昔の夢を見た。
『命が生きようとする行いに、善悪という人間の定義を当てはめるのは烏滸がましいことだからね』
それは凛と響く風鈴のような声音。
『今までの君を咎められる人は居ないよ。でも……』
不思議と耳を傾けてしまうような声を届ける風が、
『これからは人として胸を張って生きていけるように頑張ろう』
私の曇りを晴らしたのだと思う。
***
「ひ、ヒィィイイイ!!?」
夜の帳が落ちた町に悲鳴が響き渡る。
骨の髄から震え上がるような声。たとえ、強盗に追われたとしてもここまでの悲鳴を上げることはないというほどの、恐怖の滲み出た声音だ。
悲鳴が恐怖を伝播させ、町中に只ならぬ雰囲気を漂わせる。
「ゆ、許してくれぇ! 許し……げへぇ!?」
ドタバタと逃げる足音を立てていた人影が倒れ込む。なぜならば、両脚の膝から下が斬り落とされたからだ。
断面からは血があふれ出す。瞬く間に地面には血だまりができる。同時に生暖かい鉄臭さが辺り一面に広がった。
しかし、みるみるうちに断面は盛り上がって行き、あっという間に新しい脚へと生え変わろうとしているではないか。
そう、脚を斬り落とされたのは人間ではない―――鬼だ。
人を主食とし、夜に巣食う不死の化け物。
だが、不死身の体を以てしても逃れられぬ死の恐怖を前に、最早鬼は立つことさえままならなかった。
「はっ!?」
つむじ風が吹き抜ける。
刹那、鬼は背後に佇む人影の存在を感じ取った。
血に濡れた髪、顔、衣……どれを見ても平静ではいられないおどろおどろしい姿だ。
黒い装束を血で濡らす
最早、鬼が息を飲む間さえ与えなかった。
全集中・風の呼吸 伍ノ型 木枯らし颪
目にも止まらぬ速さで振り下ろされた斬撃が、鬼の頚を斬り飛ばす。
鬼の断末魔も、回転しながら勢いよく吹き飛んでいくが為に、はっきりとは聞こえなかった。
例え頭を砕かれようが死なない鬼が、たった一太刀で灰塵のように全身を朽ち果てさせていく。その壮絶な最期を見届けても尚、刀―――日輪刀を振り抜いた彼女は眉一つ動かさないまま、刃に纏わりついた鬼の血を振り払う。
どす黒い穢れた血が振り払われた刃は、刀と言うには如何せん彩り鮮やかな色を放っていた。
自然を彷彿とさせる緑色。陽光を透き通らせる程に薄い木の葉の如き色合いだ。
しかし、宝石に並べて飾りたくもなるような刀を握る彼女は、鬼退治を済ませたことに対し何の感慨も抱いていない平然とした顔を浮かべながら、刃を鞘へと納めた。
「鬼殺……完了」
鬼の血の不快な臭いを吹き払うように風が薙ぐ。
同時に、旋毛が二つもある彼女の髪も靡いた。
***
蕎麦を啜る音が轟く。
一人前の量がある蕎麦を数口で食べ終えてしまう少女は、あまりに健啖な様子に目が点になってしまっている店主に無言で人差し指を立て、おかわりを所望する。
すでに食べ終えたのは五人前。積み重なる器は山のようであった。
そんな器の上に降り立ったのは、一羽の烏。
「カァー! 北東! 北東! 次ノ場所ハ北東オ!!」
けたたましい鳴き声―――というよりも、ほぼ言葉を発する烏「鎹烏」は、一心不乱に蕎麦を啜る少女に方角を伝える。が……
「ズズーッ!」
「北東! 北東!」
「ズリュリュリュ!」
「次ノ任務ノ場所ハ、北東ォー!」
「ズズズズズッ!」
「……カァー! カァー! 次ノ任務ガァ!?」
とうとう堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに翼を広げた鎹烏であったが、そんな鳴き声が癪に障った少女が、無言で鎹烏の首根っこを掴み上げ、物理的に黙らせに入った。
呼吸もままならない鎹烏は、しばし拘束から脱しようと暴れ回るが、寧ろその行為が首根っこを掴む握力を強めさせていると悟り、彼女の食事が終わるまでは黙っているのが得策と静かになった。シュンと縮こまる鎹烏の背中にはなんとも哀愁が漂っている。
ようやく静かになった鎹烏から手を放す少女は、それから三枚程ざるそばを食してから席を立った。
心なしか張っている腹部からは、ぽちゃぽちゃと食べたそばが胃の中で揺れる音が聞こえてきそうだ。
「ふぃー」
しかし、本人は爪楊枝でしーしーと歯の隙間に挟まった食べかすを掃除し、満足気な様子である。
そんな彼女は、二、三度辺りを見渡した後、意気消沈しながら付いて来る鎹烏に振り返った。
「からす」
「ナンダ?」
「次の場所」
「……北東ォ!」
最早やけくそになっている口調だ。
だが、少女は一切歯牙にもかけない様子で「そう」と返事をし、言われた通りの方向へと歩む。
いつもこのような調子だ。自分勝手、自由奔放、その他色々……彼女が鬼殺の剣士となってから相方となっている鎹烏は、彼女の調子に振り回されてほとほと困り果てていた。
東雲 つむじ。鬼殺隊の剣士。階級は庚。数か月前、藤襲山で行われた最終選別に合格した彼女は、太陽に最も近い山「陽光山」でとれる猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石から打たれた日輪刀を携え、鬼退治の為に東奔西走していた。
日輪刀の色は緑。刃に宿る色は、一定の技量を持った剣士の適正を示すものである。
彼女の場合は、基本の呼吸五つの内の一つ、風の呼吸だ。
それもあってか扱う呼吸法は風。本人も呼吸法の違いにこだわりはなく、「育手」と呼ばれる鬼殺の剣士を育てる人間に言われるがまま風の呼吸を体得したという経緯がある。
そんな彼女の所属している政府非公認組織「鬼殺隊」は、人を喰らう不死の化け物「鬼」を滅殺する為、古くに設立された組織だ。
鬼を唯一殺せる日輪刀を携え、市井の人間を狂暴な化け物から救うべく、生身の体で鬼と戦う彼等には、各々の想いは違えど鬼を討たんとする気概に満ち溢れている。
だが、如何せん彼女にはその気概が足りていない。
「あむっ」
今も、通りで見かけた店から饅頭を買い食いする始末だ。
本来であれば指令が出れば、すぐにでも現場に急行し鬼の痕跡探しといった情報収集をしなければならないだろう。
無論、鎹烏も催促したいのは山々であるが、あまり催促し過ぎても斬り捨てられかねない剣呑な睨みを利かされる為、強気に出られないのが現状だ。
しかし、咎められる者は中々居ない。
任務に不真面目だからといって辞めさせられる程、鬼殺隊の人材に余裕はない。
それともう一つ、単純に彼女が仕事
「あむあむ……」
今このように饅頭を両手に持って頬張っているとしても。
次なる任務地に向かう間、鬱蒼と生い茂る木々の群れに直面したとしても、なんのそのと言わんばかりに木を上るや否や枝を跳び次いで突き進んでいく。
人間ならば地上を歩いて行け。誰かに突っ込まれそうな光景ではあるが、彼女に限ってはわざわざ舗装された道を進むべく遠回りするよりも、こうして猿顔負けの身のこなしで進む方が早く進める。
森を超え、山を越え、しばらく進んだ先には新たなる町が見えてきた。
促す視線を鎹烏に向ければ、「あの場所だ」と肯定する頷きをしてくれる。
「……早く着き過ぎた」
人から贈られた懐中時計で時間を確認したつむじは、想定よりも早く目的地に到着したため、どうしたものかと首をかしげる。
頭の中で木魚が三度鳴る。
「昼寝しよう」
休める時間も少ない鬼殺の剣士だ。
ここは鬼との激闘を予想し、じっくりと休息を取ることにしよう。
そう考えたつむじは、木の上で幹に背をもたれ掛からせる形で昼寝に入った。傍から見れば落ちてしまうのではないかと肝を冷やしかねない光景である。
だが、落ちる様子を微塵も感じさせぬまま眠りに入ったつむじは、再び夢を見るのであった。
***
スリをしたのは数え年で三つの頃。
置き引きは四つの頃には得意になっていた。
五つになった頃には、夜中に家に忍び込んで盗みを働くようになり、場合によっては暴行を働くようになっていたのが私だ。
親は居なかった。
だから貧しい暮らしを強いられていたものの、居たところで大して変わったことはなかっただろう。
フケとノミで汚れた私を誰も助けてはくれない。
自分で身を守るしかない、生きるには自分が強くなければならない。本能が訴えるがまま動いていた私は、九つになった頃に襲ってきた暴漢を包丁で刺し殺した。
それは夜の出来事。暗闇で顔ははっきりと見えなかっただろうが、暴漢が殺された現場を目の当たりにした人間は私をこう呼んだ。
「鬼だ」―――と。
だからなんだと思った。
人だろうが鬼だろうが、自分は生き物だ。生きる為にはなんでもしなければならない。
闇に紛れて悪事を働く私は「鬼」と呼ばれるようになったが、そもそも善悪の倫理観などないのだ。誰も教えてくれなかった。誰も私を人として扱ってはくれなかった。それなのにどうしてそれを悪事と呼べようか。
当時はまともな教養もなかったから、覚えていた不快感も言葉には表せなかった。
だけれど、「人」と自称する有象無象が発する言葉が肥溜めのように汚く臭いものだとは感じていた。
転機は十歳になった年。
襲った人間が実は鬼だった。比喩ではない、本物の。
気色の違う人間だとは思ったが、まさか鬼だったとは。当時の私は不思議な感心を覚えながら、襲い掛かって来た汚い小娘を喰らおうとしてくる鬼に応戦した。
武器は赤鰯のような包丁だけ。錆び付いてとても鬼の肌を切り裂けそうにはない。
だから柔らかそうな目を切り裂いた。
鬼は短い悲鳴を上げ、醜悪な形相に怯えを滲ませた。
その一瞬を見逃さなかった私は、やりようはあると思ったのだろう。鬼に対して攻勢に出た。
何度も何度も何度も何度も斬りつけた。日が昇るまで。
血塗れになった鬼は最終的に朝日を浴びて塵になった。
それから私は鬼を倒した英雄と持ち上げられた。
聞くところによれば、どうやら私が知らない間に町に鬼が住み着いており、町人が食べられるといった被害を出ていたらしい。
短期間の出来事だろうが、それよりも前から働いていた私の悪事が鬼に転嫁されていたようであり、全部ではないにせよ私の罪はなくなった。
今まで私を邪魔者扱いにしてきた町人が、私を持ち上げる―――吐き気がした。
どれだけ褒められようと、どれだけ身なりを小奇麗に整えられようと、私の中身は変わっていない。依然、「鬼」と罵られた浮浪児のままだ。
過去と現在の状況の違いに気持ち悪さを覚える私が、再び
だが、それよりも早くお館様が迎えに来てくれた。
お館様は鬼殺隊の首領。私から見ても非力な男にしか見えなかったが、こちらの全てを見通すような瞳を前に私は一歩も動けなくなり、ただただ紡がれる凛とした声音に耳を傾けるしかなかった。
お館様の慧眼は私の全てを見通していた。
町で起こった事件、そして鬼が起こした事件のどちらも把握していたお館様は、私の起こした事件と鬼が起こした事件とをはっきりと見極めていたのだ。
その上でお館様はこう言った。
『―――大変だったね。誰も君の想いには寄り添ってくれなかったんだろう。人として扱われなかった君を、突然人として扱うのも裁くのも、余りに残酷なことだよ。そもそも、命が生きようとする行いに、善悪という人間の定義を当てはめるのは烏滸がましいことだからね。今までの君を咎められる人は居ないよ。でも……これからは人として胸を張って生きていけるように頑張ろう』
お館様が私を人の世界へと連れだしてくれた。
人として扱われていなかった私に、必要に迫られた力を存分に発揮できる鬼殺の門を叩かせるよう導いてくれた。
だから私はここに居る。
小難しい話はいい。
私の存在意義は―――鬼を殺すことだ。
***
「……」
瞼を通して感じる紅色の光に、つむじは目を覚ました。
西を見据えれば日が落ち、あれだけ透き通った青色だった空が血の色に塗りたくられている。
これからは鬼の時間だ。日の光が弱点の鬼が自由に動ける時間帯。夜ともなれば大体の人間は家で寝ているだろうが、だからこそ夜中に出歩いている者が狙われるのだ。
無論、鬼にも趣味や嗜好といった唯一の娯楽である“食”へのこだわりを抱いている場合もある為、そのあたりも見極めなければならないが、生憎そこまでつむじに推理力は備わっていない。
あるとすれば、
「―――見つけた」
「……ッ!?」
どういった場所であれば目撃されず、人を襲うことができるかという経験だ。
ぶらりと町を歩き回り、街灯もなく見通しの悪い路地裏の突き当りの空き地にたどり着けば、
血走った瞳。浮かび上がった血管。鋭い犬歯と爪。総じて人外と言える風体の化け物は、一瞬驚いたような面持ちでつむじを凝視したが、すぐさま下卑た笑みを浮かべる。
「鬼狩り……だが女かぁ」
品定めするかの如き、舐るような視線。
ゾゾッ、と背筋を虫が這う悪寒が走る。
しかし、月光を照り返す刃が閃いた。
全集中・風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ
超速度で吶喊するつむじ。余りの速度に、彼女の周囲に竜巻状の旋風が起こっていると錯覚してしまうほどの勢いだった。
一直線に鬼へと肉迫したつむじは、そのまま鬼へと刃を振るう。
しかし、一瞬瞠目していた鬼はなんなく斬撃を躱した。
鬼の身体能力に任せた暴力的な跳躍だ。鬼が飛び退いた勢いで巻き起こる砂煙を斬ったつむじは、躱されたことに焦る様子もなく、淡々と鬼を目で追う。
空き地には手入れのされていない木が数本生えていた。鬼はそれらを飛び移っている。夜目が利かない人間であれば瞬く間に見失ってしまうであろう俊敏な動きであるが、鬼狩りとして育て上げられた―――そして幼き頃より研ぎ澄まされた経験のあるつむじであれば、追う事は難しい話ではない。
「よっと」
あっという間に木に登るつむじは、あろうことかそのまま木の上で鬼との戦闘に入ろうとするではないか。
これには鬼も思わず「馬鹿なのか?」と呟いたが、軽やかな身のこなしで肉迫するつむじを見て、すぐさま己が下した判断を取り下げる。
「鬼狩りが猿の真似か!」
嘲笑うような一言。だが、つむじにとっては些少の問題にもならない。
寧ろ視界の悪い夜中では、わざわざ声を上げて自身の位置を知らせてくれる馬鹿な鬼程カワイイ相手は居ない。
さながら、日が沈むのを待ってから狩りに出向く肉食獣の如く、つむじの眼光は月下に閃いた。
全集中・風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹
渦を巻くかの如き斬撃が、つむじの行く手を阻む枝ごと鬼を斬り裂いた。
本人も牽制と割り切っていた一撃であったが、刻まれた枝と木の葉の破片が舞い散る隙間の奥で、鬼の手足が斬り落とされている光景は窺えた。上々だ。次につなげられる。
重力に身を任せて鬼が墜落する間、手ごろな枝に着地したつむじは、左手で枝を掴むや否や、左手を軸にグルリと後方へ回転した。
そんな上下反転した姿を見せたつむじは、次の瞬間には枝を蹴って鬼の下へと飛びかかる。おおよそ常人であれば平衡を保つことさえ不可能な状態からの、しっかりと足裏で踏ん張ってからの跳躍だった。
枝から滑空し獲物を狙う様はさながら梟のようだ。もっとも、手にしている得物は殺す為だけの代物であるが。
全集中・風の呼吸 伍ノ型 木枯らし颪
全身全霊の斬撃が振り下ろされる―――が、
「ひィ!? 斬らないでぇ!」
「!」
刃の先に佇んでいた人影が鬼ではない一般人に見えた為、つむじは反射的に刃を引いた。
すると、怯えた顔を浮かべる人間の腹を突き破り、鬼の手刀が襲い掛かって来る。これは薄皮一枚斬られる程度の負傷で済んだが、つむじが気にするのは怪我などではなく、たった今起こった不可解な現象だ。
目を凝らして闇を見据える。絶望で彩られた人間は、やがて布のように薄い皮と化し、その陰に隠れていた鬼の体へと取り込まれていく。
まったくもって不快な光景ではあるが、敵の能力を見定める為に観察は不可欠だ。
日輪刀を構えて観察に徹するつむじ。一方、人間の皮を取り込んだ鬼はと言えば、じっと見つめてくるつむじに対して得意げな笑みを浮かべた。
「なんだァ、そんな顔して……これが気になるのかァ?」
「別に」
「ヒヒッ、無理すんなよ。刀止めたってことは、
「?」
もったいぶった言い方に、つい怪訝そうに眉を顰めるつむじ。
すると鬼は自分の体の皮を引っ張るではないか。常人ではあり得ぬ伸縮性を見せる皮は、まるで蛸の如く色を変え、人間の姿に擬態する。
その一部始終を目の当たりにしたつむじは、
「気持ち悪」
歯に衣を着せず言い放った。
だが、鬼は直球の罵倒を聞いても怒る様子を見せない。寧ろ、作り笑いのように不器用な笑みを湛えるだけだ。
「そうかいそうかい。これがそんなに嫌かァ? なら……もぉ~っと見せてやるよォ!!」
「!」
腕を広げる鬼。その体表から次々に生み出されるのは、どれも恐怖に引きつった顔を浮かべる人間であった。
鬼の体から延びる血管らしき物体に繋がれた人間の群れは、一斉につむじへと襲い掛かる。
阿鼻叫喚とはまさしく今の状況だ。
常識に疎いつむじとは言え、一般人を斬り捨てるのは鬼殺隊の規則に反する行いである。鬼の異能を鑑みて万が一を避けるには、目の前の人間たちが生者であるか否かの判別がつくまでは、攻勢から一転して守りに徹する羽目とならざるを得ない。
守られる人間が守る人間に襲い掛かる。それを仕掛けている鬼としては、笑いを堪えられない状況であることは言うまでもないだろう。
「ほらほらどうした!?
泣き叫ぶ人間を操る鬼は嗤う。
「もどかしよなァ、もどかしいよなァ。人を斬れないってのは。鬼狩りは弱い人間を守らなきゃいけないもんなァ!」
悲鳴は夜の町に木霊する。
回避に徹するつむじは木の上に退避するも、依然人間たちは彼女へと近づいて手を上げようとする。
「ヒヒッ!! 鬼狩りは鬼は斬れても人は斬れねェだろう!? 滑稽だなァ!! ヒヒッ、ヒヒヒッ、ヒヒャハハハハ!!」
血鬼術
今まで喰った人間の皮を保存し、いざという時に己の皮を媒体にし、喰った人間と瓜二つの皮の人形を生み出す。
単純な攻撃力で言えば、他の鬼の血鬼術には及ばない。だが、これが鬼狩りにはよく効く。
人間は人間を殺すことに躊躇いを覚える。その躊躇した隙に、この鬼は鬼狩りを殺すのである。そうでなくとも生み出した皮の人形で相手を圧殺することもできるのだ。
人の良心に訴えかけ、脚を掬う。
まさに外道―――鬼畜の所業である。
「踊れェ! 踊れェ!! もぉーっと踊れェ!! 死ぬまで踊りあかせェ!! ヒヒャーッハッハッハ!!」
ワラワラとつむじに群がる皮の人形。
死ぬ間際の顔をそっくりそのままの表情は、鬼狩りにとって斬りにくいことこの上ないだろう。
そうして今まで退治に来た鬼狩りは死んでいった。斬るという決断を下せぬまま、人間の皮に飲み込まれる形で。
今夜やって来た鬼狩りもきっと同じ目に遭うだろう―――そう思った時だった。
全集中・風の呼吸 弐ノ型
闇夜に閃く四閃が群がる人間の皮を切り裂いた。
「……は?」
「―――なんだ。生きてる人じゃなかった」
理解が追い付かない。
一切加減されていない斬撃でバラバラに斬り刻まれた皮は、擬態も解け、ただの皮に戻って土に還っていく。
斬り刻んだ当人であるつむじは何事もなかったかのようにケロリとしているが、その静謐な瞳を浮かべた平静さが、鬼の肝を瞬く間に冷やしていった。
小娘が、なんの躊躇いもなく、人を斬り刻んだ。
ハッキリ言って常軌を逸していた。けしかけた鬼でさえ異常と感じざるを得ない程に。
「お、お前……どうやって俺の能力を見破った……!?」
「ん? 斬って」
「違ァう!! 斬る前だ!! 何の確証もなくああも人間を斬り刻めるものかァ!!」
最早怒号に近い叫びを上げる。
規則や責任、倫理……様々な要素が合わさり、人間にとって殺人とは至難の業と化す。
だからこそ、鬼はつむじが何らかの方法で血鬼術を見破ったのだと考えた。考えたかった。
「―――
にべもなく言い放たれた言葉に、久しく忘れていた感覚が蘇る。
まだ尻も青い小娘だと思っていた鬼狩りの言葉に、鬼は総毛立った。
見誤っていたのだと悟る。この鬼狩りの感性は普通ではない。死者か生者か判別つかない人間を斬り刻むなど、後先を考えていないとしか言いようがないだろう。
気が付けば歯がカチカチと音を立てるように震えていた。
先ほどまでの笑顔はすでになく、今度は膝が笑っている。
逃げなければ。囮の皮人形が通用しない相手に対し真正面から戦う等、この鬼にとっては等愚策極まる。
故に、踵を返して逃走を図ろうとした鬼であったが、直後に風を切る音が真横から響いた。
すると視界が頭一つ分下がる。
続けざまに脚へ襲い掛かる激痛に視線を落とせば、足首から下が斬り落とされているではないか。斬り飛ばされた足は、空き地をコロコロと小石のように転がっている。
斬り落とされた! と理解した鬼は、目にも止まらぬ速さで鬼の真横を通り抜け、再び日輪刀を振るわんと振りかぶるつむじを前にヒュッと息を飲んだ。
「―――!」
足が生えている時間を稼ぐ為に腕を前に突き出す。
だが、今度は掌の上半分が斬り飛ばされる。鬼の武器の一つである鋭い爪が生えた指をまんまと失った鬼は、急速に己の立場が劣勢へと傾いている事実を受け、焦燥に駆られていた。
足もなく手もない。あとは頚を斬られるだけ―――かと思いきや、鬼は体から生み出した皮人形を操り、近くの枝に掴まった。
そのまま皮人形で自身の体を引き摺り上げた鬼であったが、尚も追われる。
一閃。右腕を斬り落とされる。
「ぐぎッ!?」
一閃。今度は左腕を斬り落とされる。
「がぁ!?」
一閃、一閃、一閃―――。
木々を飛び移るつむじが、すれ違う度に斬撃と刺突を叩きこむ。
繰り出される御業は勿論のこと、真に恐ろしいのは彼女の平衡感覚だ。幾度となく足場と言うのも烏滸がましい場所に着地し、そのまま跳躍している。常人であれば激しい回転によって三半規管が揺さぶられ、真面に立つことさえ叶わぬ吐き気を催すだろうが、彼女はそんな素振りを毛ほども見せない。
この類まれなる平衡感覚こそが、東雲つむじのもう一つの刃だ。
鬼と繰り広げる目まぐるしい激闘。時には満足に踏み込めぬ場所で相対すこともあるだろう。だが、つむじにとっては足裏がつく場所があれば十分。縦横無尽に飛び回り、息もつかせぬ嵐の如き猛撃を仕掛けられる。
故に人は謳う。風の呼吸の使い手を「鬼の頚を斬る風」と。
すでに鬼は、つむじの掌の上で転がされていると同然だ。立体的な物体が立ち並ぶ場所こそ、彼女の突出した平衡感覚を生かした動きを披露できる戦場である。
何度も何度も日輪刀で削ぐように斬りつけられた鬼の傷口からは、血が噴水のように溢れ出す。
鬼の不死性の象徴である再生も間に合わぬ連撃が続き、とうとう鬼は身動きのとれぬ肉達磨と化す。
ゴロッ、と体が転がる無常の音が空き地に響く。
血の他に、止まらぬ汗や涙、鼻水、そして喘ぐような息遣いと共に涎を滴らせる鬼に戦意は残っていなかった。
「ち……血も……涙もねえのか……お前はぁ……!!」
鬼は、鬼畜の所業に等しい猛撃を食らわせた少女へ掠れた声で罵倒する。
「鬼が……ッ!」
人間の為す行いではないと。
「そうだよ」
「ッ……!?」
しかし、最期の罵倒にも悉くつむじは鬼の予想を裏切った。
「私は―――鬼だよ」
ニタァ、と粘着質な笑みを浮かべるつむじは、技ですらない斬撃で鬼の頚を斬り落とす。
元が人間だったから等という慈悲を与えることのない、無機質な一閃。緑の刀身に、紅い血はよく映える。しかし、人を喰らい穢れた血をいつまでも刀身にこびりつかせる道理もない。
手慣れた様子で血を払い飛ばし、淡々と刃を鞘に納める。
「ふぅ」
一息ついて空を見上げる。
未だ立ち込める鬼の腐った臭いも、涼やかな夜風が何処か遠くへと運んでいってくれる。夜は体が疼く。昔から習慣の所為だろう。事を起こす時は何時だって夜だった。特に月も顔を見せぬ新月の夜は血が沸騰するようだ。
そうでなくとも鬼を屠った後なのだから、体中の血が沸き立っている。
鬼と罵られただけあって、自分には
「―――鬼になれ」
それは呼吸法を伝授してくれた師の言葉だ。つむじはよく己に言い聞かせる。
鬼を滅殺するには、人もまた鬼と化す必要があるという意味だ。元々は人間である鬼を殺すことに躊躇いを覚える者も居る。そんな彼等に対し、肉体的にも精神的にも強くなれ、非情になれと言い聞かせる言葉である。
そしてなにより、
人として扱われてこなかったつむじにとっての救いの言葉。
鬼を滅殺する為に鬼になろうとする少女。
邪魔をするのであれば、人間でさえ躊躇いなく斬り捨てられる彼女が、誰彼構わず傷つける鎌鼬の如き旋風から、お天道様にかかる雲を取り払う風となるのは―――もう少し先の話となるだろう。