あの牛丼屋に行ってみよう、そう思った。
時は8月、世間が夏休みに浮かれる頃。私は偉大な母の名を汚さないよう、この聖グロリアーナ学園艦で淑女としてふるまってきたつもりだ。
高校一年でありながら聖グロ戦車道の一軍にまで上り詰め、お茶会に参加できる資格も得られた。まさに順風満帆といったところだ。
私は牛丼屋の前に立つ。ここに来るのは、父と母の旅行以来だっけ。
がらっと、牛丼屋の引き戸を開ける。
店内にはサラリーマンや職員たち、そして数人の聖グロリアーナ生徒がお昼ご飯を口にしている。席はだいぶ埋まっていた。
――場違いだと思われそうだが、この牛丼屋は今や「運命の出会いスポット」として数えられている。それもこれも、グロリアーナ戦車道に名を残す偉大な隊長が一人の男性と出会い、空前絶後の恋を咲かせたからである。
女子校である聖グロリアーナ女学院では、異性との出会いなんて望めやしない。
だからこそこうした出会いの場に赴き、母のように素敵な恋をしてみたいと生徒たちは考えているわけだ。
まあ、気持ちはわからないでもない。
自分には異性というものにてんで縁がなかった。いやまあ異性にがっつく性格ではないのだが、何年経っても変わらぬ父と母のいちゃつきっぷりを思い起こすたびに、羨ましさとかそういったものを覚えないわけではないのだ。
だからたぶん、ダメ元でココに来てみたんだろう。たぶん。
「……本当なんですの、ここでレモンバームが殿方と出会ったと?」
マジか。
「ええ、ええ、そうなんですのよ。あの子が笑ったところ、初めて見ましたわ」
マジか。
レモンバームとは自分の同級生であり、その母は優秀なクルセイダー乗りだったのだとか。無表情で有名なレモンバームが笑顔になるなんて驚天動地である。
なるほど、噂は本当らしい。
私がなんともいえない顔になっていると、店員が良い笑顔で近づいてきた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「はい」
「では、こちらの席へ」
店員から案内される。二席ほどギリギリ空いていたらしく、なんとなく得した気分になった。
私は腰を下ろし、「今日の定食、ご飯は大盛りでお願いします」と店員に注文する。店員は頭を下げ、厨房へ向かっていった。
腹が鳴る。左右を見渡せば、お嬢様学園の生徒達が喜色満面の笑みで定食を味わっている。
昔は学食で済ませるケースが多かったらしいが、母の影響で「好きなものを食べて元気に生きよう」という伝統がいつの間にか生まれたらしい。お陰で牛丼は当たり前、うどんもそばもジャンクフードもたらふく食べる生徒が数多い。
自分にとって、そういう空気はありがたい。色気はないが食い気はあるクチだから。
――数分後、湯気が立つ定食が運ばれてきた。
自分の顔が自然と緩む。大盛り牛丼、つけもの、みそ汁、緑茶。ほぉぉと声が漏れる。いよいよもって腹が唸る。
そして両手を合わせ、目を閉じて、
「いただきます」
まずは牛丼を一口。あっという間に牛丼のタレが舌に染み渡り、米の甘さと熱がますます食欲を煽ってくれる。考えるよりも箸が動く。
福徳円満、ここのリピーターになろうと決意した瞬間である。
「うまい……」
味噌汁が喉を潤し、漬物の酸っぱさが意識を引き締め、ふたたび牛丼を口にする。頭の中なんて既においしい、うまい、さいこうの文字しかない。
だから、
「あ」
変な声が漏れた。相席ということで目の前に男性が腰かける。年はそれほど変わらないように思えた。
頭が回る。夏休みを利用して学園艦へ旅行でもしに来たのだろうか。そういえば父も「夏休みの時、食べ歩きの為に聖グロへ行ってみてねえ。そこでなんと母さ」と自慢げに何度も何度も何度も言ってたっけ。
まあ混んでいるし仕方がない。この店が儲かるのは良いことだ。
私は何事もなかったかのように箸を動かす。
「キャンディ、さん?」
「え」
相席に座っていた男性が、目を丸くしていた。
「キャンディ……さんですか? マジで? おれ、ファンなんです!」
ああ。
熱烈な言葉を浴びせられ、私の顔が赤く染まっていく。腹の底から生じる熱は、たぶん牛丼のせいではないだろう。
冷汗三斗とはこのこと。私は本能のまま、おそらく母が起こしたであろうリアクションを彼に返すのだ。
「シッ! し、静かに!」
噂は本当だった。ここは運命の出会いの場だったのだ。
次に何を言えばいいのか、静まりつつも歓喜を隠せていない彼とどう接すればいいのだろう、母ののろけ話をもう少し聞いておけばよかった。
そう考えつつ、ここの牛丼はうまい。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。