蝶屋敷に入院してから二週間。
縮んでいた手足がすっかり戻った我妻善逸も機能回復訓練に加わった。
「はぁぁぁぁぁ?!お前ら天国にいたくせに地獄にいたみたいな顔してんじゃねーよ!俺に謝れ謝れよ!女の子と毎日キャッキャウフフしてたくせに何やつれた顔してんだよバカ野郎!女の子に触れれるんだぞ身体揉んでもらえて湯呑で遊んでる時は手を!鬼ごっこの時は身体触れるだろうがぁぁぁ!!」
女の子と鍛練をしているということを知った善逸はそれはもう怒涛と言わんばかりに怒り狂った。炭治郎と伊之助に。反射訓練でカナヲに負け続け、臍を曲げ始めていた伊之助はこの言葉に大激怒。いいのか悪いのか結果的に伊之助のモチベーションも上がり、非常に気合が入った。
ギンによってボコボコに殴られ続けていた炭治郎だったが「そんな邪な気持ちで訓練するのは良くないと思う……」と思っていた。
ちなみにそのことをギンに相談すると。
「ま、良くも悪くも男のやる気ってのは性欲でできてるからな。放っておけ」
「えぇ……」
「お前ぐらいの年の子は、女のおっぱいやお尻が大好きなんだ。それで鍛練にやる気が出るならいいだろう?」
炭治郎にはよく分からなかった。
「それより、全集中の呼吸・常中は上手く行っているか?」
「……全っ然できません」
今、炭治郎が行っている訓練は"全集中の呼吸・常中"という技だった。
全集中の呼吸と言うのは、鬼殺の剣士が使う特殊な呼吸法で、肺から大量に酸素を取り込み、血液が巡る速度を飛躍的に上げる技術だ。これによって身体能力を上げ、鬼を狩るのだが……一瞬とはいえいきなり血圧を上げるこの呼吸法は血管が破裂するのではないかと思えるぐらいキツイ。
それを四六時中やるこの常中は、その倍以上にキツイ。
「善逸達にも、全集中の呼吸・常中のことを教えて一緒に会得しようとしているんですが……全然できないみたいで」
炭治郎はギンと打ち込み稽古をしながら、善逸と伊之助は機能回復訓練でカナヲやアオイと鬼ごっこや反射訓練をしながら、全集中の呼吸・常中を会得しようとしている。が、まったくできる気配がなかった。
「ふむ。おそらく、まだ身体が出来上がっていないんだろう。肺活量を鍛える為に、息止めや走り込みはしているか?」
「はい。狭霧山で行っていた鍛練法をやっています」
「ま、こればっかりは一日で会得できるもんじゃない。毎日続けていればなんとかなる。気張れよ」
「はい!それじゃあ走り込みやってきます!」
炭治郎はそう言いながら、目隠しを着ける。
「今日も目隠しをしながら行くのか?」
「はい!俺は鼻が利くんで、これで山の頂上まで走ってきます」
炭治郎は初日にギンにやらされた鍛練を、自分から進んで行っていた。話を聞くと、兄弟子のギンは狭霧山で目隠しをした状態で山下りをしていたらしい。鱗滝さんの罠がわんさか仕掛けられている狭霧山を、目隠しをした状態で、だ。それを聞いた時「え?ギンさんって人間なの……?」と戦いた。ついでに、兄弟子の義勇もそんなことができるのかと勝手に勘違いしていた。ちなみに義勇はできない。
「わざわざ俺の真似をしなくていいんだぞ?俺は隻眼だから死角を補う為に目隠しをしていただけなんだからな」
「いえ!俺はもっと強くなりたいので!これぐらい厳しくやらなきゃ意味がないんです!」
「頭カチコチ少年……」
ギンは呆れるように溜息を吐いた。よくも悪くも、この弟弟子は愚直なぐらい素直で頑固だ。故に、努力し続けると言う単純で、とても苦しい道を進み続けることができている。
それをギンは誇りに思いながら、走り込みをするために外に向かっていく炭治郎を見送った。
「よう、善逸。伊之助。調子はどうだ?」
「ギンさん……無理だよぉぉぉぉキッツいよぉぉぉぉぉ!こんなんのできるわけないよぉぉぉぉぉ!」
「おう……白髪ヤローか」
道場に入ると、薬湯で全身ずぶ濡れになった善逸と伊之助が板張りの床に倒れていた。どうやらまたカナヲに反射訓練で負けたらしい。
二人のすぐ横にギンは胡坐をかいて座る。
「炭治郎に全集中の呼吸・常中を教えてもらったんだけどさ……全然できなくて……俺達、本当にダメダメだな」
「いや。あれは爆裂に炭治郎が教えるのが下手なだけだ」
「クッソウ……」
二人は悔しそうに唸る。
アオイには鬼ごっこと反射訓練は勝てたらしいのだが、カナヲにはまだひとつも白星を勝ち取れていないようだ。
「ま、地道に努力するのはしんどいよな。良く分かるよ。俺も鍛練嫌いだしな」
「ギンさんも?」
「なんだよ、白髪ヤローも嫌いなのか?」
「今だからこそやっておいてよかったとは思うがな。力はいくらあっても足りない。そうだなぁ……伊之助。お前肉は好きか?」
「肉?ああ、俺様の大好物だ!」
「なら神戸の高級牛肉を焼いてやろう」
「なんだそりゃ!美味いのか!?」
「美味いぞ。口の中に含めば、噛まなくとも溶けるように旨味があふれ出てくるほどだ。きっと気に入る」
「いいのか!?」
唾をごくりと呑みこむ伊之助に、ギンはにやりと笑いかけた。
「ああ。いくらでも食わせてやる。ただし、全集中の呼吸・常中を会得できたらな」
「よっしゃああ―――!俺様に任せろぉ―――!キャッホーーーイ!」
伊之助、大奮起。
「善逸はそうだな。お前、美人は好きか?」
「え?あ、うん」
「常中できたらカナエを紹介してやる」
「―――え?」
「そうだな。茶屋に行けるようにしてやるか。ついでにアオイとかしのぶとかも呼んでな」
「やりますぅぅぅぅ!!カナエさん達と逢い引きィィィ!!ギンさんのこと兄貴って呼ばせてぇぇぇぇえ!!」
善逸、大奮起。
(まあ、別に善逸だけに紹介するだなんて言ってないがな)
詐欺師ギン。後日、全集中の呼吸・常中を会得した善逸は、確かにカナエやしのぶと一緒に茶屋に行くことができた。が、何故かギンや炭治郎、そして伊之助も付いて来た。
騙されたことに気付き、ギンに掴みかかろうとして炭治郎に止められる善逸の姿が見られたと言う。
今日もあの三人組が、庭を駆けまわって鍛練を行っている。
三人とも、本当によく頑張っている。大人の隊士でも全集中の呼吸・常中の会得は難しいのに、毎日頑張っている所を見るとつい嬉しくなる。
特に、竈門炭治郎君。
鬼にされた妹を連れる、鬼殺隊の中でも異例の隊士。そして、先生が特に目を掛けている新人の隊士だ。
炭治郎君は、なほ、きよ、すみの三人娘や、カナヲ、そして私の姉のカナエにも、よく助言を乞いにいっている。自分が器用な人間ではないということに気付いているのだろう。だからこそ、たくさんの人の助言を活かそうと、寝る間も惜しんで頑張っている。最近は、寝ている最中に呼吸をやめたらすみ達に布団叩きで文字通りたたき起こしてもらっているようだ。寝ている間も常中を続け、一刻も早く会得しようとしているのだろう。
そんな努力家の彼に引っ張られるように、我妻善逸君、嘴平伊之助君も寝ている間に呼吸法を行っているようだ。
……あの三人を見ていると、ギンさんに稽古をつけてもらった時のことを思い出す。
「俺が本気で攻撃する。お前はそれを全部避けろ」
「……え?」
ギンさんは木刀を持ち、私は何も持たされていなかった。ただ攻撃を"避けろ"としか言わなかった。
単純な鍛練だが、それがどれほど難しいか私は分かった。けれど、意味が分からなかった。
「お前は頸を斬れない。故に、藤の花と光酒を調合した毒の刀で突いて殺すしか、鬼を殺す術を持たない」
「でしたら、別の鍛練をするべきなんじゃ……」
鬼を殺す術を鍛えるのが、鬼殺隊の基本的な鍛練だ。刀の素振りや走り込み、肺を鍛える為の息止めや打ち合い稽古。
なのに、先生が私に教えるのは、殺す術ではなく、生きる術だった。
「違う。お前は確かに鬼殺の剣士だが、俺の弟子であり、蟲師であり、医者だ」
「蟲師であり……医者?」
「お前の役目は、自分の命と引き換えにしてでも鬼を滅殺することではない。何がなんでも生き延び、怪我を負った者を助けることだ」
生き延びること。鬼を殺すのではなく、自分が死なないことを第一に優先しろ、とギンさんは言った。
鬼殺隊の役目は、鬼を退治して人を守ること。その為に、命を賭さねばならない。
それが当たり前の、鬼殺隊の本懐だ。けれどギンさんはそれを無視しろと言った。
「お前が死んだら、誰が仲間を助けるんだ。お前は鬼を殺さずとも、仲間や人を助けることができる手を持っている」
「でも先生、私は、嫌です。姉さんの継子は、私とカナヲ以外何人も殺された。私は鬼が憎い!もし先生や姉さんやカナヲが殺されたら、私はっ」
「その時は、俺の分は仕返しをしなくていい。俺の願いは、お前が生きて幸せになることだ」
「先生……」
「無論、これは俺の我儘に違いないが。鬼を憎むなとは言わん。鬼と戦うなとは言わん。だが、鬼を殺すこと以外にも、お前にはできることが山ほどある。俺はその為にお前に医術と薬学を叩き込んだ。そのことを忘れるなよ」
先生は、そう言って私の頭を優しく撫でた。
死んだ父親を思い起こさせる、優しくて大きな手。
でも、でもね、先生。
私の願いは、先生に守られることではなく、先生と共に肩を並べて戦うことなんですよ――
「懐かしいなぁ」
姉さんは、禰豆子さんと毎晩遊んでいる。本当の妹ができたみたいに、禰豆子さんの髪の毛を整えてあげている。鬼と仲良くなるという夢が叶った姉さんは、毎日が本当に楽しそうだった。
「…………」
けれど私は、やっぱり鬼が憎い。禰豆子さんのことは認めている。あの腐酒の誘惑に耐えることができた、人の子だ。
―――その酒を、もっと寄越せェェェェ!
禰豆子さんが鬼殺隊本部に連れて来られる数日前。腐酒を見つけたギンさんは、付近の山にいた鬼に、腐酒を使った。
結果、まだ一人しか人間を喰っていなかった鬼は、血鬼術を使うほどまでに力を付けた。そして理性を失い、人の形を保てないほど醜悪な姿に変わり、腐酒を求め続けた。
禰豆子さんの前にギンさんが腐酒を出した時は本当にひやひやした。いつ飛び掛かるか分からない禰豆子さんをいつでも仕留められるよう、私の指は刀の柄を握りっぱなしだった。
「……駄目ね」
やっぱり、どうしようもない嫌悪感が心の奥底にある。自分でも拭い切れない、どうしようもない感情。
「恐れや怒りに、目を晦まされない……」
目を閉じて、呼吸を整える。ギンさんの教えを心の中で反芻する。
私は姉さんと違う。姉さんのように、優しい心を持てなかった。憎しみに囚われやすい子。でも、こんな私でもできることはある。
「さて、私も頑張りますか」
最近、ようやく"瞼の裏"に行けるようになった。"光酒"の採り方も先生から教わることができた。今まで何度お願いしても、教えてくれなかった光酒の採り方。
これで、もっともっと人を助けることできる。
「しのぶ?」
「……なんだ、姉さんか」
声を掛けられ、後ろを振り返るとお盆におにぎりを載せた姉さんが立っていた。上弦の弐との戦いで肺を壊し、ここで働くようになってもう2年以上になるんだっけ。姉さんは戦えなくなっても相変わらず綺麗で、多くの隊士達から求婚されている。
「どうしたの?しのぶ。難しい顔をしちゃって。姉さんはぶすっとしたしのぶより笑った顔が見たいなぁ」
「もう。まだ仕事中よ姉さん。それより、先生を見かけなかった?」
「いいえ。ギンくんなら今日は見かけていないわ。多分、炎屋敷か、お館様の屋敷じゃないかしら……」
「まったく。すぐにいなくなるんだから……」
「まあまあ、いいじゃないしのぶ。それより、カナヲのことは聞いたかしら?」
「カナヲがどうしたの?」
「さっき覗いてたんだけど、炭治郎君とすっごく仲がよさそうだったの!カナヲも炭治郎君を意識しちゃっているみたいで……きゃー!お姉ちゃん、すごくドキドキしちゃう!」
「カナヲも女の子ね……」
確かに、ここ最近カナヲの声がかなり極端だ。よく炭治郎君のことばかりを考えているようで、カイロギを通して私や姉さんに伝わってくる。
本人が自覚しているかは分からないけれど、恐らく炭治郎君に好意を抱いているのだろう。
そのせいか分からないけれど、最近のカナヲは以前よりずっと口数が多くなり、自分がしたいことをはっきりと言うようになった。慣れていないのか、少し声が小さいけれど、それも時間の問題だろう。
「あれだったら、もう蟲に頼らなくてもいいかもしれないわね」
あの蟲のおかげで、カナヲの心の傷はずっと良くなった。けれど、これ以上蟲に依存しても意味がない。機を見て、カイロギを断つべきだろう。
「あーあ。カナヲの心の声が聞こえなくなっちゃうの、お姉ちゃん寂しいなぁ」
「我儘言わないの。もうすぐ皆既日蝕が来るんだから、忙しくなるわよ。姉さんも準備を手伝ってもらうからね」
「分かってるわ。確か、蟲が騒いでしまうのよね?」
「そう。先生曰く、日蝕の間は普段蟲が見えない人にも蟲が見えるようになるらしいわ。きっと姉さんも見ることができると思う」
「あらあら。それは楽しみだわ。普段ギンくんやしのぶが見えている物が見える様になるなんて、できないもの」
「ふふ、そうね。でも、そのせいで蟲患いを起こす人がたくさん出るから。蟲下しを多めに調合しておけって先生に言われてるの。だから手伝いよろしくね」
「は~い」
さて。蝶屋敷の回診が終わったら、炭治郎君たちの鍛練を少し見てあげよう。
炭治郎君は先生から教えを受けている。ということは、炭治郎君はギンさんの弟弟子であると同時に、私の弟弟子でもある。禰豆子さんについてはまだ折り合いはつけきれていないけれど、でもあの子に罪はない。
だから、姉弟子として導いてあげよう。
姉の夢を叶えてくれたお礼に。
私が彼らにできることは、それぐらいのことだけだから。