エルフナインと共存しているキャロルが命題の答えを求めるのに自分がすべきことを見つけたりするお話です。
拙作『カノン』の後日譚です。
https://syosetu.org/novel/161102/
(初出:2016/03/06)(他サイトと同時投稿です)
エルフナインと共存しているキャロルが命題の答えを求めるのに自分がすべきことを見つけたりするお話です。
拙作『カノン』の後日譚です。
https://syosetu.org/novel/161102/
(初出:2016/03/06)(他サイトと同時投稿です)
そんな夢を見ていた。
はずだった。
「キャロルちゃーん」
夢が現実になる瞬間とは、このことを言うのだろうか。ただし夢は夢でも将来に実現を願う方の夢ではなく、睡眠中に見る方の夢で。
夢の中だったはずの視点が現実の自分の視点になるという体験した人間は、今までに果たしてこの世に何人いたことだろう。その内の一人になったと、否応なく自覚させられた。
握ろうと思えば握られる手。後退さろうと思えば後ろに踏み出せる足。目をどこに向けるのも自由で、周囲に配置されている機器のかすかな動作音も、室内の乾き気味な空気の質感も、肌に触れる衣服の感触も、全てが直接的に感じられる。
紛れも無く、自分が自分自身だった。
「あっ、ごめん間違えちゃった。エルフナインちゃんー」
視界の外で相変わらずの能天気声の持ち主が身動ぎする気配がした。たぶん頭でも掻きながら言ったのだろう。
いつものようにラボへ顔を見せに入ってきて、開口一番に名を間違えて呼んだ立花響の暢気な口調とは対照的に、こちらは混乱の局地に陥っていた。
疑問がとめどなく頭の中を駆け巡る。
何故、どうして自分は――キャロル・マールス・ディーンハイムは、自分の躯体に戻っている?
「本、落ちたよ?」
動揺のあまり、棚から取り出してその場で内容を確かめていた分厚い古書を手から滑り落としていたことを失念していた。歩み寄って拾い上げようとした立花響より先にキャロルはそれを拾い上げ、書棚に戻して戸を閉じる。横顔に感じる視線から逃れるように立花響に背を向けた。
「どうかした? キャロルちゃん、……あ、」
また間違えた、とごまかすように笑いながら呟くのが背後から聞こえる。
何がどうしてこんなことになったのか。早急に原因を推察する必要があったが、それより先に。
「……その名前で呼ぶのはやめろ」
立花響に自分の名を呼ばせるのを止めさせるのが先決だった。名を呼ばれるたびに意識がよりはっきりしていくかのような感覚がある。
背を向けたまま背後の立花響へ向けて低く呟くように言うと、出た声は紛うこと無く、誰でもない自分自身の声そのものだった。
「え? その声……キャロルちゃん?」
「っ、やめろと言っている……!」
言ったそばから反復されて思わず声を荒げそうになったが、堪えて再度抑えた口調で低く言う。
立花響は故意ではなく、久方ぶりに”キャロルの”声を耳にしてその驚きゆえだったのだろうが、名を呼ばれるたび意識はより定着するかのようで気が気ではない。
焦りが募る。だが立花響は、そんな事情など知る由もなく。
「キャロルちゃんなの!?」
驚きに満ちたその声色に制止は逆効果だったと悟った。だがもう遅い。背後から伸ばされた手に、手を握られる。
肩が跳ね、反射的に身体が振り向く。頭一つ分、高い位置にある顔を見上げることになって。
琥珀色の瞳と、目が合った。
「ぅ……」
目を見開き、驚きの表情で立花響は固まっていた。そしてややもすると、その顔はキャロルの見ている目の前でみるみるうちに別の色へと塗り変わっていった。
その色の名は、喜色という。
ある種の予感が閃きのように降りてくる。自己防衛本能が反射的に躯体を後退りさせるも、背後は錬金術器具の収納棚だった。
「キャロルちゃんっ!!」
「うわあっ!」
予感の通りに、立花響はがばあっと腕の中へキャロルを捕獲してきた。
「もう二度と会えないと思ってた……! よかった、居たんだね! もう一度会えてうれしいよー!」
「や、やめっ……」
苦しいほどきつく抱きしめられて、顔は肩口に埋まり、頭には何度も頬ずりをされた。
抵抗を試みるも、感激しきりに抱きついてくる立花響には何の影響も及ぼせない。
ままだ、とばかりに。苦しいついでに目を瞑った。胸中でエルフナインへの呼びかけを試みる。自我を戻す必要があった。
だがエルフナインからの応答はおろか気配すらも感じられない。そもそも今のこの状態は同化して以来初めて遭遇する現象で、念じたところでこちらの声が届くかもわからなかった。
この状況を打破できる可能性があるとすれば、それはおそらく――眠り。
心象の内に築かれたシャトーで日ごと、眠るごとに行われる二自我の逢瀬。そこでならエルフナインの自我と見えることができるかもしれない。
だがそれには。
「離せ、落ち着け、話を聞けっ!」
まずは二度と離さんとばかりに滅茶苦茶に抱きついてくる立花響をどうにかする必要があった。
肩口に埋もれる口を懸命に動かしくぐもった声で訴えるも、嬉々として繰り返される頬ずりが止まることはなかった。肩に腕を突っ張って引き剥がそうとするがかなわず、キュロットのサスペンダーをひっぱったり背中を叩いたりを何度かした後、ようやく立花響は名残惜しげにキャロルを解放した。
けれども手だけは決して逃すまいとするかのように離さず掴んだまま。それにも文句を言いたかったが、それより。
「なんで? どうして? なんでキャロルちゃんなの? どうなってるの?」
感激のあまりか前のめりになって連発してくるこの問い掛けを止めさせるのが先に違いなかった。うるさくてかなわない。事情を話すまで止まらないだろう。仕方なく、溜息の後にキャロルは口を開く。
「……お前の言った通り、オレは躯体の奥底で眠って居た。エルフナインの消えゆく命をオレが掬い上げたとき、あいつは消えゆくオレの意識を――想い出を掬い上げたのだ」
「それじゃ、エルフナインちゃんがいつか言っていた、キャロルちゃんと夢で会っているっていう話は」
「そのままの意味だ。エルフナインの自覚は薄いようだがな。普段オレは深層意識の底で眠っているが、お前の存在を認識すると無意識的に意識が浮上しやすくなる。そこへ言い間違いとは言えお前がオレの名を呼ぶことで、エルフナインとの意識の入れ替わりが起きるなどとは……予想だにしなかった」
ヒトを遥かに上回って膨大な想い出の保持を可能とするこの躯体とはいえ、複数自我を共存させる運用などしたことがなく、想定外の事態の予測など当然付くはずもなかった。
「わたしが……?」
首が傾げられて、亜麻色の短い髪が揺れる。
奇跡の体現者、立花響。
父の遺したほんとうの命題、人と人が分かり合うという命題の答えのかたちに最も近いと予感する者。存在を近くに感じるとき無意識的に意識が浮上してしまうのは、想いを拳に束ねるその姿が無限に輝く太陽のようで眩しいからかもしれない――などとは、当人に向かってなど誰が言えるものか。
見つめてくる琥珀の瞳から目を逸らして疑問を黙殺していると、立花響ははっとした顔で問うてくる。
「エルフナインちゃんはどうなったの?」
「おそらく、今はあいつの方が眠りについているのだろう。オレが就眠することでエルフナインを戻すことができるかもしれん」
自分が普段そうであるように今頃はシャトーで眠りこけているのかもしれない。もしそうであるなら叩き起こしてやる。内心でそう意気込む一方で、立花響に釘を刺しておくことを忘れない。
「このことは誰にも口外するな」
「? みんなには内緒に、ってこと?」
立花響は首を傾げ、疑問の答えを求めるように視線を投げかけてくる。やはり、今後起こりうる事態の予測が付いていない。
「オレは世界を壊そうとした大罪人だ。オレがどうなろうとはかまいはしないが、この世界で生きたいと願うエルフナインの立場を危うくしたくないなら、内密にしておけ」
東京の中心地の一帯を破壊せしめた敵の首魁が残存していたと分かれば、周囲はエルフナインへの対応を変えざるを得なくなるだろう。S.O.N.G.にはこの国の中枢に後ろ盾があるとはいえ、国の内外に発覚すれば誰に何を衝かれるかわからない。
「そっか、なるほど……それなら……」
立花響は顎に手を当ててしきりに頷き、その姿は考え事でも始めた趣だった。理解を深めでもしているのだろうか。放っておけばこのまま考えに沈んで動かなくなりそうで、さっさと出て行かせた方が良さそうだった。
「オレはこれから眠る。理解できたのなら、お前は――」
「つまり、共犯ってことだね!」
帰れ、と続けようとしたところへ突拍子もない言葉を被せられて、思わず面食らった。
「……関与という意味において、そう言えなくもないというだけだ」
気を取り直し、同意はしないが合っている語義だけ肯定してやった。だがその語を持ちだして何が言いたいのか。キャロルが問わずとも、立花響はうんうんと頷いた後、勝手に話し始めた。
「じゃあ、秘密を守る代わりにキャロルちゃんにしてほしいことがあるんだけど」
取引、というわけらしかった。しかし何が「じゃあ」なのかわからない。話の前後が繋がっていない。
共犯と言ったにも関わらず取引を持ちかける自体がおかしいのだが、立花響はそれに気付かずかかまわずか、背を屈め目線を同じ高さにしてこちらと覗き込んでくる。
「それはね――」
琥珀の瞳からいつも湛えられている能天気な光が失せて、目は不穏に細まった。
警戒で自然と顎が引かれる。立花響の視線を受け止める。共犯の語義はともかく、内密にしたい事柄を抱えるこちら方が立場は弱い。何事かを要求されればそれが何であれ呑まざるを得ない状況だった。
何を求められるのか、頭の中をあらゆる想定が駆け巡る。身体が強張って、一秒が一分にも長く感じられる。そんな中で次句を待っていると。
据わっていた立花響の目が、突如、にこっとほころんだ。
「わたしとデートしよう、キャロルちゃん!」
「は?」
最悪の想定を幾通りも思い描いていた思考はものの見事に停止して、理解不可を呈するシンプルな語が思わず口を衝いて出た。
「共犯を記念して、ってことで。どうかな、今から!」
両手を胸の高さで握られる。思考が止まっている間にか、両手はいつの間にか立花響に取られていた。立花響は瞳を輝かせながら、二の句を告げられないでいるキャロルに続ける。
「未来はピアノのレッスンでいないし、寮に帰っても一人でテレビ見るか課題やるかしかすることなくって、ちょうど暇だったんだー」
弾むような声色で明かされた動機は。実に利己的かつ、些細なものだった。
「……要するに、お前の暇つぶしの相手をしろと」
「だめかな?」
意気込んで、熱意すら宿っているかのような瞳が、伺い立てるように見つめてくる。
何を要求されるかと思えば、どこまでも呆れるくらいに能天気な要求で、透かされた肩がかくりと落ちた。同時に悟るものもあって、溜息も出た。
「……どうせオレに拒否権はないのだろう」
先に考え及んだ通り。秘密を握られた立場である以上、要求は何であれ呑まざるを得ないのだった。
「ふふっ、決まりだね! それじゃあ行こうっ!」
立花響は右手に持参していたバッグを、左手にこちらの手を握って。
それに手引かれるまま、ラボを出るほかなかった。
S.O.N.G.本部は海洋で大破し藻屑と消えた艦の代わりに予備艦が与えられ、既に以前の様相を取り戻していた。
エルフナインは重要参考人兼協力者兼重要聖遺物に準じる存在として、事変の以後から日本政府の超法規的措置によりS.O.N.G.職員に加えられている。そのことはエルフナインより日々複写される想い出によって既にキャロルの知るところで、同様に本部の区画構造なども想い出の共有によって把握していた。
事変のさなかに急遽設えられた錬金術ラボは医療区画の一画にあり、そこから人目を避けて外へ出るのに、手引く立花響が人けがないルートを選んでいるのはわかっていた。が。
往く廊下を見知った顔が一人、曲がり角の向こうからやってくるのが見えた。
発令所でエルフナインと共に任務に就いているオペレータの一人、藤尭朔也。
「うわわ、藤尭さんだ……!」
横を歩く立花響が狼狽した小声を上げる。廊下は一本道で、横道も入れる部屋も何もないため、すれ違うほかなかった。
立花響が身体の影になるようさりげなく誘導してくるのに、キャロルは抗わずそれに従って左後ろの位置に控える。
藤尭朔也との間が話し声の届く距離にまで縮まって、立花響はぎくしゃくとぎこちなく右手を上げた。
「こ、こんにちはー藤尭さん」
「やあ響ちゃん、今帰り?」
「はいっ、今日は師匠に借りてた映画のディスクを返しに来ただけなのでっ」
あくせくとした仕草に力んだ口調。却って疑いを招きそうなそんな所作に呆れるも、こちらもそれを顔に出さないように努めなければならなかった。
「そうか。エルフナイン、今日はもう上がりか。響ちゃんと一緒に出かけるのか?」
藤尭朔也はエルフナインを年の離れた妹のように見ているふしがある。そんないつもの調子で、キャロルにも気さくに声をかけてきた。
立花響の背筋がぴんと跳ねるように伸びて、握る手ににわかに力が篭められる。立花響の後ろに隠れては逆に怪しまれる。会釈に紛れて死角で隠れるよう、疑われない程度に顔をうつむき加減にした。
「はい、お先に失礼します」
「おう、また明日……ん? 声がいつもと……エルフナイン?」
背を屈めてキャロルを覗き込もうとしてきた藤尭朔也を遮るように、立花響は横に半歩ずれて間に立った。
「あ、あははっ、こ、声変りしちゃったのかなーなんてあはははは! さあいくよーキャロルちゃん、じゃなくてエルフナインちゃんっ、遊ぶ時間がなくなっちゃうう!」
言い繕いをまくし立てるように口にしながら、立花響はキャロルの手を引いて足早にその場を辞した。
藤尭朔也がやってきた角を曲がったところで、ひたりと壁に背を付けてそうっと後ろを覗き込む。そして安堵したように息を吐いて、身体の力を抜いた。何事も無く歩き去る藤尭朔也の背中でも見えたのだろう。
「はぁぁ、あぶなかったぁ……キャロルちゃんの声、エルフナインちゃんの声にぜんぜん似てなくてびっくりだよ」
「状況を作り出したのは、そもそも誰だと思っている」
こちらの手落ちかのような物言いに反発を覚えて言い返す。
「本人だからそっくりに喋れると思ったのにぃ」
「それができるのならお前がラボに入ってきた時にやっている」
「あ、それもそうか」
ラボでのやりとりを思い出してか、立花響は合点がいったという顔を浮かべた。
「自我が――電気信号が異なれば生体電流のパターンも異なる。故に躯体の声帯の動かし方が違えば必然、声は異なるものになる」
「電気信号? 生体電流?」
「……同じ躯体でも、自我が異なれば同じ声は出せないということだ」
「つまり、キャロルちゃんはエルフナインちゃんにそっくりになることはできない、その逆もしかりと」
顎を引いて肯定する。生物学の素養がない立花響には結論だけ伝える方が理解が早いようだった。
「そういえば顔の感じも。目もとなんかも、エルフナインちゃんとは違うよねえ」
「それは表情筋に影響がでているせいだろう」
「へええ?」
「っ!」
身を屈めた立花響に急に顔を覗きこまれて、身体が跳ねる思いがした。真正面からじっと見つめられて落ち着かなく、その視線から逃れるように目を伏せ、顎を引いて顔を背けた。
「ここにいればまた顔見知りと遭遇する。外に出るなら移動を優先しろ」
「そうだった、行こうっ」
右手を手引かれて歩き出す。
立花響の意識を他へ逸らすためとはいえ、外出を促すようなことを思わず言ってしまったことにキャロルは内心で歯噛みした。
車両を運転できないS.O.N.G.関係協力者たちは、用意されている送迎車両で、本部潜水艦の接岸地点から港の入口や市街地を行き来している。
立花響が職員に頼んでキャロルたちを運ばせた先は、政府保有の港湾区域から乗用車で半刻満たない距離の、休日の午後の人出で賑わっている市街だった。
「ここへは未来や友達とは何度か来てるんだけど、エルフナインちゃんとはまだ来たこと無いんだ」
車寄せに停めた車から降りて見回した風景は、たしかにエルフナインから複写された想い出の中に見た覚えがないものだった。
「この建物は駅だよ。あっちに見えるのはショッピングモール。そっちの動いてる乗物はバスで、向こうのがモノレールで、」
「現代文明の産物ぐらい把握している」
遮るように言い、児戯のような指差し説明を止めさせた。立花響は何かに気付いたような顔になる。
「そう言われるとエルフナインちゃんも、難しそうな機械とか端末とかを使いこなしてるくらいだもんね」
「当然だ。あいつの知性と知識は全てオレに由来するのだからな」
キャロル自身の数百年に及ぶ膨大な想い出は、エルフナインに退避されていた幼少期のものを除いてほぼ全て事変のさなかに焼却されたが、蓄積された知識は無事だった。
記憶には種類がある。
学びとった知識・言語に関する記憶。体得した技能・運動感覚の記憶。
錬金術によって超常の力と変えるために錬成・焼却する想い出とは、そのどちらでもない時空間に紐付いた個人体験の記憶。文字通り”思い出”であり、本人が本人たりえる拠り所となる、体験の情報である。
想い出の過度の焼却はそれ以外の記憶域に及ぶ。記憶域への経路が焼かれ、知識と言語能力を失い、自我消失の一歩手前でエルフナインの想い出の複写によって救われたのが、つい一ヶ月と半月ほど前。東京の中心地での決戦の数日後、夜の病室での出来事だった。
これまでに学び得た錬金術の理論や技術、聖遺物に関する事柄、世界情勢情報などの記憶は未だ健在。今や知識は共有となったはずだが、エルフナインは記憶を引き出すのに時折手間取っているようだった。記憶への経路が確立されきっていないのは、自我――電気信号の違いによる影響なのかもしれない。
それより。
「……この手はなんだ」
未だしっかりと握られている右手を、胸の高さにまで持ち上げて立花響に見せつけた。錬金術ラボを出て本部の廊下を往き、送迎車両を乗り降りした今まで、ずっと握られたままだった。
「あはは、何でしょうねぇ」
「オレを逃さぬというわけか」
世界を壊そうとし、その寸前まで辿り着いた自我なのだから当然の措置と言える。だが万全を期すなら手繋ぎなど不確実な手段だった。
首に縄でもしておけば良いものを。そんな思いで見上げたままでいると、立花響はごまかし笑いだったのが眉尻が下がり、憂いの面持ちとなった。
「だってキャロルちゃん、すぐ死のうとするから……港で初めて戦った後とか、新宿で最後に戦った時だって……」
「どういう心配だそれは」
エルフナインからの想い出の複写で知っている。たしかにキャロルは、イグナイトモジュールを得た旧二課の装者と交戦して最後、自害した。新宿での決戦の終局でも、落下するのを救おうと伸ばされた立花響の手を振りほどいて死を選ぼうとした。
だが現在とは情勢も状況も全く異なっている。なのにそれを今に持ちだして何だというのか。立花響の思考は理解し難い。思わず溜息をつく。
「予備躯体もないのに簡単に死を選べるか。この躯体はもはやオレ一人のものではないのだ、それを損なうような真似などできようはずがない」
「あ……そうだよね!」
ハの字眉だったのが瞬く間に明るい表情になり、笑顔を取り戻した。先刻の応えで安堵したらしい。なんとも単純、と内心で呆れる。
繋ぐ手に力が篭められて、ぎゅっと握られた。
「エルフナインちゃんのためにも、迷子になったり転んで怪我したり、悪い人に連れていかれたりしないよう、お姉ちゃんと手を繋ごうね!」
「子供扱いするなっ」
見た目相応に子供扱いされることの腹立たしさを久方ぶりに味わった。いつもの能天気なゆるい笑顔にすっかり立ち戻ったのを見て、なおさらに釈然としないものを覚える。
右手は未だ立花響の左手に繋がれたまま。この調子では振り解いてもどうせしつこく繋いでくることが想像に容易い。脱力感と諦観に苛まれて、好きにさせることにした。
「――でもねぇ、」
手引かれてショッピングモールに向かって歩き出し、しばらく経った頃だった。顔を往く前方に向けたままの立花響から、独り言の趣の呟きが聞こえたのは。耳をそばだてると。
「迷子にならないか心配なのは、本当なんだよね――」
聞き取れたのはそんな呟きだった。意味深長に感じるものの、気付かれぬよう密かに目線だけで見上げたその横顔からは、何も読み取れなかった。
着いた先は三層ほどが吹き抜け構造になっている巨大な建造物の地上層だった。
天窓からの自然光と照明によって空間は昼間のように明るく、壁沿いには様々に独自色を打ち出している主に服飾の店舗が軒を連ねていて、それに囲まれるようにフロアの中央には観葉植物やベンチが中庭のように設えられている。建物の構造的にその奥にフロアはまだ続いているようだったが、建物内部の広大さと賑わう人出の多さのおかげで端までを見通せない。
「キャロルちゃん、これは知ってるかなー?」
わざとらしい意地の悪そうな顔と声で立花響が傍らを指し示してみせたのは、入口からフロアを歩き中庭の向こう側へ差し掛かった頃だった。
角に位置する店舗の、広めに取られた区画沿いに並べられている筐体。立花響の背丈より高い、大型のガラス張りケースのように見えるそれの中には小型のぬいぐるみや人形、商品の小箱が山積みになっている。店先だけでなく店舗の中にも同じような筐体がいくつも設置されていた。
キャロルの保持する想い出の中にこれらに関する記憶はない。類推すべく眺めて観察していると、しばらくして立花響は含み笑いをしながらバッグから端末を取り出した。それをガラスケースの前面にある腰高のパネルにかざすと筐体から電子音が鳴って、続けて軽妙なメロディが流れだす。
「あの掴むやつをこのボタンで動かして、中の物を穴に落とすと貰えるの。クレーンゲームって言うんだよ。ふふん、流石にこれは知らなかったでしょー」
得意顔で答えを明らかにしてきたところへ。
「庶民文化の事様など、オレの計画には必要ない些末事だったのでな」
遊具ならば知る由もない。冷ややかに言ってやると、立花響は困ったような笑いを浮かべた。
「さ、些末事……キャロルちゃん難しい言葉で手厳しい……人生に余興は必要だよ?」
「そう言うお前は余興のみに彩られた人生を望んでいそうだな」
能天気な楽天家が考えていそうなことを突き付けてやると、立花響は目に見えてぎくりと身体を強張らせた。
「べ、べつに勉強してないわけじゃないよっ? 未来に言われたらやってるしっ?」
「人に言われてようやく学ぶというその姿勢が既に、享楽的な人生を送りたいという願望の表れではないのか」
「うぐぅっ」
図星を突かれてか、立花響は身を反らせた。
「うう、掘った墓穴が深くなるばかりだよぅ……これ以上、深くするよりもー!」
反論に事欠いたのをごまかすかのように立花響は勢い良く筐体に振り向いてパネルのボタンを叩き押した。ケース内の天井から伸びる鉤爪の装置が操作に連動して、緩やかな一定速度で動き出す。任意の場所で止まって降ろされた爪は先端で小さなマスコット人形を掠ったものの、揺らすだけに留まって虚しく空を掴み、元の高さに上昇して戻っていった。
「あああ、だめだった……なんの、もう一回!」
立花響が端末をパネルにかざすと再び電子音が鳴って、大ぶりな作りの操作ボタンが操作可能を示す点灯をする。
「今度こそ!」「次こそ!」「もっかい!」
そんな声と電子音とを交互に繰り返すこと数回。立花響が落とそうと狙っているらしい人形は、それまでの挑戦で穴の近くまで移動はさせられたものの、そこから動かせなくなっていた。向きが固定されている鉤爪では触れにくい位置にある。
「たぶんあともーちょっとなんだよ。あそこにうまくひっかかればなあ……アームが弱いのかなぁ……」
ガラス越しの人形を恨めしそうに見やりながら立花響がぶつぶつと泣き言をこぼす。
埒は明きそうにない。諦めそうにもない。となると取る手立ては他にない。
「貸してみろ」
手を貸すというつもりはないが、うだうだしてる姿を延々と見せられているよりはよほど良いと考えた。
悄気げるあまり気が回らなくなっているのか、意識なく場所を明け渡した立花響に替わってパネルの前に立つ。操作の様子を何度も見せられたおかげで操作感覚は既に把握していた。ボタンを押してクレーンを動かし、立花響が狙っている人形とは別の、少し離れた位置で半ば埋もれかけている人形を爪にひっかける。戻るクレーンに引きずられるそれはルート上にある目当ての人形にぶつかって爪から外れたが、目当ての人形は穴に落ちた。かたん、と軽い物体の落ちる音が足元に立つ。
目当ての人形を直接クレーンで狙う以外の手段があることは、周囲環境を見回してよく観察すれば自ずと気付けるはずだった。立花響は対象物だけを真っ直ぐに注視するあまり、視野狭窄に陥っていたのだろう。
ただ――アームの握力、人形の重量と素材の摩擦係数を眺めるうちに類推把握するのは、完璧以上に完成された躯体ではない、通常のヒトである立花響には難しいことかもしれない。
取出口から人形を拾い上げる。
「これでいいのだろう」
立花響に差し出す。けれど立花響は人形に手を伸ばそうとせず、強張った表情でそれを凝視するばかりだった。
「……す、」
立花響の口からかすかに呟きが漏れる。聞き取れなくて首を傾げて顔を見上げると、その瞬間、立花響の顔がぱっと満面の笑顔になった。既視感ある予感が降りてくるも、遅かった。再び、飛びつくようにがばっと抱きつかれた。
「すごいすごい! キャロルちゃんすごーい!!」
「っ~~!」
力いっぱい抱き締めながら、笑いながら頬ずりしてくる。そのはしゃぎぶりは衆目を引いて、通りがかりの客たちがちらちらとこちらへ視線を投げかけてくる。
「いい、加減に、しろっ……!」
肩に腕をつっぱり、背中の服を引っ張る。立花響をどうにか引き剥がせたのは、感激の伝達がひとしきり済んでからだった。
「それより、早く受け取れ」
ワンピースの乱れを直してから、未だ笑顔でいる立花響に景品の人形を差し出した。だが立花響は顔を左右し、キャロルの手を押し戻す。
「ううん、それはキャロルちゃんの。もともとキャロルちゃんに取ってあげようと思ってたんだ」
心境に複雑なものが光陰のように差した。自分にだったとは思い依らなくて、思わず手中の人形に目を落としそれを見つめた。
「ここにチェーンがついてるから、今はこうしてつけてたらいいんじゃないかな」
立花響は人形の頭頂部に作り付けられたチェーンを解き、キャロルの左手首に巻いて再び留めた。沈黙を手持ちに困りあぐねていると捉えたようだ。
銀色のボールチェーンは手首に程よい長さだった。手首に下げられた人形を見下ろす。どこかで見覚えがある。
記憶を手繰ると、エルフナインの想い出に見た、立花響と同じ学院に通うイチイバルの装者が鞄に付けているものと似ていた。こちらのは地がベージュ色で、リボンは首に巻かれ、長い耳ではなくクマのような丸い耳を持つなどの違いはあるが、ベースのデザインや大きさが大体同じだ。類似品なのだろう。
抵抗したところで問答になって面倒な思いをするだろうことが容易に想像できたので、そのままにすることにした。
立花響は笑顔のままでしきりに頷いて再びこちらの手を引いて店を後にした。なにやら満足がいったのか、遊戯はもういいらしいと見えた。
姿鏡に全身が映り込む。
空気を孕んで自然と持ち上がる、少々クセのある襟足までの薄色の金髪。
蒼と菫の取り合わさった瞳の載る、幼い顔貌。
齢を十数える程度の、白のワンピースに包まれた子供の体躯。
赤い衣を纏っていたかつて自分は、ここにない。
赤の衣は、己が完成された存在であることの自負だった。
錬金術の始祖ヘルメス曰く、『自己を神と等しくしないなら、神を和解することはできない』。
錬金術の究極とは金の精製に代表される物質の自由錬成ではない。それらは目的に至るための手段の研究の一過程に過ぎず、錬金術が真に目指したものは、病や死がある不完全な状態である人間を、それらのない完成された存在にすることである。
人間の完成とはすなわち、神と同等の存在になること。そうして初めて神の傍に侍らうことが出来、和解を乞い、宇宙と調和することが古来の創始期よりの錬金術の目指す所だった。
世界を識る――世界を解剖して分析するという大業、世界の全てを暴いてチフォージュ・シャトーに記す万象黙示録の完成はヒトの身ではかなわぬ覇業。なればこそ、ホムンクルスによる身体の改良と貯蔵想い出の複写による自己保存にて不死を実現させた、病を得ず超常の力を操るヒトを越えた存在へと至って、父より託された命題に挑むこととした。
錬金術の最終目的とされる賢者の石の錬成とは人間の神化の暗喩でもある。完成された賢者の石の象徴、赤き衣の王たる存在に至ったと自負し、自己の人称をもそれに沿って改めもした。
けれども、結果は既に知る通り。
シャトーは大破し、貯蔵していた四百年余の想い出は失われ、不死性を失い超常の力をも行使できない自分は今や、完成された存在ではなくなった。
想い出は焼却し尽くされ、長年据え置かれた物が除かれた後に残す痕跡のように、そこに何かがあったという感覚だけが残されているばかり。
数百年前、中世の時代に欧州で錬金術師の父と共に暮らした想い出。
その父を資格なき奇跡の代行者であるとして衆愚によって焚刑とされた想い出。
これらの父の想い出はあわよくばの外部退避のために覚醒前のエルフナインに予め複写していたもので、次に古い記憶はエルフナインから見た己の姿だった。
エルフナインより複写された想い出によって、燃え残っていたらしい想い出からいくらか自分自身の記憶の断片を拾い出せている。
オートスコアラーたち。装者たち。
東京の中心地での戦い。
碧の獅子機から投げ出されての墜落。呪われた旋律を纏った奇跡。父の幻影。大爆発。
放浪の末に行き着いた深夜の病室――
数百年に渡る自分自身の想い出には膨大な欠落がある。
何かのきっかけがあれば記憶の断片をさらに拾い上げることができるかもしれない。だがその欠落を、取り戻したいと思っていない自分がいる。
研鑽によって培った叡智を世と人のために惜しみなく奮った父を、資格なき奇跡の代行として拒絶した世界。憎悪に彩られていただろう記憶を失ってもなお、父を排除した人間によって連綿と紡がれたこの世界を、自らの身を省みることなく信じたエルフナインのように信じることができない。
父より託されたほんとうの命題とは、人と人が分かり合うことだとエルフナインは言う。
人と人は分かり合えると、立花響は言う。
立花響が照らし出すかもしれない命題の答えのかたちを見届けるのに、”ヒト”ではなく”人”の間に横たわるものを見出すのに。神と同等である必要はなく、むしろ必要なのは、人と同等の目線の高さなのかもしれなかった。
不死性を失い、超常の力を扱えない今の自分は、賢者の石の錬成過程でいうところの完全に至る前の不完全の段階、白化(アルベド)に違いない。
不完全の躯体に生まれついた廃棄躯体十一号(Elf-Nein)が選んで纏ったこの白の衣は、今の自分に似つかわしい。
「キャロルちゃん! これどうかなっ!?」
立花響がハンガーの付いた服を数着抱えて戻ってきた。キャロルは子供向けの服飾店の中の一角にいた。不要だと伝えたにもかかわらず、姿鏡のあるここで待つように言い置いた後、立花響はそこかしこに服を物色しに行っていた。
「そういえばキャロルちゃんってワンピも靴も赤だったよね。赤が良かった?」
立花響が窺うように尋ねてくるのを、顔を左右にする。
「いいや。それ以外の色がいい」
赤の衣を纏うに能う、必要はない。今も、これからも。
……と、立花響が何故か、驚いたような歓喜の声を上げた。
「今いいって言った? 別の色ならいいってこと? この服気に入った!?」
「っ、そういう意味ではない」
衣服の肯定に聞こえる物言いをしてしまったと気付く。即座に否定するも立花響の喜色は引くことがなかった。
「いいんだよ遠慮しないで! たぶんここのラック一列全部買ってもありあまるくらいお手当がたしか口座に貯まってたはずだからこの際それ使ってお姉ちゃんが何でも買ったげるよ! 何でも言って!」
「誰が誰のお姉ちゃんだ……第一、お前よりオレの方が年上だ。それも世紀の単位でだ」
「キャロルちゃん、今お姉ちゃんって……!? なんと聞こえのいい言葉かー! もう一回言って!? もう一回!!」
「言うか!」
車を降りた後まで続けていた手繋ぎを指摘した時も思ったが、立花響は子供に姉扱いされたい願望でもあるのだろうか。さっぱりわからない。
この命題は簡単に解き明かせないばかりか、関われば思考の迷宮に陥って出ることがかなわなくなりそうな気がした。
その後にも店舗を何軒か連れ回された。立花響が衣服や装飾品を買い与えてこようとするのを固辞し、エルフナインとやれと逸らして収め。雑貨屋を覗き、施設内の露店で菓子の買い食いに付き合わされるなどして、その後。
ショッピングモールを出て、丘上の高台へと歩いて来ていた。
車道沿いだが広く取られた歩道は”海の見える”と称された公園への遊歩道となっている。斜面側の柵の向こうは樹々の高さが抑えられ、街を見下ろせるくらいに見晴らしが良いせいか、市街の外れにも関わらずそこかしこに散策する者が散見される。
キャロルはその一処に留まって市街の向こうに見える港と、そのさらに向こうに見える霞む水平線を眺めていた。
この国で真夏となる月は既に過ぎたものの、日中は未だ蒸し暑い。けれども今のように陽の傾いた時間帯ともなると日差しとともにそれも落ち着く。展望から吹いて肌を撫で通り抜けていく風は案外涼しく、ゆるやかな坂を歩き続けて体温の上がった身体に心地良かった。
人工物の匂い、草木の匂い。そしてかすかに潮の匂い。全身に風を直に感じるのは久方ぶりに思える。一ヶ月以上もの間、躯体を得ていなかったというせいもあるがそれ以前、複写された想い出の中の記憶によると事変以前の自分はほとんどの時間をシャトーの中で過ごしていたようだったから、なおさらなのだろう。
「キャロルちゃん、疲れてない?」
右隣で同じように展望を眺めていた立花響が言う。
「疲れが出るとしたらお前の方だろう。この躯体はヒトのそれより頑健だ、お前にだって心当たりがあるはずだ」
「あー……それもそう、かな?」
立花響は眉尻を下げて曖昧な笑いを浮かべる。事変の最中の数度に渡る自分との交戦を思い出したようだった。
この躯体は元来、同等年齢のヒトの子供と身体能力は同程度でも耐久度や五感、持久力で優る。東京の中心地でシンフォギアを纏った立花響と打ち合い、参重層術式防護を破られて拳を受けたときには、本部でモニター越しに戦いを見守っていたエルフナインの想い出から察するに、想い出を焼却した力で何らかの耐衝撃手段を予め身体に講じていたのだろう。でなければいくら頑健な躯体とはいえ、無事で済んでいなかった。
「それより。いいのか、オレを連れ出していて」
右隣の頭一つ高い位置にある顔を見上げてキャロルが言うと、立花響はきょとんとした表情で見返してきた。
「オレは世界への復讐を諦めていず、次の瞬間にお前の手を振り解いて逃走し、どこぞで世界の分解を再び企むやもしれぬのだぞ」
超常の脅威から人類を守護する立場のS.O.N.G.と装者――立花響にとって、自分は消失したはずの敵の首魁だった。馴れ合える立場ではない。無辜のエルフナインとは違い、世界に立ちはだかった自分はそうなることを許されない。
戦いの記憶を思い返したついでに、能天気にも認識を薄れさせていそうな立花響にそれへ意識を向けさせたのだった。
案の定、右手を掴む立花響の手に力が篭もった。
逃さぬよう繋いだままの手を強く握り締め、振り解けないようにするだろう。そして次は、本部へ戻るべく帰路を辿ろうとするだろう。
だが。
立花響は、にっと、清々しい笑みを浮かべた。
「そのときは、またわたしが止めるよ」
「っ……」
言葉に窮して思わず押し黙る。少しの間があった後、立花響は一つ瞬き、そして続けた。
「それに、キャロルちゃんが壊してしまいたくなるような世界にはしない……って言ってもわたしにできることなんて些細なことばかりで……ううん、もしかしたらなんにもないかもしれない。でも、胸の歌を伝えることができれば。世界をひとつにするのに力なんか必要ない、言葉を越えて人と人は分かり合えるんだってこと、きっと伝わるって信じてる」
時折途切れさせながらたどたどしく告げてきたそれは、夢の中でキャロルに会ったら伝えて欲しいと立花響がエルフナインに託した言葉そのものだった。
一ヶ月と半月ほど前、夢に見た記憶を思い出す。本部のカフェにて、テーブルの上で包み込むように握られる両手。目を細め、首を少し傾げて、柔く、けれど切なさを伴わせる微笑み。
直接に伝えることができて、伝言よりは上手く想いを言葉に載せられたのか。載せられた想いの分、言葉は重さを増すのだろうか。立花響の言葉は、胸に深く沈むかのような気がした。
「世界を識ることが、キャロルちゃんのお父さんから託された命題だったよね。こうしてさ、世界を体験すれば……自分の目で見て、耳で聴いて、手で触れてみれば、分解なんてしなくても世界を識ることはできなくないかな? あ、もちろんおいしそうなお料理の香りをかいだり味わったりも忘れずにね!」
最後はおどけるように付け足しておいて、立花響はにこやかに笑った。
そしてこのデートの真意が知れた。立花響が自分を外へ連れ出したのはそういうことらしかった。呆れて、重く瞬いた後、息をつく。
「余計なことを」
「そんなこと言わずに。知ってるだけなのと、行ってみたやってみたではきっと違うよ?」
明るく笑う立花響に、それは正真生まれて間もないエルフナインにでも言えと言おうとするも。想い出の焼却で経験の記憶が欠落している自分もエルフナインと大差がなことに気付いて、言葉は喉から出ることはなかった。
「次はあっちのほうに行ってみようよ。わたしもまだ行ったことないんだ」
立花響に手引かれて再び遊歩道を歩き出し、横断歩道のある信号機へと近づいていた。
遊歩道と柵で隔てられている片側一車線の車道は、市街のすぐ外を走るせいか交通量がそれなりにあり、散策中の者が数名、双方側で向こうへ渡るために信号が変わるのを待っている。
車道を挟んだ向こう側の遊歩道には、道沿いに延々と生け垣と樹木を生い茂らせている大きな公園の入口が開けていた。道中の案内看板に書かれた”海の見える”公園とやらがおそらくそれで、立花響はその公園に向かうつもりでショッピングモールからこの高台へと足を向けたのだろう。
世界のどこをどれだけ見て回ったところで。エルフナインのように仕打ちを赦し、世界を信ずることなど到底できるとは思えない。理不尽に殺された父はこの世にもう居ない。時計の砂の逆巻く魔法など、世界のどこにも存在しないのだから。
信号はまだ変わらない。もう間もなく辿り着くそれのそばで立ち止まって、青に変わるのを待つことになる――と、その矢先。
立花響が突然、繋いでいた手を離して前方へ走りだした。
上体を前傾させて全速力で、横断歩道へ目掛けて一直線に歩行者の間を駆け抜ける。
向かう先の横断歩道には、車道を挟んだ向こう側の遊歩道から球体のようなものが転がり出ていた。目を凝らすとそれは西瓜大の玩具のボールで、それの後ろに五、六歳の男児が続く。両手を突き出し闇雲に駆ける様子はボールを追いかけるのに夢中といった体で、周囲が見えていないことが明らかな所作だった。立花響はおそらく、その子供が目に入って。
両側の遊歩道からのボールと立花響の飛び出しに気付いて、こちら側の車道を走るセダンが制動をかける。セダンが停止する地点は横断歩道を過ぎたところだろうが、立花響はその前に向こう側の車道に移動することができるだろうことがキャロルには予測できた。
だが対向車線を走る大型トラックは、制動の挙動が始まっていない。立花響と子供の飛び出しの予兆に気付いていないのか、運転手の反応が遅いのか。仮に制動が始まっていたとしても速度と見かけの車両重量から推察するに、立花響と子供が接触するタイミングで、迫っている大型トラックもそこを通過する。
立花響は子供もろとも大型トラックと衝突すると、躯体の認知能力が予測した。
胸中で舌打ちする。
何故ギアを纏わないのか。衆目か。人群れか。いや、それよりも――歌が、間に合わない。
「っっ!!」
両腕を空に突き上げ、手のひらを天に上向けた。
全力で、全速力で、躯体の内の使えるだけの力を全て錬成する。
とたん、脳天から足の爪先までを、真っ赤に熱せられた鉄芯が貫いたかのような灼熱が走った。
心臓が破裂を錯覚するほど大きく跳ねる。続いて慎みを忘れたように痛いほど激しく脈打ち始め、その鼓動は内側から頭を揺さぶってくる。
眼の奥が熱い。掌が熱い。顔が、首筋が、背中が、腹が、指先までもが。身体の全てに発火したかのような熱を灯され、トラックを捉えたままの視界は赤に染まる。
座標は車体の下に。連桁、ナチュラル、ハンマリング――頭中に描いた翠色の構造式の陣を顕現させ。
風属性の力を開放した。
重力と物理法則に反してトラックが浮き上がる。横断歩道の数メートル先から浮いたそれはジャンプ台を上がったかのような放物線を描き、立花響の頭上を飛び越え、その向こう側へ車体の軋む音とともに着地した。
派手な動きの割に騒音はさほどではない。衝撃も大きめの段差に乗り上げ落ちた程度のものでしかないだろう。そこまでを計算して術を展開させていた。
トラックは断続的に数回ブレーキランプを点灯させたものの、そのまま何事もなかったかのように走り去っていった。道路への飛び出しの遭遇時に制動がなかったことといい、自身に起きたことに驚いて停車しなかったことといい、運転手は居眠りでもしていたのかもしれない。
立花響が駈け出してここまで、十秒にも満たない間の出来事だった。
場に居合わせた十数人の歩行者たちは、たった今目撃した事象に様々にどよめいている。構造式の陣は車体の下にのみ極力目立たぬよう出現させたから、人びとの目には”走行中のトラックが宙に浮いた”現象しか目にしていないはずで、けれども十分に超常的な情景ではあったので驚くに値しただろう。
トラックを対向車線や遊歩道へ進路を逸らすこともできたが、そちらには他の車両や人びとがいて大事故を引き起こすことになる。トラックを浮遊させるなど衆目を驚かせることになるのは分かっていたが、やむを得なかった。
立花響は横断歩道上で受け止めた子供を抱えたまま公園側の遊歩道にいて、他の人びとと同様、呆然とトラックの走り去っていった方向を眺めていた。
痺れた両腕が、肩に垂れ下がる。膝がかくりと折れて、地面に落ちる。ぐらつく視界の中で、立花響が駆け寄ってきた母親らしき女性に子供を渡すのが見えた。
そして車道側を振り向いて、こちらを見やったのが傾いた視界に見えたところで。
目の前が真っ暗になった。
次に目を開いたときには、立花響に抱え起こされていた。
呼吸が全速力で駆け続けた後のように荒いのを自覚する。心臓は未だ激しく脈打ったまま。
「きゅ、救急車……!」
「かま、うなっ……!」
周囲に助けを求めようとした立花響を、袖を掴んで制した。
未だ熱を持って痛み走る目で、琥珀の瞳を見据える。
「そんなものはいいっ……休息すれば、持ち直すっ……」
荒く息をつく合間で、途切れ途切れに伝えると。
「わかった、どこか休めるとこに……!」
立花響はますます眉をひそめて、痛ましい顔で頷いた。
”海の見える”公園とは称される通り、遠くに海が臨める見晴らしの良い展望台を奥に備えた公園だった。
けれど周囲には人けがない。キャロルたちの座るベンチは一段下がったところにある小さな展望台の丘側にあって、人びとは一番高い場所に広く設けられた方の展望台に集中している。立花響は人けのないこちらを選んで自分を抱えて連れてきたのだろうと推察できた。
全身が、四肢が重くて使い物にならない。指一本動かすのも重苦しい。浅く腰掛け、支え難い頭と背を背もたれに預けて、まずは肩でしている荒い呼吸が落ち着くのを待った。
顎が上がって上向いた額に浮く汗を、ハンカチで拭われた。薄目を開けると、視界の左半分に午後の日差しを遮る木陰を背景にする立花響の顔が見えた。心痛の面持ちに申し訳無さの表情が入り混じっているところを見ると、何が起きたのか察しは付いているようだ。
「さっきのって、錬金術の、魔法みたいなやつだよね……?」
「そうだ……だが想い出の焼却ではない、生体エネルギーを、変換錬成しての行使だ……」
「生体エネルギー……」
混迷が加わって立花響はますます不安げな面持ちになる。そうした表情をずっと目の当たりにするのも気疲れるので告げてやることにした。
「要は、体力を、根こそぎ使い果たす術式、ということだ」
想い出の焼却が脳内の電気信号を変換錬成して力と変えることなら、先刻使った術式は躯体に蓄えられている生化学的な代謝のエネルギーの変換錬成。体力を焼却して力と変えた。
万物は全て一なるものからできている。体力を属性の力に変換錬成することはキャロルの究明した錬金術理ならば可能で、だが想い出の焼却より遥かに変換効率が落ちる。ヒトを超越した躯体をもってしても、ハンガーノックに近い状態まで体力を燃やし尽くしてもあの程度の術が限界だった。
生体エネルギーを焼却し過ぎれば生命維持に直接的に支障をきたす。加減を間違えれば心不全、多臓器不全による死の危険もある。だが想い出を焼却すれば、エルフナインがきっと悲しむ。想い出の焼却なしに術を行使しようとすれば、この選択しかあり得なかった。
「オレをまた止めるだの、人と分かり合うだの、言った端からこれでは、先が思いやられるなっ……」
「ごめん……」
顎を引いて見据えながら言ってやると、立花響は眉をハの字にして消沈した。腿の上で両手をこぶしに結び、申し訳無さそうな顔になって言葉を続ける。
「人助けはわたしの趣味みたいなところがあって……困っている人がいたら、助けてあげたい。泣いている子や迷っている子がいたら、手を繋ぎたい、助けたいって思うんだ」
――迷子にならないか心配なのは、本当なんだよね――
モールに向かう途中に聞き取った立花響の呟きが思い起こされた。ずっと離されなかった、繋いだままの右手。
立花響には、自分もまた迷子にでも見えているのだろうか。
「……二度目が、あると思うな……」
「はい、気を付けます……」
両のこぶしを腿の上に置いたまま、立花響は叱られた子どものようにしょんぼりと肩を落として頭をうなだれさせた。
あんなことはそう何度もできない。それに今回はたまたま視認から術の行使までが間に合っただけだ。
立花響は、誰かを助けるためならいつもこんな無茶をしているのだろうか。
無分別に、見境なく。我が身を顧みること無く。
無性に、なぜだか、腹立たしいものを覚えた。
呼吸が落ち着きつつあった。体力の回復具合に意識を凝らそうと目を瞑る。
だが、立花響の次の一言で、すぐに見開くこととなった。
「でもキャロルちゃんのおかげで、人助けをしたわたしも助かった。本当、ありがとう」
身体の重さを、一瞬忘れた。
焚刑に処された父の姿がフラッシュバックのように脳裏を過って。
意識の中心に、すっと、しなやかに芯が通る感覚があった。
人助けで、殺された父。
人助けで、死ななかった立花響。
その違いは。
「……お前は、人助けをして死ぬクチなのか」
真っ直ぐに、見据えて問う。
立花響は唐突な問い掛けに一瞬きょとんとして、けれどもすぐに。
「そんなつもり、ないよ」
困ったような笑みをゆるく浮かべながら答えた。
能天気で楽天的であるくせに、どこまでも貪欲で。全くもって呆れる。
「そのつもりがあったとて、そうはさせぬ」
「え? どういう意――」
「オレは、ここまでだ」
左手で立花響の肩の袖を引っ張る。傾いたところで頬に右手を添え、顔をこちらに向かせて、言葉半ばで軽く開かれたままの唇に、唇を押し付けた。
目を瞑って想い出を走査する。瞼の裏の暗闇に捉えた、上澄みのように漂う今日の想い出を、立花響から採取する。
かくりと、寝落ちるように立花響が気を失う。それをベンチに座らせ直して、その隣へ、力なく傾く上体を支えるために寄り添うようこちらも座った。
想い出の採取でまたも生体エネルギーを消費し、回復しかけた体力を使い果たして活動限界が近かった。重く支えがたくなっている頭を、立花響に寄りかかってその肩に載せる。そうして顔が俯き加減になると、座面に投げ出されている立花響の手が目に入った。
少々、迷う。けれど、左手を持ち上げて。
座面の上の手に、自分のそれを、自分から重ねて握った。
手首に繋がるマスコット人形がころりと転がる。
疲労困憊の躯体は、意識を易々と睡眠に落とし込んでくれた。
二自我の意識の撚り合わせからなる心象のチフォージュ・シャトー。その玉座の間。
エルフナインは座る玉座の片側に身を寄せ、片腕を抱き寄せるようにしながら背もたれに背を預け、顔を俯けた姿勢でいた。
「キャロル……」
気配を察してか、うたた寝から目覚めるように顔を上げて、前に立つキャロルを見やった。
「見ていたのか」
「見ていました」
訳知り顔なエルフナインを目にしてキャロルは息を吐く。そんなことだろうと思った。
普段はキャロルが玉座で眠りにつき、エルフナインの戻る気配で目を覚まし、その後に想い出の複写を行うというのが通例だったが、今は立場が逆だった。
立花響が傍にいるとキャロルの意識は無意識的に浮上する。そして覗き見をするかのごとくその情景を夢に見る。立場を逆にして同じことが起きていたとするなら、エルフナインは先に起きていたことの全容を見知っていることだろう。
「ならばわかるな。あとはお前の良いようにするがいい」
エルフナインが戻るには、立花響から今日の想い出を採集した直後である今が良い時機と言えた。言外にそれを促す。躯体の疲労を利用して睡眠に入ったのはこのためだった。
ともかくこれで元の自我状態に戻ることはできそうだと踏んで、ひとまずの安堵が心中に訪れた。現象の要因に思いを馳せ始める。だがエルフナインの問いかけが、即座にそれを中断させた。
「もういいんですか、キャロル」
その一言には、さまざまに悟るものがあった。
「お前、まさか――」
瞠った目で見据えると、エルフナインは甘い眦の目をかすかに細め、柔く微笑んで頷いた。
「響さんから間違えてキャロルの名前で呼ばれたとき、キミの意識の浮上を感じました。なので、入れ替わりにボクが沈んでみたんです」
エルフナインが恣意的に深層に沈み眠りに就いたせいで、躯体を就寝させ心象の世界でそれを目覚めさせるまで、エルフナインと入れ替わることができなかったのだろう。
躯体の覚醒中、二自我は覚醒か就眠かどちらか一方の状態でしかいられない。玉座に着く自我は眠る。立花響が傍に居て、さらに名を呼ばれることによってキャロルの意識は浮上が強まり、そこを衝いてエルフナインが深層に沈んで就眠したため、まるで椅子取りゲームのように玉座を奪われて覚醒自我が入れ替わり戻れなくなったのだった。
は、と溜息をつく。
「もういいも何も。この世界で生きたいと願ったのはお前だろう」
だというのに、覚醒を譲ろうとするもうひとりの自分が何を考えているのかわからない。
柔和な顔に微笑みを浮かべて、エルフナインは穏やかに言う。
「ボクたちがパパから託された命題は、人と人の間に横たわるものです。ボクの想い出を共有するだけでなく、キャロル自身が直接世界を見聞きして識ることも、命題究明の糧になると思いまして」
「っ……」
その言は奇しくも立花響に同じだった。ならば、それに対する応えも同じ。
「余計な世話だ。お前の生だ、お前が生きろ」
手を払うように振る。エルフナインは困ったような笑みで頷いてから、玉座の間の出口へと向かった。その後姿が大扉の向こうへと消えたのを、元の通りに着いた玉座から見届けた。
人助けで、殺された父。
人助けで、死ななかった立花響。
その違いとは。
父は一人で、立花響はそうではないということ。
父は単独で、研鑽を重ねた錬金術を奮って疫病より村を救った。そして誰にも助けられることなく衆愚によって殺された。異端の烙印を押されどんな境遇に陥ろうとも、殺されるよりは生き延びるべきだった。当時の自分は幼く何の力もなく、焚刑に処される父を逃がすなど到底できなく、助けることができなかった。
だが今は。超常の力こそ扱えなくなったが、知の力がある。
人を助ける者を、助けることができる。
……けれどそれは、命題の答えのかたちを照らし出すまでに、しでかす無謀で勝手にこの世を去られては困るからというだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。絶対にない。
そしてそれを傍で見届けるのは自分ではなく、この世界で生きたいと願ったもうひとりの自分こそがふさわしい。
奏でられる命題の答えのかたち。それを自分はこの玉座で眠り、夢心地に聴かせられるのが似合いだろう――夢想曲のように。
立花響の今日の想い出は採取済みだった。自我の入れ替わりが起きたという記憶はもう持っていないはず。立花響にこちらの名を呼ばれて自我を呼びだされてしまうなどということは、起こり得ないだろう。
玉座の背もたれに背と頭を預け、宙空を仰ぎ見る。
今日は、夢など見ないで眠れそうな気がする。そんな予感とともに、瞼を下ろした。
◇
「響さん、響さん」
声とともに、くいくいと肩の袖を引かれるのを感じる。
薄目から徐々に瞼を開き、右手を振り向いた響が目にしたものは、エルフナインのあどけない顔だった。
「ん……エルフナインちゃん? あれ、わたし……」
目が覚めると、そこはまだ夢の中だった。そう思えてしまうほど、自分の置かれている状況に心当たりが無かった。
きょろきょろとあたりを見回す。その様子を見てかエルフナインは微笑み、説明してくれる。
「ボクと一緒に遊びに来ていて、響さんは眠ってしまったんですよ」
「えっ!? うそ、ごめん!」
予想だにしていなかったことを告げられて、驚くのと同時に、眠ってしまっている間エルフナインを一人にしてしまったことが申し訳なくて、即座に謝った。
いいんです、とエルフナインは顔を左右にする。そして自分たちの座っているベンチの正面、少し離れたところにある小さめの展望台の空を見やった。
「陽も落ちてきたことですし、そろそろ帰りましょうか。今日は楽しかったです」
「う、うん、わたしも楽しかった、よ? ……そうだね、帰ろっか」
にっこりと微笑むエルフナインに、笑顔を曖昧に浮かべて答えることしかできなかった。
ベンチを立って、二人連れ立って矢印看板の示す通りに公園の出口へと歩き出す。
陽はとっくに傾いて、空はうっすらと橙色に染まりかけていた。
展望台を振り返る。この場所は、いつか行こうと思っていた市街外れの公園に違いなかった。いつ、どうやってエルフナインと一緒にここまで来たのか、まるで覚えていない。
けれど。
ここにいたことは、覚えていた。
隣の、エルフナインと同じ姿をした少女に、何をされたのかも。
事変のさなかの出来事が思い起こされる。東京の中心地、都庁前で父と共にキャロルに襲われたときのこと。
キャロルはギアを失った響をすぐに始末しなかった。そのおかげで響は父からギアを受取ってシンフォギアを纏うことができ、ひいてはキャロルの世界の分解する計画を阻止することができた。
あのとき計画通り冷徹に響を攻めていれば、キャロルはフォニックゲインを束ねての対抗ができない装者たちを圧倒し、ファウストローブの力とアルカノイズの大量頒布で世界の分解を完遂させていただろう。
エルフナインが足の止まった響を振り返って、首を傾げて見やってくる。なんでもないと応えて追いつき、横に並んで再び歩きだした。
隣を行くエルフナインに気付かれないよう、こっそりと指先で唇に触れる。
頬が少し熱く感じるのは、残暑の気温のせいでも、歩くことによる体温上昇のせいでもない気がする。
「キャロルちゃんて、ほんと、詰めが甘いよね……」
ごく小さく零された呟きは、誰に聴かれることもなく、夕暮れ時の公園に吹いた風の中に霧散した。
※後日
響「キャロルちゃん! あ、間違えた」
キ「」
一度あることは二度も三度も奇跡も魔法もあるんだよ。
トロイメライ=Traumerei=夢想曲。シューマンの選曲集「子供の情景」のものが有名だとか。
前作『カノン』https://syosetu.org/novel/161102/ を書き終えた頃に思いついた話でした。あのような形で一つの躯体にエルフナインとキャロルが共存するなら、人助けをする響に対してキャロルはわずかでも積極性を持ちうるのかもしれない、などと考えました。
ちゅーはホムンクルスの本能なので軽率にいたされて仕方ないんです。仕方のないことなんです。ここにカ・ディンギルを建てよう。