過去最多の文字数を以て、黒森峰女学園VS聖グロリア―ナ女学院の戦いは終了となります。
間違いなくダージリンは筆者の寵愛を受けたキャラでした。
西住まほにとって、神栖渡里とは神聖不可侵なものである。
かの人の戦車道は誰にも真似することのできず、それ故に誰の目にも輝いて見える。
一度目にすれば誰もが心奪われ、そして誰もが彼の道を歩きたいと思うだろう。
遥か高みを征く、あの人の道を。
西住まほとて、それは例外ではない。
幼少の頃、初めてあの人の戦車道を見た時から今に至るまで、西住まほはずっとあの人の、そしてあの人の戦車道の虜だ。
同じ道を歩きたいと思ったことなんて、もう数えきれない程ある。
けれど西住まほには、それはできなかった。
それは、仕方のないことだ。
悔やんでも悔やんでも悔やみきれないが、西住まほはそれでも割り切った。
男という理由だけで戦車道ができないあの人と同じように、自分にもそういう類のものがあったと、それだけの話なんだと自分に言い聞かせた。
そしていつからだろう。
西住まほは、あの人の戦車道はあの人だけのものであって、誰も手を出してはいけないものだと思うようになった。
それは多分、職人が自分を真似た不出来な贋作を認められないのと似たような感情で、誰よりも本物を近くで見て、誰よりも本物を知るが故に、あの人の戦車道を真似た贋作なんてあってはならない、と。
しかし幸か不幸か、その怒りにも似た感情が発露する事は滅多になかった。
西住流においては、あの人の戦車道は圧倒的な力を誇りながら、あまりにも西住流からかけ離れたもの故に禁忌とされており、例えかの戦車道を知る者でも表に出すことはなかった。
他所においては、そもそも神栖渡里を知る者がいない。
それはそうだ。西住流ならまだしも、そこから一歩出れば彼は公式戦に一度も出たことがない、取るに足らないただの人。
余人には知る由もないだろう。
それでいい、と思った。
誰もあの人のことを知らなくていい。
誰もあの人の戦車道を見なくていい。
そうすれば、まほは
撃てば必中、守りは固く。進む姿に乱れ無し。
鉄の掟、鋼の心。
母と同じく、西住流そのものでいられる。
――――――はずだった。
七月某日のことである。
西住まほは、兄と再会した。
実物ではなく、妹との会話の上で。
何年も何年も音沙汰なく、どこにいるかさえも分からなかった兄。
ずっとずっと会いたくて、焦がれた人。
心の底から求め続けた温もりは―――――妹の傍にあったのだ。
西住流から、黒森峰女学園から、そして何よりも戦車道から離れていった妹。
それが遠い茨城の地で、兄と再会し、そして一緒に戦車道をしているのだと、まほは知った。
―――――あぁ。
あぁ、あぁ。
あぁ、あぁ、あぁ。
その時まほは、自分の心の奥から湧き上がるどす黒いナニカを自覚した。
その感情に、名前はない。
ただどうしようもなく悲しく、虚しく、そして残酷な気分になったので。
まほは全てを忘れる為に、戦車道に没頭しようとした。
戦車道をしている時だけは、間違いなくまほは西住まほだから。
だというのに。
いつの間にかこの世界には、こんなにもあの人の紛い物が蔓延っている。
サンダース大付属。
アンツィオ高校。
あの人の戦車道を愚かにも再現しようとした贋作者。
継続高校。
そして聖グロリア―ナ女学院。
あの人の戦車道を、まるで自分の方が理解していると言わんばかりの傲慢者。
そして―――――――
(ふざけるな)
ふざけるな。
ふざけるな。ふざけるな。
あの人の戦車道は、そんなものじゃない。
あの人の戦車道は、もっと素晴らしいものなのに。
それを理解していない者達の手によって、あの人の戦車道が貶められていく。
それを見ていることなど、どうしてできようか。
だからまほは決意した。
贋作は、破壊する。
的外れな解釈は、修正する。
そうやってあの人の戦車道を守ろう。
誰にも歪められないように、誰にも曇らされないように、誰にも触られないように。
まほが世界で一番好きなあの人の戦車道を守ろうと、そう決めた。
どす黒いナニカは、いつの間にか消えていた。
本当は消えたのではなく、まほがそれを異物と認識しなくなっただけなのだが、それすらもどうでもよかった。
「お前で二人目……それが終われば、あと一人だけだ……」
あぁ、そうしたらしばらく休める。
自由な時間ができるんだ、あの人の所に会いに行こう。
あの人は褒めてくれるだろうか。
急に押し掛けて怒られないだろうか。
いやそんなことあるはずがない。
きっといつものように、困った顔をしながら笑って許してくれる。
そうしてあの頃のように、頭を撫でてくれるはずだ。
あの時もそうだったじゃないか。
「待っていて下さい、お兄様……」
〇
「痛恨のミスだったわ」
ダージリンの表情は、側近のオレンジペコでさえ見たことがないほどに苦々しいものだった。
彼女の象徴とさえ言えるティーカップがその手に握られておらず、乱雑に置かれていることからその感情がどれほどか察することはできた。
「渡里さんの戦術が通用しないのは分かっていた。私なんかよりずっと長くあの人の戦車道を見てきたんだから、それは当然」
独り言だ、ということがオレンジペコもアッサムも分かっていたので、口を挟むことはしなかった。
「だというのに二両の損害を出した……心のどこかで、私なら
その時のダージリンは、既に聖グロリア―ナ女学院の理想たる令嬢の姿をしていなかった。
感情をむき出しにした、荒々しい戦士の形がそこにはあった。
「不遜にして傲慢だわ……!あの人にも失礼よそんなの!」
がぁん、と白い手が何の手加減もなく叩きつけられた。
横に座るオレンジペコが慌てたように目を丸くする一方で、アッサムはただ瞑目するだけであった。
そしてチャーチルの車内は沈黙に包まれる。
それが破られたのは、他ならぬ静寂の生み手によってであった。
金髪青眼の隊長は、一つ大きく息を吐いて面を上げた。
「見苦しい所を見せちゃったかしら」
「お気になさらず。無線は全部切ってありますので」
間髪入れずアッサムが答えることができたのは、おそらく付き合いの長さ故だった。
オレンジペコ含む他の乗員が曖昧な態度を取っていた中、アッサムだけが平然としていたのだ。
「他の子に隊長が乱心したと伝わっては一大事ですから」
「私だってストレス発散くらいするわ。特に、こういう失敗をした後はね」
「相手の策に乗せられておいて二両の損失で済んだんです。上等でしょう」
「……そうかしら」
アッサムの口当たりの良い毒舌を食らい、ダージリンは完全に平静を取り戻したようだった。
「確かに自分を責めるよりは、まほさんを褒めるべきかもね。見事にしてやられてしまったもの」
紅茶を一口味わい、ダージリンは喉を潤して言った。
「思えば、あまりにも
神栖渡里の戦術はやはり不敗なのだと。
使い手にそう錯覚させるために。
「お蔭でこっちはセーフティゾーンを踏み越えてしまった。止まるべきところで止まれなくさせたのよ、まほさんは」
「気づいた時には崖際に立たされていて、後は少し押すだけでお終いということですか」
「崖際を栄光への架け橋と勘違いさせたうえでね」
呆れたように、あるいは感服したようにアッサムは一つ息を吐いた。
一筋縄ではいかない、ということを誰もがようやく理解した。
「相手の心理を巧妙に操る戦い方……渡里さんに似たやり口だったわ」
それがどういう意味か、おそらく理解したのはダージリンとアッサムだけであった。
端的に言えば、『お前にできることは私にもできる』という挑発である。
少し解釈の羽を広げれば、『私の方が神栖渡里を理解している』ととれるかもしれない。
そう考えれば、一杯食わされたダージリンの取り乱し方にも理由がつくというものであった。
「過去の話はやめて未来の話をしましょう。ダージリン、勝機は?」
「………」
車内が緊迫した。
通信手は無線が未だに切れているかを、今一度確認した。
「……今日までに作りあげた対黒森峰の戦術は、全てゴミ箱行き。かといってアドリブで戦える程甘い相手じゃなく、私たちもそこまで芸達者じゃない」
金髪青眼の隊長は、冷静に現実を受けいれていた。
無慈悲に思えてしまうほどに。
「勝てる、という確信のある筋はもうないわね」
誰かの息を呑む音が聞こえた。
それは常勝の信仰を抱かせるべき隊長にあるまじき発言。
『負けるかも』という禁句であった。
無線を切っていたのは間違いなく正解であった。
そこらの隊長が言うのと、ダージリンが言うのとでは重みが違う。
戦車道の名門、聖グロリア―ナ女学院の隊長。
試合に出られない選手は勿論、OG会などから多大な期待を寄せられ、並みの人間なら圧ししてしまいそうな重圧を平然と背負い、なおも優雅に高貴に振舞う彼女。
弱気な姿なんて見せるはずがない。
いつだって不敵で強気で、堂々たる立ち振る舞いをしている。
そんな彼女が「勝ち筋がない」という。
その衝撃は、決して小さなものではない。
まるで身体の芯を鷲づかみにされてシェイクされたような、そんな立ち眩みにも似た酩酊感。
支えてくれる柱を失った彼女たちはいずれ思うだろう。
地に足を踏みしめているはずなのに、まるで空中に浮いているようで、あぁ下手をするとこのままどこかに飛んで行ってしまうんじゃないかと。
否、既にその兆候は表れていた。
絶対的な心の支え、それを失うということはそれほどまでに重大な危機であり、そこに付随するマイナスの影響は決して防ぎようがない―――――
「そうですか。ではやはり、やるしかありませんね」
――――事前に
アッサムの言葉は、大きな声ではないのにはっきりと響いた。
それは全員がその言葉を予想していたからだった。
「……えぇ、できれば使いたくはなかったけれど」
「オレンジペコ、鏡があったらダージリンに見せてあげて頂戴」
アッサムは半ば呆れながら言った。
言葉につられて、オレンジペコが真横の彼女の顔を覗く。
そこには、ちぐはぐな顔があった。
口振りは渋々。けれど彼女ときたらどうだ。
青い眼の中には、赤い火と銀の光。
瑞々しい唇は綺麗な三日月を描き、白い歯はまるで牙のように。
淑女はもうどこにもいない。
そこに在ったのは、唯々獰猛な獣。
鉄風雷火の戦場に相応しい――――闘争の色に染まった顔。
「全車に通達。これから一度黒森峰に仕掛けるわ」
「準備運動ということですね」
ダージリンは一つ頷いた。
「絶対条件として一両も撃破されないこと。撤退を前提として動くこと。後は……」
「良く言う事を聞くように、とでも言っておきましょうか」
「あら、アッサムにしては核心を突いた言葉ね。それに短くていいわ」
「昔ながらの言葉でもありますしね」
金髪の持ち主たちは場違いかもしれないが笑った。
聖グロの良い所を一つ挙げるなら、それはチームのナンバーワンとナンバーツーが同じ戦車に乗っていることであった。
ここはチームによって良し悪しが分かれるところであるが、聖グロに限っては同一の戦車に乗っていた方が遥かに良かった。
なんせナンバーワンがどこまで高い所に行ってしまっても、ナンバーツーという楔がある限りは手の届く範囲に降りてきてくれるのだから。
「
ダージリンは膝の上に地図を置き、手に無線のマイクを持った。
「――――――オペレーションW&D、お披露目といきましょう」
〇
黒森峰女学園は半ば勝利を確信していた。
といってもそれは油断とか慢心とか、そういった足を引っ張る類のものではない。
ただそう、
おそらくは長く戦場に身を置いた者にしか分からない感覚だが、スポーツの世界においては珍しい者じゃない。
戦っている内に自然と相手の力量が分かってきて、それと比較して自分達が上にあると確信した時、それはやってくる。
そういった漠然とした勝利の予感が、どことなく黒森峰女学園に広まりつつあったのだ。
聖グロリア―ナ女学院の強さは勿論知っている。
決して油断ならない相手。戦車の性能差で勝っていても、何か一つの拍子が狂えば負けてもおかしくない、そんな相手。
けれど黒森峰の戦車乗り達は、ここに至るまでただの一度も聖グロを
理由はいくつかある。
最近に限らず、黒森峰女学園の歴史を振り返って見ても聖グロに負けたことがないとか、トータルな戦闘力で見れば一枚、二枚は上手だとか、そういうことが。
けれど一番大きな理由は、やはり隊長の力。
西住流の直系、西住まほの実力を最も知る者は、それを最も近くで見てきた彼女のチームメイトである。
だから西住まほがどれだけ桁外れの存在かを、彼女たちは知っている。
隊長として部隊を統率する指揮官としての能力、戦車単騎での戦闘力の直結する車長としての能力、そのどちらもが悪魔みたいにずば抜けている。
欠点が存在しない、真の意味での
そんな彼女が、聖グロの隊長をここまで圧倒していた。
どんな戦術を仕掛けられても、それを即座に見切って対処する。
現状こそ二両しか撃破していないが、それは彼女が敢えて手を緩めていたから。
彼女がその気になれば、返す刀で一閃するだけで致命傷を負わせることができるというのは、白旗を挙げた二両のマチルダが証明している。
聖グロの隊長が優秀な隊長だというのは知っている。
戦術能力だけで見れば全国で一、二を争うということも。
けれどそんなのを相手にしながら、西住まほは一切表情を変えずに淡々と指示を飛ばして確実に衰弱させていく。
そんなものを見ていたら、誰だって思う。
―――――
そう、黒森峰女学園に蔓延する勝利の気配の源は隊長への信頼ではなく、畏怖。
彼女たちは知っているのだ。
遥か昔、洪水とか地震とか雷とか、そういったものは人間に抗えぬ神の御業であると人々が悟ったように。
戦車道においては西住まほも、そういう類のものだということを。
今さっきも、それを見せられた。
二両の戦車を失った聖グロが再び攻撃を仕掛けてきたが、何の成果もなかった。
ただ闇雲に攻撃し、先ほどまでの流れるような連携もどこへやら、いっそ無様とさえ言えるほどに拙い動きで、そそくさと逃げていってしまったではないか。
あの金髪青眼の隊長でさえ、そうなる。
なればこそ、黒森峰女学園は決して負けない。
全員が西住まほの忠実な僕、黒森峰というチームを動かすための歯車に徹すれば、負ける事などあり得ないのである。
「―――――その信仰を、崩してあげるわ」
どこかで、誰かが呟いた。
それは当然黒森峰女学園の誰にも聞こえないものであったが、天上に座す勝利の女神にとっては最後の戦いの始まりを告げる号砲であった。
「………来たか」
ポツリ、とまほは呟いた。
その数秒後、通信手から聖グロリア―ナの戦車五両が陣形を組んで現れた、という報告が入る。
予想通り、ではない。
そもそもまほは、この試合が始まってから予想などというものを立てたことがない。
だって意味がないのだ。あの金髪青眼の隊長がどういう策で来るだとか、そんなものは。
事前に考えるだけ無駄。下手をすると相手に付け入る隙を与えかねない。
だから徹底的にまほは後手に回る。
そう言うと相手に先んじられている感じがするから、
ともかくとして、アレコレ考えるのは相手の出方を見てからでいい。
なぜならまほは、そこからでも十分
初めの一歩を見るだけで、相手の狙いが何でどういう風に部隊を動かそうとしているのか、という最終ゴールまでの道筋が手に取るようにわかるのだ。
なぜか、理由は一つだ。
「………五両編成の部隊にチャーチルの姿は?」
『ありません』
そうか、とだけ返して、まほは思考した。
相手の狙いが分かっている以上、当然それを阻止するポイントも分かる。
問題はそれが複数あるため、どこで止めるかを選ばないといけないこと。
今ダージリンがやろうとしていることは、此方の兵力を分散させてからのフラッグ車一本釣り。
つまりフラッグ車を討ち取る役目の一両を残し、他の全車で道をこじ開け、
確認できている五両編成の部隊は、此方の注意を引き付けるための罠。
おそらくは別方向から来るであろう三両か四両編成の部隊が本命で、そこにチャーチルがいる。
まほはそれに対処するため、兵を割く必要がある。それでも数の有利は取れるだろうが、そのタイミングで間違いなく足の速いクルセイダー部隊も前線に参加する。
そうなると一時的に戦力が互角となり、クルセイダー部隊と別動隊が連携すれば此方の陣形に穴を空けることも不可能ではなくなる。
聖グロからすれば一両だけでも抜け出させればいい勝負だ。
そういう意味で言えば、あちらの方が有利。成功率も低くはない。
ならまほはどうするべきか。
一つは、確認できている五両編成部隊を、全戦力を以て迅速に壊滅させるという手。
そうすれば返す刀で別動隊も一網打尽にできるし、何より兵力を分散させている相手に対し、戦力を集中させての各個撃破戦法という定石にも則る。
二つは、一騎討ちを制すという手。
ダージリンの策は一騎討ちという状況を作ることによって「勝機を作るため」のものであり、それ自体が「勝ちを確定させる」ものではない。
一騎討ちに持ち込まれようが、まほがその勝負を制せば何の問題もなく、まほが能動的なアクションを起こす必要がないという点においては実に省エネな一手と言えるだろう。
『隊長、相手部隊攻撃を開始しました』
「……」
暫しの沈黙の後、まほは短く「同数を以て応戦しろ」とだけ答えた。
リスクとリターンを天秤に掛けるなら、取るべき策は前者であった。
しかしまほの中には否定しがたい、一つの暗澹とした感情があった。
それは、あの人の贋作は自分の手で破壊しなければならないという使命感。
いや破壊したいという衝動であった。
「相手の狙いは
―――――それがほんの僅かな綻びとなったことを、まほはまだ知らない。
『聖グロリア―ナ、別動隊が出現しました。数は三両、隊長車の姿もあります』
「三両にて対応。四両はクルセイダー部隊の攻撃に備えて待機。それから護衛はもういらない。五両編成の部隊の対処に加わり、圧迫を加えて後退させろ」
淀みなく、迅速にまほは指示を飛ばす。
それはあの金髪青眼の隊長によって書かれた台本通りの台詞だったが、今はそれでいい。
それで気が済むというのなら、掌の上でいくらでも踊ってやる。
最後の一文だけは「黒森峰女学園の勝利にて終幕」と改竄させてもらうが
しかし何の捻りもない作戦だ、とまほは思った。
当然ではある。兄の戦術の模倣は、練習段階ですら多大な時間と労力が必要となる。それが実戦となれば、いよいよ他の事に頭を使う余裕がなくなる。
言ってしまえばあの人の戦車道は黒色なのだ。
ただただ一色に、全てを真っ黒に染めていく。
一度塗ってしまえばもう何色も残ることはないし、後から色を足すこともできない。
自分の色なんて、出したところから染め直されていく。
あの金髪青眼の隊長も身に染みているだろう。
あの人の戦車道の模倣は通用しない。なら、それを少しでも変化させるしか勝ち目がないが、それができない。
一流画家の描いた絵に誰も手を加えられないのと同じように。
自分が余計なことをしたせいで、完成度が下がるのではないかという恐怖が付き纏うからだ。
それも尊敬の念が深ければ深いほどに。
付け加えて言うのなら、ダージリンにはそもそもとして実力が足りていない。
確かに彼女は高校戦車道界において比類なき存在である。戦術能力だけを抜き取らずとも、総合的な実力で言えば上から十番以内に間違いなく入る。
そんな彼女を以てしても、あの人の戦車道は使いこなせない。
その証拠に、チャーチルは今に至るまでの数度の戦闘において、全て前線に参加している。
これはリスクが高すぎる行為である。
聖グロリア―ナはダージリン一人の力が飛びぬけて高く、一位と二位以下の間にとてつもなく大きな開きがある。
つまり聖グロには彼女の代わりを務めることのできる人間がおらず、ダージリンを失った瞬間に敗北が確定する。なら極力、撃破の危険性がある前線には出さない方が賢明だ。
彼女が戦術能力に秀でた隊長である以上、多少後ろに下がったところでパワーバランスが崩れることもないのだから。
しかしその危険を冒してまで前線に参加するのは、彼女が
端的に言えば、あの人とダージリンでは見えている世界が違うのだ。
兄とダージリンは、おそらく戦場を俯瞰して見ることができる。
けれどあの人の眼は遥か天上にあるが、ダージリンの眼はそれよりずっと低い所にある。
だから使いこなせない。
あの人と同じ高度に眼を持ってこない限りは、絶対に。
彼女の前線への参加は、それを補うための苦肉の策にしか過ぎない。
『クルセイダー部隊出現。此方を包囲しようとしていますが―――』
「擬態だ、させておけばいい。それよりも全車、目の前の相手に攻撃を加えて自由にさせるな」
終わりは近い、とまほはため息を一つ吐いた。
一対一の勝負は、生憎と負ける気がしない。
西住流は個人技を重視した流派ではないが、それでも
一歩遅れを取ることがあるとすれば、それは西住流と対をなすもう一つの流派を相手にした時くらいだ。
加えてダージリンは戦術家としては最高峰だが、単騎レベルで見た時はその限りではない。
寧ろ不得手。
これはデータに基づいた事実である。
今までそれが露呈してこなかったのは、ひとえに彼女が
しかし今回は違う。
戦術の比べ合いでは互角かもしれないが、単純な力比べならまほが勝つ。
「――――――――」
まほは操縦手と砲手に指示を出した。
言うまでもなく、チャーチルが突っ込んでくるであろうルートと、それに対する此方側の動き方である。
チャーチルの装甲は堅牢。
しかし進行ルートが見えているなら、側面を狙い撃つことも容易。
加えてこちらはティーガーⅠ。
56口径88㎜砲は例え正面からでもチャーチルを貫き得る威力があり、最早一発さえ当てれば撃破できると言ってもいい。
気を付けなければならないのは人為的ミスだが、それこそ杞憂である。
常勝を掲げる黒森峰女学園に、そんな温い選手はいない。
完全に詰んだと、まほは確信した。
逃げ道はない。
ダージリンが確信しているであろう勝利への一歩、それは既に断頭台へと続く一歩へと変容している。
そうとも知らず、チャーチルは間もなく歩みを進めるだろう。
その時が、まほが贋作に引導を渡す時となる。
早く来いと、まほはおそらくこの試合で始めて焦れた。
そしてまるでそれを感じ取ったかのように、ソレは起こった。
『チャーチル、吶喊してきます!』
「通せ」
一瞬のことであった。
流れるような連携で此方の戦車の身動きを封じ、生まれた間隙。
ここしかないというタイミングで、チャーチルがそこに飛び込んだのである。
これにより黒森峰の構築する戦線からチャーチルは抜け出し、フラッグ車との一対一という未来が確定される。
それを見たまほは、一つ嘆息した。
あの金髪青眼の隊長は、本当に部隊を指揮させれば一級品だ。
彼女は、まほのように高名な戦車道流派の出身ではない。
ただ普通の少女が、普通に戦車道を好きになり、そしてこの高みまで上り詰めたのである。
だからこそ、まほは彼女を憐れむ。
もし彼女にほんの少しでも才能が無ければ。
あるいはほんの少しでも戦車道に不誠実であれば。
「―――――お兄様の戦車道に囚われることも、なかっただろうに」
だから解放してやろう。
これは訣別の一撃だ。
お前とお兄様の間にある繋がりを、この一射を以て断ち切る。
「忘れろ、ダージリン」
お前は今まで夢を見ていたんだ。
とても幸せで、残酷な夢を。
けれど人は夢だけを見て生きてはいけないから。
私が、お前を現実へと還してやる。
まほは右手をゆっくりと上げた。
そして左手で咽頭マイクに手を当てる。
既にティーガーⅠはチャーチルの進行方向から考え得る、最善のポジションへと移動している。
この一騎討ちは、戦いというほど白熱したものにはならないだろう。
両手を縛られ首を差し出す罪人に刀を振り下ろすような、そんな一方的で瞬間的なものになる。
けれどそれくらいの方がいいのだ。
痛みを感じる間もなく楽にしてやるのが、優しさなのだから。
「夢の――――――終わりだ」
一息。
まほは右手を降ろした。
火薬が炸裂し、重厚な鎧をも貫く魔弾が放たれる。
大気を切り裂くような発射音と、鉄が壊れるような着弾音は、ほぼ同時だった。
しぃん、と戦場にあるまじき静寂が、一瞬世界を覆った。
しかし間もなく、チャーチルの黒煙と共に吐き出された悲鳴が静寂を破る。
誰もが、チャーチルの撃破を悟った。
戦車道では、まだ戦えそうなのに動けなくなる戦車と、ボロボロなのにまだ戦える戦車の二つがある。
競技を長くやっていればその二つの違いは直ぐに分かるが、この時のチャーチルは間違いなく前者であった。
機械的なアナウンス音が、戦場に木霊する。
それは女王の訃音通知。
今大会において不撓不敗であった金髪青眼が斃れた事を、そして聖グロリア―ナの実質的敗北を告げる声だった。
『聖グロリア―ナ、チャーチル走行不能』
終わったと、まほは思った。
唯一にして絶対の柱を失った聖グロに、最早勝機はない。
部隊を率いる者はなく、烏合と化して散っていく。
まともな抵抗など、もうできはしないだろう。
「畳みかけるぞ。全車、攻撃開始」
フラッグ車が撃破されない限りは、ルール的に負けはしない。
だがフラッグ車一つだけが残ったとして、果たして何ができるというのか。
ましてや今の聖グロは、頭を失った手足だ。
心臓があるから壊死はしないが、動くことなんてできやしない。
ここから先の戦いは、そういうものを相手にしたものになる。
それはどれほど楽な戦いだろう。
いい機会だ、来年チームを引っ張っていくであろう副隊長に経験を積ませるとしよう。
間違っても勝敗がひっくり返ることはない状況だし、決勝戦に向けての弾みにもなる。
彼女の器であればもう一段階難しい課題を与えてもいいが、まぁそれはそれだ。
下手に手間取って威厳を失われても困る。
とにもかくにも、まほにはもうモチベーションがない。
倒すべき敵を倒し、為すべき事を為した。
この試合においてまほがやることは、もうないように思えてしまったのだ。
「エリカ、後は――――――――」
任せた、という言葉が紡がれることはなかった。
ふと、まほの頭が警鐘を鳴らしたのである。
――――――――戦意が、失われていない。
眼前に在る聖グロリア―ナの
隊長を失い、勝機すらも失った彼女たちを覆っているべき絶望が、そこにはなかったのである。
こういったものも選手にしか分からない感覚だ。
相手がやる気なのか、心が折れているのか、そういうものを判別する感覚。
しかしこの時、観客の目にも明らかな程に、聖グロは戦意を保っていた。
必勝の意志が、立ち昇る焔として具現して見えるほどに。
これはまほでさえも予想外の状況だった。
一体何が、彼女たちを支えているというのだ。
聖グロというチームに、隊長を失っても戦い続けることができる程の強度はないはずだ。
黒森峰でさえ、まほを失えば相応の脆さを見せる。
いや他のどのチームも、そうであるはずだ。
「―――――――――」
背筋を、突如として冷たいものが走っていった。
それは西住流の血が齎した直感であった。
弾かれるように、そして本能のままにまほは視線を動かした。
そして致命的な欠陥が発生していることに気づいた。
(分断させられている―――――)
陽動であった五両編成部隊にあたった部隊。
クルセイダー部隊とチャーチルの混成部隊にあたった部隊。
その両者の間に、見過ごすことのできない程大きなスペースが空いていた。
何故、という疑問はまほにはなかった。
なぜなら、アレはある意味で必定のもの。
黒森峰は今に至るまで、聖グロの動きに合わせる形で動いてきた。
故に聖グロが
それ自体は、何ら問題ではない。
まほの中にあったのは、何を、という疑問であった。
「まさか――――――」
まほは全車に指示を飛ばそうとした。
それは脊髄反射的なものであったが、それよりも早く
そして、
――――――――流星が、走った。
遥か遥か後方。
戦場から離脱するほんの一歩手前ほどの、西住まほですら感知できない盤外から。
風を切り。
音を置き去りにし。
反射も反応も対処も対応も許さない、最短最速で。
その戦車は到来し、そして――――――
「――――――っ!!」
鉄の虎へと突き刺さる。
身体を鷲づかみにされてシェイクされたかのような衝撃がまほを襲った。
鉄と鉄がぶつかり合う激しい音がして、ティーガーⅠとその戦車は一つの塊となって地を転がっていく。
勿論横転したわけではない。ただ両者制御不能状態となって、慣性と勢いの奴隷となって、しっちゃかめっちゃかになっただけ。
しかしそんな状況でも、まほの身体は正確に状況を理解しようとした。
ティーガーⅠの側面に
其れが何者か、まほは直ぐに理解した。
その戦車に付けられた称号は、最速の二字。
WWⅡにおいてこの戦車より速きものはなく、流星の名前を冠したエンジンによる推力はあらゆる戦車を置き去りにした。
英国巡行戦車の極致にして完成系。
名前を―――――クロムウェル。
まほは注意深く、その姿を見た。
その間にティーガーⅠは熟練の操縦技術により自我を取り戻し、体勢を整えて臨戦状態へ移行した。
同じくしてクロムウェルも慣性の束縛から解かれ、二つの戦車は少しの距離を置いて対峙する。
(誰が乗っている……?)
金髪青眼の隊長は斃れた。
彼女以上の人材は聖グロにはいないはずだが、今の一連の動きは間違いなくここしかないというタイミングで行われた。
絶好の好機を逃さず最善の一手を打てるほどの戦車乗りが、まだ聖グロにいたというのか。
まほは珍しく、本当に珍しく答えを見失っていた。
「―――――――ふふっ」
そして、それを待ち望んでいた者がいた。
「どうやら一泡、吹かせることができたようですわね」
まほは目を丸くした。
視覚が持ってきた情報を、脳が正確に処理できない感覚を久方ぶりに味わった。
きぃ、とクロムウェルのキューポラが開く。
その中から、まるでスポットライトを浴びながらステージに現れるスターのように、彼女は現れた。
陽の光を反射し煌めく金の髪。
宝石のように美しい青い瞳。
見る者にため息をつかせる美貌。
まほはその顔を、良く知っていた。
「ごきげんよう―――――――まほさん」
音楽的な響きすら感じる声で、惚れ惚れするような笑みと共に彼女は言う。
「その顔が見たかったわ」
どこまでも愉し気な彼女の名前は、ダージリン。
紅茶の名前を持つ、金髪青眼の隊長。
〇
「あ、あの!本当にやるつもりですか……?」
不安そうな声が、ダージリンの背中を掴んだ。
振り返り、声の主を見る。
そこにいたのは、ほんの数か月しか一緒にいないはずなのに、もう何年も共にしてきたかのように感じる一人の後輩だった。
ダージリンは静かに彼女の名前を呼んだ。
「勿論よ、オレンジペコ。だってこうでもしなければ、到底まほさんは越えられないもの」
「で、でも
「成功した試しはないわ。練習ではそれもよかったけれど、本番で失敗すればその時点で負けが確定するでしょうね」
「だったら……」
「でもねオレンジペコ、このまま何もしなくても結果は同じよ。なら少しでも勝つ可能性のある道を選ぶ……当然でしょう?」
青い瞳に反射するオレンジの髪をした少女の顔は、未だに不安の色を消せないでいた。
「……私が信じられないかしら?」
「ち、違います!」
オレンジペコは肩を震わせながら言った。
あまりにも真剣な表情に、ダージリンの方が寧ろ驚いてしまった。
「……信じられないのは、私の方です」
目を伏す彼女に、ダージリンは不安の原因を悟った。
「本当に、私なんかが
「………」
ダージリンは内心で嘆息した。
オペレーションW&D。
その基本骨子は、擬態にある。
詳細は省くが、簡単に言うとダージリンはこのチャーチルから
降りて別の戦車に乗り、そこから部隊の指揮を行うこととなる。
よってチャーチルはダージリン以外の誰かに動かしてもらわねばならず、そして擬態の看破を防ぐためにチャーチルは前線に出なければならない。
つまりダージリンが乗っていると相手に思わせるだけの技量が、その誰かには必要になってくる。
ダージリンはその役目を、オレンジペコに任せることにした。
理由は一つ。
それはオレンジペコが、この数か月間最もダージリンを近くで見てきたからだった。
オレンジペコより技量の高い者はいる。
それこそルクリリなどは、一回りも二回りもオレンジペコを凌ぐだろう。
オレンジペコよりダージリンと付き合いの長い者もたくさんいる。
三年生なんてその最たるものだし、ダージリンへの理解度など下級生とは比べ物にならないだろう。
「オレンジペコ、聞きなさい」
けれどオレンジペコよりダージリンに憧れ、その背中を一心に追い続けている者はいない。
だからこそ、ダージリンはオレンジペコを選んだのだ。
「私の代わりをしようなんて――――そんなことは考えなくていいの」
「え……?」
ダージリンは微笑んだ。
そうすることで、少しでもこの子の不安が消えてなくなるのなら、と。
「一生懸命やりなさい。自分にできる事をがむしゃらに、誇りを持って、全身全霊を尽くすの。そうすればきっと、チャーチルは貴女に応えてくれるわ」
「そう、でしょうか……?」
大きく、ゆっくりとダージリンは頷いた。
そして彼女の小さい手を、両手で握った。
突然のことにオレンジペコはビックリしたようだったが、ダージリンは構わず言葉を続けた。
「力が足りないなんて、そんなのは当たり前よ。私だって貴女くらいの頃は、今よりずっとずっと下手くそだった。誰だって最初から名人なわけないわ」
ぎゅっと、オレンジペコの手を握る。
あんなに重たい砲弾を持ち上げているなんて思えない程に、小さくてか弱い手だ。
けれどダージリンは、こんな手にずっと助けられ、支えられてきた。
今度は、彼女が誰かに支えてもらう番だ。
「だから、助けてもらいなさい。精いっぱいやって、それでもできない事があったなら、誰かを頼りなさい。ルクリリも、ローズヒップも、ニルギリも、貴女が本気で頑張っていたらきっと貴女の力になってくれる」
オレンジペコの顔を、ダージリンは真っ直ぐに見つめた。
小さくて、気弱そうで、けれどしっかり自分の考えを持っている子。
努力家で、ダージリンも驚くくらい強い意志がこの子の中にはある。
「貴女をチャーチルに乗せたのは、格言に詳しいからじゃないわ。貴女にならいつか――――――このチャーチルを託せると、そう思ったから装填手に任命したの」
「―――――――っ」
「本当よ?」
彼女の手を放す。
いつまでも握ってやるわけにはいかない。
後輩は、いつかは先輩の元から巣立っていかなければならないのだから。
「貴女がいるから、この戦術ができる。心の底からそう思っているわ」
だから、とダージリンは言葉を迷った。
頼んだわよ、は少し味気ない気がした。
それよりもっと相応しい言葉が、今はある。
「信じてるわよ、オレンジペコ」
そしてダージリンは、チャーチルから降りた。
振り返ることはしなかった。
後ろにいる後輩がどんな顔をしているかなんて、そんなの分かり切ったことだから。
「――――――ご武運を!!ダージリン様!!」
カツン、とクロムウェルの装甲をブーツが叩いた。
キューポラを開け、車長席へとダージリンは座す。
中の光景は、今までチャーチルしか知らなかったダージリンにとっては、とても新鮮に見えた。
「随分と長いお別れでしたね」
いや、とダージリンは嘆息した。
とっても見慣れたものも、中にはあった。
ダージリンより明るい金髪をした、データ主義の砲手。
彼女もまた、チャーチルから此方へと移っていたのだ。
「言い残したことは?」
「ないわ。言うべきことは言った。オレンジペコならきっとやってくれるわ」
ダージリンの言葉に、アッサムは少し微笑んだ。
「あの子がチャーチルをね……初めて会った時は、まだまだ垢抜けない一年生って感じだったのに」
「ええ、本当に可愛かったわ。貴女の言う事にも一々大袈裟に反応しちゃってね」
「『ダージリンに憧れて戦車道に?じゃあ髪型も真似したら?』って言ったらあの子、本当に次の日からダージリンそっくりの髪型にしてきたものね」
くすくす、と二人は笑い合った。
本当に、本当に可愛い後輩だった。
たった数か月だったけど、色んな思い出をたくさん作った。
叶う事なら、もう一年遅く生まれたかったとすら思う。
「いつの間にか、よく似合うようになったわね……」
「本当にね」
最後まで一緒に戦えないことが少し心残りだけれど。
そんなことばかり言っていられない。
別れの時は、誰にも等しくやってくる。
「さて、と。オレンジペコの心配ばかりしていられないわ。こっちはこっちで大仕事よ」
「えぇ、頼んだわよ、ダージリン。ここから先は、全部貴女次第なんだから」
「大船に乗ったつもりでいなさい……と言いたいところだけど、何分成功した試しがないしね」
「その割には、やけに自信満々の顔だけど」
鏡がないからダージリンには分からないが、アッサムがそう言うのならきっとそうなのだろう。
事実、失敗するつもりは微塵もない。
やるからには、必ず成功させてみせるつもりだ。
しかし一抹の不安もないかと言われれば、そうではなかった。
ダージリンにとって戦いとは、万全の備えを以て挑むものであった。
練習でできたことしか本番ではせず、そうでないものは一切使ってこなかった。
けれど今回は違う。
打算も計算もなく、理屈も理論もなく。
ダージリンは初めて、身体の内から溢れる衝動に身を任せ、戦いの狂気へと身を委ねる。
こればかりは、誰にも言えず、隠し通さねばならない事だった。
「さて、どこまで行けるかしらね」
目指す高みは遥か天上。
人の身では到底辿り着けない、神々の栖まう領域。
かつて神栖渡里という一人の指揮官が成した神の如き業を、ダージリンもまた此処で成す。
「一応聞いておきますが、自信の源は?」
「あら、聞きたい?」
僅かに滲んだ喜色から、アッサムは嫌な予感を抱いたようだった。
しかしもう遅い。
聞かれたなら、答えてあげよう。
熱く燃え盛る、ダージリンの心の中にある火を。
「
―――好きな人がそう言うんだから、それは誰が何と言おうと絶対的な真実でしょ?
「……恋愛脳も、ここまで来れば長所ね」
長年の戦友はつれなく言った。
その声は、既にダージリンから遠のきつつあった。
深呼吸を一つ、ダージリンは静かに瞳を閉じる。
そしてやってくるは、暗黒の世界。
何も見えず、何も感じない、只の闇。
けれど恐れる必要はない。
これからこの世界を、この世界で一番信頼できる仲間たちの声が照らしてくれるのだから。
「征きましょう――――――――遥か高みへ」
〇
「この状況は予想できなかったのではなくて、まほさん?」
目の前の彼女の沈黙を、ダージリンは是と受け取った。
それもそうだろう。これだけは、絶対に予想できないという確信がダージリンにはあった。
なぜならこれは、不確定の未来からやってきた作戦。
一手、二手、あるいは数十手を一瞬で見抜く西住まほといえど、
というより、する必要を感じないはずだ。
「ポーカーなら貴女に勝てっこないけれど―――ごめんなさい。これ、コイントスなの」
表が出ればワンチャンス、裏が出れば破滅。
そんなギャンブルだからこそ、西住まほの虚を突くことができた。
裏が出た時の事は、想像すらしたくないけれど。
「………最初から、これが狙いだったというわけか」
したり顔のダージリンに、まほはポツリと呟いた。
「劣化版とはいえ、お兄様と同じことができるとはな」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
まほの瞳に鋭さが増す。
危険領域に足を踏み入れつつあるのを、ダージリンは肌で感じていた。
黒森峰を倒すためには、フラッグ車との一騎討ちに持ち込むしかない。
これは最早、必定の選択だった。
何せどんな手を打っても、西住まほには通用しない。
なら戦えば戦う分だけ、ダージリンは追い詰められていく。
勝ちを拾うためには、一発逆転のギャンブルを仕掛けなければならなかった。
しかし問題が二つあった。
一つは、一騎討ちに持ち込むためには、ダージリンが全体の指揮を行わなければならないこと。
どんな状況からでも逆転する可能性のあるフラッグ戦の怖さは、黒森峰が一番よく知っている。見す見すフラッグ車との一騎討ちなんていう状況は作らせないだろう。
そこに無理やり道を作るのだ、並みの指揮では傷一つつけられない。
聖グロにおいては、ダージリン以外に不可能な難事である。
そしてもう一つは、西住まほとの一騎討ちで勝利しうる戦車乗りが、ダージリンしかいなかったこと。
これが本当に致命的であった。
ダージリンの見立てでは、
つまり戦術でどうにか道をこじ開け戦車を送り込んでも、不意打ちでなければ西住まほは見てからでも間に合う。
故に一騎討ちをする戦車は、西住まほの視覚外、戦場から離れたところに待機し、そこから一気に肉薄しなければならない。
だがその役目を担うダージリンは、前線にいなければならない。
そうでなければ、そもそもとして一騎討ちの状況が作れないのだ。
この二つは単体で見れば解決可能なもの。
しかし同時に解決するとなると途端に
簡単に言うと、ダージリンは
――――――だったらどうするか。
「本当に渡里さんは凄い人ね。こんなのを、平然とやるっていうんだから」
戦域外にいなければならないなら、戦域外にいればいい。
それでも前線にいなければならないなら、
どうやってそんなことをやるか?
視覚情報はない。
唯一の情報源は、無線から入ってくる声。
相手の位置、味方の位置、向いている方角、距離、相手が取り得る行動、そういったものは全部全部、仲間に教えてもらう。
そして、たったそれだけを頼りにして、戦場を
概念的には目隠し将棋に近いだろう。
だが難易度はソレを遥かに上回る。
大前提として、指揮官の支配力は距離と反比例する。
指揮官に近ければ近いほど、指揮はより細かに鋭敏になるが、一方で遠ければ遠いほど、曖昧で漠然とした指示しか出せなくなる。
そんな中で上記のような技ができるなら、確かに後方にいながらにして前線にいるかのように部隊を指揮できるだろう。
だが刻一刻と変化する戦場を、声による伝達などという最も曖昧なものを媒介にして描きだしていくなど、人の業じゃない。正確な図を描ける方が不思議というものだ。
おまけに少しでも集中力を欠けば、頭の中の戦場はあっという間に霧散していくだろう。
だから指揮官は、常に戦場を視なければならない。
それを欠かした瞬間、指揮は一気に鈍る。
実際ダージリンは、一度そうなりかけた。
けれどダージリンは諦めなかった。
きっとできるはずだと、そう疑わなかった。
だってここには、仲間がいる。
背中を預けられる仲間が。
自分を慕ってくれている仲間が。
ダージリンと一緒に戦っている。
なればこそ、できないものか。
加えて好きな人が「できる」と言ってくれた。
なら、絶対にできる。
恋する乙女のパワーは、無限大なんだから。
言ってしまえば、たったそれだけの理由。
たったそれだけのことで、ダージリンは史上一人しか到達できなかった神業を成し遂げたのだ。
「私なんてほとんどまぐれね。同じことをもう一度やれと言われてもできないわ。まぁたった一回成功すれば、それでいいのだけれど」
「…………あのチャーチルは影武者か」
「ん?――――えぇ、よく出来た子でしょう?」
なにせ貴女の目を欺いたのだから、と彼女は言った。
そして二人の隊長の表情は、対照的なものになった。
一方は楽しくて仕方ないとでも言うように笑みを浮かべ。
一方は眉を顰めて口を真一文字に結んでいる。
「さて、そろそろ始めましょうか。あの子達も頑張ってくれてはいるけれど、貴女たち相手じゃ時間稼ぎもそう長くできないでしょうから」
金髪青眼の隊長の後方、そこには救援に向かおうとする黒森峰部隊を、身体を張って押し留める淑女たちの姿があった。
勝利の絶好の機会。ダージリンが作り出した千載一遇のチャンス。
そこに邪魔者を立ち入らせてなるものか、という強い意志が気炎となって燃え上がっている。
事此処に至りて、もはや戦術も作戦もなにもない。
正真正銘、ダージリンは全てを出し切った。
描いた戦絵巻は、ここより先から白紙。
後はただ、力と力をぶつけ合い、
その結果白い星になるか黒い星になるかは、勝利の女神のみぞ知る。
「…………一つだけ聞く」
「………どうぞ」
片目を瞑りながら、ダージリンは発言を促した。
「――――――お兄様の戦車道を、捨てたな?」
感情が見えない、無機質な声だった。
けれど不思議なことに、相手を威圧する重みを纏った声だった。
「あぁ、だから読み切れなかったと?」
反応はなかったが、それが正鵠を射ている事をダージリンは知っていた。
西住まほに、神栖渡里の戦術は通用しない。
彼女に勝つ方法は唯一、彼女の言う通り神栖渡里の戦車道を捨てるしかない。
「………捨てた、というのは語弊があるわ」
けれどそれは否である。
ダージリンは、自身の心の内をそのまま語ろうという風に思い至った。
「あの人の戦車道は、もう私の心身に染み込んでいる。初めて見た時から、私の心はずっとあの人の虜。捨てるなんて、地球が三角になってもできないわ」
あるいは、もう少し時が浅ければそれもできたかもしれない。
けれど神栖渡里と決別するには、ダージリンはあまりにも長く時を刻み過ぎた。
「なら………」
「けれど違うのよ、まほさん。あの人の戦車道を捨てなくても、貴女に勝つ方法はあるの」
ダージリンの言葉に、彼女は本気で分からないといった様子だった。
それを見てダージリンは、あぁ確かに彼女にとっては盲点かもしれないと、そう思った。
なら教えてあげよう。
ダージリンはとても綺麗な笑みを浮かべながら、言った。
「あの人を踏み台にするのよ」
時間が止まった。
氷の中に閉じ込められたマンモスとはこういう気持ちなのかもしれない、とダージリンは思った。
「あの人の戦車道を真似るでもなく。あの人の戦車道を追うでもなく。あの人の戦車道を
そんなに可笑しなことかしら、とダージリンは肩を竦めた。
それが地雷を踏み抜く行為であると、知った上で。
「貴女だってそうでなくて?ハインツ・グデーリアン、エルヴィン・ロンメル、ミハエル・ヴィットマン、オットー・カリウス。高名な戦車乗り達が後世に残したものを一つ残らず食らい尽くして、ここまで来たのでしょう?」
いつだって、なんだってそうだ。
先人たちが築き上げたものの上に、後人は胡坐を掻く。
彼らの栄光を、技量を、真髄を、まるで自分達のものであるかのようにして。
しかしそれは先人への侮辱ではない。
草を掻き分け道を拓いた彼らへの、敬意の表れなのである。
そう、偉大なる者は須らくして、後世の礎となる。
なればこそ、どうしてそれが神栖渡里にだけ適用されないことがあろうか。
「私もそうしただけ。あの人の戦車道を学び、取り込み、そうやって自分の戦車道を昇華させてきた。そして今日ようやく、私の戦車道が完成した」
神栖渡里の
ダージリンの戦車道と、神栖渡里の戦車道。
二つを融合させた、ダージリンだけの戦車道。
「渡里さんの事を良く知るからこそ、貴女は渡里さんの戦術を読める。けれど私の事は、そこまで御存じだったかしら?」
「………あぁ、そうだな」
短い返答に、ダージリンは内心でため息を吐いた。
もう少し感銘を受けて欲しかったが、どうやらそれは叶わぬようだ。
いや、それも当然か。
なんせ彼女は―――――――とても怒っている。
地雷を踏み抜いたのはワザとだが、どうやら地雷ではなく火山噴火のスイッチを押してしまったらしい。
まぁ大好きな人を利用されて平然としていられるほうが不思議だが。
例えるなら「性悪女に散々貢がされて最後に捨てられた兄、を見たブラコン妹」といったところか。
別にダージリンは今でも全然、神栖渡里の事を尊敬しているし好きなのだが、今更言ったところで火に油を注ぐだけだろうか。
「ま、いいわ。頭に血が上って少しでも冷静さを欠いてくれるなら儲けよ」
「煽り過ぎよダージリン!」
車内から響く声を、ダージリンは有意義に無視した。
「もう話すことはないでしょう。正々堂々真正面から――――――犬のように序列を決めましょう」
「……一対一で私に勝てると?」
「もちろん。私いま、ちょっと無敵な気持ちなの」
「――――」
目は口ほどにモノを言う。
完膚なきまでに叩きのめしてやるという意志を、ダージリンはひしひしと感じていた。
けれど今は、そんなドライアイスの剣のような敵意さえも心地よい。
変な話だが、ダージリンは高揚していたのだ。
夢見心地というかなんというか、戦いの中にあるまじき多幸感がダージリンを包んでいて、さっきからずっと頬が緩みっぱなしだ。
「―――――――――ッ」
「あら、開幕から随分と熱烈ね」
疾風怒濤。
嵐のような猛攻を、ダージリンは涼しい顔をして捌いていく。
戦車道の名門、西住流。
その直系にして長子たる西住まほ。
単騎での戦いを重視していないとはいえ、その実力は充分に怪物級。
それが全身全霊で牙を剥いてくるのだ。
並みの戦車乗りであれば、身が竦んでまともに相対すらできないだろう。
けれどダージリンは、それでも笑っていられる。
愉しくて仕方ないというように、嬉しくてどうしようもないというのに、口で三日月を描く。
その訳を、誰か聞いてくれないだろうか。
「右から来るわ。いなして背後に回るわよ」
「簡単に言うわ、まったく!」
車内の淑女たちは冷や汗を掻きながら忙しくしている。
とてもじゃないが、ダージリンの話を聞いてくれそうにない。
「なんでそんなに笑っていられるのかしらね!」
「それは―――――――幸せだからよ」
ふふ、とダージリンは一層表情を喜色に染めた。
かつて、イカロスという少年がいた。
蝋で出来た翼で空を飛び、あまりの嬉しさに遥か天上まで舞い上がってしまって、最後は陽の光に翼を灼かれて地に墜ちた、そんなお話。
人の身でありながら、神々の栖まう高みへと昇った者の末路は一つだと彼は教えてくれた。
神域に踏み込んだ代償として、命を奪われる。
誰もがその物語を悲劇と呼ぶだろう。
けれどダージリンは、今なら彼の気持ちが分かる。
身に余る飛翔の先にあるのは破滅。
イカロスだって、きっとそんなことは分かっていた。
けれども彼は、見てみたかったのだ。
人の身では決して見ることのできない、天上に座す者だけが知る世界を。
その果てには、墜落が持っている?
それがどうした。
この胸の高鳴りを成就できるなら、どんな結末も受け入れる。
だから彼は、幸せだったのだと思う。
その墜落に悲嘆はなく、満開の笑みと共に彼は墜ちていったに違いない。
だって―――――――ダージリンもそうだから。
「あぁ―――――――よかった」
万感の思いをこめて、ダージリンは呟いた。
本当に、良かった。
遂にダージリンは、そこに達したのだ。
今まで誰も見ることのできなかった景色。
この世でただ一人、彼だけが見ることのできた世界。
彼が栖まう、遥か高み。
ダージリンは初めて、それを垣間見た。
ならば後悔はない。
ずっとずっと憧れてきたあの人にようやく、ほんの少しだけかもしれないけれど、近づくことができたのだから。
「本当に―――――――良かった」
かくして無冠の女王は、地に墜ちる。
人の身でありながら神域へと至った代償として。
されど彼女に後悔はない。
誇らしげに、堂々と、とても綺麗な顔で。
微笑と共に、彼女は墜ちてみせたのだった。
『聖グロリア―ナ女学院、フラッグ車―――――走行不能』
戦車の乗り換えはルール上問題ありません(ノンナもやってた)。
黒森峰戦に一両だけ参加したというクロムウェル。
先代隊長の形見だと言われてたり言われてなかったりするこの戦車を活かすにはどうしたらいいか、という所から作中のチャーチル→クロムウェルの乗り換えが誕生しました。
ダージリンをチャーチルから降ろすのはかなり悩みましたけどね。
けどダージリンからオレンジペコへのチャーチル継承はいつかくる未来だから。
ルクリリ?そりゃ次代の副隊長よ。
あと対神栖渡里性能が最強の西住まほに対して、どうやってダージリン(ファン歴数年)が勝つのか、という問題。
これは結局ダージリン自身が一時的にでも神栖渡里と同じレベルになるしかない、という答えになりました。
何事もまずは模倣から。
色んな一流の真似をして、初めて自分だけの一流が完成するのかもしれませんね(適当)
じゃあプラウダ戦書いてきまーす。