窓から心地よい風の吹く、ベッドと傍らに置かれた機械。それと最低限の設備のみの、白く無機質な部屋。
その部屋にぽつんと置かれたベッドの上で、一人の少女が机に向かい、震えながらも筆を動かしている。その少女の視線の先、備え付けの台座の上には、弱々しい字で書かれた一枚の手紙。
そして、それを綴る少女の腕は、傍に置かれた機械から伸びる管に繋がれて白く痩せ細っており、その手に握る筆は、少し文字を刻む度に幾度となく地に落ちる。
「ふふ……」
──それでも、少女が筆を止める事はない。
まるで遠い誰かを想うように、もしくは祈るように。或いは懺悔するかのように。
そんな優しい微笑みを浮かべながら、少女を手紙を書き続ける。例え文字を綴る手は弱々しくとも、数え切れない程に筆を落とそうとも。それでも諦めず少女は筆を進めていく。
「……出来た……!」
そうして永い時をかけて綴り終えた手紙達。それらを丁寧に包み終え、一息つきながら、晴れやかな表情で彼女はゆっくりと歩き出し、窓の外を見る。
優しく包む風。その風で揺れる木々の音。清らかに鳴く鳥の声。
開けられた窓から流れる、清らかな空気と、聞くもの全ての心を癒すような音の調べ。
暫く部屋の中を満たしてたそれらが全てが静まる頃、既に部屋の中に少女の姿はなく。静寂に包まれた部屋にはただ、いくつかの手紙達だけが遺されていた。
……それから暫くの後。その部屋に入ったのは、先程とは違う少女。
まるで二本の角のような髪をしたその少女は、先程の少女の名を呼びつつ部屋を見渡し、その部屋の主の不在と、机に置かれた手紙に気づき、それを手に取った。
「なんだろ……これ、手紙? お姉ちゃんから?」
──拝啓 香澄へ、
この18年間、貴女を忘れたことは唯の一度も無かったよ。
夜空に輝く綺羅星のような瞳も、少し変わった猫耳(貴女は断固として星と言っていたね)のような髪型も、希望に溢れた歌声も、何もかもが、鮮明に私の魂にこびりついて衰えを知らず、色鮮やかに私を彩っている。
貴女への愛も語り始めれば、それこそあるかどうも分からない、銀河鉄道の終点に着くまで終わらないだろうから、私が特に印象的だった貴方と過ごした日々のことを話して行こうかな。
だって、これが貴女への愛を語れる最後の機会だから。ちょっと気持ち悪くても許してね。
さて、まずは1つ目。確か貴女が幼稚園に入った頃だったかな。あ、まさか貴女が生まれた時の事を話すとでも思った?
残念、私は貴女と2歳しか変わらないの。悔しいけど、貴方を初めて抱いた温もりも、きっと天使のような産声も、何も覚えていないの。ごめんね。
まぁ、そんな事は置いておいて、貴女の幼稚園の頃のお話。貴女が幼稚園入ってから最初の長期休暇に入った時、確かお父さんが「空気のいい所で天体観測にでも行こうか」って言ったんだっけ。それを聞いた時、貴方は大はしゃぎして家の中をどったんばったん駆け回ってお母さんに怒られてたね。でも、それも身体の弱い私の為を思ってくれての事だから、貴女は悪くなかったのにね。
移動の車の中でも、貴方は頻りに窓を開けたり、周りをキョロキョロ見たり、「まだ?」って5分に一回くらいのペースで聞いてきたり、全く落ち着かなかったね。まぁそんなところも貴方らしいのだけど、少しは明日香を見習って欲しかったと思ってた。まぁ、今でもたまにそう思うんだけど。
1泊2日で予定された天体観測は、途中までは滞りなく進んでいた。
地平線まで続く緑の丘で、体が悲鳴をあげるまで遊び尽くした。
マイナスイオンで溢れた中でバーベキューをするのは少し罪な事をしているような気がして心が擽ったくて楽しかった。貴方は肉ばっかり頬張って明日香に野菜を押し付けられていたから母さんに怒られていたね。それ、まさか大人になってもやったりしないよね。お姉ちゃんちょっと心配だよ。
その時に起きた事件。ううん、貴方にとっては人生の転機になるのかな。それが起きたのはその日の夜だった。
もうすっかり周りが見えなくなった暗い暗い夜の中、貴方はより星が見える場所を探しに1人で何処かに行こうとしていた。それに気づいた私と明日香が急いで連れ戻そうとしたんだけど、いかんせん貴方は少し遠い場所にいたし、途中から走り出すものだから追いついた頃にはもうどうやって戻ればいいか分からなくなっていた。
ふふ、あの時の明日香の泣き顔は可愛かったな。それを本人に言ったら怒られるだろうから言わなかったけど。今はそれどころじゃないでしょって。
でも貴方はそんなことには露ほどにも気をかけずに前へ進み続けた。片手に持つ懐中電灯を頼りに、どこに進んでいるのかも分かってないのに。
絶対お父さん達にに怒られる、どうやって戻ればいいんだろう、そう言った不安や絶望を軽く感じていた私たちを連れて何分歩いたっけ。多分10分くらいかな。
暫く歩いて、他よりも少し高めに丘の中心くらいに来た時、 突拍子もなく貴方は走ったかと思うとガバッと上を向いて、ジッと目を凝らしていた。やがて眉間に寄っていた皺は徐々に薄まり、目は輝きを放ち始めてた。
「聞こえた……星の鼓動!」
歌うようにそう言ったかと思えば、うさぎのような速さで少し後ろの方にいた私と明日香の方へ駆け込み、収まらないであろう興奮に身を震わせながら、それでも貴女は笑顔を浮かべてた。
「おねーちゃん、あっちゃん、聞こえた! 聞こえたよ!」
無邪気に飛び跳ね、満月が霞んで見えるんじゃないかと思えるほどのとびっきりの笑みを浮かべながら、貴女は楽しそうに言っていたね。そんな貴女の姿を見て、幼きながらも私はこう思ったんだ。
──あぁ、私のこれからは香澄のために生きようって。
これ、今思うと明日香には悪いことをしちゃったかな。明日香とも遊んだり一緒に色々してきたつもりだけど、やっぱり香澄のためにやっていたことが多かったから。
大丈夫、明日香にもちゃんと手紙は書いたから。明日香だけじゃなくて、お父さんにも、お母さんにも。きっとしないと思うけど、それを勝手に読んじゃダメだよ。だって恥ずかしいもん。貴女にこれを書くのだって、かなり恥ずかしかったんだから。
それはともかく、私はこの人生の選択を後悔してないよ。私はあまり貴方を直接見てあげられなかったけど、私と貴方の間には確かな絆があったと思っているし、私はそれを大切にしているから。
話が逸れたね。ともかく、香澄が星の鼓動を聞いたあの日から、私はいろいろな事をした。
勉強にだって精を出したし、習い事もたくさんやった。本を読み、様々なスポーツを極めようとした。
私の全ては、貴女のために。貴女が再び星の鼓動を聞ける手がかりを掴むために、小さな私は我武者羅に突き進んだ。
今思えばね、バカだったと思うよ。あれは貴女の独特な感性で感じたものであって、色々なスポーツをしようが知識を積もうが、貴方と同じ思考を持っていない以上手がかりなんて掴めやしないのに。それでも、貴女と明日香に頼られるのは嬉しかったな。
でも、確かその時だよね。私が無理をし過ぎて倒れちゃったの。私はこんな身体なのに、スポーツなんて極めようとしても無駄だって知ってたのに。頑張る貴女を見てたら、私も頑張りたくなっちゃった。
でも、やっぱり私は駄目だったから。でも、そうして倒れた時、香澄は珍しく怒ってくれたよね。
貴女にしては珍しく、その元気の塊みたいな瞳を涙で濡らして、私を引っ叩いた時の事は今でも覚えてる。あぁ、その事を別に怒っているわけじゃないよ。だけど、あの時は本当にごめんね。
まぁ、そのおかげで今度は私が貴女や明日香に頼る機会が増えたから、結果オーライだと思ってるけど。
さて 、次に印象的なのは、やっぱり去年のバンド始動のときかな。間が空いたのは貴女が毎年やらかしてるから逆に印象に残らないんだよね。逆に何もなかった年があると不安になるくらい。あとは最近だからっていうのもあるかもしれないけど、本当にあれは衝撃的だった。
なんせ音楽のおの字も知らないような貴女が、いきなりギター教えてなんて言ってきたんだもん。無意味とか思いながらギターを習ってた過去の私をあれほど褒めたいと思ったことはなかったね。
でも貴女のギターを見たとき、なんで君がギターを始めるなんて言ったのか理解できた。
星を想起させる真紅のギターを構え、あの日と同じ瞳をして楽しそうに、拙い手つきで左手を動かしながら「きらきら星」を歌うその姿を見て、ついに見つけたんだなって。
貴女が焦がれたやまなかった星の鼓動を、その鱗片にやっと触れてたんだなって。
そう思うと嬉しくなっちゃって、つい教えるのにも熱が入っちゃった。流石に始めて2週間でタッピングとか速弾きをこなせはやりすぎたと思ってる。でも必死に食らいついてきてくれる貴女を見てるとついいたずら心に魔が差してね。悪い事をさせた自覚はあるけどそれ以上に楽しかったよ。
それからしばらく経って、貴女のギターもそれなりに板についてきた頃、丁度貴方の高校で文化祭が開催されて、その時に演奏するから見に来て欲しいって言われたんだっけ。
まさかドラムがまだちゃんと加入してないのにやるとは思ってなかったけど。後で聞いたら、「沙綾は絶対に来てくれるって信じてたから」って自信満々で答えられて思わず苦笑いしたのは記憶に新しい。メンバーによると、その大半が半ば勢いで加入させられたと言うから、本当貴女の行動力には驚かされてばかりだったよ。でも、彼女たちは加入した事を後悔してない感じ、やっぱり香澄はすごいね。
普通は強引に加入させられるなんて不満たらたらだよ? バンド速攻解散案件だよ? それが今もずっと続いて、それどころか最初よりもより強固なキズナを紡いでいるんだから。香澄の人柄の良さか、或いはメンバーの懐の広さか、はたまたその両方か。
兎も角、貴女達は凄いよ。私なんかと違って、どうなるかわからない未来にも怖じけずに進み続けたんだから。こんな言葉は陳腐で嫌いだけど「運命に導かれた」って感じがする。まぁ、なんとなくだけどね。
私はこんな身体だったからね。そこまで人を信用できないの。自分の目で見て、それで確定したものでしか物事を考えたくないから、直感的に人を信じたあの時の貴女の笑顔は、とても眩しかった。
この文化祭を機に、Poppin’Partyは始動し、貴女はボーカル兼リズムギターとなり、仲間とともに多くの困難を乗り越えたんだよね。
確か、SPACEだっけ。そこのライブハウスのオーディションを受ける時に貴方1人が空回りして、体調崩して、周りに迷惑をかけちゃった時も、メンバーの子達は貴方を非難せず、お互いに励まし合い、見事SPACE最期のライブで演奏することが出来たんだってね。
その時の香澄の姿、私も録画なんかじゃなくて直接見たかったな。
5つのバンドで合同ライブをするっていう時も、貴方たちはみんなで考え、悩み、成功の道を手繰り寄せてた。あ、そうそう忘れてた。ハロハピの人達によろしくね。貴女達の演奏、とっても元気を貰った、ありがとうって。
その後のバンドが崩壊しそうになった時も、貴方たちは互いを思いやって、仲直りして、よりその結束を深くした。
しだいに、貴方が私を頼ることは減っていった。それはとても嬉しくて、でもちょっぴり寂しくて、少し妬ましかった。
──私は貴方のために全てを捧げたのに、どうして貴女は私から離れるの?
いつかバンドの子達と笑い合う貴女の顔を見て、ちょっとだけそう思ったことがあったの。
その後すぐに鼻で笑ったよ。貴女のために全てを費やしたのは、私の自己満足でしかなくて、それに見返りを求めるのは筋違いにもほどがある。
誰かの心を照らす貴女と、貴女のためにと言い訳をして自分のためにだけに生きてきた私。
そんな私も、貴女が頼らなくなってその存在意義を失ってしまった。でも、不思議と虚しくはならなかったよ。逆に心が満たされたような気がした。
もう貴方は私がいなくて大丈夫。困難にあっても支え合える友がいる。輝かしい未来を見据えた瞳を携えている。心は鋼のように強く、星のように己と他人の心を照らし続ける。
──もう、私がいなくても大丈夫だよね。
だから、私は一足先に次の世界に行こうと思う。貴方がきた時、貴方の道しるべになれるように。
この世の貴方の成長をこれ以上見届けられないのは少し辛いけど、それ以上にもう私には特に生きる意味が無いからね。次の人生の目標を考えた時にこれが浮かんだんだ。
それに、これはいつか来る筈の事だから。それがただ、今ってだけ。
貴方はもう星の鼓動を手に入れた。それを2度と離さない手を手に入れた。前へ進む足を、希望を内包した眼を手に入れた。
もう、私がしてやれることは何も無い。
こんなに間違ってる。そう貴女は思うかな。ずるいって何度も何度も声を荒げて貴女は叫ぶかな。
ごめんね。私はどこまでいっても自分のためにしか動けないから、貴女が泣くって分かっていてもこれをやめようとは思わなかったよ。
遮二無二構わず全力で今まで走ってきたんだから、少し早く休憩するだけだと思って許して欲しいな。
でも貴方はまだ走り始めたばかりなんだから、ちゃんと最後まで走り切るんだよ。私みたいなズルは、誰が許しても絶対におねえちゃんが許さないからね。
最後に、今までそれなりの距離を我武者羅に走ってきた私からのアドバイス。
貴女の進む道には、これから辛い事が沢山あるかもしれない。走るのが苦しくなるかもしれない。そんな時には歩いて、立ち止まってもいいんだよ。貴女の友達と足並みをそろえて、大切な人達と一緒にゆっくり進んでいいんだよ。
そして何より、楽しむ心を忘れちゃダメだよ。
そうして貴方が私の元までたどり着けたら、私と一緒に歩こうね。ゆっくり、ゆっくり。
いつか木漏れ日に打たれて、そよ風に撫でられて、貴方の土産話で彩られた果てしない道を、お父さんとお母さんに見守られながら、貴女と明日香の三人で、思うがまま、気の向くままに進みたいな。
多分その頃には流石の貴方も走ることにうんざりしてるかな。ううん、もしかしたらまだ走り足りないって言うのかも。楽しみだな。
さようなら、愛しい妹。貴女の姉に生まれた事を、心から誇りに思います。次に会った時の土産話、たくさん用意してきてね。PS.ダメなお姉ちゃんでごめんなさい。
──世界でたった一人の、貴女のお姉ちゃんより。貴女の進む道に、星の光がある事を願ってます。
読み終えたその手紙。それを少女はそっと机に戻し、冷えた床に耳を押さえて蹲る。だって、そうしなければ聞きたくない事が聞こえるから。前を向いたら、見たくない現実が待っているから。
それでも、いつか見なければ、聞かなければならない時が来ると少女は思う。前を向かなくちゃ、きっとお姉ちゃんに怒られてしまうから。
だから、いつか前を向く為に。せめて外の喧騒がこちらに来るその時までは、こうして居させて欲しい。
──周囲の喧騒から切り離された、夕暮れの病室。澄んだ水に満ちた花瓶の花が静かに揺れるそこには、涙で滲んでしまった姉からの手紙と、声を押し殺して涙する妹だけがいた。