「だああああああああ!!いい加減しつこいぞ鬼共ぉぉぉぉ!!」
怒声を吐きながら鬼の頸を落とす伊之助。
我妻善逸。三十七匹。
嘴平伊之助。三十二匹。
たった一晩で二人が討伐した鬼の数である。そしてその記録は、現在も順調に更新していく最中だ。
"獣の呼吸 伍ノ牙 狂い裂き"
"雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃 六連"
その戦いは、まさしく地獄だった。
五両の列車に絶えず押し寄せる鬼達。
伊之助は東側を、そして善逸は西側を守備。そして禰豆子が遊撃だ。
血鬼術を使う鬼がほとんどいなかったのは、幸いだった。もちろん、血鬼術を使う鬼も何匹かいたが、全集中の呼吸・常中を会得した二人にとってはそこまで手古摺る相手ではない。
―――だが、人間の体力は無限ではない。必ず限りがある。
「くっ……もう……」
最初に限界を迎えたのは、善逸だった。
霹靂一閃八連。神速。そして、漆ノ型。
ただでさえ高速で大地を駆ける雷の呼吸の技は、善逸の足に多大な負担を掛けた。今夜だけで一体、何度"霹靂一閃"を繰り出したか分からない。十を超えた辺りで数えるのをやめた。
そして善逸の足は潰れてしまっていた。左足は骨折し、右足だけで立っているような状態だ。その右足も、技の連発でヒビが入ってしまっている。使えなくなってしまうのは時間の問題だった。
「紋逸!」
伊之助はその鋭い触覚で、善逸が危機に陥っていることを察知した。もう歩けないほど弱くなってしまっている。
普段なら「弱味噌野郎」と罵倒するところだが、それどころではない。体力自慢の伊之助も、足が動かなくなりつつある。助けに行きたくても、助けに行けない。鬼達が善逸を助けに行かせぬよう、伊之助を取り囲んだからだ。
「くっそが、どけぇ雑魚共ぉ!」
やべぇ。やられる。善逸がやられれば、乗客を守りきれねえ。やべえやべえやべえ!
禰豆子も善逸の危機に気付いたのか、襲ってくる眠気を堪え、宙を飛ぶ。だが、間に合わない。
「ひっひっ、ようやく動けなくなったようだなぁ鬼狩りぃ」
「今すぐトドメを刺してやる!」
鬼が動けなくなった善逸に一斉に飛び掛かる。
「くっ……」
万事休す。
鬼達の足が、拳が、善逸に向けて放たれる。避ける術はなく、善逸はあっさりと己の死を受け入れた。
―――ここまでか。ごめん、炭治郎。禰豆子ちゃん。伊之助。
そう覚悟を決めた時だった。
"花の呼吸 弐ノ型 御影梅"
いつまで経っても攻撃がこない。
おそるおそる目を開けると、そこには蝶屋敷で自分達の稽古をつけてくれた、あの栗花落カナヲが立っていた。
蝶のように舞う身軽な少女が、自分の周りにいた鬼達の頸を一瞬で斬り落としたのだと気付くのに時間はかからなかった。
「だい……じょうぶ?」
「え……カナヲ、ちゃん?」
「ごめんね……遅れた……もう、大丈夫」
倒れ込む善逸にカナヲがそう静かに微笑みかけた。
「俺達が来るまで、よく堪えた」
「ごめんね!援軍、来たよ!」
ああ……この人は。
最後に、善逸の目に映ったのは。
『悪鬼滅殺』の文字が彫られた、水色の刀を持った青年と
狐の面をつけた、花柄模様の着物を着た少女の後ろ姿。
それを見て安心した善逸は、糸を切らしたように意識を閉じた。
森の呼吸の漆ノ型は、最終奥義だった。
大太法師――またの名をデイダラボッチ。
天に届くほどの巨人。
国一番の高い山、富士山を創りだす為に土を運び、その時に零した土が国中の山々となった。
その巨大な足跡には雨水が溜まり、やがて沼や湖を生み出した――この日ノ本の国を、大地を築き上げた神話の巨人。
その名を冠した漆ノ型は、伊達ではなく、まさしく究極の奥義だった。
"日蝕みの核"の痛みで頭を下げていた黒死牟の後ろ頸に、ギンの刀が振り下ろされる。
刃が黒死牟の後ろ頸にめり込んだ瞬間、大地が揺れた。
―――ズズン!
あまりの揺れに、戦いを少し離れた場所から見守っていた炭治郎はよろけて尻餅を着いてしまう。
「あああああああああ!!!」
ギンが吠える。
千載一遇の好機。どうやっても倒せなかったこの鬼を、とうとう、ようやく、倒せる。
化け物、人外。いろんな言葉が頭を過る。ここまで自分と杏寿郎を追い詰めた鬼はいなかった。
杏寿郎が決死の覚悟で時間を稼ぎ、そして炭治郎が必死の思いで届けてくれた"日蝕みの核"で、掠り傷を付けるので精いっぱいだった黒死牟の頸に、ついに俺達の刃が届いた。
だが、刀を振り下ろした瞬間、いつものように鬼の頸を斬り落とせた感触ではなく。あるのはまるで、金剛石に刀を振り下ろしたような感触。
なんて硬い頸だ!日蝕みの核を叩き込み弱体化させたのに、半分しか斬り込みを入れられない!ここまでやってまだ頸を落としきれないのか!
焦り、恐怖。ここで黒死牟を逃がせば、ここまでの戦いは無駄になる。杏寿郎があんなにも命を懸けてくれたのに、全てが無駄になる。
なんて強さ……ギンの心に湧き出てきたのは、尊敬の念だった。
ここまで来ると呆れと同時に感歎する。ここまで強い鬼は見たことがなかった。
本当に強いよお前は。思わず尊敬しちまうほどに。
究極になるまで鍛え上げられた剣技の数々。人間を遥かに凌駕する鬼の身体。傲慢なほどの、余裕と風格。
強さをただひたすら求め、鍛え続けた結果が今のアンタなんだろう。男として憧れる。男として尊敬する。できることならアンタと酒でも飲んでダチになりたいくらいだった。
だが、黒死牟が鬼であり、そして俺や杏寿郎が人である限り、それは絶対にありえない未来。
だから剣士として、刀を振り戦い続けた者として、アンタを殺す。
これで決めなければ、この鬼は殺せない。
漆ノ型は両腕と肺に強い負担を強いる。ここまでの戦いで、俺の体力はもう残されていない。杏寿郎も恐らく、あと数分で死ぬ。これが最後の技だ。これを使った後、俺は当分動けなくなる。
「ぐぅアアアア!!」
頸を斬られまいと、黒死牟は雄叫びを上げる。激痛の中、頸に力を入れ刃を無理やり受け止めた。
「この……大人しく斬られやがれぇ!!」
「おおおおおおお!!」
ギンは上から、そして杏寿郎は下から。
黒死牟の頸に刀をめり込ませていく。
「ぬァアアアアアア!!」
私は、負けぬ。
誰にも、負けぬ。
私は何の為に鬼になったのだ。
己が負けると、想像しただけで吐き気がする。腸が煮え返る。
あの時に誓ったのだ。俺はもう二度と敗北しないと。縁壱に頸を斬られかけたあの時から。
俺は―――
あと少し。あと一瞬。
ギンと杏寿郎の刃が、黒死牟の頸を斬り落とす。その時だった。
――ベベン!
「!?」
不愉快な琵琶の音が響いたかと思うと、突如黒死牟の足元に、障子が現れた。
――まさか……!
ギンの脳裏に嫌な予感がよぎる。聞き覚えのある琵琶の音、そして突如黒死牟の足元に生まれた障子!まさか!
――ベン!
琵琶の音が再び響くと、障子が開かれ――まるで黒死牟だけがそこに招かれるように、そこに落ちていく。
まずい、斬れ、斬れろ、斬り抜け、殺せ!ここまでして逃げられるなんて洒落にならない!ここまで戦って……!ここまで血を流して逃げられるなど……!
ギンは急いで刀を黒死牟の頸から引き抜き、血管が切れ血が噴き出る両腕をもう一度振り上げ、振り下ろす。
"森の呼吸 漆ノ型 大太法師"
ギンが二度目の漆ノ型を繰り出し――
――ベベン!
琵琶の音が鳴り響き、障子が閉じられたのは、ほぼ同時だった。
―――斬れたのか、俺達は。あいつの頸を。勝てたのか?負けたのか?分からねえ。とにかく……眠くてしょうがねえ……。
何かを斬った手ごたえはあった。漆ノ型を無理やり使った反動か、視界がぼやけ意識が落ちていくのをギンは感じた。
狭まっていく視界でなんとか目線を上に向けると、何かが地面に落下していくのが見えた。
―――ああ、駄目だったのか。
見えたのは、黒死牟の左腕だった。根本から斬り落としたのは、頸ではなく、黒死牟の左腕だったのだ。
もうどこにも黒死牟の気配はない。影も形も。逃がしてしまった。上弦の壱を。十二鬼月を倒す千載一遇の機会を逃してしまったのだ。
「くそっ……」
意識が暗転し、地面に倒れ込む。
炭治郎が泣きそうな顔をしながらこっちに走ってくる。杏寿郎は……地面に倒れている。
……悪いな、杏寿郎。お前が命を賭して戦ってくれたのに、あの鬼の頸を獲り損ねちまって。
俺がもっと速く、もっと強ければ、あの鬼の頸を断てたのかもしれないのに……。
「ギンさぁん!」
聞き覚えのある声がした。
いつも口うるさく、厳しい。だが誰よりも努力家で、激情家で、身内に優しい俺の弟子の声だ。
―――しのぶ
そんな今にも泣きそうな顔をしないでくれ。お前を泣かせると、カナエがうるさいんだ。
しのぶはギンが地面に倒れ込む寸前、ギンの身体を抱き抱える。綺麗な隊服がギンの血で汚れることを厭わず。
「ごめんなさいギンさん!間に合わなくて、遅くなって、ごめんなさい!こんなにボロボロに……!ごめんなさいごめんなさい!」
謝らないでくれ、しのぶ。お前に泣かれると、俺はどうしたらいいか分からなくなるんだ。
地面に倒れた杏寿郎は、仰向けになって夜の空を眺めていた。黒煙が昇る夜の空を。
杏寿郎の傷は、ひどかった。
斬り落とされた左腕。体中に刻まれた切傷。そして、腹部の傷。
黒死牟によって最後に斬られた腹は、内臓まで届く一撃だった。皮膚の隙間からは斬られた内臓が零れ、断面を外気に晒していた。夥しい出血は地面に血溜りを作り、杏寿郎の皮膚は死人のように真っ白になってしまっている。
「竈門……少年……」
だが、杏寿郎は生きていた。
即死していてもおかしくない傷、出血。だが、煉獄杏寿郎はそれでも浅く息を繰り返している。
「煉獄さん!」
そんな杏寿郎に、炭治郎は涙を零しながら駆け寄った。
――なんてひどい傷だ。
惨い傷だった。鬼との戦いで死人を見るのはこれが初めてではない。
だが、杏寿郎ほどの重傷を負った人を、炭治郎は見たことがなかった。いまだに生きていることが不思議なくらい、目を逸らしてしまいたくなるほどの怪我だった。
満身創痍などという言葉では言い表せないほどの深い傷。それが今の煉獄の状態だった。
「しのぶさん、煉獄さんが……」
縋るような思いでギンの手当をしているしのぶに、炭治郎は問いかける。
助かる術はないのか。あれほど頑張った人が、死んでいくのをただ指を咥えて見ていることしかできないのか。
だが、しのぶは涙を零しながら小さく首を横に振った。
「……おそらく、"光酒"が煉獄さんを無理やり生かしているんでしょう。けれど、これではもう……」
「そんな……!」
鬼には逃げられ、ギンさんは重傷、そして煉獄さんが死ぬなんて……!
「すいません、すいません!煉獄さん!俺が弱かったから!俺、何もできなかった!あの戦いに一歩も、助太刀することすらできなかった!俺が弱いせいで、弱いせいで……」
目の前が見えなくなるほど涙がぼろぼろと零れ落ちてくる。血が滲むほど拳を握る。悔しい。悲しい。
なんで、俺は生き残ってしまったんだ。
――弱かったからだ。傍観者でしかいられなかったからだ。戦いに参加する権利すら、俺にはなかった。
「ひぐっ、うぐっ、あぐっ」
何が日の呼吸の使い手だ。
俺は特別でもなんでもない。大切な仲間一人も助けられない、弱い奴だ……。
もしあの時、黒死牟の攻撃を避けることができたら。煉獄さん達はかばう必要なんてなかったのに。
俺のせいで深手を負った。そのせいで上弦の壱に追い込まれた。俺の、せいだ!
「……気にするな……」
すると、呻くように煉獄が炭治郎に声をかけた。首を動かして、炭治郎の方を向く杏寿郎は、僅かに微笑んでいた。
「……煉獄さん」
「柱なら後輩は守る……当然だ」
「煉獄さん、喋らないで!傷が……!」
俺はうろたえてしまう。それ以上喋らないで。少しでも静かに、生きていて欲しい。例えもうすぐ終わる命だとしても……。
「炭治郎君……」
「!」
しのぶさんが、そんな俺の心を見抜いたかのように、俺の名を呼んだ。俺はびくりと身体を強張らせてしまう。
「助かる、胡蝶」
「……すみません、煉獄さん。あなたの傷は、私では……」
「大丈夫だ。……悔いはない。胡蝶は……ギンを頼む。不肖の弟弟子だが……俺の家族なんだ……」
「はい。……炭治郎君」
「……」
「炎柱の、最期の言葉です。しっかり聞きなさい……」
涙交じりのしのぶさんの言葉。
――煉獄さんの、遺言。
「……!」
炭治郎は嗚咽をかみ殺しながら、杏寿郎の言葉に耳を傾ける。
尊敬する"柱"の最期の言葉を、聞き逃さない為に。
「俺の生家、煉獄家に行ってみるといい。日の呼吸について何か分かるはずだ……父や弟がよく手記を調べていたから。父と母には……いつまでも仲良く……身体を大切にして欲しいと。弟の千寿朗には自分の心のまま……正しいと思う道を進むよう伝えて欲しい」
「はい……!俺が必ず、伝えます……!」
「それから」
煉獄杏寿郎はそう言って、炭治郎の目を見た。
赤い眼。炎の眼。
――きっと、この少年は俺の意志を受け継いでくれる。その眼に、火が灯っているのを、俺は知っている。
「竈門少年。俺は君の妹を信じる。鬼殺隊の一員として認める」
炭治郎は息を呑む。
煉獄さんが、禰豆子のことを認める?
あの時、禰豆子を殺すべきだと主張していたこの人が。柱として、そして人として、炭治郎が知る中で最も強い人が、禰豆子を、鬼殺隊として認めた?
なんで、こんな時に――こんな時だからこそ……嬉しい、悲しい、悔しい。
止まりかけた涙が、またこぼれ出す。尊敬する人に認められて、けれどその人が死にかけていて、どうすればいいか分からなかった。
でも、泣いちゃ駄目だ。今すぐ泣き叫びたいけど、煉獄さんの言葉を忘れないように、心に刻みつける。
「あの時。黄色い頭の少年や猪頭の少年と共に……乗客を守ろうと鬼と戦いながら走り出した少女を見た……。命を懸けて鬼と戦い人を守る者は……誰が何と言おうと鬼殺隊の一員だ」
――この少年は優しくて真っ直ぐだ。きっと、俺の死を悲しむ。だが、それではだめだ。鬼達と戦うには、それだけでは。
「胸を張って生きろ。己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと……心を燃やせ……歯を食い縛って前を……ゴホッ」
ああ、これはもう死ぬな。まだまだ言いたいことは山ほどあると言うのに。
だが、そうだなぁ。
唯一手のかかる弟弟子が生きているなら……悪く、ないな……。
「もっともっと……強くなれ……俺はここで死ぬが……今度は君達が鬼殺隊を支える柱に……」
「……煉、煉獄さん?」
炭治郎がそっと、煉獄の身体を静かに揺らした。だが、煉獄杏寿郎はそれ以上、言葉を返すことはなかった。
「煉獄さん…………!」
悔しい……。
下弦の鬼と戦って、自分の無力さを痛感して。
ギンさんに鍛えてもらって、全集中の呼吸・常中を使えるようになったのに。
何か一つできるようになっても、またすぐに目の前に分厚い壁があるんだ……煉獄さんやギンさんは、もっとずっと先の所で戦っているのに、どうして俺はまだそこに行けないんだ……こんなところでつまずいて……俺は……。
「ギンさん!!」
「!?」
しのぶの叫び声に叩き起こされたかのように、炭治郎は後ろを振り返る。
そこには、しのぶさんと手当されているはずのギンが――
「ギン、さん?」
炭治郎は眼を見開いた。
そこには涙を流しながら慌てたようにギンさんの名前を呼び続けるしのぶさんしかいなかった。
「し、しのぶさん!?どうしたんですか!ギンさんは!?」
「炭治郎君!ギンさんが……ギンさんが……!消えてしまったの……!確かにここにいたのに!動けないはずなのに!ここからどこにも行けないはずなのに!消えてしまったの!」
急いで辺りを見渡す。だが、そこには黒死牟との戦いの跡しかなく。自慢の鼻を使っても、ギンさんの匂いが掻き消えてしまっていた。
ギンさんの姿は、どこにもなかった。
煙のように、消えてしまっていた。まるで最初からどこにもいなかったように。
けれど、しのぶさんの手のひらにべっとり付いた血が、ここにギンさんがいたことを確かに証明していた。
竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助、竈門禰豆子、保護。
戦死者、一名。"炎柱"煉獄杏寿郎。上弦の壱との戦闘後、死亡を確認。
行方不明者、一名。"蟲柱"鹿神ギン。血鬼術による物か不明。捜索を続行。
上弦の壱との戦いから二か月。
ギンさんは、未だに見つかっていない。