セカンド スタート (ぽぽぽ)
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1話

 

 木漏れ日が病室内の窓に射し込み部屋を明るくする。

 私の気分を考えると天気は大雨でも足りないくらいなのだが、どうすることもできないほど晴れ渡る空であった。

 

「あなた……。もしかして泣きそうになってる?」

 

 ベッドで横たわる私の妻がクスクスと笑いながら言う。何年も前から変わらない笑顔だった。

 

 ……泣きそうになど、なっていない。

 私が首を振ってそう答えれば、妻はまた笑った。

 

「あら残念。久しぶりにあなたの泣き顔が見れると思ったのに」

 

 見透かした様な目をしながら彼女は言う。窓から射し込む光が角度を変え、彼女の顔を照らした。白く、綺麗な顔であった。その笑顔は、まるで庭先にある花を見て微笑む少女のようで、優しく、暖かさがあり、儚さなどとは無縁に思えた。そんな彼女を見て私は思う。病院のベッドにさえ寝ていなければ、彼女が病気だと気付く人は果たしているのだろうか。

 それも、命に関わる病だと。

 

 ○ 

 

 私と彼女が出会ったのは、海外で開催されたシンポジウムの時だ。 私は昆虫学を専門にしている教授である。最近発表した論文が比較的有名な科学雑誌に紹介され、シンポジウムの主催者の目に留まり招待された。それは比較的アットホームな場であった。様々な分野に精通する主催者が持ち前のコミュニケーション力と人懐っこさを活かし、ひたすら自分の好みの論文を発表した人に声をかけた。そのため統一性が薄くごちゃ混ぜに人を集めただけという印象があったが、陽気な彼がいつも楽しそうに話し豪快に笑う姿のお陰で、笑い包まれたシンポジウムであった。 

 

 シンポジウムが終わった後の飲み会の場で、主催者であるジェームズが私の肩に手をかけ意気揚々と声をかける。

 

『ヘイ、リュウタ!君の発表は相変わらずおもしろいぜ。実験内容もだがやっぱりディスカッションが最高だ!面白い性格してるぜあんた! 』

 

『ありがとうジェームズ。でも君の方がよっぽど面白くて最高だよ』

 

『お!流石は日本人!持ち上げるのが上手じゃねーか! 』

 

 彼は大きく身ぶり手振りし、映画で見るようなオーバーリアクションをする。常に見せる白い歯に料理のカスがついていることさえ愛嬌に思えてくる。

 

『日本人と言えばもう一人いるじゃねーか! いやー美しい女性だな彼女は!まさに和を表しているぜ。呼んで正解だったな』

 

 彼はテーブル奥にいる長い黒髪の女性を指差した。すらりとしたスタイルに柔らかい表情をしている彼女。その姿は確かに大和撫子と呼ぶのに相応しいと感じた。

 

『リュウタ!あんた結婚してないんだろ?折角の機会だぜ!声かけてこいや! 』

 

『……君を見ていると学生時代だったころを思い出すよジェームズ。この場は婚活会場か何かだったのかい? 』

 

『学生時代だったらリュウタに声なんかかけずに真っ先にあっちに向かってるさ! 所帯をもった今じゃ人に薦めるのが楽しみなんだ! 』 

 

 私の返事を聞く前にジェームズは彼女を呼んでくると言いながら向かっていく。少し呆れつつも私は彼女と話をすることを楽しみに思った。

 彼女は魚類の生態学を研究している教授であった。私と同じ分子的手法を使うため彼女の話には多少なり興味があったのだ。 ……いや、それだけが理由ではない。彼女の発表する姿は実に堂々としてて、何人もの目を奪ったのは事実だ。もちろん、私も含めて。

 難しい質問にも物怖じせず、淡々と説明していきながらも暖かな雰囲気をだす彼女に、確かに私は惹かれていたのだ。

 

 だから、あの場で私と彼女を出会わせてくれたジェームズには感謝すべきなのであろう。

 

 ○

 

「どうしたの?ぼーっとしちゃって」 

 

 考え込むように椅子に座っていた私に彼女は問いかける。

 

 ……いや、少し昔を思い出しただけだ。

 

「ふふ。あなたももうすぐ40だもの。思い出は沢山あるでしょう」

 

 ……40歳と聞くと、昔はおじさんと言われる世代だと思い込んでいた。学生気分等を思い返すこともなく、大人と言うものになり、社会人として責任を持つ人物となっていると思っていた。

 だがいざ自分がなってみると、学生時代と何が変わったのか分からない部分が多かった。しがらみは増えたが、果たして自分はあの時より成長しているのかが、疑問であった。

 だが、内面はともかく、外見は間違いなく年期を感じさせるようで、髪には白髪が見え始め、疲れが感じやすくなった。 

 対して、彼女はまったくと言っていいほど年を感じさせなかった。いくつになっても出会ったままの様な姿で、20代に見られても可笑しくはなかった。

 

 熱心に自分で選んだ美容用具を使う彼女に、いつか言ったことがある。着飾らなくてもいい。別にありのままの君でもいいんだよ、と。その時確か彼女はこう答えた筈だ。

 

「年をとることに逆らおうとするのって、人間だけなのよ。どう頑張っても覆せないことと戦うって、いかにも人間っぽくて素敵じゃない? 折角人に生まれたんだらそういうことと私も戦っていこうかなって」

 

 化粧品を顔の前に揺らしながら彼女はいつものように笑っている。

 

「……それと」 

 

 一息ついて彼女は私を見た。

 

「あなたの横にいる私は、可愛い私がいいの」

 

 

 ○

 

  ……気分はどうだい。

 

「そうね。あとちょっとってとこかしら」

 

 何があとちょっとかは聞けなかった。聞きたくなかった。

 前よりも腕につける点滴の数が増えても、彼女の態度はずっと変わらない。余命が残り少ないと知っても彼女は彼女のままであって、私だけがあたふたと気を弱らせていた。医学的な数字を見るかぎり、彼女は何よりも痛く辛いはずなのに、私の前では決してその姿を見せない。強がりをしているのだろうが、そんな様子すら見えなくて、そのことが余計私の胸をつついた。

 

「…………もしかして、泣きそう?」

 

 ……泣きそうになんか、なっていない。

 

「…………ねぇ」

 

 彼女は変わらず柔らかい表情のままこちらを見る。

 私と目があったその時にまた笑って、私ね、と呟くように言った。室内に響くその声に、白色のカーテンが答えるように静かに揺れている。

 

「私ね。幸せよ。父がいて、母がいて友がいて。好きなことをして、好きな研究をして、好きな人と一緒になれて。きっと世界で一番幸せよ。だからね、死ぬって言われてもそんなにショックじゃなかったわ。私こんなに幸せなまま死ねるんだなって」

 

 彼女の目は私の目から決して離れない。

 

「ねぇ。聞いて。私の最後の我が儘。私が死ぬまであなたは笑っていて。自分の妻が笑顔で死んでいくことにあなたは誇りに思って。あなただから私は笑顔で死ねる。あなただから私は最後にこんな我が儘をいえる。あなたを1人にすることだけが心残りだけど」

 

 彼女の手が私の頬をすっとなでる。その上に私の手を添えると、信じられないほど軽い手であった。

 

 

「死んでもあなたを愛しているわ」

 

 

 

 三日後彼女は静かに息を引き取った。

 彼女のベッドの横で医者が彼女の死を告げた時、私は涙を止めることが出来なかった。

 

 

 ○ 

 

 妻が亡くなってから三年後。

 私は今大学の研究室の生徒たちと他県の山に昆虫採集に来ていた。学生の実習に使う昆虫を集めるために私たちはそれぞれ網をもち昆虫を探す。学生たちと別れ、林をかき分けながら私は山の奥に進む。

 妻が亡くなる前までは学生と一緒に辺りを回っていたのだが、今では学生たちを放って1人で山を歩くようになった。もちろん学生たちには私の研究室の研究者が付いている。信頼できる者ばかりで何も心配はしていない。

 

 風が吹き山が唸るように草の擦り合う音が聞こえる。木の影により太陽の光が遮られ辺りは薄暗い。足を踏み出すとくしゃりと小枝が折れる音がする。

 妻が亡くなってから私は1人で過ごすことが好きになった。3年前から周りの人たちは私を気遣い当たり障りのない距離をとり続けている。そのうち元のような距離に戻れるだろうとも思ったが、戻ったところで何が変わるわけでもないことに気付き、戻る機会を失ってしまった。

 1人の機会が増えた私は、ひたすらに研究を続けた。何かに没頭していないと、余計なことを考えてしまうからだ。そんなふうにがむしゃらにしていると、いつの間にか周りからは「現代のファーブル」  だと言われてしまった。過大評価な名前であることは、私が一番よく知っている。ただ、一番最近出した論文が世間でも多少騒ぎになったのも事実だ。

 長年暖めてきた研究が身を結びそれなりの成果を出してしまった。周りの祝福とは裏腹に、私の気分は下がっていた。

 これで、一番没頭していたものを失ってしまったのだ、と。次の研究を見つければいいのだが、どうしてか、そんなやる気はなくなってしまっていた。新しいことを始めるという思考が、出来なくなっていた。

 

 私は意味もなくため息をついた。そして、何か考える訳でもなくなんとなく前方の木を払おうとしたと時に自分の右手に異様な腫れがあることに気付いた。

 

 ………蜂に、刺されていたのか。

 

 いつの間に刺されていたのかなど考える暇もなく急激に気分が悪くなる。そう言えば昔一度ススメバチに刺されているなぁなどとのんびり思う。

 世間では蜂は危険視されているが、こちらが何もしていないのに蜂が人を刺すことは珍しい。巣の近辺を荒らしたり、蜂を挑発しない限りは、基本的に無害だ。しかし、例外と言うものは存在する。特に、気性の荒いスズメバチは縄張り範囲が広く、こちらが意図せずとも怒らしてしまうことがあるのだ。

 自分が刺されたという時でさえ、考察を初めてしまうのは性なのだろう。思考しながらも膝が私を支えていられず地面につき、そのまま私は前のめりに倒れる。 

 頬と地面をつけながら、目の前の景色に目をやると、散らばる落ち葉は大層大きく見え、歩き出す蟻達は無関心に行進している。

 

 散々、虫を研究してきた。大量の虫を薬品漬けにし、殺してきた。冗談や比喩ではなく、研究のために命を奪った虫の数は万を越えているだろう。その虫に私の命を断たれても文句を言える道理などなかった。 

 妻が死んでからも、自ら死のうと思った事はない。私が死んだら天国の妻が悲しむ、などの創作の物語にありがちな思いがあった訳でもなく、妻が死んだからといって悲劇の主人公のように思い悩む訳でもなく、深く考えずに漠然と生きていた。

 死にたいと思った事はないが、こんなふうに虫に殺されるなら、私らしい最後だと思った。

 

 ただ…………。

 

 

 

 …………………………もう一度、妻に会いたかったな。 

 

 

 

 

 静かに目を閉じながら落ち葉の絨毯に身を委ねると、私の意識は溶けていくように消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ 

 

 

 真っ暗な空間であった。自分の体は思うように動くことが出来ず、水の中で揺らされている感覚がする。

 

 ここが、死の世界か。

 

 学者として、最も遠い見解を思い浮かべる。死後の世界など信じたことは一度もないが、いざ自分が死んだとなるとあらゆる事が信じられる。

 ただ、死後の世界にしては穏やか過ぎる気がした。私の体は動かないが、頻繁に周りを揺らすような振動を感じ、その音が私を大層安心させた。

 閻魔や天使など出てくるのだろうか。子供のような空想を頭に浮かべるが、馬鹿らしくなって空想を掻き消す。

 自分の状況について考えようとしたが、真っ暗な空間にもかかわらず計り知れない安心感を感じて、私は再び瞼を閉じこの空間に身を委ねた。

 

 そんな日々がどれほど続いたのだろうか。

 心地よさに目を覚まし、快適さにまた目を閉じる。幾度となくそれを繰り返し、空間で私は揺れる。閻魔や天使など現れる気配はまったくなく、段々と妙に現実的な世界に思えてきた。この状況について、目を覚ましている時に様々な予想を立てるが、どれも非現実的であり、科学者である自分を笑ってしまいそうになった。そして、また数日たったある日。いつもより空間は激しく揺れ、普段聞こえていたドクンドクンという音以外にも様々な音が耳に入る。

 

 ガヤガヤとしながらも空間を激しく揺らされ、同様に私も踊らされながら、ある仮説が確信に変わった。

 唐突に視界に光が現れ、世界は急激に明るくなる。

 あまりの眩しさに私は目を開ける事など出来ず、体を包むように優しく私に触れる手にまったく抵抗できない。

 

 

 

「おめでとうございます。立派な赤ちゃんですよ」 

 

 見に覚えのない声が私の耳に届き、私の仮説に丸をつけてくれた。

 

 

 

 

 

 どうやら私は生まれ変わったらしい。

 

 

 

 

 

 



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2話

 

 

 看護師に胎盤から体を引っ張りあげられ、私は再び世に生を受けた。

 赤ん坊だからなのか、体はまったく思うように動けず、久々の光の眩しさに未だに目を開ける事ができない。 

 呼吸をするためひとしきり泣いた後、割れ物を抱くように看護師に体を持たれた。それから、ゆっくりと暖かいお湯に浸けられ体を多少洗われる。体温と同程度の温度のお湯はとても気持ちよく、そのまま眠ってしまいそうだった。

 

「珍しいほど、泣かない子ですねぇ」

 

 主治医だろうか、先ほどと違い少し歳を感じる声が優しく語りかけるように言う。

 

「ふふ。そういう頑固な所は夫に似たのかしらね」

 

 はにかみながら答えた声には、慈愛を感じた。その声だけで、底知れない安心感が私の胸にすっと落ちてきた。

 この声が私を産んだ母の声か。

 二度目の生を私にくれた母に何とも言えない感情を抱いた。

 私の二人目の実母に感謝するべきなのだろうか分からなかった。ただ、母が声を発する度に、私の気持ちは落ち着き穏やかになる。

 これが、本能的に感じる子から母への思いなのだろう。

 

 そして、連鎖するように一度目の生の時の母を思い出していた。

 厳しくも私の事を一番に考えてくれている母だった。学生の時も、社会人になってからも、私の事を細かく気にかけ、いつも何かしらの注意をする。父親は私が幼い時に亡くなっていたため、一人っ子である私を常に心配していたくれたのだろう。学生の時はそんなことには気付かず鬱陶しく感じていたこともあった。だが、結婚式の日にいつも周囲に気を配っていた母が周りを気にせず大声で泣く姿を見て、私は初めて母の愛を深く感じた。前世でろくに親孝行出来ず亡くしてしまった母を思い出して、私は少し涙腺に気が緩む。

 その時であった。大人の時は上手に使えていた感情の抑制やスイッチなどまったく効かず、本能のままに泣き叫びたい感情に襲われる。恐らく、赤ん坊である私は自分の想いに素直に反応し、表現することを抑えられないのだろう。

 精神が四十路を越えているのに、少し昔を思い出しただけで泣くことは何故だかとても恥ずかしいことのように感じて、必死に涙を堪えるが本能には勝てる気がしなかった。

 これは、泣いてしまう。

 そう思った直後、再び赤ん坊の使命を果たすかのように私は大声で泣き声をあげる。

 反対に周りの大人は私を見ながら微笑んでるように思えた。

 

 ○

 

 散々泣いた後、私は疲れきってしまったようですぐにぐっすりと寝てしまった。

 その後は数日病院で過ごし、体の状態や母の体調を検査された。

 やっと目を開けることが叶い、多少手足程度なら動かす事が出来るようになった時には、母に抱えられ退院していた。

 

 たどり着いた家は立派な一軒家で、表札には「明智」と書かれていた。

 扉を開けると、洋風な雰囲気と大きめの玄関が私たちを迎え入れる。母は私に振動を与えないように上手に靴を脱ぎ、家に上がる。あらかじめ用意してあった赤ん坊用のベッドに私をゆっくりと置き、少し待っててね。と軽く私を撫でてから母は離れていった。 

 

 生まれ変わってから数日たったであろう今、私は何度も考えていたこの状況について再び思考していた。

 私は、生まれ変わった。これは確実だ。赤ん坊として存在している私が、何故前世の記憶を保持しているのかなどの疑問は今答えを出す事は不可能に感じたため、ひとまずその問題は置いておく。

 生まれてから今まで気付いたことと言えば、この世界と私の前世との幾つかの相違点だ。

 この家の住所は麻帆良と呼ばれる場所にあるらしいが、私はまったく聞き覚えのない場所であった。また、私は初め、私が死んだ後の時間軸に生まれていると思っていたが、現在は未だ20世紀だという。

 それにしては技術の進歩が進み過ぎているように感じるが、別世界だと考えると大きく矛盾しないようにも思える。

 とりあえず、この世界の資料や歴史を読み漁ればもう少しこの事実を納得できる形に納める事が出来るだろう。

 

 母が部屋に戻ってくる足音が聞こえた。片手に電話を持ち、耳に当てている。

 会話から察すると、どうやら父に連絡しているらしい。受話器を手にしながらも、私の顔を覗き込んで母は幸せそうにはにかむ。

 その笑顔だけで、私は少し嬉しさを感じてしまう。 

 私は、四十路を越えた精神と、生まれたての赤ん坊の本能を両立させたというとても面倒な事になっている。

 私を産んだ母には無条件に安心感を抱き、乳房を吸うことにまったく抵抗がない。いや、抵抗がないというよりも、それが当然な事だと本能的に思ってしまっている。また、頭では沢山の事を考えるが、赤ん坊の脳には長時間の思考がリスクなのか、すぐに強い眠気により思考を中断させられる。体は当然筋肉がないため満足に動かせず、舌や歯が発達していないからか声を未だに発生できていない。

 

「パパがもうすぐ帰ってくるよー」

 

 母が赤ん坊の私にも聞き取りやすいようにゆっくりと言う。

 ……そういえば、前世と最も異なっている事が一つある。

 当然私にはどちらかを選ぶことが出来ないため仕方のない事なのだが、この問題が一番不安であった。

 

「ななみよかったねー。パパにあえるよー」 

 

 二度目の人生での私の名前は「明智 七海」。

 性別は、♀であった。

 

 

 ○

 

 

 赤ん坊としての日々もそれなりに時間がたった。今はまだ女性であることを不便に感じる事はないが、将来的な事を考えると不安を感じないとは言えなかった。

 男として約半世紀を生きてきたのに、今更女性として振る舞える気がしなかった。

 開けていた窓から、蝶が入り込んでくる。白い羽を持つモンシロチョウは部屋の上空をぐるりと一周したあと、私の寝ているベッドまで近づき、私の鼻の上で止まった。前世で幾つもの虫を研究していた私には、不快に感じる事など微塵もなく、蝶と見つめ会う形になった。

 

「ななみは本当に虫に好かれるねー」 

 

 部屋を掃除しながらも、横目でその様子を見ていた母が呟く。母が虫嫌いではないと言うことが分かり少しうれしくなった。

 

 ……私が今、生まれ変わったこの世で生きていくにつれて、最も考えている事が2つある。 

 

 一つは、この世界の両親についてだ。今の母は優しい。父も優しい。二人とも初めてできた子供である私にひたすら愛を注ぎ込んでいる。

 前世の私は子供に恵まれなかったが、愛の結晶と言われる子供を大切にする気持ちはとても理解できた。それだけに、私は自分の存在を甚だしく邪魔なものだと思った。 

 もし、自分が産んだ子供に40歳を越えた男性の精神が入っていたら、それはどれだけ気持ちの悪い事なのだろう。

 二人で零から子供を育て、様々な経験をさせて、立派に育ってほしい。それが親の気持ちであることは明らかだろう。

 それを、私は奪ってしまった。 

 出来ることならこの精神を今すぐなくしてしまいたい。あるべき子供を二人に返してあげたい。しかし、私にはその方法も手段も分からなかった。強いショックを与えれば私は消えるのだろうか。

 そんなことを思うこともあるが、私が傷付いたら最も悲しむ二人を思い浮かべるとそうすることも出来なかった。

 

 だから、私は決めたのだ。

 私の精神が存在するという事実は変えられない。ならば、せめてこの事実は誰にもばれないようにしよう。

 この生涯尽きるまで、二人の前では二人の子供に成りきろう。二人が私が私の精神を持っていることに気が付かなければ、ショックを受けることなどない。

 それが、事実上二人の子供を奪ってしまった私に出来る唯一の事だ。

 

 

 ……そして、私はもう1つこの世でやりたい事がある。

 少女が夢見るおとぎ話のような、絵空事だ。そんな事有り得る訳がないと分かっている。だがほんの僅かの可能性でもあるなら、私はその夢を叶えたい。 

 

 私は、妻に会いたい。前世では死んでしまった妻。二度と会えないことなど、もちろん分かっていた。

 だが、私のように彼女も生まれ変わっていたら?

 いや、生まれ変わっていなくても、この世界にも彼女が存在していたら?

 

 彼女は死に際に確か言った。「死んでもあなたを愛してる」と。

 私は死に際に確かに思った。「もう一度妻に会いたい」と。

 

 別に前世のように寄り添わなくてもいい。私が女に生まれた以上それは叶わないだろう。

 だから、一目でいい。

 もう一度、妻に会いたい。

 

 前世を見せないという現世への誓いと、現世で会いたいという前世からの願い。

 

 二つの矛盾する想いを胸に、私はこの世界を生きていく。

 



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3話

 私がこの世に生を受けてから、幾年かたった。

 

 子供の成長とは想像よりもずっと早く、生まれてから半年もすれば立てるようになり、一年もすれば歩くにも不都合はなかった。

 この世界の事を知るために図書館などに行きたいとは思っていたが、この数年はほとんど睡眠に費やしていた気がする。元々子供は睡眠時間に多く時間を割くのに加え、普通の子供よりも脳を酷使するように考え事をする私は、さらに多くの睡眠時間を必要とした。

 

 特に、私が前世の記憶をどのように保っているかを考える事が多いのだが、未だに答えを見つけられない。

 記憶とは脳に貯められている。

 通説ではそのように理解されているのだが、それだと私の現象が説明できない。むしろ、非現実的ではあるが、魂や心といった目に見えないものが存在し、それが子供に宿ったと考えたほうが納得が言ってしまうのが、科学者だった身としてなんとも言えない気持ちになった。  

 

 昔、学会で真面目に魂の存在を語ったものがいた。

 記憶や感情は脳の電気信号と化学 反応で全て説明できる。世間ではそのように言われる事もあるが、感情にはそれだけでは説明出来ない複雑性がある。彼は意識のハードプロブレムやクオリアなどを語り、魂の存在を謳った。しかし実用的な証拠や実験の背景がなく、当然学会では色物扱いをされていた。

 もう少し、真面目に彼の話を聞けばよかった。  

 今更になって当時の事を私は悔やんだ。どんなに人に馬鹿にされようが、何度も魂の存在を語った彼には、人には言えないような確証を持っていたのかもしれない。

 

 転生というものを経験している、私のように。

 

 結局、一般的な生物の知識はあるが昆虫を専門としている私に脳医学など語れるはずもなく、現在の状況は私には理解できない現象である、という答えで落ち着いた。

 魂や心の存在を認める訳ではないが、ここが前世とは多少なりとも異なる世界となれ ば、私の知らない事象があっても可笑しくはない。  

 そういえば、これだけは調べなければと思い、父の書庫から少し歴史の本を漁ったことがあった。あまりこそこそと行動して怪しまれるのも問題なので、迷い混んでしまったように見せかけて、本を探した。そこで、知りたい情報は何とか得ることができた。

 

 前世で起こったような地震や災害は、この世界の歴史と一致していない。

 

 時系列的に前世より少し前に転生している私は、これから起こり得る事件を多少なりとも知っている事となる。とすると、大地震や災害を把握していながらも誰にも伝えず胸に抱えるというのは、罪悪感により私の心を抉るだろう。  

 とりあえず、私の知る災害と同じものがこの世で起こり得ないと分かり一安心した。

 もう少し書庫を探ろうかと思ったが、私を探しに来た母に見つかり、抱えられて書庫を後にすることなった。

 

「パパの大事な部屋だから、おいたしちゃだめよ」

 母にそう告げられた私は、しばらくの間書庫への侵入を諦めることとなった。      

 

 

 

 ○

 

 

 私が二歳になる少し前の頃、母が頻繁に病院に通うようになった。私は妻が病気に

なったことを思い出し大層心配したが、母の嬉しそうな顔と段々と大きくなるお腹を見

て、安心と期待に胸を膨らませた。

 

「ななみはもうすぐお姉ちゃんになるんだよー」  

 

 私を膝の上に乗せて頭を撫でる母を見て、自分の事のように嬉しく思った。

 

 ……次に生まれてくる子供は、正真正銘あなたの子供だ。

 

 心の中で、私を抱える母に語る。私のように誰かの精神を持っているわけでもなく、純粋に零からあなた達に育てられる子供だ。両親の育てる子供が、私という不純物の混じったものだけでなくて本当によかった。

 私は母のお腹を撫でながら、中にいるだろう子供に想いを込める。  

 

 ……よかったな。君の両親はとても優しい。目一杯、君を愛してくれるだろう。

 そして。

 

「……ふふ。ななみは赤ちゃんになんて伝えたの ? 」    

 

 母が暖かい笑みを浮かべながら私に問う。私は母の膝からぴょんと飛び降り、振り返りながら告げる。

 

「私も、あなたを愛するよって」  

 

 

 

 それから数ヵ月後、母は二人目の子供を出産した。可愛らしい表情で、大声で泣き叫ぶ明智家の二人目の娘は「明智 うい」と名付けられた。

 

 

 ○

 

 

「ななねぇーー。まってよーーー」  

 

 車通りが少なく、横には茶色の土とそれを隠すように生える緑の植物が踊る道を、ういと二人で歩いていた。あっちこっちに目移りするういに注意しても聞かないので、わざと置いてくように先に行くと、目に涙を溜めながらういが小走りでついてきた。

 

 

 ういが生まれてから、二年がたった。私は幼稚園に通うようになり、ういも同様に同じ場所で預けられるようになった。登下校はいつもは母も一緒なのだが、朝から忙しそうにしているのを見かねて、無理矢理ついてこようとする母を置いて今日は二人で登校している。

 母は元々仕事人であり、産休で長いこと休みすぎたのか、今やバリバリ働く社会人として職務を全うしていた。

 

「ななみ。あなたたちに何か困ったことがあったら直ぐに連絡しなさいね。あなたは周りの子から比べたらとてもしっかりしてるけど、大人達を頼ることも覚えないとだめよ」

 

 仕事で忙しい母の代わりに妹の世話や家事を手伝う私を見て、珍しく母が真剣な目をして私に言った。

 最近、少しでも家族の役に立とうとする私を見ると、母や父は逆に心配そうな顔をする。そんな顔をさせるために手伝いをしているのでは当然ない訳で、私も少し困った顔をすると、妹がそんな空気を壊すかのように明るく騒ぎ出す。ういのそんな様子を見て、私たちはくすりと笑い合うことができた。

 私と違い、子供としての仕事を果たすように明るくわいわいと走り回るういは、家族の空気をいつも愉しくしてくれた。

 

「大丈夫。待ってるからゆっくりおいで」  

 

 私は立ち止まり、手を差し出して妹がたどり着くのを待つ。ういはドタドタと走って 私の横につくと、ぎゅっと私の手を握りながら太陽のように眩しく笑った。

 

「へへぇ。ななねぇあんがと ! 」

 

  そんなういを見て、私は妻との間に子供が出来たらこんな感じだったのかと思い、胸がいっぱいになった。

 ……私と妻は早めに逝ってしまったので結果的に子を残さなくてよかったのだが……。    

 

 しばらく二人で手を繋いで歩くと、目的の幼稚園についた。それぞれの学年の先生が出迎えてくれ、私たちは別々の部屋に向かう。

 

「ななねぇー ! またねぇー ! 」

 

 大声を出しながら廊下でぶんぶんと手を降るういを見て、私も軽く手を振りながら自分の教室に入った。  

 教室に入ると、何人もの子供たちが自由に教室で遊び回っていた。男子は走り回ったりブロックで遊んだり、女子はおままごとをしたり折り紙をしたりと、この頃から男女で大きく境が出来てる様子が見えて、少し微笑ましく思える。

 

「ななみ ! おはようございますですわ! 」

 

   教室の横から、金色の髪を揺らしながらトタトタと一人の少女が私に声をかける。

 

「おはよう、あやか。今日は一段と機嫌がいいな」

 

「ふっふっふー。流石ななみですわ。今日は朝からじぃやがとってもおいしい牛乳を入 れてくれて気分がいいんですですの! 」  

 

 頬に手の甲を当てながら高笑いする「雪広 あやか」は、とても4歳とは思えない話題でにこにことしていた。気品を感じる服装に、丁寧な言葉遣いから、彼女がとてもいいお家柄なことがよく分かった。いつの日か牛乳が紅茶やコーヒーになり、少し不自然な語尾が治れば、立派なお嬢様になれるだろう。    

 

 

 彼女とは、私が幼稚園に通うように成ってからすぐに仲良くなった。そのただずまいや気品から周りの子が少し敬遠し、子供たちが泥だらけになって遊ぶ中、彼女は遠くでそれを見つめていた。

 洋服が汚れるのを嫌がっているのか、中々輪に入れない彼女に私が声をかけると、ぱぁっと四歳児らしい可愛い笑顔を浮かべて熱心に話始めてくれた。彼女はとても子供とは思えない様な教養を持っており、子供離れした私も唯一彼女とは話易く、二人であっという間に意気投合した。  

 ……いい年した大人であるはずの私が幼稚園児と意気投合するとは妙な話でもあるが。

 

 

「ななみ ! 今日は何して遊びましょう ! 私じぃやから少し、こ、こうどで、た、たくえつなあや取りを習いましてね! ちょっと見てほしいのですわ! 」

 

「ふふ。そうだな。それじゃあ、あやかの凄いあやとりを見せてもらおうかな」

 

 頑張って難しい言葉を使おうとしながらも、やはり遊びは年相応な彼女をみて、私は微笑ましく思いながらも一緒に遊ぶのであった。

 

 

 二人でしばらくあや取りした後、私芸術もお勉強しているのですわ! とあやかが言うので、お絵かきを始めようとしていると、ひくひくという小さな泣き声が聞こえてきた。少女は、一人で積み上げた積み木の前でぺたりと座り込んで、袖で涙を拭っている。

 

「……貴方。どうかしましたの」

 

 あやかは、すぐにお絵かきを中断して誰よりも早くその少女の元に向かって優しく声をかけていた。

 少女は、ぐすぐすと鼻を啜らせながらも、ゆっくりと答えた。

 

「……積み木遊び、つまらないの」

 

「……そうか。なら、お人形遊びはどうだい? 」

 

 私がそう提案しても、少女は首を振って断るだけであった。

 ならばと、私は次々新しい遊びを提案するが、少女の満足するものは見つけられない。

 私は自分が子供の頃、どんな遊びをしていたのかを必死に思い出すが、もう思い浮かぶものはほとんどなく、それも私は男子の遊びのほうが詳しかったため、彼女が何で満足するかはもう分からなかった。

 未だに泣き続ける少女の前で私は無力で、最後の砦である先生の姿を見渡して探すが、運の悪いことにちょうど教室にいなかった。

 

 その時に、考え込むようにしていたあやかが初めて少女に提案した。

 

「ねぇ、もう一度、積み木遊びをしませんか」

 

「……え、でも」

 

「ただし、今度は一人ではなく、私とななみも一緒に。三人で」

 

「三人で? 」

 

「そう」

 

 あやかは、少女に微笑みかけた。

 

「きっと、三人でやる積み木は、さっきよりも何倍も楽しいですわ」

 

 

 少女は、自分の涙をもう一度強く拭い、それからゆっくりと、うん、と頷いた。少女の頬には、もう涙の跡しか残っていなかった。

 

 この時になって、私はようやく理解した。

 少女は、積み木がつまらなくて泣いていたわけでも、遊びたいものがなくて泣いていたわけでもない。ひとりぼっちが、寂しかっただけだったのだ。

 

 

 

「……あやか。きみは本当に立派だ」

 

 積み木を三人で積みながら、私は思わずそう呟いていた。大人である筈の私よりも、彼女のほうがよっぽど周りが見えていた。私はそのことが恥ずかしくもあり、同時にうれしくも思った。

 

「と、とうぜんですわ ! 雪広家たるもの ! これくらいのそうどうを抑えてみせてなんぼですわ ! 」

 

 ぷいっと顔を背けるように胸を張る彼女の顔は、誉められて照れたのか真っ赤だった。

 



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4話

  夏の日射しが眩しく、アスファルトから跳ね返る熱気が透明の湯気のように大気を揺らしていた。コンクリートの街を、歩きやすい運動靴を履いて私は足を進める。長くストレートな黒髪を一つに縛り、上下長袖ジャージに麦わら帽子という女性としてのお洒落さなど微塵も感じない格好をして、私は道を歩く。たまに私を振り向く人がいるのは、右手に持つ虫取網と肩から下げる虫籠が更に違和感を際立たせているからなのだろう。

 

 誰もが見てわかる通り、私は今、昆虫採集に向かっている。来年から小学校に通うという年齢まで成長した私は、わりと自由行動が許されるようになった。私自身が他の子供よりしっかりしている(この精神年齢でしっかりしていないと問題なのだが)ということで母は、あまり遠くに行ってはだめよ、と私に携帯電話を持たせながら外出を許してくれた。この時代にしては最新の携帯電話だったのだが、久々に二つ折りの形式をみて、少し懐かしく思った。

 

 

 そう言えば、幼稚園であやかにも声をかけたのだが、昆虫採集と言うと顔を激しく左右して断られてしまった。

 

「きょ、今日の放課後遊ぶのですの?! い、いきます! 遊びましょう! 何するんですの?!

 ……………………え。こ、昆虫採集…………。す、すいませんななみ! 勘弁してくださいですの! 」

 

 ……どうやら、昆虫採集とは年頃の女の子のする遊びではないらしい。しかし何をそんなに嫌がることがあるのだろうか。昆虫ほど魅力的な生き物はいないと思うのだが……。

 

 昆虫は世界で最も多くの種が存在している。現在知られている生物種の中でも、昆虫は半分以上を占めている。言わば、今や世界は昆虫の時代なのだ。多種多様に存在し、 時には神の悪戯かとも思ってしまうようなデザインをしている彼らに、私はあっという 間に惹かれてしまったのだが、皆がそうと言うわけではないらしい。当然ながら自分の好きなものを他人に強要しようと思ってなどおらず、嫌がるものを無理矢理連れてくる訳にもいかないので、冗談混じりにまたの機会に、と告げるとあやかは頬をひくひくさせながら頷いた。    

 灰色の地面が続く街から抜けるために、淡々と足を早める。今まであまり麻帆良の市街地から離れたことはないのだが、遠くに見える巨大な木などを見ると、子供らしく心が踊ってしまった。段々と地面を覆うアスファルトが少なくなり、目の前には緑が見え始めた。固められた道路から、自然に踏み続けられた土の道に変わり、人気がどんどん少なくなる。どうやら、そろそろ林に入れるようだ。木の上から鳥の唄が聞こえ、セミが鳴らす音も激しさを増していた。久々の昆虫採集に高鳴る胸を抑えながら、私は林に足を踏み入れた。

 

 

 

 ○

 

 

「ねぇー ! ななねぇどこーー」  

 

 ういが家をドタドタと走り回りながら、姉の名前を呼んだ。ツインテールにするためにゴムで結んでいる黒髪が、何度も上下しながらも必死にういにしがみついているように見えた。洗濯物を畳んでいる私は、埃を立てる娘に少し注意してから言う。

 

「ななみは一人で遊びに行ったわ。虫を取りにいくんですって」

 

「ええーー ! いいなぁー ! わたしも行きたかったーーー ! 」

 

 ういは私の膝にダイブするように飛び込み、足をバタバタとさせながら精一杯不満を述べた。ういを見ていると、その無邪気さに姉との性格の違いをはっきりと示されて、 私はちょっぴり微笑んだ。

 

 ……やっぱり七海は大人っぽすぎるわよねぇ。

 

 七海でなければ、五歳児を一人で出歩かせるなんてことは絶対にしない。七海を心配していない訳ではないのだが、それでも彼女からたまに見える精神は、心配など必要ないと思わせるには十分すぎた。  

 ういが生まれるまでは、少し大人しくもしっかりした子、程度の認識であったが、ういや周りの子供と比べると七海の性格はあまりにも大人びている。私達夫婦に駄々をこねることも一度もなく、それどころか積極的に手伝いをし、どんな事でも要領よくこなす。別に悪いことではないのだが、子供っぽさを見せない姿には少し不安を感じてしまう。

 

 ……誰にも言えないが、一度だけ、七海の事を怖いと思ったことがある。

 それはまだ、ういが生まれる前のことだ。ようやく一人で歩けるようになったばかりの七海が、私がうたた寝している内に目の前から居なくなっていた。少し慌てて家の中を探していると、夫の書庫から人がいる気配がした。

 中をこっそりと覗くと、そこには夫の本をゆっくりと捲る七海の姿があった。あれは、適当に本を触っているだけではない。ちゃんと中身を理解しながら、夫の難しい本

 を読んでいるのだ。

 それが何だかとても恐ろしい事のように感じて、部屋に入りすぐに七海を抱き上げ、 もう書庫には入らないように告げた。それから、少し注意をして七海を見ていると、子供みたいに振る舞う仕草は無理をしているようにも思えた。というより、勝手に大人びてしまうものを無理に抑えているようだった。

 

「ままー。今度はわたしたちも一緒にいこーねーーー」  

 

 ういは甘えるように私のお腹を顔を押し付けてぐりぐりと埋めた。くすぐったく感じながらも返事をするようにういの頭を撫でながら、私は心の中で優しくういに問いかけた。

 

 ……我が家の大切で可愛い長女は、一体何者なんでしょうねぇー。  

 

 

 

 

 

 ○

 

 日射しは木々に遮られながらも、葉の隙間から溢れる光の軌跡は地面にまで届き、土の色を鮮明にしていた。近くに咲く花に向かいながら、ヒラヒラと空中を舞うように飛ぶ鮮やかな蝶に向かって、私は網を勢いよく横に振る。

 手首を捻らせて網の中から蝶が逃げ出せないように閉じ込めてから、ゆっくりと蝶を観察した。その蝶の翅は上部の一部だけはっきりした黄色をし、残りの部分は白色をしていた。

 

 …………クモマツマキチョウか…………。

 

 種が分かった後、網をひっくり返すようにして、蝶の逃げ道を作った。慌ただしく翅をばたつかせながら、その蝶は網から逃げ再び自然に戻っていった。採集に来てから、かなりの数の昆虫を見つけては種の同定を行い、逃がしていた。珍しいものを見つけたら虫籠に入れようと思っていたが、途中からそんなことを言ってられなくなった。

 

 …………珍しい昆虫が、多すぎる。

 

 先程のクモマツマキチョウにしても、亜高山帯に分布しているはずで、こんな平地にいるはずがない。他にも、前世では日本に存在しなかったはずの種でさえこの林では採ることができ、適応できるはずの環境が違い、同所できるはずのない昆虫でさえもここでは同時に生息している。種の多様性が高すぎるのだ。  

 ここまで広い範囲の種が存在出来るとすると、何かしらの要因が存在するはずだ。

 

 その事実はこの街はどこか普通とは違うと私に考えさせるのには十分すぎて、しかし私はそのことに対する懐疑感などよりも、好奇心が圧倒的に上回っていた。

 何とか要因を探ろうと私は、どんどん林の奥へと進む。……当然、蜂などには細心の注意を払いながら。  

 

 落ちている枝木や雑草を踏みながらも辺りを見渡していると、急に綺麗にされた道を 見つけた。アスファルトが引かれている訳ではないが、しっかり整地されており、沿って歩くと小さな川を横切るための橋まで立地されていた。橋を渡り、そのまま少し歩くと、目の前には立派なログハウスが見えた。

 しっかり郵便受けまで設置され、井戸や小屋まで用意されているのを見ると、観覧用 というよりかは本当に生活するための建物のようだ。こんな近くに自然に囲まれて生活しようと思える人がいるのだな、と感心しながらログハウスを見ていると、急に玄関の扉が開く。  

 

 中からは長い金髪の少女が眠そうな顔をしながら現れた。

 外人なのだろうか、顔は少し日本人離れしていて、西洋人形のような少女だった。しかし、服装は年相応のふりふりとしたパジャマを着ていて、肩には緑の髪で羽を生やしている人形を乗せていた。

 

「……なんだ、何者かとおもったらただの餓鬼じゃないか」  

 

 欠伸を手で抑えながら少女は私に向けて言った。初対面で餓鬼とは随分な言われようである。この少女も見た目では小学生ほどなのだが、自分より幼いものに餓鬼などと言って格好をつけたい年頃なのかもしれない。と勝手に解釈する。

 

「迷い混んだのかは知らんがここには何もないぞ。さっさと帰れ」  

 

 あっちにいけと言うように手を上下させて少女は私を帰らせようとした。小学生でこの口調の悪さは将来が少し心配になるが、いつか自分で黒歴史と気付いて訂正するのも青春の一つだろう、と特に注意することなく見送ることにする。

 ……もしういがこんな口調になったら速攻 止めさせるが。

 

「すいません。迷い混んだ訳ではないのです。実はこの辺りの事について少し知りたい事がありまして。あなたの親御さんはいらっしゃいますか」  

 

 出来るだけ丁寧に、下手にでるように私は言う。この林の異常な様子について、ここに住む人ならば何か知っているのかもと思ったのだ。無論小学生であろうこの少女には、分からないだろうと思い、この子の親に聞いてみようと考えた。  

 

 少女は僅かに間を置いてから、ニヤリと笑うように口角を上げる。

 

「親などおらん。……そんなことより貴様……少し妙な感じがするな…………」

 

 見た目が五歳児の私があそこまで丁寧に話すことを怪しまれたのだろうか、少女はゆっくりと私の方へ詰め寄りと顔を近づける。スンスンと小さな鼻を鳴らした彼女からは、高級なシャンプーの香りがした。

 

「血の匂いは普通だな。しかし違和感がする……。何か隠し事をしているな」

 

 

 

 心臓が、跳ね上がった。

 鼓動が激しくなり、額に冷や汗が流れる。  

 ただの少女が血の匂いなどと言い出しただけならば、微笑ましくも後で恥ずかしくなるような、幼少期の忘れたい思い出の一つになるだけなのだが、この少女からは冗談とも思えないような気迫が見えた。  

 黙っていれば、私の秘密はバレる筈がないのだが、面と向かって隠し事の存在を言い当てられた事と、目の前の少女に見える気迫が凄みを増すのに対し、私は身動きが取れなかった。  

 少女は手をじわじわと私に向けて伸ばしてくる。私の頭を押さえようとしているのだろうか、少女の手の影が私の顔にかかるのを感じて、強い不安感を抱いた。私は何とかして無理矢理にでも体を動かそうとすると、辛うじて暴れるように手を振るう事ができた。

 

 

すると、私の肩に掛けていた虫籠の蓋が偶然手に引っ掛かるようにして開き、中から採集した昆虫が勢いよく飛び上がった。

 

「うおおおお!? なんだこれは!? 」

 

 昆虫達はちょうど少女の顔を覆うように羽ばたき、少女は大きく仰け反る。何匹もの昆虫が少女の顔に集中し、少々グロテスクな光景になるが、私も待ってはいられない。

 

 その隙を見て、急いで後ろを振り返り、私は林の中へと走り去ろうとした。

 

「おい ! まて ! ……って口に入るのだけはやめろおおぉ! 」

 

 少女が一人で悲痛の大声を出して喚いている間に私は全速力で林の中を駆けていった。

 逃げるように必死に走りながら、私は二度とこの近辺には来ないことを誓った。

 

 

 

 



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5話

 

「うわあー!ななねぇかっくいーーー! いいなぁーー! 」

 

 赤色のランドセルを背負い、小学校の制服を着た私を前にして、ういはぴょんぴょんと跳び跳ねながらはしゃいでいる。

 

「……格好いいのか? 私にはよく分からないが」

 

「かっくいいよ! だって赤色だよ! レッドだよ! 」

 

 妹の言うことは何一つとして理解出来なかったが、とりあえず羨ましがっていることはよく分かった。シャキン、と口で呟きながらポーズをとる彼女が微笑ましかった。

 

「あと二年経てばういも一緒に行けるようになるわよ。ななみ、忘れ物は大丈夫? 」

 

 母が後ろからういの肩に手を置きながら私に尋ねる。私は大丈夫と返事をしながら玄関に向かい靴を履いた。

 

「ななねぇ! いってらっしゃい! 」 

「ななみ。気をつけていってらっしゃい」  

 

「……行ってきます」

 

 

 二人に挨拶をし、騒ぐ妹の頭を一撫でした後、私は玄関の扉を開け目的地に向かった。

 

 これから六年通うことになる小学校へと。  

 

 

 先日無事に幼稚園を卒園し、今日から小学校に通うこととなった。学校への登校路を 歩みながら私はこの六年間をどう過ごすか考えていた。

 幼稚園と小学校では異なる点が多くある。勉強やテストは誰かと競うように行われ、クラス間での行事が多くなる。後者はそこまで問題はないが、前者についてはどのように対応するか未だに思い悩んでいた。

 前世で大学の教授をしていた記憶のある私が、小学校の問題を分からない筈がない。 テストではなんの勉強をせずとも当然のように100点をとることが可能なのだが、そんな風に点数をとり続けていいのか疑問だった。何度も100点をとっていたら目立つのは勿論のこと、他の子供たちが勉強してから挑んでいるテストに対して、私の方が上位という点をつけられるのは申し訳ない気持ちがある。だからと言ってわざと間違えるのは、真剣に臨んでいるものに失礼な気もした。

 

 通いなれた幼稚園を横目に通りすぎながら、私は歩を進める。周りには同じ制服を着てランドセルを背負う子供の姿や、中等部や高等部の生徒らしき人影もちらほらと見え

 始め、それぞれが散在しながら同じ方向に向かう。

 私が通うこととなっている小学校は、「麻帆良学園本校初等部」であるため、同学校名の中等部や高等部に在席する学校の生徒も、皆揃って近くまで行くこととなる。麻帆良学園の本校は驚愕するほどのマンモス校らしく、パンフレットで見た校舎も信じられないほどの大きさであった。  

 

 周りの生徒たちが雑談する声が耳に響く中で、途中まるで外国の総理大臣が乗るかのような黒色の車が私の横を走る。周りの目を奪いながら私のしばらく前方でその車は止まり、執事服を着た初老の男性が出てきたと思うと、男性は車の後部座席を丁寧に開けた。中からは私と同じ制服を着た、見覚えのある少女が優雅に降りてきた。

 彼女は私を見つけると上品な笑みを浮べて、小走りで向かってくる。

 

「ななみ! ご機嫌麗しゅうございますわ! 」

 

「おはようあやか。派手な登場だな」  

 

 あやかは後ろを向いて車に指示を出すと、先ほどの男性が車に戻りゆっくりと去って いった。

 

「じぃや達が心配して仕方ないのですわ。私はもう一人で大丈夫だと言ってるのに」

 

「それほど大切に思われてるんだろう。良いことじゃないか」  

 

 私がそう告げると、可愛らしくあやかが微笑む。

 

「ふふ。ななみはそういう風に言ってくれるから好きですわ。こういうことを妬む人は沢山いるのに」

 

 子供というのは、自分と違うものに対して残酷だ。自分より優位なものや優れているものに素直に感心できるものもいれば、妬みや恨みを正直にぶつけてくるものもいる。 成長すればそれらの気持ちをコントロール出来るようになるのだが、幼い内はその術を知らないのだ。そんな子供達が悪いと言っている訳ではないし、そのような感情は年頃として当然なのだが、それでも負の思いを直接当てられやすいあやかは想像よりも辛い思いをしてきたのかもしれない。

 

「そうだな。私もそう言ってくれるあやかが好きだよ」

 

 精神年齢でいうともはや親と子ほど離れているため言わずもがな恋愛的な意味など決してないのだが、面と向かって言われたことに照れてしまったのかあやかは真っ赤にし、顔を背けながら小さな声でありがとうございますぅと返事をした。

 

 

 しばらくあやかと談笑しながら歩いていると、辺りのざわつきも激しくなる。気が付けば周りは制服を着た生徒だらけであった。  

 そのまま歩くと初等部の校門が見つかり、校門横に立つ先生が大きな声で挨拶をする。私達もそれに返すように挨拶をし、校内への一歩を踏み出した。

 

「……同じクラスになれたらいいですわね」

 

「……ああ。そうだな」  

 

 お互いに他に友達がいないという訳ではないが、やはり私はあやかが一番話が合うと思っているし、あやかもそう思ってくれているようだ。別のクラスになることを不安に思ったのか、あやかは私の服の袖をぎゅっと握った。

 私はあやかを引っ張りながらも、玄関の前に出ているクラス分けの書いてある看板の前に向かう。学年別に看板が建てられており、一年生の看板の前には先生らしき女性が 立っていた。  

 その女性は私達の存在に気付くと、少し屈んで目線を合わせてから優しく声をかけてくれた。

 

「自分たちの名前、わかる? 」

 

 此方を緊張させないようにか、少し笑いながら問う女性に私たちは自分の名前を答えた。

 

「ななみちゃんにあやかちゃんね。んーと、二人とも1―Aね」

 

 女性がそう告げると同時に、あやかの顔はぱぁと明るくなった。お礼を述べてから私たちは教室に向かい歩き出す。同じ教室に一緒に行きながら、先ほどよりも更にテンションを上げながら話すあやかに、私も少し嬉しく思った。

 

 

 ◯

 

 

 その後に体育館で行われた入学式には私の母も来てくれて、素直に喜びを感じた。校長先生が長い話を幾つかした後、私たちは再び教室に戻り、席につく。教壇には先ほどクラス分けの看板の前で案内をしてくれた女性が立っていた。女性は自分がこのクラスの先生であることを告げたあと自己紹介をし、私たち生徒にも自己紹介をするように指示をする。出席番号順に生徒全員が自己紹介を終えた後に、先生が生徒全員に向かって聞いた。

 

「実はですね。さっそくなのですが、クラス委員というものを決めなければなりません。 初めてだし分からないことが沢山あると思うけど、先生もサポートするのでだれかやってくれないかなぁー」

 

 生徒たちに少し困惑の色が見える中で、一人の手が素早くぴしっと挙がった。

 

 先生はにっこりと笑いながらその生徒の名前を呼んだ。

 

「では、雪広あやかちゃん! お願いしていいかしら? 」

 

「はい! 私に任せて下さい! 」

 

  あやかは立ち上がって元気よく返事をする。あやかが今後もずっと委員長をやり続けて、あだ名が「委員長」となることは、この時はまだ誰も知らなかった。

 

 

 

 ◯  

 

 初等部に入学して、初めの一学期が終わり、二学期目に入ろうとしていた。  

 一学期目の初めは、まだ幼稚園との違いに慣れていないのか、騒ぐ生徒が沢山いたが、 あやかと先生の頑張りにより教室はまとまってきていた。

 そして、勉強の件なのだが、結局テストは普通に受けることにした。初めのテストでわざと間違うように幾つかの問題に異なる答えを書いたのだが、あやかにまんまと見破られてしまった。

 

「ななみ。私はあなたがこのような問題で間違える筈がないことを知っていますわ。何故このような事をしたかは分かりませんが、あなたは私の憧れでいいライバルだとも 思っていますわ。……だから、私のためにも手を抜かずテストを受けてほしいのですわ」

 

 真剣な表情であやかにそう告げられた私は、単純に、あやかのためにテストを受けようと誓った。あやかの憧れとして、失望されないように、越える壁としてあり続けようと思った。    

 その後は、勉強だけでなく運動面でもあやかと度々競い合うようになった。私は前世の知識から体の動かし方をよく分かっているので、効率よく体を使いかなりの好成績を出す。

 だが他にも、体をうまく使えている訳ではないのだが、小学生にしては信じられないほどのポテンシャルをもち素早く動くものもいた。

 あやかも同じように潜在能力の高さを垣間見せながら、私とほぼ同程度の運動能力を見せた。  

 運動ではいつか追い抜かれるだろうなと思うと、子供の成長を願う親のような気持ちになった。  

 

 

 夏休み明けの久々の学校が始まり、先生が皆に席につくように言う。生徒皆が席についたのを確認すると、先生は少し挨拶をした後、皆にもうひとつお知らせがあります、と告げた。

 

「入っていーわよー」  

 

 先生が廊下に向かって声をかけると、教室の戸ががらりと開いた。

 そこから入ってきたのは、一人の少女であった。

 少女は少し目立つ容姿をしていた。髪はピンクに近い色をし、ベルのついたリボンでツインテールに結んでいた。目は左右で異なる色をした瞳をし、片方は翡翠色、もう片方は青色と珍しい彩りをしていた。

 

 だが、何よりも気になったのはその表情であった。

 およそ小学生には似つかわしくないような無表情をし、何にも興味がないという素振りをしている。

 

 ……まるで、この世界そのものに興味をなくしているかのようだと思ってしまった。

 

 

 先生がチョークを手にし黒板に彼女の名前を書いていく。「かぐらざか あすなちゃん」と平仮名で大きく書いた後、先生はこちらを振り返った。

 

「海外から転校してきた神楽坂 明日菜ちゃんです。みんな仲良くしてあげてね」

 

「「はーい ! 」」  

 

 ……海外から来たのに日本の名前で、しかもオッドアイとは……

 

 突っ込み所は沢山あったが、少女の表情をみると、それすら無闇に聞けないように見えた。

 俗に言う「朝の会」と言うものが終わり、チャイムが鳴る。

 先生が授業の準備をする ために一度教室から出ると、何人かが明日菜の周りを群がるように囲んだ。  

 

「あすなちゃんすごい目だねーー」 「外国のどっからきたのーー」 「英語しゃべれるーー? 」

 

「……………………」

 

 

 

 数人の少女が質問をしても、明日菜はチラリと目をやるだけで何も答えなかった。少女達が困った顔をすると、その間からあやかが体を入れ、明日菜の前にたった。

 

「―――ちょっとあなた。その態度と目つき。転校生のくせにちょっと生意気じゃないですこと? 」

 

   あやかにしては、強い物言いであった。他の子供と喧嘩をするときに口が悪くなることはあるが、こんな風に突っかかりに行くのを私は初めてみた。

 

 

「…………」

 

 少女はその攻撃的な言い方に感じるものがあったのか、初めて他人の言葉にしっかりと耳を傾けたように見えた。そして、少女はぼそりと何か呟く。

 

 

「―――ん? なんですの? 」

 

 あやかにもそれは聞き取れなかったようで、あやかは右耳を少女に寄せていった。

 

「…………」

 

「え ? ……何 ? 」

 

 やはり何かは言っているようだがあやかには聞こえていない。あやかが聞き返すようにさらに耳を近づけてもう一度耳を澄ますと―――

 

「ガキ……」

 

「っな! 」  

 

 最後に明日菜はあやかの耳元で静かに、しかししっかりと伝わるように言い捨てた。

 

 あやかからブチっと何かがキレる様な音がして明日菜に掴みかかる。

 

「何よぉ ! あんたの方がガキでしょー! このちび! ばか! おさる!」

 

「………… ! 」

 

 再び正面からはっきりと文句を言われて、この時に初めて明日菜の表情が変わった。明日菜もあやかに掴みかかり今度はもっと大きな声で答える。

 

「そういうのがガキだって言ってるんでしょ ! …………このバカ !! 」

 

 取っ組み合いながら明日菜の見せる表情は、先ほどよりもずっと子供っぽく、初めて年相応の顔を見せた気がした。周りは止めるどころか喧嘩を面白がり、ついにはトトカルチョまで始めてしまった。  

 

 ……この年でトトカルチョって、どんな小学生なんだ……

 良くないところで大人びている生徒の将来に大きな不安を抱えながらも、私は立ち上がって二人の喧嘩の間に入った。

 

「…………はい。そこまでだ二人とも。もうすぐ先生も戻ってくる。席につこう」

 

 

 服を掴み合う二人を無理やり引きはなして、席に戻らせる。どちらもぶつぶつと不満を述べながらもなんとか大人しく席についた。

 

「……どうしたあやか。君にしては随分好戦的だったが」

 

「ななみ……。恥ずかしい所をお見せしましたわ……。ですが! 何故だかあの転校生の態度にむしょーにムカつきまして ! 」  

 

 未だに怒りを抑えられないように自分の机の上にある拳を震わせる彼女に私は少し笑ってしまった。

 

「なんですの! あの世界はどーでもいいみたいな表情 ! 気に入りませんわ!! 」

 

 

 

 あやかなりに、何か思うところがあって。  

 お陰で彼女のあんな表情が見れたとしたら。さっきの行動は決して誉められたものではないけれども、私はあやかが彼女に子供らしさを与えたのだろうと大袈裟に思いながらも、心の中であやかを称賛し、これからの学校生活も面白くなりそうだなと期待した。

 



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6話

 

「ななみ! 聞いてください! このちびが! 」

 

「…………違う。ななみ聞いて、このガキが毎度毎度うっとおしくかまってくる」

 

「っな!? だれがかまってるですって!? あなたが生意気な顔をしてるのが悪いのですわ! 」

 

「………… !あんたのほうが、生意気でぶす」

 

「っな、な、な、なにをぉー !? 」

 

「分かったからそこまでだ。二人とも胸ぐらを掴み合うのをやめなさい」

 

 明日菜が転校してきてから、あやかと明日菜は毎日のように喧嘩していた。

 体育やテストなど事あるごとに競い合い、白熱しかけるのを見兼ねて私が止める、という流れがもはやクラスの名物にすらなっていた。

 はたから見ると毎日仲悪く二人で言い争うのを止めさせたほうがいいのかも知れないが、私は喧嘩をするなとは言わなかった。明日菜はあやかと喧嘩するときだけ自分をさらけ出し、あやかも日頃の鬱憤やストレスをその場で晴らしているようだった。

 さすがに怪我人が出そうになったら止めるが、それまでは二人にとって子供らしくいられる時間だと思い、その可愛らしい喧嘩を見守っていた。    

 

 そんなあやかのおかげなのだろうか、明日菜は相変わらず無表情でつまらなそうにしていることが多いが、少しずつ表情が柔らかくなっている気もした。

 その上段々とあやか以外のクラスメイトとも会話をするようになり、喧嘩を止める時には毎度私とも関わるため、私にも声をかけてくれるようになった。  

 

 そんな風に慌ただしく過ごしながらあっという間に二学期が終わり、一年生最後の学期に突入した。  

 三学期に入っても変わらずに明日菜とあやかの織り成すクラス名物は続いたが、あやかの機嫌はずっと良さそうだった。

 何かあるのかい、と尋ねるとあやかは嬉しそうに語った。

 

「実はですね! もうすぐ私の弟が産まれるんですの! 」

 

「……! そうか。それはおめでたいな」

 

「ええ ! もう楽しみで楽しみで ! 気が早いのは分かっているのですが弟の部屋やおもちゃなんかもすでに用意してしまいましたわ。ねぇななみ!姉弟ってどんな感じでしょう! 」

 

「そうだな。私の場合は妹だが、世話をかけられながらも、やはり可愛く思ってくるもんだ」

 

「ふふふふ! そーですか! やはりそーですか! あー待ち遠しくて仕方ありませんわ! 」

 

「…………あんたに、似て生意気じゃなければいいけど」

 

「何ですってー! 大体私より何倍もあなたのほうが生意気ですわ! 」  

 

 いつも通りにいつの間にか喧嘩が始まりながらも、あやかの表情はずっと嬉しそうに見えた。  

 

 その後もあやかは何度も弟の話をし、明日菜は聞き飽きたという顔を惜しみ無く見せるのだがそれでもあやかは話を止めなかった。

 

 

 

 

 

 そんなあやかだったが、三学期の終盤から突然学校に姿を見せなくなった。      

 

 休み初めた一日目はただ体調を崩しただけだと思っていたが、三日間も休みが続いた所で私の心配は大きくなった。明日菜も初めは「うるさいのがいなくて精々する」などと言っていたが、今や明日菜も心配しているように見えた。

 

 

「…………今日もあのガキは休み ? 」

 

「…………ああ、そのようだな」  

 

 四日目になってもあやかは学校に来なく、明日菜が私の席まで来て話しかける。その顔からはいつもの無表情と違い少し寂しさが見えた。

 

「……今日の放課後、あやかの家に寄ってみるか? 」

 

「……私はべつに。心配してるわけじゃ…………」  

 

 そっぽを向いて、明日菜は小さく呟く。いつも喧嘩しているのにあやかを気にかけて いることを知られるのが恥ずかしいのだろう。

 

「……いいのか? この前の喧嘩の借りを返さなくて」

 

「…… ! それはだめ。やられっぱなしは嫌だ」

 

 お見舞いということではなく、いつも通りに喧嘩するために、という理由をつけると、 明日菜は頷いた。

 

「よし。なら今日やり返しにいこう」

 

「……うん」  

 

 

 そして放課後、私たちはあやかの家に向かった。先生から住所を聞き、私たちは歩いてその場所に向かう。住所を聞いた時、先生は私たちに、あやかちゃんのこと宜しくね、と少し悲しい表情をしながら言った。先生のその表情からも、ただの体調不良などではないことが察することができた。

 

 二人で見知らぬ街並みを、特に会話することなく歩く。明日菜の顔をみると、相変わらず心配そうな顔をしていた。  

 しばらく歩いていると、前から見覚えのある車が此方に向かってきた後、私たちの前で止まった。運転席から初老の男性が降り、私たちに姿勢正しく頭を下げる。

 

「ななみ様、明日菜様。お待ちしておりました。話は担任の先生から聞いております」

 

「…………だれ ? 」  

 

 面識のない明日菜が頭に疑問符を浮かべるように頭を傾ける。

 

「あやかの執事だ。……私たちを迎えにきた……ということで宜しいのですか? 」

 

「左様でございます。詳しい話はお車のなかでさせて頂きますので、どうぞ」

 

 あやかの執事は慣れた手付きで手早く、だがそれでいて丁寧に私たちを車に誘い入れた。横目でみると、執事はいつもと変わらない表情をしているが、前世で大人というものを経験している私には分かってしまった。  

 

 この顔は、辛いことを表情に出さないように我慢している顔だ。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

「……うう。…………ひっく。ひっく」    

 

 あの事実を聞いてから数日経ったと言うのに、私の涙はなかなか枯れなかった。

 部屋の周りに置いてあるぬいぐるみやおもちゃが、とても無機質な物に見えた。私の頬から落ちる涙が、床にしかれている青い絨毯を濡らす。  

 この絨毯も、おもちゃも、ぬいぐるみも、本当なら弟のものになるはずだった。  

 産まれることなく亡くなってしまった、弟のものに。  

 

 弟が産まれることが叶わないと言われたとき、私は訳がわからなかった。

 

「残念だが ……」

そんな風に伝えられても、まったく受け入れる事が出来なかった。

 

 どうして弟は産まれないの ? まだ赤ん坊なのにそんな目にあっていいの ? 私と一度も会わずに ? 私が教えようと思ってたことはどうなるの ? あの部屋は ? ねぇ ? ねぇ ? ねぇ…………

 

 母や父も辛いだろうに、私は自分の事だけを考えて、弟の部屋に籠ってしまった。学校のことなど考えることも出来ず。泣いては弟のベッドで眠り、起きて呆然とし、何度部屋から追い出されてもまたこの部屋に戻ってまた泣いて。もう、自分がなんで泣いているかも分からなかった。弟が感じた痛みを想像して。この世を見ることすら叶わなかったことに同情して。この部屋が無駄になったことに。友人に自慢したのにそれを叶うこともないことに。  

 全てが入り交じった感情を胸に、再び私はめそめそと泣く。  

 

 それから少しして、何も考えれずまた呆然としていると、ドアをノックする音が聞こえた。

 また食事だろうか ? 喉に通る筈もないのに。  

 そんな風に思っていると、じぃやの声が聞こえた。

 

「……お嬢様。ご友人がお待ちしております」

 

「………… ! …………すみません。今は帰ってもらって下さい…………」  

 

 思い当たったのは、一人の友人だった。

 知的で、凛々しくて、大人っぽい、私の一番の友人を思い浮かべた。だが、今は彼女に会いたくなかった。憧れているからこそ、彼女には私のこんな姿を見せたくなかった。

 

「いや。入る」   

 

 がちゃりとドアが開く音がした時には、すでに部屋に入っているななみの姿が見えた。部屋の鍵はじぃやが開けたらしい。

 しかし、拒む私を無視して、強引に部屋に入るななみのことを珍しく思った。

 

「…………いい部屋だな」  

 

 ななみは辺りを見回した後そう呟き、私の横に座った。

 

「…………」

 

「…………」  

 

 私は返事をせず、動きもしなかった。ななみに何を言われるのか、考えていた。  

 

 天国の弟が心配してるよ。前を見て行こう。天国の弟も元気なあやかが好きな筈だよ。

 私を元気づけようときた人達は、みんなそんな風なことを言った。

 天国の弟? 心配してる? まだ会ったこともない私を? 心配なんてできる訳ないお腹の中の子が?

 

 現実味を帯びていないそんな言葉を私はまったく受け入れられなかった。

 

「…………」

 

「…………」  

 

 同間隔で刻む時計の音だけが響く。いつまで経ってもななみは何も言わなかった。

 

「何か、言わないんですの? 」そう聞こうと私が口を開こうとしたとき、ななみは話を初めた。

 

「…………私の話をしてもいいか ? 」  

 

 少し儚い表情で、ななみは私に聞いた。こくりと私が頷くと、ななみは息をすぅと吸った。その横顔は、なんだかとても寂しかった。

 

「…………私には、誰よりも好きな人がいた。とても優しくて、堂々としていて、格好いい。そんな人を私は世界の誰よりも愛していた」  

 

 抑揚をつけず、どこか、遠くを見つめながら、ななみは言った。周りにそんな風に言う小学生など見たことがなく、同年代であるはずのななみが、いつもより更に大人っぽく見えた。  

 

「…………だが、その人は、私を残して、いなくなってしまった」    

 

 そう告げた後、ななみはゆっくりとこちらを見た。悲しそうな目をしながら、ななみは私の手をとった。  

 

「…………私も、その人を亡くしてからは暫く何もできなかった。何年間もずっと。

その人を忘れられなかった。……だから、同じように落ち込んでいるあやかを励ます資格なんて、私にはないんだ」  

 

 ななみは、私の手を握り、優しく包んだ。その手からは、不思議な温もりを感じた。

 

「…………気持ちが分かるなんて言わない。弟を亡くしたその気持ちは、あやかだけのものだ。励ます事も出来ない私は、こうやってあやかの手をとって、私の気持ちを伝えるしかない」  

 

 私の手を握ったまま、二人の中央に位置するように挙げる。ななみは私の目をしっかりと見つめた。

 

「私は、あやかの元気がないと辛い。落ち込んでるあやかを見るのが苦しい。だから、立ってくれ。ゆっくりでいいんだ。私があやかの手を持つから」    

 

 緩やかに、ななみは立ち上がる。ななみの表情は、憂いを帯びていることが一目でわかった。本当に、悲しんでくれているのだ。見たこともない親友のその表情が、私の胸を痛くつく。

 私は、ななみに手をとられながら、ゆっくりと一緒に立ち上がった。  

 

「…………歩けるか? 」

 

 優しい声で、ななみは問いかける。私は、もう一度溢れそうになった涙を拭いて、答えた。  

 

「…………もちろん、ですわ」    

 

 辛い過去を話すななみの表情をみて、私も辛かった。その上、私を心配して苦しい思いをさせるのも、嫌だった。  

 弟が亡くなったことは、悲しい。でも、その上でななみにまで辛い思いをさせるのは、もっと悲しい。

 

 だから、私は立ち上がる。二人で、辛い過去を乗り越えるために。今を、悲しい思いから、乗り越えるために。    

 

 ななみが、私を導かれながら部屋のドア手をかけるとこちらを振り向いた。  

 

「……そういえば、もう一人あやかに伝えたい事がある人がいる」  

 

「…………え ? 」  

 

 聞き返しながら部屋の外にでる。すると、ジャンプしながらこちらに向かってくる影が見えた。  

 

「元気出せ」

 

「ぎゃふんっ ! 」    

 

 飛び上がった人影は、そのまま私に飛び蹴りを食らわし、髪についたベルを揺らしながら着地する。  

 倒れこんだ私は、攻撃した人物も心配して来てくれた、などという事に気付く前に怒りが沸き起こった。

 

「こ、このがきーー !!! 今度こそ許しませんわーーー !!! 」

 

「鬼さんこちらーー手のなる方へーーー」  

 

 突如始まった怒りの鬼ごっこに夢中になる私たちを、ななみは笑みを浮かべながら見つめていた。

 

 



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7話

 

 あやかが再び学校に来るようになってから、私たち三人の一緒にいる時間は更に増えた。  

 あやかと明日菜は相変わらずしょっちゅう喧嘩していたが、前よりもお互いを認めている事が目に見えて分かった。  

 転校してきたばかりの明日菜は少し暗く大人しそうに話していたが、次第に明るい性格に変わっていき、今では少しうるさいほどだ。    

 

 

 学生時代の密度は濃い、と世間一般では言われているが、その知識をもって実践しても、月日はあっという間に過ぎていった。教室で騒ぎ、先生に迷惑をかける1,2年生の時期は過ぎ、段々と先生に反抗しだす子が現れる3,4年生の時期も過ぎ、今や小学校の高学年と呼ばれる年代になろうとしていた。    

 

 私は5―bと書かれた札を掲げる見慣れぬ教室のドアを開ける。私の横にはいつも騒がしく喧嘩をする二人の姿はない。二年毎にクラス替えが起こるため、ついに別々のクラスになってしまったのだ。  

 

 あやかと明日菜は3,4年生の時も皆同じクラスだったため、次も一緒だろうと勝手に思っていたのか、クラス発表の紙を見て震えていた。

 

「…………きゃ、却下ですわ!! 七海と別のクラスだなんて認められませんの!! 待っててくださいね七海!! 今すぐお父様に連絡して理事長に抗議を…………! 」

 

「わーー! ちょっとまって! いいんちょ少し落ち着きなさい! 」  

 

 珍しく騒ぎ出すあやかを明日菜が抑えるという形になっていたのを思い出して、私は少し微笑む。  

 クラスが替わったからといって、縁が切れる訳ではない。むしろ、学生の時はたくさんの人と知り合い、友達になるのが重要だとも思えるため、別のクラスになったのはいい機会なのではないかとも思った。  

 

 教室のドアを開けると、生徒たちがまばらにいた。二度目のクラス替えだというのに緊張した表情のものもいれば、顔見知りと同じクラスになって安心したようにニコニコと話す集団もいた。

 

「…………おい。どいてくれ」    

 

 ドアの前で立っていると、後ろから声をかけられた。丸い眼鏡をかけ、茶髪の髪を後ろで縛った少女が私の後ろで不機嫌そうな顔をしていた。

 

「ああ。すまなかった」  

 

 私は道を塞いでいたことを謝罪して、横に移動する。その少女は私の謝罪に対してぶっきらぼうに返事をして、黒板に書かれている自分の席を確認した後、すぐに席についた。 その様子をみて、教室の隅にいた二人の女子がひそひそと話す。

 

「…………ねぇあの子ちょっと感じ悪くない? 」

 

「あー。長谷川 千雨っていったっけ ? 確か昔ワケわからないことで騒いでた子じゃない? 」

 

「え? なんて? 」

 

「なんだったかな。世界樹のことあんなの普通じゃないーとか言って、この街は変なことばっかだーとか」

 

「なにそれ。よくわかんない」

 

「よくわかんないから浮いてたんじゃない? いつも一人でいた気がする」  

 

 本人に聞こえているだろう音量で、女子生徒の二人は話す。だが、肝心の長谷川という生徒はまるで気にしていないかのようだったので、私は無理に触れないことにした。  

 

 しかし、その少女が騒いでたという内容が気になった。麻帆良は、確かに普通ではない。

 進み過ぎた科学、生物のあり得ない多様性、人を越えた身体能力を持つ者たち、挙げていけばキリがなく、それぞれが限度を超えている。  

 初めは前世との違いかと思っていたのだが、麻帆良以外の場所ではこのようなことはないらしい。  

 そして最も不思議なことは、これらがおかしいことは確実なのだが、私はそこまで違和感を感じない、ということだ。  

 非日常のなかに日常が違和感なく混ざり込み、おかしいことをおかしいと思えない時が多い。前世の知識から、こんなこと前世と比べたらあり得ない、とは思うのだが、この世界ならばと頭の中で無理矢理納得させられている。  

 例えば、世界樹がおかしい、と思っていても、少し経つと何をおかしいと思っていたか分からなくなってしまうのだ。これは前世の記憶を持っていることによる副作用なのか? このような非日常は普通のことでおかしいのは前世の記憶か?

 交差する思いを抱えて訳が分からなくなってしまう時もあった。

 

 そして、私の周りにはこの非常識を認識できる人はいなかった。

 両親にも妹にもあやかにも尋ねたが、皆これらの異常を認識出来ていなかった。このことが、やはり私がおかしいだけ、という結論に持っていくのを更に助けた。  

 しかし今、初めてこの異常を異常と言える人物に出会った。    

 話を、聞かなければならない。私の抱える思いと彼女の思いが同じかどうか、確かめなければならない。      

 

 

 

 ◯    

 

 

「長谷川さん。少しいいか? 」  

 

 私が明智 七海に声を掛けられたのは、五年になり、少し過ぎた日の帰り道でだった。大して話したこともないのに私に話す筈がないと思い、スルーしようとしたら、制服の裾を捕まれた。

 

「すまん。少しでいいんだ」

 

 明智は、真剣な目をして頼み込むように言う。  

 私からみて明智 七海という生徒は、えらく大人ぶった完璧人という印象であった。学力においてはどの教科のテストをしても常にトップの点数をとっていた。外見は黒色の長いストレートの髪に小さな顔、少しつり上がった目に控えめな口で若干きつそうなイメージの顔だが、顔つきまでもが周りよりずっと大人びて見えて、学年で唯一可愛いではなく綺麗と言われる顔であった。スタイルは細めの長身で、それがまた黒髪とよく合い、ただランドセルだけが不釣り合いに見えた。  

 性格は、はしゃぐタイプではないが、誰とでも親しく話せるタイプであった。いや、明智が相手を乗らせて話すのが上手なのだろう。むちゃくちゃな口論を交わすやつがいても、明智は冷静に諭してその上相手の機嫌を損なわなかった。運動は他の馬鹿みたいな記録を出す生徒に少し劣っていたが、容姿端麗、成績優秀、性格良しと三拍子そろった明智は、隠れて一部の生徒が憧れ、クラスの中心の人物とも隔てなく仲良くし、教師にまで頼りにされているような、私とは真逆の生徒であった。  

 そんなやつが、今更私に話かけようとした理由が、よくわからなかった。

 

「…………なんだよ。私は早く帰りたいんだが」

 

「ちょっとだけ相談にのってほしいんだ。すぐ済ます」

 

「…………ここで話すのはだめなのか ? 」

 

「できれば落ち着いた所で話したい。悪いが付き合ってくれないか」  

 

 申し訳なさそうに頭を下げる明智を前に、私は溜め息をついてから、わかったわかった、と返事をした。

 

「ありがとう。もう少しいけば私の家がある。そこで話そう」  

 

 明智は私の裾を持ちながら足を進めた。引きずられるように私はついていきながら、明智の言ったことについて考えていた。

 こんなに周りに恵まれている奴が、私に相談事など信じられなかった。  

 自然と友達ができるこいつとは対称的に、昔ぽかをやってしまってせいで、そのまま私は教室で浮いてしまったことがある。ばかだった私は、それでも自分の主張を通そうとした。次第に私はホラ吹きやら言われるようになり、教室で居場所を失った。  

 それからは、なるべく目立たぬようにとひっそりと学生生活を過ごそうとした。中学に入れば、今ほど私の噂をしっている人は少なくなる。今はまだこそこそと悪口をいう人間がたまにいるが、卒業まで我慢すれば煩わしさはなくなる筈だ。これからは、目立たず密かに過ごし、家で自分の趣味に没頭する。私の学生生活はそれで十分だった。  

 そんな風に周りと距離をとっている私に相談をしようなどという奴は、当然明智が初めてであった。  

 

 少し歩いて明智の家につき、私はなすがままに家に上がった。明智の部屋に行く途中で、母親らしき人と、妹らしき人にあった。明智と違い明るさを満面に出しながら挨拶をする妹が印象的であった。  

 私は二人に挨拶を返し、そのまま明智の後ろにつき部屋に入る。明智の部屋には、無駄な置物はほとんどなく、棚と机とベッドが綺麗に置いてあった。棚には小難しい本が並び、勉強机の上には昆虫の図鑑が広げられている。明智はクッションを二枚とりだしフローリングの床にぽんぽんと置き、私に座ってと声をかけた。  

 お言葉に甘えて私は腰をおろし、背中に乗ったランドセルも床に置かしてもらった。

 

「んで? 話ってなんだよ」  

 

 ぶっきらぼうに言う。なんのつもりかは分からないが、私は早く帰りたかった。

 

「…………そうだな。長谷川さんは、この街についてどう思う ? 」

 

「………… ? どういう意味だ? 」

 

「……麻帆良は、普通ではないと思わないか? 」

 

 ……ああ。なるほど。

 この質問をされて、かつてのトラウマが垣間見える。何を言っても誰も信じてもらえず、思ったことを言ってるだけなのに嘘つき呼ばわりされたあの過去を、思い出す。

 

「…………っは。何かと思ったらその話か。そんで? 私からまた馬鹿みたいな話を聞いて、長谷川はやっぱりおかしいよーってクラスで言いふらすのか? 」

 

「違う。そんなつもりではない」

 

「それじゃなんだ? 私の事情を聞いて、クラスで浮いてる人を助ける自分かっこいいとでもしたいつもりか? 大きな御世話だ」

 

 口から出るのは内気で皮肉なことばかりだった。昔のトラウマを気軽に触られて、私は軽くむしゃくしゃしていた。そして、クラスでまともだと思っていた奴にこんな風に聞かれたことも余計に私をイライラさせた。

 

「私も、この街はおかしいことがあると思っている」

 

「…………は ? 」  

 

 だが、明智の次の言葉で、私は驚いた。今まで、私と同意してこの街をおかしいという人はいなかったのだ。

 

「……本当か ? 」  

 

 試すように私は聞き返すと、明智はゆっくりと頷く。

 

「この街、麻帆良には普通ではないことが沢山ある。そして、何よりおかしいのは、それを他の人達がおかしいと認識出来ないことだ。勿論私も含めて」

 

「…………」    

 

 ただただ、驚愕だった。私以外に、ここをおかしいと気付き、さらに周りがそれを認識出来ていないことまで分かっているとは。

 だが…………

 

「どういうことだ ? 明智もおかしいことを認識出来ないんだろ? 矛盾してるじゃねーか」

 

「…………私にもよく分からない。ただ、知識としておかしいと思っているのだが、もう一方でおかしいことなどないと思っている私がいるのだ。だから、それを確認してくれる長谷川さんと話がしたかった」  

 

「…………」  

 

 まだ、明智が本当のことを言っているという確証はない。だが、私は普段溜め込んだことをぶちまける場が欲しかった。笑い者にされてからは親にすらいえず、日々胸のなかに溜まる鬱憤を爆発させたかった。そして、こいつなら、言った所で誰かにばらまくようなことはしないだろうという妙な安心感があった。

 

 

「………どう考えても! おかしいだろ! 街には尋常じゃない速度で走り回るやつもいる! オリンピックでもでろよ! 図書館島とかいう謎の場所まである! 地下の深くは誰も行ったことがない?! 観光地にでもすりゃいいんだ! 」

 

「お、おい…………」  

 

 急に大声を出したので、それを止めるように明智が声をかけるが、私は無視して続ける。

 

「世界樹とかいうばかでかい木ぃ! ギネスだろ! あんなの! そんで一番ムカつくのは! なんでそれに気付けるのが私だけなんだよ!! ざけんな! 」  

 

 はぁ、はぁと胸を上下しながら、私は明智をみた。明智は溜め息をついたあと、私に言う。

 

「…………確かめに行こう」

 

「は? 」

 

「私は他にも気になることがある。それを調べにいくんだ」

 

「…………それで、この非常識の謎が解けるのか ? 」

 

「わからない。だが、不明瞭にしておくのは嫌だろう? 」

 

「…………わかった。私もいく」  

 

 私をこれだけ悩ませた種を少しでも理解できるなら、行くべきだとおもった。

 

「…………ふふ。助かる」  

 

 少し笑いながら、明智は言う。その笑みがあまりに不意討ちで、何故か私が照れてし まった。

 

「い、いっとくけど ! お前も十分おかしいんだからな! 毎回100点とりやがって! 普通なら神童とかいわれてもっと騒がれてるからな! 」

 

 照れを隠すように、矛先を変える。すると明智は、はっと何か気付いた様な表情になり、そして、また笑った。

 

「そうだな。君には分かるか。私も大概普通ではないか」  

 

 くっくっくと堪えきれない笑いを溢す明智を前にしてる私は、何がそんなにおかしいのか理解出来なかった。

 

 






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8話

 

 

「…………なぁ明智」

 

「ん? 」

 

「一応聞いていいか? 」

 

「どうした長谷川さん」

 

「なんだその格好」

 

「虫取スタイル」

 

「いやそれは見れば分かる」    

 

 私の家で長谷川さんと麻帆良について色々話した後、後日私の気になることを一緒に調べようと約束し、休日にこうして待ち合わせした。  

 私の格好は、いつかと同じように長袖長ズボンジャージに虫取網と虫籠、木崩し用のハンマーを入れたリュックサックを背負うという同年代の女子がするような姿ではなかった。

 

「麻帆良の気になる所調べるんじゃなかったのかよ」

 

「もちろんそのつもりだ。そのためにこれらの道具が必要なんだ」

 

「…………まぁ、私はついていくだけだからいいんだけどよ」  

 

 はぁ、と溜め息をついて長谷川さんは呆れた表情を見せる。

 では行こうか、と声をかけ、私が目的地に先導しながら歩き始める。

 

 先日長谷川さんと話をしたおかげで、私も以前よりはっきり麻帆良の違和感を認識することができた。自転車よりずっと速く走る人はやはりおかしいし、それを「おお、あいつ速いなぁ」程度の認識でしか見えない人たちもやはりおかしい。だが、周りがおかしさを認識出来ないということに自分も助けられていると、長谷川さんのおかげで気付くことができた。  

 私はテストで手を抜かなくなって、小学生クラスの問題で間違えたことはない。また、精一杯子供らしく振る舞う演技はしているつもりだが、どう見ても私は周りの子供達より精神年齢が上だ(まぁ事実40歳を超えて上なのだが)。

 そんな私を周りは「おお、あいつ頭いいなぁ」ほどの認識でしか見ていないのだ。  

 

 認識の差異に悩まされる一方で、それに地味に助けられていた事を知り、何とも言えない気持ちにさせられた。    

 

 

 

 

 休日の午後、ということで周りの人だかりはそれなりだ。今更になってこの格好でいることが多少恥ずかしいような気がしてきて、足早に街を抜けようとした。  

 

「今日は虫取っていうならいいけどよ。明智ってもっとこう……すっげえ大人っぽいお洒落な格好するイメージだった」

 

「ううむ。私はあまり姿に気を使うタイプではないんだけどな。髪も短くしたいのだが、母が結構うるさく言ってくるので切れないんだ」

 

 前世で男だったため、男の服装ならまだしも女性の格好など分かるはずがなかった。髪や肌のケアにもまったく気にかけていなかったのだが、そこを疎かにすることだけは許さないと母に叱られたことがある。こうやって女性は幼少期の頃から身だしなみの大切さを教えられてきたのだろうか。

 

「私も明智は髪は長い方がいいと思うぞ。服も大人しいモノクロっぽい感じが似合う気 がする」

 

「…………へぇ」

 

「な、なんだよ」  

 

 私が驚きながら長谷川さんの顔を見ると、少し照れた顔をした。

 

「いやな。長谷川さんはお洒落に詳しいんだなぁと思って」

 

「く、詳しいわけじゃねーよ ! ただちょっと服とかには興味あるだけだ ! 」  

 

 なぜか必死になって言い訳する長谷川さんを見て私は笑う。

 

 なんだ、私よりよっぽど女子っぽいじゃないか。

 

「てか、今更だがどこに向かってたんだ? 虫取りっていってるが私はこんな格好だから森の中とか行きたくねーぞ? 」

 

「ああ、その辺は大丈夫だ。そんなに自然溢れる様な所じゃない。場所はまぁ………… 着けばわかるさ」  

 

 長谷川さんはTシャツにパーカーを羽織りジーパンというラフな格好だったが、細かい装飾が為されていてとても似合っていた。  

 

 その後も二人で街中を歩きながら、他愛ない話をする。

 長谷川さんは同年代の子供達の中でもずば抜けて垢抜けていて、話がしやすかった。周りから一歩引き達観して物事を見据えることができる彼女は、想像よりも気遣いができる優しい子だった。長谷川さんも私と気が合うと思ってくれたのか、教室では見せない様な顔で私と話してくれるのが、純粋に嬉しかった。

 

 

 ちょっとした小道を越え、目的地に到着する。そこに近付くにつれて、長谷川さんはどこに行こうとしているか察していたようだった。

 

「…………それで? この馬鹿でかい木をどーするんだ? 」  

 

 私は世界樹を前にして、背負っていたリュックサックからハンマーを取り出し、ニヤリと笑って答える。

 

「崩して調べる」

 

「崩すって…………この木を? 」  

 

 世界樹のてっぺんを見上げようと、長谷川さんは頭を傾けるが、それでも世界樹の根元からてっぺんは見れなかった。

 

「この木本体は無理だ。だからまずは折れた枝でも探そう」

 

「探すのはいいけどよ、まず説明してくれよ。なんで明智はここにきて、なんでこの木を調べようとしてんだ。ついでのその格好の必要性も」  

 

「そうだな。ではまず結論からいこうか」  

 

 私は話は長くなるから座ろうと長谷川さんに提案し、用意していたシートを地面にひいて腰を下ろして、手に持ったハンマーを地面に置いてから話を始めた。

 

「この街の異常さの原因は、この木なのではないか」

 

「…………そう思った理由は? 」

 

「私が一番始めに気付いたこの街の違和感は、生物多様性の異常さだ」

 

「生物多様性? 」

 

「生物多様性っていうのは簡単に言えばそこにいろんな種が生息してるってことだ」

 

 厳密に言えば用語としてもっとしっかりとした定義があるのだが、今は難しく言う必要がないため、軽く説明する。

 

「私は昆虫観察が趣味でな。しょっちゅう森や林に行くんだが、麻帆良にはこの環境では普通見られないような昆虫が大量にいる」

 

「……昆虫採集…。まぁいいや。それで? 」

 

「珍しい種がいる方にいる方にと移動していくと、どこの森や林でもこの木に向かって 多様性が増していく。加えて、突然変異種などまで出てくるようになった」  

 

 逆にこの木から遠ざかると種の豊富さは少なくなっていき、麻帆良を抜ける辺りで普通に見られる種しか発見出来なかった。

 

「…………ううん。そういう方面から話が進むと思ってなかったからあまり理解出来ないんだが」

 

「これも結局推測で仮説のひとつさ。無理せず話し半分に聞いてくれればいい」

 

 そう言っても、長谷川さんは腕を組んで複雑な表情を見せながら私の話を聞いてくれた。

 

「つまりだな。昆虫たちが生息不可能な環境で生きていけるのも、もしかしたらこの木が何か生き物たちに影響を与えているのではと思ったのだ」

 

 相変わらず話が見えないのか、長谷川さんはううんと唸る。

 

「昆虫と木が結び付くのは分からないことでもないけどよ、それって私たち人間にも影響するようなもんなのか ? 」

 

「木一本が与える影響ってのは意外と凄いんだ。ましてや、これほど大きな木ならばな。 昆虫たちには棲みかにもなり、餌にもなる。そしてほぼ全ての生物に必要な酸素を作り出す」

 

「つまり、運動能力むちゃくちゃなやつとか、凄い機械作るような頭いいやつは、この木が作り出した酸素が影響したってことか? 」

 

「可能性は否定できないな」  

 

 酸素が影響、というよりもこの異常な木が何か酸素以外のものまで産出してそれが作用している、と私は考えるが、それを裏付ける証拠がないしあまりに荒唐無稽なので今は黙っておく。

 

「…………何%その仮説が正しいと思ってる? 」

 

「10%」

 

「駄目じゃねーか」  

 

 がくっと頭を下げて長谷川さんが突っ込む。意外といいリアクションしてくれる。

 

「この仮説の全てが正しいだろうなんて思っていない。昆虫にだけ影響してるのかもしれないし、何にも関係ないという可能性もある。だが、仮説の1つを潰す証拠というのは後から重要になったりするもんだ」

 

「…………ひとつ気になったんだけどよ」

 

 長谷川さんが上から落ちてきた葉を払いながら私に問う。

 

「それじゃあ、異常を認識出来ない。っていうのもこの木が出す酸素を吸ったせいなのか? それで私にだけそれが上手く作用しなかったっつう」

 

「それはこの木のせいではない」  

 

 断言するように言った私を見て、長谷川さんは少し驚く。

 

「そこは自信満々で言うんだな」

 

「そうだな。実はこの前長谷川さんが帰った後、色々調べて、麻帆良から離れている大学の生物教授にメールしたんだ」  

 

 大学の教授の連絡先なんかは、その大学を調べればすぐに分かる。家には父が仕事で使うパソコンしかないため、学校のコンピューター室を許可をとって使った。普段優等生に見える私は、許可をとるのに手間取らなかった。

 

「その人に麻帆良に来たことないことを確認してから聞いた。『麻帆良に信じられないほどの大きな木があります。この木のことを知っていますか』と」 

 

「…………返事は? 」

 

「『その木はどこかの展望台からはっきり見たことがあります。だけどおかしな木ではありません』」

 

「どこかの展望台からはっきり見えるようなサイズの木がおかしくないって? 何言ってるんだ」

 

 

「その次に世界樹の写真を付けて送ったら、『合成写真はやめなさい』と言われた」

 

 長谷川さんは何かに気付いたようにはっと顔をあげた。やはり、この子は賢い。

 

「電子データじゃ、そのサイズの木がおかしいことは分かるのか」

 

「その通り。自分の目でこの木を見ても違和感に気付かないが、写真だとおかしいと気付いた。しかも、昆虫の多様性が異常な境目は、ほぼ麻帆良の地理と一致するのに、外側から見たらこの木の異常さには気付けない」

 

 つまり、世界樹が産出する何かに影響しないだろう位置でも、違和感に気付けない。これは私の仮説が正しければの話だが。

 

「てことは…………また別の要因があるってことか? 」

 

「そうだ。それも自然発生的なことが原因かもしれないし、もしくは…………人為発生が原因の可能性もあり得る」

 

「人為…………発生!? 誰かが意図的にやってるってことか!? 」  

 

 長谷川さんがばっと立ち上がり声を荒げる。その声により、近くを歩いていた青年がこちらに視線を送ったのを感じた。私は指を口元にやり、声を潜めるようにジェスチャーすると、彼女は再び座る。

 

「誰かが麻帆良の異常さを秘密裏にしようと考えると、辻褄があうと思えることがある」

 

「……………………」

 

 彼女の顔が、歪む。過去のトラウマ染みた事件が、誰かが意図的に行ったせいで生じたものならば、怒りを表すのは当然だろう。

 

「…………ふぅー! とりあえず、認識云々の話は今は置いておこう。人為発生だとしたら誰が何のためにやっているかもじっくり話したいが! 今日はそれを話すことが目的じゃないしな」  

 

 それでも、彼女は自らの気持ちを必死に抑えながら、そう言った。齢10を越えたばかりの子が、自分の想いよりも他のことを優先にする事が簡単な筈がない。

 

「それで? 明智はなんで木を崩そうとしたんだ? 」  

 

 踏ん切りを付けて、彼女は私に聞く。  

 この街には、不思議なことが沢山あるが、本当にいい子達が多い。私はひっそりと笑いながら、心のなかで彼女を称賛した。

 

「そうだな。今回ここに来た目的は、実際に世界樹に棲む昆虫がどうなっているかを確かめることだ」

 

「ああ………。それで木を崩すね」  

 

 合点が言ったように、ぽんと手を合わせる。本当は世界樹の成分なんかを調べらればいいのだが、機械を使わなければすぐには分からないし、昆虫を指標にした方が性にあっていた。

 

「しかし、一応神木とか言われてるのにいいのか? 」

 

「他の人の認識じゃ、大きさと名前が大層だというくらいだろう。宗教的なことは絡んでいないようだし。それに、落ちて枯れた枝を崩すだけだからな」  

 

 おもむろに立ち上がって、そろそろやろうか、と合図をする。長谷川さんも了承し腰を上げ、二人でブルーシートを片付ける。

 

「それじゃあとりあえず周辺で落ちてる枯れ木を探すか」

 

「出来ればそれなりに太くて湿ったような木がベストだ」

 

「…………あーいうやつか? 」

 

「…………そうそう。あーいうのがベストだ」  

 

 付近に落ちていたそれなりに太くて湿ったような木を指差す。

 

「…………すぐ見つかったな」 

 

「…………これだけ木が大きければ枝も落ちるか」  

 

 二人で枝に近づきながら、私は再びハンマーを取り出す。私は膝をついてハンマーの先が尖っている面を下にして振り上げた後、静止して長谷川さんの方を振り替える。

 

「ちなみに、長谷川さんは昆虫は大丈夫か ? 」

 

「あんま気持ち悪いのでなければ」

 

「最も人類から忌み嫌われるあいつが出る可能性もあるが」

 

「おーけい。後ろに下がってるわ」  

 

 家で出ると真っ先に子孫もろとも殺害対象になるゴキブリの中にも、木の中に棲む無害なやつらがいる。家屋に出現し人々に不快感を撒き散らす奴らのせいで、木しか食べないこいつらまで嫌われるのは、ゴキブリという種の運命なのだろうか。…………意外と可愛いのに、などと言ったら多くの人に引かれるのは分かっているので黙っておこう。

 

 振り上げた腕をそのまま降り下ろし、木に穴を空ける。手首を返してテコの要領で木の表面を剥がす。  

 

「…………ビンゴだ」    

 

 

 木の中には、立派な顎をもち、真っ黒な色をした大量の白蟻が、うじゃうじゃとしていた。



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9話

 

 

 私はリュックからピンセットを取りだし、枯れ木の中にいる白蟻を一匹摘まみ上げて観察した。その白蟻の生態は、枯れた木に住みその木を餌として巣を作る、前世でもよく見た一般的な食材性の白蟻と同じように見える。   

 

 しかし外見は、私が見慣れたものではなかった。  

 真っ黒な白蟻は、頭部にはハサミのような顎をもち、背中には翅まで生えている。

 

「うわっ ! なんだそりゃ。…………蟻? 」  

 

 いつの間に私の後ろに来ていた長谷川さんが、私が持つものを見て言う。

 

「これは白蟻だな」

 

「…………黒いぞ? 」

 

「そうだな」

 

「…………おかしいよな? 」

 

「おかしいな」  

 

 色以前に、白蟻と黒蟻では形態的にも系統的にも大きく異なっているが、名前のせいでそのような認識はしにくいのだろう。黒い状態の白蟻は、むしろゴキブリの仔虫に近い。

 私が手に持っていたピンセットを長谷川さんに渡す。それを受け取り、長谷川さんも下から上からと角度を変え、観察する。

 

「なんか…………拍子抜けだ。もっと無茶苦茶なやつがいると思ったのに、黒くなって翅があるだけかよ」  

 

 私にピンセットを返し、がっかりした表情を見せて言う。  

 長谷川さんがそのように思うのは、ある意味当然だろう。白蟻についてよく知っていないと、この現象の異常さが分からない。

 

「実はだな、さっきはああ言ったが、白蟻が黒いことは特段不思議なことでもない。実際に多くの白蟻はある条件で体を黒くする」

 

 白蟻も、蟻と同じように働き蟻や兵隊蟻などの役割を分担される。そのなかでも、子孫を残す役割を持つものは黒くなり翅をもつ。  

 そのことを長谷川さんに説明すると、ますます落ち込んだような表情をみせた。 

 

「じゃあもっと拍子抜けじゃねーか。別に特別でもないってことだろ? 」

 

「いいや。こいつらは十分特別だ」

 

「…………」  

 

 長谷川さんは、説明しろ、とでも言いたげな表情でこちらをじっと睨みつける。

 

「…………ふむ。そうだな、少しマニアックな話になるかもしれないがいいか? 」

 

「ここまで来たら聞くしかないだろ。理解出来るかは分からねーけど」  

 

 長谷川さんは、分かりやすく頼むぞ、と続けてこちらを見る。私は一息ついてから、説明を始めた。

 

「先程言ったように、白蟻には基本的に3つの形態がある。働き蟻と、兵隊蟻と、生殖蟻だ。兵隊蟻は戦うために大きな顎をもち、生殖蟻は交尾相手を見つけるため巣から飛び立つ形態を持つなど、それぞれ異なる姿をしているんだ」 

 

 私が話しているのは一般的な白蟻の話で、正確にはそうでないものもいるのだが、今する話ではない。

 長谷川さんは、うんうんと頷きながら話を聞いてくれている。

 

「しかしだな、これらの形態は生まれながら持っているものではないんだ。どの白蟻も皆初めはしばらく同じ姿をしている」

 

「…………つまり、成長するにつれて別々の姿になっていくってことか? 」

 

「そうだ。巣内の状況や環境に合わせて、彼らは姿を変えていく。ここで重要なのは、生まれたばかりの白蟻はどれも違いがなく、どの形態になる可能性も持っているということだ」  

 長谷川さんが、少し考えるように頭に手を添える。

 

「えーっと、つまり、例えばあるイモムシはどれも同じ蛹になるけど、そっから蝶になったり蛾になったりする可能性がある。みたいなイメージでいいか? 」

 

「正確には結構違うが…………まぁ、今はそれでもいいか」  

 

 とりあえず分かってほしいことは、通常ならば、幼虫の段階ではまだ何にでも成れる可能性を持ち、最終的にどれか一つになるということだ。

 

「では、世界樹の枝に住んでいた白蟻をもう一度みてくれ。……どんな姿をしている?」

 

 長谷川さんが、屈み込んで崩した木のなかを見つめる。

 

「全部の白蟻が、強そうな顎と黒い体と翅をもってる。ってことは、こいつらはその、兵隊蟻とか生殖蟻とかの特徴全部持ってるってことか? 」

 

「その通り」  

 

 私は指を立て、続けて結論を述べる。

 

「つまりだな、白蟻は潜在的に全ての形態になる能力を持っているが、普通はその中からひとつの形態しか発現出来ない。しかし世界樹に住み、食すものは、それらの潜在的能力を全て引き出され、一斉に発現している」  

 

 なるべく簡単に説明したかったのだが、長谷川さんの理解力に甘え、結局難しい言葉を使ってしまった。長谷川さんは、それらを理解しようと必死に頭を動かしているようだ。

 

「…………要するに、世界樹の影響受けたら、潜在的能力をすっげえ引き出されるってことで…………あってるか? 」  

 

 ざっくりとまとめられた意見だが、私はゆっくりと頷いて肯定する。しかし、しっかりとしたデータを集めなければまだ仮説止まりだ。  

 世界樹が潜在的能力を増加させるなどの摩訶不思議な物質を伝承するとしたら、それを持った白蟻もまた他の生態系に影響を与えるのだろうか。白蟻を捕食する生き物は当然のこと、土となった白蟻が雨に流され、その雨水が作物の給水に役立ったら、作物までもが影響を受けるのか。その場合は、それを食す我々も勿論…………

 

 二人でしばらく思考に耽っていると、風が吹き、私たちの髪を揺らした。何気なしに周りをみると、カップルらしい男女が世界樹に近付いてくるのが見える。そこまで自然に入り込んだ場所でないここに、休日の昼過ぎである今、人が来るのは何も不思議なことではない。  

 だが、ハンマーを持って木を崩し、白蟻を取り出している小学生二人は、周りからみれば不審に思われるだろう。  

 私はハンマーとピンセットをリュックの中にしまい、長谷川さんに移動しよう、と声をかけた。長谷川さんも人が来たことに気付き、頷くと、私たち二人は来た道を戻るようにして世界樹から離れながら、会話を続けた。

 

「さて…………今後長谷川さんはどうする? 」

 

「…………どうする? ってのはどういう意味だ? 」

 

「私はもうしばらく近隣の森などの様子を探りながら、世界樹について調べようと思う」  

 

 と言っても、今は実験をするための道具などを用意することは出来ないため、本腰を入れて研究を始めるのは中学か高校に入ってからだろう。それまでは、事前研究としてもう少し麻帆良全体の生態系でも見てみようと思っている。

 

「私は…………そうだな。何か分かったら教えてくれれば十分だ」  

 

 私はその発言を少し意外に感じた。私は、長谷川さんも私と同じように気になることは最後まで調べるタイプだと、勝手に思っていたのだ。そんな私の想いを察したのか、長谷川さんは少し照れながら続けた。

 

「正直な。今回で私の欲しい情報はほぼ揃ったんだ。明智のおかげで、私がおかしい訳じゃないっていう証拠が得られたし、その原因の予想もできた。これからは異常を見ても、ああこれも世界樹のせいかもな、って思える」  

 

 長谷川さんは、雲を見上げながら、ゆっくりと言う。まばらにある雲の流れは遅く、まるで二人の歩調に合わせているかのようだ。

 

「それだけでな、私は今よりかなり楽になれると思う。だからもう、十分なんだ」

 

 長谷川さんは、私の方に顔を向けて、にこりと笑った。    

 

 異常を見ても見えない振りをし、その原因も何も分からない。誰にも相談することもできず、胸に抱えて生きるのは、息苦しく感じていたのだろう。長谷川さんにとってそれらの細かい機構や仕組みなんかよりも、その要因や自分を肯定してくれる人さえいれば、それだけで今までとは景色が変わる。    

 

 初めてみたその笑顔が妙に眩しく感じ、私も微笑みながら言葉を返す。

 

「……そうか。長谷川さんがそう思えたなら、よかった」

 

「……ああ。明智」

 

「ん? 」

 

「………その…ありがとよ」  

 

 長谷川さんが、此方から顔を背けてから言う。顔を見てお礼を言うことが照れ臭いのだろうか。私はもう一度笑いながら、どういたしまして、と言った。  

 

 

 ○  

 

 

「そういえば、異常を異常と思えない現象についてはどうやって調べるんだ?」

 

 世界樹から離れ、二人で少し賑わっている街を歩いていると、長谷川さんは私に尋ねるように聞いた。欲しい情報は十分と言っても、気になることはあるのだろう。特に自身のトラウマたるその内容については。

 

「それについては、ちょっと分からないな。どのような現象が起こっていてそのようになるのか、想像ができない」  

 

 異常を認識出来なくさせる、というのは脳に何らかの障害を起こさせているのだろうか。しかし、麻帆良に住む人全員どころか、外の人にも世界樹を普通と認識させるなど、どうやっているのか検討もつかなかった。

 

「……ちなみに、人為的か自然的か、明智はどっちだと思っている?」

 

「……恐らく、前者だろうな」  

 

 やっぱりか、と頭をがくっと下げて長谷川さんが嘆く。

 自然現象だとしたら、このようにピンポイントに情報を隠そうとしている節が多くならないだろう。  

 私は、ふと興味本位で思い付いたことを、長谷川さんに聞いてみた。

 

「……もし人為的だとして、長谷川さんは、その犯人を見つけたらどうする?」

 

 長谷川さんは少し考える素振りをしてから答えた。

 

「……そいつが何のために皆の認識を変えているかによるけど、一言文句言いたいくらいだな。お前のせいで暗い学生生活を過ごしたぞってな」

 

 自虐を入れながら、冗談混じりに長谷川さんは言った。  

 やはり、長谷川さんは、強い子だ。  

 異常の原因が、世界樹という自然現象によるものかもしれないと思うことにより、それを隠そうとする事に対しての嫌悪は薄れたようだ。私は再度長谷川さんの強さに感心していると、彼女は心配するような顔をして私に聞いた。  

 

「……というか、明智は気を付けたほうがいいんじゃないか? 誰かが隠してるってことは、あんまり調べてると、なんか悪の組織的なやつに消されたりとか…………」  

 

 久々に見せた子供らしい発想に微笑ましくなったが、笑い事じゃなくなる可能性もあるのは確かだ。人の認識を誤認させる何かを持つ人がいるのだとしたら、何が起こってもおかしくはない。

 

「そうだな。気をつけながら、ほどほどにするさ」    

 

 その後、二人で様々な話をしてから、ちょうど日が暮れ始めるという時間に私たちはそれぞれの家に到着した。    

 

 

 

 次の日の学校では、廊下ですれ違った私に長谷川さんは、挨拶をしてくれた。

 前よりも少し明るくなったような気がするが、別にクラス皆と打ち解けようと思っている訳ではないらしく、クラスメイトへの長谷川さんの態度は今までとあまり変わらなかった。しかし、私が話しかけると顔を上げて堂々と話してくれるので、それだけで私は嬉しかった。    

 

 私はというと、あの世界樹探索を終えた後日、世界樹に関する資料や情報を集めようとしたが、まともな情報はほとんど得られなかった。図書館島と呼ばれる大量の本が置いてある場所があるそうだが、何故か罠が仕掛けられているらしく、小学生には勿論大人でも危険であり、奥まで入ることはできなかった。  

 

 それらのことを考慮しても、やはり何者かが麻帆良の情報を意図的に隠していることは、確実に思えてきた。確かに、世界樹が私の仮説通りの効力を持つのなら、しっかりと研究してから世に出すべきなのだろう。もしくは、悪用されないために情報を隔離するということにも納得はできる。  

 

 そのため、薮蛇をつつこうとする私の行動は間違っているのかもしれない。しかし、前世を研究者として生きた私は、この問題を放置しておくことが出来なかった。別に誰かに公表したいわけでも、世の役に立ちたい訳でもない。ただ、私という存在が、新たな知見を得ることを諦めきれないのだ。

 どんな小さな事象でも、それを突き止めて行けば大きな何かに繋がることがある。たったひとつの塩基配列の変化から、重大な何かに気付けることもある。新たな発見とは、それだけであらゆる見方を覆す材料となり得るのだ。  

 

 そして私は、それを発見し、自らの世界を広げる愉しさを知ってしまっている。  

 こんな研究材料を前にして、じっとしていられないのだ。  

 何年かかる研究になるかは分からないが、私はしばらく世界樹とその影響について調べていくことを、胸の中でひっそりと誓った。  

 

 

 

 

 ○  

 

 

 それから私は休日には何度も森に昆虫を採集しにいった。  

 夏休みにはあやかと明日菜と共に、雪広家の別荘に遊びに行ったりもした。秋の運動会では、ういが運動会で他の生徒をごぼう抜きして一位になり、冬には家族でクリスマスパーティーをした。  

 

 季節はぐるぐると廻り進み、私の心にすこしずつ思い出が刻まれる。  

 大人の視点で見る子供の世界はずっと奥深く、成長していく周りの子供たちは、私の気持ちをひっそりと昂らせる。    

 

 

 そうして同じように季節がもう一周し、いつの間にか私たちの体にランドセルが不似合いになったころ、ついに私たちは、中学校に入学する年になった。

 

 





少しだけ補足を。

シロアリの生態について
シロアリは作中に書かれている通りいくつかの形態に分かれます。巣作り、給仕などを行う働きアリ(ワーカー)と、敵と闘争するために牙や角を生やした兵隊アリ(ソルジャー)、巣を旅立ち仔を産むため羽根をもつ生殖アリ(ニンフ)がいます。それぞれに分化するのは歩い程度成長した後であり、どれになるかは遺伝要因ではなく様々な環境要因で決まるといわれています。つまり生まれたシロアリはどの系統にもなる可能性があるということです。
そして本作で登場したシロアリは、すべての形態を持ち合わせたものであり、それによって七海は異変に気が付いたということです。

ポケモンで例えると、バルキーは成長の仕方でサワムラ―、カポエラー、エビワラーのいずれかになるはずなのに、全部混合した個体が存在していた、ということです。


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10話

 

 仕掛けた目覚まし時計が鳴り出す前に、私の目は覚めた。時計の時間を確認し、アラームが鳴らないようにしてから、私は体を起こす。目を擦りながらゆっくりとベッドから降り、窓に掛かっているカーテンを開けた。    

 

 外には、桃色の花を咲かせている桜の木が見えた。    

 小鳥の囀ずりが聞こえ、穏やかに風が吹く。庭に埋まっている桜の木の花びらが、ゆらゆらと落ち空を舞う。  

 

 この世界にて何度目かの桜の開花を見ながら、再び春が来たことを確認した。

 

「ななみー、ういー、今日から新学期でしょ! 起きなさーい! 」  

 

 母が一階から私たちを起こすために大声を出す。私は部屋を出て、そのまま向かいにあるういの部屋に入る。  

 思った通り、掛け布団をベッドから落としながら凄まじい寝相でぐっすりと眠るういを見て、私はひとつため息を吐いた。

 

「うい。起きなさい、朝だ」  

 

 頬をぺちぺちと叩きながら私はういを起こす。ういはゆっくりと目を開け、私を見てから再び目を瞑った。

 

「……あと5分だけ……」  

 

 それだけ述べて、ういはまた睡眠に入る。一瞬で眠りにつけるその才能は素晴らしいが、5分後に起こしても再び同じことを繰り返すことは分かっているため、私はういの耳元で囁く。

 

「…………今日の朝ごはんはハンバーグで、大きいものは早い者勝ちだ」  

 

 そこからのういの行動は速かった。パッと目を開いて即座にベッドの上で立ち上がる。跳ねるようにしてベッドから飛び降りると、私に目もくれず勢いよく部屋を飛び出していく。階段を慌ただしく降りながら、「ハンバーグー! 」と叫ぶ声が聞こえた。  

 私は小学生らしいういの行動を微笑ましく思いながら布団を綺麗に整頓した後、部屋を出て一階へ向かう。途中で母が騒ぐういを叱る声を聞き、私は何だか可笑しくて、口角か緩んだ。  

 

 

 

 ◯

 

 

「もーーー! ななねぇひどい! 朝から騙すなんて! 」

 

 頬っぺたに朝御飯を詰め込みながらういが言う。母に怒られたからか、若干機嫌が悪そうであったが、寝癖で跳ねまくるその髪の毛のせいで愛嬌しか感じなかった。

 

「ういが起きないのが悪いでしょ。それに七海は今日から寮に泊まるから、もう起こしてくれないのよ? 」  

 

 母が漬け物に箸を伸ばしながら言う。その言葉を聞いて、ういは急に表情を変えて机に乗り出した。

 

「えええ! ほんとにもういなくなっちゃうの! じゃあ私は毎朝どうやって起きるの?! 」  

 

 行儀が悪いわよ、と母は睨んでういに伝える。

 私は自分を完全に目覚まし代わりにしているういに少し呆れ、心配になる。それに、前々から何度も伝えていたのに何故冗談だと思ってしまったのだろうか。    

 

 私が今日から通うことになっている麻帆良学園女子中等部は全寮制であるため、何か理由がない限り全ての生徒に寮での生活が義務づけられている。そこまで強制力のある決まりではないのだが、中学校から全寮制を採用する学校は珍しく感じた。しかし私が研究などに身を没頭させることを考えると十分メリットがあるように思える。  

 

 生活用品などはすでに部屋に送り届けてあり、今日から寮に泊まる準備は出来ている。基本的に部屋は二人から三人で同室らしいが、私はダメ元で個室にしてもらえないかと要望を出した。すると、小学校の教師達が中等部の教師達に必死にお願いし、無理矢理その要望を通らせたらしい。それを聞いて私は、決まりを破ってまで無理にお願いしたかったわけではなかったため、若干気が引けてしまった。私が自分だけ我が儘を言ってしまったことに負い目を感じて、遠慮しようとしたのだが小学校の教師達は私の言うことを聞いてくれなかった。

 

「七海ちゃんがいたから、私のクラスはとってもまとまりがよかったわ。聞かん坊が多くて授業がまともに出来ないような時も、貴女がひっそりと教師達のフォローをしてくれていたのを、皆分かっているつもりよ。貴女は決して目立とうとはしなかったし、それを自慢気にもしなかったことを知っているからこそ、最後くらい貴方にご褒美があげたかったの」  

 

 卒業式の少し前、職員室に訪れて寮の件を断ろうとした時、私の担任の先生が言う。彼女は、一年生の時からずっと私の担任で、私のことを初めから最後までちゃんづけで呼んでいた。周りを見ると、私のクラスに何度か授業を教えに来ていた他の先生達も、そろって頷いていた。  

 初等部の先生達が、中等部の先生達にどれだけ意見が通せるかは想像できないが、簡単なことではなかったであろう。特に学校行事とは関係のない寮についてとなると尚更だ。

 

「私にはよく分からないけど、貴女が何かしたいと言うなら当然協力するわ」  

 

 微笑みながら、続けた先生に対して、私はゆっくりと頭を下げて御世話になった御礼を告げた。

 

 

 かくして、恵まれた先生達のおかげで私は寮の一人部屋を手に入れることができた。

 私が珍しく先生に頼んでまで、個室を望んだ理由は大きく分けて2つある。

 

 1つは、私が今後研究に没頭することを考えると、同室の人に迷惑をかけるということだ。恐らく今後は、夜遅くまで部屋に多少の灯りをつけ研究したり、研究施設に残ったりするだろう。そうすると、同居人は当然灯りを嫌がるだろうし、研究施設に長くいると洗濯や料理など部屋での役割もまともにこなせない可能性がある。  

 

 もう1つは、私が年頃の女子中学生と同居するのはどうなのか、という話だ。私が女としてこの世界に生まれて12年と少し。勿論男としての記憶がなくなっている訳ではない。同室に暮らすとなればその人の下着姿くらい目にする時があるかもしれない。 前世では、妻とそういう経験をしているため、今更女子中学生に欲情することはないのだが、だからと言って見ていいというものではないだろう。見たところで何も思うことはないが、例え相手が中学生であろうと、前世で男だったプライドからなるべくそのような場面には目を向けるべきではないと思っている。無駄に紳士気取りで自意識過剰な自己満足の思考かもしれないが、それでも、男であった前世をなかったことにして過ごそうとは思っていないのだ。

 

 …………まぁ、そんなことを思うならそもそも女子校に行くな。などと言われそうだが、そこは母の母校だと言うことで私に拒否権などなかった。  

 

 

 

「七海、うい、忘れ物はない?」

 

 朝御飯を食べ終え、学校にいく身仕度をした私たちに、母はいつもと同じように尋ねる。いつもと違うのは、私が中等部の制服に袖を通しているという点だ。

 私達は二人で、大丈夫、と同時に頷く。すると、母は私に少し近より私の頭を軽く撫でる。

 

「いい? 七海。休日はなるべく家に顔を出すのよ。それと、いつも言っているけれど、周りの人に頼ってもいいんだからね。人が1人で生きていけないのは、貴女なら分かっているでしょう?」

 

 優しく、私の髪を指でときながら言う。

 

 

「……分かってる。なるべく帰ってくるようにする」  

 

 私も、母の目を見ながら言う。私を産んだ頃と比べ、母の顔には少し皺が増えたが、それでも未だに美人と言われる顔であった。

 

「…………よし! それじゃ、気を付けていってらいっしゃい!」

 

 母は私とういの背中を軽く叩き、玄関に追いやる。私たちは同時に、行ってきますと元気よく母に言い、外にでた。    

 

 

 

 

「ななねぇ、お母さん元気そうにしてたけど、結構ななねぇのこと心配してると思うよ?」

 

 二人でいつも通る道を歩きながら、ういは私に言う。途中で中等部に向かう道に入るまでは、しばらくういと一緒だ。

 

「私も気付いているさ。心配かけないように、連絡は頻繁にする。というか私はういの事のほうが心配だ」  

 

 黒髪のツインテールを跳ねさせて、ういはばっとこちらを振りかえる。

 

「私は意外と大丈夫だよ! きっと! ななねぇとずっと会えないわけじゃないんでしょ? ちょっとの間くらいなんとかやってけるさ!」

 

 にっこりと能天気に笑いながらういは言う。昔はさみしがりやだと思っていたのに、どうやらいつの間にか随分と図太い性格になっていたらしい。

 

「勿論私もななねぇのこと心配してるよ?ななねぇ放っておいたら全然オシャレとかしないし、肌のケアもしないじゃん。料理も上手な訳じゃないし」

 

「……そこまでいうか? 」  

 

 まさか、朝も起きれないういにここまで言われるとは思いもしなかった。  

 きっと、家でずっと私を見ていたういだからこそ言える言葉であろう。オシャレや肌のケアはともかく、恥ずかしい話だが、料理は前世では外食するか妻に作ってもらうのどちらかしかなかったため、過程がほとんど分からなかった。小学校に入ってから私とういで母の料理の手伝いをしていたのだが、いつの間にかういの方があっという間に上達し、私は食後の皿洗いを手伝う役目となっていた。  

 

「頭もいいし、周りに気も使えるけど、自分にも気を使わないと! ななねぇすっごい美人なんだから!」

 

「……分かった。気を付けるよ」  

 

 どうやら、妹にも本当に心配されていたらしく、私はしぶしぶ頷いた。  

 

「変な男にひっかかったらだめだよ?」

 

「……ませたことを言うようになったな、うい」

 

「えへへ」

 

 褒めてはいないのに、ういは何故か嬉しそうに笑った。

 

 その後も、会話を続けながら少し歩くと、私とういが離れる道となった。ういは、私に「じゃ! またね!」と軽く言って、小学校へと向かっていってしまう。

 私としばらく離れることに特に悲しさなど感じていないその様子に、成長を感じて嬉しいような、寂しいような複雑な気持ちになった。  

 

 ういと別れた後、少し歩いて街を走る市電に乗った。電車にしばらく体を揺らされながら、私は景色を眺める。中等部に近付いていくにつれて電車の中の騒がしさを増していき、目的の駅に着いたときには洪水のように人が流れていった。  

 私はその流れにゆっくりと身を任せながら、中等部に向かっていく。慣れない道を、他の生徒達に紛れながら歩く。時々自転車を追い越すような速さで走る人が、私の横を抜けていく。中等部に近付くと、在校生がチラシやパンフレットを配り、大きな声で私達に話しかけ、同好会や部活の勧誘してくる。私はそれを静かに断りながら、校舎の中にたどり着き、靴を履き替え、規定の下駄箱に履いていた靴を入れる。あらかじめどのクラスになるかは知らされていたため、校舎内の地図で場所の見当を付けてから、自分の教室へ向かった。

 

「七海!」

 

 私が目的の教室の前に着いたとき、後ろから不意に私を呼ぶ声がした。振り向くと、明日菜が廊下を小走りしながらこちらに向かってくる。

 

「もしかして、七海もこのクラス? 」

 

「ああ、1―Aだ」

 

「よかったー! まだ知り合いに会ってなかったから不安だったのよね! 」

 

 はしゃぐ明日菜と一緒に、教室に入る。中を見渡すと、当然だが見知らぬ顔が多くいた。そんな中、あやかが私達の姿を見つけるとすぐに近付いてきた。

 

「――七海! よかったですわー! 同じクラスになれて! 中等部はクラス替えもないみたいですし! 3年間一緒ですわね!」

 

「ああ。3年間、よろしくお願いするよ」

 

「ねぇ、私もいるんだけど」  

 

 明日菜に目もくれず、私の手をとって飛び上がるあやかに向かって、明日菜は不貞腐れたように言う。

 

「…………あら明日菜さん。いらっしゃったのですね。はやく自分のクラスに戻った方がいいですわよ?」

 

「だから! 私も同じクラスだって言ってるでしょ! このエセお嬢様!」

 

「――っな! どこがエセなんですの! 新しいクラスメイトもいる中で失礼なこと言わないでほしいですわ!」

 

「最初にあんたが私を馬鹿にしたでしょうが!」

 

 いつもと変わらずやいのやいのと騒ぐ二人を放置して、私は周りの生徒に目をやった。  

 

 

 ……なんというか、個性の強い人が多いな。

 

 私が一番初めに抱いた感想は、その一言であった。  

 教室の後ろの席でだるそうに座っている長谷川さんは置いといて、小学生にしか見えない人もいれば、逆の意味で中学生には見えない人もいる。また、留学生と思われる生徒も何人かいた。  

 そんな風に教室全体を見ていると、私の目にある人物が映った。  

 

 いつか、見覚えのあるその姿を見て私の心臓は跳ねる。  

 

 なぜ、ここに、あの時と変わらぬ姿の彼女がいるのか。  

 

 私は彼女の存在に気付くと、目が合う前に咄嗟に目を逸らした。  

 

 目を逸らす前の視線の先には、約7年前、森の奥のログハウスで会ったときと変わらない姿をした金髪の幼女が、機嫌の悪そうな顔で座っていた。

 



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11話

 

 

「僕は1―Aの担任となった高畑だ。これからよろしく頼むよ」  

 

 無精髭を生やし眼鏡をかけ、スーツを着た壮年の男性が教壇の上で皆を見渡しながら言った。  

 

 高畑先生が教室に入る前、小学生低学年ほどの身長の仲の良さそうな双子と、短髪で元気のよさそうな少女が黒板消しをドアの間に挟むなどのトラップを様々仕掛けていたのだが、高畑先生はそれらを難なく突破し、何事もなかったかのように自己紹介を初めていた。  

 それを見て、何人かの生徒は「おおお!」と感嘆の声をあげ、明日菜なんかはうっとりとした表情をしていた。

 高畑先生のことは明日菜に耳に蛸ができるほど聞かされていた。何でも両親のいない明日菜の面倒を見てくれているのだとか。自分を一番よく見てくれていてとても優しいと、彼の事を語る明日菜の顔は、完全に恋する少女のそれで、あやかからはおっさん趣味だとからかわれていた。

 私は乙女の恋愛事情などよく分からないが、明日菜が本気の想いであることは何となく理解出来たので、教師と恋愛はまずいのでは、などとは言えなかった。  

 

 

 それから、高畑先生が今後の中学生活についての注意点などを述べていくが、私はほとんどそれが耳に入らない。  

 

 ちらりと、横目で金髪の少女に目をやる。小さく白いその顔はまさしく西洋人形のようで、幼くも大人っぽくも見えた。そして、終始面倒だと言いたげな顔をしていた。    

 

 席順は相坂さよという名の生徒以外は特に指定されておらず、各々が好きな場所に座っていた(その相坂さよは来ていないようだが)。金髪少女は廊下側の最後列に座っていたため、その姿が見えるように私は窓側の最後列に席を決めていた。

 

「それじゃあ、まずは1人ずつ自己紹介をしてもらうかな」  

 

 高畑先生が最前列にいる人を指定すると、その子は立って自己紹介を始めた。

 順々にそれぞれが自分をアピールしていき、あるものは笑いを誘い、あるものは特技を披露したりなど自分の個性を示していく。

 また、聞く方も大きくリアクションをとって教室を騒がしていた。

 

 ……長谷川さんなんか、普通に自分の名前を告げたたげで、「千雨ちゃーーん!!! 」と誰かがコールをし、彼女は頬をひきつらせながら顔を赤らめていた。

 

「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだ」

 

 同様に、金髪少女も自分の名前だけを告げて座る。再び周りの生徒は「エヴァちゃーーーん!!」と声を挙げるが、彼女は顔色一つ変えなかった。

 

 

 ……やはり、声もあの時と変わっていない。  

 

 私は、7年前の記憶にある声と現在の彼女の声を照らし合わせるが、まったく同じように聞こえた。  

 あの時のことは、よく覚えている。この世界で、初めてはっきりと恐怖を抱いた瞬間であり、どれだけ時間が経ってもあの場所には近付かないと誓ったほどだ。何度彼女を見ても、あの時と変わっている所はない。初めは、7年前の者の妹、もしくは親戚なのでは、と思ったが、それしてもこれほどそっくりな事があるのだろうか。教室にイタズラを仕掛けた双子でさえ、違いがあるというのに。    

 

 

 私は、前世で私の妻が病院で言った言葉を思い出す。  

 

 

『年をとることに逆らおうとするのって、人間だけなのよ』    

 

 

 …………ならば、年をとらない彼女は?  

 

 まだ、あの時の少女と、今ここにいる少女が同一人物であると決まった訳ではない。

 むしろ、7年経って成長期の少女がまったく同じ姿でいることなどありえないだろう。

 だが、ここが麻帆良という土地であることを考えると、その可能性が捨てきれない。彼女のことが気になる一方で、私の秘密がばれそうになったあの瞬間の恐怖もあり、私は彼女に接触するかどうか思い倦ねていた。

 

 

 

 ○  

 

「そ、それじゃ、今日は解散で……」  

 

 高畑先生がそう告げると、教室は一斉に騒がしくなった。入学して一日目、特に授業など行わず式と連絡事項を告げるのが主だったのに、これだけ教師を疲れさせるとは、このクラスのポテンシャルは相当なものなのだろう。これからの高畑先生の苦労を察して、私は心のなかでひっそりと応援することにした。

 

「七海! 部活はどうするんですの! 」  

 

 あやかが私の机に手をつけ、荒々しく言う。周りの生徒も、これから目を付けた部活動を見学、またはすぐに入部するつもりらしく、何人かは騒ぎながら外に出てってしまっていた。

 

「ああ…………あんまり考えていなかったな……」 

 

「……七海? なんだか、今日は少しぼーっとしていますね。何かありましたの? 」  

 

 あやかが私の顔を覗き込んで尋ねる。本気で私を心配してくれているその表情に、私は何か悪いことをしてしまったような気持ちになった。

 

「……いや、新しい環境に少し疲れてしまっただけだ。心配かけて、悪かった」  

 

 私がそう告げると、あやかは安心した表情に変わった。

 

「……そうですか。確かにこのクラスは少し騒々しすぎますわ。楽しそうではありますけど」  

 ふふっと微笑みながらあやかが言う。

 

「一緒に部活動見学をしようかと思いましたけど、今日はゆっくり休んでてください。 私はお猿さんとでもまわりますわ」  

 

 お大事に、と告げてあやかは私の席から離れていった。私はあやかの背中を見ながら、今日考えていたことを再び反芻する。  

 エヴァンジェリンは、初めの自己紹介が終わった後の休み時間で姿を消し、それから二度と教室には戻ってこなかった。そして高畑先生は、それをまったく気にしない様子で再び教壇についていた。  

 

 それからもしばらく私は彼女のことについて考え、ついさっき結論を出した。  

 結果から言うと、エヴァンジェリンとの接触はしばらく様子を見ることにした。彼女があの時と同一人物だとして、確かに彼女の体の秘密は気になるが、私の秘密がばれるリスクを犯してまでのことではない。

 今私の一番の興味は世界樹に向いているため、二兎を追うつもりはないのだ。

 ……まぁ、彼女の体も世界樹の影響の可能性もあるのだが。  

 

 幸い、彼女の方から接触して来ない所を見るとあの時から成長している私に気付いていないらしい。もしくは、私に対する興味そのものをなくしてしまったという事かもしれない。触らぬ神になんとやらだ。今はとりあえず、自身の環境を整えていくことにしよう。

 

 私はゆっくりと机の上の荷物を片付けて、鞄にしまう。

 周りの生徒はまったくいなくなっており、さっきまでの騒がしさが嘘のようだった。

 私もこれ以上教室に用事はない。今日は、寮に戻って荷ほどきでもしよう。

 ちょうど私がそう思った時に、廊下から1人の少女が教室に飛び込むように入ってきた。

 

「おお! ラッキー! まだ人残ってるじゃん!」

 

 前髪をピンで結び、後ろ髪を縛っている元気の良さそうな彼女は、私を見つけるとすぐに近寄ってきた。

 

「確か……明智 七海だっけ? ちょっといいかな」

 

 強引に私をもう一度座らせて、机を挟んで向かい側に彼女も座る。

 

「君は朝倉と言ったっけ。急にどうしたんだ」  

 

 私が尋ねると朝倉は少し驚いた顔をした。

 

「おお! 私の名前覚えてるとは! やるねぇ」

 

「そういう君も、私の事を覚えていたろう?」

 

「そりゃねぇ。報道部に入る身としては当然! 情報は力だよ! 得れるものは得れる時に得ておかなきゃ!」

 

 朝倉はカメラと「ネタ帳」と書かれたノートをもってにやりと笑う。彼女のことは途中配られたクラスの名簿を見た時に、私の出席番号は三番で、朝倉は四番であるため何となく覚えていた。

 

「と、いうことで! 新しいクラスメイトの情報を掴もうと思って取材にきたのさー」

 

「……ということで! と言われてもな。大体自己紹介しただろう? 」

 

「そうなんだけどさ、やっぱり一対一じゃないと詳しい事は分からないじゃん? このクラスは一癖も二癖もありそうな奴が多いからやりがいがあるよー!」

 

 うっしっし、といかにも悪役っぽい笑い声を溢しながら朝倉は言う。

 

「まぁ、いいんだがな。悪用しないと約束してくれるなら、私が言える範囲で答えよう」  

 

 勿論、自分の秘密に関わることや他人の情報を流すつもりはない。彼女の言う、情報は力、というのは確かな事で、それは大人になればなるほど痛感していくことなのだが、この年でそれを理解している者を珍しくも思った。

 

「そこは大丈夫! 私は私の人情に従ってジャーナリストしてるからね! 悪戯に人を貶めるだけの情報は流さないと心に決めているのさ!」

 

 そう言うと、彼女はペンを取りだしてボイスレコーダーを使っていいか私に問いた。 抜け目がないな、と思いつつも万が一のためそれを拒否するとあっさりと引き下がってから質問を始めた。

 

「えーと、まずは、名前と趣味とスリーサイズから」

 

「……」

 

「あははー。冗談冗談。七海は足腰のスタイル良さそうだけど胸はないっぽいしね」  

 

 デリカシーのかけらもない言葉を吐きながら朝倉は私の胸を見る。別段コンプレックスなど抱えていないし、そもそも自分のスリーサイズを覚えてすらいないのだが、それを答えさせることがセクハラに近いということくらいは分かっている。  

 それとは別に、親しげに自分の名前を呼び、冗談から話に入って情報を引き出しやすくする彼女の才能にも若干感心した。

 

「……はぁ。名前は明智 七海。趣味は昆虫採集だ」

 

「昆虫採集とは珍しい趣味だねー! それじゃあ部活動は生物部とか昆虫愛好会とか?」

 

 朝倉はスムーズに部活の話題に切り替えていく。しかし、昆虫愛好会などあるのか……。考えてみてもよさそうではある。

 

「まだ部活動についてはっきりと決めたわけではないな。出来ることなら昆虫を研究できる所がいいのだが」

 

「お! 七海は理系なんだねー! このクラスは研究気質の人がちょいちょいいるなー」

 

「……他にも研究をしようとしてるものがいるのか?」

 

 つい気になってこちらから尋ねてしまった。朝倉は何ともないことのように応える。

 

「そうだね! 超 鈴音ちゃんと葉加瀬 聡美ちゃんはどっちも大学の研究室に顔を出してるらしーよ! 二人とも初等部の時からすごい才能って有名だったんだから!」

 

「…………」  

 

 思わぬところで有益な情報を手に入れることができ、思わず顔が緩む。  

 

 そうか、既に研究室に出入りしている先駆者がいたのか。  

 研究をするためには、当然様々な機械や薬品が必要で、中学生の私が簡単に手を出せるようなものではない。そのため、なんとか大学や研究施設に潜り込んでそれらの材料を借りれないかと思っていたのだが、一端の中学生などが大学にいった所でろくに話を聞いてもらえないだろうと悩んでいたのだ。

 しかし、先駆者がいるとなれば話はよっぽど楽になる。その天才少女たちの事を考えれば大学の研究員たちも話くらいは聞いてくれるだろうし、待遇もそれなりに良いだろう。  

 

 

 情報は力だ、とはよく言ったものだ。  

 

 朝倉からむしろ情報を得る形で、次に行うべき道がうっすらと見えた事で、私は少々上機嫌になりながら朝倉の質問に答えていくのであった。  

 

 

 

 

 

 

 

 ○  

 

「マスター、教室にいなくて宜しいのですか」  

 

 私がいつものように屋上でサボっていると、茶々丸がお茶を渡しながら聞いてきた。

 私以外の学校のもの全員が校舎の中にいるため、他には風の音しか聞こえなかった。見上げる空には緩やかに進む雲がいる。いつも騒がしいこの学校が珍しく静かな様子が、私は嫌いではなかった。

 

「いいんだよ、あんなものは。中等部の最初の連絡事項など聞きあきてる」  

 

 私はお茶を受け取りながら応える。ゆっくりと茶飲みに口をつけると、程よい温度のお茶が喉に通り、するりと胃に染みる感覚がした。  

 

 うむ、うまい。

 

「……何人かの生徒はマスターに注目しているようでした」  

 

 今回のクラスはどんな奴がいるのだろうと、本当に些細な興味だけを抱いて、初めの自己紹介の辺りだけ顔を出した。裏に精通しているものは当然私に注目するし、武道の心得があるものも私を見てただ者ではないことには気付くだろう。

 

「今年の生徒は、中々面白そうな奴が多いな」  

 

 と言っても、それだけだ。いつもと比べたら、随分特殊な生徒を一纏めにしたとは思ったが、私にはさして関係ない。どうせこいつらも3年後にはまたいなくなって、もう一度私だけ繰り返す。深い関係になるものなど、いないのだ。

 

「特に、明智 七海という生徒が、マスターに何度も目をやっていました」  

 

 当然私もそれには気付いていた。私に最も注意を配り、しつこいほど視線を送る生徒が一人いたのだ。しかしそいつは裏にも関わりなく、武道もやっているようには見えない、単なる一生徒。魔力や気を持っているわけでもなく、どう見てもただの一般人だ。

 その筈なのだが、そいつが一番私を気にかけていた。

 

「何か、関わりが?」

 

「そんなもん知らん。だが、なんだろうな。どこがで見たような気もするし、見てないような気もする」

 

 よく観察した訳ではないが、妙に変な気配も感じた。しかし、あのクラスにおいてはそれも些細なものであった。あそこにはもっとおかしな奴が何人もいるため、大してそいつのことは気にならない。

 

「まぁ、覚えていないということは、大した者ではないのだろう。力を持っているわけではあるまいしな」

 

 ただ、そいつを見ていたら、何か口の中がぞわぞわするのはどうしてだろうか。  

 

 

 

 再び風が吹くが、私も茶々丸も寒さなど感じない。むしろ、心地好いほどだ。

 私はふと横にいる従者に言う。

 

「茶々丸。貴様は教室にいていいのだぞ。初めての学校だろう」  

 

 何も私に合わせることはない。こんな昼間に敵が来るとも思えないし、できたばかりのこいつに色々な経験を与えるのもの必要なことであろう。  

 

「いえ。ここにいます。私はマスターの従者ですから」    

 

 茶々丸は相変わらずの無表情でいう。しかし、ほんの少しだけ声色が優しく聞こえたのは気のせいだろうか。    

 

 

 

 まったく、いい従者をもらったもんだ。

 



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12話

 

 

 

 麻帆良大学のある研究室で私は、白衣に袖を通し口にマスク、手には手袋をつけ、目の前にある試薬をプラスチック上の小さなチューブに少量ずつ入れていく。

 

 私がこんな格好をしているの は、生物のDNAを操作する、分子的実験を行っているためだ。生物のDNAを扱うと言うのは、技術を用いれば難しいことではなく、決まった材料を使い手順を間違わなければ誰でもできる。但し、実験中に自分の唾など入ろうものなら自分のDNAまで取ってしまうため、そこだけは慎重にならなければいけない。

 私は前世の知識を用いながら、次々と手順を踏んでいく。試薬に浸した個体の組織の粉砕をし、高温高圧にしばらく当てて、その後急冷する。

 ある程度の作業に区切りが付いたとき、一息ついてマスクと手袋を外すと、ある男性が部屋に入って来たことに気づいた。

 

「明智ぃ、悪いな。こんなことまで付き合ってもらって」

 

 まだ、30代半ばと言った所だろうか。少しくたびれた風の白衣を着た男性が珈琲の入ったコップを片手に私に声をかける。

 

「いえ。このくらいなんとも。むしろ、こんなことで良ければいくらでも手伝います」

 

 私は実験を行った机を片付けながら応えた。

 

 

 この男性は、麻帆良大学の生物的分野における教授である。先日朝倉の話を聞いてからすぐに麻帆良大学に属する教授何人かに、話を聞いてくれないかとメールを送ったところ、快い返事をしてくれたのがこの教授だけだったのだ。

 たかだか中学一年の言い分に時間を割いてくれたことに感謝しながらアポイントをとり、麻帆良大学に足を入れて、自身の研究をしたいことを伝えると条件付きでOKを出してくれた。

 その条件が、教授の実験も手伝うことだった。時期が悪かったのか、現在教授の研究室の部下は一人もおらず、忙しさのあまり自身の研究にも手が回っていなかったらしい。

 

「しかし、いいんですか? 一介の中学生に大事な研究を任せてしまって」

 

 初めは事務的手伝いだけを任されていたのだが、教授はいつの間にか私にも実験の進行をやらせていた。

 

「そういうのは自分の手際の良さを分かってから言いな。知識も俺なんかより持ってるし、発想もいい。いい拾い物したと思ってるぜ」

 

 珈琲を飲みながら、教授は続けた。

 

「初めは俺も中学生なんかって思ってたけどよ、工学部じゃ天才中学生がいるしもしかしたらって思ったら大当たりだったぜ」

 

 にやりと少し不気味な笑みを浮かべて、教授は私を見る。その表情が何となく怖くて、こんな笑顔をするから研究員が寄って来ないのではないのかと疑ってしまった。

 

「俺の実験のデータがもうすぐ出揃うからよ。そしたらここは好きに使っていいぜ。俺は暫く部屋にこもってデータ纏めと論文書きに移るから」

 

「……ありがとうございます」

 

 私はゆっくりと頭を下げる。彼が使う実験動物は爬虫類であるため私とは方向性が若干異なるのだが、設備自体はなんの不満もないほど揃っていた。むしろ、研究員もいないような研究室にここまで道具が揃っていることに私は驚いた。教授はだるそうにしているが、やっている研究はレベルが高いのだろう。運よくこの研究室に当てられてよかったと思った。

 

「さて、明智はそろそろ学校いく時間だろ? 早くしないと遅刻だぞ」

 

 私はその言葉を聞いて部屋の時計を見る。ここから中等部までの距離を考えると、登校時間ギリギリであった。  

 

 実験に集中していて、時間を忘れていた……。朝早くにここに来ていたことがすっかり頭から抜けていたせいで、授業のことなどまったく考えていなかった。急いで白衣を脱ぎ、研究室を出て、鞄を手に取る。

 

「教授、また来ます」

 

 口早くそう伝えると、おう、と適当な返信をしながら教授は私に手を振った。    

 

 

 

 ○  

 

 大学に停めていた自転車に股がり、必死に中等部へと向かう。途中すれ違う大学生が、大学の校舎から出てくる中等部の制服を着た私を不審な目で見てくるが、そんなことを気にしてはいられなかった。

 駅の近くまでくると、ちょうど登校時間に間に合うかギリギリの電車が到着していたようで、大量の人が流れてくる。人混みを避けつつペダルを回していると、目の前に見覚えのあるオレンジ色のツインテールを見つけた。

 

「明日菜。おはよう」

 

「わ! 七海! 珍しいじゃん! 遅刻ギリギリなんて」

 

 明日菜が私に気付き、走りながら話かけてくる。結構な速度で自転車を漕いでいるのに、それに追い付くスピードで走る明日菜は息をつくこともない。

 

「ちょっと時間を忘れていてな。……横の子は?」

 

 明日菜の横を黒髪の少女がローラースケートでついてきている。おっとりして優しい雰囲気を出す彼女は、ほんの少しだけ前世の妻に似ていた。

 

「えーと。初めまして、近衛 木乃香って言います。七海…………でええんやっけ?」

 

 関西よりの方言を出しながら、彼女はにこにこしとしていた。教授の気味悪い笑顔との凄まじい差を感じながらも、私も挨拶する。

 

「初めまして。寮じゃ明日菜が大変お世話になってるそうで」  

 

 

 彼女のことは、明日菜から何度か話を聞いていた。家庭的で、家事なら大抵出来るのだとか。早朝からバイトをしている明日菜は、彼女にとても助けられていると述べていた。

 

「木乃香でえーよー。うちも七海のことは明日菜からちょいちょい聞いてたんよ。これからよろしくなー」

 

 絶えず笑顔を続けるこのかに、胸がほんわりとした気持ちになった。こうやって周りの人間を穏やかにさせる笑顔を持つ人は、とても新鮮で素敵だと思った。

 

「というか七海、自転車通学だっけ?」

 

 明日菜が私の自転車に目をやりながら言う。

 

「いや、ちょっと寄るとこがあったんでな。たまたまだ」

 

 ポケットから携帯を取り出して、時間を見る。このまま行けば、なんとか間に合うことを確認しつつ、ペダルを漕ぐ足に力を入れる。

 

「私だけかも知んないけどさ、スカートで自転車ってなんか抵抗ない?」

 

「あー。うちそれ分かるわー」

 

 おそらく、下着が見える可能性があるという話をしているのだろう。元男の私にとってはスカート自体に抵抗があるのだが、制服である今そうは言ってられない。

 そして、 その点については抜かりはない。

 

「問題ない。下には短パンをはいている」

 

「…………」

 

「…………」

 

 二人がじーっとこちらを見つめる。何かおかしなことを言っただろうか。二人は向き合いながら会話を始める。

 

「七海ってさ」

 

「うん」

 

「色気が残念やね」

 

「うん」

 

 …………ほっとけ。

 

 

 

 

 ○

 

 

 私たちは、開始ベルが鳴り出すほんの少し前に教室にたどり着いた。大抵の生徒は未だに席に着いておらず、驚くほどの騒がしさである。

 

 このクラスになってから約1ヶ月。朝の木乃香のようにまだ会話をしたことのない生徒は何人もいるが、それでもこのクラスが少し特殊な事に気付くのは、1ヶ月もあれば十分であった。

 まずは入学式から一度もやってこない「相坂 さよ」。何か体に病気でも抱えている人なのかと心配になり、高畑先生に尋ねたのだが、よく分からないままはぐらかされてしまった。他の生徒は大して気になってない様子で、これも皆には認識されないような事なのかと、少し悲しくなった。

 ……彼女の話題を出すと少し私の背筋がぞっとするのはどうしてなのだろう。

 

 次に、異常なほど運動能力が優れている人たち。これまでも何人かの常人離れした者を見てきたが、それすら相手にならないような者がこのクラスには何人かいた。楓はまるで忍びのように分身が見えるほど俊敏な動きをし、古 菲は小さな体で、向かってくる大きな男性をもバッタバッタと薙ぎ倒す。

 極めつけは、エヴァンジェリンとよく一緒にいる絡繰 茶々丸だ。頭部にはアンテナのようなものが伸び、体の関節はどうみても機械のようなものが見え隠れしている。流石にあそこまで流暢に動くロボットなど信じられなかったが、長谷川さんに確認したら、ロボにしか見えないと言われた。

 長谷川さんも流石にここまで不思議詰め合わせをされるとまいってしまうようで、たまに私の部屋にきて愚痴を吐いていた。

 

 とりあえず私と長谷川さんは二人で、このクラスはなんだか凄い、というよく分からない結論を出して普通に過ごしている。

 確かに体は常人離れした人が多いが、それでも皆年相応な女子中学生にも見える。

 ……いや、少し子供っぽいか。…………それでも、彼女たちは皆今を精一杯楽しんでいる純粋な子供達だ。そんな姿に私は年寄りっぽく輝きを感じたりしながら、一緒に混じって学校生活を送っていくのを楽しみに思っていたりした。

 

 

 

 

   ○  

 

 

 

 中等部に入学して半年ほど経っただろうか、私はいつもと同様に学校と研究室と寮を転々としていた。学校での生活は相変わらずで、騒がしい教室の中愉しくやれている。ほとんどの生徒とすんなり話が出来るようにもなり、先日は何人か集まってテストに向けて勉強会を行った。

 特に、一学期早々に「バカレンジャー」と不名誉なあだ名を付けられた5人組は、テストギリギリになって私に勉強を教えてと泣きついてきた。一学期では高畑先生が居残り授業をやってくれたため、明日菜はむしろ居残り万歳と喜んでいたのだが、高畑先生がしばらく出張でいなくなったせいで新田先生が勉強を見ることとなっていたのだ。

 

  私からすれば新田先生ほど出来た先生はいないと思うのだが、彼女達からしたら鬼のように映るらしい。私は呆れながらも付け焼き刃に勉強を教え、なんとか補習を乗り越えると、明日菜以外の彼女達の私を見る目が少し変わった気がする。夕映は私が本を読むことを知って、お互いのオススメの本を教え会うようになったし、残りの三人は、困ったときはまたよろしくと目を輝かせていた。

 ……この子たちには打ち込んでるものがあるし、勉強が全てだとは言わないが、勉強して拓ける道があることも知ってほしいものだ。

 

 勉強と言えば、私は今も100点をとり続けている。前世では一応それなりに有名な研究者であったのに加え、授業も真面目に受けていれば中等部のテストくらいは点数をとれるものだ。あやかも頑張っているようで、私と張り合うように高得点をとっている。

 そして、超とハカセも私達同様に高得点をとり続けている。天才とはよくいったもので、この二人がたまにもってくる発明品なんかは前世にはあり得なかったような物さえある。私は別分野であるため当然仕組みなど理解できないが、彼女達のような科学者が今後世界を引っ張っていくのだろうな、と感慨深く思った。

 

 

 

 授業が終わり、皆が部活動に顔を出し始めるころ、私は自転車に乗って大学に向かっていた。

 

 先月やっと教授の実験が終わり、これからしばらく私が自由に出来るということで、私の心は踊っていた。

 自転車を置き場において、私は大学の中に入る。通いつめたお陰か、何人かは私に挨拶してくれたので、お辞儀をして返す。

 

 そのまま研究室に向かおうとすると、不意に後ろから声をかけられた。

 

「七海じゃないカ。こんなところでどうしたネ」

 

 振り向くと、超がゆっくりと歩きながらこちらに向かってきていた。

 

「少し野暮用があってな、研究室に出入りしているんだ」

 

「そういえばそんな話聞いたことあるヨ。確か、何か研究したい事があるんだたカ?」

 

 同じ大学に顔を出しているのだ。私の事が伝わっていてもおかしくはないだろう。

 

 世界樹を調べるということ自体はまだ長谷川さん以外には言ってない。麻帆良の人の認識を変える現象が人為的だとして、万が一世界樹を調べている事がその者にばれたら面倒な事になる可能性があるからだ。

 

「まぁ、そんな感じだ。大した用ではないよ」  

 

 超を疑っている訳ではないのだが、一応核心は黙っておく。情報がどこから漏れるかなんて分かったものではないからだ。

 

 

「ふーん…………。私、七海の研究にはとても興味あるし、期待してるヨ。…………何か、いい結果がでたらまた教えてネ」

 

 

 

 何故か、超の態度に何か不自然さを感じて、私は一歩後退りした。全てを見透かしているような顔に、私は少し怖くなった。

 

「またネ」

 

 そう告げて、私から遠ざかっていく超の顔は、既にいつも通りの顔に戻っていたように見えた。

 

 



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13話

 

 

「あー、高畑先生ほんとに素敵だなー」

 

 授業が終わった放課後、私は机に突っ伏しながらそれとなく言う。今日は職員会議があるため部活動が休みのところが多いらしくて、他の生徒も教室にたくさん残っていた。私も今日は美術部の活動がないため、のんびりとしている。

 …………実はこの部活も高畑先生目当てで入ったことは秘密だったり。まぁ結構ばれてるんだけど。

 

「明日菜はほんまに高畑先生のこと好きやなぁ」

 

 このかが朗らかに笑いながら私の頭をぽんぽんと叩く。相変わらず心がほんわかするような笑顔で、私も顔が緩む。

 

「明日菜さんのおやじ趣味は今に始まったことではございませんわ。まったく、理解できませんけどね」

 

 いいんちょが髪をかきあげながら、私を馬鹿にするように見ていた。わざわざ挑発するその物言いに私はまんまと乗っかってしまう。

 

「うっさい! 別にあんたの理解を得ようとなんかしてないでしょ!」

 

「あら、ごめんあそばせ。でもおやじっぽいあなたにはお似合いの趣味だと思っていますよ?」

 

 ぐぎぎぎ。馬鹿みたいに高笑いを浮かべるいいんちょにムカムカして、毎度の事のように掴み合いの喧嘩が始まろうとしたとき、横からひょいと柿崎が顔を出した。

 

「でもさ、いーことじゃん。どんなんでも好きな人いるって。うちのクラス結構レベル高いのにそういう浮いた話ないからちょっとつまんないんだよねー」

 

 いいんちょも好きな人いないでしょ、と柿崎が続けるといいんちょは、うっと黙ってしまった。いいぞ、柿崎。もっと言え。

 

「このクラスでこんな話する機会あんまないしさ! 色々聞いちゃうよ! このかとかはどーなの? 好きな人とか」

 

 柿崎は目をキラキラとさせながらこのかに迫る。少しギャルっぽい印象の柿崎は、最近彼氏が出来る出来ないと噂になるだけあって、こう言う話は私達より好きらしい。

 

「うちなんか、全然やわー。おじいちゃんが無理矢理お見合いとかさせるんやけど、ほんとに嫌なんやー」

 

「お、お見合い!? 」

 

 

 珍しくがっくりと項垂れながら、このかが言う。急に話が飛んでお見合いなんて単語が出てきたから、詳細を聞こうとこのかにぐいぐい迫っていた。このかが緩い感じでなんやこんやと答えていると、話はまた別な子別な子へと移っていく。年頃の女子だし、やっぱりこう言う話は大好物なのだ。

 

「そんじゃ、七海ってどーなの? このクラスにしては大人っぽいし、美人な顔してるじゃん」

 

「んー七海からそういう話聞いたことないなぁ」

 

 すでに教室を出ていった七海の席を見ながら私は答える。小学校から一緒だったけど、七海が恋愛とかに興味を持っている姿を見たことない。クラスの女子が少女漫画とか恋愛ドラマとかにはまっていても、七海は全然気になっていなかった。それに、七海は確かに美人だけど何て言うんだろう、あんまり女子っぽさがない気がする。もったいないことに、お洒落とかもそんなに興味がないみたい。どっちかといったら、母性じゃなくて父性を感じるかな、私は。

 

「…………」

 

「……あれ? いいんちょどうしたの」

 

 何だか神妙な顔をしているいいんちょを珍しく思って、私は問いかけた。

 

「いえ。……七海の好きな人の話……ですよね」

 

「え! なになに。委員長なんかしってんの! 」

 

 柿崎が机に乗り出しながらいいんちょに迫る。それでも、いいんちょの顔は浮かないままだった。

 

「……昔、少しだけ聞いたことがありますけど、小1でしたから、今はどうでしょう ね…………」

 

 濁すように答えたいいんちょの言葉を聞いて、柿崎はなーんだ、昔の話か、と少しがっかりした様子だった。その後も、私たちは他の子の恋愛事情について喋っていたけど、いいんちょはずっと何か考えるような顔をしていた。

 

 そんな風にしばらくだべっていると、何人かのケータイが同時に鳴った。何事だろうと、ケータイを開くと、送り主が朝倉であることが分かった。件名には『大ニュース! 』なんて書かれてあり、全員でどーせまた下らないゴシックでしょ、なんて思いながら一斉にメールを開く。

 

 

『大ニュース!! 我がクラスメイトの1人の明智 七海に彼氏が! しかも相手はおっさん!? 』

 

 

 

 メールには、こんな風に書かれた文章と、写真がついていた。その写真には、制服で凛とした姿で歩く七海と、その横にくたびれた感じの30代くらいの男性が映っていた。

 

 

 ケータイから目を離し、ゆっくりと顔をあげると皆と目が合う。え、まじ?っと一瞬フリーズした後、皆で声をあげて盛り上がりだした。

 フリーズした後、皆で声をあげて盛り上がりだした。

 

「ええええ! まじで?! 七海もおっさん趣味だったの! しかもこの冴えない感じのが!? 」

 

「いやいやいや、父親ってことも! 」

 

「ゆーなじゃあるまいしないでしょ! それにしては若いし! 」

 

「じゃあこの人が七海の彼氏ってこと!? 」

 

「でも七海、恋人といるって感じの表情じゃない気がするんやけどなぁ」

 

「え…………。そ、それってつまり……」

 

「そんじゃ、これが噂の、え、援助こうさ」

 

「ないないない! 七海に限って絶対それはないわよ! 」

 

「それじゃ、ほんとに明日菜と同じおっさん趣味ってこと!? それもあり得ないでしょ! 」

 

「こら! ついでに私も馬鹿にしてるでしょそれ! 」

 

「ちょっと! 少しは落ち着きなさい! 」

 

 わーわーとはしゃぐ私たちを鎮めるため、いいんちょは机をおもいっきり叩いた。その音に驚いて一気に辺りが静まる。皆がいいんちょに注目すると、いいんちょはゆっくりと口を開いた。

 

「私の親友に妙な噂を立てると許しませんわよ! それに、七海がこんな冴えない中年の男性とお付き合いするはずありませんわ! 」

 

 そこまで言っちゃこの人も可哀想なんじゃ……と思ったけど誰も口に出さない。

 

「良いですか! すぐに朝倉さんに連絡をとって、現場に行きますわよ! ちゃんとこの情報は間違いだということを確認して、修正させるんですわ!」

 

「え? 今すぐ? 」

 

 柿崎がまじで? と表情でいいんちょに訴えるけど、いいんちょは聞く耳もたない。

 

「当たり前ですわ! さ、行きましょう!! 」

 

 その場にいた私とこのかと柿崎を引っ張りながら、いいんちょは勢いよく教室を飛び出していった。

 

 

 

 ○  

 

「あー、あとはなんだ、必要なもん」

 

「サンプルをラベリングするシールと無菌用にゴム手袋、それと試薬遮光用にアルミホイル紙もあったほうがいいかもしれません。あとは箒と塵取りくらい部屋に置いて下さい。いくらなんでも汚すぎます」

 

 

 私が睨みながら小言のように言うと、教授は分かった分かった、と面倒くさそうに頭を掻いていた。私は少しため息をついて、また麻帆良の商店街を歩きだす。平日だからか人はあまり多くなかったのだが、それでも外を歩くのが嫌なのか、だるそうにしながら彼は私の横を歩いていた。

 何故私たちが二人で街を歩いているのかというと、話は今日の朝まで遡る。早朝いつものように研究室に顔を出し、ついに教授の実験が最後まで終わる事ができたので、余った時間で私は自分の実験に必要そうな物品を確認していた。すると試薬などは大体揃っているのだが、細かい道具がないことに気が付き、どうしたものかと悩んだ。なくてもすぐに困るような物ではないのだが、研究室を借りている身としては私が補充しておくべきなのだろう、と考え、一応彼に確認をとるために、教授室の扉を叩いた。

 

 扉を開くと、そこにはゴミと書類が散乱し、謎の匂いを撒き散らす中で仕事をする教授を見つけた。流石に呆れてしまい、掃除をするように勧めたのだが、信じられないことに、教授は資料を纏めるファイルと掃除用具すら持っていなかった。このままでは彼の作業効率にも関わるのに加え、体調すら崩してしまうような環境であることは明白であったため、放課後即刻それらの必要物品を揃えようと彼に提案したのだ。

 

「いやいいよ、俺こまってねーし」

 

 鼻をほじくりながら教授は適当に返事をした。まさしく子供のような言い分を吐く教授に対して、私は半ば説教するかのように、緊急のときに大事な書類や必要参考資料をすぐにとれないことによる深刻さなど様々な弁論をかますと、ようやく彼の心は折れたようで、今に至る。

 

 私1人で買い物をしてもよかったのだが、流石に教授室に置くような物を私が決めてしまうのはどうかと思い、彼も引っ張り出したのだ。

 

「お前も物好きだな。学生の貴重な放課後をこんなことに使ってよ」

 

「どっちにしろ買わなければいけない物はあったので。あとはまぁ、研究室を借りれるお礼でもあります」

 

「お礼、ねぇ。十分助かってんだけどな」

 

 盛大に欠伸をしながら、教授は私に言う。

 普通に考えて、女子中学生を大学に入れるなんてそんな簡単ではなかった筈だ。

 私は超やハカセと違って、初等部にいるときになんの功績も出していない。そんな人物を研究機関に出入りさせるなど、それなりの信頼と実績のある者にしか出来ないであろう。身の回りの汚さは置いておいて、私は教授に感謝しているのだ。

 

 

 二人で時々話をしながら歩いていくと、目的にしていた百貨店の近くまでたどり着いた。

 いざ入ろうと足を進めると、後ろから聞き覚えのある声が聴こえてくる。

 

(ほら! ほんとに二人で歩いてるじゃん! )

 

(だからといって付き合ってると決まった訳ではないでしょう! )

 

(でも、七海が手に持ってるの日用品に見えるやんなー)

 

(え。…………てことは…………同棲? )

 

(どどど同棲!?あ、あ、あり得ませんわ!! 七海があんな身なりも整えられないような男性と! 七海には相応しいのは、紳士的で、凛々しくて、シャキッとしていて!)

 

(あーーいいんちょ声大きい! ばれるばれる! )

 

(委員長て七海のこととなると若干人変わるね)

 

(委員長て七海のこと好きなん? )

 

(…………え。ななな何を言ってるんですか! わ、わたしは! な、七海の!……し、親友!親友ですわ! )

 

(わー! 押さないで押さないで! )

 

 …………。  

 

 街中の道路近くにある茂みから散々声が漏れている。私は教授の顔を見ると、当然彼も聞こえていたようで大きくため息をついた。

 

「明智、しっかり訂正してこい。頼むから俺をぶた箱に放り込むような情報を流さないでくれ」

 

 女子中学生に手を出したなんて洒落にならん、と教授は片手で頭を抱えている。

 

「……すいません迷惑をかけてしまって」

 

「なにいってんだ。年頃の女なんてあんなもんだろ」

 

 さっさと行け、とでも言うように彼は上下に手を振った。

 

 私は教授に一礼したあと、もはや隠れる気もないほど騒がしい茂みに向かう。覗くと、何故かいつも通り明日菜とあやかの喧嘩が始まっていて周りはそれを抑えるのに必死になっていた。

 

「…………何をしているんだ」

 

 

「「あ」」

 

 

 呆然としながら一斉に此方を振り向いた彼女達に、少しばかりのお説教をふるうこととなった。

 

 

 

 

 

 ○  

 

 

 あやか達の誤解を解いたあと、朝倉に訂正のメールを送らせ、買い物を続けた。成り行きで彼女たちも買い物に付いてきたせいで、教授の顔がげっそりと痩せ細ったように見えたのは気のせいではないだろう。散々彼に謝ると、「気にすんな。だがしばらく外は出ん」と言って教授室に引きこもってしまった。悪いことしたなと私は反省し、今度またお仕事を手伝うことを誓った。

 

 私もなんだか疲れてしまったため、早めに研究を切り上げ、ちょうど今寮に戻ってきた所だ。

 自室に入り少しのんびりとしていると、扉をノックする音が聞こえた。

 

 私は玄関に出て扉を開けると、そこには長谷川さんが片手を挙げて立っていた。

 

「よ」

 

「どうしたんだ長谷川さん」

 

「いや、ちょっとよ」

 

「……? とりあえず中に入ってくれ」

 

 私は長谷川さんを中に迎え入れると、小声でお邪魔しますと呟いて彼女は部屋に入っていく。

 いつかと同じように私はクッションを取り出して床に置き、彼女に座るように促した。

 

「それで、どーしたんだ? 」

 

「いや、えーと、あのよぉ」  

 

 長谷川さんはいつもと違って何だか歯切れが悪い。最近私と話す時はずっとさばさばと話していたのに。私はゆっくりと彼女の次の言葉を待っていると、長谷川さんはおもむろに口を開いた。

 

「……金とかに困ってないよな? ちょっとぐらいなら貸せるぜ? 」

 

「…………? なんの話だ? 」

 

「…………援助交際とか、やめた方がいいぜ? 」  

 

「……………………」  

 

 これ以上ないくらいがっくりと項垂れた後、真剣に誤解を解いた。私は必死に説明しながら、朝倉の部屋に大量のゴキブリを放り込んでやろうかと一瞬頭によぎってしまった。

 

 

 

 ○  

 

 どうやら長谷川さんはケータイの充電が切れていたため、朝倉の修正メールを見ていなかったらしい。さらに珍しく教室に残っていたためあやか達の会話だけ聞いていたようで、あり得ないとは思ってはいたものの段々本気で心配になってしまったようだ。友達として、辞めさせるべきなのは分かっているがそれを口に出すのは長谷川さんにとって度胸がいる事だったようで、誤解を解いたあとは安心しきった顔をしていた。それを言うためだけに私の部屋まで訪れてくれた長谷川さんに感動もしたが、それ以上に大事にした朝倉を恨んでもいた。

 

「なんつーかあれだな。相変わらず殺風景な部屋だ」

 

「必要な物以外あまり置いてないんでな」

 

「そういえば飯とかはどーしてんだ? 」

 

「イ…………インスタントを少々」

 

「明智ぃ…………お前…………」  

 

 私でももうちょい気を使ってるぞ?と長谷川さんにじろりと睨まれる。分かっている、私もこのままではまずいとは思っている。いつか、このかにも注意され、いつでもうちに食べにきてや、と言われていた。とりあえず少し自炊を始めよう。

 

「これは………カブトムシか? 」

 

 何か面白いものはないのかと部屋を動き回っていた長谷川さんは、部屋の隅に置いてある虫籠を見つけ、中を覗いていた。

 

「そうだ。この時期になるとそろそろ寿命なんだが、世界樹の影響か長生きしている」

 

 カブトムシの幼虫は朽木の中で住むことができる。私は森で見つけたカブトムシの幼虫を、世界樹の枝を朽木と似たような環境にさせて、その中で成長させた。すると、本来10月になると寿命を迎え始めるのだが、未だに生きていた。

 

「……へぇ。それで、あれからなんか分かったことあったのか? 」

 

 長谷川さんはちらりと此方を見ながら聞いてきた。それに対して、私はにやりと笑って応える。

 

 

 

「そうだな、研究はほとんど進んでいないが、途中報告といこうか」

 



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14話

 

「長谷川さんはカブトムシの力の強さを知ってるか? 」  

 

 私は長谷川さんが見ているカブトムシの入った虫籠を持ち上げ、膝ほどの高さの丸テーブルの上に置く。それから私と長谷川さんはその丸テーブルを挟むようにして座った。

 

「……逆に聞くが一般の女子中学生がそれを知ってると思うか? 」  

 

 長谷川さんは、むしろ知っている私がおかしいと言いたげな表情をしていた。まぁ確かに一般の女子中学生ではないんだが、そこまで眉を寄せた表情をされるとなんとなく面映い気持ちになる。

 

 私は虫籠から一匹のカブトムシを取り出すために中に手を入れる。敵襲だ、と騒ぐようにカブトムシが一瞬抵抗するが、両脇をなすすべなくつかまれるとそのまま引き上げられて机の上に置かれた。ついでに脚に付いていた土などが机にこぼれるが、私は気にしない。

 

「基本的には自身の体重の約20倍の重りを引っ張ることが出来ると言われているんだが……」

 

「その前にちょっとまて。こいつなんかでかくねーか? 」  

 

 話を遮るようにして長谷川さんが言う。指でつんつんと背中をつついている所を見ると、カブトムシに触るのにあまり抵抗はないらしい。カブトムシは机の上でふてぶてしい態度になり、なんだよ、と強気で長谷川さんを見ている気がした。

 

「確かに標準よりは大きめだな。何より角はかなり大きい」

 

 カブトムシなど幼虫期間がある昆虫は、幼虫時のサイズによって成虫時の大きさが作用されることが多い。幼虫期間に世界樹の朽木で育てた分、大きなサイズのカブトムシが誕生するのは予想の範疇であった。雄同士の闘争に使われる角は特に影響を受けるらしく、少し不格好にも見えた。まぁ自然界では、角が大きければそれだけで有利ということでもないのだが。  

 余談だが、私はカブトムシの雌にも角が生える可能性も期待していた。カブトムシの先祖はそもそも雌雄共に角を生やしており、雌は進化の過程で二次的に角を無くしたと言われている。つまり、潜在的には角を生やす能力はあるわけで、世界樹にそこまでの力があることも若干期待したのだが、そんなことはなかった。流石に雌雄差をひっくり返すまでは出来ないようだ。

 ……もしそんな力があり、人にも作用していたら、中々悲惨な事になっていたかもしれないが。

 

「そんで? 世界樹の影響受けたこいつは一体どのくらいの重さまで引っ張れるんだ? 」

 

「まだ詳しく計測したわけではないがな、自重の約60倍はいけそうだった」  

 

 つまり、影響を受けてない個体の約3倍の力を出せることになる。

 

「ほーん。結構すげぇんだな、お前」  

 

 長谷川さんはカブトムシに話しかけながら、胸部に生える角を指でうりうりと押していた。カブトムシは長谷川さんの指を一生懸命に押し返していて、その動きが嫌がっているようにも甘えているようにも見えた。

 

「…………思ったより反応がうすいな」  

 

 適当な反応に何だか寂しく思ったりしてしまった。

 

「いや世界樹のおかげで力強くなりました。って言われても、何となく予想が出来たというか」  

 

 それもそうか、と私も自分で納得した。この情報も前回分かった白蟻の件があってこそであり、長谷川さんにとっては新鮮味が少なかったのであろう。実際、表現形の変化 と力強さの変化は結構異なる話ではあるのだが。

 

 そして、この話の本質はそこでない。

 

「実は、この話には続きがある」  

 

 そーなのか? と呟いて、長谷川さんはカブトムシから手を離した。やっと長谷川さんの手から解放されたカブトムシは、何だか疲れきった表情をしているような気もした。  

 

 私は少しもったいつけるように時間をおいてから言う。

 

「通常より約三倍の力をもつこのカブトムシ。だが、調べるとこいつらはそれだけの重さの物を動かせる筋力を持っていないということが分かったんだ」  

 

 平均より少しサイズが大きいといっても、3倍ものサイズ差があるわけではない。当然筋組織もそこまで膨れ上がるわけでもなく、何匹か解剖もしてみたのだが、筋繊維の密度が極端に変わっている訳でもなかった。つまり、60倍もの重りを動かす筋肉が備わっていないのだ。それなのに、このカブトムシは重りをつけて悠々と歩くことができる。  

 

 これを聞いて、長谷川さんは頭を傾けた。

 

「……んん? そんじゃどんな理屈でその重りを引っ張ってるんだ? 」  

 

 この話を聞いてその疑問が浮かぶのは当然だろう。長谷川さんがその質問を私にぶつけるのは、予想していた。

 

 しかし……

 

「わからん」  

 

「…………」    

 

 きっぱりと答えた私を、長谷川さんはなんとも言えない顔をして見ている。

 

「…………いや、仮説は幾つかあるんだがな、あまり現実味がないというか認めたくないというか」  

 

 私が、口ごもりながら述べる。そんな様子の私を見て、長谷川さんは少し驚いた表情をした。

 

「珍しいな。明智がそんな風にはっきり言わないなんて」

 

「いやな、この仮説は自分でも何を言っているかいまいち分からないんだ」

 

「…………とりあえず、言ってみてくれよ。役に立つかわかんねーけど私も考えるからよ」  

 

 長谷川さんは、真剣な目で私を見る。一緒に考えると言ってくれたのが、何だか嬉しくて、一呼吸してから、私は言うのも躊躇うような仮説を述べた。  

 

 

 

 

「世界樹に宿る不思議パワーがカブトムシに力を与えた。しかもそのパワーは私たちの目に見えずにカブトムシに力を与えている」

 

 

 

「……………………」

 

 

「……………………」    

 

 若干の沈黙が二人の間に流れる。時計の針が何度か音を鳴らした後、長谷川さんはゆっくりと私に尋ねる。  

 

「……ちなみに何%正しいと思ってる? 」

 

「……………………5%」

 

「前より自信なくなってるじゃねーか」  

 

 長谷川さんが私に突っ込むように言いつける。

 

 いや、仕方ないだろう。不思議パワーなんて言ってしまったら。今まで未知であった様々な事象の原因に、私たち多くの科学者は必死に研究して理由をつけてきたのだ。なのに、不思議パワーがあるなど言ったら完全に科学者失格である。学会で発表しようものなら異端扱いどころか大笑い者だ。しかし、私もなんとかこの現象に現実的な理由を着けようと四苦八苦するのだが、中々上手くいかない。白蟻が潜在能力を発揮する事については、ギリギリ説明ができた。世界樹の特殊な物質が遺伝子の発現量を無理矢理あげることが出来るのならば、可能ではあるのかとも思えた。その特殊な物質を解析できれば答えに近づけるかとも思った。しかし、力の出しかたは生物により差はあるが、筋肉の太さに比例するというのが通例なのにそれに逆らい、筋タンパク質の内成分を調べても通常と変わりがない。物理的にあり得ない現象なのだ。他の意見も考えたが、調べれば調べれるほどこの不思議パワー説が一番可能性が高くなる。  

 私はぶつぶつと考えていることを呟きながら頭を抱える。    

 

 そんな私を見て、長谷川さんも、不思議パワーかぁ、とさりげなく言った。

 

「私はそんな悪いと思わねーけどな。不思議パワー説」 

 

「…………え」  

 

 柄にもなく、気の抜けた声を出してしまう。私が視線を上げて長谷川さんを見ると、ネーミングセンスはどうかと思うが、と前置きしてか彼女は言った。

 

「明智はなんか理論的な理由を付けようとしてるけどよ。肝心なこと忘れてるぜ?

 ここは麻帆良なんだ。白蟻の時にはもうここがおかしいことは分かってたじゃねーか」  

 

 長谷川さんは横からカブトムシの入った虫籠を覗きながら続ける。

 

「理論的に説明出来ないならよ、いったん常識から外れてみてもいいんじゃねーか? 非常識麻帆良だぜ? 不思議パワーの存在を認めて、そこから研究を進めていってもいいと思うんだが。私は実験とかできねぇから、あんま勝手なこといえねぇけどよ」

 

「……………………」  

 

 その言葉を聞いて、私は何も答えられなかった。  

 そうだ。私は、大事な事を忘れていた。そもそも、私の存在だって理論的に説明できるものではないのだ。赤ん坊のころから大量の知識を詰め込み、しかもそれで前世の記憶まであるなど不思議パワーどころではない。常識の中で見ていては決して分からないような現象が、この世界にはあるのだ。

 彼女の言う通り、一度枠から飛び出して考える必要があるのだろう。  

 前世で何度も見た昆虫を使ったせいなのか、私の視野は随分狭まっていたらしい。  

 

「そう……だな。長谷川さんの言う通りだ。知らぬ間に私の頭は固くなっていたようだ」 

 

 しかし、2年前は非常識をかなり嫌っていた長谷川さんからこのような意見が出るとは思わなかった。……いや、むしろ非常識に悩みながら今現在それと向き合おうとしている彼女だからこそ言えた言葉なのだろう。  

 

「……長谷川さんのお陰で少しすっきりできたよ」  

 

「あー、と、こんなんで私は役に立てたのか? 」    

 

 頭を掻きながらいう彼女に対して、勿論、と答えてから私は言った。  

 

「長谷川さん」  

 

「ん? 」  

 

「ありがとう」  

 

「……!いや、その、あー、うん、ど、どういたしまして」

 

 どうやら彼女は、不意討ちに弱いらしい。急にお礼を言われて照れたように顔を少し赤らめる長谷川さんを見て、私は目を細めた。  

 

 

 

 ○  

 

 

 

 それから、私はこの不思議パワーへのアプローチを進めて行くことにした。カブトムシ以外でも同様に実験を行うと、種間差はあるがほとんどの昆虫でも力の増加が見られた。  

 また、朽木など食さない昆虫でも、近くに世界樹の枝木をさして置いておけば、ほんの少しだが影響を受けるものがいた。  

 世界樹が存在しているだけで、麻帆良の生物多様性が大きいのも頷ける。世界樹があるだけで昆虫は少しは影響を受け、環境への適応度をあげているのだ。  

 さらに、世界樹の影響を受けた昆虫の子供も、個体差はあるが希に不思議パワー(自身の出せる限界以上の力を与えるものと定義した)を宿っていることがある。つまり、不思議パワーは遺伝することもあるということだ。  

 遺伝するとなると、麻帆良の昆虫は不思議パワーを持つやつで溢れてしまうと考えるかもしれないが、そうではない。

 世界樹の影響により、通常よりサイズまで大きくなることで、彼らにはリスクが生じてしまうことの方が多いのだ。  

 例えば、角を大きくしすぎたカブトムシは、同種間の競争は強いが、鳥などの天敵から発見されやすくもあり、コストでもある。  

 彼らにとって大きくて強いということと適応的であるということはイコールでは結ばれない。  

 このように、私は何日もかけて世界樹の昆虫に対する影響を調べてきた。しかし、どれだけ時間をかけても、原因である不思議パワーについては何も答えを得ることが出来なかった。不思議パワーとは一体何で、他にはどんな力があるのか。研究したい気持ちはあるのだが、目に見えず何の予備知識もないというこの状況では、ほとんど手詰まりに近い。    

 

 だから、まず私は資料集めに励むことにした。  

 もし、この麻帆良の不思議パワーの存在を認知した上で、一般の人たちにそれを気付かせないようにしてるとしたら、不思議パワーについてまとめた資料がどこかにあると踏んだのだ。  

 

 そして、麻帆良で一般人が近付けないような場所で、資料を保存できる場所といったらあそこしかないだろう。

 

 

 

 ○  

 

 いつものように、授業を終えた放課後。 木々は段々と葉を落とし痩せた姿になっていき、外を歩く人も厚着に変わっていた。  

 

 私のクラスメイトも同様で、何人かは既にマフラーを首に巻いている。しかし、スカートが短いままなのを見ると、普段あれだけうるさくても彼女達はやはり女子なんだなとしみじみ思う。  

 

 私は席を立って、ある生徒の前まで行く。その生徒は本を開いていて、私が前にいるのにも気付いていないようだ。授業が終わった瞬間に机の中の本を取り出していた所を見ると、相当本の続きが気になっていたらしい。

 

「……夕映、ちょっといいか」  

 

 私が声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げる。

 

「………七海? どうしたんです? 」  

 

 夕映は私の顔を見て、名残惜しそうに本を閉じた。わざわざを本を閉じさしてしまったことに若干の罪悪感を覚えながらも、私は言う。

 

「実はだな、ちょっと頼みたいことがあるんだが」

 

「……えーと、この前貸すと言ってた本の話ですか? すいません。今はのどかに貸していてですね、返してもらったらすぐに渡そうと。あ、この本もとても面白いですよ? まだ途中ですが」

 

 

「確かに、個性的な表紙をしている」

 

 図書館で借りたものなのか、その本にはカバーはしていない。表紙には宙で座禅を組んでいる女子高生に、手を伸ばし祈るゾンビたちが描かれている。凄い世界観だ。

 

「読み終えたらこちらもお貸しします。あ、しかし市の図書館で借りたのでなるべく早めに返してもらえると嬉しいのですが……」

 

「その話もとても嬉しいが、今は違う話なんだ」  

 

 少し慌てた感じで言う夕映の言葉を私は区切る。夕映が、では何の話です?

 と首を傾げるのに対して、私は答えた。  

 

 

 

「図書館島について、教えてくれないか? 」

 

 



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15話

 

 

「……図書館島について、ですか。別にいいですけど、どうしてです? 」  

 

 夕映が小首を傾げながら私を見る。話が長くなることを察したのか、閉じた本を机の中にしまっていた。

 

「え! なになに! ついにななみんも図書館探検部に入っちゃう感じ!? 」  

 

 私たちの話を聞いていたのか、一人の少女が話に割り込んでくる。眼鏡をかけ触角のように登頂部の髪を跳ねさせている「早乙女 ハルナ」は、言葉の勢いのまま座っている夕映に後方から抱きついたため、夕映はぐえっと唸っていた。  

 ちなみに私はハルナからの呼ばれ方はあまり好んでいないが、髪の触角部分を結構気に入ってたりする。理由は当然、昆虫っぽいからだ。

 

「そう言うわけではないんだがな、ただ誰も見たことないという本が気になってるんだ」

 

 ハルナにのしかかられて机とハルナにサンドイッチにされている夕映を見て見ぬ振りをして、私は述べた。  

 不思議パワーに関する本を探したい、などとは勿論言えなかった。そのこと自体を秘密裏にしているということもあるが、不思議パワーなどという単語をあまり口にしたくないという思いもある。  

 図書館島に本当に不思議パワーに関する本があるとは分からないが、あるとしたら人の手が未だに進んでいない所だろう。明治の中頃に作られ、蔵書の増加に伴って地下に地下にと増設された図書館島の全貌を知るものはいないと聞いている。もし不思議パワーの本を保存しておくならば、人が手を出せないような地下深くに置くのがベストだと思ったのだ。  

 そのために、私は図書館島の地下のどの辺りまで行けば未開の地なのかを夕映に聞きたかった。  

 

 夕映とハルナは私の発言を聞いて顔を合わせ、何か心当たりがあるような顔をした。

 

「あー。もしかして噂になってるあの本を探したいとか? 」

 

「確かに私達も気にはなっていますけど、七海には必要ないかと……」  

 

 夕映はいい加減重いです、とハルナを退けながら言う。二人はある本について述べているらしいが、私には見当がつかない。

 

「………? なんの話だ? 」

 

「あれ? 魔法の本の話じゃないの? 頭良くなるってやつ」

 

「魔法の…………本…………」  

 

 私がゆっくりと復唱したのを聞いて、夕映は私が呆れていると思ったのか訂正するかのように言い直した。

 

「「魔法」なんて流石に大袈裟ですが、おそらくとても優れた参考書だとも言われてるです。もしくは、今までのテストの過去問をすべて綴ったものだとかも言われています」

 

「…………それは、是非見てみたいな」

 

「魔法」だなんて、今までならまったく信じることなく、戯れ言だと切り捨てていただろう。だが、ここまで不思議パワーを調べてきた私にとって、その言葉は決して揶揄してよい言葉ではなかった。勿論、素直に魔法という言葉を鵜呑みするわけではないが、見てみる価値は十分にあると思われる。まさか図書館島に潜入する前に調べるべき本に見込みをつけれるとは思ってはいなかったが、とりあえずの目標はその本でいいだろう。

 

「それは、図書館島のどこにあるんだ? 」

 

「まだ誰も見つけたことがないので確定的な情報ではないのですが、地下11階の地下道を進んだ先に祀られてるという噂があるです」

 

「そうか。助かったよ夕映、ハルナ。ありがとう」

 

「ちょちょちょいまち!! まさかななみん一人で行くつもり? 」  

 

 お礼を言って立ち去ろうとした私の肩を、ハルナはがっしりと掴み、私を引き止めた。

 私は首を後ろに回してハルナを見て答える。

 

「そのつもりだが……」

 

「甘い! 麻帆良スイーツ店のデラックスチョコレートパフェよりも! イチャイチャカップルの醸し出すオーラより甘いよ! ななみん! 」

 

 訳の分からない比較をしながらハルナは私を叱咤する。

 

「ぜんっぜん図書館島のことが分かってないじゃん! 」

 

「流石に七海でも、一人でそこまで行くのは不可能です。道中は迷路のように複雑ですし、危険な罠もたくさんあるです」  

 

「だが、命にかかわるような場所ではないだろう? 」

 

「そう、ですが……。あそこで迷ったら救助が来るまでしばらく一人ですよ? 寂しいですよ? 」

 

「大丈夫さ。本でも読んで気長に待つ」

 

「ですが……」

 

 

 夕映も引き止める言葉を言いながら、私を不安げな表情で見る。  

 勿論、図書館島が普通な場所でないことは知っている。しかしここまで情報があって何もしないという選択肢は私の中にはなかった。

 

「そんなに心配しないでくれ。危ないと感じたらすぐに引き返す」

 

「……七海には悪いですが、信用できないです」

 

「そーだねぇ。ななみんは顔に似合わず意外と無理しながら突っ走るタイプっぽいからねぇ」

 

「本当に地下11階まで行くならかなり本気で準備が必要ですね。私は部室の方に行って荷物と地図をとってくるです」

 

「うんにゃ。んじゃ私は他に協力者を探してみるねー」

 

「ちょ、ちょっとまて」

 

 先程とは立場が逆転し、今度は私が二人の行動を止めるように呼び掛ける。  

 いつの間にか私に付いてこようと準備をする彼女達を、止めない訳にはいかなかった。危険な場所と聞いていたので誰かと行く気など毛頭ない。自分のせいで他人を危ない目に会わせるなど、出来るはずがなかった。  

 立ち上がりすぐに行動を始めようとしていた二人は、煩わしそうな顔をして私を見た。

 

「なんだよー。悪いけどななみん一人には行かせないよっ! 魔法の本はネタになると思って私も狙ってたんだから」

 

「私は正直魔法の本などさして興味はありませんが、図書館探検部として七海一人に行かせる訳には行きません。どうせ止めても勝手に行こうとするんなら、私たちは付いていくです」

 

「…………分かった。二人が来るというなら、私は行くのを止める」  

 

 二人を巻き込んでまで、行く場所ではない。場所は割れたので、後で一人でひっそりと行けばよいのだ。  

 私は図書館島行きを諦めたと二人に伝えたのだが、彼女達は釈然としない表情をしていた。どうやら私の信用はあまり多くないようだ。

 

「……七海の顔を見れば、どういうつもりかは何となく分かるです。結局一人で行こうとしてますね? 」

 

「まったく諦めたって表情してないもんねぇ、ななみん」

 

「…………」  

 

 思惑までばっちりばれているようで、私はため息を吐く。二人はどうあっても今日私に付いてくるつもりなのだろう。

 

「……七海、私たちは何度もあそこに行ってるから分かりますけど、あそこは素人が一人で行くような場所ではないのです。ましてや地下11階だなんて、私達図書館探検部でも到底行けないような場所です」  

 

 夕映が、私を諭すように語る。その表情は、本当に私を心配しているようで、私は心が痛くなった。

 

「ななみんってそんな運動神経良い訳じゃないっしょ? なら余計あそこは一人で行くべきじゃないと思うけど」   

 

 ハルナも私に追撃をかける。確かに私は小学生までは運動が出来る方であったが、今となっては全然であった。というよりも、周りが部活などで本気で運動を始めているのに比べ、研究室に籠っている私が、もはや運動で勝てる訳がなかった。小学生の頃と違い、今じゃ皆すでに身体の使い方を分かっているのだ。そのアドバンテージを無くした私が、他の生徒より運動で優れる筈がない。……それにしては体力の低下具合が急であった気もするが。

 

「実際問題、私達がついていっても恐らくそこまでたどり着けないでしょう」

 

「そだねー。せめて凄い動ける人が何人かいればいいんだけど」

 

「それならば、拙者達の出番でござるな」  

 

「そうアルね! 」

 

 急に聞こえた新たな声に、私たちは驚きながらも顔を向けると、そこにはニンニンと呟く長身の少女と、腕を腰に当て人懐こい表情をした褐色の少女が立っていた。普通の人が不意に現れたら多少不審がるのだが、いきなり現れても何故か納得がいく二人であった。

 

「ワタシたちならバッチリ動けるアルよ! 」  

 

 如何にも中国人だと表す語尾をつけて、クーがにぃと無邪気な笑顔を私たちに向けていた。夕映が二人の姿を見て、手を顎に添えて考えるようにしながら述べる。

 

「……確かに、この二人がいれば話はかなり現実的になるです」  

 

 二人の突然な参戦により、心強い味方を得たと夕映とハルナは少し弾んだ顔をするが、私はそれを承諾するわけにはいかなかった。 

 

「二人とも、話を聞いていたのか? 普通の場所ではないんだぞ? 」  

 

 私はクーと楓をしっかりと見つめながら言う。夕映とハルナを巻き込む気すらないのに、これ以上の人数など尚更だ。  

 若干言葉を強めて言ったのだが、クーと楓はにこりと笑ったままであった。

 

「勿論、聞いていたでござるよ。危険な場所に行くから、腕っぷしの強い助っ人が必要なのでござろう? 」

 

「そういう訳ではなくてだな……っ」

 

「あいやー、いいタイミングだったアル。ワタシたちちょうど今七海に次回の小テストの勉強を教えて貰おうとおもてたアルよ。いつも教えて貰えるだけじゃ申し訳ないと思てたから、やっと恩返しできるアル」  

 

 中国では礼はとても大事アルよ、と相変わらずニコニコとしながらクーは言う。なかなか私の言いたい事が伝わらず、私は段々ともどかしい想いを抱える。  

 気付いたら私を抜いた四人で図書館島を探索する作戦を立てだしており、話が盛り上がっていた。  

 このままだと本当に全員で行くことになると察した私は、話し合いを無理矢理中断させて、注目するように呼び掛ける。四人が私を見ているのを確認してから、私はおもむろに述べる。

 

 

「……皆が、協力してくれるという気持ちはとてもありがたいし、嬉しい。だが、私は自分の都合に皆を巻き込みたくない。これは、私の課題だ。…………大丈夫、私も自分の身を最優先にして戻ってくるさ」

 

 最後、私は微笑みながら彼女達に伝える。  

 いくら私が行くのを諦めたと言っても、彼女達は何故か信じてくれない。ならば、私の本当の想いを伝えた方が言うことを聞いてくれるのではと思ったのだ。    

 私が話を終えると、夕映がゆっくりと溜め息を吐いた。夕映が一人一人の顔を見渡すようにすると、それぞれが頷く。私はその様子の意味が分からず、状況を飲み込めずにいると、夕映はどこから取り出したのか手に広辞苑を持ち、徐々に腕を上げて―――

 

「てい」

 

「っ! 」  

 

 私の頭の上へとぶつけた。それほど痛みはなかったが、予想していなかった衝撃のせいで私の頭はぐるぐると回り、ぺたんと尻をついて座り込む。異を唱えるような気持ちで上目で夕映を見つめると、彼女は再び溜め息をついた。

 

「七海は何を見当違いなことをいってるんです? 」

 

「…………? 」  

 

 私は未だに夕映の言わんとする事が分からず、ぼーっと彼女を見つめる。すると、夕映はやれやれとポーズをとりながら肩をすくめた。

 

「七海殿。拙者たちが一緒に図書館島に行くというのは、別に七海殿のためではござらんよ」  

 

 楓が膝を折り、自身の細くした目と私の目が合うよう屈んでから述べる。

 

「そうアル! ワタシが七海と一緒に行くのは、今までの勉強のお礼と、これからの勉強を見てもらうためのお駄賃アル! 」  

 

 クーもばっと勢いよく座り込み、子供みたいな笑顔を浮かべて私を見る。

 

「勿論、拙者もそのつもりでござる。拙者の勉学を手伝ってもらうため、言わば、自分のために、自分の都合で一緒に行くでござる」  

 

 ニンニンと、猫が笑ったような表情で楓が言う。

 

「大体、そんなゲームのラストダンジョン行くみたいな気持ちにまでなんなくても大丈夫だって! 危険っつっても今まで死人が出たなんて話は聞いたことないし、罠に当たっても大抵しょぼい打撲か気付いたら外で寝てたとかだから。そもそもそんな危険なら部活として存在する訳ないじゃん! 」  

 

 ハルナもひょいと私のそばに座り込み、可愛いげある触覚をぴょんと揺らす。

 

「さっきも言ったけど、私は自分の漫画のネタ作りのためについていかせてもらうよっ!私の都合、私のためにね! 」

 

 

 最後に、目の前いる夕映がゆっくりと屈み私と目を合わせる。

 

「七海、私は図書館探検部として七海を一人で行かせる訳にはいかないです。それに、あなたを一人で行かせるのが心配だという気持ちもあるです。…………だけど、これは別にあなたのためではないです。私が、そうしたいからそうするんですよ」  

 

 そう言って、夕映は私に手を差し出した。     

 

 その手と、彼女たちの笑顔をみて、私は胸を強く突かれたような想いをした。

 

 一体、何を思い上っていたんだろうか。  

 

 

 前世の記憶があるからと、勝手に一人で年上気分になって、勝手に彼女達を子供だと思い込んで。  

 彼女達は、私を対等の友達として、仲間として見てくれている。なのに、私だけ何故か保護者気分で、一人で大事に大事にと制限するように扱っていた。結局、彼女達を一番信用していなかったのは、私だったのだ。私だけが、最も自分のことを考えていて、自意識過剰になっていたのだ。    

 そう気付かされたことが、恥ずかしくて、もう一方で誇らしくもあった。周りにいる彼女たちがこんなにも心強いことが、嬉しくもあったのだ。

 

 私は夕映の差し出した手に、そっと自分の手を重ねた。

 

 

 

「……皆、悪いが私と一緒に図書館島に行ってくれるか? 」  

 

 

 

 

 私がそれぞれの顔を見て尋ねると、彼女達は当然のように同時に頷いてくれた。



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16話

 

 

 …………どれだけ異常なんだここは。    

 

 

 

 私は図書館島に入り、地下に進む度に何度もこの言葉を頭に浮かべた。  

 夕映が額につけるライトで、膝下ほどの高さまである水面を照らす。歩を進めると水が足に絡み、波と少しの飛沫をあげる。ジャブジャブと音を立てながら、私達は濡れた足を進めていく。  

 ふと周りを見渡すと、何故か水の中に本棚があるのを見付け、その異常さに私はまた息を吐く。歩きながらも手を水面に伸ばし、一冊の本をとる。その本は紙面であるのに関わらず、まったくと濡れていないようである。呆れつつも立ち止まってページをめくると、ファンタジー小説であることが分かった。事実は小説より奇なりを目の前に見せつけられ、その本を読む気にもなれず元の場所に戻す。ここまで普通と異なるものを何度も見せられたら、長谷川さんでなくともまいってしまうのは当然だろう。不思議パワーが霞むほどの異常が、こんなに近くにあるとは。

 

「…………」

 

「七海?どうかしました?」 

 

「…………いや、何でもない」   

 

 私の様子を察して夕映が声をかける。図書館島に慣れているからか異常を認識出来ないからか、夕映はこの場所を特に気にする様子はなかった。

 

「次はあそこの道を潜るです」  

 

 地図を片手に次のいく先を指差す夕映を見て、次はどんな異常が見られるかと考えると、少し頭が重くなった。    

 

 

 ○    

 

 先ほどの放課後、絶対に無理はせず危ないと思ったら即退散すると私達は決めてから、図書館島に入る準備をし、日が暮れてから私達は集まった。

 動きやすい格好で、と夕映に念を押されていたので、それぞれが言われた通りの服装で来たはずなのだが……

 

「……クーがチャイナ服なのはまぁいいとして、楓はどうした、その恰好は」

 

「んん? 何かおかしいでござるか? 」

 

 おかしいというか、不思議な服装であった。道着よりは軽そうな布で、肩を出し帯も締めている。というか―――。

 

「まさしく忍者じゃないか」

 

「忍者ではないでござる。ニンニン」

 

 もはや隠すつもりがあるのかないのかさっぱりわからなかった。

 ちなみに私は虫取に行くときのジャージを身にまとい、冒険家のような恰好する夕映達を加えて随分と可笑しな集団になっていた。  

 

 

 

 全員が集まった後、夕映から軽く説明をうけた私達は図書館探検部しか知らないと言われる道から潜入し、そのまま地下を目指した。初めはまだ、大きさこそ他の図書館とは比べ物にならないが、さして気になるような所ではなかった。しかし、進んでいくにつれて何故か矢が飛び出してきたり、本棚が倒れてきたりと散々であった。クーと楓のおかげで誰も怪我なくそれらの罠を突破出来たが、この時点で私の予想を遥かに越えていた。  

 

 正直、私の想像する危険とは、侵入禁止の場所に踏みいるからまともな道ではなくて床が危ないとか、大音量でアラームがなり犬に追いかけられるだとか、罠といっても静電気が流されるだとか、随分と子供騙しのことを考えていた。話し合いの時は危険を強調し大袈裟に言っていたが、それはどれにしてもある程度リスクや危険があることは確かなので、誰かを巻き込むなどはしたくなかったからだ。  

 

 なのに、まさかこれほどとは、まったく思っていなかった。現実的に考え、学生が踏み入れる場所にこんな罠を仕掛けているとは想像できなかったのだ。とりあえず私の認識は、確かにイチャイチャカップルが醸し出すムードより甘かったらしい。  

 

 これらのことを夕映とハルナに尋ねると、二人はあっけらかんに答えた。

 

「確かに危険だと思いますが、ハルナも先程言ってましたけど実際ここで怪我をしたという人はほとんどいないです。罠に当たったと気付いたときには、大抵目を覚ましたら外にいたって感じなので」

 

「危ないは危ないなんだけど、なーぜか怪我しないんだよね。よく分かんないんだけどさ」

 

 二人は特にその事を気にかけておらず、大した問題ではないと思っているようだ。  

 

 このような危険な場所を探索する部活が廃部にならないのは、恐らく怪我人などがほとんど出ないからだと思われる。それはそれでいいのだが、麻帆良に住む人には気付いたら外に追い出されているという異常さを認識出来ないのだろう。  

 

 そんな不可解なこと認めてたまるかという思いでわざと罠に当たろうとも心の隅で一瞬だけ思ったが、本当に怪我した時のリスクと周りに心配をかけるということを考えたら実行する気には起きなかった。  

 

 道中にも気になる物は尽きないほどあるのだがそれらを持ち帰ってもその不思議を検証するための術を持たないため、結局意味の無いことは分かっていた。そのため、脳が許容できる容量を越えないよう若干無心になりつつも、ひたすら初めの目的である「魔法の本」を目指して進んでいた。    

 

 

 

 ○

 

 

「…………七海殿? 大丈夫でごさるか? 」  

 

 地下に潜り続けて一時間をとうに過ぎたという頃だろうか、私が足を踏み外して転びそうになったところで楓が即座に真横に現れ、私の肩を支えてくれた。

 

「…………悪い。ありがとう、大丈夫だ」  

 

 息を切らせながら私は楓にお礼を言って、自分の力で再び歩き始める。研究室に籠っていた反動なのか、思ったより私の体力の低下は激しいようで、私はこうして何度か迷惑をかけていた。こんな様で一人で来ようとしていた過去の自分を、笑ってしまいそうだ。

 

「……七海疲れたアルか? 休憩した方がいいアルか? 」  

 

 クーが誰が見ても分かるくらいはっきりとした心配している顔を私に向ける。私は額の汗を拭いつつも首を横に降って答えた。

 

「……心配ない。あと少しで目的地に着くんだろう? もうひと踏ん張りぐらいできるさ」  

 

 なるべく皆を安心させるためににこりと笑って言う。

 

「……七海、あと少しですから頑張ってくださいです。ここの道を抜けて、狭い通路を通ったらすぐです」  

 

 夕映も私を気にかける顔をしながら、次の道を示した。恐らく、このような足場の悪い場所で休憩するより、目的地で休む方が私にとって得策だと思ったのだろう。皆の助けを借りてばかりの自分に嫌気が差しつつも、無理矢理体を動かして彼女達の後をついていく。

 

 それからしばらく夕映に従って進み、狭い通路を服を汚しながらほふく前進していくと、夕映がいつもより明るい声で私達に告げる。

 

「皆さん、この上が目的地ですよ」  

 

 通路の上から光が漏れている場所があり、夕映は下からそこを押し退ける。ごとんという音ともに蓋をしていた岩盤がどき、私達はそこから上に上がる。    

 

 そこには明るく大きな広場があり、奥には2体の巨大な石像と、その間には台の上に本が開いて置いてあった。

 

「うおー! なんだここー!! 」

 

 ハルナが今までの疲れが吹っ飛んだかのようにはしゃぐ。まるでゲームの一場面であるこの場所を見て、相当テンションが上がっているようだ。

 

「魔法の本の安置室です。七海、お疲れ様です」  

 

 私の背をぽんと夕映が叩く。ここにきて私の体は限界を迎えたようで、お疲れ様、と夕映に返した後、私はゆっくりとその場に腰を下ろした。

 

「あそこに本があるでござるな」

 

「一番乗りアルー! 」

 

「させるかーー! 」

 

「あ、私も行くです!」   

 

 目的地について全員体力を取り戻したようで、私を置いて子供のように騒ぎながら本のある場所に向かっていく。すると突然ガコンと床が抜ける音がして、同時に彼女達の悲鳴が聞こえる。  

 私はすぐに立ち上がりその場に近寄ると、四人は本にたどり着く前の場所で罠に嵌まっていた。怪我はしていないようだが、大きく十字の線に区切られている台の上に彼女たちはいた。

 

「いたたたた。完全に油断してたわ」 

 

「…………この床は一体なんなんでしょうか? 」

 

『…………フォッフォッフォ』  

 

 突然の罠に困惑していると、どこからか不穏な笑い声が聞こえる。

 

『フォッフォッフォッフォ…………』

 

「…………これ、どこから聞こえるアルか? 」  

 

 クーと楓が構えをとり、警戒しながら声の聞こえる方向を探していると、2体の石像がゆっくりと動きだした。

 

『この本が欲しくばわしの質問に答えるのじゃー!! 』  

 

 2体の石像は大きく足を上げてからそのまま地面を踏みしめ、壮大な音を立てる。

 

 私は動く石像を見て、口が開いたまま閉まらない。  

 麻帆良大学の工学部ならこのくらいのロボットは作れそうだな、などと現実を逃避するために自分で様々な意見を考えて納得させる。  

 ……しかし、この声はどこかで聞いた覚えがあるような…………

 

「……質問? どういうことです? 」  

 

 意外と肝が据わっている夕映が、少し怯みつつ聞く。しかし、その横でハルナが動く石像にやり上がりきったテンションではしゃぎ回っているため、あまり緊張感はない。

 

『台の上にいるお主たちには、わしが今から出すお題に4択で答えてもらう』

 

「4択? 」

 

『そうじゃ、その台の上は4つに区切られておるじゃろ? そこにそれぞれ答えが浮かび上がるので、正解だと思う所に立つのじゃ』  

 

 勿論、台の上にいないお主に回答権はないぞ、と石像は私に向かって釘をさすように言った。

 

「四人で考えれば楽勝アルよ! 」  

 

 クーは胸を張りながら答える。どうやら四人中三人がバカレンジャーなのを忘れているようだ。私はこの急展開に置いてかれつつも、とりあえずハルナに全てを託すことにした。

 

 

 

 少し間が空き、周りに緊張した空気が流れる。彼女たちはじっと石像を見つめ、石像も彼女たちを見つめる。この空気に気圧されたのか、誰かがごくりと唾を飲んだのを合図に、石像は声を上げた。  

 

 

 

 

『では、問題じゃ! インドで使われる濃厚なバターのことをなんという? ①ガー②ギー ③グー④ゲー』

 

 

 

「なんでそんな問題なんだ? 」    

 

 

 図書館もこの場所も何も関係ない問題に私は思わず突っ込みを入れてしまった。なんというか、もう少しこの状況にあった問題はなかったのだろうか。なかったとしてももっといい問題はある筈だが。  

 

 台の上にいる四人は思いがけない問題にうーんうーんと唸って考えている。あーでもないこーでもないも言っても、この手の問題はそもそも答えを知っていなければいくら考えても解ける筈がなく―――

 

 

 

 

「「③のグー!! 」」

 

 

 

『不正解じゃ!!!! 』  

 

 

 

 

 ―――当然彼女達も間違えた。

 

 四人が勢いよく乗った③と書かれた場所が崩れおち、彼女達は叫び声を上げながら落ちていく。

 

「皆!!! 」  

 

 私は急いで台のそばにかけより、崩れた場所を覗き込む。

 そこは、あまりに真っ暗で何も見えなかった。私は何度か穴に向かって呼び掛けるが、返事はない。

 

 

 

 

『心配せんでも大丈夫じゃ。彼女達はそのまま外に送り出したわい』  

 

 真っ青な顔を浮かべる私に、石像は飄々と言う。即座に前もって借りていたトランシーバーをポケットから取り出して、応答を願うと少ししてから返事が返ってきた。  

 

 

 

 《――七海、大丈夫。こちらは大丈夫です。暗闇に放り出されたと思ったら気付いたら外に…………。すみません、お役に立てなくて…………。七海はなんとか頑張って本を手に入れてくださいです! 》  

 

 

 雑音混じりに夕映の声が聴こえて、私は心底安心した。私が胸を撫で下ろし、一息つくと、石像は上から私に声をかける。  

 

『……さて、七海くん。私が話をしたいのは君じゃよ』

 

「……いいんですか? 4択クイズでなくて」

 

『フォッフォッフォ。あれは君と一対一で話すためだけに用意したものじゃよ』

 

 石像は、相変わらず不気味な笑い声を上げながら言う。私は何度かこの声を聞くうちに、やっと声の主を思い出していた。

 

「……学園長が私になんのようですか? 」

 

『ふむ。ばれておったか』

 

「もう少し隠す努力をした方がよいのでは? 」  

 

 話し方を変えないどころか、声まで似通っているならば、それは気付くだろう。女子中等部の学園長で、このかの祖父にもあたる人がどうやって石像から声を出し、何故こんなことをしているかなどは分からないが、学園長だと気付いたら少し安心した。

 

『普通ならば、気付かんのだがのう。どうやらお主には分かるようじゃな』

 

「…………どういうことですか」

 

『いや、今はその話はいいじゃろう。わしが聞きたいのはそんなことではない』  

 

 気になる言葉を残して、学園長は続ける。

 

 

 

 

『今回の魔法の本捜索の主犯は君のようじゃな。…………何故この本を求めた…………そして、最近世界樹を調べているのは何故じゃ』

 

 

 





クイズの答えは「ギー」です。


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17話

 

 

 学園長からその言葉を聞いたとき、私の心は想像よりもずっと落ち着いていた。前々からこのような場面が起こり得ることを想定していたと言うこともあるし、この場所の異様な雰囲気が逆に私の気持ちを落ち着かせているというのもあるかもしれない。  

 ちらりと、石像の方を見る。物々しい灰色の石な綺麗に研磨され、まるで3Dのフィクション映画を見ているようだった。目には一丸の黄色い光が宿り、真っ直ぐと私を見ている。手に持っている大きな剣を両手で地面に突き刺しており、なんとなくだが、いきなりそれで切りつけられるということはない気がする。 

 

「…………一体なんの話ですか ? 」  

 

 私が初めに選択したことは、とぼけるというものだった。この場から最も綺麗に離脱する、つまりはこの問答の私のベストな帰着点は、私がしていたことを隠し通した上で、地上に帰してもらうことだ。  

 学園長が一体何者で、世界樹を調べる者をどうしたいかは分からないが、何事もなくこの場をやり過ごし、明日からまた今まで通りの日常になれるのが一番良いのは明白だ。

 

 目を下にやり、③の場所だけ崩れている台をみる。隙を見て先程夕映達が落ちていった穴に飛び込もうとも思ったが、地上に戻る仕組みを学園長が管理している可能性を考えると、それは危険でしかない。トランシーバーも突然音がしなくなり、再び使用できるとは思えなかった。

 

『フォッフォッフォ。とぼけても無駄じゃよ。お主たちの今日の教室での一連の会話はその時クラスに残っていた者に聞いておるし、世界樹の枝を大学の研究室に持ち込んでおったのも、裏がとれておる』

 

「…………」  

 

 どうやら学園長は確定的な証拠を既に掴んでいるらしく、簡単には言い逃れできないようだ。これで、もはや私のベストな条件の達成は不可能であることが分かった。  

 私は安易に口を開かず、学園長の目的を考える。この本のことや世界樹のことを探ろうとする訳を聞くのは、何故なのか。  

 

 当然最も思い当たる理由は、これらのことは、誰にも知られてはいけないことであるから、というものだ。  

 いつか長谷川さんに話したように、麻帆良には異常を異常と認識出来ない仕掛けがある。それを仕掛けたのが、世界樹などの秘密を外部に漏れないようにするためであり、 学園長が主犯だとすれば、この問答の意義は納得できる。

 私が世界樹の仕組みを探り、そのために魔法の本を手にしようとしたことも、学園長は把握していると考えた方がよさそうだ。  

 

 これらの秘密をなんのために一般市民に隠そうとしているかを考えるのは、とりあえず置いておこう。  

 不思議パワーの異常さを考えれば、それらを流出させないために隠すのは理解できるし、他にも理由があるのだろうが、はっきりとした答えを得るには参考材料が足りていない。

 

 

「……そうですね。単純に興味があったから調べてみようとしただけですが」  

 

 とりあえず、当たり障りのないことを言う。だが、実際に嘘はついていないどころか、これが真実で全てである。

 

『興味…………のう。それで、調べてみてどうじゃった』  

 

 石像は、全くといっていいほど動かないまま私に尋ねる。相変わらず黄色に光った目は私に向いていて、どこか薄気味悪く感じる。

 

「それは、もう。驚くことがたくさん」  

 

 私は不安を撒き散らすために大袈裟に動作をとりながら述べた。ついでに顔の横に両手を挙げ、やれやれとため息を吐きながらポーズをとってみた。決して余裕がある訳ではなく、動揺を隠すための行動である。

 

 学園長が世界樹などの秘密を知ったもの、もしくは知ろうとしている者をどうするつもりなのかは分からない。だが、私と石像しか存在しない部屋に閉じ込められ、逃げ場がまったくない私には、学園長の質問に答えるという選択肢しかなかった。

 

『ほう。どんなことがお主を驚かせたか、わしに聞かせてくれるかのう』

 

「まだ確証を得られてはいないので、その時に話しますよ」  

 

 学園長は、私が何を知ったかを探るように尋ねるが、私はのらりくらりと抽象的に言う。

 

 そんな風に、私達の間を何度か言葉が往復した時、学園長がため息を吐く声が聞こえた。

 

 

 

 

『……このままじゃ、らちがあかんのう。…………少し、手荒になるが、仕方ないの』    

 

 学園長がそう言った次の瞬間、私の背中は、ぞわりと何かが這いずるような感覚に襲われる。

 

 

 石像の目の光が強まり、急にさっきまでてとはまったく違う空気が漂い、私は怯む。  

 

 夕映達が落ちた穴から吹く風の音が激しくなっていた。こぉぉと、普段なら気にしないよう な音が、私の鼓膜を小刻みに揺らしている。  

 

『……ふむ。それで、七海くん。君は、知ったのじゃろう。世界樹の力の一端に、気付いたのじゃろう』  

 

 おそらく、不思議パワーの事を言っているのだろうか。  

 言葉を吐きながら、動いていない筈の石像から、言い表せない圧力を感じる。目には見えないが、私と石像の間には何かが流動するようで、先程とまったく同じ石像が、まったく別なもののように見えた。

 

 

『その力を、一体どうするつもりなんじゃ。なんのために、力を得ようとしておる。…………もう一度だけ、聞くぞい』

 

 圧力はどんどん増していき、私を追い詰めていく。感じたことのない感覚に、私の足は震え始めていた。身体中から汗が吹き出し、心臓はずっと私の胸を叩きつけ続ける。  

 

 

 

『世界樹を調べているのは、何故じゃ』

 

 

 

 

 止まらない圧力の増加に、私はついに膝をつく。周りがぼやをかけたように滲んで見え、朦朧とする、頭の中で、学園長の言葉が、もう一度響く。

 

 ―――世界樹を調べているのは、何故か。    

 

 何か、答えを、言わなければ。  

 

 ―――どうして、私は……

 

 勝手に口が開き、義務感のように言葉を吐こうとする。

 

 喉から声を発しようとしたその瞬間、気付くと、私は前世の記憶を思い出していた。    

 

 

 

 ○    

 

 

 私は、初めから昆虫が好きだと言う訳ではなかった。初めて昆虫採集に言ったのは、小学生のころ、トンボを採る遊びが周りに流行っていたときであった。  

 当時昆虫に大して興味を持っていなかった私は、嫌々ながらも友達についていく。何人かで池のほとりに訪れ、それぞれ不器用なりに網を振り回す。最初は皆、採ったトンボを見るたびに喜んでいたのだが、小学生の飽きとは早いもので、次の季節が来る前には、網を置いてボールを蹴っていた。  

 

 そんな中、私だけ、網を振るのをやめなかった。  

 池の魚が跳ねる音を聞きながら、靴を泥だらけにしながら、トンボを追う。捕まえたトンボの、蛍光色に光る綺麗な目を見て、私の心は昂っていた。トンボの生態や構造なんかは何も知らない。それでも私は網を振り、捕まえたトンボを観察するだけで、無性に愉しくなる。ある時、珍しいトンボを一匹捕まえた。チョウトンボと言われるそれは、名前通り蝶のように綺麗な羽根を持っていた。従来のトンボと違い、青紫色の美しい翅を見ながら私は子供らしく興奮した。その瞬間から、私は捕まえて見るだけじゃ満足できなくなる。

 

 ―――同じトンボなのに、どうしてこんなに違うんだろう。  

 

 そう思った次の日には、図書館にも通うようになった。貸し出し禁止の大きな図鑑を、涼しく静かな雰囲気が流れる図書館の中で広げて、多種多様の昆虫を見る。  

 信じられない姿をした昆虫、何のためにそんな形態をつけているのか。何故そんなに鮮やかな色をしているのか。専門の本の難しい理由を見ても理解できなかったため、自分で沢山想像した。  

 

 冬が過ぎ、雪が溶け始めたら、私は色んな場所に行って網を振る。周りが呆れ、カードゲームなんかしている時も、私だけは網を持って走り回っていた。  

 涼しげな朝の庭、足元に繁る草木の匂い、太陽の光を透かせる木々の葉、水辺で鳴くカエルの声。全てを体中で感じながら、私は日々新しい発見と興奮に疼く。

 

 中学、高校と行っても、私の趣味は熱を引くどころか、活動範囲を広げていきどんどん活発になっていく。  

 大学は、当然のように昆虫の研究を専門にしている研究室があるところに入り、同じように馬鹿がつくほど虫好きな同士と、幾つもの夜を飲み明かす。  

 そのまま大学院にも入り、より研究できる場所へと移り変わって行くと、気付けば昆虫を研究することが私の仕事となっていた。  

 

 

 

「私たちが研究してることって、必ずしも人の役に立つものではないわよね」    

 

 妻が、私にこんな風に言ったのはいつだっただろうか。確か、付き合って初めて入った喫茶店で、二人でコーヒー飲みながら語っていた時だった気もする。    

 

 「…………私達の研究は、どちらかと言えば文化だ。何かに役立つなど分からないが、 新しい知見の発見を喜ぶ人がいる。それでいいじゃないか」

 

 きっとこの時の私は、暑いコーヒーに舌を火傷させながらも、それを妻に気付かせないようにしながら、冷静に言っていたと思う。

 

「そうよね。国からお金を受け取りながら、好きな研究ができる私達って幸せだわ」  

 

 妻が、店員に冷たい水を頼む。私が火傷したことはばれていたようで、恥ずかしそうな顔をする私を見て、妻はふんわりと微笑みながら、私に聞いた。  

 

 

 

「…………ねぇ、貴方は何故、昆虫を研究をしているの ? 」    

 

 

 

 …………そんなの、決まっているだろう。    

 

 私を見つめて、ゆっくりと笑う妻に対して、私は―――

 

 

 ―――そうだ。私は、確か、こう答えた筈だ。    

 

 

 

 

 ○    

 

 

 

 震える足を押さえつけて、私は立ち上がる。未だに心臓の音は大きく鳴り続け、煩わしさすら感じる。  

 石像から放たれる圧力は先程と同様だが、それでも私は、その質問には堂々と答えなければならない。    

 

 

 ―――調べるのは。研究するのは、何故かだって?

 

 そんなの、決まっているだろう。

 

 

 頭を上げ、しっかりと石像を見る。    

 

 私を動かす原動力は、昔から、いつだって同じで、これからも同じだ。    

 

 私が、研究する理由、それは――――――

 

 

 

「好奇心に決まっているだろう! 」    

 

 

 石像の光る目を力強く見つめて、大声で言う。  

 小学生の頃から、私を動かすものはずっと変わっていない。昆虫が好きで、昆虫に関わるものが好きで、だからこそ、それらを知りたい。

 前世では人生をかけて、好奇心を胸に抱え続けて、研究してきた。  

 

『…………好奇心…………のう。では、その力を知って、如何にするつもりじゃ』  

 

「どうもこうも、しない。私はずっと、知りたいだけだ」  

 

 知りたいという欲求だけで、私はここまで来た。不思議パワーという道が、麻帆良の生物にどんな影響を与え、進化の道筋を示してきたのか、私は考えてみたかっただけなのだ。

 

『万が一、世界樹が、お主に大きな力を与えることがあるとしても ? 』

 

「そんなの、まったく私の琴線には触れないし、私の興味の範囲ではない。私が調べたいのは、世界樹の影響による昆虫の変化だ。力など、必要だと思ったことはない」    

 

 自分の運動神経が上がるだとか、不思議な能力が使えるだとか、そんな力が世界樹にはあるのかも知れない。しかし、私はそれを求めようなどとは一切思っていない。  

 

 

 そんなことよりも、私は私の知りたいことが知りたいだけだ。    

 

 石造の瞳に映る黄色い光が、いまだに私を見つめづづける。

 だが、私はその光から決して目を逸らそうとはしなかった。

 

 

 

 

 

 

『………………フォッフォッフォ』

 

 石像が笑い出す声が聞こえたのは、私たちの間に長い沈黙が流れた後であった。

 それと同時に、いつの間にか体の重みがなくなっており、妙な圧力も消えていた。

 

 

『フォッフォッフォッフォッフォ! 』  

 

 

 いきなりおかしくなり始めたのか、学園長はずっと笑っている。私はそれを見て、どうすることも出来ずに、呆然としていた。  

 

 

『好奇心、知りたいだけ、力に何も興味がないとはのう。お主には悪いことしたわい』

 

「…………何が言いたいのでしょうか? 」

 

『いや、何でもないぞ。そういえばわしも世界樹の全てを知っている訳ではなかったの』

 

 石像がやっと動き始め、髭など生えていないのに顎の下をなぞるような動作をする。

 

『因みに聞くが、世間に公表するつもりは? 』

 

「ないです。誰にも信じて貰えないのは明白ですし、いまや私の趣味として調べているだけです」

 

『そうかそうか。お主が勝手に調べる分には、わしが許可するわい。ほかの者にも言っておこう』

 

 やはり、世界樹の管理は学園長がしていたらしい。しかし……。

 

「……どうして突然……」

 

 先ほどまでの態度とは、あまりに違いすぎるのではないか。

 

『ふむ……そうじゃのう』

 

 石像は再びない髭をさするようにした。

 

『知識を得ようとする学生を止めるのは、教師として失格だからのう』

 

「……」

 

 言いたいことは幾つかあったが、私は何も言わないことにした。

 色々とあったがひとまず世界樹の管理者から研究の許可を得られたのだ。そのことだけで私のテンションは上がっていた。  

 

 

 

 

『さて…………では問題じゃ!! 』

 

「は? 」  

 

 

 しかし、いくらテンションは上がっていようと、突然問題などと声をあげる石像に、私は疑問の言葉を投げかけずにはいられなかった。それを無視して学園長は続ける。  

 

 

『……魔法使い初心者が始めに習う、火を灯す魔法の呪文の詠唱は? 』  

 

 …………魔法使い? 呪文? 詠唱?  

 

 聞き慣れない単語を耳にして、私の思考は止まる。  

 このふざけた質問の答えなど考えるつもりはなく、私は質問の意図は探ろうとしていた。

 

 わざとありもしないことを言って私を不正解にさせたいのか、それとも…………  

 

 

 

 

 ……本当にそれらが存在していて、学園長は私にそのことを教えようとしてくれている………… ?

 

 

 

 

『……時間切れじゃの。正解は、「プラクテ ビギ・ナル 火よ灯れ(アールデスカット)」…………じゃよ』    

 

 

 

 

 学園長がそう言うとガコンと音がなり、私が立っていた地面がいつの間にか消える。    

 

 

 

 真っ暗な空間へと落とされていった後、気がついたら、私は図書館島の外にいた。

 

 



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18話

 

 

「高畑せんせーさよーならー! 」  

 

 廊下を勢いよく走り抜けながら、すれ違い様に二人の女子生徒が僕に挨拶をしてくれた。廊下を走らないように、と注意する間もなく楽しそうに駆け抜けていく彼女たちを見て、僕は少しの苦笑いを浮かべる。

 しかし、担当するクラスの生徒でなく、学校内で何度かあっただけなのにこのように元気に挨拶してくれるのは、嬉しくもあった。  

 窓から差し込む夕陽の光によってオレンジ色に染められながら、僕は学園長室に向かって廊下を歩く。その後も何度かすれ違う生徒と挨拶をしながら進み、学園長室が目にみえる場所までつくと、その部屋の扉が開いたのが分かった。    

 

 長い黒髪を流しながら学園長室の中から出てきたのは、僕のよく知ってる生徒だった。  

 彼女は僕に気付いて会釈した後、近寄って話しかけてくれた。

 

「高畑先生、戻ってこられたんですか」

 

「そうだね。ちょうど今こっちについて学園長に報告するとこなんだ。七海君、僕のいない間A組はどーだった? 」

 

「いつも通り、ですね」

 

「いつも通り、かぁ」

 

「はい。いつも通り、騒がしいクラスでした」  

 

 七海君はそう言いながらも少し微笑んでいた。その様子から彼女があのクラスを好いてることが分かって、僕も釣られて笑みを浮かべた。

 

「高畑先生も、大変でしょうが頑張って下さい」  

 

「ははは、生徒にそんな心配されるなんて、僕もまだまだだなぁ」  

 

 片手で後頭部を描くようにしながら僕は言う。  

 そして、あのクラスを御しきれていないのは事実である。  

 

 僕のクラスは他のクラスよりも元気が余るほどありすぎて、よく暴走してしまう。多少子供っぽい生徒が多いせいか、少しのことで大袈裟に喜んだり驚いたりと彼女達はとても忙しい。青春を全力で謳歌することはまったくもって構わないのだけれど、たちまち廊下中に声を響かしているため、当然新田先生には何度も怒られている。僕も注意はするんだが、その時は聞き分けがよくても目を離すとまた騒がしくなっているということは、少なくなかった。  

 

 そんなとき、クラスをまとめようと率先してくれるのは委員長のあやか君と七海君だ。

 あやか君は皆の前に立って行くべき道を示し、七海君は後ろからそっと静めようと修正してくれている。

 

 「…………君たちには、迷惑をかけるね」  

 

 不意に、そんな言葉が口から出てしまった。普段世話になっていたからか、何度もクラスを離れてしまっている罪悪感を感じたからかは、分からない。  

 七海君を見ると、きょとんとした顔をしていた。

 

「迷惑だなんて、思ったことないです。私もあのクラスが好きですし、高畑先生が一生懸命なのは彼女達に伝わっています」

 

「…………そうかな」

 

「そうですよ」  

 

 にこりと微笑んで彼女は僕に言う。こんな風に会話をしていたら、七海君が年下の生徒だと言うことを忘れてしまう時がある。普段は生徒にこんな話をすることはないんだが、あまりに大人びた彼女にちょっとした弱音を吐いてしまったのは、そのせいだろう。

 

「では、私はこれで失礼しますね。呼び止めてすいませんでした」  

 

 礼儀正しく会釈して、彼女は僕が来た道を戻っていく。生徒の中でも珍しい膝下まで伸ばしたスカートを揺らしながら歩いていく彼女に、思わず僕は声をかけてしまった。

 

「…………七海君! 」

 

「…………?まだなにか? 」

 

 ゆっくりとこっちを振り向いて、彼女は小首を傾げる。

 

 

「……いや、気を付けて帰るんだよ」  

 

 

 

 彼女は僕に再び会釈して、夕陽に染められながら僕から離れていった。    

 

 

 

 

 ○  

 

 

「失礼します」

 

「おお、帰ってきたのかね」

 

「ちょうど今戻りました」  

 

 学園長室に入り、大きな机を前にして座っている学園長に報告をする。長い後頭部と無造作に生えた白い眉と髭は相変わらずであった。

 

「ついさっきまで、七海君と話をしておったんじゃ」

 

「ええ、彼女がこの部屋を出ていく所を見ましたよ。…………彼女は何の用でここに? 」  

 

 僕がそう聞くと、学園長は伸びきった髭はなぞりながら答える。

 

「ふむ。彼女が魔法の存在を知ったのでのう」

 

「…………記憶を消したのですか? 」

 

 七海君が世界樹を調べているという情報は、既に聞かされていた。魔法先生の中でそのことを知っているは僕と学園長だけで、彼女の存在をどうするかという議論は二人で何度か行っている。僕は彼女が悪事を働くとはどうしても思えず、彼女の真意が分からぬまま記憶を消そうと踏み出すことは出来なかった。

 …………自分でも、甘いとは思っている。

 

「いや、何もしておらん。彼女がこの学園に害を与えるつもりでないのは、確認した。それどころか、最終的に魔法の存在を教えたのはわしじゃ」  

 

 ふぉっふぉっふぉと、何がおかしいのか全く分からないが、学園長は笑う。学園長がそう言いきるからには、多少強引に魔法を使ってでも彼女の意思を確かめたのだろう。  

 僕はその言葉を聞いてほっとする反面、不安も抱える。

 

「……いいんですか? 彼女に危険が及ぶのでは? 」  

 

 自分の受け持つ生徒の記憶を消したいなどと思ったことはない。しかし、その記憶のせいで本人が危険に及ぶのであれば話は別だ。特に、世界樹の情報など持っていてろくなことにはならないだろう。

 

「今更七海君の記憶を消したところで、彼女はまた同じところに行き着くわい。どうやら中等部に入る前から世界樹には興味を持ったそうだしのう」  

 

 記憶を消す魔法も、完璧なものではない。たまたま見てしまったときなんかは一時の記憶を消去するだけですむが、長い期間それについて知識を持っているものの記憶を消すと、副作用が多くなってしまう。また、魔法など関係なく世界樹そのものを調べようという意識が強い彼女の場合、記憶消去をしてもまた世界樹に手が延びるだろう。  

 

 しかし、記憶消去が無駄だからと言って行わなくても、それでは危険から遠ざけることにはならない。  

 僕がそう考えているのを察したのか、学園長は僕を見て聞く。

 

「……七海君に何故世界樹を調べるか聞いたときなんじゃが、何と答えたと思う? 」

 

「……彼女はなんと言ったんですか? 」  

 

 学園長は愉快そうに目を細め、長い眉により彼の目の場所が分からなくなる。  

 

 

「好奇心、じゃと」  

 

「好奇心、ですか…………」    

 

 彼女らしいな、と思うのと同時に、気付けば僕は少し微笑んでいた。

 

「この学校の生徒は、皆何かに一生懸命じゃ。熱心に部活動に励んだり、趣味に没頭したり、サークル活動に精をだしたり、ひたむきに楽しんでおる。七海君の場合、それが世界樹の研究だったわけじゃ」  

 

 学園長は、髭に包まれた口をもごもごと動かして話す。いつも通り陽気な顔をしているが、真面目に語っているということが分かるほど、真剣にはっきりと言葉を発していた。

 

「しかし、好奇心は猫をも殺すとも言います」  

 

 僕がそう言うと、学園長はゆっくり椅子から立ち上がり後ろにある窓に目をやる。夕日に染まる外を見ると、揃えたユニフォームを、来ている少女達がいた。列になり、必死に声を出しながら、彼女たちは白線の上を走っている。

 

「…………その通りじゃのう。だがの、自分のやりたいこと、興味あることに一生懸命な生徒を後押しすることこそ、わしらの仕事じゃと思うのじゃ。彼女に危険が伴う可能性があるというのは否定できん。しかし、そんな危険から生徒を守るためにこそわしら魔法使いがいるのじゃろう? 」  

 

 生徒には学校生活を精一杯楽しんでもらう。魔法を知ってようが知っていまいが、そんな彼らを影ながらも守るために僕達はいる。  

 学園長はそう言って、外にいる生徒たちをみて満足げな表情をしている。

 

「…………そう、ですね。僕達が、頑張らないとですね」  

 

 僕は学園長に同意しながらも、こんな風に言う学園長を珍しくも思った。

 七海君への対応もそうだが、学園長はA組の生徒達には何か思うところがあるのだと思う。一癖も二癖もある生徒を集め、頻繁に出張にいく僕をわざわざ担任につけた。推測だが、学園長は、今後起こり得る何かを予知し、このようなクラス編成にしたのだろう。

 

   …………そこにどんな想いがあったかは分からない。だけど、僕はこんな言葉を言った学園長を、信じようと思った。    

 

 

 それから、その話に区切りをつけて一つ二つ話をした後、僕はある少年のことを話題に出した。

 

「そういえば、ネギ君の顔も見てきましたよ」

 

「…………彼の様子は、どうじゃった? 」  

 

 学園長は、数年前に起きたあの悲劇後の彼の心配をしているのだろう。  

 ……あれは、今思い出しても、酷い事件だった。

 

 

「今はかなり元気を取り戻して、熱心に魔法の勉強をしています」

 

「ほう。それはよかったのう」

 

「きっと、彼の周りの人の力が大きいと思います」  

 

 事件後のネギ君は、本当に見ていられなかった。何故か一連の出来事を自分のせいだと決めつけ、酷く憔悴していた。そんな彼を、彼の幼なじみや村の住人たちは、何度も何度も励ましていた。特に、ネカネさんは彼に寄り添って言葉をかけ続け、彼女こそが彼を立ち直らせる要因であったと思う。優しくもはっきりと物を言い、同じ目にあったのに凛としている彼女は、輝いて見えた。

 

「彼の成長もまた、私たちの楽しみの一つじゃのう」

 

「ええ。…………本当に」  

 

 英雄の息子。そのレッテルだけでネギ君の人生は大きく影響されるのだろう。だが、あの悲劇から立ち直り、何とか前に進もうとがむしゃらに頑張る彼と、その彼を支えるネカネさんたちを見ると、僕はあの英雄を思い出す。  

 

 勝手かもしれないが、ネギ君ならば、どんな困難でも乗り越えられるような青年になれると、僕はひっそりと期待していた。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 学園長室で学園長と会い、廊下で高畑先生と軽く話をした後、私は真っ直ぐに寮に向かい、自分の部屋に戻っていた。  

 

 昨日の夜、学園長に図書館島から無理矢理外に出されると、夕映達はすぐに私の元に近寄ってきた。トランシーバーが通じなくなったことで、私をすごく心配してくれたらしい。  

 私は彼女達に頭を下げ、「魔法の本」を手に入れることが出来なかったことを謝った。しかし、彼女達は私が無事ならばと笑って私を迎え、皆で寮に戻った。    

 

 そして今日、私は放課後すぐに学園長の元へ向かい、話をしに行った。  

 本当に魔法などあるのか、何故私にその存在を示唆させたのかと私は彼を問い詰める。  

 

 すると、学園長は隠そうとする様子もせずに私にその存在を語った。  

 目の前で杖から炎を出し、フォッフォッフォと笑う彼を見て、私はついに魔法を認めてしまった。何故突然私にその存在を教えたかと言うと、やはり世界樹を調べていると危険なことが起こり得るらしく、その時私を守ろうと魔法を使っても驚かれないためだと、彼は言った。  

 

 その言葉がどこまで本気かは分からないし、他に裏がある気もするが、今はその言葉を信じることにした。  

 

 その後、世界樹を調べる時のルールを学園長と二人で決めた。  

 1.夜には絶対に世界樹に近づかないこと。

 2.世界樹から研究材料をとる前に学園長に一言述べること。  

 3.たまにここで学園長と囲碁でもすること。  

 

 最後のルールはよく分からないが、1と2については同意した。管理者に話を通してから採集に行くのはある意味当然のことであり、私は特に抵抗がなかった。  

 

 その後、魔法使いのことなどの話も少々聞いたが、私はあまり興味がなかった。  

 相変わらず私は魔法になんぞに憧れを抱かないし、立派な魔法使いを目指しているなどと言われても、私には特に関係ないな、とまで思ってしまった。  

 彼らが何を持って立派だとしているのかは分からなかったが、世の役に立てるように頑張っているとするなれば、私は立派であると思う。ただ、それらのことを聞いても、私は応援するくらいのことしか出来なかった。    

 

 部屋に戻ってきて、制服のままベッドに倒れ込む。

 ふわふわの掛け布団が下から私の体をやんわりと押し、柔軟剤の匂いを感じながら私は心地よい気持ちになる。    

 

 昨日夜、「魔法の本」は手にすることは出来なかったが、魔法の存在とそれを知るものとコンタクトを取れただけで、私としては大収穫だったな。  

 

 そんなことを思いながら布団に顔を沈めると、急激に睡魔に襲われる。昨日の疲れが一気に来ているようだ。  

 

 半分寝ぼけながらも、私は人差し指を空に揺らしながらふざけて唱える。

 

 

 

「…………プラクテ ビギ・ナル 火よ灯れ(アールデスカット)」  

 

 

 当然、杖も持たず何も考えないでに唱えても火が出ることはなかった。  

 

 幼少の頃、魔法などアニメの世界を信じていた時と同じようだなと思い、恥ずかしさを感じるのと同時に、ここ2,3日でのあり得ない出来事に簡単に順応してきている自分は、図太くなったぁと可笑しく思った。

 

 

 



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19話

 

 

 

 

 

 

 静かな場所だった。  

 

 どこからかほんのりと黄色の光が射し込んでいて、朝日のように周りを照らしている。  

 

 少し足を動かすと、かさりと音がなる。下を見ると、背の低い草達が私の靴に踏みつけられていた。  

 風が吹く。  

 私の髪は揺れなかった。

 不思議に思い頭を手にやると、髪が短くなっていることに気付く。  

 周りを見渡す。  

 大きな木の横に一人の女性がいるのを見付けた。懐かしくて、胸の中の何かが込み上げる。  

 風が吹く。  

 

 木の葉が擦り合う音が聞こえ、彼女の髪が大きく舞う。

 私は、彼女の元に向かって足を踏み出す。

 風が私の背中に吹きつける。草が繁る地面は下から私を押し出す。早く、早くと急かすようだ。

 彼女の顔がうっすらと見える。  

 多分、笑顔だと思う。  

 彼女に向かって、私は手を伸ばした。  

 

 すると、急に世界はスローモーションになり私の手は中々届かない。私の体が段々と朽ちていき、手が空にから回っていると、彼女がゆっくりと口を開いて言った言葉が、私の耳に届いた。      

 

 

 

 …………もしかして、泣きそうになってる?      

 

 

 泣きそうになど……………………

 

 

 

 

 ○    

 

 

 

 目を覚ますと、見慣れた部屋の壁が私の瞳に映る。私はゆっくりと体を起こし、壁に掛けられた時計を見る。時計の針は2本ともちょうど真上を指していて、午前中まるまる寝ていたことを思い知った。今日が日曜日であったことに感謝しながら、体を伸ばす。最近、疲れが取れていないのかこんな風に寝過ぎてしまうことが何度かある。  

 

 私はベッドから降りて、洗面所に向かう。随分見慣れてしまった私の顔を鏡で見ると、目の端に水滴が流れていることに気が付いた。何か悲しい夢でもみたのかもしれないが、よく覚えていない。  

 蛇口を捻り、水を出す。両手を皿のようにしてその水を受け止め、指の隙間からこぼれ落ちる前に顔に浴びさせる。  

 何度か同じことをした後、髪を整え、歯を磨く。歯ブラシを左右に動かし、シャコシャコと軽快に音を立てながら洗面所から移動した。テレビの前にある机の上にあるリモコンを手にとって、電源ボタンを押す。グルメ番組が流れ、レポーターが大袈裟に噂の焼き鳥店を紹介していた。昼から焼き鳥はどうなんだ、と思いながら窓に近寄ってカーテンを開けた。  

 部屋に一気に光が流れ込み、途端に明るくなる。燦々と照り付ける太陽からの光を浴びて、私は目を細める。  

 

 

 セミの鳴く声の聞こえるこの季節は、夏であった。  

 

 

 

 

 ○  

 

 

 私が魔法を知ってから、数ヶ月経った。気付けば中学一年生から二年生になっており、クラスの生徒が大人っぽくなった。……なんてことはなく、いつも通りのA組であった。と言っても、私も特に変わった様子はない。必死に杖を降って魔法を覚えたり、何かに巻き込まれて急に襲われたり、それから魔法使いに助けられたり、などというイベントが起こることもなかった。

 

 魔法を知ろうが、結局は今までと変わらず、私は世界樹と昆虫の研究をしていた。冬の間はほとんどの昆虫が活動出来ないため、教授の手伝いやデータ整理などをしていたが、春先になって再び自分の知りたいことを調べることに躍起になっていた。  

 

 初めは不思議パワーによる昆虫の身体強化について調べるため、魔法に同じような効果をもたらすものがあるかと、学園長に聞いた。  

 学園長曰く、身体能力を強化する魔法は確かにあるらしい。魔法使いはその魔法を使って、魔力と呼ばれるものを自分もしくは他人に流し入れ、体を強化しているのだとか。……どのタイミングで何のために人を強化する必要があるかは、聞かなかった。  

 とりあえず、世界樹の影響を受けた昆虫がそれと同様に、世界樹から魔力をもらい、自分を強化しているのだろうと推測した。  

 しかし、ここで気になるのは、白蟻の形態変化やカブトムシの角のサイズの増大についてだ。  

 呪文などにより魔法を使うわけではなく、ただ世界樹を食すことだけにより彼らは姿を変える。世界樹の魔力と、自らを強化する際に与える魔力とがまったくの同性質の物であるならば、魔法使いが自身を強化する魔法を使った時に魔力を流してしまったら、姿も変わってしまうのではないか。  

 学園長にそれを尋ねると、魔法には自分の姿を変えつつ強化するものもあるが、純粋に魔力を送り込むだけでは、大きく姿を変えるような効果はないと言った。    

 

 つまりだ。

 昆虫達が世界樹の力を受けると、少し特別な影響を受けていることがわかる。

 それが、世界樹の内包する魔力が通常の魔力と異なるからか、昆虫がもつ魔力を取り込む受容体が人とは異なるからか、もしくは昆虫が魔力というものに対しての反応が激しいだけなのかは未だに分からない。  

 どちらにせよ、私の予想では世界樹を食すということがキーであるのではと考えている。世界樹を近くに置いただけの場合は、形態変化するまでの影響はなかったことからも、そう言えるだろう。

 

 ともかく、そこまで考えた私は今どうにかして他の昆虫にもどうにか世界樹を食すことが出来ないかと色々試してみたり、世界樹を食すことによる行動の変化や他の個体への相互作用なんかも調べてみたりしている。    

 

 調べても調べても新たな疑問が浮かび、私の知りたいことが尽きることがない。そんな今を、私はとても愉しく感じているようだ。    

 

 

 

 

 ○  

 

 

 

 身なりを整え、私は自分の部屋の玄関を開けた。ジーパンに半袖のTシャツと単純な格好であったが、特に気はしない。しっかりと鍵を掛けたのを確認してから、寮の出口に向かっていると、途中すれ違ったクラスメイト達にカラオケを誘われたのだが、やんわりと断った。大袈裟に残念そうな顔をする彼女達を見て、次の機会があったら必ず行くと約束した。すると、たちまち笑顔になった彼女達を見て、単純すぎると思いながらも私も笑みを浮かべていた。    

 

 寮から外へ出て、麻帆良大学へ歩いて向かう。太陽が遠慮なく私に日を浴びさせ続け、じんわりと汗が肌に染みるのが分かった。これだけ気温が高いのにも関わらず、外には多くの生徒達が走り回っていて、元気だなと感心していた。  

 二列の木が挟むようにしている道をゆっくりと抜け、少し市街の方へと入る。学生だけでなく老若男女様々な人が見られ、それぞれが休日を楽しそうに謳歌していてるため 騒がしい通りになっていた。  

 

 そのまま歩を進めると、前方に見慣れた制服を来た人が目には入る。休日なのに制服なんだな、となんとなしにその子の後ろ姿を見ると、珍しい緑の髪にアンテナまで生えている後頭部のおかげで、すぐに誰か分かった。  

 付けようと思ったわけではなく、行く先が同じようで必然的に私が彼女の後ろを歩く形になる。彼女は手にはスーパーの袋を持ち、歩くのと同時に規則正しくそれを揺らしている。前から走ってきた幼い子供たちは彼女に元気に挨拶をしていて、私は彼女に声を掛けるタイミングを見失っていた。    

 もう少し歩くと、彼女は少し人気の離れたところに向かおうと方向を変える。そっちにはちょっとした空き地があるだけで、めぼしいものは何もない筈だと思いながら、気付けば好奇心に釣られ私は彼女についていっていた。

 …………結局、あとをつけるような形になっていたことは、後で謝ろうと思う。  

 

 空き地の真ん中で彼女が座り込むと、脇から何匹か猫が寄ってきた。どうやら彼女は、猫達に餌をあげるためにここに来たらしい。  

 ビニール袋から猫用の餌を取り出す彼女に近寄って、私は静かに声を掛けた。

 

 

「茶々丸は、猫が好きなんだな」  

 

 茶々丸は私の声が聞こえると、座ったままゆっくりと振り替えった。

 

「ついてきていたのは、明智さんでしたか」

 

「……それについてはすまない。どこに行こうとしてるか気になってな」  

 

 構いませんよ、と彼女はロボットとは思えないほど流暢に答えた。  

 茶々丸は買ってきた猫缶を開けて、わざわざ持ち歩いている容器に中身を入れる。猫達はゆっくりとその餌を口にしながら、にゃあと可愛く鳴いていた。

 茶々丸はそんな猫達の姿を、じっくりと見つめていた。なんとなく、私も彼女の横に座ってその様子を見る。彼女は急に横に来た私をちらりと見たが、何も言わずにすぐに視線を猫達に戻した。    

 

 猫の鳴き声と容器をカタカタと鳴らす音だけが私達の耳に入る。しばらく私達は何も会話をしなかったが、居心地が悪いとは感じなかった。  

 

 頭のアンテナ、体の節々に見える機械的な関節から、彼女がロボットであることは間違いないように見える。しかし、人間と同じように言葉を理解して話をし、動物を慈しんでいる彼女を見ていると、人間との区別がはっきり出来ない。現実的に考えてこんなロボットを作れるとは思えないが、魔法のことを知ってしまったのでその類いの物ではないかと勝手に納得していた。  

 彼女がエヴァンジェリンとよく一緒にいることからも、そう思ったのかも知れない。  

 

 エヴァンジェリンの存在については未だに触れていないが、私は彼女も魔法使いなのではと推測していた。というより、歳をとらない魔法があると考えないと、彼女の不思議が解決出来ないためそう思うしかないのだ。そんな風に考えると、昔ほどエヴァンジェリンを恐れることがなくなった。何より、この一年半、彼女が私に接触してこなかったことから安心しているというのもある。

 だからこそ、茶々丸に話しかけようと思ったのだが。    

 

 何匹かの猫はお腹がいっぱいになったのか、餌から離れていく。また一匹と数は減っていき、今や餌を口にしているのは一匹の子猫だけになった。茶々丸は体勢をずっと変えず、最後の一匹になるまで猫を見つめていた。    

 

 

 魔法のことはまだよく分からない。しかし、魔法により本来意思を持たない筈のものに意思を持たせ、そして、それが今いる生物の命を大切にしている。  

 

 そのことが、私にはなんだか素晴らしいことのように感じた。  

 

 

「……素敵だな」    

 

 

 最後の猫を見送って、餌を入れた容器を片付けている茶々丸に思わずそう言ってしまった。  

 

「……何がですか? 」    

 

 すくっと立ち上がりながら茶々丸は私に聞き返す。  

 君がだ、なんてキザっぽい台詞を言える訳もなく、私は何でもない、と言葉を濁した。  

 彼女は私の言葉を若干気にかけた様子を見せたが、それ以上聞いてこなかった。  

 

 日の光が薄い雲に遮られ、少し辺りが暗くなった時、私達は空き地を抜けるように二人で並んで歩きながら、会話をする。

 

「明智さんは、これからどちらに? 」

 

「麻帆良大学にちょっと用事があってな」

 

「大学ですか。そういえば、時折大学で明智さんを見かけたことがあります」

 

 そう言われ少し驚く。私から彼女は見たことがなかった。

 

「茶々丸も大学に来ることがあるのか? 」

 

「はい。メンテナンスをそこで受ける時があります」

 

 淡々と言われたその言葉の意味を考えてしまう。こうして話しているとまったく分からないが、彼女は確かにロボットであるらしい。そして自分がロボットである、ということを隠そうとはしていないようだ。

 

 

「茶々丸はこれからどこへいくんだ? 」

 

「私はマスターの元へ向かいます」

 

「マスター? 」

 

「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを指しています」

 

「ああ……」  

 

 同級生に「マスター」などと呼ばせていることに少し身構えてしまったが、彼女がメイド的な役割のロボットと考えれば納得出来ないこともなかった。

 

「エヴァンジェリンは今どこにいるんだ? 」

 

「和菓子が切れたので、学園長の所へ催促しに行くとおっしゃっていました」

 

「催促」

 

「私の内部にある言語辞書から考えれば、あの行動は催促というよりも強盗、もしくは脅迫というものに近いかもしれません」

 

「…………だめじゃないか」

 

「マスター曰く、あのじじいには何してもいいんだ、だそうです」

 

「そ、そうか」  

 

 学園長の所に気軽に向かっていることから、エヴァンジェリンが魔法使いである可能性を強めた。しかし、和菓子を催促(?)出来るほどの仲だとすると実は彼女は結構歳とっているのかもしれない。魔法で成長を止められると考えたらあり得ない話ではない。  

 

 

 

 

 

「ちょうど今、じじぃから大量に菓子を強奪してきた所だ」      

 

 

 その時。

 突然、後ろから声を掛けられ、私はびくりと胸を衝かれたような想いになる。

 

 

 振り向くと、そこには黒いワンピースを来たエヴァンジェリンが、お菓子の入った紙袋を両手で抱えて、ニヤリと笑っていた。

 



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20話

 

 明智 七海という生徒は、餓鬼っぽいやつが集まる私のクラスの中では、珍しく大人びた奴であった。馬鹿な言動をすることも少なく、騒がしい周りから一歩引きつつも、見守るようにクラスメイトと共にいる。あいつらの存在を愛おしく思ってるような表情をする時もあり、その視線は、同じ生徒というよりは、親のようにも見えた。

 そして、平和の中にはいるのだが、何も考えずただ与えられる日常を謳歌してるやつとは異なり、日々何かを考えて、行動しているようだった。いや、思考することを楽しんでいるのだろう。でなければ、わざわざ大学の研究施設になぞ通うまい。何を調べているかなど興味はなかったが、馬鹿みたいな他のクラスメイトよりはほんの、ほんの僅かだが、好感を持てた。  

 さらに、不思議なことに、こいつは魔力も気も欠片も感じず、格闘技の心得がある仕草も見られないのに関わらず、私を気にかける節が何度かあった。

 私が珍しく教室に来れば一番に注目、その後もふとした隙に私に視線をやっては、すぐに背ける。特に鬱陶しいと思うようなことはなかったため放置しておいたが、そんな奴が私の従者に接触しているとなると、流石に少し気になる。

 

 特段何かしてやろうとは思ってはいないが暇潰し程度にはなるかと、菓子を持った私は茶々丸と共にいる明智 七海に声を掛けることを決めた。  

 

 

 ○  

 

 

 

 

 私が前を歩く二人に声を掛けると、二人は同時にこちらを振り向く。茶々丸はいつも通りの表情を変えないが、明智 七海はひどく驚いた顔をしていた。

 そんな顔をする二人を無視して私は紙袋の中の手をやり、どら焼きを掴み当てた。

 ゆっくりと取り出して歯と片手を器用に使い封を開けてから、一かじりする。    

 

 うむ、うまい。    

 

 もみゅもみゅと口を動かす私を、明智 七海はじっと見つめている。熱烈な視線を貰うのも悪くはないな、などとくだらないことを思いながら、ごくり、とわざと音を立てて咀嚼したものを飲み込んで、私は問う。

 

「どうした明智 七海。そんなに見つめて。私の顔が気になるのか? 」

 

 ニヤリと不適に笑いながら明智 七海を見た。こいつの挙動を見る限り、どうやら私をやたら警戒しているのが分かる。もしかするとこいつも魔法関係者なのかもしれない、が、力を持たない魔法関係者などいるのだろうか。  

 

(……試してみるか)

 

 私が奴に圧をぶつけてみれば、何らかの反応は示すだろう。

 私が殺気を込めようとしたその時、明智七海はゆっくりと手を挙げ自身の頬の横を指さした。

 

「あのな、エヴァンジェリン。あんこがついているぞ。右の頬だ」

 

「っなぬ! 」  

 

 若干申し訳なさを込めながら、明智七海は私にそう伝えてくれた。それを聞いてすぐに茶々丸が私に近寄り、ハンカチで口回りを拭き取りにきた。

 くそう、折角いい感じの雰囲気を出してたのに台無しだ。あんこめ、大事な時ひっついてきよって。

 丁寧に口にハンカチを当てにくる茶々丸を、恥ずかしさにより手でのける。

 

「……どうだ? 茶々丸。とれてるか? 」

 

「完璧ですマスター」  

 

「ほかに拭き残しは? 」

 

「一切ありません」

 

「よし」

 

 明智 七海に背を向けて自分の手の甲で口を拭った私は、再三茶々丸に確認とる。どうやらこれ以上醜態を晒すような失敗はしないでよさそうだ。

 気を取り直し、私はもう一度明智 七海を振り返り問い直す。

 

「どうした明智 七海。そんなに見つめて。私の顔が気になるのか? 」

 

「…………」  

 

 take2は上手くいったようだ。びびった明智 七海は声も出せていない。ふふん、いい気分だ。

 

 ちらりと茶々丸に視線をやると、子を見守る母親のような何だか母性ある暖かい表情をしているように見えた。なぜだ。

 

 

「……いや、いきなり声を掛けられて驚いただけだ。気に触ったなら謝る」  

 

 明智 七海は私にゆっくりと頭を下げてきた。その仕草を見て、私は頭の中に一つの記憶が甦り、すぐに消えた。

 どこかで、私とこいつは話をした気がする。思い出し損ねた記憶に疑問を感じながらも尋ねる。

 

「……貴様、私といつか会ったことがあるか? 」

 

「ない」  

 

 即答だった。明智 七海は堂々とした姿勢でまったく表情を変えず、きっぱりといい放った。

 …………だが、甘い。

 

「私の質問の後、僅かに緊張したな。必死に何かを隠そうとしたようだが、私には分かっているぞ」

 

「――っ! 」  

 

 一歩、明智 七海へと近寄る。すると、地面と靴裏が擦れ、じゃり、と音を鳴らすのが聞こえた。近付いた分、こいつは足を少し下げ、若干後退している。

 

「私が近付くと、心拍数が上がったな。警戒しているのがばればれだぞ」

 

「…………」  

 

 もう一歩、踏み寄る。

 一端の中学生にしてはポーカーフェイスができているが、何の心得もない奴が自分の心を完全に操作できるはずなどない。そして、600年という長い時間様々な人間を目にしてきた私にとって、素人の大まかな感情を読み取ることなど造作でもない。

 

「さぁ、言え。私とお前はいつどこであった? 何故貴様は私をそこまで警戒している」

 

「…………」  

 

 一歩、さらに一歩と近づいていく。明智 七海は後ろに下がることも出来なくなったようで、私との距離はほぼ0になる。

 

「……っ」

 

 その時だ。明智 七海の顔色はどんどん悪くなり、急に呼吸が激しくなったのは。胸は大きく上下し、額に汗がつたるのが見えた。その突然の変化に不自然さはあったが、私にビビっていると思えば悪い気はしなかった。

 

「おいおい。どうした? いつも私を見ていただろう? 気になることがあったのだろう? 今なら何でも答えてやる。そら、言ってみろ」

 

 私が迫るにつれて、呼吸の粗さはさらに増す。辛そうにしながら、こいつは胸を押さえだした。

 

「なぁ、どうした、明智―――」

 

「……あの、マスター。その辺で……」  

 

 お遊びがすぎたのか、茶々丸から止めが入った。確かに、魔力の欠片もないやつにやりすぎたのかもしれない。気になるといっても、所詮暇潰し程度。本気な訳でない。

 こいつのこの態度からして、何かしら昔にコンタクトがあったことは間違いないが、大方侵入者相手に暴れる私を見てしまっただとか、その程度であろう。

 魔力や戦う術はを持ってはいないが感じないが、魔法使いに関する知識だけある。そんなとこだろうか。実際にそういうやつなど今までに何人も見てきた。

 

「……ふん。まぁいいか。自力で思い出した時に詳しく聞きにいくぞ」  

 

 そういって、呆然とする明智 七海を置いて私は身を翻す。茶々丸にも声を掛け、呆ける明智 七海を置いて二人で家に帰ろうと、地を蹴り歩き始めた。    

 

 同時に、ドサリと、後ろで何かが崩れる音がした。    

 

 

 

 嫌な予感と、不安を感じてゆっくりと振り返る。すると、案の定、明智 七海が地面に横たわっていた。

 

「…………マスター……」

 

「ま、まて! 私は特に何もしてないぞ! 」  

 

 じろりと私を見る茶々丸に向かって言い訳する。確かに少し威圧したが、倒れるほどじゃない。筈だ。その辺の加減が分からない訳ではないし、そもそも女子供を急に襲うのは趣味ではない。いや、確かに暇潰しと称していじりはしたんだが。少しやりすぎたか、と思うところがなくはないのだが。

 

 

「……ふん。持病でも出たんだろ。放っておくぞ」  

 

 先程まで余裕そうに茶々丸と話していた奴がこれだけ急に倒れた理由など分からないが(私の影響は少なからずあるだろうが)、わざわざ助ける義理などない。

 幸い人通りがまったくないという場所でもない。捨て置いても心優しい市民か正義を志す魔法使いなんかが助けるだろう。  

 

 私は倒れる明智 七海を無視して足を進めるが、茶々丸はついてこない。

 

「…………茶々丸。おい、茶々丸」

 

「……はい」

 

「いくぞ」

 

「…………はい。マスター」  

 

 茶々丸に声を掛け、ついてくるように促す。返事はするものの、茶々丸の視線はずっと倒れた明智 七海に向いていた。私がそれでも無視して進んでも、茶々丸は少し歩いたらまた立ち止まり、振り返る。何度もその動作をするせいで、なかなか前に行かない。

 

「あー。わかった。わかったよ。そいつを私たちの家まで連れてくぞ」

 

「…………いいのですか? 」

 

「いちいち立ち止まるお前を待ってたら家につく前に日が暮れる。その代わりさっさと行くぞ。道中魔法使いに見られたら面倒だ」

 

「…………すみません、マスター」

 

「ふん。半分、いや三分の一くらいは多分私のせいだしな」  

 

 茶々丸はゆっくりと明智 七海を抱き起こし、俗に言うお姫さま抱っこをして彼女を持ち上げる。さっさと行くぞ、と言った私の言葉に従って、茶々丸が足のバーニアを起動した。空を飛んで行くつもりらしい。足元の土埃が舞い始め、軽く風を起こす。私は二人が完全に空に浮く前に茶々丸の背中に飛び付いた。

 

「…………あの、マスター? 」

 

「アホか! 私は今飛べないんだぞ! 置いてきぼりにするつもりか! 」

 

「申し訳ありません」  

 

 茶々丸は前方に明智 七海を抱え、後方に私を背負い、動きづらそうにしながら空を飛んだ。  

 他人に背負われて飛んだことなどなかったのだが、自分で飛ぶよりは風が心地よく感じた。

 

 

 

 

 ○    

 

 

 …………また、夢を見た。  

 

 夢の内容は、よく覚えていない。  

 

 だが、光の中で、誰かが手を伸ばし、最後に体が朽ちるイメージだけが、頭に残っている。    

 

 

 私は見慣れぬ掛け布団の感触を確かめながら、ゆっくりと体を起こす。まだ意識は覚醒しておらず、頭は少し朦朧としているが、ここは自分の部屋でないことは分かった。 私の部屋とは違い、人形などが並んでファンシーで可愛らしい部屋だ。眠りにつく前のことをどうにかして思い出そうとしていると、横から声を掛けられる。

 

「お目覚めですか」

 

「…………茶々丸」  

 

 声のした方向を見ると、茶々丸が立っていた。彼女の服装は制服ではなく、メイド服に変わっていて、私には似合っているように見えた。彼女は私にゆっくり近づいて、私の額に手を置く。体温を感じない手であったが、その冷たさが心地よかった。

 

「37.2℃。大分よくなりましたね」  

 

 どうやら、彼女は手を置くだけで体温を計れるらしい。私は段々と意識をはっきりさせながら、先程何があったかを思い出した。  

 しかし、自分が何故倒れたかを考えるが、分からなかった。確かにエヴァンジェリンの問いかけには怯んだが、理由はそれだけではない。話をしている途中だと言うのに、 急に意識が反転するような感覚に陥ったのだ。

 

「……君が、助けてくれたんだな」

 

「いいえ。私とマスターです」

 

「……そうか。ありがとう」

 

「……いいえ。お礼を言われるほどでは」  

 

 彼女は相変わらず表情を変えないまま、顔を横に振る。

 

「そうだぞ。お礼なんぞ何の足しにもならんからな」  

 

 がちゃりとドアを開けて、エヴァンジェリンが部屋に入りながら言った。  

 それでも、私はもう一度二人にお礼を言うと、エヴァンジェリンはふん、と鼻を鳴らした。

 

「…………貴様、自分の状態について分かっているのか」

 

「…………」  

 

 こんな風に、いきなり倒れた経験などない。

 本当に突然に体が言うことを効かなくなった。だが、予兆が全くなかったとは言い切れなかった。  

 思い出すのは図書館島を捜索した時のこと。あの時、小学生の頃は割りと有った体力が、急激に著しく低下していることを思い知った。  

 それから、中々起きれなくなった身体。  …………そして、たまに見る身体が朽ちていく夢。

 

 

 私が思い当たる節を追っていると、エヴァンジェリンがベッドの横にある椅子に、音を立てて座る。その勢いで、床が軋んだような気がしたが、彼女はまったく気にしていなかった。

 

「悪いが貴様が寝ている間に色々体を調べさせてもらった。……前々から感じていた貴様の違和感の正体が、やっと分かったよ」  

 

 エヴァンジェリンが私を見ながら悠々と言う。私は、魔法などにより前世の記憶について調べられたかと一瞬焦ったのだが、彼女の態度を見る限りその事については知られてないような気がした。もし、その事がばれているならば、彼女の私を見る目はもっと変わっている気がする。

 

「私の体は、どうなっているんだ? 」

 

 私が問うと、エヴァンジェリンは真剣な表情で私を見つめて言った。

 

「私は医者でもないし、回復系に優れている訳ではないから詳しくは分からん。だがな」    

 彼女の瞳が、じっと私の目を覗く。      

 

 

 

 

「貴様の体には、全くと言っていいほど魔力が流れていない」

 

 

 

 

 







小ネタ
『ぼっち』





「明智さん。まだ起きないですね」

「ああ。そうだな」

茶々丸は明智七海の額の上にぬれタオルを置きながら私のほうを見た。

「おい、そんな目で見るな。私だって今じゃ少しは反省してる」

「いえ。そういうつもりはないんです」

首を振ってから、茶々丸は視線を明智七海の元に戻す。どうやら相当心配しているようだ。

「まさか、起きるまでそこにいるつもりか」

「……ほかにやることもないので」

茶々丸が、猫以外のものにここまで執着した姿を見るのは珍しい気がした。

「……そういえば、お前があそこまでクラスメイトと話したのは初めてか」

「……」

私がいつも教室にいないため、こいつもクラスメイトと関わる機会は少ない。そんな中で話しかけてくれた明智七海に、何か思うところがあるのかもしれない。


「私に気にせず、しゃべりたいならもっとクラスの奴らと話してもいいんだぞ」

「……いえ、その。私はハカセや超さんと話す機会があるので、きっとマスターほど友好関係は狭くないかと」

「おい! なんだその言い方! まるで私がぼっちみたいじゃないか! 」

「マスター、クラスメイトとまともに話したのは初めてですね」

「やめろ! まるで私がぼっちのようなコメントはするな!」







せっかくの再投稿なので、たまに小ネタを挟みつつ行こうかなと。


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21話

 エヴァンジェリンの紺碧の瞳が、私を見つめる。切れ長の眉は一切動かずに、金色の髪は揺れもしない。茶々丸も同様に微動だにせず、私のベッドの横で私たちの様子を見守っているが、相変わらず表情は読めない。  

 

 私は彼女たちから目を放し、何となく前方の壁に目をやる。滑らかな丸太で覆われた壁を見て、昔見たとき彼女の家がログハウスであったことを思い出した。  

 それから、ゆっくりと頭を起動させ始め、私はいつの日か学園長が言っていた言葉を追懐していた。彼は、魔力とは、空気や水その他すべての万物に宿るエネルギーのようなものと言っていた。そのエネルギーをどのように解釈すればいいかは分からないが、確かにどんなものにも少なからず存在するらしい。  

 

 それが、私には全くない。

 

 その事実がどれだけ大変な事なのかは、まだよく分かっていなかった。

 

「魔力がない人間は、どうなるんだ? 」

 

「知るか。言ったろう? 私は医者ではないんだ。だが、人には必ず少しは魔力がある。 体が魔力の器だとしたら、その器の大きさは人により異なるが、誰でも多少の中身は入っている」  

 

 エヴァンジェリンが、ピンときていない様子の私に説明を始めてくれた。彼女は椅子に座ったまま足を組み直し、横にある丸机に肘を置く。その振動で、机の上に置いてある花瓶が若干揺れる。    

 人の魔力を内臓する仕組みは分からないが、器と中身の話を理解するのは難しくなかった。   

 世界樹と昆虫の関係でも、器と中身の話に当てはまることがあるからだ。昆虫も皆が器を持っていて、普通に生きている昆虫にもそこには多少の魔力は入っている。しかし、世界樹の魔力という異質なものを器に注ぎ込まれると、器自体に影響を及ぼして彼らは姿を変えることになる。器と中身の魔力とはお互いに影響する関係であるのだろう。    

 器と言われて、私はひとつの壺を頭に思い描いた。中に入る水の潤いによって壺は清潔さを保たれるが、中に水が入らないと、どんどんと渇き朽ちていき、壺の表面からパラパラと崩れていく。

 …………そして、いつかひび割れ、壺は形を成せなくなる。  

 器を保つためには、少なからず中身が必要だとして。それがないと器が壊れるとするならば―――  

 

「…………私の体は、どれくらいもつのだろうか」

 

「知らんと言っているだろう。魔力のない人間など稀だろうし、今までそんなやつがいたとしても、どんな末路を辿ったかは私は分からん。……まぁ、今のお前の状態を見れば、今後どうなるかなんて容易に想像つくがな」

 

 エヴァンジェリンは私に突き放すように含みのある言い方をした。  

 小学生の頃は、周りと劣らないほどの体力はあった。つまり、生まれて約10年間は中身がなくても器に異常はなかったのだ。……いや、器は徐々に乾いていたのだが、それに私が気付かなかっただけなのだろう。そして、本格的に器が崩れ始めたのはおそらく中学校に入ってからだ。

 このまま段々と体力がなくなっていくのか、それともいつか一気に崩れさってしまうのかは判断できない。どちらにせよ危険なことにはっきと変わりはないのだろう。  

 エヴァンジェリンが肘を立て、掌の上に自分の顎乗せながら、私を見る。なんというか、段々と乙女らしさから離れた格好になっていくな、彼女。

 

「なんだ、現状を知ったわりには偉く冷静じゃないか」

 

「冷静なふりをしてるだけだ。十分焦ってるし、考えている」  

 

 身の危険を知って、いつも通りでいれる筈がない。エヴァンジェリンは敢えて口に出さなかったが、このままだと自分がどうなるかくらい察しがつく。……当然、命も危ないのだろう。

 

「この事実を聞いて、貴様はどうするんだ」  

 

 エヴァンジェリンの眼光が、強くなったような気がした。名目こそ中学二年生という年頃の女子が三人集まっているのに、この部屋の空気は閑寂としている。  

 ふいに私の髪がゆったりと揺れ、外からの風を感じた。窓に掛かる桃色のカーテンも、ゆらゆらと舞う。橙色の光が差し込み、部屋の隅にある棚上の人形を照らしていて、夏だというのに蝉の鳴き声も聞こえず、空気は少し冷え込んでいるようにすら感じた。  

 

 エヴァンジェリンの視線を受け止め、顔を上げた私は、膝に掛かっている掛け布団をぎゅっと握り込んでから、答える。  

 

 

「……私は、ただどうすれば長く生きれるかを、考えるだけだ」     

 

 

 このまま、体が朽ちていくのを待っている訳にはいかない。一度死んだ経験があるからといって、死が怖くなくなる筈がない。自分と世界が切り離されるあの感覚は、言い表せないほど不気味だった。また、自分だけじゃない。心優しい子達が集まるあのクラスならば、大して私と交流ないものでも心を痛めるだろう。知人と二度と会えなくなる悲しみを知っているからこそ、A組の仲間たちにはそんな想いをしてほしくない。彼女たちには、薄暗い思いなどない青春を送ってほしい。  

 

 そして私は、病院のベッドに横たわっている妻を思い出す。  

 彼女は、どれだけ自分が病に犯されていっても決して心を折ることなく、いつでも自分らしく生きようとしていた。私のことを思いやってか、辛い顔を見せたことなどたった一度もなかった。  

 そんな妻を一番見ていた私が、簡単に生きるのを諦める訳にはいかない。  

 

 

 

「…………っは。馬鹿みたいにぎゃーすか泣き出したり、生を諦め悲劇の主人公にでもなった顔をしようものなら、直ぐにでも追い出していたところなんだがな」    

 

 エヴァンジェリンは私を見て、ゆっくりと口角を上げた。尖った八重歯がちらりと見え、再び部屋に入り込む風により金色の髪が綺麗に踊る。

 

「……ククク。貴様の状態を悪化させない手段はちゃんとあるぞ」

 

「…………え。そうなのか」  

 

 エヴァンジェリンは、可笑しそうに笑う。彼女はその事を分かっていながら、私がどう回答するか試していたのだろうか。体を維持する策があったとしても充分一大事ではあるので、このような場面で人を試すのはあまりいい趣味であるとは思えなかった。

 しかしそう考えれば、先程の私の発言や心意気は随分と恥ずかしい。若干私の顔が熱くなった気がした。

 

「私達魔法使いも魔法を使いすぎて一時魔力がなくなると私達も多少のだるさを感じる。貴様はその期間が長いせいで体に影響を受けているということだ。…………茶々丸。あれを渡してやれ」

 

「はい。マスター」  

 

 俯く私を無視して、エヴァンジェリンが茶々丸に指示を出す。すると、茶々丸はどこから取り出したのか、藍色の液体が入った不穏な試験管を私に手渡した。試験管にはコルクで蓋がしてあり、軽く振って揺らすと中の液体が渦巻く。

 

「……これは? 」

 

「貴様が倒れたとき無理矢理飲ませた薬がそれだ。適当に調合して魔力を込めたものだが、器を保つ程度には使えるらしい」  

 

 私は、乾いた壺の外側に水をかけるイメージが頭に湧いた。確かに無理矢理魔力の入ったものを飲めば、器に溜まらなくてもある程度保てるかも知れない。

 だが―――

 

  「どうして、私にこれを? 」  

 

 魔力を込めるという工程が不可能な私にとって、この薬品をくれるというの感謝してもしきれないほどのものだ。しかし分からないのは、何故エヴァンジェリンが私にここまでしてくれるのかということだ。

 

「なに、それは大した物じゃないからな。あげても困るものではないし、貴様には多少興味を持ったからな」

 

「…………」

 

「…………興味。マスターそうだったんですか」  

 

 茶々丸が少し驚いた声音でエヴァンジェリンに問い直す。恋愛的な意味に捉えてしまったのだろうか。すると、彼女は喚くように訂正した。

 

「あほか! そういう意味ではないわ! 」  

 

「しかし、人が人に興味を持つときは、恋愛感情に成り得ることが多いと」

 

「だれがいった!? 」

 

「いえ、先日教室に落ちていた雑誌にそのようなことが書かれていたので記憶してました」

 

 おそらくそれは柿崎が持ってきていた雑誌だろう。年頃の女子のよむファッション誌にはそのような記事が載っていることが多い。

 

「無駄なことを覚えよって! 」

 

 エヴァンジェリンは茶々丸の後ろに回り、バカロボバカロボと言いながら、茶々丸の背にゼンマイをつけて廻す。茶々丸は珍しくたじたじした様子でやられていた。  

 

 二人の騒動が終わると、エヴァンジェリンは私に目線を戻して、何もなかったかのように言う。

 

「貴様は、そのまま終わらすには惜しいと思っただけだ。なんとなくな」  

 

 エヴァンジェリンは私に近寄り、私の持っていた試験管をとって続ける。

 

「たが、この魔法薬もただではない。当然その分は働いてもらうぞ。私もある事情でいくつか魔法薬が必要でな。研究施設に通うほどなら薬品の調合くらい出来るだろう。

 場所と材料とレシピは用意するから頼んだものを作っといてくれ。魔力を必要とする作業は私がしておく」  

 

 さらっと述べて、彼女は身を翻す。部屋のドアに向かって歩いていき、ドアノブに手をかける彼女を私は声をかけて引き止めた。

 

「…………なんだ? 」

 

「…………ありがとう」  

 

 私は深々と頭を下げる。だが、エヴァンジェリンは気にもしない様子で軽く息を吐いた。

 

「こちらも対価を求めている以上お互いに利益ある関係だ。礼など足しにならんから要らんと言ったろう。毎週金曜日にここに来い。仕事と薬はその時だ」  

 

 そういって、彼女は部屋から出ていき静かにドアを閉める。  

 

 横を見ると、茶々丸はいつの間にか立ち上がって私を見ていた。私は目を伏せながらゆっくりと彼女に告げる。

 

 

「…………君の主人は、優しいな」

 

「私も、そう思います」  

 

 ふんわりとメイド服を揺らしながら、彼女は頷いた。    

 

 

 

 ○

 

 

 それから、私は毎週金曜日はエヴァンジェリンの家に通った。あのログハウスは見た目よりもずっと広く、まさかの地下まであった。地下の一室は見たことない薬品などが収納されていて、そこを綺麗にして試薬を調合する部屋とした。  

 私は生物が専門であるが、化学の知識がない訳ではない。生物の起こり得る全ての事象と化学物質は大きく関わっており、昆虫が発するフェロモンだって化学物質である。

 なので、化学に自信がない訳ではなかったのだが、流石に全く知らない試薬を前にすると出来ない事が多かった。  

 そのため、エヴァンジェリンがどんな薬品を作ろうとしているかはよく理解できぬまま、私は受けとったレシピとプロトコルを元に調合を進めていた。  

 

 この一件で私とエヴァンジェリンの仲が急激によくなる、なんてことはなく、私達の関係は淡白なものだった。私はエヴァンジェリンには感謝しているが、彼女は私とは仕事の関係と割り切ってる部分が多かった。私を助けたのも、気紛れやなんとなくという思いだったのだろう。しかしそれでも、今までよりは会話する機会はずっと増えた。と言っても、二人とも自分の好きな話を相手に聞かせるだけのものだったのだが、お互いにどちらの話も興味を持てたようだ。私は生物、特に昆虫の豆知識などを話し、彼女は自分のことや歴史について話す事が多かった。……途中で、彼女に昔会っていたことがばれ、あの事件でしばらく虫に嫌気が差したと私は散々なじられた。  

 

 そして、そこで聞いた彼女の生い立ちは、想像を絶するものだった。  

 なんと彼女は、600年もの時を生きる吸血鬼なんだとか。  

 600年など私には全く想像出来ないが、彼女は様々な想いや経験をしてきたのだろう。そのことを彼女が詳しく話すことはあまりなかったが、それだけの月日を歩んできたという事実だけで、彼女は尊敬に値する人物であった。  

 

 そして、それだけの長い期間生きてきた彼女が見たことないという私の現象は、相当稀有な例のようだ。  

 

 

 だが、私は自分の魔力がない理由について心当たりがない訳ではなかった。  

 万物に宿るエネルギーが魔力と言っていた。だがそれは、この世界における万物の事だろう。私という別世界の前世の記憶は、その万物に属さない。もし、生まれたばかりの時に考察したように、記憶が魂などというものにも存在するとすれば、その魂が私に魔力を与えてるのを妨げていると私は予想した。  

 

 何にしても、このままエヴァンジェリンの世話になり続ける訳にはいかない。体力などは衰えたままだが、今のところあの時のように急に倒れたりすることはない。だが、エヴァンジェリンの薬はあくまでも体の状態を維持するものであり、回復させるものではない。いつまた悪化するかなど分からない。そのため、私は私でなんとかこの体をどうにかしようと試行錯誤していた。    

 

 それから、昆虫の研究も進めながら自分の体についても調べ始め、週に一度エヴァン ジェリンの家に通うという日々を送り、私の夏は過ぎていった。    

 

 

 

 ○  

 

 

 

 月日はまたゆるりゆるりと過ぎていく。クラスで起こる様々な楽しいイベント、体の状態について悩む日々。世界樹と昆虫の関係についての新しい発見。色々な出来事を越えて、A組の生徒は少しずつ前に進んでいく。部活に励む子も、趣味に励む子も、恋に励む子も、皆同じように時の流れに乗っていく。    

 

 そして、夏の暑さを越え、秋の静けさを越え、冬の寒さを身に感じ始めた頃、A組ではある噂が流れ始める。    

 

 なんと、私達のクラスに、新しい先生が来るらしい。

 




小ネタ
『当時のこと』




「そういえば、貴様はどうして私を気にかけてたんだ」

「ああ、それはだな、昔君と会ったことがあったんだ」

「なに? どこでだ」

「この家の外で。私が小学校に上がる前だな」

「……覚えてないな。その時に、何かあったか?」

「エヴァンジェリンが私を見つけて近寄ってきて」

「……ふむ」

「妙な気配をするだとかいって、頭を押さえようとしてきて」

「幼稚園児にやる行為とはおもえんな」

「やったのは君だがな」

「だから明智さんはマスターを気にかけてたんですね」

「……幼少のトラウマとしては十分すぎるな。それで、どうした」

「虫をばらまいて逃げた」

「……虫…。っ!! 思い出したぞ! 貴様! あの時の! 」

「本当に忘れていたんだな」

「マスターと違い明智さんは成長してますから、外見では気付かなかったのかもしれません」

「貴様! 私があの後どんな想いをしたのか分かっているのか! 口の中に羽ばたく蝶を入れた時の気持ちが貴様に分かるか!!」

「……もとはマスターが原因だと思いますが」

「それにあの時虫籠にいれていたのは蝶ではないぞ。蛾だ」

「ぐはぁ!! 」

「ああ、マスター大丈夫ですか」

「大丈夫だ。昆虫食は地域によってはポピュラーな食べ物でもあるし」

「そういう問題ではないわ!!!」





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22話

 

「ネギ・スプリングフィールド君」  

 

 校長先生が、いつもより真剣な声で読み上げる。元気よく返事をしてから、窓から幻想的な光が入り込むこの場所を、 僕はゆっくりと進んでいく。静寂な空間で、かつんかつんと靴が床を叩く音が響く。制服の上に着ている緑のローブも新鮮に感じて、初めての場所じゃないのに、なんだか少し緊張してしまう。  

 皆の注目の集まる中、段差を上り、校長先生のいる台座の前までつくと、僕は練習した通りにスッと交互に手を前に差し出した。長い髭をなびかせて校長先生はやんわりと微笑み、僕に卒業証書と書かれた紙を渡す。

 

「卒業おめでとう」

 

 校長先生が目を細める。学校を卒業するという実感はまだ分からなかったけれど、その優しい顔が、僕の胸をぐっと込み上げさせた。  

 形式通りに卒業証書を受け取って、席に戻ろうと礼儀正しく歩いていくと、お姉ちゃんのにっこりと笑う顔が見えた。それがまた嬉しくて、思わず手を振りそうになるけれど、我慢して顔を崩さないようにしながら元の位置につく。

 

 次の子の名前が呼ばれて、ぎこちない動きで前に行くのを見ながら、僕は少しずつ実感していく。    

 

 

 ……これでやっと、次のステップにいけるんだ。      

 

 

 

 ○  

 

 

「ネギ」

 

 僕が廊下を歩いていると、後ろから声をかけられる。振り向くと、お姉ちゃんとアーニャがいて、お姉ちゃんはいつものようにふんわりと微笑んでいた。窓から射し込む光でお姉ちゃんの薄黄色の髪は照らされて、とっても綺麗に見えた。

 

「お姉ちゃん! 」  

 

 僕がすぐにお姉ちゃんの元まで駆け寄ると、アーニャが呆れた表情をした。

 

「あんたねぇ、いつまでネカネお姉ちゃんに甘えてるのよ」  

 

 子供ね、と言いたげな顔をしてアーニャは僕を見る。僕はむっとした気持ちになって、アーニャを睨むと、睨み返される。二人でむむむと牽制しあっていると、お姉ちゃんが僕達の頭に手をぽんと置いた。

 

「いいじゃない、甘えたって。卒業式、ネギもアーニャも、かっこよかったわ」  

 

 そう言って、またいつもの笑顔。横を見ると、アーニャは真っ赤な髪を揺らされつつも、照れながら嬉しそうな顔をしているのが分かった。    

 

 僕の従姉であるネカネお姉ちゃんは、いつも優しくて、暖かい雰囲気で、堂々としていて、僕とアーニャの憧れの人だ。  

 小さい頃から僕達の面倒を見てくれて、僕達にいろんなことを教えてくれた。村の人たちにも頼りにされていて、彼女を嫌う人など僕は見たことがない。  

 

 …………僕達の村が襲われて、皆が石にされてしまって、アーニャも僕も暗かった時でも、お姉ちゃんだけはずっと前を向いていた。僕達を励まし続けて、新しい村でも皆の力になろうといつも頑張っていた。    

 

 僕達は、そんなお姉ちゃんのことが大好きだった。    

 

「それで二人とも、修行の場所はどこだったの? 」

 

 お姉ちゃんが、優しく言う。  

 僕達魔法使いは、卒業証書をもらってすぐに終わりと言う訳ではない。それぞれに場所と役割を与えられ、それを全うしきって、やっと一人前に近付ける。

 

「私は…………ロンドンで占い師だって! 」  

 

 卒業証書を広げたアーニャは、期待に満ちた顔でお姉ちゃんを見上げる。アーニャは占いが結構好きだったし、合っている気がした。  

 僕も負けずに、丸まった卒業証書を開く。名前の横の空いたスペースに、じんわりとピンク色の文字が浮かび上がってくる。  

 

 

 

「「……日本で…………教師? 」」    

 

 

 

 アーニャはいつの間にか僕の卒業証書を覗き込んでいて、僕と一緒に書かれた文字を読み上げていた。咄嗟にお姉ちゃんの顔を見ると、なんだか小難しい顔をしていて、少し不安になる。  

 

「ネギ、修行の場所はどこだったんじゃ? 」  

 

 気付くと前から校長先生がやってきていて、僕に尋ねてきた。

 

「…………校長、これは本気ですか? 」  

 

 少し力の入った声で、お姉ちゃんは校長先生に言う。それが珍しくて、僕はちょっぴり怖くなった。  

 校長先生は僕の卒業証書をちらりと見て、ゆっくりと目を閉じながら言う。

 

「……ここに書かれているということは、これがネギにとっても周りにとっても、必要なことなんじゃろう」

 

「…………そう」

 

 お姉ちゃんはため息混じりに声を出して、少し屈んで僕達と目線を合わせた。

 

「…………ネギ、それにアーニャも。あなた達に与えられた修行は、どちらも人の人生に大きく関わることなのは分かるでしょう? 」  

 

 お姉ちゃんが僕達を撫でながら言う。真剣な声音だったけれど、いつの間にかいつもの優しい表情に変わっていた。  

 教師も、占い師も、確かに人と関わる仕事だ。僕は生徒に勉強を教えなければいけないし、アーニャはお客さんに運勢を教えなければならない。  

 僕達はしっかりとお姉ちゃんの目を見つめて、話を聞こうとする。  

 

「あなた達はまだ子供よ。失敗することもあるし、分からないこともたくさんあるでしょう。……それでいいのよ。そうやって成長するんだから」  

 

 お姉ちゃんも、僕達を見つめていて、お姉ちゃんの瞳には、僕とアーニャの姿がしっかりと映っていた。

 

「でもね。そういう職を経験するからには、覚悟だけはしておかないとだめ。気持ちだけは持っていないとだめ」  

 

 お姉ちゃんは一息ついてから続ける。  

 

「自分の人生と他人の人生を交える覚悟を、しっかり持たないと」    

 

 そう言って、お姉ちゃんはまた僕達を撫でた。  

 その言葉の意味はまだよく分からなかったけど、僕達二人がゆっくりと頷いたのを見て、お姉ちゃんはまたふんわりと笑った。

 

 

 ○  

 

 

 それから、それぞれが修行の場所に出発するまでの期間は、色々な準備を行っていた。アーニャはもう一度占いの教本を読みなおして、どこまで人に教えていいかなどを確認していた。

 僕はお姉ちゃんに日本語を教わっていた。  

 何故かお姉ちゃんは日本について詳しくて、文化とかも教えてくれた。それと、僕の行く先は女子中学校のようで、お姉ちゃんに魔法のコントロールをしっかり出来るようになりなさい、と耳に蛸が出来るくらい言われた。くしゃみで女の子を脱がせるようなことは、絶対に駄目らしい。お姉ちゃんは魔法が使えないから、僕は独学で自分の魔力のコントロールを勉強した。  

 そうやって、僕達は修行の場所に行く日まで過ごした。もうすぐお姉ちゃんと離れてしまうと思って、僕もアーニャもその分お姉ちゃんとずっと一緒にいた。お姉ちゃんは嫌そうな顔など一切見せることなく、僕達と色んな話をした。    

 そして、とうとう日本に飛び立つ日が来た。  

 

「ネギ、体に気を付けなさいね」    

 

 がやがやと騒がしい空港で、お姉ちゃんは僕に向かって言う。アーニャは少し早い便に乗ったので、もういなかった。

 

「…………」  

 

 僕は、自分の身の丈以上ある杖を抱えて、じっとお姉ちゃんを見る。    

 

 

「…………もしかして、泣きそう? 」    

 

 

 優しい声で、お姉ちゃんはそう言った。僕は、ぶんぶんとおもいっきり首を左右にした。    

 

 僕は、早く一人前の魔法使いにならないといけない。   

 村の人達を、石化から治してあげたい。  

 お父さんにも、会いたい。  

 そして、お姉ちゃんを守ってあげたい。  

 欲張りかもしれないけど、全部やり遂げるために僕は頑張ると誓った。だから、こんなところで泣いてなんかいられない。  

 

「…………そう、残念」    

 

 ちょっぴりいたずらっ子ぽくお姉ちゃんは微笑む。その顔から、本当は僕が泣きそうなのはばれてる気がした。

 

「お姉ちゃん、薬飲むのを忘れちゃだめだよ? 」  

 

 仕返しに、お姉ちゃんに注意してみる。すると、クスクスと声を漏らして、分かったわ、と答えた。  

 

 お姉ちゃんは、何故か全く魔力がない。  

 

 こんな症状は珍しくて、たまに調子を崩すお姉ちゃんは、魔法使いの医者でもどうすればいいか分からないらしい。  

 今はとりあえず応急措置で魔力の入った薬を飲んでいるけど、これからどうなるかは分からない。  

 そんなお姉ちゃんの症状を治す手掛かりをつかむのも、僕の誓いの一つだった。  

 

「……そろそろ時間でしょう? 」

 

「……うん」

 

「……手紙送るのよ? 」

 

「……うん」

 

「……頑張ってね」

 

「……うん。頑張るよ」    

 

 

 僕は、そう言って飛行機乗り場に向かう。後ろを振り向いたら、僕が涙を流しているのがばれてしまう。強がって、大きく足を踏み出して進んで行った。      

 

 

 

 ○  

 

 

「すごいなぁ、ここが日本かぁ」  

 

 誰に言う訳でもなく、僕は周りを見ながら呟く。高いビルがいくつも聳え立ち、沢山の人が道を行き交う。  

 

 僕は途中人に道を聞きながら、調べていた道順通りに進んで行き、街中を走る市電に乗りついた。珍しさで市電の中をきょきょろと見渡していると、周りの女子学生にクスクスと笑われていた。なんだか恥ずかしく思っていると、急に鼻がむずむずとする。

 

「…………は、は、はっくしゅん! 」

 

 くしゃみが出そうになるのと同時に、僕は頑張って魔力の放出を抑えようとした。僕は何故かくしゃみをすると武装解除の魔法が暴発してしまうため、そのたびにしっかりと堪えなければならない。    

 

 でも、僕のくしゃみに合わせて、車内に風が吹き荒れて、女子学生達のスカートをはためかせてしまった。

 

「あ……」  

 

 女子学生達は、何が起きたか把握しきれていなくて周りを見渡す。  

 僕はまずいと思いつつ、早々に止まった駅で降りた。

 …………脱がしてはないから、ギリギリ大丈夫。うん。    

 

 駅で降りると、制服を着た人達が大量に流れていき、まるで台風みたいだった。僕も、時間に遅れないように人混みにあわせて移動していると、目の前に二人の女子学生がいた。一人はオレンジ色の髪をツインテールに縛っていて、爽快に走っていて、もう一人は 黒髪を靡かせてローラースケートで移動している。

 

 なんとなく見ていると、オレンジ色の髪をした子に失恋の相が見えた。    

 

 ……これは、教えた方がいいのかな? 余計なお世話かもしれないけど、お姉ちゃんに女の子には優しくしなさいって言われたし、うん。教えたあげた方がきっといいよね!    

 

 僕は移動している二人の横について、言う。  

 

「あの、失恋の相が出てますよ? 」  

 

「…………はぁ?! 」    

 

 これが、僕が教える生徒との、ファーストコンタクトだった。  

 

 

 

 

 ○  

 

 

 

 

「学園長! 本当ですか! こんなガキが教師だなんて! 」  

 

 先程会ったオレンジ色ツインテールの女の子―――神楽坂 明日菜さんが、学園長の前にある机を叩いておもいっきり抗議する。  

 ……そんなに言わなくてもいいのに。さっきタカミチの前でまたくしゃみをしてしまって、その時に明日菜さんのスカートをめくってしまったのは確かに悪かったけど …………

 

 僕と明日菜さんは、さっき失恋の相が出ていることを教えてしまったせいで少し揉めていた。そして、そのあとやってきたタカミチの前で僕は明日菜さんのスカートをおもいっきり捲ってしまった。そのせいで明日菜さんは余計に怒って、この学園長室についたらすぐに学園長に文句を言っていた。

 

「ふぉっふぉっふぉ。本当じゃよ。しばらく教育実習という形をとるが、今日から彼がお主たちのクラスの先生じゃ」  

 

 とても長い後頭部をした学園長が、明日菜さんに向かって言う。  

 それを聞いて明日菜さんは、そんなぁ、とがっくりと項垂れてしまっていた。横にいたもう一人の女の子、このかさんはちょっぴり微笑みながらまぁまぁと言いながら明日菜さんを励ましていた。  

 

 ……そんなに僕が先生なのが嫌なのかな………

 

 早々にちょっぴり凹んでいると、学園長は僕に話しかける。

 

「だが、ネギ君。修行とは決して簡単なものではないぞ。駄目だったら故郷に帰らねばならん。そして二度とチャンスはないぞ」  

 

 先程までの飄々として雰囲気とは一転して、学園長はじっくりと僕を見る。

 

「……やります。やらせてください」  

 

 自分の誓いを押し通すために、今まで頑張ってきた。そのためにどんな修行でも、全力で取り組むつもりだ。  

 

 僕としばらく目を合わせてから、学園長はゆっくりと頷く。

 

「…………うむ。わかった! では、今日から早速やってもらうのじゃが……。まだお主の住む場所が決まっとらんのくてのぅ」  

 

 ぽりぽりと学園長は髭をかく。

 

「このか、アスナちゃん。悪いが、しばらくはネギ君を二人の部屋に泊めてやってくれんかの」

 

「……はい? 」  

 

 いきなりの申し出に明日菜さんは、固まってしまった。……僕も、どうしたらいいか分からなくて、困惑してしまう。

 

  「ちょ、ちょっと待って下さい! なんで私達の部屋なんですか! 他にも…………例えば!七海なんか一人部屋ですし! 」

 

 ばんばんばんと明日菜さんは学園長の机を何回も叩く。……流石に僕も、こんな怖くて意地悪な人の部屋はちょっと……

 

「……七海君はのう。しょっちゅう研究室にいて、いつも部屋にいるという訳ではないし、あの子にこの子の世話を任せるのはのぅ」

 

「……だ、だからって! 」

 

「うちはえーよー。かわいーやんこの子」 

 

「ガキは嫌いなんだってば! 」    

 

 マイペースに言うこのかさんに、明日菜さんは突っ込む。そうやってわーわーと騒いでいると、扉がコンコンとなった。  

 

 

「……お、噂をすれば、ちょうどじゃの。七海君、入ってよいぞ」  

 

「……失礼します」    

 

 

 そう言って学園長室に入ってきたのは、他の子達よりも長いスカートを履き、綺麗な 黒髪でキリッとした目をした女の子だった。

 





小ネタ
『お約束』





「日本ってどんなところかなぁ」

「とってもいい所よ。四季があるし、料理はおいしいし」

「へぇー。お姉ちゃんは物知りだね」

「……ただね、不思議な風習もあるのよ」

「え、どんな?」

「例えばね、ネギが熱々のお湯の前に立ってたとするでしょ」

「うん」

「押さないで、押さないで、って言うでしょ」

「うん、きっと言う」

「そしたらね、日本人は押してくるのよ」

「え!?? どうしてそんなひどいことを!!」

「風習なのよ。お決まりで、お約束なの」

「アーニャ、どうしよう。僕日本怖いよ」

「まずお湯の前に立たなきゃいいんじゃない?」


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23話

 

 廊下を歩きながら、窓ガラス越しに外を眺める。青く、雲一つない空だった。曇りや雨が嫌いと言うわけではないが、やはり晴れが一番だと思うのは、おかしいことではないだろう。空を見て視界を青々とするだけで、少し気持ちが穏やかになる気がする。

 

「……七海くん! 」  

 

 特に何かを考えることもなく目的地の学園長室に向かっていると、前からきた高畑先生がにこやかに片手を上げて私の名前を呼んだ。私は会釈してから挨拶をする。

 

「おはようございます」

 

「おはよう。どうしてここに? 」

 

「学園長に少し用がありまして、授業の前に話をしようかと。高畑先生は? 」

 

「新しい先生の出迎えをちょっとね」  

 

 いつかの噂は本当だったようで、私達のクラスには高畑先生に代わって新しい先生が来るらしい。随分と中途半端な時期であったが、学園側には色々と事情があるようだ。  

 感情表現が豊かな私達のクラスでは、数日前までは高畑先生が担任でなくなってしまう寂しさが確かに漂っていて、悲しいね、と高畑先生の顔を見るたびに呟く生徒が何人もいた。彼は気の良い人であったし、私たちを頭ごなしに叱り付けるということもなく、一人一人の生徒の特長をよく理解していた良い教師だった。

 

 ただ、新任教師が着任するとなった今や、生徒たちの興味は完全にそちらに向き、新しい先生に対する期待感で教室が完全に浮き足立ってしまっていた。日にちが近づくにつれて、先日までとは打って変わり、顔を合わせた生徒たちは、楽しみだね、と言い合うようになっていた。

 高畑先生には申し訳なさがあるが、彼女らの想いも仕方のないことではあった。

 新しい環境の変化を目の前にすれば、それに対する想像で胸がいっぱいになるものだ。かく言う私も新しい教師がどんな人なのかは気にはなっていた。

 

 しかし、明日菜に限ってはずっと悲壮感を醸し出していた。先生が代わるといっても、高畑先生が学校をやめない限り校内で会うことは出来るのだが、明日菜にとっては想い人が担任の先生というポジションというのが嬉しかったのだろう。

 

 

「…………新しい先生は、とても元気で前向きなんだけど、少し先行きが不安でもあってね」  

 高畑先生が、苦笑混じりに言う。ちょっと明るめに、冗談にも聞こえるように言っていたが、私には高畑先生が本当に心配していることも汲み取れてしまった。  

 この中途半端な時期に担任を交代するということに、高畑先生はどんな思いを抱えたのだろうか。私の勝手な考えかもしれないが、彼は私たちのことを本当に好いてくれていたと思う。新しい先生がどのような人かは分からないが、彼ならばいい加減な人とは代わろうとしないだろうが、どんな人であろうと彼は私達の心配をする気がした。

 高畑先生を担任としてから約2年という時期しか経っていないが、皆に甘くて時々厳しい、彼の優しい性格は分かっているつもりだ。

 

「……一人の生徒にこんなこと言うべきではないかもしれないけどさ。…………もし彼が困っていたら少しだけフォローしてやってくれるかい? 」

 

 若干の申し訳なさを込めながら、高畑先生がそう言ったので、私は頷く。

 

「……任せてください。高畑先生も、時々様子を見に来て下さい。明日菜が喜びますよ」  

 

「……そうだね。見に行くよ」

 

 高畑先生はやんわりと笑って、私の元から離れていった。  

 

 

 

 

 ○  

 

 

 

 

 もう見慣れてしまった学園長室の扉の前に来ると、明日菜の騒がしい声が聞こえた。何故彼女がこの部屋にいるかは分からなかったが、ひとまず私は扉をコンコンと二度叩くと、こもった声で返事がくる。

 

「……お、噂をすれば、ちょうどじゃの。七海君、入ってよいぞ」  

 

 毎度ここに来てノックするだけで私が来たことは言い当てられていたので、名指しされたことに今更驚くことはなかった。しかも、どうしてわかるのですか、と尋ねた時返ってきた答えが、なんとなく分かるのじゃ、という何ともいい加減なものだったのだから、再び理由を聞きなおそうという気もなかった。

 学園長、というか魔法使いがわりと何でもありの存在であることを、私は最近やっと認識できてきて、段々と慣れてきてしまっている。  

 

 失礼します、と一声かけてからゆっくりドアを開ける。そのまま部屋を見ると、そこには明日菜とこのかの他に、1人の少年がいた。  

 

 外人のような顔つきをして、赤色の髪で可愛らしい眼鏡をかけた少年は、私が今まで見たことない子であった。

 

「……お取り込み中なら出直しますが? 」

 

「構わんよ。というかお主にも関係ある話しておったのじゃ」

 

「……その少年は? 」  

 

 私はちらりと少年に目をやってから尋ねる。

 

「うちらのクラスの新しい担任やってー」

 

「…………はい? 」  

 

 ほわわんとした雰囲気であっけらかんと言ったこのかの言葉を、私はうまく理解出来なかった。

 

「ねぇ信じられないでしょ! 七海も何かいってやってよ! 」  

 

 明日菜が私の両肩をがっしりとつかんでぶんぶんと揺らしてくる。あまりの必死さがちょっと怖い。  

 私がもう一度少年の方に目をやると、その視線を受け止めて、少年は少し緊張した顔で答える。

 

「イギリスから来ました、本日より教師をさせてもらうネギ・スプリングフィールドです!宜しくお願いします! 」

 

 

 ネギという少年は、私深々と頭を下げながらそう言った。私はゆっくりと学園長を見て、尋ねる。

 

「…………本当ですか」

 

「本当じゃ」

 

「…………本気なんですね」

 

「勿論じゃ」  

 

 私は表情の読めない学園長を前にして、軽くため息をつく。……高畑先生が先行きを不安にしていた理由はこういうことだったのか……

 

「ネギ先生。私は2―Aの明智 七海です。宜しくお願いします」  

 

 私がネギ先生の前に手を差し出すと、ネギ先生は、ぱぁっと表情を明るくしてから私の手を握った。

 

「ちょ、ちょっと七海! いいの!? こんなんが先生で! 」

 

「といっても、どうするんだ? ネギ先生に用はないといって故郷にもう一度帰ってもらうのか? 」

 

「そ、それは……」

 

「かわいそうやよ明日菜ー」  

 

 イギリスは遠いんやよ、と木乃香が続ければ、明日菜は、うっと息を詰まらす。子供が嫌いと言っても、彼女の根は優しいためこういう言い方をすればたじろぐのは分かっていた。

 

「それに、高畑先生もネギ先生なら大丈夫と後任にしたのだろう。高畑先生の想いも汲んで、少し様子を見るくらいしてあげないか? 」

 

「……う、うーー」  

 

 少し卑怯だが、加えて高畑先生の名前まで出すと、明日菜は可愛い声で唸り出してしまった。 頭を抱える明日菜を置いといて、私はネギ先生の方を振り替える。  

 

 当然、明日菜の気持ちも勿論分かる。生徒にとって先生とは頼りになる存在であるべきなのに、それが自分より年下ともなれば、文句の一つは言いたくなるだろう。いくら勉学が出来て教え方が上手だと言っても、年下に教えを乞うというのは誰でも抵抗があるものだ。

 ……私のクラスにはその事で文句を言うよりも、子供先生に好奇心を抱く者の方が多そうだが。  

 とにかく、明日菜の言いたいことも分かるが、私が今彼に確認したいことは、一つだけであった。  

 

 私は、すっと膝を落とし、ネギ先生と目線を合わせた。突然の私の動きに頭の上に疑問符を浮かべるような顔をした彼に、私は言う。

 

「……ネギ先生。君は確かに今日から先生です。しかし分かっていると思いますが、あなたはまだ幼いです。不安も心配も沢山あるでしょう」  

 

 ネギ先生は、いきなり語りかけた私に少し驚きながらも、決して私から視線を逸らさなかった。

 

「……そういう時は素直に私達を頼っていい。私も出来る限りの協力はします。ただし……」

 

見た目からして、10歳ほどだろうか。まだ親にも甘えたい年頃でもある少年が、1人で故郷からやってきて、他国で教師をする。学園長がどんなつもりかは分からないが、どれだけ優秀な子供でも限界があるだろう。精神の年齢が他の生徒より上な私が彼をフォローすることは、当然だと思うし、何の抵抗もない。  

 

 ただし、教師をするのならば、覚悟だけはしっかり持っていてほしかった。  

 

 

「教師として、他人の人生と関わる覚悟はありますか? 」    

 

 

 私も、大学の教授であったことから研究室に何人かの生徒を受け持っていた。大学生にもなれば彼らも自分の道は自分で見ていた。だが、私が指導する立場で有る限り、彼らの行く道に私が関わるのは必然であった。就職活動が上手くいかない生徒に進学を薦めたこともある。ある生徒には、就職先を紹介したこともある。余りに優秀な生徒に、海外留学を提案したこともある。最終的に決めるのは彼らだが、それでも私は慎重に彼らのことを悩んでから意見をした。

 教師という立場の者の一言が、彼らの重要な道を作る。

 その先が幸せかどうかなんて分からないし、保証もない。実際に、辛い思いをしている生徒も今までにはいたかもしれない。  

 けれども私は、気持ちだけは常に持っていた。他人の人生に踏み込んで、干渉するという覚悟だけは持っていた。  

 ネギ先生に、完璧にしろと言う気などまったくない。だが、子供だからといって半端な想いで教壇には立ってほしくなかった。未熟でも、生徒のことを考える気持ちだけは持っていてほしい。    

 

 私がその言葉を言うと、ネギ先生は目を開き驚いた顔をした。そして、少しの間考え込んでから答えを出す。  

 

「……故郷で、似たことを姉に言われました。その時も、今もまだ、その言葉の真意を掴めているかは分かりません。でも、教師として、真剣に生徒に向き合う覚悟はしています! 」    

 

 眼鏡の奥の力強い瞳が、私に向けて光を帯びているように見えた。

 

「……そうですか」  

 

 堂々と私を見つめる彼に対して、私は微笑みながら頭にぽんと手を置いた。    

 

 少し照れた様子のネギ先生を若干にやつきながら見ていた学園長が、私達に向かって言う。

 

「……ふむ、それでじゃの。実はネギ先生の泊まる場所がなくて困っておったのじゃ。初めは明日菜とこのかの部屋に泊めてもらおうと思ったのじゃが」

 

「うちはえーんやけどなぁ」

 

「……うっ」  

 

 学園長とこのかの言葉を聞いて、明日菜が再びたじろぐ。今のネギ先生の言葉を聞いて、気持ちが揺らぎつつも、まだ認められない想いがあるのだろう。

 

「泊まる場所がないのなら、私の部屋でも構いませんよ」  

 

 嫌がる明日菜の部屋にこの子を泊めるのは流石に酷だと思って、私はそう言う。研究室などもあるが、しばらく必要なこと以外はせずに帰ってくれば大丈夫だろう。

 

「でも七海、ネギ君のご飯とかどうするん? 」

 

「……どうするとは? 」  

 

 純粋に疑問を浮かべるこのかに逆に私が問い掛ける。

 

「……七海、昨日の夜ご飯はなんやった? 」

 

「コンビニ弁当」

 

「……今日の朝ごはんは? 」

 

「卵かけご飯」

 

「…………」  

 

 しらーっとした空気が部屋中を流れた。

 い、言い訳をさせてもらうが、先日は時間がなかっただけだ。いつもコンビニというわけではない。外食や簡単な料理をして、不足した栄養分はサプリメントでもとっているし……。仮にネギ先生が私の部屋に来るのならば、もう少し頑張って料理をすると思う。

 ……多分。

 

「あーもう! 分かったわよ! 私達の部屋でいいわよ! 」

 

 明日菜が吠えるようにして私達に言う。

 

「無理しなくていいんだぞ? 私だって少しくらい料理出来る。……と思う」

 

「いーって! 七海は忙しそうだし、最近たまに具合も悪そうだし、こいつのためにそんなとこで体力使わなくっていーの! その代わり! 」  

 

 ビシッと音が鳴るような勢いでネギ先生に指を指して、明日菜が言う。

 

「ちょっとでも変なことしたら追い出すからね! 分かった!? 」  

 

 ネギ先生が明日菜の押しに少し怯える。そして、ふんっと鼻を鳴らしてからそのまま明日菜は学園長室から出ていってしまった。

 

「あー。明日菜待ってやー」

 

 明日菜に付いていくようにして、このかも部屋から出ていく。嵐のように去っていった明日菜を見て、ネギ先生がそっと呟く。

 

「僕、あの人少し怖いです…………」  

 

「ふふっ。でもな、彼女は沢山良いところがあるんだ。もう少し一緒にいれば、彼女の良いとこに気付けるさ」  

 

 本当かなぁ、と不安そうにネギ先生が呟く。今はあんな態度だが、明日菜の根はお人好しだ。  

 私が魔力の影響で調子を崩していた時、周りの人に心配をかけないように隠していたのだが、明日菜はなんとなく察していてくれてたようだ。  

 なんだかんだ言っても、そんな優しい明日菜なら、しっかりとネギ先生の世話を焼いてくれるだろうと私は予想していた。  

 

「これでひとまず大丈夫かの、ではネギ君。後のことは他の先生の指導に従ってくれい」

 

「分かりました。えっと……七海、さんは? 」

 

「私は学園長と話があるので、先生は先に行っていて下さい」  

 

 ではまた後で教室で、と挨拶をして、ネギ先生も学園長室を後にした。  

 

 

 

「……さて、七海君。それで話とは? 」  

 

 ネギ先生がしっかりと扉を閉めてこの部屋から立ち去り、私と学園長の二人きりであることを確認してから、私は言う。

 

「学園長に話があったのですが、その前に一つ。とりあえず、彼が何者か聞いても宜しいですか? 」

 

「彼は魔法使いじゃよ」

 

 学園長は微塵も隠そうともせず、堂々と言い切る。

 

「やはりですか……。何故教師を? 」

 

「修行のためじゃ。立派な魔法使いになるためには与えられた修行をこなさねばならん」

 

 修行によってどんな効果を得ようとしているかは分からないが、教師という仕事は、確かに多くの事を経験出来るだろう。生徒には分かりやすく教えなければならないし、関係性も大切にしなければならない。同業者関の交流も不可欠で、他人と関わることが多い教師は、人間的にも成長出来る筈だ。  

 しかし、まだ幼い彼にそんな経験をさせなければいけないのか、という疑問はあった。普通の子供ならば、まだ学校に通い友達と遊んでいる時期だ。教師などを経験するよりも、ずっと大切な思い出になるはずだ。

 

「……ネギ先生は、納得しているのでしょうか」  

 

 それらを全て置いてここに来ていると、自覚しているのだろうか。

 

「……彼の目とあの言葉を聞けば、分かるじゃろう? 」  

 

 学園長は髭をなぞりながら私に言う。  

 

 ……私が、彼が教師をすることに反対しないのは、彼の目を見て、言葉を聞いてしまったからだ。  

 彼の目には、強い意志が宿っているように見えた。やり遂げるという覚悟が、その姿から見えてしまった。それに、あれだけ流暢に話す日本語にも私は驚いた。イギリスから来たと言う彼は、日本語を学ぶ機会など乏しかった筈だ。言語の中でも高難易度の日本語をあんなに話せるということは、相当勉強したのだろう。優秀な先生の元で、本気で勉強しなければ簡単に得られるものではない。そのことがまた、彼の日本で教師をするという覚悟を示しているように思えた。

 

「……ネギ先生の件は、分かりました。しかし、彼の修行と言えどフォローはさせてもらいますが宜しいですね? 」

 

「ふぉっふぉっふぉ。生徒と上手く関係を結ぶのも教師の仕事じゃし、むしろ頼みたいくらいじゃよ」  

 

 目を細めて、学園長は笑う。  

 ネギ先生の話は、一旦これで良いだろう。これからどんな問題が起きるかは分からないが、その都度考えていこう。

 

「それでは、本題なのですが」

 

「……ふむ。なんじゃ」  

 

 私が真剣な表情をして、学園長を見ると、それに対応するように彼の顔も真面目になる。

 

 

 断られたらどうしよう、という思いを胸にしながら、一度ゆっくりと息を吐き出して、 私は彼に告げる。  

 

 

「世界樹のことで、頼みたいことがあります」    

 

 

 

 

 ○      

 

 

 

 

 学園長との話を終えてから、私は急いで教室に向かう。少々長話が過ぎたようで、既に2―Aからの騒ぎ声が廊下に響いて聞こえる。  

 何事かと私が2―Aの教室の扉を開けると、そこには、空のバケツをかぶり、お尻にオモチャの矢を刺され教壇で転んでいるネギ先生がいた。  

 クラスの生徒達は子供が来るとはまったく想像していなかったようで、心配して彼に駆け寄っている。  

 イタズラで罠を仕掛けている可能性を気づけなかった自分の失敗を嘆いたあと、涙目でこちらを見る先生の姿を見て、今後を心配し、私はひっそりとため息を吐いた。    

 

 

 

 

 ○    

 

 

 

 夕暮れ時、寮が少しずつ賑やかになってきているのは、段々人が帰ってくる時間のためだろう。  

 自分の部屋にいてもクラスメイトの声が聴こえてきて、叫び声などが響いた時には私は一人で苦笑してしまう。    

 今日の放課後は研究室に顔を出す予定だったのだが、ネギ先生の来訪によりとても疲れた1日となったため、私は早々に寮に戻ることにしたのだ。    

 

 今日の朝、罠にかかってひっくり返っていたネギ先生が教室で自己紹介したとき、クラスは予想通りはしゃぎ出し即収拾がつかなくなりかけた。明日菜は何故かネギ先生に突っ掛かり、それにあやかが文句を言って、いつもと同じように喧嘩まで始まる。私はなんとか彼らを落ち着かせ、やっと皆が席についた時、彼は初めての授業を始めた。  

 

 ネギ先生の授業を妨害する明日菜をなんとか静まらせながらも、私達は彼の授業を聞く。黒板に字を書くところから苦労していたのには冷や汗をかいたが、内容はしっかりとしたもので私は感心した。お手本のように私達にも聞き取りやすく、それでいてネイティブに近い発音で英語を話すネギ先生の授業は、想像よりもずっと分かりやすかった。人に教えるとは、決して簡単ではない。理論的に展開することから彼の頭の良さも分かり、さらに親しみやすい彼は、先生に向いているのではと思ったほどだ。    

 

 それから、彼の歓迎会、明日菜が何故か分からないがネギ先生にキスを迫るという珍事件などが起こり、一々大騒ぎする生徒を静めていた私は、いつもの倍は体力を使った。  

 

 ……明日菜は、やたらネギ先生に絡むが、二人の間で何かあったのだろうか。最後にはキスをしかけるほど仲良く? なっていたのが、更に疑問だ。    

 

 

 今日の学園長との話から、ネギ先生の事と色々と考えながらベッドに寝転んでいると、部屋の扉から、コンコンとノックする音が聞こえた。  

 

 学園長ではないが、誰が来たか私には何となく分かってしまった。

 このタイミングで私を訪れる人は、きっと今日1日仏頂面していたあの人だろう。  

 

 

「……長谷川さん、入っていいぞ」

 

「……おう」  

 

 

 きぃと扉を開けて顔を出したのは、想像通り硬い顔をした長谷川さんだった。

 

 

 








小ネタ
『料理』





「あんな、七海さ」

「ああ」

「どうして料理苦手なん?」

「どうして、と言われても」

「うち聞いたことあるんやけど、化学の実験とか得意な人は、料理も上手なんやって。七海はそういうの凄い得意なんに料理は全然だめやん?なんでかなーって」

「うーん。そうだな……」

「基本的にレシピ通り作るだけやから慣れれば誰でもできるえ?」

「そこが問題なんだ」

「え?どこ?」

「例えば、カレーを作るとしよう」

「うん」

「レシピ通りに具材を用意して、下準備して、あとはルーを入れるだけ、ってとこまでくるだろ?」

「うん」

「そしたらな、唐突に鍋にマヨネーズを入れたくなったりする」

「な、なんでそんなことを」

「レシピにはもちろん書いてない。だからこそ、試したくなってしまうんだ。ここでこれを入れたらどうなるんだ、とか、こうした方が良くなるのでは、とか、この組み合わせは誰もしたことないだろ、とか考えてしまうんだ。未知を追う、ではないが、決められたルートを行くよりも新しい発見をしたいという欲望が勝ってしまう。結果、毎回まずいという何度も経験した味を発見して終わってしまう」

「……七海もあほなところはあるんやなぁ」




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24話

 

 

「長谷川さんはコーヒーか紅茶どちらが良い? 」

 

「……悪いな。コーヒーで」

 

「了解」  

 

 部屋の中央にある丸テーブルの側に座っている長谷川さんから若干だれた返事を聞き、私は台所に移動した。寝間着であろうジャージを着てクッションの上に座り、机に両肘を置く姿は、彼女には失礼だが、幾分か老けて見えてしまった。  

 私はそんな彼女の姿に苦笑しながら、台の上にあるコーヒーメーカーに紙でできたフィルターをひき、購入したコーヒーの粉を入れる。そして、側部に付いている容器に水を汲んでパチリとスイッチを押す。次第にコポコポと音を立て始め、苦味を思い出すような匂いが辺りを漂い、私の鼻を掠めた。眠気を飛ばすこの匂いは、嫌いではない。

 

「ミルクと砂糖は? 」

 

「なしで」

 

 即答で返ってくる辺り大人だなぁ、なんて思いながら、少し経って出来上がった黒色の液体を二つのマグカップに入れる。一つはそのままで、もう一方には砂糖を入れてから冷蔵庫から取り出した牛乳を注ぐ。黒色の表面に白い液体が流れ込み、緩い渦を巻くように混ざりあった後、それは濃いクリーム色に変わった。  

 二つのマグカップのとってをそれぞれの手で持ち、台所から移動して長谷川さんのいる丸テーブルのそばまでいく。ブラックである方を長谷川さんの前に置くと、彼女は私に軽くお礼をした。  

 私はそのお礼に返事をして、そのまま長谷川さんと対面するように座る。軽く熱気を感じながらも、ゆっくりとマグカップを持ち上げて、カフェオレを飲む。ミルクのおかげで温度も丁度よく下がり、甘味もあってとても飲みやすい。  

 気が付くと、そんな私の姿を長谷川さんはじっと見つめていた。

 

「……? どうかしたか? 」

 

「……明智はイメージだと完全にブラック派ぽかったからよ。いや別にそれが悪いとか言うわけじゃなくて」

 

「ブラックも飲めない訳じゃないんだが、甘い方が好きなんでな。そういう長谷川さんはブラックだなんて格好いいぞ」

 

「や、やめろよ! 格好つけて飲んでるみたいじゃねーか! ブラックのが目覚めが良くてよく飲むだけだ! 」  

 

 そう言って、長谷川さんは照れ隠しにマグカップをぐっと上げて口元へ運んだ。

 

 

 ……私のカフェオレは冷えた牛乳を入れたため、飲める温度であった。しかし、熱したばかりのコーヒーを飲んだ長谷川さんは…………

 

「…………あひぃ(あちぃ)」

 

「だろうな」  

 

 湯気で曇った眼鏡の奥に涙目が見える。火傷して真っ赤な舌べらを出す長谷川さんがなんだか可愛らしくて、不謹慎ながら私はクスリと笑ってしまった。その後、笑った事に対してじろりと涙を貯めた目で睨まれたため、すぐに冷えた水を入れたグラスを運ぶことにした。    

 

 

 ○  

 

 

 

「それでだ。今日はどうしたんだ? 」  

 

 二人ともマグカップに入った飲み物から湯気が消え、量が半分ほどに減った時、私は長谷川さんに尋ねた。と言っても、正直内容は想定しているのだが。

 

「……なぁ。この日本にはさぁ、法律とかあるよなぁ」 

 

「……あるな」  

 

 舌の火傷は治まったようで、長谷川さんは先程までと違い流暢に喋る。しかし、何故急に法律の話なのかは私にはまだよく分からない。

 

「……その法律は麻帆良にも適応してるよなぁ」

 

「……してるだろうなぁ」  

 

 静かに、しかしはっきりと話す長谷川さんの声が何か怖い。私が、彼女に何を言わんとしてるか聞こうとした所で、彼女は大きく息を吸い…………  

 

「労働基準法機能しろっ! 」    

 

 叫んだ。わしゃわしゃと自らの頭を掻きむしりながら長谷川さんは叫んだ。

 当然ネギ先生が教師をしていることについての訴えであろう。あー、話はそう繋がるのかぁ、とのんびり思ってから、とりあえず夜も近いので静かにしようと私は彼女に告げた。  

 

 

 

 ○  

 

 

 

 少し経ち、彼女が落ち着きを取り戻してから私達は再び話を始める。

 

「明智はどう思ってんだよ。あの子供先生のこと」

 

「……不安はあるが、頑張ろうとはしてるんじゃないか」

 

 私がそう言うと、長谷川さんは目を見開いて私を見る。

 

「おいおい明智。子供だぜ? おかしいのは分かってる……よな? 」

 

「大丈夫だ。ちゃんと認識できてる」  

 

 私の言葉を聞いて、長谷川さんはほっと胸を撫で下ろす。どうやらこの非常識を自分だけでなく私もちゃんと認識出来ているか心配だったようだ。

 

「それじゃなんでだ? 」

 

「ネギ先生が本当に何にも出来ないような子供だったのなら私も思うところがあったさ。だが、今日の授業はどうだった? 」

 

 長谷川さんが少し考えるようにしてから答える。

 

「まぁ、悪くはなかったけどよ……」

 

「そうだろう? 確かに彼は頭が良いようだし、子供というだけで評価するのは早計じゃないかと思ってな」  

 

 うーんでもなぁ、とそう簡単に納得出来ずに長谷川さんは頭を抱えている。この調子だと、ネギ先生が魔法使いなどと言ったら彼女の頭はパンクしてしまうだろうなと心配にもなった。    

 

 実のところ、長谷川さんには魔法や魔法使いのことについては話をしていない。学園長が言うには魔法とは秘匿されるべきものであり、それを知ってしまった者の記憶を消すことさえあるようだ。……そう考えると、私が図書館島で記憶を消されなかったのは本当に運が良かったのだろう。いや、学園長が私に甘かっただけか……

 魔法使いの存在を知ることがどのように不利益で危険を及ぼすかは知らないが、その危険がある以上長谷川さんを無理に巻き込むことをするべきでないだろう。  

 ただ、学園長には長谷川さんのことについて話してある。認識阻害という魔法の効果を受けにくい彼女は、幼少から苦労していたということを、学園長に伝えた。すると、学園長は申し訳なさそうな顔をして、私に頭を下げた。私に謝っても仕方のないことで、いつか本人に謝って上げて下さい、と言うと彼はいつか必ず、と私に約束してくれた。  

 

 因みに長谷川さんに、魔力ではなく不思議パワーと称して世界樹と昆虫の話は聞いてもらうことは許可をもらっている。魔法を絡めず公にはしないと約束はしたし、私の話を聞こうとしてくれる数少ない人をなくしたくなかった。……隠し事しながらも聞いてほしいことは聞いてもらうという勝手な都合ではあるのだか。

 

「……はぁ。それじゃ明智の言うことを信じて子供先生についてはもう少し様子を見てみるか……」  

 

 一人で罪悪感を感じている私を前にして、彼女は溜め息を吐いてから、半ば無理矢理自分を納得させるように言う。それから、マグカップの取っ手をもってゆっくり中身を飲み干した。湯気が消えたからといって先程火傷した飲み物への警戒心が消えた訳ではないらしく、慎重になる彼女の姿は年相応の少女に見えた。  

 私も釣られるように少し冷えたカフェオレを飲もうと、胸の前までマグカップをあげると、彼女はキョロキョロと私の部屋を見渡した。  

 私はカフェオレを一飲みして、マグカップを机の上に置いてから聞く。

 

「……なにしてるんだ? 」

 

「いや、あの時のカブトムシがいないなって」

 

「……寿命で、なくなったさ」  

 

 日本のカブトムシの寿命は、成虫になってから長くても2、3ヶ月だ。世界樹の影響を受けてその倍は生きたが、あの時から一年以上たった今まで生きることなど出来ない。  

 

 そうか、と少し目を伏せてから彼女は再び私の部屋の物色を始めた。

 ……長谷川さん、段々と私に対する遠慮とかなくなってきている気がする。別に構わないのだが。  

 

 長谷川さんが去年カブトムシとじゃれあっていた事を考えると、虫自体には大きな抵抗はないらしい。

 

「ここにいるのは……蟻? いや黒いけど白蟻か。……お。水槽もある。ついに昆虫だけじゃなくなったのか」

 

 長谷川さんは、網目状でステンレス製の棚にある虫籠を順に眺めていき、中段にあるガラス張りの四角い水槽を覗き込む。魚の姿でも探しているのだろう。

 

「ちゃんと昆虫が入ってるぞ。そこにいるのはホタルの幼虫だ」

 

「へ? …………ホタルの幼虫ってまさかこの気持ち悪いやつ? 」

 

「気持ち悪いって……」  

 

 長谷川さんは、水槽内にいる黒い細長の生き物を指差して言う。ホタルには種により陸生と水生の幼虫がおり、水生のものは水辺で生活して貝を食べる。幼虫の姿は成虫とはかけ離れていて、芋虫に近い体型で、腹部などいくつかの節に分けられている。さらに、各節に生え並ぶ鰓が足のようにも見え、これを初見でホタルの幼虫と気付ける人はいないだろう。

 

「そんで今度はホタル使って何してるんだ? 」

 

「ホタルに世界樹パワーを与えたらどうなるかを調べようとしていてな」  

 

 成虫となったホタルは、皆が知っているように尾部を光らす。それはコミュニケーションや交尾の誘導など個体間の信号として使われるため、他の個体への相互作用をみるのに適している。  

 ここまで説明すると、長谷川さんは頭を傾ける。

 

「……ホタルの幼虫って木を食べるのか? 」 

 

「食べないな」

 

「…………どうやって世界樹の影響受けさせたんだ? 」  

 

 世界樹の影響を顕著に受けさせるためには食すことがキーである、といつか言ったのを覚えていたようで、長谷川さんは疑問を浮かべていた。  

 私はそんな長谷川さんを前にして、前回と同じようにニヤリと笑ってから応える。  

 

 

 

「そうだな、じゃあその辺の研究成果について話をしようか」

 







小ネタ
『英語』






「しかし子供先生、英語も日本語もぺらぺらってのはすげえな」

「確かにすごい。十歳で二か国語も話せるのは。相当頭が良いのだろうな」

「私英語って苦手なんだよな」

「……そうだったか?テストの点数も取れてないという訳ではないのだろう」

「勉強すんのが苦手って訳じゃなくて、なんだろな、存在が苦手」

「……どういうことだ?」

「なんで日本人なのに海外の言葉学ぶ必要あるんだよ、っていつも思っちまう。こちとら日本に引き籠る気満々なのに勉強させられてもなって」

「ああ、そういう……。日本に引き籠るというのは引き籠りとしてはかなり行動範囲が広そうだな」

「そこは比喩だ」

「分かってる」

「それによ、万が一私らが海外行くとなったら、普通行く国の言葉とかある程度調べて、ガイドブック片手に現地の人には現地の言葉で話すだろ?」

「まぁ、そうだな」

「でも英語圏の奴らって、日本来ても大抵英語で話してくるじゃんか」

「……そうか?」

「そうなんだよ。英語ですけど、まぁ世界一の言葉ですし理解できますね?って感じで始めから英語でくんだよ。それがなんか気に入らん」

「ひねくれてる考えだなぁ」

「自覚はある」

「真面目な話をすれば、英語を学んでおくことは、将来自分の可能性を広げるのにとても重要だぞ」

「例え日本で引き籠りでも?」

「例え意外と行動範囲が広い引き籠りでも、だ」

「比喩だぞ」

「分かってる。日本のことを狭い世界、だとは言わないが、やはり世界は広い。色んな世界のことを知るために、英語というツールはとても役に立つ。もちろん、日本にいたままでも英語の文献に触れる機会はあるからな」

「……うーん。まだそういう実感というか、考え方は出来ないんだが」

「……まぁ、今は授業をちゃんと受けていればそれでいいと思う。いつの日か、長谷川さんが必要だと思った時にしっかりと向き合えばいいんじゃないか」

「日本で英語を話してくる外人にはどうしたらいい?」

「できる限り頑張って答えてあげてくれ。彼らはほかの国の言葉を学ぶ機会が少ないから、ある意味仕方がないんだ。だけど、ゆっくりと簡単な英語で話してくれるし、それに……」

「……それに?」

「最後はきっと、敬意をこめて、『アリガトウ』、って言ってくれる」



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25話

 

 

「長谷川さんは木を食べれるか? 」

 

「無理だろそりゃ」  

 

 ある意味核心をつく私の唐突な問いかけに、長谷川さんは即答し、当然だろ、と言葉を続けた。堂々と答えを出した長谷川さんに、私は再び質問を重ねる。

 

「何故木は食べれないんだ? 」

 

「何故ってそりゃ……不味いし硬いから? 」  

 

 長谷川さんが小首を傾げながら言う。至極真っ当な意見なのだが、この話においてそれだけでは説明しきれない部分がある。

 

「今の時代、これだけ調味料があれば味付けくらい出来るだろうし、圧力などをかけるか柔らかい部分を探せばそれらの問題は解消出来るだろう。地球に多く生え揃う木を食べることが可能であるならば、食料に困ることなどないかもしれない。しかしそれでも、私達に木を食べる文化が生まれない」  

 

 確かに、と呟いてから長谷川さんはうんうんと頷く。私はもう一度冷えたカフェオレの入ったマグカップを持ち上げ、中身を喉に流してから続ける。

 

「私達人間には、木に含まれる成分を分解し消化することが出来ない。口に含んで飲み込めても、栄養源として働くことはなく、食べるメリットがないんだ」  

 

 勿論、例外はある。シナモンなどは木の成分を使っているし、漢方でも木を粉末にしてるものもあるだろう。しかし根本的な木の成分であるリグノセルロースと呼ばれるものを、私達は分解も消化もできない。

 

「つまり、木を食ってるやつらはその成分を分解出来るから食べれるってことか」

 

「そうだ、と言いたい所だが、正確には少し違うんだ」

 

「……相変わらず遠回しだな」

 

「嫌か? 」

 

「全然。先生ー、答えを教えて下さい」  

 

 長谷川さんは演技がかった様子で私に頭を下げる。……今までより更にマニアックな話になるが、頑張って聞いてもらおう。  

 

「主に木の成分を分解してるのは、木を食すやつの腸内にいる原生生物や細菌なんだ」  

 

 昆虫は多くの共生細菌を体内に住まわせることで有名(業界では、と補足がつくかもしれない)だが、腸内に原生生物や細菌を持つということ自体は珍しいことではない。

 

 私達人間にも腸内細菌と呼ばれるものはいる。よく耳にするものでいったら、大腸菌などまさしくそうだ。しかし木の成分を分解出来る菌を持つものはそう多くなく、前世においても昆虫のもつ共生細菌を上手く利用してバイオマスとして使えないかと試行錯誤されていた。

 

「ほーん。それじゃその菌とかを上手く利用すれば木を食べれない生き物も食べれるのか」

 

「理論的にはそうなんだがな、普通ではそれは簡単なことではない。これらの菌は腸外の環境での単離も培養も困難なんだ」  

 

 培養が簡単な大腸菌とは違い、それらの菌は外界で生きることが難しい。そのため、それらを上手く使うことは困難を極めていた。  

 

 私がそこまで言うと、長谷川さんは何か気付いたという表情をする。

 

「……普通では、ってことは、不思議パワーを受けた昆虫では……」    

 

 ……流石に察しがいい。私は称賛するようにニヤリと笑ってから応える。  

 

「その通り。普通ではない不思議パワーの影響を受けた昆虫の腸内細菌は、環境適応力や生命維持力を上げる。そのため、私はそれらの菌の培養に成功した」

 

 私がエヴァンジェリンから液体の魔法薬をもらい、飲むようになってからいくつか考えた。液体を飲むことで体内に魔力を流せるならば、魔力を宿ったものは体の中に入れば作用するのだろう。しかし、世界樹を私達がかじった所で力を得られるかといったら、否だろう。もしそんなことが可能ならば、世の魔法使いはここに集まり世界樹の奪い合いが始まり、皆で世界樹をかじかじと頬張る筈だ。  

 

 学園長など麻帆良にいる魔法使いが世界樹を防衛しているというのもあるかもしれないが、だとしても、人間がそう簡単に世界樹は利用できないという性質がなければ、この地は戦地になっていてもおかしくない。  

 

 ならば、何故世界樹を食す昆虫だけ力を得ていると考えると、彼らには木を分解消化する能力があるという答えに行き着いた。食したものに含まれる成分を上手く自分のエネルギーに還元すると同時に、魔力を得ているのではないかと。  

 微量だが、世界樹が存在するだけでも麻帆良の人や生物に力を与えているのかもしれないことは、世界樹を食さない昆虫が環境適応力を上げて、多様性を増やしていることから言える。しかし、それは精々潜在能力を一歩後押しする程度で大きな力にはなっていないだろう。……いや、人の能力変化のデータはとってないので、もしかしたら昆虫特異的な現象かもしれないが。

 

「そんじゃつまり……その培養した菌に世界樹を分解させれば、不思議パワーは誰でも得られるということか? 」

 

「それを今、このホタルで検証中なんだ」  

 

 世界樹の枝を高温高圧にかけてから、細かく磨り潰し粉状にする。その後、培養した菌を集め一緒にした後、水と混ぜる。それをホタルの幼虫が住む水槽に入れ、幼虫が水を体内に入れるときにその成分も取り込めるようにした。うまく口内摂取してくれていれば、不思議パワーの影響を受けるはずだ。  

 

「…………もし上手くいったら、人間も適応出来るのか? 」  

 

 少し考えるような顔をしてから、長谷川さんは問う。こんな話をすればこの質問が来ることは当然なのだが、私は間をおいて渋るような顔をして答えた。

 

「…………さぁな」  

 

 …………そこについては、本当にまだ分からない。昆虫が出来ることをそのまま人間に出来るとは限らないからだ。世界樹の魔力が人間にとって有害でないという保証もない。ホタルが上手に作用したら、次はマウスなどで試すべきなのだろうが…………

 

 

 …………私が、その力を使おうとしてると言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。    

 

 

 

「…………」

 

「…………」  

 

 

 急に話が途切れ、二人の間に沈黙が流れた。いきなり真剣に考え込む私を前にして、長谷川さんは気まずさを感じてしまったようだ。彼女は少し苦い顔をしながら、気を逸らすように目の前のマグカップに手をやる。そこで、自分がコーヒーを飲み干したことに気付いたようだ。

 

「……もう一度入れ直そうか」  

 

 そう言って、私が席を立ち上がろうとすると、長谷川は私の袖を掴んでふるふると顔を横に振った。

 

「いや、今日はもう大丈夫だ。わるいな、いきなり押しかけて」

 

「謝ることではない。私も長谷川さんと話をするのは楽しい」  

 

 長谷川さんは照れ臭そうに笑ってから立ち上がって、ゆっくりと玄関に向かっていく。私も彼女についていくようにして、靴を履く彼女の後ろ姿を見る。

 

 トントン、と軽快に爪先と地面をぶつけて、彼女はスニーカーを履き終えた後、おもむろに私を見て言う。

 

「…………明智。なんつーか、あんま無理すんなよ? 最近たまにきつそうだぞ? 」  

 

 探るように、ゆっくりと言った。眼鏡の奥にある彼女の瞳は、真剣に私を心配する目だった。

 

「……気を付けるよ。……ありがとう」  

 

 私が自分の体調の悪さを上手く隠せていないのか、彼女達が鋭いのかは分からないが、どうやら相当心配をかけていたようだ。長谷川さんの顔を見て、もしかしたら彼女はこの一言を言うためにわざわざ理由を作って私の元まで来たのかもしれない、とすら思った。本当に、私は周りの人に恵まれている。  

 私が礼を言うと、長谷川さんははにかむように笑ってから、じゃあな、と言って扉を閉めた。    

 

 長谷川さんが去った後、少しの間扉をじっと見つめてから、私は部屋に戻りベッドに座る。ふんわりと押し返される感触を感じながら、そのまま倒れるようにゆっくり背中から順にベッドに身を預けていく。  

 

 ……今日は、少し疲れたな。

 

 寝転がって瞼を閉じながら、手の甲を額において今日一日を振り替える。意識を段々と薄めて行きながら、私はネギ先生と会った後学園長と話したことを思い出していた。    

 

 

 

 ○  

 

 

 

「世界樹のことで、頼みたいことがあります」  

 

 

 学園長室で、大きな机を挟んで私と学園長は向かえ合っていた。余裕を隠さない表情でいる学園長にネギ先生の正体を聞いた後、私がそう言うと、彼の顔は真面目な表情に変わった。

 

「ふむ、なんじゃ」  

 

 いつものけらけらした雰囲気とは真逆な空気を身に纏わせた。たまに学園長がこうなった時は私も身構えてしまうが、今は怯んでいる場合ではない。

 

「世界樹の魔力を、利用したいと思っています」    

 

 堂々と、目を逸らさずに言う。

 

 いつか図書館島で学園長と対峙したとき、私達が交わした問答を思い出す。もし世界樹が私に大きな力を与えるとしたらどうする、と聞いた学園長に、私はこう答えた。  

 

『そんなの、まったく私の琴線には触れないし、私の興味の範囲ではない。私が調べたいのは、世界樹の影響による昆虫の変化だ。力など、必要だと思ったことはない』    

 

 あれだけ堂々と答えておいて、今まさに真逆なことを言っている。自分勝手なことは分かっているし、彼の立場から簡単にうんと頷いてはくれないだろう。だが、なんとかして許しを貰わなければならない。そのための言葉を幾つも用意してきのだが、学園長は……

 

「ええよ」  

 

「…………ええ? 」    

 

 簡単に頷いてしまった。逆に私が呆気にとられてしまう。学園長は、なんだそんなことかの、と続けていつもの雰囲気に戻り髭をいじる。

 

「しかしあの時は……」  

 

 世界樹を利用するのは許さない、という雰囲気を出していたと感じたのは私の思い過ごしだったのだろうか。

 

「あの時とは状況が違うからの。あの時儂は七海君のことをよく知らんかった。だが、今はなんとなく君の性格を掴んどるつもりじゃ」  

 

 唖然とする私を前にして、髭をなぞり頬を緩ませながら学園長は続ける。

 

「世界樹を研究に使うときは律儀に儂の元にきてしっかり許可をとっていた。それどころか囲碁まで付き合ってくれたのう」  

 

 あまり強くはなかったがの、といつもと同じように笑い声をあげる。……囲碁などあまり触ったことがないため、勝負はほとんど私の負けであった。

 

「今だって、馬鹿正直に儂に伝えずとも勝手に世界樹を使うことだって出来たのに、君はそれをしなかった。他の先生や生徒に君の評価を聞いても、誰も君を毒突くようなことは言わん」

 

「……私は、そんな立派な者じゃ―――」

 

「儂には君が私利私欲に世界樹を使うとは思えんし、その情報をばらまくとも思えん。頭のよい君なら、利用出来たとしてもその情報をどうすべきかは分かっている筈じゃしの。どうやって利用する気かは分からんがの」

 

 学園長が私を持ち上げるような言葉を吐く度に、私の心は締め付けられる。

 

「……学園長。違うんです。私は私利私欲のために、自分のために世界樹を使おうとしているんです」  

 

 世界樹を使うために学園長を説得しに来たのに、何故か私は自分が不利になることを口走っていた。しかし、言わずにはいられなかった。  

 

 私は、聖者なんかじゃない。  

 世界樹の魔力を利用出来れば、病気の人の能力を底上げし治療に使える可能性もなくはない。しかし、そのためには魔法について大っぴらにしなくてはならず、魔法を秘匿するものは良しとしないだろう。そうなると、自分も世界樹の魔力を使うことを禁止されるかもしれない。だから、私は誰にも言わず利用すると学園長に誓うつもりだった。

 

「……それは、君の魔力がない性質をどうにかするためなのじゃろう? 」  

 

 こくりと、私は静かに頷く。  

 自分の体質については、学園長に既に報告していた。学園長も心配してくれたが、エヴァンジェリンに協力してもらってることを告げると少し嬉しそうな顔をしたのをよく覚えている。その後も、彼はことある毎に私に体調を尋ねるくらい、彼も私を案じてくれた。  

 

「ならば、良い。七海君の体調を治す役に立つ可能性があるなら、良いのじゃ。君が調子が悪いと、心配するものがいるじゃろう? その者たちのためにも、自分を大事にしてほしい」    

 

 その情報は秘密にしてほしいがの、と彼は朗らかな声で続けた。

 

「……ありがとうございます」  

 

 私はしっかりと頭を下げて、感謝の言葉を口にする。こんな風に許可を貰えるとは思っていなかったが、安堵の気持ちが溢れた。    

 

 その後、どうやって世界樹の魔力を利用するつもりで、これからどう研究していくのかと言うことを話してから、私は再び頭を下げて学園長室を出ようとした。

 

 

「七海君。最後にひとつ」

 

「……なんでしょう? 」  

 

 私が部屋から出ようとドアノブを手にしたときに、学園長が尋ねる。

 

「本当に、自分のためだけなのかの? 」

 

「……どういう意味ですか? 」

 

「悪い意味ではない。ただ、君が自分のためだけにそこまでするのかと疑問に思ったのじゃ」

 

「……今は、自分のためです」

 

「…………そうか」  

 

 呼び止めて悪かったの、と言う言葉を耳にしながら、私は学園長室の扉を閉めた。    

 

 

 2―Aの教室に向かうため、私は足早と廊下を歩く。コツコツと響く音を聞きながら、学園長に言われたことを思い返す。    

 

 ……本当に自分のためだけかと聞かれたら、その通りだ。私は、私のために、救いたい人がいる。……いや、いると言う表現は間違っているだろう。いるかもしれない人が、私と同様な症状の場合、世界樹の魔力が普通の魔力と多少異なるもので、私の体調を戻せるならば、その人も救える筈だ。    

 

 未だに、私は夢を見ている。まるでお伽噺をいつまでも信じている子供のように、その想像を捨てきれない。  

 

 妻がこの世界にいるならばと。

 

 

 そして、思う。妻がいて、私と同じ症状ならば、私の研究で今度は彼女を救えるのかもしれないと。

 

 

 

 






ちょっとだけ補足します。

木の成分について。

木は基本的にリグノセルロースと呼ばれるものが主成分となっております。リグノセルロースは、リグニン、セルロース、ヘミセルロースが結合した物質で、その中のセルロースと呼ばれるものが消化するうえで中々厄介な存在となっています。木質系のバイオマスな実験では、これらの成分をいかにうまく有効な成分で変換するのかを日々考えています。

腸内細菌について。

その名の通り腸内に存在する細菌のことであり、ほとんどの生物が保有しているものです。人には100兆を超える数の細菌が腸にいるやらなんやら。
当然昆虫にも腸内細菌は存在しており、様々な役に立っています。その中でも木を食す昆虫の胃の中にはセルロース分解細菌と呼ばれるものがおり、そのおかげで彼らは木を食せるのです。
ほかにも、腸内細菌には宿主に大きく影響を与えるものが多く、ある昆虫では宿主の性別を操作しているとまで言われているものもいます。彼らはとてもすごいのです。








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26話

 教室の空気には、まだ朝の寒さが残っていた。窓の隙間からわずかに風が入り込み、さむ、と呟く声が聞こえたのか、窓際に座る生徒が静かに閉めた。

 生徒たちは皆決められた席に座り、机の上には教科書を広げている。興味深そうに授業を聞くものが大半であるが、数人の生徒は眠気に打ち勝てず頭で船を漕いでいる。  

 そんな中、ネギ先生が教壇で教科書を読みながら、歩く。黒板の前を左右に移動しながら英語の教科書を持つ姿は、知らぬ人が見れば教師の真似事をする可愛らしい子供にしか見えないだろう。

 

「では、今の部分を誰かに日本語訳してもらいましょう」  

 

 ネギ先生がそう言うと、夢の世界に誘われていた数人は、バッと音を立てて目を覚ました。当てられるかもという空気を感じて即起きられる芸当には拍手を送りたいが、その技術を覚えるより前に、もっとできることがあったのではないか。

 

「えーと、それじゃあ……」  

 

 ネギ先生が誰かを指名しようと教室を見渡す。しかしネギ先生と目が合ったものは、その自信のなさからかすぐに視線を逸らす。彼が見渡すとそれぞれが順に顔を背けていくため、応援席で見るようなウェーブが出来上がっているようであった。  

 えーとえーと、と顔を合わせない生徒に困惑しながらも、ネギ先生は首を左右にして指名する者を探る。すると、彼の目線が明日菜の方に向けて止まった。

 

 明日菜は冷や汗を滴ながら、必死に窓の外に顔をやる。嫌な予感はしているのだろう。決してネギ先生に向き合わず、明日菜は顔を逸らし続ける。ちらりと、ネギ先生に目をやると、彼はまだ明日菜の方を向いている。  

 未だにターゲットにされていることを察し、明日菜はゆっくりと息を吐き、急に落ち着いた顔つきになる。滅多に見れない明日菜のそんな表情は、まるで延々と雲を眺めている老人のようであった。  

 

 

『私思うんだけどさ、先生ってあまりにも堂々としてる生徒にはあてないと思うの』

 

 いつの日か、明日菜がそんな風に言っていたのを私は思い出していた。そんなことないと思うが、と私が返しても彼女はため息を吐きながら首を振っていた。

 

『だってさ、七海。堂々としてる生徒は多分答えを知ってるのよ。先生達は分からない生徒にこそ勉強させたいと思ってるから、逆にそわそわしてたり不安そうな子に指名するの』

 

 一理あると思ってしまった。その後、だからこそ土壇場でそれっぽい顔をするのが重要なの、と言い放った明日菜には、いや分かるように勉強するのが重要なんだが、と言ったのだが。

 

 そして今明日菜がしているあの顔こそが、彼女が中学生活で得た、教師に当てられないための技術の結晶なのだ。

 

 

 

 

「では、そうですね……。明日菜さん! お願いします! 」    

 

 悲しいことに、子供先生には明日菜の必殺技は通用しなかったようなのだが。  

 

 

 

「ちょ、ちょっと! なんで私なのよ! 」

 

「明日菜さんにはこれからお世話になりますし……」

 

「だったらなおさら恩を仇で返すんじゃないわよ! 」  

 

 先生が生徒を当てるのは当然であり、そこに決まりなどないのだが、明日菜は逆ギレしていた。  

 

 ここまで聞いて、数人の生徒が息を呑む音が教室には響く。大抵の先生は指名方式が確立されていて、それは出席番号順だったり席順だったりする。  

 しかし、ネギ先生にはそれがない。まったくのランダムで不規則制。当てられる順番が把握できれば事前に準備が出来て、尚且つ自分の番が来ないと安心出来る。それがないとなると、授業中安息の時間がない。

 これは見た目に反して厄介な教師だぞ、という心の声がクラス中に流れているような気がして、私は軽く呆れる。

 

「ほ、ほら、分からなくても挑戦してみることが大事ですよ! 簡単な英文ですし! 」

 

「わ、わかったわよ…………」  

 

 明日菜は抵抗を諦め、がたりと音を立てて席を立つ。教科書を両手に持ち、書かれている英文を睨み付けながら和訳に挑戦する。

 

「えと……えー、スプリングが噛む? あー、ふぉーるして私は高い木になる? えー、と、…………」

 

 教室中がしんと静まる。和訳だというのに片言の英語が混ざっている明日菜の答えは、完全に無茶苦茶であった。

 

 

「……あーあの。明日菜さん、そ、そこまでで大丈夫です…………」  

 

 ネギ先生が額に汗を流しながら明日菜の回答をすぐに止めた。訂正が追い付かない明日菜の英語力を垣間見て、何とも言えない表情をしている。

 

「えっとですね、明日菜さんは、もしかして英語があまり得意では……」

 

「ネギ先生、明日菜さんは体力だけは人一倍あるんですが、英語となるともう駄目なんですわ」

 

「そ、そーなんですか」  

 

 あやかがいつの間にかネギ先生に近より、そう呟く。恥をかかされたと感じたのか、明日菜は未だに立ったまま教科書を持ち耳を赤くしてプルプルと震えているのが、教室の後ろの席にいる私にも分かった。

 

「ちなみに明日菜は理科も苦手ネ」

「社会も不得意だね」

「数学は残念」

「国語は頑張りましょう」 

「体育は素晴らしいんだけど」  

 

 他の生徒も次々と明日菜の各教科の評価を述べる。皆の前で体力バカと言われているようで、その度に明日菜の耳の赤みが増していき、私はそろそろ止めるべきなのではと声をかけようとした。

 

「ま、私に任せて下さい! 明日菜さんに代わって華麗に訳してみせますわ! 」  

 

 教科書を片手に持ち、自信満々の顔をしてあやかが回答しようとする。その時であった。

 

 

「むきーーー!!!! 」

 

「やばい! 明日菜がいいんちょに襲いかかった! 」

 

「いいんちょも抵抗してる! 」

 

「女同士とは思えない激しく醜い争いが! 」

 

「ネギ君は唖然としてる! 」

 

「明日菜に食券10枚! 」

 

「いいんちょに10枚! 」

 

「仲介班いっそげー!! 」

 

「七海ー! 早く来てーっ! 」  

 

 暴れだした彼女たちに便乗して、他の生徒たちも祭りの如く騒ぎ出す。ネギ先生は二人の喧嘩を前にしてあたふたと混乱しているようだ。  

 大人しく席に付く何人かの生徒が、私をじっと見つめているのを感じた。小学校から変わらず彼女達を止めるのは私の役目となっているようで、早くなんとかして、という期待の目が私に集まっていた。  

 

 私は周りにじっと視線を返してから席を立ち、暴れる二人の前まで行く。  

 

「……二人とも、その辺にしておけ」    

 

 私が二人の頭をぽんと叩いて喧嘩を止めるのと同時に授業の終了を知らせる鐘の音が聞こえた。つまりこの瞬間に、二度目のネギ先生の授業が終わりを迎えた。    

 

 

 

 ○  

 

 

「ほんとにもー! ネギ坊主め! 」  

 

 午前中の授業を終え、クラスメイトが教室で各々の昼食を食べている中、明日菜がガツガツと弁当を頬張りながら愚痴を言う。  

 明日菜の弁当は木乃香が作ってくれたようで、彩りがよく栄養バランスにまで気を使っているのが見える。まさに木乃香の優しい性格を表している弁当であった。因みに当の木乃香は占い同好会の集まりがあるらしく、席を外している。

 

「明日菜、米粒が飛んできてるぞ。それに今日の授業で悪かったのは私達生徒の方だ」

 

「うっ……。そーだけど……」  

 

 明日菜の横に机を付けた私が忠告をしていると、向かい側に座るあやかが豪華な弁当からおかずを箸でつかみ、上品に口へと運んでいる。

 

「明日菜さん、まだ言ってるんですの。寧ろ私は先程の授業のことを謝りに行きましたわ。ネギ先生は今時珍しいとても素敵な子だと思いますの。ねぇ千雨さん」  

 

 あやかはおかずをもぐもぐと咀嚼し飲み込んだ後、長谷川さんにそう尋ねた。  

 

「……その前にちょっといいか。……なんで私はこの輪に入れられてるんだ」    

 

 購買で買ったパンの袋を開けることもせず、長谷川さんは若干のイラつきを示しつつ答える。その疑問に対して、明日菜は頭を傾げた。

 

「なんでって、今日は七海と食堂行かないんでしょ? なら私らと一緒に食べればいーじゃん」   

 

 普段弁当を作らない私は食堂を利用しており、長谷川さんも同様のためよく一緒にお昼を共にしていた。しかし今日は食堂があまりに混んでいたため、購買でパンを買って教室で食べようとなったのだ。私達はパンを片手に教室に戻ると、すぐに明日菜に一緒に食べようと誘われた。私と共にいた長谷川さんは、明日菜の強引な誘いに断る間もなく無理矢理席に着かされ今に至る。

 

「私も千雨さんとは前々からお話したかったのですわ。七海と仲良くしている所をよく見ていましたが、今まであまり機会がありませんでしたからね」

 

「……はぁ。別に話すことなんかそんなにねーぞ」  

 

 長谷川さんが諦めたように溜め息をつき、持っているパンの袋を開け始める。この場から離脱することを断念し、共に昼食を食べることを決めたようだった。

 

「んじゃ私らが色々聞くから! 千雨ちゃん好きな音楽とか食べ物とかスポーツは?! 」

 

「千雨さんと七海との初めての出会いは!! 二人で遊んだりするんですの?! その時は何をなさるんですか!? 」

 

「まてまてまて! 一気に来すぎだ! いいんちょは七海のことばっかじゃねーか! 神楽坂は米粒飛ばすな! 」

 

 長谷川さんの制止をものともせず、二人はぐいぐいと迫っていく。二人に圧迫されながら長谷川さんは助けを求めるように私を見つめるが、私は静かに微笑んで、頑張れと心の中で告げた。  

 私はわいわいとはしゃぐ彼女達を前にして、友達同士が仲良くなる瞬間とは嬉しいものだな、なんて呑気に思いながら、買ったパンを口にした。    

 

 

 ○

 

 

 騒がしい昼休みを終えて、午後の授業をいつも通り過ごし、放課後の時間となった。

 長谷川さんは昼休みにあった怒涛の質問攻めにより、いつもよりぐったりとした様子だった。あの後あやかたちに便乗して長谷川さんと仲良くなろうとした子達も集まり、てんやわんやになっていたのだ。

 長谷川さんはうっとうしそうにしながらも、それぞれのご飯を食べ終わる頃には今までクラスメイトにしていた壁をなくして話しているようにも見えて、それがまた私には嬉しかった。  

 

 

 皆が部活動もしくは帰宅しようと教室を出るのと同時に、私も廊下に出る。大学の研究室に向かうという目的もあったが、それと同時に、帰りの会の後すぐに教室を出てったネギ先生のことも気になったのだ。  

 

 放課後だからか生徒達の明るい声が行き交う学校を、足早に抜けた。中等部の玄関を出て、晴天の下で大学へ向かう道ながらにネギ先生の姿を探す。  

 制服を着替え、各々の部活動用の服になった生徒ばかりが目につき、ネギ先生は一向に見つからない。  

 

 ……あてが外れたか。職員室のほうか……?  

 

 そう思いながらも、私はきょろきょろと周りを見る。  

 ゆっくりと歩きながら捜索を続け、少し外れの中庭の方に目をやると、噴水の近くの階段で腰を下ろしている赤毛の頭を見つけた。  

 中等部園内にいる赤毛の少年など、ネギ先生以外にあり得ないだろう。ネギ先生は座って空を見ていて、私には気付いていない。

 

 噴水の水が跳ねる音を耳にしつつ、私は緩やかに彼に近づき、膝を折って後ろからそっと声をかけた。

 

「……ネギ先生。こんな所でどうしたんですか? 」  

 

 私の声に驚いたのか、彼はびくりと肩を震わしてから此方を振り向いた。

 

「っ! 七海さん。……どうしてここに? 」

 

「ネギ先生の様子が気になったので。落ち込んでいるように見えましたから」  

 

 そう言うと、彼は驚いた表情で私を見た後、そっと目を伏せた。

 

「……はは。生徒に心配されちゃうなんて、駄目ですね、僕。授業も満足に出来ないし、明日菜さんには嫌われてるみたいだし」  

 

 小さな声で、彼はぼそりと呟く。  

 

 

 ……やはり、この年の子にはまだ厳しいのかもしれない。  

 

 私は彼の横にすっと座り、どんな言葉をかけるべきなのかを悩む。  

 

 少しの間、私達の間には沈黙が続いた。コンクリートの冷たい感触を臀部に感じつつ、部活に励む生徒の声を遠巻きに耳にするばかりであった。ネギ先生の顔を見ると、深く考え込むような顔をしている。励ましの言葉を掛けなければ、と私が声を出そうとしたその時、彼はすっと立ち上がった。  

 

 顔を上げ空を見て、ぐっと拳を握ってから、言う。

 

「でも!こんなことではへこたれませんよ!まだ始まったばかりですし、何も満足に出来ていません!僕の教師生活は、ここから、ですよ!七海さんにはちょっとカッコ悪いとこ見せちゃいましたが、もう大丈夫です! 」

 

 

 ネギ先生は空に向かって拳を振り上げ、自分を鼓舞する。私が横で座って呆気にとられていると、彼は微笑みながら私を見る。

 

「弱音を吐いたら吐いた分だけ前を見なさい、って故郷の姉にも言われてたんです。失敗したとき、それを愚痴にするのはいいけど、前を進んで行かないのはだめだって」  

 

 生徒に弱音を吐くこと自体が間違ってるのかも知れませんが、と続けて彼は頭をかく。

 

 聞き覚えのある言葉に、私は思わず目を見開いていた。      

 

 

 

『私にだって、弱音を吐きたい時はあるわ』  

 

 疲れた様子で家に帰り、珍しく酒に酔った妻がそう言っていたのを思い出す。自身の研究に行き詰まり、その上他の教授に目の敵にされ、その時妻は私に初めて後ろ向きな発言をした。その内容は他人を悪く言うものではなかったが、どうしたものかしらね、と悩む姿は、見ている私をも悩ませた。

 

 だが彼女は、酔いに任せ散々言いたいことを言った後、一人で立ち直った。

 

『人生ずっと順風満帆なんて行くわけないもの。苦しいことも辛いことも悩むことも沢山あるに決まってるわ。……でもね、一度弱音を吐いた後は前を見るって決めてるの』  

 

 妻は酔いが治まったかのように静かに笑いながら私にそう言って、相談に乗ってくれてありがとね、と私の額をつついた。        

 

 

 

 

 

「ネギ先生なら、きっと大丈夫だ」  

 

 気付けば私も立ち上がり、彼の頭に手をやる。

 失敗はあっても、彼は一人で立ち上がって、前を向けた。ならばきっと、これからも大丈夫だ。

 撫でられたことでネギ先生は少し照れ臭そうにしながらも、元気を取り戻したかのように大きな声を出す。

 

「よし! それじゃあ! とりあえず、クラス全員分の成績を把握して、それに見合ったプリントを作って、それからそれから…………」  

 

 ネギ先生は自分で解決案を探り、ぶつぶつ呟く。  

 

 その時、ふと、誰かの息づかいが後ろから聞こえた。ひっそりと振り向くと、私のよく知る少女が、こちらに向かって全力で走ってやってくるのが見えた。

 

 

「ネギ先生、その前に」  

 

 私は彼に後ろを向くように促す。よく分からぬまま彼は体の向きを変えると、此方に来る明日菜に気付いたようだ。  

 

「彼女と仲良くなれるんじゃないか? 」  

 

 そう言って、私はネギ先生の背中を押した。  

 

 

「ネギ坊主! 探したわよ! 」

 

「明日菜さん……。どうしてここに?」

 

「えーと、それはその……。なに落ち込んでんのよ!……じゃなくて、えーと、あの」  

 

 

 私達の前で急停止し、明日菜は何か言おうとしている。突然やって来た明日菜の意図を読み取れず、ネギ先生はオロオロと私と明日菜を交互に見る。

 明日菜はしばらく言うべき言葉を探るようにしていたが、一度深呼吸をすることで覚悟を決めたようだ。  

 

「ネギ。悪かったわよ……。授業中暴れちゃって」

 

 明日菜は、すっと手を前に差し出してそう述べる。口をすぼめ、少しうつむきながら手を出すその様子から、彼女がネギ先生に歩み寄ろうとしていることがよく分かった。  

 

 ネギ先生はそんな明日菜をみた後、ぱぁっと表情を明るくし、私を一瞥する。

 

「いえ!僕もしっかり授業できなくごめんなさい」

 

 嬉しそうに笑顔を浮かべながら、彼はぎゅっと明日菜の手を握り返した。    

 

 

 

 それが、今後も宜しくという握手なのか、仲直りの握手なのかは彼らにしか分からないが、二人が手を握り会う姿を見て、何故か私は心を強く打たれた。  

 この二人ならば、どんな問題を切り抜けられるだろうと、脈絡もなくそう思った。    

 

 

 

 

「では、明日菜さん! せっかく同じ部屋なんですから、夜は僕と英語の勉強をしましょう! 」

 

「……………………へ? 」

 

「心配いりませんよ! とても簡単な英文から教えますから! 」

 

「い、いや、あの、私朝バイトで早いし」

 

「三人称単数って分かります? 過去形は? あ、疑問詞って知ってますか? 」

 

「う、うわー!! 」

 

「ちょ、待ってくださーい!! 」    

 

 質問に耐え切れなくなった明日菜は逃げるように凄まじい俊足で走り去っていき、ネギ先生も負けずとそれを追いかけていく。    

 

 気付けばいつの間にか私は一人にされていて、先程のやり取りを思い出してクスリと笑った後、私はそのまま大学へと向かっていった。

 

 






小ネタ
『帰宅部』





「あら、千雨さん。今お帰りですの」

「ん? ああ、委員長か。そっちこそ、部活はいいのか?」

「今日はお休みですの。千雨さん、部活動は……」

「してない。今から帰宅するとこだ」

「つまり帰宅部ですか」

「そうなるな」

「……んー」

「……どうした?」

「帰宅することが活動だとしたら、一応部活動をしていることにはなるんでしょうか」

「……意外とくだらないことを気にすんだな」

「なぜ無所属を帰宅部と称するんでしょう」

「まぁ、何もせずに家に帰るからだろ」

「結局みんな家には帰るんですが」

「帰宅部に入るような奴は速攻で帰宅するからな。帰宅のエースといってもいい。そういう悲しい奴らのことを帰宅部っていうんだろ」

「私、家ですることがあるならばすぐに帰宅する人を悲しいとは思いませんわ」

「……そか。ま、私も立派な帰宅部だから、さっさと帰らせてもらうわ」

「……いえ、待ってください千雨さん」

「なんだよ」

「せっかくなので一緒に帰りませんか。少し、寄り道でもしながら」

「……」

「嫌、ですか?」

「……たまには、そういう帰宅をしてみるのも、帰宅部としていいかもしれんな」

「くす。そうですね。友達とあまり通らない帰宅通路も探すのも、立派な帰宅部の活動だと思いますわ」

「……じゃ、一緒に部活動するか」

「はい。仮入部させてもらいますわ」




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27話

 

 授業前の休み時間、僕は職員室で次の授業のための準備をしていた。僕には少し大きかった椅子にも慣れてきたし、いくつかの書類が重ねられている机は、まさに「先生」という感じがして好きだった。周りにいる先生達はそれぞれ事務的な話から世間話までしているけれど、生徒達と違って静かで大人しい雰囲気が漂っている。

 

「ネギ先生、もう学校には大分慣れたかい? 」  

 

 声に反応して後ろを振り向くと、瀬流彦さんがコーヒーを片手に僕に笑みを向けていた。瀬流彦さんはいつもこうやって僕を気にかけてくれて、先生達の中でも若くほんわかとした雰囲気から話しやすい人だった。  

 僕は手に持った資料を一纏めにし、トントンと机とぶつけ、紙束の角を合わせてから返事をする。

 

「えと、まだまだ大変ですけど、楽しくやらせてもらっています」  

 

 僕がそう答えると、瀬流彦さんはコーヒーを一飲みしてから目を細めて笑った。

 

「はは、確かにあのクラスは楽しいね。その分大変さも学年1だけど」

 

「この前は高等部の生徒と僕を賭けてドッチボールをしてました……」

 

「あの子達らしいねぇ」  

 

 困ったように笑って済ます所を見ると、この位の問題は日常茶飯事なのかもしれない。

 

「そろそろ期末テストもあるけど、どーだい? 」

 

「……あー。…………どーでしょうか……」  

 

 何に対してどーだい、と聞かれているかは分からなかったけど、僕は言葉を濁すようにして、頬を掻きながら返した。  

 

 僕自身初めてテストを作るわけであり、その出来も上手く作れるかは気にはなっている。でも、瀬流彦さんが聞きたいのは多分そのことじゃない気がする。  

 

 僕の担当するA組は、えー、と、あんまり成績が良くない。超さん、七海さん、葉加瀬さん、委員長さんと学年トップクラスが四人もいるのに、同じように成績下位者が五人もいて、上手く相殺されている、いや一人分マイナスされているかもしれない。残りの人達は悪いわけじゃないんだけど、平均すると少し下に位置する人が多いからどうしても総合成績上位のクラスにはなれない。  

 僕が教師となって以前より更にどんと成績が下がってしまったらと思うと、少し恐ろしかったりする。  

 

「ネギ先生、少し良いですか? 学園長がお呼びで」

 

 職員室の扉から僕の指導教員であるしずな先生が顔を出して、僕を手招きする。僕は授業までの時間にまだ余裕があることを確かめてから、瀬流彦さんに一礼してしずなさんに付いていった。  

 

 

 

 ○

 

 

「え!? 課題ですか? 」  

 

 学園長室に僕の声が響く。長い頭をした学園長が、高そうな椅子と机に挟まれながら、ふぉっふぉっふぉと笑い声を上げて頷いた。

 

「ど、どんな課題なんですか…………? 」  

 

 学園長は、立派な魔法使いになるための試練と言っていた。その言葉から僕が想像したのは、魔法を200個覚えろだとか、ドラゴン退治だとか無理難題ばかりであった。

 

「なぁに、そんなに難しいことではない。内容はこの紙に書いてあるからの、頑張っちょくれ」  

 

 そう言って、学園長は僕に一枚の封筒を渡してから、左右に手を振った。ここではなく廊下に出てから見ろということなんだろう。後ろにある大きな窓ガラスから射す光でおでこを照らす学園長に、失礼しました、と頭を下げてから僕は部屋から出る。

 

 廊下に出て少し歩いてから、すぐに封筒に手をかけた。一緒に部屋を出たしずな先生も中身が気になるようで、後ろから覗き込む。    

 

 中に入っていた一枚の紙を広げると、大きくこう書かれていた。    

 

 

『ネギ君へ  

 

 期末テストの総合得点において、A組を学年一位に出来たら君を正式な教師にしてあげる                                                               麻帆良学園学園長     近衛 近右衛門』

 

「こ、これは…………」  

 

 しずな先生が、僕の後ろで息を飲んた音がはっきりと聞こえた。  

 

 僕はしっかりとその紙を見つめながら思った。

 まだドラゴン退治の方が楽だったかもしれない、と…………  

 

 

 

 

 ○  

 

 

「明日菜さーん! 勉強しましょ勉強!! 」  

 

 ちょうど日が沈んだ頃、学校から明日菜さんが寮に戻ってきて部屋の扉を開けるのと 同時に、僕は大量の参考書を持ちながらそう言った。

 

「ネギ、あんたねぇ。帰って早々それ……? 私はねぇ、寮にいる時くらい勉強のことは忘れたいのよ」  

 

 明日菜さんはスタスタと僕の横を素通りして、自分の机に向かいがてらに言う。そのまま持っていた荷物をどさりと机の上に置いて、今日もつかれたー、と言いながら身体を上に伸ばしている。

 

「で、でも、期末テストも近いし……。あんま成績悪いと中学卒業出来なかったり……」

 

「心配しなくても私らはエスカレーターで高校まで行けるから」

 

「そ、そんなぁー」  

 

 僕は泣きつくようにして、明日菜さんにすがり付く。このままじゃまずいことは明らかだ。どうにかして成績下位の五人には頑張ってもらわないといけないのに。

 

「……もう!一体どーしたのよ。そう言えば今日の授業でも皆に期末頑張れ頑張れ、って言ってたわよね」  

 

 余りに必死な僕の姿を見て流石に気になったのか、明日菜さんは腰を落として僕と視線を合わせる。  

 本当は試練の内容を言わずに皆に頑張ってもらうべきなのだろうけど、今はそんなこと言ってる場合じゃなかった。

 

「実は、学園長から課題が出まして……」

 

「……課題? なんの? 」

 

「正式に教師になるためのです。これを合格しないと立派な魔法使いにもなれないかもしれない……」  

 

 僕がそう言うと、明日菜さんは少し考えた後手をぽんと鳴らした。

 

「あー。そう言えばあんた魔法使いだったわね」

 

「ええー……。忘れてたんですか……? 」  

 

 明日菜さんには、ここに来た初日にはもう僕が魔法使いだということはばれていた。

 宮崎さんが階段から足を踏み外して転びそうになった時、慌てて僕が魔法を使って助けた所を見られてしまったのだ。どうにか誰にも言わないように約束してもらったけれど、まさか明日菜さんが忘れているとは思わなかった。

 

「だってあんた魔法使いっぽいこと何もしてないじゃない。魔法もあの時使ったキリだし。……あとはたまにくしゃみでスカートめくってくるとか」  

 

 ジロッと明日菜さんに睨まれて僕は小さくなりながらも答える。

 

「あ、あの、一応魔法は人前で使ってはいけないことになっているので……」

 

「へぇー。スカートは人前でめくるのにねぇー。ふーん」

 

「……す、すみません…………」  

 

 意地悪い顔をして、明日菜さんは僕に迫ってくる。明日菜さんはよく一緒にいるから、何度かスカートをめくってしまっていて、その度に僕は怒られていた。タカミチが近くにいる時なんか鬼のようだった。  

 

「……ぷっ。ま、いいわ、今はそのことは置いといて。それで? 試練の内容は結局何なの よ」    

 

 明日菜さんはたじたじと怯む僕の姿を見て一度笑った後、乱暴に僕の頭を撫でてから尋ねる。なんだかんだこうやって許してくれる明日菜さんは、やっぱりいい人だ、と再確認する。怒ったらやっぱり怖いので、くしゃみは気を付けないといけないのだけれど。  

 

 僕は一息ついて、明日菜さんをじっと見つめながら告げる。

 

 

 

「期末テストでA組を一位にすることです」

 

「無理ね。さよなら」

 

「あわわ! 待って下さいって! 」  

 

 即答して身を翻す明日菜さんを、引き留める。明日菜さんは溜め息を吐いてから、また此方を振り返る。

 

「一位ってあんたね、今までビリかケツ2がいい所だったのに」

 

「だからこそ、明日菜さん達に頑張ってもらわないと! 」

 

「そうは言っても……。あ! それこそ魔法を使えばいいんじゃない! なんか急に頭が良くなる魔法とか! 」  

 

 まるで名案が思い付いた、とでも言いたげな表情で明日菜さんが僕に提案する。でも僕はゆっくりと首を左右に振って否定の思いを伝えた。

 

「そういうズルは駄目です。他の学生は皆勉強してるんですから」

 

「そりゃそうだけど……。あんたって真面目よねぇ」  

 

 悪いことじゃないんだけど、と続けて明日菜さんは自分の椅子にどさりと座る。

 

「……それに、もし魔法が使ったことがバレたらとても不味いです」

 

「……どうなるんだっけ」

 

 急に真剣な声を出す僕に合わせて、明日菜さんも重みのある声で尋ねる。  

 僕は、ごくりと息を飲み込んでから、明日菜さんに近寄ってゆっくりと言う。

 

「…………オコジョになっちゃいます」

 

「…………なんでオコジョ? 」

 

「…………さぁ」  

 

 僕が首を傾げながらそう言うと、明日菜さんはどうでもよさそうな顔になった。

 

「いいじゃない、オコジョ。可愛いと思うわよ」

 

「嫌です! ……オコジョになったらお姉ちゃんに嫌われちゃうかも…………」

 

「お姉ちゃんってネギがいつも手紙書いてる相手よね。何? あんたの姉さんはオコジョが嫌いなの? 」  

 

 そう聞かれて、僕は少し前を思い出すようにしながら話す。

 

「……実はですね、僕にはオコジョの友達がいるんですが、その子はいつも女性の下着を盗んでいたんです」

 

「最悪なオコジョね」

 

「それでお姉ちゃんも怒ってしまって、その子にはいつも厳しくなりました。……僕もオコジョになってしまったらお姉ちゃんに厳しくされちゃうかも……」

 

「……オコジョが嫌いって言うより下着を盗むことに厳しくなったんだと思うけど」

 

 

「なになに? 二人で何の話しとるん? 」

 

 

 不意に、トリートメントの香りが鼻を掠めた。花の匂いを感じつつも、背後から聞こえた声に反応して、僕は反射的に後ろを見た。  

 するとそこには、髪を濡らし、身体に大きなバスタオルを巻いた状態の木乃香さんがいた。隠されていない部分は綺麗な肌色が見え、胸部はふっくらと盛り上がり、両サイドに結い上げた髪はいつもと違って色っぽく見える。

 

「こ、木乃香さん! あの! ふ、服は! 」  

 

 僕は目を両手で覆いながら叫ぶ。そういえば、放課後美術部に寄っていた明日菜さんを置いて、木乃香さんと僕の二人で寮に戻ってきていたんだった。その後大浴場が掃除中だからと木乃香さんが部屋にあるシャワーを浴びていたことを、僕はすっかり忘れていた。

 

「脱衣場に着替え置くのわすれてたんよー。ねぇ、何の話しとったん? 」  

 

 目を閉じていても、声の元が近付いたのを感じて、僕の顔は温度を上げる。さっきよりさらに良い香りがする。

 

「はいはーい。木乃香ー。着替え持ってってあげるから戻りなさーい」  

 

 離れていく足音からすると、見かねた明日菜さんが木乃香さんを脱衣場に連れていってくれたようだ。二人の声が遠くなったのを聞いてからもう少し時間が経った所で、僕はゆっくりと顔の前にある手を開いて、ふぅと息をついた。イギリス紳士としても、教師としても、乗り越えなければならない所を乗りきったようだ。    

 

 

 

 ○

 

 

「期末テストで学年一位? 」  

 

 木乃香さんはオレンジ色で暖かそうな寝間着に着替えて、僕と一緒にソファーに座り、クッションを両手で抱えながら首を傾げる。

 

「それが出来ないと教師じゃなくなっちゃうそうよ」  

 

 明日菜さんは椅子の背もたれを両足で挟むようにして座りながら答える。……学校のスカートを着たままであるため少し危ない角度ではあるけれど、僕は紳士として目を向けないようにしていた。  

 

 当然、木乃香さんには魔法使いの課題だとは言っていない。正式に教員となるための課題だとだけ言って、木乃香さんにもどうすべきか意見を尋ねていた。

 

「うーん。とりあえずバカレンジャーの成績をあげなあかんなぁ」

 

「まぁそりゃそうよねぇ」

 

「…………明日菜さん」  

 

 バカレンジャーの一人だと言うのにまるで他人事のように明日菜さんを、僕はじろっと見つめる。

 

「でもなネギ君。うちらも万年学年最下位って訳じゃないんよ? 確か何度か二位くらいはなったことがある気がするんやけど」  

 

 木乃香さんは人差し指を顎に当てて、記憶を探るような仕草をしていた。

 

「……あ、確かに! 今までの成績表を見たらいつもあまり良くない人たちが何回か点数を取れてた時がありました! 明日菜さんそのときは何したんですか! 」  

 

 僕が迫ると、そんなことあったかなー、と明日菜さんは頭の中の過去を洗い出そうと、上を見ながら椅子を回転させて考えた。

 

「あー! 七海に勉強を見てもらった時よ。テスト前の課題出さなきゃ先生に怒られるって時に七海に手伝ってもらって、その時のテストはいつもよりいい点取れてたんだっけ! 」

 

 

 急に椅子の回転止め、記憶を思い出せたからかすっきりした表情で僕達の方を向いた。

 

  「とりあえず、七海に話を聞きにいってみたらええんやない? 」

 

 

 木乃香さんはいつものように微笑みながら、柔らかく言う。  

 

 課題達成への一筋の光が、見えた気がした。

 

 

 







小ネタ
『弟妹』






「ネギ君も大分麻帆良に慣れてきとるなぁ」

「そうねぇ」

「明日菜、最初はあんな嫌がってたんに、今じゃネギ君のことそんな風に言わんくなったなぁ」

「……まぁ、ね。あいつそんなに悪いやつじゃないし、なんかほっとけないのよ」

「分かるわぁ。ネギ君かわいいもんなぁ」

「私はそういう意味で言ったんじゃないけど」

「もし弟がいたら、こんな感じなんかなぁ」

「……弟、かぁ」

「……ふふ。明日菜、今結構嬉しそうな顔しとったよ?」

「はぁ!? べ、別に嬉しそうな顔なんてしてないわよ!」

「まぁまぁ。うちは嬉しいよ。一人っ子やったから、兄弟とかおらんかったもん」

「……私も、そうだけど」

「それに、今はうちと明日菜とネギ君の三人で暮らしとるやろ? だから、明日菜も一緒に家族になったみたいで、うち楽しいわぁ」

「……! そうね……。楽しい、かもしれない」

「ふふふ。うちの方が誕生日遅いから、明日菜が一番お姉さんやね」

「……全く、世話の焼ける弟妹ができちゃったものね」










せっかくな小ネタなので本編にあまり出ないキャラクターとも絡ませていけたらいいのですが……


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28話

 

 左から綺麗にかじられた風に大きく穴が空き、黄色の三日月がまるで笑ってる様に黒色の空へ浮かぶ頃、あやかは私の部屋で上品にカップに口をつけた。  

 高価そうな生地で作られたロング丈の白いネグリジェは、胸元や袖に丁寧に沢山のレースがついていて、あやかの雰囲気と合わさって気品が見えた。寝間着はジャージしか持っていない私とは対象的で、私の部屋であるのに自分が浮いた存在にも思えて少し可笑しい。

 

「紅茶の入れ方はよく分からなくてな、市販のパックですまない」  

 

 透明なガラスの台がついた丸テーブルの向かいで座るあやかが、音も立てずにカップを皿の上に戻してから、ゆっくりと頭をふる。

 

「いえ、高価なものが全てではありませんわ。友人とこうやって飲める紅茶は、どんなものでも美味しいですわ」  

 

 そう言って、あやかは私に笑いかけた。  

 

 最近になって、あやかは頻繁に私の部屋に訪れる。長谷川さんが何回かこの部屋に来ているという事実を聞いたからなのか、ここに来る遠慮などが減ったらしく、気軽に寄っていく。……そもそも最初から遠慮などすることなかったのだけれど。  

 初めは部屋にある虫篭に驚いて気が気ではない様子だったあやかも、今や大分慣れたようで、きっちりと虫達に背中を向けるような場所を自分の定位置としていた。時々かさりと音がなる度にビクリと肩を震わしてはいるのだが、それにもそのうち慣れるだろうと思っている。  

 

 私達は二人で紅茶を飲みながら、他愛のない会話続けていた。それこそ、最近あの人があんなことをしていただとか、まるで女子中学生がするような話で、私も随分と馴染んでいるなとしみじみと思う。  

 あやかの実家に最近入った執事が天然だという話題を終え、話はちょうど一つの区切りを迎えた。短い間訪れた静けさに気まずく感じることもなく、お互いに紅茶を喉に流そうとした時、玄関の扉からコンコンと控えめに音が鳴るのが聞こえる。私は、少し見てくる、とあやかに告げて、飲もうと持ち上げたカップをそのまま下げてから立ち上がった。  

 

 一日に二人もの来訪者が来ることを珍しく思いつつも、私は扉を開ける。冷えた風が私の頬をそっと撫でるように過ぎ去っていったのだが、肝心のノックをしたものが見当たらない。悪戯か、と再びドアノブを握る力を強め扉を閉めようとしたとき、声が私を引き留めた。

 

「あ、あの!  七海さん。少しお話宜しいですか? 」

 

 顎を引き、視線をちょっぴり下に下げると、我がクラスの担任の先生がいた。私が室内の分高い位置にいるのと、先生が子供であるのが合わさって、目に付かなかったようだ。

 

「……どうぞ、中に入って下さい。今は紅茶くらいしか出せませんが」  

 

 私は自分の身を引くようにして、ネギ先生を迎え入れる。頬の強ばりを緩め、失礼します、と礼儀正しく言って部屋に入ったネギ先生を見て、あやかが嬉しそうな顔になったのは言うまでもない。    

 

 

 ○    

 

 

 ネギ先生の話を要約すると、こうだ。次の期末テストで我がA組を学年一位のクラスにしないと、彼は先生ではなくなってしまうらしい。  

 

 あまりに無茶な言い分であるとは思ったが、学園長からの課題となると、魔法使いの修行とやらに関係しているのかもしれない。  

 わざわざ私の元に来たのは、過去に私がバカレンジャーへ勉強を教えた時に学年二位にまでなっていたことを知り、参考にまで話を聞きに来た、ということからだ。

 

「しかし、学園長も厳しいですわ! 安心してくださいネギ先生! こんなに頑張ってるネギ先生をクビにだなんて絶対させませんからね!」  

 

 物珍しそうに私の部屋をキョロキョロとするネギ先生の手を、あやかは半ば無理矢理両手でぎゅっと握りこんだ。  

 私が言えたことではないかもしれないが、あやかはネギ先生に甘い。それがあやかが子供好きだからか、亡くした弟とネギ先生を重ねているからかは分からない。だが、どちらにせよ、あやかの優しさからの行動であることは確かである。

 目を爛々と輝かせて手を取り続けるあやかと、軽い苦笑いを浮かべるネギ先生を前に、私はいつか彼女達に勉強を教えた時のことを思い出していた。

 

「ネギ先生も分かっているとは思いますが、まずは成績最下位五人の点数をあげなければいけません」  

 

 私がそう話かけると、彼は手を握られているからか、体をあやかの方にしながら、顔だけを此方に向けた。

 

「あの五人の中でも、それぞれ出来る教科と出来ない教科があります。夕映は国語の教科書を読ませれば国語は高得点をとれるし、他の教科も要点を掴ませれば短時間で平均は取れると思います。楓は数学なら少し教えれば解けるでしょう。クーは英語は苦手ですが、理科も今の範囲はならそこまで苦手ではない筈ですのでそちらを優先した方が効率が良いと…………って、どうかしましたか?  」

 

 ネギ先生を見ると、彼は口を開け目をパチクリとさせていた。あやかから手を解放されると、体を私の方にしっかりと向けて、はにかむ。

 

「あの、七海さんはクラスメイトをよく見ていて凄いなぁって」

 

「……そんなに驚くことではないですよ。彼女達には何度か勉強を教えていますし」

 

「いえ! 人の得意不得意を知るのがそんなに簡単ではないことは、教師になって身に染みて分かりましたから! そうですね、まずは出来る教科を伸ばすようにして、その後 全体の底上げを……」

 

 

 ネギ先生はテーブルに身を乗り出して、生き生きとした表情になる。そういった時の顔はまさに少年の顔つきであった。  

 

 しかし、そんな彼の横で、あやかが少し考えるような顔をしながら言う。

 

「ですけど、バカレンジャーの成績を上げたくらいで学年一位になれるでしょうか」

 

「…………え? 」

 

 あやかが呟いた言葉を受けて、ネギ先生は固まる。先程までの顔とあまりに差が激しくて、彼の感情が豊かであることが見えた。  

 

 私は間を置いて、同意を示すように頷いてから続ける。

 

「確かに、それだけだと確実に一位が取れるとは言えないかもしれません。そもそもあの五人を抜きにしても、私達のクラスは点数をとれていないものが多いのですから」

 

 過去に私があの五人に勉強を教えた時も、学年一位とはなれなかった。確か一位のクラスとの差は僅差であった筈だが、ネギ先生のクビがかかっている状況で、再び同じ手で行くのはギャンブルが過ぎるだろう。

 

「で、でも、英語だけならまだしも、僕そんなに沢山の人を教えられるでしょうか」  

 

 他の生徒にも時間を割いて、あの五人に時間を使えなければそれこそ本末転倒だ。加えて、期末テストは5教科ある。テスト範囲の要点を把握している英語はまだいい。しかし、いくらネギ先生の頭が良いと言っても、残りの教科をバカレンジャーのレベルに合わせたやり方で多くの生徒に教えるのは無理があるだろう。  

 不安で縮こまるネギ先生を前にして、私は横目でちらりとあやかを見た。同じタイミングであやかも私を見たようで、目を合わせてから二人で同時に笑みを浮かべて、頷きあう。

 

「心配は」  

 

「いらないですわ」  

 

 あやかと私の声が重なってネギ先生の耳へと届くと、彼は少し呆けた顔となった。

 

「私達のクラスは普段手抜きの人達が沢山いますからね。私はその人達に声をかけて真面目にやるように言っておきますわ」

 

「なら私はバカレンジャーに隠れた成績下位者五人ほどの勉強を見よう。クラスの下10人の成績が上がればかなり違うだろう」  

 

 私とあやかの二人で今後の計画を淡々と立てていく。手抜きの生徒とは、長谷川さんなどほどほどの点数さえ取れればいいと思っているもの達だ。私の見立てでも確かに他にもそのような生徒は多い。  

 

 あやかと二人で意見を出しあっていると、少し遅れてネギ先生が私達の間に入った。

 

「だ、だめですよ! これは僕の課題なんですから! 二人には迷惑をかけれません! 」  

 

 アドバイスは聞いても、課題は自分一人でやるべきだ、と真面目な彼は考えているんだろう。

 

「何を言っているんですか。ネギ先生はバカレンジャーの成績を上げるという最も高難易度な課題があるんですから、そちらに集中してください」

 

「後のことは、私達がクラスのために勝手にやることですわ。先生は課題のために精一杯手を尽くしてあの人達を教えてあげてください」  

 

 それでも、ネギ先生は苦い顔をしたままであった。彼の中でも、私達に手伝ってもらうのが最良だという答えは出ているのだろう。しかし、良心や先生としてのプライドから安易に頼めずにいる。なんとか訳を作ろうと、彼は声を絞り出す。

 

「でも、二人も勉強があるのに……」

 

「私達の心配こそ、いらないですわ」

 

「授業をしっかり受けて課題も真面目に取り組んでいる。他の人に気をとられるなんて不覚はとりません」  

 

 それに勉強を教えるのもまた勉強です、と続けてきっぱりと言い放った私の言葉に、ネギ先生は、うう、と唸った。  

 葛藤に悩まされる様子のネギ先生を見て、あやかはそっと彼に声をかける。

 

「……ネギ先生、教師としての課題というからには、一人だけで頑張るのは果たして正解なのでしょうか」  

 

 それを聞いて、ネギ先生ははっとした顔をした。それから、声も出さず彼は紅茶の水面をじっと見つめるようにして、目を瞑って考え込む。私達二人も、ネギ先生の答えを静かに待った。  

 しばらくして、ネギ先生がゆっくりと顔を上げた。そのまま、私達に真剣な眼差しを向ける。

 

「皆の力をお借りすることを、お願いしても宜しいでしょうか」

 

「「勿論」」

 

 私とあやかが、声を合わせて即答した。   

 

 

 

 ○  

 

 

 それぞれがやるべきことを把握するために、二人は私の部屋を後にした。急に広く感じる部屋の中、私は嘗て行った小テストでクラス全員の順位が書かれていた紙を、記憶を頼りに探す。  

 学校からの資料を纏めたファイルから一気に紙束を抜き出し、パラパラと手早く捲っていく。心当たりのある文字が一瞬目に止まり、捲り過ぎた資料の束を、少し遡るようにじっくりと紙を確認していく。  

 目的の紙を見つけ、スッと抜き取り順位を下から目視していった。当然のようにバカレンジャー五人が並んだ後、そこの上に存在する五人の名前を私は注意深く見た。  

 

 柿崎、エヴァンジェリン、桜咲、ザジ、茶々丸と書かれた名前を指でなぞって、私は軽く息を吐いた。  

 

 

 …………これは、ある意味バカレンジャーより大変かもしれない。  

 

 

 参列する名前を目にしながら、私は頭を抱えそうになった。  

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「エヴァンジェリン、期末テストは大丈夫か」  

 

 度々通う、人形に溢れたログハウスの中で私がそう聞くと、エヴァンジェリンは一気に不機嫌な顔になった。

 

「貴様……仕事の日でもないのに珍しく来たと思ったらそんな質問か……。私を嘗めているのか? 」  

 

 シルクの布を掛けられた木製で大きめのテーブルに肘をつけ、ジロリと私を見る。向かいに座る私が答えようとすると、横からすっとお茶の香りがした。

 

「どうぞ」

 

「ありがとう茶々丸」  

 

 メイド服で湯呑みを運ぶ姿に違和感を感じなくなるくらいには、私もこの場所に慣れてきたらしい。濃緑の陶器を両手で持ち、ゆっくりと口を近づける。少し熱いくらいの適温で、体を暖めながら嫌みのない苦味が口の中に広がった。

 

「相変わらず美味しいな。茶々丸のお茶は」

 

「そう言って頂けると嬉しいです。遅れてすみませんがお茶請けもあります」  

 

「それは楽しみだ」

 

 微笑ましく二人で会話をしていると、目の前にいるエヴァンジェリンがぷるぷると震え出していた。

 

「ええい! 無視をするな! 茶々丸私にも茶を出せ! 」  

 

 がぁーと吠えるようにそう言うと、茶々丸は了承の言葉を発してからお茶を取りにトテトテと台所に戻っていった。私は気を取り直して先程の質問に答える。

 

「もうすぐテストがあるだろう?エヴァンジェリンはあまり成績が宜しくないから心配になったんだ」

「それが嘗めていると言ったんだ。私が本気で挑めば中学レベルなど容易いに決まっているだろう。ただ今更真面目に解くなどバカらしいから気分でやってるだけだ」  

 

 想像した通りの回答が返ってきて、私はなんと言えばエヴァンジェリンに少なくとも平均以上の点を取ってもらえるのかと考え込む。 

 

「ふん。貴様がわざわざそんな事を言いに来るということは、あの坊やがクビになるかもという話は本当らしいな」

 

 そう言って、エヴァンジェリンは茶々丸がお茶ともに持ってきた羊羮を楊枝でズブリと刺してから、自分の口に放っていた。

 

「……やはり知っていたか」

 

 先日、柿崎に勉強を教えていた時に彼女もその話題を私に出した。木乃香がうっかりと口を滑らした用で、段々と輪をかけて広がっていき、もうほとんどのクラスメイトはその話を耳にしたのだろう。しかし、そのおかげかクラス全体のやる気は上がっているし、事実柿崎も要領よく要点を理解していった。  

 ザジもその噂を小耳に挟んでいたらしく、私が勉強を見ようかと提案したら綺麗に丸のついたプリントをゆっくりと見せ、ありがとう。でも自分で出来る、と言った意味の表情を見せてくれた。……声は発していなかったので、あくまで私の推測であるが。

 

「……何で私がそんなことに協力しなければならない、と言いたい所だが、今あの小僧に学校を辞められると困る。ほどほどにはやってやるし、茶々丸にも同じようにさせてやる」  

 

 意外にも、私が何かを言わずとも彼女はやる気になったようだ。しかし、エヴァンジェリンが何故困るかなど私には検討がつかなかった。  

 

 私は、助かる、と一言いって羊羮をかじった。餡の甘味が凝縮されていて、お茶ととてもよく合う味だった。

 

「おい。明智七海」

 

「なんだ」

 

「……一つ忠告しておくぞ。あまりあの小僧には引っ付くな。特に、これから先はな」

 

「……何故? 」

 

「…………」  

 

 エヴァンジェリンは私の問い掛けには答えず、余裕そうな表情でズズズと茶を啜った。こうなったらもう質問に答えてくれないのは、短い間ながらも把握していたため、それ以上は聞かなかった。  

 

 その後も一言二言ぽつりぽつりと会話をし、茶々丸にお茶と羊羮の礼を言った後、私はログハウスを後にした。  

 

 

 

 ……残りは、桜咲だけである。

 

 

 







小ネタ
『計算』





「柿崎は計算は間違えないな。少し時間はかかっているけれど」

「得意ってほどじゃないけどさ、嫌いじゃないかも。計算。私恋愛にもある程度計算って必要だと思ってるタイプだし」

「その計算と数学は関係しないから心配しなくていい」

「だよね」

「何か自分の中でコツがあったりするのか?」

「計算の? 恋愛の?」

「計算の」

「まぁそっちだよね」

「そっちだ」

「うーん、あるっちゃあるかも。私さ、計算するとき一々ほかの物に置き換えて考えたりしてるんだよね」

「イメージ化か。それはいいな」

「そうそう。例えばさ、簡単だけど5000×10ってなったときに」

「うん」

「5000円の化粧水10本かぁーって考える」

「高いな」

「高いし一気に10本も買うことないね。だから、うわー今の財布の状況で50000は痛いぜ、って思っちゃう。そんで少し凹む」

「……イメージがリアル過ぎて計算遅いんじゃないか?」

「うん。そうかも」




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29話

 

 

 

 ヒヤリと冷えた空気を風が運び、私の肌を少し強張らせた。刀が入った絹で出来た袋を、片手でぎゅっと握り込む。持ちなれたそれは、しっかりと私の掌に馴染んで、寒さなど何事もないかのような顔を作らせてくれた。  

 

 いつもは部活動で騒がしい筈の玄関を出てすぐの道も、期末テストの影響で穏やかな話し声しか聞こえない。淡々とした足取りで私は歩く。なんとなく見た雲の流れは早く、掠れた雲が青空を侵食していくように見える。

 

 

「桜咲」  

 

 聞き慣れない声が、私の名前を呼んだ。振り替えると、クラスメイトの明智さんが少し遠くに見えた。思ったよりも離れた場所から声をかけていたらしい。長い黒髪を揺らし、膝よりももう少し丈のある制服のスカートをいじらしそうにしながら此方に向かってくる。明智さんが側に来るまで、私は無言で待った。

 

「……どうかしたんですか? 」  

 

 この距離を早歩きしただけで若干の疲れを見せる明智さんに、私は適当に聞いた。いつも凜とした姿勢の彼女が、ここまで体力のない人だとは思わなかった。

 

「……桜咲が見えたから、声をかけてみたんだ」  

 

 時間をかけて息を整えてからそう言った明智さんを、私は不審に思った。  

 

 私と明智さんとの関わりなど、何もない。二年もクラスで一緒にいるので、勿論顔くらいは把握している。しかし、たまに廊下ですれ違っても、静かに挨拶をされ、黙って会釈する。その程度の仲だ。私が彼女の事について知っているのは、お嬢様とそれなりに仲が良く、クラスメイトの中でも真面目でたまに纏めてくれる人、ということくらいだ。私から見てそれだけしか知らないのだから、明智さんも私に対しての情報などその程度であろう。いや、クラスで目立たない私のことなどきっとほとんど知らない筈だ。  

 

 黙っている私に見かねて、明智さんは続けて問う。

 

「桜咲は、今からどこにいくんだ? 」  

 

 普通の問い掛け。裏を読もうとするのは慎重過ぎるのかもしれないが、私は肩に張った力を抜くタイミングを逃してしまっていた。

 

「……部活です」

 

「テスト期間なのにか? 」

 

「…………」  

 

 見抜いたような目で私を見られる。本当は、楓を見習って山にでも行き、剣を振ろうとしていたのだ。いつものこの時間は部活動で竹刀を振るのだが、テスト期間の部活休みで道場にはきっちりと錠がかけられている。鈍るのも嫌なので、修行でもしようと思っていた。

 

「勉強は、大丈夫か? 」  

 

 沈黙する私に、明智さんは再び問い掛ける。ここまで聞いて私は、なるほど、と察しがいった。そういえば教室ではテストで点をとらないとネギ先生がクビになるだの騒いでいた。何かとネギ先生をフォローしている明智さんは、少しでも力になろうとしているのだろう。

 

「無用な心配です」

 

「……今日の授業の様子からはそうは見えなかったが」  

 

 お節介だな、と思った。確かに今日授業で当てられた問題は解くことが出来なかったが、だからと言って明智さんには関係のないことだ。そもそも、私は勉強なんぞよりもっと優先すべき事がしっかりと決まっている。ネギ先生についても、そこまで私に関係のあることではない。  

 

 ネギ先生の素性については把握している。魔法使いだと。年端もいかない少年が教壇の上に立った時はそれなりに驚いたが、魔法使いだと聞けば納得できた。

 初めはおどおどとした様子に頼りがいのなさを感じたが、当然のように堂々と黒板の前に立ち、しっかりと授業を進めていく、今では彼が少年であることを忘れてしまいそうなときもある。流石は優秀な魔法使いだな、と感じた。魔法の実力のほどはまだ分からないが。

 

 しかし彼がどんな状況であろうと、私にはさして関係のないことである。私はお嬢様のために力を尽くすことで急がしいのだ。

 

 

「…………桜咲がもしよければ、一緒に勉強を」

 

「無用だと言ったでしょう。自分の力だけで十分です」  

 

 明智さんの言葉に被せる様にして、ピシャリと冷たく突き放した。被害妄想であろうが、暗に勉強出来ない馬鹿と言われた気もして、想像していたより低い声が出てしまった。閉口してしまった明智さんに、では、と別れの挨拶を早急に告げて、私は背を向けてスタスタと歩いた。  

 

 

 それからしばらく進み学内から遠く離れた所で、後ろから追撃の声も付いてくる気配もないことが分かった。私に勉強をさせようとするのを諦めたのだろう。この時期でも根強く生える草が茂る道を足早に歩きながら、 一応私はちらりと後ろを見るが、やはり明智さんはいない。

 ふぅ、と安堵とも言えぬ息を静かに吐いて、視線を前に戻した。  

 

 

 …………よく考えれば、クラスメイトに何かを誘われたのは久しぶりだった。  

 

 だからなんだという話だが。と一人で冷静に頭の中の声に返して、私は山の中に入っていった。    

 

 

 

 ○  

 

 

 

「……何をしているんだ龍宮」

 

 

 寮室に戻ると、ルームメイトの龍宮が机に向かいシャープペンを走らせていた。褐色の肌え背が高く、黒髪でキリリとした目をしながらも物静かな彼女は、とてもじゃないが中学生に見えない。そんな彼女だからこそ、学生らしく机に向かう姿が不自然に見えた、などとは言わない方がいいんだろうか。

 

「何って、勉強だよ。期末テスト、もうすぐだろう」

 

「見れば分かる。しかし今までテスト前にそんな風に勉強していたか? 」  

 

 そう尋ねながら、自分の汗で染みた服を洗濯籠に放る。修行をして一汗かいた後、大浴場に寄って来たので今はスッキリとしている。しかし大浴場には何人ものクラスメイトがいて、皆揃ってA組にしては珍しくテストの話をしているせいで、何だか居心地が悪く早々と上がってしまったのは少し残念に思っていた。

 

「失礼な、いつもしていたぞ」

 

「そうだったか? あまり机で勉強しているイメージはなかったんだが」

 

「いつもは教室の授業中である程度こなしていたんだが、まぁ今回ばかりはちょっとな」  

 

 私に言葉は返すが、龍宮はノートに黒い文字を書くのを止めなかった。龍宮もネギ先生のクビを心配しているのだろうか。そんなに仲が良さそうには思えなかったが。私はその事を聞くと、龍宮は軽く溜め息を吐いて手を止め、椅子ごと私に向き直った。

 

「刹那……分からないのか? 」

 

「……何がだ? 」

 

「今、ネギ先生はクビを回避しようと生徒に一生懸命勉強を教えている。それも、バカレンジャーに重点を置いてな」

「……それで?」

 

 期末テストのクラス総合点数を上げるために例の五人を集中的に教えるのは当然だ。だがそれと龍宮がいつもより勉学を励むのとが繋がらない。  

 察しが悪い私にまた溜め息を吐いてから龍宮は言った。

 

「……あのクラスでビリにだけはなりたくないと思わないのか」

 

「…………あ」  

 

 そ、そうだ。あの五人が勉強して成績を上げるということは、それに抜かされたものは同様のレッテルを貼られるということではないか。  

 私は思い出す。バカレンジャーなどと不名誉な名前で呼ばれクラスで勉強出来ないものの象徴として称えられる彼女達を。何かあると「バカレンジャーは相変わらずだなぁ」なんて言われてしまう彼女達を。

 言う方も冗談めいた形なため、彼女達はそんな言葉を飄々と受け止めるが……駄目だ、私はきっと堪えられない。と言うより、いじられなれていない自分があのクラスでそんな風に言われる想像が出来ない。

 

「し、しかし、いくら勉強しようとそんなに急に点数が上がったりなんて」

 

「ネギ先生は相当必死に教えているし、彼女らもそれに応えているらしいぞ。事実彼の教え方は上手だし、相当良くなると思っていい」

 

「……ぐぐ」

 

 額に汗がたらりと垂れ続けて止まらない。運動で書くような汗ではなく、冷えて悪寒をそそるような汗だ。このままだと、私はバカレンジャーとやらに組み入れられてしまうのか。それとも、他の五人が急に勉強が出来るようになり、私が一人でただのバカと名付けられるのか。  

 頭を悩ます私に、龍宮は小声で強すぎる追い討ちをかけた。

 

 

「…………木乃香お嬢様も、刹那が急に学年ビリを取ったらどう思うだろうな」    

 

 その言葉で、私の頭に突然電流が走った。

 

 ザザザとノイズが脳を揺らし、黒い横線がいくつも入った画面が浮かび上がる。段々と線は姿を消して、やがて鮮明とした映像が作り出される。教室に、私の大切な人が一人。カーテンを揺らす風と共に、その人の髪もはらはらと舞う。

 

 彼女は、ゆっくりとカメラに目線を向けて……

 

 

 

『せっちゃんて、こんなに馬鹿やったんやね』    

 

 

 

 

「龍宮! 頼む! 私に勉強を教えてくれ! 」  

 

 叫んだ。私は龍宮の肩を勢いよく掴み顔を近付けて頼んだ。このままではまずいことは自分でも分かった。

 しかし龍宮は私が近付くのに合わせて、冷静に顔を後ろに下げつつ答える。

 

「そうしてやりたいのは山々なんだがな、私も今は自分のことで精一杯なんだ」

 

「……くっ! こうなったら私もネギ先生の所へ……」

 

「五人でかなり一杯一杯そうだったからな。後から来た刹那に構ってくれるかは分からんぞ」

 

「……くぅぅ」    

 

 私は龍宮の肩を持つ手を震わせながら唸る。何故こんな時期に私は修行などに時間を使い続けたのか。それが無駄とは言えないが、もっと上手く時間を使えば勉強にも時間回せたのではないか。

 

「他に当てはいないのか? 」

 

「…………あ」  

 

 思い当たる人が一人。そういえばちょうど今日私に声をかけてくれた人がいたではないか。あんな断り方をして再び頼むなど許してくれないかもしれないが、そこは頼み込むしかない。本気で頼むしかない。  

 

 気付くが否や私は教科書や参考書を一纏めにしそれを持ち、龍宮に「出てくる! 」と口早に告げて部屋から飛び出していた。

 

 

 だから、「……ちょろい仕事だったな」と映画の前売り券を揺らしながら呟く龍宮になど、気が付くことは出来なかった。    

 

 

 

 ○    

 

 

 桜咲と私は、特に接点がない。物静かで、他の生徒ともあまり関わりのない彼女とどの様にコンタクトをとるかは中々に難しい問題であった。事実、一度駄目元で話し掛けても録に取り合ってもらえなかった。私の聞き方も悪かったのも原因であっただろう。  

 

 なんとなく、そんな結果になるのは分かっていたので事前に桜咲のルームメイトである龍宮にお願いをしていた。彼女を勉強するように仕向けてくれないかと。関係もない私に言われてもやる気の出ない桜咲の気持ちも分かるし、私の都合で人に勉強を強硬するのもどうかとも思う。それでもネギ先生のために出来ることはしようと思い、龍宮に頼んだ。こういうものは、仲が良いものに言ってもらった方がいいだろう。  

 龍宮は映画をたまに見に行くと楓から聞いていたので、教授が映画など行かないからと私にくれた前売り券で手を打った。龍宮と私もそこまで関係があるわけではないが、彼女は面白そうに口角を上げながら承諾してくれた。  

 

 そしてすぐその日の夜、龍宮が上手く促してくれたのか、大量の教科書などを持って桜咲が私の元に来た。頭を地面に擦るような勢いで頼む姿に、「龍宮、やりすぎだ」とも思った。  

 

 とりあえず、私は彼女を部屋に入れて共に勉強をした。それから、思ったよりも授業内容を把握してない彼女に、テストまで日が暮れたくらいの時間に私の部屋に訪れて、勉強をした方がいいかもなとやんわり提案した。少し嫌そうな顔をしたが、背に腹は変えられないといった様子で彼女は頷いた。

 

「……ここの計算は代入法を使う方が速く解けるぞ」

 

「あ、確かに。そうですね」  

 

 そう言って、桜咲はノートに消しゴムを押し付け数字の羅列を消していき、ぱぱっと素早くケシカスを退ける。  

 あの時の態度からは考えられないほど、桜咲は素直な子であった。私が何かを言うと、成る程と頷き即座にノートにメモをしていく。根が真面目なんだろう。初めなんか、教えを請うからと丁寧な敬語を凄まじく並べてきたが、流石にクラスメイトの間でそれは……と自重してもらった。

 

 彼女はさらさらと、鉛筆を走らせていく。ノートに顔を向けながら、さらりと垂れた綺麗な 黒髪を耳にかける動作をした。  

 桜咲は決して勉強が出来ないと言うことではない。ただ、工夫が必要なものや引っ掛け問題などに少々弱いだけである。そのため基本問題を反復し応用問題の傾向を理解すれば、平均点以上を取るのは難しくないと思えた。  

 バカレンジャーを越えられますか、と仕切りに気にしていたが、この様子なら恐らく大丈夫だと思う。  

 

 無言の二人の間に、鉛筆が真っ白な地面をコツコツ走る音だけが聞こえる。軽快なそのリズムは、少し心地よかった。

 

「…………終わりました」  

 

 コトリと桜咲が鉛筆を置いたのを最後に、その音は止まってしまった。  

 そのまま桜咲が、お願いします、とノートを差し出し、私は受け取って赤ペンの蓋をキュポンと取った。  

 今度は、赤ペンの滑る音が私達の耳に響く。少し視線を上げて桜咲の方を見ると、些か疲れたのか休んでるように見えた。  

 そんな桜咲を見て、不意にあることが気になった。勉強を見る前はまったく関わりのなかった私達だが、少しだけ桜咲に対して気ががりに思ったことがあるのだ。  

 

 私は赤い丸を描きながら、なんとなく尋ねてしまった。    

 

「桜咲は木乃香と喧嘩でもしたのか?」

 

「…………っ!」    

 

 桜咲が纏う空気が、変わった。

 

「……いえ、喧嘩などではなく、その…………」  

 

 小声で話を初め、どんどん尻窄みになっていく。終には、口から言葉が出なくなっていた。    

 ……やってしまった。

 目に陰りを見せ、不自然な表情で俯く彼女を見て、私はそう思った。無遠慮に踏み込みすぎてしまったのだ。  

 木乃香と一緒にいるとき、彼女はたまに桜咲に視線をやっていた。木乃香らしからぬ、不安そうな顔で桜咲を見るが、気付いていないのか桜咲が此方を振り向くこと一度もない。そんな様子を側で何度か見て、二人の間に何かあったのかと想像はしていた。しかし、木乃香からその話をしようとする気配がないため、いつか彼女が話してくれるまで待とうと決めていたのだ。  

 それを、一時の感情で不作法に押し入ってしまった。彼女は、未だに考えるように固まり、複雑な顔をしている。  

 

 私は、自分の無神経さに腹が立った。  

 人間関係の問題ほど、複雑な物はない。二人の間の過去や経験が絡まり、その背景を正しく理解できるものは当人達以外にいないのだ。大して事情も知らぬ第三者が首を突っ込み、より関係を悪化させることも多くある。だから、他人が出張るのは本当にどうしようもなく相談された時だけでいい。それが、私の持論だったのに、彼女達の関係を喧嘩でもしたのだろうと甘く見てしまった。  

 どんな事があったかは分からないが、簡単な事情でないことは彼女の顔から想像できた。とても真剣に悩ませる内容であることが見てとれた。    

 

 二人の間に流れる音が、消える。ペンを動かし先の質問を無かったかのようにしたかったが、打ちひしがれたかのようにじっと目を伏せて考え込む桜咲の前で線を引く音を出すことすら躊躇われた。  

 

 彼女をこれ以上困らせたくなくて、私が、「済まない、忘れてくれ」と声をかけようとしたその時、桜咲はゆっくりと顔を上げた。

 

「明智さん、国語を教えてもらえますか」

 

 私が戸惑いつつも、その言葉に応えると、彼女は机の脇にあった国語の教科書を抜き取りパラパラのページを捲る。

 

「…………『山月記』というお話を、ご存知ですか」  

 

 そう言って、彼女は机に教科書を広げた。そこは、今回のテスト範囲でなかった。高校向けの題材だが、『挑戦してみよう』というコーナーで中学教本にも書かれた小説で、有名な話であった。  

 

 その話は、唐の時代を舞台にしたものだった。主人公が自身の臆病な自尊心と尊大な羞恥心から突然虎に姿が変わってしまい、友人に最後の詞と別れの言葉、妻子への援助を頼んでから、その後は虎として生きていく、という内容であった。

 主人公は、自身の醜悪となった姿に嘆きつつも、友人を襲わないために気を使い、二度と人となることはなかった。  

 

 私は、桜咲の意図を察しきれず静かに質問を待った。少しすると、桜咲は何かを抑えるように含みのある声を出す。

 

「この主人公は、自分が意図しないところで、突然人を襲う虎になった。自分を化け物だと思い込んだ彼は、友とも、妻とも決別することを誓った」

 

 桜咲は、教科書のページにずっと目を向けながら、続けた。

 

「…………もし、もしです。明智さんが、突然このような虎……化け物になってしまったらどうしますか」

 

「……」  

 

 いくら私でも、この質問が重要な質問であることくらいは分かる。わざわざ化け物と言い直し、切迫とした目つきから、これは彼女にとってとても深刻な話なのだろう。だが、同時に多少の諦めを感じられる声でもあった。

 誰かの答えを聞いてどうにかなるものでもない、でも、誰かの答えを聞いてみたい。そんな感情の籠った声である気がした。

 

「……そうだな」  

 

 私は、この話が木乃香との仲にどう繋がるかなど分からない。彼女の欲しい答えが分からない。だから、真剣に考えて、自分の答えを伝えることに決めた。  

 

「私はきっと、皆の元から離れると思う」    

 

 どうしようもなくて、さらに自分のせいで、大切な人達が危険になるくらいなら、私は一人を選ぶ。今なら未来ある彼女達を優先するし、妻がいるなら愛する妻を優先する。その想いはきっとどんな時もブレないと思っている。  

 

「……っそう、ですか……。そう、ですよね」  

 

 私の答えを聞くと、桜咲は胸に何かが刺されたような表情をした後、俯き、消え入るような声を出した。手を少し震わせ、耐えるようにしている。

 

「……だけど、きっとそんな簡単には行かせてくれないんだろうな」 

 

「……え? 」

 

 下を向く桜咲に先ほどの続きの言葉をかけた。それが予想外だったようで、彼女は俯きの体勢からおもむろに私の顔を見た。その勢いで、彼女が髪が揺れた。

 

「私の周りの子達は、私が化け物になったくらいで離れない、そんな気がしてな」  

 

 そう言って、私は桜咲に微笑んだ。  

 

 きっと、思い上がりではない。私の大切な人達は、近くの誰が離れていっても、お節介に、しつこいほどに、食らいついていく。そんな子達だ。  

 

「……あなたは、怖くないんですか。自分が、周りに恐れられ、卑下されるのが」    

 

 彼女は、歯を食いしばるかのような表情だ。不安と怯えで、心に影を落としている。

 

「怖くないとは言えないが、それ以上に信用してる……かな」

 

 私は、しっかりと彼女を見つめて、続ける。  

 

 

 

 

「君にも、いるだろう? 何よりも大切で、信用できる人が」    

 

 

 

 

 私の言葉に、桜咲の目が大きく開いた。いつの間にかその手の震えは止まっている。彼女は、目を閉じて上を向いた。ゆっくりと何かを考えているようだ。

 

 

 

 少しして、彼女は私の方を見て、優しく笑みを浮かべた。  

 

「……そう、ですね。あの、今日はありがとうございました。少し、少しだけ、気持ちが紛れた気がします」    

 

 そう言って、彼女は荷物を纏め始めた。

 

「あとは、自分で頑張って見ます」と私に告げて、彼女は部屋を出ていく。  

 

 

 その表情から、私の答えが役に立てる物だったかなんて分からなかったが、気持ちが紛れたと言った彼女の言葉を、信じることにした。

 











小ネタ
『凸凹』





「今更ですがこのクラスって、個性的ですね」

「おお、ゆえっち急にどしたん」

「いえ、改めてこの教室を見渡してみたら、中々濃い面子だなぁと思ったのです」

「まぁーそだねー。すごい凸凹してるなーって私は思うな」

「凸凹?ハルナ、どういう意味ですか」

「例えばさ、鳴滝姉妹とかゆえっちは幼いじゃん。どうみても小学生って感じで」

「……そうそうに腹の立つ言葉を言われましたが、まぁ続きを聞きましょう」

「逆に明らかに中学生じゃないじゃん、って人も何人もいてさ。凄い凸凹してるなーって。多分中間値とったら結構平均なんじゃない?うちのクラス」

「……一応聞いておきましょうか、中学生に見えない人は誰ですか?」

「えと、龍宮さんと、千鶴と、ななみんと……」

「ほー」「へー」「ふーん」

「……あれ? お三方、いつの間に後ろに?」

「ちょうど今、だな」
「ハルナちゃんひどいわー、そんな風に思ってたなんて」

「ちょ、待って、これはちがくて、龍宮さん銃!銃はしまって!! 千鶴ネギはどっからだしたの!? な、ななみーー助けて―――!!!」


「まぁ自業自得だな」

「ですね」

「というか夕映。わざとハルナをはめただろ」

「ばれましたか」







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30話

 

 

 結論から言うと、我らが2―A組は無事に学年一位となれた。それも、二位と結構な大差をつけてだ。ネギ先生は子供らしくはしゃぐように喜んだし、バカレンジャー達は小学生のようにくちゃくちゃになりながら騒いだ。後日個人の成績をそれぞれに知らされた時、桜咲が安堵の息を吐いていたところを見ると、彼女もそれなりに点数を取れたようだ。

 

 ……A組で誰が一番低い点数だったとか、バカレンジャーに負けた人は誰だという話は止めておこう。夕映が高得点だったのでもはやそれに負けた人がバカレンジャーなどとは言えなかったし、何よりも、皆が自分のベストを尽くして結果が出せたのだ。それ以外の事を探る必要などない。    

 

 無事に期末テストというイベントを越えて、彼女達はいつも以上に騒がしく日々を過ごしていく。しばらくテストがないということが嬉しくて仕方ないのだろう。  

 

 桜咲と私は、前より少し良好な関係になったと思う。テストが終わった後はわざわざお礼を言いに来てくれたし、その後もあちらから挨拶をしてくれることが増えた。

 …… 木乃香が側にいないときに限ってだが。  

 木乃香との仲は、そう簡単に解決するような問題ではないようだ。しかし、桜咲の方から木乃香へばれないようにチラチラと視線を送ることもあり、時間が経てば上手くいくのでは、とも思った。……二人の関係はまだ分からないが、是非仲良くなってもらいたいと心から思う。    

 

 それからまた様々な出来事を過ごし、寒さが薄れ新芽が出るかという頃、二年の三学期という時期が終わった。  

 来年からは妹のういが同じ中学に通う事となるため、春休みは実家に戻り親に顔を見せるついでに、妹の荷物纏めの手伝いなどに時間を使った。勿論、実家にいながらも研究室やエヴァンジェリンの元へは通っていた。移動の時間は長くなったが、道中の電車で夕映に借りた本を読んでいれば億劫に思うこともなかった。  

 

「ななねぇ! 桜通りの吸血鬼って知ってる? 」

 

 ういがそんな風に聞いてきたのは、母の料理を美味しく食べていた時だ。母の料理はしばらく自炊など出来なかった私には身に染みるものだった。私は机の中央にある大きな皿に盛られているサラダを、適量自分の皿に移しつつ答える。

 

「いや、知らないな」

 

「うい、口の中の物を食べ終えてから喋りなさい」

 

「んぐっ」  

 

 母にそう言われると、ういは咀嚼する速度を上げ、もぐもぐもぐもぐと一生懸命噛む事に集中する。噛む度に揺れるツインテールを見ながら、別に急いで食べる必要はないのに、と思いつつトマトを口に運んだ。  

 

 ういがゴクリと飲み込む音を立てると、また母に行儀が悪いと叱られ、それでもめげずにういは話を続ける。

 

「なんかね。最近満月の夜になると桜通りで黒くてボロい布を被った吸血鬼が出るんだって。うぅん、こりゃ怖い! 恐ろしいねっ! 」  

 

 怖いなどと言いながら、ういの顔は満面の笑みであった。来年度から中学生という期待や、その中学校でそんな摩訶不思議なことがあるという好奇心の方が遥かに大きいのだろう。母は学生の頃はそういう怪談が流行ったわねぇなどとしみじみしている。  

 私は、カボチャの煮物を箸で摘まみ口に運ぶ。噛むと柔らかくカボチャが崩れ、甘味と醤油の塩辛さが丁度よく、すっと喉を流れていく。

 

「あぁ! 私の狙ってたカボチャがっ! 」

 

「あぁすまん」

 

「じゃなくて、信じてないでしょ。私の友達の友達も桜通りで貧血で倒れたって証拠もあるのにっ」

 

「あらら、大変ね」

 

「そりゃ大変だ」

 

「……全然信じてくれない」  

 

 打ちひしがれる妹を前にして、私はもう一つカボチャを摘まむ。母はういを慰めようとういの小皿に沢山おかずをよそってあげると、彼女は機嫌を戻した。

 ……妹の話は、普通は母の言う通り怪談話と解釈するだろうが、実は私には心当たりがありすぎる。私の頭には、命綱である魔法薬をくれる、金髪の幼女が浮かんでいた。  

 

 本当に彼女がそんなことをしているという確証はないが、後日彼女の家に行ったときに聞いてみようか、などと軽く思いながら私は箸を口へと持っていった。    

 

 

 

 ○  

 

 

 

 それから金曜日となり、いつも通り私はエヴァンジェリンの家の地下で仕事をこなしている。  

 頼りないランブの光しかないこの部屋は薄暗く、少しじめじめとしているがもはや気にならなかった。この仕事にも慣れたもので、既にプロトコルに書かれた手順は覚えており、手際よく作業は進んでいく。丁寧に計量した白い粉を薬包紙に乗せて、右手に持った青色の試薬の入ったフラスコにサッと流し入れる。次第にコポコポと泡が立ち始めたのを確認してから、温度を調整したお湯にフラスコを浸す。泡が消えたのを目視してから、メスシリンダーで計量した緑色の液体を少しずつ滴下した。フラスコ内で緑と青が混ざり合うように渦を描くのを見てから一息つき、着けていた手袋とマスクを外した。

 

「随分と手早い動きじゃないか」  

 

 声に反応して振り替えると、エヴァンジェリンが壁に寄り添いながら此方を見ていた。手に持った手袋とマスクをゴミ箱に放りながら私は問う。

 

「いつからいたんだ? 」

 

「ずっとだ」  

 

 全く気付かなかった。私が集中しすぎていたのか、それともエヴァンジェリンが気配を消すのが上手だからのどちらだろうか。

 

 水道の蛇口を捻り、水を出す。パシャパシャと水を弾かせて丁寧に手を擦りつつエヴァンジェリンを横目に見る。

 

「珍しいな。様子を見に来るなんて」

 

「さぼっていないか確かめに来てやったぞ」

 

「……私がさぼった事があるか? 」

 

「くくく。冗談だ。今日の仕事はそれで終わりでいい。上に上がって茶々丸から茶でも貰え」  

 

 エヴァンジェリンは愉快そうに唇を剃り返してニッと笑ってから、付いてこいと言わんばかりに地下室から出ていった。まだ来て大した時間も立っていないのにこのように言われるのは初めてだった。私は水を止めて横に掛かるタオルで手を拭きとり、エヴァンジェリンの言葉を不思議に思いながらも、彼女の後をついていった。    

 

 

 

 ○

 

 

「今後はここに仕事をしに来なくていいぞ」  

 

 茶々丸からもらったお茶を啜る私を前に、エヴァンジェリンはそう言った。私はテーブルの上にまだ暖かい陶器をおいてから、不安を感じつつ尋ねる。

 

「……何故か、理由を聞いてもいいか? 」  

 

 エヴァンジェリンは口角を上げて歯を見せた。

 

「魔法薬など必要なくなるからだ。あぁ、薬の心配はするな。これからはただでやる。貴様は私の想像より仕事をしたからな」

 

 そう言いながらも、エヴァンジェリンはずっと嬉しそうだった。最近はずっと機嫌がいい。私は彼女の側にいる茶々丸に目を向けるが、茶々丸の表情はやはり読めない。  

 

 薬を貰えるということで安心はしたが、それでもただで物をたかるだけというのは私もスッキリしない。世界樹の実験もまだ完成しておらず、エヴァンジェリンからの薬は貰っておきたいが、何もせずに薬だけもらうというのは自分の中で納得しきれなかった。せめてそうなった理由くらいは知りたいと考えてから、尋ねるつもりだったことを思い出した。  

 

「それは……桜通りの吸血鬼とやらと関係があるのか? 」  

 

 すると、エヴァンジェリンは、ほう、と声を洩らした。

 

「なんだ、知っていたのか。…………そうだよ、私がその桜通りの吸血鬼とやらだ」  

 

 再びエヴァンジェリンはニヤリと笑う。まるで私を試すかのような笑みであった。  

 

「確かに人を襲い血も吸っている。私は人に害をなす吸血鬼だよ。…………さて、明智七海。貴様はそんな私を前にして何を思う? 」  

 

 腕を組み、ふんぞり返りながら彼女は私を見る。 

 

 私は、彼女の言葉を聞いて恐る恐る声を出す。

 

 

「エヴァンジェリン……君は……」

 

「…………」  

 

 

 私の発する言葉を、エヴァンジェリンはじっと待つ。口元は笑っているが、それでも彼女は私を真剣に見つめていた。  

 

 彼女が最近機嫌がいいのはそういう訳か、と勝手に想像してから、私は息を飲み込んで、言った。    

 

 

 

 

 

「妊娠したのか? 」        

 

 

 

 

 

 ガタタ、と音を立ててエヴァンジェリンが椅子から転げ落ちた。

 

 

「あ、あほかぁ! 何をどう考えればそうなるんだ! 」

 

「マスター、なぜ急にお転びに? 」

 

「うっうるさい! こいつが急にたわけた事を言うから驚いただけだ! 」  

 

 エヴァンジェリンはすぐに立ち上がり机を両手で叩いた。そのすぐ側で茶々丸がエヴァンジェリンを気遣っている。  

 私は吸血鬼の吸血事情など知らない。そのため、吸血する生き物として初めに頭に浮かんだのは「蚊」である。蚊は、一般的によく知られているように血を吸う。しかし、血を吸うのは雌の蚊で、しかも産卵のためのエネルギーを蓄える時だけだ。そう考えると、エヴァンジェリンも出産が近く、だから機嫌がいいのかと納得がいったのだが、この反応からするとどうやら違うらしい。

 

「貴様…………。真祖の吸血鬼を蚊と同類にするだと…………っ」  

 

 理由を言うと、エヴァンジェリンは震え出した。茶々丸はそれを抑えようと横で頑張っている。私が軽く謝ると、エヴァンジェリンはふてくされた表情となる。

 

「はぁ……。貴様はいじりがいがなさすぎる。もっと怖がったり出来ないのか」

 

「マスター、寧ろいじられてます」

 

「うるさいわ! 」  

 

 声をあげるエヴァンジェリンを前に、私は机の上にある煎餅に手を出す。煎餅似合わないぞ、という彼女の声を無視して歯で噛むと、パリパリと爽快な音が口内で鳴る。飲み込み、お茶で口をスッキリさせてから会話を続ける。

 

「……と、言われても、エヴァンジェリンはこの場で私を襲わないだろ? 」

 

「それはそうだが……。なんせ貴様は魔力がないしな」

 

 ……魔力を集めていたのか。そういえば、元はとてつもない魔法使いだったと言っていた気がする。今は何故か力を押さえられているんだったか。それで魔法薬はもういらないということなのだろうか。

 

「それに、血を吸い尽くすという訳ではないのだろう? 」

 

「マスターは基本的に軽く血を貰われるだけなので貧血程度の症状です」

 

「茶々丸! 余計な事を言わんでいい! 」  

 

 貧血だからいいと言うわけではないが、創作に出てくる吸血鬼と比べると、私の前にいるこの吸血鬼は可愛く見えていた。まだ私は彼女の全てを知った訳ではないし、本当の彼女はとてつもなく怖いのかも知れないが、結構な時間一緒にいて、それも元から吸血鬼ということを知っているのに今さら怖がれという方が無理な話だ。  

 

 それに、私は吸血鬼としての生態を知らない。吸血鬼と言う生物として吸血が必要不可欠ならば、彼女が生きるために行うことを大々的に止める権利は私にはない。

 

「……だが、適当な生徒の血を吸っているのは事実なんだぞ? 」

 

「何故今になって君が吸血活動を始めたのから分からないが、勿論出来ることなら吸血をやめてほしくもある。しかし、優しい君が理由もなく人を襲うとは私には思えなくてな」  

 

 彼女の中にも、何か考えがあるのだろう。彼女は、直感的に感情任せで物事を始めるタイプではない。自分の胸で、何がしたくて、そのために何を犠牲にするかを理解し天秤にかけた上で、自分の意思を優先し決断した筈だ。600年もの人生経験が、エヴァンジェリンにはあるのだ。私が何か言っても、彼女は自分で考え思うように動くのだろう。彼女が自分で理由を説明してくれるまで、無理に聞こうとするつもりはなかった。  

 

 前をみると、エヴァンジェリンは私の言葉を聞いて目をぱちくりさせていた。その後、少し考えるようにして、あやふやな表情を見せた。  

 

 落胆と共に安堵したような、切なく笑うような、そんな表情だ。

 

「……っは。私が実はいいやつとでも?  闘いもなく、平和な世界で育った、いかにも性善説を信じますって奴の意見だな。……甘すぎる。世の中には理不尽な悪も理解出来ない悪もある」

 

「…………」  

 

 

 私は、答えることが出来ない。彼女は、まるで自分は悪だと言っているようだ。エヴァンジェリンは、乾いた笑いを私に向けた後、そっと呟いた。

 

「ただ…………まぁ、貴様はそれでいいのかもな。………茶々丸、こいつを見送ってやれ」

 

「はい、マスター」  

 

 そう言うと、エヴァンジェリンは立ち上がり私に背を向けた。帰れということなのだろう。私は椅子を引いて両の足で立ち、先導する茶々丸に付いていく前に彼女の後ろ姿 に向かって述べる。このまま帰るだけではいけない、と直感的にそう思った。

 

「エヴァンジェリン、ただでは薬は貰えない。……仕事はなくても、家事でも手伝いにくるぞ」

 

「好きにしろ」

 

 気の効いたセリフのひとつも思いつくことが出来ず、私はただ言葉を続けた。  

 

 

「それでは…………また学校でな」

 

 

「………………ああ」      

 

 茶々丸に見送られ玄関についた時、私は茶々丸に、エヴァンジェリンを宜しく、と言い、困ったことがあったらいつでも連絡していい、と伝えた。      

 

 

 そして、また少し時が歩みを進め、桃色の花弁が道を覆う頃、私達は3年生となった。

 

 

 



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31話

 

 

 落ち始めた日の光が、窓からちらつく。まだ春の暖かさが浸透している訳ではなく、日が落ち始めると少し寒い。手を二、三度擦り合わせてから、私は目の前に横たわるマウスの様子を伺う。麻酔を打ち、実験台の上で動かないマウスに実験用の定規を置く。体長、幅、毛、爪や歯の長さまで測ったあと、ぐったりしたマウスを大きめの秤に乗せて体重も確認する。全ての記録をノートに書き込み、マウスを元いた箱に戻した。その後、他のマウスから採ったDNAのサンプルといくつかの試薬を冷蔵庫から取りだし、溶けるのを待つ。

 

「……なんだ、随分浮かない顔で実験してるじゃねぇか」  

 

 気晴らしに、と私の横で実験を見ていた教授が、私に声をかけた。私が言葉を返さずじっと見ると、教授は両手を上げた。

 

「……わかったわかった。邪魔なんだろ。仕事に戻ればいいんだろ」

 

「……私は何も言ってません」

 

「目で語りすぎだ。実験中のお前は集中しすぎてなんかこえぇ。今日は特に」

 

「……申し訳ありません」

 

「何があったか知らねぇけどそんな時は寝るのが一番だぞ」  

 

 そう言って、教授は手をひらひらとさせながら背を向けて実験室から出ていった。ぱたん、と扉が静かに閉まった音を聞いてから、少しぼうっとして、おもむろに先程出した実験用具を片付け始める。  

 

 ……今日は、もう帰ろう。  

 

 

 いつもよりずっと早い時間だが、このような気持ちで実験を続けるべきではないと思った。考えても答えが出ない問題を頭に残したまま、それから一時逃れるように実験に集中を向けようとしたのだが、経験からこんな時は上手くいかないのを悟ったのだ。

 

 実験室を片付け、パチリと電気のスイッチを押して灯りを消す。そのまま教授室に向かい、置かせてもらった荷物を受け取って帰宅の意思を伝えた。教授は、よく寝ろよ、と適当に私に言い、また手をひらひらと振った。  

 

 帰り道、大学の敷地内を歩いていても、私を見て好奇の目を向ける人は減った。虫学生今日もやってたのか、と笑いながら挨拶をしてくれる人までいる。そんな人達に軽く返答をしながら、私は悩むように考えを巡らせていた。

 

 

 

 

 ○  

 

 

 

 

 三年生になった私達だが、この一年で中学生活が終わるなどと悲観に暮れるものは私のクラスにはおらず、いつもと同様に騒がしく声を上げていた。ネギ先生が教壇にいる姿が様になっているのも、正式に教師となったからかもしれない。  

 

 騒がしいクラスメイトに苦笑しながら、学期初めの恒例行事である身体測定を行っていた時だ。まき絵が桜通りで倒れたという情報がクラスに流れた。様々な憶測を皆が好き勝手に言うが、私には原因が確信めいていた。……エヴァンジェリンの仕業だろうと。  

 

 今まで懐疑的だった訳ではないが、間近な人間が襲われたということを聞いて、エヴァンジェリンとの話が一気に現実味を帯びた。……襲うというのはこういうことなのか。クラスメイトでも、彼女は躊躇わないのか。  

 

 そこから、私の頭は、濁流がゆっくりと渦巻くように、思考がぐるぐると廻った。  

 エヴァンジェリンにも理由があると言っても、私はこの問題を何もせず遠目に見てるだけでいいのか。きっと世間的に正しい行動は、彼女に強く注意をすることなのだろう。しかし、彼女に何と声をかけるべきなのかは、いくら考えても分からなかった。ただ、あんな顔をする彼女に対して、何の理由も知らぬままに止めろとは、どうしても言えなかった。どうしても、彼女が只の人を襲う吸血鬼になど思えなかった。…………彼女が言う通り、私は甘いのだろうか。  

 

 胸にもやもやとした思いを抱えつつも、何となく重くなった足を無理矢理前に出してエヴァンジェリンの家に家事の手伝いにも行った。しかし、玄関に適当な書き置きと薬が置いてあるだけで、彼女に会うことは叶わなかった。  

 

 学校でもそうであったが、彼女は私を避けているようだった。  

 

 溜め息を惜しみ無く吐き、彼女の家を後にするしか私には出来なかったことが、また足取りを重くしていた。    

 

 

 

 

 ○  

 

 

 

 寮に向かい、ゆっくりと歩を進める。ちょうど学校終わりの小学生などとすれ違いながら、ちょっと静かな商店街を横切っていく。そのまま歩いていると、見覚えのある背中が2つ見えた。  

 

 オレンジ色のツインテールと赤毛のスーツを着た子供は、木の影に潜むようにしているがあまりにも分かりやすかった。子供の肩に乗っている白いオコジョも気掛かりで、私は声をかけることにした。

 

「……何をしてるんだ、明日菜、ネギ先生」  

 

 ひそひそと話をする彼らの背中に言葉を投げると、二人と一匹は同時に肩をビクリとさせた。恐る恐る後ろを振り返り私の顔を見て、彼らは同時に安堵の息を吐いた。オコジョも同じ様な動作を行っていて、随分と人間味に溢れているように見えた。

 

「……な、なんだ。七海じゃない。驚かさないでよ」

 

「すまないな。……ネギ先生、連日体調が悪そうですが大丈夫ですか?」

 

「……えと、はい。すいません心配をお掛けして」  

 

 ネギ先生が体を曲げてペコリと頭を下げたので、その動きで肩のオコジョが落ちそうになっていた。今日の学校でもそうであったが、彼は最近少し様子が変であった。体調が悪いというより、キョロキョロと周りを伺いながら何かに怯えている様子だった。

 

「それで、いったい何をしていたんですか? 」

 

「あー、そのー……」  

 

 私がそう聞くと、彼らは視線を逸らし言い淀んだ。珍しくはっきりしない口調の明日菜を不審に思い、彼らが見ていただろう方向に目を向けると、そこには猫に餌をあげる茶々丸がいる。同時にエヴァンジェリンを思い出し、私の心が少し揺れた。

 

「……茶々丸が、どうかしたのか?」  

 

 揺れる気持ちを飲み込んで、二人に問う。しかし、ネギ先生はまた困った表情を浮かべた。

 

「え、えーと……」

 

「そ、そうだ! 七海はたまにエヴァンジェリンと茶々丸さんと話してたわよね! 」  

 

 明らかに話を逸らそうとした言いぶりだったが、エヴァンジェリンの名前に反応して私の胸が、とくんと鳴った。

 エヴァンジェリンの、あいまいな顔が、私の脳裏に浮かんだ。

 

 私が答える前に、ネギ先生はちらりと私を見た。

 

「……七海さんは、あのお二人と仲が良いのですか? 」  

 

 おずおずと尋ねたその顔は、不安や心配の色がはっきりと見えた。そんなネギ先生の顔を見て、私は彼らの目的を理解した。彼らは、吸血鬼事件の犯人がエヴァンジェリン達だと知って、二人を追っていたのだ。ネギ先生が魔法使いなことを思い出せば、吸血鬼という存在が本当にあると知っていることも分かる。彼が学校で落ち着かなかったのは、彼女のことを知ってしまったからなのかもしれない。  

 

「仲、か……。どうだろうな……」    

 

 はっきりと仲が良いとは、とても言えなかった。元々私達の関係は仕事で結ばれているようなものであったし、私が勝手に好意的だとしても、現に今は避けられている。  

 

 私が目を伏せながら答えると、ネギ先生は私を覗き込むようにした。

 

「彼女達……エヴァンジェリンさんと茶々丸さんは、七海さんから見てどんな人ですか?」

 

 

 彼の質問を受けて、少し考えると、まるで体の血液に記憶が乗っかるように、私の中にあの二人との思い出が巡る。    

 

 彼女達のあのログハウスに通い始めて、たった一年ほどだ。それでも、思った以上に多くの場面が思い浮かんだ。気まぐれで倒れた私を助けてくれた二人、仕事の合間にはいつも茶々丸が出してくれた菓子をつまみながら、お互いに自分の好きなことを勝手に話した。淡白な関係であり、決して今時の学生のように和気藹々という訳ではなかったが、それでもお互いの話は興味深く聞いていたと思う。軽くエヴァンジェリンをいじると、茶々丸もこっそりと私に乗ってくれて、老年とは思えない年相応の少女らしい反応をしてくれるのも、私は楽しく感じていた。  

 

 そうして思い返していると、温かく程好い苦味と、茶の香りが、じんわりと馴染む感覚がした。

 

 

 ―――そうだ。あの場所で飲んだお茶は、いつも美味しかった。    

 

 さぁっと、波が引いていくように、私の心を覆っていた霧が晴れた気がした。  

 

 私はしっかりと、ネギ先生に目を向けて私は答える。

 

 

「―――私の、友達だ」        

 

 良い人だとか、悪い人だとか。友の定義だとか。そんな事は私には分からない。ただ、彼女達は、私の友だ。エヴァンジェリン達がどう思っているかは知らないが、例え一方通行だろうと、この一年で私はそう思った。友達だから、彼女を気にかけ、心配し、胸を曇らせていたのだ。    

 

 私は未だに茂みに隠れているネギ先生達を置いて、いつの間にかに軽くなった足を進めた。小声で私を呼び止める明日菜の声を無視して、走り去る猫達を横切りながら、茶々丸の方へ向かう。ちょうど餌をあげ終えた茶々丸が、私に気付いて目が合った。夕陽でちょっとオレンジに染まった彼女は、ゆっくりと立ち上がり私に声をかける。

 

「……明智さん」

 

「茶々丸、エヴァンジェリンとは一緒じゃないのか」

 

「いえ、マスターは学園長に呼び出しを受けています」

 

「そうか。…………なぁ、茶々丸。エヴァンジェリンが何故私を避けているか、知っているか?」  

 

 一つ、踏み込んだ質問。しかし、私がそう尋ねると、茶々丸は静かに顔を左右にする。また、そうか、と呟いて地面を見るようにした私に、茶々丸は少し間を置いてから話を初めた。

 

「……私の、憶測ですが、マスターは明智さんを嫌った訳ではありません。……ただ、巻き込みたくないんだと思います」

 

「……」  

 

 巻き込みたくないとは、吸血鬼事件に、と言うことだろう。よく考えれば、学園長などの魔法使いがいるこの土地でそんなことをしたら、目をつけられるのは当然だ。前世で拳を握ったこともない私には想像できないものだが、闘いなんかも起こるのかもしれない。エヴァンジェリンは、そのようなものに私を近付けたくなかったのか。  

 

「……茶々丸さん!」

 

「……ネギ先生もいらっしゃったのですか」 

 

 会話を続けようとした私達の前に、ネギ先生が茂みからざっと現れた。緊張した顔の彼の肩には未だにオコジョがいて、横にはしかめた顔の明日菜がいる。

 

「ねぇ、七海、まさかとは思うけど、もしかしてあんたも魔法とか知ってるの…………?」    

 

 明日菜は、恐る恐ると私に尋ねた。私からしたら、逆に明日菜にいつ魔法を知ったのかを聞きたく思ったが、ネギ先生と同室ならふとした機会に魔法を見てしまうことがあったのかもしれない。

 

「まぁ、知ってはいるが……」

 

「ま、まじ? 」

 

「まじだ」  

 

 文字通り、存在を知っているだけで魔法なんぞ今でも使えない。しかし私の返答を聞いて、明日菜もネギ先生も驚きを隠せない顔をしている。  

 

 

「ほら! 兄貴、姐さん! 俺っちの言った通りっ! この子もエヴァンジェリンのグルってやつだ!」

 

「…………ん? 」  

 

 どこからか、聞き覚えのない声がする。確かに近くで聞こえたのに、周りには私達以外に人は見えない。

 

「二人も仲間がいたのは予想外だが、エヴァンジェリンがいないうちはまだチャンスでっせ兄貴! この子は見た感じ弱そうだし今のうちに! 」

 

 

 …………ネギ先生の肩にいるオコジョが大きな口を開けている所を見ると、信じられないことにあのオコジョが声を出しているらしい。魔法使いのペットということだろうか。吸血鬼だとか魔法だとかを目にしてきたが、一番驚いたのは今かもしれない。どのように声を出しているのだろう。それもまた魔力の影響なのか。ならば昆虫もどうにかして声を出させることが可能……いや、声帯機能の前に脳をもっと発達させて…………

 

「明智さん、下がって下さい」  

 

 オコジョが声を出した衝撃の事実に戸惑っていると、茶々丸がぐいっと私の前に出た。私を背中にぴたりとつけ、守るようにしている。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ! 七海がいるのに……! 」

 

「姐さんそんなこと言ってる場合じゃないっすよ! このままだと兄貴がエヴァンジェリンに干物にされちゃいまっせ! 」

 

「で、でも! 」

 

 私がオコジョに興味を持っていた合間に、何か言い争いが始まっていた。私にはこの状況が今一掴めていない。  

 

「…………茶々丸さん。僕を襲うのを、やめてもらえないでしょうか」      

 

 やけに真剣な声で、長い木製の杖を握りながらネギ先生が言う。

 

「……マスターの指示が最優先です」  

 

 機械的な声で茶々丸が返す。私はやっと状況が掴めてきた。つまりは、ネギ先生は彼女達に襲われたのだ。なんとか血を吸われずに済んだのだが、また襲われたらたまったものじゃないと自分から行動を仕掛けようとしているのだろう。それに明日菜とあのオコジョが協力しようとしている、という形か。いや、先程の好戦的な物言いを考えると、けしかけたのはオコジョなのかもしれない。私の知るネギ先生は、自分から誰かを攻撃しようとする者ではない。    

 

 夕陽が更に落ちて、私達の影が独りでに背を伸ばす。つんと張り詰める空気の中、皆がそれぞれ立ち止まり、考えるように黙っている時間が訪れた。私も突然のこの状況に、どう動くべきなのか分からなかった。明日菜も戸惑う表情を消しきれておらず、ネギ先生と茶々丸は見つめあっている。それは決してロマンチックなものではなく、お互いに探り合うようなものだった。    

 

 

 

 不意に、ネギ先生がふぅ、と息を吐いた。    

 

「…………分かりました。では、茶々丸さん。また学校で」    

 

 にこり、と少年らしい笑みをネギ先生は浮かべた。それを聞いて茶々丸は、きょとんとした表情になる。オコジョが反対の意を示すが、ネギ先生は気にしていなかった。

 

「…………いいのですか? マスターのいないこのチャンスを見逃して」

 

「いいんです。初めからこんな風に生徒を攻撃するのは気が乗らなかったですし。それにあなた達が七海さんのお友達と聞いたので、まずは話からと、そう思いました」

 

 七海さんが関係者だとは思いませんでしたが、とネギ先生は頬を掻きながら続けた。

 

「私も賛成。七海の友達なんでしょ? なら話せば分かってくれるわよ」  

 

 明日菜が、同意を示すように片手をあげた。どうやら、私もエヴァンジェリンの吸血に協力してると誤解されていたらしい。

 

「でもよぉ、兄貴、やっぱり今のうちに手を打った方が」 

 

「大丈夫。交渉の策はちゃんとあるから」  

 

 オコジョが再び人間らしく、肩を竦めて息を吐いた。

 

「……はぁ、そういうとこ、段々ネカネの姉さんに似てきたぜ兄貴」

 

「あは、そうかもね。……では、七海さん、茶々丸さん。また明日」

 

「七海! 詳しい話今度聞きにいくからね! 」  

 

 ネギ先生は礼儀正しく体を二つに折って頭を下げて、明日菜は軽快に手を振って、彼らは踵を返していった。  

 

 

 私と茶々丸は彼らの小さくなっていく背中を黙って見届けた。    

 

 

 立ち尽くす私と茶々丸の影は、もうほとんど見えなかった。体を触るような風は少し寒く、私達の髪を揺らす。日が落ちて、段々と色を付けている月の代わりに、空は明るみを消して橙と紺の入り交じった様になっていた。茶々丸は、何か考える様に動きを止めていて、私もなんとなくその側にいる。

 

「あの……明智さん」

 

 

「ん?」

 

 

 ゆっくりと、茶々丸は私を見る。  

 

 

 

「私とマスターは、明智さんの友達、なんですか?」

 

 静かに口を開いた茶々丸の声が、空気に溶けるようにしんと伝わる。

 

 

「私は、そう思っているよ」  

 

「…………友達」    

 

 

 少し戸惑うような声を出した彼女の顔は、変わらず無表情だが、私には照れつつも頬を緩めているように見えた。

 

 

 



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32話

 

 

 …………ああ、またいつもの夢か。  

 

 ナギと私が向かい合う映像を、まるで他人事のように第三者目線で私は見ていた。

 見慣れた夢だな、と鼻で笑う。夢だとは分かっていても二人の行為に干渉も出来ず、映画館にたった一人で座る観客のような気分になっていた。  

 二人は、海岸にいた。周りに人はおらず、波により海と砂が混ざり合いザァァと音を鳴らしてある。海に移った夕焼けはゆらゆらと不安定な形を浮かび上がらせていた。

 私とナギは、定期的に聞こえる波の音を耳にしながら、殺伐とした雰囲気の中で向かい合った。  

 

「ついに追い詰めたぞサウザンド・マスター。この辺鄙な極東の島国で貴様を打ち倒し、我が物にしてやろう」    

 

 …………ふん、中々に様になっていてるじゃないか。私は自分に称賛の声をあげた。

 

 背も高く今よりずっと大人びていて、ミステリアスかつ恐ろしい雰囲気も滲み出ている。例えこれが幻覚で、しかも夢であることを自覚した上で、私は独りでに感心した。何度も見た絵であるが、もし片手にポップコーンがあれば摘まみながら見入っていただろう。

 

「またお前か。…………諦めろ。何度挑んでも俺には勝てんぞ」

 

 もう一人の役者がキザったらしく言う。ローブをかぶり、長い木製の杖を持つ姿が決まっているのが、私を歯痒い気持ちにさせた。  

 そこからも、いつも見る夢と大差はなく同じように進行されていった。無警戒に私はナギに突っ込んで行き、卑劣で汚い罠に嵌められる。ああっ何をしているんだっ! と盤外の私が声をあげても物語の進行は止められない。落とし穴に入ってる私にニンニクやらを投げ込むナギの姿を見て、ぐぬぬと唸ることしか出来なかった。  

 落とし穴の底にいる私はやいのやいのと騒いでいる内に、ぼんっと音を立てて今と同じ姿になってしまう。そんな私に向かって、ナギは慈悲もなく訳のわからない呪文を唱え始めた。  

 

 ……や、やめろ! それだけはとめるんだ私よ! じゃないと……!   

 

 

 ―――私の叫び声も虚しく、私は学校に登校し続けなければならないという全く理解不能な呪いを受けた。もしこれが映画なら、自分がいたぶられるシーンに苛つきながら画面にポップコーンをぶちまけ、金を返せと叫んでいただろう。

 

 

 場面は飛んで飛んで、私が初めて麻帆良の制服を着たときの様子を映した。

 校門の目の前には恥ずかしげに制服を着た私の前にはナギとじじいがいた。朝日が昇ったばかりという時間で、まだ他の生徒の姿は見られなかった。

 鳥の囀ずりが響くような清々しい朝に、ナギのムカつく笑い声も混じっていた。  

 

「あっはっはっ! ひー、ひー。似合ってるぜエヴァンジェリン! っぷぷぷ! 闇の福音がこの格好……っ! くくくっ! 」

 

「笑いすぎだ貴様……っ! 肉塊も残さず殺してやろうか……っ!」  

 

 私は青筋をひくひくとさせながら爪を立てている。

 

「今さらガキ達と仲良くお勉強などできるかっ!」

 

「まぁまぁ。経験ないんだろ? 学校生活」  

 

 中等部でいいじゃろう、と学園長である狸じじいが提案している横で、ナギは未だに笑いを込み上げさせていたのが、また腹が立った。  

 再び文句を言おうとした私の頭に、ナギはくしゃりと手をやった。

 

「心配すんな。お前が卒業する頃にまた来てやるから」  

 

 レディを扱う術も知らぬように、ぐりぐりと私を撫でるが、不思議と不快ではなかった。

 盤外の私と、演者の私が、重なる感覚がした。私がゆっくり目線をあげると、そこにはにっこりと笑うナギの顔がある。

 

 

「光に生きてみろ。そしたらその時呪いを解いてやるよ」

 

「…………本当だな?」

 

「―――ああ、本当だ」  

 

 

 

 

 そして、ナギは私に適当に手を振りながら去っていった。私は手を振り返す筈もなく、ただその後ろ姿を見ていた。    

 

 

 それから、ゆっくりと幕が閉じるように世界が暗くなって夢が終わりを告げようとしていた。    

 

 薄れていく周りの景色の中で、私の存在だけはまだはっきりとしていた。私は一人で考え込むようにしている。この場面を体験して、感傷に浸った訳ではない。だが、消え行く世界で、この後の私の学生生活を思い返していた。  

 

 

 

 ○  

 

 

 

 中学生を始めて、10と余年たった。初めこそ何故私がこんなことを、と散々思ったが、悪くなかった。決して、悪くはなかった。

 麻帆良という土地に縛られ自由な行動はいつか制限されたが、それでも気を抜く間もなく誰かに注意を向けなければならない日々と比べればずっと楽だった。それだけで、600年の中ではかなりましな生活と言える。魔力を封じられて不安も当然あったが、魔法との距離が出来たことはある意味新鮮でもあった。  

 

 学生としての生活は、ぬるかった。最初の三年こそ、初めての中学生活ということに何も感じなかった訳ではない。ただ、クラスメイトと一緒に馬鹿をやるには私は歳を取りすぎていた。争いなどと無縁な場所で、今も未来も光に満ちていると信じきっている生徒達を見て、鼻で笑ったりもした。あいつらが出す光に、私は簡単には触れようとはしなかった。  

 

 

 それでも、極まれに無理矢理私を引っ張る手が伸びてくる。  

 

 

 光から現れたそれは、汚れも知らず、無邪気で真っ白の綺麗な手だ。いくら私が身を引いても、一緒に、とその手は私を追いかけた。最初は拒否していた私も、あまりのしつこさについ出来心でそれに触れてしまった。  

 

 触れた指先には、違和感を感じた。

 

 光というには曇りすぎていたが、自分の手が淡く、ぼんやりとぬるい明かりを帯びた気がした。初めて、暗闇と光の境界線に足を踏み入れたように思った。暗闇の底から、手をとったクラスメイトの顔が、ぼんやりと見えた気がした。

 

 

 

 しかし、それも三年だけだった。  

 

 迎えにくるといった馬鹿は戻って来ず、クラスで私だけがまた一から中学生活のやり直しであった。  

 

 その時に、私はなんとなく察した。あぁ、奴はもう戻ってこないんだなと。  

 

 誰かが死ぬなんて、もう幾度となく経験した。正直思い入れがあった相手ではあったが、その事実はすんなりと受け止めることができた。それほど、死というものを側で見てきた。そこから、延々とループだ。一緒に初めの三年を過ごした者達は私のことなど気にかけることもなく歳をとっていった。屈託ない笑顔を浮かべて高校の制服を着る彼女達を見て、私は自分を冷ややかに笑うことしか出来なかった。  

 

 

 ―――そうだ。勘違いしていたよ。私はそちら側ではないんだな。  

 

 

 人並みの幸せを得るには、殺しすぎたし長く生きすぎた。悪を自認してから、そんなことは幾度となく覚悟した筈だ。

 

 この手は、哀哭と、嫉妬と、憎悪と、負の感情が混じり合ったもので、染まりきっていた。それなのに、少し光に触れた程度でぶれてしまった。いつも通り、私はまた、暗闇から光を眺めるだけとなった。  

 

 

 ……光に生きてみろ、か。  

 

 

 心の中に断片的に浮かんだその台詞を、落ち葉を払うように散らした。

 

 

 

 

 ―――まったく、自分が笑えるよ。    

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「…………っ」  

 

 火照った体に唸るように声を洩らして私は目を開けた。汗ばんだパジャマが少し気持ちが悪い。  

 

 ……そういえば、風邪と花粉症にやられたんだった。  

 600年も生きたくせに、そんなのにやられる自分が情けなくなり、馬鹿みたいに脆くなった体に皮肉げに笑わずにはいられなかった。

 

「……茶々丸ー。タオルをくれー」  

 

 目を開けるのも億劫で、再び瞼を閉じてベッドに寝たまま弱々しい声で従者を呼ぶ。だが、返って来たのは違うやつの声だった。

 

「茶々丸は今病院に薬を貰いにいっている」  

 

 すっと視界を開くと、横からタオルが出てきた。私はタオルを掴む手から腕へと視線を移していき、そいつの顔を見た。

 

「…………明智、七海」

 

「タオルだ。体を拭くなら席を外すが?」

 

「構わん。……貴様、何故ここにいるんだ」  

 

 ゆっくりと体を起こしてタオルを受け取り、パジャマの下へと手を入れて体を拭く。タオルからする柔軟剤の匂いが鼻を刺激する。

 

「茶々丸が連絡をくれた。薬を貰いに行く間見ていてくれと」  

 

 余計なことを、と私は舌を鳴らした。

 

「何か欲しいものはあるか? りんごとスポーツ飲料ならすぐ出せるが」

 

「……まさかとは思うが、その歪な形をしているのはりんごか?」  

 

 机の上に置かれた皿に盛られている、大きさも形も不均一に切られたリンゴの切り身を私は指差す。

 

「……お見舞いにと持ってきたので切ろうと思ったらな」

 

「何故そんなとこだけ不器用なんだ貴様は」  

 

 溜め息を吐いてからじっと明智七海に目を向けると、奴は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

 釣られて頬が緩みそうになった。その瞬間、私の心がざわついた。

 穏やかで、平和で、悪意など何も知らないようなこの無邪気な光景に、私の中の何かが強く拒否した。

 

「……それで、どうして貴様はここにいるんだ」

 

「……さっき言ったろう。茶々丸が―――」

 

「―――違う。そんなことを聞いているんではない」  

 

 こいつの言葉に被せるように、怒気を強めて私は言う。明智七海をギロリと睨みつけた。

 

「貴様、私がやったことを見ただろ。罪もない佐々木まき絵が倒れていたのを、確認しただろう」

 

「……ああ、見た」  

 

 間を空けてから、ゆっくりと頷きながら答えた。

 

「あれが、私のしていることだ。自分の都合で他者を傷付け、それを良しとする。……いいか、私は悪なんだよ。貴様のような人を殴ることも出来ない奴は、私に関わるな」  

 

 強く、言い放つ。一般人には耐えられないような敵意すら向けた。明確な拒絶のつもりだった。しかし、こいつは引かなかった。きつくない筈がないのに、体に力を込めて無理矢理踏み止まっている。そんな様子だった。奴は額に汗をかきながらも、じっと私を見つめている。  

 

「……君が私にそんな風に言うのは、私を危険に巻き込ませないためか? 」

 

「………っ! …………は。貴様はまともだと思っていたが、まさかとんだ妄想癖があるとはな」

 

 

 取り繕うように言うが、胸が少しうずいた。胸の中で、独りで理由を呟いていた。  

 

 

 違う。そうじゃないんだ、と。  

 

 

 貴様が近くにいると、私の心が鈍るのだ。目の前で光られると、私の目が眩むんだ。    

 

 こいつを拾った時に、私は自分が吸血鬼であることをばらしていた。怖がられても気味悪がられてもどうでもよかったが、クラスで大人びた雰囲気を出すこいつがどんな反応をするか、悪趣味ながらも楽しもうとした。だが、こいつは少し驚いたくらいで、大した反応を見せなかった。  

 

 魔法を知りつつも、魔法界の事情も知らず闘いも知らない。そのくせ、自分の魔力がなく身が危ないと知ってもただ生きるために前を向いていた。私の力に頼りきりになる訳ではなく、何をしているかは分からんが自分だけでも生きれる道をひたすら探しているように見えた。  

 

 そんなこいつを、気にならなかったと言えば嘘になる。  

 適当に話をさせれば、昆虫の話ばかり。だがあまりにも深い知識なだけに、昆虫など欠片も興味がなかった私でも面白く話を聞けた。たまに垣間見える10代とは思えないその知識や思慮深さ、雰囲気に、能天気なクラスメイト達とは明らかに違うことが感じられた。現実をしっかりと見つめながらも、自分の力で何かを求める姿勢を持っていた。だから、こいつと話すのは嫌いじゃなかった。  

 

 

 だが、あの時私は気付いてしまった。吸血鬼として人の血を吸う私を許し、優しいなどと言い出すこいつを見て、思い出してしまった。  

 

 

 こいつはそちら側なんだと。  

 

 

 悪意も知らず、汚れも知らない。一般人と同じ世界で、光の道を歩いている。  

 

 そんなやつと近くにいると、眩しくなる。それに何故か、いつもなら気に食わないその光は、曇らせるべきではないと、そう思った。  

 

 

 

「貴様を襲わなかったのは、気分が乗らないだけだ。魔力がなくても血は吸える。それが嫌ならさっさと帰れ」  

 

 爪を立てて、再び睨む。たが、奴は席を立つ素振りも見せず、それどころか私に笑いかけてきた。

 それは、穏やかで、静かな笑みだった。  

 

「私は、君が優しいことを知っているよ」

 

「…………っ!! 」  

 

 ギリリと、音が鳴り響いた。私が強く歯を軋らせた音だ。

 

 

 

 …………何が、何が優しいだ!

 

 

 

 心が、ざわざわと騒いだ。血流が速度を増して私の中を駆け巡る。拳を握り込むと、自分の爪に掌に刺さり血が垂れたが、無視した。  

 

「……くそっ! 何もっ! 何も知らない奴が! 知った口を叩くな!」    

 

 声を荒げて、奴を千切れんばかりで睨み付ける。それでも、奴は目を逸らさない。

 

「のうのうと! たがだか10年近くしか生きていない貴様に、一体私の何が分かると言うんだ!」

 

「…………」  

 

 分かるとも、分からないとも言われたくなかった。同情して分かるなんて言われた時には手が出たかもしれないし、話してくれなければ分からない、などと何処でも言いそうなセリフはこいつの口から聞きたくなかった。  

 

 明智七海は、それを察したかのように何も言わない。ただじっと、その眼差しを私に向けるだけだった。その様子を見て、もはや声を抑えることが出来なかった。何故自分がこいつ一人にここまで熱くなっているかなんて、もう分からなかった。何百と年が離れた者に対してこんな感情的になった理由も、自分で理解など出来なかった。

 

 

「っは! 優しいだと? どこまで間抜けなんだ貴様は! 私が今誰を狙っているか教えてやろうか? 貴様が世話を焼いてるあの子供先生だよ!」

 

 

 

 ただ。ただ、もう戻れなかった。

 

 

 

「私はなぁっ! 悪なんだよ! 化け物なんだよ! この手を汚して殺した数はもはや覚えていない! 今だって私を狙う奴がいたら容赦なく殺す!」  

 

 

 

 もう、暗闇の中で生きることを決意していた。

 

 

 

「貴様だって、その気になればいつだって殺せる!」  

 

 

 

 だから、もう。

 

 

 

「貴様と私では住む世界が違うんだよ!」    

 

 

 

 

 

 

 

 声は掠れて、息も荒くなっていた。自分でも、いつの間に立ち上がっていたか分からない。軋むベッドの上から、椅子に座っている奴を見下ろした。私を見上げる奴の瞳は未だに私を捉えて離さない。  

 

「……世界なんて、些細な壁だ。だって私は、こうして君の側にいる」    

 

 呟くように、囁くように言った言葉だったが、私の耳にははっきりと聞こえた。私はまた行き場のない気持ちを抱えて更に拳を握った。ベッドの上に、私の手から落ちた真っ赤な血液が、跡を作った。  

 

 

「…………意味が分からん。意味が分からんぞ貴様…………。どうしてそこまでして私に関わるんだ…………」    

 

 

 ここまで、拒絶をした。私の闇を見せた。いつかのクラスメイトとは違う。私の正体を知っていてなおこいつは私に近付く。同情されたくなくて、過去も教えてない。たった一年、仕事をやって報酬をあげるという関係だった私にこいつがここまで関わろうとする意味が分からなかった。    

 

 

 

 明智七海は、目を伏せるようにして、ほんのりと微笑みながら、そっと言った。  

 

 

 

 

「君がなんであろうと、私にとっての君は、吸血鬼でもなく、化け物でもなく、私の友であるエヴァンジェリンだからだ」      

 

 

 

 

 急激に頭が揺れた。

 

 予想外の言葉に、体が引っ張られるような感覚がした。  

 壁に背をつけるようにして、私はズルズルと腰を下ろしていった。

 

 

 

 

「…………と、友…………だと…………」

 

「ああ」

 

「馬鹿なことを言うな。吸血鬼だ私は」

 

「知ってる」    

 

 

 

 ―――光が。  

 

 

 

「たくさん殺した」

 

「それでも友だ」    

 

 

 

 ―――また、私に手を伸ばした。  

 

 

 

「これからも殺すかもしれん」

 

「止めるかもしれないし、君の代わりに私が悲しむかもしれない」  

 

 

 

 ―――今度は、無邪気な手ではない。しっかりとした意思を持った手だ。  

 

 

 

「…………私だけずっと生きてる」

 

「…………そうだな、君を残して死ぬときが来るのはつらいが、君にずっと覚えて貰えれば光栄に思う」    

 

 

 

 ―――暗闇から引っ張り出そうとする手ではなかった。  

 

 

 

「……………………好き勝手言う」

 

「知ってるよ」    

 

 

 

 ―――暗闇でもいいから、一緒に歩こうと。  

 

 

 

「……………………わがままだ」

 

「知ってる。知ってるよ。…………友達だからな」    

 

 

 

 ―――そう言ってくれる手だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………おい」

 

「…………なんだ」

 

「そのリンゴをとれ」

 

「……ああ」  

 

 

 机からリンゴの乗った皿を持ってきた。私はそこから一切れのリンゴを手にとる。角張って、所々ゴツゴツとした感触が指先から伝わる。かじると、シャリっと軽快な音を立てて、果汁が口の中に広がった。

 

 

 

「……ふん、味はまぁまぁだ」

 

「それは、よかった」

 

「……次はもっとうまく切れ。七海」

 

「………………ああ。精進するよ」

 

 

 

 静かに笑う七海の前で、私も笑ったかも知れない。

 

 

 



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33話

 

 

 

 シャリシャリと、エヴァンジェリンがリンゴを噛む音が耳に届く。かけ布団で膝までを覆い、少し乱暴にリンゴを頬張る姿は、ちょっと生意気な10歳の少女にしか見えなくて、微笑ましい。そういえば風邪は、と忘れかけた情報を思い出して彼女の顔色伺うが悪くなく、私はほっと息をついた。そんな私を彼女はちらりと見ていたが、私が顔をあげると目を逸らすように、またリンゴを一つ手にとって軽快に音を鳴らした。チラチラとこちらを伺うその様子は、人への近付き方を探る猫のようであった。私は胸の内で笑みを浮かべながら、黙ってリンゴの潰れる音を聞いていると、突然後方の扉がバタンと開いた。    

 

 驚いた私とエヴァンジェリンが同時に扉に目を向けると、そこには俯いたネギ先生と、茶々丸がいた。  

 

「……! 貴様、何故……! 茶々丸、どうしてこいつを家に入れた? 」

 

「…………ぅ、ぅ」

 

「ネギ先生がどうしてもと」   

 

「………うぅ。ひっく、ひっく」

 

 エヴァンジェリンが尋ねている間、不思議な音がネギ先生の方から聞こえた。ずるずると何かをすするような音で、しかも時々呻くような声まで聞こえる。

 

「あほか! 敵対してるものをそのまま招くやつがいるか! すぐに帰らせ―――」

 

「―――エヴァンジェリンさぁん! 」

 

「おおう!? 」  

 

 いきなりネギ先生がエヴァンジェリンのいるベッドに飛び込んで来た。下を向きながらエヴァンジェリンの肩を掴んで動きを止めたネギ先生に、私達は顔を合わせるようにして戸惑う。ちょうど声を掛けようとした時に、ネギ先生はぐいっと顔を上げた。    

 

 その顔は、鼻水と涙でぐちゃぐちゃだった。  

 

「ぼ、ぼく! 感動しちゃいました! よく分からないんですが、こう、なんというか胸が、こう……っ! 」

 

「っな! 貴様まさか聞いていたのか……! というより離れろ! うっとおしい! 」

 

「ぼく勘違いしていたかも知れません! もっとすんごい悪い人と聞いていたのに……」

 

「離れろと言っているんだ! 鼻水をつけるなボケ! 」  

 

 二人が楽しそうにしている横で、私はゆっくりと近づいてきた茶々丸に声をかけていた。

 

「……全部聞いていたのか? 」

 

「はい。申し訳ありませんが、初めから最後まで」  

 

 私の顔がみるみると熱を持っていく感覚がした。思い返せば、随分とキザな台詞を吐いていた気がする。

 

「いるなら入ってくればよかったんじゃないか」

 

「邪魔をしていいような雰囲気ではなかったので」  

 

 ゆっくりと首を降るようにして茶々丸は答える。横ではネギ先生が未だにずびびっと鼻を鳴らしながらエヴァンジェリンに近付いていて、エヴァンジェリンの苛々がそろそろ限界に達しそうだった。私達はそんな二人を見守るようにしていた。

 

「……ネギ先生の気持ちが分かる気がします。私も、言葉には表現出来ないような……」

 

「……よしてくれ。普通に気恥ずかしい」

 

 自分の言葉を言及されるというのは、大概恥ずかしく感じる。先程の台詞なんて、最上級クラスかもしれない。

 

「この気持ちを解析するためにあの会話シーンを何度も聞き直すつもりなのですが」

 

「頼む。勘弁してくれ」  

 

 懇願するようにおもいっきり下げた。茶々丸は意識していないと思うが、なんというか弱味を握られた人の気分だ。

 

「―――ええい! いい加減にしろ! 」  

 

「え、え、わーー! 」

 

 エヴァンジェリンの叫び声が聞こえたかと思うと、彼女はあっという間ネギ先生を布団ではし巻き状態にし、転がした。流石と言える手際のよさだった。    

 

 

 

 ○  

 

 

「それで? 貴様は何故馬鹿みたく敵の本陣に一人で突っ込んできたんだ? 」  

 

 布団にくるまれたネギ先生に向かって、ベッドから降りて椅子に座ったエヴァンジェリンが高圧的に尋ねた。ネギ先生の涙と鼻水はもう治まっていて、今は苦笑いの表情を浮かべている。エヴァンジェリンはどこから持ってきたのかロープを取りだしてきて、彼はくるまる布団の上からきっちりと縛られ転がされている。解放してあげたらどうだ、という私の提案は、今のところ無視されていた。  

 

 はし巻きの布団を殻にした蝸牛のような状態のネギ先生が、顔を上げて答える。

 

「エヴァンジェリンさんが体調不良と聞いたのでお見舞いに……それとお話しがあって来ました」

 

「敵の体調を心配する奴がいるか」

 

「敵の前に生徒ですから」

 

「……はぁ、甘ちゃんだな貴様も」

 

「というか、エヴァンジェリンはどうして頑なにネギ先生を狙っているんだ? 」  

 

 呆れたと言いたげな顔をして息を吐いたエヴァンジェリンに、私は疑問に思っていたことを尋ねる。  

 私は何のためにエヴァンジェリンが吸血をして、魔力を集めているのかを未だに知らない。ネギ先生を狙ったのは、やはり魔法使いの方が魔力を持っているからだろうか、とも考えた。しかし彼女がわざわざ子供を狙わずとも学園内には他にも魔法使いはいるだろうし、何よりも、彼女がなんの理由もなく子供を襲い続けるとは思えなかった。

 

「……僕のお父さんが、エヴァンジェリンさんに呪いをかけたらしいんです」

 

「呪い? 」

 

 ネギ先生の父親も魔法使いだったのか、と思ったが、話の腰を折ることになるので追及しなかった。

 

「いつか話したろう。登校地獄というやつだ。その呪いのせいで私は中学校に通い続けなればならない」  

 

 魔法に呪い。あまりに非現実的な言葉であるのに関わらず私の脳は、そういうものがあるのだ、とその存在を認めていた。慣れと適応があれば、人間はどんな世界に置かれても生きていけるような気さえした。

 

「つまり、その呪いを解くためにネギ先生の血が必要だと」

 

「そういうことだ。どうせ抵抗されると思って他の生徒から血をもらって力を蓄えていたのだが―――」  

 

 ジロリとエヴァンジェリンはネギ先生に視線をやった。

 

「どうやらそんな必要はなかったな。今なら遠慮なく血を貰えそうだ」

 

「……僕の血を吸うんですね」  

 

 ゴクリと、ネギ先生が唾を飲み込む音が響いた。

 

「そうだ。貴様の父親には苦い思いをさせられたからな。貴様が干からびるまで―――」

 

 言いかけて、エヴァンジェリンはちらりと私に目をやった。  

 

 その時私は、思考を巡らせていた。エヴァンジェリンは友達だが、ネギ先生を襲うのはやめてほしい。しかし、ネギ先生を襲わないと彼女の呪いが解けない。魔法や呪いに詳しくないため、どちらも万事解決という策を思い付けないことが、もどかしい。

 

「…………えー、っと、貴様からそれなりの血を貰うぞ」  

 

 そんな私の想いを察してか、エヴァンジェリンは訂正するように言った。  

 

 どうやら、生死に関わるまで血を吸わなくても大丈夫なようだ。だが、ネギ先生が血を提供することに変わりはなく、彼も素直にうんとは言えないだろう。他の選択肢は、と私が再び考えていると、ネギ先生が意外な答えを出した。

 

「―――あげます。僕の血で良ければ吸って下さい」

 

「…………なに? 」  

 

 それは、エヴァンジェリンにとっても意外だったようで、彼女も眉を眉間へ寄せていた。ネギ先生は小さく困ったように笑いながら、もとは僕のお父さんが原因ですしね、と言った後さらに続けた。

 

「但し、条件があります」

 

「貴様、その状態でそんなことを言い出せる立場だと思っているのか? 私は今ここで血を吸うだけでいいんだ。条件なぞ―――」

 

「お父さんの情報と交換です」  

 

 不意に時間の流れが止められたかのように、ぴたりとエヴァンジェリンの動きが止まった。再び体の時間を取り戻した彼女は、ゆっくりとネギ先生の顔を確認するように、じっと彼を睨み付け、疑うような表情をする。エヴァンジェリンとネギ先生の父親は、ただ呪いをかけたかけられたの関係ではないらしい。私は詳しい事情を知らないため、黙って会話の様子を見届けることにした。

 

「貴様の父親は既に死んでいるだろう」  

 

 エヴァンジェリンは語尾を上げて確かめるようにネギ先生に尋ねたが、ネギ先生は首も振ることなく、にやりと笑みを浮かべるだけであった。ここから先の情報は条件を受けてもらってからです、という彼の心の声は語らずとも分かった。

 

「…………っは。いいだろう。受けてやろう。条件を言ってみろ」  

 

 どかりと、椅子に座り直してからエヴァンジェリンが言う。あくまで上からの目線は崩さない様子であった。その口調から、どうせ大した条件ではないだろう、というエヴァンジェリンの想いがはっきりと表れていて―――  

 

「エヴァンジェリンさん。僕と手合わせしてください」

 

「―――ほう」

 

 

 だからこそ、ネギ先生の答えを聞いたとき、想像を上回ったことに感心するような声を出していた。  

 

「エヴァンジェリンさんは、お父さんと戦ったんですよね? ……僕は、知りたいです。自分がどれだけ近付けているのか。どこまでできるのか。だから、エヴァンジェリンさんと正々堂々闘ってみたいです」  

 

「つまり、貴様が提供するのは血とナギの情報、私は手合わせをすればいいという訳か。あまりに私に有利だが、貴様はそれでいいと」

 

「はい」     

 

 迷いなく、彼は頷く。

 

「何のために力を求める。今のようにクラスの連中と仲良く楽しく過ごすのならば、要らぬ力だ」

 

「……力がないと、いざという時大切なものを守れないことがあります」

 

「……手合わせに、命の保証はされているかも分からん。それでもか? 」   

 

 試す様な言い方をしたエヴァンジェリンに、私は思わず声を挟もうとした。そんな私を、エヴァンジェリンは一瞥して目だけで伝える。少しだけ様子を見ていろ、と。

 

 ネギ先生は、じっと考えるように、悩ましげな表情をした後、決意を示すかのようにぐっと顔を上げた。

 

「……それでも、前に進まなければ変われません」  

 

 エヴァンジェリンはその答えを聞いてから、暫くネギ先生を見つめ続けた。それから、視線を下にして、肩を若干上下させる。どうやら、込み上げる笑いが押さえられなくなっているようだ。

 

「…………くっくっくっ! はっはっは! 中々面白い感じに成長してるじゃないか! 初めはただの温室育ちの甘っちょろい餓鬼だと思っていたが、少し見直したぞ。いいだろう。実力のほどを見てやる」  

 

 エヴァンジェリンは茶々丸にネギ先生を解放するように指示した後、椅子から腰を上げ、着替えてくる、と一言告げながら部屋の奥の方へ行った。  

 茶々丸がロープを切り、ようやく布団から解き放たれたネギ先生は、窮屈であった体を伸ばすような仕草をした。  

 そんなネギ先生に私は近付いて、声をかける。

 

「…………ネギ先生、大丈夫ですか? 」

 

「ちょっときつかったですが、あれくらい大丈夫ですよ! 」  

 

 微笑みながら私にそう告げるネギ先生に向かって、私は、首を横に振った。

 

「そのことではありません。手合わせのことです」    

 

 私は、魔法使い同士の手合わせがどんなものかなど知らない。単に魔法をぶつけ合うものなのか、それとも格闘技のように体を使って闘い合うのか、インドアの私には映画や漫画でありがちなものしか想像できなかった。だが二人の言い合いの様子から、そんなに単純なものではないとは予想できる。  

 私は、本心と、ネギ先生の心配をなくそうという想いから、エヴァンジェリンはああ言ったがきっとネギ先生を本当に危険な目には合わせないと思う、と告げた。  

 

 それを聞いて、彼はくすりと笑う。

 

「……本当は、手合わせを頼む気はなかったんです。お父さんの情報をあげるから、僕を襲うのをやめてくれって。そう言うつもりだったんです。でも、ここにきて、七海さんとエヴァンジェリンさんの会話を聞いて」  

 

 あ、盗み聞きした形になってしまってすいませんでした、と申し訳なさそうに笑ってから、彼は続ける。

 

「あの会話を聞いていて、どうしてもエヴァンジェリンさんが悪い人に思えなくなってしまって。それなら、血をあげて呪いを解いてあげようって、なんとなく思っちゃいました。ついでに、僕とお父さんとの距離も測ってもらおっかなって。……あんな風に言っても、僕の命をとろうとしてないことは、僕にも分かりましたよ」

 

 少年らしく、柔らかい笑みを浮かべながらそう告げるネギ先生の発言は、とても少年には見えなかった。生まれて約10年、決して長いとは言えないその時間で、何を経験してきたのだろうか。

『力がないと大切なものを守れない時がある』  

 そう言った時の彼は、どこか儚げで、いつかを悔やむような、そんな表情であった。彼の過去に何があって、どのように育てられたらこのような少年になるのだろうと、彼の背景がふと気になった。  

 

 ちょうどそれを尋ねようとしたとき、ゴスロリチックな普段着に着替え終わったエヴァンジェリンが、奥からネギ先生を呼ぶ声がした。

 

「外でやるのはあまりに目立つ。良いところを用意してやったからそこでやるぞ。ああ、手合わせ前に血を少し寄越せ。満足に力も出せんからな」  

 

 そのまま、ついてこい、という意思を背中で語りながらエヴァンジェリンは地下へと降りていこうとした。  

 

 しかし、良いところとはどういうことだろう。私の知っている限りは、エヴァンジェリンの家の中にそんな広いスペースなどなかった気がする。

 

 

「……それと、茶々丸と七海は来なくていい。…………貴様らは外にいるやつらの相手でもしていろ」

 

「……外にいるやつら? 」  

 

 一度振り返ったエヴァンジェリンが私達へ言った言葉に疑問を持った直後に、バン、と玄関の方から大きな音がした。  

 

 

「ネギー!! 生きてるー!? 」

 

「兄貴ぃー! まだ血は残ってるかー! 」    

 

 明日菜と喋るオコジョの声と、ドタドタと家の中を探る音が鳴り響く中、エヴァンジェリンは、後は頼んだ、と私と茶々丸に告げて、ネギ先生を引っ張り地下へと潜って行った。

 

 









小ネタ
『夢』







『よぉエヴァ。久しぶりじゃねぇか』

『……夢だな、これは』

『おおー。そんなすぐに分かんのか』

『当たり前だ。今更突然貴様が現れたなどと、信用できるか。どれだけお前のことを調べたと思ってる』

『そか。わりぃな』

『ふん。謝罪の言葉など、それこそ今更だ』

『……学校、どうだ』

『……なぜ夢の中の貴様にそんなことを言わねばならん』

『いいじゃねぇか。教えてくれよ』

『……』

『やっぱ面倒か? 』

『……ああ、面倒だ。暑苦しく騒がしい餓鬼どもに囲まれて、何度うんざりしたことか』

『そっか……』

『…………ただ、な』

『……おう』

『最近は、悪くないぞ』

『……くくく。そりゃ、なによりだ。なら、こっからが本当の学生生活かもな』

『……さぁ、どうだろうな』

『楽しくやれたらいいな』

『……まぁ、な』




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34話

 

 

「へぇー。じゃ七海は魔法を使えるってわけじゃないんだ」

 

「そうだな、存在は知ってるが大して詳しくもない」  

 

 私と明日菜は木製のテーブルに座って向かいあっている。茶々丸は私達にそれぞれお茶を用意してくれて、それを机にそっとおいた後、私の斜め後ろに位置をとった。お茶のお礼を言った時に、座らないのか、と提案したが、ここで大丈夫です、と丁寧に断られた。  

 

 明日菜の肩には例の喋るオコジョがいて、オコジョはじっと私と茶々丸を観察している。

 

「でも少し安心したー。実は七海が昔から魔法使いだったなんて言われたら私どーしよーかと」  

 

 苦笑したまま明日菜は湯飲みを掴み、お茶をぐっと飲んでから、美味しい、としみじみと呟いていた。  

 

 明日菜には、たまたま魔法というものを知ってしまった、という風に説明した。魔法を知ったのは偶然というよりかは自ら未知に飛び込んだ結果なのだが、そこを説明しても話が長くなるのでかなり適当な言い方をした。明日菜はあまりにあっさりとその話を受け止めて、そんな人の良さが少し心配になった。  

 勿論、私の体のことは言っていない。不必要に心配させても仕方ないだろう。

 

「明日菜の方はどうだ? 」

 

「どうって、何が? 」

 

「ネギ先生との同室は」

 

「うーん。正直そんなに苦労はしてないかな。ネギはなんだかんだ真面目だし。今時の子供って皆あんな感じなの? 」  

 

 年齢的にはネギも明日菜もまだ子供であるのだが、自分より年下と一緒にいることで年上としての責任を感じているのかもしれない。いや、どちらかといったら心配する姉という感じだろうか。子供が嫌いと明言していた明日菜のそんな変化が何だか嬉しく て、私はそっと微笑みながら答える。

 

「あの子はちょっと特別かもしれないな。……それでも、子供であることに変わりはないが」  

 そう言って、私もゆっくりと湯飲みを口元へ運んだ。世間的に見たら私も十分子供な訳だが、生きていた時間を考えたらこんな風に言うのも許されるだろうと、勝手なことを思いつつ、喉に温かいお茶を通す。優しい味が、じんわりと胃に広がった気がした。

 

「……姐さん! なに敵と仲良くお茶してるんすか! 」  

 

 突然、オコジョが声を上げた。明日菜は耳元でその声を聞かされていて、とっさに片手を上げで耳を塞いでいた。

 

「もー! 何よ突然! びっくりするじゃない! 」

 

「姐さん! そんなこと言ってる場合ですか! やい! やいやい! そこのあんた! ネギの兄貴を早く出せ! 」

 

 オコジョは明日菜の肩の上で身軽に立ち上がり、器用に私を指差す。

 

「さっき言ったろう? ネギ先生とエヴァンジェリンは地下だ。二人で手合わせをしてるから私達はここにいろと言われたんだ」  

 

 エヴァンジェリンに言われたことを正直に話す。ついでに、エヴァンジェリンはこれでもうネギ先生を狙うことはないし、手合わせも命に関わりはしないと私が保証した。明日菜はそれを聞いて安心した顔をしたが、このオコジョはそう簡単に納得しなかったようだ。

 

「姐さん、これはきっとあれですぜ! ネギ先生の元へ行きたかったら私達を倒してからだ、ってパターンっすよ! 」

 

「え、そういうパターンなの? 」  

 

 明日菜が確認するように私に聞き直すが、私は首を左右に行き来させて、そんなわけないだろう、という意思を伝えた。

 

「いんや、間違いないっす! このパターンは定番ですしね! お茶で油断させた後、俺っちと姐さんを襲う気だったのかも! 」

 

 その喧しさにうんざりとしながら明日菜は再び私と茶々丸に目を向けたので、今度は茶々丸と同時に首を振ってそれを否定した。

 

「姐さん! 2対1は不利ですが地形を上手く使って1人ずつ―――」

 

「あー! いつまでも耳元でうるさいっ! 」

 

「ぎゃっぷ! 」

 

 オコジョは明日菜からくらったでこぴんで軽く空を飛んだ。肩から落ちていく様子に、危ない、と思ったが、オコジョそのまま華麗に机に着地した。

 

「……あ、姐さーん。攻める相手が違いまっせー」  

 

 オコジョは額をさすりながら涙目で明日菜に言うが、明日菜はふん、と鼻を鳴らした。

 

「あんたねぇ、七海と私がどれだけ長い付き合いだと思ってるのよ。少なくとも女性の下着を盗むあんたよりよっぽど信用できるわ」  

 

 じろりと明日菜がオコジョを睨み付けると、オコジョはうう、と声を漏らして後退りした。心なしか、茶々丸もオコジョに軽蔑の目を向けている気すらした。  

 

 しかし、オコジョが何故人間の下着を欲しがるのだろうか。生殖は同じオコジョ同士でしか出来ない筈だろう、なんて考えながら私もオコジョをじっと見た。  

 

 まぁ、明日菜はああ言うが、オコジョの気持ちも十分に分かる。彼は、敵地で敵と認識していたエヴァンジェリンとネギ先生が二人でいることを心配しているのだ。エヴァンジェリンや私と交流をしたことないのだから、私達を信じられないのも当然ではある。むしろ、明日菜が簡単には信用しすぎなのかもしれない。私としては信用されていることは嬉しいのだが。

 

「そんな心配しなくても大丈夫だって、エヴァちゃんも茶々丸さんも何だかんだずっと同じクラスメイトだったし。……それに、このお茶とっても美味しいし! 」  

 

 そう言って、明日菜がにっと明るい笑みを茶々丸に向けた。茶々丸はそれを聞いて目をぱちくりとさせていて、私は明日菜の考えていることを何となく察し、くくっと笑い声を溢した。

 

「ねぇ、茶々丸さんは七海と友達なんでしょ? 」

 

「……はい。お友達と、言ってもらえました」  

 

 茶々丸は、私をちらりと見てからゆっくりと頷く。それを聞いて、明日菜がまた満面の笑顔を浮かべて言う。 

 

「ならさ! 私ともお友達になれないかな! 」

 

「…………明日菜さんと、私がですか? 」

 

「そう! 友達の友達は友達ってやつ! 茶々丸さんとはあんまり喋ったことなかったし、良い機会だと思うのよね」

 

「しかし友達とは、親しくしている仲、という意味です。私と明日菜さんはまだ」

 

「そんなの今から仲良くなればいいのよ! 仲良くしたいから、友達になりたい。だめ? 」  

 

 いつの間にか椅子から立ち上がって、明日菜は首を傾げながら茶々丸にそう言った。オコジョは、呆れたようは表情をしていて、茶々丸は戸惑ったように私と明日菜を交互に見る。

 私は茶々丸を見つめ返して、ゆっくりと頷いた。  

 

 明日菜は、こういう子だ。暗く大人しかったいつかとは違い、今ではどんな人にも隔てなく笑顔を向けられる。細かい理由や、事情を考えるよりも、すっと体が動いている。クラスメイトには遠慮のないその行動がたまに鬱陶しく思われることもあるが、皆そこが明日菜の良いところだと分かっている。  

 茶々丸は、少し迷ったような表情をしながら、小さく口を開けた。

 

「…………私は」

 

「何を勝手に人の従者を誘惑してるんだ? 神楽坂明日菜」  

 

 茶々丸の返事は、いつの間にか戻ってきたエヴァンジェリンの声によって被せられてしまった。

 

「エヴァちゃん! ネギは!? 」

 

「誰がエヴァちゃんだ! ……坊やなら地下室で寝かしている」  

 

 くいっと可愛らしい親指を後方にあるドアに向けてエヴァンジェリンがそう言うと、明日菜とオコジョはそれぞれネギ先生の名を呼びながら慌ただしく地下室へと降りていった。

 

「エヴァンジェリン、ネギ先生は」

 

「……そう心配そうな顔をするな、七海。今はちょっと貧血気味なだけだ」  

 

 目を伏せて笑みを織り混ぜながら、エヴァンジェリンはそう言った。一時間ほどで戻ってきた彼女は、いつもより随分機嫌が良さそうに見える。

 

「ネギ先生との手合わせはどうだった? 」

 

「まだまだだな。戦闘経験がなさすぎる。ただ、光るものはありすぎたくらいだ」  

 

 エヴァンジェリンは面白そうにしながら、流石奴の息子なだけある、と続けた。

 

「……呪いは解けたのか? 」

 

「くくくっ! そうだ! 万事解決という訳ではないが、やっとこの呪いから解放されたぞ! これで私をこの地に縛るものは何もない! 」  

 

 エヴァンジェリンは腰に手を当てながら、大袈裟に笑う。私はそれを聞いて、少し寂しさを感じながら苦笑してエヴァンジェリンに祝いの言葉を言うと、彼女は怪訝な顔をした。

 

「……どうした? 何故そんな顔をする」

 

「……君がこれでいなくなると思ったらな」    

 

 ……15年。それだけの長い間この地に捕らわれていた彼女は、卒業を待たずにすぐにでも麻帆良から去ってしまうだろう。卒業式など、彼女は何度も経験した筈だ。やっと自由を手に入れた彼女にはその権利があるし、それを望むのなら止めようとは思っていない。ただ、せっかく友達になったのにな、と思わずにはいられなかった。

 

「…………あー。いや、うん。だが、その、直ぐにでも行かねばならぬという理由もないなぁ」  

 

 エヴァンジェリンは、腕を組んでくるりと私に背を向けた。

 

「そうだな。うん。……まだしばらくここにいてもいいと私は思ってるぞ」  

 

 彼女の後ろ髪の間から見える耳が、若干赤くなっているように見えた。  

 

 私は、照れているように話すエヴァンジェリンがちょっと面白くて、頬が緩んだ。

 

「それは嬉しいな」

 

「……そうか、嬉しいか」

 

「ああ」

 

「そうか」  

 

 未だに背を向けるエヴァンジェリンを私が見ていると、ドタタっと階段をかけ上がる音がした。

 

「エヴァちゃん!? ネギのやつ寝っぱなしだけど大丈夫なの!? 」  

 

 バン、とドアを開けてすぐに明日菜が叫んだ。その背中には、疲れた顔で目を瞑るネギ先生がいた。

 

「騒がしい奴だな。心配するな、ただの貧血だ。直ぐに目が覚める。あとエヴァちゃん言うな」

 

「そっかーよかったー。あ、茶々丸さんごめんね、話の途中で」  

 

 いいえ、と静かに首を振った茶々丸に明日菜は言葉を続ける。 「それで、どう!? 私と友達に―――」

 

「駄目だ」  

 

 何故か、エヴァンジェリンがきっぱりと断る。

 

「……なんでエヴァちゃんが決めるのよ」  

 

 明日菜はすっかり口を尖らせてしまっていた。

 

「私はお前が好きではない」

 

「関係ないじゃない」

 

「あるさ、茶々丸は私の従者だからな」  

 

 エヴァンジェリンがそう言うと、茶々丸は申し訳なさそうに明日菜にそっと頭を下げた。

 

「エヴァンジェリン、いいじゃないか、茶々丸に決めさせてあげれば」  

 

 私は黙って聞いてられなくなって、つい口を出してしまった。

 

「うぐ、七海。だがなぁ、私は」

 

「茶々丸にも、自分の意志があるだろ? 」

 

「し、しかし……」

 

「まるで子離れ出来ない父親とそれを宥める母親みたいだな」  

 

 オコジョがぼそっとそう言うと、エヴァンジェリンにギロリと睨まれた。オコジョは直ぐに明日菜の背中に隠れた。

 

「あーもう! 分かったわよ! まずはエヴァちゃんに認められるわ! だから、茶々丸さん、待っててね! 」  

 

 明日菜が、ぐっと親指を立てて茶々丸に向ける。それを見て茶々丸は少し頬を綻ばせて頷き、待ってます、と静かに言った。  

 ……確かに、親に結婚を認めてもらえないカップルに見えないこともなかった。

 

「それじゃ! 七海、茶々丸さん、エヴァちゃん、また学校で! 」  

 

 明日菜は大きな声でそう告げて、ネギ先生を背負ったまま部屋を出ていった。  

 

 その後、落ち着きを取り戻した部屋で私達はまた机につき、お茶を飲みながら一言二言雑談をした。  

 それから、エヴァンジェリンが立ち上がった。

 

「……よし、茶々丸、七海。残りの問題を片付けに行くぞ」

 

「……残りの問題? 」

 

「全て解決した訳ではないと言ったろう。どうやら、私の力を抑えていたのは呪いだけではなかったようだ」  

 

 それに聞きたいこともあるしな、と続けたエヴァンジェリンに、私は何処へ向かうつもりなのかを訪ねると、彼女は私をちらりと見て言った。  

 

 

「あの狸じじいの所だ」

 

 



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35話

 

 

 

 エヴァンジェリンに連れられて外に出ると、太陽はすっかり落ちていて、空には斑に浮く白い点が散らばっていた。風もなく、遠くで街灯が照らす僅かな黄色い光だけが、やけに目立って見えた。  

 行くぞ、とも言わずに歩き出すエヴァンジェリンに、私達も黙ってついていく。深夜、という時間ではないが、学生が出歩くような時間でもない。エヴァンジェリンのログハウスは林の中にあるため、明かりのない道は昼間とは全く異なる景色に見えた。

 

「夜は嫌いか? 」  

 

 エヴァンジェリンが、歩を止める様子もなしに私に訪ねた。少し先行する背中に追い付くように足を早めて、私は彼女の横についた。

 

「嫌いだと、思ったことはないな」

 

「では、好きなのか」

 

「そう聞かれると、困る」

 

「半端な奴だな」

 

 エヴァンジェリンは小さく笑い声を漏らしつつ言う。

 

「朝も昼も夜も、対等に訪れる。どれが好きだとか嫌いかだとかは考えたことがない」

 

「つまらない奴だ、と言ってしまうぞ? 」

 

「それぞれ良さがあると思う、と言ったら? 」

 

「ありきたりな答えだな、と言うかもな」  

 

 こつりと、石を蹴った音がした。地面はよく見えないので仕方ない、と私は自分に言い聞かせる。

 

「私は夜が好きだがな」

 

「分かる気がするよ」

 

 今度は、私が笑みをこぼした。確かに夜空には、エヴァンジェリンの金髪がよく映える。その答えに満足した様な顔をした後、エヴァンジェリンはしばらく口を開くのを止めた。そうして、私達はまた静かに学校への距離を縮めていく。夜の沈黙と私達の沈黙が重なって、足音だけがやけに大声を出しているように思えた。だが、私はこんな静けさが嫌いではなかったし、エヴァンジェリンもそう思っている気がした。

 

 少しすると、毎日訪れる学校が姿を現しだした。

 

「夜の学校は、一番姿が変わるかもな」  

 

 私が呟くのと同時に、茶々丸が正門をジャンプして乗り越えて、内側から私達を出迎えた。いいのか、と目でエヴァンジェリンに訪ねると、彼女は余裕そうな顔で、構わん、と答えた。

 

「なんだ、怖いのか」  

 

 茶目っ気のある顔で私に聞く。まるで、肝試し前にびくついてる子供に訪ねる時のような表情であったが、残念ながら私は子供ではない。

 

「悪いが、幽霊は見たことないんでな」  

 

 私達は律儀に生徒用玄関に向かう。何故か鍵がかかってないため、校内には簡単に入れた。下駄箱近くで靴を脱いで、学校用のものへと変える。エヴァンジェリンはそんな必要はない、というが、外履きで校内を歩けば掃除の人が大変だろう。私がそう言うとエヴァンジェリンと茶々丸も一緒に靴を変えた。学校帰りにエヴァンジェリンの家に寄ったので私は制服だが、彼女達は私服だ。メイド服とゴスロリに内履きがあまりに浮いて見えて、それを指摘したら睨まれた。  

 

 私達は生徒のいない廊下を淡々と歩き出す。

 

「幽霊は信じてないのか? 」

 

「いるとは思ってないが、完璧に否定する材料はないから、いないとは言い切れない」

 

「また半端な答えか」

 

「答えには、イエスとノーと、どちらともないがある」

 

「日本人思考だな」  

 

 あるものをあるというのは簡単だが、ないものを絶対にないというのは難しい。ひとつひとつ可能性を消していっても、確実に否定は出来ない。  

 ただ、今や幽霊という存在は娯楽に使われることの方が多い気がする。お化け屋敷などと人を驚かす道具としたり、映画にして恐怖をそそる役者にしたりと、彼らも忙しいもんだ、と思う時がある。

 

「……もし、本当に幽霊がいたらどうする」  

 

 暗い廊下の奥底まで掠れていくような声でエヴァンジェリンが私に聞く。彼女にしては、珍しい質問だと思った。そのようなifの話をするということは、もしかして。

 

「…………いるのか」  

 

 麻帆良なら、あり得るとも思った。魔法があり、吸血鬼がいて、私という前世の魂を持つものがいる中で、今更幽霊が出てきても寧ろインパクトにかけているかもしれない。

 

「……いると言っても、見えない者にとっては一緒なのかもな」  

 

 エヴァンジェリンが少し視線を上にしながら言う。 その返答は、幽霊の存在を肯定しているようなものだった。

 

「……幽霊、か」

 

 どうする、と言われても、幽霊というものが何をする存在か分からないので答えようがなかった。

 

「とりあえず、害のないものならば」

 

「……ものならば? 」

 

「会話を試みるかもしれない」

 

 幽霊ということは、一度死んだ者ということだ。

 私も一度死を体験したことがある身として、幽霊と一緒にその話をしてしまうかもしれない。こんな話を共有できるものなんて、世界に探してもそうそういないだろう。

「死ぬとは怖いよな」「うん。でも意外とさ」「あっという間だよなぁ」「静かだしねぇ」

 なんて、あっけらかんと会話できるのも、それはそれで楽しい気がする。

 

 エヴァンジェリンは、くくく、と楽しそうに笑った。

 

「くく、会話か。そりゃあいい。こんにちわでも、こんばんはでも、いってやればいいさ」

 

「幽霊と会う時間なら、こんばんはだろ? 」

 

「さぁ、どうだろうな」

 

 彼女はそう呟いた後、光が漏れているドアの前で足を止めて、ちらりとこちらを見た。

 

「七海。その話の続きはまた今度だ。とりあえず、今はぬらりひょんだ」   

 

 学園長は妖怪か、と笑いかけている途中に、彼女はノックもせず前の扉を開けた。

 

 部屋の中に見える長い頭をみて、見えないこともない、と失礼なことを思ってしまった。    

 

 ○

 

 

「おお、エヴァンジェリンに茶々丸君と七海君か。どうしたんじゃ、こんな時間に」

 

「わざとらしい口調はやめろ」  

 

 学園長がくるりと椅子を回して私達に向き合う。私達の登場に驚いた、という白々しく大袈裟な演技であったのは私にも分かった。

 

「まぁそう尖らんと。菓子でも出した方がいいかの? 」

 

「出さずとも勝手に取る」  

 

 エヴァンジェリンは部屋の壁にぴったりと背中をつける棚に迷いなく足を進め、乱暴に扉を開けて手を入れた。  

 手が再び彼女のもとへ戻った時には、その掌の上にいくつかの和菓子が置かれている。

 

「……相変わらず横暴じゃのう」

 

「七海、どら焼でいいな」

 

「……あ、ああ」  

 

 私が戸惑いながらなんとなく頷いてしまうと、包みに入ったどら焼が彼女と私の間に放物線を描きながらやってきた。 

 

「それで、なんの用なんじゃ? 」  

 

 大福をかじるエヴァンジェリンに、呆れ顔の学園長が問う。私の持つどら焼は未だに封をあけられていない。

 

「わざとらしいことを言うなと何度言わせるつもりだ。貴様の事だから私の状況は既に把握しているだろうに」  

 

 もきゅもきゅと大福を頬張るエヴァンジェリンの元へ茶々丸が近づき、エヴァンジェリンの頬をハンカチで拭こうとする。ええい、人前ではやめろ、と言うエヴァンジェリンに、茶々丸はすいませんと謝りつつも、綺麗に彼女の口周りを拭き取っていた。

 

「ふむ…………。そうじゃの。一先ず卒業おめでとうと言うべきかの」  

 

「っは。卒業式は3月だぞ」

 

「ほう。それでは、まだ中学校に通うんじゃな」

 

 エヴァンジェリンは、一瞬私に目を向けて、再び視線を学園長に戻す。

 

「……今年一年だけだ。その後は、好きにさせてもらう」

 

「ふぉっふぉっふぉ。いつの間にか随分丸くなったのぅ」

 

「削ぐぞじじい」  

 

 私が所在なさそうにしているのを見た学園長が、そのどら焼は食べてよいぞ、と促してくれた。会話に置いてかれている私は、学園長に一礼してから仕方なくどら焼の封を開けた。餡の香りがすっと鼻を入ってきて、匂いだけで高級な菓子だと分かった。

 

「私が言いに来たのは、この麻帆良を覆う結界のことだ」

 

「結界がどうかしたかの」

 

「とぼけるな。私の力、いや、高位の者を抑える力を働かせているだろう」    

 

 どら焼をかじると、柔らかい生地と多目に詰められている餡が口内で上手く混じり合った。甘さが控えめな餡につられ、喉が少し渇いた。

 

「ふむ、それで? 」

 

「今すぐ解け」  

 

 茶々丸が何処からともなく水筒を出して、その蓋をそのままコップにし中身の茶を注ぐ。どうぞ、と差し出されたので私は礼を言ってから受け取った。茶々丸は準備がよすぎるな、と言うと彼女は、ありがとうございます、と返事をした。

 

 茶を飲んでかなり寛ぎながら、私は二人の会話を聞く。しかし、私がここに来る意味はあったのだろうか。

 

「それは無理じゃのう」

 

「何故だ」

 

「あの結界は、麻帆良を守るために働いておる。それに、いまあの結界をとけばお主も関係者に目を付けられて厄介なことになるかもしれんぞ? 」  

 

 エヴァンジェリンが力を取り戻したという情報が広まると、魔法使い関係者が彼女を警戒し満足に行動させてくれないかもしれない。少なくとも麻帆良にいる限りは力を抑えられていることにした方が彼女にとってもいいだろう、とまで学園長は言った。

 

「警戒された所で私を止めれる奴がここにいるとは思えないがな」

 

「じゃが、無駄な闘いは避けたいじゃろう? 」  

 

 今度は学園長が私をちらりと見た。私はどら焼きをはむりと口にしていたところであった。

 

「っち。狸が。分かったよ」

 

「……なんじゃ、随分と聞き分けがよいのう」

 

「その代わりだ」  

 

 エヴァンジェリンが、どら焼を頬張る私に突然目をやる。私はその意図を把握できず、首を傾げた。

 

「貴様と七海が何をしているか私にも教えろ」  

 

 私は声を出すために、ごくりと口の中にあるものを飲み込む。

 

「何か、とは? 」

 

「七海の体を治すために、ひそひそと何かしているだろう」  

 

 私が世界樹を使って色々な研究をしていることは、長谷川さん以外にはほぼ言っていない。それには幾つか理由があるが、学園長に口止めされているというのも理由の一つだ。世界樹が悪用されないためにも、私の持つ情報を知るものは出来る限りの少ない方がいいという訳だ。

 

「ふーむ、まぁええんじゃが」

 

「………いいんですか」

 

 確かめる様に私は言う。エヴァンジェリンに言うということは良いのだが、余りに適当な返事だ。前々から思っていたが、学園長は時々軽すぎる。

 

「エヴァンジェリンが今更世界樹を利用するなんぞ考えにくい。彼女の口は固いし、言った所で困らんわい」  

 

 飄々とそう言った。頭の固い人には下せない決断だ。しかし、学園長が心からそう思っているかは今一分からない。柔軟な思考を持ちつつも相手に考えを掴ませないように話す彼は、流石に年の功があると思わせる。

 

「よし、許可がでたぞ七海、話してくれ」  

 

 エヴァンジェリンにはよく昆虫の話をするし、私の体のことを知っている人だからこそ、何度か今までの研究話をしてしまいそうになったことはある。だから、このように学園長から許可が出たのは正直ありがたくもあった。

 

「そうだな………昆虫と世界樹の関係から話そうか」    

 

 

 

 ○  

 

 

 

 それから、私はしばらく一人で話をした。エヴァンジェリンは時々頷きながら、私に質問を投げ掛けてくる。以前長谷川さんにした所まで話を進めた所で、私は一息つい た。  

 

「なんというか、虫好きだとしてもやりすぎだな。腸内細菌ってお前……」

 

 エヴァンジェリンは笑いを溢しながらそう言った。

 

「それで? 世界樹の魔力とやらは上手く使えそうなのか? 」

 

「今昆虫と他の生物を使って実証中なんだが、恐らく大丈夫だろう」

 

「よし、その話もしてくれ」   

 

「……マスター。紙芝居の続きを待つ子供みたいですね」

 

「う、うるさいわ! 」  

 

 エヴァンジェリンは思ったより私の話を面白がってくれたらしい。  

 話をしようと口を開く前に、私はなんとなく長谷川さんの姿を探してしまった。そういえば、長谷川さんより先に誰かに研究結果を話すのは初めてである。

 

 …………彼女がここにいないのが、少し残念だな。  

 

 そう心の中で思ってから、私は研究の話を始める。

 



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36話

 

 

 それから、私は彼らに研究の経過を報告した。  

 

 特に面白い話という訳ではなくて、エヴァンジェリンの期待に応えられそうにないのは残念に思う。だがまぁ、地味な結果というのもまた研究の一つであるし、許してほしい。  

 

 結論を纏めると、マウスでは世界樹の魔力の影響は大したものではなかったから、私もきっと使えるだろう、ということを言っただけだ。  

 ならば何故昆虫では顕著な影響が出たんだ、と尋ねられ、それは昆虫と私たちの成長様式に違いがあるからだと思う、と告げた。私たちが細胞分裂や細胞の成長などにより時間をかけて大きくなるのに対し、昆虫は脱皮や変態という階段の様なステップを踏んであっという間に大きくなる。  

 マウスの実験の片手間に、バッタを使って脱皮前と後での、ホルモンなどの内分泌物、体サイズ、遺伝子の発現量などなどを調べた時、発覚したことがある。それが、昆虫の脱皮のタイミングに合わせて世界樹の魔力が組合わさると、著しく成長が許されるということだ。ある意味、いつか言った昆虫特有の受容体があるという仮説は間違ってはいなかったようだ。世界樹が潜在能力を引き上げるのだとしたら、脱皮と変態という変化を機に、階段の一段を一気に高くする。それにより、彼らは大きく姿を変えるのだろう。私たち哺乳類の多くはゆっくりと成長する上、細胞の入れ替わりも激しいため急激な成長というものは見られない。ただ、それでもマウスがそうであったように、毛や爪などは早く伸びると予想するが。

 そんな風に説明している途中で、今回の実験体はマウスだった筈が、いつの間にか昆虫の話をしていたことに気が付いた。茶々丸からもらったお茶に一口つけて、結局帰着する所はここなんだな、と自分の性根を再確認して可笑しく思った。  

 ふと、反応のないエヴァンジェリンが気になって前を見ると、彼女は気難しい顔をしていた。手を顎に軽く添えて、考え込んでいるように見える。

 

「……おいじじい。本当に世界樹の魔力とやらは安全なんだろうな? 」  

 

 エヴァンジェリンは不意に口を開いたと思うと、学園長を威圧するように言った。それを調べたのが私の実験なんだが、と私が横から口を出すと、エヴァンジェリンはゆっくりと頭を振る。

 

「七海。お前の実験を疑ってる訳ではない。慎重なお前のことだから、多くのことを調べたのだろう。だが、魔力については七海は素人だ」

 

 腕を組んで、彼女はじっと私を見る。確かに、と私は頷いた。  

 

 私がやっていることはあくまで常識の範囲での検証だ。マウスの中の魔力の推移を見たわけではないし、魔力が人間特異的何か影響を与える可能性も十分にある。さっきの幽霊の話ではないが、危険が「ない」と実用前に把握するのは、難しい。  

 

 私はエヴァンジェリンを見つめ返して、続く言葉を待った。

 

「長く生きているが、私も魔法について全てを知ってはいない。その中でも、世界樹について私の知っていることは少ない。……あれが普通ではない物だとは分かるがな」  

 

 エヴァンジェリンが流れるように私から学園長に視線を移す。学園長は、悠々とその視線を受け止めてから、自分用の茶飲みを持ち上げた。いつの間にか、彼も茶々丸からお茶を貰っていたらしい。  

 

「ふむ……。正直な所、あれはわしにもよくわからん」

 

「じじい」

 

 間髪入れず脅すようにエヴァンジェリンが呼ぶ。本当のことを言え、と言葉が続くのは察した上で、学園長は余裕そうにしていた。

 

「本当じゃよ。世界樹は、わしより、お主よりも長生きしておる。それでも、世界樹の全貌は明らかになっておらん」

 

 コトリ、と学園長は持ち上げていた湯飲みを机に置いた。

 

「一年に一度発光し、膨大な魔力を内包する木。あるタイミングに大発光し魔力を放出して面倒毎をおこす木。わしが知ってるのもこれくらいじゃよ」  

 

 あるタイミングとは22年に一度ある大発光の時であろうか、と私は自分の中で補足しながら聞いた。世界樹については結構調べていたので、公になっていることは大体知っている。しかしそれでも確実に、世界樹の情報は少ない。まぁ、いくら文献を探っても、出回る物で魔力を説明するものなどないのだから当然でもある。

 

「そんなよく分からん物を、人が取り込んでいいのか」  

 

 エヴァンジェリンが、私に一瞬目をやる。

 

「それこそ分からん。七海君のように魔力の漏れてない時期から魔力をとったものなど…………」  

 

 言いかけて、学園長がぴたりと止まった。

 

「おい、どうした」  

 

 学園長は、ゆっくり手を顎に近付け、顎髭を撫でるようにする。何かに気付いたらしく、少し黙ってからうっすらと笑みを浮かべた。

 

「…………そうじゃのう。図書館島は、当然知っておるよの? 」

 

「……それは、まぁ」

 

 その質問をあなたがするのか。といつかの記憶を思い返しながら、気の抜けた返事をしてしまう。あそこは、学園長と初めて対峙した場所だ。魔法を知るという、切欠となった場所だ。そうでなくても、あれだけインパクトがあった場所を忘れることなど出来ないに決まってる。

 

「あそこに行って見てはどうかの? 」  

 

 その提案を、私は不思議に思った。

 

「しかし、図書館島にも世界樹の文献があるようには思えませんが」  

 

 少なくても、あの日適当に本を探りながら歩いた時にはそれらしい情報はなかった気がする。

 

「というより、本に書かれてるならその内容を今話せ」  

 

 見も蓋もないことを言うエヴァンジェリンは、いつの間にか和菓子の包みを開けている。

 

「ふぉっふぉっふぉ。そういう訳ではないのじゃ。さっき言ったように、わしの知っていることは少ない。ただ、あやつに聞くのが一番早い」  

 

 あやつ? と私とエヴァンジェリンは同時に疑問符を頭に浮かべた。

 

「……誰のことだ」

 

「それは、お楽しみにしてもらおうかの」

 

 本当はこれを話しただけで怒られそうなんじゃ、と茶目っ気ある感じで学園長は続ける。

 

「面倒なじじいめ。まぁいい。それだけ情報があれば貴様に用はない」  

 

 ぽいっと手に持っていた菓子を口に放ってから、残りも頂いていくぞ、と彼女は再び菓子棚に向かった。ゴソゴソと背伸びをしつつ上半身ごと棚に侵入し、体がもとの位置に収まった時には、両手一杯にお菓子を持っていた。……しかし、いくら何でも、欲張りすぎやしないか。  

 

 とりあえず注意しようと、太るぞ、と告げると、太ったことはない、とよく分からない返しをされた。  

 学園長は既にその行為の防止を諦めて受け入れているようなので、私もそれ以上口に出すのはやめた。エヴァンジェリンは呆れる学園長を無視してすぐに体をドアへと向ける。

 

「行くぞ、七海、茶々丸」  

 

 この部屋に対して惜しげもなく、エヴァンジェリンは私達の名前を呼びながら部屋から出ていった。

 私と茶々丸は、二人で一緒に学園長に礼をしてから、彼女の手から落ちたお菓子を拾いつつ廊下に出た。

 

 

 ○

 

 

 私とエヴァンジェリンは、とりあえず学園長が言ったことに従おうと、後日図書館島へと向かうことを決めた。誰がいるかは分からないが、行ってみなければ始まらない。  

 

 …………それに、早く薬を完成させたい。正直に言うと、体がそろそろ危ない気がする。  

 

 体力の低下は著しく、走ったら即ダウンするほどだ。エヴァンジェリンからの薬で騙し騙しやってきたが、それもいつまで持つか分からない。  

 世界樹の魔力の質が本当に普通の魔力と異なって、成長などに影響をしてくれるなら、私もいくらかましになるとは思う。だからこそ、倒れる前に……

 

 そう思い、即日の学校終わりに図書館島へ寄ることを決意した。  

 因みに、ネギ先生はすっかりと元気を取り戻したようで、いつも通りの授業を進めていた。ただ、エヴァンジェリンのことを見る目が少し異常だった気もする。恐怖などの系統ではなくて、どちらかというと、尊敬とか、憧れとかそんな感じの眼差しだ。エヴァンジェリンはその視線を、終始うっとおしそうにしていた。  

 

 放課後になると、エヴァンジェリンと茶々丸がすぐに私の机に寄ってきた。

 

「七海、図書館島に行くんだろ? 早く準備しろ」  

 

 当然のように、彼女はついてきてくれるようだ。私の問題だから、と口から出そうになった言葉を飲み込む。友達だからこそ、彼女達に頼りたい。そう思った。  

 

 道中雑談をしながら、私とエヴァンジェリンと茶々丸の三人は学校を出て図書館島へと向かう。放課後の生徒達は皆騒がしくて、昨日の夜とはやはり大違いの騒々しさだった。エヴァンジェリンは煩わしいと思っているかもしれないが、私はそんな学校も嫌いではなかった。目的地に近くなった所で、私はポケットから綺麗に四角く折り畳んだ紙を取り出した。

 

「それは? 」  

 

 茶々丸が私の後ろから覗き込みながら尋ね、エヴァンジェリンは怪訝な目で紙を見る。

 

「昼休みに学園長の所へ行った時にな。目的の人物が図書館島のどこへいるのか聞きに言ったらこれを」  

 

 折り畳まれた紙の間に指を入れ、ぱさり、擦れ合う音を立てながら開く。紙は、A3用紙ほどの大きさになった。エヴァンジェリンは深く興味を示さずにまた前を向いた。

 

「よく分からんが、ナビゲーションは頼むぞ」

 

「ああ」  

 

 ………と言っても、今回は前回来たときほど長い道のりにはなりそうにないな、と紙に書かれた地図と文字を見ながら思った。    

 

 

 橋を渡り図書館島へつくと、地図に書かれているように堂々と中へ入った。一階は普通の図書館、とは言えないほど大きくはあるが、それでも地下に比べたら俄然普通である。危険のないこの階にはかなり多くの人がいて、皆静かに本を読んでいる。

 

「ここから地下へ行くのか? 」  

 

 周りに気を使ってか、小声で私に聞いた。エヴァンジェリンが周りを気遣うなんて、と失礼にも少し意外に思っていると、目立つのは得策ではないだろう、と睨まれながら小声で言われた。

 

「いや地下へは行かない」  

 

 私もなるべく小さな声で返してから、先導して本棚の谷の合間を移動していく。エヴァンジェリンと茶々丸が何も言わずついてくる中、私は地図を当てにどんどんと狭く暗い場所へと進んでいく。

 

 こんな所の本を誰が読むのか、というくらい古い本棚を横目にも、私達はまだ進む。そのうち、他の人とはかなり離れて、いくつかの本は山積みにされ、光りも僅かにしか届かないような場所にたどり着いた。

 

「行き止まりだぞ」  

 

 エヴァンジェリンは舞っている埃を払うようにしながら私に言う。もう近くに人がいないからか、普通に声を出していた。

 

「この本棚から、順番にいくつかの本を取って、キーワードを言えば何か起こるらしい」

 

「暗号、ということでしょうか」

 

「よし、七海。読み上げろ、私が本を取る」  

 

 そう言って、エヴァンジェリンが黒い本棚の前に立った。

 

「まずは、『美味しいプリンの作り方』を取り出し、『うまそー ! 』と言う」  

 

 エヴァンジェリンが無言で私を睨む。私を、本当にそう書いてあるんだ、と地図の横に書いてある注意書きを指さしながら一生懸命主張した。

 

「う、うまそー」  

 

 彼女は乱暴に本を取り出し、少し恥ずかしがりながらそう言って、その本をそのまま茶々丸へ渡した。

 

「次に、『猫耳の歴史』という本を取って『にゃんにゃん』と言う」

 

「に、にゃんにゃん」  

 

 案内するのも恥ずかしいが、なんとなくエヴァンジェリンの方がきつそうである。

 

「『水着の有用性と神秘』を取り出し、『いいなぁこれ』と言う」

 

「…………いいなぁこれ」

 

「最後に、『制服大全』を持って『制服大好き』と言う」

 

「…………制服大好き」  

 

 ゴゴゴ、と本棚が急にずれだして、その後ろからエレベーターが現れた。

 

「七海」

 

「どうした」

 

「私は下にいるやつを一度ぶん殴る」

 

「そうか」  

 

 流石に私も止めようとは思わなかった。とりあえず、今のところ変な人であることは確定し、私は会うのが少し怖くなった。    

 

 

 

 ○  

 

 

 エレベーターに乗ると、ボタンを押さずとも勝手に下へと動き出した。その場所は地下のかなり奥底にあるようで、結構な時間がかかった。

 ピン、と甲高い音がなるのと同時にエレベーターは止まり、独りでにドアが開いた。  

 

 外に出ると、地下とは思えぬほど明るい空間があった。目の前には地表の木の根が少し被さるような大きい門がある。  

 

 この門の先であろうか、と進もうとした所で、遠くから翼をはためかせるような音が聞こえた。それに応じて、エヴァンジェリンと茶々丸は若干の臨戦態勢になるが、音はそれ以上近付いて来なかったため、私達は気にせずそのまま門を開けた。  

 

 すると、そこには更に広く、明るく、メルヘンチックで、訳の分からない場所があった。広いドーム状の空間になっていて、周りには木が生え滝が流れている。中央部はぽっかりと穴が空いていて、その中心に西洋風の建物がぽつんと浮いてあった。

 

 驚きというよりも、魔法というものはここまで出来るのか、と素直に感心した。自分の感覚が狂ってきているとまでは思わないが、やはり慣れとは凄いものだと思う。  

 

 私達の場所とその建物に繋がる道が一本だけあり、私達はその道を行くしかなかった。滝が激しく水を跳ねさせる音を聞きながら私達は橋を渡り、その建物の前に立った。

 

「……入っていいのだろうか」  

 

 何せ、呼び鈴もついていない。

 

「いいだろ」  

 

 エヴァンジェリンは遠慮なくドアを開けて、ずんずんと奥へ進んで行く。適当に行くと、かなり大きなテラスのような場所に出た。椅子や机の他にソファーまで置いてあり、パーティーの会場のようだった。

 

「ええい、例のやつはどこにいるんだ! 」  

 

 中々姿を見せない人に苛立ったエヴァンジェリンが、大声を上げたその時―――  

 

 

 

「ここにいますよ」    

 

 

 

 私達の後ろに、すらりとしたローブを着たやせ形の男性が現れた。

 

 

 

 








小ネタ
『夕映は見た』





「……あれ…七海と、エヴァンジェリンさんと、茶々丸さんですか…。七海はたまにみますが、ほかの二人が来てるのは珍しいですね…。エヴァンジェリンさんも茶々丸さんも、本好きなのでしょうか」


「……すごい奥に本探しに行きますね……。相当珍しい古い本でも見つけたいのでしょうか」

『う、うまそー』

「…え? 図書館でうまそーって言いましたか? しかも今の声ってエヴァンジェリンさんですよね…」

『に、にゃんにゃん』

「……彼女はいったいどうしてしまったんでしょうか。あまりしゃべったことはありませんが、そういうキャラクターとは知らなかったです」

『……制服大好き』

「……もう完全に変態のそれですね……。ですが、趣味や嗜好は人それぞれです。近くにいる七海や茶々丸さんも見守ってるようですし、私がとやかく言うことではなさそうですね……。
彼女のために私ができるのは、今のを見なかったことにしてここを立ち去ることだけです……」




「しかし。エヴァンジェリンさん……。不思議な方だったんですね……」




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37話

 

 

「貴様……っ! 生きていたのか! お前のことも随分探したんだぞ! 」

 

「久しいですねぇ。相変わらず体の成長はないようで」

 

「お前も変わっとらんだろうが! 」  

 

 エヴァンジェリンとやせ形の男が親しげに口論をしている横で、私と茶々丸は顔を合わせる。  

 茶々丸もこの人を知っているのか、いいえ、という目配せを二人でした後、私は男を観察した。男は身長が高く、中性的な顔立ちをしている。所謂、美形という奴なのだろう。ずっと軽い笑みを崩さないでいて、柔和な感じと物腰の柔らかさが伝わってきた。

 

「友人……なのか? 」

 

「ただの腐れ縁だ! 」 

 

「そんなに必死に否定せずともいいじゃないですか、キティ」

 

「その名で呼ぶなぁ! 」  

 

 エヴァンジェリンが男に飛び付いて胸ぐらを掴み、必死に前後する。が、男はそれをものともせずニコニコとしていた。やはり、随分と仲がいいようだ。

 

「立ったままで話をするのも疲れるでしょう。ひとまずそこにお座り下さい」  

 

 エヴァンジェリンに胸ぐらを掴まれながらも、男は私達を近くの机に誘導した。机の上にはいつの間にか紅茶やらクッキーやらが用意されていて、茶葉の優しい匂いが鼻先をくすぐる。  

 エヴァンジェリンが落ち着きを取り戻しクッキーを乱暴にかじり始めた頃、男も椅子に座り紅茶を一口飲んだ。その姿はどこかの貴族のように優雅であり、彼の落ち着いた雰囲気とよく似合っていた。

 

「それでは七海さん。自己紹介から始めましょうか」

 

 自己紹介する前から名前を知られている場合、それは必要なのだろうか。そう思ったが、初対面のマナーとしてとりあえず私は自分の名を告げる。すると男は、はい知ってましたよ、と笑みと共に答えた。

 ……小ばかにしている、とまではいかないが、おちょくるような姿勢ではあったので、私は困ってしまった。もしかしたら、この人のことは少し苦手かもしれない。

 

「私の名前は、そうですねぇ……。クウネル・サンダースとお呼び下さい」  

 

 ……明らかに偽名であり、それがばれていることを物ともしない顔だ。分かりきった偽名を告げられた時、普通はどんな反応を示すのだろうか。とりあえず私は、なんとも言えない顔で固まることしか出来なかった。

 

「アルビレオ・イマだ。昔の知人……というほどでもない。こんな顔をしてるが、結構な年をとった変態だ」

 

 エヴァンジェリンが私のために捕捉してくれた。彼女が年をとった、というからには、彼も人間ではないのだろうか。しかし、疑問には思ったがそのことに興味は持たなかったので、尋ねようとは思わなかった。

 彼は軽く溜め息を吐いてからエヴァンジェリンに言う。

 

「友人ぐらいの関係は築けていると思ってましたが……。それに、年は人のことを言えないでしょう」  

 

 変態という言葉は否定しないのだな、と私は少し身を引いた。

 

「偽名を名乗ったことは申し訳なかったですね。ただ、名前の方は訳あってあまり公にしたくないんです」

 

「……マスター。外部との通信機能と記録機能に障害が」

 

「ふん。用意周到なことだ。そこまで身を隠して何がしたい」

 

「何が、というほどでもありませんが。名が売れすぎると面倒なのはあなたもよく知っているでしょう」  

 

 渇いた笑いと共に、彼は優雅にティーカップを口元へ運んだ。

 

「それで? あなた達はわざわざこんな所まで何をしに来たんですか? 」  

 

 私は一度姿勢を正し、手を膝の上において彼を見た。

 

「アルビレオさん。実はあなたにお尋ねしたいことが」

 

「…………」

 

 彼は目を閉じて、まるで私の声などなかったかのように黄昏る。

 

「おい、アル。聞いているのか」

 

「…………」

 

「………クウネルさん」

 

「はい。なんでしょうか? 」  

 

 ……なんと面倒な人なのだろうか。本名を知ってしまった人の前で偽名を通す必要もないだろうに。

 私はこの人が苦手だと、彼の満面の笑みを前に心の中で確信した。

 横にいるエヴァンジェリンが若干イラつきを表していたが、ここで話を止めても仕方ないので私は要件を告げることにした。

 

「……あなたは世界樹に詳しいと聞きました」

 

「詳しい、とは言えませんが、並みの人よりは知っているかもしれません」

 

「その世界樹のことで、教えて欲しいことがあります」  

 

 彼は、ティーカップを音を立てず丁寧にソーサーの上へ置いてから、私を見た。

 

「それは、世界樹の魔力を体内に取り入れてもいいか、という質問でしょうか」  

 

 ……やはり、要件は既に知られていたようだ。学園長から聞いたか他の経路を使ったかは分からないが、名前を知られていた時点で予想は出来ていた。正直、話す手間が省けて助かる。私が頷くと、彼は私に問いかける。

 

「……まず、七海さん。あなたはここにきて体の様子はどうですか? 」

 

「……特に、変わりはありませんが」

 

「では、キティ」

 

「その名で呼ぶなと言ってるだろう」  

 

 威嚇する猫のようにエヴァンジェリンが叫ぶ。しかし、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの「K」は「キティ」だったのか。可愛らしいとは思うが、そう呼ばれるのはそんなに嫌なのか。

 

「あなたもそう思いますか? ですが、彼女はその可愛らしさが気に入らないようで。まぁ私はだからこそ呼ぶんですが」  

 

 ふふふ、と目を細めながら彼は私を見た。簡単に心を読まれたが、防ぐ術もない私にはどうしようもない。とりあえず、知られたくないと思うことは考えないようにしておこう。

 

「話を戻しましょう。エヴァ。あなたはここにきて体の調子はどうですか? 」

 

「……上出来だ。魔力が充満しているからな」   

 

「そうでしょう。ここには世界樹の魔力が多少漏れていますから。この違いが、七海さんの体質を表しています」

 

「つまり、通常ならば世界樹の魔力により、体にいい影響がある筈だが、私は体質によりそれがないと」

 

 ……これは、不味いかもしれない。世界樹の魔力でも私に影響を与えないとしたら、私の体を持たせる手は現状ない。額から嫌な汗をかき、私は俯く。そんな私を、茶々丸はちらりと見てから彼に言葉を投げる。

 

「……何かないのですか。方法は」

 

「まぁそう結論を早めずに。今まで言ったのは外部から魔力を取り込んだ場合です」   

 

 それを聞いて、私ははっと顔を上げた。

 

「ならば、内部からでは」

 

「そう。効果の違いは期待出来るでしょう。肌の乾燥を防ぐためには、化粧水なんかを塗るより食生活を正した方がよっぽど効果がある。そんな感じです」  

 

 にこりと笑って彼は言う。随分と一般的な例が出てきて逆に不安はあるが、確かにそうだとも思える。最初から私は、世界樹を食す昆虫に焦点を当てて来たじゃないか。彼らが最も影響を受けていたのは、世界樹を近くに置いた時ではなく食べた時だ。やはり試す価値は十二分にある。

 

 後は……

 

「……副作用はあるのか? 」

 

 私が気になったことを、代わりにエヴァンジェリンが尋ねる。彼女たちは本当に私を心配してくれているようだ。心配してくれる人がいる中でこんな風に思うのは駄目なことかもしれないが、私にはそれが嬉しくて、何かがそっと胸を込み上げて、暖かい気持ちにしてくれた。

 

「それは……わかりません」  

 

 初めて、彼の顔が若干真剣味を帯びた気がした。彼は一度ふぅっと息を吐いて、また私を見た。

 

「一度一つずつまとめましょうか。まず、世界樹の魔力でなくても魔力さえ充満していれば、私達のように深く魔法に関わっているものならかなり影響が出ます。封印されたエヴァンジェリンが別荘で力を出せるのも、私が学内に世界樹の魔力が満ちてる時に活動出来るのも、そのためです」   

 

 エヴァンジェリンが別荘を持っている話は今初めて聞いたが、追求せずに私は頷く。

 

「ただ、これは外部の魔力に頼りきりのため、その場所やその期間だけ有効なのです。しかし、内部に魔力を注ぐ場合はその限りではありません」   

 

 私は、同意を示すようにまたこくこくと顔を上下する。確かに、エヴァンジェリンは吸血によって魔力を蓄えていた。

 

「よって、魔力のないあなたが、体の維持のために魔力を内部に蓄えるというのは中々いい考えです。しかし、通常の魔力では、おそらくあなたが異常を起こすスピードの方が早い。幼少期から体質に気付き、定期的に魔力を得ていればもう少し体は持ったかもしれませんが……。今はそれを言っても仕方ないですね」  

 

 私がそれに気付いたのは、中学一年生の時だ。しかも、限界に達し倒れて初めて気付いた。よく考えれば、あの場にいてくれたのがエヴァンジェリンで本当によかった。

 

「…………だからこそ、通常ではない世界樹の魔力を使うつもりです」  

 

 こくりと、今度は彼が頷いた。

 

「そうですね。世界樹の魔力は決して普通ではない。魔力が漏れれば、問答無用に人の願いに干渉する力さえある。それほど強い力です。だからあなたの体の薬として使うのは適しているとは思います」

 

「願いに干渉する、というのは? 」

 

「世界樹の大発光時の前後に起こる副産物のようなものです」  

 

 つまり、普段は気にしなくていいと。しかしだとすると、世界樹の大発光の時に告白すると必ず成功するという噂は本当だったのか。強制的な告白の成功とはされる側は堪ったものではないな、と脱線した話を胸の中で収めた。

 

「おい、肝心の副作用の話はどうした」

 

「ここで話はもどります。結論から言えば、副作用については、分からない。私やエヴァンジェリンは、今魔力を取り込んでいますが、副作用はありません。ただ、内部からの場合それが同じだとは言い切れません」

 

「……長いこと話した癖に結局分からんのか」  

 

 はぁ、エヴァンジェリンは嫌みっぽく溜め息をつくが、彼に堪えた様子は全くなかった。

 

「……ただ、あなたの体はもはや分からぬ副作用を気にしている場合ではないように見えますが」  

 

 彼がそう言うと、エヴァンジェリンはじっと私を見た。

 

「…………そうなのか」

 

「…………ああ」  

 

 私は、ゆっくりと短い言葉を吐いた。

 

「とりあえず、時間もないので世界樹の魔力を含んだ薬を使ってみましょう。副作用などを心配するのは大事なことですが、だからと言って何もしないでいるよりは前向きになるでしょう。それにそんな時に限ってそこまで影響が出なかったりもしますし。ただ、濃度と頻度には一応気を付けましょう。今度ここに材料を色々持ってきなさい。私が調整を見てあげます」  

 

 ……それは、とても嬉しい申し出だ。本来ならば、すぐにでもお願いしますと此方から頭を下げたい所だ。ただ、この人の言葉ということが少し気になる。

 エヴァンジェリンも同じ気持ちのようで、怪しむように彼を見ている。

 

「……そんなに信用ないですか? 私」

 

「貴様のことだから、相応の対価を要求する気だろう? そうでなければ水着を着ろだとか、うさみみをつけろだとか言い出すのではないかと思ってな」

 

「私は猫耳派ですが」

 

「どっちでもいいわ! 」  

 

 ばんっとエヴァンジェリンが机を叩くと、食器の上のクッキーが少し宙に浮いてから落ちた。本当に彼がそう言うなら完全に変態の発想だが、背に腹は代えられない。痛々しいほどの羞恥心はあるが、一時のものだと我慢しよう。  

 私が決意を込めた顔をすると、彼は意外にも困った顔をした。

 

「心配しないで下さい。あなたに何かを求めようとはしてないですよ」

 

「……では、何故」  

 

 私と彼は、出会ったばかりだ。無償で私に協力してくれる道理など、ない筈だ。

 

「あなたは、私の古き友の、新しい友逹なのでしょう? 」  

 

 彼はにこりと、柔らかい笑みで私達を見た。

 今までの笑顔とはまた別の顔を見た気がした。  

 

 横を見ると、エヴァンジェリンは照れを隠すように無理やりふん、と鼻を鳴らした。    

 

 

 

 

 それから、また少し世界樹の話や研究の話をした。紅茶やお菓子はとても美味しく、彼の話は中々面白かった。いちいち弄られて過剰に反応するエヴァンジェリンも、私の目からは楽しそうに見えた、などと言ったら後で怒られるかもしれない。

 

「それでは、また後日会いましょう」  

 

 ひらひらと袖を揺らしながら、彼は私達に手を降った。帰ろうと足を踏み出そうしてから、私はあることを思い出して踏み止まった。

 

「アル……でなくて、クウネルさん」

 

「はい、なんでしょうか」  

 

 満面の笑みだ。相当その名前が気に入ってるらしい。

 

「入るときの暗号だけどうにかならないですか」  

 

 うまそー、ならまだしも、にゃんにゃん、等はやはり恥ずかしい。

 

「ああ、あれですが」  

 

 彼は手を口に添えて、笑いを溢した。

 

「暗号など口にしなくても、あの順に本を取るだけでエレベーターは出ますよ。というか、結局私が許可を出さないとここまでこれませんしね」

 

「な、なんだと! ならあの地図に書いてあったことは……」

 

「私がおふざけで書いたのですが、まさか本当に読み上げる人がいるとは……」

 

 ふふふ、と彼は楽しそうにしている。先程から感付いてはいたが、彼の楽しみはエヴァンジェリンを弄ることのようだ。にゃんにゃんとは可愛いかったですよ、と彼が告げるとエヴァンジェリンはぷるぷると震えだした。  

 エヴァンジェリンが再び彼に飛び付いてまたやいわいと騒いでる横で、指示を出した私も責任を感じつつゆっくりとそれを見守った。  

 

 

 

 ○    

 

 

 

 次の日から、私はクウネルさんの元へ通った。彼の話は知的で分りやすい反面、手の込んだイタズラや弄りを私にまでしてくるので、何と言うか、結局よく分からない人、という印象だった。  

 

 そしていよいよ薬を実用してみよう、という段階まできた所で、私達のクラスは修学旅行の話で大いに盛り上がっていた。  

 直前まであまり気にしてなかった私は、不意に耳に入るような形でその行き場所を聞いた。

 

 

 …………京都か。  

 

 

 私は、昔を思い出すようにしながら一人胸の中で呟いた。 

 

 

 



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38話

 

 

 太陽がゆっくりと高度を上げて、全ての物へ平等に陽を当てる。朝を知らせるその光を窓越しに浴びながら、私はせっせと制服に袖を通す。先日より纏めておいたいつもより大きい荷物を背負うと、それは想像よりも重く、一瞬体を後方に持っていかれる。焦りながらもなんとか踏ん張り体勢を立て直し、一人でほっと息をついた。洗面所に足を向け、覗き込むように蛇口の栓を確認した後、玄関に向かいながら部屋の電気やガスも調べて、そのまま静かに部屋を出る。ドアを閉め、手に持った鍵を鍵穴に差し込み、カチャリと音を鳴らした所で、肩を優しく二回ほど叩かれた。

 

「……長谷川さんか、おはよう」

 

「おう、おはよう」  

 

 振り返ると、そこには眠そうな顔をした長谷川さんがいた。彼女もまた普段より多くの荷物を持っている。

 

「随分と眠そうだな」

 

「あんま寝てねぇんだ」

 

「夜更かしか。何かしてたのか? 」

 

「ギリギリまでネトゲしてた」

 

「……不健康極まりないぞ」

 

 大きく欠伸をする彼女に向かって私は注意した。修学旅行の前日だというのに、彼女の行動は変わらなかったらしい。これだけパソコンに触っていても、本当は目が悪くなっていないというのが恐れ入る。私達はどちらが催促することなく自然に二人揃って足を動かして、寮の出口へと向かっていく。

 

「明智は荷物多すぎねーか? 」

 

「あっちでやりたいことがあってな。その準備をしてきた」

 

「やりたいことねぇ。どうせ虫取りとかだろ」

 

「ばれてるか」  

 

 簡単に見破られたことに、私は控え目に笑うと、彼女も微笑んだ。

 

「そういう長谷川さんは何か持ってきたのか? 」

 

「PC」

 

「……君も徹底してるな」

 

 呆れた顔を向けると、どっちもどっちだろ、と言われた。確かに、趣味を旅行先にまで持って行こうとする魂胆は同じである。

 

「長谷川さんは、3班だったか? 」

 

「そうだな、いいんちょ達と一緒だ。……そっちはマクダウェル達とだろ? 」

 

「ああ」

 

 あやかには、同じ班になりますわよね! と声を掛けられたのだが、エヴァンジェリンと先に約束してしまっていたため苦しい心情で断らざるを得なかった。ショックを受けたあやかに、班が別でも現地でいっしょに遊べるさ、とフォローをすると、納得がいったかどうか微妙な顔をした。その後表情をきりっとさせて、絶対あっちで遊びますからね! とあやかは私の手を握って激しく振った。  

 

 あやかには本当に申し訳なかったが、班の人数の問題でエヴァンジェリンも私もあやかも一緒という訳にはいかなかった。それに何より、エヴァンジェリンにとっては15年の中学生活最初で最後の修学旅行だ。なるべく彼女の要望に答えてあげたいと、私は思っていた。

 

「私もいいんちょと同じ班なら明智と一緒だと思ってたんだがな」  

 

 歩きながら、私をじっと睨むようにして長谷川さんはそう言った。私と同じ班を望んでいたことがとても嬉しかったが、同時に罪悪感も芽生え、すまないと謝るしか出来なかった。長谷川さんはそんな私を見て、冗談だよ、と軽く笑った後、まぁ班なんて大した縛りにならねぇだろ、と自分で気を持ち直すように言った。    

 

 私と長谷川さんは、学校には向かわずに駅の方向へ進む。集合場所は大宮駅で、時間は9時だ。私は街の道路沿いにある少し古びた街時計を見て、時間には充分余裕があることを確認した。

 

「しかしマクダウェルのやつ、最近なんか変わらなかったか?」  

 

 横を走って通りすぎる子供を避けて一瞬目で追った後、長谷川さんが私に尋ねた。

 

「変わった、とは? 」

 

「なんか柔らかくなったというか、いや、よくわかんねぇけど」  

 

 吸血鬼事件の後から、エヴァンジェリンはよく授業に出るようになった。別に特に何かしてるという訳ではないのだが、エヴァンジェリンと比較的席の近い長谷川さんは何かを感じ取ったのかもしれない。

 

「そうだな、話し掛けてみればどうだ? 彼女は君たちが思っているよりずっと面白いぞ」

 

 変わったと所と言えば、確かに周りに発する気配のようなものは変わったかもしれない。生徒達には興味がない、話し掛けても素っ気のなかったエヴァンジェリンとは、今は違うような気もする。

 

「あー、うん。……ま、気が向いたらな」  

 

 ぽりぽりと、長谷川さんは頬を掻いた。中学生活三年目にして、こうやって輪が広がっていくのは珍しいかもしれない。それでも一歩ずつでも変わっていく交遊関係というものは、いつでも新しい何かを与えてくれてきっと人のプラスになるだろう。

 

 人通りが多くなり始める時間になると、周りには慌ただしく移動をするスーツを来た会社員と思える人たちがちらほらと見えて、横の車通りはいっそう混み始めた。

 

「あれ、桜咲じゃねーか? 」 

 

 半信半疑と言った感じで、確認をするように長谷川さんが私に話しかける。  

 私は少し目を凝らし、前方を歩く小柄な少女の後ろ姿を見た。長い棒状の物が入った絹袋を背負い、私達と同じ制服でちょっとした荷物を手に持っている。黒い髪を左に結い上げて縛るその髪型は、確かに桜咲であった。私が同意を示すように頷くと、長谷川さんは呆れながら言った。

 

「あいつ、旅行先にまで竹刀持ってくつもりかよ。てかあれ竹刀にしては長くないか? 」

 

「竹刀の正式な長さはよく知らないな。しかし虫取道具やパソコンを持っていくよりは旅行っぽさがある気がする」

 

「それを言うなら木刀だろ。というか旅行先で買うものであって持ってくものではないぞ」

 

「…………買ったことあるのか? 」

 

「ね、ねーよ! 」  

 

 必死に否定した長谷川さんの声に反応して、桜咲がこちらを振り返った。彼女は私達の姿を確認して、スッと頭を下げた。私は遠めの挨拶を返してから、立ち止まった彼女に追い付くように近づいた。

 

「おはよう、桜咲」

 

「おはようございます明智さん。……と、は、長谷川さん」

 

「お、おう」  

 

 人付き合いが得意でないというか、不器用な二人らしい挨拶だった。珍しい組み合わせな三人であるし、私以外の二人は特に面識があるという訳ではなく、人見知りも手伝って少しギクシャクとした雰囲気が一瞬流れた。二人はなんとなしにお互いの出方を探り合うような感じである。私も桜咲に関しては心が知れた仲となんて言えないが、それでも間を持てるのは今私しかいなかった。

 

「桜咲、龍宮と一緒じゃないのか? 」  

 

 寮の部屋が同室なのに一緒にいないことを不思議に思って聞いた。質問されたことに気付いた桜咲が、私に言葉を返す。

 

「龍宮は神社の方に寄ってから行くというので」  

 

 そう言えば、巫女をやっているという話を耳に挟んだことがある。頭の中で彼女の巫女姿を想像すると、思ったよりずっと似合っていた。

 

「……桜咲は何班だったっけ」

 

 長谷川さんが、世間話を振ろうと少しぎこちなさげに聞いた。

 

「6班です。明智さんと一緒の班です」

 

「班長、よろしく頼むぞ」  

 

 私が笑ってそう言うと、彼女はちょっと困ったような表情をして、申し訳なさそうに言った。

 

「……実は私、あっちで少し用事がありまして、班の皆とは一緒に回れないかもしれません」

 

「用事? あっちって京都でか? 」  

 

 長谷川さんが聞き返す。しかし、旅行先で用事とはどういうことだろうか。

 

「え、えと、私実家が、京都でして、それで」

 

「顔を出さねばならないと」

 

「は、はい。そんな感じです」  

 

 修学旅行の時くらいクラスメイトと遊ばせてあげたら良いのではないか、と思ったが、家庭の事情とは人それぞれであるし、桜咲も嫌々という感じではないので、私は無理に口を出さないことにした。  

 

 それから、京都の様子を色々と桜咲に教えてもらいながら、私達は集合場所まで向かった。しばらく話していると、地を出しているという風ではなくても初めのような雰囲気はなくなって、二人とも普通に会話をしている。どちらとも、一度警戒を解けばすんなりと行くタイプなんだろう。桜咲は、人一倍運動神経の強い麻帆良四天王なんて呼ばれているが根は真面目で静かな子だし、長谷川さんもわーわーと騒ぐ性格でもないので意外と話は合うのかもしれない。    

 

 

 ○  

 

 

 

 大宮駅につくと、そこにはもう何人もの生徒がいた。一般の駅利用者は騒がしくしている所をちらりとみて、あぁと合点のいった顔をする。皆学校の制服を着ているため、端から見てもすぐに学生の修学旅行だと言うことが分かるだろう。

 

「あ、七海さん、長谷川さん、桜咲さん、おはようございます! 」  

 

 だが、この少年が教師だと分かる人は何人いるだろうな、と私は心の中で呟いてからネギ先生に挨拶を返した。長谷川さんと桜咲は、ネギ先生へ挨拶代わりにぺこりと頭を下げる。

 

「ネギ先生、随分楽しそうですね」

 

「はい! それはもう! 日本に来てから京都へ行くのは本当に楽しみにしてたんです!」  

 彼は子供らしく、はしゃぐように言った。

 

「僕の姉が、日本に行くなら絶対に京都は見た方がいい、とても素敵だから、といつも言ってたんです! だからとっても期待しちゃって! 」

 

 目をキラキラとさせて、胸の高鳴りを押さえきれない、という風に興奮している姿はまさに少年で、なんだか微笑ましかった。  

 両拳を握り楽しそうにする彼の横から、他の先生が彼を呼び掛けると、ネギ先生は、はっと我に帰った。

 

「あ、すみません。ちょっと呼ばれちゃいました。とりあえずもう少し時間はありますが、班でまとまっていて下さい」  

 

 そう言って、ネギ先生は先生の集まりの中に入っていった。

 

「ネギ先生、相当はしゃいでたな……」

 

「子供らしくて可愛いじゃないか」

 

「まぁ、大人ぶってる時よりは。んじゃ明智、また後で」  

 

 長谷川さんは私達に適当に手を振る。それからだるそうに自分の班員が見えた所に向かっていった。残された私と桜咲も、とりあえず6班のメンバーを探した。

 

「七海! 遅いぞ! 」  

 

 人混みの中から、聞き慣れた声が私の名を呼んだ。声の元に向かっていくと、そこには腕を組んで笑みを浮かべているエヴァンジェリンと、静かに横につく茶々丸がいた。

 

「エヴァンジェリン、茶々丸、早いじゃないか」

 

「マスターは興奮のあまり誰よりも早くここにつきました」

 

「茶々丸! そういうことは言わなくていい! 」

 

「昨日の夜もわくわくしっぱなしで中々寝付けていませんでした」

 

「やめろと言っとるだろこのぼけロボめ! 」

 

 この、この、とエヴァンジェリンが茶々丸の後ろに回り込みネジを巻き、茶々丸が悶えている。そんな光景を、桜咲はぽかんとした顔で見ていた。

 

「あ、あの。エヴァンジェリンさん」

 

「ん、なんだ刹那か。おまえも来たのか」

 

「というか、あの、呪いのせいで此方には出てこられないものだとばかり」  

 

 小声ではあったが、呪いという言葉が出た所で私はとっさに桜咲を見た。自然にその言葉が出ると言うことは、彼女もそちら側の人間だったのか。

 

「あんなもの、先日簡単に解いてやったぞ」  

 

 自慢気、という感じでエヴァンジェリンは桜咲に向かって胸を張った。

 

「……では、こちらの事情はご存知ですか? 」

 

 神妙な顔をして、声を押さえるように言う。事情とやらを知らない私は一人会話に置いてかれているのだが、私が聞いていい話なのか判断に困った。

 

「坊やが親書を渡すとか言う話だろ?  貴様ら西と東のいざこざなど今更興味はないがな。私の目的は旅行を楽しむということだ」

 

「…………そうですか。……あと、気になっていたのですが、明智さんとはどういう関係なのでしょう」  

 

 私の方にもちらりと目をやりながら、桜咲は尋ねる。

 

「……どんな意図でその質問をしている」

 

「いえ! その、最近よく一緒におられるので、明智さんも関係者なのかと」  

 

 分かりやすく声音を低くしたエヴァンジェリンに、他意はないです、と慌てて桜咲が訂正する。エヴァンジェリンの正体を知っているものからすれば、彼女と一緒にいる私も関係者と勘違いしてもおかしくはないことだろう。

 

「七海は一般人だ。魔法の存在や私の正体は知っておるがな。七海自身は何の力もない」

 

「……! 一般人なのに、あなたの正体を―――」

 

「はい皆さーん! 時間になりましたよー! 」  

 

 桜咲の言葉を遮るようにして、しずな先生が皆を呼び掛ける声が響く。生徒たちは皆一斉にそちらに顔を向けて、先生の言う注意事項に耳を傾けた。

 

「私が言いたいのは、私の旅行を邪魔するなということだ。それさえ守ればお前らのいざこざは好きにやってくれ」

 

 班ごとに順番に車両に向かってくださーい、と指示するネギ先生の声を無視するように、エヴァンジェリンは茶々丸を連れてさっさと車両へ入っていった。私も色々と気になることはあったが、とりあえず此所に置いていかれる訳には行かないため、エヴァンジェリンについていく。

 

「桜咲、行くぞ」  

 

 立ち止まる彼女に私が声をかけると、彼女は少し考えるようにしてからゆっくりと頷いた。    

 

 

 ここから、私達A組の京都への修学旅行が始まった。

 

 

 







小ネタ
『旅行前日』





「茶々丸! おい茶々丸」

「どうしました、マスター」

「お前、ちゃんと用意はしてあるんだろうな! 」

「用意、とは」

「ばか! 修学旅行の用意に決まってるだろう! ほら、鞄にカメラが入っていないぞ! それに、菓子もないじゃないか! 」

「……マスター。私はカメラを使わずとも写真は撮れるのですが。それに、お菓子は別の鞄に詰めてあります」

「むぅ、そうだったか。ならいいんだ。よし、明日は早い。電気をけせ。さっさと寝るぞ」

「はい、マスター」



「……」

「……」

「……マスター」

「…なんだ」

「さきほどから随分と寝返りをうっていますが」

「……だからなんだ」

「……もしかして眠れないのですか」

「う、うむ。まぁよい。時間が経てばいずれ寝る」

「…ならよいのですが」





「茶々丸! おい茶々丸! 朝だぞ起きろ!」

「……マスター、まだ日が昇ったばかりですが…。それに、結局ずっと起きていたようですが」

「そんなものはどうでもいいんだ!太陽が見え始めればもう朝だ!行く準備をするぞ!」

「……マスター、15年ぶりの外出となると、とても楽しみなんですね」

「な! ばか! 楽しみなどではないわ! ばか!」

「その嘘はさすがに無理がありますよマスター……」




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39話

 

 

 車両の中は、私達A組の騒ぐ声が行き交っていた。彼女達は皆それぞれ自分なりに時間を過ごし、盛り上がった旅行テンションでトークに懸命になるものから、ボックス席で今流行りのカードゲームを広げているものもいる。勝った負けたの後に両者間にお菓子が交差することから、恐らく賭けでもしているのだろう。  

 

 そこから少し離れるように、私とエヴァンジェリンと茶々丸は車両の端のボックス席に陣をとっていた。茶々丸はすっとお茶を用意してくれて、エヴァンジェリンは高級そうな和菓子を広げた。きっとこれも学園長から貰った物なんだろう、と尋ねたら、彼女は悪びれる様子もなく頷いていた。  

 

 茶々丸のついだ玉露を、味わうようにゆっくりと飲み込んでから、私は息をつく。

 

「……関西呪術協会なんてものもあるのか」  

 

 私がぼやくように呟く。   

 

 先程の桜咲とのやり取りをエヴァンジェリンに問うと、彼女は和菓子を摘まみながらざっくりと説明してくれた。どうやら我らが麻帆良にいる関東の魔法使いたちと、関西の陰陽師たちは仲が悪いらしい。本来ならば魔法使いが担任のクラスが旅行に来るなど関西側が荒れる原因となるのだが、学園長はこの期に仲を取り持とうと考えた。そこで、ネギ先生が親書を運ぶ大使に選ばれたのだとか。魔法使いの修行とはそこまで大変なのだな、と事情に詳しくない私はその事実を軽く捉えていた。  

 

 ならば桜咲はネギ先生の護衛なのか、と思ったのだが、どうやらそういうことでもないらしい。関西呪術協会の長の娘である木乃香が反乱分子に狙われることがあり、その護衛をしているそうだ。  

 

 その役目は麻帆良在中の時も担っているらしいが、桜咲は矛盾するようにこのかを避けている。護衛の極意など私はまったく知らないし、桜咲は遠目に護衛しているのかもしれないが、近くにいる方がいい筈だろう。彼女が木乃香のことが嫌いで、だけれども命を受けたため嫌々やっているというならその行為は理解できる。だが、私の目にはどうしても彼女が木乃香を嫌っているようには映らなかった。テスト勉強を教えた後の日から度々彼女を観察したが、桜咲の視線はこのかを何度も追っていた。  

 

 その時の桜咲の目は、仕事の目というより、大切な人を守ろうとする親鳥のような目だったと思う。    

 

 私が思考に耽っていると、前に座るエヴァンジェリンがずずず、と音を立てて湯気の漂うお茶を啜った。

 

「東と西の争いなど好きにさせておけばいい。それよりも」  

 

 エヴァンジェリンが、ぐいっと私に顔を近付けて、真剣な目を私に向けた。

 

「…………薬の効果はどうなんだ」  

 

 湯飲みを掴もうとした私の手が、すっと宙を漂った。そのままゆっくりと湯飲みを両手で包むようにして、間をおいた。ほんのりと、掌に温かい感触が伝わる。

 

「…………まだ、分からないな。今のところ特に大きな変化は感じていない」  

 

 世界樹の薬を服用し始めたのは、この旅行にくる直前だ。修学旅行中に倒れるようなことがあれば、皆に迷惑がかかる。そう思った私はクウネルさんと協力して何とか薬を完成させ、とりあえず一度口に含んで飲み込んだ。それから現在まで、特に体の変化は掴めていない。当然薬を飲んですぐ症状が回復するなどとは思ってはいないし、今後の服用で何かしらの影響が出ると思っている。

 

「……副作用は」

 

「飲み始めに一瞬頭が痛んだが、それからは別に」  

 

 薬を口にした瞬間、頭のなかにノイズが流れるような感覚がしたが、それ以外は何もない。エヴァンジェリンは手を顎に当てて少し待ってから、小さな掌を私のへその辺りにあてた。少し困惑する私を無視してそのままぺたぺたと異常がないか確認するように探り、うんと頷いた。

 

「妙な魔力は感じる、しかしまぁ素人目だが今のところ問題なさそうだな。何かあったらすぐに言え」

 

「……ありがとう」  

 

 色々と協力してくれたことに関しても、こんな風に心配してくれたことに関しても、エヴァンジェリンには頭が上がらないほど世話になった。私は言葉では伝えきれないほどの恩を、彼女に感じていた。

 

「………あー、う、えと、あれだ、その」  

 

 私に触れていた手を引っ込めながらエヴァンジェリンは若干頬を赤くした。言葉に詰まりながら、あーえー、と続け、恥ずかしがる子供のような表情になっている。

 

「れ、礼などいらん。その、七海は、」  

 

 彼女の中で、恥ずかしさと何か言おうという気持ちが共に攻めぎあい、葛藤しているようだ。

 

「……と」  

 

 エヴァンジェリンが、ゆっくりと口をすぼめ、次の言葉を発しようとした。  

 その時突然、机の上にぴょん、と緑色の物体が乗り出した。

 

「とも…………カエル? 」 「トモカエル? 」

 

 目の前には何故かカエルがいた。私達がそれに気付いたことが引き金となったように、後方で悲鳴があがる。車内を見渡すと、通路や他の座席にもカエルが大量に発生していて、クラスメイトは勿論、しずな先生も混乱している。

 

「……このカエルはなんだ? 」  

 

 私は目の前のカエルを手に取り、ひっくり返したり足を伸ばしたりして観察する。カエルは両生類の研究においてモデル生物であり、幾つかの種に見覚えはあるのだが、この種は見たことがなかった。

 

「…………式神だな」  

 

 言わんとしたことを邪魔されて若干の苛立ちを示しながら、エヴァンジェリンが別のカエルを掴んで思いっきり握った。すると、ぽん、と音と煙を立ててカエルだったそれは一枚の紙に変わる。  

 

 式神ということはこれは陰陽師の仕業なのか、とフィクションで得たような知識から短絡的な考えをした。カエルが紙になっても動じない当たり、私も大分図太くなった気がする。

 

「どういう意図なんだこれは……」  

 

 先程聞いた関西呪術協会の誰かが、魔法使いが嫌いなためにやっている行動だとしたら、些か幼稚すぎる。

 

「知るか。ただの嫌がらせか、メンバーの偵察とかだろ」  

 

 ネギ先生があやかに点呼を頼み、他の生徒はカエルの回収をするように呼び掛けている。

 

「……とりあえず、回収を手伝おう」  

 

 遠くで、楓が辛そうに叫ぶ声が耳に入る。そういえば、カエルが嫌いだと言っていた気がする。ネギ先生は何かを追いかけるようにして、通路を走り去ってしまった。  

 車内は混乱し、それを収めようとするものと動揺しているものにはっきりと別れた。一先ず私もこの混乱を抑えようと席を立った。  

 

 皆のもとに向かう前に、一度立ち止まってエヴァンジェリンを振り返り、私は笑った。

 

「エヴァンジェリン、茶々丸、君達が友達でよかったよ」

 

「っ! は、そ、そうか。私も、うん、そ、そうおも」 

「明智さん、私も同じように思っています」

 

「貴様ぁっ! 空気を読めぇ! 」  

 

 また台詞を言わせて貰えなかったエヴァンジェリンが茶々丸に襲いかかり、茶々丸の肩を思いっきり揺らした。その光景に微笑みかけてから、私は騒ぐクラスメイトとカエルを回収した。  

 

 

 

 ○  

 

 

 

 ひと騒動あったがなんとかその場を静め、クラスメイトはすぐに通常のテンションに戻った。能天気というかなんというか、大して気にかけないその姿勢と心強さには素直に感心した。その後新幹線を降りて、駅前に止まるバスに荷物を持って移動した。それから15分ほど、バスの中から古い街並みが過ぎ去っていくのを見ながら目的地に向かう。

 

 向かう先は、清水寺だ。  

 少し離れた所に到着して、バスを降りる。現代にならって重々しいビルが遠くに見える一方で、昔の匂いを感じさせるような古びた建造物がしっかりと残っている道を、私達は歩く。クラスメイトの多くは風景を楽しむというより、集団で遠出をしているという事実を楽しんでいるようだ。町の人たちは慣れた様子で余所者の私達を受け入れて、気軽に話しかけてくれる。  

 

 私は騒ぐ皆と少し距離を置き、一人後ろの方でゆっくりと歩いた。ずっと前にいるエヴァンジェリンは想像よりもテンションを上げていて、茶々丸にあらゆるところを写真に残すように嬉々として命じている。普段見れないような彼女の一面をクラスメイトが面白そうに見ているのを、彼女は気付いていないようだ。  

 

 私は、皆より遅れて石垣の階段に足をかけながら、のんびりと周りを見渡した。騒ぐクラスメイトとは、声が此方まで軽く聞こえるほどの距離が空いた。優しく吹いた風が道の脇にある木をちょっぴり揺らし、一枚の葉を落とした。  

 

 

 …………変わらないな。  

 

 

 観光場所となるような有名な建物よりも、何気ない風景のほうが記憶の奥をつんと叩いた。勿論、前世と全く同じ京都と言う訳ではない。だが、ここの雰囲気は独特で、風や地面や木造の香りだけで、私は懐かしいと思えた。

 

「七海」  

 

 私がぼうっとしていると、いつの間にかあやかが横にいた。あやかは長い髪をポニーテールのようにまとめていて、いつもとは少し違った雰囲気がある。遅めに歩く私と歩幅を合わせるようにしながら、彼女は私を覗き込んだ。

 

「七海は京都に来たことがあるんですの? 」

 

「……いや、ないな」

 

「そうなんですの? それにしては歩き慣れているように見えたので」  

 

 彼女が意外そうな顔をして私を見た。  

 

 前世では京都に住んでいたことがある、なんて言えないため、ガイドブックを読み込んだと咄嗟に嘘をついてしまった。すると彼女は、七海も楽しみにしてたんですね、と嬉しそうにした。

 

「私、家が洋風だからかこのような街並みを見る機会は少ないんですの」  

 

 だから、と続けて彼女は近付いた清水寺に目を向けた。

 

「この、和!って感じの雰囲気がとても好きですわ」

 

 あやかにはしては子供っぽい言い回しで、楽しそうにするその姿を見て私も笑みを浮かべた。

 

「さ! 七海! 皆に追い付きましょう! 清水の舞台をこの目に焼き付けましょう! 」  

 

 彼女は私の手をぎゅっと握り、清水寺を指差した。一人離れた私を心配してくれていたのかもしれない。  

 

 …………恵まれてるな、私は。  

 

 

 胸の内にそっと言葉を落として、私はあやかに引っ張られた。    

 

 

 ○

 

 

「これがっ! 清水寺っ! 」

 

「噂のっ! 飛び降りるやつっ! 」

 

「ではさっそく拙者が」

 

「おやめなさいっ」

 

「ここがかの有名な「清水の舞台」と呼ばれる場所ですね。創設年に関しては様々な説がありますが奈良時代の784年に造られたという説が一般的です。延鎮と呼ばれる修行僧と坂上田村麻呂の逸話が有名でしょうか。その後も多くの文書にこの寺の情報が載せされ、何度も焼却された記録が残っています」

 

「ふん、そんな風情の何もわからん奴こそここから飛び降りてしまえばいい」

 

「同感ですエヴァンジェリンさん。ですが意外にもここから飛び降りた人の生存率は高く……」

 

「なに! そうなのか! 」

 

「そもそも、清水の舞台から飛び降りたつもりで、という言葉の始まりは……」 

 

「ほう、ふむふむ! それで! 」

 

「うわ! 謎の神社マニアがいる! 」

 

「おおぉ、ゆえ吉のトークについていけるとは。エヴァちゃんやるぅ! 」

 

「ねぇ七海、写真とろ写真! だれかぁーシャッター押してー」

 

「お待ちなさい! まず私と七海の二人で……」

 

「バカを言うなぁ! 七海こっちにこい! 私と映るぞ! 」

 

「わぁ! ちょっと押さないでよっ! 落ちるじゃない! 」

 

「大丈夫です。生存率は意外と高く…………」

 

「そういう問題じゃないでしょ! 」

 

「あのー皆さん他の人に迷惑にならないように……」  

 

 国宝にきても彼女達のテンションは静まることはなく、ネギ先生が額に汗を滴ながら声をかけるが、通じていない。流石にこのままだと不味いと思い、私はうるさそうな何人かに軽く注意をした。あやかは、私としたことが申し訳ない、と気持ちを抑え、エヴァンジェリンは、七海あっちに音羽の滝がっ! とはしゃぎながらどこかに移動していった。

 

「ネギ先生、どうですか、京都は」  

 

 他の生徒も清水からの景色を堪能した後は、何か面白そうな物を見つけては慌ただしく移動していく。そんな中で、ネギ先生は飽きる様子もなく清水の舞台から京の街をじっくりと眺めていた。

 

「……そうですね、姉の言う通り、素敵な所です。あんまり上手い言葉は出ないんですが」  

 

 あはは、とネギ先生は照れるように笑う。  

 

「ネギ先生のお姉さんは、日本に来たことが」  

 

 私が横に立って何気なく聞くと、ネギ先生は、んー、と声を伸ばしながら考えた。

 

「僕の記憶だとその筈はないんですが。まぁでも僕より年上なので、僕が産まれる前に来たのかもしれません」  

 

 そう言って、ネギ先生はまたじっと京の景色を見つめた。遠くの山の色まではっきり見えるのは、太陽が何にも遮られずに一面を照らしているからだろうか。高所から見渡しても、街の活気や趣は京の空気によって運ばれ、私達にしっかりと伝わった。私とネギ先生は、静かにぼんやりと街を眺める。  

 

「ネ、ネギ! 大変よ! 」

 

 急にドタドタと音を立てながら、明日菜が勢いよく私達の元まで駆けつけて叫んだ。

 ネギ先生はその慌ただしさを注意しようとして、止めた。明日菜のその顔にはっきりとした焦りが見られたからだ。

 

「な、なんかよく分かんないけど、音羽の滝の水飲んだら皆ヘロヘロになっちゃって! 」

 

「……っ! 分かりました! すぐに向かいます! 」  

 

 ネギ先生が律儀に私に一礼してから、あっという間に去っていった。明日菜も凄いスピードでそれを追いかけ私は一人残される。私は少し遅れて、皆の無事を祈りながら、必死にネギ先生達の後を追った。

 

 

 



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40話

 

 

 音羽の滝で一騒動あった後、6班のメンバーである私、エヴァンジェリン、茶々丸、桜咲は揃って宿泊部屋に向かっていた。後ろを見ると、エヴァンジェリンはむすっとした顔をしている。ザジは宿内にある土産コーナーを見ていて、まだ来ないようだ。  

 部屋の扉を開けると畳の匂いが自然に薫った。中を見ると殺風景な和室であったが、広さは十分である。深く息を吸うと、鼻先に落ち着く香りが集中する気がして、なんだか懐かしい気分になった。二階のため、窓からの景色は外を見渡せるようではあるのだが、庭園の松と石垣がしっかりと見れないのは少し残念であった。

 

 私達は荷物をそれぞれ端に寄せるように置いた後、中央に置かれた木製の机を囲むように座った。茶々丸は京都で買った茶葉を使い、それぞれに茶を配る。  

 

 私と桜咲がお礼を言ってそれを貰っている時も、エヴァンジェリンは膝を小刻みに揺らし分かりやすく苛立ちを示した。

 

 

「くそっ! 訳のわからん妨害のせいでろくに観光出来なかったぞ! 」  

 

 エヴァンジェリンが吠えた。ダンッと音を立てて湯飲みを机に置く所を見ると、相当御冠らしい。

 

「刹那ぁ! 近衛 詠春は何をしているんだ! 」

 

「……長も下を抑えようとはしているのですが……」  

 

 エヴァンジェリンの怒りが飛び火して桜咲が困ったような顔をした。彼女がここまで機嫌が悪いのは、先程の事件のせいだ。    

 

 

 先程、ネギ先生と明日菜の後を追っていくと、そこにはべろべろに酔っぱらった生徒達がいたのだ。ほとんどの生徒に加えあやかまでもが酔っ払い、ほにゃほにゃと何か言っている。私が、どういう状況ですか、とネギ先生に問うと、そこにいたエヴァンジェリンが代わりに答えてくれた。どうやら音羽の滝から流れる水が酒に変えられていたらしく、それを飲んだ生徒達がこうなったと。  

 

 我関せずと言った調子で盃でその酒を汲み、エヴァンジェリンは観光を続けようとした。そんな彼女に、他の先生に飲酒がばれたら即帰宅だぞ、とひっそり告げると、彼女は焦りながら酔った生徒達をバスへと放り込む手伝いをしてくれた。それからしずな先生に、疲れた人が多数いるから早目に宿に行かせて下さい、となんとも苦しい理由を言って、A組だけ一足先に宿まで来たのだ。   

 

 恐らく、あれも関西呪術協会の妨害という訳なのだろう。悔しくも、私達を追い返そうという手としては悪くないと思ってしまった。旅行先で飲酒し酔っぱらって倒れる中学生など、即刻問題となり修学旅行どころではなくなるだろう。

 

「大体なんだあのちんけな仕掛け達は! 」

 

「お酒の他にも、落とし穴なども仕掛けられていたようです」

 

「長の目が届く所では、派手な動きが出来ないのだと思います」  

 

 だからこそ、あんな地味な嫌がらせばかりなのか。あまりに危険な旅となるならすぐに修学旅行を中止して帰宅するべきかとも思ったが、今後の被害を抑えるためにもネギ先生にさっさと親書を届けてもらうのがベストなのかもしれない。

 

「ネギ先生がもう少ししっかりとしてくれたらいいのですが」

 

「あんな成りだからな。馬鹿にされてるんだろ」

 

「私から見たら充分頑張っているように見えるのだが……」

 

「先生としてはそうかもしれませんが、魔法使いとしてはまだ未熟かと」  

 

 私のフォローに躊躇するとこなく桜咲はそう言った。随分と手厳しいものである。

 

「……マスター、そろそろ6班が温泉に入る時間ですが」

 

「なぬっ! 温泉! 」  

 

 ガタッと音を立ててエヴァンジェリンは立ち上がる。その顔はキラキラ生き生きとしていて、さっきまでの苛立ちが嘘のようであった。

 

「先に行っているぞ! 」

 

 エヴァンジェリンは部屋に置いてあった浴衣を掴み、茶々丸をつれて慌ただしく出ていった。残された私と桜咲は、顔を合わせて苦笑した。

 

「エヴァンジェリンさん、随分と堪能してますね」

 

「相当旅行が楽しみだったんだろうな」  

 

 何せ、10年近く麻帆良から出られなかったのだ。修学旅行は毎度置いてきぼりにされていて、色々と溜まっていたのだろう。

 

「桜咲は温泉に行かないのか? 」

 

「……私は、少し宿の様子を見てから向かいます」  

 

 心配するような声音で言う。恐らく、木乃香の様子を見に行くのだろうと、勝手に推測した。

 

「明智さんは? 」

 

「……もう少しここでゆっくりする。一班辺りの温泉を使える時間は長いしな」  

 

 年頃の彼女達と一緒に入ろうという気はなかった(エヴァンジェリンを年頃と言っていいかは分からないが)。彼女達が出た後でも、温泉に浸かる時間はあるだろう。

 

「……分かりました。では、また後で」  

 

 桜咲は私に軽く頭を下げてから静かに部屋を出ていった。  

 

 

 

 パタン、と控えめに扉が閉まる音を聞いてから、私は湯飲みにゆっくりと唇を当てて、離した。  

 

 

「……ふぅ」  

 

 

 私の小さな息が、誰もいない和室の空気に静かに紛れて消えた。なんとなく、私は立ち上がって窓際にある柔らかな座布団が引かれた椅子へと移動した。その椅子にゆっくりと腰を下ろし、また息を吐いた。  

 

 

 …………少し、疲れたな。  

 

 

 酔った生徒をバスに押し込み、宿で下ろしてからそれぞれの部屋に運び出す作業は私にとっては重労働だった。だがいつもほど体力の低下を感じないのは、薬のおかげなのかもしれない。  

 

 身を預けるように深々と椅子に体を預け、ふと外を見ると、既に夕陽が落ちかけていた。窓から見下ろすように宿の庭園へと視線を移すと、松がその僅かな日の光にしっかりと染められている。枝と葉が不安定に踊っているような形をしているが、それを見ていると何故か心が落ち着き、庭師の職への誇りがはっきりと感じられた。  

 

 何気なくまた視線を移動させて、少し遠くを見た。京都らしい古びた建物以外にも、何となく場違いな灰色の建物が見えた。  

 風情もないような無機質なコンクリートの存在を寂しくも思うが、文明の発展とはそういうものだ。寧ろよく昔の建造物をこの時代まで残せているものだといつも感心する。  

 時代と共に人の考え方は変わるだろうが、過去の思想や美しい物を大事にしなければという気持ちはずっと続いているのだと思うと、何だか穏やかな気持ちになった。  

 

 私は、静かな部屋で一人ぼんやりと外を見続けた。首をゆっくりと横に振って適当に景色を見ていたところで、ある建物が目に入る。その時、私の体は硬直した。

 

 何故あの建物があるのだ、と冷静に思いながらも、心臓は内側から私を駆り立てるように激しく動く。主張する胸を押さえながら、遠くにみえる赤レンガでできた建物を、もう一度しっかり見る。京の街の中で大層浮いているその建物は、確かに見覚えがあった。

 

 それは、前世で私が住んでいた建物とそっくりであった。    

 

 気付いた時には立ち上がっていた。急いで部屋の入り口まで移動して、すぐに靴を履いて部屋を出た。  

 廊下をまっすぐに進み、音を立てて階段を下りていく。エントランスの近くで、まだお土産を見つめているザジを見つけた。

 

 私は口早に外に出ることを伝えると、彼女はうん、と声を出さず頷いた。それを確認してから、私は宿を飛び出した。      

 

 

 ○      

 

 

 私は、この世界のことを未だによく分かっていない。  

 魔法という存在、麻帆良という前世にはなかった都市。ここがファンタジー小説にでてくるようなメルヘンチックな世界だったら、この世界が前世とは完全に別世界だと簡単に受け入れられただろう。しかし、この世界には、日本も京都もある。  

 魔法や麻帆良以外は大部分が似通っているし、過去の偉人も京都にあるような建物も、前世と同じ名前である場合が多い。ならば、ここに前世の「私」がいても可笑しくはないのではないか。そう思い調べてみたが、「私」はこの世界にはいなかった。  

 この世界には「私」も妻も存在していない。その他にも、私と友人であったものも、教え子だったものもいない。  

 それらの事を知ってから、私はこの世界は前世とは全くの別物だと割り切ることにした。

 

 だからこそ、京都で前世に関連するものを見て、胸が昂ったのだ。勝手に可能性を排除していた、前世の私と結びつけるものが存在しているなんて、と。もしかしたら、ここから妻に関する情報が得られるのかもしれない、と。    

 

 

 宿で見たその建物へと私は向かった。そこまでの景色や道は、前世と似ていたようにも見えるし、違うようにも見えた。  

 それから20分ほど歩いただろうか。足に疲れが見え始めた頃に目的地に着いた。

 私は独りで緊張し、赤レンガのマンションの前に立った。  

 

 そして、それをしっかりと観察して、自分を馬鹿にするように笑った。  

 

 

 …………何を期待していたんだ私は。  

 

 

 その建物は、前世に住んでいた物と似ているだけで、同じではなかった。外見は似ているが、階段も窓も違う。勿論、私達が住んでいた部屋番号の表札の名前も。  

 大体、前世と同じ建物だったとしても、どうするつもりだったのだろうか。気持ちに先行するように体だけ動かして、脈絡もなく、らしくもない。京都という前世で住んでいた場所で、舞い上がっていたのしれない。  

 

 暴走ぎみだった自分を攻めながら、私はゆっくりと来た道を戻っていく。見上げたら既に日は落ちていて、濃い紺色の空が周りを覆っていた。  

 

 足の疲労が無視できなくなった時に、途中の河川敷の芝生に腰を下ろした。お尻に少し冷たい感覚がしたが、気にしなかった。  

 そのまま両手を後ろについて、また空を見上げた。星が、綺麗な夜だった。久しぶりに、酒を入れたい気分になった。  

 

 

「リアリストかと思てたけど、意外とロマンチストだネ、七海」    

 

 

 空を見ていた私の視界は、ぬっと出てきた超の顔でいっぱいになった。後ろに立って私を覗き込むようにしている彼女に、超か、と返事をすると、ニッと彼女は頬を緩めた。

 

「どうしてここに? 」

 

「今日は皆寝静まっていて暇だたヨ。それで適当に散歩してたら見覚えのある影がっ!て感じネ」  

 

 アハハ、とにこやかに笑いながら、彼女は私の横に座る。

 

「それで、何を悩んでたネ」  

 

 笑みを崩さないまま、彼女は私の肩にぽんと手を置いた。

 

「……悩んでたように見えたか? 」

 

「悩んでるかは分からないが、何か考えてたようには見えたヨ。私で良ければ話ぐらいは聞くヨ」  

 

 星を見ながら悩み事など確かにロマンチストだな、とまた自分らしくない行動をしていた事に苦笑した。

 

「ムッ。私じゃ話す相手には成れないカ」  

 

 わざとらしく怒った感じを表現しようと、超は頬を精一杯膨らませた。

 

「…………いや。そうだな、なら、一つ聞いてくれるか? 」  

 

 超とは、特に仲が良いという訳ではない。むしろいつか大学で会った時の物言いが気になっていて、あまり近寄ることはなかった。だが、誰かと話をしたい気分ではあったし、頭の良い超に聞いてもらうのは丁度良いように思えた。  

 

「超は、パラレルワールドを信じるか? 」    

 

 もし、前世とこの世界が全く別な世界なら、パラレルワールドの存在を認めることとなる。それも、同じものも別なものある世界だ。この世界には魔法や麻帆良があって、前世にはそれらがないというだけだ。魔法はもしかしたら 前世でも秘匿されていたのかもしれないが。

 

 

 超は私の質問を聞いて、一瞬表現を固くした。目を2、3度大きく瞬きさせてから、横から覗くように私を見る。

 

「……どうかしたか? 」

 

「……ん。まさか七海からそんなワードが出るとは思わなかたヨ。……どしてそんな質問か、聞いてもいいカ」

 

「……ただの興味だ」  

 

 ふむ、と超はまた真剣な顔になり考えだした。真面目に考えてくれるか少し懸念したが、要らぬ心配だったようだ。

 

「…………そうネ、あると思うヨ」  

 

 今度は、私が超の顔をじっと見た。

 

「な、なにカナ」

 

「……超こそリアリストだと思っていたからな、少し予想外だった」  

 

 科学者とは、総じてリアリストなものである。だからこそ、超の解答は意外だった。

 

「きっと、世界なんてほんのちょっとのことでも変わってしまうと思うヨ。もしあれがこうだったら、もしあの時ああだったら。そして、いつかそれに介入して世界を変えられるのならば、そこできっと新たな世界が出来る」

 

 超の顔は、いつものふざけた雰囲気ではなかった。超もまた、星を見るように上を向いた。それから、綺麗な夜ネ、と彼女は笑って呟いた。

 

「次は、私から一ついいカナ」

 

「……私の悩みを聞く時間ではなかったのか? 」

 

「ふふん。甘いネ七海。何事もただなんてないヨ」

 

 よっ、と声を出して勢いよく立ち上がってから、彼女はニヒヒと笑いながら私を見た。

 

 私が、話してみてくれ、と促すと、彼女はまた空を見ながら言った。

 

 

「七海は、過去を変えたいと思ったことはないカ」  

 

 すっと、ある風景が頭に浮かんだ。

 

「あるよ」  

 

 断言した私を、彼女はじっとみた。

 

「どんな時かは、聞かないでくれると助かる」

 

「聞かないヨ。……なら、もしその過去を変えることが出来たなら、変えるカ」

 

「…………聞きたいことは一つじゃなかったのか? 」

 

「特別サービスが欲しいヨ七海」  

 

 ふざけた雰囲気で言うが、どこか固い言い方だった。なんとなく、適当に答えてはいけない気がした。

 

 私も立ち上がって、スカートに付いた土を払う。それから、超を見つめて、言いきる。

 

「分からない」

 

「…………」  

 

 超は、私へと向ける視線を逸らさなかった。    

 

 

 妻のことについて。もっと早く病状に気付ければ、もっと早くに医者に見せていたら。そう思ったことは数え切れないほどある。  

 だが変えたい過去と言われて一番初めに思い付いたのは、医者に病名を告げられた場面だった。深刻な顔で私達に宣告した医者の言葉に、僅かに震えた彼女の手を、握れなかったことだ。彼女の横でショックを受けて、何も出来なかった自分を、私は悔やんでいた。

 

 だが、そのことについては散々妻に謝った。他にも、沢山謝った。私がこうしていれば、ああしていればと。そんな私を、妻は優しく撫でた。

 

「馬鹿ね。そうでこそ貴方で、だからこそ私が貴方の側にいるのよ。違う結果になるようなら、きっとその時点で貴方は本当の貴方でなくて、私は幸せな気持ちではいれないわ」

 

 どういう意味かは、よく分からなかった。だけど、なかったことにはならないし、してはいけない。妻はそんな風に言ってる気がした。  

 

 だが、それでも、少しでも可能性があるなら、私は過去に戻るかもしれない。何を言われても、彼女を救おうとする選択をするかもしれない。

 

「…………フム。強いネ、七海は」

 

「分からない、と言ったのにか? 」

 

「どんな形にしろ、断言出来るのが強いヨ。正解のある問題ではあるまいし。それに、結局七海は使わない気がするヨ」

 

「……どうだろうな。実際は、目の前にタイムマシンがあったら、すぐに使ってしまうかもしれない」   

 

 苦笑しながら言う。結局このような空想な話は、実際に起こるまで自分がどう選択するかなんて確証は持てないのだ。

 

「いんや、きっと七海は使わない。何となく分かるヨ」  

 

 超は、目を伏せて一人でそっと頷く。それから、超は口数が少なくなった。  

 

 

 沈黙の間、二人で空を眺めた。京の空なら、雲にかかる月でさえも、趣があるように思えた。

 

 私達はその場でもう少し星を眺めてから、宿に戻った。

 








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41話

 

 

 

 

 私と超は一緒に宿に帰り、お休み、と挨拶をしてそれぞれの部屋へ戻った。部屋には布団が五つ綺麗に引かれていて、その一つの上で桜咲は神妙な顔をしていた。ザジは既に寝ているようで、エヴァンジェリンは外を見ながら酒を飲み、茶々丸はその後ろについている。  

 

 私は自分の布団の上に座り、どうかしたか、と桜咲に尋ねた所、先程あった事件に関して説明された。  

 

 

 

「……木乃香が狙われた? 」

 

「はい、私とネギ先生とエヴァンジェリンさんで取り戻したのですが……」  

 

 誘拐、という事なのだろうか。木乃香は学園長の孫であって、関西呪術協会の子である。複雑な立場の彼女には、狙われる理由があるのかもしれない。

 

「それで、その犯人は? 」

 

「逃げ出す前に私が氷付けにしたんだがな。助っ人がやってきて結局逃げられてしまった」

 

 油断した、とぼやきながらエヴァンジェリンは盃を唇に当てた。東と西のいざこざはどうでもいいと言っていた彼女だが、今日の妨害の借りを返そうと、犯人を捕まえるのにだけ協力したらしい。  

 彼女は逃がしたことに少し苛立ちながら、茶々丸にまた酒を注いでもらっている。どこから酒を、と思って見ると、どうやら罠に使われた酒樽ごと持ち帰ってきたらしい。

 

「木乃香は無事なのか」

 

「怪我はありませんし、眠らされていたので記憶もあまり残ってないと思います」  

 

 魔法使いと陰陽師達のごたごたに巻き込まれた彼女を心配したが、今のところ外傷はないようで安心した。地味な嫌がらせをしてこちらの油断を誘った後に大胆な行動に出るという作戦をとった敵は、馬鹿ではないように思える。

 

「……明日からの修学旅行は、やめた方がいいのか……? 」   

 

 呟くように言うと、エヴァンジェリンが私の側へと飛び付いてきた。布団が跳ね上げるようにして、ばふん、と軽快な音を鳴らした。

 

「な、なにを言ってるんだ! 大丈夫だ七海! 逃げられはしたが、相当殺気を込めて脅しておいた! 私もいるし敵も簡単には襲ってこれん筈だ! 」  

 

 エヴァンジェリンは、旅行が中止になるのを恐れているようで、必死に私の肩を掴んで揺らす。

 

「……長にも関西の者にも、明後日には大使としてネギ先生が来ることは知らされていると思います。ここで無理に予定を変えれば過激派から何かといちゃもんをつけられる可能性もありますし、渡せなかった場合、東は追い返されたと感じて溝は深まるばかりです」  

 

 桜咲が、淡々と私に説明をした。  

 政治とは面倒なもので、敵対するものには少しのミスを大袈裟に抉るように攻めるのが常套手段である。こちらの都合で訪問日を変えれば、相手の予定を無視する自分勝手な奴らと罵られ、行かなかった場合などもっと酷いように言われるのだろう。  

 予定通り進めるのがベストだと、桜咲は真剣な顔で言う。

 

「……東と西が仲良くならない限り、麻帆良に帰ってもお嬢様が反乱分子に狙われる可能性は高いままです。このタイミングで親書を渡し形だけでも仲を回復させれば、過激派はかなり動きにくくなるかと」  

 

 彼女は、拳をぎゅっと握り込んだ。きっと、此方が桜咲の本音なのだろう。今日少しだけ会話をした感じからでも、木乃香を切に心配するような様子が節々に漏れだしていた。

 

「七海、私も近衛木乃香に付く! だから心配するな! 旅行は続けよう、な? 」  

 

 エヴァンジェリンは必死に私の肩を振る。私は、分かった分かった、と宥めるように返事をして、6班は明日、このかのいる班に付きっきりになることを決めた。      

 

 

 

 それから、皆が寝静まったタイミングで私は温泉に身を浸らせた。私達の班に割り当てられた時間ではなかったが、許してほしい。  

 

 静かで月の見える露天の湯は、とてもいい湯だった。    

 

 

 

 

 ○    

 

 

 

 ウチら天ヶ崎家の屋敷は、京都の総本山から少し離れた所にある。決して狭い屋敷ではないが、当主のウチ以外に人は少ない。  

 梟が鳴く声が聴こえるような夜の中、木乃香お嬢様の拉致に失敗したウチは、新入りによって氷付けのままここまで連れてこられた。  

 畳の引かれた和室でなんとか氷を溶かしてもらってからも、肌寒さに歯をガチガチと鳴らす。床は濡れ、部屋全体が寒々しい空気に未だに覆われている。体を拭き、何枚毛布を重ねても、歯を鳴らす音は止められなかった。

 

「なんやあの化け物! あんなんいるなんて聞いてないわ! 」

 

「闇の福音、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだね」    

 

 新入りは、能面の表情を崩さないまま言ってカップに入ったコーヒーを飲んだ。京都という雰囲気を完全に無視している。それに、寒がっているウチにそれを渡さない所が全く気の効かない。  

 白い髪に、低い身長。面白くもない顔しかしない餓鬼の上に身分もよく分からないこいつを当てにするつもりは全くなかった。しかし、今回は助かったと言わざるを得ない。

 

 新入りは、どこからやってきたかも分からないが、ウチらの計画に手を貸したいと突然現れた。どこからそれが漏れたのかだとか、お前はまずなんなんだとか聞きたいことは大量にあったが、たっぷり持ってきた金によってウチは何も言えなくなった。計画の準備には当然金が必要だったし、計画を知っているこいつを放っておく訳にも行かなかったため、とりあえず仲間にしておくしかなかった。が、どうやらそれは、正解だったようだ。  

 

 こいつの転送魔法がなければ、確実に終わっていた。

 

 

「あれこそ、スクナでも呼ばんとどうしようもないやんけ……! 」  

 

 木乃香お嬢様の拉致は、途中までは確かに上手くいっていた。温室にぼけた魔法使いを出し抜き、結界を張る前に宿に侵入しお嬢様を誘拐、後は逃げ去るだけだった。

 

 護衛の剣士は月詠はんに適当に相手をさせ、魔法使いのガキは式神で抑え、お嬢様を持ったまま逃げ去ろうとした所で…………

 

『おい、よくも旅行を邪魔してくれたな』  

 

 凍るような声が耳を掠めた。あり得ないほどの殺意に汗を吹き出す前に、気付いた時には氷の中だった。  

 

 闇の福音の話は聞いたことはあったし、当然一緒に来ていることは確認していた。だが、封印されたという情報からも過去の遺物だと思い込んでいたし、はぐれ魔法使いであることから東に協力しないだろうと思い込んでいた。

 

「……その、スクナってのでも勝てるとは思わないけど」

 

「……ぐっ」  

 

 新入りの言葉に、鬼神やぞ! そんな訳ないやろ! と返したかった。だが、あれを見た後ではそれも簡単には言えなくて、口ごもった。あいつのヤバさは直に感じた。魔法使いのガキやお嬢様の護衛なんかとは比較にならないほど、ヤバい。

 

「……計画は、見送りや」  

 

 不安要素が大きすぎる。あの化け物がいるクラスからお嬢様を拉致れるとは思えないし、スクナを復活させた所で万が一負けたらどうしようもない。お嬢様が京都に来ると聞いたこのタイミングは狙い目ではあったが、この機会を逃したら二度とチャンスがないという訳ではない。とりあえず今回は、親書を渡すのを出来るだけ遠目から妨害するという事に専念しよう。  

 

 ウチがそう提案すると、新入りは元々つまらない顔をさらにつまらなさそうな顔にした。

 

「……それは、困るね」

 

「ああ? それじゃあんたがあの化け物をどうにか出来る言うんか」  

 

 怒気を含めて言うが、新入りは一つも怯まない。

 

「……彼女を倒すのは無理でも、やり方はあると思うよ」

 

「……ほう。じゃああんたがまずあの化け物をどうにかしてみぃ。話はそれからや」  

 

 ウチが挑発するようにそう言うと、新入りは軽く頷いて一瞬で姿を消した。

 

 静かで、完璧な移動術だった。    

 

 

 

 

 ○    

 

 

 

 また、ノイズが走った。薬を飲んだ後は定期的に来るものらしい。

 今回のノイズは、 前回より長かった。その、ノイズの隙間から、一瞬だけ風景が見えた。

 目を凝らすと、そこには、大きな樹と…………   

 

 

 

 

 ○  

 

 

 

「ふははは! どうした鹿ども! これか! これが欲しいのか! ならばもっと本気を出してみろ! そのままだと一生この煎餅は食えんぞ! 」  

 

 修学旅行二日目。私達はその前に決めていた計画を変更して、明日菜や木乃香のいる5班と一緒に奈良を回ることにした。5班のメンバーは皆快くそれを受け入れてくれて、少し大人数になったが楽しく奈良公園を観光していた。

 

「マスター、その、鹿が可哀想です」

 

「茶々丸、自然界では弱肉強食が絶対的なルールなのだ。なのにこいつらといったら人間からの施しに甘えてばかり。私はそんなこいつらを鍛えてやろうとしているのだ」  

 

 エヴァンジェリンは大量に鹿煎餅を購入し、鹿を引き付けるだけ引き付けて逃亡という行為を繰り返して楽しんでいる。そのせいで、エヴァンジェリンの周りには多数の鹿が集まっている。

 

「……ですが、マスター」

 

「もぅ! ちゃんと鹿に餌あげなよエヴァちゃん! 」

 

「なっ! 神楽坂明日菜! ば、ばか! やめろ! 」

 

 食べれぬ餌を追い掛ける鹿を見てられなくなったったのか、明日菜はエヴァンジェリンから煎餅を何枚か抜き取ろうとした。思わぬ所からの攻撃にエヴァンジェリンは慌てて体を振ると、足が絡んで転んだ。

 

「……あ」  

 

 その様子を見ていた何人かが呟いた。エヴァンジェリンは地面に尻をつけ、転んだ衝撃で割れた煎餅が彼女の周りや服に散らばる。

 

「や、やめろ貴様ら。悪かった、私が悪かった」  

 

 エヴァンジェリンを囲むようにして大量の鹿がゆっくりと近付く。多すぎる鹿のせいで、彼女に逃げ場はない。

 

 

「…………や、やめ、うわああぁ!! 」  

 

 

 

「エヴァンジェリンさん、楽しんでますねぇ」

 

 

 体中を大量の鹿から舐め回されるエヴァンジェリンを、ネギ先生は笑いながら見守っていた。あの様子を楽しんでいると思える辺り、彼も随分このクラスに適応しているようだ。

 

「ネギ先生は鹿に煎餅をあげなくて良いのですか? 」

 

「流石にあれを見てからはちょっと……」

 

 私が訊くと、困った顔をして彼は答えた。確かに、と私も笑って頷いた。

 

「……七海、すみませんが、ちょっといいですか? 」  

 

 後ろからちょいちょい、と袖を引かれ、振り向くと夕映とハルナとのどかがいた。夕映は真剣な表情をしていて、ハルナは楽しそうな顔、対称的に、のどかは心配そうな顔をしている。

 

 

「ここでは、あれなので、少し離れましょう」  

 

 

 私の返事を聞く前に、夕映はそのまま私の袖を引っ張っていく。夕映にしては強引なその行動に戸惑いながらも連れられていき、ネギ先生が見えなくなった辺りで私の袖は解放された。

 

「一体どうしたと言うんだ」

 

「七海、単刀直入に聞きますね」  

 

 夕映が私をしっかりと見つめる。その横で、のどかは顔を赤らめおどおどとしていた。夕映はすっと息を吸ってから、真剣な声音で言う。  

 

 

「ずばり、あなたはネギ先生の事が好きなんですか? 」  

 

 

「…………はい? 」  

 

 あまりに突拍子もなく突然なその問い掛けに、私は唖然としてしまった。

 

「……『はい』……ですか、やはり、あなたも」

 

「おおぉ! これは早速修羅場の予感! いいねいいね! やっぱり修学旅行は熱いね! 」

 

「まてまて」  

 

 勘違いした彼女達に、私は全力で否定する。

 

「何故そんな考えに至ったんだ」

 

「ななみんはよくネギ先生と話してるじゃん。ネギ先生もなんか頼りにしてる感じするし」

 

「今日も私達と同じ班になったのは、ネギ先生が一緒に来ることを見越していたのかと」  

 

 はぁ、と彼女達にも届くように盛大に溜め息をついた。確かに私は彼とはよく話すが、それは心配から来る気持ちであって、恋心では断じてない。というか、そもそも私の心は壮年でしかも男。この世界で誰かに恋をするということはあり得ない。

 

「心配するな、のどか、私は君の恋を邪魔するつもりはない」

 

「えぇ!? 」  

 

 のどかに急に話を振ると、彼女は驚きの声をあげた。

 

「えと、七海さんも、私がネギ先生の事が好きなこと知ってるんですかぁ? 」

 

「それは、まぁ」  

 

 ネギ先生を見る目も、ネギ先生と話す時の顔も、明らかに普段とは違う。あれほどはっきり分かる乙女の顔など中々見れないだろう。これだけヒントがあって気付かない生徒はきっとほとんどいない。

 

「うー……」  

 

 私が知っているというその事実にさえ恥ずかしさで顔を赤らめるのどか。微笑ましいものである。

 

「よし! 邪魔者はいないって分かったし! 告白するよのどかっ! 」

 

「え~~!? そんな急に無理だよぅー! 」

 

「大丈夫ですのどか、私達がうまく二人っきりになれるようにセッティングします」

 

「よっし! 早速行こう夕映! 」

 

「ラジャです」

 

「ちょ、ちょっとまってよー! 」    

 

 ……邪魔者って、私のことか? と問う間もなく去っていく彼女達。どうやら修学旅行でテンションをあげているのはエヴァンジェリンだけではなかったようだ。  

 

 やれやれと思いつつも、修学旅行を全力で楽しむ彼女達を見て、私もなんだかんだ楽しんでいた。



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42話

 

 

 

 また、ノイズだ。  

 

 ノイズは、音ともに真っ黒な線の世界を私の前に流す。  

 不快な気分ながらも、耳障りな音と暗い世界に耐えると視界は段々と晴れ、音も静かに退いていった。  

 目を開けると、そこにはまた、大きな樹があった。  

 空からは強い光が射していて、少し眩しい。  

 私は、目を凝らして樹をじっと見る。  

 

 するとその樹の幹には、誰かが…………

 

 

 

 ○  

 

 

 

 奈良の町を観光し終わった後、宿に戻ると、そこには呆けた表情で椅子に腰掛けるネギ先生の姿があった。どうやら、のどかは本当にネギ先生へ告白したようだ。  

 

 ネギ先生は、顔を赤らめ、ぶんぶんと首を振り、深い溜め息を吐く、といった具合にコロコロと顔を変えて悩みに悩んでいる。  

 そんな姿を見て、私は失礼ながらも小さく笑ってしまった。青春というものをまさに目の辺りにしているような気がして、微笑ましくなったのだ。

 

 その恋は、先生と生徒という世間的には許されない恋かもしれない。だがそんな肩書きの前に、彼らは「のどか」と「ネギ」である。10代ならばまだなんの縛りもなく、自分の思いに正直で悩ましい恋をしていい年齢の筈だろう。私は余計な口を挟もうなどとは全く思わなかったし、そもそも長く生きた私も恋だ愛だの正解なんかはよく分からないのだ。  

 とりあえずは、彼なりの答えを出すか相談されるまで見守っていようと思う。    

 

 

 そして、その日の夜。お酒に酔って多数が静かに眠っていた昨日とは違い、どの部屋からもどんちゃんと騒ぐ声が聞こえてる。  

 そこまでならいつも通りのA組なのだが、ネギ先生とのどかが醸し出す桃色の空気に当てられたのか、宿の中では妙に浮き足だった話が飛び交っていた。  

 

「……それで!? 千雨ちゃんはどんな人がタイプなの!? 」

 

「私は特にそういうのはねーけど」

 

「ネギ先生のような好青年ですよね! 私も好きですわ!! 」

「いやいや、渋いおじさんだよね! ちなみに私は高畑先生みたいな人が! 」

 

「何だよその押し付け……。てかお前ら二人の情報は多分誰も欲しがってないぞ」

 

「な、何でよ千雨ちゃん! 」

「な、なんでですの長谷川さん! 」

 

「お、おい! 乗っかってくんな! お前らは日々情報をオープンにしすぎなんだよ! 」

 

「仲えーなー三人とも。七海はどーなん? 」

 

「……そうだな、恋愛事情の前に、ひとついいか? 」  

 

 分かりやすく溜め息を吐いた私に、どうしたの、という風に全員の視線が集まる。何の疑問も持っていない皆の顔を見て、私はまた息を吐いた。  

 

「……なんで君たちは6班の部屋に集まっているんだ? 」    

 

 これだけ騒がしくしているこの部屋は、我ら6班の部屋だ。時間的にはそれぞれの班で消灯している筈の時間なのだが、続々とこの部屋に人が集まっている。  

 現状、床に引かれた布団の上で、木乃香、あやか、長谷川さん、明日菜、私の順で円の形を成すように寝転がっていて、皆うつ伏せて中央に顔を寄せ、重ねた手や抱えた枕に顎を乗せていた。

 

 それぞれ薄ピンク色に花びらの模様がついた可愛らしい浴衣を着ていて、温泉に入った後なのか、女子らしいリンスの香りが部屋中に蔓延している。

 

「何でって、遊びに来たんですわ。それにこの部屋、七海しかいなかったじゃありませんの」

 

「私はいいんちょに無理矢理連れこまれた」

 

「うち本当はせっちゃん探しに来たんや。なぁ七海、せっちゃん知らん? 」

 

「そう! 聞いてよ! 桜咲さんたらずっと木乃香から逃げてんの! 七海何か知らない!? 」

 

「……分かった、分かったから落ち着け」  

 

 横にいた明日菜が、体をゴロゴロと転がしながらこちらに近付いて騒ぐのを私は抑える。ザジは何処に行ったか分からないが、桜咲、エヴァンジェリン、茶々丸は宿の警護とやらをしに行ってしまっている。エヴァンジェリンは若干面倒だと言いたげな顔をしたが、修学旅行が中止になるのを防ぐためにも嫌々仕事をしに行った。

 私も、手伝おうか、と声を掛けたのだが、三人同時に、何もしなくていい、という意味の言葉を私に返してきた。確かに私は全く役にも立てないため仕方がないが、一人残されて少し寂しい気持ちになったのは秘密だ。

 

「桜咲さんね、多分木乃香のこと嫌いな訳じゃないと思うのよ。でもなんか訳の分からないこと言って避けてて、それで追いかけたらまた逃げてって」

 

「それは神楽坂が追い掛けるから逃げるんじゃねーの」

 

「確かに、お猿さんに追われたら普通逃げますわね」

 

「誰が猿よ!! 」

 

「ぐえっ! だからなんでわざわざ私の上に乗っかるんだよ! お前らはいちいち私を挟まないと喧嘩もできねーのか! 」

 

 明日菜とあやかに挟まれて、長谷川さんは二人の喧嘩に巻き込まれている。そんな三人を無視して木乃香に目を向けると、彼女は普段あまり見せない暗い表情をしていた。

 

「……木乃香」

 

「………………七海、うちな」  

 

 私が声を掛けると、木乃香は暗い表情のまま話を始めた。木乃香の真剣な空気に当てられたのか、他の三人もいつの間にか静かになって、じっと木乃香に注目している。

 

「せっちゃんとはな、幼馴染みやったんよ。ウチ、昔は全然友達いーひんくて、そんなとき、せっちゃんが遊びに来て」  

 

 昔を思い出しながら、木乃香はしみじみと語る。彼女はうつ伏せの状態から、座る姿勢に変えて、手に持った枕を抱えた。

 

「せっちゃん、それからずっとうちの側にいてくれて、うちと遊んでくれて。うちがちょっと危ないことすると、すぐあたふたしながら助けてくれて」  

 

 少しはにかんで、抱えた枕をぎゅっと力を込めて抱き締めてから、木乃香は続ける。

 

「うち、そんなせっちゃんのこと、本当に好きやったんやぁ」  

 

 木乃香の目が、少し潤いを帯びた。目から雫が垂れる前に、彼女は指で目を拭い、それから、無理に笑顔を作った。

 

「でも、せっちゃんはそんなことなかったのかもしれん。うちが先に麻帆良に引っ越してきて、中学でせっちゃんにまた会えて、すんごい嬉しかったんやけど、せっちゃんは前みたいにウチとは話してくれんかったわ」  

 

 その、不自然な笑顔が痛々しくて、見ている私の心が抉られるような感覚がした。他の三人も同様のようで、それぞれ何か思い詰めた表情をしている。そんな私達を見て、また、木乃香は弱々しく笑った。

 

「ご、ごめんな、皆。こんな話してもうて。よし、もう愚痴はやめや! なぁ、結局七海のタイプは……」

 

「木乃香」  

 

 無理に話を変えて、明るい口調で話す木乃香を見てられなくて、私は彼女の名前を呼んだ。

 

「木乃香はまだ、桜咲のことが好きなんだろう? 」

 

「…………うん」

 

「……なら、また仲良くならないとな」

 

「……でも、せっちゃんは…………」

 

「神楽坂も言ってたけど、あいつはきっと近衛を嫌ってる訳じゃねーよ」  

 

 長谷川さんが木乃香に向かってはっきりと告げると、木乃香は小さく声を漏らして長谷川さんを見た。

 

「私は後ろの席だから分かるんだが、あいつこの2年間ずっと近衛の方をチラチラと見ていたぞ。それこそ、本気でお前を心配してる感じで」

 

「…………じゃあ、なんで」

 

「……あいつにも、何か事情があるのかもな」

 

「だからってこのかにこんな思いさせて良い訳ないじゃない! 」  

 

 長谷川さんの意見に対して、明日菜は立ち上がって大声を上げる。その勢いで、長谷川さんは肩をぴくりと揺らした。

 

「明日菜、落ち着け」

 

「落ち着ける訳ないじゃん! このかはこれだけ辛い思いしてんのよ! 桜咲さんにどんな理由があるかは知らないけど、ほんとに友達ならこのかにちゃんと理由を言ってあげるべきでしょ! 」

 

「……私も、今回ばかりは明日菜さんに同意しますわ。桜咲さんが何か後ろめたいことがあって木乃香さんに近付かないのだとしても、木乃香さんはその程度で人を見限る人間ではないのは、幼馴染みの彼女が一番知っているでしょう」

 

「……ちげぇよ。分かってねーな、お前ら」

 

「……何でよ」  

 

 何だか雰囲気の悪くなった三人を前にして、木乃香が焦ったような表情をした。自分のせいで三人が喧嘩をするとでも思ったのだろう。しかし、木乃香がその言い争いをやめさせようと声を出し掛けたところで、私は彼女を止めた。  

 

 三人の討論は、決して口喧嘩などではない。だからこそ、木乃香は皆の言葉を聞くべきだと思った。

 

「神楽坂、もしお前の胸の中に爆弾があったとしたら、お前はそれをいいんちょに言うか? 」

 

「……何よそれ」

 

「例えだよ。半径1kmを巻き込む、絶対に外せない爆弾だ。どーすんだよ」

 

「そんなの……」

 

 一瞬あやかを見てからそう言って、明日菜は唇を軽く噛んだ。

 

「…………言うわけないじゃない」  

 

 言ってもどうにもならない。言ったら、きっと誰かを巻き込むことになる。

 そう考えれば、きっと私も口にはできない。

 

「そういうこった。秘密ってのは、自分を守る時以外にもつくるもんだ。今のは極端な例えだが、心配かけたくないって想いや、巻き込みたくないって想いから出来る秘密も人にはあるんだよ。それは、大切な人ほど、大切だからこそ、言いにくい秘密だったりするもんだ」

 

「…………」  

 

 あやかも明日菜も納得の行かないような顔で、長谷川さんの言った言葉をじっと噛み締めている。木乃香もその言葉を聞いて、枕に顔を埋めるようにして思考に耽った。

 

「……明日菜とあやかの言うことも間違ってないだろうし、長谷川さんの言うことも間違ってないだろう。だが、はっきりしない事が多い中、一つだけ確実に言えることはある」  

 

 私も布団の上に座る姿勢をとって、木乃香に視線を向けた。  

 

 

「それは、木乃香が桜咲のことを大切に思っていて、桜咲も木乃香のことを大切に思っているってことだ」  

 

「ほんまに? せっちゃんは、ほんまにそう思ってくれとるかな? 」

 

「保証しよう。間違いない」

 

 私は力強く頷く。

 一緒に試験勉強した時の桜咲の態度を考えれば、彼女が木乃香を思いやっていることは明確であった。

 

「…………七海は、せっちゃんの事情を知っとるん? 」

 

「……少し、な」  

 

 私が知っているのは、桜咲が木乃香の護衛を任せられているということだけだ。

 しかし、彼女がどんな想いか、予想はできる。

 

 いつか言われた、『もし自分が化け物であったら』という問いかけ。 それに、徹底した隠れた距離からの護衛。  

 

 おそらく彼女は、自分の何かを知られることと、木乃香が魔法などの世界を知ることを、避けようとしているのではないか。  

 

 そして、そこまでして彼女が守っている秘密は、私が話していいことではないような気がした。  

 

「……桜咲も、今、自分と闘っているんだ」 

 

「…………せっちゃんが、闘っている? 」  

 

 今日の奈良観光の時、助けられたことをほんのり覚えていて追いかけてくる木乃香から、桜咲は確かに逃げるように離れていた。  

 だが彼女は、困った表情をしていても、今までのように一方的に拒否をすると言う感じではなかったような気がした。  

 

 戸惑いを浮かべながらも、本当に歩み寄っていいのか、と必死に考えているように、私には見えたのだ。

 

 

「ああ。木乃香のことと、色んなこと、沢山、沢山悩んで、必死に答えを出そうとしている」    

 

 木乃香は私を見つめて、下を向いて、それから、顔を上げた。

 

「……せっちゃんのために、うちには、何ができるんやろか」  

 

 さっきまでとは、少し違う顔付きになっていた。何かを決心して、木乃香は前を向く。

  私は、そんな木乃香に向かって笑いかけた。  

 

「笑顔だな」    

 

 笑顔、と木乃香はそっと呟いた。

 

「…………そーね。沈んだり、文句を言ってても仕方ないもんね! 桜咲さんが前に進もうとしてるなら、その時に安心して打ち明けれるように、このかは笑顔で待ってなきゃ! 」

 

「……桜咲も相当近衛を気にしてる。その近衛が沈んでたら、多分あいつまいっちゃうぜ」

 

「彼女に何か秘密があろうと、木乃香さんが受け入れられることを示さないといけませんね」

 

「うん。うん。そやね、…………そやな」  

 

 

 三人の言葉に、それぞれしっかりと頷いてから、木乃香は立ち上がった。

 

 

「うち、明日またせっちゃんと話してみる。避けられるかもしれんけど、一度だけでも話聞いてもらう。そんで言うんや。うちはせっちゃんが好きや、だからいつか話してくれるのを待ってられるって。うん、大丈夫や。せっちゃんがうちを嫌ってないんなら、うちもせっちゃんのことずっと待てる」  

 

 

 木乃香の答えが、正しいかなんて分からない。刹那に、木乃香へ理由を説明しろと説得した方が良いのかもしれない。

 

 でもこれが、彼女が必死に出した結論だ。

 

「皆、ほんまにありがとうな」  

 

 木乃香が、私達に向けて笑った。

 その笑顔からは、いつものように太陽を想像できた。

 

「なに水くさいこといってんの! 私達友達じゃない! 」

 

「その通りですわ。それより、長谷川さんが意外とクラスメイトのことを気にしているようで私驚きましたわ」

 

「べ、べつにそんなんじゃねーよ、たまたまだ! 」

 

「あ、結局七海のタイプは聞いてないやん! なぁ、七海教えてや」

 

「…………やはり言わなきゃ駄目なのか? 」

 

「だめ」  

 

 皆が声を揃えて私に言った。  

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 それからまたいつものように雑談をして盛り上がったところで、A組皆が新田先生に怒られるところまでお約束であった。        

 

 新田先生にホテルのロビーで叱られ、さらに全員自分の部屋から退出禁止を言い渡されたショックでそれぞれがとぼとぼと部屋に戻ろうとしている時、私は一足先に部屋に帰った。  

 

 ……すみません、新田先生。でも、やりたいことがあるんです。  

 

 私は、今日の夜やろうと心を決めて計画していた事があった。クラスメイトにばれて大騒ぎされると計画が上手く行かなくなる可能性があるので、皆が大人しい時にしようと思っていたのだ。そして、新田先生に怒られた直後ならばチャンスだと察した。  

 

 誰もいない部屋で、私は新田先生に謝りながら自分のリュックをガサコソと漁る。

 

 廊下からまたすぐにクラスメイトの騒ぐ声が聞こえ、皆の懲りなさと立ち直りの速さに私は感心した。新田先生に怒られたばかりだというのに、なんて強い心なのだろうか。何故か「ネギ先生」だとか「キス」だとか不穏なワードが耳に入ったが、私は彼女達の企みに巻き込まれる前に宿から抜け出そうとしていた。  

 

 リュックを背負い、廊下をちらりと見て、皆の目が集まってない時を狙って私は飛び出した。運よく先生方にも見つからず外にまで辿り着いたところで、私は一息ついた。  

 

 それからまた歩き出し、林の方に向かっていくと軽い風を感じた。浴衣でいると、ちょっとした風でさえも肌寒く感じ、腕を擦る。  

 

 今外に出るのは関西呪術協会の妨害があるため危険かもしれないとは考えたのだが、 敵の狙いははっきりしているようなので、一生徒が外に出ても大丈夫だろう、と私は安易に考えてしまっていた。  

 

 月明かりを目印に、あまり塗装の進んでいない道に道にと私は進んでいく。宿からクラスメイトの騒ぎ声がまた聞こえ、随分騒がしくやってるな、と一度だけ振り返って、また進んだ。  

 

 林の中の少し開けた場所についた所で、私は荷物を下ろした。座り込んでリュックを開け、大きな真っ白の布と簡易蛍光灯を取り出す。そして、布を広げて木の枝を使って洗濯物を干すかのように引っ掻けた。  

 

 その大きな布に光が当たるように、蛍光灯のスイッチをつける。

 

 これで、ライトトラップの完成だ。

 

 蛍光灯は昆虫が集まりやすいようにブラックライトにしてある。昆虫は、光に誘引される。その性質を利用して、夜の間に虫を大量に集めてやろうという算段だ。  

 

 静かな林からは、虫の鳴き声や草の擦れる音が確かに聞こえる。  

 

 その音を心地よく思いながらも、私はトラップの側に立ち、まだかまだかと昆虫が来るのを待っていた。  

 そして何匹かの黒い影と共に虫が集まってきて、私のテンションが上がり始めたその時。  

 

 

「……こんばんは」    

 

 

 雑草を踏む音とその声に反応して振り返えると、そこには白髪の少年がいた。

 

 

 

 



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43話

 新幹線で彼らのクラスを観察していた時、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの側には、大抵二人の少女がいた。  

 

 一人は、機械でできた少女。ロボットである彼女は、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのことをマスターと呼んでいた。つまり、彼女は従者なのだろう。  

 もう一人は、長い黒髪ですらりとした体型の少女。人間でいう、整った顔立ちというのだろうか。シュッとした目付きや姿勢も際立って、凛とした立ち振舞いが見える。彼女も従者かと思いきや、二人の関係はそんな風には見えない。寧ろ、同等の立場であるような雰囲気で、二人の仲が近しいものであることは容易に理解できた。  

 

 その少女もさぞ腕が立つのかと思い観察していたが、どう見てもそうは思えなかった。実力を隠しているという感じでもない。あらゆる角度から見ても、彼女は素人だった。  

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを狙うのなら彼女を使えばいいと、すぐに思った。何の戦闘力もない少女を拉致することなど、造作もない。その後は常に一緒にいるという訳でもなく、隙を狙うのも簡単に思えた。  

 

 

 ―――ただ、ひとつだけ、気になる点がある。彼女の魔力の質だ。  

 

 決して魔力が多い訳ではない。ただ、普通の魔力とも思えなかった。  

 

 それには、何かが、混じっている。  

 その魔力を探ろうとすると、不思議な感覚に襲われた。自分の、奥底にある芯を、さらりと撫でる感覚がするのだ。  

 

 …………何だろうね、これは。  

 探しても、答えはでない。そもそも、今それを探る必要も見つからない。それがなんであろうと、計画のために自分は為すべきことをするだけだ。  

 

 目標がいる筈の宿を遠くから見張っていると、一人の少女が玄関から飛び出して来た。リュックサックを背負い、重たそうに移動する彼女は、ちょうど自分が狙っている人物だ。

 誘い出すまでもなく不用意に出てきた少女について、同情などしない。自分の計画を早めてくれて、楽になったな、と思っただけだ。僕は、彼女の後をつけるようにその姿を追っていった。

 

 その少女は、不思議なことをしていた。わざわざ助けが来るのが遅れるような林の真ん中に位置をとり、リュックサックから出した白い布を木に引っ掻ける。その布に黒い光を当てて、少し離れた所に周りがよく見えるように白い光を放つ普通のライトもつけた。  

 何かの罠か儀式かとも疑ったが、彼女は楽しそうな様子でその布を見つめているだけだ。敵地ですることとは思えない。訳が分からなかった。  

 

 ……馬鹿なのかな、彼女は。  

 さっさと連れ拐って人質にしてしまおう、そう思って足を動かそうとしたら、止まった。また、自分の芯を、根底を、刺激される感覚がしたのだ。

 

 …………。  

 

 胸の中で、何かがうずく。一瞬、昔の風景が浮かんですぐに消える。分からない。分からないが、彼女はただ者ではない。魔法だとか、罠などではない。ただ、彼女の魔力が、僕に信号を送る。  

 

 …………仕方ない、か。  

 

 この状態のまま、どうすればいいか僕には分からなかった。ただ、何もしないわけにもいかない。ならばせめて、この感覚の正体だけでも掴もう。  

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 暗く、重々しい夜だ。周りの木々は、僕と彼女を覆うように繁っている。月明かりも、葉に遮られて届かない。だが、彼女が用意したライトのお陰でお互いの顔はよく見えた。  

 突如現れた僕の挨拶に、彼女は一瞬だけ驚いた表情をした後、微笑んだ。その優しい笑みは、大人が子供に向けるような笑みだ。  

 静かな夜に、羽音が鳴る。

 僕の横を通り過ぎたそれを目で追うと、光沢ある緑色の背中をした虫が白い布に張り付いた。彼女はまた、嬉しそうな顔をした。  

 僕の芯が、また揺れる。近付けば近付くほど、彼女に反応する。  

 

 …………この感覚は―――

 

 

「……君は一体」

 

「……あぁ、これはな」  

 

 何者なんだい、と僕が続ける前に、彼女は目を細め、苦笑しながら答える。他の虫がまた布に向かい飛んで行き、くっつく。

 

「昆虫採集をしているんだ。光に集まる性質を利用して…………ほら」  

 

 彼女は白い布に手をやり、先程張り付いた虫を布から引き剥がした。コガネムシだ、と彼女はそれを僕に見せて微笑む。どうやら、何をしているんだい、という質問と取り違えたらしい。  

 

 彼女はその虫をよく観察するように顔の近くに持っていき、満足したのか、その虫を宙に逃がした。コガネムシは緑色の背から薄い羽根を現して、また林に帰っていく。  

 

 風が吹いて、林が揺れる。木々の枝が擦れるような音がして、彼女はそれすらも楽しんでいるように見えた。

 

「昆虫ではなくて、君のような少年を惹き付けるとはな」  

 

 今日一番の大物だな、と続けて、彼女は僕に微笑みかける。

 

「…………」  

 

 僕は彼女を見定めるように目に力を込めるが、やはり素人にしか見えない。

 

「……? どうかしたのか? 」  

 

 僕の視線を不審に思ったのか、首を傾げ覗くように彼女は僕を見る。しかしその視線は子供を心配するようなもので、未だに僕のことをその辺から出てきた子供にしか思っていにないようだった。  

 訊きたいことは、幾つもある。その魔力は何なのか、君は何者で、エヴァンジェリンとどんな関係なのか。  

 

「……君は、何故そんなことをしているんだい」    

 

 子供だと思われているなら、いきなり核心をついてわざわざ怪しまれるべきではない。そう思い、遠回しに何か聞こうと思ったらこんな質問が出てしまった。  

 

 自分が思っているよりも彼女自身のことを気にしていたのか、それとも、こんな所で昆虫採集をするような神経が計り知れなかったのかは分からない。

 

「…………何故、と言われるとはな」  

 

 彼女は、困ったように苦笑した。今も変わらず自分の芯は擦られ、彼女に手を出そうとは思えない。

 

「……そうだな、昆虫が好きだから、では駄目か? 」

 

「だからといって、ここでする必要があるとは思えないけど」  

 

 彼女の答えは、やはり理解出来なかった。  

 彼女達は、麻帆良からわざわざ京都まで来たのだろう。ならば、このタイミングとこの場所で昆虫採集などをしなくても、麻帆良でいくらでも出来るのではないか。

 

「…………ううん」     

 

 彼女は腕を組み、悩むような仕草をする。ぶぅん、と僕の右耳近くを虫が過ぎ去っていったようで、不快な音がした。

 

「そうだな。君が言う通り、わざわざ旅行先に来なくても昆虫採集は出来る」  

 

 私が住む場所では大抵の昆虫が採れるしな、と付け加えて彼女は頭を掻いた。

 

「なら、何故だい」

 

「少し難しい話になるかもしれないが……」  

 

 彼女は僕が話を理解出来るかを心配しているようだ。  

 構わないよ、と僕が告げると、彼女は頷いてから続けた。

 

「ポリフェニズム、表現型可塑性という言葉がある」

 

「…………ポリフェニズム」  

 

 僕が復唱すると、彼女はうん、とまた頷いた。

 

「私は麻帆良という地から来たのだが、麻帆良にいる蝶と、京都にいる蝶。同じ種ならば、模様は同じだと思うかい? 」  

 

 普通に考えれば、同じだろう。種が同じということは、根源が同じということだ。

 

「…………違うのかい? 」

 

「そう、違うんだ」  

 

 良くできました、と言いたげに彼女は僕を見た。そこまで子供扱いされたことが、少し癇に障る。

 

「今のは極端な例であったが、ポリフェニズムとはそう言うことだ。同じ種、同じ遺伝子型を持っていても、様々な環境条件によって微妙に形が異なっていたりする。だからこそ、こうやっていつもと違う地で虫取をして、どこか異なるか、と探ったりするのが楽しい」

 

「…………」  

 

 彼女は、再び布に目をやって、そこに張り付いた昆虫を観察していた。その布には大量の昆虫が群がっていて、白い布というより斑模様に見える。それを見て、満足した様子を見せる彼女は、正直正気には思えない。  

 やはり自分には、昆虫採集の楽しさなど理解出来ない。

 

 …………だが、種が同じでも環境により変わるという言葉は、僕の胸にすっと残った。

 

 

「…………君は、」    

 

 

 続けて言葉を発しようとしたその瞬間、僕の体は急激に林の奥へと引っ張られた。    

 

 

 

 ○    

 

 

 

 視界が急激に揺れ、気付けば体に糸のような物が巻き付いていた。引っ張れる勢いのまま、僕の体は落ち葉を散らして地面をバウンドしていき、速度を落とさず大きな木に叩きつけられる。

 

「…………っ!! 」  

 

 一瞬唸ると、ミシリ、といきなり現れた小さな手が僕の首を掴んだ。

 

「貴様…………七海に手を出そうとはいい度胸じゃないか」  

 

 目の前の少女、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが、片手で首を絞め、もう片方の手で立てた爪を僕の首に当てる。  

 その表情から、怒りの思いがはっきりと現れていた。  

 僕の首から、血が垂れる。その血は彼女の爪と指を辿り赤く染めるが、僕も彼女も表情を変えなかった。  

 

 じっと二人で睨み会う時間が流れる。相当引き摺られた様で、先程のライトの光はかなり遠くで微かに感じる程度だ。  

 

 目の前で僕の首を絞める少女の後ろを、コガネムシが、早々と飛んでいくのが見えた。

 

「…………彼女は、何者なんだい? 」    

 

 話をして分かったことは、彼女は信じられないほど虫が好きだということだけだ。  

 だが、少しの間、彼女から流れる魔力の正体を探っていると、やっと何かが掴めた。自分の根底で、覚えがあり、僕の芯を揺らすあれは―――     

 

 ―――あの、魔力は、我らの主の…………

 

「っは! 」  

 

 目の前の金髪の少女は、吐き捨てるように笑った。  

 

 

 

「何者でもない。ただの私の友達だよ、糞ガキ」  

 

 

 

 

 ○    

 

 

 私が振り向くと、先程の少年はいつの間にかいなくなっていた。昆虫にはそこまで興味がなかったのだろうか。それならば、悪いことをした。今思えば、ずっと無愛想な顔をしていた気がする。  

 

 突然現れて、飽きたのか帰ってしまった少年のことは一先ず置いておき、私は再び昆虫採集を続けた。白い布に大量に張り付いて昆虫を観察して、何か珍しいものはいないかと探る。

 

 そうしていると、また後方からがさがさと音がした。あの少年が戻って来たのか、と思いながら見ると、木の枝を手で避けながら現れたのは、エヴァンジェリンだった。

 

「…………くそっまた逃がした。私としたことが…………」

 

 ぶつぶつと呟きながら出てきたエヴァンジェリンに、私は声をかける。すると、彼女は顔を上げて、キッと私を睨んだ。

 

「……七海っ! お前、一人でこんな所に……っ!! 」

 

「エヴァンジェリン、見てくれ。カマキリモドキだ」  

 

 私はついさっき見つけた「カマキリモドキ」を手に乗せて彼女に見せる。アミメカゲロウ目でありながら、カマキリに似た外見をしていて、日本では数種確認されているが出会えることは稀である。  

 

 笑みを浮かべながら「カマキリモドキ」を持った手を差し出していると、彼女は落胆した顔をした後、盛大に溜息を吐いた。

 

「はぁ……。お前という奴は……。いや、もういい。宿にいても厄介なことには巻き込まれていたしな。ただ、これから旅行中はあまり一人になるな。いいな? 」

 

「……? …………わかった」  

 

 真剣な目をしてそう告げたエヴァンジェリンを不思議に思いながらも、私は同意した。

 

 その後、エヴァンジェリンの前でもう少しだけ昆虫採集を続けて、彼女が退屈そうな顔を見せた所で、私は片付けをして宿に戻っていった。  

 

 

 

 

 

 

 ○    

 

 

 

 

 

 ノイズが終わると、また大きな樹が目の前に映った。  

 

 今更だが、この樹が世界樹であることに気付く。  

 樹を見ると、やはりそこには誰かが縛り付けられていた。  

 

 ―――その人物は、黒くて、長いローブを体に纏っている。

 

 

 





小ネタ
『隙だらけ』





「…………彼女は、何者なんだい? 」

「何者でもない。ただの私の友達だよ、糞ガキ」

「……ただの友達か。君の友達は随分と虫が好きなようだね」

「……それが何か悪いか」

「いや、普通の女子中学生にはなさそうな趣味な気がしてね」

「確かに普通の趣味ではないが……だとしたら、貴様に関係あるか」

「……彼女は、変わってる。人が嫌がるような生物を喜々として集めるだなんて」

「まぁ、そうだが……」

「何が楽しいのか、僕にはさっぱりだ」

「……そんなもん私だって分からん。生物の進化の歴史やその過程の話は興味深いと思うが、どうしてあいつはこう、昆虫ばかりに目が行くんだ。哺乳類などならまだ可愛げがあるというのに」

「……」

「あいつは暇があれば研究、昆虫採集、また研究、昆虫採集と繰り返している。楽しそうで何よりなんだが、あいつはいつまでも虫とばっか関わっていていいのか、と思うときは私にもある。もっとこう、なんだ。学生らしく、青春、っぽいことをしたらいいのに、と。どうにも奴は恋愛などにも興味が薄いようで、いや適当な男と付き合ったり薄っぺらい関係を結ぶよりはよっぽどいいのだが、それでもずっと虫虫虫というのもあいつのために言い筈がなくて…。いやでも、楽しんでいるなら」

「君はあの子の保護者か何かかい? 」

「違うわ! というかなんでこんな話を貴様にしてるんだ私は!! あ、おい逃げるな! 」




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44話

 

 

 

「……なぁ、エヴァンジェリン、少し、なんだ、引っ付きすぎじゃないか?」

 

「ばか、七海。お前は昨日どれだけ危険だったかを分かっていないんだ。茶々丸、近くに反応はあるか?」

 

「今のところ不審な動きをする人物はいません」

 

「よし、そのまま周りに気を配れ」

 

「了解ですマスター」  

 

 エヴァンジェリンはその小さな背中を私の前にぴったりつけながら足を進める。 

 キョロキョロと周りを注意深く見ながら私の前に立っているため、歩きづらい。心配してくれていることは十分過ぎるほど伝わってくるので無下にも出来ず、微妙な顔をネギ先生に向けると、彼は、どうにもできません、と伝えるように砕けた笑みを私に返した。    

 

 

 

 

 修学旅行三日目、ネギ先生が関西呪術協会の長へ親書を届けると約束した日である。どのように総本山まで向かうか、と計画を練った所、二手に分かれることとなった。  

 

 一組は、ネギ先生と共に総本山へと向かう組である。そして、親書を渡しに行く道中が最も敵に襲われやすいらしいので、敵の目的である木乃香は別な場所で護衛をしている方が安全なのではないか、という意見により、もう一組は狙われにくい人混みで木乃香を護衛することとなった。  

 

 その案を訊いたとき、私は、刹那は木乃香の護衛に当たるべきだろうと提案した。ここまで来て遠い距離からの護衛では不十分であることは、刹那も重々承知しているだろう。余計なお節介かもしれないが、二人に話す機会くらいは与えてあげたかった。  

 刹那は私の意見を訊いて一瞬だけ時間を置き、すぐに、当然そのつもりです、と力強く頷いた。  

 その瞳に迷いは見えず、彼女の中で答えが見つかったかどうかは分からないが、彼女なりに木乃香への対応の変化を心決めたのかもしれない。  

 とすると、エヴァンジェリンはネギ先生が親書を届ける補助となる。そして、私は役に立てるとは思えないため、また除け者にされるのだろうと予想はしていた。しかし まぁ仕方のないことなので、他の子達と普通に観光でもしていようかと思っていると、エヴァンジェリンが異を唱えた。  

 

 どうやら私も敵に狙われる恐れがあるようで、エヴァンジェリンの側にいるべきだと言うのだ。  

 何故私が狙われるのか、と尋ねると、エヴァンジェリンは眉間に皺を寄せて、辛そうに顔を歪める。もしかしたら私のせいかもしれない、と彼女は苛立ちや後悔を絞り出すように答えた。

 

「……だがな、七海。心配するな。私は何があってもお前を守ろう。……約束する」

 

 彼女は、私を力強く見つめて、そう言ってくれた。  

 敵から狙われる。前世も含めて、そんな状況になったことは初めてである。しかし、私は何故だか何の不安も湧かなかった。それほど、目の前の小さな少女の言葉には、安心感があったのだ。  

 彼女の紺碧の瞳に目を合わせて、私はゆっくりと微笑む。

 

「……ああ、申し訳ないが、頼むよ」  

 

 私の笑みを見て、エヴァンジェリンはくすりと笑う。そして、任せろ、と呟いて胸を張った。  

 

 そんな私達の様子を、桜咲はしっかりと見つめていた気がする。  

 

 

 

 

 

 

 

「そう言えば、ネギ先生。昨日クラスメイト達は何を騒いでいたんですか?」  

 

 総本山へと向かう道の途中、電車に乗りしばらく移動した後、京都にしては人気のない駅で降り暫く歩いた所で私は問う。相変わらずエヴァンジェリンは私にくっついていて、足を前に出しにくい。

 

 昨日の昆虫採集の後、宿のロビーを見るとほとんどの生徒が正座をしていて、そこにはネギ先生もいた。また新田先生を怒らせたのだろうと推測して一声かけようとしたところで、エヴァンジェリンに止められた。自業自得だからやらせておけ、と告げながら彼女は私を部屋へと引っ張っていったので、詳しい話は訊けなかったのだ。  

 

 尋ねると、ネギ先生は少し赤くなりながら恥ずかしそうに答える。

 

「えっと、皆が急に僕の唇を狙ってきてですね」

 

「…………どうすればそんな状況になるんだ」  

 

 突拍子のないことをするのは我がクラスらしいが、そんなことまでするとは予想をしていなくて、呆れる他ない。

 

「こいつの糞オコジョと朝倉和美がアホなことを企画していたんだ。神楽坂明日菜が止めていなければ、宮崎のどかは仮契約していたな」    

 

 エヴァンジェリンの鋭い目がネギ先生の肩にいるオコジョに向くと、オコジョは短く悲鳴を上げてさっとネギ先生の服の中に隠れた。

 

「仮契約?」  

 

 訊きなれぬ言葉を尋ね返すと、エヴァンジェリンが少し迷った後、色々と簡単に説明してくれた。  

 

 ざっくりと言うと、仮契約とは魔法使いがパートナーと契約し、力を与えたり不思議な道具を使えるようにする儀式のことを指すらしい。  

 カモミール(先程やっと名前を知った)はその仮契約の魔法陣を敷く力を持っていて、その魔法陣の上でキスをすれば契約が結ばれるという。カモミールはネギ先生の力になりたいがため(自分の利益のためという説もある)、勝手に宿に魔法陣を用意し、朝倉をけしかけ、その様なイベントを起こさせたのだとか。  

 

 そのイベントが始まって、カモミールの真の目的に勘づいた明日菜はすぐに主犯者達の居場所の捜索を始めた。そして、のどかが事故、というか転んでネギ先生とキスをする直前に、どうにか魔法陣を解かせたようだ。  

 それらの話からは、何故朝倉が魔法を知っているのか、のどかとの話はどうなったのか、そもそもどうしてキスなのか、などと色々気になった点が多く、目的地へと向かいながらも私はいくつか質問をぶつけていた。  

 

 

「……ではネギ先生は、明日菜とはその、仮契約っていうのをしてるのですか」

 

「はい。エヴァンジェリンさんに狙われて僕が少し悩んでた時に、カモ君が明日菜さんを唆して、キスをされてしまって……」  

 

 巻き込みたくなかったのですが、と声と視線を落としているその表情から、ネギ先生が望んで仮契約をした訳ではないことが分かる。明日菜のことだから、ネギ先生が危険と訊いて、迷いつつも行動せずには居られなかったのだろう。

 

「……どうだ、七海」

 

「どうだ、とは?」

 

「ここまでの話を訊いて、仮契約したいか?」  

 

 キス以外にも方法はあるぞ、とエヴァンジェリンは私を横目に見た。カモミールはその言葉を訊いてネギ先生の服からひょこりと顔を出す。    

 歩きながら私は、一度目を瞑り、仮契約とやらをした場合の未来を想像した。例えば不思議な杖を手にして振り回す姿や、スーパーマンのようなスーツを着た自分が脳裏に浮かんだ。そして、こんな時の想像力の乏しさを一人で実感してから。

 

「……いや、要らないな」  

 

 私はゆっくりと首を振りはっきり答えた。  

 契約する場合、エヴァンジェリンもしくは、ネギ先生のどちらかと仮契約を結ぶことになるのだろうが、どちらにしても自分に必要な力とは思えなかった。  

 魔力の供給は、まだ世界樹の薬が出来る前なら有効に使えたかもしれないが、それにしてもエヴァンジェリンから貰える薬と効果は変わらないだろうし、何より人に自分の健康という荷を背負わせるつもりはない。  

 不思議な道具についても、どんなものがあるかはよく分からないが、現状何かに困っている訳でもないし、その様な道具には興味が湧かなかった。

 

「くくくっ。お前は本当に予想を裏切らないな」  

 

 私の返事を訊いて、エヴァンジェリンはケタケタと笑う。

 

「ここまで巻き込んでおいてこんなことを言うのもどうかと思うが、お前はそのままで良い。無理に此方に踏み込んで、不思議な力など持つ必要はない」  

 

 力はあれば良いというものではない、と続けて、エヴァンジェリンはまた前を向く。  

 金色の髪を靡かせながら私の前を歩く小さな背中はやはり心強くて、私の口元は自然と緩んでいた。    

 

 

 

 ○  

 

 

 右手には山に繁る竹藪が見え、左手には人気の少ない家屋が連なる道が、長々と続く。

 どうやら、この山の奥に長のいる御屋敷、つまりは木乃香の実家があるらしく、そこに向かうまでの入り口を探して私達は道沿いを歩く。

 

「山の上にあるなら、飛んで行けばいいんじゃないのか?」  

 

 魔法使いならば箒に股がれば飛べるのではないか、と私はまた安直な考えをしていた。そういえば、彼らが箒を持っている姿は見たことがない。

 

「そんなことをしたら目立っちゃいますよ」

 

「それに、不審な輩に簡単に侵入されないよう入り口以外には何かしら結界が張ってあるだろうな」  

 

 ネギ先生が地図を見ながら微笑み、エヴァンジェリンは未だに警戒心を解いていない。

 

「……その入り口である鳥居がもうすぐ見える筈ですが……、あ、あれです!」  

 

 地図と前を交互に見て、ネギ先生が声を張って指を指す。その指の先には、赤くどこか神秘的な鳥居と、山の奥へと続いていくコンクリートの階段があった。  

 すっと足を階段にかけようとしたネギ先生を、茶々丸が止めた。

 

「マスター、これは……」

 

「あぁ、何か仕掛けてあるな。……敵の呪術か」

 

「茶々丸さんとエヴァンジェリンさんはそんなことまで分かるのですか」

 

「経験あってのものだ。お前も肌で感じろ、というか入り口を警戒するのは常識だ」  

 

 驚いた顔をしたネギ先生に、エヴァンジェリンは叱るように言い放つ。当然、私も罠など気付く訳がない。  

 ネギ先生は、すみません、としゅんと謝り、それではどうしましょう、と鳥居を見つめた。

 

「私達魔法使いは魔法陣を敷くが、奴らは符を使う。つまりはその辺に符が隠されている筈だ。……茶々丸」

 

「……はい、妙な気配を発する岩を発見しました。恐らくその下にでも張り付けていると思います」  

 

 茶々丸はぴょんと竹藪の中に飛び込み、地面に埋まっている大きな岩の前に着地した。彼女は手早く両腕で抱えなければならないほどの大きさの岩を簡単にひっくり返して地面に置き直し、土と一緒に岩に張り付いていた小さな紙を剥がす。  

 きぃん、と甲高い音が響いた。  

 その音を訊き、エヴァンジェリンが頷いたのを確認した後、茶々丸はまたジャンプをして私達の元に戻る。

 

「よし、よくやった」

 

「茶々丸さん、ありがとうございます。言ってくれれば僕がやったのに」

 

「いえ、このくらい」

 

「茶々丸、服に泥が付いているぞ」  

 

 私はポケットからハンカチを取りだして、茶々丸の体についた泥を払う。ありがとうございます、と小さな声で礼を言うので、茶々丸はいつも律儀だな、と私は微笑んだ。  

 そんなやり取りを私達がしている間、エヴァンジェリンは赤色をした鳥居の奥にある繁みを、見透かすように目を細めていた。

 

「…………おい、そこに隠れている奴ら。今すぐ出てこい」  

 

 エヴァンジェリンが目線の先に向かい低い声を出すとビクッと、繁みが一瞬揺れる。

 それから、ガサガサと慌てているかのように繁みは揺れ続けた。  

 

(千草の姉ちゃん、もうばれとるで。罠もばっちり解かれてもうたし)

 

(あほぉ、小太郎! 黙っとき! 声出すなや! くそ、新入りめ、でかい口だけ叩いて今更抜けよって。化け物はぴんぴんしとるやんけ! 小太郎ちゃんと隠れんかい!)

 

(やからもうばれとるって、ここにいてもまたカチコチにされて終わりや)

 

(ひぃ!? トラウマ抉るようなこと言うな! )  

 

 繁みの揺れる音は止まらず、更には声までもがしっかり漏れていて、そこに人が隠れているのは明らかであった。妙に緊張感のないその会話に、私とネギ先生は、何だかな、と顔を合わせる。

 

「……あの生意気なガキはいないようだな。……おい坊や」

 

「はい、何ですか」

 

「私は七海を連れて先に近衛詠春の元へ行く。お前はあいつらをどうにかしておけ」

 

「エヴァンジェリン、それはあまりにも……」  

 

 私には今どんな状況であるのかよく分からないが、敵らしき者がいるのにネギ先生を置いていくのを良しとは言えなかった。そもそも、大使として親書を持っているのはネギ先生で、彼こそがその長のところへ行くべきなのではないか。  

 

 私の考えたことを察したのか、エヴァンジェリンは首を横に振る。

 

「初めから、この任務は坊やが課されたものなんだ。たまたま協力的になった私に引っ付きながらここまできて、はい終わり、で済ませていいのか」

 

「…………いえ、既にエヴァンジェリンさんにはお世話になりすぎました。ここからは、僕のやることです」  

 

 バサッと音を立てて、ネギ先生は背負っていた長い杖を手に持つ。表情は、先程まで幼いものだったのが、急に大人びる。

 

「……ふん、安心しろ、茶々丸は置いていく。茶々丸、サポートしてやれ」

 

「了解です。マスターは明智さんを戦いの場に置きたくないんですよね、私も同意です」

 

「なぜお前はいつも一言多いんだ! 了解ですだけで良かっただろうが!」

 

 臨戦態勢に入った茶々丸に怒鳴りながらも、エヴァンジェリンは私をぐっと持ち上げて抱える。これはまさか、俗にいうお姫様抱っこというやつではないか。

 

「お、おい」  

 

 流石に、恥ずかしい。自分より背の低い女性にやられることではない。  

 私が軽く抵抗するが、その小さな身体の何処にそんな力があるのか疑問に思うほど、彼女はしっかりと私を持った。

 

「七海、少しの間だけだ。辛抱しろ」  

 

 

 そう私に告げてから、エヴァンジェリンは私を抱えたまま石階段を何段も飛ばしながら駆けた。    

 

 

 箒など使わずとも、私は低空を飛んでいるような気分になる。跳び跳ねる時の浮遊感と、髪を激しく靡かせるほどの風は、思ったよりも爽快な気分にさせてくれた。

 

 



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45話

 

 

 

 

 遊園地の遊具に乗っているかの様な浮遊感が、ゆっくりとなくなっていく。私を抱えたエヴァンジェリンがスピードを落としだしたようだ。次々と過ぎ去っていき、先程まで視認できなかった竹藪もはっきりと輪郭を現していく。いよいよ最上段に達するという時、彼女は少し大きく飛び上がった後、私に衝撃を与えないようにふわりと着地してくれた。

 

「七海、着いたぞ」    

 

 エヴァンジェリンは私をゆっくりと下ろして告げた。未だに地面の感覚が分からない状態ながらも、彼女に礼を言ってかろうじて自分の足で立つ。  

 

 視線を前にやると、開けた場所だった。庭園、と言うより自然そのままの状態を風流よく手入れしているような場所で、石の間から流れる水の音がちょろちょろと聞こえる。かなり奥には装飾された大きな門が堂々と立ち聳え、そこが御屋敷の入り口と察するのに時間は掛からなかった。

 

「あの門の先が近衛詠春の屋敷だった筈だ」  

 

 エヴァンジェリンは臆すことなく堂々と足を進める。私は酒に酔ったかのようにふらふらな足取りをどうにか踏ん張って、その横についた。

 

「エヴァンジェリンは、木乃香の父親と知り合いなのか?」  

 

 まるで知っている素振りで話す彼女を疑問に思い、私は訊いた。

 

「昔少しな。そうだな、剣の腕は凄まじく生真面目であったが、どこか甘い男だった。それと、色気にも弱かったな」  

 

 うんうん、と過去の映像を脳裏に再生して、そうそうこんな男であった、と自分で思い出すようにしながらに彼女は頷いていた。  

 

 奥に見える門へと続く道を、二人で歩く。天気も良く、辺りには自然の奏でる心地好い音が僅かに聞こえ、先程まで罠だの闘いだの言っていたのが嘘のようだった。

 

「……あの二人は、大丈夫だろうか」  

 

 心配でない訳がない。

 私は、魔法使いというものについても、彼らの闘いがどんなものであるかも、ほとんど知らない。だが危ないものであることは何となく理解できるため、幼い少年と茶々丸を残してここに来て良かったのだろうか、という想いが胸の底から消えない。役に立てないと分かりつつも、今すぐにでも戻って様子を見に行きたい気持ちに駆られる。

 

「心配するな、というのは無理かもしれないが、まぁ案ずることはない。茶々丸は勿論、坊やは一度闘いを見てやったが、あそこにいた二人には負けないだろう。……それに、坊やは自分の目的のためにもこのレベルの闘いを経験しておくことが必要だ」

 

「……ネギ先生の、目的?」  

 

 周りの景色に目移りしながら言うエヴァンジェリンに私は尋ねる。地面には灰色の石畳が規則的に植え付けられていて、足を乗せる度にコツコツと音が鳴った。

 

「父を、越えたいと言っていたぞ」  

 

 クスリと笑みを溢して、エヴァンジェリンは静かに言った。その笑みは決してネギ先生のことを嘲笑するようなものではなく、小さな子供が爛々と夢を語った時、大人が見守る時にするものであったように思えた。

 

「……そうか」  

 

 私も、ひっそりと頬を緩めた。  

 私は彼の父がどんな人物で何を成し遂げたかを知らないが、親を必死に追い越そうとする彼の背中が目に浮かんで、微笑ましく感じた。    

 

 

 

 ○    

 

 

 

 門の先に来ると和服を着た使用人らしき人物が顔を出した。角刈りで強張った表情の彼は、顔の筋肉を動かさず、淡々と私達の所属と目的を尋ねてきた。エヴァンジェリンと私が名と親書を届けに来たことを告げると、使用人はぴくりと眉を動かしたが、またすぐに無表情に戻った。確認します、と低い声で私達に告げて、彼は屋敷の中に入り門を閉める。門の閉まる音が、君達のことは警戒しているぞ、とはっきり知らせているようにも聞こえた。  

 それも仕方のないことかもしれない。親書を届けに来たといってもその親書を持った人物がいないし、私の名など言ってもピンと来ることはないだろう。エヴァンジェリンはまた別かもしれないが。  

 エヴァンジェリンが待つことに飽きたのか足を揺らして地面を小刻みに叩き出した時、また先程の男性が顔を出した。

 

「長の確認がとれました。中にお入り下さい」

 

「やっとか。私をこれほど待たせるとはな」

 

「申し訳ありません」  

 

 男は棒読みで言うため申し訳なさはあまり出ていなかったが、真面目なその表情からそれが素であるように感じた。  

 先行する男に続いて、きぃ、と軽い音を立てながら門が開く。  

 

「……凄いな」  

 

 思わず、言葉が漏れた。

 

 門の中には、想像を越えた大きさの屋敷があったのだ。私は、歴史の教科書に平安時代の寝殿造の絵が載っていたのを思い出す。この屋敷はまさしくそのようであった。  

 いくつも並ぶ日本古来の雰囲気を漂わせる木造の建物と趣を感じさせる桜の木の並びに、エヴァンジェリンも、ほう、と呟いている。  

 私達は、しっかりとした足取りで歩く男の後をついていき、靴を脱いで屋敷に上がってペタペタと音を鳴らしながら廊下を移動する。和服を着た人が何人か見えて、まるで時代劇に入り込んでしまったようなイメージが頭に浮かんだ。  

 

 それから、廊下の途中にある客室に案内され、男は頭を下げて言った。

 

「長はすぐには出てこれませんので、部屋の中でお待ち下さい」  

 

 組織のトップともなれば、忙しいのだろうか。私とエヴァンジェリンが特に何も言わずにいると、男は丁寧に襖を閉めた。続いて女性の使用人らしき人が訪れ、私達に茶を入れてくれる。本格的に淹れられた茶は、想像通り美味しい。  

 エヴァンジェリンはその茶にも満足そうな顔をして、部屋の様子を見渡していた。筆で流れるように字が書いてある掛軸や、墨で絵描かれた屏風を見てどこか愉しそうにしているように見えた。

 

「エヴァンジェリンはこういう、和の感じ、が好きなんだな」  

 

 あまり上手い表現が浮かばず、和の感じ、などとあやふやに言ったが、エヴァンジェリンはうむ、と頷いた。

 

「基本的に年代を感じるものはどれも好むが、その中でも日本のものが一番気に入っているな」  

 

 確かに、彼女のログハウスには他の部屋の空気とは少し齟齬を感じる和室が態々用意されていた。それほど拘りがあるのかもしれない。私がその理由を訪ねる前に、彼女はしみじみと落ち着いた視線を部屋に向けた。

 

「……なんと言えばいいのだろうな、和風のものには他者に対する心遣い、と言うものが感じられる。決して一人では完結せずに、誰かにこう想って欲しい、という意志があるような気がするのだ。ただの人間が、他人の心象に確かに影響を与え、こうして伝統が長い間守り抜かれていく。……もしかしたら、たとえ何も特別な力を持っていない者でも、誰かにそんな風に感じさせる、というのを、私は好んでいるのかもな」  

 

 自分の胸にある想いを確認していくように、彼女は言う。  

 吸血鬼、600年生きた、そんな違いはあれども、自分の好みを分析して語る彼女の姿は愉しそうで、ゆっくりと茶を啜りながら、旨いと呟く姿は渋い趣味を持つ一人の少女にしか見えなかった。  

 

 それから少しの間二人でのんびりとしていると、襖が僅かに開き、失礼します、という声と共に茶を持ってきてくれた使用人が顔を出した。

 

「長の準備が整いました。それと、お嬢様とあなた方の先生やご友人達もいらっしゃいましたよ」  

 

 お嬢様とは、木乃香のことだろう。私達とは別行動をしていた筈だが、結局此方に来たようだ。ならば、ご友人達とは、刹那や茶々丸のことだろうか。  

 妙な予感と疑問を拭いきれないまま、私とエヴァンジェリンはその女性についていく。

 そして、先程より何倍も大きな部屋にされた時、聞き慣れた声が廊下にも聞こえた。

 

「わー! 凄い部屋ねぇ!」

 

「木乃香がお嬢様とは聞いてたけど、これ程とはね……! スクープ、とまではいかないか。てか茶々丸さんとネギ君はなんでそんなぼろっちい格好なの?」

 

「あ、あの、これは」

 

「先程の階段でそれはもう盛大に転んだのです」

 

「は、はい! そうなんです! もう最上段から一番下までまっ逆さまです!」

 

「えぇー。むしろよく生きてるね……」

 

「……アスナ、うちの実家大きくてひいた?」

 

「なにいってんのよ! このくらい、いいんちょで慣れてるしお家がどうだからって引いたりはしないわよ! ま、いいんちょ家よりここのほうが断然格好いいけどね!」

 

「あら、お猿さんに物の良し悪しを語る能力があるだなんて、驚きですわ。ねぇ、長谷川さん」

 

「私に振るなよ。桜咲、答えてやれよ」

 

「え!? わ、私ですか!? …………えー、その、私は猿の家も嫌いじゃないですよ? 」

 

「テンパって意味わかんねぇこといってるぞ」  

 

 ……どうやら、予想外の客人がこの部屋にはいるようだ。エヴァンジェリンの顔を見ると、彼女は面倒だな、と言う表情を隠す素振りも見せず表していた。  

 息を吐いて襖を開けると、視線が一気に集まった。広い部屋の真ん中には、ネギ先生、茶々丸、木乃香、桜咲の他に、朝倉、明日菜、長谷川さん、あやかまでもがいた。

 

「七海! どこにいたんですの!?」  

 

 あやかが笑顔を浮かべながら此方に寄ってくる。

 

「別室にいたんだ。それより、あやか達こそどうしてここに?」  

 

 あやかの他に、明日菜や長谷川さんにも視線を送りながら訊く。視線の端で、桜咲が面目なさそうな顔をしていた。  

 

 理由を訊くと、なんと桜咲の鞄に朝倉が発信器を仕掛けていたらしく、彼女達はそれを追ってきたのだとか。どこまでも非常識な行動に朝倉を睨み付けると、彼女はそれを受けて、ごめんごめんと苦い笑みを浮かべた。

 

「ですが、自由行動は一緒に回ると約束したのに、七海は全然いないじゃありませんか」

 

 むっとした顔をして、あやかは私に訴えかけた。確かに、班が別になったと分かった時にそんな約束をしていたのを思い出した。  

 あやかは私が全然見当たらない事について心配していると、桜咲と木乃香を追おうとしているハルナ達を見つけたそうだ。そして、彼女達の事情を訊き、余り大人数が遠出すると問題になると言って代わりに自分が無理矢理ここまで来た、と私に説明した。昨日私が桜咲の事情を少し知っていると口走ったことから、桜咲を追えば私がいると考えたらしい。  

 そんな風に言われてしまうと、わざわざ私を追ってここまで来てくれた彼女に強く注意は出来なかった。長谷川さんや明日菜は、そんなあやかに連れてこられたのだろう。

 

「……茶々丸、さっきの奴等は?」

 

「撃退には成功しましたが、捕獲までは出来ませんでした」

 

「いや、十分だ。刹那、そっちはどうだ」

 

「敵の剣士に狙われましたが、なんとか。敵は人混みでも躊躇がなく、逆に民間人を危険に晒す恐れがあるためここに逃げ込むことにしました」

 

「…………その結果民間人を連れてきてるがな」

 

「……うっ。申し訳ないです」  

 

 エヴァンジェリンの睨むような視線に、桜咲は頭をがっくりと下げる。桜咲達の方も色々とあったらしいが、無事なようで安心した。木乃香の表情を見るからに、距離もそれなりに縮まっているようにも見えた。

 

「敵は剣士だけか?」

 

「はい、女性の剣士一人でしたが。……何か気になることが?」

 

「……いや、敵の一番の手練れが出て来てないと思ってな」  

 

 神妙な顔をして小声で会話をする二人の間に、ぴょんと木乃香が飛び込んで顔を出した。

 

「なになに、せっちゃん何の話しとるん?」

 

「お、お嬢様! こ、これは、えと、」

 

「あ、またお嬢様っていうた! さっきはこのちゃんって呼んでくれたのに!」

 

「あ、あれは必死だったので……」  

 

 木乃香はぐいぐいと桜咲に詰め寄っている。たじたじとしながらもしっかりと会話をしている二人の様子を見て、明日菜とあやかはにんまり笑い、長谷川さんも頬を少し緩めていた。

 

「皆様」  

 

 先程門の前にいた角刈りの男性が私達に声を掛けた。

 私達の騒がしさにも負けじと、彼も一向に固い表情は崩していない。

 

「長がおいでなさいました。あまり無礼をなさらぬように」  

 

 じろりと私達を見渡して低い声で忠告するが、明日菜と朝倉がはーい、と緩く返事をしたのを聞いて、眉を一瞬寄せてから、それでは、と述べて下がっていった。彼も、この中学生達にそこまで求めるのは無理かもしれないと悟ったのかもしれない。  

 

 部屋の隅にいる使用人の女性達が少し固い空気を作り出すので、私達も声を抑えて待つ。すると、前から一人の男性が現れた。  

 

 その男性は高畑先生より年上だろうが、そこまで老けた雰囲気もなく、和服を着て、穏やかな顔をしている。

 

「皆様、ようこそいらっしゃいました」  

 

 優しい声音で、彼は言った。どうやら、この男性が長のようだ。

 

 

 







小ネタ
『朝倉の夢』






「朝倉は、将来ジャーナリストになりたいんだよな」

「お、七海。そうだけど。急にどうして?」

「…私は理系よりだからあまりそういう職種に詳しくないんだが、どうしてジャーナリストを目指すのかふと気になってな」

「うーんどうしてかぁ。あまり大した理由じゃないよ?」

「理由の大小なんて、誰かが決めるものじゃないさ」

「おお、いちいちかっこいいねぇ七海は」

「……答えたくないなら別にいいんだが」

「ごめんごめん。もう茶化さないよ。……そだね、端的に言ったら、皆が真実を知るべきだって思ったからかな」

「真実を知るべき、か」

「うん。わたしんちさ、朝ごはんはいつもニュース番組を見ながらだったんだ。両親ともまめに新聞やらニュースとかを見る人だったから。食事中のアニメは怒られるけど、お堅いニュースだけはOKだった。今思えばどっちも行儀の悪さは変わらないんだけどね。だからいろいろ報道は見ていて、その時はまだ面白さとかは分かんなかったし、まぁ最近でもこの話つまんないなって思うことはなくはないんだけど」

「朝のニュースか。子供にはまだ難しい話が多そうだ」

「最近は随分ポップなのが多いけど、そだねー。横で親が分かった風に見てても、私はちんぷんかんぷんってことはよくあったよ。
ただ、人の表情だけはよくわかったよ。あるニュースで、犯人だと思った人がみんなに一斉に責められてて、その人だけ凄い落ち込んだ顔してた。その後、実はその人悪くないって分かった時、もう犯人扱いされたその人はテレビに取り上げられることはなかった」

「冤罪、か」

「そうかもしれないし、ただのゴシップで勝手に祭り上げられただけかもしれない。そこのとこはあんま覚えてないんだよね。
でも私子供だったからさ、なんだか名前も知らないその人の今後が無性に不安になっちゃって。ああ、これは最初からみんなが真実を知らなかったからだ、って思っちゃった。だから、真実を伝えることは大事だぞ、って。ね、単純っしょ?」

「……朝倉、意外と真面目だったんだな」

「…ふふふ、さて、七海。ここで問題。この話は真実か否か、どっちでしょう」

「…なぁ、ここまで話して嘘の可能性もあるのか。真実を知るべきはどこにいったんだ」

「結局そこの認識は受け取り手に託されるからねぇ。こういう体験談とかは特になんとでも話は作れるし、ほら、情報操作もジャーナリストとして必要な力でしょ?」

「……くく、そうだな。朝倉は図太いし度胸もある。きっとジャーナリストに向いてる」

「あは、ありがと」

「……ただ、情報収集はいいが、法律の範囲内でな」

「あぁー、うん。そだね、盗聴器、追跡用GPSは使う場をわきまえます、はい」




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46話

 

 夜になり、明かりがついた屋敷を少し離れた木の上から観察していた。雲に隠れた月のせいで辺りは暗いが、屋敷から漏れる光は庭園にある桜の桃色を強調している。客を迎えるあの大部屋が明るいということは、魔法使いのガキは既に長へと親書を渡してしまったと考えていいだろう。

 

「……千草の姉ちゃん。これからどうするんや」   

 

 横にいるぼろぼろの格好をした小太郎が、低めの声でウチに尋ねる。その声からは、このまま終わるつもりはないで、という意思を感じた。あのガキにやられっぱなしではいられないのだろう。

 

「……本山のまともな戦力が明日の夕方には戻ってくる。それまでが勝負やな」  

 

 現在関西呪術協会は人手不足で、実力者はほとんどここに残っていない。この期をむざむざと逃す気もないし、当然このまま終わる気もなかった。  

 親書が渡ったことが協会全体へ正式に伝えられてしまえば手は出しにくいが、その通達はまだ来ていない。それに、親書を渡したというタイミングでその使者に危害を与えられれば、東も怒らずにはいられない筈だ。東と西でいがみ合う展開の方が、今後も動きやすい。それだけでも、行動する価値はあるように思える。

 

「なら、夜に攻め込むんか?」

 

「総本山は結界が張ってあるし、長もおるから今は無闇に手は出せん。月詠はん、なんかいい案あるか?」 

 

「そうですねぇ〜」    

 

 他の木の枝の上に座っている月詠はんが、調子よく語尾を伸ばしながら、んー、と子供っぽく考える仕草をする。

 

「……うちじゃ結界は何とか壊せても長とあの吸血鬼を相手にはできまへんなぁ〜。フェイト君がおれば大分戦局はましやったんやけど、彼はどこいったんですかぁ? 」

 

「…………あいつなら、もう抜けよったわ」  

 

 苦々しい思いで吐いた言葉に、そうなんやぁ、と月詠はんはさして興味もなさそうに相槌を打った。  

 

 昨日の夜、新入りは闇の福音をどうにかすると言って出ていった後、おめおめと右手を凍らせて帰ってきた。そんな状態なのに顔はいつも通り無表情だったので、なんや結局やられたんかい、と軽口を叩いて挑発したが、新入りはそれでも能面のままに頷いて肯定した。

 

 しかしまぁさして期待もしていなかったので、そのまま次の作戦を考えようと新入りから視線を離した時に、奴は想定していなかった言葉を溢した。

 

「…………僕は、この件から手を引かせてもらうよ」

 

「……はぁ?」  

 

 みしりと、部屋の空気が重くなる。これでもかというくらい力強く奴を睨み、殺気を当てた。が、奴は表情を変えない。闇の福音にやられてひよったのかは知らんが、今更そんなことが許せる筈がない事は新入りも分かっているだろう。  

 それでも、奴は意見を変える気はないようだった。

 

「他に優先すべきことが出来たんだ」

 

「この世界で、そんな勝手がまかり通ると思っとるんか」

 

「……さぁね。でも、君には何も出来ないだろう? それじゃ、残った金は好きにしていいよ。計画も他に漏らすつもりはないから」

 

「ふざけ―――!」  

 

 ウチの殺気をものともせず淡々と述べて、ウチが言葉を吐き終える前に奴は姿を消した。腹立つくらい、見事な移動術だった。

 

 

 

「なら、総本山に匿っている限り明日になるまで手は出せんってことかいな」  

 

 新入りのことを思い出して苛々したウチの横で、小太郎が退屈そうにため息を吐いて視線を下にした。

 

「せやな。とりあえず、明日の準備をしておこうやないか」  

 

 屋敷の光を見つめながら、二人に言う。笑い声が響くことから、中では随分と楽しくやっているらしい。  

 

 ウチらが行動して、お嬢様へと手を出したことや東の大使に襲撃したことは、もう長の耳へと入っているだろう。当然、犯人として自分の名が上がっていないなどと、楽観的には考えていない。  

 ここまで作戦が上手くいかなかったのは、あの化け物が相手に居たせいだ。奴が相手の戦力として存在している限り、元の作戦はほぼ崩壊したと言ってもいい。なにしろ、スクナでも勝てるか分からない相手なのだ。  

 ……だが、だからといって尻尾を巻いて逃げる訳にはいかない。名前がばれている以上、このまま何もしなかった所でウチらの両手にお縄がつくのは目に見えている。  

 

 

 ―――ならば。  

 

 

 口角が、ゆっくりと上がる。欠けた金色の月を隠していた雲が退けていき、月明かりが不穏に辺りを照らした。  

 

 

 

 

 

 

 ―――せめて、派手にやってやろうやないか。  

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

「…………はい。……いえ、明日の午前中には戻ると思います。……分かりました。ご迷惑をお掛けしました。はい、それでは」  

 

 プツン、と糸が途切れるような音と共に、新田先生の耳が痛くなるような怒号も消えた。私が携帯を下ろす仕草を、皆は恐る恐ると言った感じで見ている。

 

「……どう? 新田、ムカ着火ファイヤー?」

 

「……ああ。これはもう、えー、激昂ぷんぷん丸だな」

 

「ひぇー。激昂はあかんなぁ」

 

「激おこぷんぷん丸な。知らねぇなら無理して使うなよ」  

 

 それと激おこはムカ着火の前段階な、と長谷川さんが私のミスを訂正する。朝倉に乗っかって最近皆が使っている言葉を真似てみたが、間違っていたらしい。うろ覚えで慣れぬことはするものじゃないな、と私が恥ずかしい思いをしていると、横で私と同じように携帯を耳に当てていたあやかもそれを下ろした。

 

「クラスの皆にも、私達が宿に戻らないことは告げておきましたわ。ザジさんは千鶴に捕まって私達の班の部屋にいるようです」  

 

 あやかが苦笑しながら言った。ザジには、随分と迷惑を掛けてしまっている。前日に、今日の私達の予定も軽く話してはいたのだが、ザジは他の生徒と京都の街を見て回る約束があると、別行動していた。しかし私達が宿に戻らなかったということについては、後でしっかり謝らなければならない。

 

「しっかし、いいのかね。私達だけ近衛の実家に泊まるなんて」

 

「えー。このかの家の料理は美味しいしお風呂も素敵だし、私は文句なんて何もないけど」

 

「そーゆう問題じゃねーよ。修学旅行中にこんなことしていいのかって話だよ」  

 

 楽天的な明日菜の言葉に、長谷川さんは呆れながら返す。長谷川さんの言うことは尤もなのだが、木乃香の父にあんな風に言われてしまったら、ここから帰る訳にもいかなかった。

 

 

 先程、木乃香の父に会い、ネギ先生が親書を手渡した所で彼の任務は終えることができたのだが、外にはまだ敵がいる可能性があるため今帰るのはやめた方がいいと言われたのだ。夜道は危険であるし、今夜は泊まっていったらどうだ、とまで言われた。

 

 彼が私達を心配してくれてるのは分かるのだが、当然素直にお願いします、とは言えなかった。私達は今修学旅行中であり、他の生徒も先生も心配する。このように勝手な行動など許されないだろう。  

 そう思い私が断ろうとした所で、エヴァンジェリンと刹那は私を説得した。

 

「夜道が狙われる確率が高いのは事実である以上、無理に宿に戻ることは得策ではない」

 

「……私のせいなのですが、これだけの人数を守りながら移動するのは少し厳しいです。ここは長の言葉に従って、今晩はここで過ごすのが正解かと」  

 

 身の危険について語られてしまったら、それを無視することなど出来る訳がない。私だけならともかく、他の子に危険が及ぶようなことは、確かに避けるべきだ。  

 仕方なく承諾して、私達はクラスメイトと先生に事情を告げることにした。代わりに札で私達の分身を作ることも出来るとは言われたが、そこは拒否させてもらった。あとで面倒なことになるのは目に見えていたからだ。  

 

 ならば学校の方へはネギ先生と木乃香の父からも連絡しておく、とは言っていたが、新田先生の意外と心配性な性格から考えて、生徒の方からも報告するべきだと思ったのだ。  

 

 内容としては、自由行動ということで木乃香の実家に寄ってしまい、気付いたら外は暗く帰るには危険と判断したため、泊まらせて頂くことにした。という如何にも怒られそうなものとなった。  

 ……その結果、新田先生からはこっぴどく叱られたのだが。明日宿に戻ったら皆で正座をする準備をしておこう、と彼女達に伝えると、ひぃ、と短い悲鳴をあげた。  

 

 

「てかさ、七海とエヴァちゃんと茶々丸さんは何しにここに向かってたの?」  

 

 朝倉が部屋一面に敷かれた布団に胡座で座りながら私に尋ねる。着ている浴衣は屋敷の人に用意してもらったもので、胡座をかくため妙に際どい格好になっているが全く気にした様子はない。それが、A組女子の男勝りな性格のせいなのか、この場に異性がいないという安心感から来るものなのかは判断できない。

 

「…………あー、それはだな」  

 

 エヴァンジェリンと刹那に助けを求めようとしたが、今彼女達はこの場にいなかった。彼女達とネギ先生は、別部屋で長と一緒に話をしているのだ。

 

「七海、うちの御屋敷をなんか有名なもんと間違えたんちゃう? うちの家大きくて目立つから、たまにそういう観光客おるんやよなぁ」

 

「……そうなんだ。立派な建物だから、気になってしまってな」  

 

 思わぬ所からの助け船に、私はすぐさま乗っかった。木乃香は、やっぱりなぁ、と答えが当たったことににんまり笑った。

 

 

 彼女達に、魔法やら狙われていたやらという話を私からするつもりは全くない。桜咲が今まで必死に隠していたことを言うべきでない、というのもあるが、それ以上に彼女達を余計なゴタゴタに巻き込みたくなかった。私は、彼女達に純粋に旅行を楽しんで欲しがった。  

 

 なにせ、この修学旅行は中学生活最後のものなのだ。  

 

 A組の皆がそのことを意識しているかは分からないが、もうこのメンバーでこのように旅行に行ける機会はないかもしれない。同じメンバーで行く機会があっても、学校行事という独特のこの雰囲気は、二度と味わえないだろう。だからこそ、3年間一緒に過ごした仲間との最後の修学旅行は、楽しかった、という思い出で過ごして欲しいのだ。

 色々あったけど良かったね、と笑って思い出せる経験にして欲しい。  

 

 ……残念なことに、もう既に少し巻き込んでしまっているかもしれないが。  

 

 

 

 想いに耽る私の横で、明日菜が座ったままぐっとこのかに近寄った。他の子達も皆浴衣姿なのだが、あまり気にした様子はない。この三日間ほどで浴衣を着る機会が多かったので慣れたのかもしれない。

 

「そういやさ! このかは結局桜咲さんと仲良く出来たの? さっきはちょっと仲良さそうに話してたけど」

 

「んー。いつもより話せたけど、あんましっかり時間はとれんかったなぁ。せっちゃん急にうちをここまで運んでくんやもん」  

 

 びっくりしたわぁ、と変わらず穏やかな笑みで木乃香続ける。木乃香が言うと何か緩い雰囲気があり、あまり驚いた様には見えないのはいつものことである。

 

「貴方を抱えて跳んでいく桜咲さんを見たときには驚きましたわ。流石の体力ですわね」

 

「……あの動きを流石の体力で終わらせていいのか?」  

 

 感心と尊敬の意を込めてうんうんと頷くあやかに、長谷川さんは苦い顔をしていた。

 

「ハルナも言ってたけど、二人にはビミョーに怪しい感じがするねぇ。ラブ臭っていうか。どうなの! そこんとこ! 」

 

「あはは、なにいっとるんー。せっちゃんは格好いいし素敵やけど、女の子やしなぁー」

 

「うむむ、禁断の恋には後一歩か」

 

「なに聞いてんのよあんたは」  

 

 コツン、と明日菜のチョップが朝倉の頭に当たり、いい音が鳴る。

 

「よし、せっかくだから修学旅行らしく恋ばなしようよ!」    

 

 懲りずに、朝倉は浴衣の中からノートとメモ帳を取り出して私達の顔を見渡した。その様子を見て、全員が呆れぎみにため息を溢す。

 

「そんな風にしてるあんたに誰が情報を言うのよ」

 

「それに、私達は昨日同じような会話をしてしまいましたわ」

 

「うん、別に明日菜といいんちょはどうでもいいや。皆興味ないだろうし。私は長谷川さんとか七海から話を聞きたいんだよ!」  

 

 朝倉の言葉に、なんでよ! と明日菜とあやかが抗議の声をあげ、枕を投げつけた。

 

 ストレートに跳んだ枕はぼふりと朝倉の顔面に直撃し、ぐは、と悲鳴を上げる。顔に当たっため速度の行き場を無くし止まった枕が、次は重力に従いぼとりと朝倉の膝の上に落ちた。朝倉は一瞬ぽかんとしてからすぐにニヤリと笑い、その枕を勢いよく投げ返す。すると、それは見事に長谷川さんの頭にヒットした。長谷川さんはずれ落ちそうに なった眼鏡を手で支えてからジロリと朝倉を睨み、枕を投げる。  

 

 それから、流石A組の生徒と言うべきか、部屋の宙に幾つもの枕が舞うまでに時間はかからなかった。  

 

「何をしているんだ、貴様らは」  

 

 突然始まった枕投げを、いつの間にか襖を開けていたエヴァンジェリンと茶々丸が冷ややかな目線で見る。

 

「エヴァちゃん! エヴァちゃんも七海の恋ばなに興味あるよね!」

 

「なぬっ! 七海、お前想い人がいるのか!?」

 

「……エヴァンジェリン、落ち着け」  

 

 エヴァンジェリンは私の側に来て、誰なんだ! と叫びながら肩を掴んで揺らしてくるので、視界が揺れる。

 

 その時、ぼふんとエヴァンジェリンの後頭部に枕が当たった。

 

 

「―――あ、エヴァちゃんごめん」

 

「…………」

 

「……だ、大丈夫か?」  

 

 エヴァンジェリンは枕により一瞬頭を揺さぶられた後、私の言葉を無視して沈黙した。視線を下にして顔に影を作るが、眼の妙な光だけが見える。それから、くつくつと肩を震わせ初め、ゆっくりと、明日菜の方へと振り返った。

 

「……ふふ、ふふふふ。神楽坂明日菜。私に、この私に、喧嘩を売ったな。いいだろう、貴様には人生最大の後悔とやらを与えてやろう」

 

 怪しい笑みを浮かべたエヴァンジェリンは私の肩から手を離し、ゆらりと体を揺らしながら両手に枕を持った。眼には不穏な光が宿り、口元は歪んでいる。彼女の本気らしい態度に、枕投げくらいで大袈裟すぎる、と私は苦笑せずにはいられなかった。

 

「くらえっ! 」

 

「―――え? っぐへは! 」

 

「ああ! 明日菜が避けるから千雨ちゃんが!」

 

「……駄目だ。完全に延びてる…………」

 

「高級羽毛に包まれてるはずなのに、なんて威力の枕…………。これは…………」

 

「…………一対一ではとても敵いませんわ」

 

「ふふふふふふ。貧弱な奴等め。そうだ、どうせならまとめてかかって来い。貴様ら全員に、真の絶望を与えてやろう」

 

 

「―――いいんちょ、朝倉」

「……ええ、ここは協力して」 

「……うん。やるしかないね」

 

「……ふふ、こんなときは頼りになるわね。……私達は、絶望なんかに、負けない。行くわよ!」

 

「来い!虫けらども!」  

 

 

 

 …………ぎゃーぎゃーと、騒がしさを倍増させて枕投げが継続した。私と木乃香と茶々丸は、被害が及ばないような部屋の端でその様子を微笑ましく見守っていた。近所迷惑にならないか、と木乃香に確認したが、全然大丈夫やよ、と彼女が笑って許してくれたので私はそのままにしておいた。

 

 

「…………お嬢様」  

 

 後ろの襖を開け、桜咲が静かに木乃香を呼んだ。その雰囲気は、真剣な様子だった。

 目の前で行われている枕投げとは、明らかな温度差がある。  

 木乃香もその空気を感じ取ったのか、表情を少し固くして、どうしたん、と訊く。

 

 

「…………少しの間だけ、時間を頂いてもよろしいでしょうか」  

 

 

 重々しく呼び掛けるその眼には、不安と怯え、だが、それに打ち勝とうとする決意が、確かにあるように私には見える。  

 

 木乃香は目を閉じて、ふぅ、と息を吐いて、私と茶々丸を見た。

 

「ほな、うち、ちょっとせっちゃんとお話してくるな」  

 

 木乃香は私達に笑いかけながらそう言って、二人揃って部屋を出ていった。    

 

 

 どんな会話が行われるかは、私には分からない。だが、悩みに悩んだ二人が、意を決して話し合うのだ。どうか上手くいって、二人が仲良くなってくれるようにと、私は祈った。

 

 

 

 








小ネタ
『枕投げ』




「くらえ!」

「なんの! それ!」

「当たるか馬鹿が!しねぃ!」

「ちょっと! 枕投げで死ねはおかしいでしょ! っよっと!」

「明日菜さん! あんまりぴょんぴょん跳ねないでくださいまし! ぶつかりますわ!」

「あんたこそ! もっと優雅によけてよ! 」



「……なぁ茶々丸」

「はい。なんでしょうか七海さん」

「これはいつまで続くんだろうか」

「すみません私にもわかりません」

「というか、枕投げに終わりはあるのか」

「そうですね、競技用枕投げでは、チームの大将が枕にヒット、もしくは制限時間後にアウトの人数が少ないチームの勝ちになります」

「…競技用、あるんだな」

「一般的に言えば、先生が見回りに来た、というタイミングで終わるのが多いかもしれませんね」

「ああ、それは納得できる。しかし、エヴァンジェリンが圧勝かと思ったら、意外と三人も戦えてるのな」

「そうですね。まず、マスターは何人に枕を投げられようが当たることはありませんが、投げる方にはある程度セーブしているようです。強く投げすぎたら枕の中身が途中で出てしまいますから。そのおかげで彼女たちはかろうじてよけられてるようです」

「セーブ? あれで? 長谷川さんはあんな目にあったのに?」

「それと、人数の差も出ていますね。枕の数は決まってますから、投げた枕はある程度回収しなければなりません。そうすると、数が多い方が枕の回収に集中できる人もいて有利ですね。意外と奥が深いゲームですね」

「……そうか?」

「ただ、そうですね、多分マスターがそのうち……」




「あぁ! じれったいやつらめ!」

「ん?エヴァちゃん枕を置いた…? へぶ!」「ぐへ!」「ひえ!」





「……飽きて直接手を下すかと」

「ふははは私の勝ちだ! まいったか貴様ら!! これに懲りたら二度と歯向かってくるんじゃないぞ! 」

「エヴァンジェリン……君ってやつは……」

「な、ななみ。違う、そんな呆れた顔をするな。軽く気絶させただけだ。そ、その、ほらそろそろこいつらも寝る時間だと思ってな」

「そういう寝かしつけ方もあるんですね」

「寝るというか布団の上でみんなダウンしてるだけだ」

「そしてそんな部屋の真ん中で勝利を叫ぶマスター」

「なんだかんだ一番子供っぽいとこがあるよなエヴァンジェリンは……」

「や、やめろー! やめてくれ! そんな憐れんだ目で私を見るなー!」





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47話

 桜の木から花弁が漏れ出して、夜の世界とは対照的な鮮やかな色を宙に散在させる。石で造られた庭園灯が辺りを照らし、私達のいるこの縁側だけは、暗闇の世界から取り残されているかのように感じた。

 

「……ここ、懐かしいわぁ」  

 

 お嬢様は、優しくはにかみながら言った。小箱の口のように一方に開いた外に面する所に立って、他の木より少し年老いた桜の木を見上げながら呟く。屋敷の離れにあるこの場所は、昔寝れない夜中に部屋を抜け出して、二人でよく話をしていた場所だった。

 

「…………お嬢様」  

 

 お嬢様は、うん、と短く小さな返事を洩らした。視線は、桜の木へと向いたままだ。優しく吹いた風が、お嬢様の髪を靡かす。  

 

「……お話があります」

 

「……うん」  

 

 また同じように、お嬢様は頷く。夜の空気に溶けていくかのように、その言葉はしんと消えていく。桜の木から、ゆっくりと視線を私に移していき、お嬢様は笑った。  

 

「…………なんか、不思議な気持ちや。心臓が、こう、ドキドキしてて、もやっとした重たいものが、胸の中にぐるぐるしとるみたいや」    

 

 告白の返事待ちの時ってこんな気持ちなんやろか、と続けて、お嬢様はぎこちない笑顔を浮かべた。私からどんな言葉を言われるのか、相当不安に感じているのが、痛いほど分かった。  

 胸に、ヒビが入るような感覚がした。私は、その笑顔を見るのが辛かった。そんな笑顔にさせているという事実が、辛かった。

 ……いや、今まで私が気付いていなかっただけで、お嬢様はずっとその表情を心の中に隠していたのかもしれない。ただ私が、気付こうとしなかっただけなのだ。  

 唇を、強く噛み締める。  

 今まで、お嬢様のことをずっと遠目に護衛してきた。少しでも危険から遠ざけるようにと、お嬢様に不安を感じさせないようにと。だが、いや、だからこそ、お嬢様がそんな顔をしているという事実に、私は気付けなかったのだ。

 守ってるつもりが、心を守れてなくて、私は自分を思いっきり蹴り飛ばしたくなった。

 

「…………私は…………」  

 

 吐いた言葉に続くものがすんなりとは出てこなくて、詰まる。息を吸って、間を開けた。

 

 ……何から。何から話すべきなのだろう。  

 

 

 先程、長と一緒に話し合って一つの結論が出た。それは、お嬢様に裏の世界のことを話そう、ということだ。ここまで来てしまったら、本当のことを隠している方がお嬢様にとって危険なのではないかと、長も私も考えたのだ。何も知らぬまま守られているよりも、本人も防衛の意識がある方が危険が少ないのかもしれない。

 長は常々、お嬢様には普通の女の子として育ってほしいと言っていた。だからこそ、この判断は、相当に苦渋の思いだった筈だ。  

 苦い顔をしつつも心を決めた長の前で、私はそれをお嬢様に伝える役目を買って出た。今までお嬢様を避け、多くの秘密事をしていた私こそが、その役目をするべきだと思った。  

 

 行き詰まった私を、お嬢様はじっと見つめている。不安げな表情で、小さな唇にきゅっと力をいれて閉め、私の言葉を待っている。

 

「…………今まで、申し訳ありませんでした」    

 

 その表情を見て、初めに出た言葉は、謝罪だった。頭を下げた私をみて、お嬢様は唇に入れた力を少し弱め、口を開く。  

 

「……何について謝っとるんか言ってくれんと、分からんよ」    

 

 弱々しく、それでも笑顔でいようと、震える頬を緩めながら、お嬢様は言う。

 

「……今までの、私の行動についてです」 

 

「それは、うちを避けてたことについて?」

 

「……そうです」  

 

 ゆっくりと頷いて、私は、お嬢様の眼をしっかりと見た。

 

「お嬢様。お嬢様は、とても不思議な力を持っています」

 

「…………不思議な力?」

 

「はい」  

 

 余りにも突拍子もなく抽象的な話ではある。それでも、私の真剣な表情から、その言葉に嘘はないとお嬢様は思ってくれたのかもしれない。

 

「それが、なんでせっちゃんがうちを避けることに繋がるん?」

 

 いや、違う。不思議な力などと言う話よりも、私がなぜそのような行動をとっていたかということを、お嬢様は気にしているようだった。私がどんな理由で自分を遠ざけていたのかを、お嬢様は今までもずっと考えていたのだろう。

 

 あんなに仲が良かったのに、どうして。

 

 お嬢様がそう言い続けていたと思うと、私の胸はまた痛くなった。

 

 

「……お嬢様のその力は巨大であるが故に、多くのものが狙います。…………私は、その護衛として選ばれていました」

 

「……うん」  

 

 それで、と、お嬢様は私に先を促す。

 

「……私は、お嬢様にはそんな不思議な力などとは関わらず、平穏に生きてほしいと、心から願っていました。…………だから、お嬢様に護衛がばれぬようにと、今までお嬢様を避けて、私は影ながらにあなたを護衛していました」

 

 

 ……本当に?

 

 自分の中で、もう一つの声がした。本当にそれだけが理由か、と。

 お前は、自分が傷つくのが怖かっただけなんじゃないのか。自分のせいで巻き込んで負い目を作るのが嫌で、いつか本当の自分を知られるのが嫌で、言い訳して、逃げて、自分が楽な道を選んでいただけなんじゃないのか。

 お嬢様を避けて遠くから見守っていた方が、お前自身が安心だったのではないか。

 

 私は、その声に何も言い返せない。

 

 

「…………せっちゃんはさ、」  

 

 私の話を聞いて、一度眼を伏せて、掌をぎゅっと握り、恐る恐るという様子でお嬢様は尋ねた。

 

「うちを、護衛対象やから守ってくれてたん?」

 

「それは違います!!」  

 

 咄嗟に、大きな声がでた。今まで静寂としていた夜に声が響き、呼応するように桜の木も風で揺れる。

 

 私は、それだけは否定したかった。お嬢様を守っていた理由だけは、昔からずっとずっと一緒で、嘘偽りがないと、言いきれた。  

 

 

 

「お嬢様は…………友達だったから」     

 

 

 絞り出すかのように出た言葉は、私の本心だった。  

 

 

「こんな、こんな私でも、分け隔てなく接してくれた、大事な、大事な友達だったから。だから、守りたかったんです」

 

「……うちのことを、避けてでも?」

 

「……はい」    

 

 私の返事によって、お嬢様の顔に影ができる。俯き、少し肩を震わせ、顔を横に振っている。    

 

 

 違う、違うよ、せっちゃん。うちは、うちはそんなこと望んでいないよ。    

 

 

 そんなお嬢様の声が、聞こえた気がした。正面に向き合って、こんな風に話しているからこそ、その声が訊けたのだと思う。  

 

 私は、また唇を噛んだ。喉が渇き、私の手も知らずのうちにぐっと力を込めていた。

 

「…………お嬢様を危険な戦いに巻き込みたくなかった。だから、離れた所からしか貴方を見ていなかった」

 

 

 この気持ちに、嘘はなかった。

 ただ、自分を知られるのが怖いと心の奥底で思っていたことも、事実だった。

 

 でも、今は。

 

 

「……今ではそれは間違っていたと思うのです」  

 

 

 私の言葉に、お嬢様は、おもむろに顔を上げた。    

 

 

 

 ―――明智さん、エヴァンジェリンさん。  

 

 頭に浮かび、胸の中で呟くように名前を呼んだのは、たまたま同じ班になった二人のクラスメイトだ。その二人のうち、一人はとてつもない力を持っているが、もう一人は何の力もない。  

 そして、友人同士であるその二人は、守り守られの関係にあった。   

 

 

「……私は、自分のことしか考えていなくて。自分の考えだけをお嬢様に押し付けて。お嬢様を信用せず、お嬢様の意思を、ないがしろにしていました」    

 

 

 エヴァンジェリンさんは、明智さんに情報と現状を伝えた上で、それでも必ず守ると宣言していた。そして、明智さんは、それを受けて絶対の信頼を彼女に寄せて、自分の身を任せた。

 

 そして、明智さんは、彼女が吸血鬼だと知っても、決して態度を変えず、友人であり続けた。

 

 その、二人の姿は、私にとってあまりにも眩しくて、理想的に感じた。

 

 信頼し合う二人のその関係が、羨ましくて、憧れて。

 私も、お嬢様の手を握ることを恐れずに、そうすべきだったのだと、悟ってしまった。

 

 

「……お嬢様。これからは、私を貴女の側に置いてください」  

 

 

 ―――そうだ、初めから、こうしていればよかったんだ。    

 

 

 私の眼は、お嬢様をしっかりと見据えた。  

 

 

「―――私は、強くなります」    

 

 

 一度腹を括れば、続く言葉は簡単に零れ出した。  

 

 

「貴女に、不安や、恐れを一切感じさせないほど強くなる。自分の弱い心に負けないようにと、強くなる。私が貴女の剣となり、全ての脅威を振り払う。だから貴女は、安心して日常を過ごして下さい。どんなものが立ち塞がろうと、全てをこの剣が断って見せます。だから―――」    

 

 

 

 ―――このちゃん。  

 

 

 

古い記憶が、頭を巡った。

初めて会ったとき。二人で遊んだとき。一緒にご飯を食べて、一緒に山を駆け巡って。

お互いに気兼ねなく名前を呼び上げることが出来ていたあの時のことが、私の脳裏に確かに映っていた。

このちゃん、せっちゃんと、呼びあってたあの時は、二人はずっと友達だと、言葉にせずとも通じあっていた。

 

 

 

 

 

「……このちゃん。これから、うちと、一緒にいてくれますか?」  

 

 

 

 そっと、手を差し出す。  

 

 桜が、辺りを舞う。風に乗って、私達の間をひらひらと通りすぎていく。  

 このちゃんは、私の手をじっと見つめた後、とっさに自分の手を頬にやった。  

 このちゃんの眼から漏れた涙は、その手が受け止める前に地面に落ちた。そこからは、とめどなく、ポロポロと雫が落ち続けた。  

 

「…………う、うちは」  

 

 ひくひくと、小さく嗚咽を漏らしながらも、このちゃんは一生懸命に言葉を紡ぐ。

 

「…………ずっと、ずっと不安やったよ。は、初めて出来た友達のせっちゃんに、せっかく麻帆良でまた会えたんに、せっちゃんは全然。全然うちを見てくれん。うちのこと忘れてしもうたんかな、とか、嫌いになったんかな、とか、めっちゃ考えた。今も、せっちゃんに、嫌いになった理由とか言われんのかなって」    

 

 

 涙は止まることを知らずに、ひたすらにこのちゃんの頬を流れ続ける。私の目頭も、きゅっと熱くなった。  

 

「七海たちが、いっとった。せっちゃんも悩んでるんやって。闘ってるんやって。でも、不思議な力とか、護衛とか、そんなことはうちにはやっぱり分からん。でも、でも、そんなことよりも、もっと知りたいことが、あるよ」  

 

 このちゃんは、両手でぎゅっと私の掌を握る。  

 

「せっちゃんは、うちのことを嫌いじゃないんやよな。うちと、友達なんやよな」    

 

 びしょびしょになった顔を私に向けて。それでも、笑顔を作ろうとして。このちゃんの顔は、くちゃくちゃだ。胸の中の想いが、込み上げる。  

 

 

「このちゃんっ…………、ごめん、ごめん。嫌いなわけないよ。大好きや。大好きやよ。このちゃんは、うちの一番の友達やよ」    

 

 

 私の眼からも、涙が止まらなかった。  

 

 私はきっと、ずっと、ずっとこう伝えたかったんだ。自分の気持ちを圧し殺して、色々と言い訳をしていたけれど、私は、こうやって素直にこのちゃんと手を握りあっていたかったんだ。  

 自分をさらけ出して、それを、認めてもらいたかったんだ。

 

 このちゃんは、更に笑顔を浮かべて、もっとくちゃくちゃの顔にして、私に思いっきり抱きついた。私も、このちゃんを思いっきり抱き返した。  

 

 それから、二人でわんわんと泣きあった。このちゃんの体は、暖かかった。    

 

 

 

 

 

 

 ○  

 

 

 

「……このちゃん」

 

「なんやー、せっちゃん」  

 

 縁側で、私の横に座っていたお嬢様が私を覗き込んだ。顔には涙の跡が残っているが、足をぶらぶらとさせ、楽しそうに、本当に楽しそうに笑っている。

 

「…………あと、一つだけ、秘密にしてたことがあります」

 

「あ、敬語!」

 

「す、すみません。此方にも慣れてしまっていて……」  

 

 気が付くと、違和感なく敬語を使っていた。それほどこの話し方とも長く付き合っていたのだろう。  

 お嬢様は一瞬頬を膨らませたが、ま、ええか、とすぐに笑った。

 

「それで、秘密ってなんなん?」  

 

 そこまで興味を持った様子もなく、好奇心だけで訊いているようだった。このちゃんの中で一番知りたかったことは、既に訊いてしまっていたからなのかも知れない。  

 

 

 私は縁側から腰を上げてすっと立ち上がり、下に置いてあった下駄を履いて、桜の木の近くに向かった。  

 お嬢様は、首を傾げ、私の行動を見守っている。

 

 

「実は、私、誰にも言えない秘密があります」  

 

 

 

 ―――明智さん。  

 

 

 私は、いつか明智さんと話した内容を思い返した。  

 

 

 ―――私にも、ちゃんといますよ。何よりも大切で信用できる人。    

 

 

 背中に、ぐっと力を込める。  

 もぞもぞとした感覚が、体を巡る。  

 

 

 ―――誰にも、見せられないものだと思っていた。掟でも、これを見せてはいけないと決まっていた。これは醜いものだと決めつけていた。…………でも、このちゃんにはもう隠し事をしていたくなかった。もう関係のない掟なんて、大した縛りでないと、やっと気付けた。  

 

 

 ふぁさり、と音が鳴る。桜の花弁に混じって、白い羽根が舞う。

 

 

 ―――それに、このちゃんならきっと。この翼を見ても。そして、このちゃんがそう言ってくれるなら、私は。…………これともやっと向き合っていける気がする。

 

 

「……見ての、通り」

 

 

 翼を広げ、ばさっと一度はためかせて、強調した。

 

 

「翼、生えてるんです」  

 

 

 あれだけ、大嫌いな自分の翼。誰にも、見せたくなかったもの。でも、何故だか今は、笑って言えた。大好きな友達の前なら、この翼もきっと。

 

 

「うわぁ……」    

 

 

 このちゃんは、眼をキラキラさせて、私を見て呟いた。  

 

 

「せっちゃん、…………凄い、綺麗や」    

 

 

 ―――やっぱり、このちゃんは凄いや。    

 

 

 私は、満面の笑みでそれを自慢するようにくるりと周りつつ、また涙を流していた。

 

 

 

 



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48話

「明日菜! せっちゃん! どうや! これ! 」

 

「……綺麗です。 とっても、似合ってますよ」

 

「ほんとに! このか、お姫様みたい!」

 

「えへへー。あ、せっちゃんはこっち着てや! 絶対似合う!」

 

「分かる! ナイスチョイスよこのか!」

 

「えっ。そ、その、私は別に。しかもそれ、また男物じゃ…… 」

 

「大丈夫大丈夫! 刹那さん美形だもん!」

 

「あ、明日菜さん、そういう問題では……っ!」

 

「いいからいいから! ほら! はよう!」

 

「ちょ! こ、このちゃん」

 

 木乃香は桜咲の背中をぐいぐいと押して、試着部屋と連れ込む。抵抗する桜咲を無視して、この子にこれを着させて下さい、と明日菜が店員の女性に手早く伝えた。少し皺のある生き生きとした女性は、任しとけ、と頼もしい笑みを浮かべてそれを了承していた。

 

「……木乃香さんと桜咲さん、仲直りできたようですね」

 

「そのようだな。…………本当に、良かった」

 

 まるで、この前まで悩んでいたことが嘘の様だ。

 今日の朝から二人はずっと笑みを絶やさず仲良さそうに話している。長年連れ添った夫婦のようなその姿から、確かな絆を感じるのは容易であった。

 

 楽しそうに話す二人を見てテンションが上がった明日菜は、生き生きとその輪に飛び込んでいった。空気の読めない行動に見えなくもなかったが、彼女達はそれを嫌がる様子もなく受け入れ、気付けば明日菜と桜咲も名前を呼び会うような仲となっている。

 

 木の棚に様々な衣服の置かれた店内で、私は安心した気持ちで彼女達を見守る。

 すると、背中をトントンとつつかれた感触がした。振り返ると、エヴァンジェリンが得意げな笑みを浮かべながら手に持った着物を私に見せつけてくる。

 

「七海! せっかくの京都だぞ! お前も着替えろ! ほら、これなんてどうだ!」

 

「いや、私は…………」

 

「まて、明智にはそっちじゃなくてこっちの方がよくないか?」

 

 私の言葉を遮るようにして長谷川さんが横から口を出す。彼女も別の着物を指差して、ほらどうだ、と私にも確認するように促してきた。

 

「だから私は……」

 

「貴様……私の意見に楯突く……、いや、それも悪くないな。だが、ワンポイント何か足りん」

 

「……確かに。なら、これはどうだ?」

 

「…………ほう。なかなかいい目をしてるな、長谷川 千雨」

 

「そりゃどうも。マクダウェルもやるな」

 

「…………」

 

 私を呼んでおいて、エヴァンジェリンと長谷川さんは二人であーでもないこーでもないと真剣な語り合いを始めた。着物を着るつもりはないのだが、という私の意見は全く届いていないようだ。

 

 目線を横にすると、忍者の衣装に目をキラキラとさせるネギ先生や、派手な色と装飾がされた着物をじっくりと見つめているあやかがいて、それぞれが勝手に楽しんでいるのがよく分かる。

 

 私は、そんな彼女達を見るのがまた楽しくて、一人微笑んだ。

 

 

 ○

 

 

 修学旅行四日目。早朝に木乃香の実家を出た私達は、ひとまずは宿に向かった。

 これ以上木乃香の父に迷惑をかけるつもりなかったし、あまり遅くなるとクラスの皆や先生方にも心配させてしまうだろう。そう私は考えていたが、他の子達は違う理由で早々に宿に帰りたがっていた。

 もっとゆっくりしたがると思っていたのでその様子を珍しく感じ、どうしたのだ、と私が問うと、皆が声を揃えて言った。

 

「宿に行かないと今日着る服がない」と。

 

 木乃香の家泊まることは突然決まったため、借りた浴衣を返してしまうと私達は前日の衣服を着るしかない。彼女達には、それが耐えられないほどの苦痛らしい。

 そこまで嫌か? と私が訊いたら、あるものは目を大きく開いて信じられないと呟き、あるものはため息を吐いて、お前って奴は、と呆れた顔をした。

 何故か多数対一で非難されているような雰囲気を感じた私は、茶々丸とネギ先生に助けを求めるように近付き、ひっそりとその後ろに隠れた。

 

 ……言わしてもらうが、私だって何日も同じ服を着るのが良しと言っている訳ではない。断じて。……ただ、研究職をしてる身としたらそんなことがざらだから、ちょっとそう言ってしまっただけである。本当に。

 

 という訳で、私達は木乃香の実家を後にして宿に帰った。そこで、想像通り新田先生にうんと叱られた(エヴァンジェリンは気付けば逃げ出していた)。特に朝倉は前日の騒ぎの主犯でもあるため、未だに叱られている。自業自得とはいえ少し同情したが、私達にはどうにも出来ない。とりあえず皆で、南無、とお祈りだけしておいた。

 

 その後、他の生徒達は私達が叱られている間に既に観光に行ってしまっていたので、私達だけは少し遅れて出かけることとなった。

 

 既に親書は手に持っていないためこれ以上敵と遭遇する理由はあまり分からないが、私と木乃香は一度狙われた身である。だからといって二人で宿に籠っていても危険度はそこまで変わらないだろうし、木乃香の実家へ行った他のメンバーが狙われる可能性を考えれば、あやか達だけで観光に行かせる訳にも行かない。ネギ先生や桜咲が密かに話し合いをした結果、これからの行動もしばらく皆で一緒にする事となり、全員で観光へと行くこととした。

 

 向かう場所は特に決まっていなかったが、とりあえず京都をぶらぶらしようと進んでいると、道中に着物をレンタルできる店を見つけた。木乃香達は先日シネマ村で着物を着たらしいが、敵の攻撃から逃げるように実家へ向かったため堪能出来た訳ではなく、明日菜達もそんな彼女達を追いかけていたので同様であるらしい。よって、皆がほぼ迷いなく店に入り、一度着替えることとなった。

 

 

 

「ほら! やっぱりせっちゃん似合うわぁ、かっこいい!」

 

「ほ、ほんとですか?」

 

「ほんとほんと。ねね! 私はどう!?」

 

「熊のワッペン付きの着物って、完全に子供用ですわね。あなたはおやじ趣味かどっちかはっきりしてほしいですわ。未だに熊のパンツなんて履いちゃって」

 

「パ、パンツは関係ないでしょ! あんたはなにそれ。またそんなガチガチの着物にカツラまでしちゃって。ぜんっぜん似合ってないから! ね、刹那さん!」

 

「お猿さんにはこの良さが分からないのですね。桜咲さん、素晴らしいですよね、これ」

 

「……へ。あの、その……。……えー、どちらもとっても独創的だと思いますっ!」

 

「…………」

 

 

「へへ、どうですか! ジャパニーズ忍者ですよ!」

 

「ネギ先生。忍者とは、隠密行動が基本のためもっと地味な色彩が正しい筈です。それでは目立ち過ぎます」

 

「で、でも。この前見たアニメでは忍者が凄く堂々してましたよ!」

 

「ネギ先生。それは創作です」

 

「夢壊すようなこと言ってやるなよ……。外人が思う忍者なんてそんなもんだろ」

 

 

「…………エヴァンジェリン、少し派手ではないか?」

 

「いや、ちょうどだな。私が見立てただけある」

 

 横並びになり、それぞれがいつもと違う衣装を着ながらわちゃわちゃと会話をして、私達は京の町を歩く。

 結局、エヴァンジェリンと長谷川さんの推しに負けて私は着物を着ていた。そうでもしないと、店から出られない空気だったのだ。女物を身に付けるのは未だに妙に抵抗があるのだが、桜咲が男物の袴を着ているのを見てしまったら何とも断りにくい。

 着ているものは、鮮やかな青色に白い流線が踊るような模様が入った、海をイメージさせるような着物だ。重く、歩幅も普段と違うため歩きづらい。それをものともせず歩く彼女達は、やはり強いなと感心する。どこに行っても、女性の底力は計り知れない。

 

「それで、どこ行こっか?」

 

 明日菜が皆よりちょっと前に出て、振り返りつつ首を傾げる。軽々しい動きと共に、淡い桃色で胸に熊のワッペンがついた可愛らしい着物の袖が揺れる。

 

「哲学の道に行くぞ。そこからの銀閣寺だ」

 

 そうであるのが当然だろう、という口調でエヴァンジェリンがはっきりと告げる。黒を基調としたものに、銀色の花柄が斜めに舞っている彼女の着物は、幼く見えるエヴァンジェリンを、大人びた様子に魅せている。小さな彼女には似合わなそうな衣装も、不思議と彼女が着ると不自然には見えない。

 

「えー。もっとこう、パアッてするの行きたくない?」

 

「神楽坂、ここは京都だぞ」

 

「それにこの格好ですしね」

 

「う~ん。うちもそういう場所はあんま知らんなぁ」

 

 パアッ、と抽象的に表したものが何を差しているのかは分からないが、明日菜はおそらくテーマパーク的なものを望んでいるのだろう。

 私達の反対を訊いて、明日菜はぶう、と不貞腐れた。

 

 

「…………あの、実は行きたい所があるんです」

 

 おずおずと提案したネギ先生をエヴァンジェリンは、次はなんだ、と睨み付ける。私のコースに文句があるのか、と蛇のように鋭い目をしている彼女から、観光に懸ける本気度合いがよく分かる。

 そこまで怖い顔をしなくても、と私はそっと呟くが、これは何よりも大事なことだ、と一蹴されてしまい、苦笑する他ない。

 

 水色に丸とシャープの模様がついた、何処かで見たような忍者の着物を着たネギ先生は、そんなエヴァンジェリンの恐ろしい眼にも負けず、私達に言う。

 

 

「……お父さんが、昔住んでいた家に行きたいんです」

 

 

 上目遣いで慎重に、彼はそう呟く。それを訊いたエヴァンジェリンは、眼に入れた力を分かりやすく弱めた。

 

「皆の修学旅行中に、勝手なことを言ってるのは分かっているつもりです。……ですが、少しでいいので寄って貰えないでしょうか?」

 

 子供がするような、駄々をこねた頼み方ではない。本当に私達に悪いと思っていて、それでもどうか、と懇願するような頼み方だ。

 真剣に頭を下げた彼を見て、私達は顔を見合わせた。

 

「…………失礼ですが、ネギ先生のお父さんは今何を?」

 

 あやかは、ネギ先生の視線に合わせるように膝を折り、優しく尋ねる。

 

 ネギ先生は、寂しげな笑みを私達に向けた。

 

「…………行方が、分からなくて」

 

 強がったようなその笑みも、子供がするようなものでは、決してない。私達に心配はかけまいと笑って言おうとしているのがあまりにまざまざと伝わってきて、彼の心の強さを寂しく感じてしまう。

 

 ……もっと、子供らしく生きていいのに。と思わずにはいられなかった。

 

 

「ネ、ネギ先生っっ! 行きましょう! どこであろうと!」

 

 

 あやかは、彼の手を無理矢理両手で握り込んで、半泣きになりながら、何度も頷く。彼の父親について詳しく知っている訳ではない。それでも、何か事情があるのは皆察したのだろう。周りを見ると、誰もが同じように頷いていていた。

 

 

「……エヴァンジェリン、良いだろう? 少しくらい」

 

 ……せめて、たまに言う我が儘くらいは、叶えてあげたい。おそらく皆も、そう思った筈だ。

 

「……ふん」

 

 エヴァンジェリンは、ネギ先生から顔を背けて、鼻を鳴らした。

 

「そういうことは、早く言え。ほれ、行くぞ」

 

「…………! じゃあ…………!」

 

「……私も気にならない訳ではないからな」

 

 小声でそう言って、少し気恥ずかしそうにしながら彼女はさっさと足を進める。嬉しそうな顔をしたネギ先生は、大きな声でお礼を言ってから皆の前に出て、地図を広げつつ私達に道案内を始めた。

 

 ○

 

 木乃香の父からもらった地図を広げながら、ネギ先生は私達を先導する。家の鍵も同時に借りたらしい。所有者の息子であるからには、家に入る権利は間違いなく彼にある。それに、彼の礼儀正しい態度を見て、木乃香の父も任せて大丈夫と思ったのだろう。

 

 道中、人気の少ない街並みを歩きながらも、会話をするものは多くなかった。ネギ先生は歩くにつれて緊張した顔付きになっているし、他のものはそんな彼に父親のことを詳しく訊いていいのか、と探り探りになっている。特に明日菜とあやかは心配しているのかそわそわとした態度をとっていて、長谷川さんに、落ち着けよ、と声を掛けられていた。

 

 

 人数分の足音を地面に刻みながら、私達は歩みを止めない。右手には大きな敷地を持つ家があり、道との境には立派な石垣が立てられているが、それ以外に民家も見当たらない。どんどんと田舎道を進んでいるような感覚がした。

 

 横に目を移すと、エヴァンジェリンが思案に耽るように静かに歩いているのがちらりと見える。そういえば、彼女の呪いはネギ先生の父親にかけられていたという話を思い出す。

 

 エヴァンジェリンと彼の父親は、結局どういう関係だったのだろうか。彼女の密かに頓着するあの様子から、軽い仲ではないように思える。

 

 

「……おそらくあそこです」

 

 ネギ先生が地図と前にある建物を見比べながら告げる。目の前には、手入れされていない繁った木々に囲まれている京都にそぐわない現代的な建物があった。

 

 







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49話

 

かつてお父さんか住んでいた言われる別荘は、京都の町に似合わない、洒落た内装だった。横幅は狭いが奥行きが長く、天井までの距離もぐっと延びている、あまり見かけない家の造りだ。

 

「なんか、想像よりずっとモダン的ね」

 

明日菜さんがそう呟きながら、すっと足を中へと進める。キョロキョロと壁一面にある本に目をやって、うへぇとげんなりとした声をあげた。

 

「確かに、ネギ君のお父さんっぽい部屋やなぁ」

 

「……? どういう意味ですか? 」

 

「真面目っぽい、てことよ」

 

部屋にある本や綺麗めな家具からは、誠実そうなイメージが浮かんだ。

……そっかお父さん、真面目だったんだ。

まるで自分が褒められたように内心喜んでいると、横から笑い声が聞こえた。くっくっと、口から溢れるでるものを抑えることができない様子で、エヴァンジェリンさんは笑っている。

 

「奴が真面目だと? そんな筈あるか」

 

「え。そ、そうなんですか? 」

 

「なんだ、マクダウェル。ネギ先生の父親のこと知ってるのか? 」

 

「…………少しな。恐らくこれらの本は周りの奴が無理矢理持たせたものだろうよ」

 

長谷川さんと会話を続けながら、エヴァンジェリンさんは棚にある本を一冊抜き出してペラペラと捲る。その様子を見た七海さんが、勝手に読まない方が、と僕に視線を一瞬寄せてから言う。

 

「いえ、いいですよ。皆さんも好きにしてください。僕は暫く部屋を探ってます」

 

気を使って注意してくれた七海さんにお礼をして、僕は皆に寛ぐように言った。沢山の本があるけど、ざっと背表紙を見る感じ素人目には理解できないものばかりだし、何より日本語で書かれたものはほとんどない。彼女達がちょっとくらい漁った所でなんのことやら分からないだろう。自分勝手で悪いとは思ったけれど、リビングらしい奥の部屋にはソファーもあるし、そこで休んでいてもらおうと思った。

 

 

二階は広いロフトのような造りになっていた。僕がそこに上がり手掛かりを集めている間、皆興味深そうに棚にある本を手に取ったり、家の中にあるものを観察したりとしていた。だけど次第に飽きてきたのか、気付けば何人かはソファーの上で雑談をしている。そんな彼女達に悪いと思いつつ、僕はなるべく早く資料に目を通していく。

 

「兄貴、なんかためになるようなものは? 」

 

「……うーん」

 

カモ君はひょこりと懐から飛び足して、一気に肩まで登り僕に耳打ちした。僕は手に持った本の一ページを捲る。

 

「……お父さんの行方の手掛かりになるものはあんまりないかも」

 

面白い本は沢山ある。お父さんがこの中の本を幾つか読んでいたと思ったら、不思議と嬉しい気持ちになる。それでも、お父さんの行方を示すようなものはなかった。

 

「長のおっさん、麻帆良の方が手掛かりがあるだろうって言ってたっけ? 」

 

「うん。その場所を示す地図が手に入っただけで収穫だよ」

 

長さんに、家の中には麻帆良の地図があると言われた。そこには、お父さんの情報を得れる場所が書いてあると。 それをここで見ても仕方ないので、とりあえず大事に持ち帰ろうと思う。

 

「……ネギ先生、ここにいましたか」

 

階段を上がってきた七海さんが、ゆっくりと体を二階へと乗り上げる。着物が重そうで、少しぎこちない動きをしていた。

 

「ここの本、少し見ても? 」

 

「ええ、構いませんけど……」

 

「あんた、読めんのか? 」

 

本を持った七海さんに向かって、カモ君が訊く。カモ君は七海さんのことが苦手意識があるのか、いつもより尖った言い方である。何でも、妙にネカネお姉ちゃんに似ている所を感じるため近寄りがたいらしい。雰囲気や格好は違うけれど、言動の節々にそう感じる気持ちは分からなくもなかった。

 

「まさか」

 

七海さんは苦笑した。

 

「流石にギリシャ語は無理です」

 

「それじゃあ……」

 

読めないなら読んでも仕方ないのではないか。そう続けようとしたが、本を見つめる七海さんの目は真剣であったため、何となく言うのが憚れた。

 

「絵と図、文章の雰囲気だけでも楽しめるものです」

 

そう呟いて、いくつかページを捲ったあと、パタンと本を閉じる。

 

「……昆虫の本なら、何語でも読める気はするんですけど」

 

「……どれだけだよ」

 

冗談のような言い方だったけど、七海さんならあり得そうな気がした。

 

「ねぇ、この写真って……」

 

不意に明日菜さんの声が聞こえた。振り替えると、机の上にある写真立てを指差している。七海さんに釣られて他の生徒達も二階へと上がってきたようだ。少し古そうなその写真には数人映っていて、中央にいる赤髪の青年がお父さんであることはすぐに分かった。

 

「真ん中のがネギ先生の父さんか。……イケメンだな」

 

「ですが、今のネギ先生のほうがイケメンですわ」

 

「………………そうか」

 

「ちょっと! なんですの、こいつはもうだめだな、みたいなその感じ! 」

 

 

 

「長、お若いですね」

 

「ほんまやなぁ。うちお父様の昔の写真見るの初めてや。……ふふ、かっこええなぁ」

 

皆が写真について何か話をしている中で、明日菜さんと七海さんだけは何も喋らずにじっと写真を見つめていた。

 

「……どうかしましたか? 」

 

「……んーん」

 

明日菜さんは首を振った。

 

「何でもないわ。七海こそどうしたの? 」

 

「…………アルビ……」

 

「アルビ? 」

 

「……いや、何でもない。気にしないでくれ」

 

自分の呟きを訂正するように言ってから、七海さんは写真から目を離した。…………しかし、アルビ、とは何だったんだろう。

 

 

「ぼーや、何か分かったのか」

 

エヴァンジェリンさんも遅れて階段を登ってきて、僕に尋ねた。いつの間にか全員が二階にいて、さっきまで広く感じていた場所が一気に窮屈に感じる。

 

「特になさそうです」

 

「そうか。まぁ、そんなものだろうな」

 

気にする様子もなくスタスタと僕の前を通り過ぎて、エヴァンジェリンさんも写真に目をやった。

 

「…………ふん」

 

懐かしむような表情をして、エヴァンジェリンさんは軽く頬を緩める。その顔から、写真の中の人物達への確かな思いやりを感じた。エヴァンジェリンさんはお父さんだけではなくて、ここに映ってる人のことを皆知っているのだろうか。 ならば、その話を聞いてみたい。

 

 

 

それを尋ねようとして、口を開きかけたその時―――

家の外から鈍く心に響くような大きな音が聴こえた。

 

「…………? 」

 

「何の音? 」

 

 

疑問を浮かべる人達をおいて、一番始めに動いたのはエヴァンジェリンさんだ。素早く二階から飛び降りて一階に着地し、こちらを見上げるように振り返る。

 

「七海、じっとしていろよ! 」

 

七海さんに向かってそう叫んで、彼女はあっという間に玄関へと向かう。それに続いて、桜咲さんも飛び降りた。

 

「せっちゃん! 」

 

「このちゃんも決してここから出ないで下さい! 」

 

「茶々丸! 家は任したぞ! 」

 

「了解ですマスター」

 

それぞれ言葉を残して、外に出ていく。

関西呪術協会絡みの事件だ、と僕はようやく察した。残された生徒達は、突然のその動きに何が起きているかも分からず少し唖然としている。

 

「ぼ、ぼくもいきます! 」

 

「ネギ!? 」

 

「ネギ先生! 」

 

同じように二階から飛び降りた僕に向かって、彼女達は上から呼び掛けた。振り返ると、皆心配そうな顔を僕に向けている。

 

「大丈夫です。少し様子を見てくるだけですから。皆さんはここにいて下さい」

 

茶々丸さんに、皆をお願いしますと頭を下げて、僕も家の外へと飛び出した。

 

 

 

そして、予想外の状況を、僕は目にしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………どういうつもりだ」

 

エヴァンジェリンさんが爪を立て、敵意を向けつつ前にいる相手に尋ねる。僕も目の前の状況が良く理解できず、未だに戸惑っている。桜咲さんは刀の柄に力を込めて前の者を睨んでいるが、それでも不信に思っているのは同様のようだ。

 

「…………どういうつもりもなにも」

 

僕らの前にいた白髪の少年が、肩を竦めた。

 

「君達の敵を捕まえたのだけれど」

 

彼の横には、眼鏡をかけ着物を着た女性が、石のように固まっていた。この人は、総本山へ向かう時に小太郎君といっしょに僕を襲った人だ。

石像となったその女性を見て、昔のトラウマが蘇り、僕は息を飲む。

 

「貴様、仲間を裏切ったのか…………っ! 」

 

「仲間だなんて言った覚えはないよ。それに僕はもともと西洋魔術師だ。スパイだった、とでも言えば信用してもらえるかい」

 

淡々と、表情を変えずに彼は告げる。確かに、このように石にするのは、魔法だ。石化について良く調べたことがある僕には、それが嫌なほど分かった。

 

「他の人は……? 」

 

「剣士の方は逃がしてしまったけど、犬耳の少年はそこらで倒れている筈だよ」

 

僕の質問にも堂々と返す。先程の鈍い音は、戦闘した時の音だったのだろう。

 

「……目的はなんだ」

 

「…………目的? 僕は魔法使い。悪を倒すのは当然だ。そういうものなんだろう? ネギ君」

 

彼は、僕に視線を向けた。敵意を向けられた訳ではないが、警戒して僕は杖を強く握る。

 

「惚けるなよ」

 

一気に、肌寒くなった。エヴァンジェリンさんから黒く冷たい空気が溢れ出ている。側にいるだけで肌がヒリヒリと痛くなった。多分、これが殺気というものなんだろう。

 

「貴様は確かに七海を狙っていた。そんなやつが今更此方側だった、なんて信じる訳もない」

 

エヴァンジェリンさんは、鋭い視線を維持したまま彼を指差す。

 

「本当のことを言え。嘘をつく、もしくは納得出来ない話をしたら、貴様は殺す」

 

その発言を訊いて、桜咲さんは腰を落とした。殺すとまでいかなくても彼女に同意だ、と示すよういつでも刀を抜けるような体勢をとっている。僕も杖の先を彼に向ける。能面で人形のように淡々と述べる彼を、僕も信用出来なかった。

 

白髪の少年は、一度溜め息を吐いてからゆっくりと語り始めた。

 

「…………少し前までは、僕は確かに君達の敵だった。でも、信用されるかは分からないけど、少なくとも今の僕は君達の敵ではない」

 

どこまで本当のことを言ってるかは分からない。僕達は、警戒の姿勢を崩さなかった。

優先順位が変わったからね、と彼は続けた。

 

「優先順位、とはなんのことだ」

 

「詳しくは言えない。でも、今の状態のほうが僕達にとってベストだった。だから、裏切った」

 

彼にとって、関東側につく方が良くなった、と言うことなのだろうか。それに「僕達」とは。情報が足りない。

訊きだしたいが、彼はこれ以上は言うつもりはないと語尾を強くする。

 

「……貴様が裏切るとしても、わざわざ元味方を捕まえる必要はなかっただろう」

 

「そうだね。僕もそのつもりで、彼女達の元を去った。彼女達の目的についてはどうでもよかったから。だけど、方法が良くなかった。彼女は―――」

 

彼は、ゆっくりと腕をあげ、お父さんの家を指差す。

 

「―――あそこにいる一般市民を目標とした。無力な者を狙えば、君達は守りに入らざるを得ない。そうすれば勝機があると考えたんだろうね」

 

「…………それでもやはり納得いかん。貴様、七海を狙っておいて、一般人を巻き込むのは許せなかった、などと善人ぶるような輩ではないだろう」

 

彼は、僕達一人一人をゆっくりと見た。それから、お父さんの家をじっと見つめる。まるで、その中の人物に用があるかのように。

 

「…………彼女は」

 

彼の顔は、やはり無表情であった。しかし、何となくだけど、先程よりも言葉に込められた感情が見えたような気がした。

 

「大切な存在だからね。傷付ける訳にはいかない」

 

「っ! それは、どういう―――」

 

「ここまでだね。これ以上は、言えない」

 

「―――待てっ!! 」

エヴァンジェリンさんが、無詠唱で氷柱を出現させて投げつける。しかし、それが当たる前に彼は姿を消した。彼が居たところを見ると、水溜まりが出来ている。

水を使ったゲートだ、とカモ君が呟いた。話をして時間を稼ぎながらも、転移の用意をしていたのかもしれない。それを気付かせない彼の実力が如何に高いかが、はっきりと分かる。

エヴァンジェリンさんは強く音を立て舌を打った。

 

「…………とりあえず、長に連絡をとります。今の話と、後始末は任せましょう」

 

桜咲さんはそう言って、通信用の護符に話かけだす。

 

エヴァンジェリンさんが放った氷柱と冷えた空気。そして、何か釈然としない思いが、この場に残った。





時系列的に本編に組み込みにくかったので、ここで捕捉の話を。
読まなくても問題はない筈。多分。
興味がある方はどうぞ



「なんや、あそこ」

双眼鏡を覗きながら、彼らが入った家を見てうちは呟く。
うちらは今、魔法使いのガキ一同をかなり遠くから観察していた。闇の福音にばれるわけにはいかないため、あまり近寄ることは出来ない。

「千草の姉ちゃん。ええからはよ攻めようや」

「黙っとき小太郎。闇雲に攻めても勝ち目はないんや」

彼らが家に入って動きを止めたのを確認して、うちらは慎重に近付いていく。人目がない場所で目標が足を止め、敵が外を見えない今こそチャンスだ。

「……俺、やっぱ気ぃ乗らんわ。人質とか。まどろっこしい」

小太郎は、ぐちぐちと呟く。
昨日の夜、うちらの立てた作戦は、一緒にいる一般人を人質にしてしまおう、というものだ。うちやって民間人を巻き込むのが性に合うわけではない。狙ったお嬢様でさえ特に危害を加える気はなかったほどだ。
だが、この状況下でそこまで生温い事を言うほど善人ではない。

「小太郎、あんた嫌なら帰りぃ」

「……ネギともっかいやるまでは帰れん」

小太郎はあまり同意しなかったが、それでも魔法使いのガキとやる方が彼にとって重要らしく、文句を垂れながらもついてきた。

「そろそろ止まりましょ~。これ以上近付くとばれますわぁ」

うちらよりちょっと先にいた月詠はんが制止をかける。一番の実力者である彼女に、うちは黙って従った。

「ほんで、どうするつもりなんですかぁ」

「……せやな」

うちは、自分の胸元をまさぐりから符の束を取り出した。

「妖怪を一気に召喚して、あんなかに攻めさせる。見たとこ狭い家やし、混戦状態にさせれば一人くらい連れる筈や。月詠はんも、百鬼夜行を頼むわ」

うちの魔力じゃ、精々数体が限度。やけど、符の力を借りに借りればそれなりの数は揃えられる。新入りの置いていった金もあるし、準備には困らんかった。


そして、符に力を込め妖怪の召喚をしようとした所で、突然目の前に見覚えのある影が現れた。

「……っ! ……って、なんや新入りかいな。びびらせよって」

影の正体は、抜けた筈の新入りだった。びびらせたことも腹が立つが、今更現れたことにもムカついた。

「なんのようや」

「君達は…………」

新入りはうちら三人を順に見る。

「何をするつもりなんだい」

「っは! なんや、やっぱ戻ってきたいんか? 」

「…………」

馬鹿にしたように言うが、やはり奴は無反応。面白くない。

「今からあの家にいる奴等を攻めるんや。協力する気なら今のうちやで」

報酬金は払わんけどな。

「…………あの中にいる人全員がターゲットかい? 」

「……んん? ああ、そうやけど」

妙なことを気にするな、と思いつつ顔をあげると。

―――気付けば、目の前には新入りの指先があった。

「ヴィシュ・タル・リ・シュタル・ヴァンゲイト」

「……は? 」

「っ! 姉ちゃん! 離れんと! 」

状況が、今一理解出来なかった。昔から咄嗟の出来事には弱かったのを何故か思い出していた。師匠には、お前は柔軟性がねぇなぁとよくぼやかれていた。不貞腐れたうちに、でもお前は頭がいいからな、と髪の毛をぐしゃぐしゃとされた感触が蘇っていた。何故か、昔の記憶が次々と頭を巡った。
動けないうちを前に、新入りは呟きをやめない。

「―――石の息吹 」

「……っな! 」

奴の手から、煙が飛び出す。
危険を察した小太郎と月詠はんは、すぐさま離れていくのが見えた。

逃げ遅れたうちは、意識が止まり、すぐに何も考えられなくなって、視界が、閉じて……。


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50話

今日3話目です。


 

「みなさーん! 帰るまでが修学旅行です! 節度を持って新幹線にのりましょー」

 

「「はーい!」」

 

 時間は、9時半を少し過ぎた頃。ちょうど出勤ラッシュが落ち着き始めた時間ではあるが、周りにはまだスーツ姿の人がちらほらと見える。また朝が来てしまった、という表情の人もいれば、やっと朝が来た、という表情の人もいる。

 そんな中で、プラットホームの合間から射す僅かな光を浴びている生徒の声が、元気よく響く。隣にいた会社員らしき男性は、その声の大きさにびくりと肩を揺らしてから、怪訝な目で私達を見た。その視線を感じとった長谷川さんは若干恥ずかしそうに、幼稚園児かよ、と愚痴る。

 

 新幹線がホームにつくと、手を挙げて先頭を立つネギ先生の後ろをぞろぞろと生徒達が連なり、その中へと入っていく。それぞれの持つ荷物が行きよりも随分大きくなっているのは、買いすぎたお土産のせいなのだろう。順に生徒を目で追うと、京都らしい和紙で出来た紙袋をいくつも手に持った龍宮が新幹線に乗り込むのが見えた。確かあの袋は、京菓子として有名な店のものだった覚えがある。

 

 どんどんと生徒が新幹線へと吸い込まれていき、私もそこに飲まれようと足を上げた所で、声が聞こえた。

 

 ―――楽しかった、また来たいね。

 

 ―――うんうん。ほんとほんと。

 

 誰かの呟きに釣られて、他の子達も頷きながら去るのを惜しむように答える。そんな無邪気な声を聞いて、私は一人満足げな顔をした。

 

 

 修学旅行5日目。今日で、短くも長くも感じたこの旅は終わりを告げる。

 

 

 ○

 

 先日、エヴァンジェリン達が別荘から出ていった後、私達は家の中で少し待った。音沙汰のないネギ先生達を心配した明日菜達は何度か外を覗こうとしたが、それらは全て茶々丸によって妨害されていた。力では茶々丸が圧倒的で、いくら明日菜とあやかと言えどもそれを突破することは敵わなかった。

 理由も分からず、むしろ室内に閉じ込められたような圧迫感を感じていた様子の明日菜だが、茶々丸の真剣な表情を見ると大きく文句も言えなかったようだ。不満げな表情を浮かべることしか出来なかった明日菜が、不満を苛々に変換させる少し前のタイミングで、ネギ先生が戻ってきた。

 明日菜は即刻ネギ先生に詰め寄り、何があったのかと肩を揺すりながら尋ねた。

 

「え、えっとですね…………」

 

 横暴に激しく揺らされたネギ先生は、目を回しながら説明を始めた。

 

「…………へ? 事故? 」

 

「……はい。女性が一人怪我をしてしまったので、桜咲さんとエヴァンジェリンさんは、……えー、病院まで連れていきました。彼女達が戻ってくるまでここで待ちましょう」

 

 微妙にしどろもどろになりつつも、ネギ先生は言った。その話を聞いて、彼女達はそんな事情だったの、と曖昧に返事をした。明日菜も長谷川さんも、納得しきれない表情であった。ただ、それを否定する材料もなく、事実桜咲とエヴァンジェリンはこの場にいないので、私達はその場で待つしかなかった。

 

 …………私は、ネギ先生の話し方から外で何か言いにくいことが起こったのは察することが出来た。しかし、彼が言うべきでないと判断したなら追及しない方がよいのだろう。

 

 そう考えた私は特に追及することなく、皆と共にエヴァンジェリン達を待った。

 

 それから、エヴァンジェリンと桜咲が帰ってきた。何故か、エヴァンジェリンの顔は不機嫌である。どうしたのだ、と桜咲に視線で聞くが、彼女は微妙な顔でしか答えてくれず原因は分からなかった。

 ともかく、私達はネギ先生の父親の別荘を後にした。

 

 外に出たはいいが、次の目的地ははっきりとしていなかった。先ほど観光場所について声を荒げたエヴァンジェリンを皆でじっと見るが、眉を寄せながら特に何も言わなかった。そんな彼女になんとなく気を使って、とりあえず銀閣寺でも向かおうか、と誰となく提案した。彼女の機嫌をこれ以上損ねることはないと皆の中で意見が一致していたのだ。

 

 それから、全員で京の街を再び歩いた。歩く。…………歩くのだが、私だけ明らかにペースが遅い。原因は、私にぴったりと張り付くエヴァンジェリンだ。彼女は昨日以上に私の側にいて、それはもう歩きにくい。さらには、周りをギラギラとした目で注意深く観察していた。

 

「ちょっと! エヴァンジェリンさん! 七海に引っ付きすぎなんじゃありませんか!?」

 

 いよいよ気になったあやかがエヴァンジェリンを引き剥がそうとする。しかし、彼女はびくともしない。

 

「うるさいぞ。私は集中しているんだ」

 

「何にですの!? 」

 

 目の前にあやかまで加わって、言い争いを始めた。つまり、歩きにくさが倍増した。その上着物まで着ているのだ。このままでは目的地につく前に私の体力が底をつくのは火を見るより明らかであった。

 

 助けを求めるために、他の子達に視線でこの状況の辛さを告げた。しかし、私と目の合ったものは順に首を振った。どうにもできない、と。二人の間に割り込んでも一蹴されるのが目に見えていたのだろう。

 

 ……ああ、そうだな。やはり最後は自分で言わねばならぬものなのだ。二人が私を思ってくれるのは分かるのだが、このままでは私が倒れてしまう。

 

 そう考えた私は、意を決して口火を切った。

 

 

「エヴァンジェリン、あやか」

 

 目前で未だに口論を続ける二人を、私は呼び掛けた。

 

 

「……………………頼むから一度離れてくれ」

 

 

 ガーン、と本当に擬音が聞こえるかのようにショックを受けた二人の表情は、はっきりと脳裏に焼き付いた。

 

 

 ○

 

 

 その後は、本当に平和な修学旅行であった。

 エヴァンジェリンと前よりほんの少し距離を作ったまま銀閣寺に行って、色々と観光をした。そうこうしているうちにエヴァンジェリンはテンションを取り戻していったし、池田屋でご飯を食べてるときには初日のようなはしゃぎっぷりを見せた。

 普段の教室では見せないようなその姿は、他の生徒との距離を縮めるのにも有効だったようだ。

 新幹線の中で挑発されながらトランプを誘われる程度には、以前より壁が無くなった気がする。負けるの怖いの、と聞かれたらすぐにゲームに乗ると分かる程度の仲にもなったように思える。

 

「七海。はやくひけ」

 

 という訳で、現在トランプ中である。三人用の席を一つひっくり返し6人で座れるボックス席を作って、私達は向かい合って座っている。繰り広げられているゲームは、同じ数を二枚揃えれば勝ちという最も単純で明快なものだ。

 

 エヴァンジェリンは、ほら、と私の前でヒラヒラと札を揺らした。どうやら、最後の一枚のようである。

 

 相手を勝たせると分かっていながらも最後の一枚を引かねばならぬとは、負けたときの悔しさを倍にするシステムだと思う。私このゲームに性の悪さを感じながら、すっとその札を抜く。自分の手札と見比べると同じ数字はなく、更に損した気持ちになった。

 

「くはは、また私の勝ちだな! 」

 

「え、もう!? エヴァちゃんやっぱズルしてんじゃないの?」

 

「五回やって五回一位か……。一応運ゲーな筈なんだが」

 

 怪しむ様に睨んだ明日菜と長谷川さんに対して、エヴァンジェリンは鼻で笑った。

 

「バカめ。そう考えている時点で間違いなのだ。バレないサマはサマではない。更に言えば、視線と手の動きだけで誘導を仕掛ける高度な遊びだぞこれは」

 

「イカサマしておいて何で偉そうなんですの……」

 

「マスター、本気の出し所が変わってきましたね」

 

「………その場合、私はまんまと誘導されてた側だな」

 

「七海。悲しいが、勝負の世界は非情なんだ」

 

 会話をしながらも、私達は誰かのもつトランプにトランプにと手を伸ばしていく。求めるように手を伸ばすが揃えば捨てるというのは、ある種悲しみを覚える。

 明日菜は長谷川さんから札を取ると、ゲッ、と声を漏らす。どうやら最も嫌われている札はあそこにあるようだ。

 

 私達のやり取りを見るのにも飽きたのか、手持ちぶさたとなったエヴァンジェリンは、捨てられたトランプ達の側にあった菓子袋へと手を突っ込み、チップスを掴んだ。

 

「あ、それ! 私のお菓子! 」

 

「私だけとる札がないんでな。代わりにこれを一枚とろう。大体、お菓子ごときに執着するな」

 

「そういう訳じゃなくて! 最低限の礼儀ってのがあるでしょ! 」

 

「残念だが、敗者にかける礼儀はない」

 

 ボリボリと咀嚼する音を立てながら、エヴァンジェリンは得意気な顔をする。明日菜はそんな彼女を睨み付けながら茶々丸の持つ最後の一枚を引いた。

 

「上がりです」

 

「……え? あれ? 他の人は? 」

 

「とっくに上がってますわ。つまり、明日菜さんがまたビリです」

 

「五回やって五回ビリか……。神楽坂もサマしてんのか? 」

 

「してたらこんなに負けないわよ! 」

 

「明日菜は挙動が分かりやすいからな」

 

 昔から、明日菜は絶望的にババ抜きが弱かった。ジョーカーを持ったら即座に顔をしかめ、相手がジョーカーを抜こうとしたら笑みを抑えきれなくなる。つまり、明日菜にジョーカーが渡った時点で勝負がついてしまうのだ。エヴァンジェリンが、よくその腕で挑発出来たな、と最早呆れていた。

 

「皆さん元気ですねぇ」

 

 もう一回、と明日菜がトランプを切り直してる所で、ネギ先生が私達に声を掛ける。彼に目をやってから周りを見渡すと、流石のA組でも疲れたのか、すやすやと眠っている生徒が何人かいた。

 

 あやかがネギ先生も参加するように誘うが、席の間の通路に立っている彼は、見回り中です、と笑った。

 

「もう終わってしまいますが、修学旅行はどうでしたか? 」

 

 ネギ先生は、私達皆に尋ねた。恐らく、起きている人皆に聞いているのだろう。彼も教師という職業が板についてきている気がした。

 

「うーん。あっという間だったわねー」

 

「……四泊五日と聞いた時には長く感じたが、過ぎれば短く感じるもんだな」

 

 長谷川さんが思い返すように目を伏せて答える。

 

「何より、木乃香さんと桜咲さんが仲直り出来たのが良かったですわ」

 

 あやかがしみじみと言った。その視線を追うと、桜咲と木乃香が肩を寄せあって眠っている姿が見えた。二人が仲を取り戻したという事実だけでも、この旅行に価値はあったと思えた。

 

「七海さん。あなたはどうでしたか? 」

 

 ネギ先生が、私に顔を向けた。

 

「…………そうですね」

 

 ―――思い返せば、色んなことがあった。前世で住んでいた京の街は、やはり懐かしかった。虫取はあまり出来なかったが、それでも少し珍しいものは取れた。気付かぬ間に私も狙われていたらしいが、結局よく分からなかった。友が仲直りするなどの良いことが沢山あった。多少バタバタとしたが、やはり、感想はこの一言である。

 

 

「…………楽しかったです」

 

 

 捻りのない答えだが、素直にそう思う。皆と来れたこの旅行は、楽しかった。

 

「そうね! 楽しかったわ! 」

 

 明日菜ははしゃぐように私に同意した。

 

「茶々丸さんもエヴァちゃんも、楽しかったよね? 」

 

「……はい。楽しかったと、思います」

 

「ふん。普通だ、普通」

 

 強がるように答えたエヴァンジェリンに、長谷川さんが溜め息をついてから突っ込む。

 

「どうみてもマクダウェルが一番楽しんでたぞ」

 

「っば、バカを言うな! ガキじゃあるまいし旅行くらいではしゃぐか! 」

 

「マスター、動画を再生して確認できますが」

 

「いらんわ! 」

 

 わあわあと彼女達はいつも通り騒がしくなった。他の生徒は眠っているのに、元気が過ぎるようだ。その姿に苦笑しているネギ先生を見て、私は尋ねた。

 

「ネギ先生、あなたはどうでしたか? 」

 

 ネギ先生は、すぐに嬉しそうに笑った。

 

「はい! 色々ありましたけど、すっごく楽しかったです! 」

 

「…………それはよかった」

 

 私も笑いながらそう返した。







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51話

 目の奥まで射し込んでくるような光を感じて、私は片手で顔の半分を隠すよう覆う。それから、ゆっくりと力を込めて瞳を開いた。

 

 …………この光景にも慣れたものだ。

 

 目の前で堂々と聳える世界樹を臆すことなく眺めながら、私は思った。大きな傘のように伸ばした世界樹の葉と枝の合間から白い光線が射し込んで、僅かに浮かぶ塵がゆらゆらと光らせる。それがまた、幻想的に感じた。

 ぐっと掌を握り込み、小指から順に開いていく。今回(・・)も、しっかりと身体は動くことが確認できた。

 

 ちらほらと落ちる深緑色の葉を避けながら、私は足を前にと出した。ぼこぼこと隆起させながら伸びる蛸の足のような根を避けて、世界樹へと近付く。地に足がつく度に、しゃりしゃりと心地好い音が耳に響いた。落ちた葉を踏んだ足にはまるで毛布を踏み込んだような感覚がして歩きやすい。体がいつもより軽く、ほわほわとした夢幻的な空気が周りを覆っているように思うのは、ここが現実ではないからなのだろうか。

 

 世界樹の根元付近まで来たところで、視線を上げ、幹を見た。静かに雄々しいその木からは、巨大で薄黒い血管が脈を打っているかのような躍動感を感じる。

 更に顔を上げ幹の中央辺りまで見ると、やはりと言うべきか、いつものように黒いローブを着込んだ人がいた。自然だけが溢れるこの世界にいる彼は、異質な空気を放つことも加わって、より浮いた存在に見える。私も人のことは言えないのだが。裾も丈もあまりに長いローブは、日常生活では不便そうである。しかし、長く切れ切れとしていてボロボロではあるが、骨董品のようなどこか神秘的な雰囲気を漂わせた。

 

 木の幹に深々と縫い付けられるようにしている彼は、今日もまったく動けそうではない。

 

「……やぁ」

 

 私はゆっくりと右手をあげた。

 フードがぴくりと動く。顔をあげ視線を此方にむけているようだが、深くかぶり過ぎているフードと上から射す強い光のせいで、彼の顔はよく見えない。

 

「…………また貴様か」

 

 抑揚もなく、彼は呟く。夜の湖にそっとできた波紋のように静かで、暗い、内心の読めない声だ。

 

「調子はどうだい? 」

 

「…………」

 

 彼は、私の問い掛けに答えない。動けない彼に調子を聞くのは、配慮が足りなかったかもしれないと、私は少し反省した。

 

 私は、世界樹に背中から寄り掛かり、身体を託した。世界樹を中心とするこの世界には、世界樹以外には何もない。そのまま、コツりと後頭部をも世界樹に任せ、上目で彼を見た。

 

「今日は、そっち(・・)なんだな」

 

「…………」

 

 ぴくりともせず、相変わらず無言だ。もしかしたら、さっきの問いかけに気を悪くしたのかもしれない。やはり怒っているのだろうか。顔が見えないため、それすらも判断がつかない。

 

 もう一度、私は彼に声を掛ける。

 当然のように、また無言である。

 

 だめか、と私は肩を竦めて自虐ぎみに笑い、ゆっくりと世界樹の幹の側で腰を下ろした。古臭さを感じる木の香りが鼻を掠める。寄り添うと、世界樹は私になんとも言い難い安心感を私に与えてくれた。

 ここでゆっくりできる時間は、悪くない。

 

 そんな風にしばらく景色を眺めいると、上からため息が聞こえる。呆れる、というよりも、本気で鬱陶しいと思っていることがよく伝わる息の吐き方であった。

 

「…………何のようなんだ」

 

 また静かな声で、彼は私に訊く。

 

「君とも、話がしたいと思ってな」

 

 彼がどうしてここにいるのか、彼が何者なのか。それらの問いに対しては、どちらの彼も答えをくれなかった。

 しかし、せっかく結ばれた縁だ。

 話をしたいと思うのは、悪いことではないだろう。

 

「馬鹿め」

 

 彼は切り捨てるように呟く。そしてまた、黙った。

 

 彼と話せるようになるには時間が掛かるかもしれない。

 

 世界樹から落ちて舞う葉を見ながら、私は一人苦笑した。

 

 

 ○

 

 

 修学旅行が終わり、麻帆良へと戻ってきて少ししか経っていないが、私にとって大きく変わったことがある。

 

 それは、世界樹の薬の影響だ。飲むと世界樹が聳える世界へと意識が飛び、5分ほどそこにいるようになった。時間については、誤差範囲だが服用する度に妙に延びている気もする。体が薬と適応してきているということだろうか。意識があっちにいる時は、現実世界の私の体は眠っているようで、服用するタイミングは気を付けなければならない。部屋で飲んで意識があちらに飛んでいる時にちょうどあやかが訪ねて来た時には、えらく心配された。

 しかしまぁ、現実世界での体調も悪くなく、よく分からない副作用はあるものの、薬としての効果はしっかりと発揮されているようである。

 

 

 世界樹の世界には不思議が多いが、その中でも一番興味深いのは彼の存在だ。

 その彼と初めてコンタクトを取ったのは、ちょうど体が動かせるようになった時である。

 

 一番最初にいつもと違う感覚がしたのは、修学旅行が終わり麻帆良に戻ってすぐ薬を飲んだ時だ。恒例のノイズの後、目を開けると、体に不思議な感覚がした。自分の意思に従って、視界が動く。頬に手をやると、手がちゃんとあるし、頬にも感覚がある。

 今までは俯瞰するしか出来なかったこの世界で、動けるようになっていたのだ。

 

 京都では見ることしか出来なかった世界に入り込めるようになったのは、麻帆良では恐らく媒体となっている世界樹との距離が近いからだろうと考えたが、正解かどうかは分からない。もしかしたら、単に薬が体に馴染んだからなのかもしれない。

 

 ただ、これだけは言える。

 世界樹と私だけの世界は、世界樹の薬によってリンクされたようだ。

 

 何故そのようになったかという理屈はどうあれ、私はその時も今のように世界樹に近付いた。そして、何一つ動かない黒ローブの彼を見つめた。陰鬱で重苦しい雰囲気を放つ彼の顔はやはり見えなかったが、とりあえずと、駄目元で声を掛けてみると、動きが見えた。それから、私と彼の縁は結ばれたのだ。

 

 その後は薬を飲んでこの世界にダイブする度に、彼に話しかけている。

 

 彼には、珍しい特徴があった。あの服装もそうなのだが、あの時、そっち(・・)、と尋ねたのには理由がある。

 彼は、二重人格というのだろうか、二通りの性格があるようだった。あそこに行くときによって、一昔前のヤンキー調を感じるしゃべり方でどこか人懐っこさがある時と、物静かで冷たく人をはね除けるような雰囲気を出す時がある。

 対照的なその人格は、お互いをあまりよく思っていないようだった。まだほとんど話したことのない私でも、二人の性格はまさに水と油のようだと感じていた。

 

 

 

 

「どういうことだそれは」

 

 一通り世界樹の世界について話すと、エヴァンジェリンは鼻水をずずずと啜りながら怪訝な顔をした。ログハウスの中に、彼女が鼻をかむ音が響く。

 

「……花粉症か? 」

 

「そうだ。鬱陶しくてたまらん」

 

 ずるずるという音がまた響いた。私は花粉症にかかったことがないのでその辛さはよく分からないが、大変そうだとは思った。……しかし、吸血鬼も花粉症にかかるのか。

 

「それで? その世界樹の世界ってのには他に何かないのか」

 

「世界樹の幹に二重人格の男がいることぐらいだ」

 

「訳がわからんぞ」

 

 エヴァンジェリンは眉間に寄せた皺を深めた。

 

「そいつは何者なんだ」

 

「分からない。動きづらそうなローブを着ていた」

 

「微妙な情報ばかりじゃないか」

 

 彼女はさらに呆れた顔をした。

 

「アルには言ったのか? 」

 

「ああ、お土産を渡しに行ったときにな」

 

 

 

 京都で買った八つ橋を片手に、私はアルビレオさんのいる場所に一人で行った。どうせならお茶でも、と机に案内されたので、その機会にこのことを伝えた。

 彼は、私の話を考え込むように瞳を閉じながら訊いていた。

 

「…………その、彼は……。いえ、まだ何とも判断が出来ませんね。状況が変わるようなら、またお話下さい」

 

 彼は意味ありげな表情をしつつ、紅茶を口にしていた。もしかしたら何か思い当たることがあるのかもしれない。追求するように尋ねても、はぐらかすばかりで答えをくれなかったが。

 

 

 

「…………そうか。私より先に奴に言ったのか」

 

 エヴァンジェリンは腕を組んで、口をへの字に曲げた。

 

「……エヴァンジェリン? 」

 

「怒ってないぞ」

 

 そう言いつつも、彼女は不機嫌そうな顔だ。

 

「私は怒ってない」

 

「…………えーと」

 

「明智さん、マスターは妬いてるんです。自分が一番じゃなかったので」

 

 コトリと、私の側に湯呑みを置きながら、茶々丸は私にそっと耳打ちした。ああ、そう言うことか、と私は納得しながら彼女を見る。

 

「怒ってない」

 

 エヴァンジェリンはむすっとした顔で、鼻を啜りながら同じ言葉を連呼した。

 修学旅行でも、その前からも、私の身体を一番に案じてくれたのは彼女だ。ならば、確かに私は彼女にこそを一番に言うべきだった。

 

「次からはすぐ君に言うよ」

 

「…………ふん。そうかそうか」

 

 彼女の口はまだへの字であったが、声音は少し柔らかくなった。それから、少し雑談を挟み茶々丸からお菓子を貰っていると、いつもの調子に戻った。単純だなぁと、胸の内で思い苦笑したのは秘密だ。

 

「……そうだ、七海」

 

 エヴァンジェリンは大福をかじりながら私に訊く。

 

「白髪のガキには会ったか? 」

 

「白髪のガキ? 」

 

「京都で一度見たと言っていただろう」

 

 ああ、と言葉を吐くと同時に、私は思い出した。ライトトラップで虫を集めていた時にいたあの少年のことだろう。

 京都では、エヴァンジェリンから実は敵だから近付くなと念を押されたが、結局あの後は会わなかった。

 

「彼が、どうかしたのか? 」

 

「…………麻帆良に来ている」

 

 エヴァンジェリンは苛立ちを込めた声で静かに言った。相当彼のことが気に入らないようだと、その声からもよく分かった。

 詳しく事情を訊くと、彼はこの麻帆良に魔法生徒(・・)として正式な手続きを組んでやってきたそうだ。京都では敵を裏切って捕まえたという実績もあり、かなり上からの命令であったため学園長も受け入れを断れなかったのだとか。

 

「なら、彼は味方だったのか? 」

 

「それが分からん。しかし、学園としては妙な後ろ楯もあるため理由もなく無下にも出来んのだろう。私が直接手を出してもいいのだが、麻帆良が今後どんな影響を受けるか分からん以上得策とも思えん。今は、いつ尻尾を出すか注意深くする必要がある」

 

 だから、とエヴァンジェリンは私に呼び指した

 

「奴には気を付けろよ。おそらく七海には手を出さんだろうが、奴は何かを狙っているようだ」

 

「何か? 」

 

 訊けば、彼は初めて会ったときは私を狙っていた様子であったが、その次は私を庇うような言動をしていたという。その情報だけ訊いても、私には思い当たる節がないためなんとも言えなかった。

 

「世界樹の薬、ってのが濃厚だろうが、奴にそこまで漏れたとも思えんのだ。しかし、ひとまずあれを持ち歩くのは控えろ」

 

 確かに、世界樹の薬は珍しい物なのかもしれない。そういえば、魔法使いがこの薬を飲んだら何か変わるのだろうか。

 魔法使い、というワードが頭に浮かぶのと共に、最近耳に挟んだ話が気になっていたことを思い出した。

 

「そういえば、ネギ先生を弟子にとるとか言う話を聞いたんだが」

 

「っは! あの坊やのことか! 」

 

 エヴァンジェリンは、急に苛立ち気味に言葉を吐いた。どうやらこれは、機嫌を損ねるスイッチだったらしい。

 

「こっちに戻ってきてから何度も弟子入りを頼んでくるんだ。熱心なのはいいが、あそこまでくると暑苦しい」

 

「でも毎回ちょっと嬉しそうですよね、マスター」

 

「お前はそればっかだな! 」

 

 明日菜が言うには、彼はエヴァンジェリンの家に訪れる度に、弟子にしてください、と頭を下げているらしい。エヴァンジェリンは毎回面倒だと言う理由で断っていたようだが、明日菜も一緒に頼み込んだ時にようやく話を訊いてもらったのだとか。

 

「魔法使いの事情については詳しく知らないが、あんまり彼を苛めないでやってくれよ」

 

「こればかりは七海の言うことでも訊けんな。甘い世界ではない。一応テストはしてやるが、あまり期待しない方がいいだろう」

 

 エヴァンジェリンはそう言って、鼻を啜ってから湯呑みに唇を当てた。






小ネタ
『京都の夜』
時系列的には、46話と47話の間





目を開けると、部屋は暗かった。時計が近くにないため時間は分からないが、かなり遅い時間ではある気がする。高級そうな布団は、やはり見た目通りのふかふかさで、心地よい。だがこのように目が覚めてしまうと、私はあまり長く布団に居られないタイプであった。
暗闇に慣らした目を擦りながらゆっくりと立ち上がり、床を凝視しながら他の寝ている子達を踏まないように歩く。桜咲と木乃香の姿はまだ見えないため、まだ話をしているのかもしれない。そろりと泥棒がするような足の動きをしながら皆の様子を見ると、あやかは綺麗に布団を被って寝ているが、明日菜は布団をひっくり返すかのような寝相の悪さで、その対照的な姿が少し面白かった。

「……ん、七海。どこにいくんだ」

私が動き出したためか、エヴァンジェリンはそっと目を開けて寝た体勢のまま私に尋ねる。

「起こしてすまない。少し、夜風に当たってくるよ」

「……そうか。決して、屋敷から出るなよ」

そう言って、エヴァンジェリンは寝返りを打った。彼女が夜中に寝ているイメージはあまりなかったが、今日1日昼寝をする暇もなかったため、浅い眠りではあるが体を休めているようだ。私は彼女に忠告に頷いてから、静かに襖を開けて部屋から出た。

廊下から庭を見ると、やはり見事な庭園と桜の木があった。その風景にまた感嘆としつつも、私は廊下を進んでいく。四月も終わりという時期なのに、夜はまだ風が若干冷たい。しかし、その冷えた風も気持ちがよかった。

さらに先にある庭園を見ると、うっすらと白く細い煙が立ち上がっているのが見えた。妙に気になって、私は縁に置いてあった下駄を借りて庭に出て、そこまで近寄る。カツカツと、地面を鳴らしたため、そこにいた人は振り返って私を見た。

「…………やぁ、君でしたか」

優しく私に微笑みかけたのは、煙草をくわえた木乃香の父であった。

「眠れませんか? 」

彼は、煙を吐きながら私にそう訊ねた。

「いえ、少し目が覚めてしまっただけです」

穏やかに彼は笑った。そのおっとりとした様子はやはり木乃香に似ていて、二人が親子であることを再認識した。

ふわふわと煙を上げる彼を見ながら、私は縁側に腰を下ろす。煙草の匂いを嗅いだのは久しぶりであった。私は彼の煙草に不快感を覚えたりはしなかった。

「……あなたは、エヴァンジェリンの―――」

「友人です」

私が食いぎみに答えると、彼は一度目を大きくしてから、また優しく笑う。

「そうですか」

感慨深く感じながらも、嬉しそうな声であった。

「……彼女は、難しい人です。私たちには想像出来ないくらい、長く、長く生きて、色んな事を経験してきている。色んな、なんて簡単に表現するのは、彼女にとって失礼かもしれませんが」

「……私は、エヴァンジェリンを難しいと感じたことはありませんよ」

それどころか、私は、彼女は純粋であると思っていた。自分に素直で、欲望に忠実で、やりたいことをやってのける。そんな強さを彼女に感じている。

「……友人というのは、いいものですね」

私の返事を聞いて、彼は独りでゆっくりと頷いた。
煙がまた、空を舞う。闇夜に泳ぐ真っ白なもやは、雲のようにも見えた。

「心配、ですか? 」

「それはもう。親ですから」

やはり彼は、木乃香と桜咲のことを、気にしているようだった。

「私は木乃香だけでなく、刹那も自分の子供のように思っています。だから、小さい頃に二人が仲慎ましくしてる様子を見て、私は嬉しかった」

思い出を頭に浮かべながら、彼はしみじみとそう言った。

「……刹那に、護衛、等と言う役割を与えたことを、少し後悔しています。二人の間に理由を付けてしまったことで、仲が拗れていたようですから」

私のせいみたいなものです、と続けて、彼はそっと目を伏せる。


「……きっと、大丈夫ですよ」


私が微笑みながらそう言うと、彼はじっと私を見た。


「貴方の二人の子供は、優しくて、清い。今は少し距離が出来ていますが、それでも、二人ならきっとまたすぐ仲良くなれる。私はそう思います。二人は友達なんですから」

弱々しい風が吹く。その風は、私の髪をそよそよと揺らし、煙草の煙をゆっくりと移動させた。

「……タカミチ君が言っていた事がわかりますね」

ふふ、と彼は笑った。やっぱりその笑顔は木乃香によく似ていた。


「確かに、君には何でも話したくなる」


煙と共に、桜の花弁がひらひらと舞った。






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52話

 心地良い天気の日だ。空を見れば雲はあるが、青々しい部分もしっかりと主張している。麻帆良は、天気の良いときが多い。少々騒がしさはあるが、過ごしやすい街だと思う。

 

 まだ日も落ちてない時間にエヴァンジェリンの家を出た私は、ゆっくりと外を歩いていた。これから、大学の研究室に顔を出すつもりである。

 

 歩き慣れた中等部の敷地を、悠々と進む。部活動に励む生徒の爽やかな声が、麻帆良の空を飛び交っている。こんな風に騒がしい学内を歩けるのもあと一年だと思うと、寂しさが胸をよぎった。少し気が早い気もするが、前世で一度学生生活の尊さを知っているからこそ、思えることなんだろう。高等部でも部活はあるだろうが、中等部には中等部ならではの初々しさがあるのだ。

 

 さらに歩を進めた私の耳に、前方から自らを鼓舞するような声が聴こえてきた。どうやら、テニスウェアを着た集団がランニングをして此方に向かっているらしい。道を譲ろうとひっそりと脇に寄ったら、すれ違い様に彼女達は大きな声で私にお礼を言って颯爽と走り去っていく。近くにいた人がその声に振り返り、往来で注目を浴びたことが少し恥ずかしかった。

 

 周りの目を気にして若干顔を下にしながら道を進んでいた私に、次は腰に何かがぶつかる衝撃を感じた。

 ぼふりと柔らかめにくっついたそれは、いまだに私から離れていない。背中にはくすぐったいような感覚がして、お腹には手が回っている。まるで後ろからタックルを浴びせるように誰かが私に抱きついてるようだ。

 

「だーれだっ! 」

 

 私の腰に顔を押し付けているだろう人物が、もごもごと若干の曇り声で叫ぶ。

 すぐに正体が分かった私は、軽くため息を吐くしかなかった。

 

「……ういか」

 

「さっすがななねぇ! 」

 

 未だに私の腰に抱き付くういの顔を見ると、彼女はツインテールを揺らしながら顔を上げて、にへら、と笑う。

 

「少し驚いたぞ」

 

 後ろからぶつかられたら、誰だって驚く。注意するように視線を向けたが、彼女は物ともしていないようだ。

 

「猿が木に登るのも本能。私がこうしてななねぇにくっつくのもまた本能なのだ」

 

 

 反省した素振りも見せず、うひひ、と笑い声を漏らしている。

 

 

「それよりさ! こんな風に学校で会うの、初めてじゃない? 」

 

「そうだな。どうだ、中学生活は」

 

「楽しいっ」

 

 

 ういは私の腰からやっと手を離し、万歳と手を上げながら大袈裟に喜んだ。相変わらずのオーバーリアクションを前に、気付けば私の頬は緩んでいる。

 

 ういは、今年の4月から中等部に入学してる。入学式では顔を見たが、学年が違うからか校内でこうして話す機会は今までなかった。寮内では何度か連絡を取ったりしていたが、あまりゆっくりとした時間はとれていなかった。彼女もまた、新しく始まった中学生活に夢中だったのだ。

 

「今日はね、部活も休みなんだ! 」

 

「部活、入ったのか」

 

「うん! バスケ部! 」

 

 ふんふんと唸りながら、ういは腰を少し下げて腕を曲げ上下させた。どうやら、ドリブルの様子を見せてくれているようである。まだ新品の制服が、動きについていこうと、必死にはためいている。シュートォ、と声を上げながら膝を伸ばして飛び上がるういは、随分と楽しそうだ。

 

 そうだ。バスケ部と言えば、3-Aでは確か。

 

「もしかして、裕奈と一緒か? 」

 

「裕奈先輩! ななねぇ、裕奈先輩のこと知ってるの!? 」

 

「同じクラスだしな」

 

「同じクラス! 」

 

 ういは、嬉しそうにはしゃいだ。まるで、友達が自分の好きな有名人と知り合いなことに気付いた時にするような反応だ。

 

「裕奈先輩ね! 凄い元気で、運動神経もよくて、格好いいんだよ! それに、胸も大きいし! 」

 

 ほら、私達はないでしょ、と手のジャスチャーで体に起伏がないことをういは示す。

 

「スポーツする上では、ない方が楽なんじゃないか? 」

 

「あーもう。だめ。だめだよ。それとこれとは話が別だし、それを言っちゃう人は皆、負け犬の遠吠えと同じに受け取られちゃうんだよ」

 

 話が別と言っておきながら、部活のことから胸の話をしたのはういだ。そう注意する私を無視して、ういは、遺伝なのかなぁ、と自分と私の胸を見つつ悲しげに呟いた。私は特に何とも思っていないが、失礼ではある。

 

 しかし、そのようなことを気にするようになったということは、ういも大人へと近付いているのだろうか。何となく、寂しいような、少し複雑な気持ちになった。娘の成長を感じる父親の気持ちは、こんな風なのかもしれない。

 

「うい、気にするな。人間の価値はそんなとこで決まらないぞ」

 

 ありきたりな言葉しか浮かばなかったが、ういは私の言葉を聞いて嬉しそうに笑った。

 

「ま、そうだよね! いいもんっ。バスケで一位になってやるっ」

 

 ういは、両手でぐっとガッツポーズをした。すぐに気分を入れ換えて元気そうにする姿は、昔と変わっていないようだ。

 

「あんまりはしゃぎすぎて裕奈に迷惑かけるなよ」

 

「あ! そうやってまた子供扱いして。私ももう大人の中学生なんだよっ! 」

 

 ういは頬を膨らませぷりぷりと怒った。

 

「例えば―――ほら! あそこにいる中等部に迷い込んでしまっただろう少年を、私が助けてみせましょう! 」

 

 大人の定義とは人それぞれであるが、誰かを助けることが彼女にとって大人であるようで。ういは自販機の前にいるランドセルを背負った少年のもとへ走っていった。

 

 おい、と私はそれを呼び止めるが彼女には届かず、ういは既に少年へと話しかけていた。

 

 ういの声に反応し、無表情で振り返った少年は、白髪できちっとしたブレザーを着ていて、どこかで見覚えのあるように思える人物だった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「少年! ここは女子中等部だよ? 間違ってきちゃったのかな? 」

 

 振り返った少年は観察するようにゆっくりとういを見た。それから、後ろにいる私に気付いてぴくりと瞼を揺らした。

 私も、彼をしっかりと見つめる。背丈に似合わぬ大人びた顔付きである彼は、見間違いではなく、やはり京都出会った少年であった。

 

 

「間違った訳じゃない。ここの学園長と話があったんだ」

 

 そう言いながらも、彼は私から目を離さない。そんな彼の眼を見ていると、エヴァンジェリンの話を思い出してしまい、一瞬たじろいでしまう。

 

「……ん? あれ? 知り合いなの、ななねぇ」

 

 そんな態度を不審に思ったのか、ういは私達の間に立って交互に私と彼を見た。

 

「……ああ」

 

「…………」

 

 

 ……エヴァンジェリンには、彼に気を付けるようにとは言われたが、こんなにもすぐに出会ってしまうとは。

 それも、どちらかといえば此方から接触した形だ。

 彼の狙いも私はまだよく分からないし、何となく対応しにくい。

 しかし、素人目だが、私を見る彼の瞳からは、悪意のようなものは感じられなかった。

 

 

「……へえー。ふむふむ。ななねぇの年下の男友達ねぇ」

 

 ういはそんな空気に何を思ったのか、ニヤニヤと含みある笑みを浮かべつつ、私を見る。そんな彼女の笑みの意図が分からず、私は頭に疑問符を浮かべた。

 

「ねね、君。名前は何て言うの? 」

 

「……フェイト・アーウェルンクス。フェイトでいいよ」

 

「おお、やっぱり外人さん! 日本語上手ぅ! 私はねぇ、明智うい! 何を隠そう、この明智七海の妹なんですよぉ! 」

 

「……そうかい」

 

 若干鬱陶しそうにしながらも、彼はういに対応していた。しばらく二人の会話を見守ったが、やはり悪い子だと断定できるに至らない。

 

 エヴァンジェリンは私を心配してくれてああ言ったが、私自身彼に何かされた覚えがないので、彼をすぐに嫌いになどはなれなかった。それに、人伝の情報だけで誰かを評価するというのは、あまり良くない気もする。

 

 

「……フェイト君、でいいかな。麻帆良には来たばかりだろう? どうだい、この街は」

 

 

 私から、一歩踏み出してみた。何事もまず知ることから始まるのであって、何も知らないうちに嫌々するのは、学者らしくない。それはきっと、人間関係においても同様だと、私は思うのだ。

 

 私の質問を訊いて、彼は考えてから答えた。

 

「……そうだね。少し騒がしすぎると思うよ」

 

「ああ、それはそうか」

 

 あまりに正直な意見に、私は苦笑してしまう。

 

「ええ! フェイフェイ転校してきたばっかなんだ! 」

 

「……フェイフェイ? 」

 

「恐らくだが、君の渾名なんじゃないか? 」

 

「……」

 

 フェイト君は嫌そうな顔でういを睨むが、ういは気付いていないのか相変わらずの態度だった。

 

「ならさ! 私達で麻帆良を案内してあげようよ! 」

 

 それがいいそれがいい、と彼女は一人で頷く。

 研究室へと行くのは急いでる訳ではないし、私としても構わなかったのだが、フェイト君が素直にうんと言うとは思えなかった。

 

 しかし、ちらりと彼を見ると、一瞬顎に手を当ててから。

 

「いいね、行こうか」

 

 予想外にも、肯定するように頷いた。

 

 

「おっ。いいじゃんいいじゃん! 」

 

 ういは嬉しくなったのか私の横にきて、このこの、と肘で私を突いた。

 やはり、彼女は何か勘違いしてるようである。

 

「よっし。んじゃいこっか! ななねぇ、フェイフェイ! 」

 

 その勘違いを訂正する間もなく、彼女は前へと足を進めた。

 先にどんどんと行くういを見ながら、付き合わせて悪いな、と彼に言うと、構わないよ、と彼は無表情で返す。

 

 

「でも、フェイフェイはやめてほしい」

 

「それはあの子に言ってくれ 」

 

 

 

 ○

 

 

 

 私達は中等部の近くにある商店街へと向かった。放課後に寄り道をする制服姿の少女や、母親と手を繋いで買い物をする子供などが賑やかに行き交い、いつも通りの街並みであった。

 

「フェイフェイ、何かみたいものある? 」

 

「特にないね」

 

 フェイト君は投げやりに呟いた。何度言っても呼び方を変えてくれないため、彼も既に諦めたらしい。

 

「むぅー。つまんないなぁ。無趣味な男は嫌われちゃうよ。 ね、ななねぇ! 」

 

「そうは思わないが。それに、私達が案内するんだろ? 」

 

「だって! 男の子がどんな場所が好きかなんて分からないもんっ」

 

 堂々と胸を張りういは言い切る。

 

 私も何か案がないかと、頭を捻る。私が彼くらいの年齢の時には、何をして過ごしていただろうか。どれだけ時間を遡っていっても、放課後になったら網をもって虫を追いかけていた記憶しか、私の頭には浮かばなかった。

 

「なら、虫取を……」

 

「却下! 」

 

 もしかしたら、と提案してみると即座に一蹴されてしまった。麻帆良の虫取ポイントを巡ることはある意味案内にはなり得ると思ったが、やはり駄目らしい。分かってはいたが、少し悲しい。

 

 その後もういが必死に服屋や小物店を案内するが、フェイト君の反応はあまり宜しくない。どうしようかと私とういが困った顔を見合わせた時、聞き覚えのある声が耳に届いた。

 

 

 

「おや、七海殿ではござらんか」

 

「あー、ほんとだ! でも知らない子も一緒にいるよ! 」

 

 行き詰まった私達の前に、まるで救世主のように現れたのは、楓と鳴滝姉妹であった。楓が高身長であるのに、それを挟むように位置する鳴滝姉妹が身長が低いため、3人で山の字を成してるように見えた。

 

 私達を見つけて、風香と史伽ははしゃぐように近付いてきた。

 

「七海さん七海さん。その子達はだれですか? 」

 

「七海七海。その子らはだれ! 」

 

 わいわいと私達の周りをくるくると回りながら二人は騒ぎ立てる。フェイト君は特に反応しなかったが、ういはじろじろと見られたことにむっとなった。

 

「ええい。くるくるするのをやめい! 私はこの七海の妹の明智 ういであるぞ! 」

 

 何故か自慢げに胸を張ったういを、二人はさらに見つめた。

 

「七海さん、妹さんがいたんですか! 」

 

「ほーん。じゃ、うちらの後輩だ! 」

 

「え。君たち先輩なの? 嘘でしょ? ……だって、こんなにちっちゃいじゃん君」

 

「うわー! はなしてくださーい! 」

 

「ふ、史伽を離せ! だいたいあんただって幼児体型じゃんか! 」

 

「幼児体型だとぅ!? 」

 

 気付くと三人まとめてまるで小学生のように戯れだしている。ういは体は細身なのだが、昔から力は弱くなく、史伽を抱えるようにしながら風香と言い争っている。

 そんな様子に私はため息を吐き、楓はにまにまとしながら見守っていた。

 

「それでは、この少年は七海の弟さんでごさるか? 」

 

「いや、彼は知人だよ」

 

「確かに、似てはおらんでござる」

 

 そう言って、楓は少し腰を下ろしてフェイト君に手を伸ばした。

 

「拙者、長瀬 楓でござる」

 

「……フェイト・アーウェルンクスだ」

 

 フェイト君は、楓の差し出した手をゆっくりと握り返し、楓は満足そうにしながら頷いた。

 

「……やはりお主、できるでござるなぁ」

 

「そういう君もね」

 

「いやいや、拙者なんぞまだまだでござるよ」

 

 二人にしか分からないような会話をするので、一人残った私は首を傾げる他なかった。

 それから、にんにん、と呟きながら楓はまたにんまりと笑い、フェイト君の手を離してから私を見た。

 

「それで、七海殿達はこんなところで何をしてるのでござるか? 」

 

「フェイト君は此方にきたばかりらしくてな。案内をしてあげようと思ったのだが、どこを案内すれば良いのか分からなくなってるんだ」

 

「それは、なんと言えばいいでござろうか」

 

「情けないだろう? 」

 

「まぁ、ほんの少し」

 

 私と楓はお互いに顔を見合わせて小さく笑う。

 

 

 

「それなら! ゲームセンターなんかいいんじゃない!? 」

 

「確かに、近くにありますねー」

 

「おおっ! その手があったか! 史伽ちゃん風香ちゃんやるぅ」

 

「へっへっへー! 」

 

 いつの間に仲良くなったのか、ういは史伽を抱えながら風香を肩車して、三人で楽しそうにしている。ういの明るく騒がしい性格と、馬が合ったのかもしれない。

 

「……フェイト君。それでいいのか? 」

 

 ゲームセンターとは、既に麻帆良の街を案内をするという目的から脱線している気もするが、行く宛もないので仕様がない。

 

「僕はどこでも構わないよ」

 

 フェイト君はまた興味もなさそうに呟く。それを訊いて、ういはにんまりと笑った。

 

「よっし。れっつごー! 」

 

「ごー! 」

 

「これこれ、二人はこっちでござろう? 」

 

 ういの肩に乗りながらそのままついてこようとした風香は、楓にひょいと持ち上げられた。気付けば、ういに抱えられたいたはずの史伽も鮮やかに回収されている。

 

「えー! いいじゃんかー」

 

「ゲーセンに行くのは、散歩部の活動ではないでござろう。では、七海殿、フェイト殿、うい殿、また」

 

 ぶーぶーと言う鳴滝姉妹を無視しつつ、楓は私達に頭を下げてから離れていった。

 

 姉妹二人を軽々と脇に抱えて去っていく楓の後ろ姿が遠ざかっていくのを、ういはじっと見つめている。

 

「ね、ななねぇ」

 

「なんだ? 」

 

「あの人、忍者? 」

 

「……多分」

 

 ういは、うーんと呟きながら腕を組んだ。

 

「ななねぇのお友達って、変っ」

 

 否定はできない、と私は苦笑した。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

「むふ。むふふふ」

 

「うい、笑い方が気味悪いぞ」

 

 3人でゲームセンターから出るときには、ういの腕の中には大きな熊のぬいぐるみがいた。両手には納まらないほどの大きさで、ういの顔が隠れるほどである。

 

 近くの喫茶店に入ってからも、ういはそれを手放さなかった。店には一応許可はもらったが、それを持って何かを飲食出来そうにないので、私とフェイト君だけ飲み物を頼んでいる。

 

「だって。だってさ。こんなおっきいぬいぐるみが手に入ったんだよ? それは喜びますとも」

 

 茶色い熊の毛並みに頬を押し付けながらういは答えた。

 

「まさか、フェイフェイがあんなにUFOキャッチャーが上手だとは」

 

「機械のパワーと距離感、狙うべきポイントを把握できれば難しくはないと思うけど」

 

 謙遜などはまるで感じない風に、フェイト君は呟いた。

 

 

 

 少し前。

 私達が鳴滝姉妹に薦められたゲームセンターについたとき、フェイト君はゲームセンター特有の雰囲気を珍しく思ったのか、寡黙ながら興味深そうに色々と眺めていた。

 私も、あまりこのような場所に訪れたことはなかったため、様々な音が鳴り響く店内にて新鮮な気持ちにはなった。

 

 UFOキャッチャーしようよ、とういが言い出したのは、ガラスの箱に閉じ込められている熊の人形を見つけた時だ。キラキラとしたその目からは、物欲がしっかり現れていて、もうすぐで落ちそう、という場所に熊がいたのも、やる気を促した理由かもしれない。

 

 一番初めはういがうきうきとしながらチャレンジした。が、ピクリとも動かずに失敗した。続いて私も、と挑戦するが、同様の結果である。目的の物を動かすには、アームがあまりにも小さく力が弱すぎるのだ。

 

 フェイト君もやってみるか、と駄目元で頼んでみると、彼はこくりと頷いてレバーを握った。

 見ていると、彼に操られたアームは不思議な動きをした。商品から少し離れた所に降りた後、小さなタグを爪に引っ掻けるようにして、賞品をずらす。すると、体勢を崩した熊がぽとんと落ちたのだ。

 

 それから、大はしゃぎで喜んだういはフェイト君にどんどんUFOキャッチャーを頼み、店内を出るときには私もぬいぐるみの入った袋を持つ羽目にとなっていた。

 

 

「ぬいぐるみなんて、一体どうするんだ」

 

「そんなの、部屋に飾る以外ないじゃんっ」

 

 袋の中から掌サイズの猫のぬいぐるみを持ち上げながら問う私に、当然でしょ、とういは答えた。

 

 

「……分からないね、君たちは」

 

 私達のやり取りを見ていたフェイト君が、不意に言葉を挟んだ。彼は、注文した珈琲の入ったカップを持ち上げ、唇につけてからゆっくりとまた口を開いた。

 

「そんなのは、ただの布と綿で出来た物でしかない。そんなものに興味が湧くというのが、僕には理解出来ない」

 

 悪気がある言い方、というよりも、純粋に疑問に思い訊ねているように聞こえた。

 彼は、たかが物だろう、と続けた。

 

「のんのん。ただの物じゃないよ」

 

 ちっちっちっ、とういはいつものような調子で指を降りながらフェイト君を見る。

 

「これは、私とななねぇとフェイフェイがゲーセンに行ったときに、フェイフェイが取ってくれたぬいぐるみだよっ。そうなったら私にとってはもうただの物なんかじゃないよ」

 

 ういは、ぎゅっと熊のぬいぐるみを抱き締めた。

 

「思い出が出来た物は、私にとっては大切だからね。きっとどんな物にも誰かの思い出があるって思ったら、世の中にはただの物なんてないと思うんだっ」

 

「……そういうものなのかい」

 

「そういうものなのだよ」

 

 ういの答えをどう思ったのかは分からないが、フェイト君は少しの間目を伏せて、そうか、と小さく呟いた。

 

 

 

「あまり案内は出来なかったが、麻帆良はどうだった? 」

 

 次は私から質問してみると、彼は目を開けて窓から麻帆良の市街地を見つめた。

 

 

「……やっぱり騒がしい街だね」

 

 

 

 それから、彼はまた珈琲に口をつけて続ける。

 

 

 

「……ただ、ここのコーヒーは悪くない」

 

 

 店内の静かな音楽に紛れるように、フェイト君はそう呟いた。

 








小ネタ
『無口な彼との話し方』





麻帆良大学理学部の敷地に入れば、ちらほらと見知った顔が増えてきた。

お、最近見なかったじゃんか。
修学旅行に行ってまして。
そーかそーか。お土産は?
えっとすみません。あ、あちらで採ってきた虫ならいますが。
いりません。
はい。

すれ違う学生達と会話をしながらも私は目的地へと進んでいく。声を掛けられる度に、もっとお土産を買ってくればよかったと後悔をした。

教授室の前までついたところで、コンコンとノックを鳴らす。おう、と不躾な返事が返って来たのを確認してから、私は扉を開けた。

「…………あ? なんだ、明智か。帰ってきたのか」

「ええ、つい先日。……相変わらずのお部屋ですね」

「機能的だろ? 」

「お土産を持ってきました」

無茶苦茶になっている机に座る彼の問いは聞かなかったことにして、私は鞄の中から黄土色の紙に包まれた箱を取り出した。

「お、八つ橋」

「お嫌いではありませんか」

「いんや。ナイスチョイスだ」

そういって、教授はばりばりと無造作に包み紙を破った。私は露骨に嫌な顔をするが、彼は気にかけた様子もない。

「で? ひょうは実験ふんのか? 」

一度に大量の八つ橋を口に入れた彼は、私に一つどうだ、と手渡そうとした。結構です、と言うと彼はそれをも満杯のはずの口に入れる。

「明日は少し早めに家を出る予定なので、ほどほどに」

「ほうか」

ゴクンと彼は口の中の物を呑み込む。そんな彼を見届けて、それでは、と教授室を出ようとする直前で、私は彼を振り返った。

「…………教授」

「んあ? 」

「………………無口な人とは、どうやって仲良くなればいいんですかね」

世界樹の世界にいる彼も、フェイト君も、あまり喋るタイプではない。今思えば、二人は雰囲気に似ている部分がある。彼らと仲良くするためには、どうしたらいいのだろうか。

「男か、そいつらは」

「まぁ、はい」

「なんだおめぇ。好きな人でもできたのか?」

「いえ、そういうことでは」

「つまんねぇやつ」

そう言って、教授はまた八つ橋を頬張った。私はこの時やっと相談する相手を間違えたことに気付いた。
失礼しました、といって再び部屋を出ようとしたときに、彼は私を呼び止めた。


「まぁまて。一応アドバイスはある」

「なんでしょうか?」

「大人しい奴ってのはな、大人しくしたくて大人しい訳じゃねぇんだよ。ほんとは沢山喋りたいし、輪に入りたい。だが慣れないから不安になって声に出せない。だから無口にみえる」

そうだろうか。私はあの二人がそういうタイプには見えなかった。

「そういう奴には、二つの手がある。一つは、相手の得意な話に食い付いて上げることだ。そしたら、生き生きと喋り出すことがある」

言っていることは、一理あるかもしれない。私もあまり話す方ではないが、昆虫の話ならいくらでもできる。彼らの得意な話とはなんだろうか。

「……もう1つは?」

「それはな、色仕掛けだ。どんな奴にも性欲はある。だから上手いこと誘惑してやれば、静かな奴が猿のように狂暴になるところがきっと見れるぜ」

はっはー! と何が面白いのか大笑いしている教授を無視して私はその場を去った。
やはり彼に話を聞いたのは間違いだった。




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53話

今日3話目です。


 

「よう」

 

 道端で交わすような軽快さを込めた言葉を、彼は私に緩く投げ掛けた。いつもと同様に黒いローブに身を包み、世界樹の幹に縛られている。だがそれを辛そうにしている様子はまったく見られず、寧ろどこか愉しそうにしている節すら感じられた。

 

「こんにちは、でいいのか? 」

 

 私は少し首を傾げながらそれに応える。

 この世界は、どのタイミングで来てもいつも地面が白みを帯びるほど明るい光が射し込んでいて、昼夜があるのか分からない。そのため、いつも挨拶には悩ましく思っていた。

 そんな私を見て、彼は愉快げに笑い声を漏らしている。

 

「いいんじゃねーの? そっちは昼なんだろ? 」

 

「どちらかといったら朝方かな」

 

「それじゃ、おはようだな。おはよう」

 

 愉しそうに挨拶をする彼に、私も微笑みながら、おはよう、と返した。今更だが、今日は陽気な彼らしい。

 静かな彼が出す雰囲気が夜の月だとしたら、陽気な彼はまるで太陽のようだと思った。裏がなく、まっすぐに正直なイメージが、彼にはよく似合っている。

 

「あんた、最近どうだ? 」

 

「まぁ、ぼちぼちやってるよ。君は? 」

 

「ぼちぼちか。俺もまぁ、ぼちぼち。いつも通りだ」

 

 彼の顔はフードに隠れて見えないが、声の調子だけで軽く笑っている姿が思い浮かぶ。

 

 未だにお互いの名前を知らない私達は、二人称で呼び会う。彼は私を「あんた」と呼ぶし、私も、彼のことは「君」と呼んでいる。

 初めに名を訊ねた時ははぐらかすようにして答えてくれなかったし、その後も彼から自分の情報を漏らそうとはしなかった。逆に、彼が私のことを訊ねたこともないし、私の名前を知りたいという雰囲気を出すことすらなかった。

 

 お互いにほとんど何も知らない状態だが、それでも不便には感じなかった。何せ、この世界には私と彼しかいない。

 閉鎖的空間にて、誰にも邪魔されず、彼と話すこと以外何かが出来る場所でもない。名や姿など何かに気にすることもなく、現実と隔離されたかのように存在するこの世界は、私にとって心が休まる時間と成りつつあった。

 いつだか彼も、毎度のように陽気な声で、私が来てから暇が潰せて良いと言っていた。その役目を果たせるだけで、私がここにくる意義は充分だと思う。

 

 

 今は、お互いにこのくらいが良い距離感だと線を引いて、その中で心地よく感じられている。

 

 

「あんた、今日はなんか良いことでもあんのか? 」

 

 どうしてそう思ったのか、と問うと彼は明るい声を出した。

 

「いつもより嬉しそうな顔してたからよ」

 

「嬉しそうな顔、してるか? 」

 

「ああ、微妙にだけどな」

 

 よく見ている、と思った。この短期間の付き合いでそこまで見抜かれるとは思っていなかった。それに、あちらからは私の顔が見えるのだな。

 

 私は、緩く笑って応える。

 

「今日は、リゾートに行くんだ。友達に誘われて」

 

「ほー。リゾート」

 

 彼はまた、くくっと笑う。

 

「いいじゃねーか。楽しんでこいよ」

 

「ああ。楽しんでくる」

 

 私はそう返しながら、世界樹の幹に、とん、と背中を預ける。

 

 背中から感じる世界樹の鼓動から暖かさを感じ、安心感に包まれたような気がした。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「ひゃっほー! 」

 

 黄色い声と、海の水がおもいきり跳ねる音が、高い青空に響いた。5月だというのに、南の島には容赦なく太陽の熱気が襲いかかっている。しかし、我らがA組の生徒達はそれを物ともせず、砂浜に足跡を残しながら次々と海へと踏み出して行った。

 彼女達の足が海に触れたとき、波が連れてきた白い線はかき消されている。どんどんと奥に奥にと彼女達は進んでいき、若々しい肌色と透き通るような青色がどんどんと入り交じっていった。

 

 そうやってはしゃぐ彼女達を砂浜から見ているあやかは、頭を抱えた。

 

「……どうしてこんなに人数がいるんですの!? 」

 

 吠えた言葉は、波に飲まれぬように大きく空に響いた。

 

 

 

 

 

 リゾートに行こうとあやかに誘われたのは、つい先日の話だ。

 何でも、最近ネギ先生が少し元気が無さそうなので、それを取り戻してあげたいのだとか。

 私がそれに行っていいのか?、と問うとあやかは、七海には来てほしいんですの、と興奮した口調で言っていた。

 

 当時の彼女の予定ではそれは少人数で行くつもりだったらしいのだが、話をした場所が悪かった。教室でしたこの会話は朝倉とハルナにばっちりと聞かれていて、そこからはもう校内放送のごとくクラスに伝わった。その結果、A組の半分以上が来ることは避けられなかったように思える。

 

 

 あやかは海を睨み、本当は私と七海とネギ先生だけの予定だったのに、と呟いた。

 

「ええ、そうだったんだ……。あやねぇごめんね、ついてきちゃって」

 

 それを訊いて、私の横にいたういがしょんぼりと顔を俯いた。

 実は、あやかにその話を聞いたあと、私はういを誘っていいかを訊ねていた。そもそも今日はういと出掛ける予定だったので、彼女も一緒はどうかと思ったのだ。

 

「あっ! いえ! ういちゃんはいいんですの! むしろお誘いしたかったんですわ! 」

 

「ほんと!? やったぁ」

 

 あやかの答えを訊いたういは、ぴょんとぴょんと跳ねながら喜んだ。さくらんぼが付いたゴムに括られた真っ黒なツインテールも、釣られてはしゃぐ。

 

 あやかはそんなういを見て、親身の情が溢れるうっとりとした表情をした。

 

 あやかとういは、幼少の頃からの仲だった。あやかが我が家に遊びに来たときにはういも一緒に遊んだし、ういはあやかのことを「あやねぇ」と呼んで慕っていた。あやかも、まるで自分の妹のようにういのことを可愛がっていた風に私には見えた。

 

 

「あれが七海の妹か。面影はあるが性格は似てないな」

 

 砂浜を駆けて海に飛び込んでいくういを見つめながら、エヴァンジェリンはしみじみと呟いた。

 彼女は水着ではなく袖のない黒いワンピースを着ていて、日傘を差している。強い日射しはあまり好んでいないようで、更には海が好きなわけでもなく、ただ暇だからついてきたようだった。

 

 因みに私は、デニム状のショートパンツに、袖があり体のラインを隠すような白いTシャツを着て、さらに半袖のパーカーを羽織っている。

 この日の前にういにつれられて一緒に買ったものだ。必要ないと言ったのだが、手を引っ張られた私に拒否権は存在しなかった。色気のなさについては既に散々言われたが、それでも露出の激しい物を着るのは抵抗が強い。

 

 

「……エヴァンジェリンさん。貴女も付いてきてたのですね」

 

 当然のように堂々とそこにいるエヴァンジェリンを見て、あやかは軽くため息を吐く。

 エヴァンジェリンはそんなあやかに気にするようもなく視線を横にした。

 

「それよりも、だ」

 

 エヴァンジェリンは眼に力を入れ、刺すように彼を睨んだ。しかし、睨まれた彼はいつものような無表情でそれを受け止めている。

 

「何故貴様がここにいるんだ! 」

 

 

 

「……何故と言われてもね」

 

 フェイト君は、はぁ、と軽くため息を吐いた。灰色で少し地味だが、どこか高級感が溢れている気がする海パンを履いている彼は、海の中で飛沫をあげて騒ぐういに目線を向けた。

 

「フェイフェイ~! 早く海に入って来なよぉ! 」

 

 此方からの視線に気付いたのか、ういは千切れんばなりに腕を振りなから笑顔でフェイト君を呼び掛けている。

 そんなういを見て、彼は肩を竦めた。

 

「無理矢理連れてこられた僕にも分からないよ」

 

 

 

 

 フェイト君は、当日に市街を歩いている所をういに見つかり、そのまま引っ張り込まれたようだった。水着についてはあやかがネギ先生のために用意してあったものが幾つかあったので、それを着用している。

 

 ういとフェイト君は、先日会ってからも何度か顔を合わしているらしい。フェイト君は市街に行けば大体この前の喫茶店で珈琲を飲んでいるらしくて、それを見つけては連れ回しているのだとか。フェイト君が嫌そうな顔をしても、ういはそんな気を使えるような子ではないので断ることも出来なそうだと、私はちょっぴり同情した。

 

 

「七海の妹にまで近付いて、どういうつもりだ……っ! 」

 

「こっちからしたら勝手に連れ込まれた身だと言っただろう。文句なら彼女に言うべきなんじゃないかい? 」

 

「まぁまぁ二人とも」

 

 どこか喧嘩腰に言い合う二人の間に入って、私は仲介しようとする。それでも二人は火花を散らしていたが、ういが海の中からもう一度「フェイフェイ~」と手を振るので、彼はまた溜め息を吐きながら彼女の元へと向かっていった。

 

 

「七海! 何故あいつを庇う! 」

 

「庇うというか、別にフェイト君は今悪いことをしている訳でもないだろう? 」

 

「フェ、フェイト『君』だとっ! いつの間にそんな仲にっ! 」

 

 鬼気とした表情でエヴァンジェリンが私に迫り、肩を揺する。そんな様子を見て、あやかの方が困った顔を浮かべる。

 

「あの子がどうしたと言うんですの。ネギ先生と比べたらそれは少し目付きが悪いですが、まだ子供じゃありませんの」

 

「貴様は何も知らんからそんなことを言えるのだっ! あいつはなぁ、京都で七海を……」

 

「それは訊いたんだが、私にはどうしても彼の悪意が見えなくてな……」

 

「な、七海まで……っ! ……っく! もう知らん! 」

 

 拗ねるようにしながらエヴァンジェリンはのしのしと歩き出して行った。砂浜を蹴りあげながら不機嫌そうに進む姿がどんどんと小さくなっていく。どうやら、あやかの所有する海沿いのホテルへと向かっているらしい。

 私は彼女を呼び止めるが、白と茶の混じった細やかなな砂が舞って応えるだけであった。

 

 そんな彼女を見て、あの人勝手にホテルを使うつもりでしょうか、とあやかは若干不服そうに呟く。それから、自然と視線を海へと向けて、ある人物がいることに気が付いた。

 

 

「あっ! ネギ先生があそこに! 」

 

 ネギ先生~、と叫びながら、あやかも私から離れて海へと向かっていく。

 

 

 

 

 照り付ける太陽の下、ぽつんと残された私は、海で思いっきり騒ぐ皆を見ながら日傘の下のリクライニングチェアにゆっくりと腰を下ろす。

 

 ……エヴァンジェリンが落ち着いたらフェイト君のことをゆっくり話し合わないとな。

 

 

 感情が昂っている様にも見える今、追いかけても話は聞いてくれそうにない。

 胸の内でそう思いながら、私はその場で静かに寛いだ。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

「……なーなみ! 」

 

「……ぅん」

 

 呼ばれた声に反応して、私は自分の意に反して重くなっていた瞼を上げた。どうやら、心地よさのあまりにいつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 

 前を見ると、スクール水着を着た明日菜が私に向かって飲み物を手渡そうと差し出していた。明日菜の後ろからは爛々とした太陽が容赦なく光を照り付けていて、彼女には黒の斜線が見えるように影が張り付いている。

 

「あ、ごめん。起こしちゃった? これ、ココナッツジュースらしいけど、いる? 」

 

 ほんとに何でもあるわね、と呟きながら、私の横にある木製の椅子にすっと腰を下ろした。ジュースを持った手は、未だに私の方に向いたままである。

 

「ありがとう。貰うよ」

 

 受け取ったココナッツジュースを、ストローから吸い上げ喉に流す。独特の青臭い匂いと仄かな甘さが綺麗に胃に吸い込まれていく感覚がした。

 

「……やっぱ、海には入んないんだ? 」

 

「……泳げないの、知ってるだろ? 」

 

 私が睨むと、ごめんごめん、と明日菜は苦笑しながら言う。

 

 私は、泳ぐのが苦手だ。どうして人間が浮くのかなんて理解出来ても実践が出来ないし、そもそも生物は古代から進化して海から陸に上がったというのに、何故わざわざまた水の中に戻ろうとするのか。陸上に適した形をしているのだから、陸にいればいいじゃないか。……などと、散々な言い訳は用意してあるが、結局は泳げないというだけなのだ。これは、運動が出来た幼年の頃から、いや前世の頃から変わらない呪いレベルのものだった。

 

 ただ、こうして海を眺めているのは好きだし、海の匂いも好きだ。

 だからこそ、あやかに誘われてここに来るのは楽しみだった。

 虫は少ないが、広大な海は、心の中にも爽やかな風を届けてくれるような気がするのだ。

 

 

 

「ういちゃん、随分馴染んでるわねぇ」

 

 明日菜が向ける視線の先には、少し離れた浜でクー達と混じってビーチバレーをするういの姿が見える。パンパンとリズムよくボールを叩く音を鳴らしながら、愉しそうにしている少女達がそこにはいた。

 すぐ側の砂浜には、ぽつんと座ってその様子を見ているフェイト君もいる。

 

「あの子、随分と可愛がられてたわよ。七海の妹かぁーって」

 

「あんな性格だからな。馬が合うんだろう」

 

 これだけ上級生に囲まれたら多少物怖じしても良さそうだが、彼女はいつも通りだった。知り合いのあやかや明日菜、鳴滝姉妹がいたのも大きかったのかもしれない。

 

「……ねぇ、あの男の子は七海の知り合いなの? ……ネギと刹那さんが随分気にかけてたけど」

 

 あの男の子とは、恐らくフェイト君のことだろう。

 

「知り合いと言えば知り合いだが、私も詳しい訳じゃないんだ」

 

 寧ろ、彼については知らないことの方が多い。その背景が理解出来ないうちは、エヴァンジェリンがあの様に警戒し、私を心配してくれる理由も分かる。だがそれでも、いや、何も知らないからこそ、ただ避けるということが私には出来なかった。

 

「……ふーん」

 

 自分のジュースに刺さったストローに口をつけながら、明日菜は呟く。重力に逆らいながら液体がストローの中を通過し、明日菜の喉が揺れるのが見えた。

 

「……それで、何を悩んでいるんだ? 」

 

「あ、やっぱり分かる? 」

 

「付き合いが長いからな。ネギ先生関連のことか? 」

 

 ……うん、と明日菜は静かに頷いた。

 先程自分で彼の名を出すときも何か不自然であったし、ネギ先生が最近元気のない様子からも、二人の間で何かあったのかと推測するのは難しくなかった。

 

 明日菜が口を開けるのを待っていると、彼女はゆっくりと語り出した。

 

「七海はさ、ネギがエヴァちゃんの弟子になったの、知ってる? 」

 

「ああ、最近聞いた」

 

 後からエヴァンジェリンに聞いた話だが、どうやら彼女は結局ネギ先生を弟子にとったらしい。

 しかし、どんな試験をして、何を基準に選んだかなどは、私にはしてくれなかった話だ。

 明日菜は簡単にそれらを私に説明した後、膝を曲げ、身体を縮めながら続ける。

 

「あんときのあいつ、凄かった。どんだけ身体がぼろぼろになっても、全然諦めなくて。私がもういいじゃんって言いそうになっても、全然諦めなくて。誰もがそこまでって思っても、それでも、諦めなくて」

 

 淡々と、地平線の更に奥を見るかのように、明日菜は海を眺めている。

 

「私、あいつが凄い頑張り屋なのはもう分かってるつもり。魔法のこともだけど、ただの子供じゃないってのも分かる。でも、そこまでしなくちゃいけないのかなって」

 

「……明日菜は、ネギ先生が心配なんだな」

 

「……心配。……そうね。私、何でか分かんないけど、ネギが心配なのよ。だから、あいつの力に成りたいとも思うし、出来るだけ手伝ってやりたいって思う。でも、あいつは違うみたい。詳しいことは全然話してくれないし、私に何かを協力させる気なんかさらさらないみたい。それで……」

 

「……喧嘩か」

 

「そ」

 

 明日菜は、弱々しく笑った。

 

「私ね。修学旅行で千雨ちゃんがした話を思い出すの」

 

「……秘密は自分を守る時以外にもつくる」

 

「それそれ」

 

 ……耳の痛い話だ。魔法のこと、世界樹の薬のこと、自分の体調のこと、……そして、前世のこと。

 私も、誰にも言えないような秘密をいくつも抱えている。

 

 明日菜は、自然と桜咲と共にいる木乃香へと視線を向けていた。

 彼女達は、海の中で水の掛け合いをしながらきゃっきゃっと声をあげている。修学旅行前までの桜咲を知っている者からすれば、信じられないほど愉しそうだ。中学生らしいその笑顔は、随分と可愛らしい。

 

「私も、馬鹿なりに理解は出来てるつもりなんだけどね。あいつが私のために頑なに口を閉じてるって。でも、ほら。こういう時思うことって理屈じゃないじゃん? 」

 

 よっ、と勢いをつけて明日菜は椅子から立ち上がり、身体をぐっと空に向かって伸ばす。

 

「ま、そんな感じの悩みかな」

 

「……私は」

 

 ……私には、碌なアドバイスが出来そうにない。私も、どちらかといったらネギ先生側の人間だ。秘密を抱え、それを漏らさないようにと必死に栓をして。

 

「いーよ。ただちょっと話をしたかっただけだし。魔法とか関係しちゃうと、こういう話が出来る相手って七海だけなのよね。おかげで少しスッキリしたわ。……後でネギと話をするつもりになれた」

 

 ありがとっ。私の肩を叩きながら、明日菜は軽快にそう告げて、砂浜に足跡を作りながら去っていく。

 

 何も言えなかった私の耳には、波が擦れる音だけが響いた。



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54話

 

 

 夕陽が遠くの海に吸い込まれていくように沈んでいき、空も波も色彩を変えていく時間だ。海で泳いで遊び疲れた皆も、休息をとろうとあやかさんの用意してくれた部屋へと向かっていた。

 

 海に面していて木で作られた水上コテージはとてもおしゃれで、年頃の彼女達のテンションが上がるのもよく分かる。さんざん遊んだというのに、ここからが本番だと言いかねないほど元気を取り戻した彼女達は、意気揚々と部屋の扉を開けていった。

 

 しかし僕だけはそんな気持ちになれそうにはなく、息をつき、心の中で愚痴る。

 ……この部屋割りはないんじゃないかな、と。

 

 案内された部屋のドアを開ける勇気もない僕は、まさに立ち止まっていた。目の前の部屋の中には彼がいると考えると、気まずさや緊張を感じて、気付けば肺の底から再び息を吐いていた。

 

「兄貴、ど、どうすんだよ」

 

「どうするも何も……」

 

 カモ君の言葉に、僕は狼狽えながらも答えを探す。別の部屋に変えて欲しい、とお願いする機会は既にない様に思えるし、そこまで自分の都合で迷惑をかけるのも、気が進まない。

 

 

 

 ついさっきのことだ。

 あやかさんに、ネギ先生はこのお部屋を使ってください、と満面の笑みで言われ、続けて、明日菜さんのことは少し私に任せて下さい、と手を握られた。

 最近明日菜さんとはあまり仲が良くなくて、……というより避けられているようで、とても困っていた。その上海でも要らぬ心配をかけてしまったようで、もうどうしたら許してくれるのか、という思いであった。

 だからこそ、あやかさんの申し入れは感謝してもしきれないほどであった。

 

 ありがとうございます、と告げると、あやかさんが満面の笑みになり、踊るようにスキップしながら去っていった。そんな姿を苦笑しつつ見送ってから、僕は部屋のドアに掛けられた表札になんとなく目をやった。

 急遽作られたにしては良くできたつくりの表札は、あやかさんがわざわざ作ってくれたらしく、「ネギ先生」と丁寧に木に掘られている。

 

 しかし、それに感心する間もなく、横に書かれた名前に衝撃を受けた。

 見間違いではないのか。そう思って目を擦っても、やはりその文字は消えない。

 

 ―――そこには確かに、「フェイト君」と書かれている。

 

 

 

 マスターから聞いた話だけど、京都であった謎めいた少年の名は、間違いなく「フェイト」だった。

 あの時しか彼とは会っていないが、僕は彼にあまりいい印象は持っていない。マスターに怯える様子もなく淡々と語り、強い実力も持つ彼は、何か言い知れぬ圧力があった。何故だかビーチにいる彼に気付いた時も、気になって仕方がなかった。

 

 

 この部屋の中にはもう彼がいるのだろうか。マスターもなんだか彼を毛嫌いしているようだし、味方か敵かはっきりしないものと同じ空間にいてしかも睡眠時間まで一緒だと思うと、お腹がキリキリと削られていくような感覚がする。

 

「……兄貴、やっぱ無理してこの部屋使わなくてもいいんじゃねーか? 危険かもしんねーし、頼めば誰でも兄貴を部屋に入れてくれると思うぜ? 」

 

「う、うーん」

 

 正直、明日菜さんとの問題もあるのにこれ以上何かを抱えたくはなかった。このままだと不安が募りすぎて、ほんとにお腹が壊れちゃいそうだ。でも、生徒に迷惑を掛けることになるし……。

 

 

 

「む? 少年、なにしてんの?」

 

 

 そんな風に頭を抱えていた時、後ろから聞き覚えのない声が僕を呼び掛けた。

 振り返ると、綺麗な黒髪をツインテールで結んだ少女が立っている。肩を越えるほどの長さの髪で、明日菜さんよりもちょっと低い位置で結ってあるそれは、彼女によく似合っていると思った。

 

「……え、えと」

 

「むむむ? もしかして、君って噂の子供先生? 」

 

 目を細め、怪しいものを見つめる時の警察官のような視線を僕にぶつけてくる。噂になっているかは知らないけれど、子供先生と言えば多分僕のことだろう。

 

 そ、そうですが、と迫り来る彼女に対して腰を引きぎみに答えると、彼女は両の手をぱしっと鳴らした。

 

「なぁるほど! そう言えばななねぇのクラスの先生だって言ってたもんね! だから今日来てたんだっ。てっきり誰かの弟君かと思ってたよ! 」

 

「は、はぁ」

 

 ツインテールの少女は一人で勝手に解決して騒ぎ立てる。カモ君は、いつの間にか隠れるように僕の懐に入り込んでいた。

 

「あ、私はねっ! 」

 

「……確か、七海さんの妹で、「ういさん」でしたよね? 」

 

 ビーチに僕の見知らぬ顔がいることは、気付いていた。あの方は誰ですか、と生徒に尋ねたところ、七海さんの妹だと教えてもらっていたのだ。

 

「うおぅ! 大正解! 流石天才少年と呼ばれるだけあるねぇー。名推理だよっ 」

 

 答えを事前に確認しているので、名推理でも何でもない。そう説明するのだが、やっぱ頭いいねぇー、とテンションを上げてる彼女は、まったく聞いていない。

 

 静かな七海さんとは、随分違う性格だな、と思った。

 

 

「あの、ういさんはどうしてここに? 」

 

「んー。ななねぇと一緒の部屋だったんだけど、ななねぇがクラスメイトの部屋に行っちゃったから、暇になっちゃって。そんでフェイフェイのとこに遊びに来たの」

 

「……フェイフェイ? 」

 

「フェイフェイ」

 

 そう言いながら、ういさんは表札の文字を指差す。まさかとは思ったが、フェイフェイとは、「フェイト君」のことを指しているらしい。

 彼女は表札を指差しながら、あれ、と声を溢す。

 

「あ、なーんだ。子供先生とフェイフェイは同じ部屋なんだ。それじゃ、おじゃしまーす」

 

「え。ちょ、ちょっと! 」

 

 僕の制止をまったく気にせず、ういさんはノックもなしに、フェイフェイー、と叫びながら無遠慮にドアを開けた。

 

 何の心の準備もしてなかったのに、ドアという壁をなくした部屋が僕の視界の先にしっかりと現れる。否応なしにそこを覗く形となり、当然というべきか、そこには白髪の少年がやっぱりいて、文庫本を開いて椅子に座っている。

 

 フリーズしている僕を無視して、遊びに来たよっ、と軽快に手を上げながら、ういさんは彼に近付いていく。

 それに気付いた彼は、読んでいる本から目線を外し、彼女を見てはっきりと溜め息をついた。

 

 ……また君か。

 

 そんな声が聴こえてくるようなその仕草は、この前見たときよりもずっと人間くさいもので、少しだけ僕の不安が和らいだ気がした。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 私は、エヴァンジェリンと茶々丸のいる部屋に訪れていた。ノックをしたら、まるで私が来ることを見透かしていたかのようにすかさず迎え入れられ、彼女と対面する椅子に座らされた。茶々丸がすぐに目の前に紅茶と菓子を置いてくれて、その匂いが私の鼻をくすぐる。南の島で日本の茶は飲むのは、流石に不似合いだと思ったようだ。だからといって紅茶が南の島に適しているかは分からなかったが、相変わらず美味しい紅茶であった。

 

「忘れていたが、七海はそうだったな」

 

 エヴァンジェリンは肩肘を丸机につきながら、掌に自分の顔を乗せた。

 まるで、そういうものであるなら仕方ない、と諦めているかのような物言いである。

 

「……そう、とは? 」

 

 訊き返すと、彼女はカップに口をつけてから答える。

 

「悪意や敵意に鈍感、というよりも、自身の目で見たことしか信じないだろう? 」

 

「……そうだろうか? 」

 

 そんなことを言われたことはなかったため、そうである、とすぐに頷くことは出来なかった。そもそも、自己評価と言うものがあまり得意ではない。自分とは、評価をするまでもなく自分以外に有り得ないのだ。トートロジー的な言い回しであるが、ともかく、私は自分のことを把握しようと思ったことはなかった。

 

 お前はそうだよ、と断定するように言ってから、エヴァンジェリンは目を伏せた。

 

「七海の判断基準は、いつも自分で見て、感じたものだ。良く言えば他人や世間の評価に流されないが、悪く言えば人の話を聞かない」

 

 そんなつもりはないのだが、と私が苦笑すると、彼女も釣られて笑った。

 

「それが良いことかどうかは分からん。のんびりとそいつを判断して、悪だと気付いた時には既に遅し、なんてことは世の中にあり溢れている。……私も何度か体験しているしな」

 

 渇いた笑いを保ちつつ言うが、昔を懐かしむ様なその仕草は、どこか悲しみに満ちている。

 600年、吸血鬼として生きてきた彼女がどのような人生を歩んできたかなんて、私には到底想像ができない。ただ、その言い方から、決して苦がまったくない順風満帆の道筋ではなかったことは、想像できる。

 

「……エヴァンジェリン」

 

 恐らく彼女は、私がフェイト君のことについて話に来たのを知った上で、そのような話をしているんだろう。彼女はやはり彼を危険視していて、安易に近付く私を心配してくれている。

 

 ……それでも私は、このまま彼を避けて終わるのは、自分の心に納得出来ない。

 

 そう思ってしまう私は、彼女が言う通り、人の話を訊かない人間なのかもしれない。

 

「…………だだ私は、そんな七海だからこそ気に入っているんだったな」

 

 彼のことをどう伝えたら私が接することを許してくれるだろうか、と悩む私を前にして、エヴァンジェリンは頬を緩めていた。彼女の後ろに立つ茶々丸も、こくりと静かに頷いている。

 

「やはりお前は、そのままで良い。汚い裏側など気にせず、自分の思う通りに進めば良い。あの少年についても、自分で納得いくまで見極めるんだな。思うまま、やりたいようにやればいい。……もし何かあるようなら、私が掃除してやるさ」

 

 軽やかに言うエヴァンジェリンに対して、私は申し訳ない気持ちになってしまった。

 京都の時も彼女には助けてもらってばかりで、今後も何かあったら、きっと彼女は私を助けてくれるのだと思う。

 私は好き勝手しているのに、その尻拭いをしているのは彼女なのではないか、という懸念が頭に浮かんでしまった。

 

 

「……私は、甘えているのだろうか」

 

 私の口から、呟くように言葉が洩れた。それを訊いたエヴァンジェリンは、一度目を丸くしてから、また笑う。

 

「……くく、七海もそんなことを気にするんだな」

 

 尖った犬歯が見えるような笑い方は、彼女を更に子供っぽく見せた。

 

「私もだ。私も、私のやりたいことしかやらん。気にされる方がむず痒い気持ちになる」

 

「だが……」

 

「少しは肩の力を抜け。力を持っているものが、力が必要な仕事をすればいいんだ。お前が何であろうと、私のやることは変わらんよ」

 

「……」

 

 何ともないことのようにエヴァンジェリンは言う。

 

 ……だが、私にとっては、胸の中がいっぱいになるような言葉だった。

 

『お前が何であろうと。』

 そのフレーズは、私が隠し事をしているという後ろめたい気持ちを打ち消してくれるほど、すっと胸に落ちていった。

 

 

「……ありがとう」

 

 自然と私は頭を下げて、心から礼を告げていた。

 

 礼などいらん、と彼女は満足そうに答えた。

 

 

 

 







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55話

 

 エヴァンジェリン達の部屋から出て、私は自分の部屋へと向かった。

 気付けばそれなりに長い時間が経っていたようで、もう陽が落ちて、海さえも吸い込まれるような漆黒な色を成している。部屋と部屋を木で繋ぐ渡り廊下から遠くを眺めると、海岸沿いにある街の光だけがチカチカと見えた。それはまるで地上に並ぶ星のようで、美的センスなどない私だが、なんとなく芸術的に感じる。

 

 私は自分の部屋のドアの前についてから、一応ノックをしてみた。私とういは同室であるため、この中にはういがいる筈なのだが、返事は返ってこない。

 

 寝ているのか、遊びに行っているかのどちらかだな、と当たりをつけて部屋に入り、パチリと壁際のスイッチに手をかける。蛍光灯が光り、室内に明かりをもたらす。見回してみるが、ベッドに膨らみもなく、彼女の姿は見当たらない。どうやら後者であったようだ。

 時計を見ると、あと少しで10時頃。学生にとってはまだまだこれから、という時間かもしれないが、ういが一人で何処かに行ったかと思うと、多少なりとも心配である。

 過保護なのかもしれないが、彼女の性格があんななので、知らぬ間に迷っていたり、誰かに迷惑を掛けている可能性はないとは言えない。

 

 ……探しに行くか。

 

 一度はベッドの上に腰を下ろしたが、また立ち上がり、入るときの逆の手順で明かりを消してから、私は部屋を出た。

 

 彼女が行く場所といったら、どこだろう。ここに来る前の彼女の知り合いなら数えるほどの筈だが、今ではもう分からない。ビーチでは沢山の人と遊んでいたし、誰にでもなつくような性格なので、どの部屋に潜り込んでいる可能性もあり得ると思った。

 外に出ていたら探しようがないが、なんとなくそれはなさそうな気がする。

 

 ……一部屋ずつ確かめるしかないか。

 

 そこまで部屋が多いわけでもないし、他の生徒達もまだ眠ってはいない筈だ。そう決めてから、私は自分の隣の部屋の扉を叩いた。

 

 ノックの音が通じたのか、中からトタトタと小走りする音が微かに聞こえ、私が誰かを確認する前にドアは開いた。

 

「はい、どちらさまー。……って七海やん。どうしたん? 」

 

「こんな時間にすまない」

 

 淡いピンク色のパジャマを来た木乃香が、いつものように暖かい笑顔のまま首を傾げている。

 

「……お嬢様、不用心に扉を開けすぎでは……」

 

「せっちゃんは心配性やなぁー。大丈夫やって。七海やったから」

 

「明智さんでしたか、どうしたんです? 」

 

 木乃香の後ろから桜咲が少しだけ顔を覗かせた。黒地に白い線が一本入った、よく訊くスポーツブランドのジャージを着ている。二人からは、トリートメントの良い香りがした。きっと、シャワーを浴びたばかりだったんだろう。

 

「妹を探しているんだ。私より少し低い身長で、黒髪で左右で髪を縛っている……」

 

「あ、今日ビーチにおった子? 」

 

「その子だ。見なかったか? 」

 

「あの子が七海の妹やったんやぁ。 確かに今考えれば似とるなぁ。ええなぁー可愛い妹がおって。うちも姉妹が欲しかったんやー」

 

「そ、そうか。それで……」

 

「お嬢様、七海さんの質問に答えてあげないと……」

 

 木乃香が話を脱線させたのを、桜咲が止めてくれた。木乃香はごめんごめん、と可愛らしく頬を掻いている。

 

「うーん。見てないわぁ。せっちゃんは? 」

 

「……すいません、明智さん。私も……」

 

「いや、いいんだ。ありがとう、他の場所を探してみるよ」

 

「あ、あの、明智さん! 」

 

 頭を下げ、他の部屋を訪ねようとした私を、桜咲が呼び止める。

 

「……どうした? 」

 

「……お礼が言いたくて。まだ何も伝えれてなかったので」

 

「……なんの話だ? 」

 

「え、ええと」

 

「何々? せっちゃん何かあったん? 」

 

「……いえ、また今度、改めて言わして頂きます」

 

「……? 分かった」

 

「えー。せっちゃん何の話か教えてやー。七海も中でお茶でも入れるえ? 」

 

「ありがたいが、妹を探さなければならなくてな。……それじゃ、また今度」

 

 せっちゃんなになに、と木乃香に迫られ困った顔を浮かべる桜咲を置いて、私は彼女たちの部屋を後にした。

 

 

 ○

 

 

「……君は、いつになったら自分の部屋に戻るんだい? 」

 

 白髪の少年が、ういさんの耳へと届くようにわざとらしく大きな溜め息を吐いた。僕もまさしくその答えが聞きたかったので、同意を示すようにうんうんと頷く。

 

 彼女がこの部屋に来てから、早2時間ほど。

 彼女は、彼が寝る筈のベッドに潜り、枕と反対側から顔だけを出してテレビを見ている。

 自分の寝床が陣取られている少年は、近くにある椅子の上に座らざるを得なかった。

 

「え? 持ってきたDVD全部見終わるまでに決まってるじゃん」

 

 それはまるで、リンゴの色を訊かれたとき、赤いに決まってるでしょと答える時のようだった。

 なんでそんな分かりきってることを訊くの?、とういさんが首を傾げながらテレビを指差す。

 

 ういさんが指差した先のテレビ画面には、色とりどりの戦隊ヒーローが、真っ黒なタイツを被った人達を次々と倒していく姿が映っていた。

 この、1巻4話収録全12巻ある、なんとか戦隊という特撮ものは、まだ2巻目。本気でこれを全部見る気だということを訊いて、僕は小さく悲鳴をあげてしまった。

 

 

 

 

 そもそも、僕ら三人が何故特撮ものを見ているかと言うと、言うまでもなくういさんが原因である。

 ういさんは、この部屋に来てから少しの間彼と話をし、途中で唐突にそのDVDセットを取り出した。

 

「前にフェイフェイには話したことあるでしょ? 面白いから一緒に見ようよ」、と有無を言わさずテレビに付属しているDVDレコーダーに1巻入れて、気付けばそれの鑑賞会が始まっていた。海上コテージ故に普通の番組が放送されないと事前に知っていた彼女は、わざわざそのDVDを持ってきていたらしい。

 

 最初は、ういさんが帰ってしまい彼と二人きりというのもあれだし、まぁいいかな、なんて思っていた。しかし、1話30分ほどのものを4話分見てから、休むことなく2巻目をセットしているのをみて、あれ、おかしいぞ、と感じた。

 

 僕と彼はういさんの解説を聞きながらしばらくそれを一緒に見ていた(というより見ざるを得なかった)けど、そろそろ限界に近かった。

 それが面白い面白くないという問題ではなく、目が痛く眠たいという限界である。テレビやゲームをあまり見ない僕は、続けて画面を見ていたせいで目に疲れが溜まりはじめていた。

 

「あの、ういさん。わざわざここで全部見なくても……。そんなの家でも見れるんじゃ……」

 

「子供先生、まさか今、そんなのっていった!? 」

 

「え、いや」

 

 やんわりと止めようと思ったけど、思わぬ地雷を踏んでしまったようで、ういさんは更に声を張り上げた。

 

「これはね! 千雨ちゃんが私に紹介してくれた奴なんだよ! 愛と正義が世界を救う、感動ストーリーなんだよ! 子供先生も千雨ちゃんの先生なら、これくらい押さえとかないと! 」

 

 このDVDも千雨ちゃんに貰ったんだよ、と続けて、ういさんはまたテレビに目を向けた。ちょうど今、青いヒーローが必殺技を放ち、敵を一気に凍らせている所だった。

 僕は、諦めるようにテレビを見ながらベッドの上に座り直した。

 千雨ちゃんとは、長谷川さんのことだろうか。七海さんと長谷川さんは仲が良いから、妹のういさんも関わりがあったとしても不思議じゃない。長谷川さんがこういう物を見るとは、少し意外だった。

 

 

 テレビの中のヒーロー達が協力して必殺技を出し、巨大化した敵を倒した所でまた1話終わった。これでやっと、2巻目も半分だ。これがあと何回も続くと思うと、汗が止まらなかった。

 

 彼女は既に3巻目が入ったパッケージを胸元において、すぐさまセット出来るようにと早すぎる準備している。

 

 ……このままエンドレスに続くのはまずい。

 

 どうにかして止めないと、と思っていると、視線を感じた。

 

 椅子に座る白髪の彼が、こちらをじっと見ている。

 

 まともに話したことはないし、彼とは何となく距離を感じるけれど、額に一滴の汗を滴らせながらこちらを見る彼と、この時だけは心が通じ合った気がした。

 

 協力して、彼女を止めよう。恐らく、そんなようなことを僕に伝えている気がする。

 彼もこの状態が続くことを望んでいないのだ。

 

「あの! ういさん! 」

 

「ん? 」

 

 僕に話し掛けられたからか、彼女は手元においたリモコンをテレビに向けて、一時停止のボタンを押した。

 

「ち、ちがう遊びをしませんか!? 」

 

「えー」

 

 唇を突き出し、不満な様子を分かりやすく示す彼女。しかし、こちらの意見を訊く気はあるようだ。

 

「……例えば? 」

 

「えと、えと」

 

 僕はキョロキョロと回りを見て何かないかと探す。そこで、彼が机の上に置いてあったトランプを持ち上げて僕らに見せた。

 

「……僕は、これがしたい」

 

「……トランプ! 僕もそれがいいです! 」

 

 すかさず援護射撃を入れるように、身を乗り出しながら僕も同意した。

 トランプになったからといって彼女がいつまでここにいるかは分からないけど、とりあえず延々とDVDを見続けるこの状況から抜け出したかった。

 

「……トランプ。トランプかぁー」

 

 ういさんは手を組み、悩む。

 トランプ楽しそうだなぁ、とアピールするように僕は小声で呟いておく。

 

「……フェイフェイ。ほんとに、トランプがしたいの? 」

 

 ういさんは彼の方を見ながら訊く。こくりと、彼は頷く。

 

「……子供先生も? 」

 

 僕も、頷く。

 

「……よしっ! そらもうやるしかないね! じゃあ皆でトランプやろ! 」

 

 満面の笑みを見せて、ういさんは布団から出てきて、床に座った。早く早く、と床を叩きながら僕らを急かす。

 

 ……とりあえずあの状況から抜け出せた。

 

 そのことに安心するように、僕と彼は同時にほっと息をついた。

 

 

 

 ○

 

 

「ういさん、眠っちゃいましたね」

 

 僕らの部屋に来て騒ぎ疲れたのか、ういさんはすやすやと可愛らしい吐息を立てながら目を閉じていた。彼が寝る筈だったベッドの上で、猫のように身を丸めている。ずっと騒がしかった人がこれだけ静かになってしまうと、寝ているだけだというのに心配してしまう。

 

 彼は、彼女を見ながら、そうだね、と疲労した様子で呟いた。

 

 

 彼女はこの部屋に来てから延々に話をしていて、それはもう訊いてる方が疲れるほどだった。普段生徒たちと話慣れてる僕でさえ疲れたので、彼の疲労は計り知れない。長ーい話がするのが大好き、という特徴を持つ女子学生の中でも、彼女は別格だった。

 

「……ふぅ」

 

 僕が一息ついた音は、思ったよりも部屋に響いた。

 先程までずっと騒がしかったのに、僕と彼の二人になったとたんに部屋は静かで、さっきまでとは全く違う場所にいるように感じた。懐にいるカモ君もいつの間にか眠っている。カチカチと時計の音だけ聞こえるのが、余計静寂さを目立たせた。

 

 僕は、ちらりと彼を見る。僕は自分の布団の上に座っているけど、ういさんに布団を盗られた彼は、窓際にある赤くふかふかそうな椅子の上に座っている。外をじっと見つめ、動きを見せない。

 

「……あ、あの」

 

「……なんだい」

 

「……なんでトランプだったんですか? 」

 

 敬語にするかどうか迷ったけど、そのまま訊いてみた。見た目的には年齢が近そうだけど、一応初対面だし。

 

 彼はゆっくりと僕に視線を移す。

 

「目の前にあったからね。特に理由はないよ」

 

「……そうですか」

 

「……ただ、少し頭を使わせた方がすぐに眠るとは思った」

 

 彼は首を動かし、ういさんへと視線の先を変える。無意識に見られていることを感じたのか、ういさんはむにゃむにゃと小さな音を立てた。

 

「……あは、成る程。確かにそうですね」

 

 僕のクラスの生徒たちを見ても、確かにそうだ。運動とか何かには凄く集中出来る人たちが多いけど、勉強になったら皆途端に眠そうな顔になる。

 敵だと思っていた彼と普通に会話をしていて、しかもそれがこんな話で、何故かちょっとだけ可笑しく感じた。彼は僕が笑った理由がよく分からないようで、怪しむような目をしている。

 

「君……あー、と、フェイフェイさんは…… 」

 

「……やめてくれないか」

 

「それじゃあ、なんて呼べばいいですか」

 

「……『フェイト』でいい」

 

「なら、僕もネギでいいです」

 

 同年代の子と話すのは、久しぶりだった。だからか、どこか新鮮な気持ちになる。

 

「……フェイト君は、どうして麻帆良にきたんですか? 」

 

「……」

 

「あ、別に言いにくい事なら別に……」

 

 視線を鋭くした彼に向かって、僕は両手を細かく振る。まだやっと名前を伝え合っただけの関係。そこまで踏み込むのは、気が早すぎたのかもしれない。

 

「目的のためだよ」

 

「……そうなんですか」

 

 その目的が知りたいんです、とは、訊けない雰囲気だった。

 

「……君は? 」

 

「え? 」

 

「何故麻帆良で、先生なんかしているんだい」

 

 ……理由は、沢山ある。魔法学校卒業のため、お父さんの手掛かりを探すため、お姉ちゃんの症状を治すため、村の皆の石化を戻すため。でも、それらは全て、今の自分じゃできない。

 

「……立派な魔法使い(マギステル・マギ)になるため、ですかね」

 

 立派な魔法使い(マギステル・マギ)となって、強くなって、知識を増やして、それから、自分の目標を追っていかないといけない。

 

「……立派な魔法使い(マギステル・マギ)、ね」

 

 彼は顎に手を置いて、少し間を置く。

 

「……君にとって、立派な魔法使い(マギステル・マギ)、とはなんだい? 悪い奴がいたら、どんどん倒していく存在かい? あのテレビのヒーローのように? 」

 

「それは……」

 

 悪いことをしている人がいたら、止めるのは当然だろう。

 

「さっき彼女と見ていたDVDじゃ、悪役は分かりやすく人の不幸を願う悪役だった。だが、現実じゃどうだろうか。全てのものが何か思考し、自分なりの道を歩いている。ぶつかるときは、お互い曲げられない時だ 」

 

 かちりかちりと、時計が時間を刻む音が大きく聞こえる。彼は、僕から目を離さない。

 

「……ネギ君。君にとって、正義とは何で、悪とは何だい」








小ネタ
『会話の意味』





「フェイフェイ」

「……」

「フェイフェーイ」

「……」

「ねぇ!フェイフェイ!」

「……」

「ねね!なんで無視するの!?」

「……はぁ。君が、あまりにもしつこいからだよ」

「ひどい! そんな理由で無視するなんて! あんまりだよ! 」

「……じゃあ、君はどんな用があって僕に声をかけてるんだい?」

「え。いや特に用はないけどさ。呼んでみてるだけだよ?」

「いつもそれじゃないか。ちゃんと君の話を聴いて得したことがない。毎回思うのは、時間の無駄だ、という感想だけだ」

「駄目だなぁ。フェイフェイは。会話に得とかそうじゃないとかを求めたら駄目なんだよ」

「じゃあこの会話には何の意味があるんだい。二人に得れるものがないなら、僕には無駄という印象しかないのだけれど」

「意味は分からないけどさ!意味のない会話でも、私はいいと思ってるよ! だって、目的はフェイフェイと話すことだもん」

「……」

「もしかしたら中身なんてわりとどうでもいいかも! だって、話したいな、って思って話してるだけだから。だから今も、フェイフェイこうして私の言葉を聴いてくれるだけで、私は私の目的を達成できているのだぁ!」

「……僕が君と話したくない、と言っても君は僕に話すんだね」

「うん。だって、私はフェイフェイと話したいもん」

「……君みたいな人間をなんというか知ってる。自分勝手だ」

「うーんよく言われるんだよねぇ私。でもさ、他人勝手、よりは良いと思わない? だって、他人任せに生きるなんてさ、ちょっとつまらないかも」

「……そう、かもね」

「でしょ!だからきっと、自分勝手でもいいのだ!」

「いや多分よくはないよ」






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56話

今日3話目です。


 ……ここにもいなかったか。

 

 鳴滝姉妹の部屋を出て扉を閉めてから、私は少し肩を落とす。

 各部屋を回って妹がそこにいるかを聞くだけだった筈が、私の吐く息には若干の疲労が混じり始めていた。原因は、どの部屋に行っても騒がしい少女たちに一旦絡まれていることにあるだろう。

 部屋を訪れた私を誰もがただでは帰してくれず、ゲームに勝ったら教えてやろう、と声高々に言われることもあれば、とりあえずお茶は飲んでいくよね、と無理矢理腕を引っ張られて連れ込まれることもあった。

 部屋に入った段階でそこに妹がいないことは分かりきっているのだが、何となく断るのも悪い気がして結局付き合ってしまう私も私なのだが。流されやすいということなのだろう。

 

 少し休んでから、重みを感じる体を再び動かして、私の足は自然と妹探しを続けることを決めていた。

 ういを探し初めてから結構な時間が立ったので、もしかしたら既に私達の部屋に戻っている可能性もある。しかし、ここまで来たら全ての部屋を確認せずにはいられないという使命感が、なくもない。

 

 次の部屋の前に立ち、扉の横についている窓から漏れる光により、中の人が起きていることを確認した。当然、眠っているだろうという時は部屋を訪れるのは避けるつもりであったが、結果的にどの部屋もほとんど起きていた。

 

 

 ここも恐らくまだ起きているだろうな、とゆっくりと手をあげ、私はその扉を軽く叩こうとした。

 そこで、扉はちょうどすっと私の手から離れるように奥に移動していき、すかりと空を切る形になってしまう。

 

「あれ、七海じゃない。何してんの」

 

 開けたドアの隙間から明日菜が顔を出しながら、不格好な私の手を見て不思議そうな顔をした。

 彼女はそのまま体を廊下に出して、バタンと扉を閉める。

 

「妹を探しているんだ。見なかったか」

 

 行き場をなくした手を体の横に戻しながら、私は訊ねた。

 

「ういちゃん? ここには来てないけど」

 

 首を振りながら、明日菜は答える。

 となると、残る部屋はあとひとつだ。

 

「明日菜はどうしたんだ」

 

「え、何が? 」

 

「こんな時間に何処に行くつもりかと思ってな」

 

 廊下まで出てきたということは、明日菜も何処かに行く気であったのだろう。

 

「七海も、『こんな時間に』、は一緒じゃない」

 

「確かに」

 

 二人で頷いてから、クスリと軽く笑いあった。

 

 それから、明日菜は少し気恥ずかしそうに頬を掻く。

 

「……ネギの所。あやかにも怒られちゃってね。早くネギと仲直りしろって」

 

「……そうか」

 

 肩を竦めながら言う明日菜を見て、私はまた頬を緩める。言われてから即行動となるのが、明日菜らしい。

 

「なら、一緒に行くか」

 

「七海も? 」

 

「私も、次はネギ先生の部屋に行くつもりだったのでな」

 

 他の部屋はもう回ったんだ、と言うと、お疲れ様、と明日菜は私の肩を叩いてくれた。クラスメイトに絡まれていたことを察してくれたのかもしれない。

 先程より足音が増えたことを心強く思いつつ、私達は会話をしながらネギ先生の部屋へと向かっていった。

 

 

 空には、覆い被さるような黒色が一面に拡がっていた。不安を煽るような色ではあるが、月や星が輝いているだけで、随分と印象が変わって見える。

 しかしこんな時間ともなれば、いくらネギ先生が子供離れしていると言っても既に眠っている可能性の方が大きい。部屋を見て明かりが消えているようなら戻ろう、と明日菜には提案しておいた。

 

「ネギの部屋って一人なの? 」

 

「……もしかしたら、フェイト君がいるかもしれないな」

 

「……フェイト君? ああ、あの子ね」

 

 昼間の話を思い出したのか、明日菜は手をぽんと鳴らした。

 そういえば、フェイト君の姿も今まで見ていない。あやかのことだから、フェイト君が急遽参加だとしても部屋を用意していないということはないだろう。今まで姿を見てないことからも、ネギ先生と同室の可能性は高い。そう考えれば、彼らの部屋にこそ、ういがいる気がしてきた。

 

 海面の上に出来た木の廊下を歩き続け、ネギ先生とフェイト君、と書かれた表札が掛かる部屋に着いた。窓を見れば、まだ明かりが付いているのが分かる。小学生が起きている時間にしてはかなり遅いが、彼らは眠ってはいないようだ。

 

 こんこんと明日菜がノックをした。が、すぐには返事は返ってこない。

 

 もしかしたら明かりを付けたまま寝ているのかもしれない、と私と明日菜が顔を合わせた。

 

 無理に起こすつもりはないし今日は戻ろうかと、二人で意見を一致させ、踵を返した所で、扉がゆっくりと開く音が聞こえた。

 

 振り返ると、光が漏れるその扉の先には、少し悩ましい表情をしたネギ先生がいた。

 

 

 ○

 

 

「あ、明日菜さん、七海さん」

 

 ネギ先生は浮かない顔をしながら、歯切れが悪い様子で私達の名前を呼んだ。

 寝ていた、という訳ではなさそうだが、彼の表情からすると、もしかしたら今は良いタイミングではなかったのかもしれない。

 

「……ネギ、ちょっと話があるんだけど、いい? 」

 

「え、えと」

 

 明日菜の呼び掛けに対しても、ネギ先生は困惑する様子を見せた。彼は振り返って部屋の中へと視線を移す。私も釣られて奥を見ると、窓際にある椅子にフェイト君が座っているのが分かった。

 

「いいよ、ネギ君。行ってくればいい」

 

 此方にギリギリ聞こえるという声量で、フェイト君が言う。

 

「……でも」

 

「さっきのは、別に大した質問じゃない。そうだろう? 忘れてくれていいよ」

 

「……それじゃあ」

 

「よし、ネギ。ちょっと付き合って。七海、またね」

 

 フェイト君の許可を得て、ネギ先生がぎこちなく頷くと、明日菜はネギ先生の手を持って連れ出して行ってしまった。ぐいぐいとネギ先生の小さな体が引っ張られて、二人の背中が遠くなっていく。明日菜は、二人で話がしたかったんだろう。

 高畑先生にもそれだけ積極的に慣れれば良いのに、なんて思いながら見届けて、私は視線をフェイト君へ移した。

 

「フェイト君」

 

「君の妹ならここにいるよ」

 

 ベッドの方を指差しながら、抑揚もなく彼は言った。

 

「それは、迷惑かけたな」

 

 申し訳ない、と言う私に対して、彼は、はいともいいえとも言わなかった。どうやら、本当にそれなりに迷惑をかけていたらしい。

 

「……入っていいか?」

 

「どうぞ」

 

 許可が出たので、部屋に上がらせてもらった。

 造りは当然私達の部屋と同じで、ベッドを見ると、そこにはぐっすりと寝ているういがいた。

 気持ち良さそうにすうすうと息を吐く姿は、あまりに能天気なものである。きっと遊び疲れてしまったのだろう。まさか他人の部屋で熟睡してしまうとは思わなかったが。

 

 私は呆れながらも、彼女の頬っぺたをペチペチと叩く。

 

「うい、おきろ」

 

「…………」

 

 返事は寝息しか聞こえず、やはりと言うべきか、微塵も起きる様子がない。

 

 ういは、昔から眠りに入ったらかなり熟睡するタイプだった。少なくとも、朝日がないと彼女を起こすことは不可能で、こういうときはもう朝になるまで待つしかないことを、私は知っている。

 だからと言って、寝ている彼女をこのまま置いていく訳にもいかない。彼女が独占するようにベッドを使っているため、この部屋の使えるベッドはあと一つしかない。ネギ先生かフェイト君を私の部屋と同室にしてもいいのだが、荷物の移動などで彼らに迷惑がかかる。

 

 そこまで考えてから、私は彼女の脇の下に手を入れ、体を無理矢理引き上げようとした。

 

「……何をしてるんだい」

 

「せ、背負っていこうと思ってな 」

 

 自分の部屋にういを連れ帰ろうと、どうにか彼女が私の背中に寄り添うようにと動かすが、力の入れていない人間は想像以上に厄介で、ふにゃふにゃとする体を支えられない。

 

 力のない私がトロトロとする姿を見ていられなくなったのか、フェイト君はため息を吐いた。

 

「……いいよ、僕が背負う」

 

「しかし」

 

 そこまで世話になる訳にはいかない。そんなことをさせてしまったら、結局迷惑を掛けていることになる。私がそう続ける前に、フェイト君は淡々とベッドまで近付いて、さっとういの手を背中から自分の前にと回し、足を持って軽々と立ち上がった。

 

「はやく出ていってくれないと、僕のベッドがない」

 

 君達の部屋を案内してくれ、と私より先に彼は廊下に向かっていく。身長の低い彼がおぶると、ういの足が地面に付きそうだ。

 私はそんな彼の姿に、申し訳ない、と再び頭を下げてから、先導すべく前に出た。

 

 

 ○

 

 

「正義と悪ぅ?」

 

「はい……」

 

 明日菜さんに連れてこられて、僕たちは浜辺にいた。海には既に海らしい青々しさはなかった。乾いた真っ白な浜の上で二人で体育座りをして、すれる波の音を耳にしている。

 

「なにそれ。あの子もやっぱ変ね」

 

「あはは……」

 

 言い切る様子が少し面白くて、笑ってしまう。

 

「てか、最初の相談がそれなの? 」

 

 目を細めて、じっと僕を見つめてくる。

 

「何でもって言ったじゃないですか」

 

「言ったけどさぁー」

 

 明日菜さんはグッと体を伸ばしてから、なんだかなーと呟いた。

 

 

 ここに来てから、明日菜さんとは少し話をした。

 

「あんたが頑張るのも分かった。心配かけたくないのも分かった。でも、それはあんたの都合よね。ネギがその気なら、私も勝手にする。勝手にあんたを応援して、勝手に心配してやる。……だから、なんかあったら頼ってよ。抱え込まないで、何でも相談して。私は味方だからさ」

 

 真剣な目をしながら明日菜さんはそう言ってくれて、最後に僕の頭をぽんと叩いた。

 怒っているかと思っていたけど、怒っていなくて。

 本当に、僕を心配してくれたようで、嬉しかった。頼りたくなった。

 そこで最初に思い付いたのが、彼に訊かれた質問だった。

 

 答える前に明日菜さんたちが来てしまったから彼には何も言えなかったけれど、きっと、あのままでも僕は答えられなかったと思う。

 

 彼は、僕に真剣に答を求めている気がした。だからこそ、軽々しくは答えられなくて、まだ意味もよく分からなくて、僕は言葉に詰まっていた。

 

「あの子は何が訊きたいの? 」

 

「……僕にも分かりません。でも、適当に訊いてる訳ではないと思うんです」

 

「正義」と「悪」。ういさんが見せてくれた戦隊ものでは、自分の楽しみのために人間を襲い生体エネルギーを奪うんだと豪語していたもの達は悪で、それを倒し平和にするんだと言っていた人達は正義だった。

 見ている方には納得のいく展開だったし、悪いことを繰り返し人を困らすものは、やっつけられるべきだとも思えた。

 でも彼は、現実ではそうじゃないと言い切った。誰もが思考していて、ぶつかるときはお互いに引けない時だと、彼は言っていた。

 

 

 

 ……なら、あの日の敵も?

 

 

 

 不意に、昔の記憶が頭に流れ込んできた。

 燃える村。石となった人々。異形の姿を成すもの達。

 叫ぶおじいちゃん。僕を守ろうと、前に出るお姉ちゃん。

 ……そして、全てを薙ぎ払ったお父さん。

 

 あの時は、いっぱいいっぱいだったけれど。後から思えば、確かにお父さんは正義のヒーローのようだった。

 

 それが、違うというのだろうか。あの敵にも、どうしようもない理由があって、お父さんが、あっちにとっては悪で。

 

 でも、そうだとしても、僕はあの時の敵を……。

 

 

「……ネギ。訊いてる? 」

 

 明日菜さんが、僕の右肩を掴む。はっとなった。体が熱い。

 

「……あんた、どうしたの? なんか今変だったわよ」

 

「……いえ、その。はい、」

 

「よく分かんないけどさ、良いことが正義で悪いことが悪じゃだめなの? 」

 

 明日菜さんは話を続けようと、そのまま僕に問いかける。

 僕は一度頭を振って、それは、あの時の記憶を振り払おうとするようにして、またこの場所に思考を戻した。

 

「多分、その良いことと悪いことを訊きたいんだと……」

 

「そんなの、自分が好きなことと嫌いなことでしょ」

 

「うーん」

 

 なんだか、少しずれてる気がする。

 

「なによ。言ってあげてるのに。てか答えなんかあるのそれ」

 

「……分からないです」

 

 答えがあるかなんて、分からない。きっとこれはそういう問題だろう。

 でも、多分だけど、彼は……。

 

「僕は、彼のためにも自分なりの答えを出してあげたいと思いました」

 

「ふーん」

 

 明日菜さんは、足を組み替えてから腕を組んだ。

 

「今分からないなら、これからも考えるしかないわね。別に、すぐに答えを出せって訳じゃないんでしょ? 」

 

「ま、まぁ」

 

 確かに、学校の宿題のように期限を付けられたものでもないし、彼もすぐに答えが欲しいと望んでる様子でもなかった。

 

「そういえば、私もあんたの好きなこととか分からないもの。ネギって好きなことあんの? 」

 

「……好きなこと」

 

 考えてみても、パッと頭に思い付くものはなかった。好きな人も、守りたい人もいる。でも、自分が好きなことって、なんなんだろう。

 マギステルマギになるために努力するばっかりで、自分の好きなことには目がいかなかったし、必要とも思わなかった。

 悩む僕を見て、明日菜さんは僕の髪をくしゃくしゃとした。

 

「ちょうどいいじゃない。考えてみる機会がきて。自分のこと。もうちょい見直してみたら? 周りも、あんたの思ってるよりあんたを見てくれてるわよ」

 

「……そう、ですね」

 

 答えは、まだない。でも、大切なものや、好きなものを堂々あげられたら。僕の中で、ヒントは見つかるだろうか。

 

 

 

 ○

 

 

「正義と悪とは何、か」

 

 私とフェイト君は、私達の部屋に戻ろうと廊下を歩いていた。フェイト君の背中にはういがいて、むにゃむにゃと口を動かしている。フェイト君があまりに軽そうにういを持つため、先ほど彼女を支えきれなかった自分が少し情けなくもなる。フェイト君も魔法的な力を使っているのだろうか。

 

 

 しかし、正義と悪か……。

 

 あまり使わない言葉だからか、先程声に出したことが恥ずかしくも感じた。随分と難しくて、哲学的だ。

 ちらりとフェイト君を見ると、いつものような顔で前を向きながら歩いている。

 

 

 

 先程ネギ先生の様子が妙に可笑しかったので、何の話をしていたんだい、と彼に訊いた所、思わぬ言葉が返ってきていた。彼らは、正義と悪とは何か、ということについて語ろうとしていたらしい。

 純粋に子供がそう言っているのならば、創作の物語にでも影響されたのだろうかと思うが、これほど精神がしっかりしている彼が言うとそう簡単にも捉えられない気がした。

 私は科学者であったので、あまり哲学的なことに強くない。見えるものが真実であり、はっきりとしたデータがないと信憑性を生み出せない世界であったので、そのような曖昧なものを考えることは少なかった。

 

「……君はどう思う 」

 

「私にも聞くのか」

 

 突然思わぬ被弾を浴びてしまい、胸がドクンと言った。授業中準備もなく不意に当てられる生徒は、こんな気持ちだったのかもしれない。

 

 

 波の音が聞こえた。高い波ではなく、細かく、ざざざと定期的に擦るような音を鳴らしていて、訊いている方は心地がよい。夜になり全てを吸い込むような黒色へと変わっても、海としてのその動きはずっと変わらないようだ。

 波の音を耳にしながら、彼の質問について考えてみる。考えてはみるが、正義と悪と言われてもこれまでの人生ではそんなことを頭に過ったこともなく、よく分からない。

 

 

 ……だが、それよりも気になることはある。

 

 彼は何故、ネギ先生や私にそれを訊いたのか、だ。

 

 

「……迷っているのか」

 

 囁くように呟いた私の言葉を訊いたとき、彼の体はおもむろに立ち止まった。

 足を止め、首を動かし、私の方をじっと見つめている。

 

「……迷う? 僕が? 」

 

「いや、なんとなくな」

 

 もしかしたら、彼は模索しているのではないか。

 無意識に、自分が気になっていることを他人へと確認しているのではないかと。そう思った。

 

 彼は少しの間沈黙したあと、私をじっと見た。

 

「……僕の質問の返事を訊いてないよ」

 

 力の入った目が、私に向く。私が検討外れのことを言ったからなのか、図星だったからなのかは、分からない。

 

 すまない、と謝ってから、私は自分の意見を告げることにした。

 

「正義と悪なんて言ってしまうと随分大袈裟だが、私は、私の周りが幸せになるようなことは良いことだと思う。逆に、周りが不幸になるようなことは嫌だな」

 

「それが、正義と悪なのかい? 」

 

「……ううむ。そういう訳でもないような」

 

 何かを正しいと言い切ったり、何かを間違いだと言い切るのは、意外と難しいものだった。大体、善悪を決めつけれるほど私は大した人間ではない。

 

「曖昧だね。それに、自己中心的だ」

 

 予想より厳しい返事が来た。

 私自身の意見が定まっていないので、曖昧なのは仕方がない。それに、随分と青臭いことを言っている自覚もある。

 

「私だって分からないんだ。ただ、周りが不幸になるようなことが正しいとは、言いたくないだろう? 」

 

 正解なんてない。そう言い切るのは簡単だ。だが、彼はきっと、その答えは求めていないのだろう。

 

「…………あくまで自分中心なんだね」

 

「……そうかもな」

 

 私は、小さく笑いながら答える。

 私の目に見える世界は、思ったより狭い。見知らぬ遠くの人の幸せよりも、間近にいる皆の幸せを求めてしまうのは、自分勝手なのかもしれない。

 

「だが結局、何かを決めて評価するのは自分だろう? 不変的な正義と悪だなんて分からないが、自分の中で良いと思えるものと許せないと思えるものが判断できればいいと思う」

 

「……人それぞれだと? 」

 

「まぁ、有りがちな答えになるが、私はそう思う。……結局、正義と悪という答えにはあまりならなかったな」

 

「……」

 

 また、波が鳴った。今度は、先程より強めの音だ。そういえば、風も吹いてきた。

 寒さを感じたのか、ういがフェイト君に捕まる手をぐっと強めた。







小ネタ
『のどか』





「お!ななみん!どったの?」

「夜遅くすまないハルナ。実は妹を探しててな。見なかったか」

「あのツインテールの子だよね? うーん見てないなぁ」

「そうか。ありがとう。もし見付けたら教えてくれると助かる。ならら、お休み」

「はいちょっとまったー!」

「……なんだ、ハルナ」

「なんだよなんだよ。そんな簡単にさよならぁって、寂しいじゃんかよぉ」

「いやだが」

「せっかくの旅行だしもっとお話しよーよー。部屋には夕映ものどかもいるしさ、」

「……ハルナ? さっきから玄関で何してるの? って明智さん、こんばんはー」

「こ、こんばんは、のどか」

「あのぅ、どうかしましたか? 」

「えっとだなぁ……」

「ななみんね、のどかとお喋りしに来たんだって」

「え! 本当ですかぁ! 」

「いや、その」

「……私、明智さんとは、前からちょっと、お話ししてみたいなって。夕映とも仲が良いし、その、本、お好きなんですよね? 」

「まぁ、好きだが……」

「私、クラスにお喋りできる人あんまり多くないから、その、明智さんも本が好きなら……」

「……そうだな。せっかくだし、話をしようか。私ものどかとは仲良くなりたいと思っていたよ」

「……! はい! お話しましょう!」

「いいねぇいいねぇ。青いねぇ二人とも」


「……ハルナ、わざわざ機会をつくってくれたんだな」

「あははー機会をつくったというか暇だったから二人を会わせてみただけだけどね! のどかがななみんと話したがってるとか全く知らなかったしー。いやー思ったよりいい反応面白かったようん!」

「……ハルナ、虫が腕を這うのは好きか?」

「急になにその質問! ごめんって!恐ろしすぎるよななみん! 」


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57話

 

 

 南の島にいる間は、世界樹の世界へと行くことがなかった。

 薬は毎日通常通りに服用していたし、食事は少し豪華ではあったがいつもと違いすぎると言うこともない。気温は高かったが、それで左右されるとは考えにくい。やはり大きく違っていたのは、場所だけである。

 つまりあの世界に行く条件として、麻帆良にいることが必要なのは確かなように思える。

 これはそこまで驚くような結果ではない。京都に行っている時も世界樹の世界に行くことはなかったため、十分予想できた結果だった。

 世界樹が中心に堂々と聳えている世界なのだから、それをアンテナとしていると考えることは難しくない。離れすぎると通信が鈍る。そんなイメージだろうか。

 

 では、何故世界樹の薬を飲むとあの世界へと精神が移動するのだろうか。元々世界樹から作った薬であるので、私が服薬したあと世界樹の元へと戻ろうとする力が働き、精神が引っ張られているのか。それとも、服薬することで私自身が子機のような役割をするようになったのか。確かめる手段は今のところ思い付いていない。

 

 そういえば、あの世界には私と彼と世界樹以外は何もない。人だけでなく、世界樹を食しているだろう昆虫の姿すら見えないのだ。私と彼だけが世界樹と繋がっているということだ(彼は繋がるというより捕まっているのだが)。

 この現象が昆虫にはなく私にだけ起こるのは、私の体質が異常なことと関係しているのかもしれない。ならば彼も私と同じ体質だったのかと思ったが、明るい彼はいつだか自分に魔力があるような物言いはしていた。そもそも自由に動ける私と彼では状態が違いすぎるので、同条件でここに来ているとは思えなかった。

 

 それと、最も重要な体調のことについて言えば、全く問題が無かった。薬を服用し始めて幾らか経った今、凄ぶる調子が良いと言える。

 薬と私の相性は、かなり良いのかもしれない。

 

 

 

 ○

 

 

 

「……という簡単な考えなんだが、どうだろうか? 」

 

「……」

 

 葉がくるくると回転しながら落ちるのが視線の端に映る。世界樹から切り離されたその葉は、濃緑と薄緑の葉脈を交互にちらつかせてから、静かに地に落ちた。

 彼は、いつもと変わらず世界樹に埋め込まれるように縛り付けられている。

 そんな彼に、考察とまでは言えないような軽い考えをつらつらと話してみたが、反応はあまりない。

 

 どうやら今日は、静かな彼らしい。

 

「久しぶりだというのに、冷たいんだな」

 

 少しおちょくるような様子で、苦笑しながら私は言った。

 

「……久しぶりと言っても、2、3日だろう」

 

「それまでは毎日会っていたからな」

 

 

 私は、先日やっと南の島から帰ってきた。

 

 フェイト君にういを部屋まで運んでもらった次の日の朝、そのことを彼女に話すと、ういは恥ずかしそうに顔を赤くしていた。彼女にも羞恥心というものはあったようで、私は安心した。

 それから皆で朝御飯を食べて、あやかの飛行機に乗せてもらい帰ってきたのがちょっと前だ。

 

 戻ってくるまで彼には会えなかったため、なんとなくいつものルーティンが損なわれたような、そんな気分にはなっていた。

 静かな彼も、初めよりはほんの少しは話してくれるようになった気がする。本当にほんの少しだが。

 

 彼らについての疑問は、沢山ある。どうしてそこにいて、何故捕まっていて、どうやったらそこから出れるのか。

 訊きたいと思わないこともないのだが、彼ら自身がそれらのことを話そうとする素振りを全く見せないため、訊けないでいた。彼らも私のことを根掘り葉掘りと訊こうとはしない。ならば、これでいいのではないかとも思う。こんな気楽な関係も、悪くはないだろう。

 

「……外は、少しずつ暖かくなってきたぞ」

 

「……そうか」

 

 彼は、外の世界を羨むような様子も見せずに、低い声で返事をした。

 

 

 

 ○

 

 

「桜咲、麦茶でいいか? 」

 

「……えっ。あ、いえ。おかいまなく」

 

 物珍しそうに私の部屋を見回していた桜咲が、台所にいる私の急な問い掛けにびくりとした後、手を左右にした。

 

「私の部屋に来た以上お客なんだ。遠慮はしなくていい。と言っても、お茶くらいしか出せないが」

 

「それでは……頂きます」

 

 座布団の上にきっちりと正座をしたまま、桜咲は丁寧に頭を下げる。堅苦しそうな体勢の桜咲だったが、その姿は随分と彼女らしい。楽にして良いとは言ったのだが、彼女はその足を崩さなかった。道場で慣れているからか、桜咲にとって正座はなんてこともないのかもしれない。

 

 コトリと彼女の前にコップを置くと、中に入っていた氷が揺れて、カランと高い音を立てる。

 彼女は再びきっちりと私にお礼をした後、また部屋を見回してから、小さく微笑んだ。

 

「明智さん、本当に虫が好きなんですね」

 

「まぁ、そうだな。しかし、私の部屋に来るのは初めてではないだろう? 」

 

 いつかのテスト勉強の時、何度か彼女はここを訪れていたし、その時から壁際にはいくつもの虫籠や標本があった筈だ。

 

「……あの時はいっぱいいっぱいでしたので」

 

「確かに、そんな感じだった」

 

 焦った様子で、勉強を教えて下さいと頭を思いっきり下げていた彼女はかなり必死に見えた。改めてその話をすると、桜咲は恥ずかしさを紛らわす様にコップを口元に当てた。

 

「それで、どうしたんだ? 」

 

 私が尋ねると、桜咲は持ち上げたコップを丁寧に机に置いてから、姿勢を正す。

 窓から暖かい日が射して、彼女の透明感のある肌を更に白くさせていた。もうすぐ梅雨だと言うのに、未だに天気は春の陽気さを保っていて、随分と暖かい。

 

「お礼を、言いに来ました」

 

「それが分からないんだ」

 

 南の島でも彼女はそう言っていたが、思い当たる節がなかった。特別彼女に礼を言われるようなことをした

 記憶がない。

 私がその様に伝えると、彼女は首をゆっくりと振った。

 

「このちゃんと再び仲良くなれたのは、明智さんのおかげだと思っています」

 

 このちゃん、と自然に木乃香を呼ぶ桜咲のことを胸の内でそっと微笑ましく思った。

 

「……そんなことはないな。頑張ったのは桜咲と木乃香で、私は何もしてない」

 

 事実、何かしたつもりはなかった。彼女と木乃香の間でどのような会話が行われて、どんな風に仲直りしたかは知らないが、私は見守っていただけだ。

 

「いえ」

 

 桜咲は、頑固に首を振った。

 

「少なくとも私は、明智さんの姿に背中を押されました。それに、このちゃんの相談にも乗ってくれたのでしょう? 」

 

「相談に乗ったというほどでもないが……。それに、明日菜や長谷川さん、あやかも一緒だ」

 

「彼女達にも勿論そうです。私とこのちゃんは感謝してます。でも私は明智さんに一番に言いたかった」

 

 彼女は、真っ直ぐな目を私に向ける。

 

「私のためだと思って、どうか言葉だけでも受け取って貰えませんか? 」

 

 ……そこまで言われて、断る訳にはいかなかった。

 少し考えてから頷くと、桜咲はそんな私の姿に答えるように頬を緩めてから、座ったまま丁寧に頭を下げた。

 

「……ありがとうございました。もし、今後何かあったら、相談して下さい。助けになれるかは分かりませんが、力を尽くします」

 

 大袈裟だと、揶揄することは出来なかった。それほど彼女の姿は真剣であった。まるで武士のようだと思わせるのは、傍らにある竹刀袋のせいだけではないだろう。

 

 

 ○

 

 

 それから部屋に明日菜が来たのは、桜咲との雑談が一区切りしてお茶を汲み直そうとした時だった。

 インターホンを鳴らし、私が顔を出す前に、「七海いるー? 」と扉を開ける遠慮のなさは、やはり明日菜らしかった。

 玄関に立った明日菜は両手一杯に教科書やらノートを持っていて、私は訝しげな視線をぶつけずにはいられない。

 

「勉強を教えてほしいんだけど……」

 

 そう言った明日菜にまた信じられなくて、私はもう一度彼女を見返した。

 

「や、これにも事情があってさ。とりあえず、今上がっても大丈夫?……見慣れない靴があるけど、誰か来てるの? 」

 

「桜咲がいる。部屋に上がるのは構わないが……」

 

「刹那さん来てるの!珍し! それじゃ、お邪魔しまーす」

 

 教科書を落とさないように器用に靴を脱ぎ、彼女は部屋に上がっていった。座っていた桜咲に元気に挨拶をしながら、明日菜も机につくように座ってから側に教科書を置く。

 私は明日菜の分のお茶も淹れて、彼女の前に出した。

 

「それで、どうして急に勉強なんだ」

 

 テスト期間にはまだもう少しある。それに、そうであっても明日菜から勉強を教えてと自主的に来るのは、失礼だが、らしくないと思った。

 

「……ほら、最近ネギ頑張ってるでしょ? だから私もなんかしなきゃなーって思って。それに学祭も近くなると色々忙しくなるでしょ? 」

 

 中学生のうちから早朝バイトをして、学費を高畑先生に返そうとしている彼女は、既に随分と頑張っていると私は思っている。だが、彼女はネギ先生に刺激され、何かしなくては、と思ったようだ。

 

「木乃香に教えて貰おうと思ったけど、木乃香も最近部屋にいないのよ」

 

 肩を落とす仕草をした彼女からは、若干の寂しさも漂っているように見える。ネギ先生も木乃香もいなければ、部屋に一人でいる時間が増えてしまったのかもしれない。そんな明日菜に向かって、刹那は麦茶を口にしながら答えた。

 

「このちゃんも、ネギ先生と一緒にエヴァンジェリンさんの所に行ってますから」

 

「……? 木乃香も? なんで? 」

 

 私もその話は初耳だった。明日菜と一緒に首を傾げると、刹那も、聞いてないんですか、と驚いたような顔をした。

 

「このちゃんは昔から凄い魔力を持っていて、それを制御するためにと……」

 

「魔力って!? 桜咲さんも魔法を知ってるの!? 」

 

「はい。知ってます。私は魔法使いではないですが…… 」

 

 桜咲の方は、明日菜が魔法を知っていることを聞いていたらしい。ネギ先生に聞いたのかもしれないし、エヴァンジェリンが木乃香に言って、それを木乃香から聞いたのかもしれない。

 

「……まさかだけど、魔法って意外と有名? 」

 

「有名ではありませんが、私達のクラスに関係者は多いかもしれません」

 

 エヴァンジェリンと茶々丸、ネギ先生、明日菜、木乃香、桜咲、そして私。私が把握しているだけでも、クラスでは先生を合わせて33人中7人が魔法を知っていることになる。5分の1以上だと考えると、確かにA組には関係者が多い。

 

 そっかぁ、と明日菜は何とも言えない顔をした。

 

「学祭が近いからとも言っていたが、明日菜は学祭で何かするのか? 」

 

「私も一応美術部だからさ、絵を完成させないといけなくて」

 

「ああ、あの高畑先生を描いた……」

 

「わわわ! やめてよ! 恥ずかしいじゃない! 」

 

 あれだけ分かりやすく好意を示していても、こういう時は恥ずかしいのか。

 

「……明日菜さん、高畑先生を描いたのですか? 何故? 」

 

「え、えと」

 

「明日菜は高畑先生が好きだからな」

 

「もう! 七海! 」

 

 明日菜は真っ赤な顔をして私を揺すった。必死なその姿は学生らしい青春を感じて微笑ましいが、やり過ぎたかもしれない。すまないすまないと、謝っておいた。

 桜咲は、そうだったんですか! と珍しく興奮した様子を見せていた。

 

「桜咲、知らなかったのか……」

 

 というか、気付いていなかったのか。

 

「私そういうのには疎いんで……。そ、それでしたら! 学祭では、あの、告白を!? 」

 

 彼女もまた、女子学生らしく恋愛話に身を乗り出した。それに、最後の学祭だから告白するという発想も子供らしい。静かでしっかりしているように見えてもこういう所はやはり女の子なのだなと、私は少し苦笑した。

 

「う、うん。予定では……。よ、予定よ? まだ確定じゃないから! 」

 

 明日菜はまだ随分と先のことを想像しながら、既に緊張した顔付きを見せる。今でさえこの状態なのに、当日は大丈夫だろうかと、心配になった。

 

 明日菜と高畑先生の件については、私は特に口出ししようとは思っていなかった。のどかとネギ先生と違って年齢的にもかなり問題がありそうに見えるが、それを理由に彼女の想いを止めようとするつもりもない。

 高畑先生がどんな答えを出すかは分からないが、明日菜は真剣に想っている。それをどう受け止めるて答えるかを思考するのは、彼の義務である。

 

「ならば、テストで少しでもいい点を採っておきたいな」

 

 彼は教師であるし、勉強面でも昔から明日菜に手をかけていた。明日菜がいい点を採ることは、彼女が頑張っていることを分かりやすく伝えるいい手段になるだろう。それを勉強の目的にするのも、まぁ、悪いことではあるまい。

 

 やっぱりそうよね! と明日菜は赤らめた顔を冷まさぬまま、身を乗り出す。

 

「そうだ! 刹那さんも一緒にやらない? 」

 

「……え。べ、勉強をですか? 」

 

「それはいいな。明日菜も一人でやるよりやる気が出るだろう。私も協力するし」

 

「い、いや、でも」

 

「ほら! 二人の方がきっと捗るって! 多分! 」

 

「私は別に今勉強しなくても…… 」

 

「相談したら、助けになってくれるのだろう? 」

 

「ぐっ。明智さん……っ! 」

 

 ずるいですよ、と桜咲は私に視線を向けるので、私は笑いながらそれを受けとめた。

 



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58話

 ……これは、まずいです。

 

 ついさっきまでは、特に何のイベントもなく、いつも通りの平穏な休日でした。春の陽気がまだ続き、窓からは暖かい日が射していて、そんな中で私とのどかは二人で静かに読書をするのを楽しんでいました。

 それが今では、揃ってベッドの上に登って、カタカタと震えています。見慣れた薄茶色のフローリングの床は、まるでワニの住む池のように見えて、私はごくりと喉を鳴らしました。

 

「……ゆ、ゆえ~」

 

 横に立っているのどかが、指を小刻みに揺らしながらも私にしがみついてきます。涙目ののどかはとても可愛らしいのですが、そうも言ってられないのです。大丈夫ですのどか、と声をかけますが、その声も震えているのが自分でもよく分かりました。

 

 ……どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

 洗い物は頻繁にしていたし、生ゴミなども貯めないようにしていた筈です。「奴」が出現する条件は満たしていなかったと自信はあるのです。苦し紛れに周りを見渡してみますが、役に立ちそうなものはありません。唯一「奴」をどうにか出来そうなのはハルナなのですが、今はサークルに顔を出しているのでいないのです。

 

 のどかは、未だに私の手を強く握っています。細かい震えはわたしにも伝わってきて、自然と、彼女を守らなければという想いに駆られます。のどかには、そう思わせる力があるのです。

 

「……のどか。助けを呼びましょう」

 

「でも、どうやって……」

 

「ケータイで誰か呼びたい所ですが、ここからケータイの置いてある机までの距離は遠すぎます。まだ玄関の方が近いので、外に……」

 

「む、無理だよぉ。もし、移動中に「あれ」がまたでて、ま、万が一、ふ、踏んじゃったりしたら……」

 

 のどかは、ぶるる、と大きく身震いしました。恐ろしいネガティブ思考に釣られて、私もその最悪の場面を想像してしまい、顔を歪めてしまいます。しかし、このままではいけないのです。ここだって安全な保証はないのですから。

 

 奴を見つけたのは、二人で読書をしている時でした。カサカサ、といかにも嫌な音がして、後ろに霊がいると思い込んでいるときのような、不穏で恐ろしい感覚を抱えつつ、ゆっくりとそこを見ると、やはり、奴が床の上に堂々といました。

 真っ黒な筈なのに、日の光に反射して光沢のある翅の一部が白く見え、刺々しい六本の脚はしっかりと体を支えていました。私達は、一瞬時間が止まったかと思いました。顔は真っ青となり、咄嗟には動けなかったのです。なんとか意識を戻してから、遅れて声にならない悲鳴を上げて少しでも高い所へとベッドに上がりました。

 そこまではいいのですが、今や、さっきまで奴がいたという事実がある床に降りられなくなっています。現在奴は姿を消しましたが、あの恐ろしい脚なら壁も登れそうです。一つだけ良かったことと言えば、いえ、何も良くはないのですが、奴の翅の先が欠けているように無くなっていて、空は飛べなそうなことです。怪我でもしたのかもしれません。その怪我でどうにかお陀仏してくれないかと願いますが、奴の生命力は半端ではないと言います。恐らく願っても無駄でしょう。

 

 今はとりあえず避難していますが、もし、奴が壁を登ってベッドまで来るようなことがあれば、その時は本当に終わりなのです。

 

「……のどかはここにいてください。私が人を呼んできます」

 

「ゆ、ゆえ」

 

「大丈夫ですよのどか。玄関までなら足を床につけるのは精々5歩。その間に奴が出てくる可能性は極めて低いです」

 

 当然、私も怖いです。タイミングよく奴が私の足元に現れる確率は限りなく微小であることは分かっていますが、それでも怖いものは怖いのです。しかし、だからと言って逃げていても事態は進行しないのは分かっています。

 

 なんとかして恐怖を捨てて、外へ。

 そして、助けを呼ばないと。

 

 私は、のどかの手を握り返して、すぐにここに助けを連れてくることを誓いました。のどかはギリギリまで私の心配をしましたが、最後には本当に涙を流しながら、私の健闘を祈りました。

 彼女は、やはり強い子です。一人で奴と同じ部屋にいるのもかなりの恐怖の筈なのに、私を信じてそれに打ち克とうとしています。

 

 のどか、待ってて下さい……っ!

 

 私は震える脚を鼓舞して部屋を飛び出し、頼りになる仲間を探すためにと、必死に廊下を駆け出しました。

 

 

 

 ○

 

 

 

「……どうしたんだ綾瀬」

 

 部屋を飛び出して、最初にあったのは千雨さんでした。自販機に買い物でも言ったのか、手には缶コーラを持っています。

 はぁはぁと激しく吐息を漏らす私を見て、不審がりながらも心配するような顔付きで彼女は私を見ていました。

 

「実は……」

 

「……っ! 奴が出たのか……っ」

 

 私が簡単に説明すると、千雨さんはすぐにその事態の深刻さを察してくれて、苦い表情をしました。

 

「そうか……奴が……」

 

 どこか演技かかった様子で、彼女は天井を見ながら呟いていました。

 もしかしたら、これは心強い味方を得たかもしれないと、私は心の中でガッツをします。千雨さんはクラスでは大人しい方で、どこか達観した姿をたまに見せます。

 

 彼女ならば、そのクールさでなんなく奴を退治出来るのではないか、いや出来る筈です!

 

 そう勝手に決め付けて、どうにか退治のお手伝いをしてくれないですか、と尋ねようとしたその時。

 

 

 

 なんということでしょう。彼女は自分の部屋に戻ろうとしていました。

 

 

「ちょっと! 千雨さん! 薄情ですよ! 」

 

「知るか! 私だって奴は無理だ! 頼むからお前らの部屋でどうにかしてくれ! 絶対外へ逃がすんじゃねーぞ!」

 

「逃がしたくないなら協力を! このままだと、のどかが……っ! 」

 

「あいつのことはもう諦めろ! 」

 

「ひどすぎるです!? 」

 

 自分の部屋に閉じ籠ろうとする千雨さんと、それをさせまいとする私。私達はドアの両側にあるドアノブを互いに引っ張り合います。非力な二人でぐぬぬと踏ん張りあっていると、その騒ぎに便乗したのか、ざわざわと人が集まって来ました。

 

「なになにー。二人して大声あげてどしたの」

 

「おお、謎のバトルが勃発している……。どうしたら勝ちなわけ? 」

 

「千雨ちゃんが大声出しとるのは珍しいなぁ。困り事? 」

 

 まき絵さん、裕奈さん、和泉さんが順番に此方に向かっています。私もこうなったら、なりふり構っていられません。千雨さんの部屋のドアノブに力を入れたまま叫びます。

 

「私の部屋に! 奴が出ました! 黒光りする奴です! 誰か、力を貸してください! 」

 

「……」

 

 三人は、静かに目を揃えます。

 それから、うん、と一斉に頷き。

 

 ばたんばたんと、ドアが閉まる音が廊下に響きました。

 

「み、皆さん!? 」

 

 続いてガチャリと鍵を締める音までもが響きました。

 

「ゆえちゃんご免なさい。ほんとに力にはなれない。ほんとに無理。絶対部屋から逃がしちゃ駄目だよ? 」

 

「ゆえ吉すまぬ。それの討伐は部屋に出た人の責任。決して逃してはならないよ? 」

 

「夕映ちゃんごめん。うちほんまにあかん。もう絶対あかんねんあんなん。なんであんなんが世の中に存在しとんるん。おかしすぎるやろ。絶対繁殖とか防いでな夕映ちゃん」

 

 な、なんて身勝手な人達でしょう。力は貸してくれないけれど、逃がすことだけは許してくれないのです。友情とはなんと脆い。そして彼女達は何しに出てきたのですか。

 

 しかしこうなったら、余計千雨さんを逃がす訳にはいかないのです。私はよりドアノブに入れる力を強めます。千雨さんもまた、負けずに引っ張ります。

 ふぬぬと、二人で戦いを更にヒートアップさせていると……。

 

 

 

「……どうしたんだ二人とも」

 

 

 

 後ろから、救世主の声が聞こえたのです。

 

 

 ○

 

 

 大学から寮にと戻ると、妙な姿の人を見つけた。長谷川さんの部屋のドアノブを力一杯引っ張っているのだ。どこの不審者だろうかと恐る恐る警戒しながら近付いて見ると、目に涙を貯めながら引っ張っているその人は、まさかの夕映だった。

 どうしてその様な状況になったのかと、とりあえず夕映を一度落ち着かせて、話を聞いてみたら。

 

「ああ、ゴキブリが出たのか」

 

「うっ! 駄目です、奴の名を呼んでは……っ! 名を呼ぶと現れるという逸話があるのです」

 

「逸話だろう」

 

「ですが……っ」

 

 ゴキブリという音だけで、彼女の恐怖心を煽っているのだろう。確かに濁点の多いその名前は、響きからしてあまり良いものには聞こえないかもしれない。

 

 あまりに必死で退治してくれと頼まれたので、私は台所にある洗剤を取りに戻ってから夕映についていく。殺虫スプレーがあれば良かったのだが、手元にはなかったため仕方がない。洗剤をかけてしまえば呼吸が出来なくなって死ぬというのは有名な話だろう。

 

「長谷川さんもついてきてくれるんだな」

 

「……あれだけ頼まれて放っておくのも、目覚めが悪いしな。それに明智がいるなら大丈夫だろ」

 

 私が来たと聞いてから、長谷川さんも部屋から出てきた。かなりしぶしぶという感じではあったが、無下にも出来ずに少しでも力に成ろうとしてくれたようだ。やはり何かと放っては置けない性格らしい。

 

「さっきまでは物凄い嫌がっていましたが……」

 

「レベル1のスライムしかいないパーティーとレベル99の勇者がいるパーティーじゃ安心度がまるで違うからな」

 

「私はスライムですか……」

 

 どうやらゴキブリ退治に関しては私はレベル99らしい。

 

「正直もしかしたら明智がそのゴキブリを捕まえようとか言い出すんじゃないかと、少しひやひやはした」

 

「な、七海さん。それだけは……! 」

 

「まさか」

 

 長谷川さんの疑いの目と、それを信じかけた夕映の潤んだ目を見て私は息をつく。

 

「虫は好きだが、害虫の不潔さも分かっている」

 

 世界に最も多く存在するのは生物は昆虫で、とても興味深い存在だとは思うが、それでも私が人に生まれた以上、人の世である。ゴキブリは体に不衛生な菌をつけ、それを家に持ち込む。蚊のように彼ら自体が媒体となることはないが、彼らが触れた食器などから病気をもたらすことがある。夕映とのどかのためにも放って置くわけにはいかない。

 まぁ、研究対象として研究室でゴキブリを見るときはまた別の視点だが。

 

「よかったです」

 

 夕映は心底安心した様子を見せた。

 

「あれだけおぞましいものは多くはいないです。黒くて、刺々した脚で……。翅は千切れていましたが……」

 

「……うん? 翅、千切れてたのか? 」

 

「え、はい。先端の方だけですが……。何故? 」

 

「……いや、これはもしかしたら……」

 

 まだ、確定ではないが、もしかすると……。

 

 

 ○

 

 

「で、なんで網と虫籠を持ってきちゃうかな明智は」

 

「気になることがあってな」

 

「……嫌な予感しかしないぞ」

 

「ゆえ~。怖かったよ~」

 

「大丈夫ですよのどか、明智さんが何とかしてくれます。……網をわざわざ持ってきたのはかなり不安ですが」

 

 夕映達の部屋に入ると、ベッドの上にカタカタと震えているのどかがいた。私が、心配ない、と言いながら手を差し伸べると、彼女は恐る恐るベッドから降りて、私の後ろにいた夕映に抱きついた。かなり心細かったようだ。

 

「それで、どこで現れたんだ? 」

 

「そ、そこです」

 

「……ふむ」

 

 狭く暗い所を好むゴキブリだ。一度見失ったら見つけ出すのは中々困難である。本当はホウ酸団子なんかを仕掛けて置くのがかなり効果があるのだが、それだと食べたゴキブリが暗闇でひっそりと死ぬことになる。目の前でどうにかしないと彼女達の不安感は拭えないだろう。

 ……それに、もしそのゴキブリが「あれ」だとしたら、ホウ酸団子は意味を為さない。

 

「……お、おい! そこ!」

 

「キャアア!」

 

 突然、長谷川さんが床を指差しながら大声を出した。どうやらタイミングよく出てきたらしい。のどかは反射的に夕映に抱きつきながら叫び声を上げる。

 私はすぐさま体を翻し、持っている網を地面スレスレに素早く滑らせて掬い上げるかのように網を捻らせた。

 

「……おお、早業……。って! やっぱり捕まえやがった! なんでだよ! 」

 

「なななな七海さん!? は、早くそいつをやっつけるのです! 百害あって一利なしですよ! 」

 

「あう~。も、もうだめ」

 

 網の中でジタバタするゴキブリを見て、長谷川さんと夕映は騒ぎ、のどかは倒れかけている。私は皆を一度無視して、網に入ったゴキブリをさっと虫籠に入れ換えてから、じっと観察した。

 

「……やはり、オオゴキブリだ」

 

 頭部、サイズ、色、そして千切れた翅から分かるように、オオゴキブリに間違いはなかった。

 

「お、オオゴキブリ? それだとなんかあんのかよ」

 

 恐る恐ると、長谷川さんが私に聞き返した。

 

「安心していい。このゴキブリは害虫ではない。むしろ、自然界的に見て益虫だな」

 

 家に出現するゴキブリ達と違い、オオゴキブリは森林などを生息地とする。ここに来てしまったのはたまたまだろう。オオゴキブリは木の中で何匹かで住む集団性を持ち、お互いに翅を噛じり合う習性があるため、このように翅が欠けていることが多い。飛行能力もなく歩行速度も通常のゴキブリより断然遅く、どこか愛嬌もある。そして、朽ち木を食すため分解者として重宝されているのだ。

 

 このゴキブリは、日本の幾つかの地域で絶滅危惧種とされている。それだけ、森林の数が減ってきているということだ。

 家内にでる害虫のゴキブリはともかく、私は一生物学者として、絶滅の危険がある種をただ退治することは出来ない。種の絶滅もまた、自然の定めなのかもしれない。だが、人の手によって進行されていく生息地の破壊は、生態系を乱していることが多々ある。少なくとも、その生態系を研究対象としてる私こそが、それを大切にしなければならない。

 だから、これは私が森に還しておこう。

 

 

 私はそう皆に説明して、虫籠を大事に持って部屋を出た。

 そんな私の後ろ姿を、彼女達はじっと見つめていた。

 

(いい話ぽかったですが……)

(……ああ、だが)

(……うう)

 

(言っちゃ悪いが、ゴキブリ持って語る明智の姿、かなりきつかったな……)

(……はい)

(……うう)

 

 彼女達にとってはゴキブリはゴキブリ。

 そう皆が思っているのを、私は知るよしもなかった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「なんだか寮が騒がしいわねぇ」

 

 ドタドタと振動する音と、誰かの声が部屋まで聴こえてくる。まぁこのA組に関しては日常茶飯事で、大して気にかけることでもないんだけど。

 

「そうですねぇ~」

 

 ネギは、やけに嬉しそうにしながら書類の整理をしていた。学校の書類だろうか。先生らしくしちゃって。

 

「あんたなんか良いことでもあったの? 」

 

「え、明日菜さん、分かります? 」

 

「分かりやすすぎ」

 

 私も表情が出やすいから人のことを言えないけれど、今のネギはかなり分かりやすくウキウキとしている。おもちゃを買ってもらう前の子供みたいね、と私は少し笑ってしまった。

 

「実はですね、来るんですよ!」

 

「……誰が? 」

 

 ネギは、私に満面の笑みを浮かべて、それは、本当に嬉しそうな顔で。

 子供らしく、歯を見せながらしっかりと答えた。

 

 

 

「お姉ちゃんです! 学園祭の時、麻帆良に来るって! 」

 

 

 





少し補足を。
ゴキブリは最も忌み嫌われる昆虫ですが、その多くの種は森林に生息しています。家に出現するゴキブリは、クロゴキブリ、ヤマトゴキブリ、チャバネゴキブリ、ワモンゴキブリと数種しかいなく、実際は森林に住む種がほとんどです。家に出るゴキブリは確かに不潔ですが、森林性のゴキブリはカブトムシなどと大差ありません。
ゴキブリは繁殖性が高く(種によりますが)、短いサイクルでどんどん増えます。卵鞘とよばれるものから何匹もの子供が産まれるのです。一匹みたら百匹いると思えという話は比喩でもなんでもないので、家で見付けたらなんとか退治しましょう。ホウ酸団子など隠れてる奴等まで一気に退治できるものがオススメです。


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59話

 毎年この時期になると、麻帆良の活気は一段と増す。何もなくても日々騒がしい麻帆良が、更に騒がしくなるのだ。

 学園内は勿論のこと、周辺の街までその喧騒は拡がり、どこにいても学生が忙しそうに動き回る姿を見かけることとなる。金具を持って汗をかきながら木材を叩くものから、精巧な怪獣の仮装をしてビラを配るもの、路上で鉄板を拡げ独特な味付けをした焼そばの試食をさせるものまでいる。学園全体が、あるイベントに向けて準備をしているのだ。

 

 そう、麻帆良祭である。

 

 まるでテーマパークの如く様々な娯楽を産み出すのは学生であり、それは、テーマパークを越えた盛り上がりを見せる。クラスやサークル、部活動とそれぞれが出店をし、人を呼ぶ。学園長の方針なのか、自由を重んじるこの学園では、出し物の売上を生徒が管理することを許されていて、つまりは、生徒達が一から計画してお金を稼ぐことが許されているのだ。

 

 当然この方針については大人からは賛否両論ある訳だが、私としては特に反対する理由がなかった。

 自分達で一から初めて、組織を作り、試行錯誤し、より良いもの(より稼げるもの、とは体裁的に言いづらい)を作ろうとする経験は、簡単に出来るものではない。このような経験が出来るイベントを頻繁に行うからこそ、麻帆良には優秀な人物が台頭するのかもしれない。

 

 そして、我がA組でも、今日から準備が始まる。

 まだ何を行うとも決まっていないが、イベントをこよなく愛すクラスメイトのことだから、多忙となるのは目に見えていた。

 そんな忙しさを少し楽しみにしている私も、麻帆良の学生として染まって来ているようだ。

 

 

 ○

 

 学校周辺の風景も、いつもとは違っていた。学校前の大通りは生徒達で溢れ、大地には忙しそうに駆ける足音が響き、空にはビラを配る生徒の声が木霊している。見渡せば出店をする生徒達が念入りに考えながらテントを立てる姿が見え、パレードの予行としてロボットが往来を闊歩しているのも分かる。たこ焼や焼きそばから香るソースの匂いが鼻先を掠め、何か一味違うものをと画策した者たちから、酸っぱいような不思議な香りもたまに混ざってくる。様々の情報を受け付けつつ、何メートルもある大袈裟な学祭門を見て、今年もこの時期が来たな、と自覚するものは私だけではない筈だ。

 

 周りをゆっくりと眺めながら歩を進めると、人混みの中に見慣れた後ろ姿を見つけた。後ろからでも分かるどこか気品のある歩き方で、小さな身長ながらも綺麗な金髪を腰より長くしている少女は、恐らく私の友であろう。

 

 私の視線に気付いたのか、エヴァンジェリンは私が声を掛ける前に此方を振り返った。

 

「七海か」

 

 立ち止まってくれたエヴァンジェリンに追い付こうと、私は少し早歩きをする。

 

「今日は茶々丸はいないんだな 」

 

「メンテがあるらしい。七海はまた大学か? 」

 

「そうだな」

 

 どんな時期であろうと、飼育生物の世話は欠かすことが出来ない。世界樹の影響を受けた昆虫の中には繁殖力を大幅に上げた者もいて、今や世話をする昆虫の数も多い。特にサークルにも入ってなくクラスの出し物の準備が始まるまでは、このような私の日常に特に代わりはなかった。

 相変わらずだな、とエヴァンジェリンは呆れるように笑った。

 

 自然と二人で歩幅を共にし、喧騒が飛び交う中を歩く。途中男子生徒がエヴァンジェリンにビラを渡そうとしたが、彼女は足を止めずにそれを無視をした。男子生徒は一瞬悲しそうに俯く。このような対応には慣れてないのかもしれない。代わりに私が手を出してそれを受けとった。すぐに笑顔になった少年からもらったそれには、「女装カフェ」なんて描かれていて、学生らしいノリに苦笑した。

 

 

「毎年毎年馬鹿騒ぎして、よく飽きないもんだ」

 

 エヴァンジェリンはうんざりしながら息を吐いた。もはやこの人だかりにすら鬱陶しさを感じているようだ。

 長いこと麻帆良にいた彼女からしたら、10回以上このイベントを経験していることになる。もう慣れるを通り越して、飽きてしまったのか。

 

「私達のクラスはお化け屋敷をすることに決まったが、エヴァンジェリンはやっぱり吸血鬼をするのか」

 

 先日クラスで相談をしたところ、私達の出し物がお化け屋敷に決まった。出し物決めは毎年通り難航したが、ネギ先生がきっちりと決めてくれた。ネギ先生はいつもより妙に張り切っていて、明日菜に理由を聞いたところ、彼の姉が学園祭に訪れることが原因らしかった。

 

 エヴァンジェリンはじっと私を睨んだ。

 

「何故私がそんなものに付き合わなければならんのだ」

 

 勝手にやってくれ、とエヴァンジェリンは続ける。

 そういえば、去年も一昨年も、学園祭の準備に彼女はいなかった覚えがある。

 

 

 

『学園祭当日、曲芸部より、『ナイトメアサーカス』を開催します! 是非お立ち寄り下さい! 』

 

 私が何とも言えなく、どうしたものかと思っていると、宣伝の放送が鳴り響いた。周りにいる人も、サーカスか、と興味深そうに呟き、予定にそれを入れようとしている。

 そんな声を耳にしていると、上方から突然人が降りてきた。

 

「……明智さん、エヴァンジェリンさん。どうも」

 

「……ザジか」

 

 ザジは、にこりと可愛く笑った。いつもの静かな佇まいとは打って代わり、明るく、楽しそうな表情である。

 なぜ上から、と顔を上げてみると、青空に届きそうなほど高いブランコが空中に揺れているのを見つけた。わざわざ両脇に恐ろしく長い棒を立てて、その間にブランコを繋いだらしい。

 あそこに座る自分を想像して、ひゅんと体に寒々しい悪寒が走った。実際にあれに乗ったら足がすくむ所ではすまないだろう。

 

「大変そうだな」

 

「……いえ、楽しんでますから」

 

 派手な衣装を着たザジが、再び笑う。少し露出の激しい衣装ではあったが、褐色の肌によく似合っていた。

 

「……どうか、お暇があれば」

 

 そう言いながら、ザジは私にビラをくれた。学園祭の予定が1つ決まったことを確認しながら、楽しみにしてるよ、と告げると、ザジは微笑んでから悠々と飛び上がり、空のブランコへと戻っていった。それが運動神経によるものなのか何かトリックがあるのかは分からなかったが、彼女もただ者ではなさそうだ。

 

 私は、ちらりと横にいる少女を見る。

 

「一緒にいこうか」

 

「……どこにだ? 」

 

「これだ」

 

 私はちょうど今もらったサーカスのビラを彼女に向ける。

 

「エヴァンジェリンにとっては学園祭なんて飽きたものかもしれないが、今まで一緒に回ったことはなかっただろ? それに、一緒にクラスの出し物の準備もしたことない。何でも経験だ、なんて600年生きた君に言うつもりはないが、どうせなら楽しもうじゃないか」

 

 長い人生の中の、たった数日のイベント。どう過ごしてもどうせ時が過ぎるのだから、楽しめた方が得だろう。

 エヴァンジェリンは私をじっと見て、そのあとにビラに目をやりながら、ゆっくりと答えた。

 

「……そう、だな。まぁ、封印も解けたし、どうせ今年で最後だ。少しくらい構わないか」

 

 彼女はまた私に目線を向ける。

 

「一緒に、だぞ? 」

 

「ああ」

 

 私の答えを聞いて、彼女は満足げに頷いた。

 

 

 

 ○

 

 

 

「あんた、ちょっとええか」

 

 少年にそう声を掛けられたのは、エヴァンジェリンと別れてすぐの時であった。

 身長的にはネギ先生やフェイト君と同年代だろうか。学ランを身につけ、黒い髪をワイルドに伸ばしているその姿は、二人の少年とはまた別の雰囲気を出していた。

 

 立ち止まった私達の横を他の学生達が急がしそうに通り過ぎていく。ここで突っ立っていることは、通行の邪魔になりそうである。

 私がそんな心配をしていると、彼はそのことにまったく気付かない様子で、頬を掻いてから私に軽く頭を下げた。

 

「あんときは、すまんかったな」

 

「……なんのことだ? 」

 

「なんや、覚えとらんのか? 」

 

 ほら、あんときや、と彼が続けるが、ピンとこない。もう一度彼の姿をじっと見つめるが、やはり記憶にはなかった。しかし、聞き覚えのある声な気もする。その反応で私が覚えてないことを悟ったのか、彼はうーんと腕を組んだ。

 彼の様子からするに、人違いであるということはなさそうである。

 

 両手一杯に段ボールをもった生徒が横を通った。私達を避けるようにして進むその姿に申し訳なく感じた。このままだと、更に迷惑がかかりそうである。

 私は、とりあえずどこかに入ろうか、と近くの喫茶店に移動することを彼に提案した。彼は少し考えてから、ま、ええけど、と呟いて私についてきた。

 

 

 中は多少混んでいたが、運良くテーブル席につけた。木で作られた椅子に腰を下ろして、私はコーヒーを頼み、彼はお茶を頼んだ。コーヒーは好きではないらしい。

 

 出てきた飲み物を前にしながら、とりあえず自己紹介をした。犬上 小太郎という彼の名前には、聞き覚えがあった。

 

「最近あやか達の部屋に来た少年とは、君のことだったのか」

 

 あやかから、少し前から少年も一緒に住んでいるという話を先日聞いた。いつの間にか千鶴が連れ込んでいて、それから成り行きでそうなってしまったのだとか。

 

「俺は一人暮らしでええって言うとるんやけど、千鶴姉ちゃんとあやか姉ちゃんがうるさいねん」

 

 拗ねながら言うその姿は、反抗期へ近づいた少年らしさが漂っていた。あやかは、彼はネギ先生とは違い色々雑なんですの、といつか愚痴っていたが、それでも彼を心配をしていることは私にはよく分かった 。

 

「では、私に声を掛けたのはあやかに話を聞いたからか? 」

 

「ちゃうわ。実は京都の時にな、俺はあんたのこと見とんねん。でもよう考えたらそっちは確かに俺の姿見てないわ」

 

 京都ということは、修学旅行の時であろうか。

 小太郎君はその時のことを語った。彼はあの時木乃香を狙った一派の一人であり、色々とあってその罪を許され、今は麻帆良に住むことが許されたらしい。

 思い出せば、総本山に入る前に、確かにその声だけは聞いた覚えがある。

 

「……あんときは、すまんかった」

 

 彼は先程までとは違う真剣な表情に変え、しっかりと頭を下げた。

 

「……私は小太郎君に何かされた覚えはないが」

 

「それでも、あんたらに迷惑を掛けたと俺は思っとる。けじめやけじめ」

 

 彼は、過去を精算しようとしているのかもしれない。何も言わず、何となく麻帆良に住み着くというのは、自分の中で許されないことだったのだろう。京都生まれは義理人情に厚いものが多いなと、この前の桜咲を思い返した。

 

 

 その後も彼とは話を続けた。どうやら彼は、最近になって学校に通うことになったらしい。それまでは学校になんて行ったことがなかったのだとか。

 

「学校はどうだい」

 

「こういうの初めてやからまだよーわからんけど、新鮮な感じやな」

 

 こそばったい、という様子を出しながら、彼はお茶を飲む。

 

「ただ納得いかんのは、ネギが先生ってことやな。あいつ俺と年齢同じくらいな筈なんに……!」

 

 ネギ先生は異例なことを、彼の言葉によって久しぶりに思い出した。最近はあまりに彼が堂々してるので、違和感がなくなってしまっていた。彼は更に、むすりとした顔をして続けた。

 

「それと、いけすかん奴がクラスにおるんや」

 

 

 

「……それは、僕のことかい? 」

 

「うぉお! 」

 

 小太郎君が、大きく驚きながら席を立った。小太郎君の後ろのテーブル席から、白髪の少年が冷静にこちらに顔を向けていた。フェイト君だ。

 そういえば、ここはいつだかフェイト君とういと私で訪れた喫茶店であったことを思い出した。

 

「何勝手に後ろの席に座っとんねん! 」

 

「僕の方が君たちより先に来てここに座っていたんだけどね。君が気付かなかっただけだろう。いや、気づけなかったが正しいかな?」

 

「……この……!」

 

 小太郎君が未だに立ち上がりながら、握った拳を震わせた。フェイト君はそれを気にした様子もなくコーヒーカップに口をつけている。

 

「同じクラスなのかい? 」

 

「ああ、最悪なことにな! 」

 

 小太郎君は歯をギリギリと立てた。まるで犬みたいだな、と私は思ってしまった。

 

「クラスの女もこいつにキャーキャー寄り添っとんねん。どーせシカトしつつも悪くないとかおもっとるんやろ?」

 

「勝手な妄想だね。もしかして僻んでるのかい? 」

 

「誰がや! 格好つけてクールぶりよって! 」

 

「君はもう少し大人しくした方がいいね。そんなことすらも出来そうにはないけど」

 

「なんやと……! 」

 

 睨む小太郎君に、コーヒーカップ片手に淡々と答えるフェイト君。私は自分の飲み物を口にしながら、少年達の言い争いを微笑ましく見ていた。

 

 

「二人とも、仲が良さそうだな」

 

「どこが!」「……どこを見てるんだい?」

 

 

 声を合わせた二人は、同時に私を叱った。





悪魔編は飛ばしています。
七海には関わりがなかったということで。
もしいつか書くとしたら、ういとフェイトが主人公の話で書くと思います。


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60話

本日4話目です。


「そこ! 塗る色間違えてる! 赤じゃなくて黒! 」

 

「ちょっとー! こっち板足りないよー! どっか余ってない? 」

 

「誰かー、手ー貸してー。二人じゃきついわー」

 

「痛い! 手打ったよ! 血出てない!? 」

 

 

あちらこちらで騒がしく声が上がる。誰もが忙しそう手を動かし、首に巻いたタオルで汗を拭っていた。夏にはまだ早いが、教室の熱気は十分すぎるほど空気を暑くさせている。私も腕に手をかけ制服の袖をまくった。

机は全て後ろの壁側に寄せたので広いスペースが出来ていた筈だが、今や様々な道具や材料が散らばっていて、片付けることを考えると憂鬱になりそうだ。

 

「慌ただしいことこの上ないな」

 

冷静に、縫い物を手にしながらエヴァンジェリンさんは言う。このちゃん、長谷川さん、それと、私と彼女は、衣装班だ。大道具班の邪魔にならないように、教室の端に寄っている。家庭科室を借りれたら良かったのだが、この時期は空き教室の取り合いも激しく、私達がそこを見に行った時には人で一杯だったのだ。

 

「ほえー。エヴァちゃん、やっぱりお裁縫めっちゃ上手やね」

 

「私も自信あったんだがな……。マクダウェルは別格だな」

 

「ふん。これくらい当然だ」

 

気持ち誇らしげなエヴァンジェリンさん。ミシンを使わず、ここまで綺麗に早く縫えるものなのかと私も感心してしまった。

 

「……刹那は壊滅的だな」

 

「な! ど、どこがダメなんですか!? 」

 

突然のダメ出しに私は身を乗り出してしまう。エヴァンジェリンさんはすかさず、全部だ、と言い切った。

確かによく見てみると、私が縫った後はミミズのようにくねくねとした線を描いていて、その上間隔もバラバラである。エヴァンジェリンさんのものと比べると、恥ずかしい気持ちにすらなる。

せっちゃん裁縫とかしたことなさそうやもんなぁ、とこのちゃんはくすくすと笑った。

 

「でもそれ誰の衣装なん? 妙に気合い入っとるけど」

 

「七海のだ」

 

「だと思ったよ」

 

長谷川さんが呆れた様子で言うのを無視して、エヴァンジェリンさんは、パチリと歯を上手に使って糸を千切る。成る程、明智さんのなら気合いが入るだろうなと、納得がいった。

黙々と、黒い布にエヴァンジェリンさんの白い手がかかっていく。動きは効率的で素早い。また、鋭い歯を使って音を鳴らしつつ糸を切る。

 

……エヴァンジェリンさんも、随分と変わったと思った。

昔は、学祭の手伝いなんてしなかった。教室にいる彼女は、いつもクラスメイトを呆れるような表情で見た後、肘を机につきながら壁を見つめていた。

その時、彼女が何を思っていたかなんて私には分からない。ただその姿は、寂しげというよりも、儚く見えていた。

 

それを変えたのは、昆虫好きなあの人だろう。

 

「……刹那。サボっていないで手を動かせ。私は人の仕事までする気はないぞ」

 

「そーやよー。せっちゃんもちゃんとやらなー」

 

「は、はい。すみません」

 

言われて、ぱっと視線を自分の布に落とした。小さな針に、糸を持った手をゆっくりと近付けて、慎重に穴を通す。持ち慣れた刀よりもずっと小さいものだが、私には何故か針の方が鋭く見えてしまう。

なんとか糸の通った針で、恐る恐ると二枚の布を縫い合わせながら、ふと我に帰った。

それから、教室で動き回る皆の様子を眺めて、一人で苦笑した。

 

……ああ、私もだ。私も、エヴァンジェリンさんと一緒だ。

思えば、こんな真面目に学祭の出し物の準備をしたのは、初めてだ。去年も一昨年も頼まれたことはこなしたけれど、積極的に何かを手伝ったことなどなかった。

それが今では、このちゃんに誘われて、一緒に学祭の手伝いをしたいと思えた。

私も変わったということだろうか。

 

 

「そういえば七海がおらんね。どうしたん? 」

 

「サボりはあり得ないな。明智だし」

 

「アル……知り合いと用事があると言っていた。まぁ、そのうち来るだろう」

 

三人は会話をしながらも、手を止めない。長谷川さんもとても裁縫が上手だし、このちゃんもスルスルと布を紡いでいる。皆家庭的で、凄い。これが噂の女子力という奴なのだろうか。刀ばかり振ってきた私には身に付いてない力である。

 

「どうせならめっちゃ怖いお化け屋敷がええよなー」

 

「このちゃん、怖いの平気でしたっけ? 」

 

「うん。うちホラーとか結構すきなんやぁ」

 

「私らのクラスには超がいるからな。相当怖く出来るんじゃねーか? 一応コース分けするらしいが」

 

子供でも楽しめるような、ちょっとはしゃいだコースと、本格的にホラー路線をいくコース、その中間を作るらしい。黒板の前で超さんが設計図を広げていて、それをあやかさんと葉加瀬さんが腕を組みながら見ている。茶々丸さんもそれを側で眺めていた。確か彼女も機械システム担当だった筈だ。

 

「……そういえば、あれだな。本気でお化け屋敷をするなら、あいつにも協力してもらった方がいい」

 

「……あいつ? 」

 

私とこのちゃんが同時に首を傾げると、エヴァンジェリンさんは縫い物から目を離さないまま平然と言った。

 

「相坂 さよだ」

 

 

 

 

 

 

 

「……で。何の騒ぎだこれは」

 

図書館地下でのクウネルさんとの話が終わり、手伝いに参加すべく急いで教室に戻ると、クラスメイトが非常に賑やかしくしていた。いや、A組の皆が賑やかなのはいつものことなのだが、それが学祭の準備による騒がしさではなさそうなことを、私は不思議に思った。スケジュール的にはかなりかつかつのため、あまり遊んでいる時間はない筈なのだが。

……呼び出されたからといってクウネルさんの所に行っていた私が言っていい台詞ではないのだろうけれど。

 

「おう、明智か……」

 

黒板を囲む半円を描くように集まっている生徒から少し離れた所で、長谷川さんがくたびれた声で私に話かけた。

 

「長谷川さん。皆は何をしてるんだ」

 

見たところ、学祭の相談をしているという感じではないのは分かる。

 

「何をというか……。まぁ、見てれば分かる……」

 

長谷川さんはため息をつきながら顎を黒板の方へとつき出す。釣られて、よく分からないまま私も黒板を見つめた。

 

「それじゃあ! さよちゃんは私達が一年の時からずっと同じクラスにいたんだ! 」

 

朝倉が誰もいない黒板の方に向かって、マイクを向けていた。やはり意味が分からず、長谷川さんにどういうことか尋ね直そうとすると、彼女は私に、もう少し見てろ、と視線で伝えた。

 

深い緑色をした黒板に再び私が目を向けると、信じられないことが起こった。黒板のそばにある白いチョークがゆっくりと宙に浮かびあがり、カカカっと軽快に音を立てながら文字を書き出したのだ。

 

『そうです! 皆さんのことはずっと前から見てました! 今こうやって話せることが凄く嬉しいです! 』

 

生徒達から、おおおー、と声が上がる。私も嬉しいよーっ、と手を上げたものもいた。

 

「……これは」

 

「ポルターガイストだってよ」

 

まさか魔法か、と頭を過ったが、私が声を出す私よりも先に長谷川さんが頭を抱えながら言った。

 

「……ポルターガイスト? 」

 

「知らねぇか? 」

 

「いや言葉自体は知ってはいるが……」

 

詳しい訳ではないが、心霊現象によって物などが動くことをそう呼ぶ筈だ。

 

「では、あそこに霊がいるということか? 」

 

「……信じたくないが、そういうことらしい。しかもそいつは、万年欠席してた相坂 さよなんだとよ」

 

このクラスには、一年の頃からずっと空白の席があった。誰もその姿は見たことなく、心配したあやかと私で先生に住所を尋ねても、はっきりとした答えは返って来たことがない。何か事情があると察し、どうしようもない思いをしていたが、成る程。幽霊であったのなら確かに見ることも出来ないし、住所もないだろう。

 

私はもう一度皆が囲む円の中を見てみるが、やはりそこには誰もおらず、浮いた白いチョークが微かに粉を吐きながら文字を書いているようにしか見えない。結局マイクはいらないじゃないか。

 

「……どういう経緯で彼女を発見出来たんだ? 」

 

「ああ、それはーーー」

 

「ーーー私が教えたんだ」

 

いつの間にかエヴァンジェリンが私の横に立っていて、口を挟んだ。

そういえば、いつだかエヴァンジェリンは私に尋ねていた。幽霊はいると思うか、と。その口振りだと、彼女には幽霊が見えていたということになる。

 

「流れでな。幽霊としてあいつが存在することを近衛 木乃香達に話してしたら、それを聞いてた他の奴が騒ぎ出した。そしたら、相川 さよが皆と話がしたいだとか言って私に泣きついてきたから、黒板でも使えと教えてやったんだ」

 

「……霊がいることにもびびったが、マクダウェルが霊能力者ってのもびびるな。ただ者ではねーとは思ってたけど」

 

「霊能力者などではないがな。ちょっと霊感がある程度だ。貴様らも奴という存在を認識出来たのならそのうち見えるようになる」

 

魔法使いだから霊が見える、という訳ではないらしい。証拠に、皆と一緒に相坂 さよとの会話を楽しんできるネギ先生も、今は姿が見えている感じではない。

 

少し経つと朝倉が、私さよちゃん見えてきたかも、と言い出し、続いて何人かがうっすら見えたと騒ぎ出している。

私もしばらくしたら彼女が見えるようになるのだろうか。

 

「霊の存在や成り方など私に聞くなよ? 詳しい訳ではないし、さほど興味もない」

 

死んだら分かるかもな、と冗談にもならないようなことをエヴァンジェリンは続けて言った。

 

「……マクダウェル。あんたは昔からあいつが見えていたんだろ? なんで今更それを言おうと思ったんだよ」

「……」

長谷川さんの質問を受けたエヴァンジェリンは、口を紡ぎ、じっと黒板を見つめた。

さよちゃんかわいいー、というクラスメイトの声が上がる。他にも彼女を見えた生徒が出てきたのだろうか。

 

「……ただの気紛れだ。あいつのためを思った訳では断じてない。むしろ、私はあいつを知っていて今まで無視していた。あいつがどんな想いで自分のいないクラスを見つめていたのかなんて、容易に想像がつく。それでも、唯一奴が見えていた私は、自分のエゴでいないものとして扱ってた」

 

黒板に書かれる文字からでも、相坂 さよの気持ちはこちらまではっきりと伝わってくる。嬉しい。楽しい。皆と話せることが、待ち遠しくて仕方がなかった。そんな感情が、溢れでている。

 

「……エヴァンジェリン。君は、最後の学祭に彼女も協力させてあげたかったんじゃないか? 」

 

「七海。お前は私をいい奴に見ようとしすぎだ。あいつからは恨まれる理由はあろうが、そんな風に思われる資格はない」

 

頑なに、エヴァンジェリンは自分を認めなかった。エヴァンジェリンは自分が今まで彼女を無視したことを、悔いてはない。過去のことでも、自分の意思でそう決めたことを、彼女はなかったことにしようとはしてない。だからこそ、今更人の為にしたという理由を使っていい筈がないと、そう思っているのかもしれない。

 

「マクダウェル」

 

長谷川さんが、ゆっくりと腕を上げ黒板を指差した。

 

「あんたがなに言いたいかはよくわかんねーけど。あいつは喜んでるじゃねぇか。それまでどういう対応したかは置いといて、今、あんたのおかげで皆と話せるようになったあいつは喜んでいる。それでいいじゃねーか」

 

長谷川さんの指差す先で、私も、ようやく彼女がうっすらと見えた。

相坂さよは、確かに喜んでいる。真っ白の頬に涙を流し、私達と違う制服を皆に見せびらかすようにとひらひら宙を舞いながら、満面の笑みを浮かべている。

どうみても、彼女がエヴァンジェリンに対して悪く思っている筈がなかった。

 

私達の視線に気付いたのか、皆の真ん中にいた相坂 さよは此方を見て、振り切れるほど腕を振ってきた。

 

 

 

そんな彼女の姿を見たエヴァンジェリンが、僅かに微笑んだように見えた。

 

 




『あ、明智 七海さんですね!? 私、相坂さよです! 』

ようやくクラスメイトから解放された彼女は、未だに高いテンションを保ったまま私にまで挨拶をしに来てくれた。霊の発する声だからか、耳にというより頭に直接伝えられているように感じた。深々と礼儀正しくお辞儀をする彼女には、本当に足がない。

私は、そっと右手を差し出した。

「相坂さん。三年目の自己紹介となってすまないが、これから宜しく」

『い、いえ! 全然すまなくはないです! ……え、えと、握手は……』

「手は、重ねられるだろ?」

『……! は、はい! 』

元気よく返事をした彼女は、私の右の手に合わせるように自分の右手を重ねた。
当然、触れない。しかし、ひんやりと気持ちのいい感覚がする。
私達はお互いの顔を見て、同時に笑みを浮かべた。

「お化け屋敷、協力頼むよ」

『任せて下さい! 私お化けはあまり得意ではないんですが、頑張ります! 』

「……」

自分もお化けなのに、とは思ったが、言うのはやめておいた。


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61話

 

 駅の人混みは、いつもの比ではなかった。子供から大人まで、まさしく老若男女と様々な人が行き交う。改札口からは人が止めどなく流れ出して、足音や衣擦れの音が絶え間無く続く。しかし現れる人達の表情は、朝の出勤ラッシュで見られるようなものとは良い意味でかけ離れていた。皆が期待に満ちた笑顔を浮かべているのだ。

 

 今日は、学園祭初日。かなり遠くからも沢山人が訪れるくらい麻帆良祭は有名なため、町中が人で溢れている。前方に、ゆっくりと歩くお婆さんの手を引き、はやくはやく、と慌ただしくしている女の子が見えた。お婆さんも、分かったよ、とニコニコしながら一緒に歩いていて、そんな様子が微笑ましい。

 

 改札の出口側の広場にはちらほらと学校で見たことある顔もいて、チラシを配ったり、プラカードを持ったりして自分のクラスの出し物を宣伝していた。同様に、私とこのかの首にも、お化け屋敷の宣伝板が引っ掛かっている。

 それには、『2つの意味でドキドキッ! 女だらけお化け屋敷! 』と赤い文字で書かれ、背景には這いずる緑のゾンビと、それを掴む無数の透けた手が描かれている。あまりにリアルなその看板により、通りがかる人の視線がちらほらと集まるのが、少し気恥ずかしい。ハルナめ。本気を出しすぎである。女の子要素を一つも入れないのはどうなんだろうか。私も首に掛けてるだけで怖い。

 あ、こっちを見た男の子が、私達を見てから顔を青くしてさっと母親の後ろに隠れた。ここまでやってしまっちゃうと、逆に宣伝効果はないような気もする。ハルナはとりあえず目立つことこそが大事だと言っていたけれども。

 

 そういえば、こいつは怖くないのだろうか。と私は横にいるネギを見た。

 ネギは、私の持つ看板になど目もくれず、駅から出てくる人を一人ずつチラチラと見ながら確認していた。時々背伸びまでしていて、落ち着きがない。

 

「……あんた。何ソワソワしてんのよ」

 

 コン、とネギの頭を軽く叩く。ネギは頭を押さえながら、上目遣いで私を見上げた。

 

「あっ明日菜さん! 僕、ソワソワなんか……! 」

 

「しとるねぇ」

 

 このかがクスクスと笑った。その優しそうな笑顔と、首に掛けたお化け屋敷の宣伝板とのギャップが凄い。

 

「お姉さんが来るの、ほんまに楽しみなんやね」

 

「あ、いえ、その」

 

「何今更恥ずかしがってんのよ。昨日から部屋でもずっとそんな感じじゃない」

 

 ネギは顔を少し俯いて、頬を赤くしながら、はい、楽しみです、と正直に告白した。

 

 

 

 私達は今、ネギのお姉さんのお出迎えをしている。お姉さんは麻帆良に来るのが初めてらしいし、これだけ人が多ければ迷ってしまうだろうということで、ネギは駅で待ち合わせをすることにしたようだ。その事情を聞いたいいんちょが、私達に宣伝ついで付いていってあげなさいと指示した。本当はあいつ自身が行きたがっていたのはすぐに分かったけど、責任感のあるいいんちょは現場を離れることはしなかった。仕方ないから、すぐ連れてくるわよ、と言って上げると、途端に嬉しそうにした。ネギの姉に会って挨拶をしておきたいのだろう。

 

 

 ネギは、落ち着きのない様子で、 おもちゃを予約してもらった子供みたいだった。

 ……正直に言うと、私もネギのお姉さんには会ってみたいなぁとは思っていた。こいつから良く話は聞いていたし、保護者代わりにネギを育てていたのは、その従姉妹のお姉さんらしいし。今、同室の身として挨拶はしておくべきなんだろう。

 思えば、ネギの境遇と私の境遇は、少し似ている。詳しくは知らないけれど、こいつも両親とは殆ど関わりがないらしくて、他の人に面倒を見てもらっていたのだ。

 高畑先生を前にした時の私もこんな感じなのだろうかと思ったら、気恥ずかしいような、でも、こいつの感情は分かるなぁと同意するような気持ちになった。

 私がそんな風に考えていると、このかが腰を曲げ、下から私を見上げるようにした。ふふん、と上目遣いをしながらにまにまと笑っている。

 

「な、なによ」

 

「明日菜いま、高畑せんせのこと考えとったやろ? 」

 

「っへ、いや、その! 」

 

 このかは、やっぱり、と呟いて、楽しそうにした。

 

「顔に出とるよー。明日菜もネギ君と一緒で分かりやすいんやからー。明日菜も明日のデート楽しみやもんねっ」

 

 頬があっという間に熱くなったのが自分でも分かった。そうだ、私、明日高畑先生とデートするんだ。しかも、告白をする気でいて……。

 ぼんっ、と頭から煙がでそうになる。駄目だ、考えただけでおかしくなりそうだから、考えないようにしてたのに。このかめ。

 

「ちゃんとお洒落もしてかんなんよー。ほら、ネギ君やって普段持ってない時計もっとったやん」

 

「……分かってるわよ。……というか、あいつの趣味は相変わらず良くわかんないわよね。とりあえずアンティークっぽいのは好きらしいけど、あれはなんかいつもと趣向が違うし」

 

 少し話をはぐらかすようにしながら、私は視線をネギに戻した。ネギは、ここに来るちょっと前まで、デティールの凝った懐中時計をポケットから出しては良く見てを繰り返していた。部屋でも見たことのない珍しいものだったので、どうしたのよそれ、と尋ねてみたけれど、慌てて、何でもありません、と返されるだけだった。深く気にもしてないので私も適当に返事をしたけれど、あいつは随分とそれを気にしていたような感じだった。

 

 まぁ、それも駅に来るまでの間だけだったけど。

 いざお姉さんに会えるとなったら、もう時計のことなんて忘れてるんだろう。

 

 

 私とこのかで雑談をしながら、もう少し待った。電車から降りた人はあらかた出てきたようで、人混みは少しましになってきている。しかし、ネギのお姉さんの姿はまだ見えない。

 

「ねえ、ほんとにこの時間でいいの? 」

 

「あってますよ! お姉ちゃんは時間は絶対守りますから! ……あっ ……」

 

 ネギが、突然間の抜けた声をあげた。

 釣られて視線を向けると、カツ、カツ、と。改札口から、一人の女性が出てくるのが見える。

 

 

 その人は、とても綺麗な人だった。

 

 髪は、あやかより少し薄い金色で、光に反射して一本一本がすらりと流れるようにして伸びている。白く透き通った顔色をしていて、気品や聡明さを感じる。しかし、大人の女性というほど隙がないものでもなく、相対すると自然と頬が緩んでしまうような、親しみやすさも持っていた。

 右手には杖を持っていて、それを地面につきながらゆっくりと此方に向かってくる。左手には、旅行ケース。動きもゆっくりで、慎重だ。まるで、薄く薄く引き伸ばした硝子みたいだと思った。透明で、壊れやすく、でも綺麗で、どこか儚さも感じた。

 

 横にいるこのかが、綺麗な人やぁ、としっとり呟く。私も思わず、うん、と返事をしていた。

 

 

「お姉ちゃん! 」

 

「ネギ」

 

 ネギがぱっと飛び出して、その人にしがみついた。やっぱり、彼女がネギのお姉さんだったようだ。

 

 お姉さんは、優しく微笑みながらネギを撫でた。ネギはくすぐったそうにしながらも、自分の顔をお姉さんのお腹に埋めた。

 

「ネギ君、子供みたいやなぁ」

 

「もとから子供でしょ」

 

 ネギは、その人の体を労りつつあまり力をいれずに、それでもしっかりと抱きついているようだった。

 

「……明日菜、嫉妬しとる? 」

 

「はぁ? なんでよ」

 

「お姉ちゃん株とられちゃったなぁって」

 

「ばか。思うわけないでしょ」

 

 実際に、そんな感情はなかった。

 あの二人のやりとりは、私には、ただただ微笑ましくみえた。子供らしくはしゃぎ甘えるネギは、どちらかと言えば母親にする反応にも思える。

 普段は妙に大人びているせいで気付きにくいけれど、ネギはまだ十歳の子供なんだ。一人で遠く離れた土地にきて、人一倍も本気で働いていたことに、それなりに神経を使っていた筈だ。

 

 だから、こんな時くらい、子供らしくしていいと思った。

 

 ○

 

 

「初めまして。ネカネ・スプリングフィールドです。いつもこの子がお世話になっています」

 

 ネカネさんは、ゆっくりと頭を下げた。外見通りの、優しい声音だった。

 

「え、あ、あの」

 

「初めましてー。うち、近衛 木乃香です」

 

「わ、わたしは、神楽坂 明日菜です! 」

 

 あまり丁寧な挨拶に慣れてない私が戸惑っていると、このかがいつも通りに自己紹介をしたので、遅れて私も続いた。バッと慌てて頭を下げた私を見て、ネカネさんはくすくすと声を洩らした。

 

「いいのよ。そんなに緊張しなくて。別に私は先生って訳でもないし、ただちょっと貴方たちより長生きしてるだけよ」

 

 敬語もやめてね、と明るく笑ってネカネさんは続けた。

 

「は、はい」

 

「明日菜ちゃん。はいじゃなくて? 」

 

「う、うん」

 

「宜しい」

 

 ネカネさんは、目を細めて頷いてから、私の頭をさっと撫でた。

 優しい手つき。

 髪が崩れないように意識してくれているのが、良くわかった。思わず、恥ずかしさやら、懐かしさやら、色んなことが込み上げてきて、顔が熱くなってしまう。

 

「日本語上手やなぁ。ネカネさん」

 

「ありがと。木乃香ちゃん」

 

 木乃香も頭を撫でられて、くすぐったそうにしながら、笑っていた。

 

「ここで立って話すのもあれだし、歩きましょうか」

 

 ネカネさんがそう言うと、ネギはすぐネカネさんの横に立って、彼女の荷物を元気良く手に持った。ありがとう、とお礼を言われて、ネギはますます張り切る。

 

 

 駅から出ると、そこはもうパレードのようになっていて、仮装をした人や、路上でショーをやる人などが何人もいた。私とこのかはもう見慣れたものだけど、ネカネさんはそれらを興味深そう見ている。

 

「ネカネさん、日本はどう? 」

 

「人が思ったより多くて、驚いたわ。それに、なんだか可笑しなものが沢山あるのね」

 

「あはは、今日は特別なんよ。麻帆良祭があるから」

 

「……学祭だけでこんなに賑わうなんて、凄いわね」

 

 ネカネさんは周りを見ながら、杖をリズムよくつきながらゆっくりと歩く。私達も、歩幅を合わせた。

 

 ……杖をつく理由のことは、なんとなく聞けない。会っていきなり聞いていい話かも分からないし、それで雰囲気が悪くなるというのも、ネギに申し訳ない。当人のネギは、かなり気にしている様子だけど、口には出さず、ネカネさんの体に気を使いながら横を歩いていた。見た感じだと、足が悪いというわけではなさそうだけど……。

 

「ねぇネギはどう? この子、ちゃんとやれてる?」

 

「ネギ君はねぇ。すっごいしっかりしとるよ。授業も分かりやすくて可愛いって皆から人気があるし、一生懸命なのがええなぁ」

 

「……そう、頑張ってるのね、ネギ」

 

 ネカネさんがネギを誉めると、ネギは照れくさそうにした。相当喜んでるのが手に取るように分かる。ネギは本当にネカネさんのことが大好きなんだ。

 

 たまにスカートを捲ったりするけどね、と言いそうになったのを私は抑えた。流石にネカネさんの前でネギの株を下げることを言うのは可哀想だと思ったのだ。

 

 

 

 

「それで、私達はどこに向かってるの? 」

 

 尋ねられたネギは、自信ありげに胸を張って、答えた。

 

「勿論!僕が担当するクラスの、お化け屋敷です! 」

 

 



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62話

 

 陽射しは強いとは決して言えなかったが、道の脇に生える木々の葉が僅かに白く見えるほどではあり、つまりは、暖かく良い天気であった。通りにいる人の数は多く、耳には絶え間なく誰かの声が聞こえた。人々による熱気のせいで、アスファルトも少し熱を帯びているような気もする。空には度々ぱんぱんと何かが弾けるような音がしていて、祭りを盛り上がらせるための演出の一環であろうが、それがまた人の気分を乗せるにはしっかりと役目を果たしているように感じた。

 

 ここは中心部から少し離れた場所であるのに、それでも騒がしさは相変わらず、もはや麻帆良に静かに出来る場所はないのではないかと、苦笑しつつも思う。

 

 時計を見ると、10時半。麻帆良祭が始まってから30分経っている。お化け屋敷の方はしっかりとオープン出来ただろうか。初日にその場にいないことを少し後ろめたい気持ちにもなったが、全員であの場にいても仕方がないのも事実だ。後日の仕事をしっかりと請け負ってあるので、今日は自由にさせてもらおうと自分に言い聞かして、気持ちを持ち直した。

 

「――七海、待ったか」

 

 声に気付いて顔をあげると、前にはエヴァンジェリンがいた。いつものようにフリフリとした西洋人形のような格好をしている。暑くないのだろうか。

 いま来た所だ、と、どこかのカップルがやるようなやり取りをすると、エヴァンジェリンも同様に思ったのか、はっ、と短く笑った。

 

「七海は制服か」

 

「だめか? 」

 

「いや、お前らしい」

 

 頬を緩めたエヴァンジェリンに、では、行くか、と声を掛けると、彼女は、ああ、と返事をして自然に私の横についた。

 

「そういえば、お化け屋敷での私の衣装はエヴァンジェリンが作ってくれたんだってな」

 

「ふふん。そうだ。どうだった? 私の衣装は」

 

 エヴァンジェリンが胸を張りながら、自信ありげに私を見た。

 エヴァンジェリンが作ってくれた私の衣装は、ドラキュラというか、吸血鬼の衣装であった。真っ黒のマントは内側が真っ赤になっており、白いシャツと紅色のベストを着た上からそれを羽織るそうだった。パンツも黒くすらりとしたもので、いざ着てみると、自分のサイズにぴったりであり、コスプレというよりは、映画に出てくるものを使っているかのような本格さがあった。しかも、全てを1から作ったというのだから、驚きである。

 

「よかったよ。ありがとう」

 

 学祭用の衣装に、良かったと称賛するのに抵抗はなかった。それほど良くできたものだった。

 

「ふんふん。そうかそうか」

 

 私の答えに満足したのか、エヴァンジェリンは気分を良くしていた。

 

「それで、最初はどこにいくんだ」

 

「とりあえずは、ザジのサーカスを見たい。11時かららしいし、十分間に合うだろう」

 

「サーカスか」

 

「嫌か? 」

 

「嫌ではない。ただ、あれだ。七海、お前もしかして」

 

 意味深に私に目を向ける彼女に対して、私は、どうした、と視線を返す。

 

「クラスメイトの出し物、全部回る気か? 」

 

「まぁ、見れるものは見たいと思ってるが」

 

 ザジだけでなく、多くの人がサークルに所属しているため、お化け屋敷とは別に何らかの出し物をしていることが多かった。クラスメイトは皆に自分の所も来てねと宣伝をしていたので、私はとりあえずなるべく行くよと返事をしておいた。当然、残念なことにスケジュール的には回りきれない所もあるだろうが、それでも見れるものは見たいと思っていた。

 クラスメイトが打ち込んできた何かを目にして、応援してあげたいという、親御さんのような気持ちになっている自覚は、少しはある。

 実年齢で言えば、彼女達とはちょうど親子ほど年齢に差があることとなる(エヴァンジェリンや相坂さんを抜かしてだが)。中学校に入ってからは家族よりも一緒にいる時間が長い皆を、勝手で傲慢ではあるが、どこかで我が子のように愛しく思っているのかもしれない。

 

「……まるで保護者だな」

 

 私の自覚を後押しするように、エヴァンジェリンは呆れつつ息を吐いた。

 

「まぁいい。私が寄りたいと思っている場所もないし、付き合ってやる」

 

「すまないな」

 

 構わん、とエヴァンジェリンは軽く言った。

 

 

 

 ○

 

 

 茶道部は、野点で参加者に御茶をご馳走していた。日本庭園に赤い敷物と長椅子が置かれていて、傘も刺してあった。庭は松や竹が趣がある様子であって、池やそこで泳ぐ鯉も、私の気持ちを穏やかにしてくれた。

 

「マスター。明智さん。来てくれたのですね」

 

 着物を着た茶々丸が、私とエヴァンジェリンの前に礼儀正しく座っている。白い肌と落ち着いた雰囲気が、この場に合っていた。

 恥ずかしいことに茶道の作法は詳しくないのだ、と前もって伝えると、好きにしてくれていいです、と言われた。

 

「ここは作法を学ぶ場ではないので、気楽にしてください。雰囲気だけ味わってくれたら十分です」

 

「いや、せっかくだ。私が手本をやるから、適当に真似てみろ」

 

 お菓子の食べ方や御茶の飲み方は隣にいるエヴァンジェリンのやり方を真似した。茶々丸と彼女のやり取りは、流れるようにスムーズでありながらもどこか品のある様子で、時間の流れがこの部屋だけ切り取られているような錯覚すらしそうであった。先程まで騒がしかった麻帆良の街から一変し、静寂な夜の湖にぽとりと落ちた水滴が静かに拡がっていくような雰囲気を感じて、身が引き締まった。一通り動作が終わった後は、空気がさっと引いて行くようにして、現実に戻された感覚がした。体には、すがすがしさだけが残った。

 

「……どうだった? 」

 

「……凄い」

 

「だろう」

 

 一つ空間の中での静かなやり取り。それだけでここまで空気を変えることが出来るのかと、感動せざるを得なかった。

 

「他の所もどこか行かれたのですか? 」

 

 茶々丸が足を崩さないまま尋ねてきたので、私も再び姿勢を正して答えようとした。もう楽にされて良いのですよ、と茶々丸はやんわりと私に言った。

 

「ザジのサーカスを見て、明日菜の絵を見てきた」

 

「サーカスと明日菜さんの絵、ですか。どうでしたか」

 

「サーカスは凄かったよ。普段とはまた別のザジが見れた。絵の方は、まぁ、明日菜らしくてよかった」

 

「らしいというか、自分の欲を絵に描いただけだったな」

 

 明日菜は美術部として作品を一つ展覧していた。どれが明日菜が描いたかは、絵を見るだけで分かった。高畑先生が描かれた絵があったのだ。エヴァンジェリンは呆れた顔をしていたが、私としては、明日菜の絵の成長にまず驚いた。初めたばかりのときは本当に個性的な絵柄で、何をモチーフにしたかさえ分からないものだったのに、それが今では一人の人物をしっかりと描けている。高畑先生目当てで入部した美術部であるが、それでも、彼女なりに使える時間を使って頑張っていたのだろう。最後に好いている高畑先生を描いた度胸も中々だが、3年間やりつづけたことも褒めてあげたい。

 

「次はどこへ? 」

 

「特に決めていないな。適当に、ぶらぶらとクラスメイトの出し物を見る気だ」

 

「そうですか」

 

 茶々丸は、私に視線を合わせた後、じっとエヴァンジェリンを見つめた。

 

「な、なんだ」

 

「……いえ。明智さん、マスターをお願いしますね」

 

「お願いとはなんだ。子供じゃあるまいし」

 

 エヴァンジェリンはむっとした顔を茶々丸に向けるが、茶々丸は気にせず続けた。

 

「迷子にならないようにしてあげて下さい」

 

「……くく。ああ、よく見とくよ」

 

「おい! 茶々丸! 何が迷子だ! 七海も笑うんじゃない! 」

 

 

 ○

 

 

 学校の中にも、沢山の人がいた。いつもなら行事連絡のプリントが貼られていた掲示板も、今日はビラやポスターに覆い隠されていて、学舎とは一変した姿になっている。各クラスが趣向に凝った出し物をしていたため、普通の喫茶店を経営したクラスを見つけるのは逆に困難になっていた。

 一年生の出し物であるこの喫茶店は、スピーカーから落ち着く音楽が流れていて、メニューの珈琲も多くの種類があって本格的だった。クラスメイトに珈琲を趣味にしてる生徒がいるんです、とウェイトレスをしていた女の子が親しみある笑顔で言っていた。

 千鶴がいる天文部のプラネタリウムや他の子達の出店などで軽く腹を満たした後、休憩をとろうと落ち着く場所を探していたのだが、どうやらここは正解だったらしい。

 騒ぎ疲れた人が安寧を求めてやってくるのか、ここは騒がしさを感じない。

 私とエヴァンジェリンはおすすめの珈琲をそれぞれ頼んだ。

 珈琲を口にしたエヴァンジェリンは、中々だな、と珍しく褒めた。

 

「珈琲と言えば、彼を思い出すな」

 

「彼? 」

 

「フェイト君だ」

 

「ああ、奴か」

 

 エヴァンジェリンは一瞬口を歪めた。彼の話題を出したのは失敗だったのかもしれない。

 

「あいつの目的は、未だによくわからん。ただここに来た訳ではないとは思うのだが」

 

 私も、そのことについては何も知らない。ただ、妹のういは彼のことを気に入っているようで、目的だとか難しいことは置いといて、仲良くしてほしいとは思う。

 

「……七海。お前この間、アルの所に行っていただろう? あのとき何の話をされたんだ」

 

「……私も、君にその話をしようとした所だ」

 

 私は手に持った珈琲を机に置いた。スピーカーから流れるジャズの音が、私達の間を流れる。

 

「クウネルさんは、私に気を付けろと言っていた」

 

「……気を付けろ? 」

 

 何を、とエヴァンジェリンは続ける。

 

「良く分からない。ただ、世界樹が最も強く発光する時、つまり、最終日に、私の体に影響がある可能性があると」

 

「……昨日の前夜祭の時も世界樹は発光はしていたが、その時は? 」

 

「問題なかった。むしろ、体の調子は良かったぐらいだ」

 

 ……私も、世界樹の発光に合わせて何か身に起きるという予想をしていなかった訳ではない。しかしその問題については、幾ら考えてもどうにもできなかった。この身が世界樹に依存している限り、その繋がりを絶つことも、薬を止めるということも出来ない。

 エヴァンジェリンもそれを分かっているからか、何とも言えぬ顔をした。

 

「……例の、世界樹の世界にいる謎の人物は? 」

 

「彼らとは、最近話せていない」

 

 世界樹の世界に行けば、彼は相変わらず世界樹の幹に絡められている。しかしここ最近は、彼らは私と口を聞いてくれない。彼らを声で判断している私は、もはやどちらの彼がそこにいるのかも分からないのだ。

 

 

 ――ただ、無口な彼が最後に、「もうすぐだ」、と静かに告げたことが、気掛かりだった。

 

 

 エヴァンジェリンは私の話を聞いてから、思案に耽るように口を紡いだ。

 

 黙って向かい合う私達の机に、さっき話したウェイトレスの女の子が、小さい紙で包んだチョコレートを二つ持ってきた。珈琲とセットで付いて来るものだったらしいが、それを忘れていたらしい。慌てた様子で謝っていたのが、初々しかった。

 

 

 ○

 

 日が少し低くなり、夕焼けの気配が近づいているのがほんのりと分かった。青の中に、また別の群青とした色が混ざりかかっていて、落ち着いた空になっている。麻帆良の街も少しだけ騒がしさは静めて、夜のイベントに備えてそれぞれが準備しているのが分かった。アスファルトから伝わる喧騒は、随分と静かだ。

 私とエヴァンジェリンの影が、灰色に塗装された道に長く伸びる。私達が足を踏み出すと同時に、影も同じように足を下ろして動いた。撫でるように吹いた風が私達の頬をそっと触った後、木々の葉へと手を伸ばしている。

 

「……なら、私はこれで大学に向かうよ」

 

「……ああ」

 

 いつの間にか昆虫の世話をするため大学へと向かう時間になっていたため、エヴァンジェリンとはここで解散することにした。

 

「じゃあ、また」

 

「……七海」

 

 身を翻して歩こうとした私を引き止めるように、彼女は口を開いた。私は振り返って、彼女を見る。

 エヴァンジェリンは、どこか儚げで、それでいて、僅かに不安がよぎっているような瞳を私に向けている。

 

「……いや。何でもない 」

 

「……そうか」

 

 私が頷くと同時に、そよ風に吹かれた落ち葉がふわりと二人の間を舞った。

 



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63話

 

 私達A組のお化け屋敷は想像よりずっと繁盛していたようで、長蛇の列は廊下には収まりきらず、階段にまで続いていた。ネカネさんを迎えた私達はその列の最後尾に並んで、他愛のない話をしながら順番が来るのを待った。かなり長いこと待ちそうだな、と思ったけれど、私達が先頭に来るのは意外とあっという間だった。店の回転率がいいから、という訳ではなくて、ネカネさんの話が面白かったからだ。

 

 ネカネさんは、色んなことを沢山知っていた。お洒落の話も詳しくて、いい化粧水やトリートメントの成分なんかを分かりやすく話してくれたり、木乃香には料理の話もしていた。ネギにはつまらない話だったかもしれないけれど、私と木乃香は食い入るように聞き入ってしまった。

 ネカネさんも、あっちにはあんまりこういう話を出来る人がいなかったから、楽しいわ、と上品に笑いながら言っていた。

 

 

 ついにお化け屋敷に入る順番となって、ネカネさんは感心した様子で入り口の門を見ていた。ネギが改めて、これを僕のクラスメイトが作ったんです、と胸を張って告げていて、ネカネさんが、凄いわと称賛してくれた。まっすぐに誉めてくれたことが、私も素直に嬉しいと思えた。

 

 

「お! ネギくん来たの!? あ!お姉さんもいるよ! 」

 

「どれどれ! うわあ! 超美人じゃん! 」

 

「成る程……。これはネギくんも将来は美形が約束されてるね……」

 

 お化け屋敷から仮装をしたチアリーディング部の顔が次々と飛び出してきて、ネカネさんを見てわーきゃーと騒ぎだした。ネカネさんはそんな彼女達に気を悪くすることもなく、むしろ、穏やかな笑みを浮かべて手を振っている。

 

「こら! あなた達、失礼でしょう! はやく持ち場に戻りなさい! 」

 

 いいんちょの声が聴こえて、顔を出していた柿崎達がズルズルとお化け屋敷の中に引き摺られていく。

 ああー、とうめき声を上げながら消えていった彼女達の姿が既にホラーっぽくて、もう始まってるのかしら、とネカネさんがネギに耳打ちしていた。

 

 

「こほん。 お姉様、クラスメイトが大変失礼しました。私、3-Aの委員長を務める、雪広 あやかと申します」

 

 仕切り直して出てきたいいんちょが、礼儀正しく挨拶をした。いいんちょの奴、調子よくお姉様なんて呼んでいる。

 

「貴女が委員長さんなの。なら、いつもネギがお世話になってるわね」

 

「いいえ! ネギ先生は大変素晴らしい男性です! クラスメイトのお世話こそすれど、ネギ先生に手がかかると思ったことはありませんわ!」

 

「ふふ。ならよかったわ。宜しくね、あやかちゃん。ネカネ・スプリングフィールドよ」

 

 ネカネさんは自分の名を告げた後、いいんちょの手を握った。

 

「……はい。宜しくお願いしま、す……?」

 

 いいんちょは差し出されたその手を笑顔で握ってから、それから一瞬、動きを止めた。

 

 顔を見ると、きょとんとした表情を見せている。

 それを見たネカネさんが、どうしたの、と声を掛ける前に、いいんちょはすぐ気を持ち直した。

 

「いいえ、何でもありませんわ。それでは、ネカネさん! 折角なので我がクラスのお化け屋敷を楽しんで行って下さい! 」

 

 いいんちょがネギとネカネさんを中へと誘導していく。私と木乃香は付いていく素振りも見せずにその場を動かない。そんな私達を見て、ネギは疑問符を浮かべながら首を傾げた。

 

「あのー。明日菜さん達は来ないんですか? 」

 

「私達は行かないわよ。二人で行っておいで」

 

「うちらは中の様子も全部知っとるし、主催側やからなぁ。出口で待っとるから、そこでまた合流やな」

 

 ネギは、では行ってきます、と私達に言ってからネカネさんと一緒に入り口の門をくぐっていく。

 

 二人が入って少しすると、いいんちょが出てきた。この時間帯は案内役である彼女は、次の人を案内しないといけないのだ。

 

「いいんちょ、あれだけでええん? もっとネカネさんとお話したいんちゃうん」

 

「いいえ、しっかりと挨拶が出来ましたし、十分ですわ。次の仕事もありますしね」

 

「ねえ、いいんちょ。ネカネさんと手を握った時、どうかしたの? 」

 

 あの時、いいんちょはどこか不自然だった。私の言葉を受けて、いいんちょはその時のことを思い出すかのように自分の手をじっと見つめて、掌をゆっくりと動かした。

 

「……何でもありませんわ。ただ、懐かしいような、覚えのあるような感じがしまして……」

 

「……なにいってんの? 大丈夫? 」

 

「いいんちょ、不思議ちゃんやなぁ」

 

 懐かしいって、今まで違う国にいたネカネさんとあったことある訳ないのに。

 

「あなたが聞いたから答えたんでしょうが! 木乃香さん!あなたにはその台詞は言われたくないですわ! 」

 

 いいんちょは怒りながらも私達の背中をぐいぐいと押して来た。

 

「ほら! いつまでもここにいると仕事の邪魔ですわ! あなた達は出口でネギ先生達を待ってなさい! 」

 

 はやく、と急かすように言って私達を退けた後、いいんちょはすぐに次のお客さんの対応に入った。流石に仕事に迷惑を掛ける訳には行かないので、私と木乃香はお化け屋敷の出口へと向かった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

「どうだった? お化け屋敷」

 

「こ、こわかったです。早々に首がコロン、って……」

「凄い良くできていた。久々に面白いものをみれたわ」

 

 ネカネさんは、うんうんと頷きながら言った。その様子だと、あまり怖くはなかったみたいだ。一番怖いコースに行った筈なのに余裕そうで、その冷静さがやっぱり大人っぽかった。

 

「最後の幽霊は特に本格的だったわね」

 

 その幽霊だけは本物なんです、なんて言えなくて、私達はとりあえず苦笑を返した。

 

 

 

 

 ネギとネカネさんがお化け屋敷から出てきた後、そののまま合流して、今はどこかのサークルが出店しているオープンテラスの喫茶店で寛いでいた。

 紅茶のいい香りが蔓延していて、ネギも満足そうにそれを飲んでいる。ネカネさんの飲み方も、礼儀正しいというか、外国の貴族っぽくしっかりとしてて、紳士っぽく飲むネギとどこかシンクロしているのが、ちょっと可笑しかった。

 

 

 

「ネギ、そういえば、あんたこの後本屋ちゃんとデートなんじゃないの? 」

 

 通りにある時計に目を向けながら私が言うと、ネカネさんが、まぁ、と声をあげた。

 

「ネギも大人になったわねぇ。デートだって」

 

 クスクスと笑うネカネさん。ネギは顔を赤くしながら、恥ずかしそうにしている。

 

「いや、デートというか、その」

 

「駄目やよーそんな風に言っちゃ。のどかすんごい勇気出してネギ君を誘ったんやよ? 」

 

「う、……す、すいません」

 

 本当に申し訳なさそうにそう言ったネギを見て、ネカネさんは、そういう所は相変わらずね、とため息混じりに呟く。

 

「でも、まだ時間はありますよ! それに……」

 

 ネギは、ポケットから懐中時計を取り出した。なんだか複雑そうな表情をしながら、それをじっと見つめる。時計ならすぐそこにあるのに、とわざわざ懐中時計を見つめるネギを、私は不審に思った。

 

「ネギ」

 

 ネカネさんの白い手が、おもむろにネギの頭を撫でる。それから、その手をすっと頬まで下ろしてからゆっくりと語りかけた。

 

「女の子を待たせるものじゃありません。それに、準備の時間もあるでしょう? いいから行ってきなさい」

 

「そーやね。ネギくん、うちがコーディネートしたるよ。せっかくなんに、スーツじゃのどかも可哀想やよ? 」

 

「でも……」

 

 ネギはきっと、ネカネさんのことを気に掛けてるんだろう。せっかくここまで来てもらったのにネカネさんを放っておく、ということにも勿論負い目はあるだろうけど、それよりも、ネカネさんの体調を気遣っているように見えた。心配そうにしているネギの顔は、やっぱり分かりやすい。多分、最後までネカネさんを見ていたいんだと思う。

 そんなネギの想いを察しているかのように、ネカネさんは力強く、それでいて優しく、大丈夫、と頷いた。

 

「私はいいのよ。この後はすぐホテルで休むわ。こっちに来たばかりで疲れちゃったし、ちょっと1人でゆっくりしたいのよ。だから、気にしないで」

 

「……うん。分かった」

 

 しぶしぶといった様子で返事をしたネギに、女の子前でそんな顔しちゃ駄目よ、とネカネさんは額を小突きながら言う。

 

 ネギは改めて、お姉ちゃん、またね、と告げてから、木乃香と一緒に席を立った。木乃香も丁寧にネカネさんに頭を下げて、いつもみたいなほんわかした笑顔でさよならを言った。

 

 

 私は、二人には着いていかずに、なんとなくその場に残ってしまった。お洒落については木乃香一人付いていけば十分だし、なによりも、もう少しだけネカネさんとお話したいと思ったのだ。

 

 ネカネさんは席を立たない私に向かって疑問を持つ様子もなく、紅茶をもう一飲みしてからカップを机に下ろす。微妙に紅茶の水面が揺れて、キラキラと光って見えた。

 

「明日菜ちゃん。ネギをいつもありがとうね」

 

「え?いや、別にお礼を言われることなんか……。私は特に何もしてないし」

 

 突然の言葉に、私は大袈裟に腕を振って否定をしてしまう。

 

「ううん。ネギね、手紙でよく明日菜ちゃんの話をしてたわ。最初は、ちょっぴり乱暴な人、なんて言ってたけどね」

 

「……あいつめ」

 

「でもね、最近は、優しいとか、よく見てくれるとか、そんなことばっかり言ってるわ」

 

 普段そんな風に見られている気がしなくて、思わず、それほんとですか? と疑う感じで聞き返してしまった。

 

「ほんとよ。ほんと。きっと、明日菜ちゃんのこと慕ってるのよ」

 

 ストレートに言われて、思わず顔が少し火照った。いやいや、と言い訳する前に、照れてるのね、と言われて、言い返せなかった。

 いや、違う違う。私は高畑先生が好きで、ネギはガキだし、そりゃその辺の子供よりはしっかりしてるけど、恋愛感情なんて皆無だし、ただ、男子に慕われてると言われるのは慣れてないから、いや男子としてあいつを見てる訳でもないけど、ああー。

 

「面白いわね、明日菜ちゃんって」

 

「もう! からかわないでよ! 」

 

 ごめんごめん、とネカネさんは微笑みながら謝った。

 それから、少し遠い目をして、ネギはね、と呟く。

 

「ネギは、誰かが見てないと駄目なのよ。結構強情だったり、ひた向きになっちゃって前しか見えない時あるでしょ? そういうの止めてあげれるのは一番側にいる人なのよ」

 

「……でも私、その役目出来てないかも」

 

 ネギが一直線なのは私も分かる。だけど、私がそれを止められるとは思わなかった。

 ネカネさんは、首を左右に振った。

 

「あの子の側にいるだけでいいのよ。あんたちょっと待ちなさいよ、って、一言言ってあげればいいの。ネギ、明日菜ちゃんのこと好きみたいだし、そういう人がいるだけで、あの子は大丈夫」

 

 ネカネさんはゆっくりとそう言って、また紅茶を口に含んだ。

 

 

 ――なんだろう、この感じ。

 

 その言い方は、なんだか儚くて。

 でも、安心してる様子もあって。

 よく分からないけど、私は少し悲しくなった。

 

 ネカネさんを、改めて見る。

 消え入りそうなくらい、綺麗で、白い肌だ。

 

「……あの」

 

「うん? 」

 

「……大丈夫? 」

 

 ネカネさんは、おもむろに私に視線を向ける。

 

「大丈夫よ。ごめんね、心配させちゃって」

 

 そう言って笑って、彼女は杖を上手に使って席を立った。

 

「でも、少し疲れちゃったから、もうホテルに戻るわ。……お話出来て、楽しかった」

 

 ネカネさんは、最後に私の頭をぽんと掌を乗せてから、風に身を預けるようなゆったりとした足取りをして、行ってしまった。

 

 私は、自分の頭に乗せられたネカネさんの手の感覚を確かめるように、右手を頭に乗せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 日はすっかり暮れていて、橙色をしていた筈の空は、既に紺色に押しきられていた。周りには、ほとんど人の気配がしない。おそらく、大抵が世界樹の発光を目に納めようと、中心部の方に向かっているのだろう。人々の声は、ぼんやりと聴こえる。

 どうせ家に戻っても、まだ茶々丸はいない。ならば特に急ぐ必要もなく、私は七海と別れた後、道中にあったベンチに座ってだらだらと考え事をしていた。

 

 頭に浮かぶのは、七海のことだった。

 あいつが今、どういう状況にいるのか、私にはよく分からない。ただ、何となくだが、いい予感はしていなかった。アルが、気を付けろ、と言ったのだ。何もないとは思えない。しかし、だとしても私には何が出来るか分からなかった。

 600年も生きてきたが、久々に分からない問題に直面して、私は暗黒の森をぐるぐるとさまよっているかのような、もやもやとした気持ちを抱えた。何かに悩むということ自体が懐かしく、答えのでない問いはやはりいじらしいと再確認した。

 

 どうすればいい、というより、何をしなければならないのだ、と考え、結局また、どうすればいい、と思考は戻る。

 別に、どうにかなると決まった訳じゃない。世界樹が光ろうが、あいつにはなんの影響もないかもしれない。ただちょっと、あいつも一緒に光るくらいで済んで、ちょっと騒ぎになるが、それでも月日が経てば楽観的なクラスメイトの間での笑い話で済むようなことかもしれない。

 それでも、じっとはしていられなかった。

 アルに話を聞けば分かるのだろうか、いや、あいつがあんな半端な言い方をするということは、あいつも何か隠しているのか、本当分からないかのどちらかだ。前者は考えにくい。腐った性格をしてるがあいつの根は善人だ。一般人が危険にあうというのに黙ってることはないだろう。

 

 考えは、ぐるぐると回り続ける。

 

 

 考えるに考えて、思考の海に溺れるように考えて、なんで私はこんなことを考えてるのだ、と一番根本なことまで考えだしてしまった。

 人間なんて、今まで何人もいたじゃないか。

 今更、たかが一人の人間を気にして、どうかしてる。そんな心の声も聞こえ始めた。

 

 ――でも、違うんだよ。

 

 その問いかけに、はっきりとした声が言葉を返した。

 ナギも七海も、私を普通に見てくれた。どうしようもなく化け物で、人とは違う私を。私を私として見てくれたんだ。それが、私には――。

 

 

 不意に、トサリ、という音が、ほんの僅かに聴こえた。

 下を向いて考え込んでいた私は、顔をあげた。

 

 いつだかも、こんな音を聞いた覚えがあった。いつのことだっただろうか。

 

 しばらく座っていたからか生暖かさのあるベンチから立ち上がって、私は何となく音の発生源に向かおうとした。

 やはり周りには人はおらず、閉まっている出店の光だけが道をほんのりと照らしていた。学生で夜まで出店するには許可がいるため、店側もこの時間は中心部へと向かっているのだ。

 

 なんだか面倒ごとな気もする、と今までの経験から思いつつも、私は足を進める。街道を少し歩き、道を曲がると、そこには人がいた。

 

 ――ほら、やはり面倒ごとだ。

 

 私は自分にため息をついた。わざわざここまで来てしまった自身に悪態をつきながら、倒れている人間に視線をやる。

 私と似た色の金髪の女性が、その長い髪を無防備に広げながら、うつ伏せにしている。呼吸の音も、僅かに聴こえる。申し訳程度に上下する背中から、死んでる訳じゃないことは分かる。

 

 死んでいないのなら、特に問題もあるまい。ただ寝ているだけかもしれないし、もう少ししたら私以外の人間がこいつを見つけるだろう。

 

 自分にそう言い聞かして踵を返そうとした。

 だが、そこから一歩踏み出した時に、ある記憶を思い出してしまった。

 

 ……そういえば、七海と初めてまともに会話したときも、こんな状況だった。

 

 後ろを振り返る。今は、茶々丸はいない。その人を助けろと、私に言う者はいない。わざわざ人助けをする義務なんて当然ないんだ。

 

 そこから遠ざかるように、更に一歩足を進め、

 

 

 

 

 

 ――『私は、君が優しいことを知っているよ』

 

 

 

 

 

 くそっ。

 こんなのただの偽善だ。私が一番嫌いなものだ。そんなこと分かってる。

 だが、もう放ってはおけない。ここでこの女を置いていったら、私はあいつにどんな顔をしていいか分からない。

 

 

 苛立ちつつ地面を強く踏みつけて、私はその女性に近付き、肩を触ろうとした。

 

 

 

 その時。

 いつか感じた違和感が、私を襲う。

 

 

 

 ――――こいつ、魔力が……。

 



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64話

 

 カツンカツンと、磨きあげられた冷ややかな廊下に私の足音が響く。歩を進める度に廊下の天井についてあるセンサーに反応して自動で明かり付いていき、先が見えなかった暗闇に、光をもたらす。十分に明るいのだが、廊下は人気のなさと外の暗さによってどこか湿っぽく、どこまでも続いていきそうな一直線のそれは、背中を這うような不安を感じさせた。大学といえどやはり夜中の学校は不思議な感覚だ。本物の幽霊を見た以上、全く恐怖心がないとは言えなかった。皆が相坂さんのような幽霊ならばいいのだが。

 

 昆虫の世話には思ったより時間がかかり、その上培養中のサンプルなどを回収していたらこんな時間になってしまった。クラスの皆は例年通り中夜祭と称して騒いでいるのだろうが、まだやっているのだろうか。次の日のことも考えるとあまり遅くまでやるべきではないのでは、と毎回思うのだが、若く元気な彼女たちはいつも翌日もケロッとしているので、私の心配は大抵杞憂に終わる。

 

 とりあえず皆のところへ顔を出して見ようかと、玄関へと向かう足を少し早めた。

 すると前方の暗かった筈の廊下の私がまだ進んでいないところまで明かりがつき始め、更にそこからは見知った顔が現れたので、少し驚いた。

 

 前から現れた超も同様に、珍しく目を丸くしていた。

 この麻帆良祭の中、大学内で誰かに会うなど互いに思ってなかったのだろう。

 超は、すぐにいつもの人をからかうような顔に戻って、笑った。

 

「……やぁ、七海。まさかここで会うとは思わなかったヨ。学祭中でも虫のお世話カナ? 」

 

「そうだな。相も変わらず、今日も虫のお世話だ」

 

 大変ネ、と超は笑みを崩さず言った。

 

「そっちはどうしたんだい? 」

 

 超は、手に幾つかの荷物を持っていた。ちらりと見れば、論文の入ったクリアファイルや、本、ノートパソコンを抱えている。確か彼女は生物工学研究会に所属しているため、理学部で会うことは別にあり得ないことではないのだろう。ただ、学祭中のこのタイミングで何をしているのかと少しは気になる。

 

 超は私の質問には答えずにぐっと顔を寄せてきて、私の目を覗き込むかのようにじっと見つめてきた。超の瞳の中に、私の戸惑った顔が映っている。

 

「……ここで七海にあったのも、偶然ではないのかもしれないネ」

 

 意味深にそう呟いた後、超は目を伏せて、一歩離れる。

 

 

「七海、少し話をしないカ? 」

 

 

 

 ○

 

 

 

 

「実は私、身辺整理をしていたヨ」

 

「……身辺整理? 」

 

 そう、身辺整理、と超が頷きながら繰り返した。

 

 麻帆良大学の近くにある公園は人の気配がなく、焦げたような色をした鉄棒が寂しさを一層際立てていた。四隅にある公園灯のうち、一つはチカチカと息絶えそうな様子を示していて、象の滑り台の影が延びたり消えたりしている。いつもなら薄暗さを持つこの場所も、世界樹の光が届いて、ほんわりと明るい。

 

 大学の近くに建ってしまったこの公園は、大学生が遊ぶには子供っぽく、広さも足りないため、使われていることはほとんどない。その公園にある木製のベンチに、私と超は座っていた。

 

「私、学祭が終わると同時に中学校を辞めるつもりネ」

 

 超が呟くと同時に、どん、と身体に響くような音が聞こえた。花火が上がったのだ。中夜祭でも、祭りは祭り。麻帆良の祭りはいつも派手だ。

 超はその音に怖じける様子も見せず、続ける。

 

「それで、今日は荷物だけ取りに来たヨ。関係者への挨拶は明日済ませるつもりネ。……クラスメイトには黙っていくつもりだたが、まさか最初に七海に伝えるとは自分でも思わなかたヨ」

 

 あまりに急な話である。義務教育となっている中学校を辞めるとは、それなりの理由があるのだろう。

 気付けば、どうして、私の口から声が出ていた。

 

「ふっふっふー。非常に重大な目的のためなのだが、情報が漏れると機関に狙われ危ない。よってあまり公にしたくはないのだが! 特別に七海にだけ教えてあげよう! 」

 

「……」

 

 黙って、私は超が言葉を続けるのを待つ。ふざけているように見えるが、公園灯によって影が出来ているその横顔は、今一表情が読めなかった。

 

 彼女は反応のない私に呆れるように一息ついた後、語りかけるように此方を向いて、声を低くして話はじめた。

 

 

「七海。取り返しのつかないような悲惨な出来事が起きたとき、人が何を頼りにするか知っているカ? 」

 

 

 その質問が、超の退学にどう関わるのかは分からない。しかし、その真剣な瞳に、私は、目を逸らすことも、口を挟むことも出来なかった。

 超は私から答えが出ないことを確認してから、時間ダヨ、と静かに呟いた。

 

「現在に生きていても、答えを見付けられないからネ。ひとまず時間さえ過ぎてくれれば事態は好転してくれるだろうと、未来に答えを求める人もいれば、時間さえ戻ってくれたらあの時の選択肢をやり直すのにと、過去に懇願するものもいる。……私は後者だたヨ。というより、後者しか取りうる道はなかった」

 

 言っている意味は分かる。時間とは万能で、何か悩んだ時、その時は本当にどうしようもないと頭を抱えていても、翌日、1ヶ月、1年と過ぎていけば、案外笑い話となっていることもある。

 そして、失敗した時に、あのときこうすれば、と過去の自分を恨むものも、確かにいる。

 

 ……超は、自分を後者だと言った。つまり、昔に何か思い残すことがあるということなのか。しかし、超ほど頭が良いのであれば、間違えた過去とはどうしようもなく、それはそれで受け止めて、次に活かすことの方が大切だと分かっている筈である。

 

 だが、この後に続く超の言葉を聞いて、『過去とはどうしようもない』という前提が、ひっくり返る。

 

 

 

「実は私、未来から来たのダヨ。過去を変えるためにネ」

 

 

 超がそう言うのと同時に、また花火が上がる。どん、どん、と連続した花火は、超の後方で綺麗な花を咲かせていた。

 言葉が出ない私を見て、アレ、と超は首を傾げた。

 

「笑うと思ったんだけどネ 」

 

「……笑った方がいいのか? 」

 

「いんや。そのまま受け止めてくれたらいいネ」

 

 

 私は頭を振った。

 

「どう反応したらいいか、分からないだけだ」

 

 あり得ないことだろう。超が私をからかって、ふざけているだけだろう。普通に考えればそうなのだが、何故だか、私の脳はその言葉を単純には受け止めなかった。

 頭に浮かぶのは、京都で話した時のこと。超の作り出す、明らかに規格外の機械。今まで、魔法使い、ロボット、幽霊と非現実的なものを見てきた。そうくれば、未来人もあり得ると、私は納得してしまっているのかもしれない。

 

 寧ろ科学の産物だと考えたら、原理の全く理解出来ないであろう魔法などよりも、時間移動出来る技術の方がしっくりくる。人間は、時間という概念にずっと問いをぶつけ、研究し、闘い続けてきたのだ。未来には一つの到達点に辿り着くと思うと、分野違いではあるが、同じ科学者として誇らしくもある。

 

 

「なら、超は、過去をやり直すためにここにいるのか」

 

 嘘か本当かが分かった訳ではない。だが、とりあえず、それが本当だとした上で、訊ねた。彼女が、嘘に決まってるじゃないカ、と頬を緩めて告げるまでは、私はこの話を信じてみようと思った。

 

「そうなるネ。過去を変えて、未来を変えるために、私は今ここにいる」

 

 どんな過去をやり直すために、と聞いていいのか分からなかった。それが彼女のプライベートのことで、私が踏み込んでいい領域なのか判断が出来ない。そもそも、未来から来たとは、どのくらい先からやってきたのだろうか。タイムマシンが発明家されるほどの未来と考えれば、かなり先であるようにも思える。

 

 そして、彼女がこの学校を辞めるということは、未来に帰るということなのだろうか。ならば既に過去をやり直せたのか。それとも、これからなのか。

 

「どうして私にその話を」

 

 超は、私よりもっと仲がいい人がいる筈だ。クーや、葉加瀬や、四葉にこそ、先に言うべきなのではないか。いや、それよりも、皆にも自分が未来人であると告げるつもりなのか。

 

「……」

 

 超は、ゆっくりと立ち上がった。私に背中を向けたまま、そのまま向き直ることなく、彼女は語り始めた。その小さな背中が、何故か私には大きく見えて、得体の知れない寒気がした。

 

「私、この時代のことは大抵知ってるつもりだったネ。未来から来たから当然なのだが……。しかし、今のこの状況は、想定とは大きく違う。ネギ先生の対応も、魔法に関わる人間も、エヴァンジェリンの性格も、全て私の知った過去から少しづつ、ずれている」

 

 その言葉は、私の心に直接響くように伝わった。

 頭に浮かんだのは、カチリと合わさる筈の歯車が、異物によってぎこちなく廻るイメージだ。チカチカと明暗を繰り返す公園灯に合わせて、私の心臓は、突くように打ち出した。

 

 

 超は、静かに振り返り、その手を伸ばして、私を指差した。

 

 

「そのずれの中心となったのは、あなただ。明智 七海。……だからこそ、私は貴方が気になる」

 

 

 どん、どん。また、花火が上がる。その音とシンクロするように、私の心臓も音を上げた。

 私の戸惑った顔を、超は笑って受け入れて、すっと右手を私の前に伸ばした。

 

 

 

「七海。……私の仲間にならないカ? 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 窓からは、散っていく花火が辛うじて見えた。私の家から麻帆良の中心部までは結構な距離がある筈なのだが、その音は空気を揺らしてここまで届いている。相当な大きさの花火を上げているのだろう。毎年その煩さを鬱陶しく思っていたが、今年も私の気持ちは同様らしい。

 

 溜め息をついて、窓から目を離し、私のベッドに横たわる女に目線を移した。

 マネキンのように白い肌が、雪のように思える。外国人らしく整った顔は、周りの中学生達とはかけ離れて大人らしいと思える。

 

 私の視線に気付いたのか、花火の音によってかは分からないが、女はようやくその目をうっすらと開けた。

 体を起こさず、瞳だけをゆっくりと左右して、この状況を確認しようとしている。近くにいる私に気付くと、その瞳の移動を止めて、私と目を合わせた。

 

「……あなたは? ここはどこ? 」

 

 掠れるように呟かれた声だったが、意識ははっきりしていると分かるほど、どこか芯のある様子を示していた。

 

「私は只の通りすがりだ。そしてここはそんな通りすがりの家だ」

 

 女は掛け布団に隠れた腕を目の前にあげて、自分の掌を確かめるように見つめた。小さな唇を開けて、呟く。

 

「私は……」

 

「寝てたつもりかは知らんが、路地裏に転がっていたのを勝手に拾ってやったぞ。余計なお世話だったらすまんな」

 

「……そう。私、倒れたのね」

 

 目を伏せてから、彼女はゆっくりと体を起こした。それから、もう一度この部屋を確認するように見回す。素敵な部屋ね、と呟いたのが聞こえた。

 

 

「迷惑をかけて、ごめんなさい。それと、ありがとう」

 

 女は私に頭を下げた。金色の髪がふぁさりと音を立てる。

 

「ふん。礼などいらん。それより、体はどうだ? 」

 

「……体が、いつもより軽いわ」

 

「……薬は効いてるようだな」

 

「薬? 」

 

「私の友が作った薬だ。家にサンプルがあって助かったな」

 

 七海が作った、世界樹の薬だ。七海はアルの所と私の家を交互しながら薬を作っていたので、材料や薬のサンプルは幾つか家に置いてあった。希釈度などは七海のレシピに従ったのだが、どうやら上手く出来ていたようだ。

 

 女は私の言葉を聞いて、その表情に驚きの色を見せた。

 

「……薬が、あるのね。それに……どうして? 」

 

「勘違いするなよ? 善意ではない。私の目的のためだよ」

 

 あそこで七海と同じ症状の人間を拾ったのは、ある意味幸運だった。七海と同様に魔力のない人間に同じ薬を与えたら、どうなるのか。それを確かめることができる。

 今までこの薬を使えたのは七海だけだったのだ。元々魔力のある人間には相性が良くないのか、試しにこっそり私が飲んでみても何の変化も感じられなかった。だからこそ、七海は自分を被検体にするしか出来ないのだ。

 しかし、こうしてもう一人被検体が増えれば、分かることは更に多くなる筈だ。N数は多い方がいいに決まってる。上手くいけば、この女から七海が今後どんな症状になるのか予測が出来るのかもしれん。

 

 ……こんな言い方をすれば、非難を浴びるだろう。しかし私は、周りに対して取り繕うつもりはない。いつだってやりたいようにするだけで、その責任も負う覚悟は出来ている。

 

「貴様、体に何か違和感などを感じないか? 」

 

 女は、両の手で自分の体をペタペタと触った。

 

「……分からないわ」

 

「……はぁ。やはり、そう上手くはいかんか」

 

 女と七海では、ここに行き着くまでの条件が違い過ぎている。七海は何回も試飲を繰り返していたし、その期間も長い。摂取量も大きく差がある。

 そもそも、原因となりそうな謎の世界に七海がたどり着いたのも、飲みはじめてから結構経った後だ。この女が今一口飲んだからと行って、すぐにその世界に行けるとは思えない。

 

 私は落胆し、分かりやすく肩を落とした。

 それから女を見ると、女は顔を少し俯けていた。訝しげに思っていると、布団の上にぽとりと水滴が落ちたのが分かった。泣いているのだ。

 

「な、なんだ! どうした! 私か? 私のせいか!? 」

 

 私の態度が悪かったのか。確かに特に説明もせずぶっきらぼうだったのかも知れないが、泣くとは思わないではないか。

 大人に見えた女が泣いたことで妙に取り乱してしまった私を宥めるように、違うの、と女は呟いた。

 

 

「貴女がどうとかじゃなくて。その、ただ―――」

 

 女は自分の胸にゆっくりと手を当てた。胸の鼓動を確かめるようにしながら、どういう訳か、顔に綻びを浮かべている。胸に置いた手をぐっと握り込んで、笑っている。

 

 

 

「なんだか、とっても温かくて」

 

 

 頬を僅かに染めて、眼に涙を溜めているその表情からは、安堵と、ちょっとの喜びと、そして何故か、敬慕の念が表れていた。

 



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65話

 雲の数は少なく、空からの日射しは空気を浄化していくような新鮮さがあった。 活気を帯びた他人の足音が、大地から体に強く響いていくのが分かる。

 龍宮神社の付近には人の束が集まるようになっていて、無理に歩を進めれば肩がぶつかりそうになるほどだった。出店なども少ないエリアであったが、皆が「まほら武道会」を見ようとやってきているのだろう。

 座席の関係上チケットがないと中で観戦することは出来ないらしいので見れる人数は限られているのだろうが、それでも会場に近付けば何か見えるかもしれないと期待して集まっているのかもしれない。

 

 私は人の流れから弾かれた玉のようになんとか群れから離れ、龍宮神社の正門からぐるりと裏に回るように足を進めた。

 神社の裏側は極端に人気が少なくなる代わりに木々などが増えていき、その影によってどこか涼しさを感じる。まほら武道会の入口は正門なため、ここに人がいないのは当然だろう。自然に近い状態になっている裏庭から、並ぶ杉の木の中で一番大きいものを見つけると、そこに向かう。

 足裏を茶色の土で汚しつつも杉の木に近付き、ここか、と一人で呟いた所で、背後からかさりと物音が聞こえた。

 

 振り返ると、そこには龍宮がいた。

 眉を寄せた顔で、彼女は私に訊ねる。

 

「明智じゃないか。こんなところで、何をしているんだい」

 

「……いや、その」

 

 私は返答に困った。勝手に神社の裏側に入ったことを叱られるのだろうか、と申し訳ない気持ちになる。

 

「私の神社に何か用なのか?」

 

「神社に用はないんだが……」

 

 龍宮は、うろたえた様子の私を見て、ふっと息を洩らして笑っていた。

 

「私は超に頼まれてここに来るという人物を迎えに来ているんだが」

 

「……それは、多分私のことだ」

 

「ああ、知っていたさ」

 

 色黒の彼女が浮かべるその意地悪い笑みは、どこか妖艶さが漂っていた。

 

 

「……わざと驚かしたな」

 

「さて、どうかな」

 

 

 長い黒髪を翻してから、ついてきてくれ、と続けて龍宮は歩きだした。からかわれた私は、むっとしながらも彼女の指示に従う。カサカサと葉を足で踏む感触を味わいつつも、私は目の前の少女についていく。少女と言っても、彼女の大人びた雰囲気は、中学生らしからぬものなのだが。決して、老けているという意味ではない。

 

 

 

「……今、失礼なこと考えなかったかい? 」

 

「そんなことないさ」

 

 心を読んだかのような鋭いその問いに、私は何ともないような顔をして答えた。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 仲間にならないか。手を差し伸べて、瞳を見つめながら言った超の勧誘に、昨日の私は答えを出せず、ただ言葉につまっていた。

 そもそも何の仲間なのかも分からないし、何をするつもりかも聞いていない。私としては、クラスの皆のことは全員友達だと思っているし、仲間かと聞かれればすぐに首を縦に振るだろう。しかし、超の言う「仲間」という表現が、それとはまた違っていることは分かる。

 説明もせず曖昧にしたままのその誘いは、どこか悪徳商法に似た者があるとまで思ってしまった。

 

 困惑する私に、超は、答えはすぐでなくてもいいヨ、と言って笑った。

 

 そもそも何をするつもりなんだ、と私が訊ねると、わざとらしく手を顎に添えたポーズをとりながら、そうだネ、と考える素振りを見せた。

 

「明日、実際に色々見てもらいながらの方が話が早い。麻帆良武道大会の始まる少し前に、龍宮神社の裏側にある、一番大きな杉の木の下で待ち合わせようカ」

 

 こちらの質問を受け付ける隙も見せずに、超は次の日の集合時間と場所だけを口早に私に言った。

 答えが得られず未だに困惑の表情をした私の顔みて、超はまたニヤリと怪しく笑い、待ってるよ、と一言告げた。そして、暗い空に射す公園灯の光を受けながら、私に背中を向けて去っていってしまった。

 

 

 

 その日の晩と今日の朝、超の目的やその言葉の意図を考えてみるが、やはり分からなかった。しかし、彼女の行動が気にならない訳がなかった。

 

 

 超は、自分の想定していた過去と今の状況が違うと言った。そして、その原因は私だと。

 

 

 私は、前世から生まれ変わってこの世界にいる。世界の在り方や平行世界だとかは私の分野ではないし、考えても解の見つかるものだとは思わないが、この、私という存在は、この次元にだけ在るものなのかもしれない。

 既に私というものがここにいる以上、「もし私がいなかったら」というifを考えても仕方のないことだ。だが、私のせいで何かが変わったというのなら、その件を無視して良いものとは思えなかった。

 

「仲間」になるかどうかは、まだ分からない。彼女の目的を知らない以上、早まって答えを出す気はない。だが、過去に来たという彼女の目的に少しでも私が関わっているのだとしたら、何も知らないままでいるつもりもなかった。

 

 

 

 

 

 龍宮に付いていくと、どこにいるのか、いつの間にか暗い道を抜けていた。何故神社のそばにこんな怪しげな道が、と思いつつも、近くにある建物の外に備えついてる階段を登り、ドアを開けると、大きな部屋につく。

 その部屋は薄暗く、壁一面ある大きなスクリーンから青白い光が漏れていた。よく見ると、そのスクリーンは外を映していることが分かる。水面に浮かぶ舞台のような場所を俯瞰している映像が流れている。他にもパソコンなどの機械も多く置かれていて、配線に気を付けつつ歩かないとな、と呑気に思った。

 

 

 

「七海。よく来たネ」

 

 スクリーンの前にいた少女が此方を向いた。スクリーンからの光が逆行となり、彼女の姿は灰色の斜線が掛かっているようにも見える。

 部屋を見渡すと、端の方に葉加瀬もいることに気が付いた。彼女も、「仲間」、ということなんだろうか。

 

 

「……そろそろ、説明してくれるんだろ? 」

 

「モチロン。まずは、暫くこのスクリーンを見ていておくれ」

 

 口で言うより、見た方が早い。そう言っているようなので、私は特に文句を言わず、言われるがままにスクリーンに目をやった。

 

 少し待つと、朝倉の張りきったアナウンスが聞こえた。どこかのスピーカーからかと思ったが、外から聞こえた声のようだ。この場所と、スクリーンに映った舞台とは、そう遠い距離にある訳ではないらしい。

 

 そこでやっと、ここに映っているのが「麻帆良武道大会」の様子だと気が付いた。

 

 

 

 それから見た映像は、衝撃的だった。

 

 朝倉のアナウンスのもと、知った顔から知らない顔までもが、その舞台で闘いをしている。

 小太郎君と少女が。楓と青年が。クーと龍宮 (試合のときだけこの場から姿を消していた) が、ネギ先生と高畑先生が。何人もの見知った顔が、舞台の上で相対して、自らの武器を手に闘っていた。

 

 

 私は、何かとぶつかりあう衝撃音を聞くたびに、心臓がびくりと驚き、胸打つのを感じた。

 

 武道大会をやるという話は知っていた。

 だが、闘いというものが、ここまで激しいものだとは思わなかった。何人かは魔法のような力を使っているようにも見える。公の場でそんなことをしていいのだろうか、という疑問を抱きつつも、私は少し苦しい思いで舞台を映すスクリーンを見ていた。

 

 やっていることは、柔道や、プロレス、ボクシング等と同じなんだろう。彼女達は、無理矢理闘わされてる訳ではなく、自分の意思をもって、納得してそこで闘っているんだろう。それを分かっていても、私は、少なくとも清々しい気持ちではそれを見れない。

 

 ネギ先生と高畑先生が激しく打ち合っている(何をしているかは今一分からない)最中、気付けば、自分の掌をじっと見つめていた。

 

 

 ……私だって、ネギ先生やエヴァンジェリンの話から、魔法使いが闘うということは知っている。しかし、実際に見てみると、やはり頭にあったイメージとは大きく違う。自分の拳を、魔法で作り出した矢を、他人にぶつける。そう考えただけで、私は恐怖を感じた。

 

 この掌を握り、人にぶつける。

 

 自分にはまったく出来そうにない。

 この拳が誰かの肌に触れる感触を想像してみるが、やはりいい気持ちではなかった。

 

 苦々しい顔をしている私を気にもせず、超は私に言った。

 

「この映像は、ネットで配信しているヨ」

 

「……! そんなことをしたら」

 

「そう。魔法という存在が世界にばれる」

 

 力を込めた目を超にぶつけたが、あたかも、そんなことは承知している、という風に返事が返ってきた。

 

 

 私は、いつか長谷川さんと二人でした話を思い返す。

 世界樹の写真を他の大学の教授に送った、という話だ。あの時、麻帆良外にいる人が電子データで世界樹を見た場合、その不自然さに気付けるということが実証された。

 麻帆良内で闘いを見ている限りは、どういう理屈かは分からないが、恐らく多少の無茶苦茶は周りの皆に気付かれないだろう。しかし、ネットで配信しているとなると話は別だ。沢山の人に目につけば、外部ではこの状況が作り物ではないと分かる人もいるだろう。

 

 

 

「それじゃあ、超の目的というのは……」

 

「思ってる通りネ。魔法が、魔法使いというものがこの世界に存在するということを公表する」

 

「……そんなことをして、どうなるというんだ」

 

 

 魔法を世界にばらす。そんなことをすれば世界が混乱に落ちることくらい、分かっている筈だ。

 まったく未知の存在の対処に全ての国が追われ、いずれはその多くのものがその技術に手を伸ばし、それに対抗し対立する魔法使い達もいるだろう。

 私のように、魔法という存在により命を救われるものもいるかもしれない。だが、それ以上に大変な想いをするものは多いだろう。

 

 

 超は、私の疑問を正面から受け止めた上で、真剣な声で答える。

 

 

 

「ある悲劇を救うため」

 

 

 

 そう語る彼女の目は、いつものふざけた様子とは違う。

 言葉では堂々としていながらも、憂いを含み、

 切なく、すがりつくような目であると私には見えてしまって、思わず心を揺さぶられた。

 

 

「それは、ありふれた歴史の一ページに過ぎないかもしれない。だが、私にとっては、そんな言葉では済まない話だった。

 

 だから、未来からここにきて、全てを変えるつもりダヨ。―――大丈夫。その後の対処も、混乱する世界の抑えも、魔法使い達への対応も、全てするつもりだ」

 

 

 

 

 そこまで大袈裟な事件を起こしてまで変えたい未来とは、一体なんなのだろうか。

 きっと、彼女一人の問題ではないのだろう。

 その悲劇は、確かに多くの人の悲しみを作り、心に傷を付けた。

 それを変えたいと言う彼女が間違っていると、誰が言えるのだろうか。

 

 葉加瀬と、龍宮に目をやる。

 二人とも堂々とした態度で、超の話を聞いていた。彼女達も超の覚悟を受け止めているのだ。

 

 彼女は、昨日の夜と同じように、再び私に向かって手を伸ばした。

 

 

 

「その協力を、ワタシは貴方にしてほしい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「明智さん。返事は保留でしたね」

 

 ハカセがそっと私の横に付いて、呟くように言った。

 私は、肩を竦めながら答える。

 

「ソダネ。まぁ、話をしたのは昨日だ。あんまりのんびりされても困るが、今日中に決めてくれたらいい」

 

 七海の答えは、「考えさせてくれ」、というものだった。

 一蹴される予想もしていたのだが、武道会の様子を見せたのは正解だったかもしれない。悲劇とは、常に誰かと誰かの対立で起こり、その対立の中には闘いが生じる。彼女ならば、そのくらいのことは分かっているだろう。実際に闘いを目にした彼女は、あまり気持ちの良い顔はしてなかった。

 

 飄々と言った私の言葉を聞いて、ハカセは僅かに口を曲げ、納得してなさそうな顔をした。

 

「……私、分からないです。超さんは、どうして明智さんを味方にしようとしているんですか? 」

 

「彼女は使えるヨ。知っての通り頭がいいし、エヴァンジェリンとのパイプが強い」

 

 エヴァンジェリンという戦力は大きい。彼女一人がいれば、世界中の魔法使いが抵抗をしてきても対応出来るほどだ。そして、その本人を勧誘するよりも、七海を勧誘した方が可能性がある。

 

 さらに、茶々丸の対価として学園祭中エヴァンジェリンは手を出さないようにと契約を結んだが、七海がもし私達と敵対化した場合、万が一もあり得る。彼女ほどのものが、お互いの同意でした契約を反故するような性格には見えないが、念には念を打って置いた方がいい。

 

 私がそうハカセに説明した所で、龍宮が、ふっ、と笑い声を溢した。

 

「本当にそれだけかい? 」

 

「……どういう意味カナ」

 

「いや。君がやけに彼女を気に掛けるから、もっと特別な理由があるのかと思ってね」

 

「……それこそ、気にしすぎネ」

 

 それ以上は何もないよ、そう想いを込めながら言葉を返すと、龍宮は、そうか。すまなかったね、と引き下がるように答えた。

 

 

 

 大きな音が響く。

 どうやら、ネギ先生と高畑先生の試合が終わったようだ。想定通り、ネギ先生が勝ってくれた。私の知っている過去よりも実戦経験はなかった彼だが、高畑先生の甘さは変わらずだし、何とかなったようだ。

 

 スクリーンに映っている二人を見ながら、私は自分が知っていた過去との違いを思い返していた。

 

 

 七海は、私にとって完全にイレギュラーな存在であった。

 未来の情報には彼女に関することは一切なく、それこそ、本来この時代に居なかった人物と捉えてもおかしくはなかった。

 

 だが、それは私自身も一緒だ。

 私と七海は、本来、A組の生徒や、あの先生とは関わる筈がなかった存在。

 私は、一人ではなかった。私だけでなくて、七海もいた。

 彼女が、どういった道を辿って、ここにいるのかは分からない。

 だが、私は、一人ではなかったのだ。

 

 だからこそ、手の内に入れておきたいと思うのかもしれない。私と同じ、外れ者であった筈の者を、側に。私一人が、この世界で孤独を感じないように。

 

 

 

 ……なんてね。

 

 

 私は自分の考えていたことに笑った。

 

 そんな寂しがりみたいなこと言うキャラじゃないダロ、と自分に言い返しておいた。

 



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66話

 

 

「それで、今度は何を悩んでんだよ明智は」

 

 机に肩肘をつけた長谷川さんが、眼鏡の奥にある瞳を私に向けた。不意を突かれて戸惑う私に向かって、長谷川さんは、何年お前といると思ってんだ、と続けて頬を緩めた。それぐらい分かるぞ、と。

 

「あら。一緒にいる時間なら私の方が長いですわよ。なにせ、私と七海は幼稚園の頃から一緒にいましたからね! 」

 

 どこか勝ち誇った様子で、あやかは、ですよね! と私に同意を求めるように聞いてきた。私の部屋の天井にある蛍光灯に照らされて、金髪の髪から光が反射している。上品なトリートメントの香りを撒きながら顔を近付けてきたあやかに対して、私は曖昧に返事を返す。

 

 

 ○

 

 

 午前中、様々な出来事が続いたせいで、私は少し混乱していた。難しい問題だから、と後回しに出来るような状況でもなく、見たものや聞かされたことを一度落ち着かせたくて、どこかでゆっくり思考を纏めようと思った。なので、学園祭の最中だというのに寮に行き自分の部屋に籠ることを決めたのだ。

 

 だが、部屋に戻って少しすると、落ち着く間もなく、玄関の外で覚えのある話し声がひっそりと聞こえてきたのだ。

 

 

 

(さあ、千雨さん。呼鈴を押して下さい)

 

(あのなぁ、あいつは一人になりたいから部屋に行ったんじゃねーのかよ)

 

(そういう時こそ友達が協力するべきではありませんか! 大体、そうは言いつつもあなたもここまで来たじゃありませんの! )

 

(それは、あ、あれだよ)

 

(どれですの! ……っは!? まさか、一人で七海を慰めて自分だけ好感度をあげようって魂胆ですの!? )

 

(ちげーよ! どこのギャルゲーだ! )

 

(ギャル……ゲー? なんですかそれは? )

 

(ああもう! めんどくせーやつだな! )

 

(ちょっと! めんどくさいとはなんですか! )

 

 

 

 ……何をしてるんだ、あの二人は。

 

 漏れまくる声を聞いて、私は溜め息をつきそうになる。

 しかし、それでも、聞き慣れた声に胸の奥が穏やかになるのを感じた。気付けば身体の力が抜けていて、言い難い不安という実体なくもやもやとしたものが、子供くさい言い争いによって、軽くなった気がした。

 

 ……これでは、ゆっくり考えることも出来そうにないな。

 

 騒ぎ声が更に大きくなったところで、一人苦笑しながらそう思い、私は玄関の扉を開けるために立ち上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 ちょうど「まほら武道会」が終わった頃、二人は私と一緒に学祭でもまわろうと、私のことを探してくれたらしい。

 携帯電話に連絡しても、私がそれを見ていなかったため位置を掴めず、誰か知ってる人はと道行く人に聞いたところ、寮に戻っていく私の姿を見たという者がいたようだ。そして、二人は揃って私の部屋を訪れて、今に至るという訳だ。

 

 

 

「悩んでのはあれだろ。大方あのふざけた大会のことだろ? 」

 

 当たらずとも遠からず、と言った所だ。長谷川さんは続いてぼやくように言った。

 

「ま、気持ちは分かるぜ。私もあんなの見せられたら流石に頭を抱えずにはいられん。CGとかいうレベルではねーだろ」

 

「確かに、不思議なことが沢山ありましたね。

 しかし! あの時のネギ先生の御活躍をご覧になられましたか!? 大変素晴らしかったですよ! 」

 

 目を爛々とさせ興奮する様子で身を乗り出すあやかを前に、長谷川さんが一歩引いた様子を見せた。

 

 

 そうか、二人もあの武道大会を見ていたのか。

 あれほどおおっぴらに魔法を使っていれば、当然長谷川さんは訝しげに思うだろう。いや、あそこまで行けば見た人皆が気付きそうだとは思ったが、あやかを見る限りそういう訳でもないらしい。麻帆良に住む人は色々見慣れているということや、彼女自身がネギ先生ばかりに夢中だった、というのも気付かない要因なのかもしれない。

 

 

 なかなか口を開かない私を見て、長谷川さんは、あれ、と首を横にする。

 

「……あの大会のことじゃねーのか? 」

 

 私を覗き込みながら、長谷川さんはそう訊ねてくれた。

 

 

 私は、どう話したものか、と考えて、顔を歪めた。

 

 

 私の悩みとは、言うまでもなく、超のことだ。

 

 

 超は、「世界に魔法という存在をばらす」ことを目的として行動しているといった。その理由は、「起こるはずの悲劇を回避するため」だと。

 

 正直、魔法をばらすことについては、賛成し難かった。

 新たな技術の繁栄が、それだけで世界を豊かにするということは分かる。だが、決して良いことばかりではないだろう。産業革命後の進化した戦争しかり、新たな技術には新たな資源などが必要となり、それがまた争いの要因となり得る可能性がないとはいえない。戦争とまでいかなくても、魔法という存在は、世界のルールを混乱させるのには十分すぎる力だと思う。

 私からみたら、今の世界は、少なくともこの日本は、戦国時代や世界大戦をしていた時に比べれば安定した時代であり、そのバランスを崩すような真似はしない方が良いのではと思うのだ。

 

 しかし、だ。

 未来からきた超は、このまま何もなく時が進んだ結果、この世界がどういう道を辿るのかを知っている。行く先が、なんらかの悲劇を負うことを、知っている。

 彼女の言う悲劇が、どれほど範囲のもので、どの程度のものかは知らない。だが、魔法をばらし世界を変えるほどのことをしなければ回避出来ないものであるならば、相当重大な事が起こるのだろう。

 

 

 私は顔を上げ、目の前で私を心配そうに見てくれる二人の顔を見た。

 

 

 ……その悲劇というものは、私のクラスメイトを、この二人をも不幸にしてしまうようなものなのだろうか。

 

 胸の奥に、鈍い痛みを感じた。重苦しい重量感が、肺を潰しているように思えた。

 

 

 脳裏には、この世界で今まで御世話になった人達の顔が流れるように次々と浮かぶ。

 食卓で両親から注意を受けながらも楽しそうにしている妹。皆に優しくものを教えてくれた先生達。

 

 そして、窓から日が射した教室で、うるさいほどの日常を笑顔で過ごしているクラスメイト。

 

 麻帆良にいる皆の未来は、幸せであってほしい。人並みに山あり谷ありの人生を歩んで、出来れば、沢山笑っていて欲しい。心からそう思う。

 

 ならば。

 私はやはり、超に協力すべきなのではないか。

 何が出来るかは分からないが、皆を守るためにも、私はこの手を尽くすべきなのではないか。

 

 そう考えた時に、思い浮かべた教室の端に、陰りが見えた。

 ゆらゆらとした黒い煙が舞うように、その一部だけ暗く、重々しい雰囲気を放っていて。

 

 その映像が、私が決断することを戸惑わせていた。

 

 

 

 

「七海」

 

 手に、暖かいものが触れた気がした。あやかが、私の手を、ぎゅっと包みこんでいた。

 

「……そんな顔、しないで欲しいですわ。私達は、七海を困らすためにここに来たわけではないんですもの」

 

 あやかのぎこちない笑顔が私に向く。

 

 

 私は今、どんな顔をしていたのだろうか。

 少なくとも、彼女をこんな風に不安にさせるような顔をしていたのだと思うと、そのことがまた、心を痛めた。

 

 

「『―――私は、貴女の元気がないと辛い。落ち込んでいる貴女を見るのが苦しい』。

 昔、七海が私に言ってくれた言葉ですわ。 覚えてますか? 」

 

「……ああ」

 

 私達がまだ幼い頃。弟を亡くしたあやかに、私はそう言ったのを覚えている。

 

 

「今、私はその気持ちがよく分かりますわ。七海がそんな顔をしていると、私も悲しい」

 

 彼女は、私の手を両手で優しく持ち上げて、胸の前におく。

 目を細めた寂しげなあやかの顔が、側にあった。

 

「―――今度は、私が貴女の手を持ちますわ。

 どんな悩みかは分かりませんが、私はこうして、手を持っています」

 

 

 

 

 あやかに続いて、長谷川さんが、私にぐっと顔を近付けた。

 

 

「……いいんちょも言ってたが、何悩んでのかってのを問い詰めるつもりはねーよ。

 何でもかんでも言ったら楽になるなんか思ってねーし、明智が私らには言わない方がいいと思ってんなら、きっとそれがいいんだろうよ」

 

 ただ、これだけは言っとくぞ、そう続けて彼女は、もう片方の手の、ピンと伸ばした人差し指を私に向けた。

 

「……お前の側には、私らがいる。私も、こいつも、あの馬鹿なクラスメイト達もだ。何があろうと、それは変わんねーよ」

 

 

 

 ……ああくそ。臭い言葉を言っちまった。そう続けて、長谷川さんは恥ずかしそうにした。

 

 それを聞いたあやかが、素晴らしい言葉ですわ、と言って、彼女はさらに頬を赤めて、うるせぇ、と言った。

 

 

 

 それから二人は、また言い争いを始める。

 

 うるさいとはなんですの、せっかく誉めたのですに。

 誉めたらいいってもんじゃねーんだよ! ほっとけ!

 またそんな汚い言葉を使って! 大体あなたは……!

 

 

 

 私を放置して、二人は楽しそうにしている。

 

 

 

 私は、さっきまであやかに握られていた掌を、じっと見つめた。そこにはまだ、暖かい熱を持っている気がした。

 

 二人が私に言ってくれた言葉が、頭の中に流れる。

 

 

 そして、またあの教室の映像が浮かぶ。クラスメイトは光を背にして、次々と此方に振り向いていき、笑顔を向ける。

 そして、教室の端で、一人。

 暗い闇の中で、それでも笑顔でいた、彼女は―――。

 

 

 ―――そうか。私は、だから悩んでいたのだ。

 

 

 自分の気持ちがはっきりすると、身体の奥から力が湧いてくるような感覚がした。肺から吐き出す空気も、つっかえなくすっと自然に流れていった。

 

 前を見ると、二人は未だに言い合っている。

 また苦笑しつつも、私は二人の名を呼ぶ。

 

 

 こうして、彼女達にお礼を言うのは何回目だろうか。

 まだ中学生、と思っていても、二人は私の思っているよりずっと大人で、輝かしい。胸を張って自慢出来る、大切な人だ。

 

 同時に此方に顔を向けた彼女達に、私は言った。

 

 

 

 

「二人とも、ありがとう。おかげで、気持ちが決まったよ」

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「そーいやよ」

 

 せっかくの麻帆良祭だからと、私達は三人で寮の外にでた。街は相変わらず賑わっていて、左右にある出店から宣伝の声が響く。この辺りは飲食できる場所が多いらしく、左右からソースの香りが漂っていた。

 

「神楽坂のやつはどこいったんだ? 」

 

「ほんとですね。そういえば、あのお猿さんは見てないですわ」

 

 歩きながら、あやかはきょろきょろと周りを見渡すようにして明日菜を探す動作をした。

 

「ああ、明日菜なら、今日はデートだ」

 

「デ、デート!? 高畑先生とか!? 」

 

 長谷川さんが驚きの声を上げる一方で、あやかは、ごくりと喉を鳴らす。

 

「……つまりは、ついに、ということですね」

 

「……そうかもな」

 

 どんな時であろうと、人はそれぞれの道を進む。

 超が何かを世界を巻き込んだ事件を企んでいるときも、私がくよくよと悩んでいる時も、誰かがどこかで闘っているような時も。

 人は、自分の今を見つめて、進んでいる。

 

 明日菜は、今頃心臓をばくばくと鳴らして、顔を真っ赤にしながら、高畑先生と一緒にいる筈だ。

 

 想像したその青春が眩しくて、精一杯頑張る明日菜にエールを送った。

 



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67話

 

 煙草の匂いがした。それだけで、待ちわびていたあの人が来たと分かった。

 視線を上げれば、片手で頭を掻きながら、遅くなったかな、と微笑みながら問い掛ける彼がいた。煙草は持っていなく、その匂いは残り香だと分かる。僅かに目尻が下がり、頬が軽く緩んだ笑顔は、大人らしい笑みだった。

 

 心が鳴る。

 体育なんかで全力疾走した後に起こる動悸とはまた違っていて、 頭にまで一直線に血が登っていく感覚がした。

 

「お、遅くなんかありません! むしろ丁度良すぎるというか! 少し早めに来ちゃった私が悪いというか! 」

 

「そ、そうかい。なら良かったんだけど」

 

 頬を指で掻きながら、高畑先生はそう言った。

 その動作はちょっと引いてしまったように見えて、いきなりやってしまったかも、と頭が真っ白になりそうだった。

 

 高畑先生はそんな私を見て、ふふっと笑い声を溢した。

 

「え! な、なんか! すみません! 」

 

「いや、真っ赤になったり真っ青になったり、明日菜君は忙しそうだなって」

 

「うう……」

 

 悪く言ってるかどうかは分からないけど、少なくとも誉められてはないような気がして、また少しへこむ。

 高畑先生はまた大人らしく見守るような笑みを浮かべて、それじゃ、いこうか、と私に声をかけた。

 

 上擦った声で返事をして、私は彼の横につく。

 

 

 

 今日、私は好きな人と、デートをする。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「明日菜君、最近頑張ってるね」

 

「そ、そうですか? 」

 

 麻帆良の街道には沢山の人が流れるように動いていた。たまに道路の真ん中を着ぐるみや大きな機械が歩いたりして、子供が喜ぶ声が聞こえる。精巧な恐竜の着ぐるみがその子供に手を振って、きゃっきゃと騒ぐ子供を、母親らしき女性が抑えていた。こら、落ち着きなさい、と言う言葉とは裏腹に、その表情は穏やかだった。

 

「うん。テストとか見たら、少しずつ良くなってるし、提出物もしっかりやってるみたいだから」

 

 高畑先生はそんな親子に目を向けながら、私に言った。

 続けて、僕が教えてる時よりずっとよくなってるよ、と自虐的に言って笑った。

 

「いえ、その。七海が、勉強を教えてくれて……。 それに、まだ全然良くなんかないですし…… 」

 

 高畑先生が担任だった頃は、二人きりになりたくてわざと勉強せず補習を受けてたんですよ、とは言えない。

 

 勉強は前よりはするようになったけど、特段いい点数がとれてる訳じゃなかった。それでも、高畑先生が頑張ってると認めてくれたことが、嬉しかった。

 

 

「……そうかい。七海くんが。……本当に、いい友達を持ったね」

 

 そう呟いた高畑先生は、何故かどこか遠い目をしているように思えた。まるで、昔を思い返して語る人みたいに。

 

「……私も、そう思います」

 

 その視線の意味はあまり深く考えずに、私も頷く。

 

「ネギ君も頑張ってるみたいだし、昔から二人を知ってる身としては嬉しいよ」

 

 まさか、負けるとは思わなかったけどね、と続けた。

 当然、あのまほら武道大会のことを言ってるんだと思う。

 

 

 

 ネギと高畑先生は、あの大会の一回戦で闘った。

 

 試合が始まる直前まで、ネギは、ネカネさんの姿が見えないことを心配してオロオロとしていた。

 昨日別れた後ネカネさんとは会ってないので、あまり身体の強くない姉のことを相当気にかけていたのだろう。

 

 しかし、私がケータイのメールを見せたら、ネギはとりあえずほっと息をついて安心した様子を示した。

 

 メールはネカネさんからで、

『町で会った優しい人と意気投合して一緒にいるから、試合は見に行けないわ。明日菜ちゃん、ネギに無理しないように伝えといてくれないかしら』

 と書かれていた。

 昨日の時点でメールアドレスを交換しておいて良かったと思った。

 町で会った優しい人とは誰のこととは分からないけど、とりあえずネギはそのメールで元気を取り戻して舞台に向かうことが出来たみたいだった。

 

 

 それから、真剣に闘っている二人の横顔を思い出す。

 高畑先生は、なんだか嬉しそうにネギと闘っていた気がする。

 ネギ君はどんなに成長したかな、ネギ君はこのあとどうするかな。

 まるで子供の成長を見守る父親のようにネギの一挙一動に注目していて、ネギもそれに答えようと頑張ってるのが分かった。

 

 一生懸命にがむしゃらなネギを見て、普段あんな感じでも、ネギも男の子なんだ、と少し心を打たれた。だから、ちょびっとだけだけど、ネギも応援してしまった自分にも、今は納得出来ていた。

 

 

 

 

「周りの皆が成長していくのを見ると、僕も老けたなぁって思うよ。正直自分ではまだまだ若いつもりだったんだけどね」

 

「そ、そんなことないですよ! 高畑先生は、その、若くないダンディで大人っぽいのがよくて……! 」

 

「老けたのを否定はしてくれないんだね」

 

 そう言って高畑先生は笑ったが、私はまた言葉を間違えた、と口を噤んだ。

 

 

 汗がだらだらと出る。

 だめだ。全然いつも通りになんか出来ない。出来る筈がない。

 

『デートでは、自然体でおることも大事なんやよ! 』と木乃香は私にアドバイスをくれた。

 女性向けの雑誌のページを片手でめくりながら、『年上相手にはたまに甘えたりとかもええらしいよ』とも言った。

 今のところ、どっちも全く出来ていない。

 これだけ心臓がうるさい状態で、普段と同じように振る舞えるわけがない。そもそも、私の自然体ってなに。

 

 

 横で歩く高畑先生をちらりと見る。

 穏やかな顔で、近くを歩く子供や生徒たちを目で追ったりしている。

 高畑先生は、私と違っていつも通りだ。

 

 少し沈黙が続いたせいか、自分の足音がやけに良く聞こえるようになってきた。

 何を話したらいいの、と悩む間は、この沈黙は気まずい。高畑先生はあまり気にしていない様だけど、私は気になって仕方なくて、もしかして、つまらない思いをさせてるかも、という考えが頭の中をぐるぐる廻った。

 

 一度そう考え出してしまったら、もうパニックだった。

 話す内容は直前に沢山考えていた筈なのに、すっかり頭から抜け落ちてしまっていて、こんなときも自分の記憶力のなさを恨んだ。

 いつも通りに歩く高畑先生の横で、うつむきながら、どうしようどうしようと小声で呟く。

 

「あ、明日菜くん? 大丈夫かい? 」

 

 そんな私を心配してくれた高畑先生が声を掛けてくれるけれど、その声にすら緊張して上擦った返事をしてしまう。

 

  このままだと、この後ももちそうにない……!

 

 まだまだデートは始まったばかりなのに、そんなネガティブな考えをしてしまった。

『デート失敗』、という灰色でぼろぼろの文字が頭に浮かんだ。汗がまた吹き出る。

 

 ……嫌だ! このままじゃ終われない! どうにかしないと!

 

 と、一人で慌てて挽回の策を練ろうと奮闘しようとした所で、

 

 

 

 

「あれ! あすねぇ! 」

 

 

 

 突然、前から聞き覚えのある声がした。

 顔を上げて見ると、そこには七海の妹のういちゃんがいた。

 やっほーと能天気に手を振りながら、相変わらずの楽しそうな笑顔を浮かべる彼女。

 

 その隣には、いつか見た無表情の白髪の少年もいた。

 

 

 

 ○

 

 

「彼女は……? 」

 

「あ、っと、七海の妹の、ういちゃんです。ういちゃん、此方は、えーと、私と七海の前の担任の先生」

 

「……へぇ、七海くんの妹かぁ」

 

「初めまして! ういです! 」

 

 ういちゃんは、元気な声と共に勢いよく頭を下げた。ふぁさりと、七海と同じ色の黒髪が舞う。

 

 ういちゃんとは、小学生の頃よく七海の家で一緒に遊んだ。

 いいんちょと私を、あやねぇあすねぇと名付けて、屈託ない笑顔を向けてくれる彼女は、妹がいたらこんな感じなのかな、と私に思わせてくれた。

 

 

 高畑先生は、七海くんとは随分と違う性格だね、と笑って言った後、ういちゃんの横にいる白髪の少年に目をやった。

 白髪の少年も、無表情のまま高畑先生を見る。

 

 少し、空気が変わった。

 どこかぴりぴりとしている気がして、私は不安に思う。二人は知り合いなのだろうか。牽制しあっているようにも見えるけれど、仲が悪いのかもしれない。

 見つめ合う二人の間に、ういちゃんがずいっと割り込んだ。

 

「こっちはねっ! フェイフェイ! 」

 

「え? 」

 

「だからぁ、この男の子は、フェイフェイ! 」

 

 ぐいっと、少年の肩を持って、ういちゃんはそう紹介した。

 高畑先生は、目を丸くして、ういちゃんを見た後、もう一度その少年を見る。

 

 それから、くくくっと小さく耐えるように笑った。

 

「……何か」

 

「そうか。フェイフェイか。いや、うん。何でもないよ」

 

 じっと強く睨む少年に対して、高畑先生はやはり笑っていた。さっきまでのぴりぴりした空気が少し緩んだ気がした。

 

 

「ねぇねぇ、あすねぇ」

 

「何よ、ういちゃん」

 

 いつの間にか私の横についたういちゃんが、肘でちょんちょんとつつきながら小声で聞いてきた。

 

「お二人さん、もしかしてデートしてるの? 」

 

「へっ!? や、あの!」

 

「もー! そんなのあすねぇの服を見ればすぐ分かるよ! いつもよりずっと可愛い格好してるもん! 」

 

 そう言って、ういちゃんはじろじろと私を見る。それから高畑先生のことも見ている。

 

「大丈夫大丈夫ー。私これでも空気は読める方なんだから! そかそか、あすねぇはこの人が好きなんだね! 」

 

「ちょっと! ういちゃん! 」

 

 何が大丈夫か全然分からないし、ういちゃんが空気を読めるとはこれっぽちも思えない。

 事実、私が想いを告げる前にそれをばらしてしまいそうで、そんなういちゃんの口を私は慌てて抑えていた。

 

「あんたたちこそどーなのよ。二人で仲良く歩いて、それもデートなんじゃないの? 」

 

 もがもが言うういちゃんの口を手で塞ぎながら耳元でそう訊ねると、ういちゃんはきょとんとした顔をして、それから、成る程、と一人で頷きだした。

 

「フェイフェイー。私たちってもしかして今デートしてる? 」

 

 私が塞いだ手を退けてから、ういちゃんは少年に向かってそう訊いた。

 

「……道で偶然会った人物を無理やり連れ回すことがデートだと言うのなら、そうなんだろうね」

 

「あれー。デートかと思ったんだけどなぁ」

 

 少年は目を細めて睨んでいたが、ういちゃんはものともしない様子だった。

 

 

「ね、あすねぇ! 今ちょっと困ってるんでしょ? 」

 

 思い付いた、といった様子でニヤニヤと私を見るういちゃんは、今にも何か良からぬことを提案してきそうで、嫌な予感がした。

 

「別に、困ってなんか……」

 

「いやいやいや。私にはわかりますよー。きっと緊張して喋れてないんでしょ! 」

 

 あまりにも本当のことで、しかもそれをあのういちゃんに指摘されたという事実も合わさって、うっ、と胸を突かれた思いになる。

 

「ふむふむ。そういう時は、一旦休憩を挟めばいんだよ。ほら、焼き肉の食べ放題をしてるときに、途中で一度デザートを挟むでしょ? 」

 

「意味わかんないんだけど……」

 

「だからぁ、とりあえず一回心を落ち着かせるためにフェイフェイと喋ってみればいいんだよ! 」

 

「……はぁ? 」

 

「その間に私があのおじさんにあすねぇの良いところをこっそり教えておくよ! 大丈夫大丈夫! 任せて! デートの邪魔する気はないからちょこっとの間だけ!

 これでも私、昔は恋のキューピッドってやつに憧れてたし! 気付けばもうあすねぇの評価は爆上げよ! 」

 

 どん! とその全く頼りない胸を自分で叩いて、私が何かいう前にはういちゃんは高畑先生の横について、笑顔で話だしていた。

 

 そのままゆっくり歩を進め出すものだから、自然とその後ろには私と少年が残った。

 

 

 なんて勝手なんだろう、と当然思う。

 

 しかし、実際に行き詰まっていたの事実で、それにういちゃんはそれを許してしまいたくなるような不思議な性格をしていて、まぁそれもありかな、と私はその提案を受け入れる気持ちになってしまっていた。

 

 ずっと四人でいるつもりではないみたいだし、別にいいか。それに、こんな風にバタバタしてるのは、いつも通りっぽいし。

 

 そういえば、いつの間にか自分もかなり落ち着いていたようだ。

 なんだかんだで、ういちゃんとここで話せたのは良かったことなのかもしれない。そのことにちょっぴり感謝もした。

 

 そして、しょうがないなぁ、と呟いて、私は横にいる少年を見る。

 

「ほら、前の二人についてくよ」

 

「……なんで僕がこんなことを」

 

「いいじゃない。どーせあんたも暇なんでしょ? ここで逃げ出したら、あとでういちゃんになに言われるか分かんないわよ? 」

 

「……」

 

 少年は今のうちに私達から離れようと考えたらしいけれど、のちにういちゃんからマシンガントークの如く、なんであの時どっか行っちゃったの! と言われることを想像したのか、明らかに不満そうな顔をした。

 

 肺にある空気に色々な陰鬱な気持ちを乗せた重いため息をついた後、少年は抵抗を諦めたかのように足を踏み出して、前の二人の後を歩き出す。

 

 

 思ったよりもずっと分かりやすい挙動をした少年に少し吹き出しそうになりながらも、私は彼と歩幅を合わせた。

 



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68話

本日8話目です。今日はいつもより多いです。


  前を見れば、高畑先生の横で楽しそうに話すういちゃんの横顔が目に入った。畳み掛けるように話しているからか、高畑先生は少したじたじとしながら受け答えをしているように見える。二人で歩くその姿はとてもカップルにはみえなく、叔父と歩く娘のように思えて、なんだか可笑しかった。相手がういちゃんだからか、嫉妬という感情は沸かなかったけれども、私と高畑先生も周りにはそんな風に見えていたのだろうかと思うと、ちょっぴりへこむ。

 

 四人分の足音が、バラバラのリズムで地面を叩いた。しかし、不思議とそれぞれの距離は変わらなかった。前には、高畑先生とういちゃん。その少し後ろに、私と白髪の少年。

 

 あの小さな口からどれだけ言葉が溢れるんだと呆れてしまうほど、ういちゃんは喋っている。

 初めは、あれだけ次々に言葉が出てくれば気まずい想いをせずに済むのかな、と素直に参考にしようとしたが、高畑先生の困った顔を見れば、ぐいぐい行きすぎるのも問題だとも分かった。

 

 やはり、いつも通り。私らしく私のペースが一番ということなんだと思う。きっとういちゃんは私にそれを教えてくれているんだ。……多分だけど。

 

 しかし、ういちゃんは高畑先生とどんな話をしているのか。気にならない訳がなかった。嫉妬的な意味ではなくて、あのお喋りな少女なら、意図せずに余計なことまで語ってしまいそうで、ハラハラとする。

 

 二人のことが気になって、声は聞こえないけれどじっと視線を向けていると、振り返ったういちゃんと目が合った。

 彼女もこっちの様子は気になるらしく、その後もちらちらと目線を向けてきている。

 

 

 おそらく、彼女は彼女で、この少年のことを気にしているのだろう。

 そんな視線を受けた横にいる少年は、相変わらず無表情のままだ。

 

 私はこの子と直接話したことはないが、ネギから少しだけ話は聞いたことがある。この子も魔法使いらしく、最近何故かこの麻帆良に来たのだとか。

 

「ねぇ」

 

「……なんだい」

 

 愛想のない声で、彼は返事をした。明らかに面倒くさいと思ってるその表情は、私をむっとさせる。

 まったく、高畑先生の柔らかい物腰とは大違いである。しかし、こんな年下にそんなことでガミガミと言っても仕方ないと、私は自分の心を落ち着かせて続けて声を掛けた。

 

「フェイフェイはさ、」

 

「……フェイフェイと呼ぶのはやめてくれないかい」

 

 不快感を示し低めの声を出しながら、少年は私を睨んだ。

 

「え? 何怒ってんの? あんたの名前じゃん」

 

「それは、あの子が勝手につけた渾名だ」

 

 溜め息を吐きながら少年はそう言った。聞けば、本当の名前は、フェイトと言うらしい。

 フェイフェイと言う渾名はあまり気に入ったものではないようだ。私は可愛いと思ったけれど、確かに少年の無愛想な態度とはどう考えても合っていない渾名だ。

 

「でも、なんでういちゃんにはそう呼ばせてるの」

 

「僕が呼ばせたくて呼ばせてる訳ないだろう。彼女には話が通じない。何度言ってもフェイフェイと呼ぶ」

 

 再び息を吐いた彼の陰りある顔から、少年とういちゃんのやり取りが見えた気がした。

 強情でマイペースな彼女は、少年がいくら注意しても呼び方を変えようとしなかったのだろう。

 

 

 ……でも、なんでだろうか。

 ういちゃんに、『フェイフェイ』と呼ばれている時の彼は、嫌そうにしてるようには見えなかった。

 

 

「……あんたさ、もしかして、ういちゃんのこと好きなの? 」

 

「……なんだって? 」

 

 思いきって訊いて見ると、少年は足を止めて、眉根を寄せてやっとその無表情を崩した。私達と高畑先生達との距離が、ちょっぴり空いた。

 

「だって、前の時もそうだけど、よく一緒にいるじゃん」

 

「それは、毎回彼女が僕を無理やり」

 

「あんただって、本気で避けてるようには見えないわよ」

 

 少年が、ネギが言うように本当に強い魔法使いならば、ういちゃんから逃げることなんて簡単だろう。でも、少年はそうはせず、なんだかんだと言いながらも、彼女と共に歩いている。その裏にある想いは好意なのではないかと推測してしまうのは、可笑しいことではない気がする。

 

 

「…………彼女に好意を持ってるつもりはないよ」

 

 少年はたっぷりと時間をかけて沈黙を作った後、淡々とそう告げた。

 それから、前にいる少女に目を向けてから、言葉を紡ぐ。

 

「ただ、気になっていることは、ある」

 

 ゆっくりと瞬きをして、薄く口を開いて続ける。

 

 

「……彼女は、どうしていつも笑っているんだろうね」

 

 

 呟かれたその問い掛けは、答えを求めるような聞き方ではなかった。単純に、自分には分からないということを、提言しているように思えた。

 

 

「僕を見つけると、彼女はいつも無理やり側にくる。特に何もしていないし、何が楽しいのか分からないが、彼女はいつも笑ってる。

 どうかしたのかい、と訊いたこともある。けれども、彼女は笑うだけだ。

 正直、意味が分からないよ」

 

 少年の視線の先にはやはりういちゃんがいて、私より低めの位置で結んだ髪が彼女の動きに合わせて跳ねているのが分かる。まるで犬のしっぽみたいに、笑顔な彼女に合わせてその髪も喜んでいるみたいだった。

 

 少年は、相変わらず無表情ではあるけれど、何も考えてない訳ではないようだ。その顔の裏にどんな想いをしているのか私に分かる訳はないけれど、彼なりに何か想うことがあるのだろう。

 

 

 私は、いつも笑顔なういちゃんを思い返して、くすりと笑った。

 

「そんなの、ういちゃんがあんたといて楽しいから笑ってるんでしょ」

 

 私の言葉を訊いて、少年はやっと私にも目を向けてくれた。

 

「あんたさ、きっと複雑に考えすぎなのよ。もっとシンプルでいいじゃない。笑顔になる理由なんて簡単。

 嬉しければ喜ぶしムカつけば怒るし楽しけりゃ笑うし辛かったら泣く。それだけよ」

 

 少年は、何度か瞬きをした。大人ぶっているけれど、この時だけは、この少年が子供に見えた。分からないことを不思議に思っている彼とネギの姿が妙に被って、私は一人で勝手に親しみを覚える。

 笑った私の顔を見て、少年は目を閉じて口を閉じた。私の言った言葉の意味をもう一度頭に反芻しているみたいだった。

 

 

 いつの間にか距離が離れていた私達が気になったのか、ういちゃんと高畑先生は振り返ってじっとこちらを見ていた。私達と完全に目が合う。

 それが可笑しかったのか、ういちゃんは嬉しそうに笑った後、大袈裟に手を左右にさせていた。

 

 

 その笑顔を、少年はじっと見つめていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

「……何をしてるんだお前は」

 

「何って、実験よ」

 

 女は、妙に慣れた手つきでカチャカチャと器具を振るわせた。七海の書いた手順書を見ながら、液体の入ったフラスコや試験管を片手に、なるほど、等と呟いている。

 

 地下にある薄暗い部屋と整った顔の女は合わない組み合わせに思えたが、その女の立ち振舞いのせいか、その風景はしっくりときた。

 

 勝手に器材を手にする女を、私は不審に思いながら見ていた。

 

 

 

 昨日助けた女は、一度目を覚まして私と話した後、体に疲れが残っていたからか、また深く眠った。

 七海に起こり得る症状の参考にする、という目的は果たせそうにはなかったのだが、女を無理矢理追い出すことは面倒で、一晩泊めてやった。

 今朝、目を覚ました時、女は再び私にお礼を言い、自然にお互いのことを話し合う流れとなった。と言っても、私の方は大した説明をした訳ではなく、麻帆良に住んでるもので、友と同じ症状であるお前を見付けたため、何となく助けたとざっくりと告げただけだったが。

 

「私は、ネカネ・スプリングフィールド。従弟がここで教師をしてるみたいで、その様子を見にきたんだけど……」

 

「スプリングフィールドだと? 」

 

 女の名前は、聞き覚えがありすぎた。私には、あまりにも馴染みのある名前だ。

 従弟とは言うまでもなくあの坊やのことで、とすると、ナギの親戚でもあるということだ。

 

「ねぇ、申し訳ないのだけれど、あの薬のこと、教えてくれないかしら」

 

 坊やと関わりのあるものと訊いたら、その後も話はしやすかった。あの一族が、魔法に関わっていない筈がない。たまたま七海と同じ症状であった魔法も知らない一般人、となると説明が面倒であったが、その心配はいらぬようで安心した。

 

 女にはどこまで話すべきなのか、と悩んだが、結局大まかなことはほとんど話した。

 女に同じ症状が起きているとしたら、今後も薬を飲むことが必要となるだろう。この薬は世界樹を材料に使っているので他の場所で作れる訳でもなく、女はこれを頼りにしないといけない。一度関わらせてしまってから、これ以上はあげられないとは、助けた身としてはあまりにも責任がなくて、言えなかった。無論口止めはするし、私としてはただで薬を渡していくつもりはないとは思っている。物事は、等価交換が基本だ。

 しかし、これを作ってるのは七海なので、結局はあいつの判断次第である。まぁ、あいつの答えは分かりきってるのだが。きっと、無償でこの女に薬をあげようとするだろう。

 

「……その、七海という子は……」

 

 昆虫の腸内細菌を用いている、等の説明をした辺りから、女は、薬の作製者である七海のことを気にしだした。

 冷静であった今までとはほんの少しだが態度が変わり、声を若干上擦らせて、熱を持った聞き方をしてきた。どうしてそこまで作製者に拘るのか、私にはよく分からなかった。

 ただ、友の話を他人にする、というのはどこか新鮮で、私の口も些か調子に乗っていた。どうだ、あいつは凄いだろう、と胸を張りたい気持ちを抑えながら、私は話していた。女が聞き上手なのも、私の饒舌を助ける原因になっていただろう。

 

「……私を助けてくれた時、エヴァちゃんは」

 

「エヴァちゃんか」

 

「あら、嫌かしら? 」

 

「……いや、構わん。続けてくれ」

 

 吸血鬼であることや、長く生きていることを伝えるのをはしょったからか、当然女には幼く見られているのだろう。急に距離が近付いてきた呼び方で馴れ馴れしく思う一方で、あまり不快に思っていない自分もいたため、話を続けさせた。

 

「目的のために私を助けた、と言っていたわよね? それに、私に身体の違和感の有無も訊いた。……もしかして、この薬には、まだ分からない副作用のようなものもあるのかしら? 」

 

 賢い女だと思った。少ない情報から、物事を推測し考える力を持っている。

 そう思ったからか、私は不安に感じていたことを女に話していた。

 このままだと、七海の身に何か起こるかもしれない。それは今はまだ、ただの可能性の話でしかないのだが、どうにも嫌な予感がしてならぬのだ、と。

 

 訊いてからの女の行動は、はやかった。目を開き、決意に満ちた顔を作り、私にも、その不安を取り除く手伝いをさせてほしいと、力強い声で言った。

 

 藁にもすがる、ではないが、一人で行き詰まっている以上、他人の手をわざわざ払い除ける必要はない。私が、構わん、と頷くと、女はすぐにその薬があり、実験している場所に連れていってくれと頼んできた。

 七海は基本的に大学で実験をしていたが、私の家の地下部屋にも必要最低限の物は揃っている。なにせ、大学が閉まっている時に薬の作れる場所がないと、万が一の場合危ない。私は女を連れて地下にいった。

 

 

 

 

 それから、女は、そこにある器材や材料を色々と見て周り、紙に何かを書きつけていった。

 魔法が使えなかろうと、研究など畑違いだろうとあまり期待していなかった分、その分かっているような動きに、私は驚きを感じてしまった。

 女は、私の視線も気にせずに、手を止めず長い時間動き続けた。

 

 

「私と七海という子では条件が違いすぎる。だから、私には同じ現象が起こらないかもしれない。そう言ったわよね? 」

 

「ああ」

 

「その、他の世界に精神だけ行く、という感覚はいまいち分からないけれど、私にはその感じはしなかった。ほんの僅かに頭にノイズは走った気がするけれど」

 

「 ! 確かに、七海は当初頭にノイズが響くと言っていた。服用するにつれてその時間が長引いていき、そのうちあの世界に行けるようになったと」

 

「なら、私もその世界に行ける可能性はあるということね。だったら、条件を彼女に合わせていったら、私もその不安の正体が掴めるかもしれない」

 

「しかし、服用期間や量が違いすぎるだろう。今から条件を合わせるのは……」

 

「時間については難しいわね。量についても、ここにある在庫も限りがあるし、作ってはがぶがぶと飲んで行くのはきっと建設的ではないわ。

 

 だから、ひとつだけ。薬の組成とその工程を見れば、その子は薬を作っていく中でかなり薄めつつ飲んでいってるのが分かる。まぁ、当然よね。とすれば、きっと今まで飲んだ本来の含量はそこまで多くない筈だわ。

 だから私は、その工程において成るべく薄める作業を減らして言って、濃い薬を飲む。そうすれば彼女の身体に残っている量と近付ける可能性はあるわ」

 

 女はぶつぶつとそう言って、紙に計算式らしきものを書きなぐっている。

 

「……おい。そんなことをして、お前の身体が無事ですむ保証はないんだぞ」

 

 私がそう言うと、女は笑った。

 

「……私ね、病気で死に直面したの、今回を会わせて実は二回目なのよ。

 今回も、助かる見込みはあまりになくて。だから、私は病気には勝てないのかな、なんて弱気にも思ったりしたわ。でも……」

 

 女は机の上に置いてある世界樹の薬を、じっと見つめて、静かにも、嬉しそうにはにかみながら続けた。

 

「……今回は、助けられちゃった。なら、私も、力を尽くさないと。大丈夫よ。危ない橋をわたろうなんて気はないわ。ちゃんと予想して、仮定をして、計算して、考えて、石橋を叩きに叩いてから、やるつもり。

 

 ……だって私も、私だって、科学者だもの」

 

 最後に、女は小さな声でそう呟いた。

 



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69話

 

 

 紺色の布が被されたような空の下、麻帆良の中心街は多くの光が溢れていて、街全体が天の川のように綺麗であった。涼しげな風とは対称的に、街を覆う熱気は激しく、騒がしい声は昼間と遜色ない。

 中央の道路には大きな機械やぬいぐるみがパレードと称して闊歩し、それを見ている人たちを喜ばせている。

 どの学校の生徒達も、当然のように前日と変わらず中夜祭と言っては盛り上がり、どこからもキャッキャッとはしゃぐ声が聞こえた。街灯や店の光以外にもそれぞれが照明を用意していて、周りにいる人が見える程度には明るい、夜とは思えない街となっている。

 

 

 第3廃校舎の屋上に集結した我がクラスも、同様に中夜祭を開くのかと思いきや、そうではなかった。

 実は、今日皆がここに集まった理由は別にある。

 

 屋上の中央には咄嗟に作った割には大きくしっかりとしたステージがあった。夜の暗さを感じさせぬようにと四方から光線を送るライトは、屋上全体を光らせている。腰ほどの高さの机上にあるグラスも反射して光を放ち、私達の顔を照らした。多くの者は皆首を上げ、ステージの上に立つ二人に目をやっている。

 壇上にいるうちの一人であるあやかは、マイクのスイッチを入れ、こほんと咳払いをしてから皆の顔に目を向けた。

 

「皆様、本日は急な集会にもよらず、集まって頂き感謝します。今日ここに集まって頂いたのは、他でもありません。ご存知かも知れませんが、我がクラスの中で、お家の事情により、転校をしてしまう一人の生徒がいます。皆で卒業出来ない、という事実は大変悲しいのですが、涙でお別れをするだけでは、私達らしくないでしょう。よって、本日は……」

 

「おーい! 話が長いぞーー! 」

「ねー、腕が疲れちゃったよー」

「いいんちょ暗いよー!明るくぱぱっとしてー」

 

「……もうっ! あと少しだと言うのに! せわしない人達ですわね! 」

 

 あやかの怒鳴りと同時に、キィン、と音を拾ったマイクが甲高い音波を流す。

 

 改めてあやかは喉を鳴らし、横に立っている人物を一目見てから、片手に持ったグラスを高く上げた。

 

「それでは! 超さんの新たな旅立ちをお祝いして…… 」

 

「「かんぱーーーい!!! 」」

 

 ナハハ、と困ったように笑う超を置いて、生徒達はテンション高くグラスを上げ、大きく声を響かせた。

 私も、ジュースの入ったグラスを空に掲げて、皆とグラス同士をぶつけ合った。

 

 

 

 

 

 

 私のケータイに、超のお別れ会の知らせが入ってきたのはついさっきのことである。

 学園祭二日目の今日は、夕方までは長谷川さんとあやかと三人で色々と店を周り、そのあとはまた大学に行って昆虫の世話をしていた。日が沈みだし、空が別の色に染まり出した頃に、振動したケータイを見ると、あやかからのメールが目に入った。

 クラスメイト全員に一斉送信で送られたそのメールには、超が家の都合で突然転校することになったので、今からサプライズでお別れ会をしよう。お暇な人は是非設営を手伝ってほしい、という旨のことが書かれていた。

 

 

 超はこの学校を出ることをクラスメイト達にも言うつもりはなかったと言っていたが、どこからか情報が漏れたのだろう。

 彼女には悪いが、こうやって皆で別れを言う機会が出来たことが、良かったと思えた。どんな事情があるにせよ、級友達とのこのような席は必要であったと思う。流石に本来の理由である未来や魔法云々の話は言えないのであろうが。

 

 

 多くのクラスメイトが超を囲み、和気あいあいと話をしている。お別れ会だからといって、寂しげなムードではなかったのが、A組らしいと思った。主役の方が迫り来る皆に圧倒されていて、そんな超の様子が珍しく、私は一人で笑った。

 

「しかし、随分急な話だな。家の事情って言われたら私らからはどうしようもできんが……。留学生ってのは、そういうこともあるもんなのか? 」

 

 団子のように密着したクラスメイトから少し離れた机で、長谷川さんはチップスをかじりつつ私に訊ねた。

 その発言は、家の都合などと言う理由で居場所を左右される超のことを案じたものなのか、納得しきれてはいないと言いたげな顔をした。

 

「……さあ、どうだろうな」

 

 オレンジジュースを喉に流し、そのグラスを机に置きながら私は答えた。いくつかある机の上にはお菓子やら料理が置いてあるのだが、ほとんどが超の元に集まっているため、誰もついていない寂しい机が何個かあった。

 

 長谷川さんは、もう一枚チップスをかじってから、キョロキョロと辺りを見渡す。

 

「ネギ先生もいるが、全員集まってる訳じゃないんだな。マクダウェルもいねぇし、神楽坂も……」

 

「急であったし、来れない人がいても仕方ないだろう。と言っても、エヴァンジェリンは連絡を見てるかも分からないし、明日菜は……」

 

 私が少し目を伏せると、勘づいたのか、長谷川さんは表情を暗くした。

 

「……そうか、神楽坂のやつ、駄目だったか」

 

 返事をせずに、私は静かに頷いた。

 

 お別れ会をする少し前、明日菜は、高畑先生に想いを告げたらしい。実際に明日菜から訊いた訳ではないが、私はここに来る途中にデートを終えた高畑先生に会ったため、その結果を知っていた。

 高畑先生がその状況を話した訳ではない。瞼に哀愁を漂わせたその複雑な表情が、言葉よりも多くを語っていたため、私は察してしまったのだ。

 

 恋愛について、語れるほど詳しいつもりはない。

 ただ、想いというものが一面から見ただけでは分からないほど複雑で、それが、他人が簡単に踏み入って良いものでないことは、私にも分かる。

 親として、教え子として、明日菜を見守ってきた高畑先生が、彼女に想いを告げられた時、どんな考えが頭を巡ったのかなど、私や長谷川さんには想像がつかないし、しても仕方ないことであるのも、知っている。

 

 

 ―――だけど。

 

「……高畑のやつ、ほんとにバカだな。素であんな上玉の女、今後絶対いないだろうに」

 

「……ああ」

 

「私は楽しみだ。神楽坂の結婚式で、あんとき僕が貰っておけば、こんな美人といれたのに!って、後悔で涙するあいつを見るのが」

 

「……そうだな。高畑先生は、大馬鹿だ」

 

 ―――こうやって、友人を振った人物に悪態をつくことぐらいは、許されるんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 時計が12の針を超え、さらにしばらく進むと、連日騒ぎで流石に疲れたのか、クラスメイト達は静まっていた。いつの間にか屋上には敷き布団が何枚も用意されていて、その上に無防備に寝転がる生徒達がいる。

 世界樹が今までとは比較にならないほど光を発したため、用意したライトが既に灯りを消していても、全体はとても明るい。ヒラヒラと舞う世界樹の葉がまるで雪のようにも見えた。

 

「キレイな眺めネ」

 

 皆を起こさないようにと、少し離れた所に私を呼び出した超が、世界樹を眺めながら静かに呟いた。

 

「……今日は、楽しかったか? 」

 

 私が訊くと、超はふふっと短く笑った。

 

「……本当に、最後まで騒がしいクラスメイト達ネ。ひっそりと去る予定が、台無しヨ」

 

 むにゃむにゃと眠る彼女達の方に目を向けながら話す超の声は、穏やかだった。

 

「彼女達は、いい子だな」

 

「……ソウネ。始めこそ、能天気でバカチンばかりのクラスで、大丈夫カ? なんて心配もしたが……」

 

「ひどい言い様だな」

 

 辛辣な言い方が可笑しくて笑う私に合わせて、超も笑った。

 

「でも、いいクラスだたよ。この二年間、楽しかった」

 

 しみじみと言ったその言葉が、私の胸に染みていった。

 

 超は、この二年間を楽しめたのだ。

 未来から、過去を変えるという目的で来た彼女だが、この世界はそれだけでは終わらなかったのだ。

 そう思うと、私は嬉しかった。

 

 

 

「さて、時間も遅いし、既に約束していた日にちは過ぎてしまっているから、ちゃちゃっと話を済ませてしまおうカ」

 

 優しげな瞳から、真剣な瞳に色を変えて。今までの話を切り上げるようにして雰囲気を変えてから、超は私をじっと見つめた。

 

 右手をすっと前に向けて、彼女は再び私を誘う。

 

 

「……七海。答えを訊きに来たヨ。

 改めて問う。私の、仲間になってくれないか? 」

 

 

 ゆらりと静かな風が吹き、私と超の間をさっと過ぎ去る。遅れてきた世界樹の葉がちらちらと舞い、おぼろ気で切ない光を揺らした。

 

 私は、瞼にその光を映しながら、今まで考えたことを心の中でもう一度決めて、ゆっくりと口を開いた。

 

 

 

「……分かったよ。超。

 私は、君の仲間になろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 超は、私の答えを訊いて、目を細めて嬉そうにした。

 

「そうカ。助かるネ。ならば、早速頼みたいことがあるヨ、七海には――」

 

「待て、超」

 

 捲し立てて私に近寄ろうとした超に、掌を向けて止める。

 

「仲間にはなる。だが、私は、君の作戦に、協力は出来ない」

 

「……それは、どういうことカナ? 」

 

 超の表情は一気に変わり、私を不審げに見つめていた。

 

「世界に魔法をばらすという行為を、君たちにさせるつもりはないということだ」

 

「……ならば、私と敵対する側の筈だが……。七海は私の仲間になるのだろう? 」

 

「ああ、しかし、その作戦だけは許容出来ない」

 

 超は、眉に寄せた皺をさらに深くさせた。

 

「……やっぱりよく分からないネ。私の仲間になるというのなら、一緒に手伝って貰わないと困る」

 

「君の目的である、未来のために過去を変えたい、ということには仲間として協力したい。けれども、そのために、世界に魔法をばらすという作戦をとることには反対だということだ」

 

「ふむ。……反対する理由を、訊いても良いカ? 」

 

 私は、ゆっくりと頷いて、超を見つめ返した。

 そして、考える。その作戦が成功した時の未来を。

 

 世界に魔法がばれて、多くの人が混乱する。勿論、現存する魔法使いは、マスコミに追われるだろう。いや、それだけではすまないかもしれない。訊いた話では、魔法がばれた人物はオコジョになってしまうそうだ。

 

 そうすると、当人やその家族が、魔法をばらした首謀者に恨みを向けるのは、当然ではないか。

 それに、魔法が一般化した世界の対応も、超はやるといっていたが、本当にそれは一人で出来ることなのだろうか。

 超のことだから確かに出来るかもしれないが、その負担は尋常ではないだろう。

 書類や会議に追われ、加えて未来の方向性を決めていく準備をして、更には、誰かのヘイトを集めて恨まれて。 いくら頭が良くても、まだ10代であるその身に、誰かの怨みを向けられて過ごすのは、きっと楽じゃない。

 しかし、それでも。超はきっと、この計画をやり遂げようとするだろう。

 

 

『―――この二年間、楽しかった』

 

 穏やかに、そう言った超の顔が浮かんだ。

 

 その笑顔は、魔法をばらすという作戦をした後でも、一緒でいてくれるんだろうか。

 

 

 

「――超。その作戦は、君が自分を大切にしていないから、私は嫌だ」

 

 

 

 私のイメージの中で、教室の端に暗い陰を纏っていた人物は、超だった。

 私達から離れ、それでも、皆の未来のためにと、一人自分を犠牲にして笑顔で頑張り続ける彼女だった。

 

 過去を変えることが悪いことがどうかなど、私には分からない。正直、未来がどうしようもなく暗いのなら、それもありなのではないかと私は思ってしまう。

 

 しかし、私は、私の友人が嫌な思いをすることが、嫌だった。時間を変えるという行為について、正義や悪や、倫理的な問題なんてよりも、それが嫌だった。

 

 私は、あのクラスが好きだ。

 騒がしくて、馬鹿っぽくて、でも、優しくて、頼もしくて。

 あのクラスの皆が好きだ。勿論、超も含めて。

 だから、そのうちの一人の超の自己犠牲で成り立つ世界を、認める訳にはいかないんだ。

 

 

 

 私の言葉を訊いた超は、目を丸めてキョトンとし、それから、奥歯を噛み合わせたような顔をした。

 

「……自分を、大切に? そんなものはどうでもいいんダヨ。七海。私は、このためだけに、時間を使い、このためだけに、この頭脳を酷使してきた。それでも、未来を変えるためにはこの作戦しかないことを、知っている。どうシュミレーションしても、他には思いつかなかたヨ」

 

 甘えたことを言うな。現実を見ろ。そう言いたげに、力の籠った瞳をしている。

 

「……ネェ、七海。他に作戦があるというのカ。あの未来を変える、作戦が」

 

「今は、ない。それにまだ思い付いてもない」

 

 

 でも。と続けて、今度は私の方から手を差し出す。

 

 

「私が、仲間になったんだ。

 これで、葉加瀬も合わせて麻歩良中学校の成績トップが三人揃った。

 そんな私達が集まったのなら、未来を変えるなんて簡単だ。思い付けないことなど、一つもない。

 ……そう思わないかい? 」

 

 

 一人で頑張り続ける必要なんてない。

 どうせなら、私だけではなくて、クラスメイト皆にも頼んで手伝って貰えばいい。

 

 

『仲間になって』、なんてわざわざ改まって頼まなくても、私達は元から3-Aの仲間なんだから。

 

 



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70話

 

 超は、すっと伸びた私の右手を、じっと見つめていた。口をきゅっと結び、顎を引いた真剣な表情で、彼女は立ち止まっている。

 

 少し強い風が吹き、光る世界樹の枝をふぁさりと揺らした。また白銀に光る葉が何枚も落ちて、宙を漂っているのが見える。静かな夜の中に舞うそれは、星が落ちているようにも見えて、綺麗だった。飛ばされた葉のうちの一枚が、私達の間にヒラヒラと落ちてくる。

 涼しげな夜の風と一緒に、超の肩が揺れた。

 くすくすと、擦れるような笑い声も聞こえる。

 

「ふふ、ふふふ……。少し、予想外な展開だヨ。七海はもう少し現実的な人だと思てたネ」

 

 まさか、そんな子供っぽい理屈を言うとは。そう続けた超は、頬を緩めながら、手を口にそっと当てて笑っていた。

 

 超の言う通りだった。私の意見には、具体的な案がない。今のままでは、子供が夢を見て語っているのと変わらないのだ。

 しかし。

 

「何かを始めるとき、最初は理想から語って入るものだ。そして、その理想をどう成し遂げていくか考えるのが、我々科学者というものだろう? 」

 

「……科学者、ね。まぁ、そうかもしれない」

 

 超は目を閉じてゆっくりと頷く。

 その表情の中には一瞬迷いが生じたような気がしたが、差し出した私の手は、まだ取られていない。

 

 

 しばらくして、超はおもむろに瞼を開けて、再び私を見た。

 すっと手を出して、上に向けた彼女の掌に、一枚の世界樹の葉がひらひらと落ちて乗る。

 それを映した彼女の黒い瞳に、白銀の光が一筋光った。

 

「……七海。未来で描いた私の理想は、この現実が、もっとましなものになれば、という、小さな願いだたヨ。

 ……その小さな願いは、時間が過ぎていくにつれて私の中でより大きくなっていって、その分厳しい現実もより知っていった。なまじ頭の良かった私は幼いながらに気付いてしまったヨ。

 このままでは、この世界は変えられないし、変わらない」

 

 

 どこか儚さの混じった笑顔でゆっくりと語りだした超に向かって、私は静かに頷く。

 彼女の声は、寂しさが一緒になっているように感じた。頭には、空が赤く荒廃とした世界に1人で立つ彼女の姿が浮かぶ。彼女のいた未来とは、それほど救いようのないものだったのかもしれない。

 

「ならば、過去にすがるしかなく、その願いは自分にしか成し遂げれないということが、分かる」

 

 くしゃりと、爽快な音が響いた。

 彼女はぐっと拳を握り、手の中にあった葉を潰していた。

 そして超はすっと息を吸い、笑顔を止めて、手の中の葉を落としつつ地面に指差す。

 

「そして、ようやく辿り着いたのが、ここだ」

 

 力強くそう言って、超は私に向ける視線に柔らかさを込めた。

 

「貴方の気持ちは嬉しいヨ。……本当に。素直にそう思う。そうやって、私の身を案じてくれたんだからネ。

 ……でも、誰にどう言われようと、今更この計画を止めるつもりはない。積み立てて、考え抜いた私の計画だ。私は、私のために、私の願いのために最善を尽くす。

 ……だから、スマナイネ」

 

 

 

 ……超はもう、伸ばした私の手を取ろうとはしなかった。

 仲間になろうと、再び私に手を伸ばすこともしなかった。

 

 そのことが、悲しい。

 

 

 

 幾度となく向けられた彼女のその瞳には、今も強い光を感じる。どうあってもやり遂げようという意志が表れていて、それを見れば、超の想いが並々ならぬ決意から生まれたものであることがよく分かる。

 彼女はきっと、たった一つの願いを追いかけ続けて、尋常でない努力をその身に与えて、ここまで辿り着いたのだろう。

 

 そう想うと、言い表せない苦しさが胸を伝った。彼女のその懸命な頑張りが、私の胸を痛めた。

 

 彼女の強さは、危うい。

 14歳の少女が、誰かのために、世界のためにと頑張ろうとしている。悪いことではない。悪いことの筈がない。懸命で素晴らしいことだと語るものはいるだろう。

 

 でも、私が嫌なんだ。

 

 それだけ才の溢れる彼女は、もっと自分の好きなことを見つけて、好きな人を見つけて、なにも考えず大笑いできる環境にいてほしい。もっと自由であってほしい。

 A組のように、ちょっと間抜けだけれど、それでも今を精一杯生きてる皆の間に混ざっていてもいいだろう。

 

 自分の言ってることが綺麗事であるのは分かってる。現実とはもっと辛いもので、それに立ち向かおうとする彼女こそ正しいのかもしれない。

 私の言い分は、自分勝手で、子供っぽくて、どうしようもないことを言っているのだろう。それでも、私はこの気持ちを抑えることができなかった。

 

 私は、私の中の心に嘘をつくことが出来なかった。

 

 

 

 

 ――――だから、それでも彼女がその道を進もうとするなら、私は。

 

 

 

「私は、君の友達として、仲間として、君を止めるよ」

 

 

 超は、私の言葉を訊いて、きょとんとした表情をして、それから、徐々に口角を上げていって、笑った。

 

「……七海。貴方には何度も驚かされる。

 気もなく、魔法を使うどころか魔力もない。闘いも知らなく、それどころか、人の闘いを見るだけで怯えるような、貴方が、止めれるか?」

 

「それでもだ」

 

 そんなことは、関係ない。

 ただ友人と意見を対立させるのに、魔力も、闘いも必要ない。お互いに、信念をぶつけるだけでいいのだ。

 

「ふふ、ふふふ」

 

 私が止めると言ったことが可笑しかったのか、超は声を上げてゆっくりと微笑んだ。

 

 それから彼女は、視線を私の後方に向けて、声を掛けた。

 

「……ネギ先生、貴方も、私を止めるつもりだろう? 」

 

「……超さん」

 

 後ろを振り向けば、大きな杖を両手で握り、心配そうに声を出すネギ先生がいた。私達の会話を聞いていたのだろうか。

 ネギ先生は、杖を握る力を強めて此方を見た。

 

「僕も、先生として、貴方を止めなければなりません。その行動は、沢山の人に迷惑がかかる。それに……」

 

 ちらりと眼鏡の奥の瞳に私が映った。

 

「超さん。貴方のためにも、その作戦を認める訳にはいかない」

 

 超は軽快に笑った。まるで、悪役を演じている女優のように。

 

「…………ならば、止めてみろ。私を。貴方達にそれができれば、私の考えは改まるかもしれない」

 

 話し合いを終わりを告げるかのように、超は勢いよく私達に背を向けて、一歩を踏み出す。

 

「七海、ネギ先生、じゃあネ」

 

 何の動作もなく彼女の姿は消え、その呟きだけが耳に残った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 翌日の朝、つまり、学園祭三日目。私はネギ先生に呼び出され、中等部の図書室に向かっていた。学園祭中にここに来る生徒はいないらしく、そのためか近くの廊下から既に静けさが漂っている。

 私が図書室のドアを開けると、部屋の中には桜咲や楓、木乃香、クーがいて、皆が一斉に此方を見た。

 

「……明智さん? どうしてここへ? 」

 

「多分、皆と一緒だ」

 

 ネギ先生は、この部屋で作戦会議をしようと言った。つまり、ここにいる皆が超の起こそうとしていることを知っていて、それを止めようと集まったのだろう。

 ネギ先生が堂々と呼び出したということは、少なくともここにいる人はもう魔法や魔法使いのことを知っているのだろう。桜咲や木乃香は京都の時に知ったらしいが、楓とクーはネギ先生に聞いたのだろうか。まぁ、あれだけ派手に武道大会なんかをしてれば、流石にあの場にいた本人たちは気付くものなのだろう。

 しかし、これだけ魔法を知ったものがいると思ったら、少し妙な気分になった。不思議パワーなどと言って長谷川さんと二人で騒いでいた時が何故か懐かしく思える。

 

「……七海。あんな、今は関係ない話かもしれへんけど」

 

 珍しく俯いた表情で、木乃香が私に近付いてぼそりと呟くようにして言った。

 

「明日菜、今うちらの寮の部屋でずっとへこんどるんよ。今はそんな場合じゃないって言われるのも分かるんやけど、うち心配で……。何て声掛けたらええかも分からんし」

 

 人一倍友達想いの木乃香のことだ。明日菜の気持ちを考えずにはいられなくて、不安になっているようだ。

 私は、涙ぐんだ顔の木乃香の頭に、ぽんと手を乗せた。

 

「……大丈夫だ。あの子は強い。でも、今はきっと1人にさせてあげるのがいいと思う」

 

 しばらく、1人でいる時間が必要だろう。

 私がそう言うと、木乃香は小さく頷いた。

 

 

「ふむ。しかし、このような場に七海殿がいるとは、珍しいでござるな」

 

 見れば分かるが、木乃香を覗けば周りは皆武道家だ。その中にインドアの私が混ざっているのは、確かにあまりない光景かもしれない。

 

「……確かにな。役に立てるか分からなくて申し訳ないが 」

 

「まさか」

 

 楓がにっと目を細めた。

 

「自慢じゃないけど私ら頭は良くないから、七海がいたら力強いアルよ! 」

 

 私の両手をぐっと握り、クーが嬉しそうに笑ってくれた。

 

「私、正直難しいことは分からないアル。超に色々聞いたし、皆からも聞いたケド、超がほんとはどうしたくて、何が正しいか分からないアル。でも、それでもこのままは嫌アル。超とこんな風に最後になるのは、嫌アル。だから私、超を止めたいネ」

 

「……そうだな。私も、まだ自分に何が出来るかは分からない。それでも、彼女のために何か出来たらと、思っている」

 

「彼女のためにとは、明智さんらしい理由ですね」

 

 私の言葉を聞いて、桜咲がくすりと笑った。

 

「明智さん。少し前、私も、あなたのそんな心に知らぬ間に救われました。大丈夫です。力がなくても、貴方に出来ることはきっとあります」

 

 そう言って力強く頷いてくれた桜咲が、頼もしかった。私が改めて礼を言うと、彼女達は笑って受け入れる。

 

 そんな風に私達が集まって話していると、また部屋の扉が開く音がして、見ると、ネギ先生がいた。

 

「……皆さん、集まっていますね」

 

「ネギ坊主! 呼び出しといて遅いアルよ! 」

 

「すみません。ちょっと緊急に連絡が入って、ある人と会ってて……」

 

 ネギ先生は申し訳なさそうに頭を下げながら私達の中央へとやってくる。

 

「……ある人? 」

 

「……その人のことは、この事件が終わったら全て話します」

 

 彼は部屋の真ん中にあった大きな机に、ばっと紙を広げた。

 

「それではまず、彼女の今後の動きと、それを止める僕達の作戦について話します」

 

 

 ○

 

 

 ネギ先生によれば、超は世界樹の大発光を利用し全世界へと強制認識魔法を至らせて、魔法を皆に認知させようとしているらしい。

 更にはその魔法のために、麻帆良にある魔力溜まりを抑えなくてはならなく、そこを陣取るために大量の兵器をこの麻帆良に送り込もうとしているのだとか。

 

 話を聞いていると、まるでSF映画に潜り込んだ人物になっているような錯覚すらしそうであったが、真剣な表情で聞く彼女達を見れば、それが冗談でないことはよく分かる。

 

 作戦を聞いて、多くの人を巻き込んで目的を成そうとしている超に、予想外な想いを感じた。まさか、無関係の人までを巻き込もうとしているとは思わなかったのだ。その兵器のロボットは人に対して物理的被害があるわけではなく、精々服を脱がせるくらいなので怪我の心配はないそうなのだが、それでも、そこまでしたら万が一の事故というものがある。

 

 彼女を止めなくては、という気持ちが更に強くなった。

 

「……超さんは、既にこの作戦のための準備を整えています。世界樹を使った強制認識魔法ですが、世界樹の発光が最大限になった時に発動するようです。そのため、恐らく今日の夜には超さんは世界樹周辺に姿を現す筈です。つまり、超さんの出現までは兵器の動きを止めることに時間を割き、超さんが現れたら直接対峙することとなります」

 

「ロボットが一斉にやってくるって、凄い状況やなぁ」

 

「んー。細かいことは分からなかったケド、とりあえず、私達はそのロボットをぶっ壊して行けばいいアルね? 」

 

「……それに加えて、あっちには龍宮がいることも忘れてはいけません。恐らく、簡単にはいかないかと」

 

 超を手伝っている龍宮も相当な実力者であるらしく、話を聞いている限り、私に出来そうなことがないことがよく分かり、そのことが、もどかしかった。

 

 ネギ先生がクーと桜咲の意見を訊いて、頷く。

 

「しかし、兵器の数はあまりに多いので、正直僕らだけでは完全に戦力不足です。一応学園長を通して麻帆良の魔法先生達にも協力は頼んでありますが、それでもやはり戦力差は大きい。

 なので、催しと称して麻帆良の皆にも手伝って貰おうと思うのですが、どうでしょうか……?

 皆さんには、ロボットの機能を停止できるような魔法の道具を持ってもらえば、自衛も兼ねることが出来ると思うのですが…… 」

 

「……ふむ。一般人を巻き込むのに抵抗はあるでござるが……」

 

「しかしこのままでは、突然ロボットにより楽しみにしていた祭を無茶苦茶にされたと思われてしまいます。そうするよりも、皆にはイベントとして参加か会場から退避かを選んでもらった方が、どうなったとしても麻帆良らしく楽しんで終われるかもしれません」

 

 確かに一般の人に手伝って貰うというのに抵抗はあるが、このままだと麻帆良祭の最終日に災害が起こって台無しになるのと変わらない。楽しみにしてる人々のためにも、楽しいイベントととして終わった方が良いだろう。最低限の注意点を述べて、怪我人を出ないようにした上で参加の意思を示したものには手伝ってもらうというのがいいのかもしれない。

 

「その主催は、あやかに頼む形になるのか? 」

 

「はい。此方で必要な道具などは揃えますので、イベント開催の指揮などを頼もうかと思っているのですが……」

 

「ならば、私から頼んでおこう」

 

 それくらいのことは、私がしたい。なんとか役に立ちたいのだ。

 ネギ先生が、お願いします、と私に頭を下げる。

 

「それでは、次に今後の動きの確認ですが……」

 

「……その前に、ネギ先生。一ついいですか? 」

 

「はい、なんでしょうか? 」

 

 意見があること手を上げて示した桜咲が、ネギ先生のことをじっと見た。

 

「……貴方は何故これだけ超の作戦を具体的に知っているのですか? 」

 

 それはきっと、この場にいる全員が疑問に思っていたことだろう。

 ネギ先生は、あちらの作戦について、あまりに詳しすぎる。ロボットの登場時間から、超が世界樹上空に集まる時間さえも知っていた。それはまるで未来予知というレベルであり、先程までは作戦事項を訊くことに優先していたが、やはり訊かないで終わっていい話ではないような気がした。

 

 

 そう問われたネギ先生は、意味深な表情をしてからはにかんだ。

 

「……僕らには、強力な助っ人がいますから」

 

 



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71話

 

 

「……火星から突如やって来たロボ軍団! 彼らの目的は謎ですが、何もしなければ我らの街が侵略されてしまいます! ならばそれを守るのは、ここに住む私達に他なりません。

 どうか! 勇気のある人々よ! 今こそ魔法騎士団に入団し、力を合わせてこの街を守りましょう!」

 

 麻帆良の中心部にある特設ステージの上で、派手な格好をしたあやかが、マイクを手にして声を張っている。空には協力してくれたクラスメイトが配っているビラが舞っていて、それを手に取った観光客や麻帆良の人達は興味深そうに話を訊いていた。

 

「参加方法は簡単! 受付にてルール説明を受けてローブと杖を受け取り、六時にやってくるロボ軍団を退治していけば良いのです! また、イベントに参加為さらぬ方はなるべく会場から離れるようにお願い致します!

 皆さん! 麻帆良祭最後のイベント! 存分に楽しもうではありませんか! 」

 

 鼓舞するように拳を上げたあやかに釣られて、周りも一緒に盛り上がり、雄叫びと共に手を高く上げる。それから、どたどたと人々は一気に受付に向かって流れていった。お祭りや大騒ぎ好きな人ばかりの麻帆良のことだ。参加者は、結構な数になるだろう。

 

「あやか。すまないな。突然無理を頼んでしまって……」

 

 ステージから降りてきたあやかに私がそう言うと、彼女は首を振って笑った。

 

「謝らないで下さい七海。私は、貴方にこうやって頼まれたことが嬉しいですわ。それに……」

 

 あやかは、くるっと綺麗に周り、私に衣装を見せつけるようにした。

 

「見ての通り、私も結構派手なことは好きですから。中学最後のイベントがかくれんぼだなんて、物足りないと思っていた所ですわ」

 

 学園最終イベントの急遽変更という無理をあやかに頼んだのは、元々そのイベントがいくつかのスポンサーの協力によって出来上がる筈のもので、その中でもほとんどの資金を提供していたのは雪広財閥だったからだ。

 あやかは、自分の家がお金持ちだからと言って、我が儘に好き放題やることを好んではいない。それでも、こうやって私の頼みを訊いてくれて、その上自分も望んでいたという風に話すのは、私に対して気を使ってくれているのだろう。

 そのことに申し訳ないと思いつつも、本当に良い友達を持ったという想いで胸の奥底が暖かくなった。

 

「しかし、B級映画みたいなイベントだな。ロボ軍団ってのは、工学部の奴らが作ったのか? 」

 

 ずずず、と音を立ててストローからジュースを吸っている長谷川さんが、私達の横でじっくりとチラシを見つめていた。

 

「……まぁ、そんな感じだな。あっちサイドには、超や葉加瀬がいる」

 

「ほー。ってことは、ロボっつーのも結構本格的なんだろうな」

 

「千雨さん。貴方は参加なさらないんですか? 」

 

 長谷川さんはビラを持った手を横に振ったので、パタパタと風を受ける音がした。

 

「私は、パスだ。面白そうではあるが、実際に体を動かすのは得意じゃねーしな。ほんとにバーチャルでやるなら負けはしねぇと思うんだが」

 

「つくづくインドア派だな」

 

「明智には言われたくねぇよ」

 

 それもそうだ、と呟いて私達は笑い合った。

 

 

「おおお! 凄いよフェイフェイ! 魔法騎士団だって! これはもう決まりだね! 」

 

「……決まり? 」

 

「入団が! だよ! 」

 

 聞き覚えがありすぎる声がして、彼女だろうな、と確信をしながらも声の方向を見ると、そこには予想を反することなく、やはりういがいた。どうやら落ちていたビラを拾ってこのイベントを知ったらしい。横のフェイト君にも、そのビラを存分に近付けて見せて上げていて、あまりにも近くに寄せすぎていたので、フェイトは若干鬱陶しそうにしてその紙を払いのけていた。

 

「あ! ななねぇ! 千雨ちゃん! あやねぇ! 」

 

 私達に気付いて、ういはぱっと表情を明るくして、小走りで寄ってきた。遅れて、ういから渡されたビラを見ながらフェイト君もやってくる。

 

「ななねぇ達はでるの? これ」

 

「私は出ねぇ」

 

「私は出ても良いですが、一応主催側ですしね」

 

「私も他にやることがあるから、パスだ」

 

「だよねぇー。あやねぇや千雨ちゃんはともかく、ななねぇには多分むいてないよ」

 

 既に自分ならば上手くやれると自信満々に思っているようで、参加する気満々、といった様子だった。

 

「それじゃフェイフェイ、一緒にでよっか」

 

「別に僕は……」

 

「フェーイフェイ」

 

 ういは、少し膝を曲げ、フェイト君の顔を覗き込むようにしてから、彼の名を呼んだ。

 

「でよっ! 一緒にね! 」

 

 いつものように、明るい笑顔だった。屈託というものがまったくなく、彼女らしく、無邪気で子供らしい笑みを、ういはフェイト君に向けていた。

 フェイト君は、その顔を見てじっと止まった。このイベントに出るか出ないかを悩んでいる、というよりも、その笑顔の意味を探っているように見えた。

 

「……分かった。参加しよう」

 

 彼はついに頷く。それを訊いたういが、やった! と跳ねて喜んだ。

 

「よし! いざ受付へ! ななねぇ、あやねぇ、千雨ちゃん、またね! 」

 

 ういはバタバタと忙しそうに手足を動かして、受付の方向へと私達を置いて走っていってしまった。

 

「……フェイト君。あんな妹で悪いが、宜しく頼む。きっと危なっかしいだろうから」

 

「……」

 

 彼は返事をせずにちらりと此方に視線だけを向けた。

 

「あの子は、随分君を気に入ってるようだ。面倒かもしれないけれど、悪気はないんだよ」

 

「……悪気がないことなんて、見てれば分かる。だからこそ厄介なんだけどね」

 

 苦笑した私に視線を向けながら、彼は続ける。

 

「……何故、僕なんだろうか。彼女の周りにはもっと明るく騒がしい彼女に合った人物がいるだろうに」

 

 姉の私から見ても、ういはフェイト君になついているのはよく分かる。ういはあんな性格だから、昔から周りに集まるのは明るい子が多かったし、一緒になってはしゃげる友達ばかりだった。そんな中で、フェイト君のような物静かな友達と長く一緒にいることは確かに珍しい。フェイト君もそれに気付いているからか、気に掛けられている自分に疑問を持ってしまったのだろうか。

 

「……私はういじゃないから、分からないな。気になるなら、本人に訊いて見たらどうだ? 」

 

「……そう、だね」

 

 彼はゆっくりと呟いて、走っていったういの方に向かって歩いていった。

 

 それから、途中で振り返って再び私を見た。

 

「……君は、何ともないのかい」

 

「……何がだ? 」

 

「……いや、何でもないよ」

 

 首を振りながら意味深な言葉だけを残して、彼は背を向けてゆっくりと歩いていった。

 

 

 

 ○

 

 

 

「七海さん」

 

「ネギ先生」

 

 イベントの準備がある程度終わり、ネギ先生を探そうと図書室の方へと向かう途中で、逆にネギ先生から話掛けられた。

 校内の廊下は相変わらず人がいなく静かだったが、外で騒がしい人達の声は響いていた。皆新しくなったイベントに対してやる気を満ち溢れさせているのだろう。

 

「イベントの準備、ありがとうございます。教師の皆さんにも連絡をしましたし、此方の方はこれで大丈夫だと思います」

 

「いいえ、私は大したことをしていません。あやかに沢山手伝ってもらいましたから」

 

「……そうですね。あやかさんにも、お礼を言っておかないと」

 

 ネギ先生から礼を言われたら、彼女は飛び上がって喜ぶだろう。是非そうしてください、と言っておいた。

 

「この後は予定通り、七海さんは木乃香さんと共に怪我人などの処置をしてもらえたらと……」

 

「……そのことで、一つ聞きたいことがあります」

 

 はい、なんでしょうか、と彼は返事をする。

 

「……最後、超と先生は世界樹の上空で闘うのですよね? 」

 

「……恐らく、そうなります」

 

 彼がどのような情報源によりそう予想しているのかは分からないが、その頷き方にはどこか確信めいた雰囲気があった。

 

「……私には、力がない。魔法なんてものも使えない。それでも、出来ることが何もないと諦めたくはないです。……先生、私は、一つだけお手伝い出来ることがあります」

 

 私にも、いや、私にしか出来ないことがある。この方法ならば、私は超を止める手伝いが出来るかもしれない。

 ……正直に言えば、ネギ先生には悪いが、こんな風に力ずくで言うことを訊かせるというのは、私の好みではなかった。

 しかし、私を止めてみろと言った超を見れば、確かにそれしか方法がないのだということが分かってしまう。

 彼女は全力でぶつかりあって決着が付くことを望んでいる気がした。その事でなら、考えを改めると言っているように思えた。

 でも、私はその輪の中に入れない。入る力がない。

 ……ならば、私は、私なりの方法を使って、彼女を止めたい。

 

 

 ネギ先生に、私の話を考えを話すと、少し考えるようにしてから彼は、分かりました、と頷いた。

 

 

 

「……七海さん。僕と初めて会ったときのこと、覚えていますか? 」

 

 急に遠い目をして、ネギ先生は私に尋ねた。

 忘れる筈がない。学園長に呼び出されて部屋に行くと、この少年が新しく私達の担任になるという話になっていたのだ。その時は、それなりに衝撃を感じたものだ。

 

「七海さんは僕に言いましたよね。『教師として、他人の人生と関わる覚悟はありますか? 』と。

 ……あの時は、教師になるんだという意気込みで頷きましたが、今なら、あの言葉の本当の意味がよく分かります」

 

 自分で言葉を発しながら、まるでその言葉に自分自身が勇気付けられているかのようにネギ先生は頷く。

 

「僕は、超さんの人生に足を踏み込もうとしている。彼女の生き方に、関わろうとしている。

 それが正しいかなんて、僕にはまだ分からないですが、それでも……教師として。僕は彼女に関わって、責任を持ちたいと思っています」

 

 力強い瞳だった。彼が教師になってから、まだ半年ほどしか経っていない。それでも、彼は強くなったと思う。身体もだろうが、心が成長しているように思えた。

 今となっては、彼のことを子供という目でみる人は少ない。それほど、彼は教師として一生懸命やってきたのだ。

 

 私は、気付いたら自分の掌を彼の頭の上に置いて、スッと撫でていた。

 小さな頭だった。子供らしい爽やかな香りもした。

 

 

「あ、あの。七海さん……? 」

 

 少し驚いた後、照れた様子で彼は私を上目遣いで見ている。

 

「……ネギ先生、一緒に頑張りましょうね」

 

「……はい! 」

 

 ごしごしと彼の頭を撫でると、彼はくすぐったそうな顔をしてから、元気よく頷いた。

 

 

 

 

 それから、各々準備をしようと、私がネギ先生に背を向けた時、彼はまた私を呼び止めた。

 彼は一瞬困ったように視線を宙へと泳がしてから私を見た。

 

「七海さん。あの、何か、体に変化はないですか? どこか痛んだりだとか、うずいたりとか」

 

「……? いえ、特には」

 

 こんな風に突然体を心配されたのは、これで今日二度目だ。彼らは私自身にも気付けないような何かを知っているのだろうか。

 首を横に振った私を彼はもう一度だけ見て、ふっと息を吐いた。

 

「どうしてですか? 」

 

「……いえ。ないなら大丈夫です。それでは、後でお願いしますね」

 

 二人の質問によって頭の隅にしこりのようなものが残ったが、それでも、この後のことを考えたら、そのことはすぐに気に止めない問題となった。

 

 去っていくネギ先生を見送ってから、私は自分がやるべきことのために準備を始めることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

「……調子の方はどうだ」

 

 コポコポと、フラスコの中で沸騰する音が部屋の隅まで反響していた。薄暗い地下室の中で立てる音はよく響き、女が部屋を歩く音すら妙に耳に残った。

 

「私? もう大丈夫よ」

 

 女は私ではなく試験管を見つめながら応える。エメラルドグリーンの色をしたその液体は透明度も高く、試験管に女の大きな瞳が反射していた。

 

 女は、昨日から休まずに実験をしていた。

 溶媒の煮沸時間や留去時間はそれなりにあったが、その間も眠ることなく作業に没頭していた。

 休まないのか、と尋ねたが、女は馴れてるから大丈夫よ、と応えるだけだった。

 

「お前じゃない。薬の方だ」

 

 私が顎で薬の方を指すと、彼女は笑った。疲労を感じさせない笑みだった。

 

「分かってるわ。冗談よ。……こっちは、まだ少しかかりそう」

 

「世界樹の発光までに間に合うのか? 」

 

「……ギリギリってところかしらね」

 

「……そうか」

 

 この時点でギリギリということは、薬の悪影響が分かった所で対策を打つ時間はほとんどない。実質間に合っていないようなものだった。女もそれを分かっているからか、その表情には焦りが隠れているのが見えていた。しかしそれでも丁寧に手早く作業を続けている辺り、女は相当手慣れているのだろう。

 

「エヴァちゃん、別に私を見ていなくてもいいのよ? 外もなんだか楽しそうにしてるし、行ってきたら? 心配しなくても何か悪さをしたりはしないわ」

 

「……阿呆。この状況で楽しめる訳ないだろう。それに、私のいない間に家を爆発などされたら困る。これでもここには結構な愛着があるんだ」

 

「あら、あんまり信用されてないのね」

 

「出会ったばかりなのに信用も糞もあるか」

 

 実際は、そういう心配はしていなかった。女は、空いた家をどうにかしようとするくだらない人間には見えなかった。

 今すぐ七海の側に行ってあいつの調子を見ている方がいいのかとも思ったが、私は何となくこの場を離れることが出来なかった。

 今七海の元に行っても、私にやれることはない。ならば、ここで女が少しでも早く薬を作るように急かして、それを見ていた方がいいと思っていたのかもしれない。

 

「私はエヴァちゃんのこと信用してるけど」

 

 女は苦笑しながらそう言って、試験管の液体をフラスコの中に入れた。何らかの化学反応を起こしたのか、フラスコ内での沸騰が激しくなり、ボコボコと壁を殴りつけているような音が鳴った。

 



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72話

本日4話目です。


 

 

 真っ赤な大地の下で吹く風は砂埃を舞いあげていて、空気はざらざらとした砂の味がした。

 荒廃としていて、殺伐としていて、救いがない時代だった。

 身体を包む大気は、いつも暗く重たかった気がする。自由がなく圧迫される感じは、息苦しくて仕方なくて、皆の胸の底には常に不安と言う暗雲が立ち込めていた。

 そんな世界で生きてた私達は知っている。

 

 現実は、天国でも楽園でもない。

 

 それでも、人々は前に進み続けようとしていた。

 自分の中で大切なものを見つけて、それを守り通すために必死だった。家族や恋人、友達、そういう者のために、人は本気になれたし、前を向けた。

 

 私は、そんな人々が好きだった。

 あの現実を絶望と捉えず、それでも生きようとする人々が、好きだった。だからこそ、あの世界を変えたかった。

 

 天国や楽園じゃなくても別にいい。

 普通の世界でよかった。

 爆音や、銃声や、悲鳴が上がらないような、そんな世界で皆で過ごしたかった。

 

 気付いたら根本からあの世界を変えようとする方法を模索していた。今持てる自分の知恵を最大限に絞り出して、どうすればいいかを常に意識して思考していた。

 そして思い付いたのが、過去を変えるという方法だった。

 

 すぐにタイムマシンを作るために準備を始めた。物理学、化学、生物学。あらゆる分野に手を伸ばし、理論や技術を独学で学び、過去の状況を調べ、どの時代で何をすればこの世界を変えれるかを、必死に考えた。

 不確定要素はあまりに多い。それでも、やる価値はあると思った。私なら、いや、私にしか出来ないことだと思った。

 

 これは、倫理に反する行動なのだろうか。

 タイムマシンを作りながら、そう胸に過ったこともある。それでも、この手は止まらなかった。止めようとは思わなかった。

 

 これは世界にありふれた悲劇で、皆がその世界で必死に生きているのだから、過去に戻ってそれを否定してはならない。

 今の世界の人にある想いを、蔑ろにしてはならない。

 

 頭の片隅で、自分の行動を否定するような声も聞こえていた。それでも、私の手は止まらない。

 

 分かっていた。この行動は、自分のエゴだ。単なるワガママで、世界を変え、理想を描こうとしている。

 しかし、それの何が悪いというのだろうか。

 

 だって。

 だって、あのまま地獄で生き抜いていくなんて、あまりに悲しいじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 高い空に浮かぶ飛行船から見下ろした麻帆良の街は、いつもより更に騒がしく、夜だとは思えないほどの盛り上がりを見せていた。

 学園の多くのものが杖や銃といった様々な武器を持ち、ローブを羽織り、迫りくるロボットに向かってそれを振るっていた。アトラクションと勘違いしているのだろうか。皆の顔には笑みが見えている。

 

「超さん、これは……」

 

「……まさか、ここまで此方の作戦がばれているとはネ」

 

 額に汗をかきながら私を見た葉加瀬に、嘆息混じりに答えた。ネギ先生達は私達の計画に合わせてかなり準備をしてきたようだ。

 しかし、色々と納得出来ない点が多い。

 何故、彼らは私達の作戦を完璧に理解出来た上で対処出来ているのか。一般人はイベントとして私達の作戦の妨害をしているし、楓は龍宮を抑え、クーや刹那はイベントの助っ人として防御の手薄な所を補助している。まるで、私達の作戦を全て知った上で成り立っているような動きだった。

 

 さらには、本来ネギ坊主に渡したカシオペアは、それごと未来に跳ばすように仕掛けた筈なのに、何故かその罠は作用していない。

 

 そして……。

 

「……茶々丸によって制御されている鬼神のうち、一体は完全に抑えられています」

 

「茶々丸の演算に追い付くだなんて、妨害してる人は普通じゃないヨ」

 

 相手がどれだけ用意しようと、素人達にあの巨大な生体兵器を止められる筈がなかった。教師達も、学園長や高畑先生を除けばこれを抑える術がない。そして、学園長は今のところ出るつもりはなさそうであるし、高畑先生は既に未来へと送っている。

 鬼神6体に魔力溜まりの制圧を任せればそちらは簡単に済むように思えたが、それを邪魔しているものがいる。

 その者は、ガイノイドである茶々丸に対抗している。電脳世界で彼女と渡り合えるような人間はこの世界には当然いないし、未来でさえそうは居ないだろう。

 私達の回線にいとも簡単に潜り込み、それを為すものは一体何者なのか。

 

「……仕方ない。茶々丸の演算は後で助けることにして、とりあえず葉加瀬は最終段階に移る準備をしてほしい」

 

「はい。分かりました」

 

 葉加瀬は頷いてから魔方陣の上でコードを唱え、目の前の空間にディスプレイを表示させた。腰ほどの高さに浮かぶ半透明な画面に向かって、触れるようにしてカチャカチャと手を動かしている。同時に、最終段階に入るための詠唱も唱えていた。

 丸い眼鏡と白衣が似合う彼女は運動などはさっぱりだが、こういう時の手際は誰よりも良かった。頭も良く、この世界で一番私に付き合ってくれたのが、彼女だ。

 

「……葉加瀬、貴方は私に何も言わないんだネ」

 

「あれ? 超さんらしくないですね。私にも止めて欲しいんですか? 」

 

「いや、只の興味本位で聞いただけだヨ」

 

 やっぱり、と呟いて葉加瀬はくすりと笑う。

 

「そりゃ私にも思う所はありますよ。七海さんの話を聞いちゃえば。

 私だって超さんには自分を大事にして欲しいと思いますし、今のままのあのクラスもこの世界も好きですもん」

 

 どこかいつもより子供らしい様子で、葉加瀬は言う。

 

「……でも、私は超さんがこれまでどれだけ頑張ってきたのかを、目の前で見てますからね。そんな超さんに報われて欲しいと思うから、最後まで付き合いますよ」

 

「……」

 

「え。何ですか、その顔」

 

 私が目を少し大きく開けると、彼女は睨むようにして私を見た。

 

「……いや、正直少し意外だったネ。葉加瀬は私の技術や資料のためだけに協力してくれる、世界なんて何も気にしない狂気のマッドサイエンティストだと思てたヨ」

 

「ひどいですね! 」

 

 流石にそこまでは本気で思っていないが、事実、初めにあった時の彼女は少しそんな気があった。私の提供する未来の技術に見とれて、協力を約束してくれた筈だ。

 

「……2年もあれば、色々変わりますよ。超さん、貴方なら、この世界の色んな人に好かれているのに、気付いてない訳じゃないでしょう? 」

 

「……それは……」

 

 言いかけて、私が口を閉じると、葉加瀬は小さく息を吐いて、またディスプレイを連続して叩いて詠唱を始めた。

 

 下方から、風を切る音が聞こえた。

 葉加瀬が、私を見て小さく頷く。私はそれを見ただけでその意味を察した。

 

「……きたか」

 

「超さん……」

 

 私が俯けた顔を上げると、杖に乗り空を飛んでいる小さな少年が、私達の前にいた。

 遅れて吹いた風は、彼の赤髪を揺らしている。

 

「ネギ坊主、良く来たネ」

 

「超さん、僕は、貴方を止めに来ました」

 

 知ってるヨ、と私は小さく呟く。が、上空4000メートルであるここは風が強く、彼の耳まで届いたかは分からない。

 

「その前に、訊きたいことがあるヨ。どうして私達の作戦が分かった? そして茶々丸を止めているのは誰だ? 」

 

 一瞬、七海ではないかとも考えたが、それはないとすぐに自分で否定した。確かに彼女の頭はいいが、それは未来予知出来るというレベルではないし、生物学ならまだしも機械やネットにそこまで強いとは思えない。

 ならば、私の知らない第三者が協力しているのかと思ったのだが。

 

「……誰よりも優秀なクラスメイトが、教えてくれました。そして、その人は今も頑張ってくれています」

 

「……本当とは思えないネ。そこまで出来るものがあのクラスにいるとは考えられない」

 

「いますよ」

 

 ネギ先生は、断言するように力強く言って、私の目を見た。

 

「……まぁいい。どちらにせよ、私のやることは、計画を進めるために君を諦めさせることだ」

 

 そうだ。確かにその存在は気になるが、今は考えても仕方がない。とりあえずは、目の前の障害を振り払うのが先だ。

 

「僕は、諦めません。3-Aの教師として、生徒である貴方を止めます」

 

「ふふふ、教師として、カ。それが本当に私のためになるとでも? 」

 

「それは僕にはまだ分かりません。でも僕は、貴方を含めたクラスの皆が好きだから、ここで動かなくてはなりません」

 

「……貴方のエゴを、私に押し付けるつもりカ? 」

 

 ネギ先生が、ふっと、優しく頬を緩めた。

 

「そうですね。これは僕のワガママだ。超さん、子供の僕のワガママに、付き合って貰えますか? 」

 

 杖から降りて飛行船の上に立ったネギ先生が、腰を下げて、ぐっと構えた。

 

 

 ……我が儘、か。

 

 結局、各々が自分のエゴを貫こうとしているだけなのだ。自分のやりたいこと、自分が自分であるためにしなければならないことを、曲げられなくて、こうやってぶつかっている。

 

 それでいいと思った。

 倫理や正義などは、考えてもきっと答えは出ない。私達のようなちっぽけな存在は、自分の気持ちに正直になるために行動するので精一杯で、それが一番分かりやすい。

 

 

「良いだろう。私は私のワガママを貫かせてもらう。

 では、行くぞ、ネギ坊主」

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 自分の腕と彼の腕が交差するようにしてぶつかり合う。装備で強化した私と、魔法で強化した彼の身体が重なり合う度に高い音を空へと響かせた。カシオペア使い同士の戦いだ。葉加瀬には、私達二人がどんな動きをしているのかも分からないだろう。

 

 背中に付けた高性能AIに頼り、カシオペアを作動させて次元を超え、彼の後ろに回り込む。勢いよく突き出した掌は確実に彼の身体を捉えていたのだが、彼の姿がふっと視界から消えた。突然真横に気配を感じ防御の姿勢をとるが、鋭く繰り出された拳は私を大きく吹き飛ばした。

 

「……本当に、カシオペアを完全に使いこなしているとはネ」

 

 そのまま距離をとって、自身の体勢を立て直す。

 彼は、私の与えたカシオペアの仕組みを理解し、精霊によってそれを使いこなしていた。

 簡単なことではない。私達ですらカシオペアの有効活用には多大な時間を掛けていたのだ。それを、精霊を使ったからと言って一朝一夕で出来るようになるとは、彼も普通ではない。陳腐な言い回しになるが、天才、と言うものなのだろう。

 

 ネギ坊主は、細かく肺から息を押し出しながら、私に強く視線を送る。

 

「これで、カシオペアによる差はなくなりました! 僕達は互角です! 」

 

「さて、どうカナ」

 

 腕を横に振り、銃弾を羅列するように空間へと出現させた。数えきれないほど無数に現れたそれは、くらったものを未来へと送るこの場においては一撃必殺のものだ。

 彼は状況を見て焦りを感じたのか、すぐにカシオペアを用いて私の後ろへと次元を超えて現れる。その動きを読んでいた私は、彼が攻撃を放つ前に用意していた足を大きく回し、それが彼の身体の芯を捉えた。

 

「……くっ! 」

 

 体勢の崩れた彼がすぐに持ち直そうとするが、その隙を与えることなく私の拳が彼の頬を捉えた。次は、彼が大きく吹き飛ぶ。

 

「……ネギ坊主、あなたは、実戦の経験値が明らかに少ない。これは修行や試合ではなく、実戦だ。感じる空気がまったく違うだろう? 」

 

 私の知る限り、実戦という形で彼が戦ったのは、京都での犬上 小太郎との一戦だけである。しかもそれすら犬上 小太郎にとっては少しばかりの遊び心というものがあり、真剣に相手と向き合った経験はほぼないに等しい。

 絶対に負けられないというプレッシャー。本気で自分を潰そうとしている敵。実戦はそれだけ試合とは違い、経験によってでしか養えない感覚が必要となる。

 

 

 ……史実通りの本来の彼なら、もっと多くの敵と戦っていた。

 

 エヴァンジェリン、京都ではリョウメンスクナ、そして悪魔とも彼は一戦交える筈だったのだ。

 ここまで過去が変わったのは、何故だろうか。私は彼とは今まで多くは関わっていない。とすれば、もう一つのイレギュラーである、七海のせいであろう。

 彼女の行動がどのようにしてバタフライエフェクトとして働いたから分からないが、少なくとも今それは私の有利に働いていた。

 

 

 その後も、何度か彼とぶつかり合う。

 お互いに、敵の身体よりもそれぞれのカシオペアを狙うような動きになってきていた。当然だろう。この戦いに置いて、カシオペアが先に機能しなくなることは負けを意味する。

 私は彼の時計型のカシオペアを。彼は私の背中にある制御装備を。どちらも一撃を与えてそれを壊せば、勝負は決することが分かっていた。

 彼は、まだ身体に緊張が残っているからか、動きは硬く大振りであった。なんとか自身のカシオペアを守るが、傷が多くなっていくのに時間はさほど掛からなかった。

 

 二人の衝突が音を成して空を響かす。しかし次第にその音も鈍くきごちなくなっていき、ついには片方が足を止めた。

 

 

 

「……そろそろ、決着が見えてきたネ」

 

 ネギ坊主は私と違い、自分の魔力を用いてカシオペアを使用している。先に疲労が溜まるのは目に見えていた。彼は、膝をつき、肩で息をしながら私を強く見る。

 

「……まだです。僕には、味方がいます。心強い味方が」

 

「っふふ。しかし、ここに来れなければその味方は意味をなさない」

 

 私の言葉に対して、彼は意味深に笑って返した。

 強がりか、それとも本当に誰か助っ人が来るのを待っているのかは判断出来ない。

 

 早々に決着を付けなければならないと思った。

 誰が来るつもりなのかは分からないが、こちらにはまだ茶々丸の手助けも残っている。ここで時間を掛ける訳にはいかなかった。

 彼を見る。諦めている様子は微塵もない。意思の強さを感じる目だ。

 

 

 しかし、私も負けられない。

 想いの強さで勝負が決まるなどと非科学的なことを考えたことはなかったが、今は、自分の想いの方が強かったのだと、自信を持って言えた。

 負けられない闘いだった。

 世界を、変えるために。

 地獄から、抜け出すために。あんな世界であるくらいならば、私が変える。

 

 だからこそ。

 

「―――これで 」

 

 ―――最後だ。

 

 

 私は膝をつく彼の後ろへと次元を超えて移動し、手に持つカシオペアへと拳を振り落とそうとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っ! 超さん! 世界樹が! 異常な光源反応を! 」

 

 

 その拳が、彼のカシオペアを貫く直前に、葉加瀬の声が大きく響いた。

 

 

 

「なにっ!? 時間にはまだ……! 」

 

 

 葉加瀬が張り上げた声に、私は思わず振り返ってしまった。

 まだ、魔力溜まりを全て抑えていない。

 今の時点で世界樹の発光がピークを迎えてしまえば、作戦が全て台無しとなってしまう。その発言を無視することは不可能だった。

 

 

 

 

 

 

 

 世界樹は、光っていた。

 確かに、力強い発光をしていた。

 

 しかし、どこか妙だ。発光している光の粒が、世界樹の枝の中、綺麗な線を描くように、ゆっくり、ゆっくりと移動していて。

 

 真っ暗な空の下で。小さな粒となって、キラキラと飛んでいる。

 

 

 

 

 その光の一つが、私の下まで向かってきた。

 それは、ぶんと羽音を立てて私の横を通りすぎていく。

 

 

 

 

 

 

 

「…………これは……ホタル……? 」

 

 

 

 

 

 葉加瀬が、唖然としながら呟いた。

 キラリと光を帯びながら、去っていくのはホタルだった。

 

 通常のホタルとは信じられないくらいの光源を尻につけた大量のホタルが、人魂のようにふらふらと世界樹の周りをさ迷っている。

 

 

 

「……ホタル」

 

 

 私は、言葉を失っていた。

 

 金色の光を放つ無数のホタルが、銀色の世界樹の周りをくるくると廻る。まるで誰かを、祝福しているかのように。まるで、誰かを、讃えているかのように。

 

 この世界の綺麗さを、訴えているかのように。

 

 

 それは、本当に。本当に綺麗な景色であった。

 

 

「……超さん! 」

 

 光に見とれている私の背後に、いつの間にかネギ先生がいる。 それを気付かせようと、葉加瀬が叫ぶ。

 だが、私は何故かそのホタルの光から、目を離すことが出来ない。

 

 

「超さんっ!! 」

 

 

 光の一つ一つが、幻想的だった。

 私に、夢を見せてくれているようだった。

 私は、その光に、この世界での思い出が詰まっているかのように、錯覚してしまっている。

 

 

 

 

 この世界は、私にとって、楽園のようだった。生きることに不自由しなくて、笑顔でいることで躊躇いがいらなくて。あまりに美しかったこの世界は、偽りのようにも見えていた。

 

 

 でも。

 こんな風に、形として美しい世界を目にしてしまうと。憧れだった世界を見てしまうと。私は目が逸らせなかった。

 

 

 

『私は、君の友達として、仲間として、君を止めるよ』

 

 

 

 ……そうだネ。確かに。これは、止まらずにはいられないヨ。

 

 

 

 

「――雷華崩拳」

 

 

 

 微笑えむ私の背中に、彼の拳が、強く突かれた。

 

 



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73話

 

 

「うわ! すごい! あの子供先生、すごいじゃん! やるぅ! 」

 

 夜空に響く歓声の中、明智 ういの感嘆の声が横にいる僕の耳にも届いた。他の観客も顔を上げ、上空に浮かぶスクリーンに映るネギ君に向かって称賛するように声を張っていて、一帯は軽い騒ぎになっていた。

 彼女達の両手には迫り来るロボットを倒すための魔法銃があり、更に肩には支給された白いローブを羽織っている。先程までは意気揚々とイベントに参加していたのだが、街の空にある巨大スクリーンにネギ君の姿が映ると、皆がそちらに夢中になってしまった。

 

 太陽は落ち、月が出ている時間だというのに、彼女達の興奮と喜びの表情が、はっきりと照らされていた。月や街灯による明かりによってではなく、世界樹から洩れる激しい光によってだ。

 この祭りがもうすぐ終わってしまう、ということを心の中で分かっているからだろうか、少なくともこの広場での盛り上がりは、これまでの比ではないほどだった。

 

 

「まるで本当に闘ってるみたいだったねぇ! CGとは思えないほどリアルだったよ! 」

 

 彼女は周りの雄叫びに負けじと、大きな声で私に向かって話し掛けた。

 僕が返事をしなくても気にすることなく、彼女はいつもの笑顔のまま、これまでと同じように、僕に声を掛ける。

 

「それに、ほら! 見てよフェイフェイ」

 

 毎度の如く僕を渾名で呼びながら、見て見て、と続けて、彼女は僕の肩に小さな手を置き、もう片方の手でスクリーンを指差す。

 肩に軽く感じる暖かさを認識しながら、その指先に釣られて、僕もゆっくりと顔を上げて、画面を見る。

 

「世界樹がさ、とっても綺麗だよ! 」

 

 スクリーンには、勝負が終わったネギ君と少女が映っていて、その側には、世界樹が見えた。この場所から見える世界樹よりも近くで映し出されたそれは、細部までしっかり見えて、銀色に光る葉の間にある金色の魂がさ迷うように揺れているのが、画面を耀かしいものにしていることが分かった。

 

 

 

「……確かに、綺麗かもしれない」

 

 思わず、声が出た。僕がそう言った途端に、明智 ういは驚いた表情をした。

 

「……なんだい? 」

 

「……なんかさ、珍しいなぁって」

 

 彼女は、今度は少し控えめに、くすくすと笑い声を洩らした。

 その一瞬は、全く似ていないと思っていた彼女の姉とたぶっているように見えた。改めて、姉妹と言うものの不思議さを感じる。

 

「フェイフェイはさ、あんまり自分の意見とか言わないし、綺麗だ、なんて一番言わなそうだったから」

 

 はにかみながら、彼女はうんうんと頷いている。その動きに付いていこうと、彼女の二つに縛った髪が楽しそうに揺れた。ゴムについたさくらんぼが、光に反射してきらりと光る。

 

「……フェイフェイも変わったってことかもねぇ。 初めて会った時なんかずーっとつまらなそうな顔してて、私心配しちゃったもん」

 

 彼女は自身の両目尻に手を添えてから、そのまま左右に伸ばすようにして、目を横長にした。

 

「フェイフェイ、最初はこーんな顔してたよっ」

 

「……僕の目はそんなに細くない」

 

「あはっ! そだねっ! こんなには細くないね! でも、釣り上がってはいると思うよ? 」

 

 何が可笑しいのか、彼女はまた一人で笑った。勝手に楽しそうになりながら、視線を再びスクリーンに戻している。

 

 

 

 皆が視線を上へと上げる中、僕は、頭を下げて、自分の掌を見つめていた。

 

 作り物で、人形である、僕の掌だ。

 

 

 

 ――変わった? この僕が?

 

 考えてみれば、前までは景色に対して何か思うことなんてほとんどなかった。景色なんて、僕にとってはただの視覚情報でしかなかった。

 しかし、この街に来てからは、色んなモノを見た。彼女に腕を引っ張られながら、これは凄いよね、これは面白いね、と、何度も尋ねられてきた。

 その時も、特に何か思ったことはない。

 それでも、彼女の表情を見れば、彼女の楽しそうな笑顔を見れば、そうなのかもしれない、と思わされることはあった。

 僕にとっては何でもなくても、少なくとも、彼女にとっては違うのだ。

 彼女にとっては、この世界はつまらなくなんかなくて、この世界は楽しいモノに溢れていて。

 彼女はそれを僕に教えてくれているようだった。

 

 

 

 掌をゆっくりと握ってから、僕は少女の横顔を見る。スクリーンを見上げながら、笑う少女の横顔を。

 

 

 

 

 ―――もうすぐ。もうすぐの筈だ。

 

 この子の姉が、この子の姉でなくなるのは。

 元から、それを見届け、アシストするのが僕の目的であった。そのためにここに来た筈なんだ。

 

 

 

 ―――だが、この気持ちはなんだ。

 

 胸の中に重くくすんだ煙が撒いてあるようなこの気持ちは、なんだ。

 

 どうして僕は、こんな想いをしているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

 ……ネギ先生は、上手くやってくれただろうか。

 

 大学前には、私以外の人影は見えなかった。皆、世界樹広場の近くへと向かっているのだ。学園祭最後のイベントを、それぞれ楽しもうとしているのだろう。

 私は暗い空の下、遠くで優しく光る世界樹を、幾つもの虫籠を前にしたまま一人で見上げた。吹く風にはどこから運ばれてきてのか、ほんのり熱気が篭っていて、肌寒さは感じない。

 

 一匹のホタルが私の足元から飛び上がって、前を通りすぎていった。それもまた世界樹の方へと向かっていく。どうやら、まだ一匹虫籠の中に残っていたらしい。

 見送るそれの臀部に備える光は、野生のものと比べると規格外なほどに大きい。大きすぎる光はホタル自身をすっぽりと囲んでいて、まるで金色に光るシャボン玉がゆらゆらと浮かび上がっているように見えた。

 

 

 このホタル達は、去年長谷川さんに世界樹の話をしたときに、水槽で飼っていたホタルの幼虫が成虫になったものだ。

 

 幼虫期から世界樹の粉末入りの水槽内で過ごしたホタル達は、その頃から既に普通ではあり得ないほどの光りを発していた。

 ホタルは自身のATPを用いて光を灯す。 ATPは全ての生物に共通してあるもので、その重要性から生体のエネルギー通貨とも呼ばれるものだ。世界樹によって活動性や生命期間が伸びる昆虫に対して薬を適応させたら、それらの反応が活発に行われることは予想できた範囲だ。

 加えて、ホタルは自身達の光に対しての応答性がある。世界樹の薬を適応されたホタル達が、その世界樹本体の光へと向かっていくことも、なんとなく予測できた。

 

 強い光を放つホタルが近くに来たのなら、もしかしたら目眩ましとして使えるかもしれないし、超の気を引くくらいの活躍は出来るかもしれない。そう思って、この作戦を考えた。ホタルが成虫になる時期は大体5月から6月の間で、学園祭の時期が重なっているのも、運が良かった。

 

 

 世界樹を見上げる私の耳に、遠くから歓声が聞こえた。雄叫びのように響いたそれが、私に結果を知らせてくれる。

 イベントの関係上、他の参加者達にとって、超は最後のボス的な扱いだった筈だ。彼らが喜ぶということは、つまり、ネギ先生は勝ったのだ。

 

 

 ほっとして、自然と肺から息が出た。

 

 超は、これで思い止まってくれるだろうか。

 彼女が強い想いを持っていることは、皆が分かっている。それでも、思い直して欲しかった。一人で頑張ろうとせずに、私達を頼って欲しかった。

 

 彼女は、自分を止めてみろ、と私達に言った。

 そして、結果ネギ先生が勝ったことにより、少なくとも、今すぐにあの作戦を実行することはない筈だ。超はきっと、そういう所は義理堅い。

 

 超が、これからどうしていくかはまだ分からない。

 私達と一緒に未来を変える方法を考えるかもしれないし、もしかしたら、もう一度この世界に魔法をばらす方法を思索するかもしれない。

 

 

 

 だが、そんなことよりもまず、今日はこれから後夜祭だ。

 

 きっと、超が何かを考えることを忘れてしまうくらい、皆ははしゃぐだろう。色んないざこざをなかったことにするくらい、騒ぐことになるだろう。

 それが、私達のクラスメイト達だ。

 喝采の声が舞い上がり、うるさいほど楽しむ彼女達の姿が容易に想像できて、私は一人で笑った。

 

 

 そうだ。私も、皆の元へ向かおう。

 

 学園祭最後の日くらい、私も羽目を外して、いつもより少しくらい大きな声を出すのも良いかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、足元にある虫籠を片付けようと手を伸ばそうとした時、

 

 

 硬直が、私を襲った。

 

 

 

 

 

 

 

「……っ! 」

 

 頭の芯から、急激に熱を帯びていく感覚がした。

 喉が、痛い。胸の内に不純物が入り込み、ぐるぐるとひっくり返るような、不安定さを感じる。

 あまりに突然の衝動に耐えきれず、腹は強張り、足の筋肉は震えはじめて、私は気付けば膝をついていた。

 

 

 

『……君は、なんともないのかい? 』

 

『何か、身体に変化はないですか? 』

 

 幼い二人の少年の声が頭に過る。

 

 体勢が崩れ、身体を支えていた手が何かを求めるように伸びる。倒れた身体の先に虫籠があって、誰もいない夜の中、がしゃん、と音を立てて虫籠が倒れた。

 

 

 

 ―――この感覚は、なんだ。

 

 まるで、自分が、自分でなくなるような。

 

 息遣いが、信じられないほど荒くなっていてた。指先に力が入り、地面に爪を立てて引っ掻く。がりがりと痛ましい音がなった。

 

 胸の中の不純物がどんどんと大きくなっている気がした。身体の底から恐怖が這い上がってくるような感覚がする。私はそれに耐えるために、無理矢理歯を食いしばった。

 頭には、絶え間なくノイズが走り、脳を引っ掻かれているような気分になった。

 

 

( ――おい! しっかりしろ! )

 

 ノイズの裏側で、声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声だ。しかし、朦朧とする頭では、それをいつどこで聞いたかは思い出せない。

 

 

(――意識をはっきり持て! 負けんじゃねぇよ! )

 

 男の声が、私に必死に声を掛ける。

 そうだ、この声は、確か、世界樹の世界で。

 

(――思い出せ! あんたがここで過ごした日々を! 乗っ取られてる場合じゃねぇだろ! )

 

 ……乗っ取られ、る?

 

 意味が、分からない。考えが、纏まらない。目に力が入らず、視界はどんどん狭くなっていく。どくどくと、脈が異常に強くなっている音だけが耳に入る。身体は信じられないほど熱くなっていき、見えない何かが私に覆い被さっているかのような重さを感じた。

 

 

 

 

 とっさに頭の中に思い浮かんだのは、私が生まれた病院の風景だった。

 それが引き金となって、突然、記憶が甦っていく。

 一つの記憶がまた別の記憶に繋がって、輪を作っていく。

 

 

 新しく生を受けた、この世界。

 妹の、ういが生まれ、幼稚園で、礼儀正しい少女のあやかと出会った。

 小学校では明日菜が転校してきて、クラス替えで、長谷川さんに会った。

 中学校でA組となり、子供っぽく騒がしいクラスに心配もしたが、このクラスは不思議な纏まりがあった。

 エヴァンジェリンと茶々丸に命を助けられて、友達になった。

 ネギ先生が、教師としてやって来たときは、流石に少し驚いた。試験勉強をクラス皆で頑張り、修学旅行では、木乃香と刹那が仲直りできたし、そのあと皆で、リゾートにも行って、それから、学園祭の準備もして、それから……。

 

 

 

 沢山。沢山思い出があった。

 短い間ではあったけれど、前世にも負けないくらいの、楽しい出来事が沢山あった。

 二度目の、私の人生は、誰にでも大声で自慢できるほどに素敵なもので、素敵な人たちに囲まれたものだった。

 

 

(――おい! )

 

 

 負けたくなかった。我が身を捉えている訳の分からないこの衝動に、この身体を譲りたくなかった。

 混乱し、波立つ身を、心で必死に抑える。

 落ち着け、落ち着け、と、胸を手で握り締めるように押さえながら、呟き続ける。

 私が、私だ。

 不安定なものかもしれない。前世から引き継いだ魂なんて、この世界からしたら異物かもしれない。それでも、私は今が好きで、大切にしていきたい。

 

 だから――。

 

 

 

 

 

 ――――あなた、負けないで。

 

 

 

 

 

 聴こえる筈のない、妻の声がした時。

 

 

 

 

 世界が、暗転した。

 

 



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第74話 番外編

息抜きに番外編になります。


 

「実はな、俺、お見合いすんだよ」

 

「……はぁ」

 

 大学の研究室で、実験をする訳でもないのに悩むように椅子に座り、散々頭を掻いていた教授が突然そう切り出した。

 白衣を着てフラスコを振っていた私は、失礼ながらも大したリアクションもとれず、それも実験の途中ということもあって、次に別の試薬を棚から取り出しながら適当に返事をした。

 

「それは……よかったですね、と言えばいいのですか? 」

 

「良くねぇよお前、ばか」

 

 取り出した試薬をピペットマンで吸い上げて少量フラスコに混ぜる私に、教授はさらに頭を掻いてから叱る。

 コンタミの可能性が増すのでやめて欲しいのですが、と小さく口に出したが、彼は聞いていないようだった。

 

「何故ですか。教授、別に他の想い人がいる訳ではないのでしょう? 」

 

 フラスコに蓋をして冷蔵庫に入れてから、私は仕方なく教授の正面に座ってから聞いた。

 彼がこのままそこにいたら実験がやりにくくて仕様がない。さっさと用件を終わらせてしまった方が得策だと思ったのだ。

 

「いねぇけど。結婚とかしたいと思ってねぇんだよ俺は」

 

「……教授、今おいくつでしたっけ」

 

「31」

 

 意外に若かったことに驚いて、思わず彼をじっと見てしまった。ボサボサの頭、剃りきれてないひげ。勝手に40代だと思っていたが、身形を整えたらそれなりにしっかりするのかもしれない。

 

「まだ30代になったばっかだぜ? 一人でのんびり過ごしてぇんだよ。結婚なんて、時間を奪われるだけじゃねぇか」

 

「そんなことはないです」

 

 私ははっきりと否定した。

 結婚とは、決して辛いものではない。自分の事を分かってくれて、いつでも味方でいてくれる存在が増えるのだ。そう考えるだけで、何よりも価値のあるものだと私は思う。少なくとも、前世の私は幸せだった。

 

「はぁ。若い者は夢ばっかみてていいねぇ……」

 

 教授から見たら私は只の中学生だからか、夢見る女子の発言としてそれは捉えられてしまう。

 

「それで、なんでそんな話を私に? 」

 

 彼がこのようにプライベートの話をするのは珍しい。私にわざわざ愚痴を言うために話したとは、考えにくかった。

 教授は、その発言を待ってました、と言わんばかりに机に乗り出して私を見た。

 

「実はよ、ちょっと明智に協力して欲しいんだよ」

 

「……何をですか」

 

 嫌な予感が激しくしたが、一応聞いてみる。

 

「お見合いを断る協力」

 

「嫌です」

 

「ちょっとは悩む素振りくらいしてもいいんじゃねーの 」

 

 私はもう一度はっきり首を振った。

 

「断りたいなら、相手方に素直にそう言えばいいのでは」

 

「あのな。誘われた手前、男から断るのは完全にマナー違反なのよ。それによ……」

 

 聞けば、お見合いを持ち掛けた人物は、教授が電車で席を譲っただけで何故か彼を気に入ったらしく、話をしてきたそうだ。初めは冗談だと思って軽く受け答えしてしまったのだが、後々調べてみればその人物はこの街のかなりの権力者で、頻繁にお見合いをさせているものらしい。

 その人物が普通のちょっと世話好きなお爺さんならば、話はそこまで難しくないのだが、それが権力者であるが故に、教授は直接断った時のデメリットを心配しているのだ。

 

 研究者として、公の場に出る機会はそれなりにある。今その権力者に目をつけられれば、最近出したデータを発表するのに少なからず影響が出るかもしれないと、彼は不安がっている。

 

 

「……心配しすぎですよ。そもそも、研究機関を評価するのは国ですし、街の権力者程度では影響は出ません」

 

「そいつが国に通じてないっていう保証もねぇだろ? とりあえず、不安材料は残したくねぇのよ」

 

「……なら、お見合いを受ければいいじゃないですか」

 

 教授がどのような女性を好むかは分からないが、権力者の娘ならば、言い方は悪いが、好条件なのではないか。それに、別にお見合いをしたから結婚しなくてはいけないという訳でもあるまい。あちら側が断ればそれで済む話だし、一度顔を合わせるくらいの気持ちでも良いのではないか。

 

「……それがな、お相手さん。その権力者の娘じゃなくて孫なんだよ」

 

「……年は」

 

「中学生だ」

 

 流石に私も頭を抱えそうになった。それは、完全に犯罪だ。

 明日菜から高畑先生への恋愛事情については彼女の立場を知っているからこそ黙認出来たが、彼と中学生となると何となく許してはいけない問題に思える。というか、中学生の孫を見合いに出すなど、その祖父は何を考えているのだ。

 

「だからよ、何とか断らなきゃいけねぇんだが、普通には断れない。そこで、明智に協力してもらおうと思ってな」

 

「……因みに、どういう断り方をするつもりなんですか? 」

 

 まだ協力するとは決まってないが、その中学生のためにも、このお見合いは決して成功してはならない。万が一その権力者が乗り気になって事が進み後戻り出来なくなってしまったら、その子が可哀想である。

 

 

 よって、とりあえず彼の作戦を聞くくらいはしようと、尋ねてみると、彼は私に向かって人差し指を伸ばした。

 

 

「実はもう付き合ってる人がいる。んでその相手が明智」

 

「……」

 

 

 

 ……この人は一体何を言っているのだろう。

 

 

 

「私も中学生なんですが……」

 

「大丈夫大丈夫。お前はタッパもあるし顔も大人びてるから頑張れば大学生にまでは見える。……胸がないのがあれだが、まぁそういう大学生もいるだろ」

 

 物凄く失礼なことを言われている気がした。そういうところに気が使えないから、彼は独り身なんだろうとまで思ってしまった。

 

「その作戦、普通に断るのと何が違うんですか? 」

 

「相手は爺だからな。恋人が既にいて、愛だ恋だ言っておけば勝手に納得して、仕方あるまい、とか言いながら引き下がるだろ。ほら、昔の人間ってそういうドラマに弱いじゃん? 」

 

 甘すぎる見通しに、したり顔の教授が目の前にいるのに関わらず溜め息をついてしまう。そんな作戦をするくらいならば、普通に断った方がまだいいのではないだろうか。

 

 

 当然、私はその申し出を拒否した。

 彼の相手役など精神的にもそれを抜きにしてもまったくこれっぽっちもする気が起きないし、そんなものに巻き込まれるのは御免である。

 しかし、教授はあまりにしつこく、何度断っても私に許可を求め続け、最後には、

 

「あーあ。この実験室使わせてやってんのになぁ。誰のお陰で実験できてんのかなぁ」

 

 などとどうしようもなく大人げないことを言い出したため、私はもう断ることが出来なかった。

 

 

 

 

 この時、相手の名前を聞かなかったのが、私の失敗だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

「お見合い、ですか? 」

 

「そーなんよー。もう、またおじいちゃんが勝手にして……」

 

 放課後の教室で、このちゃんが困った顔をしながら呟いた。椅子に座りながら伸ばした両腕を机に乗せて、ほんまに嫌やぁ、とこのちゃんはまだぐちるようにいった。

 

「学園長、またですか……。断ってしまってもいいのでは? 」

 

「ほんまにひどいんよ。それにな、断っても断っても勝手にセッティングして、逃げたりしたら追われたりもするんよ」

 

「それは……」

 

 流石にやりすぎなのではないか。いくらなんでも、そこまでするのが許されるとは考えにくかった。

 

「分かりました。このちゃん、私も協力するので、一緒に逃げましょう。きっと追手も振り払える筈です」

 

「せっちゃん……っ! ありがとう!」

 

 このちゃんが顔をぱっと明るくして、私の胴に抱きつくようにして引っ付いてきた。

 

「へへー。まるで愛の逃避行みたいやな! 」

 

「こ、このちゃん」

 

 にまにましながら恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言うので、私の方が照れてしまう。

 それに、今の発言がもし他のクラスメイトに聴かれたら誤解されてしまう。特に朝倉さんなんかには絶対に聴かれてはならない。

 

 そう思って、教室を見渡そうとしたところ、

 

「甘いな」

 

「ひゃう!? 」

 

 後ろからそっと呟かれて、思わず肩を跳ねるようにさせてしまった。

 

「あれ、エヴァちゃん。まだ教室におるなんて珍しいなぁ」

 

「ふん。タカミチと少し話をしててな。しかし、聞いていたぞさっきの話」

 

 エヴァンジェリンさんが、腕を組みながら何か企みがあるかのような笑みを浮かべている。

 

「あ、あの! どうかお願いですから朝倉さんには報告しないで頂けると……」

 

「そっちの話じゃない! お見合いの方だ! 」

 

 甘いな、と言う発言は私とこのちゃんの関係について言ったかと思ったが、どうやらお見合いの話に言った言葉らしい。

 

「……貴様ら、逃避行などしても、あの爺をどうにかしないと現状はずっと変わらないぞ? 」

 

「……まぁ、そうやよね」

 

 考えてみればエヴァンジェリンさんの言う通りであった。今ここで逃げ切っても、学園長がまた次のお見合い相手を見つけてくるだけで、なんの解決にもなってはいないのだ。

 

「だからな、いい案がある」

 

「いい案? 」

 

「そのお見合いの場を、滅茶苦茶にしてやればいいんだ」

 

 ニヤリと犬歯を見せながら、悪役のような表情でエヴァンジェリンさんが言う。

 

「でも、それやと相手にも迷惑がかかるんじゃ……」

 

「あほか。逃げても迷惑がかかるのは一緒だろうが。どうせならあの爺が二度とそんなことを考えられなくするくらい、暴れてやればいい。全部悪いのは爺だ」

 

「……うーん」

 

 心優しいこのちゃんは、その案を素直に受け止めることが出来ない。悩むように頭を傾けるこのちゃんに向かって、エヴァンジェリンさんが続ける。

 

「貴様がそんな曖昧な態度だからあの爺が図に乗るんだ。たまにはしっかりと自分の芯を見せてやれ。本当に嫌なら、正面から、はっきりと伝えてやるんだ。言葉ではなく、行動でな」

 

「……でもなぁ」

 

「このちゃん」

 

 それでも悩むこのちゃんの手を、私は包むようにして握る。

 

「……あの人を分からせるにはきっとそれくらいするしかないです。私も協力します。……お相手には、後で一緒に謝りにいきましょう」

 

「……せっちゃん……。うん、分かった。うち、もうお見合いとか嫌やもん。お相手さんには、ちゃんと謝って、その上で、その場で頑張ってみる」

 

「……このちゃん!」

 

 このちゃんは、決意を決めた表情をして、ぐっと拳を握って立ち上がった。後ろから光が射しているかのように、彼女の姿は立派に見えた。

 

 

 

 

「しかし、エヴァンジェリンさん。どうして急に私達に協力的に? 」

 

「ククク。あの爺の困り顔が見たいからな。あいつにはそのうちお灸を添えようと思っていたんだ。

 だから、私もこっそりお見合いの場に付いていかせてもらうぞ」

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 お見合いは、料亭で行われた。

 部屋は和室で、壁にある掛軸や陶器に刺さった生け花がその料亭の質を確かに示していて、明らかに高級な店であった。

 

「ふぉっふぉっふぉ。木乃香もようやくその気になってくれたのう。わしは嬉しいわい」

 

「おじいちゃん、うち、何回も嫌やっていったやんな? 」

 

「まぁまぁそう言わんと。ここまで来てしまったらとりあえず一度お見合いしてみたらええ。いい出会いがあるかもしれんのだからの」

 

「……うん。もう、わかった」

 

 着物を来たこのちゃんが、普段は見せないような真剣な顔をして、ゆっくり頷いた。計画を遂行する覚悟を強めたという言い方であった。

 そんな様子を、私とエヴァンジェリンさんは庭の茂みに隠れながら見守っている。

 学園長に見つからないようにとかなり高額な魔法具まで使用して、いつでもここから飛び出せる準備をしていた。

 

「それで、どういう作戦にしたんだ? 」

 

「このちゃんが、お相手の前で初めにはっきりと意思を告げます。全て祖父が勝手に仕込んだことで、此方にその意思はまったくありませんと。私としては、こんなお見合いは金輪際やりたくありませんと。

 そして、万が一お相手が何かアクションを起こしそうになったら私が飛び出しこのちゃんを守ります」

 

 これだけはっきり拒絶すれば、このちゃんがお見合いに対してどう思っているかが伝わる筈だ。

 もし学園長がそれで諦めなくとも、お相手から噂は広まるだろう。学園長の孫は、お見合いの意志が全くないので、その席を用意されても無駄だと。

 

 しかし、突然お見合いを破棄されて、暴れだす相手もいるかもしれない。私は、そんな相手からこのちゃんを守るためにここにいる。

 

 

「……ぬるい作戦だな。もっと、こう、部屋を滅茶苦茶にして暴れるとか、刹那が相手に斬りかかるとか、そういうのを期待してたんだが」

 

「エヴァンジェリンさん、普段私達をどんな目で見てるんですか……」

 

 このちゃんがそんなことする筈ないし、私も一般人にいきなり斬りかかるような真似はしない。

 

 はぁ、とつまらなそうに息を吐いてから、エヴァンジェリンさんはお見合いをする部屋を覗いた。

 このちゃんと学園長が座っているが、お相手さんはまだ来ていない。

 

「相手の情報は? 」

 

「それが、私にもまだ分からないのですが……。あ、来ました」

 

 反対側の襖をすっと開けて出てきたのは、スーツを来た男だった。天然パーマの髪の毛をオールバックにし、少しきつい目をしている。何となくだるそうな雰囲気があり、スーツも、着こなせているようには見えない。少し猫背な姿勢が更にこの店との場違いさを強調していた。

 学園長が、個性的じゃろ、とこのちゃんへ確認するように呟く声が聞こえる。

 

「……あんな年上と、このちゃんを……! 」

 

「刹那、お前らは少し勘違いしているな。年が上であることは決してマイナス要素ではない。それだけ人生経験があり、歩んできた道のりがあるということだ。見てくれと情報だけで判断するようではまだまだだな。意外と付き合ってみたら、最愛の仲になるやもしれんぞ」

 

「……そんなことを言ったら、この計画は台無しなんですが」

 

 私は困った風に言ったが、エヴァンジェリンさんは返事の代わりに欠伸をした。もうこのお見合いに興味を無くしてしまったのかもしれない。作戦を提案したのは彼女だが、気紛れであるが故に、既にここにいるのすら面倒だと思っているのだろう。

 

 

 このちゃんの横に学園長がいて、その正面に位置する場所に男は座った。

 

 作戦通りならば、すぐにこのちゃんが話を切り出す筈だ。息を飲んでそれを見守ろうとしたところで、先に男が手をあげた。

 

「お二人さん。大変申し訳ありませんが、先に伝えなければならないことがあります」

 

「……ほ? なにかの? 」

 

 何となくその場を包んでいた空気が変わったのを感じたからか、興味をなさそうにもはや目を瞑っていたエヴァンジェリンさんは、少し耳を傾けるようにした。

 

「あまりに急なお誘いのため申すことが出来なかったのですが、私には既に結婚を決めた相手がいます。

 この場で伝えることが大変失礼なのは承知しているのですが、私はやはり彼女を裏切れません」

 

「……ふむ。確かに儂もなんの確認もせずお主を誘ったからの。お主としては、言いづらかったことなのかもしれんが……」

 

 意外な展開にも関わらず、学園長は動じる様子もなくその男をじっと深い瞳から見つめた。

 

 私達は勝手に終わってしまいそうなお見合いになっていることで、作戦も決行しにくく、とりあえず様子を見る。

 

「その話、本当なのかの? もしや、見合いを断るためだけに嘘をついているということはあるまいな? 」

 

 学園長の視線が、鋭くなった。この街トップクラスの実力者というのは伊達ではなく、その眼光からの威圧感は計り知れなかった。

 しかし、男はその言葉は予想していたと言いたげに、にやりと不気味な笑みを浮かべた。

 

「……実は、私の相方もここへ連れてきています。……おい、いいぞ」

 

 男が合図をすると、襖の扉が開く。失礼します、という礼儀正しい言葉遣いと共に、出てきたのは――――

 

 

 

「……へ? 」

 

「……え」

 

「……ふむ? 」

 

「……はい? 」

 

 

 

 

 

 

 皆の困惑の視線が集まる中、そこに立っていたのは、明智さんだった。

 

 

 

「え、っと。つまり、え? その人の恋人は、七海ってことなん? 」

 

「い、いや、違うんだ。これには、そのだ。理由があってな……」

 

「おい! ちがくねぇだろが! ちゃんとやれよ!

  いやいやすみませんね。彼女ちょっと緊張してるようで……」

 

「……とはいってものう。まさか七海君が出てくるとは……」

 

 お見合いの場は明智さんの登場によって明らかに混乱としていた。

 

 どういうことでしょうか、と私がエヴァンジェリンさんに話しかけてみる……が、その時には既にエヴァンジェリンさんは私の横にはいなかった。

 

 

 

「七海いいぃ!! 」

 

 風を置いてきぼりにするようなスピードで、 エヴァンジェリンさんは物凄い勢いで茂みから飛び出していった。

 

「おい! どういうことだ! どういうことなんだ!! 」

 

 

「エ、エヴァンジェリン……!君まで、どうしてここに」

 

「そんなことはどうでもいい! お前! 結婚とはどういうことだ! いつの間に! こんなやつと! 」

 

「エヴァ、お主どうしてここに! いや、それよりもまず落ち着かんか! 」

 

「煩いぞくそ爺い! 黙ってろ!! 」

 

「ああ! 学園長が氷漬けに! 」

 

「エヴァンジェリン、まて、これには訳があってだな……! 」

 

「訳だと?! 訳があったとしても! こんなパーマで覇気もなくスーツも着こなせんような奴と一緒になるなんて私が認めんぞ! 」

 

 さっきとは真逆なことを言いながら、エヴァンジェリンさんは叫び続ける。

 

「七海が自分で決めたのなら私だって文句は言わん! しかし! まだ結婚なぞは早すぎるぞ! それに、ちゃんと相手は選んだのか! 弱味か!? 弱味でも握られてるのか!? 」

 

「え、エヴァンジェリン……! だから、違うんだ! まず落ち着いて……! 」

 

 

 

 認めんぞぉ! と言いながら明智さんの肩を揺するエヴァンジェリンさん。

 それにより、ほとんど目を回しながらなんとか言い訳する明智さん。

 氷塊の中で固まる学園長。

 

 作戦を実行せずとも、この場は無茶苦茶である。

 

 

 

 

「……なぁ、おじさん。七海の知り合いやったん? 」

 

「……ああ、大学でちょっとな。あんたらは? 」

 

「うちらは七海のクラスメイトで、友達や」

 

「そーかそーか。あいつ、ちゃんと友達いたんだな。良かったわ。あんま明るいタイプじゃねーし、少し心配してたんだわ」

 少し心配してたんだわ」

 

「くす……。なんやー、おじさん、いい人やなぁ」

 

「あー。悪いが、惚れられても困るぞ。俺は年上の方が好きだからな」

 

「そんな心配いらんよー。うちはあんまり年上好きじゃないんやー」

 

「くくっ。はっきり言うじゃんか」

 

「……でも。おじさんとならお友達になれるかもなぁ」

 

「……ああ、いつでもクラスメイトの友達連れてうちのラボにこい。迷惑かけた詫びに爬虫類沢山みせてやるよ」

 

「ほんま! 楽しみやなぁ」

 

 

 混沌としている場所の中、このちゃんとそのお相手だけが、どこか楽しそうにそれを見守っていた。

 

 

 

 



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75話

 

 ……私の、負けか。

 

 唇から小さく零れた言葉が、夜風に拐われていく。空に浮かぶ飛行船の上で手足を伸ばし体を大の字にして倒れていると、冷たい風がさらりと撫でるように頬に当たった。ひんやりとしたその感覚は気持ちが良かった。

 見上げれば、頭上には紺色のカーテンを背に星が輝いている。天に見える星達の耀きは、いつもと変わらない。皆が学園祭で盛り上がっても、誰かが恋に破れて悲しい想いをしていようと、私が未来を変えようと奮闘しようと、星はずっとこうやって私達に光を届けているのだろう。

 どうしようもなく不変の事実を前にして、私は小さく笑う。

 負けて、作戦が失敗したというのに、私の胸の中には清々しい想いが溢れていた。

 

「……超さん」

 

「まったく。勝ったと言うのに、なんて顔をしているのカナ? 」

 

 近付いてきたネギ先生は、私のことを心配しているのか、表情を曇らせながら声を掛けてきた。この勝負はこうやって殴り合うことでしか解決出来なかったと分かっていたとしても、自分の生徒に手を出すのを心の底から良しとは思えていなかったのだろう。

 

 甘い少年だな、と心の中で笑って呟く。未来で聞いた通りの、お人好しだ。

 しかし、そんな甘ちゃんな彼は自分の中でやらなければならないことをやりきって、私はそれに負けた。

 まだ、奥の手が無い訳ではない。この身体を蝕む魔力を解放させれば、もう一度立ち上がることは出来るだろう。

 だがその手を使っても、カシオペアをいまだ手にしている彼には勝てないと、分かっていた。それほど時間を跳躍する力というのは、強大なのだ。

 強い想いだけで立ち上がるのではなく、こうして冷静に分析してしまう辺り、私は根っからの科学者なんだろうな、と胸の中でそっと呟く。

 

 ……科学者、か。

 

 その言葉に自分で反応して、私は顔を横に向けた。視線の先には、世界樹がある。何よりも大きく、圧倒的な存在感を放つ世界樹。その銀色の光の中には、金色の光を帯びて踊るホタルがいる。

 自然だけで作られたものではない。科学と自然を混ぜ合わせて、どちらも愛するものによって作られたものだ。

 何度見ても綺麗だと思った。 美しく、心に響く。

 幻想的で魅力的なその画に、私は再び目が離せなくなる。

 

「……あれは」

 

「……はい」

 

「……七海がやったことだろう? 」

 

 そっと尋ねた私の問いに、彼はコクりと頷いて応える。

 

「……七海さんは、自分が貴方の気を引いてみせると言っていました。自分にも、出来ることはある筈だと」

 

 人と闘うために拳を握ったことがない。気もなく魔法も使えない。そんな彼女が、この勝負の分かれ目を作った。彼女が使ったのはただひとつ。自分の持ち得る知識だけだ。

 純粋な彼女の作り出した光は、本当に美しいと思えた。

 

 荒廃とした未来にも、光をつくって見せると。彼女はそう言っているような気がした。

 七海達とならば私の未来にも光があると。私はそう想ってしまった。

 あのホタルの光は、彼女が私に伸ばした手なんだ。

 

 

 

 景色に見とれている私に向かって、ネギ坊主が手を差し出す。彼の頬には切り傷があり、腕には痣が残っていたが、それでも彼は私に手を差し出した。

 私はその小さな手を頼りにして、自分の上半身をぐっと持ち上げる。

 それから、諦めるように吐息をついた。

 

「……計画は中止にするヨ。約束だから」

 

「……超さん」

 

「それに、この騒動の後処理もしておこう。私の責任だしネ。……ただ、学園からの罰は、私だけが受ける。葉加瀬と茶々丸は私に従っただけだ。甘いことを言ってるのは分かっているが、それだけはどうかお願いしたい。後は――」

 

「――待ってください、超さん。その前に伝えて置かなければならないことがあります。七海さんのことで」

 

「そうだネ。私も彼女には早く顔を合わしたいヨ。してやられたよ、と一言言ってやらないと」

 

「違うんです。超さん。聞いてください。彼女は――」

 

 負けたのにも関わらず落ち着いて話す私とは対称的に、ネギ坊主の表情には焦りと緊張感が備わっていた。その様子から、私は言い表せぬ不安を感じた。彼は口早に、私に何かを伝えようとしている。額には汗を掻いていて、握る手に知らずのうちに力を込めていた。勝った彼が、何を焦る必要があるのか。

 あまりに真剣な顔を不審に思い、私は眉根を寄せた。

 

「……どうかしたのカ? 」

 

「七海さんが、このあと――」

 

 

 

 

 

 彼が言葉を続ける前に、静寂な夜の中、とん、と静かな音が不意に鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

「……七、海?」

 

 私の呟きに反応して、ネギ坊主がさっと振り向く。そこには確かに、私達のクラスメイトである七海がいる。

 

「……どうしてここに……? 」

 

  私は、彼女がここにいることの違和感にすぐに気付いた。

 ここは、遥か上空。魔法が使えない彼女がこの場所に来れる筈がないのだ。

 

 返事をしない彼女を私がじっと眺めていると、強く、風が吹いた。

 彼女の制服と長い黒髪が乱れるように舞った。ばさばさと制服は音を立て、髪は顔を覆うように流れる。

 

 その髪の間から、彼女の瞳が見えた。

 

「……っ!? 」

 

 彼と私が同時に息を飲む音がした。

 

 

 それは、光のない瞳だった。

 暗く、黒く、全てを呑み込もうとしているほど、恐い色だった。

 

 あれだけ私に光を見せてくれた彼女なのに、その瞳には光がない。そのことが、どうしようもなく恐ろしくて、私の背筋には嫌な汗がぶわりと流れた。

 

 彼女はその凍った仮面のような表情を変えぬまま、ゆっくりと片手を上げて、掌を私達に向ける。口元には、一切の緩みもない。いつものように、優しく笑う彼女はそこにはいない。

 彼女の腕の周りに、円形の黒い魔方陣がいくつも浮かぶ。禍々しさと、悲しさの混じった魔力を感じた。

 

 私と彼は、動けない。

 その魔力の質に怯えた訳ではない。突然の出来事と、変わり果てた彼女の姿を信じたくないという想いが、私達を動けなくしていた。

 

 

 あれは、七海ではない。気付けば、私は胸の中でそう呟いていた。

 七海である筈がない。彼女が、こうであっていい訳がない。私に幻想的な光を見せてくれた彼女が。私に、未来への光をくれた彼女が。

 

 こんな、こんな悲しい――。

 

 

 私は、きっと睨むように彼女を見る。彼女はそれにも全く反応せず、手に込めた魔力を強めた。

 大きな音と暗い光を放ったその手から、無慈悲にも黒い光線のような魔法が放たれる。寸分の狂いもなく一直線に、それは此方へと向かってくる。

 

 

 私は、咄嗟にネギ坊主を押していた。身体が勝手に動いていた。せめて彼だけでも、この黒い濁流に呑み込まれぬようにと。

 体勢を崩した彼は、目を丸くさせて、私を見ていた。

 

「っ超さん!!」

 

 身体を後方に倒されつつも、彼は必死に声を張り上げる。

 

「――戻って(・・・)!」

 

 黒い奔流を目の前にしながら、私は握られていた自分の手を見る。そこには、懐中時計型のカシオペアがあった。

 

 

 

 

 ――なるほど。そういうことカ。

 

 

 

 

 全てを納得した私が頷いて微笑むと同時に、カチリと、世界が変わる音がした。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 僕が 未来から戻った(・・・・・・・)超さんと出会ったのは、今日、図書室で作戦会議をするすぐ前のことだ。

 全身を覆うコートを羽織って僕を空き教室へと呼び出した人物が、このあと闘う筈の超さんだと知ったときは、驚いた。未来から戻ってきたという証拠として、彼女は手に持った懐中時計型のカシオペアを僕に見せた。既に壊れていてもう使えないらしいが、それは僕が今持っているものとまったく同じだった。

 そして、そんな超さんが、過去の自分の計画を止める手伝いをしようと言ったのだから、僕は更に驚いた。

 

「……何故、ですか? 」

 

「何故、とは何に対しての質問カナ? 戻ってきたことについて? それとも君達に協力することについて? 」

 

 どちらもとても気になる質問だ。それらについても勿論理由は聞きたい。

 しかし、それよりも、腑に落ちないことがある。

 

「……過去に戻った超さんが、今の超さんに協力すれば、間違いなく貴女の願いは叶います。それなのに、どうして僕達の味方に……」

 

「今の私は置いといて、ここにいる私自身は既に君達に敗北をしている。私の中では、この勝負はもう決まっているし、納得している。だから、今更どうこうとするつもりはないヨ」

 

 あっさりと言う彼女のその表情には、清々しさすらあった。あれだけ強かった想いであった筈なのに、今の彼女は割り切っている。未来に何があって、彼女を変えたのだろうか。

 

「しかし、未来で負けたからと言って、未来の貴女が今の超さんを止めにくる理由が僕には分からないのですが……」

 

「そうネ。そのことについて、話しておかなければならない。未来で、何があったのかを」

 

 彼女がした話は、予想外であった。

 僕は皆の力を借りて超さんを止めることには成功したらしい。が、その後突如現れた者にやられそうになり、彼女は僕に助けられて過去へと飛ばされたのだ。

 

「その、突然やってきた人物というのは、どんな人だったのでしょうか? 」

 

「……七海だった。あれが本物かどうかも分からないが、少なくとも、姿は七海だったヨ」

 

 深刻な表情の彼女の口から出た答えは衝撃的で、思わず声を張り上げてしまうほどだった。

 

「……まさかそんなっ!彼女がそんなことをする筈がありません! それに、七海さんには闘う力なんて……! 」

 

「……そうネ。私としても信じ難かった。七海がそんなことをする人でないのは、私も知ってる。それに、彼女が力を持たないこともネ。だから、考えられる可能性は二つある」

 

 超さんは、僕の前に二本の指を立てた手を置いた。

 

「……一つは、あそこに現れた七海が偽物であったという可能性。そしてもう一つは、七海が誰かに操られているという可能性。私の考えとしては、二つ目であろうと考えている」

 

「どうして七海さんを使う理由があるんですか! それに! 操るとはどういう……! 」

 

「落ち着けネギ坊主」

 

 語調を強めた僕を宥めるように、超さんは冷静に声を出した。

 

「君は知らないかもしれないが、七海はある症状に掛かっていた。それは命に関わるほどのもので、彼女はそれを乗り越えるために自作した未知の薬を飲み続けていたヨ」

 

 そんな話、僕は聞いたことがなかった。落ち着いた様子で優しく微笑みながらクラスを見渡す彼女の中に、そんな事情があるだなんて僕は知らなかった。

 唖然とする僕を置いて、彼女の話は続く。

 

「原因があるとしたら、恐らくそれだ。その薬は世界樹の魔力を自分に無理矢理流し込むものだった。ならば、彼女がその魔力に当てられて、この大発光に合わせて変化を起こしたと思える」

 

「……そんな。なら、どうすれば……」

 

 その話によれば、七海さんは前からその薬を飲み続けたこととなる。とすれば、今から彼女に注意しようと、彼女を護衛しようと、大発光に合わせて彼女が彼女じゃなくなるという事実は、止められないということだ。

 

「……私は、そんな彼女をどうにかするために動くヨ。君が思っている通り、既に薬を奥深くまで身体に取り込んでいる以上、七海が変化する未来は今更変えられないダロウ。彼女をどこかに閉じ込めていようと、変化した後の彼女には恐ろしいほどの力があったため、逃げられて終わりネ。ならばやはり変化した後の彼女を戻すように動く方が、可能性があると私は見ている」

 

「……それまでは、彼女に手を出さない方が良いということですか? 」

 

「……そうだネ。大発光がなくとも、何が刺激になるとも限らない」

 

 超さんは、ゆっくりと頷く。

 

「変化後の彼女に対処するためにも、私の計画を成功させる訳にはいかない。私の計画が上手くいった混乱した世界の中で、彼女を対処出来るとは思えない。症状的にも、時間が経つほど彼女を戻すのは難しい気がする。混乱に乗じて遠くにいかれたりなどしたら、それこそ終わりだ。

 ……だから、私は電脳方面で今の私を抑えつつ、七海を元に戻す方法を探る。今の私に、私が直接止めろと言ってもきっと聞かないからネ」

 

 自分のことは自分が一番分かっているから、とでも言いたげに彼女は息をついた。

 

「……あの、もうひとつ、聞いていいですか」

 

「何カナ? 」

 

「……世界を、僕達を敵に回してまで計画を遂行しようとした超さんが、彼女1人のために、ここまできて、彼女を救おうとしている。……僕も、当然彼女を救いたいです。ですが、どうしてあなたがここまで彼女に……」

 

 超さんは、自分の計画を捨ててまで彼女を助けようとしている。その心変わりの理由を、僕は知りたかった。

 

 超さんは、頬を緩めて笑った。

 

「……麻帆良中学成績トップクラスの頭脳を持つ私と、葉加瀬と、七海の三人で考えれば、未来にも道がある。彼女はそう言ったヨ。ならばそのためにも、彼女には協力してもらわないと」

 

 優しく笑った彼女から、リン、と鈴が鳴るような音が聞こえた気がした。

 

「なにより、彼女は私達の大事な仲間だからネ」

 

 



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76話

本日4話目です。


 

「おい、どういうことだよ。また、新しい敵が出てきたじゃん」

「さっきの女の子が最後のボスだったんじゃないの? 」

「まだイベントあるのか。ほんとに今年は凝ってんなー」

 

 星空の下、人の集まったこの場所には密度と体温による生温い熱気が漂っていた。ぼんやりと肌を撫でるような感覚が僕の体を包むように覆う。地を這うような湿度のある暖気はあまり心地の良いものではなく、若干の不快感を覚える。人混みは好きではなかった。

 辺りからはスクリーンを見上げながらぶつぶつと呟く声があちらこちらから上がっていた。会場の雰囲気は、動揺や期待が入り雑じった異様な空気に包まれている。

 側にいた子供が、あの人、何か怖いよ、と父親らしき者の足に抱き付きながら言った。大丈夫、イベントだよ、と子供の頭を撫でながら大人は慰めるように言う。

 

 新たにネギ君達の前に現れた彼女はいったい何者なのだ、という疑問が浮かび、それに対して様々な憶測を皆が好き勝手に語っていた。まるで映画の先を皆で予想しながら見ているかのように、続きの展開を全員が気にしている。誰も、あのスクリーンの中で本当に事件が起こっているとは思っていない。ネギ君の額に光る汗さえも、演出だと思っている。

 ここにいる人間達は、魔法という世界に触れて生きている訳ではないのだ。 仕方のないことであるのは分かっていた。

 しかし、それでも。あの状況を只のエンターテイメントと捉えて楽しもうとしている人間には、呆れてしまう。なんて能天気でお気楽なものなんだと、蔑みを覚える。

 

『……ど、どういうことでしょうか! 最後の敵のあとに現れた、更なる存在! 彼女は一体、何者なのか! か、彼らはあの者にどう対応するのか!? 』

 

 ステージ上に立つマイクを持った少女が、焦りを含んだ解説を皆へと向けた。なるほどなるほどやはりイベントはまだ続くのだな、と多くの者が頷く。アナウンスがあることで、やっぱり予定調和じゃないか、と安心した息を吐く者もいる。

 

 だが、見るものが見れば分かる筈だ。あの少女は演技であんな声を出している訳ではない。本当に、動揺しているのだ。自分の想定していなかった展開が起きていて、心に不安や畏れを感じながらも、大衆を混乱させてはいけないと、自分の職務を全うしようとしているのだ。肝の座った女性であると思える。彼女は、明智 七海の友人だったのだろうか。

 

 

 僕は、横にいる少女の声が先程から聞こえていないことに気付いた。自分の姉が、皆が注目するスクリーンの中でアップで写し出されている。それも、最も盛り上がるクライマックスの場面でだ。あの口煩い少女が興奮して騒ぎ出さないのは、不自然だと思った。

 なにより、彼女らしくないと思ってしまった。

 

 

 視線を彼女へ向ける直前に、不意に、消え入りそうな声が聞こえた。

 

 

 

「…………なな、ねぇ……? 」

 

 これだけの喧騒の中、その声ははっきりと耳に残った。

 静かに、震えた声で発された筈のその呟きは、僕の脳に直接届くかのように響く。

 

 少女は、酷く臆病そうな青い顔付きをしていた。唇は細かく震え、怯えの陰が走っていて、泣きそうな表情だ。

 

 理由は分からないが、僕は、彼女の顔から目を逸らすことが出来なかった。

 あれだけ普段煩い少女が、随分と辛そうに、弱々しくなっている。その事実だけで、僕は彼女のことから目を離せない。

 自分の鼓動が、やけに大きく鳴っている気がした。その訳を、理解できない。それでも心臓は、その表情を見る度に音を立てた。

 

 

 少女は突然駆け出した。

 人混みを掻き分け、一心不乱に進んでいく。息遣いを荒くしながら、一生懸命もがくように手を動かして、人を避けさせる。

 知らずのうちに、僕も彼女に付いていっていた。勝手に足が動き、彼女が作った道をそのまま通る。

 自分が何をしているのか。何をしたいのかが分からない。

 

 人の集まりが少なくなった所で、彼女の速度は増した。決して速い訳ではない。しかし、彼女が全力で走っていることは分かった。二つに縛った彼女の髪は大きく揺れる。僕は自分の行動の答えを見つけられないままそれを追い掛ける。

 

 彼女は、世界樹の方向へ向かっていた。顔を上げて、斜め上を見るようにしながら、少女は走る。途中で、外に階段がついている建物があった。彼女は、少しでも空に届こうと、無我夢中にその階段を駆け上がった。僕もその後を追う。

 

 屋上まで登ると、空を見上げている彼女がいた。

 握った拳は、震えている。

 先程までと違って、少し冷たい空気が辺りを覆っている。人のいないこの場所には、孤独感を強める雰囲気があった。

 満天の空。銀色の世界樹とその周りを漂う淡い金色の光。輝かしい背景とは不釣り合いな寂れたコンクリートの建物の上で、彼女はじっと立っていた。

 

 

 

「……あれは、違うよ」

 

 少女は、弱々しく呟く。その後ろ姿は、いつもよりもずっと小さく見えた。

 

「……あの人はななねぇじゃない」

 

 少女は自分の体を抱くように腕を動かし、足を震わせた。靴とコンクリートが擦れる音が、無機質に響く。

 

「何でか分かんないけど、私、怖い。怖いよ」

 

 その声は、やはり弱々しくて。

 

「ななねぇが、どこかに行っちゃう気がした。急に、胸が寂しくなって。全然自分でも意味分かんないんだけど、なんか、凄く嫌な予感がする」

 

 ひく、ひく、と嗚咽のように鼻を啜る音が響く。

 

 

 

「……怖い。怖いよぉ、フェイフェイ」

 

 

 いつものような明るさが一欠片も感じられない呼び方で、 少女は、僕の渾名を呼ぶ。

 

 胸の鼓動が、また痛々しく鳴った気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ど、どういうことですか! どうして七海が……! 」

 

「葉加瀬さん! すぐにここから離れて下さい! 」

 

「でも! 超さんが……っ! それにネギ先生も……! 」

 

「超さんは無事です! 僕は今の七海さんをこのまま置いては行けません! 葉加瀬さんは早く! 」

 

 僕の声に反応するかのように、七海さんの黒い瞳がゆっくりと葉加瀬さんの方に向いた。その瞳に見つめられた葉加瀬さんは、小さく悲鳴を上げる。怯えた動物のように肩を震わせ、驚愕の表情を見せた。

 

「……葉加瀬さん! 」

 

 葉加瀬さんの方へと向かって、黒い光が再び線を成しながら向かっていく。

 

 ここからじゃ、間に合わない。

 

 小さな爆発が起こった。

 もう一度僕が名前を叫ぶと同時だった。暗い夜空の中、爆炎による光は痛々しく辺りを照らし、宙にはパラパラと焦げたものが舞う。それを見つめながら、僕は呆然とした。

 

 その事実を認めたくなくて、更に大声で名前を呼ぼうとした所で、宙に成す爆炎の中から風を切るような音を立てて何かが飛び出してきた。

 

 

「……ネギ先生! 」

 

 聞き覚えのある声にはっとして、飛び出たそれを見つめる。そこには、まるで鳥のような翼を大きく開いた刹那さんが、葉加瀬さんを抱えていた。

 

「……刹那さん! よかった! 助かりました! 」

 

 思わぬ所からの手助けに、僕は安堵の声を上げる。刹那さんは華麗に空を舞ってから、綺麗に僕の側に着地した。

 

「……? 刹那さん、その翼は……? 」

 

「そんなこと! 今はどうでもいいでしょう! それよりも、何が起こっているんですか!? 」

 

 未だに困惑している葉加瀬さんを背後に下ろしながら、刹那さんは大声を上げた。

 

「…………あれは。あれが、明智さんなんですか……っ! 」

 

 刹那さんは唇を噛み締めながら、七海さんを見つめていた。

 

「……恐らく、誰かに体を乗っ取られているのだと思います」

 

 僕が頷いて答えると、刹那さんは苦しそうな顔をした。持っていた刀を強く握り締め直したのが分かった。

 

「……原因は分かっているのですか。いえ、それよりも、元に戻す方法はあるのですか」

 

「……それは、今はまだ分かりません。ですが、七海さんが誰かに危害を加えるような事態にさせる訳にはいきません」

 

 ついさっき葉加瀬さんへと向かっていった攻撃を頭に過らす。

 

「葉加瀬さん。とりあえず貴女はここから離脱してください。一人で出来ますか? 」

 

「こ、この飛行船内に小型飛行船があるので大丈夫ですが……。で、でも! お二人はどうするのですか! 」

 

「僕達は……」

 

 七海さんの真っ黒な瞳が、次は此方に向く。

 

 

 

「彼女を、ここで食い止めます」

 

 

 僕はぐっと腰を低くして、構えをとった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 七海さんの側に、再び何重もの魔方陣が幾つも浮かび上がった。その攻撃に、彼女の意思などは微塵も感じられない。その表情は、無、という表現が一番しっくりきた。まるで本当に彼女はそこにいないかのようだった。

 それぞれの魔方陣から再び黒い光線が鋭く放たれる。僕と刹那さんは飛び上がるようにして紙一重にそれを避けた。

 

「ネギ、先生! あなたは! 彼女がこうなることを知っていたのですか! 」

 

 白い羽根を散らしながら翼を拡げた彼女は、怒鳴るように声を張り上げた。

 

 一瞬の猶予もなく黒い光線は降り注ぐ。僕の障壁で防げるレベルを悠に越えていた。疲労した足をそれでも動かして、僕は何とかそれを避けていく。しかし、その内の一つが避けきれず、今にもぶつかると言うところで、刹那さんが僕の背中を空へと持ち上げるように引っ張り上げた。

 足に地をつく感覚がなくなり、持ち上げられた体には浮遊感がする。

 

「……知ってはいました。しかし、それを防ぐ方法は、僕には分からなかったです」

 

 息を切らしつつお礼を言ってから、七海さんを少し高い位置から見下ろす。

 刹那さんが、また表情を歪めた。

 

「何故、教えてくれなかったのですか……! 」

 

「それは……」

 

 超さんから七海さんの話を聞いた僕は、誰にもそのことを教えなかった。未来から来た超さんと相談して、その方が良いと考えたのだ。

 超さんとも話した通り、七海さんが操られることがどうしても変えられないならば、まずは超さんの計画を止める方が優先だと思ったのだ。七海さんの対処に時間を割いて超さんの計画が止めれなかったら、魔法が世界にばれた混乱状態で七海さんを相手しなければならない。超さんの言う通り、周りが錯乱している状態では、それは厳しいように思えた。ならば、他の人に無闇に情報を教えて困惑させるのは良くないと考えたのだ。

 

 そして、もうひとつ。

 超さんの話を聞いた後も、僕は七海さんがこうなるとは、思いきれてなかった。あの、優しくて、冷静で、大人っぽい彼女が、僕達に手を向けるだなんて、思いたくなかった。そんな甘さを、僕は捨てられなかった。

 

 この場で上手く説明出来ず、苦々しい表情をした僕を見て、刹那さんもまた、苦し気に息を吐いた。

 

「……正直に言えば、私達にも教えて欲しかった、と貴方に怒鳴りたい気持ちもあります。しかし、今更それを言ってもどうしようもないことなのでしょう。それに、言わないと選択をとったネギ先生にも理由があったと、思っておきます」

 

 秘密事については私は人に強く言えませんから、と続けて、刹那さんが、更に高くへ舞い上がる。七海さんに向ける視線は逸らしていない。

 

「ただ、これからどうすれば良いのかは教えて下さい。七海さんを無闇に傷付けず、元の状態に戻す手段は、ないとは言い切れないのですよね? 」

 

「……それは、今超さんが探ってくれている筈です。なので僕達は、時間を稼ぐことに集中しましょう」

 

「時間を稼ぐ……。中々、骨が折れそうですね」

 

 七海さんから、再び光線が向けられる。刹那さんが僕の背中を掴んだまま、翼で大きく風を切って、次は下方にと向かう。彼女からの攻撃は連続して続き、刹那さんはギリギリを見極めて避けていた。

 

「……あれだけの魔力……っ! 一体どうやって! 」

 

「刹那さん! 僕を下ろして下さい! 二手に別れた方が攻撃を分散出来ます! 」

 

 後ろに背負っていた杖を出して、刹那さんへと合図を送った。そのタイミングは僕は空に放り出され、そのまま自分の杖に股がって宙を浮く。

 

「とりあえず、避け続けましょう。 無計画に放出される魔力なら、そのうち枯渇する……っ! 」

 

 筈です、と続けるつもりだった言葉は、出て来なかった。

 

 七海さんの後ろに浮き上がった大量の魔方陣が、まるで巨大な壁のようになっていたからだ。それぞれの術式が重なるようにして、隙間なく魔方陣が構成されていく。風で舞う彼女の髪が、とても恐ろしく思えた。

 

 今までは、ほんのお遊びだった。そう感じても可笑しくないほどの、圧倒的な量だった。

 

「……これ、は……」

 

 唖然とした刹那さんの呟きが聞こえる。

 一つ一つの攻撃に、あれほど密度を込めていた。それが、この数になるとは、どれだけ出鱈目な力なんだろうか。

 

 魔力の収束が強まり、砲撃の気配が高まっていく。

 

「……ネギ先生! 私の後ろへ! 防御の結界を貼ります! 」

 

「刹那さんっ!? しかし、それじゃあ! 」

 

「……ええ、抑えきれないでしょう。しかし、無いよりはましです! 」

 

「そうではなくて! 貴方が! 」

 

「早くして下さい! このままじゃ、二人とも……! 」

 

 びゅん、という音がなった。

 黒い光線が、まるで大きな塊の如く迫ってくる。僕達のレベルを越えた攻撃であることは明らかである。刹那さんも、迫り来る光線を見てそれを察したようだった。

 急いで、彼女は構えをとり、三角錐で出来た結界を僕達を囲むように貼る。続いて僕もそれに重ねるように障壁を展開させる。

 

 黒い奔流が、僕達を呑み込もうと襲い掛かった。

 

 

 歯を食い縛り、覚悟を決めた。二人の力で、どうにか乗り越えなければならない。

 

「……くっ! 」

「ああああ……っ!! 」

 

 雪崩れ込む滝の如く、光線は続いた。ビリビリと結界が振動し、徐々に亀裂が出来ていく。

 

 

 

 

 

 これは、もう。そう感じてしまった時に、声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

「……おい坊や。その腑抜けた障壁はなんだ? 」

 

 

 視界の晴れた僕達の前には、綺麗な金髪の髪が舞っていた。

 



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77話

 

 

 七海の薬を改造していた女は、その濃度を著しく上げたものを完成させた。どのようにそれの安全性を考慮したかは分からないが、日が落ちているのを見て残り時間の少なさを心配したのか、女は勢いよく自らそれを飲んだ。

 女は飛ぶように意識を失った。おそらく、世界樹の世界、という所に意識を持っていかれたのだろう。それなりに心配した私がとりあえずベッドまで運んだところで、女は息を荒くしながら目を覚ました。

 

「……エヴァちゃん。すぐに、あの人の所へ行って」

 

「……!? 一体どうしたというのだ。詳しく説明しろ」

 

「あの世界には、今は一人しかいなかった。その人は私の知り合いで、いい加減な感じがあまり好きではないし、こんなところにいたのか、とか色々思うことはあったのだけれど、今はまぁそんなことはどうでもよくて」

 

 女は焦っているからか、らしくない話し方をしていた。落ち着いて要点だけを言え、と伝えると、女は一呼吸ついてからゆっくりと言った。

 

「彼が言うには、今、あの人は他の人に体を乗っ取られている」

 

「……乗っ取られる、だと? どういうことだ。何が起こっている」

 

 女は、掛け布団の端を強く握りながら、慎重に話していく。

 

「……この薬は、世界樹の世界と繋がる道であると同時に、精神を通す門でもあったのかもしれない。だから、元からあそこにいた人の心が、あの人に……。乗り移られたあの人が、どう動くかは分からない。ただ、いい予感はしないわ。だから、止めにいかないと……」

 

 ……簡単に信じて良い類いの話ではなかったが、嘘は言っていないと感じた。この場でそんな嘘をつくメリットがないし、何より女の真剣な表情は、それが真実であると判断するのには充分過ぎた。

 

「……貴様はどうするんだ」

 

「私は、またあの世界に行ってみる。他に分かることがあるかも知れないし、こっちの世界から何らかの干渉が出来るかもしれない」

 

 何が起きているのか、しっかりと把握した訳ではない。七海が誰に乗り移られて、どんな状況になっているかも分からない。

 

 だが、ただひとつ。すぐにでも七海の元へと向かうべきだということは、頭の底から理解していた。

 

「……頼んだぞ」

 

 女に背を向け、小さく言う。こんな風に誰かに物を頼むのは、久しぶりであった。

 

「……ええ」

 

 芯の籠った返事をした女にその場を任せて、私は移動をした。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 雲間から射した月明かりは、金色の髪をきらきらと光らせていた。闇夜の中で空を泳ぐように舞うそれは、一本一本がまるで高級な繊維から作られているようにも見える。

 少女の後ろ姿は、小さい。クラスの中でも下から数えた方が早い彼女は、僕と大して変わらない身長である。

 しかし、この威圧感はなんだろうか。

 小さな身体に留まっていられない溢れ出る力は猛々しく、少女の姿を大きく見せていた。

 僕と刹那さんがその背中に目を奪われていると、いつまで呆けているつもりだ、と此方に目線を寄越さぬままに言われた。

 

「……師匠。あの、七海さんが……」

 

 その言葉を最後まで言うことに抵抗を感じて、自然と語尾は小さくなる。

 師匠と七海さんは、誰が見ても分かるくらいに仲がよかった。身長差もあり、片や強い口調をすることが多い面倒くさがりで、片や常に優しさの籠った言葉を口にする真面目な人で、そのコンビは凸凹にも見えたけれど、二人でいる姿はとても自然であった。その時の師匠の無理のない表情は、年相応の少女を思わせるものだった。

 だからこそ、彼女には、七海さんの現状を伝えにくかった。

 

 しかし彼女は、未だに僕達に背を向けたまま、全てを把握していると語るようにゆっくり頷いた。

 

「……ああ。知っている」

 

 小さく呟いた後、師匠は渇いた声で続けた。

 

「ある程度の事情は知っているさ。貴様の姉が、身を張って教えてくれた」

 

「……っ?! どうして、ネカネお姉ちゃんが……? 」

 

 思いよらなかった登場人物に僕は困惑した。お姉ちゃんは、どこかで身体を休めていたのではなかったのか。そのことを詳しく問い詰めようとしたが、それよりも早く彼女は僕達に冷たく言葉を放った。

 

「貴様らはここから去れ」

 

 僕達に振り向くことなく、師匠は静かに言った。強い口調だった。

 

「……そういう訳には、いきません 」

 

 この状態の七海さんを放っておける訳がない。自分の意思を示すかのように、杖を強く握り、姿勢を正した。

 師匠は力の籠った僕の声に怯む様子もなく、静かに顔の半分だけ此方に振り向くようにした。

 

「……聞こえなかったのか? 」

 

 

 

 

「私が、ここから去れと、そういったのだ」

 

 心の芯まで凍っていくような、冷たく強い言い方だった。堪らずに、背筋に幾つもの汗が流れる。

 どっ、と彼女から魔力が湧き出すのが分かった。黒く、凍てついた空気は、辺りを渦巻くように流れ、鋭い棘のように皮膚を刺激している。

 恐れのあまり自分が生唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。

 

 

「……ネギ先生。ここは、エヴァンジェリンさんに従いましょう」

 

 震える僕の肩に手を置いて、刹那さんが首を振った。

 

「……でも! 刹那さん……! 」

 

「さっきの攻撃を見たでしょう? 分かってください。私達は、ここにいるには明らかに実力不足で、足手まといです」

 

 そんなこと、僕だって分かっている。あの力を見て、恐怖しないだなんて事が、あるわけない。

 でも、だからと言って、素直に引ける筈がない。引いていいとは、思っていなかった。自分の力不足を言い訳にして、この場を放棄することは出来なかった。

 彼女は、僕の生徒なんだ。

 

「……でも、刹那さん! いいのですか! あなただって ――」

 

「ネギ先生! 」

 

 反論しようとした僕を遮るように、刹那さんは大きな声を出した。僕の肩を掴む刹那さんの手に更に力が籠る。

 

「ネギ先生。私だって、悔しい。悔しいのです。自分の恩人を目の前で救えもせず、のこのこと逃げ出すしか出来ない自分の無能さが、恨めしいほど辛い」

 

 刹那さんは、震えていた。無念という想いが、確かにその身から溢れている。

 

「でも、私達がここにいては、駄目なのです」

 

 彼女の言葉ははっきりとしたものだった。自分達がどうすべきかを、彼女のために、何をしなければならないのかを分かっているのだ。

 

「ここで私達が怪我などして、後で悲しむのは誰か考えて下さい……」

 

「……刹那さん……」

 

 頭を下げて、悔しそうに口を強く結んだ彼女を見て、僕は自分の短絡さを恨んだ。

 この場で本当に考えなしだったのは、僕だけだった。

 

 

「……貴様らにも出来ることはある。多分な。何をしたらいいか考えて、自分に出来ることをやれ」

 

「……師匠」

 

 突き放した言い方だ。でも、僕には分かった。短い間だけれども、僕は彼女に師事してもらっていたのだ。

 師匠は、僕らのことも考えて、ここから去れと、そう言っているのだ。

 

 

「……後は宜しくお願いします」

 

 

 また前を向き直して言い放った彼女に対し、僕はしっかりと託した。

 彼女は小さく笑った。

 

「……はっ。誰にものを言っているんだ」

 

 いつも通りのその強気な物言いが、頼もしかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「七海、少し見ない間に随分とイメージを変えたじゃないか」

 

「……」

 

「無視、か」

 

 軽く溜め息をついてから、目の前にいる少女をもう一度見据える。

 何もかもを吸い込んでいくかのような漆黒の瞳に、存在しなかった筈の魔力。七海の特徴でもあった、周りを何となく安心させる不思議な空気も、今や面影すら感じない。

 相対したら、やはり実感する。

 七海は、本当に七海ではなくなっている。

 

 私が忌々しげに舌を打つ音が響いた。

 坊やの姉が言っていたことは、全て真実だったのだ。

 

 私達の間に、古びたストーブが吐き出したような生暖かい風が吹く。誰かが適当に放り投げて、そのまま適当に削られたような形をした月が、間抜けに空に浮かんでいた。月の形にすら、苛立ちを覚えてしまう。

 そんな月の下にいる七海は、私がここに来てから何の動作もない。ただ、虚空を見つめるかのようにじっと留まっている。

 

 

「……彼女、中々動きを見せないですね」

 

「しかし、まさかこんなことになっているとは思いもよらんだわい」

 

「……貴様らか」

 

 タッ、と軽快な音を立てて私の後ろに現れたのは、学園長の爺とアルだった。

 

「随分と遅い到着じゃないか、なぁ? 」

 

「……大抵のことは、若いやつらに任せるつもりだったのじゃがのう……」

 

 爺は、自分の髭を擦りながらしゃがれた声で続ける。

 

「彼女の状態は、放っておく訳にはいかなそうじゃ。それに、世界樹の薬が影響しているのだとすれば、儂にも責任の一旦はある」

 

「……お前はどうなんだ、アル」

 

 私は目を伏せているアルだけを睨むように見つめた。

 

「……貴様は、七海がこうなることを本当に予想出来なかったのか」

 

 爺の横でアルがそっと目を開き、顎を引いて静かに答えた。

 

「……世界樹の発光に合わせて、彼女に何らかの変化が起こる可能性があることは、分かっていました。幾つもの予想パターンのうち、こうなる道も想定していなかったといえば、嘘になります」

 

「……そうか」

 

「……怒らないのですね」

 

 全てを受け止める、というつもりの自白だったからだからか、咎めなかった私を予想外に思った声だった。

 

「怒っているさ。腹底も煮えくりかえってるかもしれん。だが、今貴様に怒鳴り散らしてもこの状態は変わらん。それに、結果として七海がどんな状態に陥るとしても、あの薬はあいつには必要だったのだ。あれがなければ学園祭前にはあいつの命は危なかっただろう。とすれば、こうなるのは必然だったのかもしれん」

 

 勿論納得はしていないがな、と続けると、アルは目を伏せて申し訳なさそうに微笑し、爺はまた髭を擦った。

 

 

「……本当に、丸くなったのう」

 

「黙れくそ爺い」

 

 儂にはいつも冷たいのう、という嘆息混じりの声を無視する。

 

 

「過去のことを今はごちゃごちゃは言わん。だが、これからのことは別だ。貴様らはあいつのためにその命を使え」

 

 語調を強めると、それに反応するように二人の気も引き締まったことが分かった。

 前にいる七海が、ようやく動きを見せる。

 彼女の後ろに、大量の魔方陣が一瞬で展開され、光った。

 

「七海を無傷で拘束しろ。あいつの体に傷をつけたら貴様らを殺す。貴様らも無傷でいろ。自らの体に傷を付けて後々七海に罪悪感を感じさせるようなら、いっそ死んで消えろ」

 

「中々厳しいこと言いますね」

 

「老人には気を使って欲しいのじゃが」

 

「黙って従え。……行くぞ」

 

 私の声を引き金にしたかのように、七海の背にある魔方陣から、無数と呼べるほどの魔法の矢が放たれた。

 

 

 

 ○

 

 

 降り注ぐ魔法の矢を、各々が避ける。紙一重に、自身の身体が通るギリギリの隙間を見つけて、踊るように掻い潜った。

 七海は、次の攻撃に移ろうと、また別の魔方陣を展開する。それからは影から出来た手のようなものが幾つもの召還され、私達を捉えようと勢いよく伸びてきた。爺は老年さを感じさせない身軽さでかわし、アルは自らの前に重力の球体を発生させてそれを潰した。

 

 

 七海が魔法を使う度に、私の心は苛ついた。

 あいつは、今まで何にも汚されていなかった。誰かに暴力をするという選択肢すら浮かばないあいつの手は、純粋で、貴重だった。魔法に関わっても、その未知に惑わされることもなく、あくまで自分の興味の範疇にだけ目を向けていたあいつは、ある意味無邪気で、素直だった。

 それが、こんなことに巻き込まれて、変わっていく。

 私は激しい憤りを感じていた。あいつを、早く解放してやりたかった。

 

「……キティ」

 

「その名で呼ぶな。なんだ」

 

 七海の攻撃を避けながら、私の側に寄ってきたアルが、いつになく真面目な顔で私に声を掛ける。

 

「あの子は、まだ完全に体を乗っ取られてはいません。証拠として、精神が不安定です」

 

「……どういうことだ」

 

「本来、彼に乗り移られたものは、完全に身体の主導権を奪われ、精神の自我も塗り替えられます」

 

 ……こいつは、一体どこまで知っているんだ。

 彼、という言い方をした以上、七海に乗り移った人物のことを、それなりに知っているということだ。聞きたいことは大量にあったが、ひとまずアルが言葉を続けるのを待った。

 

「ですが、彼女は意思を持っているように見えない。動きにもどこか鈍さがあり、先程のように停止することもある。おそらく、彼女の意識をまだ完全に剥がすことが出来ていない。此方への攻撃は、防衛本能のみで無意識でしているものなのでしょう。彼女の中で心の天秤が釣り合っている状態では、上手く主導権を握れていない」

 

 七海の中で、心の統率がとれていない。ということは、つまり。

 

「……それは、七海がまだ頑張っている、という解釈でいいんだな? 」

 

 アルは、小さく頬を上げた。

 

「ええ」

 

「なら、どうすればあいつを元に戻せる」

 

「それは、はっきりとしていません。ショックを与えればいいのか、何らかの方法で精神を補助出来ればいいのか。 どちらにせよ、彼女の動きを止めて、何らかの処置が出来る間が必要です。 ただ、時間を掛けてはいけません。時間が掛かれば掛かるほど、彼女の心はきっと押し負けていく」

 

「……成る程な」

 

 頷く私達の前に、七海は更にまた新たな魔方陣を出現させる。

 私の胸の底で苛立ちがまた針のように逆立つ。

 



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78話

 

 

 重々しい瞼を、ゆっくり持ち上げる。淀みのある動きであった。意識もまだはっきりとはしない。

 僅かに開けたぼんやりとした視界から、この場所をひっそりと確認する。

 

 ここはまるで、影の中だった。

 

 想像よりもずっと暗く、濃厚な灰色の光がどんよりと包み込んでいる。荒れ果てひび割れた地面には、緑の自然が入り込む余地など当然感じられない。

 

 これでは目を閉じて見える風景とそう変わらないではないか。

 

 陰鬱とした空気が流れているのを肌に感じ、ぞっと皮膚が泡立ったのを実感した。目を開けているのすら辛く、私は、もう一度視界を閉ざそうとするが、そこで、なんとか思い止まった。

 

 ……ここは、どこだ。

 

 おぼつかない思考を段々とクリアにしていこうと、頭の中で疑問の言葉が加速する。しかし、まだ意思が薄れているからか、疑問に対する答えは一切浮かばなかった。磨りガラスの向こう側を一生懸命に覗いてるような気分になる。

 

 目線を左右にし、手を動かそうとした。すると、ぎぃ、ぎぃ、と軋むような音が静寂としたこの空間に鳴り響いた。

 どうやら、私の手は何かに抑え込まれているらしい。次は足を動かそうとしたが、同じ結果が得られた。背中には、ごつごつとした感覚がする。もしかしたら、何か大きな物にでも縛りつけられているのだろうか。

 

 ……眠ってしまおうか。

 

 自分の行動を制限され、頭すら満足に動いてない状況で、私のやれることは何も思い付かなかった。ならば、もう意識を失っても良いだろう。誰も文句は言うまい。

 濃霧の掛かったような眼前に黒い幕を下ろそうと、目を閉じる。スリープ状態に陥ろうとしている電子機器のように、徐々に脳はシャットダウンをする準備をしてく。意識が飛ぼうとしていた。

 が、そうはいかなかった。

 

 ぴりり、という小さな、ほんの小さな痛みが、神経から走り直接私の胸をつついているのを感じたのだ。

 

 

 ……まだ、駄目だ。

 

 何故かは自分でも分からないが、眠ってしまってはいけないと感じた。

 どれだけ瞼が重くのし掛かってきても、この眼を閉じてはいけないと思った。そう、誰かが言っているようにも聴こえた。

 

 

 

 ……何故、踏ん張る。もういいだろう? 何のために耐える。眠ってしまえばいい。

 

 頭に直接声が響いた。

 それが何なのかを考えることもできない、朦朧とする意識の中、私は辛うじてほんのちょっぴりだけ首を横に振った。

 

 

 ……いや、駄目だ。眠る訳にはいかない。

 

 口を開けたわけではない。頭に響いた声に応えるように、私は強く自分の言葉を念じた。

 少し間を置いてから、また言葉が返ってきた。揺さぶるようなその声により、軽い頭痛がした。

 

 

 ……分からんな。何に希望を感じている。この世界に、救いがあると思うか? ここに、何が見える。ここにはもう、何もない。

 

 

 低く、粘りつくように聴こえる声は、私の意識を引っ張っていた。

 この世界に拡がる景色を再び見る。

 暗く、寂しい世界だ。まるで重力を持っているかのように重々しく吹く風は、泥々とした闇を砂塵の如く舞い上げる。渇いた空気が、私の周りをぐるりと覆うようにした。

 

 諦めろ。

 やめてしまえ。

 そんな類いの言葉が砂塵ともに私にまとわりついて、この意思を刈り取ろうとしているのを、確かに感じた。

 心が、徐々に侵食されていく。考えることが、だんだんと苦痛になっていく。

 

 

 

 ……本当に、ここには何もないのか。

 

 こんなに。こんなに寂しい世界が、この世にはあったのか。

 

 ……ああ。

 

 救いようがなく、ただ絶望だけを助長するようなことが、この世にはある。

 ならば、もう。

 

 ……もう、いいのだろうか。

 

 諦めの籠った私の意思に、強く、頷いているかのように、声は返事をした。

 

 ……ああ。もう、いいだろう。

 

 

 

 囁く声には、もはや優しさすら込められている気がする。

 

 私は――何故。

 何を、何のために頑張っているのだ。こんなところにいるのならば、楽な方に身を任せて、委ねてしまえばいい。

 そうするのが、きっと、一番楽だろう。

 

 そう、決心して、目を閉じた時に、胸の底に、どす黒い泥が勢いよく流れ込んできた。木々を薙ぎ倒しながら流れる川の濁流のように、荒く激しい勢いが身に染みる。

 

 私はもはや、それすら心地好いと、感じ始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 自分の眼鏡に映るあの光景が普通ではないということは、すぐに分かった。

 

 

 私は、色んな非日常を目にしてきた。

 馬鹿みたいな運動能力を持つ学生達。アホみたいにデカイ木。この間は、ついに幽霊の存在まで確認してしまった。 しかも、それがクラスメイトだと言う。自分で言って笑ってしまうほど、可笑しな話だった。そういえば、私達の教師は小学生並の年齢の人だった。

 この世は可笑しなことだらけだ。

 

 昔は、そんな現実味のないモノが、嫌いだった。テレビや本の中が普通なのに、現実の方がファンタジーに近かった。どうして私の周りだけ普通じゃないのだろうか、と何度も頭を悩ませていた。

 

 でも、最近は違う。

 麻帆良の無茶苦茶さを、非日常さを、段々と受け入れることが出来るようになった。

 ガキみたいな教師にも、幽霊やロボットのクラスメイトにも、嫌悪感を感じることはなかった。この無茶苦茶さに諦めをつけたから、という訳ではない。

 

 こんな世界もいいかもしれないと、気付けるようになったんだ。

 非現実的で、あほらしくて、馬鹿みたいでも。そんな世界をあのクラスで過ごすのは良いかもしれないと、思えるようになっていた。

 

 

 だから、さっきの世界樹の光を見て。金と銀に輝く世界樹の光を顔に受けながら

 ――あぁ。こういうファンタジーも悪くないじゃねぇか。

 そう、一人で小さく微笑みながら見ることが出来た。

 

 それも、この麻帆良という土地を私が少しずつ好きになれたからなのかもしれない。

 

 

 

 

 ……しかし。

 

 私は首を上げて、上空に浮かぶスクリーンを再び見る。

 そこに映るのは、学園長と、知らない青年と、私の知り合いが二人。そのうち一人は、私が仲が良いと胸を張って言える数少ない人物で、その彼女が、まるで他のものと敵対するかのように位置している。

 明智が腕を振ると、激しく何かが光だし、それこそアニメで見るもののような、ビームが勢いよく打ち出された。それを、他のもの達が避ける。

 近くにいる観客が、おおっ、と歓声を上げた。周りの皆は、これを只のイベントと捉えているのだろう。

 

 だが、私には分かる。分かってしまう。

 これは、そういうものじゃない。あそこにいる人は全員本気で、それと闘う明智も、本物だ。

 

 今まで、散々意味の分からないものは見てきたが、あんな創作物に出てくるようなバトル展開までもがこの世界にあるとは思ってもみなかった。アニメや漫画でよくあるその闘いを、昔なら強く憧れたかもしれないが、今はそんなことを思ってもいられなかった。

 

 

「――っ千雨さん! 」

 

「……委員長か」

 

 私の後ろから力強く肩を掴んだのは、誰が見ても分かるような不安で歪んだ顔をした委員長だった 。

 呼吸と共に上下する胸は、彼女が咄嗟に全力で動き出したことを示していた。額には汗が光り、彼女を印象付ける綺麗で潤いのある髪が、今ばかりは乱れている。

 

 ――委員長も、気付いているのだろうか。あれが、明智が普通ではない、ということを。

 

「……千雨さん。あれは、本当に七海なんですよね……? 」

 

 彼女の視線がスクリーンに向く。その横顔にはいつものような自信満々な色は一切なくて、ただ強張った表情だけが残っていた。

 

「……わからん」

 

 首を振って私は答える。

 本当に、分からなかった。何が起こったら、明智がああなるのか。あんな、薄暗く不気味な顔をした彼女は今まで見たことがなかった。

 

 私は、あれが明智だと、思いたくなかった。

 

 私の返事を訊いても、委員長はその表情を変えなかった。きっと、彼女の中には既に漠然とした答えがあるのだろう。あれは確かに明智だけれど、何か大変なことが起こっていて、変わってしまったのだと。委員長は麻帆良に起こっていた不思議な事は分からないだろうが、仲が良かった明智のことだけは、勘付いたのかもしれない。

 

「……助けましょう」

 

 委員長は震えが混じりながらも決意の籠った声でそう言ってから、 その唇をきゅっと結んだ。

 

「……助ける? 何をいってんだよ」

 

「千雨さん! 貴方ならわかるでしょう! 七海を、救うのですよ!」

 

「助けるっつっても、どーすんだよ」

 

 淡々と言った私の言葉を否定だと感じたのか、委員長はきつい目で私を見る。その目は、少し赤みがかっていた。

 

「分かりません……!分かりませんが、このままではいられませんわ! そうでしょう!? 七海が、あんなことになっているのですよ! それなのに、何もせずにこの場にいられるんですか!? 」

 

 半ば悲鳴とも言える叫びだった。見損ないますわ、という言外の意味も私にぶつけているかのような言い方だった。

 

 迫り来る委員長に対して、今度は私が彼女の肩を勢いよく掴む。

 

 

「……っ! いれるわけ、ねぇだろうが!! 」

 

 

 肩を掴む自分の手が震えていることに、ようやく気付いた。

 

 怖かった。

 不安だった。

 友達が変わってしまったことを目の前にして、恐怖が私を覆っていた。何も知らないということが、怖かった。今まで何も感じずに楽しんでいた日常が訪れなくなるという可能性を思うと、不安で仕方がなかった。

 

 それを振り払うかのように、私も大声を出すしかなかった。

 

「私だって……! 私だってなぁ! 何が起こってるかなんて、一つもわかんねぇんだよ! 何なんだよ! なんであいつがあんな目にあってんだよ! 私は、友達が大変な目にあってんのに、何にもわかんねぇんだよ!

 でもだからってどうしろってんだ! 」

 

 どうしたらいいかが、分からなかった。

 

「あんな空の上で! あんな闘いをしてるあいつらに私らが出来ることがあるかよ! 私らに何ができるってんだよ! 」

 

 無力だった。

 私は、ただただ無力でしかない。

 人外のような運動能力がある訳じゃない。賢い訳でもない。ちょっとひねくれた一般の女子中学生でしかない。

 どう考えても、あの場に私らが交わることは不可能だ。

 

 

 

 ――こんなことならば。

 不意に、そんな思考が頭に過った。

 

 こんなことになるならば、私もこの麻帆良にある不思議な力が欲しい。明智が教えてくれた、麻帆良の昆虫が持つような、不思議パワーのような物があれば、それを手にしたかった。

 

 何かを、変えてみせるような力が欲しかった。

 

 でも、現実にはそんなものは持っていない。アニメや小説のキャラクターにどれだけ憧れようと、私達が彼等のようになることは不可能だ。私は結局、ここで震えているしかないのだろうか。大事な、大切な友達が辛い目にあっているだろうに、何も出来ない。

 ひねくれた私を救ってくれた、窮屈だった世界を拡げれてくれたあいつに、私は何の恩返しもできない。

 

 唇が僅かに揺れていて、頬に水滴が流れるのを感じた。自分の弱さを恨めしいと思ったのは、初めてだった。

 

「千雨さん……」

 

 くそ、くそ、くそ、と小さく呟く私。

 弱い自分が、憎くてどうしようもなかった。

 

 

 委員長はそんな私の呟きを噛み締めるように訊いていた。

  委員長の肩を掴んでいた私の手は、力無くずり落ちていって、私の元にぶらりと帰ろうとする。

 

 ――委員長は、そんな私の手を、拾い上げるようにとった。

 

「……千雨さん。まだ、諦めるには早いですわ」

 

「……私達に、何ができるってんだよ」

 

 いつまでも唯を捏ねる子供を慰めるかのように、委員長は優しく語りかけるようにする。

 

「私だって、何ができるかなんて一個も分からないですわ。それでも、このまま諦めてはいけないということは、分かります。千雨さん、もがきましょう」

 

 私は、下げていた視線を上げて、彼女を見た。

 

「分からないだけで、やれることがないと決まった訳ではありませんわ。もがいて、もがいて、もがきましょう。それで駄目なら、なんて考えるつもりはありませんが、しかし、ここで立ち竦んでいるだけでは、必ず後悔しますわ」

 

 彼女の顔を見た。私を元気づけようと、無理矢理に笑顔を作っている。

 自分だって、相当辛い筈なのに。明智をあんなに慕っていた委員長が、あんな明智を見て不安を感じない筈がないのに。

 それでも、こいつは目の前の私をまず気にかけていた。

 

 委員長のその強さを、眩しく思った。凛々しくて、立派な強さだと思った。

 

 それなのに、私は……。

 

 弱い自分を呪うばかりで、立ち上がろうとしていなかった自分が、恥ずかしく、どうしようもなくみっともなく思えた。

 

「――私は……」

 

 

 

 

 

 

「貴方達に出来ることは、ちゃんとあるヨ」

 

 

 私達二人に向かって、突然一人の少女声をかけた。

 

 

「……超、さん? 」

 

 

 振り向けばそこにいた超は、私達に手を差し向けた。

 夜風に髪を揺らされながらも、超は力強く言葉を続ける。

 

 

「力なんてのは、必要じゃない。そんなものなんて、本当に大切なものじゃないヨ」

 

 私の想いを読んだかのように、彼女は、私の求めていたものを、はっきりと否定した。

 

 

「本当に大事なものは、もっと、もっと根本的なものだヨ。二人とも」

 

 涙ぐむ私達を気にする様子もなく、超は、ゆっくりと独りで頷く。

 

 

「貴女達二人に、頼みたいことがある」

 

 

 



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79話

 

 

 

「ねぇ、アーウェルンクス君ってさ、好きな人いるのー? 」

 

 それは、僕がこの街に来て一ヶ月を過ぎた頃の出来事だっただろうか。

 社会、という歴史から現在の政治組織の構築までをも学ぶ、比較的まだ意味のあるものだと感じる曖昧な名前の授業が終わった後、教科書の端を合わせていた僕に向かって、確か同じクラスであった少女が声を掛けた。

 

 小学校という年齢も精神も幼いものの為のこの学舎は、僕には騒がしく窮屈であまり他人とは関わろうとしていなかったが、こうして無遠慮に話し掛けてくるものはいる。

 同じ場所で学んでいるという事実一つだけで、お互いの距離が近いものだと勘違いしているのだろうか。転校したての時は次々と机に人が集まるので、鬱陶しくて仕方がなかった。

 その時の対応がつまらなかったからか、その後僕に声を掛けるものは一気に減ったが、ともかく、こうしてたまに声を掛けるものはまだいる。

 

 僕はとんとん、と教科書で机を叩くようにしてから、それを机の中にしまいながら応える。

 

「いない」

 

 この少女が言う好きな人、とは、他者に恋慕の想いというものを感じる人がいるか、という問いなのだろう。

 人間、というよりも生物として、自分と異なる性別のものに惹かれ、ことを成すことが種の存続として必要であるのは知っている。

 だがそれは僕には当然関係のない話であるし、そもそも万が一にも思い当たるものがいたところで、知り合いとも呼べないほどのこの少女に話すことではない。

 

 僕の答えが素っ気ないものだったからか、少女は少しむっとした様子で前へと身を乗り出した。

 

「でも! この前トーコちゃんが見たって! アーウェルンクス君が年上の女の人と歩いてるところ! 」

 

「……年上の女の人? 」

 

「年上というか、中学生の! こうやって、髪を結んでる人! 」

 

 少女が自分の髪の両サイドを両手で掴んだのを見て、それが明智 うい だということにようやく気付いた。

 そう言えば、この少女達からしたら彼女は年上に当たるのか。僕にとっては多少の年の違いなど大した括りには思えないし、彼女の精神年齢が低いこともあってか、あまりそう言う実感がなかった。

 

「歩いていたかもしれないけれど、それが何か君に関係あるのかい? 」

 

 その、トーコちゃんという者にいつ見られたかは分からないが、確かに彼女と共にいることは多かった。たまたま出会ったこともあったし、小学校の門の前で待たれたこともある。そんなときはいつも僕から何か言う前に、彼女は無理矢理僕を連れ回していた。

 しかし、決して彼女とそのような話はしたことないし、そんな意識を僕がする訳がなかった。

 

 だからといって、僕らの間がどんな関係かと言われたら、僕自身が首を傾げるしかないのだが。

 

「あの人は、君のお姉さんとか? 」

 

「違う」

 

「でも、その人はアーウェルンクス君のことが好きなのかもよ? 恋人ではないの? 」

 

 いい加減にしつこい少女にうんざりとしてきた。何がしたくて僕にそんなことまで聞いてくるのか。

 

「違う」

 

 もう一度同じように応えると、少女は、そっか、と何故かどこか安心した様子で呟いた後、それだけ! 、と頬を緩めてから僕の側から去っていった。

 

 厄介事が去ったことで、自然と溜め息がでた。

 幼い者達は、他人との距離の計り方が雑だ。自分がいいとすれば、どれだけでも他者に近付けると思っているし何をしても良いと考えている。それが、僕にとっては好ましくなくて、小学校という場所は柄に合わないと何度も思った。

 

 それでもここに通っているのは、麻帆良にいたいのならば学校ぐらいは行ってもらわねばならんのぅ、と茶目っ気を込めた顔をした学園長に言われたからだ。

 魔法世界の上層部を操作してこの街に正式に居られることまでは良かったが、まさか魔法生徒という扱いになるとは思ってはいなかった。

 上には逆らえんが君にはちょっと面白い目にあってもらおうかの、というあの老人の思惑がはっきりと見えていたため不快ではあったが、その程度ならと我慢したら想像よりも面倒な想いをしている。やはり、あの老人は中々狡猾な存在なのかもしれない。

 

 

 また誰かに声を掛けられても良い想いはしないな、と判断し、残りの休憩時間は屋上で一人にでもなろうとした。そして、静かに席を立って足を進めた所で、ふと、先程の言葉が甦ってきた。

 

 

 ―――『でも、その人はアーウェルンクス君のことが好きなのかもよ? 』

 

 

 屋上へと向かう階段に登りながら、その言葉の意味を考える。

 別に、彼女から好意を抱かれているだろうと、自惚れている訳ではない。

 だが、もしかしたら彼女の行動の理由は、そういう意味を持つのだとしたら、ある意味納得は出来る。好意を持って欲しいという目的のため、彼女はいつも僕の側に来るということなんだろうか。

 

 頭の中に、彼女の笑顔が浮かんだ。

 フェイフェイ、と訳のわからない渾名で僕を呼ぶ声もした気がした。

 打算などとはあまりに無関係な笑顔だ。

 それに、僕からみたらだが、恋慕という表情ではないのは明らかに思えた。

 

 

 ――なら、彼女はなんで……。

 

 あの笑顔は、どうして僕に向いている。

 彼女は、どうして僕に近付く。

 あの笑顔の答えはまだ、僕には見つけられない。

 

 

 ここに来てから、一番不可解なのが彼女だった。

 何か裏があっての行動の方がよっぽど分かりやすいのに、あまりにも単純そうな彼女からは、逆に考えが読めない。

 

 彼女と近づいている内に、少しずつ、自分というものについても考えるようになっていた。

 彼女はここの小学生と変わらないほどに、むしろそれ以上にぐいぐいと迫ってくるため、僕にとっては厄介である筈なのに、最近はそう思えなくなっている自分にも、気付き始めていた。

 

 

 

『――――おいしい珈琲淹れてお待ちしてますね。いつでもいらしてください』

 

 

 あの時のことも、思い出してしまった。

 珈琲を僕にくれた、あの人も。なんの関わりのない僕に、笑顔を向けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 彼女が啜るように泣く声は、止まない。

 両手で顔を覆い、息を吸う度にひくひくという音が聴こえてきて、それが、どうしようもないくらいに僕の耳に残った。

 

 涙する人の前に立ったのは久しぶりの経験であった。彼方の世界で作戦を実行している時、死に物狂いの兵士や戦闘から逃げる民間人が涙するのを見た覚えはある。が、それとはまた違った質に思えた。

 泣き声とは、こんなにも胸をつくような想いにさせるものだっただろうか。憐憫の情に似通った感情が自分の中にあることははっきりと分かるが、そう思うまでの過程が分からなかった。彼女の涙が何故自分にとって重要なのかが、理解できなかった。

 

 

 

 月光の下で、少し荒んだ建物の屋上に居座る僕と彼女。他の誰もいない。まるで、ここだけが世界から切り取られた空間となっている気すらした。

 

「……」

 

 彼女の涙を見ていると、自然とこの街に来てからの風景を思い出されていった。

 まだ短い時間ではあったが、その情景は頭の中に炙り出されるかのように浮かんでは、ゆっくりと消えていく。

 僕が産まれてから今まで生きてきた中で、ここに来てからの時間なんて、ほんのちょっとだ。

 それでも、幾つもの記憶が泡のように溢れ出して、それがパチンと消える前に僕の頭にしっかりとこびりついた。

 

 

 

『フェイフェイ』

 

 その絵の中心にいたのは、彼女ばかりだった。

 

 

 初めて会った時から、彼女はずっと笑っていて。

 何の裏もないその表情は、あまりに率直で子供らしくて。

 

 

 何故。という疑問を解消することが出来なかった。

 笑顔の理由を、知りたかった。

 それが僕に向けられることの意味を、知りたかった。

 

 人形である僕は、主に作られて、使命を与えられて。それを全うするだけで良かったのに、こんな余計な思考が生じてしまう。体も、単純には動かない。

 

 本来、この街に来た目的は、自分で力を取り戻そうとしている主の補助だった。明智 七海の魔力を感じれば、それが新しい依り代であることは察することが出来た。報告をすれば彼女の調査をデュミナスに命じられ、しばらくここに滞在することが必要となった。

 そして、主が力を取り戻そうとしている今こそ、それを邪魔しようとしている者達の排除をすべきだろうに、僕はそうしていない。

 

 この子の側を離れられない。

 

 

『テルティウム。お前は、私への忠誠や目的意識を設定していない』

 

 いつか、我が主が僕にそう言ったことがある。他の使徒と考えの異なる自分に疑問を感じ、主に調整を申し出た時のことだ。

 

『お前はそれで良い。思う通りに動いてみよ』

 

 主は、僕にそう言った。只の道具な筈の僕に、明確な命令を与えてくれなかった。

 それでも、僕は主の意思に従っていた。

 主の作る世界こそが、世界を救えると、そう思っていた。人形の僕が、幻で作られたあの世界を閉ざすべきだと。勝手で残酷な意味なき世界に、平等な終わりを与えることこそが、僕の使命だと、そう思っていた。

 

 そう思っていた、筈なのに。

 

 

 

 

 

 ――どうして、僕は、彼女を無視できない。

 

 

 

 

 

「……一つだけ、訊いてもいいかい」

 

 

 思ったよりも響いた僕の声に反応して、彼女は大きく一度嗚咽を飲み込んだ。それから、ゴシゴシと音が聞こえるほど力強く自分の涙を袖で拭き取って、なに、と聞き返す。

 

 

 涙ながらも、僕の方を向いてもう一度、なに、フェイフェイ、と彼女は言う。

 

 

 震える唇を無理矢理結んで、その大きな目に涙を溜めながらも、彼女はしっかりと僕を見つめていた。自分の状況も大変なのに、こんなときに声を掛けた僕に文句を言わず、じっと、彼女は僕の言葉を待っていた。

 

 

 

 

 ――どうして、君は。

 

 

 

 

 

 

「君は、どうしていつも僕を気にかけてくれるんだい」

 

 

 

 彼女は。

 ずびっと鼻を啜った。

 自分の涙をもう一度吹いてから、呆気なく答える。

 

 

 

「そんなの、フェイフェイが好きだからに決まってるじゃん」

 

 

 

 まるで何にも臆すことのない様子で、彼女ははっきりと続ける。

 

 

 

「私は、フェイフェイも、ななねぇも、お母さんもお父さんも、千雨ちゃんも、あすねぇも、あやねぇも、子供先生も、皆好き。大好き。麻帆良の街も、全部好き」

 

 

 

 空を見上げた。闘う、自分の姉に、彼女は視線を向けた。

 

 

 

「だから、私は皆笑ってて欲しい。だから、あんな風になったななねぇは、私、嫌だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思わず、呆気にとられた。

 が、すぐにその答えに納得がいった気がした。

 

 彼女らしい、答えだと思った。

 胸の中にあった霧がすうっと晴れていって、暖かい空気なようなものが肺を覆うような感覚がした。頬の力が、抜けそうになった。

 

 

 彼女は別に、僕に特別な好意を描いている訳ではないのだ。

 なんのことはない。彼女は、この世界に存在する全てのものが好きで好きで仕方がなくて、だからこそ、つまらなそうにしていた僕のことを放っておけなかったんだ。少しでも僕に笑って欲しいと思って、まずは彼女が笑顔になってたんだ。

 

 彼女にとって、この世界は楽しいものに溢れたものに見えてるんだろう。それが例え偽物だろうが、幻だろうが、きっと彼女にとっては関係がない。

 

 彼女は、自分の意思でそれを楽しいものだと感じ、自分の手で、それを素敵なものへと変えていって、そうやって、世界を作っている。

 そして、僕にも、そんな世界の素晴らしさを、ずっと伝えようとしていたんだろう。

 

 あの笑顔には、きっとそう言う意味があって。

 

 そして僕は、それに影響を受けていた。

 彼女の笑顔と共にあるこの世界が、悪くないものかもしれないと、心の底で思わされていた。

 そんな世界の中で、どんなものだろうと真っ白であると信じて笑う彼女が、眩しかったんだ。

 恋だ愛だの、そういう話ではない。人形だろうがなんだろうが、そんなことは彼女には全くもって関係なくて、ただ皆の笑顔を望む彼女に、僕が、ただただ惹かれていたんだ。

 

 

 彼女を見る。真っ赤な目だ。涙の後もしっかりと残っている。

 

 僕がこんなにも胸を裂くような想いだったのは、眩しかった彼女の笑顔が消えてしまったという、単純な理由なんだろう。

 あの笑顔が、僕にとっては、とてつもなく貴重だったんだ。純粋に、自分と誰かを願った笑顔が、素敵だと、僕は、そう思ってたんだ。だから、その笑顔が曇ると、この世界までもが歪んでいくように、感じてしまった。

 

 

「……フェイフェイ? 」

 

 彼女に近付きその頭の上に手をおいた僕に向かって、彼女はみっともなく鼻水をずぴっと吸ってから不思議そうに僕の渾名を呼んだ。

 

 

 明智 七海は、言っていた。人にとっての正義と悪は、人それぞれでその人自身が決めていいと。自分にとって、自分や周りの人の幸せを願うことが、正義であっていいと。

 

 

 

 ――なら、僕は。

 他の誰でもない。自分自身と、彼女のために。

 

 

 

「……心配しなくていい」

 

 

 

 彼女の髪をすっと撫でる。

 

 

 

「君の姉は、僕がどうにかしよう」

 

 

 

 

 主には、申し訳ないと思う。

 だが、僕には、もっと重要なことが出来た。

 

 

 

「……フェイフェイ、今、笑って―― 」

 

 

 彼女が言葉を言い終わる前に、僕は地面を強く蹴って、空へと向かっていった。

 

 



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80話

「あのさぁ、おまえ、いつまでついてくんだよ」

 

「……言ったろう? お前が、私を認めるまでだ」

 

 私の答えを聞いたナギは、首をぐったりと下げながらはっきりと溜め息を吐いた。どうしたもんかねぇ、と愚痴る声も聞こえた。

 

 パチパチと焚き火にくばれた木の破片が燃えていく音が、夜の森の中に鳴る。ふわりと宙を浮く火の粉は、天へと向かうように伸びていってから、儚く消えていく。闇の中で作られた炎は、暖かい熱をもっていた。

 

 月も薄く見えるような寒い夜だったからか、ナギは体をぶるりと震わせた後に、手を火にへと寄せた。

 さみぃさみぃ、と呟きながら白い息を吐くナギの横顔を、じっと見つめる。

 何も考えてなさそうな顔だった。

 

 この男、ナギは、飄々としていて、掴み所がない男だった。細身の体なくせにその身には莫大な魔力があり、今まで見た人間の中でもトップクラスの実力を持っていた。

 

 しかし、そんなことよりも。

 

 初めてだった。

 私が吸血鬼だと、賞金首だと知っていても、なんの反応も示さず態度を変えなかったものは。

 だからだろうか、こんなにもこいつのことが気になる。思ったよりもずっと単純だった自分の感情に驚きはしたが、それを拒否しようとは思わなかった。新たに芽生えたこの気持ちは悪いものには感じなかった。

 

 ナギの赤い髪が火に染められて明るさを持ち、日の光のように橙色へと変わっている。

 

「なんだお前、他に友達とかいねーのかよ」

 

「……はっ」

 

 焚き火に薪を放り投げながら言ったナギの声に、私は短く鼻で笑った。

 

「友達、だと? そんなもの私には必要ない。他者との繋がりなんて、薄っぺらく脆いものだ」

 

「……ほーん。ぼっちってわけか」

 

「誰がぼっちだ! そういう言い方をするな! 私は望んで1人なんだ! 」

 

「ぼっちじゃねーか」

 

 ケラケラとナギが笑う。むかついたが、不快ではなかった。久々に他者と関わっているという感覚がしていた。

 

「なんだ。600年生きたとか聞いてたけど、まだまだガキなんだな」

 

「なに……? 」

 

 ナギは大きくなった火にまた手を向けつつも言った。

 

「光を、しらねーんだ」

 

「……光、だと? 」

 

 青臭い言葉だと思った。若者が好きそうな言葉だ。現実を知らず、人生は明るく楽しいものが詰まっていると信じきっている、楽観的な者にしか言えない言葉だと思っていた。

 

「困った時に頼れたり、話ができる相手ってのは、いいもんだぜ? 」

 

 に、と笑いながら言うナギに対して、別の意味で笑ってしまいそうになった。

 

 私にそんな相手なんて、必要ないものだと思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 何千本という光の矢が闇夜の元に舞う。暗黒に光るそれはまるで小さな流星のようだった。七海が手を振りかざすとそれが一斉に私達へと向かってくる。

 信じられないほどの物量だったが、その一つ一つにも馬鹿げるほどの魔力が込められていて、生半可な障壁では一瞬で塵になるようなレベルだ。

 

 何本かを避け、何本かを無詠唱の魔法で軌道をずらし、また何本かを力の込めた障壁で断った。

 

「……ふむ。これは老体には堪えるのう」

 

 爺が軽口を叩くように言うが、決して余裕そうではなかった。大きな怪我こそないが、擦りきれた和服はボロボロになっている。

 

「……アル、これは――」

 

「……はい。彼女の力は、どんどんと増しています」

 

 深刻そうに答えたアルの声に、私は舌を強く打った。つまり七海の精神が押されているということだ。

 

 戦力が足りなかった。

 現状、私達は受けに回る一方で、あいつに近付くこともままならなかった。 自らの不死性を利用すれば無理矢理懐に潜れるかと思っていたが、そう上手くはいかない。

 あいつの出す魔法には限りがなく、凄まじい魔力が怒涛の勢いで私達に襲いかかっていた。まるで横殴りに落ちる滝のような圧倒的な物量は、前に出ようとする私達をいとも簡単に押し出す。呪文を詠唱する隙も僅かしかない。じり貧な戦いだった。

 

 目に見えないタイムリミットに、私は焦りを感じ始める。

 このまま時間をかけては、七海が侵食されていく一方だ。

 

「キティ」

 

 アルが懲りずにまたその名で呼ぶが、そんなことに構っている場合ではなかった。

 

「私が一時彼女の技を引き寄せます。その隙に貴女は彼女の元まで」

 

 淡々とそう言い放ったアルを、私はゆっくりと見た。

 

「……貴様、自分が何を言っているか分かっているのか」

 

「分かっています。ですが、現状そうするしかない」

 

 アルは、いつものようなふざけた感じを見せずに続ける。

 

「……この問題に初めから関わっていたのは、私達で、実際彼女は巻き込まれただけです。私にも、責任をとらせて下さい」

 

「……ふむ。ならばわしは、お主のサポートに回ろう。二人ならば少しは負担が減るじゃろうて」

 

 爺が髭をさすりながらアルの横に立つ。二人共、覚悟をしている顔だった。余裕さを見せながらも気を張り続けている。強者の顔だった。

 

「……貴様ら、私が初めに言ったことを覚えているな? 」

 

「怪我をするくらいなら、死ねばいいんでしたっけ? 」

 

「……分かってるならいいんだ。ただ――」

 

 私は、二人から視線を外す。

 

「なるべく死なんようにな」

 

 アルは一瞬表情を固めた後、ふわりと笑った。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

( ――七海 )

 

 

 空を蹴り、一気に七海の元へと向かう。

 近付く私に標的が代わり、七海の視線がこちらを向く。また彼女は手をかざし、何種類もの魔法が勢いよく放出された。色とりどりのそれは、虹のようにも見える。

 私はそれを避ける素振りも見せず、前に進み続けた。

 

(七海)

 

 私に魔法が当たる直前に、それらはぐっと軌道を変えた。アルが重力魔法を使ったようだ。七海の視線が次はアルへと向く。標的がまた変わったらしい。まるで機械のようだと思った。その場で誰が一番厄介かを判断して、そこに攻撃を向けているロボットと変わらない。それぞれがどんな想いで動いているかまでは、考えていないのだ。アルへと向けて異常な量の魔法が向かう。

 私は、更に力を込めて空を蹴った。

 七海との距離が、近くなる。

 

 

(七海!!)

 

 

 心の中で叫び続けた。

 

 

 ナギと話していたことを思い出していた。

『友達』なんていう、馬鹿らしく青臭い言葉を、私はもう馬鹿に出来なかった。

 まさか私にも、そんな存在が出来るとは夢にも思っていなかった。

 

 世界が残酷なことを知っていた。親は亡く居場所も無く、外を歩けば襲われる人生はどうしようもなく真っ暗で、そんな道を進んだ私も既にその色に染まっていた。

 

 でも、そんな私を、側で照らしてくれる光があった。

 何にも流されず、強い自分の意思を持ちながら、私に手を伸ばしてくれる。

 七海は私の光だった。

 

 そんな七海のことが、私は。

 そんな七海だからこそ、私は。

 

「――七海ぃぃ!! 」

 

 

 聞こえているかは、分からない。それでも。

 

 

「眼を覚ませぇ!! 」

 

 

 届け。届いてくれ。

 七海の顔を見ながら、大声で叫んだ。叫ばずにはいられなかった。

 冷静な自分を保ってはいられなくなっていた。胸の中の想いが、ぐっと込み上げていた。

 

 まるで小さなガキのように、ただ、自分の気持ちだけを叫ぼうとしていた。

 

 

「お前は……! お前はぁ……っ!! 」

 

 

 光を知ってしまった。

 失いたくなかった。

 吸血鬼の長い人生の中で、人間である彼女と関わって生きていられる時間はきっと短いだろう。それでも、その間だけでも、彼女とは一緒にいれたらと、そう思っていた。

 少しずつ歳をとって成長していく彼女を見守りながら、それでもずっと変わらない関係なまま一緒に過ごしていく未来を、私は夢見ていた。

 

 

「私の、友達だろうがぁ!! こんなものに呑み込まれるなんて、許さないぞ! 」

 

 

 

 いつの間にか私と七海の距離はほとんどなく、私は七海の制服の胸ぐらを掴んでいた。

 

 顔を上げ、七海の顔を見る。ぴくりと、七海の顔の筋肉が動きそうになっており、その能面のような表情が変わるかと思った。

 

 しかし、その黒く冷たい瞳は変わってはいない。

 叫んでも届いてるかも分からない自分の言葉に、泣きそうになった。

 

「……七海ぃ」

 

 項垂れて、絞り出すように声を紡ぐ。

 七海はそんな私を気にする様子もなく、腕をゆっくりと振り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「エヴァンジェリン!! そのまま七海を抑えていてクレ! 」

 

 

 突然、大きな声が響いた。

 拡声器で増強された超 鈴音の声は、私達の更に上から聞こえた。

 涙目で見上げればそこには、超包子と書かれた屋台が、下からジェットを噴射しながら浮かび上がっていた。先頭が操縦席のようになっていて、そこの窓から超 鈴音の顔が見える。

 

 私は咄嗟に糸を使って、七海を傷付けない程度に縛り付けた。

 

「……貴様ら」

 

 ガン、と勢いよく音を立てて屋台についている扉が開く。そこから顔を出したのは、長谷川 千雨と、雪広あやかだった。

 慌てて私は袖で目を擦る。

 

「明智ぃ! てめぇ! なにしてんだよ! 」

 

 怒号を放ったのは、長谷川 千雨だ。ゆっくりと、七海の顔がそちらを向く。

 

「勝手におかしなことになりやがって! ふざけんな! 」

 

 長谷川 千雨の眼鏡の奥には、水滴に潤んだ瞳があった。柄に合わない様子で、彼女は声を張り上げる。

 

「何を似合わねー顔してんだよ! そんなんじゃないだろ、お前は! いつもみてえに馬鹿やるクラスメイトを後ろで見守って、安心する表情で微笑んでてくれよ! なぁ! 明智ぃ! 」

 

 七海は、その屋台に目を移した。彼女の声に反応しているというよりも、新たな敵を観察しているといった感じであった。

 長谷川千雨は、七海の冷たい視線に一度息を飲むようにして怯むが、それでも叫び続けた。

 

「お前のおかげで、私は今が好きになれたんだよ! お前がいたから、私は今と向き合えてるんだよ! ……なぁ、頼むよぉ……っ! 私の好きな、明智でいてくれよぉ…… !」

 

 懇願するように、長谷川 千雨は声を絞り出す。

 その姿はさっきの私と重なっているようにも見えた。

 

 そして私は、彼女達のやりたいことを察した。

 それは、あまりに幼稚で子供っぽく、夢見がちな作戦である。理論的とは言えない。とても、超 鈴音が側にいて考えるような作戦には思えなかった。

 

  (……馬鹿だな、こいつらは)

 

 思ったこととは裏腹に、私は自然と頬を緩めていた。下らない作戦だ。それがなんになる。昔の私ならそう思ったかもしれない。

 だが今は、それでいいと思った。

 私も、彼女を取り戻すにはそれが必要だと悟った。

 

 長谷川 千雨の後ろから、次は雪広あやかがぐっと乗り出した。

 

 

「七海! 戻ってきてください! 」

 

 雪広あやかも、大声を上げた。いつもの上品とした雰囲気とはかけ離れていた。

 

「私、嫌ですわ! 」

 

 彼女も、七海の冷たい視線に耐えながらも、言葉を紡ぐことを止めなかった。

 

「優しくて、思いやりがあって、格好いい元の七海に、戻ってきてください! 」

 

 風に髪を掻き回され、乱されながらも、雪広 あやかは大きな声を出す。その瞳にも、やはり涙が見える。

 

 

 七海が一度、目を閉じた。

 一瞬硬直してから、また、その目が開く。

 まだだ。まだ、足りなかった。

 

 彼女の後ろに再び魔法陣が形成され、そこから魔法が飛び出る。その魔法は、飛び上がる屋台にへとむかっていた。私が防ごうと動く前に、下から飛び出してきたネギと刹那が勢いよくそれを弾く。

 

「……っ七海さん! それでいいんですか!? そのままでいいんですか!? 貴女の帰りを待つ人がここにいるんですよ!? 」

 

 赤い髪を靡かせる坊やに、翼を広げた刹那が続く。

 

「明智さん! 貴女は誰よりもA組の皆を好いていたでしょう!? このままだと皆が悲しみますよ!? それは、貴女が一番嫌なことではないんですか!? 」

 

 

 

 それでも、まだ、届かない。

 

 

「……くっ! 」

 

 キリキリと、七海の体に纏った糸が解かれていく。

 あいつらに攻撃をさせては、ならない。この一連の流れを、止めてはならない。

 

 更に力を込めようとしたときに、七海の力が急激に弱まるのを感じた。

 

 

 いつの間にか、七海の下に捕縛陣が出来ていた。それも、地系統のものだ。

 

 

「……貴様は」

 

 静かに現れたのは、白髪の少年だった。

 

 

「……君は、それでいいのかい」

 

 

 ゆっくりと語り掛けるように、少年は続けた。

 

 

「君を想って、あの子が泣いているよ」

 

 

 

 

 

 七海の出力がまた上がる。

 それを、私と少年の二人で押さえていた。

 

 その間に、ここにいる全員が、七海に声を掛ける。

 

 戻ってこい。

 

 同じ想いで七海に声を掛け続ける。

 

 

 

「こらぁ! 七海ぃ! 」

 

 最後に屋台から顔を出したのは、目を真っ赤に腫らした神楽坂 明日菜であった。

 

「誰だか知らないけど! 私達の七海に何すんのよ! 私はねぇ! これから七海にフラレたことを慰めて貰わなきゃいけないのよ! 」

 

 神楽坂 明日菜が、びしっと七海に指を向けたあと、躊躇なく屋台から飛び上がる。

 

 

「七海に愚痴を聞いてもらうのよ! だからぁ! 」

 

 

 

 ――その手にあるのは、何故かハリセンであった。

 

 

 

「七海を、かえせぇええ! 」

 

 

 神楽坂 明日菜の持ったハリセンが綺麗に七海の頭を捉えて、パシン、という音が軽快に鳴った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 真っ暗な世界だ。

 何も見えない。

 寂しく、恐怖を感じるような世界だ。

 

 それでも聴こえた。

 声が、聴こえた。

 私を呼んでいる。

 皆が、私を待ってくれている。

 

 行かなければならない。そう思った。

 この暗黒の中で射した一筋の光を、見失ってはいけないと感じた。

 

 

 ……まだ、足掻くのか。

 

 

 ……ああ、すまない。

 

 私は、どこにいるかも分からない声の主に向かって頭を下げた。

 心に余裕が出来て、気が付けば私はうっすらと笑っていた。

 

 

 ……あの子達を、見ていたいんだ。成長して、大人になっていくあの子達の未来を、私は見届けたいんだ。

 

 

 

 ……。

 

 

 ……君も、もういいだろう? 何かを憎み、妬み、壊し続けて生きていくよりも、きっともっと楽しく美しい世界がある。

 

 

 ……楽しい、世界だと?

 

 

 私を縛る木の蔓が、力を増す。キリキリと、蛇が首を絞めるように、私の喉仏にも力がかかる。私の意識を無くそうとしてくる。

 

 それでも、私は負けなかった。

 胸に響いてくる、皆の声が、私を諦めさせなかった。強く、心地よい声達が、私を頑張らせてくれていた。

 

 

 彼の力が、強くなる。再び、私を闇へと落とそうとしていた。

 

 

 

 私がそれに対抗しようと力を込めたその時。

 視線の先で地面に射していた一筋の光が、強くなった。

 

 

 その光は、この世界の半分をも覆った。

 急激な光が照らす。

 

 

 

 

 

 

 

 ……あなた。皆が待ってるわよ。

 

 

 

 優しく笑う、金髪の女性がそこにいた。

 信じられないほど、胸が高く鳴った。女性は、一歩ずつ私に近付く。彼女が足を踏み出す度に、その道に光が出来ていった。

 側まで来た女性は、驚いた表情の私へとゆっくりと手を差し出して、クスクスと笑った。

 

 

 

 

 

 

 ……もしかして、泣きそうになってる?

 

 

 

 私は震え声で答えながら、その手をとった。

 

 

 

 ……泣きそうになど、なっているものか。

 

 

 

 

 

 

 

 



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最終話

「それでだ。結局、どうなったんだ」

 

 我が家に何の遠慮も見せずに居座っているアルに、私は頬に拳をあてテーブルに肘をつきながら問う。

 部屋の電気を付けなくとも、窓から射す日差しが強いお陰で部屋は明るかった。湿気を飛ばすようなカラっとした天気だ。もうすぐ夏が来ますよ、ということをお天道が地にいる人に報告しているようにも感じた。

 

 アルは、茶々丸に汲んでもらった茶を静かに飲みながら目を瞑っていた。茶が似合ってるとは思えない。

 

「……おい、アル」

 

「……」

 

「……クウネル」

 

「はい、なんでしょうか? 」

 

「ああ! 面倒な奴だな! 」

 

 ばん、と机を叩く。茶々丸が菓子を私達の間に置こうとしたが、苛ついたからそれを自分の方に寄せてアルには取れないようにした。

 

「あまり菓子ばかり食べていると太りますよ? 」

 

「うるさい。余計なお世話だ。それよりもさっさと結論を話せ」

 

 煎餅を頬張りながら私が催促すると、アルは、ふぅ、と一息ついた。

 

「……あいつは、もう大丈夫なんだろうな? 」

 

「……まだはっきりとは分かりませんが、恐らくは」

 

「恐らく、か」

 

「と言っても、ほとんど問題ないと思ってもらって構わないかと」

 

 気掛かりはあるがその一言にとりあえずは安心して、私はほっと胸を撫で下ろす。

 

「……もともと、彼はナギの中に居ました。彼は倒しても倒しても誰かの中に入り乗っ取り、生を続けていく。ナギは、彼を封印するにはその体ごとするしかないということを察し、自身に乗り移らせた後その身を世界樹の中に閉じ込めていました」

 

「……ふん。私の呪いを解きに来なかったのは、そういう理由か」

 

 この土地に縛られている間はナギを探しに行けないことがもどかしかったが、当の本人はずっと麻帆良にいたという。皮肉なものだ。

 

「ナギの英断により彼の封印は成功したのですが、彼はずっとそこから出る機会を窺っていたのでしょう」

 

「……それで、七海を使った、ということか」

 

 アルは、ゆっくりと頷いて答えた。

 

「……彼女は、世界樹の力を借りるために、精神を世界樹の世界へと移動させていました。そこを狙われたのでしょう。大発光により魔力が増すタイミングで、精神を逆流させ、封じられながらも彼女へと乗り移った」

 

 坊やの姉が言っていたことを思い出した。彼女は、世界樹の薬は世界を繋げる門でもあったと表現していた。本来七海側から開かなかった筈の門を、やつは無理矢理こじ開けて、七海側に来たということなのだろう。

 

「……それじゃあ、そいつはまだ七海の中にいるというのか? そもそも、どうしてあの時七海は戻ってこれた? 」

 

「それは、貴女を含めた少女達が彼女を呼び掛けたからでしょう? いやぁ、あのときの貴女には感動しました。まさかキティがあんなことを叫ぶとは……」

 

「……き、貴様、どうやら殺されたいらしいな」

 

 当時を思い出し、恥ずかしのあまり自身に熱が籠るのを感じる。茶化すこいつをバラバラにしてやりたいとすら思った。

 

「いえ、決してふざけている訳ではないですよ? 実際に、貴女たちの声は、しっかりと彼女の力になっていた」

 

「……」

 

 疑うような視線を向けた私に答えるように、アルは言葉を続ける。

 

「勿論、それだけではないでしょう。明日菜さんの魔力を断ち切るハリセンも、ネカネさんの内側からの干渉も、そして、貴女たちの彼女を呼び起こす声も。あの場では全てが必要でした。

 彼女を救うために欠けていいものは、一つもなかった」

 

「……一つ目の問いを答えてないぞ」

 

「そう、ですね。彼女の中に、彼がいるのか、という答えですが……」

 

 ここで初めて、アルは言い淀んだ。

 

「……恐らく、彼はまだ彼女の中にいるでしょう。しかし、厳密には少し違ったことが起きている」

 

「……どういうことだ」

 

 

「彼の力は今、二分化されています。明智 七海と、ネカネ スプリングフィールドの中に」

 

 

 私は、湯飲みをゆっくりと自分の口にあてた。程好い暖かさだ。吐く息にも少し熱気が籠っていた。

 

「……そういうことか」

 

 私は、今どういう状況にあるかを理解した。

 つまり、ネカネが無理にあの薬を服用したことで、彼女の元にもやつの精神が流れ出したのだ。二つに分けられたことにより、奴の力は半分以下となった。そのおかげで、七海は戻ってこれたのだろう。

 

「それで、恐らくは大丈夫という訳か」

 

「はい。再び彼の力が湧き上がるその時までは、何も出来ないでしょう。しかし、魔力がない二人の中にいる分その可能性はないに等しく、実質、封印しているようなものです」

 

 そこまで聞いて、やっと心の底から安心できた。

 これで、元に戻れるのだ。

 またこれから、あいつと、日常を過ごしていける。

 その事が、どうしようもないくらい喜ばしかった。

 

「……」

 

「……なんだ、その顔は」

 

 いつの間にか、アルは薄目で私を見守るように見つめていた。

 

「いえ、本当に変わったなぁと」

 

 ふん、と恥ずかしさを隠すように鼻を鳴らして、私は再び菓子を掴む。

 

 

 

 その瞬間、突然、どん、という激しい衝撃と音が家の中に響き、湯飲みと菓子を置いた皿が一瞬浮いた。

 

 

 

 

 私とアルが、思わず顔を見合わせると、声が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

「あーあ。おいネギ、何やってんだよ。そこ人の家じゃねーか! 」

 

「お父さんがこんなところまで僕を飛ばすからじゃないですか! っていうか、もうちょい手加減して下さいよ! 軽い手合わせしてやるって言ったのお父さんじゃないですか! 」

 

「俺手加減とかそういう感じの奴苦手なんだよなー。とりあえずここの家の人に謝ってこいよ」

 

「そ、そうですね! ……ってあれ。そう言えばここ、師匠の……」

 

 

 

 

 

「貴様ら……何をしてるんだ」

 

 

 

 

 見れば、居間の壁がぶち破れていて、そこに坊やとナギがいた。壁からは外の林がしっかりと見えて、心地よい風が家全体に流れ込んだ。

 坊やはナギに手をとられ、よ、っという掛け声と共に起き上がらせてもらっていて、そのことが嬉しかったからか、坊やは少し頬を赤らめていた。

 

「おお、エヴァ。いまネギと手合わせしてた」

 

「おお、エヴァ……じゃない! 貴様ら人の家に何してくれる! 」

 

「師匠! すみません! お父さんちょっと力が有り余ってて……」

 

 

 

 

 

「おーいエヴァちゃーーん。お邪魔しまーす。ってなにこれ! 凄い」

 

「うわ……。いくらもうすぐ夏だからといっても、これは風通し良すぎるだろ。エアコン効かねぇぞこれ」

 

「あぁ! ネギ先生! それにお父様まで! お怪我はありませんか! 」

 

 今度は玄関からやいのやいのと声が聞こえてきて、何事かと思いながら見れば、そこには、神楽坂 明日菜、長谷川 千雨、雪広 あやかの三人がいた。三人とも遠慮のない様子で家の中に入り込み、そのまま坊やとナギの元に行って談笑しようとしている。

 

「貴様ら何勝手に入ってきてるんだ! 」

 

「え? だって茶々丸さんがいいって」

 

「茶々丸ーーっ! 」

 

「申し訳ありませんマスター。てっきり良いものかと」

 

 年々自我が強くなっていってる茶々丸に、私は頭を抱えそうになる。いや、自己を持つことは全く構わないのだが、なんとなく私を軽率に扱うようになってきている気がする。

 

 そして茶々丸が私に頭を下げている間に、また玄関から一組現れた。

 

 

「うわー。みてみてフェイフェイ。凄い穴だ」

 

「……そうだね」

 

「もー! フェイフェイ反応薄い! もっと驚いてよ! 」

 

「……そう言われてもね。これは家に空いた只の穴でしかない」

 

 

 

「なんなんだ一体……! 」

 

 次から次へと立て続けに人が集まってきて、いつの間にか我が家はとてつもなく騒々しくなった。

 困惑する私を見ながら、アルは目を細めてニマニマとしている。ただただ憎らしい笑顔であった。

 

 

「あーうざったい! そもそも貴様ら何のためにうちに来たんだ! 」

 

「あ、そうそう。別にエヴァちゃんに用があるんじゃなくて……」

 

 ナギ達と話していた神楽坂 明日菜が、私の叫びに反応して此方を振り返る。

 

 ついでに、七海の妹もぐい、っと私に顔を寄せてきた。近い。図々しいその感じはとても七海の妹とは思えなかった。

 

「エヴァちゃんこんにちわ! 私はね! ななねぇを探しにきたの! 部屋にはいなくて、歩いてた学園長に聞いたらここじゃないかって」

 

「そうそう。私達も。七海と遊びに行こうと思ったけど寮にいなかったからここかなって。エヴァちゃん七海の場所知らない? 」

 

 

 ねぇねぇ七海は七海は? と二人合わせて私に話し掛けてきて、とてもとても鬱陶しい。

 二人の顔を押し退けながら、私は答えた。

 

「あー。分かった。分かったから。七海は今、坊やの姉と一緒にいるぞ 」

 

「……お姉ちゃんと? どこにいったんですか? 」

 

 自身の姉の名前が出たからか、坊やは思わず話題に食い付いた。

 他のものもその行き先が気になるからか、私へと視線が集まっていた。

 

 私は少しもったいぶるように間を置いてから、ゆっくりと答えた。

 

 

 

「世界樹のところだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 上から、一枚の葉がひらひらと落ちてきた。首を上げると、世界樹が緑に繁っている姿が見える。骨のように伸ばした枝とそこに纏われる葉によってまるで大きな日傘のような役割をしていた。根元は完全に日を遮られていて、空気もひんやりとしているのが心地よい。

 

 私と隣で同様に世界樹を見上げていた女性は、目を閉じて風を感じるようにしていた。

 良い空気、と小さく呟いたのが聞こえた。

 

 

「……ねえ。あなた」

 

 

 麻帆良の街に目を向けながら、彼女は静かに私を呼ぶ。

 

 私は、彼女の整った横顔に目を向けて、なんだい、と返事をした。

 

 

 

「……あなたは、転生って信じてた? 」

 

 

 静かに問い掛けてきたその声に、私は首を横に振った。

 

「……いいや」

 

 自身がこうやって生まれ変わるまでは、全く信じてなかったと言ってもいい。科学者として、理論的な説明と立証がされない限り、それは認めてはならなかった。

 

「そうよね。勿論私もよ」

 

 彼女もきっと、私と同様に思っていたのだろう。

 私に同意するように頷いてから、でもね、と彼女は言葉を続けた。

 

「でもね。調べてみれば、前世の記憶を持った人は本当に極まれに現れるらしいのよ。幼いながらも過去の自分が産まれた場所について饒舌に語れる人や、自分を殺害した犯人を生まれ変わってから公表した人もいるらしいわ」

 

 知ってた? 、と彼女が私を覗き込むようにして聞いてきたので、私はまた首を振った。

 それに、その情報を知ってたとしても、眉唾だろう思い込んで、信じていなかっただろう。彼女もきっと自身にそれが起こるまでは、その話を信じていなかった筈だ。

 

 

 首を振った私の答えが予想通りだったからか、あなたこう言うことは疎そうだものね、と彼女は小さく笑った。

 

「……それでね。また違う話なのだけれど」

 

 そう前置きしてから、彼女はまた話を続ける。

 日に温められた風が吹いて、彼女の金の髪が舞う。その髪を彼女はすっと耳にかけた。

 

 

「この世に、世界っていくつあると思う? 」

 

「……世界、ときたか」

 

 随分と急な話題に、思わず雑な相槌を打ってしまった。彼女のことをよく知っていなければ、危ない宗教にはまり出しているのでは、と心配したかもしれない。

 

「きっとね、この世には、凄い沢山の世界があるのよ」

 

 

 あまり食い付かなかった私の発言をなかったものとして、彼女は話を進める。

 

 

「だって、そうでしょう? 宇宙はとてつもなく広いし、人間が及ばない領域なんて、世にはまだまだ信じられないくらいあると思うの」

 

 だって、魔法世界なんてものまであるのよ、と続けて彼女は私の方を見た。

 

 魔法世界のことは、既に超に聞いていた。確かにそのことを考えれば、世界というものは、この世には沢山あるという考え方も理解できた。

 

 ならば。

 この世界も、沢山ある世界の内の一つなのだろう。

 私が元に生きていた世界も、誰かが夢に思うようなファンタジーの世界も、技術の進んだ近未来的な世界も、この世には存在しているのかもしれない。

 はっきりと肯定は出来ないが、否定することも出来なかった。

 

 魔法があり、吸血鬼があり、幽霊がいるこの世界に私は生きている。

 ならば、どんなことがあっても不思議ではない。

 そう思えるようになった私は、前世に生きていた時よりも柔軟になれたのかもしれない。

 

 

 

「それでね、何が言いたいのかというと 」

 

 彼女は、その顔を私に向けて、互いの間に指を立てた。それから、また笑った。

 

 それは、どう見ても、私の妻とは違う顔だった。

 それでも、どう見ても、彼女は私の妻だった。

 心の底で、疑いようもないくらいそのことを認めていた。

 彼女もきっと、そういう確信があるのだろう。

 だからお互いに、何の迷いもなく、こうして話ができる。

 

 

 彼女はじらすように少し時間を置いた後、はっきりと言った。

 

 

「私達は生まれ変わった。それも、無限と言われるほど存在する世界の中で、同じ世界に」

 

 彼女がそう言い放った言葉は、まるで、全ての結論を述べているかのようで。私の心に、染み込むように拡がる。

 

 

「前世の記憶を持って生まれること自体奇跡に等しいのに、更に私達は、同じ場所に生まれてこれた。それはきっと、ヒトゲノムの中からたった一つの違う塩基を見つけることよりもずっとずっと、低い確率だわ」

 

 

 ヒトゲノム、という生物学者らしい表現の仕方が、彼女らしくて私は自然と笑みがこぼれた。つまりは、砂漠で一粒の真珠を見つけるよりもずっと難しい、と言いたいのだろう。何億分の、いや何兆分の一というレベルの話だ。

 奇跡、なんて言葉に定義は存在していないのかもしれないし、そもそも偶然に頼っているようなその響きがあまり好きではなかったのだが、それでも、奇跡が滅多にないことが起こることを示すのだとすれば、これは奇跡だと思った。

 私達は、奇跡の上に立っていた。

 

 

「ただ、ねぇ」

 

 ここで彼女は、初めてむっとした顔を見せた。

 私はそれに、少しドキリとする。家庭で彼女がこういう顔をした時は、大抵私に何か言いたい時だ。随分と前の記憶であるのに、この感覚を忘れていないことにも驚いた。

 

 彼女は、すっと手を上げて、私の胸の辺りを指差した。

 

 

「あなた、最後の二分の一だけ外しちゃったのねぇ」

 

 

 軽いため息と共に言われた言葉を、私はちょっと考えてから理解した。

 

 ……なるほど、確かに。

 

 私は、ほんの僅かに膨らみがある自分の胸に手をやった。

 

 ……二分の一か。

 

 そう簡単に表現されたのが、何となく可笑しくて、私は小さく笑った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

「それで、これからどうしましょうか」

 

「どうする、とは? 」

 

「私達よ」

 

 私と、彼女は、元夫婦だ。

 それも、喧嘩別れした訳でも、離婚した訳でもない。

 ならば、例え生まれ変わっていたとしても、二人が会えば今後どうするか、という話題になるのは当然であった。

 

「あなたは、どうしたい? 」

 

 彼女は、にまにまと笑いながら、私の返答を待っていた。

 

 正直に言ってしまえば、私はこの世界で彼女ともう一度会いたいと強く願っていたが、会った後どうしたいかまでは考えていなかった。

 性別は同じだが、一緒になる道がない訳ではないだろう。

 

 

 私は、一度目を閉じて、答えを探そうとした。

 そうした時、色んなことが瞼の裏に蘇ってくる。

 

 前世での母や、幼い頃からの友達。一緒に研究を進めてきた仕事仲間。私と共になった、妻。長く生きた前世だ。今でも忘れられないことはあるし、記憶の中でも大事にしていきたいこともある。

 

 

 しかしそれは、今世も一緒だった。

 

 迷惑を掛けた私を呼び戻してくれた、友人達の顔が一斉に浮かんだ。

 私の名前を何度も呼んでくれて。起き上がった私を涙でぐちゃぐちゃになった表情で抱き締めてくれて。申し訳なさで一杯になった私が謝ると、全員が気にすんなと笑ってくれた。

 

 そんな彼女達と一緒にいる今の世界が、私は大好きだった。

 

 

 

 だから―――。

 

 

 

「今のままで、いいんじゃないか? 」

 

 

 無理に今と何かを変えなくてもいい。別々にここまで歩んできた私達の道を、無理矢理に交える必要はないと思った。

 勿論、性別が変わっても、私は妻を愛している。

 だが、愛といっても、一緒になるだけが全てではないだろう。

 遠くにいても、互いが心の隅で相手を想っている。そう信じ合える二人でいれるだけで。そんな相手が同じ世界にいることを知っているだけで、いいと思った。

 

 

「そうね。私も、それでいいと思うわ」

 

 

 彼女は、私の答えに納得するかのように、笑ってくれた。

 

「貴方が七海であるように、私も、今はネカネだから」

 

 そう言って、彼女は麻帆良の街に目をやった。

 

 

 これから、問題がない訳ではない。

 私達の中にいる彼も、このままにしておいてはいけないかもしれない。

 超の言っていた魔法世界の危機も、解決しなければならない問題だろう。

 それでも、私達はきっとやっていける。

 想い合える相手がいて、支えてくれる友人がいて。

 私達は、本当に恵まれていた。

 

 

 

 

「ここは、いい所ね」

 

 

 

 そう言った彼女に、私は、笑って答えた。

 

 

 

「ああ、自慢の故郷だ」

 

 






ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。

連載期間約一年半、で完結したあと、私情で一度作品を消し、またここに載せさせてもらいました。色々ありましたが、とりあえずこれで一度完結とさせてもらいます。

最後の方は加筆も小ネタもほとんどなく、申し訳ありませんでした。
後半になればなるほど、小ネタは雰囲気壊すのでは、と考えたり、一度書ききったものを加筆する能力が無くなってました……。


さて、無能力のおじさんが頑張る話があってもいいんじゃないか、という思い付きから始まったこの作品。
気付けば虫と絡め、友情を絡め、愛情を絡めたおかしな作品になっていました。虫と絡んでる時点でおかしいのでしょうけど。

結構好き勝手に色々やってましたが、書く上で気を付けてたことが一つだけあります。
それは、原作キャラを原作より不幸にはしないということでした。
勝手に原作を借りて創作させてもらう立場で、オリジナル展開により原作キャラクターを悪い風にはしてはならない、と一人で制約をつけてました。
果たして七海の登場により皆が原作より幸せだったかは分かりませんが、それでも不幸なキャラは生まれなかったと信じたいです。



これでひとまず完結ですが、今後はたまに番外編を上げていきたいと思ってます。再投稿して気付きましたが、この物語は自分でも結構気に入ってるようで、続きを書きたいと思いました。

ただ、しばらく間は空くと思うのでどうか気長に待っていただければ。

重ね重ね申し上げますが、今まで感想、評価、お気に入りしてくれた皆様には、本当に感謝しています。
皆様の力なくてしては、ここまで書けなかった自信があります。

今後もどこかで会えたら良いですね。
それでは。







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没ネタ1~3

 没ネタその1

『修学旅行の班決め』

 

 ○

 

 

 先日、修学旅行の班決めを行うということで、ネギ先生はホームルームの時間をそれにあてた。A組のメンバーの性格上二年も一緒にいれば皆仲がよく、特に誰かと軋轢があるということも少ないため、スムーズに決まるものだと皆が思っていた。しかし、そう簡単にはいかなかった。

 

「七海は私の班だ」

 

「七海は私達と行くんですわ」

 

 私が少し出遅れていた所で、いつの間にかエヴァンジェリンとあやかの対立が起こっていた。二人の間には見えぬ筈の火花が激しく散っていて、私は状況に付いていけずにぽかんとしていた。他の生徒たちはその珍しい組み合わせに好奇心を刺激され、なんだなんだと野次馬精神をたぎらせた。黒板前に立つネギ先生は、おろおろと戸惑っている。

 

「……それなら二人共同じ班に……」

 

「私の班にこんなうるさい奴はいらん」

 

「私の班ももう他のメンバーが決まっていますわ」

 

 私の案は即刻却下され、二人の睨み合いは強くなる一方だ。私が困った顔を浮かべていると、思わぬ所から助け船が入った。

 

「まぁまぁまぁお二人さん。それじゃどうしようか。七海に『どっちと行きたいか』なんて聞くつもりはないでしょ? 」

 

 朝倉が二人の間に割り込むようにして、突如仕切り始める。『どっちと行きたいか』、なんて問われたら一番困る質問だ。私はこの場でどちらと行きたいんだ、なんて言う勇気がなかった。中途半端だ、とまた言われそうでもあるし、はっきりとしている人こそが正しいと言われたらまた困るのだか、とりあえず今の私はこの状況が心苦しかった。

 

 それを察してくれたのか、朝倉の言葉に二人はうっ、と息を詰める。そこで朝倉はニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

「なら、勝負しかないっしょ! 第一回! 七海争奪戦ーーー! 」

 

 

 わぁー! と、テンションに身を任せた生徒たちの歓声が上がる。いやいやそんな大事にしなくても、と私が口を挟んでも、当の二人がやる気のためどうしようもない。あっという間に生徒たちは机を移動して、教室の中央に広いスペースができた。彼女らはそこを囲むように観客を装い、こんな時のその団結力はなんなんだ、と私が愚痴る前に、私は最も見易い場所に座らされていた。

 いつもならあやかが抑えている状況だが、本人が当事者の場合はどうしようもない。ネギ先生助けて、と彼に目をやると、彼は私の横でうきうきとした表情で座っていた。どうやら、彼は生徒にうまく言いくるめられて、これを楽しい行事と勘違いしていた。

 私は諦めるように項垂れて、トトカルチョなどを始める生徒達の前で二人の様子を見守った。

 

 司会は当然のように朝倉が仕切り、競技を指定した。なるべく運要素の強いゲームということで、じゃんけん、アミダくじ、ポーカーの三種のうち2勝したら勝ちというルールになった。

 

 初めのじゃんけんでは、エヴァンジェリンが圧勝した。運とは言えないほど、連続で彼女が勝ち続けた。ふふん、と高らかに笑うエヴァンジェリンを見て、あやかは悔しそうな顔をした。

 

「肉まんあるヨー。いらんかネー」

 

 いつの間にか商売を始めた超が席を回る中、アミダくじが始まった。

 どうやっても盛り上がりようがないだろ、と言えるこのゲームも、朝倉のトークテクニックでまさに熱い勝負であった。ここでなんとかあやかが勝利を掴み、勝負はポーカーへと持ち込まれた。

 

「勝負! 」

 

 二人同時で手を見せる。

 あやかの手は、クローバーの1から5を揃えた綺麗なストレートフラッシュ。勝ったと確信の笑みを浮かべている彼女に対し、エヴァンジェリンは余裕そうな顔で手札を晒す。

 

「な、なんと! エヴァンジェリン選手!! ロイヤルストレートフラッシュです! よって、七海争奪戦の勝者は! エヴァーーンジェリーーン!! 」

 

 教室に歓声が轟く。あやかは、そんな、と短く呟いて膝をついた。エヴァンジェリンは満面の笑みを浮かべて私に振り向いた。

 

「七海! どうだ! 勝ったぞ!」

 

 教室では滅多に見せないようなその笑顔に、クラスメイトは、ほう、と息をはいた。

 

「エヴァちゃん、そんな笑顔できるんやぁ」

 

「ムスッとした顔しか見たことなかったでござるよ」

 

「うーん。やっぱり上玉だねエヴァにゃん」

 

「エヴァンジェリンさん、いつもそんな顔をしてればいいのに」

 

「う、う、うるさいぞ貴様ら! やめろやめろ! 」

 

 誉め尽くされているエヴァンジェリンは、顔を真っ赤にしながら生徒たちに怒鳴った。やいやいと騒いでいる中、教室のドアが勢いよく開いた。

 

「A組! 静かにできんのかぁ! 」

 

 その後、鬼のような顔をした新田先生に散々怒られたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 没ネタその2

『七海ラブラブキッス大作戦参加編』

 

 

 

 

 ○

 

 ……何の騒ぎだこれは。

 

 修学旅行二日目の夜、私は皆と時間をずらして温泉に入りそのまま部屋に戻ろうとしていた。しかし、部屋の前の廊下には、何故か必死に枕を投げ合うクラスメイト達がいたのだ。

 

「あ、七海もいるアル! 」

 

「ふむ、七海殿も行事を楽しむつもりでござるな。では、覚悟」

 

「まて、まてまて」

 

 現状も理解できない私をおいて枕を振りかぶる二人に静止を呼び掛けるが、彼女達の勢いは止まりそうにない。

 

「クーちゃんたち余所見してる! チャンス! 」

 

 彼女たちの横からまき絵と明石が飛び出してきて、二人に向かって枕を投げた。予想外の助けに混乱しながらも、再び始まった彼女達の枕投げを見ていると、後ろから袖を引かれた。

 

「七海さん、こっちです」

 

 その場から遠ざかろうと、夕映はどんどん私を引っ張っていった。かなり距離を取って廊下から見えないような角についたところで、私は夕映に説明を求めた。

 

 

「…………また朝倉の仕業か」

 

 どうやら『ラブラブキッス大作戦』という訳の分からぬ行事を企画したようだった。作戦も何も、勝利条件はネギ先生の唇を奪うという本当に訳の分からぬものだった。

 

「はい。まったくバカなことを企画するものです。せっかくのどかが勇気を振り絞って告白したというのに」

 

 盛大にため息を吐いて怒りを表す夕映に、横にいるのどかはまぁまぁと手を肩に置く。

 

「やめさせよう」

 

 少年の唇を総出で奪うなど些か非人道的であるし、ネギ先生がそれを許可したとは思えない。私が皆にそれを告げようとした所で、予想外にも夕映が私を止めた。

 

「七海さん、今までこのような騒ぎになって、A組が素直に辞めたことはありますか? 」

 

「……それは」

 

 私は手を顎にやり、これまでの過去を振り替えってから答える。

 

「……ないな」

 

「でしょう。皆に声を掛けても止まるかは分かりませんし、それを注意して七海さんが鬱陶しく思われる筋合いもありません」

 

 A組にそんな風に思う人がいるとは思えなかったが、とりあえず夕映の心配を受けとるように頷く。

 

「ここはやはり、主犯をどうにかするべきかと」

 

「つまり、朝倉を探し出せばいいんだな」

 

「ええ、もしくは、のどかに優勝させます」

 

「…………うん? 」

 

 ちゃっかり行事に参加しようとしている所に私が疑問を持った直後に、後ろから聞き覚えのある声がした。

 

「ふはははは! そこで隠れているつもりか! ばれているぞ! 」

 

 廊下の角から聞こえるその声はどう考えてもエヴァンジェリンの声で、彼女も参加しているのか、と私はがっくりと項垂れた。のしのしと、彼女が近付いてくる音が聞こえてくる。

 

「ま、まずいです」

 

「………ここは、私に任せてくれ」

 

「で、でも」

 

「心配するなのどか、さぁ、二人は先にいくんだ」

 

 私が笑いかけると、二人は私に頭を下げてからさっと奥へと移動していった。

 

「さぁ、見つけたぞ! 覚悟し…………て、七海じゃないか。こんな所で何をしているんだ」

 

 エヴァンジェリンは意気揚々と角から顔を出して叫んだあと、私と気付いて振りかぶった枕を下ろした。

 

「それはこっちのセリフだ。君まで一体何をしているんだ」

 

「枕投げとは、修学旅行の定番イベントだろ。これに参加せずにどうしろというんだ」

 

 くっくっく、と楽しそうに笑うエヴァンジェリンの後ろで茶々丸もしっかり枕を持っていて、私はまた溜め息を吐いた。

 

「そこまでネギ先生とキスしたいのか」

 

「アホなことを言うな。ただイベントだから参加しているだけだ。七海を誘おうと思ったが、いなかったので勝手に出てしまったぞ」

 

「すみません明智さん」

 

「いや、いい。頼むから謝らないでくれ茶々丸」

 

 私は痛くなった頭を片手で押さえながら告げた。よく分からないがこれだけやる気になっている彼女達をどう止めようか。と、考えていたその時。

 

「七海さん」

 

 トントン、と私の背中をつつく感覚がして、振り替えると、そこにはネギ先生がいた。

 

「……ネギ先生、こんな所にいたのですか。申し訳ありまけんが、クラスメイトが馬鹿なことをしてました、今はとりあえず逃げて……」

 

「僕と、キスしてくれませんか」

 

「……………………うん? 」

 

 …………私の聞き間違えでなければ、もしかして、キスしてくれと言ったのか? ならば、この計画はネギ先生も関わっていたと。紳士を目指すと言っていた気がするが、誰かに間違った紳士でも教えられたのか。

 

 と、私がネギ先生の不意討ちの言葉に思考を巡らせていると、彼は背伸びをして私の肩をぐっと掴んだ。

 

「明智さん」

 

「ネギ先生。バカな考えはやめなさい、まだ間に合う」

 

 顔まで近づけようとするネギ先生の頭を、私は力を込めて押さえる。だが、ネギ先生の方が力が強く、その顔はどんどん近付いてくる。

 

 私が、勘弁してくれ、と焦りを浮かべた所でピキリ、と音がなった。

 

 

「七海に何する気だこのくそ坊主が! 」

 

 叫び声と同時に横からエヴァンジェリンが思いっきりネギ先生を蹴り飛ばし、ネギ先生は廊下の奥まで飛んでいった。

 

「……エヴァンジェリン、ありがたいし助かったが、やりすぎじゃないか? 」

 

「はっ! 当然の報いだ」

 

「明智さんをゲームに誘おうとした人が言う言葉ではないような気がしますが」

 

 茶々丸の突っ込みを聞きながら、私はネギ先生の様子を見ようと近付く。すると、白目を向いたネギ先生が、ぽん、と音を立てて一枚の小さな札になった。

 

 

「……もう訳が分からない」

 

 

 理解できないことの連続に、私はまた項垂れることしか出来なかった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 没ネタその3

『フェイト君と自販機』

 

 

 ○

 

 

 

 コーヒーが飲みたい。彼はそう言って、自販機を見た。この年でコーヒーが好きとは、中々通である。しかし、この自販機には録なものがないと、彼は言うのだ。

 どれどれ、と私とういも一緒に見てみると、確かに変なものしかない。ソース烏龍茶やドリアンミルクなど、見るに耐えないものが多い。

 

 

「七海じゃありませんか。こんな所で何をしているんです? 」

 

 

 私とういが、うえぇ、とその自販機に引いていると、後ろから現れた夕映が話し掛けてきた。

 

 チューチューと紙パックのジュースを吸っていて、パッケージには、「抹茶オレンジ」と堂々書かれている。

 

 それを見てまた少し引いたういを気にせずに、どなたです? 、と夕映が視線で私に訊ねる。私が両者の間に立ってそれぞれ紹介すると、妹さんがいたんですか、と夕映は意外そうな声を上げた。

 

「それ、美味しいんですかぁ? 」

 

「癖になる味ですね。この自販機にあるものは、追究心を擽るものばかりですよ」

 

 何故か夕映が自信ありげに自販機の商品を紹介していく。

 

「それで、お探しの商品は? 」

 

「この子が、コーヒーが飲みたいらしいんだ」

 

「……? この少年は? 」

 

「ちょっとした知人だ」

 

 私がそう紹介すると、フェイト君は一瞬私を見てから無表情に夕映のことを見た。目付きの悪い子ですね、と夕映は私にそっと耳打ちする。

 

「それにしても、コーヒーですか」

 

「ここになければ別なところで探すよ。そもそも缶コーヒーはそんなに好きでもないから」

 

「いやいや、ここの缶コーヒーをそこらのものと一緒にしてもらったら困ります。ほら、ここにあるじゃないですか」

 

 そう言って、夕映はある商品を指差した。そこには「海老味噌珈琲」と書かれた恐ろしい物があった。あまりの恐ろしさにういは私の後ろに隠れた。

 新商品で私もまだ試してないんです、と夕映は興奮した様子を見せる。

 

「ななねぇのお友だち、変っ」

 

「何が変ですか。ほら、少年。どうぞこれを」

 

「……やめとけ、お腹壊してしまうぞ」

 

「七海までそんなこと言って」

 

 フェイト君は私達の会話を聞きながら、ちゃりんと自販機にお金を呑ませた。それから、「海老味噌珈琲」のボタンを押す。

 

「……分からないけど、試してみないと未知のままだろう? それに、こんな風でもコーヒーはコーヒーだ」

 

 なんと勇気ある発言だろうか。この年でコーヒーにハマるほどのコーヒー好き魂が、刺激でもされたのか。その心意気は素直に称賛するが、無理しすぎな気もする。

 

 ガコンと出てきた缶を、フェイト君は取り出す。パッケージには、海老とコーヒー豆が一緒に写っている。パチンと音を立ててプルタブを返す。私とういは、その様子を恐る恐ると見ていた。海鮮とコーヒーの混じった臭いが鼻をなぞり、うっ、となる。

 

 フェイト君はゆっくりと缶を口元に持ち上げ、唇につける。

 

 私とういは謎の緊張感により、ごくりと喉を鳴らした。

 

 缶が傾き、フェイト君の喉が一瞬動いた。流れ込む灰色の液体が少し見える。

 

 フェイト君の目が、大きく開いた。

 

 缶を持った手をゆっくりと下ろす。顔を下に向け、表情が見えない。

 

「ね、ねぇ。だいじょぶ? 死んじゃった? 」

 

「失礼ですね。死ぬもんですか」

 

「いや、救急車呼んだ方が……」

 

 フェイト君はゆっくりと顔をあげた。いつも通りの無表情で、それが逆に私を安心させた。

 大丈夫じゃないか、と私が声をかけようとした瞬間。

 

 

 ばたりと、彼は綺麗に倒れた。

 

 

「えええ! やばいよやばいよ! 」

 

「うーん。おかしいですね。彼には耐性がなかったのでしょうか」

 

「いいから救急車だ! 」

 

 少ししたら、フェイト君は救急車に運ばれていった。

 

 

 

 



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没ネタ4~6

 

 没ネタその4

『明日菜と千雨とお勉強』

 

 

 ○

 

 

「……ぬふぅ」

 

 神楽坂が私の部屋の机の上で項垂れた。周りには教科書や消しカスやらが散らばっていて、その真ん中に神楽坂の頭が乗っかっている。珍しいオレンジ色の髪も、机一杯に広がった。

 

「おい、なに私の部屋まできてだらけてんだよ」

 

「だって自分の部屋じゃ集中できないし……。千雨ちゃんの部屋ならって」

 

「だからなんで私の部屋だよ」

 

 何を思ったのか、神楽坂は最近勉強しようとしているらしい。しかし、案の定と言うべきか、集中力は長続きしていない。

 

「七海は大学にいっちゃったんだもん」

 

「またか。……あいつもよくやるよ」

 

 世界樹や昆虫のことをまだ調べているのだろうか。初めてここの異常に気付いたのは小学生の時だが、まさかあいつが中学生の間に大学に行ってまで研究をするとは、流石に思っていなかった。

 多分、ほんとに研究するのが好きなんだろうな、とこの場にいない友達のことを思って、私は苦笑した。

 

「……ねぇ、勉強ってなんのためにするの? 」

 

 神楽坂が顔だけあげて、力なく呟く。

 

「神楽坂ぁ……。それは勉強が出来ない奴が言う常套句だぞ……」

 

「じゃ、じゃあ千雨ちゃんはどう思ってんのよ!」

 

「んなもん。最低限出来てれば教師は悪い顔しないし、いい大学いければ就職も便利だからだろ」

 

「……私別に今そんなの気にしてないし」

 

 神楽坂は私の答えに納得出来なかったのか、また顔を埋めるようにした。

 

「つまんないよ千雨ちゃーん」

 

「知るかよ。なら勉強好きそうな奴に聞け」

 

 大体、勉強の意味を知りたいならつべこべ言わずそれなりに勉強してから考えろ。

 

「それだ! 」

 

「は? 」

 

 どうかしてしまったのか、神楽坂は急に顔を上げて私のことを指差した。

 

「勉強が好きそうな人に聞いて、なんか分かればモチベーションあがるかも! 」

 

「……はぁ。ただ休む口実欲しいだけだろそれ」

 

「そんなことない! ほら!いくよ千雨ちゃん! 」

 

「っておい! 私もいくのかよ! おい引っ張るな! 」

 

 突然元気よく立ち上がって、神楽坂は無理矢理私の手を掴んだ。私の主張などまったく聞かぬ彼女に手を掴まれながら、外へと連れてかれてしまった。

 

 

 ○

 

 

「勉強? 好きだヨ」

 

 わざわざ超包子まできて、私らは超に質問した。珍しくお客も少なく、話がしたいと言ったら肉マン一つずつ買うことで手をうってくれた。旨いからいいのだが。

 

「何でって、どんな知識でもいつか役立つことを知ってるからネ」

 

「超包子」と堂々と書かれたエプロンをつけながら、超はにんまりと笑って言った。

 

「……ほんとに? 私、三角形の面積を求めることが必要になったことないわよ? 」

 

 流石に三角形の面積は小学生レベルなので何とも言えなかったが、神楽坂が言うことも分からなくはなかった。

 私も、勉強したことが生活で役立ったと実感したときはほとんどない。

 

「知識は持っていて損はないヨ。使い方次第では、ちゃんと自分に返ってくるネ」

 

「……例えば? 」

 

「数学理科はモノ作りに必須で、国社英はコミュニケーションに必須ネ。お偉い外国の役人と話すのに、その国の知識や歴史を知らねば話にならないし、それなりに文を学んでいなければ面白いお手紙も書けないヨ。英語は言わずもがなネ」

 

「私はそんな経験することないわよ……」

 

「安心しろ神楽坂。普通ない」

 

 というか、こいつはあるっていうのか。

 探るように超を見るが、相変わらず飄々としていて掴めない。冗談かどうか微妙だった。

 私の視線に気付いたのか、何かな千雨さん、と逆に訪ねられたので、何でもないと答えておく。

 

「手っ取り早く頭が良くなりたいならとっておきの話があるネ」

 

「え!? 何々!? 」

 

「ふふふ。この! 思考力強制マシーンを使えば! どんな馬鹿でもたちまち東大入りヨ! 惜しむらくは勉強が好きになりすぎて鉛筆を一生涯手放せなくなるというデメリットがあるが! 今なら肉マン5つで―――っ! 」

 

「よし神楽坂。次の人いくぞ」

 

 

 ○

 

 

 

 葉加瀬は、頭を寝癖でボサボサにしながらも訪れた私達を部屋の中に入れてくれた。それから葉加瀬がぱぱっとシャワーを浴びて身なりを整えたところでやっと話が出来た。身なりをと言っても、白衣だが。

 

「すみません。昨日夜遅くまで起きてたもので」

 

「いや私らこそ悪かったな。別に大したようじゃないし」

 

「ちょうど起きたい時間だったので寧ろ助かりましたよ。それで、勉強の話でしたっけ」

 

「そうそう! ハカセちゃん勉強って好き!? 」

 

「嫌いと思ったことはないですけど」

 

「なんで!? あんなに苦痛なのに!? 」

 

 大袈裟に身を乗り出す神楽坂を前にしながら、葉加瀬は顎に指を乗せて考える仕草をした。

 

「何でって……。出来るから? 」

 

「おい」

 

 元も子もない意見に私が突っ込むと、葉加瀬は控えめに笑った。

 

「冗談はおいといて、自分の好きなことに役立てれるからですね。知らなきゃ分からないことは沢山ありますから」

 

「好きなことに役立つ……」

 

「ほら。私工学が好きでしょう? そうなると、理系は勿論必要ですし。国語やら社会はそうでもないですけど」

 

 葉加瀬はフラスコで沸かしたコーヒーをコップに移してから飲んだ。

 神楽坂はうーんと頭を悩ましている。

 

「なんかさ、私らとレベルが違いすぎて参考になってねぇじゃねーか」

 

「ま、まだ分かんないでしょ! 次ィ! 」

 

 

 ○

 

 

「あー。いいんちょ、ほんとにムカつく」

 

「お前も煽ってたから同罪だ」

 

 その後委員長にも話を聞きにいったが、教養として当然と言った委員長の態度に、上から目線だと神楽坂が文句をつけ、それに委員長が文句を言って、結局いつも通り喧嘩をしただけで終わった。

 

 妙な疲れを感じた私達は、とりあえず部屋に帰ろうと向かっている。

 その時、後ろから聞き覚えのある声がした。

 

「何をしてるんだ二人は」

 

 制服姿の明智が、私達を見て首を傾げていた。

 

「あ、七海! ねぇ七海って勉強についてどう思う!? 」

 

 神楽坂が明智に食い付くように質問をぶつけると、明智は平然と答えた。

 

「勉強? 好きだが」

 

 何で何で、と神楽坂が迫り、明智は腕を組む。

 

「ふむ……」

 

 いつも私達に何かを教える時にする、優しい目になった。

 

「君達が今簡単に学べる知識には、物凄い想いが詰まっている」

 

「……想い? 」

 

 そうだ、と明智は頷く。

 

「あるものは多大な費用を使い、あるものは長い年月をかけ、あるものは文字通り命をかけて研究した。そして、そんな先人達のおかげで、その成果は世間の当たり前になった」

 

 それが今私達の教科書に載っているんだ、と続けて明智は目を伏せる。

 

「先人が一生かけたことを、私達は一瞬で学べるんだ。それも、沢山のいろんな分野の先人からな。こんなに贅沢なことはないだろう? 」

 

「……」

 

 私と神楽坂は、二人で目を合わせた。

 

「……どうした? 」

 

「よく分かんないけど、七海って感じよね」

 

「まぁ、明智っぽい答えだな」

 

「なんだそれは」

 

 明智は呆れるように笑った。

 

 ○

 

 明智はとりあえず自分の部屋に向かうと、私達から離れていった。

 私は横を歩く神楽坂に、聞いてみる。

 

「それで、やる気は沸いたのかよ」

 

「……少し! 」

 

 一瞬悩んでから、神楽坂は何故か自信ありげに胸を張って答えた。

 

「少しかよ」

 

 まぁ、十分か。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 没ネタその5

『学祭の出し物』

 

 

 ○

 

 

「……やっぱさ、喫茶店とかが無難なんじゃない? さっきみたいなメイド喫茶じゃなくても」

 

「悪くはないですがインパクトには欠けますわね。喫茶店はどこのクラスも考えそうですから」

 

「メイド喫茶が良いという訳ではないが、喫茶店にするなら何か他のクラスと差別化する要素が欲しいな」

 

 私の発言を聞いて、うーん、とあやかと明日菜が頭を悩ます。周りを見渡すと、他の生徒も自分達と同じようにそれぞれの机を合わせて一つの大きな机を作っていた。顔を見合せながらあーでもないこーでもないと議論する声が教室中に響いている。ネギ先生は一つ一つのグループを見回りながら、意見を聞き、ちょいちょいと口を出していた。

 

 

 私達は今、学園祭の出し物を決めようとしている。

 

 ついさっきまではハルナや朝倉が勝手にメイド喫茶を実行しようとしていたが、様々な衣装はもはやメイドというよりはコスプレのようなものであり、その経営システムはキャバクラに近かったため、ネギ先生から却下の声が出た。当然である。

 その後もクラス全員で話し合ったが一向に意見が纏まらないために、一度いくつかのグループに分かれて意見を絞り、その中から採用するものを探すこととなった。

 ネギ先生は、この学園祭に向けていつもよりずっと張り切っているように見えた。明日菜に理由を尋ねて見ると、どうやら彼の姉が学園祭を見に来るらしく、そのためにも一生懸命であるらしい。

 

 

「ちょっと! エヴァンジェリンさんも少しは考えたらどうですの!? 」

 

「……ん?……ああ」

 

 あやかの声により、私と向かい合うように座っているエヴァンジェリンが眠そうな顔を起こした。朱色に染まった右頬が、机に肘をつけ掌の上に頬を乗せていたことをはっきりと示していた。吸血鬼は昼に弱いんだ、と話していたことを私は思い出す。

 彼女はとろんとした目を私達に向けて、一息ついた。

 

「……まぁ、さっきの七海の衣装は悪くなかったな」

 

「そんな話はしていないが」

 

 エヴァンジェリンは未だに寝惚けているようだ。

 

 先程、私も無理矢理衣装を着せられていた。それは執事服であったためメイド服よりは断然抵抗はなかったが、コスプレ染みた衣装はやはり恥ずかしい。それに、あんなキャバクラのような店だと知っていたら着るつもりもなかった。

 

「ああ、あの執事の格好か。執事服を選ぶとは早乙女にしちゃいいセンスだったな。あのジャケットは微妙だったが」

 

「……ほう。やはり見る目があるな、長谷川 千雨」

 

「そりゃどーも」

 

「先程の明智さんの姿はしっかりと映像に残してあります」

 

「よし、後で改良点を探すか」

 

「脱線しすぎだ」

 

 完全に関係ない話であるし、改良点などを探すのもやめてほしい。もうあんな服を着るつもりはない。

 あやかが、ばん、と机を叩いた。

 

「その話は後でいいでしょう! それよりも学園祭の話ですわ! 」

 

 後でも良くないがな、と私は呟いておく。

 エヴァンジェリンは面倒だ、と言いたげな顔をした。

 

「出し物なんて何でもいいだろう。学生らしく、劇でもやっとけばいい」

 

 出るつもりはないがな、と彼女は続けて言う。

 

「……劇か。選択肢には入るな」

 

 このクラスは器用な人が多いので小道具や衣装には困らないだろうし、前に出るのを好む人も多いので面白い物が出来る気もする。

 

「ですが劇となると舞台の用意などの他に練習時間が多く取られますわね。このクラスは部活動やサークル活動でも忙しい人が多いので纏まった練習時間を取るのが難しいかもしれません」

 

「ならさ! ショーみたいなのにすれば! 個人で出来る奴特技とかを時間に分けて発表したりして! 」

 

「それだとクラスの出し物としてやる意味なくねーか? 」

 

「……前年、前々年のデータから、クラスの出し物は大別すると4つほどに分けられます。飲食店、劇、アミューズメント施設、展覧会です」

 

 うーむと再び悩む私達に、茶々丸が有益な情報をくれた。

 

 成る程、展覧会か。

 私は、思いきって立ち上がり、自分が思い付いた意見を口に出してみる。

 

「昆虫館なんてどうだ? 皆でそれぞれ虫を捕まえて、標本にして……」

 

 

「却下!! 」

 

 

「……だよな」

 

 皆から口を揃えて否定された私は、大人しく席に座り直した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 没ネタその6

『インキュベーター?』

 

 

 

 ○

 

 

「ねぇねぇ! 今からここの喫茶店いかない!? 」

 

 小難しい授業が終わった放課後。皆は解放感に満ち溢れていて、いきいきとした顔をしている。私も同様で、ベルが鳴り終わると同時に机の中にあったチラシを勢いよく引っ張り出して、木乃香の前に突き出していた。

 木乃香は、明日菜はほんま元気やなぁ、と呟きながらチラシを受け取って、じっと眺めた。

 

「これ、あそこの喫茶店のチラシやんか。これどしたん? 」

 

「今日さ、学校来るとき、私途中で忘れ物に気付いて戻ったっしょ? そんとき、喫茶店のマスターに会って、くれたの。ほら、ここ」

 

 私はチラシの右下にある、点線で切り取れるようになっている部分を強調するように指差した。

 

「『本日発売新ケーキ30%OFF』かぁ。……ええやん! うちもいきたいわぁ 」

 

「でしょでしょ! 」

 

 同意をしてもらったことに嬉しさを覚えて、気付けば私は鼻息を荒くしていた。

 

「他にも誰か誘ってええ? せっちゃんとかにも声掛けたいわー」

 

「いいよいいよ! 皆でいこ! 七海とか暇かな」

 

 ぐるりと首を回してクラスを見渡してみる。部活の準備で忙しそうにしている人から、放課後のお喋りを楽しんでいる人が目に入ったけれど、七海の姿はない。

 

「あれー。今日も大学かな。それとももう帰っちゃった? 」

 

 放課後しょっちゅう大学へと顔を出している七海だからいないこと自体は珍しくないのだけれど、こんなに早く教室を出ているとは。

 

 残念がって私が肩を落としている間に、刹那さんが木乃香に連れて来られていた。事情を聞かされる前に手を引っ張られて混乱している刹那さんに、私はチラシを差し出した。

 

「なるほど、あそこの喫茶店のクーポンですね」

 

「せっちゃん! 一緒に行くやろ? 」

 

「……はい、今日はちょうど部活もないので、一緒に行きましょう」

 

「やたっ」

 

 刹那さんが来ると聞いて、木乃香が可愛くガッツをした。それを見た刹那さんは微笑んでいて、本当に良い組み合わせだな、と思った。

 

「七海も誘おうと思ったけど、もう行っちゃったみたい」

 

「明智さん、ですか? 確か今日は部屋にいると言っていましたが」

 

「部屋に? 大学じゃなくて? 」

 

「休み時間にたまたま話したんですが、今日は何か用事あるそうです。 確か、インキュベーターとやらが来るやらなんやらと、嬉しそうに言っていました」

 

「……はい? インキュベーター? 」

 

 全く聞き覚えのない言葉だ。首を傾げた私を見て、刹那さんは、私もよく分かりませんけど、と言った。

 

「ま、よく分かんないけど、七海は来れないってことね。それじゃ、三人で……」

 

「ちょっと待て 」

 

 突然、ガシリと肩を掴まれた。振り返れば、そこには千雨ちゃんがなんだか怖い表情で立っている。

 

「ち、千雨ちゃん? 千雨ちゃんも一緒にケーキ食べに行く? 」

 

「ちげーよ。その話じゃない。明智の話だ」

 

「……七海がどしたん? 」

 

 千雨ちゃんの雰囲気に只ならぬ様子を感じたのか、木乃香が恐る恐ると訊ねた。

 千雨ちゃんは、刹那さんの方を向いた。

 

「あいつ、確かにインキュベーターが来るって言ったのか? 」

 

「は、はい。そうですが……。それがどうかしたのですか? 」

 

「……お前ら、インキュベーターって何か知ってるか? 」

 

「いや、知らないけど……。千雨ちゃん顔怖いよ? 」

 

 なんだろ。何かに恐れている、っていう顔をしていて、私は思わず息を飲んでしまう。

 

「……お前ら、ちょっとこい」

 

「え、え、ちょっ、ちょっとーー! 」

 

 千雨ちゃんは無理やり私の手を掴んで、教室の外へと引っ張っていく。木乃香と刹那さんは二人で首を傾げた後、そんな私達の後を付いてきていた。

 

 

 

 ○

 

 

 

「これが、インキュベーターだ」

 

 千雨ちゃんは、『インキュベーター』がプリントされた紙をホワイトボードに張り付けて、コンコン、と指で叩きながら言った。何で部屋にホワイトボードなんか、とは誰も突っ込まなかった。

 

「人の純粋な心を弄ぶとは……なんたる卑劣なやつ」

 

「なぁー。姿は愛らしいんやけど」

 

 怒りの混じった声を出す刹那さんの側で、木乃香が間の抜けたように言う。

 その『インキュベーター』とやらは、白くて耳長であり、まるで兎のような生き物だった。黒い目もクリクリとしていて可愛らしいのだけれども、千雨ちゃんによればたいそう酷いことをする奴らしい。

 だけど……

 

「それって、アニメの話なんでしょ? 」

 

 千雨ちゃんは一生懸命説明してくれたが、このインキュベーターとやらは何かのアニメのキャラクターらしい。七海がアニメ好きとは聞いたことがないし、それと七海の関係性はいまいちである。

 

 千雨ちゃんは、ゆっくりと首を振った。

 

「神楽坂……。七海が嘘を言うと思うか? 」

 

「……いや、思わないけどさ」

 

「それに、お前らは分からんかもしれんが、この街は不思議なことが多い。だから、もしかしたら……」

 

 そう言われて、私もハッとなった。確かに、最近気付いたことだけど、この世の中には魔法というものが存在するのだ。今までは魔法使いなんてアニメの世界の話と思っていたのだけれど、そうではなかった。ならば、この「インキュベーター」なるものが存在する確率は0とは言えないんじゃないか。

 

 刹那さんと木乃香の方を向くと、二人も真剣な顔をしていた。私達は目を合わせて、頷く。

 

「……! それじゃ、すぐ七海のところに行かないと! 」

 

 千雨ちゃんの話によれば、騙されてからでは、魔法少女になってからでは遅いのだ。

 私達はすぐに立ち上がって千雨ちゃんの部屋を出て、七海の部屋へと向かった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「七海! 大丈夫!? 」

 

「明智さん! 例のやつは! 」

 

 放課後。突然私の部屋を勢いよくノックする音が聞こえ、何事だ、と思いつつもドアを開けると、外から明日菜と桜咲が転がり込んできた。止める間もなく二人は部屋へと入っていき、呆然としている私を無視して木乃香と長谷川さんまで部屋に上がっていった。

 

「千雨ちゃん! あの子おらんよ! 」

 

「くそ! あいつは契約者以外には見えないんだ! それに、いくら倒しても無限に沸いてくる! 」

 

「なん……だと! それじゃ、どうすれば……! 」

 

「まてまてまて。皆。一体なにをしているのか、そろそろ教えてくれないか? 」

 

 何か演劇ごっこでもしているのかと思ったが、それにしては演技が迫真すぎる。桜咲は刀まで持ち出しているし、このままだと部屋が危ない。

 

「七海ぃ! インキュベーターはどこ! 」

 

「インキュベーター? ああ、それを探してるのか」

 

 何故、インキュベーターを探しているのか、そしてインキュベーター探しに何故そこまで必死なのか全く理解出来ないが、とりあえずこの状況をどうにかしてほしいので、私は今日届いたばかりのインキュベーターを指差した。

 

「これがインキュベーターだ」

 

「……どれ! やっぱり見えないの! 」

 

「いやいや。そこにあるじゃないか。その四角い奴だ」

 

「……四角……い? ……はい? 」

 

 

 全員が私の指が指す方向を見て、固まった。

 

「……あれがインキュベーターなの? 」

 

「そうだが」

 

「……白い兎みたいなやつは? 」

 

「私は昆虫以外飼わないが」

 

「……魔法少女は? 」

 

「何の話だ? 」

 

 私が持っている『インキュベーター』の中には、いくつかの昆虫が入っている。

 生物学や細菌学でよく用いられる『インキュベーター』は、熱による保温性に優れているため、ある温度を保っていなければならない物を入れておくという使い方ができる。小さい昆虫などはこれに入れておくことで、常に温度を維持出来るため季節に関係なく実験が行えるし、冬眠期間などを飛ばして飼うことも出来る。温度管理に優れているこれはあれば中々に便利なので、お年玉や切り詰めた生活費を使ってようやくネットで購入したのだ。

 

 そう説明すると、皆の顔がキリキリと音を立てながら回り、長谷川さんの方を向いていた。

 

「……千雨ちゃん? どゆことや? 」

 

「いや、そのあれだ」

 

「……喫茶店の時間、もう終わっちゃいますね」

 

「お、おお。その、うん」

 

「……千雨ちゃん。責任、とってくれるよね? 」

 

「…… 」

 

 長谷川さんはだらだらと汗を流した後、突然足を全力で上げながら走り出して、部屋から出ていった。

 

「あ! 逃げたわよ! 」

 

「追いかけて捕まえましょう! 」

 

 だだだっ、と音を立てて、残りの三人も私の部屋から去っていく。

 

 

 

「……何だったんだ。一体」

 

 私の呟きが、1人となった部屋に寂しく響いた。

 

 

 

 



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没ネタ7~9

 没ネタその7

『姉妹』

 

 

 ○

 

 

 

「ねー、ななねぇー」

 

「……どうした」

 

 ゴロゴロと、私の部屋のフローリングの上で寝転がるういは、まるで猫のようだった。クッションを両手で抱き締めて、うろちょろと部屋を見渡している。

 

「ひまー」

 

 だらけきった様子でういは間抜けた声を伸ばした。怠惰、という言葉は今の彼女にこそあっていた。

 

「……外にでも出たらどうなんだ? 」

 

「ええー。そんな気分じゃないんだよなぁ」

 

 ゴロゴロと転がってきたういが、私の読んでいる科学雑誌のページを勝手にペラペラと捲った。構って欲しいのだろう。しかし、だからと言って私の休息時間を邪魔していい訳ではない。ういのせいでちょうど読んでいた文章が繋がらなくなり、ジロリと睨むと、こわーい、と声を上げながら転がって遠ざかっていった。

 

「しかし、あれだね。ななねぇの部屋は殺風景だ」

 

 面白いものが何もない、と言いたげだった。

 

「そこの壁を見てみるんだ。新しい標本があるぞ」

 

「虫はパスでーす」

 

 珍しい『ゾウムシ』を集めて標本にしたものを作ったのだが、彼女は見てすらくれなかった。

 

「てかさ、ななねぇいつまで虫が好きなんて言ってるの? そんな女の子、絶対モテないよ」

 

「別にモテようと思ったことはない」

 

「はぁー。宝の持ち腐れとはこのことなんだねぇ」

 

 やれやれとため息をつくその姿は、どこが諦めが込もっているように見えた。

 

 

 そこで、インターホンがなった。

 

「あ! 誰かきたよ! 」

 

 新しい来訪者がこの何も変化のない空間に新たな風を与えてくれると思ったのか、ういはテンションを上げてドアを見つめた。

 

 明智、いるかー、とドア越しに声を掛けてきたのは、長谷川さんだ。

 

「千雨ちゃんだ!! 」

 

 ういはばっと立ち上がって玄関まで走っていき、勝手に力強くドアを開けて長谷川さんを迎え入れた。

 

「千雨ちゃんいらっしゃい! 」

 

「お、おお。ういか」

 

 乱暴に空いた扉に驚いている長谷川さんを無視して、ういは、どうぞどうぞと中に入れた。

 

「千雨ちゃん、今日はどしたの? 」

 

「いや、明智に借りてた本を返しにきたんだが。明智、サンキュ。面白かったぜ」

 

「それはよかった」

 

 長谷川さんは肩から掛けた鞄から丁寧に文庫本を取り出して、私に渡した。

 

「んで、ういはなんでここにいんだ」

 

 そう訊かれたういは、よくぞ訊いてくれた、と胸を張った。そんなういに対して、長谷川さんは、はやく言えと適当な物言いで急かす。

 

 長谷川さんとういは、私達が小学生の頃に出会った。長谷川さんが我が家に遊びに来たとき、私でさえ仲良くなったばかりの長谷川さんに向かって、ういはいつもの調子で距離を詰めていった。

 そんな彼女に最初は戸惑いを感じていたようだが、もう慣れてしまったのか、ういには気を使う必要がないと気付いたのか、長谷川さんはいつの間にか妹に対して心を開いていた。

 

「実はね! 暇だからななねぇのとこ来たんだけどね! 驚くことにここに来ても暇なんだよね! 」

 

「そーか」

 

「そーか、じゃなくて! ねね、私はどーすればいいの? 」

 

「もう自分の部屋に戻ったらどうだ? 」

 

「ななねぇひど! そんなこと言われたらもう逆に絶対帰らない! 泊まってってやるぅ」

 

 ぴょんと跳ねて私のベッドにダイブしたので、部屋に埃が少し舞う。

 

「……うい、冷蔵庫にプリンがある」

 

「へっ! プリン!? 」

 

「帰るか帰らないかは置いといて、とりあえずそれでも食べていったらどうだ? 」

 

「そだね! とりあえずお腹を満たさないと何も考えられない気がしてきたよ」

 

 ベッドから飛び起きて、トタタと足音を立てながらういは冷蔵庫に向かっていった。

 

「……ん? どうかしたか長谷川さん」

 

 長谷川さんは、何か思うところがあったのか、じっと私達のやり取りを見つめていた。

 

「いや、そのよ。お前ら姉妹は仲良さそうだなぁって」

 

「……どうしたんだ急に」

 

「私は兄弟ってのがいないからな。どんな感覚か分からんし、1人が嫌いじゃないから別に羨ましくもないんだが……。むしろ、家にこんな風に図々しく居られたら鬱陶しく思わねぇのかなってよ」

 

「まぁ、思わなくはないが……」

 

「ええ! 思わなくはないの! 」

 

 プリンの容器にスプーンを刺しながら、ういが私達の間に顔を出した。

 

「二人は喧嘩とかしないのか? 」

 

「喧嘩……。したことあったか? 」

 

「千雨ちゃーん。相手はななねぇだよ? 」

 

「ああ、そりゃ喧嘩なんぞしないか」

 

「それはどういう意味の納得なんだ」

 

「私が勝手にわがままいって騒ぐ時はあるけどななねぇはいつも冷静だし、そりゃ私が悪いことしたらななねぇは叱るけど、私もななねぇに言われて言い返そうとは思わないもん」

 

 ういがプリンを持ったまま、私に身を寄せる。

 

「ななねぇは優しいからねぇ。これで虫好きじゃなければ完璧の姉だったよ」

 

「虫好きの何が悪いというんだ」

 

「悪いというか、悪趣味だなぁって」

 

「……プリンは没収だな」

 

「ああ! それだけは! 」

 

 私に必死に頭を下げるういを見て、長谷川さんが噴き出すようにして笑ってから言った。

 

「ま、なんにせよ仲良さそうでなによりだな」

 

 

 

 ○

 

 

 

 没ネタその8

『ハロウィン』

 

 

 

 ○

 

 

 ハロウィン。

 子供が仮装をして、大人に向かって「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ」などと脅迫じみた事を言い、お菓子を貰う。僕の記憶では、確かそういう行事であった筈だ。

 僕のいた村でも、その日には仮装をした子供達が家という家を訪れていたが、僕自身はあまりそのような行事には参加したことがなかった。

 お世話になっている方々に迷惑を掛けたくないという思いが先にあったからだ。姉にいえば、もっと子供らしくていいのに、と溜め息をつかれたことを覚えている。

 

 ともかく、日本に来てもその行事の意味は変わっておらず、しかも麻帆良はその人口と学生の多さ故か村とは比べ物にならないほどのイベントとなっていて、街には仮装をして歩き回る人しか見当たらないほどだった。

 

 そんな街の人達を書類を手にしながら、学校の窓より見ていると、後ろから声をかけられた。

 

「トリック オア トリート! お菓子をくれなきゃイタズラするぞ! 」

 

「……へ? 」

 

 振り返れば、そこには黒い三角帽子とローブを羽織り、杖を持った少女がいた。妙に親近感の涌くその格好は、魔法使いの仮装なんだろうか。

 少女は片手の掌を僕に向けて、くいくい、と動かしている。

 

「あの、ういさん? 」

 

「こどもせんせ! トリック オア トリート! ハロウィンだよ! 知らない? 」

 

「はい、あの、ういさん。それは分かるんですが、一つ分からないことがあってですね」

 

「え、何が? 」

 

 ういさんは、僕の発言に首をこてんと傾げた。

 

「僕もまだ一応子供なんですが…… 」

 

 そう。僕の記憶が正しいのならば、ハロウィン恒例のおねだりは大人に対してやる筈なのだ。少なくとも、子供相手に、それも自分より年下相手にはやらないものだと思っていた。

 

「でもさ。子供先生スーツ着てるし、先生だし、いいかなーって」

 

 まったく気にする様子もなく、ういさんはあっけらかんと答える。随分と適当な子だなぁ、と思わず笑ってしまいそうになった。

 

「でも、すみません。僕お菓子持ってないですし、それにきっと、ちゃんと大人から貰った方がいいですよ? 」

 

「うーん。まぁ確かに。それもそうかぁー」

 

 腕を組むようにして僕の言葉を受け止めてから、ういさんはキョロキョロと辺りを見渡した。

 

「お! あそこに大人の人発見! お菓子貰いにいこーかな! 」

 

「あ、あの人は大人じゃないですよ! 確かに大人っぽいですが……! 」

 

「え? あれ? よく見れば中学生の制服着たコスプレしてるし、子供ってこと? ん?でもわざわざ中学生の制服着るコスプレしなきゃいけないってことは、大人なんじゃない? あれ? 混乱してきた」

 

「だから……! あれはコスプレでも何でもなくて、正真正銘の中学生なんですって! 」

 

 

 

 

 

「……ネギ先生。私が、どうかしましたか? 」

 

「ひぃぃ! 」

 

 かちゃり、と、どこからか物騒な音を立てて、いつからか僕らの会話を聞いていた龍宮さんが、いつの間にか僕達の後ろにいた。

 その顔は、冷静そうに見えて、ゴゴゴという音が聞こえると勘違いしてしまうほど、恐ろしいものだった。

 

「「すみませんでしたーーー! 」」

 

 僕らは同時に叫びながら、両手を上げて猛ダッシュでその場から離れた。

 

 

 

 

 

 

 

「……ういさん。貴方のせいでとても怖い目に会いましたよ……」

 

「あははー。ごめんごめん。でもほんとに怖かったねー」

 

 玄関まで逃げ出した僕らは息を整えてから話をしていた。ういさんは相変わらず能天気な感じで、明るく笑っていた。

 

 

「……何をしているんだい。君達は」

 

「あ、フェイフェイ」

 

 次に僕らに声を掛けたのは、フェイト君だった。どうして中等部に彼が、と疑問に思っていると、察したフェイト君が、学園長に呼び出された、と説明してくれた。

 

「あー! そーだ、フェイフェイ! トリック オア トリート! お菓子くれなきゃイタズラするぞ! 」

 

「えー……。結局見境なしに言ってるじゃないですか」

 

「フェイフェイは大人っぽいからいいの! 」

 

 よく分からない自分ルールで彼女はまたしても対象を決めていた。このような行事で私情を挟みまくるのはどうなんだろうか。

 

「……色々突っ込みたいことはあるけど、とりあえず置いておくよ。結論から言うと僕はお菓子は持っていない。それで、お菓子がないとどういうイタズラをされるんだい? 」

 

「え。イタズラ? どうしよ」

 

 ういさんは、うーんと悩んでから、そうだ、とポンと手を叩いた。

 それから、着ているローブについていたポケットをまさぐって、一つの飴を取り出す。

 

 ういさんはその飴をしっかりと確認し、封を軽快に切ってから、はい、と無理矢理フェイト君の口に押し入れた。

 突然のういさんの行動に呆然としたフェイト君は、一度だけコロコロと口の中で飴を動かしてから、ういさんを睨んだ。

 

「……どういうつもりだい? 」

 

「私の嫌いな味の飴を勝手に食べさせるイタズラだ! どうだ! 」

 

「……」

 

 コロコロと、フェイト君はまた飴を口の中で動かす。その様子が余りにも不似合いで、僕は笑ってしまいそうになった。

 

 

「……これは、本当に不味い飴だ」

 

「でしょ! 」

 

 フェイト君が不快そうにした顔を見て、ういさんは、してやったり、と何故か嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 没ネタその9

『クリスマス』

 

 

 

 

 ○

 

 

「またきちまったなぁ、この時期が……」

 

「ああ、また来たな……」

 

 

 教室の端で、長谷川さんとエヴァンジェリンが深い溜め息を吐きながら教室の様子を見守っていた。諦めと呆れの混ざった表情をしながらだるそうにしている二人は、背丈も顔も似通っていないのにも関わらず、まるで双子のようにそっくりに見えてしまった。

 

「……何を気落ちしてるんだ、二人は」

 

 私は手元にある折り紙を畳みながら、声を掛ける。すると長谷川さんが、だってあれみろよ、と顎をくいっと動かして私の視線を誘導した。

 

 教室の真ん中には、天井にも届きそうなほど大きなクリスマスツリーが飾ってあった。

 クラスメイト達は、真っ赤な鼻のトナカイを呼んだり、 ベルが鳴るやら鈴が鳴るやらと大きな声で歌ったりしながら、大いに盛り上がっていた。

 何人かはサンタクロースのコスプレまでして、飾り付けを楽しんでいる。

 

 

 私達は今、クリスマスパーティーの用意をしていた。

 教室で開催することを許されたため、あやかがなんとかして木を室内に持ち込み (それは教室の窓やら壁やらをくり貫くほどの大工事であり教師達も皆集まってそこでも一悶着あったのだが)、食事班やら飾り班やらに役割を分けて着々と準備は進んでいた。

 因みに私も飾り班である。

 

「皆楽しそうにしているじゃないか」

 

「それが嫌なんだよ」

 

 私の言葉に、また長谷川さんが溜め息を吐いた。

 

「何かにつけてはやれパーティーだ宴会だと盛り上がりやがって。一年で何回騒げば気がすむんだ」

 

「分かる。分かるぞ、長谷川千雨。大体こいつらは、クリスマスが何のためにあって本来どういう行事かも分かっていないのだろうな」

 

 二人でこの季節に合わない負のオーラを撒き散らしながら、ぐだぐだと愚痴る。いつの間に二人はこんなに仲良くなったのだろうかと感じるほど、同調した掛け合いをしていた。彼女達は、あまり群れるのが好きではないのは知っている。だからこそ、強制的にこのようなイベントに参加させられたことに憤りを感じているのかもしれない。

 

「キリストの降誕祭だってのに、どうしてあいつらが着替える必要があるんだよ。しかも安いコスプレしやがって。質がいいんだから、もっとこう上手いことしてだな……」

 

 ぶつぶつと言う愚痴はまだ続いていたが、私はあまり気にすることなくせっせと折り紙を折っていた。ちょうど今、カブトムシが作れた所だ。

 

「ていうか、クリスマスっていったら普通恋人と過ごすんじゃねーのかよ」

 

「こいつらにそんな相手がいると思うか? その事実を認めたくないがゆえに、こうしてここで大騒ぎしているという部分もあるだろうな」

 

 この瞬間に、二人の会話を掻き消すように皆の歌の声量が大きくなる。まるで、その言葉は聴きたくない、と反抗している風にも聴こえて、長谷川さんは、図星じゃねーか、と突っ込みを入れた。

 

「……二人共、そんなに卑屈にならなくてもいいじゃないか」

 

 私が折り紙にそっと折り目をつけながら言うと、彼女達は同時に此方を向いた。

 

「確かに本来の行事のあるべき趣旨とは離れていってるかもしれないが、それでも別にいいじゃないか」

 

 世の中には間違っていることなど沢山ある。

 しかし、だからと言って全てを正さねばならないということもないだろう。それが正しいか間違っているかというよりも、ある程度を許容し、何かをするという行為に自ら楽しもうとする心こそが大切なのではないか。

 

「それに、友とこういう行事を経験していくことも、恋人と過ごすことと相違ないほど貴重な経験になると私は思う」

 

 

 私がそこまで言うと、二人は顔を見合わせた。

 それから、はぁ、と合わせて大きく溜め息を吐いた。

 

「お前はあれだな。相変わらず、おおらかというか、寛容というか……」

 

「明智と話してると、たまに自分が小さくみえることあるわ……」

 

 

 やれやれ、と何故か諦めたような顔をして二人は息をついた。その姿がまた二人ともよく似ていて、私は思わず苦笑してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あーっと。明智、それと、だな。これは言おうか迷っていたんだが……」

 

「……ん? 」

 

「多分、クリスマスの飾り付けに昆虫の折り紙を飾るのは間違っているぞ」

 

 私は、自分で作った折り紙達を見た。バッタや、トンボなど、自ら言うのもあれだが、良くできている。

 

 

「……長谷川さん。あれだ。間違っていることよりも、楽しむということの方が大事であってだな」

 

「いや、だとしても虫はだめだろう。そもそも今冬だぞ」

 

 エヴァンジェリンが私の言葉を遮るようにすぱりと言い放つ。

 私はもう一度確認するように自作の折り紙昆虫を見てから、彼女達に視線を戻した。

 

「……駄目かな」

 

「駄目だな」

「流石にな」

 

「…………やはりか」

 

 正直そんな気はしていた、と呟きながら、次から鶴を折ることに決めた。

 



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後日談
後日談『ナギ・スプリングフィールド』


 

「ナギさん、話とはなんでしょうか? 」

 

 ナギさんは手元にある紅茶をぐいっと男らしく飲んでから、よくぞ聞いてくれた、という顔をした。

 窓からの斜陽が、彼の真っ赤な髪を橙色に染めている。生まれも育ちも海外だという彼は、顔の彫りは深く、肌の色は白身を帯びている。

 

 今日も天気は、晴れ。

 あの多くの事件が詰まった学園祭を終え、いくつかの爪痕や更なる問題を抱えながらも、私達は再びいつも通りに騒がしい日常を過ごせていた。

 そして、その合間である日曜日に部屋を訪れたナギさんの前に、私はこうして座っている。

 

 

「つーかよ、七海。別に俺に敬語使わなくてもいいんだぜ? 気軽にナギって読んでくれよ。一緒に一つの世界に居た仲じゃねぇか」

 

 他人に聞かれたら良からぬ勘違いをされそうな物言いで彼はそう言ったが、私は丁重に断った。

 

「いえ、ナギさんは年上ですし、私は敬語に抵抗がある訳ではないので」

 

 真面目だねぇ、とナギさんはしみじみと言う。

 何となく、彼の口元に私の目線は寄っていった。

 

 ネギ先生に、よく似ている。当たり前のことだが、何故か感慨深く感じた。

 性格や立ち振舞いは全くと言っていいほど違うが、街で彼らが揃って歩くのを見れば、家族だと思わない人はいないであろう。

 それはきっと繋がってる血筋だけが成せることで、遺伝学に詳しい私にとって親子の表現系が似ることは分かりきったことなのだが、そんな小さな発見だけで妙な嬉しさを感じてしまう。きっと、ネギ先生がずっとお父さんを探していた、という情報が私の中にあるからだろう。

 

 ネギ先生、確かにこの人は貴方の父親ですね、と心の中で語りかけてしまう。

 

 

「それでだな、話っつーのは、非常に重要な問題なのだか……」

 

 ナギさんはそう前置きして、机の上にぐっと身を乗り出した。その緊迫した雰囲気に、私は思わずごくりと息を飲みこむ。

 

 ナギさんの言う重要な問題。

 

 ここ数年で様々なことを経験した。魔法を知って、世界樹に関わって、過去の英雄の封印を解いた (狙ってそうなった訳ではないが) 。

 その英雄から重要だと改まって言われると、知った仲だと言っても緊張してしまった。彼がこれほど真剣な顔をしたのを初めて見たのだ。きっと、それほど重要な話なのだろう。

 

 私は息を整え、しっかり身構えて心の準備をした。私なんかが聞いていい話なのかは分からないが、相談されるからには彼の声を一言一句しっかり聞こうと集中した。

 

 彼は私のそう言った覚悟を持った姿勢を感じ取ったのか、いっそう表情を険しくさせた。

 いいか、よく聞けよ、と更に前置きを重ねるようにして、それから―――

 

 

 

「実は俺、住む家がねぇんだわ」

 

「……え。……はい。あの、それで?」

 

 

 

「いやそれだけだけど」

 

「……」

 

 

 話の続きを待つが、彼がそれ以上何か言う様子はない。

 カチカチと時計の針が過ぎる音や、虫籠にいる部屋の虫達が床材として引いた木の葉いじるようは音だけが響く。その後もいくら待っても、彼は私をじっと見るだけで何かを付け足すこともしない。重要な話とは本当にこのことだったらしい。

 

 

 私は思わず溜め息をつく。

 

 ネギ先生、残念なことに貴方のお父さんは、現在ホームレスらしいですよ、と私は心で語りかけていた。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 ナギさんの話によると、学園祭の日にこの世界に戻ってきたのはいいが、寝床もお金も全く持っていない状態だったという。いきなり戻ってきたというのだから当然と言えば当然で、学園長が何とか融通を効かそうとしたのだが、彼はそれを断っていたらしい。

 

「どうして断っていたんですか? 」

 

 こう言うのも無粋かもしれないが、学園長は権力もあり、資金も用意できないようには思えない。聞くところによればナギさんは世界を救うほどの働きをしていたと言う。そんな彼ならば、何を頼んでも誰かが文句をつけるとは思えなかった。

 

「七海。あのな。俺は別に世界を救いたいとか思って行動してた訳じゃねぇよ。気に入らないことが許せなくて、好きなことを好きなだけしたくて、やりたいようにやってただけだ。それを偉いことをしていたみたいに見せて、恩着せがましく何かを頼むのは嫌だったんだよ。俺はただ自分勝手にしてただけだから、その行為を褒められたりするのはむず痒くてあんまり好きじゃねぇんだ」

 

 そう言う彼は、とても堂々としていた。男らしい、と私は称賛の声を上げたくなる。

 

「それで、とりあえずはタカミチの家に世話になっててよ。生活するためにバイトやら仕事やらを探してたんだが中々見つからなくてな。なんせ俺は死んだことになってて、戸籍がない。それだけはじいさんに頼んだんだけど、俺の戸籍を作るのは相当難儀なことらしいんだわ。あんま騒ぎにしたくないのに、色々うるさいやつらが出てくるらしくてな。そんなことに手間取ってる内にタカミチが出張に行くことになってよ。流石に家主がいない家にずっといるのは気使うから、少しの間他の家に厄介になりたいんだよ」

 

 長々と自分の事情を説明する彼は、世界を救ったヒーローという状況とはあまりにかけ離れている。それでも、私の目には彼が輝いて見えた。生きていくために、どんな道だろうと自分の流儀を曲げずに胸を張って歩こうとしている。私はアニメや漫画でヒーローを見たときのような格好よさを感じていた。

 

 

「それでよ、ちょっと家探しだけ手伝ってくんねぇかな。俺はまだこの街に詳しくねぇし知り合いもすくねぇから当てがなくてよ」

 

「……ネギ先生と、一緒に暮らすというのは? 」

 

 親子ならば、そうなることが一番自然ではある。

 ナギさんは、自らの頬を人差し指で掻いた。

 

「あいつはあいつで今の生活があるだろ? 生徒と一緒にこの寮にいるらしいじゃねぇか。それを邪魔すんのも忍びなくてよ。俺とは今後ずっといれるだろうが、今のあいつの立場とか環境も大事にしてやりてぇんだ」

 

「……そのことは、ちゃんとネギ先生にも伝えましたか? 」

 

「あいつと、話し合った結果だ。少なくとも今の担当生徒が卒業するまで。それまでは。まぁ俺の家がないってことは伝えてないんだけどな」

 

 一緒に暮らすかどうか、という話し合いは二人でしたらしいが、自分の寝床すらないことはネギ先生に言ってないらしい。

 息子に知られるのってなんか恥ずかしいんだよ、と半笑いになりつつも彼はそう言っていた。

 

「それによ、あいつ今アスナと一緒なんだろ? 」

 

「……はい、そうですが。あの、それがなにか……? 」

 

 数年封印されていたナギさんは、明日菜とはほとんど関わりがない筈である。だが、彼の言う、アスナ、という言葉の響きには、親しみが込められているように感じた。

 

「……いや、とりあえず、ネギには悪いがあいつにはまだここに居て欲しいんだ。」

 

「……そうですか。貴方がそう言うなら、私は何も言わないです。分かりました。お手伝いしますよ」

 

 気にはなるが彼の家族の問題に深く口を出す気もないし、私としては断る理由はなかった。

 

「もし本当に家が見つからなければ、しばらくの間ならここに一緒でも私は構いませんが」

 

「おいおい、七海」

 

 私の提案を、ナギさんは深いため息で返した。

 

「それは問題がありすぎるだろうが。担任の父親と一緒の部屋で暮らすって、どんな状況だよ」

 

 確かに、考えてみればその通りである。そもそも、そんなところをクラスメイトに見られてしまえば、あらぬ噂が流れるに決まっていた。

 

「仮にも俺も男だしよ、お前もうちょいそう言うガードしっかりした方がいいぜ?」

 

 とまで言われてしまい、私は苦笑する他なかった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 ナギさんをしばらく置いてくれる家を探すと言っても、簡単ではなかった。彼はまず資金がないのだから、金で物を頼む訳にはいかない。つまりは、彼のことを知っているものにお願いするしかないのだ。

 しかし、何年も封印され日本に住んでいなかったという彼には、知り合いがほとんどいない。いや恐らく彼のことを一方的に知ってる人間は多くいるのだが、そのほとんどがまともに話したこともない彼を、崇拝するような姿勢でいるため、彼としたら気まずく一緒に過ごすという選択肢はないのである。

 彼は自分の英雄としてのネームバリューを使わないでいくつもりなのだから、話を出来る相手すら限られていた。

 

 

 そして、何とか私達二人の共通の知り合いを見つけ、彼女の元に訪れたのだが。

 

 

 

「嫌に決まってるだろ」

 

 彼女の家であるログハウスの前で、エヴァンジェリンは仏頂面のまま即答で断った。

 

「エヴァ、そこをなんとか、もうちょい考えてみてくんねぇか」

 

 ナギさんとエヴァンジェリンはお互いに面識があるらしかった。そう言えば、いつの日かそんなことを言っていたことを私は思い出していた。

 二人が親しい仲かどうかは分からないが、古くからの知り合いであるならば、彼を泊めることにそこまで不自然な点はない。

 だが、玄関に立ったままのナギさんが両手を合わせて頼み込んでも、彼女は先程と同じトーンで、嫌だ、と言った。

 私は彼女と仲が良いこともあって、この瞬間に彼女の意志が相当に固いことを察し、これ以上の交渉は全くもって無意味であると分かってしまったのだが、とりあえずは彼女にどうして嫌なのかを訊ねることにした。

 

「理由? そんなもん、腐るほどあるわ」

 

 頬を不自然に釣り上げながらエヴァンジェリンはそう言い放った。苛々としているようだ。

 

「まずおまえ、ナギな。一体どういう神経してるんだ」

 

「神経ったって。多分運動神経は結構いいぜ? 」

 

「あほ。そういうことを言ってるんではない。普通な、振った女のもとに飄々とやってきて、しばらく泊めてくれ、なんて言えるか? 自分は妻もいてガキもいて私に全く靡く気もないくせに、利用出来るときは利用しようだなんて、間男もいいとこだなお前は」

 

 昼ドラのような展開を話しながらもエヴァンジェリンは未だに笑顔を崩していない。その顔が決して楽しいから笑っているという訳じゃないのは、ナギさんも分かっているだろう。

 

「つったってよぉ」

 

「つったってよぉ、ではない。私はな。昔ほど貴様に拘りがない。貴様が生きていると分かったのは良かった。貴様のことは未だに好意はある。だが、私の事情を押し退けて家に住み着かせるつもりはない」

 

 強い言葉で締めくくったエヴァンジェリンに、私からは何も言えない。これは、二人の問題である。

 私が気軽く、泊めてやってくれよエヴァンジェリン、だなんて言っていい状況ではなかった。

 

「……エヴァちゃん? お客さんが来てるの?」

 

 私とナギさんが目を合わせ、これは無理そうだな、と頷き合い彼女の家を出ようとした時、部屋の中からは、私のよく知る人物の声が聞こえてきた。

 

「……ネカネ。お前は出てこなくていい。さっさと洗濯物を終わらせてしまえ」

 

「もう終わらせたわよ。……ナギと、七海(・・)、じゃない。どうかしたの? 」

 

 私からしたら、彼女、ネカネ(・・・)がこの家にいることに驚く他なかった。

 彼女がエヴァンジェリンとそれなりに仲良くなっていたことは知っていた。だが、だからと言って、エプロンをつけたネカネがエヴァンジェリンの家で洗濯物、なんて日常的な会話をしているのは、全くもって知らなかったのだ。

 

 ナギさんは、ネカネとも知り合いではあるがエヴァンジェリンとの関係に特に疑問を持つ様子もなく、簡単に自分の状況を説明した。もしかしたら、知り合いであるネカネが何らかの力になってくれるのかも、と考えたのかもしれない。

 

「ああ、そういう話なのね」

 

 いつの間にかエヴァンジェリンの横について、ネカネも完全に会話に加わる形になっていた。

 

「……ごめんなさいね。私が今、エヴァちゃんの所に居候させてもらってるから……」

 

「違う。貴様がいることは関係ない。単純にこの男が気に入らないだけだ」

 

「エヴァちゃんはそう言ってくれるけど、多分実際は私に気を使ってくれてるのよ。私もいるのに男のこいつを家に入れるのは……って」

 

「誰もそんなこと言ってないだろう!」

 

「エヴァちゃん、ほんとはこの人のこと好きなのに、私が重荷でごめんね」

 

「おい! あんまりややこしくするな! 勝手に変な解釈をするな! 」

 

 

 エヴァンジェリンは怒鳴ってはいるが、怒っている風ではなく、ネカネの方もどこかそんなエヴァンジェリンを面白がっている様にも見えた。

 そんな二人はとても仲が良さそうで、大事な二人が仲が良いという事実が、私は嬉しかった。

 

 

 

 私は彼女が、二学期から麻帆良学園に教師として勤務することが急遽決まっていることは知っていた。

 高畑先生が長い出張に行ってしまうため、教師の人数か足りなくなってしまうらしく、ちょうどこの街にいた彼女が助っ人として頼まれたのだ。

 彼女は教員免許をこの世界でも取得していて、日本語も堪能であり、本場の英語も理科も強いということで教師陣からも中々期待されているらしかった。

 それに超のプランにも協力してくれるらしい。

 

 そんな彼女が今後麻帆良に住むことは当然私も知っていて、住む家はどうするのだろうか、と考えてはいたのだが、まさかエヴァンジェリンの家にいるとは思わなかった。

 

 

「……ねぇ、エヴァちゃん。本当に私には気を使わなくていいのよ? 彼は親戚だし、今更彼にどうこう思ったりしないわよ。もしあれなら、私はアパートを借りてもいいし」

 

「ネカネ、あのな。確かにお前のことを考えなかったと言ったら嘘になるが、それでもナギに言った言葉は本心ではある。それにお前に、家に来てもいいぞ、と言ったのは私だ。今更出てけとは言わん」

 

 

「分かった。分かったよ。急に来て悪かったな。エヴァンジェリン」

 

 ナギさんは二人のやり取りを見てから、頭を下げてそう言った。

 

「……お前には、随分迷惑かけたしな。今を楽しんでるお前の邪魔を、俺がするつもりはねぇよ」

 

 ナギさんは、ポリポリと頭を掻いた。

 

「すまねぇな、急に頼んで。次に当たってみるよ。……それと、ネギのこと、師事させてくれてたんだってな。今までサンキュな」

 

 

 

 

 そう言って、ナギさんは、背中を向けて先に行ってしまった。

 この会話の流れに、私にも言いたいことはあったが、無理に口を挟むつもりはなかった。

 

 私もナギさんに続いて彼女の家を後にしようとしたところで、袖を引き留められた。

 

「……おい、七海」

 

 くいっと、袖をひっぱり、彼女は私の耳を自分の方に寄せた。

 

「もし、だ。暫く歩き回ってそれでもあいつに住む場所がなければ、もう一度来い」

 

「……だが」

 

「ああは言ったが、家にあいつのいるスペースくらいは作れる。生活する場所は私達とは違うがな」

 

 ヒソヒソと聞こえるその声には、若干のしおらしさが混じっている。

 彼女の根本にあるその優しさに、私は微笑んでしまった。

 ネカネを見れば、彼女もまた微笑んでいるのが分かった。

 

 

「分かったよ。最後にもう一度当てにさせてもらうよ」

 

 

 私はエヴァンジェリンにそう伝えて、ログハウスから遠ざかった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

「あ、ななねぇ」

 

 私達は次に向かうべき目的地も定まらず、だからと言ってすぐにエヴァンジェリンの家に戻るのも出来なくて、ただただ道をうろうろとさ迷っていたときに、ういに声を掛けられた。

 

 私服姿でスーパー袋を手にかけている彼女は、どうやら買い物帰りらしかった。

 

「ああ、これはね! 今日の夕飯の買い物! 今日はね! 卵が安かったし、天津飯でも作ろうと思ったの! 」

 

 と、彼女は私が聞く前に説明してくれた。当然私は天津飯の作り方など全くもって分からない。こと料理に関して私は明らかに妹より劣っていたが、そのことに劣等感を感じることはなく、それどころか、料理の出来る彼女に尊敬の念を抱くばかりであった。

 

「あっと、それと……」

 

「ああ、ういちゃん。俺はナギ。ネギの父だ」

 

 ナギさんの方はういのことを既に知っていたらしく、簡単に自己紹介をしていた。彼が世界樹にいるときに、私を通してういのことを見ていたのだろつか。

 

「子供先生のお父さん! そういえば似てるねぇ、そっくりだねぇ、イケメンだねぇ」

 

 ういは遠慮なくナギさんの全身を見ながら感心しつつ言った。

 

「それでさ、二人は何してるの? もしかして、デート?」

 

「まさか」

 

「うん、そだよね。良かった良かった。流石にさ、担任の先生のお父さんとだなんて、私素直に応援出来ないよ。もう禁断っていうか、冒険のしすぎだよね。きっとそういうのが好きな人もいるんだろうけど、ななねぇにはまだはやい!」

 

 私にびしっと指を向けてういはそう断言した。何をもって、「まだはやい」と言っているのかはよく分からなかったが、どうせいつものように適当に言葉を並べているだけだろうから深くは考えるつもりはなかった。

 しかし、不本意であるが、年頃の女性であるういが私達二人のことをそう勘違いしてしまうのも、仕方ないことなのかもしれない。ナギさんの外見があまりに若すぎるので、二人で歩いていたら交際しているように見えたのだろう。

 

 それからもう一度ういが私達が共にいる理由を問いてきたので、簡単に説明する。

 

 

 

 

「家探し、ねぇ」

 

 ういは顎に指をつけて、考えるようなポーズをとった。

 

「ういちゃん、どっかそれっぽいとこないか? 」

 

 ういにそんな知り合いがいる筈もないと私は考えていたので、彼女が、うんあるよ、と答えたことに、驚いた。

 

「へへへ、私ね!いいところ知ってるよ! 」

 

 二人ともついてきて!、と声を上げながら走り出したういを、私達は追いかけることとなった。彼女が走る度にスーパーの袋が大きく揺れて、私はその中にある卵の無事が心配になる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

「……それで、君達は何しにきたんだい? 」

 

 

 ついた場所は、フェイト君の住む所だった。

 フェイト君は街から少し離れた所にあるアパートに住んでいた。新しく高級なアパート、というよりも、木材を中心として作られたそれは時代を感じる風貌であったが、不潔感はなく、落ち着ける場所であった。

 畳の敷かれた彼の部屋は殺風景で、一人で住むにしては広すぎる気もした。

 

「フェイフェイさ、一人でこんなとこに住んでたら寂しいでしょ? だからさ、お供がいたらいいと思って! 」

 

「僕が寂しいと言ったことがあるかい? 」

 

「俺はお供なんだな」

 

 じろりとういを睨むフェイト君の横で、ナギさんは笑いを堪えきれず口を押さえながら、くくく、と声を漏らしていた。

 

「お部屋もさ、何にもないし、つまんないなっていってるよ! だからさ! 二人で住めばきっとちょうどいいよ! 」

 

 相変わらずよく分からない理論で、ういは突き進む。

 私はひっそりとフェイト君の横につき、耳打ちした。

 

「……フェイト君、無理なら無理と言ってくれてもいいんだぞ。彼女はその、きっぱり言ってやらないと分からないんだ」

 

 フェイト君は、ゆっくりと私に視線を向けた。

 

「彼を泊めてあげたら、君達の助けになるかい? 」

 

「……いや、まぁ、助かると言えば助かるのだが」

 

「……君達には、迷惑をかけたからね」

 

 

 静かにそう言った後、フェイト君は彼女に向かって、わかったよ、とゆっくり頷いた。

 

 

「さすがぁフェイフェイ! 大人先生! フェイフェイオッケーだって!」

 

「大人先生?」

 

「多分、ナギさんのとこだ。子供先生の父親だから」

 

「ああ、そーいう。ういちゃんはおもしれぇなぁ」

 

 単純と言うか、どこか間違っているそのネーミングを拒否することなくナギさんは笑っていた。

 

 

「それじゃあよ、宜しく頼むぜ、フェイト。まさかお前と暮らすことになるとは、想いもよらなかったけどな」

 

「……少しの間だけだ。さっさと居場所を作って出ていってくれよ」

 

「わーってるって。それによ、お礼に応援するぜ」

 

「……応援? 」

 

「ういちゃんとのことだよ。好きなんだろ?」

 

 ナギさんが、ひっそりとフェイト君に喋りかけるその声が、私には聞こえてしまった。

 

 

 フェイト君は、きつい視線をナギさんに向けて、余計なお世話だよ、と言った。

 

 

 






これから何人かをピックアップして後日談をやっていこうと思います。


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後日談『神楽坂 明日菜』

 夢なのかどうかは、自分でもよく分からない。

 ただ、夜に目を瞑っていれば、頭の中に流れ出る映像があった。これを見るようになったのは、ネギの父親、ナギに会った時からだ。

 ナギに話しかけられ、記憶の奥をつつかれるような衝撃を感じてから、私はずっとこの光景が脳裏に浮かぶ。

 

『アスナ』

 

 幼い私を囲む大人たちは、優しい声で私の名前を呼ぶ。手を引き、背中を押し、行こう、と私を進ませる。映像の中の私はにこりともしない。淡々と彼らについていく。

 彼らと共に文字通り、野を越え、山を越え、満点の星空の下を涼しげに歩くこともあれば、嵐の中を苦悩しながら進むこともあった。その旅は、楽しいだけの旅ではなかったけれど、彼らは皆よく笑っていた。

 

 

 

『何だよ嬢ちゃん……。泣いてんのか』

 

 髭を生やしたおじさんが岩に寄り添って血を流すシーンが訪れるのは、森の中でのことだ。

 濃霧に覆われ、連なる木々の深緑は毒々しく、地面に流れる紅の液体が私の背筋を強張らせていた。足に僅かに飛んだ彼の血の感触が、確かに私に残っている。

 

『へへ。涙を見せるのは初めてじゃねぇか。嬉しいねぇ……』

 

 口から血を吐き出しながら、彼は、本当に、本当に嬉しそうにそう言った。決して笑える状況ではないのに、彼は笑っていた。

 

『幸せになりな、お嬢ちゃん。沢山友達作って、沢山笑って、幸せになりな。あんたには、その権利がある』

 

 彼は、私の頭の上に、大きな掌をぽんと置いてそう言った。指先に残った煙草の残り香が、鼻を掠めた。

 

『ダメ……。いなくなっちゃやだ』

 

 涙を流しているのは、子供の頃の私。でも、私にはこんな記憶はなくて、でも、この時感じた全ての感覚は、全部体に残っていて。

 

『死んじゃ嫌だよぅ……ガトーさん!!』

 

 

 泣いてる私と、笑う彼を映して、いつも終わる。

 

 

 

 

 貴方は、だれ。

 私は、誰のために泣いているの。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

「相変わらずというか、やっぱりというか、あなたらしい部屋ね」

 

 棚に置かれた数々の虫籠を目にしながら半ば呆れるようにして、彼女は言った。

 

「これ、お友達にひかれない?」

 

 彼女が白と桃色の羽根をもつカマキリに手を向けると、カマキリは首を傾げるように可愛らしい仕草をした。

 

「皆も慣れてきてくれた」

 

「慣れたというか、きっと我慢してるのよ。年頃の女の子に見せるようなものじゃないわ」

 

 遠慮ない言葉を浴びされて、ひどいな、と私は呟く。

 お友達を呼ぶときは虫籠にカーテンでもしてあげて、とまで言われてしまった。

 

 彼女は研究としての昆虫は好きなのだが、生物としての虫は嫌いではないが好んではいない、という評価であった。だから、趣味として自分の部屋を虫だらけにする私を昔から良しとは思ってなかった。だが彼女も部屋中をまるで水族館の如く水悽生物で埋め尽くしていたので、似たり寄ったりである。

 

 私が座布団を差し出すと、彼女はお礼を言って礼儀正しくその上に座った。淡い金色の髪は部屋の照明によって白く輝いている。無駄なパーツがひとつともないすっきりとしたその顔は、美人だった。落ち着きが溢れでるその佇まいは、やはり私の周りにいる子達よりも大人びて見える。

 

「この街の、居心地はどうだい」

 

「素敵よ。とっても過ごしやすいわ」

 

 珈琲の入ったマグカップを渡しながら尋ねると、彼女は頷きながらそう言った。珈琲には少しのミルクだけが入っている。ずっと前から、彼女は珈琲をそうやって飲むのが好きだったので、私は言葉を交わさずともその珈琲を作ることができた。

 

「街の人、皆優しいの。八百屋さんも魚屋さんも、見ない顔だねぇ、て言いながらサービスしてくれる。あなたのクラスの子とか、まだ会ったばかりなのに私を見かけたらすぐ声をかけてくれて、遊びに誘ってくれるわ。ちょっぴりおかしなテンションの子がいたり、騒がしい子はいるけれども、それでも、とても素敵な所」

 

 瞳を閉じながら、彼女はしみじみとそう言う。

 

「今はエヴァンジェリン達と一緒にいるんだな」

 

「そうなの。エヴァちゃんと、茶々丸ちゃんの家に住まして貰ってるわ」

 

 聞けば、ここに住むことが決まってから学園長にいくつかアパートを紹介されたのだが、その中に気に入る場所はなく、自分で探すことにしたらしい。

 そうして街をさ迷っている時にエヴァンジェリンに会って、事情を説明したら、家にスペースはあるぞ、と提案されたらしい。

 

「私、ログハウスって、少し憧れてたの」

 

 自然が好きな彼女は、森のなかにある静かな場所で過ごしてみたいわね、と前世で言っていたことを、私は思い出す。

 

「しかし、あのエヴァンジェリンがそんな簡単に誰かを泊めるとはな」

 

 エヴァンジェリンは、少し気難しいところがある。それなりに仲の良い人物でないと、簡単に家には呼ばない気がした。

 

「その時ちょうど茶々丸ちゃんが長期メンテナンス、っていうので家にいなくてね。家事をする人がいなかったんだって。それで、家事をしてくれるならうちにいてもいいぞ、って」

 

 恐らくエヴァンジェリンも昔は自分で家事をしていたのだろうが、茶々丸と一緒に住むようになってからは任せきりになっていたのだろう。今更やる気が出なくて、人に頼むことを選んだのかもしれない。

 それでも、エヴァンジェリンは彼女のことを気に入っているのは間違いがない。

 

「私の部屋でも良かったのに」

 

「あなたは寮の部屋じゃない」

 

「ネギ先生は先生なのに寮の部屋にいる」

 

「ネギはまだ小さいからまだしも、私が住むのはおかしいわ」

 

 それもそうか、私が独りで納得していると、彼女は、ふふ、っと柔らかく笑った。

 

「どうかしたか?」

 

「『ネギ先生』って、あなたが言うとちょっと面白くてね。私からしたらネギはまだ子供みたいなもので、見ててハラハラしたり不安になったりすることが多いのだけれど、あなたが『先生』と呼んでくれているなら、あの子もちゃんとやれてるんだなって嬉しくなるわ」

 

「彼は、とても真面目によくやっているよ」

 

「そうね。年齢以上に大人びているから、本当はそんなに心配しなくていいのかもしれないけれど、どうしてもね」

 

 彼女の子煩悩というものなのだろうか、ネギ先生のことを相当大事にしているようで、その間には親子に近い関係があるように思えた。

 

「でも、ネギの部屋には明日菜ちゃん達も一緒なんでしょ?」

 

「そうだな。明日菜と木乃香が一緒だ。彼女達は、なんだかんだと言いながらもとても面倒見がいいし、上手くやれているよ」

 

 私がそう言うと、彼女は私の顔を覗き込むようにしながら、微笑んだ。

 

「……あなたにとっては、その子達も家族みたいなものなのね」

 

「……大家族すぎるがな」

 

 自分が彼女達に抱いている感情は、単純ではない気がする。子供のように愛しく想いながらも、姉妹のように頼りがいがあるようにも感じていて、友人のように親しみも覚えている。

 ただひとつ確実に言えるのは、私にとって彼女達はかけがえのないほど大切な存在であるということだ。

 

 

 前世では子供に恵まれなかったけれど、今は沢山家族が出来たみたいよね、と彼女は楽しそうに言った、

 

 

 

「ねぇ、あなた、ご飯ちゃんと食べてる? 」

 

「三食食べては、いる」

 

「そういうちゃんと、じゃなくて、バランスよく食べてるか、ってことよ」

 

 全く自信がなかった。私の表情を見て察したのか、彼女はため息をつく。

 

「昔から料理とか出来なかったものね。女性に生まれたんだから、栄養とか前以上に気にしないとだめよ。いいわ、たまにご飯くらい作りに来てあげる」

 

 台所に立つ彼女を想像すると、なんとなく、昔の生活が頭に甦った。

 彼女が料理をする姿を見たのは、もう、ずっと前のことに思える。

 病院で寝たきりになった時も、彼女は私の食生活をしきりに心配してくれた。

 

 

 

 ふと、気になって訪ねてしまった。

 

「君は、その、あまり気にしてないよな」

 

「何を? 」

 

「私が、女であることについて」

 

 もし逆の立場なら、と考えると、私はどう反応するのか、自分でもよく分からない。彼女が男だったら、と想像することすら叶わなかった。

 

「だって、性転換なんて、そんなに珍しい事象でもないでしょう」

 

 あっけらかんと彼女はそう言い切った。

 

「雌性先熟、雄性先熟。生物学上、生きている途中で雌から雄になる生物も、雄から雌になる生物も世の中には沢山いるわ。

 私達人間はたまたま遺伝子によって決められているというだけであって、広い目で見たらあなたがあなたであれば男か女かなんて大したことじゃないわ」

 

 私はその意見に素直に肯定することは出来なかった。

 他の生物ならまだしも、少なくとも人間においては性がより重要だと思ってしまうのは、私が人間だからなのだろうか。大したことじゃない、と言い切れる彼女は、達観しているというか、悟っているというか、強いというか。

 

「大体、今やあなた自身もそこまで気にかけてないじゃない。普通に女子の制服とか着ているんでしょ?」

 

 そう言われると、何だか無性に恥ずかしいことをしているような気がして、私は黙ってしまう。

 

「ふふふ。むしろ、ちょっぴり楽しみかも。あなたと洋服のお買い物とか行けるじゃない。私、あなたに合う服選んであげるわ」

 

 私は赤面しながら、勘弁してくれ、と首を振り、彼女はそれを見て愉しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 ピロリと高めの電子音が部屋に響いたのは、彼女が私の部屋に来てから二時間ほど経った後だった。太陽は沈む速度をあげ始めていて、外から入り込む光は僅かに色を付け出している。

 

「明日菜ちゃんからだわ」

 

 鳴った音は彼女のケータイのメールの着信音で、それを見ていいか律儀に確認した後彼女はメールを開きながらそう言った。

 

「明日菜とメールしているのか?」

 

「たまにだけどね。明日菜ちゃん、面白くていい子だから好きよ私」

 

「それで明日菜はなんて?」

 

「……ちょっと、話がしたいんですって」

 

 なんとなく重みのある言い方であった。暇だからおしゃべりしましょう、という内容ではなさそうである。

 

「……この部屋に呼んでも?」

 

「構わない」

 

 私が了承すると、彼女は手際よく指を動かしてメールを返した。

 

 

 

 明日菜が私の部屋に来たのは、それからすぐであった。

 やはり明るい表情、という訳ではなく、思い悩むような、沈んだ顔をしている。

 

「明日菜ちゃん、どうしたの?」

 

 私達の前に座った明日菜に彼女が訊ねると、明日菜は目線を下げてらしくない小さな声で答えた。

 

「実は……ちょっと悩みがあるの」

 

「聞く相手は私でいいの?」

 

「うん。なんだか自分でもあんまりよく分からなくて、木乃香とか、クラスメイトには言いづらくて……。ネカネさんなら聞いてくれるかなって」

 

「……私は出ていった方がいいか?」

 

 私が訊くと明日菜は首を振ってくれた。

 

「ううん。七海なら、いい。七海も、聞いてくれる?」

 

 しおらしい明日菜は、いつもの明日菜とは違って見えた。どことなく落ち着いた様子も見られて、それが余計に私を心配にさせた。

 何事にも猪突猛進で単純ではあるけれど精一杯生きている明日菜から、達観して物事を複雑に捉えてそれでも冷静でいようとする明日菜に変わってしまったように思えて、私は不安を感じていた。

 

 だから、思わず私は明日菜の頭に手を置いた。

 

 そんな私の掌を見つめるように、明日菜は上目遣いでゆっくりと私を見た。そして、くすりと、小さく笑った。

 

「七海ってさ、たまに」

 

「お父さんみたい?」

 

 ニヤニヤとしながら彼女が訊くと、明日菜は頷いた。

 

「うん。私、父親の記憶なんてないけど、お父さんって、こんな感じなのかなって思っちゃう」

 

 くすぐったそうにした明日菜の表情が、少しいつもの明日菜に近付いたので、私は安心したのと同時に、気恥ずかしくなったのでその掌を退けた。

 

 

 

 

「この前ね、ネギのお父さんに街でたまたまあったの」

 

 明日菜の話は、そこから始まった。

 

「ネギから話は訊いてたし、挨拶はしとかなきゃなって思って、お互い立ち止まって少し話をしたの。ナギさんは何故か私のこと凄い気にかけてくれた。元気か、今は楽しいか、って。いきなりこんなこと訊かれて普通は変に思ってもよさそうなのに、親しげなナギ、さんに私は何の違和感も覚えなかった。私、ナギ、さんのことどうしようもないくらいに見覚えがあったの。京都で写真を見たときも思ったけど、ナギと初めて会ったようには思えなかった」

 

 明日菜は、ここで一度口を閉ざした。私と彼女は黙って明日菜の話の続きを待った。

 再び明日菜が口を開く。

 

「そーしてたら、途中で急に頭が痛くなって、色んな人の声が聞こえた。アスナ、アスナって、皆呼ぶの。その中にはナギとか、タカミチとか、アルの声も混ざってた。私もう意味わかんなくなっちゃって、その場で倒れちゃったの」

 

 明日菜の言葉には、違和感がある。

 だが私はそれを指摘しなかった。

 

「起き上がったら知らない部屋にいた。横にはナギがいて、奥には迷惑そうな顔をしたフェイトもいたわ。どうやらそこはフェイトの家だったみたい。それで色々聞こうしたら、ナギが言うの。

『アスナ、無理しなくていい。混乱するのは分かるが、今思い出す必要もない。ありのままでいい。お前は今は、明日菜なんだから』」

 

 淡々と、遠い目をしながら、まるで他人事のように明日菜はそう言う。その顔はやはり明日菜らしくなくて、私はまた肺の中に重りを詰められたように不安を覚えてしまっていた。

 

「意味分かんないよね。その時は、私はボーッとしながら気付いたら家に帰ってたんだけど、それから、変な映像が私の頭に流れるようになった。

 私の前で、一人の人が死ぬの。煙草を吸いながら。笑いながら、死ぬの。私は泣いてるだけで、何も出来なくて。その人は、死ぬのに、笑ってて、私は、どうしようもなくて」

 

 声が震えていた。気丈に振る舞おうとしていても、明日菜が混乱しているのは、明らかであった。

 私とネカネは、目を合わせた。彼女がどんな気持ちで明日菜の話を聞いているのかは正確に把握出来ないが、その瞳から明日菜を思いやっていることだけは分かる。

 しん、と沈黙が流れた後、明日菜は再び言葉を続けた。

 

「……話がしたいって言ったけど、私自身どうすればいいか分かってないの。これが夢なのか、夢じゃないのか。忘れていたいのか、思い出したいのか……。だから」

 

 明日菜はゆっくりと立ち上がる。私達の顔を見て、明日菜は無理矢理笑った。

 

「ありがと。話を聞いてくれて。こんな意味不明な話なのに二人とも真剣に聞いてくれてて、私やっぱり話してよかった」

 

 じゃあね、と残して、明日菜はこの場を離れようとする。

 それを、私が声を掛ける前に、ネカネが引き留めた。

 

「明日菜ちゃん。人が死ぬ時にね、何を想うか分かる?」

 

 静かに、穏やかに聞いたその問に対して、明日菜は背を向けたまま、返事をせずに立ち止まっていた。

 

「凄い苦しいと思ってた。何もなくなる未来に対して、絶望すると思ってた。自分がこの世界に生まれてきた意味って何、って悩むと思ってた。でも、意外とそんなことないのよ」

 

 彼女の言葉には、軽快さを含みつつも、説得力があるように感じた。そう思うのは、私が、彼女が一度死を経験していると知っているからなのだろうか。

 私は、特に何かを口に出さずに、彼女の言葉を一緒に聞いていた。きっと、彼女から明日菜に伝えたいことがあるのだろう。

 

「走馬灯っていってね。今までのことが頭の中を巡るの。両親のこと、友達のこと、そして、好きな人のこと」

 

 ちらりと、彼女の視線が私に向いた。

 

「途中で気付くの。ああ、私の人生、これ以上いいことはなかったんだな。いいことは全部、大切な人の側で、一緒にいるときに、起こっていたって」

 

 記憶を思い返すかのように、目を瞑りながら、ネカネはそう語った。

 唐突に、突き上げるような感情が、体を巡った。

 

 そうか、彼女は、そう想いながら、逝ってくれたのか。

 

 今更に知ったその事実は、私をどうしようもないくらい感情的にさせた。私が彼女と過ごしたあの日々に、これ以上ないくらいの意味が付与された気がした。

 明日菜へと向けている筈の言葉は、横にいる私にも響いていた。

 

 

「きっと、明日菜ちゃんの前で亡くなったその人も、同じように想っていた筈よ。だって、笑っていたんでしょ?」

 

「……うん。ガトーさんは、笑ってた」

 

「だったら、ガトーさんは、幸せだったのよ」

 

「……ほんとうに?」

 

「ええ」

 

「でも、私の、私のせいで、ガトーさんは……」

 

「違うわ。明日菜ちゃん。あなたのおかげよ。あなたのおかげで、あなたがいたから、ガトーさんは幸せに逝けたのよ」

 

「……」

 

 明日菜は、此方を振り返った。目は潤んでいて、鼻の頭は赤く染まり、口は無理矢理閉ざしているような形をしていた。

 

 ネカネが、手を大きく拡げて、おいで、と言った。

 明日菜は、トテトテとゆっくり近付いてから、ネカネのお腹に顔をくっ付けるようにして、静かに泣いていた。

 

 

 






少しだけ捕捉を

雌性先熟とは、生物がまだ体の小さいときは縄張り争いなどに不利なため雌として繁殖に専念し、体が成長した後に性転換して雄となることを言います。
逆に、先に雄になることは、雄性先熟と言います。この場合は、体が大きい雌の方が卵を多く産めるので、成長後に雌となります。
これらは魚類において特によく見られる習性であり、例えばクマノミなんかは雄性先熟です。

性の転換は人間にとっては単純には起こり得ないように思えますが、生物全てがそうである訳ではないです。結局、性別は繁殖システムのひとつでしかなく、多様な生物全体で見れば雄雌の間で色んなやりとりが行われています。


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後日談『フェイト・アーウェルンクス』

 

 

 

「……そっか。アスナは、思い出しちまったか」

 

 ナギさんは、私に全てを話終えた後に、ポツリとそう言った。

 予想以上に複雑で、想像以上に壮絶な話であった。

 私自身、この世界に産まれてから沢山の不思議を経験しただろうという自覚はある。だが、明日菜達の体験してきたことはより現実離れしていて、実際に旅をしてきた彼らには悪いが、私にはお伽噺のようにも感じてしまっていた。

 

 幼少の頃出会った明日菜は、実は魔法世界では姫という身分であり、自身の持つ力故に兵器として使われていた過去がある。

 

 それは、重く、苦しく、悲しい話だった。

 

 散り散りになっていく仲間達。残されたのは記憶を消され何も分からない自分だけ。

 

 初めて明日菜と会ったときのあの表情には、明日菜の辛い想いがどれだけ込められていたのだろう。

 

 

 

「……それで、アスナは今どうしてんだ」

 

「……いつも通りですよ。友達と、いつも通りにしてます。まだ混乱はしている気はしますし、無理している感じもしますが、いつも通りにしようとしてます」

 

 明日菜が今訊いた話のどこまでを自分で思い出したのかは分からない。

 最後に明日菜の前で亡くなったガトウという青年のことだけを思い出したのか、それとも、ナギさん達と旅してきた全てを思い出したのか。

 私はそれを本人に訊ねる気はなかった。明日菜は自分がこれからどうしていくかを、今一生懸命に決めようとしている。ならば、私はそれを見守ってあげたかった。

 

「……ガトウのしたことが正しかったとか、間違ってたとかは、わかんねぇ。記憶を消すだなんだってことは簡単にやっちゃいけないんだろうが、それでもあいつはアスナのためにそうした。その時はきっと、それがアスナのためになると信じてた筈だ。ガトウはアスナが笑って過ごせることをずっと望んでたから」

 

 記憶を消去したということが今の明日菜の不安定さを招いている。それを知った上で、ナギさんは切ない表情をしながらそう言った。

 

「ガトウはなんだかんだアスナのことを一番可愛がってたからな。闘いに巻き込まれながら生きる幼いアスナを見て、不憫に思ってたのかもしれねぇ。普通に学校に行かせて、普通に友達を作らせてやりたいと思ったんじゃねぇのかな」

 

 私には、分からない。その時の状況も、旅していたものたちの気持ちも。過酷で幾多の困難が待ち受けていたその旅は、彼等に、明日菜に何を想わせたのだろう。

 

「ナギさんは、悔いているのですか」

 

 何に悔いていると訪ねているのか、自分でも分からなかった。ただ、彼の表情を見るとそう訊ねずにはいられなかった。

 ナギさんは弱々しく笑った。似合わない笑顔だった。

 

「……分からねぇ。未だに自分がしてきたことで正しかったか分からねぇことは大量にある。ただ、その時はがむしゃらでそれがいいんだと信じてやってきている。だから後悔はしてない筈なんだがな」

 

 皆、同じだ。

 過去は戻れず未来は知らぬ道。だから人々はその時々に自分の気持ちを置いてくることしか出来ない。魔法使いだろうと、英雄だろうと、それはきっと変わらないのだ。

 

 それから私達は、静かになった。

 部屋には何となく重苦しい空気が溢れ出していたのだが、それを打開しようとは思わなかった。私自身、明日菜の過去を訊いて暗い気持ちになっているのかもしれない。

 

 不意に、部屋の隅から、パサリ、と本のページを捲る音がした。

 静かなこの場では目の行く先はその音の下しかなく、見ればそこにはフェイト君が文庫本を持って座っていた。

 

 フェイト君がここにいるのは当然だ。何故ならここはフェイト君の家だからだ。

 

 視線が集まったのを感じたのか、フェイト君は顔を上げた。

 黙っている私達をじっと見る。彼も、今の会話を訊いていたのだろうか。

 

 フェイト君はそれから再び文庫本に視線を戻しながら、さらりと言った。

 

 

「……今更彼女の記憶が戻った所で、彼女が彼女であることに違いはあるのかい」

 

 

 ナギさんは彼の方を見て、その瞳を大きくさせた。

 フェイト君のその発言に驚いたのか、それとも、フェイト君がそう発言したことに驚いたのか。

 

 

 

「……だよな。変わんねぇよな。明日菜は明日菜だ」

 

 ナギさんは、少し考えた後に笑ってそう答えた。

 

 私も、同じようにそう思った。

 ナギさんもきっと、そう思うべきなことは分かっていたと思う。

 ただ、彼に言葉にしてもらっただけで、心強く感じているようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そういえば、フェイト君」

 

 帰り際、玄関で振り向きながら私はフェイト君に声をかけた。

 私が帰ることに特に興味を持ってなさそうだったフェイト君だが、名を呼んだらちゃんと此方を見てくれた。

 

「もうすぐ、私の妹が誕生日なのは知っているか?」

 

 私がそう言うと、フェイト君はゆっくり頷いた。

 

「……知ってるよ。本人がしつこく知らせてきたからね」

 

 うんざり、という風に彼はそう言った。ういのことだから、必要以上にフェイト君にアピールしまくったんだろう。我が妹ながら申し訳ない。

 

「そうか。なら、いいんだ」

 

 これを訊いてどうしてあげるかはフェイト君次第だ。

 

 最近、二人の関係が前より変わってきていることは知っている。フェイト君の態度は以前より僅かに柔らかくなり、ういに対して、その鬱陶しさに嫌悪を示すようなことはなくなった。

 その変化はきっといいことで、そうやって色んな人と関わることで、フェイト君自身が更に変わっていけるならば、私は嬉しい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「んで、どーすんだよ」

 

「……何が」

 

「ういちゃんの誕生日だよ」

 

 ナギ・スプリングフィールドは、当たり前だろ、と続けて言った。

 少し前に居候としてやってきた彼の態度は、今や借宿ということを忘れるほどに大きい。

 

「何あげるつもりなんだ?」

 

「……なぜ何かあげる前提なんだい」

 

 僕がそう言うと、彼は信じられないとでも言うように口をあんぐりと開けた。

 

「まじかよお前。ういちゃんのこと好きなんじゃねぇのかよ」

 

「正直言うと、誕生日だからといってなんだ、と思っている」

 

 訊くところによると、人は一年に一度、誕生した日を祝っているらしい。

 だが、僕にはその祝いの意味がよく分からない。別に生物なんて今でもどこでも大量に産まれてきているだろう。それをどうして祝う必要があるのか。

 

 まじかよお前、とナギ・スプリングフィールドはもう一度言った。

 

「あのな、フェイト。フェイト・アーウェルンクスよ」

 

「……なんだい」

 

「誕生日の意味だとかな、分からねぇならそういうことは別に何でもいいんだよ。そりゃ、その人が今まで生きていたくれたことに感謝だとか、子供がこんなに大きくなったことを祝ったりだとか、そういうことが分かればいいんだろうか、分からないならいい。それならそれで、こういうのは、機会だと思え」

 

「機会?」

 

「そーだ。お前、ういちゃんに思ってることが少なからずあるだろ」

 

 彼女の、天真爛漫で、なんの濁りもない笑顔が頭に浮かぶ。

 

「そういうのを伝える機会だよ」

 

「……伝えるだけなのに、物がいるのかい」

 

「そら、物も人に気持ちを伝える手段の一つだからよ。お前が選んでお前があげたいと思ったものを彼女にあげることに意味がある」

 

 そう言って、ナギ・スプリングフィールドは1枚の紙をさっとを差し出した。

 

「……これは?」

 

「金だよ。1万円。そんくらい分かるだろうが」

 

「分かるに決まっているだろう。だから、どうしてそれを僕に渡すのかを訊いている」

 

「家賃をそーいや渡してねぇなって思ってな。すくねぇけどとりあえずこれだけ渡しておくわ。好きに使えよ」

 

 どこからこんな金が、とは訊かなかった。彼が朝早く起きて、アルバイトのようなことをしているのは知っている。

 

「んじゃ、いってらっしゃい」

 

 彼は無理矢理お金を僕の掌に握らせてから、ぐいぐいと背中を押してきた。

 

「わかんねぇなら街の方に行け。そしたらショッピングモールあるだろ。そこでなんか買え」

 

 その言葉を最後にして、彼は力強く玄関の扉を閉めた。

 さらには戻ってくるなと言わんばかりにがちゃりと鍵まで掛けていた。

 

 僕はポケットの中から自分の家の鍵を取り出す。自分の家だから鍵を持っているのは当たり前だ。彼はどうやらそこまで頭は回らないらしい。

 部屋に戻ろうと思えばすぐにでも戻れる。

 

 

 

 だが……。

 

 

 

『フェイフェイ! 私ね! もうすぐ誕生日なんだ!! それでね! なんかあやねぇが私にかわいい服を買ってくれるっていってたの!! 今度フェイフェイにも見せてあげるよ!! 』

 

 

 

 

 僕は溜め息を一つ吐いて、街へと向かって歩き出した。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 駅の近くにあるショッピングモールは、人で賑わっていた。通行人から聞こえた言葉によれば、このショッピングモール中にあるお店を新設させたばかりのようで、それがこれだけの人だかりを作った原因らしかった。

 見渡せば、若者を中心として幅広い年代の人が集まっているのが分かる。

 

 人混みは、嫌いだった。ごちゃごちゃとしていて、人の声や息遣いが絶え間なく響き、耳障りだ。

 既に行きつけの静かなカフェが恋しくなっている自分がいた。大体、何か買うにしてもショッピングモールである必要はないだろう。

 そうは思うが、だからと言って他に相応しい物を売っている店を知っている訳もない。結局僕は大勢の人の中に混ざることしか出来なかった。

 

 中に入ると、僕は余計に混乱した。

 天井は遥か高くにあり、強い光が店内を明るく照らしている。道路のように真っ直ぐに作られた道の左右には幾つもの店が並び、それぞれの個性を活かし客寄せをしている。

 特に買うものの当たりをつけて来たのではない僕にとって、ここは広すぎるし、選択肢が多すぎた。

 とりあえず呼び込みをしてくる店はなんとなく煩わしかったので全て無視して進み続けていたが、店に囲まれた道はいつまでも続き、ゴールが見えなかった。

 

 どんどんと多くなる人の群れ。声。

 どうして他のものはこの状態で平気に笑っていられるのか、不思議で仕方なかった。ただ歩いていただけなのに度重なる戦闘よりも疲労を感じてしまっている。

 僕はひとまず、脇にそっと置いてあるベンチに座った。

 

 自分には、向いてない。

 

 ベンチに深く腰を下ろしながら僕は心の奥底て呟いて、溜め息をまた吐いた。

 

 顔を上げ、通りかかる人々の表情を見る。

 

 やはり、皆が笑っている。

 父親と手を繋ぐ少年も、恋人と共に歩く青年も、友達と店を回る少女たちも、皆笑っていた。

 

 その、一人一人の笑顔に理由があるのだろう。

 

 ふと、そんなことを思った。

 それぞれが、皆自分らしく楽しんでいて、笑っているのだろう。

 こんな風に考えるようになったのも、多分彼女の影響だ。

 

 ベンチに座りながら、何となく人の流れを観察し続けていると、突然、聞き覚えのある声がした。

 

 

 

「……お前、フェイトか? なにしとるんやこんな所で」

 

 呼び掛けられ、目を向ければ、そこには犬上 小太郎がいた。

 黒いニット帽子を被り、半袖のTシャツにジーパンという休日らしいラフな格好をしていた。

 

「あら、小太郎君。お友達? 」

 

 彼の後ろには、二人の少女がいた。片方は背が高く大人らしい女性だった。雰囲気が明智 七海に少し似ている。もう一人は頬にそばかすがあり、控え目な印象である。

 

「ちゃうで、千鶴姉ちゃん。こいつはただのクラスメイトや」

 

「確かに、小太郎君と違うタイプな子だもんね。落ち着きがある」

 

「夏美姉ちゃん……それって俺が落ち着きないってことか?」

 

「ないでしょ、小太郎君は」

 

「あるわ! 少なくともこいつよりはあるわ!」

 

「小太郎君、お友達に、こいつ、って呼び方は駄目よ?」

 

「やから千鶴姉ちゃん、こいつはお友達じゃないって……! いえ、ごめんなさい。もう呼びません」

 

「よろしい」

 

 いつもはクラスでは常に大きな態度をとっている犬上 小太郎は、千鶴姉ちゃんと呼ばれる人物に笑いながら睨まれると、しゅんと大人しくなっていた。

 その大きめの女性は、ベンチに座る僕の前で膝を折り、目線を合わせてきた。

 

「こんにちは、フェイト君、でいいのよね。私は那波 千鶴。いつも小太郎君がお世話になっています」

 

「えと、私は村上 夏美。えー、小太郎君がいつもご迷惑を掛けます」

 

 那波 千鶴は微笑みながら僕にそう言い、村上 夏美は頭を下げながらそう言った。犬上 小太郎は彼女達の挨拶に不服そうな表情をしたが、特に何も言わなかった。

 

「それで、フェイト君。親御さんは? それともお友達ときたの?」

 

「……いや、一人で来た」

 

「はっ! 寂しい奴やのぅ」

 

「……小太郎君? 」

 

「ご免なさい」

 

 犬上 小太郎は再びすぐに謝った。どうやら那波 千鶴を恐れているらしい。

 

「フェイト君は、何を買いに来たの?」

 

 そう村上 夏美に尋ねられ、僕は少し迷ったが、ありのままに話すことにした。

 会ったばかりの彼等にこんなことを言う必要があるとは思えなかったが、現状のままだと何も解決しない。誰でもいいから何か手がかりとなるものを与えて欲しかった。

 

 

 

「素敵」

 

 誕生日プレゼントを買いに来たと言うと、女性? と尋ねられ、頷いて肯定すると、二人は声を揃えてそう言った。

 

「それで、フェイト君は何を買うつもりなの?」

 

「それが、分からない。何を買えばいいのか」

 

「あらあら」

 

「いいなぁ、フェイト君。大人だなぁ。やっぱ小太郎君とは全然違うねぇ」

 

「ふん。何がいいんやそんなもん」

 

 犬上 小太郎が鼻を鳴らしながら言った。

 

「俺に言わせれば、女なんかにうつつを抜かすなんて軟弱者や。愛だ恋だのナヨナヨしたこと言う奴等は大抵弱っちいわ。やっぱり男なら、腕っぷしがなきゃあかん」

 

「はぁ、ほんとに子供だよね、小太郎君」

 

「……いや、僕は彼の言うことは分かるよ」

 

 僕が同意すると、彼女達は、え、と声をあげ意外そうな顔をした。

 

「結局、そんなものは本当に困ったときに役に立つものじゃない。いざという時に必要なのは力で、想いなんていうあやふやなもんは、自分を助けてくれはしない」

 

 それはきっと、僕が一番分かっていた。魔法世界で闘いに身を任せたことがあり、逃げ惑う人々を見たことがある。彼等がどれだけ叫ぼうが、力がなければ生きてはいけない。それまでの人生で愛をどれだけ謳おうと、それは生きていく力にはならない。

 

 だから僕は、彼の意見にも納得出来た。

 だから僕は、恋愛という感情はあまり理解出来なかった。

 

 僕と明智 ういの関係を語れば、誰もが、好きなんだろ、と訊いてくる。

 でも僕は、『好き』という感情が未だによく分かっていになかった。

 彼女には、他の人間には想わないような感情があることは自分でも分かる。

 だからと言ってこれが恋かと訊かれれば、僕には分からない。

 この気持ちに『恋』という名前を付けようとする人がいるが、僕にとってはそんな簡単なものではなかった。この気持ちはただの言葉一つで表せるようなものとは思ってなかった。

 

「……フェイト君」

 

 那波 千鶴が僕を見て微笑んでいた。

 

「貴方達の言うことは、最もかもしれないわ。でもね、力でしか救えないものもあれば、気持ちでしか救えないものもあるのよ」

 

 

 彼女の瞳は、しっかりと僕を見ている。優しく、語りかける口調だった。

 

 

「貴方がプレゼントを上げた相手は、きっと喜んでくれる。その笑顔は、きっと力では手に入らないものよ。貴方の気持ちで、人の笑顔を作ることが出来る。そう思えば、ナヨナヨしたものだって、捨てたもんじゃないでしょう?」

 

 

 ちらりと犬上 小太郎にも目を向けて彼女はそう続けた。犬上 小太郎はその言葉に納得しているようではなかった。

 

 

「何でもいいのよ、フェイト君。高くても安くても、ありきたりでも珍しいものでも。貴方が彼女を想って選ぶことに意味があるんだから」

 

 

 

 彼女を、想って選ぶ。

 

 頭には、彼女の姿が浮かぶ。

 笑っていて、笑っていて、笑っていた。

 いつでも彼女は笑っていた。

 

 僕の渡すものによって、彼女がまた笑顔になってくれるならば、僕はそれでいい。

 

 

 

「……そうだね。自分で、もう少し選んでみるよ」

 

 ありがとう、と僕は彼女達に告げて、ベンチからやっと立ち上がる。

 

 背を向けて、再び人混みの中に紛れて行こうとすると、後ろから彼女達の会話が少しだけ聞こえてきた。

 

 

 

「やっぱり大人だなぁ、フェイト君」

 

「……小太郎君も、早く彼に追い付かなきゃね」

 

「ふん。もうとっくに追い抜いとるわ」

 

「ふふ。そう言ってる間はまだまだね」

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 後日、小学校が終わり、いつも通り帰宅しようとしたところで、明智 ういと会った。

 彼女は、フェイフェイ、と僕に向かって手を大きく振った。

 

 彼女と放課後にこうして会うことは分かっていた。

 何故だか知らないが僕たちはどこでも偶然出会うことが多くて、今日もまた然りだった。

 

 僕らは、いつもと同じように、帰り道を共にしようとする。

 

「明智 うい」

 

「ん?なに、フェイフェイ」

 

 僕は途中で彼女を呼び止め、ランドセルに入れていた、彼女宛のプレゼントを取り出した。

 

「これ」

 

「え。……私に?」

 

 頷いて肯定する。

 

 誕生日までは、まだ少し日がある。だが、当日は彼女は家族で過ごすと聞いていたため、早めに渡すことに決めていた。

 

 彼女は受け取った袋を、じろじろ見たあと、開けていい、と僕に尋ねてきた。

 僕はまた頷く。

 

「ぬいぐるみだ!」

 

 彼女は、ぱあっと表情を明るくさせて言った。

 

 色々と悩んだが、僕はあの日、最終的にぬいぐるみを選んだ。

 思い出せば、彼女と初めて会ったとき、UFOキャッチャーでぬいぐるみをとった彼女が非常に喜んでいたのが印象的だったからだ。

 

「そうだね。気に入らないかもしれないけど」

 

「ううん。フェイフェイ、嬉しい。ホントに。ありがと」

 

 彼女は、ウサギのぬいぐるみを両手抱き締めるようにしながら言った。

 

 

「……明智 うい」

 

「ん? 」

 

 

 

 

 

『お前、ういちゃんに思っていることが少なからずあるだろ』

 

『そういうのを伝える機会だよ』

 

 僕は、彼女を正面から見る。

 

 彼女に抱くこの気持ちが何なのかは、未だに答えはでない。

 

 ただ、彼女に伝えておきたいことは、はっきりと胸の中にあった。

 この気持ちだけは、自分の中で確かにあった。

 だから、伝えるのならばこの言葉だと思った。

 

 

 

 

 

 

「君に会えて、良かった」

 

「……!」

 

 

 彼女は、その瞳を大きくさせた。

 

 それから、徐々に頬を緩めていく。

 

 

「ふふ。ふひひ」

 

 彼女は、にっこりと笑っている。気のせいか、ほんのりと顔が赤みを帯びているようにも感じた。

 

 

「あは、どーしよ。私ね、今、凄い嬉しい」

 

 

 彼女は、今までにみたことないほどの満面の笑みで、僕に言い返してくれた。

 

 

 

「私もね、フェイフェイに会えて良かったよ」

 

 

 

 

 

 そうか、なら、良かった。

 

 僕は、小さくそう呟いた。

 もしかすると、僕の顔も赤くなっていたのかもしれない。

 

 



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後日談『超 鈴音と……』

 

 

「七海さん、遅いですよ」

 

 大学にある会議室に足を踏み入れた時、蛍光灯の光を眼鏡から反射させながら、葉加瀬が私に言った。

 私は部屋の壁にある時計に目を移す。何の特徴もない銀色の壁掛け時計は、一定のリズムで秒針を動かしていた。

 

「悪い。だが、まだ集合の五分前だろう?」

 

「私達は10分前からここにいるからネ。だから、私達と比べたら遅いヨ」

 

 笑いながらそう言う超の顔は楽しそうだった。私はなんと言い返せばいいかも分からず、とりあえず苦笑を返して椅子に座る。

 

 会議室には私達三人しかいない。

 長机を四つ使って四角形を作ってあり、それぞれの辺に一人ずつ座っているので、誰もいない辺が一つある。贅沢な使い方だ。

 

「じゃあ、全員集まったところで、始めようカ」

 

「全員と言っても三人ですけどね」

 

「余計なことを言わなくていいヨ、葉加瀬。全員と言う言葉に人数の定義はないダロウ?」

 

「なんとなくですけど、私の感覚的に全員って大人数が必要な気がするんですよねー」

 

「感覚で言葉を選ぶのはよくないヨ。本当に大切な時に相応しい言葉を使えなくなってしまう」

 

「ですけど、意外と感覚で伝わるような言葉こそ後世に残っていく気もしますよね」

 

「議論の路線がずれているガ、まぁそれには同意しよう。だが、だからと言って本来の意味を疎かにするのがいいとは思わないネ。きちんとした定義のある言葉はそのままで存在するべきダ」

 

「……なぁ、もういいから始めないか?」

 

 私が話の腰を折ると、二人は小さく笑った。

 

「ふむう、七海は遊び心か足りないネ」

 

「真面目ですもんねー」

 

 くすくすと声を漏らす葉加瀬と超はやはり楽しそうだった。私は彼女達の笑みの理由が分からず、溜め息をついた。

 

「悪かったヨ七海。では……」

 

「はい。始めましょう」

 

 二人は私を見て頷いたので、私も頷きを返す。

 

 

 

 

「第二回、火星救出会議を、開始する」

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 第一回火星救出会議を始めたのは、一週間ほど前だ。

 超は私と葉加瀬に声を掛け、今と同じこの部屋に集めた。

 何事かと思ったが、会議の議題を聞いたときに納得がいった。

 

 超は、自分が戦うべき問題に、再びぶつかることにしたのだ。

 しかし今度は一人でではない。私達三人で、だ。

 

 因みに第一回の会議の内容は、火星の現状と未来についてだった。

 第二回は、それを受けて大雑把に解決の方向性を決めるという話になる。

 

 

「確認ですが、超さんの目的としては、未来に起こる火星と地球で起こる資源を巡る紛争を止める、と言うことですよね。そのためには、いつか起こる火星の難民問題と食料問題を解決しないといけないという」

 

「まぁ、実際にはその問題によって更に悪化した各地域での小さな紛争を含めて、だが。そうネ。遠くない未来に、魔法世界は崩壊し唯一生き残れた住民達は火星に放り出される。それにより生活する環境を失った人達は、物資と土地を巡りこの地球と争うこととなる」

 

「……超は、事前にこの世界に魔法世界の存在を知らしめることによって、火星にいた人々の受け入れを容易くさせようとしていたということか?」

 

「まぁ、かなり大雑把に言えばそうなるネ。他にも色々考えていたしもっと細かいとこまで計画はしていたが」

 

「それも解決策の一つですよね。今のうちに難民の受け入れ体制を整えておくというのも」

 

「だが、根本的な解決にはなっていない気がするな」

 

 私がそう言うと、超は真剣な面立ちで口を結んだ。

 

「そう、ダネ。結局、それだけでは魔法世界の崩壊は止められていなくて、多くの命を犠牲にすることは防げていない」

 

 超は、幻想世界の生命だと分かっていても、決してそれを容易く扱っていいとは言わなかった。

 

「とすれば、魔法世界の崩壊を防ぐ、という方向に話を進めていく方がいいんですかね」

 

「魔法世界の崩壊は魔力の枯渇によって起こるって認識なんだが、合っているか?」

 

 超と葉加瀬が同時に頷いた。

 

「これは、ネギ坊主から貰った助言を元にした考えだが、いい作戦が一つあるヨ」

 

「なんですか?それは」

 

「火星に緑を作る」

 

「テラフォーミング、ということか」

 

「確かに魔力の源は生命なので、火星に命を作れば魔力の枯渇は防げるかもしれませんが。うーん。問題が山積みになりそうな作戦ですね。資金、技術、国際問題、環境変化、どれも国家レベルで協力し合うことが必要になりそうです」

 

「テラフォーミングと言っても、人間が住める星にすることが必須ではないヨ。生命さえあれば地球環境とは大きく異なっていてもいいし、植物、水、あとは小さな生き物くらいがいればいいんじゃないかと思っている。例えば昆虫とかネ」

 

 超は、私をちらりと見て小さく微笑んだ。

 

「その作戦で行くならば、大きな問題は三つか。火星までの技術や物資の移動、到達方法。火星で環境を整えられる種や生き方の選別。あとは、地球の国際問題。流石に、勝手に火星に緑を増やしておいて、地球で話題にならない、ということはないだろう」

 

「一つ目は、私と葉加瀬が中心となって考えよう。二つ目は、七海に協力してもらいたいナ。幸いに、七海のおかげで世界樹の魔力を使う方法は見つかっている。あの魔力ならば宇宙環境でも生きていけるような適応力を身に付けれる生命を見つけるのも、不可能ではないと思っている」

 

 世界樹を、セミロースを分解できる腸内細菌によって処理させれば、ある程度はその魔力を引き出せるのは、今までの研究で分かっている。それによって生物の潜在能力をあげれることも実証済みだ。

 だが、だからと言っても簡単な問題ではない。

 

「ある程度研究が進んでる種で検討していくのが正攻法か。少なくともゲノムは読まれている種がいいだろうな」

 

「モデル生物でいいんじゃないですかね。ほら、ゲノムを弄れれば適した環境に生きれるようにしやすいかもしれませんよ」

 

「決め付けるのはまだ早い気がするネ。モデル生物じゃなくても今やゲノムが読まれている種は多い」

 

「だが少なくともゲノム編集の実績がある種の方が融通が利きそうだ。TALENでもCRISPRCasシステムでもいいからノックインが出来る種の方が色々と便利だろう」

 

「そもそもどうやって変異させる遺伝子を特定するつもりですか。言い出した私がこう言うのもあれですけど、環境に生きれるようにゲノムを変えるのって簡単に出来るんですかね?」

 

「勿論簡単とは言えないな。だが、通常と違って世界樹の薬と魔法が使えるとなれば、かなり色んなことが出来る気がする。最近魔法生物学にはまってるんだ」

 

「魔法が使えないのに、ですか?」

 

「学ぶのは自由じゃないか」

 

「まぁ、その辺を絞っていくのはもう少し色々と検討していってからでいいダロウ。七海、頼むヨ」

 

「最善を尽くすよ」

 

「三つ目は、多くの人の協力が必要となりそうですね」

 

「そうだネ。とりあえず各国の権力者に話が出来たらと思っている。それは魔法関係者を通してでもいいし、作戦がある程度固まったらそれをプレゼンして信用してもらう、という手もなくはない」

 

 あまり現実的ではないが、と超は付け加えた。

 

 

 

「うーん。やっぱり、現状だとこの作戦が一番いいんですかねぇ」

 

「そうだネェ」

 

 

 

 

「一つ、いいか?」

 

 私が小さく手を挙げると、二人は此方に注目した。

 

「一応私も作戦を考えてきたのだが。少し、いやかなり荒唐無稽ではあるが」

 

「聞かせてほしいヨ」

 

 超は、私の話を楽しみにしている様子で、待った。

 

 

 

「私達で、星を創る」

 

 

 

 二人は、私の眼を覗き込むようにして見た。決して即座に否定することなく、一度その言葉を自分の頭の中にインプットする時間を作っているようだった。

 

「詳しく、話して欲しいですね」

 

 

 

「魔法世界とは、火星を触媒として存在している世界なんだろう? ならば、私達がその代わりになるものを創ればいいと思ったんだ」

 

「星を創るって、どうやって創るつもりなんですか」

 

「小さな惑星を上手く軌道に載せて環境を整える、というのなら万歩譲って納得できるヨ。だが、火星の土地の広さは、地球の約4分の1ダヨ。それほどの土地をどうやって用意するつもりなのカナ」

 

「まず、現実にそこまで広さが必要か、という話だ」

 

「どういうことですか? 」

 

「私も最近知ったのだが、エヴァンジェリンは別荘を持っているらしい。それは、実際は模型ほどの大きさしかないのだが、中に入れば何十倍ほどの広さになるらしい。加えて時間の感覚も外とは大きく異なるのだとか」

 

「……なるほど。異空間、別次元と呼ばれるものに世界を移す、ということですね」

 

「……それなら、確かに広さについては心配ないのかもしれないネ。それほどの広さの空間を用意出来れば、という前提の話だが」

 

 二人とも、訝しみながらの発言であった。それでも、不可能だとは言い切らない。ほんの0.1%でも可能性があるならば、完全に否定することが出来ないということを、科学者である二人はよく分かっているのだ。

 

「仮に別次元に星を創るとしましょう。地形は火星と大きく変わるだろうでしょうが、それは大丈夫なんですかね」

 

「……まぁ、そこは問題ないような気がするネ。最初の火星の状態を触媒にして今の魔法世界があるだけで、広ささえあれば触媒を移した所で魔法世界にまで影響があるとは考えにくい。事実、魔法世界の大戦によって土地が削られた所が火星に傷が付くわけでもなかったし、火星の砂を蹴りつけた所で魔法世界の砂が舞う訳でもない。

 それよりも、別次元に移した所でそこに魔素がなければ同じことを繰り返すだけだ。どうやってそこに生態系を創る」

 

「それこそ、世界樹の魔力を借りる。水を用意し、プランクトンや魚を存在できる世界とする。それから、植物を繁栄させ、小さな生き物達に世界を廻させる。それこそ、昆虫のような。イメージ的には、とてつもなく大きなアクアリウムを創るという感じか。全てに世界樹の魔力を分けるようにして、環境の変化と進化を多様に行える世界にする」

 

「……生態系のコントロール。まるで、神になったかのようですね」

 

 皮肉的な言い方をした葉加瀬の顔は険しかった。

 現実的に考えて、無謀であり障害がありすぎることを分かっているのだ。勿論倫理的にも問題があることも。

 

 だが、今回はそこまで深く議論する気がないことをお互いに分かっているからか、つらつらと問題点をさらし挙げるようなことはしなかった。

 今回の会議はブレインストーミングに近い形で行われていて、とりあえずアイデアを出すことに意味があることを知っているのだ。

 

「……ふむう。今日の所はとりあえずこんなものカナ。それじゃ、次は今日出た二つの作戦についてもう少し掘り下げた話をしよう。何か資料となるもの持ってきてくれたら助かるネ」

 

 超がまとめに入ったので、時計に眼をやる。

 気付けば予定の時刻になっていた。そうですね、と言いながら葉加瀬が立ち上がったので、私も席を立った。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 廊下に出て、私がもう一度研究室に顔を出そうとしたところで、超に呼び止められた。

 

「七海。ちょっといいカナ」

 

「さっきの話の続きか」

 

「そうだヨ」

 

 次の会議の時でもいいのではないか、と思ったが、超がわざわざ声を掛けるということは今言いたいことがあるのだろう。

 私は足を止めて超の方を向いた。

 

「……面白い意見だったヨ。まさか星を創ると言い出すとは」

 

「……出来るかどうかはまた別だがな」

 

 そうだネ、と超は笑いながら言った。

 

「でも、駄目だとしても、議論としてはとても面白い気がするヨ」

 

「議論だけ面白くても仕方がないんだがな」

 

「フフ、それでも、いいんだよ」

 

 超は、眼を細めてしみじみとそう言った。

 

 学園祭が終わってから、超の雰囲気は少し変わった気がする。

 憑き物が取れた、ではないが、背中に置いていた大きな荷物をやっと下ろせた、という表情をしている。

 

「私ネ、今、とても楽しいヨ」

 

 超は、静かに語り出した。

 

「初めて前を見てるという実感がある。過去をどうにかするのではなくて、未来を自分達で作っていくというのはこういうことなんだと、はっきりと分かる。過去にきて行き先を変えるという、やってることは変わらないのにネ。それはやっぱり、七海や葉加瀬のおかげなんだと思うヨ」

 

「私は別に大したことしてないよ」

 

「ふふ。私にとってはそうではなかったヨ。

 星を創る。面白いじゃないカ。出来る出来ないの話じゃなくて、本気でそんな馬鹿げたことを議論出来るということが、面白い」

 

「馬鹿げたこととは、ひどいな」

 

 超はまた笑った。

 

「テラフォーミングの件と同じように、私はそっちも真剣に考えてみるヨ。結果どうなるか分からないけれども、楽しい会議になることを期待しているネ」

 

 ただ。と付け加えて、超は私の前に人差し指を置いた。

 

「魔法世界の触媒の移送。そもそもそれが可能かどうかは、しっかりと調べて欲しいネ。現実になり得ない夢を語るのも楽しいだろうが、やはり追うならば手に届くモノがイイ。それが天ほどの高さにあろうがネ」

 

「……一応、あてはあるんだ」

 

 ほう、と超は少し驚いた表情をした。

 

「身近に魔法について詳しい人物がいてな。その人に話を聞いてみようと思っている」

 

「それは、エヴァンジェリンか? それともアルビレオ・イマか?」

 

「彼らにも話は聞きたいと思っているが、あてというのはどちらでもないよ」

 

 私が首を振りながらそう言うと、超は不思議そうにした。

 

「とりあえず、話を聞いてみてから結果は報告するよ。次の会議でな」

 

 超は、考えるように間を置いた後、楽しみにしてるよ、と私に告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界樹の中の世界は、いつも通りだった。

 真ん中には堂々と雄々しい一本の大樹が立っていて、そこに絡まるようにして黒いフードの人物が捕まっている。

 私がここに来たことに気付いたのかその人物は一度だけ顔を上げたが、すぐに興味を無くしたようだった。

 

「……やぁ」

 

 私が挨拶をするが、返事は来ない。これも、いつも通りのことであった。

 

 

 私がこの者から自分の体を取り戻した後、前と同じようにフードの人物はここに封印された。ただ、ひとつ変わったことは、ネカネもここに来ることが出来るようになった、という点だ。同じ薬を使用しているのだから当然のことなのだが。

 

「私は、君に謝りたいことがあるんだ」

 

 そう話掛けると、此方に少し顔を動かしたように見えた。だがやはり表情までは分からない。

 

 

「君は、女性だったんだな」

 

 

 ネカネに聞いてやっと気付いたのだが、ここに捕まっている人物は、彼ではなくて、彼女だったのだ。シルエットではそんなことはまったく分からなかったので、女性だったとは考えもしなかった。ネカネが分かったのは、同じ女性ということで勘が働いたのだろうか。

 

 

「すまなかった。てっきり、男性だと思っていたよ」

 

 私が頭を下げると、彼女はようやく、私に言葉を掛けてくれた。

 

「……そんなこと、どうでもいいことだ。私が男だろうと、女だろうと、今更に何かに関係することはない」

 

「……そうか」

 

 世界樹の葉が、ひらひらと舞う。

 私達の間をゆらりゆらりと落ちていって、ぱさりと音を立てて地面にゆっくりと着地している。

 

 

「実は、君に頼みたいことがあるんだ」

 

「魔法世界の移送、という話か」

 

 彼女は、私の中から話を聞いていたらしい。説明が少なくて済むので助かった。

 

「もし、方法があるならば、教えてくれないか? 君は凄い魔法使いなんだろう」

 

 ふん、と彼女は鼻を鳴らした。彼女と面と向かってここまで長く会話するのは初めてかもしれなかった。

 

「知らんな、そんなもの。例えそんな方法があったとしても、何故私が貴様にそれを教えなければならない」

 

 予想していた通りの言葉が一言一句違わず返ってきたので、だめか、と呟いて私は苦笑してしまっていた。

 

「……やはり、今も世界が憎いのか?」

 

 そう訊ねると、彼女は黙った。

 背筋が、凍るような感覚がした。

 彼女からどす黒いガスが溢れているように見える。それが彼女の持つ憎悪なのだと、私は分かってしまった。

 

 

「……貴様は、拷問の歴史を知っているか?」

 

 溢れるガスは止まることを知らず、私の周りをねっとりと覆う。緑に富んだ世界樹の世界が、黒く悲しい色へと変わっていく。

 

「初めは、秘密を吐かすための方法でしかなかったのかもしれない。だが、年月を経ていくにつれて、それは進化していった。どんどんと残酷な方法にな。ただただ拷問者が快楽を求めるように被害者の叫び声は増していく。死ぬよりも辛いことは何かと、笑顔で話し合う奴等がいる。肉体的な苦痛も精神的な苦痛も全て与えて、どうすれば壊れる直前まで行くのかを本気で考える奴等がいるんだ。それが、人間だよ」

 

 

 

 それでも私は、彼女から目を逸らさなかった。きっとこの言葉こそが彼女の本気の言葉だと、分かった。初めて私に吐いてくれたその言葉を、私はしっかりと受け止めたかった。

 

 

「人間は残酷だ。結局最後に考えるのは自分のことだけになる。その被害者の気持ちを考える奴などいない。その痛みを全て負うものがいるだなんて、気付く筈がない」

 

 

 だから、私は嫌いだ。

 

 そう最後に呟いて、彼女から溢れるガスは止まった。

 段々と視界は開いていって、再び世界樹に捕まる彼女の姿が見える。

 先程までと違って、その姿には多少の哀愁が漂っているようにも思えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……私には、分からない。君に何て言えばいいのか」

 

 

 

 本当に、分からなかった。

 彼女は、どんな気持ちで人間の歴史を見てきたのか。

 残酷な時代もあっただろう。悲痛の時代もあっただろう。それを彼女は全て経験して、生きてきたのだ。

 

 非道な人間や卑怯な人間をきっと沢山見てきたのだ。

 私が、優しい人間もいるよ、なんて、言葉にしたところで、彼女に伝わる筈もない。

 私より彼女はずっとずっと多くのものを目にしてきたのだから。

 

 

 

 

 だから、私は、こう言うしかなかった。

 

 

 

 

 

「だけど、見ていてくれよ。私を。私の人生を」

 

 

 

 言葉にしても伝わらない。

 それなら、私は彼女に体感してもらうしかなかった。

 

 

 

 

「私がこれからどんな人間に会って、どうやって関わっていくのかを」

 

 

 

 口では、決して言えないけれど。

 

 私の目を通して、この世界の明るい所に触れてほしかった。

 

 

 

 

「私の周りに生きる人間がどんな人で、一人の人生がどうやって終わるのかを、見ていてくれ」

 

 

 

 

 私は、沢山の優しさに触れてきた。

 彼女にも、その優しさを感じて欲しかった。

 

 

 

 

「全てを滅ぼすのなら、それからでもいいんじゃないのか」

 

 

 

 

 

 

 彼女が、初めて顔を上げたように思えた。

 やっと、私の目を見てくれようとしたのが、感じられた。

 

 

 

「…………馬鹿だよ、貴様は」

 

 

 

 

 

 そう言った彼女の表情は、残念なことに、やはりはっきりとは分からないままであった。

 

 だが、私は少しでも彼女が微笑みながらそう言ってくれていると、信じたかった。

 

 

 

 いつか彼女が、憎まずにいられる世界が訪れますようにと、私は本気で願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







今回で書きたい話は大体書き終えることができました。

改めて、最後まで読んでくださった読者の皆様には深い感謝を。


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