グラン・ミラオス迎撃戦記   作:Senritsu

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終節 おとぎ話の幕引きを
> おとぎ話の幕引きを(1)


 

 

 撃龍槍がグラン・ミラオスの胸を貫いて、訪れた静寂。

 どうせ間もなく、火山の咆哮が再び響き渡ることになるだろう。そんな諦観に包まれていた人々は、いつまで経ってもその轟きが訪れないことに気付いて顔を見合わせ始めた。

 

 やがて、空と陸、そして海に変化が訪れる。

 風が吹き始めた。海の熱気によって生み出され、集まって上空に縫い留められていた雲が吹き散らされていく。

 雲間から差し込むのは朝日だ。日の光が大地に本来の色彩を取り戻させる。炎の赤と土の色が区別できるようになる。

 海が白波を立て始めた。なにかに押し潰れているかのように凪ぎていた海が、その息づかいを取り戻す。

 

 古龍の支配下にあった世界が、少しずつ、しかし着実に、解かれていく。

 

 灰と煙が陽光に照らされて舞う中で、グラン・ミラオスは佇んでいた。

 

 まるでそこだけ時間が静止したかのように、かの龍は動かない。

 空に向かって咆哮しているかのような立ち姿は、自らの意志を世界に向けて最後まで訴えかけているかのようだった。

 一分か、十分か、それ以上か。屹立する龍の姿は時間の感覚を狂わせる。しかし、そのときは確かに訪れた。

 

 ずん、と山の裾野が崩れるように。グラン・ミラオスの後ろ足が沈み、その巨体がゆっくりと傾いていく。

 光の筋を失った翼が地に落ちた。横倒しになったいくつもの火口から、灼熱の体液が零れ出ることはない。黒く冷え固まった溶岩が火口に蓋をしていた。

 長大な尾は力なく投げ出された。龍が身動きするだけで周囲を更地にしていたそれは、深い眠りについた蛇竜のようにただそこに在った。

 黄金の瞳だけが未だ開かれたまま、漆黒の中で色を持つ。しかし、そこに光は宿っていなかった。

 

 倒れ行くその姿は、大灯台が倒されたときよりも大きな地揺れを伴って。

 その器に、再び命の灯が宿ることはなかった。

 

 

 

 

 

 グラン・ミラオスの巨体が地に横たわるのとほぼ同時に、そっと、音すらなく、白き少女が地面に降り立った。

 ふっと舞い散ったのは砂塵か、灰か、それとも光の粒子か。人が見ればそう錯覚してしまう程に、その少女は美しく、どこまでも白く、そして現実離れした雰囲気があった。

 

 そんな少女の腕には、ひとつの肉塊が抱えられている。

 いや、もはやそれが肉なのかすら定かではない。黒焦げになり、あるいは氷を生やし、何をすればそのような物体ができ上るのか見当もつかないほどの()()()だ。

 

 かろうじて滴り落ちる血が、それのもとが生き物であったことを証明している。

 人が見れば顔を顰め、近づくことすら戸惑うであろう有様のそれを、少女は微笑みと共に抱きかかえていた。その白い腕に煤と血の赤が染みても躊躇しない。

 ともすればそれは、その肉塊にこそ何よりの価値を感じているかのようだった。

 

 そんな異様な光景を咎める者はいない。見ている者が誰もいないのだ。それが分かっているから少女はそこに降り立っている。

 ややあって、少女は静かにその場に膝をついた。ぐずぐずの肉塊の上部を膝の上に置く。

 そして、どろりとした血で滑る皮を優しく撫でてから口を開いた。

 

「────さあ、お話をしましょう」

 

 

 

 

 

 ああ、これが死後の世界というものか。

 何もない闇の中で浮かび上がるように表出した意識。エルタは淡々としていた。

 

 死の概念には疎かったが、かつての相棒はそういった価値観をしっかりと持っていた。

 曰く、世界に生きる生き物たちは全て輪廻転生のもとにあるのだと。死すれば竜に、或いは風に。巡って廻り続けていくものなのだと語っていた。

 ではこれは、肉体を離れた意識が転生するまでの狭間のようなものか。確かに、暗闇の中にありながらもどこか温かい。

 

 未練は──ある。来世にまで影響を及ぼすのではないかというほどに。

 

 かの龍、グラン・ミラオスの生死を見定めることができなかった。

 確かに、確かにその鼓動を止めたことまでは記憶に残っている。ただ、最も重要なのはその先なのだ。その凍てついた心臓が砕けるところを見届けるまでは死んではいけなかった。自分自身がそう誓っていたというのに、この様だ。

 あの氷が融けた先でかの龍が再び目覚めるようなことがあれば、と考える度に悔いが残る。見届けることが叶うならば、この魂すら捧げても全く構わなかった。

 

 そこまでしてでも、成し遂げたかったことがある。

 人が星を墜とすことができるのかという概念的な挑戦も、その願いの根源までは至らない。

 

 手を届かせたいものがあった。そのために走り続けた。たとえ狂気とみなされてもよかった。

 人の歴史、龍の生涯から見れば、ほんの瞬きに過ぎなかったとしても。

 走り続けた先に、それを掴み取れるなら。

 

「────さあ、お話をしましょう」

 

 

 

 

 

 白い少女は、かろうじて人のかたちをしたそれに話しかけた。

 倒れ伏した黒龍を背景として、破壊され、今も火が踊る人気のない街の中で。

 少女の膝に乗せられた青年の、炭化した唇が僅かに動いた。

 

「あ……とれ、あ……?」

「あら、この期に及んで私を誰かと間違えるなんて、なかなかの逸材ね」

「え…………あ、ぁ……………………あ、なた、は」

「あら、覚えていてくれたの? それとも夢の中にいるのかしら。まあ、どちらにしてもそう変わりはないでしょう」

「ふ……ら、ひ……めが、み、さま」

「……そうね。あなたは私をそう呼んでいたわね。ふふ、懐かしい」

 

 少女はくすりと笑う。青年はその表情を見ることは既に叶わなかったが、今この瞬間に起こっている奇跡をようやく意識の中に落とし込んだ。

 

「ぼ、く……は…………しん、で……」

「さすがにその先に逢いに行くのはちょっと難しいわね。私も、この世界に生きていることに変わりはないから」

 

 やや回りくどい言い回し。エルタはそれにひどく懐かしさを感じた。

 涙を零すための目は融け落ちている。けれど、とぎれとぎれにしか聞こえなかったとしても、死の間際で音だけが聞こえることがどれだけ幸運なことか。

 

 死んではいない。死に行く過程で奇跡に巡り合った。

 そうであれば、何を尋ねるべきだろう。

 

「ぐら……み、ら…………は」

「そうね。私の後ろで眠っているみたいだけれど。長い、永い眠りね。人はこれを死んだと言うのではないかしら」

「……ぼ、くは…………ど……や、って?」

「最後に少しだけ干渉させてもらったの。このままだと、あなた本当に炎と氷に包まれてかたちがなくなってしまいそうだったから。最後の後押しを横取りしてしまってごめんなさいね」

 

 そんなことはない、とエルタは言おうとしたが、唐突に腹から込み上げてきた血がそれを阻んだ。

 最後の一撃は彼女が担った。意識が焼き切れる寸前の光景をエルタはかろうじて思い出した。エルタの傍に添えられた手。紅く、白く、眩い光。あれはあの少女が放ったものだったのだ。

 雷撃だったように思えるが、分からない。どこからそんな一撃を放てたのか、それは尋ねてもあまり意味のない問いなのだろう。

 

 結果的に他者の力を借りる結果になってしまった。情けない話だ。

 けれど、そのおかげでエルタはこうして彼女と言葉を交わすことができている。

 

 口の端から血が零れ落ちる。猶予などほとんど残されていない。底のない深い闇へと落ち込んでいく意識の中で、エルタは必死に言葉を紡ぎ出した。

 

「ぼ、くは……あ……た、の……もの、が……た…………き……いて……」

「ええ」

「あ、なた、の…………ゆめ、と……おも、い……た、くな……く、て」

「ええ」

「おわ、て、ない……もの、が……たり……を…………おい、か……けて……」

「ええ」

 

 僕は、あなたの物語を聞いて。

 あなたの物語を夢と思いたくなくて。

 あの終わっていない物語(大地を創った龍の話)を追いかけて、それに見えることができれば、夢でないことの証明になると。

 

 アストレアにも話した、ただそれだけの十年間。

 認めてほしかったのだろうか。分からない。ただ、これを話さなければ、この後に続く言葉はきっと伝わらない。

 

 どうか、あと少しだけ、時間を。

 この答えを聞くことができれば、もう、それで終わろう。

 

「ぼ、くは………………」

 

 そうだ。これが、未練の本質。

 自分はきっと欲深いのだ。無意識の内にそれを感じ取って、エルタは自らの願いに蓋をしていた。

 

 人生で向かい続けた問いは、たったひとつ。

 

 

 

「ぼく、は……あ、なた……の…………もの、がた……り、に……な……れ、ました……か…………?」

 

 あなたが語るおとぎ話の、登場人物になりたい。

 

 

 

 あなたに物語を紡がれる誰かになりたい。

 

 

 

「……そう。それがあなたなのね」

 

 少女は小さくそう呟いて、エルタから視線を外して空を見た。

 どこか言葉を選んでいるような沈黙。エルタはただそれを待った。龍の支配から紐解かれていく世界を、一陣の涼風が吹き抜けた。

 

「────龍が人に敗れて海の底に沈んでから、どれほどの時が経ったのでしょう。いくつもの時代を跨いで眠っていた龍は、再び目を覚ましました」

 

 しばらくして少女の口から語られたのは、かつてのエルタに言い聞かせていたような物語だ。

 けれど、その物語をエルタは知らない。知っているはずもない。それはまさに今紡がれる、今の出来事を綴った話なのだから。

 

「今度こそ、地上の再編を成し遂げる。龍は息まき、再び地上に姿を現します。

 再び人との争いになることは分かっていました。龍は挑戦者であり、かつての己よりも強い意志を持って人を薙ぎ払っていきました。

 最初から本気を出した龍を相手に、人は成す術もありません。侵攻され、蹂躙され、人の街は崩れ去りました。人々は絶望し、抗うことを諦めていました」

 

 歌うように語る少女は、そこで一度言葉を切った。そして、ふっと笑った。

 

 

 

「────たった一人の、狩人を除いて」

 

 

 

 

 

 それが、答えだ。

 

「本当に、たった一人。諦めずに龍に立ち向かった狩人がいたのです。人が火山ひとつを相手にするようなものでした。けれど狩人はそんな火山に登りつめて、暴れる火の口のひとつを塞いでしまいました」

 

 エルタが翼の根元を穿ったあの瞬間、少女はそれを見ていたのだと。

 

「狩人の雄姿を見て絶望から顔を上げた人々は、決死の抵抗を始めました。

 龍の突進を受け止めた大男がいました。恐ろしい龍の瞳を真っ向から見返した女の子がいました。龍の吐き出す炎に剣一本で挑んだ少女もいました」

 

 ガルム、ソナタ、アストレア。かの龍に勇敢に立ち向かった人たちのことも見ていたのだと。

 

「それでも人は追い詰められて、最後の最後。一度も諦めることのなかった狩人は、龍を討つための氷の剣を持ってこう言うのです」

 

 空を見上げていた少女は、そこでエルタを、エルタだったものになりつつある肉塊にそっと顔を近づけた。長く白い髪が彼の顔にかかった。

 

「僕は、あなたの物語になれましたか────」

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、言葉も流暢に紡げず、涙を流すこともできない歯がゆさと、それら全てを覆いかぶせてしまうようなこの感情をどうすればいいのだろう。

 

 報われた。

 自らの十年はきっと間違っていなかった。周りから見れば間違いだらけであったとしても、少なくとも、自分がそう認められた。

 

「あら、あなたも笑うのね。生まれたときから笑うことだけ欠けてしまったのかしらと思ったけど」

 

 おどけた口調で少女は言う。これから死にゆくエルタを気遣うつもりもないらしい。

 それが彼女という存在だ。生き物の死を幾千幾万、ともすれば幾億と視てきたのであろう少女の価値観だ。そういう風に在ったから、少年のエルタは少女に心惹かれたのだ。

 

「即興のお話だけれど、どうだったかしら。あなたの感想を聞きたくて、最後に手出しをしてしまったわ」

「……すこ、し…………はず、か……し……」

「あら、あなた天邪鬼なのかしら? 確かに、最初は龍のお話だったのに途中から人のお話になってしまっているところは反省点ね。あなたたちがあんなに魅せてくれるからよ。もう」

 

 彼女がグラン・ミラオスに止めを刺した理由に他意はないようだった。

 本当に、辺りに人の死が蔓延っていることにすら構おうとしない。見方を変えれば、それだけ非干渉を決め込んでいた彼女を動かしたという事実もまた、エルタたちが掴み取ったものだったのかもしれない。

 

「あなた、もう子どもではないし、私が何なのかもおおよその見当はついているのでしょう」

「…………」

「怖さ、というよりも、あなたは私をどう視ているのかしら?」

 

 少女は何気ない口調で暗に告げる。

 私は姿かたちこそ違えど、あなたたちが倒した龍に連なる存在よ、と。

 

 エルタが少女を怖がってないことは既に明らかだ。彼女が明確な意思を持って人と敵対すれば本能的な恐怖は湧き上がるかもしれないが、少なくとも今は落ち着いて彼女を視ている。

 彼女からの問いには答えなければなるまい。なかなか死ぬことを許してくれないな、と、いよいよ薄らぎ始めた意識の中でエルタは苦笑した。

 

「あ、なた…………は。ふ……ひや、の…………」

 

 少女の言う通りだ。初めて彼女に出会ってからタンジアに辿り着くまでの十年間に、エルタは少女がどのような存在であったかに気付いていた。

 ただ、それに関しては十年間で思い悩むことは一つもなかった。躊躇するまでもなく答えられる質問でよかった。もうエルタに物事を考える余力は残されていなかった。

 

「もの……がた………………すき……やさ、し…………めが、さま」

 

 フラヒヤの、物語が好きで優しい女神さま。それ以外の何物でもない。

 人にとって災厄である側面も持つのだろう。人に挑まれ、その悉くを返り討ちにした絶対の存在なのかもしれない。

 

 けれど、そんな彼女を少なくともエルタは見ていない。エルタが見てきたものだけで判断せざるを得ないのはとても自然なことで、そんな彼女は。

 あのフラヒヤの森の中で出会った彼女は、不届き者の少年に赦しを与え、それどころか幾多のおとぎ話まで贈ってくれた優しい女神さまだったのだ。

 

「……なんだか、上手く言いくるめられてしまったわね。いいでしょう。あなたがそう願うのなら、私はそう在るとしましょう。幸い、人はおもしろい物語を見せてくれることがあるから、そう飽きることもなさそうね」

 

 そう言って彼女は嘆息した。

 いつの間にか、空には青空が広がっていた。この世界で晴れの日に空を見上げれば大抵は見れるような、抜けるような蒼が水平線の向こうまで続いていた。

 

 

 

 

 

「め…………が…………さ、ま…………」

「どうしたの?」

 

「あ…………り……が…………」

「あら、お礼を言われるようなことをしたかしら」

 

「……こ……こ…………き……て…………く………………て……」

「ふふ。どういたしまして」

 

「ぼ……く……あ……て…………く……れ…………て…………」

「それは、こちらこそね」

 

 

 

 

 

「…………あ…………な……た………………あ……え…………て………………よ……………………か…………────」

 

 

 

 

 

「……私も、あなたに会えてよかった。エルタ・ミストウォーカー」

 

 霧の中で、たったひとつのおとぎ話の記憶を頼りに、白き少女の姿を追いかけ続けた。

 それが、エルタ・ミストウォーカーという青年の軌跡。

 

 止まることなく駆け続けたその先に、原初の黒龍の討伐を成し遂げてしまった。それすらも少女を追いかける手段としてしまった。

 

 その名を覚えよう。物語として記憶しよう。たった一つの出会いから、その先の人生の全てを捧げた鮮烈な生き様を。それを観測した龍として。語り継いでいくとしよう。

 

 

 

 けれど、彼は天邪鬼だ。少女に物語として紡がれたいという願いを持っておきながら、自らが主役になるのを恥ずかしがる。

 彼の名前を題名にしてもよいとすら思ったけれど、それは彼のために止めてあげるとしよう。

 

 ならば、どうしようか。

 これは彼が主役であることは間違いない。しかし、彼にも話したように、その他にもおもしろいものはいくつも見せてもらった。特にあの竜の眼光を持つ少女と、彼女と共にある大剣の使い手には思わず目を奪われた。

 これは、龍が人に挑むという異色の物語であり、人が龍に立ち向かう正統派の物語でもある。本来はそう在るべきものだ。

 ならば、その本来の趣旨に沿った題名にするとしよう。そう、例えば────

 

 

 

 『グラン・ミラオス迎撃戦記』

 

 

 

 

 

 

 

 撃龍槍が黒龍に激突した際の反動によってあえなく崩壊した拠点。

 その瓦礫の山の一部が盛り上がり、そこから出てきたのは傷だらけの大男、ガルムの姿だった。

 防具がない状態で頭部に落下してきた岩によって、長らく気を失っていた彼は努めて冷静に周囲を見渡し、目の前にある黒い壁が黒龍の外殻であることに気付いた。

 

 そこから命の気配は感じられない。倒されている。あの黒龍が。

 撃龍槍か、それとも他の要因か。瓦礫の山から這い出た彼は、拠点の後方、かろうじて平らな地面が残っている空間に、人間らしきものが横たわっているのを見た。

 

「…………!」

 

 痛みに軋む身体を動かし、その場所まで辿り着いて、確認のために膝をついた。

 やはり人だ。近くで見なければそれすらも分からない程の惨状だが、四肢はかろうじて繋がっている。

 

 念のため、呼吸と脈拍を確認する。念のためだ。診るまでもないことは分かっていたとしても、一人の狩人として、それから眼を背けてはいけない。

 

 

 

 呼吸はなかった。脈も既に止まっていた。

 しかし、それとは別にガルムは戦慄を隠せなかった。彼のぼろぼろになった身体を触ればガルムの驚きも伝わるだろう。

 熱い。そして冷たい。あまりにも両極端な、右半身と左半身の状態。いったいどのような状況に置かれれば、こんなことになるのか。その熱が今も残っている現状が、その凄まじさを際立てている。

 

 こんな地獄のような環境に晒されても、何かを成そうとしたのであろう人物を、ガルムは一人しか知らない。もう疑う余地もない。

 

「エルタ殿、見事だ。某は貴殿を心から尊敬する」

 

 そう言って胸に手を当て、ガルムは瞑目した。

 最後に黒龍討伐を成し遂げた者は彼だ。間違いない。その雄姿を見届けることができなかったことが悔やまれるが、それでも彼のことを生涯、胸に刻もうと誓った。

 

 それからしばらくして、今度は別の場所から騒ぎ声のようなものが聞こえ始める。

 何かを静止するような声。それを振り切って、二人の少女が互いに肩を支えあいながら姿を現した。

 ソナタとアストレア。恐らく、担架か何かで運ばれている最中に強引に下りてここまで戻ってきたのだろう。

 

「────ッ! エル!」

「…………ガルムさん」

 

 もはや人の原型を成しているかすら怪しいそれを即座にエルタだと言い当てたのは、アストレアの類稀な直感故か。

 アストレアが血相を変えてエルタに駆け寄り、ソナタはその後ろから足を引きずってガルムに問う。

 

 ガルムは静かに首を振った。ソナタの唇がきゅっと結ばれる。エルタに手で触れたアストレアも、すぐにそれを悟ってしまったようだった。

 

「エル、エル……! あ、ああぁぁぁ…………!!」

 

 両目から大粒の涙を零し、霜ついたエルタの片腕を手に取り、アストレアは慟哭する。

 彼に残された時間がもうないことは、既にあの応急キャンプで話したときから分かっていた。その覚悟もしていた。

 けれど、それでも、辛い。胸が締め付けられる。彼の最期を看取ることができなかった。それが何よりも苦しい。

 涙は止まることを知らなかった。泣き虫になってしまったとアストレアは思った。けれど、このために流す涙はきっと間違いではないはずだ。

 

「……彼女は仲間の死は初めてか?」

「……はい。かく言う私も、親しい間柄では初めてです」

「そうか。痛く、苦しいな」

「はい。……とても」

「その痛みは癒えなければならないが、慣れるべきものでもないだろう。某はもう、慣れ切ってしまった」

「……重いですね。私も、ちゃんと向き合います。──でも、見てください」

 

 エルタの傍で声を押し殺して涙を零すアストレアの背後で、ソナタとガルムは言葉を交わしていた。

 ソナタが視線を向けた方をガルムも見る。そこにはエルタの頭部があった。

 

「エル君。笑ってます。すごく穏やかに……彼、ちゃんと笑えたんですね」

「……よく見ているな。確かにその通りだ。目元も力が抜けている。不思議だ。壮絶な痛みに苛まれたはずだが…………」

 

 訝しがるガルムを傍目に、ソナタは久しぶりの青空を見た。

 

「……?」

 

 目の錯覚だろうか。

 今、空の向こう、白い雲の隙間に、純白の見知らぬ何かの姿が見えたような────。

 

「ソナタ殿」

「──あっ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしてました」

「無理をしてここまで来たのだろう。怪我が厄介な後遺症になる前に正規の治療を施したほうがいい。我々海上調査隊も、できうる限り復旧を手伝おう」

 

 ガルムは既に今後を見据えている。

 それが指揮者の正しい在り方だ。実際、今後の課題は山積している。ギルドマスターも無事であることが唯一の救いだが、タンジアの復興には長い時間がかかるだろうことは明らかだった。

 

 けれど今は。もう少しの間だけ、ひとりの狩人でありたい。

 

「きっと、願いを見つけて、それを叶えたんだね。エル君」

 

 そう呟いて、ソナタは再び空を見る。純白の生物はもう見えなくなっていた。

 戦いが始まる前、リオレウスと戦ったときの頃の彼の言葉を思い出す。

 

 成し遂げたいことがあること。それが何なのかは実は分かっておらず、しかしその想いが霞むことはなかったということ。

 自らの願いの正体を知るためにタンジアを訪れたのだと、淡々と言っていた彼は、この戦いの果てに何を見出したのだろう。

 

 その話を聞きたかったな、と。視界が滲みそうになった。

 目じりの涙を拭う。アストレアはあれでいい。彼女があそこまでの感情を発露させることは滅多にない。そういうときに、彼女は自らの生き方を学ぶのだろうから。

 

「ガルムさん」

「何用か?」

「グラン・ミラオスは、強かったですね」

「────ああ。本当に、強かった」

 

 地面は血、そして炎に塗れて。灰が風に舞って、海は大量の瓦礫と死体を漂わせ、そんな景色が延々と続くような惨状でも。

 生きている。生きて、再び青空の下に立てている。

 

 復興しよう。そして向き合うのだ。大地を創造する龍を討伐したという事実に。その戦いに立ち会い、生き残った者として。

 

 エルタという人物に関わった一人として、物語の幕引きを見届けられるように────。

 

 

 

 

 

 

 

 これは、龍が人に挑み、人が龍に立ち向かう物語だ。

 結末の一幕はある少女だけが知っている。少女が知り得ない物語もある。群像劇とはそういうものだ。

 

 もっとも、いちばん大切だろう欠片を独り占めしようとは少女も思っていない。そうやって自らの記憶のみに留めてもいいのだろうが、あくまでも少女が好むのは誰かに語り聞かせることだから。

 しかるべき時に、話してもよさそうな人が現れれば、少女はその秘密を明かすだろう。

 

 その際には長い物語であることを予め伝えなければなるまい。なにせ、創世神話の頃から今この瞬間まで続く物語だ。一晩を丸ごと使っても語り切れるかどうか。

 ただ、始まりの言葉は決まっている。あのとき、幼い彼に語って聞かせたときのことを思い出せばいい。

 

 そう、あのときのように、やや声に抑揚をつけて、こう言うのだ。

 

 

 

「むかしむかし、広い海の片隅で、一匹の龍と生き物たちが暮らしていました────」

 

 

 





本編完結です。ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。
評価や感想などいただけるととても嬉しいです。……最後くらいはそういうことを言ってもいいかなと思ったのです。
後日、あとがきを公開いたします。

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