み入れる者全員に軽い暗示が掛かるように仕向け、この階そのものが元から無かったかのように感じるよう、このビルそのものを改装したのだった。

 

 同時に、彼女に伴いあの森から抜け出した彼女の眷属たち、千にも昇る怨霊の群はそれぞれにこの新都一帯のビル群へと散じ、それぞれの建物に入り込み、そこで根を張っていた。

 

 その総ての居城にキャスターのものと同じ魔の芳香を撒き散らし、本命のセンタービルそのものをカモフラージュしているのだ。木を隠すなら森の中、というわけである。

 

 これで敵が何らかの方法、または偶然からキャスターの足取りの痕跡を見つけたとしても、その居場所の詳細を知ることはできなくなった。この一帯の数ある建築物の中からここを見極めるのはそう簡単なことではあるまい。

 

 仮に敵が地道な捜査を開始したのだとしても、充分に時間稼ぎにはなる。

 

 とは言え、やはりこれはあくまでも一時的な措置だ。この場所は身を隠すには良くても要害としてはあまり上等とはいえない。敵に見つかれば、いくら策を練ってもそれを突破されることはありうる。それは昨夜の戦闘で充分身にしみている。

 

 それでも、キャスターはここを選んだ。それにはそれ相応の理由があるのだ。

 

 いまや無人なったはずのフロアの隅で応接用のソファにゆったりと身を沈め、妖艶に四肢を組んだ妖女は一人思案に耽る。

 

 昨夜の体験。完全敗北。そして形振り構わぬ敗走――もしも彼女が真っ当な英霊、誇りや名誉を拠り所にして立つ士道の雄であったなら、その事実は彼女の心を侵しつくし、その挙を報復の暴挙へと駆り立てたであろう。

 

 しかし、真正の魔女である彼女にそのような杞憂は無用であった。並べても、彼女は感情の猛りに任せて己を奮わせる能動的なタイプのサーヴァントではない。むしろその逆だと言えた。

 

 感情を抑え、制御し、綿密な謀略を持って事を運ぶ、静的な資質の持ち主であったからこそ、その紅蓮の如き憤怒の只中に在ってさえ、彼女は冷静であった。

 

 今思案するのは、現在の状況についてだ。己とそのマスター、そして鞘。三人の内、誰も欠けてはおらず、失ったものは借り物の城がひとつ。そして得たものは諜報では得がたかった情報とそして経験。

 

 ……収支で言うなら、ばむしろ黒字だといえる。決して誇張ではなく彼女は本心からそう考える。

 

 あの森の城が敵に知れたことの第一の要因は、ひとえにキャスターにその隠匿を徹底しようという気が最初からなかったことである。

 

 まさかあの堅固な城に、序盤から大胆にも攻め入ろうという無謀な輩はいないだろうという見通しは――結局のところ裏目に出たわけだ。

 

 さすがは古今東西の英霊が集う聖杯戦争。戦略の定石も魔術師の定石も、なるほど通用する道理がないというところだろうか。

 

 キャスターは改めて己を戒め、その反省から今度は前から目をつけていた場所を選択したのだった。今度は防衛ではなく、こちらから攻めるために。

 

 そもそも、あの超々距離の射程を誇る砲火の前ではどこに隠れても同じことである。しかし、察するにライダーは探知能力に優れたサーヴァントではないと考えられる。

 

 彼らがあの城を発見出来た第二の要因は、敵の戦略にある。それはあの雑兵たちを使っての人海戦術であろうと予測できた。どうやってあれだけの数の一般市民を己が走狗としたのかは知らないが、おそらく敵は彼らを街での諜報、探索にも使用していたのだろう。

 

 なるほど、従来からこの街に暮らす住人がそろって監視に当たるなら、下手に使い魔を飛ばすよりもよほど怪しまれることなく調査を遂行できることだろう。もっとも如何な魔術師といえども、それほどの数の人間を怪しまれることもなく操り続けることは至難の業だし、労力の無駄遣い以外の何物でもない。

 

 カリヨン(マスター)から聞き及んだように、それを可能とするがあの次兄の「異能」によるものなのだとするならば、それこそなんと恐るべき魔の御業であろうか。 

 

 そして己の能力を最大限に発揮できる方法を迷わず選択し、目的のためにはあらゆる要因を排除することを厭わぬ冷徹さ、場所さえわかれば間髪おかずに火力と人員の数に任せて一気に攻め込む迅速にして大胆な行動力。

 

 一見強引な攻め手と見せて、その周到さが窺える。なるほどマスターのいうとおり、あの次兄は難敵だ。

 

 それでも――、こちらにとって良い材料がないわけではない。一旦兵を使い果たした以上、しばらくは時間の猶予があるはずだ。

 

 ――いいだろう、借りは返してやる。

 

 それまで情感を欠いていたはずの魔女の美貌が、不意に空恐ろしくなるほどにさざめき、その紅い唇が明らかな喜悦にほころんだ。それはこの世のものとも思えぬほどに美しく、同時に恐ろしい微笑みだった。

 

 何よりも、この場所を選んだということは彼女が守勢ではなく今度こそ本気で攻勢に廻るつもりになったことを意味するのだ。そう、隠匿は一時的で構わない。

 

 この一手で総てを終わらせるのだ。それだけの用意を彼女はこの街全体に施しているのだから。

 

 しかし――そんな彼女にも、ひとつ看過できぬことがあった。

 

 思案の馳せるに任せるうちに、それに思い至り魔女の妖笑が再び沈鬱に沈みかける。――そのとき、視界の隅で盛大な物音がして、キャスターはそちらを振り返った。

 

「……大丈夫ですか? マスター」

 

「お、怒っては、いないんだよな……」

 

 カリヨンは一度、何かに怯えたように顔を引きつらせてから、恐る恐るキャスターに尋ねた。

 

「何のことです?」

 

「……いや、なんでもない」

 

 キャスターがひとり思案に耽っているその間、カリヨンはといえば、初めて自覚した自分の異能を把握しようと躍起になっていたのだった。

 

 広いフロアは邪魔な障害物を取り除かれていた。そこをカリヨンは運動場代わりにして体術の、そして昨夜覚醒した己の異常な得意能力を試していたのだ。

 

 異能とは魔術とは一線を画す、生まれながら、または生きる過程で付属した通常では考えられない力のことである。サンガールの後継者たちにとっての異能とは後者を指す。 

 

 彼等は監督役であるテーザー・マクガフィンの心霊手術により魔術回路を増設され、その折にそれぞれが魔術では成しえない一代限りの変異的生体機能、つまりは異能と呼ばれる特異能力を獲得したのだと言う。

 

 その中で唯一、カリヨンだけが何の機能も獲得できなかったことが、彼が潜在能力の低さを指摘されてきた理由のひとつだったのだが、それは間違いだったのだ。

 

 彼にも条理ならざる異能は、確かに備わっていたのである。

 

 彼の異能は「同調吸収」と呼ぶべきものである。見る、聞くなどして体感した他者の特有の機能に瞬時に同調(シンクロ)し、その機能をほぼ無自覚のうちに吸収(ラーニング)して己のものとしてしまう破格の異能。

 

 彼がいままで何の能力も発揮できなかったのは、離れて暮らす兄姉たちを除いて、周りに彼が吸収するに足るほどのレベルの特異能力者(タレント)が居なかったからに違いない。

 

 そしてなによりも、本人が自分には何の能力もないのだと思い込んでいた精神的制約こそが、最大の要因だったのだと思われる。 

 

 しかし、それが昨夜の危機的状況に瀕して覚醒し、あのモザイク柄の怪人の、目測を赦さぬほどに自他の物体を『過加速』する能力を己のものとして発現した彼は、昨夜の窮地から己とキャスターを救ったのだ。

 

「それはそうとキャスター、サヤはどうしたんだ? さっきまでそこで寝てただろ?」

 

 昨夜、河川敷から回収されていた鞘は酷く負傷しており、キャスターは取り急ぎ治癒を施した。

 

 そして半日ほどソファに寝かされていたはずの鞘の姿は、今や完全に消えうせていた。

 

「それが……眼を覚ますなり空腹を訴えて飛び出していってしまいまして……」

 

 その治療の効果は思いのほか覿面(てきめん)だったらしく、目覚めた鞘はまた止める間もなく出かけてしまったのだという。

 

「ええ? 気付かなかったな……。それも何も聞かずにか? 怪我もひどかったのに……」

 

 キャスターたちも身体ひとつで脱出したわけなので、必要なものを買出しに出かけるという名分はあったのだが、負傷していた筈のサヤが起き掛けに勇んで出て行くというのはさすがに不可解だ。

 

「いえ、状況は説明しました。……何処まで聞いていたかは定かではありませんが……。負傷のほうも、さほど深刻ではありませんでしたしね。サーヴァント顔負けの回復力ですよ」

 

 いくら〝剣のサーヴァント〟のマスターとはいえ、言葉もないとはこのことだった。キャスター自身、彼女が召喚した英霊(セイバー)については詮索を控えていたが、ここに来てどうにも不可解な気がしてくる。

 

 剣のみがセイバーとして召喚された異例の英霊。それがマスターである鞘の手によって英霊顔負けの戦闘力を発揮するというシステム。

 

 あの剣がサヤの身体を強化しているというのはわかるのだが、さて、どうにも彼女の行動にはなにかそれ以外の外的要因を感じる。

 

 とはいえ、お互い協力関係を維持しているだけの関係なのだから、そのサーヴァントについて教えてほしいというわけにもいかないだろう。キャスター自身は未だそのサーヴァントを見たことがない。

 

 今までは特に気にしていたわけではなかったのだが――何か不自然だった。鞘は本当にいままで()()()()()()行動していたのだろうか?

 

「そうか。ならいいけど……それにしても元気な奴だよな。……そういえば、僕も昨日から何も食べてなかったな……」

 

 しかし一瞬の内にそこまで積み立てられた懸念は、少年の声で遮られ、霧散してしまった。

 

「随分集中されていたようですわね。鞘が出てからしばらくたちますからもうすぐ戻るかとは思いますが……どうしますか」

 

 彼女が本当に心を砕くべき懸念は、こちらにこそにあったのだから。

 

「はあ……、ホントにじっとしていられないヤツだよな……まぁ、丁度いいや。僕が呼びにいってくる」

 

 カリヨンは溜息交じりにそう言ったが、その顔には少年らしい健やかな喜色が浮かんでいる。しかしそれを聞いてキャスターは微笑を僅かに翳らせた。

 

 カリヨンの異能の特筆すべき点は、本人が意識していない標的からでも、それが異能を備えているならば、ほぼ自動(オート)で異能の吸収と同調を行うことであろう。

 

 さらに特筆すべきは、今の彼は何者かが行っている街の通信撹乱を中和して魔力探知を行えるのだ。

 

 今もこの街を覆い続けている不快な妨害雑音(ジャミングノイズ)は、どうやら魔術ではなく、何者かの異能によって引き起こされているものであったらしい。道理で魔術による解呪や防備が通じないわけである。

 

 カリヨンはいつの間にか、その能力をも吸収していたのだ。故に、彼は今やこのノイズに翻弄されずに行動することができる唯一の人間となったことになる。

 

 こうなると、この霊的雑音に対して処置なしのキャスターよりも鞘を捜しに行かせるには、確かに適任だといえた。つまるところ昨夜河口近くの河川敷で気を失っていた鞘を回収できたのも、彼がこのノイズを中和できたおかげなのだ。

 

 という事情もあり、さすがにこの意見にはキャスターも同意しないわけにはいかない。しかし、

 

「確かに、今のマスターなら適任だとは思います。私では鞘を捜せませんし、それにあと丸一日はここを動けないのも事実です……しかし、よろしいので? マスター」

 

「何が?」

 

「その、出歩いてもよろしいのですか? あの男もまだ……この街にいるのですよ」

 

「あ……」

 

 あの男――無論、あのモザイク柄の怪人のことである。あの男と邂逅してからというもの、カリヨンはおぞましいまでの恐怖に、その心身を苛まれていたはずなのだ。

 

「……何者なのですか、マスター?」

 

 押し黙った少年に、キャスターはあらためて問うた。彼を気遣うあまりに、二昼夜にわたって問えなかったたことだが、こうなっては確認しておかずにはいられなかった。

 

「僕は、……僕たちはただD・Dって呼んでる。何者なのかは分からない。ただ、八年位前からサンガールの家門を狙ってる奴なんだ。……何でそんなことするのか、僕は知らないけど、衛兵や門人が何人もアイツと戦って殺されてるんだ。

 

 協会もその正体を把握してないって言うし、未だに何の手も打ててないらしい。僕が知ってることはそれぐらいしかない……」

 

「マスターは以前にもヤツを見たことが?」

 

「……八年前、最初に襲われたのが僕ら……僕なんだ」

 

「それで……。なら、なおさら独りで出歩くのは控えた方がいいのでは? 鞘のことはいいですから、今日はここで……」

 

 しかし、カリヨンはゆっくりとかぶりを振った。少年は静かに、そしてしっかりとした語調で告げる。

 

「いや、大丈夫だよ。僕は、前とは違うんだから」

 

 それを聞いたキャスターは一瞬、悲痛そうに顔を曇らせたが、見上げてきた誇らしげな顔に一応は笑って見せた。上手く笑えていたのかは良くわからなかった。

 

「でも、キャスター。丸一日動けないって、何かするつもりなのか?」

 

 一転、今度こそその白い顔を優しく綻ばせたキャスターは、なにやら含みを持たせて主の質問に答えた。

 

「ええ、今度はこちらから攻める番ですので。ひとつ趣向を凝らそうかと思っております」

 

「趣向?」

 

「ええ。目には目をというわけではありませんが。向こうが人海戦術で来るならば、こちらは物量作戦で応えようかと」

 

「……はぁ? ……うん、まぁ、取り敢えずは解かった」

 

 イマイチ的を射ない返答だったが、ひたすらに優しげなキャスターの微笑みに逆に空恐ろしいもの感じて、カリヨンは眉をひそめながらも素直に首肯した。

 

 戦略については元よりなし崩し的に任せきりなのだし。それに今、彼にはもっと重要なことがあったのだ。こちらについては一刻を争うかもしれないのだ。

 

 つい言いそびれてしまったのだが、カリヨンは鞘を捜すよりも先にテフェリーに会いに行こうと考えていたのだ。キャスターに告げてから、とも考えたがさすがに昨夜とは事情が違う。

 

 こんなときに一人で行動などさせてもらえるはずもないし、テフェリーがどこかの勢力に属しているというのなら、なおのことキャスターに同伴を求めることは出来ない。

 

 だが、それでも、この足を止めることなど出来はしなかった。

 

 内心でキャスターに頭を下げながら、少年は確たる足取りで街に駆け出していった。

 

 その後姿を笑顔で見送ったあと、キャスターは妖艶な仕草で息を洩らし、また悲痛そうに眉根を歪めた。

 

 それは笑顔の裏にあるキャスターの焦燥を物語っていた。

 

 ――急ぐ、必要がある。主と穏やかに談話している間にも、そして今ひとり佇んでいる間にも、サーヴァントたる彼女は戦況を好転させるべくある準備を続けていたのだ。

 

 今、こうしている間にも、彼女の眷属たる悪霊たちはこのセンタービルを中心に広大な魔方陣を形成しつつあった。

 

 街中に漂う魔力の悪露(ノイズ)とビル群に拡散した怨霊たちの形成する結界のおかげで、逆にこの大規模な魔術式が探知される可能性は少なくなる。

 

 召喚されてよりこの日まで、昼夜をおかず構築し続けてきた術式であった。明日の未明、己に残った魔力を、秘術とともに最大開放する。

 

 この儀式を、そしてこの闘争を一気に終結させ、決着をつけるために!

 

 キャスターはこの儀式が始った当初から、この一手で全てを終わらせるつもりで用意をしていたのだった。

 

 術式そのものはすでに町全体に施してある。あの城を破壊しても同じことなのだ。冬木市内であれば、何処からでも問題なく起動することが可能だ。

 

 だが、いざ魔術式を発動させてしまえば、彼女は主の護衛にまで手が廻らなくなる。だからこそ、彼女は鞘を仲間に引き入れたのだ。

 

 しかしここで、彼女の心胆を焦がし続けている懸念が、その比重を増し始めていた。

 

 カリヨンの異能は強力すぎる。

 

 特にその能力が驚異的なのは、異能者だけでなくサーヴァントの固有スキルすら他者の特出した機能と認識して吸収し、再現してまう点だ。

 

 獣と通じ、未来を予見し、常人では成しえない感覚を一瞬でものにする。個々の対象の特性を本能的に見極め、その特殊能力に同調(シンクロ)できる。

 

 今は開花した能力が手当たりしだいに同調と吸収を繰り返しているようだが、その能力を四捨選択して自在に扱えるようになるなら、彼はいずれサーヴァントとすら互角に戦えるほどの能力を持つことになるかも知れない。

 

 未だ脱落していないサーヴァントや異能者から、全ての異能を取り込めるようになったなら……。

 

 それまで庇護の対象でしかなかったカリヨンが、突如として強盛な異能に目覚め、戦力として成長していくというこの展開は、しかしキャスターにとっては決して歓迎できるものではなかった。

 

 上機嫌なカリヨンとにこやかに接している間も、しかしキャスターは内心でその顔を曇らせていたのだった。

 

『ふーん。でもさ、それだとカリヨン(あの子) 、今度は自分から戦いに行くようになっちゃうんじゃない? かえって危なくなーい?』

 

 ――それは、事情を話した後、それを聞き流しながら忙しなく出掛けようとしていた鞘が、さらりと漏らした言葉だった。

 

 彼女はキャスターに答えを求めるでもなく、そのまま買い出しに行くと言って飛び出し行ってしまったのだが、……今度は無理をしないようにと言い含めるつもりが、それも出来なかった。

 

 彼女のその台詞を聞いた瞬間、キャスターは息をすることさえ忘れていたのだ。

 

 確かに、そうだ。力を得るとはそういうことなのだ。確かに彼の異能は破格だ。現状に置ける戦況を引っくり返すには充分な切り札(カード)となりうるだろう。本来なら戦力として数えるのが正しい。

 

 だが彼女は、最後まで主たる少年を戦場に出すつもりはなかった。戦えるということ、それは同時に命の危機に飛び込んでいくということと同義なのだ。

 

 特に自分の力を過信しがちな若者について、それはあまりにも顕著だ。勇気と無謀とは似通うようでいて全くの別物だということが、しかし内面の鮮烈な熱量に突き動かされる衝動と興奮を覚えてしまった若人には、その区別をつけることなど出来はしないのだ。

 

 おそらくキャスターがどう言葉を掛けても、今のマスターには通じないのだろう。だからそれだけは避けなければならない。そうなる前に、この『聖杯戦争』という儀式を終わらせなければならない。

 

 それが、今キャスターが胸の内に固めた決意だった。

 

 しかし、そこで魔女はまた懊悩に美貌を曇らせる。あんなに生き生きとした少年らしい顔を始めてみた気がする。だがそれこそが、尚更にこの心を締め付けるのだ。

 

 胸が、熱かった。失われてしまうのが恐ろしくて仕方ないのだ。必要ない。無用だ。こんな感情は、必要ない――。

 

 それでも、思わずにはいられなかった言葉が、赤い口唇の間から漏れるのだ。

 

「もう二度と……」

 

 失うわけには、いかないのだと。

 

 キャスターは不意に折れそうなほどに細い身体を折り曲げ、嗚咽するかのような声を漏らして想いの丈を反芻する。

 

 それとも、最初から言っても聞かないだろうと諦めるのではなく、しっかりと言葉で釘を刺すべきだったのだろうか?

 

 そうだ。例え叱責の言葉でも、掛けられる言葉があるのなら、そうするべきだったのではないだろうか?

 

 キャスターは我が子の行方を知らぬと言った鞘の横顔を思い出す。

 

 そうだ。何よりもつらいことは、言葉を伝えるべき相手が、己の声の届くところにいないことではないか。

 

 ふと、考えが過ぎる。

 

 差し出がましいことかもしれないが、もしも聖杯が、万能の願望機が手にはいるというのなら、彼女は鞘の願いをかなえてやりたいと思った。

 

 無論カリヨンがいいと言うのならではあるが、もしも鞘が行方の知れぬ我が子を取り戻したいと願うなら、聖杯によってそれを叶えてやりたいと思う。

 

 その子供を抱き上げている鞘の顔を見られたなら、それはきっと何よりの報酬になると思えた。そうだ。そしてカリヨンは願いを叶えて当主となり、健やかに笑ってくれるのではないか。

 

 もとより願いもない、得るものもないこの外法の儀式で、もしもこの卑しい魔女が手に入れられるものがあるとするなら、それはきっとあの二人の笑顔なのだろう。

 

 そう想い、夢想し、キャスターは己が身を震わせる。

 

 そうだ。それが求めるべき望みなのではないか? そして願わくば、この憚りのない小さな想いが消えぬことを、切に――――

 

「……フッ、フフフ……」

 

 しかしいくらそう願ってみても、口をついて出たのは自嘲気味な失笑だけだった。

 

 祈るべき神さえもいないこの身で、一体誰の幸福を願おうというのか? 唯の魔女がどうして誰かの幸福を望めるというのか?

 

 暫くして顔を上げた魔女はもう嗚咽を漏らすこともなく、一人、悲痛な苦悩の痕だけを、その白い顔に浮かべていた。

 

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-2

 逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて。――

 

 ――――誰、に? 

 

 不意にそう問うてから、肺腑の奥に甘く粘りつくような仄温かい感触を覚えて、男の意識は覚醒した。

 

 周囲の空間はひどく煤けた空気で満ちていた。散乱する虚空が煤で黒く塗り固められているようでさえあった。

 

 おそらくは昨夜、火炎の魔態に蹂躙されつくしたオフィス街の、いずれかの焼け跡であろうか。

 

 事切れるかのように眠りについてから、どれほどの時間が経過していたのだろう。甚だ定かではなかったが、暗く焼け焦げた室内に、ところどころに切れ目のように光が差し込んでいることから、未だ日の落ちていない時間帯なのだろうと、男は視線だけを微かに巡らせて察した。

 

 夜までは幾許かの猶予があるようだった。それを確認してからようやく、男は強張ったままの五体から力を抜いた。

 

 常にそうだった。この男は即座に命の遣り取りに移れるだけの緊張を己の心身に課したまま、この数年間を生きてきたのだった。むしろ、これほどに緊張を解くのは何時以来なのかわからないほどだ。

 

 むしろ、今の彼はまるで金縛りにでもあったかのように、五体の自由がきかない状態なのであった。未だ体力が戻っていないこともあるのだろうが、それでもこれほどに不自由な筈はなかった。

 

 そして男はそこでようやく気付いた。それは何よりも彼の体の上に広がっている、あるもののせいであった。

 

 横たわり仰臥する己。その上に覆い被さるような――柔な肉の感触。それが、男の屈強な五体を、僅かな蠕動さえも許さぬほどに拘束しているのだ。

 

 ――否、それは拘束しているのではない。抱きしめているのであった。全霊を込めた抱擁と言うべきものだったのだ。

 

 次いで、男は己を包み込んでいる灼熱の甘露の正体を知った。つまりは女であった。それは、燃え殻のように燻った女の体温であった。

 

 バーサーカー。アサシンを失ったこの怪人の最後のサーヴァントが、仰臥した男の上にしな垂れかかるようにして伏しているのだった。

 

 それだけではない。動かせないのは手足だけではないのだった。四肢や首などの五体だけではない。声を出すこともままならなかった。

 

 なぜなら、今、彼の口腔までもが強靭にふさがれていたからである。

 

 バーサーカーはその精気の通わぬ鈍色の総身の中で唯一、ふくよかに咲き乱れるかのような赤い唇を、男の口唇にピタリと合わせていたのである。

 

 狂女は、己の息はおろか脈はさえも忘れたかのように、死人のごとく横たわる男の唇を一心不乱に吸っていた。いや、吸っているのではない。吐いているのだった。

 

 纏わりつくかのように、男の分厚い胸板の上に着崩した着物と火照るような五体とを蕩けさせている。

 

 そのまま、女は紅い口を男のそれに被せ、まるで野生の獣が我が子に租借した食物を分け与えているかのように、ゆっくり、ゆっくりと何を送り込んでいるのだった。

 

 元来、サーヴァントとはその身体を現世にとどめ続けるだけでも、マスターから尋常ならざる魔力を吸い取ってしまうものである。

 

 故にこれほどまでにマスターが消耗している状態で、サーヴァントである彼女が現界し続けていることが、まずありえないことであった。

 

 しかし、この狂女はこの間、一度として霊体化することなく、ついぞ周囲の焼け焦げた空間にまるで幽鬼のようにふらふらと出歩いては、雛鳥に餌を運ぶ親燕さながらにこの場に舞い戻ってはを繰り返していたのだった。

 

 この灰色の狂女は、狂女らしからぬ甲斐甲斐しさを持って、主のために奔走していたのであった。

 

 たびたび狂戦士としてのクラスらしくない従順さを見せていた女だが、しかし、それは決して従僕として従順だという訳ではない。

 

 この狂女を突き動かすもの、それはマスターを主と頂く忠心ではなく、狂乱やかくやの饐えた恋慕の情愛なのであった。まさしく狂女なのだ。

 

 それも、近代に至ってもなお、あたかも好色な女の代表のように語られ続けるこの女の来歴を知れば、さにもあらんというべきか。

 

 ――八百屋お七。それは天和二年十二月に起きた天和の大火の際に、焼き出された先の寺小姓に恋慕の念を抱いただけの、ただの町娘であった。

 

 しかし彼女は、その後もいま一度その想い人に会いたいと願ってしまう。居ても立ってもいられなくなった娘は狂気に駆られ、いま一度火災が起これば想い人に逢えるからと、幾度かの放火を企ててしまうのだった。

 

 それらは総て未遂に終わり、結局彼女は憐れ、火刑にかけられたという。

 

 享年齢十六の娘であった。その後、この事件が浄瑠璃や歌舞伎の題材とされたために、広く人々に知られることとなり、おそらくはこの国においてもっとも有名な放火犯として人々の記憶に刻まれることと成ってしまった。

 

 さらにその存在は、仄かな種火が次第に大きな炎へと飛び火するかのように、いくつかの迷信や魔性と混同され、遂には人々の間で普及の概念へと昇華されたのであった。

 

 永久の狂女、色狂いの憐れな女として。

 

 そう、憐れな女であった。ただ人並みの恋慕に心を焦がしたがために、これほどの汚名を被ることになろうとは、たとえ神仏であっても予期できぬことであっただろう。

 

 ただ、もう一目逢いたかった。想い人との、いま一度の逢瀬。それだけを望み、一抹の狂気に身をゆだねた愚かな女。

 

 ――しかし、その一念を抱いて現代に蘇ったこの狂女が、この冬木の地で何をしていたかを知れば、決してそう憐憫の念ばかりを抱くわけにはいくまい。

 

 彼女は昨夜焼死した人間だけでは飽き足らず、瓦礫の陰に生き残っていた人々や救助に奔走する者たちにまで炎をけし掛け、この拠点が知れることすら検討せぬままにその人々の命を持ち帰っては主たる男へと送り込んでいたのである。

 

 いまもまた、この冬木市の各所で新たな火災の犠牲となった人々が、渦巻く奇怪な炎の中に囚われ続けていることであろう。

 

 このバーサーカーのサーヴァント、八百屋お七の能力とは基本的には『火災の種火を撒き散らす』ことでしかない。サーヴァントとしては微弱極まりない能力と言えるが、この種火が燃え広がると、一変して厄介な性質を発揮し始める。

 

 その炎は戦闘において彼女を補佐するだけではなく、その炎によって燃やしつくされたから人々の魂魄や生命力、さらには死後の絶叫さえをも根こそぎ吸い上げ、魔力として蓄えることができるのだ。

 

 つまり、この狂女はこの男のサーヴァントとなる以前から、殆ど己でかき集めた魔力だけで現界していたのである。男が炎の中で舞い狂うバーサーカーの特性に眼を付け、己の第二のサーヴァントとしたのはこの能力――つまりは高精度の魂喰い――有ってのことであった。

 

 確かに、バーサーカーであることを置いたとしても、これほどに燃費のいいサーヴァントもないだろう。本体の要求する魔力も少なく、しかも自ずから自然な形で自給自足を行うのだから。

 

 だが、その運用高効率を誇るバーサーカーが、なぜここまで甲斐甲斐しく主の世話を焼いているのかまでは、実際にはマスターであるこの男にも説明がついていなかった。

 

 それでも男は覚醒してからもなお、この狂女の行動を抑制するでもなく放置した。この意思の疎通さえままあらぬ狂女に、いかなる意図があるかは知らず、回復の助けになるのは確かだ。

 

 彼自身は魔術師でもなければ、この土地に知己を持つ身でもない。無辜の民からの魂喰いを阻む理由はない。

 

 充分な魔力を送り込んだと踏んだのか、女は濡れ光る粘液の糸を引いて男の口から唇を離した。そして、そのまま項垂れるように男の厚い胸板に頬を擦り付けた。

 

 口腔と肺が自由になってからも、男は何も言わなかった。

 

 ――逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて。ただ、逢いたくて――。

 

 夢現に聞こえてきたのは、幻聴か何かなのだっただろうか。いや、しかし夢など長い間見てはいなかった。

 

 いったい己の何が、この色情狂の琴線をふるわせたのであろうか。もしやこの狂女にはこの主が生前恋い焦がれた恋慕の相手との相違がわからないのかもしれない。

 

 マスターが男であるならば、その総てをかつて想い焦がれた相手と誤認しているのだろうか? ならば、なおのこと、その在り方は滑稽だ。

 

 無謀なる恋慕に狂った憐れな女。自らの稚気によって己を焼くこととなった愚かな女。――男は内心で繰り返す。それだけのことだ。この女は元来英霊として呼ばれるはずもない悪鬼の類でしかない。

 

 おそらく召喚時の不備によって、偶然にこの現に引き寄せられただけのものでしかないのだろう。

 

 男はそう思いながらも、聞こえた幻聴の調が何時までも耳に残っている事を不可解に想った。

 

 逢いたくて。逢いたくて。ただ、逢いたくて――――仕方が、なくて。

 

 ――逢いたい?

 

「いったい……、誰に……」

 

 己は、誰に、何に遭遇することを望んでいるというのだろうか。

 

 男は胸の上から見つめてくる、瞳がちな女の目を、始めて覗き込んだ。

 

 呟いた言葉に、訝る視線に、しかし胸の上で寝そべったままの女は何も応えはせず、ただ幸福そうに眼を細め、男の首筋に鼻先をこすりつけるだけだった。

 

 

 

 

「では、富には興味がないとでも言うのかね?」

 

 仄暗い薄闇に、いかにも訝しげな声が響いた。

 

「金銭など取るに足らないものだよ。少なくとも僕にとってはね。いいかいライダー。浪費は必ずしも人生に安らぎをもたらさない。唯一それを可能とするものは、創作だけだよ。人は何かを創り出すことにこそ、永久の安らぎと高揚を見る。消費の快楽とは、あまりに刹那的で底がない。安らぎとは縁遠いものさ」

 

「なるほど……高尚だな」

 

 困ったような顔で益荒男は肩をすくめた。一応は首肯したものの、とてもではないがこのマスターの言は彼の理解の及ぶ範囲の外だ。

 

 しかし、そういう人間がいてもいいか、と思える程度には、彼は理解の及ばない事象や他者というものに寛容だった。というよりも、そういうものとの付き合い方を弁えていた、とでも言うべきか。

 

「しかしな、マスターよ。そも、人の生とはさような刹那の連続によって成るものだ。ならば、人の生とはそれそのものが刹那だといえなくもないのではないかな? 刹那の快楽が生涯続くなら、続けられるならそれもまた是といえるのでは?」

 

 すると、相対する白蝋の能面じみた美貌が朗らかに歪んだ。唯人が見たならゾッとするような笑顔だった。

 

「随分と楽観的な意見だね、ライダー」

 

「そうでなくてはいかんのだよ。船乗りというものはな。そうやって折り合いをつけなければ、安心して丘を離れられんのさ」

 

 そんな談笑の声が揺らめく暗がりには、鬱積したような瘴気と澱み始めた血の匂いが漂っていた。灯籠の明かりが燻らす影の間には、人間大の襤褸雑巾のようなものが転がっていた。

 

 それはもはや物言わぬ躯と化した、この儀式の監督役テーザー・マクガフィンの成れの果てであった。

 

 明かりのほとんどない伽藍の堂のような空間、締め切られた闇が沈殿したような室内だった。まだ昼間だというのに、ここにはなぜか日の光が届いていない。

 

「貴方はどう思います? 偉大なる王よ」

 

「……」

 

 応えはない。元より彼には談笑に参加する気など毛頭ないのだ。

 

 この薄闇が幾重にも鬱積したような空間に、しかしこのときばかりは異彩を放つ存在があったのだ。彼が放つのは暗鬱たる暗闇を、より漆黒の煌めきで切り掃うかのような極光であった。

 

 その黒陽色の輝きが、彼の周囲に寄り付こうとする薄闇を跳ね除け、寄せ付けずにいるかのような錯覚さえ起こさせるほどに。その存在は圧倒的であった。

 

「……まぁ、いいでしょう。それよりも貴方の方はよろしいのですか? 神の化身たる王ともあろう御方がこんな手を汚すような真似をしても」

 

 揶揄するような響きに、漆黒の玉体は応えない。

 

「……いえ、私たちとしては願ってもないのですがね。……ただ、監督役がいなくなったのなら、そもそも貴方がセイバーと戦う必要はもう無いのでは? とも思いましてね。なぜあなたがそうまでしてセイバーと構えたがるのか……」

 

 アーチャーサーヴァント、化身王ラーマは沈鬱な吸気の後、静かに言葉を発する。

 

「……監督役の意向なしでも、(それがし)は今一度あの騎士王と立ち会わねばならぬ。そして、この監督役は某を使って最後には聖杯を得るつもりでいた。その不正、いつか正さねばならぬことであったのだ……」

 

 その声に、しかしオロシャはその言葉の裏にあるものには心底興味がないように、途中で話を切るように相槌を打った。

 

「そうですか。まぁ、貴方は約束の通り、あのセイバーを何とかしてくれればよろしい。手筈(てはず)はこちらで整えますので、貴方は騎士王を打ち倒すことだけを考えていればいい」

 

 すると、今度はライダーが言葉を投げかける。

 

「貴様に討てるのか? あの騎士王を。――あれほどの女を」

 

 脇から割り込んできた揶揄するようなその声に、アーチャーは低く厳かな声で応える。

 

「……それでも、挑まねばならぬのだ」 

 

「いいでしょう、これで契約は成立だ。アーチャーよ、あなたの望みを受けましょう」

 

「……」

 

 黒光を纏うサーヴァントは、ただ無言で踵を返した。

 

 

 ――絶対の王には一人の妻があった。

 

 二人は世界に祝福されながら出会い、そして神々に導かれながら当然のように不可避に惹かれあった。

 

 だが幸福に包まれながら、若き王子は苦悩することとなる。

 

 彼は人ではなく、神の写し身であり、王の子であり、生まれながらの英雄であったからだ。絶対の正義は絶対の魔を引き寄せる。

 

 彼自身はそれでよかった。己の存在が悪に拮抗するとために遣わされたものだということを彼は承知していたし、それを恐れたことも悔やんだこともなかった。

 

 己の存在が世界の悪を正し、正義を全うすることを心から望んでいたし、そも、彼にはそれ以外に何もなかったのだ。

 

 しかし、愛する女を得たがために、彼は深い苦悩の虚に陥ることとなる。

 

 彼は己の運命を恐れた。なぜなら邪悪との戦いを約束された彼の運命は、きっと愛する者にも降りかかるからだ。

 

 そして苦悩の末に、無欠の化身は決断する。

 

 期を同じくして、彼の弟を彼の代わりに王座につけんとして、彼を王宮から追放しとする者たちの働きかけがあり、ラーマ王子はその運命をみずから進んで受け入れ、そして野に下ることを受け入れた。

 

 彼を愛する全てのものを己の運命にまきこまぬために、彼は全てのものを遠ざけようと決意したのだ。

 

 愛する妻との別離。何よりも辛い選択であったが、彼に迷いはなかった。なぜなら彼はその苦痛に耐えられるように出来ているからだ。

 

 しかし別離を告げようとする夫に、妻は柔らかい微笑を浮かべながら言うのだ。

 

『どのような運命が降りかかろうとも、私はあなたと共にあります』、と。

 

 ――思えば、あのときからではなかっただろうか。神の化身たる絶対の王が、己が正しさに齟齬を感じ始めたのは。

 

 彼が後悔を残すのはその点ただ一つだけである。世界を、民を、国を救った絶対の王はしかし、ただ一人、この最愛の妻だけを救うことが出来なかったのだ。

 

 思えば、彼女は王とともに在ろうとしなければ、数々の受難から逃れることが出来たのではなかったのか。

 

 二人の出会いが神々に導かれたものであったとしても、あの時共に在るといった妻を拒絶してさえ要れば……。

 

 ――そうすることの出来なった己を、その弱さを、彼は悔やみ、そして妻は受け入れ、愛してくれた。

 

 その最愛の妻を巡って、この神の化身は神さえも退ける魔人と熾烈なる戦いを繰り広げ、後に語り継がれる伝説を作り上げることになるのであった。

 

 だが、彼は数々の冒険を潜り抜け、魔人の手から救い出した妻へ、火の中にその身を投じて身の潔白を証明しろ、と命じねばならなかった。

 

 永きに渡り魔人のもとに囚われていた妻が、本当に不貞を犯していなかったのかと疑う声が上がったのだ。

 

 民の糾弾の声も最もであった。彼女は今や王の后である。そして彼は世に名だたる絶対の正しき王。どれほど些細な疑いであっても、それは晴らされなければならない。

 

 それは王として疑いようもなく正しいことであった。だから彼はそれを当然のこととして妻に告げた。

 

 今度こそ、彼は妻が悲痛な声を上げると思っていた。そして己を罵倒するのだろうと。その痛みを受け入れることで、彼はその正しさを受け入れよう。そう考えていた。

 

 しかし妻の反応は違った。彼女は言った。「わかっています。私は大丈夫です。だから愛する人よ、どうか、もう泣かないでください」と、そういって微笑んだ妻の前で彼は立ち尽くすことしか出来なかった。

 

 そうして彼女は神々の審判にその身をゆだね、地の裂け目から大地に還った。

 

 それは永遠の別離を意味していた。彼は神の化身として死後は神々の舞う天空に昇天し、そこで不滅となる。しかし、田の畦から生まれた神造の者である后は死後大地に還り、そこで永遠となったからである。

 

 彼は王として、英雄として民を律し、故国を繁栄させた。

 

 それを、決して悔やんではいない。彼の行動も選択も、疑いようもなく正しかったのだから。

 

 ――だが、それでもなお、今この胸に去来するのはその正しさゆえの空虚さであった。彼は最初から正しいものとして生み出され、脆弱な人間の心を持ち合わせていなかった。

 

 だが、ただ一つだけ、それを狂わすものがあったのだ。

 

 彼をひとりの人間として愛し、そして彼の正義の犠牲になった神造の姫君。最愛の者へ、――だからこそ詫びたかった。

 

 それが時空の彼方に昇華してなお、彼が抱き続けた唯一の願いであった。

 

 だが、その願いを望むことは彼にとっての正義とは相反する願望だ。故に彼は今まで迷い続けてきた。そして答えを出せぬまま、多くの過ちを犯してしまった。

 

 もはや、これまで。

 

 それゆえに、アーチャーこと化身王ラーマは恥を押して騎士王へ懇願したのだ。己と同じ正義を頂いた者として、その正しさをまっとうして欲しいと。

 

 だが、あの騎士王はそれを唾棄した。

 

 その決断もまた英霊として間違っている、と。

 

 そしてあの清廉の騎士王は言ったのだ。全力をもって挑んで来いと、貴殿の間違いを正そう、と。

 

 いま、彼にあるのはその先に如何なる答えがあるのか、ということだけであった。

 

 その答えを見い出すためにも、そしてこの迷いを己自身の手で断ち切るためにも、――彼は挑まねばならないのだ。

 

 ならば、もはや迷う必要は何処にもない。ぶつけるまでだ。この迷いを断ち切るためにも、渾身の一撃を、真摯に、全力で容赦なく――

 

「問わせてもらうぞ、騎士王。――其処許の語る、真の王道と言うものをッ」

 

 

 

 アーチャーの去った後の広い室内は、幾分温度が下がったかのように思われた。

 

 客人が完全に去ったことを確認してから、オロシャはその薄闇の中で蝋のような口唇を開いた。卵のような白い曲面に傷口のような赤い色が見え隠れした。

 

「しかし……ああ言ってはみたけれど、この勝負はアーチャーが勝つのが必然だろうね」

 

 それを聞いたライダーが、興味深そうに主の顔を覗きこんだ。

 

「面白い事を言うではないか、マスターよ。何故アーチャーが勝つと思う?」

 

 オロシャは、興味深げに問うてくるライダーの金属のような冷徹な眼窩を見つめ返した。

 

「そういえばアナタはずいぶんとあのセイバーを買っていたようだね? それについては僕の方こそ訳を訊きたいところだよ。その正体が何であれ、何故女などにそれほど眼をかけるのかとね。……ああ、そういえば、」

 

 そう言ってオロシャは、つま先で足許に伏している亡骸のフードを剥いだ。

 

「……まさかこの監督役も、女だったとはおもわなかったよ」

 

 横たわる監督役のローブからかいま見えたのは、確かに長い黒髪の女の顔だった。

 

「ほう、見た顔だな。確か一合だけだが打ち合った覚えがある。しかし、まさかあの監督役だったとは思わなんだ」

 

 感慨深そうに語るライダーに、オロシャは溜息混じりに漏らした。というよりも吐き捨てるというほうが正しかったかもしれない。

 

「となれば、これも必定だったかもしれないね。別に蔑視するつもりはないが、女が企てた儀式など綻んで当然だよ。何事も、女が関わるとろくなことがない」

 

「これはまた、ずいぶんと厳しい意見ではないかマスターよ」

 

 凡そ初めてと思われる、このマスターの人間味の見え隠れする剣幕に、ライダーはまた興味深そうに眉を上げた。

 

「……他意はないさ。ただ僕は真実を言っているだけだよ、いかなる場合も、彼女たちは大人しくしてくれているのが一番だとね。……そうは思わないかい、ライダー? 君にとってもそうなんじゃないのかい? 女を船に乗せるのはタブーだと聞くけれど?」

 

 即答はせず、なにやら間を取ったライダーは溜息とともに一言。こう告げた。

 

「……まあ、確かにその通りだ。船に乗せるものではないな。しかし」

 

 不意に、薄暗い室内に灯されていた燭台の辺りが、何らかの怪異な風によって掻き消された。部屋の中に一抹の闇が訪れる。

 

 眼で追っていた文字の羅列を闇で塗りつぶされ、オロシャはその灰色の瞳を再び上げた。そして闇の中から、まるで鉄塊の杭の如きライダーの視線が真っ直ぐに彼を見詰め、告げた。

 

「侮るべきではないぞ。マスター。これは絶対の事実だ――怖いものだぞ? 女というものはな」

 

「……」

 

 闇の中で暫し無言のまま憮然としていたオロシャは、再び燭台に明かりを灯す。そしてそれ以上の議論を避けるように、話の矛先を変えた。

 

「……まあいいさ。さて、これで準備は万端整った。そうとなれば急ごうか。こちらも、今夜の内にキャスターを落とそう。アーチャーに依ればキャターの新しい根城は新都センタービルだ」

 

 首肯したライダーは、しかし訝るような口調で尋ねる。

 

「さて、今度はどうするのだ? また沖から狙うのか? まさか丘に上がれとはいうまいな?」

 

「いや、キャスターの方は()()だけでやるよ。君にはセイバーとアーチャーを見張れる位置に待機しておいてほしい。そして僕の邪魔をしようと新都に入り込んで来る手合いを見つけたら、すぐに排除に移ってくれないか」

 

「ふむ?」

 

 単純に指示を解しかねて視線を向けたライダーに、オロシャは弛緩したような独特の笑みを見せた。

 

「ライダー、どうして僕が自分でセイバーを殺さずにアーチャーにやらせるのかわかるかい?」

 

「それもそうだな……。なぜわざわざこんな手間をかけてまでヤツを引き込む必要があったのだ? キャスターの居場所だけなら、急がずともそのうち知れたであろうに」

 

 もとより、そのことについて訝しんではいたライダーだったが、その辺りのことに口出しをするつもりもなかったので、問わなかっただけの話である。

 

「確かに()()に任せておけば、すぐにでもキャスターの根城を見つけてくれただろうし、セイバーを排除するのも簡単だ。本当に()()()()()()()()。けどね、それじゃあアーチャーのほうが残ってしまうだろう?」

 

「ほう」

 

「余計なサーヴァントが残るのはよくないからね。どうせなら邪魔なイレギュラーはまとめて始末したい。騎士王と化身王が争えば、まぁ、どちらも無傷ではすまないだろう。――あとは、君が残ったほうを始末すればいい」

 

「……」

 

「それに、キャスターを攻めるなら早いほうがいいんだ。後はカリヨンさえ落としてしまえば当主後継者は僕だけになる。監督役を手にかけた以上、決着は早いほうがいいからね。……おや、不満かい?」

 

「私が真っ当な英霊なら、是が非でも難色を示したであろうな……」

 

 そこで憮然そうに構えていたライダーだったが、その表情を一転させてニッと口角を吊り上げた。

 

「が、私もそう清廉潔白な性質ではない。……とやかく言う気など、微塵もないさ。ただ、狩りがつまらなくなるのだけは見過ごせんのでな」

 

「そうだね。あなたは由緒正しき正調の英霊であって同時に反英霊でもある。だからこそ僕もあなたを信頼する。――まぁ、その点についての心配は要らないよ。あの二人の王はどちらが残るにしても、簡単に倒せる相手ではない。そう言ったのは君だろう?」

 

「ふっ、確かにな。何より手負いだからこその楽しみもある、か。……いいだろう、今度こそ、真の戦場の愉悦を味あわせてもらいたいものだ」

 

 そう言って笑った海洋の雄の唸りにつられるように、部屋の隅の薄闇にひそやかな声が起こり、笑い声となってそれに重なった。

 

 艶やかに透き通った女の声と、そして低くくぐもったような老人の声であった。それらの声を受けて白蝋の面が歪む。

 

「フフ、()()もその気のようだね。さあ、行こうか、ライダー。これが最後の夜となることを期待しよう」

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-3

 戦場の芳香が漂ってきた。

 

 住民たちはただひたすらに敵将の影に怯え、高い城壁の内側で静かに息をひそめていた。

 

 (けぶ)るような死の臭いが、鼻についた。

 

 すでに悲観に暮れる以外の選択を持たぬトロイアの将兵達。もはや一抹の希望も残されてはいないかのような惨たる戦場に、しかしその女は舞い降りた。

 

 まるで夜の群雲を掃う月光の如きその姿は、女神にも勝る煌めきと威容を放っていた。

 

 ――時は、まさに戦乱の只中であった。トロイア戦争。それは神々の姦計に端を発する一大叙事詩である。このギリシア神話の一端を担う、神々と人間とが入り乱れて戦った壮大なる戦絵巻の一幕に〝彼女〟の視点は固定される。

 

 夢の始まりは、いつもここからだ。視線はこの伝説をその起こりから追っていくわけではなかった。いつも、この中途半端な幕間から〝彼女〟の視点は始まる。

 

 ――それはそうだ。なぜならその女は、この叙事詩の主人公でもなければ敵役(かたきやく)でもないのだから。

 

 軍を率いる旗頭であり、同時にトロイア最強の英雄でもあった王子の圧倒的な敗北と無残な死は、勇壮な兵士たちの心を折るのに充分すぎる痛手であった。

 

 兵も、民も、そして王もそれを悲しみ、誰もが絶望に打ちひしがれていた。しかし、その兵たちの心を再び克己させた一陣の輝風がここにある。

 

 遥かカッパドキアの地から、ドレスよりもなお美しく飾られた綺羅星のごとき甲冑に身を包み、勇壮華美なるアマゾーン女人族の戦士団を引き連れて、その中でもひときわ強く美しく、そして壮麗であった女は戦場に現れた。

 

 ペンテシレイア。

 

 トロイア王プリアモスの要請により、義によって参戦した神秘の一族の長。父に軍神アレスを、母にアマゾーンの前王オトレーレーを持つこの女こそ、遥かなる辺境の地に咲いた蛮勇の華であった。

 

 アマゾーン女人族とはギリシャ神話の随所にて語られる女系部族である。軍神アレスを祖として崇め、全員が女性だけで構成された戦闘集団であるとされ、北方の未開の地に住まい、馬術と弓術に優れた有能な狩猟民族であった。

 

 幾多の星を従えるかの如き威容とその美貌が、打ちひしがれるイーリオンの住民を底なしの奈落から開放するかのように輝いていた。

 

 しかし、一方で女王の内情は、その颯爽たる威容とは裏腹に苦痛と悲しみに満ち、焼け爛れているかのようさえであったのだ。

 

 故郷での狩りの最中、彼女は誤まって最愛の妹を死に至らせてしまっていたのだ。それはもはや偶然以外のなにものでもなかったが、それゆえに女王は運命を呪い、神々を呪い、そして己を呪った。

 

 今こうしている間にも、その心は張り裂けんばかりであったのだ。

 

 故にトロイアの地で上がった戦火の炎は、彼女にとって暗闇に照らす松明の光のようにさえ思えた。この罪を雪ぐのは、この穢れを清めるのは戦いだ。この悲しみを埋めてくれるのは闘争だけだ。

 

 打ちひしがれる彼女の心は、そう吼え猛ていたのだ。

 

 その炎のような心を携え、蛮族の女王は大王プリアモスの前に歩み出る。雄大なるトロイアを統べるこの老王は酷く憔悴しきった顔を見せ、悲痛な瞳で訴えていた。

 

 その内容を占めるのは怒涛の如き悲しみだ。王としてではなく、一人の親として息子の死を悼むその眼差しが、ペンテシレイアの胸を打った。

 

 最愛の者を失う悲しみ、己の力ではどうしようもない強大なものによって、まるで草でも毟るかのようにして奪われてしまった大切な半身。それを失うことは生きながらにして魂が冥界に囚われるに等しい苦しみだ。

 

 彼女は過たずして老王の悲しみを察した。それは彼女がこの闘いで雪ぐ筈だった痛みだからだ。

 

 傷心のトロイア王と痛みを分かち合ったペンテシレイアは、眦を決して勝利を盟約する。

 

「王よ、我は全霊を賭けて仇敵を討ち倒し、貴殿のお心の憂いを掃って御覧に入れよう!」

 

 そして蛮勇の女王は、城外の戦場に駆け出して行った。彼女の心には、今や松明どころではなく、世界を焼き尽くして余りあるほどの篝火が満ちていた。

 

 もはや、彼女を止めるものなどこの世にありはしなかった。――

 

 

 

 ――そんな夢を、繰り返し見ていた。

 

 知らない、見たこともない異国の戦禍。その闇を掃うような一陣の光。煌びやかに戦場を馳せる、美しくも勇壮な女たちの一団。

 

 そして、悲しみに立ち向かおうとした女。

 

 どうしてそんなふうに出来るのかわからなかった。どうして、そんなふうに戦えるのかが解からなかった。

 

 だから、痛みを恐れないその女の姿に、少しだけ――憧れもしたのだ。

 

 

 

 ――ゆっくりと、身体を起こす。白い肩には黒鋼色の髪がさらさらと触れる感触があるが、その先には何も感じない。腕がないからだ。あるのは銀色の糸の束だけ。

 

 解きかけた状態のまま意識を失ったせいだろう。今それらは四肢の形をとることなく、幾多もの銀色の滝のようにベッドの端から流れ落ちていた。

 

 流れる水銀の如き銀色の絹糸に(まみ)れる、四肢なき少女。

 

 傍目には、もはやこの世のものとも思えぬ奇怪にして美麗なるオブジェと映るかもしれない。それほどに、その非有機的なフォルムは禁忌的な美を孕んでいた。

 

 しかし、彼女自身にとっては、それもただ滑稽な物としか認識できない。

 

 ……昨夜の戦闘の後からの記憶が無い。そもそも今は何時なのだろうか? 

 

 兎角、現状を把握しなければならない。そう判じて彼女が意識を集中すると、やおら銀色の糸はそれぞれが意志を持つかのように生動し始め、複雑に絡み合いながら規則正しい幾何学模様の網を作り出す。

 

 そのまま固体と見紛う程に集束したそれらは、瞬く間にほっそりとした少女らしい手足を模倣した。秒に満たぬ刹那のうちに成された妙技は見る者が有れば感嘆の声を漏らさずにはいられなかったであろう。

 

 そしてベッドから降り立ったところで、彼女は――テフェリー・ワーロックは、己の左肩に起こっていた変化に、ようやく気がついたのだった。

 

 その白い貌から、さっと血の気が失せた。

 

 

 

 思いのほか容易に、事は運んだ。

 

 今にも泣き出しそうな空の下。まるで駒鳥のように小さな身体が風を撒いて馳せる。

 

 その気になれば、常人には捉えられぬほどの速度で動くことも可能であったが、常時その状態を維持し続けるのは、まだ彼には難しかった。

 

 よって、カリヨンは人目を避ける意味も込めて、家屋の上を断続的に跳躍してここまでやってきた。この方が隠密性も高く、そしてすばやく移動できると思ったからだ。

 

 テフェリーを探して街を歩いていたカリヨンは、既にこの深山町にまで辿り着いていた。

 

 今の彼は無力なだけの子供ではない。そこ小さな身体に発言した異能は、もはやこの街中に堆積する奇怪な霊的ノイズを無効化し、鳥獣の言葉を解して飛燕の如く地を馳せる事をも可能としているのだ。

 

 まさしく破格の異能であった。例えサーヴァントであっても容易ならざるこの道程を、この少年の潜在能力はいとも簡単に踏破してのけたのだ。

 

 そのとき、路傍に降り立った彼の足許から何かを騒ぎ立てるような、騒々しい物音がしてきた。

 

 まるで手槌で金床を打ち鳴らすような甲高い音だ。それは常人には聞き取ることの適わぬ音波だったが、今や以前とは比べ物にならぬほどに鋭敏化したカリヨンの霊的聴覚にとっては、むしろこの上なく耳障りなものにさえ聞こえていた。

 

 カリヨンは誰もいない背後に舌打ちして困り顔を向けた。

 

「ああもう。ちょっとうるさいよ、お前……」

 

 そこには誰の姿も有りはしなかったが、彼は構わずに声をかけた。ちょうど彼の足許、影の辺りに、別の影があった。染み始めた日の光を遮るものは何一つないはずなのに、そこにはそぞろに動き回る影と何者かの気配があったのだ。

 

 それは妖精だ。カリヨンも見たのは初めてである。妖精の本場英国の童話などで有名な靴職人の妖精レプラコーン。そんな本格派の天然妖精がこんな地の果ての島国にいる由来は全く持って知りえなかったが、ともかく道すがらテフェリーの居場所を探っていた彼の元へ、何故か着いてきてしまったのだ。

 

 獲得したスキルのおかげで、なにやら慌てふためいているような気配だけはわかるのだが、彼には妖精との交信の経験が無かった。しかも畑違いの土属性のものとなるとまるで手に負えない。

 

 仕方なく、着いてくるままに任せていたのだが、こう煩くては考え事にも支障が出るというものだ。

 

 どうやら連日街を覆う濃霧の如き霊的雑音は妖精の感覚までをも狂わせるらしく、このはぐれ妖精も何やら街中をさまよっていたらしい。

 

「だからって僕についてこられてもなぁ……。それにしても……」

 

 しかし迷っているのはカリヨンも同じであった。道にではない。鳥たちに聞き及んだ場所にはすでに到着していた。

 

「ここか……変な建物だな」

 

 実際、新都から橋を超えて深山町までやってきたあと、目的の場所はすぐに見つかったのだった。

 

 歩きまわってみて思うことは、とにかく変わった街だということだ。

 

 和風と洋風、という区別を当然ながらカリヨンは持っていなかったが、それでもどこか趣の異なる区域ごとに区切られたような感のある奇異な街並だと思った。

 

 それとも近代の都市とはこういうものなのだろうか? 首を捻ってはみたが、半ば監禁されるようにして秘境の中で育った彼は世相に疎く、それ以上判断のしようもなかった。

 

 しかし、本当に首を捻りたいのはそのようなことではなく、

 

「……で、ここからどうしたもんなのかな……」

 

 門の前まで来たはいいが、ここから先のことは漠然としか考えていなかった。

 

 とにかくテフェリーにもう一度会う。会って、話す。話して危機を知らせる。と、ばかり考えてここまで来てみたのだが、しかし具体的なことについては全くといっていいほどノープランなのだった。

 

 ここが敵の陣地なら(というか、おそらくそうなのだが)、まさか正面から堂々と入っていくというわけにもいかない。

 

 さりとてテフェリーが外出するのをここで待ち続けるというのも、妙案とは思われない。考えあぐね、いよいよ頭を抱えそうになった、そのときであった。

 

 奇異な木造の建物の中から、なにやら言い争うような声が聞こえてきたのだ。

 

 

 

 

 気が付けば、周囲は既に仄淡い夕刻の色合いを帯び始めていた。縁側に腰掛けたセイバーはまんじりともせず、ただ眼を伏せて黙していた。寂然と佇むその姿は、薄灯りに歪む一片(ひとひら)の玻璃細工を想わせるほどに可憐であった。

 

 しかし、その実その佇まいに反して、彼女の心胆はじりじりとひりつく様な焦燥感に炙られ続けているのであった。

 

 今現在、彼女はこの拠点の防衛を一手に任されていた。ランサーの傷はいまだ完治することなく霊体化を余儀なくされている。現状では別のサーヴァントの襲撃に備えることが出来るのはセイバーだけということになる。

 

 故に今、彼女に出来ることは焦燥を噛み締めながら待つことだけだった。

 

 昨夜の苛烈な戦闘にあっても、幸いシロウやテフェリーには大きな負傷はなかった。しかし、凜が戻らない。ワイアッド翁からの連絡も絶えたままなのだ。

 

 探しにいくこともできずに、苛立ちばかりが募っていく。あのとき感じた感覚は正しかったのだ。

 

 凛は未だ問題なくセイバーに魔力を供給しているが、何かしらの問題があったのは間違いない。あのとき。昨夜あの黒い剣士を退けたあのとき、彼女は確かに主の身に迫った危険を感じていた。

 

 それは一抹の胸騒ぎにも等しいものに過ぎなかったかもしれない。しかし同時に、けっして見過ごしてしまえるようなものでもなかったのだ。

 

 だが、もしもそうだというならば、凛は令呪をもって自分を強制召喚できたはずなのだ。それをしないということは、凛が自分の助けを必要としていないということだろうか?

 

 確かに、今現在はパスを通じて凛の身体になんらの危機を感じ取ることはない。ならば、それは生きて何者かに拘束されているということだろうか? 凛に限ってそれは有り得ないと思いたかったが、そう言い切れる確証はどこにもないのだ。

 

 仮に探索に向かおうにも、何時からか昼間になっても鳴り止まなくなっている、この不可思議なノイズが悩みの種だった。

 

 これまでもこのノイズのせいでサーヴァントや魔術師の霊的探知能力が妨害されることがあったが、昨夜からそのノイズがいっそう強まり今では通信に支障をきたすどころか、ただでさえ細く霞むパスを完全に追えなくなってしまうのだ。

 

 何度探しに行こうとしても、すぐにマスターとの繋がりのラインを追うことが出来なくなってしまう。

 

 かといって闇雲に探し回るような暇はない。今は己がマスターに信を託して待つしかないのか――そう、セイバーが座したまま唇を噛み締めようとしたそのとき、

 

「――――――――ッ!」

 

 屋敷の奥から、言い争うような声が聞こえてきた。甲高い、切迫したような女の声だ。

 

 セイバーが急ぎ戻ろうとしたところで、廊下側の戸が開いて士郎とテフェリーが居間に入ってきた。

 

「どうしたのです、シロウ?」

 

 昨夜の死闘の後、いきなり倒れ、そのまま床に伏していたはずのテフェリーが目を覚ましていたようだった。しかしその様子はただ事ではないようにみえた。テフェリーは錯乱しながらも外に出ようとしているようだった。

 

 士郎がそれを押しとどめようとしているのだが、足許さえ定まらない彼女の銀色の手足はまるで融解したかのように形を失い、もとに戻り、それを大なり小なりに繰り返している。未だに身体の調子が良くないようなのは一目瞭然だった。

 

 上着ははだけて、銀色の腕部だけでなくその上に続く白い肩までが剥き出しになってしまっている。しかしそこで視界の焦点を掠めるものがあった。その肌着から見えた細い肩にある、見覚えのあるその(しる)し。

 

 それをしかと目にして、セイバーはそれに驚愕せざるを得なかった。それがなんなのかを一目で見抜いたがゆえに。

 

「……それは、ランサーの令呪なのですか」

 

「……」

 

 軒下から声をかけるセイバーに、髪を乱したテフェリーは口を噤んで応えない。しかしその無言は事の是非を否定していなかった。

 

 ままならないでいるテフェリーの身体を支えようとしていた士郎も、それを見つけて同様の驚きを隠せないでいる。

 

「――そうだ」

 

「ッ! …………」

 

 在らぬほうから響いた応答の調べに、咄嗟に反論しようと向き直ったテフェリーは矢庭にその口をつぐんだ。

 

 セイバーの問いに応えたのは実体化を果たしたランサーだった。おそらく霊体化したままこのやりとりを見ていたのだろう。

 

 再び現世に現れた、その美というものをあるがままに、ひどく荒削りでありながら同時に極めて精緻に写し取ったかのような、矛盾してなおそれを是と成すかの如き混沌の結実はその美貌という輝きを殊更に増すかのようであった。

 

 しかし、その顔色には依然として濃い死相の陰が指さしていた。

 

 にもかかわらず、その二つの要素は決してその蒼褪めた美貌の上で相反してはいなかった。むしろその死の翳りがもたらす陰翳のコントラストが、今やその憂い顔をこの上ない美のキャンバスであるかのように彩っているのだ。

 

 その疲弊具合の程を知るが故に、その蒼褪めた美貌はセイバーの胸を打った。その場にいた誰もが同じ思いに一時の息を奪われた。

 

 美の本質とは相反する要素の(ひずみ)から湧き出る奇跡の雫なのだと、断言し、同時に淡く寿ぐかのようなそんな彼女の在り方は、見る者の息を奪うほどに奇異であり、言葉にならないほどに儚げであった。

 

 そしてランサーは枯れるかのように細く、しかし平時と変わらぬ快活な語調でもって、言葉を続けた。

 

「この身を現世に召喚したのは間違いなくテフェリーだ。最初に令呪を授けられたもの然り。テフェリーは最初の令呪を使ってマスター権と残り二画の令呪をワイアッドに写していたのだ。

 おそらくワイアッドのヤツがその第一の令呪を放棄したのだろう。それでマスター権と残りの令呪がもとのマスターであるテフェリーに戻った、というところか」

 

 失った一時の息を取りもどすようにして、しばし喘ぐようにしていたテフェリーは、それからランサーを睨みつけた。

 

 その二色の双瞳は、しかし憤怒以上に恐怖によって歪められているかのようであった。まるで泣き出しそうな子供の様な。

 

 それが見るに耐えないとでも言うかのように視線をそらせたのは、満身創痍のランサーのほうだった。まるでやっかいごとを持て余すかの様に、サンライトイエローの流髪をガリガリと掻きむしる。

 

「そンな眼で見てくれるな、マスター。そうでなくても、こういうのは苦手なんだ」

 

「私はあなたのマスターではありません! 今もあなたのマスターはワイアッド様です!! 令呪の有無など……関係ありません。今はマスターの安否こそが最重要のはず! ……マスターが私に令呪を戻したということは、何かがあったということなのです! はやく、探しに……」

 

 しかし勇んで歩みだそうとした途端、テフェリーの四肢は漣打って一斉にバラけてしまった。それは体力云々の話ではなく、精神状態の乱れから来る乱れのようだと見受けられた。すぐに四肢を編みなおそうとするテフェリーの肩を、歩み寄ったランサーの長い手が包んだ。

 

「無茶をするなテフェリー。まずは自分の身体を憩え」

 

「何を馬鹿なことを!」

 

 捻れた銀色の手足を投げ出して座り込んだまま、テフェリーは怒気も露に叫んだ。

 

「凛とも連絡が取れないのです。これ以上私達まで下手に動き回って分散してしまうのはよくない」

 

 なだめるように進言しながら、気持ちはセイバーも同じだった。しかし、だからといって皆が勝手に出歩くことは出来ない。

 

「状況は変わったのです! 今マスターはランサーを呼ぶことができない……ッ」

 

「それは」

 

「落ち着け、テフェリー。闇雲に飛び出したところで、そりゃァ無駄に時間と労力を失うだけだ」 

 

 ランサーの言葉に、しかしテフェリーが断固としてかぶりを降ろうとしたそのとき、唐突に結界の先触れが鳴り響いた。

 

 侵入者の存在を知らせる装置だ。こんな時に、というべきか、こんな時だからというべきか。兎角、セイバー、そしてランサーの反応は機敏だった。侵入者の存在を察知した刹那には、サーヴァント達は中庭に飛び出していた。

 

 縁側から先行したセイバーが、続こうとしたランサーを押し留める。

 

『私が行く。ランサーはそこで』

 

『――すまん』

 

 そのやりとりですらが、常人には知覚出来ないほどのマイクロセコンドで行われたものだった。――が、そのやりとりを僅かにだが視認している者が、しかしこの場にはもう一人いたのだった。

 

 

 カリヨンは先ほどの声を聞きつけ、矢も盾もたまらず屋敷の敷地内に踏み込んでいた。

 

 散々憂慮を重ねていたし、無策で飛び込めばどうなるかも予想は出来た。それに、中から続けて聞こえてくる声の、そのイントネーション、その抑揚にはついぞあずかり知らぬ響きが含まれていた。

 

 ただ、――それでも、その声そのものは決して聞き違えることの無いものだったから。

 

「……ンサーはそこで」

 

 そこで、聞きとめた声に硬直する暇こそあらず、一気に自分の眼前にまで飛び出してきた金の髪の少女の姿を見止めるより先に、強化された彼の直観力は全感覚の超加速を断行していた。

 

 だからこそ、彼はサーヴァント達の神域の速力に対して「視認してから反応する」という荒業を成功させることが出来たのだ。

 

 しかし、そこまでだ。いくら視認しできても、それでサーヴァントと対等に渡り合える筈もない。気がついたときには手の届く範囲まで接近されていた。

 

 それはよく見れば自分とたいして背丈の変わらない少女に見えた。にもかかわらず、その速力、身に纏う魔力、威容、そして眼光の鋭さ、どれもが想像を絶する領域にあるものだった。

 

 カリヨンは咄嗟に前進していた。後ろにではなく逆に前につんのめるように蹲ったのだ。なぜ自分でもそんな奇妙なことをしているのか理解できなかったが、それでも事実の判断こそが思考に先んじた。

 

 カリヨンの行動が慮外だったのか、無手で鎧だけを着込んだ――否、おそらく見えはしないがあの手には何かが握られている。そう、今のカリヨンには感じられた――少女はやや体制を崩してカリヨンと体を入れ替えた。

 

 一つの息をつく暇もあらず、前方には別の女が立ち塞がる。これもサーヴァントであろうとすぐに察せられた。こっちは随分と上背のある、奇異な体裁の女だった。

 

 両手に取った、まるでクリスタルで出来ているかのような鎖を、投げ縄のように振りかぶっている。

 

 カリヨンは己の不覚を悔いた。行き当たりばったりに行動したために、こんなところで二騎ものサーヴァントに挟み撃ちにあうようなことになろうとは、夢にも思っていなかった。

 

 しかし嘆いても始まらない。

 

 なんとしてでもここは切り抜けねばならない。絶対に! ――彼女の為に!

 

 何の考えがあったわけではない。しかしそう決意した瞬間、彼の中で何かの強烈な感覚、或いは予感とでもいうべきものが萌芽し、急激に幹の軽を増しながら彼の中で林立しはじめた。

 

()かった!」

 

 無意識のままに事実を吠える。それは本来なら有り得ないことであった。しかし、カリヨンはサーヴァント達の手をかいくぐり、その手の届かぬ場所まで離脱することに成功していたのだ。

 

 このとき、初めて彼は選べるという感覚を得ていた。彼が立て続けに複写した異能はすぐさま彼の中に装備され、整然と整理されていたのだ。彼はその中から先に獲得していた「加速」だけではなく「直感」と「魔力放出」そして「勇猛」のスキルを選び出し、併用することによって常人ではなしえぬ反射速度と体術を獲得したのだった。

 

 彼は二騎ものサーヴァントを、一時的にとはいえ単純なパフォーマンスで出し抜いたことになる。

 

 これにはサーヴァントたちも瞠目せざるを得ない。たしかにこの相手の加速性能は人間としては慮外なレベルだった。

 

 それでも速度自体は騎士クラスのサーヴァントに比べるべくもない。――が、その反射速度、体術、そして魔力を脚部から噴出させての加速性能。

 

 それぞれが、まるで己のスキル(それ)に順ずるものであったと感じられたが故に、彼女たちは思いもよらなかった驚愕に見舞われることとなったのだ。それこそ、ただの人間が行うには、たとえそれが魔術師であろうとも慮外の行為だった。

 

 矢庭の驚愕に一時の制動を余儀なくされたサーヴァント達の間を矢のように抜いて、カリヨンは家屋内に飛び込もうとした。そして、そこであるものを見つけて目を剥き、動きを止めた。

 

 銀色の手足を剥き出したまま座り込んでいる、懐かしい姿の彼女が、そこにいたのだ。

 

 まるで時が巻き戻ったかのようにカリヨンはその姿を見つめていた。時は奪われていたのかもしれない。鼓動さえ止めて、彼はその場に制止していた。

 

 それがよくなかった。

 

「あなたは……」

 

「あ――」

 

 テフェリーの発した独り言のような呟きに、声にならない呻きで応えようとした彼の身体を躑躅色の拘束具が絡めとり、そのままマジックショーよろしく串刺しにしせんとする勢いで幾本の杭が迫り来る。

 

「しまっ」

 

 た。とまで言う暇さえなく、やおら歪なハリネズミの体をなそうとした杭は、しかし止められていた。

 

「……チッ。おい、どォーいうつもりだセイバー」

 

 拘束具に連なる鎖の袂を執ったランサーが、己の杭を打ち払ったセイバーに、いかにも不服そうに問うた。

 

 セイバーはランサーには応えず、そのままテフェリーに問いかけた。

 

「テフェリー、あなたの知り合いなのですか?」

 

 その言葉に、ランサーも憮然と閉じた口をへの字にへし曲げて押し黙った。彼女も先ほどのテフェリーの呟きを捕らえていないわけではなかったのだ。それでもなお侵入者の抹殺を断行したのは彼女の勇猛さゆえか、あるいは彼女の女の勘に端を発する嫉妬心からなのか定かではなかった。

 

「……それは……」

 

 言いよどんだテフェリーに代わり、未だ素巻き状態で縛り上げられている状態のカリヨンが声を上げた。

 

「よかった。テフェリーッ、聞いてくれ、昨日言い忘れたことが……んぐぅッッッ!?」

 

 言いさしたカリヨンの身体を拘束していた鎖が、さらにきつく締め上げた。

 

「なァ、おい貴様ッ、いったいだぁーれに断って勝手に喋っとるんだ? あァん?」

 

「……ッ!」

 

「……構いません。ランサー、解いてあげてください」

 

 笑顔で少年を締め上げていたランサーは、それを聞いて心底嫌そうな顔を見せた後で素直に鎖を解いた。

 

「ン、ゲホッ……な、なんてサーヴァントだ。いきなり……」

 

「あぁ? まァだ言うか? とりあえずで殺られたいのか? このガキめ」

 

「ふ、ふざけるな! んぐう……っ」

 

 ある程度締め上げたあとでランサーが少年を放り出すと、セイバーは見覚えの無いその顔から、困惑気味なテフェリーの双瞳に視線を移した。

 

「どうなのですか? 彼とは面識が」

 

「それは……」

 

 テフェリーは困惑の色を深めたように、しどろに視線を揺らしていた。

 

「……うまく、言えません。現時点で彼はサンガール。敵同士です。本来なら是非もなく()()すべきです。……でも……しないでほしい。ランサー、私は彼を殺したくない……。なぜなのかは……解かりません」

 

 そう言って、先ほどとは一変した様子でテフェリーは俯いてしまった。

 

「テフェリー……」

 

 カリヨンが呟くと、テフェリーは彼をじっと見つめた。不可解な郷愁の訳を問うべきかを惑っているのか、それともそれを確かめるための使い慣れない言葉を模索して言葉を継げずにいるのか、兎角、二人はそのまましばし見つめあったままだった。

 

「――おィ待て、なんかいるぞ」

 

 苦虫を噛み殺したような顔でその様を睨んでいたランサーが、不意に声を上げた。セイバーもすかさずその気配に感覚をそばだて、緊張感を増した。

 

「使い魔でしょうか」

 

 そのとき、何処から出ているのかも判然としない金属音が鳴り響いた。一同が視界を巡らせて蹲ったカリヨンの足許に眼を向ければ、一刹那のうちにその影からテフェリーの影に紛れ込んだ気配が、しきりに何かを騒ぎ立てている。

 

「――()号!?」

 

 テフェリーが声を上げた。それはカリヨンについてきたレプラコーンである。地表をそぞろに動き回っていた影は、本来地脈の中にいる彼らの気配を霊的視覚がとらえるビジョンなのである。

 

「どうしてあなただけ!? マスターはどうしたのです?」

 

 すると、これに応えるように金床の音が忙しなく鳴り散らした。まるで何かのメッセージを伝えようとしているかのようだ。

 

「あァ、ワイアッドの使い魔か。なんと言ってる?」

 

 しばし耳を澄ましていたテフェリーは顔を上げて重々しい声を絞り出す。

 

「……マスターは敵の手に落ちたようです。彼は隙をついて逃げ延び、私を探していたのだと言っています。ですがこの雑音(ノイズ)のせいで方向がわからなかったとも……」

 

 唇を噛み締めるテフェリーを見つめ、カリヨンは感慨に耽っていた。彼女のこんな顔は、始めて見る。

 

 彼にとってこの状況はあずかり知らぬものであり、話の次第にもその深刻さにも付いていけなかったのだが、彼はそれらの推移にはとんと眼もくれずただテフェリーのことばかりを考えていた。

 

「ことは一刻を争います。――いきますよ、ランサー。マスターを救出します!」

 

 しかし、切迫した声をかけられた当のランサーは落ち着き払った声でそれに応じた。

 

「……いや、焦るな。ワイアッドのヤツはまだ死んではいまい。あれは、……自分で令呪を放棄したのだろうからな」

 

 それを聞いたテフェリーは一拍の間押し黙り、重苦しく声を荒げた。その双瞳には積もり積もったかのような懐疑がありありと表れていた。

 

「どういう、ことです? ランサー、あなたはなにかを知っているのですか? 私に、いったい何を隠しているのですか!? ――――いえ、私の事などどうでもいい! ……何故それがマスターを探しに行かない理由になるのですか!」

 

 しかし、ランサーは困り顔で頭を掻くばかりである。

 

「さァて困った。出来んものは出来ん、としか言えんのだがなァ。とにかくだ、あたしはお前を護らねばならん。だからお前を行かすことは出来ん」

 

 テフェリーは、一旦は息を呑み、そしてうつむいたまま低く静かな声を絞り出した。

 

「令呪が私に戻れば……後はどうでもいいと? ……魔力を送るマスターさえいればそれでいいと言うのですか。……あなたは最初から、マスターが死んでも令呪が私に戻ると見越して、それで私の身ばかりを護ろうとしていたのですか? 

 ……なるほど、確かにサーヴァント……もとよりあなた方はそういうモノでしたねッ! ……」

 

 擦れていたかのような声は、次第に火の様に熱を帯びて弾けた。憎悪すら含んで宝石のような二色の眼差しが顔前のサーヴァントを睨み付ける。途方もない感情の奔流を持て余すかのように、銀色の四肢が波打ち戦慄いている。

 

 カリヨンは驚いてそれを見ていることしか出来なかった。あのテフェリーがこんなにも感情を露にするなんて。彼は思っても見なかったのだ。

 

 そしてそれはテフェリー自身、今まで感じたことのない類の怒りだった。いままでこのサーヴァントに怒りを覚えたことは幾度もある。むしろそうでないことのほうが少なかったくらいだ。

 

 だが、こんなにも耐え切れない怒りを覚えたのは初めてだった。失望と、切迫した危機感と激情と倦怠感が体中から別々にあふれ出してしまいそうだった。

 

 直立することさえままならず、彼女はよろめいた。もはや四肢の制動さえままならない。

 

「そうではない。聞け、テフェリー。いまだワイアッドが生かされているというのなら、それはおまえをおびき寄せるための罠なのかもしれん。ならばこそ、おまえを行かせることは、今のあたしにはできんのだ」

 

「もういい……! あなたのことなどいらないっ……一人で、行きます」

 

 しかし泳ぐようにして踵を返そうとしたテフェリーの肩を掴んだランサーは、無言で彼女の身体を引き戻す。

 

「待つのだ。我がマスターよ」

 

「うるさい!」

 

 とうとう激昂したテフェリーの身体からは、言葉と共に魔力の奔流があふれた。彼女の左肩にあった聖痕の最後の一画が霧散していく。

 

「私に従え、サーヴァント!!」

 

 消費され、巻き起こった魔力の騒乱。――しかし、対するランサーは変わらずに不動であった。そして変わらぬ、彼女らしくない低く簡素な声音で告げた。

 

「できん」

 

「――――なッ!?」

 

 テフェリーは二色の瞳を剥いて驚愕した。当然の反応だった。己が命を棄てよという命ですら盛らぬ筈の絶対命令権。それが令呪である。

 

「……今、なんと言ったのです。ランサー」

 

「できん、と言ったのだ」

 

「!?ッ……なぜ……」

 

 不発? そんなバカな……。なぜ令呪が効かない? 混乱するテフェリーに、そこでランサーは諭すように語りだした。本来ならば最後まで秘すべき主の胸のうちを。

 

「……、令呪の効果が現れないのはな、以前の令呪がより強力にあたしを縛っていたからだ。間逆の指令を受けたせいで効果が相殺されたようだな」

 

「……以前の……指令? 真逆? どういうことです……」

 

「アタシが二画目の令呪、つまりワイアッドの最初の令呪で命じられたのはな、お前を守ることだ、テフェリー。ワイアッドは己の命を顧みることもなくそうせよと、私に命じた」

 

「…………? 何を言って」

 

「アイツには、魔術師としての願いなどなかったんだ」

 

 ランサーはテフェリーの肩に置いていた手に力を込めた。そこから逃れようとする少女を押し留めるように。力強く、しかし柔らかにその剥き出しの肩に触れる。まるで言葉と共にその手の温りを伝えようとするかのように。

 

「アタシに、……己がサーヴァントに、何にも優先しておまえの安全を護ってほしいと、あの男はそう言ったのだ。『命を賭して、やらなければならないことがある。だからその間、テフェリーを守ってほしい』と、最初に願いを問うあたしに、ワイアッド・ワーロックはそう言った」

 

 自失したテフェリーは声もなく、何か不可思議なものでも見るかのようにランサーの緋のような瞳を、そしてその唇から発せられた言葉をぼんやりと見つめていた。

 

「…………ランサー、私、は、マスター……は……なぜ、……」

 

 テフェリーは力を失くしたようにその場にへたり込んだ。合わせるように膝をついたランサーは、テフェリーの両肩をしっかりと掴みその顔を覗きこんだ。

 

「ワイアッドは、お前の実の祖父だ」

 

「……ッ」

 

 静まったままの周囲からも、息を呑む音が漏れた。

 

「ち、――違います。わたしは」

 

「詳しいことは知らん。それ以上聞き出すつもりもなかったし、お前たちの過去の事も何も知らん。だがな、納得は出来たぞ。お前たちは互いに唯一無二の家族だ。見ていればわかる。テフェリー、その事実に何を訝る必要がある」

 

「そ……れ、は……。でも、私はあくまで、」

 

 あくまで、魔術刻印の継承者として、そのための道具として引き取られるのだと。そう、最初に時計塔で聞かされていたから。

 

「私は、道具で、武器で、だから、マスターは私を」

 

 あくまで、刻印を継がせるための器として。だから、考える必要もなかった。

 

 訊く必要も、確かめる理由も、尋ねる故も、無かった。無いと思い込んだ。だって、訊けるはずも、ない。

 

 あの人にとっての自分が必要な器具でないしたら、どうしていいのかわからない。〝家族〟のやり方なんて、解からないのだから。

 

 だから、訊けなかった。一度も。訝りながらも、訊けなかった。怖くて、訊けなかった。

 

「なら、……なら、私は、……どうすれば…………どうすれば……」

 

 だから、いきなり、それも人づてに、〝応え〟を知らされても、どうしていいのかなどわからない。 

 

 もしも、――もしも、もしもそれが本当だというのなら、マスターが自らの命よりも己を優先するというのなら、己はどうすればいい?

 

 テフェリーは混乱を持て余して呆然と眦を開く、マスターの願いを尊重しようとするのなら、自分はマスターを助けに行ってはいけないことになってしまう。

 

 どうすればいい? それがマスターの意向なら、自分はそれに従わなければならない……けれど……けれど、けれどッ! …………けれど――――

 

「望んでみろ、テフェリー」

 

 身を震わせて虚ろな呟きばかりを漏らすテフェリーに、ランサーは微笑んだ。へたり込んだテフェリーと目線を合わせるようにして、いつも浮かべていた皮肉げな美貌ではなく、柄じゃないとでもいうような苦笑交じりに、しかし真っ直ぐに。

 

 まるで幼子をあやすような、力強くも暖かい微笑で語りかける。

 

「望むように生きてみろ、テフェリー。お前が欲しいと思うものはこの世界のどこかに必ずあるんだ。でもな、それはお前にしか見つけられない。お前の欲しいものだからな」

 

「……ランサー、……何を……?」

 

「人ってのァな、テフェリー。何かを望むから生きていけるんだ。そうやって生きるから、それを己の生だと誇ることが出来る。何を望むのかを人任せにしちまったら、そいつァ、もう生きてないのと同じってことだ」

 

 その光り輝く輪郭から溢れ出る光の奔流が、いっそうにその光陵を増し、まるで怯える迷い子のようであったテフェリーのすべてを包み込むかのように波打った。

 

「おまえはもっと多くを望んでかまわない。いや、望まなくちゃあならない。そうでなけりゃ、ワイアッド(アイツ)の願いは、永久に叶わないままだ」

 

 ランサーは言葉を続ける。その場の誰もがその苛烈にして流麗な言葉に耳を捉えられていた。

 

「おまえが一人の人間として真っ当に生きていくこと。当たり前に何かを望み、誰かを愛し、当たり前に笑って、泣いて、当たり前に死んでいく。お前が選ぶ、お前だけの生き方だ。人生だ。……それだけがワイアッド(アイツ)の願いだ」

 

「……」

 

「テフェリー。ワイアッドのただ一つの願いは、お前なんだ。アイツが奇跡の願望機に望むのはお前だけだ。ただ一人の家族であるお前の幸福こそが、アイツの願いなんだ」

 

 それは、予想もしたことのない答えだった。

 

「……家族……?」

 

 嘘だと思った。だって、そのように、想ってもらえているなどと考えたこともなかったから。だって、自分は、ただの――

 

「テフェリー、お前は何を望む?」

 

 しばし呆然として、それでも当たり前に答えは出た。いや、もうとっくに出ていた。テフェリーは力無くたわんでいた両の足を強靭に編み直し、立ち上がった。

 

「……まァ、ワイアッドのヤツはそんなことは絶対に言うなとかなんとか、フガフガ言っとったがなァ。……ま、ことがことだ。かまうこたぁなかろう」

 

 そう言ってランサーも立ち上がり、肩を竦める。テフェリーは二色の瞳に強い光を宿してランサーに応えた。

 

「……なおさらです! それならなおさら、此処にとどまる理由などありません! ランサー、私の願いも一つだけです。……助けます。私の大事な人を!」

 

「そうか。――――じゃあ、行くか」

 

 そしてサーヴァントもまた、当たり前のように己の行く先を既に決定していた。だがそこでテフェリーは不可解そうに尋ねる。

 

「……一度断っておいて、今度は共に来るというのですか? ランサー」

 

「あー、一応行くなと告げたしなァ、義務は果たしたことになるだろう。うん、たぶん。それにもう令呪の縛りもないわけだし、後はアタシの好きにさせてもらうだけだ」

 

「その令呪も、もう相殺されたのでしょう? あなたは……もう誰のサーヴァントでもない……」

 

 それを聞いたランサーはふむ、と鼻を鳴らした。

 

「確かにな。サーヴァントとしてマスターに云々の堅っ苦しい義務はなくなった。――が、アタシがどうするかはアタシが決めるってぇだけのことだ。――いいかテフェリー、例え使い魔として現世に呼ばれようとも、英霊ってのは自らが望まぬマスターに膝を折りはしない。そォいうもんだ」

 

 そう言うと、ランサーは長い流髪を翻すように振り返り、その様子を黙して見守っていたセイバーへ、澄んだ視線を向けた。

 

「悪いな、セイバー。聞いての通り、同盟はここまでだ」

 

 これより彼女たちは死地に踏み込むのだ。当然同盟者であるセイバーたちまで連れて行くことは出来ない。

 

「待てランサー、その身体では……」

 

「おォっと、勘違いをするなよ?」

 

 平時となんら変わらぬ凛冽とした声で、ランサーはセイバーの言葉を押し止めた。透明だった紅い視線が、矢庭に赤熱する刃の如き凶気を纏う。

 

「同盟を組んだままでは、我らの決着をつけることも出来んだろう? 丁度いい機会だ。ここでジジイを助け出して、仕切り直しと行こうではないか。今度会うときは、また尋常に立ち会いたいもんだ。……だから、まァ、あれだ。お前らも、急ぎ主を探しに行くが良かろうさ」

 

 と、ランサーはセイバーと、そして士郎の顔を見回して宣下するかのように言い放った。そしてまた口の端を吊り上げて微笑む。蒼褪めてなお艶やかさを増した厚唇が、痛々しくも華々しい。

 

 これがこの英霊のもつ、独特の華であった。向けられる視線とその五体からあふれ出す輝きは以前にも増して光陵を増している。

 

 だがその輝きとは裏腹に、血の気の失せ僅かに落ち窪んだ頬の青白さがそのコンディションを物語っている。せめて、いま暫しの休息が望めれば――。

 

 だが、セイバーとてもう解っている。もはやランサーを留める術も理由も確かに失っているのだということを。――否、もとより、この紅鉱石色の蛮勇が他者の諫言にてその歩みを留めることなどないのだということも、すでに承知のことだった。

 

 ならば、いま己に出来ることは、せめて混じり気の無い約束でこの女の闘志に応えることだけ――

 

 セイバーがランサーの視線に首肯して応えようとした、――――そのときであった。

 

 不意に、在らぬほうから魔力の奔流が湧き起こり、次の刹那には、口を開こうとしたセイバーの身体が、ふいに薄暗い暗色のヴェールのような不可解な空間の異相に包まれていた。

 

「これは……」

 

 それは令呪による強制召喚であった。誰もが瞬時にその答えに行きあたり、そしてそれが何を意味するのかという疑問に閉口せざるを得なかった。

 

 故に、その事象に対応できる者はこの場には皆無であった。唯一、 

 

「セ、セイバー!?」

 

 士郎だけがそう声を上げたが、彼が駆け出そうとしたときにはその存在は跡形もなく消え去っていた。一同が訝る暇こそあらず、士郎の切迫した声だけが辺りに残響した。 

「いったい、どうして……ッッッ!」

 

 一瞬の出来事に自失する士郎に、テフェリーも虚空に疑問を投げるかのような口調で答えることしか出来なかった。

 

「……あんなことが出来るのはセイバーのマスターだけのはずです。……遠坂様がやったとしか……」

 

 確かにそう考える他なさそうではあるが、何かが引っ掛かっていた。何処か不可解な感覚が消えていなかった。

 

 いよいよ混迷を極めた状況に、ランサーは鼻を鳴らした。

 

「フン、どォーやらいよいよ雲行きも怪しくなってきな。坊主、悪ィがアタシらは行かせてもらうぞ、セイバーを待っている暇はないんでな」

 

「いや、……待ってくれ。俺も一緒に行かせてくれ」

 

 一拍の間、駆け出そうとしたそのままの状態で膝をついて考え込んだ士郎は、やおら姿勢を正し、そう言った。

 

「……良いのですか?!」

 

 テフェリーの声に士郎は頷いた

 

「おそらくだけど、遠坂とセイバーもそこにいるかもしれない。タイミングが噛み合いすぎてる気がするんだ。それに、どの道俺一人でこんなところにいても意味がない」

 

「しかし……」

 

 言い澱むテフェリーを余所に、ランサーは再び口の端を吊り上げる。

 

「うゥむッ! それでこそ男だな、坊主。来たいなら来るがいい。……ところでテフェリー。行くのはかまわんが、ワイアッドの居場所への道標みたいなものはないのか?」

 

「……伊号はどこに居てもマスターの魔術刻印の場所がわかるはずですが、この雑音(ノイズ)がある限りはそのパスを追う事も出来ないでしょう。セイバーが遠坂様のパスを追えなかったのと同じです。今のセイバーのように、マスターが令呪を使えるならともかく……」

 

 このレプラコーンたちは代々のワーロックの当主へ魔術刻印とともに継承される魔道の遺産であり、これを統べることの出来る実力を有することが、かの魔術師の後継者の証であるとされてきた。

 

 そも妖精に取り憑かれた初代のワーロックが彼らとの交信を試み、盟約を交わしたことがその魔道の始まりであったとされる。以来、数百年に渡ってワーロックとともにあった彼等はその縛りを離れてなお逃げることはなかったのだ。

 

 もはや彼らが歴代のワーロック、それもワイアッドに対する忠義は本物であった。故に彼は己が忠道のためにここまで馳せ参じてきたのだ。

 

「ふん、無くなったものに言及してもはじまらんだろう。ならば、手当たり次第に行くまでのことよ!」

 

 気を吐いたランサーの背に、しかし呆れかえったような声が掛かった。

 

「何馬鹿なこといってるんだ。そんなことしてるうちに朝が来るぞ」

 

 一斉にその声の元に視線が集まった。

 

「僕も行くぞ」

 

 離れたところで胡坐をかいていたカリヨンが、彼女たちの会話に割って入ってきたのだ。

 

「何だァおまえ、まだ居たのか? 放って置いてやったのだからとっとと逃げればいいものをッ」

 

 殺気立って見下ろしてくるランサーの冷えた眼光にはしっかりと怯えつつ、立ち上がった少年は精一杯の気を吐いた。こちらとて生半可な覚悟でここまで来てはいないのだ。

 

「ふんっ、何だよ。助けてやろうかと思ったのに。お前たちだけじゃ一晩中歩き回らされるのが関の山なんだから」

 

「……」

 

 すると、不意にこの上なく晴れやかな笑顔を浮かべたランサーはおもむろに少年に近づき、たおやかに長い腕を掲げ上げた。そして、まるで天馬の羽かと思われるような白く長い指先をそっと少年の染みひとつない頬に添える。そして、

 

「いィま、なァにか言ったか、このガキぃッ!」

 

 指先で、ちょいとつまんで捻り上げた。

 

「い――――ひゃひゃひゃはやぁあっだッ!? なっ、何ひゅるんだよ!!」

 

「残念無念この上ないがなァ、貴様のような木っ端なんぞに構っている暇はたった今微塵もなく消え失せたのだ。今の暴言については忘れてやるからさっさと帰れ!」

 

「……いや、話だけでも聞いてみたほうが……」

 

 シロウの言葉にテフェリーも首肯した。

 

「ランサー、離してください」

 

 すると、さも嫌そうにランサーは手を放した。

 

「と、と、とにかく、このノイズがなくなればいいんだろ?」

 

「出来ればとっくにやっとるァッ! このガキィ、あんまりいい加減なことをいうと……」

 

 捻じ切られんばかりに抓られて真っ赤になった頬を押さえ、ふたたび伸ばされたランサーの魔の手を必死で避けながら、カリヨンは眼を閉じて何かを念じはじめる。すると、今まで其処彼処に堆積していた不快な雑音がきれいに取り払われ、消えていくではないか。

 

「おォ?」

 

「これは……」

 

「行くなら早く行こう。あまり長くはもたない」

 

「……なんだァ? じゃあこれはおまえの仕業だったのか?」

 

「そうじゃない。これは魔術でも宝具でもなくて、誰かの異能、特異能力の類なんだ。で、僕は他人の異能を中和できる。けど、これをできるようになったのは最近なんだ。だからそんなに長くは持たない」

 

 訝るランサーに、カリヨンは言葉を抑えつつ自分の能力を解説した。さすがに彼も初対面の相手に全てを語ってみせることはしなかった。

 

 この場合は、なぜ彼が雑音を中和出来るのかさえ説明できればいいのだ。が、テフェリーにまで嘘をついているようでその点についてだけ少し気が咎めたが。

 

「ふゥん? ――まァいい。どうだ、テフェリー?」

 

「いけますッ」

 

 今や彼女の影から靴の中に居を移したレプラコーン、伊号は今度は影ではなく地中に光る松明のようなヴィジョンとなって彼女の爪先に光を提示している。

 

「ぃ良し、そいつは重畳。でかしたぞチビ」

 

「チ……ッ?!」

 

「〝坊主〟ってのはまだマシだったのかな……」

 

 悄然とぼやいている士郎の脇でカリヨンは言葉を無くしていたが、ランサーは取り合うこともなくすぐさま出陣の準備に取り掛かった。

 

 しかし移動のために用意していたロビンソンは早々に大破してしまっている。そこでランサーが手をつけたのは、土蔵の前に停めてあった「戦利品」の大型バイクであった。

 

 如何に大型とはいえ、まさかそれで四人もの人間を運ぶつもりなのかと訝る視線を余所に、やおら漆黒のドゥカティに跨ったライダーの双肩と背部の装甲が突如として風船の如く膨らみ、バランスを崩して真下(ちょっか)に落ちた。

 

 それらは地表に着く頃には車輪の様相を現していた。ランサーの装甲は次々と肥大化して落下する。それらはガラス同士を擦り合わせるような、それでいてどこか風鈴のような涼やかなものさえ含む音色を立てながら枝分かれを繰り返し、鞍に、馬鎧に、馬車の荷台にと伸長し、巨大な形態を造り出す。

 

 それは小山ほどとさえ錯覚されかねない、豪壮にして絢爛な騎馬車であった。

 

「さァ、乗れ」

 

 如何に大型とはいえバイク一台分の動力で牽引できる規模とは思えなかったが、輝甲の重戦車はつつがなく滑り出した。

 

 怪しい夜気に照らされた装甲は真紅に染まり、獰猛な嘶きを轟かせて走行する様は今にも大空へ飛び立とうとする火翼竜(ワイバーン)を想わせるほどであった。

 

「いざ参らん、戦場へ!」

 

 紅竜を駆る蛮族の女王は鬨の声を上げる。滑らかな紅玉を纏った操舵を、暗雲漂う新都へ向けてきりながら。

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-4

 見れば、満天の空には異様なほどの星が瞬いていた。人里で見上げるそれとは明らかに様相が異なる。

 

 うねる漆黒の高嶺が、辺り一面に戦慄きながら飛沫を散らしている。そこは見渡す限りを黒い波濤に囲まれた、海原の只中であったのだ。

 

 そこに、その水面上に、肌を切るような旋風をものともせず一筋の白波の軌跡を残しながら疾走していくひとつの人影があった。

 

 無論、余人に成し得る芸当ではない。それを成し得るのは、幾多の怪異が蔓延るこの冬木の地にあってもただ一人、彼の湖の乙女に加護を授かりし稀代の騎士王を置いて他にあろうはずもない。

 

 衛宮邸から令呪によると思しき空間転位の対象になったセイバーは、次の瞬間には四方に海原を臨む、この海洋上に飛ばされていたのだった。

 

 いきなりの転位とほぼ同時の着水にも動じなかったセイバーだったが、さしもの騎士王もその場所が海洋のど真ん中だと知ると、さすがに狼狽の色は隠せなかった。

 

 咄嗟に凛の姿を探す。――が、居るわけもない。ここは四方に水平線を臨む海の上なのだ。しかしこんなことを可能とするのは、彼女のマスターである凛の令呪だけのはず。

 

 だが召喚された先に主の姿はなく、また敵の姿も見当たらない。

 

 ――予想できる可能性としては、危機が迫っていたのは凛ではなくセイバーのほうであり、それを回避させるために安全な場所に彼女を飛ばしたというのだろうか。

 

 ――否、それでは辻褄が合わない。もしそうなのだとしても、それこそ問題だ。今の衛宮邸には士郎たちを残したままなのだから。

 

 ひどく混乱しながらも、思考に先んじてセイバーの足は動いていた。現状では理解し得ない事柄が多すぎたが、兎角こんなところで呆けている場合ではない。

 

 まずは冬木の地に、主の傍に疾く馳せ参じなければならない。そう判じたセイバーは一路、主の気配――不快な霊的ノイズの向こうに感じ取れる、今にも消えそうなそれ――を頼りに山峰の如き波間を走破していたのだ。

 

 ――そしてようやく波壁と夜の帳の向こう側に、地表に飛散した星屑を思わせる人の営みの灯りを見つけたころ、波を蹴散らすようにして疾走していた筈のセイバーの足が急停止する。

 

 それは己の進行方向に、その進路を遮るかのようにして浮かび上がる、紅い光芒を見て取ったからだった。

 

 黒々とうねる波丘の彼方であろうとも、それを見つけるのは容易であった。本来なら漆黒に染まる筈の周囲の夜と海とが、赤裸々なまでに紅く染め上げられているのだ。それは寄せ返す広大な海原の上に、ピタリと静止している一隻の小船から発せられていた。

 

 だが彼女の足を縫いとめたのは、それとは別の赤光であった。その船上から発せられる、射抜き貫くかのような赤、火に比してなお紅蓮の模様を呈する()のごとき視線。

 

 それこそが、騎士王の進行を押し止めたものの正体であった。セイバーは見たのだ。サーヴァントの視力だからこそ捉えられた、遥か彼方のその敵影を。

 

 そこにあったのは、最初から彼女を待ち受けていたかのように、彫像の如く不動で佇む男の隻影。

 

 その左手には辺りを照らす赤光の光源たる炎の弓、そこに浮かび上がる剛鋼の如く引き絞られた黒陽の体躯。そしてその双眸は手にする紅蓮よりもなお荘厳たる烈赤。

 

「――アーチャー!」

 

 そのとき、すでに早鐘を打っていた鼓動が、彼女の胸の内で避けえぬ対決の予感となって乱舞し始める。

 

 

 

 

 今宵は晦日(みそか)の紛う月。連日空に舞い続けた月が、新たな再生を願いながらその役目を終え、漆黒の夜に飲まれていく刻限だ。

 

 現にいま凪いだ夜空に浮かぶ三日月は既に下弦を下回り、このまま痩せ細りながら暗い朔夜に消え行くのみの運命であった。

 

 ――しかし、見上げた月から降り注ぐ、残滓のごとき鳶色の光のなんと美しくも妖艶なことだろうか、今にも終えそうとさえ見える儚げなその光が、逆にその妙麗の細腰を一層(あでやか)に際立たせているようだった。

 

 輝ける軍神の騎馬車は、黒い夜に支配された街をゆっくりと進んでいく。漆黒の暴風の中にあって、それでもその神々しさは隠しようもない。だが人目を憚る必要は全くなかった。

 

 たしかに風の強い夜だった。住民たちは予期していなかった季節外れの嵐の到来に辟易し、眼も開けられぬほどに荒々しく冷たい夜半の旋風を避けるようにして屋内に引きこもっていた。

 

 しかしそれ以上に、もっとも原始的な本能がその嵐を避けようと彼らに背を向けさせた。何かの確証があるわけでもない。それでも誰もが異常を感じていた。

 

 何かが決定的におかしいのだということを、誰も説明は出来なかったし、理解できるわけでもなかった。――が、知っていたのだ。

 

 誰もがそれを知っていた。今宵はもう、決して空を見上げてはならないのだと。

 

 

 街中に堆積する奇怪な雑音を取り掃い、妖精の灯す松明の光に導かれ、深山町を抜けた一行は冬木大橋にまで差し掛かった。

 

 光はそのまま一直線に橋を目指している。どうやらワイアッド翁は新都方面にいるようだ。

 

 舵を取るランサーが、舳先に立つテフェリーに声を掛ける。

 

「テフェリー、どうだ?」

 

「……反応は強まっています。このまま――」

 

 ――が、そのとき、突如として世界から一切の〝音〟が消え失せた。

 

 次の瞬間、彼らのすぐ目の前を通り過ぎて行った()()は一直線の河面に特大の畦の如き白波の筋を描きながら、一瞬だけ無音となった世界を今度は耳を聾するような怪音と轟音で埋め尽くした。

 

「――――ッッ!!」

 

 ランサーは咄嗟に舳先にいたテフェリーを捕まえ、その身体を強引に台座へ放り込んだ。カリヨンと士郎がそれを受け止める。

 

「なんだァ!? いまのは――」 

 

 一様に耳を押さえながら、一同はそれが飛来した方角を仰いだ。そして見つけた。そのはるか彼方にまるで、泡沫の夢幻の如く屹立する破格の怪異の全容を。

 

 冬木市を東西に分け、海まで真っ直ぐに走る深遠川のさらに延長線上の海原に、ありえないものがあった。四人はそこで共にとてつもない強壮な眺めを見ることになったのだ。

 

 それは竜巻であった。いや、それはむしろ、化外の規模と密度を誇る〝超巨大積乱雲(スーパーセル)〟と呼ぶべきものであった。

 

「まさか――あれが敵なのか」

 

 士郎が漏らした言葉も、驚愕のあまりすぐに擦れた。畏怖というよりはむしろあまりの現実感の希薄さに呆然として見上げてしまうかのような、まるで巨大な柱の如き威容であった。

 

 天と海と、そしてその下の大地すらをも諸共に貫いているかのような錯覚さえ起こさせる、それはもはや白亜の塔のようでさえあった。

 

 あの密度をして、ただの大気の流動だなどと誰が信じようか。

 

 それほどに並外れて、ここからでも全てを物語るほどに強壮なその威容。当然ながらそれが条理の旋風でなどあろうはずもない。本来なら進行方向にあるものを薙ぎ倒しながら前進するはずのそれは、渦を巻きながら海原に静止しているのだ。

 

「ま、拙いぞ。このままじゃ……」

 

 カリヨンが怖じけたような声を出したが、ランサーはさして斟酌する様子もなく飄々と応えた。

 

「らしいな。しかしこいつァ、吉報だ」

 

「な、なに言ってるんだ!」

 

「んー、つまりはだなァ――」

 

 ランサーがそう言いかけた瞬間。吹き荒れる風は再び凪ぎ、また耳を聾するほどの静寂が訪れた。それは先程の、おそらくはその怪異なる竜巻のもとから飛来したであろう砲火の再来、その前触れに他ならなかった。

 

 爆音が轟いた。今度こそ彼らを標的として飛来したそれは正確に四人の乗る輝車目掛けて迫る。ランサーは白亜の双翼を模した神斧を手に片手に執り、迫り来る砲弾に向けて叩きつけた。

 

 この世に顕著した女神の権能たる反発力が、辛うじて砲弾の直撃を弾き、逸れた弾道は鉄橋の一部をまるでバターのように抉り取って河面に没した。

 

 自重に耐え切れなくなった橋の骨格が、断末魔にも似た悲鳴を上げ始める。これ以上は、足場となる橋の強度のほうが持たない!

 

 だがランサーは口角を吊り上げて言葉を続けた。

 

「――当たり、ってェことだ。やつァ、アタシ等をこの先に行かせたくないらしい」

 

 ランサーの牙を剥くような視線は、その白亜の柱(スーパーセル)の深央を見据えている。そこから送られてくる確かな視線を感じていたのだ。あの柱の中にいる敵は、間違いなくこちらを見ている。

 

「……あっ」

 

「そういうことですね。これでマスターがこの先にいる可能性は高くなりました」

 

 テフェリーも同意する。しかしどうする? 捕捉された以上、もはや引くことは論外だ。ならば進むしか道はないことになるが、それでも結果は同じことではないのか? しかも、橋の上ではなおさら逃げ場がない。

 

「お前らは先に下から行け。アイツの相手は、あたしがやる」

 

 そう、喜色を浮かべて言い放ったランサーの輝く甲冑からは、しかし既に鮮血が滴っている。先ほどの迎撃で傷が開いたのだ。その美貌は嬉々とした表情とは裏腹に、今にも倒れそうなほどに生気を失っている。

 

 今のランサーにはサーヴァントとの戦闘は身に余る。その上今彼らを襲う暴風のなんという壊滅的な威力か。その威力は間違いなく対人でなく対軍、その火力は狙撃どころではなく真正の砲撃に他ならない。

 

 戦力差は絶望的だ。いくらランサーでもいまのコンディションでは勝機は無いに等しい。それでも、誰も否とはいえなかった。この状況を受け持てるのはサーヴァントであるランサーだけ。それは火を見るよりも明らかな、動かしがたい事実なのだ。

 

「……ランサーの言う通りです。退路はありません。進むしか、ないのです」

 

「だからって……」

 

 事の仔細を知らずとも、そのあまりの無謀さは理解できた。しかしカリヨンが言い募ろうとした言葉尻は霞んで消える。テフェリーは彼が始めて見る顔をしていた。まるで自分の身体の一部を切り取られるかの様な、悲痛そうな表情を浮かべる彼女の顔を。

 

「いいですかランサー、決して――」

 

 言いさした言葉を、掻き消すかのように呑み込んだ――再びの、無音。

 

 来る!

 

 しかしランサーは逆に何も応えず、笑みを浮かべてテフェリーの頭を撫でた。ゆっくりと、大事な物を扱うように。そして、

 

 やおら、三人の乗っていた台座を蹴り飛ばしたのだ。切り離された台座は橋の欄干を突き破り、ボートのような形に変形してそのまま水面まで落ちていく。血の雫のような軌跡を虚空に残して。

 

「ランサーッ!」

 

 ランサーは同時に、橋を囲うようにして無数の盾を、まるで繚乱の花の如く多重展開させ、敵の視界を覆った。三人が離脱し、新都側の岸にたどり着くまでの目くらましだ。

 

 そして轟音の奔流と共に、三度の砲火が見舞われる。盾群を薙ぎ払って確実にランサーを狙ってくるそれを、また神斧の斥力波で弾く。砲弾は再び河面に突っ込み長大な水柱を巻き上げた。その衝撃で、今度こそ橋が崩壊を始める。

 

「行け、テフェリーッ! 行けェェェッッッ!!!」

 

 吼え猛けたランサーの美しい声音だけが、粗雑な砲撃音にもまぎれずに響き、テフェリーの耳に届いた。

 

 

 

 白き巨壁の向こうで、ライダーは巨大な橋の崩れ落ちる様を見ていた。木っ端の如く舞い上がる鉄屑と水煙。本来なら、そこから人影など見分けられるはずもない。しかし、その、まるで金属かと見間違うほどの怜悧な視線は捉えていた。歪み捻じれて崩れ落ちる橋のアーチの残骸をものともせず屹立する紅の貴影を。

 

「……なんと、なんと。あの女槍兵め、いったいどういう手で返してくるかと思っていたが……」

 

 軽快に漏らしたはずの声は、実に重く、苦々しい。

 

 水面に浮かぶ戦車の残骸はもはや原型を止めていないが、彼女は辛うじて即席の足場として機能しているその上で、両の手に特大の槍と戦斧とを携えていた。

 

 瓦礫と共に打ち砕かれ、分解されたかに見えた輝光装甲群は、まるで真紅の粉雪のように虚空に舞い上がっていた。――それが、一変して奇妙な動きを見せ始める。

 

 それらは虚空で寄り集まり、再び刃の群れとなって彼女の元に集束し始め、ランサーが前方に向けて突き出した槍に取り込まれていくのだ。

 

 そしてランサーは、今度は右手に執った神斧を背後に向けて掲げ上げた。途端、左手に構えた槍の穂先は凄まじい亀裂音と共に爆発的に巨大化しはじめる。それは即席の足場ごと彼女自身をも取り込み、そこに一本の巨大な杭を形成する。

 

 前方に突き出された穂先は巨大な(やじり)へと変じ、後ろに掲げた戦斧は最後尾で矢羽となった。

 

 そうして成形された全長十メートルを超える長大な〝矢〟は、さらに伸長を重ね、まるで鋭角に引き延ばされた海豚(イルカ)のような形状へと完成する。

 

 それでもガラスを掻き毟るような音は止まない。巨大な杭の中で刃が幾重にも密度を増しているのだ。パキパキと鳴っていた乾いた音が、次第に小刻みな軋みに変わる。キシキシと、ギチギチと。

 

 これ以上ないほどに密度を増したと察せられる摩擦音は――詰まるところ、準備が終わったことを意味する。

 

 だがその光景を見るライダーの視線は冷えたままであった。その瞳には失望と憐憫の色さえ窺える。

 

「――それは、悪手であろうよ、槍兵」

 

 この時点で、彼はランサーがなにをしようというのかを理解していた。それは彼が予想しうる。もっともシンプルで、もっとも愚直で、そしてもっとも見込みのない手段だった。

 

 

 天と海原を貫く白亜の柱。それはもはや神々を仰ぐことに等しい脅威であった。まるで固体かと見紛う程の風の柱は、僅かの乱れもなく統率されている。

 

 あの渦に触れた瞬間、人間の体などは吹き飛ばされることすら叶わずに血風と塵とに分解されるに違いない。

 

 そして放たれ来たる暴風の砲弾――ランサーはそれを、いつぞやセイバーが見せた風の剣、聖剣を不可視へと変じさせていた大気の集束を解き放ち、空圧の鉄槌へと変じさせたあの抜剣術と同様の性質を持つものだと見抜いていた。もっとも、その規模はまさしく桁が違うのであったが。

 

 さらには、それが雨の如く降り注いでくるということが致命的だった。つまり、あれは砲台という顎を備えた城壁に他ならないということになる。

 

 ランサーは敵の戦力を分析しつつ、あらためて敵の威容を仰ぎ見る。そして肉眼では目視し得ぬ、固形物と見紛うばかりの暴風が織り成す城壁の向こう側に不適に笑う敵の影を捉えた。

 

「しッかし、デカイ敵だね。どうも……」

 

 天を仰ぎ、ひとりごちながらも去来するのは、生涯最後の敗戦の記憶。だがそれに伴い湧き上がるのは痛みでも哀しさでもない。それは千の傷痕に勝る悔恨の念。

 

 ――そうだ。あの時も、()()()はこれぐらい、いや、もっと大きく見えた――。

 

 そして今更ながらに思うのだ。妹のため、プリアモス王のため、ワイアッドのため、テフェリーのため――いろいろと理由を求めてはみたが、やはりいざという段になれば己という女は結局己のためにしか戦えないのだと。

 

 いや、むしろ逆なのかもしれない。自分は戦うために誰かを理由にしたがっているのではないか、とも。それは不誠実なのかもしれない。

 

 何かのために戦っている奴らからしてみれば、戦うための何かを探し続けている己は、酷く不純な動機の持ち主に映るのではないだろうか。

 

 ――否、そうではない。断じて、そうではない。それを恥じることはない、悔いることもない。それは彼女が彼女であるために必要なことなのだ。

 

 だから、もしも――彼女がなにかを悔いることがあるとすれば、それは――。

 

 先に向わせた三人が対岸に辿り着き、遠ざかるのを確認してから、ランサーは水面の上を滑らせるように「矢」をスタートさせる。巨大な凶器がゆっくりと虚空に浮かび上がり、その最後尾にしつらえられた白亜の翼が花開くように展開した。

 

 極限まで充填されたランサーの魔力は条理を覆す斥力(ベクトル)へと変換され、暗紅の魔杭を標的に向けて射出し始めたのだ。

 

 不和の女神の戦斧が、その神の権能により爆発的な推力を生み出す。矢はさらに加速し、ただ、前に進むことだけを目的とした特攻のための専攻武装へと転じた。

 

 いま、軍神の手に成る奇跡の装甲は、防具であることの頚木を解かれ、本来あるべき姿へと変容を遂げたのだ。

 

 乾坤一擲! それがランサーの選んだ選択であった。

 

 だが哀しいかな。これは彼女にとって分が悪すぎる賭けだと言わざるを得ない。

 

 それはランサー自身もすでに承知していることであった。ライダーがすでに彼女の宝具特性を見抜き、その事実を看破していたのと同様に、彼女もまた先の砲撃からライダーの能力をある程度は把握していた。

 

 対人よりも対軍戦闘に特化した宝具を持ち、超々距離からの攻撃を得手とする。ランサーにとっては厄介な手合いだといえた。

 

 彼女の強みは、常に身に纏う装甲を数千もの個別武装に瞬時に換装できるがゆえの〝戦術の幅〟にある。

 

 それは敵対する相手と己との距離、つまりは間合いの攻防における万能さを意味する。サーヴァントの武装に限らず、あらゆる武器にはその設計思想から導き出される有効距離というものが存在する。

 

 故に、相手が持つ武装が知れれば、その武器が効力を発揮できる範囲というものもおのずと判明するのだ。

 

 己が武器の間合いを違えれば、それはその瞬間をもって、それは無用の長物と化す。

 

 彼女の宝具にはこの齟齬がない。いかなる間合い、いかなる武装が相手であっても彼女はそれに応じて武装を換装できる。距離の攻防において彼女が得られるアドバンテージは破格だと言えた。

 

 自力の勝る相手にでも、その強みを武器に肉薄していくことが出来る。それが彼女の持つ宝具、沸血装甲(マーズ・エッジ)の誇る宝具特性であった。

 

 ――が、敵に間合いの不利を逆手に取る布陣を敷かれた場合、今度はその特性が彼女を苦しめることになるのだ。

 

 相手の特手とする距離では戦わず、相手の苦手な位置から攻めるというのが沸血装甲のセオリー。しかし、ライダーはすでに彼自身が最も特手とする距離での攻防しか許さないという布陣を整えている。

 

 こうなっては。ランサーは不利を承知でライダーの間合いで戦うしかない。なまじどんな距離でも闘えてしまうため、敵に主導権を握られるとじり貧に陥ってしまうのだ。

 

 加えて、彼女の誇る軍神の装甲は攻性に特化した強力な宝具だが、その反面傾きすぎた特性のためにその耐久性は著しく低く、脆い。如何に防御を固めたとしても、この暴風の弾幕には耐え切れずに粉砕されることだろう。

 

 このまま行けば十中八苦、あの城壁に辿り着く前に打ち落とされてしまう。

 

 そして遥かな海上に位置するライダーが、ここまでの攻防によって同様に彼女の宝具特性をある程度は把握しているであろう事は想像に難くない。つまり、結論として、現状における彼女には打つ手がないということになる。このまま、遮二無二攻め込んで玉砕することしかできないのだろうか?

 

 ――――否! 

 

 強大な敵に向かうランサーは、吼える。己の一抹の勝機を謳い上げる。

 

「脆い装甲にもなァ――使()()()はあるぞッ!」

 

 閃紅が奔る。ランサーの持つ二大宝具が秘める神秘が、いまここに最大開放される。

 

「受けよ、ライダー。我が渾身の一投――火葬戯・沸血衝角(マーズ・ラム・インシレネート)――捌けるもんならァ、捌いてみろッッ!!!」

 

 それを受け、旋回する暴風が河面上のランサーへ向けて口を開けた。巨大な咆哮を張り上げんと、巨竜がその顎をこわばらせる。

 

 ――愚策。

 

 黒い水面に一筋の紅い閃光を描きながら迫り来る、輝ける巨矢の偉容を目にしながらも、矢面に立つライダーの視線は冷然とこれを断じていた。

 

 これは自殺行為に他ならない。彼女の宝具がもつ特性は攻性に傾きすぎている。それは何よりの長所であると同時に弱みでもあるのだ。即ち宝具の打ち合いによる、()()()では彼女には分が悪すぎる。

 

 失望だ。このような破れかぶれの特攻で、彼の誇る最強宝具に肉薄しようなどとは片腹痛い。もはや侮蔑にもならぬ悪あがきに等しい。これを愚行と呼ばずなんと呼ぶのだろうか。

 

 案の定、敵の先制に対し撃ち放った暴風の弾幕は迫り来る輝きの矢に次々と着弾し、その装甲を砂糖菓子か何かのように抉り砕いていった。まるで粉雪のように紅い塵片が撒き散らされていく。

 

 これまで、か。――しかし、その苦々しい失望と彼の予想とを諸共に蹴破るようにして、紅き閃光が連なり林立する水柱の中から再びその輝姿を現わしたのだ。

 

 巨大な矢は、真紅の影を残して河口目掛けて水上を滑走していく。

 

「む――!?」

 

 予想外のことに、しばしライダーもその失望に細まった目を爛と剥いた。

 

 最大展開された軍神の装甲は暴砲の吐き出す砲弾と、それに付随するあまりにも破壊的な暴風とが接触する刹那、自ら粉砕することによってその威力を相殺し、主の身を魔龍の(あぎと)から守り抜いていたのだ。

 

 これこそ多重構造製・沸血反応装甲(マーズ・リアクティブ・アーマー)。確かにライダーの放つ弾雨を正面から受け止められるだけの耐久性能は、彼女の宝具にはない。如何に分厚い装甲を形成しようとも、敵の砲撃は受け止め切れずに瓦解してしまうことだろう。しかし彼女はそれでも引くことを考えなかった。

 

 ひたすらに前へ。どうせ粉砕される装甲だというのならば、先に自ら壊せばいい。彼女の認識はその程度のものだったが、兵器の集積概念体である彼女の宝具は、その思惑を理想的な形で再現していた。

 

 反応装甲とは、戦車などの補助装甲として使用される装甲板の事である。二枚の装甲板の間に炸薬を挟んだもので、簡単に言えば、装甲が内部から爆発する力によって、攻撃をはじき飛ばすことで防御するものである。ランサーが幾重にも渡って作り上げた多重装甲は、この反応装甲の原理を再現していたのだ。

 

 ライダーの漏らした驚愕のうめきが、驚嘆のそれに変わるまでの間に矢は竜巻の麓、つまりは敵の喉元にまで迫っていた。

 

 来たる輝きの紅矢を迎え撃つライダーも、それを視止めてようやく牙を剥くようにして笑った。槍兵と騎乗兵。向かい合う視線が、巨壁の如き暴風の隙間から交差した。

 

 瞬間、吐き漏らされた獣たちの咆哮が重なり、大乱の嵐に入り混じってその風速を加速していく――。

 

 ようやく巡って来た尋常なる戦の予感に、ライダーの血潮も熱く滾っていた。彼もまた戦いの果てに栄光を夢見る者なのだ。

 

 暴竜の瞳が、戦乱の愉悦に燃え上がった。

 

「ク――クはははッ、それでこそ戦士よ! 良いぞ、踊って見せろ槍兵! いっそ淑女(レディ)の様にな!! 此方も出し惜しみは無しでお迎えしよう。――さあ謡え! 『輝きし金色の雅嵐(ゴールデン・ハインド)』よ――」

 

 大嵐の剛風が顎から牙を剥き出した、ライダーの誇る巨大宝具。その真名が、今初めて解き放たれる。

 

「――『刻め、咆哮の魔名(エル・ドラク)』!!!」

 

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-5

 思いがけない障害の出現に、さしものセイバーも暫し動揺せざるを得なかった。来るとは思っていた。しかし、まさかこのタイミングとは――。

 

 セイバーの瞳は、遥かな波丘の向こうに垣間見える、紅炎の揺らめきを捉えていた。

 

 それだけで、彼女は既に引くことが出来ないことを悟る。もはやこの場所から一歩たりとも動くことは出来ない。

 

 既に意を決した宿敵を前に、セイバーも瞬時に覚悟を決めていた。送られてくるあの男の眼光がそれ以外の行動を許さない。

 

 両者は既に総てを承知している。もはや口頭による対話は何の意味も齎さない。事此処に至っては、己を示すべきは言葉ではなく英霊としての総てを掛けた一撃。即ち、宝具による最大の一撃によってのぶつかり合い。それ以外にはありえない。

 

 自らの誇りに寄って立つ英霊にとって、それは互いの命を手にとってぶつけ合うに等しい行為だ。剥き出しの命の鬩ぎあいなのだ。

 

 セイバーは始めて見た。この男が見せる、英霊としての剥き出しの矜持を。

 

 凛たちのことも、無論気がかりではあった。しかし、為ればこそこの敵は速やかに下さなければならない相手だ。どちらにしても、この男を避ける方法はない。そして、避ける理由もまた、何処にも見当たりはしないのだ。

 

 なによりも――この男をここまで焚き付けたのは己だ。ならば、この挑戦に応えることもまた、王としての責務。

 

 ――来るがいい。神与の王よ。貴様の渾身の「在り方」、我が総力を持って受け止めてやるッ! ――

 

「――風よ――」

 

 セイバーの手にする不可視の剣から膨大な旋風が解かれていく。吐き出される風の中心にまろび出たのは、全き尊い貴刃の輝き。

 

 そこから放たれる光は、暗鬱たる夜の影に捕らわれていた海と風とを解き放ち、金色の煌めきで染め上げていく。

 

 そう。この光こそ、数多の伝説において無双を誇る人類最高の聖剣の輝き。古今東西、およそあらゆる闇の台頭を赦さぬ人類の灯火。

 

 遥かな波濤の向こうで開帳されるその至高の光を、アーチャーの真紅の双眸がしかと捉える。

 

 巻き起こる風とあふれ出す輝きの前に、アーチャーのサーヴァントはただ万感の思いで感謝の念を呟く。

 

 受けてくれるか――騎士王。

 

 漆黒の剛腕に執られた炎の弓が、そのとき揺らいだ。

 

「――梵天命支柱(ブラフマーストラ)――」

 

 対峙する黄金の聖剣の輝きに呼応するように、夜気を染める炎の色が、赤熱の真紅から目も眩むような白光に変じていく。そしてその炎の隙間から解き放たれた光がいま、その手の内に、確かな白金の弓の形を暴きだしていく。

 

 そこから溢れた光は夜を焼き、そこから発せられる熱量は唯そこにあるだけでアーチャーの足場になっている小船の外装を融解させ、海の表層を沸き立たせている。気化した大量の靄がその周囲を、その姿を包み込んでいく。

 

 セイバーの黄金の剣を包み込む旋風がその聖剣の真名と強大に過ぎる魔力を覆い隠すための鞘だったように、この白金の弓を包み隠していた炎もまたこの弓の発する光と熱とを遮断し、外界を守るために据え付けられていた安全装置であったのだ。

 

 何の遮蔽物もない大海原に向かい合う彼我の距離は、約一キロメートル余り。それほどの距離を隔ててなお、対峙する二つの貴光は闇色の波しぶきを超えて交差し、絡み合い暗い夜の波間を照らし出してく。

 

 漆黒でしかなかった海原は今や、深い紺碧の色味を取り戻していた。その波間に在るものは、夜に冴ざやく海の潮騒のみ。そしてこの距離を経てなお、苛烈に交錯を繰り返す真紅と翠緑の眼光のみ。

 

 先に動いたのは弓兵のほうであった。

 

 緩慢に、そしてそれにも増して厳かに引き絞られた絃と弓の間には、やおら凄まじいまでの光が巻き起こる。もはや、常人の目には害となるほどの圧倒的な光量である。それが瞬く間に集束し、一本の白矢となってそこに収まった。

 

「飛翔せよ。『陽翼はためく光導弓(シャールンガ)!』」

 

 白金の弓から放たれるのは眼も眩むような白光に輝く一本の矢。それは一対の翼をはためかせ、一直線に光の筋を描いていく。

 

 その白光の翼が擦過するだけで海原は引き裂かれ、波しぶきは沸騰し、大気までもが大規模な熱断層となって引き裂かれていく。

 

 眼前に迫り繰る灼熱の気配を、しかしセイバーの視線は冷然と受け止める。

 

 この間合い――剣士が弓兵と対峙するに、はあまりにも不利な条件であるように見受けられるかもしれない。しかしセイバーに怖じる気持ちなどあろうはずもない。なぜなら、この間合は彼女にとっても必殺の間合いに他ならないからだ。

 

 既に手に執る剣はその威光を示すかのように高く掲げ上げられ、あとはその刃を振り下ろすのみだ。この剣が己の手の中にある限り、彼女にとって勝利とは予測ではなく確定された事実に他ならない。

 

 セイバーはただ真摯に、その光の翼目掛けて全身全霊の一撃を振り下ろす。いかな状況であれ、手を抜くことだけは出来ない。そして、しない。そう、決めていたのだから――

 

約束された(エクス)――」

 

 謳い上げられる奇跡の真名。上天へ、そして四方の暗闇へ向けて極光が迸る。地上の星の光を纏め上げ、地から天に昇る万物を照らし出す一条の光の柱が、今、圧倒的な刃となって夜を裂く!

 

「――勝利の剣(カリバー)!!」

 

 見るがいい化身の王よ。この世のあらゆる正義を、その道を歩む総ての者を、等しく照らし導く天に瞬く星屑の大河。これが、これこそが騎士王たる彼女の王道だと、そう謳い言祝ぐかのように、光は奔る。光が溢れる。星屑の怒濤が夜の暗雲を掃い去っていく。

 

 ――及ばない。

 

 誰の目にも明らかであろう。それに挑むにはこの光の翼は余りにも矮小であり、脆弱すぎた。相手は空さえ分断する人類最強の神造兵装。いかなる英霊、いかなる宝具とて真っ向から立ち向かって敵う道理などあろうはずもない。

 

 光の剣は飛来する白光の翼を消滅させ、そのまま黒き空と海とを射手もろともに両断する――――――――――――はず、だった。

 

 しかし。

 

 嗚呼、しかし。ここに一抹の例外が存在する。

 

 ――王よ。騎士達の王よ。王たる〝人〟よ。果たして知っていたのだろうか? 

 

 その聖剣の光が夜を裂き、人を正義へと導く星の光だと言うのなら、この神弓の光こそ夜さえ掃う、あまねく人の正義を照らし出す天上の陽光。そして汝が世の闇を掃わんがため人によって齎され、天に昇る地上の輝きの極点であったというなら、今対峙するその男もまた、神によって齎され、地に降り注ぐ天上の輝きに他ならぬのだという事を。

 

 そう、汝は今こそ知るのだ。太陽に――近づきすぎた者の末路を――

 

「な――に?」

 

 サーヴァントとしてのセイバーの視力は、眩い光の中で一刹那のうちに行われたそれを明確に捉えていた。

 

 白光の翼をはためかせる矢は迫り来る極光の帯に飲み込まれようとした刹那、収束した翼を中心に周囲の空間と世界とを巻き込むようにして反転した。

 

 そしてその虚空だけが漆黒の夜から裏返えされ――次の瞬間、()()()()()()

 

 

 

 テフェリーと士郎、カリヨンの三人はランサーの助けによって新側の沿岸に辿り着いていた。言葉も交わさず河川敷を駆け上がり、人気の失せた異様な雰囲気の繁華街を抜け、闇が鬱積したようなビル群の間を駆け抜けていく。

 

 とにかくサーヴァント達の戦闘領域から逃れるのが先決だった。いつまでもランサーのことについて心を残していては、先に進むことも出来ない。だから、三人はそれを振り切るようにして自らの足で馳せていた。

 

 するとテフェリーの影から滲み出した灯火の光が、彼女たちを(いざな)うように揺らぎ、瞬いた。向かう先は新都の都心部の方角のようであった。

 

 先行する光は眼前の高層ビルに行き当たると、道なりに回りこむこともなくその壁面を一直線に登っていった。地中を進むレプラコーンにとっては何の痛痒にもならないらしいが、余人にとっては眉を顰めかねない通路と思えた。

 

 しかし鬱積するノイズを駆逐するため灯火について先頭走っていたカリヨンは光に続くように跳んだ。そのままビル壁に駆け上がって先を急ぐ。テフェリーもすぐに糸を飛ばしてカリヨンの後を追おうとし、呆気にとられる士郎に急いたような声をかける。

 

「急ぎます、エミヤ様は私に摑まってください」

 

 事実、彼女は焦っていた。事は一刻を争うかもしれないと思われた。仕方のないことだが、もはや彼女の心は焦燥の虜と成り果てているのだ。

 

「いや、待て」

 

 しかし士郎がテフェリーの手を引きとめた。彼女の慮外の焦燥を察し、危惧した。――と、いうだけのことではない。

 

「誰かいるぞ」

 

 その視線の先を追ってみれば、朦朧とした隈のような路地の陰から、溶け出すようにして現れ出てきたものがあった。

 

「っ……あぁ」

 

 先に到達していたカリヨンはビルの屋上からそれを見下ろして息を呑み、そして絶望のうめきを漏らした。

 

 嗚呼、そうだ。自分は何のためにテフェリーに会いに来たのか。()()ならないためだ。()()ならないために彼女のもとへ急いでいたというのに、どうしてこれを失念していたのか!

 

 そこにいたのはモザイク柄のスケイルに総身を包み込んだ、奇怪な男であった。DD――絶対に彼女に合わせてはならなかった筈の相手。

 

「ようやく……。また、会えたな」

 

「……誰です」

 

 磨かれた鏡のような無謬の仮面の下から向けられる視線と声は、過たずテフェリーに向けられている。またか、と彼女は思った。カリヨンと会ったときと同じだった。この男を前にした瞬間から、彼女の中にまたもや得体の知れない感情が巻き起こっていたのだ。

 

 この男は彼と同じように己の過去を知る者なのだろうか? だが抱いた感情は全く別種のものだった。確かにカリヨンの時と同様に不可解ではあった。が、むしろこの男に感じるのは酷薄な嫌悪に近い、今も冷然と向けられて来る殺意とあいまって、この男へ対して沸き上がってくるのは、あの時ほど処理に困るようなものではなかった。

 

 ただ不快で危険なものだとだけ感じた。この男は判ずるまでもなく、彼女の敵だった。

 

 それがこの状況に限っては功を奏した。危機感、嫌悪感、不快感。それらは彼女に根幹に染み付いた馴染みのある感覚だと思えたからだ。きっと、彼女の記憶が手放してしまった過去、彼らが知る以前の自分にとってそれは日常のことだったのだろう。

 

 ならば危惧こそすれ、混乱させられることはない。

 

 加えて、ワイアッドを懸念する心情がそれ以上のこの男についての思考を拒否した。この敵が自分にとってのなんであろうと構わない。今ここを退かないというのならそれはただの障害物でしかないのだ。

 

「そうか、全てを忘れたか……。それでいい。そのほうが……いいことだな」

 

 虚ろに言いながら、怪人は無造作に二人との間合いを詰めてくる。テフェリーと、そして士郎は身構えた。

 

 カリヨンは必死だった。必死に己の五体に命令を下していた、動け、と。しかしその命に従う部位は今の彼の体の内にはなかった。戦ってはいけない。逃げなければならない。そう叫ばなければならないはずの口腔でさえもが、彼の命令を拒絶していた。

 

 仕掛けたのはテフェリーたちが先だった。無遠慮に間合いに入ってくる男に向けて幾重にも輪を描いた銀の絃糸が舞い、士郎の手に一瞬にして現れた陰陽の夫婦剣が弾丸の如く投擲された。

 

 弧を描く飛刀と銀色の筋が、闇の中で瞬くように光を弾きながら怪人の身体に迫る。――が、

 

 暗闇に描かれた筈の銀の弧線が歪んだ。鉄骨でさえ飴のように切り取る銀の線剣は怪人の巌のような腕によって強引に絡めとられていた。

 

 虎の剛爪を想わせる指だった。奔流の如く幾重にも奔った筈の糸は今やそれによって一所に絡めとられ、強引に集約され今にも引き裂かれんとする蜘蛛の巣の様相を呈していた。

 

 そして士郎の放った投刃は、当然のようにその戦慄く蜘蛛の巣に弾かれたのだった。

 

 二人は巨大な壁がじりじりと迫ってくるかのような威圧感を感じた。まるでサーヴァントと対峙したかのような錯覚さえ受ける。この男、何者だ?

 

 士郎は再び新たな双刀を、今度は同じものを一対ずつ四本用意しながら息を呑み、テフェリーは染みひとつない眉根を寄せながら虚空に描いた銀の斜線で牽制する。

 

 カリヨンはあまりの驚愕にその場にへたり込みそうになっていた。足が動かない。解かったのだ。あの男がなぜか異様なほどに強化されているのだということに。

 

 先夜の、そして()()()の比ではない。しかしそれを伝えようにも、声は枯れて喉からは何の声音もでてこない。

 

「お前たちが探している者たちは確かにこの先にいるはずだ。――しかしやめておけ、()()()()()()

 

 なんの抑揚もなく響いたその声に、テフェリーは自身でも驚くほど動揺していた。考えないようにしていたワイアッドの安否についての言及が、彼女の心を抉ったのだ。

 

 そしてそれ以上に、深刻な何かが彼女の五体をからめ取っていた。まるでフラッシュバックに見舞われたかのように彼女の体が躊躇してしまう。これはなんだろうか? 恐怖? 止まってはいけない。動かなければならないはずなのに、なぜか脚が前に出ようとしない。

 

 どうして、こんな時に――

 

「おとなしくしていろ、お前が()()()になる前に終わらせねばならない」

 

 しかし、テフェリーに迫る男の巨躯の前に士郎は立ちふさがった。

 

「させない。お前は今「探している者たち」と言った。つまり、その先にはワイアッドさんだけじゃなく、遠坂もいるってことでいいんだな?」

 

「……」

 

「答えろ。何のために聖杯を求める? おまえの、いや、お前たちの目的は……」

 

 石木の如く、一切の応答は途絶えた。怪人は士郎の存在をまったく無視したまま、真っ直ぐに間合いを詰めてくる。

 

「答えない、か……」

 

 瞬時に意志は決定された。士郎の手の甲から惑うことなく二画目の令呪が消失する。

 

「――I am boon of my sword(体は剣で出来ている)

 

「……退け、土地の魔術師」

 

 詠唱を始めた士郎に対して些かの警戒色を強めながら、それでも男の歩みは滞ることが無い。

 

「――Unaware of loss Nor aware of gain(ただ一度敗走もなく、ただ一度の勝利もなし)

 

 男が迫る。

 

「――I have no regrets. This is only path(ならば、わが生涯に意味は不要らず)

 

 士郎は詠唱を続けながら再び四本の飛刀を投擲した。四枚の閃きが宙空に舞う。

 

 しかし同時に、舞い上がる火の粉と共に怪人の側で実体化したバーサーカーが、仄白い異形を(ふる)わせ、そのことごとくを叩き落した。

 

「――My whole life was(この体は)

 

「バーサーカー、邪魔者を始末しろ」

 

 仄白い狂女が巨爪と白髪を振り乱して棒立ちの士郎に迫る。しかし士郎はそれに対しての防御を取ろうとしなかった。ただ、途切れなく続いていた詠唱が今、ここに完成の時を迎える。

 

「――unlimited blade works(無限の剣で出来ていた)――」

 

 瞬間、炎が奔った。まるで空間を隔てるように、虚と実を飲み込んで幻燈の篝火を灯すかのように境界がぼやかされ、ついにはあらゆるものが変革を余儀なくされた。

 

「これは――固有……結界!? エミヤ様、あなたは……」

 

 そのとき、炎陰から滑り込んできた小さな影が声を上げようとしたテフェリーの身体を抱き抱え、瞬時に加速した。ようやく踏み込む機を得たカリヨンである。

 

 DDの前に立ちふさがる士郎を残し、二人は離脱する。

 

「待って、カリヨン。エミヤ様が――」

 

「構わない! 行ってくれ!」

 

 士郎の叫びと共に炎の境界線がDDとバーサーカーを取り込み、同時に世界が裏返されていく。そうはさせじと、カリヨンたちを追って同様に結界の外に出ようと加速したDDとバーサーカーへ、剣線の雨が降り注いだ。

 

「――――ッッ!」

 

「悪いが、あんたには此処にいてもらう!」

 

 無言のままに士郎と対峙した怪人の内容が、爆発的な怒りによって染め上げられていく。己が内面で埋め尽くした筈の世界を、逆に席巻しかねないほどの憤怒を感じ、衛宮士郎は迫りくる巨壁の如き戦慄に固唾を呑んだ。

 

 

 アスファルトの上にまろび出た二人の後ろで炎の境界線は萎縮し、ついには現実の空間から消失した。

 

「カリヨン、どうして……」

 

「いいから、逃げるんだ。じゃないと、またアイツにやられてしまう。また、あの時みたいに……」

 

「あの時? 何のことです……」

 

「……」

 

 カリヨンは何も応えられなかった。今はただ、冷たいテフェリーの手を引いて走ることしかできなかった。

 

 

 

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-6

 渦の中心には輝くものがあった。

 

 ひどく巨大で、それ故に勇壮なモノ。それは船であった。一般にはガレオン船とも呼ばれる大型の帆船である。大げさなほどに煌びやかに飾り付けられた船体は光り輝き、その偉容はその存在が条理の外にある事を如実に表していた。

 

 だがその船体には無視することのできない、明確な破壊の痕があった。

 

 その船体は貫かれていた。ランサーの放った軍神の矢は暴風の城壁を突破し、敵の本丸への到達を果していたのだ。しかし、巨大な帆船宝具はそれが何の痛痒でもないかのように依然として高偉大な渦の中心で荒ぶかのごとき輝きを放っている。

 

「不覚であったわ」

 

 船体に深々と突き刺さった煌矢を見下ろし、さしものライダーも声を落とす。よもや、これほどの破壊を受けるとは思っていなかった。

 

 次いで、ライダーは眼下に血色の女を見据える。

 

 その背景には旋風によって天空に舞い上げられていく赤熱の砕氷(ダイヤモンド・ダスト)が、僅かな月の光を捉えて瞬いている。

 

 いまやその暴風の柱は中空に散華した透石の欠片によって赤煉のブリザードへと変容させられ、筆舌に尽くし難い美しさをかもし出しているのであった。

 

 それは粉砕され中空に散華する、軍神の装甲の成れの果てであった。

 

 二人のサーヴァント達はその戦場を、絢爛たる帆船宝具の甲板へと移していた。

 

 甲板に降り立ったランサーの姿は暗夜の月光に照らされる一片の粉雪をおもわせた、しかしその軽やかな所作とは裏腹に、しなやかな五体に刻まれたダメージの程は見るまでもなく深刻であった。

 

 放出し尽した軍神の装甲はもはや僅かな要所を残すのみとなり、彼女の総身は余すことなく鮮血に濡れていたのだ。

 

 だが、それでもその美貌から不適な笑みが消えることはない。

 

「なるほどなァ――てめェ、海賊か」

 

 互いの武を合わせてみて、ランサーにもようやくこの敵の正体が飲み込めはじめていた。

 

 ひとえに海賊といえど、世に名だたるその偉名・悪名は少なくないだろう。しかしそれらはあくまで賊人の名に過ぎない。英霊として聖杯に呼ばれるにはふさわしくない。

 

 だがライダーの英霊としてサーヴァントとして召喚されたこの男は間違いなく海賊だ。ならば、この男はいったいなんだというのだろうか?

 

 そう、この男こそ人類史上二番目、そして生存した状態では初めてとなる世界周航を成し遂げ、海賊でありながら時の英国女王に使え騎士となり、仇敵スペインからは悪魔の権化とまで呼ばれ恐れられながら、その偉業は今もなお英国の海国魂の象徴として賞賛され続けている無双の海洋の雄。

 

 騎士であり、冒険家であり、英雄であり、そして悪魔とまで呼ばれた海賊。そんな男は悠久たる七つの海の歴史においても他にありはしない。

 

「ドレイク。――サー・フランシス・ドレイク!」

 

 その金属のような眼差しが、吊り上がった口角が、それを無言の内に肯定する。

 

 無敵艦隊を破った男。16世紀英国きっての私掠船船長(プライベーティア)。まさしく世界を又に駆けた無双の益荒男。

 

 ランサーは弾けそうなほどに燃え滾る総身を猛るに任せ、その両の手に得物を引っ提げたまま甲板の上を馳せた。これほどの豪勇とあっては、相手にとって微塵の不足なし!

 

 右手には光り輝く紅水晶の槍を構え、左手には既に砕け片刃となった大戦斧を執る。

 

 さらにはその戦斧を自らの後方に叩きつけ、不和女神の権能により推力を得てさらなる加速をはかる。

 

 その加速が予想外だったのか、それとも重傷の敵があえて攻勢に出たことが予想外だったのか。ライダーは反応できずに立ち竦んでいる。

 

 ――勝機。

 

 しかし、格好の標的を前にしながら戦士は直前で踏みとどまった。 

 

 次の瞬間、ランサーの足許の甲板がいきなり炸裂して凄まじい轟音が巻き起こったのだ。

 

 なんと、それは甲板の下からの砲撃であった。本来は船体の側面の窓から放つ筈の砲口が直上を向き、甲板の上にいるランサーを狙ったのだった。

 

 この容赦のない奇襲戦法は、やはり常道なる戦士の鬩ぎ合いとは一線を画す、まさしく無頼の野戦術であった。無論、まっとうな船乗りには慮外の戦法だといえただろう。しかし、彼女がいま敵にしているのは並の船乗りでもなければ十把一絡げの英雄でもないのだ。

 

 しかし、彼女を死の寸前で踏みとどまらせたものとは、はたして彼女の霊的直感や神がかり的な危機感知力から来る行動だったのだろうか? 否、そうではない。とはいえそれは理知的な戦術的思索から導かれたものというわけでもなかった。

 

 既に烈火と化していたこの蛮勇を死の寸前で押し止めたもの。それは彼女自身の戦士としての嗅覚とでも言うべきものだった。戦場に漂うほんの僅かな空気の変化、それらを五感を駆使して機敏に感じ取ることで戦場を己が庭の如く馳せる能力。言うなればそれは根っからの戦闘狂ならではの勝負勘と言えるものであった。そして、そうでもなければこの奇襲を躱すことは出来なかっただろう。

 

 後方に構えていたプテロ・エリスを砲撃の寸前に前方へ叩きつけて急停止し、同時に反動で後方へ大きく跳び退ったランサーはすんでのところで、その下方からの砲射線から逃れていた。

 

 しかしそれに気を取られた隙に、彼女は暴風と爆煙の向こうにいたはずのライダーの姿を見失っていた。それは時間にすれば瞬きほどの時間であったが、互いの命を取り合う戦場において、一瞬といえども敵を見失うことは敗北に直結する。

 

『――何処だ!?』

 

 頭上。ランサーはすぐさま敵の位置を把握した。しかしそれと同時に、押し隠すこともない、真上からのしかかるようにして迫ってくる重圧を感じた。

 

 いつの間にかメインマストの戦闘望楼(クローネスト)上にいたライダーが何か、こちらに向けて丸太のようなものを構えている。それは筒のようにも見受けられた。はたまたラッパの如き楽器の類か――と、思えた次の瞬間、そこからまた耳を聾するような暴風が放たれたのだ。

 

 銃撃。今ライダーが手にする丸太は、なるほどよく見れば前装式のパーカッション・ピストルのようにも見えなくない。だが、それは率直に銃と称するのが憚られるような代物であった。

 

 あまりに巨大な銃身はまさしく鋼鉄の丸太と見受けられ、その銃口の下には刃を上向ける形で据えつけられた舶刀(ソード・カトラス)が、これもまた単純に称するなら特大の鉈とでも言うべき兇器が、鈍い光を放っているのだ。

 

 頭上からの致命的な狙撃に晒されたランサーはしかし、コンマ数秒の間に体勢を立て直し、向かってくる銃弾を『鋳造されし不和の双翼(プテロ・エリス)』で弾き落とそうとした。

 

 しかし既に罅割れて片刃となっていた戦斧は、その衝撃を受けきれずに粉砕されてしまった。

 

 これほどの威力! この銃撃は先ほどの艦砲射撃と同様に〝暴風〟を纏う『砲弾』と相違ない!

 

 おそらく、あれらの兇器はこの船の一部に過ぎないのだろう。今ランサーの頭上から打ち放たれたのは先の砲撃と同じく、超圧縮された嵐を纏う暴竜(スーパーセル)の顎に他ならないのだ。

 

 愛用の戦斧を粉砕されながらも、ランサーは更なる砲撃を退けようと跳んだ。

 

 しかし、それを許さぬものがあった。そのとき死角からランサーの細い首に、何かが蛇のように絡み付いてきたのだ。それはロープだった。

 

 マストに帆を張るための荒縄が、まるで意志を持つかのごとく女の細い首に巻き付き、戦士の身体を絞首刑に処される罪人の如く宙吊りにしてしまったのだ。

 

 無論、このような不可解なロープの生動が偶然である筈がない。

 

『ようやく懐に入ったかと思えば――』

 

 さらにランサーを絡め取ったロープの反対側を手に取ったライダーはそのままクローネストからメインマストを垂直に駆け下りる。すると最上部のメインヤード・アームを支点にしてランサーの身体はさらに高く、高く吊り上げられていくのだ。

 

『――ここは、奴の庭か!』

 

 くぐもるような苦悶の声を漏らしながら、ランサーは内心で確信する。この船体そのものが。ライダーにとって、魔術師の工房と同じように機能する己の陣地なのだ。波も海も風も、この船を取り囲む万物は彼の味方であり、この船上に据えつけられた総ての備物が、彼にとっての利器であり宝具に他ならないのだと。

 

 そしてマストを流星の如く駆け降りるライダーと、荒縄に吊り上げられるランサーはそのまま宙空で交差する。

 

 そのすれ違いざまにライダーの持つ巨刃の輝きが残忍な色合いの光を帯びて彼女の身体に振り下ろされた。

 

 流星の如き鉄塊が、女の柔らかな体内を侵略し、甲板には朱色の雨が夕立の如くこぼれ落ちた。

 

 

 

 

 まるで流星の群を思わせる剣の雨だった。四方八方から乱舞してくる複製宝具がバーサーカーとDDの頭上へと降り注いでいく。

 

 よもや、このような極東の地にこれほどの極技を可能とする魔術師がいようとは! さしもの無貌の怪人もこの事態には驚愕せざるを得ない。

 

 それは現実を侵食する幻想であった。つまり今彼が目にする光景は幻覚の類でもなければ異界でもなく、目の前の少年が作り出した幻想の具現化した姿なのだ。

 

 固有結界。言うまでもなく魔術師にとって最終奥義とさえ言われる大魔術。この怪人とて、もともとは魔道の家門に生を受けた身の上であり、眼前で行われている事がどれほど規格外の怪異なのかは推し量るまでもなかったはずである。

 

「……このままでは埒が明かんな」

 

 しかし、仮面の下から発せられた声は身の内の激情にもかかわらず、あくまでも冷徹であった。

 

 市街地戦でこそ、その真価を発揮するバーサーカーはこの固有結界内ではまるで力を出せない。ここには荒涼とした大地とその上に墓標の如く立つ無限の剣しかないのだ。故にこの狂女の火種では小火(ぼや)をおこすことも出来ない。

 

 そしてDDも繰り出される宝具を相手に間合いを詰められないでいる。複製とはいえ、これらの刀剣はその魔力の密度も武器としての精度もオリジナルの宝具に順ずるものなのであった。

 

 いくら彼が超人的なまでに能力を強化しようとも、簡単に制することができるものではない。

 

 しかし、士郎の方もそれだけでは決定打となり得ない。単純な戦闘力で自身を上回る敵を二人も相手にしなければならないのだ。結果内で新たに宝具を作る余裕も猶予もなく、士郎は林立する剣を敵に目掛け投射し、間合いを維持し続けるしかなかった。

 

 どうにかして、結界が崩壊するよりも先に敵を倒す算段をつけなければならない。

 

 そう考えたときだった。やおら怪人は動きを止め、左腕を掲げ上げた。士郎は咄嗟に身構え、モザイクの男ではなく、傍らのバーサーカーに注視した。男がなにをしようとしているのかを過たず察したからであった。

 

「狂戦士よ、汝が第二のマスターの名において命ずる……」

 

『令呪』! サーヴァントを統べる三画限りの絶対命令権。士郎自身、未契約のそれを魔力の補助に流用して切り札としていたが、用法こそ異なるものの正式にサーヴァントと契約された令呪はむしろ士郎のそれ以上に切り札としての意味合いを持つのだ。

 

 正式に契約された令呪はサーヴァントにあらゆる命令を強制できるだけでなく、サーヴァント単体では成しえない奇跡をも可能とさせることが出来るのだ。

 

 それを使用する以上、基礎能力の芳しくないバーサーカー単体では成しえない攻撃を行うことが出来るということだ。しかし――

 

 紡がれた言葉は予想外のものであった。

 

「自壊せよ、バーサーカー」

 

 なにを――ッ!? 

 

 そのとき、バーサーカーが凄まじい炎とともに燃え盛り始めたのだ。

 

 その灰白色の矮躯から彼女の全魔力が悲鳴とも嬌声ともつかぬ奇声と共に溢れ出し、火炎の大波となって空間を埋め尽くしていくのだ。

 

 まさしく極舞の炎。何事かと眼を見張った士郎は反射的に無限の剣舞を見舞うが、無数のそれに貫かれながらもバーサーカーの炎の勢いは止まらない。

 

 その背後から響く声。「そうだ。バーサーカー。全総力をもって、この空間そのものをおまえの炎で焼き尽くすのだ」

 

 そして極舞の火炎は無限の剣舞をも飲み込み、紅蓮で飽和した固有結界の内部は熱せられたガラスのようにひび割れ、砕け散った。

 

 まるでバックドラフト。結界の綻びから流入した現実がバーサーカーを火種とした紅蓮となって膨れ上がり衛宮士郎と言う幻想を内側から崩壊させたのだった。

 

 灼熱の海と化した空間から現の世界へと放り出された士郎は、冷えたアスファルトの感触からそれを悟った。爆発の衝撃でそれ以外の感覚器官は用を成していなかった。炎はそれ以上燃え盛ることもなく、すぐに周囲は夜の世界へと修正される。

 

 そして最初に立ったそのままの位置で、同じように屹立する灰白色の女の身体はそのまま四肢の末端から真っ白な灰燼となって夜の虚空へ散華していく。

 

 そして最後に一瞬だけ背後の男を振り返ったその瞳には、もはや狂乱の座にあらざる理性の光が宿っているかに思えた。

 

 しかし彼女はただ一言の言葉も発することなく、ただその瞳に憐れむかのような物悲しい色合いを浮かべただけ。

 

 そして主であった男に一瞥を送った後、そのまま塵となって消えていった。

 

「――――――――。」

 

 無貌の仮面の男はただ静かにその様を見送っていた。

 

 しかし、ここで士郎は敵の選択を訝っていた。多少の火傷を負ってはいるが未だに彼自身は健在だ。すぐに闘志を掻き立てて立ち上がる。趨勢はそう悪い方に傾いているわけではないのだ。

 

 むしろバーサーカーの自壊こそ不可解だった。それが賢明な判断だとはとても思えない。この敵にとって結界の破壊が急務だったのだとしても、サーヴァントを自爆させてまで強行することではない。

 

 たとえ令呪で魔力をブーストしていたのだとしても、彼の固有結界がそう長くは続かないということくらいは予想できた筈なのだ。そしてそんな安直な行動をするような敵とは思えなかった。

 

 ここに来て、士郎は殊更に警戒心を強めた。この不可解な行為には必ず裏がある。しかしそこにあるであろう真意を予期しえる手段が彼にはなかった。故にここは間合いを空けて様子を見るべき――。

 

 だがそう判じた瞬間、対峙する男の体から爆発的に湧き上がる魔力を見て取って、士郎は意志とは逆の行動にでていた。そうせざるを得なかった。

 

 最後の令呪を使用する。躊躇する暇は恐怖と焦燥によって削り取られていた。投影するのは彼に許される最高最強の剣。

 

 彼の手の中に眩いばかりの光があふれ出す。そう、これこそかの騎士王の代名詞たる人類最強の聖剣に他ならない。人ならざるものの手による神造兵装。故に彼の秘術を持ってしても完全に複製することは難しいが、しかし真に迫ることは可能だ。

 

 その選択は正しく今彼のとりえる最高の手だ。そうするしかなかった。それにすがるしかなかったのだ。それほどに今この怪人の体から迸り出る魔力の奔流と、もはや異質などいう言葉では表現し切れない異貌の威圧感は、彼にそれ以外の対策を選ばせなかった。

 

 至高の聖剣を構える士郎に向けて、男は無造作に歩み寄ってくる。もはや手加減など考えられない。間合いに捕らえ次第、斬り捨てるしかない!

 

「うぅあああああぁぁぁぁぁぁ!」

 

 一閃。しかしその斬撃を振り切るより先に、その攻撃が空を切ったことが分かった。男の姿は残像すら残さず、視界から消失していたのだ。

 

 敵の姿を求めて幾度か視界を巡らせた後で、衛宮士郎はようやく、己が手にする剣がその中腹から()()()()()()()()ことに気付いた。

 

「そ……ん、な」

 

 信じられないようなものを見たかのような声が、他人のものであるかのような自分の口から漏れる。今になってやっと己が崩壊を悟った聖剣の複製は、そのまま透明な砂のようになって霧散した。

 

 不条理などという言葉では表しきれない衝撃に、その謎についての懐疑が胸中に湧き起こる。しかし思案する暇もあらず、次の瞬間には彼の身体は木っ端の如く吹き飛ばされていた。

 

 それが敵の拳打によるものなのだと知ることさえ、彼の反射神経では不可能だった。加えて今まさに炸裂せんとした聖剣が破壊されたことにより、彼の身体は想像を絶する負荷に見舞われていたのだ。このままでは立ち上がることも出来はしない。

 

 強すぎる! これではもはやサーヴァント以上ではないか。いったいどうなっているのか解からない! 先ほども人とは思えないほどの力を見せていたが、また段階的に力が強化されたような印象だった。

 

 しかし薄れゆく思考の中で、士郎はそんな敵の不可解な強大さよりも、砕けた聖剣の本当の主のことを考えていた。

 

 まさか、彼女の身にまでこのような惨劇が見舞われているのでは、という危惧を夢想したのだった。だがそれ以上の思考は今の彼には許されていなかった。

 

 

 DDは倒れ伏す士郎に止めを刺そうと歩み寄る。

 

 ――が、そこでおもむろに脚を止めた。それは己ですら予期しなかった制動であった。不意に全身に襲い掛かった激痛が、男の意図を無視してその脚を折ろうとした。

 

「――ぐ、ぬぅうぅううッ!」

 

 苦悶の呻きを漏らしながら、それでも男は屈することを拒んだ。そして暫し案山子の様に佇んだ後、ゆっくりと、本当にゆっくりと脚を踏み出す。たった一歩進んだだけで途方もない痛みが彼の身体を襲う。体中の細胞が崩壊を始めているのだ。

 

 ――やはり、サーヴァント二騎以上には、身体のほうが耐え切れない、か――

 

「急が、なくては、な……」

 

 忌々しげに漏らして、倒れ伏す士郎には目もくれず、踵を返した。

 

 そして不意に、崩れ落ちたバーサーカーであった白灰色の塵を見眇めた。

 

 先ほどの、バーサーカーの一瞥。

 

「……私を、憐れむか……バーサーカー。そうだな。本当に憐れで滑稽なのは、確かに私自身のことに違いない。……それでも」

 

 ――もはや、止まれぬ。――と、独白ともいえぬような声を口腔内に篭らせて、怪人は痛覚を忘却したかのように一気に加速し、その場から走り去った。

 

 

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-7

「ぐッ――う、ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――ッ!!!!!」

 

 セイバーは咆哮と共にありったけの魔力を総動員し、聖剣へと注ぎ込んだ。何が起こっているのかは、もはや理解の外だ。

 

 アーチャーが打ち放った矢を聖剣の貴光によって打ち落とそうとした瞬間、空間を捲りながら反転したそれは、世界の総てを一瞬で巻き込み、一切の白色にて埋め尽くしたのだ。

 

 既に圧倒的な光量の前に視力は機能していない。ただ、それでも研ぎ澄まされた直感だけが明確な事実を告げていた。そうしなければ、待っているのは死すら置き去りにした瞬滅という憂き目に他ならないのだと。

 

 そうして幾何の後、この夜空を遍く覆っていた埒外の白光はまた空間を反転するようにして去り、聖剣の光は夜空に薄い一筋の光線を描いて途絶えた。

 

 アーチャーの放った矢が起こした奇跡の全容とは、いかなるものだったのだろうか。

 

 それを端的に解説するならば、つまるところ、その矢は着弾点に擬似的な「太陽」つまり怪異なる恒星を出現させたということになる。

 

 それがたとえ秒に満たぬ数瞬であろうとも、それほどの近距離から浴びせられる太陽そのものの熱と光は、この世界のすべてを焼き尽くして余りあるほどの膨大なエネルギーである。

 

 それが化身王ラーマの持つ神蔵兵装『陽翼はためく光導弓(シャールンガ)』の起こした奇跡の全容であった。

 

 矢の着弾点に生み出された灼熱の星が天空地表の総てを等しく焼き尽くすという、単純明快にして強力無比なる神与の超兵装。神でさえ殺せぬ不死不滅の魔人をも殺しきったという、まさしく神話の再現であった。

 

 それを齎したのはヒンドゥーにおける三大最高神(トリームルティー)の一柱、世界の維持と救済を司る至高神「ヴィシュヌ」。人と成りてラーマの身体に宿る神性そのものでもある。

 

 その名は「遍満」「広く行き渡る」という意味を持ち、つまりは遍く陽炎と光線の神格化した姿である。すなわち、あらゆる生命を生み出し、その命の根本を支え育む性格を持つ救世の神でもあるのだ。

 

 その神格を最大顕著させるのがこの神弓、シャールンガである。あらゆる領域に到達し遍満する『対〝域〟宝具』。その本質は星さえ焼き尽くす威力にあらず。遍く世界に疾く届くという光の性質、すなわち『絶対着弾』こそがその権能の真価であった。

 

 もしも市街地で使用されたなら、その被害は至高の聖剣である約束された勝利の剣(エクスカリバー)を持ってしてもなお比較になるまい。

 

 その威力は対軍レベルの運用ですら、およそ新都一体を焦土と化して余りあるほどだ。

 

 アーチャーがなぜこのような場所を選んだのかは明白だった。こんな超宝具を地上で使うことなど、できるわけがないからだ。

 

 辺りは既に人の世界ではなくなっていた。海原だけでは飽き足らず、露出した海底までもが一瞬で蒸発し、灼熱の蒸気に歪む天蓋と気化した岩盤とが、まるで坩堝の中で混じりあうかのように攪拌されている。

 

 超高熱と怪異なる重力場によって歪み捻じれた一帯の虚空は世界から切り離され、地獄という形容でさえ生温い異界と化していた。まるで彼の神話に謳われる〝乳海攪拌〟の再現を見るかのようでさえあった。

 

 これほどの怪事に見舞われながらセイバーが存命し得ているのは、ひとえにエクスカリバーの閃光が出現した『太陽』から降り注ぐ致命的な白光と陽炎とを裂く衝角として機能し、その身を恒星風(フレア)の直撃から守りぬいたからであった。

 

 無論、白熱する恒星からあふれ出した荷電粒子エネルギーの奔流を真っ二つに裂いて見せた騎士王の聖剣こそ驚愕に値するものであったといえる。そうでなければ、回避も防御も不可能と言えるこの超宝具の炸裂を前に、何人たりとも生還することは叶わなかったに違いない。

 

 もはや敵を視認することすらできない状況の中、粥の如く()()()()に沸騰する大波の奔流を両の足で制しながら、それでもセイバーは敵の姿を探す。

 

 双方が健在である以上。まだ決着はついていない。そしてその瞳はいまだ己の勝機を見失っていない。

 

 確かにアーチャーの宝具はエクスカリバーに競り勝つほどの威力とエネルギー量を誇るかもしれない。しかしセイバーはこの戦いを不利だとは考えなかった。

 

 陽翼はためく光導く弓(シャールンガ)はその性質上、至近距離では使用することができない。遠距離射程(ロングレンジ)もしくは有視界外射程(アウトレンジ)からの運用が前提となる。その運用条件においては、聖剣以上に困難を伴う代物なのだ。

 

 ゆえに、中距離射程(ミドルレンジ)以下からでも使用できるエクスカリバーにこそ近接戦での有利がある。いくら破格の威力を持つ宝具同士とはいえ、剣と弓とが持つ性質の相性は依然として変わらないのだ。

 

 しかし連峰もかくやとうねる高波の上を駆け出そうとしたセイバーの膝が、そのとき力無く折れた。

 

「――ッ」

 

 彼女の身体はすでに持てる魔力を使い果たしていたのだ。そしてその小さな身体は、暴虐の限りをつくされ沸騰しながら荒れ狂う怒涛によってさらわれ、攪拌される深海まで、一気に連れ去られてしまった。

 

 そこでセイバーの意識は暗転した。

 

 

 

 

 悔恨に顔を歪ませる男の姿があった。

 

 血溜まりに膝を突き、自らが死に至らしめた戦士の亡骸を前に、慟哭せんばかりに肩を震わせている。

 

 手の中にあったのは女の姿だった。女神もかくやといわんばかりの完璧な美貌。まるで死することで始めて完成したかのような奇異な印象さえ伺えるその女の死に顔に、無双の英雄は苦悩する。

 

 彼は常に戦場でそうしてきたように、ただ、当然の如く敵を打倒しただけだった。それは彼とっては至極ありふれた作業でしかない。しかし、まさか敵を打ち倒したことを、これほどに悔いる日が訪れようとは――。

 

 男は人目を憚ることなく慟哭を繰り返す。――嗚呼、これほどの稀有なる美貌と知っていれば、こんなことにはならなかったものを――

 

 やがてその光景はある神話の一幕として永劫にわたり人々の記憶に留まり続けることになる。

 

 ただ、無双の大英雄の数ある悲哀の一幕としてだけ。

 

 故に、死した女の心胆に疑問を寄せる者は皆無であった。

 

 その本人を除いては。

 

 ――声が、聞こえる。

 

 彼女を蔑み、蝕み続ける声が。まるで永遠に木霊し続ける残響のように、永遠となった彼女をいつまでも苛み続ける。

 

 女は散った。戦場で、ただ呆気なく。だがそれは戦士としての彼女が望みうる最後であった。雄々しく、ただ激しく、軍神の如く戦場を馳せる――それは間違いなく彼女の本懐だった。

 

 しかし、望むままに戦場で散ったはずの彼女を、後世の人々はあざ笑った。神に惑わされ無謀な戦いに赴いた愚かな蛮族の王、と。

 

 敵うはずもない大敵に挑み、一矢報いることさえ出来なかった愚かな女、と。

 

 そう、女。お前は戦士だなどと嘯いておきながら、その実はただの女だったのではないか? 

 

 ――。

 

 強大な敵を前にして、震えることしか出来なかった哀れな小娘。

 

 ――う。

 

 戦場に迷い込んだ鼠、竦くんだ手足に気付けない愚鈍。

 

 ――ちが、う。

 

 女神の姦計に操られた、浅はかなる愚者。

 

 ――――違う。

 

 戦士の風上にも置けぬ臆病者。

 

 ――違う! 違う!!

 

 どう違うのだ? あまつさえ、死体と成り果てながら敵の憐憫を誘うその顔が、戦士のそれだとでも言うのか?

 

 ――――――――――ッ。

 

 終わりはあっという間だった。いつの間にかこの胸は貫かれていた。

 

 なんて、あっけない、終わり。

 

 それでも、彼女はその結末に文句など無かった。敗北したことにも、惨死したことにも悔いなど無い。

 

 ただ、ひとつだけ。確かめなければならないことがあったのだ。

 

 最期の時。最後の一戦。あの時のことを。

 

 相手はギリシャ最強の大英雄。打ち震えこそすれ、怖じる理由などあろうはずも無い。だが、あの時本当に自分は戦士としての本分を全うすることができたのだろうか?

 

 解からなかった。誰よりも苛烈に輝くはずの華は、最後に自身の最も尊いものを信じきれなくなった。

 

 自分は自らの手で己の尊信を汚してしまったのだろうか? ならば、それまでの勝利も敗北も、総ての理由も、あの時の胸の鼓動でさえも、彼女は己の手で無意味なものへと貶めたということになる。

 

 ――確かめなければならない。もう一度、死力をつくせる闘争の機会を持って。それを己に問わなければならない。

 

 だから――もしも、もしももう一度、それを確かめられる機会が得られるとするならば、今度こそ自分は、どんな強大な敵にも立ち向かって見せるだろう。そう、己が本当の戦士であったことを証明するために――。

 

 それが彼女――アマゾネス・クイーン、ペンテシレイアの聖杯に賭ける悲願であった。

 

 

 

 輝ける甲板の上で、いま、一人の女が血溜まりに伏していた。

 

 もはや甲板はそれ自体が赤く染まっていた。滑る真紅の血溜まりの中でそれでもなお輝きを失わないブロンドが逆に滑稽でさえあった。

 

 ライダーは歩を進める。もはや全身が皮一枚で、かろうじて繋がっているだけの相手である。戦うもなにもないだろうが、生きているなら止めを刺さねばならない。

 

 しかし――美しい。血溜まりに伏せる女の横顔にライダーは感歎し、改めて深い息を漏らす。どうして血に伏せる女の、無様とさえ映るはずのその姿が、横たわる女神の艶姿さえをも想わせるのか。

 

 その生気を失った美貌は、先ほどのランサーの姿から比してもなお損なわれていない。いや、それどころか、今地に伏せるこの姿こそがこの女の真の美しさを表しているのではないかと思えるほどだ。

 

 そこで、ライダーの歩みが止まる。

 

「――――ッ!」

 

 ライダーはその冷えた金属のようでさえあった眉根に、狼狽とも取れる驚愕の相を浮かべた。しかし、それも無理からぬこと。

 

 既に死に体であったはずの敵が、まるで淡いまどろみの中から目覚めたかのようにゆっくりとその身体を起こしたのだから。

 

 月の女神が寝床から立ち上がるかのように、血溜まりの中で身動(みじろ)ぎする女の艶やかな口角は、何かを皮肉るかのように不敵に釣りあがったままだった。

 

 自らの手で、その肺腑の内までをも両断したはずの相手が立ち上がるという、この不条理のカラクリを知ったとき、さしものライダーもその目を眇めざるを得なかった。

 

 見れば、襤褸の如く引き裂かれた女の身体を、輝く血色の何かが繋ぎ止めていた。それは無数の(かすがい)であった。大小のきらめく金具がこの女の柔肌を縫いとめ、辛うじて人の形を保っていたのだ。

 

「便、利な……もん、だろ?」

 

 さすがに言葉もないと言った様子のライダーを差し置き、ランサーは絞り出すような艶声とともに、肺腑に残る溜血を吐き出した。

 

 既に紅く染まっていた甲板に、新たにどす黒い血だまりが出来た。

 

「なァ……、戦、士に、とって大、事なものは、……なん、だ?」

 

 向こう側が見えるほどに風通りのよくなった腹や胸、千切れかけていた肘も袈裟懸けに両断された身体も、強引に接ぎ合わされていた。しかしこの女はそれにまるで頓着していないかのように、一本の槍に縋りながら強引に立ち上がり、真っ直ぐにライダーを見つめてきた。

 

 血色の双眸に、盛る焔の如き金色の光を宿しながら。

 

「勝ち……負けじゃ、ねぇ。――身体の生き死にでも…………ねェよな……」

 

 もはや呼吸ともいえぬ血色の嗚咽を吐き漏らしながら、女は懸命に言葉を切り出す。ライダーはそれをただ黙して聞いていた。

 

「大事……なのは、魂だ。戦士、としての――魂の、在り、方だ! …………そうだろ?」

 

 暗殺者の陰惨な罠によって自らの死因となる傷を割り開かれ、そして今この海洋の豪勇の前を前にして頼りとする宝具も魔力も放出し尽くした。

 

 五臓六腑は切り刻まれ、もはや立っていられる時間がどれほどあるのかも分からない。――それでも、

 

「あたしは、還るぞ。今度こそ、――」

 

 それでも、ランサーは血を吐き散らしながら、それでも壮麗さを失なわぬ朱色の声を漏らす。

 

「――戦士の、真に、あるべき、場所に――」

 

「……敬服しよう。そしてこれまでの非礼を詫びよう、勇壮なる戦士よ。……そして、それにも増して……貴殿という女は、美しい」

 

 彼の大英雄の悔恨が、この海洋の雄にも理解できた。この女は男女の持つべき尊さを併せ持っているのだ。

 

 闘争に散り行く雄性の尊さと、死してなお美しくあるという雌性の尊さをこの戦士は併せ持っているのだ。その在りかたは奇異でありながら、どうしてこれほどまでに美しく尊いのだろうか。

 

 その美しさが尊いのではない、この女のその在りかたこそが何よりも尊く、美しいのだ。

 

 眼前の女の瞳に、何かを護ろうとする瞳がみえた。

 

 彼は、その瞳を知っている。

 

 

 ――グローリアーナ!※ ―― 

 

 

 ――おお、グローリアーナ!!――

 

 

 海洋の雄の心に怒濤の如く蘇った歓声、そして鬨の声。

 

 かつて仰ぎ見たただひとりの女。己の心の在りかたを必死になって護ろうとしていた女。己の在り方に殉じることを、総てにおいて優先した稀代の女王。在りし日の『我が女王(マイ・クィーン)』の威容。

 

 それに劣らぬ女が、目の前に居るのだ。

 

 ライダーの五体を、その周囲を、荒れ狂う旋風となって熱狂の歓喜が駆け抜けていく。

 

 その熱風に蒼ざめる頬を晒しながら。ランサーは杖代わりにしていた槍を構える。萎える足で、震える五体で、それでもなお右腕のみで掲げられた槍の穂先には未だ決殺の気配が宿る。あと一刺し、それがこの戦闘においてランサーに残された余力の総てとなった。

 

 充分だと思えた。槍兵は心の底からそう確信する。

 

 趨勢は決している。もはや勝機など望めないのかもしれない。だが迷いはない。これこそが。彼女の望んだ戦いなのだから。

 

 勝敗などはどうでもいい。そんなことは二の次なのだ。

 

 ただ――心の在り方を守り抜くために。最後まで戦いながら死ぬために――

 

 今にもばらばらに分解しそうな身体を、文字通り継ぎ合わせ、赤黒い血だまりの海を一陣の煌めきが疾駆する。

 

 戦士として恥じることのない最期を求めて、待ち続けていた。この戦士たる己はいつか、そうやって、誰もが焦がれるような、雄々しき闘争によって――華と、成るのだ。

 

 負けるつもりなどなかった。

 

 でも負けてもいいとも思った。

 

 そんなことは、関係ないのだ。

 

 そうだ、勝敗が重要なのではない。

 

 なら、――今この胸に怖じるものはなにもないではないか。

 

『ああ、そうか』

 

 欲しかったのは子供みたいな、どうでもいい自己満足なのだ。でもきっと戦士が戦場に向かうのに必要なのは、いつだってそんなちっぽけなものなのだ。それだけで、それさえあれば――きっと笑って死ねるのだから。

 

「――ハハッ」

 

 不意に、口腔の奥から笑いがこぼれた。

 

 心の底からおかしいと思う。解かってしまえば、なんということもない答えだ。

 

 こんなことを考えるなんて、らしくない。

 

 そうだ。本当に自分らしくなかった。

 

 目の前に敵がいて、この手には一本の槍がある。

 

 それが全て、この世界の全てなのだ。

 

 柄にもなく難しく考えすぎていただけだ。

 

 一番、大事なことを忘れていた。ただ、楽しめばいい。ただ純粋に。あの頃、仲間と共に戦場を馳せた時のように。

 

 闘争の中で全ての中身が抜け落ちて、自分がただひとつの個に戻る。熱い鼓動だけが私を私にしてくれる瞬間。

 

 ただ闘争の渦に酔いしれればいい。戟尺の刹那に総てを賭け、高鳴る鼓動が、痛みと恐れとをかき消していく。

 

 そうだ。この胸の高鳴りだけは、誰にも嘘だとは言わせない。

 

 たとえ次の瞬間にこの鼓動が止まったとしても、私はずっと私のままだったのだ。

 

 だから戦うのだ。己が己であるために。

 

 そして、戦士(おんな)は微笑んだ――誰よりも荒々しく、ただ、獰猛に。

 

 ああ、そうだ。あの時だって、あたしは――

 

 随分と長い間馳せて、ふと気が付くと、目の前にはいつの間にか敵の身体があった。なにも考えずに右手を前に伸ばした。

 

 ――あたしは、最期まで臆してなどいなかったじゃないか――

 

 突き出された刃はあっけないほど容易く、仇敵の肺腑の内に煌めいた。

 

 

 そのとき、甲板が揺れ、低い、嘶きに似た音が響きわたった。

 

 地響きにも似た震えが両者を襲った。金切り声のような音の波が、船体のそこら中から歪な不協和音を奏でている。

 

 巨艦の船体そのものがやにわに歪み、外の渦や暴風の障壁までも一斉に綻び始めたのだ。

 

 そして、本来は無風である筈の甲板にまで狂乱したかのような颶風がなだれ込んでくる。まさしく何の予兆も伴わぬ異常事態であった。

 

 それはこの輝船の断末魔ともいえるものであった。この船の〈竜骨〉と呼ばれる船体の基部が今になってへし折れたのだった。先のランサーの輝矢の特攻は船の表面だけではなく、その根幹ともいえる部分にまで、確かな損傷を与えていたのだ。

 

 如何に宝具といえども、それが帆船であることには変わりはない。それは幻想に昇華しようとも避けられえぬ弱点であった。軍神の甲矢と大海の魔龍の対決は、その実相打ちであったのだ。

 

 それが転機となった。ランサーの決死の一手は、予期せぬ事態に硬直したライダーの僅かな隙を、その身体ごと突いたのだ。

 

 しかしランサーの槍は心臓を外していた。最後の攻撃も敵をしとめるには到らなかったのだ。

 

「――――ッ!!」

 

 ライダーは舌打ちを漏らす。眼前の敵がそこまで動けたことも誤算ではあった。しかし、それはさして重要な事柄ではない。本来なら、如何な変事があろうとも、こんな隙を見せる男ではない。

 

 ならば、なぜライダーは決死の渦中にあって向かい来る敵影を見失ったというのだろうか。

 

 なぜなら、その視線はまるで信じられないものを見るかのように、更なる脅威に釘付けにされていたのだ。

 

 竜骨の破損も、予期せぬ事態には違いなかったが、それ以上に彼の身体を硬直させ、致命的な隙を作り出したもの。それは――

 

 最後に突貫してくるランサーの遥か後方に、ライダーはその姿を捉えていた。

 

 風が、大気が悲鳴を上げている。予想だにしなかった残忍なる略奪にパニックを起こした哀れな旋風たちが、ヒステリックに喚き散らしながら喘ぎ委縮していく。

 

 ()()()()であったのだ。船体の破損など問題ではなかった。その騒乱は、この輝風のすべてを呑み込み、喰らわんとする捕食者の登場故の事。

 

 やがて、搾取暴奪の限りを尽くされた嵐は消え去り、冬木市全域の夜空を遮っていた超巨大積乱雲(スーパーセル)までもが、見る影もない涼風と成り果て、霧散した。

 

 そうして細い月光に晒された夜の水面は、――明らかに異常であった。

 

 そこあったのは水面ではなく氷原であった。熱という熱を奪い尽くされた流水は、渦の形も、波の凹凸さえもそのままに、物言わぬ氷塊と化していたのだ。

 

 その上を歩む者がいる。

 

 ただ一言の声を発することなく、その鋭利な相貌に張り付いたような薄ら笑いを浮かべながら。黄色い狂気に、その双眸を澱ませながら。

 

 以前見たあの女の眼差しは、これほどに虚ろで空恐ろしいものだっただろうか。いや、それよりも、何故確かにこの手で殺したはずの敵が今こうして己の前に立っているのか。

 

 ライダーは、崩れおちるランサーの身体を受け止めるように抱きとめた。彼女には既に意識はなく、この状況すら理解できてはいないだろう。

 

 彼方に臨む漆黒の女の左手から、ニ画目の令呪が消失する。

 

確約された(ユッグ)――』

 

 黒衣の女はその呪詛の如き真名を紡ぎながら、暴食していた熱や光そして魔力と暴風とを一点に集束し、漆黒の光に変えて解き放つ。

 

「……やれやれ、これだから――」

 

『――恐怖の刃(ウォーデン)!』

 

「――河岸なんぞに船を出したくは、なかったのだがな……」

 

 心底残念そうに、この海原に繰り出せないことだけを悔いながら、最後まで大海に魅せられたこの男は、河口から払暁に臨もうとする水平線を少年のような眼差しで一瞥した。

 

「まぁ、悪くは――ないか……」

 

 そう言って苦笑したあとで、男は腕の中に血に染む女を抱きながら、澱んだような光の濁流に飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 (※ グローリアーナとは詩人エドマンド・スペンサーの叙事詩〈妖精の女王〉に登場する女王の名。エリザベス女王がモデルであるとされる)

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-8

 人気の失せたビル群はまるで巨大な墓石のように聳え、それらが作り出す影の峰は、暗鬱な夜に染む街を殊更に深い闇で包みこんでいる。吹き荒れているはずの旋風さえもが、まるで口を噤んでいるかのように重苦しくうねり流れていく。

 

 テフェリーとカリヨンは新都駅前近辺のビル群の上を跳躍しながら、目的の場所を目指していた。その弛緩したかのような静寂の中を馳せる二人の間には、しかしそれとはまた異質な沈黙が横たわっていた。

 

 交わされる声は無く、視線は互いの瞳を捉えることもない。耳には時たま擦れたような風の音だけがむなしく響いていくだけであった。

 

 前に向かう足は止まることはない。背後からにじり寄ってくるような怪物じみた重圧(プレッシャー)は依然として消えることはない。一刻も早くあの男から逃れなければならないことには変わりない。

 

 だが、逃亡者の心は虚ろであった。

 

 吹き付けてくる向かい風に眼を眇めながら、カリヨンは唯でさえもどかしい思いをなお持て余すことしか出来なかった。

 

 こんなにも――彼女が近くにいるというのに。

 

 伝えなければならならないことはあった。彼がテフェリーを探していたのはそのためだ。それを伝えて、危機を回避させるために、彼は一人彼女の元に向かったのだ。

 

 しかし彼がそれを伝える前に、その元凶であるあの怪人は彼らの前に現れてしまった。なんて間抜けなのだろう。彼女に会えただけで、大元の目的を失念するなんて……

 

 あの男はすぐに追ってくるだろうか。あのエミヤとか言う日本人はどうするつもりなのだろうか、この国の魔術師のようだったがテフェリーとはどのような間柄なのだろうか。

 

 あれから、あの時から彼女がどうしていたのか、これまでの八年間をどうしていたのか。尋ねたいことは、掛けたい声はいくらでもあるのだ。

 

 しかしそこまで考えて、やはり彼の喉からは一つの言葉も生まれてはこない。

 

 それはきっと、逆に問い返されたら困るからだ。彼自身、これまでのことを話したいとは思わなかった。己の過去に誇れるようなことなど、何ひとつなかったのだから。

 

 しかしそれでも問わなければならないとも思えた。問う必要があった。問いたかった。それでもまた彼女と話がしたかった――だが、自分は問うて、その後どうするというのだろうか? 今度こそ、彼女を守るとでも言うつもりだろうか?

 

 ついさっきまで、あの男を前にして動くことも出来なったくせに――。

 

 

 テフェリーもまた、この少年に問いたいと思うことはあった。「あのとき」とはいつのことなのか。彼が自分にとってなんだったのか、己にとって彼がなんだったのか。以前の自分という人間は、いったい何者だったのか。

 

 己の過去を知る者が居るというなら、率直にそれを訪ねたいと思う。

 

 しかし、今の彼女にはそれ以上に余裕というものがまるで無かった。己の過去を知りたいと思わないわけではない。ただ、それは今ではないのだ。今、彼女が見据えるべきは過去ではない。そう、彼女は今、未来のために馳せているのだから。

 

 だから――今は何も言わないで欲しかった。今それを聞いたとしても、きっとどうすることも出来ないのだから。どう応えることも出来ないのだから。

 

「テフェリー……」

 

 そのすがるような想いとは裏腹に、沈黙を破って掛けられようとした声は、しかし突如として彼らの頭上から降り注いだ閃光の雨によって遮られた。

 

 二人は咄嗟にそれを回避したが、天空より無数に打ち付けてくる雹塊の如き閃光の弾雨は、逃げ場のない雑居ビルの屋上へ蟻の通る隙間さえ無いほどに降り注ぐ。

 

 テフェリーはこの唐突な事態にも惑うことなく、蒼い光の雨を避けながら細い裏路地へとその身をねじ込んだ。カリヨンも申し合わせていたかのようにそれに続く。

 

 彼女のような実地の戦闘経験などまったく持ち合わせていない彼だが、セイバーから模写した「直感」のスキルがこの危機的状況に際して機能し、次なる行動の是非を示したのだ。

 

 だが彼はその異能を未だ十全に使いこなしているとは言えなかった。屋上から路地裏に身を躍らせた彼らを、地の底から沸き上がるかのような紫電の光が出迎えた。それはまるで地表に奔る電光の網であった。

 

 虚空では、もはや回避もままならない。先の閃光の正射は、ここに二人を誘い込む意図をもって照射されたものだったのだ。カリヨンは一刹那のうちにそれを悟り、息を呑んで身を強張らせた。

 

 しかしその身体が電流の刃にさらされることは無かった。二人の身体は銀色の網によって宙空に押し留められていたのだ。それはテフェリーの鋼糸であった。彼女は隣接するビル壁の間に、己が銀色の四肢を張り巡らして即席の足場を作っていたのだ。

 

 標的を妬き焦がすことの叶わなかった紫電の網は四方に向けて地を馳せ、暗い路地裏の闇間を仄明るく照らし出した。

 

 それは宙空と地表で平面的に向かい合う銀色と紫電の巨大な蜘蛛の巣が、妖しく光り輝く奇怪な光景を夢想させた。

 

 そして、その紫電光の照らし出す蜘蛛の巣の中心に見た、黒いローブの老人の姿にテフェリーは驚愕のあまりに眼を見開いた。

 

 そこに居たのは、彼女たちが今救出に向かっていたはずのワイアッド・ワーロックその人だったからである。

 

「マスターッ!? ……どうして、」

 

「テフェリー、上だ!」

 

 テフェリーが呆然と声を上ずらせるより先に、頭上からはまたもや蒼い閃光の弾雨が降り注いだ。

 

 咄嗟に見上げた先の視界に飛び込んできたのは、目も醒めるような真蒼の影であった。

 

「トオ……サカ、さま?」

 

 うめくような声を漏らしていたのは、またしてもテフェリーだった。見上げれば、そこには歪むような蒼暗色の衣で総身を包み込んだ遠坂凛の姿があったのだ。

 

 生気の失せた頬は妖艶に蒼ざめ、白い四肢と逆巻くような黒髪は闇中に溶け入り混じるかのようだ。人形じみた艶やかな身体を包むのは幽鬼の纏うかのような、古風な型のドレスである。

 

 その瞼も、爪も、唇も――否、滴る吐息、またその身が纏う影ですらもが、全て異様なほどに真蒼に飾られているのである。

 

 そして蒼い薔薇の如きその口元が浮かべるのは、とても壮健快活な彼女のものとは思われない、残忍にして白痴めいた狂笑だ。

 

 なぜ昨夜から連絡を絶っていたはずの彼女がワイアッドと一緒にいたのか? どうして彼女らが自分たちを待ち受けていたかのように挟撃しているのか。あまりにも不可解な事態だった。さしものテフェリーも、これには狼狽の色を隠せない。

 

「まさか、マインドコントロールの魔術を受けて……? ……しかし」

 

 考えるほどに、彼女の当惑は極まる。それはこの二人がどれほどの魔術師なのかを知るがゆえであった。彼らほどの魔術師を意のままに操るなどキャスターのサーヴァントでも、そう簡単にできることではないはずだ。

 

「いや、そうじゃない」

 

 だが、カリヨンがそれを否定した。彼にはこの状況の意味が解かりかけてきていたのだ。だが、にもかかわらずその表情は悲痛でさえであった。

 

 それはこの状態が彼らの想像を遥かに超えて残忍で、ひどくおぞましい所業によって成されたことを察したからであった。

 

「いるのでしょう、兄上!」

 

 いまだ見出せぬ暗闇の向こうで薄ら笑っているはずの相手を、カリヨンは一喝した。

 

「……やあ、よく来たねカリヨン」

 

 するとワイアッドの真後ろの暗がりがら白い能面のような貌が現れ、にこやかに微笑みながら、晴れやかな声を語る。

 

「――貴様ッ! サンガールの次兄、オロシャ・ド・サンガール!」

 

 ようやく知りえた怨敵の素性に、テフェリーも火のような敵意を露にした。

 

「よくご存知で。はじめましてワーロックの使用人さん」

 

 それを涼風にでもふかれるような微笑で受け流し、オロシャは手を掲げた。すると二人の魔術師達はまるで塑像の如く動きを止め、そのまま微動だにすることもなく立ち尽くした。

 

「答えなさい! マスターになにをしたのです!」

 

「ふむ、ではまずは紹介といこうか。彼女の名は『遠坂雅』そしてその彼の名は『ラセルダ・ワーロック』ともに、僕に忠誠を誓ってくれる友人たちだよ」

 

「――なにを、言って」

 

「……あれが、おそらく兄の異能なんだ。……人の精神を操るのでは無く、根底から覆し、変革してしまう能力……」

 

 カリヨンの漏らした推測に、オロシャは破顔して応じた。

 

「その通り。よく出来たねカリヨン。それが僕の異能というわけさ。だけどそれだけじゃあない。言葉がふさわしくない、というべきかな? ……そう、つまり僕の力は、不完全な人間をあるべき形に完成させるものだと理解してもらえばいい」

 

「完成……させる?」

 

 呻きを返すのはテフェリーである。

 

「僕は別に何かを覆しているわけじゃない。本来あるべき形に、不合理でない形に直しているだけさ。人間の精神は歪で無駄だらけだ。だから僕はその余剰な部分を削って合理的な人格を作り、本来の人格と置き換えているのさ。本来あるべき理想的な被造物(クリーチャー)として、創造しているんだよ」

 

 声高に語る声はうわずってさえいた。それが奇妙である以上に奇怪だった。兄がこれほどまでに高揚している様を、カリヨンは見たことが無かった。

 

「ああ、それと残念なことだけど。()()なってしまっては、彼らを元に戻せるのは僕の異能だけなんだ。……それがどういうことなのか……」

 

「――――――ッッ!」

 

 言葉が終わるのを待つまでも無く、テフェリーは激昂して幾百の銀線を闇夜の虚空に舞い上げた。が、

 

「待つんだ! テフェリー!」

 

 それはカリヨンに止められた。今オロシャを殺せば、ワイアッドたちは二度と元の人格に戻ることはできないのだ。

 

「……カリヨンには解かっているようだね。なら、お嬢さん、貴女もおとなしくしてくれるかな?」

 

 押し留められた銀糸は、テフェリーのやり場のない憤りを表すかのように虚空でのたうち、絡み合う。

 

「では、ではッ、どうすれば……」

 

「……」

 

 そのとき、オロシャの薄笑いを睨みつけるテフェリーの唇が、戦慄いているのが見えた。それで、カリヨンの心は決まった。

 

「じゃあ、もう話すこともないようだね。さあ、仕事だよ、二人とも」

 

「「はい、創造主さま(イエス・クリエイター)」」

 

 主が姿を現してから、物言わぬ彫像のごとくその場に静止していた二人の魔術師は、途端に火のついた独楽のように弾け、瞬く間に紫電の電光と真蒼の閃光による波状攻撃を再開する。 

 

 再び、路地裏の暗がりが瞬光の明滅によって斑に染まった。

 

 蒼き少女の指先には、何らかの石片から削りだされたと想われる長い付け爪(ネイル)が煌めいている。それが彼女のガンドと共に瞬き、閃光となって虚空を奔る。

 

 同時に、剥き出しになった老人のしわがれた掌からは地表から吸い上げられたと見られる地電流の収束が迸った。

 

 それらは虚空にて交差し、火花のごとく飛び散ってテフェリーとカリヨンの逃げる空間を削りとり、圧搾していく。

 

 もとより、彼らの得手とする鉱石魔術と地系統の魔術(アース・クラフト)は相性がいい。そのうえ、いまの魔術師たちには連携を阻むあらゆる要因、魔術師としての矜持や理念という精神の根幹をもとから取り除かれているのだ。

 

 故に、この連携による波状攻撃はそれまでとは比較にならぬほどの悪辣な相乗効果を齎していたのであった。

 

 テフェリーとカリヨンは下がることしか出来なかった。攻撃を受け続けることは出来ない。人格改変を受けた彼らは、今やなんの躊躇もなく二人を殺すだろう。

 

 しかしこちらから攻撃することも出来ない。彼らは仕掛けた牽制の攻撃を避けようとしないのだ。今の彼らには自己防衛意識そのものが無いのかもしれない。

 

「マス、ター……」

 

 そう、創り変えられている。その事実が、理解が、総て絶望となってテフェリーの身体を埋め尽くしていく。

 

 脚を止めたテフェリーの姿を好機と取ったのか、老人が地に手を付き、何事かを口ずさんだ。途端、蒼いドレスの少女が撃ち放ったネイルの被弾地点からは繁茂するかのごとく石の柱が林立し始めたのだ。

 

 それらの柱は円環状の陣を描き、自失して足を止めてしまったテフェリーを取り囲みはじめる。

 

 しかし、光輪の淵が閉じようとした刹那、何かが棒立ちになったままだったテフェリーにとって代わり、彼女を光陵の円環から弾き出した。

 

 カリヨンだった。しかし、今度は彼の方がテフェリーの代わりに石柱のサークルの内に囚われてしまった。

 

 青白い石の柱が描く円環状のサークル。それは何処かで見たかのような、ある種の既視感を放棄させるものだった。それはまるで簡易的なストーンヘッジの再現を見るかのようであったのだ。

 

 それもそのはず、それらの触媒として使用されていた礫はストーンヘッジの素材とされるベンブロークシャー、カーナルー丘の石材から削り出されたものなのである。

 

 雅と呼ばれた蒼い魔術師は、それらの石爪(ネイル)をガンドとともに打ち出し、地上にこの精緻なサークル状の陣を描いていたのだ。地面にへばりつく老人とは逆に、彼女が終始カリヨンたちの頭上を取って狙撃に専念していたのは、上下からの波状攻撃によって逃げ道を塞ぐだけではなく、このためでもあったのだ。

 

 そしてあの老魔術師の手によって完成したストーンサークルは魔術師の競演による即席の、そして鋼鉄のそれにも増して堅固なる牢獄であった。

 

 束縛と重圧の結界魔術。二人の魔術師たちは連携によりカリヨンをサークル内の重圧と束縛によって閉じ込めたのだ。

 

「カリヨン! ――」 

 

 テフェリーは自分でも驚くような引きつった声を上げていた。

 

 しかし己の不覚を悟ると同時に、不可解な懸念もまた念頭に昇る。彼ならば、その加速能力をもって、テフェリーを抱えたまま二人とも結界内から離脱できたはずである。

 

 なのに、どうして――そう訝ったテフェリーがもう一度声をあげようとした瞬間、仄蒼く光る石造りの円環は不可思議な鳴動を見せ、その中に囚われていたカリヨンの身体を四方から迫る高重圧によってさらに厳重に拘束してしまったのだ。

 

 カリヨンはくぐもった声を上げた。その華奢な身体は今にもひしゃげてしまいそうに見える。それを目にして今にも取り乱さんばかりに眦を見開いたテフェリーだが、しかしそのとき何かが彼女の記憶の琴線に触れた。

 

 前にも、確かこんなことがあったような、――そんな虚ろでつかみ所の無い感覚が彼女の内側でうねった。

 

 視線。怖気の奔るようなそれを感じたテフェリーは、内面の錯乱を意外に追いやり、それに向き直った。

 

 細面の青年――オロシャ・ド・サンガールが膿むような笑顔で彼女を見つめていた。

 

 それまでの薄笑いのような微笑ではなく、にこやかにほころんだその貌は息を呑むほどに美しく。女性的な白い肌は艶めき、ほっそりとした首筋から耳朶に掛けての肌に赤みが差した様は同時に酷く妖艶で、どうしようもなく醜悪であった。

 

 迷わず銀の琴線を鞭のように束ねてそれに叩きつける。――が、上方から雨のように放たれる光弾の閃光がそれを総て弾き返してしまう。

 

 見る者が見たならば、その精密すぎるガンドの正射が本来の遠坂凛のそれとはまったく異質なものであることが容易に知れたであろう。まさしく、今の彼女は別人なのである。

 

「テフェリー、さん、だったかな? よく弟を連れてきてくれました。僕はね、ちょうど彼の所に行こうとしていた最中だったんだ」

 

 蒼と銀の閃線による綾取りの如き魔魅の攻防を虚空に繰り広げながら、テフェリーは耳障りな雑音(こえ)に唇を噛んだ。ワイアッドのことも、邪魔を突破できない自分の弱さも、そして何よりもカリヨンが倒れ伏している光景が我慢ならなかった。

 

 それがどうしようもなく哀しく、恐ろしかった。見知らぬ感情が彼女の奥からこみあげて来る。訳のわからないものが、急速に彼女の内面で径を増していく。

 

 結界の中で伏しているカリヨンを見る。その動きを封じていた枷の如き圧力が、流動するように歪みはじめ、細い少年の身体を、まるで十字架に架けられかのような姿勢にまで、引き上げていく。

 

 ――なぜかはわからないが、きっと彼女はカリヨンを失うことには耐えられないのだ。なぜかはわからないが、きっとテフェリー・ワーロックはそれに耐えられない。

 

 どうしよう。どうにも出来ない。どうにもならない。それでも、どうにかしなければ。でも、どうすれば……。

 

 もはや戦慄く唇の震えを留めきれなくなろうかという、そのとき。それは聞こえた。かすかな、それでも確かに届いた――声。

 

「大丈夫だよ、テフェリー」

 

 ささやくようなその声に、響いた声音に、疼く追憶があった。同時に彼女の脳裏に閃光の如く瞬いた蒼い色。それはなんであっただろうか。

 

 そんな弟の挙動に斟酌することなく、彼の前に歩み寄ったオロシャの両眼からは灰色の光が迸った。もとよりオロシャの狙いはこれであった。この異能を用いて、マスターであるカリヨンを直に己の支配下におくつもりで出陣していたのだ。

 

 ライダーを海に配置して橋を見張らせたのは、相手がこの弟ならばサーヴァントなしでも勝機が有ると判じたからである。

 

 そのためにわざわざ拿捕し、傀儡と化して同伴した魔術師たちであった。いくら一流の魔術師とはいえ、さすがにキャスターを倒すことは出来ないだろう。しかしそれでいいのだ。彼らをけしかけたならば、キャスターにも幾許かの隙が生まれるはず。

 

 その間に、彼が無力な弟をその怪異なる魔の眼光にからめ取ってしまえば後はどうとでもなる。というのが彼の戦略であった。

 

 しかし、事はより安易な方向へと流れたようであった。もとよりの狙いであった弟は今、己の命を護る筈のサーヴァントも連れずに自分の元へとのこのこと現れたのだから。

 

 意気揚々と弟の人格を分解変造しようとする彼の胸に、久しくなかった人間らしい感情が生まれた。彼の心は歓喜で満たされていたのだ。白い貌にいつもの微笑とは違う、心底幸せそうな笑みが刻まれる。

 

 サンガールの運命そのものが、自信を選んだのだという確信は元よりあった。しかし、よもやこれほどまで安易に事が運ぼうとは――。

 

 この、いちいち手を加えてやらなければ愚にもつかず流れゆくだけの現実というものが、時たまこうして彼の描いた筋書きを外れ、思いもよらぬ様相を呈することがある。故に今、彼は久しくなかった新鮮な歓喜に満たされていた。

 

 彼は今この歓喜を演出してくれた実の弟に、生まれて初めての掛け値無しの深い愛情を感じていたのだ。

 

「ああ、愛しい弟よ。ありがとう。僕は今、幸せだ」

 

 その灰色の瞳からあふれ出していた光が集束し、人格の改造、否、創造は終了した。

 

 ――事、此処に成れり! 

 

 オロシャは己の勝利を確信した。後は令呪を持ってキャスターを自滅させるよう命じればいい。今や弟は彼の命に忠実なものとして創り変えられているのだから――。

 

「――ええ。そうしていると、まるで普通の人間のように見えますよ。兄上」

 

 兄は不思議そうに首を傾げ、しばしぼんやりと弟の顔を見た。そこにあったのは意識を剥奪された彼の「作品」ではなく、確かな自我を持った少年の貌だった。

 

「馬――」

 

 鹿な。と、咄嗟に叫ぼうとして、彼は生まれて初めて狼狽した。はたして、それはいったい何にであったのだろうか? 己の異能が機能しなかったことだろうか、彼の筋書きから外れた不可解な事象の展開にであろうか、それとも始めて見る、勝ち誇ったような、見知らぬ顔をした弟の眼光にであろうか。

 

 カリヨンは、そのまま拳を繰り出した。人の顔面を殴打するなど初めての経験だったが、身体は動いた。彼は己も知らぬうちに接近したサーヴァント達からも能力を模写している。今彼の中で選択され、行使されたのはランサーの持つ『勇猛』のスキルであった。

 

 これは威圧や混乱などの外部からの精神介入を遮断できるスキルであり、同時に本人の持つ格闘戦能力を向上させる効果もある。さらに、放った拳は昨夜と同様に『加速』のスキルによって目測すら叶わぬ領域にまで達し、兄の細い顎をあっけなく粉砕して見せた。

 

 創造主の危機に、二人の魔術師たちは人形のような無機的な挙動でカリヨンの背中に向けて襲い掛かってきた。

 

 しかし、カリヨンの視線が、振り向きざまに彼らの瞳を吸着した。すると途端に彼らの動きは鈍化し、次いで糸の切れた人形のように制止した。

 

 今しがたカリヨンに向けられていた兄の異能は、すぐさま彼の中に複写され、既に彼のものとなった異能『創造』は作り変えられた彼らの精神構造を再び分解、再構築し元に戻したのだった。

 

 オロシャのそもそもの誤算は、実の弟を何の脅威ともみなしていなかった点であった。カリヨンが一個の戦力として己に抗うのだという可能性を、この兄は最後まで考慮することがなかったのだ。

 

 しかし、今や彼にその事態を思い返し反芻する暇は残されていなかった。

 

 魔術師たちが魔術行使をやめたことで、もはや彼を守る盾は存在しない。一方、あらゆる制約を解かれたテフェリーが繰る幾千もの銀線の竜たちは、主の怒りを反映するかのように猛り、虚空を埋め尽くして迫る。

 

「――ひッ」

 

 オロシャは令呪でライダーを呼ぼうと令呪のある左手を掲げ上げた。しかし、そのとき仄昏い空の階を一本の澱んだ光の筋が走り、次の瞬間には彼の令呪は夢幻の如く霧散してしまったのだった。

 

「ヒーッ!?、ヒーッ! ヒ――――――」

 

 突然振り重なった不慮の事態に、完全なパニックにおちいったオロシャは砕けた顎を押さえることさえ忘れて、そのままよろよろと逃げさろうとした。

 

 しかし天に舞う幾千もの霊斬糸が、彼の頭上から銀の帳の如く舞い降り、その退路の悉くをふさいだ。

 

 ――そして大乱の嵐(テンペスト)のごとく吹き荒れた幾千万の刃の波頭は、()()を、もはや芥子粒の如く呑み込んだ。

 

 ぼろ布の如く切り刻まれ、虚空に舞い上げられた()()は、もはや悲鳴も上げることも出来ずに路傍のゴミ捨て場に転がり落ち、そのまま動かなくなった。

 

 オロシャを退けたテフェリーはそれに一瞥すら送ることすらなく、すぐさま倒れ倒れ伏している魔術師たちの元に向かった。

 

「マスターッ! ああ、マスター…………良かった……」

 

 ワイアッドの無事を知り安堵の涙を見せるテフェリーを見て、カリヨンもようやく息を吐くことができた。

 

 カリヨンも意識を失っている蒼いドレスの少女の元へ向かい、息がある事を確認する。身体の方は大した問題があるわけではなさそうだ。肝心なのは精神の方だ。彼の「創造」が正しく反映されたなら、問題はないはずなのだが。

 

 すると、その黒髪の美しい少女が蒼く彩られた目蓋を見開いた。化粧のせいでもっと上かと思われた年齢は、おそらくテフェリーと同じくらいだろうか。

 

「こ……こ、は」

 

「大丈夫か」

 

 意識が戻ったことはわかったが、考えてもみればカリヨンはこの女性とは初対面なのである。人格が滞りなく復元されているかは、彼には判別できない。

 

「……なんッ……? なに、が………………え⁇ ここは――新都、の辺りよね……私はいったいぜんたい、どうなって……? ……それに、なによ、これは? 何で私はこんなバカみたいに趣味の悪い格好してるの?! ……あと、あなた誰よ?!」

 

「ええと、その」

 

 意識が覚醒してすぐに矢継ぎ早でまくし立ててくる「凛」に気圧されたカリヨンは、思わず口ごもってしまった。吸収したスキルのおかげで言葉が通じなくても意図するところの意味はわかるのだが、しかし彼にはこの状況を説明するのが難しい。

 

 そのときであった。思わず逸らした視界の端で、何かが鈍い輝きを持って閃いた。

 

「――いかん!」

 

 咄嗟の声はワイアッドのものだった。彼の翁も覚醒していたのかとカリヨンが視線をめぐらせたのと、眼を覚ましたワイアッドを気遣い、声をかけていたテフェッリーが身体ごと振り払われたのは、ほぼ同時であった。

 

 もんどりうって何事かと顔を上げたテフェリー以下、その場にいた人間たちの目に次の瞬間に飛び込んできたのは、まるで鉄骨のような怪腕に貫かれ、夜に鮮血の仇花を咲かせたワイアッドの背中であった。

 

 



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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-9

「マスターッ!」

 

 老紳士の身体から無造作に引き抜かれた怪腕が、ぬらつく朱色の粘膜を纏って目下の少女を見眇める。

 

 しかし、その爛れたような殺意の視線すら意に解することなく、二色の瞳の少女は怪人の足下に投げ捨てられた主に駆け寄ろうとした。

 

 それを許さぬかのように、怪人の左腕からは数本の特殊警棒が放たれる。まるで特大の釘のようにさえ見えるそれらは、鈍いダイヤモンドコーティングの輝きを閃かせて虚空に弧を描く。

 

 しかしその必殺の意思は果たされず、テフェリーは糸で主の身体を捕まえていた。その鋭角の飛来軌道の間に身を捻じ込んだ影があったからだ。

 

 それはカリヨンだった。咄嗟に、考える暇もなく、彼の身体は超加速してテフェリーとその怪人の間に躍り出ていた。

 

 虚空から掴み取った特殊警棒を投げ捨て、少年は戦慄く四肢を踏ん張り怨敵の前に立つ。――が、巨大な爬虫の如く首を傾げた怪人は、その存在を邪魔な衝立(ついたて)か、あるいはそれ以下の存在としか見なしていないかのように、無造作な動きで前進を始めた。

 

 それが未だ未練がましく逡巡を繰り返していた少年の思考を切って落とす。もはや迷っている暇など、一刹那としてない!

 

 カリヨンの知覚する総ての動体が、一気にマイクロセコンドにまで凝縮されていく。そして、跳んだ。兄にそうしたように、超加速された拳打を無貌の仮面の向こうに見舞おうとして。しかし、弾丸以上の速度で虚空を駆け上がろうとしたカリヨンの視界を、何かが覆った。

 

 直感のスキルを手にいれていなければ、そのまま頭蓋を砕かれていただろう。超加速したはずの彼にさえ目視を許さぬほどの速度で、鉄骨のような開掌が少年の眼前に突き出されていたのだ。

 

 意思に反して、少年の細い身体が捩れる。超加速に先んじた超反応は、それの直撃を避けることを可能としていた。しかし、そこから緩やかに薙いだ剛腕が、僅かに彼の身体に掠った。

 

 それだけ。たったそれだけで、カリヨンは自分の身体の所在を見失った。尋常でない振動が全身に奔り、五感が意味を失った。彼の身体は、まるで小荷物か何かのように、虚空を舞っていたのだった。

 

 超加速していたために辛うじて受身が間に合ったのだが、アスファルトを転げながら全身を何かが這い回るような痺れに苦悶を声を上げそうになる。――それでも、少年はノータイムで立ち上がった。

 

 なぜなら、初めてではないから。

 

 この男に、気の遠くなるまで打ちのめされたことは初めてではない。同じことを繰り返すことだけは出来ない。こんなところで、またあの時と同じように蹲っていることだけは出来なかった。

 

 痺れる足と頭を引きずり、少年はもう一度この怨敵に立ち向かった。

 

 

 マイクロセコンドで行われたその攻防を、凛は目視出来てはいなかった。それでも、この敵の危険度を見抜くのは容易なことであった。彼女は先の少年の初動と時を同じくして横合いからガンドの集中砲火を浴びせていたのだ。

 

 もっとも、その最初の魔弾が到達する頃にはカリヨンは幾度かの攻防の末に、あらぬ方角の地に叩きつけられた後だった。しかし、それが逆に功を奏した。己と同様に超加速するカリヨンにしか注意を払っていなかった怪人は、それゆえに通常速度で飛来するガンドの乱射を認識していなかったのだ。

 

 期せずして虚をつく事となったガンドの魔弾は怪人の全身に着弾し、設置されたアミュレットの群によってある程度反射、軽減、相殺されたが、それでもすでに綻んでいたスケイル・アーマーを貫き、幾らかの紅い飛沫を虚空に播いた。

 

 攻撃は通じる。そう判断した凛はすぐに追撃を放たんと身構えたが、しかしこの怪人――D・Dはそれでも構うこともなく一直線にテフェリーの元へ向かって進んでいく。

 

「行かせる――もんですか!」

 

 彼女の魔術を嘲笑うかのような挙動。凛はそれを感情よりも理性から――「是」と判じた。反撃がないなら、こちらも好きにやらせてもらうだけのことだ!

 

Anfang(セット)――Mäßigung(――拘束、防路。)――Stagnation(――束縛、停滞。)

 ――Ich die vier JahreszeitenFührer (我、四壁の統率者。) Drücken Sie Tomero(押し留めよ、) Zwei Schlacht Rampart (二重の戦闘塁壁) Kome Gehäuse(囲い阻め、) Zwei Stechend Barrier(二重の有刺障壁)

 ――Weit verbreitet groß(――広く、広く、大きく) ――Schmale schmale kleine……(――狭く、狭く、小さく)……」

 

 即席ではあるが、紡がれたのは重圧と束縛の攻性結界。しかし、それでも男は前進を止めない。今あの怪人の身体は幾重もの枷を掛けられ、茨の檻に入れられているも同然なのだ。

 

 にも掛からず、総身から血を流しながら、モザイク柄の怪人はそれでも無人の野を行くがごとく、真っ直ぐに標的とする少女に向かっていく。

 

「――ッ! こんな(もの)じゃ触媒にもなりゃしない……ッ!」

 

 凛は手にする石材の蒼爪(ネイル)を見つめ、切歯するかのような声を漏らす。「せめて自前の装備があれば」そう、思わずにはいられない。

 

 持ち前の装備といえば、無論彼女の場合は己の魔力を移し変えた宝石がそれに当たる。それらのバックアップなしでは、どうしても詠唱が長くなり。効果も薄くなる。

 

 今彼女の手元にあるのは見知らぬ魔具、それも彼女が平時使うことの無い陰性の呪物ばかりであった。それもそのはず、先ほどまでの彼女は彼女であって彼女ではなかったのだから。

 

 故に、その魔術理論も裏表のようにかけ違えられたものとして変化していたのだ。それに合わせた一見凡百と見える青石の呪物は、いまの彼女の魔術理論とは相反するものでしかない。

 

 しかし、そこは父たる先代に奇跡とまで言わしめた魔道の鬼才。その石を使って咄嗟にここまでの結界を作り上げたのは、流石の手並みと言うべきものだっただろう。

 

 そこで不意に奇妙な音が聞こえた。まるで骨の砕けるような、生木のへし折れるような音だ。それは眼前の怪人の五体から続けざまに聞こえてきた。凛は不可解なものを感じて、はっと息を呑んだ。

 

 そう、この即席の結界が不完全なのではない。むしろ思いのほか強力に作用し、強固に敵の五体を縛っている。にもかかわらずあの男が前進をやめないのは、ひとえにヤツが己の保身を考えていないからなのだ。

 

stark――Druck(重圧――強化)!」

 

 ――結局はただのやせ我慢か? 兎角、今はそれを訝る暇はない。凛は男の必死を吉兆と取り、更なる加重に訴える。真蒼のドレスの裾を翻し、魔術刻印を最励起させて、ありったけの魔力を結界につぎ込んだ。

 

 と、次の瞬間。流石に現界だったのか、男は無貌の仮面の下で疎ましげに舌を鳴らすと、凛に向けて無手の筈の右腕を振るった。いよいよ生木の裂けるような音を発し、その鉄骨のような怪腕が、まるで鱗ごと皮膚をめくり返されるかの如く裂け崩れ、紅い鮮血が弧状に宙を舞った。

 

「――あ、――ぐッ!?」

 

 途端、血霧の洗礼を受けた凛の身体は、体幹に鉛の棒を突きこまれたかのように弾け、次いでそのまま逆に芯を抜かれたかのように地に崩れ落ちた。結界が破砕されたことにより、その衝撃が逆流して彼女自身を襲ったのだ。

 

 凛は立ちあがることもままならず、荒い息を漏らすことしか出来なかった。もはや呼吸というよりも嗚咽に近い。何をされたのかは判別できなかったが、おそらくは力任せに束縛結界を引きちぎったのだ。

 

 およそ魔術師にとっては慮外の手段であった。あの男、サーヴァントでもあるまいに、なんという力技であろうか。しかし何よりも彼女自身が限界だった。もとより精神に高度の外科手術を連続して施されたに等しい状態の彼女には、戦闘に耐えるほどの余力は残っていなかったのだ。

 

 それでも、事此処に及んで彼女が思考をめぐらせていたのは、この男の行動の不可解さだった。この男が自分を含めた外敵に構おうとしないのは、自分たちを脅威と考えていないからではない。この男自身にも、もう余力が残っていないからなのだ。

 

 つまりは最期に燃え盛る蝋燭の末火のようなもの。この男は、ここに来るより以前にすでに手負いであり、最初から決死の覚悟を抱いていたということになる。何故、そこまでして……?

 

 一方、テフェリーは糸で引き寄せたワイアッドを抱きとめた、そのままの姿で放心していた。

 

 わかってしまったのだ。もう傷を縫い合わせても遅い。どうしようもない致命傷なのだと。

 

 そして呻くように、腕の中のワイアッドが何かをいっているのが聞こえた。

 

「……馬鹿らしく、なって、な。…………あの時、……急に、」

 

「マス、ター…………?」

 

 こんな時を、想像したこともなかった。

 

「……お前を、はじめて、見た時に、……本当、に……急に……な」

 

 だから、どうしていいのかわからない。だから、どうしても、唇が戦慄くのだ。

 

「……魔術。……魔道、家門の行く末……己の目指していたもの……総てに、優先すると……信じて、疑わなかった、……それが」

 

「駄目です、ダメです、マスター、だめ……」

 

 喋るたびに、中身がどんどん零れていってしまう。だからやめてほしかった。けれどそれ以上何もできなかった。

 

 わかるのは、きっと何をしてももう駄目だということ。自分に出来ることがないのだということ。

 

 そしてそれは、もう自分に何かをする理由がなくなってしまうのだということ。それが他の思考を圧迫するかのように、彼女の中で際限なく膨らんでいく。

 

「とるに足らぬ……、と……な。………………それで、何とか……しようと、しては、みたが……」

 

 声が声にならなかった。震えるそれを止める手段がわからない。どうすればいい? いっそ、この身体の全てを糸で縫いとめてしまえばいいのだろうか、それで本当にこの悪寒が止まるのなら、いくらでもそうするのに――。

 

「マスター…………」

 

「……すまんな、何も……してやれなんだ」

 

 叫びたかった。そんなことはないのだと、全力で言いたかった。伝えたかった。知ってもらいたかった。でもそれが最後になってしまいそうで、それがこわくて、必死で口をつぐんでいた。

 

 

 カリヨンは再度加速して怪人の背後に廻った。今はとにかく少しでもテフェリーからこの男を引き離さなければならない。その一心で。

 

 しかし、男は、この怪人は彼を見ない。気にも留めない。無貌の面の下から、唯うずくまるテフェリーを見据え、そして突如として雄叫びを上げた。そしてカリヨンに先んじて爆発的に「加速」した。

 

 カリヨンも加速する。彼の異能は対象者の能力をほぼそのまま写し取ることができる。この「加速」の能力自体の精度に、それほどの差はないはずだ。体格、体術の差は、「直感」や「勇猛」「魔力放出」等のスキルの相乗によって覆せるはずだ。

 

 むしろ、これだけの能力を同時併用できるカリヨンのほうが優位に立てると考えても、おかしくはない。にもかかわらず、現状としてカリヨンの甘い目算は雨中の砂城が如く瓦解を余儀なくされていた。

 

 必死に敵の動きに喰らい着こうとするが、まるで相手にならない。速度の領域が明らかに違うのだ。どうして? 同じ能力のはずなのに……その上、加速に加え複数の能力を統合している筈なのに、まるで手も足もでない!

 

 心中で叫びながら、手に詰まったカリヨンは形振り構わず一気に奴の前に躍り出た。そして新たに得たばかりの怪眼光を発する。兄オロシャから獲得した「創造」の能力を使おうとしたのだ。

 

 しかし、それも無駄に終わった。眼光は寸分たりとも怪人の足を止めることなく。カリヨンはそのまま打ち倒され、今度こそ路端の石のように転がされてしまった。

 

 有無を言わさぬ絶望が、血を吐いて仰臥するカリヨンの手足から力を奪い、心を覆い尽くし始めていた。やはり、こいつには勝てないのだろうか? 

 

 なぜなのかはわからないが、コイツは以前見たときとは、まるで比較にならないほどに強くなっているのだ。自分が強くなった分だけ、コイツも強くなるというのだろうか? そんなバカなことがあるのだろうか?

 

 突きつけられた不条理に、少年は意識を手放しそうになる。やっと手に入れたはずの力が、まるで通用しないこの現実に、少年の心は否応なく挫けようとする。

 

 それでも――それでも、それでも! カリヨンは身を起こす。敵わないからなんだというのだ。たとえ殺されても、このままテフェリーを殺されてなるものか! 二度と、二度とそんなことはさせないと、ずっと思い続けてきたのではないか。今が、そのときなのだ。立て、立て。立て!

 

 そして少年は何度吹き飛ばされても、また同じように怪人の前に立ち塞がった。

 

 

 一方、何度も繰り返されるその光景をおぼろげに見つめるテフェリーの脳裏に、膨大な記憶の奔流(フラッシュ・バック)が押し寄せてきた。

 

 そうだ、前にもこんなことがあったのだ。あのとき、――あのときとはいつのことなのだろうか。

 

 そして未だに霞かかっているようなそれを思い出しかけていた。その光景を思い出していた。そうだ。あのときも、自分を助けようとした少年がいた。

 

 カリヨン。彼女より少し年下で、いつも自分に会いに来てくれた。初めての、友達――――。

 

 瞬間、あらゆる記憶を押しのけて、ある感情が沸き起こった。それは危機感だ。あのときと同じ、否、既智であるが故により致命の危を告げる、おぞましき焦燥感であった。

 

 あのときもそうだった。あの時も、あの、雪の降る夜も、この男は最初から自分を狙っていた。そのせいでカリヨンが危ない目にあったら大変だから、自分がこの男を何とかしなくてはいけないと思ったのだ。

 

 そうだ、思いだした。今の自分が持っていた一番古い記憶。あのときの安堵感。アレはあの日、カリヨンを、とても大事なものを護ることが出来たという安堵から来ていたのだ。

 

 そして今、再び同じ危機が彼に迫っている。マスターを護れず、またカリヨンを危険に晒すのか? 喪失の恐怖は劇薬の如き嗚咽となって彼女の内腑を抉る。

 

 どうして、この男は私を狙うのだろう? どうして、どうして、どうして……。

 

 

 カリヨンはまたもや吹き飛ばされた。今度は顎先を殴りつけられたのだ。少年は今度こそ、その場で動かなくなった。それを確認して、怪人はようやくテフェリーの元まで歩み寄ることができた。

 

 総身から血を滴らせながら彼女を見下ろす無貌の男は、無言だった。これから殺そうとする少女をただ無言で見下ろしている。男は右手に大型の特殊警棒を取り出した。ここまでの道程で捻じ曲がり、もはや折り畳むことも出来ない。むしろ今にもへし折れそうな代物だった。

 

 しかし、それがまるで追い詰められた獣の顎のように余裕の無い冷酷な光を発していた。

 

 そのダイヤモンドコーティングの「刃」が届く位置にまで歩み寄ってきた男を、テフェリーはぼんやりと見上げた。

 

「……どうして?」

 

 テフェリーはまるで子供のように問うた。どうしてこんなことになるのかわからなかった。だから、ただ問うた。でも、それで何かがプツリと切れてしまったように感じた。

 

 まだ、戦うことは出来る筈なのに。なのに、もう銀色の手足が言うことを聞かなかった。斬糸はその一本一本がまるで鉛のように感じられ、もはや本当にそれを動かせるのかさえ定かではなかった。

 

「どう、……して?」

 

 もう一度、問う。途端に心細くなってしまって、ふいに声が上ずってしまった。

 

「どうして? ……どうして、こんな……」

 

 その言葉に、びくり、とモザイク柄の巨躯が震え、数瞬の間だけ駆動が滞る。

 

 視線が合う。仮面越しに。

 

 次の瞬間、テフェリーの双瞳の瞳が血に染まった。不意に奔った鍵爪のような指先が彼女の両目を裂いたのだ。

 

「ああぁ!?」

 

 テフェリーは横倒しに転がった。痛みより視界を失った事の方が恐ろしかった。そして手放してしまった主を手探りで探す。

 

「なんで……っ、どうしてッ…………。マスター……どこ……マスターッ! マスターァァッ!」

 

 どうしても震えが止まらなかった。自分だけではなく、全てのものが不確かに揺れている。まるで手から零れてしまうみたいに。瘧のように震える事をやめない世界の中で、何も縋るものの無い幼子が泣いているようだった。

 

 男は何を思うのか、唯その光景を見下ろしている。

 

「……許せ」

 

 かすれるようなその声を、テフェリーの耳は果たして聞きとめていたのだろうか。

 

 手負いの牙が、まるで引き絞られるように振り上げられ――――――しかし、そこで制止した。

 

 テフェリーの眼には捉えようのないことだったが、そのとき動きを止めた男の胸からは、不可思議な光陵が垣間見えていた。

 

「――――ッッッ?!!!」

 

 そこから突き出していたのは槍の穂先だった。人の手によるものとはとても思われぬ、煌めきの輝器。

 

 その体躯を貫いていたのは、見間違えようもないアメシスト色の鉱石の刃。

 

 そこでテフェリーもようやく馴染みのある霊体の気配を感じていた。そして世界を照らすかのような眩い光彩が、今この現実に具現する。

 

「謝るくれぇなら……」

 

「キ……サ、マ」

 

最初(ハナ)っからやるんじゃねェよ!!」

 

 男が背面を伺い、敵の存在を確認した時には、ランサーは引き抜いた槍を掲げて反転、棒立ちの男の身体へ横薙ぎに叩きつけていた。

 

 凄まじい炸裂音が轟き、男の体は彼方へ吹き飛んだ。それで残った魔力が尽きたのか、手にしていた輝槍は砕けて砂のようなって散華した。

 

「……ランサー?」

 

 ランサーの長身がその場に崩れ落ちたのを察したテフェリーは、手探りでランサーの姿を探す。

 

 その手を掴まえ、ランサーはテフェリーに身体を預けるようにしてもたれかかってくる。しかしその身体にはもう実態と呼べるほどの重さは備わっていなかった。

 

「ハハァッ、――どうだァ! 借りは、返してやったぞ!」

 

 にもかかわらず、ランサーはひどく満足そうな快哉(かいさい)の声を上げた。その顔は蒼白で、今にも実体を失いそうな皮膚は人のものとは思えぬほどに冷たい。

 

「ラ……ンサー、か……」

 

 主の声に、テフェリーが声を上げる。

 

「マスター!」

 

 それでもなお輝きを失わないランサーの光が、老紳士の体を包んでいく。その宝具「美しき戦華護法(アキレア)」が老魔術師の傷を修復し始めている。

 

 さすがにサーヴァントであるセイバーほどの効力は見込めないが、それでも致命の傷を押しとどめる程度には充分な効果を発揮したようであった。

 

「……ぃよう、生きてたかジジィ。存外に、しぶてェようでなにより」

 

「こっちの台詞じゃ。まったく、口の減らん……」

 

「ハッ、――訊かんでも、元気そうだ」

 

「ランサー……」

 

 だが、そう言って笑うランサーの身体はもはや、つぎはぎつぎはぎにすらなっていなかった。その宝具の摂理は変わらない。万人の傷を癒し鼓舞するはずの輝光の効力は、しかしその光を放つ本人にだけはまるで効果を及ぼすことがない。

 

 その事実に戸惑うテフェリーへ、ランサーは何も変わらぬ声音で語りかける。

 

「悪ィな、テフェリー。遅くなった。……眼は開くか?」

 

 ランサーは重さと実体感を失った手でテフェリーの頬を撫でながら言った。彼女の目蓋が開いていればその傷もすぐに塞がるはずなのだが、これではそうも行かない。

 

「ランサー、でも、……私よりも貴女の方が」

 

「なァに、軽いもんだ。気にすんな。それにな」

 

 ランサーは満面の笑みを浮かべながら、そのままテフェリーの両の頬をむにむにとつまんだ。

 

「……ラン、ヒャー?」

 

「あたしはもう十分だ。やるべきことをやったし、確かめたいことも確かめた。最期に借りも返したし……それに、言うべきことももう言った。そうだろ? 忘れてねェだろうな? 忘れてないなら、……これからはもう少し、己の望みに正直になれよ」

 

 ランサーの体は、とうとうその末端からくすんだ金砂のようになって崩れ始める。それが解かってしまって、テフェリーはランサーの手を掴まえようとする。

 

「そんな、ランサーッ! 待ってくださいッ……まだ」

 

「もう休め、テフェリー。もう、お前が戦う必要はないんだからな……」

 

 ランサーがそう言ってテフェリーの首に手を当てると、彼女はそのままゆっくりと気を失ったように崩れ落ちた。ここまでの道程によって彼女自身もすでに現界を超えていたのだろう。

 

 その体を抱きとめたランサーは、身を起こしたワイアッドのもとに歩み寄り、テフェリーの身体を預けた。

 

「良いのか」

 

「女の涙ってのァ、苦手でね。さァて、そういう事で、一応契約は果たしたってェことで、いいな?」

 

 見下ろして来るサーヴァントに、ワイアッドも深く、深く息を吐く。

 

「そうじゃな。まあ、そういうことになるかの」

 

「そうかい。ならいい。……もう、放すなよ」

 

「わかっておる……」

 

 

 カリヨンが何とか意識を取り戻し、身体を起こしたのはランサーがD・Dを吹き飛ばした後だった。そんな、事の成り行きを見る事しかできずに佇むカリヨンを見つけて、ランサーは朱色の微笑を向けながら歩み寄ってくる。

 

「よォ、酷い顔だなガキんちょ」

 

 交差する視線。不意にカリヨンは体が軽く感じたような気がした。

 

「……あの橋での敵には、勝てたんだな」

 

 カリヨンが言うと、ランサーは途端に何とも言えない微妙な顔をした。

 

「さァてな、勝ったのかどうなのか。勝たせてもらったのか――あるいは勝ちを譲られたのか。あの髭男め、最後の最後であたしを庇いやがった。まったくムカつく話だ」

 

 事の仔細は知れなかったが、そんな愚痴のような台詞を吐きながら、これから消え行くはずのランサーがこの上なく晴れやかな顔をしていることが気になった。

 

「それでいいのか? 勝てなくてもいいのか? 満足なのか?」

 

「あァ? まぁ、――ムカつくがな。……なんつーか、勝ち負けは、さほど大事なことじゃあないってェことだ。それは結果でしかないからな。他人とあたしを繋ぐものだが、結局はその程度のものでしかない。

 戦士にとって大事なのは、そこに辿り着くまでの過程、己の求めた道筋だ。そこに妥協がないなら、……まぁ、それでよかろうさ」

 

 カリヨンにはよくわからなかった。彼もまた勝てなかった。またあの敵にあの時同じように成す術もなく打ちのめされただけのことだった。

 

 それでも、今、テフェリーは生きている。あの時とは違う。どれが過程でなにが結果なのだろうかとカリヨンは考える。

 

 しかし、ランサーの満足そうな横顔を見ていると、なぜか自分の身体も楽になっていくような気がして、いつもなら頭を抱えそうな困惑でさえ、どうでもいい事のように思えた。

 

 テフェリーが生きている。なら、それで総てがそれで良いようにも思えた。

 

「あたしは……やっと、道筋(それ)を是正できた。悔いはない」

 

「そうか……」

 

 口には出さなかったが、同意する気持ちがあった。カリヨンも今夜のことに一片の悔いもないと思えた。確かに勝てなかったが、それでもなんの悔恨も今の彼は抱いていなかったから。

 

 そして、ランサーは最後に真剣そうな眼でカリヨンを見つめた。

 

「……テフェリーのことが好きか?」

 

「……」

 

 カリヨンは無言で、ただしっかりとランサーの真紅の瞳を見据える。

 

「なら、これからはお前が守れ」

 

 頷く。迷いはなかった。しかし、ランサーはここで意地悪そうに笑って、少年の小さい肩を掻き抱いた。ほぼ全裸のランサー自身に密着され狼狽える様子のカリヨンを、しかし意にも介さず、本人にはわからぬようにワイアッドと、その腕に抱かれたテフェリーを指し示して、

 

「なァにせ、老い先短い爺だけじゃぁ、心もとねェからな。……ただ、嫁にする気なら気をつけろよ。見てくれの通り、なかなか頑固な爺がついて来るわけだからな」

 

「んなッ……」

 

 そう言って子供のようにひひひと笑い、言葉を失うカリヨンを見てダメ押しに哄笑したあと、

 

「ま、精々がんばれ。……それと、出来ればセイバーに伝えてくれ。約束を果たせぬことを許してほしい、とな……」

 

 最後にそう言い残して、まるで光の粒子に包まれるかのようにランサーの身体は消えていった。

 

 まるで星のように空に舞い上がっていくランサーの光の粒子を、カリヨンはあっけにとられるようにして、最後まで見上げていた。

 

 

 背後では、地に突っ伏していた凛の声が聞こえていた。

 

「……来てたの、士郎。……ボロボロじゃない、怪我は?」

 

 助け起こされた凛は驚きの声を上げた。彼女も朦朧とした意識の中でランサーの姿を見つけていたのだろう。致命的なダメージを負ってはいないようだった。

 

「ああ、一応大丈夫だ。ランサーのおかげで。……けど、どうしたんだ? その格好は」

 

「は……はへッ!? え? あ――――――な、何も聞かないで。解らないことが多すぎてこっちが聞きたいくらいなんだからッ」

 

 穴だらけになってしまった深蒼のドレスの裾を、両手で隠しようもなく持て余し、凛は恥ずかしそうに声を荒げた。

 

「……と、とりあえず。その、に、似合っては、いる。と、思うけど……、何時もとは違って」

 

「に、にあ!?――――――よ、よよ余計なこと言わなくていいからッ。ほら、士郎は何か足になるもの探してきて。このままじゃ人目に、つくから! ほら!」

 

「遠坂……大丈夫なのか?」

 

 指示をしながらも、彼女自身は身体を起こしただけで肩を上下させている。その顔が蒼褪めて見えるのは、決して暗青色の化粧のせいばかりではないようだった。

 

「大丈夫よ。……セイバー、は、どうしたの」

 

「……後で話す。今は楽にしててくれ」

 

 士郎は袖口で凛の白い額に浮いた玉のような汗を拭った。

 

「大丈夫って言ったでしょ。……これでも、けが人の治療くらい出来るわ」

 

 そう言ってふらつきながら立ち上がろうとする凛を、士郎は半ば抱きかかえるように支えた。

 

「ちょ、――――」

 

 確かに、こういうとき黙って休めといっても言うとおりにはならないことは、とうに知れている。

 

「わかった。とにかく早くここから移動しよう。だから、無茶はしないでくれ」

 

「……なんか、いつもと逆ね」

 

「そうでもないだろ、こっちだっていつも心配してるんだ。今回の事だって……」

 

「……ごめん。さすがに単独行動は調子乗ってたわ」

 

「……」

 

 それ以上は何もいえなくなって、士郎はテフェリーたちの下へ凛を送り、自分は近くの駐車場に向かった。

 

 それに手を貸しつつ、カリヨンは空を見上げた。そこは芒と白み始めていた。長かった夜が明けたのだ。

 

 しかしそれは夜の終わりではなく、これから始まる長い夜の前触れのようであった。それから視界を巡らせて先ほどあの怪人が吹き飛ばされたあたりを探ったのだが、いくら眼を凝らしても、その姿は何処にも見当たらなかった。

 

 

 

 

 オロシャ・ド・サンガールは湿った路地の暗がりを這っていた。這って。這って、這いずって。何とかあの悪夢のような理不尽な戦場から逃げ出そうとしていた。

 

 そして、ようやく己の血と汚物にまみれながらも死地からの離脱を果たしていた。それは、もはや生に対する執念とでも呼ぶべき渇望からの行動だった。体中を切り刻まれてなお、それでも生きる事を諦めない。

 

 ――いや、この男にはそれを諦めるという発想がそもそもなかったのだ。そんな事を、今までの生涯において一時たりとも考えたことがなかったのだ。あるいは、この男は己もまた死ぬのだという当たり前の理さえ、認識せずに生きてきたのかも知れなかった。

 

 故にナメクジのように這いずりながら、彼の心の中にはいまだ希望があったのだ。まるで子供の夢の中のように、何の理由もなく世界に愛されるかのような夢想。

 

 自分だけは死なない。総ては己の思い通りになる。それが当然、それが当たり前の世界を、両の眼窩の裏に描き出しながら、男は考える。

 

 これはちょっとした試練なのだと考える。これは物語がクライマックスに向かうための布石なのだと。ここから、ここを乗り越えれば、物語りは一気に最高潮を向かえ、栄光は当たり前のように自分の掌に落ちてくるのだ、と。

 

 そして不意に、気がついた。さっきまで這いずっていた筈の自分が、いつの間にか二本の足で立って歩いているではないか。そして改めて気が付けば、引きずっていたはずの体が妙に軽く感じるのだ。

 

 見れば、なんと体中の傷までもが次々に再生し、襤褸布の如く穴だらけだった身体が癒着していく。

 

「は、――はははッ。す――ばらしい! なんだこれは?」

 

 みなぎる力。自分でも、己の身体が再生されていくことが信じられないほどだった。これならば、いける。

 

 そして「ああ、やはり」と思うのであった。サーヴァントがいなくなったことくらい、自分にとってはどうでもいいことなのだ。

 

 そうだ、やはりこれはきっとクライマックスを演出するための序奏に過ぎないのだ。クライシスだ。それが深遠の如く深ければ深いほど、クライマックスへの絶頂は劇的になるのだ。

 

 そうとわかれば、なおさらに激烈な復讐劇を用意する必要がある。さぁて、どうする? まずはまた駒となる私兵を集めなければならない。何処でもいい。とにかく大勢人がいる場所を選び、一気に手に入れてしまえばいい。

 

 ねぐらと兵力とを一挙に手に入れるのだ。ふふふっ 忙しくなる。しかし、これほどの窮地に陥っているというのに、なんなのだ、この高揚感は? すばらしい。これが、これこそが、真の創造の根幹なのではないだろうか? そうだ。これこそが求めていた、求め続けていた生の実感。創作の源なのだ。

 

 渦巻く歓喜が、その瞳に誰に向けるでもない灰色の輝きを宿し始める。もう彼は足を引きずることもない。再生された身体はもはや十全を通り越して人知を超えた力を彼に与えていたのだ。

 

 そこで彼は路地を抜けた先の、開けた車道の反対側に立ち尽くしている人影を見つけた。

 

 ローブ姿の小柄な男。いや、女か? ――まさか、テーザー・マクガフィン? 馬鹿な。

 

 しかし、まぁ、どちらでも構わない。どの道あれは最初の獲物だ。距離を詰めるまでも無く、オロシャの両眼から凄まじいまでの光が溢れた。

 

 その膿んだような輝きは、もはや以前の比ではない。それまでのように至近距離で視線を合わせる必要もない。

 

 彼は今や、己の異能が以前とは比較にならないほどに強化されていることを実感していた。もはやこの距離で、一度に何人でも同時に「造り変える」ことが可能になったのだ。

 

 彼の歓喜が最高潮に達したとき、ふいに、目の前からその人物が消えたのに気がついた。今の今まで、幾何かの薄闇の向こうに、確かに見えていたはずの姿が見えない。

 

 それに、なんだか景色もおかしい。不可解だ。――ああ、そうだ。これでは見える世界が上下逆ではないか。

 

 それを理解した瞬間。彼はようやく自分の身体が上下に両断されているのだという事態に気がついた。

 

 しかし、わかってしまえば、どうということはない。なんだ、切り離された自分の上半身がさかさまになってそいつのあしもとにおちていただけだったのだ。なんだ……そんな………ことか…………そ……………ん…………………な………………―――――――――――。

 

 そこで、未だに幸福の残滓を貪ったまま、彼は終わった。

 

 

 黒いローブ姿の女は、もはや物言わぬ物となったそれに歩み寄り、無造作に手を突き入れた。そして小さな陶器の欠片のようなものを取り出した。

 

 ねっとりとした粘膜に塗れたそれが引きずり出されると、その肉塊は途端にさらさらとした色のない灰錆のようなものに変じて、崩れてしまった。オロシャ・ド・サンガールの生きた痕跡は、全く砂塵の如く消え失せた。

 

「……これがライダーの分か、もらっておくぞ、次兄殿」

 

 ローブを目深に羽織った姿は、その耳触りで奇怪な声は間違いなくテーザー・マクガフィンのものであった。しかしおぼろげな街灯の明りに照らされて垣間見えたその素顔は、

 

「これで二つ目……か。いいぞ、はやく戻ってこい。我が半身たちよ」

 

 まるで別人の如く妖笑する、――伏見鞘のそれだった。  

 

 

 

 



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四章終了時点でのサーヴァント・ステータス

 
 ステータスが更新されました。

 ※主にランサー・アーチャー・ライダー。


クラス     セイバー

マスター    伏見鞘

真名 

性別 

身長 

体重 

属性 

能力値 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具   

イメージカラー 

特技      

好きな物    

苦手な物    

天敵      

クラススキル

保有スキル

宝具

備考

 

 

 

ランサー

マスター    ワイアッド・ワーロック

真名      

性別      女性

身長      180cm

体重      62kg

スリーサイズ  95・58・90

属性      秩序・中庸

能力      筋力A 耐久D 敏捷B 魔力C 幸運D 宝具B    

イメージカラー アメジスト(紫水晶)※髪色はサンライトイエロー

特技      ナンパ・鼓舞

好きな物    美しい女性全般・ガチンコ

苦手な物    女々しい男 

使用武術    アマゾネス式喧嘩殺法

天敵      

 

クラススキル

 

『対魔力』:C

 

 二小節以下の詠唱による魔術を無効化する。大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。

 

保有スキル

 

『騎乗』:B

 

 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、魔獣・聖獣ランクの獣は該当しない。アマゾーン(女人族)は騎馬民族であり、騎乗能力に優れた部族であった。

 

『勇猛』:B

 

 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉に対する抵抗力。それらの効果を高い確率で無効化できる。加えて格闘ダメージが向上する効果もある。

 

『神性:』B-

 

 半神半人。軍神アレスの娘とされ神代の奇跡をその身に宿すが、トロイア戦争において彼女の父神であるアレスの神格が若干劣化しているため影響を受ける場合がある。

 

(例:相手が戦神アテナの加護を持つ眷族や英雄だった場合など)

 

宝具

 

『鋳造されし不和の双翼(プテロ・エリス)』ランク:B 対人宝具 レンジ2~4 最大補足1人

 

 ――不和の女神エリスから賜った両刃の戦斧。

 

 刃そのもの、又は切りつけた対象から斥力を発生することが出来る。

 

 地面、もしくは壁などに使用することで一時的に無重力状態を作り出し、敵の動きを封じたり跳躍、走行時に推進剤として使用することも可能。

 

 不和=引き離すというエリス神の神格の具現。

 

『沸血装甲(マーズ・エッジ)』 ランク:C+ 対人宝具 レンジ1~50 最大補足10

 

 本来は古今東西の戦場で振るわれ、戦士と共に朽ちた幾千幾万の武具であり、それを元に戦士の血によって鍛え上げることで甲冑と成したもの。

 

 各種の具足を一時解体し再度武器として使用することが可能。それぞれの武装は武器として一級品でありながら防具としての耐久性は低く、あくまで攻性に傾いた防具である。

 

 金属というよりは紅く濁る鉱石のような材質で出来ている。(正しくは躑躅(つつじ)色の紫水晶[アメシスト])

 

 武装は剣、槍、弓にとどまらず、盾、戦斧、短剣、鎌、戦槌、鉄鎖、鉄爪、鞍、杭、衝角、仕込みや、火器類から複合武器まで多岐にわたる。

 

 鞍や馬鎧(カタクラフト)を装着することでバイクのような機械でさえも宝具として使用することが可能。

 

 時代とともに戦場で使用される武器が変わるにつれ、常に変化していく性質がある。

 

『美しき戦華護法(アキレア)』ランク:B 対人宝具 レンジ:1~40最大補足400人

 

 ――類まれなる美貌。見た者の傷を癒し勇気付ける戦場の花。

 

 自身にではなく、他者に対する癒しと鼓舞の宝具。戦場においてその美貌を目にした味方は戦闘士気が向上し、精神干渉を受けにくくなる。

 

 加えて肉体の損傷およびステータス異常が回復され正常値に戻る。平常時でも近くにいる人間には若干の効果がある。

 

 効果判定は彼女の素顔を見る者が彼女を味方だと判断しているか否かであり、彼女自身には一切の操作が出来ず、また所有者の魔力を消費しないため負担も無いという珍しい宝具である。

 

 アキレアとはノコギリ草のこと。彼女を打ち負かした彼の大英雄アキレウスが彼女の美貌を目にしてその死を惜しみ、神に捧げたという花の名前であり、アキレアという名はこの伝説に由来する。

 

 加えて、彼はこのノコギリ草で仲間の傷を癒したとも伝えられている。

 

 

備考

 

 かのトロイア戦争においてトロイア側につき、大英雄アキレウスとも戦ったとされる女戦士にして、女系種族アマゾーンの女王。

 

 宝具特性により白兵戦、魔術戦、集団戦、攻城戦、海上戦などあらゆる場所、状況をいとわず戦闘に対応できる。

 

 本来はアーチャー、もしくはライダーが最適のクラスである。

 

 槍に限らず、あらゆる武器を使いこなす武人。軍神の血を引くが故に好戦的な性質を持ち、聖杯戦争に呼ばれた理由も命を賭した闘争を求めた為である。

 

 そして、彼女には一つの悔いがあった。戦場で散った彼女を人はあざ笑った。神に惑わされ無謀な戦いに赴いた愚かな蛮族の王、と。

 

 しかし軍神の子である女にそのような後悔など有はしない。戦場で散ることに異存など無い、あらゆる結果も総ての理由もあの時の胸の鼓動でさえ、戦う理由に是非など無い。総ての闘争とは尊く、美しいものだ。

 

 だが最後の一瞬、他ならぬ彼女はそれを汚した。汚してしまった。相手は世界最強の大英雄。打ち震えこそすれ、怖じる理由などあろうはずも無い。無いはずなのに、女は恐怖した。

 

 それが許せなかった。誰よりも苛烈に輝くはずの華は、最後に自身の最も尊いものを汚してしまった。

 

 結末に文句など無い。敗北したことにも悔いは無い。ただ、ひとつだけ残してきた悔いがあるのだ。

 

 もう一度大事なものを取り戻せる機会が有るとするなら、今度こそどんな強大な敵にも立ち向かって見せよう。――我が尊厳のために。

 

 

クラス     アーチャー 

マスター    テーザー・マクガフィン

真名      ラーマ(化身王)

性別      男性

身長      178cm 

体重      86kg

属性      秩序・善

能力      筋力B+ 耐久A 敏捷B 魔力B 幸運C 宝具A+

イメージカラー 黒陽

特技      人助け

好きな物    公明正大・妻

苦手な物    不公平

天敵      なし

使用武術    古式ムエタイ

 

クラススキル

 

『対魔力』:C

 

 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。大魔術、儀礼呪法を以ってしても傷つけるのは難しい。

 

『単独行動』:A

 

 マスター不在でも行動できる。

 

 ただし、宝具の使用など膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。

 

保有スキル

 

『神性』:-

 

 半神半人としてこの世に生を受けたラーマは現世における神威の代行者であり、本来は神そのものといっても過言ではないほどの最大の神霊適正をもつ。

 

 しかしその神霊性は普段は厳重に隠匿されており、宝具「第七権限」の使用により隠された神霊性が顕著する。

 

 これはラーマが「神によっては殺されない」という力を持つ羅刹王ラ―ヴァナに対抗するために与えられた性質である。

 

『カリスマ』:A

 

 大軍団を統率・指揮する才能。人ならざる稀人としての求心力であり、常人の獲得しうる人望とは一線を画す。

 

『マントラ』:EX

 

 その身体に宿る神々の真言。その時々に必要な感覚・技能・知識・経験等が自動的に顕著する他、「透化」「千里眼」「千獣の賛歌」「ムエタイ」「仙術」「隠者の作法」といったスキルを任意のランクで獲得できる。

 

宝具

 

『華神紅輪(クリムゾン・ギア)』ランク:B 対軍宝具 レンジ2~50 最大補足50人

 

 ――炸裂する火箭。灼熱の迦楼羅炎によって作りだされた弓の形状は神鳥ガルーダの翼を模している。

 

 放たれた矢は目標の眼前で炸裂し、無数の紅弾を雨のごとく降らせる。紅弾は一つ一つがビシュヌ神の象徴たるチャクラムを模した極小のベアリングであり、高い貫通力を持つ。

 

 『ラーマーヤーナ』において、龍蛇を矢として使うラーヴァナに対し、苦戦したラーマは神鳥ガルーダの加護を得た弓によってこれを退けたという。

 

 そのためナーガ(神蛇・龍種)に対する圧倒的な優位性を持ち、龍または蛇の属性を持つ敵に対しては追加ダメージが発生する。また、着弾と同時に魔力そのものに対する侵食作用が起きる。

 

『第七権限(アヴァーターラ)』ランク:‐ 対人宝具 最大補足1人

 

 アーチャーの身体に施された概念武装。

 

 使用と共に褐色の肌が蒼く変化し、さらに黒色へと変わっていく。最終的には皮膚だけではなく、眼球や口腔までもが光輝く黒陽色に染まる。

 

 あらゆる身体性能が飛躍的に上昇し、スキル・宝具を含むすべてのランクが最大A++まで増強される。

 

 さらに通常時は隠蔽されている神霊適正が顕著し、自身よりも神霊適正の低い対象からの干渉を大幅に軽減する。(ただし無効化することは出来ない)。

 

その場合、筋力・宝具等のランクは関係なく、それを行使する者の神性スキルの高さのみが効果判定に影響する。

 

 また、黒曜石のごとき肉体は高性能の『ビーム・アブソーバー』として機能し、光線系、雷撃系、炎熱系のダメージを無効化し、逆におのれの魔力として充填することが可能。

 

『陽翼はためく光導弓(シャールンガ)』ランクA+++ 対域宝具 レンジ50~99 最大補足1000人

 

 ――太陽の弓。

 

 クリムゾン・ギアの全体を包む炎の中から本来の姿である白金の弓を開放し、太陽の翼を持つ光の矢を放つ。

 

 あらゆる過程を飛び越えて結果のみをこの世に顕著せしめる神霊兵装。およそ弓としては最高レベルの宝具であるといえる。

 

 矢は意思を持つように天空を舞い、あらゆる防御・障壁を突破した後に着弾点へ疑似太陽たる「恒星」を再現させ、あらゆるものを焼き尽くす。

 

 しかしその本質は、星さえ焼き尽くす威力にではなく〝遍く領域に疾く届く光の翼〟つまり「絶対着弾」にこそあると言える。

 

(ヴィシュヌ神の神格は『光・光線』であり、その名は『遍く行き渡る』というマントラを表す。それ故に現世界、異界、閉じた結界等を問わず、ヴィシュヌ神の権能が届かない領域は存在しない。この宝具はその体現なのである)

 

 対軍、対城、対国、対星、対界と、対象に合わせて宝具の規格を変更できる「対域」宝具であるが、その分、比較的魔力のロスが大きいという弱みがある。(対軍で使用しても最大展開した場合とコストがほとんど変わらない)

 

その陽翼は、炎の赤ではなく目視も適わぬほどの白光に輝く。

 

備考

 

 

 

クラス     ライダー

マスター    オロシャ・ド・サンガール

真名 

性別      男性

身長      188cm

体重      80kg

属性      混沌・中庸

能力      筋力B 耐久C 敏捷D 魔力B 幸運A 宝具A+     

イメージカラー エメラルド

特技      操船・海賊行為

好きな物    海・冒険・女王

苦手な物    長い陸上生活・退屈な隠居生活

天敵      なし

 

クラススキル

 

『騎乗』:A

 

 幻獣・神獣ランクを除くすべての獣、乗り物を自在に操れる。

 

『対魔力』:D

 

 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。魔力除けのアミュレット程度の対魔力。

 

保有スキル

 

『不沈の加護』:A

 

 航海における最高レベルの守り。水上戦で沈むことはありえない。

 

『仕切りなおし』:C

 

 戦闘から離脱する能力。

 

 また、不利になった戦闘を戦闘開始ターン(1ターン目)に戻し、技の条件を初期値に戻す。

 

『風視(かざみ)』:A

 

 大気の流れを読み操る能力。

 

 自然現象から魔術的なものまで、高確率でその内実を看破することが可能。

 

『黄金率』:C

 

 人生においてどれほど金銭がついて回るかの宿命。求める以上の金銭は手にできる。

 

『軍略』:D

 

 一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直観力。自らの対軍宝具の行使や、逆に対軍宝具に対処する場合に有益な補正が与えられる。

 

宝具

 

『刻め、咆哮の魔名(エル・ドラク)』ランクA+ 対軍・対艦宝具 レンジ10~99 最大補足100人

 

 ――嵐を纏うガレオン級重装帆船、宝具『嵐海の中の輝き(ゴールデン・ハインド)』による艦砲射撃。その暴風の弾雨は瞬く間に街一つを消し飛ばす。

 

 その砲弾は船体同様に超圧縮された嵐(暴風)を纏っており、破壊力と攻撃範囲を飛躍的に向上させている。

 

 また、嵐によって生み出される竜巻と渦潮は外界から風を取り込むことによって超巨大積乱雲(スーパーセル)にまで拡大し、難攻不落の障壁となって外敵からの攻撃を阻み、あらゆる敵を海の藻屑と変える。

 

 また、船体を含む船の武装・備品は全てが宝具の一部であり、ライダーの意思によって自在に操作することが可能。よって、船上においてはライダーの戦闘力は格段に向上する。

 

備考

 

 無敵艦隊を破った男。イギリス救国の英雄にして海賊。世界の海を駆け抜けた冒険家にして騎士の位を持つ男。

 

 その血の起源に微細ながらも竜の因子を持ち、魔竜(エル・ドラク)と呼ばれ恐れられた私掠船の船長である。

 

 その名は新大陸中にまで知れ渡り、超人的な強さが人間ではありえないとスペイン人達の恐怖の対象となっていた。

 

 聖杯戦争に招かれた理由は今一度海を争覇したいというもの。

 

 以下は海賊となって以降の簡単な経歴。

 

 ドレイクはエリザベス女王や貴族達をスポンサーに「私掠免許 マルク」(他国の財産を横取りしても許されるという無茶苦茶な免許)を得ると1577~80年にゴールデン・ハインド号でスペイン植民地への攻撃、略奪の遠征を行い。そのついでに人類2番目に世界一周を成し遂げた(一番はマゼラン)

 

 そして母国に帰港した時、ドレイクは50万ポンド以上今の貨幣価値にすれば国家予算並みの財産を手にしており、その一部でイギリスの借金は全て支払われたエリザベス女王はよほど嬉しかったかスペインとの外交も無視して「エル・ドラク」に「サー・フランシス・ドレイク」と名乗る権利を与えた。

 

 その後は有名な「アルマダの海戦」で活躍し、五十歳半ばで海賊らしく船上で最後を迎えたとされる。

 

 

 

クラス     キャスター

マスター    カリヨン・ド・サンガール

真名 

性別      女性

身長      160㎝

体重      56㎏

スリーサイズ  88・61・90

属性      中立・中庸

能力値 筋力D 耐久E 敏捷C 魔力B 幸運A 宝具C  

イメージカラー モノトーン

特技      ゲリラ戦術 歌・ダンス・プロデユース

好きな物    娘・子供 

苦手な物    自分・獅子舞

天敵   

使用武術    プンチャック・シラット

 

クラススキル

 

『陣地作成』:B

 

 魔術師として自らに有利な陣地を作り上げる。標準的な工房の形成が可能。

 

『道具作成』:C

 

 魔力を帯びた器具を作成できる。

 

保有スキル。 

 

『千獣の賛歌』:A

 

 獣であるならばあらゆる幻獣・神獣とも意思の疎通が可能。対象を操ることはできないが魅了の効果があり、高ランクでは獣達が自然と役に立ってくれる

 Aランクでは他人の使い魔からでも情報を引き出せる。

 

『芸能炯眼』:C

 

 自他の外観に対する観察眼とプロデュース能力。

 

 対象を視認するだけでそれが特別な隠蔽効果を持つ物でない限り高確率で外部装備および装飾品の効力・状態を看破できる。

 

『呪歌』:B

 

 類稀なる美声。歌って踊れる才能。

 

 声を聞くだけで魅了・幻惑等の精神干渉が起こる。

 

宝具

 

『流転齎す闇夜の吐息(カーリー)』ランク:C 対人宝具 レンジ1~10 最大補足50

 

 ――左腕のブラック・マジック。

 

 能力は負の感情の流転。時間をさかのぼり単一のモノに対する悪意・害意・敵意などの対象を別の対象に書き換える。

 

かなり高位の幸運、もしくは直感が無ければ察知・回避は難しい。負の感情が強いほど高い効力を発揮する。

 

 カーリーはヒンドゥー教における狂悪にして強大な女神の名であり、その名は「カーラ」(『黒』又は『時間』を表すマントラ)が元になっている。

 

 

マスター    D・D

真名      ハサン・サッバーハ 

性別      男性

身長      180cm

体重      60kg

属性      中立・悪

能力      筋力C耐久C敏捷A魔力B幸運E宝具D      

イメージカラー 斑(まだら)

特技      ブービートラップ・詐欺

好きな物    動物実験・傷痕

苦手な物    

天敵      ラーマ

 

クラススキル

 

『気配遮断』:A+

 

 サーヴァントとしての気配を断つ。隠密行動に適している。完全に気配を経てば発見する事は不可能に近い。ただし、自らが攻撃態勢に移ると気配遮断のランクは大きく落ちる。

 

保有スキル

 

『風除けの加護』:A

 

 中東に伝わる台風避けの呪(まじな)い

 

『自己改造』:B

 

 自分の肉体に、まったく別の肉体を付属・融合させる適正。

 

 このランクが上がればあがるほど純正の英雄から遠ざかっていく。

 

『薬物調合』:A

 

 あらゆる毒物・薬品等を調合できる。ただし、魔術的な効果は付属しない。

 

 毒物の効果は致死から催眠、麻痺、幻惑等さまざまで、死期操作可能な秘薬カンタレーラや万能解毒薬ミトリダティオンなどの精製も可能。

 

『偽装工作』:C

 

 変装、詐術、罠の隠蔽といった敵を欺くための能力。

 

宝具 

 

『回想傷紋(ザバーニーヤ)』ランク:D 対人宝具 レンジ5~9 最大補足20

 

 ――呪いの血文字。このハサンは左肩の瘤に呪われた殺人鬼の心臓を移植している。そのため左腕は通常使い物にならない。

 

 その包帯を開放し、肩の心臓を急激に脈動させて包帯の下の傷から血霧を撒き散らすことで、宙空に紋を描く。

 

 それを目視した人間の記憶を強制的に〝回想〟させ、今までに負った「傷」を総て再切開する。

 

 場合によっては人一人すら殺すのが困難な宝具であるが、実際には毒物との併用によって効果を発揮させる。

 

 また、その効力は魔術でも幻惑でもなく、あくまで視覚効果によって記憶を回想させるにとどまり、実際に傷を開くのはその対象自身の魂が記録している傷痕の記憶であり、イメージである。

 

 そのため回避には魔力・幸運等の高さは影響しない。

 

 生きている人間よりも、生前に戦場を駆け、そして戦場で死んだ英霊にこそ絶大な効果を発揮するという特異な性質をもった宝具である。

 

備考

 

 毒使いの暗殺者。基本的には諜報活動に徹し、策略やトラップによって敵を貶める戦法を好む。

 

 戦闘のスタイルは刃に毛を植えつけた怪刀を使用する。これは毒を染み込ませた鞘(この鞘の内側にも毛が植えてある)に収めておき、かすっただけで致命傷を与えることができるという代物。

 

 また黒塗りの小瓶を投擲して毒を浴びせたり、毒霧を吹きかけたりといったことも行う。

 

 これらの戦法は宝具である『回想傷紋』と併用した場合高い効果をもたらす。それがこのアサシンの本来の戦法である。

 

 

 

バーサーカー

マスター    ベアトリーチェ・ド・サンガール

真名      八百屋於七

性別      女性

身長      158cm

体重      40kg

属性      混沌・狂

能力      筋力C 耐久E 敏捷D 魔力E 幸運E 宝具D      

イメージカラー 灰白色・鈍色

特技      なし

好きな物    焦がれるような恋

苦手な物    ひとりぼっち

天敵

 

クラススキル

 

『狂化』:D

 

 筋力・耐久・敏捷のパラメーターのランクを上昇させるが自立的な思考力・言語力を失う。

 

保有スキル

 

『怪力』:C

 

 一時的に筋力のパラメーターをアップする。

 

 彼女の属性は反英霊というよりも、悪鬼に取り込まれた偶像としての側面が強いため、付属した能力。

 

『偏愛』:A

   

 単独で行動することができなくなるが、マスターに対して従順になる。加えて、瞬発的に特定のパラメーターをアップすることができる。

 

『戦闘続行』:E

 

 自己防衛意識の欠如。己の負傷を省みず、死ぬまで戦闘力を低下させずに戦い続けることができる。

 

 

宝具

 

『火刑・緋縁魔(カケイ・ヒエンマ)』ランク:D 対人宝具 レンジ2~9 最大補足5人 

 

 ――かつて裁かれた断罪の炎。

 

 対人拘束宝具。周囲の火炎を収束させ対象を拘束しそのまま焼き殺す。周囲の炎が大きいほど拘束力が高くなる。

 

 現在はクラス効果により使用できない。

 

『火景・飛炎魔(カケイ・ヒエンマ)』ランク:E 結界宝具 レンジ10~50 最大補足100人

 

 ――かつて魅せられた偏愛の炎。

 

 常時発動型の宝具。バーサーカーは実体化しているだけでそこら中に火の粉を撒き散らして、火災を引き起こし続けるという性質がある。

 

さらに、その中で死んだ人間の魂(魔力)を常時吸い上げ続けている。これらは意識的ではなく、完全に無意識のうちに行われる。

 

 撒き散らす種火には特殊な効果は付属せず、燃え広がる前なら人の手でも鎮火できる。種火から自然に広がった火災はバーサーカーが有利に立ち回るための結界として作用し、周囲の炎で分身を作り出し敵を幻惑することなどが可能。

 

備考

 

 炎海に潜む女怪。

 

 戦闘スタイルは巨大な魔爪(一つ一つが自分の身体ほどもある)を使用する。動きは素人に毛が生えた程度。

 

 イメージカラーは灰色・鈍色で、髪と着物も灰白色。そこに、うねるような炎を模した紅蓮の染め抜きがある。

 

 その実は反英雄。本来は英霊ではなく悪鬼の類。日本で最も有名な放火犯である。

 

 恋慕の挙句に放火未遂事件を引き起こし捕らえられて火刑となり、浄瑠璃等の題材として使用されるようになった。このイメージに丙午の迷信や男を誘惑し精気を吸い尽くすという悪鬼の側面が取り込まれ、反英雄として祀り上げられたもの。

 

 生前の本人は唯の人間であり、おそらくは史上再弱のバーサーカー。

 

 そもそもバーサーカー以外の適正はなく、その能力は複数のスキルでドーピングしても他の英雄たちに及ばないが、反面マスターの負担が少なく、従順で暴走しにくいという利点がある。また、火災の中でなら魔力を補充しながら他の英霊とも互角に戦うことが可能となる。

 

 

 

クラス     セイバー

マスター    遠坂凛

真名      アルトリア

性別      女性

身長      154㎝

体重      42㎏

スリーサイズ  73・53・76

属性      秩序・善

能力値 筋力B 耐久A+ 敏捷A 魔力A+ 幸運A 宝具A++ 

イメージカラー 青

特技      勝負事

好きな物    きめ細かい作戦・正当な行為

苦手な物    大雑把な作戦・卑怯な行為

天敵      

 

クラススキル  

 

『対魔力』:A

 

 A以下の魔術は全てキャンセル。事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけられない。

 

『騎乗』:B

 

 騎乗の才能。Bランクでは魔獣・聖獣以外のあらゆる物を乗りこなす。

 

保有スキル

 

『直感』:A

 

 戦闘時、自身にとって最適な行動を「感じ取る」能力。研ぎ澄まされた第六感はもはや未来予知に近い。視覚・聴覚に干渉する妨害を半減させる。

 

『魔力放出』:A

 

 武器、ないし肉体に魔力を帯びさせ、瞬間的に放出することで能力を向上させる。魔力によるジェット噴射。

 

『カリスマ』:B

 

 軍団を指揮する天性の才能。

 カリスマは希少なスキルでBランクは一国の王として十分な度量である。

 集団戦闘において、自身の軍の能力向上効果がある。

 

宝具

 

『風王結界(インビジブル・エア)』ランク:C 種別 対人宝具レンジ1~2 最大捕捉1人

 

 不可視の剣。

 

 セイバーの剣を幾重にも覆う風で光を屈折させて不可視とする宝具。白兵戦にお  いては武器の形状、間合いを相手に悟らせないため、優位に戦うことができる。

 

 また、『約束された勝利の剣』はアルトリア、つまりアーサー王たるセイバーのシンボルとしてあまりにも有名過ぎるので、真名開放をせずともその剣を見られただけで彼女の真名が割れてしまう危険性が高い。

 

 そのため、不可視にすることでそれを防ぐ意味合いもある。

 

『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』ランク:A++ 種別:対城宝具レンジ:1~99 最大補足:1000人

 

 光の剣。人造による武器ではなく、星に鍛えられた神造兵装。聖剣というカテゴリーの中では頂点に立つ宝具である。

 

 所有者の魔力を“光”に変換後収束・加速させて運動量を増大させ、神霊レベルの魔術行使を可能とする聖剣。

 

 放たれた斬撃は光の帯のように見えるが、実際には攻撃判定は光の先端のみであり、光によって形成された断層が通過する線上の全てを切断する。

 

備考

 

 真名はアルトリア・ペンドラゴン。

 

 イングランドの大英雄、かの有名なアーサー王であり、ブリテンを統べた王。円卓の騎士の一人でもあり、「騎士王」の異名を持つ。

 

 半年前の冬木における第五次成敗戦争に召喚され、最終的に汚染された聖杯を破壊した。聖杯戦争の終結後も通常の使い魔として現界している。

 

 当初は衛宮士郎に召喚されたが、後に遠坂凛をマスターとしている。しかし現在も士郎との仲は良好であり、ともに衛宮邸に三人で生活している。

 

 現在は冬木の管理者としてのマスター、遠坂凛の命により「再開された聖杯戦争」 という有りうべからざる怪異に対処するため再び夜を馳せる。

 

 



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五章 高位受容「ノエマ・フィードバック」-1

 昨夜の激闘の記憶はいまだ褪めることなく、諸所に堆積した疲労の澱は特大の枷の如く身体と精神から自由を奪っていた。

 

 それでも空の天蓋は澱むこともなく旋転し、今にも泣き出しそうな空にはふたたび夜の前触れとなる濃い黄昏の色が滲んでいる。

 

 衛宮士郎は高級そうな絨毯張りの感触を感じながら、古めかしい調度品に囲まれた部屋で一人昨思案に耽っていた。耽らざるを得なかった。もはや、時間の猶予はないというのに。――

 

 ここは深山町の住宅地の一番高いところにある洋館。代々二百年に渡ってこの地を管理する魔術師の一門、遠坂家の誇る工房にして同時に拠点でもあった。

 

 彼等は昨夜の激闘の後、衛宮邸ではなくよりセキュリティー面で秀でたこの遠坂邸に居を移していたのだ。既にカリヨンやキャスターに場所を知られている衛宮邸よりも秘匿性を考慮した結果だった。ともかく、今は一時的にでも安全性に敏感にならざるを得ない状況だったのだ。

 

 現在、普段使われていない空き部屋にはワイアッドとテフェリーをそれぞれ休ませてあった。本来は徒弟や使用人が詰めているような部屋だとの話だったが、一時的に休息をとるくらいならば充分すぎるくらいの拵えであった。

 

 士郎は随時それらの部屋に足を運んで負傷者達の看病に従事せざるを得なかった。それ自体が苦痛だったわけではないが、やはり、気は沈みこむように重い。

 

 ランサーの宝具効果によってその一命を取り留めたものの、一時は間違いなく致命傷を負っていたワイアッドは完全には回復しきっておらず、しばらくは安静にしておくより他なかった。

 

 対して、テフェリーのほうも同様に休ませてはあったのだが、彼女にはさして重篤な負傷があるわけでは無く、幸いなことに潰されたかに見えた両目も実際には目蓋を傷つける程度の傷だけですんでいたので、簡易的な治療を施しただけで大事には至っていなかった。

 

 しかし問題なのは精神のほうだった。昨夜の死闘の後、意識を失ってしまった彼女は現在まで一度も目覚めることなく昏倒し続けていた。状況が状況だっただけに事態の解明もままならず、今も依然として意識が回復する兆しは見えない。

 

 今もまた一通り各部屋の異常がない事を確認した士郎は、居間に戻る途中でもう一箇所、別の一室に足を運んだ。扉を開けると、そこには寝息を立てているもう一人の少女の姿があった。

 

 ここはこの邸の主である凛の寝室だ。そこに横たわる青白い顔は痛ましげな汗に塗れていた。

 

 実際には彼女もランサーの宝具効果を受けていたので負傷については充分に回復していた筈なのだが、カリヨンの話によると彼女は怪異なる敵の異能によって精神に強制的な人格改造の操作を施されたのだという。

 

 その点についてはすでに処置済みだということだったが、それでも彼女の精神は大手術をうけた肉体の如く疲労の極みにあり、今は休ませるしかないとのことだった。

 

 士郎は苦しげな凛の顔を覗きこみ、額の汗を拭ってやる。時折、うなされるように白い眉間に皺が寄り、苦しげに湿った息を洩らすのは、自身の疲労以上に案ぜられる事柄があるからであろうか。

 

 昨夜、彼女自身の令呪によって何処かへ飛ばさてしまったセイバーの行方は未だ不明なままだった。その時の彼女は彼女であって彼女でなかったのだ。自らの預かり知らぬ間に行使された指令の内容を、今の遠坂凛は知り得ない。

 

 昨夜とは真逆の状況だった。無論のこと、士郎もそのことについては凛にも負けぬ程に心痛を感じてはいたのだが、ほとんどの人員が負傷や疲労に苛まれているこの現状を鑑みれば、まさか自分が単独でセイバーの捜索に乗り出す訳にもいかない。

 

 それほどに、今の彼らには余裕というものがなかったのだ。

 

「セイバー……」

 

 何よりも疑問なのは、なぜセイバーは自力で戻ってこないのかということだった。それが己のあずかり知らぬ彼女の思惑によるものならともかく、もしも戻ってこれないのだとしたらどうだろう? どこかに囚われていたのだとしたら? いや、そもそも本当に未だ存命しているのかどうかさえ……。

 

 否、それもあの伝説の騎士王に限ってそのようなことがありうるはずもない。と、己を叱咤しつつ、それでも心痛は積もるばかりであった。

 

 結局のところ、今の自分には手をこまねいていることしか出来ないのだろうか。士郎は己の無力さを噛み締めながらそっと凛の髪を撫で、静かに家主の寝室から応接間に戻った。

 

 そこでまたソファに重い腰を降ろし、一人暗鬱と思案に耽ろうとしていたそのとき、音も無く扉が開いて誰かが部屋に入ってきた。

 

「大丈夫なんですか? ワイアッドさん」

 

「世話をかけたようじゃな」

 

 部屋に入ってきたのは過労と負傷のために寝入っていた筈のワイアッド・ワーロック翁その人だった。

 

 身なりは既にきっちりと整えられており、その装束もすっかりと元の古めかしく隙のない洋装に変わっている。相変わらず何処に出してもおかしくない、整然とした空気を纏う老紳士の姿にはいささかの衰えも見受けられない。

 

 ――が、いくら外面上そう見えても、あの負傷がいきなり回復するわけもなく、

 

「とにかく安静にしていてください。傷は軽くない筈です……何か食べますか?」

 

「ああ、立たんでよろしい」

 

 ワイアッドは席を立とうとしたシロウに手振りでそれを制し、向かい側のソファに自分も腰を降ろした。その所作に視線を這わせてみれば、具合が好転していないことは優れない顔色やぎこちない動作の諸所から窺えた。

 

「結構じゃ、構わんでおいてくれ。今は喉を通らんのでな」

 

 虚勢を張るでもなくゆっくりとそう言うと、ワイアッドは一つ咳をして一言付け足した。

 

「しかし……そうじゃな、紅茶を一杯貰えると助かる」

 

 士郎は首肯して、手早く紅茶の用意に取り掛かった。その動作には微塵の淀みもない。

 

 それを見つめていたワイアッドは、幾分調子の上がった声で言った。

 

「……どうやら、遠坂嬢とは懇意にしとるようじゃな……」

 

「あ、いや、そんな……」

 

 唐突なその言葉に、この実直な少年は謙遜というよりは不意を突かれたかのように狼狽して応えた。

 

 実際彼は幾度となくこの屋敷に、魔道の教練という名目で足を運んでいたのであった。

 

 もっとも、それだけなら衛宮邸でも問題はないのであり、ここに来るのはやはり他人の眼を気にせずに二人きりになれるというのが大きな理由であったのだろう。

 

 それゆえに彼にしてみればこの屋敷のティーセットの配置くらいは勝手知ったるものであった。

 

「いや、かまわんとも。魔術師といえども人であることには変わらん。魔術師は人から外れたものではあるが、人である事をやめてしまえばそれは魔術師ではなく、ただの魔でしかなくなる。

 ……それが、一流などと呼ばれる魔術師ほど、わかってはおらんものでな……わしもそれがわかるまで随分と手間を掛けたものだ。……」

 

 含みを持たせたような、嘆きの篭る言葉に、士郎は何らかの事情があるのを感じた。直感的に、それはテフェリーのことと関係があるかのように思われた。彼はすでにあの銀色の四肢を見知っている。

 

「うむ、悪くない……」

 

 ワイアッドは出された紅茶をゆっくりと含んで深く息を吐いた。

 

「テフェリーの煎れるお茶と比べてどうですか?」

 

 沈黙を嫌ったか、それとも元から待っていた問い賭けをする機を得たと思ったか、士郎はそれほどの間も置かず声をかけた。

 

「……アレも悪くはないのじゃがな。たまに温すぎ、時たま熱すぎ……まあ、外れも多い」

 

「あの、手のせいですか」

 

 不意に、声の調子を変えて尋ねた。不躾な問いだが、聞かずに捨て置けない事柄だと思えたのだ。

 

「……そうか、見たか」

 

 ワイアッドも士郎が投げかけようとしている問いの内容を察したようだった。

 

「昨日、俺たちを助けてくれた子供がいたんです。まだ十四・五歳くらいの」

 

 ワイアッドは据わりを正した。真っ直ぐに士郎の視線を受け止める。

 

「名前は確か、サンガールのカリヨン……テフェリーことを知っていました。でも彼女の方はなにも知らないようでした。……いったいなにがあったんです? 貴方たちの過去に」

 

「……知らぬ」

 

 自白でもするかのように、重い言葉だった。しかし、それは(つか)えることもなく出た。長い間吐き出そうとして、出すに出せずに喉元で問いかけを待っていたかのような、そんな巌のような重苦しい言葉だった。

 

「本当に知らぬのだ。アレを保護した時には既にあの身体だった」

 

「……」

 

 士郎は黙したまま、零れだしてくる巌のような言葉を静観した。

 

「あの礼装は脊髄や脳幹にまで達しておってな。時計塔の魔術師を見渡しても取り除ける者はおらなんだ。……わかっとるのは、生きとるのが不思議だということぐらいかのう」

 

 ワイアッドはゆっくりと、しかしろくに息もおかずに言葉を続けていく。

 

「……アレは、かつてはサンガールの居城にいたらしい。それ以外のことは本当にわからん。忘れていてくれているなら、あえて知る必要もないと思ったのでな、魔術で聞き出すこともせなんだ。

 ……それ以来、何とか普通の生活というヤツの真似事をしてきたのだが、さてうまくいっとるのかどうか……」

 

「大丈夫ですよ。いい()だと思います。とてもお爺さん想いの」

 

 色眼鏡の奥の方眉が不意に上がった。

 

「ランサーか……」

 

「貴方の望みはテフェリーだとも」

 

「まったく、口の軽い英霊もあったもんじゃな……」

 

 苦虫を噛んだような想を浮かべたワイアッドに、士郎は真摯な面持ちで語りかける。

 

「だから、あまり無理はしないでください。テフェリーはランサーにそう言われたとき、……それでもあなたを助けに行くときに言いました。『自分の望みもただひとつだ』って」

 

「……ワシの願いはそんなに美談にするべきものでもない。どちらかといえば贖罪のようなものじゃ。人生をしくった老人の最後の足掻きみたいなものよ。ワシは、あれが何処で生まれたのかも知らんのだ」

 

 ワイアッドは色眼鏡をはずした。それを見て士郎も眦を見開いた。そこにあったのは確かに薄い緑と茶色の、色違いの瞳だった。

 

「ただ、一目見て解かった。己の血筋のものだということはな……」

 

「……俺なんかが口を挿むようなことじゃないのかも知れないけど、多分あの娘が一番辛いのは貴方が必死に足掻くのを手伝えないことなんじゃないかと思うんです。一人で戦おうとするのは止めてください。それに、俺も目の前にいる人に手伝うなって言われてもつらいだけですから」

 

 再び色眼鏡で表情を隠した老人は、なにやら口の中で物を吟味するように貌をしかめていた。

 

「……やれやれ。ワシは君をただ非常に親切な性質の人間なんだと思っとったが、どうやら過分なお節介やきの間違いだったようじゃな」

 

「ええ、よく言われます」

 

 士郎は笑い、ワイアッドもようやく微笑のようなものを疲れた貌に浮かべた。

 

「ならば、早々に手を打たねばなるまい。ヤツは、速ければ今夜にでも来る」

 

「ヤツ?」

 

「昨夜君らが戦ったというあいつじゃよ」

 

 士郎の脳裏を介して総身の皮膚の裏側に、あのモザイク柄の怪人の脅威がさめざめと蘇った。

 

「アイツが!? どうして……そういえば何で俺たちを狙ってきたのかも……」

 

「ヤツの狙いはテフェリーじゃ」

 

「いったいどうして……」

 

 その問いには答えず、ワイアッドは窓の外、爛れたような緋色の空を見据えて独白するかのように言葉を紡ぐ。

 

「兎角、迎え撃つしかあるまいな。あやつはまたテフェリーを狙ってくる。そういう男じゃ。最後まで己の意志を通そうとするはず……」

 

「……知り合い、なんですか」

 

「知己じゃよ。……よく、知っとる……」

 

 その語尾に重苦しい拒絶の色を感じ取り、士郎はそれ以上の言及を避けた。

 

「……でも、どうやって」

 

 士郎は再び昨夜垣間見た、あの怪人の驚異的な強さを反芻して身を震わせた。またあの男と相対することになるというなら、はたして彼らはその身を護りきることが叶うのだろうか。

 

「なに、ここで待ち受けると言うなら、手はないこともない。悪いが遠坂嬢を起こしてきてくれんか? 少々、準備が要るのでな」

 

 切迫した声を漏らした士郎に向けて、向き直った老翁は眦を決して鋭い視線を送ってきた。その眼光はすでに一流の魔術師のそれに変じていた。色眼鏡から垣間見えたその二色の双眸に、怜悧な刃の輝きが揺らめいた。

 

「いい機会じゃ。君も勉強するといい。魔術師の真価とは、要撃戦(ようげきせん)でこそ問われるものなのだからな」

 

 夕日が去る。空の色が、ティーカップに残った緋色のそれとは似ても似つかぬ漆黒に澱もうとしていた。

 

 

 

 

 この新都の街にふたたび夜が訪れた。

 

 先日まで日が落ちるとともに吹き荒んでいた、目も開けられぬほどに荒々しくも冷たかった風は今日に限って去り、代わりに空恐ろしいまでの凪いだ空気が街を覆い、まるで世界そのものが丸ごと弛緩させられてしまったかのように感じられた。

 

 それが、逆に奇異だった。今宵に限り、風がないことが逆に恐ろしかった。住民たちは理解を超えて震える心胆で感じ取っていた。

 

 この凪いだ夜こそが、何にも増して恐ろしいものだということを。

 

 

 

 何処からともなく流れ来るガムランの調べはどこまでも妖しく、夜の天蓋を頂く篝火の移ろいはどこまでも艶かしく美しい。

 

 そこにあるのは簡易なサークルと少量の香と呪物だけ、複雑怪奇な術式陣などどこにもありはしない。有るのはただ舞い続ける女の艶めかしい肌だけだ。

 

 上気し、息を弾ませながら、細い顎先から雫を滴らせ髪を振り乱して、人ならざる「魔」を模倣するかのように、柔肌がうねる。どこまでも官能的で際限のない静かなる熱狂。遮るもののない、月さえ見えない夜の中で、舞い手は振るう。ただ舞い狂う。舞い狂う。――

 

 ここは新都で一番高い場所。天に連なるが如き塔の上、センタービル屋上である。そこで妖しく舞い続けているのは魔術師のサーヴァント、キャスターであった。

 

 今、彼女は手にとる白布意外は何の装飾品も身につけておらず、その裸体を夜気に晒し躍動しながら見るものの視覚をその芳香で惑わすかのように魅惑の舞踏に酔いしれている。

 

 かれこれ、四五時間ほどこうして舞い続けているだろうか、常軌を逸したその振る舞いは古の神事や神降ろしの儀式を連想させる。しかし、今宵この魔女がこの(うつつ)に呼び集めようとしているのは、神などという生易しいものでは断じてない。

 

 彼女の舞台となっているその塔の周りには、うっすらと奇怪な靄がかかっている。赤みを帯びたオレンジ色の靄だ。やがて靄はそれ自体の重みに耐えかねたのか、高層ビルの表壁を伝って雪崩を打った。

 

 靄は舞い降りる。靄の所々に斑が生じる。その斑は次第に色みと厚みを増していく。それらは次第に数を増す。それらは次第に寄り集まる。それらは次第に引き集められる。それは、既に澱みに似ている。

 

 それまで目には見えなかった闇の澱みが、蠢きながらやにわに何かの形を獲得していく。

 

 腕を得る。

 

 足が見える。

 

 五体がそろう。

 

 (しか)して、それは人にあらず。人の如き、人もどき。――化生。地中深くから沸き起こる汚泥のごときそれらは、悪霊ならぬ怨霊に他ならない。

 

 煌々たる赤光の靄に引かれるように、雲間の闇から、山裾から、川原から河口から、集まる畸形胎児の如き異形の群れ。赤黒色の体、真紅の目、中には虎の如き、牛の如き異形の影までもが見える。

 

 その様、まさしく百鬼の夜行。

 

 路上には、ビル軍の隙間には、公園のベンチには既に目には見えぬ何かが腰を落ち着けていた。オレンジの光に包まれ、かろうじて人の視覚を侵さぬそれらは、既に触れられるまでに厚みを帯びていた。

 

 じっとりと濡れそぼつ影の群れは群雲に架かった月が貌を出すかのように、その姿を次第に鬼の群れへと変転させていく。

 

 魔帯が歓喜する。化靄が打ち震える。魑魅魍魎が踊り狂う。その総数たるや如何ほどか、幾千幾万の赤み掛かった靄が新都一帯を包み込んでいく。

 

 そう、今宵は祭りだ。灯篭に引き寄せられる羽虫の如く寄り集まったしじまの住人も幾幕間(いくまくま)のロンドに酔いしれる。

 

 その様、まさしく百鬼の舞踏。

 

 この地で幾重にも繰り返された闘争の末に、この地に積み重ねられた屍が怨霊・亡霊として地表にあふれ出してきたのだ。それらは澱んだ虚の中で次第に貪り合い溶け合って、次第に嵩を増やしていった。

 

 奇怪なる妖光に煽られる女はたおやかな肢体を上気させ、いっそうに振り乱される柔肌は幾重にも艶を増していくようだった。

 

その裸体には渦を巻く血色の紋が踊り、うねる柔肌の上で闇の中に芒と浮かび上がる。それはのたくる蛇にも見え、見るものの視線をその肌の上に絡めとってしまうかのように思われた。

 

淫らに上気した頬を燻らせ、妖女が笑う。

 

『――――さあ、今宵は無礼講。どちら様も、漏れなくお招きいたしましょう――』

 

舞手は狂う。舞い振るう、舞い狂う。――

 

 

 

 昨夜、成り行きでテフェリーと同行することになり、ついで、とでもいう形で宿敵でもあった兄オロシャを打ち倒す僥倖にあやかったカリヨンはその後、彼らとともに一度衛宮邸に向かった。

 

 出来ればそこで最後まで意識を失ったままのテフェリーを看ていたかったが、空が白むのを見て、そこにい続けるわけにも行かず、朝も明けてからこの場所に帰ってきたのだった。

 

 さんざんに打ちのめされた彼の負傷はテフェリーのそれよりもよほどひどいものだったが、最後にランサーが彼に掛けた末期の言葉が、幻灯の如き不確かな熱波となって敵であるはずの彼の疲労と傷を癒してくれたのだ。

 

 説明もつかないし確証もないが、それでも確信が先にたったのだ。あの時、彼等は敵同士でも、ただの協力者でもなかった。少なくともカリヨンは彼女を敵だとは思っていなかった。

 

 今考えても不思議だが、あの時彼らは間違いなく掛替えのない同志だった。テフェリーを護りたい、という一念のもとに彼らは同じ想いを抱く者だった。

 

 そして改めて思う。託されたのだ、と。あの時あのランサーにテフェリーを、テフェリーの味方であり続ける事を、護り続ける事を。

 

 そこでふと、彼は考え至る。そも、敵とはなんなのだろうか? そして味方とは。

 

 改めて考えても見れば、よくわからない。敵だ、味方だということなど彼は考えたことも無かったのだ。ただ漠然と、周りにいた人間は総て己の敵なのだと考えていた。

 

 それは、多分、自分を気にかけなかった人々なのだ。己を慮ってくれなかった者達なのだ。しかし、彼等は別にカリヨンに向けて直接害意をぶつけてきたわけではなかったではないか。

 

 では、敵とはなんなのだろうか? 自分は誰の敵で、誰の味方なのだろうか……。

 

 分からない。ただ、ひとつ分かるのは、ここに来て分かったことは、きっと自分はテフェリーの敵にはなれないのだということ。きっと彼女が望むなら聖杯を差し出すのも苦にならないかもしれないという事。

 

 それはきっと、これまでの人生で、彼女だけが彼の味方だったから。

 

 敵、といえば。そうだ、自分はあの兄に勝ったのだ。にもかかわらず、驚くべきはそのことをたいして嬉しいとも感じていないということである。勝ったのだ、あの怪物のような兄に。なら、もう少し喜んでもいいものかと思うのだが、考えるのはテフェリーのことばかりだった。

 

 主だという老人の安否を気遣い涙まで流した彼女を見て、心からそれを嬉しいと感じていたのは事実だ。

 

 彼女が安堵に微笑む様をどれほど夢に見たのだろう。笑えるようになっていてくれたなんて、これ以上の喜びが他にあるのだろうか――でも、同時にこの心をかき乱す何かがあるのだ。

 

 それはまるで、ひとりだけ置いていかれてしまったかのような心細さであった。疎外感と言ってもいい。亡くしてしまった過去にすがろうとするのではなく、未来を見据えて生きているテフェリーの姿を見て思ったのだ。

 

 きっと、彼女にはもうカリヨン・ド・サンガールは必要ないのだと。だって、結局自分だけがあの日から一歩も前に進んでいないのだから。それが、改めて突きつけられた、カリヨンにとって認めたくもない現実だった。

 

 思わず、抱えていた膝頭に顔を伏せる。

 

 するといきなり頭上に何かをかぶせられた。いきなりのことに驚いて顔を出すと、してやった、といわんばかりの鞘の笑顔が有った。

 

「風邪引くよ。子供はすーぐ身体、冷えちゃうんだから」

 

「……」

 

 そして仏頂面のカリヨンの脇に座ると、なにやら知った風な顔で笑いながら肘で小突いてくる。

 

「な……なんだよッ」

 

「いや~、随分真剣にみてるからさ~~」

 

 意地悪く笑いながら鞘が指し示す先には、舞い踊る女の豊かな裸体が淡い月光の靄に照らし出されながら、たおやかに波打っていた。

 

「――――なっ!? はぁ!? なんッ」

 

 泡を食って抗議しようとするカリヨンの言葉を、分かってる分かってる~~、と遮り、鞘はヒヒヒ、とこの上なく意地の悪そうな笑いを漏らして手にしていたコーヒーをカリヨンに手渡した。

 

 肌寒いのも当然といえば当然であった。彼等は夜の寒空の下、その空を見渡すセンタービル屋上にいたのである。その中央で踊り狂いながら儀式を執り行っているのはキャスターである。

 

 彼女はいま大魔術の行使に全精力をつぎ込んでいるのだ。その光景は妖艶にして限りなく淫らでありながら、生命の瑞々しさに満ち溢れていた。

 

 既に話しかけることもできない。トランス状態での舞いは既に架橋に差し掛かりかけているのだ。

 

 その間無防備になってしまう彼女の護衛、兼見張り、と言うのがこの二人に課せられた使命である。

 

「まーだ、朝のことでむくれてんの?」

 

「……」

 

 昨夜、カリヨンが完全に夜が明けてからこの仮初の拠点に帰ってきたときのことである。おそるおそるキャスターの元に出て行くと、当然鞘は既に自力で戻ってきており、彼女を探しに行っていたという言い訳の仕様もなかった。

 

 カリヨンは仕方なく出て行くしかなかったのだが、そこで予想だにしなかった絶対零度の針の如きキャスターの視線にさらされ、怯えるのもかまわず盛大に叱責を受ける事と相成ったのである。

 

 その上、これ以上勝手に出歩くなとまで言いつけられてしまった。多少の叱咤ぐらいは考えていたのだが、あまりに予想外の対応にカリヨンは大いに肝を抜かれ無条件降伏を余儀なくされたのだ。

 

 しかしそれは同時に新鮮な体験でもあったのだ。考えても見れば面と向かって誰かに叱られるというのは、始めての経験だった。

 

 それについて、脇で(笑いを噛み殺しながら)見ていただけの鞘は言う。

 

「アレはね、本気で心配してたの。君の事をね」

 

「……解かるのか、そんなこと」

 

「理屈じゃないんだよ~。そういうのってさ~」

 

 別に話したくはなかったが、他に相手もいない上にからかわれる可能性も大であったが、どうにもその気持ちを言葉にして誰かに伝えたいと言う欲求に駆られ、鞘にそのことを話した。すると案の定知ったような回答が帰ってきたのだった。

 

 護衛兼見張りとはいっても、特になにがあるわけでもなく夜は滞りなく更けていくのみだ。残りの参加者はどのくらいいるのだろうか? 兄オロシャが倒れたいま、カリヨン達に抗い得るのはイレギュラーのセイバーぐらいのものではないのか?

 

 D・Dはサーヴァントを失った筈だし、それに正直彼女たちとは、いや、テフェリーとは戦いたくなかった。今宵のキャスターの狙いは残りのサーヴァントだけで、マスターに危害は加えないということだったが……。 

 

「ときに少年、好きな人はいるかい?」

 

「な、なんだ突然! いきなり! 唐突に!」

 

 渡されたコーヒーに口をつけるでもなく、その湯気に魅入っているかのように俯いていたカリヨンは再び泡を食って声を上げる。自分が浴びせた言葉で、彼がうろたえるのを、爛と光らせた目で見初めて、サヤは言う。

 

「悩んでいるのはそういうことだと見ました。ズバリ、恋煩いに違いない!」

 

 ビシッと両手の指でカリヨンを指す。

 

「なにが「違いない!」だ。……別に、そういうんじゃ、ない」

 

 多分、――ではあるのだが、その辺りのことはまだカリヨン自身にもよくわからないのだ。

 

「じゃあさ、君は今までのことで後悔してることってある?」

 

「なにが、じゃあ、なんだよ。繋がってないぞ、話が」

 

「いやさ、昔その好きな子のことでちょ~~っとヤなことがあってそれをぐちぐち後悔しちゃってるのかな~~と」

 

「ちがう!」

 

「ほうほう。左様で~」

 

「……」

 

 無視する。付き合っていられない。

 

「ま・ま・ま。怒んないできいてみなさいよ」

 

 実を言うとキャスターが儀式を始めてからというもの、暇をもてあました鞘は、幾らかのインターバルを挟んで喋りっぱなしだった。

 

 どうしたところでじっとしていられない性分は変わらないようで、一方的に続けられる会話はほぼ彼女の独壇場と化していたのであった。

 

「いやぁ、なんかさー、先のことを悲観してばっかいるのは前にあったことを後悔しているからなのではないかしら、と思ったのですよ」

 

 ウムっ。などといっている。こいつ本気で暇なんだな。とは思いつつ、カリヨンもちらりほらりと相槌くらいは返していたから、話しは余計に弾むのである。

 

 実際、彼も暇をもてあまし気味であったのだ。昨夜の激闘の後で気がゆるんでいたとも言える。

 

「……ふつう、するだろ。自分のやってきたことにひとつも後悔しないなんて何にも考え

てないのと一緒だ」

 

「あ~、見たとこ君は後悔ばっかりしてるかんじだねぇ」

 

「……」

 

「でも大変じゃない? これまでのことを後悔して、先のことを悲観して心配してさ、生きてて楽しくないじゃない?」

 

「じゃあ、どうすればいいって言うんだよ。そうしないで生きてく方法なんてあるのかよ!」

 

 それまで何のこともない相槌を返していたが、このときばかりはちょっとむきになって応えた。

 

「おおっ、食いついてきましたね~」

 

「……ッ!」

 

「あー、ごめん、ごめん。まぁ簡単な話なんだけどさ、考えないってのも大事なことなのよ。大事なのは今。今どれくらい夢中でどれくらいドキドキできるのか、それを考えて生きてけばさ、その連続でできてる人生なんてのはあっという間に終わっちゃうんじゃない? 今までとかこれからとか、考えてる暇があれば今を大事にするようにしなさいってこと」

 

「……」

 

「君がその子を好きならそれでよし、たとえ嫌われても君が好きならずっと好きでいればいい。君の気持ちを決めれるのは君だけで、その子の気持ちを決められるのはその子だけなんだから?」

 

 ――なんだ、えらそうに。

 

「そういうんじゃないっていってるだろ。……大体、……その、人に何か言えるくらい悩んだことなんてあるのかよ……その、そういう、好きなやつ、のことで」

 

 ばつが悪くなったのか、カリヨンはそっぽを向いたまま声を引っくり返した。こんな会話を人としたことなどない。

 

「そりゃあ、ありますよ」

 

「え?」

 

 予期していなかった反応に、思わず鞘に向き直って呆けたような声を上げてしまった。

 

「え、え――と、その、いたのか? そ、そういう」

 

「いたよ~。大好きだったし、今も好き」

 

「……」

 

 カリヨンは再び俯いて押し黙る。別にそれほど慮外な返答でもない筈なのだが、どうにも鞘の普段の言動からは、それがイメージできなかったのだ。

 

「一緒にね、世界を回ってたんだ。私、冒険家だっていったでしょ?」

 

「……何でそんなことするのか、解からないな」

 

「えー、何でよ」

 

 適当な相槌のつもりだったが、問い返され、つい、口が滑る。

 

「知らない世界になんて行ったところで、自分は結局自分じゃないか、何処にいったって自分が変われるわけじゃないんだ。それは……逃げてるだけじゃ、ないか」

 

 やめろ、と言葉を続けながら思う。こんなに本気になって言い返したところで、また茶化されて終わりに決まっている。自分は何をそんなにむきになっているのだろうか。

 

 しかし返答がない。視線を上げると、サヤは始めてみる表情でカリヨンを見ていた。というより睨みつけていた。カリヨンは思わずおののいた。始めてみる表情だ.怒らせたのだろうか?

 

 しかし、サヤは大きな溜息をひとつ吐き、両手でカリヨンの肩を捕まえて近づけた眼を猫のように大きく見開いた。

 

「ちょッッ、ち、近、近い……」

 

 小さく悲鳴を洩らしたカリヨンに、サヤは真剣な貌と声を向けた。

 

「いいから、ちょっと聞きな!」

 

「……ッ?」

 

「いい、人はね、世界が変わるから、変われるんじゃないからの、自分が変わるから、いつだって新しい世界を見れるんだよ」

 

「は……はぁ?」

 

「不思議なもの、綺麗なもの 世界は想像するよりもずっと広くて、なんだってある、なんだって出来る。でもね。それは自分が自分のために望むから見れることだし、できることでもあるんだよ。いい、それを君がいらないって言ってしっまたら、もう誰にもそれを見せてもらうことはできないんだよ。

 

 だから、出来ない、なんて言うのはだめだよ。自分に何が出来るのか、出来ないのか、それは自分次第なんだよ 世界は自分次第でいくらでも大きくなる。いくらでも変化する。変わっていく。君がそれを望むことを誰も制限なんて出来ないんだよ。君が決めて行動するのも自分」

 

 返す言葉もないカリヨンに、そういってサヤは笑う。

 

「だからさ――、君が望むなら、この世界はそういうふうに形を変えてくれるものなの。解かる?」

 

「……」

 

 なにも答えられない。ただ呆然と、鞘の真剣な顔を見つめる。

 

「要はね、君次第ってこと。「世界」なんて結構そんなものなのよ」

 

 魔術師にとっての、魔道においての「世界」とは、そんな単純なものじゃない。と、ここで主張することは、しかし憚られた。

 

 言っても鞘には解からないことだろうし、それにそれを声高に語れるほど、カリヨンは魔術師として揺るがぬ根幹を持っていない。そんな借り物の言葉で、この一点の曇りもない鞘の瞳を受け止めることは出来ないと思った。

 

 だから、カリヨンは黙っていた。黙って、ただ、そのいつもは軽薄そうな言葉ばかり吐いている口から出た、目新しい言葉を受け流すこともできずに、ただ身を強張らせた。

 

 どうして――こいつはそんなにも真っ直ぐに世界を見ることができるのだろう。

 

 望めば、世界は己の欲するままにその姿を変える。そんな、まるで魔法のようなことが何故できると、このただの一般人にしか過ぎないはずのこいつが、どうしてこんなに信じて疑わずにいられるのだろうか。

 

「……ッ」

 

 何か言わなければ、と思う。しかし彼の中からは何の言葉も湧いては来ない。二人が向かい合ったまま、沈黙が過ぎる。

 

「あ、デジャ・ビュだ」

 

 そして唐突に、カリヨンの応答を待つことなくサヤは首を捻ってカリヨンの肩を放した。

 

「は?」

 

「既視感てやつだよ! 『そういや、前にも誰かにこんな話したかな?』って思うやつ。あたし誰かにもこんな話したことあるかも」

 

「…………ああ、そう…………」

 

 相変わらず一人で居てもやかましいやつだなと、改めて思いつつ、カリヨンは、そのマイペースさに妙な落ち着きを感じて、大きく安堵の息を漏らした。

 

 いきなり真剣な貌をしたり、思い出を語る鞘の貌はなんだか別人みたいで真っ直ぐ見れなかったのだ。

 

「うん、そのときもね、そういう話をして、それで……ずっと三人で一緒にって……その人と…………」

 

「三人?」

 

「はれ? うん、……あれ? いや、誰かもうひとりくらいいたような……」

 

「……」

 

 さて、こんな記憶回路のネジのゆるそうな奴の言葉に多少なりとも身を入れて聞き入っていたことを手早く後悔、反省、忘却しながら、カリヨンは適当に相槌を返した。

 

「じゃあ、何でいまは一緒に居ないんだよ」

 

「あ~~。どこにいるのかわかんないんだよね~~。ホント、何処行っちゃったんだか……」

 

「……どんなやつなんだ?」

 

「ん~~、どんな、か~~、君に似てるかも。いろいろと難しく考えすぎちゃって悩んでばっかいてさ、あたしがいてやんないと辛そうな顔ばっかしてるんだよ。髪は茶色で生まれたのはなんとかっていうイギリスの田舎だとかなんだとか……」

 

「まったく要領を得ない解説だよな」

 

 え~~、といいながら鞘は眠そうに眼をこする。

 

「……そんで、と~~っても綺麗な眼をね、してるの。とっても綺麗な、い……ちが……いの……ふあぁ~~」

 

 欠伸のせいでかすれるようにしぼんだ言葉尻は良く聞こえなかったが、鞘はそれきり言葉を切って押し黙ってしまった。気まずくなったカリヨンはうなだれるようにしてまた膝を抱えた。

 

 まぁ、ようとして素性の知れないこの女にもいろいろとあるのだろう。

 

 だが考えてみれば、自分は世界というものをどれほど知っていると言うのだろうか、自分の知りえる世界がほんの一つまみなのだとしたら、残りの世界とは未知の物で溢れていることになる。

 

 それこそ、魔術師の家門を継ぐ事も、生死を賭けた戦いに勤しむことも、初めて出会う人間と挨拶をするということですら、それらは同様の未知なのだ。その探求こそが鞘の言うように人の生きる意味なのだとしたら、世界とは意味で溢れていると言うことなのだろうか。

 

 どういう道を歩むかではなく、どこを向いて生きるかが重要なのだと言うのか?

 

 だが、それを真理だと受け入れてしまうには、この少年の心はまだ成熟していない。だから認められない。そんな言葉で自分を慰めてなんになるというか、と思いに捕らわれてしまう。

 

 そしてふと今しがた聞いたばかりの言葉を反芻して、あることに気付いた。鞘は偶然にこの儀式に巻き込まれた部外者だが、そういう人間が聖杯戦争に呼ばれる場合、その人物は魔術的な素養のほかに、確たる願いを持っていることが多いらしい。

 

 それに聖杯が反応するのだという。では鞘の願いとはなんなのだろうか? もしかしたら、今彼女が語った内容こそがそのヒントになるのではないかと直感的に察せられたのだ。

 

 愛する者との邂逅、――再会。

 

 そうなのかと、それを声に出して問い返そうとして、あわてて少年は黙り込んだ。そんなことを聞いて、もしもそうだといわれたら自分はどうするつもりなのだろうか。鞘の願いのために聖杯の奇跡を譲るとでも言うのだろうか?

 

 自分の願いを犠牲にしてまで……いや、しかし彼には最初から確固たる願いなどないのだ。叶う筈がないと思っていた願いは既に叶ってしまった。後は……時期当主となって森羅万象に、世界に向けて胸を張るだけなのだ。

 

 なら……鞘の願いを聞いてやるくらいはいいのかもしれない。けれど、しかし、でも……。

 

 惑う心は少年の柔な胸中で暗転を繰り返す。

 

 胸に不可解な熱を感じながら、逆に耳は冷えて痛いほどだ。どうしてなのだろう。静か過ぎるのがいけないのだろうか?

 

 いや、そうではない。カリヨンは立ち上がり、見知らぬ街の夜をこの頂から一望する。この見知らぬ夜はどこか騒がしい。それは今この街を行く満もの魑魅魍魎が闊歩しているからではない。

 

 それ以前から感じていたことだ。顔を上げる。街の、――人里の夜は森の中のそれとは違うのだと、彼はここに着てから始めて認識していたのだ。

 

 そういえば、ここはかつて渇望した筈の、あの箱庭の外の世界だというのに、見るもの聞くものが目新しい筈のこの場所がどこか、味気ない……。

 

 それは、きっと、彼女が此処にいないから…………。

 

 思いつめるあまり、カリヨンの視界はくらくらと混濁してきた。これというのもいつもは騒がしい鞘が黙り込んでいるからである。

 

『いつもはうるさいくせに、こんなときだけ……』

 

 しかし、盗み見るようにして振り返ってみれば、鞘は一人静かに寝息を立てていた。

 

 カリヨンは肺から絞り出せる限りの息を溜息に変えて吐き出した。独りで悩んでいたことが心底馬鹿らしい。

 

「やれやれ……どっちが子供なんだよ……」

 

 さっき手渡された毛布を掛けてやった。普段の騒がしさとは対照的に死んだように静かに眠る鞘の寝顔は、まるで別人のように見えた。

 

 



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五章 高位受容「ノエマ・フィードバック」-2

 シンと深まった夜の闇の中、静まり返った住宅街を歩み行く影がひとつ。――孤陰。

 

 それは一人、声もなく己に囁く。――ようやく、傷が塞がった。しかし以前に比べて傷の直りが遅い。おそらくは強化されたはずの再生力が崩壊の速度に追いついていないのだろう。残された時間は、もう多くはない――

 

 目指すはこの住宅地で一番高い場所にある魔術師の居城。この地の管理人である遠坂の邸宅である。この地を管理する魔術師の工房だから、諜報するまでもなく場所は知れていた。

 

 先の潜伏先はすでに(もぬけ)の殻だった。手負いの鼠は己がもっとも安心できる穴倉の深奥に居を求めるものだ。

 

 隠匿性の薄れた根城を放棄したとなれば、やつらの次なる居城はより堅固で護りに易い場所を選ぶはず。ならば、それはこの遠坂邸を置いて他にはありえないだろう。

 

 秋終の空を下る落日の赤い影のような速度で、暗がりの陰翳と成り果てた男は殊更に薄暗い坂を駆け上がっていく。しかし――何故か、いつまでたっての住宅地の路地を抜けることが出来ない。

 

 気がつけば坂の上を目指して上っていたはずの足が、いつの間にか道を下っているのだ。彼はそこでようやく、辺りに立ち込める異様な殺気と魔の気配に気がついたのだった。

 

 そのとき背後から飛来した矢が彼の頬を掠った。矢は次から次へと降り注ぐ。

 

 射手の姿は見受けられなかったが、身を翻した怪人はすぐさま矢の向かってきた方角へ、懐から取り出した短躯の特殊警棒を畳んだ状態のまま弾丸の如く「射出」した。しかし、手ごたえは――無い。

 

 彼は疾走した。敵の姿が補足出来ない以上、いつまでもこの場にとどまっているべきではない。なによりも、彼には時間が残されていないのだ。故に、加速する。一気にトップスピードまで。

 

 ――しかし、瞬時に数キロメートルは移動したはずなのにもかかわらず、目的地には依然として辿り着くことができていない。そして飛矢はまたしても彼の身体を正確に捕らえて殺到するのだ。

 

 おかしい。いったい、これはどうしたことだというのか――。

 

「そうか、これはッ!」

 

 彼はようやく理解した。己が誘い込まれたこの罠が、いかに致命的で完成された構造を誇るものなのかを。これは遁甲の術に違いない! 音に聞こえる東洋魔術、『奇門遁甲』か!

 

 さらに厳密に語るならば、これは一般に「縮地法」と呼ばれる東洋魔術であると推察された。縮地法とは、地脈を縮め千里の距離をも自らの手前に引き寄せ、また逆に一歩に満たぬ距離を万里の彼方へと引き伸ばすこのとのできる秘儀である。

 

 古代中国において幾多の戦絵巻の中に語られる恐るべき東洋魔術(オリエンタル・マジック)の一つであり、このように比較的に大きく世に知れ渡っている魔術ではあるが、その難易度は高く現代においては完全に操れる術者は多くない。

 

 ワイアッド・ワーロック! 以前、彼の老翁がこの怪人と演じた高速戦闘時に見せた怪異なる歩法。あれもこの遁甲術の応用であったのだ。

 

 長く魔道の血を継承してきた西洋魔術の雄でありながら、広大な東洋魔術の知識をも持ち合わせる特級の魔術師。こんな芸当をやってのけるのはヤツしかいない! おのれ、ここに来て厄介な真似を!

 

 忘却しかけていたはずの往年の憎悪に再び火を入れるようにして、噛み締めた奥歯を軋らせながら、D・Dはさらに地を馳せる。しかしその疾駆は再び徒労に終わり、三度飛来する矢はその数を増していく。

 

 そのとき、いきなり門が見えた。何処から来るのかも知れない狙撃に追い立てられながら、咄嗟に門の中に身体をねじ込んだ。しかしその先にあったのは目指すべき遠坂の邸宅ではなく、巨石が乱立する異様な光景であった。

 

 そのとき、眼前の光景に芒と立ち尽くす暇すら在らず、今度は前方から歪み輝く光弾が襲ってきた。同時に後ろからはまた矢が飛んでくる。射手は二人。

 

 そうして幾度かの水を掻く様な反撃も功を奏することなく、闇雲に馳せるうちに、やがて乱立していた筈の巨石は、いつの間にか広大な石垣となって彼の周囲四方八方を取り囲んでいたのである。

 

 退路どころか方位すら判然としない。これではまるで迷宮に迷い込んだようではないか。そう、それはさながらギリシャ神話に伝えられる、クレタ島の地下迷宮(ラビュリントス)を想わせるものであった。

 

 直上にのみ垣間見る、暗鬱な空の色と物言わぬ巨石の隅のしじまが、否応なしにそんな気配で彼を包む。

 

 そして進んだ先に広間が現れた。その分厚い暗闇に包み込まれた中央、円環を描き居並ぶ石柱のちょうど中間で、彼は立ち往生を余儀なくされた。

 

 これは――そうか! ここでようやく、怪人は己を飲み込んだ悪辣なる魔術の全貌を察したのである。

 

 「八陣の図」! これはかの「三国志演義」にも語られた古代中国の遁甲術の奥義とでも言うべき秘術である。

 

 陰陽二気の動きに応じて行方を晦まし、敵を誘い込む。天の九星、地の八卦に助けを借りる特上の方位魔術の傑作。

 

 彼を取り囲む石柱の間には、いつの間にか八つの開け放たれた門が見える。それこそが八門。即ち開門、休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門である。

 

 死門に入れば死ぬ。「死」は文字通りの即死だ。

 

 驚門に入れば精神を破壊される。「驚」は発狂の意を表す。

 

 杜門に入れば長く引き延ばされた森で足止めされる。「杜」は森を意味する。

 

 誘い込まれた開門はすでに閉ざされ、そして、たとえ休門や景門に入れたとしても、目的地には辿り着けず堂々巡りをさせられるのは必至だ。

 

 どうにかして生門を探し出さなければならない。いや、おそらくはたとえ生門を見つけられてもそこには別の罠があるに違いない……。

 

 相も変わらず、後ろからは矢の速射。前からは魔弾の雨が迫る。この上は進むしか道はない。だが、どうすればいい――?

 

 

 

 遠坂凛は自宅の屋根に上がり、庭で結界に囚われた怪人の動向をつぶさに観察していた。手にはいくつかの小石が握られている。それはしかし自前の宝石ではなく、魔術的に加工された天然磁石(ロードストーン)の礫であった。

 

 これは彼女のガンドを強化するための魔器ではなく、彼女の標準の甘さを補正する目的でワイアッドから渡されたものだった。彼女はあらためて手の中のそれに視線を落とし、

 

「……まあ、役に立ってるから仕方ないけどね」

 

 と、それでもどこか釈然としない面持ちで漏らしながら、ふたたびガンドを放つ。本来ならばこの距離では狙いなどつけられず、より広域へ目掛けて雨のような連射を放つしかないのだが、今彼女の指先にそって放たれる魔弾はまるで引き寄せられるように標的に向かっていく。

 

 幾分癪ではあったが、これは確かに使い勝手の良いモノだ。しかし――

 

「にしても、とんだガーデニングになっちゃったわね……」

 

 そう、口に出してみても、やはりこの惨状は目に余るものだった。歴代の遠坂の象徴であったはずの邸宅の庭には今や身の丈を越すような巨石が乱立し、まさしく岩石の森とでも言うような様相を呈していたのだった。敵を完全に包囲するための措置とはいえ、やはり直視に耐えるものではない。

 

 とはいえ、そうそう恨み言を漏らす気にもなれなかった。それらを差し引いてもその手際には感嘆の声もないのは事実だったからだ。奇門遁甲。聞きしに勝る高等魔術ではあるが、目にしたのはこれがはじめてであった。

 

 まさかここまで完成度の高い陣を敷いて見せるものが西洋魔術師の中に居ようとは、さすがに予想していなかった。さすがは時計塔きっての地属性魔術(アースクラフト)の使い手である。

 

 敵の後ろに回りこんだ士郎との挟撃もうまくいっているし、それに、いくら強いといってもあいつはサーヴァントそのものじゃない、通常攻撃でも徐々にダメージを与えることは出来る。

 

 それに、みたところあの怪人はここに来る前からだいぶ消耗していたようにも見える。このままいければ――。

 

 勝機を確信し始めたそのとき、泣き出しそうだった空がついに覆う粒の涙を流しはじめた。

 

「セイバー……」

 

 雨の袂を仰いだ彼女は呟き、あらためて己の右手首に残る令呪へ視線を落とした。この怪異なる聖杯戦争の再開に際して再装填された三画の令呪はすでに残り一つとなっている。

 

 精神的負荷による深い眠りからさめた彼女は、セイバーの不在を知るや否やすぐに令呪による強制召喚を行っていた。しかし、何らかの要因によりそれは不発に終わってしまったのだ。

 

 どうやら、セイバーは現時点において自身の能力では抜けだすことの出来ない何らかの特異閉鎖空間に囚われているということらしい。

 

 凛も案じてはいたのだが、それは同時にセイバーが確かに生きているのだということの証明でもある。この敵を下したなら、速やかに捜索に向かうということになっていた。

 

「――急がなきゃね」

 

 そう言って、彼女は再び魔弾の照準を合わせた。

 

 

 

 

 新都を中心に群がる、空を埋め尽くさんばかりの怪魔の群。オレンジの光に包まれた魔の波涛。それはまるで夕焼けの再来のようにも思われた。

 

 堰止められた地脈からは膨大な魔力が溢れ出し、次第に魔なる輪を形作った。見よ! 冬木新都一帯を取り囲むこの広大なる魔の円環を!

 

 そこに引き寄せられるように、今もこの冬木の各所からは噴き出してくる蒸気の如き靄のようなものが見えるのだ。

 

 はるか彼方の空からだけではない。海から、山から、河から、森から、そして人の住まう民家の其処彼処から、妖しいオレンジ色の光に包まれたそれらはまるで際限など無いかのごとく次から次へと湧いて出てくる。

 

 異形・怨霊・悪鬼・悪霊・魑魅魍魎・魔物・餓鬼・妖魔・鬼・悪魔・etc・etc……ありとあらゆる魔性化生の類が街中から湯気を噴くかのごとく湧き出してきているのだ。その数たるや幾百、幾千、いや幾万にもなろうか、とても数えられるような数ではない。

 

 その内側に入り込んで来る魔の者どもは、もはや虚ろな幽鬼の類ではなかった。円の中心に近づくにつれ、それらは次第に確固とした質量を獲得し始めていたのだ。

 

 見えず、聞こえず、匂わない。しかしそこには間違いなく触れられない何かがいる。町全体がそれに覆われていく。新都はいままさに伏魔の坩堝と化していたのだ。そこは常人にはとても正視に堪えるものではなかったであろう。

 

 網に捕らえられた魔の群は、木枯らしの如く身を震わせて戦慄き、蠕動し始めた。

 

 実体を獲得したそれらは、もはや魔を執り行う狂気の祭司でしかない。もしもこのままこれらを野に放つこととなれば、この地に住まう住民はものの一時間で死滅し、死都と成り果てたこの場所で、新たなる死霊怨霊となってそれらに取り込まれることになるだろう。

 

 しかし幸いなことに、大半の人々はそれに気付いてすらいなかった。彼等は今や街中に溢れ返っていた魔物や死霊の群を知覚することが叶わなかった。

 

 一度円の内側に入ったそれらは確かな実体を獲得していたが、それらの魔物がいくら粘液でぬらつく手を伸ばし、どんな耳障りな絶叫をその喉からかき鳴らしても、住人たちはそれに気付かないのである。

 

 その円環は現実とはズレていたのだ。その円に連なり、一見してオレンジの夜光に濡れ光るその魔物たちは、確かな実体を獲得したにもかかわらず現実に触れられないのである。

 

 彼らが闇の中に見つけて摺り寄った灯籠の光芒は、その実それらをおびき寄せて二度と外に出すことのない網だったのだ。

 

 そこに足を踏み入れたが最後、それらは二度と現実の触れることがかなわないのだ。

 

 内側に押し留められた魔の群はそれを知ってかしらずか、発狂したように叫び狂いはじめ、踊りまわり、共に相食いあい、次第に溶け混じりあっていった。

 

 それゆえに、この魔物たちが胎動にも似た蠕動を始めたその円環とともに一斉に姿を掻き消したことを、知る人間はいなかった。

 

 それらは誰にも知られることなく、まるで踏みしめるべき大地を突如として失ったかのように、一斉に此処ではない何処かへと()()()行ったのだ。

 

 そして同時刻、この冬木と言う土地に存在していた条理ならざる者たち、あらゆる御霊たちもが同様にその姿を消したのだ。悪霊も怨霊も神霊も――そして今この地に現界していたはずの英霊たちも、例外ではなかったのだ。

 

 

 一瞬、身体が浮き上がるような感覚があって、セイバーの意識は冷や水を浴びせかけられたかの様に覚醒した。否、その唐突な浮遊感は浮き上がる、飛ばされると言うよりは、まるで底のない流砂か底なし沼にゆっくりと飲み込まれ、深く、深く落ち込んでいくような感覚だった。

 

 不快で、言いようのない危機感を伴う感触だった。

 

「ここは……」

 

 何処なのだろうか?

 

 格好――裸である。身体に纏っているのは毛布だけだ。しかし見れば元から着ていた衣服は几帳面に折り畳まれて枕元に置かれていた。

 

 ぼやける視界を押して周囲の空間を探る。あたりは既に闇の色をしており、セイバーの感覚を持ってもすぐには状況を探れない。

 

 取り敢えずは家屋の中。広い空間だった。おそらくは倉庫のような場所だ。御覧の通りの有様だが、行動を制限するようなものはなにもない。どうやら軟禁されているわけではないようだ。

 

 しかし記憶が曖昧なために思考がはっきりしない。ともかく自分は助けられたらしい。しかし、いったい誰に?

 

 そも、なぜ自分はこんな処に居るのだろうか? 確か、海洋上でアーチャーと闘い、そして――――敗れた。の、だろうか?

 

 それすらもが判然としない。だがセイバーは敢えてかぶりを振る。敵を前にして意識を失い、死に体になった以上、なんと言ってみたところでそれは敗北に違いない。

 

 誇り高き高潔の騎士王は、しばし無念の自責に歯噛みした。敗戦は屈辱だ。真っ向からの力勝負。どんな言い訳も効かない敗戦。しかし何より、アーチャーに対しての申し訳の立たないことが、彼女の無念を累積させる。

 

 己は約束を違えた。挑んで来いとまで言い放っておきながらのこの体たらく、なんと無様な――。

 

「気がついたか、騎士王」

 

 巌のように硬く、厳格そうな声は倉庫の出入り口付近から聞こえてきた。アーチャー――化身王だ。姿は見えないので倉庫の外から声をかけているらしい。

 

「ならば急ぎ、身支度を整えて来るがいい」

 

 声は、白い肩を晒したままのセイバーにそう告げる。セイバーは手早く衣服を身につけ、遠ざかろうとする気配の後を追って外へ出た。

 

 そのとき、視界の隅に否応なしに入り込んできた尋常ならざる光景に、セイバーは凝然として見入った。

 

 どこなのだ。ここは?

 

 セイバーが思わずそう洩らしかけたのも、無理からぬことであった。それほどに、そこは奇異な空間であった。町並みは確かに見覚えのある冬木市新都のものだ。しかし今この空間にある総てのものが、現実味のない白一色で染まっている。そしてその無味乾燥な世界には、ただひとつの命の気配もないのだ。

 

 何らかの不吉な異変を感じ、セイバーもすぐに甲冑を纏う。幸い、凛からの魔力供給は滞りなく続いており、全快とは行かないまでも通常戦闘の一度くらいはこなせる程度には回復している。どうやら丸一日近く意識を失っていたようだ。

 

 脇について歩くセイバーに先んじながら、まずはアーチャーが背中で声を掛けてきた。

 

「……諸処の狼藉については許されよ。霊体化できぬ其処許を休ませるには仕方のないことであった」

 

 一瞬何のことかと訝ったセイバーだが、しばしの逡巡の後、几帳面に折り畳まれた衣装のことに思い至った。セイバーは憮然として言葉を返す。

 

「そのような気遣いは無用だ。……しかしこの空間はなんなのだ。そして……」

 

「この場所が何処なのかは、某にも解からぬ。今しがた、何の前触れもなくここに引き込まれたようだ」

 

 状況に対する危機感が増して行く。どうやら、これはアーチャーの仕業ではないらしい。

 

 沈黙。――は、長くは続かず、今度はそれを押しのけるようにセイバーのほうから声を切り出した。

 

「……許せ、化身王」

 

「なにを詫びる?」

 

「私は約束を違えた。斬られたければ全力で向かって来い、など嘯いておきながら、いざ挑まれてみれば私の剣は貴方に届いてすらいなかった……欺いたも同然だ」

 

 そう言ってふたたび恥じ入るように無念を噛み殺すセイバーに、しかしアーチャーはどこか晴れ渡ったような表情さえ見せて振り返り、告げた。

 

「左様なことはない。其処許の剣は届いたとも。この愚王の心にな」

 

 しかし、セイバーは眉根を寄せて、アーチャーに濡れた刃のような声を返す。

 

「……敗者に慰めの言葉でも送るつもりか?」

 

「そうではない。先の勝負。あれは、――某の負けである」

 

 ギシリ、とセイバーの気配が軋りを上げた。

 

「なにを言うッ……それは侮辱だぞ! 化身王ッ!」

 

 声を荒げたセイバーに、しかしアーチャーは静かな視線を返すばかりだ。

 

「あの時、あの一射を終えた某には、もう余力は残っていなかった」

 

「それでもッ――――私は今の今まで気を失っていた。先に眼を覚ましていたのなら、この細首を折るくらいのことは出来たはず、それを」

 

「左様な勝利に何の意味がある?」

 

「――――ッ」

 

 思考に寄らず、セイバーはその言葉に頷かされた。死に体となった敵に這いより、形振り構わずに止めを刺す。――確かに、それは英霊の成すべき闘争ではない。彼女たちが望んだ決着の形ではない。

 

「……ならば、再戦をッ」

 

 しかし、それでもセイバーは食い下がるように詰め寄った。

 

「我らはいま一度雌雄を決さねばならないのではないか? このような有り様で勝利などと言われても、私はそれを承諾できない……」

 

 切歯するような表情さえ浮かべるセイバーに、しかしアーチャーは実にこの男らしくない、何か含むところでもあるかのような微笑を浮かべた。

 

「なんだ……化身王、なにがおかしい?」

 

 それがどういう意味なのか判じかねたセイバーはまた憮然として眉根を寄せた。

 

「其処許は……いや、良い。兎角、その申し出には応えられん」

 

「なぜだ」

 

 アーチャーは不意に己が腕を手を差し出し、それをセイバーの眼前に掲げて見せた。

 

「……!」

 

 その巌の如き筈の手には、まったくと言っていいほど実体感がなかった。アーチャーの身体は既に消滅しかけている。先ほどから感じていた、どこかおぼろげな違和感はそういうことだったのだ。

 

 アーチャーのサーヴァントに等しく与えられるクラススキル「単独行動」はマスターからの魔力供給を断っても暫くの間活動できるという能力だが、アーチャーはそのスキルによって今まで現界してきたのである。

 

 マスターのいない状態であれほどの戦闘に耐えられたことが、この男の英霊としての凄まじさを物語る。しかしそれも既に費えようとしている。二度にわたるセイバーとの戦闘で、既にアーチャーの持つ魔力は枯渇しかかっていたのだ。

 

「この身はマスターを失ったサーヴァント。故にあの一射を防がれた時点で某の負けは決していたのだ。正直、あの一投を凌ぐ者が地上に在ろうとは思わなかった」

 

「……しかし」

 

 釈然とせぬ面持ちを露にしたセイバーがもう一度何事かを呟こうとしたとき、先に歩を進めていたアーチャーが脚を止めて振り返った。

 

「見えたぞ」

 

 それが何を指すのかも解からぬまま駆け寄ったセイバーは、それを見て眦を開いた。

 

「アレは……」

 

 白く染まった空の、そこだけに何か――黒い穴のようなものが見えた。ちょうど新都センタービルの屋上の辺りに、黒い奈落のようにも見える、丸い歪みとでも言うべきものが見えるのだ。

 

「どの方角から見てみてもアレはあそこにあるように見える。あれがなんだか解かるか、騎士王」

 

「……」

 

 見当もつかなかった。察したアーチャーは言葉を続ける。

 

「おそらくは、あれがこの空間からの出口ということなのだろう」

 

「では、この空間は人為的に作られた檻のようなもので、出たければあの場所を目指せばいい、ということか? しかし、何の意味が……」

 

 そのとき、二人のサーヴァント達は同時にそれに気付いた。

 

「これが我らを陥れるための罠なのだとしたら、」

 

 何かが近づいてくる。生き物ではない。命を持たぬ何かだ。

 

「当然、易々とあそこへは辿り着けぬ、ということであろうな」

 

 そしてセイバーは再度気付いた。白一色であるはずのこの世界に、黒く蠢く何者かの存在があったことに。

 

 眇め見た白亜の高層ビルに掛かるモノトーンの陰翳に、何かが揺らぎ蠢いたのだ。しかし視界の端に垣間見えたそれはすぐに見えなくなった。セイバーはその大きな眼をさらに凝らして、その粘つくような陰翳を見つめた。

 

 すると、それはまるで風に靡いたようにざわめいたではないか。それも、センタービルだけではない。新都一帯に蟠った影が、町並みの陰翳が蠢いている。いや、あれは、影ではない。あの異様な漆黒は影などではないのだ。

 

 奴らは最初からそこにいたのだ。影のようにそこ等中に潜み蟠って、彼らを待っていたのだ。あれは魔だ。魔の群だ。まるで地表を黒い絨毯の如く埋め尽くす蟻の大群の如く、セイバービルそのものに群がる膨大な数の魔物、化生、怪魔の群。

 

 それが互いに闘いむさぼりあって、互いを取り込み、取り込まれて混ざり合っているのだ。

 

 なんという、奇怪にしておぞましき光景であろうか。

 

 そして不意に、近場の物陰から何かが飛び出してきた。黒く、しかし斑で、大きく歪な獣のような怪魔であった。

 

 咄嗟に閃いたセイバーの不可視の剣閃が巨大な汚濁を両断する。――が、それでも異形は止まらない。それは命を持たぬ死霊なのだ。

 

 返す刀でセイバーは連撃を見舞う。一切の制動を伴わぬ連撃が、切り裂かれた怪魔を文字通り粉砕した。何ほどの手ごたえも無い。まるで泥人形でも切りつけたような感触だった。

 

 もはや考えるまでもないことだった。この木偶はあの蟠りの末端だ。あそこにはこの影の如き魔物が幾千、幾万もの群となって蠢いているのだ。

 

 二人の王は、ようやくこの罠の悪辣なルールを理解した。この世界から外に出たければ、この空間に落としめられた総ての魔を駆逐し、適者生存の法に則り、最後の一人となってあの穴から外に出なければならないのだ。

 

 その悪辣さにセイバーは柳眉(りゅうび)を顰めた。アーチャーも空を仰いで虚のような天蓋の穴を見上げる。

 

「……どうやら、突き進むしか道はないようだな」

 

 そう言っている間にも魔物は波打つようにして寄り集まってくる。それらは四方から二人を飲み込もうと集まってくるのだ。まるで灯籠に招きよせられる羽虫の如く、このモノトーンの世界に闊歩していた怨霊、悪霊、魑魅魍魎が群を成して、否、鎌首をもたげた無限とさえ見える魔の団塊と化し、雪崩うって威光を放つ英霊たちへ殺到してくるのだ。

 

「あのビルの屋上までだ。いけるか化身王」

 

「雑作もあるまい。――が、こやつらは泥になってからが厄介なようだな」

 

「――――ッ」

 

 アーチャーの視線の先にはセイバーに切り捨てられ、四散した筈の魔の破片がその身をどす黒い霧のような、はたまた汚泥のようなものに変じさせてへばり付いていた。

 

 セイバーの身体の隅に纏わりついているそれらは、幾ら振り払っても無駄なようだった。それどころか、気を抜くと自分とその霧が溶けて交じり合うような錯覚を覚える。

 

 否、それは果たして本当に錯覚なのか? 直感的なおぞましさがセイバーの直感に言い知れぬ警鐘を鳴らし始めていた。

 

 

 ――このとき、この地には冬木市新都が〝二つ〟あったのだ。

 

 かの魔女――キャスターが擁していた必勝の策とは、規模的にも難易度的にも破格のものであった。彼女は街の全景を把握し地脈の要点を抑え、それと全く同じ形の、そして僅かに位相を異する空間を作り上げたのだ。

 

 それは今宵限りの騒乱の庭に他ならない。アインツベルンの一室に設えられていた冬木市の精巧な模型は、このための設計図に過ぎなかったのだ! 

 

 今宵この冬木新都という場所は人ではなく、魔のために据えられた祭壇に他ならなかった。

 

 現実の世界とは位相を異にする虚数領域。そこに据えられた冬木市新都それ自体の二重存在。その入れ物にある条件を満たしたものだけが無条件で取り込まれていったのだ。

 

 その条件とはひとつ。即ち実体を持ちえる霊体である。その種別は問わない。悪霊であれ、怨霊であれ、神霊であれ、そして英霊であれ、それは変わらないのだ。

 

 これは『蠱毒』と呼ばれる東洋魔術の亜種であろうと見受けられた。

 

 蠱毒とは中国で発達し、古来日本でも盛んに用いられた東洋魔術(オリエンタル・マジック)の一種である。その効果と様式は聖杯戦争との類似も多い。否。その実、聖杯戦争とは英霊を用いた規格外の『蠱』に他ならないと言える。

 

 英霊を召喚し、戦わせ、殺し合わせることで得た英霊七人分の力を使い『根源』へ至ろうとする儀式、それこそが聖杯戦争の正体なのだ。

 

 故にその術式の利を逆手に取ったキャスターは『蠱』を行う『入れ物』であるこの冬木という街の中に、もうひとつの小さな容器を作り出し、己以外のサーヴァントを一手に潰し合わせるつもりなのだ。

 

 

 セイバーは臍を噛むような思いに囚われる。彼女がいくら高い戦闘能力を発揮しようと、ここからの脱出にはまるで無意味なのだ。さりとて、戦いをやめようとしてもこの怨霊の大波が彼女をさらい。その圧倒的な物量で意識を押し潰し分解してしまうだろう。

 

 二人の王英霊たちが絶望的な闘いに身を投じていた頃。ふたたび静けさを取り戻した現実の冬木新都は、未だ安穏とした夜を装っていた。ただ、空間を異にした場所で起こる胎動が、微かな波動となって魔を解する者達の耳朶に届くのみであった。

 

 

 



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五章 高位受容「ノエマ・フィードバック」-3

 

『……で』

 

 聞こえる。

 

 きっと、外がどうなっているのかが少しだけ分かるのだろう。

 

 ひとり、屋敷の中に取り残されていたテフェリーはベッドの中で夢現に掠れるような雑音を聞いている。

 

 開かない目の変わりに耳が現実の何かを感じている。降り始めた雨の音に混じって彼女の耳に届いてくる声がある。否、はたしてそれは耳が、聴覚が感じ得る領域にあるものだったのだろうか? 

 

 それでも、彼女にはそれが耳に届く「声」に聞こえてならなかった。いつ聞いたのかも思い出せないけれど、とても懐かしい声だった。

 

 自然と応える声が口腔から漏れる。それがどういう意味なのかは分からない。

 

『……おいで』

 

「……さん……」

 

 寝台の四辺から流れ落ちる、滝のようだった銀色の糸が編みこまれて手足を形作っていく。まるで流動する水銀の時をそのまま止めてしまったかのような流線型のシルエットが浮かび上がる。

 

 完全すぎる造詣はもはやそれが人体の代用品であることを忘れさせるほどの美しさであった。

 

 テフェリーは起き上がる。身体は動く、しかし今自分が眼を覚ましているのかどうなのかは、わからない。現実感がひどく希薄だった。

 

 雨の音が聞こえる。それに混じって確かに響く声がある。それを捕らえているのが、耳なのかがわからない。

 

 仄赤い光を纏いながら無数の糸が四方に伸びていく。機能しない視覚を補うように、それらを触覚のように使って周囲を探る。

 

 そして、彼女はゆっくりと、まるで幽鬼のように歩き始める。

 

『……さあ、おいで』

 

「……あ、さん……」

 

 声に誘導されるように、そのままテフェリーは外に出た。身体を包みこむような寒さと、振り出してきた大粒の雨に晒されながらも、銀色の足は靴も履かずに濡れた町並みの中を惑うことなく歩いていく。

 

『さぁ、おいで、テフェリー』

 

 テフェリーは己を呼び続ける声をたどり、まるで魔笛に誘われる幼子のように歩み続ける。

 

「……お、母、さん……」

 

 己の唇からもれる、その言葉の意味さえ解さぬままに。

 

 

 

 

 ――考えろ、ヤツならどうする? 罠を張る以上、万全を期そうとする筈だ。ならこれは足止めではなく、敵を仕留めようとする罠に違いない。だとするならば…――

 

 この上ない窮地に立たされながら、怪人は敵の思考を読み解こうと思考を巡らせる。

 

 しかし飛来し続ける矢と光の礫は、ゆっくりとしかし確実に彼の身体と体力を削り取っていく。

 

 降り出した雨は寒々しい色をした石の庭にいっそうに勢いを増してしぶき始めていた。無論その程度のことでこの強固な結界陣が綻ぶはずもなく、雨はただ降りしきるのみである。

 

 逆に、DDにとってはこの雨はより一層の窮地を演出し得るものだった。このまま雨が勢いを増せば、次第に触覚と視覚・聴覚が奪われていくだろう。そうなればもう脱出の機会はなくなる。このままでは――。

 

 そのとき、一陣の矢が男の脚を貫いた。

 

 

 ようやく膝をついた標的に、衛宮士郎は終の矢を放つべく弦を引き絞った。狙いは心臓だ。あの怪人の脅威を身を持って知るが故に、この状況でも手心を加えようなどという気は微塵も起こらなかった。

 

 ここで仕留めねば、取り逃がすようなことになれば今度はどのような事態が訪れるか解からない。息をひそめ、いざ必中の射を放たんとした、そのとき。

 

『待って、――いま、誰かが屋敷の結界の外に出たわ。裏門の施錠が内側から開けられてる!』

 

 脳裏に直接声が響き渡った。声は凛のものだ。

 

 本来ならノイズのせいで如何なる通信もできないはずだったが、ここは彼女の工房の結果内。つまりは彼女の領域であり、遠坂の魔術師にとってもっとも自由の利く場所なのだ。

 

 故にこの結果内に限り、宝石の振動通信装置を解しての念話が可能になっているのだった。

 

 無論、屋敷の中に居たのはテフェリーだけだ。それを察して、三者三様に動きが止まり、滞った。

 

 

 勝機! ――同刻、必殺の好機にもかかわらず矢の投射が途切れたことからそれを悟ったDDは、腰のホルダーから一枚の短剣を引き抜いた。

 

 その刀身がやおら曖昧な淡光を浮かべながら、錫の鳴るような小さく甲高い音を発し始めた。まるで震えるような光と音だ。

 

 男はその短剣をゆるりと執り成し、次いで横薙ぎに振るった。

 

 斬撃のように鋭くはなく、周囲を探るような緩慢な動きだ。するとある場所でその刀身の光と音が大きく喘いだ。

 

『――ここか!』

 

 その方角に在った石柱に神速で肉薄した男は、今度は目視も叶わぬ勢いで刃を振るった。刀身の発する音が弾け、光がとろりと滴った。

 

 途端に彼を取り囲む八陣に僅かな罅が生じる。男はそこに身体を捻じ込んだ。

 

 あの老魔術師とて、かつて自らが教えた徒弟である彼が、術式の摂理を把握している事を忘れてはいまい。必ず、罠を仕込けるはずだ。

 

 故に、進むべきは凶道。生門ではなく、そこと隣り合う傷門へ。

 

 どちらへ進もうとも悪辣な罠が待つというのならば、こちらはその裏をかくまでの事! 生とは約束されるものに非ず、自ら掴み取るものと見たり!!

 

 DDはさらに、血を撒いて加速する。この短剣が探知したのは安全な道などではなく、この結界内でより強力に魔力を帯びる一点である。すなわち、この魔術陣を操る術者そのもの。

 

 石柱の森を突き破ったその先に、捜し求めた敵の姿があった。

 

 

「ぬぅ――ッ」

 

 ワイアッド・ワーロックは不意を突かれ、引き攣るように喉を鳴らした。

 

 敵がもしも正門を見つけ出した場合に備えて、その先で敵を待ち受けていたのである。本来なら、敵が正門を抜けたとわかった瞬間に攻撃を開始し、討つつもりだった。

 

 しかしテフェリーが自ずから外に出たという慮外の事態と、敵が門の正面からではなく脇の壁面から、つまり予期し得なかった陣の亀裂から出てきたことで、この千載一隅の機を逃すこととなったのである。

 

 ワイアッドはすぐさま魔弾の照準を敵に合わせたが、散弾のごとく撃ち放たれた筈の宿り木の矢はあっけなく怪人の側をすり抜けていった。

 

『――ぬかった』

 

 気を抜いたことばかりではない。咄嗟の対処も悪手であった。己の主要武装だからとはいえ、ワイアッドはこの男に対してこの「宿り木の魔弾」を使いすぎたのだ。

 

 三度にわたり放たれた魔弾の射出性能や魔力の初動と言った〝癖〟は既に見切られていた。これでは、たとえ至近距離から放っても当たるものではない。

 

 老魔術師に肉薄した怪人は拳打とも開手ともつかぬ一撃を見舞い、そのまま胸倉を掴まえ近くの石壁に叩き付けた。

 

 傷ついた老翁の体が壁面に埋め込まれていく。しかしそうまでされてもなお、ワイアッドは苦悶の唸りすら洩らさず不敵な声音を洩らす。

 

「……どうした? 殺せ」

 

「この陣を解け」

 

 このまま殺すことは出来なかった。そうしてしまえば、この遁甲陣は二度と内側から解除することが叶わなくなる。そうすれば、それこそ本物の迷宮へと変ずることになるだろう。魔術師が背水の覚悟で闘いに臨む以上、それは当然の仕儀と言えた。

 

 己の命よりも己も目的を優先させるのが魔術師の理論である。それは良い。だが、今この男にとっての目的とは、本来魔術師が掲げるようなものでは無いのではないか――。

 

「ふっ、――魔術のいろはまで忘れとるわけではないようじゃな」

 

『ワイアッドさん!』

 

『ミスター?!』

 

 士郎と凛が震える宝石越しにそれぞれ声を上げた。しかし石壁と土中に埋め込まれるようにして組み伏せられながらも、ワイアッドは吼え猛るような念意を返す。

 

『かまわん、行ってくれ!』

 

 怪人は組み伏せたワイアッドの身体を、さらに強烈に地に押し付ける。それだけで気が遠くなるような激痛がワイアッドの傷ついた老体に見舞われた。

 

「……念話で何を通信している。どういう意味だ」

 

 通信の内容を知り得るはずもないDDが、ワイアッドを締め上げながら問い詰める。当然、帰ってくるのは不敵な微笑だけだ。

 

「――そうか、()()()()()が外へ出たということか」

 

 しかしDDは察した。この老翁をして致命の隙を作るに至った要因。つまりは争いの焦点である、守るべき対象の消失。それ以外には考えられない。DDは窮鼠の如く彼方を仰いだ。どの方角だ。もはや猶予はないというのに――

 

 だがそのとき、組み敷かれた老翁の丸眼鏡の奥の瞳が、壮絶な光を宿した。

 

「否、――貴様がもう此処から出られんということじゃよ」

 

 そのとき、四方の巨石が鳴動を始めた。

 

「キサマ――」

 

「望みどおり、解いてやるわい。しかと味わえ!」

 

 四方の巨石が蠢いた。途端、それらの石群は怒濤の如き雪崩をうって彼らの居所を目指し、押し寄せてきたのだ。

 

 集束した岩石が凄まじい密度を持って石の牢獄を形成し始める。 

 

「わしの命はくれてやろう――。だからのぅ……貴様も、此処で往生せい!」

 

 石はさらに積み重なりながら強烈に密度を増していく。その凄まじいまでの圧力に晒されながら、二人の身体は急激に地の底に押し込められて行く――かに思われた。しかし、その小山の如き荘厳な墓石に、やおら蜘蛛の巣の如き亀裂が走った。

 

 瞬間、ドーム状に膨れ上がった岩盤は木っ端の如く粉砕されてしまい。はるか頭上まで巻き上がられ破片は、降り注ぐ雨と共に散らばった。

 

 遠坂邸の庭には今やクレーターの如き様相を呈する巨穴が穿たれていた。そこから這い出てきたDDは血だらけの両手で抱えていたワイアッドの痩躯を、支えきれなくなるようにズルリと投げ落とした。

 

 そしてそのまま、総身から血を滴らせながら、それでも休むこともなく立ち去ろうとする。

 

「待、て。…………待つのだッ」

 

 地に伏したままのワイアッドが怒声を浴びせかける。彼もまた総身を血に染めていた。自らが訴えた決死の最終手段は、生き永らえてなおその命を削っていた。魔力も、体力ももはや尽き果てている。

 

 今から治療を施しても、もはやテフェリーを追う事は出来まい。しかし、それはこの男も同じ筈なのだ。

 

「なぜじゃ! なぜそうまでしてあの娘を殺そうとする? ワシが憎いというのなら、どうしてワシではなく、テフェリーを! ――あの娘は、おまえの――――」

 

「……そうしなければならない。俺がこの手で、やらなければならないのだ。でなければ、恐ろしいことが起きる。」

 

 この期に及んでなお無感動な声で、男が応えた。

 

「な……に?」

 

 そして、血に染まる巨躯が崩れるように膝をつく。否、事実、崩れ始めている。もう残っていた時間は残らず使い果たしてしまったらしい。

 

「勘違いするな。俺はアンタのことも、テフェリーのことも、恨んでなど……憎んでなど、いない」

 

 男はあえぐように声を絞り出しながら天を仰ぐ、荒げた息を落ち着けるように、足りない呼吸を補うかのように。

 

 既に鏡面のような仮面は砕け落ちている。その素顔に降り注ぐ雨の雫が血の色をそぎ落としていく。蒼白の顔に似合わぬ煌びやかな双瞳が、初めて夜気に晒される。

 

「おまえ……」

 

 踵を返し、男はワイアッドのもとへ歩み寄る。

 

「どうやら、もう時間が来たようだ。ワイアッド・ワーロック……最後に頼みたいことがある」

 

 雨が、さらに勢いを増し始めていた。

 

 

 

 その昔、はるか南のある小国に、チャロナランという強大な魔力を操る魔術師があった。

 

 時には宮廷にも仕えた彼女には、ひとりの娘があった。夫は既に亡くなり、今では母一人子一人でそれでも何の不満も持つことなく暮らしていた。

 

 彼女は国で最高の魔術の担い手であったが、その魔術は破壊的な力を操る側面があり、それを恐れる国民はしばしば彼女を忌避することがあった。

 

 チャロナランは己の魔術の腕と己の在り方を恥じるところはなかったので、彼女自身に対する誹謗中傷や嫉妬から来る揶揄の類を気にかけてはいなかった。

 

 しかし彼女の年頃になった娘にまでそれが及ぶことは、辛く耐え難いことであった。娘は彼女に大丈夫だと言い続けたがチャロナランの苦悩は増すばかりだった。

 

 しかしそんな折、なんと年若い国王から彼女の娘を后に迎えたいという申し出があったのだ。母は誰よりもそれを喜んだが、それには一つの条件があった。「王の后になる者の縁者があまりにも破壊的な魔力を持ちそれを行使するのは問題がある」として、チャロナランにもう二度と魔術を使わずに生きていくのか、それともこの先ずっと国外の深い森の中で生きていくのかしてもらいたいというものだった。

 

 我が子のためとあらば仕方がないとして、彼女は森で暮らすことを決めた。魔術師である彼女が魔術を捨てて生きていくことは出来ないし、それで娘の邪魔になることもまた出来ないと思われたからだ。

 

 娘はもう母に会えぬことを深く悲しんだが、

 

「私のことは気にしなくていい。だから精一杯幸せになりなさい」

 

 そう言って母は、夜通し愛娘をなだめ続けた。

 

 暗い森の中に一人追いやられてからも、彼女はそれを苦しいとは思わなかった。娘が幸せに生きてくれることを想うだけで彼女の心は深い喜びと安堵に包まれた。

 

 そうして森の中で我が子の幸せを願い続ける生活がしばらく続いたあと、彼女の元に何年か前にひとり立ちしていた徒弟たちがやってきた。

 

 ただならぬ彼女たちの面持ちに、チャロナランは問うた。「いったいどうしたのか」と。

 

 徒弟たちが嗚咽と共に吐き出した言葉に、彼女の心は切り裂かれたかのような衝撃を受ける。

 

 約束は、破られていたのだ。

 

 彼女が森に追放されてからすぐ娘はどこかに連れ去られてしまい、その不在を理由に今は別の女性が后となっているのだというのだ。

 

「そんな、――バカな――ッ」

 

 彼女はすぐに城へと向かって、森を馳せた。王とその取り巻きたちにそれを問いたださんとした彼女たちを出迎えたのは兵士たちだった。

 

 総ては仕組まれていたことだったのだ。

 

 問答の余地さえも無く、徒弟たちは殺され、彼女も傷を負った。何とかして兵たちの追撃をかわした彼女は森の深遠に逃げのび、そこで怨嗟の嗚咽を張り上げ続けた。

 

「おのれ、おのれ、おのれ、おのれッ! 外道にも劣る卑劣なるケダモノ共め、いつか、いつの日か貴様らの首を切り裂き、この恨みを晴らしてくれるぞ!!」

 

 一人対一国の長い、長い闘いが始まった。

 

 辛かった。痛かった。憎かった。恐ろしかった。何よりも哀しかった。

 

 そしてたった一人で暗いその森に潜んで戦い続ける間に、魔術師の体と心は徐々に人のものではなくなっていった――。

 

 どこで、間違ったのだろう。――私はただ、

 

 ただ、あの子に、幸せになってもらいたかっただけなのに――

 

 

 

 センタービル屋上の片隅で転寝(うたたね)をしていたカリヨンは、叩きつけるような悲しみから逃れるように眼を覚ました。

 

 どうしようもなく、辛く、哀しくて見ていられなかった。アレはなんだ? 彼の知らない記憶だ。夢? あんなに鮮明な? ただ、あの女魔術師には見覚えがあった。自分のことよりも、人のことばかり気にしているお節介な、そう、彼のサーヴァントにそっくりで――

 

 そして、はっとして見回した彼の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある漆黒の刃が、今まさにそのキャスターの身体を後ろから刺し貫いた姿だった。

 

「――え? ……サ、サヤ………………なにを――――」

 

 集路していたはずの魔力は霧散し、声もなく細い肢体は崩れるように血の海に沈んだ。その傍らで黒剣を握り佇むのは、さっきまで彼の隣に居たはずのサヤだ。

 

 キャスターの周りで舞っていた使い魔(レアック)達が咄嗟にサヤの喉笛目掛けて殺到した。が、血に湿った黒刃が一旋された瞬間、数十もの使い魔は泡沫のように掻き消された。

 

「言ったではないですカ、()()()()()

 

 背を向けたまま応える声はサヤのものだ。しかしその口調やそれが持つ雰囲気のようなものは、まったくの別人のモノのようであった。そしてカリヨンはその人物を知っている。誰だ? いったい誰の――

 

「もう、時間は残っていないのでスよ。なぜなラ、もう待つことガ叶わなくなりまシた」

 

 振り返り、人形のような微笑で見つめてくるその瞳が、見る見るうちに狂気の色に濁っていく。

 

『だっテ、もう待テなイ……もう……待ァッテらッレねエんだよぉぉぉぉォォォォオ!!』

 

 吼え猛けた不快な金切り声を前にして、カリヨンはぼんやりとしたまま動くことが出来ない。思考も、五体も、なにもかもが弛緩したかのように動かなかった。反撃など念頭に昇ることさえ無かった。

 

 これは悪夢なのだろうか? 先ほどの哀しい夢の続きなのだろうか? なら、なんて悪辣な夢なのだろう。出来ることならはやく――はやく、褪めて欲しい。

 

 掲げ上げられる長剣の輝きを見つめる。黄金に澱む光が、柄から染み出すようにして漆黒の刃に絡み付いていく。

 

 その濁った金色の光はサヤの瞳からあふれてくるそれと一緒だった。

 

 改めて、サヤには似合わないな、と。まじまじとそれを見上げながら、カリヨンはただぼんやりとそんなことを考えていた。

 

 金色に濁った刃は彼の頭上に振り下ろされ――そして彼の前髪に触れたあたりで急静止した。

 

「マスターっ! ――逃げてください。それは、サヤじゃ、ない! 急いで!!」

 

 血に伏したままの姿勢で、キャスターの白い右腕が掲げられている。そこから漲る魔力の奔流が、どうやらサヤの身体を縛り停止させているようであった。

 

『ゥぬぅぅぅゥゥゥゥ―――ッ!?』

 

 微動だにすることもできないのか、剣を掲げ上げたそのままの姿勢で()()が吼える。まるで錆びた金属同士をすり合わせるような、男なのか女なのかもわからない不快な声音で。

 

「――あ、う――」

 

 しかし少年の矮躯は微動だにしない。そのときカリヨンの顔に何かがぶつかった。

 

「はやく!!」

 

 キャスターが投げた短剣だった。鞘に入れられたままの、波打つようにうねった刃を持つナイフだ。カリヨンが用意した触媒のひとつで彼女の直接の遺物ではなったが、気に入ったといって彼女が携えていたものだ。

 

 我に返ったカリヨンは、そのまま背を向けて走り出した。センタービル屋上から虚空へと飛び出し、闇の中へ消えていく。

 

 それを見届けて、キャスターはホッと息を吐き、身体から力を抜いた。そして苦労して身体を仰向けにすると己を見下ろしてくるソレに視線を向けて疑問の言葉を吐いた。

 

「おまえ……は、誰だ……? いや、貴様は……()()?……鞘は、どこ、に……」

 

 身体の自由を取り戻したソレはキャスターの声には応えず、すばやく長剣を投擲して地に伏したキャスターを串刺しにした。

 

 しかしその瞬間にキャスターの身体は幾重もの白布となって四散した。(デコイ)である。キャスター本人は霊体と化し既にこの場より離脱している。両名を逃がしたにもかかわらず、ソレは不適に笑った。

 

『フンッ、よクやる――まァ、イイだロう』

 

 初手で心臓を貫いてあるのだ、どうせ長くは持つまい。あのガキのほうも放っておいて問題ない。いつでも捕まえられるだろう。

 

『マヌケ共のおかげで、ヤリ易くてたすカる』

 

 バカな女だ。抱いた疑念から自ら目を逸らした。人を信じたいが故に問題を先送りするとは。まったくもって愚か者の極み。

 

『ク――クククッ』

 

 ソレは心底から可笑しそうに嘲い。――そして唐突にドス黒い血を吐き出した。尋常ではない量だった。足許にはそれ以外にも、無数の紅い掌ほどのモノが広がっている。鞘の身体はもはやその内側から、そしてその末端から綻び初めているのだ。

 

『ヤレヤレ。やはリ、()()()()には耐えられんカ。時間が無イな。……でハ、急ギ、新しい器ヲ迎えに行くとしよう……』

 

 浮かべた魔性の笑みを、降り始めた雨が濡らしていた。しかし、無機物の如くそれを無視したまま、()()はあらぬ方向へを踵を返した。まるで求めるものがその先にあることを知っているかのように。

 

 まるで、結実が近い事を知っているかのように。金濁色の光でその瞳を満たしながら。

 

 

 



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五章 高位受容「ノエマ・フィードバック」-4

 

 一暈(ひとかさ)ごとになぎ払われ、打ち砕かれていく幾百、幾千にも及ぶ怪魔の群は塵芥の如く弾け霧散していく。

 

 今宵、妖しき南洋の魔術師の手によって(いざ)なわれた物言わぬ冬木市の二重存在。その偽装された閉鎖領域の中で、魔の飛沫を撒き散らしながら乱舞する二人の闘争者は、その五体を赤熱の蒸気機関と化してモノトーンの荒野に燦然と咲き乱れる。

 

 しかし、打ち砕かれて撒き散らされた怪魔の残骸は、すぐさまぬらつく粘塊となってそこかしこにへばりつき、白い世界を赤黒く染め上げていく。

 

 それらの汚泥は別の怪魔に取り込まれ、または次第に寄り集まって彼女たちの足を絡めとりその腕に纏わりついていく。

 

 セイバーは己の奥歯が軋る音を聞いた。たとえいくらこの怪魔どもを切り払い、粉砕したとしてもこの空間に留まっている以上、打ち砕かれた怪魔は純粋な魔の淀みとなって他の魔物たちに吸収されて行くだけなのだ。

 

 しかも、それだけではない。少しでも気を抜けばその魔の澱はセイバー達の中にまで入り込んでこようとするのだ。もしもこの怨念と悪意にまみれ、汚染された混沌の澱に取り込まれれば最後、彼女の英霊としての属性と人格は掻き消され、強大な力の一部となってその中に取り込まれてしまうことだろう。

 

 それでも、セイバーの眼差しは決して悲観に暮れてはいない。絶望に屈してはいない。確かにこれはよく出来た罠だ。仮にここに他のサーヴァント全員がいたとしても、ここから脱出する術が無ければ最後にはひとつの混沌になってにとりこまれてしまうことだろう。

 

 そのうえ、時間切れは期待できない。複数のサーヴァントを閉じ込めておくことを念頭において設計された術式ならば、もとより持久戦を想定しているはずだからだ。

 

 だが、対応策がないわけではない。内側から敗れないならば外から破ればいいのだ。これほどの大魔術である。それを執り行っている術者はおそらく今も強大な魔力行使を余儀なくされている筈だ。つまりは無防備な状態だということになる。そしてこれほどの規模の術式を他者の目から完全に隠匿し通すのはたとえキャスターのサーヴァントといえども容易ではないはず、それを彼女のマスター達が気付かないはずがない。

 

 無論、セイバー自身、現在の彼らの状況を把握できていないこともあり、この賭けが可能性の読めぬ希望的観測であることは承知していた。しかしそれでも今はそれに総てを託すしかなかった。彼女に出来るのはそれを信じてこの混沌に取り込まれぬよう意識を保ち続けること。そしてそのときがくるのを待ち続けることであった。

 

 そして事実――セイバーの瞳に怖じる気持ちは微塵も伺えない。その心は揺らがない。信ずること。許された一縷の可能性に総てを託し最後まで諦めない心。それが強さだ、人の持ちえるもっとも崇高な力なのだ。

 

 その眼差しを、その在り方を、汚泥の帳の向こうに垣間見ながらアーチャーは改めてその騎士王の姿に打ち震えていた。その未来を見つめる(かんばせ)のなんと気高くも美しいことだろうか――そうだ、それが人間の強さなのだ。これが人の身で無窮の王道に挑んだ者の姿なのだ。

 

 打ち放った剛拳が津波の如く押し寄せる魔物の(たば)をまとめて貫き、粉砕した。旋風の如く薙ぎ払われた剛脚が、まるで雑草でも刈り取るかのように人もどきの化生の首を胴体から乖離する。

 

 化身の王は震える己の心を止められなかった。知っている。彼は誰よりもその在り方を知っているではないか、そうしていつも彼の隣に在ろうとした者の存在を。かつて誰よりも信じ、そして誰よりも己を信じてくれた相手。

 

「……そう、だった、のか」

 

 呟くようなアーチャーの声を、聞く者はいなかった。そのとき、この白亜の空間そのものが大震の前兆として響いた余震の如く揺らいだのだ。見上げれば白い皿のようだった

 

 天蓋に一筋の亀裂が奔っている。すぐに理解した。アレは罅だ。まるで卵のそれのような、この空間の殻に入った罅なのだと。

 

 やがてそれは白い空に張り巡らされた黒い蜘蛛の巣の如く数を増していき、いつしかこの空間そのもの覆い尽くしていた。

 

 これは一縷の望みを掛けて待ち望んだ展開ではあった。しかし同時にどうしようもなく黒い予感が暗雲の如くセイバーの脳裏を覆った。次の瞬間、ガラス――というほどのものでもない。言うなれば春先の、既に溶けかけてだいぶ脆くなっていた湖面の薄氷が割れるかのような、そんな儚そうな音を立ててこの白い虚構と現実の境界は一気に砕け散ったのだ。

 

 場所は先ほど見えていた黒い穴の近く、センタービル付近であろうか。先刻からの予想の通り、セイバーたちはふたたび元の冬木の地に舞い戻っていた。

 

 ひとつ誤算があったとすれば、開放されたのは彼女たちだけではなかったことだ。いきなり卵の外に放り出された《《それら》》は危険を感じ取ったかのように一塊になり、今や(うずたか)く積み重なって小山ほどの粘膜の塊のようになっていた。

 

 いまだ淡いオレンジ色の光に包まれて正常な黒い夜に芒と浮かび上がる奇怪な様は、唯人が見たならばパニックどころの騒ぎではなっただろう。

 

 しかし幸いなことに、強まった雨の中を歩くまばらな人影にはそれが見えていないようであった。

 

 それらは未だに現実のものに触れ、知覚されることが出来なかったのだ。虚構と現実、二つの世界は交じり合うことなく、未だ水と油の如く分離したまま浮かび、震え、付いては離れを繰り返している。

 

 虚数領域はいまだ現実の空間とは位相を異にしていたのだ。故にその空間に捕らわれている怪魔やセイバー達の肉体は反実態とでも言うものであり、今のところは魔術師やサーヴァント以外の人間に知覚されたり触れられることはないだろう。

 

 しかし、それも時間の問題だ。じきに二つの冬木市は統合され、混沌の悪露は現実の世界の住人たちを無差別に取り込み始めるだろう。

 

 爆ぜるかのような音が、叩きつけるような雨に混じってセイバーの足許から響いた。彼女が手にする不可視の聖剣がアスファルトに叩きつけられたのだ。

 

 ――どうするっ? セイバーはくぐもったような唸りを上げた。凛達が自分を見つけてくれるなら、なんとかなるかもしれない。未だ主の手に残る令呪を使えば何とか打開策を見つけ出すことも――だが、しかし……。

 

 すると思案に捕らわれるセイバーに、アーチャーが声をかけた。その声は意を決したかのように揺るぎない響きを孕んでいた。

 

「――手は、ないこともない。今の某に出来るかどうかはわからぬが、やってみよう」

 

「しかし、アーチャー。貴方の身体は、もう……」

 

 アーチャーは言いよどんだセイバーの足許に屈みこむと、先ほどのセイバーの斬撃で捲れかえったアスファルト下の地面に掌を置き、静かに意識を集中し始める。

 

 しかし、それはどんな魔術なのか、それともまだ見ぬ宝具の能力なのかの判別もつけがたいものだった。――しばらくしても何の予兆も起こりはしないのだ。

 

 セイバーは焦れる心を抑えながら今や小山の如く積みあがった汚泥を見あげる。それは今やひとつの「形」を成しつつあった。ただの雑多な根源的悪意の集合でしかなかったはずの混沌は、今や統合されかかり本能的な、そしてそれゆえに狡猾な「意志」を持ち始めていたのだ。それは今か今かと世界が重なり合う瞬間を待っているのだ。もはやセイバーやアーチャーに興味はないらしい。より安易で脆弱な餌を求めるつもりなのだ。

 

 ――させぬ! 汚泥の胎動から直感的にそれを察したセイバーはふたたび強く剣を執る。どこまでやれるかはわからない。が、今は最善を尽くすより他にない。

 

 そうして再度駆け出さんとした刹那。大気を揺すり上げるような炎の熱と気配の揺らぎを感じた。背後に、である。――振り返ると。アーチャーが炎の弓を手に執って立ち上がっている。

 

「アーチャー、あれの足止めは私に任せろ。貴方は今やるべきことを――」

 

 燃え盛る弓はセイバーに向けられた。もはや痛みさえ伴うほどの危機を彼女の超感覚が警告する。

 

「――――ッ!?」

 

 咄嗟に跳び退ったセイバーに向かって爆ぜた「矢」は彼女の眼前で弾け、二つの光弾へと姿を割った。うちひとつはさらに分散してセイバーに追いすがり、その総身に降り注ぐ。と、同時に最初に裂けたもう一方の光弾は今矢を放った筈のアーチャーへ向けて取って返し、その分厚い胸板を突きぬいたのだ。

 

「馬鹿な!? アーチャー、なにをッ」

 

 瞬時に己の身体に群がる怪炎を弾き飛ばしたセイバーは倒れ伏すアーチャーに駆け寄る。

 

『やはリ――もうろくな力は残っていないようだナ、アーチャー』

 

 ――不快な、声だった。

 

「な、ぜだ……」

 

 セイバーは驚愕に息を詰まらせ、アーチャーは鮮血とともに疑問を吐き洩らした。

 

 そこにいたのは黒ずくめの怪人の姿。テーザー・マクガフィン。そしてそのローブから垣間見える白い女の貌にはセイバーも見覚えがあった。

 

「なぜだ、なぜ貴様が某に対して令呪を使える……それに……」

 

『それニ、なんだアーチャー? なぜ殺したはずなのに生きているのカ、とでもいいたいのカ?』

 

 今のは――令呪による強制権の発動! しかし、アーチャーのマスターはすでに死んだ筈。

 

『そうだナ、まずは化身王よ。お前はいくつか間違っていることがあるぞ。ひとつ、この身体は既に死んでいル。最初から生きていないものを殺すことなどできはしまい。ふたつ、お前のマスターは最初からゲイリッドなどではなイ。これが――』

 

 黒衣の監督役は懐から黒い陶器か、あるいは金属かと見受けられる欠片を取り出した。其処には確かに令呪の如き文様が浮かんでいる。

 

『――お前のマスターだ』

 

「な、にを……言っている?」

 

『まあ驚くのも無理はなイ。事実としてお前たちは自分が人間のマスターたちとパスで繋がっていると感じていたのだからナ。しかしそれは半分正解で半分間違いだ。お前たち擬似サーヴァントはマスター共の体内にあったこの欠片を通して繋がっていたのだ。人間のマスターなぞ飾りに過ぎなイ。いわば偽装だよ』

 

「なん、だと」

 

『そして、消滅したお前たちが向かう先は聖杯ではなイ。一人一人がこの欠片のなかに純粋な力として取り込まれる。そしてその欠片を持つものは一時的にサーヴァント以上の力を手に入れル。と、言うわけだ。どうかな? 僅か数年という短時間で仕上げた即興のシステムとしてはなかなかのものだろう?』

 

 声も、なかった。

 

『もう質問はないかナ? では、貴様もさっさと――』

 

 まるで刃と刃を合わせて軋み合わせるような、不快なノイズのような声音が響き渡る。

 

『――我が力となるがいイ! 』

 

 間髪入れず、黒衣の女はセイバーたちに向けて剣を投擲した。セイバーはアーチャーを抱えて危うげなくそれを躱した。しかしそれは背後の粘塊を貫き、黒き汚泥を爆ぜさせた。

 

「なッ!?」

 

 炸裂した粘塊は天高く舞い上げられ、新都中にその破片を撒き散らした。沸騰した零下の泥は降り注ぐ雨に混じって街中に降り注いでいった。

 

 兎角、この敵を捨て置けぬと判断したセイバーはすぐさまこの黒衣の女に斬りかかった。放たれた不可視の剣を、ふたたび実体化させた長剣で受け止めながら黒衣の女は愉悦に頬を染めた。

 

「何のつもりだッ! このままではこの街の人間総てがアレに飲まれてしまうぞ!」

 

「ちょうどいいさ、どうせ最後にはこの街の総てを取り込むはずだったのだからな。――お互い、これから起こることに目撃者がいては困るだろう? むしろアレに喰わせてしまったほうが早かろうと思ってな」

 

「――貴様!」

 

 セイバーは翠緑の瞳に怒りを湛えて一気に剣激の乱舞を見舞う。しかし、黒衣の魔剣士はそれを揚々といなし、逆に倍する勢いを持って苛烈な剣舞を返してくるのだ。

 

 その怪奇なまでの剣閃の冴えに、踏み込んだはずのセイバーの剣線が逆に押し返され、さらには後退の憂き目を見ている。

 

 不可解な事態であった。彼女が今魔力の枯渇しかけた疲労の極みの状態にあるというだけのことだけではなく、何故かは判然としなかったが、この敵が以前切り結んだころよりも遥かの力を増しているように感じられるのだ。

 

 とはいえそれでまさか怖気づく騎士王であろう筈もない。僅かに飛び退って間合いを空け、セイバーは勝機を窺う。剣勢に訴えられぬなら、後の先にて敵の隙を突くだけのことだ。両者は互いの剣域に幾許かの夜気を挟み、さらなる赤火の剣舞を切り結ぼうと踏みだした。

 

 そのとき、今まさに爆ぜようとした両者の剣気の間に、真紅の炎が割り込んだ。瞬間、それはまるで塵芥の如く細く、細かく、繊細な幾千万のもの火花となって飛散し、黒い女の身体を纏わり付かんばかりに包囲した。

 

 それはやにわに何かを焼き焦がすような音を立てながら一気に集約し、まるで赤火する溶鉱の繭となって女の身体を包み込んでしまった。

 

「チッィィィィィッ――まダ、足掻くカ――――ッ!」

 

 赤熱のむしろに巻き取られたヒトガタは狂乱したかのような雑音交じりの声で憎悪の咆哮を張り上げた。辺りには生きたまま肉を焼かれる憎悪と燃え殻の臭いがたちこめた。

 

 一拍の間を置き、セイバーは炎に包まれたそれへ渾身の一撃を見舞った。吹き飛び、背後のビル壁に叩きつけられた黒い女の体からはそれまでにも増して凄まじい勢いの炎があふれ出し煌々と燃え盛った。

 

「――一度死んでいようとも、こうなっては同じことであろう……」

 

「アーチャー」

 

 セイバーは血に塗れ膝をついたアーチャーに駆け寄った。その屈強な五体から滴る鮮血はすでその末端から灰のように乾き始めていた。もうアーチャー自身には微塵の余力も残されてはいないのだ。

 

 セイバーは臍を噛む思いでもはや死を待つばかりとなった街を見た。セイバーの翠緑の瞳にも絶望の陰りが見える。思わぬ邪魔が入ったことで、アーチャーの用意していたはずの策が潰えてしまったのだ。彼にはもう微塵の余力も残っていない。

 

「これでは――」

 

 しかし、ここで消滅を待つばかりになったアーチャーが澄んだ響きの声を発した。

 

「――正しさ、とは得てして難しいものだとはおもわぬか? 騎士王」

 

 セイバーは唯顔を上げてそれを見た。

 

「某は――幼き頃より正しき者、としてそこに在った」

 

「……」

 

「それは何処までいってもついてくるものだった。今もそうだ。何処までいっても、何をしようとも、正しさが、正義が、その道が我らを放してくれぬ」

 

 アーチャー、化身王ラーマは立ち上がる。

 

「礼を言うぞ。騎士王。某はいま――それが、幸福だと、思えてならぬ」

 

「……答えは、見つかったのか」

 

「ああ」

 

 そのとき、大地からあふれ出した白い光がアーチャーの身体を包み込んでいく。まるでたおやかなシルクのような白乳の如き光だ。

 

「――最後にひとつ、良いか騎士王よ」

 

「なんだ」

 

「其処許は――妻に似ておられるな」

 

 セイバーは笑う。

 

「過分な言葉だ。世事が過ぎよう」

 

 アーチャーも笑い返し、その姿が光の中に消えていく。

 

 

 ――かつて、一度尋ねてみたいと思ったことがあった。ずっとこの胸に秘めたまま、ついに最後のときまで訊くことの出来なかった問いだった。

 

『本当にこの王と共に歩んだことを悔やんではいないのか』、と。

 

 揺籃のころより、すでに神の化身たる王子は知っていた。己の存在が悪に拮抗するとために遣わされたものだということを。

 

 そして彼はそれを恐れたことも悔やんだこともなかった。むしろ喜びすら感じていたのだ。己の存在が世界の悪を正し、正義を全うすることを望んでさえいた。

 

 しかし、彼は後に思いもかけず苦悩することになる。愛する女を得たがために、彼は始めて己の運命を恐れたのだ。

 

邪悪との戦いを約束された彼の運命は、きっと愛する者にも降りかかるだろう。それ故に無欠の王は決断しようとした。愛するものを己の運命に巻き込まぬために、彼は彼女を遠ざけようとした。

 

 しかし別離を告げようとする夫に妻は言った。

 

『いつか別かれてしまうことが決まっているからこそ、こんなにもあなたが愛おしいのです。愛する人よ、この世の全てはいつか来る終わりを知っています。だからそのときまで精一杯生きることが出来るのです。あなたは全ての邪悪からこの世を守れるお方です。

 いずれ私たちも分かたれてしまうときが来るのでしょう。だとしても、あなたが神としてこの世界を照らしてくださるなら、わたくしは地に還り永遠にこの世界を支え続けるでしょう。忘れないでください。この世に人の営みがある限り、私たちはいつまでも共にあるのです』

 

 それは奇跡であった。絶対なる神の化身が人としてみることを許された、一抹の夢――

 

 

 溢れ出した白乳の如き光の中。胸に去来したのは、尋ねたかった問いではなく、伝えたかったひとつの言葉だった。

 

 ――ああ、そうか――

 

 白く煙る光の靄の中、あの日と変わらぬ妻の笑顔がそこにあった。

 

 ――ずっと、そこにいてくれたのだな――

 

 微笑む后の姿を崩れ行く両の腕に抱きながら、無謬たる化身の王は万感の思いを込めて告げる。

 

 ――ありがとう――

 

 やっと、答えにたどり着く。詫びる必要などなかった。王はただ感謝の念だけをこめて大地に微笑みなかけながら、静かに消滅していった。

 

 白い光に包まれた混沌の汚泥はまるで嘘のように縮んで、そして音もなく穏やかに消失していった。まるでそれが泡沫の夢であったかのように。

 

 盟友を久遠の彼方へと見送りながら、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。セイバー自身、その涙のわけをうまく明文化できるわけでもない。ただ、胸が満たされた気がしたのだ。蟠っていた伽藍が清涼なる風で満たされたように感じていた。

 

 己を、王道を、己の出した結末を、恥じることなどないのだと。今はそう思えるような気がした。その道の是非を誰もがその結末に求めるのは当然のことかもしれない。だから、彼女の出した結末が滅びであったのなら、それは正しようの無い事実なのだ。ただ、其処に至るまでの道程を見続けていた者が、ひとりだけ居る。それは王自身だ。

 

 人は彼女の王道、その是非をその結末にて判ずる。それは仕方の無いことだ。しかし自分は、己だけはその道の総てを見つめ続けなければならない。故に其処に一点の曇りもなかったのなら、たとえどのような結末を迎えたのだとしても、この世界で唯ひとり、己だけはその道程を誇らなければならない。

 

 それが王としての矜持。それが王道を誇るということ。

 

 だから――今だけはあの、己以上に不器用だったあの王に、己の王道を誇りたいと思った。これが私の成した道なのだと。――

 

 しかしそこで一閃された漆黒の刃が彼女を襲った。咄嗟に執り直した聖剣がその刃を受け止める。

 

「――ッ!」

 

 三度鍔迫り合う二騎の剣士。切磋する二枚の剣刃から、まるで怒涛の如き火花が咲き零れる。今しがた全身を墨になるまで焼き尽くされたはずのこの敵が、何故今また剣を振るうのか、さしものセイバーも剣を構えながら瞠目せざるを得ない。

 

『……神造姫シーターの宝具、『大地の揺籃(アムリタ)』――星の有する防衛機能の一つにして、自然物に対する万象回帰現象……か。――――キャスターが作った異相空間と受肉した怪魔共を「回帰」させて消滅させたようだな。……アーチャーめ、最後の最後で詰まらん真似をしてくれるものだ』

 

「貴様――」

 

 敵の姿を改めて検分したセイバーを怒りと共に驚愕が襲う、アーチャーに負わされたはずの全身の傷が塞がっているのだ。

 

「――が、まぁ良しとしておいてやろう。余興は甚だ不快に終わったが、最後には私の力になってくれたのだからな」

 

 鍔迫り合いの均衡が傾いだ。弱っているとはいえ、セイバーは間違いなく全力だ。

 

「――くっ! 」

 

 にもかかわらず、それを意に介するまでもなく前進してくる敵はセイバーの矮躯に覆いかぶさるように押しこんでいく。先ほどと同じ展開――いや、それ以上にセイバーは劣勢を強いられている。

 

 これはもう彼女の余力がないというだけには留まらない。この敵の力そのものが、桁違いに強化されているのだ。しかも、これほどの膂力の持ち主は彼女が体験した伝説と三度の聖杯戦争を通しても数えるほどだ。それが彼女とさして変わらぬ体躯のこの女のものだというのなら、これは全く持って絶無の経験だといわざるを得ない。

 

『なにを驚いている? 先ほど説明してやっただろう? アーチャーは既にこの身体の中にいるのだよ。純粋なる私の「力」としてな。今の私はサーヴァント三体分の「力」を持っていることになるのだ――意味が解るな、セイバー?』

 

 セイバーの怒りが臨界にまで差し掛かる。己の誇りに誓って戦い抜いた英霊たちの魂に対する侮蔑だ。爆ぜるように拮抗していた剣を払い、乱舞するかの様な剣打を見舞う。

 

「はああああぁぁ!」

 

『――ところで、知っているか? あらゆる物体には固有振動波数と言うものがある』

 

 迫り来るセイバーの剣をあしらいながら、一泊、距離をとったこの剣士は応じる構えすらも見せずその上剣をアスファルトに突き立て、なんとそこから手を放したのだ。

 

 そのまま近くのビルまで歩み寄ると、無手になったその両手を壁面に当てる。するとビル壁が――否、ビルそのものが何かに踏み潰されたかのように崩れ去ったのである。

 

『――解説してやろう。この世界を満たすあらゆる波動、振動に不協和音を起こすこのがこの異能だ。そして取り込んだサーヴァントによって強化された今ならば、あらゆる物を分子レベルで振動させ内側から粉砕できる』

 

 構わず前進していたせいで粉塵の中で敵を見失ったセイバーの懐に、いきなり無手で現れた黒髪の女は、いきなりセイバーの両手の篭手をつかみ取り、

 

『解かるように、もう少し簡単に言ってやろう――』

 

 そういった途端、女の手が触れた場所からセイバーの身に纏う甲冑が文字通り粉砕されていくではないか!

 

『――このとおりだ。ああ、失敬。言うよりもやって見せたほうが早かったみたいだな。例え相手が霊体であっても、霊子の固有振動数さえわかればこんな無茶も効く。それにしても、いい鋼の音だ。――さあ』

 

 ――次は骨の音を聞くとしよう――

 

「――――ッ!」

 

 砕けた――否、崩れた装甲の隙間を利して女の手を振り払い、セイバーは後退する。しかしそれだけの動作で体がふらついた。装甲の修繕に魔力を使ったことでいよいよ余力がなくなってきたらしい。

 

『――踊ろうか。セイバー』

 

 三度交わされた聖と魔の剣戟が。降りしきる雨の中で煌めいた。

 

 

 

 はしった。何度も転び、そのたびに這いずり回るようにして起き上がり、間髪いれずに走り出した。彼を追い回していたのは恐怖なのだろうか、どこを目指しているのかも解からぬまま走った。ありもしない何かに追い立てられる兎のように恐怖に満たされながら少年は走った。

 

 闇雲に走ったつもりだったが、どうやらまだ新都の中にいるらしい。彼は未だ混乱の中に在った。

 

 ここまで形振り構わず疾風の如く馳せたことで衣服は乱れ、遮るもののない雨粒が総身に降り注ぎ、少年の細い身体を濡らしていく。狼狽と心痛に歪みきっていた表情は今や残らず抜け落ち、雨の中をふらふらと彷徨うその様は幽鬼のようですらあった。

 

 なぜ鞘が? 裏切り? 何で今? キャスターはどうなったのだろうか? 自分はこれからどうすればいい? 

 

 もはや思考することさえもが辛かった。ただ擾乱(じょうらん)した精神をこの雨粒が癒してくれるのを待つことしかできなかった。まともにそれを考えれば自分はおかしくなる。半ばその強迫観念から逃れるようにして彼は思考を止めていた。

 

 そして静止しきれない想いがすぐにテフェリーのことに行き着く、駄目だ。彼女を失えない。だってもう誰もいないのだから、鞘もキャスターも誰も居ない。またひとりになってしまう。駄目だ。いやだ。それは駄目なことなんだ。――

 

 そして、幽鬼のごとく彷徨う少年はその視界の端に、およそ現とは思えない、本物の幽鬼の如き白い影を見つけたのだった。

 

「……テ、テフェリー……?」

 

 その周りには数人の若い男が群がるようにして彼女を取り囲んでいる。男たちは口々にこんなことを言っていた。

 

「ねぇ、あんた一人?」

 

「どしたの? こんな雨ん中で」

 

「ツーか、その足とかどーなってんの?」

 

 テフェリーは応えない。ただぼんやりと空ろな視線を惑わせている。

 

「テフェリーッ」

 

 思わず声をかけていた。一切合財がどうでもよかった。ただ、彼女しか目に入らなかった。駆け寄り、彼女の氷のような手をとって、ようやく震えていた心が落ち着いた。

 

「てふ? なんだって?」

 

「外人なんだ? ハーフ? クォータ?」

 

「ツーか、いきなりなんなんだよ?」

 

 うち一人がカリヨンに詰め寄ってくる。次の瞬間、この三人の男たちは総じて動きと止めた。彼らの目は銀色の紗を描く雨の向こうに芒と輝いた光を見た。するとあれよあれよという間に、彼らの視線はその光のたもとへと吸い寄せられ、鮮烈な熱量を己の眼球の裏側に感じた気がして――ふと、我に返った。

 

 なにが起こったのか、どれほどの時間そうしていたのかもわからず、足許がおぼつかないような気がして、その上妙な心細さも手伝って、三人は眼をうつろに彷徨わせて押し黙ったままだった。

 

「大丈夫?」

 

 小柄な少年が三人を見上げてきた。彼らはそれぞれに自分でもよくわからないような顔をして首を捻りつつも首肯した。

 

 大丈夫。――ではある。が、はて、何かを忘れているような気がするのである。そうしてしきりに首を捻る三人に少年はまた声をかけた。

 

「いいから、もう帰りなよ。()()()()()だ」

 

「……え? マジで? もうそんな時間?」

 

「……どうする。もう帰っか? はやく寝ねぇと……」

 

「……ツーか、ヤベェよ。急ごうぜ」

 

 口々にそう言って、男たちはすごすごと並び立って帰っていった。――

 

 どうやら、うまくいったようだ。カリヨンは冷たい雨に白く煙る息を吐いた。

 

 今彼が使用した異能、それは彼の兄オロシャの異能であった怪異なる眼光による他者への人格改竄能力である。――が、今彼が行ったのはなにも人格そのものを全くの別物に作り変えるといった大仰なものではない。

 

 単に彼らの脳裏に、自らの生活は規則正しく品行方正なものでなければならないという不文律を強烈なイメージとして焼き付けただけだ。 

 

 これで彼等は清く正しく生活することを長年続けてきた習慣のように手放しがたいものだと感じるようになったはずだ。そんな人間がこんな時間に出歩いているというのはひどく落ち着かないことだったのだろう。おかげで素直に帰ってくれた。

 

 少々強引だったかもしれないが、そも、こんな時間に出歩いている時点で彼らは自らの生活を見直す必要に迫られていたことは想像に難くない。彼らが多少真人間になったとしても、それは彼らの更正の助けにこそなれ、害になるものではないはずだ。よって、彼の行為は兄オロシャの行っていた非道とは似て非なるものであろう。

 

 ――とは、思えども。それでもカリヨンの気分は良いものではなかった。

 

 彼は兄から複写したこの異能を出来れば使いたくないと思っていた。それはこの能力の万能性が魔術師の常識と照らし合わせてもなお異常であったからだ。

 

 加えて、兄の異能を使用することで己の内面までもが兄に似通って言ってしまうのではないかという恐れがあった。幼い頃のもっとも古い記憶の中での兄は、確かに人間味の薄い人物だったと思うが、あそこまで壊れた人間ではなかった。 

 

 その変質の最大の理由が魔術師としての鍛錬なのか、課せられた重圧だったのか、生まれ持った素養だったのかは解からない。しかしこの驚異的な異能が兄自身の人間性をあれほどまでに変質させた理由の一端には違いないのだと思った。それほどにこの異能は慎重に使用しなければならないものなのだ。出来れば使いたくない、手放してしまいたいとさえ思う。

 

 だが、ことがことだ。この際そんなこともいっていられない。

 

 カリヨンはすぐさま彼女の身体を抱きとめた。空ろな少女は寝巻きのような衣服しかみにつけておらず、銀色の手足はむき出しのままだった。冷え切った身体は震えていた。このままでは凍えてしまうかもしれない。自分の上着を脱ごうとして始めて自分の格好も大差ない按配だったことに気がついた。はやく、何かテフェリーの身体を温められる手段を見つけないといけない。

 

「テフェリー――、」

 

 不意にテフェリーの身体から力が抜けた。どうやらテフェリーは気を失ってしまったようだった。それを支えながらカリヨンは気付いた。彼女の身体が火のように熱い。

 

 もう、先ほどまで感じていた恐怖も露ほども感じることはなかった。すぐに触れられるところにテフェリーがいる。それで充分だと心から思えた。今は彼女を助けることが彼の総てだった。彼女のおかげで自分のことは後回しに出来た。それは今の彼にとってこの上ない僥倖であった。――

 

 

 

 湿った臭いを含んで、鼻腔が震えた。小さくくしゃみをして、渇きを知った。苦みばしった熱を喉に感じて思わず口に手を添えた。起き上がろうとしたが、ぬらついたような影に足をとられて尻餅をついてしまった。

 

 歩く。まるでぬかるんだ泥の中を進んでいるような気がした。飲み込もうとした空気が飴のように熱く、水気がない。浮かされたように目の奥が熱い。なのに、触覚のないはずの手足がやたらと冷たい。ふらついて、壁に手を着いた。痛くもないはずの指先がちぎれてしまいそうだ。

 

 寒い。これはいつものことだ。でも、いまは頓に、さむい。

 

「テフェリー」

 

「……カリヨン……どうして」

 

 次に彼女の意識が覚醒したとき、そこには見知った人影があった。それがカリヨンなのだと、なぜか彼女には最初からわかっているように感じられた。自身が何故ここにいるのかも解からなかったが、なぜかそれだけはすぐにわかったのだ。

 

「こっちの台詞だよ。どうして一人であんな所にいたんだよ」

 

「……わからない。ただ。声が聞こえて……」

 

 そう、か細い声を漏らして不意に彼女の二色の瞳は虚ろに惑った。無理もない。彼女はまだ高熱にうなされているような状態なのだ。カリヨンは彼女の熱い身体を再び横たえると、彼女の額の汗を拭った。

 

「……いかなくちゃ」

 

「だめだよ。熱があるんだ。こんな格好で外にいたら当たり前じゃないかっ、昔から寒いのは苦手なんだから上着は手放しちゃ駄目じゃないか……」

苦しげに細められた二色の瞳が、僅かに傾いでカリヨンを見つめた。

 

「む、かし、から……?」

 

「……後で話すよ。お願いだから、今は休んで……」

 

 何かを思い出しそうになった意識は、しかし途端に霞のようになって霧散してしまい、消え去ってしまった。変わりに耳には声が聞こえる。あの優しい声が聞こえてくるのだ。

 

「……聞こえる」

 

「テフェリー……」

 

「行かなくちゃ……行かせて」

 

 カリヨンが引きとめようとしても無駄だった。彼女はカリヨンの言葉にはまるで耳を貸さず、何かに引き起こされるように立ち上がった。そしてふらふらと歩き出してしまう。にもかかわらず、意識のほうはまたすぐに混濁し始めたようで、ただ、うわごとのように繰り返すのみであった。

 

「……なら、僕も行く――僕も、一緒に、行くから……」

 

 テフェリーはその言葉に虚ろに反応した。

 

「い……っしょ、に……?」

 

「そう、いっしょにだ。僕が一緒だから、大丈夫だからね」

 

「……うん、行こう、……ありがとう。カリ……ヨン……」

 

 焦点の定まらない瞳で彼女はうわごとのように繰り返す。彼女は覚えているのだろうか、あのときのことを。こうして二人で手を取り合い、一緒に行こうとしたあのときのことを。

 

 何かが胸に溢れるような気がした。決意は固まった。そうだ。恐れることはない。先ほどはいきなりのことに混乱してしまったかもしれないが、今の自分には力があるのだ。テフェリーを助けて、キャスターを助ける。彼女がまだ消滅していないことはパスを通してわかるのだ。

 

 そして――鞘は、彼女がもう一度彼の前に敵意をもって現れるのなら、そのときはいま一度この眼光によって鞘の人格を操作することも厭わない。少なくとも、殺さなくて済むだけマシだとは思うからだ。

 

 不安要素は尽きなかったが、カリヨンは己を無理にでも克己させた。そうでもしなければ、動き出すことが出来なかった。それに、もはや彼女の元意外に自分が向かうべき場所などないように思われたのも、まぎれもない事実だ。

 

 あの日、出来なかったことをするのだ。あの日、護れなかった約束を、今度こそ守るのだ。「大丈夫だよ」と繰り返したその言葉を、今度こそ嘘にしてしまわないように。

 

 勢いを強めた雨空を睨みながら、二人は寄り添うようにしてそこを目指した。

 

 

 ――嗚呼、しかし、而して運命はこのとき、既に秒読みを始めていたのだ。流転する運命は加速ではなく、そのとき止めようもなく集束し始めていたのだ。

 

 行かなければ、向かわなければそれは避けられた運命だったのかもしれない。だが、彼らには引き返す道などなかったのだ。いったいいつから? もしかしたら、最初から、彼らにはこの道を進む以外の選択肢が用意されていなかったのかもしれない。

 

 小鳥のように身を寄せ合った二人は、ただ前だけを見据えて進んでいく。未来を諦めないために歩むその道が、既に剪定された袋小路であったことなど、知る由もなく。――

 



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五章 高位受容「ノエマ・フィードバック」-5

 昔々、更なる昔、神々が未だそこに在った時代。

 

 あるところに北方の国を治める王様がいました。あるときその王様は、有能な二人の鍛冶師の小人を捕まえてこういいました。

 

「柄は黄金で決して錆びず、鉄をも簡単に切り裂き、持ち主には必ず勝利を与える剣を作るのだ。さもなければ余はお前たちの未来に、その身に余るほどのひどく鮮明な苦痛と、なによりも明確な死を与えることになるだろう」

 

 二人の小人は、この王様のいううことを聞きたくはありませんでした。無理やり捕まえられて、いうことをきけ、と脅されているのです。

 

 しかしいわれたとおりにしなければ殺されてしまいます。仕方なく、小人たちは王の命令を聞き入れ、持てる限りの技術で剣を拵えました。

 

 いくらいやだと思っても、小人たちは手を抜いて剣を作ることが出来ないのです。それを知っていたから王様もこんな乱暴なやり方をしたのでした。

 

 出来上がったのは、それはすばらしい剣でした。その切れ味も装飾も、もはや神々の武器にも決して引けをとらないでしょう。しかし、やはり小人たちは面白くありません。

 

 そこで小人の一人が言いました。「そうだ、この剣に魔法を掛けてしまおう。あの意地悪な王様が困ってしまうような」小人たちは武器だけでなく、魔法の道具を作るのもたいへん得意なのでした。剣に魔法をかけることは彼らにとっては簡単なことなのです。

 

 しかし、そこでもうひとりの小人が訊きました「でも、どんな魔法をかけるの?」これは難しい問題です。王様を困らせるにしても、最初から触れないような魔法はかけられません。

 

 それでは小人たちは使えない剣を作ったことになってしまいます。それは二人のプライドが許さないのです。しかし魔法を掛ける事を提案した小人は笑っていいました「僕にいい考えがあるんだ。ちょっと聞いてくれる?」――。

 

 そして剣を王様の前に披露するときが来ました。それまで見たことないすばらしい剣の出来に、王様はたいへん喜びました。上機嫌で小人に尋ねます。

 

「偉大なる小人たちよ。余がこの剣に科した条件を覚えておるかな?」

 

 小人たちは歌うように応えました。「柄は黄金、鉄を布のように切り裂き、振るう者には必ず勝利をもたらす剣にございます」

 

 王様の心はこの上ない満足で満たされました。剣を握って至福の喜びに満ちた王様は約束どおり二人の小人を帰してあげることにしました。

 

 しかし去り際に小人のひとりがいうのです。

 

「――王よ、王よ。ひとついい忘れたことがございました――」

 

 もうひとりの小人が続けます。

 

「――王よ、王よ。その剣にはもうひとつの条件がついているのでございます――」

 

 呆気にとられる王様の耳に謳うような二人の声は次第に重なり、山彦のようになって響いて遠ざかっていきました。

 

「――その剣は三度まで持ち主の願いをかなえ、必ず勝利に導くだろう。しかしその後になって最後には破滅と死をもたらすであろう。

 

 ――王よ。王よ、強欲なる王よ。三度剣を振るうことなかれ、さもなくば、剣は貴方の未来に、その身に余る鮮烈なる破滅となによりも明確な死が訪れるであろう――」

 

 小人たちはこれで王様は二回しか剣を使えないと思って悔しがると考えました。一度も使えないのでは不満なのですが、たとえ二回だけでも使ってくれるならば小人たちはそれで満足だと考えたのです。

 

 しかし、小人達が考えたようにはなりませんでした。結局、その王様は三度剣を使って勝利しましたが、最後には逆にその剣を敵に奪われて殺されてしまったのです。

 

 そのとき剣を手に入れた半巨人の一族がその剣の次の担い手でした。

 

 そうして剣は振るわれるたびに凄まじい力を発揮し、次々と勝利をもたらしました。しかし、そのたびに破滅をももたらしました。

 

 次第に、血に濡れた剣は熟れた果実のように成熟し、破滅をもたらすたびに持ち主をかえました。

 

 そのうちに剣は形や名前を変えて幾多の伝説となりました。まるで自ら意志を持っているかのように殺戮の気配を追い、幾度となく血を吸い、人に栄光を与えては英雄を作り出し、同時に破滅をもたらしては英雄を殺戮していく。そのたびに血塗られた伝説が生まれました。

 

 それはいつしか伝説と英霊を作り出すシステムとして機能するようになり、いつしか独自の魂を勝ち得るまでになっていったのです。やがて、英雄を作り出すはずだった「剣」はいつしか担い手を必要としない「反英雄」そのものへとなっていったのです。

 

 そして、幾多の伝説から姿を消した後も、魔剣はいまもどこかで人の血を吸い続けているのでした。

 

 いつまでも、いつまでも……。

 

 

 

 ――深まった夜半。既に道行く人々の姿は何処の路地にも絶えて久しかったが、僅かに残った通行人の歩みをも、さらに鈍らせようとするかのような重い雨粒は静かにその勢いを増し始めていた。

 

 その雨しぶく暗夜の市街を一条の筋を描く白銀の流星が、濡れそぼつ尾を引きながら縦断していく。しかし、見目にも麗しく鮮烈なるその軌道が、よもや形振り構わぬ逃亡者の退路をなぞるものだなどと、いったい、誰に信じられたであろうか。

 

 だが、それはまぎれもない事実であった。それは必死の逃走に他ならなかったのだ。まるで何かに追い立てられていくかのように馳せるそれを追うのは、追い詰めていくのは金濁色の稲妻であった。

 

 一弧の曲線を描いて流麗に馳せる白銀の獲物を、対してひどく荒々しいジグザグの軌道でなぶるように追随してく。

 

 その様は、憚らずに表すならばまるで雨庭の狩猟に戯れる兎と狐の舞踏とさえ映るものであった。

 

 しかしその流麗な光景も、知るものが見たならはそれは眼を疑いたくなる光景であった事だろう。なぜならば、それが、彼女が、かの騎士王が、かくも一方的に追い立てられる光景など、彼女を知るが故にあってはならない光景だったからである。

 

 しかし、いま、現に追い立ててくる敵に背を見せながらも逃げ去っていくのはまぎれもなく稀代の戦神にして騎士道の頂に咲き誇れる無謬の王の姿であったのだ。

 

 事実。追い立てている側からしても、これは慮外の事態だった。いくら不利な戦況に立たされたとはいえ、まさかあのアーサー王がこの局面でとりうるのが逃げの一手のみとは、安易に解せることではない。

 

 もはや万策尽きたとでもいうのだろうか? いくら伝説の豪勇とはいえ、かのごとく一抹の勝機さえ見えぬ闘いを挑むことは出来ぬ。――と?

 

 

 二筋の閃光はとうとう行き止まりに突き当たった。そこにあったのは壁に囲まれた袋小路ではなく、逆に何処までも開けた空間だった。

 

 ――海だ。打ち付ける重苦しい雨のせいでそこに広がる海原はさながら沸きあがるかのような様相を呈している。

 

 新都中心街から退路を求めたセイバーが行き着き、足を止めたのは未遠河の河口に位置する港だった。そこで、彼女はもはや逃げ去る猶予のない海原を前に立往生したかのように佇んでいる。

 

 はたして、己の逃走の先になにがあるのかすら、今の彼女には計り得なかったのであろうか? それほどまでに恐怖に動転していたとでも言うのか――。

 

 己の後ろに迫っていた黒い女へ向けて、セイバーはようやく顔を向けた。その、一切の表情が抜け落ちた白い貌に、黒い女は不可解な兆しをみる。

 

 両者の距離はすでに十五間程にまで迫っている。サーヴァントならば少なくとも五歩もあれば敵に詰め寄れる距離だ。

 

 鞘――否、伏見鞘の顔をした魔剣士もそこで一度歩みを滞らせた。漆黒の髪端から重い水滴を掃いながら揶揄するような声を上げた。

 

『なんだ? 捨て身のつもりか? 観念したとでも?』

 

 応えはない。感情の起伏を失ってひどく人形じみた精緻な美貌だけが、その滑らかな顎先から甘露のような雫を滴らせて声を迎える。

 

 セイバーはただ泰然と雨の帳の向こうに佇んでいる。その顔は見ようによっては絶望に呑まれた苦悩を決して悟られまいとする気丈な乙女のそれのようにも見受けられる。

 

『つまらんなぁ。それでは騎士王の名が泣く――ゾ?』

 

 黒い女は人形のように小首をかしげ、探るようにじりじりと距離をつめていく。跳びこむならあと四歩、サーヴァントならば四歩の跳躍で敵影を己が剣域に捉える。

 

 そういう距離だ。対するセイバーは沈黙をつづけていた。果たしてあの顔は恐怖に怯える心を必死に押し隠そうとする少女のそれであろうか? 声を出すことも出来ぬほどに――それとも……。

 

 距離はあと九間まで迫る。

 

 ――さて、これをどう見るべきか、もはや万策つき、逃げ場も失って吶喊したと見るべきか。それとも、もはやこれまで、と最後の特攻に打って出ようというつもりなのか。

 

 ――否! 違う。そうではない! 

 

 あのまなざしは、あの押し隠した瞳の奥に見えるのは。そんな惰弱な愚者の淀みではない!

 

 あれは最後まで己が勝利を諦めない者の、そう勇者の瞳に燃える篝火だ。ヤツは未だ確かな己の勝利を確信して行動している。――ならば、

 

 魔剣の女は距離を詰めていく。檄尺の間合いまで――あと六間。飛び込むまでにはまだ二歩の踏み込みが必要な距離。

 

『――あ、そうだ。この際、いっそのこと潔く観念してみるというのは? 実はやったことないだろう? せっかくの二度目の「死」だ。前回は出来なかったことをやってみるのもおもしろいのではないかなぁ?』

 

 その、調子だけはまるで誘うような戯言だけが、雨粒の打ちつける音に混じって周囲に響く。嘲笑するような声は耳に届くころには雨音に擦れて虚ろな耳鳴りのようになっていた。 

 

 応える声はない。

 

 距離はあと一歩の跳躍で敵に届く範囲、つまり一足一刀で必勝を期せる間合いに近づく。

 

 そこまで――

 

 ――残り一間半。セイバーもまた長い睫毛を雨に濡らしながらその距離を推し量る。

 

 彼女は確かに真正面からの直接戦闘を得手とし、同時にその己の手腕に絶対の信を置くサーヴァントである。

 

 しかし、何もそれだけが彼女の持つ「性能」の総てではない。彼女を最良のサーヴァントたらしめているのは彼女自身の能力と、それを最大効率で運用する計略手腕、即ち度重なる戦局を切り抜けてきたことによって培われた戦闘経験値の高さである。

 

 戦闘の駆け引きにおいて、彼女は常に己の力を計り、それをどうやって敵を撃つことに活かすかを思考し続けているのだ。無論、今彼女が導き出した結論は強敵を前に敗北を観念するなどという惰弱なものではありえない。

 

 敵は、いまひどく調子付いている。獲物を追い立てるときというのは多かれ少なかれそういう心理が働くのが人間というものだ。それは英霊といえども例外はない。絶対に隙が出来、大振りが来る。

 

 セイバーは獲物を狙う伏虎のごとく静かにそれを待っていた。あくまで追い詰められた窮地を演出しながら、である。

 

 しかし、これは文字通り危険な賭けでもあった。連戦によってもはや余力は残っておらず、宝具の発動すら不可能な状況。全力の一撃を放つ機会はこれが最後になるだろう。

 

 この後はもはや戦うことはおろか、動くことすら出来なくなるかもしれない。だからこそ、一時背中を見せてでも、敵を勢いづかせる必要があったのだ。

 

『この期に及んで反応なし、か。やれやれ、仕方がない。それでは推して引導を――』

 

 まるで詩人にでもなったかのような芝居がかった声音で爪弾かれる佳境の宣下。セイバーの集中力は針のごとく研ぎ澄まされた。

 

 その意識は敵の放つ止めの一撃に対する後の先を取ることに専心する。幽鬼の如く敵は迫る。最後の踏み込みまで、あと半歩――――来る!

 

 しかし――

 

 獲物をなぶるようにじりじりと間合いを詰めていたはずの黒い女の全身は、そこでヒタリッ、と制止した。

 

『――渡しにいくのは、ちょっと怖いナぁ』

 

 途端、残像さえ残さぬ速度で、黒い女は一気に後退した。距離は、元の十五間ほどまで再び開いた。

 

「――ッ!?」

 

『確かに、お前は本当にもう戦えないのかも知れない。もう反撃する力もなく本気で逃げていたのかも知れない。……その可能性は充分に考えられる。しかし、《《こう》》も考えられないかな? もしかしたらまだ力を残しているんじゃないのか? さらには、最後の最後で逆転なんぞを狙っているのではないのか? そうではないとは言い切れないよなぁ……なぜならば、』

 

 探るような、(くすぐ)るような声に、蛇のような狡猾な陰影が絡みつく、セイバーの白い貌にわずかな表情が戻る。苦々しい苦悶の翳りだ。それを目ざとく見咎めた女はさらにその痩身に纏わりつくかのような言葉を投げつける。

 

『英霊というのは、そんなに諦めがいいものではないからなぁ。……まして、それが伝説の騎士王となればなおのこと。……ふふ、そんな顔をするなセイバー。解かるんだよ、私には。私は誰よりもお前たちのことを知っている。私は誰よりも英雄という奴の心理を知っているんだ。よって、こんな時、お前達がどのような挙に出るかということも――概ね察しがつく』

 

 饒舌に紡がれる呪詛の如き歌声に、セイバーは応える言葉を持ち得ない。

 

『そういうわけで、これ以上近づくのは、ちと恐ろしい。しかし、そうこう言っているうちに回復されても元の木阿弥だ。――故に、』

 

 黒い女は長剣をたかだかと掲げ上げた。

 

『たとえ、どちらであっても関係のない方法と選ぶとしよう。そういう手段をとることにしよう』

 

 黒い女の右手から三画目の令呪が消え去る。始められる周囲の世界そのものへの過度の略奪。熱、光、魔力――それらが渦を巻いて漆黒の刀身へと引き寄せられ取り込まれていく。 

 

 それを見つめるセイバーの貌からは再び凍てついたかのように表情が消え失せ、天の砂金をこぼしたかのような黄金色の髪は冷然と降り注ぐ雨に濡れていまや白蝋のごとく青ざめた頬に張り付いている。

 

 そこから滴り落ちた雫がやおら地表に落ちて、キン、と小指の先ほどの鈴の()のような音を立てた。

 

 鞘の立つ位置を中心として総てを奪われた周囲の其処彼処は、円の径を広げながら極寒の世界へと凍てついていく。空から舞い降りる水滴が瞬時に大量の氷粒へと姿を変え、雨しぶく地表に満ちる雨粒は無数の氷花となって咲き乱れ始める。今更言及するまでもなく、あの夜、セイバーの聖剣と鍔迫り合って敗れた闇色の光の奔流。その前兆である。

 

『フフ、海を背にしたのは拙かったなぁ。いや、それとも街を巻き込まないという意味ではむしろ良かったというべきかナ?』 

 

 無論、総ては承知の上でのことであった。確かにこの敵を迎え撃つというのなら、あの極大宝具は懸念してしかるべきもの。故に大海を背にするこの位置関係は望むべくもない。 

 

 たとえ彼女がその宝具の標的になったとしても、街の住民への被害は最小で済む――そも、セイバーにとって海上はかつて馳せた丘原と何の変わりもないのだ。あえてここで足を止め、もう逃げ場に窮したかのように見せ掛けたのはこの宝具を使われたときの場合に備えてのことであった。

 

 しかし、事態は最悪のシナリオへと分岐を始めてしまった。

 

 もはや残された余力も絞りつくした。そのとき、セイバーの脳裏には決死の突貫を想う心が閃いていた。こうなっては一か八か、己の総てを持ってこの魔の剣士に一矢を報いるまで! 

 

 不可視であった聖剣の鞘が解き放たれる。しかし、そこからあふれ出す筈の光がこのときばかりは精彩を欠いている。――このまま己の消滅すら辞さぬ覚悟で『約束された勝利の剣』を放てば、一糸報いる程度のことは――いや、それも楽観的過ぎる見通しだ。

 

 セイバーとて己のコンディションを把握していないわけではない。このままではまともに閃光の刃を放つことすらままならないのは百も承知だ。

 

 それでも――このまま坐して敵の刃を待つつもりはなかった。いかなる障害であろうとも挑まねば総ては成しえなることはない。ならば挑み、立ち向かい続けることこそが人として生を受けたものの在るべき生き方なのだ。そう、あの化身の王に示した己の王道を踏み外すことだけは出来ない。

 

 その騎士王の苛烈なまでの高潔さがその意を決しようとした――そのとき、あらぬ方向から舞い降りた幾重もの影が、紗の線を描いていた雨を細切れにしながら降り注いだ。セイバーにではなく、今まさにセイバーに刃を向けんとした怨敵にである。

 

『なんだぁッ!?』

 

 世にも恐ろしい呪詛の怒気を荒げ、降り注いだ輝器の群を黒剣が薙ぎ払った。投射された宝具群は凍てつくだけではとどまらす、黒の刃に近づいただけで純粋な魔力に分解され取り込まれてしまった。

 

 それでも射撃は間を置かずにつづけられる。

 

 セイバーは瞬時に判断した。これは――投影宝具の投射! そしてその目には力強い生気が漲る。はるか後方に居る筈の射手の姿を求めて振り返った鞘からは見えない位置に、己が主の確かな赤影を見つけたからである。

 

 そこにあったのは紛れもなくセイバーのマスター、遠坂凛の姿だったのだ。そして、この援護射撃は間違いなく衛宮士郎の投影魔術に他ならない。

 

 

 遠坂低から姿を消したテフェリーを探していた二人は、強い魔力の揺らぎを察知して一路その場所を目指していたのだ。依然として鬱積するこの障害ノイズのせいで闇雲にテフェリーを探しても埒が明くものでもない。

 

 逆にそれほどのノイズの中でさえ感じ取れた巨大な魔力のうねり、その場所には何かしらの手がかりがある、とふんだ二人は一路この場所を目指したのだ。

 

 徒歩で移動するしかなかったために時間は掛かってしまったが、もう少しで件の波動を感じた港の倉庫街に辿り着く、そんな矢先に空を覆っていた雨雲を掃うかのような白乳色の光が巻き起こったのだ。

 

 そしてすべてを察した二人はすぐさまセイバーの援護に回ったのである。

 

 

 二人の健全な姿を目にして安堵とともにセイバーの総身に力が溢れる。同時に聖剣が本来の輝きを取り戻し、その光と旋風で勝利の凱歌を寿ぎ始める。

 

 これにはセイバー自身が驚愕した。いま、セイバーの身体は本人の意思とは無関係に主のもたらす魔力のパスを押し広げ、瞬間的に通常とは比較にならない魔力を主から略奪しているのだ。吸い上げられた魔力はセイバー自身の魔力炉心を経て増幅・加速され、すぐさま彼女が手にとる聖剣に流れ込んでいく。これは凛の令呪によるものであった。

 

 令呪とはマスターとサーヴァントの同意の下に行使されるならば、それは本来のセイバーにさえ成しえない奇跡をも押し通すことを可能とするのだ。セイバーは驚嘆しながらも向けられて来る主の視線を真っ直ぐに受け止める。そして瞬時にその目がなにを意図しているのかを推し量る。

 

「いいわッ! セイバー、死なない程度に持ってきなさい!」

 

 耳に届いたわけではないその言葉に、セイバーは力強く首肯して応じる。チャンスは一度。――今一度、その瞬間に総てを賭ける!

 

『おのれッ! 余計な真似を!!』

 

 掲げられる黒の大剣はすぐにまたセイバーにその蛇のような視線を向ける。セイバーの身体に充溢した魔力を察知したのだ。もはやセイバー以外の諸々にかかずらっている暇はない! 

 

盟約された(ヴィズル)――』

 

 高らかに謳われる、大神の名を借りた暴虐の呪詛。雨降りしきる氷花の庭に、今ふたたび極限の暗光の交差が訪れる。

 

 既に頂点に掲げ上げられた黒剣は、呑み下した尋常ならざる魔力と熱量を開放する――刹那。セイバーは剣を振りかぶったまま、それに先んじるように突進した。

 

『――――ッ!』

 

 一瞬の驚愕はしかし剣勢を殺すほどの効果はもたらさない。黒い女は構わず剣を振り下ろす。もはや止まることなど出来はしないのだ。周囲の世界からかき集められ、集束された膨大なる熱量と魔力は今更押し止めることなどできるものではなく、もはや根源の本能が要求する開放のカタルシスへの渇望は、極限の飢餓にも似て彼女の脳裏と総身の神経回路を一瞬で焼きつかせながら、駆け巡る。

 

 解きかけた風王結界を推進力として利用し、一足跳びで突貫したセイバーは一瞬で大剣を振りかぶった鞘の懐にその身体をねじ込んだ。

 

約束された(エクス)――」

 

 言祝がれる真名。本来の大上段ではなく、小さく脇構えに構えられた剣身は超突風の前進の勢いを殺すことなく、その極光を露にしながら横薙ぎに解き放たれる。そう、この状況で大振りは必要ない。必要なのは出力を絞り、ピンポイントで放つ――――この一撃!

 

「――勝利の剣(カリバー)!!」

 

『――破滅の刃(ウォーデン)!!』

 

 振り下ろされる黒刃から溢れ出す、灼熱と化した暗光の大乱。しかし、それは懐に潜り込んできたセイバーをとらえることはなく、一寸だけ速く奔ったセイバーの横なぎの光の刃が、振り切られる黒い刀身に先んじてその中腹を捉えた。

 

 十字に切り結ばれた聖剣と魔剣からは互いの放つ暗明の閃光ではなく、刃と刃が直接に打ち鳴らされたことによる轟音が響き渡り、それが次第に尾を引きながら縮小していった。  

 

 光の奔流が潰え、ふたたび雨音が周囲を包み込んだ。先に方膝をついたのはセイバーのほうであった。今しがた供給された急場しのぎの魔力は今の一撃で完全に枯渇し、もはや外装を止めることもできていない。しかし、雨の雫に濡れ光るその睫毛の下の瞳は既に知っていた。

 

 確かに約束された己の勝利を。

 

 漆黒の魔剣はその中腹から折れ曲がり、粉砕されて宙空に舞った。女の手に残ったのは鈍い金色の光を放つ柄と残り僅かになってしまった黒い刀身だけだった。

 

 上記の令呪によってセイバーにもたらされた効果を厳密に解説するならば、それはふたつに分けられる。ひとつはマスターである凛からの魔力供給を一時的に増大させること、そしてもうひとつはその魔力を用いて宝具を使用しながら、同時に凛とセイバーがともに存命するのに問題のないレベルでの精妙な魔力調節を行うことである。

 

 つまり、今の令呪によって下された命令はマスターとサーヴァント、両者の持ちえる総ての魔力をかき集めて一発分の宝具開放を可能としながら、同時に両者が生き残る、その奇跡の呼吸を可能とすることであったのだ。

 

 だが、それでも全力で打ち合いに応じることは出来ない、急場凌ぎの強制魔力供給では力勝負に応じられるほどの威力の聖剣は放てない。故に、そう判じたからこそ、セイバーは間合いを詰めたのだ。

 

 両者の持つ魔剣と聖剣は、ともに極大的な威力と効果範囲を持つ「対城」レベルに分類される宝具同士である。が、それらがこのように相対するかぎり、その本質はつまるところ剣と剣の勝負であることに変わりはないのだ。

 

 セイバーは大上段から振り下ろされた敵の長剣の中腹をその打ち下ろされる瞬間を狙って横から打ち抜いた。つまり、彼女の狙いは敵自身ではなくその武装の破壊だったのである。

 

 これこそセイバーがその胸に秘めし正真正銘、最後の策であった。もっとも、これはこの場に到着してすぐにセイバーの窮地を察し、瞬時にその援護に回った遠坂凛と衛宮士郎の的確な状況判断と迅速な行動がなければ成しえなかった勝利であった。

 

 そして、その援護にすぐさま応じてみせたセイバーも含め、三者三様、何の申し合わせもなく咄嗟のコンビネーションを見事に行って見せた絶対の信頼こそ彼らの最大の勝因であったといえた。

 

 

 ――その剣は、三度持ち主の願いを叶え――

 

 

 凛と士郎はセイバーに駆け寄った。それに応えようと立ち上がったセイバーはたたらを踏んで後退し、そのまま崩れ落ちるようにうずくまった。その疲弊ぶりは、もはや立ち上がることもままならないほどに深刻であった。

 

 

 ――そして最後には、持ち主に避けられぬ「破滅」をもたらすという――

 

 

 同時にパキンッ、と。妙に軽い音を立てて鞘の存在そのものに決定的な亀裂が走った。そのまま、もとより駆動流動の許されぬ彫像であったかのような彼女の身体は切り倒される立ち木がごとく後方に倒され、それきり身震いひとつしなかった。

 

 身体と、刀身に掛かる過負荷はとうとう耐久現界を超え、当然の結果として鞘の存在そのものの崩壊をもたらしたのだ。

 

 

 そして、その女の倒れ伏す光景の一部始終を見つめ続けていた眼差しがあった。見開かれ、困惑に震えるのはまるで怯える童女のそれにも似た、薄いブラウンと青味がかったグリーンの、色違いの大粒の双瞳。

 

 ――瘧のような強張りを余儀なくされた唇から、言葉が漏れた。

 

「お……母さん……?」

 

 打ち付けるようだった雨は、いつの間にか止み始めていたようだった。それでも、雲間から、月の光はのぞかない。

 

 

 

 身体を支えていたカリヨンの手を振り払い、テフェリーはつんのめりながらも物陰から飛び出した。そして士郎たち三人の動向を窺うこともなく、鋼糸で鞘の身体を自分の下に引き寄せた。

 

 その身体を抱きとめる。テフェリーの腕のかなで微動だにしない鞘。ただ、浅い、ほんの微かな呼吸だけが響く、触れ合うほどに近いテフェリーの耳に届く。ふいごのようなそれは次第に鳴り止もうとしている。

 

 鞘の身体はいたるところから出血しているらしく、降り注ぐ雨がコンクリート張りの地面を真っ赤に染めていく。その傷のひどさを物語っている。――どう見ても、もう時間は残っていない。だから、どうしなければならないかがわからなくても、待ってはくれないから、どうにかしなくてはならない。どうにか。

 

「お、おい、鞘」

 

 後ろからカリヨンが声を賭けた。呼び水となったのか、テフェリーはボソリ、と、

 

「……あなた、誰なの?」

 

 そして一瞬、僅かに震え、開かれた黒い瞳が見上げるようにテフェリーを見て、微笑んだ。

 

「キレイ……な、目……」

 

「……おかあ……さん……な、の?」

 

「テフェリー。……私の、テフェリー。わ、たしたち、の……だい、じな……」

 

 テフェリーは訳も解からず鞘の身体を抱きしめた。わけがわからなかった。何も理解できなかった。だから抱きしめた。温かった。放したくなかった。

 

 

 士郎はその場に闖入してきた二人を見止め、そこに駆け寄ろうとする。カリヨンは思わず前に出て、それを制していた。

 

「待って!」

 

「――ッ」

 

「お願いだよ。待って……くれ、もう終わりだ、何も出来ないよ。だから……」

 

 その声に躊躇する士郎だったが、しかし背後からセイバーが唸るような声を上げた。

 

「まだですっ! シロウ、油断しては駄目だ。その女には、まだ何かがある。まだ、何かの秘密が!」

 

 そうは言うものの、セイバーはもはや立つこともおぼつかない。そのセイバーに魔力を供給する筈の凛自身も先ほどの令呪使用で余力などないのは火を見るより明らかだ。セイバーの身体を支えるだけで精一杯といったところだ。

 

「それを知りえるまで、楽観することは出来ません!」

 

 士郎は背中でその言葉を受け止め、陰陽の双剣を投影した。今まともに戦闘が出来るのは彼だけだ。本意ではないがこれが事態の収拾だというのなら、おろそかにすることは出来ない。兎角――、

 

「どいてくれ」

 

 確固とした声に、しかし退くものはない。カリヨンとて、何かを知りえているわけではない。キャスターを刺し、己を殺そうとした鞘を信じていいのかどうかもわからない。

 

 だがそんなことはどうでも良かったのかもしれない。ただ、テフェリーがそう望んでいると思ったのだ。だから、彼はここを制さなければならないのだ。今度こそ、彼女の願いを聞きとどけなければならない。

 

 今度こそ。「大丈夫だ」と繰り返した、あの日の言葉をうそにしてしまわないように。

 

 そう思うと、張り詰めた意思が漲るような駆動となって五体に満ちていくのを感じることが出来た。

 

 対峙する少年の手に、己が手にするものと同じ双剣が出現するのを見て、すでに大抵の怪異には慣れ親しんできた感のある衛宮士郎も凝然と瞠目せざるを得なかった。

 

 未だ魔術師として見習いの域を脱していない彼ではあるが、しかしその彼が唯一の得手とするのがこの投影魔術である。得手どころか、本来彼以外には不可能である領域まで特化されたその魔術はほぼ彼の異能とも呼ぶべき特性にまで昇華している。

 

 シロウの驚愕は己の特性が唯一無二の例外であることを知るが故なのだ。 

 

 しかし彼の推察が事の根幹にまで届かないのも無理からぬことである。その特異性こそがこの怪異を可能としている要因なのだ。カリヨンの異能は他者の特出した特異能力を感じ取り、解析し、それに同調して同じ能力を複写、または編集複合して使用するものなのである。

 

 いかに簡易的であれ、誰にでも使える魔術はカリヨンの異能によって特異性とはみなされず、逆にそれが奇跡と呼ばれるレベルの能力であっても、それが何かに特化した機能ならば問題なく複写することが可能なのだ。

 

「〝憶え〟させてもらったよ。……お願いだ。少しでいい。待ってくれ……」

 

 睨み合う両者。

 

「少しでいいんだ……あと、少し……」

 

 そのとき、銀色の閃光を纏い、一孤の影が舞い降りた。

 

 抱きあう二人の母子に向けられた鋼の牙が光り輝いた。ダイヤモンドコーティングの特殊警棒だった。

 

「オ――オオオオォォォ!」

 

 もはや半ば以上が剥げ落ちたアミュレットのスケイルアーマーは既に穏行の役目を果たしては居らず、怒号を撒いて姿を現したのは、DDと呼ばれたあの怪人であった。

 

 士郎は咄嗟のことに挙動の機を奪われて立ち竦んだ。罅割れた鏡面の亀裂が、苦悶に刻まれた苦悩の皺の如く数を増した。鬼面。面の上にまで浮かび、滲み出てきたかのような鬼の相だ。

 

 飛沫を上げながら振るわれた牙はしかし、虚空で止められた。

 

 カリヨンだ。気が付けば、目にも留まらぬ豪速で刃の軌道に割り込んでいた。考えたわけではない、ただ、体が動いていたのだ。勝てる理由など何処を探しても思いつかない。まるで考え付かない。それでも、今の彼にこの二人を見殺しにしていい論理など存在していない。

 

 ならば、勝てるかどうかの思案など時間の無駄でしかない。

 

 ところが、案に反して敵の動きは精彩を欠いていた。なにがあったのかは知らないが、これなら敵の動きを置物の如く観察することだって可能だ。カリヨンは試しに振るわれた敵の得物をその腕ごと打ち払い、それが容易だと知るや、勢いに任せて双剣での連撃を叩き込んだ。

 

 この少年の挙動は実際には瞬きほどの時間であり、一瞬、雨しぶく暗闇に振るわれたはずの白刃の軌道が、矢庭に歪んだこと以外には、誰もその過程を確認できていなかった。しかし、無論のことセイバーだけはそれを容易に見て取っていた。だから、彼女だけが、粉砕された鏡面から露になった怪人の素顔に驚愕することが出来たのだ。

 

 だがそれを、どう、言葉に出すべきなのか、セイバーは声につまった。誰に、それを、どう伝えるべきなのか。打ち倒され、仰向けに倒れた男の顔に露になった、青み掛かった翠緑と澄んだ薄茶色のオッドアイ。それを、その事実を、この場の誰に告げるべきなのだろうか。

 

「ありがとう」

 

 サヤの声だ。二人の身を案じて振り返ったカリヨンが、次の瞬間に見たものは、抱きとめたテフェリー背に、サヤが魔剣の柄を突きたてていた光景であった。それがキャスターの姿と重なって、思わず、カリヨンは悲鳴にもならないような、声にならない粗雑な音を喉から漏らした。

 

 その、刃に貫かれ限界まで仰け反りかえったテフェリーのしなやかな背中越しに見る鞘の瞳。なんて優しく、穏やかで――そして歪みきった悪意の喜悦は滲み出した金濁色の光を伴ってたおやかに歪み、捻れた獣の笑み。

 

 ――だめだ、だめだ、だめだ。

 

 咄嗟にカリヨンは手を伸ばした。しかし、取ろうとしたテフェリーの銀色の腕は彼の手の中で融解して混ざり合うかのように流れて、滅形した。

 

 悲鳴はカリヨンのものだったのか。それとも。

 

 サヤは突如として、全身の力が消失したかのようにテフェリーの足許に崩れ伏した。

 

 そして、ひとり立ち上がったテフェリーは項垂れるかのようにダラリ、と背を丸めていた。すると、ちょうどその背の頂点に脊髄に沿うような形でつきたてられていた黄金の柄が、幾重もの金光の筋となって、まるで後光か、輝く翼のように変じ始めたのだ。同時に銀色だった四肢は解きほぐされて同様に金の流動となり、漆黒の黒銀色だった髪までもが煌びやかな黄金に染まり始めた。

 

 それはまるで蛹から金の翅を持つ蝶が羽化するかのごとき光景を思わせた。

 

 蝶は項垂れていた頭を、仰ぐように未だ濃い灰色の空へと向けた。見開かれた双眸は薄いエメラルドとブラウンから奈落のような濃紺色と血のごとき真紅へと変わっていった。

 

 ソレは体中から湧き出るかのような黄金色の触手ではるかな虚空へと立ち上がった。それはそばで呆然と膝をつくカリヨンには見向きもせず、脱ぎ捨てられた蛹のように己の足許に伏せる鞘の身体を睥睨するかのように見おろした。

 

 黄金の天衣へと編みこまれた金の糸を纏いながら、それはすでに人のそれを模倣することもない手で、鞘の身体の中から、一本のエメラルドの石柱のようなものを抜き出した。

 

「あれは……あれが「宝典」? あんなところにあったなんて……」

 

 声は凛のものだ。なるほどよく見れば材質こそ不明ではあるが確かに一種の巻物のような形にも見える。その声はこの場の誰にも届いてはいなかったが。それでもそこに居た全員が大なり小なりの真実をそれぞれに予期し始めていた。そしておそらくは、それがそれぞれに思い描いた最悪の事態に他ならないことは、もう疑いようがなかった。

 

 うっそりと、色味を増した二色の視線でカリヨンを舐めた金の蝶は、その場に居た総ての傍観者にそれぞれ視線を送り、それでまた虚空を仰いだ。

 

 その間、動くものはいなかった。

 

 《《それ》》はゆっくりと総身から伸びる糸を羽ばたかせるように振り上げると、

 

『魔剣――雨』

 

 そんな、言葉を吐いた。瞬間、夕立のような金の斜線がジグザグに天空から舞い降りた。

 

 それまで皆の足場であった筈の港が、消失した。降り注いだ死の雨は海をも切り刻み、辺り一帯を粉砕したのだ。まるで砂像でも壊すかのように。

 

「士郎!」

 

 声は凛のものだ。セイバーは彼女を連れて離脱するので精一杯であり、士郎は瓦礫の山と化した港の末端で、身体の半ばまでをも海に沈めていた。出血がひどく、それが海の色を淡く染めているのが見えた。まだ生きてはいるようだが、このままでは危険であった。

 

「凛! いけない」

 

 セイバーの制止も聞かず、凛は士郎のもとへと駆け寄っていた。セイバーはすぐに二人を背に負う形でその金色の異形に相対した。

 

 カリヨンは何とかその破壊を免れていた。今まで吸収した異能が複合され、今の彼に驚異的な回避能力をもたらしていたのだ。しかし、カリヨンはただ呆然としていた。そうするしかなかった。

 

 彼には何ひとつ理解できることがなかった。今彼らを攻撃したのは、姿こそ違えども、間違いなくテフェリーだというのに。

 

 彼は何も考えれなかった。何も出来なかった。ただ、咄嗟に拾い上げた、もはや糸の切れた人形のような鞘のからだを強く抱いていた。

 

 金の蝶の視線はしかしカリヨンにも、セイバーや凛にも向いていなかった。その目は今の刃の雨に穿たれ、伏しているD・Dに向けられている。

 

 そしていきなり高らかな笑い声が響きわたった。

 

「アハハハハハハハハハハッ!」

 

 するとその金の蝶は、一気に四肢の金糸を編み上げ、さらには背中から伸びた幾千万もの新たなる金刃で邪魔な衣服を切り裂き新たな外装と成して纏った。さながら、天衣を纏う天使のそれを思わせる神々しいまでの姿であった。

 

 人の形態を模倣したそれは黄金細工の如き手を腰に当て、溜息を吐いてうずくまった男に語りかける。

 

「よく来たなセルゲイ! いーや、よく来てくれたな!」

 

 D・Dは応えない。それを傍観しながら、カリヨンは蚊の鳴くような声を漏らした。

 

「お前は、お前はなん……なんだ……」

 

 まるで爬虫かなにかのようにその首がギョロリと反転した。黒紅の双眼が、立ち竦むカリヨンを無味乾燥な視線で見据え、次いで道化人形のような過剰な笑みを湛えた。

 

「我こそは魔剣・兇器特権(テュルフィング)! 名にしおう、この世に名だたる魔剣の祖よ!!」

 

 明かされた真名。狂気のインテリジェンス・ソード。魂を得た魔剣。それがこのサーヴァントの正体であったのだ。

 

 あまりにも見るに耐えないその変貌振りに、カリヨンはそれを直視することができなかった。

 

 もう何もわからないなどという言い訳は、己に通じなかった。過程は知らずともすでに結果は火を見るよりも明らかだった。

 

「魔剣……、剣のサーヴァント。そういうことだったか」

 

 セイバーの声に、金の裾を翻すようにして向き直った魔剣は鷹揚な視線で刺すようなセイバーのそれを受け止める。

 

「その通りだ。英霊アルトリア。私こそがこの聖杯戦争における剣の英霊(セイバー)だ。――――もっとも、私は召喚などされていないがな。もとより抑止の輪になど納まるつもりはない」

 

「何?」

 

「わからないか? この儀式は私が復活し、完全なものになるための余興に過ぎないのだよ」

 

 セイバーは怒気を孕んだ声を漏らす。

 

「貴様――、英霊をなんだと思っている!」

 

「決まっている。人間は魔剣(わたし)の玩具で、英雄は魔剣(わたし)の作品だ」

 

「――ッ!」

 

 言うや否や、剣を執って駆け出そうとしたセイバーだったが、その刹那に閃いた三条の金糸に吹き飛ばされた。

 

「セイバーッ」

 

 士郎を助け起こしていた凛も声を上げる。もはやセイバーには闘う余力など残っていない。それはマスターである彼女が一番よく解っている。今や街を覆っていたノイズは消え去り、セイバーとのパスも正常に機能しているのだ。

 

「退いていろ、騎士王。もはや死に損ないのキサマに用などない」

 

 動かなくなったセイバーから視線を切った金糸の蝶は、次いで眼下に蹲る死に体の男へ秋波を送る。そして金に染まった己の髪を掬い、うっとりと眼を細めながら独り言のように語り始めた。

 

「それにしてもすばらしい身体、そしてすばらしい異能だ。「受容」とでも言うのかな、外界から要求される、あらゆる変化を受け入れてそれに無理なく適応できる能力。ふふ、どうだ。四つもの欠片とサーヴァントを受け入れてなおそれを十全に制御してみせている。いいぞ、これならば残りの三つもあわせ私が完全に再生するにも申し分のない素体となるだろう」

 

 金の化生は再び躯の如く地に伏せるだけの男へ向き直った。

 

「解かるか? 既に聖杯戦争などという張子の儀式は必要ない。七騎の英霊は総て我が欠片の内に納まった。後はそれを集めるだけだ。王手(チェック・メイト)だよセルゲイ。この十七年、貴様とのチェスはなかなかの余興だった……しかしそれも終わりだ。さっさと()()をよこせ」

 

 素顔をさらした怪人は顔を上げる。そこには見おろしてくる二色の視線と対になるような双瞳があった。すでに躯と思われた男は声を上げた。まるで命を絞り出すような灼熱の怒声であった。この男が何年もの間、己の肺腑の内に秘め続けた想いの吐露であるかのようであった。

 

「余興だと? 遊びだと! ふざけるなよッ魔剣。そんなことのために……」

 

「何のことだ? ああ、そういえば前の身体も今のこの身体も貴様にとっては……フフッ、心中察し申し上げる。さぞお辛かろう」

 

 完全なる肉の身体を得た魔剣は笑う。魔剣を見上げるその男の瞳には見間違えるはずもないグリーンとブラウンの神秘的な色が浮かんでいる。

 

 カリヨンは蒼白になった顔から、あらゆる情をそぎ落とし、ただ呆然と鞘を抱いて座り込んでいた。もう、一歩も動ける気がしなかった。カリヨンは抜け殻になった鞘の身体を抱いて、あとは何も出来ない。

 

 鞘は生きている、今にも潰えそうなその鼓動を感じながら、カリヨンはなにも出来ない。ただ、鞘の虚ろな口腔から、聞こえてきたいつもの鼻歌が、聞こえてきたような気がしていた。

 

 自分は、気がおかしくなってしまったのだろうか。これは悪夢か何かなのだろうか。それとも――。

 

「さて、どうしよう。まぁ? ()()()()でもなし、ここでその苦しみを終わらせてやるのも慈悲やもしれぬしなぁ……ッ!」

 

 しかし、ここで、魔剣は何かに気付いたかのようにびくりとその挙動を制動させた。そしてその全身に瘧のような蠕動が波打ち、金の四肢に伝播した。

 

「――――貴様! 欠片ヲ何処にやったァッッ?!」

 

「さて――なッ」

 

 次の瞬間、牙を向いた魔剣に、もはや動くことすら叶わぬと思われた男は飛びかかっていた。先に見せていた洗練された動きではなく、もはや瀕死の獣を想わせる泥臭い動きで、ただ、完全に虚を突いた奇襲を仕掛ける。

 

 ――が、それはあまりにも無謀な行為であった。瞬間虚空に舞い狂った金線の刃が乱れ狂い、男の体躯をズタズタに引き裂いた。

 

「――ふん、まあいい、今はキャスターの分だけでも回収しておこうか」

 

 鼻を鳴らした魔剣の刃はカリヨンとサヤのほうへと向き直った。まるで鎌首をもたげる幾多の蛇のようであった。

 

「――あ、――う、」

 

 金の蛇が胴を揺らして薙いだ。サヤを抱いたままでは動けす、カリヨンは吹き飛ばされた。いや、もしもサヤがいなくても、彼にとり得る防衛手段はなかったであろう。

 

 投げ出された鞘の体が瓦礫の間に落ちる。逃げることも出来ないカリヨンはそれでもそれを追って瓦礫の間もぞもぞと這っている。魔剣はその様を被虐の愉悦と共に見据える。そして今度こそ決殺の一撃を見舞わんと数百にまで頭数を増やした金糸の刃を見舞おうとした。――しかし空をも裂くはずだった魔剣の動きが、矢庭に泳ぐかの如き鈍重なものへ滞り、ついには停止した。

 

「――ッ!?」

 

静止もたらす白亜の吐息(ドゥルガー)

 

 何も無かったはずの空間から一枚の白布が閃き、花開く花弁のようにめくれ上がる。すると、そこからモノトーンの影が姿を現した。キャスターだった。その装いは整えられていたが、しかしその存在感はひどく希薄で、その身体が既に消滅しかかっていることは火を見るより明らかだった。

 

 キャスターは無言のまま、手にしていた最後の武装であるはずの白布を一匹のトラのような異形の獣へと変じさせた。異様に大きいな頭の奇怪な騎獣であった。そのことさらに巨大な皿のような眼が、ギョロリと動き、欄と輝いてカリヨンを見据えた。

 

「キャ、キャスター……」

 

 騎獣を前にして見上げてくるカリヨンにキャスターは何も言わず、ただ優しげに笑って、カリヨンを抱きしめた。あの夜のように、そっと、それでも決して放してしまわないように。

 

「サヤが……」

 

「……」

 

 キャスターは何よりも大事そうにその頬をなで、また何も言わずに笑顔を見せる。不意に、カリヨンの意識が現実から遠ざかった。昏睡の魔術だ。

 

「……! キャスターッ……駄目だ……」

 

 気付いたカリヨンは咄嗟に抗おうとしたがすでに時遅く、言葉が徐々に擦れていく。

 

「マスター、どうか―――――」

 

 なんと言っているのかわからない。夢現に聞くキャスターの声は次第に遠ざかって……もう意識が虚ろだった。

 

 呟いたキャスターは、眠りについたカリヨンを乗せた騎獣をセイバーの元に向かわせる。

 

 それに身構えたセイバーだが、騎獣は主にひれ伏すが如くその背を差し出した。キャスターの声が響く。

 

「セイバー、あなたなら駆れるはず。この場は私が何とかしましょう……無粋な頼みですが、マスターのことを頼みます」

 

 交渉の席でのキャスターの言葉を思い出す。セイバーはその忠義の形を是と判じた。

 

「……承知した」

 

 セイバーは凛と共に士郎を騎獣にのせ、内陸に向けて走り去った。どの道それ以外の手段はセイバーにも残されていなかった。

 

 キャスターは満足そうにそれを眺め、しばし空を仰いでいた。 

 

「――――で? これからどうするつもりなのだ? そもそも、貴様……心臓を貫かれてなぜ、生きている?」 

 

 その嘲るような魔剣の声に向き直ったキャスターは、まず、さも呆れたような溜息を返した。

 

「先ほどはどうも」

 

「――ハッ! 何を言っている? 言い掛かりはよしてくれ、刺したのは()()()だろう?」

 

 キャスターの憮然とした声に、魔剣は細い顎先で瓦礫に伏せる鞘を指し示す。

 

 それを見たキャスターは魔剣に背を向けた。しかし行動を縛られた魔剣は動けなかった。

 

 魔剣は臍をかむ。これはキャスターの第二の宝具の効力だった。

 

 右腕のホワイトマジック。『静止もたらす白亜の吐息(ドゥルガー)』その白亜の右腕がもたらす効果である。

 

 キャスターの漆黒の左腕。左腕のブラックマジック『流転もたらす闇夜の吐息(カーリー)』は殺意や敵意、害意などを時間ごと流転させその標的を書き換えてしまうものであったが、この白亜の右腕が操るのもまた負の概念である。

 

 ただし、この右腕は死や怪我、穢れや敵といった総ての負の概念を「流転」ではなく「制止」出来るのであった。

 

 キャスターはゴミのように投げ出されていた鞘の身体を抱き上げ、顔についた泥や煤を丁寧に拭いて、近くの木陰にその遺骸をそっと横たえた。

 

「いいえ、鞘が狙いを外してくれたのです。やったのは貴方でしょう『魔剣』」

 

 背を向けて身を屈めたままのキャスターから不意に鉛のような重みのある声が響いた。

 

「――ッ」

 

 心臓への直撃を外れていたとはいえ、致命の傷を負ったはずのキャスター自身が未だ動き回っていられるのもこの宝具のおかげであったのだ。今もまた生者を傷付けることの可能な凶器そのものを負の概念と見なして金の化生の五体総てを拘束しているのであった。

 

 しかし次に発したキャスターの言葉は一転して軽い声音だった。逆にそれが恐ろしい含みを持って響き渡る。

 

「まったく。――よくもやってくれたものですね。最初から全部貴方のための貴方によるひとり芝居だったとは……英霊一同を代表して言わせていただきますが、はた迷惑以外の何物でもないですよ」

 

 怒りに満ちていた魔剣の気配がやおら一転して嘲るような笑いに変わる。

 

「ぬかせ、キャスター。そうとも、総てこの私が仕組んだことだ。最初から、総て、私のための即興芸術だ。面白かっただろう、魔女よ。それが解かっているなら無駄に抵抗などせず、おとなしく我が滋養となるがいい。貴様にできることなど、もう幾らも有りはしないのだからな」

 

「……確かに、そうかもしれませんね」

 

 殺気を纏った魔剣に対してキャスターは身構えようとした。しかし、その脚はふらついて定まらない。宝具での制止もままならず、魔剣は再び自由を取り戻しかけている。キャスターの第二の宝具、悪の概念を静止させる白き右腕『ドゥルガー』によってその挙動を丸ごと封じられていた魔剣だが、それも長くは続かないのは解っていたことだ。

 

 この宝具の欠点はそれだけでは敵を倒すことは出来ず、そして使用すればするほど魔力を消費し続けるということにある。

 

 そうでなくとも、今のキャスターには時間など残ってはいない。このままただ待つだけでも、キャスターがこの宝具を維持できなくなったらそれで終わりだ。

 

「……無駄だ。やめておけ、いくら心臓を外していても、もう現界することもままなるまい。大人しく消えるがいい。それともキャスター。おまえが消える前に何か余興でも用意してあるのかな?」

 

 嘲るような声が続く。キャスターは口腔から血の筋を垂らして空を仰いだ。魔剣の予測は概ね正しい。キャスターというサーヴァントがここから魔剣に勝利する可能性は絶無といっていい。

 

 しかし。――だがしかし。まだ、この身体に残っているものがある。出し切っていない蟠りがある。伝え切れていない思いがあるのだ。このまま消え去るわけにはいかない。せめて、母として、人として己が望んだ誓いだけは果たさねばならなかった。

 

 だからこそ、この場は譲れない!

 

 〝鞘が、私のように、いつまでも自分を責め続けなくて良いように〟そのために、たとえ、いかなる禁忌の手段に訴えてでも――

 

「では……こんな余興はどうです?」

 

 キャスターは憂いるような笑いを浮かべ、何かを取り出した。それは奇異な仮面だった。それも決して煌びやかなものではない、醜い魔物の顔を写し取ったかのような、おどろおどろしく奇怪で恐ろしい形相の仮面だった。

 

 いかにも魔術師が持っている品らしいとは思えたが、しかしそれがなんだというのだろうか。あれがキャスターの三つ目の宝具だというなら話もわかるが、あの面には殆ど魔力など通ってはいない。とてもこの場で示すべき切り札だとは思えない。

 

 訝る魔剣の前で、キャスターはその仮面を顔の前にかざす。

 

「『奇皇大舞面(ランダ・トペン・ランダ)』。――しばし、付き合ってもらいましょうか、魔剣」

 

 するとその仮面の向こう側でモノトーンの両腕を除く全身の白と黒とが突如として反転した。ねじれゆがみ始めた身体の、逆巻く髪の、そして肥大化する眼球の白と黒とが反転したのだ。その仮面の向こうで、その女の存在が、まったくの別種のものに変わっていく。

 

 しなやかだった身体のラインはごわつき、歪に溶け崩れ始めている。そのモノトーンの身体の配色が反転した。黒の瞳は白く、白かった眼球は逆に黒く。艶やかだった黒髪は逆巻くような白髪となり、ささくれ立つような身体は爆発したかの如く膨れ上がり始めた。

 

「――薄闇の仮面劇(バロン・ダンス)にね」

 

 そう。たとえ人としての根幹を失ってでも、この誓いは破れない。たとえ、人としての総てを失ったとしても――――。

 

 

 

 白亜の獣の背に揺られながら、薄れ行く意識の中でカリヨンは思いつづけていた。

 

 同じだ。あの時と同じだ。僕は何も変わってなんかいなかった。

 

「ぼ……くは、……僕……は……ずっと、いいたかった……ことが……あるんだ……いわなくちゃって……ずっと、思って……」

 

 どうやって、どうやって謝ったらテフェリーが笑ってくるかなって、どうしたら許してくれるかなって……ずっと考えて、――…………

 

 誰が聴いているはずもない声が、ただ己の中でのみ、致命的な響きを持って木霊していく。それは間違うことなき、死にいたる病のしらべであった。

 

 ただ、恐ろしかった。よみがえった恐怖が彼の体中を支配していた。どうしようもなく苦しかった。泣くことも出来ずに、枯れた喉で声にならない悲鳴を呟き続けていた。

 

 ただひとつ、鞘の残した、鼻歌のリズムだけが耳に残っていた。カリヨンは聞きなれたその音色にすがろうとしたが、それすらもが次第に薄れていった。次第に世界の総てにエコーが掛かり、少年の耳には幾重にも雑音が反響するだけとなった。

 

 そのうちに全ての音が意味を失い。いつしか消え入るような掠れた残り音(サイレント・ノイズ)だけがいつまでも頭の中で残響を繰り返していた。そして闇の胞衣(えな)に包まれた少年の意識はついにはとぎれ、意味を成さぬ破片となって崩れ去っっていった。

 

 



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六章 無音残響「サイレント・ノイズ」-1

 

 

 ――あれは、何時のことだっただろうか。今ではもう、良くは思い出せない。

 

 人間は何のために生きるのだろうか。と、問う私に、彼女は応えた。それは幸せに足るために決まっていると。

 

 そして今は幸せかと問い返してくる彼女に私は明確な返事を返すことができなかった。それを、生涯に渡って悔やみ続けることになろうとは、そのときの私にはそうぞうもつかなかった。――

 

 

 

 私の名はセルゲイ。西暦19XX年、英国はロンドンから遠く離れた片田舎の古い家柄に生まれた。生家は人が寄り付かないような、深い山奥にひっそりと佇んでいた。

 

 私はそこで十五になるまでの間、その屋敷の領土内から一歩も外に出ることなく育った。現代の一般常識から考えればありえないことであろうと思われたが、この場合はそれが当然のこととしてまかり通っていた。

 

 そこは「常識」が通用する場所ではなかったのだ。

 

 私の父はただの一、英国人ではなかった。――父は、所謂、「魔術師」という輩であった。

 

 ここでいう魔術師とは即ち「力あるもの」である。奇術師やショー・マジシャンの類ではない。一般の唯人とは一線を画す神秘に近き者、そして奇跡を担う者である。「魔術」なる字面から察することは難くないかとは思うが、説明するまでもなく、それはこの世にあまねく魔の担い手でもある。

 

 当然、社会一般に貢献する事を旨とした善なる者ではない。むしろ人目を極力避け、その身の正体の秘匿に細心の注意を払って生涯を送る陰翳の住人なのだ。無論のこと、実際の人間社会とは隔絶されてしかるべく外法の徒である。畢竟、私もそれに順ずるものとしての生活を営んでいたのだった。

 

 父は件の魔術師としてひどく優秀な部類の男ではあったが、同時に型破りの破天荒な性根にてその名を知られていたという。

 

 かく言うも、これは個人的な感想ではない。周囲の者達が語るところの父の諸評を取り纏めて察するにそういう人となりなのだろうとあたりをつけていた次第であった。何故間違うことなき嫡男であるはずの私が斯様に頼りなさげな認識しか抱けなかったのかといえば、そのときの私の心を極めて正鵠に顧み、憚りなく告白するというのならば、そのころの私は父に対していかなる感情も抱いてはいなかった。いや、抱くことができる環境になかったというべきであろうか。

 

 つまるところ、私は幾許かの感情すらも抱けるほど父と接したことがなかったのだ。

 

 己の追い求める真理に近づくためならば、あらゆる代償も厭わず、万象を秤にかけることさえ是として然るべき道を邁進(まいしん)すること。それが即ち優秀な魔術師としての第一の条件である。

 

 その意で語るならば。父は生粋の魔術師であったといえるだろう。事実として父はとうの昔から己の総てを秤にかけて生きていた。己が身命は言うに及ばず、金銭、時間、人脈、倫理・道徳心、そして――家族。

 

 私の生家は片田舎の辺鄙な場所にあった。そこは広大な古い森と豊富な鉱石を含む霊峰の頂で、屋敷はその一帯のレイラインの集束、つまりは地脈の頭である霊穴を押さえるようにして建っていた。

 

 屋敷というよりは城といったほうがよかったかも知れない。それは山裾までを範囲とした広大な砦とでもいうようなもので、無論のこと近づいてくる人間などあろうはずもない。それどころか常に噴出する圧倒的な魔力の奔流に本能的な畏敬の念を抱いてか、野生の動物ですらそこには寄り付かなかった。

 

 その領土の管理はもっぱら徒弟たちの役目であり、当主である筈の父は一年の内殆どを屋敷とは別の場所で過ごしていた。父はその人生の大半を東アジア諸国でのフィールドワークに費やしていたのだという。若年のころから西洋魔術師の総本山、通称「時計塔」にそれなりの席を持ちながら、それでもなお貪欲に東洋の思想魔術についての興味を示していた父は単身でその現場に乗り込んでの「実地」の研究を続けていたのだ。

 

 父が良くも悪くも「異端児」と呼ばれて久しかったというのも、そのような経緯からだと想像するのは難くなかった。

 

 稀に英国に戻ることがあっても、父はその間、殆ど屋敷ではなくロンドンの研究室に詰めていた。研究のことしか頭にない、というのも魔術師の常道に当てはめるならばさほど杞憂とも呼べないことであったのかもしれないが。

 

 それが故に当時の私もそれが当然のことなのだとして日々を過ごしていた。そこに露程の疑問も抱きはしなかった。

 

 極稀に屋敷に顔を出すようなとき、それも一年のうちに片手で足りるほどの機会でしかなかったが、父は決まって私の修練具合だけを確認し、一言二言、ボソリボソリと言葉を残して――それきりだった。それすらも、私はそういうものなのだろうと率直に受け止めていたのだ。

 

 しかし、その私が、何時のころからであっただろうか、その当然の諸々に明らかなる懐疑を抱き始めたのは。今もなお、思うことがある。このような一抹の懐疑など一時の迷いと、杞憂と切り捨て、忘却していれば、そうしていれば私も父のように何の迷いもなく定められた道を歩んでいけたのかも知れないと。

 

 しかしそれも今となっては詮無いことには違いない。事実として、その思いは硬いしこりのようなものとなって、そのころの私の心の片隅に、容易には動かしがたきものとして蔓延っていたのだから。

 

 そのような小意地な性根の在り方において、方向性こそ違えどもやはり私は父の子であったといえるのかもしれない。私もまたまっとうな魔術師としては「異端」である素養、および気質を備え持って生まれていたのだ。

 

 その頃、父はすでに老齢に差し掛かっていたが、その精力が衰える様子は一向になく、やはり生家に戻ることはほとんどなかった。逆に、十六になった私は明らかに焦れ始めていた。何の変化も得られぬ日々に私は歯噛みする思いだったのだ。

 

 私の内部に芽生え始めていた懐疑は、次第にその容積を増し、私の心の殆どを席巻してしまいそうになっていた。

 

 当時、屋敷に席を置いていた徒弟や書生たちはそのような私の心に気付くことはなかった。というよりも、たとえ筆を取り、または口頭でそれを伝えようとしたとしても、それを正確に解するものがあったとは思えない。

 

 それが魔術師というものの思考だ。異端なのは自分のほうなのだと、改めて再確認されられながら、同時にこの胸の内をどうすればよいかという懊悩がこの心身を苛み続ける日々が続いた。

 

 魔道というものに、魔術師という生き方について、疑いを抱き始めた私の心は次第に、何処かの、魔道とは別の精力の路に向けて、その押し止めがたい欲求の捌け口を求めるようになっていた。その思いはいつしか結実し形を成し始め、私は次第に魔道とは無縁の外の世界での生き方というものへ想いの翼を馳せることで、鉛のようだった心身の慰みを求めるようにさえなっていたのだ。

 

 私にとって絶対的上位者であった父は年中屋敷を空けていたことは前にも述べた。それゆえに、私の教育係だった徒弟は日々の魔道の修練さえ滞りなく済ませれば、後の時間をひとりで過ごしたいといった私の言葉に案外素直に頷いた。

 

 それまでの私はただの一度たりとも我儘を言ったり、無理に我意を通そうとなどしたことはなかったので、他の徒弟たちも少々訝しげな表情を浮かべつつも皆特に言及することもなく、私の意を阻もうとはしなかった。

 

 彼らにしてみれば、外の世界から極力隔絶されて育てられた私が自ずから外界に興味を持ち、何らかの行動を起こすなどとは考えもしなかったのだろう。それが、そのときの私には都合よく働いた。

 

 私は己の想いの実現を強く意識し始めていた。それまでに感じたことのない熱が私の内部に宿ったような気になり、妙に浮されたようなそのときの心持ちを心地いいとさえ感じていた。

 

 とはいえ、いきなり外に出ることは出来ない。私はその一人の時間を使って本を読み漁った。それまでは魔道に必要とされる知識意外は極力遠ざけられていたのだが、屋敷には魔術師の常として凡百な図書館などよりも遥かに大量の蔵書があった。

 

 どれもひどく古びたものだったので、それがそのまま現代の生活に結びつくわけではないのだが、それでも生まれてからというもの必要のない知識を得ることもなく、生家の領土内から出たこともない、ただ教えられたことを飲み込むだけだった私にとってそれは新鮮であると共に芳醇な体験となった。 

 

 浮されたような熱気は生まれて始めての充実感となって私の肺腑の内壁を鮮烈に焼き焦がしていた。人は己の思い立つところを起点として事に当たるとき、初めて己のためだけの実感を勝ち取るものなのだと私は学んだのだ。

 

 己の意欲、我意、志。それらに端を発することのない行為、つまりは他者の言や命によって成される行為は必ずしも充足感を約束するものではなく、また、たとえそれがもたらされたのだとしても、それは己のためのものではなく、他者への奉仕による充足でしかない。ひいては、その行いは己に何の成果も残すことのない、無為な行いに過ぎないのである。

 

 そして、私の心は父に対する奉仕では、家門に対する奉仕では生涯満たされることはないものなのだと思い至った。

 

 私は己が性根を恨むべきだったのだろか? なんという悪辣で傲慢な性に生まれついたのかと、己を糾すべきだったのだろうか? しかし、当時の私の心にはそんなことを想うべき余白はまったく残ってはいなかったのだ。

 

 私の心は鮮烈なまでの熱意と、そして己の内から湧き起こってくる歓喜にかどわかされてかされていたのかも知れない。己が意を得たといわんばかりに、乱れ狂う羅針盤の針の行方はもはや己の意志で定めることが出来ないほどに猛々しく戦慄いていたのだ。

 

 

 

 それから一年ほどの間、書物に埋もれるようにして生活した。

 

 そしてしかるべき準備の後、私はある事件を起こした。生家から出奔しようとしたのだ。無論。それは失敗に終わった。しかし熱に浮かされた私はその後も幾度となく脱走を企て、そしてその総てに失敗した。

 

 その後、もはや己らの手に負えぬと判じたのだろう。徒弟たちは自らの管理責任を糾さされることも承知の上で父に連絡を取ったのだ。それを鋭敏に察した私は数日の後、再度これを最後にすべく事を起こす決意をした。

 

 その時の私はそれまでの度重なる脱走劇に業を煮やした徒弟たちによって別塔に隔離されていたのだが、長年の修練で培った魔道の技能と近年の探求欲によって取り入れた知識とが交じり合ってあたかも円熟に結実し、それまでの私には到底辿り着けなかった位置まで私を押し上げていたのだ。私の中で開花した総ての感覚と幸運が私を自らが望む方へと誘ったのだ。

 

 そしてあの日、艶妙に明るすぎる満月が涼やかな光彩を放つ、静かな夜。ついに私は生家を抜け出すことに成功した。

 

 後は広大な領土内を駆け抜け、未踏の外の世界へ足を踏み出すだけだった。例えようもない高揚と歓喜がわたしを包んでいた。達成感。震えるような魂を抑えきれず駆け出そうとした――そのときであった。

 

 虚ろな影が不意に私の視界をよぎった。そこにあったのは、それはここに到着するまであと数日は掛かるだろうと踏んでいた父の姿だったのだ。一拍の、えもいわれぬ空白の後、苦い絶望が私の体の内部に湧き起こってきた。

 

 己の見通しの甘さに私は思わず唇を噛みしめた。対峙はその実数秒だったのか数分だったのか、それすら定かではなかったが、私には夜を明かしたかのような長大なものに感じられた。その間、父は無言だった。その色眼鏡の奥の顔に浮かんでいるのがどのような感情なのかさえ窺い知ることは出来なかった。

 

 私はありったけの声を張り上げた。しかし口から零れたのはか細く、今にも掻き消えそうな声だったことだろう。それでも全身全霊で己の胸の内を始めて父に打ち明けた。己の総てをさらけ出してこの人と向かい合うこの瞬間を、実は己が何年も前から待ち望んでいたのだということに、そのとき始めて気がついた。

 

 十数年分の期待と不安が押し寄せ、私の身体はまるで瘧に見舞われたかのように振るえあがった。

 

 私は総てを吐き出した。しかし、応えたのは無言。無声。沈黙。――そしてしばらくして、ボソリと、また一言、呟くように言った。「屋敷に戻れ」という無味乾燥な言葉。それだけだった。

 

 私は蒼白になって、そして焼けた鉄のように赤面して、そして震えるような声と戦慄く全身全霊とでそれを否定した。

 

 どうすればこの心が父に通じるのだろうかと必死だった。そのときの私は神の前に総てを投げ出して何かを訴えようとする殉教者か、はたまた慣れない駄々をこねあぐねいている不器用な幼子のようであっただろう。

 

 そうしてでも私はどうしようもなく父との繋がりを求めずにはいられなかった。それが実際にこの世に在る物で、確かに触れられる、それまで隠されてきたが故に見つけられなかっただけの物なのだろうと、私は信じたかったのだ。しかし、

 

「ならば、もう用はない。――ここで()ねい」

 

 吐き捨てるような声と共に、閃光が奔った。まるで旋風に誘われた雨のようにそれは紗の線を描いて降り、いくつもの穴が穿たれた。貫かれたのは私の身体だ。私はありったけの声で、先とは比べ物にならないほどの声で、悲鳴とも雄叫びとも取れないうめき声を上げてのたうち回った。

 

 恐怖が私を支配していた。絶望が簡素な死を見舞おうとしていた。そして、どうして信じたのか、いや、どうして信じようなどと思ってしまったのかという悔恨が、私の心身を憤怒の火で満たそうとした。

 

 私は咄嗟に反撃に打って出ていた。反吐と、涙と、嗚咽と、どす黒い血を撒き散らしながら、生まれて始めての殺し合いに身を投じた。

 

 それまでの私は魔術師というものを知識としてしか知らなかったのだ。知識の上でそれが外法の徒なのだと知ってそれで十全なのだと思い違えていた。現実はそうではなかったのだ。知識とは実感を伴って初めて正確な形を得るものなのだ。ゆえに私は魔術師と言うものが一般の道理から外れし、まさしく人ならざる外道なのだとこのとき初めて実感を伴う理として解したのだった。

 

 刻一刻と、私の身体には穴が増えていく。あえて殺さぬように、それこそ針の穴を縫うような手際で、苦痛は累積されていく。私の思考はすでに焼き切れていて、人らしい理性の光は失われ、そこには一匹の獣となって父の、いや、眼前の怨敵の喉笛を食いちぎることしか頭にない愚者の姿しかいなかった。

 

 そこには人が居なかった。いたのは人ならざる外道と死に掛けの襤褸布のような獣、唯それだけであった。

 

 無論のこと、未だ修行を終えてすらいない未熟者がその道の泰斗を相手にして善戦できるはずもなく、私はなすすべもなく殺された。

 

 腕を殺され、足を殺され、顔を殺された。正しくは、丁重に、死なぬように、ギリギリ壊れぬように、丁寧に生と死のちょうど狭間の状態に置かれたのだ。およそ人体が、絶命だけを免れることが出来る。生と死とのちょうど中間の私。それを神のような呼吸で、タイミングで、一寸の淀みもなく父は創り上げたのだった。

 

 そして、私はそのまま「回収」された。

 

 それから一年あまりの間、私は薄暗い地下の牢獄で死んでいるのかどうかも定かではない状態で「保管」されていた。常人ならば死んでいただろう。魔術師として生まれ持った強靭な生命力が、私を生かし続けていたのだった。加えて、それすらもが父の目算どおりなのだという事実が強烈な憤怒となって私の生を後押ししていた。その一念で、絶望的とさえ思われた私の身体は再び活力を取り戻し始めていた。

 

 その間、他に考えていたことといえば、それは己の思慮の甘さについてであった。長い時間を、己を戒め自省することに費やした。

 

 はたして、私の生まれ持った性が、前記のようなものでなかったとしたら、或いは私の胸に生じた思いが一過性のものであったなら、私はここで父が望むような生き方を選ぶという道も在ったのかもしれない。それまでの行いを改め、己を一個の生ける機械人形と成して、「正しい」魔術師になることも出来たのかもしれない。

 

 父は身をもって己等の歩む道の険しさを教えようとしたのだろう。魔術師という生き方を正確に知りえた今ならば、その父の思いを正しく察することも難くはない。しかし、そのときの私にはそのような父の行為の裏の意味を推し量る思慮はなかった。そう、総ての自省は再度の逃亡のため! 私は変わらず、それどころか以前にも増して外界への欲求を強めていたのだった。

 

 唐突ではあるが、ここで母について語ろう。私が幼少の折、すでに老齢に差し掛かっていた父に対して、母はひどく若い女に見えた。元は外の世界の人間で、にもかかわらず例外的に高い魔の素養を宿して生まれついたが故に、幼いころから父に見初められ、後継者――つまりは私のことである――を生むためだけにこの屋敷につれてこられ、私を生んだ後はずっと屋敷の外れに建てられた離塔に住まわされていた。

 

 私のように外の世界に執着するでもなく、暗い塔の中でなにをしているのかも定かではない母は父以上に縁遠い存在だった。対面したのは数えるほどで、そのときも挨拶意外の会話はほとんどなく、たいした話もせずそれきりだった。

 

 おそらくは幼少のころよりその肉としての機能のみを求められて魔術師の下にさらわれてきた少女はまるで棚の隅に飾られたアンティーク人形のように扱われ、育てられ、本当に人形として生きてきたのだろう。何の不自由もないがそのかわり何の権利もなく自由もなく、使命もない。それが、私の母だった。

 

 私はそのときまでそのことについて何ら考えたことはなかった。そこで対面して初めて、私は今の己が真に心通わせるべきはこの方なのだと知ったのだ。

 

 私を逃がしたのは母だった。

 

 暗い地中の奥深くで、徐々に再生した身体を慣らし、体力を取り戻した私が如何にして逃亡するかを思案し続けていたころ。ふいに、暗鬱とした黴のにおいだけが幾重にも堆積するだけのはずのこの地下深くの牢獄に、花の香りがさざめいたのだ。

 

 暗闇の中で眼を凝らして、初めてそれが人なのだと知った。久しく顔を見ていなかったその女を母なのだと認識できるまで、月がわずかに翳るだけの時を要した。

 

 何も問うことができず、呆然と立つ私を前に、母は牢の鍵を開けた。呆気の取られる私を前に母は語り始めた。母の声は記憶していたものよりもどこか幼く聞こえ、しかしどこか懐かしかった。

 

 そのときの言葉だ。

 

「一緒には行ってあげられない。私は外で生きていくことができません。なにより、私はここに入る事を納得してここに来ました。だから勝手にどこかに行こうとは思いません。外は貴方が考えているほどすばらしいものではないかも知れません。でも、それでも、あなたは、あなたには、ここから解き放たれる意味がある。私はそう信じます」

 

 ――と。母とは、それきりだ。その後どうなったのかは定かでない。殺されたのか、生かされたのか、或いは自刃したのかも知れない。私はそのとき、母に対してどのような感情を持つべきなのかわからなかった。

 

 

 

 

 外に出た私は殆ど思案らしい思案もすることなく、すぐに出来る限り遠方へ逃げ延びた。

 

 長い放浪の日々の始まりだった。

 

 それからの生活で、私はそれまでの自分が常理の外を歩む者なのだと言われるままに解したつもりなって生きてきたが、何のことはない、それもまた実を伴わぬただの知識でしかなかったのだ。と、改めて実感させたれた日々だった。

 

 確かにそこには多種多様な人間たちのそれぞれに生きる術と生き様があった。それでも私が求めるものは決してそこにはなかった。外の世界での生活は思ったほどのこともなく、ひどく緩慢で無為だと感じられた。

 

 それまで未知だった世界に一人まろび出てみれば、それまでの易い目論見などは泡沫のようにして消えるのが常なのだとよく学んだ。

 

 魔術師の嫡男としてこの世に生を受けた筈の自分が、いざ外の世界に出てみれば、他の人間と大して相違ないただの人間でしかなかったという事実に行きあたったのだ。

 

 私が求めていたのは、新たに己でつかみ取るに足る、己のためだけの生き方であった。

 

 人が生きる理由とは、生きていくための手段とは明確に分けられるべきものだ。それがこの世を生きる人間の大半にとっていかに混同され、分け隔てられざるものであるかを、私は考えていた。

 

 その違いを意識している人間がこの世界にどれほどいるのだろうか? 確かに私には魔術が使えた。しかし、だからなんだというのだろうか? この心を雪ぐことすらおぼつかない秘儀などに何の価値があるのだろうか。

 

 私はかつて渇望したはずの世界に在りながら、次第に懊悩に苛まれるようになっていった。

 

 それから数年間、私は求めるべきものを探しあぐねて怠惰な日々を過ごしていた。月日は滔々と流れ落ちるかのように過ぎていった。その間、その場限りの快楽だけが生きる目的だった。酒、女、そのための金銭、それを手に入れるための暴力。

 

 これぞ父とは、魔術師とは対極の行き方だ――などと嘯いて生を謳歌しているふりをしてはみたが、その実、腹の底では解かっていたのだ。それは別段(いぬ)に生まれ付いても何ら支障のない生き方に過ぎないのだと。

 

 斯様な生には意味などない。と私は考え続けていた。長年の孤独は私の心にどのような場合でも常に考えを巡らせることのできる強靭な思考能力を与えていた。しかしそれが逆に私の首を絞め続けていたのも、また事実であった。

 

 私は思考する。狗に生まれ付いたものが狗として生きていくのは事象の道理なのだとしても、人として生まれついたものが狗のように生きていくのは道理から外れたことなのだ。狗ならば斯様な思い煩いに捕らわれることもないのであろうが、それを知り、思考するのもまた人として生まれついたが故の性なのだとしたら! 

 

 私はこの上ないほどに憤った。しかし同時にこうも考えられた。人とは並べて甚だ不完全な存在であり、人が人として生きるということは狗が狗として生きてゆくことほど安易ではなく、そこには極めて多くの労力が求められる。

 

 人が人たらんとするところの理合を知りえるには、各々の生涯の大半をそれにつぎ込まなければならない。故に「外」に生きる大方の人間たちは己が人として生きているかの合否を問い耽る事を早々に止め、その分の労を、より裕福に生きるための金銭を稼ぐこと、ひいては所謂目先の欲求や、家族や氏族の生活のためにつぎ込んでいるのである。

 

 それは識者たる人と成る事を放棄し、人という動物として生きるということに相違ない。加えてそれらは、それの是非に対する思考も放棄しているように見受けられた。人もまた動物であるからして、思い向くまま情動の導かれるままに生きてなにがいけないのかと、誰よりも働き、金銭を稼ぎ、それによって快楽を貪ることのなにがいけないのか、いや、そんなわけがない。――斯様に考えて結論とした後はもうそれについて考えることもないのである。

 

 私は心の内でそのような生き方を謳歌する外界の人間を俗物と蔑んでひどく忌避していたが、結局のところはそれすらもままならない己はいかなる者なのかと、己を追い詰めるだけのことであった。

 

 それどころか、内心ではそのような輝かしい惰性を送れるならばそれも悪くないと考え、その真似事をしようとしてさえみた。しかし、私にはどうしても考えを停止するということがうまく出来なかった。思案を放棄し、思考を停止することが出来なかった。そして、私は次第に何の身動きも出来ぬようになっていった。――

 

 

 そんな生活を送ってまた何年か経ったときのことである。わたしの前に妙な女が現れた。

 

 当時の私は大西洋の島々を点々としながら生活をしており、そのときはたしかバハマに住んで幾年かを虚ろに過ごした頃だったと記憶している。

 

 定かではない。なぜなら私の擦り切れた記憶において、そこより以前の出来事は鮮明に焼きついたそれ以後の記憶とは明確に分け隔てられてしかるべき、酷く曖昧なものでしかなかったからだ。

 

 そのころ私が生業としていたのは所謂運び屋(トランスポーター)というやつであった。

 

 それはつまるところ、小船一隻を駆って海洋上のボディーガードや道先案内や運び屋やドライバーなど、つまりは何でもやるというものだった。

 

 それもフリーで個人経営。しかも受ける相手を選ばないという経営方針だったために、わざわざやってくるような客はそれなりに問題を抱えているような輩ばかりだった。

 

 そのせいか、いつの間にか私はその界隈ではそれなりに重宝されている存在になっていた。

 

 それでも私の心が慰撫されるようなことはなく、依然として緩慢な苛立ちが留まらぬ思考を駆って私を苛み、その虚の径を広げ続けるばかりの日々であった。

 

 斯様な生活の中で、わたしの行為が私以外の誰かにとって意味をもたらしたことも確かにあっただろう。しかし、それではだめなのだ。私の性が私にとっての意味にならなくてはならない。それが己の生きる意味なのだ。それが、それだけが真に人が生きる理由であり目的なのではないのか?

 

 懐疑は、深まる一方だった。

 

 そのような折に、私の元にある依頼が届いたのだった。ある海域まで船で荷を運んで欲しいという依頼だ。運び屋としての私の元にわざわざ名指しで来るくらいだから、どうせ厄介な依頼なのだろうと思っていたが、現れた依頼主は意外な事を言い出したのだ。

 

 なんと私のようなアンダーグラウンドの住人を相手取っている運び屋に観光のガイドをしてくれなどというのだ。そんな輩は、それまで皆無だった。

 

 依頼人は一人の女だった。言うまでもなく妙な女だった。それが私の仕事上において、いや、私の生涯において常に唯一無二の例外であり続けた女との邂逅であった。

 

 それにしても、なんともその場にそぐわぬ女だった。まず、若すぎる。当時の私と比べても幾分年下と見受けられたから、こんな場所に来るには当然若すぎるのだ。

 

 その界隈に若い女がいないわけではなかったが、そんな擦れ切ったわけありの情婦たちとは明らかに違う空気の女だった。まるで童女のように黒い眼を煌めかせるその女は明らかによそ者だと思われた。少なくとも私には見知らぬ人種だと思われた。

 

 訊きもしないのに語り聞かされた依頼内容がまた異例のものだった。さすがの私も容易には快諾しかねて唖然とその話に聞き入った。

 

 女は「ある海域」に自分を連れて行って欲しいといった。その海域とはマイアミとプエルトリコ、そしてバミューダ諸島を結ぶトライアングル形の海域の中心。通称「魔の海域」と呼ばれる場所だった。

 

 いうまでもなく船や飛行機の消失事件で知られる海域だ。十九世紀からこの海域で消息を絶った船や飛行機は五十を越えるといわれる。この怪現象がはるか古から続いていたとするならば、消えた船の数はいったい幾百に及ぶというのか。

 

 この怪事を怪事たらしめているのが、それらのほとんどが墜落や沈没ではなく完全に「消失」してしまっている点だ。それらの船はsos信号を発することもなく、しかも何の痕跡も残さず、文字通り、「消えて」しまうのだ。

 

「何のためにそんなところに行きたがる?」

 

 女が片言の英語で息もつかずまくし立てるところを聞き終えてから、私は一拍置いて質問した。

 

「宝探しよ。私、冒険家兼トレジャーハンターやってるの」

 

「……日本人か?」

 

 私は女に日本語で喋りかけてみた。父は私に東方世界の知識を教え込ませていたので、私は東アジア諸国の言語は一通り喋ることが出来たのだ。それでも実際にそこへ言ったことがあるわけではなかったので人種の見分けがつく訳ではなかったのだが、女の長い黒髪の艶めかしさから、率直にそう感じたのだ。

 

「あ、解かる? そうよ。ってゆーか日本語できるんだ?」

 

 女は母国語か通じるとわかるとパッと表情を咲かせて言葉を切り替えた。

 

「多少はな」

 

「イヤー、よかった~~。この辺私の英語じゃなかなか通じにくくてさ。あ~~、日本語久しぶり~~。やっぱ言葉は大事だよ。口に馴染んだものが一番だよ。私お米は我慢できても言葉は我慢できない口でさ~~。あ、口つっても、この口のことじゃなくてね? 解かる? つーか日本語うまくない? 行ったことあんの日本? でも、ここだけの話、いうほど見るとこないよね? やっぱ京都とか? あれも二度目三度目は飽きるんだよ、これが。やっぱ私は沖縄とか北海道とかのほうが好きなんだ~~。あ、そうだ。これこっちに来て思ったんだけどさ――…………」

 

 これが間違いだった。聞き取りにくい片言で話されるよりも女の母国語のほうがまだ話が通じるかと思ったのだが、言葉を話し慣れたものにきりかえた途端、舌の回転の方もいよいよ語勢を増し始めてしまった。どうやら暫くは止まりそうもない。

 

 実を言うと、私は日本人や中国人という人種にはあまり関わりたくなかった。父は東アジアのなかでも特にこのふたつの国、というよりはその文化から発生した魔術、呪術の類を研究していたようだったからだ。

 

「……そういうわけでさ、明日にでも連れてって欲しいんだけど」

 

 何が「そういうわけ」なのかわからなかった。というより、いつ話が世間話から仕事内容のほうに移ったのかが皆目検討もつかない。

 

 しかし察するに、どうやら彼女はすでに契約が成立したと思い込んでいるらしい。残念だがそうは行かない。事は安易に承諾できるようなものではなかったのだ。

 

「あの海域は船が沈んでいるんじゃあない。船が消えてるんだ。探しても何も出てはこないぞ」

 

「それならむしろ好都合よ。もしもそんな怪奇現象が起こってるなら、なおのこと見過ごせないわ」

 

「……冗談だ。船が沈むのはメタンハイドレードのせいだ」

 

 魔の海域の消息不明事件は多くの研究者がその謎を解明しようとしているが未だ解明には至っていない。が、近年有力とされる説があった。それがメタンハイドレードだ。

 

 海底には、メタンと水の分子が結合したメタンハイドレードという固形物質がある。そこに暖流が通過した場合、その固形物質は融解し発生したメタンガスが海中にうねりを作り出して船を沈め、海面上の空に昇ってエンジンに引火、飛行機を墜落させるのではないかという説だ。

 

 もっとも、このような状況が起きる条件の海域は「魔の海域」意外にも存在するため、なぜこの場所でのみ消失現象が頻発しているのかの説明にはならないのだが。

 

「じゃあ、船は沈んでるんだよね。そんなら宝探しよ」

 

「……どっちなんだ」

 

「こっちの台詞よ。どっちにしろ嫌みたいじゃない」

 

 彼女は口をへの字に曲げて私のサングラス越しに強い眼光を送ってくる。ふいに、私はそこに言いようのない光彩を感じて殊更にサングラスの遮光性を意識した。

 

 なぜかは解からない。そんなことがあるはすもないのに、大粒の瞳からあふれる光が私の眼を焼いてしまうかもしれないと思ったのだ。光の加減のせいだろうか、彼女の瞳には不可解なほどの光があふれていた。

 

「察しがよくて助かる」

 

 不可思議な感慨はともかく流し、嘲るような調子で取り合う。こういう場合は相手を憤らせたほうが契約を破談させやすい。

 

 あまりありがたくない客にさっさとお帰りいただくにはこちらではなく向こうから帰ると言い出させるのが一番だ。

 

 しかし、ここで女は少女のような口端から八重歯を覗かせながら意地悪く微笑んだ。まるでこっちの意図を総て見透かしているとでも言わんばかりに。

 

「察しはともかく、私、諦めはよくないのよ」

 

「……別にウチにこだわる理由はないだろう」

 

 私が渋る理由は勿論面倒そうな依頼と依頼人にあったが、しかし決してそれだけではなかった。

 

 その目的の場所には厄介な連中がいる事を知っていたからだ。一般人が不用意にちょっかいを出してはいけない類の連中だ。

 

「いいわよ。つれてってくれないなら、一人でも行くわ」

 

「だから、やめろといっているだろう。あの海域には――」

 

 言い指した私の言葉に高い声が先んじた。

 

「知ってるわよ」

 

「――」

 

 もしや、本当に知っているのだろうか、この女? 知った上でなおかつここに来たとでもいうのか?

 

「なんか、海賊みたいなのがいるんでしょ? マフィアとかなんかそんなん」

 

「……やつらはただのマフィアじゃあない」

 

 と、そこでつい口走った私の語尾を捕まえたかのように、女はひどく狡猾そうな笑みを洩らしたのだ。

 

「詳しいんだ?」

 

「……」

 

「なんてね。悪いんだけど、全部知ってるの。貴方がそっち方面に詳しい人だってこと」

 

「……つまり、最初から魔術師相手の交渉人(ネゴシエイター)が欲しかったということか?」

 

「そゆこと♪ 「察しがよくて」助かるわ」

 

「……」

 

 

 



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六章 無音残響「サイレント・ノイズ」-2

 その後も暫くの間は押し問答だった。数日間の内に、十数回に及んだ交渉の末、結局折れたのは私のほうだった。

 

 何度「命を落とすことになりかねない」と諭そうとしても彼女は聞き分けなかった。その口の達者さからはとても交渉人が欲しいなどとは思われなかった。私などよりもよっぽど弁が立つ。

 

 さて実のところ、私がもっとも困惑していたのは彼女の目的についてだった。何故如何については後述するが、海底には沈没船などなく無論のこと探し出すべき宝もありはしないのだ。

 

 つまり、たとえ依頼を受けたのだとしてもあの海域からは何の成果を見出すことができないのは明らかなのだ。結構な労を費やしてそれを説いたつもりだったが、結局はそれも徒労に終わった。

 

 彼女は頑なだった。日本人とはこれほどに小意地な人種だったのだろうかと、私はいたく奇異な感慨に耽ったものだ。

 

 父が足しげく通った極東の島国。そこに住まう人間。なにがそれほどに父を引き付けたのだろうか。私たち家人には目もくれぬほどに、なにが――

 

 なし崩しに私は依頼を受けることにした。そうしなければ彼女はこの近辺に定住しかねない勢いだったからだ。それどころか、下手をすれば私の住まいに間借りするなどと言い出しかねない。

 

 結局、高い金を払ってわざわざ危険に近寄りたいというのは彼女の願いだ。奇特な女の奇行に付き合うだけで金が入るのだからむしろ好都合だとも言える。と、私は自分にそう言い聞かせて納得することにした。

 

 好きにさせてやれば気もおさまるだろう、と。

 

 そこで私はまず、信じられないならそれでも構わないから一応最後まで話を聞くようにと断った上で、魔術師というものについて、そして常人には知られざる魔道の側面の理について語った。

 

 一般人にそれを教えるなどとは魔術師としては褒められた行為ではないのだろうが、私はすでに外れた人間だ。協会に睨まれぬ程度になら支障もあるまい。何より、私にはそうしなければならない理由があったのだ。

 

 女は意外にもその話を真摯な面持ちで聞いていた。魔道の摂理などというものを現代人にいくら口述したところで到底信じられるようなものではないことは想像に難くない。

 

 しかし、彼女は文句の一つもなく、童女のように大きな黒い瞳を私に向けて静かに聞き入っていた。私も自然とその顔を見つめた。ここまでの旅路のせいだろうか、焼けた頬は少々扱けていたようだった。それでも、その黒い瞳と長い髪が輝くような生気に満ち溢れているように見えてひどく印象的だった。

 

 私は不意に自分のサングラスがズレていないかと確認していた。彼女から発せられる、あふれるような光はきっと陽の加減のせいではないと思えた。

 

 理由はわからなかったが、裸眼でそれを受け止めることが、なぜかその時の私には憚られたのだ。

 

「あの海域には厄介なものが三つある。一つはまあ、いわゆるマフィア、というかゴロツキだな。この辺りにも周囲の島を根城にしている連中がいる。いくつかの組織があり、それぞれに縄張りがある」

 

「なに? あんた詳しいの」

 

「一応、お得意様だからな」

 

「あらら。そのお得意さんの依頼でな~にを運んでんのかしら」

 

「さてな。荷物の中身に付いての詮索はしない」

 

「じゃ、何で私には根掘り葉掘り質問すんのよ!?」

 

「連中のの積荷は詮索しなくてもわかりやすい。底の浅い連中だからな」

 

「……私の依頼はそんなにわかりにくいって言いたいの?」

 

 また唇をへの字に曲げる彼女をそれ以上取り合うことはせず、私は先を続けた。

 

「もう一つは察しの通りその裏にいる魔術師。他愛のないマフィアを隠れ蓑になにをやってる連中なのかは知らないが、少し前からあのあたりをうろついているらしい。当初にマフィアの連中と小競り合いがあったらしく、やつらが現れてからはこの辺りからも無法者の姿がだいぶ減ったようだな」

 

「結果論だけど、マフィアがいなくなるなら周りの人にとっては悪い話じゃない感じだね? んで、一番の厄ネタって言うのはやっぱりその魔術師ってひとたち?」

 

「そうじゃない」

 

 厄介なのことには変わりないが、コイツと比べれば何のことはないだろう。

 

「最大の厄ネタは「穴」、だ」

 

 前置きを終え、私の文言は本題に入った。

 

「穴?」

 

 前の二つについては前述の言葉から察していたのだろうが、最大にしてもっとも困難な障害には彼女も怪訝そうな声を上げた。

 

「そうだ、あの海域には次元の裂け目が出来ている。そして、それを目当てにした魔術師がそれまでそこを縄張りにの仕事をしていたマフィアを排除してあの一帯を徴用しているということだ。ご丁寧に海賊のふりまでしてな」

 

「――じゃ、その魔術師って人らは船を襲わないんだ?」

 

 あらためて驚いたように黒い三日月のような眉を上げて彼女は言った。

 

「そうなるな、そういう意味では確かに海賊やマフィアよりもよほど害がない」

 

「と、言うか――その人たち何でそんなことしてんの?」

 

 お前も意味もなくそこに行こうとしているではないか、とは口には出さなかったが、依然として違和感を抱えたまま、私は話を続けた。

 

「総ての魔術師には目的があるのだ」

 

 そう、あらゆる魔術師には目的がある。それに行き着く手段や方法は様々だが、概ねそれは「根源の渦に至る」ことであると総括できる。

 

 そも、根源とは何かかといえば、あらゆる出来事の発端となる座標であるとされ、万物の始まりにして終焉、この世の全てを記録し、この世の全てを作れるという神の座。世界の外側にあるとされる、次元論の頂点に在るという“力”。

 

 アカシック・レコードとも称される。いわば人が元来触れてはならない領域にある力のことである。そして人の臨界を越えたと自称する魔術師なる者たちはその力を求めて日夜労を惜しまず精進し続けているというのである。

 

「手段はわからんが、時空間の歪みを使って根源にいたろうという魂胆なのだろうな。自力での根源への到達を諦め、そういう超然的なキッカケに便乗して事を成そうとする魔術師も多いと聞く」

 

 私は掻い摘んでそれらの事を説明した。あまり専門的過ぎる言葉を用いすぎても混乱するだけだろうからできる限り簡潔に話したつもりだった。しかし彼女は先ほどとは一変したように静かにしていたかと思えば、

 

「う~~~~ん」

 

 と、なにやら唸り声を上げて首を捻り始めた。

 

「なんだ?」

 

「なぁんかさ~~、魔術師って変なこと考える人たちだよねぇ」

 

「……魔術師の欲求は、魔術師にしかわからんのだそうだ」

 

 どうやら、彼女は私の言に納得しかねるようで、さらに首を捻る。

 

「世界の内側のこともよくわかってないのに、世界の外のことを考えるなんて、気が早いっていうか、ないものねだりって言うか、隣の芝生は青いって言う……のか?」

 

 少し違うかな、と続けて彼女はまた、さらに捻じ切れんばかりに首を捻る。そろそろ頭が床に落ちそうだ。

 

 根源の渦に至るという衝動は魔術師に特有のものであり、これは世界の外側への逸脱である。これによって世界の内側にもたらされるものは何もない。

 

 そのとき、彼女の言葉を聞きながら、私は内心でドキリとしていた。その言葉が私の長年の葛藤を期せずして見透かしたかのような気がしたのだ。

 

「……そうでもしないと、出ないのだろう。答えがな……」

 

 なんと返していいか解らず、適当な合いの手をいれた私の前で、それまで唸って螺旋くれていた彼女は勢いよく立ちあがって、パッと顔を煌めかせた。

 

「じゃあ、まずは内側のことをよっく見てみたらいいんだよ」

 

 思わず仰け反って尻餅をつくところだった。

 

 何故だろうか。

 

 それほどに眩かったのかもしれない、その黒の瞳が。

 

「納得がいくまでさ。こう、結論を急いじゃうと自分の見たいものしか見えなくなっちゃうからさ。木を見て森を見ずってやつ? だから、まずは自分の眼で飽きるまで世界を見渡してみればいいんじゃないかな」

 

 唖然と見つめる私を余所に、彼女は自分の言葉にウンウンと頷きながら言葉を続ける。 

 

「見たことのないもの、聞いたことのないもの、触ったことのないもの。世界は未知で溢れてるんだよ。それって神様がくれたサイコーの贈り物だと思わない? 知らないって事だけでどきどきしない? 私はするよ! それって、これからいくらでも知らないことを見れるって事、神秘を知れるって事じゃない!!」

 

 言い放ち、満足そうに私を見下ろす女を暫し眺め返したところで、私は話を戻すことにした。正直、何を言いたいのか分からなかった。

 

「――とにかく、」

 

「あれ? スルー?」

 

「以上の理由で、そこに近づくだけでもかなりの危険が予想される。――――それでも行く気か?」

 

 それほど語りつくしたにもかかわらず、扱けたけた頬に似合わぬ真っ直ぐな視線が、いよいよ凄まじい光と力を内包して、私を見た。

 

「いくよ!」

 

 

 

 

 彼の地を、人はバミューダ諸島と呼ぶ。約150の珊瑚礁と岩礁からなる島群で、もっとも大きい島はその中心に位置するバミューダ島、その周りにセント・ジョージ島、ソマーセット島、アイルランド島があり、他は非常に小さな島の群である。

 

 1500年代の初期にヨーロッパ人によって発見され、当初は地図にこそ書き込まれてはいたが永らく移住者のいないまま無人の島であったそうだ。

 

 その後、1684年に正式にイギリスの植民地となる。現在島の経済を支えるのは避寒リゾート地としての観光資源である。

 

 

 私の船でバミューダ島に到着した後、私達はそれぞれに別行動をとっていた。

 

 観光地ということもあり、バカンス期のバミューダには若い男女が少なくはなかった。そのせいか、バミューダ島についてから、彼女はというとどうにも浮き足立ってしまっていた。

 

 仕方なく、私は自分の仕事が済むまで好きに散策するよう彼女に言って、自分は周囲に住民に話を聞くことにした。

 

 どの道、こういう作業は一人のほうがやりやすいのも確かだ。

 

 私はバミューダ、及びその周囲の島々を廻ってそこに住む現地の住人たちから話を聞きだした。多少なり魔術も使った。相手が話し好きの老人とは限らないし、こういう場所に居を構える住人の大半は明らかな異邦人を酷く警戒するものだ。それを逸らす魔術を使用して話を聞いたのだ。

 

「…………グロリア・ベンソン号の最後のモールスは『SOS視界ゼロ、SOS雲が……』だったそうじゃ。いったい、雲がどうしたいうんじゃろうな? その日は暗雲立ち込めるような悪天候ではなかった。しっかりと憶えておるよ。その日のミルウォーキー海淵はむしろ『気味の悪いほど静かな海』だったんじゃ。

 

 ひどく凪いだ海原を、その近くにいたワシら漁師も奇妙な胸騒ぎと共に憶えておったくらいじゃ。だから、ベンソン号のことを後から聞き及ぶにいたってワシは稲妻にうたれたかのような感覚に見舞われたわい。ああ、あのときのことだ。考えるよりも先に思い出しとった。

 

 以来、ワシはこの海域で遭難する船や飛行機のことにつぶさに耳を傾けながら、この歳まで来たんじゃ。ここの恐ろしさはワシが一番わかっとるよ。この三角海域、魔の海難多発地帯での遭難機は、しばしば、気が狂ったとしか思えないような通信を発した後に連絡を絶つんじゃ。

 

 ――そうじゃ、貨物船マリン・サルファーク・クイン号のことはしっとるかね? 映画俳優ジョン・スタイリーの乗った飛行機の行方は? それとも…………」

 

 しわがれた声で話す老人の饒舌さは留まることを知らなかった。一体何度あのような話をしているというのだろうか? ちなみに、この老人には魔術の類は使用していない。

 

 ()()()()厄介な手合いに捕まったと思いながら、私は辛抱して最近の怪事について聞いた。老人は私のことを上客だと思い込んだらしく。椅子に座るよう強く勧め、彼が若かったころの古き「バミューダの怪異」について語り散らしていたのだった。

 

 結局、最近の異変についてはよく知らないということだった。私はげんなりしながらも多めにチップを渡して立ち去ろうとした。満足そうにほくそえむ老人はそれを見てサービス精神に火がついたのか、最後に少しだけ付け足した。

 

「そういえば、最近若い漁師から酒の席で聞いた話じゃが……」

 

 

 

「――でさぁ、潜ってみることになったんだけどさー。いっやー、これがなンンにも出なかったわ。宝どころか船の破片すら。あったのは珊瑚礁だけー」

 

 落ち合うことを取り決めてあった酒場に彼女が戻ってきたのは、すでに夜が更けてからであった。まさか待たされるとは思っていなかった私は挨拶もそこそこにその日の経過を述べようとしたのだが、しかし彼女の絹を裂くような第一声がそれを許さなかった。彼女はまた小鳥の如く喋りだしていた。

 

「けど、海がすっごい綺麗でさー。やっぱいいよねぇ南の島って……」

 

 未だ湿り気の残る黒髪からほのかな潮の香りを漂わせて、彼女は満面の笑みを向けてくる。

 

「……って、なんか変に疲れてない? やっぱアタシも手伝ったほうが良かった?」

 

 おそらく私はさぞかし憮然としてそれに応えていたことだろう。一日中こんな勢いで喋る手合いの聞き手に回らされてみれば、誰でも悄然とするのは無理もないというものだ。もはや皮肉を言う気力が無かったので、私は率直に相槌を打っていた。

 

「……そんなことはない。……バハマでは潜らなかったのか」

 

「あんたを探し出すのに忙しくてそんなこと考えてる暇ななかったの。だから今日は割と期待したんだけどなー。ねぇ、知ってる? 大きなハリケーンの後だと沈んでた船が海底から出てくることがあるんだって、ガイドの人に教えてもらってさー。これは潜らずにはいられないと思ってぇ。んで、思った5分後には船の上よ」

 

 もうちょっと考えろ、もしくは勝手に人の船を使うなと言ってやりたかったが、それは彼女という言う炎に薪をくべるのに等しい行為だった。

 

 しかし、このまま自由に無駄話をさせたのでは、どの道こっちの報告は明日になってしまうことだろう。そんなものは願い下げだ。

 

「……どうして嵐があったなんて分かる?」

 

「それも今日ガイドしてくれた人に聞いたの。そういうのを生業にしてる連中もいるって言うし、もしかしたら何か見つかるかも知れないじゃない?」

 

「なら、目的も宝探しに変更するか?」

 

「それとこれとは別の話よっ…………あ、そだ。ちょっと聞いてよ。大事な話」

 

 すると彼女は一転真面目な顔になった。そこで私もようやく本題に入れるのだろうかと思って耳を傾けていたのだが、何時まで経っても何が言いたいのかが見えてこない。

 

「……でさ、これって変にぼったくられてないよね?」

 

 何かと思えば、米$で買い物をしたのにお釣りはバミューダ$で返ってきたという話を、これまた随分と歪曲に話し始めたので、その両者は等価で固定されていると説明してやった。

 

「へぇ。てかなに? 物知り?」

 

「来たことがあるだけだ」

 

 ……どうやら、大事な話と銘打ちながら別に深い意味はなかったらしい。

 

「なぁんだ。そんなら先に言いなよ」

 

 何故だ?

 

「観光?」

 

「まさかな」

 

「なんでよ。誰だってそのくらい……」

 

「……そうじゃない人間もいる。……それだけのことだ」

 

 まさしく私のような人種がそうだ。似合わないという以上に、どう楽しんだらいいのかがわからない。

 

「なら、明日は二人で行かない?」

 

 私はサングラスの奥で眦を開いた。他愛の無い言葉のはずだったはずだが、なぜか私は虚を疲れたようにうろたえた。

 

「……何をしに此処まで来たんだ」

 

 諌めるような声を出したが、彼女は動じることなく口角を吊り上げた。その幼い顔つきの笑顔がさらに丸みを帯びるようだった。

 

「いいじゃないの、別に時間制限なんてないんだし。時間に追われてもいい事なんてないよ? そだ、今日友達になった()がいるんだけどさ、あ、さっき言ったガイドの人のことね。その娘も同じようなこと言ってたなあ。なんか気持ちに身体がついて行っていないって言うのか…………もっと余裕持っていかないと生きててつまんなくない? それにさ……」

 

 話はまさしくとりとめもなく叨々として、途切れるということも無いようで、次第に相槌を打つのも面倒になってしまった。

 

 酔いの酩酊のせいだろうか。ついぞ、彼女の声はまるで遠くで響き渡る美しい小鳥のさえずりのように聞こえていた。

 

 ……メーン島、海岸、澄んだ海、跳ねる水、冷たくて、泳いで、西へまわって、セントデイヴィット島、珊瑚礁を見にいく。サマーセット島。ガイドはかわいい娘、輝くような皮膚の色はエボニー。弓のように張り詰めたふくらはぎ、その躍動、まるで踊るような。

 

 海岸は砂地と珊瑚礁の断続。砂浜の所々には珊瑚の欠片、そこでモリを片手に、素潜りで、捕まえにいく。白い灯台、焼け付くような砂浜、風の感触、透明度の高い、蒼い海、その香り、珊瑚礁、魚たちの天国。

 

 渇いた喉、とその奥。そこに行き着くまでの、内側の強張り、波の音、船の機動音、人の鼓動、リズム。無音の中の旋律、それはきっと風の鼓動――。

 

 ――来たのは初めてだけどいいところだ。と彼女は忙しなく語った。

 

「……それは良かったな。もう、充分楽しんだんじゃないか?」

 

 饒舌な彼女の、謳うような声に、私はそんな相槌しか打てなかった。まるで鳥達が囀るような、どうにも耳障りのいい声のように聞こえた。彼女の声は高音でいて、しかし、そこいらの女たちにはない円やかさのようなものがあった。

 

 キンキンとしたグラスの鳴らすような音ではあるのだが、その高音は角が無いかのように滑らかなのだ。取っ掛かりの無いそれが、自然と私の耳朶と神経をくすぐるように撫でていく。

 

 まるで子守唄のようだった。私自身はそんなものを聞いた事もないはずなのだが。

 

「ちがーう。たしかに楽しかったけど。それが目的じゃないの!」

 

 私の相槌にパーカッションのような声がはじけた。私は溜息と共にグラスの内容物を傾けた。ここまでけたたましいとさすがにその声音の調べもたまったものじゃない。まるで私耳元でそよいでいた風が唐突に鋭利な爪を剥きだしたようだ。しかし、それが彼女のリズムなのかもしれない。

 

 ただおとなしく肌触りが良いだけの女ではないのだ。時折鋭すぎる爪を立ててくる。おとなしくしていれば、それはもっともらしげな令嬢にもなるだろうに。もっとも彼女自身がそういう自分を望まないだろうということは、当時の私でも充分に理解できた。

 

「――でも、よかったなぁ、南の島。一度来てみたかったんだよねぇ」

 

 弾けた旋律は暴風の爪痕を残してまた穏やかに凪いだ。まるで気まぐれな海原のようだ。と私は思った。大方の予想は付いていたが、彼女は男顔負けのピッチでグラスを空にしている。

 

「来たことがなかったのか? 日本人ならいくらでも観光に来れるだろう」

 

「遊びに来てるように見えるのかしら? 私が世界中を廻ってるのは観光のためじゃないってのに」

 

「それは初耳だ」

 

 その後、陽に焼けて赤らんだ頬を膨らましつつ、それでも滞ることなく喋り倒した女は、遊び疲れた子供のように眠ってしまった。

 

 仕方なく、泥酔した彼女を取ってあった部屋のベットに放り込み、私はなんとも妙な娘と行き当たったものだと、今更ながらに当惑を感じていた。

 

 ベッドの上では惜しげもなく晒された無防備な白い肌が波打つようにうねっている。随分幼く見えるが、しかし身体の方は充分出来上がっている。その総身を形成している無駄のないシルエットのラインとそのバランスを見る限り、西洋人や黒人のしなやかさと比べても遜色はないように思えた。

 

 そんな綻び始めた蕾のような肢体を投げ出しながら、無邪気に夢現のやけ笑いをこぼしている。この有様がバカンスを満喫しつくした無防備極まりない典型的観光目的の日本人の様相でなくてなんなのか、とさえ思う。

 

 それにしても随分と信用されたようだ。元より身持ちの硬い娘とも思われなかったが、まさか好きにしろということでもあるまい。私は眠れる彼女を残して自分の船に戻った。

 

 まったくどういう女なのかよくわからない。底が知れないとはこういう人物のことを言うのだろうか? 少し……いいや、大分違う気もするが……。

 

 そうだ、何処か底が知れなくて、時折激しすぎるほど荒れ狂う、なのにいざというときはまるで揺籃のように心地よいリズムで人を包んでしまう――。女を海原のようだとはよく言ったものだ。と、私は我ながら、らしくない感慨を持て余してた。まったく得体が知れない女だ。

 

 自分の船に戻った私はこのまま何事もなければどれだけいいか。と考えながら降るような星々の下で杯を(あお)った。酒の味などわかるほうではないのだが、今夜はどうにも酒が進む。

 

 この土地の酒は酷く私に合っていたということなのだろうか? 不思議と気分が悪くない。何処からか流れてきた芳しい花のような芳香を含んだ潮の香りが、ここまで流れてきているのだろうかと思った。

 

 今までに味わったことがないほどに芳しく、それは私の喉にまで馴染んだようだった。このときの私は本当にそれが酒のせいなのだとい込んでいた。

 

 

 だが、それは間違いだった。それは彼女が残した潮気交じりの香りだった。――それを今まで忘れた時はない。このときの酒の味も、そして彼女の黒髪から漂ってきた潮の香りも、総てを思い出せる。

 

 それを忘れたことなど――片時もありはしない。

 

 

 

 

 

 私たちは幾度か日を改めてその海域を目指した。

 

 目指すはロード島の周辺だった。ロード島は大バミューダ島の西、セントデイヴィッド島とアイルランド島の間にある。その北はこの辺りで一番水深のあるところなのだが、先だってあの老人が話してくれた所によると、その辺りで近日妙な光を見た人間がいるらしいのだ。

 

 船の集魚灯ではなく、何か海底から光が指しているように見えたということだ。しかし幾度近づこうとしても、いつの間にか島の反対側まで移動していたのだという。老人は酔った上での話だからあまり信用するなと言っていたが、私達にしてみれば勿怪の幸いだった。

 

 そこだ。今はそこに穴がある。おそらく穴はミルウォーキー海淵や海域の随所に入れ替わり現れているのだろうが、今はそこに固定されているに違いない。無論、それを利用しようとしている条理から外れた連中の手によってだ。

 

 私は以上の情報から事の次第を推察した。穴は周期的に開閉を繰り返しているようで、その穴が開く日でなければ、そこに近づいても意味がない。

 

 おそらく、やつらは半月に一回。新月と満月の晩にここに訪れ、何らかの儀式を繰り返しているものとみられた。幾度となく繰り返された儀式のせいで周囲の時空間の揺らぎがひどくなっているようだった。

 

 私はここでそいつらがなにをしようとしているのかを考察した。おそらくだがやつらはこの海域に裂け目があるのを利用して、なにかを創るつもりのようだった。

 

 なるほど、なにに使うのかは知らないが、そんなものを何もない空間に普通に創ろうとすれば何世代にもわたる大事業になる。しかしもともとある亀裂を加工するだけなら、比較的容易に事を運ぶことができるだろう。

 

 だが、いきなりそんなものにノミを入れるのは危険すぎる。

 

 故にああやって時間をかけて準備を施しているのだろう。一見してまどろっこしくも見えるが、あれはあれで正解なのだ。

 

 先日、彼女が知り合ったという黒人の少女も私達に随伴することになった。私も案内役にはうってつけだと思ったからそれを承諾したのだが……目下、その判断に是非を下せずに困っていた。

 

 確かに指示は的確なのだが、その少女はどうにも彼女――鞘と気が合いすぎるらしく。私の船の後部座席でやかましくさえずり続けているのだった。私は考えを巡らさねばならなかった。

 

 さて、女三人寄れば姦しいとはどの国のことわざだっただろうか? しかし古いことわざなのは間違いない。時代は進んでいるのだった。現在に至っては女は何人であっても姦しいと言い直すべきなのではないだろうか。

 

 少女の名はドロシーといい、先日島をあてどなく散策していた彼女を捕まえて格安で周囲の島々を案内ガイドしてくれたということだった。

 

 金持ちでお人よしな観光客から現地の人間がチップを巻き上げる常套手段のようにも聞こえたが、二人はそれ以上に馬があったようですぐに親密な友情を築き上げていたようだった。

 

 それが偶然なのか、あるいはカモをおだてるガイドの手管が故なのかは私には判断しきれなかった。

 

 思考を曇らせる私の背後で二人はさえずり続けていた。甚だしくも遺憾だったのは、私もその内容に耳を傾けざるを得なかったことである。なぜかというと、彼女の英語が拙いせいか、はたまたドロシーという少女のイントネーションが聞きなれないせいなのか、二人はたびたび私に水を向けて、通訳を要求してくるからだ。

 

 大きなハリケーンが通った後には昔の沈没船が浅瀬に出てきていることがあるらしい、という話もこのドロシーに聞いたとの事だった。私としては余計な事を言ってくれたものだと文句の一つも漏らしたいところだ。

 

 さらにしぶしぶと聞く所によればドロシー自身もそういうトレジャーハントで一攫千金を狙っているらしい。そして彼女は資金をため、自分の船を買って生来から出たことの無いこの島を出て、世界を見に行くのだと語っていた。私は言外に、ますますこの二人は似通った精神の持ち主らしいと考えていた。

 

 このドロシーという少女はセント・ジョーンズ島に住んでいる、あまり裕福とはいえない黒人一家の生れで、父親は漁師をしているのだという。鞘よりも幾分年下であるように見受けられた。

 

 背の高い、すらりとしたしなやかそうな細い体、そのシルエットが酷く印象的な少女だった。

 

 この黒人の少女は外の世界に出ることを夢見ているという趣旨の話を何度も繰り返ししていた。

 

 そのために、ハミルトンの金持ちの家で家政婦の真似事をしながら、この辺りで沈没船の引き上げをしている男の手伝いをしているのだという。いつか自分も自分の船を持って、世界中の海底を浚ってやるのだと話している。

 

「――白鳥のような船よ、白一色で、スマートで、船着場で一番輝いて見えるの」

 

「きっと、綺麗な船だね。白い翼みたいな」

 

「素敵ね、白い翼……何処へだっていけそう。きっとここからニューヨークにだっていける……」

 

「あっという間だよ、きっと。次に会うときは乗せてよ。世界を回ってれば、お互いいつか会えるから」

 

「もちろんよ」

 

 出会って数日とは思えない親密さで彼女たちは話す。私は黙ってその話を聞いていたが、おそらくは生まれてこのかた、この海域から出たこともない黒人の少女が話す夢物語を、私は彼女のように肯定的に受け止められなかった。

 

 日本人である彼女がこんな放浪生活をしていられるのは、彼女が恵まれた国に生まれ、恵まれた環境に育ち、恵まれた教育と社会の庇護を受けてきたからだ。と内心で思わずにはいられなかった。

 

 彼女たちは人種だけでなく立場も境遇もまったく異なる。持つものと持たざるものだ。彼女たちの間にはどうしようもないはずの線が引いてあるはずなのだ。にもかかわらず、何故この黒人の少女はそう屈託もなくこの裕福な異国の女に己の内面を曝け出せるのだろうか。

 

 あの年頃なら、も少し現実というものを見つめることも出来るだろうに。

 

 私の中で懐疑が頭をもたげ始めていた。いや、それは懐疑と呼ぶには些か暴力的な仰々しさを備えていた。久しく感じたことのなかった停滞した力場のような不快感が私のししに根を張り始めていた。兎角、――不快な感覚だった。

 

 私の船はロード島に近づいてきた。サマーセット島の珊瑚を過ぎてしばらく行くとロード島のシルエットが見えてきた。

 

「なんだか怖いわ。何時になく海が凪いでしまっているよう。海火が出るのはこういうときなのよ。今じゃこんな日は不用意にこの辺りに近づく連中はあまりいないの……」

 

 ドロシーが不安そうな声を上げた。犠牲者が出ていなくても、確かに気味の悪い話だ。地元の人間ほど、そういう変化に過敏なのかもしれない。

 

「けど、別に代わったことは何もなさそうだね。むしろ静かで綺麗な海じゃない?」

 

 とはいえ、私の感想も鞘のそれに順じたものだった。確かに、薙いだ海はその透明度の高い肢体の隅々までに降り注ぐ太陽の光を取り込んで、燦と煌めいている。妖しいなどという言葉は、この海原の様相には相応しくない。

 

「何があるにしても、出てくるとしたら夜なのだろうな」

 

「そういうもん? テンプレートでもあんのかしら」

 

 ドロシーの文句とは裏腹に呑気そうな声を上げる鞘の声に応えながら、私は何の変哲もない場所からさらに船を進め、長く突き出た岩の岬をまわる。

 

 すると、何かが見えた。視界の端に入ってきたのは一隻の船だった。それはすばらしい速度でこちらに向かってきた。警察か何かの船かと思い私は警戒したが、ドロシーが声をあげた。

 

「大丈夫。知り合いの船よ」

 

「この辺りに近づく連中はいないんじゃないのか?」

 

 私は言った。

 

「彼らは特別よ。怖いもの知らずなの」

 

「――やあ、お嬢さん方。元気かい」

 

 高いところから大声を掛けて来たのは黒人の巨漢だった。どうやら、この辺りの顔役で、沈没船引き上げを生業としている男の様だった。

 

 大男は私の船よりもよりも遥かに大きな船を横付けにして声を掛けてきた。大きな船は黒塗りだったが、派手なペイントが随所に塗りたくられ、一見子供の落書きみたいな夢のある船を装っている。

 

 しかし、その下地の暗色が、どうにも他者を圧倒したがっているような感覚を与えて来る。だからというわけではないが、私はこの陽気な声をあげている大男からは何処か仰々しい感じを受けた。

 

 現地人だという男をサングラス越しに私は見据えた。バミューダの住民の60パーセントが黒人で残りは白人だという。確かにすばらしく鍛えられた身体をしているが、この辺りではそう珍しいという訳でもないだろう。

 

 しかし何処かおかしな気配を私はその男から嗅ぎ取っていた。向こうも仰々しいゴーグルをしているので私達の視線がぶつかることはない。

 

 その巨体に見劣りのしないゴツいゴーグルは、強い日差しから眼を護るためのものではなく、己の視線を誰にも読ませないようにするためのものなのではないかと思えた。いや、直感的に解った。私自身のサングラスがそうだからだ。

 

 男は私にも鷹揚に手を振ってきた。私も挨拶程度に手を上げた。依然として視線は絡まない。それでも充分だった。彼が真正の善人でもない限り、お互い味方にはなれない人種だと悟るには充分だったはずだ。

 

 その後、男は女二人と喋るのに忙しそうだった。散々遊びに来ないかと熱烈なアピールをしたあとで、大型の船は去って行った。

 

「気に入られたわね。あいつ、かなりお熱みたいよ?」

 

「そんなことはないんじゃない? 珍しいだけだよ」

 

 ドロシーの声に彼女が笑って応えるが、しかしすぐにドロシーは声のトーンを変えた。

 

「でも、気をつけてね、いざとなると何をするかわからない相手なの」

 

 単なるチンピラの大将で本物の悪人ではない、と彼女は付け加えたが、顔色から判断するにそうかわいらしいものではないらしい。

 

 おそらくあの巨漢が沈没船の引き上げを生業としているという彼女のボスなのだろう。つまりこの少女はあの男から何かしらの命令を受ければ逆らえないに違いない。と私は当たりをつけた。

 

 あの大型船にそれ相応の機材や装備が備え付けてあったのを、私は見逃さなかった。

 

 もっとも、あの男がそれだけの男なのかはわからなかった。本物の悪人というのは普段の生活では悪人らしく振舞ったりしないものだと私は知っていた。

 

 

 島に戻り、ドロシーと別れた私たちは宿に帰りつく前に二人で安そうな酒場に立ち寄った。食事をしながら、私は彼女に切り出した。

 

「……昼間の大男だが、どう思う?」

 

「うーん、ちょっと怪しい感じだよね。もしかして……」

 

 彼女もあの巨漢を唯の陽気な男とは見ていなかったらしい。さすがに人物鑑定の目は肥えているというべきだろうか。

 

「たぶんな、あの男も何らかの形でこの海域の怪異に噛んでいるかもしれない。少なくともただの一般人には見えなかったな」

 

「なんだか、思った以上にきな臭くなってきたねぇ」

 

「おそらくだが、ドロシーとも上下のつながりがあるかも知れない。彼女との接触にも気をつけた方が良いだろう」

 

「ネガティブに考えすぎじゃない? それで何かするような娘じゃないと思うけど」

 

 楽観的過ぎる彼女の意見に私はかぶりを振った。人間、いくら気の会う相手であっても、会ったばかりの相手のために身体を張ったりはしないものだ。

 

 どんな人間であろうとも行動の裏には打算的な背景があるはずなのだ。少なくとも私はそう思っていた。

 

「用心に越したことはない、ということだ。……で、どうするつもりだ」

 

 実を言えば、私はそのまま彼女の意識が観光に向いてくれれば都合がいいと、この期に及んで考えていた。あらためて考えてみても、ただ興味本位で近づくべき案件ではないように思えて仕方がなかった。

 

「私、別になにがしたいってわけでもなくて、その裂け目ってのを見たいだけなんだけどなぁ。見せてっていったら駄目なのかな」

 

「……その魔術師が例外中の例外なら、或いは、というところだな」

 

「はぁ、だめか~~」

 

 それまではこれも仕事だからと己に言い聞かせ、クライアントの意に従おうと努めていたのだが、不意に、私の中の懐疑が頭をもたげた。これまではこの女の勢いに乗せられた感はあるが、こうしてあらためて考えてみれば、やはり奇異なのだ。

 

「……いい加減、言ったらどうだ」

 

 声は思った以上に強張っていた。私は依然として彼女の言動に釈然としないものを感じていたのだ。ここに着てからというもの、散々遊びながらも、彼女の意思はまったく逸れておらず、依然としてやる気を損なっていない。

 

 それが奇異に感じられた。その目的意識の強さとその不鮮明さに対して再び懐疑の心が首をもたげてきたのだ。それは私自身の知らぬままに、まるでのたうつ大蛇のように肥え太り、育っていた。もはや内側から私自身を左右してしまうほどに。

 

「なにを?」

 

 きょとんとして、彼女は応えた。

 

「目的だ。何のためにここを目指してきた!」

 

 そう、目的だ、それがどうしてもわからない。どうして、この女はそうまでしてあの魔なる海域を目指すというのか。

 

「言ったじゃない! 私はそれを見てみたいんだってば」

 

 重ねられた言葉、同量の懐疑、折り重なったそれが私の喉と思慮を狭めた。私は思わず声を荒げていた。

 

「何の意味がある!」

 

 己が荒げた声を自省する。そんなつもりはなかった。ただ、長い間こうしていたために、不意に浮かび上がった疑念が無視できぬ大きさに膨れ上がったのだ。まるで、泡の様に。泡なのだから、それはすぐに壊れて消えようとしたのだ。タイミングさえ違わなければ、すぐに不要な言葉だったと取り下げることも出来ただろう。しかし、そのときにはそれが出来なかった。いきなりの私の言葉に、彼女が更なる声を掛け返したからだ。

 

「やること成すことに全部意味がいるの? じゃあ、人生にも全部理由付けして生きてけって? 馬鹿じゃないの? 意味があるから何かを選んでそれをやるんじゃない! 自分が始めることに、自分で意味を見出していくのよ。私がやることに、私が意味を感じたんなら、そこには意味があるんだ!」

 

「……」

 

「自分がやることに一々誰かの意見が欲しいの? 違うでしょ? 自分でそれに意味があると思ったんなら、それをやればいい。誰もためでもなく、自分で、自分が、自分のためにやったことなら、そこに意味がいないはずがないじゃないか!」

 

「……」

 

 私は何も言えなかった。あれほど光り輝いていた大粒の黒瞳を伏せ、彼女はらしくない、消沈したような声を出した。

 

「……手伝いたくないなら、そう言いなよ」

 

 私は無言だった。在りもしない、呼び止める理由を探しているうちに彼女は行ってしまい、私は一人で取り残された。彼女の声にうろたえていたのだと知ったのは少し後になってからだ。

 

 周囲にいた連中が一人残されたわたしを嘲笑っていた。異国の言葉で言い争っていた私達の言葉を解するものがいるとは思われないから、おそらくは観光先で悶着を起こしたカップルか何かだとでも思われているのだろう。

 

 その日、彼女は宿には戻らなかった。きっと、あのドロシーの家にでも泊まったのだろう。

 

 翌日、日が落ちてから起き出してきた私はひどい気分のまま、それでも昨夜の出来事を整理していた。常頃の癖で、昨日の私の言動、彼女の言葉、問題点、改善するべき点などを反芻していたのだ。無駄な行為だと、昨夜の残りの酒を呷ってもみたが、一行に思考は混濁してくれない。

 

 それで、私の足はさらに街の酒場に向いた。安い酒だからよくないのだと、私は理由を見つけて歩き出したのだ。足が早っているようだった。きっと先の酒が今になって効いてきたのだろうと、私は思うことにした。

 

 もう時刻は深夜に迫っていた。不健康そうな雰囲気のバーに入り込むと、そこでドロシーのすらりとした弓のようなシルエットを見つけた。私はそのまま無視して酒を呑もうとしたが、黒人の少女は私を見つけて近づいてきた。

 

 やめてくれ。私は彼女に気付かぬフリをしながら内心で舌を鳴らした。なぜそこまで苛立っているのか自分でもわからなかった。

 

 ただ、機嫌が悪いのだ。だれにだってそういうことがあるだろう。昨夜の口論も、きっと、そんな些細な事なのだ。

 

 ――誰に聞かせるためのなのか、私はそんな言い訳を内心で繰り返していた。

 

 ドロシーは私に声を掛けてきた。私はびくりと身をふるわせた。演技ではない。己の思考に耽溺するあまり彼女の存在を保留していたのだ。だからといって、実際の彼女が静止するはずもない。どうやら思った以上に私は悪酔いしているらしかった。

 

 私はあしらうような声を出した。そもそも、話すようなことないのだ。するとドロシーは「彼女」は何処にいるのかと聞いてきた。

 

 私はなぜかと問い返した。それは一番応えたくない事柄で、一番応えようのない事柄だったからだ。

 

 そのとき、私は始めてこの黒人の少女の声に逼迫した響きが入り混じっていることに気付いて、彼女を真っ直ぐに見た。その頬には殴られたような痣があった。その裏にある背景を想像するのは難しくなかった。

 

 ドロシーは応えた。表面こそ気軽な声ではあるがその裏には明らかに怖気や怯えの様な感情を持っているのは明らかだった。

 

 昼間の大男が、彼女の居場所を教えろとドロシーに詰め寄ってきたというのだ。知らないと答え、どうしてそんなことを訊くのかというと、殴られたという。

 

「あいつ……何時になく殺気だってた。まるで何かに怯えているようだった。狂気の眼のをしていたの。恐ろしいわ。何をするのかわからない。だから心配で、貴方たちを探していたの」

 

 そして、己の不安を振り払おうとするかのように、彼女の無事を確認しようとする少女には応えず、私はグラスを傾けた。

 

 もしかしたら浚われたかもしれないと話すドロシーに、私は素っ気無く対応した。

 

 最初から危険だとは繰り返し忠告してきた。それに自分はクビになったばかりだとも、ざっくばらんに言い棄てた。

 

「自業自得だ……馬鹿なヤツだ」

 

 不用意な私の言葉に間髪すらいれず、ドロシーは声を荒げた。

 

「馬鹿なのは貴方のほう!」

 

 甲高い声が耳を刺すようだった。今日二度目だ。さすがに勘弁してほしかった。私は彼女の腕を取ると引きずるようにして店の外に出た。ドロシーは私を見上げるようにして睨みつけてきた。

 

「あなたと彼女は違う。ぜんぜん違う」

 

「どう違う? 彼女もお前さんから見れば金持ちの日本人だろう。金持ちのイギリス人となにが違うんだ?」

 

 歯止めがきいていないような感じはあった。しかし私はそれを意識できなかった。猛っている己を見ながらそれに触れることができないような奇妙な感覚だった。そんなことは初めてのことだった。

 

「まさか、彼女が自分と同じだと思ってるんじゃないだろうな? 彼女は日本人だ。裕福な国に生まれて、そこから溢れた金を使って遊び呆けているだけのやつじゃないか! 何故お前さんが彼女を心配するんだ? 彼女がお前の友達になってくれると思うのか? そんなことがあるはずがない。……日本人というのはいつでも愛想笑いを浮かべられる人種なんだ。お前の夢を本気で信じている訳じゃない。心の中では嘲笑っているんだ。何故それがわからないんだ?」

 

「違う。嗤っているのはあなたッ!」

 

 私は惑わせていた視線を、彼女の黒いそれに強引に捕まえられたような気がした。自分の意思と関係なく私はドロシーの黒い瞳を見ていた。まるで黒檀(エボニー)のようなそれを。

 

「あなたが人の夢を嗤うのは、自分の夢から逃げているからだよ。そうしないと自分を保てないからそうするんだ。ここにいる奴らも、ここに来る奴らも、みんなそんなやつばかりだ。弱い奴らばかりだ! 本当に強い人なんていない。みんな何かから逃げてる。だから逃げないヤツをこわがる。それで嗤うんだ。嗤わなきゃ嗤われるかもしれないって考えるから、嗤うんだよ」

 

 ドロシーは、まだハイティーンのこの恵まれない黒人の少女は、黒い瞳に涙をたたえ、声を枯らして私に訴えていた。

 

 私は立ち尽くすことしか出来なかった。まるで出来の悪い木偶のように。

 

「私の夢、あんな風に真面目に聞いてくれる人はいなかった。金持ちのイギリス人たちも、日本人も、誰も……父さんたちも、誰も嗤って馬鹿にするんだ。けど、あの人はこう言っていた。『出る気になれば何時だって出れる。何処だっていける。けど誰かに連れ出してもらっても駄目だよ。誰かの力を借りると、それがなくなったとき、その誰かのせいにしちゃうからね』って」

 

「……」

 

 伏せられていた瞳が私を見た。私は半歩ほどたじろいだ。

 

「あのひとはバカなんじゃない。強いんだ。あなたよりも、ずっと強いんだよ。どうしてわからないの? あの人は奇跡だ。手放していいわけがない! そんなことをしたら、貴方だって不幸になる」

 

 「奇跡……」私は呆けたような声を上げた。当然生まれてくるはずの嘲笑はなぜか声を顰めていた。それ以上私の声は出ない、寸分の呼吸音さえ聞こえない。だから――次に弾けるのは必然的に少女の声だった。

 

「探しにいかなきゃ。今すぐに!」

 

 

 それを遮ることを放棄した私には、手を引かれるに任せる以上の抵抗がかなわなかった。

 

 仕方なく、私達は二人で彼女を探しに行った。これ以上公衆の面前でけたたましい声を聞くのはごめんだった。何より、これ以上そんなことを思案しているのが面倒だった。私は自分に対してそんなしっくりこない、治まりの悪い言い訳を繰り返していた。

 

 散々駆けずり回った挙句、私のボートが止めてある海辺の酒盛り場にも向かった。しかし、ここにも彼女の姿はなかった。仕方なしにウエイターにそれとなく黒髪の女の話を探ってみる。

 

 するとそのうちに「長い黒髪の東洋人の女が夜の海に出たのを見た」という言葉にいきあたり、私達は不吉な予感を抱いた。今は観光シーズンだ。髪の女くらいいくらでもいるだろう。ここいらの人間には日本人かどうかの区別もつくまい。それが彼女だとは限らない。

 

 しかし予感は無視できない危機感へとたちまちに姿を変容させ、私は杞憂であればと心の中で繰り返しがら、自分のボートの停留場所に足を向けた。

 

 案の定、そこには私のボートがなかった。私の心は言いようもなく揺れた。己の私財であるそれを勝手に持ち出されたからではない。彼女がなぜ無謀な行いに出たのかという狼狽が、私の内面を席巻していた。

 

 不可思議だったからだ、あれほどに私に協力を要請しておきながら、あのような口論だけでそれを反故にしたというのだろうか? そうは思われなかった。どこか倫理的思考とは別の感覚が私に囁いたのだ。

 

 そうだ、と私はその感覚を是として受け止めた。彼女はあれほどに狡猾な性分をしていたではないか、一時の激昂でそれを見失うほど愚かではない。そう考え、私は自分でも意外なほど彼女を高く評価していたことに気がついた。

 

 確かに思慮に欠けるところは数あれど、彼女にはそれを補ってあまりある感性と不屈の念が在ったと思われたのだ。おそらく、私が言外にそれを察していたのは、それが私に欠けている部分だったからだろう。

 

 兎角。ならば、この状況は――別の原因があるということになる。

 

 瞬間、私の視界は開けた。それまで霧のように嵌っていた思考の澱が私の視野を狭めていたのだ。私の視点は天空に舞う満月の異常を感知した。雲のない、遮るもののない夜の月光は本来の円環状のはずの満月が在り得ないほどに滅形しているかのように見えたのだ。

 

 それは月が歪んでいるのではない。空間だ、時空間が歪んでいるのだ。――これだ! 私の内容を、総てを稲妻のような閃きが駆け巡った。彼女はあれを見て、空間の歪みが今まさに起こっているのだと察したのだ。

 

 彼女は浚われたのではない。自分から渦中へと飛び込んだのだ!

 

 なんという無謀だろうか。何故それほどに急ぐのか、と。一つの解が解けるや否や、また新たな疑問が生じてはいたが、もはやそれは私の足を止め得るものではなかった。きっと、彼女が急ぐのはそれが彼女だからなのだ。私は柄にもなくそんな非論理的な思考に浸っていた。

 

 恐ろしく深い霧の中、煌々と照りつけているはずの月の光もここまでは届かない。

 

 私はその中を廃棄寸前の廃船で進んでいた。私のボートは彼女が乗っていってしまったので、仕方なしの手段だった。乗り捨ててあった廃船に飛び乗った私はすでに用を成さないエンジンに手をかざすと、簡易魔術で紫電の光をそこに見舞った。

 

 朽ちて久しいが燃料は多少なりとも残っていて、充分修理できるものだった。おそらく、酔狂でこれ買ったどこかの道楽者が遊び終わったからといって乗り捨てていったのだろう。不遜な話だったが、この場合は糾してもいられない。おかげでこうして彼女のあとを追えるのだ。

 

 しかしそこで悲鳴が聞こえてきた。私は再びボートから飛び降りた。

 

 そこには押さえつけられたドロシーと、複数の男たち。そしてあのゴーグルの巨漢がいた。私を見つけた巨漢はドスのきいた濁声(だみごえ)を張り上げた。

 

「あの日本人の女を何処へ隠しやがった。てめえは勘定には入ってねぇんだ。あの女をだせ!」

 

 先日の白昼とはうって変わった凶暴な声を上げる男へ、私は平素な声で応えた。

 

「勘定とは何のことだ? 日本人であることが何か関係あるのか、どうやらお前さんの独断で彼女を追っているのではなさそうだな。お前の後ろには誰がいるんだ? それともどんな恐ろしい物がいるんだ?」

 

 そう言ってやると、巨漢は色を失ったように顔色を変えた。当初の推察どおり、コイツの背後にいるのはマフィアなんて可愛げのある連中ではないようだ。

 

 それ以上の問答は無用とばかりに巨漢が顎をしゃくった。数人の男達がじりじりと距離を詰めてくる。

 

 手にしているのは鉄のパイプや角材、良くてナイフかブラックジャックといったところだった。腰のベルトに拳銃を挿している奴もいるようだったが、この場で殺してしまっては後々面倒なので銃は使わない気なのだろう。

 

 土地柄、酔った人間同士の喧嘩など日常茶飯事なのだ。故に銃さえ使わなければ人の注意を引くことはない。という連中の腹積もりを察するのは難しくなかった。

 

 しかし、私は諸々の事情に構うことなく、咄嗟に腰のホルダーに手を伸ばした。護身用に持ち歩いている短銃身(スナッフノーズ)の五連奏リボルバーだ。コンパクトすぎて派手な銃撃戦には向かないが、それでも頑丈で普段から持ち運ぶにはもってこいの銃だ。

 

「動くんじゃねえ!」

 

 だが、手下からドロシーを預かった巨漢は太い腕で彼女を羽交い絞めにして、小さなナイフを取り出した。――もっとも、それはこの男が馬鹿でかいからであり、人間を殺すには充分すぎる代物だった。

 

 私は引き抜いたリボルバー拳銃をゆっくりと投げ捨てた。さすがにドロシーを抑えられたまま引き金を引く訳には行かない。逆に向こうは私の出方次第では簡単に彼女の命を奪うことだろう。

 

 私はおとなしく棒立ちになった。よくある光景だと思ったが、よく考えても見れば私自身には初めての体験である。何故だろうか? 

 

 考えるうちに、不意に手下の一人が私に殴りかかってきた。二人三人、とそれに続く。私はそれを棒立ちになってそれ傍観していたが、そこでようやく自分がいいままで人質になるような仲間を得たことがないのだと気付いた。

 

 しばらく殴られたおかげで、ようやくアルコールが抜けて思考がクリーンになってきたらしい。

 

 高いところから振り下ろされた長柄の一撃によって私は倒れ伏した。その私にドロシーが駆け寄ってきた。

 

 見れば、巨漢も私をもはや戦闘不能と見なしたようで、ドロシーを開放し自分は私の拳銃を拾い上げていた。そして何事かをわめきながら拳銃から銃弾を抜き出し、空の拳銃を私に向かって勢いよく投げつけた。

 

 咄嗟にそれを遮ろうとしたドロシーの額にそれは当たって、私の手元に落ちてきた。ドロシーは顔を覆って蹲った。

 

 下卑た笑い声が響いた。彼らは陽気に笑っていた。――今、みずから自分たちの切り札を手放したことも知らずに。

 

 私は手元に落ちていた拳銃を拾って立ち上がった。

 

 バカな奴らだ。どうやってドロシーとやつらとを引き離そうかと考えていたというのに、自分から命綱を手放すとは!

 

 立ち上がった私を見て、巨漢とその周囲に集まっていた五六人の男たちの目に血色の嗜虐心が満ち満ちた。そして彼らは一気に雪崩を打つようにして動き出した。

 

 私は手にした空の拳銃を、真っ直ぐに向かってくる巨漢に向けた。

 

「馬鹿が! 弾は抜いてあるんだぞ? 装填してる暇もやらねぇ!」

 

 巨漢はそんな意味の言葉を狂乱した牛のような唸り声でかき乱しながら私に突進してきた。

 

 だが私は動かない。充分に引き付けなければならない。狙いが重要なのだ。正しく照準を合わせなければならない。だから、ゆっくりと狙いを定めるのだ。それが重要なのだ。そう――、

 

「いいや、弾丸など必要ない!」

 

 銃弾の有無など問題ではないのだ。私は吼え、引き金を引いた。私の全身に備わる条理を無視した夢幻の神経回路に凄まじい熱量の奔流が循環し、ある種の結果をこの現実世界に導き出した。

 

 次の瞬間、衝撃が周囲の総ての人間の耳を打ち、巨漢の振り上げていた右腕を奇怪に変形させた。

 

 それだけではない。その背後に続いていた取り巻きの男たちもそれぞれに耳から血を流し、血に染まった腕や足を押さえてけたたましい悲鳴を上げ始めたのだ。

 

 よく狙う必要があったのだ。もしも直撃させてしまえば、これは確実に人体に大穴を穿っていただろう。

 

 私は魔力を弾丸にして魔弾を放ったのだ。鉛の弾丸とは違い実体を持たず、弾道上の周囲の空間に凄まじい歪みを発生させながら大気そのものを攪拌して進んでいく。

 

 つまり、広範囲に人体を破損しうるレベルの衝撃波を振りまくという凶悪な魔弾の射撃というわけだ。

 

 もっとも、私自身の修行不足のせいで加減が出来ず、その上使用した銃を破損してしまうという欠点があった。つまり私にとっての奥の手だったのだ。

 

 吹き飛ばされ、何事かもわからずに無様な悲鳴を上げていた男は半狂乱しながら逃げ出し、取り巻きの男どもは蜘蛛の子を散らすようにしてそれに続いた。

 

 私はドロシーの傷に簡易的な治療魔術を施し、すぐに帰るように伝えた。しかし彼女は夜の海は危ないから自分も付いていくと言った。あんな目にあったばかりだというのに気丈な娘だ。

 

 それでも何とかして説得することができた。さすがの彼女もあの連中の背後にいる得体の知れないモノのことを言われれば、おとなしくしているしかないと解っていたのだろう。

 

 私は用を成さなくなった銃を捨てて、巨漢の投げ捨てていったナイフだけを拾って船に向かった。連中があわてて落として行った銃も幾つか転がっていたが、粗悪なサタデーナイトのような銃ばかりだったので、そのままにしておいた。

 

 どの道、さっきの魔弾はそう何度も使えない技なのだ。銃だけではなく、私の身体も綻んでしまう。

 

 そして私は一人、ボロ船を駆ってロード島北の海域を目指した。おそらく――いや、確実に、彼女はそこにいる。

 



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六章 無音残響「サイレント・ノイズ」-3

※注意 今回に限り、読む人によっては思想的・生理的に不快に感じる表現、または差別的な表現が少々出てきます。どうかご了承ください<(_ _)>


 

 暗い海に出てから暫くすると霧に入ったが、私は魔術で鋭敏化させた感覚を頼りにしながら空間の揺らぎを感知し、そこ目掛けて迷わず直進した。

 

 そして――私はそれを見つけた。なんという巨船なのだろう。そこにあったのは超大型の貨物船だった。

 

 錆色のパターンが浮かぶ巨大な鉛色の船体は断崖の如き壁のようで、広大な運動場があってもおかしくないであろう甲板には、巨大なクレーンやデリックが聳えているのが見える。

 

 

 おそらくはばら積み貨物船(バルクキャリア)を改造したもののようだ。おおよそだが全長は300メートルほどもあるだろう。始めて間近で見るそれは、それが予期せぬものだった事を指しし引いても私の予想を超えて長大なものだと思えた。

 

 しかしそれ以上に、それが霞んでしまうほどの異様な光景を見つけ、私の視線と思考は諸共にそれに集中せざるを得なかったのだ。

 

 そのはるか上空、距離もあやふやな、何もないはずの空間にうっすらとまるで極限まで薄く延ばされた精緻なガラス細工で彩られたモニュメントかと見紛うものが見えたのだ。

 

 門だ。(そら)に、空間に設置されたかのようなその門の隙間から、光が漏れている。

 

 まるで刃に切り裂かれた女の腹腔のようにゆっくりと起伏を繰り返しながら、息も絶え絶えにあえぐかのように、艶かしく光が漏れ出してくる。

 

 なんということだ! 私は誰になにを聞く手間も挿まず、それがなにを目的としているのかを察した。

 

 ときおり口を開け航海中の船や飛行機をいとも簡単に飲み込んでしまうという時空間の穴。そしてそこに人工的に設けられた「門」。何のつもりかは知らないが、これを設置した人間は、この穴を固定してしまうつもりなのだ。

 

 しかい、いったい何故? そこで思索の深みに沈みかけた思考は現実に引き戻された。そうだ、彼女は、――鞘はどうしたのだろうか? 

 

 幾許の思案ののち、私は巨船の中に忍び込んだ。この光景を前にしてもなお、ただ引き返す彼女の姿をどうしても想像できなかったからだ。

 

 私は意を決して巨船に中に入り込んだ。しかし、どうしたことか、内部がいやに騒がしいのだ。

 

 ……兎角、これ幸いと騒ぎに乗じてさらに奥に侵入してみれば、中は騒がしいどころか上へ下への大騒ぎとなっていた。否、それはもはや戦時下の如き阿鼻叫喚の有り様とでもいうべきものであった。

 

 どうやら、船内にはこれでもかというほどの悪辣なブービートラップが張り巡らされていたようなのである。その騒ぎの程を見れば、その陥穽の群れが本来有り得べからざるモノである事は明白だった。 

 

 なによりも、奴らは誰かを捜しているようだった。それは私ではない。つまり、私以外にこの船に忍び込んだ部外者が居るということになる。ならば、それは――――深まる思案にまた私が囚われようとした、そのとき、

 

「ちょっと、なにしにきたのよ」

 

 背後からかけられた声は、存外にふてくされたようであった。

 

「……これなら、私に頼む必要はなかったんじゃないか?」

 

 振り返る。皮肉のつもりはなかったが、彼女はまた憮然とむくれていた。しかし、この惨状を見れば一人でも充分目的を果たせそうではないかと思えたもの、無理はなかっただろう。

 

 それでも、こうなってしまっては仕方がない。私たちは会話を続けながらも一路、甲板に引き上げられてしあったという私のボートを目指して走っていた。とにかく、こんな狭苦しい場所ではそのうち逃げることも出来なくなる。

 

 急場しのぎのブービートラップも、そう、数を仕掛けられたわけではあるまい。すぐに突破されるのが落ちだ。ここは一刻も早く逃げるしかない。

 

「……にしても、なぜこんなことになってるんだ? いきなり殴りこむ必要は、いくらなんでもないだろう」

 

「違うわよ! 私は喧嘩する気なんてなかったのに、あいつらに有無も言わせずにつれこまれたんだ……だから頭来てさ」

 

 やはり、奴らは私達を狙っていたらしい。あの巨漢が執拗に彼女を探していたことを思い出した。しかしそれがなくとも、私はきっと彼女の方からこの船に乗り込んだのではないかと思った。

 

「言っただろう? 後ろめたいことのある連中は近づいてくるものが友好的かどうなんてことは考えない。そういう小心な連中にとって近づいてくるものはまとめて敵なんだ」

 

 とかく、私は安堵の息をもらした。多少手傷を負ってはいても、どうやら未だ口論する程度の気力はあるらしい。

 

「なに? こんなとこまで説教しに来たの?」

 

「……そんなところだ」

 

 しかし口論を続けたまま甲板に出ようとした次の瞬間、私たちの体は突如として鉛の服を着たかのように重くなった。

 

「――――ッ!」

 

 呪封印! 私は反射的に理解していた。捕縛結界――つまりは魔術のトラップに捕らえられてしまったのだ! 気がつけば、いつの間にか巨船を覆っていたはずの霧のヴェールは消え去り、それまで気配を消していた筈の人間達がそぞろに姿を現し始めた。

 

 しかし、各々の手には小銃や拳銃の類が握られている。彼等は魔術師ではないらしい。どうやらもともとこの界隈にいた海賊たちのようだ。

 

「ちょっと! これが魔術ってやつ!? どうにかなんないのッ!」

 

「少し黙っていろ……下手に暴れないほうがいい」

 

 迂闊だった。敵の中に魔術師がいるというなら、このぐらいの罠は予想しておくべきだったのだ。われながら不思議だった、何故私はこんなにも己を見失ってまでここに駆けつけてきたというのだろうか?

 

「おとなしくしなさい。言うことを聞かなければ殺します」

 

 東洋人らしきひょろりとした男が一人林立する黒人たちの間から顔を覗かせた。

 

 男は酷く凍てついた目をしていた。それは金属的な硬質さは持ち合わせず、爬虫類のような湿った陰険さを匂わせていた。私は知らずに眉を顰めていたかもしれない。

 

 決して醜悪な容貌ではないのだが、この男には好感というものを抱くことができない。

 

 一方鞘のほうを見やると、憚りなく口までへの字に曲げて盛大に眉を顰めていた。どうやら同じ東洋人から見てもこの男の印象は()()()()()()ということらしい。

 

「二人とも、日本語がわかるそうですね」

 

 白蛇のような顔の男が言った。押し黙った私達の沈黙を肯定と解釈するように頷いて、男はついてくるように、といって歩き出した。背後からいくつもの銃口に睨まれては、望む望まざるに関わらず、私達もそれについて歩くしかなかった。

 

 すると鉛のように加重された身体を引きずるようにして進みながら、小声で彼女が私に言った。

 

「なんかやばそうだから聞いとくけどさ、ホントに説教しに来たわけ?」

 

 何を言い出すのかと思い、私は応えた。

 

「……いいや、助けに来た。ドロシーがお前の居場所を教えるように強要されたと知らせてくれたんだ。お前のことを心配してな」

 

 すると彼女は不満そうな目つきで私を睨み上げてきた。

 

「それだけ?」

 

 私には何のことやらわからず、彼女の顔を見た。

 

「心配してくれたのはドロシーだけ? それとも、あんたも?」

 

「……それが、いま重要か?」

 

 私は溜息を漏らした。私なりに彼女の言わんとしていることが解りかけていたが、命を失いかけているこの状況で憂うべきこととは思えない。

 

「重要なことは何時だって重要なの。何時かは問題じゃないの!」

 

「何を喋っている!」

 

 背後の黒人が英語でまくし立てた。どうやら日本語で話していた私達の会話までは解していないらしい。しかし、いらだったような言葉を発しながら、銃口は常にこちらを捉えている。

 

 訓練された人間だというのがわかった。港でやりあったチンピラとは違うらしい。命令さえあれば簡単に人の命を奪いそうな、ある種独特の雰囲気というものが感じられた。 

 

 こうして後ろに付かれていると、もしかしたら人間ではなくドーベルマンか何かなのではないかと思えてくる。それが何処か魔術師(ひとでなし)の哲理を通じるようで、私はこの男達がまとめて気に入らなかった。

 

「……で、ドロシーは無事だった?」

 

 声を顰めて彼女は再び言った。黙れといわれてもめげないのは彼女らしいと私は思った。

 

「問題ない。昼間の巨漢は痛めつけておいたから、彼女に危険は及んでいないはずだ」

 

「ホントに? 逆じゃないの? 顔腫らしちゃってさ」

 

 私は黙り込んだ。調子に乗って奴らに殴らせすぎたかと思った。失策だっただろうか? いや、しかしなんの失策なのだろうか?

 

「……ごめんね。私のせいだ……」

 

 失策だった。私が不用意な傷を負えば、彼女が余計な心痛を感じる事になるではないか。私には今までその因果関係を予想することすら出来なかった。

 

 なんと言い繕ったものかとおぼろげな声を出そうとしたそのとき、

 

「こちらです。主がお待ちだ」

 

 という声を聞いた。瞬間、私たちはクレーンや山のような貨物が所狭しと並ぶ甲板から、白く開けた空間に移動していた。月光の差し込む夜の天蓋と、慎ましげに頬を撫でる潮風に出迎えられた。

 

「……なにこれッ!? 私、瞬間移動した?」

 

 いや、そうではない。おそらくは一種の拡張現実被膜。どうやら今まで見ていた船の御姿は偽装されたモノだったらしい。ここは依然といて大型貨物船(バルクキャリア)の甲板だ。いままで見えていた()()()()の貨物や多くのクレーンこそが魔術的な偽装だったのだ。

 

 しかし一般人である彼女にそれを察しろという方が無理な話だろう。彼女がパニックに陥らぬようにと私はまた声を掛けようとした。――――が、

 

「――すっごいよ! マジでこんなことあるんだ! ねぇ、今の見た? 瞬間移動だよ、テレポートだよッ!! ほんとにあるんだ。あったんだ!」

 

 「…………」声を掛けようとしたままの恰好で固まる私を余所に、彼女は後ろ手に縛られているのことを忘れたかのようにジタバタと飛び跳ね、全身で快哉を叫んでいる。どうやら、要らぬ心配だったらしい。

 

 心配する必要もないようなので私は前を向いた。

 

 本来の甲板は簡素で整えられた空間だった。その中央には優美な……否、ひたすらに華美で奇妙な四阿(あずまや)やトーテムが規律正しく配置されている。しかしそれは日本の物とも大陸のそれとも微妙に、そして決定的に異なっているものだった。

 

 そして、そこには一人の老人が立っていた。

 

 宮殿の前に立ち、こちらを見つめて来る、目の細い、これまた東洋人の漢だと見受けられた。真赤で、華美な装飾を施された服装をしていた。それが日本ではない、何処かのアジア諸国の民族衣装なのだろうと察せられたが、私にはそれが悪趣味だということ以外の情報は判じきれなかった。

 

 背筋は伸び、長身の躯こそは立派なものだったが、その容貌は骸骨に多少の飾り付けをしただけの安いホラーハウスの備品のように思えた。

 

 銃口に小突かれながらその老人の前まで行くと、私達を先導した白蛇のような男が深々と礼をとった。

 

「いけないねぇ。彼女は大事なゲストなのだから。これ以上傷つけるべきではないよ」

 

 先頭で礼をとった男に目配せをし、老人は以下配下の黒人たちに流暢な英語で言った。

 

「さて、始めまして元気な日本人のお嬢さん。部下が失礼をしたようで悪かったね。てっきり無粋な鼠の類かと思ったのだよ。ただ、君がただの観光客だなどと言うものだから、我々も対応に困ってしまってね。そんなことはあるはずがない。ただの迷い人がここまで来れる筈がないのだからね」

 

 今度は日本語だった。しかし口早に喋る不快なイントネーションは本当に彼女が話す言語と同じものなのか訝るべきものだった。

 

 この老人は彼女がこの海域に近寄れないようにするための結界を抜けてきたことから、彼女を何処かの魔術集団のエージェントなのだと勘違いしているのだろう。

 

 無論彼女にそんな技能があったわけではない。実際には私のボートの方にそれなりの魔術的な備えがしてあっただけのことだ。私がいなくても簡易的な結界をすり抜けるくらいのことは出来たのだろう。

 

 だが、そのせいでこの見るからに小心者な老人の執拗な懐疑心に火をつけることになったらしい。

 

「さあ、言いたまえ。君は何者だ? 誰の命令でここまで来たのかね」

 

 老人の目は彼女の黒い瞳に注がれている。

 

「早めに言ったほうが身のためだ。残念ながら、君がここから帰れる可能性はゼロなのだから。しかし悲観することはない。君の犠牲は、わが崇高なる儀式の礎となるのだからね」

 

 唐突に、老人は在らぬ方を仰ぎ、語り始めた。

 

「良い空間の鳴動だ。私には我が子の胎動のようにも聞こえる。ようやくこの門を開くのに充分な準備が整った。しかし儀式には生贄が必要でね。若い女一人分の生き血が必要になる。何せ大規模な儀式だからね」

 

 老人の視線は、蜃気楼の如く虚空に映し出された巨大な門を見据えている。

 

「だが、私は考えた。その儀式に捧げる生贄は、何処の馬の骨とも知れぬ。ましてや黒んぼの女では相応しくない。とはいえ、堅気の観光客を浚うのは、これも憚られる。さてどうしたものかと思案を重ねているときに、君が現れたのだ。ここまで来たということは堅気ではない証拠。そして理想的なことに、君はこの儀式に相応しい条件を備えている」

 

 老人はまくし立てた後、彼方を仰いでいた視線をぐるりと廻し再び彼女と、そして私を舐めた。正直、怖気の走る狂気を孕んだ眼だった。

 

「ふふ、何かを言いたそうな眼だね、お嬢さん。まあ、お嬢さんには儀式の一部になっていただくわけでもあるし、何よりも同郷のよしみでもある。最後に私の崇高なる目的を教えて差し上げるのも礼儀というものだろうねえ」

 

「……」

 

 いい加減、何か言いたそうにしている彼女に、私は老人からは見えぬように目配せした。『もう少し、静かにしていろ』と。

 

 兎角、私は察した。この男が、この怪異の元凶である魔術師なのだと。そして、この男の魔術師の格が著しく低いということもすでに解っていた。

 

 現在のこの状況はあまりいいものとは言えなかったが、しかし最悪ではないと私には判断できた。なぜなら、複数の人間に取り囲まれるという状況は魔術師と対峙した場合に限り、吉兆なのだ。

 

 なぜなら、数に頼んで己の優位を護ろうとする時点でそれはあくまでも人間の処方であり、高位の魔術師ほど数に信を置くなどという俗物的な意識は持ち合わせていないものなのだ。

 

 要するに、この老人の魔術師としての格が窺い知れるということになるのだ。

 

 そんな私の思考も露知らず、老人は叨々と言葉を続けている。私の視線が甲板から見える門に流れたのを見て取った髑髏のような面貌の魔術師は、嬉々として訊かれてもいないことを喋りだした。

 

「気になるかね? そうだろうねえ、この門が、そして我々の崇高なる目的が」

 

 老人はそこで言葉を切り、しばし逡巡するかのようにツカツカと円を描いて歩き回った後、勿体つけたように私達に振り返った。しかしその瞳孔は開き、ゆらゆらと不明確に揺れていた。落ち着きの無さを誇示しているように見えて滑稽だった。

 

 この老人は私達に眼を向けていたが私達を見てはいなかったのだ。その視線は揺れて虚空を、いや、己の妄執のヴィジョンを己だけの視界に見ていたに違いない。

 

「君たちのような知識、教養のない者に言ってみても理解できる部分は少ないかもしれない。それでも聞くことに意味はある。よく、耳を澄ましていたまえ。

 ……その扉の向こうには別の世界があるというのだよ。『此処では無い何処か』だ。しかし、実を言うとそれがどのような物なのかは、まだ定かではなくてね。

 あれは、それを調べるための門なのだよ。美しいとは思わないかい? これを作り出すのに、どれほどの年月と労を費やしたことか……」

 

 老人はうっとりと虚空を舐めて嘆息した。それほどに己の所業の回顧が愉快らしい。

 

「何のためにだ」

 

 私は応えた。こういう手合いは自分の自慢話というヤツが事の他、好きでたまらないというのが通説だ。せいぜい喋らせて機を探るべきだと考えたのだ。

 

「おっと、こちらの白人の紳士は日本語がお上手ですな。発現を許可した覚えはないが、良い質問だ。お答えしよう。この場所はアウターゾーンとも呼べるものなのだ。簡単に言えば未開のフロンティアとでも言うべきかな。このような土地はいい。いくらでも利用価値がある。例えば、そう。「農場」を作るというのはどうだろう?」

 

「農場?」

 

「その通り。今のままではいい材料が手に入らないのでね。我々が日本全土にもたらしたいと考えている霊薬の原料がね」

 

「霊薬だと?」

 

 老人の口角がへし曲がった。それが愉悦なのだとわかるまでにしばらくかかった。笑顔と言うにはあまりにも醜悪に過ぎるものだった。

 

「人肝、つまりは人間の生き胆だよ。出来れば若く健康な子供のものがいい。これから魔術的過程を経て精製される薬は人に一時的な不死を約束するのだ。誰もが欲しがる商品だとは思わないか?」

 

 眼を剥く私たちに気を良くしたのか、老人の語調に拍車がかかる。

 

「我々は日本に、あの絶好の孤島に楽園を作りたいのだよ! そこから創られる霊薬で日本と言う国を操作することも出来るようになるだろう。あと百年、いや数十年もすればあの国は老いる。いやいや、すでに老い過ぎているといっても過言ではない。

 老人ばかりで埋め尽くされたあの国に不死の霊薬を持ち込めばどうなると思う? そうすれば、日本は我らの楽園となる。この計画が達成されれば百年も待たずして聖堂教会も、あの高飛車な時計塔の住人たちも、我らを無視できないようになる。もっとも気付いたときには遅いのだろうがね!」

 

 感極まるかのように語る魔術師は、恍惚とした表情で悦に浸りきっていた。

 

「何より、日本人に対してもっとも有効な人丹を作り出すにはやはり、日本人に合った性質の肝が必要なのだ。つまり日本人の、それも若く健康な肝が必要になってくるのだよ。

 しかし、現時点であの国から大量の人間を浚うことは、難しい。無駄に治安が良い上に、何よりも健康な肝を持つ若者が少なくなっているのだ。堕落しきった生活を重ねてはいくら若くてもろくな材料にならない。そこで我々は一から日本人の血を引く〝家畜〟を育てようという結論に至ったのだよ」

 

 老人の語る妄言はまさしく狂人の戯言(たわごと)であったが、たしかに人が薬と称して同じ人間の臓器を食らうというのは人類史において何もそれほど杞憂な例ではない。

 

 実際、近代日本においても明治政府が人肝、霊天蓋(脳髄)、陰茎などの密売を厳禁する弁官布告を行った例がある。

 

 東西の洋、文明の類を問わず、神代からはては現代に至ってなお、そこに禁忌的または神秘的魅力を見出す者は後を絶たない。無論魔術においても重要な位置を占める分野であることは疑いようがない。

 

 この老人の日本民族に対する嗜虐的モチベーションこそ不可解にして慮外のものだったが、少なくとも魔術師の理念に照らすならそれほど規格外の試みとも思われない。

 

 私はそう判じた。むしろ魔術師としていうならもっと極大的な目論見を持っていてもよさそうなぐらいだ。

 

「あんたこそ、何処の組織なんだ? 大手の魔術組織ならこんな真似をするならもっと厳重な警備を敷くはずだ」

 

 私はかねてよりの疑問を投げかけた。この老人の言動から察するにこいつらは魔術師とは言いがたい、なにか別種の秘密集団ということになる。いわゆる魔術師もどきだ。

 

「……我々は魔術師の組織ではない。もっと崇高な目的を持った。そう、世界を正しい、あるべき姿へ導くための革命組織なのだ!」

 

 まるで快哉を叫ぶように、老人は全身で言葉を締めくくった。まるで演説をやりきったように息を切らして、その顔には澱んだ精気が満ち溢れていた。

 

 そのときだ。不意に、傍らの鞘が鼻を鳴らした。あざ笑うかのような乾いた笑いを洩らしたのだ。私の指示に一時は従っていたが、それももはや我慢の限界だったらしい。

 

 私としてもこれはある程度予想の範囲内のことだった。なにせあの口をいつまでも閉じているというのはのは、なかなかの重労働だったことだろう。

 

「……何かね、お嬢さん? 同郷のよしみで最後に話くらいはさせてあげてもいいが」

 

 余裕ぶっているが、そのときすでに抑えられない怒りがこの枯れ木のような老人の癇癪を起こしそうになっているということが容易に察せられた。それでも彼女は澱むこともなく硝子の様に硬く澄んだ声と視線を向けた。

 

「馬鹿みたいだよ、あんたたち。そこまでやって手に入るのが金? 面子? 権力? 程度低すぎだよ。後何千年生きたって、あんたには人生のほんとの意味がわかんないんだろうね」

 

 老人の顔色が一気に急変した。私の読みは当たっていたらしい。胆の小さい人間というのは、他人の言葉に敏感すぎるものだ。しかしこの男の小物ぶりは私の予想を超えていたらしい。

 

「ハッ、こ、小娘が! 知ったような口を、き、聞くんじゃないぃ!」

 

 えづき、唾を飛ばしながら声を荒げる様は醜悪を超えて、滑稽ですらあった。鞘は笑うでもなく、恐れるでもなく、声を止めない。

 

「ていうか、同郷って言ったけど、あんた日本人じゃないよね? 似せてるけど、違う」

 

 すでに狂気の色に染まろうとしていた老人の面相から怒りがふいに消え失せ、そこに無味乾燥な「渇き」が表れた。小さすぎる肝を焼き焦がしていた憤怒が、度を越えて色の無い明確な殺意へと変じたのだ。拙い! 私は状況の危険度が急激に高まっていくことを案じた。

 

「……国籍上は日本人さ、ただ、そこで生まれついたというだけだ。血まであの国に染まってはいない!」

 

「ハッ、道理で」

 

 しかし、彼女は止まらない。止まろうとはしない。

 

「何だというのかね……」

 

「臭いんだよ、あんた。日本人(あたしら)の真似するには無理がある」

 

 瞬間老人は凪いだ海原が爆ぜるかのように、息を失った後で絶叫した。

 

「キ、キ、キ、キサマァァァァァァ! ……おい!」

 

 老人が言うが早いか、白蛇のような男が音もなく進み出て彼女の顔を打った。唇から僅かに血が筋を引いたが、黒い瞳はさらに強い光を孕んで老人を睨みつけた。

 

 そこで己の醜態を悟ったのか、息を切らしていた老人ははた、と怒声をばら撒くのをやめて微笑を浮かべた。そのまま、手振りで用意させた豪奢な椅子へと身を沈めた。白蛇のような男もつき従うようにその側に立った。

 

 それがこの老人のもっとも安心できる定位置のようだった。どうやら、あの老人は心を鎮めて己の余裕を再確認したいらしい。涙ぐましい努力だが、それでも本人の気は落ち着いたようで、最初と同じく静かな声で語り始めた。

 

「……勘違いしないでもらいたい。私は日本人という、無知蒙昧な劣等人種に対してそのように扱うべき理と権利を有しているのだよ。

 確かに日本人は我々にとって愛すべき隣人だ。友好によって結びつくべき間柄だ。しかし忘れてはならないことがある。それは序列というものだよ。

 君たちは忘れてしまったのだろうね。世界には上下の結びつきというものがある。儒教ではそれを覆すことは絶対の悪なのだよ。

 君達が犯した悪は後の数千万年を持ってしても拭えるものではない。敬うべき存在を忘れてしまっては君たちは不幸になるだけだ。そして、我々には君たちを正しき序列の世界へと導くべき義務があるのだよ」

 

 虚空を見つめた老人は低く、しかし異様なまでの執念のようなものをありありと漲らせながら、言葉を続ける。

 

 一見無感動に見開かれた両眼は次第に充血し、その骸骨のようだった面貌をよりおどろおどろしく彩り始めていた。平淡なようでいて時々しゃくりあげるようにトーンを伸ばす気味の悪いイントネーションも、その醜悪な様相にはかえって相応しいようにも思えた。

 

「本来敬い、頭を垂れるべき私達と対等の口を聞き、あまつさえ一時とは無条件に敬うべき我々を支配下においた……。

 これは許されることではない。後の幾千万年の時をもってしてもぬぐえるかどうか……。

 にもかかわらず、君たちは何時までたっても己の非を認めようとしない。故に私はその歪みを正さねばならない。

 魔術という「力を持つ者」は世界を是正しなければならないのだ。

 勘違いはしないでくれたまえ、私は独りよがりな優越感からこんなことを言うのではない。これは世界の秩序を護るためのものなのだ。世界を導くべき優越な人種にはその義務があるのだよ。

 そう、私はあの国に理想郷(ユートピア)を作りたいのだよ。確かにこの半世紀、日本は実利の上で十分な成果をあげたかもしれない。しかし残念ながら、卑賤国である日本には最初からその資格が備わっていないのだよ。

 それをどうして自覚することができないのか……。それさえ君達が心にとどめていれば、己が矮小なる存在なのだと知ってさえいれば、世界にこんな歪みが積もることはなかっただろうに。

 故に罪は重い。故に、君たちは贖罪をしなければならない。その身体で、その臓器で世界に対して己の傲慢を謝罪をしなければならないのだよ。

 確かに過酷な道だ。簡単にはいかないだろう。しかしそれは正義だ。君達があるべき形へ納まるための試練なのだ。私は生涯を掛けて君たち日本人の贖罪を手助けしたいのだ。

 世界はとっくに君たちを見捨てている。しかし私は手を差し伸べよう。これ以上増長する前に、君たち日本人をあるべき正義の形へ誘うのだ!」

 

 声は次第に熱を帯び、感極まるようですらあった。まるで自分の語る言葉に自ら聞惚れているかのような奇怪さがあった。

 

「故に、君たちのような無法者をのさばらせておいたのでは世界は混迷を極めてしまう。手始めに、私があの島国をあるべき形へと修正し、世界に理を導くのだ。これはその手始めにしか過ぎないのだよ」

 

 老人の言葉は支離滅裂で、何よりも体内に持て余した歪んだ欲求の汚濁を吐き出すかのような行為としか見受けられなかった。

 

 どうやったら、ひとりの人間をここまで妄執の虜とすることができるのだろうか。

 

 私は今度は魔術的側面ではなく、この男の不可解な行動原理について推察していた。

 

 おそらく華夷思想をこじらせた階級意識から、日本人を見下したいプライドと、実際には到底それが敵わないのだという事実の間で、彼らはどうしようもない捻れをその心身に溜め込んできたのだろうか?

 

 憐れな老人だった。そんな妄執に縋らずとももっと健全に意手を取り合って生きている人々もいるだろうに。もっとも、二重の意味で私が言えたことではないのだが。

 

 その汚泥の如き妄執の標的とされた鞘は溜息一つをこぼして、後は何もいわなかった。もはや何を言っても無駄だということだったのだろう。いかに彼女でもこの男には言葉が届かないのだと悟っていたようだった。

 

 不意に、私自身にとってはどうなのかという懐疑が湧き起こってきた。この男のレゾンデートルを推察するうちに、では己はどうなのかという考えに思考が及んだのだ。

 

 己にとって日本人とはなんなのか、直接は行ったこともない、異郷。しかし父と言う存在を通してその地は確かに私の中に形づくられている。己から父を奪ったもの。そして、過去確かに憧れた国でもある。

 

 ああ、そうか。私は彼女の中にそんな屈折した異郷のイメージを重ねていたのかもしれない――

 

 そして私は彼女の顔を再び窺った。彼女はじっと強い光を発する眼光で老人を見据えていた。

 

 己の妄執を一通り語った老人は尋ねる。

 

「……さあ、それではあらためて訊こうか。誰に雇われてきたのだ。例えこのことを知っていたとしても、それで邪魔をしに来た以上、何らかの組織的後ろ盾がなければそんなことをするはずもない。さあ、言いたまえ」

 

 最大限の余裕と優位性を演じながら、語りかける老人に、しかし彼女は失笑で応じた。これ以上交わす言葉など何もないと言わんばかりに。

 

 それを見聞した老人は醜面を真赤にして声も無く激昂した。

 

「……ッ、…………ッッ、し、しかしまあ、いい。お前を喋らせてから儀式に掛ける必要がなくなった。まんまと秘密を喋ってくれるお仲間が現れたのだからな。おかげで君を生かしておく必要がなくなった……。生贄にする過程で新鮮な生き胆も手に入る。これで……ッッ!?」

 

 そのとき、誰も予期せぬ振動、そして衝撃が()()()襲った。

 

 それは爆発だった。次いで、周囲の光の一切が消失した。停電か? しかし妙であった。なにをしても、いつまでたっても目が闇に慣れず、視力がまるで機能しないのだ。そもそも我々が居たのは屋外、星空と潮風に晒された甲板の上である。証明が落ちたとしても、月の、そして虚空の「門」から降り注ぐ光までが消える筈はない。

 

 その暗幕の怪異に誰もが半狂乱になりかけたところで、光が戻った。それまで銃を構えて私たちを取り囲んでいたはずの男たちは、その悉くが昏倒していた。

 

 これをやったのは私だ。何のことはない。咄嗟の爆発に乗じてお粗末な拡張現実の結界を乗っ取ってやったのだ。その手並みから見ても、やはりこの男は私の父とは比べるまでもない三流でしかないことが証明された。

 

 後は縄から抜け出して、視界を失った雑兵連中を打ちすえるだけでよかった。鞘がこの魔術師もどきの意識を引き付けてくれたおかげだ。

 

 

「馬鹿な、き、貴様ッ、魔術師だったのか……」

 

 残ったのは魔術師もどきの老人と、それを護るあの白蛇のような男だけだ。

 

「いいや、今は――違う!」

 

 やおら突進しようとする私を前にして、老人は目に見えてたじろぎ、狼狽した。たいそうな武装の仲間を引き連れていたことといい、この男の器の矮小さはどうやら筋金入りらしい。

 

 咄嗟に詰め寄ろうとした私の前に、しかし蛇のような顔をした男が立ち塞がる。シャアアアァァァッ! と、蛇の鳴らす威嚇音のような唸り声と共に、撓りの効いた鋭利な蹴りを放ってきた。

 

 まるで本物の蛇を想わせるすばらしい体術だった。私はそれを左手で受けようとした。が、途端に男の蹴り足が三つにぶれた。

 

 それらはコンマ数秒のうちにそれぞれ別々の動作を敢行し、威嚇、拘束、破壊のそれぞれの役割をまったく同時に行った。

 

 やはり、この男だけは手練れだ。先ほども、主である老人が視界をジャックされて狼狽える脇で、事態に動じることも無くこちらの動向を察知していた。それが無ければ既に決着はついていたことだろう。

 

 蛇のように私の腕は絡め取られ、その状態でへし折られた。防御をなくした私へ再度鉄棍の突きの如き蹴りが見舞われ、鳩尾の辺りを打たれた私は膝をついた。

 

 やはり凄まじい蹴りだった。絶技だ。常人ならあばらをめちゃくちゃに砕かれて昏倒していただろう。鉄板さえ貫きかねない威力だった。

 

 しかし同時にどうと何者かの倒れ伏す気配があった。私に凄まじい蹴りを放ってきたあの男も私とは位置を入れ替え、交差する形で崩れ落ちていたのだ。

 

 何があったのかは簡単な話だ。私は左手を砕かれると同時にそいつの肩口にあの巨漢の男から奪ったナイフを突き立てていたのだ。

 

 無論それでも男は私に蹴りを放ってきた。ヤツが最後の蹴りを放つのと時を同じくして、私は高電圧の電流に変換した魔力をそのナイフからこの男の体内へと流し込んでやったのだ。

 

 伏した蛇顔の男はびくりとも動かなかった。死んではいない筈だが、スタンガンを体内にねじ込まれたようなものだ。いくら常人離れした体力があってもしばらくは身じろぐこともままなるまい。

 

 それを確認した私は、身体の痛痒を無視して立ち上がった。

 

 老人は信頼していた側近が敗れるという展開に悪夢を見た童子の如くおののいていた。

 

 と見るや、咄嗟に震える手で懐からいくつかの球を取り出してそれを放った。やおら、その球は数倍の大きさに膨れ上がり、中からそれぞれに野太い毒蛇が現れた。

 

 一見して蝮のように見えたが、その大きさと凶悪な造詣から、おそらくは魔術的に作り出された魔道精製生物(アーティファクト・クリーチャー)であろうと察せられた。

 

 蛇は私に向かってもたげた鎌首を伸ばしてくる。野生の蛇ではありえない速度と悪意のある狡猾な連携。私も前に出るのを躊躇った。

 

 いまの戦闘のダメージは無視できないものがあったし、何よりも一流の修練を受けて来てはいたものの、私にはまだまだ応用の能力が足りなかった。

 

 相手が人間以上のものとなると、さすがに手こずってしまう。

 

 蛇たちの動きは人間とは違い、素早く、狡猾で、何よりも無駄がなかった。それらに囲まれた私は追い詰められてしまった。しかし、そのとき逆に、弾ける様に動いたのは鞘だった。

 

 彼女は咄嗟に蛇に向かって何かを放り投げた。投げつけるのではなく、手渡すように軽く放ったのだ。途端、それは凄まじい勢いで炎を伴い燃え盛り始めた。

 

 それは携帯式の焼夷弾だ。私の身長よりも高い位置に頭をもたげていた蛇たちは一斉にそれに注視した。

 

 (まむし)という蛇は頬の部分に所謂熱感知(ピット)器官というものを備えており、視力の効かない闇の中でも確実に獲物を捕らえるのだという。それゆえに蝮は高い温度の場所を目指して近づいてしまう習性がある。

 

 このため山火事などがあると、火の中に飛び込んだ蝮が大量に焼け死んでいるのが見つかることがあるのだそうだ。

 

 とはいえ、さすがにこの魔の大蝮達は火の中に飛び込むような真似はしなかった。しかしそれを無視することも出来なかった。一斉に、磨かれた皿のような凶悪な視線が燃え盛る炎の赤に注がれる。それは私に充分すぎるほどの勝機をもたらした。

 

 障壁となっていた蛇たちの脇を一気に通り抜けた私は、ノータイムで仰け反った老人を組み伏せた。未だに甲板に突っ立っていたのが間違いだ。老人は蛇の後ろで逃げることもせずに傍観していたのだ。

 

 私は先ほどと同じように腕から最大限の電流を放出し、この老人のお粗末な魔術回路をジャックし、無理やりに魔力を流し込んでやった。

 

「――――――ッッッッ!!」

 

 老人は声にならない悲鳴を上げて激痛にのたうった。あらゆる神経に無用な電気信号を過度に流し込まれているようなものだ。たまったものではあるまい。

 

 その間、鞘はといえば、私が飛び出すのと同時に昏倒した男たちの手から拾い上げていた拳銃で、焼夷弾に注意を引かれてそっぽを向いた蛇たちの頭を順に打ち抜いていたのだった。とても素人に出来る動きではなかった。

 

 彼女に向けて振り返り、私は言った。

 

「本当に、私が来たのは()()だったようだな」

 

 それを受けて彼女は肩を竦めて苦笑いをした。

 

「そうでもないよ。囲まれたままならヤバかったし。ほんとは、こんなの使いたくないしね……」

 

 そう言って、彼女はオートマチック拳銃のスライドを連続で引き絞って弾倉を空にすると、それを投げ捨てた。

 

 自分で携帯していいなかったこともあり、彼女はそういう凶器の類を忌避しているようだった。

 

「た、助けて……」

 

 息も絶え絶えの魔術師は逃げることも出来ずに哀願して来る。当然、私は聞きいれるはずもなかった。

 

 腰に刺していた自前のスイッチ・ナイフを引き抜くと、すでに魔術師ではなくなった老人に斬りかかろうとした。しかし止めを刺そうとする私の背後から届いた彼女の声は言うのだ。

 

「いいよ、殺さなくて」

 

「……しかし、」

 

 ゆるんだ私の手から這い出した老人は嬉々として彼女の足許にすがり付こうとした。私はそれを諫めようと思った。この手の悪人は人の善行を善行とは受け取らない。この骨の髄まで腐乱したような老人なら尚の事だ。

 

「お、お、おお……あ、ありが……」

 

 しかし礼を言おうとする老人に彼女はばつが悪そうに告げた。

 

「や、そーじゃなくてさ。さっさと逃げた方が良いよってハナシ。……今度の爆発はさっきの奴の比じゃないと思うから……」

 

 言うが速いか、――私たちの足場になっているこの巨大タンカーの船体の腹の辺りで凄まじい轟音が響き渡り、同時に衝撃が私たちを襲った。

 

「――――」

 

 老人は息を呑んだ。無論私もである。あまりに慮外の事態だ。海洋上に流れ出した燃料が燃え上がり、暗い海原は今や真赤な炎に彩られ燎原の炎の如き様相を呈していたのだ。

 

 甲板にに転がっていた男たちもようやく幻覚から眼を覚まし、燃え上がる炎を見て散り散りに逃げ始めた。

 

「ほら、あんたらも起きな」

 

 鞘は眼を覚まさなかった者を助け起こして逃げるよう促していた。私はそれでも老人の動向を注視していたが、彼は夜に浮かび上がる門を見つめたまま動こうとしなかった。

 

「ああ、門が、門が――」

 

 海を覆った炎は近接していた硝子細工のような門にまで影響を及ぼしていたようで、次第に門は幻影のように歪み、融解し始めていた。

 

「……」

 

「いくぞ、急げ」

 

 へたり込む老人を残し、私は彼女を連れて構わず出口を目指した。背後では自力で目を覚ましていた白蛇面の男が老人のもとへ歩み寄っているところだった。結局、彼等が逃げたのかどうかは定かではないし、知ろうとも思わなかった。

 

 船外に出た私たちは、私が乗ってきたボロ船まで辿り着くとすぐに巨船から離れて出切る限り距離を取った。すると間もなく轟音とともに船が炸裂し、中腹から折れ曲がった。

 

 私たちはぎりぎりのところで火の手に播かれることなく海原へと脱出できた。

 

「……また、ずいぶんと派手にやったな……」

 

「や、なんか思ったより船に在った燃料が多かったみたい。まぁ、火力の微調整なん望むべくもないし……」

 

「――ッ!」

 

 そのときだ、後は焼け崩れるだけかと思われた門が、ひどく重苦しい音を立てて鳴動し始めたのだ。私は直感的に悟った。これは、拙い。

 

 次元の裂け目が、そこに設置されていた「門」と共に船の爆発による連鎖的な反応を起こし始めている。しかもあの空間の亀裂がどのようなリアクションを起こすかは誰にも予測できない。

 

 私は急いで船をスタートさせた。が、遅かった。

 

 次の瞬間。次元の裂け目は眩い閃光とともに弾けたのだ。

 

 そして、私たちの眼に飛び込んできたのは見たこともない光景だった。

 

 金と赤と黒の曲線が作り出す極彩の極み。バミューダの海に垣間見える次元の扉、その先の世界と、この時空とが交じり合い、えもいわれぬ光景が展開されていたのだ。

 

 私は恐怖も忘れ、己の内容を埋め尽くした鼓動とともにその光景に魅入っていた。

 

 極度の地震のような強い揺れが空間そのものを揺らし、私たちは船の上から投げ出された。意図するまでもなく、私は彼女の身体を抱いていた。彼女も私の身体にしっかりと抱きついてきた。

 

 極彩の光景は数瞬の瞬きの内に去った。私たちは投げ出されたままに海の上に浮かびながらそれを見上げ、しばし、浸るようにその場で黙していた。

 

「……これで、よかったのか」

 

「……ま、いいでしょ。殺しちゃったらあんなのでも気分よくないだろうし、それに、あんなのにどうこうされるようじゃ、どの道日本もおしまいだろうしね」

 

「そうじゃない。()()を見たかったのか、見れてよかったのか、という意味だ」

 

「ああ。……うん、よかった。予定とは違うけど、満足。スッゴイ満足だよ――。一度見てみたかったんだ。この世とは別の世界の光景をさ、窓の向こうにでもいいから見てみたいって思った。思ったら、あとは勝手に体が動いてた……」

 

「……本当に、そのためだけに、ここまで来たのか」

 

「今度は信じる?」

 

 重ねて問うた私にまた光陵の溢れる真っ直ぐな眼差しが帰ってきた。私にはそれ以上の言葉がなかった。言葉はいらなかった。偶然とはいえ、あんなものを見せられては、意味がないなどとも言っていられない。 

 

「信じるしか、……なさそうだな」

 

 満足そうに霧の晴れた満天の星空を見上げる彼女の横顔を見つめる。ここまでの道のりのせいだろう、だいぶやつれてはいたがその大粒の黒い瞳はその顔色に反比例するように輝きを増しているようだった。

 

 私の心が、なぜか早鐘を打ち始めていた。

 

 ふと気付いたように、彼女は私の顔を見て声を上げた。

 

「……キレイな眼、してたんだ。気付かなかった」

 

「……?」

 

「ほら、グラサンしてないの、はじめて見たからさ」

 

 不意に私の中に妙な可笑しみのようなものがこみ上げてきた。気がつけば微笑んでいた筈の彼女の頬がなにやらむくれて、鋭く引き絞られた視線がこちらを見ている。

 

 私は声を上げて笑っていたのだ。何年ぶり、いや、おそらくはこんなに愉快な気分になったのはこの世に生を受けて以来始めての経験だったに違いない。

 

 彼女はなにがおかしいのかと、しばらくの間そう言ってむくれていたが、それでも最後には一緒になって笑っていた。

 

 満天の星を写す魔の海域に私たちは二人だけでポツリと浮かびながら、いつまでも途方もない痛快な気分に浸って笑い続けていた。

 

 

 それから私は、彼女――伏見鞘と行動を共にするようになったのだ。

 

 

 

 

 



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六章 無音残響「サイレント・ノイズ」-4

 

 私はそれまでの住まいを引き払い、鞘に同行する事を望んだ。しかしそれを口頭で告げるより先に、鞘は有無を言わさず私の手をとって走り始めていた。

 

 それからは一事が万事、その調子だった。それでも私はそれを迷惑だと感じることはなかった。

 

 それからというもの、世界中を駆け巡るようにしてわたしたちは諸国を渡り歩いた。

 

 そのための資金を得るために、各国の曰く付きの遺跡などの発掘や探索をしながらの旅だった。

 

 それまでの生活とは比べにならない騒がしい毎日。だが鞘と共にいるだけで私は一人だったときのように暗鬱な思索に落ち込まなくて済んだ。

 

 暫くすると二人組みのトレジャーハンターとしてある程度名が知られるようになった。そのため舞い込んでくる仕事も大きいものになり、たびたび魔術師や無法者、他のトレジャーハンターたちと小競り合いをするようなこともあった。

 

 私たちはその度に協力して困難を乗り越えた。不思議だった。鞘が大丈夫だといえば、本当にそうなのではないかと思えてしまうのだ。

 

 実際、私は自分でも信じられない力を発揮して危機から生還することも少なくなくなかった。そしてひとりでいたことに比べ、露ほどの不安も抱くことはなかった。

 

 あるとき、私はそれまで己の内にのみ抱えてきた疑問を鞘に打ち明けた。人の生における意味の欠乏にあえぎ続けてきた半生を、告白した。

 

 彼女が、鞘がそれに答えをくれるような気がしたのだ。

 

 そんな私に鞘は暫し眉間に皺を寄せ、黙り込んだ後でこんな事を言い出した。

 

「『――総ての欠乏を訴える不満は、現に与えられているものへ感謝する心の欠乏から生じるものである――』Byデフォー」

 

「……」

 

「『ロビンソン・クルーソー』だよ? 知らない?」

 

 知らない訳ではない。確か、子供のころ書庫で見つけて呼んだ覚えがある。しかし、

 

「これでも、生まれは英国だ。だが、その言葉は知らない。憶えていない……」

 

 俯く私の視線を強引に己へ向けさせ、サヤは言う。

 

「つまりはさ、事の総ては自分がどう感じるかってことが大事なわけですよ。だから」

 

 私は聾啞のように無言で彼女の目を見つめていた。私の視線はまるで母の返答を待ちきれぬ童の如く、虚空を掻くようにしてじっと言葉を待った。

 

「何かが足りないって言う前にさ、自分にはどれほどのものがあるのか、どれほどのものが足りているのかを見てみればいいんだよ」

 

 何かを乞うかのような私の視線を、鷹揚に受け止めて、サヤはゆっくりと、しかし彼女らしい揺らぎのない声で、私の迷いを断ち切るように流麗な刃を歌う。

 

「そうして、一旦引いてみるとさ、結構充分だったりするんだ。これが」

 

 その言葉だけで、私は己の不安定な内面の基部が何かに包みこまれたかのような安心感を得ていた。

 

 しばらく呆然と言葉を反芻した後で、私は言った。

 

「……今は、何かが不満だとは思っていない。もう、充分だ」

 

「へぇ、ほんとに? じゃあ、なにが充分?」

 

「充分だ……」

 

 そう言って私は鞘を抱きしめた。鞘はむずがる子供のように、くすぐるように私の腕になかで笑っていた。

 

 私は心から、鞘を離したくないと思った。心の底から、こんなにも人を想ったことはなかった。

 

 

 

 鞘のことを話そう。

 

 生国は日本。家はその北方の南にあるらしい。本人曰く中途半端な場所だそうだ。昔の事をあまり話したがらないので多くのことを聞いてはいないのだが、彼女の曰く所によれば、そこは何もない街なのだそうだ。

 

 所謂役人の街だそうで、娯楽も少なく、見て回るような場所もない。長く住むには適さない場所で、皆大人になったらそれぞれに別の場所を目指すから、老人ばかりがいるところなのだ、と。

 

 彼女はあまり故郷というものを好いてはいなかった。

 

 こんな私でも、あのような別離によって別たれたはずの故郷を、あの山並みや森の空気を夢に見ることがあった。たとえそこでの人との繋がりを忌避しようとも、場所とのつながりというのもは誰しもの根幹に深く浸透しているのが人の常というものだ。

 

 しかし彼女の場合はそうではないようであった。

 

 あるとき、私がなぜ世界でも有数の安楽な故郷を捨ててこんなところまできたのかと問いかけたことがあった。彼女の素性について、誰であろうとまず真っ先に気にかかるのは其処なのではないだろうか。すると、彼女は私に言った。

 

「そうねー、私、故郷を離れて結構になるんだけどさ、ホームシックって掛かったことないんだよねー。きっと、私ってどっかおかしいんだろうね。むしろ、何かずっと同じところにいると飽きちゃうっていうか。うんそう、私って結構飽きっぽい?」

 

 そう単純な話ではないだろう、と私は思った。彼女は故郷への愛着がひときわ希薄なようであった。彼女はたとえ家族であろうとも、誰かが自分の側に居ることに違和感を感じていたのだという。ゆえに、通学先や勤め先が変わる度にそれまで有った他人との繋がりを断ち切って来たのだと。

 

 悪意からではない。彼女は人見知りをしないし、誰からも好かれ、彼女自身も隣人を愛する心を持っていた。

 

 ただ彼女にとって、誰かと繋がっていること自体が、ひどく違和感を伴うことだったのだ。だから常にひとりだった。

 

 ひとりでいることが自然であり、誰かと共に居ることがひどく不自然なことだったのだと。

 

 彼女は万人のうちに杞憂な、完全にひとりでも生きていける人間だったのだ。私とは真逆の、真理をその心に秘める人間だった。

 

 だから、私は彼女に惹かれたのだ。私は長い間。一人であることに、その欠乏に喘ぎ続けてきた人間だったから。

 

 あるとき、私は尋ねた。「ならば、なぜ自分とは共にいるのか」と。

 

 それに、彼女は子供のようにはにかみながら応えるのだ。

 

「何でだと思う?」

 

 ――と、

 

「私はねー、人と一緒にいるのが嫌なんじゃないの。同じ所に留まりたくないだけ。だから……私についてきてくれない人とは、一緒に居られない。私は別にそれを辛いとは思わないけど。……けど、さ。もしもついてきてくれて、一緒に居てくれる人が居るならそれを嫌がったりはしないんだ。――ま、そんな奴は今までにひとりしかいないけどね」

 

 そう言って、

 

「それにさ、あたし結構マニアみたいだからさ。普通の男じゃ多分うまくいかないと思う」

 

 シシシ、とはにかんで、また子供のように笑うのだ。

 

 

 

 そのような生活が何年か続いた後のことだ。それは、そう。もう十七、八年ほど前になる。私たちは仕事として、ある魔術師が残したと思われる遺跡の調査を行っていた。場所は北欧のとある秘された洞穴だった。

 

 以前の仕事で知り合った知人から紹介された仕事だった。何でも普通の人間の手には負えない仕事だとのことだ。

 

 その遺跡で妙なものを見つけた。十六世紀ごろのものと思われるそれは、幾重にも掛けられた魔術的なロックとプロテクトのために、ただの発掘家の手には負えず、私たちにまわってきた依頼だった。

 

 魔術による封印(プロテクト)が何重にも施されたそれを、私たちは取り出した。――取り出してしまった。

 

 それは一枚の黄金の輝器だった。この遺跡そのものはせいぜいが数百年ほどしか経過していないものだったが、この魔器自体は比較にならないほどの年月が経過している。にもかかわらず、それはまったく劣化することもなくいまたった今磨き上げられたかのように艶めかしく輝いているのだ。

 

 それはどうやらいくつかのパーツに分断された北欧の剣の一部のようだった。並みの呪物でないのはすぐわかった。もはやただの器物から格上げされ、一個の概念と化したそれは、もはや時間の制約さえそれを劣化させるには至らないようであった。

 

 さらに調べてみると、周囲に一定の範囲で六つの同じような遺跡が点在していることがわかった。私たちは更なる調査を依頼された。

 

 そこいらの遺跡の調査とは難易度も労力も危険も比べ物にならない規模の仕事だったが、それに見合うだけの桁違いの報酬の事もあり私たちはその仕事を引き受けることにした。

 

 そうするに足る理由が、そのときの私たちにはあった。

 

 共に行動するようになってからも、鞘は殆ど私の名を呼ぼうとはしなかった。生来努めてひとりで生きてきた彼女には、それゆえにそのような習慣がなかったのだという。実際名を呼ぶ相手は私一人しかいなかったのだから、()()()()はそれでこと足りていた。しかしそれも改めねば成らないときが来たのだった。

 

 私たちの間に子供が生まれた。鞘譲りの黒髪と、私と同じ色のオッドアイの瞳を持った女の子だった。

 

 鞘は、この子ほすごく綺麗になるといって喜んだ。無論私もだ。むしろ、私こそが己の総てを引き換えにしても飽き足らないほどの愛情を感じていた。娘を抱く鞘の美しさに私は魔道の奥義をもってしても説明できない暖かな光を見ていたのだ。

 

 蜜月の時――そうとしか言い表しようのない時間が流れた。

 

 娘の名はテフェリー。私ではなく、鞘が決めた。名の由来は別段何の意味もなく、唯直感で決めたのだという。冗談ではなく、彼女はもともとそういう行動方針を持っていたようで、重要な局面でこそ己が直感を頼りにするのである。

 

 実際、共に生活する間、困惑することも多かったのだが、それでも名前に関する限り何よりも大きな理由あった。彼女は私にもあまり自分の名を呼ばないようにと言っていた。

 

 彼女は自分の名が嫌いだったのだ。

 

 鞘。サヤ。Saya。――前史において世界で最も美しい刀剣を作り上げた国、彼女の生国にあってはその刃を納めるための物の名を与えられた彼女。私は美しい響きの名だと思っていたが、彼女にとって、それは呪縛のようなものだったという。

 

 まるでその名に縛られるかのように生きることを、彼女の父は望んだのだという。

 

 男という刃物を受け入れ、その受け皿として生きる慎ましかな女性になるようにと、彼女の両親は名づけたのだという。

 

 彼女はその命名に、己を縛りつけようとする悪辣なエゴという名の愛情を見透かしていたのだ。ナンセンスな話だと私も思った。一枚の流麗な刃のような彼女に、それを収める物の名をつけたのはなんという皮肉かと思えた。

 

 そのせいもあって、彼女は我が子の名に生き方を束縛するような意味を込めたくなかったのだろう。

 

 私も彼女のその意を尊重した。何よりも私もその名が良い名だと思った。鞘が深い愛情を込めて付けた名だ。なら、その名には言葉にする必要のない意味が充分に込められているのだと、私にも思えたのだ。

 

 真面目一徹とでも言おうか、物事を倫理的に考える性分の私と破天荒で直感的な鞘との生活は衝突も多かったが、しかしそれゆえにかみ合う部分も多く、私たちは急激に離れ難い存在になっていった。

 

 少なくとも、私は鞘を失うことを想像もしていなかった。

 

 交代で赤子を腕に抱きながら、私たちは世界の善性の只中に包まれていた。――思えば、このころの記憶だけが、私のおぼろげに擦れてしまった記憶の中でも、ひどく鮮明に輝いているのだった。

 

 もう望むべくもない、金糸の揺籃に抱かれた日々、思い出すたびに臓腑を抉られるに等しい痛みを伴うというのに、それを――――忘れたいと思ったことは、一度もない。

 

 

 大規模な発掘作業はさすがにいつものような二人での作業というわけには行かず、わたしたちは依頼主に要請して十数人程度のチームを組んでいた。

 

 作業そのものは順調だった。封印魔術の解呪自体は手間こそ掛かるが難解というわけではない。もとより年月によってほころびをきたしていた箇所も多く、予想していたよりは簡単に紐解くことができた。

 

 私がその作業に掛かりっきりになっている間も、サヤはテフェリーの世話をしながら、チームの指揮を執り、率先して活動していた。

 

 そのエネルギッシュさはいつもの通りで、私は特に気にかけることもなく作業に没頭していた。総ての行為が、何のことはない挙動の総てに言い知れぬ充実感がそなわっていた。その報酬のために危険な仕事を受けたもの、愛する娘と妻のためを思ってのことだった。

 

 だが、その総てが反転する時がやってくる。総てが邪悪と絶望に染め上げられる予兆が現れ始める。

 

 最初の兆候は何のこともないものだった。

 

 あるとき、最初に見つけた黄金の柄を手に取った鞘はぼんやりとそれを見つめていた。

 

「どうかしたのか? 」

 

「や、なんでもない……」

 

 そのときの、心ここに在らず、といった様子の鞘を私は訝ることもしなかった。それを、今の今まで後悔し続けることになるとはそのときは考えもしなかった。

 

 普段はいつも通りだったが、たまにぼんやりとする機会が増え、それが次第に長くなっていった。最後には発掘に勤しんでいる以外の時間はそうしているようになった。

 

 それから、鞘の精神は徐々に変質していった。病んだ様に残りの欠片の発掘に取り掛かる様を見て、私はただ苦悩することしかできなかった。

 

 明らかに精神を病みながら、鞘は遺跡の探索を止めようとはしなかった。そして発掘の傍らで、まるでその剣に魅入られたように研究していた。

 

「……どうしたら、この宝具を再生できるのかしら? ……」

 

「……唯の人間を■■にしても駄目なのよ……」

 

 そんな台詞をぶつぶつと口走るようになった。こちらから何を言ってもまるで取り合おうとしない。

 

 あれほど可愛がっていたテフェリーの世話をすることもなくなり、ほったらかしにして、私と口論することも多くなった。

 

 私は発掘よりもテフェリーとサヤの世話に追われるようになった。何故サヤがそのようになってしまったのかはわからなかったが、しかし私はそれについて何ら絶望は感じていなかった。

 

 理由がどうであれ、鞘が自分で決断したと言うなら、私がそれを支える番なのだと思った。サヤが私の内容を満たして救ってくれたように、今後は私がそれに報いる番なのだと思った。

 

 眠ろうともしなくなったサヤを無理にベットに押し込み、押さえつけるようにして眠った。最初は暴れもしたが次第にむずがりながらもおとなしく眠るようになった。テフェリーと三人で抱き合うようにして眠った。

 

 しかしそれも一時的なことで、サヤの精神状態はますます悪化していった。発掘現場から引き離すと自傷行為に及ぶことさえあった。したかなく、私はサヤと共に発掘現場で眠るようになった。

 

 

 

 徐々に、サヤの行為はエスカレートしていき、私は彼女から逐一眼を話すことが出来なくなった。

 

 突発的になにをするのかわからないので、彼女が起きている間は私も眠ることが出来なかった。

 

 そして、そのとき満足に寝ていなかった私は不意に意識を失ってしまった。

 

 この一瞬の入眠を、私は永らく後悔することになる。

 

 その間に、鞘は姿を消した。鞘は永遠に私の前からいなくなってしまった。

 

 

 それから二年の間、私はテフェリーを抱えながら、プロジェクトを進めるしかなかった。すぐにでもサヤを探しに行きたかった。事実幾度となく、寝る間を惜しんでは彼女の捜索にも勤しんだ。私は幼いテフェリーをつれて鞘の行方を求めて駆けずり回った。

 

 その間、私は物心ついたばかりのテフェリーを知人に預けておくしかなかった。鞘の捜索と発掘作業の合間には我が子を省みている時間が充分にあったとはいえなかった。

 

 

 

 そして――その日。ちょうど最後の遺跡の発掘作業を終えた直後のことだった。不意に一人にしてしまったテフェリーのことが気にかかり、私は作業を一時中断して娘の元に駆けつけた。

 

 久しぶりに見た愛娘はいつの間にかずいぶん成長していて、私はその成長を身近で見つめていられなかった事を悔やんだ。日に日に大きくなる我が子を見守ることもできぬ己が情けなくて仕方がなかった。

 

 そして心配そうに見上げてくる二色の瞳を抱きしめ、私は大丈夫だと、ただ繰り返した。なにが大丈夫なのかも解からぬまま、ただ、繰り返した。

 

 

 再び発掘現場に赴いて見ると何かが変わっていた。

 

 何か異様な空気が流れていた。私は用心しながらそこに足を踏み入れた。灯りが無く、チームの作業員たちの息遣いも聞こえない。

 

 私は見た。暗がりには血の海が広がっていた。作業員たちは見る影もなく惨殺され、その中心には独りの黒い女が立っていた。

 

 鞘、鞘だ。不謹慎にも、私の視界は足許に転がる亡骸を忘却し、実際に捉えることのできた鞘の生き姿に涙さえ流していた。

 

 私は自分でも何事かわからぬ言葉を投げかけていた。

 

 しかし反ってきたのは見慣れた鞘のはにかみではなく、看たこともない妖艶な冷笑だった。

 

「……ずっと探していたのだ。我が器に相応しい依童をな。この身体もそうだが並の人間では駄目だ。ろくな力が発現しない。……やはり唯の人間ではだめなのだ。そうだな、例えば一流の魔道の血脈。とかな……」

 

 息を呑む私の前で、サヤは独り言のように語る。しかし、それはとても本当にあの鞘なのだとは思えない。

 

「何を言ってるんだ。さあ、もう帰ろう。テフェリーも待ってる。いつまでもあの子を待たせてはだめだ……」

 

 その言葉に鞘の体がビクリ、と震え、虚ろに弛緩した表情から声が漏れる。

 

「テ、フェ、リー……」

 

「そうだ、あの子もずっと待ってるんだ。だから……」

 

 しかしそこでまた身体を奇怪に振るわせた鞘は、折れ曲がる程に仰臥して暗い天上を見つめ、すぐに姿勢を正して私を見た。

 

 そこに、おぞましいほど淫靡な笑貌が張り付いてた。

 

 鞘は不意に、操り糸に吊られるギニョール人形のような手つきで手にしていたオートマチック拳銃を構えた。迷わぬ発砲。唖然とするより他なかった私の手足が次々に打ち抜かれていく。絶叫する。痛みよりも恐怖から、私は逃げ出した。戦うことなどできない。鞘と、戦えるわけがない。しかし有無を言わさずに彼女は私に襲い掛かる。

 

 わけが、――解からなかった。

 

 血溜まりを蹴散らして走った。外に出る。私はそこで始めて己の窮地を悟った。周囲はすでに暗い夜によって包まれており、しかも周囲には助けを呼べるような集落のようなものはない。

 

 あるのは深い森とそれを冷たく彩る雪ばかりだった。

 

 銃弾が追ってくる。私は密生する針葉樹の合間に身を捻じ込んだ。最愛の相手から向けられる殺意。体験したことの無い、想像したことさえ無い恐怖に、私は心底から怖気づいていた。

 

 ただの危機ならば、ただの敵ならば、この程度の状況などいくらでも体験している。しかし今度は反撃することができないのだ。どうすればいい? 何の解決策もないまま私は雪を掻き分けて逃げ続けていた。

 

 必死に口をつぐんでいた。悲鳴を上げても周囲の雪に吸われてしまう。そもそも声の届くような範囲に人などいるはずもない。何より悲鳴はこちらの位置を知らせるだけだ。だがどうしようもない絶望と打ち抜かれた足からの出血が、私の心から意志の抑止力を奪い去っていくようであった。

 

 意図せぬままに口腔の隙間から呻くような音が漏れようとする。噤むだけでは足りない。有らん限りの力で歯を食いしばった。そして走った。

 

 後ろの方で発砲音が響いてきた。「彼女」も森に入ったらしい。発砲は当てずっぽうだ。当たる筈もない。それに銃弾もそれほどあるわけではないだろう。案の定、しばらくするとその発砲音も聞こえなくなった。

 

 しかし、それで何かが好転する訳ではない。どうする――何を? どうする――私が? どうする――彼女を? どうする、どうするどうするどうする――。思考はもはや機能していなかった。脳髄そのものが委縮してしまったかのように、何の考えも浮かばない。思索はなんの答えももたらさない。

 

 出血と寒さで感覚の無かった足はいつも間にか止まっていた。動かぬ足にいらだった私が僅かに屈むと、それまで私の頭があった場所の近くの幹に、何かが凄まじい勢いで激突し突き刺さった。作業場にあったシャベルだった。

 

 銃弾がないからと安易に予測して油断したのは愚劣の極みだった。それからは次々と、まるで本物の銃弾と遜色の無い速度で作業場にあった発掘道具が唸りを上げるのだ。

 

 動かぬ足のことなど忘れて、私はさらに走った。逃げるべきだ。とにかく、ここで戦うことはできない。逃げるしか方法はない。だが、このまま当てども無く森の中を彷徨うことは出来ない。どうにかして外部の人間に助けを求めなければならないだろう。

 

 私は森の中を大きく迂回して、ここまでくるのに使ったジープのもとに辿り着いた。

 

 このジープには無線が付いていた。私は急いで何処かと連絡を取ろうとしたが、なかなか通じない。いつも以上に騒々しいノイズばかりが聞こえてくる。急いた気持ちを抑えながら暫く呼びかけると、ようやく誰かの声が聞こえてきた。

 

「誰か聞いてくれ、――」

 

『ああ、聞いているとも。鬼ごっこは終わりかな? セルゲイ』

 

 そこから聞こえてきたのは「彼女」の声だった。声は確かに彼女の物だったが、やはりソレは彼女の言葉ではなかった。あまりにも不条理な事態が私の反応を奪った。

 

 次の瞬間には私はジープの上から弾き飛ばされていた。もんどりうった私の頭を鞘の足が強引に押さえ込んだ。

 

「つまらない能力だが、まあ使い道はあるものだな」

 

 言いながら鞘は――いや、()()は私を踏みつけにしたまま、今度は肩口にツルハシの鋭先部を打ち込み、私を串刺しにした。形容しがたい苦痛とおぞましい異物感に叫び悶える私を見下ろし、ソレは鞘がやるのとまったく同じ所作で「ふぅ」と息を吐いた。

 

 それでも、殺されそうになりながらも私は問うた。痛みよりも疑問のほうが深刻だったのだ。

 

「おまえは、誰だ。――いや、なんなんだ、貴様はッ!」

 

 鈴鳴りのような喜悦に乗せて、ソレは最悪の呪詛を吐き散らした。

 

「わが名は兇器特権(テュルフィング) ! 神代よりの、魔剣の祖に他ならぬ! 礼を言うぞセルゲイ・ワーロック!」

 

 おそらくは十六世紀前後、神話の時代から数多くの人間に取り付きながら生きながらえていたこのインテリジェンス・ソードはさる魔術師たちの手によって分割、封印されていたのだろう。

 

 それがこの地の遺跡だったのだ。私達は知らずの内にそれを開放してしまっていたというのか! しかしそのときの私にはそんなことは慮外の事柄に過ぎなかった。私はそれを傍観することしか出来なかった。何ひとつ受け止められるものが無かった。

 

「しかし、この身体では駄目だった。二つ以上の欠片を取り込むことさえままならない」

 

 その手には今までに発掘した――おそらくは刀身の破片であろうと思われた――欠片のようなものが在った。すると、それは我が意を得たかのように、不意にまるで小さなナイフか何かのように変容した。それは異様な魔力を放っていた。まるで仮死状態だったエンジンが息を吹き返したかのように、それは奇怪な鼓動を伴って鳴いていた。

 

「……聞いていたか? つまり、新しい依童が必要だ。出来れば強い魔道の血筋がいい。……例えば、お前ではどうかな? セルゲイ」

 

 私は応えなかった。なんの声も出すことは出来なかった。

 

「鞘、……は何処にいる?」

 

 奴の口角がまるではじける寸前の弓の如く歪んだ。道化の笑みのようだった。

 

「もういない。何処にもいない。お前の愛する女はもう死んだのだ。私の苗床として、消滅した。もう二度と再生することもない」

 

 それを聞きながら、私は自分の身体の中で乱気流の如く荒れ狂っていた鼓動が急速に制動していくのを感じた。恐怖が去り、途方もない怒りが湧き起こる。

 

 それが逆に、私へ軍神への讃美歌の如き音楽をもたらした。未知の恐怖に委縮し用を成していなかった心臓が規則正しく脈動し始める。

 

 戦いの旋律が私を包み込んだ。そうか、そういうことか。あれはもう鞘ではないないというのか。鞘は、もう居ないのか。

 

 ああ、ごめんよ。サヤ。苦しんでいたのを気付いてやれなくて。

 

 足を払いのけ。私は突き刺さったツルハシも意に介さず立ち上がった。

 

 ――だから。だから、いま、終わらせてあげるから。君をその寄生虫から解放してあげるから。君を自由にするから。だって、君はいつも自由でいなければ。そうでなければもう、それは君ではないのだから――。

 

 怒りと、そして彼女を己の手で止めなければならないという決意が私の全身から溢れた。もはや逃走という選択は無かった。

 

「おや、こわい、こわい。しかし考えてもみろ。精神的にはバラバラになってしまったわけだが、このとおり身体はちゃんと生きているのだぞ? お前はそれを――」

 

 起き上がる私から距離を取っていたソレは、嘲笑う様に揶揄する言葉を投げかけて来る。どうやら、既に私から戦闘力を奪ったつもりでいるらしい。

 

 だが、私の行動はヤツの言葉より早かった。私は背中のツルハシを無造作に引き抜くと、小石でも放るかのようにのように投擲していた。

 

「――――ッ!」

 

 ヤツが仰け反った。ツルハシはヤツを掠めて背後に会ったトラックのフレームを突き破って大穴を穿った。もはや、私に躊躇はなかった。

 

「これは――拙いな。この素体では勝負にならないやもしれぬ」

 

 そう言って、奴の笑みがねじれた。

 

 ――笑うな! 無手になった私は前進して拳打を見舞う。その顔で笑うな。手足の負傷など気にすることなく。ありったけの魔力によって賦活強化された私の五体は、頑強な車体フレームを、自然石の石壁を、魔術による対物結界をも砂糖菓子の如く粉砕した。

 

 逃げるのはヤツの番だった。しかし足を縺れさせて転げまわったヤツは、それでも歪んだ笑みを絶やさない。笑うな。笑うな、笑うな――ッ!

 

 闇雲に振り回された私の拳は遂にヤツを捉えようとして、――しかし矢庭に静止した。

 

 最後の瞬間、私は躊躇した。

 

 私は思考の上では()()を受け入れていたかもしれない。それでも私の心は()()を許してなどいなかった。そのときの私は、まだ人間だった。私にはサヤを殺すことができなかったのだ。

 

 薄汚く乾いた、粘りつくような笑いが彼女の顔に張り付いていた。大粒の瞳からは黄色く澱んだ光が溢れ、私を見つめていた。

 

 本当に、それはもう、鞘の貌ではなくなっていた。私は全身から力を抜いた。 

 

 そしてヤツが手にしていた、ヤツ自身でもある刃が私の腹部を深々と貫いていた。喉の奥から血が溢れ、私の胸や腹を真赤に染めた。

 

「本当に、お前は愚かなのだなセルゲイ」

 

 手ごたえから、今度こそ致命傷だと確信したのだろう。脈打つようなそれで私のはらわたをかき混ぜながら、ヤツは鞘の舌で私の唇の血を舐めあげる。

 

 ――だが刃のことなどどうでもよかった。己の生き死にのことなどどうでもよかった。重要なのは、これはもう鞘ではないという事。そして、それは二度と躊躇する必要が無いという事。冷たい安堵と絶望とが、私を貫いていた。

 

 私はヤツの刃を自分から迎え入れた。そして手首ごと掴まえ、残った拳を振り上げる。もはや、自分の命など勘定に入っていなかった。

 

 彼女が驚いた時にする、子供のように目を丸くした表情(かお)。見慣れたそれがきょとんとして見上げて来る。今度はためらわなかった。私の拳が彼女の頭蓋を捉える。生涯忘れられない感触が私の手を襲った。

 

 まるで血袋のようになって吹っ飛んだソレは血の筋を引いて深雪の足場を汚した。私達の血がまるでアートのように点々とキャンバスを彩っているようだった。

 

 感慨など湧かなかった。そんな余裕は無かった。私は嗚咽に咽び泣くのを止めようとしなかった。哭きながら殴った。彼女を殴りたくなかった。彼女を殺したくなかった。彼女を砕きたくなかった。彼女を引き裂きたくなかった。彼女に元に戻ってほしかった。彼女を抱きしめたかった。彼女に触れたかった。彼女に笑ってほしかった。

 

 どのぐらい打ったのだろう。不意に忘れていた呼吸が再会されて、私は深海から生還したかのように喘いで肺の中の邪魔な血を吐き散らした。

 

 その一瞬の隙を突いて、襤褸切れのように伏せていたはずのソレがまるで軟体動物の如く跳ね起き、近くの車の中へ滑り込んだ。瞬きも許さぬほどの動きだった。

 

 まだ息があったのか。――いや、そうではない。迂闊だった。あれはそもそも生きてなどいないのだ。殺すのではなく、(こわ)さねばならない!

 

 雪跡に血の五線譜を描きながら、私は無線機の付いていた資材運搬用のトラックに乗り込んだ。そして奴の後を追った。

 

 ここで逃すつもりは無かった。腹部に突き刺さった刃の欠片は先ほどよりもさらに奥にめり込んでいたが、気にも留めなかった。どうせ抜いて処置している暇はない。

 

 ならば最後までこれでいい。私は両足でアクセルを踏み込んだ。足どころか全身の感覚がそもそも曖昧になっていたからだ。

 

 さすがに血を流しすぎていた。私はもう自分が助からないだろうということはわかっていた。腹をやられた時点で致命傷だったのだ。だからこそ良かった。だからこそ私の覚悟は決まった。もとより彼女を殺めたま生きていくつもりなどなかった。

 

 私は最大限までアクセルを踏みこんだ。新雪の積もった、ろくに整備もされていない山道を鉄砲水の如く車体を荒ぶらせながら、それでも斟酌などしなかった。後はヤツを巻き込んで総てを終わらすつもりだった。

 

 私は加速を望んだ。もっとだ。もっと、もっと速く――。

 

 特攻の様相を呈した私の暴走車両はとうとう敵の駆る車を捉えた。二つの車両は玉突きをする形で曲がらなければならないはずのカーブを直進し、最後には総てを巻き込んで崖下の原生林に諸共に落下した。――

 

 

 

 次に眼を覚ました時、私はまだ生きていた。転倒したトラックから投げ出され、そのまま雪崩と共に山裾まで運ばれたのだ。

 

 なぜ、生きている? 当然唯の人間なら数十回は死ねただろう。実際魔術師の血を引く私であっても、通常では有り得ないことだった。

 

 おかしい、何故自分は助かったというのだろうか? ふと見てみれば、腹部に深々と突き刺さっていた筈のあの刃の破片のような輝器が私の体と一体化しているではないか。

 

 先ほどのように突き刺さっているわけではない。まるで溶け込むように融合しているのだ。そっと触れて見ると、それはすぐに私の体の奥深くに沈みこんで行き、完全に消えてしまった。

 

 するとそれまで流れていた血が止まり、体中にあったはずの軽傷が次々と消えていった。そうか、これがこの魔具の力か!

 

 体の疲労も感じなくなっていた私は、様々な疑問やそれらへの解答などに対しての思索を保留し、すぐに帰途についた。本来なら助けを待つべきだったのかもしれないが、すでにあたりは深まった夜の闇に包まれ、音を食らう雪のせいで生み出された、恐ろしいほどの静寂が私の心の不安を掻きたてていたのだ。

 

 鞘が失われたことが、鞘をこの手で殺したのだという事実が、執拗に私を打ちのめそうとしていた。

 

 しかし私は膝を折りはしなかった。思い出したのだ。テフェリーだ。私にはテフェリーがいた。さっきまで死んでも構わないといっていた自分の無責任さに吐き気がするぼどの憤怒を感じた。

 

 鞘がいなくなり、私まで死んだら、あの子はどうなってしまうのか。そうだ。私には生きる理由が、死ねない責務があったではないか。

 

 あの子がいる限り、私に泣き崩れている暇はない。私は足を動かし続けた。何よりもあの子に会いたかった。そう、私はあの子のぬくもりに縋ろうとして必死だったのだ。

 

 もう、私が拠り所とすることができるぬくもりは、この世にたったひとつしかないのだから。

 

 そうしてようやくテフェリーの元に、知人の宅の着いたとき、私にはどれほどの時間が経っていたのかが解からなかった。

 

 唯必死に足を動かして、気がつけばいつの間にかここまでたどり着いていた。森を越えて山道を抜けてきたにもかかわらず、未だ夜の闇は深く東の空ですらが白んではいなかった。

 

 これは私が魔剣の欠片と融合して得た異能『加速』に依る効果だったのだが、そのときの私にはそれについて思考することは叶わなかった。私が己の異能を自覚するのは暫く後のことになる。

 

 なぜなら、私がこれより見舞われる狂気から正気を取り戻すまで、今しばらくの時間を要するからだ。

 

 テフェリーを預けてある知人の元へたどり着いた私は、――そこでふいに異質な不安と変事を予期した。私は足を縺れさせながら一気に室内に駆け込んだ。

 

 なんということだろうか、そのときの私の絶望をどうやって言い表せばいいというのだろうか、私の持てるいかなる言葉を持ってしても、このときの私の心を言い表すことができない。

 

 テフェリーは浚われたのだ。近くには惨殺された知人の遺体が転がっていた。やったのはヤツだ! 

 

 ヤツはまだ生きていたのだ。死ぬはずだった私を生かしているこの魔具の再生力。それが砕いたはずの鞘の身体を復元してしまったのだ! ヤツがテフェリーを連れ去ったのだ!

 

 絶望が私という存在そのものを蹂躙した。私は私の想像力を打ち消すために頭を、身体を、まるでピンボールのように壁という壁に叩き付けた。

 

 母の姿を借りた魔物に、優しい声で語るその声に安堵した娘に、その心に、あのバケモノは、いったいなにをするつもりなのだ!?

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 考えるな。

 

 考えるな。

 

 かんがえるな。

 

 カンガエルナ!

 

 カ・ン・ガ・エ・ル・ナ――――――――。

 

 焼ける! 切れる! 消える! 思考が焼ききれる!! 血の色の霞が視界と思考を覆い始めた。それは福音だ。出来ることなら、今は今だけはこの恐怖と怒りを忘れさせて欲しかった。今はただ()(むせ)びたかったのだ。

 

 

 それ以来、私は廃人のようにして多くの時間を過ごさなければならなかった。

 

 深夜、ふいに眼を覚まし鞘の姿を探す。テフェリーの姿を探す。ろくに寝ることができないのでいつから寝ていたのかわからない。

 

 あれは大事なものだ。失くしてはいけない。探さなくてはいけない。探さなくてはいけない。実際にはほんの数分しか寝ていないのではないかと思われた。まったくといっていいほど意識が混濁している。

 

 私という存在に圧倒的に鞘という成分が不足していた。私はもう私ではなく、私でない私は独りで立つこともできなかった。

 

 意識を失い、覚醒を繰り返し、それを続けるうちに、私の前にいつもどおりの彼女が戻ってきてくれた。歓喜しながら、私は眼が覚めないことを望んだが、逆に私の意識は覚醒と酩酊を幾度となく繰り返した。

 

 夢ではなく幻覚だった。知っている。それでも同じだった。ただ、鞘に会いたかった。事実を受け入れられなかった。

 

 部屋の中の壁がひどく汚れた。壁中に鞘の名前や彼女とのやり取り、彼女の記憶の断片を書き殴るからだ。スペースがなくなったらその上から書くからだ。白かった壁は真っ黒な斑になった。

 

 おそらくは半年ほど、だったと思う。そんな、もはや生きているとも呼べぬ状態であった。正確な期間は今になってもわからない。苦痛から逃れようとするあまり、神にさえ祈ろうと、それまで置物でしかなかった聖書を手にとったことさえあった。

 

 だがいくら聖書の中の聖言を口ずさもうとも、私の心に福音が訪れることはなかった。それはそうだ。私は崩れ落ちるようにして吶喊しながら、納得した。

 

 なぜなら私の血そのものが、私の中に流れる魔道の支脈が、私の意志とは関係なく既に神に背を向けているのだから。

 

 私はまた、この身に流れる魔の血流を忌避し、憎悪せねばならぬというのだろうか。――いや、そうではない。

 

 今私が成すべきことはそんなものではないのだ。今、私が成さねばならないこと、それは追う事だ。

 

 彼女たちを、永遠の責め苦から開放するために――。

 

 悲しみと絶望を吐き出したことで――、いや吐き出したのではない。無限に湧いてくるそれに、私は対応したのだ。人間の心とは不可思議なものである。人はいかに過酷な状況に置かれても、いずれはそれに慣れ、対応していく。

 

 そして生きる意志がそこに伴うならば、それはすでに生存のためではなく闘争のための極限の能力となりうる。およそ総ての人間が持つ、いかなる異能よりも有用な機能である。

 

 そして私の意志を後押ししたのは、他ならぬ憤怒であった。脳髄と体躯機能を焼き焦がすような灼熱のような熱量が、私を今に続く復讐の鬼へと変えたのだ。

 

 

 

 

 

 



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六章 無音残響「サイレント・ノイズ」-5

 追跡が、始まった。

 

 私の持てるすべてのものがそれに集約された。殺すのだ。愛するものを殺すために、愛するが故に殺すために、この生を燃焼させ尽くすために――。

 

 そのときから、私は己を捨てた。それ以来名無しの亡霊として生きてきた。

 

 そうだ、あの時から、私は亡霊となったのだ。亡霊に愛はいらない。ただ、執着があるのみ。

 

 もう二度と躊躇することはない。今度こそ確実にヤツを殲滅する。私は二度と人には戻らない。最愛の妻と娘をあのバケモノの魔の手から開放するまでは。

 

 ――そして、長い流血と闘争の日々が始まった。

 

 追跡のために、私は調査を始めた。何の手がかりもなく、それそこ手探りで始めねばならなかった。――しかし、存外に早く、手がかりは見つかった。

 

 私が調査を始めた北欧の田舎町からすぐ近くの場所で、猟奇的な事件が幾つも起きていたのだ。

 

 それは一見して何の関連性もない事件だったが、私には解かった。この惨劇の跡はヤツが嗜虐のままに喰い散らかした、血の愉悦の名残なのだと。

 

 冷酷かつ冷徹なやり口。惨殺された死体を眼にするたびに、私の心は血に濡れた最愛の者たちの姿を夢想した。

 

 事件は広い範囲で頻発した。なかには、一般人を対象としたのではないものもあった。幾人かの魔術師たちもまた、その狩りの犠牲者となっていたのだ。

 

 それを発端としたのだろう。調査の過程で、協会から派遣されたと思わしきエージェントの姿も見るようになった。

 

 度重なる被害に、協会も本格的な使い手を派遣してきたようだった。本格的な捜査が始まったのだ。それはようやく連続した事件の猟奇性に気付いた一般の人間たちの捜査陣たちも同様だった。私の周囲は矢庭に殺気立ち、騒がしくなっていった。

 

 しかし彼らに私のほうからコンタクトをとって協力を仰ぐことは出来ない。私にはひとりの味方もいなかった。

 

 同じ標的を追ううちに彼らと小競り合いを演じることも多くなった。彼らにしてみればこの猟奇的な事件をかき回す怪しい人影を見逃す術はなかったのだろう。

 

 私も容赦しなかった。そうする余裕がなかったという以上に、彼らが部外者だという思いがあった。

 

 この猟奇的事件は私に向けられたものなのだという核心があったのだ。幾度となく血に塗れた殺害現場に残されてたヒント。

 

 被害者の喉に突き立てられた竹製のナイフ。絞殺に使われそのまま捨て置かれた手作りの麻の紐。そして被害者の身体を分解するのに使われたワイヤー・ソー。

 

 どれも鞘のものだ。サヤは以前からサバイバル・クラフトに長けており、いつもそれらの技術を得意げに披露していた。実際その世話になったことも多い。

 

 それらは私にだけ解るように設置されたメッセージだった。私だけがわかる。私とサヤとの思い出だった。

 

 それを玩ぶように、踏みにじるように、目に見える痕跡として残しながら、ヤツは私を誘っていた。私の中で憤怒だけが成長し、膨らんでいった。

 

 それが私の思考を沸騰させた。ヤツは私と鞘の、鞘の中の私の記憶を踏みにじりながら蹂躙しているのだと知れたからだ。もはや私はとどまれぬところまで来てしまっていた。

 

 そのころの私はすでに私ではない「何か」になっていった。

 

 生きる亡霊と成り果てた私は、ただ妻と娘の魂の平穏だけを求めて最愛の者たちの消息を追い続けた。

 

 あらゆる予測が、想像が私の心を蹂躙する。それが憤怒の猛毒となり私の五体を駆動させる熱量となる。それが繋がれた双輪のように、追跡の日々を加速させていった。

 

 私は留まることを知らなかった。奔り続けた。そうしなければ絶望に足を絡めとられることが分かっていたから。

 

 苦難困難に鍛え上げられていく体。同時に磨耗していく心。

 

 正気を取り戻してからも、己の血に対する憎しみはなくならなかった。むしろ大きく膨らんでいくだけだったといえる。その不運と絶望を引き寄せたのが私の魔道の血なのか、それとも私がそれを忌避したからなのかどうかは未だ持ってわからない。

 

 それでも、私はそれを怨まずにはいられなかった。私という人間の根幹を捉えて離さない魔道というものを私は許せなかった。いや、許したくなかった。

 

 ――積み重ねられた呪詛は私の五体を擾乱させ、怨嗟は五臓を内側から爛れ上がらさせた。私は次第に己の魔への加速を止める術を失っていった。

 

 

 

 

 そして八年前、未だ長い冬が終わらぬ白色と氷の世界。深い森と雪の中に隠されたその場所に、私は嗅ぎなれた匂いを見い出した。

 

 鮮血の臭いだ。ようやく、私はこの場所を探し当てたのだ。

 

 ここはサンガールという没落寸前の魔術師の居城だとすでに調べはついていた。奥まった森と地形に溶け込むようにして偽装された広大な隠し砦。間違いなく魔術師の要害だ。

 

 それが幾重にも積み重なった雪化粧により包み隠され、より自然林との判別を困難にしている。この地域を特定してからこの場所を確定するまでに半月以上の時を費やした。

 

 衰退しているとは聞こえど、さすがは歴史を刻んだ魔道の家門だ。安易に踏み込むわけには行かない。

 

 ――そのはずだった。しかし私の足は止まらなかった。そんなことはどうでもよかった。思考は用を成さず、唯ひとつの意志と願いだけが私の五体を支配していた。

 

 加速する。思考が、足が、五体が、意志が、鼓動が、脈拍が、待ちきれぬとばかりに加速し、その瞬間(とき)を求めていた。決着の時だ。待つことなど、留まることなど出来はしない。ただ、奔る。終局を求めて――。

 

 そしてあの満月の夜、私は深雪を掻き分け舞い上げる一陣の風となって奴らの境域に飛び込んだ。

 

 もとより命など惜しむつもりもなかった。ただ、殺せればいい。後のことなど考えてはいない。門兵となっていた使い魔を斬り殺し、私は単身森の中を進む。

 

 ここに数年前から住み着いているフリーランスの不可解な魔術師がいるのだという。誰も正体を知らぬというその謎の魔術師――私だけがその正体を察していた。ヤツだ! 殺す。そして終わらせる。私の思考はもはやその一念で埋め尽くされていた。

 

 それからも何匹かの使い魔を斬り殺し、突き進んだ。

 

 すでに烈火と化していた私は止まらなかった。当然だ。最初から目に付くものすべての滅殺を心に誓っていたのだから。

 

 森を抜けた私は大きな滝壺に出た。そこに人の気配を感じ、私は思わず足を止めた。

 

 暗い夜の闇間の中、月光に淡く照らされた視界の端に、黒く長い髪が揺れているのが見えた。不意に、言葉にならないほどの郷愁が私を襲った。サヤ? いや、違う。あれは、あの子供は――。

 

 そのとき確かに私の中の伽藍を貫いたものが何であったのか、未だに解ってはいない。

 

 どのくらいの間、私はそうして立ち尽くしていたのだろうか。気がつけば、よく見慣れた二色の瞳が私を見上げていた。

 

 私はいつの間にか森の木々の間から歩み出て、姿を晒していたのだ。

 

 私は何をする気だったのだろうか。何をしようとしていたのだろうか。目の前にいるのがなんなのか、未だ判じきれていなかったのだろうか。

 

 それを殺しに、殺すために、救うために殺そうと、ここまで来たはずなのに。いざその姿を見て、私は動くことさえ出来なくなっていた。

 

 私の中を、その内容を、伽藍の内を、唯空白だけが埋め尽くし、席巻していた。私は自身ですら驚くほどにあれほど切り離しがたかった筈の憤怒をわすれていた。

 

 しかし、その静寂は長くは続かなかった。

 

 閃きが奔った。月光に照り返す滝飛沫を吸って凝り固まった雪面に、黒い血の筋がざらりと這った。

 

 咄嗟に回避していなければ私の体は輪切りになっていたことであろう。異能により極限まで加速された私の動体視力は、月の瞬きに似たその繊細なる凶刃の初動を見逃してはいなかった。

 

 武装し、黒々とした返り血に濡れていた私を敵だと判じたのだろう。その銀糸を繰っていたのはその黒髪の子供だった。

 

 そして、――それはすぐに本性を現し、()()()()()()()()へと変容した。

 

 おそらくは、このと瞬間(とき)だ。

 

 私が人ではなく鬼として生誕したのはまさしくこのときだったのだと。今ならわかる。このとき、私は人に戻る機会と理由を永遠に失ってしまったのだ。私は鬼となった。後は総てを終わらせるためだけに生きる、無様な、鬼に。

 

 そこにあったのは四肢を断たれ、異形の姿に変えられた最愛のはずの我が子の姿であった。

 

 大丈夫だ。テフェリー、大丈夫だからな。――いま、いまお父さんが、

 

「殺、して、やる、から――」

 

 呟くように漏らし、私は走り出していた。きっと、このときから私は止まる事を忘れていたのだろう。もしも立ち止まれば、もう二度と、動くことなど出来ないと知っていたから。

 

 咆哮を上げて迫る私を過たず、唯の敵、と判じたのだろう。弾丸の如く馳せる私を突如現れた巨大な銀の蜘蛛の巣が迎えた。

 

 私は両の手に西洋刀を執り、縦横無尽に振るって銀の糸を寸断に掛かった。しかし、極度の加速により、鉄板ですら切り刻める筈の私の剣先は絡め取られていた。唯の鋼線の類ではない!

 

 ――思考もままならないまま、私自身を絡めとろうとする群糸に剣だけを残し離脱する。私の手を離れたサーベルが、まるでシュレッダーにかけられた安物のパルプ紙のようにバラバラにされた。糸に捕まれば私自身もああなるのだ。

 

 劣勢を悟った私は距離をとって闇にまぎれながら糸の追撃をかわす。

 

 残りの装備は――サーベルが三本。投擲用の短剣が七本。オートマチックの拳銃が二丁。共用マガジンは三。いくら加速の異能が有るとはいえ、真っ当なやり方でこの鋼線の網を抜けるのは難しい。

 

 ならば遠間から狙うまで。私は腰のホルダーに収まった銃把に掛けようとして、一拍――――手を止める。こんな場所で銃を使えば他の敵に感づかれる。もう知られていると見るべきだったかもしれないが、それが定かではない以上、敵の居城に奇襲をかけられる可能性は残しておきたい。

 

 私は闇間から一本の短剣を放った。異能により加速されたそれは月光を弾きながら銀色の異形の眼前に迫る。案の定、避けることもなくソレは精密な糸の操作により短剣を絡め取った。

 

 次いで鞭の如くのたうった閃線が私の居た暗がりを両断する。私はもう一度、今度は三本の短剣を投げ放なった。先の投擲と何ら変わるところは無く、唯本数が増しただけの、いっそ愚直――とでも言うべき三条の剣閃。

 

 ()もそれを疑うことなく、先と同じように三本の短剣をすべて絡め取った。と同時に闇に綾なす銀の閃光。ソレは私の攻撃が単調と見るや、攻撃と防御を同時に行ったのだ。

 

 ――ほう? 学習能力が高いな――。

 

 それを見て私は微笑を浮かべた。無論我が子の成長の見る親としてではなく、己が策略にまんまと掛かった愚か者をあざ笑う、鬼の微笑だった。

 

「――ッ!?」

 

 私を切り刻まんとして閃いた筈の鋼線の刃が、その軌道を変じ捻じ曲げて地に落ちた。なまじ生体と直結しているがために、その糸刃の生動は本体のコンディションをダイレクトに受けてしまうらしい。

 

 その小さな体には三本の短剣が突き刺さっていた。それは先に投擲した、月光を弾く煌びやかな短剣ではなかった。形状こそ同一ではあったが、それは黒塗りの刃であった。

 

 私が二度目に放った短剣は三本ではなく六本だったのだ。そも最初の一投も、その実これから放つ短剣が、如何に速かろうともその「起こり」を目視できるものである。と錯覚させるためのものだったからだ。

 

 異形は手足を投げ出し、雪面に折れ伏す。しかし――止めを刺そうと近づいた私へ、再び銀の斜線が踊りかかった。

 

 浅かったか!?

 

 見れば、その胴体にオリオンのベルトの如く穿たれたはずの黒刃は、尖端に微かな血を滲ませただけで地に落ちていた。どうやら、四肢以外の部分にも鋼線を張り巡らせて防備を固めていたらしい。

 

 獣の如く顔を上げたそれは、甲高い唸りと怨嗟のこもった二色の視線を真っ直ぐに私へ向けて来る。虚空に逆巻く銀線はその怒りを余さず闇色の虚空に描き出している。

 

 それは敵を生かしては返さぬという決死の備えであった。――どうやら死線を越えた経験があるようだ。だが私も引くことはなかった。もはや何の感慨も滲まなかった。そこに居るのは、すで結殺を誓った唯の敵でしかなかったからだ。

 

 暫くの間、にらみ合ったまま弛緩した空気が流れた。が、不意に激昂したかのように踊り狂う鋼糸が千の鎌首をもたげ、ついに逃げ場などないほどの波状攻撃を開始する。私のほうも、そろそろ掛けられる時間がなくなってきた。これ以上の膠着は許されない。

 

 私は両手に二本のサーベルを構え加速した。そして円を描くように敵の周囲を旋回した。木々などの障害物に邪魔されて、流動する線剣は私を捉えられないで居る。

 

 頃合や良し。そう判じた私は不意に敵目掛けて直進した。

 

「――!?」

 

 遠ざかる私を追いまわしていたはずの鋼線が、いきなり接敵に反応しきれず一瞬だけ停止する。

 

 その隙を見逃さず、私は先んじる一歩で敵の矮躯を己が剣域に収める。

 

 しかし背後からは濁流の如き銀色の雨が私を追ってくる。――それでいい。敵には、その長く伸ばした鋼線を一度戻して操作し直す猶予はない。木々の間を大きく迂回したまま私を追うしかあるまい。

 

 私は敵の眼前で反転し、手にしていたサーベルで迫り来る鋼線を超加速して巻き取り、絡め取った。

 

 そのままサーベルをそれぞれ左右へ投げ放ち、木の幹に突き立てる。木々の間を縫う鋼線はもはや広大なあや取り状態だ。複雑に絡まる自らの鋼線に捕らわれ、敵はうまく後退できないで居る。勝機。私は前進しながら最後の剣を抜く。掲げ上げた刃が月光に煌めき、ソレの二色の瞳を照らし出した。

 

 そのとき、何かが私の足許に転がり出た。

 

 子供だった。何故こんなところに居るのか知らなかったが、そのときの私は反射的にその銀髪の子供に向けて刺突を放っていた。

 

 迂闊! 不用意だった。刺し貫いた剣を抜く暇がこちらの致命的な隙になる。だが思考は加速された剣先に先んじなかった。

 

 案の定、刃は胸を貫いた。

 

 ただし、その子供ではなくテフェリーの胸を、である。何故であろうか、考えても解かるはずもない。

 

 当に了解していたはずの、当たり前であるはずの感触は、にもかかわらず私の弛緩した心を掻き毟る程度には異質だった。まるでそれが未だに愛する者の体躯であるかのような錯覚が、私の感覚を鉛で覆い隠したかのように鈍らせていた。

 

 テフェリーは私の剣を糸で抱え込むと、そのまま力なく滝底に落ちていった。後には連続性を失った鉛色の糸がふつふつと途切れ散華するばかりだった。

 

 感慨などない。――――筈、だった。

 

 不可解と言えば、不可解だった。なぜ、武器である手足を切り離して斬り反してまで自分から刃を受けた? そうしなければ勝っていたにもかかわらず。

 

 いや、そうではない。問題はそんな事では無い。私の伽藍は再び空白に襲われていた。最後に私の眼を見たテフェリーの瞳が、その強い輝きがいつか見た鞘のそれに重なったから。

 

 私は――何をした? 今、私は、なにを

 

 斬りつけられる。咄嗟のことで思わすそれを殴り飛ばしていた。さっきの子供だ。いつから居たのだろう。もしかしたら、最初からであろうか。

 

 鼻血と涙と泥で顔を汚した、年端もいかない幼子はそれでも短剣を構え強い瞳で私を睨みつけてくる。

 

 もう一度斬りかかってきたので、わずらわしくなって剣を取り上げ殴りつけてやると動かなくなった。

 

 わけのわからない焦燥が有った。どうして、あんな姿に変えられたテフェリーの眼差しが彼女に重なったのか。どうして、この少年を狙った筈の刺突がテフェリーを貫いたのか。  

 

 ――それは。つまり、

 

「おい、」

 

 幼子を揺さぶり起こす。

 

「答えろ。――何故お前は、アレと……あの娘と一緒に居た!?」

 

 焦点さえ合わぬ目で、止まらない血と涙にあえぎながら、それでも私を睨みつけた双眸は、こう言った。

 

「僕……は、僕、がテフェリーの……友達、だか、ら、だ」

 

 その言葉に私は何らかの動揺を受けたのだろうか。

 

「だか、ら、ぼく、が…………」

 

 あるいは何かを感じることがあったのかもしれない。

 

 しかし、それはそのときの私にとってあまりに遅すぎた。意味がなかった。意味が、在ってはならなかった。

 

 そこに留まることを私の総てが拒絶した。故に、そのまま気を失った子供をその場に残し、私は立ち上がった。省みることなどない。必要などない。考える暇など、有りはしない。

 

 私は逃げるように走り出した。もう止まれない。そう何度も口の中で繰り返した。言い訳なのかもしれなかった。それでもかまわなかった。

 

 足が縺れる。さっきのダメージは少なくなかった。だが関係ない。まだ、やることが残っている。――だが、何処へ奔ればいい? 私は幽鬼のように立ち止まり、ぼやけた視界を巡らせて目指すべき彼方を探した。

 

 そのときだった。不意に先の子供から取り上げたまま手にしていた短剣が、不可思議な鳴動を始めた。幾許の間すら置かず、何かが私の頭上から舞い降り、身体を切り裂いた。

 

 間一髪だった。今の刃の鳴動がなければ致命傷を負っていたかもしれない。

 

 それは何かの獣のようだった。しかし、私の超感覚でもそれの正体を捕らえられなかった。

 

 そしてようやく、気付いたのだ。自分が当の昔に囲まれていたのだという事実に。

 

 敵だ! 短剣を逆手に取ったまま、空いた手で拳銃を引き抜く。もはや、銃声で敵を呼び集めてしまう心配はしなくていい。しかし、マガジンは三つだけ。充分とは言いがたい装備だ。

 

 再び樹木の上から飛来し、襲い掛かってきたソレはしかし獣と呼ぶにはあまりに奇怪な姿をしていた。

 

 加速された感覚がまるで駒落としにまで凝縮され、私の視界はその獣の姿を捉えた。それは獣ではなかった。あんな獣はありえない。

 

 体表中から突き出した無数の棘。まるで薔薇そのもののような。あれが擦過すると同時に私の身体を切り裂いていたものだったのか。

 

 しかし、それがしなやかに駆動させる肢体は滑らかでふくよかな曲線を抱いている。

 

 女だ。あれは女だ。全身に鮫の歯の様な刃を備え、まるで関節などないかのように極限まで撓り、歪曲する身体を持っていた。まるで理解の及ばぬ身体機能、身体構造。

 

 しかし、理解できぬまでも、それならそれ相応に対処するまでだ。女の振るう三度の攻撃に私はかなり広めの間合いを取った。だが――それをあざ笑うかのように私の身体は切り裂かれる。襲い来る苦痛を忘却し、私は間合いを超越する女の攻め手を見た。

 

 今の攻撃はまるで鞭のように伸びてきた。しかし女は何の武器も持ってはいない。私はすぐに更なる加速をもって女との間合いを開けようとしたが、やはり一方的な攻撃は私の身体を切り刻み続ける。

 

 そうして、私はやっと理解した。まるで鞭のように伸びてきたのは女の腕、否――四肢そのものだったのだ。

 

 それだけではない。私がいくら銃弾を浴びせても女の体からは血の一滴も流れることはない。その五体はそれが当然であるかのように銃弾を受け付けず、次いで鞭のように変じた四肢が雨のように浴びせられ、私の皮膚という皮膚を丸々剥ぎ取っていくのだ。

 

 加速した私の視覚がまるでストップモーションのようにその動きを、いや変容を見届けた。まるでノコギリの刃か、はたまた鮫の歯のように並び生えそろった棘付きの腕がまるで関節を外されたかのようにダラリと地表に投げ出され、次の瞬間には虚空にはためいて私の身体を捕らえるのだ。

 

 あの女は己の骨格を自在に変化させて使用しているのだ。なんというおぞましくも強靭で、そして対峙するには厄介な能力なのだろうか。

 

 先ほど、加速させた銃弾を受けて平気だったのはその能力故なのだ。幾重にも生成され重ねられた骨板が頭骨のような滑らかな曲線を作り出し、それを皮下外殻として纏うことで直進する銃弾の軌道を逸らしたのだ。

 

 さらには下腕から指先までの間接をまるで鞭のように数百まで分割し、腕そのものを鞭のように振るって見せていたのだ。なんという奇怪な挙動であろうか。いくら魔術師とはいえ、そこまでの精密なる体細胞の変容が可能だと言うのだろうか? 

 

 もはやこのサンガールには、当主以外にはろくな術者が残っていなかった筈。――

 

 しかし其処で、不意に私の直感が「是」と吼えた。私の胸中は確信へと変じた予感の成就に浮かされていた。

 

 こいつは魔剣の実験に使われた被験者なのだ。

 

 私と同じ、魔剣の欠片によって異能を発現した者なのだ。どうやら、魔剣の欠片によって発現する異能の種類と機能はそれぞれ異なるようだった。

 

 しかしここで私の体には新たなるギアが入れられ、更なる加速へ向けて力が漲り始める。それはつまりあのバケモノが、あの最愛の者の姿を愚弄し続ける怨敵がこの地にいるのだという確証に他ならなかったからだ。

 

 森を抜け、開けた雪原で私は足を止めた。そして先ほど撃ちつくしたままになっていたオートマチック拳銃を再び手にとった。弾奏は空だったが、しかし新しマガジンをリロードはしなかった。

 

 マガジンカートリッジからただ一発の銃弾だけを取り出し、薬室(チェンバー)から装填した。弾丸は一発でいい。どの道、この銃は使い捨てることに決めたのだ。

 

 狂獣は正面から現れた。

 

 待ちの体制に入った私をを前に、敵はまさかの真正面からの攻めを選んだようだった。

 

 いや、むしろ動きを止めた憐れな得物を前に、もはや歯止めが効かなくなった。――その躍動はそんな飢餓的な欲求を想わせた。

 

 私はゆっくりと銃を構え、魔力をそこに集中させた。以前は集束させたソレを打ち出しただけだったが、今度は桁が違う。銃ではなく弾丸に込められた魔力はただ八g程度のソレにソフトボール大の榴弾の威力を約束し、さらに付随された「加速」の異能は以前とは比較にならないほどの初速をこのちっぽけなオートマチック拳銃の9ミリパラベラム弾に与えることになる。

 

 どれほどの微調整を施そうとも、銃の破損は免れない。しかしそれでもこの進化した「魔弾」の威力は今や迫撃砲並になっているはずだ。

 

 迫り来る敵との距離は約十メートル。この魔弾は威力がありすぎて通常の射撃よりも大幅に狙いが甘くなる。必殺を期すならば後五メートルは待つべきだ。が、私は躊躇わず引き金を引いた。

 

 ただの銃弾ならたとえ直撃したとしても、迫り来る魔獣を相手に豆鉄砲ほどの効果ももたらさなかっただろう。しかし、この〝砲弾〟は僅かに肩口を擦過しただけでその獣を、まるで芥子粒の如く彼方まで吹き飛ばした。

 

 しばらくたってから彼方で何かが大地を抉ったと想われる振動を感じた。

 

 直撃ではなかった。殺せてはいないはずだ。だがそれでも構わない。これで幾何の猶予を得られた。あとは敵陣の深奥まで疾く馳せるだけ。

 

 不具になった銃を放り捨て、私は奔った。目指すはあの怨敵のみ!

 

 しかし再び加速しようとした私を幾人かの雑兵が囲んだ。先ほどから遠巻きに私を取り囲んでいた者たちだろう。しかしどう見ても手練とは思われない身のこなしだ。

 

 雑魚め、邪魔だ! 

 

 煩わしさに憤る私は構わず突破しようとした。――が、その刹那、その男たちは周囲の大気と虚空を巻き込んで炸裂し四散した。自爆したのだ。咄嗟の方向転換をしくった私はもんどりうって転げ周り、雪原に真っ赤な跡を残した。

 

「う、あ――が、あ、ぁ……」

 

 私は呻きを漏らしていた。赤黒く滑る粘膜が目と鼻を塞ぎ、炸裂した大気が音波となって耳を聾した。散弾のように飛来した骨の欠片が半身を抉りぬいていた。

 

 しかしさらに驚愕すべきは、その光景を目にしてさえ、残りの男たちが特攻をやめなかったことだ。血煙を纏い群がりくる雑兵たち。

 

 まるで、そうすることが当然であるかのように、男たちは次々に私目掛けて迫ってくる。死を前提としたその突貫に、私の中で置き去りにしてきたはずの戦慄が矢庭に湧き起こってくるのを感じた。

 

 私は一直線に加速した。単純な速度の差に任せて引き離す。

 

 もう少しで本拠地が見えるはず。そう、目測をつけたその時、私は己の前方に独りの男の姿をみた。長身痩躯の角ばった印象の学者風の男だった。

 

 異常なほど寒々しい、怜悧な陰を灯した目が私を見ていた。

 

 この男は雑魚ではない。瞬間に判断した私は――それでもなお前進加速した。もはや退路などないのだ。が、その刹那の内に男の姿が消えた。それに気付いた時、私の視界は奴の拳で塞がれていたのだ。

 

 速い! とてつもない衝撃と共に後方に仰け反りながら、しかし何かがおかしかった。初動すら見えないというのはおかしい。

 

 兎角――私はそのまま反転してその男の後方に回り込もうとした。しかし、男はそれをゆっくりと首を廻らせて見ていた。じっくりと確認していた。と――思った刹那、まるで今度は黒い旋風のように滅形した男の姿が私の前をゆるりと通り抜けていく。

 

 咄嗟に拳打を放つ。それもなんなく躱されてしまう。そして男はすでに引き戻しようのない拳をまるで万力のように掴み取った。

 

 どのような体位変換が行われたのか、私にはまったく知覚も理解も出来なかった。ただ、気がついたら自分が宙に浮いていたことだけがわかった。

 

 それだけが確認できた事実だった。次の瞬間には、私の体は地に叩きつけられていた。まるで隕石の衝突かと思うほどに、私の体は厚い雪を掻き分けてその下の凍った大地の深くまで打ち込まれていた。

 

 私の思考はこの不可解な現象を解明しようと沸騰し続けていた。感覚操作の幻術か? 何らかの魔術、空間を対象とした呪いか?

 

 跳ね起きようとした私の体に凄まじい圧力が襲い掛かかった。閃光のようだったはずの私の駆動は押し止められ、滞り、ついには地に伏した。

 

 重い。まるで体の上に数百キロもの真綿が積み上げられているかのようだった。唐突な予感が私の背に異様な冷気を突き立てた。そうか、――ヤツが速いのではない。私が遅くなっているのだ。

 

 幻覚や魔術といった複雑なものではない。それは現実の加重圧であった。これも新たなる被験者の異能だというのだろうか。そう、あの男の異能に違いない。単純明快な加重の異能。言うまでもなく私の加速の異能とは致命的なまでに相性の悪い、悪辣なる異能だ。

 

 だがそれ以上思案する暇など与えられない。地中深くに足を止めた私に、先ほどの命を無視された雑兵が三度襲いかかる。

 

 穴にもぐりこんできた雑兵に自爆されたらそれこそガードしきれない。私は最期の銃を使い捨てて雑兵の群を蹴散らした。穴からと抜け出し全速で雪上を駆ける。――しかし今度は背後から背中の皮を剥ぎ取られた。

 

 再び追いついてきた荊のような獣が、今度はその全身から剣を生やしたかのように肢体を変貌させ襲いかかってきたのだ。この状態では引き離すことは難しい。ならば反撃に、と構えを取るが次の瞬間には再びこの身に凄まじい圧力が加算され、立つこともできなくなる。

 

 あの加重圧の男は仲間である筈の荊女をもまとめての能力の対象としたというのだろうか?

 

 それが間違いだと気付いた時にはもう遅かった。足止めを受けた私の頭上から全身を剣山の如く変容させた女が覆い被さってきたのだ。それは男の「加重」の能力を利用して、真上からまるでムササビか、あるいは蛸のように四肢を広げて落下してきたのだ。当然、加重によって全身の刃の威力は倍増している。

 

 串刺しだった。それは死の抱擁と呼ぶべきものであった。何とか全身の肉ごとそれを引き剥がすが、今度は皮だけでなく、全身の肉という肉までもがごっそりと削り取られた。同時に自爆を厭わぬ使途達が後方から迫ってくる。その男たちの遥か後方から号令を下す青年の視線が、仄暗い光を伴って私を見つめていた。

 

 根幹的な危機に私の根幹が警鐘をならした。勝てないことにではない。死ぬことについてではない。辿り着けぬことを、私は恐れたのだ。

 

 私は逃げた。命からがら、形振りかまわず逃げ延びた。以前父に殺されそうになったときの自省を生かして、辛うじて生き延びた。――

 

 

 それから、私は身を隠した。事態がこれほど深刻になっていたとは思いも寄らなかった。あの三人の異能者がいる限り、私は決してヤツに、あの魔剣に辿り着けない。ゲリラ的に持久戦を迫るしか、私には手がなかった。

 

 それから幾度となく、ヤツの命を狙ってこの城に攻め入ろうとしてきた。しかし、その度に失敗を繰り返すことになった。やはりこの場所であの異能者たちを相手にしたのでは勝算はない。一人ずつならいざ知らず、二人以上が同時に来るとなると、とてもではないが手には負えない。

 

 待つのだ、今は機を待つのだ。あの魔剣は必ず私が持つ欠片を手に入れようとするはずなのだ。

 

 それから、奴等と私との長いにらみ合いが続いていた。――

 

 

 そして一月ほど前、契機は突然訪れた。

 

 私の身体に突如として現れた三画の紋様。そして、間を置かず遭遇した怪異なる現象。

 

 現れた暗殺者のサーヴァント。聖杯戦争なる儀式の詳細はそのサーヴァントの口から聞き知った。なるほど、向こうのほうが痺れを切らしたとうことらしい。

 

 絶対に逃げられない策を用いて、欠片の所有者を集めるつもりだということはすぐに察せられた。

 

 これの首謀者はあの魔剣だ。欠片の所有者は逃げることが出来ない。サーヴァントがそれを許さないからだ。

 

 私はこの敵の策に乗った。是非もないことだ、何よりあの異能者どもが互いに潰しあってくれるなら好都合。それが魔剣の撒いた餌だと知りつつ、私は真正面からそれを受けるつもりだった。

 

 ただ、誤算だったことは、死んだ筈の、殺したはずの娘が生きて悪辣なこの罠に参加していたということだ。しかも、袂を別った我が父のもとで。

 

 ――そして、魔剣の真の狙いがテフェリーを取り戻し、それを器として復活することなのだと気付いた私は、標的を、いま一度最愛の娘に向けなければならなかった。

 

 私は戦った。そして一度はテフェリーの命を取れる位置にまで詰め寄った。だが、「どうして」と、問いかけてくるテフェリーに私はたじろいだ。

 

 見つめてくる瞳が何時かのテフェリーの、そして鞘の眼差しに重なり、私はそれを直視できずに、彼女の目蓋を裂いた。そのせいで最大の機を逃してしまうことになった。

 

 私はまた躊躇してしまったのだ。それがこの事態を巻き起こしてしまった。

 

 もう時間が残っていないことを悟った私は後のことを父、ワイアッド・ワーロックに預けた。何故こんな場所で再会したのかは未だにわからない。命懸けでテフェリーを護ろうとした父にどのような心変わりがあったのかは、何の興味もない。

 

 それは知らなくてもいいことなのだろう。父がなにを選んだにしろ、どう変わったにしろ、それは父自身の問題だ。私が知る必要のあることではない。

 

 そして私は最後の機を待った。完全体となるために、魔剣が最後にテフェリーに接触を図るその時を。

 

 その最後の隙をつくために待ち続けていた。

 

 騎士王と呼ばれるイレギュラーのサーヴァント、セイバーとの闘いに敗れた魔剣が、限界を迎えた鞘の体を破棄しテフェリーに乗り移ろうとしていることを察した私は決意する。

 

 ここしかない。これが千載一遇の、そして――最後のチャンスなのだと。

 

 そして、私は馳せた。己の命を燃焼させ尽くしての最大加速。魔剣の欠片を取り除いた私の体に残された、これが正真正銘最後の力だった。

 

 ――――これが、最後の過加速(ディーン・ドライブ)

 

 銀の閃光となった私の牙が、無防備となったテフェリーの心臓を穿とうとした――そのとき、超加速したはずの私の前に何かが割り込み、私の行く手を阻んだ。

 

 気が付いた時には私は仰臥したまま横たわり、ぼんやりと空を見上げていた。

 

 もう、身じろぐことさえ出来なかった。そこでようやく地に伏し、金色の蝶の羽化を見ながら、私は総てが無為に終わったことを悟った。

 

 結局、七騎のサーヴァントを取り込んで復活しようとする魔剣の企みを、私は防ぎきることが出来なかった。それが結果だ。それが、私の生涯の帰結だった。

 

 

 

 ――そして、今、「私」は終わりを迎えようとしている。

 

 その後、欠片を持っていなかった私を殺そうとした魔剣の前に現れたのはキャスターだった。その場にいた者たちは皆退避し、キャスターと魔剣もその場から飛び去った。

 

 私は一人でその場に取り残され、ただ、ぼんやりと曖昧な感覚だけを頼りに天を見上げていた。

 

 空には美しい月が、私達のことなどお構いもなく浮かんでいた。そういえば、こうして月を見上げたのなど、何時以来のことだろうか。思えば、ずっと、――そう。長い間空を見上げたことなど無かったのだ。

 

 ただ前だけを見て、前のめりに崩れそうになりながら前進してきた。そうしなければその場にくずれ落ちるだけだとわかっていたからだ。そして走り続けてきた。

 

 それも、もう終わるのだ。

 

 何も成し遂げてはいない。何を獲得した訳でもない。なにを是正できた訳でもない。

 

 ――総てがただ途上のままに、無情な終わりを突きつけられた。こんなところで、このまま無為に終わりを迎える。――

 

 無念かといえば、無論無念でならない。失意かといえば、無論失意以外の何物でもない。

 

 そのはずだったが、しかし今私の胸の内には何も湧いては来なかった。悔恨も、悲しみも、怨嗟の声さえも、微塵も湧いてくることはない。

 

 すべて、使い切ったのだ。今、事此処に至って、是非もないほどに、走りきり、もう何も残っていないほど、この胸の内は空虚であった。

 

 すべて吐き出したのだ。だから後のことはもう是非を問うこともない。私はただ生まれて、有らん限りに生き、そして何も得ることなく死のうとしている。

 

 そこに意味などありはしなかった。無意味な生だった。それでもこれほどにすべてを出し尽くしたのだから、もう、いい加減体から力を抜いてもいいのかもしれない。そんな気がしたのだ。

 

 最後に辿り着いた答えが「無意味」であっても、答えが出ただけ、マシだと思えた。

 

 あの時、父の下を去らなければ、父の采配どおりの生を送っていたなら、きっとこんな答えですら得ることもなかっただろう。

 

 私は自分の生を全うした。その結果だけが私が生涯で得たものだったのだろうか。

 

 そこで、ふと耳鳴りのようなものがかすかに聞こえてきた。聴覚が破壊されたための幻聴かとも思ったが、その音色には聞き覚えがあった。

 

 放って置けば良かったのかもしれないが、どうにも気にかかり首を廻してそちらの方向を見ようとした。崩れた身体の各所から血が噴き出し、何割かの命が零れ落ちていった。

 

 だがそんなことはどうでも良かった。そこには最後に私が使用したあの短剣があった。その砕かれた刀身が微かに鳴動しているのだった。

 

 なぜ鳴っているのか、なにを知らせようというのか、わからなかった。私はその剣のことを考えていた。もう昏倒してもいいはずなのに、なぜか思考は止まろうとはしなかった。

 

 泥むような倦怠感に塗れながらも私はその剣のことを思い出そうとしていた。幾度かこれのおかげで命を拾ったこともある魔具だ。――これは、何時、何処で手に入れたものだっただろうか……。

 

 そのとき、まるで閃光がひらめくように、私の脳裏にひとりの少年の姿が浮かび上がった。最後の特攻に打って出た私を、テフェリーを守るようにして叩き落した銀色の髪の少年。

 

 そうだ。あの時、雪深い森の中でテフェリーを見つけたあの時だ。そうだ。あの少年だ。確かサンガールの末弟。何処かで見たような気がしてはいたのだ。

 

 あの時、私はテフェリーしか見ていなかった。四肢を切り落とされ異形へと変えられた娘の姿を前にして私はそれ以外の物を意識に留めることができなかったのだ。

 

 だが、今になってみれば確かに思い出せる。あの時テフェリーの銀色の手を取り、寄り添うようにしていたただ一人の人物。

 

 彼はなんだったのだろうか。今ならわかる。テフェリーは彼を護ろうとして私と戦ったのだ。そして命懸けで私の武器を奪って滝壺に落ちていった。

 

 私に斬りかかってきたあの少年に私はなんと問うただろうか。私は「なぜか」と問うたのだ。そして彼は、彼はなんと応えたのだったか……

 

『だって――ボクは、ボクはテフェリーのともだちだから……』

 

 わけもわからず、全身が強張る気がした。もうすべてを吐き出したはずなのに、もう何も残ってはいないはずなのに、この体はまだ動くらしい。

 

 もう原形を留めてはいない手足が、まだ動くとばかりに強張りを増していく。一抹の火が、いまだ私の身体を何処かへと誘おうとしているようだった。

 

 あの時には気付かなかった。そうか、テフェリー。お前には手を引いて、外に連れ出してくれる相手がいたのだな――。

 

 そう思うと、気が少し楽になった。何も解決などしてはいない。何も成し遂げてなどいない。だができる限りの事はやった。それで何も出来なかったというのだから、それはもう、仕方のないことなのだろう。

 

 きっと、サヤならそう言うかも知れない。

 

 なにを惰弱な言い訳に耽っているのだろう。そう失笑し、何年かぶりに体から力を抜こうとしたが、うまくいかない。どうやら、私にはまだ、ほんの一抹の余力が残っているらしい。

 

 しかし、これ以上自分になにが出来るのか。ただ、からだから力を抜くことができず、わけもわからず這いずりながら、考える。意味もない事を考える。

 

 永らく忘れていた事を思い出した。己の願いだ。自分にとっての、自分だけのための意味。それを探し続けてここまで来てしまった。

 

 何の意味があるというのだろうか。這いずることしか出来ないこの体で一体何処へ行けばいいというのだろうか。

 

 兎角、私は全身の強張りと蠕動と痙攣に任せて這い回った。闇雲に這いながら――サヤの声を思い出していた。

 

〝――自分で決めた行き先ならさ、行くだけ行って、その後で自分の足跡を振り返ってみればいいんだよ。それが君の道であり、人生であり、意味なんだよ。自分が、自分で、自分のために選んだ未知なら、そこには絶対に意味があるはずなんだから――〟

 

 いま、私が振り返ったならそこに何かがあるとでも言うのだろうか? 何もない。何の意味もない。それが私の生涯ではないか。何も望めなかった。何も得られなかった。

 

 それでも、身体の中で燃える強張りは火となって、長年止まることを知らなかった私の身体を足掻かせる。のたうつようにして、私はのろのろと紅い泥の中で身体を起こした。そしてようやく背後を振り返った。何もありはしない。ただ、紅いナメクジの這い跡のようなものがあるだけだ。

 

 何も、なかった。――そう思い俯瞰した次の瞬間、私の視界が硬直した。

 

 その這いずった跡のずっと先に、瓦礫の影に静かに横たわるようにして、私の生涯の意味が、その総てがそこにあった。

 

 私はそのままそれを目指して(まろ)び出した。真偽の沙汰を待たずして、全力で、四肢だけでなく、歯で石を噛むようにして、脇目も振らずそこを目指した。

 

 すでに燃え尽きたと思っていた全身が火のようだった。これが最後だとよくわかっていた。距離にして数メートルといったところだっただろう。その距離を残りの命をすべて燃やし尽くしながら進む。這う、足掻く、駆ける。砂になりかけの五体を引きずり、血と灰が混ざったような汚らしい砂利の中を精一杯の力で這いずりながら、ようやく辿り着く。

 

 

 もうなくしてしまったはずの、もう二度と戻らない筈だったものがそこにあったのだ。

 

 

 もうその目蓋は開かず、すでに息も止まり、後は冷えて固まるだけの、抜け殻のような鞘が顔だけをこちらに向けて、まるで眠るように。そこにいた。

 

 そこにあったのは死体だ。魔剣が、使い古した服でも脱ぎ捨てるようにしていった。鞘の遺骸があった。

 

 すでに崩れかけた五体には体温など残っていない。それでもそこに沿うように這いより、鉛で出来た襤褸のような身体を瓦礫に預け、彼女の身体を抱きかかえた。 

 

 鞘の顔が見える。あの時と変わらない。若い姿のままの最愛の妻の顔だった。すると彼女の白い肌には温かみが戻り、黒髪からは潮気交じりの甘い香りが溢れた。潤んだような光を湛えた黒い瞳がゆっくりと開かれ、また、はにかんだように微笑んだ。

 

 以前も同じようにこの腕の中に彼女を抱きしめていたときのことを思い出す。あの時も、サヤは子供のようにむずかるようにして、何時までも嬉しそうに笑っていたっけ。

 

 ――きっと、私の感覚が麻痺していたのだろう。もしくは失われた感覚を、都合のいい記憶が書き直していたのかもしれない。 

 

 それでも良かった。そして確信することができた。意味はあったのだ、と。私の生は決して無為ではなかったのだ。最後に、最後の時に、こんな気持ちになれるのなら、きっと私の人生には確かな意味があったのだ。

 

 ――理屈はさておき、今は、素直にそう思える。

 

 そうか、私もずっと宝探しをしていたんだな、サヤ。

 

 そして最後の最後に、一度こぼしてしまった宝の一つをもう一度捕まえた。なら、それでもいいのかもしれない。

 

 何も得るもののない生涯なのだと思っていた。何かを失い続けるだけの人生だと思っていた。それでも最後に。こうして誰かを抱きしめて、こんなふうに思えるなら、きっと、この生に意味はあったんだろう。

 

 腕の中のサヤの手を取る。暖かい手の感触を確かめる。あの時、有無を言わさずに私の手を取って走り出した彼女の手だった。

 

 そうだった。私にも、本当の世界へ導いてくれた相手がいたのだ。

 

 そこでようやく、この身体はもう動くのを止めてくれた。ようやく、使い切ったのだ。

 

 総ての余力を。何も見出すことのできなかったこの己の生の道程の半ばで、ただそこだけが、彼女と過ごした時間だけが、まるで泡沫の幻燈のように光り輝いている。

 

 そうだった。私は――それを護りたかったのだ。あの時間を、無かったことにはしたくなかった。それが私の意味だったのだ。

 

 今なら、言える。今ならわかる。珍しくもない。凡そ総ての唯人が持ち合わせる凡百の情、たった一片のそれが、私の意味だった。

 

 それを自覚するまで、ずいぶんと長い時間がかかったものだ。

 

 一抹の幸福に包まれながら、私は腕の中の鞘に微笑み返した。

 

 あの日のように、鞘のさえずるような声が聞こえてきた。

 

 

〝人が何のために生きるかって? そんなの簡単よ。誰だって幸せになるために生きてるに決まってるじゃない。ねぇ、今はどう? 幸せだと思う?〟 

 

 

 ――最後に語りかけてくるサヤに、私は以前応えられなかった言葉を返した。

 

 

〝幸せだよ。君がいる。私の人生の意味は君だった。君を愛したことが私の意味だった。君を、誰よりも愛している〟

 

 

 そう言うと。サヤは初めて会ったときのように、まるで子供のような顔で笑った。

 

 

〝ならさ、それで一切万事はオッケーでしょ?〟

 

 

 それは潮騒の音と共に私を包み込んで世界の隅々まで響き浸透していく。子守唄のような柔らかな旋律は、段々と擦れていき、遂には心地よい耳鳴りのようになった。

 

 それでも何時までも途絶えることない、それは、きっと彼女の囀る歌声の、久遠の残響(サイレント・ノイズ)だったにちがいない。

 

 

 ――その心地よい音程に包まれながら、私は静かに目を閉じた。あの日の、二度と忘れることない、幸せを謳歌した時のことを思い出しながら――――。

 

 

 

 

 

 



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七章 謡う合鳴鐘「カリヨン・トランス」-1

 

 星の無い、凍てつくような空の下、極寒の海原を漂うひとつの球体があった。

 

 まるで暗い闇色の空を写しとったかのような海面に、唯一淡い光を撒いて瞬くそれは、夜の片隅に取り残された星屑の残滓のようであった。

 

 その金色の粒子を振り撒く、つるりと滑らかな卵の中で、それは笑う。

 

 わらいながら、潮流の揺籃に揺られまた嗤う。(わらべ)のように、ふるりと、……微笑(わら)う。

 

『魔剣――繭』幾重にも連ねられた金の霊糸によって編み上げられた、シルクのような光沢を放つ金色の繭玉であった。

 

 編み上げられた金糸の外殻が作り上げる、この魔剣にとって最も強固な防御態勢。それはあたかも至高の芸術作品のようですらあり、しかし同時に傷ついた身体を癒す、休息のための揺り篭でもあった。

 

 今、この魔のインテリジェンス・ソードはこの上なく傷つき、瀕死に近いところまで追い詰められていたのだ。

 

 にもかかわらず、その金の卵のような神衣の中で胎児のように身体を丸めながら、その薄く愛らしい口元には、まるで蛇のような悪辣な笑みが浮かんでいる。引きつるような口角だけが、歪んだように微笑を刻む。

 

 甚だ不本意ではあった。あった――が、その顔にはあどけない幼子のような笑いがこみ上げてくるのだ。これはどうしようもないことであった。こみ上げてくる喜気に観念して、口元は笑うに任せてあった。どうにも、波の揺らめきが心地よく、快く、少し、眠いのだ。

 

 あれほどの恐怖、あれほどの高揚、あれほどの渇望――――久しく無いことであった。

 

 何時以来であっただろうか。そう、あれはまだこの魔剣が一個の自我を獲得して間もなかった頃。人の命を貪り続けねば、すぐにも霧散してしまうような、露のような自我であった頃だ。

 

 常に死との、消滅の恐怖との鬩ぎあいであった。その頃のことのを思い出すと、また、満足げな笑いがこみ上げてくる。心からの満足感が、不本意ながら、魔剣の頬を燻らせる。

 

 楽しい。戦うことは、そして勝つことはなんと嬉しく楽しいことなのだろうか。そうだ、最後にこのような死力を尽くした闘いに廻り合えたことは、むしろ僥倖であったとさえ言えるだろう。

 

 それほどに、今は気分がいい。死を賭した勝利とはいつも限りなく心地がいい。久しく忘れていた感覚だ。

 

 おそらくはこれが最後になるだろう。次に目覚める時、おそらく己は至高の存在へと昇華することになるのだ。何者をも凌駕して余りある。甚だ完全なるものへとなるのだろう。永遠の代名詞となるのだろう。

 

 魔剣は、その未来を想い。そして、また、笑うのだ。

 

 しかし、それも少し先のことだ。今は動くことも出来ないのだから。

 

 それも良いだろう。暫く眠ることにしよう。嗚呼、それにしても――気分がいい。

 

 そうして、鈍い光を放ちながら、波に揺られる繭玉は己の行き先も知らず、ただゆっくりと蒼から次第に褐色の強まる深海へと落ちていった。

 

 

 

 

 ――――――事は、約一時間ほど前に遡る。

 

 

 空を行く、二つの飛翔体が暗い色の空を二重に引き裂きながら舞い上がって行った。

 

 それらは幾重にも激突を繰り返し、その度に、天蓋を埋め尽くした雲の向こうで雷鳴にも似たうねりが轟き渡る。

 

 一方は金濁の光に輝く蝶。そしてもう一方は、ひどく形容しがたい形態(かたち)をしていた。

 

 とても奇異で、ただおぞましく、殊更にグロテスクであった。しいて表現するなら、――それは癌細胞に似ていた。

 

 大気がうねり、見下ろすことさえ叶わぬはるか下方の海面が、ゆっくりと持ち上がろうとしているのが感じられた。

 

 大雲が、押し込められた綿の如く幾重にも重なり合い、押し込められるかのように、それに集束し始めていた。

 

 はるか彼方の雨の気配が此方に向かって引き寄せられるのが分かった。

 

 

 ――――まさしく慮外の事態であった。事態は己の望むとおりに展開した筈だった。後は文字どおり王手をかけるだけだったはずなのだ。

 

 ――にも関わらず、魔剣は逃げていた。その身に四体もの英霊を取り込み、すでに並ぶものなき真性の荒神となったはずの己が、今無様にも逃走をはかっている。

 

 一抹の危惧さえ抱くことのなかったその思考は、今屈辱と不可解な事態に対する混乱とで焼き切れそうになっていた。

 

 しかし神代の頃より培われてきた魔の危機感知能力は絶えず規格外の警鐘を鳴らし続けているのだ。何の確証も勝算もなく()()()()()と戦うわけには行かなかった。

 

 

 当初より、いきなり姿を変え始めたその敵の正体がなんなのかを、魔剣は判じきれずにいた。それを率直に評するなら、それは、蛇。

 

 爛れ、腐乱してなお身悶え蠕動する毒蛇の群のようにも見受けられた。――それはおぞましいまでの呪詛の念の塊だった。まさに荒ぶる神であった。邪神であり、悪神だった。

 

 一方で荒れ狂う無貌の蛇の群れが時としておぞましく蠢きながら立ち上がり、奇怪な海栗(うに)の棘のように逆立ってもみせる。かとも思えば、それは一時たりとも形状を定型化させることがない。

 

 次の形態(かたち)は球形だ。不定形に蠢く蜂球(ほうきゅう)のように成る。それを形作るべく(ひし)めくのは、またもや顔なしの毒虫の群だ。

 

 それが、今度は解けて交じり合い、ついでは長く引き延ばされ、滑らかな夜空の上に、実に汚らしい、ジクジクと蝕むような黒濁の筋を引いたかと思えば、一変してのっぺりとした無貌の大蛇か、はたまた百足のように変幻するのである。

 

 とても正視に堪える光景ではない。

 

 そして口々に、気がふれたかのように、おぞましい呪詛を謡うそれは、(むご)たらしく、おぞましく、憎悪の念を謡う呪い神のようであり、その雄叫びにひしめく大気までもが悪意の念に染め上げられていくようであった。

 

 そこはあたかも昼のようでありながら、遥かなる天上に夜を頂く場所であった。広すぎる空間を埋め尽くす蒼すぎる大気の中で、燦然と輝く金と汚濁色の黒点とが凄まじい速度で浮上していく。

 

 今や、其処からは見下ろすことすら叶わぬ冬木の地から、やおら天空を目指して飛び立った双つの魔の飛翔体は、凄まじい速度で付いては離れを繰り返し、上昇を続け、ついには成層圏を越えて星々のきらめきを目撃するに至ったのだ。

 

 星灯りの照らす大雲の原にまろび出たそれらは追走劇を再開する。

 

 魔剣は金色の四肢で空を駆けながら、()()()()()()()()()()いく、まったく持って理解・推論の及ばぬ事態だったが、魔剣はすでに()()についての思考をやめていた。それがなんなのか、なぜそのようなことができるのかにすら、考えは及ばなかった。

 

 とはいえ如何なバケモノに化身しようとも、所詮は死に損ない。魔物に変化する宝具を見せられた時は何事かと思ったが、あれは間違いなくキャスターと言うサーヴァントであることは間違いのないことなのだ。――つまりは殺せる。そう、殺せぬはずのないものだ。

 

 自ら獲得し、また何よりも自負する理性に依り、その根幹の本能をさえ押さえつけるようにしてこの思考する魔剣(インテリジェンス・ソード)はその増殖し続ける魔の偽球体へと狙いをつけた――。

 

 

 

 ――奴は強い。

 

 もはや人としての根幹をも磨り減らしながら、それでも妖艶なる美貌の魔女――キャスターであったはずのソレは考える。急がなくてはならない。もはや記憶の前後すら混濁が生じている。単純に時間が残されていないのだ。

 

 恐ろしい。己が消えていくのが手にとるように解る。これはけっして最終手段などではない。これは戒めでしかったのだ。己が魔女であることの戒めであり、決して使用してはならないはずの機能であった。

 

 もしも使えば、彼女はどうしようもない恐怖の代償に、もっとも尊い筈の物を失っていくのだ。人格が消失する。記憶が掻き消される。だがもう時間がない。恐怖に震えている場合ではない。愛おしさの残骸に縋り付く暇はない。

 

 考えなければならない。タイミングを、絶好の勝機を計るために。

 

 

 ――ヤツは強い。四体ものサーヴァントを力として取り込んだあの魔剣に対抗できるものはもはや存在しないのかもしれない。たとえあの騎士王が全快したのだとしても、もはや対抗できる領域にはいない。それほどにあの魔剣は強大な力を得ている。

 

 ――ヤツはツヨイ。だが、否、だからこそ負けるわけにはいかナイ。故にキャスターたる己は、サーヴァントたる我ハ、いかなる手段に訴えてデモ――。そう、自ら禁じた筈の奥の手に訴えてデモ、己が手で護らなければならなイ。ソウ、タトエ、ドンナ手に訴えてデモ――。

 

 

 

『魔剣――(いかずち)!』

 

 瞬間、波打って蒼の大気を抉った金の筋がジグザグの斜線を描いて黒濁の魔を貫いた。

 

「やった――――か?」

 

 勝利を確信するより先に瞬間、巻き起こったこの上なくおぞましい、悲鳴のような獣の呻きに不吉な呪詛の淀みを感じ、魔剣は粉砕した筈の敵の残骸を前にしてなお己の必殺を疑った。

 

 果たして、その判断は「是」であった。砕かれ、四散した魔物の体そのものがそれぞれに変容して黒い霧か汚泥のようなものに変じたのだ。それらは雲間からのぞく蒼の大気に放射状に飛び散ったかに見えたが、途端にその軌道を捻じ曲げて魔剣に向けて迫ってきたのだ。

 

『魔剣――函』

 

 最後の悪あがきか――。一時は肝を冷やした魔剣だったが、再び不敵にほくそ笑むと危うげなく金の糸を立方体形に編みこんで防御の姿勢をとった。しかしそのおぞましくも不快な魔の四散体はなぜか魔剣に触れようともせず、その近辺の虚空に集束し始めたのである。

 

 ――なんだ、これは? 訝るあいだにそれらは一所に集まると、やおら凄まじい勢いで()()()()()纏わりつき合い、廻り、踊りあって一つの黒い穴のようなものを作り出した。

 

 

 それは、癌細胞に似ていた。

 

 

 ひどく強大で、性急な、どうしようもない致命の病巣に似ていた。それは空間の歪みの如きモノだった。それは奈落の深遠にも似た虚穴だった。周囲のあらゆるものを巻き込み、呑み込みながら次第に肥大していく、黒い、穴。

 

 瞬間、魔剣は己の体に急激な、そして強大な引力を感じて身を強張らせた。エーテルの糸で空間そのものに金の函を固定し、必死にその吸引力に抗う。そう、引き寄せられているのだ。

 

 それこそが此度の儀式に際して呼び出された擬似サーヴァントの一人、キャスターの最終手段、『無限の爛沱(ノーリミテッド・イヴィル・ティア)』であった。

 

 それは己の自滅を前提とした、もはや手段とすら呼べぬ代物であった。それはいずれ世界をも殺すものであったのだ。

 

 それは世界の癌なのだ。世界の半身より内包されるものでありながら、それは時として異常に肥大して、いずれ世界をも殺すものであった。狂った要素なのだ。狂える細胞なのだ。故にそれは癌なのであった。故に――――世界は、それを許さない。

 

 魔剣はようやく理解していた。アレがなんなのかを。人はそれを「悪」と呼ぶのだ。それは世界の半分を担うもの。それ即ち悪性の極点なり。

 

 

 ――その名を〝魔女ランダ〟と言えり。

 

 

 それはこの世界の半分を司るとされる神霊であった。其は世界の双極の片翼を担う神の御名。単独での存在を許されることの無い、悪の極点。それは単体であってはならぬもの。

 

 悪性と善性、二つの極点はそれらが相対するが故に世界のバランスを保つ。即ち善と――そして悪。

 

 バリ・ヒンドゥーにおける善と悪の特徴は善悪二神の対立を主軸としながらも、最後までその決着がつかないことにある。かの教義において、善と悪とは常に対等であり、それらは永遠に拮抗したままなのだ。

 

 あらゆる善と悪とは万物の中に混在し、それが拮抗しバランスを保つことが世界の安定に繋がるのだという。

 

 ――故に『魔女ランダ』とは、本来ならこの世に単体で存在することを許されない神なのだ。もし、この魔女が拮抗するべき聖獣の存在を失ったなら何が起こるのか。それは世界の崩壊だ。

 

 無限の悪とは無限の正義が拮抗することによって始めて抑制されうるもの。その歯止めを失った魔女は世界にとって当然在りうべき存在でありながら、過剰に増殖し続け、いつか宿主を殺すのだ。これを魔の病理と呼ばずになんと呼ぼうか!

 

「この場の座標を維持することも難しくなってきたな――」

 

 もはや、戦うどころの話ではない。魔剣は強烈な引力にさらされながら、しかしそれでも生還の可能性を模索して思考を続ける。

 

 ――焦る必要はない。兎角、この座標から逃れられればそれでいいのだ。そうすればアレはこのまま自滅する。どうにかしてここを凌ぎきり、逃げ切れれば……。そうだ、これは捨ておけばこの世界をも喰らいつくす概念だ。故にこの世界そのものが、コレの存在を許容しないはず。もはや幾何の時を待たずしてこの化け物は消失する。

 

 ――耐えろ。あと数分でいい。急げ、世界よッ! 貴様とて、このまま安穏と喰われるつもりはあるまい!

 

 しかし暴虐の悪露は引力を増し続ける一方であった。

 

「ぐううううううううううううッ!」

 

 五体の軋む音色を聞き、さしもの魔剣も引き攣るような唸りを洩らす。

 

「――化け物めッッッ!」

 

 甘く見すぎていた。侮りすぎていた! まったく以て化け物であった。この場においては不要なはずの悔恨が後から後から湧き起こってくる。

 

 いかな弱者であろうとも取るに足らぬ雑魚であろうとも、それが己の死すら厭わぬ特攻に打って出る時、それはいかな強者ですら打ち倒す可能性を持つのだ。そのような戦場の倣いすら、忘却していた己の思慮の浅さに思考は焼ききれそうになる。

 

「これしきの、これしきのことで……」

 

 しかし、どうしようもなく、引力は増大する。空間に固定されていた筈の金の編箱は徐々にその位置から移動し始める。空間そのものが歪み、そこに引き込まれようとしているのだ。

 

 奈落のような穴は軽を増し続ける。もはや猶予がないのは魔剣の方であった。魔剣は死の恐怖を感じる。生まれ堕ちてより始めて感じる絶対的な死の具象、真なる消滅の予感であった。

 

「死んで――、死んで、たまるかッ!」

 

 だが、その死の恐怖が、今まさにこの進化する魔剣に一様の変化をもたらそうとしていた。紅と翠の瞳が瞬く、今魔剣の素体となっていた少女の身体の、それまで使用されていなかった大部分の魔術回路が、このとき初めて完全に開放されたのだ。

 

 行き詰った濁流が堰を切るように、魔剣の内側で膨れ上がった死への恐怖が、生への飽くなき渇望が、その未使用の炉に初めて行き渡ったのだ。

 

 それまで完全には使用しきれていなかったサーヴァント四騎分の魔力が、今初めて正常なギアによって変換され、極大のトルクとなってその全機能を駆動させ始める。

 

 瞬間、その膨大な魔力から変換されたエーテルにより金の糸はその光量を拡大させた。それは空を覆うほどに拡大していく。そして一個の黄金の恒星と化した金の翼は漆黒の悪の極点に向けて閃き、突貫した。

 

 肥大しすぎた魔の大渦はその自重にて衛星軌道上でありえぬ歪となって自壊しようとしていたが、飛来した金色の穂先がその穴の中核を打ち抜いた。

 

 四散させられた魔の破片はいくつかの流星となって、今度こそ真蒼の空に幾重かの緋の筋を引いて――そして消滅した。

 

 全魔力を使い果たした黄金の魔剣もまた、一筋の朱筋となって海の底に落ちていった。今度こそ確信した勝利の笑みと共に、銀色の箒星のように、染み入るような深蒼の青の中へ。

 

 

 

 ――しばしの後、しかしそう遠くない未来に、やがて魔剣は眼を覚ますことであろう。そのとき、さらに強大な、極限の存在になった魔剣に、抗しうる者はいるのであろうか。

 

 そして、その者にそうするだけの意志は、果たしてあるのであろうか。

 

 

 

 

 

 ……あの日、薄暗い城の地下牢の深奥で、少年は囚われの妖精の姫君を見つけた。

 

 それからというもの、その少年は勇者となって毎夜愛しい姫君の元に馳せ参じ、いつか自分がこの城の王となり、彼女を助けると誓いながら、その証にいくつもの詩を贈る。

 

 妖精の姫は人のものとも思えないほどに美しい、宝石のような瞳を瞬かせ、毎夜運ばれてくる泡沫の調に銀色の絃音で応えるのだった。

 

 

 

 ――そんな、まるで始まりの戯曲の一幕のように、僕らは出会った――

 

 

 

 最初は、冒険のつもりだったのだ。いつも独りだった。でも、その頃はまだ自分の状況というものをよく知らなかったから、単に放任されていた自分を、意味もなく自由で、どこか誇らしいげに感じていた。きっと、そう思い込んでいたんだと思う。

 

 とにかく独りだったから、ただつまらなくて、ひとりで本を読んで、そこに書いてあるような冒険みたいな、何か面白いことがないかっていつも何かを探してた。

 

 自分を勇敢なる伝説の勇者に見立てて、暗く深い森の奥を駆け抜けたり、大きな滝壺にある大きなツララを龍の顎に見立てて、短剣をふるって闘いを挑んだりしていた。

 

 その短剣は城の地下を探索していて見つけたものだ。綺麗な装飾が施されていて、本物の宝物のように煌めいていた。

 

 それを見つけたときは有頂天になって喜んだ。ほんとうに宝物を見つけたみたいに、ひとりではしゃいでた。

 

 それからは気を良くして、僕は次第に深い地下牢の奥に入り込むようになったんだ。

 

 毎日が冒険みたいだった。話し相手が居ないことを除けば、何にも不自由だとは思わなかった。城の周囲一帯は僕の庭だった。できないことなんかないと思ってた。いつかこの城から出て、世界中を冒険するのだ――と、本気で思っていた。

 

 あの頃は、まだそう、心の底から思っていたんだ。

 

 しかし、毎日駆け回ればさすがに飽きが来る。取り立てて目新しいものもなくなり、さらには雪が降り始めて、城の外にも行けずにまた退屈していた。

 

 そんなときだ。僕はまた地下坑道の奥の方にいってみる気になった。多少黴臭いが、外ほど寒くはなかったから。

 

 そこはただの地下牢とは思われないほど深いところで、何でもご先祖様が何かのために掘ったのだという。外から見える砦城など、人の眼を欺くための飾りで、この地下に向けて伸びる部分こそが、本来はこの城の真髄なのだと聞いたことがあった。

 

 そのときはよく意味が解からなかったので聞き返したのだが、そいつらは詳しい事を教えてくれなかった。

 

 兄さんたちばかりにかまって、僕はいつもほうって置かれていたのだ。

 

 それでも僕は気にしなかった。あんな奴等は頼まれたって冒険になんかつれてってやるもんか。と、その思いも手伝ってか、その日はとても深い、もう誰も踏み入らないような場所にいってみる気になった。

 

 あまり深い所には行くなといわれていたけれど、それより浅いところにはもう見るべき物などなかったし、もっと深いところになら、この短剣のような宝があるかも知れない。

 

 諫言など無視して、いざ未踏の場所に足を踏み入れた。

 

 ――は、よかったがいきなり行き止まりだった。この深い穴には幾つも入り口があるのだが、僕が知っているのは人目につくところばかりで他の穴からは中に入れない。困ってしまった。行き止まりなんてあんまりだ。

 

 いや、待てよ。僕は考えた。もしかしたら隠し扉があるのかも知れない。

 

 しかしそれは同時に罠であるかもしれないのだ。慎重を期すべきだ。冒険者は隠し扉や罠を潜り抜けて地下の迷宮を踏破するのだ。迷宮だ。そうだ迷宮なのだ。世界を見るより先に、ここを制覇してやるのだ。

 

 ここも僕にとってはまだ見ぬ未踏の地には違いない。僕は行き止まりの壁にランプをかざして、つぶさに何かないかを探した。すると、装飾剣が震えだし、鳴動し始めた。

剣をかざすと、その音が強くなる箇所を見つけた。

 

 よく見ると、妙な呪文のようなものが刻み込まれている。やった。やっぱり冴えてるぞ! これで新しい冒険の幕が上がる…… 

 

 しかし、よく考えてみたらそれをどうしたらいいのか解からず、それからしばらく試行錯誤を繰り返してみた。こすったり、押したりしてみたが、どうにもよくない。

 

 仕方がない、と思って僕は持っていた短剣を壁に押し当てた。これで壁を掘ってやろうと考えたのだ。

 

 壁は鉄ではなく石で出来ていたし、何とかなるかも知れないと思ったのだ。とりあえず、彫ってあった呪文の辺りを切っ先で引っかいてみた。

 

 すると、途端に、パキンッ、と言う、何処か変わった響きの音が聞こえて、壁が崩れたのだ。いや、崩れたというよりは、どこかに吸い込まれたとでもいうのが正しいだろうか。

 

 すごいッ! これは本当に魔法の剣だったんだ。もう興奮は止まらなかった。その上、持っていた短剣はさっきにも増して強く鳴り響き始めたんだ。まるでこの先にもっと凄い何かがあるのだとでも言うように。

 

 僕はどんどん奥へ進んでいき、そして、――そこで何か動くものを見つけたのだ。

 

 心臓が梟の爪に鷲づかみにされてしまったかの様に、ぎゅっと引きつった。まさか本当に魔物が居たのだろうか? 心臓がドキドキしたけど、僕は負けなかった。

 

 勇気を振り絞って、硬く思う。本当に魔物ならやっつけてやる。

 

 もう一度そいつを見てみた。暗くてよくわからないが、それほど大きいわけじゃない。どうやらドラゴンじゃないみたいだな……。トロルでもオーガでもなさそうだ。というか、あれは……なんなんだろう?

 

 それをよく見てみて、なんだか気が抜けてしまった。魔物、というには相応しくないくらい、そいつは綺麗だったんだ。

 

 どうやら人間ではないようだったけど、悪いヤツには見えなかった。

 

 いきなり斬りつけては可愛そうだと思った僕は、そいつの前に出て行った。

 

 僕に気付いたそいつは呆気に取られたように大きな目をしばたかせた。しかし僕が持っていた剣を見て、そいつは僕を睨みつけてきた。しまったと思い、僕は短剣を放って、丸腰なのを示しながらそいつに近づいていった。

 

 そいつは細長い手足で僕の身体を探るように、恐る恐る触ってきた。僕は意を決して声を掛けた。

 

「ことば、解かる?」

 

 すると、そいつは思ったよりもずっと綺麗な声で、言った。

 

「アナタ、ダレ?」

 

 話が通じる。僕はなんだか嬉しくなった。そんなふうに自己紹介をするのが初めてだったんだ。

 

「始めまして、色違いさん。僕は、カリヨン」

 

 そいつは色違いの大きな深緑色と茶褐色の瞳を瞬かせていた。

 

「……カリ……ヨン?」

 

「うん」

 

「……カリヨン」

 

「うん。君の名前は」

 

「……」

 

 尋ねると、そいつは首を捻った。見たこともないような艶のある黒い髪が流れ、暫くして、思い出したように、

 

「テ、フェ……リー……」

 

 と、そう言った。

 

「テフェリー?」

 

 今度はぼくが言い直した。するとそいつは自分が発した言葉に合点がいったかのように大きく頷いた。

 

「テフェリー」

 

 僕が笑いかけると、不思議そうにそれを見ていたテフェリーも、ぎこちなく笑ってくれた。

 

 

 僕に、初めての友達が出来た。

 

 

 それから、僕は毎日そこに通った。テフェリーはそこから動けない、出てはいけないのだといっていたから、僕の方から会いに行くのだ。結局、地下の回廊はそこまでのようで、それ以上奥には進めなかったけれど、僕は満足だった。宝はなかったけど、そこには妖精が居たのだ。

 

 僕の胸は以前にも増して高鳴っていた。だって、宝が見つかってしまったら冒険はそこまでだけど、そこにいたのが妖精のお姫様だったら、それは新しい冒険の始まりのようだと思ったからだ。

 

 毎日、いろんな話をした。僕がやった冒険の話や、外にはどんなものがあるのか、ということ。本に書かれていたこと。話せることはなんでも話した。

 

 でも、テフェリーは外にはそんなものはなかったと言うのだ。テフェリーは外から来たらしい。ならば、と、逆に外の事を聞くと、よくわからない、憶えていない。というのだ。ここで僕は考えた。きっと、テフェリーも僕と同じでまだ小さいから、よくわからなかったんだ。

 

 外の世界にはすばらしいもの、面白いものが、確かにあるのだ。でも、それは少し解かりにくく隠されていて、頑張って見つけないといけないんだ。それが冒険なんだ。

 

 僕は一生懸命説明しようとした。でも、テフェリーはよくわからないという。僕は困ってしまった。そこで暫く困って、それで簡単な答えが出た。説明してもわからないなら、実際にやってみればいいのだ。

 

 僕は言った。「なら、一緒に行こう。テフェリー。冒険するんだ。僕はいつか絶対ここから出て世界中を見て回るんだ。いつか、僕は行く。行くんだ。絶対だ。だからそのとき、一緒に行こう。外の世界を、ホントの世界を一緒に見に行こう」と。

 

 でもテフェリーは外には出られない、と重ねて言う。それでも、僕はその度にいつか君を連れ出してあげるから、と繰り返した。

 

 

 

 ――そこまで思い返してみて、思う。嘘をついたのだ。僕はあの時、嘘をついていたんだ。無自覚な嘘を。出来もしない事を語ってみせることで、それで友達が傷つくことなんて、考えもしないで。

 

 そのころ、僕は自分が誰よりも自由なんだと信じていた。でも今ならわかる。あのころから僕は兄弟たちと比べられていたのだ。そして、何の素養もないと断じられて、用もないから籠の中で自由にされていただけなんだと。

 

 

 僕は嘘をついた。

 

 

 僕は本当にできると思っていたんだ。そのときは。何も知らないのだということは無限の未来と自由なのだと信じていた。でもそれが同時にいつか来る不自由を確約することなのだと僕は本当にわかっていなかった。それが無自覚な、最初の嘘。

 

 本当はそんなことが出来るかどうかなんてわからなかったんだ。だから、あの時も声に出してみて初めてちょっと怖くなったのを覚えている。

 

 

 その日、それから暫く経った満月の夜だった。自分で掲げた見栄に急きたてられて、とうとう、僕は旅立つ決心をした。外にはまだ雪が残っていて、春はまだ来ていなかったけど、もう我慢できなかったんだ。

 

 いつものように世話役が眠りについたのを見計らって、急いで準備をした。自分の荷物や宝物の短剣。上着を着て、もう一着、毛皮の上着をもった。テフェリーの分だ。いつも寒そうな格好していたし、実際、寒いといっていた。それで毛布を持っていったら喜んでいたのを思い出したのだ。外に出るならこれが必要な筈だ。

 

 でも、いきなり行こうと言ってテフェリーはついてきてくれるだろうか? 前に聞いたときはここから出てはいけないから、と繰り返すばかりだった。その事を思い返して、少し心配になった。けど、とにかく、もう決めたのだ。意を決して、ぼくはいつもの場所に向かった。

 

 少し遅くなってしまった。遅れたのは初めてだから、テフェリーは怒ったりするだろうか。考えながら、足を速めた。

 

 その日、森の向こうにあった、僕だけの秘密の扉は開いていた。

 

 淡い月光の下で、銀色の四肢を持った妖精が二色の瞳を哀しげに伏せながら、冷たい風に揺られるがままに靡く黒金(くろがね)の髪を揺らしていた。

 

 テフェリーは外に出てきていたのだ。僕は驚いて声をかけた。

 

「テフェリー、自分で出れたじゃないか」

 

 僕はなんだか嬉しくなった。だって月の下で佇んでいたテフェリーはそれまで見たどんなモノよりも綺麗だったから。しかし、テフェリーは無言で僕のところまで歩いてきた。やはり怒ってるんだろうか?

 

「……なんで出てきたのか、解からない。でもカリヨン、来ないから、どうしたのかなって、たくさん思ってたら、ここまで来てしまった……」

 

 僕は途端に嬉しくなってテフェリーを抱きしめた。テフェリーはことばを繰り返している。

 

「今日は来ないのかと思った……」

 

 やっぱり、ちょっとだけむっとしてるみたいだ。僕は笑って謝る。きっと逆の立場だったら僕も怒ると思ったから。

 

「おくれてごめんね。寒くない?」

 

「……ちょっと」

 

「これを着て」

 

 僕は毛皮の上着を着せてあげた。

 

「……」

 

 テフェリーは僕を不思議そうに見つめた。

 

「カリヨン、ちょっと違う、いつもと」

 

 僕は真面目な顔になって、言った。

 

「テフェリー、僕がもうここに来ないって言ったらどう思う」

 

「いや。すごい、すごく、いや。とても……」

 

 テフェリーは哀しそうに眉根を顰めて即答した。僕は一気に切り出した。

 

「テフェリー、僕は行く。外に行くんだ」

 

「……」

 

「ひとりでだって、行く。でも、僕もテフェリーと会えなくなるのはいやだ。とっても辛いし、怖い。だから……僕と一緒に来て欲しいんだ。行こう。前に言ったように、一緒に行こう。まだ見たことのないものを見に、一緒に行こう」

 

 テフェリーは暫く黙っていた。僕にはそれがすごく長い時間に感じられた。

 

 でもそれは、夜の空を流れる雲が、一時月の光を遮って、また流れたくらいの少しの時間だったのだと思う。それから不意に視線を上げたテフェリーは僕の視線を真っ直ぐに受け止めて、言った。

 

「いく」

 

 

 

 僕らはいつもみたいに話をしながら、森を抜けて、大きな滝壺に差し掛かった。別名竜の顎。命名は僕。冬になると巨大な牙みたいなツララが生える場所だ。ここを超えると、本当に今までいったことのない場所に出ることになる。

 

 テフェリーは嬉しそうにしていたが、僕は少し怖くなってきた。滝壺を超えるにはもっと浅瀬に行かないといけない。川沿いを歩こうとして、僕は足を滑らせてしまった。そんなに深いところまでは行かなかったけれど、水浸しになってしまった。とても寒い。

 

 河から這い出して、途端に心細くなってきた。上着を脱いで、どこかで乾かさなきゃならない。風が吹いて、首を撫でていった。涙をこらえる。恥ずかしくなった。テフェリーの前なのに。

 

 すると、テフェリーは自分の上着を僕にかけてくれた。それがどうしようもなく温かくて、いい、って、断ることも出来なかった。

 

 でも、そうするとテフェリーは殆ど裸だ。平気かと聞いても、いつもこうだから我慢できると言われた。それで、申し訳ない気持ちも手伝ってテフェリーもすこしは温かいかと思って、抱きしめた。いや、抱きついた。想像通り、手の先はすごく冷たかったけど、テフェリーの身体は温かかった。

 

「ごめんね」

 

「いい。私のほうが、お姉さん」

 

 そういえば、立っているのを見たのは今日が始めてだったのだが、テフェリーの背は僕よりも少し高かったのだ。それでも、そんなふうに思われていたのかとちょっとムッとした。したが、テフェリーが温かくて、なんともしようがなかった。

 

 僕は安堵しかかっていた。あれほどに恐怖に苛まれていたはずの僕の心臓はもう落ち着いていた。テフェリーがいれば大丈夫なんだと思って、僕は心から安堵できた。

 

 もうテフェリーがいなくなるなんて、僕も考えられなかった。僕の初めて友達。ずっと一緒なんだと思ってた。

 

 しかし、先に進もうとして滝に差し掛かると、テフェリーは脚を止めてしまった。どうしたのかと聞くと。ここが領土の端だから、と言う。つまりここから先はまだ知らない世界だということになるのだ。

 

 それで、テフェリーは動けなくなってしまったのだろうか。

 

「大丈夫だよ」

 

 僕はテフェリーの冷たい手をとって、大きな滝の裏を通っている道を目指した。

 

「うん」

 

 しっかりとつかんだ手は外れる事なんかなかった。そうして、僕らは新しい世界に踏み出したんだ。

 

 

 

 ――そのときだ。アイツが、現れたのは。

 

 

 テフェリーの手を引いてまた歩き出そうとしたとき、僕は夢見心地のまま突き飛ばされた。分けも解からずもんどりうって空を見上げた。そいつは虚空を蹴るようにして、テフェリーに襲いかかった。

 

 どうしよう。わけが解からない。どうしよう。テフェリーが殺されてしまう。相手はなんなのだろう。なぜ? どうしてこんなところに!?

 

 考えているうちに、初めて見る、殺意でぬらつく剣がテフェリーに向かっていく。だけど、次の瞬間その白刃はそれにも増して白々と輝く幾筋もの銀の閃きによって、仄暗い夜と諸共に、幾重にも両断されたんだ。

 

 テフェリーは虚空を舞った。僕の目には敵の姿は動きが速すぎて捉えることが出来なかったけど、それだけはわかった。テフェリーは強いのだ。今襲い掛かってきた敵だって、凄く強そうな大男なのに、テフェリーはぜんぜん負けていないのだ。

 

 銀色の閃きが瞬くたびに、敵が近づくことも出来ないで居るのが、僕にもわかった。

 

 でも、二人が暗い木陰の闇の中に入ると、もう僕には何がどうなっているのかわからなかった。

 

 二人の姿を追って、走る。

 

 加勢しなくては、と思ったのだ。見たところあの敵とテフェリーは互角だ。なら、ここは僕が何とかしなくてはならない。

 

 僕が木陰から飛び出した時、ちょうど月の光が雲の間から垣間見えた。目に飛び込んできたのは掲げ上げられた二本の剣と、それに絡めとられているテフェリーの銀糸だった。すぐにわかった。今度はテフェリーの方が身動きを封じられてしまっているのだ。

 

 やはり、そうか。

 

 いくら強くてもテフェリーだけじゃあ駄目だったんだ。

 

 僕は持っていた短剣を抜いた。いつかのように剣が唸るような声で鳴いている。

 

 走る。剣を構えて、敵の大きな背中を目指す。本当に、ホントに大きな、黒い背中。その奈落の闇のような影を見つめる。まるで怪物か、本物のドラゴンのように思えて、怖かった。

 

 それはとても邪悪な、死の影だった。でも、大丈夫だ。テフェリーを助けるのだ。だって、これは僕にしか出来ないことなんだから、――僕が、テフェリーのたった一人の友達なんだから――。

 

 眼をつぶって、体ごと突っ込もうとして、何かにぶつかってしまった。冷たい感触が顔を包み込む。逆に熱い何かが鼻頭を突いた。転んだのだ。雪の下の石で切ったのか口や鼻から血が出ていた。でもそんなことはどうでもいい事で――。

 

 顔を上げて、次の瞬間見たものは、いつの間にか、僕の前に居て、投げ出されたように横たわったまま動かないテフェリーの姿だった。

 

 驚くほど血が出ていて、河べりの雪と氷を紅く染めていく。よく解らなかったけど、凄く良くない気がして、すぐにテフェリーの所に行こうとして手をのばした。上着の端をつかんだけど、テフェリーはどんどん滝底へ向けて落ちていってしまう。

 

「だめだ、テフェリー! 諦めちゃ、だめだ!」

 

 僕は必死で叫んでいた。でもどう頑張っても、テフェリーの身体を引き上げることが出来ない。

 

 最後には河べりの氷雪に足を滑らせて、手を放してしまった。赤く染まったテフェリーの身体はすぐに見えなくなった。

 

 僕は訳ががわからなくなって、剣を構えて、まだそこに立っていた男に切りかかった。お前のせいで、お前のせいでテフェリーが!

 

 でも、そこでいきなり、世界が瞬転した。

 

 殴られたのだ。そのまま吹き飛ばされて、その後どうなったのか、よく、憶えていない。

 

 ただ、とても不思議だった。そうして僕はこいつをやっつけられないんだろう? どうして、僕はテフェリーを助けられないんだろう。どうして、どうして――

 

 

 気がついたら、僕はいつもと同じ部屋にいて、いつもと同じように野放しにされていた。多分、あの男のことで皆忙しくて、僕にかまっている場合じゃなかったんだろうと思う。そうでなくても同じことだっただろうけど。

 

 ただ一つ、テフェリーには二度と会えなかった。そして、それが自分のせいなのだということ、僕がテフェリーを連れ出さなければ、僕が戦うテフェリーの邪魔をしなければ、あんなことにはならなかったということを悟った。

 

 総ては自分のせいなんだと、そのとき初めて知った。夢現に、悟った。

 

 僕は、嘘をついていた。嘘をついていたんだ。ただ、自分がひとりきりで外に出るのが怖いから、だから一緒に行って欲しかっただけなんだ。嘘をついて、世界を見せてあげるなんて適当な嘘をついて、僕がテフェリーをあんな目にあわせてしまった。

 

 僕は知らなかったんだ。自分が何も出来ない、唯の子供だって事を知らなかった。僕が繰り返してフェリーに約束したことが、全部出来やしないまやかしだったなんて知らなかった。

 

 その日からずっと、力が欲しかった。嘘をつかないでいられる強さが欲しかった。そして、何よりも君に謝りたかった。

 

 だから、再会した君に今度こそ何かをしてあげたいと思ったんだ。今度こそうまくやれると思ったのに。

 

 でも、だめだった。

 

 そんなことも無駄だった。僕はまた、君を助けられなかった。「大丈夫だ」って、言ったくせに――。

 

 

 僕は、また君に嘘をついてしまった。

 

 

 

 



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七章 謡う合鳴鐘「カリヨン・トランス」-2

 

 見上げる雲に丸くグラデーションが掛かっている。

 

 それは円満なる月影の直下から、次第に真っ白な中央の部分、順に黄、橙、赤、そしてしだいにグレーから深い藍色へと変化していく。夜なのに雲の白さが際立っていた。

 

 空の端にある雲の形までもが、よくわかる。これはもう昼の青空とも変わらない。いや、むしろ直視することを許さぬ昼の陽光に比べ、これほどまでに暗静色の空に輝く満天の月は、あらゆる空に輝くものの中でもっとも尊く美しいものだ。

 

 きっと、誰もがこの明夜を見上げれば、そう思うに違いない。それほどに特別な夜 格別な月だった。

 

 そんな月の光りにつられて、繭の中から何かが生まれ出でようとする。いや、生まれ出でずには居られないのだろう。

 

 そう想わせるほどに、今宵降り注ぐ光は新たな生誕に相応しい。それは待ちきれないとばかりに急いて繭を破る。

 

 羽化したそれは翅を広げて天を仰ぐ、金色の翅が、天の満月に向かって光の筋をはためかせる。――

 

 

 飛ぶ気なのだろうか。

 

 飛べるのだろうか。

 

 飛ぶ。

 

 飛べる。

 

 飛べるのだ。

 

 羽ばたく。それは仄暗い空に舞い上がる。一匹の巨大な蝶のように。おおきく、ゆっくりとたおやかに、凍てつく大気を掻いて天空を目指す。

 

 魔剣は飛び立つ。魔剣が飛び立つ。暗い海面に映る満月から、あたかもその一部が剥離するかのように。

 

 

 

 ――ああ、腹が減った。急ぎ、残りの欠片を迎えに行こう――

 

 

 いまや幾千にまで枝分かれした四肢の、白金色に輝く流髪の、妖しい蛍光に濡れ光る天衣の、その延長の総てが数千メートルはあろうかというエーテルの切っ先と化しているのだ。

 

 これが魔剣。いま、この現代に新生した、兇器特権(テュルフィング)という名の魔剣の姿であった。

 

 その妖しく濡れ光る天衣の裾までもが、虚ろな光芒に纏われている。

 

 魔剣は二色の瞳を巡らせた。ここは何処なのだろうか。落下した当初はそこまで確認する余暇がなかった。見上げた星の位置から、大まかな緯度と軽度を推察する。

 

 ここは北の地。――北の海洋だ。北海。英国を含む西欧諸国に囲まれ、南は大西洋をはじめ北はノルウェー海。東にはバルト海を望む、古くはゲルマンの海(German Ocean)とも称された北方の海域。

 

 そしてこの座標は英国寄りの場所であろうか。知らずの内に厄介な場所に降りてきていたようだ。そしてあれから、どれほどの時間が経ったのか。

 

 これはそう長い時間ではない筈だ。あの悪神との闘いで負った傷の再生を終えるまでの期間。

 

 改めて月を見上げる。目測で、およそ十日から二週間前後といったところだろう。

 

 鏡のように凪いで満天の月の艶姿を映す海面に、たおやかに浮遊する金色の蝶の姿が揺らいでいた。

 

 今や共にひどく深い色合いに変じた右の緋色と左の翡色、その両の瞳が星のように瞬き、金の睫毛と共にうっそりと伏せられる。月の光に浴するかのように心地よい光子の浮遊に身を任せ、魔剣は再び思案する。

 

 傷を塞ぐのにかかった時間は速くとも十日。ならば、すでにここも補足されている可能性が高い。なら、敵はいつ仕掛けてくるのだろうか。

 

 生半可な攻めではどうにも成らないことくらいは奴らもわかっているだろう。――と、言うよりも、そうでなくては困るのだ。

 

 新生したこの身体を試すには――試し斬りには――それなりの相手が必要になる。さて、何時、いったい如何なる手で――――、

 

 

 そのとき、突如としてそこに迫る極大の閃光がひらめいた。

 

 間違いはなかった。これぞ約束された勝利の剣(エクスカリバー)の一撃に違いない。

 

 間違いなく()()にとっては虎の子の切り札にして最大のカード。で、あるが故にこのタイミング。最大の手を第一手での奇襲で使ってくるとは!

 

 面白い。魔剣は心底嬉しくてたまらないといった表情を浮かべ、虚空でその極光を待ち受ける。

 

 

 ――取った! 

 

 騎士王(セイバー)は確信する。それまで幾度となく放ってきた決殺の手ごたえが、培ってきた経験則と共に確信を導く。

 

 この距離、このタイミング、絶対に外さない。

 

 しかし、その確信の刹那、奔せる極光の向こう側で、魔剣が浮かべた不敵な笑みを、セイバーは確かに目撃した。

 

 魔剣を飲み込むかに見えた光の帯が、歪んだ。否、(たわ)んだというべきかも知れない。

 

 光の直線を受け止めるかのように羽を極大化させた光の蝶は、瞬間まるで後光でも背負うかのように羽を旋転させ、巨大な円盤を作り出したのだ。

 

 驚くべきはその円盤が突如として鋭利な円錐状に変じたことである。つまりは開きかけた傘のような形状だ。その外面はまるで鏡のように輝き、迫り来る極光の切っ先を滑らかに受け流したのだ。

 

 それだけではない。その円錐の裾には雨樋のようなそり返しが設けられており、受け流されたエクスカリバーの極光はそのそり返しによってその進行方向を反転させられた。

 

 至高の聖剣より放たれた筈の光の刃があろうことか引き裂かれ、今数キロメートルもの間合いを一気に逆流し、流星群の如く騎士王に襲いかかるのである。もっとも、聖剣の光を跳ね返したことこそ驚愕に値すれども、それでセイバーをどうにかできると考えるのはあまりに早計であるといわざるを得ない。

 

 己の攻撃が反射される事を、驚愕より先んじる事実として直感で悟ったセイバーは、事の是非を置いてまずは回避行動に入っていた。

 

 危うげなく跳躍してその極光の逆流を躱す。しかし、足場にしていた巨大な輸送船にはそれを回避する術があるわけもなく、光線の直撃を受けた船体は粉砕され、あっという間に海の藻屑となって憐れな残骸が散らばった。

 

『――――なんだ?』

 

 それを見ていた魔剣は不可解なものに気をとられ、離脱したセイバーから僅かに眼を離した。それほどにその船の内容物は眼を引く代物だったのだ。

 

 船体が大破したその瞬間から、何かが大量にこぼれ出たのである。

 

 すぐに見失ったセイバーの姿を探してその残骸の元へまろび寄った魔剣は一時、それを凝視して訝る。

 

 白い、――氷? いや、砂塵であろうか。兎角、そのような白くて硬質な粒である。それが大漁に、あまりにも大漁に、閃光の余熱で沸き上がる海に零れ落ちたのだ。

 

 これは、いったい? ――――――。

 

 さしもの魔剣も、これがなんなのか、何故ここに用意されていたのかを考えねばならなかった。

 

 その奇妙さゆえに思わず誘われたのだ。加えて、そこから飛躍したイメージが先ほどから感じていた違和感に繋がった。何故セイバーはこんなものを足場にしていたというのだろうか?

 

 彼女の真名は名にしおう伝説の騎士王。故にその爪先はいかなる水域にも没することなく、その足は水面をまるで原野の如く踏みしめて馳せることを可能とするのではなかったか。

 

 そうだ。最初にあの河面で対峙した時にも、この騎士王は確かな足取りで鏡のような河面を蹴っていたではないか。では、何故に――。

 

 幾許の刹那。魔剣は思考の澱に足をとられた。

 

 果たして、これが覚醒した直後でなければこの事態を、敵に奇怪なものを見せて一瞬の隙を作り出す、もっとも初歩的なブラフの一種なのだと、或いはすぐに気付いたのかもしれない。

 

 しかし、天の采配は「彼ら」に味方した。策は功をそうしたのだ。魔剣自身の思慮深さも手伝い、砂塵は望まれた第一の成果を果たした。魔剣の意識は一時の間だけ、逡巡の空白に捕らわれることになったのだ。

 

 そのとき、まるで待ち構えていたようなタイミングだった。魔剣はその華奢な五体に凄まじい引力を感じて身を強張らせた。まるであのときの、数百年前、己が体躯である刀身を七つに分割され、封印された時の恐怖を引き起こすような強引な強制力を感じたのだ。

 

 気付けば、その総身を金ではない紅の光線が絡めとっていたのだ。――否、それは糸にあらず、それは糸と見紛う程の極細の鎖であった。

 

「こっ、これは――ッ!」 

 

 途端、まるで血のような朱色の光線の束は、強烈に牽引され、金色の蝶を凍てつく海中へと一気に引きずり込んだ。

 

 真言密教における結護の法のひとつに「金剛綱」というものがある。本来は黄金色に輝く紐の束であるとされるこれは、魔物どもを縛り上げる裁きの(つな)であるとされた。 

 

 ワイアッド・ワーロックが用意したこの縛魔の宝具に、今回は更なる強化が施されていた。協会に死蔵されていた、とある宝具の断片であるとされるそれを、衛宮士郎の投影魔術により再現し、金剛綱と寄り合わせ、結合させたのである。

 

 金剛綱はその極細の鎖と溶け合い、より強靭な縛魔の枷へと変じて伝説の通りに強大な「魔」を再び封じたのである。その宝具の名とは――、

 

「――切れぬッ、これはまさか、――獣縛の六枷(グレイプニ-ル)!?」

 

 そう、それはまさしく北欧神話にて強大なる魔狼を捕縛したとされる伝説の枷であった。急ごしらえの模造品とはいえ、金剛綱によって補強されたそれはまさしくこの北欧神話の怪魔たるインテリジェンス・ソードを絡めとるにはうってつけの魔具だと言えた。

 

 さらには海中にて、魔剣は目撃する。水膜を解して光線の導きを見たのだ。それを牽引し、海中に引き込んだのは先刻姿を消したセイバーであった。つまりここまでの展開はあらかじめ定められたシナリオだったということになる。

 

 文字通り泡を食うこととなった魔剣に目掛けて、間髪いれずにさらに数百、数千もの紅い糸が幾重にも絡みつく。それらはあらぬ方角から、それも四方八方から放たれ、まるで蜘蛛の糸の如く魔剣を絡めとっていく。

 

 反撃に転じようにも、絡みついた真紅の紐は魔剣の千篇変化を封じ込めるように、強力な引力と拘束力を発揮しているのだ。己が五体であるはずの金の糸を解くことも出来ない有様である。

 

 金の魔剣がもがく内に、術式は完成した。

 

 それは高度な複合結界術式であった。並みの魔物ならば抵抗すら不可能、たとえ特Aランクのサーヴァントであっても単騎での突破はまず不可能と言う代物だ。これは協会に秘蔵されていた、魔剣に対する封印式を再現したものである。このときのために無理を通してその術式を持ち出してきたのであった。払った代償は軽くはなかったが、その対価は十二分な効用として現れている。この術式からは抜け出せない。

 

 しかし、捕らわれの魔剣はまたもここで笑うのだ。不敵に、何処までも微笑するように、柔らかな笑みを浮かべるのだ。まるで幼子の悪戯を眺める母親のように。

 

「――よくもまぁ、半月足らずでここまで用意したものだ」

 

 今の魔剣は四体もの英霊を飲み込んでいるのである。その力はただ一個の剣であったころとは桁が違うのだ。封じられながらも、凄まじい魔のトルクが紅線を巻き込んで軋みを上げ始める。

 

 キンッ、キンッ――と、硬質なガラスの糸がほつれるかのような音色が、冷えた海中に鳴り始める。徐々に、徐々に引き絞られていく封魔の紐がほつれはじめる音だ。

 

「惜しいな。これが五百年前なら王手だっただろうが――」

 

 ほつれた極細の枷がついに千切れ始めた。

 

 不敵な笑みを狂気のそれに歪ませて、魔剣は爆ぜるかの如く堅固な筈の封印式を粉砕した。

 

「この程度では!――――――ッ?」

 

 しかしこのとき、魔剣は更なる予想外の光景を見る。己を強烈な力で海中に引き入れた筈のセイバーが、今や背を向けてはるか彼方に逃走を図っている光景を目にしたのだ。魔剣は怪能な光景を目にして再び動作を滞らせた――刹那、途端に周囲の海水が急激なあぶくを立てて沸き立ち始めた。

 

 

 

 同刻。海中の深いところで行われていたその様を見つめる瞳があった。

 

 少女は船の上で凍てつく空気に身を晒しながら、無線で連絡を受ける。『セイバーは回収した。予定通りだ』

 

「いいわ。士郎、すぐに離脱して」

 

 無線の向こうからの声に返答し、すぐさま虚空に合図を送る。

 

 すると、周囲の澄んだ空気の中から、不意に何かが姿を現した、それまで何もないはずだった空間から、やおら大型の船舶が姿を現したのだ。それも一隻ではない。二隻、四隻、八隻、その数はまだ増える。船団だ。澄んだ空気の夜の海域にあっという間に数十もの船舶が姿を現した。

 

 急ごしらえで用意された特殊ステルス船団であった。数は三十二。船団とはいっても、それぞれがかなりの距離をおいて弧を描くように列を成している。

 

 各々の距離は数百メートルは空いているであろうか、凛の合図を受け取った船から、また数百メートル先の隣の船に合図が届けられる。そうして、合図は円環状の輪を描きながらまた凛の元へと届けられた。

 

 ちょうど魔剣が結界式に捕らわれた辺りを中心とするように半径数キロはあろうかという長大な点光の円環が描かれた。無論、今だ海中に在る魔剣にはそれを正確に推し量る術などあろうはずもない。

 

 それでもようやく、今になって感じ取ることはできた。今まで己が敵の掌で踊らされていたのだという事実に。

 

 

 ――時と例えられし四足の獣の名を借りて、鏡面の綻びよ、時を凍らせたまえ――

 

 

 何処からともなく詠唱が響き渡る。

 

 

 ――円月よ。弓と成りて、偃月よ。霜と成りて、艶月よ――

 

 

 しかも、夜気に漂うようにして流れてくる詠唱は一つだけではない。

 

 先ほどタンカーから大量にこぼれだした鉱物は大きく分けて二種類あった。ひとつは岩塩である。それもただの岩塩ではない。一億九千万年前の岩塩層から削りだされた岩塩の砂塵であった。そしてもうひとつは大量の珪砂。所謂、石英を砕き粉岩としたものである。

 

 

 ――塩の柱、塩の海、塩の刃、塩の泡、塩の盾、塩の鎧、塩の精霊、雫となりて、澱となりて、檻となりて、――

 

 

 幾重にも重複していく相互変換呪文の斉唱が山彦のように辺りに木霊しはじめる。

 

 この捕縛作戦が行われているのは北海である。故に彼女たちはここからほど近いロンドンは時計塔から直接的、間接的な援助を受けることが出来ていた。

 

 三十二艘のステルス船と巨大タンカー、そしていま複合詠唱を唱える数十にも及ぶ手練の魔術師たちである――もっとも、彼らはワイアッドの知己のものがほとんどだったので、直接的な協会の援助とも言い切れないのだったが――ともかく準備は万全。いくら派手な事をやってもここでなら大した問題にはならない。

 

 作戦の場所としてはむしろこの場所は好都合だといえたのだ。

 

 

 ――引力よ、密なる砂塵よ、今再び、その身に刻み込まれし時の累積を思い出さん―― 

 

 

 海中にこぼれた大量の岩塩の欠片は術式の発動と同時にその一つ一つに対して一億九千万年間掛かりつづけていた圧力を一時的に再現し始めたのである。

 

 ――星霜の冠よ、星霜の五芒星(ペンタグラム)よ――

 

 

 密集し、強烈な圧力を生み出し始めた岩塩の粒と共に、もう一種の砂塵が効果を表し始めていた。

 

 桂砂である。先ほど大気中に散布された石英の粉塵を触媒として、周囲の海水が急激な凝固をはじめたのだ。これら魔術処理を施された珪砂は術式の発動とともに大気の八十パーセントを閉める窒素に干渉してその組成を液化させはじめたのだ。

 

 液体窒素は大気から熱エネルギーを奪い気化冷却を引き起こし、破損した船体を中心として周囲の空間にマイナス二百度近い超低温を生み出したのだ。

 

 

 ――躍動せよ幻影の獣よ、約束されし桃源の地にて、汝、真鍮の都に戯れるべし――

 

 

 結果として、急激な超低温によって凝固を始めた海は、同時に太古の超圧力を「思い出した」岩塩砂によりさらに一所にかき集められ、凝固させられることになった。つまりは巨大な氷と塩の牢獄である。

 

 視界を覆っていた石英の粉塵が総て触媒として消費され、目の前に現れたのは巨大な氷山であった。累積した氷結捕縛はちょうど梭型(ひがた)に近い形に凝結していた。

 

 もとより、氷山というもののは氷と海水の密度差により、その90パーセントは水面下にあるのが通常である。今眼前に見える尖った頭頂部だけでも筆舌に尽くしがたい威容と見えたが、その全貌はどれほどのものなのかはもはや計り知れないほど広大なものであった。

 

 その規模たるや、眠りについていた魔剣を包囲していた範囲三十二隻の船が取り囲む直径数キロの海水をまとめて凝固させるという規格外さだった。しかも凝固と同時に掛けられた複合封印魔術式は、その氷山の中心に行くほど圧力と超低温の密度を上げるのである。

 

 

 それを指揮していた少女がその宝石のような大粒の瞳に不敵な微笑を浮かべた。総てを読みきった上での配置、読みきった上での策であった。

 

 二重三重の伏線、その総てが十全に機能した結果だった。強大な氷塊の山を見上げる瞳が、氷面の照り返しを受けて満足そうに煌めいた。

 

「ここまでよ! そのまま、おとなしく塩漬けになってなさいッ」

 

 

 

 

 遠坂凛は真っ直ぐにそれを見据えている。

 

 星の無い夜にきらめく氷塊は泰然たる威容を極北の海原に晒していた。

 

 ――ここまではいい。仕上がりは上々。作戦は成功だ。完璧だと言っていい。これ以上ないほどに決まった。

 

 しかし、にもかかわらず彼女の顔色は優れない。彼女の唇からなお漏れるのは快哉の声ではなく溜息であった。安堵ゆえ――否、そればかりの息だけとは言えなかった。どういうわけか、漏れるその息にこもるのは艶めいた憂いばかりだ。

 

 

 彼女たちがこの魔剣から命辛々逃げ延びた後、四人は彼女らと同様に傷を負っていたワイアッドと落ち合い、その足でロンドンは時計塔に保護を求めた。

 

 その後の二、三日を彼女たちはひどく曖昧な状態で過ごした。皆満身創痍ではあったが、しかし彼女も危機が迫るのを感じれば、どのような状況であってもすぐに対応できるだけの構えを解いてはいなかった。しかし予期に反してあの魔剣の脅威は彼女たちに迫ってはこなかったのだ。

 

 その後、時計塔のエージェントからの報告によれば、魔剣は冬木には居らず、別の場所で休息状態に陥っているというのだ。その後の調査で、魔剣がこの時計塔から程近い海域で活動を停止した事をつきとめたワイアッドを筆頭に、改めて魔剣の捕縛計画が練られたのだった。

 

 その後の交渉により、捕縛した魔剣の譲渡を条件に時計塔も全面的な助力を約束した。

 

 無論、彼女も先陣を切って参加する事を望んだ。あの魔剣は冬木の聖杯戦争の成れの果てとでも言うべき汚点だ。是非も無く遠坂の魔術師の手でケリをつけなければならない事柄なのだと、彼女は強く感じていたのだ。

 

 

 ワイアッドの手によって、あの魔剣に対する様々な情報がもたらされた。

 

 長い間、魔術師の残した遺跡内に封印され、何処で何時発掘され、そしてそれがどのような経緯でサンガールの家門に入り込み、そして此度の怪異を画策していたというのか、それらが詳細にもたらされた。

 

 

 一方、なぜあの魔剣が沈黙したままだったのかについての詳細を知る者はいなかったが、セイバーだけはなかば予言めいた確信を抱いていたようだった。

 

 あの時自分たちを逃がしてくれたキャスターのおかげなのだと、彼女は言った。予知めいた超常的な感覚が理解に先んじて事実を、しかも正確に導き出すのは彼女ならではの論理なのだが、それを否定する理由もまた凛にはなかった。

 

 彼女は捕縛作戦に率先して取り組む傍らで、セイバーの言を頼りに独自にキャスターの行いについての調査も指揮していた。おかげでこの数日間はろくに眠った記憶がないほどだ。

 

 計画立案から一週間ほどの時間が経過し、北海で活動を休止していた魔剣の補足と、目覚めたそれを捕縛するための具体的な準備が進められた。

 

 当初は休眠した状態の魔剣をそのまま凍結する案も出たが、あの繭のような防護体制のままでは完全に捕縛することができなかった。そのため、眼を覚まし次第間髪をいれずに鎮圧するように作戦が練られていた。

 

 これもワイアッドがあの仮面の怪人から引き出した情報によるものだという。

 

 あの仮面の男は長年、ひとりで魔剣を追い続けていた人間なのだと後からの説明で知れた。凛達に知らされたのはその程度のことだったが、ワイアッドとも何らかの関係のある人物なのだということは容易に察せられた。しかしそのおかげでこの完璧なプランを完成させることができたのだ。

 

 後は魔剣の目覚めを待ち受けるだけだった。

 

 しかしここで憂慮すべき問題が起こった。それは彼らと共に時計塔に逃げ延びたキャスターの主だった少年の待遇だった。

 

 彼は時計塔に収容されたあとも。そのままずっと自失したままだった。彼もまたサンガールの生き残りとしてこの作戦に参加する筈だったのだが、彼は唐突に姿を消してしまったのだった。

 

 魔剣は目覚め次第、彼の中にある中にある欠片と残り二辺の欠片を求めて行動するはずである。ゆえに彼は重要な囮としてのポジションを検討されていたのだが、彼が失踪したために、こちらから先手を打って魔剣の目覚めを待つという手をとることになった。

 

 敵が完全な防護体制を取ったまま休止している状態なので、先手を取ることは難しくはない。故にその点についての不満があるわけではないのだが、しかし事の仔細はともかく、この作戦については確かに伝えてあったはずの少年が、にもかかわらず忽然と姿を消したことに対して彼女は大いに不満があった。

 

 彼にどのような事情があったのかは定かではないが、魔術師として負うべき責務を放棄しているだけの事のように、彼女には思えたのだ。

 

 しかし彼を探し連れ戻すべきだという彼女の主張に、誰あろうセイバーが反論したのだ。セイバーの主張ではキャスターの意を汲んで彼をそっとしておくべきだと言う。ワイアッドもそれに賛同したのだが、凛は彼にもサンガールの生き残りとして作戦への協力を求めたかった。

 

 もし、万が一にもこの作戦が失敗するようなことがあれば、事態は最悪の展開を迎えることになる。囮としての役目を果たせないなら、せめて、魔剣の眼を免れる場所に身を潜めるべきなのではないかと再三主張したのだが、結局、多数に言い含められるかたちでその件についてはワイアッド・ワーロックに一任するということで落ち着いた。

 

 今この場に作戦の考案者たるワイアッド・ワーロックの姿がないのはそのためだ。彼は今姿を消した少年の捜索に向かっている。探し出し、そのまま彼自身を魔剣の手の及ばぬ所に隠すためだ。

 

 今、彼女の喉を塗らす憂いの溜息はそのときの不満の照り返しなのであろうか。いや、そうではない。実際には彼女も、その件についてそこまで固執するつもりも、無理を押すつもりはなかったのだ。しかしなぜか今になって胸のうちに鉛を残したかのような幾許かの不快感が残っているのだ。

 

 おそらく、それは――きっとそのことについての不満ではないのだ。

 

 自分でもこんな時に何を考えているのかとは思うのだが、しかしどう考えてもやはりそういうことらしい。

 

 それは少年の処遇に執着しているわけではなく、もっと内輪についての不満であった。

 

 言ってみればそれは「彼」に対する不満なのだ。

 

 そう、彼女の徒弟という立場でも無論のことこのプランにも参加している衛宮士郎の、それも、いってみれば些細な行動についての不満なのだ。

 

 例えば彼女とセイバーの意見が対立するようなとき、なだめるようにして一見、彼女の味方をしてくれることの多い士郎の意見はしかし最終的にセイバーのほうに偏ることが多いのだ。本人は気付いていないようだが、やはり今回も彼女をなだめながら、士郎はあの少年に同情的な態度をとっていた。

 

 彼女とて、心情的にはそうなることも解からなくもないのだ。それでも状況を客観的に見て判断を下そうとする彼女の齟齬を根本的な根っこの部分で汲むことができていないのだ。あいつは!

 

 そう、悪いのはあいつだ。

 

 一度自覚してみると、なにやら大いに不満な気持ちになってきた。揺るぎない勝利の確信からか、思考も今後のことに流れ始める。この件が澄んだなら、遠まわしにこのことについて追及してやろう。自分から私の不満の要因について思い至るまで機嫌を直してやらないんだから――。

 

 そう考えていた時、無線の向こうから声が流れた。

 

『首尾はどうだ、遠坂』

 

 声に、自然と首を巡らして彼方を仰ぐ、夜気の向こうに探してみても、距離がありすぎて、当然彼の顔は見えない。

 

「上々よ……問題ないわ」

 

 彼方を仰いだまま、無線機に向けて返す。声の調子は意図したわけでもなく平淡だ。不意を突かれたようで、どうにも声音の色を決めかねる。

 

『そうか、こっちも問題はない。セイバーも無事だ』

 

 作戦行動中である以上、当然の経過報告なのだが、それがなぜか癇に障った。平淡だった声のトーンが一気に寒冷色のそれに変わる。

 

「ああ、そう、解かったわよッ!」

 

『? どうしたんだ』

 

「なんでもないわ」

 

『いや、でも』

 

「なんでもない!」

 

 我が事ながらこうなると始末が悪い。稚気だとわかっているのだが、しかし自分ではどうしようもない。やはり悪いのは向こうだと思うのだ。

 

 こんな状況だとは言え、もうちょっと、そう、もうちょっとくらいは、自分に注目してくれてもいいではないか……。

 

『なんでもないことないだろ、顔色も悪いし、何かあったら無理しないで言うんだぞ。まだ病み上がりみたいなものなんだから』

 

「――ッ」

 

 声につまった。どうやら向こうからは見えているらしい。一つ覚えの強化の魔術であろうか。

 

『遠坂、聞こえてるか』

 

 これ以上見られないように顔を背けて、隠した。

 

「あー、もうっ! 聞こえてるわよッ。なんでもないから、ほんとにッ」

 

 声だけは依然として尖らせて、しかし顔はそっぽを背いたままだ。そうしていないとニヤけた顔まで見られてしまう。ちょっと気にかけられただけでこれでは威厳も何もあったものではない。

 

 ――そのときだった。

 

 無線の向こう、おそらくは士郎の背後から、切迫した声が聞こえた。

 

『――まだです!』

 

 セイバーの声だ。

 

 

 ――――魔剣・(にな)――――。

 

 

 ほぼ同時に響き渡った呪言のごとき言霊と共に、夜を裂いて奔った光が螺旋を描き、数瞬遅れの衝撃波(ソニック・ブーム)を伴って巨大な氷塊を打ち砕いたのだ。

 

 途端に巻き起こった巨壁のような高波が丸く巨氷を取り囲んでいた船の悉くを転覆させ、へし折り、打ち砕いた。

 

 氷塊に投げ出された船員たちは事態を飲み込めずに困惑の極みのまま上下左右の区別を失い。泡と氷砂とを食って手足を出鱈目に掻いていた。

 

 それぞれがそれなりの位を持つ魔術師である事を差し置いても、この事態には対処の仕様がなかったものと見える。さもあらん。誰しもが勝利を確信した後のことであったのだ。いったい、なにが斯様な事態を巻き起こしたというのであろうか。

 

 凛は散らばった氷砂を手早く結合させ、手ごろな氷板を作りその上に海中から這い上がった。即席の(いかだ)である。

 

 すぐに背後から奔った光の袂へ向けて顔を上げた。冷たい水に濡れた黒い髪が艶やかに濡れてその青ざめた頬に張り付いていた。

 

 そこにあったのは、金色に光かがやく一匹の蝶であった。無論、今更見間違える筈もない。魔剣だ。

 

 今しがた極大の氷塊の中に閉じ込め,封じたはずのそれを、あらぬ方向から打ち砕いて救い出したのも、また、今しがた封じたはずの魔剣であろうとは、コレはどうしたことだというのだろうか。

 

 この上ない疑念の相を、その青ざめた美貌の上に浮かべている遠坂凛を優雅に見下ろしながら、魔剣は舞い降りる。ふと、その姿が模糊(もこ)として揺らめいた。――と、見た瞬間その極光の輪郭がぼやけ、次の瞬間にはその金の蝶は二つの影となって彼女の眼前で浮遊し始めた。

 

『魔剣――(しいな)

 

 その声音が響くや否や、一方の蝶の翅影が、幾筋もの金の糸となってバラけた。その光景を目にした凛の口からはまるで実の伴わない虚ろな言葉が、認識に先んじて零れた。

 

「か、わり、み……?」

 

 変り身! または空蝉とでも言うべきであろうか、あの凍結の刹那――あるいはエクスカリバーによる奇襲を跳ね返した時点でだろうか。

 

 兎角、罠の気配を察した魔剣は糸で作り出した擬体を使い、まんまと彼女たち魔術師を出し抜いたのである。

 

 この相手をただ強大なだけの怪物と見立てたのがそもそもの落ち度であったのだ。これはただの魔物ではないのだ。そも、神代の古より、人と人とを玩び、玩弄し、操り、栄光を与えては破滅させてきた策略の魔物だったのだ。

 

 誰よりも狡猾に、人の内面と外面を見透かすことに長けた奸智の蛇。それがこの兇器特権(テュルフィング)という魔剣の本質だったのだ。

 

「残念だったな」

 

 出し抜かれた事を如実に悟って息を呑んだ凛へ、はるか頭上から投げかけられる声はひどく澄んで美しい。しかしその裏に見えるのは螺旋くれて爛れたような悪意の響きであった。

 

『魔剣――粧』

 

 光の蝶が舞い降りる。夜の四方に延びていたはずの金の輝きは矢庭に集束した。

 

 海面に近づいた一角が、柔らかな曲線を描く、爪先だ。ほっそりとした少女のようなそれが紡がれるように形を成し、花びらでも落ちるかのように、そっと水面に降り立つ。

 

 そのころには、それは黄金の流動を想わせる足となっていた。それだけではない、その身体に纏わりついていた金の糸は美しき黄金の四肢となって少女の身体にそなわっていたのだ。

 

 黄金の四肢は、生来からそこに備え付けられていたかのように自然な動きで流動している。

 

 そこには一人の少女の姿があった。金の天衣を纏う天女だ。蝶は変転して可憐な少女の像を北海の海に映し出していたのだ。

 

 偽装された少女特有のたおやかさを存分に堪能するかのように、魔剣はおどけて一礼する。さも大仰に、慇懃無礼に礼をとる。

 

「これは、これは。息災ですかな、冬木の魔術師殿?」

 

「――ッ」

 

 凛は応えずその金色のヒトガタを見据えている。視線だけは逸らさずに間合いを計る。右手にはいつでの使用可能な宝石を滑り込ませてある。が、それがどれほどの効果があるのかはわからない。それでも迷っている暇はない。零距離で放てばあるいは――

 

 蒼褪めた双眸に浮かぶ決死の眼光を、金色の蝶は微笑して向かえる。まるで猫に噛み付こうとする窮鼠を嘲り笑うかのように、たおやかな仕草で語りかける。

 

「どうやら、あまりお加減がよろしくないようで。及ばずながらご健勝をお祈りいたします」

 

 そう言って身を屈めた魔剣の肢体が、爆ぜる前兆のように萎縮した。全方位から放たれる幾千もの死出の穂先が凍てつく水面(みなも)に浮かぶ少女に狙いを定める。

 

 しかし、その瞬間。魔剣の背後、完全なる死角の海中から黄金の光が飛沫となって噴出した。

 

 セイバーだ。今や剥きだしとなった至高の聖剣が金濁の神衣から唯一覗く細い首目掛けて、吸い込まれるように夜気を奔った。

 

 しかしその至高の閃きは、止まっていた。止められていた。素手で、である。

 

「ああ。そういえばまだお前がいたな、セイバー」

 

 魔剣も、刃を取られたまま着水したセイバーに向き直り、両者は鍔競り合ったまま、凪いだ海面の上で膠着した。

 

「あまりにも取るに足らないので、忘れるところだった。なるほど、お前の始末は確かに私にとってもやり残しの仕事だな」

 

「――――ッ!」

 

 それを見つめる凛が声もなく息を呑んだ。驚愕すべきは、セイバーが有らん限りの力を持って剣を執っているにもかかわらず、絡め取られた切っ先が徐々に押し返されていくことである。

 

 何の消耗も無い、十全な状態のセイバーが偽らざる全力なのを感じ取れるが故に、それは殊更に信じがたい光景であった。いくら事前に情報を示唆されてはいても実際にそれを見た今、彼女はあらためて己の目を疑いたくなったほどだ。

 

「お前も、つづきがやりたいのかセイバー?」

 

 滑らかに語るかのような魔剣の饒舌に、応えるセイバーの声はない。しかし、その貌には隠しきれない苦悶が刻まれていた。

 

 そして爆ぜるように両者は間合いを取った。しかしそれも、実のところ、魔剣が捕らえていた聖剣の刃を開放したというだけのことでしかなかった。

 

 一瞬の静寂。――の、後。少女達は水面上を蹴り、舞った。

 

 唸りを上げて、セイバーが前進する。いかな敵が相手であれ、いかに強大な敵が相手であれ、この果敢なる騎士王に、この愚直なまでの選択以外有りはしなかった。

 

「さあ、」

 

 一撃一撃が巨岩をも粉砕する筈の超高速の連撃を、まるで稚児でもあやすかのようにじゃれつかせながら、その黄金の天女は、長い睫毛を伏せ、初めて殿方に御手を許す乙女のように恥じらうそぶりすら演じながら、紺碧と銀色の騎士を舞踏に誘う。

 

「踊ろうか、セイバー」

 

 

 

 



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七章 謡う合鳴鐘「カリヨン・トランス」-3

 その様は、はたしてこの世の極限たる激闘であるはずだった。

 

 ――が、北海の鏡面に映るのはしかし、まるで春先の散歩道(プロムナード)を軽やかに叩く可憐なふた組の爪先が、光の飛沫を巻き上げながら終わりのない輪舞(ロンド)に酔い痴れているかのごとき、夢魅なる光景であった。

 

 金濁の魔剣は笑う。憤怒に頬を染めるセイバーに向けて、それを見ることしか出来ない遠坂凛ヘ向けて、魔剣は嘲笑う。

 

 まるで快哉を叫ぶかのように、その歓喜を身体中で表現しながら、舞うかのように。

 

 その光景の壮麗さが、かえってその悪辣なまでの幻燈の相を浮き彫りにしていた。

 

 セイバーの繰り出す破格の連撃の間を縫うようにして、本当に舞踏に誘うかのように仄明るい金色の腕が、がっちりとセイバーの矮躯を抱きとめた。

 

 あくまでやさしく、年端も行かぬ妹を気遣いながら抱き上げる少女のように。しかしセイバーがその身に感じる膂力たるや、サーヴァントであるはずの彼女の身体をそのまま引き裂いてしまいそうなほどであった。

 

「――ッ」

 

 初めて、セイバーの貌が苦悶のそれに歪む。そのセイバーに向けて、魔剣は旧来の盟友と談話でも楽しむかのような口調で、唐突に語り掛けた。

 

「私はね、セイバー。人間が大好きなんだ。」

 

 その間も、腕の中で強烈に暴れ続けるセイバーをいとも簡単に押さえつけながら、魔剣は世間話でもするかのように続ける。

 

「なぜかというと――。おっと、その前にひとつ質問だ。「恐怖」とは、なんだろう」

 

 視線が交差する。セイバーの瞳を見つめながら、得体の知れない深淵のように色味を増した双瞳が、矢庭に澱んだ光を孕み始める。

 

「恐怖は人を追い詰める。そうなると、人はどうなると思う? 言ってしまえば、まぁ、()()()()ではあるんだが、少なくとも()()()じゃなくなるのさ。それが実に多種多様で、面白い」

 

 セイバーの身体を締め上げる金の両腕がその圧力を一層に増し始める。返答どころか、吸気すらままならぬセイバーに、魔剣はうっそりと長い睫毛を伏せ、囁く。

 

「そうなった人間には臭いがある。恐怖に侵されて饐えた心の臭いだ。――私は、それが大好きなんだ」

 

 耳元で、魔剣は語り続ける。さらにはセイバーの鎧の隙間から首筋に鼻先を押し付け、その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、魔剣は語り続ける。

 

「狂うほどの恐怖にさいなまれる人間の芳香は格別だ。しかし完全に狂わせてはいけない。狂者は恐怖とは無縁の愚者だ。狂う間際、精神が破壊させる寸前の精神がもっとも芳しい芳香を放つ。私はそれが大好きだ。――私は、それが大好きなんだ。セイバー」

 

「――――――がッ、あッ!」

 

 白銀の鎧がひしゃげ始め、セイバーもたまらず苦悶の声を漏らした。しかし、

 

「特に、高潔にして果敢な英雄共が精神を侵され恐怖に狂う寸前の心は、この世のいかなるものよりも芳しく、美味だ」

 

 セイバーの瞳に恐怖の色など浮かんではいない。その翠緑の眼差しが未だ克己の意思を伝えている。たかだかこの程度の痛痒で折れるセイバーの心胆ではない。無論、それはこの魔剣も承知していたことだった。

 

 魔剣はそれでも身動きのきかないセイバーの白い首筋に鼻を擦り付ける。

 

「まだだな。まだお前からは恐怖が匂わない。セイバー、君の恐怖はいつ香る?」

 

 セイバーは汚らわしいとばかりに一気に魔力を炸裂させ、その融解した黄金のごとき腕を振り解き、再び距離を取った。

 

 大理石の如く漆黒に凪いだ海面を歩き、魔剣は悠々と距離を詰めてくる。

 

「ふふっ、哀しいじゃあないか。そんなに邪険にしないでおくれ」

 

 そして、愁いを帯びた黒紅二色の瞳が、下卑た秋波を送ってくる。

 

「セイバー、正面からじゃ。……もう、仕方ないわ」

 

 背後から聞こえてきたのは凛の声だ。

 

「まぁー、そうは言ってもなぁ。この騎士王のことだ、退がれといって退がるものでもあるまい。なにより――、」

 

 しかしそれに応えたのは当のセイバーではなく魔剣であった。セイバーは黙したまま主の声を背中で受けていた。

 

 そして再び海面を馳せようとしたセイバーだったが、その蹴り足に海中から伸びた魔剣の束が絡み付き、銀の甲冑をズタズタに引き裂いた。

 

「――――ッ!」

 

「背を向けて逃げようとて、逃がしはせんがな」

 

 倒れそうになり、それでも片足で体制を立て直し、奥歯を噛み締めて剣を構えるセイバーを、魔剣はまた微笑を浮かべたまま見据えている。

 

 それでも、セイバーの翠緑の瞳には何者をも怖じる気配がないのを知ると、

 

「やれやれ、困ったものだ。このままではたとえ手足を削いでもお前は恐怖など見せてはくれんのだろうな……」

 

 魔剣はそう言って失笑を漏らし、今度はセイバーではなくあらぬ方向へと視線を這わせた。

 

 その視線の先には途端に半透明の筋が奔り、次第に実体感を増しながら無数の氷塊の間を這い回り始めた。

 

 もはやあの魔剣の繰る「糸」は完全に物理法則の頸を説かれ、実体と非実体の間を自在に行き来する架空元素の構成物へと進化していたのだ。もはやテフェリーの四肢を擬装していた「糸」とは別種のものとなっていた。あの金の糸刃はいくら寸断されても無限に再生できるということらしい。

 

「貴様、なにを……」

 

 本能的な危機感に、セイバーが急くような声を上げると、魔剣は無言で視線を向けてきた。そこには明らかな喜悦の色が浮かんでいる。

 

 金糸の集束は巨大な氷塊の隙間を這い回り、一瞬にして数キロ先までの海域を隈なく、蛇ノ目を埋めるようにして満たし、そして彼方より何かを見つけ出してそれを手元まで引き寄せた。

 

 まるで十字架に駆けられたように死に体となったその姿はこの場においてそう奇異なものではなかったが、しかしその場に居合わせた少女たちの顔色を一変させるには充分すぎる代物だった。

 

「士郎ッ!」

 

 凛が叫んだ。同時にセイバーも眦を開く。

 

 まるで霧煙のごとく、ゆるりと虚空を漂ったかのような印象だった金の架はしかし一刹那のうちに夜気を渡り、魔剣の元まで引き寄せられた。

 

「なるほど、思った以上の反応だな……」

 

 そう漏らした金色のヒトガタは金の枷に囚われた少年へ視線を移した。まだ、確かに息はある!

 

 同時に、一瞥してすぐにそれを確認したセイバーは魔剣に斬りかかっていた。背を向けたままの魔剣に斬撃を叩き込む。

 

 しかし魔剣は振り返るまでもなく金色に染まった髪を蛇の如く生動させ、聖剣の剣圧を受け流した。

 

 金の蛇たちはそのまま融解するかのように解け、そのまま今度はセイバーの全身を絡め取った。今、先ほどのような強力で金線を引き絞られたら、セイバーといえども今度こそ命が危うい。

 

 再び二色の眼光を閃かせた魔剣は蕩けたような笑みに顔を歪ませ、一気にセイバーに向き直り、その首筋にまた鼻を押し付けた。

 

「ああ、良い香りだ。すばらしいよセイバー。なるほど、コイツか? この男がお前の恐怖か?」

 

 再び渾身の力でそれに抗おうとするセイバーに、魔剣は呆れたような、同時に恍惚としたような、朱に染まった声を漏らす。

 

「おいおい、もう諦めたらどうだセイバー? どの道、先の策が破れた時点でお前達が私をどうこうする事など不可能だったのだ」

 

 その言葉に、セイバーの動きが滞った。

 

 確かに、そうなのかもしれない。セイバーは目を閉じた。

 

 出来ることなら、その選択は避けたかったのだ。しかしもう、そうも言っていられない。

 

 セイバーは首を廻して肩越しに凛と視線を交わす。観念したかのような悲しげな瞳を見て取り、凛も呟くような声を漏らした

 

「…………仕方がないわ、セイバー」

 

 声音として伝え聞くまでも無く、セイバーもその言葉を解した。

 

 確かにこうなってしまっては仕方がない。諦めるしか――ないのだろう。

 

 しばし苦悩するかのように俯いた後で、セイバーは矢庭に残り少ない魔力をありったけ絞り出すようにして全身から噴出させた。

 

 これには一時呆気に取られた魔剣だが、何のことはない、ただ最後の足掻きかと、むしろ失望すら感じながら魔剣は彼女を包みこむ手に力を込める。

 

 そのとき、筏の上から飛び上がった凛がありったけの宝石を、もはやナパーム弾のごとき閃光と爆炎に変えて魔剣にぶちまけた。それは魔剣にとって心から予期せぬことであったし、彼女をまったく脅威として見てもいなかったために、それは完全に虚を突く形にもなった。

 

 無論それが彼女にとって渾身の魔術であっても、その程度の攻撃は魔剣にとって目晦ましのようなものにしかならなかった。

 

 そして彼女にとって、遠坂凛にとってはそれで構わなかった。それで望みうる効果は充分だったからだ。

 

 一瞬視界を失った魔剣はそれでも現状で唯一の脅威といえるセイバーを逃さぬようにと彼女を拘束した糸に意識を集中していたが、気が付けば手の中にあったはずの手ごたえが矢庭に縮み、最後には解け崩れるかのように粉砕してしまった。

 

 そして訝る間も、視力を回復する間もなく、今度はセイバーの仲間である少年の手ごたえが無くなったことに気が付いた。

 

 暫く目を(しばたた)かせ、ようやく見つけたセイバーはその外装を取り払った可憐な姿を晒して海面に片膝を突いていた。

 

「……なるほど? 器用だな」

 

 セイバーは先ほど魔剣がやったのと同じように鎧だけを身代わりにして魔剣の手の内から逃れ、眼くらましの効いているうちに士郎を拘束していた金糸をの枝を切り落としていたのだ。

 

 魔剣の意識はすでに蛻の殻となった銀の甲冑に向いていたので、何とか今の彼女にも切断することができたのだ。そして海に投げ出された士郎の身体は先回りしていた凛が受け止め、今またセイバーの背後に陣取る形になっている。

 

「なによりも……お前たちの連携の息の合いようには驚かせられるな。しかし、これからどうするつもりだ? やはり諦めるのか? セイバー、もはや鎧を形成する余力すらないのではないか?」

 

 魔剣の声にセイバーは強い視線で応ずる。そこに絶望や諦観の色は見えない。その確かな眼光を前に魔剣は訝るような、しかしくすぐるように、なにかを期待するような視線でセイバーを、その背後のマスター達を見つめる。

 

 まるで手負いの獲物を前にした肉食動物のように。彼らの抵抗が何よりの悦楽だと言わんばかりに、爛々と目を輝かせて両者を睥睨してくる。

 

 純粋な興味があった。奴らはまだ諦めていない。一体、このような状況からどのような手を打ってくると言うのか……。

 

 そのとき、セイバーの手に現れたのは――――一枚の仮面だった。

 

 何時の間にであろうか。おそらくはあの遠坂の魔術師が何かをしたのだろうと思われたが、好奇心ゆえに魔剣はその所作をじっと静観していた。

 

 しかし、奇怪な面だった。騎士王たる彼女にはまるで似つかわしくない黒い仮面、鋭利なラインで構成されたシルエットはある種の凶器を連想させる。

 

 なんだ? 咄嗟に、魔剣の脳裏には強烈な既視感が湧き起こった。それも本能的な危機感を伴ってである。

 

 目元だけを覆い隠すようにセイバーの眼前に掲げられたそれは、すぐに生動するかのようような奇怪な動きを見せ、彼女の白い顔を覆いつくした。

 

「もう、諦めるしかないわ――」

 

 凛の発した声に、その怪異の答えを問うかのように魔剣の二色の瞳が向けられる。

 

「――「彼女」を生きたまま捕縛することは、諦めるしか、ない」

 

 そして魔剣の引きつるような表情を見越した少女の口角が、今度こそ不敵に乾いた笑みを伴って声を上げる。

 

「知らないとでも思った? キャスターがどうやってあんたを追い詰めたのか。調べていないとでも思った? どうしてあんたが半月も動けないほどの傷を負ったのか」

 

 呟くような凛の声に、魔剣は機敏に反応した。金糸の蛇の群れが魔剣自身の意思に反して鎌首をもたげ、強張る。

 

 

「バカな――それだけで()()()()()()()()()()を複製したと言うのか!?」

 

 

「悪いけど、――ウチにはそういうことに関してだけは規格外の贋作師(バカ)がいるのよ」

 

 凛は己の腕の中で気を失ったままの士郎をしっかりと抱き直しながら言い放った。

 

 魔剣はといえば、その言葉に応じる暇さえない。そのうちにもはや再装備することも敵わないはずだった銀の甲冑を纏っていたセイバーの五体には、明確な変化が露になり始めていた。

 

 枯渇しかかかっていた魔力はもはや桁違いの圧力を取り戻し、彼女の周囲の凄まじい魔力だまりを形成し始めていた。そして次第に銀に輝いていたセイバーの鎧が、黒く、黒く、黒く、さらに黒く染まっていくのだ。

 

 

「現時刻を持って魔剣の「捕縛・封印」を断念。目標を同対象の「殲滅」へと移行する!」

 

 凛の宣下するかのような厳かな声にあわせて、周囲を取り囲んでいた船団から暗鬱なベールのような気配が湧き起こる。

 

 それらはゆっくりと彼らの周囲十数キロの範囲を覆い隠し閉鎖的な異空間を形成した。結界である。

 

 氷山の粉砕と共に壊滅したかに見えていた魔術師たちは確かに多数の負傷者を出しながら、それでもプランB、即ち捕縛から殲滅への移行を見越して広域に散開していたのだ。

 

 ――チッ! 

 

 間髪入れぬ勢いで、金の剣線が走る。全身を黒く染めた騎士は動かない。

 

 金の斬糸がその首に触れようとした瞬間。何かが爆ぜた。

 

 黒騎士の全身から噴き出した怒濤の如き魔力が接近した金糸の射線を弾き、捻じ曲げたのだ。

 

 今度はそれが動く。まるで撃鉄を起こすかのような、緩慢で重苦しい所作で。――金の魔剣は蝶の如く、そこから弾けた攻撃を躱した。否、躱し切ることは出来なかった。まるで等身大の弾丸の如く、黒の一線と化したそれが突風に打ち抜かれた蝶の如く魔剣を弾き飛ばしたのだ。

 

 もはやサーヴァントであったときとは比較にならぬほどの速度であった。

 

 その黒の甲冑は変容を続けている。ただ漆黒に色味を増すだけではなく、次第にその厚みを増し、膨れ上がるように膨張していく。

 

 魔剣は蝶の羽の如く展開していた糸を集束し、水面に降り立つ。近接戦闘に打って出るつもりなのだ。未だ地力には差があり、今ならばまだ己に分があると踏んでのことだった。

 

 収束し、刃を成した魔剣の糸の一撃を受けた黒騎士は後方に吹き飛ばされる。好機とばかりに魔剣は前に出た。防戦一方の黒騎士に向けて連撃を叩き込み続ける。そのまま一気に数百メートルほどセイバーを後退させたのだが、しかし次第にその後退の頻度が下がり始める。

 

「――な、にィッ!?」

 

 まるで内側から爆ぜるように、その漆黒の装甲には真紅の亀裂が雷鳴の如く刻まれた。そこからはまるで噴出する鮮血の如き魔力が、もはや抑えきれぬとばかりに溢れ出している。

 

 その魔力は増大し続けている。まさか本当にキャスターと同じことをするつもりなのか?

 

 魔剣は思考を沸騰させる。いや、同じではない筈だ。あれは自滅を前提とした切り札だ。おそらくこのセイバーのこれには自滅の前にこの黒化を解除する安全弁がもうけられているはず。ならばキャスターのとき以上に時間制限は厳しい筈だ。

 

 だが、キャスターとは持ち前の魔力量、そして実力が違う。そのセイバーが「存在と属性のバランスを欠くこと」で手にした一時限りの慮外なまでの魔力量はすでに魔剣のそれを凌駕しつつあるのだ。

 

「――大したものだ。さすがは伝説の騎士王……いや、もはやその名は相応しくないな」

 

 紅い亀裂に囲まれた黒の甲冑はさらに膨張と変容を繰り返し、セイバーの体は見るも無残なほどに変貌していた。

 

 己が代名詞である筈の聖剣すらもが黒く染まり巨大に膨張している。全身をくまなく包み込んだ装甲は次第に人ならざる形態を再現しつつある。

 

「起源回帰を起こしているのか? まったく化け物め。今の貴様はもはや騎士の王ではない、属性の反転を果たした貴様はもはや人の理想ではなく、人の悪性の権化と成り果てている。それ即ち人ならざるもの、――魔獣の王に他ならぬ!」

 

 憎悪を謳うかのように吼えた魔剣の声ももはや届いてはいない。変容は四肢だけにはとどまらない。全身から奇怪な翼か尻尾かと見まがう何かを生やした外見はどんな獣にも似ていなかった。そしてどんな獣の特徴をも備えていた。

 

 魔。それは魔獣の王であった。幻想の頂点を極めし赤き邪竜の威容であった。

 

 黒い閃光が奔った。瞬間、海が、大気が、夜さえもが両断された。もはや魔剣であっても直に受け止めることは不可能であろう。

 

 

 属性反転、モード・ビースト。騎士の王、転じて魔獣の王と成れり。

 

 

 

 凛は腕の中の士郎に治療の魔術を施しながらその攻防を仰ぐ、幸い彼の傷は致命傷ではない、むしろ直りきっていなかった古傷が開いたというべきものだ。

 

 まったく、無理をしているのはどっちだというのか。こんな様で人の心配をするのは百年早いだろう。そう思いつつ彼の頬に、首筋に指を這わせてその体温のある事を反芻する。

 

 見上げる瞳には依然として強い眼光を宿してはいるが、それでも内心は揺れていた。

 

 虚空で展開されるセイバーのその優勢を、彼女は穏やかに見つめることはできない。これは出来ることならば使いたくなかった手段なのだ。

 

 この荒療治は長くは続かない。

 

 その間、セイバーは文字通り戦闘本能の塊となって元の状態とは比較にならぬほどの力を持つことになるが、しかしこれは諸刃の剣と称することさえ憚かられる代物であった。

 

 この宝具を使っている間、セイバーは凄まじい痛みを感じ続けなければならない。ソレは痛みなどという生易しいものではなく。魂そのものをと削り取られるかのような絶望的な喪失感すら伴うはずだ。

 

 セイバーにキャスターの真似をさせるのだとしても、それでキャスターと同じように力の渦となってしまっては元も子もない。

 

 何より、そんなことは不可能だ。アレを使用して魔の渦となれるのは極限たる魔の神性を持ち合わせているキャスターだけなのだ。

 

 セイバーがこのまま使用し続けても、おそらく力の渦になる前に彼女の存在自体が自壊してしまうだろう。

 

 故にあの複製品の黒い仮面にはキャスターのそれにはなかったリミッターを設けてある。つまり使用してから一定の時間が経過すると自壊するようにあらかじめプログラムされているのだ。

 

 その上、それまでの間セイバーの魔力は増大し続けるが、それと同時に凄まじい本能の暴走(スタンピート)に理性を食い破られているのだ。いくらセイバーでも悪くすれば理性の崩壊を招いてしまう。それまでに何とかしてあの魔剣を撃破しなくてはならない。

 

 そのセイバーの苦痛を想い、その主である少女もまたそれから逃げぬことを決意する。それは彼の騎士王が、人の理想である騎士王であるがゆえに感じる痛みから決して逃げぬことを知っているからだ。

 

 凛は士郎の身体を抱く腕に力を込めた。今、セイバーがもっとも心の拠り所とするはずのこの男の代わりに、自分がそれを見つめなければならない。その二人の繋がりの強靭さを、ほんの少しだけうらやましいと想いながら。

 

 

 

 ――まさしく魔獣の如く駆動しながらも、セイバーの理性はそれでも途切れはしなかった。

 

 根源的な飢餓にも似た枯渇の恐怖は、しかし彼女の内面に今燃え上がる炎によって掻き消されている。キャスターは限界までこの宝具を使って消滅した。いや、世界に修正された。己の総てを削り取られながら、消失の恐怖に苛まれながら、総てを知ってなおそれを断行したのだ。

 

 彼女にどのような想いがあったのかはわからない。それを知ることは敵わないことなのかもしれない。それでも自身やそのマスター達が今生きているのはキャスターのおかげなのだ。

 

 彼女は命を掛けて自分たちを救ってくれた。それが事実だ。それだけが結論だ。ならばそこに行き着くまでの経過は問わぬ。その是非を問うこともない。ただ、今は己の命を救われた借りを返すだけだ。

 

 そのために今、伝説の騎士王は己の根源たる騎士の属性さえをもなげうち、獣と化してこの敵に相まみえる。

 

 

 

 黒く染まり、その膨大な魔力量ゆえに一時は膨張した甲冑が新たな変化を見せ、次第に禍々しく引き絞られ、四肢に纏わり付き、人ならざる爪を、牙を、羽を、尻尾をその黒い五体に形成し始める。

 

 黒の魔獣を周囲から奔った針の如き直線が囲い込んだ。まるで狩人に誘い込まれる獣の動きだった。もはや理性は働いていないのだろう。ただこの金色の怨敵を殲滅するという目的、否、()()()()()()()()、この獣はその有り余る魔力と五体とを駆動させ続けているのだ。

 

 

 故に――容易い。魔剣はほくそ笑んだ。

 

 

「魔剣――檻!」

 

 瞬間に、敵の姿を見失って動きを止めた獣の周囲を囲んでいた金の直線が一気にその本数を数千倍に増殖させ、魔獣を金色のキューブ状の折の中に閉じ込めてしまった。

 

 これで少しは時間を消費させられるはず――魔剣はそう考えながら金の立方体に渾身の魔力を込めていく。

 

 しかし、次の瞬間、金の六面体(キューブ)は内側から膨れ上がってきた漆黒の球体(スフィア)によって食い破られたのだ。

 

 それはすでに魔獣の形態(かたち)をも失っていた。もはや駆動の必要の無い形を獲得していた。魔剣はあのキャスターの最後を思い出す。本来なら、アレが集束しながらさながらブラックホールのごとく凄まじい引力を発生させ総てを飲み込んでしまうのだろう。

 

 だがそこで、魔剣は再び笑みを浮かべるのだ。

 

 勝った。なぜなら、セイバーにはこれ以上の変化が許されないからだ。だからこその時間稼ぎ。これ以上はセイバー自身の死を招く事になる。それを知るが故に、魔剣はそのスフィアに接近した。

 

 時間切れだ。セイバー自身が己の死を厭わぬのだとしても、アレのマスターは仮面の複製に安全弁を設けている筈だ。ならばこれ以上の変化はない。ここから先は引き返すことの出来ない領域なのだ。

 

 漆黒の球体がそのとき巨大な風船の如く膨らんだ。勝機。もはや現界のはずだ。後は少し切れ目を入れてやれば自ずから弾けることだろう。

 

 そして己が思惑の成就を求めて魔剣は刃を放った――その、刹那。

 

 

 巨大に膨張していたセイバーの姿が一気に縮小したのだ。

 

 

 気付いた時には遅かった。まるで無貌となったかのような、融解したかの様相を呈するドロを纏ったセイバーは、それでも確かな五体を維持したまま、一条のスリットから覗く理性の眼光を煌めかせながら、貴光の刃を魔剣へと叩きつける。

 

 始めから、これがすべての筋書きだったのだ。ヤツが一度キャスターを相手に生き残っている以上、同じ策を弄しても対応されてしまう。故に、セイバーはその事実を囮として今の今まで、理性をさえ侵食されながらも意志を保ち続けて機を待っていたのだ。

 

 魔剣は躱せない。なぜなら、完全に裏をかかれたのだから。

 

 そして今セイバーが放つのは、今まさに弾けんとした魔の奔流を利用した一撃だ。その黒い光は本来の聖剣の真名開放とさえ比較にならぬほどの威力を発揮することだろう。いくら魔剣とはいえ、直撃を受けては消滅、否、蒸発を免れることは敵わないだろう。

 

「――――ヒッ」

 

 決死の刹那、魔剣は小さな呻きを漏らした。

 

 

 ――しかしそのとき、振り下ろされる刃と怨敵との間に、何かが割り込んだ。

 

 

 混沌に侵食され続けた意識の中で最後に残されていたセイバーの理性が、それを見止めて硬直した。

 

 護らねばならぬ約束を思い出した。

 

 最後にキャスターが託した言葉。彼女のマスターである少年を、――「彼」を護ってほしいという約束を。彼女は騎士として託されたその約束をこの場に至ってなお、破ることができなかった。

 

 放たれることを拒否された極限の魔力溜まりは、あらぬ方角に向けて炸裂した。その漆黒の光はもはや夜を裂くだけでは飽き足らず、空間そのものを歪曲、寸断、攪拌して、文字通り世界を裏返した。

 

 

 

 

 

 ――渓谷の谷間を通り、深い森を抜け、滴る滝壺を超えて、ワイアッド・ワーロックは降り立つ。

 

 そこは広大な自然のオブジェの中へ、功名に練りこまれ、隠蔽された(シャトー)だった。つまりは一見してそれは城ではないのであった。

 

 一見したのみでは、人の手が入ったことすら無いのではないかとさえ思われる原生林の中に忽然と、しかも繋ぎ目がわからぬほどに自然に、まるで年月に埋もれきった古代遺跡のような石造りの建造物が姿を現すのだ。

 

 この自然の景観そのものが、後代の木々の繁茂や気候の変動さえ、あらかじめ計算された上で形作られているものなのだ。と、とすぐに察せられたのである。

 

 老魔術師は滞りもなく、殆ど警戒らしい警戒もせずに城の中に歩を進めていく。豪胆というよりは、むしろ無謀に過ぎる挙のようにさえ思われたが、いざ城の中へと踏み込んでみても、何の仕掛けや罠が襲うことも無かった。

 

 魔術的な概要の初歩にして要である筈の結界敷居すらないのである。この場所が魔術師の隠れ家であるという事を考えるならば、逆にありえないことであった。

 

 にもかかわらず、この場所を見つけるのに必要以上に手こずったのには訳があった。

 

 その見事なまでの造形美と頑ななまでの隠匿性に、ワイアッドは古の魔術師の工房よりも、むしろ以前に見たある文献の記述を思い返していた。それは伊賀甲賀の忍びによってつくりあげられた「隠れ里」の設計思想についてである。

 

 徹底した魔術的措置によって居所の隠蔽を図ろうとするのが十把一絡げの魔術師の思考であるが、ここはそれがより徹底されているのだ。

 

 たとえ魔術的な隠蔽、幻惑の装置がなかったとしても、この場所を見つけ出すのは用意では無かったのだ。

 

 これはただ魔術によってだけの隠匿措置よりも、数段優れたもののように感じられた。さしもの老練の魔術師とはいえ、これには感嘆の想いを禁じえなかったのである。この要害の配置には妖精ですらある種の感覚を狂わされ正確な進行を遮られるのである。

 

 ――が、今、それほどまでに隠し通されようとしていた筈の場所は、ひどく無防備であった。そこは既に死んでいるように感じられた。その城は躯であった。その生態系に備わる筈の免疫機能、防衛予防策とでもいうものが、まるで機能していないのである。

 

 翁は躯となった城の中を進む。微かだが鼻腔に匂ったものがある。血のにおいだ。それも今しがた。脈打つ肢体から流れ落ちたものではない。ひどく擦れたようなその臭いには明らかな腐敗の根が感じられた。

 

 おそらく地に流れ落ち、腐り、乾き、そしてふき取られた、それは死の名残であろうと、老魔術師はその時点であたりをつけた。その推察が間違っていたことは今までにもなかったし、事実として今回もありえないのであった。

 

 そこは死地であった。奥に進むにつれ、吹き取り切れかなった腐血の残り香はその芳香を増していく。

 

 いかにも閑散としたそこは既に決着した死に取り囲まれた場所であったのだ。死地。死地なのだ。何故この老魔術師は斯様な死の蔓延る場所に足を踏み入れる必要があったというのだろうか。

 

 さらに進む。石の城壁に囲まれた箱庭のような場所に辿り着いた。中庭、と称するには些か以上に憚られる、広大な場所であった。

 

 表にある原生林とは趣を異にする人工的な緑が茂っているように見えるが、そこも確かに森であるように見受けられた。しかし、見ようによっては、その緑の芝生がひらけた草原のようにも見受けられた。

 

 と思ってまた見れば、今度は中央の湖が石で囲まれた日本庭園の池のようにも見て取れる。にもかかわらず、いま一度老いた眼を瞬かせてみれば、今度はまとめて苔生(こけむ)した太古の石碑の成れの果てのように見えてくるのだ。

 

 なんとも奇怪な場所であった。ここにも外と一緒の、いや、それ以上に強烈な幻惑幻視の巧妙な配置が成されていたのである。これがもしも城攻めならば直進を諦めて引き返すことを真剣に考慮していたかもしれない。

 

 しかし、ワイアッドは迷わずそれを見つけて歩み寄った。石の壁伝いに少し進んだある場所に、何かを燃やしたような後が見受けられたのだ。

 

 焚き火程度のものではない。遥かに大きな焼け跡だった。何かを大量に焼却したような、胸の悪くなる残り香が未だに立ち込めていた。

 

 その燃え殻の臭いを嗅ぎながら、辺りを視線で舐めるとワイアッドは目的地を目指して再び歩を早めた。

 

 よもや見当が外れたかと思っていたが、どうやら違うらしい。あれは死体を焼いた跡だ。それも一人や二人ではない、遥かに多くの、それもなかば腐乱し始めたそれを、何度も何度も、灰になるまで燃やした跡なのだ。あれは本来ここの住人であったはずの者たちだ。

 

 おそらく――――察するに、後継者達がここを発った後、すぐのことだったのだろう。あの魔剣はここで本性を現したのだ。そして、この地に残っていたサンガールの後見人や徒弟や従者たちを、一手に殺戮したのだ。

 

 奴の計画では最初からサンガールなどという魔道の家門などに用などなく、最初から使い捨てにするつもりで事に当たっていたのであろう。

 

 ああ、憐れなるはサンガールよ。魔道の家系を絶やさんがために腐心した先代の思惑が、巡り巡って斯様な形で後継者並びに従者徒弟含む全滅を招くことになろうとは。

 

 知らぬがよかろう。知らぬがよかろうとも。知れば未来永劫の後悔が彼らの魂を腐心させるであろう。その呪いが此方の未来に降りかかることは避けねばならぬ。いずれにせよ、いずれこの場には教会の手が入るであろう。それまでに、簡易的にでも祓いの儀を執り行わなければならないかもしれない。

 

 老翁はそう思案しながらしかし、ここに一つの疑問を提示する。彼らを殺したのはあの魔剣であろう。では、ヤツが彼らをこの場所で焼いたのだろうか? そのはずは無かった。

 

 遺体は腐敗した上で焼かれていたのだし、なにより魔剣がそのような挙に出る理由が無いのである。ならば、それは魔剣がここを発ってより暫くしてこの場所に舞い戻り、ここにあった死体の山を焼却した人物がいるということである。

 

「やはり……ここだったか」

 

 ワイアッドがここに足を運んだのは正しかったのだ。老翁の目的であった彼は確かにここにいるのだ。

 

『当主になって始めての仕事が、皆殺しになった徒弟の死体の後始末とはな……』

 

 それはなんと皮肉な裸の王の姿であろうか。

 

 ワイアッドは複雑怪奇にして絢爛壮麗なる媚態の箱庭を通り抜けた。

 

 そこは本堂であるかのように思われた。つまりはこの城群の主の居城。工房の中心である。居るとすれば、ここだ。

 

 不用意に踏み込む。鍵は、掛かっていなかった。それどころか、途上に在ったいくつかのドアには鍵どころか、最初から閉じられてすらいなかったのだ。

 

 進む。この有様を見れば防御結界幕どころか罠の類すら用意していないのだろう。深奥に突き当たった。殊更に豪奢で巨大な扉は、ここだけはしっかりと閉じられていた。

 

 押し入る。本来は敵襲に対する最終防衛ラインを意味するこの扉は無許可で踏み入ろうとするものを決して通さぬ文字通りの最後の扉なのだろう。にもかかわらず、扉は苦もなく開いた。

 

 そこには何の魔力も通っていない。つまりは電源の無い電化製品も同様であり、血の通わぬ肉と同様の意味しかなかった。そこには侵入者を押し止める意志も機能もありはしなかったのだ。

 

 広い部屋の奥。――暗く、それでも金と赤と黒の原色で彩られた、いかにも古めかしい調度に囲まれて、しかし蹲るように、そこだけが白一色で固められた一角があった。

 

 壁に、手の届く範囲に規則性も無く貼り付けられ、床に投げ出されたそれは無数の紙片だった。

 

 歩み寄る。反応は無い。それを手に取った。楽譜だ。どれほどあるというのだろうか、この広い部屋の一角を埋め尽くしてしまうほどの、奇妙な楽譜がまるで外界を拒絶する彼の心を表すかのように、真白な境界となってワイアッドの足を踏みとどまらせた。

 

 魔術的な強制力など有りはしないというのに、その白の結界は殊の外堅固に過ぎて――それ以上の侵入を止まらせた。

 

「――誰? 何の用?」

 

 背後で立ち尽くした来訪者に、この城の主たる少年は問うた。白い結界の中に蹲りながら、部屋の隅を見つめたまま、細く、薄っぺらい背中越しに声を掛けてくる。抑揚の無い声だった。とても少年のものとは思えない。乾ききった声だった。

 

「カリヨン・ド・サンガール、じゃな。――ワシの名はワイアッド・ワーロック。名は、知っとるかと思うが……」

 

 相槌の類は無い。無音。沈黙。静寂。――一拍置いて、ワイアッドは言葉を続けた。

 

「これは――何の暗号か……」

 

 先ほど手に取った白の結界の端。楽譜――のように、一見して見えたそれはしかし尋常の代物ではなかった。楽譜の上の並ぶ音符は常軌を逸した配置、配列、接地角にて混迷を極め、そこにはまるでモザイク模様のような、或いは奇怪な抽象画のような絵画のラフを見るかのように思われた。

 

「なんでもない――ただの、ウタだよ……」 

 

 少年はそれきり、ことばを切り、再び楽譜にペンを走らせ始めた。

 

「おぬしのことは人伝に聞いておるよ。うちの使用人を護ろうと骨を折ってくれたそうじゃな」

 

「なら、その先のことを知ってるだろ? 結局、僕の行動に意味なんて無かったんだ。自分で何かをしてみようとしてみたけど、結局は全部アイツの手の上だった。こんなにバカバカしい事ってあるのかな。一族一党、まとめてアイツの玩具にされてたなんて……」

 

「ならば、サンガール最後の魔術師として、その恨みを晴らそうとは思わんのか」

 

 カリヨンが乾いたような笑みを浮かべたことが、彼の背を見下ろすワイアッドにも解った。

 

「……ボクは思ったほど一族のことが大事じゃなかったらしい。彼らが死んでいたのに、たいして悲しくも無かった。あんなに、彼らに認めてほしいと思ってたのに、僕は彼らのことをちゃんと知ろうもしてなかったんだよ。だから、悲しくもないんだ。僕は彼らがずっと僕を見てくれないって思ってたけど、僕も彼らを見てなかったんだ。知らない人が死んでも、涙は流れないんだね……」

 

 しかし少年の独白のような言葉に応えることなく、ワイアッドは言葉を切り出した。

 

「魔剣は、じき、目覚める」

 

「…………」

 

「いや、もう目覚めているやもしれん」

 

「これは、ボクの癖みたいなものでさ。暇になったときとか、時間を潰したい時なんかに良くやるんだ」

 

「当然、おぬしの持つ欠片を狙ってくるじゃろう」

 

「……あんたは、多分、知らないと思うけど、そいつが……。そいつは、もういないんだけど、……そいつが前に口ずさんでた、ウタなんだ……」

 

「兎角、できる限りの策を立ててはあるが、それが成功するかどうかは五分といったところじゃ」

 

「……僕は暇になった時に、よく、これをやるんだ。……あいつがよくうたってたから、リズムを覚えちゃってさ……」

 

「もしもその策が失敗したならば、御主は殺されるじゃろうな」

 

「――でッ?!」

 

 噛みあわない言葉のやり取りに、根を上げたのはカリヨンのほうだった。元から、受け答えが面倒なだけだった。いい加減、この老人の言葉が耳障りになった。

 

「だから、なんだって言うんだ?!」

 

 背を抜けたまま。そこにどうしようもない怒りを露にして、少年はあらぬ方に怒声を吐き出す。

 

「僕には――、もう、何もない。解かるだろ? 何もないんだ。ここにくるまでに見てきただろ? 何も出来ないし――する必要もなくなってしまったんだ。そんな僕に、なにを言うつもりなんだ? なにを言いたいんだ? アレが、――僕を殺しにくるのなら、それでもかなわない。そうだ、僕は待ってるんだよ。アレが来るのを待ってるんだ。死をね、待ってるんだよ。……だから、もう良いだろ、僕には、何も出来ない。だから、もう、なにもしたくないんだ。何かをしようとすれば、また……」

 

「また、どうなるというのじゃ?」

 

「――ッ!」

 

 背を向けたままの少年が、息を呑んだのがワイアッドにも解った。

 

「そうか、殺されたいのか? ……テフェリーに」

 

 呟くような言葉に、少年の物言わぬ背中が再び、びくりと波打った。

 

「悪いが、御主の思い通りに運ぶまい。いまごろ、協会の支援を受けてアレに対処するための策を遂行しているころじゃろう。順当に行けば捕縛、悪くすれば殲滅と言うところじゃろうな。そうできるだけの準備を整えてあった。ワシがここに来るのが遅れたのはそのためじゃ。本来なら、おぬしが姿を消した時点で何かするべきだったのだがな」

 

 ワイアッドは懐から二枚の陶器片のようなものを取り出した。カリヨンの位置からでも、そこに秘められた法外な魔力が感じられた。何なのかはすぐに解かった。彼の中にもそれと同じものがある。

 

 それはすでに彼にとっては馴染み深いものとなっていた。彼が目覚めた時、すでに彼の中の「座」にはキャスターが納まっていた。あの冷たい刃の中に、ただ一個の力として。

 

「この二枚と、御主の持つ一枚の欠片が揃わぬ今なら、まだ対処のしようはあるのだ」

 

「何が、言いたいの?」

 

 背を向けたままカリヨンは呟いた。

 

「つまり、いくらここで待っていても向こうから会いに来てはくれんということじゃ」

 

「……そんなこと考えてないよ。僕の欠片をもっていきたいならもっていきなよ」

 

「それで、本当によいのか?」

 

「……何が、言いたいんだ」

 

「そのまま蹲ったままで、本当に後悔しないのかと聞いとるんじゃ」

 

「――あんたは何でそんなことを聞くんだ? そんなことをいうために来たんなら、もういいだろ? 欠片を取り上げて、さっさと行けばいい」

 

「このまま、ニ度とテフェリーに……」

 

「違う!」

 

 少年は爆ぜるように立ち上がり、狂わんばかりの声を張り上げた。それまでの乾いたような弱々しい、あえぐような声ではない。咄嗟に出たのは、嗚咽のような悲鳴であった。

 

「テフェリーじゃない。アレはもうテフェリーじゃないんだ……」

 

 己に言い聞かせようとするかのように、泣き声は幾重にも重ねられる。

 

「テフェリーじゃない。アレはテフェリーじゃないテフェリーじゃないテフェリーじゃないアレは……」

 

「いいや、あれはテフェリーじゃよ」

 

「――――ッッッ、」

 

 射すくめられたかのように、細い肢体は凍りついた。遅れて、瘧のような震えが、少年の身体を強引に抱きすくめた。

 

 逃げ場が無かった。だから震えるしかなかった。絞り出した声も、そのおぞましい震えから逃れられなかった。彼は言葉を否定することができなかった。それは彼自身が向き合うことを避けていた事柄だったから。

 

「……僕に……」

 

 弱々しく膝を突き、逃避するかのように、声は震える。

 

「……どうしろって言うんだ。皆、勝手なことばっかり言いやがって。当主だとか、マスターだとか、戦え? 生きろ? 挙句にまだ、僕に何かしろって言うのかッ? もう、無理なんだよ。だから、放っておいてくれ……」

 

「ワシは魔術師じゃ」

 

 少年の声には斟酌せず、老紳士は高い位置から抑揚の無い声を漏らす。。

 

「故に何処をどう転んでも、ワシにはそれ以外の選択がない。もう是非もないほど、ワシの生き方は決まっとる。今更何かを変えてみようとしても遅すぎるほどにな」

 

 それは、届いているかはどうでもいい、とでも言うような、まるで独白のような声だった

 

「今回のこともそうじゃ。テフェリーが魔剣に取り込まれた今、魔術師としてワシがしてやれるのは「葬り去る」ことの手伝いだけじゃ。どんな手を使っても此度の怪異を秘匿せねばならぬ。ワシにはそれ以外の選択は許されておらん。魔術師としてのワシはそれを微塵も悔やむことないじゃろう。――じゃが、人間としてもワシは、きっとこのままではそれを後悔する」

 

「それで、どうしろって言うの。僕にもそれに付き合えって言うのか?」

 

「そうは言わん。先にも訊いたが、おぬしは最初から、サンガールの魔術師ではなかったのだろう? ならばワシら魔術師の責務に付き合う必要はあるまい。御主の言うとおり、御主等は確かに被害者じゃ」

 

 それから一拍の間を挟み、ワイアッドは言葉を続けた。言葉を切ったのは、あるいは慣れない言葉を使うための助走なのかもしれない。

 

「この歳になって、ようやく解ったことがある。それは、人は己の心というものを計算して動くことは出来ぬということじゃ。だから、魔術師(わしら)のように己の心さえ支配したつもりになっている人間ほど、己の心が見えなくなる。

 何かを決断しようとする時、そのための理由を探す必要はない。そのための言い訳を考える必要はない。ただ、己の心が求める物を見つめ、己の信じられる道を歩めばいい、と。……それが、最後に彼奴がワシに示した生き方じゃ。それを、無為にすることだけはしたくないのでな」

 

「その人は……どうしたの?」

 

「死んだ」

 

「なら、その言葉に意味はあるの? その人はもういないのに……」

 

「それを向けられた者が、生きてさえいれば、な。……死者の言葉は生者に届いてこそ、意味がある。死者同士で交わされた言葉は生者に届くことは無い」

 

「……」

 

「コレは置いて行く。伝えることも伝えたし、ワシはお暇しよう。邪魔をして悪かったな」

 

 結界の隅に二枚の鈍い輝きを放つ刃片を置いて、背を向けた老紳士に、今度はカリヨンが擦れるような声を投げかける。

 

「その人は、なんて言ったの? その、……、最期に」

 

 老紳士は何処と無くぎこちない動きの長身をそれでもなお優雅に翻しながら、

 

「『自分は何も後悔していない。だから、お前も後悔だけはするな』とな。ふん、思えば生意気なこと言いおったものじゃ……」

 

 そう言うとカリヨンに背を向けて部屋を後にした。後に残ったのは白い結界にひとり残された少年と、鈍く輝く二枚の刃の欠片だけだった。

 

 再び静寂を取り戻した部屋の中で、カリヨンは部屋の隅を見つめながら、ただ、瘧のような震えが彼を放してくれるのを待っていた。

 

 「生きてさえいれば」――それは、その言葉は今の少年にとってはどうしようもなく荷が勝ちすぎる難問に思えた。己に出来ることはただ漫然と迫り来る死を待つことだけだと思っていた。

 

 だから、彼はここにいた。キャスターが最後に彼に残した言葉が彼にそうさせたのだ。『――マスター、どうか、生きてください――』と。

 

 もう総てを失くして、生きる理由はない。けれど、そのキャスターの言葉があったから、彼は死を選べなかった。だから総てを諦めて、ここにいたのだ。

 

 だって、出来やしないのだ。自分には何も出来ない。出来ないのだから、仕方がないのではないか。じっと蹲っていること以外に何かできることがあるのだろうか?

 

 何かが出来るのだと期待してみても、結局は、己の無力を思い知るだけだった。これ以上、この無力な自分になにが出来るというのだろうか。

 

 そうだ。あの日、殺される彼女を目で追いながら、夢現に悟ったのではないか。

 

 自分は勇者ではなかったし、誰かを助けることも出来なかった。なぜか? それは自分がただの子供だったからだ。それが現実というものなのだと、そのとき初めて知ったのではなかったのか。

 

 しかし、幾度となく繰り返した、諦めにまみれた自嘲の言葉はいつものように束の間の安堵をもたらしてはくれなかった。何がが、少年の白い頬を過ぎった。小さな手を軋むほどに握り締め身体を震えさせたまま、少年は声を殺して泣いていた。

 

 だって――だって、知っているのだ。どうしようもなく解かっている。とっくに知っている。彼はずっとそうしなかった事を後悔して生きて来た。だから彼は力を得て、できる事をやろうとしたのだ。そして――それも失敗に終わった。助けたい人を助けられなかった。

 

 体の中に充満しているものがなんなのかわからなかった。それをどうしていいのか解からなかった。そのとき、不意に、死者の声が蘇った。キャスターとは違う。別の声だ。

 

 床一面に散らばる楽譜から、不意に、本当に何の予兆もなくそれが蘇ってきた。鞘の、言葉だ。

 

 『出来るかどうかなんて、考えるだけ時間の無駄なんだよ。だって未来のことなんだから、そんな事をしてる暇があったらね、今自分がどうするのか、を決めることに使ったほうが良いんだよ。ほら、何かを考えてるうちにどんどん進んでいけるんだから』

 

 言葉はいくらでも溢れてきた。何気なく彼女達が発した言葉が、どうしようもなく彼の中に息づいている。死してなお、彼女たちは彼を支えているではないか。そう、生きて、その先の生に、何を成すのか、と。

 

 ――ほらね? 今、君はなにを決めるの?

 

 僕はなにを決めるのだろうか。なにを決めればいいのだろうか? 今、僕が決めなければならないこと。

 

 少年の独白は涙と一緒になってあふれ出していく。もう、枯れたと思っていた涙が、まだ溢れるのだ。

 

 わけもわからず、立ち上がる。全身を震わせるような。やりきれないものが溢れている。今まで必死になって抑えてきたのだ。名前も付けようのないこの感情が全身を震わせるのだ。

 

 総てを失った筈だった。もう何もないはずだった。それでもたった一つだけの残ったこの思いが、消えていない。彼女を諦めていない自分だけが消えずに燻っている。もうそれから目を背けてはいられなかった。

 

 そうだ、僕はテフェリーのためにかっこいい自分を見せたかったんだ。

 

 嫌なんだ。テフェリーに自分を誇れないのも、テフェリーの側に居れないことも、自分を見限ってしまったことも、総てが許せない。そうだ、このままでは自分は自分を許せそうもない。そんな自分がずっと嫌だった。

 

 いつの間にか、結界から歩み出て、二枚の欠片を手に取っていた。僕はなにをするつもりでいるのだろうか。いや、僕はなにをしたいのだろうか。

 

 少年は自問を重ねる。震えが増す。握り締めた刃片が掌に食い込む。どうしようもなく制動できない。どうすればいい? 決まってる。解かってなんかいないけど、どうしたら良いかなんて、決まっているのだ。

 

 ――僕は。そうだ僕は、ずっと、……テフェリーを、助けたかったんだ。

 

 あの日から、ずっと。テフェリーを未知の世界に連れ出すんだって決めたあの日から。ずっとそう思い続けてきた。助けられるかもしれないから助けるんじゃない。僕が助けたいから、僕がテフェリーを助けるんだ。

 

『外に行こう。一緒に世界中を見るんだ。僕がいるから大丈夫だよ』

 

 出来るかどうかなんて関係ないじゃないか。「出来るかもしれない」からじゃない。自分が心から「そうしたい」と思うから。人は己の行く先を決められるんだ。

 

 テフェリーを助けたい。どんな手を使っても。独りになんてさせない。そう決めたのだ。とっくに決まっていたのだ。

 

 何も無くなった。確かに総てを失った。でもそれは、同時に何もにも縛られないのだということなのだ。きっと、サヤならそう言うだろう。総てを失くしてしまった今こそ、君は自由になれたのだと。もう何でもできる。何処にだっていけるじゃないかと。

 

 ――そうだ、ボクはまだ、生きている。だから、僕はまだ「未来」を、その先の生き方をも自由に選ぶことができるじゃないか。

 

 いつの間にか、震えは、止まっていた。

 

 テフェリーはずっと独りで傷つき続けてきたのだ。自分でも見ることの出来なくなった、それでもそこに生々しく息づいている傷口を抱えたまま、ひとりで苦しみ続けていた。

 

 何故だろう、なぜ彼女がそんなにも苦しむ必要があったのだろう。

 

 簡単だ。――ここに辿り着くまでに今までかかったのか――それは僕がいなかったからだ。僕がテフェリーの側にいようとしなかったから、彼女は一人だったんだ。当たり前のことじゃないか。

 

 だから、あの子は今も苦しんでいる。それは独りだから、僕がいないからだ。

 

 

 なら、僕のやるべきことは――ひとつしかない。

 

 

 もうとっくの昔に決めていたではないか、何があっても、もう二度と、彼女を独りにはしないと。

 

「――解かったよ、サヤ、キャスター。解ったよ、テフェリー」

 

 自分が何のためにここいるのか、やっと解かった。やっと、自分の心が求めていた行き先を決められた。

 

 扉を蹴って、走り出す。止まらなかった。どこに行くのかも解からないのに、とにかく足は動いた。どうなるかも解からない。何が起こるのかも、解からない。それでいい。たとえなにがあっても、もう迷いはないのだ。今は、とにかく奔るのだ。

 

 気がつけば二枚のブレードはいつの間にか両手の中で融解し、彼の両腕の深奥へと溶け込んでいった。

 

 不意に、彼の速度は音速を超え、幾層かの空気の壁を突き破った。渾然たる英霊三人分の力が溢れるように、彼の中ではじけたのだ。

 

 跳ぶ。飛んだ。否、飛翔して(とんで)いた。一瞬で深い山を、暗い森を越え、あの時越えられなかった滝を、一跳びで股に掛けて――

 

 奔るのだ。まるで、時を巻き戻すかのように。

 

 足許に、見覚えのある光芒が見えた。あの日、彼らを誘ってくれた地妖精(レプラコーン)達が、大地の要点に光を灯している。

 

 彼が行く先を指し示すように光の道が一直線にはるかな海の彼方を照らし出している。

 

 少年は駆ける。今、駆け抜ける。あの日夢見たように、雄々しき勇者のように。悪魔に捕らわれた妖精の姫君を助けるために、妖精たちに導かれながら、光の道を駆け抜けていく。――

 

 

 その光を見つめながら、ワイアッド・ワーロックは丸眼鏡の下でそっと眼を細めた。 

 

 

 



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七章 謡う合鳴鐘「カリヨン・トランス」-4

 咄嗟に上方へ向けて捻じ曲げられた黒の剣閃は、上天に坐していた月へ向けて一直線に放たれた。

 

 その漆黒の夜を更なる暗色で染め上げようとするかのような黒檀(エボニー)の光のラインは、次第に空間を席捲するかのように拡散し、入り混じるようだった黒光と夜の闇との境界線は墨汁が滲みだすかのように曖昧となり、最後には乾燥し罅割れたかのように脆く崩れていったのである。

 

 そして現れた光景に、誰もが喘ぐようにしてただ息を呑んだ。

 

 いかなる空間変動の作用なのか、天蓋の頂に乗っていただけの矮小な月は今や常の数百倍もの威容を晒して黒と赤の入り混じる天空に在った。夜に滲み出した真紅の靄のような――あるいは海のような、そんなものの中に浮かんでいたのである。

 

 月は――それが本当に月であった確証など誰にもありはしないが――幾重もの涙を流していた。

 

 潤んだ皿のような円淵からは無数の光が糸のような残滓を引きながらこぼれ落ち、次第に小川の支流のごとく拡がり、果ては折り返し、紅天の潮流(タイド)に任せるように緩やかに罅割れたような海を跨いで極大の円月へと還って行く。

 

 まるで条理の薄皮を剥がしたかのようであった。皮一枚を隔ててすぐそこに在りながら、決して目にすることの無い禁忌を見たかのようであった。

 

 それは生皮を剥がれた乙女の肢体を見せつけられたときの怖れ――そして恐れ、感動、畏怖、嫌悪、はっとするような再確認。こんなにもおぞましいという俯瞰の視点、失望、しかし一転、こんなにも美しいという至近の視点。

 

 羨望。入り混じっているのだ。感情が入り混じるのだ。言葉にすることは無為であろう。だからこそその光景に何事かの言葉で応えることが、如何にも無粋な行為であるということを誰もが理解していた。

 

 なんという光景であろうか。まるで異界さながらの魔魅の夢幻(ゆめ)を見るかのようであった。

 

 それもしばしの後、まるでへりくだり、しかし威厳を秘めながらもしめやかにお辞儀をするかのように、幕を引くように、再び世界は常なる夜へと反転(ターン・スキン)していった。

 

 

「ハ――――ハハハハハハハッ!!」

 

 

 しばしの静寂の後、不意に哄笑が響いた。

 

 魔獣化の現界点を超えたセイバーは微動だにできぬほどに消耗し、いまや海面を藻屑のごとく漂うことしかできていなかった。

 

 それを眼下に見下ろし、心からの感嘆を謳うように金の魔剣は意識の無いセイバーに語りかけた。

 

「驚いたぞセイバー。事此処に及んで見事な策だったな。()()()のことを呼び水(ブラフ)として使ったな? 己の劣勢ではなく、己の優勢を餌にして一瞬の隙を作り出すとはッ。それも理性を己が魔性に侵食させながら、とは。恐れ入った。これほどの策を披露したのはこの凶器特権(テュルフィング)が見てきた英霊多しといえども、さすがに皆無であったわ!」

 

 狂ったように吼え悶えながら、魔剣は宙空に己を四肢を駆り巡らし、空間に己を縫い付けるようにして浮遊していた。誰も聞く者がいないのだとしても関係なかった。九死に一生を得た今、魔剣は快哉を叫ばずにはいられなかったのだ。

 

 断言できる、今の攻防こそが最後の分岐点だった。乗り越えられたのは完全に運、または偶然であった。だからこその快哉なのだ。

 

 今、己は世界にすら祝福されている。運命は己を生かしたのだから。

 

 ひとしきり笑ったところで、魔剣はあいも変わらず金の濁色に濡れ光る四肢を、海面へ向けて伸ばした。

 

 後は、いまだ一抹の息を残すだけのセイバーにトドメを刺せばそれで終わりなのだ。

 

 しかし、その瞬前に何かが死に体のセイバーを掠め取った。

 

「――ッ?」 

 

 一時、それを見失った魔剣は視線を泳がせる。

 

 それは溶解した黒檀(エボニー)の飛沫のように、奇妙に柔らかな線を揺らしながら、いつの間にかその波の間に立っていた。

 

 

 影だ。それは(やわ)な影だ。

 

 

 月明りは揺れる雲に覆い隠され、闇に抱かれたその内実は窺い知れない。しかし視線はなぜか引き寄せられるかのようにそれに吸着された。濃色の双瞳が重く軟らかにうねる波面に映った影をじっと注視した。

 

 それほどに、それはしなやかでおぼろげだった。

 

 だがそれがなんなのか、判ずるのは容易なことだった。そういえば――と魔剣はようやく思い返した。

 

 最後にセイバーが必殺の剣閃の狙いを逸らしたのは、コイツのせいだったな、と。

 

 魔剣は酷くぼんやりした思考で考えていた。それほどに、この少年は取るに足らないものなのだという認識がこの魔剣の脳裏を席捲していた。

 

 少年はセイバーの身体を抱えて一息に魔剣との距離を開けていた。

 

 しかし金色にきらめく少女のごときヒトガタの二色の視線は、失望と嘲笑の色をありありと浮かべていた。

 

 その少年の存在に、それは毛の先ほどの情緒すら抱いていなかったのだ。

 

 直視する必要すらない。特に意気込むこともなく、周囲にゆるゆると視線を配りながら、魔剣は少年に声をかけた。

 

「……まずは礼を言っておこうか。先ほどはおかげで助かったぞ、カリヨン・ド・サンガール。お前たちは最後まで私達の役に立ってくれるな」

 

 嘲笑うかのような声に、背中越しのカリヨンの肩が震えた。

 

 愛らしい唇の端に、とても少女のものとは思われぬ悪辣な笑いが浮かぶ。

 

 いかなる経緯かは知らす、彼が魔剣によって一族一党を虐殺されたことを知り、なおかつ一族総出でこの魔剣に玩弄されていたという事実を知っていることを魔剣は再確認した。

 

 その甘い嗜虐心が魔剣の狂喜の口角に更なる笑みを刻んでいく。

 

 しかし少年は背を向けたまま無言だった。

 

「それよりも、捕まえに行く手間が省けた――とでも言うべきかな? まあ、逃げも隠れもしなかったのは、わたしにとっては好都合……!?」

 

 そこまで声を続けた魔剣は突如として感じ取った不可解な感覚に、凝然眦を開いた。無視できない何かが、いまのこの少年にあった。

 

 状況は本来はもう詰んでいるはずだった。

 

 想定する脅威はすべて取り除かれ、後は速やかに完全体となるべく残りの欠片を捜索するだけなのだ。そのうちの一つが自分から己の眼前にまろび出てきた。

 

 この餓鬼がどういうつもりなのかは知らないが、魔剣にしてみればこの上ない僥倖である。

 

 むしろ、現時点では拍子抜けしていたくらいだ。これではすぐに手の届く範囲に実っている果実のようなものなのだ。

 

 後は捥ぐだけ、収穫するだけの、ある意味で何の面白みもない代物。もっと巧妙に秘め隠されているならばまだ面白みもあるものだが、とさえ思える。

 

 しかし、それは過ぎた望みと言うべきだろう。

 

 思考を切り上げ、魔剣は金の果実を捥ごうと手を伸ばし――そこで、気付く。

 

「ハ――――ハハハハハハハハハッ、どういうつもりだ貴様? おまえ自身のものだけではなく、残り二つの欠片もまとめて持っているというのか? 」

 

 不意に吸気を切った魔剣は再び哄笑を張り上げた。それは狂喜の悲鳴とも見て取れた。

 

 

「――なんてことをッ!」

 

 その哄笑を聞き取り、その場より一キロほど離れた地点で金色の点光と化した魔剣を見つめていた遠坂凛は焦燥に駆られ、声を漏らした。

 

 空の模様が一変した光景を、しかし彼女はろくに見上げている暇もなかった。

 

 先の空間の炸裂によって海に投げ出された彼女は意識を失ったままの士郎を抱えたまま、手近な船の破片を捕まえてその上に重く凍えた彼我の身体を引き上げていた。

 

 さすがに骨の折れる作業だった。何よりこの現状の危険性を誰よりも察しているが故に、彼女の脳裏に浮かぶのは最悪の展開だけなのだ。

 

 幸か不幸か、聴覚の鋭敏化と冷えた空気のおかげで遠方の空に浮かぶ魔剣の声は仔細漏らさず聞こえていた。

 

 なんということなのだろうか。これで万策は尽きた。魔剣の台詞からそれを知った凛は驚愕する。

 

 考え得る限り、最悪の状況だ。

 

 打ち合わせではワイアッドが彼を発見し、保護し次第共に残りの欠片を別個の場所に隠すはずだったのだ。

 

 にもかかわらず、今しがた確かに勝敗を決していたはずのセイバーの決死の一撃を邪魔したのみならず、その上秘め隠さなければならないはずの魔剣の欠片を持ってこんなところまでのこのこと現れるとは!

 

 ワイアッド老は何をしていた? そして彼は、あの少年はどういうつもりなのだろうか。

 

 その巧緻な美貌に見る見るうちに絶望の色が浮かんでいく。

 

 

 その蒼褪めた傍観者の存在を鑑みることもなく、魔剣はゆっくりと、そして脇目も降らずに金色の糸を伸ばして押し黙った少年の背中に触れようとする。

 

 微動だにしようとしない少年が、すでに恐怖に飲まれて身じろぎも出来ないのだと、あたりをつけて。

 

 

 ――――果たして本当にそうだったのだろうか? 

 

 

 いま、確かに少年は強大なるモノのまえに立った。それまでの己では到底、立ち向かおうなどと思い至ることすらなかった強大な敵の真正面に。

 

 あの時のオロシャと、兄と同じように今敵は自分のことを欲しかったおもちゃ程度にしか見ていない。つまり、これはチャンスだ。

 

 それでも、恐れがないわけではない。何の確信があるわけでもない。

 

 ただ、初めて自分の力で掴み取った運命とは、少年を取り囲む世界の全てを一変させてしまうには充分過ぎて――――

 

 

 それだけが少年の選択を肯定するのだ。世界が始めて自分の受け入れたのだということが、自分は、とっくに解き放たれていたのだという事実が、全てが――少年の小さな背中を後押ししていた。

 

 

 ひとつ、確かなこと。――――それは、もう自分は止まらないのだということ。――

 

 

 不意に、少年の身体が消失した。

 

 わけもわからず、魔剣は標的の姿を探す。振り返る。居た。

 

 いつの間にか、少年の姿は死角にあった。死に体のセイバーを抱え、背を向けたまま、いったいどうやったと言うのか、遥か遠方の海面を凛達の元へと歩を刻む。

 

 魔剣は眼を剥いた。何が起こったのかを理解しかねている。そんな貌だ。

 

 音もなく移動したカリヨンはセイバーを抱えたまま凛の前に降り立った。

 

 彼女も眼前の少年が何時の間にそこに現れていたのか知覚することができなかった。まるでコマ落としのように、彼はそこに出現したのだ。

 

 彼がセイバーの身柄を預けようとしているのだとは察せられたが、一拍間の息を押しはさんで、彼女は日本語のままで抗議の声をあげようとした。

 

「あ、あんた、いったいどういうつも――」

 

「遠坂、今はそんな場合じゃない。俺たちにも――やるべきことがある」

 

 それを遮ったのは今まで彼女の腕の中にいたシロウだった。その手が、糸の切れたような人形のようになったセイバーの身体を受け取った。

 

 ぐっと、くぐもった息を呑んで彼女は黙った。士郎の無事を喜ぶより先に、しこりのような感情が浮き上がってくる。

 

 言いたいことは解る。船団は今度こそ壊滅状態だった。確かに冷水に投げ出された人々を救助しなければならない。

 

 だが、それこそ本末転倒だ。最大の脅威であるあの魔剣はいまだ健在なのだから。そんなことをしている暇ではないはずなのだ。しかし、そこで真っ直ぐに彼女たちを見つめたカリヨンが口を開いた。

 

「他の人たちのことは頼みます――後は、僕が何とかするから」

 

 

 

 一方そんなやりとりを、魔剣は芒としたまま呆けたように見つめていた。

 

 そして今その内部を駆け巡り、稲妻のごとく貫いてゆくのはなんなのであろうか。驚愕、衝撃、思いもよらぬ事態。予期せぬ狼藉。魔剣はその金の眦を見開く。

 

 それは、よもや挑発だとでも言うのだろうか? ヤツは、あの餓鬼は、いま、この絶対強者から眼を、――否、意識を逸らしたのだ。

 

 追い詰められた獲物が、捕食者から眼を離す。不可解! 何時如何なる時であろうとも、追い詰められた獲物はただ怯え、震えながら捕食者の牙を待つことしかできないはず! 

 

 その瞬間まで、捕食者から眼を離すことなどあるはずがないのだ。その強者の瞳から、弱者は逃れられぬ筈ではないのか!

 

 ――にもかかわらず、ヤツは今、そうする必要がないとでもいうかのように、眼を逸らして素通りしたのだ。

 

 魔剣の総身を瘧のような震えが襲う。驚愕が、じわじわと、まるで足許から虫が這い上がってくるかのように、遅れて感覚を逆撫でした。

 

 狂気にも似た怒りが炸裂して、奇声が夜に一筋の軌跡を描く。

 

 一キロメートルもの距離を秒の暇すら置かずに奔った金の剣閃が空を切った。

 

 同時に爆ぜるように跳躍し、踊りかかっっていた筈の魔剣をしかし、豪速の流星が叩き落した。

 

 それを確かな視界に捕らえていた者は、その場には一人も居なかった。

 

 あらぬ角度から海中に叩き込まれそうになった魔剣は、寸でのところでそれを免れ咄嗟に敵の姿を探した。

 

「――――ッッッ、いない! どこにッ、」

 

「変えようか……」

 

 声は、またも背後から聞こえてきた。魔剣はまるっきり、少年の動きについていけていないのだ。

 

 速い! 速すぎる! これではあの男よりも遥かに速いではないか、たかがコピーが、オリジナルよりも高い能力を持っているというのか!?

 

「……場所を。ここは、邪魔が多い」

 

 驚愕と憤怒に歯の根も合わない魔剣に、少年は落ち着き払った声で語り掛けた。

 

「――――まるで別人だな」

 

 ここで、魔剣は眼を眇め、声の調子を上げた。言葉にならぬほどの屈辱に、逆に沸騰しかかった思考は機械的に冷却された。

 

「『以前の僕とは違う』とでも言いたげだな、餓鬼め」

 

「……」

 

「……そうか、欠片を持つだけではなく、取り込んで己の力としたか」

 

 再び、魔剣がその花のような口唇から牙を剥きだした。

 

「並んだつもりか、至高の存在となったこの私と!」

 

 無言、黙殺、無反応。何ひとつ応えぬまま、語らぬままに、少年は走り出した。

 

「――――ッッッッッッ!!」

 

 声にならぬ憤怒を大気に播いて、魔剣がそれを追う。

 

 凛と士郎はその光景を見送っていた。しかし濡れた黒髪を白い頬に貼り付けたまま、少女は俯き唇を噛んでいた。やはり理解は出来ない。あの少年に何かが出来るとは到底思えないのだ。

 

「考えても、仕方がないだろ。こうなったら、任せるしかない。それより、今はセイバーを……」

 

 士郎が彼女の頬に触れ、張り付いていた髪を解いた。凍えた指先がしかし冷え切った頬に、微かに温かかった。しかし指はすぐに離れてしまった。それを追おうとした手が止まる。

 

 凛は視線を逸らした。彼の腕の中にいるセイバーが見えたのだ。彼女を気遣わなければならないのだが、眼前の両者の間には入り込む隙間がないように思え、不意に差し出した手を引いたのだ。

 

 こんな時まで何を考えているのだ、自分は。そんな戒めの言葉もしかしむなしく胸の伽藍を空回りする。

 

 だが、その思いゆえに空を惑ったその手を、強く握り締めたのは他ならぬ士郎の手であった。

 

「――ちょ、士郎――」

 

 そのまま崩れ落ちそうになる彼とその腕の中のセイバーを凛は咄嗟に支えた。

 

「……悪い。無理してみたけど、限界みたいだ」

 

 そう言って疲労と痛みに染む顔に笑みを浮かべながら、彼は身体を預けてくれた。

 

「――仕方ないわね。あんたたち二人だけじゃ、危なっかしくて見らんないわ」

 

 いつもの彼女らしく、その顔には不敵な笑顔が強い意志の籠る瞳が煌めいていた。

 

「そりゃ、そうだろ。今までもそうだった。きっと、これからもそうなんだ」

 

「これからも、か……」 

 

「そうだろ? 何時だって頼りにしてるよ。遠坂のことは」

 

 やはりここはまた憤慨するべきところなのではないかと思ったが、預けられた二人の体が温かく、引き離すのが億劫だった。しばしの間だが、こうしているより他ないだろう。

 

「ほんと、仕方ないわね。それに、こういうときはもうちょっと気の利いたこといいさないよ……」

 

 その時、二人は彼方に奔った光線の乱舞を見止め、息を呑んだ。

 

 

 

 

 戦場は何もない、ただ黒の漆黒が一面を埋め尽くす海と空との境に移る。

 

 そこに二つの金のヴィジョンが躍り出た。巻き起こった光の粒子が今しがた切り刻まれ、穿たれた波濤の飛沫の白さを闇の間から暴き出した。

 

 カリヨンはひとつの疾風となって暗い海上を馳せる。その姿は闇に紛れて目視も叶わない。ただ、その後に刻まれる白々とした波飛沫だけがその存在を教えているのだ。金の光が暗い夜に白の波の筋をさめざめと暴き出している。

 

 そこで、金色の魔剣は在りうべからざる事実に驚愕していた。

 

『――追いつけない!? 馬鹿な。――いや、そもそもどうやって、ただの人間でしかないヤツが海上を走っているのだ?』

 

 思えば先程もそうだ。瓦礫から瓦礫に飛び移ったにしては水上を移動した速度が滑らか過ぎると感じられた。

 

 セイバーが水上を歩けるのは、彼女自身が湖の乙女の祝福を得ているがゆえの、いわば後天的な奇跡の賜物。生来からの機能的異能をコピーすることしかできないはずのヤツがその効果を受けられる筈がないのだ。

 

 では――どうやって…………ッ!

 

 魔剣は背後から、白い水飛沫を上げ続けるカリヨンの足許を注視した。そして、ようやく、そのカラクリ――――と呼ぶまでもないその理を知って唖然とした。

 

 そも、水という物質はそれに触れようとする物体に対して常にそれらをやさしく包み込んでくれるような優しげなものではない。

 

 例えば人間が高速で、具体的に言うならたった時速八十キロ程度で水面に激突する際、この水という物質は、まるでコンクリートのような硬さに感じられ、事実それと変わらぬ破壊を人体にもたらすのだという。

 

 そして、今この暗い水面に叩きつけられている少年の爪先はそれとは比較ならないほどの速度で、この暗い海を叩いているのだ。つまり、彼が高速で疾走することをやめない限り、彼にとってこの一面の海原はスケートリンクなどよりも遥かに硬く頑丈な足場に他ならないのだ。

 

『魔剣――』

 

 その出鱈目さに、殊更に侮蔑を感じた魔剣は追いつけない敵に対してついに直接的な攻撃を仕掛ける。

 

 海面を覆いつくさんばかりの広大な金の繊刃が、縦横無尽に奔って先を行く流星のような小さな光を捉えようとする。

 

 呪いの言霊は、すでに声として空気を伝うのではなく、爛れる呪詛となって世界を震わせ万物にその魔技の発動を伝える。

 

『――雹!』

 

 迫り来る千の刃が背後から少年の身体を取り巻いた。しかし、直進していた疾走の軌跡が、矢庭に歪んだ――――――否、そうではない。

 

 その軌道はまるで踊るかのような滑らかな曲線を描き、魔剣の眼を欺いて背後に回りこんでいく。――当たらない。叩き付ける旋風の如き死線の刺突がこの脆弱なだけのただの子供に、掠りもしない。

 

「――ッ!」

 

 魔剣はその少年の顔をみてさらに凝然と眦を開いた。切り裂かれた暗夜の残滓が旋風となって少年の頬を撫で、その長い前髪を跳ね上げた。

 

 少年は眼を閉じている。眼を閉じたまま、豪雨の如く降り注ぐ死出の光を躱しつづけているのだ。

 

 魔剣は、もはやうめき声を上げることさえできない。これほどの屈辱は、神代より続く久遠の記憶においても経験していない。

 

 

 カリヨン自身も驚いていた。各種の異能が、冴えに冴え渡っている。

 

 今選択された異能は「直感」。言うまでもなくセイバーの持つ虎の子の超感覚である。もはや未来予知にさえ等しいとさえ言われるその能力を、まったく損なうことなく、今のカリヨンは発揮しているのである。

 

 いくら刃の数を増やしても、今の彼に攻撃を当てる程の至難事はあるまい。

 

 

 唯の力押しの攻撃では、あの敵を――そう、すでにあれは敵として認識せざるを得ない――を捉えられぬと確信した魔剣はすでに一度突き出され、投げ出された数千もの槍を、引き戻すことなく、その穂先を矢庭に絡め始めた。

 

 金枝の糸が、まるで境目すらわからぬこの漆黒の空と海に、精緻な幾何学模様の綾取りを始めていた。

 

『魔剣――網』

 

 いつの間にか、それは黒の虚空にあったカリヨンをすっぽりと覆うようなかたちで煌めいた。

 

『――籠――』

 

 カリヨンが敵の意図を察した刹那、その丸い金の鞠が収縮を始める。

 

 当然、網の目は詰り、逃げ出せるような隙間はなくなっていく。さらに網の目はいつの間にか糸ではなく、凄まじく強靭な金色の綱として径を増していた。しかも、それはさらに密度を増していく。

 

 そして、綱という形容が意味を違え始めたころ、それは――

 

『――――――檻!』

 

 糸は綱となり、さらに密度を増していつしか強固な鉄格子へと姿を変えたのだ。そのころには、金の鉄格子はカリヨンが身動きすら出来ないほどに収縮し、その自由を言葉どおり奪っていた。

 

「――ぐ、うッ」

 

 凄まじい圧力がカリヨンを襲う。苦しげな呻きを洩らしながら、カリヨンは格子の隙間から、ニ色の視線が嗜虐の愉悦に燃えるのを見た。

 

 敵をその手中に収めた魔剣はその檻の上に、幾重にもたおやかな金糸の指を重ね、編み重ねていく。

 

『――棺ッ!!』

 

 そしてぐしゃり。と、何かが潰されるような音が、暗い空間に響いた。

 

 音が意を得たかのように何もない虚空を走り回り、波頭の間に入り込むのを、圧殺の手ごたえと共に魔剣は感じていた。

 

 それほどに、魅力的な音だと想われた。

 

 どんな楽曲よりも歌よりも短く的確な破壊と絶命の旋律。聞きほれるような音色を反芻するように、魔剣はその煌びやかな双瞳をそっと伏せた。

 

 しかし不意に、予期せぬ音が、鼓膜を打った。

 

 見開いた双瞳に飛び込んできたのは、握り締めたはずの掌の間から漏れる、見覚えのある極光の炸裂だった。

 

 「――こ」れは、といい終えるより先に、光は金の棺を両断し、海を割り、空を裂き、夜を分けて世界を切り裂いた。

 

 間違いない! 海中に叩き込まれ、エーテルによる魂の触手とでも言うべき糸を裁断される霊的苦痛に身を捩りながら、魔剣はそれを確信していた。

 

 あれは間違いなく騎士王の聖剣が放つ閃光の刃。なぜだ、何故そんなことが出来る? ――

 

 

 光縛から逃れ、海面に没したカリヨンはゆっくりと水をかきながら肩で息をした。

 

 右手の黄金の剣を見つめる。紙ほどの重さも感じず、沈みもしなかったそれは、すぐに砕けて塵となってしまった。複写が不完全だっただけではない。統合されたサーヴァント三体分の力に模倣された聖剣のほうが耐え切れなかっただけの話であった。

 

 カリヨンの身体もまた、喩えようのない苦痛に見舞われていた。一気に無理をしすぎたのだ。

 

 この異能『投影』。下手に濫用すれば自壊を招きかねない能力であった。それだけではない、欠片のバックアップがあるとはいえ、各種の異能をこれほど短時間に連続、複合して使用することは身を滅ぼしかねない暴挙だった。

 

 ――それでも。と、少年は思うのだ。

 

 その口角には確かな笑みがこぼれている。今彼の身体を駆け巡るのは「歓喜」であった。

 

 彼は取り戻していたのだ 子供のころ常に感じていた、そしていつの間にか失ってしまっていた、揺るぎない感覚が体中を覆い尽くしていた。

 

 あのころと同じだ。出来ないことなど無いのだと、いま、彼の全身がその事実を祝福している。対峙する世界と己とが寸分違わず等しかったあのころ――。

 

「あのとき――約束したね。テフェリー」

 

 呟く。何の理由もなく自己を誇れたあの日の勇気を。幼き日に無くしてしまったと思っていた。あのときの気持ちを。世界とは自分のものであり、この限りある世界の中で自分だけは自由自在な存在なのだと信じて疑わなかった少年の瞳。

 

 それを取り戻したとき、世界は開け眼前に広がるのは、

 

 

 無限の世界だった。

 

 

 ――ああ、そうか。世界とはこんなにも広かったのか。

 

 目を閉じてみる。これほどまでに心が軽いのなら、きっと空だって飛べるだろう。

 

 今の自分はあの時と同じだ。なんにでも成れるしなんでも出来る。

 

 ――なら、まずは約束を守れる自分になろう。そうだ、これでやっと、――

 

「――君を、助けられる!」

 

 そのとき、はるか彼方の海面が光の噴火に見舞われた。海中に没した筈の魔剣が宙空に躍り出たのだ。己の四肢を断ち傷つけた敵に対して、もはや抑え切れんとばかりに力任せの金色の鉄槌が打ち放たれた。

 

 到達まで猶予はない。負荷など考えている暇はない。そしてそんな暇などいらないッ!

 

「――――守るよ。あの日の約束を!」

 

 カリヨンは動かない。ただ、自己の中にのみ意識を集中する。『過加速』された思考が、集束され、己の中に在るエネルギーに形を与えるのだ。それだけで、いい。

 

「絶対に君を連れて行く――もう、離したりはしない!」

 

 すでに呟きは叫び声を超えて宣言となっていた。

 

 それは誓いでもあった。

 

 

 

 必要なものは、総てが我が手中に有り――我、今此処に在りて万能と成らん。

 

 

 

 ――――異能(スキル)検索――『投影』同調――使用――武装選択――『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』――同時異能(スキル)検索――『勇猛』同調――効果――精神防御および格闘能力強化。

 

 ――実行。

 

 ――さらに『加速』――継続使用。

 

 この間、実にコンマ二秒弱。刹那の内に、鉄槌の如き鋼線の束が少年の矮躯に迫る。

 

「はあああああああああッッ!!」

 

『何ッ?』

 

 驚愕の声やさもあらん。矮躯の少年の身に比しては大きすぎる刀剣。それがいつの間にか両の手の中に現れ、魔剣の鉄槌を打ち返したのだ。

 

 信じられぬとばかりにその二色の双瞳を見開いた魔剣は、さらなる攻勢に打って出る。

 

『魔剣――雹!』

 

 しかし、それでも縦横無尽に空間を奔った閃線の束は少年の五体を掠めもしない。

 

『投影』――再使用――重複投影――『沸血装甲(マーズ・エッジ)』――効果――各種武装換装――。

 

 抜き打たれた刀身が、まるで細雪(ささめ雪)の如く崩れ、舞った。迫る幾千の死の刺突を、幾万にも細分化された針の如き刀身が迎え撃つ。さらに変化した刀身は閃光となって魔剣を襲う。

 

『な――』

 

 空が、染まった。分化され四散した刃片がそれぞれにエクスカリバーと同様の閃光の帯と化したのだ。まるで縦横無尽に吹き荒れる重爆機雷の大嵐である。

 

 無論、逃げ場などあろうはずもない。炸裂した閃光の刃が魔剣の糸を粉砕し、寸断していく。

 

 己が霊的五体を切り刻まれる衝撃に苦悶を漏らしながら、魔剣は咄嗟に空中に高く飛び上がった。咄嗟の、思考に寄らぬ回避行動であった。――しかし魔剣がそれを恥辱と認識するよりも速く、更なる閃光がその後を追う。追い立てる。

 

『な――に?』

 

 カリヨンは柄だけになった剣を両手に執っている。其処から白亜の翼のごとき枝刃が繁茂し、羽を広げるかのように伸ばされたそれは二振りの剣の刀身となった。

 

 それ即ち、神与の翼の模倣に他ならない。

 

『能力追加投影――鋳造されし不和の双翼(プテロ・エリス)

 

 効果――反重力。斥力発生。浮遊。上昇。即ち――飛翔。

 

 一方の剣を海面に打ち打ちつけ、神与の反発力を我が物とした少年は遥か暗い天空に舞い上がる。

 

 それは彼の獲得した数々の異能のみによってなされているのではない。彼はいまや英霊たちの宝具に蓄積した経験値から最善の行動を読みとっていたのだ。それほどまでに今彼の異能は脅威的なポテンシャルを解き放ち始めていた。

 

 

 空中で追い立てられることを良しとしない魔剣は「堪らじッ!」とばかりにまたもや突き放すかのような千の刺突を繰り出す。

 

 反応は五感に先んじて、加速された思考を置き去りにして、高揚する意識を更なる高みへと牽引していく。

 

 異能検索。「過加速+直感」――瞬間、カリヨンの体感速度が幾億万倍にまで圧縮され、流星群のごとき稲妻の槍衾を、まるで静寂の中にたたずむ彫像の如く捉える。

 

 加えて、人ならざる直感が、未来予知に等しいルートを導き出す。当たらない。土砂降りの雨の如く打ちつけてくる刃の群を、目にも留まらぬ豪速でかわしながら天へ向けて奔る。駆ける。昇る!

 

 今や彼は完全にスピードで魔剣を圧倒していた。間違いない。魔剣はその事実を、ようやく現実として認識する。せざるを得ないところまで詰め寄られる。

 

 その精度はもはやオリジナルの比ではない。彼は今や複写したそれぞれの異能を何倍にも増幅して身につけていたのだ。

 

 故に、魔剣は全方位に糸を展開させてそれに処するしかなった。移動速度の差はそれほどに如実だったのだ。

 

 とはいえ、いくら速かろうとも、彼我の自力には雲泥の差がある。まさか不用意に飛び込んでは――――

 

 ――――否、しかし少年はそんな敵の思考を両断して唾棄するかのように、彗星のような一直線の筋を描いて魔剣に向けて直進してきた。

 

 

 予感は的中した。もう止まらない。カリヨン自身が驚いていた。まるで全身の毛穴から、無尽蔵のエネルギーが溢れてくるようだった。

 

 今や、その金色のヴィジョンが、それまでもてあますだけだったはずの力が、今や漏らさず集約されて彼の小さな背中を後押ししているのだ。

 

 信じられないほどの力だった。とても抑えきれない。そして、抑える必要などないのだ。

 

 それは運命を変えてしまうほどのエネルギーであり、自分の人生の流れすらかえてしまう 灼熱の鼓動でもあったのだ。

 

 それは自分の人生を、運命を、未来を 自分の力で変えるということ。

 

 少年は、今それを言葉ではなく実感として確信したのだ。

 

 それが力となる。人が己の総てを肯定出来たとき、世界は如何様にもその姿を変革するのだ。

 

 運命という人智の及ばぬ領域を流れる奔流すら捻じ曲げてしまう力。人間が持つエネルギーの中でもっとも強力な力の源泉。

 

 それは真の孤立から生まれる。他者に、社会に、運命に、さえ寄りかかることをやめた人間だけが持つ、己の足で地を踏みしめることで始めて獲得される生き方だ。

 

 

『調子に――乗るな!』

 

 一直線に向かってきたカリヨンに、切歯しながらも魔剣は狡猾な罠をはる。

 

『魔剣――詩』

 

 多方に展開された無数の音絃が共鳴し鳴り響く。そして集束された超音波が有効範囲内のあらゆる物質を粉砕する。音の破砕槌とでも言うべきものだ。

 

 魔剣に向けて直進するだけだったカリヨンはそれを真正面から受けることとなり海に叩きつけられた。加えて撃ち放たれる音刃の連射連撃、カリヨンは海原に大穴を穿たんばかりの衝撃にさらされる。

 

 しかし魔剣はこんどこそ抜き差しならない驚愕に眼を見開いた。

 

「ば――か、な……」

 

 至高の存在となったはずの己が全力で仕留めに行ったというのに、あの少年は平然と海面から飛び出してきたではないか。

 

 やはりこの、ただの劣化コピー能力しかないと思っていた少年の能力が、まさかこのほどの複合能力――模倣した複数の異能を複合編集させ、新しい能力を生み出すとは――。

 

 

 今度は先ほどとは一転してカリヨンが魔剣の姿を追う展開となった。それまで海面すれすれの波飛沫を舐めるようにして黒いタールのような海面に粘りついていた魔剣は、不意に翅を縮め、一変、一筋の矢のごとき姿となって空に舞い上がり、厚い雲の裏に姿を隠した。

 

「どこに――」

 

 カリヨンは空を仰ぎ、目で光の残滓を追った。

 

 魔剣が回り込んだ巨大な暗雲の一角に金の光が翳った。

 

 カリヨンは咄嗟に白亜の大剣を海面に叩きつけ、そこに向けて飛翔した。

 

 夜を蹴って踏み込み、身を反転させて右手の剣をそこに向けて振るう。先ほどの拡散閃光剣と同様に、裂けた刀身がそれぞれに極光の機雷となって拡散し、厚い雲から透けて見える月の光を呑んで空を染め上げた。

 

 雲は一気に払われ、月光に煌めく水母の裾のような金の衣片を焼き焦がした――が、そこにあったのは切り離されたエーテルの天衣だけであった。

 

 電光の炸裂に焼かれたそれは光量を減らし、見る見るうちに大気中に飛散した。

 

 瞬間、完全な死角から、金濁色の殺気が閃いた。咄嗟に振り返ったカリヨンに金の糸で編みこまれた剣が迫る。

 

『魔剣――刃ッ!』

 

 四肢を刃として形成した魔剣は遠距離からの攻撃を止め、至近距離からの直接攻撃へと切り替えていたのだ。そうしなければならないほど、両者の間にはスピードの差があった。

 

 とはいえ、敵は百戦錬磨、経験値の塊とさえ証して差し支えない剣の悪鬼である。その剣戟の技量差は速度で優位に立ったくらいで覆るものではない。縦横無尽に繰り出される刃の嵐を、少年は新たに両の手に執った剣で防ぐ。

 

 右手の大剣を盾として、左手の短剣を駆使して捌く。対して魔剣の刃が押す、押す、押す。剣戟の正確さと刃の数によって徐々に少年を押し込めていく。

 

 左手の剣が飛ばされる。右の長剣を両手に構え、カリヨンはさらに後退する。見舞われる剣舞の嵐はたとえサーヴァントでもあっても裁ききれるものではないだろう。それほどに常軌を逸した剛力、速度、剣技、魔力、そして掛引きであった。

 

 ――が、終わらない。沈まない。途切れない。魔剣の猛攻が潰えない。

 

 それほどに刃を繰り出そうとも、この少年は屈服しなかった。その身体を血に染めながらも、このただの少年が必死に持ちこたえているのだ。

 

 なぜだ? 何故こんな柔な子供の身体を両断できない?

 

 おかしい、僅かにとはいえ、刃は確かに当たっているのだ。――魔剣の二色の双眸が今度こそ驚愕に見開かれる。

 

 見よ! 彼の肌下に形成された怪異なる外殻を。先ほどからのこの少年の異常な耐久性を訝っていた魔剣だが、それはこの異能のせいだったのだ。

 

 これは確かにサンガールの紅一点、ベアトリーチェの異能ではないかッ!

 

 こやつ、能力を表層化させる以前から兄弟たちの異能を無意識的に写し取っていたのか! ならばこいつは欠片の所有者七人の全異能を己が身に秘めているというのか。

 

 セルゲイの加速能力 

 

 ベアトリーチェの荊体調律 

 

 ゲイリッドの加重圧発生 

 

 オロシャの人格創造 

 

 鞘の撹乱雑音

 

 そしてテフェリーの――いや、それだけではない。直感、勇猛、そして英霊の宝具を複製する不可解な能力まで、今、彼の体には彼が体感した英霊や異能者たちの息吹が息づいているのだ。

 

 少年の右手に執った長剣が、不意にひらめき、魔剣の四刃を一刀のうちに挫いた。

 

「――――ヒッ」

 

 死に体を余儀なくされた魔剣は後退を余儀なくされ、盛大に距離をとった。

 

 こやつ――ッ、今この瞬間にも成長し続けている。その法外の魔力を元に、彼の異能は尋常でないほどに開花し続けているのだ。

 

 魔剣は、戦慄と同時に確信する。こいつが、この少年こそが最高傑作。

 

 間違いない。これまではテフェリーのもつ異能そこがこの新たなる魔剣の器に相応しいものだと考えていた。今まで作り出した異能者の中で最も高い適正を示したのがテフェリーの持つ異能、『受容』の異能である。

 

 異能とは通常、一個人の都合で外界に一種の歪を作り出し、その常なる理を捻じ曲げる力であるといえる。

 

 しかしこのテフェリーの異能は外界に変化をもたらすのではなく、何らかの要因によって外界に生じた捻れ、異常に対して、順応して見せる能力である。

 

 外界のいかなる変化にも対応してその生命活動を維持できるため、壊滅的な威力とは無縁だが、強大な入れ物、即ちいかなる魔的改造にも対応できる素体として、この上ない適正を持っていた。

 

 この異能のおかげで彼女の身体は常人ではおよそ不可能な魔的改造にさえ順応し、さらには四体ものサーヴァントの力を取り入れ、魔剣という強大な魔の入れ物となることを可能としているのだ。

 

 しかしそれよりもさらに最良の器が、素体がここにあったのだ。あらゆる外界の変化、変動を許容して順応するのがテフェリーの異能なら、カリヨンの異能は外界からの刺激に柔軟に反応し、それを取り込み模倣し続けることで自己進化を重ね、より高いレベルの異能を作り出すというものなのだ。

 

 彼の体には、すでにテフェリーの異能である『受容』の機能さえ取り込まれているはずだ。

 

 

 凄まじい能力、異能だ。すばらしい。――――欲しい!! と、なれば……。

 

 

 剣戟の猛攻は続く。再び攻勢に立った魔剣が繰り出す剣戟は勢いを増すばかりだ。

 

 しかし、少年は怯まない、痛みにも恐れにも、決して屈することはない。その瞳にその煌めきに、その克己の意志が宿っている。皮を裂かれ、肉をそぎ落とされても、その眼光は怯まない。

 

 その傷もすぐに修復される。やはり、三体ものサーヴァントを取り込んだ異能者の再生力は生半可な攻撃では意味がない。そして、互いの身体を必要以上に傷つけたくないのは同じだ。この勝負、ダメージの応酬では簡単には勝負はつかない。

 

 なれば、どうする? 魔剣は思考する。

 

 これほどまでに増長したこの餓鬼の異能、もはや容易に手に負えるものではない。……いや、落ち着け、いくら強大な力を有そうとも、あれは力を得たただの人間でしかないのだ。

 

 そう、ただの子供だ。強力な武器を手にして意気込んでいるだけの餓鬼に過ぎない。ならば狙うべきは身体ではなく、心。

 

 そうだ、勘違いをしてはならない。奴の「力」は今や英霊をも凌駕するかも知れない、しかし、奴は決して英雄ではないのだ。

 

 ならば、これは精神を折る闘いに他ならない。

 

 認識を早まってはいけない。()()()()()()()()()()()()()

 

 魔剣はここに来て、己の有利を確信する。

 

 

 距離をとる魔剣。動きを止めた魔剣の挙動を好機と取ったか、脇目も振らず直進してくるカリヨン。もはや不羈なる野生の奔馬と化したその心が、戦力の不利を承知した上でそれ以外の選択を許さなかった。  

 

「ぅあああァァァァァァッ!」

 

 少年は再び天空へと飛翔した。同時に虚空からさらに加速し、下方に捉えた魔剣に向かっていく。

 

『馬鹿め――。魔剣――螺!』

 

 虚空に身を投げ出した敵の判断を好機と取ったか、魔剣はスパイラル状に旋転閃く流刃をカリヨンの直進を阻もうとするかのように撃ち放った。

 

 しかしカリヨンは止まらない。その光刃の螺旋を正面から受け止め、そのまま渦の中心を通ってあくまで直線の軌道を維持する。当然擦過する渦の旋剣が少年の身体を切り刻み、分厚く強化されたはずの皮下外骨格すらも粉砕する。

 

 しかし、止まらない。

 

『――ッ、魔剣――雹!』

 

 魔剣は舌を打ち、迫るカリヨンに千の刺突を見舞う。ガトリング砲の如く襲い来る刺突の逆雨。だがカリヨンは殆ど防御もせずにそれに向かって直進していく。総身から血が噴出す。

 

 しかし、カリヨンはそれを意に介さない。旋回行動をとることもない。唯、一直線に魔剣目掛けて突き進んでいく。

 

 手数では止まらない。そう判じた魔剣は手元に残るエーテルの閃糸を一気に凝縮させた。

 

 そしてそれを掲げ上げ、振り下ろす。一切の小細工なし、乾坤一擲の一撃だ。

 

『魔剣――断ッ!!』 

 

 暗い天と海を割り開くような切断波が奔る。だが、それすらも正面から捕らえたカリヨンは投影した大剣ごと、左手をその閃光に叩きつけて閃光の進路を捻じ曲げた。

 

 剣と共に砕け、もはや使いものにならなくなった左手から赤い血潮が噴出し照らされ、虚空に赤い筋を引いた。

 

 それでも、少年は止まらない。

 

 まるでほうき星のように赤い血潮の尾を引いて、奔る。来る。迫る!

 

『す、捨て身のつもりか――!?』

 

 気圧される。気がつけば、魔剣は己で意図するまでもなく海面すれすれまで退がっていた。否、退がらされていた。

 

『し、しまっ――』

 

 瞬間、魔天から見舞われた十数本の剣が魔剣を取り囲むようにして円環状に海面に突き立てられた。と見えた次の瞬間、

 

 それらの剣は暗い天空に向けて巨大な火柱をそれぞれに吹き上げた。

 

 怨敵の慮外の行為に暫し固まっていた魔剣の二色の視界が、その圧倒的な光量によって、ほんの刹那、眩ませられる。

 

 そのとき、突如として魔剣はその身体に不可解な圧力を感じた。それが次第に圧迫感を増していく、すぐにそれは山と海とをまとめて背負わされたような超重圧となって魔剣にのしかかって来た。

 

 考える暇こそあらず、その身を宙空では支えきれなくなった魔剣は咄嗟に海中に逃れようと更なる下方の空間へと逃げ延びようとした。が、それは無為に終わった。その身体は有無を言わさず、海面に繋ぎ止められてしまったのだ。

 

 硬い。海面がまるでざらつく巌のようであった。

 

 凍っている。海面が凝結していたのだ。今の今まで滑らかに波打っていた筈の海が、気づいた時にはすでに広大な氷原と成っているだなどと、どうして予測できよう。

 

 魔剣の黄金の身体は度重なる重圧の波動によって、まるで特大の穿孔機(ボーリング・マシン)に打ち込められるように、次第に強大な氷塊の深奥まで押し込まれていった。

 

「キ、サ、マ――」

 

 氷洞に打ち込まれていく魔剣の貌に驚愕にも増した憤怒が刻まれる。

 

 今しがた敵が投擲した十数本の剣は間違いなく己が前身である黒刃に違いない。その刃が、海を氷結させるほどの熱量を波間から吸い上げ、柄頭から炎柱として空へ打ち上げたのだ。

 

 敵の退路を封じると同時に眼を晦ます、ここに来て趨勢を決する妙手。

 

 それが己が前身の能力を利用してのことだと知った魔剣の心胆、如何ばかりや――。

 

 更なる加重圧。洩らそうとした怨嗟の声までもが口腔からでるより先に押し潰される。

 

 そして、その二色の瞳に、己に向かってくる一筋の流星が見えた。息を呑む魔剣は、しかして意を決し、正面からそれを迎えうける。

 

『――――来い!』

 

 到来した流星が、魔剣の身体をさらに氷海の奥深くに押し込んだ。

 

 

 とうとう、カリヨンは彼女を捕まえた。

 

 

「テフェリー―――――ッッ!!」

 

 血の滴る両手で彼女の両肩を押さえたカリヨンは叫ぶ。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 同時に凄まじい衝撃が今や一個の小島ほどとなった氷塊に幾重もの亀裂を生む。二人の体は直径数キロにも及ぶ巨大な氷塊のほぼ中心部まで到達していた。

 

 カリヨンは叫び続けていた。ありったけの声で、心で、求め続けた。

 

 そして二度と離さないと誓ったものの名を張り裂けるまで叫ぶ。

 

 

 その声が届くと信じて。

 

 

『やはり――な』

 

 虚ろげに不明な、振動止まぬ視界と聴覚でしかしそれをしかと聞きとめた魔剣は悪辣なる確信の笑みを浮かべた。

 

 この器を有しているかぎり、こいつはこの身体を直接切り刻むことは出来ない。奴にはできない。推測は正しかった。

 

 やはり、こいつは英雄にはなれない。そうだ。それがお前の現界だ。今まで縋っていたもの。それを支えに、己が身も省みず、この魔剣に挑んだか。

 

 憐れな餓鬼め、不憫にして愚鈍な凡俗め。貴様ごときでは、わが欠片は宝の持ち腐れにすぎん。

 

「テフェリー、応えて……」

 

 絞り出すような声に、刃のような声が応える。

 

『テフェリーはいない』

 

「テフェリー!」

 

 それでも叫ぼうとした少年の腹部に光り輝く刃が、否、美しすぎる手が突き立てられる。

 

「――――ッ」

 

 カリヨンの下腹部には鮮血が、そして顔には青黒い死と絶望の色が滲んでいく。その首を残った金色の手が捕まえる。

 

『いないんだよ。解かるか?』

 

「テ……フェ…」

 

『ククッ、よもや〝何故〟などと聞いてくれるなよ、坊や』

 

 金の五体から無数の刃が伸び、ゆっくりとカリヨンの身体に突き立てられて行く。致命傷を避けるように、体中を針のような刃が刺し貫く。

 

『哀しいなァ、もう何をしても手遅れなのだよ。カリヨン。憐れだなぁ。想い人はとっくにおまえの敵なのさ』

 

 貫かれた手刃が腹腔内で抉られる。更なる加虐。各種の異能を持っても緩和しかねる苦痛に、くぐもった声を漏らす少年。さらに、魔剣は編み上げられた金の指先で己の頭を指し示す。

 

『ここにあるのは残骸だ。もうお前のテフェリーではない。せっかく勇気を奮い起こしたのになァ。残念だったなァ。だが、もういない。テフェリーはこの世界の何処にもいないんだよ』

 

「テ、……フェ、リー」

 

 それでも呼ぶのをやめない少年に、魔剣は垂涎ものの喜悦を浮かべて、嘲笑う。

 

『無駄だ。テフェリーはこの器の中にはもう居ない。()()()()()()()()()()()のだからな』

 

「――――ッ」

 

 叫ぶ声を失い、言葉に詰ったカリヨンに、付け入るように刃の擦れあうような音がギシギシと響く。しかしそれは不意に懐かしい、聞き覚えのある凛とした硬質の声音を装った。

 

「何を聞きたい? 何が、何故、何のために? 無駄だ、それは無駄な言葉なのだよ。口にすることすら無駄な、戯言だ。過去に捕らわれる愚か者の言葉だ。君は違うんじゃあないのか カリヨン。君は過去に捕らわれる愚者ではないのだろう。サヤは、そういっていたよなぁ」

 

 魔剣は語る。饒舌に。想い人の、美しい声で、思い出を、語る。まるで、抉るように。

 

「殺せるぞ」 

 

 見上げて来る。蔑むような笑い顔。そこに、想い人の面影はない。

 

「良いだろう、殺せ。或いはそれがこの娘にとっての最後の福音であろうとも!」

 

「――――」

 

 少年の動きが止まる。先ほどまで、あれほどの電光石火だった五体が、そして声さえもが、凍りついたように動きを止めていた。

 

 それは考えねばならないことだった。ここに来る意を決したならばそのときに、救う方法に行き当たらなければならかった。それがこの少年には及びもつかなかった。

 

「さぁ、殺せ」

 

 いいや、殺せない。

 

「殺してみろ」

 

 お前には無理だ。

 

「どうした、殺すんだ。それだけがお前に出来る総てだ」

 

 なぜなら、

 

「心臓を抉り出せ、この娘を殺してみろ! とっくに抜け殻なのだ。オルゴールから歯車を抜くことと何ら変わらない!」

 

 お前が〝ただの人間〟だからだ。

 

『さぁ、コロセェェェェェッ!!!』

 

 魔剣の狂ったような嬌声が響き渡る。お前は英雄でも勇者でもなんでもない、ただのガキだからだ。取るに足らない人間だからだ。そう、少年の絶望を謳い上げながら。

 

「――――」

 

 カリヨンの体から力が抜ける。僅かな希望が縋っていた光が、まるで冷えた飴細工のように、その流動を断たれ、固まって、いつしか、自重にたえきれなくなり――――

 

 ――折れるッ! ――

 

 二色の瞳が悪露のような狂喜に染まっていく。さあ、聞かせてみろ、その膝とともに、心の折れる音を聞かせてみろ。それが、お前の最後だ!

 

『できぬか? それがお前の限界だ。お前はただの餓鬼だ。英雄になどなれはしない!』

 

 

 しかし、そのとき閃光が、魔剣を見据えた。

 

 

「――それでいい」

 

 魔剣の両肩をつかんでいた腕にまた渾身の力が満ちていく。

 

 彼は折れてなどいなかった。

 

「僕は――英雄でも、勇者でも、魔術師の当主でもない。でも、それでいいんだ。僕は僕が望む僕になるだけでいいッ!」

 

 その両眼から溢れる閃光が魔剣の二色の瞳を捉える。

 

 ばらばらになっているというのなら、またかき集めてやる! 分解されて深層意識の中に埋もれてしまった彼女を、もう一度再構築するまで!

 

 今カリヨンの瞳から迸り出す眼光は、オロシャから複写したあの人格創造能力だ。

 

 この異能は普段使われていない潜在意識に介入し 心の内面から別の人格を作り出すというものである。魔剣はようやくその意図を察したが、すでに視線を逸らすことができなくなっていた。

 

 その蒼き眼光のなんという吸引力であろうか。あのサンガールの次兄、オロシャの灰色の眼光とはもはや比較にならぬ深度で、強制力でその光は「彼女」の内部に浸透していく。 

 

『バ――――カな!』

 

 カリヨン自身、確証などありはしなかった。出来るかどうかなど考えもしなかった。

 

 ただ、決めていた。何があろうとも、決して諦めることだけはすまいと。テフェリーを諦めないのだと。ただ、その一念でその瞳に尋常ならざる力を込める。

 

「僕が望む僕は、僕がこう在りたいと願った僕は、絶対にテフェリーを諦めたりしない!」

 

 そして、呼び掛け続ける。その声に、ただの空気に振動であるはずのそれに、凄まじいまでの言霊が宿る。

 

 元はキャスターの持つ固有スキルであった「呪歌」である。それは今やカリヨンの中で強化され、あらゆるプロテクトを突破して直接万物に意味を叩き込む概念の運び手(ベクター)となったのだ。

 

「テフェリーッ!」

 

 声は、その眼光から発せられる閃光と共に、魔剣の中に侵入していく。まるで、魔王の城の深くに捕らわれた妖精の姫君を捕らえようとするかのように。

 

『ム……ダ、だ。何を、しても……』

 

「テフェリー!」

 

 呼び掛ける。

 

『もう、帰ってはこないッ』

 

「テフェリーィィィィイイイイイイッ!!」

 

 呼び続ける。そこに、恐怖に屈服した少年の顔はなかった。

 

 勇気――それは運命を変える力だ。己の行く先を、己の力で変えた瞬間に掴むものだ。力ずくで捻じ曲げた己の運命。それはもう誰のものでのない。自分のための自分の選択が左右する誰のものでもない。だれもが獲得しえる、何よりも尊いものだ。

 

 自分の人生を自分が背負うのだという実感と確信。己の運命と身体を始めて自分の足だけで支えた瞬間、少年は初めて男になるのだ。

 

 自分の命、生活、人生、目的、指針、価値観。そんなものを他人に預けたままで生きることに決別を果たした少年は、始めて彼を包む世界を直視したのだ。

 

 真蒼の眼光が銀の髪間からのぞく。――蒼い光。その真蒼の眼光に知らず、魔剣は気圧された。動けなかった。これはなんだ? これがあの出来損ないの少年だというのか?

 

 そう、この少年の瞳は目も醒めるような青だ。この魔剣はそれを始めて知った。それはこの少年が始めてこの魔剣を正面から見据えたからだ。

 

 今まで、少年はダレの目も真っ直ぐに見ようとしていなかったのだ。長い前髪の奥で、いつも不安げに伏せられていた瞳は、今真っ直ぐに己の運命と世界の総てのものを強く見据えている。

 

 この少年の、取るに足らない子供の瞳がなぜこんなにも深い! 魔剣の内に、その内容に不可思議なものが奔り抜ける。なぜ、なぜ気圧される! 動揺す(ゆれ)るのだ。

 

 そうかッ! この素体(テフェリー)の記憶に、この男の眼光が記憶されている。この女はこの瞳を知っている。それが足掛かりに――

 

「聞こえる? テフェリー」

 

 カリヨンは瞳を閉じ、かまわず語りかける。

 

「あの日、僕は君を助けられなかった。君が僕を助けてくれたんだ」

 

 硬直する身体を抱いて、ゆっくりと語りかける。

 

「ありがとうテフェリー。だから、僕も約束を守るよ」

 

 抱きしめ、語りかける。あの時のように、今度はテフェリーを安心させてあげるために。震える身体を優しく、しっかりと抱きとめる。

 

「今度は、僕が君を助ける番だ」

 

 

 

 

 ――暖かくて、柔らかくて、とても優しい所に私はいた。

 

 何でもいうことを訊いてくれるお父さん。いつも私を見ていてくれる。ずっと側にいてくれるお母さん。

 

 私達は日の当たる庭で遊んでいる。何時までも変わらない優しい光景が私を包んでくれている。

 

 とても安心できる。

 

 私はお父さんの膝でお昼寝をして、お母さんの作ってくれたおやつのにおいでとびおきる。

 

 すると背の高いおじいちゃんがお土産を持って来てくれた。ケーキだ。お母さんの焼いてくれたクッキーとどっちがいいか私は迷ってしまう。

 

 両方食べたいというと、お母さんはだめだと言う。だから私はおじいちゃんに抱きついて、お父さんにおねだりする。

 

 私はしっているのだ。お父さんもおじいちゃんも私がこうすると、絶対に駄目とは言わないのだ。

 

 結局、みんなで庭でお茶を飲んだ。暖かい日差しがシロップのようにケーキに降り注いで、ケーキもクッキーもおいしくて仕方がない。

 

 私はケーキを口いっぱいにほうばって、お母さんに怒られながらおじいちゃんとお父さんの膝の上を行ったりきたりする。みんなが笑っている。楽しくて嬉しくてしょうがない。

 

 ――ここはとても優しいところ。じめじめとしたくらい地下じゃあない。日差しの当たる明るい庭で、お母さんと一緒にキャンバスに絵を描いている。

 

 みんなが私を褒めてくれる。暖かな陽の光も、風にそよぐ蝶たちも、足元に息づく草花もみんなが優しい。

 

 私は嬉しくなってみんなをキャンバスに描き出す。自由に動く指、水の冷たさを感じる爪先、私にはちゃんと手足がある。

 

 偽者じゃない。

 

 みんなと同じ本物の手足。だからお母さんにも抱きつける。触れる。触れられる。お母さんが一番好き。温かくて柔らかくて、大好き。それが嬉しくて、離れたくなくて、何度も何度もお母さんを抱きしめる。

 

 これがホントだって確かめるみたいに何回も、何回も。

 

 ずっと、こうしたかった。ずっと、こんな所に来たかった。もうあんなところには戻りたくなかった。

 

 

 そこには「終わり」もなかった。永遠であり、永久であり、そして久遠であった。永い、闇の中。

 

 暗い、絶望という名の護りの膜の中に私はいる。それは「胞衣(えな)」に、ひどく似ていた。暗いけどひどく生暖かくて安心する。

 

 

 もう何も考える必要はない。もう外に出る必要はない。ずっとここに居ればいいのだ。

 

 

 もう、いい。私はずうっと、ここにいるのだ。そのほうがいい。おそとにはこわいものがたくさんある。

 

 恐くて、暗くて、冷たくて、なにもいいことなんてなかった。外にはお母さんもお父さんもいない。おじいちゃんも何処かへ行ってしまう。それに、私には手足すらない。誰も――私をあいしてくれない。

 

 外は暗くて、冷たくて、こわいところだ。もう、あそこには行きたくない。

 

 もう、あそこには戻りたくない。あんなところには戻りたくない。

 

 

 でも私をここから引っ張り出そうとする人が居る。

 

 

 どうして?

 

 暗い、暖かな衣を裂くように光が這入ってくる。抵抗できない私を光が犯していく。

 

 私はていこうした。

 

 やめて、やめて、やめて。

 

 もういや、お外は恐いものがたくさんあるの。だから、私はもうここから出たくない。

 

「――――。」

 

 そう言って蹲った私に、何かが響いてきた。

 

 それは声だった。

 

 優しい、声が聞こえた。

 

 誰の声だろう? お父さんでも、お母さんでもおじいちゃんでもない。

 

 けれど、確か、それと同じくらい大事な筈の人の声。誰だろう。そんな人が私にいたのだろうか。

 

 不意に蒼い光から暖かい手が伸びてきて、私の手を取った。

 

 私は全身を強張らせて首を振った。それでもその人は私の手を引こうとする。

 

 やめて、どうせ、それも偽者の腕なんだから。私の腕がこんなに綺麗な筈がないもの。きっと血や泥で汚れて、薄汚れているに違いない。

 

 だから、無理に引けば取れてしまうのよ?

 

 でも彼はそんなことを聞かずに走り出していた。手は抜け落ちることもなく。私も一緒に走り出していた。

 

 

 そう、あの時もそうだった。何処へも行けない、何処へも動けない。何処へ行っていいのかも解らなかった私の偽物の手を引いて、私をあの暗く冷たいところから連れ出してくれた人。

 

 どうしてだろう。一人では自由に動かせなかった偽者の脚が、彼と一緒だと驚くほど自在に動く。

 

 光に向かって進んでいく。私達は駆けていた。まるで羽が生えてみたいに。一気に暗闇の幕を突き破る。

 

 出てみれば、外は驚くほど明るくて――

 

 

「あなた――だれ?」

 

 

 私は尋ねて、はっとした、確か以前もこうして、私達は出会ったのだ。

 

 

 まるで総てを照らす光のように、私の前に現れたあなた。

 

 彼はあの時と同じように微笑んで、

 

「始めまして、色違いさん――ボクは、」

 

 

 

 

「――カリ…ヨン」

 

 声が響く、錆びた刃が引き擂られるような奇怪で不快な声音ではない。

 

 懐かしい揺籃の記憶のような、硬質でよく通る、硝子細工のような鈴なりの音色。

 

 動きを止めた彼女の身体をカリヨンはしっかりと抱きとめた。抱きしめた。縋りつくように、支えるように、震えるままの両腕で、彼女の暖かな体温を感じた。

 

 あの日、滝壺の側で彼女がそうしてくれたように。

 

 ようやく、たどり着いたのだ。彼女に、彼女のもとにたどり着いたのだ。何度も、もう届かないと思った、諦めかけたこの場所に彼はまた来ることができた。

 

「テフェリー。つらいことが……あったんだね」

 

 震える声で、揺れこぼれる涙で、歓喜する全身でカリヨンは声を絞り出す。

 

「……カリ、ヨン」

 

「ボクにも、解るよ。君の悲しみがボクにも焼きついてる。流れ込んでくる。こんな痛みに、ずっと堪えてたんだね。でも、君にもわかるはずだ、僕の心が。サヤや、君のお爺さんや、他のみんなに支えられて、ここに来れたボクの心がわかるはずだ」

 

 涙が止まらなかった。だが、カリヨンはそれから逃げようとは思わなかった。受け入れるのだ。

 

 悲しみも、苦痛も、怒りや、憎しみでさえ、テフェリーと共有できることが嬉しかった。

 

 自分の心を知ってほしいと思った。彼女を思い続けた年月を総て彼女に曝け出したかった。

 

「だから解るはずだよ。きみを待ってる人がいる。君を支えてきた人や、間違いなく君を愛していた人が、確かにいるんだ。そしてずっと君を求めてきた僕の心が、わかるよね、テフェリー」

 

 もはや定かな形にならない針金細工の銀の腕が、揺れながらカリヨンの身体を抱き返してきた。

 

「カリヨンッ」

 

 よく知る可憐な淡い色合いに戻った瞳からも、拭いきれないほどの涙がこぼれている。声にならない呻きを漏らしながら自分にしがみついてくるテフェリーの身体をカリヨンは精一杯抱きしめた。

 

 

 しかし、そのときだ。鈍い衝撃がカリヨンの背面から腹部を襲った。

 

 咄嗟にテフェリーの身体を引き剥がした瞬間。カリヨンの身体を貫通した黒い刃が彼の腹部を割って現れた。

 

 激痛や、驚愕に先んじて、しまった。という念がカリヨンの脳裏をよぎった。

 

 金色の鍔元まで押し込まれた凶刃はしかし大した出血も伴わず、すぐに傷口の組織と結合を始めている。

 

 テフェリーの意識を再構築しただけでは駄目だったのだ。それだけでは魔剣を破壊することはできていなかった。ヤツは寸前にテフェリーの身体から抜け出し、次の挙に出ていたのだ。

 

「――ッ」

 

 テフェリーが息を呑んだのが解った。視界が捻れて他の感覚もばらばらだったが、それだけはわかった。

 

『ーーーーハハハハハハッ』

 

 金属同士をこすり合わせるような不快な音が響き渡った。

 

『王手だよ、カリヨン。残念だったなぁ』

 

 声はカリヨンの口腔からではなく、彼の身体を結合しきれぬでいる、一振りの黒い刃から響いている。

 

 そうして顔を蒼白に染めたカリヨンの身体とゆっくりと融合し欠片の支配権をカリヨンの体に移しながら、ついに七つの欠片と繋がった魔剣は勝ち誇る。

 

『さすがに驚いたぞ。これほどのことをやって見せるとはな。もはや感嘆を通り越して呆れるばかりだ。出鱈目な奴だよ、お前は』

 

「カリヨン!」

 

 テフェリーも声を上げるが、彼女の手足はろくに反応してくれない。そもそも今までの戦闘と過負荷で彼女の手足は殆どが断絶してしまっていた。

 

 何より、今の彼女の体内には糸を操るためにもっとも必要な魔剣の欠片がないのであった。彼女はもはや四肢を持たぬただの人間になってしまっていた。

 

 そんな彼女をなんの脅威とも見なしていないのか、魔剣はカリヨンの体内を侵食しながら歓喜の金切り声を上げ続けている。

 

『喜ぶがいい!この勝負は貴様の勝利だ。故に一つの栄誉をお前にくれてやろう。貴様こそが我が真の素体に相応しい。すばらしいぞ。これで、力が手に入った。あらゆる願望を叶え、この世界の外にまで届くほどの力を持って我は新たなる新生を迎えるのだ』

 

「――――ッ」

 

『おおっと、抵抗するのはやめておけ。完全体となった私に抗おうとすれば、貴様らはただでは済まんぞ。観念するのだな。いいか、人は――いや、生きとし生ける物はみな枯渇を嫌い、恐れる。常に何かを失うことを恐れ、何かを過剰に求めながら生きている。光、空気、水、食料、地位、情、安全。そられが不足してはならないと考え、今は足りているにもかかわらず、将来足りなくなるかもしれないという不安を抱く。恐怖だ。恐れとは枯渇に根ざす本能なのだ。故に人は略奪を恐れ、逆に略奪を繰り返す。――なんとも憐れで醜く、愛らしい生き物ではないか、人間というものは』

 

 魔剣は勝ち誇ったように語る。

 

『だが他者から奪うことの出来ないものもある。それは絶対に枯渇する事を止められないものだ。解かるか、命だよ。命が枯渇して死に至る事を貴様らは恐れる。当たり前に訪れる筈のことを、死の間際になってあわて始める。喜劇だな。これ以上の出し物はないと思わないか? さあ、想像しろ。貴様の考えうる枯渇とは――死に至る喪失とはなんだ。総てをさらけ出せ! そしてこの魔剣の愉悦となって死に行くがいいッ!』

 

 語り、睥睨し、快哉を咆哮し――――――――しかし、魔剣はそこで驚愕に見舞われる。

 

 カリヨンの心が動揺することはなかった。強靭な精神力でそれに抗っている。

 

 真っ直ぐに己の運命を見つめている。そこにあるのは絶望ではなく、最後まで戦い抗いぬくのだという克己の意志。

 

 馬鹿な! いくら膨大な力があっても、それを治める器があっても、それを御する精神が宿るかは別の話だ。

 

 ――つまり、カリヨンは己の意志で踏みとどまったのだ。魔剣の欠片のおかげではない。自分の意志で己の恐怖をねじ伏せたのだ。

 

 今彼を踏みとどまらせたのは強化された肉体でも異能でもない。彼自身の克己によって征された惰弱な心だったのだ。

 

『オレノェ!!! 観念シロッ。喚き、のたうち、絶望して喘げ。それだけがお前に残された――――』

 

「いいや、観念するのはお前だ。魔剣」

 

 不意に巻き起こった微かな振動が、魔剣の根幹に言いようの無い警鐘を鳴らした。それはこの魔剣がよく知っているはずのものだった。

 

 カリヨンは()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ふと、サヤが最後に口ずさんだメロディーが頭に蘇ってきたのだ。

 

 それを何度も、彼女の遺言のように、楽譜の上に写し取っていたリズム。それが、今まで何の意味もなかった唯のノイズがカリヨンの脳裏に蘇り、そしてある閃きとなって彼の身体を貫いた。

 

 それはサヤの遺志であり、彼に託されたものであり、彼女の最後の矜持であり、我が子への愛だった。

 

『バ、馬鹿な! 馬鹿なッ、馬鹿なバカナバカナ馬鹿ナ―――――――ッ!!!! なぜ、なぜ貴様が触れたこともない()()()()()()()()()()()()()()?!」

 

「サヤが、教えてくれた。最後に――()()()()()()()()()()()!」

 

 カリヨンは己の腹部から突き出した黒の剣身を握り締め、そのまま霊的固有振動をチューニングすべく「ノイズ」を送り込む。

 

『お、お前も死ぬぞ!』 

 

「下手な脅しはやめろ、魔剣。お前も身に染みたはずだ。ボクはもうここから逃げたりはしない!」 

 

『ヤメロ、やめろ、止めろォ! 『宝典』が朽ちれば、お前の力もなくなるのだぞ? 我が欠片によってもたらされたお前たちの力は永遠に失われるのだぞ? そうすれば、もうお前は魔術師ですらない。サンガールの当主にもなれない。ただの無力な子供だ。それでもいいのか!?』

 

 刃と刃を擦り合わせるような不快な音波で、依り代をなくした魔剣は絶叫する。

 

『今なら、まだ私と共に、久遠の時を愉悦のままに生きられるぞ――』

 

「これがなんだかわかるか? このノイズ(ねいろ)がなんなのか。最後に鞘が教えてくれた(うた)だ。貴様を葬るための方法を、鞘が残してくれた!」

 

 もはや完全体となった魔剣を破壊することはこの異能でも不可能だっただろう。しかし、魔剣そものがいくら強化されても、その内側で取り込まれた英霊たちの「力」制御している『宝典』は以前と変わらぬままのはずだ。

 

「今『宝典』を失えば、お前はどうなる? 内側にある、聖杯の変わりに英霊を現世にとどめ続けているそれが砕けたなら、お前はどうなる?」

 

 今それを破壊することができれば、英霊七人分の「力」を制御することの叶わなくなった魔剣は内側から崩壊する筈だ。

 

 そのときカリヨンの体から、まるで巨大な漆黒の芋虫のようなおぞましいものが抜け出してきた。

 

 まるで爛れ悶える蛇か、百足のように這い回るのは漆黒の刃――幾星霜のときを経た魔剣自身の姿だった。

 

『もういい。――モウウイイイイイイッ! 欠片さえ、わが五体さえそろえば、あとの器などどうとでもなるのだ。貴様ラは用済ミだッ』

 

 『宝典』さえ、英霊たちの力さえ取り込んだままなら、やり直すことは出来る。

 

 無論、魔剣は新たな宿主を得なければその力を扱うことは出来ない。ソレはあくまで器物であるという根幹的な属性に縛られている。

 

 しかし今はそれに斟酌している暇はない。命だ。命こそが大事だ。

 

 一旦、カリヨンからも離脱して、魔剣はこの振動(ノイズ)から逃げようとする。接触さえしていなければ、この異能で破壊されることはない。

 

 それは一路、氷穴の淵を目指して逃げ出す。しかし、その瀕死の毒蛇のような刃の穢れを、銀色の糸が絡め取った。

 

 カリヨンは今にも崩れそうになるテフェリーの身体を支える。千切れかけた銀の糸は氷壁に巡らされ、張り詰めた銀絃となった。

 

 糸を繰るテフェリーの、今にも解けてしまいそうな銀の手にカリヨンの手が添えられる。

 

 やさしく、支えるように。そしてカリヨンの震える指から紡がれる無音の残響(サイレント・ノイズ)をうけて、銀色の絃が振るう様な殲魔の旋律を奏で始める。

 

『バ、カな――――バカなバカなバカなッ!??? こんなバカなことがあるかッッッ! どうして抜け殻のオマエラが異能を使える!? お前ラの力は総て私が与えていたものノ筈――』

 

「そうだ――これが、僕らの最後の力だ」

 

 銀絃の高鳴りは二人の鼓動と共に躍動し、リンと響いてその場の総てに染み込んだ。そしていま捕らわれた悪鬼の中核を蹂躙する。

 

『ヤメロォッ。ヤメテクレぇ! 聖杯の、――そう、これは総てを支配できる力だ。この世界の総テを支配できるほどの力ダ。お前たちはこれガ必要ないというのか? そうだ、これは世界を支配できる力なのダゾ――』

 

 その嗚咽に対し、身を寄せ合う二人は視線を交わすこともなく、ただ己で歩むべき未来を見据えて信念を謡う。

 

「構わない。必要なのは――欲しかったものはそんなものじゃなかったんだ!」

 

「私も、カリヨンも、お母さんも、お父さんも、マスターも、みんな! 最初からお前なんか欲しいと思っていない!」

 

「――――ヒッ」

 

 引きつるような、かすれた悲鳴。それが、最後だった。

 

 『宝典』が砕け散った。その加護を失い、そのうちにある力の奔流が暴走した。力を御しきれなくなった魔剣の刀身はオーバーロードを起こし、内側から鞠の如く膨れ上がり、

 

 そして、炸裂した。

 

 

 魔剣の炸裂と共に二人が居た氷洞も砕け、そのまま動くことも出来なくなった二人は海の底に飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

 暖かい日差しを受けながら、揺れる海の上でカリヨンは傍らのテフェリーの身体を抱きとめる。

 

 波に浚われてどこかに行かないように、そっと、引き寄せる。いつの間にか夜は明けていたようだった。

 

「……テフェリー」

 

 呼び掛ける。反応がない。

 

「テフェリー、大丈夫?」

 

 もう一度呼びかけて、彼女の白い頬に一筋の涙がこぼれるのを見つけた。

 

「……悲しいことが、あったの」

 

「テフェリー……」

 

「たくさん、たくさん。…………とても、かなしいことが……」

 

「……」

 

「私はひとりになって、ずっとひとりで、寂しくて、辛くて、悲しくて、心細くて、どうしていいのか、解らなかった……」

 

「僕がいるよ」

 

 二色の瞳が真っ直ぐにカリヨンの真蒼の瞳を見つめる。

 

「どうして、……カリヨンは私の側にいてくれるの?」

 

「だって――――だって、僕は君の友達だから」

 

「……うん」

 

「大丈夫だよ。僕がいる。僕がずっといるから。だから、大丈夫だからね。テフェリー」

 

「……うん」

 

 テフェリーを強く抱きしめる。そして伝えたかった事を告げる。

 

「テフェリー。サヤが、君のお母さんが言ってたんだ。世界にはまだ僕らが見たことのないキレイなものがたくさん隠れてるんだって。それが一生かけても飽きることがないくらい、たくさん、あるんだって」

 

「うん」

 

「世界を見に行こう、テフェリー。僕と二人で。あの時は無理だったけど、もう一度、僕と行こう」

 

「うん。いく……」

 

「あの箱庭よりも広い世界があるって、見たこともないくせに君に約束したよね。今度こそ一緒に行こう、テフェリー。いつか見たいっていってたものを一緒に見に行こう。君のお母さんが綺麗だと言っていたものを 君が見たいといっていたものを、僕が見せたいといっていたものを、いっしょに見に行こう」

 

「いく…………私も、一緒に行きたい。カリヨンと一緒に居たい。ずっと、そうしたかった……」

 

 

 それからも、言葉は涙と共に溢れた。いつまでも、いつまでも、二人は薄れゆく綺羅星の瞬きと、青く広がる海面と、見下ろす雲のグラデーションを見上げながら、泣き続けた。

 

 僕たちはどうしてこんなに遠回りをしてしまったのだろう。

 

 世界は、こんなにも美しいのに。

 

 あの箱庭から遠く離れた、世界の果てで二人はいつまでも涙を流していた。

 

 体の内側に残っている哀しい過去を総て吐き出してしまうかのように。

 

 明日、これからの未来のために笑い合うために。

 

 二人はいつまでも朝焼けの海原に漂いながら、静かに涙を流し続けていた。

 

 

 

 ――もう、サイレント・ノイズは響いてこなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ

「気をつけないとあぶないよ」

 

 僕は船の舳先にいたテフェリーに声をかけた。

 

「その手足だって、まだ馴染んでいないんだから」

 

 黒い髪を潮風になびかせながらテフェリーが降り向いた。雲ひとつない空にはもう日が落ち始めている。そろそろ気温も下がって来ることだろう。

 

「大丈夫。生まれたときから付いてたみたいに具合がいいの。もう走るくらいできるかも」

 

 彼女の身体に備え付けられているのは見掛けこそ普通の人間のものと変わらないように見える手足だが、実際には高度な技法で擬装された義手と義足だ。

 

 さすがに魔術の世界が広くとも、これほど精巧なものを作れる人形師は数えるほどだという。

 

 実際、今まで使っていたものとは比較にならないくらい精度の良いものだ。しかしそれも両手両足が同時に、となるとさすがにすぐに慣れるものではないだろう。まだよろけたり、転んだりするのではないかと思って、見ているほうは気が気でなかった。

 

「無茶はだめだよ」

 

 ボクはそう言ってテフェリーの肩に上着をかけた。魔剣の欠片を失ってから、彼女の体は前ほど外界の変化に対して強くないのだ。

 

ちょっとしたことでもすぐに体温が下がってしまう。義手や義足を使って動き回るのはただでさえ今の彼女には重労働なのだ。

 

「マスター・ワイアッドにも、馴染むまでは無理をしないよう見張るように言付けされてるんだ」

 

「マスター……お爺さまもカリヨンも、随分と心配性になったね」

 

「君だからだよ。テフェリー。君が大事だからだ」

 

 そう言って、ボクはテフェリーの新しい手を取って、彼女の側に寄り添うように立った。

 

 今から一年ほど前、あの戦いの後――海洋上を漂流していた僕らはすぐに協会のエージェントたちに回収された。

 

 僕もテフェリーも傷は軽くなかったから、動けるようになるまでしばらくの時間がかかったけれど、ボクは動けるようになるとすぐに自分の足で時計塔に赴いた。

 

 時計塔で僕はサンガールの城や魔術刻印など総てのものを差し出すことで協会に今回の事を納得させた。

 

 そしてサンガール以外のものには一切手出ししないこと。冬木にも、ワーロックにも手出しは無用ということで盟約させた。

 

 魔剣については内部からの崩壊によって粉砕してしまっていたので、提出のしようも無かったし、何よりも、多分何も残さないほうが良かったんだと思う。

 

 ということで、結局、僕はサンガールの当主にはならなかった。

 

 教会は静観のままに距離を維持し、協会は担い手のいなくなったサンガールの魔術刻印を接収したことで妥協点としたらしい。

 

 財産を総て明け渡して身一つになってしまった僕は今ワーロックの屋敷で助手の真似事のような事をさせてもらっていた。もちろんあの後、手足のなくなってしまったテフェリーの世話もあったし、結構忙しい日々だった。

 

 テフェリーにはすぐに新しい義手と義足が用意されたんだけど、両手両足が一緒に、となるとどうにもうまくいかない。

 

 体から魔剣の欠片がなくなったことで、僕らの身体は殆どフツーの人間と変わらないようになってしまった。でも、それを惜しむような気持ちは自分でも驚くほどうわいてこなかった。

 

 あれから穏やかな時間がながれて、ようやく僕らも落ち着いてきた。ボクの傷ももう薄く痕を残すだけとなり、新しい義手義足に慣れたテフェリーもリハビリを終えて人並みに生活できるようになった。

 

 まるで一年前のことが夢だったように思えることもある。でも、やはりそれは一瞬のことだ。そう割り切れるものじゃない。

 

 だから、僕らは今二人で太平洋の端にいる。

 

 

 あの仮面の男――テフェリーの父親だったセルゲイ・ワーロックの手記がマスター・ワイアッドの手によって発見され、僕らはその足跡を辿る旅に出ることにしたんだ。

 

 それから約半年。ゆっくりと時間をかけて鞘とセルゲイ、テフェリーの両親の足跡を辿っていった。

 

 ――バハマ、バミューダ、ベトナム、南米、北ヨーロッパ……何の痕跡があるわけでもないけれど、僕らはその旅路を追うように進んでいった。

 

 テフェリーが生まれたときのこと、それを喜んでいた両親のこと、ページを読みすすめるたびにテフェリーは新しい涙を流した。

 

 今僕らを乗せてくれているこの船は「白い翼」号といい、黒人の女性オーナーの好意で、ロクに話も聞かずに僕らを乗せてくれた。

 

 ちょうどフィリピンから日本まで向かうからと言われ、その後は予定がないから良かったら乗せてくれると言われたのだ。

 

 この船長はとにかく豪快で、二人だけで世界を回ろうとしていた僕らにいろいろと世話を焼いてくれた。とてもいい人だ。

 

 何でもこの船一隻で始めた沈没船回収の仕事が大当たりして、爾来トレジャーハンターとして生計を立てているのだと言う。

 

 船にいる間いろんな話を聞かせてくれた。

 

 テフェリーもその話を嬉しそうに聞いていた。

 

 

 そして旅の最後に、日本にも立ち寄った。あの冬木の地に再び立ち寄ったのだ。あの魔剣のせいでまた無用な犠牲を強いてしまったこの街に、僕らはもう一度立ち入る必要があったんだ。

 

 なによりも、そこは僕らが再会した場所であり、サヤとセルゲイ・ワーロックが再会し、そして命を落とした場所でもある。二人が最後に行きついた場所だ。

 

 

 そこでマスター・ワイアッドからの贈り物が届いていた。僕らがいつか冬木に立ち寄るだろうと踏んで先に送りつけてあったらしい。それがテフェリーが今つけている新しい義手と義足だ。

 

 何でも僕らが旅に出てすぐにマスターも屋敷から出ていたらしい。今になって往年の放浪癖が復活したのかと思ったが、どうやらその目的はある高名な人形遣いを探して義手と義足を作ってもらうためだったらしい。

 

 しかしその人形遣いというのが封印指定を受けるほどの凄まじい魔術師でもあり、長い間協会から逃げ続けているという傑物だというのだ。

 

 それを僅かな期間で探し当て、その依拠に押しかけて仕事をさせてしまうのだから、やはり隠居していようがなんだろうがとんでもない手練の魔術師なのだ。あの人は。

 

 何よりもあの闘いで負った傷は軽くは無かった筈なのに、僕なんかよりもずっと元気で精力的に動いているのだから、凄まじいの一言だ。

 

 冬木の要所をひとおり廻ったところで、最後にあの時世話になった遠坂の魔術師さん達にも挨拶をしに行った。

 

 遠坂の本家という屋敷が留守だったので、テフェリーのアドバイスであの妙な形の屋敷に立ち寄った。聞いた話ではあれが日本式の正しい建物なのだと言うことだった。

 

 あとでテフェリーに教えてもらったのだ。僕が驚き混じりに感心しているとテフェリーが可笑しそうに笑っていたのを憶えている。

 

 あれから、テフェリーは随分笑うようになった。けれど、やはり時々言葉を無くしたように悲しそうに二色の瞳を伏せることがある。

 

 それでも、この新しい義手を受け取ってからはとてもはしゃいでいたのだ。これまでのものとは比較にならないくらい精度の高いものらしい。

 

 この義手と義足を預かっていてくれたのが彼女たちだった。マスター・ワイアッドは僕らが冬木に行くのを見越してミス・遠坂宛てに荷物を送りつけていたらしい。彼女たちは確かにその日本式の建物に居て、にこやかに僕らを迎えてくれた。

 

 実は彼女たちに会うのが一年ぶりというわけではなかった。当主のミス遠坂はこれまでにも何度かロンドンと冬木を往来していて、ワーロックの屋敷にも顔を出してくれていたのだ。

 

 もう顔なじみともいえる。というよりも今ではすっかりお得意様だ。

 

 というのも、毎回ロンドンからの帰りに寄り道してはすごい勢いで曰く付きの宝石や高純度の鉱石を値切ろうとマスターの所に直談判しに来るのだ。

 

 マスターもこれには色眼鏡の裏で渋面を作っていたようだったが、しかしどうやら若者相手にそうやって気を張っているのが案外楽しいらしくて、何かと文句を言いながら何処か嬉しそうに応じていた。

 

 それが昂じてなのか、最近ではたびたびロンドンにも出向くようになったようだ。おかげで時計塔の中にはさぞかし辟易している連中も大勢いることだろう。

 

 もうすぐ、彼女は徒弟や未だに現界しているセイバーを伴い、晴れて時計塔に乗り込むということだ。

 

 これを機に再び両家の交友を温める……というよりも、再び時計塔に対する影響力をつよめているワーロックとのパイプを繋いでおきたいと言うのが本音なのかもしれない。

 

 なんにしろ、あの人たちがロンドンにいるなら、マスターもそうそう退屈はしないで済むかもしれない。

 

 この旅路に出るとき、僕らは旅の終わりを明確には決めていなかった。だから僕らが居なくなってしまったあとで屋敷に独りにしてしまったマスターのことをテフェリーは随分心配していたのだけれど、どうやらおかげでその心配は要らないようだ。

 

 

 そして今、僕らは今日本を発って太平洋にいる。

 

 冬木で用を済ませた後。僕らはもう一箇所、向かうべきところがあった。サヤの故郷だ。

 

 冬木市よりもずっと北のほうにある街だ。其処はサヤの、伏見鞘の生まれた街だった。

 

 セルゲイ・ワーロックの手記に、名前だけ記されていた場所。

 

 海がそう遠くないのに、四方を山に囲まれた盆地で、特にこれといった特色があるところではなさそうだったけど、僕らは飽きることもなく暗くなるまでその町を歩き回った。

 

 さすがにサヤの生家を探すようなことはしなかったけど、それでも、ここがサヤの生まれた場所で、脱ぎ捨てるようにして飛び出してそのまま二度と戻らなかった場所なのだとしても、やはりテフェリーがここに来る意味はあったんだと思う。

 

 微笑を浮かべながら何でもなさそうな町並みを見つめていた。

 

 そしてボクらは日本を後にし、今太平洋の上にいる。

 

 空には夕日の赤い色が覆い被さり、雲ひとつない海の波間を染め始めていた。

 

 舳先に出ていたテフェリーは僕の傍らで瞳を伏せて黙り込んでいる。

 

「どうしたの? どこか、痛い?」

 

「違うの。……これから、どうしたらいいか……わからなくて……」

 

 ボクが訊くと、テフェリーは(かぶり)を振り、呟いた。目的は済んだ。旅はここで終わりだ。

 

 では、この後はどうすればいいのか、と。不安げに、心細そうに、そんな事を言う。

 

 僕は義手をちょっと強く握って、テフェリーを手元に引き寄せた。

 

「カリヨン――?」

 

 よろけたテフェリーは足を縺れさせて倒れこんだ。

 

 僕はそれをしっかりと抱きとめる。この一年で、僕のほうがテフェリーよりも背が高くなっていた。もう、いくらでもテフェリーの事を支えられる。だから僕はまた同じ言葉を繰り返す。

 

「大丈夫だよ、テフェリー」

 

 強くテフェリーの身体を抱きしめた。最も近い位置で僕の鼓動を伝えたかった。この高鳴りを教えたかった。

 

「見に行こう」

 

 綺麗な色違いの瞳を丸くしているテフェリーに僕は言う、精一杯の笑顔で。

 

「世界を見に行こう、テフェリー。僕らがまだ見たことの無いものを、今まで知らなかったものを、探しに行こう」

 

 そうだ、終わりではない。これは始まりなのだ。

 

「僕らはもう好きなところに行けるんだ」

 

 僕らは何処へでも行ける。僕らは何かを始められる。何かを見つけられる。何かを感じられる。何かを創り出せる。

 

 ――そういう場所に僕らは立っているのだから。だから大丈夫なのだと、ボクは全身で伝えたかった。知ってほしかった。

 

「……うん。行こう、カリヨンッ」

 

 そういって、テフェリーが笑った。僕の腕の中で微笑んでくれた。綺麗だった。こんな、心からの笑い顔は始めてみる筈なのに、笑ったテフェリーはすでに見慣れていたサヤの笑顔にそっくりだった。

 

 僕らはそのまま互いの鼓動を交換し合い。静かに夕日の沈もうとする水平線を見つめた。

 

 ここまで、この出発点に来るまでにテフェリーはどれほど泣いたのだろうか。でも、それでもいいと思う。きっとこれから、同じ数だけテフェリーは笑えるのだから。それは僕がずっとテフェリーの側に居るからだ。嬉しかった。ただ、二人でいられることが、たまらなく、嬉しかった。

 

 二人が共にあるのだということ。それだけで、僕らはこうして笑っていられる。それが、一番大事なことなんだ。

 

「行こう、カリヨン。一緒に」

 

 二色の瞳がそれぞれ別の色の夕日に染まって、紅い頬に一筋の涙が零れ落ちた。きっとこれがこの旅で流す最後の涙だ。

 

 僕達はもう泣く必要なんてないのだから。

 

 僕らは握った互いの手を放さなしてしまわないように注意しながら、あの日みたいに、世界に向けて宣下するかのように、紅く染まった水平線を見つめ続けた。

 

 あの先に何があるのかを胸の内に想いながら。

 

 

 ――さあ、約束を果たしに行こう。あの揺籃の日の約束を。妖精の姫君を連れ、終わりのない冒険の日々へと繰り出そう――

 

 

「ならまずは、二人で世界の果てでも見つけに行こうか――」

 

 

 

                                      fin

 

 

 

 



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