天災兎の愛は重い (ふろうもの)
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天災兎の愛は重い

 ――女難(じょ・なん)

 ――男性が女性に関して災いを被ること。

 

 

 利き腕一本。それが人ひとりの命と釣り合うかどうかは誰が決めることでもなく、本人が如何に感じるか次第である。少なくとも俺にとっては、右腕一本を失っても一つの命を救うだけの意味があったと思っている。

 ラウラ・ボーデヴィッヒ、銀髪のドイツ生まれの少女。赤い目と金色の瞳が綺麗な、妖精ともいえる小柄な子。何故自分が彼女に固執したのかはわからない。生まれの不幸に同情したのか、兵器として操られる運命に憤慨したのか。正味なところ自分ではよくわからない。ただ、助けなければならない気がしたから助けた、それだけだ。

 救出の結果、あるいは代償として腕の神経をすべて焼き切る結果となったわけだが。不幸中の幸いか、痛覚神経も綺麗に焼けた――医者に言わせれば機能不全になった――おかげで痛みはない。ただ右肩の先はあるのに動かせない、妙な喪失感と一緒に今を過ごしている。

 

 今は“あれ”から一週間が経っている。俺の右腕が使えなくなったあの忌まわしい日、ラウラ・ボーデヴィッヒ暴走のあの日だ。

 織斑先生から聞かされた情報と、少しの推測を以って思うに。ラウラ・ボーデヴィッヒ暴走の原因はIS側のシステムにあり、ラウラはトリガーとなっただけで本人にそこまでの悪意があったわけではないのだろう。あくまで悪いのはシステムだ。

 そしてシステム発動のトリガーの悪趣味さ。操縦者の負の感情に反応するという悪魔的な特質に加え、ラウラをそこまで追い詰めていた俺ないしは環境そのものが悪と言っていいだろう。無論ラウラ・ボーデヴィッヒ本人にまったく責任がないとは言わない。だが、俺にはどうしても彼女を悪だと糾弾する気にはなれなかった。

 

 ISコアの共鳴によって起こるらしい、あの不可思議な共鳴現象は今でも鮮明に思い出せる。暗い部屋に一人閉じこめられ、ひたすら“織斑千冬のコピーたれ”と洗脳されていた後ろ姿は絶対に忘れることはないだろう。ああ、あの光景は思い出すだけで吐き気がこみ上げ怒りが沸いてくる。

 そこからラウラ・ボーデヴィッヒを引きずり出す為に、俺は右腕の神経を焼き切ることになった。

 同情か憐憫か、憤怒か憤慨か。そんな大したものではなく、あの時の俺はただ助けなければならないという奇妙な使命感に突き動かされていた。それだけだ。

 

 その結果俺は右腕を失い、ラウラ・ボーデヴィッヒは“あれ”から未だに昏睡状態に陥っている。医者曰く、精神的過負荷から脳を守るための一時的な昏睡とは聞いているが。

 一方の俺がこうして一週間ものうのうとIS学園寮で過ごせているのは、人を軽く一週間も昏睡状態に陥らせるような過負荷をすべて右腕が代替わりしたからではないかということだった。

 科学が進歩した今でさえつくづくわからないことの方が多いものである。

 

 

 

 

 ま、それはともかく。突如として利き腕を失った俺は、毎日を四苦八苦しながら過ごしているところである。ノートを取るのだって簡単じゃあない。着替えるのだってすぐにとはいかないし、食事のメニューだってスプーンやフォークで食べられるものが中心になった。

 幸いにも、織斑一夏というこの学園でもただ一人の男友達が少し気持ち悪いほど熱心に世話を焼いてくれるし、そんなアイツに惚れているクラスメイトの篠ノ之箒にオルコット。それと二組の凰が一夏への点数稼ぎか、それなりに気に掛けてくれているので俺は恵まれている方だろう。

 

 しかし。非常に困ったことが一つある。性欲処理だ。織斑先生に頼み込み個室を与えられてからというものの、コンスタントに処理してきたわけなのだが。右腕を失ってからというもの気軽に致すということもできず、けれども無欲の権化に見える一夏に相談できるわけがなく。かといって女性陣らに話すべき話題でもない。

 第一そんなことを異性に言ったら、問答無用で張り倒されても文句は言えない。というか通報されないだけありがたいというべきだ。

 

 とにかく、今、非常に、ムラムラしています。

 

 第一IS操縦の前提条件がおかしいのだ。何が女性しか操縦できないだ、おかげでIS学園は女子高といって差しつかえない男女比だ。しかも揃いも揃って美人で気立てが良い。世界中の善人かつ美女を集めてきたのかと思うくらいだ。

 そんな中で性欲をためない男がいるだろうか。いや、いない。

 もう限界だ。一夏はどうかは知らないが俺はもう限界だ、抜くと決めた。携帯はスマートフォンだ、腕が使えなくたって最悪足で操作すればいい。自分でも無茶を言っているのはわかるが、今はクラスメイトのISスーツ姿を思い出すだけで勃起してしまいそうなのだ。

 山田先生の揺れる胸に視線が固まり、それに気づいた織斑先生に出席簿で小突かれながらも織斑先生の揺れる胸に注目してしまう。

 とにかくそれくらい、我慢の限界だ。

 

 携帯のパスワードのロックを解除。そしてデータフォルダの奥底に隠した秘蔵フォルダのパスワードを入力する。そこには俺が集めてきたグラビアやムービーが大量に保存されているのだ。

 さぁ、リビドーを解き放とうと最初の画像をタッチして、手が止まった。

  

 ――あれ、見覚えのある顔だ。

 

 処理の時にしか使わないグラビアアイドルの画像ではない。もっと身近に溢れている人の顔だ。言ってしまえばISに関わる者すべてが一度は目にする顔である。

 恐る恐る画面をスワイプして別の画像を映す。やはりそこにも見覚えのある顔が。すっすっといくつもいくつも流していっても映るのは見覚えのある顔ばかり。

 では動画はというと、すべてがその見覚えがある顔が一人で映るセクシーな映像に置き換わっていた。

 なんだかわからないが、俺の脳味噌がヤバいと警鐘をならしている。これは織斑先生に伝えるべきだ。ベッドから立ち上がり部屋から出ようとドアノブに手を掛けた時。

 

「あれー? もしかしてお気に召さなかったのかな?」

 

 後ろから声を掛けられた(・・・・・・・・・・・)。もちろんこの個室には俺一人の筈である。しかし、しかしだ。ことこの声の主に限っては常識など通用しない。ギギギと錆びたブリキの如く首だけを振り返らせる。

 思った通りの、見覚えのある顔がにこやかに笑っていた。

 山田先生ほどではないが、織斑先生以上の特大の胸を持ち。不思議の国のアリスにでも出てきそうなワンピースを身に纏い。これまた不思議の国のアリスのウサギかとも思える機械のウサ耳を身に着けた、希代のビューティフルマッドサイエンティストがそこに居た。

 篠ノ之束。篠ノ之箒の姉でありISの開発者。そして――。

 

「あっ! やっぱり(本物)の方が良かったのかな!? ごめんね気づかなくて! そうだよね、やっぱり愛する束さんの身体が一番だよね! あんな存在する価値もない塵芥の画像よりも、この束さんの画像や映像よりも、実在する私の身体が一番だよね!

 ごめんね天才の私が真っ先に気づくべきだったよね! でも束さんも忙しくてさ、まっすぐに駆けつけるわけにはいかなかったんだよ! だからあんな塵屑(ゴミクズ)よりも束さんの方がいいかなと思って先に画像と映像を差し変えといたの! それとね、ここに来るまでに誰も殺してないんだよ、凄いでしょ! 言われたとおりにしてるんだよ! 誰も殺さないって! ね、褒めて褒めて!」

 

 ――なんでかは知らないが、随分とマッドな愛を存分に注いでくれる女性(ヒト)である。

 

「どうしたのかな? 愛する束さんにあえて幸せすぎて声も出ない? そうだよね、私だってそうだもん! 久しぶりに君に会えると思ってさ31万6432通りの愛の言葉を考えてきたんだけど全然出てこないもん!

 私をここまで混乱させるなんてやっぱり君は束さんの運命の人なんだね! 本当に昔から変わらなくて嬉しくなっちゃう! もう初めて会った時からそうだったもんね! 君は束さんのことを混乱させて滅茶苦茶にして優しくしてくれて……ああもう思い出すだけで飛んで行っちゃいそうだよ!」

 

 やはり、この人は、ヤバい。脳味噌のどこかで警報音が鳴りっぱなしだ。

 初めて会ったとき――具体的にはISを無理やり装着させられた時からこうだった。いや、束さん本人に言わせればもっとずっと前に運命の出会いを果たしているそうなのだが俺は覚えていない。

 束さんという呼称もそう呼ばないとすぐ泣きそうな顔する、というか泣くのでいつの間にか俺の中で定着したものである。

 決して、決してこの人と何かあったからというわけではない。いやあるにはあったがそういった甘いものではない。決して。

 

「君の生活アルゴリズム解明は束さんの中では最高順位なんだよ! いつに寝ていつに起きて誰と話してどんな話をして何を食べてどのくらい勉強してどんなふうに……その……お、おな……性欲処理するかも全部解明したいんだよ! 

 でも君はいつもいつもいつもいつもいつも私の予想を上回っていく! 最高だよ! 本当束さんその度にいっつも……その、グショグショ、で……とにかく! 洗濯が大変なんだよ!」

 

 そして唐突に乙女チックになるのだからことさら性質が悪い。それにこちらに危害を加えてきたことは一度もないし、多少過激な発言はあるものの窘めればやめてくれるのでなんとかなっていたのだが、まさかこんな奇襲を受けるとは思いもよらなかった。

 

「でもね! 今日だけは束さんの予測が一致したの! 今日この日この瞬間が君の性欲がピークに達する日だって!」

 

 奇襲策どころか十重二十重に包囲された上でのことだったかー。

 

「だからね、君の携帯をハッキングして全部束さんのものにして、それにね、今日は、えっと……君の好きな格好もしてきたんだよ? 君の趣味趣向性癖をあらゆる角度分野から想定してはじき出した君の大好きな、君の望む格好をした最高の束さんだよ」

 

 はて、いったい何のことを言っているのか。初めて会った時と変わらないワンピース姿のように見えるが。

 だが身体は何かわかっているのか下半身は充血しだし、背中には冷や汗が大量に流れ始める。

 

「もう、束さんに全部言わせるの? でも君にならいいかな……だって君は私にとって運命の人なんだもん」

 

 束さんが胸元を緩めていく。フリルのついた清純な印象のブラジャーがちらりと見えた。おそらくパンツもセット、同じく清純でフリフリフリルの白色に違いない。

 いや、俺は何を考えているのか。このまま束さんの策に溺れるままではいけない。

 だが身体が、勝手に、動く。

 ドアを向いていたはずの身体が束さんの方へ向く。それだけで束さんは満面の笑みだ。束さんは確かに一から十まで言動が吹っ飛んでいるが極上の美女であることに変わりはない。そんな人が、性欲の対象にされたことで嬉しそうに笑っていてくれる。

 

「いいんだよ、束さんを好きにして、無茶苦茶にして。私の細胞一つに至るまで君のものなんだから。もちろん避妊薬(ピル)も飲んでるからいくらでも束さんの中に出して構わないんだよ。

 でもできたら優しくして欲しいかな、って。束さん、処女(ハジメテ)だからさ。君の為にずっと守ってきたんだよ? 身体のどこにも誰にも触らせたことはないんだよ?

 あっ! でも乱暴にっていうのもやぶさかじゃないからね! 束さんを傷つけていいのは世界で君だけなんだからさ! ほら、来ていいんだよ? 私は君のものなんだから……ね?」

 

 健康な一男児として止まれるわけがない。たわわに実った胸に手を伸ばそうとして――気づいた。

 今の俺は、右腕が動かせないことを。

 

「どうしたの?」

 

 急に俺が動きを止めたことに対して。きょとんとして首を傾げる仕草はとても可愛い。しかし見た目に騙されてはいけない。この人は文字通り、世界を敵に回せる人なのだと。

 急速に熱が冷めていく。一体俺は何をしようとしていたのかを。

 右腕が動かせなかったことに初めて感謝した。もしこの腕が動いていたら今頃俺は――

 

「そういえばその腕……ちっ、あの人形のせいでそうなったんだったね」

 

 極寒零度の声が束さんから漏れる。そう、この人はどんな相手であろうとも敵に回せる。興味のない対象にはとことん冷たい、どころか冷酷になれるマッドサイエンティストである。

 俺に優しい束さんも、他者に冷徹な束さんも。どちらも束さんだ。だが、だからこそ俺はこの人の言う通りになるつもりはないと誓ったのだ。言う通りになったが最後、今の世界は滅ぶ。そんな気がするのだ。

 

「……殺してやりたい。君をそんなふうにした人形を殺してやりたい……でも君の生活アルゴリズム解明に役立ったのは確かだし、君はきっと殺すなって言うんだろうね。束さん、君が嫌がることはやりたくないし、君が右腕を賭けてまで救おうとしたんだから、それはきっと価値のあるものなんだろうね。

 でも妬けるなぁ。君にそんな風に身体を張ってもらえるなんてさ。束さん強いからそんなことになるなんてありえないけど。でももし私がピンチになったら君はあんな風に守ってくれるのかなぁ?」

 

 守って見せます、そう即答した。

 危険の二文字など、この人にとっては万が一、いや億にも無量大数の一もないだろうが、あるならば守ってみせる。そうしなければならない。理由も理屈もない。今この瞬間だけは性欲もなく、ただ純粋に言葉が口を突いて出た。

 なぜかは俺にはわからない、ただ使命感だけが俺を動かすのだ。

 

「ふ、ふふ、ふふふ……ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ!」

 

 ヤバい、何か地雷を踏んだか。

 

「そうだよねぇ! 君ってそういう人だよねぇ! 本当束さんの予想を全部全部全部ぜぇ~~~んぶ簡単に上回ってくれるんだから大好き! 愛してる!」

 

 よかった。地雷は踏んでなかったか。

 

「だからさ、一つになろう。やっぱり君は私の運命の人なんだからさ」

 

 いや、別のマズイものを踏み抜いたか。逃げなければならない、しかし身体が動かない。蛇に睨まれた蛙が如く身体が動かない。

 

「大丈夫だよ。私も話に聞いただけだけどきっとすっごく気持ちいいからさ……天井を見てるだけで終わるから……」

 

 それはこっちのセリフだと思うんですけど、というか束さんが迫ってくる。ああもう逃げられない。

 

「ああああああ~! 何度も夢に見た君の体温だぁぁぁぁ~!」

 

 ――夢にまで見たおっぱいの感触ありがとうございます!

 

 じゃない。本格的に抱きつかれた。束さんの体温が、胸の感触が、俺の理性を溶かしていく。

 束さん自身の出す、熱っぽく艶らしい声も俺の理性を侵食する一助となっていた。

 そしてそれは当然生理現象となって反映する。

 

「あはっ。君のが凄いことになってるね。もうそんなに硬くしてグイグイ押し付けちゃって……可愛いなぁ」

 

 もう、ダメです。

 左腕が束さんを抱きしめようと動き始める。胸に顔をうずめて肺いっぱいに息を吸い込んでいる束さんが可愛くてしょうがない。

 研究熱心で不規則な生活のせいか、隈をつくって眠たげな眼すら愛おしい。

 抱きしめたら終わる、だけれども制御が効かない。もうこのままいっそ肉欲に溺れてもいいじゃないか。

 

「そうだよ、全部全部全部ぜぇ~んぶ束さんにお任せしていいんだよ?」

 

 あ、ああ、誰か。助けて。ああ、ドアが叩かれる音すら遠くに聞こえる――

 

「だから、もう力を抜いてさ、楽になろうよ。ねっ? そしたら気持ちよくしてあげ――」

「何をやっている! 束!」

「えっ!? ちーちゃん!? なんで急に!? というかなんでわかったの!?」

「さっきからドアを叩いているのが聞こえなかったのか! というよりお前は何をやっている!?」

 

 織斑先生が束さんを捕まえようと躍りかかった時には、束さんは俺から離れて既に部屋の窓際まで後退していた。

 というか今更窓が開いているのに気が付いた。まさか侵入経路はあそこからなんて。でも俺は開けた覚えがないが。考えるだけ無駄か。相手はあの(・・)束さんなのだから。

 

「こら! まだ話は終わってないぞ!」

「ちーちゃんにはあっても私にはないもーん! また会おうね! 今度はちーちゃん抜きで二人っきりで! 特製のイチゴのタルトをごちそうしてあげる! ではでは、一期一会のトゥルットゥー!」

 

 ボン、という気の抜けたような音がしたかと思うと辺りは一面白煙に包まれた。煙幕――科学全盛期の今においてもこんな状況下では非常に役に立つ。

 流石に百戦錬磨の織斑先生であってもどうしようもないようだ。

 そして煙が晴れた時には、やはり束さんの姿は影も形も残っていなかった。

 

「くそっ! 逃がしたか! 怪我はないか? 何かされなかったか?」

 

 大丈夫です、何もされませんでした。と言う他なく。というか誘われましたなんて口が裂けても言えるはずがない。

 なんだか凄い目にあった。つい、頭をかいてしまう。

 

「そうか、それは良かった……ん? おい、その右腕はどうした?」

 

 どうしたって、頭をかいているだけですけど。って、あれ。動く。

 右腕には可愛らしい字で“また会おうね”とマジックらしきもので書かれているのが見て取れる。

 これは間違いなく、束さんの字で束さんの仕業だ。一体いつやったのか、まるでわからない。

 

「まったく、急に来たかと思えば何かしらやらかしてくれるヤツだ……とはいえ、腕を治しに来ただけとは思えんがな」

 

 ジト目で織斑先生に睨まれる。いやいや、そんな目で睨まないで下さいよ。こっちも本当に大変だったんですから。

 

「まぁ、いい。学園にはもっとセキュリティを強化するよう言っておく。もっとも束相手に通用するとは思えんがな。お前自身に護衛と防犯ブザーでもつけといた方がいいかもしれん……。

 しかし今日のところは置いておくか。今しがたラウラの――ゴホン、ボーデヴィッヒの意識が戻った。見舞いに行くか?」

 

 今日は幾度ラウラ・ボーデヴィッヒに助けられただろうか。もちろん行きますと答えて俺は部屋を後にすることにした。

 本当に、束さんと会うととんでもない目に遭う。

 だけれども、少し楽しいと思っている自分が居るのも確か、なのかもしれない。

 

 

 

 

 なお、携帯に残されていた束さんの写真は後日有効的に活用しました。




書いていてすごく楽しかったです(小並感)。
ヤンデレな愛というよりマッドな愛かもしれません。
あと、シェオゴラス大好きなんです。ああいう善悪を超越したマッドは大好物です。

Twitter上にて、とあるお方と束さんって敵にも味方にしても恐ろしいよね、いっそ好かれたらどうなるんだろうね、それってかなりヤバいよねという感じで今作は生まれました。
オリ主はラウラの時と同じく決して一夏ではありません。
無論、主人公は束が好きな貴方かもしれません。

タイトル改題しました。

よもぎもち様、SERIO様、さーくるぷりんと様、ゴードン様、tar様、たけじんマン様、cf08@salt様、誤字脱字報告ありがとうございます。


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天災兎の愛の形

 突然だが俺はチョコレートが嫌いではない、むしろ好きだ。

 

 ただ、そんな俺でもチョコレートを買い辛くなる時期がある。何を隠そう2月14日、バレンタインデーだ。恋する乙女が主役となるこの日近辺では、男の俺は些か肩身が狭い。これは勝手にそういう視線を感じていると思っているだけの、自意識過剰なだけとも思うのだが、やはり気まずさを感じてしまうのは仕方ないだろう。

 そしてそれは、ここIS学園でも例外ではない。2月14日が近付くに連れて否応なく、同級生の女子達のテンションが上がっていくのが良くわかる。流石にこのノリには付いていけないよな、とたった二人の男子生徒の、その片割れである一夏に同意を求めようとしたものの。

 

「そうだなぁ。まずは千冬姉に、箒に鈴にだろ……すまん、何か言ったか?」

 

 とまぁ、こんな具合に一夏は貰うのではなく渡すことで頭が一杯の様である。逆チョコなど、製菓会社の陰謀に踊らされているだけだとすっかり捻くれている俺と違って、一夏は割と好意的に受け止めているらしい。

 参考までに、どんなチョコを作るのかと聞いてみたところ。

 

「ん? 千冬姉は俺以外にもチョコを貰うだろうから、甘さ控えめのチョコケーキだろ、箒は和菓子が好きだから、和菓子に寄せてチョコ大福。鈴にはホワイトチョコで下地を作ったパンダチョコケーキにして、セシリアには――」

 

 わかった、ありがとうと強引に会話を打ち切った。聞いているだけで胸やけがしそうなレパートリーを延々聞かされ続けるのは流石に困る。

 というか一夏、一人一人の好みや事情に合わせたチョコを作ろうとしているのか。気配りもここまで行くと、素直に凄いとしか言い様がない。

 

「そうでもないさ。凝ったのを作るのは親しい人にだけさ。他のクラスメイトには多分、クッキーくらいになると思う」

 

 それでもたいしたものである。俺なんか逆に何かを渡すなどという発想は、端からなかった。これは確かに、極度に鈍感という致命的過ぎる欠陥があったとしても、篠ノ之やオルコットたちが一夏に惚れこむのも無理もないことだろう。

 

「あ、リクエストがあったら教えてくれないか? できれば好みの物を渡したいからさ」

 

 そして一夏は、こんな風に一匹狼を気取っている寂しい男にも友チョコを渡してくれるというのだ。しかも先程の発言と鑑みるに俺は一夏と親しい友人のカテゴリになっているということになる。もちろん俺にそのケはないのだが、面と向かって言われると恥ずかしいものがある。

 しかし、その好意は嬉しいのだが今回は遠慮させてもらうことにする。

 一夏は凄く残念そうにしていたが、ただでさえ凝ったものを多数作る手間暇に俺の分まで加えてもらうというのは良心が咎めるし、何より最大の懸念事項がある。

 

 今日、枕元に置かれていた一通の手紙。

 差出人はもちろん、篠ノ之束――束さんからのものである。

 

 世界最高のセキュリティを持つと言われるIS学園に侵入し、誰にも、何者にも気づかれることなく枕元に手紙を置いていくことなど、この世に束さんただ一人だろう。

 このことを織斑先生に相談したところ。

 

『前にも言ったが、お前の部屋にはありとあらゆるセンサー類を設置済みなのだが、こちらでは異常はなかった。が、その手紙があるというならそういうことなんだろうな』

 

 と、疲れ切った表情で言われてしまったので察するところもある。実を言うとこういった束さんの趣向があったのは何も一回や二回ではない。束さんが俺の部屋に侵入する度に、学園寮の空室を俺専用に改造しては引っ越しているのである。

 その度にセンサー類は更新され、新型が設置されているのだが、全く効果がないのだから織斑先生が諦めの表情を浮かべてしまうのも致し方ないだろう。

 それに以前、この学園最強のセキュリティと言っても過言ではない織斑先生がいっそのこと私と同じ部屋に寝泊まりしてみるか、等と冗談交じりで言った時は本当に怖かった。職員室のありとあらゆる電話が一斉になり始め、その場に居た先生方の携帯もマナーモードにも関わらずガンガンと鳴り始めたのである。

 唯一鳴っていないのは俺の携帯だけという有り様で、こんなことをするのは誰なのか察するのは簡単だった。織斑先生が電話を取ると、曰く先生ですら聞いた事がないようなドスの効いた声で。

 

 ――いくらちーちゃんでも許さないよ。

 

 とだけ、束さんは言ったそうだ。

 もちろん織斑先生と一緒に冗談である旨を伝えると、またいつもの無邪気な束さんの声のトーンに戻ったそうだが、あれは下手したら学園を壊してでもお前を攫いに来そうだな、と呟いたことを今でも忘れられないでいる。

 

 少し話が逸れてしまったので手紙について話を戻そう。手紙の郵送方法こそ学園のセキュリティを根底から覆しかねないものだったが、手紙の内容はとてもシンプルで。

 

『誰よりも一番に君にチョコをお届けするからね!』

『貴方の束さんより』

『追伸、もちろん本命だよ!』

 

 というとても柔らかい丸文字で書かれたごくごく短い手紙であった。この手紙の文面通りであるならば、束さんは誰よりも早く俺にチョコを届けてくれるそうなのだが、一体どんな突飛な方法で送って来るのかまるで見当も付かない。

 一応、他に隠された文章などがないか科学鑑定にも出したのだが、本当にそれだけしか書かれていなかったので俺としては一安心である。万一束さん以外からチョコを貰ったら、渡した相手を秘密裏に消し去るとか、そんな物騒なことが書かれていないかとちょっとだけ心配したりしたものである。

 とはいえ積み重なった問題が一個減っただけに過ぎず、バレンタインデー当日には一体どんなことが起きるのか、未だ悩みは尽きないでいる。

 

 

 時は流れ2月13日、バレンタインデー前日。特に束さんからのアクションもなく、平穏に一日が流れて行った。時計の針は今、12時に差し掛かろうとしている。

 流石に考えすぎか、とベッドに身体を投げ出しながら天井を眺める。

 あの束さんのことだから、明日、突然廊下の角から現れてチョコを渡してくるかもしれないし、机の中にチョコが文字通り溢れる程に詰め込まれているかもしれない、いや、ここは敢えて教室一杯のチョコだとか。いやいや、手紙を差し出してきたと同じく枕元にいつの間にかポツン、というパターンもありえるかもしれない。

 俺は深いため息をつきながら、くだらない妄想を振り払った。

 所詮、俺はIS操縦ができること以外は凡人の域を出ない人間である。正真正銘の、天災(・・)である束さんの思考を推測しようなど、出来るはずもないのだ。

 馬鹿の考え休むに似たり、阿呆らしくなって身体を起こす。

 後数秒で、2月14日を迎える。できれば束さんも、平穏無事な方法で渡してくれればいいのに。チョコ自体は嫌いではなく、むしろ好きなのだから。

 

 ――え?

 

 強烈な光景。まばたきを一つしただけで、部屋に覚える強烈な違和感。脳が、情報を拒絶していると言っても良い。それだけ、理解できないモノ(・・)が部屋にある。

 茶色い棒、それにしては曲線美が映える、いや、あれは像だ。

 それに色も茶色というよりは、あの色から連想できるのは間違いなくチョコレートである。

 マジかよ、と思わず溢さずにはいられない。俺の気が狂ったのでなければ、まばたきのコンマ数秒にも満たない僅かな時間に、束さんは俺の部屋にチョコレートの像を置いていったということになる。

 俺は束さんの言葉の意味を計り損ねていた。誰よりも早くチョコを渡す、これは言葉通り日付が変わった瞬間に渡すことでバレンタインチョコ一番の座をもぎ取ることであったと。

 こんなこと考えられるか。もし万一、俺が部屋の外に居たらどうしたのだろうか、やはり突然手にチョコが握らされているとか、そんなことが起こりえたのだろうか。怖い、流石にホラー過ぎる。もうそっち方面に考えるのはよそう。

 息を吸って、四つ数えて、息を吐く。よし、すこしは落ち着いた。

 とりあえず、この謎のチョコ像らしき物体を調べてみることにしよう。ふむ、曲線美とこの眼が認識したのは俺の見当違いではないようだ。確かにこのチョコの像は女性的な美しく丸い線を各所で描いている。

 胸も豊満でチョコで出来ていると言うのに思わず揉みしだきたくなる妖艶さがあり、腰もくびれるところはしっかりと細くくびれ、かつ健康的な肉付きだ。ポーズはなんだろうか、既視感がある。この像には腕があるが、ミロのヴィーナスを彷彿とさせる佇まいだ。

 流石に本家本元の様に乳房を晒してはいないが、これぞギリシャの踊り子らしい恰好だ、と万人が思う様な質感を感じさせる造形のチョコ製布で隠されている。

 やはり、最後まで顔は見たくなかったが、ここまで来ると俺でもこの像が何者なのか理解することが出来る。やはり、このチョコ像の顔の主は、束さんだった。

 確かに、誕生日やクリスマスの様なお祝いごとの度に、

 

『この束さんがプレゼントだよ!』

 

 と、全裸にリボンを巻き付けた古典的な、けれども扇情的な格好で迫ってきたこともあった。が、まさかここに来て自分を元にした彫像チョコを贈って来るとは夢にも思わなかった。

 ふぅ、と改めて溜め息をついてもう一度束さん像を見直す。

 私を食べて良いんだよ、という言外の意味も込められているとは思うのだが、成人女性とほぼ同型のチョコなど、全部食べきる間に糖尿病になってしまいそうだ。

 どうしたものかと、とふと束さん像の胸に目をやって。

 

 ――おや?

 

 今、一瞬だが、豊満な胸が上下したように見える。そんな筈はない、これは原材料チョコレート100%の、ただの束さんの形をしたギリシャ風チョコレート彫刻だ。そうだ、そうに違いない。

 だが、一度生まれた疑惑という物は確かめなければならない。もし、俺の予想が合っているのだとしたら――

 

 意を決する。

 一度疑問に思ったのなら、ぶつけてやるのが束さんに対する礼儀である。もしかしたら実はどこか別の場所から俺の反応を窺っているだけかもしれないが、道化になったとしても、やってみる価値はある。

 俺は大きく息を吸い込んで、言った。

 

 ――どうせなら、束さんから直接手渡しされたかったな。

 

 と。

 

「ほんと?」

 

 声が、間髪入れずに聞こえた。ぎぎぎと効果音が付きそうな程に頭が重い。視線を上げるだけでこんなにも疲れるとは思わなかった。

 束さんチョコ像と目が合った。確かに先程までは悩ましげな表情で閉じられていた瞳が、今はしっかりとこちらに見据えられている。

 

「ねぇ、それって、ほんとにほんとにほんと?」

 

 どうせなら、面と向かってチョコレートを渡して欲しかったですけどね。と、正直な想いを束さんチョコ像改めチョコレートコーティング束さんに伝える。

 すると満面の笑みを浮かべて、束さんは俺の手を握って口を開いた。

 

「本当はね、直接渡そうって思ったの! でもね、やっぱり折角の記念日だし、心に残る様なイベントになって欲しいって思ったの! 君が他の女の子から、君の事を何もわかっていないような女狐どもから親愛も友情も無い義理の塊の様な反吐が出る物を贈られるとは思うから、だから私だけは君の事を一番に考えた物を受け取って欲しいって! このチョコも全部君の為のもの、すべて君の味覚に合う様に遺伝子レベルからカカオの種を厳選した上で、この束さんが生育してそこからの製造過程も全部全部私が丹精込めて作ったの! あ、もちろん髪の毛とかそんなものは入ってないよ? そんなもの入れなくても、君は私の気持ちをよく理解してくれてるからね! でも強いて言うなら愛情がたっぷりと入ってるかな……えへへ」

 

 はにかむ束さんは確かに可愛いのだが、正直言うと、チョコレートの像の眼だけが人間で、それがかっと見開いているので怖いです。

 できればその、束さんの身体を舐め取ってチョコレートを食すというのは勘弁願いたいのですが。

 

「えぇー……これは私もプレゼントに含まれてるんだけどなぁ……君が私の全身のチョコレートを舐め取って、姿を現した束さんとそのまま熱い夜なんて……えへ」

 

 人差し指を擦りあわせてもじもじする束さんはとても可愛い。その全身チョコレートコーティングの姿でなければ。というより食べ物をそんな風に扱うのは正直、やって欲しくないことであるのだが。

 

「それは大丈夫! これはね、ISの技術を応用したチョココーティングでね、束さんの肌とは1ゼプトほど離れているから厳密には肌とは密着してないの! それに抗菌バリアーもチョコ表面に展開済みだよ?」

 

 本当にこの人はとんでもない技術の無駄遣いをするものである。まぁ、そのチョコレートコーディングが正しくはスーツみたいなものと分かっただけで十分だ。できればそのチョコスーツを脱いでもらった方が俺としては嬉しいのだが。

 

「脱いでいいの? 私……その、この下……ね? 着てないんだよ?」

 

 最後の方は小声で聞き取り辛かったが、今束さんは何と言ったか。

 着ていない、つまり、チョコレートスーツの下は、全裸であると。

 それは困る。幾ら俺が我慢しているとはいえ、いきなり束さんの全裸を見せつけられては思わず衝動的に襲い掛かってもおかしくない。それくらい束さんは魅力的なのである。今俺が理性を保てているのも、チョコレートスーツのおかげで恐怖と言う感情が俺の欲棒を萎えさせているからでもあるからだ。

 できれば、ちゃんと固形としたチョコレートを、普段のままの束さんから渡して欲しいと言った旨を伝えると束さんは。

 

「わかったよ! 腕によりをかけて作るからね!」

 

 と言い終わるや否や、現れた時と同じようにまばたきをした一瞬の内に影も形も無く消え去っていた。

 今日何度目になるかわからない溜め息をつく。

 でもそれは、言葉にすると変だが嬉しいものであったと自分では思う。

 

 

 後、改めて束さんから丁寧にラッピングされたチョコレートを渡されたのだが、その時の事はあまり思い出したくない。

 朝に寮室のドアを開けたら束さんが居て、ハート型のチョコを渡してきた結果、当然だが織斑先生に篠ノ之に他の生徒にと見つかって、とんでもない騒ぎに発展してしまいバレンタインデーどころではなかった。

 ようやく諸問題に解決の目途が立ってから束さんのチョコレートを口にしたのだが、確かに俺好みで今までにない程の美味であったとだけ、言っておくことにする。

 




よし、2月14日と8日と8時間35分に完成したのでバレンタインに間に合ったな!
束さん短編関連では季節系のイベントに関しては全部やっていけたらいいなぁと思っています。
他の作者さん方の様に、活動報告の方でリクエストボックスを作ってみようかな?

よもぎもち様、Timer様、SERIO様、cf08@salt様、誤字脱字報告ありがとうございます。


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天災兎と甘い一瞬

バレンタインより前のお話。VT事件から少し後、シャル再転入前くらい。


 篠ノ之束の思考を予測することは可能であるか、との問いをすれば帰ってくる返事は間違いない、NOだ。

 頭のネジが一本吹き飛んだくらいであれだけの天才になれるのであれば、今頃世界中の人間が壁に頭を打ち付けてネジを外そうと躍起になるに違いない。あの人はネジどころか回路基板そのものが違うと思った方が良い。ともかく、篠ノ之束という存在はそれくらい、人類から見ても規格外の存在なのだ。

 例えそれが、血の繋がった姉妹であったとしても。

 長々とした前置きはここまでとして、俺がそんなことに考えを巡らせたのは目の前に座る篠ノ之箒が切り出した言葉が原因である。

 

 

 放課後特にすることもなく、かといって束さんの襲撃も怖いので、織斑先生の目の届く範囲でうろつこうと思っていた俺を待ち受けていたのは、一夏を囲む女性陣たちに加え三人目となる男子生徒だったシャルル改めシャルロット・デュノアである。

 もっとも、デュノアが女であることは、一夏と俺を含めた三人の秘密であるが。

 凰にここに座って欲しいと頼まれ、オルコットに紅茶をどうぞと渡され、デュノアに背後を固められてと、お茶会にしては随分と物々しい雰囲気である。ゴシップを期待してか、こちらに耳を傾けているクラスメイトが大勢居る。というよりこのクラスの人数より明らかに多い気がする。多分、廊下の方にも野次馬が数えきれないくらい居るであろうことは想像に難くない。

 横からまぁまぁケーキでもどうぞとのほほんさんこと布仏さんからケーキを受け取り、一夏不在の女生徒の園の中心で、何の罪で俺は取り調べを受けなければならんのだと紅茶を一口啜った。

 おいしい紅茶だ、こんな尋問めいた状況でなければより美味かっただろうに。そんなことをぼんやりと考えていたら、主催であろう篠ノ之箒が目の前に座って口を開いた。

 

「その、お前はどのくらい先に進んでいるのだ?」

 

 どのくらい、と言われても何が、としか言いようがない。

 束さんは俺の日常生活を邪魔するが、勉強を見てくれたりとか身体を改造しに来たりとかそういうことは一切ない。つまりは俺だけがISの秘密を教えて貰っているとか、何かインプラントを埋め込まれているとか、期待されるようなことは特にないのだ。

 という旨を箒に述べたのだが、どうも歯切れが悪そうである。いつも一夏には歯に衣着せぬ物言いの篠ノ之が、こうも言い淀むとは。珍しいこともあるんだな、と俺は紅茶に口をつける。

 

「その、だな……あの人とお前の、男女の関係についてだ。もう、することはしているんだろう?」

 

 思わず紅茶を噴き出しかけた。ぐっとこらえたが、見事に気管に入り込み激しくむせる。まさか、姉とは正反対で堅物まっしぐらだと思っていた篠ノ之箒からそんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。

 というか、そんな話題を俺に聞くか、普通。

 ちょっとエッチな恋愛の話なら俺ではなく、もっと経験豊富そうな人に聞いてほしい。織斑先生とか山田先生――ではなく二年生や三年生といった人生の先輩方に、だ。

 そうか、これは俺の恋愛経験を聞きだすのが主目的の集まりか、と思ったが篠ノ之だけは別のようである。大多数が期待を膨らませているのに対して顔が暗い。

 

「正直に話そう。私は幼い頃あの人と共に育ってきたが、こんなにも一つのこと……個人に執着しているのは覚えがないことなんだ。だから、その、な。あの人がやると決めたら突き進む人なのはわかるだろう?」

 

 それは言われなくてもわかる。世界を相手に白騎士事件なんて派手なことをした挙句、逃げ回るのを楽しんでいるのが束さんだ。確かに、あの人はとんでもないことをやらかす印象が強いから恋愛面でもそうだと思うかもしれない。

 だがあの人は、篠ノ之が思っているよりも乙女だぞ。

 と、俺の束さんに対する印象そのままを言ったのだが、篠ノ之のみならず他の誰からも珍妙な生物を見るかの様な視線を向けられる。唯一違うのは「そうなの~?」と素直に驚いてくれるのほほんさんくらいだ。

 半ば自棄になりながら、のほほんさんからもらったケーキを食べる。悔しいが、これもまた美味い。

 

「だ、だって……あの人は自分を曲げる様な人じゃ……」

 

 篠ノ之は大分ショックを受けているようだが、仕方のない事なのかもしれない。篠ノ之の辛い境遇は一夏の言葉の端々からなんとなく察しているが、姉である束さんに憎しみを抱いていても仕方ないだろう。

 周囲の人間はもっと恋愛的に面白いことがあるんじゃないの、と邪推しているようだが。

 しかしだ、俺は篠ノ之が想像するような束さん像で話をするつもりもない。周りが望むからといって俺は束さんに対する印象を面白おかしく歪めて伝えるつもりもない。例え俺が恥をかいたとしても、構わない。

 

「で、では、無理矢理襲われて……とかそういったことは……?」

 

 オルコットも人並みに興味があるんだな、なんて思いながら俺はそんなことはない、ときっぱりと否定する。

 束さんは嫌と言ったら引き下がってくれる人である、もちろん俺を誘惑して色香を振り撒く時はあるが、基本的に俺の意志に委ねてくれている。だから、あの人は無理矢理なんてことはしない。

 

「じゃ、じゃあキスはどうなの?」

 

 凰が興味津々と言った態度で訪ねてくる。

 俺はファーストキスもまだだと言ったところで、なんで俺がこんなことを大勢の視線が集まる中で白状せねばならないのか、と悲しくなってきた。

 小さい頃に親とか、それこそ犬とか猫とかとキスをしたかもしれないが、俺の記憶の中に誰かと恋愛的な意味のキスをした記憶はない、と言い切った。

 お茶会ではなくこれは拷問か、本気で泣きたくなってきた、流石にもう無理だ。

 それだけなら、俺は帰るぞと言うと、篠ノ之はぐっとこらえてもう一つだけ聞かせてくれ、と言ってきた。渋々、浮かせかけた腰を椅子に降ろす。

 

「で、ではなんでお前は……あの人を、姉さんを受け入れないんだ?」

 

 そんなの、決まっている。

 

 ――怖いから。

 

 俺の言った言葉の意味がわかりません、といわんばかりにぽかんとした顔をする篠ノ之。周りを見渡してみれば皆も同じ様な反応をしている。のほほんさんまで唖然としているのだから、よっぽど奇妙な答えだったのだろうか。

 

「怖いのなら、何故拒絶しないのだ?」

 

 篠ノ之が、絞り出す様に言う。さて、そう言われると俺も困った。

 何故、怖いのに拒絶しないのか。恐怖する相手に対しては拒絶する、あるいは避けるというのが人間の性である。

 つまり、俺は束さんからのちょっと行き過ぎたアプローチを満更でもない、と思っているのか。しかし、同時に恐怖している。

 

「それは、どういう――」

「何をしている、お前たち」

 

 篠ノ之の次の言葉は、突如教室に押し入ってきた織斑先生によって遮られた。もっとも、あれだけ教室の前に人だかりができていたら、教師としては確認をせざるをえないだろう。

 織斑先生は篠ノ之に相対する俺の顔を確認すると、何事か悟ったのか、

 

「言っておくが、私の目が黒いうちはこの学園の中で不純異性交遊はない。相手が誰であろうともな」

 

 と言うと、さぁ帰れと生徒たちを帰寮させていく。織斑先生は万事平等、このまま居ては頭に生徒名簿の一撃をお土産に貰うことになるので、オルコットとのほほんさんに紅茶とケーキの礼をして、引き上げることにした。

 ちら、と教室を出る時に振り返ると、篠ノ之は俯いていた。

 

 

 ひそひそと噂されながら寮の自室に戻るのは初めてではない。二人目の男子生徒として入学した時と、篠ノ之束のお気に入りと判明した時と、大いに噂された。

 三度目なのだから今更、とは思うのだがやはり少しは気が滅入る。

 こんな時は束さんの全てをぶっちぎった思考が恋しくなる、と思ったがすぐにその考えを振り払う。あの人はこういう時に限って部屋に居たりするのだ。

 ドアを開ける。かぐわしい紅茶の香りが漂ってくる、さっとドアを閉じた。

 

「やぁやぁやぁ、とりあえず座って一緒にお茶しない?」

 

 当然というかやはりというか、束さんが部屋に居座っている。束さんが座っているのは不思議の国のアリスから飛び出してきたようなデザインのチェアだ。あんな家具はこの部屋になかったから、束さんの私物だろう。

 個人用のデスクトップが乗ったテーブルに、ティーセットとケーキがある。どうやら言葉以上の意味はなさそうだ。部屋の備品である椅子に腰掛ける。

 すっと、束さんが紅茶の入ったティーカップを差し出してくる。俺は受け取ってそのまま口につけた。温度も口当たりも味も、全てが未体験のロイヤルミルクティーだ。

 束さんは満足そうに頷いている。

 

「前に、君の生活アルゴリズムの解明が私の最高順位だと言ったよね?」

 

 確かに、そんなことを言っていた。

 

「この紅茶とケーキは、君の事を束さんがどれだけ理解(わか)っているかの証だと思って欲しい。君が好む茶葉に最適な水、温度から牛乳、ケーキも小麦粉に至るまで全て厳選した、束さんの手作りだよ!」

 

 束さんが胸を張り、豊満な胸がたゆんと揺れた。

 先程紅茶とケーキを食べたばかりであるというのに、フォークが止まらない。

 

「ふふふ、君が紅茶やケーキを食べてくることはわかっていたからね! それに合わせて口当たりの良さや味も変えておいたのさ!」

 

 まったく、この人にはかなわない。

 これでは最高です。と言わざるをえない。

 

「えっ、本当に本当? 最高なの? 良かったぁ~……えへへ。ま、まぁこの束さんが作ったものだからね! 万に一つも失敗することはありえないんだけどね!」

 

 にへら、と顔を緩ませた後にきりっとした表情になる束さん。ころころと表情が変化する様子は見ていて楽しいのだが、だからこそ、恐ろしいのだ。

 束さんが俺の心境の変化を読み取ったか、おずおずと聞いてくる。

 

「君は……私のことが怖い?」

 

 はい、と即答した。

 束さんは先程の篠ノ之との会話を聞いていたに違いない。そもそも地球上で束さんが認識できない場所があるのだろうか。多分、ないと俺は思う。

 俺はロイヤルミルクティーを飲み干してティーカップを置くと、束さんに恐怖を抱いた瞬間を思い出した。

 その時までは、美少女がある日突然俺に告白してくれないかな、なんて都合の良いことを考えていた。が、それは突然最新鋭の兵器を装着させられた上にやっぱり君は私の運命の人なんだよ、なんていうインパクトがありすぎる告白などではない、断じて。

 

「むー! 嘘ついてない。束さん傷ついちゃうなー」

 

 束さんがすらりと伸びた白い脚を、ぷらぷらと遊ばせる。

 考え込む素振りを数秒すると、パッと何かを閃いた顔をする。

 あ、これはロクでもない考えだな。

 

「これから私、世界を滅ぼすね」

 

 なら、俺が止めます。これも、即答していた。

 正直言うと怖い。この人はやろうと思えば即座に世界を滅ぼせる人なのだ。更に俺が束さんを止めるとなると、ISに乗ることは必然になるのだが、束さんこそがIS開発者なのだ。俺の乗るISを無効化したりするくらい朝飯前に違いない。それでも、止めてやろうと思うのはやっぱり、理屈じゃない。

 

「………………」

 

 束さんは無表情のままこちらを見て、にこっと笑った。

 

「なーんて、冗談だよ。私が、君が嫌がる様なことするわけないでしょ? 束さんは君のものだ。だから、私はなんだってする。君が言うなら世界だって滅ぼすし、ちーちゃんもいっくんも箒ちゃんだって殺せるよ?」

 

 この人は本当に、さらりととんでもないことを言う。肉親や親友を殺すなんて、そんなことを束さんにさせる訳にはいかない。

 

「でもさぁ、それならどうして束さんの事を拒むの? 君だったら、私は何をされても構わないんだよ?」

 

 ちらりとワンピースの襟を開く束さん。繊細なレースが編み込まれた黒のブラジャーが、俺を誘う様に覗いている。思わずごくりと唾を飲み込む。確かに魅惑的なお誘いだ。今すぐ束さんの手を取ってベッドに押し倒したい。それが本心だ。

 でも。

 

 ――束さんを手に入れたら、束さんは消えてしまうんじゃないか。

 

 そう、頭をよぎって仕方ないのである。

 しかし、束さんは俺が手を出さない理由を聞くと笑い転げてしまった。なんだなんだ、人が割と真剣に悩んでいるのに、そんなに笑わなくてもいいだろうに。

 俺が憮然とした表情で紅茶を飲んでいると、目尻に涙を浮かべた束さんはにやにやとしている。

 

「ううん、ごめんね。それは君が私に手を出せない訳だ。うん、客観的に見て君と私は釣り合ってなどいない。釣り合っていなければ、私が一方的かつ即座に君を見限ってもおかしくない、普通はそう考える」

 

 面と向かって言われては、それはそれで傷つく。

 けれども束さんは傷心の俺に構うことなく立ち上がって、俺の前に立つ。そして俺が考える間も無く、くるりと背を向けて両脚の間に座り込む。自然、俺は深く椅子に座ることになるが、身体は否応なく束さんに密着することになる。

 束さんは、どこも柔らかい。しかも良い匂いがする。石鹸とか香水とかそういう人工的なものではなく、束さん自身から発せられている様な感じだ。

 束さんの健康的で安産型なお尻が、容赦なくぐりぐり押し付けられてくる。性感が突きあがり、このまま抱きしめて胸を揉みしだきそうになるのをすんでのところで堪える。

 

「そう、釣り合っていない。だからこそ君と私の間には愛という不確定なモノは存在し成立する。しかし私は科学者だ。自分の身体のことは完璧に理解しているし、愛や性欲というモノは脳内物質の働き如何によるものだと幾らでも証明できる。なんだったら分泌の加減も自分でコントロールすることだってできるから、愛を芽生えさせることも性欲を増減させることも自由自在だ」

 

 と、束さんは俺への悪戯を止めて、猫の様にぐりぐりと頭を胸板に押し付けてくる。束さんの頭が、すぐ目の前にある。

 

「しかし、私はそういったコントロールを完全にした上で尚、君に対して愛と性を感じている。これは揺るぎない事実だ。それでも君は、私を失うことを恐れるのだろう。私を信頼するが故に、疑ってしまう」

 

 何度も言うが、束さんは魅力的過ぎる人である。そんな人にのめり込んで、いや、そんな甘いレベルじゃなくて、溺れた後にすっと姿を消されてしまったら、きっと俺は耐え切れない。

 束さんは俺の胸の中でくすくすと笑う。

 

「ふふふ、自分の魅力が恐ろしいがこれほど恨めしいと思ったこともない。君の為に全てを磨いてきたのに、それが仇になるとはこの私の眼でも見通せなかった。が、だからこそやりがいがある」

 

 すっと束さんが立ち上がった。正直、束さんの体温が恋しくてたまらないのだが、そこは気合で乗り切る。ここで襲い掛かっては、何もかも台無しだ。

 もっとも、襲い掛かったとしても束さんは受け入れてくれるのだろうけど。

 

「私は絶対絶対ぜぇぇぇったい! 私を(・・)君のモノにしてみせるからね! だから私は愛を証明するためになんだってするからね! 君の言いつけ通り世界は滅ぼさないし誰も殺さない! 君が私をモノにするまで、私は証明し続けるから!」

 

 そう言うと束さんは大輪の笑顔を咲かせた。

 

「まぁ、それはそれとして」

 

 思わず椅子からずり落ちそうなテンションの急落である。真顔に戻った束さんは元のチェアに座り、俺も姿勢を正す。

 

「頼まれていた通り、あの女に関することは全てやっておいたよ。もうっ、君の頼みじゃなかったら絶対やらなかったんだからね!」

 

 束さんは最後の方はぷんぷんと頬を膨らませていたが、この寸前までは絶対零度の無関心を隠さない声だった。やはり、この人は恐ろしいが、頼りになり過ぎてしまう。

 束さんの言うあの女とは、デュノアのことである。一夏がデュノアを連れ立って部屋にやって来たときは何事かと思ったが、まさかデュノアが実は女でフランスに帰さない為に協力して欲しい、と言われた時は本気で困った。

 もちろん一夏がそんな悪趣味な嘘をつくとは思わないので、更に困ったことになった。

 結果、その途中のいろいろを省くが、束さんなんとかしてくださいという情けないメールを送る次第になったのである。

 

「でもなぁ、束さん、君の頼みを聞いたんだから、ちょっとくらいご褒美があってもいいと思うんだけどな~」

 

 ちらちらっ、とわざとらしく言いながらこちらを見てくる束さん。これは多分、束さんの望むご褒美を進呈しないと後で拗ねて大変なパターンになるやつだ。

 悩む、束さんはどんなご褒美でも喜んでくれるとは思うのだが、なんでもというのが一番困るというやつである。頭を抱える、束さんは相変わらずちらちらとこちらを見ている。

 形の良い、瑞々しい唇が、可愛らしくとんがっている。

 

 ――じゃ、じゃあキスはどうなの?

 

 凰の言葉が甦ってくる。熱情と劣情に任せて束さん、と肩をがっしりと掴む。いきなりのことで驚いたのか束さんにしては珍しくあわあわと唇を震わせている。俺がじっと見ているものを気付いたか、束さんは顔を真っ赤にして小さくなっていく。

 

「あ、あの、あのね? 束さん、知っての通りキスもハジメテなんだ。だから、だから、とっても幸せなキスにして。ね?」

 

 それ以上は、言わなかった。束さんは瞳をとじるとおずおずと唇を差し出してきた。束さんは、小さな肩を震わせて俺が来るのを待っている。

 俺は気合いを入れ直した。女性に恥をかかせてはならない。

 

 

 

 

 

 ――その後はどうしたかはご想像にお任せする。

 

 ――ただ、レモン味ではなく、紅茶の甘い味だった、とだけ。

 




もの凄い数の評価と感想、ありがとうございます。束さんの力は凄い。
期待の高さに応えられるだろうかという重圧が胃に来ます。
前回までがマッドに振り切った束さんだったので、今回は乙女(ちから)に振り切った束さんを意識して書いたのですが、いかがでしょうか?
こんな感じで極端に振り切ったり振り切らなかったりを続けて行こうと思います。
進捗などに関しては活動報告の「書けタスク」に随時更新していきます。

nicom@n@様、山のカニ味噌様、SERIO様、radatoy様、ふまる様、誤字脱字報告ありがとうございます。


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天災兎と放課後の逢瀬

「いやー、こういうこと一回やってみたかったんだよねー」

 

 そう言いながら束さんが夏の日差しの中で踊るようにくるくると回る。短いスカートがふわりと空気を含んで舞い上がり、惜しげもなく太腿と脚の付け根の先を隠す布地を晒す。

 鮮やかなピンク色を脳裏に刻みつけながら、いつものロングスカートのワンピースとは違う服装だから加減が慣れていないのかとも思ったが、この人の事だ。スカートの物理運動くらい計算した上やっているに違いない。

 そういう前提で束さんに止めるよう言ってみる。

 

「ふふ、見せてるんだよ?」

 

 束さんは妖艶な笑みを浮かべる。いたずらっぽくスカートを摘まんで捲り上げる束さん。ゆっくりと上がっていく布地は、いよいよその中身を晒すというところで解放され重力にしたがって元の位置へと戻る。

 

「そしてこれは――」

 

 束さんが俺の腕をとって抱きこむようにしながら横に並ぶ。ぐいっと引っ張られた腕が、否応なく束さんの柔らかな胸に当たる。

 

「当ててるんだよ?」

 

 束さんの顔を、直視できない。まったくこの人は、俺がどうすれば喜ぶのかちゃんとわかってやっている。わかってやっているからこそ、余計にたちが悪い。

 俺はそっぽを向く。もう夕暮れ時であるというのに、外の日差しは未だに眩しい。ただ、俺以外にはやらないでくださいよ、と言うのが精いっぱいだった。

 その時の束さんの表情を見ていないが、多分、何かしらの笑みであったのは間違いない。

 俺の頭を両手でぐっと引き寄せると、唇の甘い熱さを感じる程の近さで。

 

「もちろん、君にだけだよ」

 

 と囁いて俺を解放すると、今度は無邪気に笑いながら先を歩いていく。しばし呆然とする。束さんの吐息のこそばゆさが、まだ耳に残っている。

 

「どうしたのー? おいてくよー?」  

 

 何事も無かったかの様に平然としている束さん。

 やっぱり束さんは恐ろしい。時には無垢で残酷な子供の様に、時には色香溢れる狡猾な大人の様に両面があって、それを使い分けている。

 あんなほがらかな笑みを見せられては、俺はただ苦笑するしかないではないか。

 

 

 ことの発端は例によって例のごとく、束さんの発案である。

 寮の自室で漫画を読んで寝転がっていたら、足元から気配を感じる。なんだと思い視線を向けて見れば、ベッドの先にウサミミが生えているではないか。どうやって入った、とかどうしてここに、とか問う気にもなれず、ただどうしたんですか束さん、と声を掛ける。

 ぴょん、としゃがんでいた束さんはそんな擬音が付きそうな勢いで飛び跳ねて、ベッドへと着地する。両足の間にお尻を落としたいわゆる、女の子座りだった。無論、俺の足を下敷きにしないようにして、である。

 

「もう、いつ気付いてくれるのかハラハラしっぱなしだったよ!」

 

 そんなことを言いながら、目は何かを思い付きました、と言わんばかりに爛々と輝いている。是非とも聞かずにおいておきたいのだが、聞かなければ束さんはずっとここに居座るつもりだろう。

 読んでいた漫画をサイドテーブルに置いて起き上がる。

 束さんは俺の了承は得たと言わんばかりに満面の笑みを浮かべ。

 

「一緒に学園を歩かない?」

 

 などと言うのだ。

 ふむ。学園を歩くとは、これまた妙なことを言う束さんである。束さんの手に掛かればセキュリティもなんのその、学園内を歩き回ることなど自由自在だろう。

 少々、真意を掴みかねる提案である。

 すると束さんは膝を抱きかかえて、憂いのある表情を浮かべた。

 

「私はね、学校がつまらなかった。どいつもこいつもレベルが低すぎて話にもならなかった。本当に話にならないんだよ? それは教師とかいうやつらもそうだった。やつらは大層な肩書を持ってるけど、私からすれば赤ん坊と同じくらいの知能でしかなかった。だから、とにかく苦痛だった。私にとっては監獄、拷問、責め苦。とにかく学校とは嫌な場所でしかない」

 

 ベッドに人差し指を落とし、円を描く様に回している。

 ランドセルを背負う幼い束さんを想像したが、この人の子供時代の姿がいまいち想像できない。どうしてもランドセルを背負った今の束さんになってしまう。

 ところで、この人の最終学歴はどうなっているのだろう。ふと思ったが考えるだけ無駄か。学歴の偽装など造作もないだろう。

 でもね、と束さんは続ける。

 

「君が居たなら……きっと私も、学校が楽しかっただろうな、って思ったの」

 

 すっと顔を傾けて、上目使いで覗き込む様にこちらを窺ってくる束さん。こんなの反則である。こんな仕草でお願いされて、嫌ですと断れる男なんてまずいない。

 続けて束さんはトドメの殺し文句を放ってくる。

 

「私は、君と学校で過ごしたかったな。君は、嫌かな?」

 

 これで断れるヤツが居るなら、顔を見てみたいくらいだ。少なくとも俺は断れないし、是非ご一緒したいですと首を縦にぶんぶん振るうだけである。

 束さんはそれだけで、嬉しそうに笑みを浮かべてくれるのだから、尚更だ。束さんは両手を合わせてはしゃいでいる。

 

「良かったー! ちょっと不安だったんだよね、くつろいでいるところを邪魔しちゃったから、怒ってるかな? って思ってさ。じゃあ、先に着替えるね!」

 

 と、束さんはベッドから飛び降りるや否やカチャリと腰のベルトを外し、ワンピースの肩口に手を掛けていた。

 待て待て待て、何故ここで着替えるのか、そもそも男の俺が居る目の前で着替えようとするとは何事なのか。ちょっと待ってほしい。

 一方の束さんはどうして止めるのかわからないといった顔で。

 

「? 私は別に、君に隠すことなんて何もないんだよ?」

 

 さも当然の様に束さんは着替えを続行しようとする為、俺はやむなく自分の制服を引っ掴んでシャワー室へと戦略的撤退をすることになった。

 閉めた扉の隙間から衣擦れの音が聞こえてくる。ぱさりと、大きめの布が落ちた音がした。あのロングスカートのワンピースを脱いだのだろう。すると今、束さんは下着姿で俺の部屋に立っているということか。

 正直見たい、しかし見たら束さんの思う壺である。でも見たいものは見たい。

 いや、いっそのことあの場で余裕を持って優雅にガン見していれば、束さんは逆に恥ずかしがって着替えるのを躊躇ったかもしれない。束さんはそういう人だ。けれども、束さんは『君が見たいなら、うん。いいよ』とか言って頬を赤く染めながら、服に手を掛けるのである。

 想像して、やめた。容易に想像できたのもあるが、それはそれで俺の理性が保たない。逃げを打ったのは大金星だったのだ。間違いなどではない。

 俺は衣服が擦れる音を聞きながら、自分の制服に袖を通した。

 

 

 そういうことがあって、束さんが着ているのはいつものワンピースなどではなく、IS学園指定の女子用制服である。どこからどうやって手に入れたのかなど、それこそ束さん相手に愚問だろう。今日ばかりはいつものウサミミもお休みである。

 そもそも、今は夏休みで生徒のほとんどがIS学園から出払っている。そんな時に俺の部屋を訪れたのだ。最初から計画を練った上で押しかけてきているのだから、用意周到に決まっている。

 俺の想像に過ぎないが、警備とかそういった類の把握や細工といった諸々を準備した上で、束さんは俺との学園漫遊を楽しんでいるに違いないのだ。

 

「ねぇねぇ、ちょっと教室に入ってみない?」

 

 束さんが教室を指差す。そこは見慣れた一年一組の教室であった。束さんに提案されるままに、教室へと入る。

 誰も居ないがらんとした教室に注ぐ西日の光。人が居ないだけで別世界の様に思えるその中で、束さんの後ろ姿は一枚の絵画の様だと月並みの言葉を贈ることしかできない。

 きょろきょろと辺りを見渡した束さんは俺の机を指差すと、

 

「ねぇ、これが君の席だよね!?」

 

 なにやらいたく興奮したように訪ねてくる。

 とりあえず首肯すると、束さんは腕を組んでうんうんと悩み始めた。

 

「……ここに普段座っているのか、ならばここには私が座って、いやダメだ。そうなると他のやつの椅子に座ることになるから……でもそうなると……」

 

 束さんの悩む姿なんて初めて見た気がする。希代の天才マッドサイエンティスト、篠ノ之束の悩みがフェルマーの最終定理だとかミレニアム懸賞問題とかそういうものでなく、どの机に自分が座り俺をどこに座らせるかで悩んでいるとは、世界の誰が想像できるだろうか。

 しばし唸っていた束さんだが、突如俺の席に座ったかと思うとすぐに立った。そして隣の席へと座る。随分とせわしないが、どうやら束さんの中で世紀の難問は解決されたらしい。

 

「じゃあ、君はいつも通りに座って!」

 

 言われるがまま席につく。すると束さんは机を動かして俺の机にぴったりとくっつける。椅子も、心なしか俺の側に近付いている様な気がする。

 肩と肩が触れ合う様な距離。束さんの静かな息遣いが聞こえてくる。

 ここまでくれば束さんは何がしたいのかは察せる。自室に持って帰るのも面倒だった資料集を適当に引っ張り出して、机の合わせ目の上に置いた。

 しばし、二人で意味もなく資料集のページを眺める。

 

「……やっぱり私」

 

 束さんが呟く。

 ぐっと身体をこちらに近付けて、俺の肩にもたれ掛るように頭を乗せる。

 

「君が好き」

 

 かっと身体が熱くなる。何の心構えもできていないのに。かといってこのまま無言でいるのは男としてどうなのか。少しだけ息を整える、机の下でぐっと拳を握る。意を決し想いを言葉へと変える。

 

 ――俺も、束さんのことが好きですよ。

 

 束さんは、何も言わずに机の下に握られた拳に手を伸ばしてきた。重なり合う手。束さんの柔らかな手が、俺の握り込まれた拳を優しく包んでくれる。

 

「ありがとう」

 

 短くそう言うと、束さんは背筋を伸ばすと俺の方に向いてにこりと笑いかけて来た。

 

「ねぇ、教師と生徒ごっこ、してみない?」

 

 また変わった趣の遊びであるが、束さんが喜んでくれるのならもちろん協力しよう。とりあえず、束さんが生徒となって俺が教師の役ということになる。

 教卓に立つ。立ったのは良いが、何を言うべきかがわからない。自己紹介でもすればいいのか、それとも俺の拙い知識で授業の真似事でもすればいいのか。まったくもってわからない。

 す、と束さんが手を挙げている。俺は一拍どう呼ぶべきか考えて、教師らしく無難に篠ノ之さん、と呼ぶことにした。途端に不機嫌そうになる束さんだが、この遊びを提案したのは束さんだろうに。

 ピン、と束さんが思い付いた顔をした。

 

「先生! 私の事は束って呼んでね! 私は先生よりも年下だから、別にちゃんとかさんとか付けなくても良いんだよ? そういえば先生って独身だよね? だからこの束さんがお嫁さんに立候補するね! あ、なんなら今から同棲しても良いよ? いいよね? いいよね! うん、これは決定事項にしよう! じゃあね、じゃあね、好きなものは何かな? 腕によりをかけて作るからね! あ、でもでも、束さんを襲ってくれるのはもちろんいいんだけど、できれば優しくしてほしいかな、っていうのが唯一のお願いかな? でも激しくしてくれても束さん的にはオールオッケーで――」

 

 はい、束。その辺でやめときましょう。

 このままでは際限なく、言葉が濁流の様に溢れてきそうなので制止する。どうしたことか、束さんは顔を真っ赤にして縮こまっているではないか。

 束さんは喜色を隠しきれない、にへらとした顔で。

 

「はは……束って呼び捨てにされるのって、恥ずかしいけど嬉しいね」

 

 などと言うのだから、俺まで恥ずかしくなって頬を掻く。

 束さんは恥ずかしさを振り切るように席から立ち上がると「今度は私の番だからね!」と立ち上がって教室を飛び出してしまっていた。

 仕方ないので俺は自分の席に座って教師・篠ノ之束が来るのを待つ。

 時間にしてほんの数秒ほどにして、束さんは教室に入って来た。IS学園制服ではなく、織斑先生と同じようなきっちりとしたスーツの姿で。

 いや、なんでこの数秒でスーツに着替えられるんだ。

 

「え、これ? これはね、ISの技術を応用した早着替えで――」

 

 そこまで言ってしまったという顔をした束さん。おいおい、もしかしてその技術があれば、わざわざ俺の部屋で着替えるなんて方法を取らなくても良かったんじゃないか。おのれ束さん、俺を誘惑する為にそんなことをするとは。

 

「ご、ごめんね?」

 

 束さんの目が泳いでいる。いや、確かに耳が幸せではあったが、それはそれ、これはこれである。

 

「んーと、逃げるが勝ち、ってことでー!」

 

 束さんが教室を飛び出して行く。負けじと俺も束さんを追っかける。誰も居ない学園の中で、束さんと俺の笑い声だけが響いていた。

 

 

 追いかけっこが終わる頃には、あれだけ鬱陶しいと思っていた太陽の光はすっかり水平線の向こうへと降りてしまっていた。

 ここに束さんは逃げ込んだのかと、場所を確認して見ればIS学園の屋外プールであった。普段使用されていない時はしっかりと施錠されている鍵が、今は解錠されてしまっている。束さんの居場所はここで間違いない。

 次は一体、束さんは何を企んでいるんだろうと施設内へと入った時。思わず息を飲んだ。

 25mプールの真ん中で、スクール水着を着た束さんがただ浮かんでいる。普段は厚いワンピースの下に隠されている細く華奢な腕が、撫でまわしたくなるような脚が投げ出され大の字になって浮かんでいる。豊満な胸が上下運動をして小さな波紋をつくる。束さんは目を閉じているようだった。

 幻想的とも言える光景に、俺は座り込んでしばし見惚れていた。

 やがて束さんは俺の視線に気付くと、綺麗な姿勢のクロールでこちらまで泳いできた。プールサイドに手を掛けると一思いに身体を引き上げる。

 月明かりに照らされて、飛沫の一粒全てが美しく光る。しかしそれら全てが束さんを飾り立てる役割でしかない。ぽたりぽたりと、長い髪の先から、あるいは指の先から水滴が垂れる。

 

「………………」

 

 俺の前に立つ束さんの、いかに煽情的な肉体か。出るところは出て、くびれるところはくびれた身体は、水着の紺と白い柔肌のコントラストが更に引き立てている。

 束さんは何も言わず、犬か猫の様に膝をつき、手をついた。普段見ることのない、露わになった肩から束さんの瞳へと視線を動かす。束さんの瞳に、俺の姿が映り込んでいる。

 束さんの胸の先から、月の光を反射した水滴が一つ落ちていった。

 手を一歩、束さんが前に出す。その分、俺と束さんの顔が近づいてくる。また一歩、また一歩と近づいてくる束さんに、俺は目が離せない。

 月の光を背に受けた束さんの美しさは、どうあがいても俺の言葉に落とし込むことができない。ただひたすらに美しく、魅力的で、それでいて。

 

 ――恐ろしかった。

 

 妙な感情だと思う。陳腐な言葉だが、束さんは芸術的とも言える美しさだ。それを壊したい、思うがままに穢したいと湧き上がるのは俺の獣欲そのものだろう。

 ただ、この瞬間が全て無に還って実はただの夢であったのではないか。そう思わせるくらいの魔性も同時に併せ持つ束さんを前にしては、どうしても手を出すのは躊躇われた。

 束さんの顔がいよいよ近づいてくる、束さんが目を閉じた。

 俺も束さんに引き寄せられていく。

 

 ――ほんの少し触れ合うだけの、ついばむ様なキス。

 

 結局、束さんという華を手折ることは出来ず、けれども劣情を抑えきれない俺が出した妥協点とも言えるキスだった。

 だがそれでも十分だった。束さんはまさか本当にキスしてくれるとは思ってなかったのか、耳まで顔を真っ赤にしてあわあわと慌てている。

 対する俺も、なんでキスしたのか本当にわからない。月の光は人を狂わせると言うが、俺も何かに当てられてしまったのだろうか。てんでわからない。俺がわからないんだから、束さんのパニックは最高潮だったのだろう。

 

「も、もう私行くね! また遊びに行くからね! じゃあね!」

 

 と、言い終わる間には束さんの姿は消え去っていた。

 途端に、俺の心に虚しさと恐怖が押し寄せてくる。束さんは万能の天才だ。こうして俺の前から去る時ですら、何の痕跡も残さずに消えてしまう。僅かに、束さんが残していったと言えるものは、プールサイドから続く水の跡くらいでじきに消えてしまうだろう。

 とりあえず、立とう。そして帰って寝てしまおう。そしてまた、束さんが何かを思い付いてやってくるまで、じっくり腰を据えて待っていればいい。伸びをしながらそんなことを考えて、それはダメだと思い直す。

 俺はいつも束さんに与えられているばかりだ。だから、たまには何かお返しをしてあげたい。そんなことを考えながら、俺は寮へと歩き出していた矢先。

 

「おい、こんな時間にこんなところで何をしている」

 

 織斑先生に見つかってしまった。そういえば今まで学園の誰とも会わなかったのは束さんのおかげであったことを思い出しながら、ありがたい説教を頂戴するのであった。




束さんにIS学園制服とかスク水とか着せてみたかったんです。
同級生の束さんに学校のいろんなところで迫られたいと思いませんか?
私は思います。それが今回のお話のコンセプトです。
後はマッドでも乙女力にも振り切れるのではなく、健全なエロティシズムに振った感じです。
活動報告「書けタスク」の方に匿名で利用できるリクエストボックス設置しました。
注意書きを読んだ上でご利用ください。

与太話
このままだとラウラのキスイベントで束さんと戦争勃発するのでラウラを噛ませにしないまま、束さんオンリーを突き進む為に悩みに悩んだ結果、保留して今回のシチュエーションを思いつきました。
でも今回あまり愛が重くないような気がするのが改善点か……日和った。
あとこれ元々続き書く予定なかったので、設定に矛盾点があったらごめんなさい。
細かいことは束さん可愛いで乗り切ってください。
ラウラとも甘い日々を過ごしたい方は、拙作の「ラウラとの日々」をぜひご一読を!(宣伝)

以下御礼
たくさんの感想、評価、お気に入り、誠にありがとうございます。
更には皆様のお蔭で遂には日刊ランキング一位に入ることができ、感謝感激のあまり言葉もありません。
皆様の束さんへの愛、ひしひしと感じています。
今回のお話も、皆様が楽しんでいただけたら幸いです。

さーくるぷりんと様、ポチコウ様、hisashi様、knk440様、tar様、誤字脱字報告ありがとうございます。


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天災兎と胡蝶の夢

 閑静な住宅街を歩く。夕暮れ時の為、人通りはまばらだ。遠くの方から子供の声が聞こえているが、それもすぐに聞こえなくなるだろう。できれば完全に夜になってしまう前に辿り着きたいと思いながら、携帯で地図を表示させた。この辺りの筈、と左手にお土産のドーナッツが入った紙箱を握りなおした。

 

 ――束姉ぇ、元気かな。

 

 束姉ぇこと篠ノ之束。子供の頃、近所に住んでいた親戚のお姉さんである。初めて会った時はもの静かな人なんだな、と思っていたものだが、実際はかなりエキセントリックな性格をしていて驚いたのも良い思い出だ。

 束姉ぇが未だに家族付き合いのみならず、俺の家とも付き合いを続けていたとは驚きである。対人関係はまるで駄目どころか、自分以外の人間は価値なしとしているのだから。となると、そもそもこの状況はおかしく――

 

■Retry■

 

 住宅街のとある一軒家の前に立つ。表札には篠ノ之の文字。見慣れてない家はやはり緊張するな、とカメラ付きインターホンの前に立つ。

 

 ――束姉ぇの家か。

 

 束姉ぇこと篠ノ之束。いわゆる、親戚の美人なお姉さんである。それに極度に俺を愛してくれている人、を付け加えてもいい。

 俺がまだ小学生の頃から『私は君のお姉ちゃん兼お嫁さんになるからね!』と宣言され、中学生になれば『束お姉ちゃんと一緒に放課後デートしよう!』と車に乗って校門の前に現れ、高校生の時には『卒業したら私と結婚、しよ?』と胸を押し付けながら耳元で囁いてくるなどと、他にもあれやこれやとその手の話題には事欠かない。

 嬉しいを通り越して、どうしてこの人はこんなに俺に執着するんだろうと一時恐怖したものだが、それはそれ、これはこれである。

 美人なお姉さんに迫られるなど、思春期真っ盛りの健康男児が我慢できるはずもなく。俺が束姉ぇを押し倒したのも高校に上がってすぐのことであって、ちょっと待て。俺が束さんを押し倒したというのは本当なのか。俺はまだ束さんとそんなことになった筈は――

 

■Retry■

 

 インターホンを押す。どきどきしながら待っていると、家の扉が開いた。巣穴から出てきた兎の様に、束姉ぇがひょこっと顔を出す。

 今日からお世話になります、と俺が言い終わるより前に、

 

「待ってたよ、弟くん!」

 

 と、束姉ぇが抱きついてくる。

 束姉ぇこと篠ノ之束。親戚のお姉さんであり、俺が進学するにあたって下宿先として自分の家に住んだらどうかと提案した上で両親までも説得してくれた、世話焼きなお姉さんである。

 そしてスキンシップが少々激しい。束姉ぇ曰く、俺以外には全くやらないそうだが、人通りが少ないとはいえ、往来の真ん前でこんな風に抱きつかれると恥ずかしい。

 

「あっ、ご、ごめんね? ちょっと嬉しすぎてやっちゃった……」

 

 俺を解放して、えへへとはにかむ束姉ぇ。それに合わせて髪の房が揺れる。俺の視線を辿ったか、束姉ぇは結ばれた髪を触る。

 

「あ、これ? これね、ロングのままだとお料理の時とか邪魔になるし、ポニーテールにしてみたの。ど、どうかな……?」

 

 上目遣いになりながら、俺に尋ねてくる束姉ぇ。この人は仕草を含めて一々可愛いのだから反則である。

 似合ってますよ、と言うと満面の笑みになる束姉ぇ。やっぱり、束姉ぇは可愛い。長袖のピンクTシャツにタイトなジーンズとラフな格好ではあるが、それらをひっくるめて束姉ぇは魅力的なお姉さんである。

 にこにこと微笑む束姉ぇは、俺が持っているドーナッツの箱に気付いたようだ。

 

「え、お土産買ってきてくれたの!? ごめんね、気を遣わせちゃって。晩御飯の後に一緒に食べよう? あ、まずは晩御飯だね。さぁ、入って入って」

 

 と、俺の後ろに回るとぐいぐいと背中を押してくる束姉ぇ。

 はいはいと、俺は束姉ぇと今日から一緒に住む家へと入って行った。

 

 

「部屋の方はどうだった? 荷物もちゃんとあったよね?」

 

 二階から降りると、エプロン姿の束姉ぇが迎えてくれた。しばし束姉ぇの姿に見惚れていると、束姉ぇは不思議そうな顔をする。

 なんだか新婚夫婦みたいな感じですね。と、自分でも驚くくらい率直な感想を述べていた。

 

「も、もうっ! 晩御飯できてるから、一緒に食べよう?」

 

 と、束姉ぇは努めて平静そうな顔をしていたが、耳まで真っ赤にしていたことは言わないようにしておこう。

 リビングのテーブルにつく。目の前にライス、サラダ、スープ、ハンバーグが次々に並べられていく。どれも出来たてで美味しそうだ。特にハンバーグは一流のレストランに出ても遜色ない位の出来栄えに見える。束姉ぇは昔から万能な人だったが、料理に関しても抜群の腕前らしい。

 ドレッシングを持って来た束姉ぇが、エプロンをはずして向かいの席に座る。

 

「じゃあ、食べよっか?」

 

 二人、いただきますをする。

 ナイフとフォークを取って、一番気になっていたハンバーグに手を伸ばす。ナイフを入れると、切り口から肉汁が染み出してくる。一口サイズに切り、フォークで刺して口に運ぶ。

 

 ――うまい。

 

 噛むと同時に肉がほぐれ、閉じ込められていた肉汁が口いっぱいに広がっていく。玉ねぎの甘さと肉のうまみでとろけてしまいそうだ。

 束姉ぇが心配そうにこちらを見ている。こんなに料理が上手いというのに、何を心配する必要があるというのだろうか。

 

「そのハンバーグね、弟くんの為にいつもより頑張ってみたの。ど、どうかな?」

 

 けれども女性は声に出してくれるのが嬉しいものだと、束姉ぇから教えられていた俺は凄く美味しいです、とちゃんと感想を述べる。

 

「そう? よ、良かったぁ~。弟くんに美味しい、って言って欲しくて束さん頑張ったんだぁ~」

 

 ――微かな違和感。

 

「どうしたの? もしかして生焼けだった?」

 

 ちょっと美味し過ぎて感動していただけです、と束姉ぇには誤魔化したが、俺が覚えた違和感とはなんだったのだろうか。いや、ここで束さん(・・)ならきっと俺の為に肉や野菜を厳選したとかそんな感じの事を言うのではないか、と思って頭を振った。

 束姉ぇは昔からこんな感じだった様な(・・)気がするのに、俺は何を疑問に思っているんだ。

 様な、ってなんだよ。と自分でも呆れ返りながら、俺は束姉ぇの料理に舌鼓を打った。

 

 

 夕食の後、皿くらいは自分で洗おうとしたのだが「弟くんはお姉ちゃんの楽しみを奪うの?」という涙目攻撃に押し切られ、俺は大人しくテレビの前に置かれたソファーに座り、リモコンでチャンネルを回している。

 水の流れる音と、時折皿と皿が合わさる音。これはなんだかいい雰囲気だな、と思いながらニュースやらバラエティーを一瞬映しては切り替えていく。どうにもこう、ビビッと来るような番組に出会えない。

 次で最後のチャンネルか、と思いながら切り替えるとタイトルからしてどうやら恋愛映画のようであった。趣味じゃないな、と思いながらバラエティーにでもしておこうかとすると。

 

「あっ! そういえば今日か!」

 

 束姉ぇが、洗い物の手を止めて俺の隣へと座って来た。

 

「これね、お姉ちゃん楽しみにしてたんだ!」

 

 にこやかに束姉ぇが言うが、そう言われても困る。俺は恋愛映画に興味はないし、さらにそれを束姉ぇと一緒に見るのは気恥ずかしい。

 部屋にでも戻っておこうかとソファーを立つと、くっ、と服を引かれた。束姉ぇが、俺の服の裾をつまんでいる。

 

「ね、ねぇ……一緒に、見よ?」

 

 行こうと思えば行ける。それくらいの力だったが、俺は束姉ぇに逆らうことなくソファーに座りなおしていた。

 頬を染めて束姉ぇにそんなお願いをされたら、逆らえるわけがない。

 束姉ぇと並んで、映画を見る。始まった映画自体はありきたりなものだ。男と女が出会って、やがて恋に発展して、事件があっても二人で乗り越えより絆を深めていく。

 けれども一番困ったのは映画の内容ではない。

 映画が進むにつれて、束姉ぇが俺との距離を少しずつ詰めているのに気付いたのは、どのタイミングだったろうか。座りなおすフリをして、束姉ぇと距離を離してみる。するとその分、束姉ぇはいつの間にかこちらに近付いてくる。座りなおして離れる、束姉ぇはこちらに近付く。それを繰り返していると、その内俺はソファーの端へと追い詰められていた。

 今では束姉ぇはぴったりと俺に密着し、俺の肩に預けるように頭を乗せている。

 

「綺麗……」

 

 束姉ぇが呟いた。映画はいよいよクライマックスに差し掛かり、画面には絶景が映し出されている。いよいよお決まりの、終わり間際のキスシーンだろうか。主人公たちが手を握り合い見つめ合っている。

 

「ねぇ、私たちもキス……しよ?」

 

 肩が軽くなった。

 束姉ぇの顔が見られない。束姉ぇの熱い視線が、俺の横顔に注がれている。

 

「弟くんは、私とキスするのは……嫌?」

 

 そんな言い方は卑怯だ。

 束姉ぇとキスすることが、嫌なわけがない。

 

「じゃあ、こっち向いて?」

 

 ゆっくりと、顔を束姉ぇの方に向ける。潤んで輝く大きな瞳と、柔らかそうな薄桃色の唇が期待している。もうこのまま、流れに身を任せるしかない。

 束姉ぇが目を閉じた。俺も、目を閉じる。壮大なエンディングテーマに後押しされて。

 

 ――気の抜けた合唱が流れ始めた。

 

 束姉ぇと二人してずっこける。テレビで流れる映画特有の、スポンサー名が連なったアレである。大きな一本の木を映しながら、男性と子供たちの合唱が流れる。

 これでは雰囲気も何もあったもんじゃない。

 気恥ずかしくなったか、顔を真っ赤にした束姉ぇはすくっと立ち上がり、

 

「お、お風呂! お風呂にお湯入れて来るね!」

 

 パタパタと小走りで逃げ出してしまった。

 ふぅ、と溜め息を吐く。この呑気に木を連呼するソングに救われた様な憎い様な思いを抱きつつ、チャンネルと変えようとリモコンに手を伸ばす。恋愛映画も終わったのだ。いつまでも同じのを見ていなくてもいいだろう、としたところでふと、疑問が湧いた。

 

 ――恋愛映画? あの束さん(・・)が?

 

 いやいや、束姉ぇも女性だ。人並みに恋愛に興味があって、同じように恋愛映画を楽しみにしていたって構わないだろう。そうだ、何もおかしいことはない。

 芸人たちが笑い話をするバラエティーにチャンエルを変える。

 今日はなんだか妙な一日だ。夕食の時といい、さっきといい。俺は一体何を考えているのだろう。

 どっと笑い声が起こったのに合わせて、テレビの電源を切った。

 

 

「お風呂入ったよ~」

 

 袖を腕まくりした束姉ぇが、戻ってきた。それじゃあ部屋から着替えとタオルを取ってこようかと、ソファーを立つと束姉ぇは何か言いたそうにもじもじとしている。頬には朱がさしていて、何か恥ずかしいことでも言おうとしているのだろうか。

 まさか一緒にお風呂に入ろうとか、と冗談半分で言ってみたが、束姉ぇはますます顔を赤くして。

 

「……うん」

 

 と、小さく一言。まさか直球で一緒に入ろうと来るとは思わなかった。束姉ぇなら、俺が風呂に入っているのを確かめてから、後から押し入りそうなものなのに。

 

 ――束さんなら、そうしていた。

 

 俺の中で、叫び声が上がった。いよいよ疑念が膨らみ始めていた。

 目の前に居るのは確かに束姉ぇだ。束姉ぇとは、篠ノ之束だ。俺は篠ノ之束を、束姉ぇと呼んでいたか。違う、俺はずっと、束さんと呼んでいた。

 束姉ぇが、心配そうに俺を覗き込んでいる。

 

「ねぇ、大丈夫?」

 

 束姉ぇの声が、遠くに聞こえる。俺はどこにいる、ここはどこだ。

 俺は進学の為に束姉ぇの家に下宿することになったが、俺の進学先とはどこだ。束姉ぇの家は、日本のどこにある。

 日本に束さんが拠点にするような場所はない、何故なら束さんはISの開発者で、世界中から狙われていて、その束さんは俺の居るIS学園にしょっちゅうやってきて。

 

 ――これは、現実ではない。

 

■Awakening■

 

 

 

 

 

「あっ、起きた。大丈夫?」

 

 目の前に、束さんの顔があった。思わず起き上がってしまい、思いっきり束さんと頭をぶつける。ゴン、という重い音が頭の中に響いた。あまりの痛みにベッドの上を転がる。束さんも、額をおさえてベッドの横にうずくまっている。

 ようやく痛みが引いて来て、周りを見渡す余裕ができた。ここはIS学園寮の自室だ。俺はいつもの様に放課を迎え、自室に戻ってきた。そしてどうなったか。

 部屋に何故か、束さんの()であるクロエ・クロニクルが立っていたところまでは覚えている。

 

「だ、大丈夫ですか束様……」

「うー、ひ、久々のクリティカルだよ……でももう大丈夫、心配しないで、クーちゃん」

 

 当のクロエ(・・・)は、痛みを堪えている束さんを心配していた。

 そうだ、俺はこのラウラ(・・・)と同じ流れる様な銀髪の少女に、何かをされたのだ。それがなんなのかはわからないが、夢だか幻覚だかを見せられていたことは確かである。

 

「もう、クーちゃん! 勝手に黒鍵のワールド・パージを使うなんて、束さんびっくりしたんだからね!」

「申し訳ありません、束様。どうしても、お父様が束様に相応しいのか心配になって……」

 

 話がよく見えないが、先程までの光景はこのクロエが行ったワールド・パージとかいうものの影響らしい。現実と遜色ない景色を見せ続ける能力とは、つくづく、束さんはとんでもない技術を持っているものだ。

 束さんが珍しく、すまなそうな顔をしている。

 

「ごめんね……。クーちゃんが私のことを想って、こんな試すようなことをしたみたい」

 

 試す、とは一体どういうことなのだろうか。俺は一体何時の間に試されたのか。

 俺の疑問に、束さんは小さくなりながら答える。

 

「クーちゃんのISはね、黒鍵って言って精神を隔絶させて干渉したり、大気成分を変質させたり……と、とにかく対象に幻覚をみせることができるの!」

 

 俺がまるでわかりません、という顔をしていると、束さんは思い切ったようにまとめてくれた。

 どうやらワールド・パージが先程までの幻覚の原因なのはわかったが、俺が知りたいのはそこではなく理由である。

 

「う……前にあの人形、じゃなくて、ら……?」

「ラウラ・ボーデヴィッヒです、束様」

「そうそう、らうら? とクーちゃんと一緒にカフェでお茶を飲んだでしょ?」

 

 もちろん覚えている。束さんがクラスメイトの目の前で俺との娘はどうなるのと言い出したり、対抗してラウラが俺の娘になると宣言したりと、とにかく混沌(カオス)をぶちまけていった後のカフェでの話し合いのことはよく覚えている。

 そこでこの少女、クロエ・クロニクルは俺のことをお父様とは呼ぶが信用も信頼もできない、束さんにも相応しくないと、おおよそそんなことを言っていた。つまり、俺が束さんをどれだけ想っているかどうかを確かめる為に、あんな幻覚をみせていたのか。

 

「そういうことみたいだね。ほら、クーちゃんも謝って!」

「……申し訳ありません、お父様」

 

 クロエの口調は束さんに促されたから仕方なく、と言った気持ちがまるで隠されていなかった。

 とりあえず、一つ聞いておきたいのだが、もし俺が自力で覚醒できなかったら、どうするつもりだったのか。

 

「………………」

 

 クロエはずっと閉じられた(まぶた)の下で、瞳を逸らしたようだった。

 言いたくないならそれでいいか、と俺は結論を出した。

 できればこういうことは止めて欲しい、幻覚を見せられ続けて現実との境界が曖昧になったら困るから、と伝えると。

 

「許すのですか……私を?」

 

 何故、クロエはそんなに驚いているのだろうか。

 一応クロエの来歴はこの前の時にそれとなく聞いている。それは俺が聞いていても人間不信になっても仕方がない、と思えるくらいには悲惨な境遇だ。

 しかし、かといってワールド・パージでトラウマレベルのグロを見せられていたとしたら、それは怒っただろうが実際はもっと優しいものだった。

 俺の精神が傷つかないような、優しささえ感じられる(まぼろし)

 終わりよければすべてよし、と出来る程俺の心は広くないが、おかげで俺自身の束さんへの想いも再確認できたのだから、良かったことにしよう。

 よって、不問。

 

「……惚気ですか?」

「えへへ……いや! 喜ぶべき時じゃないってわかってるよ! そもそも束さんは君を試す様なことなんてしないからね!」

 

 そうですね、幻覚の束さん、いつもよりエキセントリックさがありませんでしたから。

 

「ひどい! やっぱり怒ってる? 怒ってるよね!?」

 

 これでこそ束さんだ、そんな気さえする。思わず吹き出してしまう。クロエも、顔こそ無表情だが、肩を僅かに震えさせている。

 

「クーちゃんまで! もう、束さんだって傷つくよ……。ん? ちーちゃんセンサーに反応あり! ちーちゃんだ!」

 

 束さんがそう言うと、部屋にノックの音が響き渡った。

 

『おい、何かあったのか。今日は部屋に入ってから出て来ていないと連絡があったが?』

「今日はもう叩かれるのはごめんかな。じゃあ束さんはこれで、って今日はいいところなしかぁ……」

 

 束さんは部屋の窓を開けて逃げ出す準備をし始めている。いつもどこから入って来るのかわからないが、クロエが居る時は普通に逃げるのだろうか。いや、普通の人は窓から逃げたりはしないが。

 

「お父様」

 

 クロエが、束さんに続くことなく俺の事を見ていた。

 

「お父様は、ある一点を除いては幻覚に対し普通の耐性しか持たない人間です」

「クーちゃん、急いで!」

『おい、まさか束がいるのか?』

 

 束さんに窓の方へと押されながら、それでも俺の方を見ているクロエ。

 

「束様に関すること。これだけは最大限に干渉する必要がありました。だから、お父様の束様に対する想いだけは、認めます」

『入るぞ』

 

 自室の扉が開くと同時に、束さんとクロエは闇夜の中へと飛び去っていた。

 織斑先生が、部屋の中へと入ってくる。

 

「何事もなかったか? ないなら良いんだが」

 

 心配かけてすみませんでした、と俺はベッドから降りる。それならいいんだが、と織斑先生は呟いて。

 

「窓は閉めてから出ろよ。束が入り込んでくるからな」

 




リクエストボックスより
「夢オチ(束姉ぇの弟シチュ)」
「束さんの手料理を味わう、ソファーで一緒に映画、お風呂に入ろうと誘惑される」
シート様より
「クロエは、簡単に主人公を認めない」

以上の三つを合体させて今作を作り上げました。
多くのリクエスト、誠にありがとうございます。
今回はイチャイチャ成分が少なかったのが反省点です……。

クロノクルってなんだよ…クロノクル・アシャーかよ…

さーくるぷりんと様、誤字脱字報告ありがとうございます。


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天災兎は白衣の小悪魔

束さんが右腕をすぐに治さなかった世界線。
一種のパラレルワールドであり選定事象であり、ちょっとだけ本編に絡む設定があるかもしれない。
本編ってなんだ……そんなものはない。


 右腕が動かなくなるということは、想像していたよりも遥かに辛いものだった。何より日常生活を送ることすら難しい。ユニバーサルデザインが世間で議論されるようになるのも、身に染みて納得した。

 箸が持てないといったことはもちろん、授業についていくのも一苦労。教科書を開くのもすぐにとはいかないし、ノートを取る事にも四苦八苦する。風呂でだって頭を洗うのも時間が掛かる。

 それより辛いのは周囲からの憐れみの視線だろうか。ただでさえたった二人の男子生徒の内の一人であるが故に、女子校同然のIS学園で目立っているのもある。加えて表向きは不幸な事故という、誰が見ても何かあったことを窺わせる一件で余計に注目を集めてしまっているのも原因か。

 もっとも後者の不幸な事故、という学園側の発表を提案したのは俺の方であるので泣き言は言いたくないし、愚痴として一夏にも漏らしたことはない。

 第一、ボーデヴィッヒを助けたのは俺の意志である。俺が助けたいから助けたのだから、助けた結果についてきた負傷を嘆くことはボーデヴィッヒに対する侮辱だと俺は想っている。

 まぁ、そんな中でも唯一良かったと思えることは、IS展開をすれば右腕は普段通り動いてくれるという点か。世界を揺るがす天()マッドサイエンティスト束さんは流石だ、と言うしかない。

 

「あ、おかえりー!」

 

 その世界を揺るがす束さんが、寮の自室にいつも居ると国連のお偉いさん方が知ったら何人くらいの頭の血管が切れるんだろうか。

 そんな意味もない想像をしながら後ろ手にドアを閉める。

 今日も部屋に居るんですね、束さん。

 

「当たり前だよ! 私は君専属の看護師さんだからね!」

 

 ぶい、と腰に手を当てピースサインをしてくる束さんの姿は、初めて会った時の様な不思議の国のアリスめいたワンピースではない。俺専属の看護師と自称する様に、一般的に医療現場で使われているナース服である。

 頭のメカメカしいウサ耳も今はお休みで、代わりにナースキャップが輝いている。

 看護師なのにロングヘアのままではあるが、それはご愛嬌というやつだろう。何も束さんは本物の看護師ではないのだから。もっとも、看護師をやるとなれば完璧にこなすことは間違いない。

 

「あれー? なんだか最初の頃に比べて反応が薄いなー」

 

 慣れとは恐ろしいものである。最初こそ、ナース姿で俺の自室に突然現れてはあれこれと世話を焼いてくれる束さんの姿にある種の恐怖を覚えたものだ。

 今でも思い出される第一種接近遭遇(ファーストコンタクト)が『君は私の運命の人なんだよ!』と、言いながらISを装着させようとしてくる世界的科学者の姿なのだから、俺の肝も随分と練られたものだ。

 とんでもない人生の転換点を思い出しながら、いつものお願いします、と椅子に座って吊っていた右腕を備え付けのテーブルの上に置く。無論、肩から先には一切力が入らないので一連の動作は全て左手が担っている。

 

「もちろんだよ! この束さんに任せなさい!」

 

 束さんは嬉しそうに、どこからかキャスター付きの丸椅子を召喚して俺の対面に座る。

 あの丸椅子も例によって例のごとく、医療関係の場所で良く見るタイプのやつである。取出し先は多分、ISの拡張領域(バススロット)を使っているんだろう。ISを某国民的猫型ロボットのポケット扱いしているのは、この人くらいに違いない。俺がそんなことをしたら間違いなく、織斑先生からお怒りを頂戴する。

 

「むー! 今目の前に居るのは束さんなのに、君は他の女のこと考えてる!」

 

 頬を膨らませて怒る束さんに謝りつつ、マッサージされている右腕を見遣る。俺の右腕は確かに、束さんの両手に丹念に揉み解されている筈なのだがまったくそう感じない。失ってみてはじめてわかるという使い古されたフレーズがあるが、これはそうだなと思わざるを得ない。なにせ、触られているという情報が視覚しかないのだ。

 どこか映像を見ている様な現実感のない光景。今束さんは一生懸命俺の右腕を解してくれている。そう、ちょっと力を入れ過ぎて胸を腕に押し付けてしまうくらいには、一生懸命である。

 今この時ほど、この右腕の神経がことごとく焼き切れてしまっていることを恨めしく思ったことはない。ボーデヴィッヒに対して恨みはないとか、かっこいいことを言った手前情けないとは思うが、このくらい許して欲しい。俺も健全な男子であるには間違いないのだ。

 

 

「よし! これで大丈夫!」

 

 たっぷり30分くらいのマッサージを終えて、束さんが一仕事を終えた職人みたいな顔をしている。しかし、一体何が大丈夫だと言うのだろうか。ここ一週間言われるがままに束さんにマッサージされているが『これで大丈夫』という言葉を聞いたのは初めてである。

 一体何が大丈夫と言うのでしょうか、束さん。

 

「えっ? それはもちろん、束さんだからね! 大丈夫なんだよ!」

 

 答えになっていないようで答えになっている気がする。

 だって、束さんだし。

 

「また疑いの目で束さんを見てるー!」

 

 はいはい、じゃあ俺はシャワー浴びてきますので今日の所はお引き取り願えますか、束さん。

 

「うーん、塩対応だね! じゃあじゃあ……今日はお風呂一緒に入ろっか、弟くん?」

 

 この人は本当に心臓に悪い。

 そういえばこの人は篠ノ之箒の姉であった。ナチュラルに属性を持っていてもおかしくない。そんなことを言われてしまっては、俺の理性も揺らいでしまう。

 でも駄目です。普通この歳になったら一人でお風呂に入るものです。

 

「お姉ちゃんの頼みでも……ダメ?」

 

 そんな目をうるませて小首を傾げても、倫理的に、ね。

 倫理的にダメですよ束さん。

 

「弟くんがそう言うと思って、水着も用意してきたんだよ?」

 

 そう言うと束さんが取り出したのは、そうそうたる水着の面子である。旧型スクール水着や競泳水着といった学生的なものに始まり、パレオの付きの優雅な装飾のビキニから元気さ溢れるスポーツタイプの水着もあれば、ワンピースタイプのものもあり。

 なるほど、束さんは何が何でも俺のニーズに応えるつもりの様である。

 これは話を長引かせる方が不利になる、そう悟った俺は束さんの言葉に答えることなくシャワー室へと入り内鍵を掛けた。

 

「えー、どうしてー?」

 

 と、外から聞こえてくるが、俺にはまだその一線を越えてしまう覚悟はないのだ。束さんを受け入れることは即ち、束さんと世界とを天秤に計らなければならない。もちろん、今すぐにどちらか選べと言われたなら、俺は束さんを選ぶのは確信できる。確信しているが、だからこそこのぬるま湯の様な今を手放すのも結構辛いのだ。

 『両想いなのに相手を受け入れられないとか……どんだけヘタレなの!』と二組の凰には大層怒られたが、肝心のお相手が束さんであることを伝えたところ前言撤回していただいたのは良い思い出である。

 さて、どうでもいいことを思い出していないでシャワーを浴びようと服に手を掛けた時、気付いた。

 

 ――右腕が、動いている?

 

 妙な光景だ。右腕の触覚は完全に無い為に現実感がない。右腕が動いているという視覚情報は脳で処理できるが、それだけだとなんと頼りない事か。手を振ってみても、右腕には空気が流れる冷たい感覚すらないのである。

 試しに、シャワーを当ててみる。左腕で温度を確かめ、適温であることを確認し右腕に水をかける。熱くもなければ冷たくもない。本当に動いているだけでそれ以上の機能はない。

 悲しくなってきたが、医者に絶対治ることはないと断言された右腕が動いているのはなぜだろうか。医者がとんでもない藪医者で、まったく見当外れのことしか言っていなかったという可能性を信じるよりは、束さんが何かをしたと考える方が余程順当だ。

 第一、束さんは一週間も俺の腕をこねくりまわしていたのである。俺がただマッサージだと認識していた行為も、実は束さん流の治療技術であってもおかしくはない。

 これは、束さんに聞いて見なければならない。腕を拭いて内鍵を開けた。意識してみると普段できていた何気ない行為が右腕で出来ると言うことがこれほど嬉しいこととは思わなかった。

 

「おっ、ようやく効果が出て来たみたいだね!」

 

 束さんが満足そうな笑みを浮かべる。

 しかし、触覚がないのはどういうことなんでしょうか。

 お互い元の椅子に座り直して向かい合う。

 

「触覚が……? そんな筈はない、束さんはいつだって完璧だからね。でも君がそういうのなら事実なんだろう。それはこの世の真理だ。触覚がないとはつまり、脳神経系の電気信号の動きが迷走して? いやタンパク質や水分といった元来の複合的な要素も視野に入れて考えてみればこうなるが、いやしかし、グルコースや体内の必須金属と骨髄の反応が問題を起こしているのか? いやいや、遺伝的なDNA構築のアミノ酸の配列がこのパターンの場合想定されるイレギュラーは527通り、ほぼ除外できる要素のイレギュラーも含めるとその数は2905倍だ。そうなると――」

 

 ああ、すっかり科学者モードな束さんになってしまった。ナース服で考え込んでいるのだから、科学者というより医学者に近い感じだが、言っていることは俺にはちんぷんかんぷんである。

 そもそも束さんの思考レベルに達している人間はこの世に居ないと思うのだが、せめて俺にもわかるように言ってくれないでしょうか、束さん。

 

「え? ご、ごめんね! そうだね、わかりやすく例えると……車が良いかな。そう、オートマチック車がアクセルを踏まなくても勝手に進むアレ……なんだったかな? そう! クリープ現象が今の君の右腕だ。私の右腕を君と同じように例えるなら、アクセルをしっかり踏まれている車ということになる」

 

 束さんが美しい白い手をひらひらと振ってみせる。

 なるほど、ちゃんと右腕自体は治っているのか。しかし、困った。束さんなら自分の身体のアクセルを踏むくらい出来るだろうが、俺が真似するにはちょっとハードルが高そうだ。

 まぁ、なんにせよ。

 ありがとうございます、と束さんに礼を言う。治っているのなら、いつかそのうち触覚も取り戻せるだろう。が、束さんは納得しないようである。

 

「それは束さんの名に賭けて見過ごせないな! 君と一緒に治していくのならそれでもいいけど、私が君と一緒に居られる時間は一日中24時間というわけではない残酷な事実がある! その間に誰かに君の腕を治したという事実を譲ることはできないよ!」

 

 なるほど、しかしどうするんです。

 

「それはだね……手、出して?」

 

 はい。

 

「じゃあ、パー」

 

 はい。

 

「ちょっと待ってね、深呼吸するから」

 

 何かこう、ハンドパワー的な物を俺の右手に受信させるのだろうか。

 

「よし! じゃあいくよ!」

 

 いつでもばっちこいです。

 

「えいっ」

 

 ――脳が、視覚の情報処理を一瞬拒否した。

 

 束さんが顔を真っ赤にしている。

 束さんが俺の右手首辺りを両手で掴んでいる。

 束さんが俺の手を引っ張って豊満な左の胸に、いや、おっぱいに押し付けている。

 これは視覚の暴力だ、なんて拷問だ。俺の右手は確かに束さんのおっぱいに触れているのに束さんの温かさもおっぱいの柔らかさも感じられないなんて。

 なんてことだ、残酷なことだ。思わず、手を動かして束さんのおっぱいをもみしだく。

 何よりも柔らかく、天国の様に温かく、赤子の様に純粋で、愛の様に甘い。

 およそ俺がこの感動を言い表す為の語句を持ち合わせてはいない。なんでおっぱいはこんなにも俺を魅了して、ずっと触っていたい揉んでいたいと思わせる魔性を持っているのだろう。これは確かに、止まらない。欲望が加速する。

 

「あ……あんっ! ……ね、ねぇ……んっ! 喜んでくれるのはいいんだけ、ど……んんっ!」

 

 束さんが悩ましげな嬌声を上げる。

 

「右腕、治ったね!」

 

 ええ、確かに治りました。今この手にはすべての機能が甦っているのを感じます。だってこんなに柔らかいのです。

 もうアクセルべた踏みのエンジン全開です、V型12気筒DOHC48バルブがフル加速です。

 

「わ、わかったから! 後で好きなだけ揉ませてあげるから今はストップ!」

 

 束さんに言われてようやく右手をおっぱい、いや、胸から離していた。

 俺は一体なんということをしていたんだ。

 けれども俺の右手はあの柔らかさを覚え、飢えている。

 

「喜んでくれるのは嬉しいんだけど……先に真面目な話をしちゃうね? お楽しみはその後で、ね? お姉ちゃんとの約束だよ?」

 

 首をぶんぶんと縦に振る。

 そんなご褒美が待っているのならいくらでも真面目な話を聞く所存である。

 

「よろしい。じゃあまず結論から言っちゃうけど、君の右腕は既に生体同期型ISだ」

 

 そうですか。

 

「お、思ったより反応が薄い……なんで? 君の腕はもう元の腕じゃないんだよ?」

 

 いや、だって束さんが治してくれたことが単純に嬉しいですし、生体同期型ISと言ったって元の腕と機能が変わりませんし、感謝こそすれ恨む様なことじゃないと思います。

 

「本当……? 無理してない?」

 

 束さんが上目遣い気味にこちらを見てくる。心底、俺に嫌われないか不安なのだろう。だったら俺も、その不安を払拭せねばなるまい。

 本当です。嬉しくてたまりません。

 

「良かったぁ……ごめんね、本当そのまま治してあげたかったんだけど、君のそれは不可逆のものでどうしようもなかった。だから生体同期型ISで代用しているんだよ。そうだね、電子信号と原子運動の関連性は私から言わせれば些細な問題の一つであって――」

 

 なるほど、よくわかりません。

 それよりこの右腕がISというのなら、何か凄い機能がついていたりするのでしょうか。

 

「ISの性能? そりゃあ君の為のISだもん、世界最強に決まってるよ! まず無制限エネルギーは当然でしょ、Царь-бомбаの最大火力の至近爆発にも耐える耐熱耐核耐衝撃シールドでしょ、スナイパーなどに遭遇した際の非IS展開状態でのシールドのコンマゼロ秒以下の緊急展開機能にそれからそれから」

 

 防御力が非常に頼りになることはよくわかりました。

 というかとてもネイティブだったんですけどツァーリ・ボンバって言いませんでしたか、今。深く聞くのはやめておこう。

 では攻撃面をお願いします。

 

「もちろん攻撃力にも手抜きなし! 時速12144㎞の最高速度に約1秒で到達する加速力! 火器管制AIは束さん謹製! 迎撃用対消滅光子小型ミサイルランチャー28門に、遠隔操作可能なビームビット! あらゆるすべてのステルスを無効にする索敵能力に加え自前のステルス能力も完備! シールドを展開可能な特殊装甲に加え砲撃戦にも格闘戦にも対応するパーフェクトな機体だよ!」

 

 もしかして、反物質を封じ込めたりしてる武器があったりしますか。

 

「よくわかったね。このISは奥の手として反物質を――」

 

 はい、それ以上はやめておきましょう束さん。なんだか復権・再征服しそうなことを言うのはそれくらいにしましょう。どれくらい凄いのかわかりましたから。

 

「えー、ビジュアル面にもこだわりにこだわり抜いたんだけどなぁ……」

 

 いろんなメカのかっこいいところを選りすぐったのはわかります。

 

「でもその分、束さんのウェポンはなくなったと思ってくれると嬉しいかな、って」

 

 そうか、これは束さんを守る為の力。そういうことですか。

 

「そういうこと! 頼りにしてるよ、男の子!」

 

 任せてください、絶対に束さんをお守りします。

 それはそれとして、おっぱいをいただきますが構いませんね。

 

「そういう約束だったね……。うん、いいよ。君の……好きにして?」

 

 束さんがその豊満な胸を突きだす。今俺は、このおっぱいを征服するのだ。

 なんという多幸感。世界の誰もが触ったことのない束さんのおっぱいを今から俺が、思いのままにするのだ。さぁ、いざ行かん、万里至福の彼方へと。

 

「ほーう……私の監視下で不純異性交遊に及ぶとは、いい度胸だ」

「……あ、ちーちゃん……」

 

 一つ聞きたいのですが、どこから。

 

「好きにして、からだ。この馬鹿者ォッ!」

 

 

 シンプルにめっちゃ頭痛いです。

 

「無論、痛くしたからに決まっている。まったく、束め。また速攻で逃げ出して……それより、お前。その右腕はどうした? 医者の見立てではまず回復はないという話だったが?」

 

 ああ、これですか。束さんが治してくれたんです。

 

「束がか……そうか。アイツならそれくらい簡単だろうな」

 

 織斑先生が遠い眼をしている。余計な事を言って藪蛇になるのは嫌だし、黙っておく。

 特に、この右腕が世界に発表されていない生体同期型ISなことは。

 

 ――束さんの胸を揉むことに集中していたあまりに忘れていた。

 

 冷静になって考えてみると、俺の右腕が世界を軽く滅ぼせる兵器って怖い。これは滅多なことでは使わないようにして、普段は打鉄とかラファール・リヴァイヴに乗っておこう。下手に展開して目を付けられても嫌だ。

 こんなとんでもないもの持っていることがバレたら、俺も世界から逃げ回ることになる。俺は今、アサルトライフルどころか全世界の核兵器の発射ボタンを渡されたのも同然なのだ。

 でも、もの凄く自慢したい気持ちもある。テレビの悪役が巨大なパワーを得てヒーローに自慢するシーン、いつもそのパワーでヒーローを倒せばやられないだろって思っていた。今なら、その悪役がパワーについて長々と話したくなる気持ちがよくわかる。

 

「……何をにやけているんだ?」

 

 いえ、なんでもないですと、俺は右腕をさすっていた。

 




これでは束さんが愉快なコスプレお姉さんになってきていると頭を抱える。
今回はナース服にするかメイド服にするか大変悩みました。
短編だから時系列が無茶苦茶で設定が二転三転してもいいんだ。いいんだ。
長編だったらそんなことはできない。
今回は『書けタスク』より綾鷹様のリクエスト『リハビリ』でした。
今更かもしれませんが感想欄へのリクエストは規約違反の対象になるので、活動報告『書けタスク』の方か、書けタスク内に張ってあるURLからリクエストボックスにお寄せください。後者は非ログイン匿名でお使いいただけます。

悪魔の様に黒く、地獄の様に熱く、天使の様に純粋で、愛の様に甘い。
Byタレーラン=ペリゴール
そんなコーヒー飲んでみたいですね。

次回は多分、束さんとクロエとラウラを交えた家族会議。(の前に……)
もしも一夏がトレーズ閣下だったらで絞り出した小ネタと別作にちょっと注力するので少し間が空くかもしれません。

Alcyone様、勘違いのご指摘ありがとうございます。
ブレーキとアクセル間違えるとか恥ずかしい…。
hisashi様、誤字脱字報告ありがとうございます。


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天災兎は渚の女神

「おい、起きてるか?」

 

 強く肩を揺すられてようやく目が覚めた。

 寝起きの初っ端に一夏の顔を近距離で拝むことになるとは、なかなか心臓に悪い。起こしてくれるのは嬉しいが、ちょっと近過ぎないか。

 いやいやいや、近い近すぎる。なんでこんなに顔との距離がないんだ。

 

「そうか?」

 

 割と失礼な言い方でも許してくれるのは一夏の美点だが、もう少し男同士における適切な距離感というものを会得して欲しい。バスという狭い空間でのことで、顔のみならず身体まで近いじゃないか。こんなことをされてはまた俺が恨まれる。

 ほら、同じバスに乗っていた篠ノ之とオルコットが恐ろしい顔をしているじゃないか。これはちょっと、一夏には見せられない。

 正味な話、このまま酷い筋違いの恨みを買い続けたいと思わないので立ち上がる。ふっと、視界が眩んだ。随分と長い間眠っていた為か頭に血が回ってないらしい。

 

「ずっと眠りっぱなしだったし、本当に大丈夫なのか? 気分は?」

 

 ――いや、単に寝過ぎて立ちくらみをしただけだ。だから大丈夫。

 

 と俺が言うものの、一夏はやはり良心の塊の様な男である。

 

「千冬姉ぇ……織斑先生には俺から言っておくから、気分が良くなるまで座っておいていいぞ。荷物は俺が下ろしておくからな」

 

 何もそこまでしなくていい、と言うが早いか一夏は俺を頼ってくれと言うとバスを降りてしまった。またもや篠ノ之とオルコットのもの凄い視線を浴びながら、俺は溜め息を吐いた。

 

「あはは、災難だったね」

 

 まったくだ、と話しかけて来たデュノアに首肯する。

 最近、デュノアはラウラと過ごすことが多いせいか、一夏は前より増して俺と絡む様になってきた。何故前より増したのかはよくわからない。俺と絡む分を篠ノ之やオルコット、凰とかに向けてやればいいのだが、そううまくいかないのは世の常だ。

 無論、デュノアも例の三人に洩れることなく一夏を恋い慕っている。が、デュノアはラウラと一緒に居る関係上、一夏だけでなく俺と居ることも多い。その結果として一夏とペアになることが多いのだから、一番立ち回りが上手いのはデュノアだと思う。

 将を射んとすればまず馬を射よ、とはよく言ったものだ。

 

「父よ、頭は大丈夫なのか?」

 

 そして、えらくド直球な言葉を投げ掛けてくるのはラウラである。寝ていただけでなんと辛辣な。

 

「ええと、その言い方はダメだよ、ラウラ」

「えっ? あっ……ごめんなさい」

 

 いや、俺は気にしてないぞ。日本語って難しいのは俺にもわかるから、だからそんな悲しそうな顔はしないでくれ。

 

「え、えっと、じゃあ……頭は痛くないのか?」

 

 ――なんだって?

 

 頭、と言われてもなんのことだろうか。皆が知っている通り、俺は一夏に起こされるまで爆睡していたから、まさか顔に落書きでもされたか。しかしそうなるとラウラの物言いにはまったく当てはまらない。

 

「えっとね、君が寝てからバスが揺れる度に頭を窓にぶつけててね。結構凄い音がしてたんだよ?」

 

 そんなことが。その割に頭はあまり痛くないが。

 

「途中から音がしなくなってたから、首の向きが変わったのかな? っておもったけど、そのタオルのおかげみたいだね」

 

 デュノアに言われて気付いたが、肩に白いタオルが一枚乗っていた。これが先程まで俺の頭と窓の間にクッションとして挟まれていたのだろう。

 しかし、問題が一つあるとすればこのタオルに俺は見覚えがないということだ。もちろん、起こされる前に一度起きてタオルをクッションにしていたということもない。

 

「父よ、それはどういうことなんだ?」

「え、それってどういうこと……?」

 

 ラウラとデュノアが同時に疑問の声をあげた。俺がわからないんだから二人にはもっとわからない。

 しかし一見するとわかりにくいがこのタオル、肌触りが尋常なく気持ちいい。ふかふかだ。なんだこれ、本当に地球上の繊維質で出来た物なのか。それにちょっと良い匂いもする。ここまでくれば、やはり、これは、あの人の。

 

「ど、どうかしたの?」

 

 いや、このタオルの持ち主が誰かわかった。

 

「え?」

 

 デュノアの疑問を置いといて、決定的な証拠を探す。やっぱり、ここに刺繍があった。

 タオルの端にピンクの糸で刺繍された、デフォルメされた自画像。

 

「……篠ノ之博士だ」

 

 なんとも言えない空気が流れる。

 俺からすれば慣れたものだが、やはりラウラやデュノアにとっては受け入れがたい事実だろう。待機状態とはいえISのセンサーに引っかかることもなく、臨海学校とはいえ世界で最強の防衛体制が内外に敷かれているバス。そこへ誰にも気付かれることなく侵入しているのである。あまつさえ移動中は隣に座っていた一夏でさえも、束さんがタオルを枕代わりにしていったことに気付いていないのだ。

 座敷童と言うか、ぬらりひょんというか、科学全盛の時代ではあるが傍から見るとホラーである。

 案外、バスの天井に張り付いていたりするんじゃないか。

 

 ――ひょっとして?

 

「ど、どうかしたのか?」

 

 思わず椅子の下を覗いて見たが、人が入れるようなスペースはもちろんない。訝しむのを通り越して心配してくるラウラに気にしないで欲しいという旨を伝えると、二人と一緒にバスを降りるのであった。

 

 ◇

 

 一人で使うには広さが過ぎて、また豪華が過ぎる和室。真新しい畳張りの床の上に荷物を遠慮なく下ろす。ほのかに香るいぐさが、気持ちをリラックスさせてくれる。窓の外にはちょっとした庭と露天風呂が付き、竹で編まれた柵の向こうは一面の海を見渡すことが出来る。

 指導要領でいえば高校生にISという+αを付加した身分である。それがここまでグレードが高い部屋に泊まれるとは、世界に轟くIS学園の名は流石といったところか。

 これが国の金、ひいては人の金で泊まれるのだからラッキーだな、と思うのは我ながら現金な話だ。

 

 ――しかし。

 

 思うところはある。如何にIS学園が世界に名立たる組織であり、また未来の国家代表らが通う教育施設とはいえ、この超が幾つも付く高級老舗旅館の選択には些か疑問が残る。元々、IS学園が贔屓にしている老舗旅館の方に行先は決まっていたのだが、保安上の理由とかで出発数日前にここに変更になったのだ。

 中止ではなく、変更。山田先生は言葉を濁していたが、どうにも上層部からの通達らしいことは雰囲気で察することが出来た。

 が、この上層部の意思決定に関しては俺がどうにかできる問題じゃない。上には上の考えがあるだろうし、そもそも俺には何の金銭的負担はないので正直どうでもいい。

 嘘だ、束さんの影がちらつくのは気になる。

 

 ――それにしても、いい天気だ。

 

 半ば現実逃避気味に、今の状況を堪能することにする。日差しは夏らしく厳しいが、吹き込んでくる海風が頬を撫でて気持ちが良い。ここに来るバスの中であれだけ寝ても、眠りへと誘おうとしている様だ。あくびをしながら座布団を枕にして畳の上に倒れ込む。フローリングと違って、畳の上だと妙に落ち着く。海外勢はベッドの方がいいのかもしれないが。

 なんでもないことを考えていると、すぐに身体の奥がじんわりと温まって来た。遠く潮騒の音が聞こえるからか、波に揺れる様な感覚もやってきた。

 

 ――次の集合時間にはまだ余裕がある。

 

 あくびをしながら眠ってしまう前に携帯の目覚ましをセットした。そこまでは、なんとか覚えている。

 

 ◇

 

 潮の打ち寄せる音に混じって、優しい歌声が聞こえる。どこか懐かしい歌のリズムに合わせて、お腹をぽんぽんとさすられている。頭も、優しく撫でられているようだ。頭を預けていた、お世辞にも快適とは言えなかった座布団。それが今では柔らかさの中に丁度いい温かさと硬さがある。

 目を開ける。何かが覆いかぶさっているようだ。真っ暗とまではいかくとも、随分と影になっている。どかすことができるだろうかと手で触れてみた。

 

「ひゃぅ!?」

 

 寝ぼけ気味の頭では、歌声が可愛らしい悲鳴になったなぁというくらいしか認識できない。それにしてもこれ、柔らかいな。すくいあげるようにしてみたり、形を探る様に手を這わせてみたり、好奇心に任せて正体を探る。

 手に驚くほど馴染む、柔らかい謎の物体。丹念に正体を探っていると、表面につんと硬くなったものが現れて――まさか、これは。

 

「もうっ! ダメだよ!」

 

 ――むがっ!

 

 凄いアホっぽい声が自分の口から洩れたことに驚きだが、今まで覆いかぶさっていた謎の物体が俺の顔面に押し付けられたのである。変な声が出てしまうのも仕方ないだろう。

 

「あのね、いくらなんでも限度っていうのはあると思うよ?」

 

 声の主が束さんであり、声が上から降ってくるということを加味した上で、この俺の顔面に押し付けられている柔らかい物は何か。

 

 ――つまり、束さんのおっぱいである。

 

 至福、以外になんと表現すればいいのだろう。一度は大きなおっぱいに思いっきり顔を埋めてみたいと、男なら誰しも考えたことはある筈だ。しかしながら、小さいおっぱいも良い物なのは自明の理だ。それはともかくとして、こんな風におっぱいを押し付けられるのも束さんが巨乳の持ち主であるおかげだろう。

 とにかく男の下半身に直撃するこの状況は、全身の血流をかっと燃えたぎらせるには充分だった。ついでに、頭の血はさっと冷えていくのを感じる。熱くなる下半身とは別に、顔が、青ざめていくのがわかる。

 

 ――酸欠。

 

 おっぱいに埋もれて死ぬとか、マジか。わかりました、俺が悪かったので許してください束さん、と発する声はすべておっぱいに塞がれてもごもごとしたものにしかならない。

 必死に束さんの肩を叩いて降参の意思表示をする。

 

「ふふーん、わかったならイタズラは……まったくしちゃダメってことはないけど、それでも束さんも恥ずかしいっていうか……」

 

 というか自分から押し付けるのはオッケーなんですか。

 

「そりゃあ、束さんからする時もあるけどね? その時は平均で7時間41分35秒くらい前から心の準備をしてるし……やっぱり君から攻められると嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが爆発しちゃって……!」

 

 顔の上でおっぱいが左右に揺れる感覚。多分、束さんはいやんいやんと身体をよじっているのだろう。時々、ほんのちょっと凹凸らしきものを感じるのだが、これは下着なのだろうか。

 いや、それよりもだ。息が本格的に苦しくなってきた。肩を四つ叩くのはタスケテのサインである。タップ、タップです。

 

「……あれ? あぁぁぁ! ご、ごめんね! 大丈夫!?」

 

 ようやく束さんのおっぱいがため(ブレストロック)から解放された俺は、起き上がって肺に目一杯の空気を送り込む。磯の香りを感じる夏らしい空気だが、はっきりいえば物足りない。

 束さんのおっぱいに埋もれていた時、感じていた至福の甘さは今の空気にない。束さんのボリューム感あふれる胸の中でむせ返る程に蒸れた熱気。しかし匂いは不快ではなく、ほのかに甘いミルクの様でむしろ気持ちを落ち着ける。それでいて艶めかしく、官能的な予感を連想させる空気を吸い込めるのは、やはり先程の苦しさの中にしかないのだ。

 

「めっ、だよ! えっちなこと考えるのは禁止っ!」

 

 胸を隠しながら束さんが可愛く叫ぶ。横顔は満更でもない、という感じだが、言ったら間違いなく反論されるので黙っておく。が、俺が若干ニヤついているのが悪かったのか、束さんは頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。

 こうなってしまうとどうにも俺は弱い。引け目はこちらにあるし、拗ねさせてしまった負い目から俺はただひたすら謝る事しかできなくなってしまう。

 

「……反省してる?」

 

 束さんが、ジト目でこちらを見ている。

 

 ――もちろん反省しています。

 

「じゃあ、次はあんなえっちなことしないって、約束できる?」

 

 う、という声にならない(うめき)が漏れた。この時の俺の顔は、世界がどれだけ広くとも突き抜けて滑稽な顔をしていたに違いない。そんな俺を見て束さんはふふ、と笑ったかと思うと。

 

「そんな顔しないで? もう、男の子なんだから」

 

 と、私の胸に飛び込んできなさいと言わんばかりに手を広げた。

 

「私に甘えたかったんだよね?」

 

 束さんは微笑みながら、小首を傾げた。

 一も二もなく、束さんの胸元へと飛び込みたい。あの胸の中に飛び込んでひたすらに呼吸をしたい。柔らかな胸をいじり回したい。先程束さんの胸を触ってしまった反動か、怒涛の様に欲望が溢れ出し心臓は早鐘を打つ。

 それでも、ひとかけらの理性が俺を抑え込む。

 

「どうしたの? それとも……私に甘えるのは、嫌?」

 

 心底悲しそうな束さんに、そんな訳がないですと叫び出しそうになった時――。

 

「ちょ、ちょっと!? 大丈夫!?」

 

 束さんがこの世の終わりとでも言いかねない、真っ青な顔をしている。珍しいこともあるものだと思っていると、どろりと粘ついたものが唇に触れた。手の甲で擦ってみると、血が付いている。

 

 ――鼻血だ。

 

 興奮のあまり血が出て来たのか、この気温の中で昼寝をしていたのが悪かったのか、あるいは両方かも知れない。とにかく、それらが身体の不調となって表れていた。

 しかし、頭に昇っていた血が外に出たおかげか随分と頭が冷静になっていた。痛い位に興奮していたのも、すっかり圧を失って落ち着いている。

 

「なんともない? よかったぁ……」

 

 ほっとした束さんが脱力する。確かに鼻血が出てしまっただけなのでそこまで騒ぐことでもないのだが、一応不調は不調である。指定されていた医務室代わりの部屋に顔を出しておこう。

 

「はー、びっくりしたよぉ。でも束さんのバイオメトリカルな生体同期的体調管理は万全だったのに、こんな時に鼻血が出るなんておっかしいなぁ……」

 

 脱力したり驚いたり真面目になったりと、束さんは相変わらず見ていて飽きない人だ。そんな束さんを邪魔するわけにもいかないので、俺はそっと部屋を後にすることにした。

 体調不良を建前にした、戦略的撤退である。

 

「って、あぁぁぁっ! ちーちゃんに邪魔をされずに一緒にのんびり過ごす計画がぁぁぁ!」

 

 部屋を出る時、そんな束さんの悲痛な叫び声が聞こえてきたが引き返すことはしない。何故なら地獄の獄卒よりも恐ろしい顔をした織斑先生が、俺の部屋に飛び込んで行ったからである。

 

 ◇

 

「で、何か釈明はあるか?」

「きゃー! ちーちゃんこわーい!」

 

 あはは、と笑い声を上げながら憤怒の表情の織斑先生から逃げ回る束さんは実に楽しそうである。織斑先生が全力で動いているのを初めて見たが、あんな修羅の如き動きをする織斑先生の姿は怖いってもんじゃない。しかしそれを笑いながら、兎が跳ね回る様に追撃を全てかわしてしまう束さんも十分ヤバい。

 

 ――二人が、海に繰り出す為の水着でなければ。

 

 一体俺の部屋でどんな交渉が繰り広げられこうなったのか。人の身に過ぎない俺にはなんらわかりはしない。

 ただ、織斑先生は黒のビキニを。束さんはオリエンタルなピンク色のビキニの上に無地の白Tシャツを着ている。Tシャツは大きめの半袖で、膝上位までの裾の長さがある。何故Tシャツを着ているのに束さんの水着の色がわかるのかといえば、束さんが跳ね回る度にTシャツの裾が舞い上がりピンクの布地が見えるからだ。下着でなく水着であることは重々承知しているが、どうしても目が向いてしまうのは仕方ないんだ。

 ともかく、こういう気の抜けた格好で、傍目から見れば殺し合いと勘違いできるくらいの殺気を放って束さんをシメようとする織斑先生。それを笑顔でかわし逃げていく束さん。ギャップがあり過ぎてどうにも、真面目に受け止めるには真剣さが足りない。

 

「……束さん、凄いな」

 

 いや、お前の姉さんも同じくらいヤバいと一夏の呟きに返しておくと、パラソルとビーチチェアといった海水浴の為の拠点準備をすることにした。

 日差しはかなり強く気温も高い。休む場所もしっかりと準備しておかなければ。先程鼻血を出したばっかりだし、熱中症で救護室行きなど冗談にもならない。

 

「私も手伝います、お父様」

「むっ、私も手伝うぞ。父よ」

 

 クロエとラウラが競うように手伝いを申し出てくれる。いつの間にクロエが合流したのかまったくわからないが、束さんに真意を問いただすだけ無駄であるのでこの際いい。しかし、なんで二人ともスクール水着なのか。しかも、旧スクール水着というフェティッシュでマニアックなチョイスになってしまったんだ。

 

「お父様は、いえ、男性はこういう水着が好きだとリサーチ結果から得ましたが?」

「ああ、クラリッサから私の肉体を活かすのはこれが一番だと聞いたが?」

 

 だからといって疑問を持たないのはよくないと俺は思う。

 胸元のゼッケンに『くろえ』『らうら』と書かれた女子高生二人を父親と呼ばせながら引き連れた男子高校生など、控えめに言って不審者だ。特に事情を知らない同級生の視線で穿たれて死んでしまいそうだ。用意が済んだら、皆でオシャレな水着を買いに行こう。旅館の売店にもっといい水着があった筈だ。

 

「お父様にもそんな甲斐性あったのですね……」

「父は元から私たちの事を考えてくれる最高の父だぞ!」

「そうですか、私にはとてもそうとは思えませんね」

「なんだと!」

 

 はい、二人とも喧嘩しない、しないで、頼むから耳目を集める様なことは止めて、本当に。流石に俺の心がもたない。

 

「わかりました、この場ではやめときます。では、最後に飲み物ですね」

「そうだな、父が言うなら……私の方がいっぱい持てるからな!」

「あれー!? 束さんの事はスルーなの!? ちょっとくらい援護してくれてもいいんじゃないかなー!?」

 

 ははは、流石に激怒した織斑先生が相手だと俺は何もできません。頑張ってください、束さん。

 

「父に同じく。織斑教官が本気では……」

「……申し訳ありません、束様」

「薄情者ー!」

 

 そういう割には余裕そうな顔をしているので、束さんは大丈夫だろう。人外の争いを繰り広げる大人二人と尻目に、俺たちは予定通りに買い物に行くことにした。

 

「ええい! 学園の上層部に掛け合って臨海学校の行先を変更したのはお前だろう、束!」

「そうだよー? どうせならグレードも高い所がいいじゃーん!」

「上げ過ぎだっ!」

「あははっ! 私も出資してるんだからいいでしょー! 愛しい彼にあんなところ泊めさせられないよー!」

 

 束さんの笑い声と織斑先生の怒号が、青空のもとに響き渡った。

 

 ◇

 

「……頼みが……ある」

 

 いったいなんでしょうか、織斑先生。

 水着をフリル付きの黒ビキニに着替え直したラウラに扇がれながらじゃ、いつもの威厳は出ていませんよ。それに織斑先生がもたれているビーチチェアとパラソルは俺たちが用意したんですが。

 

「……本当に……すまないと思っている」

「大丈夫ですか、教官?」

「……教官は……やめろと……言っているだろう……」

「スポーツドリンクを追加で買ってきました、お父様」

 

 ありがとう、とツインテールに髪を結ったクロエからスポーツドリンクを受け取る。髪形でいえばラウラもツインテールだし、水着でいえばクロエもラウラとは色違いの、フリル付きの白ビキニを着ている。

 ペットボトルを織斑先生に渡しながら息を吐くごとに上下しては揺れている、織斑先生の意外に大きい胸を盗み見た。普段は恐ろしさばかりが先行するが、こうして弱っているところで見ると大人の女性らしい艶っぽさがあることに今更に気付く。

 

「……炎天下で……束を相手にするんじゃ……なかった……」

 

 女傑という称号が最も似合う織斑先生がこうも息も絶え絶えなのは、予想を裏切ることなく束さんのせいである。

 織斑先生は俺たちが水着を選んで、更にクーラーボックスに飲み物を買って詰めている間ずっと束さんと浜辺で追いかけっこをしていたそうだ。聞いているだけで倒れてしまいそうな話である。事実、織斑先生はグロッキーだ。

 

「むー、さっきからちーちゃんばっかり。束さん妬けちゃうなー!」

 

 そんなことを言いながら、織斑先生を再起不能(リタイア)にまで追い込んだ束さんが戻ってきた。あれ、そういえば束さん、織斑先生がここで休んでからどこに行ってたんだろうか。

 

「ふっふっふー、よくぞ聞いてくれました! 身体を冷やす為には南極の氷が一番だからね! ちょっと泳いで取りに行っていたのさ!」

 

 どやぁ、という効果音がピッタリな束さんに合わせて、胸がたゆんと揺れた。水に濡れてぴったりと張り付いたシャツが、巻き起こる魅惑の上下運動を如実に伝えてくれる。シャツが透けることによって見えるビキニが、下着の様に見えもして内心穏やかではない。

 

「……南極の氷が良い、か……初めて聞いたな……」

「そりゃそうだよ! だって私がさっき決めたんだからね!」

 

 どやどやどやぁ、と普段の織斑先生なら既にキレていそうな勢いの束さんである。胸をはる束さんに合わせて、薄い布地が引き延ばされる。白い肌とピンクのコントラストが、薄いベールによって申し訳程度に隠されているのがギリシャの女神像を彷彿とさせる。

 

「ま、そんなことはどうでもいいんだ。ほら、早くちーちゃんにこの氷を枕にして渡してあげなよ! はい、これタオルね!」

 

 なぜそこで俺に手渡すのか、どこからその氷が出て来たのか。今更束さんの行動を理解しようとするだけ不可能なのだから、言われた通り氷をタオルでくるむことにしよう。

 氷だから当たり前だけど、本当に冷たい。

 

「ほらほら、何してるのさ」

 

 ――あの、束さん? 近くないですか?

 

「えー? なんのことー?」

 

 俺の顔の横で、そんな無邪気な声を出さないでください。というか束さんの頬が俺の頬にくっついているんですが、どことは言えないですが非常に大きくて柔らかなところが、背中に。

 

「んー? どこがどこに当たってるのかなー?」

 

 女神(ヴィーナス)なんかじゃない、悪魔(サキュバス)が俺の耳元で囁く。

 

「ふふふ、もちろん……当ててるんだよ?」

 

 こんなに近くに居るというのに、クロエは気付いていないのだろうかラウラと共に織斑先生を団扇で扇いでいる。首を動かせないから目に見える範囲でさえ、他の生徒たちがこちらを見て騒いでいるという様子もない。どういうことだ。

 そんな俺の考えを余所に、束さんは俺の背中に抱きついたまま。獲物を絡め取る様に指を俺の手に這わせて氷にタオルを巻いていく。束さんという糸に操られた人形になった気分だ。

 

「……わ、私の前で……不純異性交遊は……」

「はーい! ちーちゃん氷枕だよー!」

 

 今の状況は織斑先生にしか見えていないのか。体力を削られきった織斑先生の批難も弱々しく、誰にも聞きとられることはない。当の俺はすっかり束さんの支配下だ。

 束さんの息遣いが、とても近い。俺を介さず織斑先生に氷枕を渡せばいいのに、わざわざ俺に氷を持たせたのはこの為だったのか。

 織斑先生に氷枕を渡した束さんの手が、するすると視界の外へ消えたかと思うと俺の肩を軽く掴んだ。

 

「……ねぇ」

 

 ぞくり、と背中を期待への恐怖とも甘美な痺れともとれないものが走る。俺の胸に垂れて張り付いた束さんの長い髪から、水滴が流れて落ちていくのを妙にはっきりと感じた。

 耳に息を吹きかけるように、そして俺にしか聞こえないように小さく、海の底へと誘う様な声で束さんは続ける。

 

「さっき、ちーちゃんのおっぱい、見てたでしょ?」

 

 どきり、と心臓が興奮とはまた別の鼓動を打った。いやに冷たい汗が、額を流れる。束さんの声色は全く責めているものではない。むしろ、悲しみに満ちている声。

 それがどうしようもなく、俺の心臓を絞り上げていく。

 

「もしかして、私じゃ……駄目?」

 

 束さんが、俺を抱く力を強める。押し付けられていた豊かなものが、俺の背中で更に形を変えていく。熱い柔らかさは柔軟に背中へと吸い付き、水を吸ってごわりとしたシャツと薄めの水着の感触が、暴力的なまでに俺の脳髄に訴えかけてくる。

 

「君を、満たすことはできないの……?」

 

 耳を()まれるのではないかというくらいに、束さんの唇の熱が俺の耳に伝わってくる。目の前が真っ白になっていく。俺の前にはビーチチェアに横たわる織斑先生が居る筈なのに、脳が視覚を遮断するほどに束さんの情報に飢えている。

 

 ――溺れる。

 

「私が、君の一番なんだから……」

 

 ――溺れてしまう。

 

 もう、溺れてしまおう。立ち上がって、束さんの手を取って、どこか誰も居ない場所で束さんを貪りたい。束さんは許してくれるし、それを望んでいるのだ。

 今だって、誰にも織斑先生以外には誰にも気付かれていないのだ。世界の誰にも邪魔される、思う存分に束さんを思いのままに出来る筈。

 

「な、な、な、何をしている……!」

 

 渚に降臨した小悪魔に侵されてどうしようもなくなった俺を正気に戻したのは、怒りに震える同級生の声だった。

 

「げぇっ!? 箒ちゃん!? なんでバレたの!? 光偏向ステルスフィールドは39.872秒ごとの63255秒分の1に存在する修正期間中に0.00035度以下のズレもなくウィークポイントから見ないと見破れないのに!?」

「この――!」

 

 ◇

 

 篠ノ之がなんと言ったかは覚えていない。この痴女姉だったか馬鹿姉だったか。

 ただ、篠ノ之のおかげで正気に戻った俺は即座に砂浜に倒れ込んで寝そべることにより、プライドの代わりに社会的な死を免れたのである。異性が99%を占める中、大変なことになっている下半身を見せてしまうことだけは絶対にダメだ。

 クロエもラウラも、急に倒れ込んだ俺を心配して濡らしたタオルを掛けてくれたり冷えたスポーツドリンクを渡してくれたりするのだが、その優しさが今はツラい。

 

「おい、起きてるか?」

 

 泣きそうな気持ちを(こら)えながら、砂浜に突っ伏していると一夏の声がした。仕方なしに顔を上げると、近い。だからさ、なんでお前はそんなに距離が近いんだ。顔の近くでしゃがむんじゃない。男の股間が近いとかどんな拷問だ。

 これ以上、一夏の下半身とのご対面は嫌なのでとにかく立ち上がることにする。

 

「お、おい、本当に大丈夫か……?」

 

 俺は大丈夫だから、一夏は篠ノ之の心配をした方がいい。束さんと追いかけっこなんて織斑先生の二の舞になるだけだからだ。

 

「そうか……それもそうだな。ちょっと飲み物とタオルとか用意してくるよ」

 

 一夏が離れていくのを確認して、俺は砂浜に座り込んだ。臨海学校は始まったばかりだというのに、とてつもない疲労を感じる。クロエが掛けてくれたタオルを頭に乗せて、ラウラが渡してくれたスポーツドリンクを飲む。

 ふと、気になってクロエとラウラに尋ねてみた。

 

 ――なぁ、さっきまで俺と束さんは何をしていた?

 

「……? なんのことですか? お父様はずっと私たちと一緒だったではありませんか?」

「いきなり篠ノ之が突然怒り出して、その……母が急に現れて驚きはしたが父はずっと私たちと織斑教官を看ていたじゃないか」

 

 変な事を聞いてしまったことを謝って、怪訝な顔をする二人を宥めて繰り広げられる姉妹喧嘩を見る。束さんが篠ノ之に見つかった時に叫んでいたことを鑑みれば、例のステルスフィールドとやらを使ってバスの中に潜んでいたとしてもおかしくない。

 

 ――まさかずっと隣か、あるいは目の前に居たのだとしたら。

 

 ほんの少し怖くなってしまい、掻き消すようにスポーツドリンクを飲み干した。

 

 ――そんなことある訳ないよな。

 

 束さんは、実の妹にマジギレされているというのに楽しそうに笑っていた。

 




夏ですね、毎度更新が遅れて申し訳ありません。
肉感的で官能的な表現って難しいですね。
安易な箒&一夏オチに走ったのはR18がダメなのとだいぶ長くなったからです。

束さんのおっぱいで窒息死したい人生だった。
エッチよりえっち表記の方がエッチな感じしません?
私はします。
クライン・クライン様の膝枕ネタを使わせて頂きました。

臨海学校編を一話に収めようと思ったけど長くなるので二話にします、多分。
今回は比較的健全な朝から昼辺りの導入部、のつもり
後編は混浴温泉含めたムフフな夕方から夜の部となる二部構成の予定です、きっと。
一話独立形式なので、リクエストにもあった温泉回は別れていても問題ないのです。
でも次回更新は未定、内容は束さんと温泉入るのをいつかするのは確定、いつか。
そろそろ束さんが途中から現れるパターンでなく、最初からイチャラブする感じを。
何やっても疲れがとれないのがとてもつらい。

よもぎもち様、夜渡様、hisashi様、誤字脱字報告ありがとうございます。


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天災兎と今とこれからと

 時計台を見上げる、時刻は9時ちょっと前。初夏とはいえ、今年は空梅雨のせいか地面から立ち上るじっとりとした暑さがキツい。胸元を煽いで空気を送り込む。俺と同じように周囲の人々も、手で煽いだり団扇(うちわ)を使っていたりと様々だ。

 行き交う人々をぼんやりと眺める。望んでいた相手が来たのか、一組のカップルが挨拶を交わし仲睦まじそうに腕を組んで歩いて行った。ここは駅前公園の時計台前。つまりは人気の待ち合わせスポットである。携帯電話が覇権の時代になろうとも、やはりこういった場所で会うことに心ときめく。

 

 ――と、そんなことがデュノアから借りた雑誌に書いてあった。

 

 記事の内容を思い出しながら自分の格好を見直す。一緒に歩いて恥ずかしくなる様な格好はしていない、筈だ。わざわざこの為に一夏とデュノアに協力を頼んだのだ。俺の拙いセンスで判断しても良い仕事だと胸を張って言える。

 凰やオルコットからは少々睨まれはしたが、このコーディネートの代金と思えば安いものだ。

 

「お待たせ~」

 

 俺を呼ぶ声と同時に、9時を告げる鐘の音が鳴った。

 

「ん? なんだか今日は気合が入ってて更にかっこいいね! 束さんは嬉しいよ!」

 

 俺の待ち人である、束さんだ。今日はいつものワンピースも、ウサミミを模したヘッドパーツもお休みである。そして顔には眼鏡を、眼鏡だ、なんと眼鏡をかけているのだ。三度同じことを繰り返すほどに、束さんの眼鏡姿は新鮮だ。

 知的さを感じさせる黒縁眼鏡だが、フレームはやや細めに作られてありオシャレを考慮したデザイン。黒というあえて単色のチョイスが、根っからの研究生活のせいか白い肌と抜群のコンビネーションを生みだしている。

 

「むー、私に夢中になってくれるのは嬉しいけどさ、他にも言うことはないのかなー?」

 

 拗ねて頬を膨らませながら、束さんが毛先をくるくると指で弄ぶ。これは髪型を見て欲しい合図なのでは。必死になって予習したことを思い出し、束さんを改めて観察する。

 陽光に煌めくロングへアは、いつも以上に気合を入れていることを感じさせる艶やかさだ。更には髪の一部を頭の横で一つ束ねたワンサイドアップにしていることで、ワンポイントを作る事も忘れてはいない。

 ふんわりとしたフレアスカートから、足元の涼しげなサンダルに伸びていく素足が眩しい。キャミソールの上に胸元がやや透けた薄手のカーディガンを着ることで、清楚さと涼しさを感じさせながら大人の色気を見せてくれる。

 全体的に服の配色は初夏に向けた薄めの明るい色で統一されていて、これは本当に。

 

 ――魅力的過ぎて束さんから目が離せません。

 

 これに尽きる。

 言ってみて、ハッとした。自分でも阿呆かと思うくらいの早口で感想を捲くし立て、結局出てきたのがこんな締めの言葉とは。もうちょっと気の利いた言葉の一つや二つがあったんじゃないか。その為に歯の浮く様なセリフまで練習してきたというのに、束さんの前ではすっかり吹っ飛んでしまった。

 束さんも呆れているのか、すっかり目を見開いている。まさか俺からそんな言葉が出るとは思わなかったという顔だ。鳩が豆鉄砲を食らったようなとはいうが、束さんはどんな鉄砲なら驚くのだろう。と、そんな訳のわからないことを考えてしまう始末だ。

 

「……ちょ、ちょっと待ってね」

 

 ひくひくと口を痙攣させる束さんからの、短い言葉。いきなり失敗してしまったかと、後悔が襲ってくる。

 

「ふふ、ふっ……ふふぇっ」

 

 みるみるうちに束さんの頬が紅く染まっていき、耳まで真っ赤になった。口元はだらしなくにやけ目尻はどんどん緩んでいく。こんな風に束さんが恥ずかしがる顔は、俺でも初めて見た。

 

「――~~~!」

 

 もうどうにもならないと言った風に、声にならない声をあげながら束さんが俺の胸に飛び込んで来た。束さんの軽い身体をしっかりと受け止めて、ついでに抱きしめてみる。

 どうせここは人気の待ち合わせスポットだ。周りもカップルばかりなのだから、こういうことをしても違和感はない。違和感はないが、抱きしめるという行為は結構恥ずかしい。

 どうやら俺は今日、初夏の熱に浮かされてしまっているようだ。

 

「……ずるいよ」

 

 束さんが、俺の胸の中で絞り出す様に声をあげた。それくらいしか言うことが思いつかなかったのか、手を握って抗議するように俺の胸板をポカポカと叩く。力はまるで入っていないから、痛くない。むしろこういう束さんも愛おしい。

 

「君にそんなこと言われたら、嬉しいに決まってるじゃん」

 

 束さんが俺の背中に手を回して、ぎゅっと抱きついてきた。

 

「少しだけ、こうさせてくれる……?」

 

 消えてしまいそうな程か細い声だった。実際、今にも消える様な気がして何故だか切なくなる。束さんと同じように、抱きしめる力を強めた。

 額を俺の胸板に押し付けたままで束さんは言葉を続ける。

 

「こんな風に抱きしめ合うなんて、種を残す生物的本能が出した神経伝達物質に騙される馬鹿共のくだらない行為だってずっと思ってたんだ。私はそんなものに騙されない、親にだってされたいと思わなかったしさせなかった。でも、でもね……今は私、とっても嬉しい。君の体温が、心臓の音が、こんなに近くに感じられて本当に……嬉しい。やっぱり君は、私の運命の人なんだね」

 

 滔々と話すが、内容は簡単に聞き流せるようなものじゃない。運命の人がどう、というのも科学至上主義者の束さんが言うのはよっぽどのことだ。それに抱きしめ合う行為を生物学的な云々と言い切ってしまうのも、束さんが元々マッドな人だったことを再確認させてくれる。

 だからだ。

 

「――に――よ」

 

 ――何か言いました?

 

「ううん、何も言ってないよ?」

 

 周りの喧騒も相まって聞き取れなかった束さんの言葉が、どうにも俺の心をかき乱す。

 聞こえなかったからこそ、聞きたくなる。何しろ、束さんは俺の元から離れてとびっきりの笑顔を見せたのだ。文字通り、俺にしか見せない表情だ。ならば声だって俺のものでもいいんじゃないだろうか。

 束さんの表情から何から全てに至るまで、他の誰にも見せずに独り占めにしたい。そんな黒い感情が胸の奥から溢れだした。

 

 ――束さんを、手離したくはないです。

 

 束さんの手を、思わず握っていた。自分でも驚いてしまう。俺はこんなにも積極的だったろうか。どうにもらしくないと、自嘲したくもなる。

 しばし、束さんは俺の手と顔を見比べてから、優しげな微笑みを浮かべた。

 

「大丈夫だよ。私は貴方だけの束さんなんだから」

 

 片手は俺の手を握ったまま、もう一方の手を俺の肩に置いて束さんは俺の頬にキスを一つした。

 感情を昂らせる情熱的なキスではなく、親愛を確かめるためのついばむ様なキスでもない。だが、俺の心を安心させる不思議なキスだった。心中に広がっていたドス黒い感情が、潮が引くように消えていくのを感じる。

 

 ――束さんは、魔法使いなんですか?

 

 率直な感想だった。

 束さんはいつもの様な無邪気な笑顔を浮かべる。

 

「魔法かぁ……とても私とは相容れないものだけど、ふふっ。君が望むなら、魔法使いになってみるのもいいかもね!」

 

 確かに、魔法使いという存在は束さんの有り方からすれば真逆のものだろう。束さんのことをよく知っているつもりなのに、どうしてそう例えたのかと自分でも苦笑する。それにしても、束さんが本当に魔法使いになったらどうだろうか。

 瞬間、雷に打たれた。電撃的な発想が空気を読まずに全身を駆け巡る。

 

 ――つまり、魔女っ娘束さん。

 

 我ながら教会に狩られそうな程の悪魔的閃きだ。ロングスカートかミニスカートか、クラシックスタイルかモダンスタイルか。想像は無限大である。

 

「……ふーん、そういうのも好きなんだー?」

 

 にやにやと、束さんがイタズラを思い付いた子供の様に笑う。どうやら束さんには俺の(よこしま)な考えなどお見通しの様だ。頬が引っ付くほどに顔を寄せて、俺の耳に口を寄せるとそっと呟いた。

 

「それはハロウィンのお楽しみにしてて? ね?」

 

 蠱惑的な囁きは、俺の脳髄に染み込んでからようやく意味となって広がっていく。一方で束さんは何事も無かったかのように無垢な笑顔を浮かべると、俺の手を引っ張った。

 

「さぁ、今日はデートなんだから目一杯楽しもうよ!」

 

 慌てて、束さんと歩調を合わせる。改めてデートと明言されると少し照れる。最もこんなところに呼び出した挙句、いつの間にか互いに指を絡ませて手を繋いでいるのだから今更といえば今更だ。こうなれば恥ずかしがっている方が束さんに失礼だろう。

 ぐっと気合を入れ直し、照れでへっぴり腰になっていた身体に気合を入れ直す。束さんはそんな俺を見ても、優しげな笑みを絶やすことはない。

 

「ふふ、今日はお姉さんがエスコートするからね!」

 

 束さんが、初夏の爽やかな風に似た笑顔を浮かべた。俺も、自然と頬が緩んでいく。

 

 ――本当に、束さんは可愛い。

 

 ◇

 

 ――ここ、どこですか?

 

 俺が甘かった。むしろこの考えに至れなかった俺が悪いんだろう。束さんと一緒に歩いていると、だんだんと日差しが強くなっていった。そうなると冷たい物が欲しくなるのは当然だ。そこでどうせなら本場のアイスを食べたいよね、と提案する束さんに手放しで賛成したのが良くなかった。

 たまたま見つけたアイスクリーム屋の扉を開いただけなのに。

 

 ――もう一度聞きますよ? ここ、どこですか?

 

 何故か日本人ではなくアメリカンなアイスクリーム屋の店員と、流暢な英語で会話を交わす束さんで嫌な予感はしていた。

 アイスを受け取り外に出て見れば、太陽が海へと沈もうと傾いている絶景が目の前だ。これだけで夕刻なのがわかる。

 問題は、この美しいビーチが束さんと歩いていた近くにはなかったことだ。更に言えば日本の都市らしいコンクリートジャングルはすっかり消え失せ、代わりにスペイン風の建物が立ち並ぶ美麗都市。季節外れで味気のない葉桜の街路樹だった筈が、今では背の高いヤシの木が立ち並んでいる。

 

「んー? ここはねー、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタバーバラだよ」

 

 ストロベリーのアイスをつつきながら、束さんは当然の様に答える。まさか、瞬きもしない内に日本からカリフォルニアに移動しているとは想像が付く筈がない。

 心を落ち着かせるために、束さんから渡されたカップに目を落とす。カップの中にはクッキーに挟まれたバニラアイスが、チョコスプレーとチョコソースにグラデーションされて俺を見上げていた。

 スプーンですくって一口食べる。当然、甘い。旨味は日本人特有のものだというが、甘味は世界共通の筈だ。ならば、甘味で心が落ち着くのは俺だけではないと思いたい。

 

 ――あれ? 俺、パスポートなんて持ってませんよ?

 

 落ち着いた頭が出した疑問は、あまりにも素朴過ぎた。

 俺の勝手な統計だが、日本人の9割以上はパスポートを常に携帯していない。よしんば携帯していたとしても、カリフォルニアにくるまでに船や飛行機を乗った覚えもなければ税関を通った覚えもない。

 となると、束さんが出す答えも予測できていた筈だ。

 

「正規の手段じゃないんだから、もちろん不法入国だよ。もっとも、束さんにしてみれば変な話だよ。宇宙から地球を眺め見てもさ、地上に国境線はないんだよ? 変だよね?」

 

 そうですね、と曖昧な返事をしながらアイスをかき込む。

 最早笑うことしかできない。束さんと一緒に過ごしているのだから、こういう規格外にもいつかは遭遇すると思っていた。ただ、流石に想像を超えたスケールがいきなりくると何はともあれ困るというのが正直な気持ちだ。

 

「そんなことはどうでもいっか。ここにはね、束さんが所有する物件が一つあってさ。さっきビーチを見たよね? 束さんにはよくわからないけど、人気の景色らしいから君にも楽しんで欲しくて――」

 

 束さんが、急に喋るのを止めた。兎が危険を察知して辺りを見渡すように、束さんの意識がどこか別の場所に向いているのを感じる。

 

「うーん、これは気付かれちゃったかなぁ?」

 

 ――まさか不法入国に気付かれた、とか?

 

「そうだね。連邦捜査局(FBI)中央情報局(CIA)北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)緊急出動命令(スクランブル)が出たみたいだね」

 

 なんでそんな、と言いかけてハッとする。

 

「まぁ、束さんは世界中から指名手配されてるからね!」

 

 この人こそは全世界に名を轟かせる天災(・・)科学者、篠ノ之束だ。これに美人とマッドサイエンティストと不思議の国のアリスを加えてもいい。そんな人に愛されているのだから、騒動は途絶えたことがない。

 だったら束さんと距離を取ればいいと人は言うだろう。俺が望めば、束さんはきっとそっとしておいてくれる。けれども俺は、絶対に束さんを手離したくない。

 世界を敵に回すとしてもだ。

 

「あっ……」

 

 束さんの手を強く握りしめた。二人カリフォルニアまで来た時と同じように、指を絡ませた握り方だ。これなら、手離してしまうことはない。

 

 ――今日は束さんがエスコートしてくれるんですよね?

 

 そう問いかけると、束さんはにっこりと笑って。

 

「もちろん! それじゃあ行こうか、世界が私たちを待ってるよ!」

 

 二人、並んでサンタバーバラの街を笑いながら駆け回る。

 

 ――屈強な警察官、あるいは軍人たちを背後に逃げ回るのは、実をいえば怖かったが。

 

 ◇

 

 束さんに言われるままにドアを開けて飛び込むと、そこはIS学園の自室だった。振り返ってもう一度ドアを開けてみても、広がるのは寮の廊下ばかりだ。今の今まで、束さんと一緒に世界中をデートして回っていたとは到底思えない。

 部屋に差し込む西日と、朝に見た時より進んだ携帯の時計表示だけが、束さんと過ごした時間の経過を感じさせてくれる。

 

「ねぇねぇ、今日は楽しんでくれたかな?」

 

 束さんは期待した表情で俺を見つめている。

 

 ――もちろん、楽しかったです。

 

 CIAやアメリカ軍に追われながら、世界で一番有名なネズミと写真を撮ったのは束さんと俺くらいだろう。無論、入場料とかそういう諸経費はきちんと払っているので不法入国以外に問題はない。

 やっぱりそういう問題じゃないかもしれない。冷静になれば罪悪感も遅れてやってくるものだ。

 

「そう、良かった……そ、それにしても君の携帯は随分光ってるね?!」

 

 束さんが喜色を誤魔化すように、俺の掌の中で暴れる携帯を指差した。

 先程から俺の携帯には、織斑先生から鬼の様な着信が来ている。今までアメリカのみならず他にも数えきれないほど世界を回ってきた。そうすると、各国で束さんと俺の目撃情報が頻出する。つまりはIS学園がパンクするほどの問い合わせが世界から押し寄せて来る訳だ。結果として、織斑先生の堪忍袋は限界に来ている。

 どうやら、このままのんびりとしている時間は多くないらしい。その前に、渡すものを渡しておかなければ。

 

「今ちーちゃんと鉢合わせたら君も私も怒られるぐらいじゃすまないから、束さんは先に帰るね」

 

 束さんがドアに手を掛ける前に、呼び止めた。

 

「? どうしたの?」

 

 不思議そうに首を傾げる束さんに対して、若干の躊躇が産まれる。どうせなら寮の自室ではなく、もっとロマンチックな場所で渡すべきだった。思えば世界を巡る中、絶好のポイントもあった筈。が、はしゃぎ過ぎてしまったのは俺の不覚だ。

 どんな文句を言われたとしても俺は受け入れる。絶対、後でへこむが。

 

 ――これを、束さんに。

 

 束さんの右手を取って、薬指に輪を通す。ポケットに潜ませておいたケースから取り出す一連の流れは、驚くほどにスムーズにすることができた。束さんにはめた指輪とまったく同じものを、自分の右手薬指にもはめる。

 

「えっ、えっ、えっ? これ? えっ、もしかして? えっ?」

 

 ――婚約指輪、とかいうやつですかね?

 

 恥ずかしさのあまり頬をかく。

 指輪自体は値打ちのあるものではない。ISのあれこれのおかげで金がない訳ではないが、所詮は何かしらの保護下にある未成年である。相応の大金を動かせばそれだけで国に勘付かれる。束さんに渡すものに、そんなケチがついたものを渡したくはなかった。

 

「……私で、いいの? 私を、選んでくれるの?」

 

 束さんが指輪を抱きしめるようにしながら問いかけてくる。

 これが境界線だ。世界の範疇に留まるか、束さんが居る無限の成層圏(インフィニット・ストラトス)に踏み出すかの、最後の選択だ。

 

 ――決まっている。

 

 俺は束さんを手離したくない。俺のものにしたい。俺のものになって欲しい。

 

 ――束さんが、いいんです。

 

 言い切った。

 今この瞬間から俺も束さんと同じ場所に立った。唯一束さんと違う点は、何の力もないくせに世界を敵に回した世紀の大馬鹿野郎というところである。だというのに、どうしてかすっきりとしている。

 束さんが与えてくれたものに、少しは応えることができたからだろうか。

 

「………………」

 

 束さんは何も言わない。大きく目を見開いて、俺の顔をじっと見つめて、目尻に涙を溜めている。頬は赤らみ、唇はわなわなと震えて絞り出す言葉を探して彷徨っているようだった。

 とても長い一秒の後に、一際大きな涙が頬をゆっくりとつたって零れ落ちた時。

 

「……う……う、う゛わあ゛あ゛あ゛ぁぁぁっ!」

 

 感情が、束さんが抑えていたものが爆発した。恥も外聞もない。子供の様に泣きじゃくりながら束さんが俺の胸に飛び込んでくる。息が止まるかと思うほどに抱きしめられ、うっと空気が肺から逃げ出して行く。

 だけども俺は束さんを抱きしめて、胸の中にある暖かさを再確認する。このまま圧し折られても構わない。そう思える程に束さんが愛おしいのだ。

 

 ◇

 

 随分と時間が経った様な気がするが、すぐに落ちる筈の西日が未だに強いのだからそうでもないのだろう。束さんは既に泣き止んでおり、肩を小さく震わせていることくらいしかその名残は感じられない。

 束さんが、俺の胸に押し付けていた顔を上げた。

 

「ねぇ? 少しだけ……私らしくないことを言ってもいい?」

 

 赤く泣きはらした目を見つめ返しながら、俺は頷いた。

 

「ずるい」

 

 ――はい。

 

「ムードもロマンチックもない」

 

 ――はい。

 

「馬鹿なの?」

 

 ――はい。

 

「本当に悪いと思ってるの?」

 

 ――はい。

 

「悪いと思ってるなら」

 

 束さんが、頬を朱に染めた。

 

「キスして」

 

 言葉は必要ない。

 束さんを逃がしてしまうことのないように、抱きしめながら唇を塞いだ。束さんも、俺が途中で止めてしまわない様に背中に手を回しながら唇を押し返してくる。

 息が出来ない、それは束さんも一緒だ。しかしキスを止めることはない。

 どれくらいの間そうしていたかわからない。どちらからということもなく唇を離した時は、お互いに荒い息を吐き、息も絶え絶えという有り様だった。

 

「……愛してる」

 

 束さんがぽつりと呟いたのを、今度は聞き逃さなかった。

 

 ――俺も、束さんのこと愛してますよ。

 

 陳腐で使い古された言葉だが、これ以外にどう言えば良いのか俺にはわからない。子供の戯言かもしれないが、それでも俺の想いを束さんに伝えたかった。

 束さんは少し目尻に涙を溜めて微笑んだが、すぐに悲しそうな顔をする。

 

「……でも、今日はこれでお別れだね」

 

 ゆっくりと、強く繋がったものを無理矢理引き剥がすように束さんが離れていく。未練なのは束さんも一緒なのだ。俺の我が儘で束さんをこれ以上引き止めてはいけない。抱きしめていた腕を離す。握った掌に爪が食い込んで血が出る寸前でも、握り込んで耐える。

 

「………………」

 

 束さんは俺の握った拳を見ると、少し考える素振りをした。そして人差し指を唇に当てると、その人差し指を俺の唇に当てた。柔らかな白い指先が俺の唇から離れて行き、その先は再び束さんの唇に触れた。

 にこり、と束さんは今まで見たこともない様な笑みを見せて、身を翻してドアを開けて出て行った。ドアが閉まるか閉まらないか、その瞬間。入れ違うようにして織斑先生が部屋の中に入ってくる。

 

「話があるのだが、居るか?」

 

 居ますよ、と返事をする。まさかドアのほとんど前に居るとは思わなかったのか、織斑先生は若干面食らっていたようだ。しかしそれも僅かな間のこと。咳払い一つしていつもの顔に戻ると、単刀直入に俺の今までを問い質しに来た。

 無論、俺は本当のことを喋ることはない。今の俺には束さんがついている。そう思うと面白いように口が回った。それでも、一つ困ったのは右手の薬指にはめた指輪について突っ込まれたことだ。

 

 ――束さんに同じものを。

 

 意味を察したのか織斑先生はちょっと視線を逸らしながら、そうか、と呟くだけだった。多分、織斑先生は同じものを渡したい、か渡された、という風に受け取ったのだろう。もちろん、俺は渡した、という部分を言わなかっただけなのだが。

 気まずくなったのか織斑先生は俺に職員室へ顔を出すことを命じると、部屋を後にした。なんとか切り抜けることができたらしい。俺は大きく息を吐き出すと、外を見た。

 西日は既に海の果てへと沈み、月の淡い光が部屋の中を照らしていた。窓に近づいて月を見上げる。

 

 ――月に兎がいるのなら、束さんは月にいてもおかしくないよなぁ。

 

 ぼんやりと、そんなことを考えた。




→あとがきは活動報告へ。


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天災兎と魅惑の紺と

 運動の秋、とは誰が言いだした言葉なのか俺は知らない。ただ、初秋の朝は運動するのに丁度良い天候だということは同意する。暑すぎず寒すぎず。動く前の身体であっても震えさせることはなく、熱を持った身体は適度に冷やしてくれる。少し前の夏場など、朝を少し過ぎるだけで爽やかさの欠片もなくなるのだから本当にいい季節だと思う。

 ぐっと腕を伸ばして、息を吐きながら身体全体も伸ばしていく。

 運動前と後のストレッチに関しては一夏に厳しく言われているので手を抜くことはしない。思い返してみれば、こうして朝早くに運動をする習慣が付いたのも一夏のおかげだ。一夏が身体を鈍らせない為にやっていた朝練に、俺を誘ってくれたのがきっかけだからだ。

 

 ――それが大所帯となったもんだ。

 

 最初こそは俺と一夏だけで朝練をやっていたが、クラス代表決定戦前後に篠ノ之とオルコットが合流するようになった。クラス対抗トーナメントが終われば凰がこの集まりに加わったとなれば、デュノアも男子としての転校直後から朝練に参加していたのは自然な流れだ。ラウラは例の事件の後くらいから、俺が誘って一緒に朝練をしている。

 

 ――だからだな。連休とはいえ、今日は寂しい。

 

 屈伸をしながら、ぼんやりと一夏が言っていたことを思い出す。

 家の掃除と冬物の準備をするとかで、連休を機に織斑先生と共に自宅に一度戻ると言っていた。篠ノ之は一夏に着いて行くらしく、それを聞きつけた凰やデュノアも織斑一行に加わっている。こうなればオルコットも、となるかと思いきやイギリス本国に報告があるとかで悔しさのあまり歯噛みしていた。ラウラはオルコットと同じくドイツ軍に呼び出されたそうで、今日は不在。

 つまり、初めて一人で朝練をするということだ。

 だが、一人になってわかったがこれがなかなか面白くない。ストレッチにせよ何にせよ、人とやる方が効率は落ちるかもしれないが楽しいのだ。一夏を巡って起こる騒がしいやりとりが、どうしても恋しく感じてしまう。

 

 ――今日は早めに切り上げるか。

 

 そんなことを考えながら、地面に座って足を開く。普段なら一夏かラウラが背中を押してくれるが、今日はそうもいかない。身体はあまり柔らかい方ではないので、補助なしにどれくらい開脚前屈が出来るかは疑問だ。

 

「先輩の背中、私が押そうかなー?」

 

 あまりにも自然な申し出。じゃあよろしくと言いかけて思わず真顔になった。俺を先輩と呼んだのはどこの誰だ。IS学園で俺の事を先輩と呼ぶような物好きな後輩はいない。

 第一、足音も気配もなく、突然背後に現れるという芸当ができる人物となれば。俺の知る中では一人しかいない。

 

 ――束さんその人しかありえない。

 

 嫌な汗が背筋を流れる。これは、何かされてしまうに違いない。理性と本能は逃げるように命令している。にも関わらず悲しいかな、立ち上ろうとしても硬い身体はすぐには言うことを聞いてくれない。

 いつもより何トーンか高い声が、俺をからかう様に後輩としての言葉を紡いでいく。

 

「遠慮しなくてもいいのにー。じゃあ、押しますよ」

 

 俺の拒否など問答無用、と言わんばかりに背中に柔らかい物が当たった。

 間違いでなければ、これは胸だ。直感的にわかってしまうのは、束さんと過ごしてきた時間のせいか。とにかく遠慮なしに押し付けてくるものだから、否応なしにぬくもりを感じてしまう。当然、身体が芯から熱くなっていく。

 

「はい、それじゃあ次は腕を伸ばそうね、先輩」

 

 白蛇が獲物に絡みつく様に、白く細い腕が俺の腕に沿って手首を掴んだ。体温が低いのか、少し冷たく感じる。それがまた、手首に蛇が噛み付いたかの様な連想をさせた。

 前屈をさせる為に手首を掴んだ手がゆっくりと、前へと引っ張られていく。合わせて、背中への圧力はますます強くなり、熱を感じる面積は背中から腕に掛けてと一気に広がっていく。息遣いまでもが耳元で聞こえてくるとなると、巨大な蛇に呑まれている、という表現が的確に思えた。

 

「ゆっくり、ゆっくりだよー、ゆっくりと息を吐いてねー」

 

 身体をリラックスさせる優しい声だが、その中には男を誘う耽美な声音が確かに混ざっている。骨抜きにされそうだと思うと同時に、運動用の服の下にISスーツを着る良さを教えてくれたオルコットたち代表候補生組に感謝した。

 特にISスーツの下半身部分にはサポーターが仕込まれている。これのおかげで、のっぴきならない下半身事情が起きたとしても、傍目にはわからないようになっているのだ。

 最後の一線を保ちながら、大きく息を吐いていく。途中、苦しさのあまりに空気を吸い込んだ。たちまち花の良い香りが鼻孔を刺激する。シャンプーの香りだろうか、それにしては生々しい甘さがある。こればかりはどうにも表現できない。

 

「はーい、いいよー。楽にしてねー」

 

 ふっと、背中から掛けられていた圧力がなくなった。同時に胸の感触がなくなったということでもあるが、今の俺には九死に一生を得た気分だ。あのまま押し付けられていたら、もしかしたら出ていたかもしれない。

 何がとは言わないが、とにかくサポーターがなければ立つことも出来ないところだった。

 

「じゃあ、次は私の番だよね! 先輩!」

 

 いい加減そのキャラはなんですか、と若干夢心地だったのは別として文句の一つでも言いたくなる。言ってやる筈だった。

 

 ――え?

 

 絶句。あまりのことに二の句を告げることが出来ない。今更になって腕のみならず視神経に悪影響が出たのか、はたまた俺の頭が遂におかしくなったのかと思わずにはいられない。

 何故かなど、束さんを見ればわかる。ウサミミカチューシャがないこととか、ロングヘアーがポニーテールに結われていることではない。無論、ブルマ姿であることも違う。

 束さんの背が、いつもより小さい。小さいつながりでいえば、胸も確実に小さくなっている。けれども束さんの魅力がほんの僅かでも削がれた訳ではない。妖艶さの中にあどけなさを残す束さんが、そこに居た。

 

「へへー、どうかなこれ? 前に制服で一緒に学園を歩いたことを思い出しちゃってさ、君と先輩後輩になってみたいなー、って。まぁ、先輩なんて誰にも言ったことないから想像なんだけどね」

 

 どうかな、ってとても魅力的ですが。その姿は一体何がどうなって。

 

「んー? 束さんは細胞単位でオーバースペックだからね! 自分の遺伝子を弄るくらいは朝飯前だよ! この話をするとなると軽めに話しても三日は掛かるから……つまり、束さん流に発展させた遺伝子工学を駆使すれば肉体年齢なんてこの私には関係ないのさ! 子供になるのも大人になるのも自由自在! 流石私! ま、これだとあくまで不老であって不死ではないんだけどね!」

 

 いつもより少しだけサイズダウンした胸を張って、ドヤ顔の束さんを見ていると頭痛がしてくる。が、酷く乱暴な言い方をしてしまえば『いつもの束さん案件』だ。とはいえ人類の果てしない夢の一つ、不老不死がこんな形でほぼ完成しているとは誰が思い付くものか。

 

「あれ……? もしかして、お気に召さなかった?」

 

 ――お気に召さない筈がないですよ。

 

 色々思うところはあるが結局それはそれ、これはこれという話でもある。

 ポニーテール姿は体操服姿の束さんによく似合っている。下半身はブルマだ、上に着ているもの自体は俺と同じIS学園の半袖体操服だが。

 この今の時代に、と言われることもあるブルマだが、女子用ISスーツと形状が似ているからとIS学園では体操服として正式に使われている。決して、決して束さんが俺の趣味に合わせたからじゃない。

 

「ブルマ、嫌いなの?」

 

 ――好きです。

 

 ついつい即答してしまった。

 これは酷い誘導尋問だ。にんまりと束さんが笑っているが、俺は反対に茹で蛸の様になってしまう。情けないのは、恥ずかしくても視線を逸らすことができないことだ。

 単なる色気だけではない。夜を落とし込んだ暗い布地から、一足先に新雪が降り占めた様な脚が伸びているのである。束さんが持つ四肢の美しさも相まって、目線を外すのは美術館を後にする様な名残惜しさを感じさせるのだ。

 

「……ちょっと、ちょっと待って! 流石に見過ぎだよっ! 本来の趣旨から逸れるからもうダメー!」

 

 束さんがブルマに入れていたシャツを引っ張り出すと、スカートを押さえるのと同じ仕草で下半身を隠してしまった。魅惑の紺色が見えなくなったのは残念ではあるが、内股気味になって恥ずかしそうにシャツを握りしめる姿はかなりくるものがある。

 

 ――そういえば、靴下は履いてないんですね?

 

 新雪を滅茶苦茶に荒らしたいという獣欲を何とか誤魔化しつつ、ブルマが隠れることによって広くなった視界で束さんを見る。

 ブルマによって足を大きく露出する為か、ニーソックスやハイソックスを履いて体育をする女子ばかりなのだ。もっとも、ISスーツでも似た形状の物を着用している為、先生たちも着用を禁止できないという側面はある。

 

「そりゃあ私の脚は君、ううん! 先輩の為に存在するからね! 布切れなんかで隠すつもりはない……んだけど……今の先輩の目がえっちすぎるからそんなにジロジロ見ないでぇ!」

 

 まだ続けるつもりだったんですね、その設定(よびかた)

 それはともかく、普段は俺が束さんに恥ずかしがらされてばかりなのだ。こんな風に立場が逆転しているのは新鮮だ。なかなか趣深い物がある。世の中には異性を赤面させたいフェチがいるのは知っていたが、これは癖になりそうだ。

 

「う、うぅ……ふぇ……」

 

 まずい、調子に乗っていたら束さんが涙目になってしまった。

 罪悪感の高まりが凄い。目に一杯の涙を溜めて、それでも逃げ出すこともない。ただ、シャツでブルマを隠しながら上目遣いでこちらを見ている。背が低くなっているからか、普段よりも小動物っぽさが増すことで罪悪感を加速させるのだろうか。

 一方で背中をぞくぞくと焼く様な、奇妙な高揚を感じているのも事実だ。束さんは言うまでもなく年上だ。その束さんが俺と変わらないか、もしくは俺より下の年齢の肉体でやって来たのだ。更には俺を先輩とまで呼んでいる、これに背徳感がないというなら嘘だろう。

 

 ――いや、とりあえず、ストレッチしましょうか。

 

 理性と欲望の全面戦争の結果、辛くも理性が勝利した。

 前に会った一夏の友人、五反田弾にこのことを言えば思いっきり罵倒してくれるに違いない。自分でもそう思えるくらいに、ブレーキを踏み込んだのは自覚している。

 ああ、弾といえば初めて会った時の第一声が『女じゃないのかよ!』だった。思い出したら腹が立って来たな。今度、体操服女子と二人っきりでトレーニングしたと自慢してやろう。もちろん、嘘は言っていない。

 

 ◇

 

 ――甘かった。

 

 そんな声をもらしてしまうほど、俺の目論見は生温いものだった。束さんという魅力的な肉体を持つ人と、肌を触れ合う様なストレッチをみっちりとするのである。よく理性を保っているのが俺自身驚きだ。

 

「あれ? どうかした?」

 

 いつもの調子に戻った束さんが小首を傾げた。軽く上気した頬に、垂れた髪が張り付いている。たったそれだけのことなのに、興奮を煽られるのは何故なのか。

 なんでもないです、という一言だけを絞り出すのが精一杯だ。

 

「そう? じゃあ最後に先輩と同じ開脚前屈をやるから、背中を押してね!」

 

 束さんは俺に背を向けて座ると、脚を開いた。

 無防備で真っ白な背中が眩しい。たまらず視線を下げると、土との圧力で程よく形を変えた束さんのお尻が目に入った。たっぷりと詰まった柔肉が、ブルマ越しにシャツを押し上げている。

 思わず唾を飲み込む。ごくりと、喉が鳴った。視線を下げたのがよくなかったのだと、束さんの後ろ頭に集中する。

 

 ――ふわりと、束さんの髪から花が咲く様に匂いがはじける。

 

 無心を心掛けて、束さんの背中を押す。

 

 ――同じ素材の体操服を着ている筈なのに、どうしてこんなにも手触りが違うのか。

 

 ぺたりと束さんの上半身が地面についた。体操選手に負けない柔軟性である。

 

 ――前屈で伸びた服から、胸囲を覆う黒い布地が透けている。

 

「どうどう? 凄くない?」

 

 無邪気にはしゃぐ束さんに、生返事を返すのがやっとだ。

 

 ――流石に、もう。

 

「よしよし、ストレッチもこれくらいだね」

 

 手を無理矢理引き剥がして束さんから離れる。

 俺は今何を考えていたのか。落ち着く為に深く深呼吸する。ここで手を出せば、今まで必死に我慢してきたのは一体何だったのか。

 俺はまだ、束さんに何も応えてはいない。受け入れてくれるからと甘えるのは、男じゃないとちっぽけなプライドが叫んでいる。

 

 ――どうせなら最後まで意地を張ろう。

 

 と、頬を叩いて気合を入れ直す。

 

「やっぱり地べたに座ると砂が付くね」

 

 立ち上った束さんが、ぱんぱんと脚に付いた砂を払う。手はだんだんと位置が高くなっていき、ふくらはぎから太腿へと。最後には向かうのはもちろん、お尻である。

 これで何度生唾を飲み込んだかわからない。

 束さんの胸はいつもより小さくなっているとはわかっていた。ではお尻の方も小さくなっていたのか。答えは否だ。むっちりとしたお尻が、砂が払われる度にぷりぷりと震えている。きゅっとしまったお尻がブルマに収まりきらず太腿に乗って絶妙なラインを作り出していた。思わず指を這わせたくなる魔性の曲線が、そこにはある。

 

「あ……」

 

 束さんがこちらに振り向く様な気がした。慌てて、平静を装いながら近くに置いておいた水筒に手を伸ばす。あくまで束さんの方は見ていなかったという、ささやか過ぎる抵抗だ。

 ちらりと確認された、気がする。単に気がするだけだ。もしかしたら先程の感覚は勘違いで、束さんはまだこちらを見ているかもしれない。

 

 ――勘を信じる。

 

 と、俺は再び束さんの方へと視線を向けた。こっそりと、素早く。

 

「ん」

 

 束さんの手がブルマへと向かって行き、くいっと差し込まれた。ちょっとだけ生地を浮かせながら、摘まんで引っ張る。

 僅かな間だけだが、紺色の布に梱包された白桃が見えたのは俺の見間違いではないだろう。つまりは、そういうことだ。桃と形容されることもある安産型の大きなお尻が、はっきりと見えた。

 素知らぬ顔で水筒をあおりながら、先程の光景を脳内に焼き付けていく。

 

「あっ、先輩! 私にもお水!」

 

 知ってか知らずか、こちらに向き直った束さんは純真な笑顔である。俺は何も見ていないし知らないという態度を一歩も譲らないまま、水筒を束さんに手渡した。

 ごくごくと音を立てて水を飲む束さんを見る。先輩と慕ってくれる無垢な後輩の女の子に、初めて女を感じる時というのはこういう感覚なのだろうか。

 完全に術中だな、と自嘲した。

 

「あ、間接キス……だね」

 

 頬を赤らめる束さん。今日はポニーテールの為、耳までほのかに赤いのがよくわかる。

 あざとい。あざといが、可愛いものは可愛い。全て計算してやっているのではと疑ってはいる。でも束さんだからと許してしまうのは、束さんのそんなところも好きだからだ。

 

 ――よし、もう俺に隙はない。

 

 こうして冷静になったのは、関接キスで頬を赤らめる初々しさによって自分の汚さを自覚したからである。俺は間接キスに気付くよりも先に、ブルマを直しているのを覗いたことがバレたかと思ってしまった。

 そんなところに、ちょっとどころではない自己嫌悪を感じずにはいられなかったのである。

 

 ◇

 

 己を省みることにより、幾分か頭が冷えたおかげでその後はつつがなく進行した。腕立てで束さんの胸に砂が付いたのを確認したり、スクワットで弾力のある太腿を隣で眺めたりしたが、特には何もなかった。

 このまま何も問題なく、恒例のランニングをして朝練は終わる筈だった。木陰で休んだ後に解散しようと息を整えていた時、俺はとんでもないことに気付く。この禁忌の発見をしてしまったのは、頭を冷やしてしまったからか。

 

 ――束さん、透けてる。

 

 束さんの胸元で、スポーツタイプのブラジャーが透けている。グレーを基調とした、極めてシンプルなやつだ。だが白を基本とした体操服は暗色との相性が極めて良くない。加えて汗で服が体に張り付いているのだから、色と形が更にくっきりと浮かび上がっている。

 

 ――どうする。

 

 心の中で葛藤する。自慢じゃないが、俺は女性にそこまで慣れていない。束さんによって変な経験を積んではいるものの、異性の下着について言及できるほどの度胸はなかった。

 これが一夏なら、何のイヤらしさも感じさせずに注意できるだろう。しかし俺は一夏ではないのだ。どうしても下着を意識してしまう。

 

 ――どうすればいい。

 

 俺が混乱の絶頂にある中、遂に束さんが俺の様子に気付いてしまった。視線を辿り、じっと俺が見ているものを束さんが見下ろした。

 束さんは恥ずかしがるでも、隠すでもなく、ましてや悪戯っぽい笑みを浮かべるわけでもない。屈託のない笑顔を浮かべるのだった。

 

「ん? これ? 大丈夫大丈夫! 私を見ているのは君しかいないし、スポーツ用だから見られて恥ずかしいブラでもないからね!」

 

 あはは、と笑いながら束さんは体操服を捲り上げた。ぎょっとするが、目は離せない。

 捲り上げた服で顔の汗を拭く束さん。当たり前だが、束さんの下腹部辺りから胸辺りまでがばっちり見えてしまっている。

 引き締まってくびれたお腹と、形の良い小さなおへそ。主張こそいつもより大人しいものの、スポブラによってくっきりとかたどられた美しい胸。紺と白と、グレーという色彩の乱流が、視界を明滅させた。

 

「でもやっぱり運動すると暑いねー、シャワー浴びたいなー」

 

 顔を拭くのを止めた束さんが、今度は体操服の真ん中辺りを持ってパタパタと仰いで空気を取り入れている。

 シャツに隠れたり隠れなかったり、おへそがちらちらと覗いて見える。流石にこれ以上見るのは、と視線を横に流す。

 束さんの腰に、ちょうちょがとまっているのが見えた。

 

 ――ちょうちょ?

 

 束さんの腰とブルマとの境目に、何故ちょうちょが居るのか。水色の羽根には、大きな穴が開いている。これが何かを理解するのに、時間はかからなかった。

 

 ――ちょうちょ結びされた紐?

 

 頭の中を閃光が駆けた。ありとあらゆるものが、一本の線になっていくのを感じる。

 束さんと運動していた時に何もなかったのは、逆におかしい。

 最初束さんはお尻への食い込みを気にしていた筈だ。なのに、束さんは下着がブルマからはみ出すことに頓着していない。加えて、束さんがブルマを直した時に直接お尻が見えたということは。

 

「んふふ、気付いたかな? 先輩?」

 

 束さんがシャツのあおぐ手を止めて、片手でブルマの端を少しだけ下ろした。ちょうちょに結ばれた紐の下には、むちむちとした真っ白な太腿だけが見える。

 

 ――これは、相当エグい角度。

 

 頭の中で何かが弾けた。

 束さんの肩を掴んで逃げられないように木に押し付ける。束さんは一瞬驚いた顔をしていたが、すぐにやにやとした笑みを浮かべる。

 これは、イタズラが成功した時の笑い方だ。

 

「我慢できなくなっちゃった、先輩?」

 

 この問いに、どう返したら正解ということはない。

 束さんはわかっていて俺を煽っていた。俺が我慢できなくなることも計算の上でやっている。つまり何を言っても束さんは喜ぶし、受け入れてくれるのだ。無言でも、束さんはこの笑みを崩すことは決してないだろう。

 だったら、恥ずかしい事でもなんでも言ってやろうではないか。

 

 ――好きです、束さん。

 

「ふぇっ!?」

 

 みるみる顔真っ赤にして、束さんが硬直した。

 確かに好意を打ち明ける時ではないかもしれない。でも好きだから、束さんだから俺は抱きたいのだ。

 

 ――好きだから、止まれませんよ。

 

「う、うぅ……反則だよ……」

 

 束さんが小さくしぼんでいくように見えたのは、俺の気のせいだ。けれどもそう表現するのがぴったりだった。

 

「も、もうっ!」

 

 突然、束さんが俺の拘束を振り払う。そんなことをされるとは思わず、怯む。ところが束さんは逃げなかった。逃げるどころか俺に飛び掛かる様に抱きついてきたのである。腰が引けていた俺は、尻餅を着く格好で地面へと押し倒された。

 束さんは勢いのままに俺とキスをする。前歯がぶつかりそうな程の激しいキス。口内を舐めまわす様なねっとりとしたキスをしてから、束さんはようやく唇を離した。

 

「ズルいよ……ズルい……」

 

 目尻に涙を溜めながら、頬を火照らせた束さんが目の前に居る。

 一体何に対してズルいと言っているのかはわからない。わからないが、このまま押し倒されっぱなしという訳にもいかない。

 こちらからも攻めなければ、と手を束さんの身体に伸ばして。

 

 ――目があった。

 

 束さんとではない。束さんよりも向こう、木の上に潜む人物と目があった。

 にわかに混乱する。束さんは俺たち以外に人は居ないと言った筈だ。居ないと言った以上、それは絶対だ。隠れて近づいてくる人間すらも、束さんなら看破する。ならば一体誰が。

 

「ご、ごめんなさい。束様、お父様……邪魔するつもりは……」

「え、クーちゃん!?」

 

 俺に気付かれて観念したのか、クロエがするすると木から降りてきた。しゅんとするクロエを怒る気には当然なれない。野外で事に及ぼうとしたのだから、悪いのは全面的にこちらである。

 

「な、なんでクーちゃんがここに……?」

「束様が初めて運動すると張り切っておられたので、私も混ぜて貰おうと思って……」

 

 言葉通り、クロエは体操服である。

 しかし何故クロエまでブルマをチョイスしたんだ。

 

「これが正式な運動用の服だと、束様が仰っていましたから……」

 

 納得した。

 束さんが言うのなら、それをクロエは正しいと信じる筈だ。

 

「あ、でもお二人の邪魔はしませんから……」

 

 そう言って、クロエは顔を紅潮させながら両手で覆った。その割には、時々指の隙間を開けてはちらちらと見ている。

 興味はあるのだろう。しかし義理とはいえ娘に見られながら、というのは特殊性癖に過ぎる。野外という時点でかなり特殊だが、それとはまた別の話だ。

 情操教育にも良くない。

 

「あ、あはは……じゃ、じゃあ三人で運動しよっか」

 

 目にも止まらぬ速さで束さんは俺の身体から離れ、立ち上がった。俺も神速とはいかないが出来得る限りの速さで立つ。必要なのは何事もなかったという振りである。

 クロエは未だに顔を両手で覆いながら、こちらの様子を観察している様だった。

 

 ◇

 

 後の事は、特に語ることはない。

 束さんもクロエも、俺と同じハーフパンツを履いて運動しただけである。




前回の話が思ったより最終回っぽくなりましたが特に関係なく続きます。
一話完結時系列バラバラ、各話はゆるく繋がっている程度です。

前回は割とシリアスな感じだったので今回はちょっとエロティックな感じで。
束さんの格好にブルマがないことについてとある人と盛り上がった結果です。
もちろん許可済みです、込み入ったところも話すとネタが作りやすい……。
束さん+裸足+ブルマ+スポブラ+紐パン=ヤバい、を皆さんに伝えたかった。

次回くらいのネタの為のジャブみたいな実験要素、17歳の束さん。
15歳でも17歳だし19歳でも17歳です。

某所で意見を取ったところ、いつものオチが強かったのでいつものオチ。今回はクロエ。
やっぱり、いつものじゃないオチはR-18でやれってことですね。

Nekuron様、よもぎもち様、俺YOEE様、誤字脱字報告ありがとうございます。
何故読み返している時に気付けないのか、復旧して同じミスをするとは情けない…。
さーくるぷりんと様、脱字報告ありがとうございます。
((´・ω・`)様、誤字脱字報告ありがとうございます…なんだこのミス…何故気付かない…。


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天災兎はメイドさん!

『――――――』

 

 遠く、空の果てから声が聞こえた気がした。

 痛みを訴える頭が、身体を動かすのも億劫だと唸っている。すっかり(にぶ)って堅くなった意識では、疲れの原因さえ思い出せない。

 

『――――――きて』

 

 どうやら水底に沈んでいるようだ。

 けれども、嫌な感じはしない。息が詰まるなんてこともないし、丁度いい暖かさでずっとこのままでいたいとさえ思う。

 そんな抗いがたい魔力が、ここには満ち満ちている。

 

『――ください。――――様』

 

 それなのに、この声をもっと聞いていたいという想いがふつふつと込み上げてきた。

 再度の休息を要求する頭を無理矢理に動かして、耳を傾ける。

 

『起きてください、ご主人様』

 

 ――束さんの、ご主人様?

 

 ◇

 

 はっと目覚めると、天井が束さんになっていた。

 心地よさの正体はいつものベッドといつもの枕、そしていつもの布団のおかげである。だが、これらは快適であっても喋りはしない。

 となると、俺を起こしたのは天井の束さんとなるのは間違いないだろう。

 

「ご主人様はお寝坊さんですね。おはようございます」

 

 パチパチとまばたきをしてから、ようやく頭が冴えてきた。

 第一に、天井が束さんというのは大きな間違いで、単に束さんの顔が近いのだ。その距離は唇が触れてもおかしくないほどで、顔に束さんの吐息が当たってこそばゆくもある。

 もう一度まばたきをしても、束さんとの距離は変わらない。目の前に、束さんの顔がある。

 

 ――っおおぅお!?

 

 自分ではしっかり起きたつもりだったが、実際はまったく違った。束さんの顔が眼前にあるってことを遅れて理解した俺は、間抜けな雄叫びと共に飛び起きることとなった。

 なんで束さんがいるの、と疑問に思う刹那もない。身体はバネ仕掛けの玩具のように動いていた。けれども、今朝はいつもの起床と違って目の前に束さんの顔がある。目覚めは鮮やかなヘッドバットへと様変わりしていたのだった。

 しかし、束さんはひょいっと擬音が付きそうな軽やかさで、しかも優雅にかわしてみせると姿勢を整え――

 

「改めまして。おはようございます、ご主人様」

 

 ――と、ロングスカートの端を摘まんで深々と頭を下げていた。

 

 ◇

 

 束さんが作ってくれた朝食を前に、俺は未だに混乱している。

 ふと気が付いたら束さんが部屋に居るなんてこと、両手両足の指の数では足りないくらいにあった。少し前の文化祭の時なんて、束さんが小学生になるという滅茶苦茶なことだって起きた。

 今更、驚くようなことなんて、ほとんどないだろうと思っていたのに。

 

 ――なんで束さんがメイドさんになっているんだ?

 

 真っ先に浮かんだ正直な気持ちが、これだった。

 そんな俺の動揺をよそに、メイド服を着た束さんは反対側の席でバスケットからクロワッサンを手に取った。ついでにだが、俺の前には副菜として彩り鮮やかなサラダと目玉焼き、そしてカリカリに焼いたベーコンが乗ったプレートがある。

 

「どうぞ、召し上がってください」

 

 イチゴジャムを塗られたクロワッサンが、プレートに行儀よく乗ったまま俺の前に置かれた。もちろん、どちらのプレートも俺には見覚えがない。というか、こうして使っているテーブルとチェアのセットも初めて見る代物である。

 そもそも寮にキッチンなんてないのだが、そんなことよりもずっと大切な“何か”を、見落としているような――

 

「――あの、何かお気に召さなかったでしょうか?」

 

 少し怯えを含んだ声で、こちら(うかが)いながら顔を(うつむ)ける束さん。考え込む俺の姿を見て、気に障ってしまったのではないかと思ったらしい。

 どこか妙だ、と思いつつも小さく縮こまる束さんを前にしては、俺は無力だ。

 

「もしかして、和食の方が良かったでしょうか……?」

 

 チクリと心が痛み、気にし過ぎだと自分に言い聞かせる。

 それでも、拭えきれないものは纏わりつく。だが束さんにあんな哀しそうな顔をさせてはと思い直して、目の前のクロワッサンに手を伸ばした。

 

 ――うん?

 

 クロワッサンは焼き立てらしく、まだほんのりと温もりが残っていた。口に運んでみれば、幾層にも重なった生地が小気味よい音を奏でる。そこへ濃厚なバターの風味が来たかと思うと、イチゴの甘酸っぱさが舌をさっぱりとさせてしつこい感じがまったくない。

 ああもう、感動するほど美味しいです、としか言えない自分が腹立たしい。もっとこう、何か上手く表現のしようがあるだろう、俺。

 

「私の杞憂みたいで、よかったです。それに、いくつもの言葉を重ねるよりも、美味そうに食べてくれるそのお顔だけで私は報われます。ふふっ、パンもジャムも、手作りした甲斐がありました」

 

 心の底から嬉しそうに束さんが微笑んだ。

 朝日の差し込む中で、笑みを浮かべる束さんの姿は名画(・・)と表現するにふさわしい。こんな時に絵画に例えるなんて、自分のことながら変なチョイスに感じるのだけども。

 

「? もしかして、私の顔に何かついていますか?」

 

 小首を傾げる束さんに、すぐに我に返った俺はしどろもどろな返事しかできない。

 とにかく、気にしないで欲しいくらいは、言えたと思う。

 

「ご主人様がそう言うのなら気にしませんけど」

 

 束さんは、わかっていますよと言っているような表情を浮かべた。

 俺は気恥ずかしさをごまかす為に、少し意地の悪い質問を口から出しそうになった。具体的にはパンとジャムはどこから手作りなのか、といったものだ。しかし、束さんはいつも俺の為に全力なのは身に染みてわかっている。だから思いとどまった。

 束さんが手作りと言ったからには、最初から最後まで手作りなのは当然である。

 

「流石は私のご主人様ですね。私の事を本当によくご存じです」

 

 束さんは心を読めるのだろうか、単に俺がわかりやすいだけなのかもしれないが。

 

「さぁ、どちらでしょう? 今、紅茶をご用意しますね」

 

 イタズラっぽく笑ってから、どこからかティーセットを取り出した束さん。いったいそれらはどこから、という疑問はそそがれる紅茶を前に即座に吹き飛んだ。

 茶葉から煮出された格調高い香りを、ほのかな牛乳の香りが柔らかく受け止めた、優しいミルクティーの匂い。あまりの(かぐわ)しさに心を奪われる。

 俺の前にソーサーが置かれ、その上にティーカップも置かれる。揺らめく紅茶の水面でさえ、陽光を反射して芸術品の様に美しかった。

 

「ロイヤルミルクティーになります。ご賞味くださいね」

 

 ティーカップを手に取って、口にする。

 人肌よりはやや高めの温かさと、濃厚ながらもしつこくない上品な甘み。そして口内を満たす紅茶の香り。口と喉を潤した後の、意外にもすっきりとした後味に驚く。飲み干したティーカップの底には、砂糖も蜂蜜も見当たらない。

 魔法のようだと目を白黒させていると、魔法使いの束さんがにっこりと笑った。

 

「おかわりはいかがでしょうか?」

 

 俺はただ、頷いておかわりをお願いするばかりだった。

 

 ◇

 

 椅子に深く腰掛けて、ゆっくりと紅茶を嗜む。

 食後は何をするにしても、微妙に気の乗らない時間になりがちだ。それをこうして、英国貴族よろしくエレガントに過ごせることになるとは思ってもみなかった。背筋をのばして脚を組み、ちょっとカッコつけてみる。

 

 ――でも、なんか違うんだよなぁ。

 

 すぐに身体をリラックスさせると、俺は部屋を掃除中の束さんに視線を向けた。

 

「ふんふんふんふ~ん」

 

 鼻歌を口ずさみながら、楽しげに床をチリトリと箒で掃いている束さん。

 時折、踊るようにスキップをするものだから可愛らしくてたまらない。黒のワンピースは床に届く程のロングスカート。スキップをしても、白いレースのソックスがくるぶし辺りまでしか見えない鉄壁っぷりが、逆に素晴らしい。

 

「ふふふーん、ふふふーん、ふんふんふんふんふふふーん」

 

 鼻歌はいつのまにか『ワルキューレの騎行』を奏で始め、束さんは窓掃除へと移った。雑巾で窓を拭く度に、腰からお尻にかけたラインが厚いベールの向こうで揺れている。

 厚いベールというのは、もちろん今束さんが着ているメイド服のことだ。

 全体的にややゆったりとした作りが、必要以上に身体のラインを強調することがない。加えて、肩から膝丈の近くまであるホワイトエプロンを掛けているから、胸が殊更目立ってしまうこともない。

 本当に、束さんは完璧なメイドさんになってしまっている――

 

 ――これで窓ガラスが消えてなければ。

 

「も……申し訳ございません、ご主人様」

 

 雑巾で拭くだけで窓ガラスが消えるなんてあり得るのだろうか。危うく持っていたティーカップを落すところだったのを、机上のソーサーに置いて近づいてみる。

 ぺこぺこと謝る束さんに気にしてないことを告げてから、恐る恐るガラスに手を伸ばし――なんと触れてしまった。

 つまり、ここにガラスが存在している。なんでだ。

 

「ガラスが見えるのは光の乱反射があるからですので、その……屈折がなくなればもっとお部屋を明るくできるかな、と……」

 

 言われてみれば、空が前より綺麗に見える。

 さて、束さんはメイドさんになっても完璧であるし、束さんである。ならば窓だけが例外なんてことはあり得ない。そして如何に束さんにだけ意識を向けていたのかを痛感する。

 掃除が済んでいる床は、俺が初めてこの部屋に踏み入れた時より綺麗だ。たった今、窓まで歩いた俺の足跡がわかるんだから当然だ。一方、束さんの足跡は当然だがない。

 壁も天井も張り替えたのかと思うくらい新品に見える。部屋の中で唯一手を付けられていないベッドがなければ、異世界に迷い込んだと言われても信じていただろう。

 それくらい、ベッドの上の生々しい生活感だけが浮いているのだ。

 

「……どうしましょう」

 

 なんとかなるでしょう、と俺は返した。

 生活感というのは時間が経って出てくるもの、無理に荒らす必要なんてありはしない。というか、荒らしたところでベッドと同じように浮くのは目に見えている。

 シャワールームとトイレもこんな感じで落ち着かない(・・・・・・)かな、とひっそりと思った。だというのに、束さんは顔をすっかり青ざめさせている。

 お互い(・・・)、心が読めるというのは、本当に厄介だ。

 

「本当に――」

 

 申し訳ありません、と束さんには言わせなかった。

 驚いて目をぱちくりさせる束さんの顔がすぐ近くに見える、ムードも何もない、強引なキス。甘い紅茶の名残が、あとを引いた。

 

「――ふぇ?」

 

 束さんをじっと見つめて、待つ。

 

「あ、え、や、う、わ、わた……わたし、き……きょうは、め、めい、めいどさんで……」

 

 ようやく理解が追いついた束さんは、みるみる内に顔を真っ赤に染めていく。ついでに呂律が回っていないし、この様子だと目も回しているかもしれない。

 

「ご、ごめんね。今日は私、君だけのメイドさんだから、メイドさんであろうとしているから……こんな、私が、メイドさんでいられなくなるようなことはしないで……お願い……私、嬉しくて……ダメになっちゃう……」

 

 束さんはいつだって全力である。

 今日、束さんがメイドさんになったのも、本心から俺に休んで欲しかった以外にない。そこに嘘偽りは決してなく、純粋な目的であったからこそ、束さんは最も重大な懸念である不確定要素を無意識の内に排除してしまった――それが束さん自身だったとしても。

 ずっと感じていた引っ掛かりを見つけることができたなら、今度は俺の番だ。

 

 ――そんな束さんも、俺は好きですから。

 

 わかるほどに束さんが身体を震わせた。

 束さんは口を開いては閉じて開いては閉じ、浅い呼吸を繰り返している。逡巡する束さんは、ちらちらとこちらを窺いながら、小さな口から願いをのせた。

 

「……じゃあ、ぎゅって……ぎゅーって、して」

 

 俺は我慢とか恥ずかしさとか一切合財を放り捨てて、束さんを抱きしめた。その拍子に甘い香りが束さんの全身からふわりと漂って、頭がクラクラする。

 でも、俺は抱きしめることはやめない。束さんも俺に負けじと抱きしめてくれている。

 

「もっと、もっと……あたま、あたま……なでなでしてほしい」

 

 抱きしめたまま、手を動かして束さんの頭を撫でる。

 さらさらとしたロングヘアーが、なんとも心地良い。束さんも気持ち良いのか、撫でる度に艶やかな吐息が漏れて耳がこそばゆい。でも、手を止めることだけはしない。

 数分位ずっとそうしていただろうか、終わりを切り出したのはやはり束さんだった。

 

「……それと」

 

 ずっと強く抱きしめ合っていた体勢から、二人向き合って肩を抱く様にして見つめ合う。

 

「……ちゅー、しよ?」

 

 目を潤ませた束さんのお願いに、俺は応えた。

 

 ◇

 

 お互いに顔を真っ赤にして、部屋のベッドに並んで座る。今こそ抱き合ってはいないが、堅く握り合った手が二人の間にはあった。

 

「えっと、ごめんね」

 

 はにかみながら、束さんが言った。

 

「私……昔からなんでも一人でやってきたから、こんな時の甘え方ってよくわかんないんだよね……駄目だなぁ、束さんの方がお姉さんなのに」

 

 色んな束さんを知ることができるのは嬉しいが、自虐に走る姿は束さんには似合わない。

 だから俺は、俺と束さんとで握り合った手に力を込めた。

 

「……ありがとう」

 

 手を繋いだまま、肩を触れ合わせて座っているとお互いに言葉数が少なくなる。でもその無言の時間でさえ愛おしかった。

 束さんは何も言わずにこてん、と俺の肩に頭をのせた。

 

「もう少しだけ、もう少しだけ……こうしていたいな……」

 

 ――束さんが望むなら、いつまでも。

 




束さんにメイドさんになってもらいたかったんです。
ついでに束さんって甘え方がめっちゃヘタクソだと思ったんです。

((´・ω・`)様、誤字脱字報告ありがとうございます。


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天災兎の学び舎の一日

「────て」

 

 もう少し寝かせて欲しい。

 

「──きて」

 

 せめてあと五分

 

「おーきーて! ね?」

 

 吐息で耳がこそばゆい。

 こんな蠱惑的な目覚まし時計をセットした覚えはない。覚えはないんだが、また束さんに変なイタズラでもされたのだろう。まどろみの中から腕を引き摺りだして、枕元に置いたはずの携帯に手を伸ばす。

 

「やんっ♡」

 

 探しさまよった手が、何か大きな物に触れた。

 マシュマロみたいに柔らかく、グミの様に適度な弾力があって、クリームチーズの光沢に似た質感の、何か。寝る前に飲むホットミルクと変わらない温度も快い。

 手が、脳が、本能が、この掌の中にあるものを離すことから拒否している。

 

「あっ♡ こら、怒るゅぅんっ♡」

 

 心の底から幸せだ、ずっとこのまま、触っていたい。

 

「も、もうっ! 朝からエッチなんだから!」

 

 手首を掴まれて心地よいものから引き剥がされる。ついでにペチ、と額を優しく叩かれた。まったく痛くはなかったけれど、それは俺を夢見心地から覚醒させるのに十分な刺激だった。

 大きな欠伸を一つして、目を開ける。寝起き特有のぼんやりとした視界の中に、誰かが立っていた。寝ぼけ眼をまばたきさせること数度、クリアになった視界で、髪をポニーテールに結った束さんがにこやかに笑っている。

 

「おはよう、弟くん」

 

 俺はまだ夢を見ているのか。

 少し、ほんの少しばかり束さんが若返ったように見える。年齢不詳で貫き通せる美貌が、いつもよりも気力に満ち溢れている様に見えた。それとも単に、目の下の隈がないからそう感じるだけなのだろうか。

 

「さ、早く起きて顔を洗ってきて? そしたら朝ご飯にしようよ」

 

 ふぁい、とひどく気の抜けて間抜けな声が出た。色々と思うところはある筈だが、何よりも頭に残っていたのは。

 

 ──“弟くん”か。

 

 束さんにそんな風に言われるのは久しぶりかもしれない。いや、あれは正確にはワールド・パージの中の束さんだからノーカウントか。

 しかし、今日は一日中そう呼ばれるのだと思うと、どうにも背中がかゆい。

 ここで欠伸をもう一つ。脳全体に酸素が行き渡って思考が冴える。そういえば、俺が起き抜けに触っていたものは、感触や大きさ、束さんの反応からして──

 

「おーい、二度寝はお姉ちゃんが許さないよー!」

 

 トレーに朝食をのせてきた束さんを見て、深呼吸をしてからベッドを出る。

 寝ぼけていたのがかえって幸運だった。あまり生々しい感触を覚えていたら、今もベッドから出ることができなかったのは間違いない。

 もっとも、残念な気持ちも強いのは偽らざる本音である。

 

「さあさ、朝食は一日の元気の源! お姉ちゃん特製のブレイクファストを召し上がれ!」

 

 机を挟んで向かい合って座る。

 朝から豪華な朝食だ、英国王室もかくやといわんばかりのモーニングセットである。しかしそれ以上に目を引くのが束さんの格好だった。一体何故にIS学園の制服の上にエプロンを着ているのだろう。

 

「え? そりゃあお姉ちゃんも弟くんと一緒の学校に通ってるからだよ」

 

 そう言いながら束さんがコーヒーに口を付けた。俺も同じ様にコーヒーを口にする。

 なるほど、束さんが俺と同じ学園の生徒なら制服を着ているのは当たり前だ。正規のIS学園制服を着ているのは当たり前である。エプロンは食事の用意の為であって、別段不思議なことはない。不思議な事は──

 

 ──はい? 

 

 思わずコーヒーを噴き出しそうになったのを堪えて飲み干す。束さんが、高校生? 

 

「そうだよー、篠ノ之束16歳! 愛しい弟くんの愛しい幼馴染みのお姉ちゃんであり、なんと同じ学園の同級生なのだー! これって正に運命って呼ぶにふさわしいよね!」

 

 満面の笑みで両手を広げる束さんに、俺は唖然とするしかなかった。

 

 ◇

 

 束さんお手製の朝食は、それは美味しかった。更には食後の紅茶まで淹れてくれた上に後片付けまでしてくれたのである。こうして後は着替えるだけになった時、束さんは『じゃあ私は外で待ってるからね』と部屋の外へ出て行った。

 ああ、はっきり言おう。最初俺は、束さんにしては珍しいなと思うだけだった。その言葉の意味を、もう少し深く考えるべきだった。

 

「ふんふふふんふーん、弟くんと一緒にとうっこうっ♪」

 

 束さんに後ろから抱きつかれたまま、廊下を歩く。

 単純な話、廊下に出た瞬間に待ち構えていた束さんに抱きつかれたのである。しかし、これは見た目以上に歩きづらい。束さんが軽く背伸びをしながら抱きついている為に、いつもより歩幅を縮めて歩く必要がある。そうしないと、ぴょこぴょこつまさき歩きの束さんがついて来られなくなるからだ。

 もちろん、並んで歩くのはどうかという提案も既にしたのだが。

 

『別にいいでしょー? 朝からお姉ちゃんのおっぱい触ったんだから抱きついたって』

 

 と、言われてしまってはぐうの音も出ない。落ち度があるのは俺の方である。

 

「あぁー……弟くん成分100%天然ものがお姉ちゃんの生きるパワーの源なんだよねぇ……すー、すー、すー、すー、すぅぅぅぅ」

 

 吸うだけではなくたまには吐き出して欲しい。

 

「いやぁ、いくらでも吸えるよね、これはぁ……はふぅ……」

 

 束さんは上機嫌だが、俺はここではないどこか遠くを見つめて心を消し去る。

 天災科学者をおぶっての登校はヤバいくらい目立つ。しかも学園で二人しかいない男子生徒の内一人がおぶっているのだから、否応なく目立ちっぷりは頂点に達している。

 

 だが、それだけならまだいい。

 

 俺は今、背中に束さんの豊満な胸がしっかりと押し付けられている。それはもう朝に触った時以上の面積と密着度で半端ない柔らかさだ。首に回された腕の温かさもそうだし、零距離から漂ってくる束さんの匂いで嗅覚的にも興奮が一層かきたてられている状態だ。

 馬鹿みたいに注目されている中で、男のサガ(・・)を見せたら俺は社会的に死ぬ。

 

 ──仁義礼智忠信考悌臨兵闘者皆陣烈在前

 

「……あれ、弟くん? 弟くーん? おーい?」

「聞こえてないのかな?」

「まぁいいや、それならもっと堪能させてもらおうっと」

 

 首筋に当たる鼻息がこそばゆい──いや、心を無にしなければ──

 

 ◇

 

 道中色々あったかもしれないが、教室最後尾に机の数が一つ増えていた。

 まぁ、そうなるだろうとは思っていた。束さんの言う通り同級生で幼馴染みのお姉ちゃんなのだから、同じクラスに机くらいあるよな、そりゃあるよ。

 そんな風に俺が納得している中で、当の束さんは自分の椅子を一番後ろから一番前に持ってきて、俺の机の横っちょに座っている。

 

「それで、弟くんは勉強の方はどうなのかな~? ちゃんとやってるの? お姉ちゃんがみてあげるから、一緒に勉強しよう?」

 

 俺の机に両肘を付けて両手に顎を乗っけている束さん。クラスメイトのみならず同学年から上級生ら、果て見知らぬ教師までもが押しかけてきているというのに、脅威の平常運転である。

 もっとも、俺は俺で慣れたものだ。今更パンダを眺める観光客に気を割いてもなんにもならないのはよくわかっている。という訳で、束さんに勉強を見てもらう機会を有効活用する為に勉強道具を取り出した。

 

「ではではノートをごはいけーん……ほうほう、これは結構捻くれた間違え方してるねー。こっちは単なる勘違いだね、その教科書の168pに類例がわかりやすくて参考になるよ! ああ、二行目から四行目にかけて特に重要だからマークしておいてね」

 

 パラパラと教科書をめくっていく。

 束さんのことだから教科書も全て頭の中に入っているに違いない。指定されたページには当然のように必要な情報が違わず載っていた。俺は舌を巻きながらページに付箋を貼ったり、マーカーで色付けしたりと最高に真面目な学生をやっている。

 

「あ、一番大切なのは復習なんだから、マーカー引いただけで満足はしちゃダメだよ!」

 

 ぴしゃりと心中を言い当てられてしまった。流石──

 

「君の自慢のお姉ちゃん、でしょ?」

 

 にっこりと笑いかけてくる束さんに、俺は苦笑を返すしかなかった。

 

 ──ああ、本当にこの人は、ズルい。

 

 とまぁ、こんな感じで呑気に朝のプチ勉強会をしていたわけだが、クラスでたむろしているということは火種も当然やってくる。

 それは束さんと話をしてみたい命知らずだったり、額に青筋を浮かべた織斑先生だったり、胡散臭い生徒会長さんだったりと様々に考えられるが──今回は火薬庫に松明を持って飛び込むレベルの火種が飛んできた。

 

「な、な、な、何をしている……!?」

 

 教室前の人の山をかき分けて現れた篠ノ之は、わなわなと震えながらこちらを指さしている。

 人を指差すのは良くないと一夏がたしなめてはいるが、あの興奮状態では聞き入れてはくれないだろう。

 束さんも束さんで、篠ノ之を冷静にさせるつもりもないようだし。

 

「何って、弟くんの勉強を見てるだけだよ」

「お、おと、お、弟!? 弟だとぉ~!? それはおかしいだろう姉さん! 貴女は私の姉であって血が繋がっているのは私だし、そもそもなんで学園の制服を着てこのクラスに居るんだ!?」

 

 篠ノ之はひどく混乱しているようだ。言っていることがちょっとばかり滅茶苦茶である。

 しかし、怪我の功名か篠ノ之の疑問全てが皆の思いの代弁となっていた。みんなから盛大な拍手を贈られても良いだろう。

 

「ちっちっちっ、これはそんなに難しい事じゃあないんだよ箒ちゃん」

 

 一方の束さんは立てた人差し指を振りながら余裕綽々である。

 

「一つ! 幼馴染みのお姉さんに血の繋がりは必要なし! 二つ! IS学園の生徒である束さんが制服を着ているのはおかしくないどころか当たり前! 三つ! 何故なら私も一年一組の生徒なのだ!」

 

 篠ノ之はポカンという擬音が聞こえてきそうな顔をしている。

 ここは他の誰かに感想を聞いてみたいところ。ラウラに意見を求めて視線を送ると、少し戸惑った後に笑みを浮かべて小首を傾げた。ラウラはごまかしかたも可愛い。

 

「い、いったい何を……いったい何を言っている!」

 

 この光景を眺めているほとんどが篠ノ之と同じことを思っているに違いない。

 しかし、これこそが束さんクオリティだから、理由を求めるだけ無駄である。長く束さんと接してきた俺が言うんだから間違いない。諦めの境地ともいえるが、そっとしてほしい。

 そんな混沌(カオス)を極めるクラスにガラリと入って来たのは織斑先生である。場を取り巻いていたほとんど誰もが、ほっとしたような顔を浮かべた。

 これで今回の騒動は終わる──その筈だった。

 

「おはよーございまーす、ちーちゃ……織斑先生!」

「お、織斑先生! まさか姉さんが学園の生徒だなんて言わないだろう!?」

「教師には敬語を使え、馬鹿者。それに残念ながら束……いや、篠ノ之姉が何を言ったかは知らんが、そいつはお前たちと同学年で同じクラスに在籍するれっきとしたIS学園生徒だ。それだけは私が保証する」

「う、嘘だ……」

「信じられないか篠ノ之? ではこの名簿を見てみるといい。まだ納得できないなら、戸籍も学籍もなんなら身体測定結果も見せることができるぞ?」

「きゃっ、個人情報の保護をしてよー! 横暴だよーう!」

「お前にそんな観念があるとは知らなかったな。まったく、よくもまぁこんな細工を1日でしたものだ」

 

 織斑先生も呆れ顔だ。束さんは頬を膨らませながら『1日じゃないもーん、10分だもーん』とぶつくさ言っている。さらっと恐ろしい作業スピードを激白していた気がするが、驚く気力が今日はもう残っていない。そんなものは朝起きて早々に使い果たしている。

 

「しかし、私の目が黒い内は学生の本分から逸脱するような真似は絶対にさせん」

「ぶーぶー、私が学生じゃなくても邪魔してるでしょー」

「なに寝言を言っている。お前の恋慕している相手は未成年の学生だということを忘れるな。では全員席に座れ、授業を始める」

 

 ──え、このまま授業始めるんだ……。

 

 言葉がなくともクラスメイトの心がシンクロした奇跡の瞬間である。

 

「法律、制度、規則……どれであっても問題がないように細工されているのだ。だったら、私は教師としての職務をまっとうするだけ。以上だ」

 

 流石織斑先生、教師の鑑だ。投げやりともいえるけど。

 

「何を言いたいかはわかるぞ」

 

 パシッと軽い名簿の一撃を貰ったのを合図に、一組は普段通りの授業が開始された。

 

 ◇

 

 ──深い、深い溜め息を一つ。

 

 やっと授業が一つ終わった。

 終わるまでにいつもより数倍もの時間が掛かった様な気がしてしょうがない。これも、後ろから注がれる熱視線が気になって気になってしょうがなかったからだ。

 机に突っ伏してもう一度溜め息を吐く。

 

「大丈夫? なんだか疲れてない?」

 

 心配そうに話しかけてくる束さんにおかげさまで、と返す。

 ちょっとした嫌味の一つくらい言わせてほしい。

 

「いやー、あんまり後ろ姿って見る機会ないからさ、かっこいいなーって思うとつい見惚れちゃって……ごめんね?」

 

 顔を赤くしているのを自覚しながら、すみませんでしたと嫌味を言ったことを謝る。我ながら単純すぎる話だ。好きな人に『かっこよかったから見てました』なんて言われて嬉しくない筈がない。しかもそれに対して嫌味を言ったなんて、自分が嫌になる。

 そんな俺の心中を知ってか知らずか、束さんはさして気分を損ねた様子はなく。

 

「じゃあ疲れが取れるおまじないしてあげるよ!」

 

 と、嬉しい提案を満面の笑みでしてくれたのである。

 何か元気が出る怪しいドリンクでも出してくれるのだろうか、などと冗談っぽく思っていたのだがそれが甘かった。もう少し、今日の束さんがどういった(・・・・・)束さんだったか心の中に留めておくべきで──

 

「はい、こっち向いてー?」

 

 机から身体を起こして束さんに向き合う。

 

「ぎゅー♪」

 

 ──気付いた時には膝の上に束さんが座っていた。

 

 鼻いっぱいに吸い込まれる束さんの、女性らしいとしかいえない不思議な匂い。胸板で押し潰すほどの勢いで密着された胸の暴力的な柔らかさと、むっちりとした肉付きの良い太腿が、衣服という薄い膜を越えて束さんの体温をじわりと伝えてくる。

 

「んー、癒されるなぁ……弟くん分の補給だよう……」

 

 束さんが愛おしそうに身動ぎする度に、触れ合った頬と頬に挟まれた髪の毛がこそばゆい。すぅすぅという束さんの息遣いが耳元から奥底まで染み込み、胸の鼓動が全身の骨格を伝わって全身を揺らすのを感じられて、身体が溶けていくようだ。

 

 ──これは、いわゆる、対面座位。

 

 あまりの気持ちよさに思考が置いていかれていくのがわかる。ありとあらゆる感覚が束さんに甘く包まれていく。その中でただ視覚だけが、クラス中のざわめきとこちらを指さして何事かを叫ぶ篠ノ之の姿を映すが、とても意味のあるものには見えなかった。

 

「はい、おしまい!」

 

 束さんが膝から離れると同時に、目が覚めたように視界がクリアになる。

 はっとして時計を確認するも、俺がとろけていたのは僅か5分ほどの短い時間でしかなかった。しかし、先程まで鈍化していた感覚は、もっと長い時間であったと訴えている。現実と感覚の明らかなズレに、束さんは時間も操れる魔術師なのかとぼんやりする頭で考えていると。

 

「ふふ、休み時間ごとにしてあげるからね♪」

 

 そんな束さんの宣言が、額への軽いキスと共に伝えられた。急にそんなことを言われた俺は、目を白黒させて束さんの顔を見ることしかできない。

 馬鹿みたいに困惑している俺の表情を物足りなさからくるものだと勘違いしたのか、束さんは小悪魔めいた微笑を魅せる。

 

「もうっ、キスは二人っきりの時に、だよ♡」

 

 束さんの人さし指が、熟した林檎のような艶やかな唇に触れた。そして、その人さし指を俺の唇にそっと当てる。果実の様な甘酸っぱさが広がっていくのを感じながら、束さんの白く細い指が再び唇に付けられるのをただ見ていた。

 

「は、は、破廉恥だぞ姉さん! 

 

 篠ノ之の叫び声で我に返る。教室はわなわなと震えながらヒートアップする篠ノ之、困り笑いをするラウラと一夏、遠巻きから面白そうに推移を見守るクラスメイトたち。そして当事者の一人であるのになんとなしにスルーされている俺。

 再び混沌(カオス)を極める状況の中で、全ての原因である束さんは一切自分のペースを崩さなかった。

 

「えー、そうやってすぐエッチなことに繋げて考えてる箒ちゃんの方がエッチじゃないのー? お花摘みに行って早くパンツを着替えないと……

「どこへ行く! 逃げるな!」

「逃げるなと言われて待つ気はないかなー!」

 

 掴みかからんばかりの篠ノ之を華麗にかわすと、束さんは教室から走り去っていく。あれでは誰も捕まえられないだろうなと思いつつ、俺は篠ノ之に気付かれぬように小さくなって机に突っ伏せる。

 今更になって恥ずかしさが興奮と一緒になって大暴れしているのだ。ちょっと人にお見せできない状態でもある。

 そのおかげかはわからないが、篠ノ之は激昂しながら束さんの後を追って教室から走って出て行ったようだ。

 

「流石にな、教室であんなことは擁護できないぜ?」

 

 とりあえず騒動が終わったとみたか、一夏が苦笑を浮かべながら話しかけてくる。そんなことはわかってるよ、と俺は気のない返事だけをした。

 一難去った後にはまた一難がある。少し冷静になれた俺はそのことで頭が一杯だ。

 

『休み時間ごとにしてあげるからね♪』

 

 リフレインされる束さんの言葉と太腿の感触を、頭から追い払った。

 今日の授業が終わるまでに俺は無事でいられるだろうか。

 正確に言えば俺のズボンとトランクスは無事でいられるだろうか。

 どうにも気が重い──が、身体()軽い。

 どうやら疲れをとるというおまじないは、本当のようだった。

 

 ──ちなみに。チャイムの鳴る数秒前に束さんは席に着き、束さんを追いかけていた篠ノ之は数分ほど授業に遅れることになった。

 ──無論、織斑先生が授業遅刻を許すはずなどなく。篠ノ之は織斑先生から教育的出席簿指導を受けてしまうことになるのだが、これが休み時間ごとに繰り返されるとは俺も篠ノ之も、織斑先生ですらも予想してなかったことである。

 

 ◇

 

 昼休憩を知らせるチャイムが鳴ると同時に、猛獣の唸り声にも似た声が出た。蓄積された精神的疲労が一気に噴出したのである。

 だが肉体的な疲労の方は休み時間ごとの束さんのハグで吹き飛ばされているから、どうにもアンバランスな疲れ方をしていた。首を回したり肩を回したりしても、疲れているのは精神面なのだから少しも紛れない。

 無駄なあがきをやめて、今日の昼ご飯はどうしようかと席を立った時。

 

「弟くん弟くん、お昼ご飯にしようよ!」

 

 とてとてと後ろ手でやってきた束さん。

 何かを企んでますと悪い表情をしているが、その顔がどういう意図なのかはわかる。でも、ここでわかってますという空気を出すのは良くない。あくまで“一体なんだろうな? ”という雰囲気を出すだけだ──もし万一違ってたら恥ずかしいし。

 

「はい、ここでびっくり愛姉(あいねぇ)弁当~!」

 

 後ろ手に持っていたお弁当の包みを、顔の横に持ってきて披露する束さん。

 おお、という感動半分安堵半分の呟き。弁当を手作りしてきてくれたという感動と、予想が外れていなかったことの安堵から出たものだ。が、我ながらリアクションが地味すぎる。

 それは束さんも同じなようで、“たはー”とでも言いそうな顔だ。

 

「反応薄いなー! 愛しいお姉ちゃんの手作りお弁当! 略して愛姉弁当だよ!」

 

 愛妻弁当をもじったのだろう。でも、どうにも言いにくい。

 

「うん、正直言いにくい。だからねー、弟くんがお姉ちゃんをお嫁さんに貰ってくれたら、愛妻弁当って言いやすい方で言えるのになー」

 

 そんなことを言って流し目でアピールをする束さん。

 俺としては束さんをお嫁さんにしたいとずっと思っているので嬉しい限りである。返事はもちろん“その時はよろしくお願いします”だ。

 束さんは一瞬硬直したかと思うと、みるみる内に顔を真っ赤に染めていく。

 

「えぅ!? あっ……その、えっと、わ、私もよろしくお願いしましゅ……」

 

 ようやくそれだけを絞り出した束さんは、ゆっくりと手を差し出した。

 俺は何のためらいもなくその手を取り、指を絡めてしっかりと握り直す。

 

「じゃあ、あの、ど、どこか二人っきりになれる場所に……行こう? 

 

 今にも消え入りそうな束さんの言葉に頷く。

 この学園でそんな場所は多くはないが、屋上は空いているだろう。俺と同じく屋上常連の一夏も丁度、篠ノ之とオルコットに挟まれ凰の乱入の後に、デュノアに連れて行かれるところであった。なんだかんだ、あのメンバーだとデュノアが一番したたかである。

 一夏の背中を押しながらの去り際、デュノアがこちらに向かってウィンクをした。

 

 ──そっちも上手くやりなよ? 

 

 なんとなくだが、そう言われた様な気がした。

 

「ん」

 

 デュノアを見送っていると、握られていた手の力が強まった。

 束さんは少し不安そうな目をして、こちらを見上げている。

 ごめんなさいと、手を強く握り返す。

 

「ん……」

 

 ──束さんのお弁当、楽しみです。

 

「! 腕によりをかけてつくったから、楽しみにしてね!」

 

 やっぱり、束さんは笑っている方が可愛い。

 笑顔の束さんと二人、手を繋いだまま屋上へと向かう。今日はいい天気だ。きっと、気持ちがいいことだろう。

 

「ふふっ、外はお昼寝日和だね。ご飯の後で膝、貸してあげるから

 

 そう束さんに耳打ちされて、転げそうになったのは内緒だ。

 

 ──ああ、束さんのお弁当は本当に美味しかった、とだけ。

 

 ◇

 

 疾風怒濤の一日が終わる。

 

 ──今日は終始束さんのペースだった。

 

 いざ全てが終わって冷静になると、恥ずかしさが一気に襲い掛かってくるのだから始末に負えない。いや、相応に良い思いをしていたのだから何も言えないが、今日はちょっと俺らしくなかった気がする──本当に? 

 一方で束さんはずっと上機嫌だ。夕食を食堂で食べていた時も、ずっとニコニコとしていて今からでもどこか行こうかと言い出さんばかり。それをなんとかなだめすかして、朝と同じように束さんをおぶって自分の部屋まで戻ってきた。

 ここまで来てふと思ったが、束さんは寮に部屋を用意してあるのだろうか。

 

「じゃあ弟くん、一緒に寝よっか♪ 部屋の用意は今の今まで忘れてたんだけど、お姉ちゃんと弟くんだから問題ないよね♪」

 

 確信犯だ、この人。

 

「懐かしいなぁ。子供の時はいつも一緒にお昼寝してたよね」

 

 ──記憶にございません。

 

「やだなぁ。私と弟くんの仲なんだから恥ずかしがらなくてもいいのに。一緒にお風呂にも入ったじゃない」

 

 ──記憶にございません! 

 

 そんな事実はないのに、一体何を言っているのだろうか。

 たまたま廊下に出ていた同級生たちからの視線が凍てついたものになる。慣れたものだが、慣れてしまっているという事実が悲しい。そして好奇の視線はあっても助けようという酔狂な人物がいないという事実もまた寂しい。

 そんな中、束さんの頭を出席簿で叩ける人が現れた──実際に一発叩いたが。

 

「話は聞かせてもらったが、不純異性交遊だ」

「えー! だってだって私と弟くんだよぉ!? 問題ないじゃない!」

「高校生の男女同衾が許されるわけないだろう! 出直してこい!」

「むー、いいもん! ちーちゃんがそういうなら私にだって考えがあるもんねー!」

 

 そう言うと束さんは俺の部屋に飛び込んで行った。

 いや、俺はまだ部屋の鍵を開けていないのだが、最新鋭の電子ロックなど束さんには無意味なのは今更か。部屋の鍵交換を担当していた織斑先生が天を仰いでいる。ご苦労様です、本当に。

 そして再び扉が勢いよく開かれると、俺の腰に軽い衝撃が走った。

 

「パパー! 一緒に寝ようー!」

 

 学園祭の時と同じく、子供になった束さんが俺に抱きついていた。あの時とは違って記憶の封印などせずに純粋に肉体だけを子供にしているようである。

 子供なら問題はない、束さんはそう振り切ったようだ。

 

「ほう、子供となったか。そうかそうか、そうきたか」

 

 織斑先生、一体なにがそうきたかなんでしょう。

 

「子供の姿になったということはIS学園生徒であることをやめたと同義! 部外者として出て行ってもらう!」

「久しぶりに会ったお兄ちゃんと一緒に寝ようとするくらいいいでしょー!?」

「ダメに決まってるだろうが! こっちにこい!」

「きゃー♪」

「ええい、ちょこまかと……! ああっ、クソっ! どこへ行く!」

 

 ひとしきり俺の周りで追いかけっこをした後に、いずこかへと走り去るミニ束さん。織斑先生は飛び跳ねる束さんを追いかけて行ってしまう。あれは多分、捕まらないだろう。

 世界一有名な鼠と猫の喧嘩を思い出しながら、俺は自室に帰ることにした。

 

 ──眠れるかな……。

 

 全身に残る束さんの残り香に、一晩中悶々としていたのは誰にも言えない秘密である。

 




記号や特殊タグを使ってみました、環境によっては記号が文字化けする可能性も…?
愛の重さが減っているような…マンネリも…?
元々オリ主に括弧を使って喋らせない様にしているが力及ばなくなっているなぁと痛感

束さんが同級生で幼馴染でお姉さんぶってたら可愛いのでは?というコンセプト
しかし実際そこまで幼馴染感とお姉さん感が出し切れなかったのでは?という個人的な課題

相変わらず更新が遅いですが、お楽しみいただけたら嬉しいです

hisashi様、脱字報告ありがとうございます
甲 零様、誤字報告ありがとうございます


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天災兎とクリスマス

 時刻は午後8時。場所は食堂。

 普段ならばこの時間であってもそれなりに生徒にあふれ盛況の場所ではあるが、冬休みに入った今は閑散としている。というか照明も最低限に落とされていて、地味に怖いんだよな。

 手早く用を済ませて帰るとしよう。

 

「おっ、お前もケーキを取りに来たのか?」

 

 む、誰かと買う時間が被るかと思っていたが、一夏だったとは。

 何を隠そう、この度IS学園食堂では希望者にクリスマスのケーキを購入できるようになっていた。それがまた事前予約は必須であるものの、各種様々なケーキを1切れから1ホールまで、個数も大きさも自由自在に指定ができるという嬉しい仕様である。

 それを利用して俺はケーキを取りに来ていたわけなのだが。

 

「じゃあ一緒にするか、クリスマスパーティー?」

 

 一夏の両手に掲げられたケーキの箱の山積みが入った袋。

 ちょっと待て待て待て山積みのケーキの箱ってなんなんだよ。甘党とかそういう次元じゃないだろ、一人で食い切れるような量じゃないだろそれは。俺だって束さんと食べるとはいえラウラもクロエも不在だからフルーツタルトの4号を一つだぞ。

 ……まぁこの時点でおおよそ話が読めたが、一応、一夏に聞いておかなければならない。

 

 ――それ、一体だれが来るんだ?

 

「ん? それはもちろん箒に、鈴だろ、セシリアとシャルは予定が合わなかったけど、簪にそれにクラスメイトからはのほほんさんが筆頭だろう――」

 

 ああ、もうやはりというかなんというか話の流れは大方わかった。

 どうせ篠ノ之あたりが“二人で”クリスマスを祝いたいという話を、どこをどう取り間違えたのか“みんなで”クリスマスを祝いたいに変化させたに違いない。正直発案者は凰でも構わない。発案者が誰だろうが一夏の思考回路の不可思議な流れはそう変化させるのだ。

 それでクラスメイトどころから同学年の女子連中を結集させたような大規模クリスマスパーティーを開催することになったのだろう。もしかしたら他学年の先輩もいるかもしれないが……篠ノ之や凰、更識たちは多分、一夏と二人きりだと根本的に勘違いしたままなのは疑いようもない。

 

 ――まぁ、頑張ってくれ。

 

 以上。俺からはこれだけだ。絶対この後面倒くさいことになる友に手向ける言葉はない。

 これでも一夏との付き合いは結構長い。その後の予想なんてしなくてもよくわかる。結局、わちゃわちゃとした挙句、一夏が痛い目見るなりなんなりして、最後にはなんかいい感じに収まるのだ。ついでに篠ノ之やら凰やらの胃が痛むくらいか。

 そして彼女らには哀しいかな、一夏の勘違いを俺は訂正するつもりはない。俺には俺で束さんとの予定がある。それにだ、どちらか一方の味方をして、一方から筋違いに睨まれるなんてゴメンだ。だから、関わるつもりは毛頭ない。

 一夏のお誘いは嬉しいが先約があるとやんわりと断っておく。

 

「先約って……ああ、束さんか!」

 

 本当に自分のこと以外は爆速理解だな、一夏。俺も人のことを言えた義理ではないが、その理解力の一割でも女心に発揮されれば、篠ノ之たちも浮かばれるだろうに。

 能力適性とはかくも残酷なものである。

 

「また時間があったらどっか遊びに行こうぜ」

 

 じゃあな、と一夏と別れる。

 心の中で南無南無と念仏を唱えながら、俺は一夏を戦場へと送り出していった。

 それにしても……本当に大規模なクリスマスパーティーらしい、俺は寮に戻るが一夏はまったく別の方向へと向かっていた。教室を使うのか体育館を使うのか。いったい何人規模になるんだろう。もしかしたらケーキ運びも一往復で済まないんじゃないのか?

 

 ――まぁ、いいか。

 

 俺は部屋に待ち人(束さん)を待たせている。一夏のこの後に興味はあるが、束さんの方が遥かに重要だ。踵を返して心持ち足を速めながら寮へと戻ることにした。

 クリスマスで気分が浮かれているのは、どうやら俺もだったらしい。鼻歌でも歌いそうな軽快なステップで、寮への道を急ぐ。もちろん、それでいて転ばないようにだ。

 

 ◇

 

 自室前、ノックを数度、そしてとどめにインターホンを押す。

 実際は特にノックやインターホンなどする必要はない。ないのだが、一応、念の為にしておく。束さんなら扉の外の様子など普通に感知できるだろうが、それでもするのだ。

 これまでの経験上、束さんから思いもつかない何かを仕掛けられている可能性もあるわけで。そうした何かがあった時の為に、言い訳の理由くらいは確保しておきたい。

 それにクリスマスにまで織斑先生の手を煩わせたくはないし。

 

『はーい、今開けるよう』

 

 インターホンからいつもの束さんの声が返ってきた。

 浅はか極まりない理由で行われた俺の一連の行動に、束さんは大して気分を害した様子もなく、むしろご機嫌と言った感じの返事だった。

 待つこと僅か数秒の後、扉が束さんの手によって開かれる。目の下の隈がすっかりと薄くなった束さんは柔和に微笑んで、俺を出迎えてくれた。

 

「ふふっ、おかえりなさい」

 

 そう言いながら笑顔の束さんの声は、とても優しい。が、すぐに束さんは照れたようにほのかに赤い顔をそむけた。なんだろう、俺は私服ではあるがそこまで変な格好をしているつもりはないのだが……。

 どうやら、俺はとんでもなく見当違いなことを考えていたとすぐにわかった。

 

なんだか、これだと新婚さんみたいなやりとりだね……

 

 恥ずかしそうに、それでいて誤魔化すようにえへへと笑ってみせる束さんである。

 しかし、小声ではあったが、人がおらずしんと静まり返った寮では、俺の耳にはしっかりと束さんの声が聞こえていた。

 うんともすんとも言いづらい、なんとも言えない空気が束さんとの間で流れる。ええい、何を今更なことを。こういう時は俺が強くいかなければ。

 束さんの気持ちに応える一言はもちろん。

 

 ――ただいま。

 

 そう笑って返すと、束さんはパッと大輪の花を咲かせたような笑顔になった。

 ああ、やはり束さんは笑っている方が良い。照れた顔も誇らしげな顔も、みんな可愛らしくて愛らしいのだが、やはり束さんは笑っているのが一番だ。

 

「うん……あのね、おかえりなさい、私の、旦那様……。さぁさぁ準備はできてるよー!」

 

 何気に凄いことを言われたような気がするのだが、束さんも恥ずかしいのか部屋から飛び出し俺の背中側に回り込むと、急いで急いでというかのように背中をぐいぐい押してくる。

 いや、ぐいぐいというのは少し語弊があるかもしれない。急に人から背中を押されれば普通は前につんのめりそうなものだが、束さんの押し方にはそれがなかった。絶妙と言わざるを得ない力加減で、ぐいぐいと押されるのである。

 これには俺も驚いた。驚いたままに入って入ってと促され、部屋の中に入っていく。

 

 ――すっご……。

 

 更に続けてシンプルに驚いた。

 部屋を出て20分も経ってないが、部屋の中が完璧にイルミネーションされている。部屋の真ん中にはほっこりこたつ仕様と化したローテーブルがあり、天板の上にはクリスマスキャンドルが置かれている。お互いに向き合って配置された座椅子がなんともつつましい。

 隅には完全にデコレーションされたクリスマスツリー、部屋を横断する万国旗に色鮮やかなバルーンが漂っている。そして極めつけはふわふわと浮かぶ綿あめのような白雲……雲? 室内で? スモークではなく?

 いや、束さんのことだから室内で雲が浮かんでいようと何も不思議ではないのだが……相変わらず謎の超技術である。実際、これを謎技術だからまぁいいかで流していいのだろうか? 下手したら常識の一つや二つが変わるくらいの発明なんじゃないか?

 

「とりあえずクリスマスケーキは机に置いとくね。それじゃあはいこれ」

 

 束さんに流されるようにクリスマスケーキを回収されると、代わりに手渡されたもの。紙製で円錐状の、錐のように尖った先から尻尾のように紐が伸びている、そう、クラッカーだ。

 クリスマス用らしく、小さなクリスマスツリー柄のカラーリングが施されたこれは、自分が輝く瞬間を今か今かと待ち構えているようである。

 ローテーブルにクリスマスケーキを置いてきた束さんも、手に同じクラッカーを持っている。立ってないでどうぞどうぞと座椅子に案内され腰かけると、束さんも反対側の座椅子へと座った。

 そしてお互いに、クラッカーを天に向ける。

 

メリークリスマース!

 

 パンパン!とクラッカーを鳴らす俺と束さん。当の束さんではあるが、いつもの不思議の少女アリスめいたドレスコーデである。クリスマス仕様か首元にファーが付いているが、それ以外に目立った変更点はない。

 まさかのミニスカサンタが来るか!と正直ちょっと若干凄いマジな期待をしていたところは心の隅にあった。嘘だ、心のど真ん中にあったりした。

 そんな俺の不健全な視線を察したか、束さんはたははと笑いながら頭をかく。

 

「いやー、ちーちゃんにね。あんまり風紀を乱すような恰好をしようというのならばたとえどんな理由があろうとも許可を出すつもりはない、どんな状態だろうと部屋に突撃してとっちめてぶん殴るって鬼のような形相で言われちゃってさー。

 さすがの私もちょっと考えるきっかけになったんだよね」

 

 やれやれとでも言いたげな束さんに、俺は複雑な気持ちを向けることしかできない。

 ミニスカサンタ禁止と、教職として織斑先生が言うことは至極真っ当なものであるが、反面、よくもやってくれたなぁ!やってくれたなぁぁぁ!という気持ちが存在するのは純然たる事実だ。背丈があってグラマーな束さんであるから、ミニスカサンタが似合うことは間違いない。

 そしてもちろん、その姿を目撃した俺は目の錯覚を疑って三度見することは絶対だった。

 

「まーせっかくのクリスマスだし、別にちーちゃんを無視しても良かったんだけど……ね」

 

 そう続ける束さんの言葉に、もしやワンチャンあるか?と期待を抱いたのも瞬間。

 

「ちーちゃんにルール違反を見つけられて君との時間が少なくなるのは、私にとって良くないこと、だからね」

 

 束さんがこたつの中で足をのばしたのか、ツンツンと俺の足に束さんの足が当たる。表立っては見えないその行為を前に、俺の感情はボコボコに打ちのめされていた。

 束さんはこんなにも俺と過ごすことを考えてくれていたというのに、俺は一体なんなんだ。ただ、俺の雑念があまりにも身勝手な我欲で、束さんを見ていただけなんて。

 だというのに、束さんはぐっと身を乗り出して優しく俺の頬を撫でてくれる。

 

「今日はずっと、一緒にいようね……」

 

 そう言って優しく笑う束さんを前に、俺は一瞬前の自分を恥じることやめた。

 今の俺にすることは後悔ではない、束さんとクリスマスを楽しむことなのだ。

 

「よし! 気分も切り替えられたようだし、本日のメインイベント! ケーキ入刀だよ!」

 

 出して出して、と束さんに促されながら、箱からフルーツタルトを取り出す。刹那、部屋全体に広がったフルーツの甘い香りが期待をさらに増幅させていく。

 

「これは綺麗だね」

 

 束さんが呟いたのに、俺も全く同じ感想を抱いていた。

 パネルに展示されていたものと寸分たがわないそのフルーツタルトの姿は、専門店との提携を謳っていたことをありありと思い出させるものだった。旬の季節のものからハウスでとれたものまで、彩り鮮やかなフルーツたちがまるで一面の花畑のようにぜいたくに使われている。

 その花畑のごときフルーツの敷き詰め加減は美しさと量とを兼ね備えたものであり、一緒に使われている生クリームとカスタードが一見するとまったくわからないほどである。

 

「うーん、どうやって切ったものかなぁ。君はどのくらい食べたい?」

 

 いつの間にかケーキナイフを手にした束さんがああでもないこうでもないと勘案していた。見れば二人分のお皿とフォークも用意されている。相変わらず、束さんは俺のフォローを知らない間にやってくれる。いつでもどんな時でも、そういえば用意していなかったな、というものをさっと取り出してくれるのだ。

 そんな束さんに少しばかり、申し訳なさがある。束さんの手を煩わせるばかりでいいのかという、ちっぽけだが自尊心(プライド)は俺にも存在するのだ。

 

「ふふっ、そういうところ。初めて会った時から変わらないね、君は」

 

 ひどく美しい所作でケーキにナイフを突き立てた束さんは、優しく微笑みかけてくれる。

 

「君のお世話ができなくなったら、それはそれでお姉さんは寂しいんだよ?」

 

 綺麗に四分の一にカットされたケーキを、ケーキサーバーで皿に盛り付けると、束さんはフォークと一緒にこちらに寄越してきた。俺は是非もなくただ受け取る。よほどケーキナイフの切れ味が良いのか束さんの腕前なのか、一切の形崩れが見られないケーキは、まさに束さんその人を表すのにふさわしい“完璧”といえた。

 

「それでも、男の子も女の子も独り立ちをする時は来るんだから、私はその時は胸を張って送り出してあげないといけないのかなー」

 

 そう言いながら、束さんは俺の分と同じように四分の一にカットされたケーキを自分の皿に盛り付ける。白魚のように細く美しい指が、踊るように華麗にフォークを操って、フルーツタルトの先端を切り分けた。

 

「でも、その時が来るまでは、存分にお姉さんに甘えて欲しい、かな」

 

 そう言っていたずらっぽく笑う束さんに、俺はなんとも答えることができず、ただケーキを小さく切り分けていく。

 束さんに甘えると言っても、今も十分に甘えているという自覚があるというのに。ダメだ、思考が堂々巡りしている。同じところを行ったり来たり、何も進んじゃいない。

 

「うーん、ちょっと意地悪だったかな? 悩む顔も素敵だけれど、今は君に笑っていてほしいなーって、束さんは思うかなーって。

 うん、でもまぁ普通はそう思っちゃうよね、だって男の子だもん。格好つけたいよね、女の子の前では」

 

 でも女の子って年でもないかーと、束さんはそんなことを言いながら立ち上がる。

 

「とにもかくにも、こういう時は温かいものを飲むといいんだよ?」

 

 ぱたぱたと扉の方へ向かっていく束さん。相変わらず状況に流されるままではあるが、ふと思い立つ。そちらの方には特にお湯を入れることができるものはない。あえていえばシャワーくらいならばあるが、そんなところからまさかお湯を取りはしないだろう。

 ぱっと振り返った時には、束さんは既にこちらに向いていた。両手にマグカップを持って。それらピンクの兎が描かれたものと、特に変哲もない白の無地のマグカップは、今まさに淹れたてですと言わんばかりに湯気が立ち上っている。

 

「はい、コーヒーだよ。ミルクと砂糖入りだけどあっつあつだよー、だから気をつけてね」

 

 コトンコトンと、マグカップが二つ俺の前に並べられて、俺は少し困惑した。いや、凄く困惑している。この兎の柄のマグカップは間違いなく束さんが飲むためのものだろう。だというのにマグカップは姉弟のように二つ並んでいる。

 一体束さんがこんな置き方をしたのは何故だ?

 

「はいはーい、それじゃあお邪魔しますよーっと。さぁさぁ後ろにさがってさがって、そう、座椅子ごと」

 

 てきぱきと案内をする束さんに言われるままに、座椅子ごと後ろにさがる。どのくらいさがればいいのだろうか、ふとそんなことを考えた。まさかこのままこたつから追い出されるということはないだろうけども。

 

「はい、ストップ!」

 

 ピタッと動くのを止める。丁度膝下くらいがこたつに入ったぐらいの塩梅で止められたわけだが、一体束さんの意図はどこにあるのだろう。戸惑いの視線を送る俺に、束さんはドヤっとした笑みを浮かべて足を一歩踏み出した。

 まさに、俺の脚と脚の間に、だ。

 ここまでくればどうなるかわかる。束さんは、俺の脚の間に座ろうとしている――!

 

「はーい、脚を開いてね、踏んじゃいたくないからさ」

 

 俺に否やはない。そのままポスンと、束さんは俺の脚の間に収まった。想像よりもずっと細い肩が、今俺の目の前にいる。

 

「んふふー、私専用の座椅子ってわけだね!」

 

 ぐっと束さんが俺にもたれかかってきた。

 その体は、とても熱い。部屋の暖房とかこたつの熱だからとかではない。束さんも、きっと恥ずかしいのだ。それでも、束さんは俺の体に全てを預けるようにしなだれかかってくる。暴力的なまでの柔らかさと、擦れた髪から漂う良い香りが俺と束さんの距離を意識させた。

 

 ――そして、無言の間が生まれた。

 

 どうしたらいいのだろう。多分、束さんもどうしたらいいのかわかっていないのだろう。俺の頭一つ分低いところで、束さんの耳が真っ赤になっていた。

 こういう時は、何かを飲むに限る。ぐっと前に乗り出してマグカップを手に取った。自然、今度はこちらから束さんにもたれかかるようになるわけだが、束さんが身体を硬直させたのがわかった。

 これは覆いかぶさるような形だということに今更気付いて、もっと恥ずかしくなる。気まずさから束さんから離れるように座椅子に思いっきり背中をつけ、横に向いてからコーヒーを飲んだ。甘味がきて、僅かな苦み――結局、気の利いた言葉の一つも浮かばず、マグカップを机に置くにはもう一度、束さんに覆いかぶさるようになることに気付くのはすぐであった。

 

「だ、だ、大丈夫? うん、私は大丈夫、大丈夫だから、マグカップ、置くよ?」

 

 明らかに大丈夫ではなさそうな口ぶりであるが、束さんがそう言ってくれるのだ。ありがたくその気持ちを受け取ることにしよう。

 マグカップを手渡すと、数秒、束さんは何かを考えたように動きが止まり、そして何事もなかったかのようにローテーブルにマグカップを置いた。

 再び、姉弟のように並ぶマグカップたちを、ただ束さんの頭越しに見る。

 

 ――そして、再び訪れる無言の時間。

 

 ただ、さっきと違うのは、束さんが何かを決意したような息遣いを感じることだ。一呼吸二呼吸してから、よし、と束さんが強く意気込んだのを背中越しに受け取る。

 

「私、私ね、生まれた時から間違ったことは一度だってないんだ」

 

 訥々と、束さんが語り出す。

 うん、まぁ束さんならそうだろう。生まれてから一度も間違えたことがないと言われても納得しかない。しかし、どうしてその話を今にしたのだろうか?

 

「でも、でもね。クリスマスの今日ね、はじめて、間違えてみようかな……って」

 

 束さんはそう言うと、手を伸ばした。束さんの使っている兎がワンポイトのマグカップではなく、俺が使っている何の変哲もない普通のマグカップへと。

 俺は何も言えない、何もできない。これから束さんが何をするか、わかっていても。

 そっと、愛おしいものに触れるように、束さんの唇がマグカップへと触れた。一飲み。コーヒーを飲んだ束さんがゆっくりと俺のマグカップを机に戻す。白いマグカップには、コーヒーを飲んだ後が二つ重なっていた。

 

「えへへ、間違えちゃった」

 

 思わず、束さんの前に腕を回していた。いわゆる、あすなろ抱きというやつだ。まさか自分がこんな抱きしめ方をすることになるとは思いもよらなかった。けれども、今はどうしてもこうしていたい。腕の中にあるこの確かな温かさこそが束さんなのだと、一番近い距離で感じていたいのだ。

 

「わぁ、これじゃあ束さん、逃げられないなぁ」

 

 束さんの声が近い。息遣いもはっきりと聞こえてくるような距離を、束さんはそれでもまだ遠いのだと主張するように、甘える猫のように首を伸ばして俺と顔を近づける。自然、その距離はゼロとなって二人、頬をすり合わせる。

 優しく、傷にならないようにお互いを気遣ったゆったりとした頬擦りは、繰り返されるたびにふんわりとした香りをもたらしてくる。きっと、束さんと使っていたシャンプーの香りだろう。それがまた、心地良い。

 

「寂しいのかな? 束さんはどこにもいかないよ?」

 

 名残惜しそうに頬を離した束さんの目は、見るからに潤んでいる。お互いの距離を離したのを寂しいのだというように、これから何をするのかも期待しているかのようで。

 小鳥が啄むようなキスを数回。軽く唇を合わせるだけの、軽やかなキス。とても満足できるようなものではない、綿菓子のようなもの。しかし、ただその一瞬の内に伝わってくる熱は溶けてなくなるような儚さなど一切ない。

 

「このままずっと……、君に捕まえられていたいな……」

 

 そう言うと、束さんは俺の胸板に頬擦りをする。その度に、やはりふわりとした束さんの優しい香りが、鼻腔へと広がっていく。

 

「あっ、雪だね」

 

 窓の外を見ればちらちらと雪が舞っている。今年はホワイトクリスマスになりそうだな、と、ちょっとだけ意識が束さんから外へと向いた。

 

「やっぱり、だーめ」

 

 束さんが俺の頭に手を回し、そっと力を込めた。最初から抵抗などする気はないから、されるがまま顔が束さんの方へ向く。

 しんしんと降り出した雪にさえ嫉妬するかのように、束さんの顔が近づく。唇ではなく、今度は鼻と鼻とがぶつかり合ってなお、束さんは優しく微笑む。

 

「今だけは、私だけを見て欲しいな……」

 

 束さんの体から力が抜け、さらに俺へともたれかかってくる。ひょっとすると抱きしめ合うよりも、心と心の距離が近いかもしれない。と、そんなことを考えて、やめた。

 今はただ、この腕の中にある鼓動だけに浸っていたい。

 

「私も、君だけを見ているから……」

 

 束さんとの距離がまた少し近づいて。

 

「今日はずっと、一緒だからね」

 

 答えるように、キスをした。

 




メリークリスマス!

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あとがきはこちら


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