朝霧が少し立つ、夜明け。
エミヤは結城家のリビングから、青みがかった空を眺めていた。
「……」
何時間も腕を組み、ただ空の色が変わる様を眺め、微動だにしない。
時刻は午前五時。
こんな朝早くから起きる者などいるわけがなく、青暗い静粛としたリビングで、薄まった月明かりに照らされながら、ただ静かにそこに居た。
この世界に来て7日。
一つの節目としての時間が経過した。
守護者として顕現したには、長い時間が過ぎていた。
(何をしているのだろうな。私は)
エミヤは哀愁を漂わせながら、少し溢れ出た苦い気持ちを噛み潰す。
危険とはかけ離れたこの場所で、ただ穏やかな時間を過ごしていた。
この7日の間でエミヤがやった事は、己の魔力を貯めるための場所を探しただけで、大きく動いたことは一度もない。後はセリーヌの遊び相手と、土御門との雑談。
特に何かが起きるわけでもなく、粛々とした平和が世に浸透している。
(何時までここに居なければならないのだろう)
胸に覚えるは一抹の哀しみ。
目に映る全てが泣いていない。 血が流れることなく、こぼれ落ちる命もない。 人の悪意が息着いておらず、死に怯える人も居ない。
それはエミヤの望んだ光景であり、かつての自分が見てきた光景だ。
故に、彼が哀しむのはこの世界の平和ではない。
────この世界に、私が存在することだ。
ダークネスの一件を起点にエミヤは現界した。それはこの世界の破壊を回避するために。
人類を滅ぼす者の敵として、この世界に遣わされた。
身体は抑止により操作され、私という意識は水の底から雲を眺めるように、脳へと流れた朧気な映像を見ているだけだった。 抑止から無限とも言える魔力を供給されていたのもあり、奥の手を使うことなく元凶を追い詰めていた。
彼ら、結城リト達に邪魔され殺すまでは行かなかったが、星を破壊する兵器へと至った少女の正気を取り戻すことが出来た。
そうして、世界は破壊を逃れ、人類の滅亡は防がれた。
ならば────私を消すのが通りだろう。
ダークネスは生きているが、危機は去った。ならば私は必要じゃない。
この世界で特異な力を持ち、また異分子である自分がこの世界に留まる意味が無い。むしろ悪影響しか与えないだろう。
だが、いくら待てど暮らせど私が消される予兆はなく、その維持は続いたまま。
自分という異物はいつまで経っても霧散しない。
すぐに別の危険が来るから私を現界させたままにしているのかと思えば、たいして大きな出来事はなく、酷く温かい日常が続くばかり。
私にパスを繋いで操ることもせず、その指揮は結城リトに移されたまま。
(まさか、私に日常を送れとでも言うのか?)
エミヤは、冗談混じりで考えた回答に、思わず鼻で笑った。 そんなはずはないと心の中で嘲笑しながら、有り得ない可能性を否定する。
一人の英霊を、ましてや守護者にそんな事をさせるわけがない。 不要ならば消し、必要があるならば使う。ただそれだけだ。世界や抑止が変わっても、その効率主義な意向は変わらないだろう。
簡単に言えば、私の存在とは世界の危険ということ。
ならば、つまりそういうことなのだろう。
ダークネスの問題も完全に解決したとは言い難いし、再び暴走する可能性を考慮すれば、なるほど、カウンターとして私を置く理由にはなる。
だが、そこに私の意識は要らないはずだ。
無駄な自由など守護者には不要。
ただ操り人形のようにすればいい。
今まで通り望まぬ殺戮をさせて、町諸共破壊し尽くしてしまえばいい。
それが通りだ、それが当たり前だった。
しかしそうしない。とても抑止とは思えない無駄な行動だ。もはや抑止そのものが上手く機能していないのではないかと疑念を抱くほどに。
(私に意識を残すことによって何かが好転でもするのだろうか?)
確信を持てるものは何も無い。何が理由か分からない以上、無闇矢鱈に動く訳には行かない。
とにかく目先の目的は、全ての中心とも思える結城リトの監視と、その周りにいる者達の情報を探って行くことだろう。
現状維持。
どちらにせよ彼らと共に過ごすこと以外何もやることは無く、何もする必要は無いのだ。ただ、訪れるかもしれない脅威に備えていればいい。少なくとも今は。
あの小僧がマスターになってしまった以上、自分の行動が制限されてしまうが、これも守護者の務め。多少の意図しないものくらい、慣れたものだ。
使われる令呪の内容にやっては厄介だが、絡め手を使えばどうにでも出来る。最悪、何かを口走る前に首と胴体を離してしまえばいい。
(20歳にも行かない子供を切り殺すのは気が引けるが────私の価値観などどうでもいい)
いつだって私の手は汚れていて。
いつだって私のやることは汚れているのだから。
エミヤは無機質に己の手を見つめる。いつになく変わってしまった、華奢な女性の手であった。そうして思い出すのは、自分に打ち解けようと何度も話しかけてくるリトやモモ。そして食事に誘って来るララの姿。
結局、エミヤは彼らの輪に入ろうとはしなかった。誘われた夕食には一度も同席せず、会話もあまり交わそうしない。
少なくともエミヤから話しかけたことは1度もなかっただろう。
「……」
断っておくが、エミヤは別にララ達が嫌いな訳では無い。むしろ彼らの人と成りは好感が持てるし、特異な力を持つ地球外生命体である事を加味しても、町や人々を守ろうとする思いはエミヤにとって好評だった。
彼等は善人だ。
守られるべき子供なのだ。
我々大人が守って然るべき存在なのだ。
エミヤ一個人として、彼らに抱いた感情は、一重に庇護の対象でしかなかった。しかし、エミヤの行動は一貫して彼らを突き放すものばかり。
チカリと、目端で光が刺した。
窓を見れば、無数に並ぶ住宅の壁から覗いた太陽が、一筋の光となってエミヤを照らす。
少しだけ慣れた長い髪が、呼応するように輝いた。
このままで居よう。
全てから距離を置こう。
隣に居ようと、常に心には壁を作ろう。
抑止が何を考えているのか分からない。
世界にどんな危険が迫っているのか分からない。
未来がどうなるのか分からない。
それでも、いつか彼らと対立する時が必ず来る。再び剣先を向けなければならない時が来るだろう。
だから無理に仲良くする必要は無い。
お互い殺す相手は他人でいい。
要らぬ涙は、流すべきではないのだから。
時計が指すは午前六時。
既に太陽は日を放ち、目を覚ました鳥たちが、餌を求め飛んで行く。
おはよう。 おはよう。 こんにちは。
そう木霊するように何度も鳴く小鳥たちが、今は少しだけ、疎ましく思った。
────今日も平和が心を抉る。
■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪
─── ─ ─ ─
「…んぅ」
けたたましい機械音が鳴り響き、おおよそ日本人の感性では設計しないようなファンシーな部屋で、高音を撒き散らす。ベッドの上に丸まって歪に膨らむ羽毛布団の中から手が伸びると、主の命令に従い正しく起こした目覚まし時計は、その頭頂部を叩かれた。
『五月蝿い』と理不尽に叩かれた目覚まし時計は聞き分けの良い子供のように騒音を止め、眠っていたその主はモゾりと布団から抜け出した。
「んー…」
コキキ、コキ、と身体を伸ばして凝った身体を解した後、大きな欠伸を一つ。
借りてきた猫のように大人しくなった時計を見れば、6時50分を過ぎた頃であり、これは朝に弱いナナにとって早めの起床である。
「少し、騒ぎすぎたかな」
昨日は、久々に母上に会って気分が高揚していた。その気分に任せて騒いでいたからか、心無しか身体が重い。
だが祝日でも休日でもないから、今日も学校はいつも通りあるのだ。
しかし、いつもの粘つくような眠気は鳴りをひそめ、案外スッキリとした朝を迎える事ができたナナは、少し得をした気分になりながらテレポーターに乗って結城家の2階へと飛んで階段を降り、朝にはみんなが集まるリビングへと向かう。
(ミカンはやっぱり起きてたか)
階段を降りる過程で、香ばしい匂いがスンスンと鼻につき、キッチンから漏れてくる美味しそうな音や匂いがミカンの起床を示していた。
結城リトの妹である結城美柑は、小学生でありながらも私たち姉妹の分も含めて朝食と弁当を作ってくれている。それだけではなく、学校から帰れば家事をこなし、何かと居候である私達によく気を利かせてくれるのだ。
私と違ってよく出来た奴だと思いながら、程よく減った胃袋を持ってリビングへと突撃した。
「まうっ!まうまうまう〜!」
「……」
だが、扉を開けて真っ先に目に写ったものは、プンプンと腰に手を当て何かを言っているセリーヌと、それを静かに受け止めるエミヤの姿であった。
予想し得ない場の状況に、ナナは呆然と立ち止まっている。
「おはよ、ナナさん」
「…お、おう。おはようミカン」
不意に横からかけられた声に身体の硬直は解かれる。振り向いた先にはミカンがおたまを持って台所に立っていた。
少しだけ戸惑いがちに返事を返すナナであったが、ミカンはナナのそんな姿に首をかしげながらも言葉を続ける。
「どうしたの? 今日はやけに早起きだけど」
「疲れて早く寝ちまったからな。 アタシだってこういう日もある」
すこしだけ誇らしげに旨を張るナナに、ミカンは苦笑いを浮かべた。
「────で、アレは何やってんだ?」
とにかく聞きたくて仕方なかったあの状況の説明を、セリーヌと共に寝起きしているミカンに聞く。
エミヤが座るソファーの位置は、キッチンから見える位置にある。
料理や弁当の用意で忙しいミカンであるが、たとえ見ていなくとも声ぐらいは聞こえていたはずだ。
ナナが指した方を滑るように見ると────ミカンの表情が少しだけ歪んだ。
「……さあ、知らない」
ミカンは目を背けるように言い捨てると、再び料理へと戻って行った。
普段のミカンらしからぬ冷たい行動に目を丸くしながらも、ナナは内心納得していた。やはり直接殺意を向けられた挙句、親友まで殺されそうになったのだから苦手意識が芽生えてしまうのも無理はない。それにミカンはただの地球人で、ただの子供なのだ。平和な国に生まれ、争いとは無縁の地で育った中いきなり人の悪感情を直視するなど出来るはずがなかった。
────故に、ナナはエミヤに憐れみを覚える。
(ミカンみたいな良い奴に嫌われるなんて、悲しいヤツだな…)
ナナは1年もこの家に住んでいないが、それでもあのよく出来た少女がどれだけ慈悲深く、優しく、温かいのか理解していた。
ナナの中では、リトやミカンは既に家族のようなものである。初めは姉上の婚約者とその妹とでしか見ていなかったが、寝食を共にすればその価値観も自然と変わる。
今にして思えば、こんなに早く打ち解けられたのは、一重にこの兄妹の人徳の成せる技だったのかもしれない。
そんな人間に嫌われる事がどれほど辛いことなのか、想像するだけで胸が痛い。
もしも本当に嫌われてしまったら、身を引き裂かれる以上の痛みが心に留まって、永遠にその痛みが消えることは無いのだろう。
それはとても恐ろしく、ナナにとって耐えがたいことであった。まだ身を裂かれる方がマシだと思えるくらいに。
だからエミヤを憐れんだ。
それは自分にとって悪夢以外の何物でもなかったから。
「───朝から人に指をさすなど、淑女がする事とは思えんな」
急に耳に入る憎たらしい言葉に、ナナの表情はムッとなる。
ナナの先ほどの思いは霧散し、こちらに一瞥もくれることなく嫌味を言うエミヤに、皮肉を込めて返した。
「残念だったな。アタシは別に淑女じゃないし、なろうと思ったこともない。そもそも、そんなのはアタシには似合わない」
「それでも一星のプリンセスかね? 似合う似合わない云々の話ではなく、淑女のように見せる事も、また必要な技能だと思うが」
「見せるだけならできる。昔からやってきたからな。今更お前に心配されるようなことじゃない」
「おっと、これは失礼。いかんせん、キミには向かない事だと思っていたのでね。少し見誤っていた様だ。後で上方修正でもしておこう」
「…っ…そ、そうかよ…!」
エミヤの発する明らさまな嫌味は、ナナの堪忍袋を刺激した。
しかしこれ以上言い返す事はしない。ただ嫌味ったらしく言葉を切る事だけだ。威嚇はするが吠えはしなかった。
────こいつを怒らせると何をされるかわからない
ナナは、エミヤの優しさに薄々ながら気づいている。けれど、それでもこいつがその気になればこの場にいる全員を叩っ斬れる事を知っている。
それを為せる力があるだけではなく、時になればソレを容易くやってのける精神があることを、知っている。
動物に意思疎通ができるナナ故の感覚が。第六感とも言える直感が警告を鳴らすのだ。
慈悲はなく、言い訳は通らず、命乞いも通じない。
良心に訴えかけども意味は為さず、ただ自分たちは大人しく心臓を射抜かれるのみ。
老若男女、関係ない。どれだけ目の前にいるソレが幼かろうと、例え母体に入る命の灯火であろうとも、簡単に握り潰す。
この女が、それ程までに容赦がない事を、ナナは理解している。
故にナナは言葉を切った。敵対をしてはならないと思ったから。言葉の応酬をしようと思えるほど、エミヤを信頼する事などできるわけがない。
今でも覚えている────この女の背後に潜む、穢れきった何かを。
ミカンに見せたあの悍ましい何かは、きっと見てはならないものだ。
しかし見てしまった。視界に入れてしまった。鳥肌がたった。背筋が凍った。
それと同時に、怒りか悲しみか分からない、ぐちゃぐちゃになった感情が湧き出たのを、よく覚えている。
────軽い嘔吐感が、喉元を駆け巡った。
何をされるか分からない。そもそも何を考えているのかすら分からないのだ。そんな奴と同じ屋根の下で過ごすなど、今考えれば正気の沙汰ではない。
ナナは、苛立つ感情のまま髪を掻き上げた。
それは妹の考えが理解できないが故に。
モモは一体何を考えている。
何をしたい。
何がしたいのだ。
ナナが知りたいのはエミヤをここに住まわせた理由。
こんな危険なやつを側に置くなんて、あの思慮深く腹黒い妹がするわけがない。
あるとすれば、それ相応の何かがあるか、私達に牙を向かないことを確信しているかだ。
しかし、先ほども言ったが理由が分からない。
それはリトやミカンを危険に晒すほどのメリットがあるのか。
否。
否。
否である。
いくら頭を回転させようとも、知りたい回答など導けない。どんなに考えようとも、納得できる理由が思い至らない。複雑怪奇。無理難題。解けない問題を前にして、ナナのイライラは加速する。
なんで自分がこんなに悩まないといけないんだ。
珍しく朝早くに起きれたと思えばこの仕打ち。
早起きなんて何の得にもなりはしない。三文どころか大損じゃないか。
『この星の昔人は嘘つきだ』と八つ当たりに似た罵倒を心の中で零し、ズカズカとミカンのいる台所に乗り込むと、棚からコップを取り出し中にミルクを注いだ。
「ングっ…んくっ…!」
もっと眠ていればよかったと後悔し、怒り心頭なナナは、もう二度と早起きなどしないと決心する。そして一気にミルクを飲み干す。
「おわぁあああ!?」
「ブあッ!?」
「ナナさん!?」
突如響いた大声に驚き、飲んでいたミルクが気管に入ったナナは、盛大に咽せた。
流し込まれた異物を排出しようと反応した身体が、口に含んだミルクを強制的にブチまける。しかし、それだけでは飽き足らず、突然の異常事態に驚いた身体は未だに興奮を収めてくれず、ナナは何度もえずいた。
その思いがけない苦しさに、ナナの目端には涙が溜まる。
「だ、大丈夫?」
咽せて苦しむナナにミカンが優しく背中を摩る。
その優しくも温かい手つきに、昨日会った母を思い出させるが、それ以上に床をミルクで汚してしまったことの罪悪感が胸を一杯にさせた。
ナナはむくりと起き上がり、「大丈夫」とミカンに言って床に転がるコップを拾い上げると、静かにシンクに置いた。
盃中の蛇影(はいちゅうのじゃえい)
疑心を起こせば、何でもないことにも神経を悩ますということのたとえ。