国立銀行の中で後の都市銀行や地方銀行に統合されなかったのは、番号が若い順に
・第十四国立銀行(長野→東京:存続中に広島の銀行を統合、1918年破たん)
・第二十四国立銀行(長野:1885年閉鎖)
・第二十六国立銀行(大阪:1883年閉鎖)
・第三十三国立銀行(東京:1892年実質破たん後、閉鎖)
・第四十五国立銀行(東京:1898年閉鎖)
・第六十国立銀行(東京:1898年閉鎖)
・第七十五国立銀行(石川:1886年に第四十五国立銀行に吸収)
・第九十一国立銀行(福井→東京:1907年に破たん後、東京に移転し京和貯蓄銀行に改称、1930年に破たん)
・第九十七国立銀行(佐賀:1899年閉鎖)
・第百七国立銀行(福島:1934年解散)
・第百八国立銀行(福島:1887年閉鎖)
・第百十一国立銀行(京都:取り付け騒ぎと無理な貸し出しにより1898年閉鎖)
・第百二十五国立銀行(山形:1897年に第百七国立銀行に吸収)
・第百二十六国立銀行(大阪:1885年閉鎖)
・第百五十三国立銀行(京都:1886年に第百十一国立銀行に吸収)
となっている。
「もし、上記に挙げた『普通銀行に転換する前に閉鎖された国立銀行』を前身とする大銀行があったならば・・・」、という『if』を、以前考えた事がありました。
これとは別に、私は鉄道が好きで、その中で東武鉄道の根津嘉一郎が傾いた企業の経営に参画して建て直した事を知りました。
そこで、この2つを合わせた、「もし、架空の財閥を史実に落としたらどうなるか」と考えました。
1話 始まり・幕末:大室財閥(1)
大室財閥、旧十六大財閥(史実の十五大財閥)の一角であり、その歴史は幕末まで遡れる。幕末の横浜から始まり、現在で言う商社から始まった。その後、明治初期に東京に拠点を移した後、銀行・新聞・保険・海運・重化学工業などに進出し、大倉や古河に匹敵する巨大財閥、三井・三菱・住友に次ぐ総合財閥として太平洋戦争の敗戦まで君臨していた。
戦後、GHQによって財閥解体の憂き目に遭うも、GHQによる占領後、銀行を中核に他の旧財閥・コンツェルンを取り込み「中外グループ」を形成し、三菱・住友・三井・芙蓉・第一勧銀・三和の各グループと共に「7大企業グループ」を形成した。20世紀末から21世紀初頭にかけての金融再編では、中核の中外銀行が三和銀行と経営統合した事で「UFJグループ」として再編されている。
さて、その大室財閥の始まりは、京都市近郊に生まれたある一人の男から始まった。巨大財閥、大室財閥の成り立ちを紹介していこう。
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彦兵衛は、1832年に乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市)で生まれた。生家は農家でありながら、名字帯刀が許された。また、周辺農家に対する影響力も高く、周辺で生産された茶の取引も担っていたなど豪農であった。
彦兵衛の父である久兵衛は、人格者であり地域からの信頼が厚かった。また、教育家としての面も持ち、地域の寺子屋の運営を任されており、子(彦兵衛を含め男子4人、女子2人)には特に農業や商業に関する教育も行っていた。
転機が訪れたのは1859年、日米修好通商条約の締結に伴い横浜、長崎を始め5つの港が開港した。これによって、日本は海外に対して開かれる事となった。
この時、彦兵衛は27歳、実家の農家と商売の手伝いをしていたが、三男である彦兵衛には実家を継ぐ事は出来ない(当時の家は長男が継ぐものだった)為、彦兵衛にとっては少々物足りない日々を過ごしていた。
そんな時に、開港の事を風の便りで聞いた彦兵衛はこう考えた。
『異国の人と取引すれば、今よりも大きくなる。今のままではこれ以上大きくなる事は無いだろう。それどころか、時流に乗り遅れて衰退するかもしれない。そもそも、自分は三男坊であり家が継げないのなら、一旗揚げるべきだろう。』
彦兵衛は、横浜で商売をしたいと父に相談した。父は、『商いは、そう簡単に成功するものでは無い。ましてや、異国の人との商いによる成功など覚束ない』と反対した。しかし、彦兵衛も引き下がる事無く、現状の限界や自身の不満を父にぶちまけた。2日に亘る口論の末、父は根負けし彦兵衛の横浜行きを許した。この時、父は『仕入れ先に実家を含める事、失敗しても戻って来ない事』を条件とした。
父からの許しが出た事で、彦兵衛は出発の準備を急いだ。荷物や商品、資金など必要なものは大量にあったが、父の伝手もあって年内に出発が出来た。
翌1860年、彦兵衛は横浜に「彦兵衛商店」を出店、これが大室財閥の第一歩となった。