降って湧いたヴァーミリオン仮面との決闘。
国王が最後に見せた抵抗は、呆れ返った皇族たちの大方の予測を遥かに上回る凄まじいジョーカーであった。
——目の前に立つ仮面の侍。正体はバレバレであったが、この場では敢えてヴァーミリオン仮面と呼称しておく。
魔力量に関しては下手をすると一輝をも下回るこの男。しかしその身体能力はまさしく超人と言う他なく、生半可な
然して、彼の真髄はそこには無く。
もはや理解不能……否、認識不能の領域にある剣技こそが、彼の最大最強にして、唯一の武器であった。
神技などという言葉は、彼を知っていたなら軽々しく口に出来るものではない。ヴァーミリオン仮面こそが、神話の領域にある無二の剣士と言えよう。
(そしてそんな男が、唐突に僕の前に立ちはだかったわけだけど……)
既に斬り合いは始まっている。実力差はあれど、どちらもが人智を逸した達人級の剣士だ。斬撃の軌跡、飛び散る火花……
しかし、果たして何処まで理解できているものか……。
「先生ぇー!! さっさとそのクソガキぶっ飛ばしてくだせぇ!!」
「確かに速いけど、なんてゆーか、めったくそに斬り合ってるだけってかんじぃ? つか王様興奮しすぎ、血管切れるよ?」
「実際すげーし、オレらにはよく見えねえくらいだけどな」
シリウスは長年の経験からある程度察することも出来ているだろうが、銃士であるミリアリアには理解が及ばず、経験の足りないティルミットにはシリウス以下の判断しか出来なかった。
「……で、実際どうなんだ、ステラ?」
「相当厳しいわよ……まったく何考えてるのかしら……」
正しく戦況を認識しているのは恐らくステラと。
「いやはや。ホホ、これほどの剣技には初めてお目にかかりますな。少々失礼な物言いかもしれませんが、一輝君が何故なます斬りにならずに済んでいるのか……。どちらにせよ、私には理解の及ばぬ領域です」
ヴァーミリオン皇国剣技指南役たる老剣士ダンダリオンだけだろう。
そして、厳しいと濁したステラより、ダンダリオンの物言いが状況をより酷薄に、より正確に物語っていた。
(でも、希望はある)
ヴァーミリオン仮面は、一輝にこう告げた。——一太刀でも入れることが出来たならば、お前の勝ちで良い、と。
シリウスは非常に不服そうな表情を浮かべていたが、最終的には渋々ながらもヴァーミリオン仮面の言葉を是とした。
一輝自身、一太刀などとふざけるな……という気持ちはある。おそらくは、一輝と同じく本気で最強を目指す者であれば、誰であれ持ってしまうはずだ。
しかし同時に、一輝はヴァーミリオン仮面との実力差を知っている。それがどれほど大きな隔たりかは分からないが、現在の自分では一太刀でもギリギリであるというのは理解できた。
“力”を旨とする戦士、あるいは素人には分かりにくい話だが、業師同士の戦闘とは、僅かな差が戦局に大きく影響するものだ。あと一歩及ばない、あと数ミリ届かない……そんな小さな力量差がどうしようもないほど覆し難いのだ。
それでも創意工夫による逆転の目が無いわけではないが、今回のように師と弟子に値するほどの力量差があれば、結果は言うまでも無い。
などと、本来なら悠長に考えている余裕も無いだろう。
ヴァーミリオン仮面の持つ長刀の切っ先が一輝の喉元に突きつけられる。あわやと言ったところでそれを跳ね上げて事なきを得るが、これが殺し合いなら既に勝負はついていた。
これは余興であり、ゲームであり、単なるお遊びに過ぎない。少なくとも、真剣勝負というわけではない。
だからきっと、今のはちょっとした注意でしかないのだ。余所見をしてないで集中しろ……と、師が弟子にするような、当たり前の諫言。勝負の最中ということを考えたなら、“舐めている”と言い換えてもいい。
(でもこれは、正しい評価だ)
過少でも過大でもない、実力相応の対応だ。これが生死のやり取り……死合であったなら、侮辱にも等しい憤慨ものの行為であっただろうが、この場には相応しい行動だろう。
もっとも目の前の侍なら、敢えてこちらが力を出し切るまで仕留めずにいる可能性は高いのだが、それはまた別の話。
(これが殺し合いでないなら、ゲームだというのなら……)
——勝機はそこにある。
まずどうにかするべきは、間合い。つい先ほど、一輝は喉に切っ先を突きつけられた……それは、物干し竿の槍が如き広大な制空権を一切侵すことが出来ていないという事実を表す。
踏み込みも加味すれば、ヴァーミリオン仮面の間合いはこの数倍に及ぶ広大さを誇るだろう。この間合いの内に居座るなら、次の瞬間には何処から斬り付けられていてもおかしくはない。それをさせないだけでも一輝の実力は並外れていると言える。
しかし、このままでは防戦一方。すなわち、敗北は必至。
故に、一歩……否、半歩前へ。途端に、幻想形態の霊装が織り成す血光が周囲に舞い散った。
だが、これは予定通り。この半歩は致命傷を避けられるギリギリの距離。斬撃を如何に躱そうとも皮膚を掠め、如何に防ごうとも肉を抉られる。痛みは然程でもないが、幻想形態でも無ければ、遠からず出血により死に至る間合いだ。
王馬がこの勝負を見ていたなら、また苦言の一つも言われそうだ。
しかし、これ以外に勝ち筋が無い。これが、今の自分の精一杯。
この戦いにおける敗北条件は特に指定されていない。どちらにせよ突破出来なければ斬り伏せられ、勝利条件を達成することが出来なくなるからだ。
いくら傷をつけられようとも、ヴァーミリオン仮面の身体に一太刀でも入れられたなら、その時点で勝利なのだ。何処を斬らなければならないとも、どの程度のダメージを与えなければならないとも言われてはいない。
ただ一太刀……それだけだ。
(チャンスは限られる……)
エーデルワイスのようにこの位置に留まり続け、尚且つ膠着状態に持ち込めるほどの技量を、一輝はまだ持ち合わせてはいないのだ。《一刀修羅》、あるいは《一刀羅刹》を用いたなら話は別だが、無策で使うにはあまりにリスクが勝ちすぎる。
如何に幻想形態といえども、このまま傷つけられ続ければいずれは倒されてしまう。
しかしそれでも、今は耐え忍ぶより他に無い。
(思考……推測……予測……いや、それだけじゃダメだ……!)
座して待つ……わけではない。勝機は、ただ待っているだけで掴めるものではないのだから。
(突破口……何処かにあるはずだ。無いなら作れ……その道筋を。可能性を……!)
「——それでいい。が、まだ足りぬな」
突き放すかのような斬り払いとともに、ヴァーミリオン仮面は口を開いた。
「観るだけでは足りぬ。観通せ。お主が目指すべきはただ一点のみ……そこに全てを乗せるのだ」
それは間違いなく、教授の言葉。
一輝は、彼の真意を読み兼ねていた。ふざけた仮面をつけ、戯れのようなものとはいえ、敵として立ちはだかっておきながら……と。
「婚約の前祝いだと思って聞いておけ。お主なら、今のだけでいずれ答えに行き着くはず……無駄にしてくれるなよ」
……思わず、手が止まりそうになった。
危ういところで持ち直したが、動揺は禁じ得なかった。まさか、あの《魔剣士》からそのような言葉が聞けるとは思ってもみなかったからだ。
(変わっているのは……僕たちだけじゃ無いってことか……)
会ったばかりの頃は、ここまで世話を焼くような男ではなかったはず。この変化が彼にとって良いものなのか悪いものなのか……それは定かではない。
だが、一輝にとってみれば。
「そう言われてしまったら、やるしかないじゃないですか……!」
——闘志を揺さぶるには、十分すぎる代物で。
一輝はヴァーミリオン仮面の言葉を改めて反芻。必要ない感覚をカットし、余剰出力全てを思考へと回す。
観る……という行為。その点に関して自分は怠ったことがないという自負があった。教わることの出来なかった自分には、それしか道はなかったのだから。
しかし、それでもなお不足であると。足りないと、彼は言った。それはつまり……。
(まだ、僕の知らない“先”があるということだ)
これ以上ないと言うほど鍛えたはずの“観の目”に、まだ伸び代が残っている……それは、一輝の胸中に望外の喜びをもたらした。
それだけではない。自分ならば——黒鉄一輝ならば、そこに辿り着けると、目の前の男は言ったのだ。
ならば……それならば——応えなくては嘘というもの!
(もっと深く。もっと遠く。もっと広く……広、く?)
全てを見透す……その事のみを重視してきた。それは間違いではないはずだ。何か一つでも見逃したなら、何も持たない自分など瞬きする間に消し炭となる。
だから、決して間違いなどではない……が。
(最適解……ではない?)
見切ることに、こだわり過ぎていた。動きを見切るのは何のためだ……勝利のため、自らの強みを押し付けるためだ。
全てが解らずとも、望む結果に辿り着けるならばそれで良いはずだ。
(僕が観るべきは、ただ一点……)
必要なのはただ一つ。そう、“可能性”は、たった一つでいい。それを見据えたなら、後は成し遂げるだけだ。
(僕が観るべきは他人の思考でも、剣術でもない。——僕の“勝ち筋”のみだ)
それ以外の全てが意味を成さない。意味の無いものは、剪定しなければならない。
自らの望む可能性以外の全てを斬り捨て、勝利を掴み取る。
(疑うな……!)
僅かな躊躇いすら許されない。
そもそもが、今の自分には過ぎた領域。天上の位階と呼ぶべきその地点を、一度きりでも手繰り寄せようと言うのならば、心底まで信じ切らなければならない。
(それは僕の十八番だろうっ!)
非才すぎる自分を、それでも決して諦めず。自らの可能性を信じてここまで辿り着いたのが黒鉄一輝という剣士だ。
故に、やれない道理は何処にもない。
己が全存在を賭して、ただ一点を、めざすべきただ一つを凝視める。
その視線が目指す先に剣を重ね、重ね、重ね、重ね続ける。
疑わず、ただ一つの可能性を目指し、全霊を込めて剣を振り続ける。
——ただひたすら、“天”へ向けて。
「————」
観えたのは、ほんの一瞬。
だが、この場はそれで十分。これ以上を望むのは、今の黒鉄一輝にとっては荷が重すぎる。
「何処であれ、一太刀は一太刀。……僕の勝ち、ですよね」
「お主らしい……と言うべきだろうな。確かにこの勝負、お主の勝利と言う他あるまい」
一房、ほんのそれだけ。ヴァーミリオン仮面の長髪が地に落ちる。
「悔しいですけど、いまの僕にはこれが限界。——ですが、ご教授ありがとうございます」
「なに……たまには、先達らしいこともしなくてはな」
言葉は二人の間だけで交わされた。周囲の馬鹿騒ぎも、今の二人には関係ない。
「その境地……至れるかは、お主次第だ」
気づけば、役目を終えたヴァーミリオン仮面は姿を消していた。
ただ、その一言だけを一輝に残して。