いよいよだ。
重厚な振動をその身に感じながら、ガルムはそのときを待ち構えていた。
簡素な小屋のような拠点の内部、エルタが矢面に立つ台の下にガルムは立っている。
覗き窓から差し込んでくる放射熱が、かの龍が間近にまで迫っていることを知らせていた。
ガルムはドンドルマの単身古龍迎撃者であり、この拠点に集った人々の中では最も撃龍槍の扱いに長けたハンターだった。
巨龍砲に次いで、ドンドルマの誇る対龍兵器が撃龍槍だ。それが当たる位置までモンスターを誘導する役も、仲間を囮として起動させる役もガルムはこなしてきた。今、隣に鎮座しているような船用の撃龍槍も実戦で使った経験があり、その射程は感覚的に把握している。
盾を持つことはできずとも、撃龍槍の起動はできる。そう言ってギルドマスターを説き伏せ、武器を担がずにこの場に立っている。しかし、そんな彼も今回ばかりは鼓動が大きくなることを抑えられずにいた。
まさか自らが、かの黒龍に連なる存在に対して一矢報いるような一撃を担うことになろうとは。
ドンドルマのアリーナで歌姫にでも謡われそうな状況だが、浮足立ってはいけない。現状を冷静に見据えることだけをガルムは意識する。
かの勇敢な少女による誘導は、ほぼ完璧な成功を収めていた。その生死は定かではないが、ガルムはアストレアという少女に本心からの称賛を贈る。
自ら中距離に立ちながら数百発ものブレスを連続して避け続けるなど、常軌を逸している。少なくともガルムには不可能だ。ソナタでも難しいだろう。軽快に動ける身体と、その身の丈にはとても収まりきるとは思えない程の胆力が兼ね備わっていなければ、数回の回避すら難しい。
それでも彼女はやってのけた。歴戦のハンターたちの屍が積み重なることになるだろうと予想されていた長い道のりをたった一人で駆け抜けて、ガルムたちに繋いでみせたのだ。
地響きがいよいよ大きくなり始めた。覗き窓からもかの龍の漆黒の体表が覆う。
既に目の前にかの龍が立ち塞がっているようにも見える中で、ガルムは人の身程もあるレバーに手をかけ、まだ、そこから動かない。
ふっ、と息を吐く。
撃龍槍は通常、地面や海面に対して水平に飛び出るように設計されている。
しかし、この撃龍槍は後部分が地面にめり込むように傾斜をつけて設置されていた。構造上の限度間際、槍は空に向けて突き出される。
その目的はただ一つだ。
かの龍の胸部に渦巻く緋色の光の核を、的確に突き穿つこと。
脚を貫いて長時間転倒させる使い道もあっただろう。四足歩行時の頭部を狙う運用もできたはずだ。しかし、ギルドマスターたちはそれを選び取らなかった。
もともと短い射程がさらに短くなり、的中率もかつてなく低くなることを承知の上で、大きければ当たる、という撃龍槍の設計理念に真っ向から反する運用に挑む。
直撃、あるいは我々の死。ハイリスクハイリターンを望んだ彼らは、その先に何を見ているのか。
────ああ、それは確かに、人という種以外では成し得ないことなのかもしれない。
極度の緊張に置かれながら、ガルムは僅かに口角を上げた。
エルタが立つ。グラン・ミラオスが歩く。
その口元からは紅蓮の炎が滾る。それを吐き出せば簡素な拠点などたちまち焼け落ちそうなものを、グラン・ミラオスはそうしようとしない。
ブレスが当てられる距離から、倒れこめば押し潰せる距離へ。それは砦の城壁を前にしたラオシャンロンやシェンガオレンのように。着実に歩み寄っていく。
迎撃拠点では猛威を振るい、人々に対抗手段がなかった遠距離攻撃を用いようとしない。
自身のその選択が、これまでの戦いのあらゆる要因によって引き起こされたものであるということに、かの龍は気付いただろうか。
大砲や拘束用バリスタに対して圧倒的な優位に立ち、巨龍砲すらその発射前に沈めてみせた。もう人々に残された対龍兵器などない。自身があまりにも強すぎるために、それを無意識で確信してしまう。
龍属性の気配は感じない。火の海となった街並みの中では巨大装置の蒸気すら紛れる。
至近距離専用の対龍兵器など、かの龍は知らない。知れるはずもない。それが近づくよりも前に、破壊しつくしてしまっていたが故に。
これまでほぼ一撃必殺だったブレスを凌がれる現象を目の当たりにしている。
ある青年にはブレスで追い詰められる前に懐へと潜り込まれ、ある大剣使いには視覚へと逃れられ、ある盾持ちには何度か直撃させても耐えられた。
そして、ここに辿り着くまでの過程。その存在を以てしても、いや、そうであったからこそ、俄かには信じがたい。
今いる場所を的確に捉え、次に動く向きを予想し、攪乱も織り交ぜながら放ち続けたブレスが、あろうことか全て避けられた。たった一人の少女に。
追い詰めた場面は何度もあった。直撃したと思われる場面もあった。しかし、最後の最後まで、少女は立ち上がり続けた。その命を灼き尽くすことはできなかった。
そして最後には、斬られた。人の建造物程度なら一撃で吹き飛ばせたはずのブレスが、直前に割り込んできたたった一人の人間の手によって真っ二つに斬り飛ばされた。
直近で起こったこれらの出来事によって、グラン・ミラオスは青年が目の前に立っているという絶好の機会を前にしても、ブレスという選択肢を取ろうとは思えなくなっていた。
それはグラン・ミラオスの錯覚、いや、過大評価だ。疑いの余地なく、ブレスの一発で拠点は落ちる。それなのにそうしようとしない。そうしようと思えない。
その選択肢の消失は、人々の手によって掴み取ったもの。
あらゆる選択肢はあった。この状況下でも人の側の陥落はあまり容易で、人に対して一切の油断をしないグラン・ミラオスは、その息の根を確実に止めにかかる。
その望みに適う攻撃は、たったひとつ。
チャージブレス。その一択だ。
かくして、木組みの壁の目の前に、かの龍は辿り着いた。
迎撃拠点では紅蓮と黄金、数時間前までは漆黒、そして今は、煌々と光る胸部を核として全身に葉脈が生き渡るような、緋色に。鎮められた両翼の火口は三度蘇ろうとしている。
まるで不死身だ。何度でも息を吹き返す超常存在そのものだ。
星の息吹をその身に宿す現象──古龍は今、眼下に立つ一人の青年を見た。そして、それに向けてゆっくりとその口を開けた。
コオ、と静かに、しかしブレスなどとは比較にならない膨大な熱量が集っていく。あまりのエネルギーに口元の空気は歪み、口元の甲殻は耐えきれずに融け落ちていく。
それだけの熱を一身に浴びて、それでも青年は一歩も動かずにその場に立ち続けていた。
羽織った外套がちりちりと燃え始める。その表情は窺い知れない。何かを企んでいる、たとえそうだとしても、グラン・ミラオスはもう止まらない。
彼を中心にして、この周辺一帯を焦土へと変える。先ほど無視した少女たちも、この拠点も含めて、全て。それができるだけの威力をこのチャージブレスは持っている。
かの龍が信じる最高火力を以て、人という種の抵抗を終わらせるのだ。
炎は光へと転換される。光の色は橙から青、そして白へと移り変わり、その熱は今に生きる人々では決して見ることのできない域にまで至っていた。
そして、グラン・ミラオスはその巨体を前屈させた。このブレスの反動はかの龍の超重量を以てしても抑えきれず、後方に倒れる可能性すらある。それを防ぐために前傾姿勢を維持する。
もはやその距離は、チャージブレスが放たれる前から青年が溶け落ちるのではないかというほどだった。
何も知らない者から見れば、見上げてもまだ足りぬほどの巨大な龍が、豆粒程度の小さな人に話しかけようとしているかのような。
────がこん。
重々しい起動音が響いた。無数の歯車が蠢き、白い蒸気が吹き出す。
次の瞬間、人と龍が相対する景色の中に、今、一本の鉄杭が飛び出して。
前屈みの龍の胸に深々と突き立った。
光が迸る。
強烈な一撃を食らったハンターが、虚空へ向かって血反吐を吐くように。
かの龍が放とうとしていたチャージブレスは空に向かって放たれ、そこに一瞬、太陽が顕れた。
眩い光と莫大な熱が天を焦がし、その余波だけで周囲の瓦礫や木々は吹き飛んでいく。厚く立ち込めていた雲すらその一部が払われて、本来の空が垣間見えた。
クォォァ─────
グラン・ミラオスが絶叫にも近い咆哮を放つ。
一秒もしないうちに放たれていただろうチャージブレス。撃龍槍の起動から実際に射出されるまでの時間差までも考慮してガルムが捉えた、これ以上にない一撃だった。
激しく回転しながら放たれた撃龍槍は、胸部の甲殻をぶち抜いて、さらにその内側へと突き進んでいく。
超高温の血潮に融かされてもその勢いは衰えない。無骨ながら幾多の龍を屠ってきたことを証明し続ける。
岩盤を掘削するかのような音を響かせて、滝のように血を撒き散らしながら驀進していく様は、まるでこの星の内側をこじ開けようとしているかのよう。
かの龍との戦いが始まった直後にこれを放っていたとしても、これほどの鍔迫り合いはきっとできなかった。
かの龍の胸核の温度も、硬度も、邂逅したときよりも明らかに低くなっている。各部位の再生、そして回復にほとんどの血と溶岩を回している今だからこそ。
どんなに打ちのめされようと、意味がないように思えようと、延々と立ち向かい、戦線を繋いだ人々の価値が、意味が。今、ここに証明されている。
原初の星に例えられる存在と、人の技術の結晶、立ち向かった人々の執念のぶつかり合い。
短く、しかし永い時間の末に、血潮の湯気と蒸気の煙が晴れた先に、その決着の光景があった。
────届いた。届いている。
芯の半ばまで融かし尽くされ、先細りして今にも折れそうになりながらも。
その内核は、それまで何者も到達しえなかった領域。
大型の竜をその身の内に取り込んでいたのかと錯覚するほどに大きく、拍動する心臓が、撃龍槍によって確かに穿たれていた。
星の火山活動そのものと何ら変わりない存在であったとしても、心臓を持ちうるのか。
もし学者や吟遊詩人がこの場に居合わせればそう考えただろう。そして、人々の土壇場での逆転を高らかに謳っただろう。
撃龍槍は確かに心臓にまで届いている。その過程でやや左側へ逸らされたものの、その巨大な袋を貫いていることは明白だった。
人であれば間違いのない致命傷だ。古の秘薬だろうと何だろうと意味をなさない。心臓の傷の治癒など夢物語にすら存在せず、首を絶たれることとほぼ同義に扱われる。
瞬く間に脈拍は弱り、血の気を失い、速やかに死に至る。言葉を遺す間すらない。人を遥かに凌ぐ生命力を持つ竜種でもそれは変わらない。
そのはずだ。心臓という機関を持つ限り、その理からは逃れることはできないはずだ。
巨大な杭によって貫かれているはずだ。実際、その傷口からは湯気立つ血潮が噴出して撃龍槍を伝っている。
だが、それがどうしたとでもいう風に、心臓は動き続ける。全身に血を送ることを止めようとしない。
かの龍の全身を伝う光の筋は一瞬弱まったものの、それから徐々に血の気を取り戻しつつある。
かの龍自身も今はショック状態に陥って動くことができないようだが、瞳孔の光は全く失われていなかった。
死なない。致命傷になっていない。
心臓を刺し貫かれていながら生きて立ち続けるという、あまりにも現実離れした光景がそこにあった。
撃龍槍が沈黙する。役割を終えた対龍兵器はもう動かない。あとは新たに巡る血液によって融かし尽くされるのを待つのみだ。
「これで倒せるかもしれない」という言葉を飲み込んだギルドマスターの意図が、こんなかたちで証明されることになるなど、誰が予想しただろうか。
不死の心臓。
かの龍が古龍として持つ、本当の特異性。
かつての敗北から永い時を経て蘇り、あらゆる権能の原動力となった、この世界でも類を見ない永久機関。
原初の開闢をその身で成した、世界で最も永く生きた生命のひとつは、自らの灯火が途切れないことを確信している。
かん、と甲高い音がかの龍の眼下で響いた。
見下ろせばそこには、返り血によって火が付いた木組みの防壁と、自らの胸を穿ったまま沈黙する鋼鉄の槍。その先に。
外套を脱ぎ去って、長大な斧を晒す青年の姿があった。
今、この瞬間を幸せと呼ばずして何と言うのだろう。
自分は果てしなく幸運だった。それは嘘偽りも、飾りもないエルタの本心だった。
もうまともな意識もない。四肢が動き、声が出せるのは紛れもない奇跡で、死の恐怖に怯えながらも治療に専念した勇敢な職員たちのおかげでもある。
有体に言って、ほぼ手遅れだった。火傷の範囲も重度も致命的で、回復薬を服用しても皮膚の壊死は止まらなかった。
現存の生命力を秘薬で無理やり引き出して、ありったけの痛み止めと包帯を使って、死ぬまでの時間を長引かせている。そうやって舞台に立てているだけの、正真正銘の死に損ないだった。
それでも、それでもだ。
目の前で繰り広げられている光景は、かつての自分が思い描いていた情景そのものだった。
回転する大槍が、かの龍の胸殻を貫いている。
火山の中枢を拓いたかの如き膨大な血潮と、削り取られた外殻の破片が撒き散らされている。
その先に垣間見える。確かに穿たれて、それでも乱れない鼓動を刻み続ける心臓が。
かつてのおとぎ話が具現化した光景の目前に、自分という存在が立てている。
エルタは外套を脱ぎ捨てた。
そこに在ったのは、半死半生をその身で証明するような惨たらしい有様の身体と、その見た目に相反する美しい装飾の斧。
砕けた穿龍棍をその手から皮膚ごと剥ぎ取って、代わりに握られたその武器は、それだけが別の理の世界に存在しているかのような冷気を放っていた。
一歩を踏み出す。その体の見た目からは想像もできない程の、力強い一歩だった。
しかし、いくらそれが目の前にあるかのように見えていたとしても、グラン・ミラオスとエルタの距離は物理的に開きすぎていた。巨大龍はそう在るだけで距離感を狂わせる。
エルタが飛び付いた程度では到底届かない。手に持った武器を掠らせることすらできない。両者の間にあるのは、一本の撃龍槍のみ。
走路はそこに在った。あとは駆け抜けるだけだ。
回転が止まった撃龍槍にエルタは飛び乗った。かん、と甲高い金属音が響く。
血に塗れた足元に滑りそうになる。体勢を立て直し、斧をしっかりと握りしめて、エルタは巨大な槍の上を駆け上がっていく。
その最中で、エルタは柄に取り付けられた引き金を引いた。斧の先端が柄の方へと移動し、代わりに斧の背後に仕舞われていた一本の角が姿を現す。
それは世にも珍しい幻獣の素材で作られた剣斧、断雷斧キリン──ではない。眩いまでの雷は纏わず、その代わりに蒼く、どこまでも凍てついている。
降雹剣キリン。エルタが狩猟した唯一の古龍、氷の幻獣の角を芯として創られたその剣斧は、剣状態へと変形したその瞬間に異常なまでの冷気を膨れ上がらせた。
剣を持つエルタの手が瞬く間に凍り付く。それは通常の武器の属性発現の域を超えて、目に見えて暴走していた。その有様は、それが古龍の武器であるということを彷彿とさせるものだった。
しかし、エルタは自らの腕が氷に包まれていくのも構わず、むしろその溢れ出す冷気を盾として、灼熱の血の雨の中へと突っ込んだ。
グラン・ミラオスは心臓を貫かれた衝撃から立ち直れない。物理的に懐を拓いたまま、エルタの突貫を迎え入れる。
血の雨は止まない。これから先、止むことはないだろう。焼けて塞がった瞼をこじ開ければ、手に取れるほどの距離にそれはあった。
さながら脈打つ溶鉱炉だ。拍動が大銅鑼のように空気を介して伝わってくる。自らの身の丈を優に超える大きさの心臓が、かの龍の生命を証明し続けている。
今こそ、訣別の刻だ。
血塗れの撃龍槍を駆け抜けたエルタは、氷を生やしたその腕ごと、剣状態の降雹剣を心臓へと突き刺した。
その瞬間、原初の星は新たな感情を学ぶ。
それはあまりにも不可解で、耐え難い、何よりも鮮烈な感情だった。
死への恐怖。これまでの生で一度も感じたことのない、原理的に知覚することすらできないはずの寒気が、かの龍の全身を駆け巡っていた。
エルタが手に持っていた降雹剣は、一般的な狩人の持つ剣斧とはかけ離れた特性を与えられていた。
狩猟武器という枠に当て嵌まるかさえ怪しい。剣状態になった途端に暴走したのは、そうなるように創られたからだ。意図して作られた欠陥品とも言えるだろう。
使い切りだ。たった一度でも剣状態になると、その武器が宿す属性を全て解放し尽くすまで暴走し続け、その果てに壊れる。
下手に扱わない限り、狩猟中は決して破損させないという加工屋の理念に真っ向から歯向かっている。武器の形を与えられた爆弾のようなものだ。
そうまでしても成し得たかったのは、かの霊獣のオリジナルに近い氷属性を現出させること。
足跡に霜を纏い、地面から自在に氷柱を生やすかの霊獣は、あるときに他のモンスターの追随を許さない極低温の空間を創り出すことがある。
空気を瞬間的に凍てつかせ、何もかも静止した極寒の地として切り取ってしまったかのような現象。そんなことができる存在は、エルタの知る限りその古龍しかいなかった。
結局、おとぎ話に魅せられた子どもの語る夢物語のような理屈だ。
大地を創造したなどという星の化身に真っ向から対抗できる存在など、この星を全て凍らせて終わらせるくらいの力を持っていてもおかしくはないだろう。あるいは、同じく黒龍の名を持つ伝説の存在か。
世界の理の内に生きる人が、足元にも及ばないのは言うまでもない。竜ですら並び立つには遠い。おとぎ話が具現化したかのような、不死の心臓に干渉するのは困難を極める。
国一つを一夜にして氷漬けにしたという伝説を持つ霊獣ですら、並び立てるかどうか。
しかし、その神秘を一点に集約し直接ぶつけることができたなら、あるいは。
「ぐ、あぁ……!」
────生き地獄だった。
半身は絶え間なく噴き出す血潮によって焼かれ、もう半身は場違いな冷気によって氷に埋め尽くされている。
しかしそれは、翻せばこの武器の氷属性がそれだけ強く発揮されているということだ。鉄すら溶かすほどの熱量に押し負けず、降雹剣はグラン・ミラオスの心臓を凍らせていく。
それでも、かつて霊獣と戦ったときの一瞬で万物を凍て付かせるような現象には劣るかもしれない。分かっていたことだ。それでも、たった一度でいい。限りなくそれに近づくことができればそれでいい。
「とどけ…………!」
今の自分を、アストレアは見てくれているだろうか。
彼女がこの剣を持ってきてくれた。高潮で海に沈んだギルドの武器庫からこの剣が拾い出されなければ、この瞬間は訪れなかった。
そんな彼女が死地へと向かっていくのを、エルタは止めなかった。彼女の背中を押しておきながら、結局自分だけで走り続けた。
あなたの生き方を尊敬する、と。純粋な意志を持って、涙を零しながら告げる彼女のことを思い出す。
生きていてほしい。死にゆく自分を差し置いて、どこまでも無責任ながら、切実に。
今まで息苦しかった分を、一歩を踏み出せていなかったわだかまりを解いて。竜の瞳で世界を見て、彼女だけが紡げる物語を、これからも。ずっと。
「とど、け…………!」
かつての相棒は見てくれているだろうか。
この迎撃戦には訪れなかった。彼は古龍を倒すという共通の目的からエルタと出会い、共に歩み、二人で霊獣を討伐し、そして彼自身の夢を叶えるためにエルタと別れた。
お前の生き方をお前がつまらないなんて言うな、と。あのときのアストレアと全く同じことを言って自分を叱咤してきた。もう何年も前の話。エルタの人生を追った、もう一人だ。
彼のことを急に思い出したのは、走馬灯のようなものか。
この物語の外にいて、けれど、エルタにとって本当にかけがえのない存在だった。
彼については、心配していたら怒られてしまうだろう。そんなことよりもお前は自分のことを心配しろと、何度も言われていたから。
生きていてほしい。夢を果たした、その先を。歩み続けていてほしい。
「と……ど、け…………!!」
あの少女は、見てくれているだろうか。
自らの命が湯水のように流れ出していくのが感じ取れる。
もはや痛みは通り越して、自分という体から皮膚が、肉が、骨が溶けて、あるいは凍って零れ落ちていくような感覚だけがあった。
人の身で飛び込もうというのがおこがましい状況だ。甘んじて受ける。ただ、この手だけは決して離さない。
誰かの願いも命も背負わなかった。自分ばかりが背中を預けて、ただこの瞬間のためだけに生きた。
モガの村の人々を背負うソナタとは真逆の強さ。ひたすらに身勝手なこの在り方に、唯一見出すものがあるとすれば。
あの日、何も知らない幼児だった自らに秘密の話をしてくれた、あの少女だ。
かの龍の心臓は、星から受け取った力の源。溶けた大地のもとを永久に生み出し続ける。あの少女はそう言った。
だから、ほんのひとときでいい。一秒に満たない時間でいい。その心臓を全て凍らせれば、その鼓動を止めることができれば。
そのときだけは、
心臓の拍動はかつてなく大きなものになっている。心臓に直接攻撃を与えられて動くことができないグラン・ミラオスは、しかし自らの命の本当に危機を感じ取り、心臓の凍結に全力で抗っている。
対して、降雹剣も呼応するように冷気を生み出していた。今にも砕けそうなほどの振動は、属性解放突きによるものだ。
大剣から重穹まで、現在のあらゆる武器種の中で、最も武器の属性を発揮できる攻撃が、剣斧の属性解放突きだ。だから彼は剣斧というかたちを選んだ。
純粋な氷の古龍の力を借りて、本来であれば数年は持つその剣斧を一回の属性解放突きで砕け散らせることで、ここまで来れた。
両者の戦いをエルタは見定める。剣を押し込む手の力を決して緩めず、自らを弾き飛ばそうとする心臓から決して手を放さず。
不死の心臓を凍らせるという、自らの解の先を見るために。
「…………!」
眼球は溶け落ちた。
鼻は凍って砕けた。
耳は焼けて灰になり、あるいは霜に包まれた。
全て、全て全て炎に、氷にくべて、その先へ、その先を。
人が龍に挑む物語の、結末を────
刻が止まる。
ぎし、と軋むような小さな音が鳴った。
それが音として聞こえるほどの、静寂。
膨大な血を吐き出していた大穴は、極寒の滝のように凍てついた。
莫大な拍動を響かせていた肉の塊は、霜を生やして沈黙していた。
属性解放を終えた降雹剣は、それ自身が氷塊に包まれていた。
苦しみ悶えていたグラン・ミラオスも、その動きを完全に止めていた。
大地を創造する開闢の星が、氷の楔によって繋ぎ止められた。
────まだだ。まだ終わっていない。
まだ動きを止めただけだ。一時的な凍結に追い込んだだけだ。
心臓そのものはその形を保っている。熱源が凍ったとしても、周囲は焼けつくような気温のまま。
いずれ氷は融ける。融けた後でこの心臓が再び動き出さない保証はない。いや、必ず動き出す。
かつての戦いでもこれに近い段階まで追い込んだのだろう。かの龍は一度死んだのだろう。しかし、かの龍は復活した。死んだはずの心臓は蘇った。物語は終わらなかった。
砕かなければ。この氷を。
爆弾でも、大砲でも、大剣の一撃でもいい。この心臓が氷に包まれている間に、その形を失わせる。そうでなければ、ここまでの戦いが
そんなことはさせない。絶対にさせるわけにはいかない。
そうだ。タンジアと海上調査隊の人々、そしてハンターたちはここに至るまでに全てを投げうってきた。余力を残すようなことをしていたら瓦解するような作戦だった。
ならば頼れるのは、頼らなくてはならないのは自分しかいないだろう。自分が決着をつけなくてどうする。
目が見えずとも、鼻が利かずとも、音が聞こえずとも、手や足の感覚が分からなくても、やってみせよう。終わらせる。
たとえ、自分の身体がばらばらに砕けようとも────。
「あら、物語の感想を聞けないままに旅立ってしまうなんて、寂しいじゃない」
そっと、エルタの手と重ねるように。
真っ白な手が氷の壁に触れられて。
紅い光が、エルタの目の前で弾けた。