最終話です。
七〇七号室。陽乃さんは居るだろうか。こんな雨じゃ外に出るとは考えにくいが、果たして。
つくづく自分が嫌になる。付き合った翌日に別れを告げ、かと思うと十数日後にまた会いに行く。陽乃さんからすると、俺はさぞ優柔不断な男に見えていることだろう。
葉山と話した公園から陽乃さんの家までは意外と近い。すぐに到着した俺は、カバンから合鍵を出してオートロックを解除する。エレベーターの足元は既に濡れていた。
七階を知らせる間の抜けた音が耳朶に響く。エレベーターから出て一番奥の部屋。そこが彼女の誕生日を表す七〇七号室だ。
鍵を上段の鍵穴に差し込む。慣れた手つきで捻るが。
……鍵がかかっていない?
手応えはなく、それは下段も同じだった。眉をひそめつつ、ドアを開けて中へ入る。照明は点いていない。手探りで廊下を進み、リビングへ入る。
「……やっぱいないのか」
無音が鼓膜に突き刺さる。低い室温が肩にのしかかる。
陽乃さんに限って、鍵の締め忘れなんて有り得るのだろうか。何でもかんでも彼女を完璧として扱うのは失礼かもしれないが、事実としてこういったミスは犯さない人だ。何か理由がある気がしてならない。
とりあえず照明を付ける。急に入ってきた強い光に目を細めた。
「ん……?」
リビングの中央にはソファの前にテーブルが置かれている。その上に、何故か奇妙なものが鎮座していた。
両足の揃った真紅のヒール。見ただけで高価だとわかるそれは、時折陽乃さんが履いていた靴。
どうにも、俺にはそれが飛び降り自殺によくあるアレのように見えた。
そんなことはないと思いつつ、一応ベランダまで歩く。そっと外へ身を乗り出してみるが、下には何も無い。
こんな感想を抱くのは完全に場違いだが、乗り出した時に濡れた腹の部分が気持ち悪かった。
「……」
あの人は無意味にさえ意味を持たせる。きっとこの並べられた赤いヒールにも意味があるはずだ。
──それが彼女なりのSOSだってなんで気付かないんだ!!!
先程葉山に言われた言葉。飛び降り自殺とこれが、何度も脳裏をよぎる。いやでも、あの人が? 動機だってただの婚約者でか? 有り得るのか、そんなこと。
「ん?」
かさり、と足元から音が鳴る。視線を向けるとそこには一枚の便箋。足をどけると、そこには『比企谷君へ』との文字。
俺は急ぎそれを手に取り中身を読む。一瞬にして跳ねる鼓動。ドキリと鳴る胸が苦しくなった。
『比企谷君へ。これを読んでるってことは、勝手に部屋に入ったでしょ? 別れたって言うのに、君は勝手だね』
勿論俺だってそう思っていますよ。
『さて、私の部屋に来てくれた理由予想とかもして良いんだけどさ。間違えてたら恥ずかしいからやめとく。代わりに一つだけ問題を出そうかな? 答え合わせは次に出逢えた時!』
あなたが間違えることなんて殆どないでしょうに。てか唐突の問題の意味がわかりませんよ。
それに、出会うじゃなくて“出逢う”か。一々ミステリアスな人だ。
『勘違いの定義とは何でしょう?』
「……クソッ!!」
手紙をそこまでを読むなり、俺はすぐさま駆け出した。残りの文なんて知らない。ただそれよりも、嫌なパズルのピースがどんどんハマっていくのだ。
傘立てから傘を抜くこともせず、階段を駆け下りる。豪雨など関係なしにエントランスを走り抜け、ある場所へと向かう。
端的に言えば、やはり陽乃さんは自殺しようとしているはずだ。
まず解錠されっぱなしの部屋。もう七〇七号室に戻る気はないという意思表示だろう。何を盗られてももう関係ないから。
次にあのヒール。あれは第一印象の通り、自殺の暗示。それも恐らく飛び降り自殺の。
そしてあの手紙にあった勘違いの定義。それは即ち再会した時の別れ際に言われた言葉だ。よくもまあ覚えていられたものである。
強い雨の中を傘も差さずに走る。足元が濡れているので時折滑りそうになるが、そんなタイムロスさえ惜しい。必死に堪える。
息も絶え絶えに、あの橋へ向かう。下の川の流れが美しく、桜の花弁が降りそそぐところ。素の彼女と初めて対面した場所。
鼓膜に響く雨の音はまるでテレビの砂嵐のようだ。荒い音が一様に俺を取り巻く。
体温が徐々に奪われる中、やっとのことで橋へと到着する。雨は先程よりも強くなっており、肌を叩く雨粒は痛く感じる程だ。
「はぁ、はぁ……、陽乃さんっ!!!」
橋の上に人が居るかも確認しないで、大声で絶叫する。もしも陽乃さんがいなかったら。そんなことは露ほども考えていなかった。
だって、どうせ居るんでしょう?
「……よく見つけられたね、比企谷君」
机の上のヒールと似た色をした深い赤の傘。陽乃さんはいつもの表情でそう呟いた。
「あれだけヒントを出してもらえてるんです。見つけてと言っているようなものですよ」
「かもね」
「死ぬんですか?」
「かもねー」
間延びした声からは何も読み取れない。元より読み取れるとは思っていない。
「あ、そうだ比企谷君」
「はい?」
陽乃さんの視線が俺の目を射抜く。俺は思わず身震いしてしまった。
「最後だし、香り。嗅ぐ?」
「良いんですか?」
「うん。雨だから落ちちゃってるかもだけど」
「……むしろ強まっていますよ。こんな状況ですし」
「ん? それは香りの正体が何かわかってるってことかな?」
彼女の俺を惹き付けて止まない香りの正体。病人達にも感じたそれ。
「言わば、死臭みたいなもんだと思います」
「失礼だな君は。そんな匂いさせてる覚えないけど」
「プルースト効果というか、ともかく死に近い人からそれを感じとっているんですよね」
「逆説的な使い方だね。だから病院近くの並木道でも言ってた、ってこと?」
「それに陽乃さん、再会した当初も死のうと思っていたでしょう」
毅然と言い放つ。
「うん」
「やけにあっさりしてますね」
「何かどうでも良くなってきちゃった」
陽乃さんは傘を下の川へ投げ捨て、橋へもたれかかった。
「まあ比企谷君なら来てくれる、なんて思ったのは事実だけどさ。だからと言って生きろとかいう無責任な言葉に応じる気はないんだよね」
「問題を起こしましょう」
「それで雪ノ下家の威信を失墜させようって? どうせ内々に処理されるよ。君もわかってるんじゃないかな」
……まあ、それに応じないのはわかっていた。葉山に言った一つ目の策なんてこんなもんだ。端から上手くいくなんて思っていない。
「……じゃあ、陽乃さん」
「待って」
「え?」
「空見て。凄いね」
何を言い出すのか。雨が降ってて見上げるのは、と思ったがいつの間にか止んでいた。
──止んでいた? こんな、雨台風の中?
「──おお」
「ね。凄いでしょ?」
空には満天の星空が広がっている。雲一つない夜空は、これまでに見た空の中で最も幻想的だった。
「台風の目、ですかね」
「だねー。ほら、下も見て。こんな綺麗な夜なのに川だけは荒れまくり」
荒々しく流れる川はいつもの二倍以上の速さであり、あの中に落ちればひとたまりもない。
「……雨でちゃんと見えていませんでしたけど、お互いびしょびしょですね」
何とか間を持たせようと目についた情報を口にするが、陽乃さんは何も言わない。ただ俺よりも先の、遥か遠くを見ているように感じた。
「……ダメだなあ」
かと思うと、唐突に陽乃さんが口を開く。右手では髪の毛をいじっていた。
「比企谷君と居ると、もっと生きたくなっちゃう」
「……」
彼女の呟いた願望は、同時に目標と相反するものだ。彼女が死にたがる理由。それが単に陽乃さん自身疲れたから、なんて馬鹿げたものだけのはずもないのだ。
そして悲しいことに俺は、それをきちんと理解してしまっているのだ。故に。
「俺達は、もう会わない方が良いかもしれませんね」
俺は彼女の意思を尊重する。今の本音は戯言として、残酷に受け入れる。
「……うん。そうかもね」
……それを望んだのはあなたでしょう、陽乃さん。
だから、そんな寂しそうな顔をしないでください。俺だって、本当は──
陽乃さんは俺と目を合わせないためか、橋の下に流れる川を眺めていた。死を間近に感じさせるような、今の綺麗な夜とは酷く対照的に見える流れ。
「比企谷君が言わなかったら、私が言ってたよ」
辛そうな笑顔でそう言う。射抜く視線を初めて見つめ返すが、しかし熱を帯びる前に逸れた。
「まあ、俺なんかに陽乃さんは勿体ないですから」
そう考えでもしなければ抑えられない。感情は溢れっぱなしで、そんな強がりに陽乃さんは気付いているような気がした。
「陽乃さん」
「何?」
頼むから、そんな縋る目で見ないでください。このままだと、本当に間違いを──
「今まで言ったことありませんでしたね」
何を口走るつもりなのか。俺は理性の利かない感情に身を任せて。
「好きです、陽乃さん」
その瞬間、交わった俺達の視線は確かに熱を帯びた。
「……私も。本当は君のことが大好きだよ。いつも言ってくれなかったから意地張ってたけど、再会してからずっと好き」
「付き合います?」
「今度は嘘じゃないの?」
「ええ」
「じゃあ不合格かな」
「……陽乃さん、思ったよりも強情ですね」
言いたいことはわかる。一時の感情に任せて付き合ったところで問題は何一つ解決しない。それでは何もかもが無意味だ。
「整理しましょうか」
「良いけど、何を?」
「陽乃さんの目的と願望、それに俺が出来ることです」
「じゃあお姉さんは聞き手に徹しようかな」
「……まず、陽乃さんの目的は自分の人生を人に決められたくないから婚約破談。それにその役目を雪ノ下にもさせないこと」
ここに間違いはないはずだ。何故なら単なる事実を述べているだけだから。
「次に願望。……自分で言うのもなんですけど、俺と一緒になりたいんですよね?」
「言わせたがり」
「俺は陽乃さんのことが好きですよ」
「……私も、だけど」
口を尖らせて言う。まるで歳下のような振る舞いに自然と頬が綻んだ。
「そして俺に何が出来るか」
「正直わかってるでしょ? 私、初めの方は共犯者が欲しかったの」
初めと言うと、再会したあの時だろう。
「……いや、まあ理解はしています。そのつもりで来たところはありますし」
「そっか」
陽乃さんは至って冷静に見える。
「永遠に一緒に居られたら良いんだけどね」
そんな彼女を見て、俺は思わず抱きしめ──
──その勢いのまま、陽乃さんを道連れに橋から荒々しい川へと落下した。
傍から見ればただの投身自殺。だがこれは意味のある自殺だ。
長女、雪ノ下陽乃が死ねば、それも自殺ならば雪ノ下家の株は下がりはすれど上がることは無い。不審に思われるに決まっている。
だとすると婚約相手の会社も撤退せざるを得ない。そうなれば雪ノ下の婚約者として回されるなんて話はなくなる。
もう一つ大事なのは、彼女が俺を欲していること。言うなればこれは自殺教唆とも言える陽乃さんの告白だが、受け入れたのだから問題ない。この人と共に死ねる。ずっと一緒に居られる。その事実だけがあれば良い。
俺達の体が着水する寸前、陽乃さんの口元が動いた気がした。初めの文字は“え行”。そして。
『せ・い・か・い』
本当に、この人は最後の最後まで俺を喜ばせてくれる。死ぬ前にこれほど狂喜で満ち溢れた人間は世界でも俺くらいだろう。
身体が水に叩きつけられ、川底へ沈む。
俺は最後に認めてもらえたのだろうか。全身を包む冷たい死が、俺の腕の中にある生きた温もりを際立たせる。彼女の言う永遠がこれだとしたら、俺はなんて幸せ者なんだ。大往生の末の老衰よりも、息子や孫達に囲まれて見送られるよりも、俺にとってはこれが最も価値を持つ死に方だ。
薄れゆく意識の中、最後に目を薄く開けた。同じタイミングだったのか、陽乃さんも細めた目で俺を見ていた。息も出来ず、体は冷えていくばかりだが、俺達は確かに笑いあった。
満足して目を閉じる直前、あることに気付いた。いや、気付けたと言うべきか。
──彼女は泣いていた。涙を見たわけでも、嗚咽を聞いたわけでもない。しかし泣いたと確信した理由は、彼女がこれまでにないほど嬉しそうに笑っていたから。涙を流す理由なんて、これだけで充分だろう。
──ほら、やっぱり泣けるじゃないですか。
──君のおかげだよ。ありがとう。
──貴方と出逢えて、貴方と死ねて本当に良かった。
──……それはこっちの台詞。愛してるよ、八幡君。
そして俺達は、その最高の一時を永遠のものへと昇華させた。