──デカい。
「坊ちゃま。お食事の準備ができました」
自室にて読書に耽っていた最中、凛々しい声音が俺の背に語りかけられた。
椅子に腰かけたまま振り返ると、そこにはロングスカートのメイド服に身を包んでいる背の高い女性が、出入り口の真横に立ってこちらを見つめている。
陽の光を弾くほどに艶やかな銀髪に、厚手の服装であるにもかかわらず雄々しく存在感を主張する胸元のソレなど、あまりに目を惹かれる要素しかない、まさに本物の美女が“俺”を坊ちゃまと呼称している。
そんな現実味の無さすぎる状況に一瞬置いてけぼりをくらったが、かぶりを振って脳内を改めた。なんにせよまずは返事をしなければ。
「すみません、ありがとうございます。すぐ行きます」
「っ……?」
とことん無難だったはずの俺の返答に対する反応は、なんと困惑であった。キョロキョロと周囲を見渡し、ようやく言葉の矛先が自分であることに気づいたらしいメイドは、そのクールな無表情の中に些かの困惑を懐かせつつ咳払いを一つ挟んだ。
「コホン。……坊ちゃま、社交マナーのお勉強の内容を実践されるのは大変に結構ですが、メイドにその様な言葉遣いをする必要はございません」
「えっ……ああ、そうで──そうだな。すまん、つい癖で。えーと……食事か」
「はい。旦那様がお待ちです」
「すぐ行くよ」
ぱたん、と読みかけの本を閉じ、鏡の前で軽く身だしなみを整えてから部屋を後にした。学校の教室二つ分はあろうデカすぎる自室の外には、紅いカーペットが敷かれた絢爛な廊下が長く伸びており、視線の先に視えるT字路を右に曲がれば目的地の居間だ。……居間? リビング? 洋館の部屋の名前わからん。
とにかく家族で食事をする大きい場所を目指し、左斜め後ろに件の長身銀髪デカパイメイドの追従の気配を感じながら、道すがら脳内で現状の整理を
──憑依、というやつなのかもしれない。
記憶が正しければ、三日前まで俺は日本のとある病院のベッドの上で、脚の大怪我をした事実に打ちのめされていたはずだ。
めちゃくちゃに熱い中で肉体を酷使する仕事なのに、もうその脚では完全に回復しても日常生活以上の使い方はできないと言われて、今後の人生どーすっかな、と窓の外の植林を眺めながら呆けていたのを覚えてる。
で、今はこれ。
なんかよくわからん時代の、なんかよくわからん土地で、なんかよくわからん貴族の嫡子の意識を乗っ取ってしまっている。
ここで生まれ育った記憶など皆無で、日本でも命を落とすほどの怪我ではなかったので転生ではないだろう──などと考えているうちに目的地へ到着した。
この世界の俺の実父に当たる人物の正面に腰を下ろすと、まもなく豪勢な夕食が白いテーブルクロスの上に並べられていく。一人一万円以上のコース料理でも頼んだんかいという程の凄まじい料理を前に、思わず目がくらみそうになる。この少年に体を借りてから三日経過しているが未だに慣れない光景だ。
「うむ。では」
「はい、父様」
うまそ、いただきまーす──などといつものように日本男児丸出しでメシを食べ始めると大変な事になるため、ここに来る直前に読んでいた本や眼前のお父様を参考に、見よう見まねでテーブルマナーに気を張りながら食事を開始した。
「ハルト。別荘に来てからまだ数日だが……調子はどうだ」
「順調ですよ、父様。開けた場所が多く、領民の目もないので外での魔法の勉強が捗って仕方がありません」
「っ! ……ふふっ、そうか。期限付きだが、やはりお前をここに移して正解だったな」
自室で見つけた日記からこの少年の人物像を推測した結果、父親に勉強の進捗を心配される程度には自由奔放な性格だと感じられた。そのため、とりあえず今は親を安心させられそうな言葉でお茶を濁しておく。
この少年の名前はハルトマン・フォン・ゼーレンベルク……通称ハルトくん。
俺の世界でスマホやAIなどの『科学』が当たり前のものとして普及しているのと同じで、この世界では『魔法』も常識として定着しているらしく、その魔法の権威である父上の長男たるハルトマンは、家督を継ぐため日夜大変な勉強に追われ、苦難の日々を過ごしているらしい。
そこで、進捗の芳しくない現状を打破するべく心機一転。
ハルトは一旦環境を変えることで魔法の勉強に集中するべく、父親に頼み込んで一定の期間だけ別荘で生活することにした、というのが一連の流れである。
──しかしそれは
この少年の本当の目的は別にあることを、あの日記を読んだ俺だけが知っている。
「セレス。明日のハルトのスケジュールはどうなっている?」
その裏側の事情について悶々としている俺に気づくことなく、父上が俺の背後のドア付近で待機している銀髪メイドに声をかけた。
セレスと呼ばれた彼女は、ハルトの専属メイドであり、日常のサポートをしながら秘書のように一日のスケジュールも管理してくれている存在だ。改めて意識すると、マジでジッと見ているだけで鼻の下が伸びそうなほどドエロいボディですわ……。
「明日は先生方がいらっしゃらないので、午前中に座学の復習……午後はお屋敷外の草原で準三級魔法のトレーニングとなっています」
「そうか。ハルト、私はしばらく屋敷に寄れないが……しっかりな」
「ありがとうございます、父様。王都までの道中、どうかお気をつけて」
「うむ」
口数は少なく厳格な人柄だが、今日はなんとなく終始機嫌がいい。元のハルトマンと俺の振る舞いが乖離しすぎていたら、と気が気でなかったが杞憂だったようだ。
そのままメインを食べ終えた辺りで食堂の戸が開かれた。セレスと同じくクラシカルなメイド服に身を包んだ
「ぼ、坊ちゃま。デザートのフルーツケーキでございますっ」
「ああ。ありが……」
「──セレス」
ワゴンに乗せて持ってきたデザートの皿を猫耳少女が手に取り、俺がそれに応えようとしたその瞬間。
父親が突然眉間に皺を寄せ、俺の専属メイド兼副メイド長でもあるセレスに冷たい声を浴びせた。
「
その鋭い声音に威圧された猫耳少女は肩をビクリと跳ねさせ、怯えた表情のまま全身が硬直してしまった。
それを庇うようにしてセレスが二歩前に身を乗り出し、深々と腰を折って頭を垂れる。
「大変申し訳ございません、旦那様」
「……生真面目なお前のことだ。自らの意思ではなく、本館のメイド長になにかしら吹き込まれたのだろうが……そういうのは擁護派の客人を招いた時だけでいい。……おい、獣人の。その皿を下げなさい」
「はっ、はいっ! もも申し訳っございません……ッ!」
一気に真っ青な顔になった新人メイドは、皿が音を立てるほどそそくさとデザートを下げ、屋敷内で許される全速力でワゴンと共に退室していった。
「はぁ……すまんな、ハルト。メイド長には私から言っておく。お前も使用人に獣人が混ざっていて不快だろうが……」
「いえ、お気になさらないでください父様。──そうだっ、父様。先日、ついに準三級ではなく三級魔法に触れてみたのですが、その成果をお聞きいただきたくて」
「ほう、その歳でもう三級か。内容はどんな──」
ちょいとピリついた空気を感じた為、露骨に話題を変えてご機嫌を窺う作戦に移行し、程なくして今回の食事は穏やかに終了した。ちょっと怒ったお父さん、怖かった~。
それから食堂を出て部屋に戻る際中、ついでにキッチン裏にも寄っておくことにした。少し気になることがあるためだ。
すると、そこには半泣きでケーキをゴミ箱へ捨てようとしている猫耳少女の姿が。
「あーっ、ちょっと待って、モナカ!」
「っ!? ふぇっ、あっ、坊ちゃま……っ」
外見上の見た目で言えば小学五、六年生程度で、俺より少し年上な茶髪猫耳少女ことモナカちゃんの前に飛び出し、皿から落ちたケーキを空中でなんとかキャッチした。
イチゴやキウイがふんだんに使われた贅沢なショートケーキだ。コレを捨てるだなんてとんでもない。
「ひゃあ……! ぼ、坊ちゃま、お手が汚れて……」
「いーよいーよ気にしないで。……はむっ。──んおぉ、コレうまっ」
「えぇっ坊ちゃま!? そそそんな、わたくし如きが作ったケーキなど……!」
「何でさ、バチクソ美味いやん。明日は父様もいないから、普通に持ってきてほしいな」
「……っ!」
目を見開いた彼女からは驚懼の感情しか読み取れないが、とにかく自分が作った料理を捨てて落ち込んだまま一日を終える、なんて展開は防げたようで安心した。お仕事ホントお疲れ様です。
こうした理由は、流石に彼女が可哀想だと感じたのが半分。
もう半分はシンプルで、出された料理は残さず食うのが俺の中では当たり前だったからである。この世界でのマナーはまだ学んでいる途中だが、少なくともこの家の中では毎回そうするつもりだ。
汚れた手で頭を撫でたりすることはできないため、言葉だけでもう少しだけモナカを励ましてから手を洗い、なんだかスゲぇ訝しんだ表情のセレスに見送られながら、俺は自室へと戻っていった。
◇
魔法が存在すること。これはもうそういうもんだと納得した。次。
獣人が存在すること。その性質や誕生経緯から、世間からやたら厳しい目で見られているらしく、父親はそんな獣人を使用人として雇うことで、獣人擁護派からの信頼と支援を勝ち取っているとかなんとか。本心では未だに苦手らしいが俺にできる事は何もない。次。
そう、次だ。これが最後にして最大の議題だ。
それは副メイド長であり現在専属メイドでもあるセレスとこの少年、ハルトマンの関係性。
端的に言えばハルトは──彼女にセクハラをしている。しかもかなりの頻度で。
いやまぁ、これが事実であるかどうかはまだ確定していない。彼の妄想というオチも捨てきれない。しかし日記にはそれが真実として綴られてあるのだ。
セレスがスケベすぎる。あの魅惑の身体が下品すぎて興奮する。半年前から僕の専属メイドになった。こんなのもう我慢する理由がない──と。
ハルトが父親にこの屋敷を手配してもらった本当の理由は、自分専用のクール銀髪デカパイ長身メイドと一日中ヤリまくるためである。
父上や親族など、厳格な人間たちの目がある実家の本館では、まだ隠れながらする軽いセクハラの範疇で済んでいたようだ。
だがここは父親が稀にしか顔を出さず、また誰の監視も受けることがない。なにより自分自身が最も地位の高い立場になるこの屋敷に着いた暁には、自らを解放してやると日記に力強く書き記されていた。
で、別荘到着の寸前に俺が憑依してしまった、というのが今回の経緯であるようだ。
……第一に、俺はこの世界の正常な倫理観を知らない。もしかしたら主人はメイドに手を出していい暗黙の了解などが往々にしてあるのかもしれない。
第二に、この身体の少年のことが心配だ。本当の人格は消えていないと信じたいが、もしものことがあったら俺はコイツが本来送りたかった
最後に──こいつのやりたかったことが、あまりにも俺個人の性癖と合致しすぎているのだ。
ええぇ~、マジでエッチすぎ。やりてぇ~、無表情でクールな目線の鋭い銀髪メイドに呆れられながら、その下品すぎるスケベボディに後ろから引っ付いて性欲の赴くままに無様腰ヘコして自分のモノ宣言、してェ~~。
そのうち『仕方ありませんね……』からレベルアップさせて『……今日は大人しいですね。……は、はぁ? いえっ、別に期待なんてしてるわけないでしょう……っ!』って状態にさせてェ~。
というわけで。
元の自分に戻れるかも解らないんで、言い訳交じりに魂とかそういう系の魔法も勉強しつつ、俺はなるべくこの世界の“俺”に従って生きることに決めたのであった。
俺が、俺こそが、ハルトマン・フォン・ゼーレンベルクだ──!
……
…………
そんなこんなで翌日。スケジュール通り座学の復習を終えた俺は、二冊ほど分厚い参考書を抱えたまま、専属メイドと共に屋敷裏にある草原へと足を運んでいた。
緑々と翡翠色が広がるこの広い敷地でやることは一つ。実戦的な魔法の勉強に託けてラッキースケベな状況に陥らせることである。
まぁシンプルにエロイいことしたのもあるが、何よりも
仮に俺がその肢体に触れた場合に彼女がどんな反応を示すのか、それが重要というわけだ。
セレスがかなりの困惑を見せるのであれば日記のセクハラがハルトマンの妄想だったということになり、触れてもあまりに平然としていればそうされることに慣れているとして、あの行為を真実として断定できる。というかする。細かい考察は後回しだ。
セクハラが真実だった方が今後の流れがスムーズで助かる。それを期待しつつトレーニング開始。今回は水と風を主軸にした魔法訓練だ。
「坊ちゃま。バケツはここでよろしいでしょうか」
「ああ、そこに置いといてくれ。ここまで重かったよな、ありがとう」
「……メイドですので、この程度のことは」
あれ、目を逸らされた。やっぱいくら専属メイドとはいえ、片道五分弱の場所まで八リットルのバケツを女性に持たせるのはマズかったか。自分で持っていこうとした際に何度も『私がお持ちします』と繰り返されたから、仕事を奪うのも失礼かと思って任せたんだが……メイドって難しい。
ともあれ、水や風魔法の実践練習を開始した。
準三級範疇で可能なのは、既に存在するその場の水を操作することだけだ。大気中の魔素を水に変換するなど、よくある何もないところから水を生成する魔法っぽい魔法は更に上級からとなる。風魔法では上級なら空を飛べて、下位となると良くて突風による落下速度の軽減くらいだろう。
いろいろと試し始めてから小一時間。
まだ習っていない範囲のページに到達すると、面白いものをいくつか見つけた。これやってみっか。
ちなみにセレスはレジャーシートのようなものを敷いて少し後ろで座っている。ただ座ってるだけなのに佇まいが綺麗すぎる。
「おっ、こりゃすげぇ。水の布、か」
氷、とは違う。固形ではなく流体でまさに布のように形状記憶させることができる。勉強していない範囲とはいえ、ハルトマンが蓄えた知識は頭の中にあるし、この数日間で学んだ内容の応用で発動させられる範囲だったため、試しにやってみたら上手くいった。こいつなら火災現場でも使えそうだ。
「よし、セレス。これを頭から被ってみるから、外から指で突っついてみてくれ」
「っ? ……はい。承知いたしました」
まさか自分が手伝うことになるとは思っていなかったのか、少々面食らいつつ彼女が至近距離まで寄ってくれた。この反応を見るに、元のハルトは意地を張って一人で特訓をしていたか、もしくは実践トレーニングなど真面目にやっていなかったのかのどれかだったのだろう。通常通り魔法の特訓をしていれば、嫌でも他人の手を借りたくなる瞬間が頻発するはずだ。
……今更だが、この世界での会話や読み書きに必要な知識はあるのに、ハルトマン本人の記憶だけがサッパリ抜け落ちているというのも不思議な話だ。
「つんつん。……あっ」
「おぉ。見事に解除されちゃったな……」
セレスによる外部からの衝撃で、俺の上半身に被さっていた水の布はいともたやすく崩壊してただの水として落下してしまった。イメージ的には水風船が破裂してしまった印象だ。内側はともかく外側の魔力制御が上手くいかなかったらしい。
「申し訳ありません、坊ちゃま。すぐにお着替えを」
「ぁいや大丈夫。もっと薄い魔力の膜を全身にコーティングしておいたんだ。濡れてないよ」
「……魔法膜は、三級魔法では……?」
「昨日の勉強のとき、先生にコツを聞いておいたんだ。先生曰く攻撃系は苦手だが、魔力コントロールはいい線いってるってさ」
曲がりなりにもハルトが蓄えた魔法に対する知識は体が覚えているのか、そこそこ直観的に操作することが可能だ。俺が使える三級魔法はコレとあと一種類だけだが、この調子でどんどん増やして──あっ。
「やべっ」
「……?」
ちげーよ、ちげーじゃん。なに魔法膜とかワケわからんもん纏ってんだよ俺。なんで真面目に勉強しちゃってるんだよ目的が違うよバカ野郎。
セレスの胸元だけ濡らすとか、俺がびしょ濡れになって着替えを手伝わせるとか、濡れた地面で転んでセレスの胸元に不可抗力ダイブかますとか、いろいろあるじゃん。魔法が楽しすぎてクソわよ。
「……んっ? なんかいい匂いがするな」
「あら。照れます」
「セレスじゃないよ。いま口説くわけないだろ」
「どうやらモナカがおやつを持ってきてくれたようですね。……一時間ほど集中されてましたし、休憩にいたしましょう」
若干茶目っ気を見せつつ提案してくれたセレスの視線の先を追って振り返ると、バスケットを持ったモフモフ猫耳少女ことモナカの姿が遠目に見えた。俺が気づいたと分かった途端、ニパッと花が咲いたような笑顔になり、小走りで駆け寄ってきてくれた。ええぇ~かわいい~なにあれ~。
「ハルトさま~、セレスさま~!」
「おぉ、モナカ。……この匂いはクッキーか。ありがとうね」
「え、えへへ。身に余る光栄ですぅ」
「モナカ、僕らと一緒に食べないか? ちょうど休憩だったんだ」
「──っ!」
俺が彼女もおやつに誘った瞬間、モナカ本人以上にセレスが驚いたように目を見開いた。自然な流れではあったと思うが、なにかマズっただろうか。
少し心配になったものの、セレスはすぐに優しく微笑んで手招きをした。
「ではモナカ、私の隣へいらっしゃい。あなたも食べましょう」
「ほ、本当によいのですかっ。え、えへ、えへへ……」
──と、平和な休息を挟みつつ本日の魔法実践練習は滞りなく進行し、ついでに父親がいない為夕飯のデザートも平和に完食することができたのであった。もう若干モナカに胃袋を摑まれかけている気がする。可愛くて料理もうまくて隙が無い。まさに生粋のメイドだ……!
◇
「坊ちゃま。失礼いたします」
モナカデザートのリベンジに成功したその日の夜。
そろそろ風呂に入ろうと
俺は今日までの数日間、別室にある簡易的なシャワーのみで事を済ませていた。その理由はこの屋敷の大浴場が修繕中だったからだ。
そして本日、満を持して改装終了ということで、デカい風呂を独り占めできる事実に心躍らせながらここへやってきたら別のデカいのが襲来してきちゃった。もしかして叩き潰されるのかな。主張がヤバい胸元や美しすぎるお顔をジロジロと見過ぎていたもんね。腹を切って詫びます。
「どっど……どうした、セレス」
「……? いえ、湯浴みのお手伝いに。個室の浴場は一人用で狭すぎたので、本日からまた再開させていただきます」
マジ? この展開マジ? もしかして本家にいる頃から日常的に入浴のサポートをさせうっおデッカやば。
俺が困惑して俯いている間に、セレスがまるで魔法の如く一瞬で湯浴み着に着替えていた。白い繊維のバスドレスは、一見すると肩ひもがないだけのワンピースに見えなくもない。
バスタオルをそのまま体に巻くのと違って体のラインこそ露骨に出るわけではないがなんにしてもデカすぎる。てか通常サイズの湯浴み着を使っているせいか、長身のセレスには若干サイズが足りなく、太ももが危ういラインぎりぎりまで見えてる気がしないでもない。もう何も分からない。
一旦思考を放棄し、俺も覚悟を決めて腰にタオル一丁で浴場内へと足を運んだ。すげぇ豪華絢爛な内装なのにセレスの衝撃のせいで頭の中になんも入ってこない。ひぃー!
「坊ちゃま、こちらへ」
「はい」
言われるがまま流されるがまま、シャワーの前の風呂椅子に腰を下ろした。科学文明と同じようなシャワーを魔法によって実現しているこの世界では、お湯が放水される浴場も珍しいものではない。
しかしそこに美人爆乳銀髪メイドが付いてくるなどこの場をおいて他には存在しないだろう。なんでいま存在しているの? クソッ!! ムラムラしてきた。
「では、始めさせていただきますね」
「いやちょっと待って、セレス」
「どうかされましたか?」
散々泡立てた柔らかそうなタオルを正面から当てようとしたセレスを制止し、咳払いを一つ挟んだ。
「んん゛っ。……えーと、なんで正面からなんだ?」
「前を洗うためですが……」
「その、背中を流すとかならまだ解るんだよ。てか実際それでいい。前は自分で洗うから」
マジで正面からだと辛すぎる。エロいこと云々の前に、自分の身体は自分で洗うものだ。それもデリケートな場所はたとえ同性しかいない銭湯でも、念入りに洗う姿を見られるのは若干恥ずかしい。
つまり彼女がどの程度までサポートしてくれるかも解らないのに、正面から見られながら前を洗うなど恥ずかしすぎるのだ。男の子にも恥という感情はあるのです。
「そう、ですか」
その切れ長でクールな瞳から感情は読み取れない。今の彼女は正真正銘の無表情だ。
「ふむ……」
「っ──!?」
すると少々逡巡した後、こともあろうにセレス本人が自らの両腕を軽く胸元に寄せ、バスドレスの上からその二つのモノを強調させた。湿気で張り付いた白い繊維の内側が柔らかく揺れ、脳みそを殴られたような衝撃が俺を襲う。
妖艶とも取れるその仕草の意図を酌むことも出来ず、俺は反射的に背中を向けてしまった。逃げろ!
「せ、背中、頼むな」
「……はい。お任せください、坊ちゃま」
……なんというか、誘惑というよりは罠というか。本能的に直感した危機感値がそうさせてしまったようだ。なんにせよこの普通じゃなさすぎる状況は早々に解消しなければ。流れに身を任せるにしても、今の俺は間違いなく冷静ではない。この状況を利用するにしてもそれは分析を終えた次回からだ。とにかく早く終わらせよう。
「……やはり、なにか……」
言いつけ通り背中だけを洗体しながらこぼしたその呟きを確かに耳に入れつつ、無心に徹した俺はひたすらに耐え抜くしかないのであった。えっちすぎる! 忸怩たる思いだよ。
……
…………
あまりに心臓に悪すぎる入浴タイムを無事乗り切った後、自室に戻った俺は改めてハルトマンの日記を読み返していた。
「勉強の内容と進捗、面白かった演劇……それと、セレス」
あれが面倒だった、コレは二度とやりたくない、などという記述を繰り返す緩い性格の割には、この日記だけはマメにこなしていたようで抜け落ちている日はほとんどない。
基本的には一日の流れと感想を書いた後に、一行の空白を空けてからセレスに対する行動の数々が詳細に記されている。
これだけを読むと割とマジで節操がないというか、内容はともかく頻度が半端ない。本館にいる頃は周囲の目を恐れるあまり、警戒に警戒を重ねたうえでセクハラをしていたようだが、それは直接彼女の身体に触れる場合のみだ。
階段の下からスカートの中を見上げたり、彼女が入浴しているところを覗いたり、付近にいるときに首元で匂いを嗅ぐなどはザラにあったらしい。
ここまでの性欲魔人であったなら、本来の予定通りに別荘へ訪れていたらガチでそういう成人向け漫画みたいになっていたことだろう。全く末恐ろしいガキ。そして面白い男だぜ。
「任せとけ。お前の夢は……俺が叶える」
握り拳を胸に掲げる。どんな因果か現在の状況に陥ってしまったわけだが、お前の無念を知らんフリなどできるわけがない。奪ってしまったお前の未来は俺が実現させる。夢は現実を超える。
「……ん?」
この数日間は自分のことで手一杯だったため、状況を整理して余裕が出た今こそ日記を再開させるべきか、と最後に書かれた日付を捲った。
そこには白紙のページだけが存在する──はずだったが。
「……なんだこれ」
雑に書き殴られたように、両開きの二ページに乱雑な文字が点在している。はて、こんなページなどあっただろうか。
「なくなった。ぜんぶ。えーと……あるけない。しょくじ、マズい。……しぬしか、ない」
それは文章ではなく、単語の羅列。これまでのように整頓されたものではなく、もはや落書きといって差し支えないものだ。
読み上げたもの以外は文字が汚すぎて読めず、辛うじて認識できたのはページの隅に書かれた小さなソレだけであった。
「かじ。…………火事?」
それを脳が認識した、次の瞬間──部屋にノックの音が響いた。
「っ!」
反射的に日記を閉じ、机の引き出しにしまってから振り返った。
「セレスです。夜分遅くに申し訳ありません」
「あ……あぁ、なんだ。どうした?」
「坊ちゃまにお伺いしたことがございまして」
「そんなことか。扉越しもなんだし、入ってくれ」
突然の来客に内心焦りつつも、平静を装った声音で室内へと招き入れた。
入ってきたセレスはいつも通りキチっとクラシカルなメイド服を着こなしており、相も変わらずクールな雰囲気だ。夜遅くに聞きたいことがあって部屋を訪ねてくるほど焦っているようには見えない。
「それで、質問って?」
立ち話するのも変かと考え、俺はベッドに座ってセレスを机の前の椅子へと誘導した。手で示した通りに座ってくれた彼女は、ほんの少しの沈黙を挟んだのち、真っすぐに俺と視線をぶつけ合う。
「……坊ちゃまは、モナカがお屋敷の仕事に従事していることを、どう思われますか」
「え……?」
全く予想していなかった角度からの質問に鼻白んでしまう。どんな疑問ですぐに答えてやりたい気持ちだったが、こんなに要領を得ない内容だとは予想していなかった。
「それって、どういう?」
「言葉通りの意味でございます」
何がなんだか解らん──が、どうやらセレスの態度が真剣そのものであるのは確かなようだ。この返答次第で何かが大きく変わってしまうような、そんな予感さえ感じさせるほどの緊張感が迸っている。
……と言っても、別に答えられない内容ではない。言い淀むようなものでもないから、俺の思いをそのまま吐き出せば彼女も納得してくれるだろう。
「助かってるよ。モナカには素直に感謝してる」
「っ!」
セレスがその目に確かな驚嘆を浮かばせた。あまり意外なことを口にしたつもりはないが、彼女にとってはそうではないのかもしれない。
「お菓子やデザートを作る腕は一級品だし、通常業務だってあの小さい体で精いっぱいに頑張ってくれている。……あ、小さいって俺が言うことじゃないか」
今は彼女よりも年下なのに、元の成人男性が顔を出しちゃった。もう少し発言には気をつけよう。
「しかし坊ちゃま。彼女は……獣人です」
剣呑な雰囲気を崩さないセレス。そんな彼女に対する明確な正解というものを、残念ながら今の俺は持ち合わせていない。
獣人、と強調されても──あぁ、いや。
そこは
ハルトマンの日記には、あまり獣人についての記述はなかった。だがその発言の端々から、なんとなく獣人と一枚壁を隔てていて、彼ら彼女らを嗤っている気がしたのは確かだ。
もしかするとハルトマンは実父と同じ考えを抱いていたのかもしれない。彼の専属メイドになり、それ以前からも副メイド長として屋敷に仕えていたセレスなら、その事実は当然把握していることだろう。
ただ、今ここにいるハルトととしては、そんなことは結構ガチでどうでもいいのが本音だ。獣人についての線引きにマジで興味がない。
俺は獣人というパーソナルデータをもつ人間をモナカしか知らないし、そのモナカは一生懸命な働き者で、誰かに嗤われていいような存在ではない。故に俺の返答も決まっている。
「だから、どうした?」
「っ……!」
なるべく優しい声音を心掛けた。なにもセレスと喧嘩がしたいわけではないのだ。なるべく仲良くしたいし、なるべく合意の上でセクハラして恥ずかしがらせたいと思っています。
「
「……そうですか。──ふふっ」
そこまで言ってようやく専属メイドは鉄仮面のごとく無表情だった口元を緩ませてくれた。よかった、正解ではないにしろ最善を尽くした答えを心掛けた甲斐はあったようだぜ。
「……坊ちゃま」
「んっ? ──うぇっ!?」
セレスが突然椅子から立ち上がったかと思えば、何の気なしに俺の隣へと腰を下ろした。
誰よりもメイドの立場を弁えて、あの厳格な父をして生真面目と言わせた彼女が、まさか無言でベッドに腰掛けて、剰え肩が触れ合う距離に来るとは。心臓が跳ねちゃった……。
「せっ……セレス……?」
「……あら。何もしなくて宜しいのですか」
ほええぇぇっあーっこれセクハラしてたの事実でしたねコレ。何やってんだよクソガキ近道を舗装しといてくれてサンキューあとは任せろ。
いこう。人の心を捨てよう。オッケーサインだろこれ。
「ふぅ……失礼いたしました、坊ちゃま。夜分遅くまで付き合っていただき、ありがとうございます」
「えっ、あ、うん。どういたしまして」
「それでは、今夜はこれで。お休みなさいませ」
「はい、おやすみなさいです」
最後まで余裕綽々を崩さなかった彼女は去っていき、結果としてその場にはただ男の情緒を擽られただけの哀れな存在が残るだけであった。……クソぁッ!!!!
◇
──体に触れる、とは想像以上に勇気が必要な行動であったらしい。もしくは無謀になれるほどの性欲に突き動かされて暴走するくらいか。
あれからもう一週間以上は経過しているが、未だにセレスのデカ乳を鷲掴みすることも、くびれたウエストにしがみ付いて腰ヘコするすることも叶っていないのが現状だ。すまないもう一人の俺。もう少しだけ時間をくれ。
その代わりと言っては何だが、配膳や自室の掃除を任せた影響で触れ合う機会が多くなったモナカとは、スキンシップの段階が順調に積み上がりつつある。
無論健全なものであるとは信じている。俺が触る、というより向こうが遠慮がちながらもボディタッチをねだってくるのだ。頭を撫でたり、頭を撫でたり、頭を撫でたりなど。
あとはたまに喉がゴロゴロと鳴って我慢できなくなった彼女が、しかしやはり遠慮がちに頬擦りしてくるくらいのものだろうか。あの、曲がりなりにも今は少年なんで、若干だろうと自分より大きい女子に引っ付かれたら内側が煮え滾ってしまうのですけれども……。むほほ。
そんなムラムラ大増量キャンペーン実施中な日々を過ごしていると、とある特殊イベントが発生した。何を隠そうお買い物イベントである。
父親の軽い挨拶回りに同行する帰りに、王都の商店で好きな買い物をしていいとお許しを頂いた形だ。このためにたくさん物が入るリュックまで持参してきた。欲しかったものとメイドへのお土産をパンパンに詰めます。
「ハルト。買い物は済んだか」
「はい、父様。わざわざお時間を割いてくださってありがとうございます」
「気にするな。さぁ、別荘へ戻ろう」
「あ、すみません父様。先にお手洗いだけいいでしょうか?」
「わかった、それなら商店街の外で待っているぞ」
外へ駐車している馬車へ戻っていく父の背中を見送りつつ、商店街の中にある公衆トイレへと足早に向かう。この世界は時代感こそ元の世界よりは若干後退しているものの、インフラに関してはそこそこ現代基準に近い。王都ともなれば水洗トイレも珍しいものではないので、現代日本人としては嬉しいところだ。
「ふう。……うおっ」
「わわ、ごめんなさい!」
軽く用を足してトイレから出たその瞬間、走ってきた金髪の子供とぶつかった。俺が十歳で、彼女はそこから三つ四つほど引いた女子児童か。それに頭部の耳からして、モナカと同じネコ科の獣人だ。
「す、すみませんでした~!」
「ああ、大丈夫だよ」
謝りながら去っていく女子児童──その背に声をかけた。
「あー、きみ。ちょっと待った」
「っ!」
その言葉にビクリと肩を跳ねさせ、脚を止めたまま固まる金髪獣人少女。……この程度の声掛けで走り去らずに止まってしまうあたり、この少女は性根からスリに向いていないと感じた。しかも取ったのは分かりやすく大きい偽のサイフだ。
「その財布をそのまま返してくれるなら、誰も呼ばないし……お小遣いをあげる」
「っ!? うぇう、えぇっ……」
あぁーいけません純真すぎます。幼いからしょうがないとはいえ、このままだと悪い大人に騙されても自衛できない可能性がある。
これも何かの縁だ。今の自分のそばに父親がいなかった偶然に感謝しつつ、ほんの少しでも世界を良くするために、金持ちの家の子供になった宿命を存分に使わせていただこう。
「はい、返してくれる?」
「うっ、ううぅっ、ううう~っ」
顔を引きつらせながら渋々サイフを返還する少女。それを受け取ってから改めて本当のサイフを取り出し、多少贅沢に使っても二週間は食える金額を、敢えて価値の低い硬貨でまとめ、偽のサイフに詰めてから彼女に渡した。
これは無くしたり奪われたりしても、数があれば多少は手元に残せるかもしれないという希望的観測から出た行動だ。なにより一般知識の乏しいこういった子供が価値の高い紙幣を店で使うと、お釣りを誤魔化される可能性もある。安い店でピッタリ払う。それが今の彼女の最善だ。
「えっ! えぇっ!? こ、こんなにィ!?」
「シーッ、声が大きい。……たくさんあるように感じるだろうけど、これはあぶく銭だ。切り詰めても王都じゃひと月と保たない」
「で、で、でも、こんな金額は初めて……あ、あぅ」
「どうどう。冷静にね」
獣人少女の頭を撫でて一旦落ち着かせる。彼女にはこれから落ち着いて話を聞いてもらわなければならない。
俺は胸元からメモを取り出し、サラサラと文字と簡易的な地図書いてから千切って彼女に手渡した。
「こ、これは……?」
「……きみ、家族はいるかい?」
「へっ? う、うん。一個下の妹……あと、一緒に暮らしてる友達も……」
「妹に、友達。……そっか。なら余計ここへ向かわないとね。少なくとも今の王都でひっそり暮らすのは難しいから。いいかい、ここは──」
少女の手に握られたメモを指でなぞり、内容を口頭で説明していく。これは父を経由して知った獣人擁護派の代表的な施設とそれを要する街への地図だ。
危険の少ない街道を選びつつ、価格は通常の馬車よりも高いが誰が相手でも料金をぼったくることはない紹介所も記してある。……あと勝手に父の名前も付け足しておいた。表面上は擁護派のデッケぇ貴族だし、名前を出すだけでも何かとスムーズだろう。獣人についてこの一週間でそこそこ勉強しつつ、今日の父の仕事にも引っ付いてきて正解だった。
多くの一般市民が獣人を嫌う理由は様々で、こういったスリをしなければならないような状況に追い込まれた子供による被害もそこそこだが、なにより原初の理由は『頭の上にも耳があるから』という、この世界特有の独特な価値観から来るものすぎて理解し難かった。そこには歴史的背景や一般教育の内容にも関係があるらしいが今はいい。
「俺にできるのはここまで。あとは自分で頑張って。キミの妹を理不尽の炎から守れるのは、キミだけだ」
「う、うんっ。ほんと、ほんとありがとうお兄さん! あ、いや、ありがとうござます!」
「どういたしまして。……しっかりね、お姉ちゃん」
「うん! じゃなくてはい!」
というわけで、足早に説明を終えてから踵を返した。そろそろ戻らないと父親の雷が怖い。
「あ、あのっ、お兄さん!」
そんな焦る背中へ、最後に少女が声をかけてきた。
「あ、あたし、ノア! お兄さんのお名前は……?」
その問いに、顔だけ振り返って力強く応える。
「俺は──僕の名は、ハルトマン・フォン・ゼーレンベルクだ。宣伝よろしくね」
◇
「うぅむ、何やら雲色が怪しいな」
「ええ。雷の音も聞こえますし……」
ちょいとトラブルに見舞われた王都からの帰路の道中。
俺たち親子は窓から見える暗雲や、鼓膜に響く落雷の音を会話の話題にしていた。雨はまだ降っていないようだが、とにかく空から響く太鼓の音が凄まじい。
この世界には魔法と同じファンタジー現象を引き起こせるモンスターも存在するらしいので、雷が一概に自然発生のものであるかどうかもすぐには判断できない。晴れの日に突然雷雨を轟かせる激ヤバドラゴンとかもいるそうだし、この世界の天気予報士も涙目だろう。
「ん……?」
ようやっと窓の外に我が家こと屋敷が見えた。時刻は十六時前で、青空が段々と暮れ始めてオレンジ色に染まるその中に、異様な“黒”を目視した。
「……黒煙?」
青を支配したオレンジを、暗雲が包み込んでいる。だが、その中でも増して存在感を放つ墨のような煙が──屋敷から立ち昇っている。
「っ! 父様っ、あれを!」
「どうした? ──!? 停めてくれ!」
急いで馬車を飛び降り、丘を駆けあがって屋敷の現前まで迫ると、そこには圧倒的な赤色が支配する光景が広がっていた。
凄まじい唸りを吠え立てて、熱風を爆飛させながら我が家を燃やし尽くしている。
「……嘘だろ」
舞い上がるように絶望の灰が空へと昇り、焦げ臭いという形容すら生易しいほどの異臭が鼻腔を刺激する。まるで屋敷そのものを暖炉にくべてしまったかのように、眼に映る全てが焔の餌食となっていた。
「っ! 父様、あちらに屋敷の皆が」
「あ、あぁ。……く、まさか、火災に見舞われることになるとは……!」
歯噛みする父と並んで走った先には、建物の中から脱出してきたであろう煤まみれの使用人たちが転がっていた。動ける者は怪我人の応急処置に回っており、全体を見渡した限りでは二十数名ほどで、常駐している屋敷の従業員の総数とほぼ一致している。
無論セレスもその場で手当てに従事しており、誰よりも機敏に周囲の人間へ指示を飛ばし、自らも動き回っている。
「おい、セレス! 無事か!」
「っ! だ、旦那様……」
いの一番に彼女のそばへ父が駆け寄ると、彼が聞かずとも副メイド長が自ら現況の報告を始めた。
「雷による……突発的な発火です。通常の雷であれば魔法陣が弾くので、おそらくサンダードラゴンが屋敷付近を低高度で通過したものかと。落雷の衝撃で屋敷の魔法にエラーが生じ、消火用の放水が起動していません……」
「う、うむ。……いや、まずは何より安否の確認だ。屋敷の人間たちは無事か?」
「ただいま確認中で……少なくとも私が声をかけた者は全員屋敷の外へ出ているはずです……」
「そうか、名簿はあるか?」
「先ほど簡易的に作成したものがこちらに。怪我人の処置に回っていたため、確認はまだできておりません……」
父も俺と同じように周辺状況を目視しながら、セレスがメモ帳に走り書きした確認用の名簿と周囲の人物たちの顔を照らし合わせていく。
流石に当主だけあってすべての使用人の顔と名前は容易く一致できるようで、素早く名簿にチェックを入れていき──その手が止まった。
「なるほど、二十五人中、二十四人。いないのは……獣人のアレだけか」
父親のその言葉を聞いた瞬間、反射的に首が屋敷の方向へ動いた。
本館の屋敷と違ってこの別荘においては、住み込みで働いている獣人のメイドはモナカ以外には一人もいない。
つまりこの屋敷における獣人とは、イコールでモナカのことなのだ。マズい、こんなところで突っ立っている場合ではない。いますぐ出場しなければ。
「ふう……
「──っ」
ああ、なるほど。父は──いや、今は
もう倒壊したガレキで砕け散った両脚を嘆いていた、あの病院のベッドの上ではない。
いま、俺には動かせる身体があるのだから。
咄嗟に使用人たちが集まる中心に移動し、大きく声を張り上げた。
「誰か! 屋敷を出る前にモナカを見た者はいるか! モナカを見た人はいますか!」
何度も同じ内容を繰り返す。するとセレスに処置されていた一人の若いメイドが、地面に仰臥したまま弱々しくも確かに手を挙げた。
「アンナ、大丈夫か? 俺がわかる?」
「ぅ……けほっ。は、はい……」
「呼吸もできるね。よく頑張ってここまで逃げた」
「ぼ、坊ちゃん。それより、モナカちゃんが……」
「ゆっくりでいいから。落ち着いて。ゆっくりでいい」
逸る気持ちを抑えながら顔を近づかせ、彼女の小さい声に耳をなるべく傾けた。
「に、二階の骨董品室で……一緒に、清掃をしていて……」
「うん。二階の骨董品室ね」
「途中で、熱くて、天井が落ちてきて……あの子と分かれてしまったから、ひとりで反対側から逃げてって、モナカちゃんに……ゲホッ」
「了解。ありがとうアンナ、もう喋らなくていいから、落ち着いて休んで」
こんな時ですら正確に状況を思い出してくれた頼もしいメイドに感謝しつつ、王都で買った品物を詰めたバッグを漁って、一枚のポンチョを羽織った。
こいつは商店で偶然見つけた防炎ポンチョだ。市販品だし本格的な耐火マントとしてはそこまで期待できないが、ないよりは絶対にマシだろう。
「セレス。疲れているだろうが、すまない。引き続きここの指揮を頼む。ここから一番近い王都の消防には通報しておいたから、なるべくアンナたちを屋敷から遠くへ」
「そ、それは勿論でございますが……坊ちゃまは何を?」
「モナカを救助する。──屋敷が倒壊する可能性があります! 動ける人は怪我人を連れて、なるべく遠くへ離れて!」
全体に号令を駆けつつ、ポンチョを縛って固定してから改めて魔法を発動する。この一週間と数日間で勉強を重ねた魔法膜と、魔素でコーティングし温度調整も済ませた水膜を衣服型に固定して、着装。ポンチョは最後のお守りだ。
「ま、待てハルト! 待つんだ!」
覚悟を決めて突入、とはいかず父親が正面に立ちはだかった。あの不断な厳格な態度からは想像できないほど、焦燥と困惑に支配された表情を浮かばせている。
「父様、延焼が危険ですので離れてください」
「ばっ、馬鹿者! 危険なのはお前だ! 獣人のために命を捨てる気か!?」
「当然命を捨てるつもりはありません。ですが往かなければ」
「ふざけるな、死にに行くようなものだろう!」
尚も立ち塞がる父親は、背後の熱に怯みつつも退こうとはしない。どうやら本気で俺のことを制止するつもりのようだ。
「あの獣人を可愛がっていたのは分かった、だが、わざわざアレのために命を張ることはない! 獣人ならばまた寄こすとも! なによりもお前の命のほうが重要だッ!!」
その昂然と張り上げられた怒号も、怯まない眼光も全てが本物だ。彼は父として、本気での息子のハルトマンのことを想って止めている。それは紛れもない真実なのだろう。
だが、今はその家族の情すらも捻じ伏せなければならない。家族と言うのであれば、この屋敷で暮らす俺にとってはあの少女だって家族の一員なのだから。
「中に助けを求める人間がいます。通してください」
「ダメだっ、お前が──」
「こんなことをしている場合じゃないんだ!」
父の思いを無下にするなど親不孝も甚だしい。それに元の世界じゃ親孝行するよりも先に二人を喪って何も返せなかった、本物の親不孝者だ。
だからこそ二度と家族を連れていかせるわけにはいかない。あの眼前に広がる、全てを灰燼に帰す爆炎へと立ち向かうために、かつての俺はこの手で人を救える仕事に就いたのだから。
「──要救助者がいるんだ! 目の前にっ! なのに自分の命を優先させたら、そんなのはレスキューじゃないんだよッ!!」
「……れ、レスキュー?」
「はい通りますよー離れて離れて。ごめんねー道を開けて! すぐ逃げなさいね。煙を吸わない所にいてね」
もう一旦ハルトマンを辞めた俺は父の制止を振り切って燃え盛る洋館の中へと突入。
なんとか炎の勢いが弱い北側階段からアタックをかけ、無事に二階へと到着した。骨董品室はすぐ目の前だが、アンナの説明からしてこの部屋にいる可能性は低い。最低限のチェックだけ済ませ、アンナが逃げた方向の反対側へと、道中の火の壁を突破して転がり込んだ。
「っ! モナカ!」
すると意外にもあっさりと彼女の姿を発見した。廊下の隅でうずくまり咳嗽を繰り返している。
「モナカ、分かるか。俺が分かるか?」
「けほっ、ゴホッゴホッ……う、ぇっ、ハルっ、さ……」
「よく頑張った。もう大丈夫だからな。これで口元を押さえて、なるべく屈んで」
水膜で濡らしたハンカチをモナカの口元にあてさせ、彼女の肩を摑んで姿勢を低くしながら廊下の端を目指す。そこの窓から脱出する予定だ。
無論、高所からの降下に必要な三連はないしチームでもない。自分よりも少々体格の大きい人物を連れながら、子供の腕力とスタミナで脱出するなど、元の世界での救助活動であれば不可能な芸当だ。
だが、この世界には魔法という奇跡の産物がある。
「しっかり摑まってて!」
既に解放されていた窓から二人同時に飛び降り、咄嗟に魔法を発動。この屋敷に訪れてから特に注力して特訓していたのは、水魔法と風魔法。そのうち後者を発動し、二人の落下速度をなるべく風で緩和させながら茂みに落下。
煤汚れや軽度の擦り傷以外の負傷が無いことを確認した後、彼女を背負ったまま広場までたどり着いた。
──が、何もかも順風満帆とはいかないらしく、モナカを下ろした直後に俺は膝を突いてしまう。どうやらモナカを発見してから窓へ急行する間に煙を吸い過ぎたようだ。
「ゲほっ、ゴホッ! っぇ゛ほっ!」
「坊ちゃま!」
館から少し離れた位置で待機していたセレスが駆け寄ってきたものの、俺は蹲りながら正面を指差し、自分よりもモナカの処置を優先するよう示した。
一瞬迷う素振りを見せた彼女だったが、すぐさま指示通りに部下の容体を確認し始めてくれた。ウチの専属メイドはいかなる時でも冷静で頼りになる。
「っ! 呼吸が……モナカ!」
そんなセレスの表情が一転して険しくなった。仰向けのモナカが上司の呼びかけに反応せず意識を失っている。俺と合流するあの瞬間まで炎の中にいたわけなので、容体が変化する要素を無限に孕んだ状態だったのだ。こうなってしまってもおかしくはなかったが、最悪のパターンを引いてしまったらしい。
「はぁっ、う゛っぁ……せ、セレス。脈は……!」
「ふ、触れてますが微弱です。……くっ!」
もはや一分一秒を争う状況に陥り、麗しい銀髪を乱雑に揺らしながら彼女がそのまま胸骨圧迫を開始した。
この世界の救急が到着するまであとどれ程の時間を要するのか不明で、しかも見渡せる限りではまだ現着していない。
「ハァッ、ふぅっ、お願いモナカ……戻ってきて……っ」
それに加えて応急処置に着手しているセレスの疲労が著しい。彼女自身も被災者なのに、俺と父が現場へ駆けつけるまでの十数分間、重たい身体を引きずりながら他の使用人たちの救護に回っていたのだ。極度の疲弊と集中力の低下で表情も芳しくなく、また圧迫する手の位置も若干ズレてしまっている。
我が専属メイドはここまで可能な限り迅速かつ的確に対応してくれていた。ここから先は俺の仕事だろう。
「ふうぅー……」
もう一度だけ呼吸を整え、全ての魔法を解除する。俺の未熟な魔法を貫通した焔によって些かの軽度な火傷こそあるが大事には至っていない。
今は何よりも目の前の命が重要だ。
「ありがとう、あとは任せてください。心マ、代わります」
「えっ。ぁ……坊ちゃま……?」
体力の限界を迎えてしまっていたセレスから引き継ぎ、胸骨圧迫を開始する。手の固定位置を改め、一定のリズムでそれを繰り返していけば──
「っぅ……」
「反応あり。モナカ、わかりますか。分かりますかー?」
モナカの目元に動きを確認し、まもなく意識の復活も見て取れた。どうにか心拍が再開してくれたようだ。
ゆっくりと瞼を開いた彼女が弱々しい眼差しをこちらに向け、何度も瞬きを繰り返す。
「……はると、さま……」
「ああ、俺だよ。……ははっ、よかった」
一気に肩の荷が下りた気分だ。その反動か、全身から力が抜けそうになってしまい、すんでのところでソレを堪えた。まだ何も終わってはいない。
「蘇生したばかりだ、もう喋らなくていい。大丈夫だからな」
「……は、い」
「っ! 坊ちゃま、あちらを」
セレスの示した先へ目を向けると、そこには現代日本のモノとはまた違った耐火服に身を包んだ集団が、これまた見慣れない資材を大量に抱えてこちらへ急行する姿が確認できた。俺の知識と明確に違うのはヘルメットの有無だ。魔法があれば頭部も何とかなるのかもしれない。
ともあれ、すぐに手を挙げて大声を張り上げた。
「すいませーんッ! こっちに担架お願いします!」
……とは言ってみたものの、俺自身がただの一般市民で、彼らの組織とは一ミリも関係がない立場であると思い出したので、言葉を改めてからもう一度叫ぶことにした。もっとこう……シンプルに。
「助けてくださーいッ!」
◇
あの別荘の火災から数日が経過し、よく晴れた昼の頃。
俺は半分ほど焼け焦げた本を片手に、実家こと本館の庭にある大樹の木陰で呆けていた。
「……結局、何だったんだろうな。あのページ……」
鎮火した別荘の中から拾い上げることができたハルトマンの日記帳は、ページの半分ほどが燃えてしまっており、確認できる箇所はこれまでのセクハラ記録の一部分のみとなってしまった。
すべてを失っただの、火事だのと書かれていた謎のページから先は灰と化し、なにか重要な手がかりを俺は失ってしまったらしい。こればかりは考えても解らない謎だし、もう一旦放っておこう。
現在、別荘が消え去ってしまった俺は本館へと帰還し、被災直後という事もあって一週間の休暇を頂いている。
この世界に来てから本当に『なにもしない』をするのは今日が初めてだ。毎日が忙しすぎたせいか、なんとなく落ち着かない。
勉強もせず、訓練もせず、ただ青空を眺めながら時間を潰していると、遠くに人影が見えた。
「こちらにいらっしゃったのですね、坊ちゃま」
「ん、おぉ、セレス……」
相も変わらず優雅な佇まいで、凛とした彼女には数日前の焦燥など微塵も残されていない。クールで綺麗な爆乳長身メイドさんだ。
……そう、彼女は変わらずスケベすぎる体つきなのに、この本館に戻ってからは他の人間の目が多くなり、これまで以上にセクハラするのが難しくなってしまったのだ。こんなんじゃ少年の夢を継ぐことなんて出来ないよ……っ!
「モナカの容体はどうだ?」
「もうすっかり回復しております。獣人は体が頑丈なのが取り柄ですから、と張り切りながら厨房でお菓子を作っていますよ」
「そっか……よかった。今日のおやつも楽しみだな」
ホッと胸を撫で下ろした。この世界に来てから初めてこの手で人を救ったわけだが、想像以上に勘が鈍っていて、自身の至らなさを痛感していたのだ。
モナカが無事だったのは何よりだが、子供の身体というのが相当ハンデを背負っており、一歩間違えれば二人ともおっ死んでいた。父様の制止は徹頭徹尾正しかったと言える。
……まぁ、それはともかくとして。
使命と性欲は別個のパラメータだ。セレスがこんな近くにいるとムラムラがヤバい。いつの間にか隣で正座してお茶を準備してくれてるけど、お茶とは別に彼女の髪からすっげぇ良い匂いがする。ひぎぃ。
あの火事の後、危険な行動について神妙な顔の父に説教された際、ごめんなさいと謝りつつも、それでもあの行動に後悔はないと開き直った時、心の中で燻っていたレスキュー魂に再び火が灯る感覚を思い出したのだ。
ヒトの命は、地球の未来。この手で尊い命を護る使命に滾ったのは間違いない。俺という人間はまだ燃え尽きてはいなかった。
だが、それと性欲は別問題なのだ。セレスにえっちなことしてェ~とか考えながら、もう少しで手を出せそうな隙を見つけられるところだったのに、監視の目が厳しい場所へ舞い戻って再び振出しに戻った。もうマジで泣きそうなわけである。
「──そういえば、坊ちゃま。あの別荘へ赴く前、私に『あっちに着いたら覚悟しとけ。スゴいことしてやるからな』と仰っていましたが……結局何をされようとしていたのですか?」
お茶の乗ったお盆を一旦端に置きつつ、改めて肩がくっつくレベルの距離まで詰めたセレスがそんな爆弾発言を投下してきやがった。もしお茶を口に含んでいたら盛大に吹き出していたことだろう。
いやなにそれ。俺が憑依する前のハルトマンってそんなこと言ってたの。日記の中の妄想じゃなくてマジで宣言したの君。凄い男だ。
てか近くない? こんな至近距離でそんなこと言うって、こっちが手が出せない状況なのわかっててからかっているってことだよね。こ、このメイド……っ!
「いや、それはその……後のお楽しみだ。また本館を離れる次の機会にな。うん」
「……ふふっ」
笑っとるわ。無敵すぎ。もうこのお姉さんには勝てないのかもしれない。
「……坊ちゃま、私は坊ちゃまの専属メイドです。いまの年齢で自立されるのは大変ご立派ですが、身の回りのお世話も私の仕事でございますので……もっと使って下さってよろしいのですよ」
微かにイタズラっぽい笑みを浮かべながら、コソッと耳元で囁くえっちお姉さん。まじで背筋がゾクッとしちゃった。
彼女の言い分が百パーセント正しいのは承知しているものの、こっちの中身が一般人すぎる都合上、どこからどこまでを任せていいのかが分からないのだ。無意識に自分のことはほとんど自分でやってしまっているし、貴族ってマジでムズい。
「なんでもお申し付けください」
「……なんでも、って言ったな」
「はい。私にできる事であれば、いかようにも」
なるほど理解した。塩梅はこれから理解していくしかないが、ともかくメイドは指示してなんぼの存在であるらしい。専属であればなおさらだ、と。
だったら申してやろう。アレコレやってもらおうではないか。
大勢の目もあるが、そもそもここは俺の家だ。今は十歳だし多少は緩い姿を見せてしまっても構わないだろう。てかシンプルに気を張る行為に疲れた。
「じゃあセレス」
「はい、坊ちゃま」
「えぇと……ちょっとここで昼寝したいから、膝枕をしてくれ」
「承知いたしました」
あっ、そんなあっさり? 待って待って、早い。
「どうぞ、こちらへ」
「お、おぉ……失礼、します」
いともたやすく態勢を整えて、迎える準備をしてくれた銀髪メイドに面食らいつつ、ここで引いたらワケわからんので、恐る恐る彼女の太ももに後頭部を預けて仰向けに寝転がった。
え、マジ。
こんな突拍子のない指示に惑うことなく、ノータイムで応えてくれるのかよ、この人。
コレなら普通にエロい要求しても頷いてくれんじゃね? 胸が熱くなってきたわね。
「その……十五分くらいしたら起こしてくれ」
「ええ、そのように」
「……ありがとうな、セレス」
この調子なら、ここから段階を踏んでいけばスケベな命令もできそうだな……とか。そう悶々と考え続けるのも二分くらいで限界を迎え、次第に眠気が遊びにきた。
青空の暖かな日差しと、秋分の季節のような少しだけ肌寒い気候が心地よくて、だんだんと意識が緩んできた。うわ、眠い。
──思惟しなければならないことは、山のようにある。
いろいろ心配だし、すべての答えが知りたいけれど。
いまこの瞬間だけは目の前の安寧に微睡んでいたくなった。
そうだな。
もうちょっとだけ、休憩してしまおう。
「……おやすみなさいませ、ご主人さま」
◆
一年前に奥方様に先立たれてから、旦那様は変わられた。
特に嫡子のハルトマン様に対しては、これまでよりも近く、これまでよりも穏やかに接する様になられた。元来の厳しさこそ残ってはいるものの、まるで割れ物でも扱うかのように。
お母様を亡くされたハルトマン様は──それよりも変化が著しかった。
最初こそ塞ぎ込んでいたものの、気力を取り戻してからは……なんというか、自由になられた。
いつも険しい表情で勉強や特訓に追われ、常に心の余裕がなく使用人にも厳しく当たる彼ではなくなったのだ。
それはおそらく旦那様が彼に対して優しくなられ、また鬼気迫るようなスケジュールを見直し、なによりも多くの“自由”を許したことが大きかったのだろう。
表面上こそ真面目な顔をしているものの、勉強をサボるようになったり、頻繁に先生方の変更を要求したり、お忍びで王都へ遊びに繰り出すことも珍しくなくなっていった。
そのうち街で何かを学んできたのか、これまでの幼さを感じる言動が次第に失せていき、危うい
そして抑制の意味も込めて、私を彼の専属にあてがった。
するとハルトマン様はまた少し変わられて。
危険な遊びに傾倒することこそなくなったが、代わりに私の付近におられる時間が長くなった。
専属メイドなのでお傍で仕えるのが当然とはいえ、まさか旦那様の若い時代から既にほとんど無くなっていたらしい『湯浴みの手伝い』という奉仕を、今になって実践することになるとは思ってもみなかった。
しかしそれだけでは終わらず、わざわざ深夜にこっそり起床なさって、私自身の入浴を覗き見たり。
階段下からスカートの中を窺うなど可愛い方で、エスカレートした頃には私自身でスカートをたくし上げるようご命令されたこともある。
極めつけは、私を連れて人の気配がない場所まで移動したかと思えば、後ろから腰元に全力で抱きついて、鼻息を荒くしながらよく解らないことを叫び、服の匂いを思いきり嗅いでいらっしゃった。
そこで、私は少し考えた。
なぜこのような事態になっているのかを。
それは恐らく彼が早くにお母様を失い、母親からの愛に──母性に飢えているから、ではないのか。
そこには覚えたての性欲も多少は混ざっているように感じられたが、とはいえ彼はまだ齢十歳の子供だ。いろいろと混同してしまうのも無理はないだろう。
なので、可能な限りすべてを受け入れた。
この国の顔役の一人でもある魔導の権威の嫡男という、非常に重い宿命のもとに生まれたとはいえ、かつてのハードな勉強と特訓漬けの日々を過ごすハルトマン様は、端的に言って可哀想だったから。
もうあの日々に逆戻りさせてはいけない。あの頃の彼に戻してはいけない。また、危険な行為に手を染めさせてもいけない。
奥方様の代わり、などという驕った考えではないが、少なくともハルトマン様の発散を受け入れられる相手は、現状は私しかいないのだ。
本館で勤めていた獣人の使用人に、危険極まりない魔法を試し撃ちするなど、あのような行為を二度とさせない為にも──私が。
『
私自身の肉体に大きな爪痕を残しそうなことだとしても、まったく構わない。むしろ安すぎると思ったほどだ。
獣人の使用人へ矛先を向けることなく、たった一人のメイドを思いの捌け口にするだけで、母性に飢えず正しく成長できるのであれば、それに勝ることなど何もないだろう。
坊ちゃまのことは、私が──
『モナカ、僕らと一緒に食べないか? ちょうど休憩だったんだ』
……っ?
『
…………???
『ありがとう、あとは任せてください。心マ、代わります』
……なんだろう。
『なんでもって言ったな。──膝枕してくれ』
どこか、思っていたのと違うような。
『……ありがとうな、セレス』
というか、もっとスゴいこととは、いったい?
◆
「──っずぁ! 寝すぎたか!?」
「いえ坊ちゃま、まだ一時間ほどです」
「そ、そっか。……待って待って、十五分って言わなかったっけ僕」
膝から飛び上がった少年には、やはり仄暗い欲望のソレを感じない。むしろカラッとしているというか。
「申し訳ありません。穏やかな寝顔だったもので、つい」
「そんなガチ寝してたの? はず……」
すっくと立ちあがった彼は、謎のボロボロの本を一冊片手に、軽く足元を払った。
「まぁ……気持ちよかったからいいか。セレス、膝を貸してくれてありがとう。屋敷に戻ろうか」
「承知いたしました」
結局飲んでいただく前に冷ましてしまったお茶を盆にのせ、彼に追従する。コレはあとで自分で飲むとして、新しいものを淹れよう。
──眼前には、少年の背がある。まだ幼い、小さき背中が。
だというのに、どうしてか私の目には彼のソレがとても大きなものに映った。あの火災の日もそうだったのだ。
無垢に遷ろうだけの少年がいつの間にか、確固たる意志を持った男になっていた。彼が言っていた
「……坊ちゃま」
「うん?」
「愚問で申し訳ありません。しかしどうしてもお聞きしたく。……どうしてあの火事の日、あそこまで無茶なことをされたのですか?」
彼がモナカを、ひいては屋敷に勤める使用人たちを大切に思っているのは理解できる。しかし、それでも普通は安全な場所へ避難し、助けを待つのが道理なはずだ。なのに、一体どうして。
「あー……それが当たり前になっちゃってたから、かもな」
バツの悪そうな苦笑いで、小さく頬をかく坊ちゃま。今一度こちらへ振り返り、まっすぐと私の目を捉えた。
「S
その漲る熱意に満ちた覚悟とは裏腹に、やはり彼は申し訳なさそうに目を伏せる。
「あそこにいたのがモナカじゃなくて、赤の他人だったとしても同じことをしていたよ。……それって雇い主の行動じゃないよな。だからマジでゴメン。次からは本職に任せてなるべく大人しくします……」
「……そうですね。専属メイドの立場から言わせていただくと、心底肝が冷えました」
「ごめーんごめんマジごめん! 資格も免許も何も持ってない一般人のガキがあんなことしちゃいけないよな……本当に反省しなきゃ……」
何度も懊悩しながら屋敷へ戻っていくその後ろ姿を眺めながら、私は一瞬だけ足を止めた。
意識を切り替えて成長した彼は、勇気があり尚且つ無謀だ。彼を止めようとした旦那様の判断は何も間違ってはいなかった。この国の常識に当てはめてみれば、その救護対象が獣人であれば尚のこと。
──けれど。
それでも私は、あの少年に仕えることができる事実こそが、何よりも誇らしい。
どう見てもいろいろと我慢していることは明白なので、専属メイドとしてそれをケアできるよう努めなければ、と意識を改めつつ、私は再び彼を追いかけるのであった。
「……どこまでもついて往きます。ご主人さま」