なんの気配もなく、いつの間にか車に乗り込んでいた少年と少女に、佐藤刑事はぎょっとしながらも律義に質問に答えていた。七年前にも爆弾事件があったこと。その際の犯人は二人おり、そのうち一人は警察から逃走中に運悪くトラックにはねられて亡くなり、もう一人は「警察が自分たちを罠に掛けた」と思っているらしいこと。
「それが勘違いだということは置いておくとして、そもそも、自分が『罠』を仕掛けておいて、どうしてやり返されないと思っているのかしら?」
心底不思議そうに、そこにいるだけで目を離せなくなるような美女が言う。それに対して、隣に座る眼鏡の少年はいつも持ち歩いている手帳に目を落としながらさらりと答えた。
「警察は正義の味方だから、そんなことしないだろうって思ってたんじゃない?」
「それじゃ、パトカーは速度超過して逃走する車を取り締まれないわね」
そう言って、輝夜はくすくすと笑った。佐藤刑事は、その様子をみて苛立ったように「あなたたち、危ないから降りなさい」と、普段の彼女よりはいささか強い語調で言う。それを聞いて、コナンはたしなめるように輝夜を見たが、本人は全く気にした様子もなく「いいの?」と首を傾げた。
「あなたが他の警察の人といろいろやり取りをしている間に、私たち、暗号についてひとつの仮説を立てたわ。それに、危ないのはあなたたち警察よ。私はコナン君を危ない目に遭わせないし、一緒にいる限りはあなたのことも守ってあげるわ」
「一体、あなたに何ができるって言うのよ」
佐藤刑事の苛立ちを隠し切れていない言葉に、輝夜はただ笑った。既に陽が落ちて、空には月がのぞく時分である。ぞくり、絶世の美女の笑みに対して、佐藤刑事は得体の知れない恐怖を感じた。本人たちには知りようもないが、それはちょうど、白鳥警部が鈴仙の視線にさらされたときと非常によく似た感情だった。
「それを確かめたいのなら、やっぱり一緒にいなくてはね。さあ、今から暗号についての仮説を話すわ」
「もう、輝夜さんってば。それで、佐藤刑事。ボクたちの考えなんだけど……」
暗号に書かれた内容から、南杯戸駅から発車する、赤い上り電車に爆弾が仕掛けられていると読み解いたコナンに、佐藤刑事が「高木君にも連絡しないと!」と反応する。しかし、既にそちらでは同じことを灰原が説明していたらしく、白鳥警部を始め、他の関係者にも連絡がいっているようだった。
けれど、そう上手くいくことばかりではない。暗号を読み解いた先、南杯戸駅では、偽物の爆弾が次々に発見されるばかりで、本物の爆弾はついぞ発見されなかったのである。
「今日はもう遅いから、おうちに帰りなさい」
「あっ、ボクたち今日は博士の家に泊まる約束してるんだ!」
本当は「このままついてく!」と言いたかったコナンであるが、ピリピリしている佐藤刑事に、いつも通りのほほんとしている輝夜の組み合わせはよろしくないことを痛感したのだろう。あっさりとその提案を受け入れ、阿笠邸で他の探偵団の子どもたちと合流していた。
「あ、輝夜様。おかえりなさーい。夕飯、私と博士だけで食べちゃいましたよ。みんなは何か食べました?」
出迎えた鈴仙はにこにこと上機嫌である。爆弾についての推理は全て警察に話していたため、輝夜から鈴仙への連絡は「これから博士の家へ帰るわ」のみであった。鈴仙はただ、博士とご飯を食べながら苦労話をしていただけであり、予想していたような呼び出しは一切受けていない。コナンの無茶ぶりに苦労する博士と、いたずら兎と師匠の間で板挟みになる鈴仙は、具体的な話をせずとも妙に話が合い、楽しい時間となった。お互い根が陽気でお人よしなこともあるだろう。
「高木刑事が帰る前にコンビニ寄って買ってくれたよ!」
「おお、そりゃよかったわい。風呂を沸かしてあるが、誰から入るかね?」
「それなら姫様からどうぞ!」
「なんであなたが決めるのよ」
ため息を吐いた輝夜は、子どもたちが爆弾の隠し場所について話し合いたそうなのを見て、「お先にいただくわね」と提案を受け入れた。博士たちが覚えていなくとも、彼女はこの家に泊まったことがある。勝手は分かっていたし、着替えはいつも博士に貸してもらっているので、迷いなく浴室へ向かっていく。
「哀君、悪いがタオルや着替えなんかを用意してやってくれんか。さて、みんなにはお茶を入れてやろう」
全員順番に風呂に入り、子どもたちがうとうとし始めたときだった。相変わらず暗号に頭を悩ませているのはコナンと灰原、それから輝夜くらいである。鈴仙は大きな欠伸を手で隠しながら「一回寝て、すっきりしてから考えましょうよぉ」と間延びした様子で眠そうに言っていた。
「鈴仙。赤い物といえば、何?」
「ええ……兎の目、とか? んー、後は、姫様を探してるときに、赤い塔って目立つなぁと思いましたね」
「赤い……塔? それって……」
何気なく言った鈴仙へ視線を向けたコナンに、彼女は胸を張って「知りません? 大きな赤い塔!」と得意げに言い放った。
「東都タワー! 鋼のバッターボックス……エレベーターのことだ! こうしちゃいられねぇ、佐藤刑事と高木刑事に連絡しなきゃ!」
大きな声を出して立ち上がったコナンは、灰原には高木刑事へ連絡するように伝え、自分は佐藤刑事へと電話を掛けるべく、携帯電話のボタンを押し始める。
「姫様。これ、私、役に立った感じですか?」
「ええ、とてもね。偉いわ、鈴仙」
「えへへ。もっと褒めてくれてもいいんですよ?」
でれでれと主にだらしのない顔を見せた鈴仙は、その主にがしりと肩を掴まれた。
「今後の活躍も、期待しているわ」
「も、もちろんです……」
コナンが警察に話をした結果、明日東都タワーを入場禁止にすること、その周辺も関係者以外近寄れないよう封鎖すると、朝の点検の際にエレベーター内を念入りに確認すること、発見したらすぐに爆弾物処理班を誘導することなどで方針がまとまったようだ。ただし、少年探偵団にとって予定外だったのは、「もう大丈夫だからあとは警察に任せるように」と釘を刺されてしまったことである。
「ちっくしょー……先に東都タワーに行ってから教えればよかったぜ」
がしがしと頭をかきむしった後、コナンは自棄になったように寝転がった。既に眠気に抗えていなかった子どもたちも、それを皮切りに本格的に寝始める。
「まあ――警察の気が変わることもあるかもしれないわ。ねえ、鈴仙」
「姫さまったら……本当に御友人を大切にされているんですねぇ」
にこり。何年経とうと変わるはずもない美しい笑顔を向けられて、鈴仙はぽりぽりと頬をかいた。輝夜は月人の中でも、情に厚い方である。それは、月から逃亡してきた鈴仙を匿ってくれたことからも、随分昔に輝夜を拾って育てた老夫婦への感謝を忘れていないことからも、間違いないだろう。
この子どもたちは、普通の「人間の子ども」であるように、鈴仙には映った。けれど、輝夜がここまで力を貸すということは、何かしら特別な事情があるのかもしれない。そう思って、鈴仙はとりあえず明日に備えて自分も寝よう、と横になったのだった。
*
朝。輝夜たちはまた二手に分かれた。高木刑事を泣き落とす係の子どもたちと、こっそり東都タワーに侵入できないか探るコナン、輝夜、鈴仙の三人である。初めは組み分けに不満を漏らしていた子どもたちだが、鈴仙がじっと目を見つめながら説得すると、素直に言うことを聞いていた。
「じゃあ、博士。東都タワーの近くまで行ってくれ。そこからは何とかするから」
「まあ、危ないまねはするなと言っても意味はなかろうが……気を付けるんじゃぞ」
車の助手席に乗って、後部座席に座る女性二人を、コナンはちらりと見る。コナンが気になるのは、友人である輝夜のことを「姫」と呼ぶ、鈴仙だった。
コナンは彼女の着る制服を見たことがない。探偵であるから、近隣の学校の制服は大体記憶している。もちろん、「制服風」の洋服も世の中には出回っているし、輝夜の「家の者」であれば、そもそも女子高生ではないのかもしれないといことは予想の範囲内だ。
杯戸ショッピングモールや、博士の家での言動から、悪い人ではないような感じはする。けれど、彼女に見つめられた白鳥警部はどこか怯えたように視線をそらしていたし、我の強い探偵団が――まるで催眠にでも掛かったかのように大人しく言うことを聞いた様子は、輝夜がときどき見せる「得体の知れない感じ」を彷彿とさせた。
「あの……私が何か?」
見つめすぎたのか、鈴仙が怪訝な顔をした。早朝の車通りが少ない時間帯はとても静かで、表情だけでなく声色からも、彼女が不思議がっているのがよく伝わってくる。
「あ……ご、ごめんなさい。鈴仙さんって、輝夜さんの『おうちの人』なんだよね? 普段は何をしてるの?」
「私はお師匠に学びながら薬を作ったり、売りに行ったりしていますよ。それがどうかしたんですか?」
「高校生なのかなって思ってて。違ったんだね」
「ええ。私は『コーコーセイ』ではありません」
「制服を着てるから、ボク、勘違いしちゃってたよ。輝夜さんのうちには、居候してるの?」
「はい。住み込みで働いてますよ」
「それなら――」
話してみて、コナンは鈴仙はのらりくらりとかわそうとする輝夜と違って、かなり素直に質問に答えてくれるという印象を持った。そのため、今のうちに気になることは聞いておこう、と質問を重ねようとしたところ、車が停まった。どうにも規制区域手前まで着いてしまったらしい。
「コナン君、鈴仙。着いたみたいよ。博士、どうもありがとう」
「おお。また何かあったら連絡するんじゃよ」
博士の車を見送って、輝夜たちはふらふらと様子を見ながら歩いた。そこかしこにマスコミ関係者がおり、東都タワーに仕掛けられたらしい爆弾についてあれこれと言っている。
「君たち、ここから先は危ないから――」
人混みをすり抜けたところで、三人は警察官に声を掛けられた。コナンが何かを言う前に、鈴仙が一歩前に出て、口を開く。
「私たち、佐藤刑事の協力者なんですよ。――通してくれますよね?」
コナンには、警察の目を覗き込む鈴仙の目が、紅に光ったように見えた。ただ、それは朝陽のせいかもしれない。瞬きすれば、彼女の目はもう黒い色に戻っていた。
「そういうことなら……」
す、と道を空けた警察に、誰も何も言わない。そんな「異常」に誰も気が付かない。小さな探偵は、そのことに爆弾犯よりも空恐ろしいものを感じたが、何も言えなかった。
(鈴仙さんは、オレたちのわがままに付き合ってくれてるだけだしな)
身近に、微笑みだけで人の思考停止を誘発する絶世の美女もいる。だったら、催眠じみたことが得意な人だっているのかもしれない。コナンが納得できないままもやもやと考えていると、鈴仙がそんな少年を見て、にこりと微笑んだ。
「緊張しているんですか? 大丈夫です、爆弾くらいすぐに見つかりますから」
人の好い笑み。その表情は、蘭がコナンを安心させようとするときと何ら変わらない表情だ。
(そうだ。別に何も、変なことはねぇよ)
コナンは気が付かなかった。彼に隠れて、こっそりと輝夜が鈴仙の背中をつねっていたことに。
「痛いですよぉ、輝夜様」
「あなたの力は便利だけど、考えものね。今後私の『お友達』には使わないでちょうだい。あなた、うっかりしてるし。間違って狂ってしまったら大変だもの」
「話がこじれなくて楽じゃないですかぁ。姫様が言うならそうしますけど……」
その会話も、コナンには聞こえていなかった。けれどここに、鈴仙・優曇華院・イナバという女の子が何をしたのか分かる人間は一人もいない。
*
東都タワーに到着すると、三人は白鳥警部に発見され、ぎょっとした顔をされた。しかし、彼は今までの経験から何かを察したのか、深い深いため息を吐いて、「捜査協力者だ」と誰かに何かを言われる前に、周囲へそう宣言した。
「困るよ、コナン君。佐藤さんには来るなと言われていたんだろう?」
「だけど、ボク、どうしても気になっちゃって! 犯人が三年前と同じなら、東都タワーの爆弾が見つかっても、まだどこかに爆弾を仕掛けてるかもしれないでしょ?」
三年前の事件というのは、七年前相棒を事故で亡くした犯人が警察に逆恨みして、杯戸ショッピングモールの観覧車内に爆弾を仕掛けた事件のことである。爆弾の解体をしようとしたとき、第二の爆弾があることが発覚して、爆弾を処理しようにもできなくなってしまった。しかも、その場所は爆破の直前に爆弾の場所が分かるような底意地の悪い仕掛けとなっており、爆弾の解体処理に当たっていた警察官は、自分の命と大勢の命を選択するよう迫られたのである。結果として、その警察官――佐藤刑事の大切な人である松田刑事は、自分の命を犠牲にして第二の爆弾の場所を佐藤刑事にメールで送り、殉職したとのことだった。
ちなみに、これは高木刑事を口説きに掛かろうとした探偵団が、彼らと仲の良い「交通課の由美さん」から聞いた、語るも涙、聞くも涙の話である。東都タワーに移動する間にコナンに伝えてきた。高木刑事自身はとっくに東都タワーにおり、それならば犯人逮捕のために情報収集をしようと子どもたちは周りにいろいろと聞いて回っているらしい。
「犯人って、子どもっぽい性格の人なんでしょ? だったらボク、役に立てるんじゃないかと思って。勘のいい輝夜さんや、鈴仙さんも!」
「……まあ、君には助けられているし、鈴仙さんにはそれこそ昨日助けてもらったばかりだが……」
その時、爆発音があたりに響いた。東都タワー上層階での爆発のようで、白鳥警部は「怪我人は!?」と慌てて確認をしている。
「近くにいた者が何人か怪我をしたようですが、死者はでていないようです! しかし、今の爆発でエレベーターが停まってしまい……まだ確認できていなエレベーターがあって、中に入れなくなってしまったと、高木刑事から報告がありました!」
「子ども一人分なら入れる隙間があるそうですが、大人ではどうしても難しいとのことです」
次々聞こえてくる報告の声を聞いて、コナンは白鳥警部の手をしっかり握って、にっこりと笑った。
「ボクが行くよ。『捜査協力者』だしね」
これには白鳥警部は顔を引きつらせるしかない。しかし、様々な事件を通して関わる中で、彼はこの少年の頑固さを理解していた。それから、やがて覚悟を決めたように「頼むよ」と頭を下げる。
「それなら、私も行くわ。何かあったときに、一緒なら安心でしょう?」
ずいっと前に出た輝夜に、白鳥警部は弱り切った顔で「いや、心配が増えるだけなんですが……」呟いたが、聞こえなかったことにされたようだ。輝夜はそのまま、鈴仙へと周囲には聞こえないように指示を出した。
「犯人を探し出しなさい。爆弾を携帯電話で操っているのなら『電磁波』で簡単に見つかるわね? ただし、確保とかはしなくていいわ。必要な時には連絡するから、あなたは監視をするように」
「はーい。心配はしてませんが、姫様もお気を付けて」
「行ってくるわね。鈴仙、頼むわよ」
誰もに聞こえる声でそう言った後、輝夜はコナンと共に東都タワーの中に入っていってしまった。残された鈴仙は、主の命通りに、爆弾から感じる電磁波を辿って、犯人を捜すことにした。
中に入ってきた二人に、白鳥警部の手回しのおかげか警察官たちは何も言ってこなかった。高木刑事を発見したコナンは、小走りになって駆け寄る。高木刑事もこちらに気が付いて、眉を下げて「コナン君」と声を掛けてきた。
「君は本当に、現場に潜り込むのが上手いなあ。とはいえ、困っていたのは確かだからね。よろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくね」
エレベーター内に侵入したコナンは、予想通り爆弾を発見する。タワー内にいた爆弾物処理班から機材を受け取り、解体を開始した。時間はたっぷりある。ただし、コナンの頭には「第二の爆弾」の存在が脳裏をちらついていた。
爆弾物処理班の指示通りに解体していたコナンだったが、おそらく爆弾には盗聴器が仕掛けられていることや、自分の推理通りなら今回も第二の爆弾がどこか――それも、人が大勢集まる場所に隠されているであろうことから、警察との連絡役の高木刑事以外、周囲にいる人を下がらせてくれと頼んだ。第二の爆弾が存在するなら、この場所に大勢人がいたら危ないから、と言って。
大人たちは「子どもが危険な目に遭っているのに」と食い下がったが、三年前の事件のことを思い出したのか、それとも少年の話があまりに筋道が立っていて納得せざるを得ないものだったからか、タワー内から出て行った。高木刑事から連絡を受けた白鳥警部の指示で、その他の関係者も非難を始めたようだった。
ちなみに、佐藤刑事は「絶対に無茶をするから」という白鳥警部の気遣いにより、警察本部で犯人捜査を続けている。コナンたちから初めに報告を受けたのは彼女であるため、「自分も東都タワーに行く!」と食い下がっていたが、「今の自分が冷静だと言えますか?」という白鳥警部の一言により、引き下がった。
「じゃあ、コナン君。私も行くわね。高木刑事――私のお友達を、よろしくね」
にこり。微笑み掛けられて、高木刑事はその絶世の美貌に頬を赤らめた。
*
これが推理物の小説だったら白けさせてしまうほど、鈴仙はあっさり犯人を見つけた。ただし、彼女に与えられた役割は探偵でも刑事でもなく、ただの監視である。耳の良い彼女には、犯人が東都タワーの爆弾に仕掛けた盗聴器で警察やコナンの会話を盗み聞きしているのがよく聞こえていた。
(あーあ、こんなおじさんずっと監視してるなんて、退屈だわ……)
こんなことになった元凶が目の前にいると思うと、さっさとぶん殴って片を付けてやりたい気持ちだが、それをしたらあの温厚な主でもさすがに怒るだろう。鈴仙にはどうも、輝夜がこの「事件」を面白がっているように見えた。――いや、「事件を」と言うよりは、「事件に立ち向かっている人間たち」を、の方が正しいような気もするが。
監視と言ってもやることがないので、鈴仙は己の姿を見えないようにしながら、時を待った。退屈な時間ほど長く感じられるもので、どれほど待ったのか、犯人を監視している最中に輝夜から連絡があった。連絡が取れないのは不便だから、と博士が輝夜と鈴仙に予備の探偵バッジを貸してくれたのである。
『鈴仙、犯人が逃げないようにきちんと見ていてちょうだいね。私はもうちょっと「見学」していくから』
「はぁーい」
間延びした返事を返して、それからまたしばらく待ち、太陽が真上に上ったころ。犯人の「波長」が明らかに浮ついたように乱れたが、すぐに混乱したように乱れの種類が変わった。
(そりゃあ、輝夜様が人間相手に「失敗」するわけないよ)
実際は爆弾を処理したのも推理の結果を警察に伝えて第二の爆弾の位置を突き止めたのもコナンであり、輝夜は姿を隠して友人の雄姿を観察していただけなので、鈴仙の感想は的外れなものであった。しかし、「答え合わせ」をしていない月の兎にはそんなことは分からない。鈴仙はそのまま退屈そうに、取り乱す犯人の監視を続けていた。
警察に囲まれ、犯人は歩道橋からバスの屋根へと飛び移って逃走を図った。当然、鈴仙も追い掛ける。やがて佐藤刑事に追い詰められて、犯人が袋小路に入って行くのが見えた。犯人はつらつらと「俺じゃないんだ!」と見苦しくも言い訳をしている。
「こんなやつに……! こんなやつに……!」
犯人と対峙した佐藤刑事は、鈴仙が波長を読み取らなくても明らかに取り乱している。しかも発砲しようと銃を構えたので、能力を使って和らげてあげようかな、とお人よしの兎が思ったときだった。その場に高木刑事がやってきたのだ。
「佐藤さん!」
大切な人を奪われた憎しみに心を支配されていた佐藤刑事は、引き金を引いてしまった。しかし、高木刑事に体当たりを食らったことで弾道がそれたため、弾は犯人の顔のすぐそばを掠めただけだった。犯人はというと、腰を抜かしてその場に座り込んでしまっている。
「何するの! 邪魔しないで!」
佐藤刑事は銃を片手に犯人にとどめを刺そうと立ち上がるが、高木刑事がそれを許さない。「離して!」と暴れる彼女の頬を、彼は真剣な顔で打った。動揺する佐藤刑事に向けられる視線は、常の柔和な高木刑事のものとは思えないくらい、厳しいものである。
「何やってるんですか、佐藤さん!」
むろん、厳しいだけの眼差しではない。そこには正義感、使命感、責任感、そういった「警察官」としてのものと、「好きな人に後悔させたくない」という一人の男の強さと優しさとが、あたたかく心を照らし、滾るように熱い炎のように揺らめいていた。
そんな二人のやり取りを他所に、鈴仙は姿を見せないまま犯人へと近づいた。放心状態の犯人でも、「意識はある」。それは彼女にとって、とても重要なことであった。
「私、ムカついてるの」
声。降ってわいたような、風に運ばれてきたような、耳元でささやかれたような、少女の声。その主を探して、犯人はふと顔を上げた。上げてしまった。
「『確保はしなくていい』。私、それだけしか言われてないのよ。つまり、確保以外のことはしてもいい。そうに決まってるわ」
そこには、赤い二つの眼があった。白い兎のような目。鮮血のように朱く、人々を不安に駆り立てる月のように紅く、見ているだけで、心がざわめき立つ。
「監視はとってもつまらなかったし。あんたがいなきゃ姫様にも怒られなかっただろうし。そもそも、事件なんかなければ、私ただ遊んで帰れたはずだし」
少女の声が遠くなる。女子生徒が教師の愚痴を言うような、ありふれた口調の、ありふれた言葉だ。けれど、その眼が、ただ、ただ、恐ろしい。
「ヒィ……! た、助けてくれぇ!!」
闇に誘われる。紅に呑まれる。精神がさざ波立つ。底のない沼に落ちてしまったかのように、どこまでも、どこまでも、終わりのない恐怖が男を支配する。
警察は、男が恐慌状態に陥ったことを、至近距離で発砲されたことによるショックだろうと判断した。
男は飽くことなく「助けてくれ」と光を映さない虚ろな目をして呟き続けていたが、それもまた「人を殺めた罪の意識に苛まれているのだろう」と、誰もが彼の「異常」を正しく受け止めなかった。
*
「えー! じゃあ、コナン君が第二の爆弾の場所を推理して、警察に伝えたんですか? さすが姫様の御友人です!」
少年探偵団や輝夜と合流した鈴仙は、きゃあきゃあと子どものようにはしゃぎながら、主の友人であるコナンの活躍を聞いていた。
「警察の人が、ボクの言うことを信じてくれたからだよ。ボク一人じゃ、何にもできなかったもん」
「いえいえ! それでもすごいですよ!」
大袈裟に褒められてまんざらでもなさそうなコナンに、少年探偵団の子どもたちは心なしかしらーっとした視線を向けて「コナン君、また可愛い子ぶってますよ……」「あいつああいうガキっぽいとこあるんだよな」「コナン君たら、やっぱり年上が好きなの?」「……はぁ」とそれぞれ違った反応を示していたが、輝夜だけはいつも通りの微笑みを向けていた。
「君たち、協力感謝するよ。特にコナン君には、危ないことをさせてしまったね。昨日鈴仙さんにも約束していたし、時間があるようなら僕からケーキでも御馳走させてもらえないだろうか。とはいえ、まだ買ってきてはいないんだが……」
事件の報告をまとめた白鳥警部が、晴れやかな表情で一行に近寄ってきた。当初は爆弾予告の担当だったが、白鳥警部が行ったのは東都タワーの爆弾処理の現場指揮のみであり、犯人の推理はコナンという協力者がいた高木刑事、犯人確保は佐藤刑事が行ったため、自分の仕事はさっさと片付けて、あとは目暮警部の指揮する班に引き継いできたため、一足早く解放されたのだ。
「あ! それなら!」
晴れやかな表情につられるように、鈴仙がうれしそうな笑みを浮かべた。
「鈴仙ちゃん、さっそくのご利用ありがとうございます!」
喫茶ポアロでは、梓がにこにこと微笑みながら、せっせとケーキを用意している。事前にコナンが電話を入れてくれたため、急な大人数の来訪にもばっちり応えてくれた。
「えへへ! 梓さんにはお世話になりましたからぁ」
「そんなそんな。それより、もしかして『姫』って……そっちのものすごい美人さんのことですか?」
「そうです! うちの姫様です!」
「ふわぁ……いろんな人の理想詰め込んだみたいな美人さんですねぇ! 私、榎本梓っていいます」
どことなくゆるい空気を発する二人に、輝夜はくすくすと笑う。
「蓬莱山輝夜よ。鈴仙がお世話になったみたいね。私からも、お礼を言わせてちょうだい」
「いえいえ! 杯戸ショッピングモールの行き方について教えてあげただけですから! それより、ケーキの味はどうですか? 今日はマスターがいないので、私の手作りなんです。あっ、もちろんレシピ通りに作ってますよ!」
「美味しいです!」
間髪入れずに感想を述べた鈴仙に、大人だけでなく子どもたちまでくすくす笑った。
「鈴仙さんって、小動物みたいですね」
片目を瞑って、気障に言った白鳥警部に輝夜が「兎だもの」と答える。輝夜の「当然」と言いたげな断言に、みんなが楽しそうに笑った。
「はー、美味しかった! 梓さん、本当にありがとうございました!」
みんなが食べ終わってお茶やコーヒーを飲んでのんびりした後。店を出て行く際に、鈴仙は改めて頭を下げた。それを見て、梓は照れたような、はにかむような笑みを向ける。
「いいのよ。困ったときはお互い様じゃない。またのご利用をお待ちしてますね!」
そうして、まず少年探偵団が家に帰り、博士と灰原が帰り。家まで送ると言った白鳥警部に、丁重にお断りをして、コナンと輝夜と鈴仙は、空をオレンジ色に染める太陽をぼんやり見ながら歩いていた。
「コナン君の家って、ポアロの上の階なんでしょう? 最後までお付き合いいただいて、ありがとうございます」
「いいんだ。ボク、輝夜さんと鈴仙さんと、もっとお話ししたかったし」
コナンは不意に立ち止まって、輝夜の手を引いた。
「輝夜さん、今度は何して遊ぶ?」
「そうね、何がいいかしら……」
顎に手を当てて考え始めた輝夜に、「なぁに言ってんですか!」と鈴仙が口をはさむ。
「梓さんが、『またのご利用お待ちしてます』って言ってたじゃないですか。またケーキ食べに行きましょうよぉ」
甘えたような声を出す「ペットの兎」に、輝夜は「そうね」と頷いた。
「鈴仙を連れてきたときには、ポアロでケーキを食べましょうね」
やさしく、輝夜はコナンに握られていた手を離す。それから夕焼けに照らされながら美しく微笑むのだ。まるで、この世のものとは思えない美貌で。
「コナン君、『約束』よ。また会いに来るわ」
そうして、おかしな二人は歩いて行き、道の角で曲がって行った。どうせ追い掛けても、どこかへ消えてしまっているのだろう。だから、コナンは追わない。
そこにいたはずなのに、誰からも忘れられて、けれどコナンだけがその人の「歴史」を蓄積させていく、幻想のような人たちだ。追っても無駄だろうから。
追わずとも、また会いに来ると言ったのだから必ずまた来る。
コナンはさみしさと次への楽しみを抱えながら、「ポアロのケーキは当分『お楽しみ』に取っておこう」と決めたのだった。
番外編、終わりです。お付き合いいただきありがとうございました。
一文字も出せなかった萩原さん、メンゴ。