仕事を辞めたらアイドルに迫られた   作:早見 彼方

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未央イベント1

 時間が止まったように感じた。そう思えるほどの放心状態で、俺は凛に向き合ったまま体と思考を停止させていた。

 休日の午前中。ベンチに座る俺の前には、青い空とその下の公園を背景にした凛。頬を真っ赤に染めて、俺をじっと見続けている。俺が目を見開いたままその視線を受け止め続ける間、俺たちの間に沈黙が横たわった。

 風が吹き、凛の長い黒髪がさらさらと揺れ動いた。

 そこでようやく正気に戻った俺は、思考が停止していたことに気がついた。

「……その」

 何を言おうか考える前に口が開き、声が漏れていた。

 凛は俺の声を聞いたビクッと肩を震わせたが、それは一瞬だけだった。平然とした態度を意図的に保とうとしている。俺に弱いところを見せたくないからなのだろうか。それとも、告白したからには堂々としていようという想いからなのだろうか。

 どちらにしても、強い少女だと思った。

 そんな凛が、俺の唇を奪い、好意を伝えてきた。殴られたかのような強い衝撃が心を襲っていた。今もぐらぐらと心が揺れ、心臓が激しく鼓動している。

「……俺は」

 抑えようとしても鎮まらない精神状態では、俺の思考は上手く働いてくれなかった。同じ処理を何度繰り返して行う機械のように、俺の思考は堂々巡り。

 どうして楓さんも凛も、俺のことを好きと言ってくれるのだろうか。恋愛経験のない俺には、この状況に至るまでの凛達の心の変化がわからなかった。恋愛経験豊富という噂のカリスマアイドル、城ヶ崎(じょうがさき)美嘉(みか)さんのような人ならば容易だろうが、俺には皆目見当もつかなかった。

 俺が凛のことをどう思っているのかも、言葉にできなかった。

 素直にそれを伝えようと思って口を開きかけた俺だったが、凛に機先を制された。

「答えは、今すぐはいらないから」

「え……」

「できればゆっくり考えて。智弘さんがいったい誰のことを好きなのか」

 凛はそこまで言うと、力を抜くように小さく息を吐くと俺に背を向けた。

「り、凛……!」

 歩き出す凛の方向に、ベンチから立ち上がった俺は手を伸ばし、声を放った。だけど、凛は止まらなかった。そのままスタスタと小走りに足を進めたかと思うと、徐々に速度を上げて走り出した。あっという間に公園の外に出ていく。

 凛の姿は見えなくなった。公園には手を伸ばした体勢のまま立ち尽くす俺だけが残された。ちょうど公園には他に誰もいなかったが、誰かがいれば俺は不審な目に晒されていただろう。もっとも、仮にそうなっても、今は気にしている余裕は俺にはなかった。

 俺は手を体の横に降ろし、立ったまま凛が消えた方向を見つめ続けた。

 俺は、どうすればいいんだ。

 楓さんに続いて凛からも想いを伝えられた。勘違いしようのない直球の言葉と態度。思えば、プロデューサー時代の記憶を探ると二人が俺に好意を寄せていると思われる場面は何度かあった。俺はそれを勘違いだと思っていたのだ。アイドルがプロデューサーである俺に好意を寄せるわけはない、と。

 でも、勘違いではなかったことを今になって知らされた。当事者である二人から。

 知ったからには、これまで通りではいけない。凛が言ったように、ゆっくりと考えるべきだ。そして、考えた結果を二人に伝える。それが俺に与えられた使命だと思った。これを放棄しては、男ではないだろう。

 俺は下ろした両手に力を込めて握った。

 男前なアイドル達に負けてはいられない。俺も、男らしくあろうと思った。

 公園を出て、俺は少しの間散歩をしていた。自宅に引きこもってのんびりするよりも、体を動かしていたほうが頭は回る。久しぶりの緩やかな時間を、散歩という健全な行為で楽しみながら思案を巡らせる。

 そもそも、恋愛とは何か。そこまで遡って考えなくてはならないほど、俺は恋愛に疎いわけじゃない。恋愛をテーマにした物事はこの世界に有り触れているし、今まで生きてきた中で接してきたことはある。小説とかドラマとかゲームとか、形は様々だ。そう言えば、とあるゲームで三人の女性の中から妻として一人を選ばなくてはならない場面があったことを思い出す。あの時は、結構悩んだものだ。ちなみに、黒髪の姉御肌な女性を選んだ。

「……って、現実はゲームじゃないんだぞ……」

 創作物を参考にしようとするのは何か違う気がする。しかし、他に参考にできるものがない現状でもある。

「うーん……」

 結局、自分自身と向き合うことが正しいとは思うのだが、どのようにして向き合えばいいのだろうか。経験がないから、どうすればいいのかもわからない。

 我が事ながら女々しくて自己嫌悪を抱いた。

「男らしくありたい……」

「え? プロデューサーが?」

「うん。……って、あれ?」

 自分の呟きに答える声が聞こえ、俺は横に視線を向けた。

 そこにいたのは、活発的な印象を見る者に与える少女がいた。毛先が外側に跳ねた茶髪と、大きな眼が印象的な楽しそうな表情が似合う整った顔。意外に豊満な肉体は動きやすそうな服に包まれていた。

 本田未央。俺が担当していたアイドルだった。

「み、未央……?」

 驚きのあまり、俺は動かしていた足を止めた。

「奇遇だね、プロデューサー。こんなところで何してるの?」

 未央に言われ、俺は周囲を見回す。

 公園から離れて、いつの間にか人通りの多い街中まで歩いてきたらしい。周囲にはそれなりの人がいて、俺の隣には未央がいた。外出中だろうか。楓さんや凛といい、人気アイドルだというのに至って自然体だ。

「って、……待て。ちょっとこっち来て」

「え、わわっ、ぷ、プロデューサー……!?」

 俺は未央の手を引き、近くのビルとビルの間の路地に未央を連れ込んだ。未央を背に庇うように立ち、視線を外に向ける。誰かが未央に気がついて探している様子はない。良かった。人気アイドルの未央がいることはバレていないようだ。

「おーい、プロデューサー」

「ん? 何だ」

「さっきから何してんの?」

「周囲の警戒。プロデューサーとしては、アイドルの身を……」

 そこまで考えて、俺はプロデューサーではないことをまた思い出す。まだプロデューサー時代の考え方が抜けきっていないらしい。外で変装もせずに自然に振る舞うアイドルを見ると、いつもこうだった。

「変わらないね、プロデューサーは。……いや、もうプロデューサーじゃないか。えーと、ともひー?」

「は? ともひー?」

 未央が口にした珍妙な単語に、俺は首を傾げた。

「うん。プロデューサーのあだ名。智弘だから、ともひー」

 未央は色々な人にあだ名をつけている。普通に名前で呼ぶ方が少ないくらいだ。今まではプロデューサーという肩書きが未央にとってのあだ名のようなものだったようだが、俺が仕事を辞めた今となってはそのあだ名もつかえない。未央はそう判断して俺に新たなあだ名をつけたらしい。

 だが、ともひーはどうなのだろうか。

「普通に名前でいいと思う」

「えー、いいと思うんだけどなぁ。このふにゃけた感じがプロデューサーにぴったり」

「俺って、ふにゃけてるの? っていうか、ふにゃけてるって何?」

「さぁ?」

 未央は体ごと横に傾けて、疑問を表現した。

「ノリで会話するのやめてもらえる?」

「あははっ」

 未央は腰に両手を当てて、面白そうに笑った。何がそんなに面白かったのかわからないが、何だか未央の笑い声を久しぶりに聞いた気がした。

「何かこのやりとりが今となっては懐かしいね」

 未央も似たような感想を抱いたらしい。

「辞めてまだ全然時間が経ってないんだけどな」

「そうだよね。まだ、辞めたばかりだもんね」

 未央はどこか遠くを見つめるように視線を逸らした。気のせいでなければ、その眼差しには悲しげな感情が含まれているように思えた。

「それだけ、私の中でともひーの存在が大きかったのかな?」

「未央……」

 何と言葉にしていいのかわからず、俺は困った。未央は大胆不敵に見えて結構繊細な性格だ。たまに言葉に注意しないといけない時がある。

「ねぇ。ともひー、一緒に遊ばない?」

「え? 遊ぶ? 今日、仕事は?」

「今日は早朝に仕事があっただけで、あとは一日休み! いやぁ、まさかモタモタしているうちにともひーの方からのこのこ出向いてくれるなんて、やはり天は未央ちゃんに味方しているようだ! ってことで、はい、これ」

 未央が言いながら肩に下げていた鞄の中へと手を突っ込み、指先で掴んだそれを俺へと手渡してきた。

 未央から託された物を見て、俺はまたしても戸惑った。

「なにこれ、眼鏡?」

 それは、黒縁の分厚い眼鏡だった。度は入っていない伊達眼鏡のようだ。未央と眼鏡という組み合わせが想像できず、俺は少し頭を悩ませた。

「それ、ともひーの分」

 言いながら未央は、鞄の中から縁がオレンジ色の眼鏡を取り出して自分でかけた。似合っているような、そうでもないような。とりあえず、眼鏡をかける未央が新鮮だった。俺の持つ黒縁とどうやら色違いの物のようだ。おそらく、それも度が入っていないのだろう。

 度の入っていない眼鏡が二つ。それはつまり。

「あ、もしかして変装用?」

「うん、貰い物だけどね。ほらっ、行くよ」

 理解したと同時に、俺の腕は未央に引っぱられた。

「あっ、ちょっと待て! ま、まだ眼鏡かけてないっ!」

 言っても未央は止まってはくれず、俺を牽引したまま足早に歩き出した。俺は崩れそうな体勢の中でどうにか足を前に動かしながら、未央から渡された眼鏡をかけた。

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