流れる時に
「ミエールや! ミエールやー!」
断崖の山々に抱かれたその街には、今日も今日とて日が昇る。
唯一南側に広がる地平線は絶えることのない風の捌け口となり、その合間を縫うようにいくつも築造された風車が一身にその恩恵を受け止める。
絶えず風止まぬドンドルマの地では、早朝から
決して徘徊老人などではない。自称現役を謳う痴呆予備軍でもない。少々頑固で好々爺が売りの書士隊支部が長、ラッセルである。
ラッセルの朝は早い。老人だからではない。誇りでありルーチンなのだ。誰よりも早く支部に足を運び、すぐに溜まった情報をまとめ始める。
現役引退から散々嫌がっていたはずの業務だが、彼は書士隊支部を束ねるものとしての責務に準じていたのだ。その彼のルーチンだが、今日はいつもと少し違っていた。
それこそが"ミエール"の存在である。つい先日顔を合わせたばかりであるが、ラッセルはひと目見てミエールを気に入っていた。その後も少しばかり談話する時間を設け、話をするうちに彼の好感度はウナギ登りに上がっていたのだ。
「ミエールやー!」
ラッセルはその名を再度呼びかける。閑散とした支部内では老人の声が小さく反響するだけで、特に返答といった返答は来ない。怪訝な顔をするラッセルは、ミエールに伝達しようとした仕事内容を思い返す。
掃除や本の整理などの雑務といったことから、書士隊としての矜持を問いてやろうと、まるで孫と接するような感情で心待ちにしていたのだ。
「まったく、どこへ行ったんじゃか。まだまだ伝えるべき事が沢山あるというのに」
帰ってこない返事にヤキモキするのは効率が悪い。今すぐにできないのであれば、他のことを優先しよう、そう考えたラッセルは仕方なしにと、己の書斎に向かうことにする。
ラッセルの頭の中では、旅立っていった己の孫同然の書士隊メンバーの行方を案じる。心配の種は尽きないが、彼らも由緒正しき書士隊の誇りを背負う者たちだ。
雪山へ向かったジョナサンやスタンレイ、沼地に足を運ぶヒューイ、懲りずに密林へ潜るアンリ。そして渓流へ出発したハインツ一行。その他は……数えきれないし思い出しきれない。覚えられないのは老化なのか、はたまた性格なのかは明言しない。代わりに居場所を知るのは、傍らにいる秘書なる女性であるが、彼女がやってくるにはまだ少しばかりドンドルマの風は冷たい。
そうそう渓流と言えばと、ラッセルはかつて足を踏み入れた渓流の地を想起する。
湧き水から始まる河川は、長い年月をかけて流れを形作り、周囲に恵みをもたらした。澄んだ空気に清らかな水。渓流の名の通り、下る流れは命を運ぶ。流れが早い分、上辺に生物の影は少ないが、それでも悠々と川をのぼるキレアジやらサシミウオを見ると、ついつい心揺さぶられてしまう。それに川底の石を捲ってやれば、驚くほどの生物が顔を出したことだろう。
森丘とはまたひと味もふた味も違う、書士隊冥利に尽きる幻想の地であると言えよう。
きっと彼らも、これからラッセルが見たものと同じ光景を目にすることになるのだ。そう願い、彼らにこの依頼を託した節もあるのだが、ああ、可能な事ならもう一度あの光景を見てみたい。そう願う老人は、やはり無理の聞かない己の身体を恨んでも恨みきれない。
仕方ないのだ。いくら狩猟技術が発達しようが、モンスターの研究が進もうが、不変たるものは存在する。寄る年波に勝てないのは、背中が曲がり始めた時点で察していた。
「仕方ないから、
だから、恨み節ついでに老人は、いつも通り別のことを願う。
「じゃから、無事に帰ってくるんじゃぞ」
夢想に浸る老人は、書士隊の入り口に誰かがやってくるのを察した。おそらく、いつも二番目に出所する秘書なる女性だ。
いつの間にやら温かみの増した風が窓から溢れていることに気付くと、ラッセルは背中を伸ばして喉を鳴らし、書斎の扉が開くのを静かに待ち構えた。
◆◆◆
親の心、子知らず。そんなすれ違いもあり、ハインツの心情は穏やかなものではなかった。なにせ、彼は今現在絶句しているのだから。
「ニャー。ご主人、オイラを置いていくなんて薄情だニャー」
いつかの森で受けた恩義と感じている猫は、わざわざ竜車で十日はかかる道をその四本足で訪ねてきた。そのなんとも義理堅い点を気に入ったラッセルが、書士隊預かりのアイルーとして仕事を斡旋することになったのだ。
それだけならばまだ良かった。支部に置いていけるのならば、ハインツは安心してドンドルマの借家で眠ることが出来るし、任務も心置きなくこなすことが出来る。とりあえず書士隊のくくりではあるが、彼と直接関わる機会がなければ構わなかったのだ。
しかしどうだ現実は。
「これドンドルマのハチミツだってニャー。おいらの森のとは違ってちょっとジャリジャリしてるけど、こいつも中々美味だニャー」
目の前でいけしゃあしゃあと寛いでいるのだ。
そう。猫ことミエールは、こっそりとハインツ達が乗る竜車に忍び込んでいたのだ。
確かに失せ物を探し出してくれた点については感謝しよう。しかしながら人間の記憶や経験は難儀なものであり、その出来事を後悔としか捉えていないハインツには甚だ迷惑極まりなかった。すでに無意識下で刻み込まれてしまったのだ。
猫とハチミツに関わると良いことはない、と。
なんとも阿呆らしいと感じるだろうが、これらの
例えば、かの有名なココットの英雄は鋼よりも固い絆で結ばれた仲間と計五人でドラゴン討伐に向かったところ、仲間のうち一人が命を落としてしまった。命を落とした一人は後に英雄と呼ばれる彼の婚約者であった。その悲劇性から、いつしかハンターが
今でもハンター達は頑なに暗黙の約定を護り続け、現在に至る。
「見事に懐かれるとは羨ましい限りであるなっ」
「……かわいい」
「なんで」
猫ことミエールは、どこから取り出したのか小さなツボを片手に抱え、中から黄金に輝く甘ったるい匂い漂わせるハチのミツを、チロチロと細っこい舌で舐め続けていた。その胸にはキラキラと光る銀色のバッジが輝き、他称ご主人とお揃いであるそのバッジは、紛れもなく書士隊の一員であることを示していた。
それを見て愉快そうに笑うウィンブルグが向かい。ハインツと隣り合わせに座るリィタは、間近で無防備を晒すミエールをじっと見つめる。
「いやまだ遅くないっ、今すぐドンドルマに帰るんだ。これから行く渓流は、お前のいた森とも方向が違う。なによりじゃま……じゃなくて、センセイだって心配する」
「本音が漏れているのだ。それにドンドルマからも大分離れてしまったであろう。旅は道連れとも言うし、ここは開き直って楽しむのも一興であるぞ?」
「私もそう思う。今回の任務くらいなら、アイルーがいても支障はきたさない、でしょ?」
「な……僕に味方はいないのか」
ハインツの個人的な感情に与する者は、竜車内には一人も居なかった。
「オイラがいるニャー」
一匹ならいた。
「……」
◆◆◆◆◆
結果から伝えれば、今回の調査、空気の読めない猫ことミエールが参加したのが正解か否かは、誰にも答えを出すことが出来なかった。
なぜなら未来を見通す力など、この場で誰も持ち合わせては居ないのだろうし、予想外とはいつも前触れなくやってくるからだ。
今回の任務。
以前にも書士隊の業務は簡単に紹介されているであろうが、今回の彼らが請け負った任務。それはこの大陸を描く"地図の更新"であった。
もっとも大陸全土ではなく、情報の古くなった区域――渓流周辺の
「そろそろ近くに集落が見えてくるはずだね。今日はそこで羽を休ませてもらいましょうか」
「うむ。さて、そろそろ笑顔の練習でもしておくかね。あ、リィタ君。吾輩の輝く歯にゴミとかついてないかね? 口内の清潔は紳士の嗜みなのだ」
「鏡、見て下さい」
一度竜車から降り、その目と足で歩き、直接記録することで地図の更新は成される。ラッセルから預かった過去の地図と照らし合わせ、相違はないか確かめる。新たに変化があれば記録し、過去の地図に反映させる。
その地道とも言える作業であるが、ゼロからのスタートではないためか、順調と言っても良いくらいに進んでいた。
最後に渓流周辺の地図が更新されたのは十数年前。その更新者は、何を隠そうラッセルその人である。その頃はウィンブルグの前任の護衛ハンターが付いていたとのことで、ウィンブルグ自身も渓流に訪れるのは初めてだという。
「ハチミツで歯を磨くと良いニャー。えべるす、ぱぴるすニャー」
「え、えべ……? ともかく、それは興味深いのである。もう少しハチミツが安ければ愛用も考えてしまうね」
「ハチミツは万能のクスリだって、
いまだ渓流そのものに足を踏み入れたわけではないが、その清らかな環境がそうさせるのだろうか、ハインツ一行には和やかな時が訪れていた。ミエールに関しては納得しきれていないハインツであるが、リィタに宥められつつ目的地に近づく。
日は落ち始め、寒々とした風に変わりつつあるとき。
風は不意に様相を変え、異様な雰囲気に包まれる。
「着いた、けどこれは……っ!?」
「……なんで」
そして彼らを迎えたのは、地図にあった
おそらく、地図から消えることになる村であった。
渓流編開始です。
予約投稿時間で遊ぶのはやめました()